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アーサー・C・クラーク
サー・アーサー・チャールズ・クラーク(Sir Arthur Charles Clarke、1917年12月16日 - 2008年3月19日)は、イギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている。 1950年代から1970年代にはロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフと並んでビッグ・スリーと称されるSF界の大御所として活躍した。他の2人がエンターテイメント、SF叙事詩を志向したのに対して、クラークは豊富な科学的知識に裏打ちされた近未来を舞台にしたリアルなハードSF作品群と仏教思想に共鳴した「人類の宇宙的進化」を壮大に描く作品群とに特色がある。代表作は『幼年期の終わり』、『2001年宇宙の旅』。作品のほとんどが邦訳されている。短編では「太陽系最後の日」や「星」などが有名。SF以外の小説はイギリス空軍時代の体験を基にした1963年の Glide Path(日本語未訳)の一作のみ。 第2次世界大戦中、イギリス空軍にて、空軍少尉兼レーダー技師を務めた。1945年には人工衛星による通信システムを提案した。1946年、ロンドンのキングス・カレッジ卒業(物理学、数学専攻)。1946年から1947年まで英国惑星間協会の会長を務め、1951年から1953年にも再び会長を務めた。 1956年、スリランカ(当時セイロン)に移住したが、これはスキューバ・ダイビング好きが高じたのが主な理由であり、死去するまでほとんどの期間をそこで過ごした。『スリランカから世界を眺めて』というスリランカでの暮らしに触れたエッセイ集もある。晩年まで小説を執筆した。1998年エリザベス2世女王よりナイトの称号を授与され、2005年にはスリランカの文民向けの最高の勲章 Sri Lankabhimanya を授与された。 メンサ(入会条件を上位2%のIQを有する者に限定した国際的な団体)の会員だった。 1917年12月16日に、サマセット州マインヘッドにて生まれる。少年時代は天体観測を趣味とし、アスタウンディングなどのパルプ誌をはじめとしたSF小説に熱中していた。1934年に英国惑星間協会へ入会し、活発に活動する(1946年には会長になった)。1936年にグラマースクールを卒業した後は公務員(教育委員会の年金部門の監査役)として働いていた。 第二次世界大戦中にはイギリス空軍の将校として電波探知法、レーダーの開発に取り組み、教官も務める。レーダーによる早期警戒システム構築に関わり、このシステムがバトル・オブ・ブリテンでの勝利に寄与した。同僚には後にノーベル物理学賞を受賞するマーティン・ライルがいた。戦時中に特に力を入れたのは着陸誘導管制 (GCA) 用レーダーの開発であり、半自伝的小説 Glide Path に描かれている。戦争中にGCAが広く実用化されることはなかったが、その後の開発によって1948年から1949年のベルリン封鎖では大いに活用された。軍での階級は当初伍長だったが、1943年5月27日には空軍少尉(技術部門)となっている。さらに1943年11月27日には中尉に昇格している。復員時には大尉だった。戦後、ロンドン大学のキングス・カレッジに入学し、物理学と数学を専攻する。一時、大蔵省に勤めるがすぐに退職。 静止衛星の概念そのものはクラークの発明ではないが、人工衛星による無線通信の中継(リレー)というアイデアはクラークのものである。1945年にそのアイデアを論文にし、英国惑星間協会の主要メンバーに見せた。その論文を改稿したものを同年10月に科学雑誌“Wireless World”へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示したとされる。1946年から1947年にかけて英国惑星間協会の会長を務め、さらに1951年から1953年にかけても同職を務めた。クラークは宇宙開発に関する科学解説書もいくつか書いており、『宇宙の探検』(1951) と The Promise of Space (1968) が特に有名である。静止衛星による通信網という彼のアイデアを讃え、国際天文学連合は静止軌道の公式な別名として「クラーク軌道」という名前を与えている。 1953年、フロリダに旅行して子持ちの22歳のアメリカ人女性 Marilyn Mayfield と出会い、電撃的に結婚。6カ月後には別居したが、離婚が正式に成立したのは1964年のことである(映画2001年宇宙の旅の製作時期のアメリカ滞在中)。クラークは「この結婚は最初から間違いだった」と述べている。その後クラークが結婚することはなかったが、スリランカ人男性 Leslie Ekanayake とは親密な関係となり、『楽園の泉』の献辞には彼について「生涯ただ1人の親友」と書いていた。クラークはコロンボにある墓地で、約30年前に亡くなった Ekanayake と同じ墓に埋葬された。スタンリー・キューブリックの伝記を書いた John Baxter(ジョン・バクスター) は、クラークの同性愛指向について、彼がスリランカに移住した理由の1つとしてスリランカの法律が同性愛に寛大だったからだとしている。あるジャーナリストがクラークに同性愛者なのかと尋ねたときは否定していた。しかし、マイケル・ムアコックは次のように書いている。 ムアコックの主張を裏付ける文献はないが、PLAYBOY誌1986年7月号のインタビューでクラークは両性愛の経験があるかと尋ねられ「もちろん」と応えている。 クラークは原稿や個人的メモの膨大なコレクション "Clarkives" を維持していた。現在は兄弟のフレッド・クラークが保管している。クラークはかつて、死後30年経過するまで日記を公開しないと述べている。なぜ日記を封印したのかと聞かれ「まあ、あらゆる種類の恥ずべきことがそこに書かれているかもしれない」と応えている。 クラークは1937年から1945年までファンジンにいくつか小説を発表していたが、1946年、アスタウンディング4月号に掲載された短編「抜け穴」で商業誌デビューする。実際に最初に売れたのは翌5月号に掲載された「太陽系最後の日」である。この作品は評価が高く、日本では『S-Fマガジン』創刊号に翻訳が掲載され、支持を得た。作家活動が本格化してきた1949年に Science Abstracts 誌の編集助手として働くようになったが、1951年以降は専業作家となった。1951年には第一長編『宇宙への序曲』を発表。また、イギリスのSFコミック Dan Dare シリーズの原作も手がけており、最初の長編3作は子供向けを意図して書いていた。 クラークは1940年代から1950年代にかけてC・S・ルイスと文通しており、一度オックスフォードのパブで会い、SFと宇宙旅行について議論したことがある。ルイスの死後、クラークは別世界物語三部作を本物の文学といえる数少ないSF作品だと述べ、最大限の賛辞を贈った。 1948年、BBCのコンクール向けに「前哨」を書いた。選外となったが、この作品がその後のクラークの経歴に変化をもたらした。それは『2001年宇宙の旅』の元になっただけでなく、クラーク作品により神秘的および宇宙的要素が加わるきっかけとなった。その後のクラークの作品では、技術的には現在よりも進歩しているが未だに偏見にとらわれた人類がさらに優れた異星生命体に出会うという設定が特徴的に見られるようになった。『都市と星』(およびその元になった『銀河帝国の崩壊』)、『幼年期の終り』、2001年シリーズといった作品では、優れた異星種族との出会いが概念的突破口を生み出し、人類がさらに次の段階へと進化することになる。クラーク公認の伝記において Neil McAleer は「いまだに多くの読者や批評家が(『幼年期の終り』を)アーサー・C・クラークの最高傑作としている」と書いている。 クラークは1956年から亡くなる2008年までスリランカに住んだ。その理由について、クラークと同じく同性愛者であったアラン・チューリングが1954年に自殺に追い詰められた事件にショックをうけ、性的に寛容なスリランカに移住したと、親しい知人には語っていたという。 移住当初はまだ「セイロン」と呼ばれており、まず南のUnawatunaに住み、その後コロンボに引っ越した。クラークはイギリスとスリランカ両国の市民権を持っていた。大のスキューバ・ダイビング好きで、Underwater Explorers Club の会員でもあった。作家活動の傍ら、クラークはパートナーの Mike Wilson と共にダイビング関連のベンチャーを何度か起業し、またWilsonの映画製作に資金を投入している。1961年、Wilsonは Great Basses Reef で難破船を発見し、そこから銀貨を回収した。翌年その難破船にダイビングして本格的に宝探しする計画だったが、クラークが麻痺を訴えて計画が中止され、ポリオと診断された。翌年、クラークは海岸や船上で銀貨回収を観察した。その難破船は最終的にムガル帝国のアウラングゼーブのものと判明し、ルピー銀貨の溶融した袋や大砲などが見つかり、クラークは詳細に記録した文書を元にしてノンフィクション The Treasure of the Great Reef を出版した。スリランカに住みその歴史を学んだことが、軌道エレベータを描いた小説『楽園の泉』の背景となった。軌道エレベータはロケットを時代遅れにし、静止衛星よりもこちらの方が重大な科学的貢献になるとクラークは信じていた。 1958年ごろ、クラークは様々な雑誌に科学的エッセイを連載し多くの予言を残している。これらは1962年の『未来のプロフィル』にまとめられている。2100年までの年表には様々な発明やアイデアが盛り込まれており、例えば2005年に "global library" という記述がある。同書には「クラークの第一法則」が書かれ、後の版で「クラークの三法則」に改められている。 1970年代初め、クラークは3作品の出版契約を結んでおり、当時のSF作家の新記録だった。そのうちの1作目『宇宙のランデブー』は1973年に出版され、主な賞を総なめにし、シリーズ化されることになり、2001年シリーズと並んで後期のクラークの経歴の基盤となった。1970年、「国際SFシンポジウム」(小松左京主宰)に、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディス、ユーリ・カガルリツキーらと共にゲストとして来日、各地を遊歴。(ジュディス・メリルは都合により来日を果たせず、メッセージビデオを送ってきた)親睦会にてクラークはスリランカ風フラダンスを披露。 1980年代から90年代にかけて、テレビ番組 Arthur C. Clarke's Mysterious World、Arthur C. Clarke's World of Strange Powers、Arthur C. Clarke's Mysterious Universe でクラークの名は一般に浸透した。1986年にはアメリカSFファンタジー作家協会からグランド・マスター賞を授与された。1988年にはポリオ後症候群を発症。1962年のポリオ感染が原因で、その後は車椅子が必要になった。クラークは長年 British Polio Fellowship の副後援者を務めた。また、これらの時代から作家として原稿の執筆にはケイプロ社のパーソナルコンピュータを用い始めていた。 1989年のイギリス女王の誕生パーティに招かれ、大英帝国勲章 (CBE) を授与された。同年クラークは国際宇宙大学の初代学長に就任し、2004年まで同職を務めた。また、1979年から2002年までスリランカのモラトゥワ大学の学長も務めている。 1994年、テレビ映画 Without Warning に出演している。アメリカ製作のこの映画は、ニュース番組の形式で異星人とのファーストコンタクトを描いたものである。同年、ゴリラ保護活動の後援者になっている。携帯電話用電池のためのタンタル採掘がゴリラを脅かしていることが判明すると、それに対するキャンペーンにも力を貸している。 2000年5月26日、コロンボでの式典でナイトの称号を授与された。ナイトに叙することは1998年の New Year Honours で発表済みだったが、デイリー・ミラー紙がクラークを小児性愛で告発したため、クラーク側の要請で授与が延期されていた。その告発はスリランカ警察の調べで事実無根であることが判明している。デイリー・テレグラフ紙によれば、ミラー紙が後に謝罪記事を掲載したため、クラークは法的手段に訴えることはしなかった。その後クラークは正式にナイトの称号を受けた。 2004年12月末に起きたスマトラ島沖地震では自宅は無事だったが、津波によって海に面したダイビング用の小屋やバンガローなど("Arthur C. Clarke Diving School" の施設)に被害を受けた。彼は人道支援を呼びかけ、アーサー・C・クラーク財団は災害警報システムの改善に取り組むようになった。ダイビング学校は後に再建された。 2007年9月、NASAの探査機カッシーニが土星の衛星イアペトゥスをフライバイしたことについて、クラークがビデオで歓迎の言葉を送った(イアペトゥスは『2001年宇宙の旅』で重要な役割を演じた)。2007年12月、クラークは友人やファンに向けて別れの言葉を述べたビデオを録画した。 同じく2007年12月には、生きている間に宇宙人のいるという確かな痕跡を見たかったと話していた。他に晩年には、非正統科学への傾倒の向きがあり、「超伝導体の回転による重力遮蔽」が近年に実現するだろうと語ったり、リチャード・ホーグランドの「火星に森林がある説」を擁護する、などの言動があった。 2008年3月19日午前1時30分、自宅にて心肺機能不全のため90歳で死去。彼の秘書は、ポリオ後症候群に起因する呼吸困難と心不全だと発表した。 死の数日前、クラークは最後の作品 The Last Theorem (邦題『最終定理』)の原稿のチェックを終えたところだった。この作品はフレデリック・ポールと電子メールでやり取りしながら書いた共作である。同書はクラークの死後に出版された。クラークは3月22日にコロンボの墓地にスリランカ風に埋葬された。弟のフレッド・クラークやクラークのスリランカ人家族が数千人の観衆に混じって参列した。 クラークはアイザック・アシモフやロバート・A・ハインラインと共にSF界の「ビッグ・スリー」と称されていた。 クラークとハインラインは『宇宙の探検』を出版した1951年に文通するようになり、翌年には直接会っている。長年の友として、互いの家(アメリカとスリランカ)を訪問したこともある。しかし1984年、ラリー・ニーヴンのカリフォルニアの自宅で会ったときはアメリカの宇宙開発および外交方針(特に戦略防衛構想)に関して激しい口論になったという。2人は公式には和解したとしていたが、1988年にハインラインが亡くなるまでずっと疎遠のままだった。 アシモフとは1953年にニューヨークで会った。その後数十年に渡って友好的なジャブの応酬を続けた。アシモフと、もし「最高のSF作家は誰か?」と聞かれたら互いの名を答える「アシモフ - クラーク協定(Asimov-Clarke Treaty of Park Avenue)」を結んでいたと言われている。1972年、クラークは自著 Report on Planet Three にこの協定のことを書いている。また、クラークとアシモフはメンサの会員であり、ともにメンサの国際会議に参加したこともある。 ビッグ・スリーは第二次世界大戦中、軍の技術者として働いており、アシモフとハインラインは同じフィラデルフィア海軍造船所に所属していた(L・スプレイグ・ディ・キャンプもいた)。 宗教的テーマはクラーク作品によく見られるが、クラーク自身の宗教観はなかなか複雑である。彼は「知識へと至る道は神へと至る道である。あるいは真実へと至る道でも何でも好きに呼べばよい」と述べている。また、自らを「神という概念に魅了された者」と称した。空軍に入隊した際には、認識票の宗教欄にイングランド国教会ではなく、「汎神論者」と記した。2000年にはスリランカの新聞のインタビューに「私は神も来世も信じていない」と述べ、自身を無神論者だとしている。International Academy of Humanism からは名誉ヒューマニストの称号を与えられている。また自身を「隠れ仏教徒」と称しつつ、仏教は宗教ではないと主張している。若いころは宗教への興味をほとんど示しておらず、例えば結婚当初の数カ月間だけ妻の強い勧めで長老派教会に入信していた。 Alan Watts による3日間のインタビューの中でクラークは、宗教に対して偏見を持っており、宗教が残虐行為や戦争を防止できない点を許すことができないと語った。 また自身の名を冠した番組(Arthur C. Clarke's Mysterious World の "Strange Skies" という回)で「私は時折、宇宙が天文学者を永久に驚かせるよう設計された機械ではないかと思うことがある」と述べている。また同じ回の最後の方でベツレヘムの星を取り上げ、その正体がパルサーだという説を述べている。パルサーはクラークの短編「星」(1955) とその番組(1980) の間に発見された天体である。そして当時発見されたばかりのパルサー PSR B1913+16 について「キリストの誕生を知らせた星の死にかけた声が今も聞こえるとしたら、何とロマンチックだろう」と述べている。 クラークは自身の葬儀について指示を書き残していた。そこには「あらゆる種類の宗教的儀式を葬儀で行うな」とあった。 クラークの有名な言葉として「人類の一番の悲劇は、道徳が宗教にハイジャックされたことだ」というものがある。 クラークは若いころ超常現象を好み、『幼年期の終り』の着想の原点の1つが超常現象だと述べていた。1992年の伝記で、超常現象が詐欺だと判明した例をいくつも挙げ、徐々に完全な懐疑主義者になっていったと述べている。1993年と2004-2005年のインタビューでは、転生を可能にする機構が存在不可能だとして転生を信じないと述べている。しかし、J・B・S・ホールデンの言葉「宇宙は我々が想像する以上に奇妙などころか、想像できる以上に奇妙なのだ」をいつも好んで引用しているとも述べている。彼は転生の概念を魅力的だとも言っているが、限りある存在であることを好むとしていた。 クラークの作品は、科学の進歩によって人類が太陽系や海洋を探究していくだろうという楽観的な作風を特徴とする。作者の理想に基づき、高度に発達したテクノロジー/生態学/社会によるユートピア的設定がしばしば見られる。初期作品は、技術革新や科学的躍進によって発達した社会が最終的に衰微していく未来を描いたものが多い。 「前哨」(1948) で初めて宗教的テーマが導入され、『都市と星』などの作品でそれがさらに追究されている。「前哨」には、知的種族が進化すると神に近いものになるというもう1つのテーマがあった。これをさらに深めたのが1953年の『幼年期の終り』である。この考え方は『地球帝国』にも若干現れている。この進化による超越という考え方はオラフ・ステープルドンの追究したテーマに近い。クラークはステープルドンの『最後にして最初の人類』(1930) について「この本ほど私の生涯に影響を与えた作品はない(中略)そしてそれに続く『スターメイカー』(1937) と共に(ステープルドンの)最高傑作に挙げられる」と述べている。 クラークは海洋(特に深海)にも大きな興味を持っており、「ビッグ・ゲーム・ハント」、「海底牧場」、「きらめく生きもの」、『イルカの島』といった作品にそれが表れている。 多くの科学者や宇宙飛行士らと親交があり、何人かは小説に登場している。他にもしばしば作中で現実とのクロスオーバーを行っており、『2010年宇宙の旅』では登場人物が遺棄宇宙船の中である有名SFホラー映画を話題にする、チュニジアの砂漠に残された有名SF映画の小道具が異星人のものと間違えられる、などのエピソードがあり、『2061年宇宙の旅』では『スター・ウォーズ』が、『3001年終局への旅』では『ジュラシック・パーク』が、そして『楽園の泉』では『2001年宇宙の旅』が言及されている。 クラークはスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』で映画と関わるようになった。2人は1964年、ニューヨークで会い映画製作で協力する可能性について話し合った。その過程でクラークの短編「前哨」(1948) を元にした物語とすることが決まった。元々はクラーク自身が脚本を書くことになっていたが、キューブリックがブレインストーミングの中で、まずイマジネーションを自由に羽ばたかせるために小説を書き、それに基づいて映画を作ってはどうかと提案した。クラークは後に「そういう形で始まったが、最終的には小説と脚本は同時進行で相互にフィードバックする形で進められた。だから私は映画の試写を見た後にいくつかの章を書き直した。創作技法としては苦労が多いもので、これを楽しめる作家は滅多にいないだろう」と述べている。すなわち「映画原作本」「映画のノベライゼーション」といった関係ではない。映画の劇場公開は1968年4月であり、小説の出版は同年7月である。 最高のSF映画として全世界で高く評価されており、日本の旧文部省が「特選」に指定した唯一のSF映画でもある。 映画製作の忙しいスケジュールの合間を縫ってキューブリックとクラークが小説について協力するのは難しかった。クラークは1964年末に小説の草稿を完成させ、1966年に予定されていた映画公開にさきがけて1965年に小説を出版する予定だった。しかし映画の公開は1968年にまで延び、小説もその後に完成した。小説の作者としてはクラークだけが記された。後にクラークは、キューブリックがクラークの作者としての影響を軽く見せかけるために状況を操作し、小説の出版が後になることで映画のノヴェライゼーションであるかのように見せかけたと不満を述べている。様々な理由から物語の詳細は小説と映画では異なっている。映画には個々の事象についてほとんど説明がない。一方クラークは小説版で全ての事象について因果関係を完全に説明している。ジェームズ・ランディが後に述べたところによると、映画の最初の試写の際に宇宙飛行士が11分間延々とジョギングしているシーン(公開版ではカットされている)を見た後の休憩時間にクラークが目に涙を浮かべて試写室を後にしたという。このシーンはキューブリックのアイデアで、宇宙旅行がいかに退屈なものかを示したのだという。 1972年、クラークはエッセイ『失われた宇宙の旅2001』で映画作成時の状況について詳しく説明し、主なシーンの別バージョンについても説明している。1999年に出版された A Space Odyssey の特別版にはクラークによる小説と映画のリリースまでの経緯を詳細に記した文章が序文として掲載された。 1982年、クラークは「2001年」の続編『2010年宇宙の旅』を出版した。この小説もピーター・ハイアムズ監督で1984年に『2010年』として映画化された。当時の政治情勢を反映し、映画では冷戦がテーマのひとつになっていたが、小説には迫りくる核戦争の危機は現れていない。映画は2001年ほど革命的でも芸術的でもないと言われたが、評価は概ね肯定的だった。その映画化に際してクラークはキューブリック抜きを条件にし、映画の仕上がりに満足したという。 クラークとハイアムズの電子メールのやりとりを含む『オデッセイ・ファイル―アーサー・C・クラークのパソコン通信のすすめ』が1984年に出版された(原題は The Odyssey File: The Making of 2010)。当時最先端の通信手段だった電子メールを使って、別々の大陸に住んでいたクラークとハイアムズが毎日のようにやり取りして映画の計画や製作について話し合った経緯が綴られている。また、クラークが選ぶベストSF映画のリストも掲載されている。 クラークはこの映画で2カ所にカメオ出演している。1カ所は主人公のフロイド博士がホワイトハウス前で会話をしている背後で鳩に餌をやっている人物で、もう1カ所はボーマンの母の病院でのシーンで、タイム誌の表紙を飾っているアメリカ大統領がクラーク、ソ連書記長がキューブリックになっていた。 クラークの『宇宙のランデブー』(1972) は何年も前に映画化権が購入されているが、未だに製作が進行していない。俳優のモーガン・フリーマンが『宇宙のランデブー』を原作とした映画を製作したいと述べていたが、2003年には資金集めに苦労していると明かしていた。IMDbでは一時期2009年公開予定とされていた。映画製作はフリーマンの制作会社 Revelations Entertainment が行う予定だった。Revelations のウェブサイトには『宇宙のランデブー』のページがあり、そこに監督として名が挙がっているのがデヴィッド・フィンチャーである。彼は2007年のインタビューで『宇宙のランデブー』の映画化に意欲を見せていた。しかし2008年、フィンチャーはこの映画が製作されない可能性が高いと述べた。脚本がなく、モーガン・フリーマンの健康状態が思わしくないことなどを理由に挙げている。IMDbからも削除された。 クラーク最大の科学的貢献は、静止衛星による電気通信リレーというアイデアだと言われている。彼は1945年10月の Wireless World に Extra-Terrestrial Relays — Can Rocket Stations Give Worldwide Radio Coverage? と題した論文を発表した。このため静止軌道を「クラーク軌道」と呼ぶこともある。 しかし、これが実際に通信衛星の開発に着想を与えたかどうかは不明である。エコーやテルスターといった通信衛星の開発に関わったベル研究所の ジョン・R・ピアース は1954年のインタビュー(1955年出版)ではクラークの論文記事に全く言及していない。 クラークの衛星同士のリレーというアイデア以前に、静止軌道上の人工衛星による通信というアイデアは既に存在していた。静止衛星の概念はヘルマン・オーベルトが1923年の著書 Die Rakete zu den Planetenräumen(惑星空間へのロケット)で記述しており、人工衛星による無線通信というアイデアは Herman Potočnik が1928年の著書 Das Problem der Befahrung des Weltraums — der Raketen-Motor (The Problem of Space Travel — The Rocket Motor) の Providing for Long Distance Communications and Safety という章と Observing and Researching the Earth's Surface という章で記述している。クラークは『未来のプロフィル』でこれら先達の業績を認識していることを示している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サー・アーサー・チャールズ・クラーク(Sir Arthur Charles Clarke、1917年12月16日 - 2008年3月19日)は、イギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1950年代から1970年代にはロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフと並んでビッグ・スリーと称されるSF界の大御所として活躍した。他の2人がエンターテイメント、SF叙事詩を志向したのに対して、クラークは豊富な科学的知識に裏打ちされた近未来を舞台にしたリアルなハードSF作品群と仏教思想に共鳴した「人類の宇宙的進化」を壮大に描く作品群とに特色がある。代表作は『幼年期の終わり』、『2001年宇宙の旅』。作品のほとんどが邦訳されている。短編では「太陽系最後の日」や「星」などが有名。SF以外の小説はイギリス空軍時代の体験を基にした1963年の Glide Path(日本語未訳)の一作のみ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第2次世界大戦中、イギリス空軍にて、空軍少尉兼レーダー技師を務めた。1945年には人工衛星による通信システムを提案した。1946年、ロンドンのキングス・カレッジ卒業(物理学、数学専攻)。1946年から1947年まで英国惑星間協会の会長を務め、1951年から1953年にも再び会長を務めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1956年、スリランカ(当時セイロン)に移住したが、これはスキューバ・ダイビング好きが高じたのが主な理由であり、死去するまでほとんどの期間をそこで過ごした。『スリランカから世界を眺めて』というスリランカでの暮らしに触れたエッセイ集もある。晩年まで小説を執筆した。1998年エリザベス2世女王よりナイトの称号を授与され、2005年にはスリランカの文民向けの最高の勲章 Sri Lankabhimanya 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World”へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示したとされる。1946年から1947年にかけて英国惑星間協会の会長を務め、さらに1951年から1953年にかけても同職を務めた。クラークは宇宙開発に関する科学解説書もいくつか書いており、『宇宙の探検』(1951) と The Promise of Space (1968) が特に有名である。静止衛星による通信網という彼のアイデアを讃え、国際天文学連合は静止軌道の公式な別名として「クラーク軌道」という名前を与えている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1953年、フロリダに旅行して子持ちの22歳のアメリカ人女性 Marilyn Mayfield と出会い、電撃的に結婚。6カ月後には別居したが、離婚が正式に成立したのは1964年のことである(映画2001年宇宙の旅の製作時期のアメリカ滞在中)。クラークは「この結婚は最初から間違いだった」と述べている。その後クラークが結婚することはなかったが、スリランカ人男性 Leslie Ekanayake とは親密な関係となり、『楽園の泉』の献辞には彼について「生涯ただ1人の親友」と書いていた。クラークはコロンボにある墓地で、約30年前に亡くなった Ekanayake と同じ墓に埋葬された。スタンリー・キューブリックの伝記を書いた John Baxter(ジョン・バクスター) は、クラークの同性愛指向について、彼がスリランカに移住した理由の1つとしてスリランカの法律が同性愛に寛大だったからだとしている。あるジャーナリストがクラークに同性愛者なのかと尋ねたときは否定していた。しかし、マイケル・ムアコックは次のように書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ムアコックの主張を裏付ける文献はないが、PLAYBOY誌1986年7月号のインタビューでクラークは両性愛の経験があるかと尋ねられ「もちろん」と応えている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "クラークは原稿や個人的メモの膨大なコレクション \"Clarkives\" を維持していた。現在は兄弟のフレッド・クラークが保管している。クラークはかつて、死後30年経過するまで日記を公開しないと述べている。なぜ日記を封印したのかと聞かれ「まあ、あらゆる種類の恥ずべきことがそこに書かれているかもしれない」と応えている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "クラークは1937年から1945年までファンジンにいくつか小説を発表していたが、1946年、アスタウンディング4月号に掲載された短編「抜け穴」で商業誌デビューする。実際に最初に売れたのは翌5月号に掲載された「太陽系最後の日」である。この作品は評価が高く、日本では『S-Fマガジン』創刊号に翻訳が掲載され、支持を得た。作家活動が本格化してきた1949年に Science Abstracts 誌の編集助手として働くようになったが、1951年以降は専業作家となった。1951年には第一長編『宇宙への序曲』を発表。また、イギリスのSFコミック Dan Dare シリーズの原作も手がけており、最初の長編3作は子供向けを意図して書いていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "クラークは1940年代から1950年代にかけてC・S・ルイスと文通しており、一度オックスフォードのパブで会い、SFと宇宙旅行について議論したことがある。ルイスの死後、クラークは別世界物語三部作を本物の文学といえる数少ないSF作品だと述べ、最大限の賛辞を贈った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1948年、BBCのコンクール向けに「前哨」を書いた。選外となったが、この作品がその後のクラークの経歴に変化をもたらした。それは『2001年宇宙の旅』の元になっただけでなく、クラーク作品により神秘的および宇宙的要素が加わるきっかけとなった。その後のクラークの作品では、技術的には現在よりも進歩しているが未だに偏見にとらわれた人類がさらに優れた異星生命体に出会うという設定が特徴的に見られるようになった。『都市と星』(およびその元になった『銀河帝国の崩壊』)、『幼年期の終り』、2001年シリーズといった作品では、優れた異星種族との出会いが概念的突破口を生み出し、人類がさらに次の段階へと進化することになる。クラーク公認の伝記において Neil McAleer は「いまだに多くの読者や批評家が(『幼年期の終り』を)アーサー・C・クラークの最高傑作としている」と書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "クラークは1956年から亡くなる2008年までスリランカに住んだ。その理由について、クラークと同じく同性愛者であったアラン・チューリングが1954年に自殺に追い詰められた事件にショックをうけ、性的に寛容なスリランカに移住したと、親しい知人には語っていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "移住当初はまだ「セイロン」と呼ばれており、まず南のUnawatunaに住み、その後コロンボに引っ越した。クラークはイギリスとスリランカ両国の市民権を持っていた。大のスキューバ・ダイビング好きで、Underwater Explorers Club の会員でもあった。作家活動の傍ら、クラークはパートナーの Mike Wilson と共にダイビング関連のベンチャーを何度か起業し、またWilsonの映画製作に資金を投入している。1961年、Wilsonは Great Basses Reef で難破船を発見し、そこから銀貨を回収した。翌年その難破船にダイビングして本格的に宝探しする計画だったが、クラークが麻痺を訴えて計画が中止され、ポリオと診断された。翌年、クラークは海岸や船上で銀貨回収を観察した。その難破船は最終的にムガル帝国のアウラングゼーブのものと判明し、ルピー銀貨の溶融した袋や大砲などが見つかり、クラークは詳細に記録した文書を元にしてノンフィクション The Treasure of the Great Reef を出版した。スリランカに住みその歴史を学んだことが、軌道エレベータを描いた小説『楽園の泉』の背景となった。軌道エレベータはロケットを時代遅れにし、静止衛星よりもこちらの方が重大な科学的貢献になるとクラークは信じていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1958年ごろ、クラークは様々な雑誌に科学的エッセイを連載し多くの予言を残している。これらは1962年の『未来のプロフィル』にまとめられている。2100年までの年表には様々な発明やアイデアが盛り込まれており、例えば2005年に \"global library\" という記述がある。同書には「クラークの第一法則」が書かれ、後の版で「クラークの三法則」に改められている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1970年代初め、クラークは3作品の出版契約を結んでおり、当時のSF作家の新記録だった。そのうちの1作目『宇宙のランデブー』は1973年に出版され、主な賞を総なめにし、シリーズ化されることになり、2001年シリーズと並んで後期のクラークの経歴の基盤となった。1970年、「国際SFシンポジウム」(小松左京主宰)に、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディス、ユーリ・カガルリツキーらと共にゲストとして来日、各地を遊歴。(ジュディス・メリルは都合により来日を果たせず、メッセージビデオを送ってきた)親睦会にてクラークはスリランカ風フラダンスを披露。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1980年代から90年代にかけて、テレビ番組 Arthur C. Clarke's Mysterious World、Arthur C. Clarke's World of Strange Powers、Arthur C. Clarke's Mysterious Universe でクラークの名は一般に浸透した。1986年にはアメリカSFファンタジー作家協会からグランド・マスター賞を授与された。1988年にはポリオ後症候群を発症。1962年のポリオ感染が原因で、その後は車椅子が必要になった。クラークは長年 British Polio Fellowship の副後援者を務めた。また、これらの時代から作家として原稿の執筆にはケイプロ社のパーソナルコンピュータを用い始めていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1989年のイギリス女王の誕生パーティに招かれ、大英帝国勲章 (CBE) を授与された。同年クラークは国際宇宙大学の初代学長に就任し、2004年まで同職を務めた。また、1979年から2002年までスリランカのモラトゥワ大学の学長も務めている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1994年、テレビ映画 Without Warning に出演している。アメリカ製作のこの映画は、ニュース番組の形式で異星人とのファーストコンタクトを描いたものである。同年、ゴリラ保護活動の後援者になっている。携帯電話用電池のためのタンタル採掘がゴリラを脅かしていることが判明すると、それに対するキャンペーンにも力を貸している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2000年5月26日、コロンボでの式典でナイトの称号を授与された。ナイトに叙することは1998年の New Year Honours で発表済みだったが、デイリー・ミラー紙がクラークを小児性愛で告発したため、クラーク側の要請で授与が延期されていた。その告発はスリランカ警察の調べで事実無根であることが判明している。デイリー・テレグラフ紙によれば、ミラー紙が後に謝罪記事を掲載したため、クラークは法的手段に訴えることはしなかった。その後クラークは正式にナイトの称号を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2004年12月末に起きたスマトラ島沖地震では自宅は無事だったが、津波によって海に面したダイビング用の小屋やバンガローなど(\"Arthur C. Clarke Diving School\" の施設)に被害を受けた。彼は人道支援を呼びかけ、アーサー・C・クラーク財団は災害警報システムの改善に取り組むようになった。ダイビング学校は後に再建された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2007年9月、NASAの探査機カッシーニが土星の衛星イアペトゥスをフライバイしたことについて、クラークがビデオで歓迎の言葉を送った(イアペトゥスは『2001年宇宙の旅』で重要な役割を演じた)。2007年12月、クラークは友人やファンに向けて別れの言葉を述べたビデオを録画した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "同じく2007年12月には、生きている間に宇宙人のいるという確かな痕跡を見たかったと話していた。他に晩年には、非正統科学への傾倒の向きがあり、「超伝導体の回転による重力遮蔽」が近年に実現するだろうと語ったり、リチャード・ホーグランドの「火星に森林がある説」を擁護する、などの言動があった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2008年3月19日午前1時30分、自宅にて心肺機能不全のため90歳で死去。彼の秘書は、ポリオ後症候群に起因する呼吸困難と心不全だと発表した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "死の数日前、クラークは最後の作品 The Last Theorem (邦題『最終定理』)の原稿のチェックを終えたところだった。この作品はフレデリック・ポールと電子メールでやり取りしながら書いた共作である。同書はクラークの死後に出版された。クラークは3月22日にコロンボの墓地にスリランカ風に埋葬された。弟のフレッド・クラークやクラークのスリランカ人家族が数千人の観衆に混じって参列した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "クラークはアイザック・アシモフやロバート・A・ハインラインと共にSF界の「ビッグ・スリー」と称されていた。", "title": "ビッグ・スリー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "クラークとハインラインは『宇宙の探検』を出版した1951年に文通するようになり、翌年には直接会っている。長年の友として、互いの家(アメリカとスリランカ)を訪問したこともある。しかし1984年、ラリー・ニーヴンのカリフォルニアの自宅で会ったときはアメリカの宇宙開発および外交方針(特に戦略防衛構想)に関して激しい口論になったという。2人は公式には和解したとしていたが、1988年にハインラインが亡くなるまでずっと疎遠のままだった。", "title": "ビッグ・スリー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アシモフとは1953年にニューヨークで会った。その後数十年に渡って友好的なジャブの応酬を続けた。アシモフと、もし「最高のSF作家は誰か?」と聞かれたら互いの名を答える「アシモフ - クラーク協定(Asimov-Clarke Treaty of Park Avenue)」を結んでいたと言われている。1972年、クラークは自著 Report on Planet Three にこの協定のことを書いている。また、クラークとアシモフはメンサの会員であり、ともにメンサの国際会議に参加したこともある。", "title": "ビッグ・スリー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ビッグ・スリーは第二次世界大戦中、軍の技術者として働いており、アシモフとハインラインは同じフィラデルフィア海軍造船所に所属していた(L・スプレイグ・ディ・キャンプもいた)。", "title": "ビッグ・スリー" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "宗教的テーマはクラーク作品によく見られるが、クラーク自身の宗教観はなかなか複雑である。彼は「知識へと至る道は神へと至る道である。あるいは真実へと至る道でも何でも好きに呼べばよい」と述べている。また、自らを「神という概念に魅了された者」と称した。空軍に入隊した際には、認識票の宗教欄にイングランド国教会ではなく、「汎神論者」と記した。2000年にはスリランカの新聞のインタビューに「私は神も来世も信じていない」と述べ、自身を無神論者だとしている。International Academy of Humanism からは名誉ヒューマニストの称号を与えられている。また自身を「隠れ仏教徒」と称しつつ、仏教は宗教ではないと主張している。若いころは宗教への興味をほとんど示しておらず、例えば結婚当初の数カ月間だけ妻の強い勧めで長老派教会に入信していた。", "title": "宗教観" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "Alan Watts による3日間のインタビューの中でクラークは、宗教に対して偏見を持っており、宗教が残虐行為や戦争を防止できない点を許すことができないと語った。", "title": "宗教観" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また自身の名を冠した番組(Arthur C. Clarke's Mysterious World の \"Strange Skies\" という回)で「私は時折、宇宙が天文学者を永久に驚かせるよう設計された機械ではないかと思うことがある」と述べている。また同じ回の最後の方でベツレヘムの星を取り上げ、その正体がパルサーだという説を述べている。パルサーはクラークの短編「星」(1955) とその番組(1980) の間に発見された天体である。そして当時発見されたばかりのパルサー PSR B1913+16 について「キリストの誕生を知らせた星の死にかけた声が今も聞こえるとしたら、何とロマンチックだろう」と述べている。", "title": "宗教観" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "クラークは自身の葬儀について指示を書き残していた。そこには「あらゆる種類の宗教的儀式を葬儀で行うな」とあった。", "title": "宗教観" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "クラークの有名な言葉として「人類の一番の悲劇は、道徳が宗教にハイジャックされたことだ」というものがある。", "title": "宗教観" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "クラークは若いころ超常現象を好み、『幼年期の終り』の着想の原点の1つが超常現象だと述べていた。1992年の伝記で、超常現象が詐欺だと判明した例をいくつも挙げ、徐々に完全な懐疑主義者になっていったと述べている。1993年と2004-2005年のインタビューでは、転生を可能にする機構が存在不可能だとして転生を信じないと述べている。しかし、J・B・S・ホールデンの言葉「宇宙は我々が想像する以上に奇妙などころか、想像できる以上に奇妙なのだ」をいつも好んで引用しているとも述べている。彼は転生の概念を魅力的だとも言っているが、限りある存在であることを好むとしていた。", "title": "超常現象に対する姿勢" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "クラークの作品は、科学の進歩によって人類が太陽系や海洋を探究していくだろうという楽観的な作風を特徴とする。作者の理想に基づき、高度に発達したテクノロジー/生態学/社会によるユートピア的設定がしばしば見られる。初期作品は、技術革新や科学的躍進によって発達した社会が最終的に衰微していく未来を描いたものが多い。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "「前哨」(1948) で初めて宗教的テーマが導入され、『都市と星』などの作品でそれがさらに追究されている。「前哨」には、知的種族が進化すると神に近いものになるというもう1つのテーマがあった。これをさらに深めたのが1953年の『幼年期の終り』である。この考え方は『地球帝国』にも若干現れている。この進化による超越という考え方はオラフ・ステープルドンの追究したテーマに近い。クラークはステープルドンの『最後にして最初の人類』(1930) について「この本ほど私の生涯に影響を与えた作品はない(中略)そしてそれに続く『スターメイカー』(1937) と共に(ステープルドンの)最高傑作に挙げられる」と述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "クラークは海洋(特に深海)にも大きな興味を持っており、「ビッグ・ゲーム・ハント」、「海底牧場」、「きらめく生きもの」、『イルカの島』といった作品にそれが表れている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "多くの科学者や宇宙飛行士らと親交があり、何人かは小説に登場している。他にもしばしば作中で現実とのクロスオーバーを行っており、『2010年宇宙の旅』では登場人物が遺棄宇宙船の中である有名SFホラー映画を話題にする、チュニジアの砂漠に残された有名SF映画の小道具が異星人のものと間違えられる、などのエピソードがあり、『2061年宇宙の旅』では『スター・ウォーズ』が、『3001年終局への旅』では『ジュラシック・パーク』が、そして『楽園の泉』では『2001年宇宙の旅』が言及されている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "クラークはスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』で映画と関わるようになった。2人は1964年、ニューヨークで会い映画製作で協力する可能性について話し合った。その過程でクラークの短編「前哨」(1948) を元にした物語とすることが決まった。元々はクラーク自身が脚本を書くことになっていたが、キューブリックがブレインストーミングの中で、まずイマジネーションを自由に羽ばたかせるために小説を書き、それに基づいて映画を作ってはどうかと提案した。クラークは後に「そういう形で始まったが、最終的には小説と脚本は同時進行で相互にフィードバックする形で進められた。だから私は映画の試写を見た後にいくつかの章を書き直した。創作技法としては苦労が多いもので、これを楽しめる作家は滅多にいないだろう」と述べている。すなわち「映画原作本」「映画のノベライゼーション」といった関係ではない。映画の劇場公開は1968年4月であり、小説の出版は同年7月である。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "最高のSF映画として全世界で高く評価されており、日本の旧文部省が「特選」に指定した唯一のSF映画でもある。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "映画製作の忙しいスケジュールの合間を縫ってキューブリックとクラークが小説について協力するのは難しかった。クラークは1964年末に小説の草稿を完成させ、1966年に予定されていた映画公開にさきがけて1965年に小説を出版する予定だった。しかし映画の公開は1968年にまで延び、小説もその後に完成した。小説の作者としてはクラークだけが記された。後にクラークは、キューブリックがクラークの作者としての影響を軽く見せかけるために状況を操作し、小説の出版が後になることで映画のノヴェライゼーションであるかのように見せかけたと不満を述べている。様々な理由から物語の詳細は小説と映画では異なっている。映画には個々の事象についてほとんど説明がない。一方クラークは小説版で全ての事象について因果関係を完全に説明している。ジェームズ・ランディが後に述べたところによると、映画の最初の試写の際に宇宙飛行士が11分間延々とジョギングしているシーン(公開版ではカットされている)を見た後の休憩時間にクラークが目に涙を浮かべて試写室を後にしたという。このシーンはキューブリックのアイデアで、宇宙旅行がいかに退屈なものかを示したのだという。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1972年、クラークはエッセイ『失われた宇宙の旅2001』で映画作成時の状況について詳しく説明し、主なシーンの別バージョンについても説明している。1999年に出版された A Space Odyssey の特別版にはクラークによる小説と映画のリリースまでの経緯を詳細に記した文章が序文として掲載された。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1982年、クラークは「2001年」の続編『2010年宇宙の旅』を出版した。この小説もピーター・ハイアムズ監督で1984年に『2010年』として映画化された。当時の政治情勢を反映し、映画では冷戦がテーマのひとつになっていたが、小説には迫りくる核戦争の危機は現れていない。映画は2001年ほど革命的でも芸術的でもないと言われたが、評価は概ね肯定的だった。その映画化に際してクラークはキューブリック抜きを条件にし、映画の仕上がりに満足したという。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "クラークとハイアムズの電子メールのやりとりを含む『オデッセイ・ファイル―アーサー・C・クラークのパソコン通信のすすめ』が1984年に出版された(原題は The Odyssey File: The Making of 2010)。当時最先端の通信手段だった電子メールを使って、別々の大陸に住んでいたクラークとハイアムズが毎日のようにやり取りして映画の計画や製作について話し合った経緯が綴られている。また、クラークが選ぶベストSF映画のリストも掲載されている。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "クラークはこの映画で2カ所にカメオ出演している。1カ所は主人公のフロイド博士がホワイトハウス前で会話をしている背後で鳩に餌をやっている人物で、もう1カ所はボーマンの母の病院でのシーンで、タイム誌の表紙を飾っているアメリカ大統領がクラーク、ソ連書記長がキューブリックになっていた。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "クラークの『宇宙のランデブー』(1972) は何年も前に映画化権が購入されているが、未だに製作が進行していない。俳優のモーガン・フリーマンが『宇宙のランデブー』を原作とした映画を製作したいと述べていたが、2003年には資金集めに苦労していると明かしていた。IMDbでは一時期2009年公開予定とされていた。映画製作はフリーマンの制作会社 Revelations Entertainment が行う予定だった。Revelations のウェブサイトには『宇宙のランデブー』のページがあり、そこに監督として名が挙がっているのがデヴィッド・フィンチャーである。彼は2007年のインタビューで『宇宙のランデブー』の映画化に意欲を見せていた。しかし2008年、フィンチャーはこの映画が製作されない可能性が高いと述べた。脚本がなく、モーガン・フリーマンの健康状態が思わしくないことなどを理由に挙げている。IMDbからも削除された。", "title": "映画化作品" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "クラーク最大の科学的貢献は、静止衛星による電気通信リレーというアイデアだと言われている。彼は1945年10月の Wireless World に Extra-Terrestrial Relays — Can Rocket Stations Give Worldwide Radio Coverage? と題した論文を発表した。このため静止軌道を「クラーク軌道」と呼ぶこともある。", "title": "静止衛星" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし、これが実際に通信衛星の開発に着想を与えたかどうかは不明である。エコーやテルスターといった通信衛星の開発に関わったベル研究所の ジョン・R・ピアース は1954年のインタビュー(1955年出版)ではクラークの論文記事に全く言及していない。", "title": "静止衛星" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "クラークの衛星同士のリレーというアイデア以前に、静止軌道上の人工衛星による通信というアイデアは既に存在していた。静止衛星の概念はヘルマン・オーベルトが1923年の著書 Die Rakete zu den Planetenräumen(惑星空間へのロケット)で記述しており、人工衛星による無線通信というアイデアは Herman Potočnik が1928年の著書 Das Problem der Befahrung des Weltraums — der Raketen-Motor (The Problem of Space Travel — The Rocket Motor) の Providing for Long Distance Communications and Safety という章と Observing and Researching the Earth's Surface という章で記述している。クラークは『未来のプロフィル』でこれら先達の業績を認識していることを示している。", "title": "静止衛星" } ]
サー・アーサー・チャールズ・クラークは、イギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている。
{{Infobox 作家 | name = アーサー・C・クラーク<br />Arthur C. Clarke | image = Clarke sm.jpg | image_size = 240px | caption = コロンボの自宅にて(2005年撮影) | pseudonym = Charles Willis,<ref name="booksandwriters"/><br/>E.G. O'Brien<ref name="booksandwriters">{{cite news |first= |last= |authorlink= |coauthors= |title=Arthur C. Clarke |url= http://www.kirjasto.sci.fi/aclarke.htm |quote= |publisher= ''books and writers'' |year=2003 |accessdate=2008-03-18 }}</ref> | birth_date = {{生年月日と年齢|1917|12|16|no}} | birth_place = {{UK}} [[サマセット州]] [[マインヘッド]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1917|12|16|2008|3|19}} | death_place = {{LKA}} [[コロンボ]] | occupation = [[SF作家]] | alma_mater = [[キングス・カレッジ・ロンドン]] | nationality = {{UK}} {{LKA}} | period = | genre = [[サイエンス・フィクション|SF]] | subject = [[科学]] | movement = | notable_works = 『[[2001年宇宙の旅]]』<br />『[[幼年期の終り]]』<br/>『[[宇宙のランデヴー]]』<br/>『楽園の泉』 | awards = [[ヒューゴー賞]]<br>[[ネビュラ賞]]<br>[[ローカス賞]] | debut_works = 抜け穴 | influences = [[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]、[[ジュール・ヴェルヌ]]、[[ロード・ダンセイニ]]、[[オラフ・ステープルドン]] | influenced = [[スティーヴン・バクスター]]、[[三島由紀夫]]、[[富野由悠季]] <ref>{{Cite web|和書|url= https://febri.jp/topics/tomino-higuchi-3/ |title=青森県立美術館「富野由悠季の世界」展 特別対談 富野由悠季×樋口真嗣③|publisher=Febri |date=2021-07-15 |accessdate=2021-07-15}}</ref>、[[庵野秀明]]、[[新海誠]]など | website = http://www.clarkefoundation.org/ }} '''サー・アーサー・チャールズ・クラーク'''({{lang|en|Sir Arthur Charles Clarke}}、[[1917年]][[12月16日]] - [[2008年]][[3月19日]])は、[[イギリス]]出身の[[SF作家]]。[[20世紀]]を代表する[[サイエンス・フィクション|SF]]作家の一人であり、科学解説者としても知られている。 ==概要== [[1950年代]]から[[1970年代]]には[[ロバート・A・ハインライン]]、[[アイザック・アシモフ]]と並んでビッグ・スリーと称されるSF界の大御所として活躍した<ref name=obittimes>{{cite news |author=Lech Mintowt-Czyz and Steve Bird |title=Science fiction author Arthur C Clarke dies aged 90 |url= http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/article3579120.ece |quote=Science fiction writer Sir Arthur C Clarke has died aged 90 in his adopted home of Sri Lanka, it was confirmed tonight. |publisher=[[タイムズ|The Times]] |date=19 March 2008 |accessdate=2008-03-19 | location=London}}</ref>。他の2人がエンターテイメント、SF[[叙事詩]]を志向したのに対して、クラークは豊富な科学的知識に裏打ちされた近未来を舞台にしたリアルな[[ハードSF]]作品群と[[仏教]]思想に共鳴した「人類の宇宙的進化」を壮大に描く作品群とに特色がある。代表作は『[[幼年期の終わり]]』、『[[2001年宇宙の旅]]』。作品のほとんどが邦訳されている。短編では「[[太陽系最後の日]]」や「星」などが有名。SF以外の小説はイギリス空軍時代の体験を基にした1963年の ''Glide Path''(日本語未訳)の一作のみ。 第2次世界大戦中、[[イギリス空軍]]にて、空軍少尉兼[[レーダー]]技師を務めた。1945年には[[人工衛星]]による通信システムを提案した<ref>[http://lakdiva.org/clarke/1945ww The 1945 Proposal by Arthur C. Clarke for Geostationary Satellite Communications]</ref><ref>[http://www.clarkefoundation.org/archives/1996.php The Arthur C. Clarke Foundation]</ref>。1946年、ロンドンのキングス・カレッジ卒業(物理学、数学専攻)。1946年から1947年まで[[英国惑星間協会]]の会長を務め、1951年から1953年にも再び会長を務めた<ref>[http://www.asi.org/adb/06/09/03/02/092/clarke-nobel-prize.html Moon Miners' Manifesto: Arthur C Clarke nominated for Nobel]</ref>。 1956年、[[スリランカ]](当時[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]])に移住したが、これは[[スキューバ・ダイビング]]好きが高じたのが主な理由であり<ref>{{cite web | url = http://www.natureseychelles.org/index.php?option=com_content&task=view&id=326&Itemid=106 | title = Remembering Arthur C. Clarke | accessdate = 2008-03-27}}</ref>、死去するまでほとんどの期間をそこで過ごした。『スリランカから世界を眺めて』というスリランカでの暮らしに触れたエッセイ集もある。晩年まで小説を執筆した。1998年[[エリザベス2世]]女王より[[ナイト]]の称号を授与され<ref name=BBCsfknight>{{cite news | title = The new knight of science fiction | url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/43739.stm | work = BBC News | publisher = BBC | date = 1 January 1998 | accessdate = 26 August 2009}}</ref><ref name=BBCknighted>{{cite news | title = Arthur C Clarke knighted | url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/765385.stm | work = BBC News | publisher = BBC | date = 26 May 2000 | accessdate = 26 August 2009}}</ref>、2005年にはスリランカの文民向けの最高の勲章 Sri Lankabhimanya を授与された<ref name=SriLankabhimanya />。 [[メンサ]](入会条件を上位2%のIQを有する者に限定した国際的な団体)の会員だった<ref>[http://www.mensa.it/cos-e-il-mensa/20-chi-sono-i-personaggi-famosi-del-mensa MENSA ITALIA - Chi sono i personaggi famosi del Mensa?]</ref><ref name="名前なし-2">[http://www.bis-space.com/wp-content/uploads/2011/07/odyssey_5_July2011.pdf The Newsletter of the British Interplanetary Society:July 2011]</ref><ref>新妻比佐志著『迷いが消える決断思考』p23閲覧</ref>。 == 生涯 == [[1917年]][[12月16日]]に、[[サマセット州]][[マインヘッド]]にて生まれる<ref name=obittimes />。少年時代は[[天体観測]]を趣味とし、[[アスタウンディング]]などの[[パルプ・マガジン|パルプ誌]]をはじめとしたSF小説に熱中していた<ref>アーサー・C・クラーク著 山高昭訳『楽園の日々-アーサー・C・クラークの回想録』ハヤカワ文庫</ref>。1934年に英国惑星間協会へ入会し、活発に活動する(1946年には会長になった)。1936年にグラマースクールを卒業した後は公務員([[教育委員会]]の[[年金]]部門の[[監査]]役)として働いていた<ref>{{LondonGazette|issue=34321|page=5798|date=8 September 1936|accessdate=2008-03-19}}</ref>。 [[第二次世界大戦]]中には[[イギリス空軍]]の[[将校]]として電波探知法、レーダーの開発に取り組み、教官も務める。レーダーによる早期警戒システム構築に関わり、このシステムが[[バトル・オブ・ブリテン]]での勝利に寄与した。同僚には後に[[ノーベル物理学賞]]を受賞する[[マーティン・ライル]]がいた。戦時中に特に力を入れたのは[[着陸誘導管制]] (GCA) 用レーダーの開発であり、半自伝的小説 ''[[:en:Glide Path|Glide Path]]'' に描かれている。戦争中にGCAが広く実用化されることはなかったが、その後の開発によって1948年から1949年の[[ベルリン封鎖]]では大いに活用された。軍での階級は当初[[伍長#イギリス|伍長]]だったが、1943年5月27日には空軍少尉(技術部門)となっている<ref>{{LondonGazette|issue=36089|supp=yes|pages=3162-3163|date=9 July 1943|accessdate=2008-03-19}}</ref>。さらに1943年11月27日には中尉に昇格している<ref>{{LondonGazette|issue=36271|supp=yes|page=5289|date=1943-11-30|accessdate=2008-03-19}}</ref>。[[復員]]時には大尉だった。戦後、[[ロンドン大学]]の[[キングス・カレッジ・ロンドン|キングス・カレッジ]]に入学し、[[物理学]]と[[数学]]を専攻する。一時、[[大蔵省 (イギリス)|大蔵省]]に勤めるがすぐに退職。 [[静止衛星]]の概念そのものはクラークの発明ではないが、[[人工衛星]]による無線通信の中継(リレー)というアイデアはクラークのものである。1945年にそのアイデアを論文にし、英国惑星間協会の主要メンバーに見せた。その論文を改稿したものを同年10月に科学雑誌“Wireless World”へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示したとされる<ref>{{Cite journal|first=Arthur C.|last=Clark|title=Extra-Terrestrial Relays — Can Rocket Stations Give Worldwide Radio Coverage?|journal=Wireless World|year=1945|month=October|pages=pp. 305-308|url= http://www.clarkefoundation.org/docs/ClarkeWirelessWorldArticle.pdf}}</ref><ref name="wirelessworld">{{cite web |url= http://lakdiva.org/clarke/1945ww/1945ww_058.jpg |title=Peacetime Uses for V2 |accessdate=2007-02-08 |format=JPG |work=Wireless World |year=1945 |month=February }}</ref>。1946年から1947年にかけて英国惑星間協会の会長を務め<ref>Journal of the British Interplanetary Society Vol 6 (1946)</ref>、さらに1951年から1953年にかけても同職を務めた<ref>Parkinson, B. (2008) (Ed.)'Interplanetary - A History of the British Interplanetary Society', p.93</ref>。クラークは宇宙開発に関する科学解説書もいくつか書いており、『宇宙の探検』(1951) と ''The Promise of Space'' (1968) が特に有名である。静止衛星による通信網という彼のアイデアを讃え、[[国際天文学連合]]は[[静止軌道]]の公式な別名として「クラーク軌道」という名前を与えている<ref name="foundation">{{cite web |url= http://www.clarkefoundation.org/acc/biography.php |title=Clarke Foundation Biography |accessdate=2008-03-19 |format= |work= |date= }}</ref>。 1953年、フロリダに旅行して子持ちの22歳のアメリカ人女性 Marilyn Mayfield と出会い、電撃的に結婚<ref>[http://www.kirjasto.sci.fi/aclarke.htm Arthur C Clarke - a quick summary]</ref>。6カ月後には別居したが、離婚が正式に成立したのは1964年のことである(映画[[2001年宇宙の旅]]の製作時期のアメリカ滞在中)<ref name="McAleer">McAleer, Neil. "Arthur C. Clarke: The Authorized Biography", Contemporary Books, Chicago, 1992. ISBN 0-8092-3720-2</ref><!-- pp. 93-100 -->。クラークは「この結婚は最初から間違いだった」と述べている<ref name="McAleer"/><!-- p. 100 -->。その後クラークが結婚することはなかったが、スリランカ人男性 Leslie Ekanayake とは親密な関係となり、『楽園の泉』の献辞には彼について「生涯ただ1人の親友」と書いていた<ref>献辞の全文は次の通り "To the still unfading memory of LESLIE EKANAYAKE (13 JuIy 1947 – 4 July 1977) only perfect friend of a lifetime, in whom were uniquely combined Loyalty, Intelligence and Compassion. When your radiant and loving spirit vanished from this world, the light went out of many lives."</ref>。クラークはコロンボにある墓地で、約30年前に亡くなった Ekanayake と同じ墓に埋葬された。[[スタンリー・キューブリック]]の伝記を書いた John Baxter([[ジョン・バクスター]]) は、クラークの同性愛指向について、彼が[[スリランカ]]に移住した理由の1つとしてスリランカの法律が同性愛に寛大だったからだとしている<ref>{{cite book |title=Stanley Kubrick: A Biography|last=Baxter |first=John|year=1997|publisher=Carroll & Graff |location=New York|isbn=0786704853|page=203 |quote=But Clarke and Kubrick made a match. [...] Both had a streak of homoeroticism[...]|accessdate=8 September 2009}}</ref>。ある[[ジャーナリスト]]がクラークに同性愛者なのかと尋ねたときは否定していた<ref name=obitnyt/>。しかし、[[マイケル・ムアコック]]は次のように書いている。 {{quote|誰もが彼がゲイだと知っていた。1950年代にはボーイフレンドを伴った彼と飲みに行ったこともある。彼の同棲相手やその家族にも何度も会ったことがある。彼らは一様に彼の親切に感謝していた。やや自己陶酔的で絶対禁酒主義者だったが、全く完璧な紳士だった。<ref>{{cite news | url = http://www.guardian.co.uk/books/2008/mar/22/arthurcclarke| title=Brave New Worlds | author=Michael Moorcock |date =2008-03-22 | accessdate = 2008-08-25| publisher = [[ガーディアン|The Guardian]]}}</ref>}} ムアコックの主張を裏付ける文献はないが、[[PLAYBOY]]誌1986年7月号のインタビュー<ref>[http://www.nndb.com/people/725/000023656/ NNDB page on Clarke]</ref>でクラークは[[両性愛]]の経験があるかと尋ねられ「もちろん」と応えている<ref>[http://www.playboy.com/articles/arthur-clarke-playboy-interview/index.html?page=2 Clarke's interview in Playboy magazine]</ref>。 クラークは原稿や個人的メモの膨大なコレクション "Clarkives" を維持していた。現在は兄弟のフレッド・クラークが保管している。クラークはかつて、死後30年経過するまで日記を公開しないと述べている。なぜ日記を封印したのかと聞かれ「まあ、あらゆる種類の恥ずべきことがそこに書かれているかもしれない」と応えている<ref>[http://www.guardian.co.uk/books/1999/sep/12/sciencefictionfantasyandhorror.arthurcclarke Man on the moon]</ref>。 === 作家としての経歴 === クラークは1937年から1945年まで[[ファンジン]]にいくつか小説を発表していたが、[[1946年]]、[[アスタウンディング]]4月号に掲載された短編「抜け穴」で商業誌デビューする。実際に最初に売れたのは翌5月号に掲載された「[[太陽系最後の日]]」である。この作品は評価が高く、日本では『[[S-Fマガジン]]』創刊号に翻訳が掲載され、支持を得た。作家活動が本格化してきた1949年に ''[[:en:Science Abstracts|Science Abstracts]]'' 誌の編集助手として働くようになったが、1951年以降は専業作家となった。1951年には第一長編『宇宙への序曲』を発表。また、イギリスのSFコミック ''[[:en:Dan Dare|Dan Dare]]'' シリーズの原作も手がけており、最初の長編3作は子供向けを意図して書いていた。 クラークは1940年代から1950年代にかけて[[C・S・ルイス]]と文通しており、一度オックスフォードのパブで会い、SFと宇宙旅行について議論したことがある。ルイスの死後、クラークは別世界物語三部作を本物の文学といえる数少ないSF作品だと述べ、最大限の賛辞を贈った。 1948年、[[英国放送協会|BBC]]のコンクール向けに「前哨」を書いた。選外となったが、この作品がその後のクラークの経歴に変化をもたらした。それは『[[2001年宇宙の旅]]』の元になっただけでなく、クラーク作品により神秘的および宇宙的要素が加わるきっかけとなった。その後のクラークの作品では、技術的には現在よりも進歩しているが未だに偏見にとらわれた人類がさらに優れた異星生命体に出会うという設定が特徴的に見られるようになった。『都市と星』(およびその元になった『銀河帝国の崩壊』)、『[[幼年期の終り]]』、2001年シリーズといった作品では、優れた異星種族との出会いが概念的突破口を生み出し、人類がさらに次の段階へと進化することになる。クラーク公認の伝記において Neil McAleer は「いまだに多くの読者や批評家が(『幼年期の終り』を)アーサー・C・クラークの最高傑作としている」と書いている<ref name="McAleer"/><!-- p. 88 -->。 クラークは1956年から亡くなる2008年まで[[スリランカ]]に住んだ。その理由について、クラークと同じく同性愛者であった[[アラン・チューリング]]が1954年に自殺に追い詰められた事件にショックをうけ、性的に寛容なスリランカに移住したと、親しい知人には語っていたという<ref>マイケル・ベイソン『2001 キューブリック クラーク』(早川書房)P.458</ref>。 移住当初はまだ「[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]」と呼ばれており、まず南の[[:en:Unawatuna|Unawatuna]]に住み、その後[[コロンボ]]に引っ越した<ref name=obitnyt/>。クラークはイギリスと[[スリランカ]]両国の市民権を持っていた<ref name="sundayobserver">{{cite web |url= http://www.sundayobserver.lk/2005/12/11/new27.html |title=Happy Birthday Sir Arthur C. Clarke! |accessdate=2007-02-08 |work=Sunday Observer |date=2005-12-11 }}</ref>。大のスキューバ・ダイビング好きで、[[:en:Underwater Explorers Club|Underwater Explorers Club]] の会員でもあった。作家活動の傍ら、クラークはパートナーの Mike Wilson と共にダイビング関連のベンチャーを何度か起業し、またWilsonの映画製作に資金を投入している<ref>2001 キューブリック クラーク</ref>。1961年、Wilsonは Great Basses Reef で難破船を発見し、そこから銀貨を回収した。翌年その難破船にダイビングして本格的に宝探しする計画だったが、クラークが麻痺を訴えて計画が中止され、[[急性灰白髄炎|ポリオ]]と診断された。翌年、クラークは海岸や船上で銀貨回収を観察した。その難破船は最終的に[[ムガル帝国]]の[[アウラングゼーブ]]のものと判明し、[[ルピー]]銀貨の溶融した袋や大砲などが見つかり、クラークは詳細に記録した文書を元にしてノンフィクション ''The Treasure of the Great Reef'' を出版した<ref name="McAleer"/><ref>{{cite journal|last= Throckmorton |first= Peter |authorlink= |year=1964 |title= The Great Basses Wreck |journal= Expedition |volume= 6 |issue= 3, Spring |pages= 21–31 |issn= 0014-4738 |url= http://www.penn.museum/documents/publications/expedition/PDFs/6-3/The%20Great.pdf |format= PDF |accessdate= February 3, 2010}}</ref>。スリランカに住みその歴史を学んだことが、[[軌道エレベータ]]を描いた小説『楽園の泉』の背景となった。軌道エレベータはロケットを時代遅れにし、静止衛星よりもこちらの方が重大な科学的貢献になるとクラークは信じていた<ref name="Stone">Personal e-mail from Sir Arthur Clarke to Jerry Stone, Director of the [[:en:Sir Arthur Clarke Award|Sir Arthur Clarke Award]]s, 1 November 2006</ref>。 1958年ごろ、クラークは様々な雑誌に科学的エッセイを連載し多くの予言を残している。これらは1962年の『未来のプロフィル』にまとめられている。2100年までの年表<ref name="digitallantern">{{cite web |url= http://www.digitallantern.net/McLuhan/course/spring96/profiles.gif |title=Chart of the Future |accessdate=2007-02-08 |format= |work= }}</ref>には様々な発明やアイデアが盛り込まれており、例えば2005年に "global library" という記述がある。同書には「クラークの第一法則」が書かれ、後の版で「[[クラークの三法則]]」に改められている<ref name="McAleer"/><!-- p. 169 -->。 === その後 === 1970年代初め、クラークは3作品の出版契約を結んでおり、当時のSF作家の新記録だった。そのうちの1作目『[[宇宙のランデブー]]』は1973年に出版され、主な賞を総なめにし、シリーズ化されることになり、2001年シリーズと並んで後期のクラークの経歴の基盤となった。1970年、「国際SFシンポジウム」<span style="font-size:50%;">''([[小松左京]]主宰)''</span>に、[[フレデリック・ポール]]、[[ブライアン・オールディス]]、[[ユーリ・カガルリツキー]]らと共にゲストとして来日、各地を遊歴。([[ジュディス・メリル]]は都合により来日を果たせず、メッセージビデオを送ってきた)親睦会にてクラークはスリランカ風フラダンスを披露。 1980年代から90年代にかけて、テレビ番組 ''[[:en:Arthur C. Clarke's Mysterious World|Arthur C. Clarke's Mysterious World]]''、''[[:en:Arthur C. Clarke's World of Strange Powers|Arthur C. Clarke's World of Strange Powers]]''、''[[:en:Arthur C. Clarke's Mysterious Universe|Arthur C. Clarke's Mysterious Universe]]'' でクラークの名は一般に浸透した。1986年には[[アメリカSFファンタジー作家協会]]から[[デーモン・ナイト記念グランド・マスター賞|グランド・マスター賞]]を授与された<ref>[http://sfwa.org/awards/grand.htm SFWA Grand Masters]</ref>。1988年には[[ポリオ後症候群]]を発症。1962年の[[急性灰白髄炎|ポリオ]]感染が原因で、その後は車椅子が必要になった<ref name=obitnyt/>。クラークは長年 British Polio Fellowship<ref>[http://www.britishpolio.org.uk British Polio Fellowship - Home]</ref> の副後援者を務めた。また、これらの時代から作家として原稿の執筆には[[ケイプロ]]社の[[パーソナルコンピュータ]]を用い始めていた。 1989年のイギリス女王の誕生パーティに招かれ、[[大英帝国勲章]] (CBE) を授与された<ref name=CBE>{{LondonGazette|issue=51772|supp=yes|page=16|date=16 June 1989|accessdate=2008-03-19}}</ref>。同年クラークは[[国際宇宙大学]]の初代学長に就任し、2004年まで同職を務めた。また、1979年から2002年まで[[スリランカ]]の[[モラトゥワ大学]]の学長も務めている。 1994年、テレビ映画 ''[[:en:Without Warning (1994 film)|Without Warning]]'' に出演している。アメリカ製作のこの映画は、ニュース番組の形式で異星人とのファーストコンタクトを描いたものである。同年、[[ゴリラ]]保護活動の後援者になっている<ref>{{cite web |url= http://www.gorillas.org/arthur_c_clarke |title= Gorilla Organization mourns loss of patron Sir Arthur C Clarke – a true champion for gorillas |date= March 27, 2008 |publisher= Gorilla Organization |location= London |accessdate= May 5, 2010}}</ref>。携帯電話用電池のための[[タンタル]]採掘がゴリラを脅かしていることが判明すると、それに対するキャンペーンにも力を貸している<ref>[http://www.thisislondon.co.uk/news/article-4626572-details/Campaign+for+gorilla-friendly+mobiles/article.do Campaign for gorilla-friendly mobiles]</ref>。 2000年5月26日、コロンボでの式典で[[ナイト]]の称号を授与された<ref name=BBCknighted /><ref name=LP> were issued by エリザベス2世が2000年3月16日に発行した [[:en:Letters Patent|Letters Patent]] で承認された。(see {{LondonGazette|issue=55796|page=3167|date=21 March 2000|accessdate=2008-03-19}})</ref>。ナイトに叙することは1998年の [[:en:New Year Honours|New Year Honours]] で発表済みだったが<ref name=BBCsfknight /><ref name=Kt>{{LondonGazette|issue=54993|supp=yes|page=2|date=30 December 1997|accessdate=2008-03-19}}</ref>、[[デイリー・ミラー]]紙がクラークを小児性愛で告発したため<ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4161/is_19980201/ai_n14474884 It doesn't do any harm ... most of the damage comes from fuss made.] Sunday Mirror, Feb 1, 1998 Retrieved on 2008-03-24</ref><ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4161/is_19980208/ai_n14474575 Smirk of a pervert and a liar.], [[デイリー・ミラー|Sunday Mirror]], Feb 8, 1998 Retrieved on 2008-03-24</ref>、クラーク側の要請で授与が延期されていた。その告発はスリランカ警察の調べで事実無根であることが判明している<ref name="BBC">{{cite web |url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/74938.stm |title=Sci-fi novelist cleared of sex charges |accessdate=2008-02-11 | work=BBC News | date=1998-04-06}}</ref><ref name="irishexaminer">{{cite web |url= http://archives.tcm.ie/irishexaminer/1998/08/13/fhead.htm |title=Child sex file could close on sci-fi writer |accessdate=2007-03-19 |work=Irish Examiner }}</ref>。[[デイリー・テレグラフ]]紙によれば、ミラー紙が後に謝罪記事を掲載したため、クラークは法的手段に訴えることはしなかった<ref>{{cite news|url= http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2008/03/19/db1904.xml|title=Sir Arthur C Clarke|work=[[デイリー・テレグラフ|The Daily Telegraph]]|date=20 March 2008|accessdate=2008-03-27}}</ref><ref>[http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/article3587168.ece Timesonline.co.uk]</ref>。その後クラークは正式にナイトの称号を受けた。 [[2004年]]12月末に起きた[[スマトラ島沖地震]]では自宅は無事だったが、[[津波]]によって海に面したダイビング用の小屋やバンガローなど({{lang|en|"Arthur C. Clarke Diving School"}} の施設)に被害を受けた。彼は人道支援を呼びかけ、アーサー・C・クラーク財団は災害警報システムの改善に取り組むようになった<ref>{{Cite news |author= Sir Arthur C. Clarke |title= Letter from Sri Lanka |url= http://www.wired.com/wired/archive/13.02/letter.html |accessdate= 17 August 2009 |periodical= Wired |volume= 13.02 |year= 2005 |month= February |publisher= Condé Nast |location= San Francisco |issn= 1059-1028 |postscript= <!--None-->}}</ref>。ダイビング学校は後に再建された。 2007年9月、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]が土星の衛星[[イアペトゥス (衛星)|イアペトゥス]]をフライバイしたことについて、クラークがビデオで歓迎の言葉を送った(イアペトゥスは『2001年宇宙の旅』で重要な役割を演じた)<ref>[http://saturn.jpl.nasa.gov/multimedia/videos/video-details.cfm?videoID=160 Video greeting to NASA JPL by Arthur C. Clarke]. Retrieved 24 September 2007</ref>。2007年12月、クラークは友人やファンに向けて別れの言葉を述べたビデオを録画した<ref>{{cite web|url= http://www.youtube.com/watch?v=eLXQ7rNgWwg|title=Sir Arthur C Clarke 90th Birthday reflections|accessdate=2008-02-22|date=2007-12-10}}</ref>。 同じく[[2007年]]12月には、生きている間に宇宙人のいるという確かな痕跡を見たかったと話していた。他に晩年には、非正統科学への傾倒の向きがあり、「超伝導体の回転による重力遮蔽」が近年に実現するだろうと語ったり<ref>菊池誠『科学と神秘の間』P.63</ref>、リチャード・ホーグランドの「火星に森林がある説」を擁護する<ref>『[[SFマガジン]]』2009年5月号、[[永瀬唯]]「デッド・フューチャーREMIX」</ref>、などの言動があった。 [[2008年]][[3月19日]]午前1時30分<ref>[[インド標準時|スリランカ標準時]](UTC+5:30)と思われる。欧米では時差により[[3月18日|18日]]のうちに訃報が流れた</ref>、自宅にて心肺機能不全のため90歳で死去<ref name=obittimes /><ref name=obitnyt>{{cite news |first= |last= |authorlink= |coauthors= |title=Arthur C. Clarke, Premier Science Fiction Writer, Dies at 90. |url= http://www.nytimes.com/2008/03/18/books/18cnd-clarke.html?hp |quote=Arthur C. Clarke, a writer whose seamless blend of scientific expertise and poetic imagination helped usher in the space age, died early Wednesday in Colombo, Sri Lanka, where he had lived since 1956. He was 90. He had battled debilitating post-polio syndrome for years.|publisher=[[New York Times]] |date=18 March 2008 |accessdate=2008-03-19 }}</ref><ref>[http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/7304004.stm Writer Arthur C Clarke dies at 90], BBC News, 18 March 2008</ref><ref>[http://www.msnbc.msn.com/id/23697230/ Sci-fi guru Arthur C. Clarke dies at 90], MSNBC, 18 March 2008</ref><ref name=wiredblog>{{cite news |first= |last= |authorlink= Lewis Wallace|coauthors= |title=Arthur C. Clarke: The Wired Words |url= http://blog.wired.com/underwire/2008/03/arthur-c-clarke.html |quote= |publisher=[[Wired News|Wired]] Blog Network |date=18 March 2008 |accessdate=2008-03-22 }}</ref>。彼の秘書は、ポリオ後症候群に起因する呼吸困難と心不全だと発表した<ref>{{cite news |title= Sci-fi guru Arthur C. Clarke dies at 90 |first= Simon |last= Gardner |url= http://in.reuters.com/article/lifestyleMolt/idINCOL14093220080319 |agency= Reuters India |date= March 19, 2008 |accessdate= February 6, 2010}}</ref>。 死の数日前、クラークは最後の作品 ''[[:en:The Last Theorem|The Last Theorem]]'' (邦題『最終定理』)の原稿のチェックを終えたところだった。この作品は[[フレデリック・ポール]]と電子メールでやり取りしながら書いた共作である<ref>{{cite web | last =Pohl | first =Frederik | title = Sir Arthur and I | work = The Way the Future Blogs | date = 5 January 2009 | url = http://www.thewaythefutureblogs.com/2009/01/sir-arthur-and-i/ | accessdate = 22 January 2009}}</ref>。同書はクラークの死後に出版された<ref name="AFP">{{cite news|title=Last odyssey for sci-fi guru Arthur C. Clarke |url= http://afp.google.com/article/ALeqM5jWab-TXO_DymFmU13CzSNVObE6FQ |quote=Just a few days before he died, Clarke reviewed the final manuscript of his latest novel, "The Last Theorem" co-written with American author Frederik Pohl, which is to be published later this year. |publisher=[[フランス通信社|Agence France-Presse]]|date=March 18, 2008 |accessdate= February 6, 2010 }}</ref>。クラークは3月22日に[[コロンボ]]の[[ボレッラ#墓地|墓地]]にスリランカ風に埋葬された。弟のフレッド・クラークやクラークのスリランカ人家族が数千人の観衆に混じって参列した<ref>{{cite news|title=Sci-fi writer Clarke laid to rest|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7309598.stm|publisher=BBC|date=2008-03-22|accessdate=2008-03-22}}</ref>。 == ビッグ・スリー == クラークは[[アイザック・アシモフ]]や[[ロバート・A・ハインライン]]と共にSF界の「ビッグ・スリー」と称されていた<ref name=obittimes />。 クラークとハインラインは『宇宙の探検』を出版した1951年に文通するようになり、翌年には直接会っている。長年の友として、互いの家(アメリカとスリランカ)を訪問したこともある。しかし1984年、[[ラリー・ニーヴン]]のカリフォルニアの自宅で会ったときは[[アメリカ合衆国の宇宙開発|アメリカの宇宙開発]]および外交方針(特に[[戦略防衛構想]])に関して激しい口論になったという。2人は公式には和解したとしていたが、1988年にハインラインが亡くなるまでずっと疎遠のままだった<ref name="McAleer"/><!-- pages 81, 290, 326–329 -->。 アシモフとは1953年にニューヨークで会った。その後数十年に渡って友好的なジャブの応酬を続けた。アシモフと、もし「最高のSF作家は誰か?」と聞かれたら互いの名を答える「アシモフ - クラーク協定(''{{lang|en|Asimov-Clarke Treaty of Park Avenue}}'')」を結んでいたと言われている<ref>[http://www.faqs.org/faqs/books/isaac-asimov-faq/part1/ Isaac Asimov FAQ, Part 1]</ref>。1972年、クラークは自著 ''{{lang|en|Report on Planet Three}}'' にこの協定のことを書いている<ref name="McAleer"/><!-- pages 265–269 --><ref>{{Cite web |author= Edward Seiler and John H. Jenkins |title= Isaac Asimov FAQ |work= Isaac Asimov Home Page |year= 1994–2009 |url= http://www.asimovonline.com/asimov_FAQ.html#others5 |accessdate= January 26, 2010}}</ref>。また、クラークとアシモフは[[メンサ]]の会員であり、ともに[[メンサ]]の国際会議に参加したこともある。<ref name="名前なし-2"/> ビッグ・スリーは第二次世界大戦中、軍の技術者として働いており、アシモフとハインラインは同じ[[フィラデルフィア海軍造船所]]に所属していた([[L・スプレイグ・ディ・キャンプ]]もいた)。 == 宗教観 == 宗教的テーマはクラーク作品によく見られるが、クラーク自身の宗教観はなかなか複雑である。彼は「知識へと至る道は神へと至る道である。あるいは真実へと至る道でも何でも好きに呼べばよい」と述べている<ref>{{cite web|url= http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/obituaries/article3582978.ece|title=Sir Arthur C. Clarke: The Times obituary|date=2008-03-19|publisher=Times Online|accessdate=2008-08-06 | location=London}}</ref>。また、自らを「神という概念に魅了された者」と称した。空軍に入隊した際には、認識票の宗教欄に[[イングランド国教会]]ではなく、「[[汎神論]]者」と記した<ref name="McAleer"/><!-- Chapter 5 A pantheist in the RAF -->。2000年にはスリランカの新聞のインタビューに「私は神も来世も信じていない」と述べ<ref>[http://www.island.lk/2000/12/20/midwee01.html Midwee01]</ref>、自身を無神論者だとしている<ref>"…Stanley [Kubrick] is a Jew and I'm an atheist". Clarke quoted in Jeromy Agel (Ed.) (1970). ''The Making of Kubrick's 2001'': p.306</ref>。[[:en:International Academy of Humanism|International Academy of Humanism]] からは名誉[[ヒューマニズム|ヒューマニスト]]の称号を与えられている<ref name="humanist_laureate">[http://www.secularhumanism.org/index.php?section=iah&page=index The International Academy Of Humanism] at the website of the Council for Secular Humanism. (Retrieved 18 October 2007).</ref>。また自身を「隠れ仏教徒」と称しつつ、[[仏教]]は宗教ではないと主張している<ref name="freeinquiry">{{Cite news | last = Cherry | first = Matt | year = 1999 | title =God, Science, and Delusion: A Chat With Arthur C. Clarke | periodical = Free Inquiry | volume = 19 | issue = 2 | publication-place = Amherst, NY | publisher = Council for Secular Humanism | issn = 0272-0701 | url = http://www.secularhumanism.org/index.php?section=library&page=clarke_19_2 | accessdate = 2008-04-16}}</ref>。若いころは宗教への興味をほとんど示しておらず、例えば結婚当初の数カ月間だけ妻の強い勧めで[[長老派教会]]に入信していた。 [[:en:Alan Watts|Alan Watts]] による3日間のインタビューの中でクラークは、宗教に対して偏見を持っており、宗教が残虐行為や戦争を防止できない点を許すことができないと語った<ref>{{Cite journal | last = Clarke | first = Arthur C. | last2 = Watts | first2 = Alan | author2-link = Alan Watts | month = January | year = 1972 | title = At the Interface: Technology and Mysticism | journal = Playboy | volume = 19 | issue = 1 | place = Chicago, Ill. | publisher = HMH Publishing | page = 94 | issn = 0032-1478 | oclc = 3534353}}</ref>。 また自身の名を冠した番組(''{{lang|en|Arthur C. Clarke's Mysterious World}}'' の {{lang|en|"Strange Skies"}} という回)で「私は時折、宇宙が天文学者を永久に驚かせるよう設計された機械ではないかと思うことがある」と述べている。また同じ回の最後の方で[[ベツレヘムの星]]を取り上げ<ref name="youtube">{{cite web|url= http://www.youtube.com/watch?v=IN1yvdYx0HU&feature=related|title=Mysterious world strange skies 3 of 3|publisher=YouTube |accessdate=2008-08-06}}</ref>、その正体が[[パルサー]]だという説を述べている。パルサーはクラークの短編「星」(1955) とその番組(1980) の間に発見された天体である。そして当時発見されたばかりのパルサー [[:en:PSR B1913+16|PSR B1913+16]] について「キリストの誕生を知らせた星の死にかけた声が今も聞こえるとしたら、何とロマンチックだろう」と述べている<ref name="youtube"/>。 クラークは自身の[[葬儀]]について指示を書き残していた。そこには「あらゆる種類の宗教的儀式を葬儀で行うな」とあった<ref>{{cite web|url= http://www.time.com/time/quotes/0,26174,1723669,00.html|title=TIME Quotes of the Day |accessdate=2008-03-20|date=2008-03-19}}</ref>。 クラークの有名な言葉として「人類の一番の悲劇は、道徳が宗教にハイジャックされたことだ」というものがある<ref name="freeinquiry" />。 == 超常現象に対する姿勢 == クラークは若いころ[[超常現象]]を好み、『幼年期の終り』の着想の原点の1つが超常現象だと述べていた。1992年の伝記で、超常現象が詐欺だと判明した例をいくつも挙げ、徐々に完全な[[懐疑主義]]者になっていったと述べている<ref name="McAleer"/><!-- Ch 8 -->。1993年と2004-2005年のインタビューでは、[[転生]]を可能にする機構が存在不可能だとして転生を信じないと述べている。しかし、[[J・B・S・ホールデン]]の言葉「宇宙は我々が想像する以上に奇妙などころか、想像できる以上に奇妙なのだ」をいつも好んで引用しているとも述べている<ref>{{Cite news |author= Jeff Greenwald |authorlink= |title= Arthur C. Clarke On Life |url= http://www.wired.com/wired/archive/1.03/clarke.html |accessdate= 17 August 2009 |periodical= Wired |volume= 1.03 |date= July/August 1993 |publisher= Condé Nast |location= San Francisco |issn= 1059-1028 |postscript= <!--None-->}}</ref><!-- Q on p.2, A on p. 3 --><ref>{{Cite document |author= José Cordeiro |title= The Futurist Interviews Sir. Arthur C. Clarke |url= http://online.printmailcom.com/drupal/node/852 |accessdate= 16 August 2009 |volume= 42(4) |date= July/August 2008 |publisher= World Future Society |location= Bethesda, MD |issn= 0016-3317 |postscript= <!--None-->}}</ref><ref name="McAleer"/><!-- Ch 29 -->。彼は転生の概念を魅力的だとも言っているが、限りある存在であることを好むとしていた<ref>{{Cite news |author= Andrew Robinson |date= 10 October 1997 |title= The cosmic godfather |periodical= Times Higher Education |publication-place= London |publisher= TSL Education Ltd. |issn= 0049-3929 |url= http://www.timeshighereducation.co.uk/story.asp?storyCode=103989&sectioncode=26 |accessdate= 17 August 2009 |postscript= <!--None-->}}</ref>。 == 作風 == クラークの作品は、科学の進歩によって人類が太陽系や海洋を探究していくだろうという楽観的な作風を特徴とする。作者の理想に基づき、高度に発達した[[テクノロジー]]/[[生態学]]/社会による[[ユートピア]]的設定がしばしば見られる<ref>Guy Riddihough, Review of ''The City and the Stars''&nbsp; in ''Science''&nbsp;, (4 July 2008) Vol. 321. no. 5885, pp. 42 - 43 DOI: 10.1126/science.1161705: ''What marks the book out are Clarke's sweeping vistas, grand ideas, and ultimately optimistic view of humankind's future in the cosmos.''</ref>。初期作品は、技術革新や科学的躍進によって発達した社会が最終的に衰微していく未来を描いたものが多い。 「前哨」(1948) で初めて宗教的テーマが導入され、『都市と星』などの作品でそれがさらに追究されている。「前哨」には、知的種族が進化すると神に近いものになるというもう1つのテーマがあった。これをさらに深めたのが1953年の『[[幼年期の終り]]』である。この考え方は『地球帝国』にも若干現れている。この進化による超越という考え方は[[オラフ・ステープルドン]]の追究したテーマに近い。クラークはステープルドンの『最後にして最初の人類』(1930) について「この本ほど私の生涯に影響を与えた作品はない(中略)そしてそれに続く『スターメイカー』(1937) と共に(ステープルドンの)最高傑作に挙げられる」と述べている。 クラークは海洋(特に深海)にも大きな興味を持っており、「ビッグ・ゲーム・ハント」、「海底牧場」、「きらめく生きもの」、『[[イルカの島]]』といった作品にそれが表れている。 多くの科学者や宇宙飛行士らと親交があり、何人かは小説に登場している。他にもしばしば作中で現実とのクロスオーバーを行っており、『[[2010年宇宙の旅]]』では登場人物が遺棄宇宙船の中で[[エイリアン (映画)|ある有名SFホラー映画]]を話題にする、[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|チュニジアの砂漠に残された有名SF映画の小道具]]が異星人のものと間違えられる、などのエピソードがあり、『[[2061年宇宙の旅]]』では『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』が、『[[3001年終局への旅]]』では『[[ジュラシック・パーク]]』が、そして『楽園の泉』では『[[2001年宇宙の旅]]』が言及されている。 == 映画化作品 == === 2001年宇宙の旅 === {{main|2001年宇宙の旅}} クラークは[[スタンリー・キューブリック]]監督の『[[2001年宇宙の旅]]』で映画と関わるようになった。2人は1964年、ニューヨークで会い映画製作で協力する可能性について話し合った。その過程でクラークの短編「前哨」(1948) を元にした物語とすることが決まった。元々はクラーク自身が脚本を書くことになっていたが、キューブリックが[[ブレインストーミング]]の中で、まずイマジネーションを自由に羽ばたかせるために小説を書き、それに基づいて映画を作ってはどうかと提案した。クラークは後に「そういう形で始まったが、最終的には小説と脚本は同時進行で相互にフィードバックする形で進められた。だから私は映画の試写を見た後にいくつかの章を書き直した。創作技法としては苦労が多いもので、これを楽しめる作家は滅多にいないだろう」と述べている<ref>[http://www.latimes.com/news/printedition/front/la-me-clarke19mar19,1,1990610,full.story Arthur C. Clarke, 90; scientific visionary, acclaimed writer of '2001: A Space Odyssey']</ref>。すなわち「映画原作本」「映画の[[小説化|ノベライゼーション]]」といった関係ではない。映画の劇場公開は[[1968年]]4月であり、小説の出版は同年7月である。 最高のSF映画として全世界で高く評価されており、[[日本]]の旧[[文部科学省|文部省]]が「特選」に指定した唯一のSF映画でもある。 映画製作の忙しいスケジュールの合間を縫ってキューブリックとクラークが小説について協力するのは難しかった。クラークは1964年末に小説の草稿を完成させ、1966年に予定されていた映画公開にさきがけて1965年に小説を出版する予定だった。しかし映画の公開は1968年にまで延び、小説もその後に完成した。小説の作者としてはクラークだけが記された。後にクラークは、キューブリックがクラークの作者としての影響を軽く見せかけるために状況を操作し、小説の出版が後になることで映画のノヴェライゼーションであるかのように見せかけたと不満を述べている。様々な理由から物語の詳細は小説と映画では異なっている。映画には個々の事象についてほとんど説明がない。一方クラークは小説版で全ての事象について因果関係を完全に説明している。[[ジェームズ・ランディ]]が後に述べたところによると、映画の最初の試写の際に宇宙飛行士が11分間延々とジョギングしているシーン(公開版ではカットされている)を見た後の休憩時間にクラークが目に涙を浮かべて試写室を後にしたという。このシーンはキューブリックのアイデアで、宇宙旅行がいかに退屈なものかを示したのだという<ref name="jamesrandionclarke">{{cite web |url= http://itricks.com/randishow/?p=21 |title= Randi shares some stories regarding his friend Arthur C. Clarke and makes a comparison of Stanley Kubrick to Steve Jobs |accessdate=2008-04-24 |format= |work= }}</ref>。 1972年、クラークはエッセイ『失われた宇宙の旅2001』で映画作成時の状況について詳しく説明し、主なシーンの別バージョンについても説明している。1999年に出版された ''A Space Odyssey'' の特別版にはクラークによる小説と映画のリリースまでの経緯を詳細に記した文章が序文として掲載された。 === 2010年 === {{Main|2010年 (映画)}} 1982年、クラークは「2001年」の続編『[[2010年宇宙の旅]]』を出版した。この小説も[[ピーター・ハイアムズ]]監督で1984年に『[[2010年 (映画)|2010年]]』として映画化された。当時の政治情勢を反映し、映画では[[冷戦]]がテーマのひとつになっていたが、小説には迫りくる[[核戦争]]の危機は現れていない。映画は2001年ほど革命的でも芸術的でもないと言われたが、評価は概ね肯定的だった。その映画化に際してクラークはキューブリック抜きを条件にし、映画の仕上がりに満足したという。 クラークとハイアムズの[[電子メール]]のやりとりを含む『オデッセイ・ファイル―アーサー・C・クラークのパソコン通信のすすめ』が1984年に出版された(原題は ''The Odyssey File: The Making of 2010'')<ref>Arthur C. Clarke and Peter Hyams. [https://books.google.co.jp/books?id=w_KPAAAACAAJ&dq=The+odyssey+file&redir_esc=y&hl=ja The Odyssey File]. Ballantine Books, 1984.</ref><ref>[http://www.davidrothman.com/jungle.html Excerpt from ''The Odyssey File''.]</ref>。当時最先端の通信手段だった電子メールを使って、別々の大陸に住んでいたクラークとハイアムズが毎日のようにやり取りして映画の計画や製作について話し合った経緯が綴られている。また、クラークが選ぶベストSF映画のリストも掲載されている。 クラークはこの映画で2カ所にカメオ出演している。1カ所は主人公のフロイド博士がホワイトハウス前で会話をしている背後で鳩に餌をやっている人物で、もう1カ所はボーマンの母の病院でのシーンで、[[タイム (雑誌)|タイム]]誌の表紙を飾っているアメリカ大統領がクラーク、ソ連書記長がキューブリックになっていた。 === 宇宙のランデヴー === クラークの『[[宇宙のランデブー]]』(1972) は何年も前に映画化権が購入されているが、未だに製作が進行していない。俳優の[[モーガン・フリーマン]]が『宇宙のランデブー』を原作とした映画を製作したいと述べていたが、2003年には資金集めに苦労していると明かしていた。[[Internet Movie Database|IMDb]]では一時期2009年公開予定とされていた。映画製作はフリーマンの制作会社 [[:en:Revelations Entertainment|Revelations Entertainment]] が行う予定だった。Revelations のウェブサイトには『宇宙のランデブー』のページがあり<ref>{{cite web |url = http://www.revelationsent.com/movie_page.php?movieId=12 |title = Rendezvous with Rama |accessdate = 2009-03-07 |author = |last = |first = |authorlink = |coauthors = |date = |work = Revelations Entertainment Web site |publisher = |pages = |quote = }} </ref>、そこに監督として名が挙がっているのが[[デヴィッド・フィンチャー]]である。彼は2007年のインタビューで『宇宙のランデブー』の映画化に意欲を見せていた<ref name="AICN1">{{cite web |url = http://www.aintitcool.com/node/35179 |title = David Fincher and Quint talk about everything from A(lien3) to Z(odiac)!!! |accessdate = 2009-03-07 |author = |last = |first = |authorlink = |coauthors = |date = |work = AICN |publisher = |pages = |quote = }}</ref>。しかし2008年、フィンチャーはこの映画が製作されない可能性が高いと述べた。脚本がなく、モーガン・フリーマンの健康状態が思わしくないことなどを理由に挙げている<ref>{{cite web |url = http://www.firstshowing.net/2008/10/13/david-finchers-rendezvous-with-rama-officially-dead/ |title = David Fincher's Rendezvous with Rama Officially Dead |accessdate = 2009-03-07 |author = Alex Billington |last = |first = |authorlink = |coauthors = |date = October 13, 2008 |work = |publisher = firstshowing.net |pages = |quote = }}</ref>。IMDbからも削除された。 == 静止衛星 == [[ファイル:Geostat.gif|thumb|[[静止軌道]]]] {{Main|静止軌道}} クラーク最大の科学的貢献は、[[静止衛星]]による[[電気通信]]リレーというアイデアだと言われている。彼は1945年10月の ''[[:en:Wireless World|Wireless World]]'' に ''Extra-Terrestrial Relays — Can Rocket Stations Give Worldwide Radio Coverage?'' と題した論文を発表した<ref>{{cite web | publisher = Arthur C. Clark | url = http://www.clarkefoundation.org/docs/ClarkeWirelessWorldArticle.pdf | title = Extra-Terrestrial Relays — Can Rocket Stations Give Worldwide Radio Coverage? | date = October 1945 | accessdate = 2009-03-04}}</ref>。このため[[静止軌道]]を「クラーク軌道」と呼ぶこともある<ref>{{Cite web|和書|publisher= NASA |url= http://www2.jpl.nasa.gov/basics/bsf5-1.php |title= Basics of Space Flight Section 1 Part 5, Geostationary Orbits |accessdate= July 13, 2010 }}</ref><ref>{{Cite web |last= Earl |first= Michael A. |title= A sea of satellite dishes |publisher= The Royal Astronomical Society of Canada |date= January 9, 2006 |url= http://ottawa-rasc.ca/articles/earl_mike/Satellite_Tracking/Dishes/Satellite_Dishes.html |accessdate= July 13, 2010 }}</ref>。 しかし、これが実際に通信衛星の開発に着想を与えたかどうかは不明である。[[エコー (人工衛星)|エコー]]や[[テルスター衛星|テルスター]]といった通信衛星の開発に関わった[[ベル研究所]]の [[ジョン・R・ピアース]] は1954年のインタビュー(1955年出版)ではクラークの論文記事に全く言及していない<ref>{{Cite web |last= Pierce |first= John R. |authorlink= |title= ECHO - America's First Communications Satellite |work= Reprinted from SMEC Vintage Electrics Volume 2 #1 |publisher= Southwest Museum of Engineering, Communications and Computation |date= December 1990 (article) |url= http://www.smecc.org/john_pierce___echoredo.htm | accessdate = July 13, 2010 }}</ref>。 クラークの衛星同士のリレーというアイデア以前に、静止軌道上の人工衛星による通信というアイデアは既に存在していた。静止衛星の概念は[[ヘルマン・オーベルト]]が1923年の著書 ''Die Rakete zu den Planetenräumen''(惑星空間へのロケット)で記述しており<ref name="celestrak">{{cite web |url= http://celestrak.com/columns/v04n07/ |title=Basics of the Geostationary Orbit |accessdate=2007-02-08 |last=Kelso |first=Dr. T. S. |authorlink= |coauthors= |date=1998-05-01 |year= |month= |format= |work=Satellite Times |publisher= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |quote= }}</ref>、人工衛星による無線通信というアイデアは [[:en:Herman Potočnik|Herman Potočnik]] が1928年の著書 ''Das Problem der Befahrung des Weltraums&nbsp;— der Raketen-Motor ([http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4026/contents.html The Problem of Space Travel&nbsp;—&nbsp;The Rocket Motor])'' の ''Providing for Long Distance Communications and Safety'' という章<ref name="longdistcomm">{{cite web |url= http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4026/noord45.html |title=Providing for Long Distance Communications and Safety |accessdate=2008-12-23 }}</ref>と ''Observing and Researching the Earth's Surface'' という章<ref name="observeandres">{{cite web |url= http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4026/noord51.html |title=Observing and Researching the Earth's Surface |accessdate=2008-12-23 }}</ref>で記述している。クラークは『未来のプロフィル』でこれら先達の業績を認識していることを示している<ref>{{cite book|title=Profiles of the Future: An Inquiry Into the Limits of the Possible|last=Clarke|first=Arthur C.|year=1984|publisher=Holt, Rinehart & Wilson|location=New York, New York|isbn=0030697832|pages=205n}} "INTELSAT, the International Telecommunications Satellite Organisation which operates the global system, has started calling it the Clarke orbit. Flattered though I am, honesty compels me to point out that the concept of such an orbit predates my 1945 paper 'Extra Terrestrial Relays' by at least twenty years. I didn't invent it, but only annexed it."</ref>。 == 受賞・栄誉 == * 1961年、科学を普及させた貢献に対して[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]が[[カリンガ賞]]を授与<ref>[http://unesdoc.unesco.org/images/0011/001111/111158e.pdf Summary List of UNESCO Prizes: List of Prizewinners, p. 12]</ref> * 1963年、[[スチュアート・バレンタイン・メダル]]を受賞<ref>{{Cite web |title= Franklin Laureate Database |url= http://www.fi.edu/winners/detail.faw?winner_id=2522 |accessdate= May 6, 2010}}</ref> * 『2001年宇宙の旅』以降、クラークは科学コメンテーターとしてメディアによく登場するようになり、特に[[アポロ計画]]についてコメントを求められることが多かった。[[アポロ13号]]の[[アポロ司令・機械船|指令船]]は『2001年宇宙の旅』に因んで "Odyssey" と呼ばれた<ref>{{cite web|url= http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/spaceflight/20/names.html|title=Names of US manned spacecraft|last=Peebles|first=Curtis|work=Spaceflight, Vol. 20, 2, Fev. 1978 |publisher=Spaceflight|accessdate=2008-08-06}}</ref>。 * 『[[2001年宇宙の旅]]』については、[[スタンリー・キューブリック]]と共同で[[アカデミー賞]]脚本賞にノミネートされた<ref>[https://www.imdb.com/name/nm0002009/awards/ Arthur C. Clarke - Awards]</ref>。 * 1986年、クラークが賞金の資金(当初1000ポンド)を提供し、イギリスで出版されたSF作品を表彰する[[アーサー・C・クラーク賞]]を創設した。2001年には賞金が2001ポンドに増額され、その後は年号と賞金額が同じになっている(例えば、2005年は2005ポンド)。 * 1989年に[[大英帝国勲章|CBE]]を授与され<ref name=CBE />、2000年に[[ナイト]]の称号を得ている<ref name=BBCsfknight /><ref name=LP /><ref name=Kt />。健康上の問題からイギリスに行って女王から直接受けることができず、駐スリランカの[[高等弁務官]]がコロンボで式典を行った<ref name=BBCknighted />。 * 1994年には[[ノーベル平和賞]]に推薦されたことがある<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C07EEDF1330F93BA15752C1A962958260&sec=&spon=&pagewanted=all Burns, John F. "Colombo Journal; A Nonfiction Journey to a More Peaceful World" New York Times, 28 November 1994]</ref>。 * 2004年、[[ハインライン賞]]を受賞<ref>{{cite press release | title = Sir Arthur Clarke Named Recipient of 2004 Heinlein Award | date = 22 May 2004 | url = http://www.heinleinsociety.org/pressreleases/clarkeheinleinaward.html | accessdate = 20 June 2009 }}</ref> * 2005年、クラークの名を冠した [[:en:Sir Arthur Clarke Award|Sir Arthur Clarke Award]] が創設された。この賞はクラーク自身が選んだ者に[[英国惑星間協会]]が授与するもので、主に[[イギリスの宇宙開発]]に貢献した者を表彰する。 * 2005年11月14日、スリランカ政府が文民向けの最高勲章 Sri Lankabhimanya を授与<ref name=SriLankabhimanya>[http://www.priu.gov.lk/news_update/Current_Affairs/ca200511/National_Honours_Gazette_Notification.pdf Government Notification—National Honours], November 2005. Retrieved on 20 October 2008</ref> * クラークは[[キャロル・ロシン]]の創設した [[:en:Institute for Cooperation in Space|Institute for Cooperation in Space]] の名誉理事、[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]が創設した [[:en:National Space Society|National Space Society]] の理事も務めていた。 * クラークの名を冠した[[小惑星]] [[:en:4923 Clarke|4923 Clarke]] がある<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4923|title=(4923) Clarke = 1972 NJ = 1981 EO27|publisher=MPC|accessdate=2021-09-08}}</ref>。2001番の小惑星の方がふさわしいと思われたが、それには既に[[アインシュタイン (小惑星)|アインシュタイン]]という名がついていた<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=2001|title=(2001) Einstein = 1973 EB|publisher=MPC|accessdate=2021-09-08}}</ref>。 * [[角竜類]]の[[恐竜]] ''[[:en:Serendipaceratops arthurcclarkei|Serendipaceratops arthurcclarkei]]'' にもクラークの名がつけられている。 * [[GRB 080319B]] - クラークが死去する数時間前に発生したため『クラークイベント』と名づけることが提案されている。 == 作品リスト == === 長篇 === * 『[[宇宙への序曲]]』 ''Prelude to Space'' ([[1951年]]) ISBN 4150109656 * 『火星の砂』 ''Sands of Mars'' (1951年) ISBN 4150103011 * 『[[宇宙島へ行く少年]]』 ''Islands in the Sky'' (1952年) ISBN 4150106827 * 『[[幼年期の終り]]』 ''Childhood's End'' ([[1953年]]) ISBN 4488611028 ISBN 4150103410 * 『銀河帝国の崩壊』 ''Against the Fall of Night'' (1953年) ISBN 448861101X * 『[[地球光]]』 ''Earthlight'' (1955年) ISBN 4150103089 * 『都市と星』 ''The City and the Stars'' (1956年) ISBN 4150102716 * 『海底牧場』 ''The Deep Range'' (1957年) ISBN 4150102252 * 『[[渇きの海]]』 ''A Fall of Moondust'' ([[1961年]]) ISBN 415010235X * 『[[イルカの島]]』 ''Dolphin Island'' (1963年) ISBN 4488611036 * 『地球帝国』 ''Imperial Earth'' ([[1975年]]) ISBN 4152020032 ISBN 4150106037 * 『楽園の泉』 ''The Fountains of Paradise'' (1979年) ISBN 4152020318 ISBN 4150107319 - [[ヒューゴー賞]]<ref name="WWE-1980">{{cite web| url = http://www.worldswithoutend.com/books_year_index.asp?year=1980| title = 1980 Award Winners & Nominees| work = Worlds Without End| accessdate=2009-06-30}}</ref>、[[ネビュラ賞]]<ref name="WWE-1979">{{cite web| url = http://www.worldswithoutend.com/books_year_index.asp?year=1979| title = 1979 Award Winners & Nominees| work = Worlds Without End| accessdate=2009-06-30}}</ref>受賞 * 『遥かなる地球の歌』 ''The Songs of Distant Earth'' (1986年) ISBN 4152020598 ISBN 4150111359 * 『星々の揺籃』 ''Cradle'' (1988年、ジェントリー・リーと共著) ISBN 4152020660 ISBN 4150112185 * 『悠久の銀河帝国』''Beyond the Fall of Night'' (1990年、[[グレゴリー・ベンフォード]]と共著) ISBN 4152020741 * 『グランド・バンクスの幻影』 ''The Ghost from the Grand Banks'' ([[1990年]]) ISBN 415202075X ISBN 4150112088 * 『[[神の鉄槌]]』 ''The Hammer of God'' (1993年) ISBN 4152079827 ISBN 4150112355 * 『マグニチュード10』 ''Richter 10'' (1996年、Mike McQuayと共著) ISBN 4102235027 * 『トリガー』 ''The Trigger'' (1999年、[[マイクル・P・キュービー=マクダウエル]]と共著)ISBN 4-15-011383-1 ISBN 4-15-011384-X * 『過ぎ去りし日々の光』 ''The Light of Other Days'' (2000年、[[スティーヴン・バクスター]]と共著)ISBN 4150113386 ISBN 4-15-011339-4 * 『時の眼』(タイム・オデッセイ1)''[[:en:Time's Eye (novel)|Time's Eye]]'' (2003年、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152087838 * 『太陽の盾』(タイム・オデッセイ2)''Sunstorm'' (2005年、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152089121 * 『最終定理』''The Last Theorem'' (2008年、フレデリック・ポールと共著) ISBN 9784152091017 * 『火星の挽歌』(タイム・オデッセイ3)''FIRSTBORN'' (2008年(邦訳は2011年)、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152092599 ==== 宇宙の旅シリーズ ==== * 『[[2001年宇宙の旅]]』 ''2001: A Space Odyssey'' (1968年) ISBN 4150102430 ISBN 415011000X (改訳決定版) * 『[[2010年宇宙の旅]]』 ''2010: Odyssey Two'' (1982年) ISBN 4152020555 ISBN 4150110522 * 『[[2061年宇宙の旅]]』 ''2061: Odyssey Three'' (1987年) ISBN 4152020636 ISBN 4150110964 * 『[[3001年終局への旅]]』 ''3001: The Final Odyssey'' (1997年) ISBN 4152080884 ISBN 4150113475 ==== ラーマシリーズ ==== * 『[[宇宙のランデヴー]]』 ''Rendezvous with Rama'' (1973年) ISBN 4152020164 ISBN 4150106290 - [[ヒューゴー賞]]、[[ローカス賞]]、[[ジョン・W・キャンベル記念賞]]<ref name="WWE-1974">{{cite web| url = http://www.worldswithoutend.com/books_year_index.asp?year=1974| title = 1974 Award Winners & Nominees| work = Worlds Without End| accessdate=2009-06-30}}</ref>、[[ネビュラ賞]]、[[英国SF協会賞]]<ref name="WWE-1973">{{cite web| url = http://www.worldswithoutend.com/books_year_index.asp?year=1973| title = 1973 Award Winners & Nominees| work = Worlds Without End| accessdate=2009-06-30}}</ref>受賞 * 『宇宙のランデヴー 2』 ''Rama II'' (1989年、ジェントリー・リーと共著) ISBN 4152020733 ISBN 4150110875 ISBN 4150110883 * 『宇宙のランデヴー 3』 ''The Garden of Rama'' (1991年、ジェントリー・リーと共著) ISBN 4152020784 ISBN 4150111596 ISBN 415011160X * 『宇宙のランデヴー 4』 ''Rama Revealed'' (1993年、ジェントリー・リーと共著) ISBN 4152020806 ISBN 4152020814 ISBN 4150111839 ISBN 4150111847 === 短篇集 === * 『[[前哨]]』 ''Expedition to Earth'' (1953年) ISBN 415010607X * 『[[明日にとどく]]』 ''Reach for Tomorrow'' (1956年) ISBN 4150106606 * 『[[白鹿亭綺譚]]』 ''Tales from the White Hart'' (1957年) ISBN 4150104042 * 『[[天の向こう側]]』 ''The Other Side of the Sky'' (1958年) ISBN 415010560X * 『[[10の世界の物語]]』 ''Tales of Ten Worlds'' (1962年) ISBN 4150106177 * 『[[太陽からの風]]』 ''The Wind from the Sun'' (1972年) ISBN 4150102929 * ''The Science Fiction Hall of Fame'' (1981年、George W. Proctorと共編) - アンソロジー * 『太陽系オデッセイ』 (自選短篇集) ''The Sentinel'' (1983年) ISBN 4102235019 * ''Tales from Planet Earth'' (1989年) * ''Project Solar Sail'' (1990年) * ''More Than One Universe'' (1991年) * ''[[:en:The Collected Stories of Arthur C. Clarke|The Collected Stories of Arthur C. Clarke]]'' (2001年) ISBN 0-575-07065-X * 『太陽系最後の日 (ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1)』日本オリジナル、[[中村融]]編  2009年 * 『90億の神の御名 (ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 2)』日本オリジナル、[[中村融]]編  2009年 * 『メデューサとの出会い (ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 3) 』日本オリジナル、[[中村融]]編  2009年 === ノンフィクション === * 『惑星へ飛ぶ』 ''Interplanetary Flight'' (1950年) 時事通信社 * 『宇宙の探検』 ''The Exploration of Space'' (1951年) 白揚社 * ''The Exploration of the Moon'' (1954年) * ''The Young Traveller In Space'' (1954年) * ''The Coast of Coral'' (1956年) * ''The Making of a Moon'' (1957年) * ''The Reefs of Taprobane'' (1957年) * ''Boy Beneath the Sea'' (1958年) * ''Voice Across the Sea'' (1958年) * 『宇宙文明論』 ''The Challenge of the Spaceship'' (1958年) 早川書房 * ''The Challenge of the Sea'' (1960年) * ''The First Five Fathoms'' (1960年) * ''Indian Ocean Adventure'' (1961年) * 『未来のプロフィル』 ''Profiles of the Future'' (1962年) ISBN 4150500452 ハヤカワノンフィクション(のち、ハヤカワ文庫) * ''Glide Path'' (1963年) * 『人間と宇宙の話』 『宇宙への挑戦』 ''Man And Space'' (1964年) タイムライフ * ''The Treasure of the Great Reef'' (1964年) * ''Indian Ocean Treasure''(Mike Wilsonと共著) * ''Voices from the Sky'' (1965年) * ''The Lion of Commare & Against the Fall of Night'' (1968年) * ''The Promise of Space'' (1968年) * ''First On the Moon'' (1970年) * ''Into Space'' (1970年、[[ロバート・シルヴァーバーグ]]と共著) * 『失われた宇宙の旅2001』 ''The Lost Worlds of 2001'' (1972年) ISBN 4150113084 ハヤカワ文庫SF * ''Beyond Jupiter'' (1972年、Chesley Bonestellと共著) * ''Report On Planet Three'' (1972年) * ''Tchnology And the Frontiers of Knowledge'' (1975年) * 『スリランカから世界を眺めて』 ''The View from Serendip'' (1977年) ISBN 4150501440 サンリオSF文庫(のちハヤカワ文庫) * サイモン・ウェルフェア&ジョン・フェアリー『アーサー・C・クラークのミステリー・ワールド』 ''Arthur C. Clarke's Mysterious World'' (1982年) ISBN 4048410091 角川書店 * ''Ascent to Orbit: a Scientific Autobiography'' (1984年) * ''Spring, a Choice of Futures'' (1984年) * 『オデッセイ・ファイル―アーサー・C・クラークのパソコン通信のすすめ』 ''The Odyssey File'' (1984年、Peter Hyamsと共著) ISBN 4893620029 パーソナルメディア * 『(アーサー・C・クラーク) [[超常現象]]の謎を解く (上・下)』 ''Arthur C. Clarke's World of Strange Powers'' (1984年) ISBN 4898000290 ISBN 4898000304 ISBN 484220219X ISBN 4842202203 リム出版 * 『アーサー・C・クラークの[[2019年]][[7月20日]]』 ''Arthur C. Clarke's July 20, 2019: Life in the 21st Century'' (1986年) ISBN 4010703547  旺文社 * ''Arthur C. Clarke's Chronicles of the Strange and Mysterious'' (1987年) * 『楽園の日々―アーサー・C・クラーク自伝』 ''Astounding Days: a Science Fictional Autobiography'' (1989年) ISBN 4152034440 早川書房のち文庫 * ''The Fantastic Muse'' (1992年) * 『地球村の彼方 - 未来からの伝言』 ''How the World Was One'' (1992年) 同文書院インターナショナル * ''By Space Possessed'' (1993年) * ''The Colours of Infinity'' (1994年) * 『オリンポスの雪―アーサー・C・クラークの火星探検 水と緑の「惑星誕生」ものがたり』 ''The Snows of Olympus'' (1994年) ISBN 4198607222  徳間書店 === その他 === * [[Rendez-vous in Space 2001]]([[小室哲哉]]がオーガナイザーを務めたイベント、第2部の脚本を手がけた) ==TV番組== * アーサー・C・クラーク 未知の世界へ(ARTHUR C. CLARKE'S MYSTERIOUS UNIVERSE)<ref>{{imdb title|0247885|"Mysterious World" (1980)}}</ref><ref name="youtubemysworld">''[http://www.youtube.com/results?search_query=mysterious+world+arthur+clarke&search_type= Arthur C. Clarke's Mysterious World]'' on [[YouTube]]. Retrieved on 23 March 2008.</ref> ** イギリスで[[1994年]]に制作された、全26話のテレビ・シリーズ。クラークが語り手となり世界中の「超科学的な現象」を分析し、科学的な説明をつけていくドキュメンタリー番組。日本ではCS・[[ミステリチャンネル]]で放送[http://www.mystery.co.jp/program/miti.html]。 == 出典 == {{Reflist}} ==参考文献== *『S-Fマガジン』2008年7月号「アーサー・C・クラーク追悼特集2 完全年譜」 (経歴の節) *『2001 キューブリック クラーク』 マイケル・ベンソン (早川書房、2018年刊) ==関連項目== * [[クラークの三法則]] * [[国際宇宙航行連盟]] * [[SETI@home]] * [[浅倉久志]](SF作品の翻訳家。ペンネームの由来となる) * [[GRB 080319B]] (クラークイベントの命名由来) * [[ケイプロ]] (同社のコンピュータを使用して作品を執筆していた) == 外部リンク == {{Commonscat|Arthur C. Clarke}} * {{公式サイト|name=Arthur C Clarke - Official Website}} 公式ウェブサイト{{en icon}} * [http://www.clarkefoundation.org/ The Arthur C. Clarke Foundation] * {{Isfdb name|id=Arthur_C._Clarke}} * {{imdb name|0002009}} * [http://www.iafastro.org/index.php?id=567 Arthur C. Clarke (1917-2008)] * {{YouTube|3qLdeEjdbWE|Sir Arthur C Clarke: 90th Birthday Reflections}} {{典拠管理}} {{DEFAULTSORT:くらあく ああさあ}} [[Category:アーサー・C・クラーク|*]] [[Category:20世紀イングランドの著作家]] [[Category:21世紀イングランドの著作家]] [[Category:20世紀イングランドの小説家]] [[Category:21世紀イングランドの小説家]] [[Category:イギリスのSF作家]] [[Category:イングランドの科学的懐疑主義者]] [[Category:イングランドの無神論者]] [[Category:ヒューゴー賞作家]] [[Category:ネビュラ賞作家]] [[Category:ローカス賞作家]] [[Category:カリンガ賞の受賞者]]<!-- 1961年 --> [[Category:スチュアート・バランタイン・メダルの受賞者]]<!-- 1963年 --> [[Category:英国SF協会賞の受賞者]]<!-- 1973年 --> [[Category:マルコーニ賞の受賞者]]<!-- 1982年 --> [[Category:デーモン・ナイト記念グランド・マスター賞の受賞者]]<!-- 1986年 --> [[Category:セオドア・フォン・カルマン賞の受賞者]]<!-- 1996年 --> [[Category:スリランカの小説家]] [[Category:未来学者]] [[Category:SETI]] [[Category:宇宙探査]] [[Category:天文学に関する記事|ああさあCくらあく]] [[Category:イングランド出身のLGBTの著作家]] [[Category:LGBTの小説家]] [[Category:バイセクシュアルの男性]] [[Category:モラトゥワ大学の教員]] [[Category:ウェスト・サマセット出身の人物]] [[Category:イギリス空軍の軍人]] [[Category:1917年生]] [[Category:2008年没]] [[Category:キングス・カレッジ・ロンドン出身の人物]]
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足利義政
足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代征夷大将軍(在職:文安6年4月29日(1449年5月21日) - 文明5年12月19日(1474年1月7日))。父は第6代征夷大将軍・足利義教、母は日野重子。第7代征夷大将軍・足利義勝の同母弟にあたる。初名は義成(よししげ)。第6代征夷大将軍・足利義教の五男。 幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなる。東山文化を築くなど、文化人的側面も多く見られるようになったが、大御所として政治に関与し続けた。 永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・足利義教と側室・日野重子の間の庶子として生まれた。義教にとっては五男であり、嫡子・足利義勝の同母弟であった。幼名は三寅、のちに三春と呼ばれている。 嫡子義勝が政所執事・伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、義政は母・重子の従弟である烏丸資任の屋敷にて育てられた。そして、後継者の地位から外された他の兄弟と同じく慣例に従い、出家して然るべき京都の寺院に入寺し、僧侶として一生を終えるはずであった。 嘉吉元年(1441年)6月24日、父が嘉吉の乱で赤松満祐に殺害された後、兄・義勝が第7代将軍として継いだ。 嘉吉3年(1443年)7月21日、義勝も早逝したため、義政は管領・畠山持国などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された。 後継者と決まった直後より、三春は将軍家の家長たる呼称「室町殿」と呼ばれている。 文安3年(1446年)12月13日、三春は後花園天皇より、義成の名を与えられた。このとき、後花園天皇が宸筆を染め、天皇による命名といった形式が取れられていることから、先例に倣ったものとされる。また、「成」の字が選ばれた理由としては、「義成」の字にどちらも「戈」の字が含まれていることより、戊戌の年に生まれた祖父・足利義満の武徳が重ねられたと考えられている。 文安6年(1449年)4月16日、義成は元服し、同月29日に将軍宣下を受けて、正式に第8代将軍として就任した。また、同日のうちに吉書始を行って、宮中に参内している。 (足利義政への将軍宣下を記した宣旨を読むには右をクリック → ) 足利義政 征夷大将軍の辞令(宣旨)(『康富記』) 右少辨藤原朝臣勝光傳宣 權中納言兼右衞門督藤原朝臣持季宣 奉 敕件人宜爲征夷大將軍者 文安六年四月廿九日 左大史小槻宿禰晨照奉 (訓読文) 右少弁藤原朝臣勝光(日野勝光、正五位下・蔵人兼帯)伝へ宣(の)り 権中納言兼右衛門督藤原朝臣持季(正親町持季、正三位)宣(の)る 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 文安6年(1449年)4月29日 左大史小槻宿禰晨照(壬生晨照、正四位上)奉(うけたまは)る 義成は将軍宣下からまもなく、先例より一年早い14歳で政務をとる「判始」の儀式を行った。判始の後に管領細川勝元が一旦辞意を表明しており、これは将軍親政が始まる際の慣例であった。享徳4年(1455年)ごろまでは管領の命令書である管領下知状が発給されていたが、義成も度々自筆安堵状を発給しており、享徳元年(1452年)には最初の御判御教書を発給している。また宝徳2年(1450年)には尾張を独断で織田敏広から織田郷広に交替させようとし、抗議した母・重子が出奔するという事件が起きている。 この頃義成の側近であったのは、乳母の今参局(御今)、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬元家であった。この三人は「おいま」、「からすま」、「ありま」と、「ま」がついており、落書で「三魔」と呼ばれた。一方でこれに対抗する母・重子も度々人事に介入を続けた。近臣や女房衆が台頭するのは親政期の特徴であり、この時期の室町幕府を「義政専制」体制にあったとする説も存在している。 享徳2年(1453年)6月13日、義成は改名し、義政と名乗った。その理由としては、後花園天皇の第一皇子(のちの後土御門天皇)の諱が、成仁親王と決まったことであった。諱を口にすることは古来より忌避されており、天皇候補者の名が決まった際には臣下はその字が含まれた名を改名するのが常であり、義政も慣例に従ったのであった。 当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多く、義成はこれらの相続争いに積極的に介入した。しかし、加賀守護であった富樫氏の内紛(加賀両流文安騒動)では管領細川勝元の反対を受けて義成の意のままに相続権を動かすことができなかった。享徳3年(1454年)、畠山氏のお家騒動が起こり、8月21日に山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。義政はこの問題で義就を支持、29日に政久を匿った勝元の被官を切腹させ、11月2日に宗全退治を命令、翌3日の宗全隠居で撤回、12月6日に宗全が但馬に下向した後、義就が13日に上洛、義政と対面して家督相続を認められ、政久は没落した。 享徳4年(1455年)には関東で享徳の乱が発生、関東管領上杉房顕・駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とし、成氏は古河に逃れた(古河公方)。 義政の義就支持は、細川氏・山名氏に対抗するため、尾張守護代問題で今参局を介して持国を抱き込んだからで、宗全の退治命令も義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で宗全に討伐された赤松氏の復興を狙ったとされる。赤松則尚は11月3日に播磨に下向しているが、翌享禄4年(康正元年、1455年)5月12日に宗全に討たれている。 幕府財政は義教の死後から、土一揆の激化で主要な収益源である土倉役を失い困窮を深めていた。しかし康正元年(1455年)の分一銭徳政改正などの税制政策により、義政の親政期から幕府財政は急速に回復していった。康正2年(1456年)には長年の懸案であった内裏再建を達成し、7月には義政の右近衛大将拝賀式が盛大に執り行われた。さらに義政は寺院や諸大名の館への御成を頻繁に行ったが、これは贈答品を受け取ることによって幕府の収入を増加させることにもつながった。義政は「毎日御成をしてもかまわない」と側近に語っている。一方で康正3年には義就が上意と称して度々軍事活動を行い、激怒した義政は度々所領を没収している。 享徳2年頃から義政は父義教の儀礼を復活させ、長禄2年(1458年)には「近日の御成敗、普光院(普広院、義教の号)御代の如くたるべし」と宣言し、義教の側近であった季瓊真蘂を起用し、義教路線の政策を推し進めていくことになる。特に武士に横領された寺社本所領の還付を求める不知行地還付政策は、義政終生の政策課題となった。 近江国の六角氏では、康正2年10月に京極持清と対立した近江守護の六角久頼が憤死(自害とも)し、幼少の亀寿丸(後の六角高頼)が家督を継承した。しかし、長禄2年6月に突然亀寿丸が追放され、先に家督簒奪によって幕命で攻め滅ぼされた六角時綱(久頼の兄)の遺児である六角政堯が当主になった。従来は伊庭満隆ら家臣団の意向とされてきたが、近年では若年の亀寿丸による近江統治を不安視する義政による六角氏への介入の結果とする説が出されている。 3月には嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が、後南朝から神璽を奪還し、8月30日に朝廷に安置された。義政はこの功績で10月14日に赤松政則を北加賀の守護に任命、赤松氏を復帰させた。これに先立つ8月9日に、赤松氏の旧領播磨国守護であった宗全が赦免されているが、これは勝元と相談の上で行った懐柔策とされる。 同年に異母弟の政知を鎌倉公方として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まった(堀越公方)。 それが原因の1つとなり甲斐常治と斯波義敏が越前で長禄合戦を引き起こした。義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い、義敏の子松王丸(義寛)へ当主を交代させた。長禄合戦は常治が勝利したが、直後に常治も没し、関東派遣は見送られた。 長禄3年(1459年)正月に今参局が呪詛の疑いで失脚し、かわって近臣の伊勢貞親が急速に影響を強め、義政の親政は強化されていった。また同年には畠山政久が赦免された。年末には、長年住み慣れた烏丸殿から新造された花の御所の「上御所」に移り、親政の拠点として位置づけようとした。貞親は義政の将軍職就位前から「室町殿御父」と呼ばれる存在であり、幕府財政再建についても大きな功績があり、右大将拝賀式では大名並みの扱いを受けている。一方で守護大名達の反発は強まっていった。 政久が死去した後は弟の政長が勝元に擁立され、宗全も復帰したため、長禄4年(1460年)9月に畠山家家督を義就から政長に交代させた。義就は河内国嶽山城に逃れて2年以上も籠城し、政長との戦闘を繰り広げた。このため戦乱を逃れた流民が大量に京都に流入した。 しかし長禄4年ごろから飢饉や災害が相次いており、特に寛正2年(1461年)の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらしていた。流入した流民の多くは飢え、一説では2ヶ月で8万2千の餓死者を出し、賀茂川の流れが死骸のために止まるほどであったとされる。同年春に後花園天皇が漢詩で義政に「満城紅緑為誰肥」と訓戒する詩を送っているが、尋尊が「公武御成敗諸事御正体なし」と批判するように、当時の世上では朝廷も含めて批判の対象となっていた。 寛正2年(1461年)に斯波氏の家督交代を行い、松王丸を廃嫡して渋川義鏡の子義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方政知の執事である義鏡を斯波氏当主の父という立場で斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、義鏡は寛正3年に扇谷上杉家と対立、失脚してしまった。 寛正4年(1463年)8月、母・重子が没したために恩赦を行い、畠山義就と斯波義敏父子は赦免された。ただし、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認められなかった。義敏の赦免に動いたのは伊勢貞親であり、義敏を斯波氏家督に復帰させようと計画していた。この状況に焦った義廉は、山名宗全と縁組をし、畠山義就との関係も深めた。 寛正5年、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。寛正6年(1465年)11月に富子に男児(後の足利義尚)が誕生した。『応仁記』などでは富子が義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼み、義視は管領の細川勝元と手を結んだとされる。しかし義視は義尚誕生後も順調に官位昇進を続けており、また義視の妻は富子の妹であった。義政には大御所として政治の実権を握る意図があり、義尚誕生後も義視の立場を変えなかったのは義尚が成長するまでの中継ぎにするためともされる。しかし義尚の乳父であった伊勢貞親ら近臣は義政の将軍継続を望んでおり、義視を支援する山名宗全・細川勝元らとの対立は深まっていった。また12月30日に義敏が上洛して義政と対面し、義廉派の焦燥はいよいよ深まっていった。 文正元年(1466年)7月28日には琉球国王の来朝使者である芥隠承琥が上洛した。義政は庭先に席を設けて引見し、芥隠はその上で三拝した。礼物も「進物」と呼ばれていた(『斎藤親基日記』)(『蔭凉軒日録』) 7月23日に義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて義敏を家督に据え、8月25日に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与えた。7月30日に河野通春を援助して幕府から追討命令を受けていた大内政弘も赦免したが、これは大内氏と斯波氏の引き入れを図ったとされる。しかし山名宗全・細川勝元らはこれに抵抗し、義政が発出した義廉の追討命令にも従わなかった。また義廉は義視に接近しており、これも貞親らの疑念を駆り立てた。 9月6日、貞親はついに義視の排除に動き、謀反の疑いで義視を切腹させるよう訴えた。義政も一旦は義視を切腹させるよう命じたが、細川勝元・山名宗全等によって制止され、貞親・真蘂・義敏らは逃亡、義政側近層は解体に追い込まれた(文正の政変)。しかしこれによって急速に権力を拡大した勝元と宗全は対立するようになり、畠山家の家督争いに介入するようになった。 文正元年12月に畠山義就が宗全の呼び出しで上洛した。文正2年(1467年)正月、義政は義就支持に転じ、家督と認めた。これに反発した政長は義就と合戦に及び、敗走した(御霊合戦)。義政は各大名に介入を禁じたが、細川勝元は従ったものの山名宗全は公然と義就を支援し、勝元の面目は丸つぶれとなった。勝元は捲土重来を期して味方を集め、5月からついに山名方との戦闘が始まった(上京の戦い)。義政は当初は停戦命令を出したが、6月に東軍の勝元に将軍旗を与え、西軍の宗全追討を命令した。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。 8月になって後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所(室町殿)に避難すると、義政は急遽御所を改装して仮の内裏とした(上皇は直後に出家して法皇になる)。以後、文明8年(1476年)に花の御所が焼失して天皇が北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移すまで、天皇と将軍の同居という事態が続くことになる。天皇家と足利将軍家の同居という事態は様々な波紋を生み出した。後花園法皇は天皇在位中より義政と蹴鞠の趣味を通じて親交が厚かったが、同居によって公武関係に引かれていた一線が崩れ去り、義政と富子は度々内裏に充てられていた部屋において法皇や天皇とともに宴会を開いた。応仁の乱の最中に義政は度々「大飲」を繰り返したとされているが、実はその場に常に共にしていたのが後土御門天皇であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)。なお、この間の文明2年12月に後花園法皇が崩御しているが、その最期を看取ったのは義政と富子であり、義政は戦乱中の徒歩での葬列参加に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀・法事に関する全ての行事に参列した。 義視は東軍の総大将とされたものの、一時は伊勢国に出奔するなど立場は不安定であり、応仁2年(1468年)には義政が没落していた伊勢貞親を呼び戻したことで、反発した義視は西軍に身を投じた。 また、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、文明3年(1471年)5月21日に越前守護職を与える書状を送っている。文明5年(1473年)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月19日に将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居した。しかしまだ義尚は幼少であったため実権は義政にあり、富子の兄日野勝光や伊勢貞宗がこれを補佐した。また近習を使って和平工作に取り組んでいた。大乱の前後を通じて義政は政務を引き続き行い、管領を除外して奉行衆や女房衆を中心とした体制が構築されていった。一方で享楽的な生活を送っていたとされており、尋尊は「公方は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の如くなり」と批判している。 隠居後の文明8年(1476年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、富子と義尚が小川殿へ移ると、義政は富子の居所を造営した。文明9年(1477年)に応仁の乱は終わったが、尋尊が「日本国は悉く以て以て(将軍の)御下知に応ぜざるなり」と嘆いたように、幕府権力は低下した。 文明11年には義尚が判始めを行い、政務をとることとなったが、義政は権限をほとんど手放さなかった。義尚はこのため奇行に走るようになり、翌年・翌々年と髻を切って出家しようとする騒ぎを起こすこととなる。 文明13年(1481年)に富子から逃れるように長谷の山荘に移り、翌年から東山山荘の建築を本格化させる が、諸大名からは石の献上はあっても、費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある山城国の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。文明14年(1482年)には東山山荘(東山殿)の造営をはじめ、祖父義満が建てた金閣を参考にした銀閣などを建てた。この年、7月に義政は天下の政務を譲ることを表明した。また同年には、古河公方足利成氏と和睦し、20年以上に渡った京都と関東の対立を終結させた(都鄙合体)。 文明15年(1483年)6月には建物がある程度完成した東山山荘に移り住み、以降は義政は「東山殿」、義尚を「室町殿」と呼ぶこととなった。だが、実際には義尚は多くの分野で義政の承認が無ければ裁許を行うことが出来なかった。また義尚が畠山義就支援に転換しようとすると、義政はこれに猛反発して朝廷に義就治罰の綸旨を出させている。 文明16年(1484年)には赤松政則と浦上則宗の対立を仲介して和解へ導き、文明17年(1485年)4月には後土御門天皇直々に御料所からの年貢の滞りの相談を受けて自腹で5000疋を用立てて皇室の財政難を救うなど、依然として影響力の大きさを示していたが、5月に義尚の側近奉公衆と義政の側近奉行衆が武力衝突する事件が起こるなど、義政と義尚の対立は激化する。このため6月、義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決め、翌文明18年(1486年)12月には改めて政務からの引退を表明した。 しかし、対外関係と禅院関係(所領問題や公帖の発給)については最後まで義政は権限を手放そうとせず、伊勢貞宗や亀泉集証の補佐を受けて自身で裁許した。例えば、和泉守護が堺南荘の代官を得て支配に乗り出そうとした際、領主である崇寿院の依頼を受けて同荘を崇寿院の直務支配にすることを決定している。更に幕府権威回復のために義尚が六角討伐を行うと、幕府軍(義尚の側近や奉公衆)らによる現地の寺社本所領の兵粮料所化による事実上の押領が行われ、却って被害を受けた寺社などの荘園領主達からは義政の政務への関与による救済が期待される状況となってしまった。このため度々義政は政務に介入することとなった。 義尚の生前から、富子の支持により、美濃の土岐成頼の下に亡命していた義視とその子の義材を呼び寄せ、義材を義尚の名代とする計画が進行していたが、義政はこれを全く知らなかった。延徳元年(1489年)に義尚は六角討伐の陣中で死去した。しかし義政はここで再び政務をとる意思を明らかにし、実際に政務をとることとなった。しかし8月に義政が中風に倒れ、10月に再び倒れて病床に伏した。この時、義政はようやく義視と義材の面会を許している。 延徳2年(1490年)1月7日、銀閣の完成を待たずして義尚の後を追うように死去した。享年55(満54歳没)。 文化面では功績を残している。庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(後に慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。初花、九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られた。 義教の死後中断していた勘合貿易を宝徳3年(1451年)に復活した。以後貿易は16世紀半ばまで続き、経済交流と文化発展に寄与することとなった。財政再建策が功を奏して、義政の治世前半は義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であったとされている。しかし応仁の乱以降幕府財政は弱体化していった。東山御物の名で知られる将軍家の宝物は、その名のイメージと異なり義政の代は逆に流出期であった。その後、貿易の実権は細川家や大内家によって握られ、将軍家は経済的にも衰退した。 永井路子は、義政の先々代・足利義教の独裁とその末路を考慮して「周囲の人々は義政を『死なぬように、生きぬように』お飾りとして育てた。義政の人格と治世は、そうした歪んだ教育の結果だ」と評している。史料に見える義政は将軍としてのスケジュールには従順であり、永井はそこから源実朝によく似た人物だと義政を評した。歴史学者赤松俊秀は、「無能の烙印を押すのは可哀想だ。将軍として立派に行動しようとしたが、結果は幕府の衰退という失敗に終わってしまっただけ」と評している。また、赤松は「将軍でありながら、彼ほど『人に抑えられた』人物はいないだろう」と指摘している。 (※ > より右の人物は、>より左の人物から1字を賜った人物を示す。詳しくは該当項目の「偏諱を与えた人物」を参照のこと。) *「成」の読みは「しげ」。 (*享徳2年(1453年)、「義成」から改名。)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代征夷大将軍(在職:文安6年4月29日(1449年5月21日) - 文明5年12月19日(1474年1月7日))。父は第6代征夷大将軍・足利義教、母は日野重子。第7代征夷大将軍・足利義勝の同母弟にあたる。初名は義成(よししげ)。第6代征夷大将軍・足利義教の五男。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなる。東山文化を築くなど、文化人的側面も多く見られるようになったが、大御所として政治に関与し続けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・足利義教と側室・日野重子の間の庶子として生まれた。義教にとっては五男であり、嫡子・足利義勝の同母弟であった。幼名は三寅、のちに三春と呼ばれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "嫡子義勝が政所執事・伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、義政は母・重子の従弟である烏丸資任の屋敷にて育てられた。そして、後継者の地位から外された他の兄弟と同じく慣例に従い、出家して然るべき京都の寺院に入寺し、僧侶として一生を終えるはずであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "嘉吉元年(1441年)6月24日、父が嘉吉の乱で赤松満祐に殺害された後、兄・義勝が第7代将軍として継いだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "嘉吉3年(1443年)7月21日、義勝も早逝したため、義政は管領・畠山持国などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された。 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左大史小槻宿禰晨照(壬生晨照、正四位上)奉(うけたまは)る", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "義成は将軍宣下からまもなく、先例より一年早い14歳で政務をとる「判始」の儀式を行った。判始の後に管領細川勝元が一旦辞意を表明しており、これは将軍親政が始まる際の慣例であった。享徳4年(1455年)ごろまでは管領の命令書である管領下知状が発給されていたが、義成も度々自筆安堵状を発給しており、享徳元年(1452年)には最初の御判御教書を発給している。また宝徳2年(1450年)には尾張を独断で織田敏広から織田郷広に交替させようとし、抗議した母・重子が出奔するという事件が起きている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この頃義成の側近であったのは、乳母の今参局(御今)、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬元家であった。この三人は「おいま」、「からすま」、「ありま」と、「ま」がついており、落書で「三魔」と呼ばれた。一方でこれに対抗する母・重子も度々人事に介入を続けた。近臣や女房衆が台頭するのは親政期の特徴であり、この時期の室町幕府を「義政専制」体制にあったとする説も存在している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "享徳2年(1453年)6月13日、義成は改名し、義政と名乗った。その理由としては、後花園天皇の第一皇子(のちの後土御門天皇)の諱が、成仁親王と決まったことであった。諱を口にすることは古来より忌避されており、天皇候補者の名が決まった際には臣下はその字が含まれた名を改名するのが常であり、義政も慣例に従ったのであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": 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"幕府財政は義教の死後から、土一揆の激化で主要な収益源である土倉役を失い困窮を深めていた。しかし康正元年(1455年)の分一銭徳政改正などの税制政策により、義政の親政期から幕府財政は急速に回復していった。康正2年(1456年)には長年の懸案であった内裏再建を達成し、7月には義政の右近衛大将拝賀式が盛大に執り行われた。さらに義政は寺院や諸大名の館への御成を頻繁に行ったが、これは贈答品を受け取ることによって幕府の収入を増加させることにもつながった。義政は「毎日御成をしてもかまわない」と側近に語っている。一方で康正3年には義就が上意と称して度々軍事活動を行い、激怒した義政は度々所領を没収している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "享徳2年頃から義政は父義教の儀礼を復活させ、長禄2年(1458年)には「近日の御成敗、普光院(普広院、義教の号)御代の如くたるべし」と宣言し、義教の側近であった季瓊真蘂を起用し、義教路線の政策を推し進めていくことになる。特に武士に横領された寺社本所領の還付を求める不知行地還付政策は、義政終生の政策課題となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "近江国の六角氏では、康正2年10月に京極持清と対立した近江守護の六角久頼が憤死(自害とも)し、幼少の亀寿丸(後の六角高頼)が家督を継承した。しかし、長禄2年6月に突然亀寿丸が追放され、先に家督簒奪によって幕命で攻め滅ぼされた六角時綱(久頼の兄)の遺児である六角政堯が当主になった。従来は伊庭満隆ら家臣団の意向とされてきたが、近年では若年の亀寿丸による近江統治を不安視する義政による六角氏への介入の結果とする説が出されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "3月には嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が、後南朝から神璽を奪還し、8月30日に朝廷に安置された。義政はこの功績で10月14日に赤松政則を北加賀の守護に任命、赤松氏を復帰させた。これに先立つ8月9日に、赤松氏の旧領播磨国守護であった宗全が赦免されているが、これは勝元と相談の上で行った懐柔策とされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "同年に異母弟の政知を鎌倉公方として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まった(堀越公方)。 それが原因の1つとなり甲斐常治と斯波義敏が越前で長禄合戦を引き起こした。義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い、義敏の子松王丸(義寛)へ当主を交代させた。長禄合戦は常治が勝利したが、直後に常治も没し、関東派遣は見送られた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "長禄3年(1459年)正月に今参局が呪詛の疑いで失脚し、かわって近臣の伊勢貞親が急速に影響を強め、義政の親政は強化されていった。また同年には畠山政久が赦免された。年末には、長年住み慣れた烏丸殿から新造された花の御所の「上御所」に移り、親政の拠点として位置づけようとした。貞親は義政の将軍職就位前から「室町殿御父」と呼ばれる存在であり、幕府財政再建についても大きな功績があり、右大将拝賀式では大名並みの扱いを受けている。一方で守護大名達の反発は強まっていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "政久が死去した後は弟の政長が勝元に擁立され、宗全も復帰したため、長禄4年(1460年)9月に畠山家家督を義就から政長に交代させた。義就は河内国嶽山城に逃れて2年以上も籠城し、政長との戦闘を繰り広げた。このため戦乱を逃れた流民が大量に京都に流入した。 しかし長禄4年ごろから飢饉や災害が相次いており、特に寛正2年(1461年)の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらしていた。流入した流民の多くは飢え、一説では2ヶ月で8万2千の餓死者を出し、賀茂川の流れが死骸のために止まるほどであったとされる。同年春に後花園天皇が漢詩で義政に「満城紅緑為誰肥」と訓戒する詩を送っているが、尋尊が「公武御成敗諸事御正体なし」と批判するように、当時の世上では朝廷も含めて批判の対象となっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "寛正2年(1461年)に斯波氏の家督交代を行い、松王丸を廃嫡して渋川義鏡の子義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方政知の執事である義鏡を斯波氏当主の父という立場で斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、義鏡は寛正3年に扇谷上杉家と対立、失脚してしまった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "寛正4年(1463年)8月、母・重子が没したために恩赦を行い、畠山義就と斯波義敏父子は赦免された。ただし、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認められなかった。義敏の赦免に動いたのは伊勢貞親であり、義敏を斯波氏家督に復帰させようと計画していた。この状況に焦った義廉は、山名宗全と縁組をし、畠山義就との関係も深めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "寛正5年、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。寛正6年(1465年)11月に富子に男児(後の足利義尚)が誕生した。『応仁記』などでは富子が義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼み、義視は管領の細川勝元と手を結んだとされる。しかし義視は義尚誕生後も順調に官位昇進を続けており、また義視の妻は富子の妹であった。義政には大御所として政治の実権を握る意図があり、義尚誕生後も義視の立場を変えなかったのは義尚が成長するまでの中継ぎにするためともされる。しかし義尚の乳父であった伊勢貞親ら近臣は義政の将軍継続を望んでおり、義視を支援する山名宗全・細川勝元らとの対立は深まっていった。また12月30日に義敏が上洛して義政と対面し、義廉派の焦燥はいよいよ深まっていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "文正元年(1466年)7月28日には琉球国王の来朝使者である芥隠承琥が上洛した。義政は庭先に席を設けて引見し、芥隠はその上で三拝した。礼物も「進物」と呼ばれていた(『斎藤親基日記』)(『蔭凉軒日録』)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "7月23日に義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて義敏を家督に据え、8月25日に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与えた。7月30日に河野通春を援助して幕府から追討命令を受けていた大内政弘も赦免したが、これは大内氏と斯波氏の引き入れを図ったとされる。しかし山名宗全・細川勝元らはこれに抵抗し、義政が発出した義廉の追討命令にも従わなかった。また義廉は義視に接近しており、これも貞親らの疑念を駆り立てた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "9月6日、貞親はついに義視の排除に動き、謀反の疑いで義視を切腹させるよう訴えた。義政も一旦は義視を切腹させるよう命じたが、細川勝元・山名宗全等によって制止され、貞親・真蘂・義敏らは逃亡、義政側近層は解体に追い込まれた(文正の政変)。しかしこれによって急速に権力を拡大した勝元と宗全は対立するようになり、畠山家の家督争いに介入するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "文正元年12月に畠山義就が宗全の呼び出しで上洛した。文正2年(1467年)正月、義政は義就支持に転じ、家督と認めた。これに反発した政長は義就と合戦に及び、敗走した(御霊合戦)。義政は各大名に介入を禁じたが、細川勝元は従ったものの山名宗全は公然と義就を支援し、勝元の面目は丸つぶれとなった。勝元は捲土重来を期して味方を集め、5月からついに山名方との戦闘が始まった(上京の戦い)。義政は当初は停戦命令を出したが、6月に東軍の勝元に将軍旗を与え、西軍の宗全追討を命令した。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "8月になって後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所(室町殿)に避難すると、義政は急遽御所を改装して仮の内裏とした(上皇は直後に出家して法皇になる)。以後、文明8年(1476年)に花の御所が焼失して天皇が北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移すまで、天皇と将軍の同居という事態が続くことになる。天皇家と足利将軍家の同居という事態は様々な波紋を生み出した。後花園法皇は天皇在位中より義政と蹴鞠の趣味を通じて親交が厚かったが、同居によって公武関係に引かれていた一線が崩れ去り、義政と富子は度々内裏に充てられていた部屋において法皇や天皇とともに宴会を開いた。応仁の乱の最中に義政は度々「大飲」を繰り返したとされているが、実はその場に常に共にしていたのが後土御門天皇であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)。なお、この間の文明2年12月に後花園法皇が崩御しているが、その最期を看取ったのは義政と富子であり、義政は戦乱中の徒歩での葬列参加に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀・法事に関する全ての行事に参列した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "義視は東軍の総大将とされたものの、一時は伊勢国に出奔するなど立場は不安定であり、応仁2年(1468年)には義政が没落していた伊勢貞親を呼び戻したことで、反発した義視は西軍に身を投じた。 また、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、文明3年(1471年)5月21日に越前守護職を与える書状を送っている。文明5年(1473年)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月19日に将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居した。しかしまだ義尚は幼少であったため実権は義政にあり、富子の兄日野勝光や伊勢貞宗がこれを補佐した。また近習を使って和平工作に取り組んでいた。大乱の前後を通じて義政は政務を引き続き行い、管領を除外して奉行衆や女房衆を中心とした体制が構築されていった。一方で享楽的な生活を送っていたとされており、尋尊は「公方は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の如くなり」と批判している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "隠居後の文明8年(1476年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、富子と義尚が小川殿へ移ると、義政は富子の居所を造営した。文明9年(1477年)に応仁の乱は終わったが、尋尊が「日本国は悉く以て以て(将軍の)御下知に応ぜざるなり」と嘆いたように、幕府権力は低下した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "文明11年には義尚が判始めを行い、政務をとることとなったが、義政は権限をほとんど手放さなかった。義尚はこのため奇行に走るようになり、翌年・翌々年と髻を切って出家しようとする騒ぎを起こすこととなる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "文明13年(1481年)に富子から逃れるように長谷の山荘に移り、翌年から東山山荘の建築を本格化させる が、諸大名からは石の献上はあっても、費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある山城国の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。文明14年(1482年)には東山山荘(東山殿)の造営をはじめ、祖父義満が建てた金閣を参考にした銀閣などを建てた。この年、7月に義政は天下の政務を譲ることを表明した。また同年には、古河公方足利成氏と和睦し、20年以上に渡った京都と関東の対立を終結させた(都鄙合体)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "文明15年(1483年)6月には建物がある程度完成した東山山荘に移り住み、以降は義政は「東山殿」、義尚を「室町殿」と呼ぶこととなった。だが、実際には義尚は多くの分野で義政の承認が無ければ裁許を行うことが出来なかった。また義尚が畠山義就支援に転換しようとすると、義政はこれに猛反発して朝廷に義就治罰の綸旨を出させている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "文明16年(1484年)には赤松政則と浦上則宗の対立を仲介して和解へ導き、文明17年(1485年)4月には後土御門天皇直々に御料所からの年貢の滞りの相談を受けて自腹で5000疋を用立てて皇室の財政難を救うなど、依然として影響力の大きさを示していたが、5月に義尚の側近奉公衆と義政の側近奉行衆が武力衝突する事件が起こるなど、義政と義尚の対立は激化する。このため6月、義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決め、翌文明18年(1486年)12月には改めて政務からの引退を表明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかし、対外関係と禅院関係(所領問題や公帖の発給)については最後まで義政は権限を手放そうとせず、伊勢貞宗や亀泉集証の補佐を受けて自身で裁許した。例えば、和泉守護が堺南荘の代官を得て支配に乗り出そうとした際、領主である崇寿院の依頼を受けて同荘を崇寿院の直務支配にすることを決定している。更に幕府権威回復のために義尚が六角討伐を行うと、幕府軍(義尚の側近や奉公衆)らによる現地の寺社本所領の兵粮料所化による事実上の押領が行われ、却って被害を受けた寺社などの荘園領主達からは義政の政務への関与による救済が期待される状況となってしまった。このため度々義政は政務に介入することとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "義尚の生前から、富子の支持により、美濃の土岐成頼の下に亡命していた義視とその子の義材を呼び寄せ、義材を義尚の名代とする計画が進行していたが、義政はこれを全く知らなかった。延徳元年(1489年)に義尚は六角討伐の陣中で死去した。しかし義政はここで再び政務をとる意思を明らかにし、実際に政務をとることとなった。しかし8月に義政が中風に倒れ、10月に再び倒れて病床に伏した。この時、義政はようやく義視と義材の面会を許している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "延徳2年(1490年)1月7日、銀閣の完成を待たずして義尚の後を追うように死去した。享年55(満54歳没)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "文化面では功績を残している。庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(後に慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。初花、九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られた。", "title": "人物・評価" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "義教の死後中断していた勘合貿易を宝徳3年(1451年)に復活した。以後貿易は16世紀半ばまで続き、経済交流と文化発展に寄与することとなった。財政再建策が功を奏して、義政の治世前半は義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であったとされている。しかし応仁の乱以降幕府財政は弱体化していった。東山御物の名で知られる将軍家の宝物は、その名のイメージと異なり義政の代は逆に流出期であった。その後、貿易の実権は細川家や大内家によって握られ、将軍家は経済的にも衰退した。", "title": "人物・評価" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "永井路子は、義政の先々代・足利義教の独裁とその末路を考慮して「周囲の人々は義政を『死なぬように、生きぬように』お飾りとして育てた。義政の人格と治世は、そうした歪んだ教育の結果だ」と評している。史料に見える義政は将軍としてのスケジュールには従順であり、永井はそこから源実朝によく似た人物だと義政を評した。歴史学者赤松俊秀は、「無能の烙印を押すのは可哀想だ。将軍として立派に行動しようとしたが、結果は幕府の衰退という失敗に終わってしまっただけ」と評している。また、赤松は「将軍でありながら、彼ほど『人に抑えられた』人物はいないだろう」と指摘している。", "title": "人物・評価" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "(※ > より右の人物は、>より左の人物から1字を賜った人物を示す。詳しくは該当項目の「偏諱を与えた人物」を参照のこと。)", "title": "偏諱を受けた人物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "*「成」の読みは「しげ」。", "title": "偏諱を受けた人物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "(*享徳2年(1453年)、「義成」から改名。)", "title": "偏諱を受けた人物" } ]
足利 義政は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代征夷大将軍。父は第6代征夷大将軍・足利義教、母は日野重子。第7代征夷大将軍・足利義勝の同母弟にあたる。初名は義成(よししげ)。第6代征夷大将軍・足利義教の五男。 幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなる。東山文化を築くなど、文化人的側面も多く見られるようになったが、大御所として政治に関与し続けた。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 足利 義成 / 足利 義政 | 画像 = Ashikaga_Yoshimasa.jpg | 画像サイズ = 260px | 画像説明 = 伝足利義政像{{refnest|group="注釈"|この肖像は、[[江戸時代]]後期から足利義政像とされてきたが、この肖像画の人物が義政であるという確証はない。実際この画中にて、像主の[[家紋]]を入れる[[有職故実|故実]](大和絵肖像画上のルール)がある[[襖]]の縁、[[鏡台]]の[[蒔絵]]、[[指貫 (衣服)|指貫]]などの装束に「左三つ巴」紋が散りばめられている。足利家の紋は[[桐紋]]で、他の足利家の肖像画でもそのように描かれるのが通例なため、この伝足利義政像の像主は足利家の人物(それも当主の義政)とするには疑問が残る。そこで、左三つ巴紋は[[西園寺家]]庶流の家紋であり、画中に親王か大臣以上が用いる大紋縁の畳が描かれていることから、家紋は不明だが大臣を輩出する[[洞院家]]の誰か、特に東山左大臣と呼ばれた[[洞院実熙]]の可能性が高い。この肖像が画中の家紋を無視して義政像とされてきた理由は、本来の表具や箱などに記されていたと思われる「東山左大臣」を、義政の称号「東山殿」と混同し、「東山左大臣」の表記が失われた後も義政像という伝承だけは残ったためだと推定する説がある<ref>{{Cite journal |和書 |author= 落合謙暁 |year= 2012 |title= 土佐家伝来の伝足利義政像について |journal= [[日本歴史]] |publisher= 吉川弘文館 |issue= 772号 }}</ref>。}}(伝[[土佐光信]]画、[[東京国立博物館]]蔵) | 時代 = [[室町時代]]中期 - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期 | 生誕 = [[永享]]8年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]([[1436年]][[1月20日]]) | 死没 = [[延徳]]2年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]([[1490年]][[1月27日]]) | 改名 = 三寅、三春([[幼名]])→義成(初名)→義政 | 別名 = | 戒名 = 慈照院喜山道慶 | 墓所 = [[京都市]][[上京区]][[相国寺]] | 官位 = [[征夷大将軍]]、[[従一位]]、[[馬寮|右馬寮御監]]、[[内大臣]]、[[近衛府|右近衛大将]]、[[左大臣]]、[[贈位|贈]][[太政大臣]] | 幕府 = [[室町幕府]]第8代[[征夷大将軍]]<br />(在任:[[1449年]] - [[1473年]]) | 氏族 = [[足利氏]]([[足利将軍家]]) | 父母 = 父:[[足利義教]]、母:[[日野重子]] | 兄弟 = [[足利義勝|義勝]]、'''義政'''、[[足利義視|義視]]、[[足利政知|政知]]、他 | 妻 = 正室:'''[[日野富子]]'''<br />側室:[[大舘佐子]]、ほか | 子 = 実子:'''[[足利義尚|義尚]]'''、[[等賢同山]]、[[義覚]]、[[光山聖俊]]、[[堯山周舜]]、ほか<br />養子:''[[足利義視|義視]](実弟)''、'''''[[足利義稙|義稙]]'''(義視の子)''、''[[足利義澄|義澄]](政知の子)'' | 特記事項 = [[銀閣寺]]建立 }} '''足利 義政'''(あしかが よしまさ)は、[[室町時代]]中期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期にかけての[[室町幕府]]第8代[[征夷大将軍]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 34頁。</ref>(在職:[[文安]]6年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]([[1449年]][[5月21日]]) - [[文明 (日本)|文明]]5年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]([[1474年]][[1月7日]]))。初名は'''義成'''(よししげ)。 第6代将軍・[[足利義教]]の五男{{sfn|家永遵嗣|2014|p=6}}{{Sfn|石田|2008|p=114}}。母は[[日野重子]]。第7代将軍・[[足利義勝]]の同母弟にあたる。 幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。守護大名の対立はやがて[[応仁の乱]]を引き起こすこととなる。[[東山文化]]を築くなど、文化人的側面も多く見られるようになったが、大御所として政治に関与し続けた{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=294-296}}。 == 生涯 == === 将軍職就任 === 永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・[[足利義教]]と側室・[[日野重子]]の間の庶子として生まれた{{sfn|家永遵嗣|2014|p=6}}{{Sfn|石田|2008|p=114}}。義教にとっては五男であり、嫡子・[[足利義勝]]の同母弟であった{{sfn|家永遵嗣|2014|p=6}}{{Sfn|石田|2008|p=114}}。幼名は三寅、のちに三春と呼ばれている{{Sfn|榎原|清水|2017|p=205}}。 嫡子である兄・義勝が政所執事・[[伊勢貞国]]の屋敷で育てられたのに対して、義政は母・重子の従弟である[[烏丸資任]]の屋敷にて育てられた{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=236,284}}<ref name="ishihara">{{Cite book |和書 |author= 石原比伊呂 |year= 2015 |title= 室町時代の将軍家と天皇家 |chapter= 義政期の将軍家と天皇家 |publisher= 勉誠出版 |isbn= 978-4-585-22129-6 }}</ref>。そして、後継者の地位から外された他の兄弟と同じく慣例に従い、[[出家]]して然るべき京都の寺院に入寺し、僧侶として一生を終えるはずであった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=205}}。 [[嘉吉]]元年([[1441年]])6月24日、父が[[嘉吉の乱]]で[[赤松満祐]]に殺害された後、兄・義勝が第7代将軍として継いだ{{Sfn|榎原|清水|2017|p=205}}。 嘉吉3年([[1443年]])7月21日、義勝も早逝したため、義政は[[管領]]・[[畠山持国]]などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された{{Sfn|榎原|清水|2017|p=205}}。 後継者と決まった直後より、三春は将軍家の家長たる呼称「[[室町殿]]」と呼ばれている{{Sfn|榎原|清水|2017|pp=205-206}}。 [[文安]]3年([[1446年]])12月13日、三春は[[後花園天皇]]より、'''義成'''の名を与えられた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=207}}。このとき、後花園天皇が[[宸筆]]を染め、天皇による命名といった形式が取れられていることから、先例に倣ったものとされる{{Sfn|榎原|清水|2017|p=207}}。また、「成」の字が選ばれた理由としては、「義成」の字にどちらも「戈」の字が含まれていることより、[[戊戌]]の年に生まれた祖父・[[足利義満]]の武徳が重ねられたと考えられている{{Sfn|榎原|清水|2017|p=207}}。 文安6年([[1449年]])4月16日、義成は[[元服]]し、同月29日に[[将軍宣下]]を受けて、正式に第8代将軍として就任した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=207}}。また、同日のうちに[[吉書始]]を行って、宮中に参内している。 <div class="NavFrame" style="border: none; text-align: left; font-size: 85%;"> <div class="NavHead" style="background: transparent; text-align: right; font-weight: normal;"> (足利義政への将軍宣下を記した宣旨を読むには右をクリック → )   <!----> </div> <div class="NavContent"> '''足利義政 征夷大将軍の辞令(宣旨)'''(『康富記』) {{quotation|左馬頭源朝臣義成<br /> 右少辨藤原朝臣勝光傳宣<br /> 權中納言兼右衞門督藤原朝臣持季宣<br /> 奉 敕件人宜爲征夷大將軍&#xFA5B;<br /> 文安六年四月廿九日<br /> 左大史小槻宿禰晨照奉 }} (訓読文) {{quotation|左馬頭源朝臣義成(足利義成、のち義政に改名。正五位下)<br /> 右少弁藤原朝臣勝光([[日野勝光]]、正五位下・蔵人兼帯)伝へ宣(の)り<br /> 権中納言兼右衛門督藤原朝臣持季([[正親町持季]]、正三位)宣(の)る<br /> 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)<br /> 文安6年(1449年)4月29日<br /> 左大史小槻宿禰晨照([[壬生晨照]]、正四位上)奉(うけたまは)る }} </div> </div> === 義政の初政 === 義成は将軍宣下からまもなく、先例より一年早い14歳で政務をとる「[[判始]]」の儀式を行った{{sfn|桜井英治|p=273}}。判始の後に管領・[[細川勝元]]が一旦辞意を表明しており、これは将軍親政が始まる際の慣例であった{{sfn|桜井英治|p=273}}。享徳4年([[1455年]])ごろまでは管領の命令書である[[管領下知状]]が発給されていたが、義成も度々自筆安堵状を発給しており、享徳元年([[1452年]])には最初の[[御教書|御判御教書]]を発給している{{sfn|桜井英治|p=273}}。また、 この頃、義成の側近であったのは、乳母の[[今参局]](御今)、育ての親とも言える[[烏丸資任]]、将軍側近の[[有馬元家]]であった。この三人は「おい'''ま'''」、「からす'''ま'''」、「あり'''ま'''」と、「'''ま'''」がついており、落書で「三魔」と呼ばれた{{sfn|桜井英治|p=275-276}}。一方で、これに対抗する母・重子も度々人事に介入を続けた{{sfn|桜井英治|p=276}}。近臣や女房衆が台頭するのは親政期の特徴であり{{sfn|桜井英治|p=276}}、この時期の室町幕府を「義政専制」体制にあったとする説も存在している<ref>百瀬今朝雄「応仁・文明の乱」(『岩波講座日本歴史 第7巻』、1976年)</ref>。 [[宝徳]]2年([[1450年]])、義成は独断で[[尾張国|尾張]]守護代を[[織田敏広]]から[[織田郷広]]に交替させようとし、抗議した母・重子が出奔するという事件が起きている{{sfn|桜井英治|p=274}}。 [[享徳]]2年([[1453年]])6月13日、義成は改名し、'''義政'''と名乗った{{Sfn|榎原|清水|2017|p=208}}。その理由としては、後花園天皇の第一皇子(のちの[[後土御門天皇]])の[[諱]]が、成仁親王と決まったことであった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=208}}。諱を口にすることは古来より忌避されており、天皇候補者の名が決まった際には臣下はその字が含まれた名を改名するのが常であり、義政も慣例に従ったのであった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=208}}。 当時の[[守護大名]]では家督相続に関する内紛が多く、義成はこれらの相続争いに積極的に介入した。しかし、[[加賀国|加賀]]守護であった[[富樫氏]]の内紛([[加賀両流文安騒動]])では管領細川勝元の反対を受けて義成の意のままに相続権を動かすことができなかった。享徳3年([[1454年]])、[[畠山氏]]の[[お家騒動]]が起こり、[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]に[[山名宗全]]と細川勝元が畠山持国の甥[[畠山政久]]を庇護して持国と子の[[畠山義就]]を京都から追い落とした。義政はこの問題で義就を支持、[[8月29日 (旧暦)|29日]]に政久を匿った勝元の[[被官]]を切腹させ、[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]に宗全退治を命令、翌[[11月3日 (旧暦)|3日]]の宗全[[隠居]]で撤回、[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]に宗全が[[但馬国|但馬]]に下向した後、義就が[[12月13日 (旧暦)|13日]]に上洛、義政と対面して家督相続を認められ、政久は没落した。 享徳4年([[1455年]])には関東で[[享徳の乱]]が発生、[[関東管領]][[上杉房顕]]・[[駿河国|駿河]]守護[[今川範忠]]・[[越後国|越後]]守護[[上杉房定]]らを出陣させ、幕府軍は[[鎌倉市|鎌倉]]を落とし、成氏は[[古河市|古河]]に逃れた([[古河公方]])。 義政の義就支持は、[[細川氏]]・[[山名氏]]に対抗するため、尾張守護代問題で今参局を介して持国を抱き込んだからで、宗全の退治命令も義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で宗全に討伐された[[赤松氏]]の復興を狙ったとされる。[[赤松則尚]]は11月3日に播磨に下向しているが、翌享禄4年([[康正]]元年、[[1455年]])[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]に宗全に討たれている。 幕府財政は義教の死後から、[[土一揆]]の激化で主要な収益源である[[土倉役]]を失い、困窮を深めていた。しかし、[[康正]]元年([[1455年]])の[[分一銭]]徳政改正などの税制政策により、義政の親政期から幕府財政は急速に回復していった。 康正2年([[1456年]])には長年の懸案であった[[内裏]]再建を達成し、7月には義政の右近衛大将拝賀式が盛大に執り行われた{{sfn|早島大祐|1999|p=65}}。さらに義政は寺院や諸大名の館への[[御成]]を頻繁に行ったが、これは贈答品を受け取ることによって幕府の収入を増加させることにもつながった{{sfn|早島大祐|1999|p=67}}。義政は「毎日御成をしてもかまわない」と側近に語っている{{sfn|早島大祐|1999|p=67}}。一方で、康正3年には義就が上意と称して度々軍事活動を行い、激怒した義政は度々その所領を没収している{{sfn|桜井英治|p=292}}。 享徳2年頃から義政は父義教の儀礼を復活させ、[[長禄]]2年([[1458年]])には「近日の御成敗、普光院(普広院、義教の号)御代の如くたるべし」と宣言し、義教の側近であった[[季瓊真蘂]]を起用し、義教路線の政策を推し進めていくことになる{{sfn|桜井英治|p=283}}。特に武士に横領された[[寺社本所領]]の還付を求める[[不知行地還付政策]]は、義政終生の政策課題となった{{sfn|桜井英治|p=283}}。 近江国の六角氏では、康正2年10月に京極持清と対立した近江守護の六角久頼が憤死(自害とも)し、幼少の亀寿丸(後の[[六角高頼]])が家督を継承した。しかし、長禄2年6月に突然亀寿丸が追放され、先に家督簒奪によって幕命で攻め滅ぼされた[[六角時綱]](久頼の兄)の遺児である[[六角政堯]]が当主になった。従来は[[伊庭満隆]]ら家臣団の意向とされてきたが、近年では若年の亀寿丸による近江統治を不安視する義政による六角氏への介入の結果とする説が出されている<ref>新谷和之「南北朝・室町期における六角氏の家督と文書発給」川岡勉 編『中世後期の守護と文書システム』思文閣出版、2022年、P73-75.</ref>。 3月には[[嘉吉の乱]]で没落した[[赤松氏]]の遺臣が、[[後南朝]]から[[八尺瓊勾玉|神璽]]を奪還し、[[8月30日 (旧暦)|8月30日]]に[[朝廷 (日本)|朝廷]]に安置された。義政はこの功績で[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]に[[赤松政則]]を北加賀の守護に任命、赤松氏を復帰させた。これに先立つ[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]に、赤松氏の旧領[[播磨国]]守護であった宗全が赦免されているが、これは勝元と相談の上で行った懐柔策とされる{{sfn|桜井英治|p=284}}。 同年に異母弟の政知を[[鎌倉公方]]として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まった([[堀越公方]])。 それが原因の1つとなり甲斐常治と[[斯波義敏]]が越前で[[長禄合戦]]を引き起こした。義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に[[斯波氏]]の当主交代を行い、義敏の子・[[斯波義寛|松王丸]](義寛)へ当主を交代させた。長禄合戦は常治が勝利したが、直後に常治も没し、関東派遣は見送られた。 === 伊勢貞親の勢力拡大と混乱 === {{see also|長禄・寛正の飢饉}} 長禄3年([[1459年]])正月9日、富子との間に第一子となる男子が生まれるが、その日のうちに夭折した。母・重子らによって今参局に[[呪詛]]の疑いがかけられると、同月のうちに彼女を[[琵琶湖]][[沖島 (琵琶湖)|沖島]]に流罪とした(本人は途中で自刃)。また、2月8日に義政の[[側室]]4人([[大舘佐子]](佐子局)、阿茶子局、[[赤松貞村]]の娘、北野一色妹)も今参局の呪詛に同意したとして、御所から追放された{{Sfn|石田|2008|p=152}}。なお、側室4人はいずれも、宝徳3年([[1451年]])3月以降に義政の娘を出産していた{{Sfn|石田|2008|p=152}}。 今参局にかわって、近臣の[[伊勢貞親]]が急速に影響を強め、義政の親政は強化されていった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=285}}。また同年には畠山政久が赦免された。年末には、長年住み慣れた烏丸殿から新造された[[花の御所]]の「上御所」に移り{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=285-286}}、親政の拠点として位置づけようとした{{Sfn|桃崎|山田|2016|loc=田坂泰之「室町期京都の都市空間と幕府」}}。貞親は義政の将軍職就位前から「室町殿御父」と呼ばれる存在であり{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=288}}、幕府財政再建についても大きな功績があり、右大将拝賀式では大名並みの扱いを受けている{{sfn|早島大祐|1999|p=63-64}}。一方で守護大名達の反発は強まっていった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=288}}。 政久が死去した後は弟の[[畠山政長|政長]]が勝元に擁立され、宗全も復帰したため、長禄4年([[1460年]])9月に畠山家家督を義就から政長に交代させた。義就は[[河内国]][[嶽山城]]に逃れて2年以上も籠城し、政長との戦闘を繰り広げた。このため戦乱を逃れた流民が大量に京都に流入した。 しかし長禄4年ごろから[[飢饉]]や災害が相次いており、特に[[寛正]]2年([[1461年]])の[[長禄・寛正の飢饉|大飢饉]]は京都にも大きな被害をもたらしていた。流入した流民の多くは飢え、一説では2ヶ月で8万2千の餓死者を出し{{sfn|桜井英治|p=293}}、[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]の流れが死骸のために止まるほどであったとされる。同年春に[[後花園天皇]]が漢詩で義政に「満城紅緑為誰肥」と訓戒する詩を送っているが、[[尋尊]]が「公武御成敗諸事御正体なし」と批判するように、当時の世上では[[朝廷 (日本)|朝廷]]も含めて批判の対象となっていた{{sfn|桜井英治|p=293}}。 === 文正の政変 === {{see also|文正の政変|武衛騒動}} 寛正2年([[1461年]])に斯波氏の家督交代を行い、松王丸を廃嫡して[[渋川義鏡]]の子[[斯波義廉|義廉]]を当主に据えた。この行為は堀越公方政知の執事である義鏡を斯波氏当主の父という立場で斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、義鏡は寛正3年に[[扇谷上杉家]]と対立、失脚してしまった。 寛正4年([[1463年]])8月、母・重子が没したために恩赦を行い、畠山義就と斯波義敏父子は赦免された。ただし、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認められなかった。義敏の赦免に動いたのは伊勢貞親であり、義敏を斯波氏家督に復帰させようと計画していた{{sfn|呉座勇一|2016|p=71}}。この状況に焦った義廉は、山名宗全と縁組をし、畠山義就との関係も深めた{{sfn|呉座勇一|2016|p=71}}。 寛正5年、実弟の義尋を[[還俗]]させて[[足利義視]]と名乗らせ、[[養子縁組|養子]]として次期将軍に決定した。寛正6年([[1465年]])11月に富子に男児(後の[[足利義尚]])が誕生した。『応仁記』などでは富子が義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼み、義視は管領の細川勝元と手を結んだとされる{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=288}}。しかし義視は義尚誕生後も順調に官位昇進を続けており、また義視の妻は富子の妹であった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=290}}{{sfn|家永遵嗣|2014|p=9}}。義政には[[大御所]]として政治の実権を握る意図があり、義尚誕生後も義視の立場を変えなかったのは義尚が成長するまでの中継ぎにするためともされる{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=290}}。しかし義尚の乳父であった伊勢貞親ら近臣は義政の将軍継続を望んでおり、義視を支援する山名宗全・細川勝元らとの対立は深まっていった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=290}}。また[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]に義敏が上洛して義政と対面し、義廉派の焦燥はいよいよ深まっていった。 [[文正]]元年([[1466年]])7月28日には琉球国王の来朝使者である[[芥隠承琥]]が上洛した。義政は庭先に席を設けて引見し、芥隠はその上で三拝した。礼物も「進物」と呼ばれていた(『斎藤親基日記』)(『蔭凉軒日録』)<ref>{{Cite journal |和書 |author= 宮本義己 |authorlink= 宮本義己 |year= 1995 |title= 室町幕府と琉球使節―琉球船貢物点検問題の実相とその意義― |journal= 南島史学 |issue= 45号 }}</ref> [[7月23日 (旧暦)|7月23日]]に義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて義敏を家督に据え、[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与えた。[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]に[[河野通春]]を援助して幕府から追討命令を受けていた大内政弘も赦免したが、これは[[大内氏]]と斯波氏の引き入れを図ったとされる。しかし山名宗全・細川勝元らはこれに抵抗し、義政が発出した義廉の追討命令にも従わなかった{{sfn|家永遵嗣|2014|p=27}}。また義廉は義視に接近しており、これも貞親らの疑念を駆り立てた{{sfn|家永遵嗣|2014|p=22}}。 [[9月6日 (旧暦)|9月6日]]、貞親はついに義視の排除に動き、謀反の疑いで義視を切腹させるよう訴えた。義政も一旦は義視を切腹させるよう命じたが、細川勝元・山名宗全等によって制止され、貞親・真蘂・義敏らは逃亡、義政側近層は解体に追い込まれた([[文正の政変]]){{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=291}}。しかしこれによって急速に権力を拡大した勝元と宗全は対立するようになり、畠山家の家督争いに介入するようになった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=291-292}}。 === 応仁の乱 === {{see also|応仁の乱}} 文正元年12月に畠山義就が宗全の呼び出しで上洛した。文正2年([[1467年]])正月、義政は義就支持に転じ、家督と認めた。これに反発した政長は義就と合戦に及び、敗走した([[御霊合戦]])。義政は各大名に介入を禁じたが、細川勝元は従ったものの山名宗全は公然と義就を支援し、勝元の面目は丸つぶれとなった。勝元は捲土重来を期して味方を集め、5月からついに山名方との戦闘が始まった([[上京の戦い]])。義政は当初は停戦命令を出したが、6月に東軍の勝元に将軍旗を与え、西軍の宗全追討を命令した{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=292}}。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。 8月になって後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所(室町殿)に避難すると、義政は急遽御所を改装して仮の内裏とした(上皇は直後に出家して法皇になる)。以後、[[文明 (日本)|文明]]8年([[1476年]])に花の御所が焼失して天皇が北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移すまで、天皇と将軍の同居という事態が続くことになる。天皇家と足利将軍家の同居という事態は様々な波紋を生み出した。後花園法皇は天皇在位中より義政と蹴鞠の趣味を通じて親交が厚かったが、同居によって公武関係に引かれていた一線が崩れ去り、義政と富子は度々内裏に充てられていた部屋において法皇や天皇とともに宴会を開いた。応仁の乱の最中に義政は度々「大飲」を繰り返したとされているが、実はその場に常に共にしていたのが後土御門天皇であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)。なお、この間の文明2年12月に後花園法皇が崩御しているが、その最期を看取ったのは義政と富子であり、義政は戦乱中の徒歩での葬列参加に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀・法事に関する全ての行事に参列した<ref name=ishihara/>。 義視は東軍の総大将とされたものの、一時は伊勢国に出奔するなど立場は不安定であり、応仁2年([[1468年]])には義政が没落していた伊勢貞親を呼び戻したことで、反発した義視は西軍に身を投じた{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=293}}。 また、西軍の有力武将[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]の寝返り工作も行い、[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]に越前守護職を与える書状を送っている。 文明5年([[1473年]])、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]に将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居した。しかしまだ義尚は幼少であったため実権は義政にあり、富子の兄[[日野勝光]]や[[伊勢貞宗]]がこれを補佐した。また近習を使って和平工作に取り組んでいた{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=293-294}}。大乱の前後を通じて義政は政務を引き続き行い、管領を除外して奉行衆や女房衆を中心とした体制が構築されていった{{sfn|木下昌規|2009|p=6}}。一方で享楽的な生活を送っていたとされており、尋尊は「公方は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の如くなり」と批判している{{sfn|桜井英治|p=392}}。 === 晩年 === [[画像:Ginkakuji-M1981.jpg|thumb|200px|[[慈照寺|銀閣寺]]]] 隠居後の文明8年([[1476年]])に花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、富子と義尚が小川殿へ移ると、義政は富子の居所を造営した。文明9年([[1477年]])に応仁の乱は終わったが、尋尊が「日本国は悉く以て以て(将軍の)御下知に応ぜざるなり」と嘆いたように、幕府権力は低下した{{sfn|桜井英治|p=330}}。 文明11年には義尚が判始めを行い、政務をとることとなったが、義政は権限をほとんど手放さなかった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=294}}。そのため、義尚は奇行に走るようになり、翌年・翌々年と髻を切って出家しようとする騒ぎを起こすこととなる{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=294}}。 文明13年([[1481年]])、義政は富子から逃れるように長谷の山荘に移り、翌年から東山山荘の建築を本格化させる<ref>臼井信義「小川御所」『国史大辞典』第2巻</ref> が、諸大名からは石の献上はあっても、費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある[[山城国]]の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。 文明14年([[1482年]])には[[慈照寺|東山山荘]](東山殿)の造営をはじめ、祖父義満が建てた[[鹿苑寺|金閣]]を参考にした[[慈照寺|銀閣]]などを建てた。この年、7月に義政は天下の政務を譲ることを表明した<ref>『大乗院寺社雑事記』文明14年7月25日条</ref>。また同年には、古河公方足利成氏と和睦し、20年以上に渡った京都と関東の対立を終結させた([[都鄙合体]])。 文明15年([[1483年]])6月には建物がある程度完成した東山山荘に移り住み、以降は義政は「東山殿」、義尚を「室町殿」と呼ぶこととなった<ref>『親長卿記』文明15年6月27日条・『後法興院政家記』文明15年6月28日条</ref>{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=294}}。だが、実際には義尚は多くの分野で義政の承認が無ければ裁許を行うことが出来なかった<ref name="noda">{{Harvnb|桃崎|山田|2016|loc=野田泰三「東山殿足利義政の政治的位置付けをめぐって」}}</ref>。また義尚が畠山義就支援に転換しようとすると、義政はこれに猛反発して朝廷に義就治罰の綸旨を出させている{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=295}}。 文明16年([[1484年]])には[[赤松政則]]と[[浦上則宗]]の対立を仲介して和解へ導き、文明17年([[1485年]])4月には後土御門天皇直々に御料所からの年貢の滞りの相談を受けて自腹で5000疋を用立てて皇室の財政難を救うなど、依然として影響力の大きさを示していた<ref name=ishihara/>。だが、5月に義尚の側近[[奉公衆]]と義政の側近[[奉行衆]]が武力衝突する事件が起こるなど、義政と義尚の対立は激化する。そのため、6月に義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決め、翌文明18年(1486年)12月には改めて政務からの引退を表明した{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=295}}。 しかし、対外関係と禅院関係(所領問題や[[公帖]]の発給)については最後まで義政は権限を手放そうとせず{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=294}}、[[伊勢貞宗]]や[[亀泉集証]]の補佐を受けて自身で裁許した。例えば、和泉守護が堺南荘の代官を得て支配に乗り出そうとした際、領主である崇寿院の依頼を受けて同荘を崇寿院の[[直務]]支配にすることを決定している<ref>『蔭涼軒日録』長享元年10月3日条</ref>。更に幕府権威回復のために義尚が[[長享・延徳の乱|六角討伐]]を行うと、幕府軍(義尚の側近や奉公衆)らによる現地の[[寺社本所領]]の[[兵粮料所]]化による事実上の押領が行われ、却って被害を受けた寺社などの荘園領主達からは義政の政務への関与による救済が期待される状況となってしまった<ref name=noda/>。そのため、義政は度々政務に介入することとなった。 === 最期 === 義尚の生前から、富子の支持により、[[美濃国|美濃]]の[[土岐成頼]]の下に亡命していた義視とその子の[[足利義稙|義材]]を呼び寄せ、義材を義尚の名代とする計画が進行していたが、義政はこれを全く知らなかった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=320}}。 [[延徳]]元年([[1489年]])3月、義尚は[[長享・延徳の乱|六角討伐]]の陣中で死去した。だが、義政はここで再び政務をとる意思を明らかにし、実際に政務をとることとなった{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=303-304}}。しかし、8月に義政が[[中風]]に倒れ、10月に再び倒れて病床に伏した。この時、義政はようやく、義視と義材の面会を許している{{sfn|室町幕府全将軍・管領列伝|2018|p=304}}。 延徳2年(1490年)1月7日、義政は銀閣の完成を待たずして、義尚の後を追うように死去した。[[享年]]55(満54歳没)。 == 人物・評価 == [[画像:AshikagaYoshimasaHakaShokokuji.jpg|thumb|200px|足利義政の墓]] 文化面では、義政は功績を残している。庭師の[[善阿弥]]や[[狩野派]]の絵師[[狩野正信]]、[[土佐派]]の[[土佐光信]]、[[宗湛]]、[[能楽]]者の[[音阿弥]]、[[横川景三]]らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(後に[[慈照寺]]となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな[[北山文化]]に対し、銀閣に代表される[[わび・さび]]に重きをおいた「[[東山文化]]」と呼ばれる。[[初花]]、[[九十九髪茄子]]など現在に残る茶器も作られた<!-- 両茶器は「唐物」つまり中国製のため、日本製であるとの誤解を招く記載は避けるべき。 -->。 義教の死後中断していた[[日明貿易|勘合貿易]]を[[宝徳]]3年([[1451年]])に復活した。以後貿易は16世紀半ばまで続き、経済交流と文化発展に寄与することとなった。財政再建策が功を奏して、義政の治世前半は義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であったとされている。しかし応仁の乱以降幕府財政は弱体化していった。[[東山御物]]の名で知られる将軍家の宝物は、その名のイメージと異なり義政の代は逆に流出期であった。その後、貿易の実権は細川家や大内家によって握られ、将軍家は経済的にも衰退した。 [[永井路子]]は、義政の先々代・[[足利義教]]の独裁とその末路を考慮して、「周囲の人々は義政を『死なぬように、生きぬように』お飾りとして育てた。義政の人格と治世は、そうした歪んだ教育の結果だ」と評している{{Sfn|永井|1999|p=135-136}}。また、史料に見える義政は将軍としてのスケジュールには従順であり、永井はそこから[[源実朝]]によく似た人物だと義政を評した{{Sfn|永井|1999|p=136}}。 [[赤松俊秀]]は、「無能の烙印を押すのは可哀想だ。将軍として立派に行動しようとしたが、結果は幕府の衰退という失敗に終わってしまっただけ」と評している{{Sfn|永井|1999|p=134}}。また、赤松は「将軍でありながら、彼ほど『人に抑えられた』人物はいないだろう」と指摘している{{Sfn|永井|1999|p=138}}。 == 経歴 == : ※ 日付=旧暦 * [[文安]]3年([[1446年]])10月15日、[[後花園天皇]]から義成の名を与えられる。 * 文安4年([[1447年]])2月7日、[[正五位|正五位下]]に昇叙し、[[侍従]]に任官。 * 文安5年([[1449年]])12月26日、[[馬寮|左馬頭]]に転任。 * 文安6年([[1449年]])4月16日、元服。4月29日、[[征夷大将軍]]宣下。8月27日、[[従四位|従四位下]]に昇叙し、[[参議]]に補任。[[近衛府|右近衛中将]]を兼任。 * [[宝徳]]2年([[1450年]])1月5日、[[従三位]]に昇叙。3月29日、[[大納言|権大納言]]に転任。6月27日、[[従二位]]に昇叙。権大納言如元。 * [[享徳]]2年([[1453年]])3月26日、[[従一位]]に昇叙。6月13日、名を義政と改める。 * 享徳4年([[1455年]])8月27日、[[近衛府|右近衛大将]]兼任。 * [[康正]]2年([[1456年]])1月5日、[[馬寮|右馬寮御監]]兼務。 * [[長禄]]2年([[1458年]])7月25日、[[内大臣]]に転任。右近衛大将兼任如元。 * 長禄4年([[1460年]])8月27日、[[左大臣]]に転任。右近衛大将兼任如元。 * [[寛正]]2年([[1461年]])8月9日、右近衛大将辞任。 * 寛正5年([[1464年]])11月28日、[[准三宮]]宣下。 * [[文正]]2年([[1467年]])9月2日、左大臣辞任。 * [[文明 (日本)|文明]]5年([[1474年]])12月19日、征夷大将軍辞職。 * 文明17年([[1485年]])8月15日、出家。 * [[延徳]]2年([[1490年]])1月7日、薨去。2月17日、贈[[太政大臣]]。 == 系譜 == * 父:[[足利義教]] * 母:[[日野重子]] * 正室:[[日野富子]] - [[日野重政]](重子の甥で義政の従兄弟)の娘 ** 男子(1459) ** 男子:[[足利義尚]](1465-1489) ** 男子:[[義覚]](1468-1483) - [[醍醐寺]]座主 ** 女子:[[光山聖俊]](1462-1505) - [[景愛寺]]・[[大慈院 (大徳寺)|大慈院]]・[[宝鏡寺]]の[[住持]] ** 女子(1463-1486) * 側室:[[大舘佐子]](佐子局) - [[大舘持房]](常誉)の娘 ** 女子:堯山周舜(舜長老)(1455-1532) - [[総持院]]尼 * 側室:阿茶子局(阿茶局) - 中臣在直の妹 ** 女子 * 側室:[[赤松貞村]]の娘 ** 女子 * 側室:[[今川範将]]の娘 * 側室:北野一色妹 ** 女子 * (以下生母不明の子女) ** 男子:[[等賢同山]](1465-1483)- [[天龍寺]]香厳院主 == 偏諱を受けた人物 == (※ > より右の人物は、>より左の人物から1字を賜った人物を示す。詳しくは該当項目の「偏諱を与えた人物」を参照のこと。) === 義成時代 === *「成」の読みは「しげ」。 ; 公家 * 九条'''成'''家(のち'''政'''忠に改名(後述参照)) * [[今小路成冬|今小路'''成'''冬]]([[二条家]]支流・今小路家当主、詳しくは {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokai.htm#imanokouji |title=こちら |date=20080225034728}} を参照) * 冷泉'''成'''為(のち'''政'''為に改名(後述参照)) ; 武家 * [[足利成氏|足利'''成'''氏]] > [[簗田成助]]・[[結城成朝]]など * 僧・[[成潤|'''成'''潤]](僧侶・鎌倉勝寿門院門主、成氏の兄弟(兄とされている)) * [[石川成光|石川'''成'''光]]([[陸奥石川氏]]第21代当主、第24代[[石川晴光|晴光]]の曽祖父) * [[一色成範|一色'''成'''範]] * [[上舘成次|上舘'''成'''次]](石川成光の実弟) * [[上杉成定|上杉'''成'''定]]([[八条上杉家]]当主) * [[大崎成兼|大崎'''成'''兼]]([[大崎教兼|教兼]]の弟とされる) * [[小串成行|小串'''成'''行]](室町幕府奉公衆) * [[斯波義健|斯波'''義'''健]] * [[斯波義敏|斯波'''義'''敏]](義健養子) * [[宗成職|宗'''成'''職]]([[宗氏]]第10代当主、第9代[[宗貞盛|貞盛]]の嫡男) * [[伊達成宗|伊達'''成'''宗]] * [[富樫成春|富樫'''成'''春]] * [[土岐成頼|土岐'''成'''頼]] * [[仁木成長|仁木'''成'''長]](丹波[[仁木氏]]) * [[仁木成将|仁木'''成'''将]](伊勢仁木氏、[[仁木貞長|貞長]]の父) * [[畠山義就|畠山'''義'''就('''義'''夏)]]([[畠山氏]]管領家当主) * [[細川成賢|細川'''成'''賢]]([[細川勝元|勝元]]の実弟、[[細川氏#典厩家|典厩家]]・[[細川持賢]]養子) * [[細川成経|細川'''成'''経]]([[細川氏#奥州家|奥州家]]、[[細川和氏|和氏]]の玄孫で、[[細川輝経|輝経]]の高祖父) * [[細川成春|細川'''成'''春]] * [[細川成之|細川'''成'''之]] * [[吉見成頼|吉見'''成'''頼]]([[吉見氏#吉見一族の実名と偏諱|石見吉見氏]]) === 義政時代 === (*享徳2年(1453年)、「義成」から改名。) ; 公家(*出身者僧侶も含む) * [[日野政資|日野'''政'''資]](義甥(妻・富子の兄・[[日野勝光|勝光]]の子)) * [[近衛政家|近衛'''政'''家]] * 僧・[[政深|'''政'''深]](せいしん、近衛政家の実弟、[[権僧正]][[僧位|法印]]) * 僧・[[政弁|'''政'''弁]](せいべん、近衛政家の実弟、[[大僧正]]) * [[鷹司政平|鷹司'''政'''平]]([[鷹司家]]第10代当主、12代[[鷹司忠冬|忠冬]]の祖父) * [[九条政忠|九条'''政'''忠]]('''成'''家から改名) * [[九条政基|九条'''政'''基]](政忠の弟) * 僧・[[政超|'''政'''超]](せいちょう、義弟(足利義教の猶子)、九条政忠の子、権僧正) * [[二条政嗣|二条'''政'''嗣]] * [[一条政房|一条'''政'''房]] * 僧・[[政尊|'''政'''尊]](せいそん、[[一条兼良]]の子(一条政房の叔父)、[[大僧都]]) * [[花山院政長|花山院'''政'''長]]([[花山院持忠]]の子) * [[勧修寺政顕|勧修寺'''政'''顕]] * [[冷泉政為|冷泉'''政'''為]]([[下冷泉家]]、'''成'''為より改名。[[冷泉為尹]]の孫、父は[[冷泉持為|持為]]、姉・春芳院は義政の家女房。詳しくは [http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatame.html こちら] を参照) ; 武家 * [[足利義尚|足利'''義'''尚]]([[嫡男]]、第9代将軍) * [[足利政知|足利'''政'''知]](異母兄<ref group="注釈">政知は[[庶子]]であったため、初めは出家して「清久(せいきゅう)」を名乗っていたが、還俗の際(義政が改名して後の長禄元年(1457年))に義政から偏諱の授与を受けて「政知」に改名。(庶子であるがゆえに実際は弟として扱われていたのだろうが)兄が弟から偏諱の授与を受けるのは極めて珍しいことである。</ref>) > [[小田政治]](政知の子) * [[足利政氏|足利'''政'''氏]](成氏の子<ref group="注釈">義政最晩年の命名で、本来なら次代の義尚から偏諱の授与を受けるところだが、義尚は直前に亡くなっていた。</ref>) > [[大井政光]]・[[簗田政助]]・[[結城政朝]]など * [[粟飯原政胤|粟飯原'''政'''胤]]([[粟飯原氏]]、父は教胤) * [[赤松政則|赤松'''政'''則]] * [[七条政資|赤松'''政'''資(七条'''政'''資)]]([[赤松義村|義村]]の実父) * [[荒川政宗|荒川'''政'''宗]] * [[安東政季|安東'''政'''季]](初め師季)> [[河野政通]] * [[泉政重|泉 '''政'''重]](高梨政高の娘婿) * [[一色政煕|一色'''政'''煕]](上杉政憲の実兄、[[一色氏#丹後一色家|丹後]][[一色義直]]の養子) * [[一色政照|一色'''政'''照]]([[一色氏#式部一色家|式部一色家]]) * [[一色政具|一色'''政'''具]](政照の子) * [[井上政家|井上'''政'''家]]([[井上氏#信濃井上氏|信濃井上氏]]) * [[今川義忠|今川'''義'''忠]] * [[今川義秋|今川'''義'''秋]](→[[持永氏]]を参照、[[今川仲秋]]の末裔) * [[上杉政真|上杉'''政'''真]]([[扇谷上杉家]]当主) * [[上杉政憲|上杉'''政'''憲]]([[犬懸上杉家]]一族、一色政煕の実弟) * [[上杉政藤|上杉'''政'''藤]](政憲の従兄弟・[[上杉教房]]の子) * [[上野政直|上野'''政'''直]]([[上野氏#清和源氏足利流 上野氏嫡流|足利氏系上野氏]]、[[御供衆#御供衆一覧|御供衆]]) * [[大内政弘|大内'''政'''弘]] * [[大崎政兼|大崎'''政'''兼]]([[大崎教兼|教兼]]の嫡男) * [[大舘政重|大舘'''政'''重]]([[大舘氏]]、[[大舘持房|持房]]の嫡孫で[[大舘尚氏|尚氏]]の従兄、義政の側室・[[大舘佐子|佐子]]の甥にあたる) * [[大友政親|大友'''政'''親]] * [[小笠原政清|小笠原'''政'''清]]([[小笠原元続|元続]]の祖父、[[小笠原秀清|秀清]]の曽祖父) * [[小串政行|小串'''政'''行]](室町幕府奉公衆) * [[葛西政信|葛西'''政'''信]] * [[金山政実|金山'''政'''実]]<ref>[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ona_naka.html 武家家伝_金山氏] と [http://www.geocities.jp/kawabemasatake/yamana.html こちらのページ] より。</ref> * [[北畠政郷|北畠'''政'''郷]]('''政'''具→'''政'''郷→'''政'''勝と改名) * [[京極政光|京極'''政'''光]] * [[京極政経|京極'''政'''経('''政'''高)]](政光の弟) > [[尼子政久]] * [[京極政数|京極'''政'''数('''政'''宗)]]([[京極氏#加州家|京極加州家]]) * [[木造政宗|木造'''政'''宗]] * [[斯波義廉|斯波'''義'''廉]] * [[斯波義孝|斯波'''義'''孝]](義敏の実弟、斯波大野家当主) * [[斯波義寛|斯波'''義'''良]](義敏の嫡男、※厳密には、改名後の「'''義'''寛」の「義」は足利義尚から賜ったものである。) * [[斯波政種|斯波'''政'''種]](義敏・義孝の実弟、名は正種とも) * [[斯波政敏|斯波'''政'''敏]](義敏の子で義良(義寛)の弟で、[[奥田秀種]]の実父) * [[渋川政実|渋川'''政'''実]] * [[渋川政教|渋川'''政'''教]]([[九州探題]]になったとされる[[渋川氏]]一門の人物) * [[少弐政資|少弐'''政'''資('''政'''尚)]] * [[諏訪政満|諏訪'''政'''満]]([[諏訪氏]](惣領家当主)、[[諏訪頼満 (伊予守)|伊予守頼満]]の甥で[[諏訪頼満 (安芸守)|安芸守頼満]]の父にあたる) * [[摂津政親|摂津'''政'''親]]<ref name="person">{{Cite book |和書 |author= 末柄豊 |date= 2006-03 |title= 室町・戦国期の符案に関する基礎的研究 |series= 科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書 |chapter=『宣秀卿御教書案』にみる武家の官位について |chapterurl= https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/suegara/buke_kani.pdf#search='%E4%B8%80%E8%89%B2%E8%A6%96%E5%86%AC}}</ref>([[摂津晴門]]の祖父) * [[曽我政助|曽我'''政'''助]](室町幕府奉公衆) * [[千秋政範|千秋'''政'''範]](室町幕府奉公衆・[[熱田神宮|熱田]][[大宮司]]家一族([[藤原季範]]の末裔)) * [[武田政明|武田'''政'''明]](室町幕府奉公衆) * [[大宝寺政氏|大宝寺'''政'''氏(武藤'''政'''氏)]] * [[高梨政高|高梨'''政'''高]] * [[高梨政盛|高梨'''政'''盛]](政高の子) * [[高橋政種|高橋'''政'''種]](筑後高橋氏) * [[富樫政親|富樫'''政'''親]](富樫成春の長男) * [[土岐政房|土岐'''政'''房]](土岐成頼の長男) * [[土岐頼武|土岐'''政'''頼]](政房の長男、別名:頼武) * [[土岐政康|土岐'''政'''康]] * [[土岐政直|土岐'''政'''直]]<ref name="person" />([[土岐氏]]一族、土岐飛騨、伊豆守) * [[中条政秀|中条'''政'''秀]](評定衆・備前守、[[中条満平]]の孫か) * [[中条政家|中条'''政'''家]](政秀の弟か) * [[長野政高|長野'''政'''高]]([[長野工藤氏]]の当主、北伊勢・[[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]の国人) * [[長野政藤|長野'''政'''藤]](上記の兄) * [[二階堂政行 (左衛門)|二階堂'''政'''行]]([[二階堂氏]]一族、通称:左衛門) * [[二階堂政行 (戦国時代)|二階堂'''政'''行]](二階堂氏一族、将軍義尚・義稙の側近。歌人としても著名で『和歌打聞集』などの撰者を務め、子孫は[[六郷氏]]を称した。) * [[仁木政長|仁木'''政'''長]](伊賀仁木氏、[[仁木刑部大輔]]と[[仁木民部少輔]]の父とされる) * [[仁木政広|仁木'''政'''広('''政'''光)]](丹波仁木氏、成長の子) * [[畠山政久|畠山'''政'''久]]('''義'''富、弥三郎) * [[畠山政長|畠山'''政'''長]](政久の弟) * [[畠山政近|畠山'''政'''近]] * [[畠山政国 (総州家)|畠山'''政'''国]]([[能登畠山家]]出身、管領家(総州家)・義就の猶子) * [[二本松政国|畠山'''政'''国(二本松'''政'''国/'''政'''泰)]]([[二本松氏|二本松畠山氏]]) * [[肥田政季|肥田'''政'''季]]([[肥田氏#遠江肥田氏|遠江肥田氏]]) * [[星野政茂|星野'''政'''茂]]<ref name="person" />(?-1495、[[熱田神宮|熱田]][[大宮司]]職) * [[細川政元|細川'''政'''元]](勝元の嫡男) * [[細川政国|細川'''政'''国]](典厩家・細川持賢養子、成賢の養弟) * [[細川政賢|細川'''政'''賢]](政国の子) * [[細川政春|細川'''政'''春]] * [[細川政之|細川'''政'''之]] * [[細川政有|細川'''政'''有]]([[細川元有|元有]]の兄) * [[細川政久|細川'''政'''久]]([[細川氏#和泉下守護家|和泉下守護家]]、戦死後の後継者は[[細川高基]]) * 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[[池波正太郎]]『応仁の乱』(『賊将』収録、[[新潮文庫]]) * [[山田風太郎]]『室町少年倶楽部』(『室町少年倶楽部』収録、文藝春秋/[[文春文庫]]、1995年) * [[朝松健]]『[[東山殿御庭]]』 - [[異形コレクション]]第29巻【黒い遊園地】([[光文社]]、2002年) * [[門井慶喜]]『銀閣の人』([[KADOKAWA]]、2020年) ; TVドラマ * 『[[花の乱]]』(1994年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、義政役:[[西谷卓統]]→[[市川海老蔵 (11代目)|7代目市川新之助]]→[[市川團十郎 (12代目)|12代目市川團十郎]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == {{Commonscat|Ashikaga Yoshimasa}} * {{Cite book |和書 |author= 森田恭二 |authorlink= 森田恭二 |year= 1993 |title= 足利義政の研究 |publisher= [[和泉書院]] |isbn= 4870885751 }} * {{Cite book |和書 |author= 永井路子 |authorlink= 永井路子 |year= 1999 |title= 永井路子の日本史探訪 |publisher= 角川書店 |series= 角川文庫 |isbn= 4-04-137206-2 |ref = {{SfnRef|永井|1999}}}} * {{Cite book |和書 |author= ドナルド・キーン |authorlink= ドナルド・キーン |translator= [[角地幸男]] |year= 2003 |title= 足利義政 <small>日本美の発見</small> |publisher= [[中央公論新社]] |isbn= 4120033570 }} * {{Cite book |和書 |author= 山田康弘 |authorlink= 山田康弘 (歴史学者) |year= 2000 |title= 戦国期室町幕府と将軍 |publisher= [[吉川弘文館]] |isbn= 4642027971 }} * {{Citation|和書|last=石田|first=晴男|title=応仁・文明の乱|publisher=吉川弘文館|series=戦争の日本史9|year=2008|isbn=978-4-642-06319-7}} * {{Citation|和書|editor1-last=桃崎|editor1-first=有一郎|editor2-last=山田|editor2-first=邦和|title=室町政権の首府構想と京都-室町・北山・東山-|publisher=文理閣|year=2016|isbn=978-4-89259-798-5}} * {{Citation|和書|editor1-last=榎原|editor1-first=雅治|editor1-link=榎原雅治|editor2-last=清水|editor2-first=克行|editor2-link=清水克行|title=室町幕府将軍列伝|publisher=[[戎光祥出版]]|year=2017|isbn=978-4-86403-247-6}} * {{Cite book|和書|author1 = 日本史史料研究会(監修)|editor= 平野明夫|title = 室町幕府全将軍・管領列伝|date = 2018|publisher = 星海社|chapter = 足利義政(執筆・下川雅弘)、足利義視(執筆・西島太郎)、足利義尚(執筆・木下聡)、足利義稙(執筆・西島太郎)|isbn = 978-4065136126|ref = harv}} * {{cite journal|和書|title=<論説> 足利義政親政期の財政再建|date=1999|author=早島大祐|journal=史林|volume= 82|issue=5|publisher=史学研究会 (京都大学文学部内)|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=家永遵嗣|authorlink=家永遵嗣|title=足利義視と文正元年の政変|journal=学習院大学文学部研究年報|issue=61|date=2014|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=木下昌規|authorlink=木下昌規|title=応仁・文明の乱期室町幕府の政務体制をめぐる一考察|journal=大正大学大学院研究論集|volume=33|date=2009|ref=harv}} * {{Cite book ja-jp |author = 呉座勇一|authorlink=呉座勇一 |year = 2016 |title = 応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 |publisher = 中公新書 |isbn = 978-4-12-102401-5 |ref =harv}} * {{Cite book ja-jp |author = 桜井英治 |authorlink=桜井英治|year = 2001 |title = 室町人の精神 |publisher = [[講談社学術文庫]] |series = 日本の歴史12 |isbn = 978-4062689120 |ref = harv}} == 関連項目 == * [[東山御物]] * [[國學院大學本源氏物語]] * [[偐紫田舎源氏]] * [[宗五大草紙]] * [[斎藤親基日記]] * [[蘭奢待]] * [[牙符制]] * [[見聞諸家紋]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * [https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005403038_00000 足利義政と銀閣] - [[NHK for School]] {{足利宗家歴代当主|||}} {{征夷大将軍|1449年 - 1473年}} {{室町幕府将軍}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あしかか よしまさ}} [[Category:足利義政|*]] [[Category:日野富子|+]] [[Category:室町幕府の征夷大将軍|よしまさ]] [[Category:足利将軍家|よしまさ]] [[Category:足利義教の子女|よしまさ]] [[Category:室町・安土桃山時代の茶人]] [[Category:蹴鞠に関する人物]] [[Category:従一位受位者]] [[Category:15世紀アジアの統治者]] [[Category:15世紀日本の政治家]] [[Category:1436年生]] [[Category:1490年没]]
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フレデリック・テイラー
フレデリック・ウィンズロー・テイラー (Frederick Winslow Taylor、1856年3月20日 - 1915年3月21日)は、アメリカ合衆国の技術者(技師、エンジニア)で、経営学者。科学的管理法の発案者で、現代においては「科学的管理法の父」と称される。 フィラデルフィアの裕福な家庭に生まれた。弁護士であった父の跡を継ぐために、ハーバード大学の法学部に入学。しかし、目の病気により大学を辞め、弁護士への道を断念する。 1874年に、機械工見習いになり、工場条件の学習をした。エンジニアとしての資格を得た彼は、フィラデルフィアのミッドベール・スチール社に作業者として就職。職場の組長に取立てられたテイラーは6年の間に「テイラー工場システム」と呼ばれる科学的管理法の実践により、工作機械の改良や作業工程の改善を行い、職場に蔓延っていた「組織的怠業」を打破し労働コストの削減を達成。その功績により、主席技師(職長)に昇進している。また、この時期にガント、バースといった弟子と言える人々と出会っている。また、ミッドベール社在職中に高速度鋼を発明するなど、およそ200の特許を取得しており、後にコンサルタント業として独立する際の基礎ともなっている。また、在職中にスティーブンス工科大学から工学修士の学位を受けている。 1890年にミッドベール・スチール社を退職後、いくつかの会社で工場管理をした後、1898年にベスレヘム・スチール社に移る。そこで管理の再編成を試み、労働者の作業や道具の標準化を図った。その結果、生産に関わる計画(日程や作業内容など)の立案の重要性が高まり、計画立案専任の部署が設置されるなどの近代化への一歩といえる功績を残すが、他の管理職との対立から、1901年にベスレヘム社を退職した。1902年エリオット・クレッソン・メダル受賞。 以後、コンサルタントとしていくつかの企業を蘇らせ、また科学的管理法の研究を進め、体系化していった。また、1906年から1907年までの間、機械学会の代表を務めた。 晩年は、1915年にフィラデルフィアで死去するまで、労働組合を代表とする科学的管理法の導入に反対する勢力からの批判を受けて、それに反論するなど、科学的管理法の擁護者として活動した。59歳を迎えた翌日に病死した。 テイラーは科学的管理法の手法を考案し実践した事で、生産現場に近代化をもたらしたとともに、マネジメントの概念を確立した。 テイラー以前にも、フランス人のペロネやイギリス人のバベッジが、1800年ごろに時間設定の実践をはじめていたといわれている。しかし、「作業分割」を行い、要素ごとに「時間研究」を行うという方法を確立したのはテイラーである。 テイラーの科学的管理法がアメリカ全土に広まるきっかけとなったのは、1910年に起こった、アメリカ東部の鉄道会社が貨物輸送運賃の値上げを要求した事件である。これを阻止するために、荷主側の弁護士のルイス・ブランデーズがテイラーの管理法を紹介し、鉄道会社の非効率な運営を指摘したことにより、全米に知られることとなった。この時に、ブランデーズやギルブレス、テイラーの弟子のガントらによって、テイラーの管理法が「科学的管理法」と名づけられた。 1911年に著書「科学的管理の原理」を出版。 テイラーは、以下のように信じていた。 など
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フレデリック・ウィンズロー・テイラー (Frederick Winslow Taylor、1856年3月20日 - 1915年3月21日)は、アメリカ合衆国の技術者(技師、エンジニア)で、経営学者。科学的管理法の発案者で、現代においては「科学的管理法の父」と称される。
[[ファイル:Frederick_Winslow_Taylor.JPG|thumb|right|140px]] '''フレデリック・ウィンズロー・テイラー''' (Frederick Winslow Taylor、[[1856年]][[3月20日]] - [[1915年]][[3月21日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[技術者]](技師、エンジニア)で、[[経営学]]者。[[科学的管理法]]の発案者で、現代においては「'''科学的管理法の父'''」と称される。 == 生涯 == [[フィラデルフィア]]の裕福な家庭に生まれた。[[弁護士]]であった父の跡を継ぐために、[[ハーバード大学]]の法学部に入学。しかし、目の病気により大学を辞め、弁護士への道を断念する。 1874年に、機械工見習いになり、工場条件の学習をした。エンジニアとしての資格を得た彼は、フィラデルフィアのミッドベール・スチール社に作業者として就職。職場の組長に取立てられたテイラーは6年の間に「テイラー工場システム」<ref>{{lang-en-shory|links=no|Tailor shop system}}</ref>と呼ばれる科学的管理法の実践により、工作機械の改良や作業工程の改善を行い、職場に蔓延っていた「[[組織的怠業]]」を打破し労働コストの削減を達成。その功績により、主席技師(職長)に昇進している。また、この時期にガント、バースといった弟子と言える人々と出会っている。また、ミッドベール社在職中に[[高速度鋼]]を発明するなど、およそ200の特許を取得しており、後に[[コンサルタント]]業として独立する際の基礎ともなっている。また、在職中にスティーブンス工科大学から工学修士の学位を受けている。 [[1890年]]にミッドベール・スチール社を退職後、いくつかの会社で工場管理をした後、1898年に[[ベスレヘム・スチール]]社に移る。そこで管理の再編成を試み、労働者の作業や道具の標準化を図った。その結果、生産に関わる計画(日程や作業内容など)の立案の重要性が高まり、計画立案専任の部署が設置されるなどの近代化への一歩といえる功績を残すが、他の[[管理職]]との対立から、[[1901年]]にベスレヘム社を退職した。1902年[[エリオット・クレッソン・メダル]]受賞。 以後、コンサルタントとしていくつかの企業を蘇らせ、また科学的管理法の研究を進め、体系化していった。また、[[1906年]]から[[1907年]]までの間、機械学会の代表を務めた。 晩年は、1915年にフィラデルフィアで死去するまで、労働組合を代表とする科学的管理法の導入に反対する勢力からの批判を受けて、それに反論するなど、科学的管理法の擁護者として活動した。59歳を迎えた翌日に病死した。 == 業績 == テイラーは科学的管理法の手法を考案し実践した事で、生産現場に近代化をもたらしたとともに、マネジメントの概念を確立した。 テイラー以前にも、フランス人の[[ジャン=ロドルフ・ペロネ|ペロネ]]やイギリス人の[[チャールズ・バベッジ|バベッジ]]が、1800年ごろに時間設定の実践をはじめていたといわれている。しかし、「作業分割」を行い、要素ごとに「時間研究」を行うという方法を確立したのはテイラーである。 テイラーの科学的管理法がアメリカ全土に広まるきっかけとなったのは、[[1910年]]に起こった、アメリカ東部の鉄道会社が貨物輸送運賃の値上げを要求した事件である。これを阻止するために、荷主側の弁護士のルイス・ブランデーズがテイラーの管理法を紹介し、鉄道会社の非効率な運営を指摘したことにより、全米に知られることとなった。この時に、ブランデーズやギルブレス、テイラーの弟子のガントらによって、テイラーの管理法が「科学的管理法」と名づけられた。 [[1911年]]に著書「科学的管理の原理」を出版。 テイラーは、以下のように信じていた。 * 今の管理者は、素人であり、学問として研究されるべきである。 * 労働者は協力するべきである。また従って、[[労働組合]]を必要としないだろう。 * 訓練されて資格のある管理者と、協力的かつ革新的な労働者の間の協力によって、最良の結果が得られる。管理者は、協力的かつ革新的な労働力が、労働者側は、訓練されて資格のある管理が必要である。 ;著作 * 『出来高払い制私案』 (1895年) * 『Shop Management(工場管理)』 (1903年) * 『科学的管理法の原理』 (1911年)  など == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[生産技術]] * [[科学的管理法]] * [[経営管理論]] * [[経営学]] * [[経営工学]] * [[時間動作研究]] *[[日本経営学会]] == 参考文献 == * 『テキスト経営学(増補版)』 井原久光・著 ([[ミネルヴァ書房]]) ISBN 4-623-03339-2 * 『経営管理の思想家たち』 車戸實・編 * 『科学的管理法』 テイラー・著 [[上野陽一]]・訳・編 ([[産能大学出版部]]) ISBN 4-382-04121-X * 『科学的管理法の諸原理』 テイラー・著 中谷彪・訳・編 ([[晃洋書房]]) ISBN 978-4-7710-2052-8 * 『ハンドブック経営学[改訂版]』神戸大学経済経営学会編著、[[ミネルヴァ書房]]、2016/4/11。ISBN 978-4623076734。 == 外部リンク == * [http://www.gutenberg.org/etext/6435 『The Principles of Scientific Management』](プロジェクトグーテンベルク) * [http://www.gutenberg.org/etext/6464 『Shop Management』](プロジェクトグーテンベルク) {{Academic-bio-stub}} {{Economist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ていらあ ふれてりつく}} [[Category:アメリカ合衆国の経営学者]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:フィラデルフィア出身の人物]] [[Category:1856年生]] [[Category:1915年没]]
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東急大井町線
大井町線(おおいまちせん)は、東京都品川区の大井町駅と神奈川県川崎市高津区の溝の口駅とを結ぶ、東急電鉄が運営する鉄道路線である。 路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーはオレンジ、路線記号はOM。 大井町駅から城南地域を横断して、旗の台駅、大岡山駅、自由が丘駅、二子玉川駅を経て溝の口駅へ向かう路線である。各経由駅は南北放射状に伸びる東急の池上線、目黒線、東横線、田園都市線との乗換駅である。 一時期は田園都市線に編入されていたことがある(#歴史を参照)。 二子玉川駅 - 溝の口駅間は正式には田園都市線の複々線区間である。1993年以降、田園都市線の混雑緩和のために同線のバイパス路線としての機能を持たせる改良工事が行われた。 一部列車で、田園都市線鷺沼・長津田・中央林間方面との直通運転を実施している。 東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線との乗換駅は少ないが、大井町駅で京浜東北線、溝の口駅で南武線(武蔵溝ノ口駅)、直通先の田園都市線内の長津田駅で横浜線の3路線と乗り換えできる。 大井町線は、品川・大田・目黒・世田谷・川崎の各区市の住宅密集地を走っている。また、東横線と接続する自由が丘や田園都市線と接続する二子玉川駅周辺は「住みたい街ランキング」の上位にランクインすることもある。 起点の大井町駅を西に向けて高架で出発する。右手にはJR東日本の東京総合車両センターがあり、山手線用の車両などが留置されている姿が見える。下神明駅の西端では、足元を品鶴線(横須賀線・湘南新宿ライン・相鉄線直通列車)が、頭上を東海道新幹線が通る3層の立体交差となっている。なお、品鶴線のこの地点は旧蛇窪信号場にあたる。右に都立大崎高校を見て進み、左カーブに差しかかるところが戸越公園駅。上り勾配で国道1号を跨ぐとそのまま高架の中延駅へ。その国道1号の地下を都営浅草線が通っているが、一旦改札を出て乗り換えが可能である。またこの区間は東急線で最初に立体化された区間でもある。一旦地平に下りた荏原町駅では、暗渠化された立会川が直下を流れる。再び高架に上がると池上線を跨ぐ旗の台駅である。 旗の台を出ると中原街道と環七通りを相次いで跨ぎ、北千束駅を経て地下構造の大岡山駅へ進入する。大岡山駅には目黒線も乗入れており、方向別ホームとなっている。駅前には東京工業大学が、駅の直上には東急直営の東急病院がある。駅を出ると右に大きくカーブしながら地下から一気に高架へ上るが、気象条件次第ではここから富士山を望むこともできる。この区間は線路の両側を東京工業大学の敷地に挟まれた形となっており、左手にはグラウンドが、右手には大岡山北3号館を見ることができる。カーブが終わると緑が丘駅に到着する。そしてなだらかに下り、東横線をくぐるところが自由が丘駅である。かつては隣接して自由が丘検車区があったが、検車区機能を鷺沼に移してからは留置線のみが残されていた。その後も段階的に撤去され、5両編成1本分の留置線を残し、その跡地は商業施設である「Trainchi」(トレインチ)に変わった。2007年11月15日をもって平日夕方1本のみ設定されていた自由が丘行が廃止され、留置線は一旦完全に撤去されたが、その後、2009年までに5両編成1本分の留置線が復活・併用開始し、日中に車両が留置されている。 自由が丘駅からしばらく直線に進み、右にカーブすると九品仏駅である。駅北側の浄真寺に安置される「九品仏」(9体の阿弥陀如来像)が駅名の由来である。構内の両端が踏切道であるため、二子玉川寄り1両は扉を開閉しない。尾山台駅は東京都市大学世田谷キャンパスの最寄り駅である。等々力駅の手前で目黒通りが頭上を越える。九品仏駅 - 等々力駅間はほぼ直線で、隣の駅が見通せる。等々力駅 - 上野毛駅間では東京23区で唯一の渓谷である「等々力渓谷」を形成する谷沢川が左を並行し、両駅の中間付近で交差して北に流れてゆく。切り通しに位置する上野毛駅では、頭上を環八通りが跨ぐ。周辺は国分寺崖線に位置し、緑が多く、五島美術館や多摩美術大学上野毛校舎などもある。切り通しを抜けると、二子玉川駅に到着する。二子玉川駅からは多摩川河川敷へかけての街並みが一望できる。田園都市線も乗入れている。 二子玉川駅からは、田園都市線の複々線のうちの内側2線を走行し、溝の口駅に至る。内側線には途中の二子新地駅・高津駅にホームがなく、一部の各駅停車および田園都市線鷺沼方面への直通列車は、二子玉川駅 - 溝の口駅間では田園都市線の線路である外側線を走行する。詳細は各駅停車の節を参照。 大井町線では、1993年以降大規模な改良工事が行われた。これは、大井町線に田園都市線のバイパス路線としての機能を持たせることで、混雑が激しい同路線の混雑緩和を図るものである。 東急大井町線改良・田園都市線複々線化工事(二子玉川 - 溝の口間)を実施し、以下の工事を行っていた。等々力駅以外はすべて完工している。 さらに、急行運転開始に伴う安全性向上と列車運転間隔の短縮のため、2008年2月23日に自動列車停止装置 (ATS) から自動列車制御装置 (ATC-P) へ保安装置が更新された。 田園都市線の混雑緩和を目的とした特定都市鉄道整備事業計画の認定を1995年に受け、「大井町線大岡山 - 二子玉川園(当時)間改良工事および田園都市線二子玉川園 - 溝の口間複々線化工事」として工事が進められた。 当初は、上記の事業名称にもある通り大井町線内の改良区間は大岡山から二子玉川までで、急行運転も同区間のみとされた。また、急行待避設備は等々力駅に上り(大井町方面行)、尾山台駅に下り(溝の口方面行)に急行通過線を上下線別々に設置し、同時に両駅を地下化する計画であった。 しかし、2000年に計画が変更されて改良区間に大井町 - 大岡山間も追加され、これにより大井町線改良工事は同線全区間が対象となった。同時に、前項で述べた急行通過線は、上下線ともに等々力駅に集約して設置するように変更された。 東急電鉄ウェブサイトによると、急行運転は本来ならば2004年の開始を予定していたが、用地買収が難航していることなどから2007年に延び、その後2007年度内に急行運転開始することを発表した後、2008年度内に溝の口駅までに延伸させる計画が発表された。そして、2008年3月28日から大井町線内での急行運転を開始し、その後、2009年7月11日に溝の口まで延伸された。 二子玉川 - 溝の口間は複々線となり、外側2線は田園都市線、内側2線が大井町線である。なお、同区間の途中にある二子新地駅と高津駅の両駅は、外側の田園都市線にのみホームがある。 前述の通り各駅停車の列車は2系統になる。二子玉川 - 溝の口間で大井町線の線路を走行して高津・二子新地の両駅を通過する各駅停車は種別色が緑となり、二子玉川 - 溝の口間で田園都市線の線路を走行して高津・二子新地の両駅に停車する各駅停車は種別色が青となる。種別色が青の各駅停車は、この複々線区間で田園都市線の線路に転線しているため、厳密には途中で田園都市線を経由して走行していることになる。 この改良工事に対して、とりわけ等々力駅周辺で反対運動が起きている。主な反対の理由は「等々力駅周辺の地下化によって東京23区内唯一の渓谷である等々力渓谷の湧水が妨げられ、渓谷の自然が破壊されるおそれがある」との観点である。このため、世田谷区を中心として等々力駅地下化工事技術検討委員会が設立された。同委員会は工事によって環境影響が生じないように第三者的立場から技術的検討を行い、2005年12月に報告書を提出した。2018年4月現在も等々力駅地下化工事は着工されていない。 以上の理由から、環境影響評価に伴って等々力駅地下化工事は着工できずにおり、仮に着工されたとしても相当な時間を要することが予想されることや、かつ急行運転開始を2007年度内に間に合わせるために、急遽計画を一部変更して上野毛駅上り線(大井町方面行)に急行通過線が追加された。なお、あくまでもこれは暫定的な措置であり、将来等々力駅地下化工事が完成した際は、上野毛駅での待避は行われない予定であるが、等々力駅での待避に移行された後も上野毛駅の急行通過線は撤去されず、非常用として何らかの形で使用を続けるとしている。 戸越公園駅付近の約0.9 kmの区間について、鉄道を高架化することによる連続立体交差化事業が計画されている。これによって6か所の踏切が解消される予定。併せて、周辺の都市計画道路や駅前広場の整備が計画されている。 2021年3月13日現在、急行と各駅停車が運転されている。大部分は大井町駅 - 溝の口駅間の折り返し運行となっているが、一部に田園都市線直通列車があり、鷺沼駅・長津田駅・中央林間駅発着で運転される。 日中1時間あたりの運転本数は以下のようになっている。 2008年3月28日より運転を開始した。なお、急行は戦前の一時期にも運転されていた(後述)が、それとは全く異なるものである。 全列車が6000系(2代)・6020系7両編成で運転されるが、車両故障および定期検査で運用する編成が不足する場合や、事故・各種トラブルなどでダイヤが乱れた場合は5両編成で運転することもある。平日はほぼ終日、土休日は日中のみ運転される。平日朝ラッシュ時はおおむね9分間隔(各駅停車2本に対して1本)、日中は20分間隔(各駅停車3本に対して1本)、平日の夕ラッシュはおおむね12 - 18分間隔(各駅停車3 - 4本に対して1本)で運転される。列車種別は基本的に赤色で表示される。 大井町駅 - 溝の口駅間の運転が基本であるが、平日朝の上り(1本)と、夜の下りは、大井町駅 - 田園都市線長津田駅、日中の全ての急行は大井町駅 - 田園都市線中央林間駅間で運転される列車が設定されている。これらの列車は田園都市線内でも急行で運転され、大井町線 - 田園都市線間の転線を二子玉川駅で行う。ただし、田園都市線が人身事故・各種トラブルなどで急行運転を取り止めた場合、田園都市線内は溝の口駅 - 鷺沼駅で各停で運転、または大井町線内運転となることがある。全ての急行は大井町駅・溝の口駅・長津田駅・中央林間駅のいずれかの駅始発(終着)である。 途中停車駅は他の東急各線との連絡駅のみである。 上下とも旗の台駅で各駅停車に接続するほか、上りのみ平日朝夕ラッシュ時には上野毛駅で各駅停車を追い抜く。田園都市線直通列車はこれに加え二子玉川駅・鷺沼駅・長津田駅で田園都市線の各駅停車に接続する(朝夜間は一部接続・追い抜き駅が異なる列車もある)。また、日中の急行は、二子玉川駅・溝の口駅で同じ方向の田園都市線の各駅停車に接続している。 設定当初はほとんどの列車が線内(大井町駅 - 溝の口駅間、2009年7月10日までは大井町駅 - 二子玉川駅間)での運転で、田園都市線と直通運転する列車はごく一部だった。2011年には東日本大震災後の一時期、節電のための臨時ダイヤとして平日日中の急行が田園都市線長津田駅まで乗り入れて運行された。2012年3月17日より、土休日日中に毎時2本が溝の口駅発着から長津田駅発着に延長され、定期列車として日中の田園都市線直通急行の運行が開始された。2019年10月1日より、 平日・土休日ともに日中の一部列車が中央林間駅発着へと延伸された。これにより、大井町線急行の中央林間行が新たに設定されることになった(中央林間駅発の大井町線急行大井町行は2019年9月以前も土休日に存在した)。なお、一時期には夜間に田園都市線鷺沼行きの下り急行が土休日に1本設定されていたが、長津田行きに延長される形で廃止された。 2017年11月4日より、6両編成から7両編成への増強が開始されており、2018年2月には7両編成での運行に統一された。 急行列車の運転開始により、大井町線の1日の平均利用者数が約40万1400人(2007年)から約50万3000人(2017年)に増加した一方、田園都市線のピーク時混雑率は198%から184%へと低下している。 2018年12月14日から有料座席指定サービス「Qシート」 (Q SEAT) を開始した。 6020系および6000系(一部編成のみ、2019年5月から)の3号車をロングシートからクロスシートへ転換可能な車両に置き換え、平日夕方以降の大井町駅発田園都市線直通の急行長津田行の一部列車を、座席指定サービス車両として運用する。座席数は45席。座席指定料金は一律500円で、大井町駅 - 二子玉川駅間は乗降可能、溝の口駅 - 長津田駅間は降車専用となる。列車指定券は大井町駅、旗の台駅、大岡山駅、自由が丘駅、二子玉川駅の各駅の駅窓口で販売されるほか、販売専用webサイト「Qシートチケットレスサービス」でも購入できる。列車指定券は乗車当日の朝5時から発売され、チケットレス購入も可能である。サービス開始初日は、発売開始から3時間以内に全ての指定券が売り切れた。 2020年4月27日より、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響でサービスを休止していたが、同年10月12日より一部列車でサービスを再開した。2021年10月11日現在、大井町駅発21時台までが運行されている。 座席指定券確認のため、大井町線内旗の台駅 - 二子玉川駅間は大井町方最後部1か所のみドアを開閉する。大井町駅は中央2か所(両端も開くが、進入禁止幕が貼られる)のみドアを開閉。溝の口駅から先は全てのドアが開くが渋谷より1か所以外はガードが張られているため侵入ができない。ただし、青葉台駅を発車後に全てのガードが畳まれ手すり脇に格納される。 運行開始当初、たまプラーザ駅 - 長津田駅間は乗車券のみで乗降可能なフリー乗降区間であったが、2023年3月18日のダイヤ改正で、フリー乗降区間を廃止し全区間で座席指定券が必要となった。 5両編成が使用される。大半の列車は大井町 - 溝の口間の運転である。また毎日早朝・深夜には田園都市線鷺沼駅発着の列車が、始発・終電に各1本二子玉川駅発着の列車が、平日朝に1本自由が丘発の列車が、それぞれ設定されている。 一部の列車は旗の台駅で急行を待ち合わせするほか、上り(大井町方面行き)のみ朝や夕方に上野毛駅で急行の通過待ちを行う列車が存在する。このほか、二子玉川駅・溝の口駅で同じ方向の田園都市線の準急・急行に接続する列車も設定されている。 一部の各駅停車は田園都市線の二子新地駅・高津駅に停車するため、種別色により区別して案内されている。 なお、種別色が緑の各駅停車の方が多く運転されており、種別色が青の各駅停車は、日中1時間に3本と早朝・深夜時間帯の鷺沼駅発着(平日上下7本、土休日上下8本)の列車のみである。こちらは、直通先の田園都市線を含めてすべての駅に停車する。 2009年7月11日に二子玉川駅 - 溝の口駅間が延伸開業するまでは、種別色での表示・案内には青色のみが使用されていた。また田園都市線に直通する鷺沼行きがあった。 1943年の溝の口線編入から1979年までは、大井町駅から二子玉川園(現・二子玉川)駅を経由し、二子玉川園駅以西の現在の田園都市線区間へ運行する形態が基本的な運行であった(1963年から1979年までは大井町駅 - 二子玉川園駅間も「田園都市線」の路線名であった)。なお、二子玉川園駅の高架化後は線路配置の関係で同駅での折り返しがしにくかった時期があり、二子新地前(現・二子新地)駅に逆方向の片渡り線を設けて、一部は二子新地前駅折り返しの列車も設定されていた。また、ラッシュ時間帯には梶が谷、溝の口、鷺沼の各駅を発着する列車も運転されていた。その後、新玉川線(現在の田園都市線渋谷駅 - 二子玉川駅間)の開業後に二子玉川園駅以西からの一部列車が新玉川線渋谷方面へ直通するようになる。 1979年には、大井町線の分離によって、一部を除き二子玉川園駅以西へは運転されなくなり、大井町 - 二子玉川園間の運行が基本となった。同時に一部のみ設定されていた二子新地駅折返し列車の設定がなくなり、系統分離直後に同駅の渡り線を撤去した。 1979年の系統分離以前には快速列車が運転されていた時期があったが、快速運転は二子玉川園駅以西で行われ、現在の大井町線にあたる大井町 - 二子玉川園間ではすべての列車が各駅に停車していた。系統分離時より基本的には5両編成であったが、1981年(昭和56年)4月1日から1989年(平成元年)1月25日までは初代6000系や初代7000系18 m車による6両編成運転が実施され、一時的に大形20 m車5両編成(初代5000系は5両編成)と混用された時期があった。 1979年8月12日から2008年3月27日までは全列車が各駅停車であった。田園都市線と直通する急行列車が2002年と2003年に臨時列車として、2006年3月18日からは土曜・休日のみの定期列車として運行を開始したが、これも2008年3月28日の大井町線の急行運転開始より前は大井町線内は各駅停車として運転し、田園都市線内のみ急行として運転した。なお、直通急行の定期運用化の時期に、田園都市線内での誤乗を防ぐため、一部編成を除き先頭車の前面下部と側面のドアと窓の間に大井町線のロゴ入りステッカーが貼り付けられ、帯のデザインも大井町線のカラーのオレンジのグラデーションに変更された。この時に施行されなかった編成についても大井町線内急行運転開始時に施行された(8000系を除く)。 2008年3月28日に線内での急行列車運転が開始された。また、2009年7月11日に二子玉川駅 - 溝の口駅間が延伸開業し、現在の運行形態が形作られた。(改良工事の節も参照) 大井町線では戦前の一時期に急行列車が運転されていた。これは大井町 - 二子玉川間で運行される列車のうち、朝間の上りと夕方の下りに大井町 - 荏原町間を通過運転するものであった。運転開始時期は昭和一桁後期で、1936年(昭和11年)4月1日のダイヤ改正で廃止されている。 この急行には、車両の前面向かって右側(東横線系統は前面向かって左側 )に急行板が掲出されていたが、「急行」表記のほかに「通過駅 中延 蛇窪 戸越」と表記されていた。なお、この表示の「戸越」・「蛇窪」はそれぞれ、現在の下神明駅・戸越公園駅のことである。通過駅の旅客のため、大井町 - 荏原町間には折り返し各駅停車が運転されていた。 2019年10月時点で営業運転に使用している車両を記載する。 東急電鉄の2023年度の設備投資計画において、大井町線9000系・9020系車両の更新に向けた車両新造に着手する旨が公表されている。 車両のパンタグラフはすべてシングルアーム式を使用しているが、6000系・6020系以外は当初菱形のものを使用しており、後年にシングルアーム式に交換された。 また、5両編成は全編成とも前面帯が後年にグラデーションタイプのものに張り替えられ、側面ドア横には「大井町線」のシールが貼られている。 九品仏駅では二子玉川寄りの1両がドアカットを実施している。そのため、ドア非扱い装置を設置しているほか、ドアとその上部にはドアが開かない旨のステッカーを貼り付けている。なお、かつて大井町寄り2両のドアカットを行っていた戸越公園駅についても、同様にドアとその上部にドアが開かない旨のステッカーを貼り付けていた。両駅を通過する急行のみで運用される6000系・6020系はドアカットを行わないため、ドアカットのステッカー貼り付けも行われていない。 大井町線では、2006年3月の田園都市線直通急行定期運転開始の際に一部編成で各駅停車の表示を開始したものの、大井町線内急行運転開始を経ても全編成では表示を行わず、溝の口延伸までに全編成が各駅停車表示を行うようになった。 1979年(昭和54年)8月の田園都市線・新玉川線(当時)と大井町線との運転系統分離時には、東横線を含めた大規模な車両の転配が行われた。大井町線という名称が復活した同時点ではデハ3450形5両編成、初代5000系5両編成、8000系5両編成の3系列が配置されていた。この時点での大井町線の冷房車は全23編成中わずか2編成(8000系)であった。 1980年(昭和55年)には東横線から7200系が5両編成として転入した 。1981年(昭和56年)3月には東横線から初代6000系が転入し、同年4月1日からは初代6000系・7200系18m車による6両編成運転が開始された 。これに伴い、デハ3450形は運用を終了し、大井町線は全車両が高性能車となった。 1981年(昭和56年)12月には初代7000系が6両編成として転入するなど 、しばらくの期間は大形20 m車5両編成と18 m車6両編成との混用が続いていた。 最終的には、東横線から8090系が転入することで18 m車による6両編成の運転は、1989年(平成元年)1月26日のダイヤ改正に合わせて20m車5両編成に統一され消滅した。 このほか、1986年(昭和61年)に伊豆急行2100系「リゾート21」がイベント列車として入線したことがある。 営業運転ではないが、長津田車両工場や東京地下鉄(東京メトロ)鷺沼車両基地への入出場のため、東急の他路線の車両や横浜高速鉄道・東京メトロ日比谷線の車両が当路線を回送列車として走行することがある。 2019年度の朝ラッシュ時の最混雑区間は九品仏駅 → 自由が丘駅間で、ピーク時(7:30 - 8:30)の混雑率は156%である。 混雑率は概ね150%台で推移していたが、急行の運転開始による6両編成の運転開始に伴い、一旦は混雑率が140%を下回った。その後は輸送人員が増加傾向に転じ、2016年度に混雑率が170%を上回ったが、急行の7両編成化によって混雑率は再度160%を下回った。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大井町線(おおいまちせん)は、東京都品川区の大井町駅と神奈川県川崎市高津区の溝の口駅とを結ぶ、東急電鉄が運営する鉄道路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーはオレンジ、路線記号はOM。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大井町駅から城南地域を横断して、旗の台駅、大岡山駅、自由が丘駅、二子玉川駅を経て溝の口駅へ向かう路線である。各経由駅は南北放射状に伸びる東急の池上線、目黒線、東横線、田園都市線との乗換駅である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一時期は田園都市線に編入されていたことがある(#歴史を参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "二子玉川駅 - 溝の口駅間は正式には田園都市線の複々線区間である。1993年以降、田園都市線の混雑緩和のために同線のバイパス路線としての機能を持たせる改良工事が行われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一部列車で、田園都市線鷺沼・長津田・中央林間方面との直通運転を実施している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線との乗換駅は少ないが、大井町駅で京浜東北線、溝の口駅で南武線(武蔵溝ノ口駅)、直通先の田園都市線内の長津田駅で横浜線の3路線と乗り換えできる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大井町線は、品川・大田・目黒・世田谷・川崎の各区市の住宅密集地を走っている。また、東横線と接続する自由が丘や田園都市線と接続する二子玉川駅周辺は「住みたい街ランキング」の上位にランクインすることもある。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "起点の大井町駅を西に向けて高架で出発する。右手にはJR東日本の東京総合車両センターがあり、山手線用の車両などが留置されている姿が見える。下神明駅の西端では、足元を品鶴線(横須賀線・湘南新宿ライン・相鉄線直通列車)が、頭上を東海道新幹線が通る3層の立体交差となっている。なお、品鶴線のこの地点は旧蛇窪信号場にあたる。右に都立大崎高校を見て進み、左カーブに差しかかるところが戸越公園駅。上り勾配で国道1号を跨ぐとそのまま高架の中延駅へ。その国道1号の地下を都営浅草線が通っているが、一旦改札を出て乗り換えが可能である。またこの区間は東急線で最初に立体化された区間でもある。一旦地平に下りた荏原町駅では、暗渠化された立会川が直下を流れる。再び高架に上がると池上線を跨ぐ旗の台駅である。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "旗の台を出ると中原街道と環七通りを相次いで跨ぎ、北千束駅を経て地下構造の大岡山駅へ進入する。大岡山駅には目黒線も乗入れており、方向別ホームとなっている。駅前には東京工業大学が、駅の直上には東急直営の東急病院がある。駅を出ると右に大きくカーブしながら地下から一気に高架へ上るが、気象条件次第ではここから富士山を望むこともできる。この区間は線路の両側を東京工業大学の敷地に挟まれた形となっており、左手にはグラウンドが、右手には大岡山北3号館を見ることができる。カーブが終わると緑が丘駅に到着する。そしてなだらかに下り、東横線をくぐるところが自由が丘駅である。かつては隣接して自由が丘検車区があったが、検車区機能を鷺沼に移してからは留置線のみが残されていた。その後も段階的に撤去され、5両編成1本分の留置線を残し、その跡地は商業施設である「Trainchi」(トレインチ)に変わった。2007年11月15日をもって平日夕方1本のみ設定されていた自由が丘行が廃止され、留置線は一旦完全に撤去されたが、その後、2009年までに5両編成1本分の留置線が復活・併用開始し、日中に車両が留置されている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "自由が丘駅からしばらく直線に進み、右にカーブすると九品仏駅である。駅北側の浄真寺に安置される「九品仏」(9体の阿弥陀如来像)が駅名の由来である。構内の両端が踏切道であるため、二子玉川寄り1両は扉を開閉しない。尾山台駅は東京都市大学世田谷キャンパスの最寄り駅である。等々力駅の手前で目黒通りが頭上を越える。九品仏駅 - 等々力駅間はほぼ直線で、隣の駅が見通せる。等々力駅 - 上野毛駅間では東京23区で唯一の渓谷である「等々力渓谷」を形成する谷沢川が左を並行し、両駅の中間付近で交差して北に流れてゆく。切り通しに位置する上野毛駅では、頭上を環八通りが跨ぐ。周辺は国分寺崖線に位置し、緑が多く、五島美術館や多摩美術大学上野毛校舎などもある。切り通しを抜けると、二子玉川駅に到着する。二子玉川駅からは多摩川河川敷へかけての街並みが一望できる。田園都市線も乗入れている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "二子玉川駅からは、田園都市線の複々線のうちの内側2線を走行し、溝の口駅に至る。内側線には途中の二子新地駅・高津駅にホームがなく、一部の各駅停車および田園都市線鷺沼方面への直通列車は、二子玉川駅 - 溝の口駅間では田園都市線の線路である外側線を走行する。詳細は各駅停車の節を参照。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大井町線では、1993年以降大規模な改良工事が行われた。これは、大井町線に田園都市線のバイパス路線としての機能を持たせることで、混雑が激しい同路線の混雑緩和を図るものである。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東急大井町線改良・田園都市線複々線化工事(二子玉川 - 溝の口間)を実施し、以下の工事を行っていた。等々力駅以外はすべて完工している。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "さらに、急行運転開始に伴う安全性向上と列車運転間隔の短縮のため、2008年2月23日に自動列車停止装置 (ATS) から自動列車制御装置 (ATC-P) へ保安装置が更新された。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "田園都市線の混雑緩和を目的とした特定都市鉄道整備事業計画の認定を1995年に受け、「大井町線大岡山 - 二子玉川園(当時)間改良工事および田園都市線二子玉川園 - 溝の口間複々線化工事」として工事が進められた。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当初は、上記の事業名称にもある通り大井町線内の改良区間は大岡山から二子玉川までで、急行運転も同区間のみとされた。また、急行待避設備は等々力駅に上り(大井町方面行)、尾山台駅に下り(溝の口方面行)に急行通過線を上下線別々に設置し、同時に両駅を地下化する計画であった。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかし、2000年に計画が変更されて改良区間に大井町 - 大岡山間も追加され、これにより大井町線改良工事は同線全区間が対象となった。同時に、前項で述べた急行通過線は、上下線ともに等々力駅に集約して設置するように変更された。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東急電鉄ウェブサイトによると、急行運転は本来ならば2004年の開始を予定していたが、用地買収が難航していることなどから2007年に延び、その後2007年度内に急行運転開始することを発表した後、2008年度内に溝の口駅までに延伸させる計画が発表された。そして、2008年3月28日から大井町線内での急行運転を開始し、その後、2009年7月11日に溝の口まで延伸された。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "二子玉川 - 溝の口間は複々線となり、外側2線は田園都市線、内側2線が大井町線である。なお、同区間の途中にある二子新地駅と高津駅の両駅は、外側の田園都市線にのみホームがある。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "前述の通り各駅停車の列車は2系統になる。二子玉川 - 溝の口間で大井町線の線路を走行して高津・二子新地の両駅を通過する各駅停車は種別色が緑となり、二子玉川 - 溝の口間で田園都市線の線路を走行して高津・二子新地の両駅に停車する各駅停車は種別色が青となる。種別色が青の各駅停車は、この複々線区間で田園都市線の線路に転線しているため、厳密には途中で田園都市線を経由して走行していることになる。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この改良工事に対して、とりわけ等々力駅周辺で反対運動が起きている。主な反対の理由は「等々力駅周辺の地下化によって東京23区内唯一の渓谷である等々力渓谷の湧水が妨げられ、渓谷の自然が破壊されるおそれがある」との観点である。このため、世田谷区を中心として等々力駅地下化工事技術検討委員会が設立された。同委員会は工事によって環境影響が生じないように第三者的立場から技術的検討を行い、2005年12月に報告書を提出した。2018年4月現在も等々力駅地下化工事は着工されていない。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "以上の理由から、環境影響評価に伴って等々力駅地下化工事は着工できずにおり、仮に着工されたとしても相当な時間を要することが予想されることや、かつ急行運転開始を2007年度内に間に合わせるために、急遽計画を一部変更して上野毛駅上り線(大井町方面行)に急行通過線が追加された。なお、あくまでもこれは暫定的な措置であり、将来等々力駅地下化工事が完成した際は、上野毛駅での待避は行われない予定であるが、等々力駅での待避に移行された後も上野毛駅の急行通過線は撤去されず、非常用として何らかの形で使用を続けるとしている。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "戸越公園駅付近の約0.9 kmの区間について、鉄道を高架化することによる連続立体交差化事業が計画されている。これによって6か所の踏切が解消される予定。併せて、周辺の都市計画道路や駅前広場の整備が計画されている。", "title": "改良工事" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2021年3月13日現在、急行と各駅停車が運転されている。大部分は大井町駅 - 溝の口駅間の折り返し運行となっているが、一部に田園都市線直通列車があり、鷺沼駅・長津田駅・中央林間駅発着で運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日中1時間あたりの運転本数は以下のようになっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2008年3月28日より運転を開始した。なお、急行は戦前の一時期にも運転されていた(後述)が、それとは全く異なるものである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "全列車が6000系(2代)・6020系7両編成で運転されるが、車両故障および定期検査で運用する編成が不足する場合や、事故・各種トラブルなどでダイヤが乱れた場合は5両編成で運転することもある。平日はほぼ終日、土休日は日中のみ運転される。平日朝ラッシュ時はおおむね9分間隔(各駅停車2本に対して1本)、日中は20分間隔(各駅停車3本に対して1本)、平日の夕ラッシュはおおむね12 - 18分間隔(各駅停車3 - 4本に対して1本)で運転される。列車種別は基本的に赤色で表示される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "大井町駅 - 溝の口駅間の運転が基本であるが、平日朝の上り(1本)と、夜の下りは、大井町駅 - 田園都市線長津田駅、日中の全ての急行は大井町駅 - 田園都市線中央林間駅間で運転される列車が設定されている。これらの列車は田園都市線内でも急行で運転され、大井町線 - 田園都市線間の転線を二子玉川駅で行う。ただし、田園都市線が人身事故・各種トラブルなどで急行運転を取り止めた場合、田園都市線内は溝の口駅 - 鷺沼駅で各停で運転、または大井町線内運転となることがある。全ての急行は大井町駅・溝の口駅・長津田駅・中央林間駅のいずれかの駅始発(終着)である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "途中停車駅は他の東急各線との連絡駅のみである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "上下とも旗の台駅で各駅停車に接続するほか、上りのみ平日朝夕ラッシュ時には上野毛駅で各駅停車を追い抜く。田園都市線直通列車はこれに加え二子玉川駅・鷺沼駅・長津田駅で田園都市線の各駅停車に接続する(朝夜間は一部接続・追い抜き駅が異なる列車もある)。また、日中の急行は、二子玉川駅・溝の口駅で同じ方向の田園都市線の各駅停車に接続している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "設定当初はほとんどの列車が線内(大井町駅 - 溝の口駅間、2009年7月10日までは大井町駅 - 二子玉川駅間)での運転で、田園都市線と直通運転する列車はごく一部だった。2011年には東日本大震災後の一時期、節電のための臨時ダイヤとして平日日中の急行が田園都市線長津田駅まで乗り入れて運行された。2012年3月17日より、土休日日中に毎時2本が溝の口駅発着から長津田駅発着に延長され、定期列車として日中の田園都市線直通急行の運行が開始された。2019年10月1日より、 平日・土休日ともに日中の一部列車が中央林間駅発着へと延伸された。これにより、大井町線急行の中央林間行が新たに設定されることになった(中央林間駅発の大井町線急行大井町行は2019年9月以前も土休日に存在した)。なお、一時期には夜間に田園都市線鷺沼行きの下り急行が土休日に1本設定されていたが、長津田行きに延長される形で廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2017年11月4日より、6両編成から7両編成への増強が開始されており、2018年2月には7両編成での運行に統一された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "急行列車の運転開始により、大井町線の1日の平均利用者数が約40万1400人(2007年)から約50万3000人(2017年)に増加した一方、田園都市線のピーク時混雑率は198%から184%へと低下している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2018年12月14日から有料座席指定サービス「Qシート」 (Q SEAT) を開始した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "6020系および6000系(一部編成のみ、2019年5月から)の3号車をロングシートからクロスシートへ転換可能な車両に置き換え、平日夕方以降の大井町駅発田園都市線直通の急行長津田行の一部列車を、座席指定サービス車両として運用する。座席数は45席。座席指定料金は一律500円で、大井町駅 - 二子玉川駅間は乗降可能、溝の口駅 - 長津田駅間は降車専用となる。列車指定券は大井町駅、旗の台駅、大岡山駅、自由が丘駅、二子玉川駅の各駅の駅窓口で販売されるほか、販売専用webサイト「Qシートチケットレスサービス」でも購入できる。列車指定券は乗車当日の朝5時から発売され、チケットレス購入も可能である。サービス開始初日は、発売開始から3時間以内に全ての指定券が売り切れた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2020年4月27日より、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響でサービスを休止していたが、同年10月12日より一部列車でサービスを再開した。2021年10月11日現在、大井町駅発21時台までが運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "座席指定券確認のため、大井町線内旗の台駅 - 二子玉川駅間は大井町方最後部1か所のみドアを開閉する。大井町駅は中央2か所(両端も開くが、進入禁止幕が貼られる)のみドアを開閉。溝の口駅から先は全てのドアが開くが渋谷より1か所以外はガードが張られているため侵入ができない。ただし、青葉台駅を発車後に全てのガードが畳まれ手すり脇に格納される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "運行開始当初、たまプラーザ駅 - 長津田駅間は乗車券のみで乗降可能なフリー乗降区間であったが、2023年3月18日のダイヤ改正で、フリー乗降区間を廃止し全区間で座席指定券が必要となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "5両編成が使用される。大半の列車は大井町 - 溝の口間の運転である。また毎日早朝・深夜には田園都市線鷺沼駅発着の列車が、始発・終電に各1本二子玉川駅発着の列車が、平日朝に1本自由が丘発の列車が、それぞれ設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一部の列車は旗の台駅で急行を待ち合わせするほか、上り(大井町方面行き)のみ朝や夕方に上野毛駅で急行の通過待ちを行う列車が存在する。このほか、二子玉川駅・溝の口駅で同じ方向の田園都市線の準急・急行に接続する列車も設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一部の各駅停車は田園都市線の二子新地駅・高津駅に停車するため、種別色により区別して案内されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、種別色が緑の各駅停車の方が多く運転されており、種別色が青の各駅停車は、日中1時間に3本と早朝・深夜時間帯の鷺沼駅発着(平日上下7本、土休日上下8本)の列車のみである。こちらは、直通先の田園都市線を含めてすべての駅に停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2009年7月11日に二子玉川駅 - 溝の口駅間が延伸開業するまでは、種別色での表示・案内には青色のみが使用されていた。また田園都市線に直通する鷺沼行きがあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1943年の溝の口線編入から1979年までは、大井町駅から二子玉川園(現・二子玉川)駅を経由し、二子玉川園駅以西の現在の田園都市線区間へ運行する形態が基本的な運行であった(1963年から1979年までは大井町駅 - 二子玉川園駅間も「田園都市線」の路線名であった)。なお、二子玉川園駅の高架化後は線路配置の関係で同駅での折り返しがしにくかった時期があり、二子新地前(現・二子新地)駅に逆方向の片渡り線を設けて、一部は二子新地前駅折り返しの列車も設定されていた。また、ラッシュ時間帯には梶が谷、溝の口、鷺沼の各駅を発着する列車も運転されていた。その後、新玉川線(現在の田園都市線渋谷駅 - 二子玉川駅間)の開業後に二子玉川園駅以西からの一部列車が新玉川線渋谷方面へ直通するようになる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1979年には、大井町線の分離によって、一部を除き二子玉川園駅以西へは運転されなくなり、大井町 - 二子玉川園間の運行が基本となった。同時に一部のみ設定されていた二子新地駅折返し列車の設定がなくなり、系統分離直後に同駅の渡り線を撤去した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1979年の系統分離以前には快速列車が運転されていた時期があったが、快速運転は二子玉川園駅以西で行われ、現在の大井町線にあたる大井町 - 二子玉川園間ではすべての列車が各駅に停車していた。系統分離時より基本的には5両編成であったが、1981年(昭和56年)4月1日から1989年(平成元年)1月25日までは初代6000系や初代7000系18 m車による6両編成運転が実施され、一時的に大形20 m車5両編成(初代5000系は5両編成)と混用された時期があった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1979年8月12日から2008年3月27日までは全列車が各駅停車であった。田園都市線と直通する急行列車が2002年と2003年に臨時列車として、2006年3月18日からは土曜・休日のみの定期列車として運行を開始したが、これも2008年3月28日の大井町線の急行運転開始より前は大井町線内は各駅停車として運転し、田園都市線内のみ急行として運転した。なお、直通急行の定期運用化の時期に、田園都市線内での誤乗を防ぐため、一部編成を除き先頭車の前面下部と側面のドアと窓の間に大井町線のロゴ入りステッカーが貼り付けられ、帯のデザインも大井町線のカラーのオレンジのグラデーションに変更された。この時に施行されなかった編成についても大井町線内急行運転開始時に施行された(8000系を除く)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2008年3月28日に線内での急行列車運転が開始された。また、2009年7月11日に二子玉川駅 - 溝の口駅間が延伸開業し、現在の運行形態が形作られた。(改良工事の節も参照)", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "大井町線では戦前の一時期に急行列車が運転されていた。これは大井町 - 二子玉川間で運行される列車のうち、朝間の上りと夕方の下りに大井町 - 荏原町間を通過運転するものであった。運転開始時期は昭和一桁後期で、1936年(昭和11年)4月1日のダイヤ改正で廃止されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この急行には、車両の前面向かって右側(東横線系統は前面向かって左側 )に急行板が掲出されていたが、「急行」表記のほかに「通過駅 中延 蛇窪 戸越」と表記されていた。なお、この表示の「戸越」・「蛇窪」はそれぞれ、現在の下神明駅・戸越公園駅のことである。通過駅の旅客のため、大井町 - 荏原町間には折り返し各駅停車が運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2019年10月時点で営業運転に使用している車両を記載する。 東急電鉄の2023年度の設備投資計画において、大井町線9000系・9020系車両の更新に向けた車両新造に着手する旨が公表されている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "車両のパンタグラフはすべてシングルアーム式を使用しているが、6000系・6020系以外は当初菱形のものを使用しており、後年にシングルアーム式に交換された。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、5両編成は全編成とも前面帯が後年にグラデーションタイプのものに張り替えられ、側面ドア横には「大井町線」のシールが貼られている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "九品仏駅では二子玉川寄りの1両がドアカットを実施している。そのため、ドア非扱い装置を設置しているほか、ドアとその上部にはドアが開かない旨のステッカーを貼り付けている。なお、かつて大井町寄り2両のドアカットを行っていた戸越公園駅についても、同様にドアとその上部にドアが開かない旨のステッカーを貼り付けていた。両駅を通過する急行のみで運用される6000系・6020系はドアカットを行わないため、ドアカットのステッカー貼り付けも行われていない。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "大井町線では、2006年3月の田園都市線直通急行定期運転開始の際に一部編成で各駅停車の表示を開始したものの、大井町線内急行運転開始を経ても全編成では表示を行わず、溝の口延伸までに全編成が各駅停車表示を行うようになった。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)8月の田園都市線・新玉川線(当時)と大井町線との運転系統分離時には、東横線を含めた大規模な車両の転配が行われた。大井町線という名称が復活した同時点ではデハ3450形5両編成、初代5000系5両編成、8000系5両編成の3系列が配置されていた。この時点での大井町線の冷房車は全23編成中わずか2編成(8000系)であった。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1980年(昭和55年)には東横線から7200系が5両編成として転入した 。1981年(昭和56年)3月には東横線から初代6000系が転入し、同年4月1日からは初代6000系・7200系18m車による6両編成運転が開始された 。これに伴い、デハ3450形は運用を終了し、大井町線は全車両が高性能車となった。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)12月には初代7000系が6両編成として転入するなど 、しばらくの期間は大形20 m車5両編成と18 m車6両編成との混用が続いていた。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "最終的には、東横線から8090系が転入することで18 m車による6両編成の運転は、1989年(平成元年)1月26日のダイヤ改正に合わせて20m車5両編成に統一され消滅した。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "このほか、1986年(昭和61年)に伊豆急行2100系「リゾート21」がイベント列車として入線したことがある。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "営業運転ではないが、長津田車両工場や東京地下鉄(東京メトロ)鷺沼車両基地への入出場のため、東急の他路線の車両や横浜高速鉄道・東京メトロ日比谷線の車両が当路線を回送列車として走行することがある。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2019年度の朝ラッシュ時の最混雑区間は九品仏駅 → 自由が丘駅間で、ピーク時(7:30 - 8:30)の混雑率は156%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "混雑率は概ね150%台で推移していたが、急行の運転開始による6両編成の運転開始に伴い、一旦は混雑率が140%を下回った。その後は輸送人員が増加傾向に転じ、2016年度に混雑率が170%を上回ったが、急行の7両編成化によって混雑率は再度160%を下回った。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" } ]
大井町線(おおいまちせん)は、東京都品川区の大井町駅と神奈川県川崎市高津区の溝の口駅とを結ぶ、東急電鉄が運営する鉄道路線である。 路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーはオレンジ、路線記号はOM。
{{Otheruses|[[東急電鉄]]が運営する鉄道路線|[[東急バス]]の路線である大井町線|東急バス荏原営業所}} {{出典の明記|date=2008年4月}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Tokyu Railways.svg|baseline|20px|東急電鉄|link=東急電鉄]] 大井町線 |路線色=#f18c43 |ロゴ=File:Tokyu OM line symbol.svg |ロゴサイズ=40px |画像=File:Tokyu-Oimachi-Line Series9000-9009.jpg|thumb|東急9000系 |画像サイズ=300px |画像説明= 大井町線で運用される[[東急9000系電車|9000系]] |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]]、[[神奈川県]] |起点=[[大井町駅]] |終点=[[溝の口駅]] |駅数=16駅 |路線記号=OM |路線色3=オレンジ |開業=[[1927年]][[7月6日]] |休止= |廃止= |所有者=[[東急電鉄]] |運営者=東急電鉄 |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=12.4 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=車内信号閉塞式 |保安装置=[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]] |最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図=File:Tokyu Corporation Linemap.svg }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#f18c43}} {{BS-table}} {{BS2||tSTR|||[[東京臨海高速鉄道|東臨]]:[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]|}}<!-- 簡略のため高架を表現しません --> {{BS4|STRq|STRq|tKRZ|BHFq|O4=HUBa|||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[京浜東北線]]|}} {{BS4||KBHFa|O2=HUBaq|tBHF|O3=HUBq||O4=HUBrf|0.0|OM01 [[大井町駅]]||}} {{BS4|tSTRq|KRZt|tSTRr|||||}} {{BS2|BHF||0.8|OM02 [[下神明駅]]||}} {{BS4|STRq|KRZo|STRq||||JR東:[[横須賀線]]|}} {{BS4|STRq|KRZu|STRq||||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[東海道新幹線]]|}} {{BS2|BHF||1.5|OM03 [[戸越公園駅]]||}} {{BS4|tSTRq|KRZt|tBHFq|O3=HUBa||||[[都営地下鉄|都営]]:[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]|}} {{BS2|BHF|O1=HUBaq||O2=HUBrf|2.1|OM04 [[中延駅]]||}} {{BS2|BHF||2.7|OM05 [[荏原町駅]]||}} {{BS4|BHFq|O1=HUBa|KRZo|STRq||||[[東急池上線|池上線]]|}} {{BS4||O1=HUBlf|BHF|O2=HUBeq|||3.2|OM06 [[旗の台駅]]||}} {{BS2|BHF||4.0|OM07 [[北千束駅]]||}} {{BS2|exSTR|O1=tSTR2a|tSTRc3|||}} {{BS2|exSTR|O1=tSTRc1|tSTR+4||||}} {{BS4|tSTRq|O1=exSTR+r|xKRZt|tKRZt|tSTR+r|||[[東急目黒線|目黒線]]|}} {{BS4|exBHF|O1=HUBaq|exBHF|O2=HUBeq|tXBHF-L|tXBHF-R|4.8|OM08 [[大岡山駅]]||}} {{BS4|exSTR|exSTR|tSTRe|tSTRe||||}} {{BS4|exABZgl|exABZg+r|KRWgl|KRWg+r||||}} {{BS4|exSTRl|exKRZo|O2=STRc2|exSTR+r|O3=STR3|P3=STRc2|STR3||||}} {{BS4||xABZg+1|exSTR|O3=STR+1+c4|STRc4||||}} {{BS4||BHF|STR2|STRc3|5.3|OM09 [[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]||}} {{BS4||STR|STRc1|STRc4||||}} {{BS4|HUBrg|BHF|O2=HUBeq|||6.3|OM10 [[自由が丘駅]]|}} {{BS4|BHFq|O1=HUBe|KRZu|STRq||||[[東急東横線|東横線]]}} {{BS2|eABZgl|exKDSTeq||''[[自由が丘検車区|自由が丘車庫]]''||}} {{BS2|BHF||7.1|OM11 [[九品仏駅]]||}} {{BS2|BHF||7.8|OM12 [[尾山台駅]]||}} {{BS2|BHF||8.3|OM13 [[等々力駅]]||}} {{BS2|BHF||9.2|OM14 [[上野毛駅]]||}} {{BS4|STRq|KRZo|STR+r||||[[東急田園都市線|田園都市線]]|}} {{BS2|XBHF-L|XBHF-R|10.4|OM15 [[二子玉川駅]]||}} {{BS2|KRWgl|KRWg+r|||[[東京都]]|}} {{BS4|WASSERq|hKRZWae+GRZq|hKRZWae+GRZq|WASSERq|||[[多摩川]]|}} {{BS2|STR|STR|||[[神奈川県]]|}} {{BS2|STR|HST|||[[二子新地駅]]|}} {{BS2|STR|HST|||[[高津駅 (神奈川県)|高津駅]]|}} {{BS2|ABZg+l|ABZgr||||}} {{BS4||XBHF-L|O2=HUBaq|XBHF-R|O3=HUBq||O4=HUBlg|12.4|OM16 [[溝の口駅]]||}} {{BS4|STRq|KRZo|KRZo|BHFq|O4=HUBe|||[[武蔵溝ノ口駅]]|}} {{BS2|KRWl|KRWg+r|||JR東:[[南武線]]|}} {{BS2||HST|||[[梶が谷駅]]|}}<!-- 以下、接続路線など東急以外の施設は省略--> {{BS2|KBSTaq|ABZgr||梶が谷車庫||}} {{BS2||LSTR|||↓田園都市線|}} {{BS2||LSTR||| (大井町線直通区間)|}} {{BS2|KBSTaq|ABZg+r||[[長津田検車区#鷺沼車庫|鷺沼車庫]]||}} {{BS2||HST|||[[鷺沼駅]]|}} {{BS2||LSTR||||}} {{BS2||HST|||[[長津田駅]]|}} {{BS2|STR+l|ABZgr||||}} {{BS2|KBSTe|LSTR||[[長津田検車区]]||}} {{BS2||KHSTe|||[[中央林間駅]]|}} |} |} '''大井町線'''(おおいまちせん)は、[[東京都]][[品川区]]の[[大井町駅]]と[[神奈川県]][[川崎市]][[高津区]]の[[溝の口駅]]とを結ぶ、[[東急電鉄]]が運営する[[鉄道路線]]である。 [[路線図]]や[[駅ナンバリング]]で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|路線カラー]]はオレンジ<ref>[https://www.tokyu.co.jp/file/071004.pdf 10月5日(金)、記念電車ヘッドマーク付き携帯ストラップを発売します] - 東京急行電鉄</ref>、路線記号は'''OM'''。 == 概要 == [[大井町駅]]から[[東京都#地域|城南地域]]を横断して、[[旗の台駅]]、[[大岡山駅]]、[[自由が丘駅]]、[[二子玉川駅]]を経て[[溝の口駅]]へ向かう路線である。各経由駅は南北放射状に伸びる東急の[[東急池上線|池上線]]、[[東急目黒線|目黒線]]、[[東急東横線|東横線]]、[[東急田園都市線|田園都市線]]との[[乗換駅]]である。 一時期は'''田園都市線'''に編入されていたことがある([[#歴史]]を参照)。 二子玉川駅 - 溝の口駅間は正式には田園都市線の[[複々線]]区間である。[[1993年]]以降、田園都市線の混雑緩和のために同線のバイパス路線としての機能を持たせる改良工事が行われた。 一部列車で、田園都市線[[鷺沼駅|鷺沼]]・[[長津田駅|長津田]]・[[中央林間駅|中央林間]]方面との[[直通運転]]を実施している。 [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の路線との乗換駅は少ないが、大井町駅で[[京浜東北線]]、溝の口駅で[[南武線]]([[武蔵溝ノ口駅]])、直通先の田園都市線内の長津田駅で[[横浜線]]の3路線と乗り換えできる。 === 路線データ === [[ファイル:東急大井町線_停車駅案内図.svg|thumb|none|500px|停車駅]] * 路線距離:大井町 - 二子玉川間 10.4km(田園都市線区間を含むと12.4km) * [[軌間]]:1067mm * 駅数:15駅(起終点駅含む。田園都市線区間の溝の口駅を含むと16駅。公式サイトの路線概要では二子新地駅・高津駅は含まれておらず、この2駅を含むと18駅になる) * [[複線]]区間:全線 * 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号閉塞式 ([[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]) * 最高速度:急行・各駅停車とも95km/h<!-- JTB「東急おもしろ運転探見参照 --> == 沿線風景 == 大井町線は、[[品川区|品川]]・[[大田区|大田]]・[[目黒区|目黒]]・[[世田谷区|世田谷]]・[[川崎市|川崎]]の各区市の住宅密集地を走っている。また、[[東急東横線|東横線]]と接続する[[自由が丘]]や[[東急田園都市線|田園都市線]]と接続する[[二子玉川]]駅周辺は「住みたい街ランキング」の上位にランクインすることもある<ref>[https://archive.fo/llG9 首都圏・関西 住みたい街ランキング! - マンショントレンド情報 All About]では、不動産大手8社が参加する不動産ポータルサイト「メジャーセブン」でのマンション購入意向者に対するアンケートの結果として、1位に自由が丘、4位に二子玉川が2年連続で入っていることを紹介している。</ref>。 === 大井町 - 旗の台 === 起点の[[大井町駅]]を西に向けて[[高架橋|高架]]で出発する。右手にはJR東日本の[[東京総合車両センター]]があり、[[山手線]]用の車両などが留置されている姿が見える。[[下神明駅]]の西端では、足元を[[品鶴線]]([[横須賀線]]・[[湘南新宿ライン]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]])が、頭上を[[東海道新幹線]]が通る3層の[[立体交差]]となっている。なお、品鶴線のこの地点は旧[[蛇窪信号場]]にあたる。右に[[東京都立大崎高等学校|都立大崎高校]]を見て進み、左カーブに差しかかるところが[[戸越公園駅]]。上り勾配で[[国道1号]]を跨ぐとそのまま高架の[[中延駅]]へ。その国道1号の地下を[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]が通っているが、一旦改札を出て乗り換えが可能である。またこの区間は東急線で最初に立体化された区間でもある。一旦地平に下りた[[荏原町駅]]では、[[暗渠]]化された[[立会川]]が直下を流れる。再び高架に上がると[[東急池上線|池上線]]を跨ぐ[[旗の台駅]]である。 <gallery> File:蛇窪信号所.jpg|品鶴線の旧蛇窪信号場を高架で横切っている。 File:Hebikubo overbridge.jpg|蛇窪の二重跨線線路橋。 </gallery> === 旗の台 - 自由が丘 === 旗の台を出ると[[中原街道]]と[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]を相次いで跨ぎ、[[北千束駅]]を経て地下構造の[[大岡山駅]]へ進入する。大岡山駅には[[東急目黒線|目黒線]]も乗入れており、方向別ホームとなっている。駅前には[[東京工業大学]]が、駅の直上には東急直営の[http://www.tokyu.co.jp/hospital/ 東急病院]がある。駅を出ると右に大きくカーブしながら地下から一気に高架へ上るが、気象条件次第ではここから[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]を望むこともできる。この区間は線路の両側を東京工業大学の敷地に挟まれた形となっており、左手にはグラウンドが、右手には大岡山北3号館を見ることができる。カーブが終わると[[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]に到着する。<!--同駅は上下線の路盤の高さが異なり、上り線(大井町方向)側が若干高い。-->そしてなだらかに下り、[[東急東横線|東横線]]をくぐるところが[[自由が丘駅]]である。かつては隣接して[[自由が丘検車区]]があったが、検車区機能を[[長津田検車区#鷺沼車庫|鷺沼]]に移してからは留置線のみが残されていた。その後も段階的に撤去され、5両編成1本分の留置線を残し、その跡地は商業施設である[[トレインチ自由が丘|「Trainchi」(トレインチ)]]に変わった。2007年11月15日をもって平日夕方1本のみ設定されていた自由が丘行が廃止され、留置線は一旦完全に撤去されたが、その後、2009年までに5両編成1本分の留置線が復活・併用開始し、日中に車両が留置されている。 <gallery> ファイル:Tokyu-ookayama-platform.jpg|大岡山駅は方向別ホームで目黒線に乗り換えが可能な駅となっている。 </gallery> === 自由が丘 - 二子玉川 === 自由が丘駅からしばらく直線に進み、右にカーブすると[[九品仏駅]]である。駅北側の[[九品仏浄真寺|浄真寺]]に安置される「九品仏」(9体の[[阿弥陀如来]]像)が駅名の由来である。構内の両端が踏切道であるため、二子玉川寄り1両は扉を開閉しない。[[尾山台駅]]は[[東京都市大学]]世田谷キャンパスの最寄り駅である。[[等々力駅]]の手前で[[目黒通り]]が頭上を越える。九品仏駅 - 等々力駅間はほぼ直線で、隣の駅が見通せる。等々力駅 - 上野毛駅間では東京23区で唯一の渓谷である「[[谷沢川|等々力渓谷]]」を形成する[[谷沢川]]が左を並行し、両駅の中間付近で交差して北に流れてゆく。切り通しに位置する[[上野毛駅]]では、頭上を[[東京都道311号環状八号線|環八通り]]が跨ぐ。周辺は[[国分寺崖線]]に位置し、緑が多く、[[五島美術館]]や[[多摩美術大学]]上野毛校舎などもある。切り通しを抜けると、[[二子玉川駅]]に到着する。二子玉川駅からは[[多摩川]]河川敷へかけての街並みが一望できる。[[東急田園都市線|田園都市線]]も乗入れている。 <gallery> ファイル:Tokyu Oimachi Line in vicinity of Kaminoge Station.PNG|上野毛付近の切り通し区間を走る8500系<br />(2014年3月30日) ファイル:Tokyu-railway-oimachi-line-Kuhombutsu-station-doorcut.jpg|九品仏駅に停車中の8090系(当時)。二子玉川寄り1両はドアが開かない。 </gallery> === 二子玉川 - 溝の口 === 二子玉川駅からは、田園都市線の[[複々線]]のうちの内側2線を走行し、[[溝の口駅]]に至る。内側線には途中の[[二子新地駅]]・[[高津駅 (神奈川県)|高津駅]]にホームがなく、一部の各駅停車および田園都市線[[鷺沼駅|鷺沼]]方面への直通列車は、二子玉川駅 - 溝の口駅間では田園都市線の線路である外側線を走行する。詳細は[[#各駅停車|各駅停車]]の節を参照。 <gallery> ファイル:東急田園都市線二子新地駅(二子玉川駅ホームから).JPG|二子玉川駅の溝の口寄りを見る。当時はまだ、大井町線の線路は溝の口までは延伸していない。 </gallery> == 歴史 == * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[7月6日]] - [[目黒蒲田電鉄]](目蒲電鉄)が大井町 - 大岡山間を開業。当時から大井町線という路線名であった。 * [[1928年]](昭和3年)[[10月10日]] - 池月駅(現・北千束駅)開業。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[11月1日]] - 二子玉川線として自由ケ丘(現・自由が丘) - 二子玉川間を開業。 ** [[12月25日]] - 大岡山 - 自由ケ丘間開業により全線開業。二子玉川線を大井町線に統合し、大井町 - 二子玉川間の直通運転を開始。 * [[1930年]](昭和5年) ** [[4月1日]] - 尾山台駅開業。 ** [[5月21日]] - 池月駅を洗足公園駅に改称。 * [[1933年]](昭和8年)4月1日 - 中丸山駅を緑ヶ丘駅に改称。 * [[1936年]](昭和11年) ** [[1月1日]] - 戸越駅を下神明駅に、蛇窪駅を戸越公園駅に、洗足公園駅を北千束駅に改称。 ** [[4月1日]] - ダイヤ改正により、急行列車(戦前)を廃止<ref name="RF1981-6">交友社「鉄道ファン」1981年6月号 半世紀を走り続けた電車「東急3450形物語1」p.81、ならびに1981年7月号「東急3450形物語1について訂正・補足」p.125記事。</ref>(正確な運転開始時期は明らかでない(後述))。 * [[1940年]](昭和15年)[[12月1日]] - 大井町線二子玉川駅と[[東急玉川線|玉川線]]よみうり遊園駅を統合し、二子読売園駅に改称。 * [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - 玉川線(溝ノ口線)二子読売園 - 溝ノ口間の軌間を1372mmから1067mmに改軌し、大井町線に編入。 * [[1944年]](昭和19年)[[10月20日]] - 二子読売園駅を二子玉川駅に改称 * [[1945年]](昭和20年)[[10月1日]] - 二子玉川駅 - 溝ノ口駅間を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に転換。 * [[1951年]](昭和26年)[[3月1日]] - 東洗足駅を移転し、旗の台駅に改称<!--池上線旗ヶ岡駅の統合は同年5月-->。 * [[1954年]](昭和29年)[[8月1日]] - 二子玉川駅を二子玉川園駅に改称。 * [[1958年]](昭和33年)[[1月15日]] - 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧<ref name="tokyu1023">[[#50th|50年史]]、p.1023。</ref>。 * [[1963年]](昭和38年)[[10月11日]] - 大井町線を「[[東急田園都市線|田園都市線]]」に改称。これにより大井町線という名称は一時消滅する。 * [[1966年]](昭和41年)[[1月20日]] - 緑ヶ丘駅を緑が丘駅に、自由ヶ丘駅を自由が丘駅に、溝ノ口駅を溝の口駅に改称。 * [[1976年]](昭和51年)[[3月1日]] - 一部列車を4両編成から5両編成に増強する。 * [[1979年]](昭和54年)[[8月12日]] - 田園都市線の電車が二子玉川園から新玉川線を経由して[[渋谷駅|渋谷]]・当時の[[帝都高速度交通営団|営団]][[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]方面へ直通運転を行うようになり、同時に大井町 - 二子玉川園間が大井町線として分離され、約16年ぶりに名称が復活(田園都市線はこの日より二子玉川園 - つきみ野間となる)<ref name="Fan1979-11">交友社「鉄道ファン」1979年11月号「多摩田園都市が都心に直結」pp.50 - 57。</ref>。 * [[1981年]](昭和56年) ** [[4月1日]] - 初代6000系・7200系による18&nbsp;m車6両編成の運転を開始(初代5000系・大形20&nbsp;m車5両編成と混用)<ref name="Fan1981-7">交友社『鉄道ファン』1981年7月号「東急ニュース '81-4」pp.121 - 124。</ref>。当路線において、旧性能車(初代3000系)の営業運転を終了<ref name="Fan1981-7"/>。 ** [[11月30日]] - 全線で[[チッキ|荷物]]輸送を廃止<ref>{{Cite news |title=東急の貨物運輸営業一部廃止を軽微認定 運輸審議会 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-10-30 |page=1 }}</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[1月26日]] - 18&nbsp;m車による6両編成運転を廃止、全列車が20m車5両編成となる。 * [[2000年]](平成12年)[[8月6日]] - 二子玉川園駅を二子玉川駅に改称。 * [[2006年]](平成18年) ** [[3月11日]] - [[東急8000系電車|8000系]]8005Fが走行中に車両ドアが開くトラブルが発生。重大インシデントとして[[航空・鉄道事故調査委員会]]が調査<ref>[https://archive.fo/0E7Q 東急電鉄ウェブサイト「大井町線車両事故に関するお詫び」]</ref> ** [[3月18日]] - ダイヤ改正を実施。土曜・休日に限り田園都市線に直通する[[急行列車|急行]]の運転開始(大井町線内では各駅停車、上下各3本、2008年3月22日まで)<ref name="ニュースリリース12月16日">[https://archive.fo/IE5Qn 「TOKYU NEWS 2005/12/16 2006年3月18日(土)、東横線・田園都市線・大井町線のダイヤ改正を実施」]</ref> * [[2007年]](平成19年)[[11月15日]] - 自由が丘終着の列車を廃止<ref name="行先変更">[https://archive.fo/oBy5B 東急電鉄ウェブサイト「大井町線の行き先を一部変更」]</ref> * [[2008年]](平成20年) ** [[2月23日]]<ref name="ニュースリリース2008年2月15日">[https://archive.fo/EM5Eu TOKYU NEWS 2008/2/15 3月28日、大井町線の急行運転を開始、田園都市線の混雑緩和を目指します]<!-- 切替日は2ページ目安全対策にある --></ref> - 保安設備を東急形ATSからATC-Pに変更 ** [[3月28日]] - ダイヤ改正を実施。大井町線内で急行運転開始。同時に[[東急6000系電車 (2代)|6000系]](6両編成)の運用開始<ref name="ニュースリリース2008年2月15日" /><ref name="東急電鉄ウェブサイト内資料">[https://archive.fo/smw8V 東急電鉄ウェブサイト「大井町線改良・田園都市線複々線化工事」]の概要の部分を参照</ref> * [[2009年]](平成21年)[[7月11日]] - ダイヤ改正を実施。溝の口駅まで延伸<ref name="HOT349">{{Cite journal|1=和書|title=7月11日(土)大井町線 溝の口まで延伸!ダイヤ改正を行います|journal=HOT ほっと TOKYU|date=2009-06-20|issue=349|url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0806/0806.pdf|publisher=東京急行電鉄|accessdate=2017-01-24|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170202062302/http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0806/0806.pdf|archivedate=2017年2月2日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。同時に、2種類の各駅停車(種別色が青色と緑色)の運転開始<ref name="HOT349"/>。 * [[2012年]](平成24年) ** [[2月]]上旬から順次、[[駅ナンバリング|駅番号]]が導入される<ref>[http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/120126-1.html 東急線全駅で駅ナンバリングを導入します] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121119182520/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/120126-1.html |date=2012年11月19日 }} - 東京急行電鉄、2012年1月26日、2012年1月26日閲覧。</ref>。 ** [[3月3日]] - 大井町駅でホームドアの使用を開始。 * [[2013年]](平成25年)[[2月24日]] - [[戸越公園駅]]で2両分ホーム延伸ならびに踏切移設工事が行われ、同駅でのドアカットが解消<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/others_togoshikouen.html| title=戸越公園駅ホーム延伸工事| publisher=[[東京急行電鉄]]| accessdate=February 08, 2012| archiveurl=https://web.archive.org/web/20130625032644/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/others_togoshikouen.html| archivedate=2013年6月25日| deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[11月4日]] - 急行の7両化開始<ref name="newsrelease20171012">{{Cite press release |和書 |title=都心方面への輸送力を増強し混雑緩和を推進します!大井町線急行列車の7両編成化と新型車両6020系の導入 |publisher=東京急行電鉄 |date=2017-10-12 |url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/171012-21.pdf |format= PDF |accessdate=2022-12-06 }}</ref><ref>[http://railf.jp/news/2017/11/05/201000.html 東急大井町線で7両編成の急行列車の運転開始] 鉄道ファン(railf.jp) 2017年11月5日</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[2月9日]] - 急行の7両化完了。 ** 3月28日 - [[東急2020系電車#6020系|6020系]]営業運転開始<ref name="railfjp20180329">[https://railf.jp/news/2018/03/29/160000.html 東急6020系が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年3月29日</ref>。 ** [[12月14日]] - 平日夜間の長津田行き急行列車のうち5本で、有料[[座席指定席|座席指定サービス]]「[[#Qシート|Qシート]]」を開始<ref name="newsrelease20180326" /><ref name="railf.jp301023">[https://railf.jp/news/2018/10/23/203000.html 東急、大井町線の有料座席指定サービス「Q SEAT」を12月14日から開始] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2018年10月23日</ref><ref name="norimono82391" />。 * [[2019年]]([[令和]]元年)10月1日 - ダイヤ改正を実施。一部の急行が中央林間駅まで延伸<ref name="mynavi20190807">{{Cite web|和書|title=東急田園都市線・大井町線ダイヤ改正、大井町線急行が中央林間駅へ|url=https://news.mynavi.jp/article/20190807-tokyu20191001/|website=マイナビニュース|date=2019-08-07|accessdate=2019-08-29}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[6月6日]] - ダイヤ改正を実施。平日の「Qシート」実施列車を10本に拡大<ref name="2020-05-11">{{Cite web|和書|title=有料座席「Qシート」本数倍増 17時台も大井町{{~}}長津田に直通急行 東急が6月ダイヤ改正|url=https://trafficnews.jp/post/96207|website=乗りものニュース|date=2020-05-11|accessdate=2020-12-22}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[3月13日]] - ダイヤ改正を実施。終電の繰上げや、日中時間帯の運行ダイヤの適正化が行われた<ref>{{Cite press release |和書 |title=2021年3月13日(土) 東急線全線でダイヤ改正を実施 |publisher=東急電鉄 |date=2021-01-26 |url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20210126-1.pdf |format=PDF |accessdate=2021-01-30}}</ref>。 * 2024年(令和6年)度 - 戸越公園駅付近[[連続立体交差事業]]認可取得予定<ref>{{Cite conference |title=品川区総務委員会 |url=https://gikai.city.shinagawa.tokyo.jp/katsudou/inkai-schedule/back_number/soumu-r0305-r0405 |conference=品川区総合実施計画の策定について |conferenceurl=https://gikai.city.shinagawa.tokyo.jp/wp-content/themes/shinagawakugikai/pdf/2022.04.18sou02.pdf#page=180 |author=品川区都市環境部 都市開発課 |publisher=品川区企画部 企画調整課 |format=PDF |page=163 |date=2022-4-18 |accessdate=2022-6-21}}</ref>。 == 改良工事 == === 東急大井町線改良・田園都市線複々線化 === 大井町線では、[[1993年]]以降大規模な改良工事が行われた。これは、大井町線に[[東急田園都市線|田園都市線]]のバイパス路線としての機能を持たせることで、混雑が激しい同路線の混雑緩和を図るものである<ref name="2003年6月18日">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/file/030618.pdf|title=「大井町線改良工事および田園都市線複々線化工事」に伴う大井町線急行運転実施時期の変更について|publisher=東京急行電鉄|date=2003-06-18|accessdate=2018-07-22}}</ref>。 東急大井町線改良・田園都市線[[複々線]]化工事(二子玉川 - 溝の口間)を実施し、以下の工事を行っていた<ref name="整備状況" />。等々力駅以外はすべて完工している。 ; [[大井町駅]] : ホーム拡幅と車両全長20m級7両編成の列車が停車できるホーム長を確保するため、[[頭端式ホーム|頭端式]]2面2線から頭端式1面2線へとリニューアル工事を実施。 ; [[旗の台駅]] : 駅施設改良工事ならびに[[相対式ホーム|相対式]]2面2線から[[島式ホーム|島式]]2面4線に線路を増やし、緩急接続を可能な構造とした上で、車両全長20m級7両編成の列車が停車できるようにホーム延伸工事。 ; [[自由が丘駅]] : 駅施設改良工事ならびに車両全長20m級7両編成の列車が停車できるようにホーム延伸工事を実施。 ; [[等々力駅]] : 現在の地上ホーム島式1面2線から島式1面4線[[地下駅]]構造とし、両外側に急行通過線を設置する計画であるが、後述の[[#等々力駅周辺での反対運動|反対運動]]により未だ着工はされていない。そのため、当駅付近で[[地質調査]]などが行われている。 ; [[上野毛駅]] : 上り(大井町方面行)に急行通過線を追加し、島式1面3線構造とする。また、それに合わせて駅本屋の新設・既存施設の改良工事。 ; [[二子玉川駅]] : 大井町線と田園都市線の位置の入れ替え工事。 ; 田園都市線二子玉川駅 - 溝の口駅 : 大井町線延伸のための線増工事。溝の口駅は相対式2面2線から、上りが島式1面2線・下りは相対式1面1線を併せ持つ2面3線構造となった後、大井町線延伸に伴い島式2面4線構造となった。 ; [[梶が谷駅]](田園都市線) : 改良工事完成後の大井町線の車両増に対応するために同線用の梶が谷車庫(4線)の建設。 さらに、急行運転開始に伴う安全性向上と列車運転間隔の短縮のため、[[2008年]][[2月23日]]に[[自動列車停止装置]] (ATS) から[[自動列車制御装置]] (ATC-P) へ保安装置が更新された<ref name="整備状況">{{PDFlink|[http://www.tokyu.co.jp/file/071115.pdf 東急電鉄ウェブサイト「特定都市鉄道整備実施状況」]}}に各駅やATCについての工事の状況が示されている。</ref>。 ==== 経過 ==== 田園都市線の混雑緩和を目的とした[[特定都市鉄道整備促進特別措置法|特定都市鉄道整備事業]]計画の認定を[[1995年]]に受け、「大井町線大岡山 - 二子玉川園(当時)間改良工事および田園都市線二子玉川園 - 溝の口間複々線化工事」として工事が進められた。 当初は、上記の事業名称にもある通り大井町線内の改良区間は大岡山から二子玉川までで、急行運転も同区間のみとされた。また、急行待避設備は[[等々力駅]]に上り(大井町方面行)、[[尾山台駅]]に下り(溝の口方面行)に急行通過線を上下線別々に設置し、同時に両駅を地下化する計画であった。 しかし、[[2000年]]に計画が変更されて改良区間に大井町 - 大岡山間も追加され、これにより大井町線改良工事は同線全区間が対象となった。同時に、前項で述べた急行通過線は、上下線ともに等々力駅に集約して設置するように変更された<ref name="TOKYU NEWS 2000/11/17">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/file/001117.pdf|title=特定都市鉄道整備事業計画を変更「大井町線改良工事ならびに田園都市線複々線化工事」|publisher=東京急行電鉄|date=2000-11-17|accessdate=2018-07-22}}</ref>。 東急電鉄ウェブサイトによると、急行運転は本来ならば[[2004年]]の開始を予定していたが、用地買収が難航していることなどから[[2007年]]に延び<ref name="2003年6月18日" />、その後2007年度内に急行運転開始することを発表した後、2008年度内に溝の口駅までに延伸させる計画が発表された。そして、[[2008年]][[3月28日]]から大井町線内での急行運転を開始し<ref name="ニュースリリース2008年2月15日" />、その後、[[2009年]][[7月11日]]に溝の口まで延伸された<ref name="ニュースリリース2009年2月5日">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/file/090205.pdf|title=2009年7月11日(土)、東急大井町線が溝の口駅まで延伸します|publisher=東京急行電鉄|date=2009-02-05|accessdate=2018-07-22}}</ref>。 二子玉川 - 溝の口間は複々線となり、外側2線は田園都市線、内側2線が大井町線である。なお、同区間の途中にある二子新地駅と高津駅の両駅は、外側の田園都市線にのみホームがある。 前述の通り各駅停車の列車は2系統になる。二子玉川 - 溝の口間で大井町線の線路を走行して高津・二子新地の両駅を通過する各駅停車は種別色が緑となり、二子玉川 - 溝の口間で田園都市線の線路を走行して高津・二子新地の両駅に停車する各駅停車は種別色が青となる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/file/090410-2.pdf|title=6月6日(土)、東急線でダイヤ改正を実施 田園都市線増発など、各線で混雑緩和と利便性の向上を図ります 7月11日(土)には、溝の口延伸に合わせて、大井町線のダイヤを改正します|publisher=東京急行電鉄|date=2009-04-10|accessdate=2018-07-22}} </ref>。種別色が青の各駅停車は、この複々線区間で田園都市線の線路に転線しているため、厳密には途中で田園都市線を経由して走行していることになる。 ==== 等々力駅周辺での反対運動 ==== この改良工事に対して、とりわけ等々力駅周辺で反対運動が起きている。主な反対の理由は「等々力駅周辺の地下化によって[[東京都区部|東京23区]]内唯一の渓谷である[[谷沢川#等々力渓谷|等々力渓谷]]の湧水が妨げられ、渓谷の自然が破壊されるおそれがある」との観点である。このため、[[世田谷区]]を中心として等々力駅地下化工事技術検討委員会が設立された。同委員会は工事によって環境影響が生じないように第三者的立場から技術的検討を行い、2005年12月に報告書を提出した<ref name="整備状況" />。2018年4月現在も等々力駅地下化工事は着工されていない。 以上の理由から、[[環境アセスメント|環境影響評価]]に伴って等々力駅地下化工事は着工できずにおり、仮に着工されたとしても相当な時間を要することが予想されることや、かつ急行運転開始を2007年度内に間に合わせるために、急遽計画を一部変更して[[上野毛駅]]上り線(大井町方面行)に急行通過線が追加された<ref>上野毛駅掲示ポスターによる</ref>。なお、あくまでもこれは暫定的な措置であり、将来等々力駅地下化工事が完成した際は、上野毛駅での待避は行われない予定であるが、等々力駅での待避に移行された後も上野毛駅の急行通過線は撤去されず、非常用として何らかの形で使用を続けるとしている{{要出典|date=2020年9月}}。 === 戸越公園駅付近連続立体交差化 === 戸越公園駅付近の約0.9 kmの区間について、鉄道を高架化することによる連続立体交差化事業が計画されている。これによって6か所の踏切が解消される予定。併せて、周辺の都市計画道路や駅前広場の整備が計画されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kankyo/kankyo-toshiseibi/kankyo-toshiseibi-shigaichi/togoshirenritsu.html|title=東急電鉄大井町線(戸越公園駅付近)連続立体交差化計画及び関連する道路計画と交通広場(駅前広場)計画|publisher=東京都品川区|access-date=2023-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/road/gaiyo/dourokensetsu0028.html|title=東急電鉄大井町線(戸越公園駅付近)|website=連続立体交差事業(連立事業)ポータルサイト|publisher=東京都建設局|access-date=2023-10-01}}</ref>。 == 運行形態 == 2021年3月13日現在、急行と各駅停車が運転されている。大部分は[[大井町駅]] - [[溝の口駅]]間の折り返し運行となっているが、一部に[[東急田園都市線|田園都市線]]直通列車があり、[[鷺沼駅]]・[[長津田駅]]・[[中央林間駅]]発着で運転される。 === 日中の運行本数 === 日中1時間あたりの運転本数は以下のようになっている。 {| class="wikitable" |- |+日中の運行パターン !colspan="2"|駅名<br />\<br />種別 !colspan="2""|{{縦書き|大井町}} !… !|{{縦書き|二子玉川}} !… !colspan="2"|{{縦書き|溝の口}} !… !{{縦書き|中央林間}} !備考 |- style="text-align:center;" !rowspan="9" style="width:1em;"|本数 |style="background:pink;"|急行 |colspan="9" style="background:pink;"|3本 | |- style="text-align:center;" |style="background:lightgreen;"|各停(G各) |colspan="6" style="background:lightgreen;"|6本 |colspan="3"| |二子新地・高津通過 |- style="text-align:center;" |rowspan="5" style="background:lightblue;"|各停(B各) |- style="text-align:center;" |colspan="6" style="background:lightblue;"|3本 |colspan="3"| |二子新地・高津停車 |- |} === 列車種別 === ==== 急行 ==== {{Vertical_images_list |幅=200px |枠幅=200px |1=Tokyu6000 6003F.JPG |2=急行専用の6000系(2008年11月10日) |3=Tokyu Hatanodai Station 004.JPG |4=急行停車駅のドア位置案内<br />[[旗の台駅|旗の台]]3番ホーム<br />(2008年3月29日) }} [[2008年]][[3月28日]]より運転を開始した。なお、急行は戦前の一時期にも運転されていた(後述)が、それとは全く異なるものである。 全列車が[[東急6000系電車 (2代)|6000系(2代)]]・[[東急6020系電車|6020系]]7両編成で運転されるが、車両故障および[[日本の鉄道車両検査|定期検査]]で運用する編成が不足する場合や、事故・各種トラブルなどでダイヤが乱れた場合は5両編成で運転することもある。平日はほぼ終日、土休日は日中のみ運転される。平日朝ラッシュ時はおおむね9分間隔(各駅停車2本に対して1本)、日中は20分間隔(各駅停車3本に対して1本)、平日の夕ラッシュはおおむね12 - 18分間隔(各駅停車3 - 4本に対して1本)で運転される。[[列車種別]]は基本的に赤色で表示される。 大井町駅 - 溝の口駅間の運転が基本であるが、平日朝の上り(1本)と、夜の下りは、大井町駅 - 田園都市線長津田駅、日中の全ての急行は大井町駅 - 田園都市線中央林間駅間で運転される列車が設定されている。これらの列車は田園都市線内でも急行で運転され、大井町線 - 田園都市線間の転線を二子玉川駅で行う。ただし、田園都市線が人身事故・各種トラブルなどで急行運転を取り止めた場合、田園都市線内は溝の口駅 - 鷺沼駅で各停で運転、または大井町線内運転となることがある。全ての急行は大井町駅・溝の口駅・長津田駅・中央林間駅のいずれかの駅始発(終着)である。 途中停車駅は他の東急各線との連絡駅のみである。 上下とも[[旗の台駅]]で各駅停車に接続するほか、上りのみ平日朝夕ラッシュ時には[[上野毛駅]]で各駅停車を追い抜く。田園都市線直通列車はこれに加え二子玉川駅・鷺沼駅・長津田駅で田園都市線の各駅停車に接続する(朝夜間は一部接続・追い抜き駅が異なる列車もある)。また、日中の急行は、二子玉川駅・溝の口駅で同じ方向の田園都市線の各駅停車に接続している。 設定当初はほとんどの列車が線内(大井町駅 - 溝の口駅間、2009年7月10日までは大井町駅 - 二子玉川駅間)での運転で、田園都市線と直通運転する列車はごく一部だった。2011年には[[東日本大震災]]後の一時期、節電のための臨時ダイヤとして平日日中の急行が田園都市線長津田駅まで乗り入れて運行された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/file/110617-1.pdf |title=7月1日から、早朝時間帯および土休日の東急線の運行をさらに充実させます|publisher=東京急行電鉄|accessdate=2016-05-13|format=pdf}}</ref>。2012年3月17日より、土休日日中に毎時2本が溝の口駅発着から長津田駅発着に延長され、定期列車として日中の田園都市線直通急行の運行が開始された。2019年10月1日より、 平日・土休日ともに日中の一部列車が中央林間駅発着へと延伸された。これにより、大井町線急行の中央林間行が新たに設定されることになった<ref name="mynavi20190807" />(中央林間駅発の大井町線急行大井町行は2019年9月以前も土休日に存在した)。なお、一時期には夜間に田園都市線鷺沼行きの下り急行が土休日に1本設定されていたが、長津田行きに延長される形で廃止された。 [[2017年]]11月4日より、6両編成から7両編成への増強が開始されており<ref name="newsrelease20171012" />、2018年2月には7両編成での運行に統一された<ref name="newsrelease20180326">{{Cite press release |和書 |title=当社初!平日夜の有料座席指定サービスを大井町線で開始! 2018年冬、大井町駅から田園都市線方面への平日夜の帰宅をより快適に! |publisher=東京急行電鉄 |date=2018-3-26 |url=http://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20180326.pdf |format=PDF |accessdate=2018-04-16}}</ref>。 急行列車の運転開始により、大井町線の1日の平均利用者数が約40万1400人(2007年)から約50万3000人(2017年)に増加した一方、田園都市線のピーク時混雑率は198%から184%へと低下している<ref name="toyokeizai249044">[https://toyokeizai.net/articles/-/249044 大井町線に「指定席車」を導入する東急の思惑] - 東洋経済オンライン、2018年11月13日</ref>。 ===== Qシート ===== [[2018年]][[12月14日]]から有料[[座席指定席|座席指定サービス]]「'''[[Qシート]]'''」 (Q SEAT) を開始した。 [[東急2020系電車#6020系|6020系]]および[[東急6000系電車 (2代)|6000系]](一部編成のみ、2019年5月から<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2019/06/q_seat6000.html 【東急】大井町線で"Q SEAT"連結の6000系が営業運転開始] - 鉄道ホビダス RMニュース、2019年6月3日</ref>)の3号車を[[鉄道車両の座席#デュアルシート|ロングシートからクロスシートへ転換可能]]な車両に置き換え、平日夕方以降の[[大井町駅]]発田園都市線直通の急行[[長津田駅|長津田]]行の一部列車を、座席指定サービス車両として運用する<ref name="newsrelease20180326" /><ref>{{Cite web|和書|title=東京急行電鉄6020系の3号車に「Q SEAT」が登場|url=https://www.tetsudo.com/special/report/20181110/|website=鉄道コム|date=2018-11-12JST20:45:00|accessdate=2019-04-18|language=ja}}</ref>。座席数は45席。座席指定料金は一律500円で、大井町駅 - [[二子玉川駅]]間は乗降可能、[[溝の口駅]] - [[長津田駅]]間は降車専用となる。列車指定券は大井町駅、[[旗の台駅]]、[[大岡山駅]]、[[自由が丘駅]]、二子玉川駅の各駅の駅窓口で販売されるほか、販売専用webサイト「Qシートチケットレスサービス」でも購入できる<ref name="railf.jp301023" />。列車指定券は乗車当日の朝5時から発売され、チケットレス購入も可能である<ref name="norimono82391">[https://trafficnews.jp/post/82391 東急大井町線の座れる通勤車「Q SEAT」デビュー! 初日の様子は] - 乗りものニュース、2018年12月15日</ref>。サービス開始初日は、発売開始から3時間以内に全ての指定券が売り切れた<ref name="norimono82391" />。 [[2020年]][[4月27日]]より、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]流行の影響でサービスを休止していたが<ref name="2020-05-11" />、同年[[10月12日]]より一部列車でサービスを再開した<ref>{{Cite web|和書|title=東急大井町線の『Qシート』は10月12日に再開…10本中6本の暫定的再開に|website=[[Response.]]|publisher=[[イード (企業)|イード]]|date=2020-10-06|url=https://response.jp/article/2020/10/06/339103.html|accessdate=2020-12-22}}</ref>。2021年10月11日現在、大井町駅発21時台までが運行されている<ref>{{Cite web|和書|title=大井町線有料座席指定サービス Qシート|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/ticket/types/q_seat/|publisher=東急電鉄|accessdate=2021-10-16}}</ref>。 座席指定券確認のため、大井町線内旗の台駅 - 二子玉川駅間は大井町方最後部1か所のみドアを開閉する。大井町駅は中央2か所(両端も開くが、進入禁止幕が貼られる)のみドアを開閉。溝の口駅から先は全てのドアが開くが渋谷より1か所以外はガードが張られているため侵入ができない。ただし、青葉台駅を発車後に全てのガードが畳まれ手すり脇に格納される。 運行開始当初、たまプラーザ駅 - 長津田駅間は乗車券のみで乗降可能なフリー乗降区間であったが、[[2023年]][[3月18日]]のダイヤ改正で、フリー乗降区間を廃止し全区間で座席指定券が必要となった<ref>{{Cite web|和書|title=大井町線有料座席指定サービス「QSEAT」 サービス内容の変更について|url=https://www.tokyu.co.jp/information/list/Pid=post_741.html|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-02-17}}</ref>。 ==== 各駅停車 ==== 5両編成が使用される。大半の列車は大井町 - 溝の口間の運転である。また毎日早朝・深夜には田園都市線鷺沼駅発着の列車が、始発・終電に各1本二子玉川駅発着の列車が、平日朝に1本自由が丘発の列車が、それぞれ設定されている。 一部の列車は旗の台駅で急行を待ち合わせするほか、上り(大井町方面行き)のみ朝や夕方に上野毛駅で急行の通過待ちを行う列車が存在する。このほか、二子玉川駅・溝の口駅で同じ方向の田園都市線の準急・急行に接続する列車も設定されている。 一部の[[各駅停車]]は田園都市線の[[二子新地駅]]・[[高津駅 (神奈川県)|高津駅]]に停車するため、種別色により区別して案内されている。 * 種別色が緑({{Color|green|■}})の各駅停車(G各)は大井町駅 - 溝の口駅間の全線で大井町線の線路を走行し、ホームのない二子新地駅・高津駅は通過する。「各駅停車」であるが“通過駅”のある珍しい例の一つである。後述のように、高津駅・二子新地駅を経由しない二子玉川駅発着の各駅停車についても、緑の各停として運転されている。 * 種別色が青({{Color|blue|■}})の各駅停車(B各)は二子玉川駅 - 溝の口駅間で田園都市線の線路を走行し、二子新地駅・高津駅に停車する。 なお、種別色が緑の各駅停車の方が多く運転されており、種別色が青の各駅停車は、日中1時間に3本と早朝・深夜時間帯の鷺沼駅発着(平日上下7本、土休日上下8本)の列車のみである。こちらは、直通先の田園都市線を含めてすべての駅に停車する。 2009年7月11日に二子玉川駅 - 溝の口駅間が延伸開業するまでは、種別色での表示・案内には青色のみが使用されていた。また田園都市線に直通する鷺沼行きがあった。 === 過去の運行形態 === {{Vertical_images_list |幅=200px |枠幅=200px |1=Tokyu8500oimachi.jpg |2=8500系による大井町線 - 田園都市線を直通する急行(2006年6月10日、梶が谷駅) |3=Tokyu8500oimachi label.jpg |4=大井町線車両(5両編成)に貼り付けられているステッカー。白い矢印が大井町線、その他の縦の線は他の東急各線(左から、田園都市線・東横線・目黒線・池上線)を指し、東急各線を結ぶという位置付けが表されている{{要出典|date=2020年9月}}。 }} 1943年の溝の口線編入から1979年までは、大井町駅から二子玉川園(現・二子玉川)駅を経由し、二子玉川園駅以西の現在の田園都市線区間へ運行する形態が基本的な運行であった(1963年から1979年までは大井町駅 - 二子玉川園駅間も「田園都市線」の路線名であった)<ref name="Fan1979-11"/>。なお、二子玉川園駅の高架化後は線路配置の関係で同駅での折り返しがしにくかった時期があり、二子新地前(現・二子新地)駅に逆方向の片渡り線を設けて、一部は二子新地前駅折り返しの列車も設定されていた<ref>鉄道ピクトリアル 2017年7月号特集「東急田園都市線」</ref>。また、ラッシュ時間帯には梶が谷、溝の口、鷺沼の各駅を発着する列車も運転されていた。その後、新玉川線(現在の田園都市線渋谷駅 - 二子玉川駅間)の開業後に二子玉川園駅以西からの一部列車が新玉川線渋谷方面へ直通するようになる<ref name="Fan1979-11"/>。 1979年には、大井町線の分離によって、一部を除き二子玉川園駅以西へは運転されなくなり、大井町 - 二子玉川園間の運行が基本となった。同時に一部のみ設定されていた二子新地駅折返し列車の設定がなくなり、系統分離直後に同駅の渡り線を撤去した。 1979年の系統分離以前には快速列車が運転されていた時期があったが、快速運転は二子玉川園駅以西で行われ、現在の大井町線にあたる大井町 - 二子玉川園間ではすべての列車が各駅に停車していた。系統分離時より基本的には5両編成であったが、1981年(昭和56年)4月1日から1989年(平成元年)1月25日までは初代6000系や初代7000系18&nbsp;m車による6両編成運転が実施され、一時的に大形20&nbsp;m車5両編成(初代5000系は5両編成)と混用された時期があった<ref name="Fan1981-7"/>。 1979年8月12日から2008年3月27日までは全列車が各駅停車であった。田園都市線と直通する急行列車が2002年と2003年<ref>[http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/030422-2.html 「TOKYU NEWS 2003/04/22ゴールデンウィーク期間の臨時ダイヤについて」]</ref>に臨時列車として、2006年3月18日からは土曜・休日のみの定期列車として運行を開始した<ref name="ニュースリリース12月16日" />が、これも2008年3月28日の大井町線の急行運転開始より前は大井町線内は各駅停車として運転し、田園都市線内のみ急行として運転した。なお、直通急行の定期運用化の時期に、田園都市線内での誤乗を防ぐため、一部編成を除き先頭車の前面下部と側面のドアと窓の間に大井町線のロゴ入りステッカーが貼り付けられ、帯のデザインも大井町線のカラーのオレンジのグラデーションに変更された。この時に施行されなかった編成についても大井町線内急行運転開始時に施行された(8000系を除く)。 2008年3月28日に線内での急行列車運転が開始された。また、2009年7月11日に二子玉川駅 - 溝の口駅間が延伸開業し、現在の運行形態が形作られた。([[#改良工事|改良工事]]の節も参照) === 戦前期の急行運転 === 大井町線では戦前の一時期に急行列車が運転されていた<ref name="RF1981-6"/>。これは大井町 - 二子玉川間で運行される列車のうち、朝間の上りと夕方の下りに大井町 - 荏原町間を通過運転するものであった<ref name="RF1981-6" />。運転開始時期は[[昭和一桁]]後期で<ref name="PIC-1994-12">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1994年12月臨時増刊号「特集:東京急行電鉄」pp.141 - 146。</ref>、1936年(昭和11年)4月1日のダイヤ改正で廃止されている<ref name="RF1981-6" /><ref name="PIC-1994-12"/>。 この急行には、車両の前面向かって右側(東横線系統は前面向かって左側<ref name="PIC1985-1">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1985年1月臨時増刊号「東京急行電鉄特集」102頁記事。</ref> )に急行板が掲出されていたが<ref name="RF1981-6" />、「急行」表記のほかに「通過駅 中延 蛇窪 戸越」と表記されていた<ref name="RF1981-6" />。なお、この表示の「戸越」・「蛇窪」はそれぞれ、現在の下神明駅・戸越公園駅のことである。通過駅の旅客のため、大井町 - 荏原町間には折り返し各駅停車が運転されていた<ref name="PIC1985-1"/>。 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === [[2019年]]10月時点で営業運転に使用している車両を記載する<!--<ref name="RM2014-4">ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」2014年4月号特集「東急電鉄長津田検車区24時間密着ルポ」24頁東京急行電鉄基本車両編成表。</ref> -->。 東急電鉄の2023年度の設備投資計画において、大井町線9000系・9020系車両の更新に向けた車両新造に着手する旨が公表されている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20230511-3.pdf|title=2023年度の設備投資計画 さらに安全・安心な鉄道サービスを追求し、時代に即した社会的価値提供のため総額431億円を投資|date=2023-05-11|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-10-01 }}</ref>。 * [[東急2020系電車#6020系|6020系]] - 7両編成2本(14両)。急行専用<ref name="newsrelease20171012" />。2018年3月28日営業運転開始<ref name="railfjp20180329" />。 * [[東急6000系電車 (2代)|6000系]] - 7両編成6本(42両)。急行専用。 * [[東急9000系電車|9000系]] - 5両編成15本(75両)。 * [[東急2000系電車#9020系|9020系]]<ref name="raifjp20190218">[https://railf.jp/news/2019/02/18/170000.html 東急2000系改め,9020系が登場] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年2月18日</ref> - 5両編成3本(15両) 元[[東急2000系電車|2000系]]。 車両の[[集電装置|パンタグラフ]]はすべて[[集電装置#Z型・シングルアーム型|シングルアーム式]]を使用しているが、6000系・6020系以外は当初菱形のものを使用しており、後年にシングルアーム式に交換された。 また、5両編成は全編成とも前面帯が後年にグラデーションタイプのものに張り替えられ、側面ドア横には「大井町線」のシールが貼られている。 [[九品仏駅]]では二子玉川寄りの1両が[[ドアカット]]を実施している。そのため、ドア非扱い装置を設置しているほか、ドアとその上部にはドアが開かない旨のステッカーを貼り付けている。なお、かつて大井町寄り2両のドアカットを行っていた[[戸越公園駅]]についても、同様にドアとその上部にドアが開かない旨のステッカーを貼り付けていた。両駅を通過する急行のみで運用される6000系・6020系はドアカットを行わないため、ドアカットのステッカー貼り付けも行われていない。 大井町線では、2006年3月の田園都市線直通急行定期運転開始の際に一部編成で各駅停車の表示を開始したものの、大井町線内急行運転開始を経ても全編成では表示を行わず、溝の口延伸までに全編成が各駅停車表示を行うようになった。 <gallery widths="200"> ファイル:Tokyu 6020 series Ōimachi Line 20181228.jpg|6020系 ファイル:Tokyu6000(2).jpg|6000系 ファイル:Tokyu-Series9000 9007.jpg|9000系 ファイル:Tokyu-Oimachi-Line_Series9020-9021.jpg|9020系 </gallery> === 過去の使用車両 === * [[東急3000系電車 (初代)|3000系(初代)]]( - 1981年3月31日<ref name="Fan1981-7"/>) ** [[東急デハ3450形電車|3450形]] ** [[東急デハ3450形電車#デハ3500形|3500形]] ** [[東急3600系電車|3600系]] ** [[東急3700系電車|3700系]] * [[東急5000系電車 (初代)|5000系(初代)]]( - 1985年3月31日<ref name="Fan1985-8">交友社『鉄道ファン』1985年8月号「東急ニュース '85」pp.75 - 79。</ref>) * [[東急5200系電車|5200系]] * [[東急6000系電車 (初代)|6000系(初代)]] * [[東急7000系電車 (初代)|7000系(初代)]] * [[東急7200系電車|7200系]] * [[東急7600系電車|7600系]] * [[東急7700系電車|7700系]] * [[東急8000系電車|8000系]](狭義)<ref>{{cite journal | 和書 | journal = 鉄道ダイヤ情報 | date = 2008-04 | pages = p. 79 }}</ref> * [[東急8090系電車|8090系・8590系]] * [[東急8500系電車|8500系]] * [[東急2000系電車|2000系]]<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20181121-727659/ 東急電鉄2000系、大井町線各停に! 6020系「Q SEAT」車両も運行中] - マイナビニュース、2018年11月21日</ref> - 9020系に改番<ref name="raifjp20190218" /> 1979年(昭和54年)8月の田園都市線・新玉川線(当時)と大井町線との運転系統分離時には、東横線を含めた大規模な車両の転配が行われた<ref name="Fan1979-11"/>。大井町線という名称が復活した同時点では[[東急デハ3450形電車|デハ3450形]]5両編成、初代5000系5両編成、8000系5両編成の3系列が配置されていた<ref name="Fan1979-11"/>。この時点での大井町線の冷房車は全23編成中わずか2編成(8000系)であった。 1980年(昭和55年)には東横線から7200系が5両編成として転入した<ref name="Fan1980-10">交友社「鉄道ファン」1980年10月号「'80夏 東急ニュース」93-95頁記事。</ref> 。1981年(昭和56年)3月には東横線から初代6000系が転入し、同年4月1日からは初代6000系・7200系18m車による6両編成運転が開始された<ref name="Fan1981-7"/> 。これに伴い、デハ3450形は運用を終了し、大井町線は全車両が高性能車となった<ref name="Fan1981-7"/>。 1981年(昭和56年)12月には初代7000系が6両編成として転入するなど<ref name="Fan1982-7">交友社「鉄道ファン」1982年7月号「東急ニュース '82-4」108-113頁記事。</ref> 、しばらくの期間は大形20&nbsp;m車5両編成と18&nbsp;m車6両編成との混用が続いていた。 最終的には、東横線から8090系が転入することで18&nbsp;m車による6両編成の運転は、1989年(平成元年)1月26日のダイヤ改正に合わせて20m車5両編成に統一され消滅した<ref>ネコ・パブリッシング「レイルマガジン」1989年4月号NEWSCRAMBLE「営団半蔵門線延長および東急ダイヤ改正」記事</ref>。 このほか、1986年(昭和61年)に[[伊豆急行2100系電車|伊豆急行2100系]]「リゾート21」がイベント列車として入線したことがある<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.125</ref>。 <gallery widths="200"> ファイル:Tokyu 5000 approaching Midorigaoka.jpg|5000系(1985年撮影) ファイル:Tokyu 5200 Midorigaoka.jpg|5200系(1985年撮影)<br />デハ5117組み込み ファイル:Tokyu 6000 approaching Midorigaoka.jpg|6000系(1985年撮影) ファイル:Tokyu 8000 series EMU 002.JPG|8000系(2008年撮影) ファイル:Tokyu8090Gradation-LED-1.jpg|8090系(2008年撮影) ファイル:Tokyu8500Gradation.jpg|8500系(2008年撮影) ファイル:Tokyu 2000 series Ōimachi Line 20181230.jpg|2000系(2018年撮影) </gallery> === 導入予定車両 === *新型車両(形式不明)- 2022年度以降に新型車両の導入が計画されている。また、9000系は経年劣化に伴い、新型車両への更新が検討されている。<ref>{{Cite press release|和書|title=2023年3月の実施に向けて鉄軌道旅客運賃の改定を申請|publisher=東急電鉄|date=2022-01-07|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220107-1-all.pdf#page=28|format=PDF|accessdate=2022-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220107064741/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220107-1-all.pdf#page=28|archivedate=2022-01-07|quote=田園都市線に続き、大井町線で新型車両への置き換えを実施}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001476323.pdf |title=運輸審議会 配付資料(令和4年2月17日) |accessdate=2022-04-11 |publisher=国土交通省 |format=PDF |page=10}}</ref> === その他 === 営業運転ではないが、[[長津田車両工場]]や[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[鷺沼車両基地]]への入出場のため、東急の他路線の車両や[[横浜高速鉄道]]・[[東京メトロ日比谷線]]の車両<ref>[https://railf.jp/news/2017/07/29/200000.html 東京メトロ03系第8編成が試運転を行う] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2017年7月29日</ref><ref>[https://railf.jp/news/2018/12/04/174000.html 東京メトロ13000系第7編成が鷺沼へ] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年12月4日</ref>が当路線を回送列車として走行することがある。 == 利用状況 == 2019年度の朝ラッシュ時の最混雑区間は[[九品仏駅]] → [[自由が丘駅]]間で、ピーク時(7:30 - 8:30)の[[乗車率|混雑率]]は'''156%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001365148.pdf |title=混雑率データ(令和元年度) |publisher=国土交通省 |page=1 |format=PDF |date=2020-11-01|accessdate=2020-11-01}}</ref>。 混雑率は概ね150%台で推移していたが、急行の運転開始による6両編成の運転開始に伴い、一旦は混雑率が140%を下回った。その後は輸送人員が増加傾向に転じ、2016年度に混雑率が170%を上回ったが、急行の7両編成化によって混雑率は再度160%を下回った。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|最混雑区間(九品仏 → 自由が丘間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref> !rowspan="2"|特記事項 |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |1980年(昭和55年) | 20 || 12,370 || 21,938 || style="background-color: #ffcccc;"|'''177''' | |- |1990年(平成{{0}}2年) | 18 || 12,672 || 22,515 || '''175''' | |- |1991年(平成{{0}}3年) | 18 || 12,672 || 21,779 || '''172''' | |- |1992年(平成{{0}}4年) | 18 || 12,672 || 22,064 || '''174''' | |- |1993年(平成{{0}}5年) | 18 || 12,672 || 21,085 || '''166''' | |- |1994年(平成{{0}}6年) | 18 || 12,672 || 20,147 || '''159''' | |- |1995年(平成{{0}}7年) | 18 || 12,672 || 20,293 || '''160''' | |- |1996年(平成{{0}}8年) | 18 || 12,672 || 19,255 || '''152''' | |- |1997年(平成{{0}}9年) | 18 || 12,672 || 19,105 || '''151''' | |- |1998年(平成10年) | 18 || 12,672 || 18,802 || '''148''' | |- |1999年(平成11年) | 18 || 12,672 || 19,104 || '''151''' | |- |2000年(平成12年) | 18 || 12,672 || 19,485 || '''154''' |style="text-align:left;"|2000年8月6日、目黒線開業(9月26日、営団・都営地下鉄と直通運転開始) |- |2001年(平成13年) | 18 || 13,176 || 19,396 || '''147''' | |- |2002年(平成14年) | 18 || 13,176 || 20,237 || '''154''' | |- |2003年(平成15年) | 18 || 13,176 || 20,032 || '''152''' | |- |2004年(平成16年) | 18 || 13,176 || 20,887 || '''159''' | |- |2005年(平成17年) | 18 || 13,176 || 20,566 || '''156''' | |- |2006年(平成18年) | 18 || 13,176 || 21,738 || '''165''' |style="text-align:left;"|2006年9月25日、目黒線の急行運転開始 |- |2007年(平成19年) | 18 || 13,176 || 20,880 || '''158''' |style="text-align:left;"|2008年3月28日、急行運転開始 |- |2008年(平成20年) | 20 || 15,390 || 21,062 || style="background-color: #ccffff;"|'''137''' | |- |2009年(平成21年) | 20 || 15,390 || 23,727 || '''154''' |style="text-align:left;"|2009年7月11日、二子玉川 - 溝の口間開業 |- |2010年(平成22年) | 20 || 15,390 || 25,019 || '''163''' | |- |2011年(平成23年) | 20 || 15,390 || 25,496 || '''166''' | |- |2012年(平成24年) | 20 || 15,390 || 24,757 || '''161''' | |- |2013年(平成25年) | 20 || 15,390 || 24,808 || '''161''' | |- |2014年(平成26年) | 20 || 15,390 || 25,375 || '''165''' | |- |2015年(平成27年) | 20 || 15,390 || 25,886 || '''168''' | |- |2016年(平成28年) | 20 || 15,390 || 26,459 || '''172''' | |- |2017年(平成29年) | 20 || 15,390 || 25,482 || '''162''' |style="text-align:left;"|2018年2月9日、急行の7両編成化が完了 |- |2018年(平成30年) | 21 || 17,472 || 27,014 || '''155''' | |- |2019年(令和元年) | 21 || 17,472 || style="background-color: #ffcccc;"|27,259 || '''156''' | |} == 駅一覧 == <!-- 旅客案内の記述の際には、他と同様に資料を提示の要。現地調査の記録を書くことはできません。WP:ORを参照 --> * 田園都市線複々線区間も合わせて記載。 * 停車駅 … ●:停車、○:種別色が青({{Color|blue|■}})の各駅停車のみ停車、種別色が緑({{Color|green|■}})の各駅停車は通過、|:通過。 {| class="wikitable" |- !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f18c43;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}} !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #f18c43;"|駅番号 !style="width:6em; border-bottom:solid 3px #f18c43;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f18c43;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f18c43;"|累計キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f18c43;"|{{縦書き|各停}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f18c43; background:pink;"|{{縦書き|急行}} !style="border-bottom:solid 3px #f18c43;"|接続路線・備考 !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #f18c43;"|所在地 |- |rowspan="15" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''大井町線'''|height=8em}} !OM01 |[[大井町駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|● |[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 19)<br />[[東京臨海高速鉄道]]:[[ファイル:Rinkai Line symbol.svg|18px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] (R 07) |rowspan="16" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}} |rowspan="6"|[[品川区]] |- !OM02 |[[下神明駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |&nbsp; |- !OM03 |[[戸越公園駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |&nbsp; |- !OM04 |[[中延駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-03) |- !OM05 |[[荏原町駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |&nbsp; |- !OM06 |[[旗の台駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|● |[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu IK line symbol.svg|18px|IK]] [[東急池上線|池上線]] (IK05)<br />''待避可能'' |- !OM07 |[[北千束駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[大田区]] |- !OM08 |[[大岡山駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|4.8 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|● |東急電鉄:[[ファイル:Tokyu MG line symbol.svg|18px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]] (MG06) |- !OM09 |[[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|5.3 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[目黒区]] |- !OM10 |[[自由が丘駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|6.3 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|● |東急電鉄:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線|東横線]] (TY07) |- !OM11 |[[九品仏駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|7.1 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |''二子玉川駅寄り1両の扉が開かない'' |rowspan="6" style="white-space:nowrap;"|[[世田谷区]] |- !OM12 |[[尾山台駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|7.8 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |&nbsp; |- !OM13 |[[等々力駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|8.3 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |&nbsp; |- !OM14 |[[上野毛駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|9.2 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|| |''上りのみ通過待避可能'' |- style="height:1em;" !rowspan="2"|OM15 |rowspan="2"|[[二子玉川駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|1.2 |rowspan="2" style="text-align:right;"|10.4 |rowspan="2" style="text-align:center;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:pink;"|● |rowspan="2"|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu DT line symbol.svg|18px|DT]] [[東急田園都市線|田園都市線]] (DT07) 〈[[渋谷駅|渋谷]]方面〉 |- |rowspan="4" style="width:1em; text-alighn:center;"|{{縦書き|田園都市線|height=6em}} |- !(DT08) |[[二子新地駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|11.1 |style="text-align:center;"|○ |style="text-align:center; background:pink;"|| |東急電鉄:[[ファイル:Tokyu DT line symbol.svg|18px|DT]] 田園都市線 (DT08) |colspan="2" rowspan="3"|[[神奈川県]]<br />[[川崎市]]<br />[[高津区]] |- !(DT09) |[[高津駅 (神奈川県)|高津駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|11.7 |style="text-align:center;"|○ |style="text-align:center; background:pink;"|| |東急電鉄:[[ファイル:Tokyu DT line symbol.svg|18px|DT]] 田園都市線 (DT09) |- !OM16 |[[溝の口駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|12.4 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center; background:pink;"|● |東急電鉄:[[ファイル:Tokyu DT line symbol.svg|18px|DT]] 田園都市線 (DT10) <br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JN line symbol.svg|18px|JN]] [[南武線]]([[武蔵溝ノ口駅]]:JN 10) |- !colspan="7"|直通運転 |colspan="3"|急行の一部は[[中央林間駅]] (DT27) まで、<br />種別色が青({{Color|blue|■}})の各駅停車の一部は鷺沼駅 (DT14) まで直通運転 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=東京急行電鉄50年史|publisher=東京急行電鉄|date=1973-04-18|ref=50th}} * [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 ** 1981年6月号 半世紀を走り続けた電車「東急3450形物語1」(宮田道一・荻原 俊夫) == 関連項目 == * [[東急田園都市線]] * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[Train Simulator+電車でGO! 東京急行編]] - 大井町線が収録されており、運転することができる。 == 外部リンク == {{Commonscat|Tōkyū Ōimachi Line}} * [https://www.tokyu.co.jp/railway/data/train_line/om.html 大井町線路線情報] - 東急電鉄 * [https://www.tokyu.co.jp/railway/station/om.html 大井町線各駅情報] - 東急電鉄 {{東急電鉄の路線}} {{Rail-stub}} {{デフォルトソート:とうきゆうおおいまちせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|おおいまちせん]] [[Category:東急電鉄の鉄道路線|おおいまち]] [[Category:東京都の交通]]
2003-06-26T03:19:33Z
2023-12-26T12:37:28Z
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作業研究
作業研究(さぎょうけんきゅう、work study)とは、作業測定(狭義)と方法研究の手法を併せて用いることによって、投入資源を有効に活用し、システムの生産性向上を目指す活動の総称。投入資源は、人、物、設備、情報などである。 work study は、狭義のメソッドエンジニアリング (method engineering) とほぼ同義であり、ともに作業研究と訳される。オールドIEと呼ばれることもある。(広義のメソッドエンジニアリングは、作業測定、方法研究、作業研究、方法設計などを包含するエンジニアリングアプローチである。) 1930年ごろ、A. H. Mogensen が作業の単純化を提唱し、それまでの作業測定、方法研究との相乗効果によって、生産現場の作業改善が急速に進展した。同時期に、Harold B. Maynard が、時間研究と動作研究を結合したメソッドエンジニアリングを提唱した。
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阿弥陀如来
阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。浄土教系の仏教では、「南無阿弥陀仏」という称名念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰を説く。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)の教主とされる(東方は薬師如来)。五智如来においては、西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀が法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。 梵名はアミターバ(अमिताभ, Amitābha)、あるいはアミターユス (अमितायुस्, Amitāyus)といい、それを阿弥陀と音写する。阿弥陀仏(阿弥陀佛)ともいい、また略して弥陀仏ともいう。 梵名のアミターバは「量しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。 「浄土三部経」の内、『無量寿経』と『阿弥陀経』の成立時期については、無量寿経の成立時期と編纂者を参照。 『観無量寿経』については、サンスクリット原典が2011年現在発見されていない。中央アジアで作成されたと考えられる。 浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。 末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力(自力)では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力」によってのみ救済されるとする。 釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『歎異抄』の第二章に、端的に述べられている。 浄土教諸宗において主に用いられる『仏説無量寿経』では、「無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明及ぶこと能わざるところなり」、親鸞の著書『顕浄土真実教行証文類』では、「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし」「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」とする。 西山深草派の顕意は、阿弥陀如来を一切の仏の根本とし、諸仏は阿弥陀仏を化主とすると主張する。この理解の教証として顕意は、善導が『般舟経』に依拠して説いた言葉である「三世の諸仏は念弥陀三昧によって正覚を得た」をあげる。しかし、鎮西派の良忠は「念阿弥陀仏三昧」は『般舟経』においては説かれず、一切の仏は阿弥陀仏を念じて成仏した訳ではないとし、「念仏三昧」を「念阿弥陀仏三昧」とする理解は阿弥陀仏を「法門の主」とするための善導の独自解釈だとする。 チベット仏教では、無量寿仏と無量光仏は区別されている。また、ゲルク派第二位のパンチェン・ラマは無量光仏の化身とされる。チベット死者の書によれば、(大日如来、阿閦如来、宝生如来に続いて)死後の4日目に魂の救済に現れるとされる。 浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。 法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されている。 仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されている。 大乗離文字普光明蔵経においても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれている。 阿弥陀仏信仰の成立年代とその地域については、仏像にせよ、文献にせよ、特定の手がかりとなるものが少ない。しかし、浄土系経典に用いられる仏教用語は部派仏教の用語を下敷きとしており、少なくとも部派仏教確立より以後の成立と考えられる。また浄土系経典の漢訳者の出身地は西域および北インドが多いことから、これらの地域で阿弥陀仏信仰が盛んであったことがうかがえる。 また、アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア系のインド・グリーク朝やイラン系のクシャーナ朝などの支配のもと、北インドと西方世界の交流があったことを背景に、ゾロアスター教やミトラ教、あるいはキリスト教などが阿弥陀仏信仰の成立に影響したとの説も一部で見られるが、いまだ客観的根拠に乏しい。 碑文に記された阿弥陀仏の最古の例は、北インドのマトゥラー近郊出土の足だけを残す仏の台座(マトゥラー博物館所蔵)である。記銘によると、クシャーナ朝のフヴィシカ王の28年(西暦2世紀後半)に、隊商により奉献されたものである。 阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』である。また西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。 西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。 三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種子字)は ह्रीः (キリーク、hrīḥ)。 造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、印相は定印、説法印、来迎印などがある(詳しくは印相を参照のこと)。 阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を配する。 密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。像容は一般的には上記の顕教のものと同じだが、一部には装身具を身につけたものもある。 密教式の阿弥陀如来のうち、紅玻璃色阿弥陀如来と呼ばれるものは髷を高く結い上げて宝冠を戴き体色が赤いのが特徴である。主に真言宗で伝承される。 また宝冠阿弥陀如来というものもあり、こちらは天台宗の常行三昧の本尊として祀られる。紅玻璃色阿弥陀如来と同じく宝冠などの装身具を身につけ、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩の四菩薩を眷属とする。 鎌倉時代以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになる。
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阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。浄土教系の仏教では、「南無阿弥陀仏」という称名念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰を説く。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)の教主とされる(東方は薬師如来)。五智如来においては、西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀が法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。
{{Dablink|「'''あみだ'''」「'''阿弥陀'''」はこの項目へ[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されています。 * くじの一種については「[[あみだくじ]]」をご覧ください。 * その他については「[[アミダ]]」をご覧ください。}} {{redirect|弥陀|台湾高雄市の市轄区|弥陀区}} {{Infobox Buddha |名= 阿弥陀如来 |種類=[[如来]]<br />([[金剛界五仏]]・[[胎蔵界五仏]]) |梵名= 「アミターバ」<br />({{翻字併記|sa|अमिताभ|Amitābha|N}})<br />「アミターユス」 <br />({{翻字併記|sa|अमितायुस्|Amitāyus|N}}) |蔵名= 「オパクメ」<br/>(འོད་དཔག་མེད་ 'od dpag med) |別名= 阿弥陀仏<br />無量寿如来<br />無量寿仏<br />無量光仏<br />無辺光仏<br />無礙光仏<br />無対光仏<br />焔王光仏(光炎王仏)<br />清浄光仏<br />歓喜光仏<br />智恵光仏<br />不断光仏<br />難思光仏(難思議仏)<br />無称光仏<br />超日月光仏<br />不可思議光仏<br />観自在王如来<br />甘露王如来 |画像= [[ファイル:Kamakura Budda Daibutsu front 1885.jpg|250px]] |説明文= 銅造阿弥陀如来坐像<br />([[高徳院]]・鎌倉大仏) |種字 =[[File:.Bonji-hrīḥ.svg|20px]] キリーク<br/>[[File:BonjiAm.png|25px]] アン |真言・陀羅尼=オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン<br/>阿弥陀如来根本陀羅尼 等<br/>([[#真言・陀羅尼]]参照) |経典= 『[[仏説無量寿経]]』<br />『[[仏説観無量寿経]]』<br />『[[仏説阿弥陀経]]』 |主要経典注釈書=『[[無量寿経優婆提舎願生偈]]』<br />『[[無量寿経優婆提舎願生偈註]]』<br />『[[安楽集]]』<br />『[[観無量寿経疏]]』 |信仰= [[浄土教]]<br />[[融通念仏宗]]<br />[[浄土宗]]<br />[[浄土真宗]]<br />[[時宗]]<br/>[[密教]]<br/>[[真言宗]]<br/>[[天台宗]]<br/>[[十三仏|十三仏信仰]] |浄土=[[極楽|西方極楽浄土]] |関連項目= [[観音菩薩]]<br />[[勢至菩薩]] }} '''阿弥陀如来'''(あみだにょらい)は、[[大乗仏教]]における信仰対象である[[如来]]の一尊。[[浄土教]]系の[[仏教]]では、「[[南無阿弥陀仏]]」という[[称名念仏]]により浄土に往生できるという阿弥陀信仰を説く。西方にある[[極楽|極楽浄土]]という仏国土([[浄土]])の教主とされる(東方は[[薬師如来]])。[[五智如来]]においては、西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀が法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。 == 名称 == [[サンスクリット|梵名]]は'''アミターバ'''({{翻字併記|sa|अमिताभ|Amitābha|N}})、あるいは'''アミターユス''' ({{翻字併記|sa|अमितायुस्|Amitāyus|N}})といい、それを阿弥陀と音写する。'''阿弥陀仏'''(阿弥陀佛)ともいい、また略して'''弥陀仏'''ともいう。 梵名のアミターバは「{{ruby|量|はかり}}しれない光を持つ者」{{refnest|name="日本大百科全書"|[https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F-27279#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「阿弥陀仏」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]}}、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」{{refnest|name="日本大百科全書"}}の意味で<ref>『うちのお寺は浄土宗』2015年、[[双葉文庫]]、14ページ。</ref>、これを漢訳して・'''無量光仏'''、'''無量寿仏'''ともいう。<!--(独自研究?似たような記述の「法話」、「一般書」があったとしてもちょっと客観性に欠ける記述)[[無明]]の[[現世]]をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。--> == 経典・儀軌 == === 浄土三部経 === 「[[浄土三部経]]」の内、『[[無量寿経]]』と『[[阿弥陀経]]』の成立時期については、[[無量寿経#経典成立時期と編纂者|無量寿経の成立時期と編纂者]]を参照。 『[[観無量寿経]]』については、サンスクリット原典が2011年現在発見されていない。中央アジアで作成されたと考えられる。 ; 『[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]』 : 一切の衆生救済のために王位を捨てて、[[世自在王仏]]のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、[[衆生]]救済のための五[[劫]]思惟{{efn|五劫思惟(ごこうしい)…「五劫」とは、無限に近い、非常に長い期間のこと。思惟とは、「作是思惟」とは、心を集中し、物事の道筋を立てて深く願が進むこと。}}し、浄土への[[往生]]の手立てを見出し、衆生救済のための「[[四十八願]]」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった[[報身]]仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。 : 特に[[浄土教]]諸宗においては、「四十八願」のうち「[[四十八願#第十八願|第十八願]]」を重要視する。 ; 『[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]』 : 「極楽」のありさまと、阿弥陀仏の徳が説かれる。東方・南方・西方・北方・下方・上方世界の[[ガンジス河]]の砂の数ほどの諸仏から賞賛されていると説かれる。そして「極楽」に生まれる方法{{efn|生まれる方法…浄土教諸宗各々で、「浄土三部経」の解釈が異なるため、このことに関しての詳細は省略する。それぞれの宗旨・宗派のページを参照。}}が説かれる。 == 信仰 == {{出典の明記|section=1|date=2017-10}} === 浄土真宗 === [[浄土真宗]]においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力{{efn|阿弥陀如来の本願力…阿弥陀如来のはたらき。}}にのみ帰依することとする(詳細は、[[他力本願]]を参照)。真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、[[立像]]であるべきとされる。 [[末法]]濁世の衆生は、[[煩悩]]具足の[[凡夫]]であり、自らの力(自力{{efn|「自力」とは、「自己に備わった能力」をいう。「仏・菩薩などのはたらきを意味」する「他力」に対する<ref>『岩波仏教辞典』[[岩波書店]]、2002年、560頁より引用。</ref>。}})では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力{{efn|ここでの「他力」は、阿弥陀仏の本願力(はたらき)のこと。}}」によってのみ救済されるとする。 [[釈迦|釈尊]]が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、[[善導]]は『[[観無量寿経疏]]』にて、[[法然]]は『[[選択本願念仏集]]』(『選択集』)にて注釈し、それらを受けた[[親鸞]]が『[[顕浄土真実教行証文類]]』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『[[歎異抄]]』の第二章に、端的に述べられている。 === 最も優れた仏としての阿弥陀仏 === [[浄土教]]諸宗において主に用いられる『[[仏説無量寿経]]』では、「無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明及ぶこと能わざるところなり」、[[親鸞]]の著書『[[顕浄土真実教行証文類]]』では、「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし」「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」とする。<ref>[http://seiten.icho.gr.jp/html/030.html 聖教電子化研究会 仏説無量寿経巻上 p.30][http://seiten.icho.gr.jp/html/158.html 聖教電子化研究会 仏説無量寿経巻上 p.158][http://seiten.icho.gr.jp/html/323.html 聖教電子化研究会 仏説無量寿経巻上 p.323]</ref> === 根本仏としての阿弥陀仏 === [[西山深草派]]の[[顕意]]は、阿弥陀如来を一切の仏の根本とし、諸仏は阿弥陀仏を化主とすると主張する。この理解の教証として顕意は、[[善導]]が『[[般舟三昧経|般舟経]]』に依拠して説いた言葉である「三世の諸仏は念弥陀三昧{{efn|阿弥陀仏を念ずることによる精神統一。}}によって正覚を得た」をあげる。しかし、[[鎮西派]]の[[良忠]]は「念阿弥陀仏三昧」は『般舟経』においては説かれず、一切の仏は阿弥陀仏を念じて成仏した訳ではないとし、「念仏三昧」を「念阿弥陀仏三昧」とする理解は阿弥陀仏を「法門の主」とするための善導の独自解釈だとする<ref>{{Cite journal|和書|author=中村玲太 |year=2015 |title=法然門流における弥陀法身/報身説の検討 |url=https://doi.org/10.24694/shinran.30.0_2 |journal=現代と親鸞 |ISSN=1347-4316 |publisher=真宗大谷派 親鸞仏教センター |volume=30 |pages=19-22 |doi=10.24694/shinran.30.0_2}}</ref>。 === チベット仏教 === [[チベット仏教]]では、無量寿仏と無量光仏は区別されている。また、ゲルク派第二位の[[パンチェン・ラマ]]は無量光仏の化身とされる。チベット死者の書によれば、([[大日如来]]、[[阿閦如来]]、[[宝生如来]]に続いて)死後の4日目に魂の救済に現れるとされる。 === その他の経典における阿弥陀如来 === 浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。 法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されている。 仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されている。 大乗離文字普光明蔵経においても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれている。 ==成立年代== {{出典の明記|section=1|date=2017-10}} 阿弥陀仏信仰の成立年代とその地域については、仏像にせよ、文献にせよ、特定の手がかりとなるものが少ない。しかし、浄土系経典に用いられる仏教用語は部派仏教の用語を下敷きとしており、少なくとも部派仏教確立より以後の成立と考えられる。また浄土系経典の漢訳者の出身地は西域および北インドが多いことから、これらの地域で阿弥陀仏信仰が盛んであったことがうかがえる。 また、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の東方遠征以降、ギリシア系の[[インド・グリーク朝]]やイラン系の[[クシャーナ朝]]などの支配のもと、北インドと西方世界の交流があったことを背景に、[[ゾロアスター教]]や[[ミトラ教]]、あるいは[[キリスト教]]などが阿弥陀仏信仰の成立に影響したとの説<ref>筑波大学教授の[[平山朝治]]は、阿弥陀信仰の成立にはキリスト教のインド西漸の影響があり、阿弥陀という名の由来を[[トマス (使徒)|聖トマス]]の遺骨がある都市「[[ディヤルバクル|アミダ(Amida)]]」に求めている(平山朝治「大乗仏教の誕生とキリスト教」、『筑波大学経済学論集』第57号 (2007年3月)p.155)</ref>も一部で見られるが、いまだ客観的根拠に乏しい。 碑文に記された阿弥陀仏の最古の例は、北インドのマトゥラー近郊出土の足だけを残す仏の台座(マトゥラー博物館所蔵)である。記銘によると、クシャーナ朝の[[フヴィシカ]]王の28年(西暦2世紀後半)に、隊商により奉献されたものである。 阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の[[支婁迦讖]]によって漢訳された『[[仏説般舟三昧経]]』である。また西暦148年にはすでに[[安世高]]が『[[無量寿経]]』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。 西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。 == 真言・陀羅尼 == * 小咒は、'''オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン'''{{efn|[[新義真言宗]]等一部宗派では『オン・アミリタ・テイ'''ゼ'''イ・カラ・ウン』と読む}}({{IAST|oṃ amṛta-teje hara hūṃ}})。 * 大咒(無量寿如来根本陀羅尼)は、'''ノウボウ・アラタンノウトラヤーヤ・ノウマク・アリヤーミターバーヤ・タタギャタヤアラカテイ・サンミャクサンボダヤー・タニャタ・オン・アミリテイ・アミリトウドバンベイ・アミリタサンバンベイ・アミリタギャラベイ・アミリタシッテイ・アミリタテイセイ・アミリタビキランデイ・アミリタビキランダギャミネイ・アミリタギャギャノウキチキャレイ・アミリタドンドビソワレイ・サラバアラタサダニエイ・サラバキャラマキレイシャキシャヨウキャレイ・ソワカ'''。 *チベット伝承の「無量光仏心咒」は、'''オーン・アミターバ・フリーヒ'''({{IAST|oṃ amitābha hrīḥ}})<ref name=tib_amidamantra>[https://web.archive.org/web/20130817122614/http://mingkok.buddhistdoor.com/cht/news/d/33989 阿彌陀佛心咒及祈請文 - 侯松蔚]</ref>。 **または'''オーン・アミデーヴァ・フリーヒ''' ({{IAST|oṃ amideva hrīḥ}})<ref name="jayarava_amitabhha">[http://visiblemantra.org/amitabha.html Buddha Amitabha mantra and seed syllable in Siddham and Tibetan - including Amitayus mantra, the Shingon Amitabha Mantra, and the Nembutsu.] [http://www.jayarava.org/ (Jayarava ATTWOOD)]</ref>、{{fontsize|177%|ཨོཾ་ཨ་མི་དྷེ་ཝ་ཧྲཱིཿ}} *チベット伝承の「無量寿仏心咒」は、'''オーン・アマーラニ・ジーヴァーンティーイェー・スヴァーハー'''({{IAST|oṃ amāraṇi jīvāntīye svāhā}})<ref name=tib_amidamantra/>。 == 曼荼羅 == * [[当麻曼荼羅]] == 垂迹神 == * [[熊野権現]] * [[八幡神]] == 像形 == [[File:Descent of Amitabha over the Mountain.jpg|thumbnail|150px|絹本著色山越阿弥陀図<br />(京都・[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]](永観堂)所蔵)]] [[File:Longmen-hidden-stream-temple-cave-amitabha.jpg|thumb|150px|阿弥陀如来像(龍門石窟潜渓寺洞主尊)唐時代]] [[File:군위 아미타여래삼존 석굴.jpg|thumb|150px|軍威石窟阿弥陀三尊像(韓国慶尚南道)新羅統一時代 7世紀]] [[三昧耶形]]は蓮の花([[両界曼荼羅|金剛界曼荼羅]]では開花した[[ハス|蓮華]]、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。[[種子 (密教)|種子]](種子字)は {{lang|sa|ह्रीः}} (キリーク、{{IAST|hrīḥ}})。 造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、印相は定印、説法印、来迎印などがある(詳しくは[[印相]]を参照のこと)。 [[阿弥陀三尊]]として祀られるときは、[[脇侍]]に[[観音菩薩]]・[[勢至菩薩]]を配する。 [[密教]]においては、五仏([[五智如来]])の一如来として尊崇される。像容は一般的には上記の顕教のものと同じだが、一部には装身具を身につけたものもある。 密教式の阿弥陀如来のうち、紅玻璃色阿弥陀如来と呼ばれるものは髷を高く結い上げて宝冠を戴き体色が赤いのが特徴である。主に[[真言宗]]で伝承される。 また宝冠阿弥陀如来というものもあり、こちらは[[天台宗]]の常行三昧の本尊として祀られる。紅玻璃色阿弥陀如来と同じく宝冠などの装身具を身につけ、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩の四菩薩を眷属とする。 === 日本における主な作例 === [[ファイル:小野浄土寺三尊.jpg|thumbnail|200px|阿弥陀三尊像(兵庫・浄土寺)]] ; 国宝 * [[中尊寺]] 「木造阿弥陀如来坐像」<ref>{{国指定文化財等データベース|201|00010640|金色堂堂内諸像及天蓋}}</ref> - [[金色堂]]堂内緒像のうち「木造阿弥陀如来及両脇侍像」3躯。 * [[高徳院]] 「銅造阿弥陀如来坐像」<ref>{{国指定文化財等データベース|201|270|銅造阿弥陀如来坐像}}</ref> - 通称「鎌倉大仏」。 * [[平等院]] 「木造阿弥陀如来坐像」(鳳凰堂安置)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|00011036|木造阿弥陀如来坐像〈定朝作/(鳳凰堂安置)〉}}</ref> - [[定朝]]作 * [[広隆寺]] 「木造阿弥陀如来坐像」(講堂安置)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|188|木造阿弥陀如来坐像(講堂安置)}}</ref> * [[仁和寺]] 「木造阿弥陀如来像」<ref>{{国指定文化財等データベース|201|249|木造阿弥陀如来及両脇侍像(金堂安置)}}</ref>(金堂安置) * [[法界寺]] 「木造阿弥陀如来坐像」(阿弥陀堂安置)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|187|木造阿弥陀如来坐像(阿弥陀堂安置)}}</ref> * [[三千院]] 「木造阿弥陀如来坐像」(往生極楽院阿弥陀堂安置)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|3545|木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(往生極楽院阿弥陀堂安置)}}</ref> * [[清凉寺]] 「木造阿弥陀如来坐像」(棲霞寺旧本尊)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|281|木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(棲霞寺旧本尊)}}</ref> * [[浄瑠璃寺]] 「木造阿弥陀如来坐像」(本堂安置)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|213|木造阿弥陀如来坐像(本堂安置)}}</ref> - 「九体阿弥陀如来像」 * [[法隆寺]] 「銅造阿弥陀如来及両脇侍像」(伝橘夫人念持仏)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|235|銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)}}</ref> * [[浄土寺 (小野市)|浄土寺]] 「木造阿弥陀如来立像」(浄土堂安置)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|274|木造阿弥陀如来及両脇侍立像(浄土堂安置)}}</ref> - [[快慶]]作 * [[願成就院]] 「木造阿弥陀如来坐像」(大御堂安置)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|129|木造阿弥陀如来坐像 他}}</ref> - [[運慶]]作 * 「絹本著色山越阿弥陀図」([[禅林寺 (京都市)|永観堂禅林寺]]所蔵)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|142|絹本著色山越阿弥陀図}}</ref> * 「絹本著色山越阿弥陀図」([[京都国立博物館]]所蔵)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|10380|絹本著色山越阿弥陀図}}</ref> * 「絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図」([[知恩院]]所蔵)<ref>{{国指定文化財等データベース|201|119|絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図〈/(早来迎)〉}}</ref> <gallery> ファイル:Interior of Konjikido, Chusonji (62).jpg|木造阿弥陀如来坐像<br />([[中尊寺]]・[[金色堂]]中壇) ファイル:Kamakura Budda Daibutsu front 1885.jpg|銅造阿弥陀如来坐像<br />([[高徳院]]・鎌倉大仏) ファイル:Uji Byodo-in Phönixhalle Innen Amida-Buddha 2.jpg|木造阿弥陀如来坐像<br />(平等院・鳳凰堂) ファイル:Koryuji Monastery Amida of the Kodo (272).jpg|木造阿弥陀如来坐像<br />(広隆寺・講堂) ファイル:Amida Hokaiji.jpg|木造阿弥陀如来坐像<br />(法界寺・阿弥陀堂) ファイル:Amidaba OHARA SANZENIN.JPG|木造阿弥陀如来坐像<br />(三千院・往生極楽院) ファイル:Amida Triad LadyTatibana Horyuji.JPG|銅造阿弥陀如来及両脇侍像<br />(伝橘夫人念持仏)<br />(法隆寺) ファイル:Amida coming over the Mountain.jpg|絹本著色山越阿弥陀図<br />(京都国立博物館) ファイル:Rapid descent.jpg|絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図<br />(京都国立博物館) File:Amida.jpg|阿弥陀如来像(阿弥陀三尊及童子像のうち)奈良・法華寺 </gallery> == 日本語への影響 == [[鎌倉時代]]以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになる。 ; [[十八番]](おはこ) : 前述のとおり、浄土教において四十八願のうち第十八願を'''本願'''として重要視することから、もっとも得意なことを指す。(市川家の家の芸歌舞伎十八番の台本を箱入りで保存したことからとする説もある) ; [[あみだくじ]] : あみだくじの形は元々線を中心から周りに放射状に引いたものであり、それが阿弥陀如来像の光背に似ていたことから<ref>宇津野善晃 『よくわかる仏像の見方』 [[JTB]]</ref>。 ; あみだ被り : 帽子やヘルメットを後頭部にひっかけるように浅く被ること。上記と同じく見た目が光背に似ていることから。 ; 他力本願 : 前述のとおり努力しないことや無責任であることを表現するのに使われるが、本来の意味を誤解・誤用した語である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2017-10}} * {{Cite book|和書|editors=[[中村元 (哲学者)|中村元]]・[[福永光司]]・[[田村芳朗]]・今野 達・[[末木文美士]] 編|year=1995|title=岩波仏教辞典 第二版|publisher=岩波書店|id=ISBN 4-00-080205-4}} * {{Cite book|和書|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂|year=1996|title=<浄土真宗聖典>浄土三部経 -現代語版-|publisher=本願寺出版社|id=ISBN 4-89416-601-1}} * {{Cite book|和書|author=真宗大谷派宗務所出版部 編|edition=第3版|year=2005|title=歎異抄|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|id=ISBN 4-8341-0037-5}} * {{Cite book|和書|author=中村 元|coauthors=福永光司・田村芳朗・末木文美士・今野 達 編 |year=2002|title=岩波仏教辞典 |edition=第二版|publisher=岩波書店|isbn=4-00-080205-4}} == 関連項目 == {{Commonscat|Amitābha|阿弥陀如来}} {{columns-list|colwidth=10em| *[[阿弥陀寺]] *[[阿弥陀堂]] *[[浄土]] *[[浄土三部経]] *[[観音]] *[[馬頭観音]] *[[密教]] *[[浄土宗]] *[[浄土真宗]] *[[当麻曼荼羅]] *[[真言宗]] *[[天台宗]] *[[チベット密教]] * [[仏の一覧]] *[[三身]] *[[あみだくじ]] }} {{浄土教2}} {{Buddhism2}} {{仏陀}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あみたによらい}} [[Category:阿弥陀如来|*あみたによらい]] [[Category:阿弥陀像|*あみたによらい]] [[Category:如来|あ]] [[Category:浄土三部経]] [[Category:浄土思想]] [[Category:浄土教|*あみたによらい]] [[Category:浄土宗]] [[Category:浄土真宗の用語]] [[Category:時宗]]
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ミクロネシア諸語
ミクロネシア諸語(ミクロネシアしょご)とは、ミクロネシア(マリアナ諸島、マーシャル諸島など)やキリバスのギルバート諸島などで使用されている言語の総称。オーストロネシア語族マレー・ポリネシア語派のうち大洋州諸語に含まれる。チャモロ語、パラオ語(これらは西マレー・ポリネシア語群(英語版)に含まれる)、ヤップ語の三言語を除くほとんどのミクロネシアの言語が含まれ、具体的には次のように分けられる。 系統的にはメラネシア東部・ポリネシアの言語に近い。
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プロジェクト
プロジェクト(英: project)は、何らかの目標を達成するための計画を指す。基本的に集団で大がかりに実行するものを指す。 語源は、ラテン語の pro + ject であり、意味は「前方(未来)に向かって投げかけること」である。個々のプロジェクトの固有名を「〜 Project」という語順で記述することもあれば、「Project 〜」という語順にすることもある。日本語の訳語としては「~計画」を充てる。 プロジェクトマネジメント協会が制定しているPMBOK(第5版)の定義では、「プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、所産を創造するために実施する有期性のある業務」とされている。つまり、会社などの通常業務や、継続的な運用管理、あるいは改善活動などは、特に開始と終了が定義されていないので、「プロジェクト」とは呼ばない。ただし、特定の期限までに特定の建築を行う、製品を開発する、システムを構築する、などは個々のプロジェクトになりうる。 複数のプロジェクトを「プログラム」と呼び、全体管理や全体最適を含む複数プロジェクトの管理を「プログラムマネジメント(プログラム管理)」と呼んでいる。 ソフトウェアの設計では、複数のプログラムと環境設定などの構成管理対象を含めて、一つのプロジェクトと呼んでいる。上記のPMIとは集合の上下関係が逆である。 英語の project(プロジェクト)と同語源のロシア語の単語 прое́кт(プロエクト)は、多くの場合「計画」や(日本語の)「プロジェクト」(大規模な計画)という意味ではなく、「設計」または「設計図」という意味で用いられる。ロシア語では、日本語の「計画」に当たる意味で用いられるのは план (プラン、英語の plan と同語源)である。ただし、下に述べるような文脈によって逆の日本語訳が充てられることがある。 例えば、ロシア語で прое́кт корабля́ といえば「船の設計(図)」という意味であり、「船を建造する計画」のことではない。「船の設計(図)」を示すのに план は用いない。逆に、「船を建造する計画」には план を用い、 план строи́тельства корабля́ となる。このような「何かをする計画」の場合には план を用い、 прое́кт は用いない。 訳語が入れ替わるのは、「将来設計」(прое́кт бу́дущего ではなく план бу́дущего)のような、日本語の慣用上、語彙が決まっている場合である。日本語では「将来計画」とも言い換えられるのに、ロシア語では言い換えができない。「将来計画/将来設計」という慣用表現の意味が、「将来の設計図」(抽象的なものではなく、具体的に線を引いて作成される設計図)を作成することではなく、「将来どうするか計画を立てる」という意味だからである。
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プロジェクトは、何らかの目標を達成するための計画を指す。基本的に集団で大がかりに実行するものを指す。
{{WikipediaPage|この[[ウィキペディア]]の目標については[[Wikipedia:ウィキペディアについて]]を、分野ごとの書式の検討については、[[Wikipedia:ウィキプロジェクト]]をご覧ください。}} {{Otheruses|目標達成のため計画としての"プロジェクト"|その他}} {{出典の明記|date=2012年4月9日 (月) 06:28 (UTC)}} '''プロジェクト'''({{Lang-en-short|project}})は、何らかの目標を達成するための[[計画]]を指す。基本的に集団で大がかりに実行するものを指す。 == 語源と用法 == 語源は、[[ラテン語]]の pro + ject であり、意味は「前方(未来)に向かって投げかけること」である<ref>研究社英和大辞典: project.</ref>。個々のプロジェクトの固有名を「〜 Project」という語順で記述することもあれば、「Project 〜」という語順にすることもある。日本語の訳語としては「~計画」を充てる。 == PMIのPMBOK == [[プロジェクトマネジメント協会]]が制定している[[PMBOK]](第5版)の定義では、「プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、所産を創造するために実施する有期性のある業務」とされている。つまり、会社などの通常業務や、継続的な運用管理、あるいは改善活動などは、特に開始と終了が定義されていないので、「プロジェクト」とは呼ばない。ただし、特定の期限までに特定の建築を行う、製品を開発する、システムを構築する、などは個々のプロジェクトになりうる。 複数のプロジェクトを「プログラム」と呼び、全体管理や全体最適を含む複数プロジェクトの管理を「[[プログラムマネジメント]](プログラム管理)」と呼んでいる。 == ソフトウェア設計環境のプロジェクト == ソフトウェアの設計では、複数のプログラムと環境設定などの構成管理対象を含めて、一つのプロジェクトと呼んでいる。上記のPMIとは集合の上下関係が逆である。<ref>[[MSBuild]]、</ref> == ロシア語での用法 == 英語の project(プロジェクト)と同語源の[[ロシア語]]の単語 {{Lang|ru|прое́кт}}(プロエクト)は、多くの場合「計画」や(日本語の)「プロジェクト」(大規模な計画)という意味ではなく、「[[設計]]」または「[[図面|設計図]]」という意味で用いられる。ロシア語では、日本語の「計画」に当たる意味で用いられるのは {{Lang|ru|план}} (プラン、英語の {{Lang|en|plan}} と同語源)である<ref group="注釈">それぞれの単語から、「設計する」という意味の[[動詞]] {{Lang|ru|проекти́ровать}} と、「計画する」という意味の動詞 {{Lang|ru|плани́ровать}} が作られている。</ref>。ただし、下に述べるような文脈によって逆の日本語訳が充てられることがある。 例えば、ロシア語で {{Lang|ru|прое́кт корабля́}} といえば「船の設計(図)」という意味であり、「船を建造する計画」のことではない。「船の設計(図)」を示すのに {{Lang|ru|план}} は用いない。逆に、「船を建造する計画」には {{Lang|ru|план}} を用い、 {{Lang|ru|план строи́тельства корабля́}} となる。このような「何かをする計画」の場合には {{Lang|ru|план}} を用い、 {{Lang|ru|прое́кт}} は用いない。 訳語が入れ替わるのは、「将来設計」({{Lang|ru|прое́кт бу́дущего}} ではなく {{Lang|ru|план бу́дущего}})のような、日本語の慣用上、語彙が決まっている場合である。日本語では「将来計画」とも言い換えられるのに、ロシア語では言い換えができない。「将来計画/将来設計」という慣用表現の意味が、「将来の設計図」(抽象的なものではなく、具体的に線を引いて作成される設計図)を作成することではなく、「将来どうするか計画を立てる」という意味だからである。 == 有名なプロジェクトの例 == * [[マンハッタン計画]]({{Lang|en|Manhattan Project}}、マンハッタンプロジェクト) * [[ヒトゲノム計画]]({{Lang|en|Human Genome Project}}、ヒューマンゲノムプロジェクト) * [[アポロ計画]]({{Lang|en|Project Apollo}}、プロジェクト・アポロ) <!--[[ウィキペディア]]も[[プロジェクト]]の一つ。[[WP:SELF]]--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} --> == 関連項目 == {{Wiktionary}} <!-- {{Commonscat|Project}} --> * [[計画]] * [[プロジェクトマネジメント]](プロジェクト管理) * [[プログラムマネジメント]] * [[ガントチャート]] * [[資源]] * [[時間]] * [[国家プロジェクト]] * [[メガプロジェクト]] <!-- == 外部リンク == {{Cite web}} --> {{Economy-stub}} {{Tech-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふろしえくと}} [[Category:プロジェクト|*]] [[Category:経営学]] [[Category:英語の語句]]
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プロジェクトX〜挑戦者たち〜
『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(プロジェクトエックス ちょうせんしゃたち、英字表記:PROJECT X 〜Challengers〜)は、NHK総合テレビジョンにて2000年3月28日から2005年12月28日まで放映されたドキュメンタリー番組である。通称は「プロジェクトX」である。全放送作品は191本(正式な放送回数としてカウントされた作品187本 + 特別編4本。)である。開始時のキャッチコピーは、「思いはかなう。」。 番組開始当時は、様々な事件・事故における、無名の人々の知られざる活躍を描いたドキュメンタリーだった(「よみがえれ日本海」、「白神山地 マタギの森の総力戦」、「炎上 男たちは飛び込んだ」、「国境を越えた救出劇」、「史上最大の脱出作戦」)。 後半になると、第二次世界大戦の終戦直後から高度経済成長期までの、産業・文化等の様々な分野において、製品開発プロジェクトなどが直面した難問を、どのように克服し成功に至ったかを紹介するドキュメントに変貌した。身近な自動車、家電を始め、当時の日本経済を牽引した重厚長大産業、地図に残る公共事業をはじめ、地図(ゼンリン)、辞書(広辞苑)といった人文関係の話、人命救助や環境保護活動などの分野についても数多くの事例を取り上げている。 公共放送であるNHKが、これまでの放送基準である「企業の宣伝」につながる表現の排除を崩す、企業の事業活動の内容を追ったドキュメンタリー番組である本番組が放送された背景として、インターネットの普及による情報の入手性の向上が挙げられており、本番組の放送をきっかけに、特定企業や施設の内部に潜入して紹介するような番組や、連続テレビ小説での特定の企業の創業者をモデルとした作品が続いたりするようになったという見方もある。 番組は2005年に終了したが、2024年4月から18年ぶりに新シリーズ『新 プロジェクトX 挑戦者たち』が放映される予定であることが2023年10月に発表された。新シリーズではバブル崩壊後の日本で勇気を与えた無名の人々を採り上げるとしている。出演者・オープニングおよびエンディングテーマは未定であるが、ナレーションについては前シリーズでも担当した俳優の田口トモロヲが続投する予定。 開始当初視聴率は伸び悩んだが、それまでのNHKにはない斬新な演出が中高年に受けて次第に上昇していき、2001年には平均視聴率15%、2002年には20%をマークするようになった。放送2回目の日本ビクター(現在のJVCケンウッド)のVHS開発を取り上げた「窓際族が世界規格を作った〜VHS・執念の逆転劇〜」は東映によって2002年に『陽はまた昇る』として長編映画化された。島秀雄と東海道新幹線建設を取り上げた「執念が生んだ新幹線 老友90歳・飛行機が姿を変えた」は、1998年8月22日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」内の『感動のアンビリバボー』コーナーで『レイルロード・オブ・ドリームス〜奇跡の弾丸列車計画〜』として短編ながら既にドキュメンタリードラマ化されていた。同作は更に『新幹線をつくった男たち〜夢よ、もっと速く〜』として2004年にテレビ東京で2時間ドラマ化された。 2002年の『第53回NHK紅白歌合戦』には中島みゆきが番組オープニングテーマの「地上の星」で初出場し、放送14回目の「黒四ダム 断崖絶壁の難工事」の舞台となった黒部ダム内部からの生中継で歌唱を行うという事実上の番組タイアップを披露した。 だが、2004年に入ってからはマンネリ化やNHK自体の不祥事が相次いで発覚したことなどにより視聴率が頭打ちになり始める。当番組でも2004年に『プロジェクトX21展』と称した特別展を開催した際、協賛企業から最高で3150万円の協賛金を集めていたことが衆議院総務委員会で取り上げられた他、2005年5月10日放送分においてやらせが行われていたことが判明。2005年9月22日、同年12月での番組の終了が発表された。通常4月の改編期に一斉に改変を行うNHKにおいて、それを待たずの終了は打ち切りを示唆するものだった。後継番組は翌年1月から放送を開始した『プロフェッショナル 仕事の流儀』である。終了後も本番組のパロディがNHKも含めて頻繁に制作されており、現在も知名度の高い番組となっている。 打ち切りに際して、最終回では中島みゆきがスタジオに出演し、NHKの歌番組でそれまで歌われなかったエンディングテーマの「ヘッドライト・テールライト」を初披露した。 ビデオ・DVDの売上は80万本以上を記録した。一方で、全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会は「現役を退いた後の“遅すぎる評価”」と評している。 本番組の演出パターンはその後、テレビ番組などで広く用いられており、テレビドキュメンタリーの一つの典型になっている。 冒頭。古い映像などをテーマソングが流れる中、短いカットで写す。細い明朝体でキーワードが表示される。 番組序盤。田口トモロヲの特徴のある淡々としたナレーションで、プロジェクトを成し遂げようとする主人公(複数)の境遇が描かれる。再現ドラマ(俳優はセリフを喋らない)が挿入されることもある。 番組中盤。プロジェクトはいよいよ佳境に入るが、困難が彼ら・彼女らを襲う。それを克服する過程が描かれる。このあたりでスタジオに放映当時に存命の主人公もしくは主人公の近縁者がゲストとして登場し、司会からインタビューを受けて当時を回想する。 番組終盤。プロジェクトは成し遂げられる。ドキュメンタリー映像が終わった後でスタジオに戻り、主人公の顔が大写しとなり、司会から労いの言葉をかけられる。プロジェクトの成果物がスタジオに運ばれ、主人公が感慨深げにそれを手に取る。 エンディング。成功した主人公達のその後の栄光の人生が簡単に描かれ、テーマソングが流れる中終わる。 大半はハッピーエンドとなるが、日本初の生体肝移植プロジェクトを取り上げた「裕弥ちゃん1歳・輝け命〜日本初・親から子への肝臓移植〜」のように、ハッピーエンドとはならなかった回もある。 なお、プロジェクト当時の内容をナレーション形式で解説しているにも拘わらず、その場面において若い俳優を起用しての再現映像ではなく、プロジェクトの主人公本人が年老いた現在(放送当時)の姿で直接登場し、職場で仕事をしているシーンが多くの放送回で出てくるが、取り上げている題材が古い時代のプロジェクトであるほど必然的にプロジェクト参加当時の容姿と現在の容姿が釣り合わなくなる。遵って、この「プロジェクトの主人公本人が(年老いた現在の姿で)仕事をしているシーン」は実際に仕事をしているわけではなく、仕事をしているように見せるための単なる演技である。 プロジェクトに関わった人物のうち、特に筆頭でプロジェクトに関わっていた人物、その補佐的役割を務めた人物、プロジェクトを陰から支えた人物、プロジェクトに影響を受けた人物などがゲストとして1~3名ほど招待されていた。プロジェクトに関わった人物が既に亡くなっている場合や、高齢で出演できない場合は、その弟子などが代わりにゲスト出演していた。なお、初期の頃はプロジェクト関係者ではなく、なかにし礼や松坂慶子などの著名人が解説やコメンテーター的な位置付けでゲスト出演していた。 ※以下、2004年8月~ 複数の版が出ており、直近に発売されたのは30巻のものである。 放送は世界30ヶ国で行われている。 いままでに英語、ロシア語、アラビア語、スペイン語に翻訳された。 本番組のタイトルの名前が漫画や個人ホームページのフラッシュなどでパロディとして使われることが多く、プロジェクト○(○の中には「×」(バツ)や「メ」(め)などが入る)などといった例が存在する。アダルトビデオで用いられた例もある。 テレビ番組でのパロディではオープニングテーマ「地上の星」、エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を流すことが多い。「地上の星」を流しナレーションを真似て、オープニング風の演出をすることがある。エンディングのパロディも存在する。 番組を演出するナレーター・田口トモロヲの語りが特徴的であったため、しばしばその語り口調もパロディとして使われる(NHK、民放問わず)。
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"paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "番組は2005年に終了したが、2024年4月から18年ぶりに新シリーズ『新 プロジェクトX 挑戦者たち』が放映される予定であることが2023年10月に発表された。新シリーズではバブル崩壊後の日本で勇気を与えた無名の人々を採り上げるとしている。出演者・オープニングおよびエンディングテーマは未定であるが、ナレーションについては前シリーズでも担当した俳優の田口トモロヲが続投する予定。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "開始当初視聴率は伸び悩んだが、それまでのNHKにはない斬新な演出が中高年に受けて次第に上昇していき、2001年には平均視聴率15%、2002年には20%をマークするようになった。放送2回目の日本ビクター(現在のJVCケンウッド)のVHS開発を取り上げた「窓際族が世界規格を作った〜VHS・執念の逆転劇〜」は東映によって2002年に『陽はまた昇る』として長編映画化された。島秀雄と東海道新幹線建設を取り上げた「執念が生んだ新幹線 老友90歳・飛行機が姿を変えた」は、1998年8月22日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」内の『感動のアンビリバボー』コーナーで『レイルロード・オブ・ドリームス〜奇跡の弾丸列車計画〜』として短編ながら既にドキュメンタリードラマ化されていた。同作は更に『新幹線をつくった男たち〜夢よ、もっと速く〜』として2004年にテレビ東京で2時間ドラマ化された。", "title": "人気" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2002年の『第53回NHK紅白歌合戦』には中島みゆきが番組オープニングテーマの「地上の星」で初出場し、放送14回目の「黒四ダム 断崖絶壁の難工事」の舞台となった黒部ダム内部からの生中継で歌唱を行うという事実上の番組タイアップを披露した。", "title": "人気" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "だが、2004年に入ってからはマンネリ化やNHK自体の不祥事が相次いで発覚したことなどにより視聴率が頭打ちになり始める。当番組でも2004年に『プロジェクトX21展』と称した特別展を開催した際、協賛企業から最高で3150万円の協賛金を集めていたことが衆議院総務委員会で取り上げられた他、2005年5月10日放送分においてやらせが行われていたことが判明。2005年9月22日、同年12月での番組の終了が発表された。通常4月の改編期に一斉に改変を行うNHKにおいて、それを待たずの終了は打ち切りを示唆するものだった。後継番組は翌年1月から放送を開始した『プロフェッショナル 仕事の流儀』である。終了後も本番組のパロディがNHKも含めて頻繁に制作されており、現在も知名度の高い番組となっている。", "title": "人気" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "打ち切りに際して、最終回では中島みゆきがスタジオに出演し、NHKの歌番組でそれまで歌われなかったエンディングテーマの「ヘッドライト・テールライト」を初披露した。", "title": "人気" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ビデオ・DVDの売上は80万本以上を記録した。一方で、全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会は「現役を退いた後の“遅すぎる評価”」と評している。", "title": "人気" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "本番組の演出パターンはその後、テレビ番組などで広く用いられており、テレビドキュメンタリーの一つの典型になっている。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "冒頭。古い映像などをテーマソングが流れる中、短いカットで写す。細い明朝体でキーワードが表示される。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "番組序盤。田口トモロヲの特徴のある淡々としたナレーションで、プロジェクトを成し遂げようとする主人公(複数)の境遇が描かれる。再現ドラマ(俳優はセリフを喋らない)が挿入されることもある。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "番組中盤。プロジェクトはいよいよ佳境に入るが、困難が彼ら・彼女らを襲う。それを克服する過程が描かれる。このあたりでスタジオに放映当時に存命の主人公もしくは主人公の近縁者がゲストとして登場し、司会からインタビューを受けて当時を回想する。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "番組終盤。プロジェクトは成し遂げられる。ドキュメンタリー映像が終わった後でスタジオに戻り、主人公の顔が大写しとなり、司会から労いの言葉をかけられる。プロジェクトの成果物がスタジオに運ばれ、主人公が感慨深げにそれを手に取る。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "エンディング。成功した主人公達のその後の栄光の人生が簡単に描かれ、テーマソングが流れる中終わる。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "大半はハッピーエンドとなるが、日本初の生体肝移植プロジェクトを取り上げた「裕弥ちゃん1歳・輝け命〜日本初・親から子への肝臓移植〜」のように、ハッピーエンドとはならなかった回もある。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、プロジェクト当時の内容をナレーション形式で解説しているにも拘わらず、その場面において若い俳優を起用しての再現映像ではなく、プロジェクトの主人公本人が年老いた現在(放送当時)の姿で直接登場し、職場で仕事をしているシーンが多くの放送回で出てくるが、取り上げている題材が古い時代のプロジェクトであるほど必然的にプロジェクト参加当時の容姿と現在の容姿が釣り合わなくなる。遵って、この「プロジェクトの主人公本人が(年老いた現在の姿で)仕事をしているシーン」は実際に仕事をしているわけではなく、仕事をしているように見せるための単なる演技である。", "title": "演出パターン" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "プロジェクトに関わった人物のうち、特に筆頭でプロジェクトに関わっていた人物、その補佐的役割を務めた人物、プロジェクトを陰から支えた人物、プロジェクトに影響を受けた人物などがゲストとして1~3名ほど招待されていた。プロジェクトに関わった人物が既に亡くなっている場合や、高齢で出演できない場合は、その弟子などが代わりにゲスト出演していた。なお、初期の頃はプロジェクト関係者ではなく、なかにし礼や松坂慶子などの著名人が解説やコメンテーター的な位置付けでゲスト出演していた。", "title": "ゲスト" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "※以下、2004年8月~", "title": "番組フォーマット" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "複数の版が出ており、直近に発売されたのは30巻のものである。", "title": "番組フォーマット" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "放送は世界30ヶ国で行われている。 いままでに英語、ロシア語、アラビア語、スペイン語に翻訳された。", "title": "各国での放送" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "本番組のタイトルの名前が漫画や個人ホームページのフラッシュなどでパロディとして使われることが多く、プロジェクト○(○の中には「×」(バツ)や「メ」(め)などが入る)などといった例が存在する。アダルトビデオで用いられた例もある。", "title": "パロディ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "テレビ番組でのパロディではオープニングテーマ「地上の星」、エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を流すことが多い。「地上の星」を流しナレーションを真似て、オープニング風の演出をすることがある。エンディングのパロディも存在する。", "title": "パロディ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "番組を演出するナレーター・田口トモロヲの語りが特徴的であったため、しばしばその語り口調もパロディとして使われる(NHK、民放問わず)。", "title": "パロディ" } ]
『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』は、NHK総合テレビジョンにて2000年3月28日から2005年12月28日まで放映されたドキュメンタリー番組である。通称は「プロジェクトX」である。全放送作品は191本である。開始時のキャッチコピーは、「思いはかなう。」。
{{複数の問題 |正確性=2016年9月 |独自研究=2016年9月 |大言壮語=2016年9月 }} {{基礎情報 テレビ番組 |番組名=プロジェクトX〜挑戦者たち〜<br /><span style="font-size:small">PROJECT X 〜Challengers〜</span> |画像= |画像説明= |ジャンル=[[ドキュメンタリー]] |放送時間=火曜日 21:15 - 21:58 |放送分=43 |放送枠= |放送期間=[[2000年]][[3月28日]] - [[2005年]][[12月28日]] |放送回数=191 |放送国={{JPN}} |制作局=[[日本放送協会|NHK]] |企画= |製作総指揮= |監督= |演出= |原作= |脚本= |プロデューサー=[[今井彰]](制作統括) |出演者=[[国井雅比古]]<br />[[久保純子]]<br />[[膳場貴子]]<br />他 ゲスト2名 |ナレーター=[[田口トモロヲ]] |音声=[[ステレオ放送]] |字幕=[[文字多重放送]] |データ放送= |OPテーマ=[[中島みゆき]]<br />「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|地上の星]]」 |EDテーマ=中島みゆき<br />「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|ヘッドライト・テールライト]]」 |外部リンク= |外部リンク名= }} 『'''プロジェクトX〜挑戦者たち〜'''』(プロジェクトエックス ちょうせんしゃたち、英字表記:''PROJECT X 〜Challengers〜'')は、[[NHK総合テレビジョン]]にて[[2000年]][[3月28日]]から[[2005年]][[12月28日]]まで放映された[[ドキュメンタリー]]番組である。通称は「'''プロジェクトX'''」である。全放送作品は191本(正式な放送回数としてカウントされた作品187本 + 特別編4本<ref group=注釈>アンコール(「特選プロジェクトX」を含む)は除く。</ref>。)である。開始時のキャッチコピーは、「'''思いはかなう。'''」。 == 概要 == 番組開始当時は、様々な事件・事故における、無名の人々の知られざる活躍を描いたドキュメンタリーだった(「よみがえれ日本海」、「白神山地 マタギの森の総力戦」、「炎上 男たちは飛び込んだ」、「国境を越えた救出劇」、「史上最大の脱出作戦」)。 後半になると、[[第二次世界大戦]]の終戦直後から[[高度経済成長]]期までの、産業・文化等の様々な分野において、製品開発[[プロジェクト]]などが直面した難問を、どのように克服し成功に至ったかを紹介するドキュメントに変貌した<ref>{{Cite book|和書|editor=NHK放送文化研究所|date=2001-10-30|title=NHK年鑑2001|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|pages=149}}</ref>。身近な[[自動車産業|自動車]]、[[家庭用電気機械器具|家電]]を始め、当時の日本経済を牽引した[[重厚長大]]産業、地図に残る[[公共事業]]をはじめ、地図([[ゼンリン]])、辞書([[広辞苑]])といった人文関係の話、人命救助や環境保護活動などの分野についても数多くの事例を取り上げている。 [[公共放送]]である[[日本放送協会|NHK]]が、これまでの放送基準である「企業の宣伝」につながる表現の排除を崩す、企業の事業活動の内容を追ったドキュメンタリー番組である本番組が放送された背景として、[[インターネット]]の普及による情報の入手性の向上が挙げられており、本番組の放送をきっかけに、特定企業や施設の内部に潜入して紹介するような番組や、[[連続テレビ小説]]での特定の企業の創業者をモデルとした作品が続いたりするようになったという見方もある<ref> {{cite news |author = 殿村美樹 |url = http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20160511-OYT8T50080.html |title = 企業PR?NHK朝ドラが女性実業家ばかりのワケ |newspaper = [[YOMIURI ONLINE]] |publisher = [[読売新聞社]] |date = 2016-05-14 |accessdate = 2016-12-27 }}</ref>。 番組は2005年に終了したが、[[2024年]]4月から18年ぶりに新シリーズ『新 プロジェクトX 挑戦者たち』が放映される予定であることが[[2023年]]10月に発表された。新シリーズでは[[バブル崩壊]]後の[[日本]]で勇気を与えた無名の人々を採り上げるとしている。出演者・オープニングおよびエンディングテーマは未定であるが、[[ナレーション]]については前シリーズでも担当した[[俳優]]の[[田口トモロヲ]]が続投する予定<ref>{{Cite web|和書|title=NHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」18年ぶりに復活 来年4月から放送 |url=https://www.sankei.com/article/20231018-F2QXAHJEVJP3HAR5P2OO2SM5LA/ |website=産経新聞 |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「プロジェクトX」復活へ バブル崩壊後の物語 ナレーションは…… |url=https://www.asahi.com/articles/ASRBL5HX7RBLUCVL01K.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2023-10-18 |access-date=2023-10-18 |author=中沢絢乃}}</ref>。 == 人気 == 開始当初視聴率は伸び悩んだが、それまでのNHKにはない斬新な演出が中高年に受けて次第に上昇していき、2001年には平均視聴率15%、2002年には20%をマークするようになった。放送2回目の[[日本ビクター]](現在の[[JVCケンウッド]])の[[VHS]]開発を取り上げた「[[窓際族]]が世界規格を作った〜VHS・執念の逆転劇〜」は[[東映]]によって2002年に『[[陽はまた昇る (2002年の映画)|陽はまた昇る]]』として長編映画化された。[[島秀雄]]と[[東海道新幹線]]建設を取り上げた「執念が生んだ新幹線 老友90歳・飛行機が姿を変えた」は、1998年8月22日放送の「[[奇跡体験!アンビリバボー]]」内の『感動のアンビリバボー』コーナーで『レイルロード・オブ・ドリームス〜奇跡の弾丸列車計画〜』として短編ながら既にドキュメンタリードラマ化されていた。同作は更に『[[新幹線をつくった男たち|新幹線をつくった男たち〜夢よ、もっと速く〜]]』として2004年に[[テレビ東京]]で[[2時間ドラマ]]化された。 2002年の『[[第53回NHK紅白歌合戦]]』には[[中島みゆき]]が番組オープニングテーマの「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|地上の星]]」で初出場し、放送14回目の「黒四ダム 断崖絶壁の難工事」の舞台となった[[黒部ダム]]内部からの生中継で歌唱を行うという事実上の番組タイアップを披露した。 だが、2004年に入ってからはマンネリ化やNHK自体の不祥事が相次いで発覚したことなどにより視聴率が頭打ちになり始める。当番組でも2004年に『プロジェクトX21展』と称した特別展を開催した際、協賛企業から最高で3150万円の協賛金を集めていたことが[[衆議院]][[総務委員会]]で取り上げられた他<ref>[https://web.archive.org/web/20040911233228/http://www.asahi.com/national/update/0910/010.html プロジェクトX展の協賛金 企業側は「広告費」] - 朝日新聞(2004年9月10日10:25)''アーカイブ''。 </ref>、2005年5月10日放送分において[[やらせ]]が行われていたことが判明。2005年9月22日、同年12月での番組の終了が発表された。通常4月の[[改編]]期に一斉に改変を行うNHKにおいて、それを待たずの終了は[[打ち切り]]を示唆するものだった。後継番組は翌年1月から放送を開始した『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』である。終了後も本番組のパロディがNHKも含めて頻繁に制作されており、現在も知名度の高い番組となっている。 打ち切りに際して、最終回では中島みゆきがスタジオに出演し、NHKの歌番組でそれまで歌われなかったエンディングテーマの「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|ヘッドライト・テールライト]]」を初披露した。 ビデオ・DVDの売上は80万本以上を記録した<ref>『[[東奥日報|東奥日報社]]』2005年12月27日付</ref>。一方で、[[全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会]]は「現役を退いた後の“遅すぎる評価”」と評している<ref>[https://web.archive.org/web/20080308132257/http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20080301-OYT1T00812.htm 「編集手帳」] 読売新聞2008年3月2日、ウェブアーカイブ</ref>。 == 演出パターン == 本番組の演出パターンはその後、[[テレビ番組]]などで広く用いられており、テレビドキュメンタリーの一つの典型になっている。 冒頭。古い映像などをテーマソングが流れる中、短いカットで写す。細い[[明朝体]]でキーワードが表示される。 番組序盤。[[田口トモロヲ]]の特徴のある淡々としたナレーションで、プロジェクトを成し遂げようとする主人公(複数)の境遇が描かれる。再現ドラマ(俳優はセリフを喋らない)が挿入されることもある。 番組中盤。プロジェクトはいよいよ佳境に入るが、困難が彼ら・彼女らを襲う。それを克服する過程が描かれる。このあたりでスタジオに放映当時に存命の主人公もしくは主人公の近縁者がゲストとして登場<ref group=注釈>番組開始当初はプロジェクトとは無関係の人間がゲスト出演しており(例として、第1回放送での[[松坂慶子]]・[[見城徹]]など)プロジェクトの主人公や近縁者はゲスト出演していなかった。</ref>し、司会からインタビューを受けて当時を回想する。 番組終盤。プロジェクトは成し遂げられる。ドキュメンタリー映像が終わった後でスタジオに戻り、主人公の顔が大写しとなり、司会から労いの言葉をかけられる。プロジェクトの成果物がスタジオに運ばれ、主人公が感慨深げにそれを手に取る。 エンディング。成功した主人公達のその後の栄光の人生が簡単に描かれ、テーマソングが流れる中終わる。 大半はハッピーエンドとなるが、日本初の[[移植 (医療)|生体肝移植]]プロジェクトを取り上げた「裕弥ちゃん1歳・輝け命〜日本初・親から子への肝臓移植〜」<ref name=":0" group="注釈">移植手術は成功するものの、その後の生体[[拒絶反応]]で裕弥ちゃんは亡くなる。</ref>のように、ハッピーエンドとはならなかった回もある。 なお、プロジェクト当時の内容をナレーション形式で解説しているにも拘わらず、その場面において若い俳優を起用しての再現映像ではなく、プロジェクトの主人公本人が年老いた現在(放送当時)の姿で直接登場し、職場で仕事をしているシーンが多くの放送回で出てくるが、取り上げている題材が古い時代のプロジェクトであるほど必然的にプロジェクト参加当時の容姿と現在の容姿が釣り合わなくなる。遵って、この「プロジェクトの主人公本人が(年老いた現在の姿で)仕事をしているシーン」は実際に仕事をしているわけではなく、仕事をしているように見せるための単なる演技である<ref group="注釈">そもそも、多くの場合は定年退職などで引退し、現役を退いている。</ref>。 == ゲスト == プロジェクトに関わった人物のうち、特に筆頭でプロジェクトに関わっていた人物、その補佐的役割を務めた人物、プロジェクトを陰から支えた人物、プロジェクトに影響を受けた人物などがゲストとして1~3名ほど招待されていた<ref group="注釈">2名の場合が多い。</ref>。プロジェクトに関わった人物が既に亡くなっている場合や、高齢で出演できない場合は、その弟子などが代わりにゲスト出演していた。なお、初期の頃はプロジェクト関係者ではなく、[[なかにし礼]]や[[松坂慶子]]などの著名人が[[解説]]や[[コメンテーター]]的な位置付けでゲスト出演していた。 == 番組に対する主な抗議など == * 2000年4月18日放送の「ガンを探し出せ 完全国産・[[胃カメラ]]開発」では、「胃カメラは日本で初めて[[開発]]され、胃壁が撮影された」という話になっているが、胃カメラは日本での開発より約50年前の1898年に[[ドイツ]]で発明され胃壁の[[撮影]]が行われている<ref> Lange F,Meltzing(1898).”Die Photographie des Mageninnern”. ''Münch Med Wochenschr''.45:1585-1588.</ref>。その後もいくつかの胃カメラが開発されており、間違った内容が放送された。胃カメラ開発の経緯や機器の説明などにも間違いや疑問を有する箇所が複数あり、抗議が行われた。書籍版では訂正が一部行われたが、間違いの解消には至らなかった。 * [[2000年]]11月28日放送の「よみがえれ日本海」では、[[ナホトカ号重油流出事故]]に際して神戸から来た[[災害ボランティア]]が、発生地・福井県の青年会議所を指導して「三国重油災害ボランティアセンター」を作ったことになっているが、実際には当初それぞれが受け入れ窓口を作り、話し合いで一本化したものであった<ref>[http://mikuni-minato.jp/wordpress-pj/wp-content/uploads/2008/03/mr_0710_nakhodka_report.pdf ナホトカ号重油流出事故から10年 三国湊型環境教育モデルの構築・普及活動 調査報告書] 特定非営利活動法人三国湊魅力づくりプロジェクト</ref>。 * 2001年6月19日放送の「父と息子 執念燃ゆ 大辞典」は1955年に『[[広辞苑]]』を[[岩波書店]]から刊行した[[新村出]]・[[新村猛|猛]]親子に焦点を当てた内容だった。しかし、実際には『広辞苑』が同じ新村出を編者として[[1935年]]に[[博文館]]から刊行された『辞苑』の改訂版であったことに一切触れず、新村親子の努力で『広辞苑』がいきなり出版されたかのような内容になっていた。同社の後身である[[博文館|博文館新社]]から抗議を受けたため、書籍版では博文館および『辞苑』について加筆を行った<ref>[https://web.archive.org/web/20010721134249/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2001_07/g2001071808.html プロジェクトX事実わい曲でNHK謝罪 広辞苑誕生めぐるエピソード] - [[夕刊フジ]]ウェブアーカイブ</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20010721134259/http://www.zakzak.co.jp/top/3t2001071901.html NHK「謝罪なし」に当事者カンカン 局と担当プロデューサーに食い違い] - [[夕刊フジ]]ウェブアーカイブ</ref>。 * 2001年7月10日放送の「[[白神山地]] [[マタギ]]の森の総力戦」では、白神山地の道路建設に[[青森県]]・[[秋田県]]双方の住民が起こした反対運動について取り上げられた。その際、番組内では秋田県の住民側が青森県の住民側に呼びかける形で反対運動が始まったかのように描写されたが、実際には当初反対運動は青森県と秋田県で別々に発生しており、後にそのことを知った双方が話し合って一本化していた。関係者の抗議を受け<ref>[http://www.jomon.ne.jp/~misago/projectX.html NHKプロジェクトX、「白神山地・マタギの森の総力戦」〜奇跡のブナ林・攻防2000日への質問状] 財団法人[[日本自然保護協会]]</ref>、この回のビデオソフト化および書籍版への掲載は見送られている。 * [[2002年]]1月8日放送の「[[あさま山荘事件|あさま山荘]] 衝撃の鉄球作戦」では、「極寒の中で地元住民が[[機動隊]]員に対して毎日大量の[[おにぎり]]を作って協力した」と放送され、このおにぎり提供が機動隊員に最も感謝されたような描写がなされたが、実際にはおにぎりを作ってはいたものの極寒故にすぐ凍り付いてしまう状況で温かい食事にありつけたのは外周警戒の者達だけだった。この事件の時、機動隊員にとって最も役に立ち食されたのは、本番組でも前年に放送された「[[カップヌードル]]」である<ref>[https://www.nissin.com/jp/about/style/chronicle/ 安藤百福クロニクル]</ref>。 * 2002年9月17日放送の「革命トイレ、市場を制す」では、住宅機器メーカーの[[TOTO (企業)|東陶機器]](TOTO)が1980年に開発した[[ウォシュレット]]が国内初の[[温水洗浄便座]]とされていたが、実際には1967年に[[森村グループ|同根同業]]の伊奈製陶(現在は[[LIXIL]]の[[INAX]]ブランド)から発売された「[[温水洗浄便座#INAX(LIXIL)|サニタリーナ61]]」が国内初の温水洗浄便座<ref>[https://www.biz-lixil.com/column/manufacturing/toilet004/ 清潔でよりくつろげる空間へ LIXILトイレ進化論 ] LIXIL ビジネス情報</ref>である<ref group="注釈">「サニタリーナ61」は便器と一体化したモデルであるが、自社開発の後付型温水洗浄便座にしても、1976年に発売された同社の「サニタリーナF1」が先鞭をつけている。</ref>。また、番組内で「停車車両から伸びるアンテナを見て伸縮式ノズルを考え出した」、「[[雨]]の中でも故障なく動く[[交通信号機|信号機]]を見て防水仕様の[[集積回路#ハイブリッド集積回路|ハイブリッドIC]]の使用を思い立った」ともあったが、これらの機構は「サニタリーナ」で既に実現しており、これらを参考にした可能性もある<ref group=注釈>ノズルの動作についてはウォシュレットが電動式、シャワートイレ(サニタリーナ)は水道直圧式の違いがある。</ref>。<!--この構成のためか(伊奈製陶が東陶機器と並ぶ住宅機器メーカーであるにも拘らず)-->番組内では「サニタリーナ」の存在自体が全くなかったかのように描写された。[[広告媒体|メディア広告]]にしても、予てから各媒体に出ていたし、ウォシュレットのテレビコマーシャルも発売当初から行っていたのにもかかわらず、「ご不浄だから」と[[雑誌]]には断られ続けてきたと言い、1982年に[[サン・アド]]制作の[[戸川純]]が出演するものが同製品初の[[コマーシャルメッセージ|CM]]だと事実と異なる説明をしていた。 * 2002年10月28日放送の「[[カーナビゲーション|カーナビ]] 迷宮を走破せよ」では、[[音響機器]]メーカーの[[パイオニア]]が地図データの供給を巡り、住宅地図メーカーの[[ゼンリン]]から「俺たちは[[ソニー]]と組む」と突き放された、と紹介されたが、実際にはカーナビゲーションソフトの規格統一を提言したゼンリンからの申し出をパイオニアが断って独立した歩みを選択した<ref group="注釈">そのため、書籍版では「パイオニア側がプロジェクトを離脱した」という記述になっている。</ref>ものである。さらに、パイオニアのカーナビゲーションが発売された時、既に[[マツダ・コスモ|マツダ・ユーノスコスモ]]のオプションとして世界初の[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]カーナビゲーション([[三菱電機]]との共同開発)が搭載されており、パイオニアは後付け型カーナビゲーションを最初に市販したことでしかなかった。 * 2005年5月10日放送の「ファイト!町工場に捧げる日本一の歌」で、採り上げられた側の大阪府立淀川工業高等学校(現・[[大阪府立淀川工科高等学校]])が、事実とは異なる点があるとして訂正・謝罪要求を申し入れた<ref name="zakzak2005050524">{{Cite web|和書|date=2005-05-24 |url=http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_05/g2005052401.html |title= 「プロジェクトX」打ち切り危機…また問題発覚 NHK「一部に誤りがあった」 |work= |publisher=ZAKZAK(夕刊フジ) |accessdate=2016-09-30}}</ref>。 ** 放送では「淀川工業高校は荒れていて音楽など全く縁がなかったが、新任の国語教師([[高嶋昌二]])が他の職員の反対を押し切り[[グリークラブ]]([[男声合唱]]部)を設立。合唱を通じて生徒を更生させ、合唱コンクールに出場する。しかし、コンクール会場には[[パトロールカー|パトカー]]が来ているなど、淀川工業高校の参加に対し主催者側が大きな警戒感を露にした」となっていた。 ** だが、実際には「当時淀川工業高校は荒れていない高校であり、前々から[[吹奏楽]]部があって全国大会で上位のレベルであった上、グリークラブ設立の際も校長自ら早期に賛成している。合唱コンクール参加時も、主催側は数ある参加校のひとつとしてしか考えておらず、警戒する理由はなくパトカーも来ていなかった」など、事実とは異なる表現であった<ref name="zakzak2005050524" />。NHK側もこの回については行き過ぎた点があったとし、同年5月28日放送分の『[[土曜スタジオパーク]]』でこれまでの経緯を説明し、担当部長が生出演して謝罪した。また、5月31日の番組終了後にも[[国井雅比古]]が謝罪のコメントを行った。公式サイトからはこの回の紹介ページが削除され、ビデオソフト化及び書籍版への掲載も見送られた{{Refnest|group=注釈|ただし、『NHK年鑑2006<ref>『NHK年鑑2006』(2006年11月20日発行、ISBN 978-4-14-007225-7)に掲載の「資料編・主な番組の放送一覧(2005年度)」。</ref>』では、当該回もきちんと紹介されている<!--(前述の通り、放送された事実は残ったため)-->。}}。 == 番組フォーマット == === 放映時間 === * [[日本標準時|日本時間]]の毎週[[火曜日]]午後9時15分 - 午後9時58分。再放送は[[水曜日]]深夜([[木曜日]]未明)午前1時10分から午前1時53分まで。[[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]でも[[月曜日]]夕方(不定期)午後5時15分 - 午後5時58分に放送。 * [[NHKワールドTV]]、[[NHKワールド#NHKワールド・プレミアム|NHKワールド・プレミアム]]でも放送(NHKワールドTVは[[音声多重放送|副音声]]英語による2ヶ国語放送)。 * なお、最終回(2005年12月28日)は通常の火曜日ではなく水曜日に移し、午後7時30分 - 午後10時<ref group="注釈">途中、20:45~21:15はニュースのため中断。</ref>の2部構成で放送。 === アンコール === * [[2001年]]後期以後、過去に放映され再放送の要望が多かった作品が、3、4週おき<!--(大抵は月末が多かった)-->に[[アンコール]]として放送された。その際、オープニングの司会挨拶部分等、新たに収録や取材した物を交えた再構成版として放映される。番組後期にはこのアンコールが1ヶ月以上(時には2ヶ月)続いたこともある。当初は次回予告で「○○のドラマを再びお届けします」と、アンコール放送であることがわかる表現をしていたが、後期にはこれも一切なくなる。 * [[2004年]]度には、毎週日曜日に[[NHK BS1|BS1]]で『特選 プロジェクトX〜挑戦者たち〜』と題して過去の物を放送していた。 * また、2005年[[10月4日]]からは原則毎週火曜日午後4時5分〜午後4時50分にアンコールアワーとして、過去に放映された物から好評を得たテーマを再構成して放送していた。 * NHK総合「[[NHKアーカイブス]]」でも2010年から年に1 - 2回の頻度で再放送されている。 ** [[2010年]][[11月14日]]「わたしが選ぶあの番組(2)〜安藤忠雄〜」にて2001年3月6日放送「えりも岬に春を呼べ〜砂漠を森に・北の家族の半世紀〜」を放送。 ** [[2011年]][[8月28日]]「世界自然遺産・屋久島 〜森と共に生きる〜」にて2000年12月5日放送「伝説の深き森を守れ〜世界遺産・屋久杉の島〜」を放送。 ** [[2012年]][[5月20日]]「[[東京タワー]]から[[東京スカイツリー|スカイツリー]]へ “希望”の時代からのメッセージ」にて2000年9月5日放送「東京タワー 恋人たちの戦い」の一部を放送。 ** [[2013年]][[12月22日]]「響け!歓喜の歌 “第九”に込めた思い」にて2003年10月14日放送「第九への果てなき道 〜貧乏楽団の逆転劇〜」を放送。 ** [[2014年]][[5月18日]]「ゴジラからのメッセージ」にて2001年1月23日放送「ゴジラ誕生 〜特撮に賭けた80人の若者たち〜」を放送。 ** [[2014年]][[10月12日]]「シリーズ[[1964年|1964]] 第4回 モノづくり大国への道〜新幹線を生んだ技術者魂〜」にて2002年6月18日放送「新幹線〜執念の弾丸列車〜」(2000年5月9日放送「執念が生んだ新幹線〜老友90歳・飛行機が姿を変えた〜」の再編集版)を放送。 ** [[2016年]][[2月28日]]「[[北海道新幹線]] 開業へ~青函トンネルに懸けた情熱~」にて2000年4月11日放送「友の死を越えて〜青函トンネル・24年の大工事〜」の短縮版を放送。 ** [[2018年]][[10月7日]]「いのちの輝きに向き合う~旭山動物園の挑戦~」にて2005年11月15日放送「旭山動物園 ペンギン翔ぶ〜閉園からの復活〜」を放送。 * [[2011年]][[11月4日]]には、[[NHK青森放送局|青森放送局]]「開局70周年記念 NHKが伝えた青森」内で[[2000年]][[4月11日]]放送の「友の死を越えて〜青函トンネル・24年の大工事〜」が放送された。 * 北海道エリア「[[北海道LOVEテレビ]]」内で北海道に関連した以下のエピソードを放送。 ** 2017年7月1日に旭山動物園開園50周年にちなみ2005年11月15日放送「旭山動物園 ペンギン翔ぶ〜閉園からの復活〜」を放送。 ** 2018年10月11日に2005年9月13日放送「北のワイン 故郷再生への大勝負」を放送。 ** 2019年12月21日に2003年6月17日放送「釧路湿原 カムイの鳥 舞え」を放送。 * 2021年3月30日~2021年9月14日の間、BS4KとBSプレミアムのサイマルで、火曜日21時から21時45分に、改めて4Kリストア(デジタル・リマスター処理)した内容で、アンコール放送を行った(セレクション放送)。初回の3月30日は4Kリストアについての説明を行うとともに、国井と田口による回顧対談も冒頭15分で行われた。 * 2022年も4月5日から通年で同様に4K・Bプレで4Kリストア版のアンコール放送を実施している。 === オープニング === * 毎回異なるテーマを放送する番組であるため、『プロジェクトX』のタイトルの[[コンピュータグラフィックス|CG]]([[インフェルノ (映像編集機)|インフェルノ]]で作られている)の後、各回のキーワードとなる映像が主題歌に合わせて流れる。オープニングは、映像と曲に合わせて文字(書体は[[写研]]の石井横太明朝体)が流れる、独特なものである。 * 主題歌は、放映当初より変わらず[[中島みゆき]]の「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|地上の星]]」(第1回 - 11回、12回 - 45回、46回 - で、それぞれ微妙にメロディーが異なる)。{{要出典範囲|date=2016年9月|中高年男性の支持}}を背景に、{{要出典範囲|date=2016年9月|記録的なロングヒット}}となった。 === エンディング === * エンディングテーマは、<!--やはり-->[[中島みゆき]]の「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|ヘッドライト・テールライト]]」(3番が使用される)。プロジェクトに係わった人々のその後を追いつつ、最後は[[クレジットタイトル|スタッフロール]]となる。 === 次回予告 === * 通常は30秒。一月分のラインナップの紹介を含めて60秒の場合もある。「日本初のマイカー てんとう虫町を行く」と、最終回スペシャルの次回予告は60秒であった。 === 司会 === * 2000年3月 - 2001年9月:[[国井雅比古]]・[[久保純子]] * 2001年10月 - 2005年12月:国井雅比古・[[膳場貴子]]{{Refnest|group=注釈|久保担当中の2000年11月7日放送分、「ロータリー47士の戦い 夢のエンジン・廃墟からの誕生」についても、膳場が担当していた<ref name="プロジェクトX_DVD_0340">『プロジェクトX 挑戦者たち ロータリー 47士の闘い ~夢のエンジン 廃墟からの誕生~(DVD版)』 - 3分40秒頃</ref>}} ** 久保が育児休暇を取るために降板し、代わって膳場が担当。久保の降板の挨拶は特になく、翌週より膳場が「今回より担当させていただく、[[膳場貴子]]です。よろしくおねがいします」の挨拶で始まった。 ** 全員、担当当時NHKアナウンサー。 === 番組スタッフ === * 制作統括:[[今井彰]]([[プロデューサー]]) * 語り:[[田口トモロヲ]]<ref>{{NHK人物録|D0009120601_00000|田口トモロヲ}}</ref> ※以下、2004年8月~ *デスク:[[金濱理卯]]、[[小山好晴]]、[[山本隆之]] *ディレクター:山岸秀樹、山本出、矢崎伸治、相沢孝義、大坪悦郎、加藤善正、久保健一、海野稔、池田由紀、本間一成、細野真孝、赤上亮、堤田健一郎 *編集:渡辺政男、下山田昌敬、坂本太、市川芳徳、小林幸二、大崎義則、首藤実三、野島邦光 *美術:根井守 *音響効果:福井純子、嘉藤淳、三澤恵美子、須永高生、日下英介 *音声:鷹馬正裕、高橋正吾、遠藤博之 *技術:中村英嗣、塩谷達、高橋明、本間兼介 *リサーチャー:小寺亜希子、前田貢平、里村真理 *メーク&スタイリスト:稲垣直美 *美術進行:佐野均、松谷正幸 *番組広報:谷本啓美 === NHK以外での放送 === * 2005年4月以降は、[[ヒストリーチャンネル]]により、放送済みのタイトルの中から一部の放送を開始しており、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]や[[ケーブルテレビ]]等にて視聴できる。 * 2011年6月28日から[[チャンネル銀河]]で放送を行い、2012年4月に終了。 === メディア媒体 === 複数の版が出ており、直近{{いつ|date=2015年12月}}に発売されたのは30巻のものである。 * ビデオとDVD(第I期 - 第IX期)はNHKソフトウェアから発売。なおビデオは[[日本ビクター]](株)。レンタルもされている。収録されていない回もあり、完全版ではない。 * 2005年3月には、全国の[[コンビニエンスストア|コンビニ]]店舗において映像購入方式の「[[ペイ・パー・ビュー#メディア媒体配信|PPV-DVD]]」(ヴィジョネア株式会社)第1弾としてセレクションDVDもリリースされた。 == 放送一覧 == {{see|プロジェクトX〜挑戦者たち〜の放送一覧}} == 各国での放送 == 放送は世界30ヶ国で行われている。 いままでに[[英語]]、[[ロシア語]]、[[アラビア語]]、[[スペイン語]]に翻訳された。 * [[イラク]]では、地元の復興を願う地元のテレビ局がアラビア語版を2005年12月28日までに6本放送している。 * [[ベトナム]]では、映画館でも上映された。 * [[日本国政府]]は[[2006年]][[11月7日]]、本番組を始めとした360番組の放映権を[[中華人民共和国]]に無償提供する。 == パロディ == 本番組のタイトルの名前が漫画や個人ホームページの[[Adobe Flash|フラッシュ]]などで[[パロディ]]として使われることが多く、プロジェクト○(○の中には「[[×]]」(バツ)や「[[め|メ]]」(め)などが入る)などといった例が存在する。[[アダルトビデオ]]で用いられた例もある。 テレビ番組でのパロディではオープニングテーマ「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|地上の星]]」、エンディングテーマ「[[地上の星/ヘッドライト・テールライト|ヘッドライト・テールライト]]」を流すことが多い。「地上の星」を流しナレーションを真似て、オープニング風の演出をすることがある。エンディングのパロディも存在する。 番組を演出するナレーター・[[田口トモロヲ]]の語りが特徴的であったため、しばしばその語り口調もパロディとして使われる(NHK、民放問わず)。 === パロディの例 === ==== NHKでのパロディ ==== *[[連続テレビ小説]]『[[あまちゃん]]』 - 第18週「おら、地元に帰ろう!?」2013年8月2日放送第107回の劇中にてパロディ番組『'''プロダクトA'''』が登場し、田口本人がナレーションを担当したほか、内容も本放送を彷彿とさせる内容であった。 * [[あさイチ]] - パロディ企画「あさイチX」が行われることがある。 * 日本の底力クイズ プロジェクトQ - 2013年12月22日と2014年5月7日に総合テレビで放送された特別番組。ヒット商品やブームの秘密を当事者に取材してクイズにするもので、問題VTRは田口のナレーションで本番組を模したものとなっていた。 * [[チコちゃんに叱られる!]] - 以下の問題の解説VTRにて「チコジェクトX」ともじり田口のナレーションで紹介された。 ** 2019年11月8日「観光地のお土産が、なんで[[ペナント]]だった?」 ** 2020年5月5日「なんでお土産屋には[[木刀]]が売ってるの?」 ** 2020年5月8日「なんで[[電子レンジ]]はチンって鳴るの?」 ** 2020年7月10日「なんで日本中の池や湖に[[足漕ぎボート|スワンボート]]があるの?」 ** 2020年11月20日「[[傘#ビニール傘|ビニール傘]]ってなに?」 ** 2021年5月21日「なんで[[握り寿司|握りずし]]の1人前は10個なの?」 ** 2021年8月13日「なんで[[フリクション (筆記具)|消せるボールペン]]で書いた文字は消えるの?」 ** 2022年5月6日「なんで[[小学生]]は[[通学帽|黄色い帽子]]をかぶるの?」 - この回のみ[[内村光良]]がナレーション。 ** 2022年8月26日「[[ビーチサンダル]]ってなんで生まれたの?」 ** 2022年10月7日「なんで[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]は白と黒なの?」 ** 2023年2月24日「なんで[[東京国際空港|羽田に空港がある]]の?」 * [[突撃!カネオくん]] 次の放送において「カネジェクトX」と題してと解説した。 ** 2020年8月29日 生口島がレモンの島になるまでについて ** 2023年1月28日 約50年前 初のパンダ飼育に挑んだ男たち ==== 民放でのパロディ ==== * 2002年5月には、[[テレビ朝日]]系列『[[タモリ倶楽部]]』で「プロジェクトSEX 性の挑戦者たち」というパロディ([[ダッチワイフ]]の開発を特集)が行われた。なお、同回は「パロディの元となった番組(本番組)では、テーマとして到底取り上げられない開発物語に着目し、開発者の技術開発の情熱や秘話を見事なパロディ精神と取材力で演出した」として[[ギャラクシー賞|第39回ギャラクシー賞]]・奨励賞を受賞した<ref>[http://www.howfulls.com/aword/ 受賞歴-テレビ番組制作と各種プロモーションのハウフルス]</ref>。主題歌は同じ中島みゆきながら「[[時代 (中島みゆきの曲)|時代]]」が使われた。 * アメリカのアニメ『[[サウスパーク]]』第70話「帰ってきたテレンス&フィリップ」では、テレビ番組「Behind the Music」のパロディ「Behind the Blow」が登場するが、田口トモロヲがレギュラー声優陣の1人である日本語吹き替え版では「知ってるつもりX」に改題され、ナレーションも田口本人が務めた。 * [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列『[[ココリコミラクルタイプ]]』では、コント内で『プロジェクトA』というパロディが行われた。 * [[チャンネルBB]]で、『プロジェクトBB』という番組が放送された。 * [[テレビ東京]]系列『[[空から日本を見てみよう]]』では、『くもジェクトX』というタイトルに変えられた。 * アニメ『[[電光超特急ヒカリアン]]』49話(2003年3月9日放送)の劇中でトンネルをブラッチャーが掘削するというギャグシーンで「地上の星」のメロディラインを一部改変したインストゥルメンタルを流し当番組の演出を幾ばくか模倣していた。ビデオソフトではオリジナルサウンドトラックに差し替えられている。 * フジテレビ系アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系アニメ『[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]]』でも本番組のタイトルをパロディとして取扱ったストーリーがある。(尚ヤッターマンの場合は地上波での初回放送時は本家と同様の演出で「地上の星」のBGMを流したが地方局、CS等の衛星放送での再放送、および動画配信サイト、映像ソフトでは[[著作権|権利の関係上、背景バックはそのままでBGMのみヤッターマン本編のオリジナルBGMに差し替え]]となった) *『[[ゲームセンターCX]]』では『プロジェクトCX 周辺機器たち』というファミコンなどの周辺機器を紹介するコーナーがある。 * 日本テレビ系列『[[世界の果てまでイッテQ!]]』では、[[金子貴俊]](オーシャンズ金子)が海洋生物の撮影・捕獲を行う企画が『プロジェクトQ』として放送され、田口本人がナレーションを担当している。但しVTRの内容の大半はスタッフの内輪ネタとなっており、司会の[[内村光良]]は起用に対して謝罪のツッコミを入れることがほとんどである。 * 2009年5月に放送された[[TBSラジオ]]「[[高樹千佳子のハイブリッドな週末]]」では『プロフェッショナルX』と題し、世界初のハイブリッド乗用車である[[トヨタ・プリウス ZVW30|トヨタ・プリウス]]の3代目モデルを開発した責任者が出演し、開発エピソードを披露した。オープニングには「地上の星」、エンディングは「ヘッドライト・テールライト」が使用されており、それを聴いていたパーソナリティの[[高樹千佳子]]は「ノリが某国営放送の“なんとかX”みたい」と評していた。 * アニメ『[[日常 (漫画)|日常]]』19話([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]再編集版では4話)にて、エンディングシーンをパロディし「ヘッドライト・テールライト」をBGMとして、最後に「後の魚雷跳びである――」というテロップが田口トモロヲを模したナレーションとともに登場して終了した(ナレーターは[[銀河万丈]])。 * [[テレビ東京]]系列『 [[YOUは何しに日本へ?|YOUは何しに日本へ?]]』では、『プロジェクトYOU』と題し、 [[本田宗一郎]](2018年2月26日放送)や [[新日本プロレス]](2018年6月6日放送)の経歴が解説された。 *[[2020年]][[11月15日]]放送の日本テレビ系『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!]]』では『プロジェクトほほほい~遠藤章造の軌跡~』と題し、[[ココリコ]][[遠藤章造]]の持ちギャグ「ほほほい」を過去のVTRと再現ドラマと共に振り返る企画が行われた。オープニングとBGMにそれぞれ「地上の星」「ヘッドライト・テールライト」が使用された他、字幕の挿入やスタジオのセットなども、本家を模した形となっていた。 ==== その他の例 ==== * [[松村邦洋]]は、田口のものまねで自身の半生を振り返るという持ちネタがある。 * [[トミー・リー・ジョーンズ]]が出演する[[サントリー]][[ボス (コーヒー)|ボス]]のCMシリーズ『[[宇宙人ジョーンズの地球調査シリーズ]]』の「地上の星篇」(2008年8月放映)では、[[トンネル]]を建設する場面で「地上の星」を流すという、本番組を意識した内容であった。また、同CMで、2022年夏放映分では、CMBGMに「ヘッドライト・テールライト」が使われた。 == 関連書籍 == * 「プロジェクトX 〜挑戦者たち〜(第1巻 - 第30巻(最終))」([[NHK出版]]) * 「プロジェクトX リーダーたちの言葉」([[文藝春秋]]) * 「プロジェクトX物語 〜THE MAKING OF PROJECT X〜」([[ぴあ]]) * 他にジュニア版(汐文社)、コミック版([[宙出版]])等が出版されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断]] * [[らいじんぐ産 〜追跡!にっぽん産業史〜]] * [[Japan Top Inventions]]([[NHKワールドTV]]) == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20060203055903/http://www.nhk.or.jp/projectx/ プロジェクトX〜挑戦者たち〜] - Internet Archive * {{NHK放送史|D0009010469_00000|プロジェクトX 挑戦者たち}} * {{NHK放送史|D0009041640_00000|特選プロジェクトX 挑戦者たち}} * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010378 番組編成編:加藤久仁さん|番組|NHKアーカイブス] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010293 解体新書!『プロジェクトX』|番組|NHKアーカイブス] * [https://www4.nhk.or.jp/P6884/ プロジェクトX 挑戦者たち 4Kリストア版] - 番組公式サイト {{前後番組 |放送局=[[NHK総合テレビジョン]] |放送枠=[[火曜日]]21:15 - 21:58枠 |前番組=[[NHKニュース9]]<br />21:00 - 21:30<br />【15分縮小して継続】<hr>[[クローズアップ現代]]<br />21:30 - 21:59<br />【115分繰り上げて継続】 |次番組=[[プロフェッショナル 仕事の流儀]] }} {{DEFAULTSORT:ふろしえくとえつくすちようせんしやたち}} [[Category:2000年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:2024年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:NHK総合テレビジョンの番組の歴史]] [[Category:NHK総合テレビジョンのドキュメンタリー番組]] [[Category:NHK出版]] [[Category:漫画作品 ふ|ろしえくとえつくすちようせんしやたち]] [[Category:実録漫画]] [[Category:書き下ろし漫画作品]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:放送文化基金賞・放送文化]] [[Category:戦後日本を舞台とした作品]]
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ボリス・ベッカー
ボリス・ベッカー(Boris Becker、1967年11月22日 - )は、旧西ドイツ・ライメン出身の元男子プロテニス選手。プロ・ポーカー・プレーヤー。2歳年下のシュテフィ・グラフとともに、ドイツのテニス界の黄金時代を築いたスター選手だった。4大大会通算「6勝」を挙げる。ATPツアーでは、シングルスで4大大会6勝を含む49勝、ダブルスで15勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス6位。フルネームは Boris Franz Becker (ボリス・フランツ・ベッカー)という。 2008年よりプロのポーカー・プレーヤーとしてのキャリアをスタートさせた。またオンライン・ポーカーを運営する会社と既にスポンサー契約を結んでいる。 オープンスタンスから放たれる強烈なサーブは「ブンブン・サーブ(boom boom serve、「boom boom」は大砲の爆撃音を表す)」という愛称で呼ばれたビッグサーバーである。ただし、サーブの名付け親とされる坂井利郎が本人に了解を求めたところ、「東京の大会で初めて試したので、<東京サーブ>と呼んでほしい」との返答だったという。 1984年にプロ転向。 1985年、ウィンブルドン選手権にて、大会史上最年少の「17歳7ヶ月」で初優勝を飾る。世界ランキング38位のノーシードから勝ち上がり、決勝で南アフリカのケビン・カレンを 6-3, 6-7, 7-6, 6-4 で破った。敗れたカレンはコナーズ、マッケンローらを破って勝ち上がったが最後は17歳の新鋭の前に屈した。翌1986年にも同選手権で決勝に進み、悲願の初優勝を目指したナンバー1のイワン・レンドルを破り、18歳で大会2連覇を達成。1987年はまさかの2回戦敗退に終わったが、1988年から1991年にかけて4年連続で同選手権の決勝に進出する。そのうち1988年から1990年までは3年連続でステファン・エドベリと決勝で対戦した。1989年はエドベリを破って優勝を果たしたが、1988年と1990年には敗れている。1991年には、テニス4大大会史上初の「ドイツ対決の決勝」をミヒャエル・シュティヒと戦ったが、1歳年下のシュティヒにストレートで敗れ、3度目の準優勝となった。 その後もウィンブルドンでは1995年に準優勝(決勝でピート・サンプラスに敗退)するなど好成績を出し続け、ウィンブルドンでは通算71勝(12敗)を挙げた。 ベッカーはダブルスでも通算15勝を挙げたが、その中には1992年バルセロナ五輪の男子ダブルスで、ドイツ代表選手としてミヒャエル・シュティヒとペアを組んだ金メダルも含まれている。 ベッカーはウィンブルドン選手権で3度の優勝、4度の準優勝など大活躍し、ウィンブルドン71勝はコナーズ・フェデラーの84勝に次ぐ歴代3位の記録である。 ベッカーは1989年にウィンブルドンに続いて全米を制し、初めてウィンブルドン以外のグランドスラムタイトルを獲得した。 その後1991年には全豪オープンでも初優勝を果たし、キャリア終盤の1996年には2度目の全豪制覇を成し遂げている。1996年の全豪決勝では、ベッカーと同じく17歳でグランドスラム初優勝を果たしたマイケル・チャンと好勝負を繰り広げた。 ベッカーの全仏オープンの最高成績はベスト4である(1987年・1989年・1991年)。 ベッカーは全仏を筆頭にクレーコートでは1つもタイトルを獲得できなかった。 年間最終戦でも長く活躍し、3度の優勝、5度の準優勝を記録している。 ベッカーは多くの選手たちの間でも才能では1番と言う声は強かったが、要所で勝ち切れず世界ランク1位在位はわずか12週でライバルのエドベリの72週と比べずっと短い。 ウィンブルドンや年間最終戦などでも決勝には多く進出するが準優勝が多く、勝ち切れない面がよく出ている。 ボリス・ベッカーは1999年のウィンブルドン選手権4回戦でパトリック・ラフターに敗れ、現役引退を表明した。2003年に国際テニス殿堂入りを果たしている。 2013年12月18日、ノバク・ジョコビッチのコーチに就任することが発表されたが、2016年12月6日にジョコビッチのオフィシャルサイトにてコーチ契約解消が発表された。 ベッカーはよくステファン・エドベリとライバル関係として語られることが多い。 その最大の要因はウィンブルドン決勝で3年連続で対戦したことである。また、1991年の決勝ではシュティッヒと対戦したが、シュティッヒは準決勝でエドベリを4-6,7-6,7-6,7-6で破っている。この試合エドベリは1度もブレークされておらず、紙一重のところで4年連続の対戦が実現しなかったことになる。 なお、両者のグランドスラムでの対戦はこの3度以外では1度しかない。 この3年連続の対戦はエドベリの2勝1敗に終わった。また、世界ランク1位在位でもエドベリ72週に対し、ベッカーは12週にとどまっている。 このことから一見エドベリの方が優勢だったかに見えるが、実際にはこの両者の35度の対戦ではベッカーが25勝10敗と大勝している。 また、1位ではエドベリが長いが、トップ5やトップ10の在位週数はベッカーのほうが長い。 しかし、要所の対戦ではエドベリが勝っており、このことが両者のライバル関係を強調すると同時にここでもベッカーの要所での弱さが露見している。 W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし. ※: 1984・85・87年の全豪は96ドロー(1985・87年は1回戦Byeでの出場)である。 2015年10月に負債超過状態に陥り、ロンドンの破産裁判所に申し立てた負債支払い延期の要請が却下され、2017年6月21日午前11時23分に破産宣告された。破産手続きが進む中、2018年4月に中央アフリカ共和国のスポーツ・文化・人道担当大使に任命されたことを利用してイギリス高等法院に外交免除まで主張したが、中央アフリカ共和国によりベッカーの所持しているパスポートは偽物であると認定された。 結局、総額5000万ポンド(約68億円)にも及ぶとされる負債を返却するため、優勝トロフィーや記念品などを売却することとなり、2019年7月のオークションでは合計82点が総額68万7000ポンド(約9300万円)で落札された。しかし4大大会のトロフィー5個などは所在不明となっていたため、2018年1月には1992年バルセロナ五輪ダブルスの金メダルも含めた情報提供を呼びかけた。 ベッカーは本来売却して返済に充てるべきだった資産を引き渡さず資金・資産の情報開示を怠ったとして19の容疑で検察当局より訴追され、2020年9月24日にはウェストミンスター治安判事裁判所で行われた公判に出廷し無罪を主張。その後も訴追内容が追加され、同年10月22日はサザーク刑事法院(英語版)での公判に出廷し、全ての容疑について無罪を主張した。 ベッカーはトロフィー9個やメダルなどの資産を引き渡さなかったほか、ドイツで所有していた車販売代理店を売却して得た113万ユーロ(約1億5000万円)の隠蔽、銀行口座への資金移動、ドイツやロンドンにて所有していた不動産、82万5000ユーロ(約1億900万円)にも及ぶ銀行ローンを申告をしていなかったなどの疑いをかけられ、2022年3月21日にロンドンのサザーク刑事法院で開始された裁判では言い逃れはしていないと主張している。4月7日、サザーク刑事法院はベッカーに対し財産開示不履行や債務隠しの2件など計4件について有罪判決を下したが、残り20件の罪状については無罪とした。4月29日に禁錮2年半の有罪判決が言い渡され収監された。服役中には自らに関連した報道記事をチェックしており、一部の記事については作り話であるとして弁護士に改善を申し入れている。12月15日に釈放され、ドイツに強制送還された。
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ボリス・ベッカーは、旧西ドイツ・ライメン出身の元男子プロテニス選手。プロ・ポーカー・プレーヤー。2歳年下のシュテフィ・グラフとともに、ドイツのテニス界の黄金時代を築いたスター選手だった。4大大会通算「6勝」を挙げる。ATPツアーでは、シングルスで4大大会6勝を含む49勝、ダブルスで15勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス6位。フルネームは Boris Franz Becker (ボリス・フランツ・ベッカー)という。 2008年よりプロのポーカー・プレーヤーとしてのキャリアをスタートさせた。またオンライン・ポーカーを運営する会社と既にスポンサー契約を結んでいる。
{{テニス選手 |選手名(日本語)=ボリス・ベッカー |写真=Boris Becker - 2019102190927 2019-04-12 Radio Regenbogen Award 2019 - Sven - 1D X MK II - 0283 - B70I6481-2.jpg |写真サイズ=200px |写真のコメント=2019年のベッカー |選手名(英語)=Boris Becker |フルネーム(英語名)=Boris Franz Becker |愛称= |国籍={{DEU}} |出身地={{FRG}}・[[ライメン (バーデン)|ライメン]] |居住地= |誕生日={{生年月日と年齢|1967|11|22}} |没年日= |身長=190cm |体重=85kg |利き手=右 |バックハンド=片手打ち |殿堂入り=2003年 |デビュー年=1984年 |引退年=1999年 |ツアー通算=64勝 |シングルス=49勝 |ダブルス=15勝 |生涯通算成績=967勝350敗 |シングルス通算=713勝214敗 |ダブルス通算=254勝136敗 |全豪オープン=優勝(1991・96) |全仏オープン=ベスト4(1987・89・91) |ウィンブルドン=優勝(1985・86・89) |全米オープン=優勝(1989) |優勝回数=6(全豪2・全英3・全米1) |全豪オープンダブルス=ベスト8(1985) |全仏オープンダブルス=1回戦(1984) |ウィンブルドンダブルス=2回戦(1985) |全米オープンダブルス=2回戦(1985) |ダブルス優勝回数= |シングルス最高=1位(1991年1月28日) |ダブルス最高=6位(1986年9月22日) | デビスカップ = 優勝(1988・1989) | medaltemplates = {{MedalSport|男子 [[テニス]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのテニス競技|オリンピック]]}} {{MedalGold|[[1992年バルセロナオリンピック|1992 バルセロナ]]|ダブルス}} }} '''ボリス・ベッカー'''(Boris Becker、[[1967年]][[11月22日]] - )は、旧[[西ドイツ]]・[[ライメン 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で破った。敗れたカレンはコナーズ、マッケンローらを破って勝ち上がったが最後は17歳の新鋭の前に屈した。翌[[1986年ウィンブルドン選手権|1986年]]にも同選手権で決勝に進み、悲願の初優勝を目指したナンバー1の[[イワン・レンドル]]を破り、18歳で大会2連覇を達成。1987年はまさかの2回戦敗退に終わったが、[[1988年ウィンブルドン選手権|1988年]]から[[1991年ウィンブルドン選手権|1991年]]にかけて4年連続で同選手権の決勝に進出する。そのうち1988年から1990年までは3年連続で[[ステファン・エドベリ]]と決勝で対戦した。[[1989年ウィンブルドン選手権|1989年]]はエドベリを破って優勝を果たしたが、1988年と1990年には敗れている。[[1991年ウィンブルドン選手権|1991年]]には、テニス4大大会史上初の「[[ドイツ]]対決の決勝」を[[ミヒャエル・シュティヒ]]と戦ったが、1歳年下のシュティヒにストレートで敗れ、3度目の準優勝となった。 その後もウィンブルドンでは[[1995年ウィンブルドン選手権|1995年]]に準優勝(決勝で[[ピート・サンプラス]]に敗退)するなど好成績を出し続け、ウィンブルドンでは通算71勝(12敗)を挙げた。 ベッカーはダブルスでも通算15勝を挙げたが、その中には[[1992年バルセロナオリンピックのテニス競技|1992年バルセロナ五輪]]の男子ダブルスで、[[ドイツ]]代表選手として[[ミヒャエル・シュティヒ]]とペアを組んだ金メダルも含まれている。 ベッカーは[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]選手権で3度の優勝、4度の準優勝など大活躍し、ウィンブルドン71勝はコナーズ・フェデラーの84勝に次ぐ歴代3位の記録である。 ベッカーは[[1989年]]にウィンブルドンに続いて全米を制し、初めてウィンブルドン以外のグランドスラムタイトルを獲得した。 その後1991年には[[1991年全豪オープン|全豪オープン]]でも初優勝を果たし、キャリア終盤の[[1996年全豪オープン|1996年]]には2度目の全豪制覇を成し遂げている。1996年の全豪決勝では、ベッカーと同じく17歳でグランドスラム初優勝を果たした[[マイケル・チャン]]と好勝負を繰り広げた。 ベッカーの[[全仏オープン]]の最高成績はベスト4である([[1987年全仏オープン|1987年]]・[[1989年全仏オープン|1989年]]・[[1991年全仏オープン|1991年]])。 ベッカーは全仏を筆頭にクレーコートでは1つもタイトルを獲得できなかった。 年間最終戦でも長く活躍し、3度の優勝、5度の準優勝を記録している。 ベッカーは多くの選手たちの間でも才能では1番と言う声は強かったが、要所で勝ち切れず世界ランク1位在位はわずか12週でライバルのエドベリの72週と比べずっと短い。 ウィンブルドンや年間最終戦などでも決勝には多く進出するが準優勝が多く、勝ち切れない面がよく出ている。 ボリス・ベッカーは[[1999年]]の[[1999年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]選手権4回戦で[[パトリック・ラフター]]に敗れ、現役引退を表明した。[[2003年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。 2013年12月18日、[[ノバク・ジョコビッチ]]のコーチに就任することが発表されたが、2016年12月6日にジョコビッチのオフィシャルサイトにてコーチ契約解消が発表された<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/12/07/kiji/K20161207013863190.html|title=ジョコビッチ、ベッカー氏とコーチ解消「目標は完璧に達成できた」|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-12-07|accessdate=2016-12-07}}</ref>。 == ライバル・エドベリ == ベッカーはよく[[ステファン・エドベリ]]とライバル関係として語られることが多い。 その最大の要因はウィンブルドン決勝で3年連続で対戦したことである。また、1991年の決勝ではシュティッヒと対戦したが、シュティッヒは準決勝でエドベリを4-6,7-6,7-6,7-6で破っている。この試合エドベリは1度もブレークされておらず、紙一重のところで4年連続の対戦が実現しなかったことになる。 なお、両者のグランドスラムでの対戦はこの3度以外では1度しかない。 この3年連続の対戦はエドベリの2勝1敗に終わった。また、世界ランク1位在位でもエドベリ72週に対し、ベッカーは12週にとどまっている。 このことから一見エドベリの方が優勢だったかに見えるが、実際にはこの両者の35度の対戦ではベッカーが25勝10敗と大勝している。 また、1位ではエドベリが長いが、トップ5やトップ10の在位週数はベッカーのほうが長い。 しかし、要所の対戦ではエドベリが勝っており、このことが両者のライバル関係を強調すると同時にここでもベッカーの要所での弱さが露見している。 ==記録== ;ウィンブルドン選手権最年少優勝「17歳7ヶ月」 ;パリ・マスターズ優勝「3回」 :[[マラト・サフィン]]、[[ノバク・ジョコビッチ]]とタイ記録。 ;世界ランキング1位の選手に勝利「19勝」 :ラファエル・ナダルとタイ記録。 ;セット0–2 からの逆転勝利数「10回」 :[[アーロン・クリックステイン]]、[[ロジャー・フェデラー]]とタイ記録。 == 4大大会優勝 == * [[全豪オープン]]:2勝(1991年、1996年) * [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]選手権:3勝(1985年、1986年、1989年) [準優勝4度:1988年、1990年、1991年、1995年] * [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:1勝(1989年) {| class="wikitable" |- !年!!大会!!対戦相手!!試合結果 |-style="background: #CF9;" | [[1985年]] || [[1985年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|South Africa}} [[ケビン・カレン]] || 6-3, 6-7, 7-6, 6-4 |-style="background: #CF9;" | [[1986年]] || [[1986年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|Czech Republic}} [[イワン・レンドル]] || 6-4, 6-3, 7-5 |-style="background: #CF9;" | [[1989年]] || [[1989年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|Sweden}} [[ステファン・エドベリ]] || 6-0, 7-6, 6-4 |-style="background: #CCF;" | [[1989年]] || [[1989年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|Czech Republic}} [[イワン・レンドル]] || 7-6, 1-6, 6-3, 7-6 |-style="background: #FD5" | [[1991年]] || [[1991年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|Czech Republic}} [[イワン・レンドル]] || 1-6, 6-4, 6-4, 6-4 |-style="background: #FD5" | [[1996年]] || [[1996年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|United States}} [[マイケル・チャン]] || 6-2, 6-4, 2-6, 6-2 |- |} == 4大大会シングルス成績 == {{Performance key}} {| class="wikitable" |- ! 大会 !! 1984 !! 1985 !! 1986 !! 1987 !! 1988 !! 1989 !! 1990 !! 1991 !! 1992 !! 1993 !! 1994 !! 1995 !! 1996 !! 1997 !! 1998 !! 1999 !! 通算成績 |- |style="background:#efefef;" align=left| [[全豪オープン]] | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1984年全豪オープン男子シングルス|QF]] | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1985年全豪オープン男子シングルス|2R]] |align="center"| - | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1987年全豪オープン男子シングルス|4R]] |align="center"| A | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1989年全豪オープン男子シングルス|4R]] | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1990年全豪オープン男子シングルス|QF]] | style="text-align:center; background:lime;"|'''[[1991年全豪オープン男子シングルス|W]]''' | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1992年全豪オープン男子シングルス|3R]] | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1993年全豪オープン男子シングルス|1R]] |align="center"| A | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1995年全豪オープン男子シングルス|1R]] | style="text-align:center; background:lime;"|'''[[1996年全豪オープン男子シングルス|W]]''' | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1997年全豪オープン男子シングルス|1R]] |align="center"| A |align="center"| A | align="center" style="background:#EFEFEF;" |29–9 |- |style="background:#efefef;" align=left| [[全仏オープン]] |align="center"| A | style="text-align:center; background:#afeeee;"|[[1985年全仏オープン男子シングルス|2R]] | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1986年全仏オープン男子シングルス|QF]] | style="text-align:center; background:yellow;"|[[1987年全仏オープン男子シングルス|SF]] | 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1984・85・87年の全豪は96ドロー(1985・87年は1回戦Byeでの出場)である。 == 破産と訴訟 == 2015年10月に負債超過状態に陥り、ロンドンの破産裁判所に申し立てた負債支払い延期の要請が却下され、2017年6月21日午前11時23分に破産宣告された<ref>{{Cite news|url=https://the-ans.jp/news/5403/|title=15年10月から債務超過状態、「最後のチャンス」懇願も…21日に言い渡し|agency=THE ANSWER|date=2017-06-22|accessdate=2022-04-05}}</ref>。破産手続きが進む中、2018年4月に[[中央アフリカ共和国]]のスポーツ・文化・人道担当大使に任命されたことを利用してイギリス高等法院に外交免除まで主張した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3178779|title=破産のベッカー氏、外交特権の適用を申し立て|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-06-16|accessdate=2022-04-05}}</ref>が、中央アフリカ共和国によりベッカーの所持しているパスポートは偽物であると認定された<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3179158|title=ベッカー氏のパスポートは「偽物」、中央アフリカ|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-06-19|accessdate=2022-04-05}}</ref>。 結局、総額5000万ポンド(約68億円)にも及ぶとされる負債を返却するため、優勝トロフィーや記念品などを売却することとなり、2019年7月のオークションでは合計82点が総額68万7000ポンド(約9300万円)で落札された<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3234866|title=破産したベッカー氏のGS優勝トロフィーなど、計9300万円で落札|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2019-07-12|accessdate=2022-04-05}}</ref>。しかし4大大会のトロフィー5個などは所在不明となっていたため、2018年1月には1992年バルセロナ五輪ダブルスの金メダルも含めた情報提供を呼びかけた<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/48960385|title=テニス元王者ベッカー氏、トロフィー売って借金返済 BBCに「名声」を語る|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2019-07-12|accessdate=2022-04-05}}</ref>。 ベッカーは本来売却して返済に充てるべきだった資産を引き渡さず資金・資産の情報開示を怠ったとして19の容疑で検察当局より訴追され、2020年9月24日にはウェストミンスター治安判事裁判所で行われた公判に出廷し無罪を主張<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3306338|title=ボリス・ベッカー氏が無罪主張 破産関連の刑事責任を否定|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2020-09-25|accessdate=2022-04-05}}</ref>。その後も訴追内容が追加され、同年10月22日は{{ill2|サザーク刑事法院|en|Southwark Crown Court}}での公判に出廷し、全ての容疑について無罪を主張した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3311494|title=ベッカー氏、情報開示義務に従わずトロフィーなど資産隠しか|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2020-10-23|accessdate=2022-04-05}}</ref>。 ベッカーはトロフィー9個やメダルなどの資産を引き渡さなかったほか、ドイツで所有していた車販売代理店を売却して得た113万ユーロ(約1億5000万円)の隠蔽、銀行口座への資金移動、ドイツやロンドンにて所有していた不動産、82万5000ユーロ(約1億900万円)にも及ぶ銀行ローンを申告をしていなかったなどの疑いをかけられ、2022年3月21日にロンドンのサザーク刑事法院で開始された裁判では言い逃れはしていないと主張している<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3398742|title=破産のベッカー氏、「言い逃れ」否定 トロフィー紛失めぐり|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2022-04-05|accessdate=2022-04-05}}</ref>。4月7日、サザーク刑事法院はベッカーに対し財産開示不履行や債務隠しの2件など計4件について有罪判決を下したが、残り20件の罪状については無罪とした<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3399480|title=破産のベッカー氏に有罪評決、最大禁錮7年の可能性|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2022-04-09|accessdate=2022-04-30}}</ref>。4月29日に禁錮2年半の有罪判決が言い渡され収監された<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/news/uk-61276378|title=Boris Becker jailed: Tennis champion sentenced over bankruptcy|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2022-04-29|accessdate=2022-04-30}}</ref>。服役中には自らに関連した報道記事をチェックしており、一部の記事については作り話であるとして弁護士に改善を申し入れている<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3405985|title=服役中のベッカー氏、「作り話」の報道にいら立ち 弁護士|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2022-05-21|accessdate=2022-12-16}}</ref>。12月15日に釈放され、ドイツに強制送還された<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3443587|title=ベッカー氏釈放、ドイツへ強制送還|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{ITHF}} * {{ATP}} * {{Davis Cup}} * {{ITF}} * [http://borisbeckertennis.com/ borisbeckertennis.com] - 自身の名を付けた[[ブランド]]([[テニスラケット|ラケット]]など) {{S-start}} {{s-sports}} {{s-bef|before={{flagicon|SWE}} [[ステファン・エドベリ]] <br /> {{flagicon|SWE}} ステファン・エドベリ }} {{s-ttl|title=世界ランキング1位|years=1991年1月28日 &ndash; 1991年2月17日 <br /> 1991年7月8日 &ndash; 1991年9月8日 }} {{s-aft|after={{flagicon|SWE}} ステファン・エドベリ <br /> {{flagicon|SWE}} ステファン・エドベリ }} {{s-end}} {{テニス男子世界ランキング1位}} {{全豪オープン男子シングルス優勝者}} {{ウィンブルドン男子シングルス優勝者}} {{全米オープン男子シングルス優勝者}} {{夏季オリンピックテニス男子ダブルス金メダリスト}} {{ATPツアー年間最終戦シングルス優勝者}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へつかあ 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クロロエチレン
クロロエチレン(chloroethylene)は、塩素とビニル基からなる有機化合物である。化学式はCH2=CHClである。塩化ビニル(vinyl chloride)とも呼ばれる。IUPAC名はクロロエテン(chloroethene)である。 付加重合させるとポリ塩化ビニルになる。ポリ塩化ビニルを単に塩化ビニルと略称することがあるため、クロロエチレン、すなわち単量体(モノマー)の塩化ビニルであることを特に明示したい場合には塩化ビニルモノマーと呼ばれることがある。 クロロエチレンの工業的製法には、直接塩素化法とオキシ塩素化法がある。 直接塩素化法では、まず塩化鉄(III)を触媒としてエチレンと塩素を反応させ、1,2-ジクロロエタン(エチレンジクロリド)を生成する。なお、この際に用いるエチレンはナフサの熱分解により、塩素は塩化ナトリウム(食塩)の電気分解により得られる。 その後、1,2-ジクロロエタンを500°C、15-30気圧に加熱圧縮すると分解してクロロエチレンと塩化水素が生成する。 工業的生産の場では、このとき副生成物として得られた塩化水素を空気(または酸素)と混合し、塩化銅(II)を触媒としてエチレンと反応させて更に1,2-ジクロロエタンを生成させる。これを直接塩素化法と同様に熱分解すればクロロエチレンが得られる。これをオキシ塩素化法という。 この2つの製法を併用すると、反応プロセス全体では結果的に副生成物が発生しないため、環境負荷を抑えることができるという特長を持つ。このため1950年代以降、この2つを併用した製法が広く普及した。 塩化ビニル(モノマー)の2016年度日本国内生産量は 2,588,296 t、工業消費量は 435,644 t である。 1835年にユストゥス・フォン・リービッヒとその教え子であるアンリ・ヴィクトル・ルニョーにより発見された。この時はジクロロエタンを水酸化カリウムのエタノール溶液で処理して得られた。 ジクロロエタンは引火性が強く、水分の存在下で鉄を侵す。また、特定の条件下で過酸化物を生成して爆発的に重合する。このため、取り扱いには注意が必要である。 また、塩化ビニルモノマーとしてはWHOの下部機関IARCより発癌性がある(Type1)と勧告されている。これは、1974年に塩化ビニル樹脂製造に関わる労働者から肝血管肉腫(肝がんの一種)による死亡例が報告されたこと、以後の疫学調査で塩化ビニルモノマーへの曝露と肝血管肉腫との関連性が認められたこと、ラット等を用いた動物試験においても用量の増加と共に肝血管肉腫の増加が認められたことから提案された。かつて日本では、エアロゾルの噴霧助剤として使われていたが、1970年頃に使用禁止となった。しかし、これ以降もポリ塩化ビニル生産のために製造自体は継続されている。 労働安全衛生法の第2類特定化学物質に指定されている。
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クロロエチレン(chloroethylene)は、塩素とビニル基からなる有機化合物である。化学式はCH2=CHClである。塩化ビニル(vinyl chloride)とも呼ばれる。IUPAC名はクロロエテン(chloroethene)である。 付加重合させるとポリ塩化ビニルになる。ポリ塩化ビニルを単に塩化ビニルと略称することがあるため、クロロエチレン、すなわち単量体(モノマー)の塩化ビニルであることを特に明示したい場合には塩化ビニルモノマーと呼ばれることがある。
{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:16 (UTC)}} {{chembox | 出典=[https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0082&p_version=2 国際化学物質安全性カード] | Name=クロロエチレン | ImageFile1 = Vinyl-chloride-2D.svg | ImageSize1 = 100px | ImageFile2 = Chloroethylene-3D-vdW.jpg | ImageSize2 = 125px | ImageAlt = 構造式 クロロエチレン | IUPACName = クロロエテン(chloroethene) | OtherName = 塩化ビニル(vinyl chloride) | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo = 75-01-4 | KEGG = C06793 }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = C<sub>2</sub>H<sub>3</sub>Cl | MolarMass = 62.5 | Appearance = 無色気体 | Odor = 甘ったるい臭気 | 密度=8, 気体(15℃) | 相対蒸気密度=2.2 | 融点=−154℃ | 融点注= | 沸点=−13℃ | 沸点注= }} }} '''クロロエチレン'''(chloroethylene)は、[[塩素]]と[[ビニル基]]からなる有機化合物である。化学式はCH<sub>2</sub>=CHClである。'''塩化ビニル'''(vinyl chloride)とも呼ばれる。IUPAC名は'''クロロエテン'''(chloroethene)である。 [[付加重合]]させると[[ポリ塩化ビニル]]になる。ポリ塩化ビニルを単に塩化ビニルと略称することがあるため、クロロエチレン、すなわち単量体([[モノマー]])の塩化ビニルであることを特に明示したい場合には'''塩化ビニルモノマー'''と呼ばれることがある。 == 製法 == クロロエチレンの工業的製法には、直接塩素化法とオキシ塩素化法がある。 直接塩素化法では、まず[[塩化鉄(III)]]を触媒として[[エチレン]]と[[塩素]]を反応させ、[[1,2-ジクロロエタン]](エチレンジクロリド)を生成する。なお、この際に用いるエチレンは[[ナフサ]]の[[熱分解]]により、塩素は[[塩化ナトリウム]](食塩)の電気分解により得られる。 : <chem>CH2=CH2 + Cl2 -> CH2ClCH2Cl</chem> その後、1,2-ジクロロエタンを500℃、15-30気圧に加熱圧縮すると分解してクロロエチレンと[[塩化水素]]が生成する。 : <chem>CH2ClCH2Cl -> CH2=CHCl + HCl</chem> 工業的生産の場では、このとき副生成物として得られた塩化水素を[[空気]](または[[酸素]])と混合し、[[塩化銅(II)]]を触媒としてエチレンと反応させて更に1,2-ジクロロエタンを生成させる。これを直接塩素化法と同様に熱分解すればクロロエチレンが得られる。これをオキシ塩素化法という。 : <chem>2CH2=CH2 + 4HCl + O2 -> 2CH2ClCH2Cl + 2H2O</chem> この2つの製法を併用すると、反応プロセス全体では結果的に副生成物が発生しないため、環境負荷を抑えることができるという特長を持つ。このため1950年代以降、この2つを併用した製法が広く普及した。 塩化ビニル(モノマー)<!--資料中の呼称に合わせる-->の2016年度日本国内生産量は 2,588,296 t、工業消費量は 435,644 t である<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編]</ref>。 == 歴史 == 1835年に[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]とその教え子である[[アンリ・ヴィクトル・ルニョー]]により発見された。この時はジクロロエタンを[[水酸化カリウム]]の[[エタノール]]溶液で処理して得られた。 == 安全性 == ジクロロエタンは[[引火]]性が強く、水分の存在下で[[鉄]]を侵す。また、特定の条件下で[[過酸化物]]を生成して爆発的に重合する。このため、取り扱いには注意が必要である。 また、塩化ビニルモノマーとしては[[世界保健機関|WHO]]の下部機関[[国際がん研究機関|IARC]]より[[発癌性]]がある(Type1)と勧告されている。これは、1974年に塩化ビニル樹脂製造に関わる労働者から肝血管肉腫(肝がんの一種)による死亡例が報告されたこと、以後の疫学調査で塩化ビニルモノマーへの曝露と肝血管肉腫との関連性が認められたこと、ラット等を用いた動物試験においても用量の増加と共に肝血管肉腫の増加が認められたことから提案された。かつて日本では、[[浮遊粉塵|エアロゾル]]の噴霧助剤として使われていたが、[[1970年]]頃に使用禁止となった。しかし、これ以降も[[ポリ塩化ビニル]]生産のために製造自体は継続されている。 [[労働安全衛生法]]の[[特定化学物質#第2類物質|第2類特定化学物質]]に指定されている。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[ポリ塩化ビニル]] *[[テトラクロロエチレン]] *[[トリクロロエチレン]] *[[エチレン]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くろろえちれん}} {{Chem-stub}} [[Category:有機塩素化合物]] [[Category:アルケン]] [[Category:モノマー]] [[Category:発癌性物質]]
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桶狭間の戦い
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し、今川義元を討ち取った。 戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった。 15世紀末、駿河国の今川氏親は勢力を拡大し、駿河・遠江に領国を形成する。後継の氏輝の死後に、花倉の乱と呼ばれる領国を二分する内紛が発生するが、その子である今川義元が内紛を鎮めて今川家を継承した。 尾張国では守護・斯波氏の家臣で清州織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定が土地を占拠して、さらに交易拠点の津島を支配し経済力を高め、次代の織田信秀(信長の父)が支配地を広げた。 今川氏は尾張の一部にも勢力を持っていたが、織田信秀は天文7年(1538年)までに、尾張那古野城にいた今川氏豊を追放して城を奪い、今川氏との対立が始まった。 両勢力に挟まれた三河国では吉良氏・松平氏・水野氏・戸田氏・牧野氏・菅沼氏・奥平氏などの小勢力が争いを続けていたが、やがて有力国人である松平氏の分家の1つである安祥松平家が岡崎城に拠点を移し、成長していくことになる。 織田弾正忠家と安祥松平家は東尾張と西三河を巡り抗争していた。しかし、松平清康は東尾張侵攻中に家臣に殺害され(森山崩れ)、その子松平広忠も早世して弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていった。このため織田氏と今川氏は東尾張と西三河で対峙することになった。 天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田軍が勝利したとされているが(『信長公記』)、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川軍が勝利した。 しかし、当時の今川氏は甲斐国武田氏・相模国北条氏と対峙しており、特に天文6年(1537年)から天文14年(1545年)まで続いた河東の乱では駿河国東部を巡って北条氏と激しく衝突していた。 このため、今川氏の三河進出の本格化は河東の乱終結後とする見解が浮上しており、第一次小豆坂の戦いの実在性やこの時期の安祥松平家(後の徳川氏)の情勢について様々な議論が行われている。 ともあれ、河東の乱の終結後、今川氏は武田氏・北条氏との関係強化に乗り出し、やがて甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ることになった。 翌天文18年(1549年)、今川軍が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略し、織田氏の三河進出は挫折に終わった。 そして天文18年(1549年)後半に信秀は病に臥せる。その中、天文19年(1550年)に今川氏は大軍で尾張に侵攻した。織田軍はどうにか国境近辺で持ちこたえたが、今川軍は知多半島に12月まで在陣した(『定光寺文書』)。同地の緒川・刈谷を領する水野家を降伏させてから、引き上げた。 さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病死した。その後、織田家の家督を巡って、織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で 内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城、笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口教継が今川軍に投降した。 加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川軍の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通とそれによる農地開発以前の知多半島は、ほぼ全域が小さな山や谷が連なる丘陵地で、主要河川が無く溜め池に頼る農業困難地帯であった。知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。 また、尾張西南の荷之上城に拠る服部友貞が今川軍に味方しており、荷之上城に近い蟹江城が弘治元年(1555年)に今川軍に攻められ、伊勢湾の制海権が徐々に今川軍に侵略されつつあった。 織田信長も今川軍の進出阻止や逆襲に動いた。 天文23年(1554年)には、織田信長は知多の領主である水野氏を支援して今川軍の村木砦を攻め落とした。さらに、笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで今川軍を圧迫し、城相互の連絡を遮断した。尾張東北では永禄元年~2年(1558年~1559年)、松平・今川氏が押さえる品野城(瀬戸市)を攻めたが、奪取はならなかった。 永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は大軍を率いて駿府を出陣し、18日に沓掛城に入った。同日夜、松平元康(徳川家康)が指揮を執る三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。一方の織田方は軍議したが織田信長は雑談するばかりで、織田家の重臣は「運の末には、知恵の鏡も曇る」と引き去った(『信長公記』)。『信長公記』天理本では、清洲城に篭城をとの家老衆の進言を除け、信長は国境での迎撃を採用したとする。 永禄3年(1560年)5月19日(6月12日)3時頃、今川軍の松平元康と朝比奈泰朝の部隊が織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始した。明け方になると丸根の砦、鷲津に今川軍が襲いかかってきたことを佐久間盛重らが織田家に知らせた。前日まで今川軍接近の情報を聞いても動かなかった織田信長はこの知らせを聞いて飛び起きて、突然、幸若舞『敦盛』を舞うと、すぐに出陣の準備をした。そして、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発した(『信長公記』「今川義元討死の事」)。小姓衆5騎のみを連れて出た織田信長は8時頃、熱田神宮に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った(『信長公記』)。 10時頃、織田信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000人から3,000人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒の松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500人余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重はこの戦いで討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。大高城周辺の制圧を完了した今川軍では、今川義元率いる本隊の軍が沓掛城(くつかけじょう)を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後、進路を南に進んだ。 正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた織田軍の佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は織田信長の出陣の知らせを聞いて意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし佐々、千秋らは逆に今川軍から反撃を受けてしまい、そのまま討ち取られて死亡した。その後、今川軍が丸根砦と鷲津砦を順調に陥落させ、数々の戦闘に勝利したことに今川義元は大いに悦び、謡(うたい)をうたわせた(『信長公記』)。 また、この時、今川義元が本体の軍を布陣して休息していた場所は、「桶狭間山」という山であった(『信長公記』)。 13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。または、信長は「あの武者は疲れた兵」と敵軍が見えていて、今川方も中嶋砦からの信長の進軍を見ていて(『三河物語』)、奇襲ではなく雨も止んでからの正面から進軍しての戦闘だった(『信長公記』)(詳細は「#合戦場と奇襲の問題」)。今川軍の総勢は2万5000人であったとされるが、当地へは今川方は駿府を発して徐々に土豪らが加わる遠征で、その中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれた。加えて今川方は兵を分散させていたこともあり、今川義元を守る実際の兵力は少なく、双方の戦力に各段の差は無かった。 織田軍はまず前方に展開していた今川軍の前衛軍を打ち破り、その混乱と乱戦の中、今川軍の本陣を目指してそのまま突撃した。この突然の敵の奇襲を知った今川義元は300人の旗本に守られてすぐ逃げた。 『信長公記』によれば、今川義元はこの予期せぬ緊急事態に輿を捨て、300騎の旗本・親衛隊で周りを固めながら急いでその場から騎馬で脱出、退却した。しかし、5度にわたる織田軍の攻撃で周囲の兵たちを少しずつ失い、ついには織田軍の馬廻に追いつかれた。小和田泰経は桶狭間をこの一帯の地名だとして湿地なども谷や狭間ではなく、この時の桶狭間一帯に深田や湿地が広がっていたとして、大雨の降ったこともあって、敗走ルートの現場ではぬかるみに足を取られたところを織田軍に攻撃され殺される今川軍の兵も多かったとする。乱戦の中、今川義元は太刀を抜いて自ら奮戦し、一番槍をつけた服部一忠に反撃して膝を切り割ったが、毛利新介によって組み伏せられ、首を討ち取られて死亡した(享年42)。『水野勝成覚書』の伝聞によれば、今川義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという。 今川義元が討ち死にした現場は、今川家の資料では「田楽窪」と記録されている。桶狭間の戦いから27年後の天正15年(1587)に、今川義元の軍師であった太原崇孚(=太原雪斎)の三十三回忌が営まれたが、そのときの記録「護国禅師三十三回忌拈香拙語并序」に「五月十九日、礼部尾之田楽窪一戦而自吻矣」とある。「礼部」は今川義元のことで、今川義元は5月19日に「田楽窪」で討たれた、という。この「田楽窪」の場所は、現在、豊明市沓掛町に「田楽ケ窪」という地名で残されている。 今川軍総大将の今川義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し軍は総崩れとなり、この桶狭間の合戦は織田軍の勝利に終わった。 江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の『桶狭間合戦討死者書上』によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人余りだった。また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたという。江戸時代に六角氏について偽文が様々書かれ、この『桶狭間合戦討死者書上』も偽情報だとの研究者の見解がある。 今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍はこの桶狭間の戦いで浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。 織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(後の徳川家康)のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。5月19日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去。23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。元康にとって幸いであったのは、大高在城のために彼の家臣団が敗戦の被害をほとんど受けなかったことであった。 尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、今川軍の占領地の一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、最後まで落城しなかった。岡部元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河刈谷城を攻略して水野信近を討ち取った(ただし、味方の支援が受けられなかったために信近を討ったものの、刈谷城を落としきれずに帰国したとする説もある)。信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。 この桶狭間の戦いで、西三河から尾張に至る地域では、今川氏の勢力が一掃された。また、今川軍の別働隊の先鋒として戦っていた松平元康は、岡崎城へ難を逃れ、その後、今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。その後、松平元康は今川義元の後を継いだ今川氏真が父・義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって今川氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、松平元康は公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、この時の織田信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後は美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことは、北条家や武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなった。関東では、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが上杉謙信に味方をして戦った。そして、この上杉軍の勢いは、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟関係は終了した。 永禄11年(1568年)12月6日、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始された。織田信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった織田信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子の武田勝頼に嫁いでいるなど関係は良好となった。以後、織田信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。 桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、様々な議論を呼んでいる。 今川氏には家臣団編成の実態を知る分限帳・軍役帳が伝存しておらず動員可能兵力を想定することは困難であるが、『信長公記』においては四万五千、小瀬甫庵の『信長記』には数万騎と記し、そのほか後代の編纂資料においては『甲陽軍鑑』には二万余、『武功夜話』には三万有余、『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』などには四万余、『改正三河後風土記』は『信長公記』に基づき四万五千、『絵本太閤記』には五万余といった数字を記している。 近年まで影響力があったのは、第二次世界大戦前の帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』にある25,000である。小和田哲男は義元領地を石高換算で90万から100万石と見て1万石250人の兵力動員からやはり25,000だとする。近年には太田満明、橋場日月など、太閤検地による近世初頭の今川領の総石高を元に、二万五千でも多すぎると異論を唱える論者もいる。 駿河・遠江・三河の3国のほか、尾張の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえる織田とは兵力差があった。尾張の国力を信長の動員力ではなく、信長が、同族を平定し、自らが擁立した尾張守護・斯波義銀を追放して尾張国の国主となったのは、桶狭間の戦いの前年に過ぎない。本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一の過程で信長家臣に組み込まれた者や国人・豪族たちは戦況を様子見するか、服部党の服部友貞のように今川方についた。このことからも、信長の動員力は非常に限られたものだった。 今川義元は武田信玄・北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結んでおり、軍事同盟である以上、義元の対織田戦に武田氏や北条氏がどう対応していたのか?という問題が浮上してくる。その中で丸島和洋は『甲陽軍鑑』における桶狭間の戦いの記述が頻出詳細であることに注目している。加えて、桶狭間の戦いから1か月後の6月13日付で武田信玄が岡部元信に書状を送り、その武勇を称えると同時に氏真に対する「侫人の讒言」があることを憂慮する内容となっていることを指摘し、桶狭間の戦い直後の今川家中で武田氏に対する不満が高まっていた(氏真に信玄への不満を述べる者がいた)のではないかとしている。丸島は武田氏が(恐らく北条氏も)今川軍に援軍を出すなどの支援行為を行っていたものの、桶狭間の戦いにおける武田氏の援軍の働きぶりに戦後の今川家中において不満や不信感を抱かれたのではないか、と推測している。 『甫庵信長記』以来、長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。幕末編纂の軍記ものの栗原信充の『重修真書太閤記』(嘉永5年:1852年~安政5年:1858年)にも、義元上洛の記述が見える。 歴史家高柳光壽がこれに疑問を示し、今川氏は織田氏と三河を巡り争い続けて尾張も視野に入れ、義元が、今川家家督を継承してから三河で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げて、ついに三河を占領できたので、更に尾張の支配地域を大きくするため侵攻したと、指摘した。 尾張は今川一門今川仲秋(尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏(室町幕府奉公衆の今川氏)が那古野城を構えていた。義元の末弟である今川氏豊は、この今川一門の家の血縁が絶えたので、送り込まれ家を継いだ。那古野城は謀略で織田に奪われ、そこで信長は生まれた。 義元の置かれていた状況は後の織田信長などとは大きく異なるし、信長以前には戦国大名が天下人を意識したり目指していない。義元の永禄2年(1559年)3月12日付の出陣準備の文書「戦場掟書」にも「上洛」の文字はない。また、義元には、上洛するための京都の公家への事前の働きかけや、美濃国の斎藤家や近江国の六角家などへの折衝が無い。 信長は後に足利将軍家の足利義昭を奉じて京周辺と畿内の支配や地方大名の紛争を調停する室町幕府の伝統的な連合政権を形作った。信長本人が天下人となるのは義昭と紛争になり追放してからである。また、甲斐の武田信玄は、元亀年間に信長・徳川家康と敵対し、反信長勢力を迎合した将軍義昭に呼応して大規模な遠江・三河侵攻を行っている(西上作戦)。西上作戦は従来から上洛意図の有無が議論され、近年は前段階の駿河今川領国侵攻も含めて武田氏の軍事行動が中央の政治動向と連動したものであることが指摘されている。だが、信長以降である。 当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。領土紛争の一環としてこの二城を救出してそれを基に那古野城とその周辺まで奪取する構想があったとする。 久保田昌希は今川氏発給文書を分析して、東三河の密度の濃さに比べて、西三河は密度が薄いとして、永禄3年(1560年)の出陣は西三河の確保が目的とする。 埋め立てが進んだ現代に比べて当時は海が内陸に食い込んでおり、大高付近は船着き場でもあった。今川家は尾張での領土の確保・拡大だけでなく、東国と西国を結ぶ交易ルートであった伊勢湾の支配を巡り織田家と累代抗争していたとする研究も目立つ。 大石泰史は上洛説は成立し難いとした上で、非上洛説を以下の6つに分類している。 その上で、大石は2・3・4は裏付けとなる史料が不足しているために安易に肯定は出来ず、1・5・6はいずれも関連づけが出来るために敢えて1つに絞る必要は無い、との見解を述べている。 また小林正信は義元の出兵を古河公方を推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。将軍・足利義輝を支持する長尾景虎が信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。その後の景虎による関東出兵も、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた。 桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。 桶狭間の戦いの経緯については太田牛一『信長公記』、または『信長公記』を脚色した小瀬甫庵『信長記』において具体的に著述されているが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には『信長公記』が記録性が強く、『信長記』は甫庵自身の史観による改竄が見られ史料価値は低い。 「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されている。 一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村の辺りにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではない。 桶狭間は慶長13年(1608年)検地で村名となっている。なお小瀬甫庵『甫庵信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されていて、江戸時代に出版されたので広がったが、脚色であり史料的には信頼性がなくなっている。田楽狭間は、大字で、その初見は寛永元年(1624年)山澄英龍『桶狭合戦記』でそれ以前にはない。 「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の4つの説にまとめることができる。 「迂回攻撃説」は江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が多い。 「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根砦、鷲津砦を陥落させて勝利に奢って油断していたとされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。 これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば大久保忠教の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。 また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長が予めよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱が勲功第一とされたという、『甫庵信長記』等における逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとして取り上げられることがあった。 しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説によれば、信長が予め情報を収集していたという見解にも無理がある。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して低地の守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所は補足できていない。何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家老に向かって、「敵は夜間行軍し兵糧搬入後に丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずである」という主旨の重臣への訓示をしている。 この記述によれば、信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、夜間行軍し、大高城に兵糧搬入してそのまま出撃し丸根、鷲津砦を攻撃した直後の敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけで、義元にも触れず存在を知らない、ということである。 『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ信長は義元の所在地や行動を知らず織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。 今川軍は、元々の今川方の領地で伊勢湾の潮の干満で満ち潮で来援しにくい時間に攻撃開始するなど土地勘があり、それに信長方だった山口左馬助の寝返り以来、さらに地形に詳しい者の助言で、布陣と占領もうまくいっていた。しかし、通常明け方の戦闘開始が戦国時代の戦の通例だが、午後2時という常識外の時間に信長軍が出現し、低地から攻撃を仕掛けてきた。これに、義元を総大将として抱えていた今川軍本陣が急変に対応できず防戦するより旗本に守られつつ退却して、残された輿を見た信長に義元の存在を気付かれ、信長軍の馬廻衆の追撃と重ねての攻撃に討ち取られたということになる。 以上により、信長の義元への本陣攻撃とは義元を狙って地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、義元がいる本陣だったのも偶然で、偶発的に義元本陣突撃になって討ち取り、戦国大名が戦場で討死した稀な事例となり、その結果、今川軍が総崩れし追撃され大敗した、という解釈になる。このように『信長公記』を全面的に依拠する正面攻撃説によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた幸運による成功ということになる。 また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの足軽隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。藤本正行は、当時の合戦ではよくあったことだが、単に戦場に到着した信長の前で手柄を上げるために独自の判断で抜け駆けを行ったとの説である。この部隊の中に若き日の前田利家が同輩を切り蓄電し出仕停止処分を受けていたが、この抜け駆けに参戦し、敵の首を取り信長に披露した(前田家家譜)。 上記の通り、簗田出羽守の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問が持たれている。また、最初から奇襲作戦を行うとすればあらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。 しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川家にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。 簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、小瀬甫庵の『信長記』や『武家事紀』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一というのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したという事実から、後に行われた小説的解釈である。 ほかに、簗田出羽守が合戦前に偵察や地形の調査を行っていたとも言われているが(『武功夜話』など)、確実なものとはされていない。現代では武岡淳彦が軍事研究家の観点から詳細に構想しているほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及しているが、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある。武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している。 史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったということだけである。沓掛を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかはわかっていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し、今川義元を討ち取った。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "15世紀末、駿河国の今川氏親は勢力を拡大し、駿河・遠江に領国を形成する。後継の氏輝の死後に、花倉の乱と呼ばれる領国を二分する内紛が発生するが、その子である今川義元が内紛を鎮めて今川家を継承した。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "尾張国では守護・斯波氏の家臣で清州織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定が土地を占拠して、さらに交易拠点の津島を支配し経済力を高め、次代の織田信秀(信長の父)が支配地を広げた。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "今川氏は尾張の一部にも勢力を持っていたが、織田信秀は天文7年(1538年)までに、尾張那古野城にいた今川氏豊を追放して城を奪い、今川氏との対立が始まった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "両勢力に挟まれた三河国では吉良氏・松平氏・水野氏・戸田氏・牧野氏・菅沼氏・奥平氏などの小勢力が争いを続けていたが、やがて有力国人である松平氏の分家の1つである安祥松平家が岡崎城に拠点を移し、成長していくことになる。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "織田弾正忠家と安祥松平家は東尾張と西三河を巡り抗争していた。しかし、松平清康は東尾張侵攻中に家臣に殺害され(森山崩れ)、その子松平広忠も早世して弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていった。このため織田氏と今川氏は東尾張と西三河で対峙することになった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田軍が勝利したとされているが(『信長公記』)、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川軍が勝利した。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、当時の今川氏は甲斐国武田氏・相模国北条氏と対峙しており、特に天文6年(1537年)から天文14年(1545年)まで続いた河東の乱では駿河国東部を巡って北条氏と激しく衝突していた。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このため、今川氏の三河進出の本格化は河東の乱終結後とする見解が浮上しており、第一次小豆坂の戦いの実在性やこの時期の安祥松平家(後の徳川氏)の情勢について様々な議論が行われている。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ともあれ、河東の乱の終結後、今川氏は武田氏・北条氏との関係強化に乗り出し、やがて甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ることになった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "翌天文18年(1549年)、今川軍が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略し、織田氏の三河進出は挫折に終わった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "そして天文18年(1549年)後半に信秀は病に臥せる。その中、天文19年(1550年)に今川氏は大軍で尾張に侵攻した。織田軍はどうにか国境近辺で持ちこたえたが、今川軍は知多半島に12月まで在陣した(『定光寺文書』)。同地の緒川・刈谷を領する水野家を降伏させてから、引き上げた。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病死した。その後、織田家の家督を巡って、織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で 内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城、笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口教継が今川軍に投降した。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川軍の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通とそれによる農地開発以前の知多半島は、ほぼ全域が小さな山や谷が連なる丘陵地で、主要河川が無く溜め池に頼る農業困難地帯であった。知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、尾張西南の荷之上城に拠る服部友貞が今川軍に味方しており、荷之上城に近い蟹江城が弘治元年(1555年)に今川軍に攻められ、伊勢湾の制海権が徐々に今川軍に侵略されつつあった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "織田信長も今川軍の進出阻止や逆襲に動いた。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "天文23年(1554年)には、織田信長は知多の領主である水野氏を支援して今川軍の村木砦を攻め落とした。さらに、笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで今川軍を圧迫し、城相互の連絡を遮断した。尾張東北では永禄元年~2年(1558年~1559年)、松平・今川氏が押さえる品野城(瀬戸市)を攻めたが、奪取はならなかった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は大軍を率いて駿府を出陣し、18日に沓掛城に入った。同日夜、松平元康(徳川家康)が指揮を執る三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。一方の織田方は軍議したが織田信長は雑談するばかりで、織田家の重臣は「運の末には、知恵の鏡も曇る」と引き去った(『信長公記』)。『信長公記』天理本では、清洲城に篭城をとの家老衆の進言を除け、信長は国境での迎撃を採用したとする。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "永禄3年(1560年)5月19日(6月12日)3時頃、今川軍の松平元康と朝比奈泰朝の部隊が織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始した。明け方になると丸根の砦、鷲津に今川軍が襲いかかってきたことを佐久間盛重らが織田家に知らせた。前日まで今川軍接近の情報を聞いても動かなかった織田信長はこの知らせを聞いて飛び起きて、突然、幸若舞『敦盛』を舞うと、すぐに出陣の準備をした。そして、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発した(『信長公記』「今川義元討死の事」)。小姓衆5騎のみを連れて出た織田信長は8時頃、熱田神宮に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った(『信長公記』)。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "10時頃、織田信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000人から3,000人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒の松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500人余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重はこの戦いで討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。大高城周辺の制圧を完了した今川軍では、今川義元率いる本隊の軍が沓掛城(くつかけじょう)を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後、進路を南に進んだ。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた織田軍の佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は織田信長の出陣の知らせを聞いて意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし佐々、千秋らは逆に今川軍から反撃を受けてしまい、そのまま討ち取られて死亡した。その後、今川軍が丸根砦と鷲津砦を順調に陥落させ、数々の戦闘に勝利したことに今川義元は大いに悦び、謡(うたい)をうたわせた(『信長公記』)。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、この時、今川義元が本体の軍を布陣して休息していた場所は、「桶狭間山」という山であった(『信長公記』)。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。または、信長は「あの武者は疲れた兵」と敵軍が見えていて、今川方も中嶋砦からの信長の進軍を見ていて(『三河物語』)、奇襲ではなく雨も止んでからの正面から進軍しての戦闘だった(『信長公記』)(詳細は「#合戦場と奇襲の問題」)。今川軍の総勢は2万5000人であったとされるが、当地へは今川方は駿府を発して徐々に土豪らが加わる遠征で、その中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれた。加えて今川方は兵を分散させていたこともあり、今川義元を守る実際の兵力は少なく、双方の戦力に各段の差は無かった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "織田軍はまず前方に展開していた今川軍の前衛軍を打ち破り、その混乱と乱戦の中、今川軍の本陣を目指してそのまま突撃した。この突然の敵の奇襲を知った今川義元は300人の旗本に守られてすぐ逃げた。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『信長公記』によれば、今川義元はこの予期せぬ緊急事態に輿を捨て、300騎の旗本・親衛隊で周りを固めながら急いでその場から騎馬で脱出、退却した。しかし、5度にわたる織田軍の攻撃で周囲の兵たちを少しずつ失い、ついには織田軍の馬廻に追いつかれた。小和田泰経は桶狭間をこの一帯の地名だとして湿地なども谷や狭間ではなく、この時の桶狭間一帯に深田や湿地が広がっていたとして、大雨の降ったこともあって、敗走ルートの現場ではぬかるみに足を取られたところを織田軍に攻撃され殺される今川軍の兵も多かったとする。乱戦の中、今川義元は太刀を抜いて自ら奮戦し、一番槍をつけた服部一忠に反撃して膝を切り割ったが、毛利新介によって組み伏せられ、首を討ち取られて死亡した(享年42)。『水野勝成覚書』の伝聞によれば、今川義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "今川義元が討ち死にした現場は、今川家の資料では「田楽窪」と記録されている。桶狭間の戦いから27年後の天正15年(1587)に、今川義元の軍師であった太原崇孚(=太原雪斎)の三十三回忌が営まれたが、そのときの記録「護国禅師三十三回忌拈香拙語并序」に「五月十九日、礼部尾之田楽窪一戦而自吻矣」とある。「礼部」は今川義元のことで、今川義元は5月19日に「田楽窪」で討たれた、という。この「田楽窪」の場所は、現在、豊明市沓掛町に「田楽ケ窪」という地名で残されている。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "今川軍総大将の今川義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し軍は総崩れとなり、この桶狭間の合戦は織田軍の勝利に終わった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の『桶狭間合戦討死者書上』によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人余りだった。また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたという。江戸時代に六角氏について偽文が様々書かれ、この『桶狭間合戦討死者書上』も偽情報だとの研究者の見解がある。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍はこの桶狭間の戦いで浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(後の徳川家康)のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。5月19日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去。23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。元康にとって幸いであったのは、大高在城のために彼の家臣団が敗戦の被害をほとんど受けなかったことであった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、今川軍の占領地の一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、最後まで落城しなかった。岡部元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河刈谷城を攻略して水野信近を討ち取った(ただし、味方の支援が受けられなかったために信近を討ったものの、刈谷城を落としきれずに帰国したとする説もある)。信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この桶狭間の戦いで、西三河から尾張に至る地域では、今川氏の勢力が一掃された。また、今川軍の別働隊の先鋒として戦っていた松平元康は、岡崎城へ難を逃れ、その後、今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。その後、松平元康は今川義元の後を継いだ今川氏真が父・義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって今川氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、松平元康は公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、この時の織田信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後は美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことは、北条家や武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなった。関東では、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが上杉謙信に味方をして戦った。そして、この上杉軍の勢いは、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟関係は終了した。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "永禄11年(1568年)12月6日、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始された。織田信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった織田信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子の武田勝頼に嫁いでいるなど関係は良好となった。以後、織田信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。", "title": "合戦の経過" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、様々な議論を呼んでいる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "今川氏には家臣団編成の実態を知る分限帳・軍役帳が伝存しておらず動員可能兵力を想定することは困難であるが、『信長公記』においては四万五千、小瀬甫庵の『信長記』には数万騎と記し、そのほか後代の編纂資料においては『甲陽軍鑑』には二万余、『武功夜話』には三万有余、『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』などには四万余、『改正三河後風土記』は『信長公記』に基づき四万五千、『絵本太閤記』には五万余といった数字を記している。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "近年まで影響力があったのは、第二次世界大戦前の帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』にある25,000である。小和田哲男は義元領地を石高換算で90万から100万石と見て1万石250人の兵力動員からやはり25,000だとする。近年には太田満明、橋場日月など、太閤検地による近世初頭の今川領の総石高を元に、二万五千でも多すぎると異論を唱える論者もいる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "駿河・遠江・三河の3国のほか、尾張の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえる織田とは兵力差があった。尾張の国力を信長の動員力ではなく、信長が、同族を平定し、自らが擁立した尾張守護・斯波義銀を追放して尾張国の国主となったのは、桶狭間の戦いの前年に過ぎない。本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一の過程で信長家臣に組み込まれた者や国人・豪族たちは戦況を様子見するか、服部党の服部友貞のように今川方についた。このことからも、信長の動員力は非常に限られたものだった。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "今川義元は武田信玄・北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結んでおり、軍事同盟である以上、義元の対織田戦に武田氏や北条氏がどう対応していたのか?という問題が浮上してくる。その中で丸島和洋は『甲陽軍鑑』における桶狭間の戦いの記述が頻出詳細であることに注目している。加えて、桶狭間の戦いから1か月後の6月13日付で武田信玄が岡部元信に書状を送り、その武勇を称えると同時に氏真に対する「侫人の讒言」があることを憂慮する内容となっていることを指摘し、桶狭間の戦い直後の今川家中で武田氏に対する不満が高まっていた(氏真に信玄への不満を述べる者がいた)のではないかとしている。丸島は武田氏が(恐らく北条氏も)今川軍に援軍を出すなどの支援行為を行っていたものの、桶狭間の戦いにおける武田氏の援軍の働きぶりに戦後の今川家中において不満や不信感を抱かれたのではないか、と推測している。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『甫庵信長記』以来、長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。幕末編纂の軍記ものの栗原信充の『重修真書太閤記』(嘉永5年:1852年~安政5年:1858年)にも、義元上洛の記述が見える。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "歴史家高柳光壽がこれに疑問を示し、今川氏は織田氏と三河を巡り争い続けて尾張も視野に入れ、義元が、今川家家督を継承してから三河で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げて、ついに三河を占領できたので、更に尾張の支配地域を大きくするため侵攻したと、指摘した。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "尾張は今川一門今川仲秋(尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏(室町幕府奉公衆の今川氏)が那古野城を構えていた。義元の末弟である今川氏豊は、この今川一門の家の血縁が絶えたので、送り込まれ家を継いだ。那古野城は謀略で織田に奪われ、そこで信長は生まれた。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "義元の置かれていた状況は後の織田信長などとは大きく異なるし、信長以前には戦国大名が天下人を意識したり目指していない。義元の永禄2年(1559年)3月12日付の出陣準備の文書「戦場掟書」にも「上洛」の文字はない。また、義元には、上洛するための京都の公家への事前の働きかけや、美濃国の斎藤家や近江国の六角家などへの折衝が無い。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "信長は後に足利将軍家の足利義昭を奉じて京周辺と畿内の支配や地方大名の紛争を調停する室町幕府の伝統的な連合政権を形作った。信長本人が天下人となるのは義昭と紛争になり追放してからである。また、甲斐の武田信玄は、元亀年間に信長・徳川家康と敵対し、反信長勢力を迎合した将軍義昭に呼応して大規模な遠江・三河侵攻を行っている(西上作戦)。西上作戦は従来から上洛意図の有無が議論され、近年は前段階の駿河今川領国侵攻も含めて武田氏の軍事行動が中央の政治動向と連動したものであることが指摘されている。だが、信長以降である。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。領土紛争の一環としてこの二城を救出してそれを基に那古野城とその周辺まで奪取する構想があったとする。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "久保田昌希は今川氏発給文書を分析して、東三河の密度の濃さに比べて、西三河は密度が薄いとして、永禄3年(1560年)の出陣は西三河の確保が目的とする。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "埋め立てが進んだ現代に比べて当時は海が内陸に食い込んでおり、大高付近は船着き場でもあった。今川家は尾張での領土の確保・拡大だけでなく、東国と西国を結ぶ交易ルートであった伊勢湾の支配を巡り織田家と累代抗争していたとする研究も目立つ。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "大石泰史は上洛説は成立し難いとした上で、非上洛説を以下の6つに分類している。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その上で、大石は2・3・4は裏付けとなる史料が不足しているために安易に肯定は出来ず、1・5・6はいずれも関連づけが出来るために敢えて1つに絞る必要は無い、との見解を述べている。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また小林正信は義元の出兵を古河公方を推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。将軍・足利義輝を支持する長尾景虎が信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。その後の景虎による関東出兵も、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "桶狭間の戦いの経緯については太田牛一『信長公記』、または『信長公記』を脚色した小瀬甫庵『信長記』において具体的に著述されているが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には『信長公記』が記録性が強く、『信長記』は甫庵自身の史観による改竄が見られ史料価値は低い。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されている。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村の辺りにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではない。 桶狭間は慶長13年(1608年)検地で村名となっている。なお小瀬甫庵『甫庵信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されていて、江戸時代に出版されたので広がったが、脚色であり史料的には信頼性がなくなっている。田楽狭間は、大字で、その初見は寛永元年(1624年)山澄英龍『桶狭合戦記』でそれ以前にはない。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の4つの説にまとめることができる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "「迂回攻撃説」は江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が多い。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根砦、鷲津砦を陥落させて勝利に奢って油断していたとされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば大久保忠教の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長が予めよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱が勲功第一とされたという、『甫庵信長記』等における逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとして取り上げられることがあった。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説によれば、信長が予め情報を収集していたという見解にも無理がある。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して低地の守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所は補足できていない。何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家老に向かって、「敵は夜間行軍し兵糧搬入後に丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずである」という主旨の重臣への訓示をしている。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "この記述によれば、信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、夜間行軍し、大高城に兵糧搬入してそのまま出撃し丸根、鷲津砦を攻撃した直後の敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけで、義元にも触れず存在を知らない、ということである。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ信長は義元の所在地や行動を知らず織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "今川軍は、元々の今川方の領地で伊勢湾の潮の干満で満ち潮で来援しにくい時間に攻撃開始するなど土地勘があり、それに信長方だった山口左馬助の寝返り以来、さらに地形に詳しい者の助言で、布陣と占領もうまくいっていた。しかし、通常明け方の戦闘開始が戦国時代の戦の通例だが、午後2時という常識外の時間に信長軍が出現し、低地から攻撃を仕掛けてきた。これに、義元を総大将として抱えていた今川軍本陣が急変に対応できず防戦するより旗本に守られつつ退却して、残された輿を見た信長に義元の存在を気付かれ、信長軍の馬廻衆の追撃と重ねての攻撃に討ち取られたということになる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "以上により、信長の義元への本陣攻撃とは義元を狙って地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、義元がいる本陣だったのも偶然で、偶発的に義元本陣突撃になって討ち取り、戦国大名が戦場で討死した稀な事例となり、その結果、今川軍が総崩れし追撃され大敗した、という解釈になる。このように『信長公記』を全面的に依拠する正面攻撃説によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた幸運による成功ということになる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの足軽隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。藤本正行は、当時の合戦ではよくあったことだが、単に戦場に到着した信長の前で手柄を上げるために独自の判断で抜け駆けを行ったとの説である。この部隊の中に若き日の前田利家が同輩を切り蓄電し出仕停止処分を受けていたが、この抜け駆けに参戦し、敵の首を取り信長に披露した(前田家家譜)。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "上記の通り、簗田出羽守の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問が持たれている。また、最初から奇襲作戦を行うとすればあらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川家にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、小瀬甫庵の『信長記』や『武家事紀』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一というのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したという事実から、後に行われた小説的解釈である。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ほかに、簗田出羽守が合戦前に偵察や地形の調査を行っていたとも言われているが(『武功夜話』など)、確実なものとはされていない。現代では武岡淳彦が軍事研究家の観点から詳細に構想しているほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及しているが、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある。武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったということだけである。沓掛を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかはわかっていない。", "title": "合戦の実態をめぐる議論" } ]
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し、今川義元を討ち取った。 戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった。
{{出典の明記|date=2018年10月}} {{Battlebox |battle_name = 桶狭間の戦い |image = [[ファイル:Okehazama Old Battlefield, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG|300px|桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)]] |caption = [[桶狭間#桶狭間古戦場伝説地|桶狭間古戦場伝説地]]([[愛知県]][[豊明市]]) |conflict =[[戦国時代 (日本)]] |date = [[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[西暦]][[1560年]][[6月12日]]) |place = [[尾張国]][[知多郡]][[桶狭間]] |result = [[織田信長]]軍の勝利、[[今川義元]]の討死 |combatant1 = [[ファイル:Oda emblem.svg|20px]] 織田軍 |combatant2 = [[ファイル:Ashikaga mon.svg|20px]] 今川軍 |commander1 = [[ファイル:Oda emblem.svg|20px]] 織田信長<br/>[[森可成]]<br/>[[佐久間信盛]]<br/>[[千秋季忠]]{{KIA}} |commander2 = [[ファイル:Ashikaga mon.svg|20px]] 今川義元{{KIA}}<br/>[[井伊直盛]]{{KIA}}<br/>[[岡部元信]]<br/>[[ファイル:Mon-Tokugawa.png|20px]] [[徳川家康|松平元康]] |strength1 = 2,000 人(今川本陣を攻撃したのは約2,000人) |strength2 = 25,000人(諸説あり。また織田信長本隊に直接対峙したのはこのうち5,000 - 6,000人) |casualties1 = – |casualties2 = 3,000人余(『[[信長公記]]』『[[武徳編年集成]]』)<br/>2,500人(『[[落穂集]]』『[[武徳大盛記]]』)<br/>3,907人(『[[改正三河後風土記]]』){{Sfn|小和田|2000|p=216}} |campaign = 織田信長の戦闘 |}} [[ファイル:The grave of Yoshimoto Imagawa in Okehazama.jpg|thumb|200px|right|今川義元の墓([[明治]]9年([[1876年]])5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内]] '''桶狭間の戦い'''(おけはざまのたたかい)は、[[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[1560年]][[6月12日]])に[[尾張国]][[知多郡]][[桶狭間]]での[[織田信長]]軍と[[今川義元]]軍の[[戦闘|合戦]]。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を[[奇襲]]、または正面から攻撃し{{Sfn|藤本|2008|pp=33-38}}、今川義元を討ち取った。 戦後、[[東海地方]]を制圧していた[[今川氏|今川家]]が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ[[近畿地方|畿内]]制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康([[徳川家康]])は[[三河国|三河]]で独立を回復して信長と[[清洲同盟]]を締結し、これが戦国時代の転機となった。 == 合戦の経過 == === 合戦以前の情勢 === [[15世紀]]末、[[駿河国]]の[[今川氏親]]は勢力を拡大し、駿河・[[遠江国|遠江]]に領国を形成する{{Sfn|小和田|1983|p=159}}。後継の[[今川氏輝|氏輝]]の死後に、[[花倉の乱]]と呼ばれる領国を二分する内紛が発生するが、その子である[[今川義元]]が内紛を鎮めて今川家を継承した{{Sfn|小和田哲男|2004|pp=125、280}}。 尾張国では[[守護]]・[[斯波氏]]の家臣で[[清洲城|清州]]織田氏の[[家老]]である織田弾正忠家が成長。[[織田信定]]が土地を占拠して、さらに交易拠点の[[津島市|津島]]を支配し経済力を高め、次代の[[織田信秀]](信長の父)が支配地を広げた{{Sfn|谷口克広|2017|pp=32-43}}。 今川氏は尾張の一部にも勢力を持っていたが、織田信秀は[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])までに、尾張[[那古野城]]にいた[[今川氏豊]]を追放して城を奪い、今川氏との対立が始まった<ref name="歴史群像200710">橋場日月「伊勢湾制圧!今川帝国の野望」『[[歴史群像]]』2007年10月号</ref>。 両勢力に挟まれた[[三河国]]では[[吉良氏]]・[[松平氏]]・[[水野氏]]・[[戸田氏]]・[[三河牧野氏|牧野氏]]・[[菅沼氏]]・[[奥平氏]]などの小勢力が争いを続けていたが、やがて有力国人である松平氏の分家の1つである安祥松平家が[[岡崎城]]に拠点を移し、成長していくことになる。 織田弾正忠家と安祥松平家は東尾張と西三河を巡り抗争していた。しかし、[[松平清康]]は東尾張侵攻中に家臣に殺害され([[森山崩れ]])、その子[[松平広忠]]も早世して弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていった。このため織田氏と今川氏は東尾張と西三河で対峙することになった。 天文11年([[1542年]])の第一次[[小豆坂の戦い]]では織田軍が勝利したとされているが(『信長公記』)、天文17年([[1548年]])の第二次小豆坂の戦いでは今川軍が勝利した。 しかし、当時の今川氏は[[甲斐国]][[武田氏]]・[[相模国]][[後北条氏|北条氏]]と対峙しており、特に天文6年([[1537年]])から天文14年([[1545年]])まで続いた[[河東の乱]]では駿河国東部を巡って北条氏と激しく衝突していた。 このため、今川氏の三河進出の本格化は河東の乱終結後とする見解が浮上しており、第一次小豆坂の戦いの実在性やこの時期の安祥松平家(後の[[徳川氏]])の情勢について様々な議論が行われている{{Efn|代表的なものとして、安祥松平家と[[水野氏|緒川水野家]]の婚姻同盟の破綻を緒川水野家と織田氏の同盟によるものではなく安祥松平家の内紛に伴う外交方針の転換に求める説<ref>小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.</ref>、織田信秀が天文16年(1547年)に岡崎城を攻めて松平広忠を降伏させていたとする説<ref>村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年。後に大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年)に所収)</ref>、この説を受けて松平竹千代(徳川家康)が[[戸田康光]]によって織田氏に売られたという逸話は事実ではなく、実際には広忠が降伏の証として竹千代を織田氏への人質として差し出したとする説<ref>柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』、平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P40-42.</ref>などがある。}}。 ともあれ、河東の乱の終結後、今川氏は武田氏・北条氏との関係強化に乗り出し、やがて[[甲相駿三国同盟]]を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ることになった。 翌天文18年([[1549年]])、今川軍が織田方の三河進出の拠点となっていた[[安城合戦#第三次安城合戦|安祥城を攻略]]し<ref name="歴史群像200710" />、織田氏の三河進出は挫折に終わった。 そして天文18年([[1549年]])後半に信秀は病に臥せる。その中、天文19年([[1550年]])に今川氏は大軍で尾張に侵攻した。織田軍はどうにか国境近辺で持ちこたえたが、今川軍は知多半島に12月まで在陣した(『定光寺文書』)。同地の緒川・刈谷を領する水野家を降伏させてから、引き上げた{{Sfn|谷口克広|2017|pp=136-137、139}}。 さらに天文20年([[1551年]])には織田信秀が病死した。その後、織田家の家督を巡って、[[織田信長]]とその弟・信勝(後の[[織田信行]])間で 内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して[[鳴海城]]、[[笠寺]]城(それぞれ[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]・[[南区 (名古屋市)|南区]])を守る[[山口教継]]が今川軍に投降した。 加えて[[山口氏#尾張山口氏|山口氏]]の[[調略]]によって尾張東南の[[大高城]](愛知県名古屋市緑区[[大高]])、[[沓掛城]]([[豊明市]]沓掛町)の一帯が今川軍の手に落ちた。この4城は尾張中心部と[[知多半島]]を分断する位置にあった。[[愛知用水]]開通とそれによる農地開発以前の知多半島は、ほぼ全域が小さな山や谷が連なる丘陵地で、主要河川が無く[[ため池|溜め池]]に頼る農業困難地帯であった<ref>[https://web.archive.org/web/20210426033556/https://www.pref.aichi.jp/soshiki/chita-nourin/0000044109.html 愛知県知多農林水産事務所「知多半島のため池」2019年12月17日]2022年3月12日閲覧</ref>。知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら[[伊勢湾]]東岸を占める海運の要地であり、商業港である[[津島市|津島]]を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。 また、尾張西南の荷之上城に拠る[[服部友貞]]が今川軍に味方しており、荷之上城に近い[[蟹江城]]が[[弘治 (日本)|弘治]]元年(1555年)に今川軍に攻められ<ref name="歴史群像200710" />、[[伊勢湾]]の[[制海権]]が徐々に今川軍に侵略されつつあった。 [[織田信長]]も今川軍の進出阻止や逆襲に動いた。 天文23年([[1554年]])には、[[織田信長]]は知多の領主である[[水野氏]]を支援して今川軍の[[村木砦の戦い|村木砦]]を攻め落とした。さらに、笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には[[丹下砦]]・[[善照寺砦]]・[[中嶋砦]]を、大高城の周辺には[[丸根砦]]・[[鷲津砦]]を築くことで今川軍を圧迫し、城相互の連絡を遮断した。尾張東北では永禄元年~2年(1558年~1559年)、松平・今川氏が押さえる品野城([[瀬戸市]])を攻めたが、奪取はならなかった<ref name="歴史群像200710" />。 === 合戦までの経過 === 永禄3年([[1560年]])5月12日、今川義元は大軍を率いて駿府を出陣し、18日に[[沓掛城]]に入った。同日夜、[[徳川家康|松平元康(徳川家康)]]が指揮を執る三河勢を先行させ、[[大高城]]に[[兵糧]]を届けさせた。一方の織田方は軍議したが織田信長は雑談するばかりで、織田家の重臣は「運の末には、知恵の鏡も曇る」と引き去った(『信長公記』)。『信長公記』天理本では、[[清洲城]]に[[篭城]]をとの家老衆の進言を除け、信長は国境での迎撃を採用したとする<ref>[[桐野作人]]「桶狭間合戦」『歴史読本』2001年12月号</ref>{{Sfn|藤本|2008|pp=26、28}}。 永禄3年([[1560年]])[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[6月12日]])3時頃、今川軍の[[徳川家康|松平元康]]と[[朝比奈泰朝]]の部隊が織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始した。明け方になると丸根の砦、鷲津に今川軍が襲いかかってきたことを[[佐久間盛重]]らが織田家に知らせた。前日まで今川軍接近の情報を聞いても動かなかった織田信長はこの知らせを聞いて飛び起きて、突然、[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞うと、すぐに出陣の準備をした。そして、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発した(『[[信長公記]]』「今川義元討死の事」)。[[小姓]]衆5騎のみを連れて出た織田信長は8時頃、[[熱田神宮]]に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った(『信長公記』)。 10時頃、織田信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000人から3,000人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒の松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500人余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の[[佐久間盛重]]はこの戦いで討死した<ref>{{Cite web|和書|title=【戦国こぼれ話】織田信長と今川義元が雌雄を決した桶狭間の戦い。徳川家康はどう行動したのか(渡邊大門) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a0bb5a88dead45aa6948c5cc978a418ca9e6310c |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-12-09 |language=ja}}</ref>。鷲津砦では篭城戦を試みたが[[飯尾定宗]]、[[織田秀敏]]が討死、[[飯尾尚清]]は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。[[大高城]]周辺の制圧を完了した今川軍では、今川義元率いる本隊の軍が[[沓掛城]](くつかけじょう)を出発し、[[大高城]]の方面に向かって西に進み、その後、進路を南に進んだ。 :(奇襲説)一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に[[佐久間信盛]]以下500人余りを置き、2,000人の兵で東方に迂回して出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した。 :(正面攻撃説)信長は田の間の細道を行き中嶋砦まで2,000人で進軍した{{Sfn|藤本|2008|pp=33-38}}。 === 桶狭間の合戦 === [[ファイル:Bishū Okehazama-gassen.jpg|thumb|right|300px|『尾州桶狭間合戦』([[歌川豊宣]]画)]] [[正午]]頃、中嶋砦の前衛に張り出していた織田軍の[[佐々政次]]、[[千秋四郎]]ら30余りの部隊は織田信長の出陣の知らせを聞いて意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし佐々、千秋らは逆に今川軍から反撃を受けてしまい、そのまま討ち取られて死亡した。その後、今川軍が丸根砦と鷲津砦を順調に陥落させ、数々の戦闘に勝利したことに今川義元は大いに悦び、[[謡]](うたい)をうたわせた(『信長公記』)。 また、この時、今川義元が本体の軍を布陣して休息していた場所は、「桶狭間山」<ref>{{Cite web|和書|title=「信長」対「今川義元」、謎だらけの桶狭間の戦い 信長の奇襲?どこで?戦国時代の謎と真実に迫る(2) {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54709 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2022-12-07 |language=ja}}</ref>という山であった(『信長公記』)。 13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『[[信長公記]]』には「石水混じり」と書かれているため、[[雹]]だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。または、信長は「あの武者は疲れた兵」と敵軍が見えていて、今川方も中嶋砦からの信長の進軍を見ていて(『三河物語』)、奇襲ではなく雨も止んでからの正面から進軍しての戦闘だった(『信長公記』)(詳細は「[[#合戦場と奇襲の問題]]」){{Sfn|藤本|2008|pp=33-38}}。今川軍の総勢は2万5000人であったとされるが、当地へは今川方は駿府を発して徐々に土豪らが加わる遠征で、その中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれた{{Sfn|小和田哲男|2004|pp=248-249}}。加えて今川方は兵を分散させていたこともあり、今川義元を守る実際の兵力は少なく、双方の戦力に各段の差は無かった。 織田軍はまず前方に展開していた今川軍の前衛軍を打ち破り{{Sfn|藤本|2008|pp=44-46}}{{Sfn|谷口克広|2006|pp=39-42}}、その混乱と乱戦の中、今川軍の本陣を目指してそのまま突撃した。この突然の敵の奇襲を知った今川義元は300人の旗本に守られてすぐ逃げた{{Sfn|藤本|2008|pp=39-40、52-54}}。 『信長公記』によれば、[[今川義元]]はこの予期せぬ緊急事態に[[輿]]{{Efn|大石泰史によれば、義元が輿に乗っていたのは尾張では輿に乗れる資格があるのは守護の斯波氏のみであり、織田氏との家格の違いを視覚的に示すことで尾張の人々に威圧を与えて抵抗意欲を削ぐための威勢を示したという{{Sfn|大石|2019|pp=35-36|loc=「総論 今川義元の生涯」}}。}}を捨て、300騎の旗本・親衛隊で周りを固めながら急いでその場から騎馬で脱出、退却した。しかし、5度<ref>{{Cite web|和書|title=「信長」対「今川義元」、謎だらけの桶狭間の戦い 信長の奇襲?どこで?戦国時代の謎と真実に迫る(2) {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54709 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2022-12-07 |language=ja}}</ref>にわたる織田軍の攻撃で周囲の兵たちを少しずつ失い、ついには織田軍の[[馬廻]]に追いつかれた。[[小和田泰経]]は桶狭間をこの一帯の地名だとして湿地なども谷や狭間ではなく、この時の桶狭間一帯に深田や湿地が広がっていたとして、大雨の降ったこともあって、敗走ルートの現場ではぬかるみに足を取られたところを織田軍に攻撃され殺される今川軍の兵も多かったとする<ref>{{Cite web|和書|author=小和田泰経|title=「信長」対「今川義元」、謎だらけの桶狭間の戦い 信長の奇襲?どこで?戦国時代の謎と真実に迫る(2) {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54709 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2022-12-07 |language=ja}}</ref>。乱戦の中、今川義元は太刀を抜いて自ら奮戦し、一番槍をつけた[[服部一忠]]に反撃して膝を切り割ったが、[[毛利良勝|毛利新介]]によって組み伏せられ、首を討ち取られて死亡した(享年42){{Sfn|谷口克広|2006|p=42}}<ref>{{Cite web |title=桶狭間古戦場保存会|名古屋市緑区| - 今川義元 |url=http://okehazama.net/modules/battle/IMAGAWA_YOSHIMOTO.html |website=okehazama.net |access-date=2022-12-07}}</ref>。『[[水野勝成#作製文書|水野勝成覚書]]』の伝聞によれば、今川義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという{{Sfn|藤本|2008|p=100}}。 今川義元が討ち死にした現場は、今川家の資料では「田楽窪」と記録されている<ref>{{Cite web|和書|title=「信長」対「今川義元」、謎だらけの桶狭間の戦い 信長の奇襲?どこで?戦国時代の謎と真実に迫る(2) {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54709 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2022-12-07 |language=ja}}</ref>。桶狭間の戦いから27年後の天正15年(1587)に、今川義元の軍師であった[[太原崇孚]](=[[太原雪斎]])の三十三回忌が営まれたが、そのときの記録「護国禅師三十三回忌拈香拙語并序」に「五月十九日、礼部尾之田楽窪一戦而自吻矣」とある。「礼部」は今川義元のことで、今川義元は5月19日に「田楽窪」で討たれた、という。この「田楽窪」の場所は、現在、豊明市沓掛町に「田楽ケ窪」という地名で残されている<ref>{{Cite web|和書|title=「信長」対「今川義元」、謎だらけの桶狭間の戦い 信長の奇襲?どこで?戦国時代の謎と真実に迫る(2) {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54709 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2022-12-07 |language=ja}}</ref>。 今川軍総大将の[[今川義元]]の戦死により今川軍は戦意を喪失し軍は総崩れとなり、この桶狭間の合戦は織田軍の勝利に終わった。 [[江戸時代]]に書かれたとみられる、名古屋市・[[長福寺 (名古屋市緑区)|長福寺]]所蔵の『桶狭間合戦討死者書上』によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人余りだった。また、書上によると、[[近江国]]佐々木方([[六角氏]])が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたという<ref name="cyoufukuzi">[https://web.archive.org/web/20180124191220/http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20170731-OYTAT50062.html 桶狭間合戦で「信長・六角」同盟が存在か]『[[読売新聞]]』2017年08月01日</ref>。江戸時代に六角氏について偽文が様々書かれ、この『桶狭間合戦討死者書上』も偽情報だとの研究者の見解がある<ref>[[村井祐樹]]『六角定頼 武門の棟梁天下を平定す』〈ミネルヴァ日本評伝選〉ミネルヴァ書房、2019年</ref>。 === 合戦後の情勢と影響 === 今川家の実質的な当主の[[今川義元]]や[[松井宗信 (左衛門佐)|松井宗信]]、[[久野元宗]]、[[井伊直盛]]、[[由比正信]]、[[一宮宗是]]、[[蒲原氏徳]]などの有力武将を失った今川軍はこの桶狭間の戦いで浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。[[水軍]]を率いて今川方として参戦していた尾張[[弥富市|弥冨]]の土豪、[[服部友貞]]は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。 織田方の武将の[[水野信元]]は、甥の松平元康(後の徳川家康)のもとへ、[[浅井道忠]]を使者として遣わした。5月19日夕方、道忠は、元康が守っていた[[大高城]]に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、[[菩提寺]]の[[大樹寺]]に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去。23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した<ref>{{Cite web|和書| url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1170586/1/206 | title=『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 304-305 | website=国立国会図書館デジタルコレクション | date= | accessdate=2023-2-7 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1170586/1/207 | title=『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 306-307 | website=国立国会図書館デジタルコレクション | date= | accessdate=2023-2-7 }}</ref>{{Sfn|『新編岡崎市史 中世 2』|p=809}}{{Sfn|『三河物語』|1992|pp=132-135}}。元康にとって幸いであったのは、大高在城のために彼の家臣団が敗戦の被害をほとんど受けなかったことであった{{Sfn|『新編岡崎市史 中世 2』|p=810}}。 尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]([[7月14日]])に沓掛城を攻略して[[近藤景春]]を敗死に追い込むなど、今川軍の占領地の一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・[[岡部元信]]以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、最後まで落城しなかった。岡部元信は織田信長と交渉し、今川義元の[[首級]]と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河[[刈谷城]]を攻略して[[水野信近]]を討ち取った(ただし、味方の支援が受けられなかったために信近を討ったものの、刈谷城を落としきれずに帰国したとする説もある<ref>小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P174.</ref>)。信近の兄の[[水野信元]]はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた[[重原城]]も奪還した。 この桶狭間の戦いで、[[西三河]]から尾張に至る地域では、今川氏の勢力が一掃された。また、今川軍の別働隊の先鋒として戦っていた松平元康は、岡崎城へ難を逃れ、その後、今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め{{Efn|近年、丸島和洋は元康の岡崎城帰還は織田軍の西三河侵攻に備えた今川氏真の方針に沿ったものとする説を出している<ref name="丸島2016">{{Cite journal|和書|author=丸島和洋|title=松平元康の岡崎城帰還|journal=戦国史研究|issue=76号|year=2016}}</ref>。}}、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。その後、松平元康は今川義元の後を継いだ[[今川氏真]]が父・義元の仇討の出陣をしないことを理由に{{Efn|前述の丸島説では、元康は当初は岡崎城で今川軍の一員として織田軍と対峙していたが、氏真が三河救援よりも[[小田原城の戦い (1560年)|上杉謙信に攻められた小田原城]]の救援を優先したことで、無援状態になった元康が織田氏と結んで領国の保持を図ったとしている<ref name="丸島2016" />。}}、今川氏から完全に離反し、永禄5年([[1562年]])になって今川氏真に無断で織田氏と講和した([[清洲同盟|織徳同盟]])。以後、松平元康は公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、この時の織田信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後は[[美濃国|美濃]]の[[斎藤氏]]との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。[[甲相駿三国同盟]]の一角である今川家の当主が討ち取られたことは、[[後北条氏|北条家]]や[[武田氏|武田家]]と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎([[上杉謙信]])を大きく勢い付かせることとなった。関東では、[[太田資正]]や[[勝沼信元]]らが反乱を起こすなど[[関東]]諸侯の多くが上杉謙信に味方をして戦った。そして、この上杉軍の勢いは、[[小田原城の戦い (1560年)|小田原城の戦い]]や[[川中島の戦い#第四次合戦|第四次川中島の戦い]]に繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟関係は終了した。 永禄11年(1568年)12月6日、武田氏による駿河今川領国への侵攻([[駿河侵攻]])が開始された。[[織田信長]]と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった織田信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子の[[武田勝頼]]に嫁いでいるなど関係は良好となった。以後、織田信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の[[西上作戦]]で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。 == 参戦武将 == === 織田軍 === ;本隊 {{columns-list|4| *[[織田信長]](総大将) *[[森可成]] *[[河尻秀隆]] *[[佐々政次]] *[[長谷川橋介]] *[[林秀貞]] *[[佐々成政]] *[[金森長近]] *[[池田恒興]] *[[佐脇良之|佐脇藤八]] *[[岩室重休]] *[[簗田政綱]] *[[千秋四郎]] }} {{Div col|2}} ;{{small|今川義元を討ち取った者}} *[[毛利良勝]] ;{{small|今川義元に一番槍をつけた者}} *[[服部一忠]](通称:小平太) {{Div col end}} ;{{small|敵首を討ち取った者達}} {{columns-list|4| *[[毛利十郎]] *[[毛利秀頼|毛利河内]] *[[木下雅楽助]] *[[中川秀胤|中川金右衛門]] *[[奥山盛昭|佐久間弥太郎]] *[[森小介]] *[[安食定政|安食弥太郎]] *[[魚住隼人]] }} ;{{small|小姓衆}} {{columns-list|4| *[[岩室長門守]] *[[長谷川橋介]] *[[山口飛騨守]] *[[加藤弥三郎]] *[[前田利家]] }} {{Col-begin}} {{Col-5}} ;丸根砦 *[[佐久間盛重]] *[[服部玄蕃]] {{Col-5}} ;鷲津砦 *[[織田秀敏]] *[[飯尾定宗]] *[[飯尾尚清]] {{Col-5}} ;善照寺砦 *[[佐久間信盛]] *[[佐久間信辰]] {{Col-5}} ;丹下砦 *[[水野忠光 (戦国武将)|水野忠光]] {{Col-5}} ;中島砦 *[[梶川高秀]] *[[梶川一秀]] {{Col-end}} === 今川軍 === ;駿府城留守居 *[[今川氏真]](今川家当主) ;本隊 *[[今川義元]](総大将・前今川家当主) {{columns-list|4| *[[松井宗信 (左衛門佐)|松井宗信]] *[[朝比奈元長|朝比奈親徳]] *[[庵原元政|庵原之政]] *[[松平政忠]] *[[井伊直盛]] *[[朝比奈秀詮]] *[[庵原忠縁]] *[[松平宗次]] *[[蒲原氏徳]] *[[久野元宗]] *[[庵原忠春]] *[[関口親永]] *[[三浦義就]] *[[久野氏忠]] *[[藤枝氏秋]] *[[長谷川元長]] *[[由比正信]] *[[吉田氏好]] *[[一宮宗是]] *[[富永氏繁]] *[[岡部長定]] *[[江尻親良]] *[[斎藤利澄]] *[[飯尾乗連]] }} ;本隊先発隊 *[[瀬名氏俊]] {{Col-begin}} {{Col-5}} ;丸根砦攻撃隊 *[[徳川家康|松平元康]] *[[石川家成]] *[[酒井忠次]] *[[松平正親 (大草松平家)|松平正親]] *[[松平政忠]] *[[松平光則]] {{Col-5}} ;鷲津砦攻撃隊 *[[朝比奈泰朝]] *[[本多忠勝]] *[[本多忠真]] {{Col-5}} ;鳴海城 *[[岡部元信]] {{Col-5}} ;大高城 *[[鵜殿長照]]{{Col-5}} ;沓掛城 *[[浅井政敏]] *[[近藤景春]] {{Col-end}} ;清洲方面展開 *[[葛山氏元]] == 合戦の実態をめぐる議論 == 桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、様々な議論を呼んでいる。 === 今川軍の総兵力 === 今川氏には家臣団編成の実態を知る分限帳・軍役帳が伝存しておらず動員可能兵力を想定することは困難であるが、『[[信長公記]]』においては'''四万五千'''、[[小瀬甫庵]]の『[[甫庵信長記|信長記]]』には'''数万騎'''と記し、そのほか後代の編纂資料においては『[[甲陽軍鑑]]』には'''二万余'''、『[[武功夜話]]』には'''三万有余'''、『[[徳川実紀]]』『[[武徳編年集成]]』『[[総見記]]』などには'''四万余'''、『[[改正三河後風土記]]』は『信長公記』に基づき'''四万五千'''、『[[絵本太閤記]]』には'''五万余'''といった数字を記している。 近年まで影響力があったのは、[[第二次世界大戦]]前の[[参謀本部 (日本)|帝国陸軍参謀本部]]編纂『日本戦史 桶狭間役』にある'''25,000'''である。小和田哲男は義元領地を石高換算で90万から100万石と見て1万石250人の兵力動員からやはり25,000だとする{{Sfn|小和田哲男|2004|p=248}}。近年には[[太田満明]]、[[橋場日月]]など、[[太閤検地]]による近世初頭の今川領の総[[石 (単位)|石高]]を元に、二万五千でも多すぎると異論を唱える論者もいる。 [[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]の3国のほか、[[尾張国|尾張]]の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえる織田とは兵力差があった。尾張の国力を信長の動員力ではなく、信長が、同族を平定し、自らが擁立した尾張守護・[[斯波義銀]]を追放して尾張国の国主となったのは、桶狭間の戦いの前年に過ぎない。本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一の過程で信長家臣に組み込まれた者や国人・豪族たちは戦況を様子見するか、服部党の[[服部友貞]]のように今川方についた。このことからも、信長の動員力は非常に限られたものだった。 ==== 武田・北条の援軍は加勢していたか ==== 今川義元は武田信玄・北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結んでおり、軍事同盟である以上、義元の対織田戦に武田氏や北条氏がどう対応していたのか?という問題が浮上してくる。その中で丸島和洋は『甲陽軍鑑』における桶狭間の戦いの記述が頻出詳細であることに注目している。加えて、桶狭間の戦いから1か月後の6月13日付で武田信玄が岡部元信に書状を送り、その武勇を称えると同時に氏真に対する「侫人の讒言」があることを憂慮する内容となっていることを指摘し、桶狭間の戦い直後の今川家中で武田氏に対する不満が高まっていた(氏真に信玄への不満を述べる者がいた)のではないかとしている。丸島は武田氏が(恐らく北条氏も)今川軍に援軍を出すなどの支援行為を行っていたものの、桶狭間の戦いにおける武田氏の援軍の働きぶりに戦後の今川家中において不満や不信感を抱かれたのではないか、と推測している<ref name="丸島2015">{{Cite journal|和書|author=丸島和洋|title=武田氏から見た今川氏の外交|journal=静岡県地域史研究|issue=5号|year=2015}}/所収:{{Harvnb|大石|2019|pp=392-395}}</ref>。 === 義元の尾張侵攻の理由 === 『[[甫庵信長記]]』以来、長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は[[上洛]]、すなわち[[京都]]に入って[[室町幕府]]の政権を掌握するためだったと考えられた。[[幕末]]編纂の軍記ものの[[栗原信充]]の『重修真書太閤記』([[嘉永]]5年:[[1852年]]~[[安政]]5年:1858年)にも、義元上洛の記述が見える<ref>国会図書館デジタルコレクション[{{NDLDC|881340/94}}]</ref>。  歴史家[[高柳光壽]]がこれに疑問を示し、今川氏は織田氏と三河を巡り争い続けて尾張も視野に入れ、義元が、今川家[[家督]]を継承してから三河で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げて、ついに三河を占領できたので、更に尾張の支配地域を大きくするため侵攻したと、指摘した<ref>高柳光壽『青史端紅』「桶狭間の合戦」朝日新聞社 1962年</ref>。 尾張は今川一門[[今川仲秋]](尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏([[室町幕府]][[奉公衆]]の今川氏)が那古野城を構えていた。義元の末弟である[[今川氏豊]]{{Efn|近年の黒田基樹の研究では、今川氏親の子は四男四女しか裏付けが取れず、氏豊は義元の兄弟ではないとしている<ref>{{Cite book|和書|author=黒田基樹|title=北条氏康の妻 瑞渓院|publisher=平凡社|series=中世から近世へ|year=2017|month=12|isbn=978-4-582-47736-8|pages=40-63}}</ref>。}}は、この今川一門の家の血縁が絶えたので、送り込まれ家を継いだ。[[那古野城]]は謀略で織田に奪われ、そこで信長は生まれた{{Sfn|谷口克広|2017|pp=49-50、62-67}}。 義元の置かれていた状況は後の織田信長などとは大きく異なるし、信長以前には戦国大名が天下人を意識したり目指していない{{Sfn|藤本|2008|p=73}}。義元の永禄2年([[1559年]])3月12日付の出陣準備の文書「戦場掟書」にも「上洛」の文字はない{{Sfn|小和田|1983|p=212}}。また、義元には、上洛するための京都の公家への事前の働きかけや、[[美濃国]]の斎藤家や[[近江国]]の六角家などへの折衝が無い{{Sfn|小和田哲男|2004|p=233}}。 信長は後に[[足利将軍家]]の[[足利義昭]]を奉じて京周辺と畿内の支配や地方大名の紛争を調停する室町幕府の伝統的な連合政権を形作った。信長本人が天下人となるのは義昭と紛争になり追放してからである。また、甲斐の[[武田信玄]]は、元亀年間に信長・徳川家康と敵対し、反信長勢力を迎合した将軍義昭に呼応して大規模な遠江・三河侵攻を行っている(西上作戦)。西上作戦は従来から上洛意図の有無が議論され、近年は前段階の駿河今川領国侵攻も含めて武田氏の軍事行動が中央の政治動向と連動したものであることが指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|author=柴裕之|title=戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考|journal=武田氏研究|issue=37|year=2007}}</ref>。だが、信長以降である。 当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。領土紛争の一環としてこの二城を救出してそれを基に那古野城とその周辺まで奪取する構想があったとする{{Sfn|小和田哲男|2004|pp=239-241}}。 久保田昌希は今川氏発給文書を分析して、[[東三河]]の密度の濃さに比べて、西三河は密度が薄いとして、永禄3年([[1560年]])の出陣は西三河の確保が目的とする<ref>{{Cite journal|和書|author=久保田昌希|title=戦国大名今川氏の三河侵略|journal=駿河の今川氏|issue=第三集|year=1978}}</ref>。 埋め立てが進んだ現代に比べて当時は海が内陸に食い込んでおり、大高付近は船着き場でもあった。今川家は尾張での領土の確保・拡大だけでなく、東国と西国を結ぶ交易ルートであった伊勢湾の支配を巡り織田家と累代抗争していたとする研究も目立つ<ref>{{Cite book|和書|author=橋場日月|title=新説桶狭間合戦 知られざる織田・今川七〇年戦争の実相|series=学研新書|year=2008}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=服部徹|title=信長四七〇日の闘い 伊勢湾と織田・今川の戦略|publisher=風媒社|year=2008}}</ref>。 大石泰史は上洛説は成立し難いとした上で、非上洛説を以下の6つに分類している。 #尾張攻撃説 #伊勢・志摩制圧志向説 #尾張方面領土拡張説 #旧名古屋今川領奪還・回復説 #鳴海城・大高城・沓掛城封鎖解除・確保志向説 #三河・尾張国境の安定化説 その上で、大石は2・3・4は裏付けとなる史料が不足しているために安易に肯定は出来ず、1・5・6はいずれも関連づけが出来るために敢えて1つに絞る必要は無い、との見解を述べている{{Sfn|大石|2019|pp=35-36|loc=「総論 今川義元の生涯」}}。 また小林正信は義元の出兵を[[古河公方]]を推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。将軍・足利義輝を支持する[[上杉謙信|長尾景虎]]が信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。その後の[[小田原城の戦い (1560年)|景虎による関東出兵]]も、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた<ref>{{Cite book|和書|author=小林正信|title=信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出|publisher=里文出版|year=2013}}</ref>。 === 合戦場と奇襲の問題 === 桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。 桶狭間の戦いの経緯については[[太田牛一]]『[[信長公記]]』、または『信長公記』を脚色した[[小瀬甫庵]]『[[甫庵信長記|信長記]]』において具体的に著述されているが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には『信長公記』が記録性が強く、『信長記』は甫庵自身の史観による改竄が見られ史料価値は低い<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|title=検証 本能寺の変|series=歴史文化ライブラリー|publisher=吉川弘文館|year=2007|page=27}}</ref>。 ==== 合戦場 ==== {{main|桶狭間の戦いの戦場に関する議論}} 「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。[[延享]]2年([[1745年]])の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、[[天明]]元年([[1781年]])の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されている。 一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村の辺りにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が[[16世紀]]の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではない。 桶狭間は慶長13年(1608年)検地で村名となっている{{Sfn|小島|1966}}。なお小瀬甫庵『[[甫庵信長記]]』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されていて、江戸時代に出版されたので広がったが、脚色であり史料的には信頼性がなくなっている{{Sfn|藤本|2008|pp=195-197、199}}。田楽狭間は、大字で、その初見は寛永元年(1624年)山澄英龍『桶狭合戦記』でそれ以前にはない{{Sfn|小島|1966}}。 * 藤本正行 : 一地点の丘ではなく、中嶋砦の東側の一帯の丘陵を指す{{Sfn|藤本|2008|pp=41-42}}。 * [[小和田哲男]] : 「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7メートルの地点と特定し頂上に本陣があったとする{{Sfn|小和田|2000}}。この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる。織田軍2,000人と今川軍5,000人がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『[[続明良洪範]]』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市の方で戦死したのではないかとしている。 * 小島廣次 : 上記の豊明市の古戦場の南方にある標高64.7メートル丘の北側の高地との間の鞍部に本陣があった{{Sfn|小島|1966}}。 * [[磯田道史]] : 入手した『[[天保]]11年道中日記』(1840年。甲斐国[[八代郡 (甲斐国)|八代郡]]南田中村(現・[[山梨県]][[笛吹市]]一宮町)田中伝左衛門著)には「桶はざま。往来より左の方、半丁(54m)ばかり奥。今川義元公戦死の場所ならびに七将の墓、有」と記されている。また磯田によれば、[[明和]]8年(1771年)桶狭間古戦場に「七石表」という今川義元らの石碑が建立され、それを見たのではないかという<ref>磯田道史の古今をちこち「1840年 豪農の豪華な旅」『読売新聞』2015年7月8日朝刊17面</ref>。 ==== 戦闘の様相 ==== 「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の4つの説にまとめることができる。 # 迂回攻撃説 #: 善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。 # 正面攻撃説 #: 善照寺砦を出た織田信長は、今川軍在陣を見て善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。折からの豪雨の後で桶狭間山にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の前軍は織田軍の突然の正面突撃により突破され、その乱戦状態で義元の本陣になだれ込み義元は旗本に囲まれ退却。だが、残された輿により信長が義元を発見し追撃を命令し、ついに義元は討ち取られた{{Sfn|藤本|2008|pp=33-40}}。 # 別動隊説 #: 作家の[[橋場日月]]は、上記の両説を加味した上で新説として「正面攻撃+別働隊による背後からの奇襲」説を唱えている。その根拠として『信長公記』沓掛峠の松の本の楠の強風による倒木記述を、沓掛城の北北東で中嶋砦から6キロメートル離れた現・[[豊明市]]沓掛町松本で織田軍が別動隊として展開していたとする<ref>橋場日月『再考・桶狭間合戦』『[[歴史群像]]』2008年2月号(ASIN: B00117DNI2)</ref>。江畑英郷は、2009年刊行の『桶狭間 神軍・信長の戦略と実像』(カナリア書房)で、織田軍が予め押さえていた沓掛峠方面からの別動隊に襲われた今川軍[[兵站]]部隊が本陣に潰走し、その混乱に巻き込まれて義元が討たれたとの見解を示している。岡部元信が撤退時に水野信近を討ったのは、いったん今川方につきながら裏切ったことへの報復と推測している。 # 乱取り状態急襲説 #: [[黒田日出男]]は、『[[甲陽軍鑑]]』で、義元の軍が乱取りで散開して、義元自身は、現地の[[三河国|三河]]の僧侶から差し入れられた酒や食料で僧侶も参加し酒宴を始めていたところを急襲されたとあり、これを評価する説を唱えている<ref>黒田日出男『桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』:『甲陽軍鑑』の史料論(2)』『[[立正史学]]』100号、2006年9月</ref>。 ::: ただし、『甲陽軍鑑』では周辺状況が異なり地理や開戦経緯や戦場経過も知らない伝聞による記載である。黒田説は、『甲陽軍鑑』には、鷲津・丸根砦陥落も佐々・千秋戦完勝の事実も記載がないのに、他の記述を付会させて説を組み立てていると批判されている。再評価されている『甲陽軍鑑』でも、他国の事は史料にならない部分があると反論されている{{Sfn|藤本|2008|pp=127-128}}。 「迂回攻撃説」は江戸時代初期の[[小瀬甫庵]]作である『[[信長記]]』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた[[太田牛一]]の手になることから信頼性の高い『[[信長公記]]』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が多い。 「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根砦、鷲津砦を陥落させて勝利に奢って油断していたとされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。 これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば[[大久保忠教]]の『[[三河物語]]』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。 また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長が予めよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた[[簗田政綱]]が勲功第一とされたという、『甫庵信長記』等における逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとして取り上げられることがあった。 しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説によれば、信長が予め情報を収集していたという見解にも無理がある。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して低地の守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所は補足できていない。何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家老に向かって、「敵は夜間行軍し兵糧搬入後に丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずである」という主旨の重臣への訓示をしている。 この記述によれば、信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、夜間行軍し、大高城に兵糧搬入してそのまま出撃し丸根、鷲津砦を攻撃した直後の敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけで、義元にも触れず存在を知らない、ということである。 『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ信長は義元の所在地や行動を知らず織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。 今川軍は、元々の今川方の領地で伊勢湾の潮の干満で満ち潮で来援しにくい時間に攻撃開始するなど土地勘があり{{Sfn|藤本|2008|p=26}}、それに信長方だった[[山口左馬助]]の寝返り以来、さらに地形に詳しい者の助言で、布陣と占領もうまくいっていた。しかし、通常明け方の戦闘開始が戦国時代の戦の通例だが、午後2時という常識外の時間に信長軍が出現し、低地から攻撃を仕掛けてきた。これに、義元を総大将として抱えていた今川軍本陣が急変に対応できず防戦するより旗本に守られつつ退却して、残された輿を見た信長に義元の存在を気付かれ、信長軍の[[馬廻]]衆の追撃と重ねての攻撃に討ち取られたということになる{{Sfn|藤本|2003|pp=104-109}}{{Sfn|藤本|2008|pp=38-40}}。 以上により、信長の義元への本陣攻撃とは義元を狙って地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、義元がいる本陣だったのも偶然で、偶発的に義元本陣突撃になって討ち取り、戦国大名が戦場で討死した稀な事例となり、その結果、今川軍が総崩れし追撃され大敗した、という解釈になる{{Sfn|藤本|2003|pp=98-99、104-109}}。このように『信長公記』を全面的に依拠する正面攻撃説によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた幸運による成功ということになる{{Sfn|藤本|2008|pp=56-57}}。 また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの[[足軽]]隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。[[藤本正行]]は、当時の合戦ではよくあったことだが、単に戦場に到着した信長の前で手柄を上げるために独自の判断で抜け駆けを行ったとの説である{{Sfn|藤本|2008|p=32}}。この部隊の中に若き日の[[前田利家]]が同輩を切り蓄電し出仕停止処分を受けていたが、この抜け駆けに参戦し、敵の首を取り信長に披露した(前田家家譜){{Sfn|藤本|2003|pp=89-90、94-95}}。 ==== 簗田出羽守の手柄 ==== 上記の通り、[[簗田政綱|簗田出羽守]]の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問が持たれている。また、最初から奇襲作戦を行うとすればあらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。 しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川家にはこの前後の[[感状]]が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。 簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、[[小瀬甫庵]]の『信長記』や『[[武家事紀]]』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一というのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したという事実から、後に行われた小説的解釈である。 ほかに、簗田出羽守が合戦前に[[偵察]]や地形の調査を行っていたとも言われているが(『[[武功夜話]]』など)、確実なものとはされていない。現代では[[武岡淳彦]]が軍事研究家の観点から詳細に構想している<ref>{{Cite book|和書|author=武岡淳彦|title=戦国合戦論|publisher=[[プレジデント社]]|year=1981}}</ref>ほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及している{{Sfn|小和田|2000}}が、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|title=信長と消えた家臣たち|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|year=2007|isbn=9784121019073}}</ref>。武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している<ref>{{Cite book|和書|author=武田鏡村|title=大いなる謎・織田信長|publisher=[[PHP研究所]]|series=[[PHP文庫]]|year=2002|isbn=4569578071}}</ref>。 史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったということだけである。沓掛を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかはわかっていない。 == 桶狭間の戦いを題材とした作品 == === 時代劇 === ;NHK大河ドラマ *『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』:第45話「謀略!桶狭間」で、織田軍の作戦を読んだ[[山本勘助]]の挑発に乗せられた義元は、勘助が避けるよう忠告した桶狭間に進み、戦死する<ref>[https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011033539SA000/ 大河ドラマ 風林火山 第45話 謀略!桶狭間][[日本放送協会|NHK]]オンデマンド(2019年11月10日閲覧)</ref> *『[[おんな城主 直虎]]』: 第9話「桶狭間に死す」で、主人公の実家である井伊家の関係者を中心にして描かれている。 *『[[麒麟がくる]]』:第20話「家康への文」、第21話「決戦!桶狭間」で桶狭間の戦い前夜と合戦当日とが描かれ、主人公の明智光秀が桶狭間に赴く設定になっている。 *『[[どうする家康]]』:第1話「どうする桶狭間」で、大高城に兵糧を運び入れる任務を果たした矢先に義元討死の急報が届き、最前線で決断を迫られる徳川家康の苦悩が描かれている<ref>{{Cite web|和書|title=家康の冷静沈着な判断が冴え渡った「桶狭間の戦い」|url=https://www.rekishijin.com/24964 |website=歴史人 |access-date=2023-01-16 |language=ja}}</ref>。 ;フジテレビ * 『[[桶狭間 OKEHAZAMA〜織田信長〜]]』 === 漫画 === * かわのいちろう『信長戦記』:第1巻(桶狭間の合戦編)。義元を優れた武将として描き、信長は[[矢]]戦で強い追い風に助けられるなどして辛勝したとする。 * [[宮下英樹]]『[[センゴク外伝 桶狭間戦記]]』 === ゲーム === ;ボードゲーム *織田信長([[バンダイifシリーズ]]) *信長風雲録([[ツクダホビー]]) *信長の賭け〜強襲桶狭間〜([[翔企画]]) *桶狭間合戦([[ウォーゲーム日本史]]) ;アーケードゲーム *[[戦国大戦|戦国大戦 - 1560 尾張の風雲児 -]](※初期バージョン)([[セガ]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[尾張名所図会|『尾張名所図会』第五巻 桶狭間古戦場]]、1844年。 * {{Cite book|和書 |editor =[[柴田顕正]] |date= 1972年10月5日 |title= 岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍 |volume=上巻 |publisher = 名著出版 |ref= {{SfnRef|『徳川家康と其周圍』上巻|1972}} }} * {{Cite book|和書 |author = |date= 1989-3-31 |title= 新編 岡崎市史 中世 2 |publisher = 新編岡崎市史編さん委員会 |ref= {{SfnRef|『新編岡崎市史 中世 2』}} }} * {{Cite book|和書 |author =[[大久保忠教|大久保彦左衛門]] |translator=[[百瀬明治]] |date= 1992-12-31 |title=[[三河物語]] |publisher = [[徳間書店]] |ref= {{SfnRef|『三河物語』|1992}} }} * {{Citation|和書|last=太田|first=牛一|authorlink=太田牛一|others=[[桑田忠親]]校注|title=新訂 信長公記|publisher=[[新人物往来社]]|year=1997}} * {{Cite book|和書|author=小島廣次|authorlink=小島廣次 |title=今川義元|publisher=新人物往来社|series=日本の武将 31|year=1966|ref={{SfnRef|小島|1966}} }} * {{Cite book|和書|author=小和田哲男|title=駿河今川一族|publisher=[[新人物往来社]]|year=1983|isbn=4059010014|ref={{SfnRef|小和田|1983}} }} * {{Cite book|和書|author=小和田哲男|title=戦史ドキュメント 桶狭間の戦い|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|series=[[学研M文庫]]|year=2000|isbn=4059010014|ref={{SfnRef|小和田|2000}} }} * {{Cite 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[[桶狭間の戦いの戦場に関する議論]] * [[日本の合戦一覧]] * [[有田中井手の戦い]](「西国の桶狭間」といわれている合戦) * [[日本三大奇襲]] == 外部リンク == * [http://www.adult-movie-japan.com/battle/okehazama.html 桶狭間の合戦 ~1560年 永禄3年] * [https://okehazama.net/ 桶狭間古戦場保存会] * [https://www.city.toyoake.lg.jp/2001.htm 桶狭間古戦場伝説地 (名古屋市緑区役所まちづくり推進室・豊明市産業振興課編)] {{Campaignbox-bottom|織田信長の戦闘}} {{Campaignbox-bottom|今川義元の戦闘}} {{Campaignbox-bottom|徳川家康の戦闘}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おけはさまのたたかい}} [[Category:日本の戦国時代の戦い]] [[Category:桶狭間の戦い|*]] [[Category:豊明市の歴史]] [[Category:名古屋市緑区の歴史]] [[Category:尾張国|戦おけはさま]] [[Category:織田信長|戦おけはさま]] [[Category:今川義元]] [[Category:駿河今川氏|戦おけはさま]] [[Category:勝幡織田氏|戦おけはさま]] [[Category:1560年の日本]] [[Category:1560年の戦闘]] [[Category:日本の歴史論争]] [[Category:戦争を巡る論争]]
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尾張国
尾張国(おわりのくに、をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。愛知県西部にあたる。 7世紀後半の木簡では尾張国と尾治国の二つの表記が見られる。平安時代に作られた『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏の系譜にも「尾治」とある。大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される。 『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如し、一説に小墾の義也」、 『古事記傳』には「尾張國、名義未思得ず」などと諸説があり、はっきりしない。 なお、古代の東海道は伊勢国から海路(伊勢湾)経由で三河国に伸びていたとする説もあり、初期の尾張国は東山道に属しており、後に交通の変化で東海道に属するようになったとする説もある。 明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。 易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、古代から須恵器や土師器などの焼き物生産が盛んであった。 その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支える律令国として成長した。 このうち神護景雲3年記事によると、当時の国府・国分寺・国分尼寺の位置は鵜沼川(現・木曽川)下流とされる。 『日本紀略』元慶8年(884年)8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を愛智郡定額寺の願興寺(現・名古屋市中区の尾張元興寺跡か)に移したと見える。発掘調査においても、この焼失後の存続は認められていない。 古代より引き続き水利工事が進められ(木曽川・長良川流域。隣国美濃国とともに耕地開発された)、国の面積は小さいながらも米の生産高は他国に比べ早くから向上した。 また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏初代)に嫁いでおり、足利氏にも血脈を伝えている(足利氏8代目が室町幕府を開く足利尊氏である)。 斯波氏の守護代織田氏が実力を持つも、応仁の乱の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家(清洲織田氏)」と西軍についた「伊勢守家(岩倉織田氏)」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。 斯波氏は両者を巧みに操縦していたが、やがて実力を失う。また駿府の今川氏親が東尾張に侵攻した名残りで那古野城は今川家の保有となる。 「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし、織田信秀の代で躍進する。信秀は那古野城を今川氏豊から奪い取るなど功績を挙げた。 信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、織田信長が家督を継ぐ。 信長は斯波氏を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。伊勢長島を占拠していた一向宗を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。 ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、三河国の徳川家康と同盟を結ぶ。 しかし様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功し、大義名分を喪った家康も撤兵する。豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。 そして、関ヶ原の戦功により徳川家康の四男松平忠吉が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする清洲藩が成立した。しかし忠吉は1607年(慶長12年)に28歳で死去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐甲府藩主の徳川義直が転封して清洲藩を継承した。 尾張国は源頼朝・織田信長・豊臣秀吉という三人の天下人を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、池田輝政、山内一豊、加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝、佐久間信盛、佐久間盛政、佐々成政、堀尾吉晴、浅野長政などが有名である。 徳川義直の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。 築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された(清洲越し)。こうして長らく尾張支配の象徴だった清洲城は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で1586年1月18日(天正13年)に発生した天正地震で深刻な液状化現象が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も清洲藩から尾張藩と改められた。家格も徳川御三家の筆頭という将軍家に次ぐ格別な位置に置かれ、その城下町たる名古屋は江戸時代の中期頃には三都に次ぐ大都市となった。 当時は、徳川吉宗による享保の改革の真っ只中で規制が厳しかったため、全国から文化人が名古屋に集まり、今日の芸どころ名古屋の基礎が築かれていった。 こうした木工・時計技術は後に鉄道車両・飛行機・自動車などに利用され、名古屋のものづくり産業の原点となっている。 その他、尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、戦国時代末期には衰退していた瀬戸は陶磁器の街として復興している。 文化面では、この時に蓄えられた財力で建造されたとされるからくり人形が搭載された豪華な山車をひく祭りが、現在でも知多半島各地で行われている。 ところが、相次ぐ飢饉や災害などの天災により赤字体質となっていく。 明治維新で中央集権国家が形成されると、名古屋市は明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。 なお名古屋城は、慶勝の提案で破却および金鯱の献上が申請された。 その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、太平洋戦争敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に至っている。 国府は中島郡に所在した。地名を手がかりに、次の2箇所が候補にあがっている。 現段階では、発掘調査が不十分であるため所在地は明らかでない。考古学・古代史学的には松下説が有力視されるが、中世頃の洪水により松下から下津(室町期には守護所も所在)に移転したと推測する説もある。 なお『節用集』易林本では海部郡に「府」と記載されている。 そのほかの尾張の古代寺院としては長福寺廃寺(一宮市千秋町)、尾張元興寺遺跡(名古屋市中区正木町)、東畑廃寺(稲沢市東畑)、大山廃寺跡(小牧市野口)が知られる。 延喜式内社 総社・一宮以下 鎌倉時代の守護所の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。 いつ頃からは定かでないが、室町時代には下津(稲沢市)にあった。 鎌倉時代は、『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、弥富市や津島市は、尾張国と見なされておらず、あま市甚目寺(萱津)辺りから尾張国であったと考えられている。 北隣の美濃国とは現在の木曽川の一部と境川あたり、長良川の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の扱いを受けていた。鎌倉時代におきた承久の乱によると尾張国の範囲は尾張九瀬で認識され、前渡、印食、墨俣などの渡しを境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては美濃国の土岐氏が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが斉藤氏の支配下であったようだが、織田氏にとっては尾張川(現在の境川)と墨俣川(現在の長良川で羽島市小熊町より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。木曽川は、豊臣政権時代の天正14年(1586年)に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。該当するのは、岐阜市(旧柳津町の一部等)、各務原市(旧稲羽町の一部、旧川島町)と、羽島郡のほぼ全域(岐南町、笠松町)、羽島市のほぼ全域、海津市(旧海津町、平田町の大部分)である。「天正の大洪水」によって葉栗郡と中島郡、海西郡が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は美濃国に編入された。古事類苑によると豊臣秀吉の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県一宮市東加賀野井と岐阜県羽島市下中町加賀野井。愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島町河田。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町三ツ法寺と岐阜県羽島市正木町光法寺。) 現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の稲沢市祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。 江戸時代では尾張国と美濃国の多くの地域は、尾張藩が中心となり細かく分割されて管理された。 『古事類苑』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。 江戸時代には尾張守を称した例は無い。理由としては、尾張守を称した陶晴賢(大内氏家臣)や松田憲秀(後北条氏家臣)が主家を滅ぼしたため忌避されたという説、御三家筆頭である尾張徳川家に遠慮をしたという説、読みが「終わり」と同じで縁起が悪いとの説、などがある。 瀬戸市、尾張旭市、日進市、豊明市、大府市、東海市、知多市、常滑市、小牧市、犬山市、江南市、岩倉市、稲沢市(祖父江町の一部除く)、津島市、愛西市(木曽川西岸の一部除く)、弥富市(鍋田川流域の一部除く)、あま市、北名古屋市、清須市、長久手市、愛知郡東郷町、知多郡東浦町、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町、丹羽郡大口町、扶桑町、西春日井郡豊山町、海部郡飛島村、大治町、蟹江町 現代でも、「尾張」を地域名として用いることがあり、その場合以下のような異なる範囲が参照される。 現在では、名古屋から東海地方、近畿地方(大阪市など)、関東地方(東京都など)や北陸地方(富山市など)への道路や鉄道の路線が分岐しており、交通の要衝となっている。 和文通話表で、「を」を送る際に「尾張のヲ」という。 平成の大合併において、尾張東部に属する自治体では市町村合併が行われなかった。対して、尾張西部に属する自治体では市町村合併が相次ぎ、清須市、弥富市、愛西市、北名古屋市、あま市が新たに成立した。
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"平成の大合併において、尾張東部に属する自治体では市町村合併が行われなかった。対して、尾張西部に属する自治体では市町村合併が相次ぎ、清須市、弥富市、愛西市、北名古屋市、あま市が新たに成立した。", "title": "参考" } ]
尾張国(おわりのくに、をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。愛知県西部にあたる。
{{Otheruses|尾張国|[[瀬戸内市]](旧[[邑久町]])の大字|邑久町尾張|日本各地の町名|尾張町}} {{基礎情報 令制国 |国名 = 尾張国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|尾張国}} |別称 = 尾州(びしゅう) |所属 = [[東海道]] |領域 = [[愛知県]]西部 |国力 = [[上国]] |距離 = [[近国]] |郡 = 8郡69郷 |国府 = [[愛知県]][[稲沢市]] |国分寺 = 愛知県稲沢市([[尾張国分寺|尾張国分寺跡]]) |国分尼寺 = (推定)愛知県稲沢市 |一宮 = [[真清田神社]](愛知県[[一宮市]])<br/>[[大神神社 (一宮市)|大神神社]](愛知県一宮市) }} '''尾張国'''(おわりのくに、をはりのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。[[愛知県]]西部にあたる。 ==概要== {{Vertical_images_list|幅=200px |画像1=Tsushima Tennō-matsuri.jpg |説明1=[[六十余州名所図会]] |画像2=Tsushimatennosai1.JPG |説明2=「[[津島神社|津嶋]][[尾張津島天王祭|天王祭り]]」<br>([[津島市]]) }} ===名称と由来=== 7世紀後半の[[木簡]]では尾張国と'''尾治国'''の二つの表記が見られる<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、19頁。</ref>。平安時代に作られた『[[先代旧事本紀]]』天孫本紀の[[尾張氏]]の系譜にも「尾治」とある。大宝4年([[704年]])に[[国印]]が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。</ref>。 『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如し、一説に小墾の義也」、 『古事記傳』には「尾張國、名義未思得ず」などと諸説があり、はっきりしない。 なお、古代の東海道は伊勢国から海路(伊勢湾)経由で三河国に伸びていたとする説もあり、初期の尾張国は[[東山道]]に属しており、後に交通の変化で東海道に属するようになったとする説もある<ref>田中卓「尾張国はもと東山道か」『田中卓著作集6』(国書刊行会、1986年/原論文:1980年)</ref>。 === 領域 === [[明治維新]]直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。 * [[愛知県]] ** [[名古屋市]]、[[瀬戸市]]、[[尾張旭市]]、[[長久手市]]、[[日進市]]、[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]([[東郷町]])、[[豊明市]]、[[犬山市]]、[[小牧市]]、[[春日井市]]、[[西春日井郡]]([[豊山町]])、[[丹羽郡]]([[扶桑町]]・[[大口町]])、[[江南市]]、[[岩倉市]]、[[北名古屋市]]、[[清須市]]、[[あま市]]、[[津島市]]、[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]([[大治町]]・[[蟹江町]]・[[飛島村]])、[[大府市]]、[[半田市]]、[[東海市]]、[[知多市]]、[[常滑市]]、[[知多郡]]([[東浦町]]・[[阿久比町]]・[[武豊町]]・[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]・[[南知多町]])の全域 ** [[一宮市]]の大部分(東加賀野井の一部を除く<ref group="注">[[1887年]]([[明治]]20年)に尾張国に編入。</ref>) ** [[稲沢市]]の大部分(祖父江町拾町野・祖父江町馬飼および祖父江町祖父江の一部を除く<ref group="注">いずれも1887年(明治20年)に尾張国に編入。</ref>) ** [[愛西市]]の大部分(福原新田町の一部を除く<ref group="注">[[1880年]](明治13年)に尾張国に編入。</ref>) ** [[弥富市]]の大部分(五明・五明町・小島町・川原欠・加稲・加稲九郎次町・三好・三好町・富島・富島町・中原・中原町・稲荷崎・加稲山町・稲荷崎町・境町および川平の一部・海老江の一部・栄南町の一部を除く<ref group="注">いずれも1880年(明治13年)に尾張国に編入。</ref>) * [[岐阜県]] ** [[海津市]]の一部(海津町駒ケ江の一部<ref group="注">1887年(明治20年)に[[美濃国]]に移管。</ref>) ==歴史== ===古代=== ====弥生時代==== * [[朝日遺跡]]などの大規模[[環濠集落]]が現れる。 * [[天火明命]]を祖神とする[[尾張氏]]が本拠を置き、[[ヤマト王権]]の天皇家と婚姻関係で結びつき支配を確立した。 <gallery mode="packed"> File:Asahi museum4.jpg|[[貝殻山貝塚]]<br>([[朝日遺跡]]) File:Owari Shrine.JPG|[[尾張神社]] File:Owaribe-jinja haiden-1.JPG|[[尾張戸神社]] </gallery> ====古墳時代(大和時代)==== * [[景行天皇]]の時代には、[[三種の神器]]の一つ草薙剣([[天叢雲剣]])を祀る[[熱田神宮]]を創建した。 * [[日本武尊]]の東征の際に通ったとされ、[[内々神社]]や[[萱津神社]]など、[[日本武尊]]に纏わる神社や地名が多く残る。 * 4世紀頃から7世紀頃まで、[[断夫山古墳]]を始め多くの古墳が造営されている。 <gallery mode="packed"> File:Atsuta Shrine.jpg|[[熱田神宮]] File:Kayazujinja1.jpg|[[萱津神社]] File:Utsutsujinja1.JPG|[[内々神社]] File:Narumi-jinja Shrine Keidai (2), Otokoyama Narumi-cho Midori Ward Nagoya 2020.jpg|[[成海神社]] File:Shidami otsuka kofun.jpg|[[志段味大塚古墳]]<br>([[志段味古墳群]]) </gallery> ====飛鳥時代==== * [[645年]]([[大化]]元年)[[7月14日]] - [[孝徳天皇]]が神に供える[[幣]]を課した。 * [[7世紀]]に[[朝廷 (日本)|朝廷]]によって[[律令制]]が敷かれると[[尾張国造]]の領域が[[令制国]]の尾張国の範囲となる。 ** [[660年代]]には、国と[[評]]による地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は[[8世紀]]の初頭に地域を[[国郡里制|国・郡・里]]の3段階に区分し、『[[延喜式]]』民部式によると尾張は、[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]・[[中嶋郡]]・[[葉栗郡]]・[[丹羽郡]]・[[春部郡]](かすがべぐん)・[[山田郡 (尾張国)|山田郡]]・[[愛知郡 (愛知県)|愛智郡]]・[[知多郡]]の八郡であった。 * [[663年]]の[[白村江の戦い]]以降、国際的危機に直面したこともあり、国防力の増強を図る政策を打ち出した為、西国へ向かう[[防人]]の通行路にもなった。 : 易林本の『[[節用集]]』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、古代から[[須恵器]]や[[土師器]]などの焼き物生産が盛んであった。 その富裕な農業生産力や[[畿内]]への地理的な近さを背景にして[[朝廷 (日本)|朝廷]]を支える[[律令国]]として成長した。 <gallery mode="packed"> File:Owari-okunitama-jinja, shaden.jpg|[[国府宮]] File:Kamagaki4.JPG|洞本業窯([[瀬戸焼]]) File:Yakimonosanpomichi2.JPG|陶栄窯([[常滑焼]]) File:Owari shippō.jpg|[[尾張七宝]]([[七宝焼]]) </gallery> ====奈良時代==== * [[741年]]([[天平]]13年) - [[聖武天皇]]による[[国分寺建立の詔]]に続いて、尾張国分寺に関し『[[続日本紀]]』において[[天平勝宝]]元年([[749年]])5月15日条、[[神護景雲]]元年([[767年]])5月20日条、神護景雲3年([[769年]])9月8日条、[[宝亀]]6年([[775年]])8月22日条にそれぞれ記載が確認される{{Sfn|3章 尾張国分寺跡の概要(稲沢市)|2014年}}。 このうち神護景雲3年記事によると、当時の国府・国分寺・国分尼寺の位置は鵜沼川(現・[[木曽川]])下流とされる{{Sfn|3章 尾張国分寺跡の概要(稲沢市)|2014年}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=116-117}}。 『[[日本紀略]]』[[元慶]]8年([[884年]])8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を[[愛知郡 (愛知県)|愛智郡]][[定額寺]]の願興寺(現・[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]の尾張元興寺跡か)に移したと見える{{Sfn|3章 尾張国分寺跡の概要(稲沢市)|2014年}}<ref group="注">願興寺比定地の尾張元興寺跡(名古屋市中区)の発掘調査では、10世紀以降に出土品は激減するため、この頃願興寺は廃寺に至ったと見られる。 一方、国分尼寺は史料上で11世紀初頭までの存続が確認されるため、10世紀以降は尾張国分尼寺が国分寺に転用されたとする説がある ({{Harvnb|中世諸国一宮制|2000年|pp=116-117}}、{{Harvnb|国分寺(角川)|1989年}})</ref>。発掘調査においても、この焼失後の存続は認められていない{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|pp=116-117}}。 <gallery mode="packed"> File:Owari-kokubunji-ato tou.JPG|[[尾張国分寺|尾張国分寺跡]] File:Masumida-jinja haiden ac.jpg|[[真清田神社]]<br>([[一宮|尾張一宮]]) File:Oagata2.jpg|[[大縣神社]]<br>([[一宮#二宮、三宮|尾張二宮]]) </gallery> ===中世=== 古代より引き続き水利工事が進められ(木曽川・長良川流域。隣国美濃国とともに耕地開発された)、国の面積は小さいながらも米の生産高は他国に比べ早くから向上した。 ====平安時代==== [[File:Seiganji.JPG|thumb|200px|源頼朝の生誕地とされる熱田神宮大宮司藤原氏の別邸跡([[誓願寺 (名古屋市熱田区)|誓願寺]])]] * [[平安時代]]末期になると熱田大宮司であった[[藤原季範]]は[[源氏]]に接近し、娘の[[由良御前]]が[[源義朝]]に嫁いで[[源頼朝]]を産んでいる。 また、季範の養女(孫娘)は[[足利義康]]([[足利氏]]初代)に嫁いでおり、足利氏にも血脈を伝えている(足利氏8代目が[[室町幕府]]を開く[[足利尊氏]]である)。 * [[治承]]5年([[1181年]])、「[[治承・寿永の乱]]」における「[[墨俣川の戦い]]」が尾張国と[[美濃国]]の国境にある墨俣川(現在の[[長良川]])で行われた。 ====鎌倉時代==== * [[京]]から[[鎌倉]]のある東国への[[往還道]]として[[鎌倉街道]]が整備され、東西の交通の要衝となる。主な経由地は以下の地域と推定される。{{sfn|吾妻鏡 吉川本 建長四年三月}} ** [[黒田城 (尾張国)|黒田]]([[一宮市]]) ** [[萱津]]([[あま市]]) ** [[古渡町|古渡]]([[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]) ** [[鳴海町|鳴海]]([[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]) ====室町時代==== [[File:Kiyosu-jo&ote-bashi.jpg|thumb|left|200px|[[清洲城]]([[清須市]])]] * [[室町時代]]初期には美濃国の守護であった[[土岐氏]]などが守護を務めていた。 * [[1400年]]頃に[[斯波義重]](義教)が尾張守護に着任する。 ** 斯波義重の父[[斯波義将]]は、[[越前]]([[福井県]])と[[越中]]([[富山県]])の守護であり、父から越前守護職を譲られた後、尾張([[愛知県]])と[[遠江]]([[静岡県]])の守護となる。その際、越前時代からの被官である[[甲斐氏]]・[[織田氏]]・[[二宮氏]]らが尾張に送りこまれ、[[荘園 (日本)|荘園]]・[[公領]]に[[給人]]として配置された。 * [[1405年]]、義重によって[[清洲城]]が築城された。 : 以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護で三[[管領]]の[[斯波氏]]の領国となった。 : なお、[[1391年]]には[[知多郡]]が、[[1395年]]には[[海東郡]]の分郡守護に[[一色氏]]が任じられているが、これは当時の守護であった土岐氏を牽制する措置であったとされている。だが、海東郡は[[1430年]]に[[一色義貫]]が[[足利義教]]と対立して没収され、知多郡も[[応仁の乱]]で[[一色義直]]が西軍に着いた際に室町幕府に没収されている<ref>河村昭一「一色氏の分国・分郡における守護・〈郡主〉在職期間」『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版、2016年。</ref>。 ====戦国時代==== [[斯波氏]]の[[守護代]][[織田氏]]が実力を持つも、[[応仁の乱]]の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家(清洲織田氏)」と西軍についた「伊勢守家(岩倉織田氏)」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。 斯波氏は両者を巧みに操縦していたが、やがて実力を失う。また駿府の[[今川氏親]]が東尾張に侵攻した名残りで[[那古野城]]は今川家の保有となる。 「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし、[[織田信秀]]の代で躍進する。信秀は[[那古野城]]を[[今川氏豊]]から奪い取るなど功績を挙げた。 ===近世=== [[File:Okehazamakosenjou1.JPG|thumb|left|200px|桶狭間古戦場伝説地([[豊明市]])]] [[File:Komakishirekishikan.jpg|thumb|left|200px|[[小牧山|小牧山城]]([[小牧市]])]] [[File:Inuyama Castle and Kiso River.JPG|thumb|200px|[[犬山城]]([[犬山市]])]] [[File:Nagakutekosenjou1.JPG|thumb|200px|長久手古戦場公園([[長久手市]])]] ====安土桃山時代==== 信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、[[織田信長]]が家督を継ぐ。 信長は[[斯波氏]]を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。[[伊勢長島]]を占拠していた[[一向宗]]を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。 * [[1560年]](永禄3年)[[6月12日]]、信長討伐を目的として尾張に侵攻した[[今川義元]]を[[桶狭間の戦い]]にて破る。これ以後、尾張国はその全域を[[織田氏|織田弾正忠家]]が二代に渡って支配する。 * [[1582年]]([[天正]]10年)、[[本能寺の変]]が発生し信長・信忠親子は揃って敗死。 * [[山崎の戦い]]で[[明智光秀]]を倒した[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と、織田家重臣の[[柴田勝家]]が世に言う[[清洲会議]]で対立。 ** 信長の後継者として信長の三男・[[織田信孝|神戸信孝]]を推す勝家と信忠の嫡子[[織田秀信|三法師]]を推す秀吉の対決は最終的に「織田家新当主に三法師、後見役に信孝」という形で落着した。しかし、まもなく清洲会議の決定を反故にした秀吉らは信長の次男・[[織田信雄]]を主君として擁立。これに異を唱えた信孝と柴田勝家を[[賤ヶ岳の戦い]]で滅ぼした。 ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、[[三河国]]の[[徳川家康]]と同盟を結ぶ。 * [[1584年]]([[天正]]12年)、[[小牧・長久手の戦い]]を引き起こす。権力掌握のため多方面に軍を展開する秀吉はこの戦いに苦戦。[[池田恒興]]、[[森長可]]が戦死する事態に陥る。 しかし様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功し、大義名分を喪った家康も撤兵する。豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。 * [[1586年]][[1月18日]]([[天正]]13年)信雄は[[長島城]]を本拠としていたが、[[天正地震]]により長島城が倒壊したことで[[清洲城]]を大規模改修して本拠とする。その後、信雄は[[後北条氏]]滅亡後の関東への転封を拒んだため、[[1590年]]([[天正]]18年)秀吉の逆鱗に触れて改易された。信雄改易により、尾張国は[[福島正則]](24万石)ら豊臣家の武将により分割支配された。 * [[1586年]]([[天正]]14年)の[[木曽川]]の「天正の大洪水」により、[[美濃国]]との境に流れていた[[木曽川]]が[[葉栗郡]]内のほぼ中央を流れるようになった。 * [[1589年]](天正17年)豊臣秀吉の命により、新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を[[羽栗郡]]に改称した。同時に[[中島郡]]・[[海西郡]]も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。 * [[1600年]]([[慶長]]5年)、[[関ヶ原の戦い]]が発生。挙兵した[[石田三成]]の狙いは尾張・三河を電撃的に掌握し東海道の徳川軍を挟撃することにあったが失敗。一方、小山から転進した東軍は[[清洲城]]を集結地点として進軍。尾張・美濃の両国は東西両軍による前哨戦の舞台となる。戦後、福島正則は大きく加増され[[安芸国|安芸]][[広島市|広島]]に転封となる。 そして、関ヶ原の戦功により[[徳川家康]]の四男[[松平忠吉]]が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする[[清洲藩]]が成立した。しかし忠吉は[[1607年]]([[慶長]]12年)に28歳で死去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐[[甲府藩]]主の[[徳川義直]]が転封して清洲藩を継承した。 : 尾張国は源頼朝・織田信長・豊臣秀吉という三人の[[天下人]]を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、[[柴田勝家]]、[[丹羽長秀]]、[[前田利家]]、[[池田輝政]]、[[山内一豊]]、[[加藤清正]]、福島正則、[[蜂須賀正勝]]、[[佐久間信盛]]、[[佐久間盛政]]、[[佐々成政]]、[[堀尾吉晴]]、[[浅野長政]]などが有名である。 ====江戸時代==== [[File:Tenshuhonmaru.jpg|thumb|left|200px|[[名古屋城]]]] [[File:Arimatsu Historic Townscape, Midori Ward Nagoya 2014.JPG|thumb|left|200px|[[有松町]]([[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]])]] [[File:Yakimonosanpomichi2.JPG|thumb|200px|陶栄窯([[常滑市]])]] [[File:Kamezakishiohi Festival2.jpg|thumb|200px|[[亀崎潮干祭]]([[半田市]])]] ; 江戸時代初期から後期 [[徳川義直]]の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。 * [[1609年]]、[[大御所]][[徳川家康|家康]]の意向により廃城となっていた[[那古野城]]址に新城として[[名古屋城]]の築城が決定となる。これにあたって全国の諸侯が動員された。([[天下普請]])天守台石垣については[[加藤清正]]が普請助役となった<ref group="注">これを記念して名古屋城前に加藤清正像が置かれている。一度も城主になったことのない人物が銅像として設置されている珍しい例</ref>。 築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された([[清洲越し]])。こうして長らく尾張支配の象徴だった[[清洲城]]は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で[[1586年]][[1月18日]](天正13年)に発生した[[天正地震]]で深刻な[[液状化現象]]が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も[[清洲藩]]から[[尾張藩]]と改められた。家格も[[徳川御三家]]の筆頭という将軍家に次ぐ格別な位置に置かれ、その[[城下町]]たる名古屋は江戸時代の中期頃には[[三都]]に次ぐ大都市となった。 * [[1730年]][[9月]] - 7代尾張藩主に[[徳川宗春]]が就くと、祭りを奨励し、芝居小屋や遊郭を作ることを認めて[[能楽]]や[[歌舞伎]]、[[茶道]]や[[華道]]など様々な文化が盛んになった。 当時は、[[徳川吉宗]]による[[享保の改革]]の真っ只中で規制が厳しかったため、全国から文化人が名古屋に集まり、今日の'''芸どころ名古屋'''の基礎が築かれていった<ref name="owarinagoya">名古屋開府400年記念事業実行委員会『尾張名古屋大百科』 p150-155</ref>。 * 産業面では、徳川家康から義直へ婚礼祝いとして木曽の山々が与えられていたことにより、[[木曽川]]を下って良質で大量の木材が名古屋に集積され、名古屋桐箪笥・名古屋仏壇・木桶など、木工産業が盛んになった。また、家康の機械式時計を修理した[[津田助左衛門]]が尾張藩お抱え時計師となり、その技術は[[和時計]]や[[からくり]]人形に生かされた。 こうした木工・時計技術は後に[[鉄道車両]]・[[飛行機]]・[[自動車]]などに利用され、名古屋の'''[[ものづくり]]産業'''の原点となっている<ref name="owarinagoya"/>。 その他、尾張藩は[[陶磁器]]を独占産業として位置付けたため、戦国時代末期には衰退していた[[瀬戸市|瀬戸]]は陶磁器の街として復興している。 * [[知多半島]]では、醸造業がさかんになり、灘に次ぐ酒の生産地であったという<ref name="chitahanto">廣江安彦/堀内守『知多半島なんでも事典』新葉館出版 p106-107</ref>。同時に海運業も発展し、[[尾州廻船]]が活躍した。酒や味噌、[[常滑焼]]などを運ぶほか、遠隔地で仕入れた荷物を売買する「買積」方式で莫大な利益を稼いだ<ref name="chitahanto"/>。 文化面では、この時に蓄えられた財力で建造されたとされるからくり人形が搭載された豪華な[[山車]]をひく祭りが、現在でも知多半島各地で行われている<ref>[http://dashi-matsuri.com/dashikan/chita/ 知多の山車館]</ref>。 * 現在に到る食文化もこの時代に形成された。義直は徳川家の総本拠たる[[岡崎市|岡崎]]から職人を招いて[[八丁味噌]]を作らせた。現代でも「名古屋と言えばミソ文化」とされ、[[味噌煮込みうどん]]、[[味噌カツ]]、[[味噌おでん]]といった他の地方にはない独特の食文化として認知されている。他に三河芋川が発祥とされる「いもかわうどん」が名古屋で[[きしめん]]として人々に愛され、現代に到っている。 * [[尾張藩]]の表向きの禄高は約62万石(尾張国で47万石だが広範囲に飛び地があった)だが、殖産奨励により実質的な禄高は100万石以上あったとされ、全国的にみても非常に裕福な藩であった。このため四公六民という全国的にみても低い税率であった。 ところが、相次ぐ[[飢饉]]や[[災害]]などの[[天災]]により赤字体質となっていく。 [[File:Shiyakushokencho1.JPG|thumb|200px|left|[[名古屋市役所]]と[[愛知県庁舎]]]] [[File:Nagoya after the 1945 air raid.JPG|thumb|200px|[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]]] [[File:Old Nagoya Castle Golden Shachi-Hoko Statue.jpg|thumb|200px|left|戦災で焼失した名古屋城天守の金鯱]] [[File:モリコロパーク1.JPG|thumb|200px|[[長久手市]]]] ; 江戸時代末期 * 10代藩主[[徳川斉朝]]から13代藩主[[徳川慶臧]]まで将軍家周辺からの養子が続いた。このため藩主が江戸藩邸暮らしで領国経営を顧みない風潮が続き、支藩からの養子が待望される。 * [[1849年]]([[嘉永]]2年) - 支藩・[[高須藩]]から14代藩主[[徳川慶恕]](改名後、慶勝)が就任する。慶勝は初代藩主・義直の遺訓を守り、[[尊皇攘夷]]を主張し、質素倹約で藩政を改革する。しかし、[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]らと共に独断で[[日米通商修好条約]]を締結した大老[[井伊直弼]]の専横に抗議した。 * [[1858年]]([[安政]]5年)の[[安政の大獄]]にて隠居謹慎を命じられ、実弟の[[徳川茂徳]]に藩主の座を譲る。 * 井伊が[[桜田門外の変]]で横死すると慶勝は14代将軍・[[徳川家茂]]の補佐役に抜擢され、茂徳隠居に伴い慶勝の実子[[徳川義宜]]が16代藩主となる。こうして藩の実権を慶勝が握る形となる。[[公武合体派]]の重鎮となった慶勝は[[一橋家]]当主・[[徳川慶喜]]、前[[福井藩]]主・[[松平春嶽|松平慶永]](春嶽)、前[[土佐藩]]主・[[山内容堂|山内豊信]](容堂)、前伊予[[宇和島藩]]主・[[伊達宗城]]、[[会津藩]]主・[[松平容保]]<ref group="注">茂徳と同様に慶勝の実弟。高須四兄弟の一人。</ref>、[[薩摩藩]]主・[[島津久光]]ら[[雄藩]]連合から成る[[参預会議]]の一員に選ばれるも辞退。 * 第一次[[長州征伐]]では征討軍総督(大参謀に薩摩藩士・[[西郷隆盛|西郷吉之助]])を命じられ、この戦いに快勝して京に凱旋。しかし、続く第二次[[長州征伐]]には反対の立場をとり、弟の茂徳にも総督就任を辞退させた。 ===近代=== ====明治時代==== [[明治維新]]で[[中央集権]]国家が形成されると、[[名古屋市]]は[[明治政府]]による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。 ; 明治維新 * [[1867年]][[11月9日]]([[慶応]]3年[[10月14日]])、[[大政奉還]]が成ると慶勝は新政府[[議定]]に任命され、徳川15代将軍・徳川慶喜への辞官納地通告役を命じられる。 * [[鳥羽・伏見の戦い]]で旧幕府軍が敗戦後は新政府の一員として[[大坂城|大阪城]]を受領。この後、藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの報告で藩に戻り、佐幕派を弾圧した。([[青松葉事件]])[[1871年]]([[明治]]3年)初代名古屋藩知事となるが翌年の[[廃藩置県]]で免職となる。 * [[1875年]]([[明治]]8年)に義宜病死により[[尾張徳川家]]を慶勝が再継承し第17代当主となった。こうして御三家筆頭ながら最高権力者の[[徳川慶勝]]が初期から明治新政府に参加したことで尾張国は[[戊辰戦争]]の惨禍に遭うこともなかった。 なお[[名古屋城]]は、慶勝の提案で破却および[[金鯱]]の献上が申請された。 * [[1879年]]([[明治]]12年)12月、[[山縣有朋]]が名古屋城と[[姫路城]]の城郭の保存を決定。 * [[1893年]](明治26年)、[[本丸]]は[[陸軍省]]から[[宮内省]]に移管され名古屋[[離宮]]と称する。 その後、名古屋離宮は[[1930年]]([[昭和]]5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に[[1872年]]([[明治]]5年)[[東京鎮台]]第三分営が置かれた。[[1873年]]([[明治]]6年)には[[名古屋鎮台]]となり、[[1888年]]([[明治]]21年)に第三師団に改組され、[[太平洋戦争]]敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の[[名古屋大空襲]]で[[焼夷弾]]の直撃を受け焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により[[1959年]]([[昭和]]34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に至っている。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では概ね全域が'''[[名古屋藩]]'''領であった。[[熱田神宮]]領、加藤図書助<ref group="注">幼少時の[[徳川家康]]を預かった[[熱田区|圧田]]の名家([[加藤氏|東加藤家]])。</ref> 知行なども存在した。(1,022村・765,235石余) ** [[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]](132村・124,200石余)、[[春日井郡]](201村・151,652石余)、[[丹羽郡]](132村・73,204石余)、[[葉栗郡]](41村・19,070石余)、[[中島郡 (愛知県)|中島郡]](164村・124,229石余)、[[海東郡]](106村・127,615石余)、[[海西郡 (愛知県)|海西郡]](99村・44,587石余)、[[知多郡]](147村・100,675石余) * [[慶応]]4年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1868年]][[2月17日]]) - [[御附家老|附家老]][[成瀬氏]]領が'''[[犬山藩]]'''、同[[竹腰氏]]領が[[美濃国|美濃]]'''[[今尾藩]]'''としてそれぞれ立藩。領地は各郡に散在したが、海西郡・知多郡には今尾藩領はなかった。 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、'''[[名古屋県]]'''、'''[[犬山県]]'''、'''[[今尾県]]'''の管轄となる。 ** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''名古屋県'''の管轄となる。 * 明治5年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]](1872年[[5月8日]]) - '''[[愛知県]]'''の管轄となる。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === [[File:Owari-kokuga-ato sekihi.JPG|thumb|200px|right|尾張国衙址碑([[稲沢市]]松下)<br />{{Small|尾張国衙推定地。}}]] [[File:Kounomiya1.JPG|thumb|200px|[[尾張大国霊神社]](稲沢市)]] [[国府]]は中島郡に所在した。地名を手がかりに、次の2箇所が候補にあがっている。 * [[稲沢市]]松下・国府宮 *: 松下・国府宮とも「国衙」という小字があり(現在は松下n丁目、国府宮n丁目)、近辺に所在が推定されている。数度の発掘調査が行われているが、木簡や銅印などは出土しているものの遺構は発見されていない。推定国府域は[[三宅川]]の自然堤防の上に位置し、ほぼ真北の方位をとる。現在は松下公民館付近において「尾張国衙址」碑が建てられているほか({{Coord|35|15|17.26|N|136|47|59.81|E|region:JP-23_type:landmark|name=尾張国衙址碑(尾張国府推定地)}})、[[総社]]の[[尾張大国霊神社]]が所在する。 * 稲沢市下津町 *: 「東国府」「西国府」の小字があり、近辺に所在が推定されている。発掘調査は行われていない。 現段階では、発掘調査が不十分であるため所在地は明らかでない<ref name="一宮制 国府">『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 113-114。</ref>。考古学・古代史学的には松下説が有力視されるが、中世頃の洪水により松下から下津(室町期には守護所も所在)に移転したと推測する説もある<ref name="一宮制 国府"/>。 なお『[[節用集]]』易林本では海部郡に「府」と記載されている。 === 国分寺・国分尼寺 === [[File:Owari-kokubunji-ato tou.JPG|thumb|200px|right|[[尾張国分寺|尾張国分寺跡]](稲沢市矢合町)]] * [[尾張国分寺|尾張国分寺跡]] (稲沢市矢合町椎ノ木、{{Coord|35|14|0.04|N|136|46|25.01|E|region:JP-23_type:landmark|display=inline|name=尾張国分寺跡}}) *: 国の史跡。推定寺域は東西約200メートル・南北約300メートル以上で、金堂・講堂・塔の遺構が確認されている。『[[日本紀略]]』[[元慶]]8年([[884年]])条によると、尾張の本金光明寺に火災があったため、愛知郡定額寺の願興寺(現・[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]の尾張元興寺跡か)を国分寺としたとされる。この尾張元興寺は10世紀には衰退して廃寺に至ることから、その後に国分尼寺が僧寺に転用されたという説もある。 *: 以後、中世期の変遷は不詳。現在は創建時の遺構北方において、明治に「円興寺」から改称した[[尾張国分寺|鈴置山国分寺]](稲沢市矢合町、{{Coord|35|14|27.88|N|136|46|28.83|E|region:JP-23_type:landmark|name=鈴置山国分寺(尾張国分寺後継寺院)}})が法燈を伝承する。 * 尾張国分尼寺跡 *: 稲沢市法花寺町と推定されている。発掘調査は行われておらず不詳。同地の法華寺({{Coord|35|14|42.16|N|136|45|57.47|E|region:JP-23_type:landmark|name=法華寺(尾張国分尼寺後継寺院)}})がその名残とする説がある(詳細は「[[尾張国分寺跡#尾張国分尼寺]]」参照)。 そのほかの尾張の古代寺院としては長福寺廃寺([[一宮市]]千秋町)、尾張元興寺遺跡([[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[正木 (名古屋市)|正木町]])、東畑廃寺([[稲沢市]]東畑)、[[大山廃寺跡]]([[小牧市]]野口)が知られる。 === 神社 === [[File:Masumida Shrine Haiden.jpg|thumb|200px|[[真清田神社]]([[一宮市]])]] '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社8座8社・小社113座113社の計121座121社が記載されている(「[[尾張国の式内社一覧]]」参照)。大社8社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。 * [[中島郡 (愛知県)|中島郡]] 大神神社 ** 比定社:[[大神神社 (一宮市)|大神神社]] (一宮市花池、{{Coord|35|17|28.94|N|136|47|36.44|E|region:JP-23_type:landmark|name=名神大社:大神神社}}) * 中島郡 太神社 ** 比定社:[[大神社 (一宮市)|大神社]] (一宮市大和町於保、{{Coord|35|16|19.20|N|136|47|52.37|E|region:JP-23_type:landmark|name=名神大社:大神社}}) * 中島郡 真墨田神社 ** 比定社:[[真清田神社]] (一宮市真清田) * [[丹羽郡]] 大県神社 ** 比定社:[[大県神社]] (犬山市宮山) * [[愛知郡 (愛知県)|愛智郡]] 熱田神社 ** 比定社:[[熱田神宮]] (名古屋市熱田区神宮) * 愛智郡 日割御子神社 ** 比定社:[[熱田神宮#別宮・摂末社|日割御子神社]] (名古屋市熱田区神宮、{{Coord|35|07|21.94|N|136|54|33.78|E|region:JP-23_type:landmark|name=名神大社:日割御子神社}}) - 熱田神宮摂社。 * 愛智郡 孫若御子神社 ** 比定社:[[熱田神宮#別宮・摂末社|孫若御子神社]] (名古屋市熱田区神宮、{{Coord|35|07|23.98|N|136|54|33.63|E|region:JP-23_type:landmark|name=名神大社:孫若御子神社}}) - 熱田神宮摂社。 * 愛智郡 高座結御子神社 ** 比定社:[[高座結御子神社]] (名古屋市熱田区高蔵町、{{Coord|35|08|07.47|N|136|54|16.03|E|region:JP-23_type:landmark|name=名神大社:高座結御子神社}}) - 熱田神宮摂社。 '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 102-113。</ref>。 * 総社:[[尾張大国霊神社]] (稲沢市国府宮、{{Coord|35|15|22.25|N|136|48|18.79|E|region:JP-23_type:landmark|name=尾張国総社:尾張大国霊神社}}) * 一宮:[[真清田神社]] (一宮市真清田、{{Coord|35|18|27.20|N|136|48|7.51|E|region:JP-23_type:landmark|name=尾張国一宮、名神大社:真清田神社}}) - 初見は[[1165年]]の史料。『[[十六夜日記]]』に「一宮といふやしろ」と記されている。この他、同じ一宮市の[[大神神社 (一宮市)|大神神社]]も尾張国一宮を称する。 * 二宮:[[大県神社]] (犬山市宮山、{{Coord|35|19|49.13|N|136|58|01.29|E|region:JP-23_type:landmark|name=尾張国二宮、名神大社:大県神社}}) - 初見は[[1143年]]の史料。一宮もこの頃定まったとされる。 * 三宮:[[熱田神宮]] (名古屋市熱田区神宮、{{Coord|35|07|38.59|N|136|54|31.22|E|region:JP-23_type:landmark|name=尾張国三宮、名神大社:熱田神宮}}) - 古代からの大社であるが、一宮にはならなかったとされる。その理由には諸説がある<ref group="注">当初、[[伊勢国]]における[[伊勢神宮]]と同様に別格で一宮とされなかったが、一宮・二宮が定められた後に三宮として追加されたという説、単に国府から遠かったためとする説、真清田神社の積極的な運動によって一宮になったとする説、一宮制度導入時に国司と熱田神宮が対立していた説など。</ref>。 === 守護所 === [[鎌倉時代]]の[[守護所]]の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。 いつ頃からは定かでないが、[[室町時代]]には下津(稲沢市)にあった。 == 地域 == 鎌倉時代は、『[[海道記]]』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、[[弥富市]]や[[津島市]]は、尾張国と見なされておらず、[[あま市]][[甚目寺 (あま市の地名)|甚目寺]]([[萱津]])辺りから尾張国であったと考えられている。 北隣の[[美濃国]]とは現在の[[木曽川]]の一部と[[境川 (岐阜県)|境川]]あたり、[[長良川]]の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。[[鎌倉時代]]には[[六波羅探題]]の管轄下で[[西国]]の扱いを受けていた。[[鎌倉時代]]におきた[[承久の乱]]によると尾張国の範囲は[[尾張九瀬]]で認識され、[[前渡]]、[[印食]]、[[墨俣]]などの[[渡し船|渡し]]を境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては[[美濃国]]の[[土岐氏]]が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが[[斉藤氏]]の支配下であったようだが、織田氏にとっては[[尾張川]](現在の境川)と[[墨俣川]](現在の長良川で[[羽島市]][[小熊町]]より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。木曽川は、豊臣政権時代の天正14年([[1586年]])に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。[[天正]]14年([[1586年]])に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち[[境川 (岐阜県)|境川]]と木曽川にはさまれた一帯、中洲は[[各務原市]]川島にあたる。該当するのは、[[岐阜市]](旧[[柳津町 (岐阜県)|柳津町]]の一部等)、[[各務原市]](旧[[稲羽町]]の一部、旧[[川島町 (岐阜県)|川島町]])と、[[羽島郡]]のほぼ全域([[岐南町]]、[[笠松町]])、[[羽島市]]のほぼ全域、[[海津市]](旧[[海津町]]、[[平田町 (岐阜県)|平田町]]の大部分)である。「天正の大洪水」によって[[葉栗郡]]と[[中島郡]]、[[海西郡]]が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は[[美濃国]]に編入された。[[古事類苑]]によると[[豊臣秀吉]]の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県[[一宮市]]東'''加賀野井'''と岐阜県[[羽島市]]下中町'''加賀野井'''。愛知県一宮市浅井町'''河田'''と岐阜県[[各務原市]]川島町'''河田'''。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町'''三ツ法寺'''と岐阜県羽島市正木町'''光法寺'''。) 現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の[[稲沢市]]祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。 [[江戸時代]]では尾張国と[[美濃国]]の多くの地域は、[[尾張藩]]が中心となり細かく分割されて管理された。 === 郡 === * [[知多郡]]…「ちたぐん」と読む。元は「'''智多郡'''」と書いた。 * [[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]…「あいちぐん」と読む。元は「'''愛智郡'''」と書いた。 * [[春日井郡]]…「かすがいぐん」と読む。元は「'''春部郡'''(かすかべぐん)」と表記。現在の春日井市や[[西春日井郡]]など。 * [[丹羽郡]]…「にわぐん」と読む。 * [[葉栗郡]]…「はぐりぐん」と読む。現在の一宮市北部、江南市北部。 * [[中島郡 (愛知県)|中島郡]]…「なかしまぐん」と読む。現在の一宮市南部、稲沢市。 * [[海東郡]]…「かいとうぐん」と読む。もと[[海部郡 (愛知県)|海部郡]](あまぐん)。大正期に海西郡と統合。 * [[海西郡 (愛知県)|海西郡]]…「かいさいぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海東郡と統合。 * [[山田郡 (尾張国)|山田郡]]…「やまだぐん」と読む。戦国期に春日井郡と愛知郡に分割編入され消滅。 『[[古事類苑]]』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。 * 中嶋郡…美和、神戸、拜師、小塞、三宅、茜部、石作、日野、川埼 * 葉栗郡…葉栗、河沼、大毛、村國、若栗 * 海部郡…新屋、中島、津積、志摩、伊福、島田、海部、日置、三刀、物忌、三宅、八田 * 丹羽郡…五鬘、稻木、上春、丹羽、穗積、大桑、下沼、上沼、前刀、小弓、小野、小口 * 愛智郡…中村、千竈、日部、太毛、物部、熱田、作良、成海、驛家、神戸 * 春部郡…池田、柏井、安食、山村、高苑、餘戸 * 知多郡…番賀、贄代、富具、但馬、英比 * 山田郡…船木、主惠、石作、志誤、山口、加世、兩村、餘戸、驛家、神戸 === 江戸時代の藩 === {| class="wikitable" |+ 尾張国の藩の一覧 ! 藩名 !! 居城 !! 藩主 |- ! [[清洲藩]] | [[清洲城]] | * [[松平忠吉]](62万石、1600年 - 1607年) : 無嗣断絶 |- ! [[尾張藩]] | 清洲城<br>1607年 - 1612年<br>[[名古屋城]]<br>1612年 - 1871年 | * [[尾張徳川家]](47万2344石→56万3206石→61万9500石、1607年 - 1871年) |- ! [[犬山藩]]<br>尾張藩附家老 | [[犬山城]] | * [[小笠原吉次]](1600年 - 1607年) * [[平岩親吉]](11万3000石、1607年 - 1611年) * [[成瀬氏|成瀬家]](3万石→3万5000石、1617年 - 1871年) |- ! [[緒川藩]] | [[緒川城]] | * [[水野分長]](9820石、1601年 - 1606年) : 三河[[新城藩]]1万石に移封 |} == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 尾張守 ==== * [[漆部伊波|相模伊波]](従五位下)[[宝亀]]5年([[774年]])任官 * [[紀本]](従五位下):宝亀7年(([[776年]]) 任官 * [[陽侯令璆]](外従五位下):[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])任官 * [[藤原真川]](従五位下):[[延暦]]25年([[806年]])任官 * [[多入鹿]](従五位下):[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])任官 * [[平群真常]](従五位上):大同3年([[808年]])任官 * [[秋篠安人]](従四位上):大同5年([[810年]])任官 * [[紀田上]](従四位下):大同5年(810年)任官 * [[安倍犬養]](従五位下):[[弘仁]]元年(810年)任官 * [[三原弟平 (奈良・平安時代)|三原弟平]](従五位上):弘仁4年([[812年]])任官 * [[滋野家訳]](従五位下):弘仁6年([[814年]])任官 * [[伴氏上]](従五位下):[[天長]]2年([[825年]])任官 * [[路年継]](従四位下):天長3年([[826年]])任官 * [[藤原助]](従四位下):[[承和 (日本)|承和]]4年([[837年]])任官 * [[橘氏人]](従四位上):承和8年([[841年]])任官 * [[源弘]](従四位下):承和12年([[845年]])任官 * [[源定]](従三位):承和15年([[848年]])任官 * [[滋野貞主]](従四位下):[[嘉祥]]2年([[849年]])任官 * [[源定]](従三位):嘉祥3年([[850年]])任官 * [[南淵年名]](従五位下):嘉祥3年(850年)任官 * [[滋野貞主]](従四位下):嘉祥3年(850年)任官 * [[橘数岑]](従五位下):嘉祥3年(850年)任官 * [[源定]](従三位):嘉祥4年([[851年]])任官 ** [[豊階安人]](従五位上):[[仁寿]]4年([[854年]])任官(権守) * [[藤原宗善]](従五位上):[[斉衡]]2年([[855年]])任官 * [[飯高永雄]](従五位下):[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])任官 ** [[藤原常永]](従五位上):天安2年(858年)任官(権守) * [[安倍房上]](従五位下):[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])任官 * [[吉備全継]](従五位下):貞観9年([[867年]])任官 ** [[家原氏主]](従五位上):貞観10年([[868年]])任官(権守) * [[南淵興世]](従五位下):貞観13年([[871年]])任官 * [[藤原村椙]](従五位下):貞観16年([[874年]])任官 ** [[藤原高藤]](従五位上):[[元慶]]3年([[879年]])任官(権守) * [[藤原高藤]](従五位上):元慶5年([[881年]])任官 * [[清原常岑]](従五位下):元慶8年([[884年]])任官 * [[源有]](従四位下):[[仁和]]3年([[887年]])任官 ** [[藤原定方]](従五位下):[[寛平]]8年([[896年]])任官(権守) ** [[平伊望]](従五位下):[[昌泰]]3年([[900年]])任官(権守) * [[橘秘樹]]:[[延長 (元号)|延長]]9年([[931年]])任官 * [[藤原共理]]:[[天慶]]2年([[939年]])任官 * [[源宗海]]:天慶2年(939年)任官 * [[藤原興方]](従五位下):天慶6年([[942年]])任官 * [[藤原為輔]](従五位下):[[天暦]]9年([[955年]])任官 * [[藤原文正]]:[[天徳 (日本)|天徳]]3年([[959年]])任官 * [[藤原守平]](従五位上):[[応和]]3年([[963年]])任官 * [[橘桓平]](従五位上):[[康保]]4年([[967年]])任官 ** [[源忠清]](正四位上):[[天禄]]2年([[971年]])任官(権守) * [[藤原永頼]]:[[天延]]2年([[975年]])任官 ** [[菅原文時]](正四位下):[[天元 (日本)|天元]]3年([[980年]])任官(権守) ** [[菅原公任]](従四位上):[[永観]]2年([[984年]])任官(権守) * [[藤原元命]]:[[寛和]]2年([[986年]])任官 ** [[藤原道綱]](従三位):[[永延]]2年([[988年]])任官(権守) * [[藤原文信]]:永延3年([[989年]]) ** [[大江匡衡]](従五位上):[[正暦]]3年([[992年]])任官(権守) * [[藤原里兼]](正四位下):[[長徳]]2年([[996年]])任官 * [[藤原知光]]:長徳3年([[997年]])任官 * [[大江匡衡]](従四位下):[[長保]]3年([[1001年]])任官 ** [[藤原正光]](正四位下):長保5年([[1003年]])任官(権守) ** [[藤原実成]](従四位下):長保6年([[1004年]])任官(権守) * [[藤原中清]]:[[寛弘]]2年([[1005年]])任官 * [[大江匡衡]](従四位下):寛弘6年([[1009年]])任官 * [[藤原知光]]:寛弘7年([[1010年]])任官 * [[橘経国]]:[[長和]]4年([[1015年]])任官 ** [[藤原良経]]:[[寛仁]]2年([[1018年]])任官(権守) * [[藤原惟貞]]:寛仁3年([[1019年]])任官 * [[源則理]]:[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])任官 * [[平惟忠]]:[[長元]]2年([[1029年]])任官 * [[源実基]]:長元8年([[1035年]])任官 * [[藤原範永]]:長元10年([[1037年]])任官 * [[橘俊綱]]:[[長久]]3年([[1042年]])任官 * [[藤原公基]](従五位上):[[寛徳]]2年([[1045年]])任官 * [[藤原時房]]:[[康平]]3年([[1060年]])任官 * [[平定家]]:[[治暦]]元年([[1065年]])任官 ** [[源李宗]]:治暦4年([[1068年]])任官(権守) * [[藤原憲房]]:治暦5年([[1069年]])任官 ** [[賀茂道平]]:[[延久]]2年([[1070年]])任官(権守) * [[藤原惟経]]:延久5年([[1073年]])任官 * [[平忠盛]](正四位下):[[天養]]元年([[1144年]])任官 * [[平頼盛]](従四位上):[[保元]]3年([[1158年]])任官 * [[平重衡]](従五位下):[[応保]]3年([[1163年]])任官 * [[平保盛]](従五位下):[[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]])任官 * [[坊門忠清]](従五位下):[[正治]]元年([[1199年]])任官 * [[北条時章|名越時章]]:[[寛元]]3年([[1245年]])任官 * [[足利家氏]]:[[文永]]2年([[1265年]])任官 * [[北条高家|名越高家]] * [[斯波高経]]:[[元弘]]3年([[1333年]])任官 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== * 1195年 - ? : [[小野成綱]] * ? - 1221年 : [[小野盛綱]] * 1240年 - ? : [[中条家平]] * 1252年 - ? : [[中条頼平]] * 1290年 - ? : [[中条景長]] * 1314年 - ? : 北条氏一門(名越氏?) * ? - 1333年 : [[北条宗教]] ==== 室町幕府 ==== * 1336年 - 1338年 : [[中条秀長]] * 1339年 - 1340年 : [[高師泰]] * 1351年 - 1387年 : [[土岐頼康]] * 1388年 - 1391年 : [[土岐満貞]] * 1391年 - ? : [[一色詮範]] * 1392年 - ? : [[畠山深秋]] * 1393年 - 1398年 : [[今川仲秋]] * 1398年 : [[今川氏兼]] * 1398年 - ? : [[畠山基国]] * 1400年 - 1418年 : [[斯波義重]] * 1424年 - 1433年 : [[斯波義淳]] * 1433年 - 1436年 : [[斯波義郷]] * 1436年 - 1452年 : [[斯波義健]] * 1452年 - 1460年 : [[斯波義敏]] * 1460年 - 1461年 : [[斯波義寛]] * 1461年 - 1466年 : [[斯波義廉]] * 1466年 : 斯波義敏 * 1466年 - 1468年 : 斯波義廉 * 1468年 - 1499年 : 斯波義寛 * 1511年 - 1533年以降 : [[斯波義達]] * 1536年 - 1554年 : [[斯波義統]] * 1554年 - 1556年 : [[斯波義銀]] === 戦国時代 === * 戦国大名 ** [[斯波氏]](尾張守護) ** [[織田氏]](尾張守護代) * 織田政権の大名 ** [[池田恒興]]([[犬山城]]):1万貫。1570年 - 1580年(摂津に移封) * 豊臣政権の大名 ** [[織田信雄]]([[清洲城]]):尾張・伊勢・伊賀110万石、1582年 - 1590年(改易) ** [[豊臣秀次]](清洲城):尾張・伊勢100万石、1590年 - 1595年(切腹・改易) ** [[福島正則]](清洲城):尾張国内24万石、1595年 - 1600年(安芸[[広島藩]]49万8,200石に移封) ** [[一柳直盛]]([[黒田城 (尾張国)|黒田城]]):3万5千石、1595年 - 1600年(伊勢[[神戸藩]]5万石に移封) ** [[石川貞清]](犬山城):1万2千石、1595年 - 1600年(改易) === 武家官位としての尾張守 === ==== 江戸時代以前 ==== * [[斯波氏]]武衛家(尾張足利氏) ** [[足利家氏]](斯波家氏):斯波氏初代。鎌倉時代中期の武将 ** [[斯波宗家]]:2代当主。鎌倉時代中期の武将。 ** [[斯波宗氏]]:3代当主。鎌倉時代中期から後期にかけての武将 ** [[斯波高経]]:4代当主。室町幕府の越前・若狭・越中守護 ** [[斯波義淳]]:7代当主。室町幕府[[管領]]、越前・尾張・遠江守護 * 室町幕府守護[[畠山氏]](尾州家) ** [[畠山満家]]:本宗家10代当主。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護 ** [[畠山持富]]:本宗家11代・尾州家初代当主。室町幕府管領、紀伊・河内・越中守護 ** [[畠山政長]]:本宗家14代・尾州家3代当主。室町幕府管領管領、紀伊・河内・越中・山城守護 ** [[畠山尚順]]:本宗家16代・尾州家4代当主。紀伊・河内・越中守護 ** [[畠山稙長]]:本宗家17代・尾州家5代当主。紀伊・河内・越中守護 ** [[畠山政国]]:本宗家19代・尾州家7代当主。紀伊・河内守護。 ** [[畠山高政]]:本宗家21代・尾州家9代当主。紀伊・河内守護 * 周防国・長門国の守護・戦国大名大内氏譜代重臣陶氏 ** [[陶弘護]]:8代当主。室町時代の武将。周防・筑前守護代 ** [[陶興房]]:9代当主。戦国時代の武将。周防守護代 ** [[陶晴賢]](陶隆房):10代当主。戦国時代の武将。周防守護代。主家を実質的に滅ぼす * その他 ** [[高師泰]]:南北朝時代の武将。[[高師直]]の兄(または弟) ** [[新発田長敦]]:戦国時代の武将。[[上杉謙信]]の七手組大将の一人 ** [[織田信長]]:美濃攻略後、尾張守を自称(それ以前は上総介) ** [[松田憲秀]]:[[後北条氏|小田原北条氏]]家老。[[小田原征伐]]の際に、豊臣方に内応を試みた ==== 江戸時代 ==== 江戸時代には尾張守を称した例は無い。理由としては、尾張守を称した陶晴賢([[大内氏]]家臣)や松田憲秀([[後北条氏]]家臣)が主家を滅ぼしたため忌避されたという説、御三家筆頭である尾張徳川家に遠慮をしたという説、読みが「終わり」と同じで縁起が悪いとの説、などがある。 == 尾張国の合戦 == *[[1181年]]:[[墨俣川の戦い]]、 [[平家]]軍([[平重衡]]) × [[源行家]] *[[1552年]]:[[赤塚の戦い]]、[[織田信長]] × [[山口教吉]] *[[1554年]]:[[村木砦の戦い]]、[[織田信長]]・[[水野信元]] × [[今川義元]] *[[1556年]]:[[稲生の戦い]]、織田信長 × [[織田信行]] *[[1558年]]: **[[石ヶ瀬川の戦い]]、[[徳川家康|松平元康]] × 水野信元 **[[浮野の戦い]]、織田信長 × [[織田信賢]] *[[1560年]]:[[桶狭間の戦い]]、織田信長 × 今川義元 *[[1584年]]: **[[小牧・長久手の戦い]]、[[徳川家康]]・[[織田信雄]] × [[豊臣秀吉|羽柴秀吉]] **[[岩崎城の戦い]]、[[丹羽氏重]] × [[池田恒興]] == 現代の尾張地方 == {| class="infobox bordered" | colspan="2" style="text-align: center; background-color: #f40;"|'''尾張地方'''のデータ |- | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|国 | [[日本]] |- | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|地方 | [[中部地方]]、[[東海地方]] |- | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|面積 | style="text-align: right;"|'''1,686.53'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] |- | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|[[推計人口]] | style="text-align: right;"|'''{{formatnum:{{ #expr: {{自治体人口/愛知県|名古屋市}} + {{自治体人口/愛知県|愛西市}} + {{自治体人口/愛知県|一宮市}} + {{自治体人口/愛知県|稲沢市}} + {{自治体人口/愛知県|犬山市}} + {{自治体人口/愛知県|岩倉市}} + {{自治体人口/愛知県|大府市}} + {{自治体人口/愛知県|尾張旭市}} + {{自治体人口/愛知県|春日井市}} + {{自治体人口/愛知県|北名古屋市}} + {{自治体人口/愛知県|清須市}} + {{自治体人口/愛知県|江南市}} + {{自治体人口/愛知県|小牧市}} + {{自治体人口/愛知県|瀬戸市}} + {{自治体人口/愛知県|知多市}} + {{自治体人口/愛知県|津島市}} + {{自治体人口/愛知県|東海市}} + {{自治体人口/愛知県|常滑市}} + {{自治体人口/愛知県|豊明市}} + {{自治体人口/愛知県|日進市}} + {{自治体人口/愛知県|半田市}} + {{自治体人口/愛知県|弥富市}} + {{自治体人口/愛知県|あま市}} + {{自治体人口/愛知県|東郷町}} + {{自治体人口/愛知県|長久手市}} + {{自治体人口/愛知県|大治町}} + {{自治体人口/愛知県|蟹江町}} + {{自治体人口/愛知県|飛島村}} + {{自治体人口/愛知県|豊山町}} + {{自治体人口/愛知県|大口町}} + {{自治体人口/愛知県|扶桑町}} + {{自治体人口/愛知県|阿久比町}} + {{自治体人口/愛知県|武豊町}} + {{自治体人口/愛知県|東浦町}} + {{自治体人口/愛知県|南知多町}} + {{自治体人口/愛知県|美浜町}} round 0}}}}'''人<br />({{自治体人口/愛知県|date}}) |- | colspan="2" style="font-size: smaller;"|※尾張国(愛知県西部)全域。 |} [[File:Nagoya Night View.jpg|thumb|200px|[[名古屋市]]([[政令指定都市]])]] [[File:Ichinomiya Skyline4.jpg|thumb|200px|[[一宮市]]([[中核市]])]] [[File:Kasugai City Skyline5.jpg|thumb|200px|[[春日井市]](特例市)]] [[File:Handa City Skyline.jpg|thumb|200px|[[半田市]]([[計量特定市]])]] ===自治体=== ; 政令指定都市 * '''[[名古屋市]]''' ; 中核市 * [[一宮市]]([[木曽川]]東岸の東加賀野井地区<ref group="注">旧[[中島郡 (愛知県)|中島郡]]加賀野井村。</ref> の一部を除く) ; 特例市 * [[春日井市]] ; 計量特定市 * [[半田市]] ; その他 [[瀬戸市]]、[[尾張旭市]]、[[日進市]]、[[豊明市]]、[[大府市]]、[[東海市]]、[[知多市]]、[[常滑市]]、[[小牧市]]、[[犬山市]]、[[江南市]]、[[岩倉市]]、[[稲沢市]](祖父江町の一部除く)、[[津島市]]、[[愛西市]](木曽川西岸の一部除く)、[[弥富市]]([[鍋田川]]流域の一部除く)、[[あま市]]、[[北名古屋市]]、[[清須市]]、[[長久手市]]、[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[東郷町]]、[[知多郡]][[東浦町]]、[[阿久比町]]、[[武豊町]]、[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]、[[南知多町]]、[[丹羽郡]][[大口町]]、[[扶桑町]]、[[西春日井郡]][[豊山町]]、[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[飛島村]]、[[大治町]]、[[蟹江町]] ===呼称=== 現代でも、「尾張」を地域名として用いることがあり、その場合以下のような異なる範囲が参照される。 * 尾張国と同じ範囲とする場合。 * 尾張国の範囲から、[[名古屋市]](県庁所在地)を除く場合。 : 数的規模などの面から、名古屋市を分けて記述したり、組織編成したりする場合に「'''名古屋・尾張'''''(名古屋を除く)''」などと区分する。 * 尾張国の範囲から、名古屋市と[[知多半島]]を除く場合。 : 地域性や文化などの面から、「'''名古屋・尾張・知多'''」と区分する。 : この場合に置いて尾張国を細分化した場合、地域区分は必ずしも一定していないが、区分表記に当たっては、尾張の頭に方角を付けるほか、「尾東」「尾西」「尾北」という表記もある。また、知多半島を「南尾張」とする表記も見られるが、「尾南」という表記は見られない。 * 尾張国の範囲から、知多半島のみを除く場合。 : 気象注意報・警報の地域区分や知多地域の案内などに見られる。この場合、「'''尾張・知多(愛知県西部・知多)'''」と区分する。 ===地形=== * [[河川]]:[[木曽川]]、[[長良川]]、[[揖斐川]] * [[半島]]:[[知多半島]] * [[平野]]:[[濃尾平野]] * [[湾|湾岸]]:[[伊勢湾]] ===交通=== 現在では、名古屋から東海地方、近畿地方([[大阪市]]など)、関東地方([[東京都]]など)や北陸地方([[富山市]]など)への道路や鉄道の路線が分岐しており、交通の要衝となっている。 ====空港==== * [[中部国際空港]](セントレア) * [[名古屋飛行場]](県営名古屋空港) ====鉄道==== {{col| * [[東海道新幹線]] * [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]] * [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]] * [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]] * [[武豊線]] * [[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]] * [[愛知環状鉄道線]] * [[近鉄名古屋線]] * [[名鉄名古屋本線]] * [[名鉄犬山線]] * [[名鉄小牧線]] * [[名鉄瀬戸線]] | * [[名鉄豊田線]] * [[名鉄広見線]] * [[名鉄津島線]] * [[名鉄尾西線]] * [[名鉄常滑線]] * [[名鉄河和線]] * [[名鉄知多新線]] * [[名鉄空港線]] * [[名鉄築港線]] * [[愛知高速交通東部丘陵線]](リニモ) * [[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]]) * [[東海交通事業城北線]] | * [[名古屋市営地下鉄東山線|地下鉄東山線]] * [[名古屋市営地下鉄名城線|地下鉄名城線]] * [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|地下鉄鶴舞線]] * [[名古屋市営地下鉄桜通線|地下鉄桜通線]] * [[名古屋市営地下鉄名港線|地下鉄名港線]] * [[名古屋市営地下鉄上飯田線|地下鉄上飯田線]] * [[名古屋臨海鉄道東港線]] * [[名古屋臨海鉄道東築線]] * [[名古屋臨海鉄道南港線]] * [[名古屋臨海鉄道昭和町線]] * [[名古屋臨海鉄道汐見町線]] }} ====道路==== ; [[有料道路]] * [[東名高速道路]] * [[名神高速道路]] * [[中央自動車道]] * [[名古屋高速道路]] * [[名古屋第二環状自動車道]] * [[東名阪自動車道]] * [[東海北陸自動車道]] * [[伊勢湾岸自動車道]] * [[知多半島道路]] * [[南知多道路]] * [[知多半島横断道路]] * [[名古屋瀬戸道路]] ; [[国道]] {{col| * [[国道1号]] * [[国道19号]] * [[国道22号]] * [[国道23号]] * [[国道41号]] | * [[国道153号]] * [[国道154号]] * [[国道155号]] * [[国道247号]] * [[国道248号]] | * [[国道302号]] * [[国道363号]] * [[国道366号]] }} ====港==== * [[名古屋港]] ==== 市外局番 ==== * 052(名古屋MA) * 0561(瀬戸MA) * 0562(尾張横須賀MA) * 0567(津島MA) * 0568(春日井MA) * 0569(半田MA) * 0586(一宮MA) * 0587(一宮MA) ==== 自動車ナンバープレート ==== * 名古屋ナンバー * 尾張小牧ナンバー * 一宮ナンバー(ご当地ナンバー:一宮市) * 春日井ナンバー(ご当地ナンバー:春日井市) ==参考== [[通話表#和文通話表|和文通話表]]で、「[[を]]」を送る際に「'''尾張のヲ'''」という。 [[日本の市町村の廃置分合|平成の大合併]]において、尾張東部に属する自治体では市町村合併が行われなかった。対して、尾張西部に属する自治体では市町村合併が相次ぎ、清須市、弥富市、愛西市、北名古屋市、あま市が新たに成立した。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] ==関連項目== {{Commonscat|Owari Province}} * [[令制国一覧]] * [[濃尾平野]] * [[尾三]] * [[尾張神社]] * [[紀伊型戦艦|尾張(戦艦)]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[八八艦隊計画]]で計画した未成[[戦艦]]。艦名は尾張国に因む。 ==外部リンク== * [http://www.kyougoku-do.com/map%20imeage/kokugunzenzu/l/109-owari.jpg 尾張国国郡図] {{令制国一覧}} {{尾張国の郡}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おわりのくに}} [[Category:尾張国|*おわりのくに]] [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東海道|国おわり]] [[Category:愛知県の歴史]] [[Category:名古屋市の歴史]] [[Category:戦国時代 (日本)]] [[Category:安土桃山時代]]
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ルービックキューブ
ルービックキューブ(英: Rubik's Cube)は、ハンガリーの建築学者ルビク・エルネー(エルノー・ルービック)が考案した立体パズル。一辺が概ね56ミリメートル前後の立方体で、各面は異なる6色で構成されており、各面毎に3×3の9マスに分割されている。任意の各列を回転させる事で分割されたキューブが動くので、各面を同一色に揃える事を主たる目的とする。 「RUBIK CUBE」「ルービックキューブ」はメガハウスの登録商標であり(第1635953号ほか)、「Rubik's」はルービックス・ブランド社(イギリス)の登録商標である。したがって公式ライセンスを受けていないメーカーでは、同種の製品を「ルービックキューブ」と称していないが、一般的にはこれらもルービックキューブと呼称する事が多い。 ルービックキューブの愛好家はキューバー(英: Rubik's cuber)、もしくはキュービスト(英: Rubik's cubist)と呼ばれる。 ルービックキューブの世界標準配色は、白を手前面に見ると奥面が黄色、そして側面が時計回りに青・赤・緑・橙色となっている。しかし、日本国内で正式にライセンスを受けて販売されているメガハウス製の旧品では、世界標準配色の黄と青が入れ替わっている日本配色だった。メガハウスから2013年に発売されたルービックキューブver2.0からは配色が世界標準のものに移行され、色のステッカーはパネル式に変更された。単色の他に、藤木直人や淡路市などのように図柄を印刷して土産物やファングッズとして販売されている物もある。日本での販売元のメガハウスでは好みの図柄を印刷する「ルービックマイデザイン」のサービスもある。 各面は3×3=9個の色の付いた正方形で構成されているが、立方体全体を見ると、各面の中央にあるセンターキューブ6個、辺にあるエッジキューブ12個、頂点にあるコーナーキューブ8個で構成されている。センターキューブ同士は回転軸(X軸・Y軸・Z軸)で連結されている。これらのキューブを、各列(行)ごとに自由に回転させることができる。回転に伴い、コーナーキューブやエッジキューブ(サブキューブとも言う)の場所は移動するが、センターキューブは回転軸上にある為、その場で回転するだけで移動しない。なお、センターキューブ、エッジキューブ、コーナーキューブはそれぞれ1面体、2面体、3面体と呼ばれることもある。後に出た上位版のルービックリベンジでは各面が4×4に分割されておりセンターキューブ自体も他の面に移動できてしまうため難易度は高くなる。 ルービックキューブはパズルであり、分解の正式な手順は提供されていない。構造上、非破壊的な分解が困難な製品もある。 2000年代に入って特許が失効して以降は「魔方」や「マジックキューブ」などの名称を使用した、複数の中国社製による類似商品が多数販売されている。これらはスピードキュービングにも適しており、回転時に干渉するキューブ内部の角部を丸くして回しやすくした物、センターキューブの蓋を開けてネジやバネの強弱を調節できる物、磁石を内蔵しキューブのずれを軽減する物などが販売されている。配色ステッカーを貼り付けたステッカータイプの物は市販のステッカーに張り替えて自由に色を変える事が可能。ステッカータイプの他に、ステッカー部分がパネルになっている物や、素材そのものに着色したステッカーレスタイプの物もある。 ルービックキューブは、ハンガリーの建築学者で、ブダペスト工科大学教授だったエルノー・ルービックが1974年に考案した。ルービック社公式サイトの説明によれば、彼は3次元幾何学を説明するための「動くモデル」を求め、ドナウ川の流動を見て発明のヒントを得たという。最初のキューブの原型は、木製の立方体であった。ルービックは完成した3×3×3のキューブの各面を違う色に塗り分けたが、キューブを動かすうちに元に戻せなくなり、「結果的に、出発点に戻るのに丸1か月かかった」と明かしている。ルービックは「マジック・キューブ」(魔法の立方体)という名前で特許を取得し、1977年にハンガリーの玩具製造会社「ポリテクニカ」から最初のキューブが発売される。その後、アメリカのメーカーであるアイデアル・トイ社が販売権を獲得し、マジック・キューブは発明者の名前を冠した「ルービックキューブ」の名前で1980年5月に世界的に発売された。各国の玩具賞を受賞する事もあった。1980年から1983年にかけて世界中で約2億のルービックキューブが販売されたと推定されており、その後もルービックキューブは売れ続け全世界累計で約3億5000万個が販売されている。 日本では1980年6月1日に朝日新聞(日曜版)でルービックキューブのことが数学者にも注目される「究極の立体パズル」として紹介され、同年の7月25日にツクダオリジナル(現メガハウス)から発売された。1980年から1981年には日本中でルービックキューブが大ブームとなった。ツクダオリジナルの代表取締役だった和久井威によると、ニューヨークのトイショーで見て15万個の販売権を1億円で獲得した。伊勢丹新宿店のアダルトホビー部門の担当者からパズルゲーム商品の要望を聞いていたことが、その背景にあった。価格を1480円で想定したところ、その担当者から「2000円ぐらいでも売れる」と言われて1980円にしたという。朝日新聞の記事に対しては読者から「どこで売っているのか」という反響があり、最終的にツクダオリジナルに確認(発売日)の問い合わせがされてそれが記事となった。この記事は、商品の関心を高める点で「効果的だった」と和久井は述べている。和久井は年内に2度訪米して追加発注の交渉をおこなったという。1981年2月には海賊版が出回る事態まで発生している。日本では、正規品だけでも発売から8か月の間に400万個以上という売り上げを記録した。また独力では揃える事が非常に困難であることから揃える手順を解説した書籍が販売された。 1981年1月31日には帝国ホテルで「第1回全日本キュービスト大会」が開催され、約400人の参加者が集まった。 ツクダオリジナルでは1981年のゴールデンウィークに向けて30万個の追加発注をしたが、『機動戦士ガンダム』(ガンプラ)のブームが訪れたことで売れ行きは急減した。残った大量の在庫は、翌年のツクダの福袋に入れたほか、少しずつ売れ続けたことで10年かけて処理できたという。 1982年、ハンガリーのブダペストで第1回世界ルービックキューブ選手権大会が行われたものの、急激な人気の低下により、これ以後長らく国際規模の大会は開催されなかった。 2000年代になると、インターネットの普及と共に愛好家同士の繋がりや解法の研究が進み、再び流行し始める。そして2003年に21年ぶりに第2回大会がカナダのトロントで開催されると、各大陸や各国で大会が開催されるようになり、2005年から日本でも日本ルービックキューブ選手権大会が開催されるようになった。この頃には特許が失効した事により、複数の中国のメーカーによる類似商品が多数販売され始める(商標は有効であるため「Rubik's」や「ルービックキューブ」の名称は用いていない)。これらは価格帯や機能性など多様な商品展開をして、スピードキュービングにも適していた事から次第に市場占有率を拡大していく。一方、スピードキュービングの機能性に劣る純正(メガハウス社製)のキューブは後塵を拝している。 2020年9月から11月には「ルービックキューブ40周年展」が開催された。 日本では、6面完成をさせた者に対して「ルービック・キュービスト認定書」が贈られる(自己申告制)。元々は発売元のツクダオリジナルが認定していたが、現在では親会社ツクダの経営不振のため、メガハウスが行っている。2005年9月までに2万人以上が認定されており、その中にはタレントの萩本欽一も含まれる。 ルービックキューブを全面揃えるまでの時間の速さを競うことをスピードキュービング又はスピードキューブと呼ぶ。 公式な計測にはスタックタイマーが使用される。1回の計測では運要素や誤差が大きい為、現在の公式戦の多くでは5回計測して、その中から最も速かった回と最も遅かった回を除外した、残りの3回の記録の平均を用いることが多い(Average Of 5=AO5と略される)。この時、除外された最速の記録であっても単発としての記録は有効となる。計測された1000分の1秒以下の単位は切り捨てとなる。大会によっては性別や年齢別の部門を設ける場合もあるが公式記録上は性別や年齢の違いでの区別(区分)はない。また、公式戦では多数回の試技は行わないが、SNSなどの自己紹介に記録の指標として12回平均(AO12)、100回平均(AO100)を表記する者もいる。公式戦では原則的に自分自身で持ち込んだキューブを使用する(大会規則に則った物に限る)。乱数(スクランブル)で表示されたものを運営側が混ぜ、見えないように箱やカップを被せて卓上に置かれる。競技者はキューブを取り出してから15秒間の観察時間(インスペクションタイム)が与えられる。 ルービックキューブの解法には、過去にルービックキューブに付属していた解法書の解法であるツクダ式やCF法(Corners First)などがあるが、スピードキュービングで用いられている主な解法はLBL法(Layer By Layer)で、これを発展させたCFOPメソッド(Cross F2L OLL PLL)も用いられる。これは、基本的にキューブの各層を下から順に揃えていく方法である。解いている過程が分かりやすく、短時間で揃えることができる。また、この他にも、Roux method、ZZ method、8355 methodなど多岐にわたる。これらを元にキューブを短時間で揃えるための様々な手順が考案されている。また、早く揃えるにはキューブを素早く回さなければならない為、摩擦抵抗を調整する目的でシリコンスプレーやホワイトグリス、専用の潤滑剤をキューブ内部の摩擦面などに塗布する人も多い。 混ざったキューブの状態を見て瞬時に手順を判断する事や、素早い手指の動きが要求される事からパズルというよりはスポーツ競技と見られる側面も持ち合わせている。一方でルービックキューブは数学的にも興味深い対象であるにもかかわらず、早解きに関する部分のみが取り上げられることには芦ヶ原伸之をはじめとして苦言を呈する人もいる。 LBL法やCF法といった解法では大量の手順を暗記しなければならないため、手順を解説するために回転記号を用いて表現している。キューブを持って自分から見ての6つの面を手前面(Front)・後背面(Back)・右面(Right)・左面(Left)・上面(Up)・下面(Down)と、英語の頭文字で表現している。各面を時計回りに90°回転させる事を「F・B・R・L・U・D」と書き表す。また各面を反時計回りに90°回転させる事を「'(プライム)」を付記して「F'・B'・R'・L'・U'・D'」(例:「F'」は「エフプライム」と読む)、180°回転させる事を「F2・B2・R2・L2・U2・D2」と書き表す。180°回転させる場合は時計回りでも反時計回りでも同じである。また、一度に2層分を回転させる際は「Fw・Bw・Rw・Lw・Uw・Dw」または、「f・b・r・l・u・d」と書き表す。反時計回りは先程と同様「'」の記号を付ける。中段の回転には「S・M・E」と書き表す。 その他、ルービックキューブの記録一覧も参照。 世界ルービックキューブ選手権大会・日本ルービックキューブ選手権大会も参考。 1981年1月31日、第1回全日本キュービスト大会が開催され、6歳から68歳までと幅広い年齢層から約400人が参加した。優勝は北島秀樹(当時16歳の高校生)で記録は単発46秒台、3回の合計2分37秒であった。ルビク・エルネー本人も来日し、優勝者には賞品として自動車が進呈された。同年の内に第2回も開催された。 1982年6月5日、ハンガリーのブダペストで第1回世界ルービックキューブ選手権大会が行われ19名が参加した。この大会では3x3x3のみが行われ、3回の試技のうち最速記録を競った。優勝はMinh Thai(アメリカ合衆国)で記録は22秒95だった。日本からは上野健一が参加し24秒91で5位であった。その後、人気の低下もあって世界的な大会は開催されなかったが、2000年代に入り再び人気が拡大したことで2003年に第2回世界大会が行われた。2004年には世界キューブ協会(WCA)が組織され、より統一された競技規則などが規定された。公式の競技規則は世界キューブ協会によって毎年告知される。第2回以降は2年毎に世界大会が開催されており、3×3×3以外の競技種目も追加され現在では17種目が公式種目となっている。WCAが認める公式大会(大陸地域別大会・国別大会・各国内大会など)は、各地域にいるWCAの代理人の下で世界中で行われており、日本では一般社団法人スピードキュービングジャパン(SCJ)によって運営・開催されている。 3×3×3では通常の単純に揃える速さのみを競う種目の他に、片手や目隠しでキューブパズルを解くという離れ業要素が強い特殊な種目なども行われている。 2012年12月末までルービックマジックとマスターマジックが公式競技として認定されていたが、2013年のルール改正により、非公式競技となった。また、2019年12月末まで3×3×3足が公式競技として認定されていたが、2020年のルール改正により、非公式競技となった。 「最速」は一定数計測した試技の回での最も速い記録、「3回平均」は3回計測した平均の記録、「5回平均」は、5回計測した中で最も速い記録と最も遅い記録を除いた3回の平均の記録を表す。「(3回平均)」は、順位決定には適用されないが、公式記録としては集計される。 ルービックキューブの動作原理についての特許をエルノー・ルービック以外にも取得している人がいる。 ルービックが取得した特許は、 アメリカではラリー・ニコルスが取得したのは、 であり、1986年、アイデアル・トイ社 Ideal Toy Company(アメリカでの発売元)に対する訴訟に勝訴している。 イギリスでは、Frank Fox が以下の特許を取得した。 日本では石毛照敏が特許を得た。これらは平成11年特許法改正により内外国公知(世界公知)が要求される前のため、上記のようなハンガリーや米国、英国での特許にかかわらず、日本で公知となっていなかった本技術は特許性が認められた。 2011年11月11日、欧州裁判所が「形状に関する商標は無効である」との判決を出した。 ルービックキューブは数学の一分野である群論と関連が深く、論文も発表されている。 ルービックキューブをいったん分解して組み立てなおしたときに考えられる色の配置の総数を求めると、まずコーナーキューブの位置が8!通り、向きが3通り、エッジキューブの位置が12!通り、向きが2通り、これらを全てかけあわせて(8!×3)×(12!×2)通りとなる。しかし、実際には完全に揃った状態のキューブに回転操作を施すだけではこれだけの組み合わせは実現できない。 以上の3つの条件から、完全に揃った状態のキューブに回転操作を施してできる組み合わせの総数は前述の値を(2×2×3)で割ったものとなる。逆に、上記の3つの条件を満たしていれば6面がそろった初期状態に戻すことができる。すなわち、このパズルで考えられる配置は (8!×3)×(12!×2)/2×2×3 = 4325京2003兆2744億8985万6000通りである。 「いかなる状態でも、最多でも○○手で各面が揃った状態に戻せる」という数のことを「神の数字(God's Number)」と呼ぶ。長い間研究対象とされてきたが、2010年7月、モーリー・デビッドソンを中心とするグループの発表によって終止符が打たれた。 ルービックキューブの最初の回し方は18通りであり、2手目以降は15通り(同じ面を続けて回さないため)である。このことから、n手目の可能な配置の上限は 18×15通りである。(18+18×15+...+18×15)<全配置<(18+18×15+...+18×15) より、17手以上かかる配置が存在することが分かる。対面を回転させる手順は手順前後が可能であることを考慮すると、この下限は18手となる。 その後しばらくは手数の更新が無かったが、「スーパーフリップ」と呼ばれる配置(全てのエッジピースが正しい位置にありかつ反転しているような配置)からの復元は難しいと予想されていた。 1992年にディク・T・ウィンター(Dik T. Winter)は、スーパーフリップからの復元が20手でできることを確認した。1995年にマイケル・レイド(Michael Reid)は、この配置からの復元に20手かかることを示した(手順の一例:U R2 F B R B2 R U2 L B2 R U' D' R2 F R' L B2 U2 F2)。 半回転を2手として数えると、スーパーフリップは24手かかる。この手順は1995年にレイドによって発見され、ジェリー・ブライアン(Jerry Bryan)によって最小手数と証明された。1998年には、26手かかる配置が確認されている。 神の数字の上限に対する最初期の成果として、モウエン・シスルスウェイト(Morwen Thistlethwaite)によるアルゴリズムがあげられる。これは、1981年にダグラス・ホフスタッターによってサイエンティフィック・アメリカン誌に発表された。このアルゴリズムによって、52手という上限が示されている。 1992年に Herbert Kociemba はシスルスウェイトのアルゴリズムを改良し、1995年にレイドはこのアルゴリズムを使用して29手という数字を示した。半回転を2手として数えると、42手になる。 2005年に Silviu Radu は、上限を28手(半回転を2手とすると40手)に下げた。翌2006年には、Radu 自身によってこの数値は27手(半回転を2手とすると35手)に改良されている。 2007年にノースイースタン大学の博士ジーン・コッパーマンらは、26手であると発表した。この時、全ての配置が26回の半回転で復元できることも確認された。 2008年3月、スタンフォード大学で数学の研究助手を務めるトマス・ロキッキは、25手であることを示し、さらに2008年4月には23手、2008年8月には22手にまで記録を縮めた。 2010年7月、Morley Davidsonを中心とするグループによって、20手であることが示された。上述のスーパーフリップの件とあわせて、これが真の「神の数字」と証明されたことになる。余談だが、このグループのメンバーには上述のトマス・ロキッキも含まれている。 en:Optimal solutions for Rubik's Cubeも参照。 ルービックキューブを使って各面に様々な模様をつくることをパターンキューブという。 各面にH、T、凹、+といった文字や記号の模様をつくったり、小さいキューブが大きいキューブの中に入っているような模様にしたりできる。 大きいキューブの中に2×2×2のキューブが入っているように見えるものを「キューブ・イン・キューブ」といい、1×1×1のキューブが入っているように見えるものを「ミニキューブ・イン・キューブ」という。 大きいキューブの中に2×2×2のキューブが入っていて、そのキューブの中に1×1×1のキューブが入っているように見える(三重構造になっている)のを「二つの輪」や「キューブ・イン・キューブ・イン・キューブ」などという。 他にも、各面の真ん中(センターキューブ)だけをかえたものを「ヘソ・キューブ」や「中抜き」、チェック柄にしたものを「チェッカー・キューブ」という。 複数のキューブを使用して1つの絵画的作品を作り上げる事。著名な絵画や人物像、ゲームや漫画の登場人物などが題材にされることが多い。2010年7月15日に東京おもちゃショーでお披露目された、東京都町田市立山崎小学校の生徒約800人によってルービックキューブ9,071個で作り上げた全長11mのモザイクアートがギネス世界記録に認定された。これはこれまでのトロントのアーティスト5人が4,050個で作った「最後の晩餐」を上回る記録となった。 検知器やアプリケーションを利用して人の手を介さずに自動で揃える機構に以下のような物がある。 派生形としてルービックキューブに貯金箱の機能を備えた「ルービックキューブバンク」があり、投入した硬貨の取り出しには取り出し口のついた面のみを揃えればよい。2012年に回転を制限するブロックパーツがつ付けられる「ルービック キューブロックス」、2016年にキューブが光る「ルービックスパーク」が発売されている。 ルービックキューブを使用することで脳が活性化されたり脳トレになるとの研究結果もあるが、参考事例が非常に少ない。 これらの他にも作品中の小道具として使用される場合もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ルービックキューブ(英: Rubik's Cube)は、ハンガリーの建築学者ルビク・エルネー(エルノー・ルービック)が考案した立体パズル。一辺が概ね56ミリメートル前後の立方体で、各面は異なる6色で構成されており、各面毎に3×3の9マスに分割されている。任意の各列を回転させる事で分割されたキューブが動くので、各面を同一色に揃える事を主たる目的とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「RUBIK CUBE」「ルービックキューブ」はメガハウスの登録商標であり(第1635953号ほか)、「Rubik's」はルービックス・ブランド社(イギリス)の登録商標である。したがって公式ライセンスを受けていないメーカーでは、同種の製品を「ルービックキューブ」と称していないが、一般的にはこれらもルービックキューブと呼称する事が多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ルービックキューブの愛好家はキューバー(英: Rubik's cuber)、もしくはキュービスト(英: Rubik's cubist)と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ルービックキューブの世界標準配色は、白を手前面に見ると奥面が黄色、そして側面が時計回りに青・赤・緑・橙色となっている。しかし、日本国内で正式にライセンスを受けて販売されているメガハウス製の旧品では、世界標準配色の黄と青が入れ替わっている日本配色だった。メガハウスから2013年に発売されたルービックキューブver2.0からは配色が世界標準のものに移行され、色のステッカーはパネル式に変更された。単色の他に、藤木直人や淡路市などのように図柄を印刷して土産物やファングッズとして販売されている物もある。日本での販売元のメガハウスでは好みの図柄を印刷する「ルービックマイデザイン」のサービスもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", 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"1982年、ハンガリーのブダペストで第1回世界ルービックキューブ選手権大会が行われたものの、急激な人気の低下により、これ以後長らく国際規模の大会は開催されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2000年代になると、インターネットの普及と共に愛好家同士の繋がりや解法の研究が進み、再び流行し始める。そして2003年に21年ぶりに第2回大会がカナダのトロントで開催されると、各大陸や各国で大会が開催されるようになり、2005年から日本でも日本ルービックキューブ選手権大会が開催されるようになった。この頃には特許が失効した事により、複数の中国のメーカーによる類似商品が多数販売され始める(商標は有効であるため「Rubik's」や「ルービックキューブ」の名称は用いていない)。これらは価格帯や機能性など多様な商品展開をして、スピードキュービングにも適していた事から次第に市場占有率を拡大していく。一方、スピードキュービングの機能性に劣る純正(メガハウス社製)のキューブは後塵を拝している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2020年9月から11月には「ルービックキューブ40周年展」が開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本では、6面完成をさせた者に対して「ルービック・キュービスト認定書」が贈られる(自己申告制)。元々は発売元のツクダオリジナルが認定していたが、現在では親会社ツクダの経営不振のため、メガハウスが行っている。2005年9月までに2万人以上が認定されており、その中にはタレントの萩本欽一も含まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ルービックキューブを全面揃えるまでの時間の速さを競うことをスピードキュービング又はスピードキューブと呼ぶ。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "公式な計測にはスタックタイマーが使用される。1回の計測では運要素や誤差が大きい為、現在の公式戦の多くでは5回計測して、その中から最も速かった回と最も遅かった回を除外した、残りの3回の記録の平均を用いることが多い(Average Of 5=AO5と略される)。この時、除外された最速の記録であっても単発としての記録は有効となる。計測された1000分の1秒以下の単位は切り捨てとなる。大会によっては性別や年齢別の部門を設ける場合もあるが公式記録上は性別や年齢の違いでの区別(区分)はない。また、公式戦では多数回の試技は行わないが、SNSなどの自己紹介に記録の指標として12回平均(AO12)、100回平均(AO100)を表記する者もいる。公式戦では原則的に自分自身で持ち込んだキューブを使用する(大会規則に則った物に限る)。乱数(スクランブル)で表示されたものを運営側が混ぜ、見えないように箱やカップを被せて卓上に置かれる。競技者はキューブを取り出してから15秒間の観察時間(インスペクションタイム)が与えられる。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ルービックキューブの解法には、過去にルービックキューブに付属していた解法書の解法であるツクダ式やCF法(Corners First)などがあるが、スピードキュービングで用いられている主な解法はLBL法(Layer By Layer)で、これを発展させたCFOPメソッド(Cross F2L OLL PLL)も用いられる。これは、基本的にキューブの各層を下から順に揃えていく方法である。解いている過程が分かりやすく、短時間で揃えることができる。また、この他にも、Roux method、ZZ method、8355 methodなど多岐にわたる。これらを元にキューブを短時間で揃えるための様々な手順が考案されている。また、早く揃えるにはキューブを素早く回さなければならない為、摩擦抵抗を調整する目的でシリコンスプレーやホワイトグリス、専用の潤滑剤をキューブ内部の摩擦面などに塗布する人も多い。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "混ざったキューブの状態を見て瞬時に手順を判断する事や、素早い手指の動きが要求される事からパズルというよりはスポーツ競技と見られる側面も持ち合わせている。一方でルービックキューブは数学的にも興味深い対象であるにもかかわらず、早解きに関する部分のみが取り上げられることには芦ヶ原伸之をはじめとして苦言を呈する人もいる。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "LBL法やCF法といった解法では大量の手順を暗記しなければならないため、手順を解説するために回転記号を用いて表現している。キューブを持って自分から見ての6つの面を手前面(Front)・後背面(Back)・右面(Right)・左面(Left)・上面(Up)・下面(Down)と、英語の頭文字で表現している。各面を時計回りに90°回転させる事を「F・B・R・L・U・D」と書き表す。また各面を反時計回りに90°回転させる事を「'(プライム)」を付記して「F'・B'・R'・L'・U'・D'」(例:「F'」は「エフプライム」と読む)、180°回転させる事を「F2・B2・R2・L2・U2・D2」と書き表す。180°回転させる場合は時計回りでも反時計回りでも同じである。また、一度に2層分を回転させる際は「Fw・Bw・Rw・Lw・Uw・Dw」または、「f・b・r・l・u・d」と書き表す。反時計回りは先程と同様「'」の記号を付ける。中段の回転には「S・M・E」と書き表す。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その他、ルービックキューブの記録一覧も参照。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "世界ルービックキューブ選手権大会・日本ルービックキューブ選手権大会も参考。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1981年1月31日、第1回全日本キュービスト大会が開催され、6歳から68歳までと幅広い年齢層から約400人が参加した。優勝は北島秀樹(当時16歳の高校生)で記録は単発46秒台、3回の合計2分37秒であった。ルビク・エルネー本人も来日し、優勝者には賞品として自動車が進呈された。同年の内に第2回も開催された。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1982年6月5日、ハンガリーのブダペストで第1回世界ルービックキューブ選手権大会が行われ19名が参加した。この大会では3x3x3のみが行われ、3回の試技のうち最速記録を競った。優勝はMinh Thai(アメリカ合衆国)で記録は22秒95だった。日本からは上野健一が参加し24秒91で5位であった。その後、人気の低下もあって世界的な大会は開催されなかったが、2000年代に入り再び人気が拡大したことで2003年に第2回世界大会が行われた。2004年には世界キューブ協会(WCA)が組織され、より統一された競技規則などが規定された。公式の競技規則は世界キューブ協会によって毎年告知される。第2回以降は2年毎に世界大会が開催されており、3×3×3以外の競技種目も追加され現在では17種目が公式種目となっている。WCAが認める公式大会(大陸地域別大会・国別大会・各国内大会など)は、各地域にいるWCAの代理人の下で世界中で行われており、日本では一般社団法人スピードキュービングジャパン(SCJ)によって運営・開催されている。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "3×3×3では通常の単純に揃える速さのみを競う種目の他に、片手や目隠しでキューブパズルを解くという離れ業要素が強い特殊な種目なども行われている。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2012年12月末までルービックマジックとマスターマジックが公式競技として認定されていたが、2013年のルール改正により、非公式競技となった。また、2019年12月末まで3×3×3足が公式競技として認定されていたが、2020年のルール改正により、非公式競技となった。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「最速」は一定数計測した試技の回での最も速い記録、「3回平均」は3回計測した平均の記録、「5回平均」は、5回計測した中で最も速い記録と最も遅い記録を除いた3回の平均の記録を表す。「(3回平均)」は、順位決定には適用されないが、公式記録としては集計される。", "title": "スピードキュービング" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ルービックキューブの動作原理についての特許をエルノー・ルービック以外にも取得している人がいる。", "title": "特許" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ルービックが取得した特許は、", "title": "特許" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アメリカではラリー・ニコルスが取得したのは、", "title": "特許" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "であり、1986年、アイデアル・トイ社 Ideal Toy Company(アメリカでの発売元)に対する訴訟に勝訴している。", "title": "特許" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "イギリスでは、Frank Fox が以下の特許を取得した。", "title": "特許" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本では石毛照敏が特許を得た。これらは平成11年特許法改正により内外国公知(世界公知)が要求される前のため、上記のようなハンガリーや米国、英国での特許にかかわらず、日本で公知となっていなかった本技術は特許性が認められた。", "title": "特許" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2011年11月11日、欧州裁判所が「形状に関する商標は無効である」との判決を出した。", "title": "特許" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ルービックキューブは数学の一分野である群論と関連が深く、論文も発表されている。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ルービックキューブをいったん分解して組み立てなおしたときに考えられる色の配置の総数を求めると、まずコーナーキューブの位置が8!通り、向きが3通り、エッジキューブの位置が12!通り、向きが2通り、これらを全てかけあわせて(8!×3)×(12!×2)通りとなる。しかし、実際には完全に揃った状態のキューブに回転操作を施すだけではこれだけの組み合わせは実現できない。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "以上の3つの条件から、完全に揃った状態のキューブに回転操作を施してできる組み合わせの総数は前述の値を(2×2×3)で割ったものとなる。逆に、上記の3つの条件を満たしていれば6面がそろった初期状態に戻すことができる。すなわち、このパズルで考えられる配置は (8!×3)×(12!×2)/2×2×3 = 4325京2003兆2744億8985万6000通りである。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「いかなる状態でも、最多でも○○手で各面が揃った状態に戻せる」という数のことを「神の数字(God's Number)」と呼ぶ。長い間研究対象とされてきたが、2010年7月、モーリー・デビッドソンを中心とするグループの発表によって終止符が打たれた。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ルービックキューブの最初の回し方は18通りであり、2手目以降は15通り(同じ面を続けて回さないため)である。このことから、n手目の可能な配置の上限は 18×15通りである。(18+18×15+...+18×15)<全配置<(18+18×15+...+18×15) より、17手以上かかる配置が存在することが分かる。対面を回転させる手順は手順前後が可能であることを考慮すると、この下限は18手となる。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後しばらくは手数の更新が無かったが、「スーパーフリップ」と呼ばれる配置(全てのエッジピースが正しい位置にありかつ反転しているような配置)からの復元は難しいと予想されていた。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1992年にディク・T・ウィンター(Dik T. Winter)は、スーパーフリップからの復元が20手でできることを確認した。1995年にマイケル・レイド(Michael Reid)は、この配置からの復元に20手かかることを示した(手順の一例:U R2 F B R B2 R U2 L B2 R U' D' R2 F R' L B2 U2 F2)。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "半回転を2手として数えると、スーパーフリップは24手かかる。この手順は1995年にレイドによって発見され、ジェリー・ブライアン(Jerry Bryan)によって最小手数と証明された。1998年には、26手かかる配置が確認されている。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "神の数字の上限に対する最初期の成果として、モウエン・シスルスウェイト(Morwen Thistlethwaite)によるアルゴリズムがあげられる。これは、1981年にダグラス・ホフスタッターによってサイエンティフィック・アメリカン誌に発表された。このアルゴリズムによって、52手という上限が示されている。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1992年に Herbert Kociemba はシスルスウェイトのアルゴリズムを改良し、1995年にレイドはこのアルゴリズムを使用して29手という数字を示した。半回転を2手として数えると、42手になる。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2005年に Silviu Radu は、上限を28手(半回転を2手とすると40手)に下げた。翌2006年には、Radu 自身によってこの数値は27手(半回転を2手とすると35手)に改良されている。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2007年にノースイースタン大学の博士ジーン・コッパーマンらは、26手であると発表した。この時、全ての配置が26回の半回転で復元できることも確認された。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2008年3月、スタンフォード大学で数学の研究助手を務めるトマス・ロキッキは、25手であることを示し、さらに2008年4月には23手、2008年8月には22手にまで記録を縮めた。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2010年7月、Morley Davidsonを中心とするグループによって、20手であることが示された。上述のスーパーフリップの件とあわせて、これが真の「神の数字」と証明されたことになる。余談だが、このグループのメンバーには上述のトマス・ロキッキも含まれている。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "en:Optimal solutions for Rubik's Cubeも参照。", "title": "数学的な考察" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ルービックキューブを使って各面に様々な模様をつくることをパターンキューブという。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "各面にH、T、凹、+といった文字や記号の模様をつくったり、小さいキューブが大きいキューブの中に入っているような模様にしたりできる。 大きいキューブの中に2×2×2のキューブが入っているように見えるものを「キューブ・イン・キューブ」といい、1×1×1のキューブが入っているように見えるものを「ミニキューブ・イン・キューブ」という。 大きいキューブの中に2×2×2のキューブが入っていて、そのキューブの中に1×1×1のキューブが入っているように見える(三重構造になっている)のを「二つの輪」や「キューブ・イン・キューブ・イン・キューブ」などという。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "他にも、各面の真ん中(センターキューブ)だけをかえたものを「ヘソ・キューブ」や「中抜き」、チェック柄にしたものを「チェッカー・キューブ」という。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "複数のキューブを使用して1つの絵画的作品を作り上げる事。著名な絵画や人物像、ゲームや漫画の登場人物などが題材にされることが多い。2010年7月15日に東京おもちゃショーでお披露目された、東京都町田市立山崎小学校の生徒約800人によってルービックキューブ9,071個で作り上げた全長11mのモザイクアートがギネス世界記録に認定された。これはこれまでのトロントのアーティスト5人が4,050個で作った「最後の晩餐」を上回る記録となった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "検知器やアプリケーションを利用して人の手を介さずに自動で揃える機構に以下のような物がある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "派生形としてルービックキューブに貯金箱の機能を備えた「ルービックキューブバンク」があり、投入した硬貨の取り出しには取り出し口のついた面のみを揃えればよい。2012年に回転を制限するブロックパーツがつ付けられる「ルービック キューブロックス」、2016年にキューブが光る「ルービックスパーク」が発売されている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ルービックキューブを使用することで脳が活性化されたり脳トレになるとの研究結果もあるが、参考事例が非常に少ない。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "これらの他にも作品中の小道具として使用される場合もある。", "title": "ルービックキューブを題材にした作品" } ]
ルービックキューブは、ハンガリーの建築学者ルビク・エルネー(エルノー・ルービック)が考案した立体パズル。一辺が概ね56ミリメートル前後の立方体で、各面は異なる6色で構成されており、各面毎に3×3の9マスに分割されている。任意の各列を回転させる事で分割されたキューブが動くので、各面を同一色に揃える事を主たる目的とする。 「RUBIK CUBE」「ルービックキューブ」はメガハウスの登録商標であり(第1635953号ほか)、「Rubik's」はルービックス・ブランド社(イギリス)の登録商標である。したがって公式ライセンスを受けていないメーカーでは、同種の製品を「ルービックキューブ」と称していないが、一般的にはこれらもルービックキューブと呼称する事が多い。 ルービックキューブの愛好家はキューバー、もしくはキュービストと呼ばれる。
{{Redirect|ルービック|ルービックキューブを発明した人物|ルビク・エルネー}} [[File:Cubo di Rubik.jpg|thumb|250px|ルービックキューブ]] [[File:Erno Rubik Genius Gala 2014.jpg|thumb|250px|考案者のエルノー・ルービック(2014年撮影)]] '''ルービックキューブ'''({{Lang-en-short|Rubik's Cube}})は、[[ハンガリー]]の[[建築学者]][[ルビク・エルネー]](エルノー・ルービック)が考案した立体[[パズル]]。一辺が概ね56[[ミリメートル]]前後の[[立方体]]で、各面は異なる6色で構成されており、各面毎に3×3の9マスに分割されている。任意の各列を回転させる事で分割されたキューブが動くので、各面を同一色に揃える事を主たる目的とする。 「RUBIK CUBE」「ルービックキューブ」は[[メガハウス]]の[[登録商標]]であり(第1635953号ほか)、「Rubik's」はルービックス・ブランド社([[イギリス]])の登録商標である。したがって公式ライセンスを受けていないメーカーでは、同種の製品を「ルービックキューブ」と称していないが、一般的にはこれらもルービックキューブと呼称する事が多い。 ルービックキューブの愛好家は'''キューバー'''({{Lang-en-short|Rubik's cuber}})、もしくは'''キュービスト'''({{Lang-en-short|Rubik's cubist}})と呼ばれる。 == 構造 == ルービックキューブの世界標準配色は、[[白]]を手前面に見ると奥面が[[黄色]]、そして側面が[[時計回り]]に[[青]]・[[赤]]・[[緑]]・[[橙色]]となっている。しかし、日本国内で正式にライセンスを受けて販売されている[[メガハウス]]製の旧品では、世界標準配色の黄と青が入れ替わっている日本配色だった。メガハウスから2013年に発売されたルービックキューブver2.0からは配色が世界標準のものに移行され<ref>[http://tribox.com/2013/05/world-standard-color-scheme/ 全商品を世界基準配色へ移行します]</ref>、色のステッカーはパネル式に変更された<ref name=ver20>{{Cite web|和書|url=https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/1063/|title=ルービックキューブ ver.2.0|publisher=メガハウス|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221204142847/https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/1063/|archivedate=2022-12-04|accessdate=2023-07-23}}</ref>。単色の他に、[[藤木直人]]や[[淡路市]]などのように図柄を印刷して土産物やファングッズとして販売されている物もある<ref>[https://www.e-fanclub.com/cube/webshop/shohin.asp?Shocd=201907290004 【期間限定受注販売】藤木直人 オリジナルルービックキューブ]</ref><ref>[http://comebackhyogo.jugem.jp/?eid=131 チーム淡路市は何でもやります!【淡路市 門市長】]</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20160318/ddl/k28/010/531000c ふるさと納税 淡路市、ルービックキューブでPR 5000個配り売り込みへ、各面に市章・マスコット・絵 /兵庫]</ref>。日本での販売元のメガハウスでは好みの図柄を印刷する「ルービックマイデザイン」のサービスもある<ref>[https://megahouse.co.jp/ondemand/ ルービックマイデザイン]</ref>。 各面は3×3=9個の[[色]]の付いた[[正方形]]で構成されているが、[[正六面体|立方体]]全体を見ると、各面の中央にあるセンターキューブ6個、辺にあるエッジキューブ12個、頂点にあるコーナーキューブ8個で構成されている。センターキューブ同士は回転軸(X軸・Y軸・Z軸)で連結されている。これらのキューブを、各列(行)ごとに自由に回転させることができる。回転に伴い、コーナーキューブやエッジキューブ(サブキューブとも言う)の場所は移動するが、センターキューブは回転軸上にある為、その場で回転するだけで移動しない。なお、センターキューブ、エッジキューブ、コーナーキューブはそれぞれ1面体、2面体、3面体と呼ばれることもある。後に出た上位版の[[ルービックリベンジ]]では各面が4×4に分割されておりセンターキューブ自体も他の面に移動できてしまうため難易度は高くなる。 <gallery> Western color scheme of a Rubik's Cube.svg|世界標準配色 Japanese color scheme of a Rubik's Cube.svg|日本配色 Center cubies of a Rubik's Cube.jpg|灰色部分がセンターキューブ(1面体) Edge cubies of a Rubik%27s Cube.jpg|灰色部分がエッジキューブ(2面体) Corner cubies of a Rubik's Cube.jpg|灰色部分がコーナーキューブ(3面体) </gallery> ルービックキューブはパズルであり、分解の正式な手順は提供されていない。構造上、非破壊的な分解が困難な製品もある。 [[2000年]]代に入って特許が失効して以降は「魔方」や「マジックキューブ」などの名称を使用した、複数の中国社製による類似商品が多数販売されている。これらはスピードキュービングにも適しており、回転時に干渉するキューブ内部の角部を丸くして回しやすくした物、センターキューブの蓋を開けてネジやバネの強弱を調節できる物、磁石を内蔵しキューブのずれを軽減する物などが販売されている。配色ステッカーを貼り付けた[[ステッカー]]タイプの物は市販のステッカーに張り替えて自由に色を変える事が可能。ステッカータイプの他に、ステッカー部分がパネルになっている物や、素材そのものに着色したステッカーレスタイプの物もある<ref name=ver20 />。 <gallery> Disassembled-rubix-1.jpg|旧型のキューブ RubiksCube-20.jpg|ver2.0のキューブ RubiksCube-sl.jpg|中国社製キューブ </gallery> == 歴史 == [[File:Magic cube original pack.jpg|thumb|250px|ポリテクニカ社のマジック・キューブ。]] [[File:1980-Rubik's-Cube.jpg|thumb|250px|アイデアル・トイ社のルービックキューブ。1980年、ハンガリー製]] ルービックキューブは、[[ハンガリー]]の建築学者で、ブダペスト工科大学教授だった[[ルビク・エルネー|エルノー・ルービック]]が[[1974年]]に考案した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=JIKlXv4CTPw 40 Years of the Rubik's Cube | Euromaxx]</ref>。ルービック社公式サイトの説明によれば、彼は3次元幾何学を説明するための「動くモデル」を求め、[[ドナウ川]]の流動を見て発明のヒントを得たという<ref name="shashin1">『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p66</ref>。最初のキューブの原型は、木製の立方体であった<ref name=history>{{Cite web|和書|url=https://www.megahouse.co.jp/rubikcube/history/|title=HISTORY ルービックキューブの世界|publisher=メガハウス|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201002134117/https://www.megahouse.co.jp/rubikcube/history/|archivedate=2020-10-02|accessdate=2023-07-20}}</ref>。ルービックは完成した3×3×3のキューブの各面を違う色に塗り分けたが、キューブを動かすうちに元に戻せなくなり、「結果的に、出発点に戻るのに丸1か月かかった」と明かしている<ref name=history /><ref>{{Harvtxt|ルービック|2022}}</ref>。ルービックは「マジック・キューブ」(魔法の立方体)という名前で特許を取得し、[[1977年]]にハンガリーの玩具製造会社「ポリテクニカ」から最初のキューブが発売される。その後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のメーカーであるアイデアル・トイ社が販売権を獲得し、マジック・キューブは発明者の名前を冠した「ルービックキューブ」の名前で1980年5月に世界的に発売された<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Y5tyCcEVsyY How The Rubik's Cube Became One Of The Bestselling Toys In History]</ref>。各国の玩具賞を受賞する事もあった。1980年から1983年にかけて世界中で約2億のルービックキューブが販売されたと推定されており、その後もルービックキューブは売れ続け全世界累計で約3億5000万個が販売されている<ref name="shashin1"/>。 日本では[[1980年]][[6月1日]]に[[朝日新聞]](日曜版)でルービックキューブのことが[[数学者]]にも注目される「究極の立体パズル」として紹介され<ref>{{Harvtxt|坂根|1980}}</ref>{{efn|朝日新聞のコラム『新・遊びの博物誌』は大阪本社版では一週間遅れで掲載<ref>{{Harvtxt|坂根|1982|p=262}}</ref>。}}、同年の[[7月25日]]に[[ツクダオリジナル]](現[[メガハウス]])から発売された<ref>[https://web.archive.org/web/20110723021921/http://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/490/ ルービックキューブ]</ref>。[[1980年]]から[[1981年]]には日本中でルービックキューブが大ブームとなった<ref>[https://www.aflo.com/ja/editorial-images/search?f_package_id=10882 日本の歴史 > 1980年代の出来事 > ルービックキューブ流行(1980年)]</ref>。ツクダオリジナルの代表取締役だった和久井威によると、[[ニューヨーク]]のトイショーで見て15万個の販売権を1億円で獲得した<ref name="tj">「和久井威氏ロングインタビュー 第2回」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、東京玩具人形協同組合、pp.74 - 76</ref>。[[伊勢丹]]新宿店のアダルトホビー部門の担当者からパズルゲーム商品の要望を聞いていたことが、その背景にあった<ref name="tj"/>。価格を1480円で想定したところ、その担当者から「2000円ぐらいでも売れる」と言われて1980円にしたという<ref name="tj"/>。朝日新聞の記事に対しては読者から「どこで売っているのか」という反響があり、最終的にツクダオリジナルに確認(発売日)の問い合わせがされてそれが記事となった<ref name="tj"/>。この記事は、商品の関心を高める点で「効果的だった」と和久井は述べている<ref name="tj"/>。和久井は年内に2度訪米して追加発注の交渉をおこなったという<ref name="tj"/>。1981年2月には[[海賊版]]が出回る事態まで発生している。日本では、正規品だけでも発売から8か月の間に400万個以上という売り上げを記録した<ref name="shashin1"/>。また独力では揃える事が非常に困難であることから揃える手順を解説した書籍が販売された<ref>{{Harvtxt|島内|1981a}}</ref>。 1981年[[1月31日]]には[[帝国ホテル]]で「第1回全日本キュービスト大会」が開催され、約400人の参加者が集まった。 ツクダオリジナルでは1981年の[[ゴールデンウィーク]]に向けて30万個の追加発注をしたが、『[[機動戦士ガンダム]]』([[ガンプラ]])のブームが訪れたことで売れ行きは急減した<ref name="tj"/>。残った大量の在庫は、翌年のツクダの[[福袋]]に入れたほか、少しずつ売れ続けたことで10年かけて処理できたという<ref name="tj"/>。 [[1982年]]、[[ハンガリー]]の[[ブダペスト]]で第1回[[世界ルービックキューブ選手権大会]]が行われたものの、急激な人気の低下により、これ以後長らく国際規模の大会は開催されなかった。 [[2000年代]]になると、[[インターネット]]の普及と共に愛好家同士の繋がりや解法の研究が進み、再び流行し始める。そして2003年に21年ぶりに第2回大会が[[カナダ]]の[[トロント]]で開催されると、各大陸や各国で大会が開催されるようになり、[[2005年]]から日本でも[[日本ルービックキューブ選手権大会]]が開催されるようになった。この頃には特許が失効した事により、複数の中国のメーカーによる類似商品が多数販売され始める(商標は有効であるため「Rubik's」や「ルービックキューブ」の名称は用いていない)。これらは価格帯や機能性など多様な商品展開をして、スピードキュービングにも適していた事から次第に市場占有率を拡大していく。一方、スピードキュービングの機能性に劣る純正(メガハウス社製)のキューブは後塵を拝している<ref>[https://contest.tribox.com/ranking/20202/puzzle 2020年 後半期 キューブ使用率ランキング]</ref>。 2020年9月から11月には「ルービックキューブ40周年展」が開催された<ref>[https://www.megahouse.co.jp/rubikcube/40th_exhibition/ ルービックキューブ40周年展]</ref>。 日本では、6面完成をさせた者に対して「ルービック・キュービスト認定書」が贈られる(自己申告制)。元々は発売元のツクダオリジナルが認定していたが、現在では親会社ツクダの経営不振のため、メガハウスが行っている。2005年9月までに2万人以上が認定されており、その中には[[タレント]]の[[萩本欽一]]も含まれる。 *1980年7月25日:日本での発売開始(1980円)。 *2007年7月:「スピードキュービングキット」発売(2500円・一辺57mm)。センターキューブの蓋を外してネジの強弱が調節可能になった<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/501/ ルービックキューブスピードキュービングキット]</ref>。 *2013年2月:「ルービックキューブver.2.0」発売(2200円・一辺57mm)。内部構造が改良された他、色がステッカー式からパネル式になった<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/1063/ ルービックキューブ ver.2.0]</ref>。 *2014年7月:「スピードキュービングキット ver.2.0」発売(2800円・一辺57mm)。「ルービックキューブver.2.0」を元にネジの調節が可能になった<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/1352/ スピードキュービングキット ver.2.0]</ref>。 *2018年6月:「ルービックキューブMini」発売(900円・一辺30mm)。通常の半分ほどの大きさの小型の物<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/2555/ ルービックキューブMini]</ref>。旧型もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/498/|title=ミニルービックキューブ|publisher=メガハウス|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220706101041/https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/498/|archivedate=2022-07-06|accessdate=2023-07-20}}</ref>。また「ルービックキューブ ver.2.0」が「ルービックキューブ ver.2.1」に一新される。 **10月:「ルービックスピードキューブ」発売(3000円・一辺56.5mm)。従来品に比べ部品の角が丸く、部品同士の間隔が広げやすくなり軽量化された<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/2571/ ルービックスピードキューブ]</ref><ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000363.000005808.html 6面揃えられる方!次はスピードに挑戦!]</ref>。GAN CUBEが開発<ref>[https://www.rubiks.com/en-us/rubik-s-speed-cube-3x3.html Rubik's Speed Cube 3x3]</ref>。 *[[2020年]]5月:「ルービックキューブ ユニバーサルデザイン」発売(2500円・一辺58mm)。表面に凸凹の突起が付けられ触った感覚でも認識できる<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/3127/ ルービックキューブ ユニバーサルデザイン]</ref><ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1253754.html 視覚でも触覚でも楽しめる! 「ルービックキューブ ユニバーサルデザイン」発売決定]</ref>。素体は「ルービックキューブver.2.1」。この商品は[[2021年]][[6月15日]]、東京おもちゃ大賞2021で共遊玩具部門の大賞に選ばれた<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/66985 40年以上の歴史誇るルービックキューブ 最新作は障害を超えて遊べる〝究極形〟]</ref>。 **7月:「40周年記念 特製ルービックキューブ」が40個限定で配布された<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000498.000005808.html 【ここでしか手に入らない!】40名様に特製ルービックキューブが当たる!1980年7月25日に発売されたルービックキューブは今年で40周年!]</ref>。素体は「ルービックキューブver.2.1」。シリーズ累計出荷数が1400万個を超えた<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000505.000005808.html 【ルービックキューブ】シリーズ累計出荷数1,400万個突破!]</ref>。 **8月:「40周年記念メタリックルービックキューブ」発売<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/3038/ 40周年記念メタリックルービックキューブ]</ref>。 **9月:40周年記念の極小ルービックキューブ発売。(19万8000円・9.9mm)<ref>[https://www.megahouse.co.jp/rubikcube/miniature-metal-rubiks/ 極小ルービックキューブ-0.99㎝超精密金属製-]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=gV4BhAYqMxM 【極小ルービックキューブ-0.99㎝超精密金属製-】PV]</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2009/23/news081.html 指先にのる「極小ルービックキューブ」登場 実際に遊べて19万8000円]</ref>。アルミニウムを金属加工によって製作した物。 **11月:日本ルービックキューブ協会が一般法人スピードキューブジャパンに権利業務をすべて移行 *2021年12月:「ルービックスピードキューブエントリー」発売(2860円・57mm)<ref>[https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/3575/ ルービックスピードキューブエントリー]</ref>。内部のコアは新規になり磁石があり引き付けられる事でずれが生じにくくなったスピード競技向けの商品。ネジの締め付けによる調節が可能で、各色はパネル式。 == スピードキュービング == [[ファイル:Stackmatresized.jpg|thumb|250px|記録計測に使用するスタックタイマー]] ルービックキューブを全面揃えるまでの時間の速さを競うことを'''スピードキュービング'''又は'''スピードキューブ'''と呼ぶ<ref>[https://www.rubiks.com/en-us/speed-cubing What is Speedcubing?]</ref>。 公式な計測にはスタックタイマーが使用される。1回の計測では運要素や誤差が大きい為、現在の公式戦の多くでは5回計測して、その中から最も速かった回と最も遅かった回を除外した、残りの3回の記録の平均を用いることが多い('''A'''verage '''O'''f '''5'''=AO5と略される)。この時、除外された最速の記録であっても単発としての記録は有効となる。計測された1000分の1秒以下の単位は切り捨てとなる<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/regulations/translations/japanese/ WCA 大会規則]</ref>。大会によっては性別や年齢別の部門を設ける場合もあるが公式記録上は性別や年齢の違いでの区別(区分)はない。また、公式戦では多数回の試技は行わないが、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などの自己紹介に記録の指標として12回平均(AO12)、100回平均(AO100)を表記する者もいる。公式戦では原則的に自分自身で持ち込んだキューブを使用する(大会規則に則った物に限る)。[[乱数]](スクランブル)で表示されたものを運営側が混ぜ、見えないように箱やカップを被せて卓上に置かれる。競技者はキューブを取り出してから15秒間の観察時間(インスペクションタイム)が与えられる。 ルービックキューブの解法には、過去にルービックキューブに付属していた解法書の解法である[[ツクダ式]]やCF法(Corners First)などがあるが、スピードキュービングで用いられている主な解法はLBL法([[Layer By Layer]])で、これを発展させた[[CFOPメソッド]](Cross F2L OLL PLL)も用いられる。これは、基本的にキューブの各層を下から順に揃えていく方法である。解いている過程が分かりやすく、短時間で揃えることができる。また、この他にも、Roux method、ZZ method、[[8355メソッド|8355 method]]など多岐にわたる。これらを元にキューブを短時間で揃えるための様々な手順が考案されている。また、早く揃えるにはキューブを素早く回さなければならない為、摩擦抵抗を調整する目的でシリコンスプレーやホワイトグリス、専用の潤滑剤をキューブ内部の摩擦面などに塗布する人も多い。 混ざったキューブの状態を見て瞬時に手順を判断する事や、素早い手指の動きが要求される事からパズルというよりはスポーツ競技と見られる側面も持ち合わせている。一方でルービックキューブは数学的にも興味深い対象であるにもかかわらず、早解きに関する部分のみが取り上げられることには[[芦ヶ原伸之]]をはじめとして苦言を呈する人もいる<ref>『全天候型 史上最強のパズルランド』 ベネッセコーポレーション、1995年 ISBN 4-8288-1755-7 </ref>。 ===回転記号=== LBL法やCF法といった解法では大量の手順を暗記しなければならないため、手順を解説するために'''回転記号'''を用いて表現している。キューブを持って自分から見ての6つの面を手前面('''F'''ront)・後背面('''B'''ack)・右面('''R'''ight)・左面('''L'''eft)・上面('''U'''p)・下面('''D'''own)と、英語の頭文字で表現している。各面を[[時計回り]]に90°回転させる事を「F・B・R・L・U・D」と書き表す。また各面を[[反時計回り]]に90°回転させる事を「'([[プライム]])」を付記して「F'・B'・R'・L'・U'・D'」(例:「F'」は「エフプライム」と読む)、180°回転させる事を「F2・B2・R2・L2・U2・D2」と書き表す。180°回転させる場合は時計回りでも反時計回りでも同じである。また、一度に2層分を回転させる際は「Fw・Bw・Rw・Lw・Uw・Dw」または、「f・b・r・l・u・d」と書き表す。反時計回りは先程と同様「'」の記号を付ける。中段の回転には「S・M・E」と書き表す。 <gallery widths="80px" heights="80px"> Rubikcube-F.svg|F(手前面) Rubikcube-B.svg|B(後背面) Rubikcube-R.svg|R(右面) Rubikcube-L.svg|L(左面) Rubikcube-U.svg|U(上面) Rubikcube-D.svg|D(下面) </gallery> <gallery widths="80px" heights="80px"> Rubikcube-F'.svg|F' Rubikcube-F2.svg|F2 Rubikcube-S.svg|S Rubikcube-M.svg|M Rubikcube-E.svg|E </gallery> ; '''トリガー''' : 右手の人差し指でキューブの上段の右外隅を手前に引けば、上段を時計回りに回転させることができる。左手の人差し指を使えば反時計回りに回転させることができる。また薬指を使うと下段の回転にも使える。 ; '''プッシュ''' : 右手の人差し指でキューブの上段の右内隅を奥に押せば、上段を反時計回りに回転させることができる。左手の人差し指を使えば時計回りに回転させることができる。 ; '''フィンガーショートカット'''(FSC) : トリガーやプッシュなどを組み合わせて複数の回転を瞬時に行う。フィンガートリック。 ;ポップ :パズルの部品が外れる事。計測中に部品が外れても失格にはならないが部品を取り付けなけらばならない。 ;ピボット :コーナーパーツが正しい場所にあるのだが、その場で捻られて向きが異なっている状態。 ===記録=== その他、'''[[ルービックキューブの記録一覧]]'''も参照。 {| class="wikitable floatright" style="font-size: 80%;" ! colspan="2" |略語凡例 |- |'''予'''=予選 '''1R'''(1 Round)=一回戦 '''2R'''(2 Round)=二回戦 '''3R'''(3 Round)=三回戦 '''準'''=準決勝 '''決'''=決勝 '''DNS'''(Did Not Start)=棄権 '''DNF'''(Did Not Finish)=試技未完 |'''{{Color box|blue|世界}}''':世界記録 '''{{Color box|green|アジ}}''':アジア記録 '''{{Color box|green|アフ}}''':アフリカ記録 '''{{Color box|green|オセ}}''':オセアニア記録 '''{{Color box|green|欧州}}''':ヨーロッパ記録 '''{{Color box|green|北米}}''':北アメリカ記録 '''{{Color box|green|南米}}''':南アメリカ記録 '''{{Color box|black|日本}}''':日本記録 '''(括弧内)'''は当時の旧記録 |} {| class="wikitable" style="font-size: 80%;" |+{{flagicon2|World}}3×3×3単発世界記録(個人持ちタイム) !順位 !記録 !競技者名 !国籍 !記録樹立日 !開催国・大会名 ! colspan="7" |記録回・試技結果・最終順位 !備考・出典 |- | align="right" |1 | align="right" |3.47 |杜宇生 Yusheng Du |{{CHN}} |2018年11月24日 |{{flagicon|CHN}}Wuhu Open 2018 | align="center" |1R | align="right" |11.13 | align="right" |'''{{Color box|blue|3.47}}''' | align="right" |8.80 | align="right" |DNF | align="right" |7.07 | align="center" |'''{{Color box|peru|3}}''' |<ref name=":3">[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/WuhuOpen2018 Wuhu Open 2018]</ref>'''{{Color box|blue|世界}}''' |- | align="right" |2 | align="right" |'''{{Color box|green|3.63}}''' |[[マックス・パーク]] |{{USA}} |2022年8月6日 |{{flagicon|USA}}Circle City Summer 2022 | align="center" |2R | align="right" |3.63 | align="right" |5.52 | align="right" |5.66 | align="right" |5.37 | align="right" |5.22 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |'''{{Color box|green|北米}}''' |- | align="right" |3 | align="right" |3.89 |Asher Kim-Magierek |{{USA}} |2022年5月7日 |{{flagicon|USA}}Rose City 2022 | align="center" |2R | align="right" |6.01 | align="right" |6.68 | align="right" |3.89 | align="right" |6.83 | align="right" |8.22 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' | |- | align="right" |4 | align="right" |'''{{Color box|green|3.97}}''' |Tymon Kolasiński |{{POL}} |2022年7月16日 |{{flagicon2|World}}{{flagicon|DNK}}WCA European Championship 2022 | align="center" |R1 | align="right" |3.97 | align="right" |6.65 | align="right" |5.61 | align="right" |5.81 | align="right" |6.66 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |'''{{Color box|green|欧州}}''' |- | align="right" |5 | align="right" |4.03 |Max Siauw |{{USA}} |2022年5月22日 |{{flagicon|CAN}}BC Cubing Springback A 2022 | align="center" |1R | align="right" |6.02 | align="right" |8.39 | align="right" |4.03 | align="right" |6.72 | align="right" |DNF | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' | |- | align="right" |6 | align="right" |4.06 |許瑞航 |{{CHN}} |2021年6月5日 |{{flagicon|CHN}}Wuhu Open 2021 | align="center" |1R | align="right" |5.48 | align="right" |5.52 | align="right" |5.45 | align="right" |4.06 | align="right" |7.51 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref name=":0">[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/WuhanOpen2021 WuhanOpen2021]</ref> |- | align="right" |7 | align="right" |4.16 |[[フェリックス・ゼムデグス]] |{{AUS}} |2020年3月1日 |{{flagicon|AUS}}Auckland Summer Open 2020 | align="center" |2R | align="right" |6.38 | align="right" |'''{{Color box|green|4.16}}''' | align="right" |7.60 | align="right" |6.67 | align="right" |8.27 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/AucklandSummerOpen2020 Auckland Summer Open 2020]</ref>'''{{Color box|green|オセ}}''' |- | align="right" |8 | align="right" |4.24 |Patrick Ponce |{{USA}} |2019年2月17日 |{{flagicon|USA}}Northeast Championship 2019 | align="center" |1R | align="right" |'''{{Color box|green|4.24}}''' | align="right" |8.77 | align="right" |7.08 | align="right" |6.54 | align="right" |7.30 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/NortheastChampionship2019 CubingUSA Northeast Championship 2019]</ref>'''{{Color box|green|北米}}''' |- | align="right" |9 | align="right" |4.26 |Kyle Santucci |{{CAN}} |2022年8月21日 |{{flagicon|CAN}}Edmonton Summer Twist 2022 | align="center" |決 | align="right" |7.75 | align="right" |6.86 | align="right" |4.26 | align="right" |5.47 | align="right" |6.82 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' | |- | align="right" |10 | align="right" |4.27 |Matty Hiroto Inaba |{{USA}} |2022年8月21日 |{{flagicon|CAN}}NAC 2022 | align="center" |決 | align="right" |7.45 | align="right" |5.92 | align="right" |5.16 | align="right" |4.27 | align="right" |5.79 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' | |- | align="right" | | align="right" |4.80 |[[洲鎌星]] |{{JPN}} |2019年12月28日 |{{flagicon|JPN}}広島大会2019 | align="center" |決 | align="right" |7.51 | align="right" |'''{{Color box|black|4.80}}''' | align="right" |7.13 | align="right" |9.67 | align="right" |8.68 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref name="名前なし-1">[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/HiroshimaOpen2019 Hiroshima Open 2019]</ref>'''{{Color box|black|日本}}''' |} {| class="wikitable" style="font-size: 80%;" |+{{flagicon2|World}}3×3×3平均世界記録(個人持ちタイム) !順位 !記録 !競技者名 !国籍 !記録樹立日 !開催国・大会名 ! colspan="7" |記録回・試技結果・最終順位 !備考・出典 |- | align="right" |1 | align="right" |5.09 |Tymon Kolasiński |{{POL}} |2021年12月20日 |{{flagicon|POL}}PST CFL Częstochowa 2019 | align="center" | | align="right" |4.73 | align="right" |4.83 | align="right" |5.24 | align="right" |6.57 | align="right" |5.20 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=BxWbYB4kI8M Rubik's Cube World Record Average: 5.09]</ref>'''{{Color box|blue|世界}}''' |- | align="right" |2 | align="right" |5.32 |[[マックス・パーク]] |{{USA}} |2021年11月7日 |{{flagicon|USA}}Missoula 2021 | align="center" |2R | align="right" |5.34 | align="right" |5.50 | align="right" |5.12 | align="right" |4.54 | align="right" |5.96 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/HoustonWinter2020 Houston Winter 2020]</ref>'''{{Color box|green|北米}}''' |- | align="right" |3 | align="right" |5.48 |許瑞航 |{{CHN}} |2021年6月5日 |{{flagicon|CHN}}Wuhu Open 2021 | align="center" |1R | align="right" |5.48 | align="right" |5.52 | align="right" |5.45 | align="right" |4.06 | align="right" |7.51 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref name=":0" />'''{{Color box|green|アジ}}''' |- | align="right" |4 | align="right" |5.53 |[[フェリックス・ゼムデグス]] |{{AUS}} |2019年11月10日 |{{flagicon|AUS}}Odd Day in Sydney 2019 | align="center" |決 | align="right" |7.16 | align="right" |5.04 | align="right" |4.67 | align="right" |6.55 | align="right" |4.99 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/OddDayinSydney2019 Odd Day in Sydney 2019]</ref>'''{{Color box|green|オセ}}''' |- | align="right" |5 | align="right" |5.57 |韩业臻 |{{CHN}} |2021年5月3日 |{{flagicon|CHN}}Guangdong Open 2021 | align="center" |準 | align="right" |5.87 | align="right" |5.42 | align="right" |5.30 | align="right" |7.53 | align="right" |5.42 | align="center" |'''{{Color box|silver|2}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/GuangdongOpen2021 GuangdongOpen2021]</ref> |- | align="right" |6 | align="right" |5.98 |Sean Patrick Villanueva |{{PHL}} |2019年10月27日 |{{flagicon|PHI}}Marikina City Open II 2019 | align="center" |決 | align="right" |7.67 | align="right" |5.72 | align="right" |5.99 | align="right" |5.52 | align="right" |6.23 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/MarikinaCityOpenII2019 Marikina City Open II 2019]</ref> |- | align="right" |7 | align="right" |6.06 |Philipp Weyer |{{DEU}} |2019年12月14日 |{{flagicon|CHE}}Swisscubing Cup Final 2018 | align="center" |2R | align="right" |4.81 | align="right" |6.43 | align="right" |5.48 | align="right" |6.26 | align="right" |7.51 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/SwisscubingCupFinal2018 Swisscubing Cup Final 2018]</ref>'''{{Color box|green|欧州}}''' |- | align="right" |8 | align="right" |6.13 |Patrick Ponce |{{USA}} |2019年12月14日 |{{flagicon|USA}}Liberty Science Center Open 2019 | align="center" |決 | align="right" |5.57 | align="right" |8.87 | align="right" |5.65 | align="right" |6.52 | align="right" |6.23 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/LibertyScienceCenterOpen2019 Liberty Science Center Open 2019]</ref> |- | align="right" |9 | align="right" |6.16 |孔维浩 |{{CHN}} |2021年6月5日 |{{flagicon|CHN}}Wuhu Open 2021 | align="center" |決 | align="right" |6.80 | align="right" |5.88 | align="right" |5.66 | align="right" |5.93 | align="right" |6.67 | align="center" |'''{{Color box|silver|2}}''' |<ref name=":0" /> |- | align="right" |10 | align="right" |6.19 |Lucas Etter |{{USA}} |2020年02月08日 |{{flagicon|USA}}Princeton Winter 2020 | align="center" |1R | align="right" |7.34 | align="right" |5.42 | align="right" |5.81 | align="right" |5.30 | align="right" |9.33 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/PrincetonWinter2020 Princeton Winter 2020]</ref> |- | align="right" | | align="right" |7.53 |[[伏見有史]] |{{JPN}} |2019年6月22日 |{{flagicon|JPN}}東海大会2019 | align="center" |2R | align="right" |7.53 | align="right" |7.29 | align="right" |7.29 | align="right" |7.77 | align="right" |9.41 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/TokaiOpen2019 東海大会2019]</ref>'''{{Color box|black|日本}}''' |} {| class="wikitable" style="font-size: 80%;" |+{{flagicon|JPN}}3×3×3単発日本記録(個人持ちタイム) !順位 !記録 !競技者名 !記録樹立日 !開催国・大会名 ! colspan="7" |記録回・試技結果・最終順位 !備考・出典 |- | align="right" |1 | align="right" |4.80 |[[洲鎌星]] |2019年12月28日 |{{flagicon|JPN}}広島大会2019 | align="center" |決 | align="right" |7.51 | align="right" |'''{{Color box|black|4.80}}''' | align="right" |7.13 | align="right" |9.67 | align="right" |8.68 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref name="名前なし-1"/>'''{{Color box|black|日本}}''' |- | align="right" |2 | align="right" |5.45 |野上碧 |2022年8月14日 |{{flagicon|KAZ}}Rubik's WCA Asian Championship 2022 | align="center" |決 | align="right" |8.09 | align="right" |5.87 | align="right" |5.45 | align="right" |8.52 | align="right" |8.73 | align="center" |'''{{Color box|silver|2}}''' | |- | align="right" |3 | align="right" |5.71 |伏見有史 |2018年11月11日 |{{flagicon|JPN}}埼玉大会2018 | align="center" |2R | align="right" |8.97 | align="right" |7.17 | align="right" |9.37 | align="right" |8.60 | align="right" |5.71 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' | |- | align="right" |3 | align="right" |5.71 |赤松聡一 |2018年7月14日 |{{flagicon|JPN}}関西夏大会2018 | align="center" |決 | align="right" |7.78 | align="right" |9.19 | align="right" |8.85 | align="right" |11.95 | align="right" |5.71 | align="center" |6 | |- | align="right" |5 | align="right" |5.89 |高岡誠 |2019年4月21日 |{{flagicon|JPN}}関西大会2019 | align="center" |2R | align="right" |9.17 | align="right" |13.09 | align="right" |10.11 | align="right" |5.89 | align="right" |9.27 | align="center" |4 | |- | align="right" |6 | align="right" |6.09 |田渕雄夢 |2012年8月 |{{flagicon|USA}}US Nationals 2012 | align="center" |1R | align="right" |11.50 | align="right" |9.13 | align="right" |10.28 | align="right" |6.09 | align="right" |9.69 | align="center" |準 |'''{{font color|green|(アジ)}}''' |- | align="right" |7 | align="right" |6.15 |入船朝斗 |2019年8月12日 |{{flagicon|JPN}}キューブキャンプ金沢2019 | align="center" |決 | align="right" |11.44 | align="right" |6.15 | align="right" |9.79 | align="right" |7.67 | align="right" |8.22 | align="center" |'''{{Color box|silver|2}}''' | |- | align="right" |8 | align="right" |6.20 |上田陽太 |2018年2月3日 |{{flagicon|JPN}}東京大学大会 | align="center" |1R | align="right" |6.20 | align="right" |11.93 | align="right" |9.45 | align="right" |12.80 | align="right" |10.00 | align="center" |4 | |- | align="right" |9 | align="right" |6.26 |飯田朋也 |2019年11月3日 |{{flagicon|JPN}}[[日本ルービックキューブ選手権大会]]2019 | align="center" |2R | align="right" |6.26 | align="right" |7.48 | align="right" |8.65 | align="right" |12.80 | align="right" |8.29 | align="center" |12 | |- | align="right" |10 | align="right" |6.33 |竹村篤人 |2019年4月29日 |{{flagicon|JPN}}[[みなとみらい]] 2022 | align="center" |1R | align="right" |9.65 | align="right" |10.70 | align="right" |7.84 | align="right" |6.33 | align="right" |7.16 | align="center" |'''{{Color box|peru|3}}''' | |} {| class="wikitable" style="font-size: 80%;" |+{{flagicon|JPN}}3×3×3平均日本記録(個人持ちタイム) !順位 !記録 !競技者名 !記録樹立日 !開催国・大会名 ! colspan="7" |記録回・試技結果・最終順位 !備考・出典 |- | align="right" |1 | align="right" |7.53 |[[伏見有史]] |2019年6月22日 |{{flagicon|JPN}}東海大会2019 | align="center" |2R | align="right" |7.53 | align="right" |7.29 | align="right" |7.29 | align="right" |7.77 | align="right" |9.41 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/TokaiOpen2019 Tokai Open 2019]</ref>'''{{Color box|black|日本}}''' |- | align="right" |2 | align="right" |7.62 |[[洲鎌星]] |2019年04月21日 |{{flagicon|JPN}}関西大会2019 | align="center" |2R | align="right" |7.45 | align="right" |8.02 | align="right" |7.35 | align="right" |7.46 | align="right" |7.95 | align="center" |'''{{Color box|silver|2}}''' | |- | align="right" |3 | align="right" |7.86 |入船朝斗 |2019年04月21日 |{{flagicon|JPN}}関西大会2019 | align="center" |1R | align="right" |6.26 | align="right" |7.76 | align="right" |10.70 | align="right" |8.05 | align="right" |7.78 | align="center" |'''{{Color box|peru|3}}''' | |- | align="right" |4 | align="right" |7.89 |竹村篤人 |2019年10月20日 |{{flagicon|JPN}}京都大会2019 | align="center" |1R | align="right" |8.01 | align="right" |8.10 | align="right" |8.14 | align="right" |6.98 | align="right" |7.57 | align="center" |'''{{Color box|peru|3}}''' | |- | align="right" |5 | align="right" |8.14 |飯田朋也 |2019年11月3日 |{{flagicon|JPN}}[[日本ルービックキューブ選手権大会]]2019 | align="center" |2R | align="right" |6.26 | align="right" |7.48 | align="right" |8.65 | align="right" |12.80 | align="right" |8.29 | align="center" |12 | |- | align="right" |6 | align="right" |8.18 |黒河拓也 |2019年11月3日 |{{flagicon|JPN}}日本ルービックキューブ選手権大会2019 | align="center" |2R | align="right" |7.09 | align="right" |7.89 | align="right" |8.23 | align="right" |8.42 | align="right" |11.47 | align="center" |7 | |- | align="right" |7 | align="right" |8.25 |田渕雄夢 |2012年5月14日 |{{flagicon|JPN}}うさぎとかめカップ2012 | align="center" |決 | align="right" |7.77 | align="right" |8.71 | align="right" |12.03 | align="right" |7.55 | align="right" |8.27 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' |'''{{font color|green|(アジ)}}''' |- | align="right" |8 | align="right" |8.46 |佐島優 |2019年9月22日 |{{flagicon|JPN}}東北大会2019 | align="center" |2R | align="right" |7.81 | align="right" |8.97 | align="right" |8.61 | align="right" |9.00 | align="right" |7.00 | align="center" |'''{{Color box|gold|1}}''' | |- | align="right" |9 | align="right" |8.55 |吉岡太郎 |2019年09月1日 |{{flagicon|JPN}}関西夏大会2019 | align="center" |2R | align="right" |9.19 | align="right" |7.91 | align="right" |8.56 | align="right" |7.91 | align="right" |9.53 | align="center" |6 | |- | align="right" |10 | align="right" |8.61 |赤松聡一 |2018年7月14日 |{{flagicon|JPN}}関西夏大会2018 | align="center" |1R | align="right" |7.78 | align="right" |9.19 | align="right" |8.85 | align="right" |11.95 | align="right" |'''5.71''' | align="center" |6 |単発'''(日本)''' |} {{Graph:Chart | width = 500 | height = 250 | type = line | xAxisTitle = 年 | yAxisTitle = 秒 | yGrid=1 | showValues = true | showSymbols=true | legend = 3×3×3の年間最速記録の推移 | y1AxisMin = 9 | y1Title = 単発(世界) | y2Title = 平均(世界) | y3Title = 単発(日本) | y4Title = 平均(日本) | x = 2000,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020 | y1 = 22.95,16.53,12.11,11.75,10.48,9.55,7.08,7.88,6.77,5.66,6.09,5.55,5.66,4.90,4.73,4.59,3.47,4.24,4.16 | y2 = ,20.00,14.52,14.59,13.22,11.76,11.28,10.07,7.91,7.64,7.53,6.54,6.77,6.57,6.45,5.80,5.91,5.53,5.59 | y3 = 24.91,17.79,12.11,12.14,12.04,9.83,8.72,8.84,7.50,7.83,6.09,6.56,6.58,6.44,5.99,6.07,5.71,4.80,6.24 | y4 = ,,14.52,14.59,13.34,12.46,11.28,10.71,9.03,8.91,8.25,8.79,8.37,8.36,8.18,7.72,7.55,7.53,7.92 | colors=skyblue,blue,pink,red }} === 公式大会 === [[File:Erik Akkersdijk is solving a 3×3×3 Rubik's Cube in 10.50s.ogv|thumb|250px|公式大会の様子([[ドイツ]]・[[アーヘン]]大会2010)]] '''[[世界ルービックキューブ選手権大会]]'''・'''[[日本ルービックキューブ選手権大会]]'''も参考。 [[1981年]][[1月31日]]、第1回全日本キュービスト大会が開催され、6歳から68歳までと幅広い年齢層から約400人が参加した。優勝は北島秀樹(当時16歳の高校生)で記録は単発46秒台、3回の合計2分37秒であった。ルビク・エルネー本人も来日し<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08210557/?all=1&page=4 元世界王者が語る「ルービックキューブ40周年」 コロナ禍で訪れた“第3次ブーム”]</ref>、優勝者には賞品として自動車が進呈された<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20100730-megahouse/ 世界記録も誕生した「ルービックキューブ発売30周年記念 メガハウスカップ」]</ref><ref>[https://rubikcube.jp/about/index.html ルービックキューブの歴史]</ref>。同年の内に第2回も開催された<ref>[https://futoko.publishers.fm/article/20102/ 世界王者・秋元正行が語る、ルービックキューブの魅力]</ref>。 [[1982年]][[6月5日]]、[[ハンガリー]]の[[ブダペスト]]で第1回[[世界ルービックキューブ選手権大会]]が行われ19名が参加した。この大会では3x3x3のみが行われ、3回の試技のうち最速記録を競った。優勝はMinh Thai(アメリカ合衆国)で記録は22秒95だった<ref>[http://www.speedcubing.com/videos/rubikwc1982.wmv Rubik's Cube World Championship 1982]</ref><ref>[https://www.worldcubeassociation.org/competitions/WC1982/results/podiums World Rubik's Cube Championship 1982]</ref>。日本からは上野健一が参加し24秒91で5位であった。その後、人気の低下もあって世界的な大会は開催されなかったが、[[2000年代]]に入り再び人気が拡大したことで2003年に第2回世界大会が行われた。2004年には[[世界キューブ協会]](WCA)が組織され、より統一された競技規則などが規定された。公式の競技規則は世界キューブ協会によって毎年告知される。第2回以降は2年毎に世界大会が開催されており、3×3×3以外の競技種目も追加され現在では17種目が公式種目となっている。WCAが認める公式大会(大陸地域別大会・国別大会・各国内大会など)は、各地域にいるWCAの代理人の下で世界中で行われており、日本では一般社団法人[[スピードキュービングジャパン]](SCJ)によって運営・開催されている。 3×3×3では通常の単純に揃える速さのみを競う種目の他に、片手や目隠しでキューブパズルを解くという離れ業要素が強い特殊な種目なども行われている。 *「片手競技」は文字通り、左右どちらかの手だけを使ってパズルを揃える競技である。計測開始後、どちらかの手でパズルを触ったらもう片方の手にパズルが触れてはならない。 *「目隠し競技」は、まずキューブの状態を「見て」記憶した後、目隠しをしてこれを解くものである。見て記憶し始め、完全にパズルを解くまでの時間が競技者の記録となる。揃えるのに失敗したらその試技は失格(DNF)となり記録は残らない。3×3×3のみならず、4×4×4及び5×5×5でも公式種目となっている。 **「複数目隠し」は2個以上のキューブの状態を同時に記憶し、目隠しをしたまま解く競技。この競技はタイムの他に揃えるのに成功した数および失敗した数も記録となり{{efn|ただし成功した数が失敗した数以下の場合はその試技は失格となり記録は残らない。}}、成功した数から失敗した数を引いた数が大きい方がタイムに関係なく上位となるため、タイムを競うというよりは揃えたキューブの個数を競う要素が強い。その為、この競技は制限時間を設けることが義務付けられており、競技者がタイマーを止める前に制限時間に達した場合はその時点での成功数と失敗数および制限時間いっぱいのタイムが記録となる。なお、制限時間は申請した数が6個以下の場合は申請したキューブの数×10分だが、7個以上の場合は一律6個の場合と同じ60分である<ref>[https://www.worldcubeassociation.org/regulations/translations/japanese/#article-H-multiple-blindfolded WCA大会規則「第H条:複数目隠し競技」]</ref>{{efn|当初は7個以上の場合でも申請したキューブの数×10分であったが、トップレベルの競技者が数十個単位で申請することにより無制限に制限時間が長くなり大会に支障をきたすということで制限時間に上限が設けられた。}}。 *「最少手数競技」は、60分の時間制限の中で、元に戻す手順のうち、できるだけ少ない手順(手数)を見付ける競技である。競技者にはキューブを回す手順を示した紙が渡される。競技者が使用可能な物は、支給される紙・筆記用具・持参する3つのキューブ・枚数無制限の[[ステッカー]]である。 2012年12月末までルービックマジックとマスターマジックが公式競技として認定されていたが、2013年のルール改正により、非公式競技となった。また、2019年12月末まで3×3×3足が公式競技として認定されていたが、2020年のルール改正により、非公式競技となった。 「最速」は一定数計測した試技の回での最も速い記録、「3回平均」は3回計測した平均の記録、「5回平均」は、5回計測した中で最も速い記録と最も遅い記録を除いた3回の平均の記録を表す。「(3回平均)」は、順位決定には適用されないが、公式記録としては集計される。 {| class="wikitable" |+ 公式種目と競技方法(「ー」印は非公式種目) !種目名!! 制限なし !! 片手 !! 最小手数 !! 目隠し !! 複数目隠し |- ! 3×3×3 | 最速・5回平均 || 最速・5回平均 || 最短手順数・3回平均 || 最速・(3回平均) || 最多個数 |- ! 2×2×2 | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |- ! 4×4×4 | 最速・5回平均 || ー || ー || 最速・(3回平均) || ー |- ! 5×5×5 | 最速・5回平均 || ー || ー || 最速・(3回平均) || ー |- ! 6×6×6 | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |- ! 7×7×7 | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |- ! クロック | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |- ! ピラミンクス | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |- ! メガミンクス | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |- ! スクエア1 | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |- !Skewb | 最速・5回平均 || ー || ー || ー || ー |} == 特許 == ルービックキューブの動作原理についての特許をエルノー・ルービック以外にも取得している人がいる。 ルービックが取得した特許は、 * {{US patent|4378116}} "Spatial logical toy"(1983年3月29日、既に特許期間満了) * ハンガリー特許 HU170062 3x3x3型キューブ "[[:en:wikt:magic cube|Magic Cube]]"(1975年特許付与、既に特許期間満了) * その他、ハンガリー特許(1980年10月28日特許付与、既に特許期間満了) [[アメリカ合衆国|アメリカ]]ではラリー・ニコルスが取得したのは、 * {{US patent|3655201}} "PATTERN FORMING PUZZLE AND METHOD WITH PIECES ROTATABLE IN GROUPS"、 2x2x2型の磁石式キューブ(1972年4月11日特許付与、既に特許期間満了) であり、1986年、アイデアル・トイ社 [[:en:Ideal Toy Company|Ideal Toy Company]](アメリカでの発売元)に対する訴訟に勝訴している。 イギリスでは、Frank Fox が以下の特許を取得した。 * UK patent 1344259 Spherical 3×3×3 型(1974年1月16日特許付与、既に特許期間満了) 日本では石毛照敏が特許を得た。これらは[[1999年|平成11年]][[特許法]]改正により内外国公知(世界公知)が要求される前のため、上記のようなハンガリーや米国、英国での特許にかかわらず、日本で公知となっていなかった本技術は特許性が認められた。 * 特公昭55-003956 『回転式立体組合わせ玩具』(昭和52年3月29日出願、昭和55年1月28日公告、既に特許期間満了) * 特公昭55-008192 『サイコロ型回転式組合せ玩具』(昭和51年10月12日出願、昭和55年3月3日公告。既に特許期間満了) ===商標=== 2011年11月11日、欧州裁判所が「形状に関する商標は無効である」との判決を出した<ref>[https://www.sankei.com/article/20161118-WXQCBCFS2RILDPJMYP76KZSHP4/ ルービック・キューブ、裁判に負けて「商標が無効」に]</ref>。 == 数学的な考察 == ルービックキューブは[[数学]]の一分野である[[群論]]と関連が深く、論文も発表されている<ref>{{Harvtxt|SYSTEM 5|1980a|pp=15ff}}</ref><ref>{{Harvtxt|SYSTEM 5|1980b|pp=2ff}}</ref><ref>{{Harvtxt|島内|1981a|pp=2-10}}、{{Harvtxt|島内|2008|loc=ルービック・キューブによる群論入門|pp=96-115}}、{{Harvtxt|国吉|1981|pp=11-16}}、{{Harvtxt|I+K|1981|pp=17-21}}、{{Harvtxt|清水|1981|pp=22-32}}、{{Harvtxt|丸山|1981|pp=33-40}}、{{Harvtxt|山崎|1981|pp=41-42}}</ref><ref>{{Harvtxt|Joyner|2010}}</ref><ref>{{Harvtxt|庄司|2005|pp=85-103}}</ref><ref>{{Harvtxt|平澤|2022|pp=8-14}}</ref>。 === 配置の組み合わせの数 === ルービックキューブをいったん分解して組み立てなおしたときに考えられる色の配置の総数を求めると、まずコーナーキューブの位置が{{math|8!}}通り、向きが{{math|3<sup>8</sup>}}通り、エッジキューブの位置が{{math|12!}}通り、向きが{{math|2<sup>12</sup>}}通り、これらを全てかけあわせて{{math|(8!×3<sup>8</sup>)×(12!×2<sup>12</sup>)}}通りとなる{{efn|[[順列]]と重複順列を参照。センターキューブの位置は固定して考えている。これらも動かすとさらに24倍となる。}}。しかし、実際には完全に揃った状態のキューブに回転操作を施すだけではこれだけの組み合わせは実現できない。 #コーナーキューブとエッジキューブの[[転倒数|順列の偶奇]]は一致する #全てのエッジキューブの位置が揃っている場合、向きが異なっているエッジキューブの個数は偶数個である #全てのコーナーキューブの位置が揃っている場合、時計回りに向きがずれているコーナーキューブの個数と反時計回りに向きがずれているコーナーキューブの個数は3を法として[[整数の合同|合同]]である{{efn|「3を法として合同」とは、3で割ったときの余りが等しいこと。[[合同式]]を参照。}}。 以上の3つの条件から、完全に揃った状態のキューブに回転操作を施してできる組み合わせの総数は前述の値を{{math|(2×2×3)}}で割ったものとなる。逆に、上記の3つの条件を満たしていれば6面がそろった初期状態に戻すことができる。すなわち、このパズルで考えられる配置は {{math|{{sfrac|(8!×3<sup>8</sup>)×(12!×2<sup>12</sup>)|2×2×3}}}} = 4325[[京 (数)|京]]2003[[兆]]2744[[億]]8985[[10000|万]]6000通りである<ref>{{Harvtxt|島内|1981a|pp=112f}}, {{Harvtxt|島内|2008|pp=94f}}</ref>。 === 最少手数 === 「いかなる状態でも、最多でも○○手で各面が揃った状態に戻せる」という数のことを「神の数字(God's Number)」と呼ぶ。長い間研究対象とされてきたが、[[2010年]]7月、モーリー・デビッドソンを中心とするグループの発表によって終止符が打たれた。 ==== 下限の歴史 ==== ルービックキューブの最初の回し方は18通りであり、2手目以降は15通り(同じ面を続けて回さないため)である。このことから、n手目の可能な配置の上限は 18×15<sup>n-1</sup>通りである。(18+18×15+…+18×15<sup>15</sup>)<全配置<(18+18×15+…+18×15<sup>16</sup>) より、17手以上かかる配置が存在することが分かる。対面を回転させる手順は手順前後が可能であることを考慮すると、この下限は18手となる。 その後しばらくは手数の更新が無かったが、「スーパーフリップ」と呼ばれる配置(全てのエッジピースが正しい位置にありかつ反転しているような配置)からの復元は難しいと予想されていた。 1992年にディク・T・ウィンター(Dik T. Winter)は、スーパーフリップからの復元が20手でできることを確認した。1995年にマイケル・レイド(Michael Reid)は、この配置からの復元に20手かかることを示した(手順の一例:U R2 F B R B2 R U2 L B2 R U' D' R2 F R' L B2 U2 F2)。 半回転を2手として数えると、スーパーフリップは24手かかる。この手順は1995年にレイドによって発見され、ジェリー・ブライアン(Jerry Bryan)によって最小手数と証明された。1998年には、26手かかる配置が確認されている。 ==== 上限の歴史 ==== 神の数字の上限に対する最初期の成果として、モウエン・シスルスウェイト([[:en:Morwen Thistlethwaite|Morwen Thistlethwaite]])によるアルゴリズムがあげられる。これは、1981年に[[ダグラス・ホフスタッター]]によって[[サイエンティフィック・アメリカン]]誌に発表された。このアルゴリズムによって、52手という上限が示されている。 1992年に Herbert Kociemba はシスルスウェイトのアルゴリズムを改良し、1995年にレイドはこのアルゴリズムを使用して29手という数字を示した。半回転を2手として数えると、42手になる。 2005年に Silviu Radu は、上限を28手(半回転を2手とすると40手)に下げた。翌2006年には、Radu 自身によってこの数値は27手(半回転を2手とすると35手)に改良されている。 [[2007年]]に[[ノースイースタン大学]]の博士ジーン・コッパーマンらは、26手であると発表した。この時、全ての配置が26回の半回転で復元できる{{要出典|date=2014年5月}}ことも確認された。 [[2008年]]3月、[[スタンフォード大学]]で数学の研究助手を務めるトマス・ロキッキは、25手であることを示し<ref>[http://arxiv.org/abs/0803.3435 Twenty-Five Moves Suffice for Rubik's Cube]</ref>、さらに2008年4月には23手<ref>[http://cubezzz.homelinux.org/drupal/?q=node/view/117 Twenty-Three Moves Suffice | Domain of the Cube Forum]</ref>、2008年8月には22手<ref>[http://cubezzz.homelinux.org/drupal/?q=node/view/121 Twenty-Two Moves Suffice | Domain of the Cube Forum]</ref>にまで記録を縮めた。 [[2010年]]7月、Morley Davidsonを中心とするグループによって、20手であることが示された<ref>{{Cite news |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010081500082 |title=20手以内でそろうと証明=ルービックキューブ-コンピューターで解析・米独チーム |work=時事ドットコム |newspaper=[[時事通信]] |date=2010-08-15 |accessdate=2010-08-15 |language=日本語 }}</ref><ref>[http://www.cube20.org/ God's Number is 20]</ref>。上述のスーパーフリップの件とあわせて、これが真の「神の数字」と証明されたことになる。余談だが、このグループのメンバーには上述のトマス・ロキッキも含まれている。 [[:en:Optimal_solutions_for_Rubik%27s_Cube|en:Optimal solutions for Rubik's Cube]]も参照。 ==その他== === パターンキューブ === ルービックキューブを使って各面に様々な模様をつくることを'''パターンキューブ'''という。 各面にH、T、凹、+といった文字や記号の模様をつくったり、小さいキューブが大きいキューブの中に入っているような模様にしたりできる。 大きいキューブの中に2×2×2のキューブが入っているように見えるものを「キューブ・イン・キューブ」といい、1×1×1のキューブが入っているように見えるものを「ミニキューブ・イン・キューブ」という。 大きいキューブの中に2×2×2のキューブが入っていて、そのキューブの中に1×1×1のキューブが入っているように見える(三重構造になっている)のを「二つの輪」や「キューブ・イン・キューブ・イン・キューブ」などという。 他にも、各面の真ん中(センターキューブ)だけをかえたものを「ヘソ・キューブ」や「中抜き」、チェック柄にしたものを「チェッカー・キューブ」という。 <gallery widths="160px" heights="160px"> Rubik's Cube Pattern - Cube in a cube.jpg|キューブ・イン・キューブ Rubik's Cube Pattern - Cube in a cube in a cube.jpg|キューブ・イン・キューブ・イン・キューブ 3×3×3 – proste wzorzyste rozwiązanie.².gif|ヘソ・キューブ 3×3×3 – proste wzorzyste rozwiązanie.gif|チェッカー・キューブ Rubik's Cube Pattern - American Flag.jpg|[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]] </gallery> === モザイクアート === [[File:Mosaic40percent.JPG|thumb|250px|アーティストPete Fecteauによるモザイクアート「Dream Big」の制作風景]] 複数のキューブを使用して1つの絵画的作品を作り上げる事。著名な絵画や人物像、ゲームや漫画の登場人物などが題材にされることが多い<ref>[https://www.pinterest.jp/pin/563724078335676550/ ルービックキューブを使った巨大アートシリーズ「Cube Art」]</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/yajiuma/1036577.html 千個のルービックキューブでスーパーマリオのドット絵アニメを再現]</ref>。2010年7月15日に[[東京おもちゃショー]]でお披露目された、東京都町田市立山崎小学校の生徒約800人によってルービックキューブ9,071個で作り上げた全長11mの[[モザイクアート]]が[[ギネス世界記録]]に認定された<ref>[http://news.biglobe.ne.jp/entertainment/020/mai_100715_0203235114.html <ルービックキューブ>9071個、11メートルの世界最大のモザイクアート、ギネス公認]BIGLOBEニュース 2010年7月15日</ref>。これはこれまでの[[トロント]]のアーティスト5人が4,050個で作った「[[最後の晩餐]]」を上回る記録となった。 ===自動化=== [[検知器]]やアプリケーションを利用して人の手を介さずに自動で揃える機構に以下のような物がある。 *蕪木孝が開発した、床を転がりながら自動で揃うキューブ<ref>[https://media.dmm-make.com/item/4462/ 全自動ルービックキューブ Self Solving Rubik's Cube]</ref><ref>[https://media.dmm-make.com/item/4535/ MAKERS #34「Human Controller 蕪木孝」――「世界中の人を『ウオーッ!』と言わせるモノを作りたい」]</ref>。これを発展させた、空中に浮き自動で揃うキューブ<ref>[https://www.gizmodo.jp/2019/09/a-self-solving-rubik-s-cube.html 宙に浮いて自ら6面そろえる「全自動ルービックキューブ」。これぞハンズフリー]</ref>。 *[[レゴブロック]]と[[検知器]]を使用し自動で揃える物<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=4wARjYWWBa8 高校生が作った自動ルービックキューブマシーンが凄い]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=6NXM1Re4w04 レゴによるルービックキューブ自動解析機(LEGO Mindstorms)]</ref>。 *0.38秒<ref>[https://gigazine.net/news/20180308-rubiks-cube-solving-machine/ 世界最速の0.38秒でルービックキューブを解くマシンが登場、世界記録を大幅に塗り替える様子がムービーで公開中]</ref>。キューブの軸を固定し瞬時に揃える物<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Qr-3cfrU5jY ルービックキューブを瞬時に解くロボット]</ref>。 *手に載せると自動で揃える片手型のロボット<ref>[https://wired.jp/2019/10/30/why-solving-rubiks-cube-not-signal/ ルービックキューブを片手で解くロボットハンドが登場。それでも「人間並みに器用」になる道のりは遠い]</ref><ref>[https://jp.techcrunch.com/2019/10/16/2019-10-15-watch-openais-human-like-robot-solve-a-rubiks-cube-one-handed/ OpenAIの人間的なロボットは片手でルービックキューブを解く]</ref>。 *一般でも購入できる市販のロボット「GAN ROBOT」<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=yh8CJPDCBP8 GAN Robot vs GAN Robot 2.0 | Head to Head Race!]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=7_xdefKTQiw 【GAN ROBOT】全自動ルービックキューブマシン!勝負じゃ!【ルービックキューブ】]</ref>。 === 3×3×3以外の立体パズル === [[File:Rubik's Cube variants.jpg|thumb|250px|様々な立方体パズル]] [[File:Rubik's Cube Collection (4316806619).jpg|thumb|250px|異なる形状の立体パズル]] ;立方体形 :各面が正方形に等分割されている物。このうち2×2×2から5×5×5までが、ルービックキューブブランドで発売されている。 :2×2×2:[[ポケットキューブ]](ルービックキューブ2×2、ルービックの2×2キューブ)。 :4×4×4:[[ルービックリベンジ]](ルービックキューブ4×4)。 :5×5×5:[[プロフェッサーキューブ]](ルービックキューブ5×5)。 :6×6×6:[[V-Cube 6]]。 :7×7×7:[[V-Cube 7]]。 :8×8×8:[[V-Cube 8]]。 :これらの中にもセンターキューブに絵や文字が入り、向きや並び(リベンジ以上の場合)を揃える必要がある物や、形状は立方体だが各面が正方形に等分割されていない[[スキューブ]]、[[スクエア1]]、[[ルービック・ミラーブロックス]]などもある。 派生形としてルービックキューブに[[貯金箱]]の機能を備えた「ルービックキューブバンク」があり、投入した[[硬貨]]の取り出しには取り出し口のついた面のみを揃えればよい。2012年に回転を制限するブロックパーツがつ付けられる「ルービック キューブロックス」、2016年にキューブが光る「ルービックスパーク」が発売されている。 ;[[正多面体]]形 :[[正四面体]]:[[ピラミンクス]]。 :[[正十二面体]]:[[メガミンクス]]。 :他に、[[正八面体]]や[[正二十面体]]がある。 ;正多面体以外 :[[八角柱]]や[[立方八面体]]。 :2006年:1×3×3 の直方体の「[[フロッピーキューブ]]」。この作品は国際パズルパーティーの[[コンペティション]]で入賞している。 :2010年:「2×2×4ルービックタワー」 :2019年:「ルービックフラット3×1」。 ;変則形 :2×2×2分割系ではキャラクターの形を模した物もある。例として、[[ハローキティ]]を頭部と胴体部の間・全身の前後の間で分割している物、[[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]の頭部を分割した物などがある。 :2009年:球体の中のボールを移動させる「ルービック360」。 :2010年:ピースを組み合わせてルービックキューブの形を完成させる「ルービックキューブ立体パズル」。 :2010年:9つのマス目の光を回転や移動させ完成させる「ルービックスライド」。 :2011年:対戦スライドパズルゲーム「ルービックレース」。 :2018年:パーツを組み合わせてピラミッドを作る「ルービックトライアミッド」。 :2020年:ルービックキューブ風の対戦[[三目並べ]]ゲーム「ルービックケージ」。 ===脳科学=== ルービックキューブを使用することで脳が活性化されたり[[脳力トレーニング|脳トレ]]になるとの研究結果もあるが、参考事例が非常に少ない<ref>[https://www.famitsu.com/news/202005/12198210.html ルービックキューブで応用力や思考の速さなどが向上!? あの立方体に秘められた驚きの脳トレ効果に迫る!]</ref><ref>[https://www.kknews.co.jp/news/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%81%A7%E3%80%8C%E5%BF%9C%E7%94%A8%E5%8A%9B%E3%80%8D%E3%82%84%E3%80%8C%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%AE%E9%80%9F%E3%81%95 ルービックキューブで「応用力」や「思考の速さ」が向上!地頭力と深く関わる“前頭前野”が活性化することが判明]</ref>。 ==ルービックキューブを題材にした作品== これらの他にも作品中の小道具として使用される場合もある。 *『[[:en:Rubik, the Amazing Cube]]』([[1983年]]・アメリカのアニメ) *『[[:en:Rubik's Games]]』([[1999年]]・[[ウィンドウズ]]用の[[パズルゲーム]]) *『頭の回転のトレーニング ルービックキューブ&超有名パズルたち』([[2007年]][[4月26日]]・[[ニンテンドーDS]]用の[[パズルゲーム]]) *『ルービックキューブ』([[2011年]]・[[tengal6]]の楽曲)<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=pukdZvx59zQ ルービックキューブ]</ref> *『ルービックキューブ/otetsu feat.GUMI』(2011年・[[otetsu]]の楽曲)<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Z54R8RK-EPE 【official】ルービックキューブ/otetsu feat.GUMI]</ref> *『Scrambled』([[2018年]]・[[CGアニメ]])<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9JBNmGlEdLY CGI Animated Short Film: "Scrambled" by Polder Animation | CGMeetup]</ref> *『[[:en:The Speed Cubers|スピードキューバーズ:世界を見据えて]]』([[2020年]]・[[ドキュメンタリー映画]])<ref>[https://www.netflix.com/jp/title/81092143 スピードキューバーズ: 世界を見据えて]</ref> *『不揃いなルービックキューブ』(2020年・[[aoi midori]]の楽曲)<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=omtjF_dUZno aoi midori『不揃いなルービックキューブ』(Music Video)]</ref> *『'The Daisy'』(2021年・Ross From Friends)<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=DfYV_iemp5Y Ross From Friends - 'The Daisy' (Official Video)]</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *{{cite news |title=新・遊びの博物誌(17)究極の立体パズル |author=坂根厳夫 |newspaper=朝日新聞 |publisher=朝日新聞社 |date=1980-06-01 |edition=日曜版 |page=15 |ref={{Harvid|坂根|1980}} }} **{{Cite book|和書 |author=坂根厳夫 |date=1982-03-01 |title=新・遊びの博物誌 |chapter=13 究極の立体パズル」・「番外編 “キューブ”のその後 |pages=59-61, 62-64 |publisher=朝日新聞社 |isbn=978-4-02-254968-6 |ref={{Harvid|坂根|1982}} }} **{{Cite book|和書 |author=坂根厳夫 |date=1986-07-20 |title=新・遊びの博物誌 |chapter=究極の立体パズル」・「番外編――“キューブ”のその後 |pages=100-105, 106-111 |volume=1 |series=朝日文庫 |publisher=朝日新聞社 |isbn=978-4-02-260383-8 |ref={{Harvid|坂根|1986a}} }} **{{Cite book|和書 |author=坂根厳夫 |date=1986-08-20 |title=新・遊びの博物誌 |chapter=あとがき |pages=204-205 |volume=2 |series=朝日文庫 |publisher=朝日新聞社 |isbn=978-4-02-260384-5 |ref={{Harvid|坂根|1986b}} }} *{{Cite journal|和書 |author=S<small>'''Y'''STEM</small> 5 |date=1980-10 |title=魔方体学事始め |journal=[[数学セミナー]] |pages=15ff |publisher=日本評論社 |url=https://www.nippyo.co.jp/shop/magazine/4719.html |ref={{harvid|SYSTEM 5|1980a}} }} *{{Cite journal|和書 |author=S<small>Y'''S'''TEM</small> 5 |date=1980-11 |title=魔方体術免許皆伝/ルービック・キューブの完成法 |journal=数学セミナー |pages=2ff |publisher=日本評論社 |url=https://www.nippyo.co.jp/shop/magazine/4720.html |ref={{harvid|SYSTEM 5|1980b}} }} *{{Cite book|和書|author=島内剛一|authorlink=島内剛一|date=1981-03-10|title=ルービック・キューブ免許皆伝|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-78141-2|ref={{Harvid|島内|1981a}}}} **{{Cite book|和書|author=島内剛一|date=2008-05-20|title=ルービック・キューブと数学パズル|series=数学ひろば|publisher=日本評論社|isbn=978-4-535-78537-3|ref={{Harvid|島内|2008}}}} - 注釈:{{Harvtxt|島内|1981a}}の復刊。{{Harvtxt|島内|1981b}}を収録。 *{{Cite journal|和書 |date=1981-08 |title=特集 ルービック・キューブで群論を学ぼう |journal=数学セミナー |pages=2-42 |publisher=日本評論社 |url=https://www.nippyo.co.jp/shop/magazine/4729.html }} **{{Citation |和書 |author=島内剛一|title=ルービック・キューブによる群論入門|pages=2-10|ref={{Harvid|島内|1981b}}}} **{{Citation |和書 |author=国吉秀夫|title=群論演習のひとこま|pages=11-16|ref={{Harvid|国吉|1981}}}} **{{Citation |和書 |author=I+K|title=隣接二面の回転からひきおこされる6頂点の置換群は何か?|pages=17-21|ref={{Harvid|I+K|1981}}}} **{{Citation |和書 |author=清水達雄|title=ルービックのシスルスウエイト法 私解|pages=22-32|ref={{Harvid|清水|1981}}}} **{{Citation |和書 |author=丸山直昌|title=ルービック群における共役の意味|pages=33-40|ref={{Harvid|丸山|1981}}}} **{{Citation |和書 |author=山崎洋平|title=誰も書かなかったルービック・キューブ|pages=41-42|ref={{Harvid|山崎|1981}}}} *{{Cite book|和書 |author=David Joyner |translator=川辺治之 |date=2010-12 |title=群論の味わい 置換群で解き明かすルービックキューブと15パズル |publisher=共立出版 |isbn=978-4-320-01941-6 |ref={{Harvid|Joyner|2010}} }} - 注釈:原タイトル:''Adventures in group theory''、原著第2版の翻訳 *{{Citation |和書 |author=庄司俊明 |title=GAPの遊び方 | url=http://www.math.nagoya-u.ac.jp/~shoji/papers/tut3.pdf | chapter=6章 ルービック・キューブ |publisher=名古屋大学大学院多元数理科学研究科 |pages=85-103 |date=2005-02-14 |ref={{Harvid|庄司|2005}} }} - 注釈:第6章でルービック・キューブ群が決定されている。 *{{Cite book|和書|date=2005-09-27|title=頭を鍛えるルービックキューブ完全解析!|series=Tj mook|publisher=[[宝島社]]|isbn=978-4-7966-4923-0|ref={{Harvid|宝島社|2005}}}} **{{Cite book|和書|date=2007-02-20|title=決定版 頭を鍛えるルービックキューブ完全解析!|series=TJ MOOK|publisher=宝島社|isbn=978-4-7966-5687-0|ref={{Harvid|宝島社|2007}}}} **{{Cite book|和書|date=2009-05-21|title=ルービックキューブがだれでもできる本|series=TJ MOOK|publisher=宝島社|isbn=978-4-7966-7123-1|ref={{Harvid|宝島社|2009}}}} **{{Cite book|和書|date=2010-06-21|title=チャンピオンの秘密テクニック講座付き 頭を鍛える! ルービックキューブ最速攻略法|series=TJ MOOK|publisher=宝島社|isbn=978-4-7966-7763-9|ref={{Harvid|宝島社|2010}}}} **{{Cite book|和書|date=2013-07-20|title=ルービックキューブ(R)が「かんたん」にできる本|series=TJ MOOK|publisher=宝島社|isbn=978-4-8002-1365-5|ref={{Harvid|宝島社|2013}}}} **{{Cite book|和書|date=2018-08-10|title=脳が若返る! かんたんルービックキューブ|publisher=宝島社|isbn=978-4-8002-8686-4|ref={{Harvid|宝島社|2018}}}} *{{Cite journal|和書 |author=平澤美可三 |date=2022-02 |title=ルービックキューブと数学/解法開発の技法 |journal=数学セミナー |volume=61 |issue=2号(通巻724号) |pages=8-14 |publisher=日本評論社 |url=https://www.nippyo.co.jp/shop/magazine/8701.html |ref={{Harvid|平澤|2022}} }} *{{Cite book|和書|author=ダグラス・ホフスタッター|authorlink=ダグラス・ホフスタッター|translator=[[竹内郁雄]]・斉藤康己・片桐恭弘|date=2005-10|title=[[メタマジック・ゲーム|メタマジック・ゲーム 科学と芸術のジグソーパズル]]|edition=新装版|publisher=白揚社|isbn=978-4-8269-0126-0|ref={{Harvid|ホフスタッター|2005}}}} *{{Cite book|和書|author=百田郁夫|authorlink=百田郁夫|date=2007-09|title=ルービックキューブ完全攻略公式ガイドブック 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ルテチウム
ルテチウム (英: lutetium, lutecium [ljuːˈtiːʃiəm]) は原子番号71の元素。元素記号は Lu。銀白色の金属で、乾燥した空気中では腐食しないが湿った空気では腐食する。ランタノイド系列の最後の元素であり、伝統的に希土類元素に含まれる。第6周期の遷移元素の最初の元素と見なされることもあるが、ランタンがそう見なされることの方が多い。 1907年にフランスの科学者ジョルジュ・ユルバン、オーストリアの鉱物学者カール・ヴェルスバッハ男爵(フライヘル)、およびアメリカの化学者チャールズ・ジェームス(英語版)により独立に発見された。これらの研究者全員が以前は完全にイッテルビウムで構成されていると考えられていた鉱物イッテルビアの不純物としてルテチウムを発見した。この後すぐに発見の優先順位に関する議論が生じ、ユルバンとヴェルスバッハは互いに発表した研究結果を批判した。命名する栄誉はユルバンに与えられ彼はこの新元素にルテシウム(lutecium)と命名した。1949年に綴りがルテチウム(lutetium)に変更された。1909年、優先順位がユルバンに与えられ彼がつけた名称が公式の名称に採用されたが、ヴェルスバッハが提案したカシオペウム(cassiopeium)(後にカシオピウム(cassiopium)に変更)は1950年代まで多くのドイツの科学者により使用されていた。 特に豊富な元素ではないが、地殻では銀よりもはるかに多い。特定の用途はほとんどない。ルテチウム176は比較的豊富(2.5%)な放射性同位体で半減期は約380億年であり、鉱物や隕石の年代決定に使用される。ルテチウムは通常、イットリウムと関連して発生し、ときどき金属合金や様々な化学反応の触媒として使用される。Lu-DOTA-TATEは神経内分泌腫瘍の放射性核種療法(核医学参照)に使用される。ランタノイドの中で最大のブリネル硬さを持ち890–1300MPaである。 ルテチウム原子には71個の電子があり、電子配置は[Xe] 4f5d6sである。化学反応に加わると、原子は2つの最外殻電子と1つの5d電子を失う。ランタノイド収縮によりルテチウム原子はランタノイドの原子の中で最も小さく、結果としてランタノイドで最大の密度、融点、硬度を持つ。 ルテチウムの化合物におけるルテチウムは常に酸化数+3である。ほとんどのルテチウム塩の水溶液は無色であり、ヨウ化物を除き乾燥すると白色の結晶性固体を形成する。硝酸塩、硫酸塩、酢酸塩などの可溶性の塩は結晶化すると水和物を形成する。酸化物、水酸化物、フッ化物、炭酸塩、リン酸塩、シュウ酸塩は水に溶けない。 金属ルテチウムは標準状態では空気中でわずかに不安定であるが、150 °Cで容易に燃焼して酸化ルテチウムを形成する。ここで得られる化合物は水と二酸化炭素を吸収することが知られており、閉鎖された雰囲気から大気を取り除くためにも使うことができる。ルテチウムと水の間の反応が起きているときにも同様のものが観察され(冷たいときは遅く、熱いときは速い)、この反応により水酸化ルテチウムが形成される。ルテチウム金属は4つの軽いハロゲンと反応して三ハロゲン化物を形成することが知られており、その全て(フッ化物を除く)は水溶性である。 ルテチウムは弱酸および希硫酸に容易に溶解し、無色のルテチウムイオンを含む溶液を形成する。このルテチウムイオンは7-9個の水分子により配位され、平均は[Lu(H2O)8.2]である。 ルテチウムは天然に2つの同位体が存在する(ルテチウム175、ルテチウム176)。前者の同位体は安定しており、同位体はモノアイソトピックになる。後者のルテチウム176はベータ崩壊し半減期は3.719(± 0.007)×10年(371.9億年)であり、天然のルテチウムの約2.5%を構成する。またルテチウム176は宇宙核原子核時計としても期待されている。現在までに32個の人工放射性同位体が特性評価されており、質量範囲は149.973(ルテチウム150)から183.961(ルテチウム184)である。このような同位体で最も安定しているのは半減期3.31年のルテチウム174 (lutetium-184); the most stable such isotopes are lutetium-174 with a half-life of 3.31 years, and lutetium-174と半減期1.37年のルテチウム173である。残りの全ての放射性同位体の半減期は9日未満であり、この大部分の半減期は30分未満である。安定したルテチウム175より軽い同位体は電子捕獲によりいくつかのアルファ粒子と陽電子の放出を伴って崩壊する(その後イッテルビウムの同位体を生成する)。より重い同位体は主にベータ崩壊し、ハフニウムの同位体を生成する。 また、42の核異性体があり、質量は150、151、153–162、166–180である(すべての質量番号が1つの異性体にのみ対応しているわけではない)。この中で最も安定しているのはルテチウム177m(半減期160.4日)、ルテチウム174m(半減期142日)である。これらの半減期はルテチウム173, 174, 176を除くすべての放射性ルテチウム同位体の基底状態の半減期よりも長い。 パリのラテン語名ルテティアにその名を由来するルテチウムは、1907年にフランスの科学者ジョルジュ・ユルバン、オーストリアの鉱物学者カール・ヴェルスバッハ男爵、アメリカの化学者チャールズ・ジェームスによりそれぞれ独立に発見された。彼らはルテチウムをイッテルビアの不純物として発見した。これはスイスの化学者ジャン・マリニャックにより完全にイッテルビウムで構成されると考えられていた。科学者たちはこの元素に異なる名前を提案した。ユルバンはネオイッテルビウム(neoytterbium)やルテシウム(lutecium)を選択し、ヴェルスバッハはアルデバラニウム(aldebaranium)やカシオペウム(cassiopeium)(アルデバランとカシオペヤ座にちなむ)を選択した。これらの論文は両方とも自身の結果に基づいてもう1人を非難した。 当時、新元素の名前の帰属を任されていた同位体存在度委員会(英語版)は、マリニャックのイッテルビウムからのルテチウムの分離がユルバンによって最初に記述されたという事実に基づきユルバンに優先権を与え、彼が提案した名前を公式の名前として採用し1909年にこの論争は解決した。しかし、ユルバンが提案した名前が承認された後はネオイッテルビウムはイッテルビウムに戻った。1950年代までドイツ語を話す化学者の中にはルテチウムをヴェルスバッハが提案した名前であるカシオペウムと呼ぶ者もいた。1949年に綴りがlutetium(ルテチウム)に変更された。この理由はヴェルスバッハの1907年のルテチウムの試料は純粋であったのに対しユルバンの1907年の試料には微量のルテチウムしか含まれていなかったためである。後にこのことによりユルバンは元素72を発見したと誤解しこれにセルチウムと名付けたが、実際にはこれは非常に純粋なルテチウムであった。元素72に関するユルバンの研究が信用を失うと元素71に関するヴェルスバッハの研究が再評価され、しばらくの間ドイツ語圏の国ではカシオペウムに改名されていた。優先権主張の対象から外れたチャールズ・ジェームスはずっと大規模に研究し、当時最大のルテチウム供給量を保持していた。純粋なルテチウム金属は1953年に初めて製造された。 ルテチウムは他の全てのすべての希土類金属で見つかるがルテチウムだけでは見つからず、他の元素から分離することは非常に難しい。主な商業的供給源は希土類のリン酸塩鉱物であるモナザイト(Ce,La,...)PO4を処理したときの副産物であるがその濃度はたった0.0001%であるが、地殻中のルテチウムの存在量である約0.5 mg/kgとあまり変わらない。ルテチウムを主成分とする鉱物は現在のところ知られていない。主な採掘地域は中国、米国、ブラジル、インド、スリランカ、オーストラリアである。世界のルテチウムの生産量(酸化物で)は年間約10トンである。純粋なルテチウム金属は調製が非常に難しい。希土類元素の中で最も希少で最も高価な金属の1つであり、価格は1キログラムあたり10,000アメリカドルで、金の約4分の1である。 粉砕された鉱物は高温の濃硫酸で処理され、希土類の水溶性硫酸塩を生成する。トリウムは水酸化物として溶液から沈殿し取り除かれる。その後溶液はシュウ酸アンモニウムで処理され希土類は不溶性のシュウ酸塩に変換される。シュウ酸塩はアニーリングにより酸化物に変換される。酸化物は硝酸に溶かされて主要な成分であるセリウム(酸化物が硝酸に不溶)を取り除く。ルテシウム含むいくつかの希土類金属は結晶化により硝酸アンモニウムとの複塩として分離される。この過程では希土類イオンは樹脂に存在する水素、アンモニウム、または同イオンと交換することで適切なイオン交換樹脂に吸着される。ルテチウム塩は適切な錯化剤により選択的に洗い流される。次にルテチウム金属はアルカリ金属またはアルカリ土類金属のいずれかによる無水LuCl3またはLuF3の還元により得られる。 生産が難しく価格が高く、他のランタノイドよりも希少であるが化学的にはあまり変わらないため商業的な用途はほとんどない。しかし、安定したルテチウムは製油所の石油クラッキングの触媒として使用することができ、アルキル化、水素化、重合の用途にも使用できる。 ルテチウムアルミニウムガーネット(英語版)(Al5Lu3O12)は、高い屈折率の液浸リソグラフィにおけるレンズ材料として使用することが提案されている。さらに磁気バブルメモリデバイスで使用されているガドリニウムガリウムガーネット(英語版)(GGG)に少量のルテチウムがドーパントとして添加されている。セリウムをドープしたルテチウムオキシオルトシリケート(LSO)は現在ポジトロン断層法(PET)の検出器で好まれる化合物である。ルテチウムアルミニウムガーネット(LuAG)はLED電球の蛍光体として使用される。 安定したルテチウムの他に放射性同位体にもいくつか特定の用途がある。ルテチウム176は半減期と崩壊モードが適していることから、中性子活性化(英語版)にさらされたルテチウムを用いた純粋なベータ放射体として、また、隕石の年代を測定するルテチウム-ハフニウム法にも使用される。ドータオクトレオテートと結合した人工同位体ルテチウム177(ソマトスタチンの類似物)は、実験的に神経内分泌腫瘍の標的放射性核種療法で使用される。実際、ルテチウム177は神経内分泌腫瘍療法や骨痛緩和のための放射性核種としての使用が増えている。研究においては、ルテチウムイオン原子時計が既存の原子時計よりも高い精度を提供できることが示されている。 タンタル酸ルテチウム(英語版) (LuTaO4) は最も密度の高い安定な白色物質と知られている(密度9.81 g/cm))。それゆえ理想的なX線蛍光体である。唯一これより密度の高い白色物質は二酸化トリウムであり、密度は10 g/cmであるが、含まれるトリウムは放射性である。 ルテチウムは他の希土類元素と同様に毒性が低いと考えられているが、化合物は慎重に扱うべきである。例えば、フッ化ルテチウムの吸入は危険であり、化合物は皮膚を刺激する。硝酸ルテチウムは一度加熱すると爆発してやけどする可能性があり危険な場合がある。酸化ルテチウムの粉末は吸入したり摂取したりすると同様に有毒である。 他の希土類元素と同様にルテチウムは生物学的な役割は知られていないが、ヒトでも発見されており、骨に集中しており肝臓や腎臓では骨よりは少ないが存在する。ルテチウム塩は自然界で他のランタノイド塩と一緒に生じることが知られており、人体で最も少ないランタノイドである。ヒトの食事ではルテチウム含有量について調べられていないため、ヒトが平均的に摂取する量は不明であるが、推定ではその量は年間数マイクログラムに過ぎず、すべて植物が摂取した少量のルテチウムに由来する。可溶性のルテチウム塩は少し毒性があるが、不溶性のものはそうではない。
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the most stable such isotopes are lutetium-174 with a half-life of 3.31 years, and lutetium-174と半減期1.37年のルテチウム173である。残りの全ての放射性同位体の半減期は9日未満であり、この大部分の半減期は30分未満である。安定したルテチウム175より軽い同位体は電子捕獲によりいくつかのアルファ粒子と陽電子の放出を伴って崩壊する(その後イッテルビウムの同位体を生成する)。より重い同位体は主にベータ崩壊し、ハフニウムの同位体を生成する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、42の核異性体があり、質量は150、151、153–162、166–180である(すべての質量番号が1つの異性体にのみ対応しているわけではない)。この中で最も安定しているのはルテチウム177m(半減期160.4日)、ルテチウム174m(半減期142日)である。これらの半減期はルテチウム173, 174, 176を除くすべての放射性ルテチウム同位体の基底状態の半減期よりも長い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "パリのラテン語名ルテティアにその名を由来するルテチウムは、1907年にフランスの科学者ジョルジュ・ユルバン、オーストリアの鉱物学者カール・ヴェルスバッハ男爵、アメリカの化学者チャールズ・ジェームスによりそれぞれ独立に発見された。彼らはルテチウムをイッテルビアの不純物として発見した。これはスイスの化学者ジャン・マリニャックにより完全にイッテルビウムで構成されると考えられていた。科学者たちはこの元素に異なる名前を提案した。ユルバンはネオイッテルビウム(neoytterbium)やルテシウム(lutecium)を選択し、ヴェルスバッハはアルデバラニウム(aldebaranium)やカシオペウム(cassiopeium)(アルデバランとカシオペヤ座にちなむ)を選択した。これらの論文は両方とも自身の結果に基づいてもう1人を非難した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当時、新元素の名前の帰属を任されていた同位体存在度委員会(英語版)は、マリニャックのイッテルビウムからのルテチウムの分離がユルバンによって最初に記述されたという事実に基づきユルバンに優先権を与え、彼が提案した名前を公式の名前として採用し1909年にこの論争は解決した。しかし、ユルバンが提案した名前が承認された後はネオイッテルビウムはイッテルビウムに戻った。1950年代までドイツ語を話す化学者の中にはルテチウムをヴェルスバッハが提案した名前であるカシオペウムと呼ぶ者もいた。1949年に綴りがlutetium(ルテチウム)に変更された。この理由はヴェルスバッハの1907年のルテチウムの試料は純粋であったのに対しユルバンの1907年の試料には微量のルテチウムしか含まれていなかったためである。後にこのことによりユルバンは元素72を発見したと誤解しこれにセルチウムと名付けたが、実際にはこれは非常に純粋なルテチウムであった。元素72に関するユルバンの研究が信用を失うと元素71に関するヴェルスバッハの研究が再評価され、しばらくの間ドイツ語圏の国ではカシオペウムに改名されていた。優先権主張の対象から外れたチャールズ・ジェームスはずっと大規模に研究し、当時最大のルテチウム供給量を保持していた。純粋なルテチウム金属は1953年に初めて製造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ルテチウムは他の全てのすべての希土類金属で見つかるがルテチウムだけでは見つからず、他の元素から分離することは非常に難しい。主な商業的供給源は希土類のリン酸塩鉱物であるモナザイト(Ce,La,...)PO4を処理したときの副産物であるがその濃度はたった0.0001%であるが、地殻中のルテチウムの存在量である約0.5 mg/kgとあまり変わらない。ルテチウムを主成分とする鉱物は現在のところ知られていない。主な採掘地域は中国、米国、ブラジル、インド、スリランカ、オーストラリアである。世界のルテチウムの生産量(酸化物で)は年間約10トンである。純粋なルテチウム金属は調製が非常に難しい。希土類元素の中で最も希少で最も高価な金属の1つであり、価格は1キログラムあたり10,000アメリカドルで、金の約4分の1である。", "title": "発生・製造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "粉砕された鉱物は高温の濃硫酸で処理され、希土類の水溶性硫酸塩を生成する。トリウムは水酸化物として溶液から沈殿し取り除かれる。その後溶液はシュウ酸アンモニウムで処理され希土類は不溶性のシュウ酸塩に変換される。シュウ酸塩はアニーリングにより酸化物に変換される。酸化物は硝酸に溶かされて主要な成分であるセリウム(酸化物が硝酸に不溶)を取り除く。ルテシウム含むいくつかの希土類金属は結晶化により硝酸アンモニウムとの複塩として分離される。この過程では希土類イオンは樹脂に存在する水素、アンモニウム、または同イオンと交換することで適切なイオン交換樹脂に吸着される。ルテチウム塩は適切な錯化剤により選択的に洗い流される。次にルテチウム金属はアルカリ金属またはアルカリ土類金属のいずれかによる無水LuCl3またはLuF3の還元により得られる。", "title": "発生・製造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "生産が難しく価格が高く、他のランタノイドよりも希少であるが化学的にはあまり変わらないため商業的な用途はほとんどない。しかし、安定したルテチウムは製油所の石油クラッキングの触媒として使用することができ、アルキル化、水素化、重合の用途にも使用できる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ルテチウムアルミニウムガーネット(英語版)(Al5Lu3O12)は、高い屈折率の液浸リソグラフィにおけるレンズ材料として使用することが提案されている。さらに磁気バブルメモリデバイスで使用されているガドリニウムガリウムガーネット(英語版)(GGG)に少量のルテチウムがドーパントとして添加されている。セリウムをドープしたルテチウムオキシオルトシリケート(LSO)は現在ポジトロン断層法(PET)の検出器で好まれる化合物である。ルテチウムアルミニウムガーネット(LuAG)はLED電球の蛍光体として使用される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "安定したルテチウムの他に放射性同位体にもいくつか特定の用途がある。ルテチウム176は半減期と崩壊モードが適していることから、中性子活性化(英語版)にさらされたルテチウムを用いた純粋なベータ放射体として、また、隕石の年代を測定するルテチウム-ハフニウム法にも使用される。ドータオクトレオテートと結合した人工同位体ルテチウム177(ソマトスタチンの類似物)は、実験的に神経内分泌腫瘍の標的放射性核種療法で使用される。実際、ルテチウム177は神経内分泌腫瘍療法や骨痛緩和のための放射性核種としての使用が増えている。研究においては、ルテチウムイオン原子時計が既存の原子時計よりも高い精度を提供できることが示されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "タンタル酸ルテチウム(英語版) (LuTaO4) は最も密度の高い安定な白色物質と知られている(密度9.81 g/cm))。それゆえ理想的なX線蛍光体である。唯一これより密度の高い白色物質は二酸化トリウムであり、密度は10 g/cmであるが、含まれるトリウムは放射性である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ルテチウムは他の希土類元素と同様に毒性が低いと考えられているが、化合物は慎重に扱うべきである。例えば、フッ化ルテチウムの吸入は危険であり、化合物は皮膚を刺激する。硝酸ルテチウムは一度加熱すると爆発してやけどする可能性があり危険な場合がある。酸化ルテチウムの粉末は吸入したり摂取したりすると同様に有毒である。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "他の希土類元素と同様にルテチウムは生物学的な役割は知られていないが、ヒトでも発見されており、骨に集中しており肝臓や腎臓では骨よりは少ないが存在する。ルテチウム塩は自然界で他のランタノイド塩と一緒に生じることが知られており、人体で最も少ないランタノイドである。ヒトの食事ではルテチウム含有量について調べられていないため、ヒトが平均的に摂取する量は不明であるが、推定ではその量は年間数マイクログラムに過ぎず、すべて植物が摂取した少量のルテチウムに由来する。可溶性のルテチウム塩は少し毒性があるが、不溶性のものはそうではない。", "title": "注意点" } ]
ルテチウム は原子番号71の元素。元素記号は Lu。銀白色の金属で、乾燥した空気中では腐食しないが湿った空気では腐食する。ランタノイド系列の最後の元素であり、伝統的に希土類元素に含まれる。第6周期の遷移元素の最初の元素と見なされることもあるが、ランタンがそう見なされることの方が多い。 1907年にフランスの科学者ジョルジュ・ユルバン、オーストリアの鉱物学者カール・ヴェルスバッハ男爵(フライヘル)、およびアメリカの化学者チャールズ・ジェームスにより独立に発見された。これらの研究者全員が以前は完全にイッテルビウムで構成されていると考えられていた鉱物イッテルビアの不純物としてルテチウムを発見した。この後すぐに発見の優先順位に関する議論が生じ、ユルバンとヴェルスバッハは互いに発表した研究結果を批判した。命名する栄誉はユルバンに与えられ彼はこの新元素にルテシウム(lutecium)と命名した。1949年に綴りがルテチウム(lutetium)に変更された。1909年、優先順位がユルバンに与えられ彼がつけた名称が公式の名称に採用されたが、ヴェルスバッハが提案したカシオペウム(cassiopeium)(後にカシオピウムに変更)は1950年代まで多くのドイツの科学者により使用されていた。 特に豊富な元素ではないが、地殻では銀よりもはるかに多い。特定の用途はほとんどない。ルテチウム176は比較的豊富(2.5%)な放射性同位体で半減期は約380億年であり、鉱物や隕石の年代決定に使用される。ルテチウムは通常、イットリウムと関連して発生し、ときどき金属合金や様々な化学反応の触媒として使用される。177Lu-DOTA-TATEは神経内分泌腫瘍の放射性核種療法(核医学参照)に使用される。ランタノイドの中で最大のブリネル硬さを持ち890–1300MPaである。
{{混同|ルテニウム}} {{Elementbox |name=lutetium |japanese name=ルテチウム |number=71 |symbol=Lu |pronounce={{IPAc-en|l|juː|ˈ|t|iː|ʃ|i|əm}}<br />{{respell|lew|TEE|shee-əm}} |left=[[イッテルビウム]] |right=[[ハフニウム]] |above=[[イットリウム|Y]] |below=[[ローレンシウム|Lr]] |series=ランタノイド |group=3 |period=6 |block=d |altblock=f |image name=Lutetium_sublimed_dendritic_and_1cm3_cube.jpg |appearance=銀白色 |atomic mass=174.9668(4) |electron configuration=&#91;[[キセノン|Xe]]&#93; 4f<sup>14</sup> 5d<sup>1</sup> 6s<sup>2</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 9, 2 |phase=固体 |density gpcm3nrt=9.841 |density gpcm3mp=9.3 |melting point K=1925 |melting point C=1652 |melting point F=3006 |boiling point K=3675 |boiling point C=3402 |boiling point F=6156 |heat fusion=ca. 22 |heat vaporization=414 |heat capacity=26.86 |vapor pressure 1=1906 |vapor pressure 10=2103 |vapor pressure 100=2346 |vapor pressure 1 k=(2653) |vapor pressure 10 k=(3072) |vapor pressure 100 k=(3663) |vapor pressure comment= |crystal structure=hexagonal |japanese crystal structure=[[六方晶系]] |oxidation states=3(弱[[塩基性酸化物]]) |electronegativity=1.27 |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=523.5 |2nd ionization energy=1340 |3rd ionization energy=2022.3 |atomic radius=174 |covalent radius=17 ± 8 |magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name=magnet>{{cite book| url = http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf| title = Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds, in Handbook of Chemistry and Physics| publisher = CRC press| isbn = 0849304814| year = 2000| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf| archivedate = 2012年1月12日| deadlinkdate = 2017年9月}} </ref> |electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (poly) 582 n |thermal conductivity=16.4 |thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (poly) 9.9 |Young's modulus=68.6 |Shear modulus=27.2 |Bulk modulus=47.6 |Poisson ratio=0.261 |Vickers hardness=1160 |Brinell hardness=893 |CAS number=7439-94-3 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=173 | sym=Lu | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=1.37 [[年|y]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.671 | pn=173 | ps=[[イッテルビウム|Yb]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=174 | sym=Lu | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=3.31 [[年|y]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=1.374 | pn=174 | ps=[[イッテルビウム|Yb]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=175 | sym=Lu | na=97.41 % | n=104}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=176 | sym=Lu | na=2.59 % | hl=3.719 × 10<sup>10</sup> [[年|y]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=1.193 | pn=176 | ps=[[ハフニウム|Hf]]}} |isotopes comment= }} '''ルテチウム''' ({{lang-en-short|lutetium, lutecium}} {{IPA-en|ljuːˈtiːʃiəm|}}) は[[原子番号]]71の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Lu'''。銀白色の[[金属]]で、乾燥した空気中では腐食しないが湿った空気では腐食する。[[ランタノイド]]系列の最後の元素であり、伝統的に[[希土類元素]]に含まれる。第6周期の[[遷移元素]]の最初の元素と見なされることもあるが、[[ランタン]]がそう見なされることの方が多い<ref name="finally">{{cite journal|last=Scerri|first=E.|authorlink=Eric Scerri|year=2012|journal=Chemistry International|volume=34|issue=4|url=http://www.iupac.org/publications/ci/2012/3404/ud.html|title=Mendeleev's Periodic Table Is Finally Completed and What To Do about Group 3?|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170705051357/https://www.iupac.org/publications/ci/2012/3404/ud.html|archivedate=5 July 2017|df=dmy-all|doi=10.1515/ci.2012.34.4.28|doi-access=free}}</ref>。 1907年にフランスの科学者[[ジョルジュ・ユルバン]]、オーストリアの鉱物学者[[カール・ヴェルスバッハ]]男爵(フライヘル)、およびアメリカの化学者{{仮リンク|チャールズ・ジェームス|en|Charles James (chemist)}}により独立に発見された<ref>{{cite web|url=https://www.chemicool.com/elements/lutetium.html|title=Lutetium Element Facts / Chemistry|accessdate=2020-06}}</ref>。これらの研究者全員が以前は完全にイッテルビウムで構成されていると考えられていた鉱物[[イッテルビア]]の不純物としてルテチウムを発見した。この後すぐに発見の優先順位に関する議論が生じ、ユルバンとヴェルスバッハは互いに発表した研究結果を批判した。命名する栄誉はユルバンに与えられ彼はこの新元素にルテシウム(lutecium)と命名した。1949年に綴りがルテチウム(lutetium)に変更された。1909年、優先順位がユルバンに与えられ彼がつけた名称が公式の名称に採用されたが、ヴェルスバッハが提案したカシオペウム(cassiopeium)(後にカシオピウム(cassiopium)に変更)は1950年代まで多くのドイツの科学者により使用されていた。 特に豊富な元素ではないが、地殻では[[銀]]よりもはるかに多い。特定の用途はほとんどない。ルテチウム176は比較的豊富(2.5%)な放射性同位体で半減期は約380億年であり、鉱物や[[隕石]]の[[ルテチウム-ハフニウム法|年代決定]]に使用される。ルテチウムは通常、[[イットリウム]]と関連して発生し<ref>{{Cite web|url=https://www.vocabulary.com/dictionary/lutetium|title=lutetium - Dictionary Definition|website=Vocabulary.com|access-date=2020-03-06}}</ref>、ときどき金属[[合金]]や様々な化学反応の[[触媒]]として使用される。<sup>177</sup>Lu-[[ドータオクトレオテート|DOTA-TATE]]は神経内分泌腫瘍の[[放射性核種療法]]({{仮リンク|核医学|en|Nuclear medicine}}参照)に使用される。ランタノイドの中で最大の[[ブリネル硬さ]]を持ち890–1300[[パスカル (単位)|MPa]]である<ref>{{cite book|editor=Samsonov, G. V.|chapter=Mechanical Properties of the Elements|doi=10.1007/978-1-4684-6066-7_7|isbn=978-1-4684-6066-7|chapter-url=http://ihtik.lib.ru/2011.08_ihtik_nauka-tehnika/2011.08_ihtik_nauka-tehnika_3560.rar|title=Handbook of the physicochemical properties of the elements|pages=387–446|publisher=IFI-Plenum|place=New York, USA|year=1968|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402123344/http://ihtik.lib.ru/2011.08_ihtik_nauka-tehnika/2011.08_ihtik_nauka-tehnika_3560.rar|archivedate=2015-04-02}}</ref>。 ==特徴== ===物理的性質=== ルテチウム原子には71個の電子があり、[[電子配置]]は&#91;[[キセノン|Xe]]&#93;&nbsp;4f<sup>14</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>である<ref name=Cotton>{{Greenwood&Earnshaw|page=1223}}</ref>。化学反応に加わると、原子は2つの最外殻電子と1つの5d電子を失う。{{仮リンク|ランタノイド収縮|en|lanthanide contraction}}によりルテチウム原子はランタノイドの原子の中で最も小さく<ref>{{Cite book |author=Cotton, F. Albert |authorlink=アルバート・コットン |author2=Wilkinson, Geoffrey |authorlink2=ジェフリー・ウィルキンソン |year=1988 |title=Advanced Inorganic Chemistry |edition=5th |location=New York |publisher=Wiley-Interscience |language=en |page=776, 955 |isbn=0-471-84997-9 }}</ref>、結果としてランタノイドで最大の密度、融点、硬度を持つ<ref name="Parker">{{cite book| last=Parker | first= Sybil P.| title =Dictionary of Scientific and Technical Terms| edition =3rd| location = New York| publisher = McGraw-Hill| date = 1984}}</ref>。 ===化学的性質と化合物=== {{category see also|ルテチウムの化合物}} ルテチウムの化合物におけるルテチウムは常に酸化数+3である<ref>{{cite web|url=https://www.britannica.com/science/lutetium|title=Lutetium|accessdate=2020-06}}</ref>。ほとんどのルテチウム塩の水溶液は無色であり、ヨウ化物を除き乾燥すると白色の結晶性固体を形成する。硝酸塩、硫酸塩、酢酸塩などの可溶性の塩は結晶化すると水和物を形成する。[[酸化ルテチウム(III)|酸化物]]、水酸化物、フッ化物、炭酸塩、リン酸塩、[[シュウ酸塩]]は水に溶けない<ref name=patnaik/>。 金属ルテチウムは標準状態では空気中でわずかに不安定であるが、150&nbsp;°Cで容易に燃焼して酸化ルテチウムを形成する。ここで得られる化合物は水と[[二酸化炭素]]を吸収することが知られており、閉鎖された雰囲気から大気を取り除くためにも使うことができる<ref name=aaaaaa>{{cite book| pages = [https://archive.org/details/historyuseourear00kreb_356/page/n327 303]–304| title = The history and use of our earth's chemical elements: a reference guide | url = https://archive.org/details/historyuseourear00kreb_356| url-access = limited| last= Krebs| first= Robert E.| publisher =Greenwood Publishing Group| date = 2006| isbn =978-0-313-33438-2}}</ref>。ルテチウムと水の間の反応が起きているときにも同様のものが観察され(冷たいときは遅く、熱いときは速い)、この反応により水酸化ルテチウムが形成される<ref name="ffff">{{cite web| url =https://www.webelements.com/lutetium/chemistry.html| title =Chemical reactions of Lutetium| publisher=Webelements| accessdate=2009-06-06}}</ref>。ルテチウム金属は4つの軽いハロゲンと反応して三[[ハロゲン化物]]を形成することが知られており、その全て(フッ化物を除く)は水溶性である。 ルテチウムは弱酸<ref name=aaaaaa/>および希[[硫酸]]に容易に溶解し、無色のルテチウムイオンを含む溶液を形成する。このルテチウムイオンは7-9個の水分子により配位され、平均は[Lu(H<sub>2</sub>O)<sub>8.2</sub>]<sup>3+</sup>である<ref name="Persson2010">{{cite journal|last1=Persson|first1=Ingmar|title=Hydrated metal ions in aqueous solution: How regular are their structures?|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=82|issue=10|date=2010|pages=1901–1917|issn=0033-4545|doi=10.1351/PAC-CON-09-10-22|doi-access=free}}</ref>。 :2&nbsp;Lu + 3&nbsp;H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub> → 2&nbsp;Lu<sup>3+</sup> + 3&nbsp;SO{{su|b=4|p=2–}} + 3&nbsp;H<sub>2</sub>↑ ===同位体=== {{main|ルテチウムの同位体}} ルテチウムは天然に2つの同位体が存在する(ルテチウム175、ルテチウム176)。前者の同位体は安定しており、同位体はモノアイソトピックになる。後者のルテチウム176は[[ベータ崩壊]]し[[半減期]]は3.719(± 0.007)&times;10<sup>10</sup>年(371.9億年)であり、天然のルテチウムの約2.5%を構成する<ref name="NUBASE2016">{{cite journal |title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties |doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001 |last1=Audi |first1=G. |last2=Kondev|first2=F. G. |last3=Wang |first3=M. |last4=Huang |first4=W. J. |last5=Naimi |first5=S. |journal=Chinese Physics C |volume=41 |issue=3 |page=030001 |year=2017 |url=https://www-nds.iaea.org/amdc/ame2016/NUBASE2016.pdf |bibcode=2017ChPhC..41c0001A |accessdate= |ref= }}</ref>。またルテチウム176は宇宙核原子核時計としても期待されている。現在までに32個の[[人工放射性同位体]]が特性評価されており、質量範囲は149.973(ルテチウム150)から183.961(ルテチウム184)である。このような同位体で最も安定しているのは半減期3.31年のルテチウム174 (lutetium-184); the most stable such isotopes are lutetium-174 with a half-life of 3.31 years, and lutetium-174と半減期1.37年のルテチウム173である<ref name=NUBASE2016/>。残りの全ての[[放射性崩壊|放射性]]同位体の半減期は9日未満であり、この大部分の半減期は30分未満である<ref name=NUBASE2016/>。安定したルテチウム175より軽い同位体は[[電子捕獲]]によりいくつかの[[アルファ崩壊|アルファ粒子]]と[[陽電子放出|陽電子の放出]]を伴って崩壊する(その後[[イッテルビウム]]の同位体を生成する)。より重い同位体は主にベータ崩壊し、ハフニウムの同位体を生成する<ref name=NUBASE2016/>。 また、42の[[核異性体]]があり、質量は150、151、153–162、166–180である(すべての質量番号が1つの異性体にのみ対応しているわけではない)。この中で最も安定しているのはルテチウム177m(半減期160.4日)、ルテチウム174m(半減期142日)である。これらの半減期はルテチウム173, 174, 176を除くすべての放射性ルテチウム同位体の基底状態の半減期よりも長い<ref name=NUBASE2016/>。 ==歴史== [[パリ]]のラテン語名[[ルテティア]]にその名を由来するルテチウムは、1907年にフランスの科学者[[ジョルジュ・ユルバン]]、オーストリアの鉱物学者[[カール・ヴェルスバッハ]]男爵、アメリカの化学者チャールズ・ジェームスによりそれぞれ独立に発見された<ref>{{cite journal|author=James, C. |year=1907|url=https://books.google.com/books?id=TrhMAAAAYAAJ&pg=PA495 |title=A new method for the separation of the yttrium earths|journal=Journal of the American Chemical Society|volume=29|issue=4|pages=495–499|doi=10.1021/ja01958a010}} In a footnote on page 498, James mentions that Carl Auer von Welsbach had announced " … the presence of a new element Er, γ, which is undoubtedly the same as here noted, … ." The article to which James refers is: C. Auer von Welsbach (1907) [https://books.google.com/books?id=myLzAAAAMAAJ&pg=PA935#v=onepage&q&f=false "Über die Elemente der Yttergruppe, (I. Teil)"] (On the elements of the ytterbium group (1st part)), ''Monatshefte für Chemie und verwandte Teile anderer Wissenschaften'' (Monthly Journal for Chemistry and Related Fields of Other Sciences), '''27''' : 935-946.</ref><ref>{{cite web | title = Separation of Rare Earth Elements by Charles James | work = National Historic Chemical Landmarks | publisher = American Chemical Society | url = http://www.acs.org/content/acs/en/education/whatischemistry/landmarks/earthelements.html | accessdate = 2014-02-21 }}</ref>。彼らはルテチウムを[[酸化イッテルビウム(III)|イッテルビア]]の不純物として発見した。これはスイスの化学者[[ジャン・マリニャック]]により完全にイッテルビウムで構成されると考えられていた<ref name="1st">{{cite journal|title=Un nouvel élément: le lutécium, résultant du dédoublement de l'ytterbium de Marignac|journal=Comptes Rendus|volume=145|date=1907|url=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k3099v/f759.image.langEN|pages=759–762|last= Urbain|first= G.}}</ref>。科学者たちはこの元素に異なる名前を提案した。ユルバンはネオイッテルビウム(neoytterbium)やルテシウム(lutecium)を選択し<ref name="Fra">{{cite journal|title=Lutetium und Neoytterbium oder Cassiopeium und Aldebaranium -- Erwiderung auf den Artikel des Herrn Auer v. Welsbach.|date=1909|journal=Monatshefte für Chemie|volume=31|issue=10|doi=10.1007/BF01530262|first=G. |last=Urbain|page=1|url=https://zenodo.org/record/1859372}}</ref>、ヴェルスバッハはアルデバラニウム(aldebaranium)やカシオペウム(cassiopeium)([[アルデバラン]]と[[カシオペヤ座]]にちなむ)を選択した<ref name="Deu">{{cite journal|title=Die Zerlegung des Ytterbiums in seine Elemente|trans-title=Resolution of ytterbium into its elements|journal=Monatshefte für Chemie|volume=29|issue=2|date=1908|url=http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015036977471;view=1up;seq=193|doi=10.1007/BF01558944|pages=181–225, 191|first=Carl A. von|last=Welsbach}} On page 191, Welsbach suggested names for the two new elements: ''"Ich beantrage für das an das Thulium, beziehungsweise Erbium sich anschließende, in dem vorstehenden Teile dieser Abhandlung mit Yb II bezeichnete Element die Benennung: Aldebaranium mit dem Zeichen Ad — und für das zweite, in dieser Arbeit mit Yb I bezeichnete Element, das letzte in der Reihe der seltenen Erden, die Benennung: Cassiopeïum mit dem Zeichen Cp."'' (I request for the element that is attached to thulium or erbium and that was denoted by Yb II in the above part of this paper, the designation "Aldebaranium" with the symbol Ad — and for the element that was denoted in this work by Yb I, the last in the series of the rare earths, the designation "Cassiopeïum" with the symbol Cp.)</ref>。これらの論文は両方とも自身の結果に基づいてもう1人を非難した<ref name="Weeks">{{cite book |last1=Weeks |first1=Mary Elvira |title=The discovery of the elements |date=1956 |publisher=Journal of Chemical Education |location=Easton, PA |url=https://archive.org/details/discoveryoftheel002045mbp |edition=6th }}</ref><ref name="XVI">{{cite journal | author = Weeks, Mary Elvira |authorlink=Mary Elvira Weeks| title = The discovery of the elements: XVI. The rare earth elements | journal = Journal of Chemical Education | year = 1932 | volume = 9 | issue = 10 | pages = 1751&ndash;1773 | doi = 10.1021/ed009p1751 | bibcode=1932JChEd...9.1751W}}</ref><ref name="Beginnings">{{cite journal |last1=Marshall |first1=James L. Marshall |last2=Marshall |first2=Virginia R. Marshall |title=Rediscovery of the elements: The Rare Earths–The Beginnings |journal=The Hexagon |date=2015 |pages=41–45 |url=http://www.chem.unt.edu/~jimm/REDISCOVERY%207-09-2018/Hexagon%20Articles/rare%20earths%20I.pdf |accessdate=30 December 2019}}</ref><ref name="Virginia">{{cite journal |last1=Marshall |first1=James L. Marshall |last2=Marshall |first2=Virginia R. Marshall |title=Rediscovery of the elements: The Rare Earths–The Confusing Years |journal=The Hexagon |date=2015 |pages=72–77 |url=http://www.chem.unt.edu/~jimm/REDISCOVERY%207-09-2018/Hexagon%20Articles/rare%20earths%20II.pdf |accessdate=30 December 2019}}</ref><ref name="Marshall">{{cite journal |last1=Marshall |first1=James L. Marshall |last2=Marshall |first2=Virginia R. Marshall |title=Rediscovery of the elements: The Rare Earths–The Last Member |journal=The Hexagon |date=2016 |pages=4–9 |url=https://chemistry.unt.edu/sites/default/files/users/owj0001/rare%20earths%20III_0.pdf |accessdate=30 December 2019}}</ref>。 当時、新元素の名前の帰属を任されていた{{仮リンク|同位体存在度委員会|en|Commission on Isotopic Abundances and Atomic Weights}}は、マリニャックのイッテルビウムからのルテチウムの分離がユルバンによって最初に記述されたという事実に基づきユルバンに優先権を与え、彼が提案した名前を公式の名前として採用し1909年にこの論争は解決した<ref name="1st"/>。しかし、ユルバンが提案した名前が承認された後はネオイッテルビウムはイッテルビウムに戻った。1950年代までドイツ語を話す化学者の中にはルテチウムをヴェルスバッハが提案した名前であるカシオペウムと呼ぶ者もいた。1949年に綴りがlutetium(ルテチウム)に変更された。この理由はヴェルスバッハの1907年のルテチウムの試料は純粋であったのに対しユルバンの1907年の試料には微量のルテチウムしか含まれていなかったためである<ref name="rare-earth-handbook">{{cite book|last1=Thyssen|first1=Pieter|last2=Binnemans|first2=Koen|editor1-last=Gschneider|editor1-first=Karl A., Jr.|editor2-last=Bünzli|editor2-first=Jean-Claude|editor3-last=Pecharsky|editor3-first=Vitalij K.|chapter=Accommodation of the Rare Earths in the Periodic Table: A Historical Analysis|title=Handbook on the Physics and Chemistry of Rare Earths|date=2011|page=63|publisher=Elsevier|location=Amsterdam|isbn=978-0-444-53590-0|oclc=690920513|chapter-url=https://books.google.com/books?id=8SstnPFSzb0C&pg=PA66#v=onepage&q&f=false|accessdate=2013-04-25}}</ref>。後にこのことによりユルバンは元素72を発見したと誤解しこれにセルチウムと名付けたが、実際にはこれは非常に純粋なルテチウムであった。元素72に関するユルバンの研究が信用を失うと元素71に関するヴェルスバッハの研究が再評価され、しばらくの間ドイツ語圏の国ではカシオペウムに改名されていた<ref name="rare-earth-handbook"/>。優先権主張の対象から外れたチャールズ・ジェームスはずっと大規模に研究し、当時最大のルテチウム供給量を保持していた<ref name="Emsley240">{{cite book| pages=240–242| url =https://books.google.com/books?id=Yhi5X7OwuGkC&pg=PA241| title =Nature's building blocks: an A-Z guide to the elements|first =John|last=Emsley| publisher=Oxford University Press| isbn = 978-0-19-850341-5| date=2001}}</ref>。純粋なルテチウム金属は1953年に初めて製造された<ref name="Emsley240"/>。 ==発生・製造== [[Image:Monazit - Mosambik, O-Afrika.jpg|thumb|モナザイト]] ルテチウムは他の全てのすべての希土類金属で見つかるがルテチウムだけでは見つからず、他の元素から分離することは非常に難しい。主な商業的供給源は希土類の[[リン酸塩]]鉱物である[[モナザイト]]([[セリウム|Ce]],[[ランタン|La]],...){{chem|[[リン|P]]|[[酸素|O]]|4}}<!----please don't touch the formula---->を処理したときの副産物であるがその濃度はたった0.0001%である<ref name=aaaaaa/>が、地殻中のルテチウムの存在量である約0.5&nbsp;mg/kgとあまり変わらない。ルテチウムを主成分とする鉱物は現在のところ知られていない<ref>{{cite web |url=https://www.mindat.org/ |title=Mindat.org |author=Hudson Institute of Mineralogy |date=1993–2018 |website=www.mindat.org |access-date=14 January 2018}}</ref>。主な採掘地域は中国、米国、ブラジル、インド、スリランカ、オーストラリアである。世界のルテチウムの生産量(酸化物で)は年間約10トンである<ref name="Emsley240"/>。純粋なルテチウム金属は調製が非常に難しい。希土類元素の中で最も希少で最も高価な金属の1つであり、価格は1キログラムあたり10,000アメリカドルで、[[金]]の約4分の1である<ref>{{cite news| publisher = USGS| title =Rare-Earth Metals| author = Hedrick, James B. | accessdate = 2009-06-06| url =http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/rare_earths/740798.pdf}}</ref><ref>{{cite book|title=Industrial Minerals and Rocks |chapter=Rare Earth Elements |author=Castor, Stephen B. |author2=Hedrick, James B. |publisher=Society for Mining, Metallurgy and Exploration |chapter-url=http://www.rareelementresources.com/i/pdf/RareEarths-CastorHedrickIMAR7.pdf |editor=Jessica Elzea Kogel, Nikhil C. Trivedi and James M. Barker |year=2006 |pages=769–792 |url-status=bot: unknown |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091007100717/http://www.rareelementresources.com/i/pdf/RareEarths-CastorHedrickIMAR7.pdf |archivedate=2009-10-07 }}</ref>。 粉砕された鉱物は高温の濃[[硫酸]]で処理され、希土類の水溶性硫酸塩を生成する。[[トリウム]]は水酸化物として溶液から沈殿し取り除かれる。その後溶液は[[シュウ酸アンモニウム]]で処理され希土類は不溶性のシュウ酸塩に変換される。シュウ酸塩はアニーリングにより酸化物に変換される。酸化物は[[硝酸]]に溶かされて主要な成分である[[セリウム]](酸化物が硝酸に不溶)を取り除く。ルテシウム含むいくつかの希土類金属は結晶化により[[硝酸アンモニウム]]との複塩として分離される。この過程では希土類イオンは樹脂に存在する水素、アンモニウム、または同イオンと交換することで適切なイオン交換樹脂に吸着される。ルテチウム塩は適切な錯化剤により選択的に洗い流される。次にルテチウム金属は[[アルカリ金属]]または[[アルカリ土類金属]]のいずれかによる無水Lu[[塩素|Cl]]<sub>3</sub>またはLu[[フッ素|F]]<sub>3</sub>の還元により得られる<ref name=patnaik>{{cite book|last =Patnaik|first =Pradyot|date = 2003|title =Handbook of Inorganic Chemical Compounds|publisher = McGraw-Hill|page = 510|isbn =978-0-07-049439-8|url= https://books.google.com/books?id=Xqj-TTzkvTEC&pg=PA243|accessdate = 2009-06-06}}</ref>。 :2 LuCl<sub>3</sub> + 3 Ca → 2 Lu + 3 CaCl<sub>2</sub> ==用途== 生産が難しく価格が高く、他のランタノイドよりも希少であるが化学的にはあまり変わらないため商業的な用途はほとんどない。しかし、安定したルテチウムは[[製油所]]の[[石油]][[クラッキング (化学)|クラッキング]]の[[触媒]]として使用することができ、アルキル化、[[水素化]]、[[重合]]の用途にも使用できる<ref>{{RubberBible86th}}</ref>。 {{仮リンク|ルテチウムアルミニウムガーネット|en|Lutetium aluminium garnet}}(Al<sub>5</sub>Lu<sub>3</sub>O<sub>12</sub>)は、高い[[屈折率]]の[[液浸]]リソグラフィにおけるレンズ材料として使用することが提案されている<ref>{{cite book| page=12| url=https://books.google.com/books?id=Sx39H8XR1FcC&pg=PA12| title =Advanced Processes for 193-NM Immersion Lithography| author =Wei, Yayi | author2 =Brainard, Robert L. | publisher=SPIE Press| date = 2009| isbn =978-0-8194-7557-2}}</ref>。さらに[[磁気バブル]]メモリデバイスで使用されている{{仮リンク|ガドリニウムガリウムガーネット|en|gadolinium gallium garnet}}(GGG)に少量のルテチウムが[[ドーパント]]として添加されている<ref>{{Cite journal | doi = 10.1007/BF02655293| title = Three garnet compositions for bubble domain memories| journal = Journal of Electronic Materials| volume = 3| issue = 3| pages = 693–707| year = 1974| last1 = Nielsen | first1 = J. W.| last2 = Blank | first2 = S. L.| last3 = Smith | first3 = D. H.| last4 = Vella-Coleiro | first4 = G. P.| last5 = Hagedorn | first5 = F. B.| last6 = Barns | first6 = R. L.| last7 = Biolsi | first7 = W. A.| bibcode = 1974JEMat...3..693N}}</ref>。セリウムをドープしたルテチウムオキシオルトシリケート(LSO)は現在[[ポジトロン断層法]](PET)の検出器で好まれる化合物である<ref>{{cite book| author = Wahl, R. L. |chapter = Instrumentation| title = Principles and Practice of Positron Emission Tomography| location = Philadelphia: Lippincott| publisher = Williams and Wilkins| date= 2002| page =51}}</ref><ref>{{Cite journal | doi = 10.1109/23.256710| title = Evaluation of cerium doped lutetium oxyorthosilicate (LSO) scintillation crystals for PET| journal = IEEE Transactions on Nuclear Science| volume = 40| issue = 4| pages = 1045–1047| year = 1993| last1 = Daghighian | first1 = F.| last2 = Shenderov | first2 = P.| last3 = Pentlow | first3 = K. S. | last4 = Graham | first4 = M. C. | last5 = Eshaghian | first5 = B.| last6 = Melcher | first6 = C. L. | last7 = Schweitzer | first7 = J. S. | bibcode = 1993ITNS...40.1045D| url = https://semanticscholar.org/paper/6eb9620c800eadbc6d164cb40dfa2289bbaa69d8}}</ref>。ルテチウムアルミニウムガーネット(LuAG)はLED電球の蛍光体として使用される<ref>{{cite web|first=Steve|last=Bush|title=Discussing LED lighting phosphors|url=http://www.electronicsweekly.com/news/products/led/discussing-led-lighting-phosphors-2014-03/|publisher=Electronic Weekly|date=14 March 2014|accessdate=26 January 2017}}</ref><ref>{{cite journal|title = A19 LED bulbs: What's under the frosting?|journal = EE Times|issue = July 18|date = 2011|issn = 0192-1541|pages = 44–45|author = Simard-Normandin, Martine }}</ref>。 安定したルテチウムの他に放射性同位体にもいくつか特定の用途がある。ルテチウム176は半減期と崩壊モードが適していることから、{{仮リンク|中性子活性化|en|neutron activation}}にさらされたルテチウムを用いた純粋なベータ放射体として、また、[[隕石]]の年代を測定する[[ルテチウム-ハフニウム法]]にも使用される<ref>{{cite book| page=51| url=https://books.google.com/books?id=3uYmP0K5PXEC&pg=PA52| title =Lectures in Astrobiology| author = Muriel Gargaud| author2 = Hervé Martin| author3 = Philippe Claeys|publisher= Springer|date = 2007| isbn =978-3-540-33692-1}}</ref>。[[ドータオクトレオテート]]と結合した人工同位体ルテチウム177([[ソマトスタチン]]の類似物)は、実験的に[[神経内分泌腫瘍]]の標的[[放射性核種]]療法で使用される<ref>{{cite book| page=98| url=https://books.google.com/books?id=ZtRdbUNbPn8C&pg=PA98| title =Metal complexes in tumor diagnosis and as anticancer agents| author=Sigel, Helmut | publisher=CRC Press| date =2004| isbn =978-0-8247-5494-5}}</ref>。実際、ルテチウム177は神経内分泌腫瘍療法や骨痛緩和のための放射性核種としての使用が増えている<ref>{{Cite journal | pmid = 25771367 | year = 2015 | last1 = Balter | first1 = H. | title = 177Lu-Labeled Agents for Neuroendocrine Tumor Therapy and Bone Pain Palliation in Uruguay | journal = Current Radiopharmaceuticals | volume = 9 | issue = 1 | pages = 85–93 | last2 = Trindade | first2 = V. | last3 = Terán | first3 = M. | last4 = Gaudiano | first4 = J. | last5 = Ferrando | first5 = R. | last6 = Paolino | first6 = A. | last7 = Rodriguez | first7 = G. | last8 = Hermida | first8 = J. | last9 = De Marco | first9 = E. | last10 = Oliver | first10 = P. | doi = 10.2174/1874471008666150313112620 }}</ref><ref>{{Cite journal | pmid = 25771368 | year = 2015 | last1 = Carollo | first1 = A. | title = Lutetium-177 Labeled Peptides: The European Institute of Oncology Experience | journal = Current Radiopharmaceuticals | volume = 9 | issue = 1 | pages = 19–32 | last2 = Papi | first2 = S. | last3 = Chinol | first3 = M. | doi = 10.2174/1874471008666150313111633 }}</ref>。研究においては、ルテチウムイオン原子時計が既存の原子時計よりも高い精度を提供できることが示されている<ref>{{cite journal | first1 = K.J. | last1 = Arnold | first2 = R. | last2 = Kaewuam | first3 = A. | last3 = Roy | first4 = T.R. | last4 = Tan | first5 = M.D. | last5 = Barrett | title = Blackbody radiation shift assessment for a lutetium ion clock | journal = Nature Communications | volume = 9 | issue = 1 | pages = 1650 | year=2018 | doi=10.1038/s41467-018-04079-x | pmid = 29695720 | pmc = 5917023 | bibcode = 2018NatCo...9.1650A | arxiv = 1712.00240 }}</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASRC2566LRC1ULBH00S.html 宇宙の歴史探る「時計」に活用 ルテチウム176の半減期問題を解明(朝日新聞、2023年11月3日)]</ref>。 {{仮リンク|タンタル酸ルテチウム|en|Lutetium tantalate}} (LuTaO<sub>4</sub>) は最も密度の高い安定な白色物質と知られている(密度9.81&nbsp;g/cm<sup>3</sup>))<ref name=lu1>{{Cite journal| first1 = G.| first2 = G.| first3 = L.| first4 = M. | title = Luminescence of materials based on LuTaO4| last1 = Blasse | author-link1 = George Blasse | journal = Journal of Alloys and Compounds | volume = 209 | issue = 1–2| pages = 1–2 | year = 1994 | doi = 10.1016/0925-8388(94)91069-3| last2 = Dirksen| last3 = Brixner| last4 = Crawford}}</ref>。それゆえ理想的なX線蛍光体である<ref>{{cite book| url = https://books.google.com/books?id=lWlcJEDukRIC&pg=PA846| page=846|title = Phosphor handbook| author = Shionoya, Shigeo | publisher= CRC Press| date = 1998| isbn =978-0-8493-7560-6}}</ref><ref name=appl>{{cite book| page = 32| url = https://books.google.com/books?id=F0Bte_XhzoAC&pg=PA32| title = Extractive metallurgy of rare earths| author = Gupta, C. K. | author2 = Krishnamurthy, Nagaiyar | publisher =CRC Press| date = 2004| isbn =978-0-415-33340-5}}</ref>。唯一これより密度の高い白色物質は[[二酸化トリウム]]であり、密度は10&nbsp;g/cm<sup>3</sup>であるが、含まれるトリウムは放射性である。 ==注意点== ルテチウムは他の[[希土類元素]]と同様に毒性が低いと考えられているが、化合物は慎重に扱うべきである。例えば、フッ化ルテチウムの吸入は危険であり、化合物は皮膚を刺激する<ref name=aaaaaa/>。硝酸ルテチウムは一度加熱すると爆発してやけどする可能性があり危険な場合がある。酸化ルテチウムの粉末は吸入したり摂取したりすると同様に有毒である<ref name=aaaaaa/>。 他の希土類元素と同様にルテチウムは生物学的な役割は知られていないが、ヒトでも発見されており、骨に集中しており肝臓や腎臓では骨よりは少ないが存在する<ref name="Emsley240"/>。ルテチウム塩は自然界で他のランタノイド塩と一緒に生じることが知られており、人体で最も少ないランタノイドである<ref name="Emsley240"/>。ヒトの食事ではルテチウム含有量について調べられていないため、ヒトが平均的に摂取する量は不明であるが、推定ではその量は年間数マイクログラムに過ぎず、すべて植物が摂取した少量のルテチウムに由来する。可溶性のルテチウム塩は少し毒性があるが、不溶性のものはそうではない<ref name="Emsley240"/>。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} {{Commons|Lutetium}} {{元素周期表}} {{ルテチウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:るてちうむ}} [[Category:ルテチウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:ランタノイド]] [[Category:第6周期元素]]
2003-06-26T11:22:45Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%81%E3%82%A6%E3%83%A0
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ノーベリウム
ノーベリウム (英: nobelium [noʊˈbɛliəm, noʊˈbiːliəm]) は原子番号102の人工放射性元素で、元素記号は No である。名称はダイナマイトの開発者で科学を後援したアルフレッド・ノーベルに由来する。放射性金属、10番目の超ウラン元素で、アクチノイド系列の末尾の数字から2番目の元素である。原子番号が100を超えるすべての元素と同様に、ノーベリウムは粒子加速器でそれより軽い元素に荷電粒子を衝突させることによってのみ生成することができる。ノーベリウムの同位体は12種が存在し、最も安定なものは半減期58分のNoである。Noよりも半減期が短いNo(半減期3.1分)は大規模な生成が可能で、化学分野では最も一般的に使用される。 化学実験ではノーベリウムは周期表のイッテルビウムより重い同族体として振る舞うことが確認されている。ノーベリウムの化学的性質は完全判明しておらず、ほとんどは水溶液中でのみ知られる。ノーベリウムが発見される以前は、ほかのアクチノイドに特徴的な+3の酸化数と同様に安定な+2状態を示すと予想されていたが、のちに水溶液中では +2 が +3 よりもはるかに安定で、ノーベリウムを+3状態に保つことが難しいことが判明して予想は確認された。 1950年代と1960年代にスウェーデン、ソ連、アメリカ合衆国の研究所からノーベリウムの発見について多くの主張がなされた。スウェーデンの科学者はすぐにその主張を撤回したが、発見の優先度と元素の命名についてソ連とアメリカの科学者の間で論争となった。IUPAC は1997年にソ連による発見を認めたが、スウェーデンが提案したノーベリウムの名称は、文献で長年使用されていたことから維持された。 元素102の発見には複雑な過程があり、スウェーデン、ソ連、アメリカ合衆国のグループにより発見が主張された。検出に関して最初の完全で議論の余地がない報告は、1996年に当時ソ連のドゥブナ合同原子核研究所からされたものである。 元素102の発見について最初の発表は、1957年にスウェーデンのノーベル研究所の物理学者らによるものである。研究チームはキュリウムの標的粒子にCイオンを30分間隔で25時間照射したことを報告した。照射の間、ターゲットのイオン交換化学が行われた。50回の照射のうち12回は (8.5±0.1) メガ電子ボルト (MeV) のアルファ粒子を放出する試料を含んでいたが、これはフェルミウム(原子番号 Z=100)およびカリホルニウム (Z=98) よりも早く溶出する滴形状の試料であった。報告された半減期は10分で、102 もしくは 102 が割り当てられたが、観測されたアルファ粒子が元素102の電子捕獲により生じた短命のメンデレビウム (Z=101) の同位体に由来する可能性を排除することができなかった。チームがこの新元素にノーベリウム (nobelium, No) の名称を提案すると IUPAC はすぐにこの名称を承認したが、ドゥブナのグループは1968年の時点では早急であったとしている。1958年にアメリカローレンス・バークレー国立研究所の科学者たちは実験を繰り返したが、背景効果がない 8.5 MeV の現象を見つけることはできなかった。 1959年にスウェーデンのチームは、1958年にバークレーのチームが元素102を検出できなかったことの説明を試み、自身が発見したことを支持した。のちの研究により半減期が3分を超える No よりも軽いノーベリウムの同位体は存在せず、スウェーデンの実験ではそれよりも重い同位体は生成できず、スウェーデンのチームの結果は半減期が8分で、すぐにトリプルアルファ崩壊を経て 8.53612MeV の崩壊エネルギーを持つPoに変化する Th によるものである可能性が高いことが示された。この仮説は Th が使用された反応で容易に生成され、使用された化学的手法では分離されない事実により重みづけられている。後年の研究で、2価の状態は3価の状態よりも安定で、アルファ粒子を放出する試料にはノーベリウムが含まれていないことが示された。2価のノーベリウムは他の3価のアクチノイドでは溶出しなかった。これらの結果からスウェーデンは主張を撤回してその活動を背景効果に関連付けた。 アルバート・ギオルソ、グレン・シーボーグ、John R. Walton、Torbjørn Sikkeland からなるバークレーのチームは、1958年に元素102の合成を主張した。このチームは新たな重イオン線形加速器 (HILAC) を用いてキュリウム(Cm 95%、Cm 5%)に C と C イオンを衝突させた。彼らはスウェーデンのチームにより主張された 8.5MeV の活動を確認することはできなかったが、フェルミウム250からの崩壊を検出することができた。これは見かけの半減期が約3秒である 102( Cmから生成された)の娘粒子である。のちの1963年のドゥブナの研究でも 102 がこの反応で生成されることが確認されたが、その半減期は実際には50±10秒であった。1967年にバークレーのチームは、発見された同位体は確かに Fm であったが、半減期測定が実際に関係していた同位体は Cf であって、これはより多い Cm から生成された孫娘粒子である崩壊生成物であったと述べ、自身の研究を擁護しようとした。エネルギーの違いはこれまで報告されていなかった「分解能とドリフトの問題」に起因したもので、他の結果にも影響を与えていたはずである。1877年の実験で 102 は実際に2.3秒の半減期を持つことが示された。1973年の研究で、 Fm の反跳も使われるエネルギーで反応中に形成された可能性のある Fm の異性体転移(半減期1.8秒)から容易に生成されたことも示されている。このことから、この実験ではノーベリウムは実際には生成されなかった可能性が高い。 1959年に、チームは研究を続けておもに 8.3MeV のアルファ粒子を放出して崩壊し、半減期3秒で30%の自発核分裂分岐を伴う同位体を生成できた、と主張した。この活動は当初 102 とされていたが、のちに 102 に変更され、困難な条件のためにノーベリウムが生成されたことは確実ではないことも言及した。バークレーのチームは、スウェーデンのチームが提案したノーベリウムという元素名を採用することを決定した。 ドゥブナでは1958年と1960年に元素102の合成を目指した実験が行われた。最初の1958年の実験ではPuにOイオンを衝突させた。8.5 MeVを超えるエネルギーを持つアルファ崩壊がいくつか観測され、102が割り当てられたが、チームは鉛やビスマスの不純物から同位体が生成されてしまった(ノーベリウムは生成されない)可能性を除外できないと書いている。後に行われた1958年の実験では水銀、タリウム、鉛、ビスマスの不純物から新しい同位体が生成されることが指摘されたが、科学者たちは半減期が30秒以下、崩壊エネルギーが8.8 ± 0.5 MeVであることに言及し、この反応から元素102が生成されるという結論を支持していた。後の1960年の実験ではこれらが背景効果であることが証明された。1967年の実験でも崩壊エネルギーは8.6 ± 0.4 MeVまで下がったが、いずれもNoやNoの値と一致するには高すぎる値であった。その後ドゥブナのチームはまず1970年に、そして1987年に再度これらの結果は決定的なものではないと述べている。 1961年、バークレーの科学者たちはカリホルニウムとホウ素イオンと炭素イオンの反応で元素103を発見したと主張した。彼らは同位体103の生成を主張し、また、15秒の半減期とアルファ崩壊のエネルギー8.2 MeVを持つ元素102のアルファ崩壊同位体を合成したと主張し、これを102に割り当てたが、その理由は示さなかった。この値は現在知られているNoの値と一致しているが、Noについて現在知られている値とは一致しておらず、この同位体が今回の実験で一役買っていたと考えられるもその発見は決定的なものではなかった。 ドゥブナでも元素102の研究は続けられ、1964年にはUとネオンイオンの反応によって元素102を合成し、元素102のアルファ崩壊の娘粒子を検出する実験が行われた。生成物を銀キャッチャー箔で運び化学的に精製し、同位体FmとFmが検出され、この実験でFmが得られたことは親粒子にあたる102も合成された証拠と解釈された。この反応では余剰な中性子と同時にアルファ粒子が放出されてFmが直接生成される可能性もあるが、Fmがキャッチャー箔に直接行かないようにする措置がとられた。102に対して検出された半減期は8秒であり、これはもっと新しい1967年の値である(3.2 ± 0.2)秒よりもずっと大きい。1966年には102に向けてAm(N,4n)102とU(Ne,6n)102の反応を用いた実験が行われ、半減期が(50 ± 10)秒であることが分かった。当時はこの値とそれより早いバークレーの実験の値の矛盾は理解されなかったが、後の研究によりFmの異性体の形成の可能性はバークレーの実験よりもドゥブナの実験の方が低いことが分かった。今から考えると102についてのドゥブナの実験結果はおそらく正しいものであり、現在では元素102の決定的な検出と考えられている。 再度同じ2つの反応を使用したドゥブナによる非常に説得力のあるさらなる実験が1966年に発表され、102は実際にはバークレーが主張する3秒よりもはるかに長い半減期を持っていると結論付けられた。その後1967年にバークレーで、1971年にオークリッジ国立研究所で行われた研究で元素102の発見が完全に確認され、それ以前の観測がはっきりした。1966年12月、バークレーのグループはドゥブナの実験を繰り返しこれを完全に確認し、このデータを用いて以前に合成したが当時はまだ同定できなかった同位体を最終的に割り当て、1958年から1961年にノーベリウムを発見したと主張した。 1969年、ドゥブナのチームは元素102の化学実験を行い、イッテルビウムの重い同族体として振る舞うという結論を出した。ロシアの科学者たちはそのころ死去したイレーヌ・ジョリオ=キュリーにちなんでジョリオチウム(joliotium, Jo)という名前を提案した。これにより元素の命名について論争が生まれ、これは数十年にわたって解決されず、それぞれのグループが自身が提案した名称を使用していた。 1992年、IUPAC-IUPAP Transfermium Working Group (TWG) は発見の主張を再評価し、1966年のドゥブナの研究のみが原子番号102の原子核を正しく検出し、崩壊を割り当てたと結論付けた。したがって、1959年にバークレーでノーベリウムが検出された可能性はあるが、ドゥブナのチームがノーベリウムを発見したと公式に認められている。しかし、この決定は翌年にバークレーに批判された。彼らは元素101から103までの事例の再開は「時間の無駄」と断じたが、ドゥブナはIUPACの決定に同意した。 1994年、元素の命名についての論争を解決する試みの一環としてIUPACは101から109の元素の名前を批准した。元素102についてはここ30年の間に文献に定着していたこと、及びアルフレッド・ノーベルがこのような形で記念されるべきであるとしてノーベリウムという名前を批准した。この発見者の選択を尊重していない決定に対する反発によりコメント期間が設けられ、1995年にIUPACは新たな提案の一部としてゲオルギー・フリョロフまたはフリョロフ核反応研究所のいずれかにちなみ元素102をフレロビウム(flerovium, Fl)と命名した。この提案も受け入れられず、1997年にノーベリウムという名称に戻った。今日、フレロビウムという名称は同じ元素記号で元素114を指す。 周期表において、ノーベリウムはアクチノイドであるメンデレビウムの右、同じくアクチノイドであるローレンシウムの左、ランタノイドのイッテルビウムの下に位置している。ノーベリウムの金属はまだバルク量では調製されておらず、バルク調製は現在のところ不可能である。しかし、その特性に関して多くの予測といくつかの予備的な実験結果が行なわれている。 ランタノイド及びアクチノイドは金属状態では2価の金属(ユウロピウムやイッテルビウム)または3価の金属(他のほとんどのランタノイド)のいずれかとして存在する。前者はfs配置を有するのに対し、後者はfds配置を有する。1975年、JohanssonとRosengrenは2価と3価の金属ランタノイドと金属アクチノイドの凝集エネルギー(結晶化のエンタルピー)の測定値と予測値を研究した。結論はノーベリウムの[Rn]5f7s配置に対する[Rn]5f6d7s配置の結合エネルギーの増加は、ずっと後半のアクチノイドにも当てはまるように1個の5f電子を6dに促進するのに必要なエネルギーを保証するのに十分ではないというものであった。したがって、アインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウムおよびノーベリウムは2価の金属であると予想されたが、この予想は未だ確認されていない。アクチノイド系列の最後に行くずっと前に2価の状態が優勢になるのは、原子番号の増加に伴って増加する5f電子の相対論的安定化に起因する。この効果はノーベリウムが他のすべてのランタノイドやアクチノイドとは異なり主に3価ではなく2価になることである。1986年に金属ノーベリウムの昇華エンタルピーは126 kJ/molと推定され、この値はアインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウムの値に近く、ノーベリウムが2価の金属を形成するという理論を支持している。他の2価の後半のアクチノイド(3価のローレンシウムを除く)と同様、金属ノーベリウムは面心立方晶構造を仮定する。2価のノーベリウム金属は約197 pmとされている。ノーベリウムの融点は827 °Cと予測されており、隣のメンデレビウムの予測値と同じ値である。密度は約9.9 ± 0.4 g/cmと予測されている。 ノーベリウムの化学的性質は未解明のところが多く、水溶液中のものしか知られていない。水溶液中では+3か+2の酸化数をとることができるが、後者の方が安定である。ノーベリウム発見以前は、溶液中での元素102の振る舞いは他のアクチノイドとの類推から、3価の状態が安定であると予想されてきた。しかし、シーボーグは1949年にNoイオンが充填した[Rn]5f殻を含む基底状態の電子配置を持つことから、+2の酸化数も比較的安定であることを予測し、19年後にこの仮説が実証された。 1967年、ノーベリウムの化学的振る舞いをテルビウム、カリホルニウム、フェルミウムのものと比較する実験が行われた。4つの元素全てを塩素と反応させ、得られた塩化物をチューブに沿って堆積させ、それに沿って気体により移動させた。その結果生成されたノーベリウム塩化物は固体表面に強く吸着し他の3元素の塩化物のように揮発性ではないことが分かった。しかしNoCl2とNoCl3の両方とも不揮発性を示すと予想されていたため、この実験ではノーベリウムの好ましい酸化状態が何であるかについては結論が出なかったが、翌年陽イオン交換クロマトグラフィーと共沈実験が約5万個のNo原子で実験され、ノーベリウムは+2の酸化数を好むという結論が出た。これにより、強い酸化剤が存在しない場合、溶液中でのノーベリウムは2価の状態が最も安定であることが示された。Noイオンは他のアクチノイドとは異なり、2価のアルカリ土類金属に近い振る舞いを示し、クエン酸、シュウ酸、酢酸との間に錯体を形成することが知られている。 1974年に行われた実験ではノーベリウムはアルカリ土類金属とCaとSrの間で溶出することが示された。ノーベリウムは水溶液中で+2の酸化数が最も一般的で安定な唯一知られているfブロック元素である。これはアクチノイド系列の末端にある5f軌道と6d軌道の間に大きなエネルギーギャップがあるためである。 7s亜殻の相対論的安定化は二水素化ノーベリウムNoH2を大きく不安定化させ、6d3/2スピノル以上の7p1/2スピノルの相対論的安定化はノーベリウム原子の励起状態が予想される6dの寄与ではなく、7sと7pの寄与を持つことを意味する。NoH2分子における長いNo-Hの距離と大きい電荷移動が、この分子の双極子モーメントが5.94 Dと極端なイオン性につながっている。この分子ではノーベリウムが典型元素のような振る舞いを示すことが予測されており、具体的にはそのns価電子殻配置とコアのような5f軌道を持つアルカリ土類金属のような振る舞いをする。 ノーベリウムの塩化物イオンと錯体形成する能力は、バリウムのそれに最も似ており、むしろ弱く錯体形成する。0.5M硝酸アンモニウム水溶液中のクエン酸塩、シュウ酸塩、酢酸塩と錯体形成する能力は、カルシウムとストロンチウムの間であるが、ストロンチウムのそれに幾らか近い。 E°(No→No)カップルの標準酸化還元電位は1967年に+1.4から+1.5Vと推定されたが、後の2009年に約+0.75Vであることが判明した。正の値であることはNoがNoよりも安定でありNoが優れた酸化剤であることを示している。E°(No→No)とE°(No→No)の値は情報ソースにより異なるが、標準的な推定値は−2.61と−1.26Vである。E°(No→No)カップルの値は+6.5Vになると予測されている。NoとNo形成のギブスの自由エネルギーはそれぞれ−342kJ/molと−480kJ/molと推定されている。 ノーベリウム原子には102個の電子があり、そのうち3つが価電子としてはたらく。これらは[Rn]5f7s(基底状態項記号S0)の配置であることが予測されているが、この電子配置の実験的検証は2006年現在では行われていない。化合物を形成するときには3つの価電子が全て失われ、[Rn]5fコアが残る可能性がある。このことは[Rn]5f電子配置が3価状態である傾向に一致する。しかしながら、2つの価電子のみが失われ5f殻が満たされ安定した[Rn]5fコアが残る可能性の方が高い。ノーベリウムの第1イオン化ポテンシャルは7s電子が5f電子の前にイオン化するという仮定に基づき1974年に最大(6.65 ± 0.07) eVと測定された。この値はノーベリウムが希少であり高い放射能を持っているという理由から、さらに洗練はされていない。6配位と8配位のNoのイオン半径は1978年にそれぞれ約90pmと102pmと概算されていた。Noのイオン半径は2つの有効数字に対して実験的に100pmであることが分かっている。Noの水和エンタルピーは1486kJ/molと計算されている。 ノーベリウムの同位体、質量数250から260と262の12種類が知られており、全て放射性同位体である。さらに、質量数251、253、254の核異性体が知られている。これらのうち最も長寿命である同位体は半減期58分のNoであり、最も長寿命である異性体は半減期1.7秒のNoである。しかし、まだ発見されていない同位体であるNoはそれより長い170分の半減期を持つと予測されている。短寿命のNo(半減期3.1分)はCfにCイオンを照射することで大量に生成できるため、化学実験によく用いられている。NoとNoの次に安定なノーベリウムの同位体はNo(半減期1.62分)、No(51秒)、No(25秒)、No(2.91秒)、No(2.57秒)である。残りのノーベリウムの同位体は全て半減期が1秒以下であり、最も短寿命なノーベリウムの同位体(No)は半減期が0.25ミリ秒である。同位体NoはPaからRgまでの一連の扁長核の中間にあり、その核異性体(うち2つが知られている)の形成は球状の陽子殻のすぐ上にくる2f5/2のような陽子軌道により制御されているため、理論的には特に興味深い。これはPbとCaを反応させることで合成できる。 ノーベリウムの同位体の半減期はNoからNoまではなめらかに増加するが、Noで沈み、これを超えると自発核分裂が支配的な崩壊モードとなって偶数-偶数ノーベリウム同位体の半減期は急激に減少する。例えば、Noの半減期は3秒近くであるが、Noの半減期は1.2ミリ秒に過ぎない。このことはノーベリウムではアクチノイド系列の長寿命核の領域、すなわち安定の島に陽子の相互反発による限界があることを示している。偶数-奇数ノーベリウム同位体は質量数の増加に伴って半減期が長くなり、この傾向はNoで減少に転じる。 ノーベリウムの同位体は、Lrの娘粒子として生成されるNoを除き、そのほとんどがアクチノイドの標的粒子(ウラン、プルトニウム、キュリウム、カリホルニウム、アインスタイニウム)に衝突させることにより生成されるが、最も一般的に使用される同位体のNoはCmやCfにCを照射することにより生成される。後者の方法の方がより一般的であるとされ、Cfの350μg cmのターゲットに毎秒3兆個(3 × 10)の73MeVのCイオンを10分間照射することで、約1200個のNo原子を生成することができる。 Noが生成されると、隣のアクチノイドであるメンデレビウムを精製するために使われるのと同様の方法で分離することができる。生成されたNo原子の反跳運動量はそれらが生成されたターゲットから物理的に遠ざけるために使われ、真空中でターゲットのすぐ後ろにある金属(通常はベリリウム、アルミニウム、白金、金)の薄い箔の上に移動する。これは通常雰囲気ガス(しばしばヘリウム)でノーベリウム原子をトラップし、反応チャンバーの小さな開口部からガスジェットとともにそれを運ぶことにより結合される。長い毛細管を使用し、ヘリウムガス中に塩化カリウムのエアロゾルを含めることでノーベリウム原子を数十メートルにわたって運ぶことができる。箔上に集められたノーベリウムの薄層は箔を完全に溶解させずに希酸で除去することができる。他の3価のアクチノイドとは異なる2価の状態を形成する傾向を利用してノーベリウムを分離することができる。典型的に使われる溶出条件(固定有機相としてビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHP)、移動水相として0.05M塩酸、または陽イオン交換樹脂カラムからの溶離剤として3M塩酸を使用)では、ノーベリウムはカラムを通過して溶出するが、他の3価のアクチノイドはカラムに残る。ただし、直接「キャッチャー」金箔を使用する場合は、HDEHPを使用するクロマトグラフィー抽出カラムから溶出してノーベリウムを分離する前に陰イオン交換クロマトグラフィーを使用して金を分離する必要があるため、その過程は複雑になる。
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Walton、Torbjørn Sikkeland からなるバークレーのチームは、1958年に元素102の合成を主張した。このチームは新たな重イオン線形加速器 (HILAC) を用いてキュリウム(Cm 95%、Cm 5%)に C と C イオンを衝突させた。彼らはスウェーデンのチームにより主張された 8.5MeV の活動を確認することはできなかったが、フェルミウム250からの崩壊を検出することができた。これは見かけの半減期が約3秒である 102( Cmから生成された)の娘粒子である。のちの1963年のドゥブナの研究でも 102 がこの反応で生成されることが確認されたが、その半減期は実際には50±10秒であった。1967年にバークレーのチームは、発見された同位体は確かに Fm であったが、半減期測定が実際に関係していた同位体は Cf であって、これはより多い Cm から生成された孫娘粒子である崩壊生成物であったと述べ、自身の研究を擁護しようとした。エネルギーの違いはこれまで報告されていなかった「分解能とドリフトの問題」に起因したもので、他の結果にも影響を与えていたはずである。1877年の実験で 102 は実際に2.3秒の半減期を持つことが示された。1973年の研究で、 Fm の反跳も使われるエネルギーで反応中に形成された可能性のある Fm の異性体転移(半減期1.8秒)から容易に生成されたことも示されている。このことから、この実験ではノーベリウムは実際には生成されなかった可能性が高い。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1959年に、チームは研究を続けておもに 8.3MeV のアルファ粒子を放出して崩壊し、半減期3秒で30%の自発核分裂分岐を伴う同位体を生成できた、と主張した。この活動は当初 102 とされていたが、のちに 102 に変更され、困難な条件のためにノーベリウムが生成されたことは確実ではないことも言及した。バークレーのチームは、スウェーデンのチームが提案したノーベリウムという元素名を採用することを決定した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ドゥブナでは1958年と1960年に元素102の合成を目指した実験が行われた。最初の1958年の実験ではPuにOイオンを衝突させた。8.5 MeVを超えるエネルギーを持つアルファ崩壊がいくつか観測され、102が割り当てられたが、チームは鉛やビスマスの不純物から同位体が生成されてしまった(ノーベリウムは生成されない)可能性を除外できないと書いている。後に行われた1958年の実験では水銀、タリウム、鉛、ビスマスの不純物から新しい同位体が生成されることが指摘されたが、科学者たちは半減期が30秒以下、崩壊エネルギーが8.8 ± 0.5 MeVであることに言及し、この反応から元素102が生成されるという結論を支持していた。後の1960年の実験ではこれらが背景効果であることが証明された。1967年の実験でも崩壊エネルギーは8.6 ± 0.4 MeVまで下がったが、いずれもNoやNoの値と一致するには高すぎる値であった。その後ドゥブナのチームはまず1970年に、そして1987年に再度これらの結果は決定的なものではないと述べている。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1961年、バークレーの科学者たちはカリホルニウムとホウ素イオンと炭素イオンの反応で元素103を発見したと主張した。彼らは同位体103の生成を主張し、また、15秒の半減期とアルファ崩壊のエネルギー8.2 MeVを持つ元素102のアルファ崩壊同位体を合成したと主張し、これを102に割り当てたが、その理由は示さなかった。この値は現在知られているNoの値と一致しているが、Noについて現在知られている値とは一致しておらず、この同位体が今回の実験で一役買っていたと考えられるもその発見は決定的なものではなかった。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ドゥブナでも元素102の研究は続けられ、1964年にはUとネオンイオンの反応によって元素102を合成し、元素102のアルファ崩壊の娘粒子を検出する実験が行われた。生成物を銀キャッチャー箔で運び化学的に精製し、同位体FmとFmが検出され、この実験でFmが得られたことは親粒子にあたる102も合成された証拠と解釈された。この反応では余剰な中性子と同時にアルファ粒子が放出されてFmが直接生成される可能性もあるが、Fmがキャッチャー箔に直接行かないようにする措置がとられた。102に対して検出された半減期は8秒であり、これはもっと新しい1967年の値である(3.2 ± 0.2)秒よりもずっと大きい。1966年には102に向けてAm(N,4n)102とU(Ne,6n)102の反応を用いた実験が行われ、半減期が(50 ± 10)秒であることが分かった。当時はこの値とそれより早いバークレーの実験の値の矛盾は理解されなかったが、後の研究によりFmの異性体の形成の可能性はバークレーの実験よりもドゥブナの実験の方が低いことが分かった。今から考えると102についてのドゥブナの実験結果はおそらく正しいものであり、現在では元素102の決定的な検出と考えられている。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "再度同じ2つの反応を使用したドゥブナによる非常に説得力のあるさらなる実験が1966年に発表され、102は実際にはバークレーが主張する3秒よりもはるかに長い半減期を持っていると結論付けられた。その後1967年にバークレーで、1971年にオークリッジ国立研究所で行われた研究で元素102の発見が完全に確認され、それ以前の観測がはっきりした。1966年12月、バークレーのグループはドゥブナの実験を繰り返しこれを完全に確認し、このデータを用いて以前に合成したが当時はまだ同定できなかった同位体を最終的に割り当て、1958年から1961年にノーベリウムを発見したと主張した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1969年、ドゥブナのチームは元素102の化学実験を行い、イッテルビウムの重い同族体として振る舞うという結論を出した。ロシアの科学者たちはそのころ死去したイレーヌ・ジョリオ=キュリーにちなんでジョリオチウム(joliotium, Jo)という名前を提案した。これにより元素の命名について論争が生まれ、これは数十年にわたって解決されず、それぞれのグループが自身が提案した名称を使用していた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1992年、IUPAC-IUPAP Transfermium Working Group (TWG) は発見の主張を再評価し、1966年のドゥブナの研究のみが原子番号102の原子核を正しく検出し、崩壊を割り当てたと結論付けた。したがって、1959年にバークレーでノーベリウムが検出された可能性はあるが、ドゥブナのチームがノーベリウムを発見したと公式に認められている。しかし、この決定は翌年にバークレーに批判された。彼らは元素101から103までの事例の再開は「時間の無駄」と断じたが、ドゥブナはIUPACの決定に同意した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1994年、元素の命名についての論争を解決する試みの一環としてIUPACは101から109の元素の名前を批准した。元素102についてはここ30年の間に文献に定着していたこと、及びアルフレッド・ノーベルがこのような形で記念されるべきであるとしてノーベリウムという名前を批准した。この発見者の選択を尊重していない決定に対する反発によりコメント期間が設けられ、1995年にIUPACは新たな提案の一部としてゲオルギー・フリョロフまたはフリョロフ核反応研究所のいずれかにちなみ元素102をフレロビウム(flerovium, Fl)と命名した。この提案も受け入れられず、1997年にノーベリウムという名称に戻った。今日、フレロビウムという名称は同じ元素記号で元素114を指す。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "周期表において、ノーベリウムはアクチノイドであるメンデレビウムの右、同じくアクチノイドであるローレンシウムの左、ランタノイドのイッテルビウムの下に位置している。ノーベリウムの金属はまだバルク量では調製されておらず、バルク調製は現在のところ不可能である。しかし、その特性に関して多くの予測といくつかの予備的な実験結果が行なわれている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ランタノイド及びアクチノイドは金属状態では2価の金属(ユウロピウムやイッテルビウム)または3価の金属(他のほとんどのランタノイド)のいずれかとして存在する。前者はfs配置を有するのに対し、後者はfds配置を有する。1975年、JohanssonとRosengrenは2価と3価の金属ランタノイドと金属アクチノイドの凝集エネルギー(結晶化のエンタルピー)の測定値と予測値を研究した。結論はノーベリウムの[Rn]5f7s配置に対する[Rn]5f6d7s配置の結合エネルギーの増加は、ずっと後半のアクチノイドにも当てはまるように1個の5f電子を6dに促進するのに必要なエネルギーを保証するのに十分ではないというものであった。したがって、アインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウムおよびノーベリウムは2価の金属であると予想されたが、この予想は未だ確認されていない。アクチノイド系列の最後に行くずっと前に2価の状態が優勢になるのは、原子番号の増加に伴って増加する5f電子の相対論的安定化に起因する。この効果はノーベリウムが他のすべてのランタノイドやアクチノイドとは異なり主に3価ではなく2価になることである。1986年に金属ノーベリウムの昇華エンタルピーは126 kJ/molと推定され、この値はアインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウムの値に近く、ノーベリウムが2価の金属を形成するという理論を支持している。他の2価の後半のアクチノイド(3価のローレンシウムを除く)と同様、金属ノーベリウムは面心立方晶構造を仮定する。2価のノーベリウム金属は約197 pmとされている。ノーベリウムの融点は827 °Cと予測されており、隣のメンデレビウムの予測値と同じ値である。密度は約9.9 ± 0.4 g/cmと予測されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ノーベリウムの化学的性質は未解明のところが多く、水溶液中のものしか知られていない。水溶液中では+3か+2の酸化数をとることができるが、後者の方が安定である。ノーベリウム発見以前は、溶液中での元素102の振る舞いは他のアクチノイドとの類推から、3価の状態が安定であると予想されてきた。しかし、シーボーグは1949年にNoイオンが充填した[Rn]5f殻を含む基底状態の電子配置を持つことから、+2の酸化数も比較的安定であることを予測し、19年後にこの仮説が実証された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1967年、ノーベリウムの化学的振る舞いをテルビウム、カリホルニウム、フェルミウムのものと比較する実験が行われた。4つの元素全てを塩素と反応させ、得られた塩化物をチューブに沿って堆積させ、それに沿って気体により移動させた。その結果生成されたノーベリウム塩化物は固体表面に強く吸着し他の3元素の塩化物のように揮発性ではないことが分かった。しかしNoCl2とNoCl3の両方とも不揮発性を示すと予想されていたため、この実験ではノーベリウムの好ましい酸化状態が何であるかについては結論が出なかったが、翌年陽イオン交換クロマトグラフィーと共沈実験が約5万個のNo原子で実験され、ノーベリウムは+2の酸化数を好むという結論が出た。これにより、強い酸化剤が存在しない場合、溶液中でのノーベリウムは2価の状態が最も安定であることが示された。Noイオンは他のアクチノイドとは異なり、2価のアルカリ土類金属に近い振る舞いを示し、クエン酸、シュウ酸、酢酸との間に錯体を形成することが知られている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1974年に行われた実験ではノーベリウムはアルカリ土類金属とCaとSrの間で溶出することが示された。ノーベリウムは水溶液中で+2の酸化数が最も一般的で安定な唯一知られているfブロック元素である。これはアクチノイド系列の末端にある5f軌道と6d軌道の間に大きなエネルギーギャップがあるためである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "7s亜殻の相対論的安定化は二水素化ノーベリウムNoH2を大きく不安定化させ、6d3/2スピノル以上の7p1/2スピノルの相対論的安定化はノーベリウム原子の励起状態が予想される6dの寄与ではなく、7sと7pの寄与を持つことを意味する。NoH2分子における長いNo-Hの距離と大きい電荷移動が、この分子の双極子モーメントが5.94 Dと極端なイオン性につながっている。この分子ではノーベリウムが典型元素のような振る舞いを示すことが予測されており、具体的にはそのns価電子殻配置とコアのような5f軌道を持つアルカリ土類金属のような振る舞いをする。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ノーベリウムの塩化物イオンと錯体形成する能力は、バリウムのそれに最も似ており、むしろ弱く錯体形成する。0.5M硝酸アンモニウム水溶液中のクエン酸塩、シュウ酸塩、酢酸塩と錯体形成する能力は、カルシウムとストロンチウムの間であるが、ストロンチウムのそれに幾らか近い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "E°(No→No)カップルの標準酸化還元電位は1967年に+1.4から+1.5Vと推定されたが、後の2009年に約+0.75Vであることが判明した。正の値であることはNoがNoよりも安定でありNoが優れた酸化剤であることを示している。E°(No→No)とE°(No→No)の値は情報ソースにより異なるが、標準的な推定値は−2.61と−1.26Vである。E°(No→No)カップルの値は+6.5Vになると予測されている。NoとNo形成のギブスの自由エネルギーはそれぞれ−342kJ/molと−480kJ/molと推定されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ノーベリウム原子には102個の電子があり、そのうち3つが価電子としてはたらく。これらは[Rn]5f7s(基底状態項記号S0)の配置であることが予測されているが、この電子配置の実験的検証は2006年現在では行われていない。化合物を形成するときには3つの価電子が全て失われ、[Rn]5fコアが残る可能性がある。このことは[Rn]5f電子配置が3価状態である傾向に一致する。しかしながら、2つの価電子のみが失われ5f殻が満たされ安定した[Rn]5fコアが残る可能性の方が高い。ノーベリウムの第1イオン化ポテンシャルは7s電子が5f電子の前にイオン化するという仮定に基づき1974年に最大(6.65 ± 0.07) eVと測定された。この値はノーベリウムが希少であり高い放射能を持っているという理由から、さらに洗練はされていない。6配位と8配位のNoのイオン半径は1978年にそれぞれ約90pmと102pmと概算されていた。Noのイオン半径は2つの有効数字に対して実験的に100pmであることが分かっている。Noの水和エンタルピーは1486kJ/molと計算されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ノーベリウムの同位体、質量数250から260と262の12種類が知られており、全て放射性同位体である。さらに、質量数251、253、254の核異性体が知られている。これらのうち最も長寿命である同位体は半減期58分のNoであり、最も長寿命である異性体は半減期1.7秒のNoである。しかし、まだ発見されていない同位体であるNoはそれより長い170分の半減期を持つと予測されている。短寿命のNo(半減期3.1分)はCfにCイオンを照射することで大量に生成できるため、化学実験によく用いられている。NoとNoの次に安定なノーベリウムの同位体はNo(半減期1.62分)、No(51秒)、No(25秒)、No(2.91秒)、No(2.57秒)である。残りのノーベリウムの同位体は全て半減期が1秒以下であり、最も短寿命なノーベリウムの同位体(No)は半減期が0.25ミリ秒である。同位体NoはPaからRgまでの一連の扁長核の中間にあり、その核異性体(うち2つが知られている)の形成は球状の陽子殻のすぐ上にくる2f5/2のような陽子軌道により制御されているため、理論的には特に興味深い。これはPbとCaを反応させることで合成できる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ノーベリウムの同位体の半減期はNoからNoまではなめらかに増加するが、Noで沈み、これを超えると自発核分裂が支配的な崩壊モードとなって偶数-偶数ノーベリウム同位体の半減期は急激に減少する。例えば、Noの半減期は3秒近くであるが、Noの半減期は1.2ミリ秒に過ぎない。このことはノーベリウムではアクチノイド系列の長寿命核の領域、すなわち安定の島に陽子の相互反発による限界があることを示している。偶数-奇数ノーベリウム同位体は質量数の増加に伴って半減期が長くなり、この傾向はNoで減少に転じる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ノーベリウムの同位体は、Lrの娘粒子として生成されるNoを除き、そのほとんどがアクチノイドの標的粒子(ウラン、プルトニウム、キュリウム、カリホルニウム、アインスタイニウム)に衝突させることにより生成されるが、最も一般的に使用される同位体のNoはCmやCfにCを照射することにより生成される。後者の方法の方がより一般的であるとされ、Cfの350μg cmのターゲットに毎秒3兆個(3 × 10)の73MeVのCイオンを10分間照射することで、約1200個のNo原子を生成することができる。", "title": "精製" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Noが生成されると、隣のアクチノイドであるメンデレビウムを精製するために使われるのと同様の方法で分離することができる。生成されたNo原子の反跳運動量はそれらが生成されたターゲットから物理的に遠ざけるために使われ、真空中でターゲットのすぐ後ろにある金属(通常はベリリウム、アルミニウム、白金、金)の薄い箔の上に移動する。これは通常雰囲気ガス(しばしばヘリウム)でノーベリウム原子をトラップし、反応チャンバーの小さな開口部からガスジェットとともにそれを運ぶことにより結合される。長い毛細管を使用し、ヘリウムガス中に塩化カリウムのエアロゾルを含めることでノーベリウム原子を数十メートルにわたって運ぶことができる。箔上に集められたノーベリウムの薄層は箔を完全に溶解させずに希酸で除去することができる。他の3価のアクチノイドとは異なる2価の状態を形成する傾向を利用してノーベリウムを分離することができる。典型的に使われる溶出条件(固定有機相としてビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHP)、移動水相として0.05M塩酸、または陽イオン交換樹脂カラムからの溶離剤として3M塩酸を使用)では、ノーベリウムはカラムを通過して溶出するが、他の3価のアクチノイドはカラムに残る。ただし、直接「キャッチャー」金箔を使用する場合は、HDEHPを使用するクロマトグラフィー抽出カラムから溶出してノーベリウムを分離する前に陰イオン交換クロマトグラフィーを使用して金を分離する必要があるため、その過程は複雑になる。", "title": "精製" } ]
ノーベリウム は原子番号102の人工放射性元素で、元素記号は No である。名称はダイナマイトの開発者で科学を後援したアルフレッド・ノーベルに由来する。放射性金属、10番目の超ウラン元素で、アクチノイド系列の末尾の数字から2番目の元素である。原子番号が100を超えるすべての元素と同様に、ノーベリウムは粒子加速器でそれより軽い元素に荷電粒子を衝突させることによってのみ生成することができる。ノーベリウムの同位体は12種が存在し、最も安定なものは半減期58分の259Noである。259Noよりも半減期が短い255No(半減期3.1分)は大規模な生成が可能で、化学分野では最も一般的に使用される。 化学実験ではノーベリウムは周期表のイッテルビウムより重い同族体として振る舞うことが確認されている。ノーベリウムの化学的性質は完全判明しておらず、ほとんどは水溶液中でのみ知られる。ノーベリウムが発見される以前は、ほかのアクチノイドに特徴的な+3の酸化数と同様に安定な+2状態を示すと予想されていたが、のちに水溶液中では +2 が +3 よりもはるかに安定で、ノーベリウムを+3状態に保つことが難しいことが判明して予想は確認された。 1950年代と1960年代にスウェーデン、ソ連、アメリカ合衆国の研究所からノーベリウムの発見について多くの主張がなされた。スウェーデンの科学者はすぐにその主張を撤回したが、発見の優先度と元素の命名についてソ連とアメリカの科学者の間で論争となった。IUPAC は1997年にソ連による発見を認めたが、スウェーデンが提案したノーベリウムの名称は、文献で長年使用されていたことから維持された。
{{Elementbox |name=nobelium |japanese name=ノーベリウム |pronounce={{IPAc-en|n|oʊ|ˈ|b|ɛ|l|i|əm}} {{respell|noh|BEL|ee-əm}}<br />{{IPAc-en|n|oʊ|ˈ|b|iː|l|i|əm}} |number=102 |symbol=No |left=[[メンデレビウム]] |right=[[ローレンシウム]] |above=[[イッテルビウム|Yb]] |below=[[ウンペントビウム|Upb]] |series=アクチノイド |group=n/a |period=7 |block=f |appearance=不明 |atomic mass=[259] |electron configuration=&#91;[[ラドン|Rn]]&#93; 5f<sup>14</sup> 7s<sup>2</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 32, 8, 2 |phase=固体 |oxidation states='''2'''(安定), 3 |electronegativity= |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=641.6 |2nd ionization energy=1254.3 |3rd ionization energy=2605.1 |CAS number=10028-14-5 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ノーベリウム250m|250m]] | sym=No | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl= [[1 E-5 s|43 µs]] | dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ノーベリウム250g|250h]] | sym=No | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-6 s|3.7 µs]] | dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}} {{Elementbox_isotopes_decay | 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ms]] | dm=[[ガンマ崩壊|γ]] | de=| pn=[[ノーベリウム250g|250g]] | ps=No}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ノーベリウム254m2|254m1]] | sym=No | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-4 s|198 µs]] | dm=[[ガンマ崩壊|γ]] | de=| pn=[[ノーベリウム254m1|254m1]] | ps=No}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ノーベリウム254g|254g]] | sym=No | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|51 s]] | dm= | de= | pn= | ps=}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ノーベリウム255|255]] | sym=No | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E2 s|3.1 min]] | dm1=[[アルファ崩壊|α]] (61 %) | de1=8.12, 8.08, 7.93 | pn1=[[フェルミウム251|251]] | ps1=[[フェルミウム|Fm]] | dm2=[[電子捕獲|ε]] (39 %) | de2=2.012 | pn2=[[メンデレビウム255|255]] | ps2=[[メンデレビウム|Md]]}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ノーベリウム256|256]] | sym=No | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E0 s|2.91 s]] | dm1=[[アルファ崩壊|α]] (99.5 %) | de1=8.45, 8.40 | pn1=[[フェルミウム252|252]] | ps1=[[フェルミウム|Fm]] | dm2=[[自発核分裂|SF]] (0.5 %) | de2= | pn2= | ps2=}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ノーベリウム257|257]] | sym=No | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|25 s]] | 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は[[原子番号]]102の[[人工放射性元素]]で、[[元素記号]]は '''No''' である。名称は[[ダイナマイト]]の開発者で科学を後援した[[アルフレッド・ノーベル]]に由来する。[[放射能|放射性]][[金属]]、10番目の[[超ウラン元素]]で、[[アクチノイド]]系列の末尾の数字から2番目の元素である。原子番号が100を超えるすべての元素と同様に、ノーベリウムは[[粒子加速器]]でそれより軽い元素に[[荷電粒子]]を衝突させることによってのみ生成することができる。[[ノーベリウムの同位体]]は12種が存在し、最も安定なものは[[半減期]]58分の<sup>259</sup>Noである。<sup>259</sup>Noよりも半減期が短い<sup>255</sup>No(半減期3.1分)は大規模な生成が可能で、[[化学]]分野では最も一般的に使用される。 化学[[実験]]ではノーベリウムは周期表の[[イッテルビウム]]より重い[[同族体]]として振る舞うことが確認されている。ノーベリウムの化学的性質は完全判明しておらず、ほとんどは[[水溶液]]中でのみ知られる。ノーベリウムが発見される以前は、ほかのアクチノイドに特徴的な+3の[[酸化数]]と同様に安定な+2状態を示すと予想されていたが、のちに水溶液中では +2 が +3 よりもはるかに安定で、ノーベリウムを+3状態に保つことが難しいことが判明して予想は確認された。 1950年代と1960年代に[[スウェーデン]]、[[ソ連]]、[[アメリカ合衆国]]の研究所からノーベリウムの発見について多くの主張がなされた。スウェーデンの科学者はすぐにその主張を撤回したが、発見の優先度と元素の命名についてソ連とアメリカの科学者の間で論争となった。[[IUPAC]] は1997年にソ連による発見を認めたが、スウェーデンが提案したノーベリウムの名称は、文献で長年使用されていたことから維持された。 ==発見== [[File:AlfredNobel2.jpg|thumb|right|この元素の名前は[[アルフレッド・ノーベル]]にちなむ。]] 元素102の発見には複雑な過程があり、スウェーデン、ソ連、アメリカ合衆国のグループにより発見が主張された。[[化学元素発見の年表|検出]]に関して最初の完全で議論の余地がない報告は、1996年に当時ソ連の[[ドゥブナ合同原子核研究所]]からされたものである<ref name="93TWG">{{Cite journal |doi=10.1351/pac199365081757 |title=Discovery of the transfermium elements. Part II: Introduction to discovery profiles. Part III: Discovery profiles of the transfermium elements |year=1993 |last=Barber |first=Robert C. |journal=Pure and Applied Chemistry |volume=65 |pages=1757 |last2=Greenwood |first2=Norman N. |last3=Hrynkiewicz |first3=Andrzej Z. |last4=Jeannin |first4=Yves P. |last5=Lefort |first5=Marc |last6=Sakai |first6=Mitsuo |last7=Úlehla |first7=Ivan M. |last8=Wapstra |first8=Aaldert Hendrik |last9=Wilkinson |first9=Denys H. |issue=8}} (Note: for Part I see Pure and Applied Chemistry, vol. 63, no. 6, pp. 879–886, 1991)</ref>。 元素102の発見について最初の発表は、1957年にスウェーデンの[[ノーベル研究所]]の物理学者らによるものである。研究チームは[[キュリウム]]の標的粒子に[[炭素13|<sup>13</sup>C]]イオンを30分間隔で25時間照射したことを報告した。照射の間、ターゲットの[[イオン交換]]化学が行われた。50回の照射のうち12回は (8.5±0.1) [[MeV|メガ電子ボルト]] (MeV) の[[アルファ粒子]]を放出する試料を含んでいたが、これは[[フェルミウム]](原子番号 Z=100)および[[カリホルニウム]] (Z=98) よりも早く溶出する滴形状の試料であった。報告された半減期は10分で、<sup>251</sup>102 もしくは <sup>253</sup>102 が割り当てられたが、観測されたアルファ粒子が元素102の[[電子捕獲]]により生じた短命の[[メンデレビウム]] (Z=101) の同位体に由来する可能性を排除することができなかった<ref name="93TWG" />。チームがこの新元素にノーベリウム (''nobelium'', No) の名称を提案<ref name="Silva16367" /><ref>{{cite journal |last=Fields |first=Peter R. |last2=Friedman |first2=Arnold M. |last3=Milsted |first3=John |last4=Atterling |first4=Hugo |last5=Forsling |first5=Wilhelm |last6=Holm |first6=Lennart W. |last7=Åström |first7=Björn |date=1 September 1957 |title=Production of the New Element 102 |journal=Physical Review |volume=107 |issue=5 |pages=1460–1462 |doi=10.1103/PhysRev.107.1460 |bibcode=1957PhRv..107.1460F }}</ref>すると IUPAC はすぐにこの名称を承認した<ref name="Emsley2011" />が、ドゥブナのグループは1968年の時点では早急であったとしている<ref name="TWGresponse">{{cite journal |doi=10.1351/pac199365081815 |title=Responses on 'Discovery of the transfermium elements' by Lawrence Berkeley Laboratory, California; Joint Institute for Nuclear Research, Dubna; and Gesellschaft fur Schwerionenforschung, Darmstadt followed by reply to responses by the Transfermium Working Group |year=1993 |last1=Ghiorso |first1=Albert |last2=Seaborg |first2=Glenn T. |last3=Oganessian |first3=Yuri Ts. |last4=Zvara |first4=Ivo |last5=Armbruster |first5=Peter |last6=Hessberger |first6=F. P. |last7=Hofmann |first7=Sigurd |last8=Leino |first8=Matti E. |last9=Münzenberg |first9=Gottfried |last10=Reisdorf |first10=Willibrord |last11=Schmidt |first11=Karl-Heinz |journal=Pure and Applied Chemistry |volume=65 |issue=8 |pages=1815–1824 |doi-access=free }}</ref>。1958年にアメリカ[[ローレンス・バークレー国立研究所]]の科学者たちは実験を繰り返したが、背景効果がない 8.5 MeV の現象を見つけることはできなかった<ref name="93TWG" />。 1959年にスウェーデンのチームは、1958年にバークレーのチームが元素102を検出できなかったことの説明を試み、自身が発見したことを支持した。のちの研究により半減期が3分を超える <sup>259</sup>No よりも軽いノーベリウムの同位体は存在せず、スウェーデンの実験ではそれよりも重い同位体は生成できず、スウェーデンのチームの結果は半減期が8分で、すぐにトリプル[[アルファ崩壊]]を経て 8.53612MeV の崩壊エネルギーを持つ<sup>213</sup>[[ポロニウム|Po]]に変化する <sup>225</sup>[[トリウム|Th]] によるものである可能性が高いことが示された。この仮説は <sup>225</sup>Th が使用された反応で容易に生成され、使用された化学的手法では分離されない事実により重みづけられている。後年の研究で、2価の状態は3価の状態よりも安定で、アルファ粒子を放出する試料にはノーベリウムが含まれていないことが示された。2価のノーベリウムは他の3価のアクチノイドでは溶出しなかった<ref name="93TWG" />。これらの結果からスウェーデンは主張を撤回してその活動を背景効果に関連付けた<ref name="Emsley2011">{{cite book |first=John |last=Emsley |title=Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements |url=https://books.google.com/books?id=4BAg769RfKoC&pg=PA368 |date=2011 |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-960563-7 |pages=368–9 }}</ref>。 [[アルバート・ギオルソ]]、[[グレン・シーボーグ]]、[[John R. Walton]]、[[:en:Torbjørn Sikkeland|Torbjørn Sikkeland]] からなるバークレーのチームは、1958年に元素102の合成を主張した。このチームは新たな[[重イオン]][[線形加速器]] (HILAC) を用いて[[キュリウム]](<sup>244</sup>Cm 95%、<sup>246</sup>Cm 5%)に <sup>13</sup>[[炭素|C]] と [[炭素12|<sup>12</sup>C]] イオンを衝突させた。彼らはスウェーデンのチームにより主張された 8.5MeV の活動を確認することはできなかったが、フェルミウム250からの崩壊を検出することができた。これは見かけの半減期が約3秒である <sup>254</sup>102( <sup>246</sup>Cmから生成された)の娘粒子である。のちの1963年のドゥブナの研究でも <sup>254</sup>102 がこの反応で生成されることが確認されたが、その半減期は実際には50±10秒であった。1967年にバークレーのチームは、発見された同位体は確かに <sup>250</sup>Fm であったが、半減期測定が実際に関係していた同位体は <sup>244</sup>Cf であって、これはより多い <sup>244</sup>Cm から生成された孫娘粒子である[[崩壊生成物]]であったと述べ、自身の研究を擁護しようとした。エネルギーの違いはこれまで報告されていなかった「分解能とドリフトの問題」に起因したもので、他の結果にも影響を与えていたはずである。1877年の実験で <sup>252</sup>102 は実際に2.3秒の半減期を持つことが示された。1973年の研究で、 <sup>250</sup>Fm の反跳も使われるエネルギーで反応中に形成された可能性のある <sup>250m</sup>Fm の異性体転移(半減期1.8秒)から容易に生成されたことも示されている<ref name="93TWG" />。このことから、この実験ではノーベリウムは実際には生成されなかった可能性が高い<ref name="93TWG" />。 1959年に、チームは研究を続けておもに 8.3MeV の[[アルファ粒子]]を放出して崩壊し、半減期3秒で30%の[[自発核分裂]]分岐を伴う同位体を生成できた、と主張した。この活動は当初 <sup>254</sup>102 とされていたが、のちに <sup>252</sup>102 に変更され、困難な条件のためにノーベリウムが生成されたことは確実ではないことも言及した<ref name="93TWG" />。バークレーのチームは、スウェーデンのチームが提案したノーベリウムという元素名を採用することを決定した<ref name="Emsley2011" />。 :{{nuclide|curium|244}} + {{nuclide|carbon|12}} → {{nuclide|nobelium|256}}{{su|p=*}} → {{nuclide|nobelium|252}} + 4 {{su|b=0|p=1}}n ドゥブナでは1958年と1960年に元素102の合成を目指した実験が行われた。最初の1958年の実験では<sup>[[プルトニウム239|239]], [[プルトニウム241|241]]</sup>[[プルトニウム|Pu]]に<sup>[[酸素16|16]]</sup>[[酸素16|O]]イオンを衝突させた。8.5&nbsp;MeVを超えるエネルギーを持つアルファ崩壊がいくつか観測され、<sup>251, 252, 253</sup>102が割り当てられたが、チームは[[鉛]]や[[ビスマス]]の不純物から同位体が生成されてしまった(ノーベリウムは生成されない)可能性を除外できないと書いている。後に行われた1958年の実験では[[水銀]]、[[タリウム]]、鉛、ビスマスの不純物から新しい同位体が生成されることが指摘されたが、科学者たちは半減期が30秒以下、崩壊エネルギーが8.8&nbsp;±&nbsp;0.5&nbsp;MeVであることに言及し、この反応から元素102が生成されるという結論を支持していた。後の1960年の実験ではこれらが背景効果であることが証明された。1967年の実験でも崩壊エネルギーは8.6&nbsp;±&nbsp;0.4&nbsp;MeVまで下がったが、いずれも<sup>253</sup>Noや<sup>254</sup>Noの値と一致するには高すぎる値であった<ref name="93TWG" />。その後ドゥブナのチームはまず1970年に、そして1987年に再度これらの結果は決定的なものではないと述べている<ref name="93TWG" />。 1961年、バークレーの科学者たちはカリホルニウムと[[ホウ素]]イオンと炭素イオンの反応で[[ローレンシウム|元素103]]を発見したと主張した。彼らは同位体<sup>257</sup>103の生成を主張し、また、15秒の半減期とアルファ崩壊のエネルギー8.2&nbsp;MeVを持つ元素102のアルファ崩壊同位体を合成したと主張し、これを<sup>255</sup>102に割り当てたが、その理由は示さなかった。この値は現在知られている<sup>257</sup>Noの値と一致しているが、<sup>255</sup>Noについて現在知られている値とは一致しておらず、この同位体が今回の実験で一役買っていたと考えられるもその発見は決定的なものではなかった<ref name="93TWG" />。 ドゥブナでも元素102の研究は続けられ、1964年には[[ウラン238|<sup>238</sup>U]]と[[ネオン]]イオンの反応によって元素102を合成し、元素102のアルファ崩壊の娘粒子を検出する実験が行われた。生成物を[[銀]]キャッチャー箔で運び化学的に精製し、同位体<sup>250</sup>Fmと<sup>252</sup>Fmが検出され、この実験で<sup>252</sup>Fmが得られたことは親粒子にあたる<sup>256</sup>102も合成された証拠と解釈された。この反応では余剰な中性子と同時にアルファ粒子が放出されて<sup>252</sup>Fmが直接生成される可能性もあるが、<sup>252</sup>Fmがキャッチャー箔に直接行かないようにする措置がとられた。<sup>256</sup>102に対して検出された半減期は8秒であり、これはもっと新しい1967年の値である(3.2&nbsp;±&nbsp;0.2)秒よりもずっと大きい<ref name="93TWG" />。1966年には<sup>254</sup>102に向けて<sup>243</sup>[[アメリシウム|Am]](<sup>15</sup>[[窒素|N]],4n)<sup>254</sup>102と<sup>238</sup>U(<sup>22</sup>Ne,6n)<sup>254</sup>102の反応を用いた実験が行われ、半減期が(50&nbsp;±&nbsp;10)秒であることが分かった。当時はこの値とそれより早いバークレーの実験の値の矛盾は理解されなかったが、後の研究により<sup>250m</sup>Fmの異性体の形成の可能性はバークレーの実験よりもドゥブナの実験の方が低いことが分かった。今から考えると<sup>254</sup>102についてのドゥブナの実験結果はおそらく正しいものであり、現在では元素102の決定的な検出と考えられている<ref name="93TWG" />。 再度同じ2つの反応を使用したドゥブナによる非常に説得力のあるさらなる実験が1966年に発表され、<sup>254</sup>102は実際にはバークレーが主張する3秒よりもはるかに長い半減期を持っていると結論付けられた<ref name="93TWG" />。その後1967年にバークレーで、1971年に[[オークリッジ国立研究所]]で行われた研究で元素102の発見が完全に確認され、それ以前の観測がはっきりした<ref name="Emsley2011" />。1966年12月、バークレーのグループはドゥブナの実験を繰り返しこれを完全に確認し、このデータを用いて以前に合成したが当時はまだ同定できなかった同位体を最終的に割り当て、1958年から1961年にノーベリウムを発見したと主張した<ref name="Emsley2011" />。 :{{nuclide|uranium|238}} + {{nuclide|neon|22}} → {{nuclide|nobelium|260}}{{su|p=*}} → {{nuclide|nobelium|254}} + 6 {{su|b=0|p=1}}n 1969年、ドゥブナのチームは元素102の化学実験を行い、イッテルビウムの重い同族体として振る舞うという結論を出した。ロシアの科学者たちはそのころ死去した[[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]]にちなんでジョリオチウム(joliotium, Jo)という名前を提案した。これにより元素の命名について論争が生まれ、これは数十年にわたって解決されず、それぞれのグループが自身が提案した名称を使用していた<ref name="Emsley2011" />。 1992年、IUPAC-[[IUPAP]] Transfermium Working Group (TWG) は発見の主張を再評価し、1966年のドゥブナの研究のみが原子番号102の原子核を正しく検出し、崩壊を割り当てたと結論付けた。したがって、1959年にバークレーでノーベリウムが検出された可能性はあるが、ドゥブナのチームがノーベリウムを発見したと公式に認められている<ref name="93TWG" />。しかし、この決定は翌年にバークレーに批判された。彼らは元素101から103までの事例の再開は「時間の無駄」と断じたが、ドゥブナはIUPACの決定に同意した<ref name="TWGresponse" />。 1994年、元素の命名についての論争を解決する試みの一環としてIUPACは101から109の元素の名前を批准した。元素102についてはここ30年の間に文献に定着していたこと、及び[[アルフレッド・ノーベル]]がこのような形で記念されるべきであるとしてノーベリウムという名前を批准した<ref name="IUPAC1997">{{cite journal |title=Names and symbols of transfermium elements |journal=Pure and Applied Chemistry |volume=69 |issue=12 |pages=2471–2473 |date=1997 |url=http://pac.iupac.org/publications/pac/pdf/1997/pdf/6912x2471.pdf |doi=10.1351/pac199769122471 }}</ref>。この発見者の選択を尊重していない決定に対する反発によりコメント期間が設けられ、1995年にIUPACは新たな提案の一部として[[ゲオルギー・フリョロフ]]または[[ドゥブナ合同原子核研究所|フリョロフ核反応研究所]]のいずれかにちなみ元素102をフレロビウム(flerovium, Fl)と命名した<ref name="Haire">{{cite book |last1=Hoffmann |first1=Darleane C. |last2=Lee |first2=Diana M. |last3=Pershina |first3=Valeria |date=2006 |chapter=Transactinides and the future elements |editor-last=Morss |editor-first=Lester R. |editor2-last=Edelstein |editor2-first=Norman M. |editor3-last=Fuger |editor3-first=Jean |title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements |edition=3rd |publisher=[[Springer (publisher)|Springer]] |page=1660 |isbn=978-1-4020-3555-5 }}</ref>。この提案も受け入れられず、1997年にノーベリウムという名称に戻った<ref name="IUPAC1997" />。今日、フレロビウムという名称は同じ元素記号で[[フレロビウム|元素114]]を指す<ref name="IUPAC-names-114-116">{{cite press |date=30 May 2012 |title=Element 114 is Named Flerovium and Element 116 is Named Livermorium |url=http://www.iupac.org/news/news-detail/article/element-114-is-named-flerovium-and-element-116-is-named-livermorium.html |publisher=[[IUPAC]] |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120602010328/http://www.iupac.org/news/news-detail/article/element-114-is-named-flerovium-and-element-116-is-named-livermorium.html |archivedate= 2 June 2012 }}</ref>。 ==特徴== ===物理的性質=== [[File:Fblock fd promotion energy.png|thumb|upright=1.6|right|fブロックのランタノイドとアクチノイドでf電子をd亜殻に移動させるのに必要なエネルギー。約210kJ/mol以上ではこのエネルギーが高すぎて3価状態の結晶エネルギーが大きいため、アインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウムはランタノイドの[[ユーロピウム]]や[[イッテルビウム]]などのように2価の金属を形成する。ノーベリウムも2価の金属を形成すると予想されているがいまだ確認されていない<ref>{{cite book |first=Richard G.|last=Haire |ref=Haire |contribution=Einsteinium |title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements |editor1-first=Lester R. |editor1-last=Morss |editor2-first=Norman M. |editor2-last=Edelstein |editor3-first=Jean |editor3-last=Fuger |edition=3rd |date=2006 |volume=3 |publisher=Springer |location=Dordrecht, the Netherlands |pages=1577–1620 |url=http://radchem.nevada.edu/classes/rdch710/files/einsteinium.pdf |doi=10.1007/1-4020-3598-5_12 |isbn=978-1-4020-3555-5 }}</ref>。]] [[周期表]]において、ノーベリウムはアクチノイドであるメンデレビウムの右、同じくアクチノイドである[[ローレンシウム]]の左、[[ランタノイド]]のイッテルビウムの下に位置している。ノーベリウムの金属はまだバルク量では調製されておらず、バルク調製は現在のところ不可能である<ref name="Silva1639">Silva, pp. 1639</ref>。しかし、その特性に関して多くの予測といくつかの予備的な実験結果が行なわれている<ref name="Silva1639" />。 ランタノイド及びアクチノイドは金属状態では2価の金属([[ユウロピウム]]やイッテルビウム)または3価の金属(他のほとんどのランタノイド)のいずれかとして存在する。前者はf<sup>''n''+1</sup>s<sup>2</sup>配置を有するのに対し、後者はf<sup>''n''</sup>d<sup>1</sup>s<sup>2</sup>配置を有する。1975年、JohanssonとRosengrenは2価と3価の金属ランタノイドと金属アクチノイドの凝集エネルギー(結晶化の[[エンタルピー]])の測定値と予測値を研究した<ref name="Silva16268">Silva, pp. 1626–8</ref><ref>{{cite journal |doi=10.1103/PhysRevB.11.2836 |title=Generalized phase diagram for the rare-earth elements: Calculations and correlations of bulk properties |date=1975 |last1=Johansson |first1=Börje |last2=Rosengren |first2=Anders |journal=Physical Review B |volume=11 |pages=2836–2857 |bibcode=1975PhRvB..11.2836J |issue=8 }}</ref>。結論はノーベリウムの[Rn]5f<sup>14</sup>7s<sup>2</sup>配置に対する[Rn]5f<sup>13</sup>6d<sup>1</sup>7s<sup>2</sup>配置の結合エネルギーの増加は、ずっと後半のアクチノイドにも当てはまるように1個の5f電子を6dに促進するのに必要なエネルギーを保証するのに十分ではないというものであった。したがって、[[アインスタイニウム]]、フェルミウム、メンデレビウムおよびノーベリウムは2価の金属であると予想されたが、この予想は未だ確認されていない<ref name="Silva16268" />。アクチノイド系列の最後に行くずっと前に2価の状態が優勢になるのは、原子番号の増加に伴って増加する5f電子の[[相対論効果|相対論的安定化]]に起因する。この効果はノーベリウムが他のすべてのランタノイドやアクチノイドとは異なり主に3価ではなく2価になることである<ref>{{cite book |doi=10.1021/bk-1980-0131.ch012 |title=Lanthanide and Actinide Chemistry and Spectroscopy |volume=131 |pages=[https://archive.org/details/lanthanideactini0000unse/page/239 239–263] |date=1980 |isbn=978-0-8412-0568-0 |last=Hulet |first=E. Kenneth |editor-last=Edelstein |editor-first=Norman M. |chapter=Chapter 12. Chemistry of the Heaviest Actinides: Fermium, Mendelevium, Nobelium, and Lawrencium |series=ACS Symposium Series |chapter-url-access=registration |chapter-url=https://archive.org/details/lanthanideactini0000unse |url=https://archive.org/details/lanthanideactini0000unse/page/239 }}</ref>。1986年に金属ノーベリウムの[[昇華エンタルピー]]は126&nbsp;kJ/molと推定され、この値はアインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウムの値に近く、ノーベリウムが2価の金属を形成するという理論を支持している<ref name="Silva1639" />。他の2価の後半のアクチノイド(3価のローレンシウムを除く)と同様、金属ノーベリウムは面心立方晶構造を仮定する<ref name="density">{{cite journal |last=Fournier |first=Jean-Marc |date=1976 |title=Bonding and the electronic structure of the actinide metals |journal=Journal of Physics and Chemistry of Solids |volume=37 |issue=2 |pages=235–244 |doi=10.1016/0022-3697(76)90167-0 |bibcode=1976JPCS...37..235F }}</ref>。2価のノーベリウム金属は約197&nbsp;[[ピコメートル|pm]]とされている<ref name="Silva1639" />。ノーベリウムの融点は827&nbsp;°Cと予測されており、隣のメンデレビウムの予測値と同じ値である<ref>{{cite book |ref=Haynes |editor-last=Haynes |editor-first=William M. |date=2011 |title= CRC Handbook of Chemistry and Physics |edition=92nd |publisher=CRC Press |isbn=978-1-4398-5511-9 |pages=4.121–4.123 }}</ref>。密度は約9.9&nbsp;±&nbsp;0.4&nbsp;g/cm<sup>3</sup>と予測されている<ref name="density" />。 ===化学的性質=== ノーベリウムの化学的性質は未解明のところが多く、水溶液中のものしか知られていない。水溶液中では+3か+2の[[酸化数]]をとることができるが、後者の方が安定である<ref name="Silva16367">Silva, pp. 1636–7</ref>。ノーベリウム発見以前は、溶液中での元素102の振る舞いは他のアクチノイドとの類推から、3価の状態が安定であると予想されてきた。しかし、シーボーグは1949年にNo<sup>2+</sup>イオンが充填した[Rn]5f<sup>14</sup>[[電子殻|殻]]を含む[[基底状態]]の[[電子配置]]を持つことから、+2の酸化数も比較的安定であることを予測し、19年後にこの仮説が実証された<ref name="Silva163941">Silva, pp. 1639–41</ref>。 1967年、ノーベリウムの化学的振る舞いを[[テルビウム]]、カリホルニウム、フェルミウムのものと比較する実験が行われた。4つの元素全てを[[塩素]]と反応させ、得られた塩化物をチューブに沿って堆積させ、それに沿って気体により移動させた。その結果生成されたノーベリウム塩化物は固体表面に強く[[吸着]]し他の3元素の塩化物のように揮発性ではないことが分かった。しかしNoCl<sub>2</sub>とNoCl<sub>3</sub>の両方とも不揮発性を示すと予想されていたため、この実験ではノーベリウムの好ましい酸化状態が何であるかについては結論が出なかった<ref name="Silva163941" />が、翌年[[イオン交換|陽イオン交換]][[クロマトグラフィー]]と[[共沈法|共沈]]実験が約5万個の<sup>255</sup>No原子で実験され、ノーベリウムは+2の酸化数を好むという結論が出た。これにより、強い[[酸化剤]]が存在しない場合、溶液中でのノーベリウムは2価の状態が最も安定であることが示された<ref name="Silva163941" />。No<sup>2+</sup>イオンは他のアクチノイドとは異なり、2価の[[アルカリ土類金属]]に近い振る舞いを示し、[[クエン酸]]、[[シュウ酸]]、[[酢酸]]との間に[[錯体]]を形成することが知られている<ref>{{Cite book|title=岩波 理化学辞典 第5版|publisher=岩波書店|year=1998|date=}}</ref>。 1974年に行われた実験ではノーベリウムはアルカリ土類金属と[[カルシウム|Ca]]<sup>2+</sup>と[[ストロンチウム|Sr]]<sup>2+</sup>の間で溶出することが示された<ref name="Silva163941" />。ノーベリウムは水溶液中で+2の酸化数が最も一般的で安定な唯一知られているfブロック元素である。これはアクチノイド系列の末端にある5f軌道と6d軌道の間に大きなエネルギーギャップがあるためである<ref>{{Greenwood&Earnshaw|p=1278}}</ref>。 7s亜殻の相対論的安定化は二水素化ノーベリウムNoH<sub>2</sub>を大きく不安定化させ、6d<sub>3/2</sub>[[スピノール|スピノル]]以上の7p<sub>1/2</sub>スピノルの相対論的安定化はノーベリウム原子の励起状態が予想される6dの寄与ではなく、7sと7pの寄与を持つことを意味する。NoH<sub>2</sub>分子における長いNo-Hの距離と大きい電荷移動が、この分子の[[双極子モーメント]]が5.94&nbsp;[[デバイ|D]]と極端なイオン性につながっている。この分子ではノーベリウムが[[典型元素]]のような振る舞いを示すことが予測されており、具体的にはそのns<sup>2</sup>価電子殻配置とコアのような5f軌道を持つアルカリ土類金属のような振る舞いをする<ref>{{cite journal |last1=Balasubramanian |first1=Krishnan |date=4 December 2001 |title=Potential energy surfaces of Lawrencium and Nobelium dihydrides (LrH<sub>2</sub> and NoH<sub>2</sub>)… |journal=Journal of Chemical Physics |volume=116 |issue=9 |pages=3568–75 |doi=10.1063/1.1446029 |bibcode=2002JChPh.116.3568B }}</ref>。 ノーベリウムの[[塩化物]]イオンと錯体形成する能力は、[[バリウム]]のそれに最も似ており、むしろ弱く錯体形成する<ref name="Silva163941" />。0.5M[[硝酸アンモニウム]]水溶液中の[[クエン酸塩]]、[[シュウ酸塩]]、[[酢酸塩]]と錯体形成する能力は、カルシウムと[[ストロンチウム]]の間であるが、ストロンチウムのそれに幾らか近い<ref name="Silva163941" />。 E°(No<sup>3+</sup>→No<sup>2+</sup>)カップルの標準[[酸化還元電位]]は1967年に+1.4から+1.5[[ボルト (単位)|V]]と推定されたが<ref name="Silva163941" />、後の2009年に約+0.75Vであることが判明した<ref>{{cite journal |last1=Toyoshima |first1=A. |last2=Kasamatsu |first2=Y. |first3=K. |last3=Tsukada |first4=M. |last4=Asai |first5=Y. |last5=Kitatsuji |first6=Y. |last6=Ishii |first7=H. |last7=Toume |first8=I. |last8=Nishinaka |first9=H. |last9=Haba |first10=K. |last10=Ooe |first11=W. |last11=Sato |first12=A. |last12=Shinohara |first13=K. |last13=Akiyama |first14=Y. |last14=Nagame |date=8 July 2009 |title=Oxidation of element 102, nobelium, with flow electrolytic column chromatography on an atom-at-a-time scale |journal=Journal of the American Chemical Society |volume=131 |issue=26 |pages=9180–1 |doi=10.1021/ja9030038 |pmid=19514720 |url=https://figshare.com/articles/Oxidation_of_Element_102_Nobelium_with_Flow_Electrolytic_Column_Chromatography_on_an_Atom_at_a_Time_Scale/2844817 }}</ref>。正の値であることはNo<sup>2+</sup>がNo<sup>3+</sup>よりも安定でありNo<sup>3+</sup>が優れた酸化剤であることを示している。E°(No<sup>2+</sup>→No<sup>0</sup>)とE°(No<sup>3+</sup>→No<sup>0</sup>)の値は情報ソースにより異なるが、標準的な推定値は−2.61と−1.26Vである<ref name="Silva163941" />。E°(No<sup>4+</sup>→No<sup>3+</sup>)カップルの値は+6.5Vになると予測されている<ref name="Silva163941" />。No<sup>3+</sup>とNo<sup>2+</sup>形成の[[自由エネルギー|ギブスの自由エネルギー]]はそれぞれ−342[[ジュール毎モル|kJ/mol]]と−480kJ/molと推定されている<ref name="Silva163941" />。 ===原子=== ノーベリウム原子には102個の電子があり、そのうち3つが[[価電子]]としてはたらく。これらは[Rn]5f<sup>14</sup>7s<sup>2</sup>(基底状態[[項記号]]<sup>1</sup>S<sub>0</sub>)の配置であることが予測されているが、この電子配置の実験的検証は2006年現在では行われていない<ref name="Silva1639"/>。化合物を形成するときには3つの価電子が全て失われ、[Rn]5f<sup>13</sup>コアが残る可能性がある。このことは[Rn]5f<sup>n</sup>電子配置が3価状態である傾向に一致する。しかしながら、2つの価電子のみが失われ5f<sup>14</sup>殻が満たされ安定した[Rn]5f<sup>14</sup>コアが残る可能性の方が高い。ノーベリウムの第1[[イオン化ポテンシャル]]は7s電子が5f電子の前にイオン化するという仮定に基づき1974年に最大(6.65&nbsp;±&nbsp;0.07)&nbsp;[[電子ボルト|eV]]と測定された<ref name="NIST">{{cite journal |first1=William C. |last1=Martin |first2=Lucy |last2=Hagan |first3=Joseph |last3=Reader |first4=Jack |last4=Sugar |date=1974 |title=Ground Levels and Ionization Potentials for Lanthanide and Actinide Atoms and Ions |journal=[[Journal of Physical and Chemical Reference Data]] |volume=3 |issue=3 |pages=771–9 |doi=10.1063/1.3253147 |bibcode=1974JPCRD...3..771M |url=https://semanticscholar.org/paper/53b1a330a7384cb1eb38bc8d49dd0feea9af0999 }}</ref>。この値はノーベリウムが希少であり高い放射能を持っているという理由から、さらに洗練はされていない<ref>Lide, David R. (editor), ''CRC Handbook of Chemistry and Physics, 84th Edition'', CRC Press, Boca Raton (FL), 2003, section 10, ''Atomic, Molecular, and Optical Physics; Ionization Potentials of Atoms and Atomic Ions''</ref>。[[配位数|6配位]]と8配位のNo<sup>3+</sup>の[[イオン半径]]は1978年にそれぞれ約90pmと102pmと概算されていた<ref name="Silva163941" />。No<sup>2+</sup>のイオン半径は2つの[[有効数字]]に対して実験的に100pmであることが分かっている<ref name="Silva1639" />。No<sup>2+</sup>の[[水和エンタルピー]]は1486kJ/molと計算されている<ref name="Silva163941" />。 ===同位体=== {{main|ノーベリウムの同位体}} ノーベリウムの同位体、[[質量数]]250から260と262の12種類が知られており、全て放射性同位体である<ref name="Silva16378">Silva, pp. 1637–8</ref>。さらに、質量数251、253、254の[[核異性体]]が知られている<ref name="unc">{{Cite web | url=http://www.nucleonica.net/unc.aspx | title=Nucleonica :: Web driven nuclear science|accessdate=2020-06}}</ref><ref name="NUBASE2003"/>。これらのうち最も長寿命である同位体は半減期58分の<sup>259</sup>Noであり、最も長寿命である異性体は半減期1.7秒の<sup>251m</sup>Noである<ref name="unc" /><ref name="NUBASE2003">{{citation |title=The N<small>UBASE</small> evaluation of nuclear and decay properties |doi=10.1016/j.nuclphysa.2003.11.001 |last1=Audi |first1=Georges |last2=Bersillon |first2=Olivier |last3=Blachot |first3=Jean |last4=Wapstra |first4=Aaldert Hendrik |authorlink4=Aaldert Wapstra |journal=Nuclear Physics A |volume=729 |pages=3–128 |year=2003 |url=<!-- dead: http://amdc.in2p3.fr/nubase/Nubase2003.pdf -->https://hal.archives-ouvertes.fr/in2p3-00020241/document |bibcode=2003NuPhA.729....3A}}</ref>。しかし、まだ発見されていない同位体である<sup>261</sup>Noはそれより長い170分の半減期を持つと予測されている<ref name="unc" /><ref name="NUBASE2003" />。短寿命の<sup>255</sup>No(半減期3.1分)は<sup>249</sup>Cfに<sup>12</sup>Cイオンを照射することで大量に生成できるため、化学実験によく用いられている<ref name="Silva16378" />。<sup>259</sup>Noと<sup>255</sup>Noの次に安定なノーベリウムの同位体は<sup>253</sup>No(半減期1.62分)、<sup>254</sup>No(51秒)、<sup>257</sup>No(25秒)、<sup>256</sup>No(2.91秒)、<sup>252</sup>No(2.57秒)である<ref name="Silva16378" /><ref name="unc" /><ref name="NUBASE2003" />。残りのノーベリウムの同位体は全て半減期が1秒以下であり、最も短寿命なノーベリウムの同位体(<sup>250</sup>No)は半減期が0.25[[ミリ秒]]である<ref name="Silva16378" /><ref name="unc" /><ref name="NUBASE2003" />。同位体<sup>254</sup>Noは<sup>231</sup>[[プロトアクチニウム|Pa]]から<sup>279</sup>[[レントゲニウム|Rg]]までの一連の[[回転楕円体|扁長]]核の中間にあり、その核異性体(うち2つが知られている)の形成は球状の陽子殻のすぐ上にくる2f<sub>5/2</sub>のような[[殻模型|陽子軌道]]により制御されているため、理論的には特に興味深い。これは<sup>208</sup>Pbと<sup>48</sup>Caを反応させることで合成できる<ref name="Kratz">{{cite conference |last1=Kratz |first1=Jens Volker |date=5 September 2011 |title=The Impact of Superheavy Elements on the Chemical and Physical Sciences |url=http://tan11.jinr.ru/pdf/06_Sep/S_1/02_Kratz.pdf |conference=4th International Conference on the Chemistry and Physics of the Transactinide Elements |accessdate=27 August 2013 }}</ref>。 ノーベリウムの同位体の半減期は<sup>250</sup>Noから<sup>253</sup>Noまではなめらかに増加するが、<sup>254</sup>Noで沈み、これを超えると[[自発核分裂]]が支配的な崩壊モードとなって偶数-偶数ノーベリウム同位体の半減期は急激に減少する。例えば、<sup>256</sup>Noの半減期は3秒近くであるが、<sup>258</sup>Noの半減期は1.2ミリ秒に過ぎない<ref name="Silva16378" /><ref name="unc" /><ref name="NUBASE2003" />。このことはノーベリウムではアクチノイド系列の長寿命核の領域、すなわち[[安定の島]]に陽子の相互反発による限界があることを示している<ref name="Nurmia">{{cite journal |first=Matti |last=Nurmia |date=2003 |title=Nobelium |journal=Chemical and Engineering News |url=http://pubs.acs.org/cen/80th/nobelium.html |volume=81 |issue=36 }}</ref>。偶数-奇数ノーベリウム同位体は質量数の増加に伴って半減期が長くなり、この傾向は<sup>257</sup>Noで減少に転じる<ref name="Silva16378" /><ref name="unc" /><ref name="NUBASE2003" />。 ==精製== ノーベリウムの同位体は、<sup>262</sup>Lrの娘粒子として生成される<sup>262</sup>Noを除き、そのほとんどがアクチノイドの標的粒子([[ウラン]]、プルトニウム、キュリウム、カリホルニウム、アインスタイニウム)に衝突させることにより生成される<ref name="Silva16378" />が、最も一般的に使用される同位体の<sup>255</sup>Noは<sup>248</sup>Cmや<sup>249</sup>Cfに<sup>12</sup>Cを照射することにより生成される。後者の方法の方がより一般的であるとされ、<sup>249</sup>Cfの350[[マイクログラム|μg]] cm<sup>−2</sup>のターゲットに毎秒3兆個(3&nbsp;×&nbsp;10<sup>12</sup>)の73[[電子ボルト|MeV]]の<sup>12</sup>Cイオンを10分間照射することで、約1200個の<sup>255</sup>No原子を生成することができる<ref name="Silva16378" />。 <sup>255</sup>Noが生成されると、隣のアクチノイドであるメンデレビウムを精製するために使われるのと同様の方法で分離することができる。生成された<sup>255</sup>No原子の反跳[[運動量]]はそれらが生成されたターゲットから物理的に遠ざけるために使われ、真空中でターゲットのすぐ後ろにある金属(通常は[[ベリリウム]]、[[アルミニウム]]、[[白金]]、[[金]])の薄い箔の上に移動する。これは通常[[雰囲気]]ガス(しばしば[[ヘリウム]])でノーベリウム原子をトラップし、反応チャンバーの小さな開口部からガスジェットとともにそれを運ぶことにより結合される。長い[[毛細管]]を使用し、ヘリウムガス中に[[塩化カリウム]]の[[エアロゾル]]を含めることでノーベリウム原子を数十メートルにわたって運ぶことができる<ref name="Silva16389">Silva, pp. 1638–9</ref>。箔上に集められたノーベリウムの薄層は箔を完全に溶解させずに希酸で除去することができる<ref name="Silva16389" />。他の3価のアクチノイドとは異なる2価の状態を形成する傾向を利用してノーベリウムを分離することができる。典型的に使われる[[溶出]]条件(固定有機相として[[ビス-(2-エチルヘキシル)リン酸]](HDEHP)、移動水相として0.05M[[塩酸]]、または陽イオン交換樹脂カラムからの溶離剤として3M塩酸を使用)では、ノーベリウムはカラムを通過して溶出するが、他の3価のアクチノイドはカラムに残る<ref name="Silva16389" />。ただし、直接「キャッチャー」金箔を使用する場合は、HDEHPを使用するクロマトグラフィー抽出カラムから溶出してノーベリウムを分離する前に陰イオン交換クロマトグラフィーを使用して金を分離する必要があるため、その過程は複雑になる<ref name="Silva16389" />。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|30em}} ==参考文献== * {{cite book |doi=10.1007/978-94-007-0211-0_13 |title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements |pages=1621–1651 |date=2011 |isbn=978-94-007-0210-3 |publisher=Springer |place=Netherlands |last=Silva |first=Robert J. |editor-last=Morss |editor-first=Lester R. |editor2-last=Edelstein |editor2-first=Norman M. |editor3-last=Fuger |editor3-first=Jean |chapter=Chapter 13. Fermium, Mendelevium, Nobelium, and Lawrencium |ref=Silva}} ==外部リンク== {{Commons|Nobelium}} * [http://www.nndc.bnl.gov/chart/ Chart of Nuclides]. nndc.bnl.gov * [http://periodic.lanl.gov/102.shtml Los Alamos National Laboratory – Nobelium] * [http://www.periodicvideos.com/videos/102.htm Nobelium] at ''[[The Periodic Table of Videos]]'' (University of Nottingham) {{Authority control}} {{元素周期表}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:のへりうむ}} [[Category:ノーベリウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:アクチノイド]] [[Category:第7周期元素]]
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早稲田駅
早稲田駅(わせだえき)は、東京都新宿区早稲田南町にある、東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅である。駅番号はT 04。 都電荒川線(東京さくらトラム)の早稲田停留場は、当駅から直線距離で約600メートル離れた新目白通り沿いにあり、接続駅とはなっていない。 相対式ホーム2面2線を有する地下駅である。早稲田大学寄りの出入口は早稲田大学方面改札口と直結している。 3番出入口の道路を挟んで反対側に、西船橋方面改札口に通じるエレベーターがある。なお、当駅にはエスカレーターは設置されていない。 (出典:東京メトロ:構内図) 2015年5月26日から向谷実作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。 2022年度の1日平均乗降人員は70,006人であり、東京メトロ全130駅中46位。 近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通り。 駅周辺は、早稲田大学の施設が点在していて、大学都市の特徴もある。 最寄りバス停留所は、馬場下町となる。以下の路線バスが発着し、東京都交通局(都営バス)により運行されている。のりば番号に関しては都営バス公式サイト「tobus.jp」で表示される便宜上の番号であり、実際には何も表記されていない。 早稲田大学に近い高田馬場寄りの改札口では、改札口が中野方面と西船橋方面で分離されているため、どちらの方面の改札口であるかを知らせる案内放送が常時流されている。また、改札口付近にはどちらの方面の改札口であるかを示す掲示物が多数存在する。
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早稲田駅(わせだえき)は、東京都新宿区早稲田南町にある、東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅である。駅番号はT 04。 都電荒川線(東京さくらトラム)の早稲田停留場は、当駅から直線距離で約600メートル離れた新目白通り沿いにあり、接続駅とはなっていない。
{{Otheruseslist|東京メトロ東西線の駅|都電荒川線の電停|早稲田停留場|上越新幹線の駅|本庄早稲田駅}} {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 早稲田駅 |画像 = Tokyo Metro Waseda Station Entrance.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 3a番出入口([[2008年]][[2月]]) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}} |よみがな = わせだ |ローマ字 = Waseda |副駅名 = |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#009bbf|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ東西線|東西線]] |前の駅 = T 03 [[高田馬場駅|高田馬場]] |駅間A = 1.7 |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[神楽坂駅|神楽坂]] T 05 |駅番号 = {{駅番号r|T|04|#009bbf|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程 = 5.6 |電報略号 = ワセ |起点駅 = [[中野駅 (東京都)|中野]] |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[早稲田南町]]12 |座標 = {{coord|35|42|21|N|139|43|16.7|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[12月23日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />70,006 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} [[画像:TokyoMetro-T04-Waseda-station-platform-20200408-115154.jpg|thumb|ホーム(2020年4月)]] '''早稲田駅'''(わせだえき)は、[[東京都]][[新宿区]][[早稲田南町]]にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ東西線|東西線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''T 04'''。 [[都電荒川線]](東京さくらトラム)の[[早稲田停留場]]は、当駅から直線距離で約600メートル離れた[[新目白通り]]沿いにあり、接続駅とはなっていない。 == 歴史 == * [[1964年]]([[昭和]]39年)[[12月23日]]:開業。 * [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[5月26日]]:[[発車メロディ]]を導入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 == 駅構造 == [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]である。[[早稲田大学]]寄りの出入口は早稲田大学方面[[改札|改札口]]と直結している。 3番出入口の道路を挟んで反対側に、西船橋方面改札口に通じる[[エレベーター]]がある。なお、当駅には[[エスカレーター]]は設置されていない。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 |[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/waseda/timetable/tozai/a/index.html |title=早稲田駅時刻表 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/waseda/timetable/tozai/b/index.html |title=早稲田駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/waseda/index.html 東京メトロ:構内図]) === 発車メロディ === 2015年5月26日から[[向谷実]]作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]を参照)。 == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''70,006人'''であり<ref group="メトロ" name="me2022" />、東京メトロ全130駅中46位<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。 近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br>乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) | |40,458 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |40,495 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |41,381 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | |41,392 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | |40,753 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | |40,249 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | |40,222 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | |39,356 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | |38,510 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | |37,773 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) | |37,458 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | |34,121 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31" />66,746 |33,466 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>65,720 |32,995 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |65,115 |32,526 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |64,753 |32,110 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |66,341 |32,975 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |70,524 |35,085 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |71,478 |35,666 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |71,147 |35,770 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |72,033 |36,145 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |70,733 |35,638 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |74,288 |37,218 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |76,653 |38,519 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |77,731 |39,047 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |80,071 |40,180 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |81,312 |40,775 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |82,370 |41,299 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |82,683 |41,455 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |81,284 |40,790 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>41,634 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>58,991 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>70,006 | | |} == 駅周辺 == 駅周辺は、早稲田大学の施設が点在していて、[[大学都市]]の特徴もある。 {{See also|早稲田南町|早稲田町|早稲田鶴巻町|馬場下町|夏目坂通り|西早稲田|戸山 (新宿区)|喜久井町|戸塚 (新宿区)}} * [[新宿区役所]] 榎町特別出張所 ** 新宿区榎町地域センター * [[新宿区立図書館#施設|新宿区立鶴巻図書館]] * 新宿区立漱石山房記念館 * 新宿区牛込保健センター * [[国立感染症研究所]] 戸山庁舎 * [[国立健康・栄養研究所]] * [[国立国際医療研究センター]] * [[早稲田大学]] ** [[早稲田大学戸山キャンパス|戸山キャンパス]](文学部、文化構想学部、早稲田アリーナ、学生会館)徒歩3分 ** [[早稲田大学早稲田キャンパス|早稲田キャンパス]](大学本部・[[大隈講堂]]・政治経済学部・法学部・教育学部・商学部・社会科学部・国際教養学部・[[早稲田大学坪内博士記念演劇博物館|坪内博士記念演劇博物館]]・[[早稲田大学會津八一記念博物館]])徒歩7分 ** 学術情報センター([[早稲田大学図書館|早稲田大学中央図書館]]、井深大記念ホール) * [[早稲田中学校・高等学校]] * [[学習院女子大学]]、[[学習院女子中・高等科]] * [[東京都立戸山高等学校]] * [[東京都立新宿山吹高等学校]] * [[新宿区立牛込第二中学校]] * [[新宿区立早稲田小学校]] * [[穴八幡神社]] * [[放生寺 (新宿区)|放生寺]] * [[早稲田奉仕園]] * [[戸山公園]] * 新宿馬場下[[郵便局]] * 早稲田大学前郵便局 * 西早稲田一郵便局 * [[リーガロイヤルホテル#チェーンホテル|リーガロイヤルホテル東京]] * [[都営バス早稲田営業所]] * [[早稲田通り]]([[東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線|東京都道25号飯田橋石神井新座線]]) * [[西早稲田駅]] === バス路線 === 最寄り[[バス停留所]]は、'''馬場下町'''となる。以下の[[路線バス]]が発着し、[[東京都交通局]]([[都営バス]])により運行されている。のりば番号に関しては都営バス公式サイト「tobus.jp」で表示される便宜上の番号であり、実際には何も表記されていない<ref>[http://tobus.jp/blsys/navi?VCD=cslrst&ECD=NEXT&LCD=&func=fap&method=mrw&sldrw=1002_4009_7145&slst=1258&slrsp= 「関東バスナビ」での表記例]</ref>。 ; のりば8 * [[都営バス新宿支所#早81系統|早81系統]]:早大正門行 ** 早稲田中高東縁、3a出入口付近 ; のりば9 * 早81系統:[[渋谷駅]]東口循環 ** 早稲田中高東向かい、エレベーター付近 ; のりば10 * [[都営バス早稲田営業所#早77系統|早77系統]]:[[都営バス早稲田営業所|早稲田]]行 ** 早稲田中高正門前、3b出口付近 ; のりば11 * [[都営バス小滝橋営業所#学02系統|学02系統]]:[[高田馬場駅]]行 ** 馬場下町交差点 ; のりば12 * 学02系統:早大正門行 ** 馬場下町交差点 == 付記 == 早稲田大学に近い高田馬場寄りの改札口では、改札口が中野方面と西船橋方面で分離されているため、どちらの方面の改札口であるかを知らせる案内放送が常時流されている。また、改札口付近にはどちらの方面の改札口であるかを示す掲示物が多数存在する。 == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線([[東陽町駅|東陽町]]以西は全列車が各駅に停車) :: [[高田馬場駅]] (T 03) - '''早稲田駅 (T 04)''' - [[神楽坂駅]] (T 05) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Waseda Station (Tokyo Metro)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[日本の同一駅名・同一市町村で所在地が異なる駅の一覧]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/waseda/index.html 早稲田駅/T04 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{東京メトロ東西線}} {{DEFAULTSORT:わせた}} [[Category:新宿区の鉄道駅|わせた_とうきようちかてつ]] [[Category:日本の鉄道駅 わ|せた]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1964年開業の鉄道駅]]
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10,445
愛(あい、英: love、仏: amour)について解説する。 最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、愛とは何かをその後の現代の多様な用法を使い、歴史に沿って解説する。 広辞苑では、次のような語義をあげている。 恋をしている事。日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま、を意味したという概念を表わす語としては「情」、恋愛に関しては「色」や「恋」という語が用いられることが多く、その概念そのものも欧米のそれとは大きく異なっていた。 近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた。 キリスト教において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりもアガペーである。 そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情(すでに古代ギリシア時代から考えられていた4種類の"愛"、いずれもギリシア語表現。)について説明していることが多い。それらは以下のとおり。 イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。 パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charis(ロマ 1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。 西欧の伝統、キリスト教の信仰においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。 ユダヤの聖書とされるヘブライ語聖書においては愛に相当する語として、ヘブライ語の「אהב」(エハヴ)(エハヴァ)(エハヴァー)が使われているが、日常でも用いられる。 また、キリスト教の英語旧約聖書で「lovingkindness」「kindness」「kindly」「mercy」「in goodness」と訳される「慈悲」の意味の「חסד」(ヘセド)は、他に「favor」「Loyalty」「disgrace」などと訳されて「えこひいき」「忠誠心」「恥」の意味にも使われているが、「Loyalty(恥)」と訳された「חסד」(ヘセド)をヘブライ語聖書レビ記20章17節に見ると「慰み」の意味合いも含まれていることがわかる。神の愛はしばしば歴史記述を通して具体的に語られる。概要としては、愛を受けるに相応しくない者に、神の自由な一方的な選択によって愛が与えられ、その者が、たとい神から離れようとも、神は見捨てない、という内容である。 仏教における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。 「愛」に相当する、概念には サンスクリット語ではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種がある。 仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。仏や菩薩が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitrī」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaruṇāには「悲」の字を用い、それらをあわせて「慈悲」という表現で呼んだ。 特に大乗仏教では、慈悲が智慧と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『スッタニパータ』にも慈悲の章がある。 一切衆生に対する純化された想い(心)を慈悲という。それは仏だけでなく、普通の人々の心の中にもあるものだと大乗仏教では説く。 観音菩薩(や聖母マリア)は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。 仁は、人がふたり居るときの完成した愛であるが、孔子は、その実現困難性について「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」といい、愛に生きるならば生命を捧げる覚悟が必要だとした。仁は対人関係において自由な決断により成立する徳である。孔子は仁の根源を血縁愛であるとした(「孝弟なるものはそれ仁の本をなすか」)。そしてこの自己犠牲としての愛と、血縁愛としての自己保存欲との間に、恭(道に対するうやうやしさ)、寛(他者に対する許しとしての寛大)、信(他者に誠実で偽りを言わぬ信)、敏(仕事に対する愛)、恵(哀れな人に対するほどこし)などが錯綜し、仁が形成されるとした。 一方で孔子は「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と述べた。 孟子は仁と義に対等の価値をみとめ、利と相反するものとしたが、墨子は義即利とみて、孟子と対立した。 仁をただちに愛としないのは愛を情(作用)とみ、仁を性(本体)とみているからである。 愛を巡っては、心理学や生物学分野においてさまざまな理論が提唱されている。 心理学者のロバート・スターンバーグ(英語版)は1986年に愛の三角理論を提唱し、愛は相手に対する敬意や好意、親しみを示す「親密さ」、性的欲求や相手への熱烈な感情を示す「情熱」、そして相手を愛そう、相手との関係を維持しようという決意を表わす「関与」の3つの成分に整理できるとして、各成分の有無によって、3成分全てが存在しない愛のない関係から3成分全てを兼ね備えた完全な愛に至るまで、愛を8種類に分類した。 愛と好意の関係については、本質的に同じものと見る立場から、質的に全く異なるものとみなす立場まで、さまざまな説が存在する。 社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。自分自身を支える基本的な力となる。 ( 英語でself-love とも。 narcissism の訳語として用いられることもある。) 生まれてきたばかりの赤ん坊は、保護者と接しながら自己と他者の認識を形成する。その過程で(成人するまでに)自身が無条件に受け入れられていると実感することが、自己愛の形成に大きく関与している。「自分が望まれている」事を前提に生活できることは、自身を大切にし自己実現に向かって前進する土台となり得る。また、自己に対する信頼が安定すること、自分という身近な存在を愛せることは、その経験から他者を尊重することにも繋がる。 心理学者らからは、自己愛が育って初めて他人を本当に愛することができるようになる、としばしば指摘されている。自分を愛するように、人を愛することができるという訳である。自分を愛せない間は、人を愛するのは難しいと言われる。 しかし子供によっては、虐待されたり、自身の尊厳を侵されたりするような環境に置かれることがある。この場合、その子供は努力次第で逆境に打ち勝ち、人格者に成長する可能性もあるし、自己愛が希薄な自虐的な性格になるなどの可能性もある。もし後者で自己愛を取り戻すには、自身が無条件で受け入れられていると強烈に実感する体験がかぎの一つとなる。 周囲から見て精神的に未熟な者が、恋愛の最中に「恋している自分に恋している」と評されることがある。これは、対象を愛して(気分が舞い上がりなどして)いる自己に酔っている、また、パートナーがいるという優越感に浸っている状態を揶揄するものである。しかし、本人の認識も、他者も、恋愛の対象も、全面的に真に相互的な恋愛感情を抱いていると誤認しやすい。 親子、兄弟姉妹、祖父母や孫などに対する愛。家族愛の根拠を血のつながりに求められることが多いが、家族という言葉は広い範囲を指しているものがあり、血縁があるかないかは関係ない。養子も大切な家族である。ヨーロッパやアメリカでは、アフリカなどで生き場を失った子供などを養子にし自分の家族の一員として迎え入れ大切に育てる人が増えてきている。 母が子に抱く愛や父が子に抱く愛をそれぞれ「母性愛」や「父性愛」などと言う。母性愛と父性愛は質的に異なり、それぞれの役割や社会的機能があると考えられている(これについては母性・父性の項が参照可)。愛情表現には多々あるが、コミュニケーションの中で子やパートナーの話に耳を傾けたり、抱きしめて相手を受け入れていることを示す方法、またそれらを行うための大切な時間を分け与えるなどの方法がある。 なお近年ではペットも家族としてとらえることが一般的になってきている(日本でもペットを飼い始めることを「○○(ちゃん)を家族として迎え入れた」と表現する事がある。特に犬や猫など、感情の交流ができる動物の場合にしばしばそういう表現がされている)。 こうした家族愛の成立は、かなり新しいものであると考えられている。エドワード・ショーターは中世ヨーロッパには家族愛は存在せず、性愛・母性愛・家族愛は近代になってはじめて家族に持ち込まれたとした。この3つの概念が持ち込まれたことで、19世紀には「性=愛=生殖」の一致を基本とする近代家族が成立し、以後の家族観の基礎となった。また、同時に家族は夫婦・親子の愛によって相互に結ばれるものというイデオロギーが成立した。この概念は明治時代に日本にも持ち込まれ、大正時代には都市部の新中産階級に普及した。一方で家族愛の中での比重は日本と欧米に違いが見られ、一般的に欧米は夫婦愛が最も重要であるのに対し、日本の家族愛は母性愛のイメージが多く語られる。また、愛が家族関係の中心的な概念となった結果、逆に愛情が薄れた場合離婚などで家族関係を解消することも多くなった。 全人類に対する愛を人類愛という。血縁関係や民族や人種などで人を差別するなどという下劣なことをしない愛である。 日本語では「愛」という概念と「恋」という概念は比較的はっきりと区別することができる。たとえば母や父が子を大切に思い、護り、そだてようとする気持ちは「愛」であるが、決して「恋」ではない。なお世の中には、一方的に恋をしていても、ただの恋にすぎず、相手のことを実は本当には愛していない、というような人は多い。当百科事典でも、愛と恋は区別し、恋のほうは恋愛という別記事で説明する。 ただしヨーロッパ諸語の中でも特に英語は基本語彙が貧弱な傾向があり、特に現代の英語圏の若者は語彙が貧困で、勉強が足らず、アガペーという用語も知らず、ただloveという言葉しか使わない結果、愛と恋をloveというひとつの語で表現してしまい、あれもこれもごちゃまぜにしてしまっており、混同しがちである。とはいえ近年では日本人でも、英語圏の人々の真似をしたい場合は「ラブ」と言って愛と恋をごちゃまぜにすることもある。 恋というものは「ただの恋」で終わってしまうことは多い。愛にまでは育たないことが多いのである。ただし、それぞれの人間性や人間的な成熟度にもよるが、最初は恋で始まった未熟な人間関係でも、交流を重ねるうちに、どちらかのうちに本物の愛が芽生え、育ってゆくことはある。 異性への恋というのは実は、当人が気づいていなくても、まず最初に子孫を残すという動物的衝動があって、それが異性への強い関心へとつながり、その強い関心が当人にとっては「恋」と感じられていることがある。古代以来の哲学者たちがそれをどのように理解し説明してきたか、次に挙げる。 プラトンによると愛 erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、生殖し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能な限り無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものから新しいものをのこしていくことによって可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラブはもとこのような善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動である。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えるものでもない。 プラトンは、エロスは神々と人間との中間者であり、つねに欠乏し、美しいものをうかがい、智慧を欲求する偉大な精霊(ダイモン)であるという。生殖の恋も愛智としての恋も、ともに不死なるものの欲求である。恋の奥義は地上の美しいものどもの恋から出発して、しだいに地上的なるものを離れ、ついに永遠にして絶対的な美そのものを認識するに至ることにある。 愛情と性的な感情がごちゃまぜになった状態は「性愛」と言う。 ショーペンハウアーは、あらゆる形式の愛が性への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているのであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。 フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.Hロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。(生殖とは、生物の個体が自己の体の一部を基として自己と同じ種類の別の個体を生じる現象をいう。個体にはそれぞれだいたい一定の寿命があって死滅するが、生殖によって種属の絶滅がふせげる。生物には個体維持の本能とともに生殖を全うしようとする種属保存の本能があり、両者を生物の二大本能という。生じた個体はその基となった個体とかならずしも同似ではないが、一定の世代数をへて同似のものにもどる。)
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"日本語では「愛」という概念と「恋」という概念は比較的はっきりと区別することができる。たとえば母や父が子を大切に思い、護り、そだてようとする気持ちは「愛」であるが、決して「恋」ではない。なお世の中には、一方的に恋をしていても、ただの恋にすぎず、相手のことを実は本当には愛していない、というような人は多い。当百科事典でも、愛と恋は区別し、恋のほうは恋愛という別記事で説明する。", "title": "愛と恋の違い" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ただしヨーロッパ諸語の中でも特に英語は基本語彙が貧弱な傾向があり、特に現代の英語圏の若者は語彙が貧困で、勉強が足らず、アガペーという用語も知らず、ただloveという言葉しか使わない結果、愛と恋をloveというひとつの語で表現してしまい、あれもこれもごちゃまぜにしてしまっており、混同しがちである。とはいえ近年では日本人でも、英語圏の人々の真似をしたい場合は「ラブ」と言って愛と恋をごちゃまぜにすることもある。", "title": "愛と恋の違い" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "恋というものは「ただの恋」で終わってしまうことは多い。愛にまでは育たないことが多いのである。ただし、それぞれの人間性や人間的な成熟度にもよるが、最初は恋で始まった未熟な人間関係でも、交流を重ねるうちに、どちらかのうちに本物の愛が芽生え、育ってゆくことはある。", "title": "愛と恋の違い" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "異性への恋というのは実は、当人が気づいていなくても、まず最初に子孫を残すという動物的衝動があって、それが異性への強い関心へとつながり、その強い関心が当人にとっては「恋」と感じられていることがある。古代以来の哲学者たちがそれをどのように理解し説明してきたか、次に挙げる。", "title": "愛と恋の違い" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "プラトンによると愛 erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、生殖し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能な限り無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものから新しいものをのこしていくことによって可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラブはもとこのような善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動である。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えるものでもない。", "title": "愛と恋の違い" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "プラトンは、エロスは神々と人間との中間者であり、つねに欠乏し、美しいものをうかがい、智慧を欲求する偉大な精霊(ダイモン)であるという。生殖の恋も愛智としての恋も、ともに不死なるものの欲求である。恋の奥義は地上の美しいものどもの恋から出発して、しだいに地上的なるものを離れ、ついに永遠にして絶対的な美そのものを認識するに至ることにある。", "title": "愛と恋の違い" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "愛情と性的な感情がごちゃまぜになった状態は「性愛」と言う。", "title": "愛と性の関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ショーペンハウアーは、あらゆる形式の愛が性への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているのであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。 フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.Hロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。(生殖とは、生物の個体が自己の体の一部を基として自己と同じ種類の別の個体を生じる現象をいう。個体にはそれぞれだいたい一定の寿命があって死滅するが、生殖によって種属の絶滅がふせげる。生物には個体維持の本能とともに生殖を全うしようとする種属保存の本能があり、両者を生物の二大本能という。生じた個体はその基となった個体とかならずしも同似ではないが、一定の世代数をへて同似のものにもどる。)", "title": "愛と性の関係" } ]
愛について解説する。
{{Otheruses|一般概念としての愛|作品名、人名 等|愛 (曖昧さ回避)}} {{Redirect|愛欲|1966年の日本映画|愛欲 (1966年の映画)}} {{複数の問題 | 未検証 = 2009年10月30日 (金) 13:59 (UTC) | 観点 = 2005年2月27日 (日) 18:11 (UTC) | 独自研究 = 2011年12月29日 (木) 00:23 (UTC) }} [[File:Haynes-Williams Motherhood.jpg|thumb|right|180px|[[母親|母]]の子への愛を「[[母性]]愛」という。]] [[File:Severin Nilson-I pappas famn.jpg|thumb|right|180px|[[父親|父]]の子への愛を「[[父性]]愛」という。]] [[File:Good Samaritan (Watts).jpg|thumb|right|180px|'''人類愛'''。[[フィランソロピー]]。'''たとえ民族が異なろうが、文化が異なろうが'''、どの人間のことも心から大切に思うこと。深く[[共感]]し、'''一歩踏み込んで、実際にその人のために具体的な行動を開始する心'''・精神。キリスト教ではしばしば「'''隣人愛'''」と言う。異民族でも隣人である。イエスが「[[善きサマリア人のたとえ]]」で弟子たちに教えた愛。こうした人類愛が、[[赤十字]]、[[国際連合児童基金|UNICEF]]、[[国境なき医師団]]等々の組織設立やその諸活動となって表れており、実際に、苦しむ人々を助け、闇に満ちた世界に光を、絶望している人々に希望をもたらしている。(上の絵画は『[[善きサマリア人]]』[[ジョージ・フレデリック・ワッツ]] 画)]] [[File:Psyche et LAmour.jpg|thumb|right|180px|『[[プシューケー]]と愛』 [[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]、1889年。]] '''愛'''(あい、{{lang-en-short|love}}、{{lang-fr-short|amour}})について解説する。 == 概要 == 最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、愛とは何かをその後の現代の多様な用法を使い、歴史に沿って解説する。 === 辞典等の主要語義の解説 === [[広辞苑]]では、次のような語義をあげている。 *親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、[[人間]]や[[生物]]への思いやり<ref name=koujien>広辞苑</ref>。 *男女間の愛情。恋愛<ref name=koujien/>。 *大切にすること。かわいがること。めでること<ref name=koujien/>。 *〔[[キリスト教]]〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。[[アガペー]](隣人愛)<ref name=koujien/>。 *〔[[仏教]]〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「[[十二因縁]]」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる<ref name=koujien/>。 ==日本語の「愛」の意味の変遷== 日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい<ref name=oubunsyakogo>旺文社『古語辞典』</ref>、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま<ref name=oubunsyakogo/>、を意味したという概念を表わす語としては「情」<ref>「純潔の近代 近代家族と親密性の比較社会学」p10 デビッド・ノッター 慶應義塾大学出版会 2007年11月10日初版第1刷発行</ref>、恋愛に関しては「色」や「恋」という語が用いられることが多く、その概念そのものも欧米のそれとは大きく異なっていた<ref>「純潔の近代 近代家族と親密性の比較社会学」p1-2 デビッド・ノッター 慶應義塾大学出版会 2007年11月10日初版第1刷発行</ref>。 [[近代]]に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. [[キリスト教]]の愛の概念、2.[[ギリシア]]的な愛の概念、3. [[ロマン主義]]小説の[[恋愛]]至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた<ref>「純潔の近代 近代家族と親密性の比較社会学」p2-3 デビッド・ノッター 慶應義塾大学出版会 2007年11月10日初版第1刷発行</ref>。 == 伝統的な説明、宗教的な説明 == === 古代ギリシア・キリスト教での愛 === [[キリスト教]]において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりも'''[[アガペー]]'''である。 そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情(すでに[[古代ギリシア]]時代から考えられていた4種類の"愛"、いずれもギリシア語表現。)について説明している<ref>スコット・ペック『愛と心理療法』創元社, 1987年, ISBN 4422110837 など</ref>ことが多い。それらは以下のとおり。 *「[[ストルゲー]]」 <span lang="gr">''στοργή''</span> <span lang="en">''storgē''</span> **キリスト教では家族愛。(古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛、であった。)<!--?? 愛とは、互いに慈しみを持ち、感謝をささげること。--> *「[[エロース|エロス]]」 <span lang="gr">''έρως''</span> <span lang="en">''érōs''</span> **キリスト教では性愛。(古代ギリシアでは自己を充実させる愛、であった。) *「[[フィリア|フィーリア]]」 <span lang="gr">''φιλία''</span> <span lang="en">''philía''</span> **キリスト教では隣人愛。[[友愛]]。(古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。<ref group="注釈">古代ギリシア語では「<span lang="gr">φιλειν</span>(philein フィレイン、愛する)」という動詞があり、それに対応する名詞が「[[フィリア|フィーリア]]」である。 この動詞φιλειν phileinは、その語幹 phil-と様々な語との組み合わせで用いられている。 * たとえば[[古代ギリシア語]]の「<span lang="gr">φιλοσοφία</span>(フィロソフィア)」はこのフィレインと「<span lang="gr">σοφία</span>(ソフィア=知)」の組み合わせであり、もとは「知を愛すること」という意味で、これが[[哲学]](また18世紀までの[[学問]]全般)になった。 * 『[[ルカによる福音書]]』および『[[使徒言行録]]』の冒頭に献呈する相手の名として「テオフィロ様」とあるが、テオ(テオス)は「神」のことで、「神を愛する者」という意味の名である。 * [[:en:philology|philology]] [[フィロロジー]]は、「言葉を愛すること」という意味から[[言語学]]や[[文献学]]を指す。 * [[:en:philanthropy|philanthropy]] [[フィランソロピー]]は、「人類を愛すること」という意味で、人類への愛にもとづいた様々な慈善活動を指す。 * philharmonie [[フィルハーモニー]]は、「フィレイン」と「[[ハーモニー]]」の組み合わせであり、ハーモニーを愛すること、という意味から[[交響楽団]]、交響楽演奏などの意味で使われている。 </ref>) *「'''[[アガペー]]'''」 <span lang="gr">''αγάπη''</span> <span lang="en">''agápē''</span> **キリスト教では真の愛。(古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛、であった。)新約聖書においては「神は愛です」([[ヨハネの手紙一]] 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特に[[イエス・キリスト]]を通して愛が示されている。「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない<ref name="shinseishojiten" />。 イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」([[マタイによる福音書|マタイ]] 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。 [[パウロ]]は対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」([[コリントの信徒への手紙一|1コリント]] 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵<span lang="en">''charis''</span>([[ローマの信徒への手紙|ロマ]] 1:5、ほか)と呼び、これはのちに<span lang="la">''gratia''</span>とラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。 西欧の伝統、キリスト教の[[信仰]]においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。 === ユダヤ教「ヘブライ語聖書」における愛 === [[ユダヤ教|ユダヤ]]の聖書とされる[[ヘブライ語聖書]]においては'''愛'''に相当する語として、[[ヘブライ語]]の「אהב」(エハヴ)(エハヴァ)(エハヴァー)が使われているが、日常でも用いられる。 また、[[キリスト教]]の英語[[旧約聖書]]で「lovingkindness」「kindness」「kindly」「mercy」「in goodness」と訳される「慈悲」の意味の「חסד」(ヘセド)<ref>[http://biblesuite.com/hebrew/chesed_2617.htm ヘブライ語対訳英語聖書 「חסד」(he-sed)]</ref>は、他に「favor」「Loyalty」「disgrace<ref>[http://interlinearbible.org/leviticus/20.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Leviticus 20:17]</ref>」などと訳されて「えこひいき」「忠誠心」「恥」の意味にも使われているが、「Loyalty(恥)」と訳された「חסד」(ヘセド)を[[ヘブライ語聖書]][[レビ記]]20章17節に見ると「慰み」の意味合いも含まれていることがわかる。神の愛はしばしば歴史記述を通して具体的に語られる。概要としては、愛を受けるに相応しくない者に、神の自由な一方的な選択によって愛が与えられ、その者が、たとい神から離れようとも、神は見捨てない、という内容である<ref name="shinseishojiten">{{Cite book|和書|title=新聖書辞典|publisher=いのちのことば社|page=3-4}}</ref>。 *「מאהבת」は<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/7.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 7:8]</ref>、主の「'''愛'''」の意味。この綴りは、主が「'''愛した'''」という意味の「אהב」を<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/4.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 4:37]</ref>核とする。 **[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[申命記]]7章8節「ただ、あなたに対する主の'''愛'''のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、[[ファラオ]]が支配する奴隷の家から救い出されたのである。 」と翻訳されている。 *「מאהבת」はまた<ref name="名前なし-1">[http://interlinearbible.org/2_samuel/1.htm ヘブライ語対訳英語聖書 2 Samel 1:26]</ref>、女の「'''愛'''」も意味する。 **[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[サムエル記]])下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の'''愛'''にまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。 *「אהבתך」は<ref name="名前なし-1"/>、親友の「'''愛'''」を意味する。 **[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[サムエル記]]下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの'''愛'''を。 」と翻訳されている。 *「אהבת」は<ref>[http://interlinearbible.org/genesis/22.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 22:2]</ref>、息子に対するアブラハムの「'''愛'''」。 **[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[創世記]]22章2節「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの'''愛する'''独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 」と翻訳されている。 *「ואהבת」は<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/6.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 6:5]</ref>、主を「'''愛すべし'''」の意味。 **[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[申命記]]6章5節「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を'''愛しなさい'''。 」と翻訳されている。 *「ואהבת」はまた<ref>[http://interlinearbible.org/leviticus/19.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Leviticus 19:18]</ref>、隣人を主である私のように「'''愛すべし'''」という意味の聖句にも使われている。なお、主は、[[キリスト教]][[申命記]]10章9節にも記されているとおり、[[レビ族]]の<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/10.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9]</ref>嗣業を意味する。 **[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[レビ記]]19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を'''愛しなさい'''。わたしは主である。 」と翻訳されている。 *「לאהבי」は<ref>[http://interlinearbible.org/exodus/20.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Exodus 20:6]</ref><ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/5.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 5:10]</ref>、主から慈悲を与えられる「'''愛人'''」の意味。主の「לאהבי」('''愛人''')であることに対する見返りが、主の「חסד」(慈悲)である。 **[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[出エジプト記]]20章6節並びに[[申命記]]5章10節「'''わたしを愛し'''、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 」と翻訳されている。 === 仏教での愛と慈悲 === [[仏教]]における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。 「愛」に相当する、概念には [[サンスクリット語]]ではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種がある。 ;愛 ;tRSNaa ([[トリシュナー]]) :人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう<ref>{{Cite |和書|title=完全図解 仏教早わかり百科 |date=1999-12-01 |author=ひろさちや |isbn=978-4391123951 |page=38}}</ref>。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。 :広義には[[煩悩]]を意味し、狭義には[[貪欲]]と同じ意味である。 :また、この「愛」は[[十二因縁]]に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。 ;kaama (カーマ) :kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。 :[[仏教]]では、[[性愛]]については抑制を説いたが、後代の[[真言密教]]になると、男女の性的結合を絶対視する[[タントラ教]]の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を[[涅槃]]そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。 :密教が[[空海]]によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に[[「彼の法」集団]](俗に[[立川流 (密教)|立川流]]と混同される)が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。 :性愛を表す[[愛染]]という語も、この流れであり、しばしば用いられる。 ;慈悲 ;preman, sneha :preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。 :子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、[[菩薩]]の理想である。 仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。[[仏]]や[[菩薩]]が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitrī」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaruṇāには「悲」の字を用い、それらをあわせて「[[慈悲]]」という表現で呼んだ。 特に[[大乗仏教]]では、[[慈悲]]が[[智慧]]と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『[[スッタニパータ]]』にも慈悲の章がある。 {{Quotation|あたかも母が己の独り子をば[[自己犠牲|身命を賭けて護る]]ように、一切の[[生命|生きとしいけるもの]]に対しても、無量の[[慈悲|慈しみのこころ]]を起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『[[スッタニパータ]]』<ref> 並川孝儀『スッタニパータ ―仏教最古の世界』岩波書店、ISBN 4000282859</ref><ref>[[中村元 (哲学者)|中村元]]『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波文庫、1958、ISBN 4003330110</ref>)}} 一切[[衆生]]に対する純化された想い(心)を[[慈悲]]という。それは仏だけでなく、普通の人々の心の中にもあるものだと大乗仏教では説く。 <!--この場合は愛が状態であり、対象や相手を持たないが、更に愛があふれ出ている。近くに来る人は慈悲を受け取り、愛をいっぱいに受け取ることができるとも言われる{{要出典|date=2012-3}}。--> [[観音菩薩]](や[[聖母マリア]])は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。 === 儒教での愛 === [[仁]]は、人がふたり居るときの完成した愛であるが、[[孔子]]は、その実現困難性について「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」といい、愛に生きるならば生命を捧げる覚悟が必要だとした。仁は対人関係において自由な決断により成立する徳である。孔子は仁の根源を血縁愛であるとした(「孝弟なるものはそれ仁の本をなすか」)。そしてこの自己犠牲としての愛と、血縁愛としての自己保存欲との間に、恭(道に対するうやうやしさ)、寛(他者に対する許しとしての寛大)、信(他者に誠実で偽りを言わぬ信)、敏(仕事に対する愛)、恵(哀れな人に対するほどこし)などが錯綜し、仁が形成されるとした。 一方で孔子は「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と述べた。 [[孟子]]は仁と義に対等の価値をみとめ、利と相反するものとしたが、[[墨子]]は義即利とみて、孟子と対立した。<ref name="名前なし-2">平凡社 哲学事典</ref> 仁をただちに愛としないのは愛を情(作用)とみ、仁を性(本体)とみているからである。<ref name="名前なし-2"/> == 理論 == 愛を巡っては、心理学や生物学分野においてさまざまな理論が提唱されている。 心理学者の{{仮リンク|ロバート・スターンバーグ|en|Robert Sternberg}}は1986年に[[愛の三角理論]]を提唱し、愛は相手に対する敬意や好意、親しみを示す「親密さ」、性的欲求や相手への熱烈な感情を示す「情熱」、そして相手を愛そう、相手との関係を維持しようという決意を表わす「関与」の3つの成分に整理できるとして、各成分の有無によって、3成分全てが存在しない愛のない関係から3成分全てを兼ね備えた完全な愛に至るまで、愛を8種類に分類した<ref>「恋ごころの科学」(セレクション社会心理学12)p157-158 松井豊 サイエンス社 1993年4月10日初版発行</ref>。 愛と[[好意]]の関係については、本質的に同じものと見る立場から、質的に全く異なるものとみなす立場まで、さまざまな説が存在する<ref>「恋ごころの科学」(セレクション社会心理学12)p155-156 松井豊 サイエンス社 1993年4月10日初版発行</ref>。 <!-- 「心理学における説明」の節が独自研究に陥っている。 本当に心理学の標準的な教科書で、「愛」の説明でいきなりコンプレックス症例ばかりを列挙しているのか? 2009年にタグが貼られ1年半経過したのに出典が提示されていない。特定のウィキペディアンが自分の感覚で特定の方向で話を強調して、文章を作っている可能性が大。「心理学における」と謳うからには、愛を主題にした心理学の論文・書籍か、心理学の教科書に「愛」という章がわざわざ割かれている出典を見つけて、素直にそこでどのように説明されているのか、しかもどの心理学者による説明方式なのか、心理学者名を明示しつつ、中立的に記述する必要がある。 ==心理学における説明== {{出典の明記|section=1|date=2009年12月}} ===コンプレックス症例=== 家族愛を表す用語として[[コンプレックス]](抑圧された複合意識)という用語が使われることがある。ただ、こういった用語はその前提となる考えがそれぞれ違うため、単純にイコールにはできない。例えば、[[エディプスコンプレックス]]は父親に対する対抗心として母親への愛があり、[[マザーコンプレックス]]は単純な母親への感情を意味する。そのため、細かく見ればそれぞれ意味は異なる。 前述のように子供から母親に対する度を過ぎた愛は[[マザーコンプレックス]]あるいは[[エディプスコンプレックス]]と呼ばれる。また、[[ジークムント・フロイト]]は女の子が初め母親に愛情を向けることを指摘し、また[[カール・グスタフ・ユング]]は純粋な母親への愛は女性に良く見られると指摘した。一方、母親から子への愛を表す用語は[[阿闍世コンプレックス]]と言われる。この用語は母親の無限の愛を前提にする。息子の場合は[[アグリッピーナコンプレックス]]と呼ばれることもある。この用語の場合母親の歪んだ息子に対する愛を前提にする。 一方、子供から父親への度を過ぎた愛情は[[ファザーコンプレックス]]という。女性の場合[[エレクトラコンプレックス]]という。この場合は母親への愛の次の段階としての女性の父親に対する愛を意味する。男性の場合[[オレステスコンプレックス]]というが、これは母親への愛との重なり合いで苦しめられているという意味合いを含む。父親の息子への度を過ぎた愛は[[アブラハムコンプレックス]]という。この場合は息子離れが出来ず、親離れをしようとする息子を憎む意味合いを含む。父親の娘への愛は[[白雪姫コンプレックス]]と言われる。これは、母親の嫉妬が背後にある。 兄弟愛、姉妹愛という言葉があるが、これもまた度が過ぎた場合、「シスコン([[シスターコンプレックス]]の略)」「ブラコン([[ブラザーコンプレックス]]の略)」と呼ばれる。親の愛をめぐる心理葛藤として「[[カインコンプレックス]]」と呼ばれる場合もある。 --> == 対象 == === 自己愛 === {{main|ナルシシズム}} [[File:Narcissus-Caravaggio (1594-96) edited.jpg|thumb|ナルシシズムの語源となった、[[ナルキッソス]]([[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]画)]] 社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。自分自身を支える基本的な力となる。 ( 英語でself-love とも。 narcissism の訳語として用いられることもある。) 生まれてきたばかりの赤ん坊は、保護者と接しながら自己と他者の認識を形成する。その過程で(成人するまでに)自身が無条件に受け入れられていると実感することが、自己愛の形成に大きく関与している。「自分が望まれている」事を前提に生活できることは、自身を大切にし自己実現に向かって前進する土台となり得る。また、自己に対する信頼が安定すること、自分という身近な存在を愛せることは、その経験から他者を尊重することにも繋がる。 [[心理学者]]らからは、自己愛が育って初めて他人を本当に愛することができるようになる、としばしば指摘されている。自分を愛するように、人を愛することができるという訳である。自分を愛せない間は、人を愛するのは難しいと言われる。 しかし子供によっては、虐待されたり、自身の尊厳を侵されたりするような環境に置かれることがある。この場合、その子供は努力次第で逆境に打ち勝ち、人格者に成長する可能性もあるし、自己愛が希薄な自虐的な性格になるなどの可能性もある。もし後者で自己愛を取り戻すには、自身が無条件で受け入れられていると強烈に実感する体験がかぎの一つとなる。 周囲から見て精神的に未熟な者が、恋愛の最中に「恋している自分に恋している」と評されることがある。これは、対象を愛して(気分が舞い上がりなどして)いる自己に酔っている、また、パートナーがいるという優越感に浸っている状態を揶揄するものである。しかし、本人の認識も、他者も、恋愛の対象も、全面的に真に相互的な恋愛感情を抱いていると誤認しやすい。 {{人間関係}} === 家族愛 === {{Main|家族愛}} 親子、兄弟姉妹、祖父母や孫などに対する愛。家族愛の根拠を血のつながりに求められることが多いが<ref>「文化人類学のレッスン フィールドからの出発」p65 奥野克巳・花渕馨也共編 学陽書房 2005年4月11日初版発行</ref>、[[家族]]という言葉は広い範囲を指しているものがあり、血縁があるかないかは関係ない。養子も大切な家族である。ヨーロッパやアメリカでは、アフリカなどで生き場を失った子供などを[[養子]]にし自分の家族の一員として迎え入れ大切に育てる人が増えてきている。 母が子に抱く愛や父が子に抱く愛をそれぞれ「[[母性]]愛」や「[[父性]]愛」などと言う。母性愛と父性愛は質的に異なり、それぞれの役割や社会的機能があると考えられている(これについては[[母性]]・[[父性]]の項が参照可)。愛情表現には多々あるが、コミュニケーションの中で子やパートナーの話に耳を傾けたり、抱きしめて相手を受け入れていることを示す方法、またそれらを行うための大切な時間を分け与えるなどの方法がある。 なお近年では[[ペット]]も家族としてとらえることが一般的になってきている(日本でもペットを飼い始めることを「○○(ちゃん)を家族として迎え入れた」と表現する事がある。特に犬や猫など、感情の交流ができる動物の場合にしばしばそういう表現がされている)。 こうした家族愛の成立は、かなり新しいものであると考えられている。エドワード・ショーターは[[中世#ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]には家族愛は存在せず、性愛・母性愛・家族愛は近代になってはじめて家族に持ち込まれたとした<ref>「文化人類学のレッスン フィールドからの出発」p56-57 奥野克巳・花渕馨也共編 学陽書房 2005年4月11日初版発行</ref>。この3つの概念が持ち込まれたことで、19世紀には「性=愛=生殖」の一致を基本とする近代家族が成立し、以後の家族観の基礎となった<ref>「文化人類学のレッスン フィールドからの出発」p57 奥野克巳・花渕馨也共編 学陽書房 2005年4月11日初版発行</ref>。また、同時に家族は夫婦・親子の愛によって相互に結ばれるものというイデオロギーが成立した<ref>「ライフコースとジェンダーで読む 家族 第3版」p69-71 岩上真珠 有斐閣 2013年12月15日第3版第1刷</ref>。この概念は明治時代に日本にも持ち込まれ、[[大正時代]]には都市部の新中産階級に普及した<ref>「純潔の近代 近代家族と親密性の比較社会学」p4-5 デビッド・ノッター 慶應義塾大学出版会 2007年11月10日初版第1刷発行</ref>。一方で家族愛の中での比重は日本と欧米に違いが見られ、一般的に欧米は夫婦愛が最も重要であるのに対し、日本の家族愛は母性愛のイメージが多く語られる<ref>「純潔の近代 近代家族と親密性の比較社会学」p155 デビッド・ノッター 慶應義塾大学出版会 2007年11月10日初版第1刷発行</ref>。また、愛が家族関係の中心的な概念となった結果、逆に愛情が薄れた場合[[離婚]]などで家族関係を解消することも多くなった<ref>「ライフコースとジェンダーで読む 家族 第3版」p72 岩上真珠 有斐閣 2013年12月15日第3版第1刷</ref>。 === 人類愛 === 全人類に対する愛を[[人類愛]]という。血縁関係や民族や人種などで人を[[差別]]するなどという下劣なことをしない愛である。 {{Main|フィランソロピー|アガペー}} == 愛と恋の違い == {{出典の明記|section=1|date=2011年8月}} {{Seealso|恋愛}} 日本語では「愛」という概念と「恋」という概念は比較的はっきりと区別することができる。たとえば母や父が子を大切に思い、護り、そだてようとする気持ちは「愛」であるが、決して「恋」ではない。なお世の中には、一方的に恋をしていても、ただの恋にすぎず、相手のことを実は本当には愛していない、というような人は多い。当百科事典でも、愛と恋は区別し、恋のほうは[[恋愛]]という別記事で説明する。 {{要出典|範囲=ただしヨーロッパ諸語の中でも特に英語は基本語彙が貧弱な傾向があり、特に現代の英語圏の若者は語彙が貧困で、勉強が足らず、アガペーという用語も知らず、ただloveという言葉しか使わない結果、愛と恋をloveというひとつの語で表現してしまい、あれもこれもごちゃまぜにしてしまっており、混同しがちである。とはいえ近年では日本人でも、英語圏の人々の真似をしたい場合は「ラブ」と言って愛と恋をごちゃまぜにすることもある。|date=2023年1月}} [[画像:Romeo and juliet brown.jpg|thumb|180px|[[ロミオとジュリエット]]。[[フォード・マドックス・ブラウン]]による絵画 (1867年)|左]] {{要出典|範囲=恋というものは「ただの恋」で終わってしまうことは多い。愛にまでは育たないことが多いのである。ただし、それぞれの人間性や人間的な成熟度にもよるが、最初は恋で始まった未熟な人間関係でも、交流を重ねるうちに、どちらかのうちに本物の愛が芽生え、育ってゆくことはある。|date=2023年1月}} 異性への恋というのは実は、当人が気づいていなくても、まず最初に子孫を残すという動物的衝動があって、それが異性への強い関心へとつながり、その強い関心が当人にとっては「恋」と感じられていることがある。古代以来の哲学者たちがそれをどのように理解し説明してきたか、次に挙げる。 プラトンによると愛 erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、生殖し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能な限り無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものから新しいものをのこしていくことによって可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラブはもとこのような善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動である。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えるものでもない<ref name="名前なし-2"/>。 プラトンは、エロスは神々と人間との中間者であり、つねに欠乏し、美しいものをうかがい、智慧を欲求する偉大な精霊(ダイモン)であるという。生殖の恋も愛智としての恋も、ともに不死なるものの欲求である。恋の奥義は地上の美しいものどもの恋から出発して、しだいに地上的なるものを離れ、ついに永遠にして絶対的な美そのものを認識するに至ることにある<ref name="名前なし-2"/>。 == 愛と性の関係 == [[File:Meiji_Period_Shunga.jpg|thumb|right|220px|[[明治]]の[[春画]](1880年)]] [[Image:The Kiss - Gustav Klimt - Google Cultural Institute.jpg|thumb|180px|[[接吻 (クリムト)|接吻]] (''The Kiss'') - [[グスタフ・クリムト]] (Gustav Klimt)]] 愛情と性的な感情がごちゃまぜになった状態は「[[性愛]]」と言う。 [[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]は、あらゆる形式の愛が性への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているのであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない<ref name="名前なし-2"/>。 フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.Hロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる<ref name="名前なし-2"/>。(生殖とは、生物の個体が自己の体の一部を基として自己と同じ種類の別の個体を生じる現象をいう。個体にはそれぞれだいたい一定の寿命があって死滅するが、生殖によって種属の絶滅がふせげる。生物には個体維持の本能とともに生殖を全うしようとする種属保存の本能があり、両者を生物の二大本能という。生じた個体はその基となった個体とかならずしも同似ではないが、一定の世代数をへて同似のものにもどる。<ref name="名前なし-2"/>) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== *[[スコット・ペック]]『愛と心理療法』[[創元社]]、1987年、ISBN 4422110837。 *[[エーリヒ・フロム]]『[[愛するということ (エーリヒ・フロム)|愛するということ]]』[[紀伊國屋書店]]、1991年、ISBN 4314005580。 * ドニ・ド・ルージュモン『愛について – エロスとアガペ』平凡社、1993年、ISBN 978-4582760149。 *[[ジョーン・ボリセンコ]]『愛とゆるしの心理学』[[日本教文社]], 1996年、ISBN 4531080971。 *[[飯田史彦]]『愛の論理』[[PHP研究所]], 2000年、ISBN 4569612172。 * ジャック・アタリ『図説「愛」の歴史』原書房、2009年、ISBN 978-4562045044。 * カーター・リンドバーグ『愛の思想史』教文館、2011年、ISBN 978-4764218550。 == 関連項目 == {{sisterlinks|commons=category:Love|commonscat=Love}} * [[エロス]] * [[フィリア]] * [[アガペー]] * [[信頼]] * [[同情]] * [[嫉妬]] - 恋愛は嫉妬を生む。 * [[性行為|性]] * [[自体愛]] * [[エクスタシー]] * [[プラトニック・ラブ]] * [[動機]] * [[恋愛]] * [[性愛]] - 極度に情愛の高まった男女間・異性間が達する。 * [[感情の一覧]] * [[愛染明王]]:愛欲にかかわる[[明王]] * [[アイルランド]] - '''愛'''はアイルランドの漢字表記の略称でもある。 * [[あ]][[い]] - [[日本]]国で主に使われる[[日本語]]で標準的に用いられる[[平仮名]]と[[片仮名]]は、この2文字から始まる。 == 外部リンク == *[{{NDLDC|824003/1}} 『愛を論ず』]([[1894年]]文献)[[国立国会図書館]] {{IEP|love|Philosophy of Love|愛の哲学}} {{SEP|love|Love}} * {{Kotobank}} {{感情のフッター}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:あい}} [[Category:愛|*]] [[Category:哲学の主題]] [[Category:キリスト教用語]] [[Category:仏教用語]] [[Category:徳]] [[Category:感情]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B
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恋愛
本記事では恋愛(れんあい)や恋(こい)について解説する。 それぞれの国語辞典で恋愛という言葉は、以下のように定義されている。 『広辞苑』第6版では「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい」と簡潔に記し、さらに「恋い慕う」は「恋しく思って追い従おうとする。恋慕する」と記す。その「恋しい」は「1 離れている人がどうしようもなく慕わしくて、せつないほどに心ひかれるさま」「2 (場所・事物などが)慕わしい。なつかしい」と歴史的用法を踏まえて説明する。 『三省堂国語辞典』第7版の「恋愛」は「(おたがいに)恋(コイ)をして、愛を感じるようになること」と記す。そのうち「恋」は「人を好きになって、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)」、「愛」は「1 〈相手/ものごと〉をたいせつに思い、つくそうとする気持ち」「2 恋(コイ)を感じた相手を、たいせつに思う気持ち」と説明する。 『新明解国語辞典』は、第5版で「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」とした。第6・7版では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」と記している。第8版では「特定の異性」が「特定の相手」に変更され、同性愛も包括するものとなった。 『デジタル大辞泉』は、「特定の人に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、互いにそのような感情をもつこと」とした。「ベネッセ表現読解国語辞典」 は 「男女間で 特定の相手をお互いに 恋い慕うこと」とした。 古代ギリシア語では、特定の異性を求めるような気持ちについては「エロス」と呼び、様々な愛、もっと上質な愛(兄弟愛、人類愛 等々)とははっきりと区別した。 現代フランス語ではAmour アムール、現代英語ではLove ラブと言うが、これは恋だけでなく、広く「愛」を指し示す用語である。特定の異性や特定の人に限らず、自分の性的志向にかかわらず広く人々を大切にしたり広く人々を愛することについては、愛の記事を参照のこと。 英語「falling in love」の訳語としても「恋愛」は用いられている。ギリシア語でははっきりと区別されていた概念を、英語では(特にアメリカ英語では)、ごちゃまぜにして安易に「love」と呼んで済ませてしまうので、(特に、古代語などを学んだことがない米国の若者などで)異なった概念がごちゃまぜになり、結果として(自己本位な)恋までが、あたかも高級なものであるかのように扱われる傾向がある。 この記事では、「恋」(恋愛)について解説し、その関連で「愛」についても触れる。 恋愛については、古来より多くの文学や哲学の主題となり、論じられてきた歴史があり、芸術作品で扱われる主題である。 プラトンは、究極的な愛の対象である美のイデアは不死であることから、永遠不変の美のイデアへの愛と認識は神的であり、最も優れた愛であると考えた。 エンペドクレスは愛philotēs、storgēと憎しみneikosを宇宙生成の原理とした。万物の根である火、空気、土、水の四元を結合させる愛と、分離させる憎しみが交互に優勢支配的となり、世界史の四期が永劫にくりかえされるというのである。 プラトンによると愛erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、生殖し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能なかぎり無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものの代わりにつねに他の新しいものをのこしていくことによってのみ可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラヴはもと、このように善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動でもある。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えてるのでもない。 プラトンの恋愛は厳格に二元的である。いわゆる天上的な恋愛というものは地上的な恋愛から峻別されるのであって、いわゆる性欲の昇華として恋愛を考える考え方とまったく異なるものである。その天上的な恋愛はつぎにのべる想起説とむすびつき、人間のもっている不死なる生命が天上的な起源のものであって、われわれの肉体とむすびつけられるまえに、善美の極にあるものを想起し、それへの憧憬にみたされる場合が真の恋愛ということになる。ただこの場合においても、地上の人間は肉体にむすびつけられているから、地上的な恋愛への抵抗において、相愛する人間同士がお互いを精神的に向上させ、愛を通じて、より美しきものを生むという形で具体的な恋愛が考えられている。その点は『パイドロス』phaidorosにおいてとくにくわしい。 想起説は、真にものを知るということは知るもの自身の自発性にまたなければならないという考えで、プラトンの教育説の根底となっている。前述の恋愛論におけるがごときミュトスmythosがここにも考えられるが、他方においては単なる<<思いなし>>(doxa ドクサ)から真の理解、あるいは知識に到達するための過程としても考えられている。『メノン』Menonの実例に見られるように、それは問答法として発展するものである。またわれわれの精神を浄化する過程としても考えられている。 アウグスティヌスは、「融合和一を求める生活が愛であり、神に対する愛が人間の最大至上の幸福である」としたが、こういう考えはアンセルムス、エックハルト、ブルーノ、スピノザ、ライプニッツ、フィヒテなど多くの哲学者にも受けつがれている。そしてこれは中世哲学、カトリック教会一般を特色づけている見方である。よく知られているように、「愛の宗教」といわれるキリスト教では、愛はあらゆる徳のなかで最高のものとされ、予言より、ロゴスより、知識よりも上位におかれている。そしてそれは神の掟としてつぎの二つに要約される。すなわち神の愛と隣人愛がそれである。神の愛、つまり神を直接の目的として恩寵によって与えられる愛は愛徳chāritāsカリタスとよばれ、スコラ哲学でいう精神的愛amor intellectivus、慈善的愛amor benevolenceのうちで最上のものとされている。 中世フランスに起源が見られる騎士道物語においてはロマンス的愛(=ローマ風の愛。「ローマ風」とは「ラテン風」が正式なものとされるに対して「民衆的・世俗的な」という語感をもつ)が生まれ、キリスト教的愛(=アガペー。神が示す無償の愛)とは異なるもの、異風なものとして叙述されはじめた。 13世紀、中世フランスにおいてギヨーム・ド・ロリス(フランス語版)とジャン・ド・マン(フランス語版)によって書かれた『薔薇物語』は恋愛作法の書として多数の写本が作られ、当時 貴婦人たちの間で大きな影響力を持っていた。 中世ドイツでは、今日一般的な恋愛関係による婚姻(恋愛婚)は9世紀に教会により非合法とされたので婚姻において氏や家が重要であった(ジッペ・ムント参照)。 イギリスでは16世紀にシェイクスピア(1564年 - 1616年)が『ロミオとジュリエット』において、家同士の争いに引き裂かれる恋人たち、悲劇的な恋愛を描いてみせた(1595年前後初演)。不朽の名作として、バレエ、ミュージカル、映画など様々なジャンルにリメイクされている。 17世紀後半のイギリス、すなわちシェイクスピア直後の時代には、現代用いられる「身体を否定する精神だけの愛」という意味でのプラトニックラブという表現が現れたらしい。 19世紀末期のフランスで、エドモン・ロスタンが戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を書き、ロクサーヌという女性に恋心を抱いているにもかかわらず自分の気持ちを面と向かって伝えることができず、恋心を隠し通し、自分の恋を成就させるかわりに若くて美男子(だが見てくればかりで、頭が悪く、才能が無い)クリスチャンとロクサーヌとの恋をとりもってやる シラノという中年男の「忍ぶ恋」「切ない恋」を描いてみせた(1897年初演)。この戯曲はパリの人々を大熱狂させたといい、1897年の初演から500日間400回連続上演され、その後も今日にいたるまで世界中で上演されつづけており、映画やミュージカルに幾度もリメイクされ見続けられている。 スタンダール(1783年 - 1842年)は『恋愛論』において、恋愛には4種類ある、とした。情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛である。どんなに干からびた不幸な性格の男でも、十六歳にもなれば(肉体的恋愛から)恋愛を始める。また恋は心のなかで、感嘆、自問、希望、恋の発生、第一の結晶作用、疑惑、第二の結晶作用という7階梯をたどる、とした。あらゆる恋愛は6つの気質に起因し、多血質(フランス人)、胆汁質(スペイン人)、憂鬱質(ドイツ人)、粘液質(オランダ人)、神経質、力士質の、それぞれの影響が恋愛の諸相に関与する、とした。 スピノーザによると、すべてのものは<<自己保存の努力>> conatus コナトゥスをもち、人間は心身をより大なる完全性へ移すこと、すなわち喜びを欲望し、悲しみをさけ、喜びを与える外物を愛し、悲しみを与える外物を憎む。かれは欲望、喜び、悲しみという三つの根本感情から幾何学的にさまざまな愛と憎しみを分析する。ところでわれわれの精神が事物を永遠の相の下に、すなわち必然的連関において認識することは、精神をより完全にする喜びであり、そしてこの十全な認識は事物を神(=自然=実体)の様態として認識することであるから、その喜びは外部の原因としての神の観念をともない、神への愛である。それは神を認識することと一つになっているから「神の知的愛」amor Dei intellectualisとよんだ。 カントは、傾向性にもとづくpathologisch(感性的な)愛と理性的意志にもとづくpraktisch(実践的な)愛とを区別し、後者のみが道徳的とした。傾向性としての愛を命ずるわけにはいかないから、隣人への愛とは、隣人に対するすべての義務をすすんで遂行すること。そして道徳法則への尊敬が、それへの愛に変わるのが道徳的心術の最高の完成であろうとした。 ヘーゲルは、精神の統一性がそれ自身を感じているのが愛であるとする。愛は一般に、私と他人との統一の意識。愛において私は私だけで孤立せず、むしろ私の孤立的存在を放棄し、自他の統一としてみずからを知ることによってのみ、自己意識をうる愛の第一の契機は私が私だけの独立人たるを欲せず、そういう私を欠陥あり不完全なものと観ずるということ、第二の契機は私が他において自分をかちうること、すなわち私が他者に認められ同じく他者が私においてかれ自身をうるということ。したがって愛は悟性の解きえないもっとも著しい矛盾である。矛盾の産出であり同時にその解除でもある。解除として愛は人倫的結合であるという。 ショーペンハウアーは、あらゆる形式の愛が生への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で、愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているものであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。 このショーペンハウアーの性愛論には、精神分析学者フロイトの理論内容を先取りしている部分が数多くある点興味深い。フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.H.ロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。 サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。 ユダヤ人の間では、恋愛は行ってもよいが恋人同士で積極的に意見を交換することを教え、恋愛にのめり込み過ぎることは破滅を意味するとタルムードで教えている。 アブラハム・カイパーは『カルヴィニズム』で「自由恋愛が結婚の神聖を乱そうとし」ていると述べるように、恋愛について否定的な見解がある。恋愛が「ある種の威厳を持ち、恋人に対する全面的献身・・を要求して、神のように語る」ので「神に従わせなければ、それ自体が絶対的な服従を求めてきて、悪魔化し、偶像化」する危険があるとキリスト者学生会の高木実主事は指摘し、C.S.ルイスの『四つの愛』を引用している。またC.S.ルイスは『悪魔の手紙』で恋愛は悪魔が広めた思想であるとしている。恋愛に伴うことのある問題として、福音派は婚前交渉を禁じている。カトリック教会は婚前交渉を禁じており、避妊は大罪である。 恋(男女の感情、特定の人に対する感情、特定の人にだけ執着する感情)はキリスト教の伝統では、よろしくないもの、質の低いもの、避けるべきものとして扱われてきた。キリスト教で大切にされたのは、男女の恋などではなく、イエス・キリストによって示された愛、つまり<<神の愛>>(アガペー、神が全ての人類を公平・公正に愛し、見返りを期待しない愛)や、人間が 自分の家族・親族・民族・人種などにこだわらず、広く全ての人々を大切に思う気持ち、広く人々を慈しむ気持ち(兄弟愛・友愛、隣人愛)である。愛は精神生活の基本的感情であり、また倫理学史上もっとも重要な概念の一つとされ、とくにキリスト教の影響を多かれ少なかれ受けている西洋哲学においては、非常に大事な意味をもっている。 イスラム諸国や一部アフリカ諸国では、現在も恋愛は不道徳なものとされている。 仏教では貪愛(とんあい)・染汚愛(ぜんまあい)と信愛(不染汚愛)の区別が説かれる。前者は衆生が解脱しえない根本原因で、十二因縁の一つに数えられる。財欲、名誉欲、色欲などの五欲がそれである。信愛は信心をもって師長を愛するようなもので、貪欲煩悩をはなれて善法を修め衆生を憐愍することである。そのもっともすぐれたものが慈悲とよばれる。 現代では西洋諸国でも日本でも、文学、演劇、絵画、ドラマ、歌謡曲、漫画などさまざまなジャンルで恋愛が扱われている。 中国では、古くは墨子の兼愛説、つまり博愛平等の異端的主張が有名である。歴史上、玄宗皇帝が楊貴妃にうつつを抜かし、その親族に便宜を図り、国政をすっかりないがしろにして、ついには国を滅ぼしてしまったことが中国の人々には強く記憶されている。 現代の中華人民共和国では18歳未満の低年齢者が恋愛をすることを「早恋」と呼び、学業成績の低下だけでなく生活の乱れや家出、同棲などの非行につながると考える有識者が多く、黒竜江省では2009年8月末に未成年者の恋愛に対して「父母や監督責任者は批判、教育、制止、矯正を行わなければならない」と定めた条例が制定された。 日本思想における愛は、いとおしいという心情で、儒・仏思想の影響もいちじるしいが、特に山川草木、花鳥風月に対する愛情の強い点は特色といってよいであろう。 ヨーロッパとアメリカでは状況が異なるので分けて説明する。 上の節で説明したように、キリスト教では恋愛については厳しい態度をとる考え方を教えており、素直な信徒はその教えを自分のうちに取り込み自分自身の考え方ともするものなので、ヨーロッパ人の恋愛についての見解は、クリスチャンかそうでないか、またクリスチャンだとしても、まじめなクリスチャンか形ばかりのクリスチャンかで、見解は分かれる傾向がある。また恋愛についての教えはカトリックとプロテスタントでも傾向が異なり、プロテスタントのひとつひとつの教派ごとに態度がかなり異なる。 19世紀や20世紀初頭までは西ヨーロッパ諸国ではカトリックの信徒の割合がおおむね9割ほどと、とても高かった。それが20世紀の間に右肩下がりに減り、その結果、恋愛についてカトリックの教えを意識しない人々が増えてきた。たとえばフランスでは1960年では86.6%がカトリックだったが、2013年時点では75.3%にまで低下している。しかも幼児洗礼などを受けて一応カトリックに分類されるが、実際には教会にはほぼ全く行かず神父の説教も聞かず聖書も読まず、カトリックの考え方をほぼ知らず、それから離れた生き方をしている人の割合も増えてきている。そうした人々はカトリックの教えに縛られないで恋愛について比較的自由に考えるようになっている。フランス人は基本的には各人の選択を重んじるので、カトリックから離れた場合は、たとえば、恋愛に興味がある人は恋愛すればよいし興味が無い人はしなければよい、などと考えるわけである。 恋愛と一緒に暮らすこと(同棲)は別のこと、と考えるか、それらを結びつけて考えるかは、ヨーロッパでも国ごとにかなり異なる。スペインでは20歳以上で結婚していない人が同棲している割合は8.8 %である。それに対して、ポーランドやギリシャでは、同じタイプの人々で同棲している人の割合は、スペインの1/4しかいない。一方(性的におおらかなことで有名な)スウェーデンでは結婚したカップルの99%がその前に同棲を経験している、という。このようにヨーロッパ内でも国ごとにずいぶんと異なっている。 なおフランスでは恋愛して同棲するとしても、同棲と結婚は切り離して考える人々が増えてきている。フランスでは、そもそも古くからある「結婚」という制度は、男女の間でのお金や財産の移動に関する規定をともなう(女が男の収入をあてにして寄生するような)制度だと、その本質を見抜き、それを嫌う人々の割合が増えてきており、男女が本当に純粋に愛し合うならそんな制度の枠内に入るべきではない、と考え、男女が長年一緒に暮らす場合でも PACSという枠組みを選び、お金はそれぞれ別という方式を積極的に選び、「結婚」という形は断固としてとらない、という人々の割合がすでに5割を超えた。ここ数十年のフランス人は、そういう「金目当て」のような不純なことが相当に嫌いであり、そういうものは抜きでいたい、と男性も女性も望んでいる。特筆すべきことは、金目当ての動機が織り込まれた不純な「結婚」という制度を、女性の側から積極的に断固拒否している、ということである。フランスはジャンヌダルクの国であり、フランス女性は幼いころから物語の本でも歴史の教科書でもじっくりジャンヌダルクの生きざまを読んで育つわけなので、フランス女性の精神のDNAには自立精神、男性に依存したりせずむしろ男性を先導して引っ張ってゆく気骨などが根付いている。 なお、ヨーロッパでも同性愛やポリアモリーなどの恋愛をする人々もいる。 西洋の文学では、男性が男性に恋する気持ち(男性の同性愛の気持ち)も表現されてきた歴史がある。シェイクスピアは『ソネット詩集』で、オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』で、トーマス・マンは『ベニスに死す』で、男性が男性に恋する気持ちを表現した。フランスのジャン・ジュネは『泥棒日記』『薔薇の奇跡』などでそうした気持ちを描写した。 現代歌謡曲でもそうした同性への恋愛感情が表現されているものが多数ある。男性への恋愛感情を打ち明けられない辛さ・悲しさを正面から歌った作品もある。反対に喜ばしくそうした恋愛感情を表現している歌もある。また、(誰にでもあからさまに同性愛と分かってしまわないような婉曲的な表現方法で、あるいはゲイの人や察しの良い聴き手に限って分かるように)さりげなく表現されているものも多い。たとえばエルトン・ジョンの'Your song'『僕の歌は君の歌』、Whamワム(ジョージ・マイケル) 'Wake Me Up Before You Go-Go'「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」等々等々である。 しかし、女性から女性への同性愛については、女性の社会的地位が低いせいで、話題にのることも少ない。 日本語で「恋愛」という表現は、1847-48年のメドハーストによる『英華辞典』にみられるのが最古であるが、loveの訳語としてではなく、今日の「恋愛」の意味として辞書に登場したのは明治20年(1887年)の『仏和辞林』でamourの訳語として「恋愛」の語が当てられたのが最初とされる。ただし定着は遅れ、北村門太郎(後の北村透谷)も明治20年では「ラブ」と片仮名表記している。それ以前は、現代人が一般に「恋愛」と呼ぶものについては、「色」、「情」、「恋」、「愛」などと呼ばれた。 日本では、古くから恋は和歌や文学の主要な題材である。 『万葉集』の「相聞歌」や『古今和歌集』に恋歌を見出すことができる。相聞の中でも特に傑作と評価されることが多い2つを挙げる。 また物語文学においても『伊勢物語』や『源氏物語』など、貴族の恋模様を描いた作品が多数ある。この時代、男が女の元へと通う「通い婚」が通例であり、男女は時間を作って愛を育んだ後、女側の親が結婚を承諾して夫婦となった。平安時代の男女の倫理は(後の封建時代と比べて)まだ自由(別の言い方をすれば「おおらか」「だらしない」)であった。貴族の男性は複数の女性と並行的に関係を持ち、ある男性の子があちらこちらの女性の腹から生まれることが一般的、またある女性が産んだ子の父親が一体誰なのかわからない(周囲の人にも、時には産んだ女性自身にも)ということも多かった。 こうした男女倫理が変わったのは封建時代になってからである。平安時代の貴族のような男女倫理では、世の中は乱れに乱れてしまう。 関東の名門豪族の娘北条政子は、親の決めた相手を拒否し、一族の命運をかけ、自分が惚れた源頼朝を相手に選んだ。が、源頼朝のほうは京の貴族の習慣を身につけていて(最初は考えが甘く)そうした貴族風の男女関係をそのまま自分の婚姻にも持ちこみ他の女性たちとも関係を持とうとしたが、政子はそれを許しはしなかった。二人は互いに強力なパートナーとなり、政子は関東における人脈力や人心掌握力を駆使し鎌倉幕府を盛り立て、頼朝を一流の男に押し上げた。 中世頃には、仏教の戒律のひとつの女犯に関するもの(不淫戒)の影響が見受けられ、とくに男性社会の側から恋愛を危険視する(あるいは距離を置くべき対象としてとらえる)傾向が生じた。権門体制を維持する手段として男性が賦役・租税の対象とされる一方、女性を財産ととらえ、交換や贈与の対象とする傾向が確認され、恋愛を社会秩序を破綻させる可能性のあるものとして否定的にとらえる傾向が生じた。この傾向は江戸時代の儒教文化にも受け継がれ、女大学にみられる恋愛を限定的にとらえる倫理観や、家族制度・社会規範に対する献身を称揚する文化に継承された。 明治時代には中流階級では家制度による親が結婚相手を決めるお見合い結婚が多かった。男性にとっては結婚は少なくとも法律上は結婚後の自由な恋愛・性愛を禁ずるものではなく、地位ある男性が配偶者以外に愛人を持つことはしばしば見られた。社会も既婚男性が未婚女性と交際することには寛容であったが、既婚女性が愛人を持つことは法律上許されなかった(姦通罪)。 明治から大正にかけて、文化人を中心としてロマン主義の影響もあって、恋愛結婚が理想的なものとの認識が広まり、大正時代には恋愛結婚に憧れる女性と、保守的な親との間で葛藤がおこることもあった。 日本女性は昭和時代から、恋愛小説を読みふけったり、お神籤を引いてその恋愛運に関する文章の文言ひとつひとつに一喜一憂したり、占い師に恋愛相談をしてみたり、恋愛成就のお守りを買ってみたり、ということさかんにし、令和でもそれは続いている。だが、日本男性のほとんどは、それらのことは(昭和時代でも平成時代でも)一切せず、一般にそういったことには興味が無い。 高度経済成長期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でもできる・すべきものだという風潮が広がった。また、1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気の日本では恋愛で消費行動が重視される傾向があったとされ、「この時(イベント)にデートするならばここ(流行の店など)」「何度目のデートならどこにいく」というようなマニュアル的な恋愛が女性誌や男性向け情報誌、トレンディドラマなどで盛んにもてはやされた。 現代では、親の意向にのみ基づいたお見合い結婚の割合はかなり少なく、夫婦の間の愛情を重視する恋愛結婚が大多数となり、お見合い結婚であっても本人の意向を尊重するものが多くなった。 いっぽう恋愛の世界で格差社会化が進んでいるとし、「恋愛資本主義」、恋愛資本による「魅力格差」、「恋愛格差」などという言葉も用いられている。このような情勢のなかで恋愛や性交渉を経験したことがない中年層が増加しつつあると分析する者もいる。また、世の中に「モノ」が大量に溢れる中で、カップルの低俗化が指摘されることも増えた。次第に日本男性は女性に興味を示さなくなり(あるいは日本の女性というのは、自分が恋愛の対象にするほどの価値はない、と若い日本男性は冷静に(冷めて)判断するようになり)、2006年には「草食系」という用語で、そうした(恋愛への意欲を感じない)男性が呼ばれるようになった。 近年は若い男女の恋愛離れが叫ばれており、日本テレビはその例として「交際相手が欲しい」と答えた新成人の割合が2000年は男性が91.6%、女性が88.5%だったのに対し、2016年は男性が63.8%、女性が64.2%だったこと、実際に交際相手がいる新成人が1996年は50%だったのに対し、2016年は26.2%だったことを挙げている。恋愛離れの原因として、非正規雇用の増加やソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及などが挙げられている。マーケティングライターの牛窪恵は「非正規雇用や年収が低い男性は『どうせ自分なんか』と自己肯定感が低く、自分から女性に声をかけようとしない」と分析。少子化ジャーナリストの白河桃子は「女性は出産を考えると、ある程度収入のある人と結婚したいと考え、相手に完璧さを求めるため、恋愛や結婚に慎重になる」と分析している。教育評論家の尾木直樹は恋愛離れの原因をSNSの普及とし、「SNSの普及で全てがバーチャルになってしまい、若者の精神的な成熟だけでなく、身体的、性的な成熟も遅れている」と分析している。一方、若者の恋愛離れは嘘であるとの指摘もある。東洋経済新報社は婚約者・恋人がいる者の割合の1982年から2015年までの推移を挙げ、「1980年代の水準に戻っただけ」と指摘している他、草食系男子の増加も嘘であるとしている。 ネットゲームや動画編集ソフトなどデジタル化された空間では人間の音声や身振り手振りなどのコミュニケーションの中で不可避的に不自然さが含まれる部分が除去されており理想人物像が現実離れをした相手を望む様になっている。また、恋愛をした時にモチベーションが高まるメカニズムに対しての研究も進み、恋愛をしている時にのみ起こり得る脳内神経細胞の変化を人工的に作り出し活動力を向上させる方法も発明されつつある。 現代における恋愛の難しさには、史上初の性質とも言うべき要素があるという指摘がある。それは世界における「人権問題(子供の人権や男女平等思想を含む)」や、それに伴う「個人主義の台頭」が大きく関与していて、詰まる所「いい男といい女の定義が、社会によっていいとされていたものから、異性が本音でいいと感じるものへと変わっていった」ことにより、「恋愛をする上での努力の指針」が曖昧になってきていることや、スマートフォン・インターネット・SNSなどの普及により、人との「ご縁」が大切にされなくなってきたことなどが挙げられる。また、近年の学校教育等では恋愛を禁止する風土はあっても推奨する風土がなかったこともあり、自ら恋愛を経験し上達していく一部の者たちが多くの異性たちを独占してしまう、上記の「恋愛格差」は、若者の価値観ならびに現代日本社会において深刻な問題となっている。一方で、恋愛をテーマとした国内・海外ドラマの視聴が広く普及しており、本来は体感するものであるが、平和社会において娯楽の分野へと変遷しており、病理的とでもいう日本の世相を見て取れている。 「人生において、人は異性から好かれる(モテる)時期が3度ある」という都市伝説があり、それが俗に「モテ期」と呼ばれている。噂の出所は不明であるものの、多くの者達が実感した経験から囁かれ始めたものだと考えられる。これについて「人の成長過程と世の中の流行が一致した時期」であると考える者もいる。つまり、「人は時期によって価値観やセンスが変わり、同じように流行も変わっていく。多くの若者は必ず何らかの流行の影響を受けるので、その人自身の価値観やセンスが流行と一致する時期が生じやすい。流行は、多くの若者たちが高く評価する価値観なので、その流行が異性に好まれるものである限り、自然とその人も多くの異性に好まれることになる。この偶然の産物は、自分や流行の変化によってその噛み合わせを崩していく。この一連の変化がモテ期である」という説である。 現代日本において、恋愛のノウハウを「学問」として考察し世に広めたのが、早稲田大学国際教養学部教授の森川友義である。上記の「恋愛格差社会」に一石を投じる彼の「人間の恋愛は科学的な研究が可能である」という思想は、彼自身の社会的地位も相まって、マスコミやインターネットで話題になっている。 経済学では、合理的な人間は「効率」という基準で、1日24時間・金を仕事・恋・遊びに割り振っていると考える。男性の場合、費用(女性とのデートに振り向ける時間・金)と便益(女性との恋愛から得られる満足)を比較して、便益が費用よりも大きいときに、その恋は「効率」的であると表現する。これが経済学の基本的な思考である。 経済学者のロバート・フランクは、愛が合理的な計算にそぐわない側面があると指摘している。フランクは、哲学者のブレーズ・パスカルの言葉を引用し「費用・便益を合理的に計算する人間には、人を愛することはできない」と指摘している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "本記事では恋愛(れんあい)や恋(こい)について解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "それぞれの国語辞典で恋愛という言葉は、以下のように定義されている。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『広辞苑』第6版では「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい」と簡潔に記し、さらに「恋い慕う」は「恋しく思って追い従おうとする。恋慕する」と記す。その「恋しい」は「1 離れている人がどうしようもなく慕わしくて、せつないほどに心ひかれるさま」「2 (場所・事物などが)慕わしい。なつかしい」と歴史的用法を踏まえて説明する。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『三省堂国語辞典』第7版の「恋愛」は「(おたがいに)恋(コイ)をして、愛を感じるようになること」と記す。そのうち「恋」は「人を好きになって、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)」、「愛」は「1 〈相手/ものごと〉をたいせつに思い、つくそうとする気持ち」「2 恋(コイ)を感じた相手を、たいせつに思う気持ち」と説明する。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『新明解国語辞典』は、第5版で「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」とした。第6・7版では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」と記している。第8版では「特定の異性」が「特定の相手」に変更され、同性愛も包括するものとなった。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『デジタル大辞泉』は、「特定の人に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、互いにそのような感情をもつこと」とした。「ベネッセ表現読解国語辞典」 は 「男女間で 特定の相手をお互いに 恋い慕うこと」とした。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古代ギリシア語では、特定の異性を求めるような気持ちについては「エロス」と呼び、様々な愛、もっと上質な愛(兄弟愛、人類愛 等々)とははっきりと区別した。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現代フランス語ではAmour アムール、現代英語ではLove ラブと言うが、これは恋だけでなく、広く「愛」を指し示す用語である。特定の異性や特定の人に限らず、自分の性的志向にかかわらず広く人々を大切にしたり広く人々を愛することについては、愛の記事を参照のこと。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "英語「falling in love」の訳語としても「恋愛」は用いられている。ギリシア語でははっきりと区別されていた概念を、英語では(特にアメリカ英語では)、ごちゃまぜにして安易に「love」と呼んで済ませてしまうので、(特に、古代語などを学んだことがない米国の若者などで)異なった概念がごちゃまぜになり、結果として(自己本位な)恋までが、あたかも高級なものであるかのように扱われる傾向がある。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この記事では、「恋」(恋愛)について解説し、その関連で「愛」についても触れる。", "title": "辞書での定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "恋愛については、古来より多くの文学や哲学の主題となり、論じられてきた歴史があり、芸術作品で扱われる主題である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プラトンは、究極的な愛の対象である美のイデアは不死であることから、永遠不変の美のイデアへの愛と認識は神的であり、最も優れた愛であると考えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "エンペドクレスは愛philotēs、storgēと憎しみneikosを宇宙生成の原理とした。万物の根である火、空気、土、水の四元を結合させる愛と、分離させる憎しみが交互に優勢支配的となり、世界史の四期が永劫にくりかえされるというのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "プラトンによると愛erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、生殖し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能なかぎり無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものの代わりにつねに他の新しいものをのこしていくことによってのみ可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラヴはもと、このように善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動でもある。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えてるのでもない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "プラトンの恋愛は厳格に二元的である。いわゆる天上的な恋愛というものは地上的な恋愛から峻別されるのであって、いわゆる性欲の昇華として恋愛を考える考え方とまったく異なるものである。その天上的な恋愛はつぎにのべる想起説とむすびつき、人間のもっている不死なる生命が天上的な起源のものであって、われわれの肉体とむすびつけられるまえに、善美の極にあるものを想起し、それへの憧憬にみたされる場合が真の恋愛ということになる。ただこの場合においても、地上の人間は肉体にむすびつけられているから、地上的な恋愛への抵抗において、相愛する人間同士がお互いを精神的に向上させ、愛を通じて、より美しきものを生むという形で具体的な恋愛が考えられている。その点は『パイドロス』phaidorosにおいてとくにくわしい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "想起説は、真にものを知るということは知るもの自身の自発性にまたなければならないという考えで、プラトンの教育説の根底となっている。前述の恋愛論におけるがごときミュトスmythosがここにも考えられるが、他方においては単なる<<思いなし>>(doxa ドクサ)から真の理解、あるいは知識に到達するための過程としても考えられている。『メノン』Menonの実例に見られるように、それは問答法として発展するものである。またわれわれの精神を浄化する過程としても考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アウグスティヌスは、「融合和一を求める生活が愛であり、神に対する愛が人間の最大至上の幸福である」としたが、こういう考えはアンセルムス、エックハルト、ブルーノ、スピノザ、ライプニッツ、フィヒテなど多くの哲学者にも受けつがれている。そしてこれは中世哲学、カトリック教会一般を特色づけている見方である。よく知られているように、「愛の宗教」といわれるキリスト教では、愛はあらゆる徳のなかで最高のものとされ、予言より、ロゴスより、知識よりも上位におかれている。そしてそれは神の掟としてつぎの二つに要約される。すなわち神の愛と隣人愛がそれである。神の愛、つまり神を直接の目的として恩寵によって与えられる愛は愛徳chāritāsカリタスとよばれ、スコラ哲学でいう精神的愛amor intellectivus、慈善的愛amor benevolenceのうちで最上のものとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中世フランスに起源が見られる騎士道物語においてはロマンス的愛(=ローマ風の愛。「ローマ風」とは「ラテン風」が正式なものとされるに対して「民衆的・世俗的な」という語感をもつ)が生まれ、キリスト教的愛(=アガペー。神が示す無償の愛)とは異なるもの、異風なものとして叙述されはじめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "13世紀、中世フランスにおいてギヨーム・ド・ロリス(フランス語版)とジャン・ド・マン(フランス語版)によって書かれた『薔薇物語』は恋愛作法の書として多数の写本が作られ、当時 貴婦人たちの間で大きな影響力を持っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "中世ドイツでは、今日一般的な恋愛関係による婚姻(恋愛婚)は9世紀に教会により非合法とされたので婚姻において氏や家が重要であった(ジッペ・ムント参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イギリスでは16世紀にシェイクスピア(1564年 - 1616年)が『ロミオとジュリエット』において、家同士の争いに引き裂かれる恋人たち、悲劇的な恋愛を描いてみせた(1595年前後初演)。不朽の名作として、バレエ、ミュージカル、映画など様々なジャンルにリメイクされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "17世紀後半のイギリス、すなわちシェイクスピア直後の時代には、現代用いられる「身体を否定する精神だけの愛」という意味でのプラトニックラブという表現が現れたらしい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "19世紀末期のフランスで、エドモン・ロスタンが戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を書き、ロクサーヌという女性に恋心を抱いているにもかかわらず自分の気持ちを面と向かって伝えることができず、恋心を隠し通し、自分の恋を成就させるかわりに若くて美男子(だが見てくればかりで、頭が悪く、才能が無い)クリスチャンとロクサーヌとの恋をとりもってやる シラノという中年男の「忍ぶ恋」「切ない恋」を描いてみせた(1897年初演)。この戯曲はパリの人々を大熱狂させたといい、1897年の初演から500日間400回連続上演され、その後も今日にいたるまで世界中で上演されつづけており、映画やミュージカルに幾度もリメイクされ見続けられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "スタンダール(1783年 - 1842年)は『恋愛論』において、恋愛には4種類ある、とした。情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛である。どんなに干からびた不幸な性格の男でも、十六歳にもなれば(肉体的恋愛から)恋愛を始める。また恋は心のなかで、感嘆、自問、希望、恋の発生、第一の結晶作用、疑惑、第二の結晶作用という7階梯をたどる、とした。あらゆる恋愛は6つの気質に起因し、多血質(フランス人)、胆汁質(スペイン人)、憂鬱質(ドイツ人)、粘液質(オランダ人)、神経質、力士質の、それぞれの影響が恋愛の諸相に関与する、とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スピノーザによると、すべてのものは<<自己保存の努力>> conatus コナトゥスをもち、人間は心身をより大なる完全性へ移すこと、すなわち喜びを欲望し、悲しみをさけ、喜びを与える外物を愛し、悲しみを与える外物を憎む。かれは欲望、喜び、悲しみという三つの根本感情から幾何学的にさまざまな愛と憎しみを分析する。ところでわれわれの精神が事物を永遠の相の下に、すなわち必然的連関において認識することは、精神をより完全にする喜びであり、そしてこの十全な認識は事物を神(=自然=実体)の様態として認識することであるから、その喜びは外部の原因としての神の観念をともない、神への愛である。それは神を認識することと一つになっているから「神の知的愛」amor Dei intellectualisとよんだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "カントは、傾向性にもとづくpathologisch(感性的な)愛と理性的意志にもとづくpraktisch(実践的な)愛とを区別し、後者のみが道徳的とした。傾向性としての愛を命ずるわけにはいかないから、隣人への愛とは、隣人に対するすべての義務をすすんで遂行すること。そして道徳法則への尊敬が、それへの愛に変わるのが道徳的心術の最高の完成であろうとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ヘーゲルは、精神の統一性がそれ自身を感じているのが愛であるとする。愛は一般に、私と他人との統一の意識。愛において私は私だけで孤立せず、むしろ私の孤立的存在を放棄し、自他の統一としてみずからを知ることによってのみ、自己意識をうる愛の第一の契機は私が私だけの独立人たるを欲せず、そういう私を欠陥あり不完全なものと観ずるということ、第二の契機は私が他において自分をかちうること、すなわち私が他者に認められ同じく他者が私においてかれ自身をうるということ。したがって愛は悟性の解きえないもっとも著しい矛盾である。矛盾の産出であり同時にその解除でもある。解除として愛は人倫的結合であるという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ショーペンハウアーは、あらゆる形式の愛が生への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で、愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているものであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このショーペンハウアーの性愛論には、精神分析学者フロイトの理論内容を先取りしている部分が数多くある点興味深い。フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.H.ロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ユダヤ人の間では、恋愛は行ってもよいが恋人同士で積極的に意見を交換することを教え、恋愛にのめり込み過ぎることは破滅を意味するとタルムードで教えている。", "title": "宗教と恋愛" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アブラハム・カイパーは『カルヴィニズム』で「自由恋愛が結婚の神聖を乱そうとし」ていると述べるように、恋愛について否定的な見解がある。恋愛が「ある種の威厳を持ち、恋人に対する全面的献身・・を要求して、神のように語る」ので「神に従わせなければ、それ自体が絶対的な服従を求めてきて、悪魔化し、偶像化」する危険があるとキリスト者学生会の高木実主事は指摘し、C.S.ルイスの『四つの愛』を引用している。またC.S.ルイスは『悪魔の手紙』で恋愛は悪魔が広めた思想であるとしている。恋愛に伴うことのある問題として、福音派は婚前交渉を禁じている。カトリック教会は婚前交渉を禁じており、避妊は大罪である。", "title": "宗教と恋愛" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "恋(男女の感情、特定の人に対する感情、特定の人にだけ執着する感情)はキリスト教の伝統では、よろしくないもの、質の低いもの、避けるべきものとして扱われてきた。キリスト教で大切にされたのは、男女の恋などではなく、イエス・キリストによって示された愛、つまり<<神の愛>>(アガペー、神が全ての人類を公平・公正に愛し、見返りを期待しない愛)や、人間が 自分の家族・親族・民族・人種などにこだわらず、広く全ての人々を大切に思う気持ち、広く人々を慈しむ気持ち(兄弟愛・友愛、隣人愛)である。愛は精神生活の基本的感情であり、また倫理学史上もっとも重要な概念の一つとされ、とくにキリスト教の影響を多かれ少なかれ受けている西洋哲学においては、非常に大事な意味をもっている。", "title": "宗教と恋愛" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "イスラム諸国や一部アフリカ諸国では、現在も恋愛は不道徳なものとされている。", "title": "宗教と恋愛" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "仏教では貪愛(とんあい)・染汚愛(ぜんまあい)と信愛(不染汚愛)の区別が説かれる。前者は衆生が解脱しえない根本原因で、十二因縁の一つに数えられる。財欲、名誉欲、色欲などの五欲がそれである。信愛は信心をもって師長を愛するようなもので、貪欲煩悩をはなれて善法を修め衆生を憐愍することである。そのもっともすぐれたものが慈悲とよばれる。", "title": "宗教と恋愛" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現代では西洋諸国でも日本でも、文学、演劇、絵画、ドラマ、歌謡曲、漫画などさまざまなジャンルで恋愛が扱われている。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "中国では、古くは墨子の兼愛説、つまり博愛平等の異端的主張が有名である。歴史上、玄宗皇帝が楊貴妃にうつつを抜かし、その親族に便宜を図り、国政をすっかりないがしろにして、ついには国を滅ぼしてしまったことが中国の人々には強く記憶されている。 現代の中華人民共和国では18歳未満の低年齢者が恋愛をすることを「早恋」と呼び、学業成績の低下だけでなく生活の乱れや家出、同棲などの非行につながると考える有識者が多く、黒竜江省では2009年8月末に未成年者の恋愛に対して「父母や監督責任者は批判、教育、制止、矯正を行わなければならない」と定めた条例が制定された。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本思想における愛は、いとおしいという心情で、儒・仏思想の影響もいちじるしいが、特に山川草木、花鳥風月に対する愛情の強い点は特色といってよいであろう。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ヨーロッパとアメリカでは状況が異なるので分けて説明する。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "上の節で説明したように、キリスト教では恋愛については厳しい態度をとる考え方を教えており、素直な信徒はその教えを自分のうちに取り込み自分自身の考え方ともするものなので、ヨーロッパ人の恋愛についての見解は、クリスチャンかそうでないか、またクリスチャンだとしても、まじめなクリスチャンか形ばかりのクリスチャンかで、見解は分かれる傾向がある。また恋愛についての教えはカトリックとプロテスタントでも傾向が異なり、プロテスタントのひとつひとつの教派ごとに態度がかなり異なる。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "19世紀や20世紀初頭までは西ヨーロッパ諸国ではカトリックの信徒の割合がおおむね9割ほどと、とても高かった。それが20世紀の間に右肩下がりに減り、その結果、恋愛についてカトリックの教えを意識しない人々が増えてきた。たとえばフランスでは1960年では86.6%がカトリックだったが、2013年時点では75.3%にまで低下している。しかも幼児洗礼などを受けて一応カトリックに分類されるが、実際には教会にはほぼ全く行かず神父の説教も聞かず聖書も読まず、カトリックの考え方をほぼ知らず、それから離れた生き方をしている人の割合も増えてきている。そうした人々はカトリックの教えに縛られないで恋愛について比較的自由に考えるようになっている。フランス人は基本的には各人の選択を重んじるので、カトリックから離れた場合は、たとえば、恋愛に興味がある人は恋愛すればよいし興味が無い人はしなければよい、などと考えるわけである。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "恋愛と一緒に暮らすこと(同棲)は別のこと、と考えるか、それらを結びつけて考えるかは、ヨーロッパでも国ごとにかなり異なる。スペインでは20歳以上で結婚していない人が同棲している割合は8.8 %である。それに対して、ポーランドやギリシャでは、同じタイプの人々で同棲している人の割合は、スペインの1/4しかいない。一方(性的におおらかなことで有名な)スウェーデンでは結婚したカップルの99%がその前に同棲を経験している、という。このようにヨーロッパ内でも国ごとにずいぶんと異なっている。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なおフランスでは恋愛して同棲するとしても、同棲と結婚は切り離して考える人々が増えてきている。フランスでは、そもそも古くからある「結婚」という制度は、男女の間でのお金や財産の移動に関する規定をともなう(女が男の収入をあてにして寄生するような)制度だと、その本質を見抜き、それを嫌う人々の割合が増えてきており、男女が本当に純粋に愛し合うならそんな制度の枠内に入るべきではない、と考え、男女が長年一緒に暮らす場合でも PACSという枠組みを選び、お金はそれぞれ別という方式を積極的に選び、「結婚」という形は断固としてとらない、という人々の割合がすでに5割を超えた。ここ数十年のフランス人は、そういう「金目当て」のような不純なことが相当に嫌いであり、そういうものは抜きでいたい、と男性も女性も望んでいる。特筆すべきことは、金目当ての動機が織り込まれた不純な「結婚」という制度を、女性の側から積極的に断固拒否している、ということである。フランスはジャンヌダルクの国であり、フランス女性は幼いころから物語の本でも歴史の教科書でもじっくりジャンヌダルクの生きざまを読んで育つわけなので、フランス女性の精神のDNAには自立精神、男性に依存したりせずむしろ男性を先導して引っ張ってゆく気骨などが根付いている。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、ヨーロッパでも同性愛やポリアモリーなどの恋愛をする人々もいる。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "西洋の文学では、男性が男性に恋する気持ち(男性の同性愛の気持ち)も表現されてきた歴史がある。シェイクスピアは『ソネット詩集』で、オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』で、トーマス・マンは『ベニスに死す』で、男性が男性に恋する気持ちを表現した。フランスのジャン・ジュネは『泥棒日記』『薔薇の奇跡』などでそうした気持ちを描写した。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "現代歌謡曲でもそうした同性への恋愛感情が表現されているものが多数ある。男性への恋愛感情を打ち明けられない辛さ・悲しさを正面から歌った作品もある。反対に喜ばしくそうした恋愛感情を表現している歌もある。また、(誰にでもあからさまに同性愛と分かってしまわないような婉曲的な表現方法で、あるいはゲイの人や察しの良い聴き手に限って分かるように)さりげなく表現されているものも多い。たとえばエルトン・ジョンの'Your song'『僕の歌は君の歌』、Whamワム(ジョージ・マイケル) 'Wake Me Up Before You Go-Go'「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」等々等々である。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "しかし、女性から女性への同性愛については、女性の社会的地位が低いせいで、話題にのることも少ない。", "title": "現代の各国の恋愛" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本語で「恋愛」という表現は、1847-48年のメドハーストによる『英華辞典』にみられるのが最古であるが、loveの訳語としてではなく、今日の「恋愛」の意味として辞書に登場したのは明治20年(1887年)の『仏和辞林』でamourの訳語として「恋愛」の語が当てられたのが最初とされる。ただし定着は遅れ、北村門太郎(後の北村透谷)も明治20年では「ラブ」と片仮名表記している。それ以前は、現代人が一般に「恋愛」と呼ぶものについては、「色」、「情」、「恋」、「愛」などと呼ばれた。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本では、古くから恋は和歌や文学の主要な題材である。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "『万葉集』の「相聞歌」や『古今和歌集』に恋歌を見出すことができる。相聞の中でも特に傑作と評価されることが多い2つを挙げる。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また物語文学においても『伊勢物語』や『源氏物語』など、貴族の恋模様を描いた作品が多数ある。この時代、男が女の元へと通う「通い婚」が通例であり、男女は時間を作って愛を育んだ後、女側の親が結婚を承諾して夫婦となった。平安時代の男女の倫理は(後の封建時代と比べて)まだ自由(別の言い方をすれば「おおらか」「だらしない」)であった。貴族の男性は複数の女性と並行的に関係を持ち、ある男性の子があちらこちらの女性の腹から生まれることが一般的、またある女性が産んだ子の父親が一体誰なのかわからない(周囲の人にも、時には産んだ女性自身にも)ということも多かった。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "こうした男女倫理が変わったのは封建時代になってからである。平安時代の貴族のような男女倫理では、世の中は乱れに乱れてしまう。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "関東の名門豪族の娘北条政子は、親の決めた相手を拒否し、一族の命運をかけ、自分が惚れた源頼朝を相手に選んだ。が、源頼朝のほうは京の貴族の習慣を身につけていて(最初は考えが甘く)そうした貴族風の男女関係をそのまま自分の婚姻にも持ちこみ他の女性たちとも関係を持とうとしたが、政子はそれを許しはしなかった。二人は互いに強力なパートナーとなり、政子は関東における人脈力や人心掌握力を駆使し鎌倉幕府を盛り立て、頼朝を一流の男に押し上げた。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "中世頃には、仏教の戒律のひとつの女犯に関するもの(不淫戒)の影響が見受けられ、とくに男性社会の側から恋愛を危険視する(あるいは距離を置くべき対象としてとらえる)傾向が生じた。権門体制を維持する手段として男性が賦役・租税の対象とされる一方、女性を財産ととらえ、交換や贈与の対象とする傾向が確認され、恋愛を社会秩序を破綻させる可能性のあるものとして否定的にとらえる傾向が生じた。この傾向は江戸時代の儒教文化にも受け継がれ、女大学にみられる恋愛を限定的にとらえる倫理観や、家族制度・社会規範に対する献身を称揚する文化に継承された。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "明治時代には中流階級では家制度による親が結婚相手を決めるお見合い結婚が多かった。男性にとっては結婚は少なくとも法律上は結婚後の自由な恋愛・性愛を禁ずるものではなく、地位ある男性が配偶者以外に愛人を持つことはしばしば見られた。社会も既婚男性が未婚女性と交際することには寛容であったが、既婚女性が愛人を持つことは法律上許されなかった(姦通罪)。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "明治から大正にかけて、文化人を中心としてロマン主義の影響もあって、恋愛結婚が理想的なものとの認識が広まり、大正時代には恋愛結婚に憧れる女性と、保守的な親との間で葛藤がおこることもあった。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "日本女性は昭和時代から、恋愛小説を読みふけったり、お神籤を引いてその恋愛運に関する文章の文言ひとつひとつに一喜一憂したり、占い師に恋愛相談をしてみたり、恋愛成就のお守りを買ってみたり、ということさかんにし、令和でもそれは続いている。だが、日本男性のほとんどは、それらのことは(昭和時代でも平成時代でも)一切せず、一般にそういったことには興味が無い。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "高度経済成長期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でもできる・すべきものだという風潮が広がった。また、1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気の日本では恋愛で消費行動が重視される傾向があったとされ、「この時(イベント)にデートするならばここ(流行の店など)」「何度目のデートならどこにいく」というようなマニュアル的な恋愛が女性誌や男性向け情報誌、トレンディドラマなどで盛んにもてはやされた。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "現代では、親の意向にのみ基づいたお見合い結婚の割合はかなり少なく、夫婦の間の愛情を重視する恋愛結婚が大多数となり、お見合い結婚であっても本人の意向を尊重するものが多くなった。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "いっぽう恋愛の世界で格差社会化が進んでいるとし、「恋愛資本主義」、恋愛資本による「魅力格差」、「恋愛格差」などという言葉も用いられている。このような情勢のなかで恋愛や性交渉を経験したことがない中年層が増加しつつあると分析する者もいる。また、世の中に「モノ」が大量に溢れる中で、カップルの低俗化が指摘されることも増えた。次第に日本男性は女性に興味を示さなくなり(あるいは日本の女性というのは、自分が恋愛の対象にするほどの価値はない、と若い日本男性は冷静に(冷めて)判断するようになり)、2006年には「草食系」という用語で、そうした(恋愛への意欲を感じない)男性が呼ばれるようになった。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "近年は若い男女の恋愛離れが叫ばれており、日本テレビはその例として「交際相手が欲しい」と答えた新成人の割合が2000年は男性が91.6%、女性が88.5%だったのに対し、2016年は男性が63.8%、女性が64.2%だったこと、実際に交際相手がいる新成人が1996年は50%だったのに対し、2016年は26.2%だったことを挙げている。恋愛離れの原因として、非正規雇用の増加やソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及などが挙げられている。マーケティングライターの牛窪恵は「非正規雇用や年収が低い男性は『どうせ自分なんか』と自己肯定感が低く、自分から女性に声をかけようとしない」と分析。少子化ジャーナリストの白河桃子は「女性は出産を考えると、ある程度収入のある人と結婚したいと考え、相手に完璧さを求めるため、恋愛や結婚に慎重になる」と分析している。教育評論家の尾木直樹は恋愛離れの原因をSNSの普及とし、「SNSの普及で全てがバーチャルになってしまい、若者の精神的な成熟だけでなく、身体的、性的な成熟も遅れている」と分析している。一方、若者の恋愛離れは嘘であるとの指摘もある。東洋経済新報社は婚約者・恋人がいる者の割合の1982年から2015年までの推移を挙げ、「1980年代の水準に戻っただけ」と指摘している他、草食系男子の増加も嘘であるとしている。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ネットゲームや動画編集ソフトなどデジタル化された空間では人間の音声や身振り手振りなどのコミュニケーションの中で不可避的に不自然さが含まれる部分が除去されており理想人物像が現実離れをした相手を望む様になっている。また、恋愛をした時にモチベーションが高まるメカニズムに対しての研究も進み、恋愛をしている時にのみ起こり得る脳内神経細胞の変化を人工的に作り出し活動力を向上させる方法も発明されつつある。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "現代における恋愛の難しさには、史上初の性質とも言うべき要素があるという指摘がある。それは世界における「人権問題(子供の人権や男女平等思想を含む)」や、それに伴う「個人主義の台頭」が大きく関与していて、詰まる所「いい男といい女の定義が、社会によっていいとされていたものから、異性が本音でいいと感じるものへと変わっていった」ことにより、「恋愛をする上での努力の指針」が曖昧になってきていることや、スマートフォン・インターネット・SNSなどの普及により、人との「ご縁」が大切にされなくなってきたことなどが挙げられる。また、近年の学校教育等では恋愛を禁止する風土はあっても推奨する風土がなかったこともあり、自ら恋愛を経験し上達していく一部の者たちが多くの異性たちを独占してしまう、上記の「恋愛格差」は、若者の価値観ならびに現代日本社会において深刻な問題となっている。一方で、恋愛をテーマとした国内・海外ドラマの視聴が広く普及しており、本来は体感するものであるが、平和社会において娯楽の分野へと変遷しており、病理的とでもいう日本の世相を見て取れている。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "「人生において、人は異性から好かれる(モテる)時期が3度ある」という都市伝説があり、それが俗に「モテ期」と呼ばれている。噂の出所は不明であるものの、多くの者達が実感した経験から囁かれ始めたものだと考えられる。これについて「人の成長過程と世の中の流行が一致した時期」であると考える者もいる。つまり、「人は時期によって価値観やセンスが変わり、同じように流行も変わっていく。多くの若者は必ず何らかの流行の影響を受けるので、その人自身の価値観やセンスが流行と一致する時期が生じやすい。流行は、多くの若者たちが高く評価する価値観なので、その流行が異性に好まれるものである限り、自然とその人も多くの異性に好まれることになる。この偶然の産物は、自分や流行の変化によってその噛み合わせを崩していく。この一連の変化がモテ期である」という説である。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "現代日本において、恋愛のノウハウを「学問」として考察し世に広めたのが、早稲田大学国際教養学部教授の森川友義である。上記の「恋愛格差社会」に一石を投じる彼の「人間の恋愛は科学的な研究が可能である」という思想は、彼自身の社会的地位も相まって、マスコミやインターネットで話題になっている。", "title": "日本と恋愛" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "経済学では、合理的な人間は「効率」という基準で、1日24時間・金を仕事・恋・遊びに割り振っていると考える。男性の場合、費用(女性とのデートに振り向ける時間・金)と便益(女性との恋愛から得られる満足)を比較して、便益が費用よりも大きいときに、その恋は「効率」的であると表現する。これが経済学の基本的な思考である。", "title": "経済学" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "経済学者のロバート・フランクは、愛が合理的な計算にそぐわない側面があると指摘している。フランクは、哲学者のブレーズ・パスカルの言葉を引用し「費用・便益を合理的に計算する人間には、人を愛することはできない」と指摘している。", "title": "経済学" } ]
本記事では恋愛(れんあい)や恋(こい)について解説する。
{{Otheruseslist|人間感情・人間関係としての恋愛(恋)|「恋」という名の作品|恋|「恋愛」という名の作品|恋愛 (曖昧さ回避)}} {{redirect|恋慕|テレビドラマ|恋慕 (テレビドラマ)}} {{出典の明記|date=2022年5月}} [[ファイル:Love heart uidaodjsdsew.png|thumb|right|120px|現代ではしばしば恋愛のシンボルマークとして用いられる[[ハートマーク]]]] 本記事では'''恋愛'''(れんあい)や'''恋'''(こい)について解説する。 == 辞書での定義 == それぞれの[[国語辞典]]で恋愛という言葉は、以下のように定義されている。 『[[広辞苑]]』第6版では「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい」と簡潔に記し、さらに「恋い慕う」は「恋しく思って追い従おうとする。恋慕する」と記す。その「恋しい」は「1 離れている人がどうしようもなく慕わしくて、せつないほどに心ひかれるさま」「2 (場所・事物などが)慕わしい。なつかしい」と歴史的用法を踏まえて説明する。 『[[三省堂国語辞典]]』第7版の「恋愛」は「(おたがいに)恋(コイ)をして、愛を感じるようになること」と記す。そのうち「恋」は「人を好きになって、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)」、「愛」は「1 〈相手/ものごと〉をたいせつに思い、つくそうとする気持ち」「2 恋(コイ)を感じた相手を、たいせつに思う気持ち」と説明する。 『[[新明解国語辞典]]』は、第5版で「特定の異性に特別の[[愛|愛情]]をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」とした<ref group="注">この記述では[[性愛]]の側面を重視しており、また一方的な[[片思い]]でも恋愛は成り立つと解釈できる。</ref>。第6・7版では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」と記している<ref group="注">第6版で性愛についての記述が削除された。</ref>。第8版では「特定の異性」が「特定の相手」に変更され、[[同性愛]]も包括するものとなった<ref name=sustainablebrands201113>{{Cite web|和書|url= https://www.sustainablebrands.jp/article/story/detail/1199198_1534.html |title= 「恋愛」の相手は異性とは限らない――三省堂の国語辞典の語釈に変化、「SDGs」など新語も追加 |accessdate=2022/05/31|publisher= Sustainable Brands Japan |author= |date=2020/11/13}}</ref>。 『[[デジタル大辞泉]]』は、「特定の人に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、互いにそのような感情をもつこと」とした<ref name=kotobank>{{Cite web|和書|url= https://kotobank.jp/word/%E6%81%8B%E6%84%9B-662001 |title= 恋愛とは |accessdate=2022/05/31|publisher= コトバンク |author= }}</ref>。「ベネッセ表現読解国語辞典」 は 「男女間で 特定の相手をお互いに 恋い慕うこと」とした。 [[古代ギリシア語]]では、特定の異性を求めるような気持ちについては「[[エロス]]」と呼び、様々な愛、もっと上質な愛(兄弟愛、人類愛 等々)とははっきりと区別した。 現代フランス語では[[:fr:Amour|Amour]] アムール、現代英語では[[:en:Love|Love]] ラブと言うが、これは恋だけでなく、広く「[[愛]]」を指し示す用語である。特定の異性や特定の人に限らず、自分の性的志向にかかわらず広く人々を大切にしたり広く人々を愛することについては、'''[[愛]]'''の記事を参照のこと。 英語「falling in love」の[[翻訳語|訳語]]としても「恋愛」は用いられている。{{要出典|範囲=ギリシア語でははっきりと区別されていた概念を、英語では(特にアメリカ英語では)、ごちゃまぜにして安易に「love」と呼んで済ませてしまうので、(特に、古代語などを学んだことがない米国の若者などで)異なった概念がごちゃまぜになり、結果として(自己本位な)恋までが、あたかも高級なものであるかのように扱われる傾向がある|date=2022年5月}}。 この記事では、「恋」(恋愛)について解説し、その関連で「愛」についても触れる。 == 歴史 == [[ファイル:Cupidon.jpg|thumb|180px|愛の神[[クピードー]](キューピッド)]] 恋愛については、古来より多くの[[文学]]や[[哲学]]の主題となり、論じられてきた歴史があり、[[芸術]]作品で扱われる主題である。 ===古代ギリシア哲学における愛=== [[プラトン]]は、究極的な愛の対象である[[美]]の[[イデア]]は不死であることから、永遠不変の美のイデアへの愛と認識は神的であり、最も優れた愛であると考えた<ref>森進一訳, 『饗宴』, 新潮文庫, 1968{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。 [[エンペドクレス]]は愛philotēs、storgēと憎しみneikosを宇宙生成の原理とした。万物の根である火、空気、土、水の四元を結合させる愛と、分離させる憎しみが交互に優勢支配的となり、世界史の四期が永劫にくりかえされるというのである。 プラトンによると愛erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、[[生殖]]し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能なかぎり無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものの代わりにつねに他の新しいものをのこしていくことによってのみ可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラヴはもと、このように善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動でもある。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えてるのでもない{{sfn|平凡社『哲学事典』|p=1}}。 プラトンの恋愛は厳格に二元的である。いわゆる天上的な恋愛というものは地上的な恋愛から峻別されるのであって、いわゆる性欲の昇華として恋愛を考える考え方とまったく異なるものである。その天上的な恋愛はつぎにのべる[[想起説]]とむすびつき、人間のもっている不死なる生命が天上的な起源のものであって、われわれの肉体とむすびつけられるまえに、善美の極にあるものを想起し、それへの憧憬にみたされる場合が真の恋愛ということになる。ただこの場合においても、地上の人間は肉体にむすびつけられているから、地上的な恋愛への抵抗において、相愛する人間同士がお互いを精神的に向上させ、愛を通じて、より美しきものを生むという形で具体的な恋愛が考えられている。その点は『[[パイドロス]]』phaidorosにおいてとくにくわしい{{sfn|平凡社『哲学事典』|p=1211}}。 想起説は、真にものを知るということは知るもの自身の自発性にまたなければならないという考えで、プラトンの教育説の根底となっている。前述の恋愛論におけるがごとき[[ミュトス]]mythosがここにも考えられるが、他方においては単なる<<思いなし>>(doxa [[ドクサ]])から真の理解、あるいは知識に到達するための過程としても考えられている。『[[メノン]]』Menonの実例に見られるように、それは[[問答法]]として発展するものである。またわれわれの精神を浄化する過程としても考えられている{{sfn|平凡社『哲学事典』|p=1211-1212}}。 ===中世哲学における愛=== [[アウグスティヌス]]は、「融合和一を求める生活が愛であり、神に対する愛が人間の最大至上の幸福である」としたが、こういう考えは[[アンセルムス]]、[[マイスター・エックハルト|エックハルト]]、[[ケルンのブルーノ|ブルーノ]]、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]など多くの哲学者にも受けつがれている。そしてこれは中世哲学、[[カトリック教会]]一般を特色づけている見方である。よく知られているように、「愛の宗教」といわれる[[キリスト教]]では、愛はあらゆる徳のなかで最高のものとされ、予言より、ロゴスより、知識よりも上位におかれている。そしてそれは神の掟としてつぎの二つに要約される。すなわち[[アガペー|神の愛]]と[[隣人愛]]がそれである。神の愛、つまり神を直接の目的として[[恩寵]]によって与えられる愛は愛徳chāritās[[カリタス]]とよばれ、スコラ哲学でいう精神的愛amor intellectivus、慈善的愛amor benevolenceのうちで最上のものとされている{{sfn|平凡社『哲学事典』|p=1}}。 === 中世〜近代の文学作品での恋愛 === [[Image:Meister des Rosenromans 001.jpg|thumb|160px|『[[薔薇物語]]』写本 (1420-30)、愛の神のロンド]] [[中世]][[フランス]]に起源が見られる[[騎士道物語]]においては[[ロマンス]]的愛(=ローマ風の愛。「ローマ風」とは「ラテン風」が正式なものとされるに対して「民衆的・世俗的な」という語感をもつ)が生まれ、[[アガペー|キリスト教的愛]](=[[アガペー]]。神が示す無償の愛)とは異なるもの、異風なものとして叙述されはじめた。 [[13世紀]]、[[中世]]フランスにおいて{{仮リンク|ギヨーム・ド・ロリス|fr|Guillaume de Lorris}}と{{仮リンク|ジャン・ド・マン|fr|Jean de Meung}}によって書かれた『[[薔薇物語]]』は恋愛作法の書として多数の[[写本]]が作られ、当時 貴婦人たちの間で大きな影響力を持っていた。 中世[[ドイツ]]では、今日一般的な恋愛関係による婚姻(恋愛婚)は[[9世紀]]に[[教会]]により非合法とされたので婚姻において氏や家が重要であった([[ジッペ]]・[[ムント]]参照)。 [[File:Frederick Leighton - The Reconciliation of the Montagues and Capulets over the Dead Bodies of Romeo and Juliet.jpg|thumb|160px|right|命を絶つことになった[[ロミオとジュリエット]]]] イギリスでは16世紀に[[シェイクスピア]]([[1564年]] - [[1616年]])が『[[ロミオとジュリエット]]』において、家同士の争いに引き裂かれる恋人たち、[[悲劇]]的な恋愛を描いてみせた(1595年前後初演)。不朽の名作として、[[バレエ]]、[[ミュージカル]]、[[映画]]など様々なジャンルにリメイクされている。 [[17世紀]]後半の[[イギリス]]、すなわち[[シェイクスピア]]直後の時代には、現代用いられる「身体を否定する精神だけの愛」という意味での[[プラトニックラブ]]という表現が現れたらしい<ref>永嶋哲也、「[https://researchmap.jp/nagt/published_papers/10994342 愛の発明と個の誕生--思想史的な観点から--]」比較思想論輯 2004.6, 6(6) p.34-43.</ref>。 [[ファイル:Cyra.jpg|thumb|right|160px|シラノはロクサーヌへの恋心を隠し続けた。(『[[シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲)|シラノ・ド・ベルジュラック]]』)]] 19世紀末期のフランスで、[[エドモン・ロスタン]]が戯曲『[[シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲)|シラノ・ド・ベルジュラック]]』を書き、ロクサーヌという女性に恋心を抱いているにもかかわらず自分の気持ちを面と向かって伝えることができず、恋心を隠し通し、自分の恋を成就させるかわりに若くて美男子(だが見てくればかりで、頭が悪く、才能が無い)クリスチャンとロクサーヌとの恋をとりもってやる シラノという中年男の「忍ぶ恋」「切ない恋」を描いてみせた([[1897年]]初演)。この戯曲は[[パリ]]の人々を大熱狂させたといい、[[1897年]]の初演から500日間400回連続上演され、その後も今日にいたるまで世界中で上演されつづけており、映画やミュージカルに幾度もリメイクされ見続けられている。 === スタンダールの『恋愛論』 === [[スタンダール]]([[1783年]] - [[1842年]])は『[[恋愛論]]』において、恋愛には4種類ある、とした。情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛である<ref>『恋愛論』大岡昇平 訳{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。どんなに干からびた不幸な性格の男でも、十六歳にもなれば(肉体的恋愛から)恋愛を始める。また恋は心のなかで、感嘆、自問、希望、恋の発生、第一の結晶作用、疑惑、第二の結晶作用という7階梯をたどる、とした<ref>『恋愛論』{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。あらゆる恋愛は6つの気質に起因し、多血質(フランス人)、胆汁質(スペイン人)、憂鬱質(ドイツ人)、粘液質(オランダ人)、神経質、力士質の、それぞれの影響が恋愛の諸相に関与する、とした<ref>なお、スタンダール自身は『恋愛論』の序文([[1826年]])において、「この本は成功しなかった」と述べており、論の展開は「必ずしも理由がなくはかない」と告白している。</ref>。 ===近世哲学における愛=== ;スピノザ <ref>この項目、{{harv|平凡社『哲学事典』|p=1-2}}</ref>[[スピノーザ]]によると、すべてのものは<<自己保存の努力>> [[:en:conatus|conatus]] [[コナトゥス]]をもち、人間は心身をより大なる完全性へ移すこと、すなわち喜びを欲望し、悲しみをさけ、喜びを与える外物を愛し、悲しみを与える外物を憎む。かれは[[欲望]]、[[喜び]]、[[悲しみ]]という三つの根本感情から幾何学的にさまざまな愛と憎しみを分析する。ところでわれわれの精神が事物を永遠の相の下に、すなわち必然的連関において認識することは、精神をより完全にする喜びであり、そしてこの十全な認識は事物を[[神]](=自然=実体)の様態として認識することであるから、その喜びは外部の原因としての神の観念をともない、神への愛である。それは神を認識することと一つになっているから「神の知的愛」amor Dei intellectualisとよんだ。 ;カント [[カント]]は、傾向性にもとづくpathologisch(感性的な)愛と理性的意志にもとづくpraktisch(実践的な)愛とを区別し、後者のみが道徳的とした。傾向性としての愛を命ずるわけにはいかないから、[[隣人愛|隣人への愛]]とは、隣人に対するすべての[[義務]]をすすんで遂行すること。そして道徳法則への尊敬が、それへの愛に変わるのが道徳的心術の最高の完成であろうとした。 ;ヘーゲル [[ヘーゲル]]は、精神の統一性がそれ自身を感じているのが愛であるとする。愛は一般に、私と他人との統一の意識。愛において私は私だけで孤立せず、むしろ私の孤立的存在を放棄し、自他の統一としてみずからを知ることによってのみ、自己意識をうる愛の第一の契機は私が私だけの独立人たるを欲せず、そういう私を欠陥あり不完全なものと観ずるということ、第二の契機は私が他において自分をかちうること、すなわち私が他者に認められ同じく他者が私においてかれ自身をうるということ。したがって愛は悟性の解きえないもっとも著しい矛盾である。矛盾の産出であり同時にその解除でもある。解除として愛は人倫的結合であるという。 ;ショーペンハウアー [[ショーペンハウアー]]は、あらゆる形式の愛が生への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で、愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているものであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。 このショーペンハウアーの性愛論には、精神分析学者[[フロイト]]の理論内容を先取りしている部分が数多くある点興味深い。フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.H.[[ロレンス]]の文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。 [[サルトル]]、[[ボーヴォワール]]らの[[実存主義]]者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。 == 宗教と恋愛 == ===ユダヤ教=== [[ユダヤ人]]の間では、恋愛は行ってもよいが恋人同士で積極的に意見を交換することを教え、恋愛にのめり込み過ぎることは破滅を意味すると[[タルムード]]で教えている<ref>ユダヤの力(パワー)-ユダヤ人はなぜ頭がいいのか、なぜ成功するのか! (知的生きかた文庫) 加瀬 英明 著{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。 ===キリスト教=== [[アブラハム・カイパー]]は『[[カルヴィニズム]]』で「自由恋愛が結婚の神聖を乱そうとし」ていると述べるように<ref>[[アブラハム・カイパー]]著『カルヴィニズム』聖山社 p.96</ref>、恋愛について否定的な見解がある。恋愛が「ある種の威厳を持ち、恋人に対する全面的献身・・を要求して、神のように語る」ので「神に従わせなければ、それ自体が絶対的な服従を求めてきて、悪魔化し、偶像化」する危険があると[[キリスト者学生会]]の高木実主事は指摘し、[[C.S.ルイス]]の『四つの愛』を引用している<ref>高木実著『生と性-創世記1-3章にみる「男と女」』いのちのことば社 p.67</ref>。またC.S.ルイスは『[[悪魔の手紙]]』で恋愛は悪魔が広めた思想であるとしている<ref>[[C.S.ルイス]]『悪魔の手紙』[[中村妙子]]訳、平凡社{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。恋愛に伴うことのある問題として、[[福音派]]は[[婚前交渉]]を禁じている<ref name="Hi-b.a.Q.A">[[高校生聖書伝道協会]]『クリスチャン・ライフQ&A』[[いのちのことば社]]{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref><ref>[[尾山令仁]]『結婚の備え』[[いのちのことば社]]{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref><ref>[[チャールズ・スウィンドル]]『性といのちの問題』[[いのちのことば社]]{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。[[カトリック教会]]は婚前交渉を禁じており、[[避妊]]は大罪である<ref>[http://japan-lifeissues.net/main.php カトリック・プロライフ]</ref><ref>『[[公教要理]]』{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。 恋(男女の感情、特定の人に対する感情、特定の人にだけ執着する感情)は[[キリスト教]]の伝統では、よろしくないもの、質の低いもの、避けるべきものとして扱われてきた。キリスト教で大切にされたのは、男女の恋などではなく、[[イエス・キリスト]]によって示された[[愛]]、つまり<<神の愛>>([[アガペー]]、神が全ての人類を公平・公正に愛し、見返りを期待しない愛)や、人間が 自分の家族・親族・民族・人種などにこだわらず、広く全ての人々を大切に思う気持ち、広く人々を慈しむ気持ち([[友愛|兄弟愛・友愛]]、隣人愛)である。[[愛]]は精神生活の基本的感情であり、また倫理学史上もっとも重要な概念の一つとされ、とくにキリスト教の影響を多かれ少なかれ受けている[[西洋哲学]]においては、非常に大事な意味をもっている{{sfn|平凡社『哲学事典』|p=1}}。 ===イスラーム=== [[イスラム世界|イスラム諸国]]や一部[[アフリカ]]諸国では、現在も恋愛は不道徳なものとされている。 ===仏教=== [[仏教]]では[[貪愛]](とんあい)・[[染汚愛]](ぜんまあい)と[[信愛]](不染汚愛)の区別が説かれる。前者は[[衆生]]が解脱しえない根本原因で、[[十二因縁]]の一つに数えられる。財欲、名誉欲、色欲などの五欲がそれである。信愛は信心をもって師長を愛するようなもので、貪欲煩悩をはなれて善法を修め衆生を憐愍することである。そのもっともすぐれたものが[[慈悲]]とよばれる。 == 現代の各国の恋愛 == [[ファイル:The Kiss - Gustav Klimt - Google Cultural Institute.jpg|thumb|160px|「[[接吻|キス]]」([[グスタフ・クリムト]]作)]] 現代では[[西洋]]諸国でも[[日本]]でも、[[文学]]、[[演劇]]、[[絵画]]、[[ドラマ]]、[[歌謡曲]]、[[漫画]]などさまざまなジャンルで恋愛が扱われている。 ===東洋における愛=== 中国では、古くは[[墨子]]の[[兼愛説]]、つまり博愛平等の異端的主張が有名である。歴史上、[[玄宗皇帝]]が[[楊貴妃]]にうつつを抜かし、その親族に便宜を図り、国政をすっかりないがしろにして、ついには国を滅ぼしてしまったことが中国の人々には強く記憶されている。 現代の[[中華人民共和国]]では18歳未満の低年齢者が恋愛をすることを「早恋」と呼び、学業成績の低下だけでなく生活の乱れや家出、同棲などの[[非行]]につながると考える有識者が多く、[[黒竜江省]]では[[2009年]]8月末に未成年者の恋愛に対して「父母や監督責任者は批判、教育、制止、矯正を行わなければならない」と定めた条例が制定された<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/4336399/ “早すぎる恋愛”はダメ!高校の規則に「男子と女子は44cm以上離れよ」-中国]{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>。 日本思想における愛は、いとおしいという心情で、[[儒教|儒]]・[[仏教|仏]]思想の影響もいちじるしいが、特に山川草木、花鳥風月に対する愛情の強い点は特色といってよいであろう{{sfn|平凡社『哲学事典』|p=2}}。 === 西洋における恋愛 === ヨーロッパとアメリカでは状況が異なるので分けて説明する。 ;ヨーロッパ 上の節で説明したように、キリスト教では恋愛については厳しい態度をとる考え方を教えており、素直な信徒はその教えを自分のうちに取り込み自分自身の考え方ともするものなので、ヨーロッパ人の恋愛についての見解は、クリスチャンかそうでないか、またクリスチャンだとしても、まじめなクリスチャンか形ばかりのクリスチャンかで、見解は分かれる傾向がある。また恋愛についての教えはカトリックとプロテスタントでも傾向が異なり、プロテスタントのひとつひとつの教派ごとに態度がかなり異なる。 19世紀や20世紀初頭までは西ヨーロッパ諸国では[[カトリック]]の信徒の割合がおおむね9割ほどと、とても高かった。それが20世紀の間に右肩下がりに減り、その結果、恋愛についてカトリックの教えを意識しない人々が増えてきた。たとえばフランスでは1960年では86.6%がカトリックだったが、2013年時点では75.3%にまで低下している<ref>[https://www.theglobaleconomy.com/France/catholic/]</ref>。しかも[[幼児洗礼]]などを受けて一応カトリックに分類されるが、実際には教会にはほぼ全く行かず神父の説教も聞かず聖書も読まず、カトリックの考え方をほぼ知らず、それから離れた生き方をしている人の割合も増えてきている。そうした人々はカトリックの教えに縛られないで恋愛について比較的自由に考えるようになっている。フランス人は基本的には各人の選択を重んじるので、カトリックから離れた場合は、たとえば、恋愛に興味がある人は恋愛すればよいし興味が無い人はしなければよい、などと考えるわけである。 恋愛と一緒に暮らすこと([[同棲]])は別のこと、と考えるか、それらを結びつけて考えるかは、ヨーロッパでも国ごとにかなり異なる。スペインでは20歳以上で結婚していない人が同棲している割合は8.8 %である<ref name=eu-MB>[https://ec.europa.eu/eurostat/statistics-explained/index.php?title=Marriages_and_births_in_Spain EUの統計]</ref>。それに対して、[[ポーランド]]や[[ギリシャ]]では、同じタイプの人々で同棲している人の割合は、<u>スペインの1/4しかいない</u><ref name=eu-MB />。一方(性的におおらかなことで有名な)[[スウェーデン]]では結婚したカップルの99%がその前に同棲を経験している、という。このようにヨーロッパ内でも国ごとにずいぶんと異なっている。 {{要出典|なおフランスでは恋愛して同棲するとしても、同棲と結婚は切り離して考える人々が増えてきている。フランスでは、そもそも古くからある「結婚」という制度は、男女の間でのお金や財産の移動に関する規定をともなう(女が男の収入をあてにして寄生するような)制度だと、その本質を見抜き、それを嫌う人々の割合が増えてきており、男女が本当に純粋に愛し合うならそんな制度の枠内に入るべきではない、と考え、男女が長年一緒に暮らす場合でも [[民事連帯契約|PACS]]という枠組みを選び、お金はそれぞれ別という方式を積極的に選び、「結婚」という形は断固としてとらない、という人々の割合がすでに5割を超えた。ここ数十年のフランス人は、そういう「金目当て」のような不純なことが相当に嫌いであり、そういうものは抜きでいたい、と男性も女性も望んでいる。特筆すべきことは、金目当ての動機が織り込まれた不純な「結婚」という制度を、女性の側から積極的に断固拒否している、ということである。フランスは[[ジャンヌダルク]]の国であり、フランス女性は幼いころから物語の本でも歴史の教科書でもじっくりジャンヌダルクの生きざまを読んで育つわけなので、フランス女性の精神のDNAには自立精神、男性に依存したりせずむしろ男性を先導して引っ張ってゆく気骨などが根付いている|date=2022年5月}}。 ;異性愛と同性愛 なお、ヨーロッパでも同性愛や[[ポリアモリー]]などの恋愛をする人々もいる。 西洋の文学では、男性が男性に恋する気持ち(男性の[[同性愛]]の気持ち)も表現されてきた歴史がある。[[シェイクスピア]]は『ソネット詩集』で、[[オスカー・ワイルド]]は『[[ドリアン・グレイの肖像]]』で、[[トーマス・マン]]は『[[ベニスに死す]]』で、男性が男性に恋する気持ちを表現した。フランスの[[ジャン・ジュネ]]は『[[泥棒日記]]』『[[薔薇の奇跡]]』などでそうした気持ちを描写した。 現代[[歌謡曲]]でもそうした同性への恋愛感情が表現されているものが多数ある。男性への恋愛感情を打ち明けられない辛さ・悲しさを正面から歌った作品もある。反対に喜ばしくそうした恋愛感情を表現している歌もある。また、(誰にでもあからさまに同性愛と分かってしまわないような婉曲的な表現方法で、あるいは[[ゲイ]]の人や察しの良い聴き手に限って分かるように)さりげなく表現されているものも多い。たとえば[[エルトン・ジョン]]の'Your song'『[[僕の歌は君の歌 (曲)|僕の歌は君の歌]]』、Wham[[ワム]]([[ジョージ・マイケル]]) 'Wake Me Up Before You Go-Go'「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」等々等々である。 しかし、[[女性]]から女性への同性愛については、女性の社会的地位が低いせいで、話題にのることも少ない。 == 日本と恋愛 == === 日本語の「恋愛」 === [[日本語]]で「恋愛」という表現は、1847-48年の[[ウォルター・ヘンリー・メドハースト|メドハースト]]による『[[英華辞典]]』にみられるのが最古であるが、loveの訳語としてではなく、今日の「恋愛」の意味として辞書に登場したのは明治20年([[1887年]])の『仏和辞林』でamourの訳語として「恋愛」の語が当てられたのが最初とされる<ref name=sugano/>。ただし定着は遅れ、北村門太郎(後の[[北村透谷]])も明治20年では「ラブ」と片仮名表記している<ref>揚穎, 「[https://hdl.handle.net/2324/24627 透谷の女性観 : 幼少年時代の透谷が女性から受けた影響]」『Comparatio』 14巻 p.17-26 2010年, 九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会, {{doi|10.15017/24627}}, {{hdl|2324/24627}}。</ref>。それ以前は、現代人が一般に「恋愛」と呼ぶものについては、「色」、「情」、「恋」、「愛」などと呼ばれた<ref name="sugano">菅野聡美、[https://books.google.co.jp/books?id=IIZwDgAAQBAJ&pg=PA9 『消費される恋愛論 大正知識人と性』p9-] 青弓社, 2001 ISBN 978-4787231888</ref>。 === 日本の恋愛の歴史 === [[日本]]では、古くから恋は[[和歌]]や[[文学]]の主要な題材である。 『[[万葉集]]』の「[[相聞歌]]」や『[[古今和歌集]]』に[[恋歌]]を見出すことができる。相聞の中でも特に傑作と評価されることが多い2つを挙げる。 {{Quotation|あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る|[[額田王]](巻1・20)}} {{Quotation|紫草の にほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも|[[天武天皇|大海人皇子]](巻1・21)}} [[ファイル:Ch5 wakamurasaki.jpg|thumb|right|160px|紫の上を柴垣ごしに見つめる源氏(土佐光起筆『源氏物語画帖』「若紫」)]] また[[作り物語|物語文学]]においても『[[伊勢物語]]』や『[[源氏物語]]』など、貴族の恋模様を描いた作品が多数ある。この時代、男が女の元へと通う「通い婚」が通例であり、男女は時間を作って愛を育んだ後、女側の親が結婚を承諾して夫婦となった。平安時代の男女の倫理は(後の封建時代と比べて)まだ自由(別の言い方をすれば「おおらか」「だらしない」)であった<ref name="watanabe">渡邊昭五『梁塵秘抄の恋愛と庶民相』岩田書院, 2005 p.10-13</ref>。貴族の男性は複数の女性と並行的に関係を持ち、ある男性の子があちらこちらの女性の腹から生まれることが一般的、またある女性が産んだ子の父親が一体誰なのかわからない(周囲の人にも、時には産んだ女性自身にも)ということも多かった。 こうした男女倫理が変わったのは[[封建時代]]になってからである<ref name="watanabe" />。平安時代の貴族のような男女倫理では、世の中は乱れに乱れてしまう<ref name="watanabe" />。 関東の名門豪族の娘[[北条政子]]は、親の決めた相手を拒否し、一族の命運をかけ、自分が惚れた[[源頼朝]]を相手に選んだ。が、源頼朝のほうは京の貴族の習慣を身につけていて(最初は考えが甘く)そうした貴族風の男女関係をそのまま自分の婚姻にも持ちこみ他の女性たちとも関係を持とうとしたが、政子はそれを許しはしなかった<ref group="注">結果として二人の関係は確かなものとなった。</ref>。二人は互いに強力なパートナーとなり、政子は関東における人脈力や人心掌握力を駆使し鎌倉幕府を盛り立て、頼朝を一流の男に押し上げた。 中世頃には、[[仏教]]の戒律のひとつの女犯に関するもの(不淫戒)の影響が見受けられ<ref group="注">『[[宇治拾遺物語]]』、『[[道成寺 (能)|道成寺]]』</ref>、とくに男性社会の側から恋愛を危険視する(あるいは距離を置くべき対象としてとらえる)傾向が生じた。[[権門体制]]を維持する手段として男性が賦役・租税の対象とされる一方、女性を財産ととらえ、交換や贈与の対象とする傾向が確認され、恋愛を社会秩序を破綻させる可能性のあるものとして否定的にとらえる傾向が生じた。この傾向は江戸時代の[[儒教]]文化にも受け継がれ、[[女大学]]にみられる恋愛を限定的にとらえる倫理観や、家族制度・社会規範に対する献身を称揚する文化に継承された。 [[明治]]時代には中流階級では[[家制度]]による親が結婚相手を決める[[お見合い]]結婚が多かった。男性にとっては結婚は少なくとも法律上は結婚後の自由な恋愛・性愛を禁ずるものではなく、地位ある男性が配偶者以外に[[愛人]]を持つことはしばしば見られた。社会も既婚男性が未婚女性と交際することには寛容であったが、既婚女性が愛人を持つことは法律上許されなかった([[姦通罪]])。 明治から[[大正]]にかけて、文化人を中心として[[ロマン主義]]の影響もあって、[[恋愛結婚]]が理想的なものとの認識が広まり、大正時代には恋愛結婚に憧れる女性と、保守的な親との間で葛藤がおこることもあった<ref>加藤秀一『恋愛結婚は何をもたらしたか』ちくま書房{{要ページ番号|date=2014年10月}}</ref>。 {{要出典|日本女性は[[昭和]]時代から、恋愛小説を読みふけったり、[[おみくじ|お神籤]]を引いてその恋愛運に関する文章の文言ひとつひとつに一喜一憂したり、占い師に恋愛相談をしてみたり、恋愛成就の[[お守り]]を買ってみたり、ということさかんにし、令和でもそれは続いている。だが、日本男性のほとんどは、それらのことは(昭和時代でも平成時代でも)一切せず、一般にそういったことには興味が無い|date=2022年5月}}。 {{要出典|[[高度経済成長]]期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でもできる・すべきものだという風潮が広がった。また、1980年代後半から1990年代初頭の[[バブル景気]]の日本では恋愛で消費行動が重視される傾向があったとされ、「この時(イベント)に[[デート]]するならばここ(流行の店など)」「何度目のデートならどこにいく」というようなマニュアル的な恋愛が女性誌や男性向け情報誌、[[トレンディドラマ]]などで盛んにもてはやされた|date=2022年5月}}。 現代では、親の意向にのみ基づいたお見合い結婚の割合はかなり少なく、夫婦の間の愛情を重視する恋愛結婚が大多数となり、お見合い結婚であっても本人の意向を尊重するものが多くなった<ref>[http://www.recruit.jp/library/bridal/B20061023/docfile リクルート「結婚トレンド調査2006」]</ref>。 いっぽう恋愛の世界で[[格差社会]]化が進んでいるとし、「恋愛資本主義」、恋愛資本による「魅力格差」、「[[恋愛格差]]」などという言葉も用いられている。このような情勢のなかで恋愛や性交渉を経験したことがない中年層が増加しつつあると分析する者もいる<ref>渡部伸『中年童貞』扶桑社新書{{要ページ番号|date=2014年10月}}など</ref>。{{要出典|また、世の中に「モノ」が大量に溢れる中で、[[カップル]]の低俗化が指摘されることも増えた。次第に日本男性は女性に興味を示さなくなり(あるいは日本の女性というのは、自分が恋愛の対象にするほどの価値はない、と若い日本男性は冷静に(冷めて)判断するようになり)|date=2022年5月}}、2006年には「[[草食系]]」という用語で、そうした(恋愛への意欲を感じない)男性が呼ばれるようになった。 近年は若い男女の恋愛離れが叫ばれており、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]はその例として「交際相手が欲しい」と答えた新成人の割合が[[2000年]]は男性が91.6%、女性が88.5%だったのに対し、[[2016年]]は男性が63.8%、女性が64.2%だったこと、実際に交際相手がいる新成人が[[1996年]]は50%だったのに対し、2016年は26.2%だったことを挙げている。恋愛離れの原因として、非正規雇用の増加や[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]](SNS)の普及などが挙げられている。マーケティングライターの[[牛窪恵]]は「非正規雇用や年収が低い男性は『どうせ自分なんか』と自己肯定感が低く、自分から女性に声をかけようとしない」と分析。[[少子化]][[ジャーナリスト]]の[[白河桃子]]は「女性は出産を考えると、ある程度収入のある人と結婚したいと考え、相手に完璧さを求めるため、恋愛や結婚に慎重になる」と分析している。[[教育評論家]]の[[尾木直樹]]は恋愛離れの原因をSNSの普及とし、「SNSの普及で全てがバーチャルになってしまい、若者の精神的な成熟だけでなく、身体的、性的な成熟も遅れている」と分析している<ref>{{Cite news|title=交際相手不要…なぜ?「若者の恋愛離れ」|newspaper=『[[日テレNEWS24]]』|date=2016-01-20|url=https://news.ntv.co.jp/category/society/320362|accessdate=2018-03-02|publisher=[[日本テレビ放送網]]}}</ref>。一方、若者の恋愛離れは嘘であるとの指摘もある。[[東洋経済新報社]]は婚約者・恋人がいる者の割合の[[1982年]]から[[2015年]]までの推移を挙げ、「[[1980年代]]の水準に戻っただけ」と指摘している<ref>{{Cite news|title=100年前の日本人が「全員結婚」できた理由|newspaper=東洋経済オンライン|date=2018-01-02|url=http://toyokeizai.net/articles/-/202863|accessdate=2018-03-02|publisher=東洋経済新報社}}</ref>他、草食系男子の増加も嘘であるとしている<ref>{{Cite news|title=「草食系男子の増加」という大いなる勘違い|newspaper=東洋経済オンライン|date=2016-12-08|url=http://toyokeizai.net/articles/-/148345|accessdate=2018-03-02|publisher=東洋経済新報社}}</ref>。 {{要出典|ネットゲームや動画編集ソフトなどデジタル化された空間では人間の音声や身振り手振りなどのコミュニケーションの中で不可避的に不自然さが含まれる部分が除去されており理想人物像が現実離れをした相手を望む様になっている。また、恋愛をした時にモチベーションが高まるメカニズムに対しての研究も進み、恋愛をしている時にのみ起こり得る脳内神経細胞の変化を人工的に作り出し活動力を向上させる方法も発明されつつある|date=2022年5月}}。 === 現代日本の恋愛 === {{単一の出典|section=1|date=2022年5月}} 現代における恋愛の難しさには、史上初の性質とも言うべき要素があるという指摘がある。それは世界における「[[人権問題]](子供の人権や男女平等思想を含む)」や、それに伴う「[[個人主義]]の台頭」が大きく関与していて、詰まる所「いい男といい女の定義が、社会によっていいとされていたものから、異性が本音でいいと感じるものへと変わっていった」<ref>矢野優也『空回りしない恋愛のすすめ』[[デザインエッグ株式会社]]、2015年8月17日初版、6頁より引用</ref>ことにより、「恋愛をする上での努力の指針」が曖昧になってきていることや、スマートフォン・インターネット・SNSなどの普及により、人との「ご縁」が大切にされなくなってきたことなどが挙げられる。{{要出典|また、近年の学校教育等では恋愛を禁止する風土はあっても推奨する風土がなかったこともあり、自ら恋愛を経験し上達していく一部の者たちが多くの異性たちを独占してしまう、上記の「[[恋愛格差]]」は、若者の価値観ならびに現代日本社会において深刻な問題となっている。一方で、恋愛をテーマとした国内・海外ドラマの視聴が広く普及しており、本来は体感するものであるが、平和社会において娯楽の分野へと変遷しており、病理的とでもいう日本の世相を見て取れている|date=2022年5月}}。 === モテ期 === {{単一の出典|section=1|date=2022年5月}} 「人生において、人は異性から好かれる(モテる)時期が3度ある」という都市伝説があり、それが俗に「[[モテ期]]」と呼ばれている。噂の出所は不明であるものの、多くの者達が実感した経験から囁かれ始めたものだと考えられる。これについて「人の成長過程と世の中の流行が一致した時期」であると考える者もいる。つまり、「人は時期によって価値観やセンスが変わり、同じように流行も変わっていく。多くの若者は必ず何らかの流行の影響を受けるので、その人自身の価値観やセンスが流行と一致する時期が生じやすい。流行は、多くの若者たちが高く評価する価値観なので、その流行が異性に好まれるものである限り、自然とその人も多くの異性に好まれることになる。この偶然の産物は、自分や流行の変化によってその噛み合わせを崩していく。この一連の変化がモテ期である」<ref>矢野優也『空回りしない恋愛のすすめ』[[デザインエッグ株式会社]]、2015年8月17日初版、14頁より引用</ref>という説である。 === 恋愛学 === {{要出典|現代日本において、恋愛のノウハウを「[[学問]]」として考察し世に広めたのが、[[早稲田大学]]国際教養学部教授の[[森川友義]]である。上記の「[[恋愛格差]]社会」に一石を投じる彼の「人間の恋愛は科学的な研究が可能である」という思想は、彼自身の社会的地位も相まって、マスコミやインターネットで話題になっている|date=2022年5月}}。 == 経済学 == [[経済学]]では、合理的な人間は「効率」という基準で、1日24時間・金を仕事・恋・遊びに割り振っていると考える<ref name="huyusona126">田中秀臣 『最後の『冬ソナ』論』 太田出版、2005年、126頁。</ref>。男性の場合、[[費用]](女性とのデートに振り向ける時間・金)と便益(女性との恋愛から得られる満足)を比較して、便益が費用よりも大きいときに、その恋は「効率」的であると表現する<ref name="huyusona126" />。これが経済学の基本的な思考である<ref name="huyusona126" />。 [[経済学者]]の[[ロバート・フランク (経済学者)|ロバート・フランク]]は、愛が合理的な計算にそぐわない側面があると指摘している<ref>田中秀臣 『最後の『冬ソナ』論』 太田出版、2005年、129-130頁。</ref>。フランクは、哲学者の[[ブレーズ・パスカル]]の言葉を引用し「費用・便益を合理的に計算する人間には、人を愛することはできない」と指摘している<ref>田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、46頁。</ref>。 == 著名な恋愛論 == * [[スタンダール]]『恋愛論』 ISBN 4102008055 * [[プルタルコス]]『愛をめぐる対話』 ISBN 4003366425 * [[ドニ・ド・ルージュモン]]『愛について』 ISBN 4582760147 * [[トマス・モア]]『ユートピア』 ISBN 4122019915 * [[アウグスト・ベーベル]]『婦人論』 * [[アレクサンドラ・コロンタイ]]『紅い恋』 * [[シャルル・フーリエ]]『愛の新世界』 * [[イブン・ハズム]]『[[鳩の頸飾り]] 愛と愛する人々に関する論攷』 * [[厨川白村]]『近代の恋愛観』 * [[福永武彦]]『愛の試み』 ISBN 4101115060 * [[遠藤周作]]『恋愛とは何か』 ISBN 4041245052 * [[北村透谷]]『厭世詩家と女性』 * [[堺利彦]]『自由恋愛論』 * [[立原正秋]]『愛をめぐる人生論』 * [[吉本隆明]]『超恋愛論』 * [[橋本治]]『恋愛論』 * [[大澤真幸]]『恋愛の不可能性について』 * [[小谷野敦]]『もてない男』 * [[本田透]]『萌える男』 * 矢野優也『空回りしない恋愛のすすめ』 == 恋愛の形態 == * [[愛]] * [[遠距離恋愛]] * [[異性愛]] * [[同性愛]] * [[純愛]] * [[ロマンチック・ラブ]] * [[不倫]] * [[ポリアモリー|複数恋愛]](ポリアモリー) * [[プラトニック・ラブ]] * [[失恋]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{reflist|2}} ==参考文献== * {{cite book|和書|author=林達夫, 野田又夫, 久野収, 山崎正一, 串田孫一, 平凡社 |title=哲学事典 |publisher=平凡社 |year=1954 |id={{全国書誌番号|54001533}} |ref={{harvid|平凡社『哲学事典』}}  |quote=但し、参照した文献の発行年不明}} ** [https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001070506-00 1965年] {{全国書誌番号|65006727}} ** [https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I107201560-00 改訂新版 1971年] ** [https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I085704303-00 1990年] などがある。 == 関連項目 == {{Wiktionary|恋愛|恋慕}} {{Wikiquote|恋}} {{Colbegin}} * [[愛]] * [[性欲]] * [[性愛]] * [[恋人]] * [[恋文]] * [[失恋]] * [[恋心]] * [[デート]] * [[一目ぼれ]] * [[ヤンデレ]] * [[wikt:浮気|浮気]] * [[嫉妬]] * [[三角関係]] * [[ライバル]] * [[同性愛]] * [[純愛]] * [[恋愛歌]] * [[恋愛格差]] * [[恋愛小説]] * [[薔薇物語]] * [[恋愛漫画]] * [[結婚]] * [[婚活]] * [[恋愛結婚]] * [[オープンマリッジ]] * [[ラブコメディ]] * [[エロース]] * [[性愛]] * [[フィリア]] * [[アガペー]] * [[リビドー]] * [[プラトニックラブ]] * [[結婚適齢期]] * [[生殖]] * [[求愛行動]] * [[競争 (生物)]] {{Colend}} == 外部リンク == * {{Cite journal|和書|author=荒木詳二 |date=2006-03 |url=https://gunma-u.repo.nii.ac.jp/records/1040 |title=恋愛と恋愛結婚イデオロギーの誕生について : 日欧比較文化の視点から(小特集 : 文学メディアとジェンダーの歴史) |journal=群馬大学社会情報学部研究論集 |ISSN=1346-8812 |publisher=群馬大学社会情報学部 |volume=13 |pages=231-248 |hdl=10087/2441 |naid=110005001648 |CRID=1050282812638446976}} * {{Cite journal|和書|author=太田伸広 |date=2004-03 |url=https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/1419 |title=グリム童話と『日本の昔ばなし』の比較 : 恋愛結婚を巡って |journal=人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 |ISSN=02897253 |publisher=三重大学人文学部文化学科 |volume=21 |pages=99-118 |hdl=10076/1989 |naid=110004692283 |CRID=1050001202940439680}} * {{Cite journal|和書|author=水野邦夫 |date=2006 |url=https://doi.org/10.34359/00000952 |title=恋愛心理尺度の作成と恋愛傾向の特徴に関する研究 : Leeの理論をもとに(人間心理学科) |journal=聖泉論叢 |ISSN=13434365 |publisher=聖泉大学 |volume=14 |pages=35-52 |doi=10.34359/00000952 |naid=110006426471 |CRID=1390009224628134144}} * {{Cite journal|和書|author=山根宏 |date=2008-03 |url=https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/19-4/RitsIILCS_19.4pp315-332Yamane.pdf |format=PDF |title=「恋愛」をめぐって:明治20年代のセクシュアリティ |journal=立命館言語文化研究 |ISSN=09157816 |publisher=立命館大学国際言語文化研究所 |volume=19 |issue=4 |pages=315-332 |naid=40015985268 |CRID=1520572359411285120}} {{性}} {{DEFAULTSORT:れんあい}} [[Category:恋愛|*]] [[Category:人間関係]] [[Category:感情]] [[it:Innamoramento]]
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歴史的仮名遣
歴史的仮名遣・歴史的仮名遣い(れきしてきかなづかひ)とは、仮名遣の一種。現代仮名遣いと対比して旧仮名遣(き[ゆ]うかなづかひ)とも呼ばれ、また、「復古仮名遣い」「古典仮名遣い」とも呼ばれる。 日本の古代における語の発音の区別を研究し規範とする仮名遣いとされるが、平安時代中期以降の平安文学の仮名遣いを規範とする。したがって、それ以前の発音の区別の、「え /e/」と「や行え /ye/」との書き分けは通常行わない。さらに以前の上代特殊仮名遣の甲類乙類の区別も書き分けない。 歴史的仮名遣とは一般には、江戸時代中期の契沖による契沖仮名遣を修正・発展させ、平安時代初期までの実際の綴りを発掘したものを基としている。 明治から第二次世界大戦終結直後までの公文書や学校教育において用いられた。第二次世界大戦の後、国語国字改革の流れによって「現代かなづかい」が告示されるまで、公教育の場で正式な仮名遣として教えられていた。現在の公教育では古典文学作品における教育でのみ使用される。 なお本項では一般的な仮名による正書法の意味では「仮名遣」とし、根拠の異なる2系統の仮名遣を「歴史的仮名遣」と「現代仮名遣い」として、表記を統一する。ただし固有名詞である「現代かなづかい」などの名称についてはこの限りではない。 歴史的仮名遣の原理は、仮名発明当初の表記を、その後の発音習慣の変化(転呼)にかかわらず引き継ごうということであるが、現実的には本来の表記を完全に確定できるわけではない。資料に基づく研究は契沖に始まることにより、まだいくらかの誤りが含まれている可能性は充分にある。その例の一つが「机(ツクエ)」である。戦前長らく「ツクヱ」とされ、「突き据ゑる」などの意味であるとされてきたが、平安初期の文献を詳しく調べたところ、戦後の今ではヤ行のエ「突き枝(え)」が正しいとされ、「机(ツクエ)」と綴られる。ほかにも紫陽花のように諸説あるものは多く、紫陽花は古形「あつさゐ(あづさゐ)」から「あぢさゐ」であるとされる。現在では訓点語学や上代語研究の発達により、大半は正しい表記が判明しているが、これらかつて疑わしいとされた、あるいは現在でも疑わしいとされる例は疑問仮名遣と呼ばれる。 また誤用による仮名遣のうち、特に広く一般に使用されるものを許容仮名遣と呼ぶ。「或いは(イは間投助詞であるが、ヰやヒと綴られた)」、「用ゐる(持ち率るの意だが、混同によりハ行・ヤ行に活用した)」、「つくえ(先述のツクヱ)」などでの誤用である。 なお「泥鰌(どぢやう)」を「どぜう」としたり、「知らねえ」を「知らねへ」としたりするのは歴史的仮名遣ではなく、江戸時代の俗用表記法であり、特にその根拠はない。 漢字音の古い発音や音韻を表記するためにつくられた仮名遣いを字音仮名遣と呼ぶ。歴史的仮名遣における字音仮名遣の体系的な成立はきわめて遅く、江戸期に入って本居宣長が『字音仮字用格』(じおんかなづかい)を著すまで正しい表記の定められないものが多かった。現代仮名遣いの施行まで行われた明治以降の歴史的仮名遣では、字音仮名遣を踏襲したが、多くは宣長の研究によっている。従って広義の歴史的仮名遣にはこれも含むが、和語における歴史的仮名遣とは体系を別にするものであるから同列に論ずることはできない。また、字音仮名遣は時代(表記された年代や、どの時代における音韻を基準とするかなど)によってその乱れが激しく、定見を得ないものも多い。 以上のような成りたちから、歴史的仮名遣論者にも、「表語(表意)」を重視する立場から見て字音仮名遣を含めない者(時枝誠記・福田恆存・丸谷才一)と、含める者(三島由紀夫)がおり、字音仮名遣と歴史的仮名遣に対する立場は一様ではない。前者の主張は漢字自体が表語文字だからということであるが、その場合漢字制限を指してこれに反発した(後述)。字音仮名遣の体系的な論については、字音仮名遣を参照。 江戸時代の契沖が仮名遣についての研究を世にあらわす前、仮名遣にはおよそ以下のような推移があった。 国語表記の始まった上代の借字(万葉仮名)では、上代特殊仮名遣が行われたが、平安時代初期に仮名が発達して借字が衰退し、同時に上代特殊仮名遣も衰退した。平安中期になると「天地の詞」にみられるような、えとや行えの区別が上代特殊仮名遣の衰退と共に薄れた。 こうした表記上の変化については、時代とともに日本語の音韻が以下のように変化し表記同化が生じたことによると推測されている。 表記が同化した理由は、多く「音韻が変化したため」と推測されているが、上代特殊仮名遣に関しては特に異論が絶えない。ともかく何らかの理由、一般には音韻変化により表記が変則的なものとなり、合理性や正則性を重んずる上で不都合が生じたと推測されている。『仮名文字遣』の序文には「文字の聲かよひたる誤あるによりて其字の見わきかたき事在之」(文字の音が重なって誤りがあるから、だからその文字の区別を示す)とあり、つまり変則を誤りとして、正しい表記を指南する必要が生じた。これが仮名遣が考えられるようになった起こりである。ただし当時の仮名は、日常で使用する限りにおいては、その使用を妨げるほどの表記の混乱、すなわち変則はなかったことも指摘されており、この変則を交えながら慣習的に使われていた仮名遣は「平安かなづかい」とも呼ばれている。 鎌倉時代になると、藤原定家が仮名を表記する上での仮名遣の規範が必要と述べ、著作『下官集』の中で語例を示した。のちに行阿がそれを補充整理して『仮名文字遣』を著した。これが一般には「定家仮名遣」と称される(行阿が示した仮名遣いを「行阿仮名遣」とも呼ぶ)。その後、この定家仮名遣が教養層のあいだで権威とみなされた。『仮名文字遣』は以後もその語例が後人によって増補される修正がなされた(定家仮名遣の項参照)。 しかし、下官集の語例の一部は、上代のものとは異なる仮名遣を示した。この原因は、定家の調べた文献が、必ずしも充分古いものではなく、すでに音韻の変化により変則した表記を含んだためと考えられる。また、「を」と「お」の仮名の使い分けは、古い文献に依拠するものではなく、当時の語のアクセントに基づいた。 仮名遣が音韻の変化する以前の古い文献に基づき近代的に研究されるのは、契沖の「契沖仮名遣」に始まる。これによって、定家仮名遣いに対して修正が必要であることが明らかになった。 江戸時代初期の元禄時代、僧契沖が『和字正濫抄』を著し、充分古い時代の仮名遣を明らかにした。これは『万葉集』や『日本書紀』などの古い文献に基づき定めた点で、国文学の研究上画期的なことであり、近代以降の国文学の原流となる。契沖は「居(ゐ)る」と「入(い)る」などのように、「語義の書き分け」のためにあると結論づけた。 江戸時代中期には、楫取魚彦や本居宣長が契沖仮名遣の修正を試みた。その結果として、仮名遣とは発音の書き分けであり、その後の混乱は発音の歴史的変化により生じたものであることが明らかにされた。これにより歴史的仮名遣は表記の上で、また理念の上からもほぼ完成の域に達した。宣長が字音仮名遣を定めたのも、この頃である。 江戸後期には、宣長の弟子石塚龍麿が『古諺清濁考』と『假名遣奧山路』を著し、いわゆる上代特殊仮名遣の存在が明らかとなった。奧村榮實は『古言衣延辨』で、龍麿による上代特殊仮名遣を過去の発音の相違によると推定した。なお上代特殊仮名遣についての研究は、橋本進吉が論文を発表している。 明治時代になって公教育では、上で述べた契沖以来の国学の流れを汲む仮名遣を採用した。これが今日において歴史的仮名遣と呼ばれるものである。歴史的仮名遣とは契沖仮名遣と字音仮名遣であった。 明治維新前後以来、国語の簡易化が表音主義者によって何度も主張された。すなわち、「表記と発音とのずれが大き過ぎる歴史的仮名遣の学習は非効率的であるから、表音的仮名遣を採用することで国語教育にかける時間を短縮し、他の学科の教育を充実させるべきである」との主張である。それらは漢字を廃止してアルファベット(ローマ字)や仮名のみを使用するものであった。しかし、このような主張に対して、民間からの強い批判があり、国語の簡易化が罷り通ることはなかった。 このような背景により、1900年のいわゆる「棒引仮名遣い」は、あまり広まらないまま廃止された。また、国語調査会の仮名遣改定案(1924年)も強い反対意見に遭って公布には至らなかった。その後、新たに設置された国語調査会によってに「新字音仮名遣表」(1942年)が発表されたものの、これも戦時下のため行われなかった。 昭和21年 (1946年)、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)の民主化政策の一環として来日したアメリカ教育使節団の勧告により政府は表記の簡易化を決定、「歴史的仮名遣」は古典を除いて公教育から姿を消し、「現代かなづかい」が公示され、ほぼ同時期にローマ字教育が始まった。以来、この新しい仮名遣である「現代かなづかい」(新仮名遣、新かな)に対して歴史的仮名遣は「旧仮名遣」(旧かな)と呼ばれる様になった。さらに昭和61年 (1986年)、「現代かなづかい」は「現代仮名遣い」に修正される。 なお、漢字制限も同時になされ、当用漢字(現・常用漢字)の範囲内での表記が推奨され、「まぜ書き」や「表外字の置換え」と呼ばれる新たな表記法が誕生した。当用漢字以後は人名用漢字が司法省(法務省)により定められ、漢字制限はJISも含めて混沌としたものとなっている。歴史的仮名遣論者では多く漢字制限にも反発することが多い。福田恆存などは、全ては国字ローマ字(横文字)化のためである、漢字制限に際しては改革案がCIEの担当官ハルビンによって「伝統的な文字の改変は熟慮を要する」と一蹴されたにもかかわらず断行した、と糾弾している。 現代仮名遣いは制定後比較的速やかに社会に定着し、1970年代以降は公的文書、新聞はもとより、ノンフィクションや小説に至るまでほとんどが原文の仮名遣いの何如に関わらず現代仮名遣いで出版されるようになった。 その一方で、その後も仮名遣いの見直しを含む国語改革への批判と歴史的仮名遣の復権を主張して歴史的仮名遣での出版を続けた個人は少なくなかった。代表的な人物としては以下の人々が挙げられる。 作曲家の山田泉も生前に発表した文章に歴史的仮名遣を使用していた。さらに、井上ひさしや山崎正和、小西甚一、大野晋、大岡昇平らにも歴史的仮名遣によって公刊された著作がある。 ワードプロセッサやコンピュータで文章を書くという作業が現出した当初は、すべてのインプットメソッドが現代仮名遣いを当然の前提としていたことから、歴史的仮名遣で文章を書くことの困難は避けられなかった。その後、歴史的仮名遣を扱うインプットメソッド(『契冲』や『ATOK』文語モード)が出現し、さらにはシェアの大きいMS-IMEやOSを問わず使用可能なGoogle 日本語入力向けにフリーの変換辞書(『快適仮名遣ひ』)が提供され、字音仮名遣を除く一般的な歴史的仮名遣の文章入力が比較的手軽なものとなった結果、インターネット上の一部では歴史的仮名遣が根強く行われている。 なお、「現代仮名遣い」は「主として現代文のうち口語体のものに適用する」とし、「科学、技術、芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼ」さないとしたことにより、文語文法によって作品を書く俳句や短歌の世界においては歴史的仮名遣も一般的である。また固有名詞においては、現代でも以下のように、歴史的仮名遣が使用されている場合がある。 定期刊行物としては「神社新報」が、「現代仮名遣いは文法的に考えて欠陥が多い」として現在でも歴史的仮名遣での発行を続けている。 和語における原則は、仮名遣いの混乱が生じる以前の表記を踏襲するということである。これを現代仮名遣いとの比較において記述すると、まず両者の相異は現代仮名遣いにおける次の表記の箇所に限られる。 これ以外の表記の部分には相異はない。 具体的な相異は 例:ゐど(井戸) ゑむ(笑む) をか(丘) 例:かは(川) こひ(鯉) あふ(会う) まへ(前) かほ(顔) あゐ(藍) こゑ(声) あを(青) 例:あふぎ(扇) かうもり(蝙蝠) 例:きうり(胡瓜) うつくしう(美しゅう) 例:けふ(今日) でせう(でしょう) 例:ぢぢ(爺) みづ(水) 個々の語の歴史的仮名遣い表記は、国語辞典の見出し語の後にカタカナ表記などで併記されているので容易に参照できる。 なお、字音仮名遣については別項で扱う。 第二次大戦後に行われた国語改革に対しては、批評家・劇作家の福田恆存が1960年(昭和35年)に『私の國語敎室』を書き、現代仮名遣いに論理的な矛盾があると主張し批判を行った。現代仮名遣いは表音的であるとするが、一部歴史的仮名遣を継承し、完全に発音通りであるわけではない。助詞の「は」「へ」「を」を発音通りに「わ」「え」「お」と書かないのは歴史的仮名遣を部分的にそのまま踏襲したものであるし、「え」「お」を伸ばした音の表記は歴史的仮名遣の規則に準じて定められたものである。 また福田は「現代かなづかい」の制定過程や国語審議会の体制に問題があると指摘した。その後、国語審議会から「表意主義者」4名が脱退する騒動が勃発し、表音主義者中心の体制が改められることとなった。1986年(昭和61年)に内閣から告示された「現代仮名遣い」では「歴史的仮名遣いは、我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして尊重されるべき」(「序文」)であると書かれるようになった。
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"paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "例:あふぎ(扇) かうもり(蝙蝠)", "title": "表記の実際" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "例:きうり(胡瓜) うつくしう(美しゅう)", "title": "表記の実際" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "例:けふ(今日) でせう(でしょう)", "title": "表記の実際" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "例:ぢぢ(爺) みづ(水)", "title": "表記の実際" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "個々の語の歴史的仮名遣い表記は、国語辞典の見出し語の後にカタカナ表記などで併記されているので容易に参照できる。", "title": "表記の実際" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、字音仮名遣については別項で扱う。", "title": "表記の実際" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "第二次大戦後に行われた国語改革に対しては、批評家・劇作家の福田恆存が1960年(昭和35年)に『私の國語敎室』を書き、現代仮名遣いに論理的な矛盾があると主張し批判を行った。現代仮名遣いは表音的であるとするが、一部歴史的仮名遣を継承し、完全に発音通りであるわけではない。助詞の「は」「へ」「を」を発音通りに「わ」「え」「お」と書かないのは歴史的仮名遣を部分的にそのまま踏襲したものであるし、「え」「お」を伸ばした音の表記は歴史的仮名遣の規則に準じて定められたものである。", "title": "現代仮名遣いへの批判" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また福田は「現代かなづかい」の制定過程や国語審議会の体制に問題があると指摘した。その後、国語審議会から「表意主義者」4名が脱退する騒動が勃発し、表音主義者中心の体制が改められることとなった。1986年(昭和61年)に内閣から告示された「現代仮名遣い」では「歴史的仮名遣いは、我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして尊重されるべき」(「序文」)であると書かれるようになった。", "title": "現代仮名遣いへの批判" } ]
歴史的仮名遣・歴史的仮名遣い(れきしてきかなづかひ)とは、仮名遣の一種。現代仮名遣いと対比して旧仮名遣(き[ゆ]うかなづかひ)とも呼ばれ、また、「復古仮名遣い」「古典仮名遣い」とも呼ばれる。 日本の古代における語の発音の区別を研究し規範とする仮名遣いとされるが、平安時代中期以降の平安文学の仮名遣いを規範とする。したがって、それ以前の発音の区別の、「え /e/」と「や行え /ye/」との書き分けは通常行わない。さらに以前の上代特殊仮名遣の甲類乙類の区別も書き分けない。
[[File:Ochanomizu 旧駅名標.jpg|thumb|220px|歴史的仮名遣で書かれた戦前の[[御茶ノ水駅]]の[[駅名標]]。<br />'''お茶''' の[[開拗音]] 「ゃ」 は大書きし、'''水''' は 「みづ」 となる。<!--半角スペースは読みやすさのため残して下さい-->(→[[#表記の実際|表記法則]]を参照)]] '''歴史的仮名遣'''・'''歴史的仮名遣い'''<ref group="注">[[1986年]]7月1日に告示、訓令された「[[現代仮名遣い#概要|現代仮名遣い]](内閣告示第一号)」の巻頭部においては、'''歴史的仮名遣い'''と記されている。</ref>(れきしてきかなづか''ひ'')とは、[[仮名遣い|仮名遣]]の一種。[[現代仮名遣い]]と対比して'''[[旧仮名遣]]'''(き[''ゆ'']うかなづか''ひ'')とも呼ばれ<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=長野 正 |authorlink= |coauthors= |translator= |year=1994 |title=日本語表現法 |publisher=玉川大学出版部 |page=107 |id= |isbn=978-4472104312 |quote= }}</ref>、また、「'''復古仮名遣い'''」「'''古典仮名遣い'''」とも呼ばれる。 日本の古代における語の発音の区別を研究し規範とする仮名遣いとされるが<ref group="注">「[[や行い]] /yi/」・「[[わ行う]] /wu」の発音については歴史的にも日本語には存在しなかった。したがって、「い」・「う」と同じとされる。</ref>、平安時代中期以降の[[平安文学]]の仮名遣いを規範とする。したがって、それ以前の発音の区別の、「[[え]] /e/」と「[[や行え]] /ye/」との書き分けは通常行わない。さらに以前の[[上代特殊仮名遣]]の甲類乙類の区別も書き分けない。 == 概要 == 歴史的仮名遣とは一般には、[[江戸時代]]中期の[[契沖]]による[[契沖仮名遣]]を修正・発展させ、平安時代初期までの実際の綴りを発掘したものを基としている。 [[明治]]から[[第二次世界大戦]]終結直後までの公文書や学校教育において用いられた。第二次世界大戦の後、[[国語国字問題|国語国字改革]]の流れによって「現代かなづかい」が告示されるまで、公教育の場で正式な仮名遣として教えられていた。現在の公教育では古典文学作品における教育でのみ使用される。 なお本項では一般的な仮名による[[正書法]]の意味では「仮名遣」とし、根拠の異なる2系統の仮名遣を「歴史的仮名遣」と「現代仮名遣い」として、表記を統一する。ただし固有名詞である「現代かなづかい」などの名称についてはこの限りではない。 歴史的仮名遣の原理は、仮名発明当初の表記を、その後の発音習慣の変化([[転呼]])にかかわらず引き継ごうということであるが、現実的には本来の表記を完全に確定できるわけではない。資料に基づく研究は契沖に始まることにより、まだいくらかの誤りが含まれている可能性は充分にある。その例の一つが「机(ツクエ)」である。戦前長らく「ツクヱ」とされ、「突き据ゑる」などの意味であるとされてきたが、平安初期の文献を詳しく調べたところ、戦後の今ではヤ行のエ「突き枝(え)」が正しいとされ、「机(ツクエ)」と綴られる。ほかにも[[アジサイ|紫陽花]]のように諸説あるものは多く、紫陽花は古形「あつさゐ(あづさゐ)」から「あぢさゐ」であるとされる。現在では[[訓点語学]]や[[上代語]]研究の発達により、大半は正しい表記が判明しているが、これらかつて疑わしいとされた、あるいは現在でも疑わしいとされる例は[[疑問仮名遣]]と呼ばれる。 また誤用による仮名遣のうち、特に広く一般に使用されるものを許容仮名遣と呼ぶ。「或いは(イは間投助詞であるが、ヰやヒと綴られた)」、「用ゐる(持ち率るの意だが、混同によりハ行・ヤ行に活用した)」、「つくえ(先述のツクヱ)」などでの誤用である。 なお「泥鰌(どぢやう)」を「どぜう」としたり、「知らねえ」を「知らねへ」としたりするのは歴史的仮名遣ではなく、[[江戸時代]]の俗用表記法であり、特にその根拠はない。 === 字音仮名遣の扱い === 漢字音の古い発音や音韻を表記するため<ref group="注">中国における原音が異なる(=[[反切]]が異なる)にもかかわらず、日本語において音の種類が少ないため、音読みの発音が同一となった漢字に関して、文字づかいにより、反切などに合わせることにより、区別をしようとするもの。</ref>につくられた仮名遣いを[[字音仮名遣]]と呼ぶ。歴史的仮名遣における字音仮名遣の体系的な成立はきわめて遅く、江戸期に入って[[本居宣長]]が『字音仮字用格』(じおんかなづかい)を著すまで正しい表記の定められないものが多かった。現代仮名遣いの施行まで行われた明治以降の歴史的仮名遣では、字音仮名遣を踏襲したが、多くは宣長の研究によっている。従って広義の歴史的仮名遣にはこれも含むが、和語における歴史的仮名遣とは体系を別にするものであるから同列に論ずることはできない。また、字音仮名遣は時代(表記された年代や、どの時代における音韻を基準とするかなど)によってその乱れが激しく、定見を得ないものも多い。 以上のような成りたちから、歴史的仮名遣論者にも、「表語(表意)」を重視する立場から見て字音仮名遣を含めない者([[時枝誠記]]・[[福田恆存]]・[[丸谷才一]])と、含める者([[三島由紀夫]])がおり、字音仮名遣と歴史的仮名遣に対する立場は一様ではない。前者の主張は漢字自体が表語文字だからということであるが、その場合漢字制限を指してこれに反発した(後述)。字音仮名遣の体系的な論については、[[字音仮名遣]]を参照。 == 歴史 == {{See also|日本語学#歴史}} === 前史 === 江戸時代の[[契沖]]が仮名遣についての研究を世にあらわす前、仮名遣にはおよそ以下のような推移があった。 国語表記の始まった上代の[[借字]]([[万葉仮名]])では、[[上代特殊仮名遣]]が行われたが、[[平安時代]]初期に[[仮名 (文字)|仮名]]が発達して借字が衰退し、同時に上代特殊仮名遣も衰退した。平安中期になると「[[天地の詞]]」にみられるような、[[え]]と[[や行え]]の区別が上代特殊仮名遣の衰退と共に薄れた。 こうした表記上の変化については、時代とともに日本語の[[音韻]]が以下のように変化し表記同化が生じたことによると推測されている。 * 平安初期に上代特殊仮名遣が消失、甲類乙類が同化。 * 平安初期から中期にかけて、「え」と「[[や行え]]」との区別が消失。 * [[ハ行転呼]]が平安中期<ref group="注">ただし「既に奈良時代から始まっていた」とする論もある{{要出典|date=2023年6月}}。</ref>から長い時間をかけて滲透、語頭以外のハ行音がワ行音となる。 * 平安中期以降、「お」の音が「を」に変化合流する。 * 平安中期あたりから「ゐ」・「ゑ」と「い」・「え」の混同が見られ、鎌倉時代にはほぼ合一する。 表記が同化した理由は、多く「音韻が変化したため」と推測されているが、上代特殊仮名遣に関しては特に異論が絶えない。ともかく何らかの理由、一般には音韻変化により表記が変則的なものとなり、合理性や正則性を重んずる上で不都合が生じたと推測されている。『仮名文字遣』の序文には「文字の聲かよひたる誤あるによりて其字の見わきかたき事在之」(文字の音が重なって誤りがあるから、だからその文字の区別を示す)とあり、つまり変則を誤りとして、正しい表記を指南する必要が生じた。これが仮名遣が考えられるようになった起こりである。ただし当時の仮名は、日常で使用する限りにおいては、その使用を妨げるほどの表記の混乱、すなわち変則はなかったことも指摘されており、この変則を交えながら慣習的に使われていた仮名遣は「平安かなづかい」とも呼ばれている。 ====定家仮名遣==== [[鎌倉時代]]になると、[[藤原定家]]が仮名を表記する上での仮名遣の規範が必要と述べ、著作『[[下官集]]』の中で語例を示した。のちに[[行阿]]がそれを補充整理して『仮名文字遣』を著した。これが一般には「[[定家仮名遣]]」と称される(行阿が示した仮名遣いを「行阿仮名遣」とも呼ぶ{{要出典|date=2023年6月}})。その後、この定家仮名遣が教養層のあいだで権威とみなされた。『仮名文字遣』は以後もその語例が後人によって増補される修正がなされた(定家仮名遣の項参照)。 しかし、[[下官集]]の語例の一部は、上代のものとは異なる仮名遣を示した。この原因は、定家の調べた文献が、必ずしも充分古いものではなく、すでに音韻の変化により変則した表記を含んだためと考えられる。また、「を」と「お」の仮名の使い分けは、古い文献に依拠するものではなく、当時の語の[[アクセント]]に基づいた。 === 国学における研究 === 仮名遣が音韻の変化する以前の古い文献に基づき近代的に研究されるのは、契沖の「契沖仮名遣」に始まる。これによって、定家仮名遣いに対して修正が必要であることが明らかになった。 [[江戸時代]]初期の[[元禄]]時代、僧契沖が『[[和字正濫抄]]』を著し、充分古い時代の仮名遣を明らかにした。これは『[[万葉集]]』や『[[日本書紀]]』などの古い文献に基づき定めた点で、国文学の研究上画期的なことであり、近代以降の国文学の原流となる。契沖は「居(ゐ)る」と「入(い)る」<ref group="注">前者は[[ワ行]][[上一段]]、後者は[[ラ行]][[四段活用]]で、終止形・連体形および已然形のみ一致。</ref>などのように、「語義の書き分け」のためにあると結論づけた{{Refnest|group="注"|[[時枝誠記]]はこれを「語義の標識」と呼んだ<ref>『国語学史』岩波書店〈岩波文庫〉、118頁。</ref>。}}。 江戸時代中期には、[[楫取魚彦]]や本居宣長が契沖仮名遣の修正を試みた。その結果として、仮名遣とは発音の書き分けであり、その後の混乱は発音の歴史的変化により生じたものであることが明らかにされた。これにより歴史的仮名遣は表記の上で、また理念の上からもほぼ完成の域に達した。宣長が[[字音仮名遣]]を定めたのも、この頃である。 江戸後期には、宣長の弟子[[石塚龍麿]]が『[[古諺清濁考]]』と『[[假名遣奧山路]]』を著し、いわゆる上代特殊仮名遣の存在が明らかとなった。[[奧村榮實]]は『[[古言衣延辨]]』で、龍麿による上代特殊仮名遣を過去の発音の相違によると推定した。なお上代特殊仮名遣についての研究は、[[橋本進吉]]が[[論文]]を発表している<ref>「國語假名遣研究史上の一發見──石塚龍麿の假名遣奧山路について──」(『帝國文學』第23卷拾壹月号、1917年11月)、「上代の文獻に存する特殊の假名遣と當時の語法」(『國語と國文學』第8卷9号、1931年9月)など。いずれも『橋本進吉博士著作集3「文字及び假名遣の研究」』(岩波書店、1949年)所収。</ref>。 === 明治から第二次世界大戦まで === [[明治]]時代になって公教育では、上で述べた契沖以来の国学の流れを汲む仮名遣を採用した。これが今日において歴史的仮名遣と呼ばれるものである。歴史的仮名遣とは契沖仮名遣と字音仮名遣であった。 [[明治維新]]前後以来、国語の簡易化が[[表音主義]]者によって何度も主張された。すなわち、「表記と発音とのずれが大き過ぎる歴史的仮名遣の学習は非効率的であるから、表音的仮名遣を採用することで[[国語教育]]にかける時間を短縮し、他の学科の教育を充実させるべきである」との主張である。それらは[[漢字]]を廃止して[[アルファベット]]([[ローマ字]])や仮名のみを使用するものであった<ref group="注">中には日本語の代わりに[[フランス語]]の採用を主張するものもあった。</ref>。しかし、このような主張に対して、民間からの強い批判があり{{Refnest|group="注"|[[森鷗外]]<ref>「臨時假名遣調査委員會議事速記録」第4回。後に「假名遣意見」として全集に所収。</ref>や[[芥川龍之介]]<ref>「文部省の仮名遣改定案について」『改造』1925年3月。</ref>といった文学者のほか、[[山田孝雄]]<ref>『國語政策の根本問題』(宝文館、1932年)、『假名遣の歷史』(宝文館、1939年)、『國語の本質』(白水社、1943年)など。</ref>や[[橋本進吉]]<ref>「假名遣について」(『ことばの講座』日本放送出版協會、1933年12月)、「國語の表音符號と假名遣」(『國語と國文學』第17巻12号、1940年12月)、「表音的假名遣は假名遣にあらず」(『國語と國文學』第19巻10号、1942年10月)など。いずれも『橋本進吉博士著作集3「文字及び假名遣の研究」』(岩波書店、1949年)所収。</ref>ら国語学者、[[澤瀉久孝]]<ref>「迷信を捨てよ」(『文學』第9巻4号、岩波書店、1941年4月)、「根本の態度について」(『國語國文』第12巻9号、昭和17年9月)など。</ref>ら国文学者の反対があった。なお、鴎外は陸軍省の意向も代弁している。}}、国語の簡易化が罷り通ることはなかった。 このような背景により、1900年のいわゆる「棒引仮名遣い」は、あまり広まらないまま廃止された。また、国語調査会の仮名遣改定案([[1924年]])も強い反対意見に遭って公布には至らなかった。その後、新たに設置された国語調査会によってに「[[新字音仮名遣表]]」([[1942年]])が発表されたものの、これも戦時下のため行われなかった。 === 戦後 === [[昭和]]21年 ([[1946年]])、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ)の民主化政策の一環として来日した[[アメリカ教育使節団]]の勧告により政府は表記の簡易化を決定、「歴史的仮名遣」は古典を除いて公教育から姿を消し、「現代かなづかい」が公示され、ほぼ同時期にローマ字教育が始まった。以来、この新しい仮名遣である「現代かなづかい」(新仮名遣、新かな)に対して歴史的仮名遣は「旧仮名遣」(旧かな)と呼ばれる様になった{{Refnest|group="注"|これについては、[[時枝誠記]]<ref>「國語假名づかひ改訂私案」(『國語と國文學』第25巻3号、1948年3月)、「國語審議會答申の<現代かなづかい>について」(『國語と國文學』第24巻1号〈1947年1月〉、第24巻2号〈1947年2月〉)など。</ref>や澤瀉久孝<ref>「國語國字のあるべき姿」(『國語國文』第15巻3・4号、1946年6月)、「植民地かなづかひを廃止せよ」(『桃李』第2巻6号〈1952年6月〉、後に『日本』第70巻4号〈[[日本学協会]]、2020年4月〉再掲)など。</ref>らの反対がある。}}。さらに昭和61年 ([[1986年]])、「現代かなづかい」は「現代仮名遣い」に修正される。 なお、[[漢字制限]]も同時になされ、[[当用漢字]](現・[[常用漢字]])の範囲内での表記が推奨され、「まぜ書き」や「表外字の置換え」と呼ばれる新たな表記法が誕生した。当用漢字以後は[[人名用漢字]]が司法省(法務省)により定められ、漢字制限はJISも含めて混沌としたものとなっている。歴史的仮名遣論者では多く漢字制限にも反発することが多い。福田恆存などは、全ては国字ローマ字(横文字)化のためである、漢字制限に際しては改革案がCIEの担当官ハルビンによって「伝統的な文字の改変は熟慮を要する」と一蹴されたにもかかわらず断行した、と糾弾している<ref>福田恆存『[[私の國語敎室]]』文藝春秋〈文春文庫〉298頁。{{ISBN2| 9784167258061}}</ref>。 現代仮名遣いは制定後比較的速やかに社会に定着し、1970年代以降は公的文書、[[新聞]]はもとより、[[ノンフィクション]]や[[小説]]に至るまでほとんどが原文の仮名遣いの何如に関わらず現代仮名遣いで出版されるようになった<ref group="注">ただし詩歌については、原文の表記を尊重したものが概ね出版されている。</ref>。 その一方で、その後も仮名遣いの見直しを含む国語改革への批判と歴史的仮名遣の復権を主張して歴史的仮名遣での出版を続けた個人は少なくなかった。代表的な人物としては以下の人々が挙げられる。 ;文学者 :[[石川淳]]、[[阿川弘之]]、[[福田恆存]]、[[丸谷才一]]、[[三島由紀夫]]、[[大岡信]]、[[谷崎潤一郎]]、[[川端康成]]、[[金子光晴]]、[[塚本邦雄]]、[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]、[[内田百閒]]、[[森茉莉]]、[[円地文子]]、[[尾崎一雄]]、[[福永武彦]]、[[小沼丹]]、[[安岡章太郎]]、[[結城信一]]、[[高井有一]]、[[齋藤磯雄]]、[[入澤康夫]]、[[須永朝彦]]、[[吉岡実|吉岡實]]、[[吉原幸子]]等 ;研究者 :[[小泉信三]]、[[田中美知太郎]]、[[山岸徳平]]、[[宇野精一]]、[[木内信胤]]、[[森銑三]]、[[岡崎正継]]、[[小堀桂一郎]]、[[中村粲]]、[[長谷川三千子]]、[[高森明勅]]等 [[作曲家]]の[[山田泉]]も生前に発表した文章に歴史的仮名遣を使用していた。さらに、[[井上ひさし]]{{Refnest|group="注"|『東京セブンローズ』は戦時下に生きた人物の日記という設定であるので、当然歴史的仮名遣でその部分が記録されているという設定である。なお井上自身は歴史的仮名遣支持の姿勢を明らかにしている<ref>『私家版 日本語文法』新潮社〈新潮文庫〉222頁</ref>。}}や[[山崎正和]]、[[小西甚一]]、[[大野晋]]、[[大岡昇平]]らにも歴史的仮名遣によって公刊された著作がある。 [[ワードプロセッサ]]や[[コンピュータ]]で[[入力|文章を書く]]という作業が現出した当初は、すべての[[インプットメソッド]]が現代仮名遣いを当然の前提としていたことから、歴史的仮名遣で文章を書くことの困難は避けられなかった。その後、歴史的仮名遣を扱う[[インプットメソッド]](『[[契冲]]』や『[[ATOK]]』文語モード)が出現し、さらにはシェアの大きい[[MS-IME]]やOSを問わず使用可能な[[Google 日本語入力]]向けにフリーの[[変換辞書]](『[[快適仮名遣ひ]]』)が提供され、字音仮名遣を除く一般的な歴史的仮名遣の文章入力が比較的手軽なものとなった結果、インターネット上の一部では歴史的仮名遣が根強く行われている。 なお、「現代仮名遣い」は「主として現代文のうち口語体のものに適用する」とし、「科学、技術、芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼ」さないとしたことにより、[[文語文法]]によって作品を書く[[俳句]]や[[短歌]]の世界においては歴史的仮名遣も一般的である。また[[固有名詞]]においては、現代でも以下のように、歴史的仮名遣が使用されている場合がある。 定期刊行物としては「[[神社新報]]」が、「現代仮名遣いは文法的に考えて欠陥が多い」として現在でも歴史的仮名遣での発行を続けている<ref name="profile">[http://www.jinja.co.jp/profile.html 神社新報社>会社案内]</ref>。 ;企業 *[[アヲハタ|ア'''ヲ'''ハタ]]株式会社 *[[ヱビスビール|'''ヱ'''ビスビール]] (東京都渋谷区の地名「[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]」の由来、ローマ字表記は'''Y'''EBISU) *'''ヰ'''セキ([[井関農機]]のブランド) *[[ニッカウヰスキー|ニッカウ'''ヰ'''スキー]]株式会社 ;人物 *[[日色ともゑ|日色とも'''ゑ''']] *[[すゑひろがりず|す'''ゑ'''ひろがりず]] *[[住井すゑ|住井す'''ゑ''']] *[[私屋カヲル|私屋カ'''ヲ'''ル]] *[[眞鍋かをり|眞鍋か'''を'''り]] *[[よゐこ|よ'''ゐ'''こ]](歴史的仮名遣に擬した冗談表記) ;その他 *[[京都ゑびす神社|京都'''ゑ'''びす神社]] *[[安曇野市]](あ'''づ'''みのし) *[[智頭町]](ち'''づ'''ちょう)(字音仮名遣の例) *[[新党きづな|新党き'''づ'''な]] == 表記の実際 == 和語における原則は、仮名遣いの混乱が生じる以前の表記を踏襲するということである。これを現代仮名遣いとの比較において記述すると、まず両者の相異は現代仮名遣いにおける次の表記の箇所に限られる。 *わ い う え お *おう こう そう ・・・ *きゅう しゅう ちゅう ・・・ *きょう しょう ちょう ・・・ *じ じゃ じゅ じょ ず これ以外の表記の部分には相異はない。 具体的な相異は *現代仮名遣いの語頭の「い・え・お」には歴史的仮名遣で「ゐ・ゑ・を」であるものがある。  例:ゐど(井戸) ゑむ(笑む) をか(丘) *語頭以外の「わ・い・う・え・お」の多くが「は・ひ・ふ・へ・ほ」であり、「ゐ・ゑ・を」であるものもある。  例:かは(川) こひ(鯉) あふ(会う) まへ(前) かほ(顔) あゐ(藍) こゑ(声) あを(青) *「おう・こう・そう…」の多くが「あう・あふ・かう・かふ・さう・さふ…」である。  例:あふぎ(扇) かうもり(蝙蝠) *「きゅう・しゅう・ちゅう…」の多くが「きう・きふ・しう・しふ・ちう・ちふ…」である。  例:きうり(胡瓜) うつくしう(美しゅう) *「きょう・しょう・ちょう…」の多くが「けう・けふ・せう・せふ・てう・てふ…」である。  例:けふ(今日) でせう(でしょう) *「じ」には「ぢ」であるもの、「ず」には「づ」であるものがある。  例:ぢぢ(爺) みづ(水) 個々の語の歴史的仮名遣い表記は、[[国語辞典]]の見出し語の後にカタカナ表記などで併記されているので容易に参照できる。 なお、字音仮名遣については別項で扱う。 == 現代仮名遣いへの批判 == [[第二次世界大戦|第二次大戦]]後に行われた[[国語国字問題#国語改革|国語改革]]に対しては、批評家・劇作家の[[福田恆存]]が1960年(昭和35年)に『[[私の國語敎室]]』を書き、現代仮名遣いに論理的な矛盾があると主張し批判を行った。現代仮名遣いは表音的であるとするが、一部歴史的仮名遣を継承し、完全に発音通りであるわけではない。助詞の「は」「へ」「を」を発音通りに「わ」「え」「お」と書かないのは歴史的仮名遣を部分的にそのまま踏襲したものであるし、「え」「お」を伸ばした音の表記は歴史的仮名遣の規則に準じて定められたものである。 また福田は「現代かなづかい」の制定過程や国語審議会の体制に問題があると指摘した。その後、国語審議会から「[[表意主義]]者」4名が脱退する騒動が勃発し、表音主義者中心の体制が改められることとなった。[[1986年]](昭和61年)に[[内閣 (日本)|内閣]]から告示された「現代仮名遣い」では「歴史的仮名遣いは、[[日本|我が国]]の[[日本の歴史|歴史]]や[[日本の文化|文化]]に深いかかわりをもつものとして尊重されるべき」(「序文」)であると書かれるようになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『国語の変遷』[[金田一京助]]([[創元社]]:絶版)「新かなづかい法の学的根拠」参照 *『[[私の國語敎室]]』[[福田恆存]]([[新潮社]]、[[文藝春秋]])文春文庫版は復刊で入手可。ISBN 4167258064 *『日本語の歴史(改訂版)』[[土井忠生]]編、[[至文堂]]、[[1957年]]6月。 * [http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19860701001/t19860701001.html 学校教育における「現代仮名遣い」の取扱いについて] == 関連項目 == {{Wikisource|仮名遣の歴史}} *[[上代特殊仮名遣]] *[[字音仮名遣]] *[[転呼]] *[[借字]](万葉仮名) *[[仮名 (文字)]] *[[漢字制限]] *[[当用漢字]] *[[常用漢字]] *[[人名用漢字]] *[[教育漢字]] *[[中古日本語]] *[[中古音]] *[[文語体 (日本語)]] {{日本語}} {{デフォルトソート:れきしてきかなつかい}} [[Category:日本の言語政策]] [[Category:仮名遣い]] [[Category:日本語の歴史]] [[Category:戦前日本の教育]]
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かな
かな
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かな
'''かな''' == かな == === 仮名 === * 日本で使用される 音節[[文字]]の一種または'''「ふりがな」'''を指す。{{main|[[仮名 (文字)]]}} ** [[万葉仮名]] - 漢字を直接、日本の表音に当てはめた用法で、仮名の一種である。 ** [[平仮名]]([[平仮名|ひらがな]]) - 仮名の種類 ** [[片仮名]]([[片仮名|カタカナ]]) - 仮名の種類 ** [[歴史的仮名遣い]] - 仮名の変遷 ** [[現代仮名遣い ]] - 仮名の変遷 ** [[変体仮名]] - 仮名の変遷 === 書道 === * 日本の[[書道]]における領域の一つ。上記「仮名」を使用した書道。 == 日本人の名前・女性名 == === ひらがな === * [[安西かな]] - グラビアアイドル、旧芸名は'''かな'''。 === 漢字 === * [[花奈]] - 歌手。かなから改名。元[[dicot]]のメンバー。 * [[太田衣美|可名]] - 女優、アニメ声優、マルチタレント。 * [[MOON香奈]] - 歌手。 * [[華名]] - [[プロレスラー]] [[ASUKA (プロレスラー)|ASUKA]]のリングネーム。 * [[伽奈]] - [[モデル (職業)|ファッションモデル]]。 <!-- * [[佳奈]] (下の名前としての曖昧さ回避以外特質性薄い) --> <!-- * 果夏 - 女優、タレント、モデル。{{要出典|date=2021年10月}} --> === ローマ字 === * [[KANA (漫画家)]] - [[漫画家]]。「女の友情と筋肉」([[星海社]] ISBN 978-4-06-369521-2 など)「ダーリンはミリタリー」。 * [[KANA (歌手)]] - 歌手。旧芸名は'''可奈'''。 * KANA - [[THC!!]]のボーカリスト 。 * KANA - [[1995年]]に[[EAST END]]の[[YOGGY]]プロデュースで[[ファイルレコード]]よりデビューした歌手。アルバムシングルを数枚リリース。 * [[KΛNΛ]] - 歌手。 * Kana - i.oのボーカリスト。2011年死去。<ref>https://web.archive.org/web/20110707234848/http://inputoutputsound'''.'''blog119.fc2.com/blog-entry-94.html</ref> * [[Kana (現代美術家)]] - [[長崎県]]出身の立体造形を得意とする現代美術家のひとり。 * [[KANA (キックボクサー)]] - シルバーウルフ所属のキックボクサー。 * KANA - [[和田加奈子]]の4thアルバム。[[和田加奈子#アルバム]]参照。 == 関連項目 == * [[カナ]] * [[仮名]] == 脚注 == {{reflist}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:かな}} [[Category:日本語の女性名]]
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紀元前13世紀
紀元前13世紀(きげんぜんじゅうさんせいき)は、西暦による紀元前1300年から紀元前1201年までの100年間を指す世紀。
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紀元前13世紀(きげんぜんじゅうさんせいき)は、西暦による紀元前1300年から紀元前1201年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2017年8月}} {{Centurybox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 13 | BC = 1 }} '''紀元前13世紀'''(きげんぜんじゅうさんせいき)は、[[西暦]]による紀元前1300年から紀元前1201年までの100年間を指す[[世紀]]。 [[File:HouMuWuDingFullView.jpg|thumb|right|200px|「[[后母戊鼎|后母戊大方鼎]](司母戊大方鼎)」。現存する最大の殷の青銅器で現在は[[北京]]の[[中国国家博物館]]所蔵となっている。]] [[File:Großer Tempel (Abu Simbel) 02.jpg|thumb|260px|[[アブ・シンベル神殿]]。青年期から壮年期までの4体の[[ラムセス2世]]像が置かれている。1960年代に[[アスワン・ハイダム]]が上流に建設されるため、[[ユネスコ]]の協力を得てもともとの場所から60m離れた場所に移築されたことでも有名。]] [[File:BD Weighing of the Heart.jpg|thumb|260px|『アニのパピルス』。古代エジプトでは死後の世界を詳細に記した「[[死者の書]]」が作られた。テーベで発見されたこの作品は書記官アニに捧げられたもので、現在は[[大英博物館]]に所蔵されている。]] [[File:Sarcophagus from the Israel Museum - Jerusalem.JPG|thumb|right|260px|{{仮リンク|デイル・アル・バラ|en|Deir al-Balah}}。ラムセス2世の遠征でカナンと隣接するエジプト最東端の要塞となったのがデイル・アル・バラである。画像はこの地から出土した青銅器時代後期の人型の棺([[イスラエル博物館]]蔵)。]] [[File:Hattusa Bronze Tablet Cuneiform.JPG|thumb|right|200px|[[ハットゥシャ]]の青銅板。]] == 出来事 == === 紀元前1300年代 === * 紀元前1300年頃 ** [[アッシリア]]王[[アダド・ニラリ1世]]が[[ミタンニ]]王(ハニガルバドの君主)[[ワサシャッタ]]を破り首都タイデを占領。 ** [[黒海]]東南に[[グルジア]]人による[[コルキス]]王国が成立する。 *** コルキスは[[ギリシア神話]]では[[プリクソス]]の[[金羊毛]]伝説や、[[イアソン]]の[[アルゴナウタイ]]伝説の舞台であった。 ** [[ヒッタイト]]王[[ムルシリ2世]]がアナトリア西部の{{仮リンク|アルザワ|en|Arzawa}}国を征服。 *** アルザワはハパラ([[ミシア]])・ミラ([[カリア]]と[[リュキア|ルッカ]])・セハ([[リディア]])の三つの行政区に分割される。 ** 中央ヨーロッパは後期[[青銅器時代]]([[ウルネンフェルト文化]](骨壺墓地文化) - 紀元前700年頃)。 ** 後期[[ミケーネ]]文明(後期ヘラディック期III)。 *** ミケーネ遺跡の「{{仮リンク|獅子門|en|Lion Gate}}」が建設される。[[アルカディコ橋]](カザルマ橋)が建設される。 *** ミケーネの「「戦士のクラーテル」の邸宅」出土の「{{仮リンク|戦士のクラーテル|en|Warrior Vase}}」が作られる。 ** [[シチリア島]]東部にイタリック系[[シケル人]](海の民のシェケルシュ人か)が定住する。 *** [[パンターリカの岩壁墓地遺跡]]の最古層はこの時代に相当すると考えられている。 *** シケル人に先行してシチリア島中央部には[[シカニ人]]、西北部には[[エリミ人]]が定住していた。 ** [[殷]]の[[盤庚]]が[[黄河]]南岸の亳(殷)に遷都([[夏商周年表プロジェクト]]による)。 ** [[長江]]流域でも殷の影響を受けて独特の青銅器文化が展開する( - 紀元前1100年頃)。 *** [[湖南省]]寧郷県月山鋪出土の「{{仮リンク|四羊方尊|zh|四羊方尊}}([[中国国家博物館]]蔵)」はこの時期のもの。 === 紀元前1290年代 === * 紀元前1293年頃 - エジプト王[[ホルエムヘブ]]が死去し、宰相が即位して[[ラムセス1世]]となる。 ** [[エジプト第18王朝]]が終わり、[[エジプト第19王朝]]が始まる。 * 紀元前1290年頃 - エジプト王[[ラムセス2世]]が即位、テーベからナイル川デルタ地帯の[[ペル・ラムセス]]に遷都。 === 紀元前1280年代 === *紀元前1286年 - [[カデシュの戦い]]。 ** [[古代エジプト|エジプト]]([[ラムセス2世]])と[[ヒッタイト]]([[ムワタリ2世]])とが[[シリア]]の支配権を賭け[[オロンテス川]]河畔の[[カデシュ]]で戦う。 ** シリアへの影響を保持したムワタリ2世は、ハットゥシャから{{仮リンク|タルフンタッサ|en|Tarhuntassa}}に都を遷す。 * 紀元前1280年頃 - {{仮リンク|ウィルサ|en|Wilusa}}王{{仮リンク|アラクサンドゥ|en|Alaksandu}}とヒッタイト王ムワタリ2世が条約を結ぶ(アラクサンドゥ条約)。 ** ウィルサは[[トロイ]]と推定され、この条約を誓う対象としての{{仮リンク|アパリウナス|en|Apaliunas}}神は[[アポロン]]神の祖形と推定されている。 === 紀元前1260年代 === * 紀元前1269年 - [[エジプト・ヒッタイト平和条約]](Egyptian–Hittite peace treaty)の締結。 ** エジプト王ラムセス2世とヒッタイト王[[ハットゥシリ3世]]によるもので史上知られている最古の[[平和条約]]。 ** ハットゥシリ3世の娘サウシュカヌがラムセス2世の妃としてエジプトに送られる。 * 紀元前1263年頃 - アッシリア王[[シャルマネセル1世]]がミタンニ王シャトゥアラ2世を撃破し領土を完全に併合。 * 紀元前1260年頃 - [[モーセ]]が[[ファラオ]]([[ラムセス2世]]か)の迫害に苦しむ[[イスラエル]]の民を率いてエジプトを脱出{{Sfn|ファータド|2013|p=31|ps=「モーセ、エジプトを脱出 モーセが捕われの状態にあったユダヤ人を率いてアシの海を渡り、東方の荒野へと導く。」(当文献では紀元前1250年)}}([[出エジプト記]]に基づく有力説の一つ)。 === 紀元前1250年代 === * 紀元前1250年頃 ** [[メソアメリカ]]・[[オルメカ]]の[[サン・ロレンソ (遺跡)|サン・ロレンソ]]の繁栄始まる(チチャーラス[[相 (考古学)|相]] - 紀元前1150年頃)。 ** [[エラム]]王ウンタシュ・ナピリシャにより[[チョガ・ザンビール]]遺跡の[[ジッグラト]]が建設される。 ** ギリシア・エーゲ海周辺で巨大地震。[[ティリンス]]の宮殿を含め各地の宮殿が大破する。 ** ギリシアのミケーネの[[アトレウスの宝庫]]が建設される。これはこの時代の[[蜂窩状墳墓]](円形墳墓(トロス))の代表例。 ** [[トロイア]]滅亡により、[[トロイア戦争]]が終わる(伝承に基づく[[ヘロドトス]]の記録による)。 ** 伝承では「建国者」である[[テーセウス|テセウス]]が[[アテナイ]]王に即位する。 ** エジプト「[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]」の代表作『{{仮リンク|アニのパピルス|en|Papyrus of Ani}}』が作られる。 === 紀元前1240年代 === * 紀元前1244年頃 - ラムセス2世による[[アブ・シンベル神殿]]が完成する(着工は紀元前1264年頃)。 * 紀元前1240年頃 - ヒッタイトの王[[トゥドハリヤ4世]]が即位。 ** この王の治世に[[ヤズルカヤ]]の祭祀遺跡や{{仮リンク|エフラトゥン・プナル|en|Eflatun Pınar}}の水辺祭祀遺跡が築かれる。 === 紀元前1230年代 === * 紀元前1237年頃 - ニフリヤの戦いで、アッシリア王[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]]がヒッタイトの王[[トゥドハリヤ4世]]に勝利。 * 紀元前1235年頃 ** アッシリア王[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]]がカッシートの王{{仮リンク|カシュティリアシュ4世|en|Kashtiliash IV}}を捕縛しバビロニアを征服。 *** この戦いがもととなり『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』が編纂される。 ** ヒッタイト王[[トゥドハリヤ4世]]とその従兄弟でタルフンタッサの副王[[クルンタ]]が友好を誓約する。 *** この誓約の条文([[ヒッタイト楔形文字]])が刻まれた青銅板が[[ハットゥシャ]]遺跡で発見されている({{仮リンク|アナトリア文明博物館|en|Museum of Anatolian Civilizations}}蔵)。 === 紀元前1210年代 === * 紀元前1212年頃 ** エジプト王ラムセス2世が90歳前後で死去、息子の[[メルエンプタハ]]が即位。 === 紀元前1200年代 === * 紀元前1208年頃 ** エジプト王メルエンプタハが{{仮リンク|ペルイレルの戦い|en|Battle of Perire}}でリビア人と「[[海の民]]」連合軍に勝利。 *** この戦いを記念した「{{仮リンク|メルエンプタハ戦勝碑|en|Merneptah Stele}}」の記録は「海の民」のについての最古の記録である。 *** 「海の民」としてアカイワシャ人・トゥルシア人・ルッカ人・シェルデン人・シェケレシュ人の5部族の名が挙げられている。 *** 「メルエンプタハ戦勝碑」の碑文には、現存最古の「[[イスラエル]]」に言及した一節が見られる。 ** アッシリアのトゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺される。 *** 建設途上の新都カール・トゥクルティ・ニヌルタは放棄され、アッシリアは停滞期に入る。 * 紀元前1200年以前 - トロイア戦争に先立ち[[テーバイ]]戦争が起きる(伝承に基づく[[エラトステネス]]説による)。 ** この[[テーバイ]]と[[アルゴス]]の戦いが『[[テーバイ攻めの七将]]』・『[[エピゴノイ (叙事詩)|エピゴノイ]]』のもととなった。 ** 伝承ではアルゴス王[[ディオメーデース|ディオメドス]]らエピゴノイはテーバイ戦争に勝利した後にトロイア戦争に参加している。 * 紀元前1200年頃 - 殷の23代王[[武丁]]の時代(武丁中興)に相当する。 ** [[殷墟]]で発掘された武丁の后妃[[婦好]]の墓は唯一盗掘を免れた墓で大量の副葬品が発見された。 ** 同じく発掘された武丁の后妃戊の墓からは殷代最大の青銅器「后母戊大方鼎([[北京]][[中国国家博物館]]蔵)」が出土。 == 人物 == * [[アダド・ニラリ1世]] - アッシリア王(在位前1307年 - 前1275年) * [[シャルマネセル1世]] - (在位前1274年 - 前1245年)・ミタンニ(ハニガルバト)を滅ぼす * [[トゥクルティ・ニヌルタ1世]] - アッシリア王(在位元前1244年 - 前1208年) * [[ラムセス2世]] - エジプト第19王朝のファラオ(在位前1290年 - 前1224年) * [[メルエンプタハ]] - エジプト第19王朝のファラオ(在位前1212年 - 前1202年) * [[カエムワセト (ラムセス2世の息子)|カエムワセト]] - エジプト第19王朝ラムセス2世の王子(前1281頃 - 前1225年頃)・「考古学者の祖」と呼ばれる * [[ムワタリ|ムワタリ2世]] - ヒッタイト王(在位前1290年頃 - 前1272年頃) * [[ハットゥシリ3世]] - ヒッタイト王(在位前1266年頃 - 前1236年頃) * [[モーセ]] - イスラエルの預言者・[[出エジプト]]を行ったのはこの世紀とする説がある * [[テセウス]] - アテナイ王(在位前1234年 - 前1204年)・[[アッティカ]]地方を統一した * [[武丁]](高宗) - 殷の第23代王(在位前1250年 - 前1192年在位)・[[傅説]]を重用し殷の中興の祖となる * [[婦好]] - 殷の武丁の后妃・[[祖庚]]と[[祖甲]]の母・女性政治家であり軍事にも参加 * 戊 - 殷の武丁の后妃・青銅器「后母戊大方鼎(司母戊大方鼎)」が副葬された * 傅説 - 殷の武丁の宰相・土木工事をしていたが武丁に見いだされ宰相となり殷の中興に尽くす <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|13th century BC}} * [[年表]] {{世紀}} {{history-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:-87}} [[Category:紀元前13世紀|*]]
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PD
[]
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== Pd == * [[パラジウム]]の[[元素記号]]。 == PD == ; 固有名詞 * Padova - [[イタリア|イタリア共和国]][[ヴェーネト州]][[パドヴァ県]]の[[イタリア共和国の県名略記号|県名略記号]]および[[ISO 3166-2:IT]]県名コード * [[ポートディスカバリー]]('''P'''ort '''D'''iscovery) - [[東京ディズニーシー]]のテーマポートの一つ * [[芸文社]]の[[ラリー]]専門誌、[[プレイドライブ]]('''P'''lay '''D'''rive)。 ; 一般名詞 * [[パブリックドメイン]]('''P'''ublic '''D'''omain)の略。 * [[パンチドランカー]]('''P'''unch '''D'''runker)の略。和製英語。 * [[ポストドクトラルフェロー]](ポスドク) * 英語で[[警察局]]を表す、('''P'''olice '''D'''epartment)の略。 * [[プロデューサー]]('''P'''ro'''D'''ucer)の略。 * [[倒産確率]] ('''P'''robability of '''D'''efault) の略。 * [[博士研究員]] ('''P'''ost'''d'''octoral Researcher) の略。 * [[特別研究員]]の一種。 ; 規格 * [[パナソニック|松下電器産業]]が開発・販売した5インチサイズの相変化記憶媒体。'''P'''hase change rewritable '''D'''isk([[相変化記録技術|相変化記録]]ディスク)の名称。→[[Phase-change Dual]] * [[Professional Disc]](プロフェッショナルディスク)の略。 * [[USB]]の給電規格[[ユニバーサル・シリアル・バス#USB Power Delivery (USB PD)|Power Delivery]]の略。 ; 科学 * [[フォトダイオード]] ('''P'''hoto'''d'''iode)の略。 * コンデンサ形[[計器用変成器#計器用変圧器|計器用変圧器]]。 * PD盤('''P'''remise '''D'''istribution Cabinet)のこと。[[光ケーブル]]を収容する接続箱、または、成端箱を指す。 * '''μPD'''は、[[日本電気]]製の[[集積回路|IC]]の型番。 * [[Winny]]類似の[[ファイル共有ソフト]]、[[Perfect Dark|'''P'''erfect '''D'''ark]]の略。 * [[Pure Data]] - [[コンピュータミュージック]]および[[マルチメディア]]用の[[ビジュアルプログラミング言語]] * [[ソフトウェア開発工程]]におけるプログラム設計 (Program Design) の略。 * [[Phase Disk]]もしくは[[Phase-change Dual]]/Phase-change Disc-相変位ディスクのことで、[[松下電器産業]](現[[パナソニック]])が開発した光ディスクの一種。MOや書き込み型DVDの影響で市場から姿を消した。 * Partial Dependence の略。 ; 医学 * [[肺疾患]]('''p'''ulmonary '''d'''isease)の略。 * [[パーキンソン病]] ('''P'''arkinson's '''d'''isease) * [[腹膜透析]]('''p'''eritoneal '''d'''ialysis)の略。 * [[膵頭十二指腸切除術]]('''p'''ancreatico'''d'''uodenectomy)の略。 * [[パニック障害]] ('''P'''anic '''D'''isorder) * [[パーソナリティ障害]] ('''P'''ersonality '''D'''isorder) * [[瞳孔間距離]]('''P'''upil '''D'''istance)の略。 * [[化学療法 (悪性腫瘍)|化学療法]]の効果判定のひとつで、進行('''P'''rogressive '''D'''isease)。 * [[薬力学]] ('''P'''harmaco'''D'''ynamics) * [[心理的デブリーフィング]] ('''p'''sychological '''d'''ebriefing) * [[プログラム細胞死]] ('''P'''rogramed cell '''D'''eath) ; アニメ・ゲーム * テレビアニメ『[[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ]]』で使用されている架空の[[紀年法]]『Post Disaster』の略称。 * [[工画堂スタジオ]]の[[シミュレーションゲーム]]「[[パワードール]]」。 * [[パワードリフト]]('''P'''ower '''D'''rift) - [[セガ]]の[[レースゲーム]]。 * [[パンツァードラグーン]]('''P'''anzer '''D'''ragoon)- [[セガ]]の[[シューティングゲーム]]。 * [[レア (企業)|レア]]が開発した[[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]「[[パーフェクトダーク]]」。 == pd == * [[射影次元]] {{Aimai}}
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相変化
相変化(そうへんか)とは、
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相変化(そうへんか)とは、 相転移 - 物質の三態(三相)間の変化のこと。例えば、液体から気体への変化。 相変化記録技術 - 情報記録技術において、記録媒体が熱の印加によって結晶相とアモルファス相の間を変化することを利用した記録技術。 相変化メモリ - 相変化記録技術を用いた不揮発性メモリ
'''相変化'''(そうへんか)とは、 * [[相転移]] - 物質の三態(三相)間の変化のこと。例えば、[[液体]]から[[気体]]への変化。 * [[相変化記録技術]] - 情報記録技術において、記録媒体が熱の印加によって結晶相とアモルファス相の間を変化することを利用した記録技術。 ** [[相変化メモリ]] - 相変化記録技術を用いた[[不揮発性メモリ]] {{aimai}} {{デフォルトソート:そうへんか}}
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五十音
五十音(ごじゅうおん)または五十音図(ごじゅうおんず)とは、日本語の仮名文字を母音に基づき縦に五字(=段・列)、子音に基づき横に十字(=行)ずつ並べたもの。 日本語では単純母音が5つしかないこと、子音それぞれとの組み合わせがほぼ完全対応であることなどが、仮名および音素を理解する手段として五十音図をわかりやすく手軽なものにしている。しかし日本語の仮名、音素が文字通り50個である訳ではない。表上では欠落したり重複したりしている文字・音素がある。また五十音図は清音のみを示すが、他に濁音・半濁音・長音・促音・撥音・拗音、などがあり、発音の総数は100以上ある。 元来、漢字の音を示す手段である反切を説明するものとして考案されたものとされるが、その子音と母音を分析的に配した体系性が、後には日本語の文字を体系的に学習するのにも利用されるなど様々な用途を生んだ。 日本語の清音を母音と子音とで分類し、それに従い仮名文字を縦横の表に並べたものである。伝統的には、縦書き文の要領で、縦に母音の変化、横に子音の変化を表現する。横一列は母音がそろっており、これらをあ段、い段、う段、え段、お段といい、縦一行は子音がそろっており、これらをあ行、か行、さ行、た行、な行、は行、ま行、や行、ら行、わ行という。五十音図において「ん」はいずれの行、段にも属するものではないが、今日ではわ行の次に置かれる事が普通である。 日本において1946年に現代仮名使いが導入されてからは、ヤ行のイ段・エ段、ワ行のイ・ウ・エ段は、同じ段の「い」「う」「え」を置くか、空白とする。それ以前は、ワ行のイ段、エ段は、「ゐ」、「ゑ」が置かれた。 子音が不揃いになっている部分があるが、上代日本語においてはより整然とした体系をもっていたと推測される。すなわち、「ち」と「つ」は現在の「ティ」と「トゥ」、現在では音素がズレている「ふ」を含めたハ行は現在のパ行、ヤ行はイ段、ワ行はウ段を除いて、おのおの y、w の子音であったとされる。 五十音順は、この表では右から左に、上から下へ「あ」「い」「う」「え」「お」「か」「き」「く」「け」「こ」「さ」... と続く。 なお、上の表は本来的には正しくないと言える。なぜなら、10世紀前半までのア行とヤ行のエ段が書き分けられていた頃、カタカナの「エ」はヤ行エ段に当たる文字だったからである。(ただし、ヤ行イ段とワ行ウ段は元から書き分けがなかった。)しかし、「エ」はア行エ段として定着していたためにこのように、(本来はヤ行エ段の)「エ」をア行のエとし、別の文字をヤ行エ段とする書き分けをすることがある。以下は「エ」をヤ行に配置し、ヤ行イ段とワ行ウ段を空白とした図。ア行エ段の文字は「え」と同じ「衣」が元になっている。 仏教の研究過程で日本語と梵字(サンスクリット)を対応させたものとみられる。 五十音が現在のようになった背景にある大きな二つの要素は、悉曇学と反切である。各段の並び方(段順)、各行の並び方(行順)は悉曇文字(梵字)に、子音と母音の組合せという考えは反切に由来する。 「あいうえお」の段順、「あかさたなはまやらわ」の行順は、インドの梵字の字母表の配列に従ったものである。 梵字の字母表の冒頭には母音が並ぶ。まず a ā i ī u ū の基本的な母音、次に e ai o au という二次的な母音が配列されている。日本語の仮名一字で書けるものを拾い出すと「あいうえお」の段順ができる。 なお、詳細な母音の順は、a, ā, i, ī, u, ū, ṛ, ṝ, ḷ, ḹ, e, ai, o, au, (a)ṃ, (a)ḥ である。 子音の行順は、大きく2つのグループに分けられる。 ただし、過去の文献の中には五十音を現在とは全く異なる配列に並べたものも見出される。現在の配列になったのは室町時代以後である。 もう一つの柱として漢字音を研究した中国音韻学が挙げられる。中国では古くから字音を表記するのに反切と呼ばれる方法がとられ、音韻表記として漢字二字を用い、一字目(反切上字)の頭子音と、二字目(反切下字)の母音以下および声調の部分を組み合わせることによって多くの字音を表記した。この方法によって成立した字音の子音の分類である五音や清濁が韻書や韻図などによって日本にも伝わっていた。 現存最古の音図は平安時代中期の『孔雀経音義』 (1004年 - 1027年頃) や『金光明最勝王経音義』 (1079年) などが挙げられている。「音義」とは、漢字の発音と意味を表した注釈書のことであり、漢訳仏典において漢字の発音を仮名で書き表そうとしたことがその起源である。平安時代後期には天台宗の僧侶明覚が『反音作法』を書いた。これには、日本語は梵字のように子音のみを表記する文字をもたないことから、反切を利用することが書かれている。同一子音のものを同じ行に、同一母音のものを同じ段にまとめることで、仮名を用いた反切(仮名反)を説いている。ここで母音はアイウエオ順であるが、子音はアカヤ(喉音)サタナラ(舌音)ハマワ(唇音)という順になっているものがある。これは各子音の調音位置を口の内から外の順に並べたものである。明覚の著書にはその他の配列のものも見られ、五十音図の配列が当時一定していなかったことを示す。後にヤラワ行が後ろに回されたのは悉曇学において悉曇の字母を忠実に反映してのことだと考えられている。 室町時代後期の文明16年(1484年)に成立した国語辞典『温故知新書』は、それまで一般的であったいろは順ではなく、五十音順を採用した最古の事例とされる。 「五十音」「五十音図」の名は、江戸時代からのものであり、古くは「五音(ごいん)」とか「五音図」「五音五位之次第」「音図」「反音図」「仮名反(かながえし)」「五十聯音(いつらのこゑ)」などと呼ばれていた。 現在では五十音図のヤ行、ワ行には、ア行の「い」「う」「え」が再登場する。 しかし江戸時代後期以降、これらにも独自の文字を割当てる動きが見られた。これは五十音図と日本語の音韻の関係に関する興味に由来する。 鱸有飛 (1756年-1813年) は「え」と区別するためにヤ行エ段を「エ」の文字を置き、「え」の位置には「エ」の字の上の横棒が無い仮名を提唱した。漢学者の太田全斎は『漢呉音図』(文化12年、1815年) において漢字音上での区別のために、五十音図全てのマスの音を異なる漢字で表した。国学者の富樫広蔭は音義説の立場から『辞玉襷』(文政12年、1829年)で50音の各字を仮名で書き分けた。また洋学の立場からも、大槻玄幹は『西音発微』(文政9年、1826年) で五十音の全ては異なる発音であり、それが日本語の「古音」であるとした。一方で村田春海や岡本保孝は、元々五十音図は国学の為に作られたものではないために、その理屈を日本語の音韻体系の理解のために通す事には慎重であった(田中草大 2011, p. 33,35) 田中のこの箇所の記述は古田『音義派「五十音図」「かなづかい」の採用と廃止』を引用したものである。 明治の教科書や教員向けの指導書では、ヤ行イ段、ヤ行エ段、ワ行ウ段に、「い」「う」「え」以外の 「文字」を配したものも多く見られる。たとえば『小学教授書』(明治6年、1871年) 、『小学入門』初版 (明治7、8年、1874、5年) 、『日本文典: 中学教程』(明治30年、1897年) などがある。しかし統一された動きではなく、たとえば『小学入門』では、初版の翌年の版からは、現在見るようなものに改められた。 これらの「文字」の形も統一されなかった。国学者鈴木重胤 (文化9年、1812年 - 文久3年、1863年) が『語学小経』で示した図には、順に「イ」の字を180°回転したもの、「衣」の字からナベブタを除いたもの、「卯」の字の左半分が使われた。『小学入門』初版では、「イ」の字を180°回転したもの、「エ」の字の上の横棒を右上から左下に払うようにしたもの、「于」の字が使われた。これら以外の「文字」も平仮名・片仮名両方の五十音図で確認できる。 明治33年 (1900年) に仮名が1文字1字体 (いわゆる変体仮名の廃止) とされた時には、や行とワ行は「やいゆえよ」「わゐうゑを」であった。 五十音の考え方が普及した後における、かな学習歌の代表的なものとして挙げられるのが、北原白秋によって執筆された詩歌(4・4・5 型定型詩)『五十音』である。一部では『あいうえおのうた』として紹介されることもあるが、正式なタイトルとしては『五十音』が正しい。 1922年、雑誌『大観』1月号に上梓されたものを初出とし、後に作曲家・下総皖一によって曲がつけられ、学習歌(童謡)『五十音の唄』として成立した。現代では外郎売と並び、俳優やタレント、アナウンサーの養成における発声および滑舌の訓練に際して採用される、代表的な朗読教材の一つとして知られている。 ただし、下総による楽曲は必ずしも正式な標準語アクセントと一致するものではないため、朗読教材として使用する場合においては楽曲として歌われる事はまれである。ゆえに、そもそも『五十音』を訓練教材として常用する者も楽曲そのものの存在を知らない、もしくは知っていてもそれがどのような歌であるのかを知らないという場合すらある。 訓令式ローマ字は、五十音表の段と行をラテン文字で記号として表した合理的な五十音表記法であり、たとえばシはサ行イ段 (si) の位置にあるので、si と表記される。 活用における動詞の変化の説明においてもこれまでのローマ字表記だと少々無理があったものの、「勝つ」の連用形における語幹も kat- にして表記(これまでだと連用形なら kachi になり語幹の末子音字が変化してしまう)することが可能となった。 なお、ヤ行イ段 (yi) は空白であるためにイ段のみ書くように、五十音表で空欄の位置は母音字のみで表記され子音字は省かれる。 ジ (zi) とヂ (di/zi) 、オ (o) とヲ (wo/o) のように発音がほぼ同じものは、表記しやすいものに統一される。 五十音の外に仮名を網羅した誦文がある。あめつちの詞、大為爾(たゐに)の歌、いろは歌である。五十音(五音)が、日本語化して発音される漢字音を体系的に理解しようとするものであるのに対し、これら誦文はもともと四声など漢字音のアクセント習得のために作られ、用いられたものと見られる。ただしいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、手習いの手本にも使われ、また『色葉字類抄』などのように物の順序を示す「いろは順」として使われた。
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五十音(ごじゅうおん)または五十音図(ごじゅうおんず)とは、日本語の仮名文字を母音に基づき縦に五字(=段・列)、子音に基づき横に十字(=行)ずつ並べたもの。 また北原白秋による詩『五十音』が存在するが、これについては後述する。
{{otheruses|5×10の[[表組|表]]|辞書などにおける順序の規則|五十音順}} {{特殊文字|説明=[[Unicode]]に収録されている、現代では使われなくなった[[仮名文字]]}} [[File:Hiragana-Katakana-Gojuuon.jpg|thumb|[[ひらがな]]と[[カタカナ]]別の五十音表の画像]] '''五十音'''(ごじゅうおん)または'''五十音図'''(ごじゅうおんず)とは、[[日本語]]の[[仮名 (文字)|仮名文字]]<ref group="注">[[平仮名]]・[[片仮名]]</ref>を[[母音]]に基づき縦に五字(=段・列)、[[子音]]に基づき横に十字(=行)ずつ並べたもの。 * また[[北原白秋]]による詩『五十音』が存在するが、これについては[[#北原白秋の五十音|後述]]する。 == 概説 == 日本語では単純母音が5つしかないこと、子音それぞれとの組み合わせがほぼ完全対応であることなどが、仮名および[[音素]]を理解する手段として五十音図をわかりやすく手軽なものにしている。しかし日本語の仮名、音素が文字通り[[50]]個である訳ではない。表上では欠落したり重複したりしている文字・音素がある。また五十音図は清音のみを示すが、他に[[濁音]]・[[半濁音]]・[[長音]]・[[促音]]・[[撥音]]・[[拗音]]、などがあり、発音の総数は[[100]]以上ある。 元来、[[漢字]]の[[音]]を示す手段である[[反切]]を説明するものとして考案されたものとされるが<ref>[[明覚]]『反音作法』、[[1093年]]</ref>、その子音と母音を分析的に配した体系性が、後には日本語の[[文字]]を体系的に学習するのにも利用されるなど様々な用途を生んだ。 {{-}} == 構成 == {| class="wikitable" style="margin:0 auto; text-align:center" |+ 五十音 |- ! &nbsp; ![[わ行]] ![[ら行]] ![[や行]] ![[ま行]] ![[は行]] ![[な行]] ![[た行]] ![[さ行]] ![[か行]] ![[あ行]] ! &nbsp; |- |rowspan=5 valign="top"|[[ん]]<br>ン<br>/n/<br>{{IPA|N][n][m][ŋ][ɲ}}<br>ほか[[鼻母音]]など |[[わ]]<br>ワ<br>/wa/<br>{{IPA|β̞ä}} |[[ら]]<br>ラ<br>/ra/<br>{{IPA|ɺä}} |[[や]]<br>ヤ<br>/ya/<br>{{IPA|jä}} |[[ま]]<br>マ<br>/ma/<br>{{IPA|mä}} |[[は]]<br>ハ<br>/ha/<br>{{IPA|hä}} |[[な]]<br>ナ<br>/na/<br>{{IPA|nä}} |[[た]]<br>タ<br>/ta/<br>{{IPA|tä}} |[[さ]]<br>サ<br>/sa/<br>{{IPA|sä}} |[[か]]<br>カ<br>/ka/<br>{{IPA|kä}} |[[あ]]<br>ア<br>/a/<br>{{IPA|ä}} ![[あ段]] |- |[[ゐ]]<br>ヰ<br>/wi/<br>{{IPA|i}} |[[り]]<br>リ<br>/ri/<br>{{IPA|ɺʲi}} | bgcolor="#F3F5DE"|[[や行い|𛀆]]([[File:Hiragana_I_01.svg|20px]])<br>𛄠([[File:Katakana Yi 1.png|20px]])<br> /yi/ <br> {{IPA|i}} |[[み]]<br>ミ<br>/mi/<br>{{IPA|mʲi}} |[[ひ]]<br>ヒ<br>/hi/<br>{{IPA|çi}} |[[に]]<br>ニ<br>/ni/<br>{{IPA|nʲi}} |[[ち]]<br>チ<br>/ci/<br>{{IPA|t͡ɕi}} |[[し]]<br>シ<br>/si/<br>{{IPA|ɕi}} |[[き]]<br>キ<br>/ki/<br>{{IPA|kʲi}} |[[い]]<br>イ<br>/i/<br>{{IPA|i}} ![[い段]] |- | bgcolor="#F3F5DE"|[[わ行う|𛄟]]([[File:Hiragana_WU_2.png|20px]])<br>𛄢([[File:Katakana Wu Proposal.png|20px]])<br>/wu/<br>{{IPA|ɯ̹}} |[[る]]<br>ル<br>/ru/<br>{{IPA|ɺɯ̹}} |[[ゆ]]<br>ユ<br>/yu/<br>{{IPA|jɯ̹}} |[[む]]<br>ム<br>/mu/<br>{{IPA|mɯ̹}} |[[ふ]]<br>フ<br>/hu/<br>{{IPA|ɸɯ̹}} |[[ぬ]]<br>ヌ<br>/nu/<br>{{IPA|nɯ̹}} |[[つ]]<br>ツ<br>/cu/<br>{{IPA|t͡sɯ̈&#825;}} |[[す]]<br>ス<br>/su/<br>{{IPA|sɯ̈&#825;}} |[[く]]<br>ク<br>/ku/<br>{{IPA|kɯ̹}} |[[う]]<br>ウ<br>/u/<br>{{IPA|ɯ̹}} ![[う段]] |- |[[ゑ]]<br>ヱ<br>/we/<br>{{IPA|e̞}} |[[れ]]<br>レ<br>/re/<br>{{IPA|ɺe̞}} | bgcolor="#F3F5DE"|[[や行え|𛀁]]([[File:Hiragana_E_01.svg|20px]])<br>𛄡([[File:Katakana_obsolete_ye.svg|20px]])<br>/ye/<br>{{IPA|e̞}} |[[め]]<br>メ<br>/me/<br>{{IPA|me̞}} |[[へ]]<br>ヘ<br>/he/<br>{{IPA|he̞}} |[[ね]]<br>ネ<br>/ne/<br>{{IPA|ne̞}} |[[て]]<br>テ<br>/te/<br>{{IPA|te̞}} |[[せ]]<br>セ<br>/se/<br>{{IPA|se̞}} |[[け]]<br>ケ<br>/ke/<br>{{IPA|ke̞}} |[[え]]<br>エ<br>/e/<br>{{IPA|e̞}} ![[え段]] |- |[[を]]<br>ヲ<br>/wo/<br>{{IPA|o̞}}<ref group="注">昔は{{IPA|β̞o̞}}</ref> |[[ろ]]<br>ロ<br>/ro/<br>{{IPA|ɺo̞}} |[[よ]]<br>ヨ<br>/yo/<br>{{IPA|jo̞}} |[[も]]<br>モ<br>/mo/<br>{{IPA|mo̞}} |[[ほ]]<br>ホ<br>/ho/<br>{{IPA|ho̞}} |[[の]]<br>ノ<br>/no/<br>{{IPA|no̞}} |[[と]]<br>ト<br>/to/<br>{{IPA|to̞}} |[[そ]]<br>ソ<br>/so/<br>{{IPA|so̞}} |[[こ]]<br>コ<br>/ko/<br>{{IPA|ko̞}} |[[お]]<br>オ<br>/o/<br>{{IPA|o̞}} ![[お段]] |} 日本語の[[清音]]を[[母音]]と[[子音]]とで分類し、それに従い仮名文字を縦横の表に並べたものである。伝統的には、縦書き文の要領で、縦に母音の変化、横に子音の変化を表現する。横一列は母音がそろっており、これらをあ段、い段、う段、え段、お段といい、縦一行は子音がそろっており、これらをあ行、か行、さ行、た行、な行、は行、ま行、や行、ら行、わ行という。五十音図において「ん」はいずれの行、段にも属するものではないが、今日ではわ行の次に置かれる事が普通である。 [[五十音順]]は、この表では右から左に、上から下へ「あ」「い」「う」「え」「お」「か」「き」「く」「け」「こ」「さ」… と続く。 日本において1946年に[[現代仮名使い]]が導入されてからは、ヤ行のイ段・エ段、ワ行のイ・ウ・エ段は、同じ段の「い」「う」「え」を置くか、空白とする。それ以前は、ワ行のイ段、エ段は、「[[ゐ]]」、「[[ゑ]]」が置かれた。 子音が不揃いになっている部分があるが、[[上代日本語]]においてはより整然とした体系をもっていたと推測される。すなわち、「ち」と「つ」は現在の「ティ」と「トゥ」、現在では音素がズレている「ふ」を含めたハ行は現在のパ行<!-- 古代または上代におけるハ行は P の音で、無声両唇摩擦音 {{IPA|ɸ}} になったのは中世以降です -->、ヤ行はイ段、ワ行はウ段を除いて、おのおの y、w の[[子音]]であったとされる。 また、上代日本語より後の10世紀前半、ア行とヤ行のエ段が書き分けられていた頃の表は以下のようになる。ただし、上の表では「エ」はア行に配置されているが、実際には「エ」はヤ行エ段の発音であったためヤ行に配置し、ア行には当時使用された「衣」を字母に持つ別のカタカナを配置した。 [[File:Hiragana-Katakana-Gojuuon.png|thumb|ヤ行とア行のエ段を区別した五十音表の画像]] {| class="wikitable" style="margin:0 auto; text-align:center" |+ 五十音 (10世紀前半の状態) |- ![[わ行]] ![[ら行]] ![[や行]] ![[ま行]] ![[は行]] ![[な行]] ![[た行]] ![[さ行]] ![[か行]] ![[あ行]] ! &nbsp; |- |[[わ]]<br>ワ<br>/wa/<br>{{IPA|β̞ä}} |[[ら]]<br>ラ<br>/ra/<br>{{IPA|ɺä}} |[[や]]<br>ヤ<br>/ya/<br>{{IPA|jä}} |[[ま]]<br>マ<br>/ma/<br>{{IPA|mä}} |[[は]]<br>ハ<br>/fa/<br>{{IPA|ɸä}} |[[な]]<br>ナ<br>/na/<br>{{IPA|nä}} |[[た]]<br>タ<br>/ta/<br>{{IPA|tä}} |[[さ]]<br>サ<br>/sa/<br>{{IPA|sä}} |[[か]]<br>カ<br>/ka/<br>{{IPA|kä}} |[[あ]]<br>ア<br>/a/<br>{{IPA|ä}} ![[あ段]] |- |[[ゐ]]<br>ヰ<br>/wi/<br>{{IPA|β̞i}} |[[り]]<br>リ<br>/ri/<br>{{IPA|ɺʲi}} | bgcolor="#F3F5DE"| |[[み]]<br>ミ<br>/mi/<br>{{IPA|mʲi}} |[[ひ]]<br>ヒ<br>/fi/<br>{{IPA|ɸi}} |[[に]]<br>ニ<br>/ni/<br>{{IPA|nʲi}} |[[ち]]<br>チ<br>/ti/<br>{{IPA|ti}} |[[し]]<br>シ<br>/si/<br>{{IPA|ɕi}} |[[き]]<br>キ<br>/ki/<br>{{IPA|kʲi}} |[[い]]<br>イ<br>/i/<br>{{IPA|i}} ![[い段]] |- | bgcolor="#F3F5DE"| |[[る]]<br>ル<br>/ru/<br>{{IPA|ɺɯ̹}} |[[ゆ]]<br>ユ<br>/yu/<br>{{IPA|jɯ̹}} |[[む]]<br>ム<br>/mu/<br>{{IPA|mɯ̹}} |[[ふ]]<br>フ<br>/fu/<br>{{IPA|ɸɯ̹}} |[[ぬ]]<br>ヌ<br>/nu/<br>{{IPA|nɯ̹}} |[[つ]]<br>ツ<br>/tu/<br>{{IPA|tɯ̹}} |[[す]]<br>ス<br>/su/<br>{{IPA|sɯ̈&#825;}} |[[く]]<br>ク<br>/ku/<br>{{IPA|kɯ̹}} |[[う]]<br>ウ<br>/u/<br>{{IPA|ɯ̹}} ![[う段]] |- |[[ゑ]]<br>ヱ<br>/we/<br>{{IPA|β̞e̞}} |[[れ]]<br>レ<br>/re/<br>{{IPA|ɺe̞}} |[[や行え|𛀁]]([[File:Hiragana_E_01.svg|20px]])<br>エ<br>/ye/<br>{{IPA|je̞}} |[[め]]<br>メ<br>/me/<br>{{IPA|me̞}} |[[へ]]<br>ヘ<br>/fe/<br>{{IPA|ɸe̞}} |[[ね]]<br>ネ<br>/ne/<br>{{IPA|ne̞}} |[[て]]<br>テ<br>/te/<br>{{IPA|te̞}} |[[せ]]<br>セ<br>/se/<br>{{IPA|se̞}} |[[け]]<br>ケ<br>/ke/<br>{{IPA|ke̞}} |[[え]]<br>𛀀([[File:Unicode Japanese Katakana Old E.png|20px]])<br>/e/<br>{{IPA|e̞}} ![[え段]] |- |[[を]]<br>ヲ<br>/wo/<br>{{IPA|β̞o̞}} |[[ろ]]<br>ロ<br>/ro/<br>{{IPA|ɺo̞}} |[[よ]]<br>ヨ<br>/yo/<br>{{IPA|jo̞}} |[[も]]<br>モ<br>/mo/<br>{{IPA|mo̞}} |[[ほ]]<br>ホ<br>/fo/<br>{{IPA|ɸo̞}} |[[の]]<br>ノ<br>/no/<br>{{IPA|no̞}} |[[と]]<br>ト<br>/to/<br>{{IPA|to̞}} |[[そ]]<br>ソ<br>/so/<br>{{IPA|so̞}} |[[こ]]<br>コ<br>/ko/<br>{{IPA|ko̞}} |[[お]]<br>オ<br>/o/<br>{{IPA|o̞}} ![[お段]] |} == 歴史 == === 起源 === 仏教の研究過程で日本語と[[梵字]]([[サンスクリット]])を対応させたものとみられる<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1709/18/news010.html 五十音順はなぜ「あかさたな」の順番なのか? - ねとらぼ]</ref>。 五十音が現在のようになった背景にある大きな二つの要素は、[[悉曇学]]と[[反切]]である。各段の並び方(段順)、各行の並び方(行順)は悉曇文字([[梵字]])に、子音と母音の組合せという考えは反切に由来する。 === 段順、行順の由来 === 「あいうえお」の段順、「あかさたなはまやらわ」の行順は、インドの[[梵字]]の[[字母表]]の配列に従ったものである<ref name="名前なし-20230316112017">[https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00195.html Q.7 「あいうえお/あかさたな」の順なのはどうして?] 肥爪周二|素朴な疑問vs東東京大学FEATURES、広報誌「淡青」 vol.45、2022.09号、2022-10-13</ref>。 ==== 「あいうえお」の段順 ==== 梵字の字母表の冒頭には[[母音]]が並ぶ。まず a ā i ī u ū の基本的な母音、次に e ai o au という二次的な母音が配列されている。日本語の仮名一字で書けるものを拾い出すと「あいうえお」の段順ができる。 なお、詳細な母音の順は、{{lang|sa-latn|'''a''', ā, '''i''', ī, '''u''', ū, ṛ, ṝ, ḷ, ḹ, '''e''', ai, '''o''', au, (a)ṃ, (a)ḥ}} である。 ==== 「あかさたなはまやらわ」の行順 ==== [[子音]]の行順は、大きく2つのグループに分けられる。 * 1つ目は、強い子音([[破裂音]]・[[破擦音]]・[[鼻音]])で、[[調音]]位置が口の奥のほうの子音から順に配列され、調音位置が同じものの中では鼻音が最後になる。ここまでを日本語に移すと「かさたなはま」の行順になる(清濁の区別は省略される)。 * 2つ目は、弱い子音([[接近音]]・[[摩擦音]])のうち、調音位置が口の奥のほうから順に配列された接近音([[半母音]])を日本語に移すと「やらわ」の行順になる。 * 以上により、「あかさたなはまやらわ」の順が成立した。 * なお、梵字の子音の実際の配列は、{{lang|sa-latn|'''k''', kh, g, gh, ṅ, '''c''', ch, j, jh, ñ, ṭ, ṭh, ḍ, ḍh, ṇ, '''t''', th, d, dh, '''n''', '''p''', ph, b, bh, '''m''', '''y''', '''r''', l, '''v''', ś, ṣ, s, h}} である<ref group="注">サ行は古い時代には {{IPA|ts}} と発音されていたという説が有力であり、ハ行は当時の発音では {{IPA|ɸ}}、さらに古い時代には {{IPA|p}} であったとされている。なお k から m までの配列は、調音位置が口の奥から前へ来るように並べられているからである。ヤ・ラ・ワ行がまとめられているのは、サンスクリットでは y, r, v(実際の発音は{{IPA|ʋ}}か{{IPA|w}}) がそれぞれ i, ṛ, u に対応する半母音とみなされているからである。y, r, l, v という順序も、k から m と同じ理由である。</ref>。 ただし、過去の文献の中には五十音を現在とは全く異なる配列に並べたものも見出される<ref name="名前なし-20230316112017"/>。現在の配列になったのは[[室町時代]]以後である。 === 反切 === もう一つの柱として漢字音を研究した[[中国音韻学]]が挙げられる。中国では古くから字音を表記するのに[[反切]]と呼ばれる方法がとられ、[[音韻]]表記として漢字二字を用い、一字目(反切上字)の頭子音と、二字目(反切下字)の母音以下および[[声調]]の部分を組み合わせることによって多くの字音を表記した。この方法によって成立した字音の[[子音]]の分類である[[五音]]や[[清濁]]が[[韻書]]や[[韻図]]などによって日本にも伝わっていた。 現存最古の音図は[[平安時代]]中期の『[[孔雀経音義]]』 ([[1004年]] - [[1027年]]頃) や『[[金光明最勝王経音義]]』 ([[1079年]]) などが挙げられている。「音義」とは、漢字の発音と意味を表した注釈書のことであり、漢訳[[仏典]]において漢字の発音を仮名で書き表そうとしたことがその起源である。平安時代後期には[[天台宗]]の僧侶[[明覚]]が『反音作法』を書いた。これには、日本語は梵字のように子音のみを表記する文字をもたないことから、反切を利用することが書かれている。同一子音のものを同じ行に、同一母音のものを同じ段にまとめることで、仮名を用いた反切(仮名反)を説いている。ここで母音はアイウエオ順であるが、子音はアカヤ([[喉音]])サタナラ([[舌音]])ハマワ([[五音|唇音]])という順になっているものがある。これは各子音の[[調音位置]]を口の内から外の順に並べたものである<ref group="注">[[ハ行]]は当時、[[無声両唇摩擦音]] {{IPA|ɸ}}</ref>。明覚の著書にはその他の配列のものも見られ、五十音図の配列が当時一定していなかったことを示す。後にヤラワ行が後ろに回されたのは悉曇学において悉曇の字母を忠実に反映してのことだと考えられている<ref>古田東朔・築島裕『国語学史』東京大学出版会。</ref>。 [[室町時代]]後期の[[文明 (日本)|文明]]16年([[1484年]])に成立した[[国語辞典]]『[[温故知新書]]』は、それまで一般的であったいろは順ではなく、五十音順を採用した最古の事例とされる<ref group="注">[[あ行]]が「アイウエヲ」、[[や行]]が「ヤヰユエヨ」、[[わ行]]が「ワイウヱオ」と表記されている。</ref>。 「五十音」「五十音図」の名は、江戸時代からのものであり、古くは「五音(ごいん)」とか「五音図」「五音五位之次第」「音図」「反音図」「仮名反(かながえし)」「五十聯音(いつらのこゑ)」などと呼ばれていた。 === 51全てが異なる字・音: 江戸後期から明治 === {{seealso|仮名遣い#上代特殊仮名遣とヤ行のエ}} 現在では五十音図のヤ行、ワ行には、ア行の「い」「う」「え」が再登場する<ref group="注">もしくは空白とする。</ref>。 しかし江戸時代後期以降、これらにも独自の文字を割当てる動きが見られた。これは五十音図と日本語の音韻の関係に関する興味に由来する。 <!-- 以下、田中 2011を引用。 -->[[鱸有飛]] (1756年-1813年) は「え」と区別するためにヤ行エ段を「エ」の文字を置き、「え」の位置には「エ」の字の上の横棒が無い仮名を提唱した。漢学者の[[太田全斎]]は『[[漢呉音図]]』(文化12年、1815年) において漢字音上での区別のために、五十音図全てのマスの音を異なる漢字で表した。国学者の[[富樫広蔭]]は[[音義説]]の立場から『[[辞玉襷]]』(文政12年、1829年)で50音の各字を仮名で書き分けた。また[[洋学]]の立場からも、[[大槻玄幹]]は『[[西音発微]]』(文政9年、1826年) で五十音の全ては異なる発音であり、それが日本語の「古音」であるとした。一方で[[村田春海]]や[[岡本保孝]]は、元々五十音図は国学の為に作られたものではないために、その理屈を日本語の音韻体系の理解のために通す事には慎重であった{{harv|田中草大|2011|p=33,35}} 田中のこの箇所の記述は古田『音義派「五十音図」「かなづかい」の採用と廃止』を引用したものである。<!-- 孫引きで申し訳ないが、以前に[[ヤ行イ]]にて、「明治になって無理矢理字を当てはめた、と独自研究を書かれたので、それを削除するために導入した。--> 明治の教科書や教員向けの指導書では、[[や行い|ヤ行イ段]]、[[や行え|ヤ行エ段]]、[[わ行う|ワ行ウ段]]に、「い」「う」「え」以外の 「文字」を配したものも多く見られる。たとえば『小学教授書』(明治6年、1871年) <ref name="渡辺-2012">{{harv|渡辺(2012)|p=3}} 原文に明治6年 (1871年) とあるが、明治6年は1873年である。なお、文部省による1873年の『小學教授書』の存在が確認できる。</ref>、『小学入門』初版 (明治7、8年、1874、5年) <ref name="古田-1957">{{harvnb|古田ほか(1957)|p=26}}</ref>、『日本文典: 中学教程』(明治30年、1897年) などがある。しかし統一された動きではなく、たとえば『小学入門』では、初版の翌年の版からは、現在見るようなものに改められた<ref name="古田-1957" />。 <!-- 一旦江戸に戻るので別段落 -->これらの「文字」の形も統一されなかった。<!-- 以下、出典に依る -->国学者[[鈴木重胤]] (文化9年、1812年 - 文久3年、1863年) が『[[語学小経]]』で示した図には、順に「イ」の字を180°回転したもの<ref>『片仮名元字』(出版年不明) では、この字は「以」の字の左側であると説明する図がある。</ref>、「衣」の字からナベブタを除いたもの、「卯」の字の左半分が使われた。『小学入門』初版では、「イ」の字を180°回転したもの、「エ」の字の上の横棒を右上から左下に払うようにしたもの、「于」の字が使われた<ref name="古田-1957" />。これら以外の「文字」も平仮名・片仮名両方の五十音図で確認できる。<!-- 一次資料から「確認」だが、上記の孫引きと同様の理由による。 --> 明治33年 (1900年) に仮名が1文字1字体 (いわゆる[[変体仮名]]の廃止) とされた時には、や行とワ行は「やいゆえよ」「わゐうゑを」であった<ref>[[s:小学校令施行規則|小学校令施行規則]]、明治33年文部省令第14号、第一号表。[{{NDLDC|788017/264}} 法令全書] 明治33年 (1900年)、p 496に掲載。リンク先は[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタル化資料]。</ref>。 {{multiple image| | align = center | header = 明治時代の教科書の一例<ref>『小学第一教 綴字篇』1873年、万蘊堂、魁文堂。</ref> | caption_align = center | width = 350px | image1 = Tuzurizi12.jpg | caption1 = 平仮名の50音図 | image2 = Syougaku11.jpg | caption2 = 片仮名の50音図 | footer = 50音のマス全てが、異なる文字で埋められている。「ん」「ン」は鼻音としてそれぞれ別記されている。 }} == 北原白秋の五十音 == {{Wikiquote|北原白秋|北原白秋の五十音}} {{Wikisource|あめんぼの歌|北原白秋の五十音}} 五十音の考え方が普及した後における、かな学習歌の代表的なものとして挙げられるのが、[[北原白秋]]によって執筆された詩歌([[定型詩|4・4・5 型定型詩]])『'''五十音'''』である。一部では『'''あいうえおのうた'''』として紹介されることもあるが、正式なタイトルとしては『五十音』が正しい。 [[1922年]]、雑誌『[[大観 (雑誌)|大観]]』1月号に上梓されたものを初出とし、後に作曲家・[[下総皖一]]によって曲がつけられ、学習歌([[童謡]])『'''五十音の唄'''』として成立した。現代では[[外郎売]]と並び、[[俳優]]や[[タレント]]、[[アナウンサー]]の養成における発声および滑舌の訓練に際して採用される、代表的な朗読教材の一つとして知られている。 ただし、下総による楽曲は必ずしも正式な[[標準語]][[アクセント]]と一致するものではないため、朗読教材として使用する場合においては楽曲として歌われる事はまれである。ゆえに、そもそも『五十音』を訓練教材として常用する者も楽曲そのものの存在を知らない、もしくは知っていてもそれがどのような歌であるのかを知らないという場合すらある。 == 訓令式ローマ字 == [[ローマ字#訓令式の表|訓令式ローマ字]]は、五十音表の段と行を[[ラテン文字]]で記号として表した合理的な五十音表記法であり、たとえばシはサ行イ段 (si) の位置にあるので、si と表記される。 活用における動詞の変化の説明においてもこれまでのローマ字表記だと少々無理があったものの、「勝つ」の連用形における語幹も kat- にして表記(これまでだと連用形なら kachi になり語幹の末子音字が変化してしまう)することが可能となった。 なお、ヤ行イ段 (yi) は空白であるためにイ段のみ書くように、五十音表で空欄の位置は母音字のみで表記され子音字は省かれる。 ジ (zi) とヂ (di/zi) 、オ (o) とヲ (wo/o) のように発音がほぼ同じものは、表記しやすいものに統一される。 == 仮名の誦文 == 五十音の外に仮名を網羅した誦文がある。[[あめつちの詞]]、[[大為爾の歌|大為爾(たゐに)の歌]]、[[いろは歌]]である。五十音(五音)が、日本語化して発音される漢字音を体系的に理解しようとするものであるのに対し、これら誦文はもともと[[四声]]など漢字音のアクセント習得のために作られ、用いられたものと見られる<ref>[[小松英雄]]『いろはうた』(中公新書、1979年)。</ref>。ただしいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、[[手習い]]の手本にも使われ、また『[[色葉字類抄]]』などのように物の順序を示す「[[いろは順]]」として使われた。 == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|author=[[古田東朔]]|publisher=[[文部省]]|year=1957|url=http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/series/36/36.html|title=教科書から見た明治初期の言語・文字の教育|series=国語シリーズ 36|accessdate=2012-12-23}} * {{Cite book|和書|author=文部省, 古田東朔 |url=https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/series/36/36.html |title=教科書から見た明治初期の言語・文字の教育 |publisher=光風出版 |date=1957-1962 |series=国語シリーズ |NCID=BN07734824 |ref={{harvid|古田ほか(1957)}}}} * 古田東朔. “''音義派「五十音図」「かなづかい」の採用と廃止''”. これは以下の二つの文献に収録されている: ** {{cite book|author=古田東朔|title=小學讀本便覧|year=1978|publisher=武蔵野書院|volume=第1巻}} ** {{cite book|title=古田東朔近現代日本語生成史コレクション|volume=第4巻|year=2010|publisher=くろしお出版|isbn=9784874245040|author=古田東朔}}に * {{Citation|和書|author= 田中草大|date=2011-03 |url=https://doi.org/10.15083/00035544 |title=東条一堂『四十四音論』及び岡本保孝『四十四音論弁誤』について |journal=日本語学論集 |ISSN=18800947 |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科国語研究室 |volume=7 |pages=28-54 |doi=10.15083/00035544 |hdl=2261/43696 |CRID=1390572174554416768 |accessdate=2023-10-10 |ref=harv}} * {{cite journal|和書|author=渡辺哲男|year=2012|url=http://library.edu.shiga-u.ac.jp/form/toshokandayorikyoiku2012.pdf|title=国語教科書展 - 「いろは」から「あいうえお」へ -|journal=滋賀大学附属図書館教育学部分館情報 図書館だより・きょういく|volume=2012年7月31日|accessdate=2012-12-23 |ref={{harvid|渡辺(2012)}}}}{{404|date=2023-10}} 明治期の教科書はデジタルスキャンの物が多く公開されている。たとえば[[近代デジタルライブラリー]]による以下の資料からは、五十音図のヤ行、ワ行に関して様々なものが確認できる。 *近代デジタルライブラリー提供。ページ数は近代デジタルライブラリーでのもの。 ** {{Cite book|和書|author=文部省|url={{NDLDC|810919/17}}|title=小学入門 甲号 |year=明治7年、1874年 |pages= 17, 18|accessdate=2012-12-20}} ** {{Cite book|和書|author=[[田中義廉]]|url={{NDLDC|863885/10}}|title=小学日本文典 |year=明治8年、1875年|page=10|accessdate=2012-12-20}} ** {{Cite book|和書|author=林甕臣 他|url={{NDLDC|863888/10}}|title=小学日本文典入門 |year=明治14年、1881年 |page=p10 |accessdate=2012-12-20}} ** {{Cite book|和書|author=中等学科教授法研究会 |url={{NDLDC|864068/10}} |title=日本文典 : 中学教程 |year=明治30年、1897年 |page=10 |accessdate=2012-12-20}} ** {{Cite book|和書|author=有賀長隣|url={{NDLDC|862191/4}} |title=片仮名元字 |year=(出版年情報無し) |page=4 |accessdate=2012-12-20}} * {{Cite book|和書|author=片山淳吉編 |url=https://u-gakugei.repo.nii.ac.jp/records/52716 |title=綴字篇 |year=1873 |series=明治検定以前の教科書(明治6年-13年) |edition=日本近代教育史資料(東京学芸大学附属図書館) |hdl=2309/00176734}} ** [https://d-archive.u-gakugei.ac.jp/item/10901433 東京学芸大学教育コンテンツアーカイブ] == 関連項目 == {{Wiktionary|五十音}} {{wikibooks|日本語/非母語話者むけ/五十音図|五十音図}} *[[五十音順]] *[[アルファベット]] *[[反切]] *[[中国音韻学]] {{DEFAULTSORT:こしゆうおん}} [[Category:五十音|**]] [[Category:日本の名数50|おん]] [[Category:中国音韻学]]
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10,459
ん、ンは、日本語の仮名の1つである。この音は、撥音 (𫝼音)(はつおん、はねるおん)と呼ばれ、1モーラを形成するが、通常は子音であり、かつ、直前に母音を伴うため、単独では音節を構成せず、直前の母音と共に音節を構成する。ただし、「ん?」などのように語頭にある場合は、母音に代わる音節の核、すなわち音節主音として、単独で音節を構成する。したがって、鼻母音以外に発音される限り、すなわち子音である限り、「ん」は音節主音的な子音である。「ん」は元来五十音には現れないが、一般にわ行の次に置かれる。 文字としての「ん」、「ン」を「ウン」と発音することもある。 現代標準語の音韻:日本語を母語とする日本語話者にとっては「ん」は1つの音、すなわち音素 /ɴ/ と認識される。しかし、実際の発音は次項で述べるように前後の音や速度、話者により、[m]、[n]、[ŋ]、[ɴ]、さらに鼻母音の一部 ([ ̃])、その他にも鼻音に関連した音が用いられる。どの発音を用いても意味上の違いは生じない。 音声学上の実際の発音:前項で述べたように「ん」は様々に発音される。 撥音は、基本的に後続音の調音が影響を及ぼす逆行同化によって、後続音と似た種類の音になる。 ただし、MRIを持ちいた実証的研究では、語尾撥音は口蓋垂鼻音に固定されず、およそ前の母音に依存して硬口蓋から口蓋垂までの広範囲で閉鎖が起こることが報告されている。 日本語の現代共通語では基本的に「ん」より始まる単語が存在しない。ただし、くだけた口語や方言では「生まれる」「美味い」など語頭の「う」を鼻濁音 [ŋ] で発音することがあり、それを「ん」で表現することがある。1944年に文部省が制定した『發音符號』では、語頭の鼻濁音は「う゚」を使用するように定めたが、この表記はほとんど浸透せず、現在では語頭の鼻濁音と「う」を特に区別する場合、単に「ん」と表記されることが多い。 日本語以外の言語に於いても、「ン」から始まる言葉は少ない。外国語の単語を仮名表記する際、基本的には鼻音で始まり後続する音が母音でない場合に、「ン」で始まる言葉として表されることがある。ただし、外国語音を日本語でどう捉えるか、仮名でどのように表記するかという問題があるため、その多寡を単純には結論づけられない。 「ん」という文字が広く使われるようになったのは室町時代頃とされるが、詳しい時期については分かっていない。『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』には「ん」音を表記する文字(万葉仮名)は見当たらない。このことから古代日本語には「ん」音はなかったと推定され、中国から経典などが輸入されたときに同時に「ん」相当音も移入されたと考えられる。ただし当初は-nと-mを区別していたと考えられ、-mの影響は「さんみ」(三位)などの連声形に残っている。藤原定家の息子である藤原為家が嘉禎2年(1236年)に紀貫之(平安時代初期)の直筆本に従って書写した為家筆本『土佐日記』(大阪青山歴史文学博物館蔵、国宝)では、「ん」の字形で「む・う・も・ん」の音を示す単語に共通して用いられているが、一般には平安時代以降、撥音便化した助動詞「む、なむ、けむ、らむ」などについては、「ん」と読む場合も「む」がそのまま用いられた。
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ん、ンは、日本語の仮名の1つである。この音は、撥音 (𫝼音)(はつおん、はねるおん)と呼ばれ、1モーラを形成するが、通常は子音であり、かつ、直前に母音を伴うため、単独では音節を構成せず、直前の母音と共に音節を構成する。ただし、「ん?」などのように語頭にある場合は、母音に代わる音節の核、すなわち音節主音として、単独で音節を構成する。したがって、鼻母音以外に発音される限り、すなわち子音である限り、「ん」は音節主音的な子音である。「ん」は元来五十音には現れないが、一般にわ行の次に置かれる。 文字としての「ん」、「ン」を「ウン」と発音することもある。 ローマ字: n, n', nn 点字: モールス信号: ・-・-・
{{Infobox 仮名 |平仮名字源=无の草書体 |Unicode平仮名=3093 |JIS平仮名=1-4-83 |片仮名字源=无の変形,尓の上の'''ノ-'''の部分,撥音記号からなど多数説あり。 |Unicode片仮名=30F3 |JIS片仮名=1-5-83 |ヘボン式=N, M, N' |訓令式=N, N', NN |JISX4063=n, n', nn |アイヌ語= |言語=ja |IPA=ɰ̃, ʋ̟̃, ɹ̃, j̃, m, n, ŋ, ɴ |音=清音 }} {{仮名|N}} [[画像:ん-bw.png|200px|thumb|right|「ん」の筆順]] [[画像:ン-bw.png|200px|thumb|right|「ン」の筆順]] '''ん'''、'''ン'''は、[[日本語]]の[[仮名 (文字)|仮名]]の1つである。この音は、'''撥音 (𫝼音)'''(はつおん、はねるおん)と呼ばれ、1[[モーラ]]を形成するが、通常は[[子音]]であり、かつ、直前に[[母音]]を伴うため、単独では[[音節]]を構成せず、直前の[[母音]]と共に音節を構成する。ただし、「ん?」などのように語頭にある場合は、母音に代わる音節の核、すなわち[[音節|音節主音]]として、単独で音節を構成する。したがって、鼻母音以外に発音される限り、すなわち子音である限り、「ん」は[[音節|音節主音的]]な子音である。「ん」は元来[[五十音]]には現れないが、一般に[[わ行]]の次に置かれる。 文字としての「ん」、「ン」を「ウン」と発音することもある<ref>[[坂口安吾]]『[http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45865_32916.html 新作いろは加留多]』</ref>。 * [[ローマ字]]: '''[[n]]''', '''n'''', '''nn''' * [[点字]]: *: [[画像:Braille QuoteClose.svg|40px|「ん」の点字]] * [[モールス信号]]: ・-・-・ == 音韻 == 現代標準語の[[音韻]]:日本語を母語とする日本語話者にとっては「ん」は1つの音、すなわち音素 {{ipa|ɴ}} と認識される。しかし、実際の発音は次項で述べるように前後の音や速度、話者により、{{IPA|m}}、{{IPA|n}}、{{IPA|ŋ}}、{{IPA|ɴ}}、さらに[[鼻母音]]の一部 ({{IPA| &nbsp;&#771;}})、その他にも[[鼻音]]に関連した音が用いられる。どの発音を用いても意味上の違いは生じない。 {|class="wikitable" |+「ん」の表記・発音例<br />(「ん」にあたるものは'''太字''') ![[平仮名]]表記 ![[音素]]表記<br />(ん={{ipa|ɴ}} ) !音声表記<br />([[国際音声記号]]) |- |か'''ん'''ぱ'''ん''' |{{ipa|ka'''ɴ'''pa'''ɴ'''}} |{{IPA|ka'''m'''pa'''ɴ'''}} |- |て'''ん'''まど |{{ipa|te'''ɴ'''mado}} |{{IPA|te'''m'''ːado}} |- |ぼ'''ん'''た'''ん''' |{{ipa|bo'''ɴ'''ta'''ɴ'''}} |{{IPA|bo'''n'''ta'''ɴ'''}} |- |は'''ん'''のう |{{ipa|ha'''ɴ'''nou}} |{{IPA|ha'''n'''ːoː}} |- |び'''ん'''か'''ん''' |{{ipa|bi'''ɴ'''ka'''ɴ'''}} |{{IPA|bi'''ŋ'''ka'''ɴ'''}} |- |し'''ん'''ごう |{{ipa|si'''ɴ'''gou}} |{{IPA|ɕi'''ŋ'''ːoː}} |- |け'''ん'''いち |{{ipa|ke'''ɴ'''iti}} |{{IPA|ke'''ẽ'''it͡ɕi}} |} == 音声学的記述 == [[音声学]]上の実際の発音:前項で述べたように「ん」は様々に発音される<ref>日下部重太郎「字音尾ŋ,n,mの沿革如何」『音声の研究3』日本音声学会 昭和5年(1930年) 87頁。</ref>。 撥音は、基本的に後続音の調音が影響を及ぼす[[逆行同化]]によって、後続音と似た種類の音になる<ref>猪塚恵美子、猪塚元「日本語の音声入門 全面改訂版」バベル・プレス『日本語教師トレーニングマニュアル1』2003年 99頁</ref>。 *[[口蓋垂鼻音]](ɴ)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A3%E8%93%8B%E5%9E%82%E9%BC%BB%E9%9F%B3-1312865 口蓋垂鼻音とは - コトバンク (kotobank.jp) ]2021年8月7日回覧。</ref> *:語尾<ref name="名前なし-1">猪塚恵美子、猪塚元「日本語の音声入門 全面改訂版」バベル・プレス『日本語教師トレーニングマニュアル1』2003年 98,101頁</ref>、単発の場合口蓋垂を閉じて、鼻から音を出す。例)パン[päɴː]<ref>服部四郎「「ン」に就いて」『音声の研究3』日本音声学会 昭和5年(1930年) 41頁。</ref>、本 [hoɴː]<ref name="名前なし-2">[http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/art/2018_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%9F%B3%E5%A3%B0.pdf 言語研究の変遷 (tufs.ac.jp) ]p26 2021年8月7日回覧。</ref>、ペン[peɴː] <ref name="名前なし-3">猪塚恵美子、猪塚元「日本語の音声入門 全面改訂版」バベル・プレス『日本語教師トレーニングマニュアル1』2003年 101頁</ref>、ん? *[[両唇鼻音]](m)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E5%94%87%E9%BC%BB%E9%9F%B3-1437377 両唇鼻音とは - コトバンク (kotobank.jp) ]2021年8月7日回覧。</ref> *:バ・パ・マ行が続く場合<ref>平田鬼丸「国語の撥音」『音声の研究』4号 日本音声学会 昭和6年(1931年) 38頁。</ref><ref name="名前なし-4">猪塚恵美子、猪塚元「日本語の音声入門 全面改訂版」バベル・プレス『日本語教師トレーニングマニュアル1』2003年 98,100頁</ref>口蓋垂と唇を閉じて、鼻から音を出す。例)パンも[pämː.mo]<ref name="名前なし-5">服部四郎「「ン」に就いて」『音声の研究3』日本音声学会 昭和5年(1930年) 42頁。</ref>、本物 [homː.mo.no]<ref name="名前なし-2"/>、安保[ämː.po]<ref name="名前なし-6">猪塚恵美子、猪塚元「日本語の音声入門 全面改訂版」バベル・プレス『日本語教師トレーニングマニュアル1』2003年 100頁</ref>、鞍馬[ämː.bä]<ref name="名前なし-6"/> *[[歯茎鼻音]](n)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%AD%AF%E8%8C%8E%E9%BC%BB%E9%9F%B3-1329673 歯茎鼻音とは - コトバンク (kotobank.jp) ]2021年8月7日回覧。</ref> *:チ以外のタ行、ヂ以外のダ行、ニ以外のナ行、ラ行、ジ以外のザ行が続く場合<ref name="名前なし-4"/>舌先を歯茎に当てて、鼻から音を出す。例)パンだ[pänː.dä]<ref name="名前なし-5"/>、ほんの [honː.no]<ref>[http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/art/2018_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%9F%B3%E5%A3%B0.pdf 言語研究の変遷 (tufs.ac.jp) ]p26 2021年8月4日回覧。</ref>、連帯[ɾ̠enː.tä.i]<ref name="名前なし-6"/>、貫通[känːt͡sʊ̜ː]<ref name="名前なし-6"/>、散財[sänː.d͡zä.i]<ref name="名前なし-6"/>、元来[gän̠ː.ɾ̠ä.i]<ref name="名前なし-6"/> *歯茎硬口蓋鼻音(ɲ̟)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A1%AC%E5%8F%A3%E8%93%8B%E9%BC%BB%E9%9F%B3-1313495 硬口蓋鼻音とは - コトバンク (kotobank.jp) ]2021年8月7日回覧。</ref> *:チ、ジ、ニが続く場合<ref name="名前なし-4"/>舌先を歯茎硬口蓋に当てて、鼻から音を出す。例)インチ[iɲ̟ː.t͡ɕi]<ref name="名前なし-6"/>、珍事[t͡ɕiɲ̟ː.d͡ʑi]<ref name="名前なし-6"/>、参入[saɲ̟ː.ɲ̟ʊ̜ː]<ref name="名前なし-6"/> *[[軟口蓋鼻音]](ŋ)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%BB%9F%E5%8F%A3%E8%93%8B%E9%BC%BB%E9%9F%B3-1383860 軟口蓋鼻音とは - コトバンク (kotobank.jp) ]2021年8月7日回覧。</ref> *:カ、ガ行が続く場合<ref name="名前なし-4"/>(イ、エに続く語尾の場合にŋとなることが多くある<ref name="名前なし-3"/>)舌根を軟口蓋に当てて、鼻から音を出す。例)パンが[päŋː.ŋä]<ref name="名前なし-5"/>、マンガ [mäŋː.gä]<ref name="名前なし-2"/>、満開 [mäŋː.kä.i]<ref name="名前なし-2"/> *鼻音化接近音(ɰ̃他)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%BC%BB%E6%AF%8D%E9%9F%B3-612349 鼻母音とは - コトバンク (kotobank.jp) ]2021年8月7日回覧。</ref> *:ア、ヤ、ワ、サ、ハ行が続く場合<ref name="名前なし-1"/>口と鼻から音を出す。例)パン屋[päɰ̃ː.jä]<ref name="名前なし-5"/>、パンは[päɰ̃ː.β̞ä]<ref name="名前なし-5"/>、 線を [seɰ̃ː.o]<ref name="名前なし-2"/>、本を [hoɰ̃ː.o]<ref name="名前なし-2"/>、天才、国産品 ただし、MRIを持ちいた実証的研究では、語尾撥音は口蓋垂鼻音に固定されず、およそ前の母音に依存して硬口蓋から口蓋垂までの広範囲で閉鎖が起こることが報告されている<ref>{{cite journal|last=Maekawa|first=Kikuo|year=2021|title=Production of the utterance-final moraic nasal in Japanese: A real-time MRI study|journal=Journal of the International Phonetic Association|volume=09 June 2021|pages=1&ndash;24|doi=10.1017/S0025100321000050}}</ref>。 == 順序 == * [[五十音順]]:厳密には、「ん」は五十音に含まれないが、通常は、「ん」を含めて五十音順とすることが多い。その場合には、「ん」は五十音の最後、第48位に置かれる。[[や行]][[い段]]と[[え段]]の[[い]]と[[え]]および[[わ行]][[う段]]の[[う]]を数に加えると51位、逆に現代仮名遣いで使われない[[ゐ]]と[[ゑ]]を除くと46位となる。 * [[いろは順]]: なし。第48位に「京」の代わりに置かれることがある。その場合には「[[す]]」の次。 == 表記 == *[[平仮名]]「ん」の字形:「无」の[[草体]](无は、万葉仮名で「む」<ref>[https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=375 万葉仮名|国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ (japanknowledge.com)] 2021年8月1日閲覧。</ref>) *[[片仮名]]「ン」の字形:[[漢文]]の訓点のうち撥音を示す記号「[[画像:kunten -n.gif|訓点の撥音記号]]」<!-- 「」(この形が出ないときには、外字エディタのコードF0407のところをンのつなげ文字みたいに設定してください) ←「この形」がどんなものを指しているのかは環境依存なのでコメントアウト -->(<!-- 片仮名の「ン」と「レ」および平仮名の「し」が合わさったような形。 -->[[梵字]]の[[鼻母音字#造字法と字音|菩提点]]に由来<ref>菩提点とは「空点」ともいい、[[梵字]]の頂部に点を打ち「ん」音を加える(例:ア→アン)。空点の下に「荘厳点」を添えることがあるが(音は変わらない)、この空点と荘厳点を合わせた形が「ン」と同じ形になる。片仮名が経典などの漢籍に読みを付けるため発明されたことを考慮すれば、片仮名「ン」の成立根拠として有力とすべきであろう。</ref>、参考:[[アヌスヴァーラ]])の転じたもの、尓の上部、二の転じたもの、无の二を取った形、冫昷(温-丶)の偏(にすい・冫)からなどの説がある。丹波・難波は古くは「たにわ」・「なにわ」と読んでおり「ん」が「に」になっている。 *[[平安時代]]末期 ([[12世紀]]) に表記法が確立するにいたるまでにはさまざまな異表記があり、「む」「い」「う」であらわしたり、無表記であったりした<ref>{{Citation |editor=松村明 |editor-link=松村明 |editor2=今泉忠義 |editor2-link=今泉忠義 |editor3=守随憲治 |editor3-link=守随憲治 |contribution=国語・国文法用語解説「撥音」 |title=旺文社古語辞典 新版 |year=1981 |publisher=[[旺文社]] |location=[[東京都]][[新宿区]]}}</ref>。 *[[ローマ字]]:[[n]] - [[母音]]字や y が後続する場合は「n'」のように[[アポストロフィー]]で区切ることもある。修正ヘボン式では音節に左右されずそのまま「n」、しかし旧ヘボン式では[[m]], [[b]], [[p]](唇音)で始まる音節が後続する場合「[[m]]」を用いる<ref>[[外国]]の地名では撥音でb/m/pの前でmを使用ぜず、nを使用した表記が多く見られる。代表例として国名の[[デンマーク]] ({{en|Da'''nm'''ark}}) や[[ミャンマー]] ({{en|Mya'''nm'''ar}}) 、[[スコットランド]]の[[首都]][[エディンバラ]] ({{en|Edi'''nb'''urgh}}) や[[オーストラリア]]の[[首都]][[キャンベラ]] ({{en|Ca'''nb'''erra}}) などが正式な英名表記として採用されている。</ref>。[[ローマ字入力]]の場合は、後ろに「な行」がくる場合には「nn」とする。 *[[ハングル]]で日本語表記する場合、[[大韓民国|韓国]]の[[外来語表記法 (大韓民国)|外来語表記法]]では {{lang|ko|'''[[ㄴ]]'''}} を[[パッチム]]として表記する。語頭の「ん」については規定が存在しない(他の表記法については「[[日本語のハングル表記]]」を参照)。 **例:[[仙台市|仙台]]={{lang|ko|센다이}}、[[関東地方|関東]]={{lang|ko|간토}} *[[点字]]: *: [[画像:Braille QuoteClose.svg|40px|「ん」の点字]] *[[通話表]]:「おしまいのン」 *[[モールス信号]]:・—・—・ * [[手旗信号]]:5→1 :[[File:Japanese Semaphore Basic Stroke 5.svg|50px]][[File:Japanese Semaphore Basic Stroke 1.svg|50px]] *[[発音]]:{{Audio|Japanese N.ogg|ん}} == 語頭の「ん」 == 日本語の現代[[共通語]]では基本的に「ん」より始まる単語が存在しない。ただし、くだけた口語や方言では「生まれる」「美味い」など語頭の「う」を鼻濁音 {{IPA|ŋ}} で発音することがあり、それを「ん」で表現することがある。[[1944年]]に[[文部省]]が制定した『發音符號』では、語頭の鼻濁音は「[[う゜|う&#x309A;]]」を使用するように定めたが、この表記はほとんど浸透せず、現在では語頭の鼻濁音と「う」を特に区別する場合、単に「ん」と表記されることが多い。 * 某という言い換えと同様に、内容をぼかす用法がある。例:数千円のことを「ン千円」と書くなど(ただし発音は通常「ウンゼンエン」とする。発音通り「ウン千円」などと表記することもある)。 * [[琉球語]]には「ン」から始まる単語が多数見られ、中でも[[宮古方言]]の「んみゃーち」(ようこそ、の意味)は有名。与那国方言などにもみられる。 * {{要出典範囲|本来「[[ウマ|馬]]」「[[ウメ|梅]]」は「ンマ {{IPA|m̩ma}}」、「ンメ {{IPA|m̩me}}」と発音され|date=2021-5-21}}ており、伝統的な[[東京方言]]をはじめ、方言として残る地方もある。古典的仮名遣いでは、「馬」は「むま」と書かれた。また、これらはいずれも大陸からの移入種であり、遡れば{{要出典範囲|[[中期漢語]]の「マー」「メイ」という発音にたどり着く|date=2021-5-21}}とされている。 * [[東北方言]]には、「んだ」(そうだ)、「んで」(それで)のように、そ系列の[[指示語]]と[[助詞]]の組み合わせの一部に「ん」から始まる文節がある。また東北方言以外でも、くだけた口語で「そんな」を「んな」と省略して発音することがある(用例:んな事あるわけ無いだろう)。文頭に「ん」が来ている例として指摘できる。 日本語以外の言語に於いても、「ン」から始まる言葉は少ない。外国語の単語を仮名表記する際、基本的には鼻音で始まり後続する音が母音でない場合に、「ン」で始まる言葉として表されることがある。ただし、外国語音を日本語でどう捉えるか、仮名でどのように表記するかという問題があるため、その多寡を単純には結論づけられない。 * [[広東語]]には {{IPA|ŋ̍}} および {{IPA|m̩}} という[[音節主音]]が存在する。例えば[[漢姓]]によくある「[[呉 (姓)|呉]]」の発音は {{IPA|ŋ̍}} であり、香港の喜劇俳優「[[呉孟達]]」の名前を片仮名表記する場合「ン・マンタッ」と書く。 * [[台湾語]]([[閩南語]])で「[[黄 (姓)|黄]]」および「[[阮]]」の発音は {{IPA|ŋ̍}} である(声調が異なる)。どちらも姓として使用する。 * [[ベトナム]]で最もポピュラーな姓は「阮」 (Nguyễn) であるが、日本語では「グエン」と表記することが多い。 * [[インドネシア]]・[[バリ島]]の玄関口である[[デンパサール国際空港]]の正式名称はイ・グスティ・ングラ・ライ国際空港(Bandara Internasional I Gusthi Ngurah Rai) であり、これは独立戦争の英雄[[グスティ・ングラライ]]に因んでいる。ただしこれについては、「グラライ」の片仮名表記もまた存在する。 * [[アフリカ]]では[[ンジャメナ]]([[チャド]]の首都)、[[ンゴマ (ナミビア)|ンゴマ]]、[[ンゴロンゴロ保全地域|ンゴロンゴロ]]、[[キリマンジャロ]] (Kilima-Njaro)、[[ユッスー・ンドゥール]]など「ン」から始まる名前・単語が存在する。ただし「ン」の代わりに、「ウン」、「エン」、「エム」、「ヌ」、「ム」に置き換えられることがある。([[パトリック・エムボマ|エムボマ]]、[[クワメ・エンクルマ|エンクルマ]]、[[キャサリン・ヌデレバ|ヌデレバ]]、[[タボ・ムベキ]]) * [[イタリア]]には[[ンドランゲタ]] ('Ndrangheta)という犯罪組織が存在する。 * [[ニュージーランド]]には先住民の言語の[[マオリ語|マーオリ語]]の地名があるが、それらの中には[[:en:Ngongotahā|ンゴンゴタハー]] (Ngongotahā)、[[:en:Ngaio,_New_Zealand|ンガイオ]] (Ngaio)といった語頭に「ン」が付く例がいくつかある。しかし、ニュージーランドの英語話者はその地名の綴りの"ngo"、"nga"の部分を一音節だと認識するものの、"ng"から始まる音節が英語には存在しないため、"g"の部分は発音せずに"ノンゴタハ"、"ナイオ"の様に発音している。 * [[火消#いろは組|いろは四十八組]]に「ん組」は存在しなかった。最後に追加された48番目の組は「本組」と称した。 * [[しりとり]]遊びにおいては、次に繋げられないために、「最後に『ん』の付く言葉を言った者が負け」というルールになっていることが普通である。 * 発音が聞き取りにくいため、日本の自動車用[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]には「ん」が用いられない。 * [[落語]]の演題の一つに『[[ん廻し]]』がある。 * [[五味太郎]]作の[[絵本]]に『ん ん ん ん ん』という作品がある。作品内で文字は「ん」しか使われていない。 ==「ん」に関わる諸事項 == * [[な行]]、[[ら行]]音などが「ん」に変化する([[音便]])ことを、[[撥音便]]という。 ** 例:「〜な'''の'''です」→「〜な'''ん'''です」、「ぼく'''の'''家(うち)」→「ぼく'''ん'''ち」、「せ'''む'''とす」⇒「せ'''ん'''とす」、「〜な'''る'''めり」⇒「〜な'''ん'''めり」、「たま'''ら'''ない」⇒ 「たま'''ん'''ない」 ** 方言の例:「あるの」→「あんの/あるん」、「あるので」→「あるんで/あんので/あんで」 * 「はねる音」「撥音」と呼ばれるのは、平仮名の「ん」、片仮名の「ン」ともに字形が「撥ねている」からであり、[[促音]](つまる音、『っ』)が音声上の特徴から命名されているのとは異なっている。 * 日本発祥の医薬品の多くに「ン」で終わる商品名が付けられる。これは西洋医学で用いられる化合物の名称が「ン」で終わることが多かったため。 * 日本のお笑い界では、コンビ名に「ん」が付くと売れるというジンクスがある(「[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]」「[[ウッチャンナンチャン]]」「[[とんねるず]]」など)<ref>[https://taishu.jp/articles/-/46402?page=1 コンビ名に「ん」、名前に「し」…人気芸人の名前に隠された“秘密”とは]</ref><ref>[https://www.asagei.com/excerpt/68629 売れる芸人の名前にはジンクスがあった!最強の名前を持つお笑いは誰だ!?]</ref>。 * [[広辞苑]]の最後の見出し語は初版から第六版まで一貫して「んとす」であったが、2018年発行の第七版で新しく「んぼう」が追加され最後の語となった<ref>[https://withnews.jp/article/f0180403002qq000000000000000W05h10101qq000017027A 広辞苑、こんなとこも変わってた 校閲記者の視点でチェックしました]</ref>。 == 「ん」が日本語に現れる時期 == 「ん」という文字が広く使われるようになったのは[[室町時代]]頃とされるが、詳しい時期については分かっていない。『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』、『[[万葉集]]』には「ん」音を表記する文字([[万葉仮名]])は見当たらない。このことから古代日本語には「ん」音はなかったと推定され、中国から経典などが輸入されたときに同時に「ん」相当音も移入されたと考えられる。ただし当初は-nと-mを区別していたと考えられ、-mの影響は「さん'''み'''」(三位)などの[[連声]]形に残っている。[[藤原定家]]の息子である[[藤原為家]]が[[嘉禎]]2年([[1236年]])に[[紀貫之]]([[平安時代]]初期)の直筆本に従って書写した為家筆本『[[土佐日記]]』(大阪青山歴史文学博物館蔵、[[国宝]])では、「ん」の字形で「む・う・も・ん」の音を示す単語に共通して用いられている<ref>石塚秀雄「平安時代における仮名表記の諸問題-『土佐日記』を資料として」(教育総合研究 : 日本教育大学院大学紀要 2, 145-153, 2009-03)</ref>が、一般には平安時代以降、[[撥音便#撥音便|撥音便]]化した[[助動詞 (国文法)|助動詞]]「む、なむ、けむ、らむ」などについては、「ん」と読む場合も「[[む]]」がそのまま用いられた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * <span style="font-family:'メイリオ','和田研中丸ゴシック20044'中   丸はらゴシック2004P4','和田研中丸ゴシック2004絵文字','和田研細丸ゴシックProN','和田研細丸ゴシック2004絵文字','和田研細丸ゴシック2004ARIB','Chrysanthi Unicode',YOzFont,Code2000,'BabelStone Han','XANO明朝U32','Nishiki-teki';">[[う゜|う&#x309A;]]</span> {{デフォルトソート:ん}} [[Category:仮名文字]] [[Category:日本語の音韻]]
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宇宙エレベータ
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軌道エレベータ - 惑星などの表面から静止軌道以上まで伸びる軌道を持つエレベーター 宇宙エレベータ 〜科学者の夢みる未来〜 - 日本科学未来館監修のオリジナルアニメ
* [[軌道エレベータ]] - 惑星などの表面から静止軌道以上まで伸びる軌道を持つ[[エレベーター]] * [[宇宙エレベータ 〜科学者の夢みる未来〜]] - 日本科学未来館監修の[[オリジナルアニメ]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:うちゆうえれへた}}
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厨房
厨房(ちゅうぼう)とは、レストラン・喫茶店などの外食産業や、スーパーマーケット・持ち帰り弁当店・精肉店などの食品小売業や、ホテル・病院・工場などの事業所の調理施設のことを指す。漁船、工船には捕獲した水産物を加工して缶詰にしたり冷凍保存する加工場が備えられている。 古くは厨(くりや)と称して、料理を行う場所を指した。 住宅では「台所」「キッチン」などとも呼ばれる。旅客機や客船・艦船では「ギャレー」、給食の場合は「給食室」、学校の家庭科での調理実習や公民館などで行われる料理教室の場合は「調理室」と呼ばれる。 中国語では台所のことを廚房という。また、英語では業務用厨房のことをCommercial kitchenという。 ※業務として従事する場合 かつては『男子厨房に入らず』という言葉が男女の仕事の分別の意味で使われていた。
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厨房(ちゅうぼう)とは、レストラン・喫茶店などの外食産業や、スーパーマーケット・持ち帰り弁当店・精肉店などの食品小売業や、ホテル・病院・工場などの事業所の調理施設のことを指す。漁船、工船には捕獲した水産物を加工して缶詰にしたり冷凍保存する加工場が備えられている。 古くは厨(くりや)と称して、料理を行う場所を指した。 住宅では「台所」「キッチン」などとも呼ばれる。旅客機や客船・艦船では「ギャレー」、給食の場合は「給食室」、学校の家庭科での調理実習や公民館などで行われる料理教室の場合は「調理室」と呼ばれる。 中国語では台所のことを廚房という。また、英語では業務用厨房のことをCommercial kitchenという。
{{Otheruses|[[料理]]を行う場所|<br>[[インターネットスラング]]としての'''厨房'''|厨房 (ネット用語)}} [[ファイル:ElBulliKitchen.jpg|thumb|{{Flagicon|ESP}} [[エル・ブジ]]での調理・盛り付け作業の様子。]] [[File:Standard-Kitchen.jpg|thumb|業務用厨房の一例。]] '''厨房'''(ちゅうぼう)とは、[[レストラン]]・[[喫茶店]]などの[[外食産業]]や、[[スーパーマーケット]]・持ち帰り弁当店・[[精肉店]]などの[[食品]][[小売]]業や、[[ホテル]]・[[病院]]・工場などの事業所の調理施設のことを指す。[[漁船]]、[[工船]]には捕獲した水産物を加工して[[缶詰]]にしたり[[冷凍]]保存する加工場が備えられている。 古くは厨(くりや)と称して、[[料理]]を行う場所を指した。 住宅では「[[台所]]」「キッチン」などとも呼ばれる。[[旅客機]]や[[客船]]・[[艦船]]では「[[ギャレー]]」、[[給食]]の場合は「給食室」、学校の[[家庭科]]での調理実習や[[公民館]]などで行われる料理教室の場合は「[[調理室]]」と呼ばれる。 [[中国語]]では台所のことを'''廚房'''という。また、[[英語]]では業務用厨房のことを''Commercial kitchen''という<ref>[http://ejje.weblio.jp/content/Commercial+kitchen+equipment 和英日本標準商品分類] - 英和辞典 Weblio辞書</ref>。 == 厨房の主な機能 == * 食材や調味料などを搬入し、蓄える(厨房とは別に部屋(食品庫、[[冷蔵庫]]、[[冷凍庫]]など)が設けられるケースもある)。 * 野菜・魚・肉などの下処理(洗浄、皮・殻むき、種取り、[[灰汁]]抜き、部位に分けての捌き、骨抜き、内臓抜き、ウロコ取り、脂身を薄くカットするなど)を行う。 * 衛生上、[[包丁]]や[[まな板]]などを使用する都度、洗浄・殺菌・消毒をする。 * 加熱などの調理を行う。コンビニエンスストアやファーストフードの店舗形態の場合、[[中華まん]]や[[おでん]]、各種[[惣菜]]などを調理後に客にすぐに提供できるために温めておく形式を取っている。 * 料理の盛り付けを行い、運搬する。 * 食べ終わった後の食器を洗浄し、残飯などを処分する。 * 病院などの医療福祉施設の場合、[[管理栄養士]]が利用者の健康状態に合わせてメニューを指定したうえでの調理・盛り付けを行う。 * スーパーマーケットなどでは、パック詰めの作業場が設けられている。 == 厨房の付帯施設・設備 == * [[券売機]]:[[食券]]を購入後、カウンターやスタッフに渡したうえで、自分の座る席などに半券を控えておき、料理ができた順番にカウンターに呼び出されたり席まで運んで来たりする。 * [[チャイム]]・[[ブザー]] ** 客席に設置してあり、注文があった時などにスタッフを呼び出す設備。 ** [[フードコート]]で使われる機器。注文を承った時に渡され、料理が出来た時に自動的に鳴る。 * カウンター:[[屋台]]や[[コンビニエンスストア]]や[[ファーストフード]]店、[[社員食堂]]および[[学生食堂]]、[[立ち食いそば]]店や[[鉄板]]で焼いて調理する[[ステーキ]]の店・[[寿司屋]]などのように客に対して調理品を提供するカウンター(食器の返却口を別に設ける場合もある)と兼用になっている。[[ドライブスルー]]形式では注文と商品の引き換えでの精算との二つのカウンターが設けられている。 * 無煙[[ロースター (調理器具)|ロースター]]:[[焼肉]]店などで厨房で下処理した肉などを、客の好みに合わせて焼くための設備。 * [[エレベーター]]・小荷物専用昇降機:料理や配膳車などを上下階にある食堂やパントリーに運搬するための厨房専用のものがある。 * [[生ごみ処理機]]:下処理した食材の余った(非可食の)部分や残飯の処理などに用いられる。 * 駐車場:単独の厨房とは別に食材などの納入業者の車や、[[デリバリー]](そばや寿司、[[ピザ]]、ハンバーガー、弁当など)専用の[[自動車]]・[[スクーター]]などのために設けられている。 == 厨房に関する主な注意点 == {{独自研究|date=2020年11月12日 (木) 12:29 (UTC)|section=1}} ※業務として従事する場合 * 食品・料理を提供する立場から、[[食中毒]]を防ぐために衛生上様々なことが求められる。 ** 営業のための厨房を使う事前に[[保健所]]への許可を申請する必要がある。 ** 厨房設備の設計においては作業動線が交雑しないようなゾーンの区分(検収・下処理・調理・配膳・洗浄など)が必要になり、そのための機器などのレイアウトを考慮しなければならない。 ** 食材などの搬入の際、予め検品しておく必要がある。 ** 売れ残りや食べ残し、揚げ油の再利用は避けるべきである。 ** [[フグ]]料理専門店などでフグを調理する際、[[調理師]]免許を持つ調理人がフグを捌いた後に取り除いた有毒部位を厳重に保管して、回収してもらう義務がある。 ** 虫や小動物の侵入を妨げ、発見し次第除去する必要がある。 ** 手指や調理器具などに[[細菌]]・[[ウイルス]]が付着していないか、[[石鹸]]・消毒用[[アルコール]]などで徹底的に[[殺菌]]・[[洗浄]]する。 ** 従事者の定期的な[[検便]]などの[[健康診断]]が必要になる。また、作業員が使用する[[トイレ]]の配置や設備などが適切でないと、中毒の要因にもなる<ref>[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/10/17/1336539_10.pdf 6 調理従事者専用トイレの整備]</ref>。 ** 場合により白衣・エプロンやマスクの着用や靴の履き替え、毛髪やフケが落ちないように帽子を被ることを求められる。 * 飛沫による[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染防止のため、厨房エリアとそれ以外の個所をビニールのカーテン等で仕切る必要がある。 * 料理が冷めたりして味が変わったりすることを配慮して、運搬の際に温度管理を必要とする場合もある。 * ガスを燃焼する機器を扱う関係上、[[一酸化炭素]]中毒防止のためにこまめに[[換気]]をする必要がある。 * [[ガス漏れ]]による火災などを防ぐために、[[ダクト]]消火設備や、ガス漏れ警報設備などを設置する場合もある[https://kepco.jp/biz/gas/guide/system/]。 * 油や残飯などが排水溝などに溜まるおそれがあるため、[[グリーストラップ]]を設け、定期的な清掃を必要とする。 * 臭いが外部に漏れて周辺から苦情が出たための対処を必要とする。 == その他 == かつては『男子厨房に入らず』という言葉が男女の仕事の分別の意味で使われていた。 == 出典 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Restaurant kitchens|Restaurant kitchens}} {{Commonscat|Facilities' kitchens|Facilities' kitchens}} *[[涼厨]] *[[厨房設備施工技能士]] *[[カウンター (インテリア)]] *[[パントリー]] *[[HACCP]] *[[検食]] {{Food-stub}} {{DEFAULTSORT:ちゆうほう}} [[Category:キッチン|*]]
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シカゴ学派 (社会学)
シカゴ学派(シカゴがくは、英: Chicago school)は、社会学の学派の一つで、1920年代以降、シカゴ大学社会学部を中心にして形成された主に都市社会学者のグループを指す。 石油王ロックフェラーが多大な資金を投入し、1890年にシカゴ大学が創立された。その二年後1892年に社会学部が創設され、その初代学部長に就任したのが、アルビオン・W・スモールである。スモールらはアメリカでの社会学研究の先駆けとなると共に、社会学(特に都市社会学)の実証的方法を提唱して成果を挙げた。その所産によって社会学に於いて最初の「学派」を形成するにまで至り、スモールにジョージ・E・ヴィンセント、ウィリアム・I・トーマス、C・R・ヘンダーソンを加えた4人は、第1世代の「四巨頭」と呼ばれる。 第1世代の薫陶を受けた戦後の第2世代にシカゴ学派はその黄金期を迎えることになる。多くの代表者は、ドイツのベルリン大学に留学、哲学、社会哲学のゲオルク・ジンメルに直接師事し、彼から多くの影響を受けている。 第2世代の中核をになったジャーナリスト出身のロバート・エズラ・パークとアーネスト・バージェスは、急速な産業発展に伴う大量の移民の流入に起因する社会問題のメッカ「シカゴ市」を「社会学的実験室」と捉え、そこに数多くのシカゴ大学大学院生を投入し、続々と「シカゴモノグラフ」を産出させた。都市社会学(都市生態学)の誕生である。彼らの共著『科学としての社会学入門』(1921年)は「グリーンバイブル」と呼ばれ、シカゴ学派の社会学、および、その後のアメリカ社会学の方向性を決定づける書となった。 また第1世代に位置する(より正確には第1世代と第2世代の双方にまたがって活躍した)W・I・トーマスは、F・ズナニエッキと共著で『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』(1918-1920:その総ページ数は2250頁に及ぶ大部の書である)を著した。 第2世代の教え子でシカゴ大学のスタッフとなったハーバート・ブルーマー、ルイス・ワース、E・C・ヒューズ、 S・ストゥーファーは、この学派の第3世代を構成し、ブルーマーとヒューズはシンボリック相互作用論・集合行動論・プロフェッション論の定式化に、ワースは都市社会学の発展に貢献した(「生活様式としてのアーバニズム」)。 こうした第3世代の教え子たちは、主としてシカゴから離れて活躍したが、一般に「シカゴ学派第4世代」として位置づけられており、ネオ・シカゴ学派とも呼ばれている。そうした中には、流言研究や準拠集団理論で有名なタモツ・シブタニ、ラベリング理論で有名なH・S・ベッカー、医療社会学・グラウンデッド・セオリー(grounded theory)で有名なアンセルム・ストラウス、ドラマツルギーという手法で有名なアーヴィング・ゴフマン、「シカゴ学派の遺産シリーズ」のエディターとして貢献したM・ジャノヴィッツらが含まれている。
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シカゴ学派は、社会学の学派の一つで、1920年代以降、シカゴ大学社会学部を中心にして形成された主に都市社会学者のグループを指す。
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マウスピース
マウスピース (Mouthpiece) とは各種目的に応じて歯・唇・舌などを用いて使用する機器・部品の総称で用途に応じた様々な形状・形態がある。日本語では口金。 金管楽器の歌口部、木管楽器の吹口部(すいこうぶ)。 ボクシングなどの格闘技、ラグビー・アメリカンフットボール・アイスホッケー等のコンタクト・スポーツ、野球などの球技で身体への負担を軽減するために用いる口中に入れる装具。 また、スクーバダイビングにおいては空気を圧縮したタンクから呼吸に適した圧力に減圧する装置であるレギュレータと口をつなぐために口で咥える部分を言い、スノーケリングにおいてはスノーケルと一体となった口に咥える部分を言う。両者共に排水機能が付随していることが多い。 医療におけるマウスピースには以下のようなものがある。 顎や歯の負担を減らすための装置。代表的なものは歯ぎしりやくいしばりを軽減したりいびきを減らすナイトガードと呼ばれるもの。 素材は、シリコンやプラスティック。 また最近は、[歯列矯正]のために用いる矯正歯列にかたどった矯正器具等もある。
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マウスピース (Mouthpiece) とは各種目的に応じて歯・唇・舌などを用いて使用する機器・部品の総称で用途に応じた様々な形状・形態がある。日本語では口金。
'''マウスピース''' (Mouthpiece) とは各種目的に応じて歯・唇・舌などを用いて使用する機器・部品の総称で用途に応じた様々な形状・形態がある。日本語では口金。 == 楽器におけるマウスピース == {{Main|マウスピース (楽器)}} [[金管楽器]]の歌口部、[[木管楽器]]の吹口部(すいこうぶ)。 == スポーツにおけるマウスピース == {{Main|マウスピース (スポーツ)}} [[ボクシング]]などの[[格闘技]]、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]・[[アメリカンフットボール]]・[[アイスホッケー]]等のコンタクト・スポーツ、[[野球]]などの球技で身体への負担を軽減するために用いる口中に入れる装具。 また、[[スクーバダイビング]]においては空気を圧縮したタンクから呼吸に適した圧力に減圧する装置である[[レギュレータ (ダイビング)|レギュレータ]]と口をつなぐために口で咥える部分を言い、[[スノーケリング]]においてはスノーケルと一体となった口に咥える部分を言う。両者共に排水機能が付随していることが多い。 == 医療におけるマウスピース == 医療におけるマウスピースには以下のようなものがある。 * 口対口の人工呼吸の際に術者と患者または意識のない人との感染を防ぐための器具。皮膚感染しないようにシート状のものにマウスピースの付いた携帯式のものがある。 * [[内視鏡]]検査の際に胃カメラの挿入および術中のケーブル損傷を防ぐ目的の一般には硬質プラスチック製の中空器具。 * [歯科医療において]  顎や歯の負担を減らすための装置。代表的なものは歯ぎしりやくいしばりを軽減したりいびきを減らすナイトガードと呼ばれるもの。  素材は、シリコンやプラスティック。  また最近は、[歯列矯正]のために用いる矯正歯列にかたどった矯正器具等もある。 * 脊椎損傷などにより自発呼吸ができない場合に装着する器具。[http://www.normanet.ne.jp/~JSCF/SIRYOU/ssk06/qol-04.htm] * [[睡眠時無呼吸症候群]]の歯科・口腔外科的な治療に使われる器具。[[スリープスプリント]]。 == その他のマウスピース == ;マウスピース(美容) :顔の頬や口もとの筋肉を鍛え、顔の皮膚のたるみや贅肉の防止を図るために口角に挟んで用いるばね式の器具。 ;'''マウスピース(喫煙)''' :喫煙具のパイプはパイプ煙草の葉を燃やす火皿とマウスピースに分かれており、マウスピースは火皿の根元から口で咥える部分までの吸い口の部位を指す。マウスピースの口中で煙を吸い込む部分のフィニッシュと呼ばれる孔が小さいと煙の流速が速く流量も多いので辛く感じることがある。このため、横長や孔が二つに分かれているものがある。近年ではマウスピース内部にフィルターを挿入できるものが主流で材質はエボナイト製が多い。 ;'''マウスピース(通信)''' :電話器の送話口の部分。 [[Category:器具|まうすひいす]]
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灌仏会
灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われ、一般的には花祭・花祭り・花まつり(はなまつり)と呼ばれている。 降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)の別名もある。 釈迦が生まれたネパールでは釈迦の誕生日(ブッダジャヤンティ)は5月に行われている。 北伝仏教が伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠はない。インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日としてウェーサーカ祭で祝う。インド暦2月は中国暦で4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、タイにおけるソンクラーンなどインド暦の正月祭が起源である可能性もある。 現在は正月など他の伝統行事と同様に、日本とその他の東アジア圏や世界各地の華人社会は日付の慣行が全く異なる。日本ではグレゴリオ暦4月8日や寺院によって月遅れの同5月8日を灌仏会としているのに対し、東アジア圏では中国暦4月8日を灌仏会としている。 ネパールおよびインド・西域で行われていた、行道と呼ばれる仏像や仏塔の周りを回りながら恭しく礼拝する供犠や、行像と呼ばれる輿に仏像など信仰対象を載せ、華美な行列を組んで寺の外を練り歩く行事が、中国を経由して日本に入ってきて現在の形になったと考えられる。記録上、国内で最も古い仏生会は奈良県法隆寺の聖霊会(しょうりょうえ)で、行道面と呼ばれる仮面を被った人々に導かれた行列が、仏舎利と聖徳太子像を載せた輿を東院から西院に移し、管弦と舞楽を奉じた後に元に戻す法会だった。 灌仏会で執り行う法要が「灌仏会法要」である。 中国では、北魏の『洛陽伽藍記』巻1、長秋寺の条に、境内に三重塔があり、そこには白象に乗った釈迦が空中を飛行する像が荘厳されていた。ここでは毎年4月4日の降誕会に、その像を輿して都中を練行する行事が行なわれていたとある。その行事の際には、さまざまな奇術が演じられ、見物人に死人が出るほどの大盛況の様を呈したという。また、同書同巻の昭儀尼寺の条では、毎年4月7日の降誕会で、当寺の本尊と脇侍の2菩薩ともの三尊像が都中を練行して景明寺に赴き、それを景明寺の三尊が出迎える儀式が挙行されていた。その際の芸能音曲の賑わいは、長秋寺の法会に匹敵するものであったという記述も見られる。さらに、巻3、景明寺の条には、4月7日の昭儀尼寺の練行に続いて、4月8日に、練行の仏像が宮殿の前で皇帝の散華を受け、出し物は最高潮に達し、僧衆や信者が参集したとある。 日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)の中で、甘茶を満たした灌仏桶の中央へ安置した誕生仏像に柄杓で甘茶を掛けて祝うが、釈迦生誕時に産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来する。8、9世紀当初は寺院、宮中では種々の香料を用いた香湯を使っていたが、鎌倉時代 になって五香水・五色水になり、江戶時代になり甘茶になった。当時は、甘味の少ない時代であったので、この甘味は貴重だったのかも しれない。釈迦を本仏としない日蓮正宗等を除く大多数の寺院で執り行われて参拝者にも甘茶がふるまわれ、甘茶で習字すれば上達するとの願掛けや害虫除けのまじないを作るなどする。扱いを誤り使用不能に陥る状況を「お釈迦」とする表現は、炙り過ぎで鈍った金物を「火が強かった=しがつよかった」、「四月八日だ=しがつようかだ」、「釈迦の誕生日=しゃかのたんじょうび」と江戸言葉で訛らせた江戸鍛冶職人の隠語とも巷間される。 朝鮮では、旧暦4月8日に明かりを灯して仏に福を祈る燃灯会を行う。 明治時代のグレゴリオ暦導入後、4月8日は関東地方以西で桜が満開する時期である事から浄土真宗の僧侶安藤嶺丸が「花まつり」の呼称を提唱して以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。 民間ではこの時期に農事や山野での活動時期を迎え、明治以前から春季到来を祝す飲食や遊興の行事や、東日本では農事を忌む休日、山の神を祀る祭礼、山開きが、西日本では花立て、卯月年忌と称される墓参や施餓鬼が、卯月八日として4月8日に行われている。これら祖先神で農事神でもある山の神を祀る際、花が一種の依代として用いられることから、花で神や祖先を祀る民間習俗に仏教行事の灌仏会が習合して「花まつり」になったとする解釈もある。 「花まつり」という言葉自体は、1916年に日比谷公園で安藤嶺丸らが釈迦の誕生日法要をそう称したのが起源とされ、そこまで古いものではない。さらに、「まつり」という言葉も仏教行事ではあまり使われず、意外にもその起源はドイツにあるとされる。ドイツ惠光寺(ドイツ惠光日本文化センター)の書庫にある、財団法人国際仏教文化協会『ヨーロッパに広がるお念仏』という書籍によると、「1901年4月、当時ドイツに留学していた近角常観など18名が、ベルリンのホテル四季館に集まって誕生仏を花で囲み、仏陀生誕を讃える『Blumen Fest』を開催した。会には300人以上のドイツ人が参加して大いに盛り上がり、後にこのニュースが日本に伝えられ、灌仏会を日本でも『花まつり』と呼ぶようになった。」という記述がある。好評だったため翌年もベルリンで開催され、ストラスブルグやサンフランシスコでも同様の企画が立てられたが、結局ベルリン以外では開催されなかった。当時ドイツのストラスブルグにいた渡辺海旭が、1916年の花まつりの実行委員として大きな役割を果たしているところを見ると、これがベルリンの「Blumen Fest」の影響を受けていたことは間違いないとみられる。 寺院が経営する幼稚園や保育園の園児には甘茶を頂く日として馴染まれ、稚児行列する以下の寺院や仏教系教育機関もある。
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灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われ、一般的には花祭・花祭り・花まつり(はなまつり)と呼ばれている。 降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)の別名もある。
'''灌仏会'''(かんぶつえ)は、[[釈迦]]の誕生を祝う[[仏教]][[年中行事|行事]]である。[[日本]]では原則として毎年[[4月8日]]に行われ、一般的には'''花祭'''・'''花祭り'''・'''花まつり'''(はなまつり)と呼ばれている<ref>『世界大百科事典』平凡社(2007年)</ref>。 '''降誕会'''(ごうたんえ)、'''仏生会'''(ぶっしょうえ)、'''浴仏会'''(よくぶつえ)、'''龍華会'''(りゅうげえ)、'''花会式'''(はなえしき)の別名もある。 ==日付== 釈迦が生まれたネパールでは釈迦の誕生日(ブッダジャヤンティ)は5月に行われている。<br> [[Image:Shaka_at_birth_basin.JPG|170px|thumb|left|誕生仏 東大寺]] [[大乗仏教|北伝仏教]]が伝来した地方では、一般に[[釈迦]]の誕生日は[[中国暦]]4月8日とされているが、その典拠はない。[[インド]]と基本的に同系統の暦を用いる[[上座部仏教|南伝仏教]]圏では、釈迦の誕生日はインド系[[太陽太陰暦]]第2月15日として[[ウェーサーカ祭]]で祝う。インド暦2月は中国暦で4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。[[法顕]]の[[仏国記]]には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、[[グプタ朝]]治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。中国語で「[[卯]]の月」とは[[春分]]を含む月であり、[[タイ王国|タイ]]における[[ソンクラーン]]などインド暦の正月祭が起源である可能性もある。 現在は[[正月]]など他の伝統行事と同様に、[[日本]]とその他の東アジア圏や世界各地の[[華僑|華人]]社会は日付の慣行が全く異なる。日本では[[グレゴリオ暦]]4月8日や寺院によって[[月遅れ]]の同5月8日を灌仏会としているのに対し、東アジア圏では[[中国暦]]4月8日を灌仏会としている。 == 起源 == ネパールおよびインド・[[西域]]で行われていた、行道と呼ばれる仏像や仏塔の周りを回りながら恭しく礼拝する供犠や、行像と呼ばれる輿に仏像など信仰対象を載せ、華美な行列を組んで寺の外を練り歩く行事が、中国を経由して日本に入ってきて現在の形になったと考えられる<ref>{{Cite |和書 |author = 中村保雄 |title = 仮面と信仰 |date = 1993 |publisher = 新潮社 |series = 新潮選書 |isbn = 4106004364 |ref = harv }}145-146頁</ref>。記録上、国内で最も古い仏生会は[[奈良県]][[法隆寺]]の聖霊会(しょうりょうえ)で、行道面と呼ばれる仮面を被った人々に導かれた行列が、[[仏舎利]]と[[聖徳太子]]像を載せた輿を東院から西院に移し、管弦と舞楽を奉じた後に元に戻す[[法会]]だった。 ==風習== [[Image:A birthday of Buddha,hanamatsuri,kanpukuji-temple,katori-city,japan.JPG|thumb|left|150px|灌仏会(花祭り)の花御堂と誕生仏]] 灌仏会で執り行う[[法要]]が「灌仏会法要」である。 [[中国]]では、[[北魏]]の『[[洛陽伽藍記]]』巻1、長秋寺の条に、境内に[[三重塔]]があり、そこには白象に乗った[[釈迦]]が空中を飛行する像が荘厳されていた。ここでは毎年[[4月4日]]の降誕会に、その像を輿して都中を練行する行事が行なわれていたとある。その行事の際には、さまざまな奇術が演じられ、見物人に死人が出るほどの大盛況の様を呈したという。また、同書同巻の昭儀尼寺の条では、毎年[[4月7日]]の降誕会で、当寺の本尊と脇侍の2菩薩ともの三尊像が都中を練行して景明寺に赴き、それを景明寺の三尊が出迎える儀式が挙行されていた。その際の芸能音曲の賑わいは、長秋寺の法会に匹敵するものであったという記述も見られる。さらに、巻3、景明寺の条には、4月7日の昭儀尼寺の練行に続いて、[[4月8日]]に、練行の仏像が宮殿の前で皇帝の散華を受け、出し物は最高潮に達し、僧衆や信者が参集したとある<ref>「洛陽伽藍記 水経注」p15 1974年(昭和49年)9月1日初版発行 [[楊衒之]]著 [[入矢義高]]訳 平凡社</ref><ref>「[[魏書]][[釈老志]]」p184 1990年(平成2年)2月9日初版発行 [[魏収]] [[塚本善隆]]訳注 平凡社([[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]版)には、魏書釈老志への引用と、訳注者による解説がある。</ref>。 [[File:SHAKA GOICHIDAIKI ZUE 1839 Buddha's Birthday.jpg|thumb|生まれたばかりの釈迦に天上から竜が水を注ぐ。[[葛飾北斎]]・画。『釈迦御一代記図会』(1839年)より]] [[日本]]では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)の中で、[[甘茶]]を満たした灌仏桶の中央へ安置した誕生仏像に柄杓で甘茶を掛けて祝うが、釈迦生誕時に産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来<ref>「年中行事事典」p242 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref>する。8、9世紀当初は寺院、宮中では種々の香料を用いた香湯を使っていたが、鎌倉時代 になって五香水・五色水になり、江戶時代になり甘茶になった。当時は、甘味の少ない時代であったので、この甘味は貴重だったのかも しれない。釈迦を本仏としない[[日蓮正宗]]等を除く大多数の寺院で執り行われて参拝者にも甘茶がふるまわれ、甘茶で[[習字]]すれば上達するとの願掛けや害虫除けのまじないを作るなどする。扱いを誤り使用不能に陥る状況を「お釈迦」とする表現は、{{要出典範囲|炙り過ぎで鈍った金物を「火が強かった=しがつよかった」、「四月八日だ=しがつようかだ」、「釈迦の誕生日=しゃかのたんじょうび」と江戸言葉で訛らせた江戸鍛冶職人の隠語|date=2015年11月|title=この記述の信頼できる情報源を求めています。}}とも巷間される。 [[朝鮮]]では、旧暦4月8日に明かりを灯して仏に福を祈る[[燃灯会]]を行う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%87%83%E7%81%AF%E4%BC%9A-1193916 「ねんとうえ」 - 世界大百科事典 第2版]</ref>。 ==花まつり== [[明治時代]]の[[グレゴリオ暦]]導入後、4月8日は[[関東地方]]以西で[[桜]]が満開する時期である事から[[浄土真宗]]の僧侶[[安藤嶺丸]]が「花まつり」の呼称を提唱して以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。 民間ではこの時期に農事や山野での活動時期を迎え、明治以前から春季到来を祝す飲食や遊興の行事や、東日本では農事を忌む休日、山の神を祀る祭礼、山開きが、西日本では花立て{{Efn2|シャクナゲ、ツツジ、卯の花などを竹竿の先に束ねて庭先や木の枝に高く掲げる。}}、卯月年忌と称される墓参や施餓鬼が、[[卯月八日]]として4月8日に行われている。これら祖先神で農事神でもある山の神を祀る際、花が一種の[[依代]]として用いられることから、花で神や祖先を祀る民間習俗に仏教行事の灌仏会が習合して「花まつり」になった<ref>和歌森太郎「卯月八日」『国史大辞典』第2巻、吉川弘文館、1980年、P127</ref>とする解釈もある。 「花まつり」という言葉自体は、1916年に[[日比谷公園]]で安藤嶺丸らが釈迦の誕生日法要をそう称したのが起源とされ{{efn2|当時の記録では、日比谷公園には多くの人々が集まったらしい<ref name="higan">{{Cite web|和書|url=https://higan.net/ineurope/2018/04/blumen_fest/|title=8.「花まつり」の起源はドイツだった!?|date=2018-4-8|publisher=彼岸寺|accessdate=2019-4-9}}</ref>。}}、そこまで古いものではない。さらに、「まつり」という言葉も仏教行事ではあまり使われず、意外にもその起源は[[ドイツ]]にあるとされる。ドイツ惠光寺(ドイツ惠光日本文化センター)の書庫にある、財団法人国際仏教文化協会『ヨーロッパに広がるお念仏』という書籍によると、「1901年4月、当時ドイツに留学していた[[近角常観]]など18名{{efn2|当時の参加者の寄せ書きによれば、中心人物は近角であったようだが、他の発起人は[[美濃部達吉]]、[[姉崎正治]]、[[芳賀矢一]]、[[巖谷小波]]、[[倉知鉄吉]]、[[藤代禎輔]]、[[松本文三郎]]、[[松村松年]]、[[長岡外史]]、[[玉井喜作]]、[[津軽英麿]]、[[吉田静致]]、[[薗田宗恵]]という錚々たる面々だった<ref name="higan"/>。}}が、ベルリンのホテル四季館に集まって誕生仏を花で囲み、仏陀生誕を讃える『Blumen Fest{{efn2|ブルーメンフェスト。日本語に訳すと「花まつり」。}}』を開催した。会には300人以上のドイツ人が参加して大いに盛り上がり、後にこのニュースが日本に伝えられ、灌仏会を日本でも『花まつり』と呼ぶようになった。」という記述がある。好評だったため翌年もベルリンで開催され、[[ストラスブール|ストラスブルグ]]や[[サンフランシスコ]]でも同様の企画が立てられたが、結局ベルリン以外では開催されなかった<ref name="higan"/>。当時ドイツのストラスブルグにいた[[渡辺海旭]]が、1916年の花まつりの実行委員として大きな役割を果たしているところを見ると、これがベルリンの「Blumen Fest」の影響を受けていたことは間違いないとみられる{{efn2|そもそも「Blumen Fest」と名付けた人物が「花まつり」の名付け親とも言えるが、『[[仏教タイムス]]』の中で「巌谷小波あたりが命名したのでは」という記事がある。仮にそうなら、僧侶以外が命名したことになる<ref name="higan"/>。}}。 ==稚児行列== 寺院が経営する[[幼稚園]]や[[保育園]]の園児には甘茶を頂く日として馴染まれ、[[稚児行列]]する以下の寺院や仏教系教育機関もある。 ;4月上旬 - [[護国寺]]:[[東京都]][[文京区]]在。 ;4月8日 - [[龍光寺]]:[[群馬県]][[富岡市]]在。 ;5月5日 - [[永源寺]]:[[埼玉県]][[坂戸市]]在、[[遊女|おいらん道中]]も列する。 ;5月5日 - [[大光院 (太田市)|大光院]]:群馬県[[太田市]]在。 ;5月8日 - [[光泉寺]]:群馬県[[草津町]]在、[[手古舞]]も列する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== *片茂永「花祭りの創出・軍国調・衰弱」『文明21』第13号,愛知大学,2004年. *片茂永『初八日民俗論』民俗苑(ソウル),2002年. *片茂永 「仏誕節から見たアジア」『LLニュース』no.33.愛知大学豊橋語学教育研究室,2006年10月. *片茂永「日本の花祭と商業主義」『三和寺と国行水陸大斎』2008,三和寺国行水陸大斎学術大会論文集(ソウル),pp.141-168. *片茂永「仏誕節からみる中国仏教民俗の伝承と断絶に関する問題」『比較民俗研究』25,2011年. *日本民俗大辞典(全2巻、吉川弘文館、ISBN 4642013334、他)下P383-384 *風俗辞典(東京堂出版、1957-1981年)P589-590 ==関連項目== * [[涅槃会]]・[[成道会]] * [[花祭 (霜月神楽)|花祭]] - [[愛知県]][[三河国|三河]]地方山間部で行われる[[霜月神楽]]の別名 * [[千部会]] * [[お会式]] * [[お十夜]] * [[ウェーサーカ祭]] - [[上座部仏教]]における釈迦誕生日 * [[卯月八日]] -- 旧暦の4月8日に行われた民間祭礼、期日は灌仏会の影響を受けたとされる {{Buddhism-stub}} {{釈迦}} {{DEFAULTSORT:かんふつえ}} [[category:仏教行事]] [[category:4月]] [[category:旧暦4月]] [[Category:日本の祭り]] [[Category:釈迦]] [[Category:誕生日]] [[Category:宗教祭]] [[Category:春の季語]]
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如来
如来(にょらい)とは、サンスクリットのタターガタ(梵: तथागत, tathāgata)の漢訳であり、語義は諸説あるが、仏教で釈迦や諸仏の称呼に用いられる。 仏陀の10の称号である十号の一つ。如来を総名として十号の内に数えない場合もある(十号#異説を参照)。 原語は梵: तथागत(tathāgata、タターガタ)であり、多陀阿伽陀(ただあかだ)、多陀阿伽度(ただあかど)などと音写し、如来や如去と訳す。この上なき尊い者という意味で無上上ともいわれる。 ブッダゴーサによる語義釈の全てではないが、一部として、 などがある。 仏教学者の中村元によれば、「タターガタ」(tathāgata)とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義であり、仏教・ジャイナ教・その他の古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味した語であるが、「如来」という漢訳表現には「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という後世の大乗仏教的な見解がひそんでいて、初期仏教における語義とは乖離があるという。 問う。如を体とし、しこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身にして来の義あるべし。真如法身には、いかんが来あるや。
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如来(にょらい)とは、サンスクリットのタターガタの漢訳であり、語義は諸説あるが、仏教で釈迦や諸仏の称呼に用いられる。 仏陀の10の称号である十号の一つ。如来を総名として十号の内に数えない場合もある(十号#異説を参照)。
{{Infobox Buddhist term |title=如来 |en=One who has thus gone |sa=Tathāgata |vi=Như Lai |zh=[[wikt:如来|如来]] |zh-Latn=rú laí/ Cantonese=yu loi |mn= ᠲᠡᠭᠦᠨᠴᠢᠯᠡᠨ ᠢᠷᠡᠭᠰᠡᠨ <br>Түүнчлэн ирсэн |my= |my-Latn= |ja= 如来 |ja-Latn=nyorai |ko=여래 |ko-Latn=yeorae |th=ตถาคต |bo=དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་ |bo-Latn= |vn=Như Lai |km=តថាគត<br> (tathakut) }} '''如来'''(にょらい)とは、[[サンスクリット]]の'''タターガタ'''({{lang-sa-short|तथागत}}, {{IAST|tathāgata}})の漢訳であり、語義は諸説あるが、[[仏教]]で[[釈迦]]や諸仏の称呼に用いられる<ref name="iwanami">『岩波 仏教辞典』第二版、岩波書店、2002年。</ref>。 [[仏陀]]の10の称号である[[十号]]の一つ<ref name="コトバンク如来" /><ref name="コトバンク十号">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%8F%B7-76931|title=十号(じゅうごう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-23}}</ref>。如来を総名として十号の内に数えない場合もある([[十号#異説]]を参照)<ref name="総合仏教大辞典1124" />。 == 語義 == [[原語]]は{{lang-sa-short|तथागत}}({{IAST|tathāgata}}、タターガタ)であり、多陀阿伽陀(ただあかだ)、多陀阿伽度(ただあかど)などと[[音写]]し、'''如来'''や'''如去'''と訳す<ref name="総合仏教大辞典1124">{{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=下巻 |page=1124-1125 }}</ref><ref name="コトバンク如来">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5-110688|title=如来(にょらい)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-23}}</ref>{{efn|「如 ({{lang|sa|tathā}}、タター) 」の後に来る語を「去れる ({{lang|sa|gata}}、ガタ) 」とするか「来れる ({{lang|sa|āgata}}、アーガタ) 」とするかで'''如去'''、'''如来'''と[[漢訳]]し分けられる{{要出典|date=2017年10月25日 (水) 22:43 (UTC)|title=}}。}}。{{要検証範囲|この上なき尊い者という意味で'''無上上'''ともいわれる|title=無上上とは同じく十号の1つである無上士(anuttara)のことではないのか|date=2018-10}}<ref name="総合仏教大辞典1124" />。 === 解釈 === ==== ブッダゴーサ(仏音)による解釈 ==== [[ブッダゴーサ]]による語義釈<ref>[{{NDLDC|1261494/443}} 荻原雲来『怛他伽多(tathagata)と云ふ語の起原と其の意義』]</ref>の全てではないが、一部として、 #{{lang|pi|tathā āgata}}(如く到れる) - 「(古仏と)同じく一切を知る智慧に到達した者」。過去に出現した古仏がみな一切智性に到達した様に、同様に釈迦牟尼仏も一切智性に到達したため。 #{{lang|pi|tathā gata}}(如く去れる) - 「(古仏と)同じくすべての煩悩を滅して去る者」。 #{{lang|pi|tatha-lakkhaṇaṃ āgata}}(真如相に通じる) -  「[[真如]] ({{lang|pi|tatha}} タタ) の特徴を悟った者」。 などがある。 ==== 中村元による解釈 ==== [[仏教学]]者の[[中村元 (哲学者)|中村元]]によれば、「タターガタ」({{lang|pi|tathāgata}})とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義であり、仏教・[[ジャイナ教]]・その他の古代[[インド]]当時の諸[[宗教]]全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味した語であるが、「如来」という漢訳表現には「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という後世の[[大乗仏教]]的な見解がひそんでいて、[[初期仏教]]における語義とは乖離があるという<ref>{{要追加記述範囲|中村元 『ブッダ最後の旅』 岩波書店〈[[岩波文庫]]〉pp.263-264|date=2017-10-26|title=出版年が記入されていない。版によって内容が変わっている可能性があるため出版年の表示は重要。}}</ref>。 ==== 真身如来 ==== {{quote|如来とは、如実の道に乗じて、正覚を来成するが故に、如来という。<br/>{{fontsize|small|(如来者乗如実道来成正覚故曰如来)}}|[[訶梨跋摩|ハリヴァルマン]]『[[成実論]]』}} {{quote|如実にして来なるが故に如来と名づく。…何れの法を如と名づくや?涅槃を如と名づく…知る故に来と名づく…来の義はかくのごとし。涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。涅槃を正しく覚するが故に如来と名づく。<br/>{{fontsize|small|(如実而来故名如来…何法名如涅槃名如…知故名来…来義如是。涅槃名如。知解名来。正覚涅槃故名如来。)}}|[[世親]]『[[転法輪経憂波提舎]]』}} {{quote|如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。<br/>{{fontsize|small|(如実道来故名為如来)}}|『[[大智度論]]』}} ==== 応身如来 ==== {{quote|如来というは如を体とし、しこうして来たる。故に如来と名づく… 問う。如を体とし、しこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身にして来の義あるべし。真如法身には、いかんが来あるや。 答う。本は隠れしが今顕れるが如く、また来と称するを得。<br/>{{fontsize|small|(二釈名門者。体如而来。故名如来。又如諸仏。故名如来。問。体如而来。故名如来。此是応身可有来義。真如法身云何有来。答。如本隠今顕。亦得称来。)}}|[[吉蔵]]『勝鬘宝窟』}} {{quote|つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ[[第十一願|必至滅度の願(第十一願)]]より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は'''如より来生'''して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。|[[親鸞]]<ref>{{要追加記述範囲|親鸞 『[顕浄土真実教行証文類]』「証巻」 聖典註釈版、p.307|date=2017-10-26|title=出版年が記入されていない。}}</ref>}} == 如来の例 == {{main|仏の一覧#如来部}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * [http://www.nature.ac.cn/sky/nature-sky-times-pdf.pdf 身心性法 (Āgama)] * [http://www.nature.ac.cn/star/nature-star-times-pdf.pdf 覺行如若 (Tathatā)] == 関連項目 == * [[菩薩]] * [[明王]] {{Buddhism2}} {{仏陀}} {{密教2}} {{Buddhism-stub}} {{デフォルトソート:によらい}} [[Category:如来|*]] [[Category:仏性]] [[Category:仏教哲学の概念]]
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発達障害
発達障害(はったつしょうがい、英: Developmental disability、DD)は、身体や、学習、言語、行動の何れかにおいて不全を抱えた状態であり、その状態はヒトの発達期から現れる。 日本の行政上の定義では、発達障害者支援法が定める「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」とされる。定義上、背景となる障害は様々であることから、発達障害の認定は専門家でも難しい判断となる。2013年時点で小・中学生に77,882人の発達障害者が確認されており、発達障害への理解が社会で急速に進んでいることから、過去20年における統計では増加傾向にある。特に、昭和以前の時代には変わり者,とんちんかん、やんちゃ、わんぱく等と一般市民の間で曖昧に分類された人々が、医学の進歩により発達障害者として理解されるようになったことが大きい。境界知能といわれる、知的障害者と見なされないが健常者としては低水準の知能指数(IQ)しか持たない者についても、生活の質(QOL)が著しく下がっている可能性もあり、一般人への啓蒙や社会制度の隙間を埋める対策が急務となっている。 学術的な分類での発達障害は、知的障害なども含むもう少し広い分類である。そうした診断分類では『ICD-10 第5章:精神と行動の障害』では、「F80-F89 心理的発達の障害」「F90-F98 小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害」、米国精神医学会による『精神障害の診断と統計マニュアル』 (DSM) では、第4版 (DSM-IV) では「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」、DSM-5では神経発達症となる。 義務教育段階の通常の学級で発達障害者は6.5%程度の在籍率という文部科学省の調査結果と、成人期に障害を持ち越す例もかなり多いことを考えると、社会の様々な組織で頻繁に見られる障害であるといえる。この障害は社会生活を著しく困難にするため、退学・退職などに繋がりやすく、ワーキングプアや引きこもりの発生にも関係している。 成年以降の発達障害を大人の発達障害と呼ぶ。不足した能力が周囲の環境にカバーされ、決まり切ったスケジュールに沿って与えられたタスクだけ行っていれば良い学生時代に目立った問題が出なくても、暗黙の前提を理解して多様なタスクを遂行する必要がある社会人生活で多数の問題が発生し、発達障害の保有が発覚することもある(詳しくは大人の発達障害を参照)。また、障害という言葉の重いイメージから、本人あるいは周囲が発達障害と認めないことも多々ある。 背景に脳機能の偏りがあり、原因も症状も個人ごとに様々であるため、単にミスが多かったり社交的でないからといって発達障害に含めることはできない。 発達障害の原因は多岐にわたり、不明な点が多く残されている。複数の要素が関係し、遺伝的、胎児期の保健状態、出生時の環境、感染症、環境要因などが挙げられている。双子研究により、遺伝要因とそれ以外の要因の影響度を算出することが可能で、自閉症スペクトラム障害とADHDに関しては遺伝要因の影響が大きいと分かっている。 大部分の発達障害は乳児出生前に形成されるが、一部は出生後の外傷、感染症、その他の要素に起因することもある。原因は多々あるが、たとえば以下が挙げられる。原因の同定には複数の検査を組み合わせる必要があり、検査コストが高く、誤診の頻度も高くなる傾向にある。従って、専門家でない者が容易に扱えるような障害ではない。 発達障害の用語は1963年にアメリカで法律用語として作られ、1970年代に日本に入ってきたとされる。 21世紀となり、精神医学で主に使われる国際的な診断分類は2種類ある。学術的分類である。 WHOによる国際疾病分類である『ICD-10 第5章:精神と行動の障害』では、以下が該当する。 米国精神医学会によるDSM-5では、 の一部が相当する。このようにICD-10とDSM-5では分類体系が一致していない。DSM-5にはICD-11が、DSM-IVにはICD-10が対応するため、これらは対応関係にあるものではない。 DSM-IVでは「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」が同様の分類である。これらは、以降で挙げるような、広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害、知的障害だけでなくもう少し広く含まれている分類である。 そのほか、アメリカ疾病予防管理センターのサイトでは以下が挙げられている。 日本発達障害福祉連盟の定義では、知的障害(精神遅滞)を含み、それを中核として生涯にわたる支援が必要な状態である。東京都多摩府中保健所の文献では、これを「広義の発達障害」の定義とし、「狭義の発達障害」の定義は発達障害支援法のものとして、以下である。狭義というのは日本の行政上の定義であり、文部科学省でもこの定義である。学術的な定義とは一致していない。 狭義の発達障害 広義には、知的障害、先天的な運動発達障害、てんかんが含まれる。 厚生労働省で開催された、2005年3月の第3回「発達障害者支援に係る検討会」では、定義について検討している。 日本の発達障害者支援法(2005年4月制定)によれば、第2条1項で『この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう』とされる。2項で発達障害者、18歳未満では発達障害児と定めている。 通知文が別途出ている。 1980年代以降、知的障害のない発達障害が社会に認知されるようになった。知的障害が含まれる発達障害は法律上は知的障害扱いであるため、単に発達障害という場合は特に知的障害のないものを指すことがある。 このうち、学習障害 (LD)、注意欠陥・多動性障害 (ADHD)、高機能広汎性発達障の3つについては、日本において「軽度発達障害」と称されてきた。この「軽度」とは「精神遅滞に該当しない」という意味だが、発達障害が軽度であると誤解を招いたため、現在では便宜的に「(軽度)発達障害」として分類することがある。なお、高機能広汎性発達障害(高機能PDD)や高機能自閉症という名称も存在するが、これらも知能が精神遅滞に該当しないという意味の「高機能」である。また、高機能自閉症の診断基準は明確ではなく、臨床においてはアスペルガー症候群と厳密に区別する必要はないとされている。 明確な判断は、精神科を標榜する精神科医の間でも大学でこの分野を学んでいないなどの理由で困難とされている。各都道府県や政令指定都市が設置する、発達相談支援施設で、生育歴などがわかる客観的な資料や、認知機能試験(IQ検査、心理検査等を含む)などを行って、複数人の相談員や心理判定員などが見立てとなる判断材料を出す形で、数少ない専門医師が判断し、どのような治療が必要か、SSTが必要かなどの材料を精神科医に提供する、というケースが多い。 環境変化に弱く、環境への適応も苦手とされる。精神保健研究所の研究員は、「極論だが、発達障害のある子供たちは『日常的に災害のような事態』を経験しているようにも思える」という表現している。 2000年頃からの日本において、「軽度発達障害」という概念が、「精神遅滞」「身体障害」を伴わない発達障害として杉山登志郎により提唱された 。これは高機能広汎性発達障害(高機能PDD、アスペルガー症候群や高機能自閉症などを指す)、LD、ADHD等、知的障害を伴わない(すなわち総合的なIQが正常範囲内)疾患概念を指して使われる(ただし、ADHDについては、別途知的障害を併発するケースがある)。ここでいう「高機能」という語も、「軽度」という言葉同様、知的障害のないという意味でつかわれている。「軽度」と呼称される根拠は、「知能が比較的高い」ためである。 厚生労働省はこの用語について、「世界保健機構 (WHO) のICD-10分類に存在しない」、「アメリカ精神医学会のDSM-V]に存在しない」ことを指摘し、「誰がどのような意図で使い始めたのか分からないまま広がった用語である」として注意を促している。また、その語感から、「障害の程度が軽度である」と誤解されがちだが、上述の理由から、必ずしも障害自体が軽度とは限らない。文部科学省も2007年、「『軽度発達障害』の表記は、その意味する範囲が必ずしも明確ではないこと等の理由から、今後は原則として使用しない」と発表している。 「軽度」といわれるが、罹患者の抱える問題は決して軽くはなく、早期の理解と適切な支援が望ましいとされる。理解、発見が遅れた場合、いじめ、不登校、非行など二次的な症状を発生させることがある。 子供が期待される発達段階に達していない場合、発達障害を疑うことができる。問診および遺伝子検査などが、鑑別疾患を除外するために行われる。 障害の程度は、発達年齢(developmental age)と実年齢との相違を基準として定量化することができる。このスコアはDQ (developmental quotient) として以下に定義される D Q = D e v e l o p m e n t a l a g e C h r o n o l o g i c a l a g e × 100 {\displaystyle DQ={\frac {Developmental\ age}{Chronological\ age}}\times 100} 知能検査(ウェクスラー成人知能検査)で言語性IQと動作性IQの開きが激しい場合は、発達障害を疑ったり、当人へ特別な支援が必要とされている。 患者本人は少なくとも場の文脈に応じた行動を取ることが難しい。幼少期に発達障害と診断されていなくても、人間関係の中で奇異な行動が問題視され、障害の事実が炙り出される可能性が高い。成人期以降に発見される発達障害は、大人の発達障害と呼ばれ、社会問題となっている。 発達障害における早期発達支援のための、応用行動分析 (ABA) の手法を駆使した発達支援プログラムが、数多くのエビデンスによって有効であるとされている。また、同じく発達障害における感情調整や問題解決を支援するための、認知行動療法の手法を駆使したプログラムも、取り組みやすいとされている。オープンダイアローグによる治療の可能性が期待されている。 発達障害者の一部は挑戦的行動という習慣を抱えており、これは「本人または周囲の身体的安全を危険に晒したり、一般的なコミュニティ施設の利用について喫緊に制限・拒否されるほどの強度・頻度・期間がある、文化的に非常識な行動」と定義されている。 発達障害者が行う挑戦的行動の原因には、次のような多々の要素がある。 挑戦的行動は、多くの時間をかけて学習と報酬によって獲得されたものであり、同じ目的を達成するための新たな行動を教えれば、その行動を改善させることができる可能性は高い。発達障碍者の挑戦的行動は、多くの場合、何か他の精神的問題が原因のことがある。 一般的には、行動的介入や応用行動分析などの技法により、特定の挑戦的行動を減らすことに効果があると知られている。近年では、行動文脈分析による発達パスモデルの開発が、挑戦的行動の予防について効果があるといわれている。 アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、3-17歳児童の約17%について発達障害があり、ADHD、自閉症スペクトラム障害、脳性麻痺、難聴、知的障害、学習障害、視力障害、およびその他の発育不全などを1つ以上抱えているとしている。 たとえば難聴乳児の25%は、胎児期のサイトメガロウイルス感染によるものである。 CDCの1997–2008年の研究によれば、発達障害の有病率は13.87%、うち学習障害 7.66%、ADHD 6.69%、その他の発達不全 3.65%、自閉症 0.47%であった。 2002年、文部科学省が小中学生を対象に調査したデータによれば、知能発達に遅れはないが、日常の学習や行動において特別な配慮が必要とされる、「発達障害などの」児童が6.3%いることが判明した。 2006年に名古屋市西部地域医療センター調査した結果によれば、当該地域に居住する6歳から8歳までの児童13558名の内、2.07%を占める281名が広汎性発達障害(PDD)の診断を受けた。その内、知能指数が71以上の「高機能自閉症」は177名であった。 2022年、文部科学省が調査したデータでは「発達障害などの」児童は10年前より上昇し8.8%となったが、これは教育現場で発達障害への認知が進んだことや、質問項目の変化によるものとされる。同年の調査では高校生の調査も行われ、学習障害、注意欠陥多動性障害、高機能自閉症約のいずれかに該当する生徒は2.2%であった。 平成時代以降の急激な情報化の進展で、職場のスケジュールが過密になり、大人の発達障害が社会問題となった。発達障害者は概ね、仕事に対する視野の狭さから、自ら問題を設定して解決することが難しいため、詳細な指示がない限り、正しく作業を行うことができない。そうした特性が、情報化による多様化の時代にあって柔軟性の欠如として問題視された。特に発達障害者は下記3つの変化に対応できず、ローパフォーマー社員と化しており、法律上の解雇規制が強く働く日本企業においては発達障害に気付かず採用してしまった人材への対応に苦慮している。 思想的には、能力の違いに応じて生じる不平等が正当だと考えるメリトクラシーの定着があり、発達障害者がメリトクラシーの脱落者となっていると言える。 発達障害者は基本的に鈍臭く、段取りが組めないため、集団内で不和を生み、嫌われ者として排除されることがほとんどである。 大抵の場合、発達障害者自身の管理能力や他者への想像力が無く、コミュニケーションパターンも稚拙であるため、社会生活で問題を抱えることになる。また、特定の物事については特段に(社会的に容認し難いほど)拘りが強い場合があり、客観的には能力の偏りとも捉えられる。 例外的に、自身の特性を活かして成功を収めている(ADHD特有の幅広い行動を活かして起業家になるなど)発達障害者も居るが、一般的な発達障害者の末路は暗い。理由としては、軽度発達障害者は親を始め周りからも一般的な発達障害者よりも遥かに理解されないまたは理解されにくく、軽度だからと普通を求められたり、中途半端に健常者扱いされることや、他の発達障害者でも協調性に欠けていることが多く、社会的孤立について高いリスクを負っているためである。通常、発達障害者は文脈の理解が苦手で、悪気なく自己中心的な行動を行うため、周囲との協調が取れず社会生活に困難を来たすことが多い。あるいは、周囲に対して挑戦的な態度を取り、信頼関係を破壊してしまう。また、会話も単発の受け答えで終わることが多く、雑談を継続できないため、仕事以外での人間関係の維持も困難である。周囲からの指摘を繰り返し受けても、発達障害者は何が問題であるか理解できず、行動を改善しないため、周囲は発達障害者に対する評価を大幅に下げ、徐々に関わりを持たなくなって行く。周囲との協調が行えないことから、発達障害者は学生時代のうちに誰からも嫌われて不登校になるか、そうでなくても、社会人になった途端に認識の漏れや誤った解釈が多いという点で問題社員として扱われ始め、一切の信用を失った上で左遷や解雇などで職場を追われることが多い。 しかし、発達障害者は(軽度発達障害の親も)自身や我が子の障害を認めない傾向が強く、障害の事実を隠蔽したり、転職を余儀なく行う場合でも似たような職業を選択する傾向にあるほか、親が子供は発達障害ではないと否定したことで周りを振り回すことも増えている。また、周囲に発達障害の事実を伝えたとしても「普通にあること」や「甘え」として処理されたり、社会生活において何度も挫折することで引きこもりに至ることもあるほか、無理解親や学校・社会などの精神的負担及びストレスで二次障害を抱える人もかなり多くなっている。特に軽度発達の人はより無理解や精神的負担が大きいために二次障害を起こしやすい。 大まかな職業適性として、情報システム開発などのモノ作りの技術には非常に優れる場合が多い(ただし、コーディングのような下流工程のみ)が、関係者を纏めて牽引するリーダーには不適であり、管理職試験にも合格しないことが多いと報告されている。従って、勤続年数が増えても出世や結婚で同期に遅れを取り、収入の増え幅も少なく、生活水準も中々上がらない。 文部科学省側では、「厚生労働省では従来より発達障害は精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(精神保健福祉法)に規定された精神障害者向けの障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳の対象として明記していないが、発達障害は精神障害の範疇として扱っている」としている。 厚生労働省側の通知、「精神障害者保健福祉手帳の障害等級の判定基準について」平成18年9月29日改定の「精神障害者保健福祉手帳障害等級判定基準の説明」によると、その他の精神疾患として「心理的発達の障害」、「小児(児童)期および青年期に生じる行動および情緒の障害」(ICD-10による)と明記し、発達障害の各疾患を対象にしている。同省の通知では申請用診断書にICD-10カテゴリーF80-F89、F90-F98の記入が可能ではある。 一方、書籍によっては二次障害がなければ取得できないとしているものもある。各自治体によって精神障害者保健福祉手帳の認定基準が異なるためでもある。 知的障害者向けの障害者手帳の療育手帳取得の適法化を求める声も多いとされているが、療育手帳自体が根拠となる法律がなく、1973年に厚生省(現・厚生労働省)が出した通知「療育手帳制度について」や「療育手帳制度の実施について」を参考に都道府県や政令指定都市の独自の事業として交付されているため、地域によっては取得できるところもある。 同省が出した各通知は1999年に地方自治法(施行は2000年4月)の改正で、国が通知や通達を使って地方自治体の事務に関与することができなくなった(機関委任事務の廃止)影響ですでに効力は失っている。 同法(平成16年12月10日法律第167号)では、知的障害者以外の発達障害者だけを支援対象として規定している。 以前から条文に明記はしていないものの対象である。ただし、2009年7月24日時点では市町村における運用が徹底されていないとの意見がある。よって2010年12月3日、障がい者制度改革推進本部等における検討を踏まえて「障害保健福祉施策を見直すまでの間において障害者等の地域生活を支援するための関係法律の整備に関する法律(通称、障害者自立支援法改正案)」を成立させ、障害者自立支援法を改正、発達障害を明記させた。 症状によって生活や仕事の制限を受けるような場合、障害年金の支給対象となる場合がある。 発達障害児または者の親らで作る相互扶助等を目的として組織された団体があり、一般に「親の会」と名乗っているほか、自閉症関連団体としては社団法人日本自閉症協会がある。発達障害関係の団体が加盟する組織としては日本発達障害ネットワークがある。 関連する知的障害に関することも記述する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "発達障害(はったつしょうがい、英: Developmental disability、DD)は、身体や、学習、言語、行動の何れかにおいて不全を抱えた状態であり、その状態はヒトの発達期から現れる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本の行政上の定義では、発達障害者支援法が定める「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」とされる。定義上、背景となる障害は様々であることから、発達障害の認定は専門家でも難しい判断となる。2013年時点で小・中学生に77,882人の発達障害者が確認されており、発達障害への理解が社会で急速に進んでいることから、過去20年における統計では増加傾向にある。特に、昭和以前の時代には変わり者,とんちんかん、やんちゃ、わんぱく等と一般市民の間で曖昧に分類された人々が、医学の進歩により発達障害者として理解されるようになったことが大きい。境界知能といわれる、知的障害者と見なされないが健常者としては低水準の知能指数(IQ)しか持たない者についても、生活の質(QOL)が著しく下がっている可能性もあり、一般人への啓蒙や社会制度の隙間を埋める対策が急務となっている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "学術的な分類での発達障害は、知的障害なども含むもう少し広い分類である。そうした診断分類では『ICD-10 第5章:精神と行動の障害』では、「F80-F89 心理的発達の障害」「F90-F98 小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害」、米国精神医学会による『精神障害の診断と統計マニュアル』 (DSM) では、第4版 (DSM-IV) では「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」、DSM-5では神経発達症となる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "義務教育段階の通常の学級で発達障害者は6.5%程度の在籍率という文部科学省の調査結果と、成人期に障害を持ち越す例もかなり多いことを考えると、社会の様々な組織で頻繁に見られる障害であるといえる。この障害は社会生活を著しく困難にするため、退学・退職などに繋がりやすく、ワーキングプアや引きこもりの発生にも関係している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "成年以降の発達障害を大人の発達障害と呼ぶ。不足した能力が周囲の環境にカバーされ、決まり切ったスケジュールに沿って与えられたタスクだけ行っていれば良い学生時代に目立った問題が出なくても、暗黙の前提を理解して多様なタスクを遂行する必要がある社会人生活で多数の問題が発生し、発達障害の保有が発覚することもある(詳しくは大人の発達障害を参照)。また、障害という言葉の重いイメージから、本人あるいは周囲が発達障害と認めないことも多々ある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "背景に脳機能の偏りがあり、原因も症状も個人ごとに様々であるため、単にミスが多かったり社交的でないからといって発達障害に含めることはできない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "発達障害の原因は多岐にわたり、不明な点が多く残されている。複数の要素が関係し、遺伝的、胎児期の保健状態、出生時の環境、感染症、環境要因などが挙げられている。双子研究により、遺伝要因とそれ以外の要因の影響度を算出することが可能で、自閉症スペクトラム障害とADHDに関しては遺伝要因の影響が大きいと分かっている。 大部分の発達障害は乳児出生前に形成されるが、一部は出生後の外傷、感染症、その他の要素に起因することもある。原因は多々あるが、たとえば以下が挙げられる。原因の同定には複数の検査を組み合わせる必要があり、検査コストが高く、誤診の頻度も高くなる傾向にある。従って、専門家でない者が容易に扱えるような障害ではない。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "発達障害の用語は1963年にアメリカで法律用語として作られ、1970年代に日本に入ってきたとされる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "21世紀となり、精神医学で主に使われる国際的な診断分類は2種類ある。学術的分類である。 WHOによる国際疾病分類である『ICD-10 第5章:精神と行動の障害』では、以下が該当する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "米国精神医学会によるDSM-5では、", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "の一部が相当する。このようにICD-10とDSM-5では分類体系が一致していない。DSM-5にはICD-11が、DSM-IVにはICD-10が対応するため、これらは対応関係にあるものではない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "DSM-IVでは「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」が同様の分類である。これらは、以降で挙げるような、広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害、知的障害だけでなくもう少し広く含まれている分類である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "そのほか、アメリカ疾病予防管理センターのサイトでは以下が挙げられている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本発達障害福祉連盟の定義では、知的障害(精神遅滞)を含み、それを中核として生涯にわたる支援が必要な状態である。東京都多摩府中保健所の文献では、これを「広義の発達障害」の定義とし、「狭義の発達障害」の定義は発達障害支援法のものとして、以下である。狭義というのは日本の行政上の定義であり、文部科学省でもこの定義である。学術的な定義とは一致していない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "狭義の発達障害", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "広義には、知的障害、先天的な運動発達障害、てんかんが含まれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "厚生労働省で開催された、2005年3月の第3回「発達障害者支援に係る検討会」では、定義について検討している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本の発達障害者支援法(2005年4月制定)によれば、第2条1項で『この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう』とされる。2項で発達障害者、18歳未満では発達障害児と定めている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "通知文が別途出ている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1980年代以降、知的障害のない発達障害が社会に認知されるようになった。知的障害が含まれる発達障害は法律上は知的障害扱いであるため、単に発達障害という場合は特に知的障害のないものを指すことがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このうち、学習障害 (LD)、注意欠陥・多動性障害 (ADHD)、高機能広汎性発達障の3つについては、日本において「軽度発達障害」と称されてきた。この「軽度」とは「精神遅滞に該当しない」という意味だが、発達障害が軽度であると誤解を招いたため、現在では便宜的に「(軽度)発達障害」として分類することがある。なお、高機能広汎性発達障害(高機能PDD)や高機能自閉症という名称も存在するが、これらも知能が精神遅滞に該当しないという意味の「高機能」である。また、高機能自閉症の診断基準は明確ではなく、臨床においてはアスペルガー症候群と厳密に区別する必要はないとされている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "明確な判断は、精神科を標榜する精神科医の間でも大学でこの分野を学んでいないなどの理由で困難とされている。各都道府県や政令指定都市が設置する、発達相談支援施設で、生育歴などがわかる客観的な資料や、認知機能試験(IQ検査、心理検査等を含む)などを行って、複数人の相談員や心理判定員などが見立てとなる判断材料を出す形で、数少ない専門医師が判断し、どのような治療が必要か、SSTが必要かなどの材料を精神科医に提供する、というケースが多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "環境変化に弱く、環境への適応も苦手とされる。精神保健研究所の研究員は、「極論だが、発達障害のある子供たちは『日常的に災害のような事態』を経験しているようにも思える」という表現している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2000年頃からの日本において、「軽度発達障害」という概念が、「精神遅滞」「身体障害」を伴わない発達障害として杉山登志郎により提唱された 。これは高機能広汎性発達障害(高機能PDD、アスペルガー症候群や高機能自閉症などを指す)、LD、ADHD等、知的障害を伴わない(すなわち総合的なIQが正常範囲内)疾患概念を指して使われる(ただし、ADHDについては、別途知的障害を併発するケースがある)。ここでいう「高機能」という語も、「軽度」という言葉同様、知的障害のないという意味でつかわれている。「軽度」と呼称される根拠は、「知能が比較的高い」ためである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "厚生労働省はこの用語について、「世界保健機構 (WHO) のICD-10分類に存在しない」、「アメリカ精神医学会のDSM-V]に存在しない」ことを指摘し、「誰がどのような意図で使い始めたのか分からないまま広がった用語である」として注意を促している。また、その語感から、「障害の程度が軽度である」と誤解されがちだが、上述の理由から、必ずしも障害自体が軽度とは限らない。文部科学省も2007年、「『軽度発達障害』の表記は、その意味する範囲が必ずしも明確ではないこと等の理由から、今後は原則として使用しない」と発表している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「軽度」といわれるが、罹患者の抱える問題は決して軽くはなく、早期の理解と適切な支援が望ましいとされる。理解、発見が遅れた場合、いじめ、不登校、非行など二次的な症状を発生させることがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "子供が期待される発達段階に達していない場合、発達障害を疑うことができる。問診および遺伝子検査などが、鑑別疾患を除外するために行われる。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "障害の程度は、発達年齢(developmental age)と実年齢との相違を基準として定量化することができる。このスコアはDQ (developmental quotient) として以下に定義される", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "D Q = D e v e l o p m e n t a l a g e C h r o n o l o g i c a l a g e × 100 {\\displaystyle DQ={\\frac {Developmental\\ age}{Chronological\\ age}}\\times 100}", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "知能検査(ウェクスラー成人知能検査)で言語性IQと動作性IQの開きが激しい場合は、発達障害を疑ったり、当人へ特別な支援が必要とされている。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "患者本人は少なくとも場の文脈に応じた行動を取ることが難しい。幼少期に発達障害と診断されていなくても、人間関係の中で奇異な行動が問題視され、障害の事実が炙り出される可能性が高い。成人期以降に発見される発達障害は、大人の発達障害と呼ばれ、社会問題となっている。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "発達障害における早期発達支援のための、応用行動分析 (ABA) の手法を駆使した発達支援プログラムが、数多くのエビデンスによって有効であるとされている。また、同じく発達障害における感情調整や問題解決を支援するための、認知行動療法の手法を駆使したプログラムも、取り組みやすいとされている。オープンダイアローグによる治療の可能性が期待されている。", "title": "管理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "発達障害者の一部は挑戦的行動という習慣を抱えており、これは「本人または周囲の身体的安全を危険に晒したり、一般的なコミュニティ施設の利用について喫緊に制限・拒否されるほどの強度・頻度・期間がある、文化的に非常識な行動」と定義されている。", "title": "管理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "発達障害者が行う挑戦的行動の原因には、次のような多々の要素がある。", "title": "管理" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "挑戦的行動は、多くの時間をかけて学習と報酬によって獲得されたものであり、同じ目的を達成するための新たな行動を教えれば、その行動を改善させることができる可能性は高い。発達障碍者の挑戦的行動は、多くの場合、何か他の精神的問題が原因のことがある。", "title": "管理" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一般的には、行動的介入や応用行動分析などの技法により、特定の挑戦的行動を減らすことに効果があると知られている。近年では、行動文脈分析による発達パスモデルの開発が、挑戦的行動の予防について効果があるといわれている。", "title": "管理" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、3-17歳児童の約17%について発達障害があり、ADHD、自閉症スペクトラム障害、脳性麻痺、難聴、知的障害、学習障害、視力障害、およびその他の発育不全などを1つ以上抱えているとしている。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "たとえば難聴乳児の25%は、胎児期のサイトメガロウイルス感染によるものである。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "CDCの1997–2008年の研究によれば、発達障害の有病率は13.87%、うち学習障害 7.66%、ADHD 6.69%、その他の発達不全 3.65%、自閉症 0.47%であった。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2002年、文部科学省が小中学生を対象に調査したデータによれば、知能発達に遅れはないが、日常の学習や行動において特別な配慮が必要とされる、「発達障害などの」児童が6.3%いることが判明した。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2006年に名古屋市西部地域医療センター調査した結果によれば、当該地域に居住する6歳から8歳までの児童13558名の内、2.07%を占める281名が広汎性発達障害(PDD)の診断を受けた。その内、知能指数が71以上の「高機能自閉症」は177名であった。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2022年、文部科学省が調査したデータでは「発達障害などの」児童は10年前より上昇し8.8%となったが、これは教育現場で発達障害への認知が進んだことや、質問項目の変化によるものとされる。同年の調査では高校生の調査も行われ、学習障害、注意欠陥多動性障害、高機能自閉症約のいずれかに該当する生徒は2.2%であった。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "平成時代以降の急激な情報化の進展で、職場のスケジュールが過密になり、大人の発達障害が社会問題となった。発達障害者は概ね、仕事に対する視野の狭さから、自ら問題を設定して解決することが難しいため、詳細な指示がない限り、正しく作業を行うことができない。そうした特性が、情報化による多様化の時代にあって柔軟性の欠如として問題視された。特に発達障害者は下記3つの変化に対応できず、ローパフォーマー社員と化しており、法律上の解雇規制が強く働く日本企業においては発達障害に気付かず採用してしまった人材への対応に苦慮している。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "思想的には、能力の違いに応じて生じる不平等が正当だと考えるメリトクラシーの定着があり、発達障害者がメリトクラシーの脱落者となっていると言える。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "発達障害者は基本的に鈍臭く、段取りが組めないため、集団内で不和を生み、嫌われ者として排除されることがほとんどである。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大抵の場合、発達障害者自身の管理能力や他者への想像力が無く、コミュニケーションパターンも稚拙であるため、社会生活で問題を抱えることになる。また、特定の物事については特段に(社会的に容認し難いほど)拘りが強い場合があり、客観的には能力の偏りとも捉えられる。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "例外的に、自身の特性を活かして成功を収めている(ADHD特有の幅広い行動を活かして起業家になるなど)発達障害者も居るが、一般的な発達障害者の末路は暗い。理由としては、軽度発達障害者は親を始め周りからも一般的な発達障害者よりも遥かに理解されないまたは理解されにくく、軽度だからと普通を求められたり、中途半端に健常者扱いされることや、他の発達障害者でも協調性に欠けていることが多く、社会的孤立について高いリスクを負っているためである。通常、発達障害者は文脈の理解が苦手で、悪気なく自己中心的な行動を行うため、周囲との協調が取れず社会生活に困難を来たすことが多い。あるいは、周囲に対して挑戦的な態度を取り、信頼関係を破壊してしまう。また、会話も単発の受け答えで終わることが多く、雑談を継続できないため、仕事以外での人間関係の維持も困難である。周囲からの指摘を繰り返し受けても、発達障害者は何が問題であるか理解できず、行動を改善しないため、周囲は発達障害者に対する評価を大幅に下げ、徐々に関わりを持たなくなって行く。周囲との協調が行えないことから、発達障害者は学生時代のうちに誰からも嫌われて不登校になるか、そうでなくても、社会人になった途端に認識の漏れや誤った解釈が多いという点で問題社員として扱われ始め、一切の信用を失った上で左遷や解雇などで職場を追われることが多い。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし、発達障害者は(軽度発達障害の親も)自身や我が子の障害を認めない傾向が強く、障害の事実を隠蔽したり、転職を余儀なく行う場合でも似たような職業を選択する傾向にあるほか、親が子供は発達障害ではないと否定したことで周りを振り回すことも増えている。また、周囲に発達障害の事実を伝えたとしても「普通にあること」や「甘え」として処理されたり、社会生活において何度も挫折することで引きこもりに至ることもあるほか、無理解親や学校・社会などの精神的負担及びストレスで二次障害を抱える人もかなり多くなっている。特に軽度発達の人はより無理解や精神的負担が大きいために二次障害を起こしやすい。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "大まかな職業適性として、情報システム開発などのモノ作りの技術には非常に優れる場合が多い(ただし、コーディングのような下流工程のみ)が、関係者を纏めて牽引するリーダーには不適であり、管理職試験にも合格しないことが多いと報告されている。従って、勤続年数が増えても出世や結婚で同期に遅れを取り、収入の増え幅も少なく、生活水準も中々上がらない。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "文部科学省側では、「厚生労働省では従来より発達障害は精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(精神保健福祉法)に規定された精神障害者向けの障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳の対象として明記していないが、発達障害は精神障害の範疇として扱っている」としている。", "title": "日本における福祉" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "厚生労働省側の通知、「精神障害者保健福祉手帳の障害等級の判定基準について」平成18年9月29日改定の「精神障害者保健福祉手帳障害等級判定基準の説明」によると、その他の精神疾患として「心理的発達の障害」、「小児(児童)期および青年期に生じる行動および情緒の障害」(ICD-10による)と明記し、発達障害の各疾患を対象にしている。同省の通知では申請用診断書にICD-10カテゴリーF80-F89、F90-F98の記入が可能ではある。", 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"症状によって生活や仕事の制限を受けるような場合、障害年金の支給対象となる場合がある。", "title": "日本における福祉" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "発達障害児または者の親らで作る相互扶助等を目的として組織された団体があり、一般に「親の会」と名乗っているほか、自閉症関連団体としては社団法人日本自閉症協会がある。発達障害関係の団体が加盟する組織としては日本発達障害ネットワークがある。", "title": "日本における福祉" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "関連する知的障害に関することも記述する。", "title": "歴史" } ]
発達障害は、身体や、学習、言語、行動の何れかにおいて不全を抱えた状態であり、その状態はヒトの発達期から現れる。
{{拡張半保護}} {{Otheruses|行政や学術における定義|[[DSM-5]]における定義|神経発達症}} {{Pathnav|精神障害|frame=1}} {{Infobox disease|Name=発達障害|field=[[精神医学]]、[[臨床心理学]]|ICD9= |MeshID=D002658}} {{ウィキポータルリンク|発達障害}} '''発達障害'''(はったつしょうがい、{{lang-en-short|Developmental disability}}、DD)は、身体や、学習、言語、行動の何れかにおいて不全を抱えた状態であり、その状態はヒトの発達期から現れる<ref name="cdcfact">{{Cite web|title=Facts About Developmental Disabilities |publisher=アメリカ疾病予防管理センター |url=http://www.cdc.gov/ncbddd/developmentaldisabilities/facts.html |accessdate=2015-06-01}}</ref>。 : 原因は[[先天性|先天的]]な[[脳|脳機能]]の偏りであることがほとんどで、発達の偏りに伴う能力の欠落は生涯にわたって治ることはない<ref name=cdcfact /><ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/youth/suisin/pdf/soudan/07/s10-1.pdf|title=ライフステージに応じた発達障害の人たちへの支援の考え方|accessdate=2021年7月15日|publisher=内閣府}}</ref>。大抵の場合、認識がずれていて、自己管理や[[コミュニケーション]]が困難かつ[[マニュアル]]通りの対応しかできず、特定の物事に対する過剰な興味関心も現れるため、[[社会生活]]に多数の困難が生じる<ref group="*">特定分野への興味関心が常軌を逸して強いために、社会的な需要を無視する傾向があり、社会生活に支障を来たす事が多い。また、会話の場で自らの興味のあることばかり話し続けるため、会話が一方通行になりやすい。例えば、職場であれば他者の行動に興味関心を持たないため、組織としての状況を推察できないばかりか、仕事の本質的な理解にも至らず、多大な時間を掛けても仕事が全く進まないという結果になる。</ref>。 : 文字上は「発達」の障害であるが、発達が著しい成長期までに発覚するとは限らず、グレーに近い軽度などの場合は特に、成人期以降の社会生活の中で[[大人の発達障害]]として発覚することもあるほか、発達障害より先に二次障害である精神疾患が診断されることも多い。[[義務教育]]段階の通常の学級で発達障害者は6.5%程度の在籍率<ref group="*">[[教員]]に対する[[アンケート]]調査の結果であり、[[医師]]による診断の結果では無いことに注意する必要がある。</ref>といわれ、[[大人の発達障害]]に移行する場合も多いことから、様々な組織で頻繁に見られる障害であるといえる<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2015/03/16/1355830_1.pdf|title=放課後等の教育支援の在り方に関する資料 データ集|accessdate=2021年1月7日|publisher=文部科学省}}</ref>。大人の発達障害の場合、勤務成績が著しく低く成長が無いことから退職勧奨の対象になることが多く<ref>{{Cite web|和書|title=能力不足・成績不良社員|人事・労務|弁護士法人法律事務所ホームワン |url=https://www.home-one.jp/kigyouhoumu/mondaishain/fusoku.html#section1 |website=www.home-one.jp |accessdate=2022-03-09}}</ref>、会社を自主退職するか解雇され[[非正規労働者]]や[[無職]]などの[[低所得者]]になる可能性が高い<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=「10社以上でクビ」発達障害46歳男性の主張 {{!}} ボクらは「貧困強制社会」を生きている |url=https://toyokeizai.net/articles/-/381397 |website=東洋経済オンライン |date=2020-10-16 |accessdate=2021-12-22 |language=ja}}</ref>。また、企業の競争力強化のため、採用段階で[[企業コンプライアンス|コンプライアンス違反]]や[[パフォーマンス]]不良などの人材リスクを排除するための[[適性検査]]が数多く考案されているが、発達障害者を発見し、採用を回避するための設問も設けられている<ref>{{Cite web|和書|title=適性検査 リスクチェッカー デイズヌーヴェル |url=https://www.dazenouvel.com/risk/ |website=www.dazenouvel.com |accessdate=2022-02-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=適性検査リスクチェッカー~人材の3大リスクを徹底チェック~|株式会社マネジメントベース|適性検査・スキル測定のサービス詳細 {{!}} 『日本の人事部』 |url=https://jinjibu.jp/service/detl/5628/ |website=jinjibu.jp |accessdate=2022-02-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=適性検査の事ならリスク面に特化した適性検査HRベース・リスクチェッカー |url=https://www.r-checker.jp/ |website=www.r-checker.jp |accessdate=2022-02-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=適性検査 HRベース |url=https://www.hr-base.jp/tsk.html |website=www.hr-base.jp |accessdate=2022-02-14 |language=ja |last=HRベース}}</ref>。 : 専門家でない者が直感的に理解できるほど簡単な障害ではなく<ref group="*">むしろ医師であっても多角的な分析に基づく難しい判断となる。 : 専門家でない者は、複雑な事態の表層だけを見て、社交的でない人全てを発達障害者として扱ってしまう危険がある。</ref>、[[法律]]上、発達障害者として認められるためには、[[医師]]による精密な検査と[[診断]]が必要である<ref group="*">公的な認定という意味では、障害全般が医師の診断を必要とするが、特に発達障害の場合、[[成長|生育歴]]の調査や能力検査なども含めた多角的な分析が必要であるため、発達障害の診断自体が難しく、[[誤診]]もありうることがネックとなる。</ref>。 == 定義 == [[日本]]の行政上の定義では、[[発達障害者支援法]]が定める「[[自閉症]]、[[アスペルガー症候群]]その他の[[広汎性発達障害]]、[[学習障害]]、[[注意欠陥・多動性障害]]その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」とされる<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=416AC1000000167 発達障害者支援法]第二条 e-Gov法令検索 2019年6月19日閲覧</ref><ref name="naid120005378771"/><ref name="多摩ハンドブック"/><ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/hattatu.htm 特別支援教育について-発達障害とは] - 文部科学省</ref>。定義上、背景となる障害は様々であることから、発達障害の認定は専門家でも難しい判断となる。[[2013年]]時点で小・中学生に77,882人の発達障害者が確認されており、発達障害への理解が社会で急速に進んでいることから、過去20年における統計では増加傾向にある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2015/03/16/1355830_1.pdf|title=放課後等の教育支援の在り方に関する資料 データ集|accessdate=2020年12月22日|publisher=文部科学省}}</ref>。特に、昭和以前の時代には変わり者,とんちんかん、やんちゃ、わんぱく等と一般市民の間で曖昧に分類された人々が、医学の進歩により発達障害者として理解されるようになったことが大きい。[[境界知能]]といわれる、[[知的障害|知的障害者]]と見なされないが[[健常者]]としては低水準の[[知能指数|知能指数(IQ)]]しか持たない者についても、[[クオリティ・オブ・ライフ|生活の質(QOL)]]が著しく下がっている可能性もあり、一般人への啓蒙や社会制度の隙間を埋める対策が急務となっている<ref>{{Cite web|和書|title=なぜ何もかもうまくいかない? わたしは「境界知能」でした|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210730/k10013164861000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-10-11|last=日本放送協会}}</ref>。 学術的な分類での発達障害は、[[知的障害]]なども含むもう少し広い分類である<ref name="naid120005378771"/>。そうした診断分類では『[[ICD-10 第5章:精神と行動の障害]]』では、「F80-F89 心理的発達の障害」「F90-F98 小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害」、[[アメリカ精神医学会|米国精神医学会]]による『[[精神障害の診断と統計マニュアル]]』 (DSM) では、第4版 (DSM-IV) では「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」、DSM-5では[[神経発達症]]となる。 [[義務教育]]段階の通常の学級で発達障害者は6.5%程度の在籍率という[[文部科学省]]の調査結果と、成人期に障害を持ち越す例もかなり多いことを考えると、社会の様々な組織で頻繁に見られる障害であるといえる<ref name=":2" />。この障害は[[社会生活]]を著しく困難にするため<ref name=":4" />、[[退学]]・[[退職]]などに繋がりやすく、[[ワーキングプア]]や[[引きこもり]]の発生にも関係している<ref>{{Cite web|和書|title=ひきこもり 見過ごされた 発達障害 |url=https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/cat-12321/420067.html |website=NHK生活情報ブログ |accessdate=2021-01-31 |language=ja}}</ref><ref name=":02">{{Cite web|和書|title=働く広場2017年12月号 |url=https://www.jeed.go.jp/disability/data/works/book/hiroba_201712/pageindices/index4.html#page=5 |website=www.jeed.go.jp |accessdate=2021-01-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=4人に1人以上が発達障害!?引きこもる大人たちが働けない本当の理由 |url=https://diamond.jp/articles/-/13017?page=2 |website=ダイヤモンド・オンライン |accessdate=2021-01-31 |language=ja}}</ref>。 [[成年]]以降の発達障害を[[大人の発達障害]]と呼ぶ。不足した能力が周囲の環境にカバーされ、決まり切った[[スケジュール (職場)|スケジュール]]に沿って与えられたタスクだけ行っていれば良い学生時代に目立った問題が出なくても、暗黙の前提を理解して多様なタスクを遂行する必要がある[[社会人]]生活で多数の問題が発生し、発達障害の保有が発覚することもある(詳しくは[[大人の発達障害]]を参照)<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=なぜ大人になるまで見過ごされるのか|大人の発達障害ってなんだろう?|url=https://www.nhk.or.jp/heart-net/hattatsu-otona/about/why.html|website=大人の発達障害|NHK福祉ポータル ハートネット|accessdate=2021-04-29|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>。また、障害という言葉の重いイメージから、本人あるいは周囲が発達障害と認めないことも多々ある<ref name=":3" />。 背景に脳機能の偏りがあり、原因も症状も個人ごとに様々であるため、単にミスが多かったり社交的でないからといって発達障害に含めることはできない<ref group="*">受診の切っ掛けとしては有用である。</ref>。 == 原因 == 発達障害の原因は多岐にわたり、不明な点が多く残されている。複数の要素が関係し、遺伝的、胎児期の保健状態、出生時の環境、感染症、環境要因などが挙げられている<ref name="cdcfact" />。双子研究により、遺伝要因とそれ以外の要因の影響度を算出することが可能で、[[自閉症スペクトラム障害]]と[[ADHD]]に関しては遺伝要因の影響が大きいと分かっている<ref>安藤寿康「遺伝と環境の心理学」 培風館 (2004)</ref><ref name="Geschwind-2009">{{cite journal | vauthors = Geschwind DH | title = Advances in autism | journal = Annu Rev Med | volume = 60 | pages = 367–80 | year = 2009 | pmid = 19630577 | pmc = 3645857 | doi = 10.1146/annurev.med.60.053107.121225 }}</ref><ref name="NICE 2009">{{cite book |title=Attention Deficit Hyperactivity Disorder: Diagnosis and Management of ADHD in Children, Young People and Adults |author=National Collaborating Centre for Mental Health |series=NICE Clinical Guidelines |volume=72 |publisher=British Psychological Society |location=Leicester |isbn=978-1-85433-471-8 |date=2009 |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK53652/ |via=NCBI Bookshelf |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160113133612/http://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK53652/ |archivedate=13 January 2016 |df=dmy-all }}</ref>。 大部分の発達障害は乳児出生前に形成されるが、一部は出生後の[[外傷]]、[[感染症]]、その他の要素に起因することもある<ref name="cdcfact" />。原因は多々あるが、たとえば以下が挙げられる<ref>{{Cite web|title=MedlinePlus - Developmental Disabilities |publisher=[[アメリカ国立医学図書館]] |url=https://www.nlm.nih.gov/medlineplus/developmentaldisabilities.html |accessdate=2016-01-10}}</ref>。原因の同定には複数の検査を組み合わせる必要があり、検査コストが高く、誤診の頻度も高くなる傾向にある。従って、専門家でない者が容易に扱えるような障害ではない。 * [[遺伝子]]や[[染色体]]の異常 - [[ダウン症候群]]<ref name=cdcfact />、[[レット症候群]]など * 妊娠期の物質使用(たとえば[[アルコール]]) - [[胎児性アルコール症候群|胎児性アルコール・スペクトラム障害]]など <ref name=cdcfact /> * 妊娠期におけるある種の感染症 - [[サイトメガロウイルス]]<ref name=cdcfact />など * 未熟児出産<ref name=cdcfact />、低体重出産<ref name=cdcfact /> == 分類 == {{出典の明記|date=2015年11月22日 (日) 15:18 (UTC)|section=1}} 発達障害の用語は1963年にアメリカで法律用語として作られ、1970年代に日本に入ってきたとされる<ref name="多摩ハンドブック">「第一章 発達障害とは」『[https://www.hokeniryo.metro.tokyo.lg.jp/tamafuchu/hoken/handbook.html 支援者のための地域連携ハンドブック ― 発達障害のある子供への対応]』東京都多摩府中保健所、2013年。</ref>。 21世紀となり、精神医学で主に使われる国際的な診断分類は2種類ある。学術的分類である。 [[世界保健機関|WHO]]による国際疾病分類である『[[ICD-10 第5章:精神と行動の障害]]』では、以下が該当する。 * F80-F89 心理的発達の障害 * F90-F98 小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害 [[アメリカ精神医学会|米国精神医学会]]による[[DSM-5]]では、 * [[神経発達症群]](Neurodevelopmental disorder) の一部が相当する。このようにICD-10とDSM-5では分類体系が一致していない<ref name="Kaplan">{{Cite |和書| |author=B.J.Kaplan |author2=V.A.Sadock |title=カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 |edition=3 |publisher=メディカルサイエンスインターナショナル |date=2016-05-31 |isbn=978-4-89592-852-6 |at=Chapt.31.5}}</ref>。DSM-5にはICD-11が、DSM-IVにはICD-10が対応するため、これらは対応関係にあるものではない。 DSM-IVでは「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」が同様の分類である<ref>{{Cite journal|editor=橋本亮太|editor2-last=安田|editor3-last=大井|editor4-last=福本|editor5-last=高村|editor6-last=山森|editor7-last=武田|year=2009|title=モデル動物を用いた中枢神経系機能性疾患の病態解析|url=https://doi.org/10.11249/jsbp.20.213 |journal=脳と精神の医学|volume=20|issue=3|page=|pages=229-231|doi=10.11249/jsbp.20.213|accessdate=2019年3月28日|format=PDF}}</ref>。これらは、以降で挙げるような、[[広汎性発達障害]]、[[学習障害]]、[[注意欠陥多動性障害]]、知的障害だけでなくもう少し広く含まれている分類である。 そのほか、アメリカ疾病予防管理センターのサイトでは以下が挙げられている。 *知的障害 **[[脆弱X症候群]] (FXS) <ref name="cdcfact" /><ref name="cdccond">{{Cite web|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]] |title=Specific Conditions |url=http://www.cdc.gov/ncbddd/developmentaldisabilities/specificconditions.html |accessdate=2015-06-01}}</ref> - 染色体異常による。 ** [[ダウン症候群]] <ref name="cdcfact" /> - 染色体異常による。出生前検査で確定できる。 ** [[胎児性アルコール症候群]] (FASD) <ref name="cdcfact" /> - 受精前・妊娠期の飲酒による障害。断酒により完全に予防可能である。 * [[脳性麻痺]] (CP) - 一種の脳損傷による<ref name="cdcfact" />。 === 日本での分類 === 日本発達障害福祉連盟の定義では、[[知的障害]](精神遅滞)を含み、それを中核として生涯にわたる支援が必要な状態である<ref name="多摩ハンドブック"/>。東京都多摩府中保健所の文献では、これを「広義の発達障害」の定義とし、「狭義の発達障害」の定義は発達障害支援法のものとして、以下である<ref name="多摩ハンドブック"/>。狭義というのは日本の行政上の定義であり<ref name="naid120005378771">{{Cite journal |和書|author=吉岡恒生 |date=2012-03 |title=発達障害児のアセスメント |journal=愛知教育大学教育臨床総合センター紀要 |issue=2 |pages=79-86 |naid=120005378771|url=https://hdl.handle.net/10424/5343 }}</ref>、文部科学省でもこの定義である<ref name="文部科学省用語"/>。学術的な定義とは一致していない<ref name="文部科学省用語">[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/main/002.htm 「発達障害」の用語の使用について] - 文部科学省、2007年3月。</ref>。 狭義の発達障害 * [[広汎性発達障害]] * [[学習障害]] * [[注意欠陥・多動性障害]] * [[発達性協調運動障害|協調運動の障害]] * 言語の障害 広義には、知的障害、先天的な運動発達障害、てんかんが含まれる<ref name="多摩ハンドブック"/>。 [[厚生労働省]]で開催された、2005年3月の第3回「発達障害者支援に係る検討会」では、定義について検討している<ref>{{cite conference |url = https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/03/txt/s0315-2.txt |date = 2005-03-15 |title = 発達障害者支援に係る検討会 |conference = 第3回 |publisher= 厚生労働省}}</ref>。 日本の[[発達障害者支援法]](2005年4月制定)によれば、第2条1項で『この法律において「発達障害」とは、自閉症、[[アスペルガー症候群]]その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう』とされる。2項で発達障害者、18歳未満では発達障害児と定めている。 通知文が別途出ている。 *「厚生労働省・文部科学省連名事務次官通知 17文科初第16号厚生労働省発障第0401008号」では、『法の対象となる障害は、脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもののうち、ICD-10(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)における「心理的発達の障害(F80-F89)」及び「小児<児童>期及び青年期に通常発症する行動及び情緒の障害(F90-F98)」に含まれる障害であること』としている。 1980年代以降、知的障害のない発達障害が社会に認知されるようになった。知的障害が含まれる発達障害は法律上は知的障害扱いであるため、単に発達障害という場合は特に知的障害のないものを指すことがある。 このうち、学習障害 (LD)、注意欠陥・多動性障害 (ADHD)、高機能広汎性発達障の3つについては、日本において「軽度発達障害」と称されてきた。この「軽度」とは「精神遅滞に該当しない」という意味だが、発達障害が軽度であると誤解を招いたため、現在では便宜的に「(軽度)発達障害」として分類することがある。なお、高機能広汎性発達障害(高機能PDD)や高機能自閉症という名称も存在するが、これらも知能が精神遅滞に該当しないという意味の「高機能」である。また、高機能自閉症の診断基準は明確ではなく、臨床においてはアスペルガー症候群と厳密に区別する必要はないとされている<ref>Wing,2000</ref>{{Full citation needed|date=2018年5月}}。 明確な判断は、[[精神科]]を標榜する精神科医の間でも大学でこの分野を学んでいないなどの理由で困難とされている。各都道府県や政令指定都市が設置する、発達相談支援施設で、生育歴などがわかる客観的な資料や、認知機能試験([[IQ検査]]、[[心理検査]]等を含む)などを行って、複数人の相談員や[[心理判定員]]などが見立てとなる判断材料を出す形で、数少ない専門医師が判断し、どのような治療が必要か、[[ソーシャルスキルトレーニング|SST]]が必要かなどの材料を精神科医に提供する、というケースが多い。 環境変化に弱く、環境への適応も苦手とされる。精神保健研究所の研究員は、「極論だが、発達障害のある子供たちは『日常的に災害のような事態』を経験しているようにも思える」という表現している<ref>稲垣真澄・林隆「[https://www.ncnp.go.jp/pdf/mental_info_handicapped_child_guardian.pdf 発達障害児をもつ保護者の方へ]」</ref>。 ==== 軽度発達障害 ==== 2000年頃からの日本において、「軽度発達障害」という概念が、「精神遅滞」「身体障害」を伴わない発達障害として[[杉山登志郎]]により提唱された <ref>{{Cite|和書| |title=専門医から学ぶ児童・青年期患者の診方と対応 |publisher=医学書院 |editor=青木省三 |editor2=村上伸治 |isbn=978-4-260-01495-3 |date=2012-05-18 |pages=54-55}}</ref>。これは[[広汎性発達障害|高機能広汎性発達障害]](高機能PDD、アスペルガー症候群や高機能自閉症などを指す)、[[学習障害|LD]]、[[注意欠陥・多動性障害|ADHD]]等、[[知的障害]]を伴わない(すなわち総合的な[[知能指数|IQ]]が正常範囲内)疾患概念を指して使われる{{Sfn|内田伸子|2006|p=244}}(ただし、ADHDについては、別途知的障害を併発するケースがある)。ここでいう「高機能」という語も、「軽度」という言葉同様、[[知的障害]]のないという意味でつかわれている。「軽度」と呼称される根拠は、「知能が比較的高い」ためである{{Sfn|内田伸子|2006|p=244}}。 厚生労働省はこの用語について、「世界保健機構 (WHO) のICD-10分類に存在しない」、「アメリカ精神医学会のDSM-V]に存在しない」ことを指摘し、「誰がどのような意図で使い始めたのか分からないまま広がった用語である」として注意を促している<ref name="軽度厚生省マニュアル">{{Cite book|和書|author=軽度発達障害児の発見と対応システムおよびそのマニュアル開発に関する研究班|chapter=第一章|title=軽度発達障害児に対する気づきと支援のマニュアル|url= https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/boshi-hoken07/|publisher=厚生労働省|date=2006}}</ref>。また、その語感から、「障害の程度が軽度である」と誤解されがちだが、上述の理由から、必ずしも障害自体が軽度とは限らない<ref group="*">ちなみに、対義語の「重度」は、「知的障害の度合いが重い」という意味で用いられ、「重度[[重複障害]]」などの形で用いられる。</ref>。[[文部科学省]]<ref group="*">同省、初等中等教育局特別支援教育課。</ref>も2007年、「『軽度発達障害』の表記は、その意味する範囲が必ずしも明確ではないこと等の理由から、今後は原則として使用しない」と発表している<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/main/002.htm 「発達障害」の用語の使用について(平成19年3月15日)] 文部科学省</ref>。 「軽度」といわれるが、罹患者の抱える問題は決して軽くはなく、早期の理解と適切な支援が望ましいとされる{{Sfn|内田伸子|2006|p=224}}。理解、発見が遅れた場合、[[いじめ]]、[[不登校]]、[[非行]]など二次的な症状を発生させることがある{{Sfn|内田伸子|2006|p=224}}。 == 診断 == 子供が期待される発達段階に達していない場合、発達障害を疑うことができる。問診および遺伝子検査などが、鑑別疾患を除外するために行われる。 障害の程度は、'''発達年齢'''(developmental age)と実年齢との相違を基準として定量化することができる。このスコアはDQ (developmental quotient) として以下に定義される<ref>{{cite web |url=http://www.merriam-webster.com/medical/developmental%20quotient |title=Definition of DEVELOPMENTAL QUOTIENT |last1= |first1= |last2= |first2= |website=Merriam-Webster Dictionary |publisher= |accessdate=2014-11-09}}</ref><ref>{{cite web |url=http://medical-dictionary.thefreedictionary.com/developmental+quotient |title=developmental quotient (DQ) |publisher=TheFreeDictionary.com |accessdate=2014-11-09}}, in turn citing Mosby's Medical Dictionary, 8th edition.</ref> <math> DQ = \frac{Developmental\ age}{Chronological\ age} \times 100 </math> [[知能検査]]([[ウェクスラー成人知能検査]])で言語性IQと動作性IQの開きが激しい場合は、発達障害を疑ったり、当人へ特別な支援が必要とされている。 患者本人は少なくとも[[場の空気|場の文脈]]に応じた行動を取ることが難しい。幼少期に発達障害と診断されていなくても、人間関係の中で奇異な行動が問題視され、障害の事実が炙り出される可能性が高い。成人期以降に発見される発達障害は、[[大人の発達障害]]と呼ばれ、[[社会問題]]となっている。 == 管理 == === 支援 === 発達障害における早期発達支援のための、[[行動分析#応用行動分析|応用行動分析 (ABA)]] の手法を駆使した発達支援プログラムが、数多くのエビデンスによって有効であるとされている<ref>山本 淳一・松崎 敦子 (2016).早期発達支援プログラム 下山 晴彦・村瀬 嘉代子・森岡 正芳(編)必携発達障害支援ハンドブック (pp. 81-87) 金剛出版</ref><ref>井上 雅彦 (2016).問題行動を適応行動に変える応用行動分析 下山 晴彦・村瀬 嘉代子・森岡 正芳(編)必携発達障害支援ハンドブック (pp. 88-92) 金剛出版</ref>。また、同じく発達障害における感情調整や問題解決を支援するための、[[認知行動療法]]の手法を駆使したプログラムも、取り組みやすいとされている<ref>明翫 光宜 (2016).感情調整を支援する認知行動療法プログラム 下山 晴彦・村瀬 嘉代子・森岡 正芳(編)必携発達障害支援ハンドブック (pp. 93-97) 金剛出版</ref>。[[オープン・ダイアローグ|オープンダイアローグ]]による治療の可能性が期待されている<ref>{{Cite news|title=オープンダイアローグで発達障害を治療|医療ニュース|Medical Tribune|url=https://medical-tribune.co.jp/news/2016/1013504942/|accessdate=2018-05-20|language=ja|work=Medical Tribune}}</ref>。 === 挑戦的行動 === {{Main|挑戦的行動}} 発達障害者の一部は[[挑戦的行動]]<ref>{{lang-en-short|challenging behavior}}</ref>という習慣を抱えており、これは「本人または周囲の身体的安全を危険に晒したり、一般的なコミュニティ施設の利用について喫緊に制限・拒否されるほどの強度・頻度・期間がある、文化的に非常識な行動」と定義されている<ref>Emerson, E. 1995. ''Challenging behaviour: analysis and intervention with people with learning difficulties''. Cambridge: Cambridge University Press</ref>。 発達障害者が行う挑戦的行動の原因には、次のような多々の要素がある。 * 生物学的 - 痛み、薬、感覚刺激の欲求 * 社会的 - 退屈、社会的関係の模索、何かのコントロール必要性、コミュニティ規範についての知識欠如、スタッフやサービス係の無反応に対して * 環境的 - ノイズや光などの身体的要因、欲するモノや活動に対してのアクセス獲得 * 心理的 - 疎外感、孤独感、切り捨て感、レッテル、ディスエンパワーメント、人々の負の期待 挑戦的行動は、多くの時間をかけて学習と報酬によって獲得されたものであり、同じ目的を達成するための新たな行動を教えれば、その行動を改善させることができる可能性は高い。発達障碍者の挑戦的行動は、多くの場合、何か他の精神的問題が原因のことがある<ref>{{cite journal|last=Hemmings|first=C.|coauthors=Underwood, L., Tsakanikos E., Holt, G. & Bouras, N.|title=Clinical predictors of challenging behaviour in intellectual disability|journal=Social Psychiatry and Psychiatric Epidemiology|year=2008|volume=43|issue=10|pages=824–830|doi=10.1007/s00127-008-0370-9|pmid=18488127|url=http://www.springerlink.com/content/v18g5123g4gw6326/}}</ref>。 一般的には、行動的介入や[[応用行動分析]]などの技法により、特定の挑戦的行動を減らすことに効果があると知られている<ref>Neef, N. A. (2001) The Past and Future of Behavior Analysis in Developmental Disabilities: When Good News is Bad and Bad News is Good. ''The Behavior Analyst Today, 2 (4), '' 336 -343. [http://www.baojournal.com]</ref>。近年では、行動文脈分析による発達パスモデルの開発が、挑戦的行動の予防について効果があるといわれている<ref>Roane, H.S., Ringdahl, J.E., Vollmer, T.R., Whitmarsh, E.L. and Marcus, B.A. (2007). A Preliminary Description of the Occurrence of Proto-injurious Behavior in Typically Developing Children. ''Journal of Early and Intensive Behavior Intervention, 3(4),'' 334-347. [http://www.baojournal.com]</ref>。 == 人口 == === 米国 === [[アメリカ疾病予防管理センター]](CDC)は、3-17歳児童の約17%について発達障害があり、[[ADHD]]、自閉症スペクトラム障害、[[脳性麻痺]]、[[難聴]]、[[知的障害]]、[[学習障害]]、[[視力障害]]、およびその他の発育不全などを1つ以上抱えているとしている<ref name="cdcfact" />。 たとえば難聴乳児の25%は、胎児期の[[サイトメガロウイルス]]感染によるものである<ref name="cdcfact" />。 CDCの1997–2008年の研究によれば、発達障害の[[有病率]]は13.87%、うち学習障害 7.66%、ADHD 6.69%、その他の発達不全 3.65%、自閉症 0.47%であった<ref>{{Cite web|publisher=アメリカ疾病予防管理センター |title=Key Findings: Trends in the Prevalence of Developmental Disabilities in U. S. Children, 1997–2008| url=http://www.cdc.gov/ncbddd/developmentaldisabilities/features/birthdefects-dd-keyfindings.html |accessdate=2015-06-01}}</ref>。 === 日本 === 2002年、文部科学省が小中学生を対象に調査したデータによれば、知能発達に遅れはないが、日常の学習や行動において特別な配慮が必要とされる、「発達障害'''など'''の」児童が6.3%いることが判明した<ref name="kusanagi">{{Cite |和書|author=[[草薙厚子]] |title=大人たちはなぜ、子どもの殺意に気づかなかったか ドキュメント・少年犯罪と発達障害 |isbn=978-4-7816-0504-3 |pages=182-183}}</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|title=公立の小中学生8.8%に発達障害の可能性 文科省調査 |url=https://mainichi.jp/articles/20221213/k00/00m/040/018000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-12-13 |language=ja}}</ref>。 2006年に名古屋市西部地域医療センター調査した結果によれば、当該地域に居住する6歳から8歳までの児童13558名の内、2.07%を占める281名が[[広汎性発達障害]](PDD)の診断を受けた<ref name="kusanagi" />。その内、知能指数が71以上の「[[高機能自閉症]]」は177名であった<ref name="kusanagi" />。 2022年、文部科学省が調査したデータでは「発達障害'''など'''の」児童は10年前より上昇し8.8%となったが、これは教育現場で発達障害への認知が進んだことや、質問項目の変化によるものとされる<ref name=":5" />。同年の調査では高校生の調査も行われ、学習障害、注意欠陥多動性障害、高機能自閉症約のいずれかに該当する生徒は2.2%であった<ref name=":5" />。 == 社会問題 == [[平成|平成時代]]以降の急激な[[情報化社会|情報化]]の進展で、[[職場]]の[[計画|スケジュール]]が過密になり、[[大人の発達障害]]が社会問題となった。発達障害者は概ね、仕事に対する視野の狭さから、自ら問題を設定して解決することが難しいため、詳細な指示がない限り、正しく作業を行うことができない。そうした特性が、[[情報化社会|情報化]]による多様化の時代にあって柔軟性の欠如として問題視された。特に発達障害者は下記3つの変化に対応できず、ローパフォーマー社員と化しており、法律上の解雇規制が強く働く日本企業においては<ref>{{Cite web|和書|title=労働契約の終了に関するルール |url=https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudouseisaku/chushoukigyou/keiyakushuryo_rule.html |website=www.mhlw.go.jp |access-date=2023-06-21 |language=ja}}</ref>発達障害に気付かず採用してしまった人材への対応に苦慮している<ref>{{Cite web|和書|title=ローパフォーマーとは?5つの特徴と企業が取るべき対策を解説|HRドクター|株式会社JAIC |url=https://www.hr-doctor.com/news/management/management-skill/management_tkcdokuhon6-9 |website=中堅中小・ベンチャー企業のための採用×教育チャンネル HRドクター |access-date=2023-06-21 |language=ja}}</ref>。 * 職場の効率向上のための高度なシステム化 * 多数のタスクを掛け持ちすることによる自己管理のシビア化 * 他者連携の増加 思想的には、能力の違いに応じて生じる不平等が正当だと考える[[メリトクラシー]]の定着があり、発達障害者が[[メリトクラシー]]の脱落者となっていると言える<ref>{{Cite web|和書|url=https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2003489/files/edu_61_07.pdf |title=脱落者の視角からメリトクラシーを問い直す ―メリトクラシーはいかにして排除の仕組みを醸成してきたのか― |access-date=2023-06-23 |publisher=東京大学学術機関リポジトリ}}</ref>。 === 発達障害者の社会生活 === 発達障害者は基本的に鈍臭く、段取りが組めないため、集団内で不和を生み、嫌われ者として[[排除]]されることがほとんどである。 大抵の場合、発達障害者自身の管理能力や他者への[[想像力]]が無く、[[コミュニケーション]]パターンも稚拙であるため、[[社会生活]]で問題を抱えることになる<ref name="cdcfact" />。また、特定の物事については特段に(社会的に容認し難いほど)拘りが強い場合があり、客観的には能力の偏りとも捉えられる<ref name=":1" />。 例外的に、自身の[[特性]]を活かして成功を収めている([[注意欠陥・多動性障害|ADHD]]特有の幅広い行動を活かして[[起業家]]になるなど)発達障害者も居るが、一般的な発達障害者の末路は暗い。理由としては、軽度発達障害者は親を始め周りからも一般的な発達障害者よりも遥かに理解されないまたは理解されにくく、軽度だからと普通を求められたり、中途半端に健常者扱いされることや、他の発達障害者でも協調性に欠けていることが多く、社会的孤立について高いリスクを負っているためである。通常、発達障害者は文脈の理解が苦手で、悪気なく自己中心的な行動を行うため、周囲との協調が取れず社会生活に困難を来たすことが多い。あるいは、周囲に対して挑戦的な態度を取り、信頼関係を破壊してしまう。また、会話も単発の受け答えで終わることが多く、雑談を継続できないため、仕事以外での人間関係の維持も困難である。周囲からの指摘を繰り返し受けても、発達障害者は何が問題であるか理解できず、行動を改善しないため、周囲は発達障害者に対する評価を大幅に下げ、徐々に関わりを持たなくなって行く。周囲との協調が行えないことから、発達障害者は学生時代のうちに誰からも嫌われて[[不登校]]になるか、そうでなくても、社会人になった途端に認識の漏れや誤った解釈が多いという点で問題社員として扱われ始め、一切の信用を失った上で左遷や解雇などで職場を追われることが多い。 しかし、発達障害者は(軽度発達障害の親も)自身や我が子の障害を認めない傾向が強く、障害の事実を隠蔽したり、転職を余儀なく行う場合でも似たような職業を選択する傾向にあるほか、親が子供は発達障害ではないと否定したことで周りを振り回すことも増えている。また、周囲に発達障害の事実を伝えたとしても「普通にあること」や「甘え」として処理されたり、[[社会生活]]において何度も[[挫折]]することで[[引きこもり]]に至ることもあるほか、無理解親や学校・社会などの精神的負担及びストレスで二次障害を抱える人もかなり多くなっている。特に軽度発達の人はより無理解や精神的負担が大きいために二次障害を起こしやすい。 大まかな職業適性として、[[情報システム]]開発などのモノ作りの技術には非常に優れる場合が多い(ただし、[[プログラミング|コーディング]]のような下流工程のみ)が、関係者を纏めて牽引する[[代表|リーダー]]には不適であり、[[管理職]]試験にも合格しないことが多いと報告されている。従って、[[勤続|勤続年数]]が増えても[[出世]]や[[結婚]]で[[同期]]に遅れを取り、[[収入]]の増え幅も少なく、[[生活水準]]も中々上がらない<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=発達障害を隠して入社し「本人も周囲も煩悶」の悲劇 |url=https://diamond.jp/articles/-/177064 |website=ダイヤモンド・オンライン |accessdate=2019-11-23}}</ref>。 == 日本における福祉 == === 精神障害者保健福祉手帳 === 文部科学省側では、「厚生労働省では従来より発達障害は[[精神保健及び精神障害者福祉に関する法律]](精神保健福祉法)に規定された[[精神障害者]]向けの障害者手帳、[[精神障害者保健福祉手帳]]の対象として明記していないが、発達障害は精神障害の範疇として扱っている」<ref name="monbu">[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/054_2/shiryo/1285452.htm 特別支援教育の推進に関する調査研究協力者会議高等学校WG(第6回)議事要旨] 平成21年7月24日 文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 2009年12月26日閲覧</ref>としている。 厚生労働省側の通知、「精神障害者保健福祉手帳の障害等級の判定基準について」平成18年9月29日改定の「精神障害者保健福祉手帳障害等級判定基準の説明」によると、その他の精神疾患として「心理的発達の障害」、「小児(児童)期および青年期に生じる行動および情緒の障害」(ICD-10による)と明記し、発達障害の各疾患を対象にしている。同省の通知では申請用診断書にICD-10カテゴリーF80-F89、F90-F98の記入が可能ではある<ref>[http://wwwhourei.mhlw.go.jp/cgi-bin/t_document.cgi?MODE=tsuchi&DMODE=SEARCH&SMODE=NORMAL&KEYWORD=%94%ad%92%42&EFSNO=10458&PAGE=1&FILE=761966203456.tmp&POS=0&HITSU=2 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律等の一部を改正する法律の一部の施行に伴う関係通知の改正について 障発第0329008号] 平成14年3月29日 厚生労働省 2009年12月26日閲覧</ref>。 一方、書籍によっては二次障害がなければ取得できないとしているものもある<ref>佐々木正美、梅永雄二『大人のアスペルガー症候群』講談社、2008年。{{ISBN2|978-4-06-278956-1}} p93によると「日本には発達障害のための手帳制度がないため」との理由の記述が見られる</ref>。各自治体によって精神障害者保健福祉手帳の認定基準が異なるためでもある。 === 療育手帳 === [[知的障害者]]向けの障害者手帳の[[療育手帳]]取得の適法化を求める声も多い<ref>筑波技術大学テクノレポート Vol. 17 (1) December. 2009「発達障害を併せ有する聴覚障害学生に対する高等教育支援の構築」[[筑波技術大学]]障害者高等教育研究支援センター、佐藤正幸、石原保志、白澤麻弓、須藤正彦、及川力</ref>とされているが、療育手帳自体が根拠となる[[法律]]がなく、1973年に厚生省(現・[[厚生労働省]])が出した通知「療育手帳制度について」や「療育手帳制度の実施について」を参考に都道府県や政令指定都市の独自の事業として交付されているため、地域によっては取得できるところもある<ref>[[北海道新聞]] 2009年6月25日記事 「道が2003年度に高機能広汎性発達障害を対象に加えたのを機に(札幌)市児童相談所も04年度、「IQが高くても知的障害と見なすことができる」として対象とした。」</ref>。 同省が出した各通知は1999年に[[地方自治法]](施行は2000年4月)の改正で、国が通知や通達を使って[[地方公共団体|地方自治体]]の事務に関与することができなくなった([[機関委任事務]]の廃止)影響ですでに効力は失っている。 === 発達障害者支援法 === {{main|発達障害者支援法}} 同法(平成16年12月10日法律第167号)では、知的障害者以外の発達障害者だけを支援対象として規定している。 === 障害者総合支援法 === {{Main|障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律}} 以前から条文に明記はしていないものの対象である。ただし、2009年7月24日時点では市町村における運用が徹底されていないとの意見がある<ref name="monbu" />。よって2010年12月3日、[[障がい者制度改革推進本部]]等における検討を踏まえて「障害保健福祉施策を見直すまでの間において障害者等の地域生活を支援するための関係法律の整備に関する法律(通称、[[障害者自立支援法]]改正案)」を成立させ、障害者自立支援法を改正、発達障害を明記させた<ref name="jiritukaisei" />。 === 障害年金 === {{Main|障害年金}} 症状によって生活や仕事の制限を受けるような場合、[[障害年金]]の支給対象となる場合がある。 === 関連団体 === 発達障害児または者の親らで作る相互扶助等を目的として組織された団体があり、一般に「親の会」と名乗っているほか、自閉症関連団体としては社団法人[[日本自閉症協会]]がある。発達障害関係の団体が加盟する組織としては[[日本発達障害ネットワーク]]がある。 == 歴史 == {{Seealso|精神保健の歴史}} 関連する知的障害に関することも記述する。 * 1933年、アメリカの精神科医[[ハリー・スタック・サリヴァン]]が知的能力の低下を伴わない、乳児期より持続する対人機能障害について「精神病質の幼児psychopathic child」を初めて記載する。 * 1943年、[[アメリカ]]の[[精神科]]医[[レオ・カナー]] (Leo Kanner) が「自閉的な早期幼児」を報告する。 * 1952年、優生保護法改正で精神薄弱も[[断種]]対象とされる * 1959年、パサマニック (''Pasamanick'') らによってのちにADHDとよばれるものに対して[[微細脳障害]] (MBD) との用語を導入。 * 1960年、精神薄弱者福祉法施行 * 1966年、オーストリアの小児科医{{仮リンク|アンドレアス・レット|en|Andreas Rett}} (Andreas Rett) によってレット症候群が報告される * 1973年、厚生省の通知により療育手帳が創設される(知的障害者) * 1987年、身体障害者雇用促進法が[[障害者の雇用の促進等に関する法律]]に改められ、知的障害者が適用対象になる ** 微細脳障害が注意欠陥多動性障害に改められる。''[[微細脳障害]]の項を参照'' * 1989年、社団法人日本自閉症協会設立 * 1995年、[[精神保健及び精神障害者福祉に関する法律]]施行。[[精神障害者保健福祉手帳]]の制度制定 * 1996年、優生保護法が[[母体保護法]]に変わり、強制断種等に係る条文が削除される * 1999年、精神薄弱の用語の整理のための関係法律の一部を改正する法律により精神薄弱者福祉法が[[知的障害者福祉法]]に名称変更される * 2000年、[[豊川市主婦殺人事件]]。自閉症がこの事件の直接の要因ではないが、[[文部省]](当時)に広い範囲における高機能自閉症児に対する早期の教育支援が必要であることを認識させた。 * 2003年、[[長崎男児誘拐殺人事件]]。専門家による啓発書の出版などを通じて社会的な関心が広まった。 * 2005年、[[発達障害者支援法]]施行 ** [[心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律]](医療観察法)施行 * 2006年、[[障害者自立支援法]]施行 * 2010年、[[総務省]][[行政評価局]]が、厚生労働省に対し「療育手帳を交付する都道府県等の取組がまちまちとなっていることについて改善を図るべき」などの通知をする<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000081476.pdf 発達障がい者に対する療育手帳の交付について(概要)] 平成22年9月13日 総務省行政評価局 2011年6月13日閲覧</ref>。 ** 障がい者制度改革推進本部等における検討を踏まえて障害保健福祉施策を見直すまでの間において障害者等の地域生活を支援するための関係法律の整備に関する法律(通称、障害者自立支援法改正案)が成立。発達障害も対象と明記する<ref name="jiritukaisei">[http://mainichi.jp/select/science/news/20101203k0000e040058000c.html 障害者自立支援法:参院で改正案可決・成立] 2010年12月3日13時49分 [[毎日新聞]] 2010年12月25日閲覧</ref> ** 2013年5月、DSM-5としてアメリカの診断基準が改訂され、各障害の名称やカテゴリーの変更。(日本語版2014年6月<ref>『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』{{ISBN2|978-4-260-01907-1}}</ref>) <!-- ==発達障害を公表した著名人== 下記に、発達障害 (ないしは、[[適応障害]]、ADHD、アスペルガー症候群などを含む)だと自認している、もしくはそう認定されている著名人を列挙する。 ノートページ参照 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="*"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 医学書 === *{{Citation|author=[[アメリカ精神医学会]] |date=1994|title=Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fourth Edition (DSM-IV)|isbn=978-0-89042-061-4 |ref=harv}}.(翻訳書は {{Citation|和書|author=[[アメリカ精神医学会]] |others=高橋三郎・[[大野裕]]・染矢俊幸訳|year=1996|title=DSM-IV 精神疾患の診断・統計マニュアル|publisher=[[医学書院]]|isbn=978-4-260-11804-0|ref=harv}}) * {{Cite |和書|author=[[内田伸子]] |title=発達心理学キーワード |publisher=[[有斐閣]]双書 |date=2006 |isbn=4-641-05882-2 |ref=harv}} === その他 === * 江端一起『キーサン革命宣言―精神病者のセーカツとカクメイ』アットワークス、2013年、{{ISBN2|978-4-939042-88-1}} * [[星野仁彦]]『発達障害に気づかない大人たち』[[祥伝社新書]] 2010年4月10日初版発行 {{ISBN2|978-4-396-11190-8}} * 中山和彦、[[小野和哉]]『図解 よくわかる大人の発達障害』 [[ナツメ社]] 2010年11月2日初版発行 {{ISBN2|978-4-8163-4972-0}} == 関連項目 == * [[国立障害者リハビリテーションセンター]] * [[クワイエット・アワー]] == 外部リンク == * [https://www.cdc.gov/ncbddd/developmentaldisabilities/ Developmental Disabilities]{{en icon}} アメリカ疾病予防管理センター * [https://www.nlm.nih.gov/medlineplus/developmentaldisabilities.html Developmental Disabilities]{{en icon}} アメリカ国立医学図書館 MedlinePlus * [https://www.gov-online.go.jp/featured/201104/ 内閣府政府広報オンライン 発達障害ってなんだろう?](内閣府政府広報オンライン お役立ち情報) * [http://www.rehab.go.jp/ddis/ 発達障害情報・支援センター](厚生労働省管轄 国立障害者リハビリテーションセンター内部組織) * [http://icedd.nise.go.jp/ 発達障害教育推進センター](文部科学省 独立行政法人 国立特別支援教育総合研究所) * [http://www.hkd-dd.com/ 北海道 発達障がい支援情報サイト] * {{脳科学辞典|記事名=発達障害}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はつたつしようかい}} [[Category:発達障害|*]] [[Category:特別支援教育]] [[Category:精神医学的診断]]
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10,480
歌劇
歌劇(かげき)は、舞台芸術の一種。せりふ運びの一部、または全てを歌唱によって行う演劇の総称である。 西洋のオペラを指すことが多く、オペレッタ(operetta)は、「軽歌劇」「喜歌劇」などと訳される。 また、レビューまたはミュージカルを上演している日本の少女歌劇も、「歌劇」と称されている。
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歌劇(かげき)は、舞台芸術の一種。せりふ運びの一部、または全てを歌唱によって行う演劇の総称である。
{{Otheruses||'''雑誌'''(宝塚歌劇団機関誌)|歌劇 (雑誌)}} '''歌劇'''(かげき)は、[[舞台芸術]]の一種。せりふ運びの一部、または全てを歌唱によって行う演劇の総称である。 ==概要== 西洋の'''[[オペラ]]'''を指すことが多く、[[オペレッタ]](operetta)は、「軽歌劇」「喜歌劇」などと訳される。 また、[[レヴュー (演芸)|レビュー]]または[[ミュージカル]]を上演している日本の'''[[少女歌劇]]'''も、「歌劇」と称されている。 ==日本の主な歌劇団体== *[[オペラ]] **[[二期会]] **[[藤原歌劇団]] **[[東京室内歌劇場]] **[[オペラシアターこんにゃく座]] **[[根岸大歌劇団]] ([[浅草オペラ]]) **[[東京オペラ・プロデュース]] *[[少女歌劇]] **[[宝塚歌劇団]] **[[OSK日本歌劇団]] **[[松竹歌劇団]] **[[ハウステンボス歌劇団]] **[[加賀屋雪月花歌劇団]] ==関連項目== *[[オペラ]] *[[オペレッタ]] *[[ミュージカル]] *[[レヴュー (演芸)]] {{theat-stub}} {{デフォルトソート:かけき}} [[Category:演劇のジャンル]]
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10,481
弥勒菩薩
弥勒菩薩(みろくぼさつ)、梵: maitreya(マイトレーヤ)、巴: metteyya(メッテイヤ、メッテッヤ)は仏教において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊である。 弥勒は音写であり、「慈しみ」(梵: maitrī, 巴: mettā)を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。 三昧耶形は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。種子(種子字)はयु(yu)。 一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、スッタニパータ第五章や、『中阿含経』中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人である。慧覚訳『賢愚経』では、弥勒は仏陀となると誓願を述べ、阿逸多は転輪聖王となるという誓いを表明したところ、阿逸多は叱責され、弥勒は記別を受けている。 弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。 前述のように弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000年×12ヶ月×30日×400年=5億7600万年かかるという計算に由来する。そして、後代になって5億7600万年が56億7000万年に入れ替わったと考えられている。 その未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩ではないかとの説もある。弥勒菩薩はバラモンとして娑婆世界に出世して、シッダッタ同様に出家したのち竜華樹下で悟りを得て、三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという(これを竜華三会という)。『弥勒下生経』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説いている。なお、現在の弥勒はまだ修行者(菩薩)だが、遠い未来の下生の姿を先取りして弥勒如来、弥勒仏と呼ばれることもあり、如来形の仏像も作られている。 『観弥勒菩薩上生兜率天経』、『弥勒下生経』、『弥勒大成仏経』の3本で『弥勒三部経』と呼ぶことがある。また、浄土宗系の『無量寿経』には、阿弥陀仏の本願を後世の苦悩の衆生に説き聞かせるようにと、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩に付嘱されている。 仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『阿含経』に記述が見える。この未来仏の概念は過去七仏から発展して生まれたものと考えられている。 弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界に現れて衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされる。 弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行した。下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰に対し、弥勒如来の下生が(56億7千万年などの)遠い未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰である。 浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。そのため、反体制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各時代に数多く見られる。北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。 日本でも戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、ユートピアである「弥勒仏の世」の現世への出現が期待された。一種のメシアニズムであるが、弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強い。この観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、弥勒踊りなどの形で太平洋沿岸部に展開した。江戸期には富士信仰とも融合し、元禄年間に富士講の行者、食行身禄が活動している。また百姓一揆、特に世直し一揆の中に、弥勒思想の強い影響があることが指摘されている。 300年前後に、インドの瑜伽行唯識学派の論師として唯識説を説く開祖の一人。後世の伝説によって、前述の未来仏としての弥勒菩薩と同一視された。著作に『瑜伽師地論』(漢訳説)、『大乗荘厳経論』、『中辺分別論』、『現観荘厳論』、『法法性弁別論』、『究竟一乗宝性論』(チベット説)などがある。 チベットでは、『瑜伽師地論』は無著菩薩造となっており、『究竟一乗宝性論』が弥勒(マイトレーヤ)造となっているが、漢訳では安慧(スティラマティ)造としている。 ミスラはインド神話におけるアーディティヤ神群の一柱ミトラと起源を同じくし、古くは古代アーリアにおいて信仰されていた契約の神だった。ゾロアスター教においては中級神ヤザタの一柱とされ、英雄神、太陽神とされる。ただし、教祖ゾロアスターは、ミスラをはじめとする神々ではなく、アフラ・マズダーに対してのみ崇拝をすべきだと宗教改革をしたため、周辺のアーリア人の宗教に比べ、ミスラ神は低く位置づけられている。また、古代ギリシャ・ローマにおいてはミトラースと呼ばれ、太陽神・英雄神として崇められた。ミスラはクシャーナ朝ではバクトリア語形のミイロ(Miiro)と呼ばれ、この語形が弥勒の語源になったという説もある。 弥勒菩薩像はインドでは水瓶を手にする像として造形されたが、中国においては、唐までは足を交差させ椅子に座る像として造像され、元・明時代以降は弥勒の化身とされた布袋として肥満形で表された。一方、飛鳥時代の日本では半跏思惟像として造像が行われた。椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて瞑想する姿である。大阪・野中寺の金銅像(重文)が「弥勒菩薩」という銘文をもつ最古の半跏思惟像である。京都の広隆寺の弥勒菩薩像(木像)は特によく知られており、国宝に指定されている(→弥勒菩薩半跏思惟像)。ただし、半跏思惟像の全てが弥勒菩薩像であるとは限らない。平安時代・鎌倉時代には、半跏思惟像は見られなくなり、立像や坐像として表されるようになる。京都・醍醐寺の快慶作の木像などがその作例である。 日本で広く目にされている弥勒菩薩像に、50円切手の図案がある。これは中宮寺の木造菩薩半跏像である。 弥勒如来像としては、前述の奈良の東大寺の木像(通称「試みの大仏」)(重文)や、當麻寺金堂の塑像(奈良時代、国宝)、興福寺北円堂の運慶一門作の木像(国宝)などが知られる。 オン・マイタレイヤ・ソワカ(oṃ maitreya svāhā) 日本では七福神の一人として知られる布袋は、中国では、弥勒の化身とされ、下生した弥勒如来として仏堂の正面にその破顔と太鼓腹で膝を崩した風姿のまま祀られている。 沖縄県の沖縄本島及び周辺離島や八重山列島では「ミルク」と呼ばれる神の信仰が盛んである。これは、東アジアから東南アジアにかけて分布する弥勒信仰がニライカナイ信仰と融合したものとするのが定説である。これらの地域では、豊年祭等の祭りに、笑顔のミルク面をつけたミルク神が登場し歩き回る。ミルク面は布袋に似た姿をしているが、これは布袋を弥勒菩薩の化身とする東アジアや東南アジアの弥勒信仰の影響であると考えられている。ミルク神は年に一度(12年に一度等の地域もある)集落を来訪する来訪神である。 起源については、約300年前に首里殿内から「たい国」(通説では中国)に派遣された求道長老が弥勒の掛け軸を持ち帰り、毎年7月に祭を行ったとされ、1816年の「三司官伊江朝睦日日記」には首里赤田町(現在の那覇市首里地区)のミルクウンケー(弥勅御迎)の記録が残っている。また、八重山列島の石垣市登野城に伝わるミルク面は、1791年に首里から八重山への帰途に遭難し安南(現在のベトナム)に漂着した黒島首里大屋子職大浜用倫が持ち帰ったものとされる。
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弥勒菩薩(みろくぼさつ)、梵: maitreya(マイトレーヤ)、巴: metteyya(メッテイヤ、メッテッヤ)は仏教において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊である。 弥勒は音写であり、「慈しみ」を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。 三昧耶形は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。種子(種子字)はयु(yu)。
{{観点|date=2010年8月}} {{Otheruses|主に仏教信仰の対象|その他|弥勒 (曖昧さ回避)}} {{統合文字|薩}} {{Infobox Buddha |名= 弥勒菩薩 |梵名= マイトレーヤ |別名= 慈氏菩薩 |画像= [[ファイル:Maitreya Koryuji.JPG|250px|]] |説明文= [[広隆寺#木造弥勒菩薩半跏像|木造弥勒菩薩半跏像]]<ref group="注">通称「宝冠弥勒」</ref><br />([[国宝]]・[[広隆寺]]蔵) |経典= 『[[観弥勒菩薩上生兜率天経]]』<br />『[[弥勒下生経]]』<br />『[[弥勒大成仏経]]』<br />『[[無量寿経|仏説無量寿経]]』 |主要経典注釈書= |信仰= [[瑜伽行唯識学派]]<br />[[浄土教]]<br />[[真言宗]] |関連項目= }} '''弥勒菩薩'''(みろくぼさつ)、{{lang-sa-short|maitreya}}('''マイトレーヤ''')、{{lang-pi-short|metteyya}}('''メッテイヤ'''、'''メッテッヤ''')は[[仏教]]において、[[釈迦|釈迦牟尼仏]]の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では[[菩薩]]の一尊である。 弥勒は音写であり、「慈しみ」({{lang-sa-short|maitrī}}, {{lang-pi-short|mettā}})を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。 [[三昧耶形]]は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。[[種子 (密教)|種子]](種子字)はयु(yu)[[File:BonjiYu.png|40px]]。 ==名称== 一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、[[スッタニパータ]]第五章や、『[[中阿含経]]』中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人である。慧覚訳『[[賢愚経 (本縁部)|賢愚経]]』では、弥勒は[[仏陀]]となると[[誓願]]を述べ、阿逸多は[[転輪聖王]]となるという誓いを表明したところ、阿逸多は叱責され、弥勒は[[記別]]を受けている{{Sfn|香川|1964|pp=628-629}}。 == 未来仏 == [[File:Bodhisattva, Kamakura period, Japan.jpg|thumb|弥勒菩薩立像、13世紀、[[鎌倉時代]]、[[重要文化財]]、[[東京国立博物館]]蔵]] 弥勒は現在仏である[[ゴータマ・ブッダ]](釈迦牟尼仏)の次に[[仏陀|ブッダ]]となることが約束された[[菩薩]](修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは[[兜率天]]で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に[[往生]]しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。 前述のように弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000年×12ヶ月×30日×400年=5億7600万年かかるという計算に由来する。そして、後代になって5億7600万年が56億7000万年に入れ替わったと考えられている。 その未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩ではないかとの説もある。弥勒菩薩は[[バラモン]]として娑婆世界に出世して、シッダッタ同様に[[出家]]したのち竜華樹下で[[悟り]]を得て、三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという(これを竜華三会という)。『[[弥勒下生経]]』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説いている。なお、現在の弥勒はまだ修行者(菩薩)だが、遠い未来の下生の姿を先取りして'''弥勒如来'''、'''弥勒仏'''と呼ばれることもあり、[[如来形]]<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%BD%A2 如来形とは] [[世界大百科事典]]</ref>の仏像も作られている。 『[[観弥勒菩薩上生兜率天経]]』、『[[弥勒下生経]]』、『[[弥勒大成仏経]]』の3本で『弥勒三部経』と呼ぶことがある。また、[[浄土宗]]系の『[[無量寿経]]』には、[[阿弥陀仏]]の[[本願]]を後世の苦悩の衆生に説き聞かせるようにと、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩に付嘱されている。 仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『[[阿含経]]』に記述が見える。この未来仏の概念は[[過去七仏]]から発展して生まれたものと考えられている。 弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、[[六道]]すべての世界に現れて衆生を救うのが[[地蔵菩薩]]であるとされる。 == 下生信仰 == 弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行した。下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰に対し、弥勒如来の下生が(56億7千万年などの)遠い未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰である。 [[浄土信仰]]に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという[[終末論]]、救世主待望論的な要素が強い。そのため、反体制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各時代に数多く見られる。[[北魏]]の[[大乗の乱]]や、[[北宋]]・[[南宋]]・[[元 (王朝)|元]]・[[明]]・[[清]]の[[白蓮教]]が、その代表である。 日本でも[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、[[ユートピア]]である「弥勒仏の世」の現世への出現が期待された。一種のメシアニズムであるが、弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強い。この観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、[[弥勒踊り]]などの形で太平洋沿岸部に展開した。[[江戸時代|江戸期]]には富士信仰とも融合し、[[元禄]]年間に[[富士講]]の行者、[[食行身禄]]が活動している。また[[百姓一揆]]、特に世直し一揆の中に、弥勒思想の強い影響があることが指摘されている。 == 唯識論師 == {{main article|弥勒 (僧)}} 300年前後に、インドの[[瑜伽行唯識学派]]の論師として[[唯識]]説を説く開祖の一人。後世の伝説によって、前述の未来仏としての弥勒菩薩と同一視された。著作に『[[瑜伽師地論]]』(漢訳説)、『[[大乗荘厳経論]]』、『[[中辺分別論]]』、『[[現観荘厳論]]』、『[[法法性弁別論]]』、『[[究竟一乗宝性論]]』(チベット説)などがある。 チベットでは、『瑜伽師地論』は[[無著]]菩薩造となっており、『究竟一乗宝性論』が弥勒(マイトレーヤ)造となっているが、漢訳では'''安慧'''([[スティラマティ]])造としている。 == ミスラ神との関係 == {{See also|ミトラ教|阿修羅}} [[ミスラ]]は[[インド神話]]における[[アーディティヤ神群]]の一柱[[ミトラ (インド神話)|ミトラ]]と起源を同じくし、古くは古代[[アーリア人|アーリア]]において信仰されていた契約の神だった<ref>*フランツ・キュモン『ミトラの密儀』小川英雄訳 [[平凡社]](1993年)[[スティグ・ヴィカンデル]]「ミスラスの秘儀研究」(『アーリヤの男性結社』[[言叢社]]収録、1997年){{要ページ番号|date=2015-08}}</ref>。[[ゾロアスター教]]においては中級神[[ヤザタ]]の一柱とされ、英雄神、太陽神とされる。ただし、教祖[[ゾロアスター]]は、ミスラをはじめとする神々ではなく、[[アフラ・マズダー]]に対してのみ崇拝をすべきだと宗教改革をしたため、周辺のアーリア人の宗教に比べ、ミスラ神は低く位置づけられている。また、古代ギリシャ・ローマにおいてはミトラースと呼ばれ、太陽神・英雄神として崇められた。ミスラは[[クシャーナ朝]]では[[バクトリア語]]形のミイロ(Miiro)と呼ばれ、この語形が弥勒の語源になったという説もある<ref>[[松本文三郎]]『弥勒浄土論・極楽浄土論』平凡社東洋文庫 2006年、[[前田耕作]]『巨像の風景 インド古道に立つ大仏たち』 中公新書 1986年、同『バクトリア王国の興亡 ヘレニズムと仏教の交流の原点』 レグルス文庫:第三文明社 1992年 {{要ページ番号|date=2015-08}}</ref>。 == 造像例 == [[File:Miroku Bosatsu (Chogenji Obama).jpg|thumb|180px|絹本著色弥勒菩薩像(福井・長源寺、鎌倉時代]] [[画像:Bonji9.jpg|thumb|弥勒菩薩を表す梵字 『ユ』と読む]]弥勒菩薩像はインドでは水瓶を手にする像として造形されたが、中国においては、唐までは足を交差させ椅子に座る像として造像され、元・明時代以降は弥勒の化身とされた[[布袋]]として肥満形で表された。一方、飛鳥時代の日本では半跏思惟像として造像が行われた。椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて[[瞑想]]する姿である。大阪・[[野中寺]]の金銅像(重文)が「弥勒菩薩」という銘文をもつ最古の半跏思惟像である。[[京都]]の[[広隆寺]]の弥勒菩薩像(木像)は特によく知られており、[[国宝]]に指定されている(→[[弥勒菩薩半跏思惟像]])。ただし、半跏思惟像の全てが弥勒菩薩像であるとは限らない。[[平安時代]]・[[鎌倉時代]]には、半跏思惟像は見られなくなり、立像や坐像として表されるようになる。京都・[[醍醐寺]]の[[快慶]]作の木像などがその作例である。 日本で広く目にされている弥勒菩薩像に、50円切手の図案がある。これは[[中宮寺]]の木造菩薩半跏像である。 弥勒如来像としては、前述の[[奈良]]の東大寺の木像(通称「試みの大仏」)(重文)や、[[當麻寺]]金堂の塑像(奈良時代、国宝)、[[興福寺]]北円堂の[[運慶]]一門作の木像(国宝)などが知られる。 <gallery> 画像:岩戸寺 弥勒菩薩像P9019178.jpg|[[岩戸寺 (丹波市)|岩戸寺(丹波市)]] Image:Maitreya Koryuji.JPG|[[広隆寺#木造弥勒菩薩半跏像|木造弥勒菩薩半跏像]]<br />(通称「宝冠弥勒」)<br />[[京都]] [[広隆寺]] Image:Bodhisattva Chuguji.JPG|奈良 [[中宮寺]] Image:Maitreya Yachuji.JPG|大阪 [[野中寺]] Image:MaitreyaSeated.JPG|弥勒菩薩交脚像<br />([[東京国立博物館]]蔵) </gallery> == 真言 == オン・マイタレイヤ・ソワカ(oṃ maitreya svāhā) [[画像:Maitreya-01.JPG|thumb|布袋]] == 布袋像 == 日本では[[七福神]]の一人として知られる[[布袋]]は、[[中国]]では、弥勒の化身とされ、下生した'''弥勒如来'''として仏堂の正面にその破顔と太鼓腹で膝を崩した風姿のまま祀られている。 == ミルク神 == [[ファイル:Miruku mask in Okinawa-Japan.jpg|right|thumb|ミルク面(那覇市内のホテルで撮影)]] [[沖縄県]]の[[沖縄本島]]及び周辺離島や[[八重山列島]]では「ミルク」と呼ばれる神の信仰が盛んである。これは、東アジアから東南アジアにかけて分布する弥勒信仰が[[ニライカナイ]]信仰と融合したものとするのが定説である<ref name="石田_2013">{{cite journal|和書 | title = 沖縄におけるミルク信仰の現状:首里赤田町を事例に | url = https://ci.nii.ac.jp/naid/120005373822 | author = 石田晶子 | journal = 琉球アジア社会文化研究 | issue = 16 | pages = 30-59 | date = 2013-11 | publisher = 琉球アジア社会文化研究会 }}</ref>。これらの地域では、豊年祭等の祭りに、笑顔のミルク面をつけたミルク神が登場し歩き回る。ミルク面は布袋に似た姿をしているが、これは布袋を弥勒菩薩の化身とする東アジアや東南アジアの弥勒信仰の影響であると考えられている。ミルク神は年に一度(12年に一度等の地域もある)集落を来訪する[[来訪神]]である<ref>{{cite news | title = 「島ネタCHOSA班」2013年09月19日[No.1485]号 ミルク神の正体は!? | url = http://www.lequio.co.jp/pc/show2.php?c1=03shi&c2=2013&vol=1485 | newspaper = 週刊レキオ | publisher = [[琉球新報|琉球新報社]] | date = 2010-10-07 }}</ref>。 起源については、約300年前に首里殿内から「たい国」(通説では中国)に派遣された求道長老が弥勒の掛け軸を持ち帰り、毎年7月に祭を行ったとされ、[[1816年]]の「三司官伊江朝睦日日記」には首里赤田町(現在の那覇市首里地区)のミルクウンケー(弥勅御迎)の記録が残っている<ref name="石田_2013" />。また、八重山列島の[[石垣市]]登野城に伝わるミルク面は、[[1791年]]に首里から八重山への帰途に遭難し安南(現在の[[ベトナム]])に漂着した黒島首里大屋子職大浜用倫が持ち帰ったものとされる<ref>{{cite news | title = ミルクの面を新調 登野城字会 | url = http://www.y-mainichi.co.jp/news/16919 | newspaper = 八重山毎日新聞 | date = 2010-10-07 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 | title = 八重山を読む やいま特集 登野城結願祭 | url = https://yaimatime.com/yaima_special/42228/ | work = やいまタイム | publisher = 南山舎 | accessdate = 2018-10-25 }}</ref>。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> ==参考文献== *{{Cite journal |和書|author1=香川孝雄 |date=1964 |title=彌勒と阿逸多 |journal=印度學佛教學研究 |volume=12 |issue=1 |pages=628-631 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.12.628|ref={{SfnRef|香川|1964}}}} == 関連項目 == {{Commonscat|Maitreya}} *[[仏の一覧]] == 外部リンク == *[https://mk123456.web.fc2.com/miku.htm 弥勒菩薩 古寺散策] {{Buddhism2}} {{浄土教2}} {{唯識}} {{仏陀}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みろくほさつ}} [[Category:菩薩]] [[Category:浄土教]] [[Category:浄土三部経]] [[Category:唯識]] [[Category:ミトラ教]] [[Category:弥勒菩薩|*]] [[Category:仏教の終末論]]
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魔笛
『魔笛』(まてき、独: Die Zauberflöte, ドイツ語発音: [ˈdiː ˈt͡saʊ̯bɐˌfløːtə] 発音 )K. 620は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1791年に作曲したジングシュピール(歌芝居、現在では一般にオペラの一種として分類される)。モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラである。台本は興行主・俳優・歌手のエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書いた。現在もモーツァルトのオペラの中で筆頭の人気を持つ(「オペルンヴェルト(英語版)」誌の毎年の作品別上演回数統計、「音楽の友」誌の定期的な人気作品投票など)。 シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座のオーナーで、モーツァルトとはザルツブルク時代の知り合いであり、モーツァルトが所属したフリーメイソンの会員でもあった。シカネーダーはウィーンの郊外にあるフライハウス(免税館)内のヴィーデン劇場(Theater auf der Wieden、フライハウス劇場とも呼ばれる。フライハウスは劇場も含む建物群。1000人以上収容の集合住宅、市場、礼拝堂、菜園、工房、厩舎までを含む巨大な複合施設)を管理し、一座の上演を行っていた。 シカネーダーは、当時仕事がなく生活に困っていたモーツァルトに大作を依頼した。モーツァルトは1791年の3月から9月にかけて作曲を進め、プラハでの『皇帝ティートの慈悲』の上演のため中断を経て、9月28日に完成させた。当時妻コンスタンツェがバーデンへ湯治に出ており、モーツァルトは一人暮しをしていたため、シカネーダーは彼にフライハウス内のあずまやを提供した(このあずまやはザルツブルクの国際モーツァルテウム財団の中庭に移設され現存する)。 『魔笛』の台本は、次の作品からアイデアを流用したものである。 ギーゼケはのちに『魔笛』の台本は自分が書いたと主張したが、真偽は定かでない。音楽コラムニストのジェイミー・ジェイムズは、「魔笛」の物語はフリーメイソン団員のアッベ・ジャン・テラッソンが書いた古代エジプトの王子セトスをめぐる寓意小説『セトス』に基づいている、と述べている。 初演は1791年9月30日、ヴィーデン劇場で行なわれ、大好評を博した。モーツァルトはバーデンの妻に「アントニオ・サリエリが愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛した」と手紙を書いている(10月14日)。 同じ年の12月、死の床にあったモーツァルトは時計をみながら当日の上演の進行を気にしていたという(フリードリヒ・ロホリッツのモーツァルト逸話集:1798年)。 シカネーダーの興行は一般市民を対象としており、演目もそれにふさわしく、形式ばらずにわかりやすい物を中心とした。魔笛の各所には聴衆を楽しませる大掛かりな見せ場が盛り込まれている。歌や会話の言語もドイツ語で、レチタティーヴォに代えて台詞で筋を進行する、ジングシュピールの形式を用いた。 物語は王子によるお姫様の救出劇の形で始まるが、途中で善玉と悪玉が入れ替わる。シカネーダーが台本作成中に他の作品で似た筋書きが発表されたため急いで変更したためであるという説もあるが、単なる意外性を求めたストーリー上の工夫とみなすこともある。これまでの各種の解釈に対して、夜の女王の国と、ザラストロの国とでは善悪見方が相反するもので、全て相対的な世界であるとすれば筋について問題はないと考えられる。 本作にはフリーメイソンのさまざまなシンボルや教義に基づく歌詞や設定が用いられていることも特徴で、とりわけ各所に「3」を象徴的に使っているのが目立つ。序曲の最初や中間部で鳴り響く和音(同じフレーズが3回演奏される)は、フリーメイソンの儀式で使われるもので、劇中ザラストロの神殿内の場面でも再現されている。2人の作者がメンバーとしてフリーメイソンの精神をオペラ化したとも、当時皇帝から圧迫を受けつつあったフリーメイソンの宣伝であったなど、教団との関わりを重視する指摘があり、今日の演出にも影響を与えている。現在では否定されているが、モーツァルトの急死はフリーメイソンの教義を漏らしたため、フリーメイソンのメンバーが暗殺したという説さえ見られたほどである。 いずれにせよ、第2幕ではそれまでの救出劇から登場人物の(フリーメイソン的な)修行と試練の内容に変わる。これと対照的なのがブッファ的・道化的なキャラクターのパパゲーノである。シカネーダー自身が演じる役なので当然だが、要所要所に登場し、場をもりあげる役割を果たしている。モーツァルトもこの役に親しみやすく魅力的な音楽を与えており、魔笛を代表するキャラクターとなった。 途中から善悪交代する夜の女王とザラストロはオペラ・セリア的な役柄である。このオペラの中の最高音と最低音をそれぞれ歌う歌い手でもある。特に夜の女王の2つのアリア(No4, No,14)は至難なコロラトゥーラの技巧を要求する難曲であり、才能あるソプラノが若いころに歌って注目をあつめることがよくある。ドイツ圏のソプラノには、若年期に夜の女王を演じた後、娘のパミーナへ役を転じる例も多い。その一人であるルチア・ポップに至っては、夜の女王の後で三人の童子の一人を演じた記録が残っている。ザラストロの2曲(No10, No,15)も、低音が豊かなバッソ・プロフォンド歌手にとって重要なレパートリーのひとつでもある。 なお、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、「魔笛」を愛し、その第2部を執筆しようとしたが、多神教的性格を好まなかったためか断念した。 ジングシュピールは殆どの場合、楽譜に書かれた台詞に変更が施され、CD録音でも対訳が付かないことで知られないニュアンスが少なからずある。音楽之友社による注釈付き対訳で荒井秀直が指摘するようにパミーナの父と力の源となる"Sonnenkreis"の存在も変更され、ほとんど表出しない。 時と場所:時代不詳のエジプト(正確には、漠然と「ラムセスの時代」と書かれている) 日本の狩衣を着た王子タミーノが大蛇(初演前の原案ではライオン)に襲われ、「神々よ助けて!」と叫ぶ。そこに3人の侍女があらわれ彼を救出する。3人はタミーノのことを夜の女王に報告に行くが、そこへ鳥を女王に献上して暮らす鳥刺しのパパゲーノがやってくる。大蛇(ライオン)のことを聞かれ、成り行きから自分でやっつけたとパパゲーノは嘘をつくが、戻ってきた3人の侍女に見つかり口に鍵をかけられてしまう。侍女たちがタミーノに女王の娘パミーナの絵姿を見せると彼は彼女に一目惚れする。そこに夜の女王が登場し、悪魔ザラストロにさらわれて娘を失った悲しみを語り、彼に救出を依頼し、タミーノは意気込んで引き受け、ようやくしゃべることを許されたパパゲーノとともに姫の救出に向かう。2人にはお供の3人の童子が付き添い、タミーノには魔法の笛(魔笛)、パパゲーノには魔法の鈴が渡される。 ザラストロの神殿内。逃げ出そうとしたパミーナを捕らえようとする奴隷頭モノスタトスと部下の奴隷の前に、偵察に来たパパゲーノが突然現れる。彼らは互いに初めて見る姿に驚き、双方ともパミーナを置き去りにして逃げ出す。しかしパパゲーノはすぐに引き返し、パミーナに救出にきたことを告げる。 ザラストロの神殿前にタミーノが案内役の童子につれられてやってくる。3つの扉を順に試すと、最後の扉が開いて弁者(神官の一人)が登場する。2人の長い問答が始まり、ザラストロは悪人ではなく夜の女王のほうが悪人であると告げ、タミーノらは夜の女王達の甘言に引っかかったことに気づく。一人になったタミーノが笛を吹くと、神殿から逃げようとしていたパパゲーノとパミーナが聞きつけやってくる。そこにモノスタトスが登場し、2人を捕らえるが、パパゲーノの鳴らす魔法の鈴の音に動物たちも、奴隷たちも皆浮かれて踊ってどこかに去ってしまう。そこへザラストロと神官たちが登場する。彼は逃げようとしたパミーナにやさしく語り掛けるが、そこにモノスタトスがタミーノを捕らえてやってくる。初対面にもかかわらず、パミーナとタミーノは互いに惹かれて走り寄り、抱き合う。怒ったモノスタトスが2人を引き離すが、ザラストロに足を77回叩きの仕置きを受ける。一同ザラストロの裁きを受け容れて讃える合唱で幕となる。 ザラストロは神殿で神官たちにタミーノに試練の儀式を受けさせることを説明し、賛同を得る。一同イシス神とオシリス神を称える。 神官がタミーノとパパゲーノのもとへやってきて、試練について説明する。試練に挑むというタミーノとは対照的に、パパゲーノはそんな面倒なことは御免こうむるという。神官はパパゲーノに試練に打ち勝ったら似合いの娘を世話するといい、ようやくパパゲーノはその気になる。 そこに3人の侍女がやってくる。彼女たちはタミーノがザラストロの言うなりになっているのに驚き、翻意させようとするがタミーノは取り合わない。一方パパゲーノは侍女たちの話に釣られそうになるが、そこに雷鳴とともに神官が現れ彼女らは去る。 場面が変わり、庭でパミーナが眠っている。そこにモノスタトスがやってきてパミーナを我が物にしたいと狂わしい思いを歌うが、そこに夜の女王が登場し、彼は隠れる。女王は復讐の思いを強烈に歌い、パミーナに剣を渡しこれでザラストロを刺すように命じて去る。 隠れていたモノスタトスが出てきてパミーナに迫るが、ザラストロが登場し、彼を叱責して去らせる。モノスタトスは今後は夜の女王に寝返るか、とつぶやく。 パミーナが母の命令のことを話すと、ザラストロは「この神聖な殿堂には復讐などない」、と教団の理想を歌い上げる。 場面転換。2人の神官がタミーノとパパゲーノに沈黙の修行を課して去る。しかしパパゲーノは黙っていることができず、しきりに喋ってはタミーノに制止される。そこへ黒いフードで顔を隠した老女がやってくる。彼女に歳を尋ねると自分は18歳だと言うので、パパゲーノは涙を流して大笑いする。そんなに若いなら彼女には年頃の恋人がいるはずだと思い、パパゲーノが聞いてみると案の定、恋人はいるという。しかもその名はパパゲーノだというので驚いてお前は誰だ?と尋ねる、それと同時に雷鳴が轟き、名前を告げずして彼女はどこかに消えてしまった。 そこへ3人の童子が登場し、2人を励まし酒や食べ物を差し入れる。パパゲーノが喜んで飲み食いしていると、パミーナが現れる。彼女はタミーノを見つけて喜び話しかけるが彼は修行中なので口を利かない。パパゲーノもまた口いっぱいに頬張っているので喋れない(自省して喋れないとする演出もある)。相手にしてもらえないパミーナは、もう自分が愛想をつかされたと勘違いし、大変悲しんでその場を去る。 次の場面で、神官たちとともにザラストロが登場し、タミーノに新たな試練を課すと告げる。パミーナも出てきて試練を受けに出発するタミーノと互いに別れを告げる。 沈黙の業に落第したパパゲーノが神殿に近寄れずうろついていると、神官がやってきて、お前の望みは何かと尋ねる。パパゲーノは恋人か女房がいればいいのに、というと先程の老女がやってきて、私と一緒になると誓わないと地獄に落ちると脅かす。パパゲーノがとりあえず一緒になると約束すると、老女は若い娘に変身する。「パパゲーナ!」と呼びかけ、パパゲーノは彼女に抱擁をしようとするが、神官がパパゲーノにはまだ早いと彼女を連れ去る。 場面が変る。パミーナはタミーノに捨てられたと思い込み、母のくれた剣で自殺しようとしている。3人の童子が現れてそれを止め、彼女をタミーノのもとに連れて行く。タミーノが試練に立ち向かっているところにパミーナが合流し、魔法の笛を使って火と水の試練を通過する。 さらに場面が変り、パパゲーナを失ったパパゲーノが絶望して首を吊ろうとしている。そこに再び童子たちが登場して魔法の鈴を使うように勧める。パパゲーノが鈴を振ると不思議なことにパパゲーナがあらわれ、2人は喜んで子どもを大勢作るんだ、とおおはしゃぎする。 場面が変り、夜の女王と侍女たちを案内してモノスタトスが神殿を襲撃しようとやってくる。しかし光に打ち勝つことはできない。 ザラストロが太陽を讃え、一同イシスとオシリスを讃える合唱のうちにタミーノとパミーナを祝福して幕となる。 ※なお、グロッケンシュピールはチェレスタで代用される場合が多い。 演奏時間は台詞付きで各幕約70分、約90分、計約2時間40分。
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No,14)は至難なコロラトゥーラの技巧を要求する難曲であり、才能あるソプラノが若いころに歌って注目をあつめることがよくある。ドイツ圏のソプラノには、若年期に夜の女王を演じた後、娘のパミーナへ役を転じる例も多い。その一人であるルチア・ポップに至っては、夜の女王の後で三人の童子の一人を演じた記録が残っている。ザラストロの2曲(No10, No,15)も、低音が豊かなバッソ・プロフォンド歌手にとって重要なレパートリーのひとつでもある。", "title": "オペラの内容" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、「魔笛」を愛し、その第2部を執筆しようとしたが、多神教的性格を好まなかったためか断念した。", "title": "オペラの内容" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ジングシュピールは殆どの場合、楽譜に書かれた台詞に変更が施され、CD録音でも対訳が付かないことで知られないニュアンスが少なからずある。音楽之友社による注釈付き対訳で荒井秀直が指摘するようにパミーナの父と力の源となる\"Sonnenkreis\"の存在も変更され、ほとんど表出しない。", "title": "オペラの内容" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "時と場所:時代不詳のエジプト(正確には、漠然と「ラムセスの時代」と書かれている)", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本の狩衣を着た王子タミーノが大蛇(初演前の原案ではライオン)に襲われ、「神々よ助けて!」と叫ぶ。そこに3人の侍女があらわれ彼を救出する。3人はタミーノのことを夜の女王に報告に行くが、そこへ鳥を女王に献上して暮らす鳥刺しのパパゲーノがやってくる。大蛇(ライオン)のことを聞かれ、成り行きから自分でやっつけたとパパゲーノは嘘をつくが、戻ってきた3人の侍女に見つかり口に鍵をかけられてしまう。侍女たちがタミーノに女王の娘パミーナの絵姿を見せると彼は彼女に一目惚れする。そこに夜の女王が登場し、悪魔ザラストロにさらわれて娘を失った悲しみを語り、彼に救出を依頼し、タミーノは意気込んで引き受け、ようやくしゃべることを許されたパパゲーノとともに姫の救出に向かう。2人にはお供の3人の童子が付き添い、タミーノには魔法の笛(魔笛)、パパゲーノには魔法の鈴が渡される。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ザラストロの神殿内。逃げ出そうとしたパミーナを捕らえようとする奴隷頭モノスタトスと部下の奴隷の前に、偵察に来たパパゲーノが突然現れる。彼らは互いに初めて見る姿に驚き、双方ともパミーナを置き去りにして逃げ出す。しかしパパゲーノはすぐに引き返し、パミーナに救出にきたことを告げる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ザラストロの神殿前にタミーノが案内役の童子につれられてやってくる。3つの扉を順に試すと、最後の扉が開いて弁者(神官の一人)が登場する。2人の長い問答が始まり、ザラストロは悪人ではなく夜の女王のほうが悪人であると告げ、タミーノらは夜の女王達の甘言に引っかかったことに気づく。一人になったタミーノが笛を吹くと、神殿から逃げようとしていたパパゲーノとパミーナが聞きつけやってくる。そこにモノスタトスが登場し、2人を捕らえるが、パパゲーノの鳴らす魔法の鈴の音に動物たちも、奴隷たちも皆浮かれて踊ってどこかに去ってしまう。そこへザラストロと神官たちが登場する。彼は逃げようとしたパミーナにやさしく語り掛けるが、そこにモノスタトスがタミーノを捕らえてやってくる。初対面にもかかわらず、パミーナとタミーノは互いに惹かれて走り寄り、抱き合う。怒ったモノスタトスが2人を引き離すが、ザラストロに足を77回叩きの仕置きを受ける。一同ザラストロの裁きを受け容れて讃える合唱で幕となる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ザラストロは神殿で神官たちにタミーノに試練の儀式を受けさせることを説明し、賛同を得る。一同イシス神とオシリス神を称える。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "神官がタミーノとパパゲーノのもとへやってきて、試練について説明する。試練に挑むというタミーノとは対照的に、パパゲーノはそんな面倒なことは御免こうむるという。神官はパパゲーノに試練に打ち勝ったら似合いの娘を世話するといい、ようやくパパゲーノはその気になる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "そこに3人の侍女がやってくる。彼女たちはタミーノがザラストロの言うなりになっているのに驚き、翻意させようとするがタミーノは取り合わない。一方パパゲーノは侍女たちの話に釣られそうになるが、そこに雷鳴とともに神官が現れ彼女らは去る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "場面が変わり、庭でパミーナが眠っている。そこにモノスタトスがやってきてパミーナを我が物にしたいと狂わしい思いを歌うが、そこに夜の女王が登場し、彼は隠れる。女王は復讐の思いを強烈に歌い、パミーナに剣を渡しこれでザラストロを刺すように命じて去る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "隠れていたモノスタトスが出てきてパミーナに迫るが、ザラストロが登場し、彼を叱責して去らせる。モノスタトスは今後は夜の女王に寝返るか、とつぶやく。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "パミーナが母の命令のことを話すと、ザラストロは「この神聖な殿堂には復讐などない」、と教団の理想を歌い上げる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "場面転換。2人の神官がタミーノとパパゲーノに沈黙の修行を課して去る。しかしパパゲーノは黙っていることができず、しきりに喋ってはタミーノに制止される。そこへ黒いフードで顔を隠した老女がやってくる。彼女に歳を尋ねると自分は18歳だと言うので、パパゲーノは涙を流して大笑いする。そんなに若いなら彼女には年頃の恋人がいるはずだと思い、パパゲーノが聞いてみると案の定、恋人はいるという。しかもその名はパパゲーノだというので驚いてお前は誰だ?と尋ねる、それと同時に雷鳴が轟き、名前を告げずして彼女はどこかに消えてしまった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そこへ3人の童子が登場し、2人を励まし酒や食べ物を差し入れる。パパゲーノが喜んで飲み食いしていると、パミーナが現れる。彼女はタミーノを見つけて喜び話しかけるが彼は修行中なので口を利かない。パパゲーノもまた口いっぱいに頬張っているので喋れない(自省して喋れないとする演出もある)。相手にしてもらえないパミーナは、もう自分が愛想をつかされたと勘違いし、大変悲しんでその場を去る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "次の場面で、神官たちとともにザラストロが登場し、タミーノに新たな試練を課すと告げる。パミーナも出てきて試練を受けに出発するタミーノと互いに別れを告げる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "沈黙の業に落第したパパゲーノが神殿に近寄れずうろついていると、神官がやってきて、お前の望みは何かと尋ねる。パパゲーノは恋人か女房がいればいいのに、というと先程の老女がやってきて、私と一緒になると誓わないと地獄に落ちると脅かす。パパゲーノがとりあえず一緒になると約束すると、老女は若い娘に変身する。「パパゲーナ!」と呼びかけ、パパゲーノは彼女に抱擁をしようとするが、神官がパパゲーノにはまだ早いと彼女を連れ去る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "場面が変る。パミーナはタミーノに捨てられたと思い込み、母のくれた剣で自殺しようとしている。3人の童子が現れてそれを止め、彼女をタミーノのもとに連れて行く。タミーノが試練に立ち向かっているところにパミーナが合流し、魔法の笛を使って火と水の試練を通過する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "さらに場面が変り、パパゲーナを失ったパパゲーノが絶望して首を吊ろうとしている。そこに再び童子たちが登場して魔法の鈴を使うように勧める。パパゲーノが鈴を振ると不思議なことにパパゲーナがあらわれ、2人は喜んで子どもを大勢作るんだ、とおおはしゃぎする。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "場面が変り、夜の女王と侍女たちを案内してモノスタトスが神殿を襲撃しようとやってくる。しかし光に打ち勝つことはできない。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ザラストロが太陽を讃え、一同イシスとオシリスを讃える合唱のうちにタミーノとパミーナを祝福して幕となる。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "※なお、グロッケンシュピールはチェレスタで代用される場合が多い。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "演奏時間は台詞付きで各幕約70分、約90分、計約2時間40分。", "title": "音楽" } ]
『魔笛』K. 620は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1791年に作曲したジングシュピール(歌芝居、現在では一般にオペラの一種として分類される)。モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラである。台本は興行主・俳優・歌手のエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書いた。現在もモーツァルトのオペラの中で筆頭の人気を持つ(「オペルンヴェルト」誌の毎年の作品別上演回数統計、「音楽の友」誌の定期的な人気作品投票など)。
{{redirect4|パミーナ'''」、「'''パパゲナ|小惑星|パミーナ (小惑星)|パパゲーナ (小惑星)}} [[File:Zauberflöte-Theaterzettel1791.jpg|thumb|200px|right|1791年初演時のチラシ]] 『'''魔笛'''』(まてき、{{lang-de-short|''Die Zauberflöte''}}, {{IPA-de|ˈdiː ˈt͡saʊ̯bɐˌfløːtə}} {{pronunciation|De-Ger Die Zauberflöte.ogg|listen|(|help=no}} )K. 620は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]が[[1791年]]に作曲した[[ジングシュピール]](歌芝居、現在では一般に[[オペラ]]の一種として分類される)。モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラである。台本は興行主・俳優・歌手の[[エマヌエル・シカネーダー]]が自分の一座のために書いた。現在もモーツァルトのオペラの中で筆頭の人気を持つ(「{{仮リンク|オペルンヴェルト|En|Opernwelt}}」誌の毎年の作品別上演回数統計、「[[音楽の友]]」誌の定期的な人気作品投票など)。 {{External media|topic=魔笛(全曲を試聴) |width=27em |audio1=[https://www.youtube.com/watch?v=AZsej47Yb34&list=PLEaT4zMFBwVxbTTjih36XJiq5OLk59cGr Mozart: Die Zauberflöte, K.620]<br />[[スチュアート・バロウズ]](タミーノ)、[[ピラール・ローレンガー]](パミーナ)、[[ヘルマン・プライ]](パパゲーノ)、[[クリスティーナ・ドイテコム]](夜の女王)、[[マルッティ・タルヴェラ]](ザラストロ)、{{仮リンク|ゲルハルト・シュトルツェ|en|Gerhard Stolze}}(モノスタトス)、{{仮リンク|レナーテ・ホルム|en|Renate Holm}}(パパゲーナ)、[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]](弁者)、[[ルネ・コロ]](第1の武者)、[[ハンス・ゾーティン]](第2の武者)ほか<br />[[ゲオルク・ショルティ]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[ウィーン国立歌劇場]]合唱団、[[ウィーン少年合唱団]]<br />[[ユニバーサル ミュージック グループ|Universal Music Group]]提供のYouTubeアートトラック}} == 作曲の経緯と初演 == {{出典の明記|section=1|date=2021年3月}} シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座のオーナーで、モーツァルトとは[[ザルツブルク]]時代の知り合いであり、モーツァルトが所属した[[フリーメイソン]]の会員でもあった。シカネーダーは[[ウィーン]]の郊外にある[[フライハウス]](免税館)内の[[フライハウス劇場 (ウィーン)|ヴィーデン劇場]]({{lang|de|Theater auf der Wieden}}、フライハウス劇場とも呼ばれる。フライハウスは劇場も含む建物群。1000人以上収容の集合住宅、市場、礼拝堂、菜園、工房、厩舎までを含む巨大な複合施設)を管理し、一座の上演を行っていた。 シカネーダーは、当時仕事がなく生活に困っていたモーツァルトに大作を依頼した。モーツァルトは1791年の3月から9月にかけて作曲を進め、[[プラハ]]での『[[皇帝ティートの慈悲]]』の上演のため中断を経て、[[9月28日]]に完成させた。当時妻[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ]]が[[バーデン・バイ・ヴィーン|バーデン]]へ湯治に出ており、モーツァルトは一人暮しをしていたため、シカネーダーは彼にフライハウス内のあずまやを提供した(このあずまやは[[ザルツブルク]]の国際[[モーツァルテウム]]財団の中庭に移設され現存する)。 『魔笛』の台本は、次の作品からアイデアを流用したものである。 * [[パヴェル・ヴラニツキー|パウル・ヴラニツキー]]作曲のオペラ『オーベロン』 - シカネーダー一座のための台本は、一座の一員[[カール・ルートヴィヒ・ギーゼケ]]による。 * トービアス・フィーリップ・フォン・ゲーブラーの戯曲『エジプト王ターモス』 - モーツァルトは以前にこの戯曲のための音楽(K.345)を書いている。 * [[クリストフ・マルティン・ヴィーラント]]の童話劇集『ジンニスタン』から『ルル、またの名、魔笛』 ギーゼケはのちに『魔笛』の台本は自分が書いたと主張したが、真偽は定かでない。音楽コラムニストのジェイミー・ジェイムズは、「魔笛」の物語はフリーメイソン団員のアッベ・ジャン・テラッソンが書いた古代エジプトの王子セトスをめぐる寓意小説『セトス』に基づいている、と述べている<ref name="ISBN4-8269-9027-8">{{Cite book |和書 |author=ジェイミー・ジェイムズ |translator=黒川孝文 |year=1995 |title=天球の音楽 歴史の中の科学・音楽・神秘思想 |publisher=白揚社 |pages=250-251 |isbn=4-8269-9027-8 }} 第9章「ニュートンと《魔笛》」参照</ref>。 初演は1791年[[9月30日]]、ヴィーデン劇場で行なわれ、大好評を博した。モーツァルトはバーデンの妻に「[[アントニオ・サリエリ]]が愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛した」と手紙を書いている([[10月14日]])。 同じ年の12月、死の床にあったモーツァルトは時計をみながら当日の上演の進行を気にしていたという(フリードリヒ・ロホリッツのモーツァルト逸話集:[[1798年]])。 == オペラの内容 == {{出典の明記|section=1|date=2021-3}} [[Image:Papageno.jpg|thumb|パパゲーノを演じる[[エマヌエル・シカネーダー]]]] シカネーダーの興行は一般市民を対象としており、演目もそれにふさわしく、形式ばらずにわかりやすい物を中心とした。魔笛の各所には聴衆を楽しませる大掛かりな見せ場が盛り込まれている。歌や会話の言語もドイツ語で、[[レチタティーヴォ]]に代えて台詞で筋を進行する、ジングシュピールの形式を用いた。 物語は王子によるお姫様の救出劇の形で始まるが、途中で善玉と悪玉が入れ替わる。シカネーダーが台本作成中に他の作品で似た筋書きが発表されたため急いで変更したためであるという説もあるが、単なる意外性を求めたストーリー上の工夫とみなすこともある。これまでの各種の解釈に対して、[[夜の女王]]の国と、ザラストロの国とでは善悪見方が相反するもので、全て相対的な世界であるとすれば筋について問題はないと考えられる。 本作には[[フリーメイソン]]のさまざまなシンボルや[[教義]]に基づく歌詞や設定が用いられていることも特徴で、とりわけ各所に「[[3]]」を象徴的に使っているのが目立つ{{要出典|date=2021年3月}}。序曲の最初や中間部で鳴り響く和音(同じフレーズが3回演奏される)は、フリーメイソンの儀式で使われるもので、劇中ザラストロの神殿内の場面でも再現されている。2人の作者がメンバーとしてフリーメイソンの精神をオペラ化したとも、当時皇帝から圧迫を受けつつあったフリーメイソンの宣伝であったなど、教団との関わりを重視する指摘があり、今日の演出にも影響を与えている。現在では否定されているが、モーツァルトの急死はフリーメイソンの教義を漏らしたため、フリーメイソンのメンバーが暗殺したという説さえ見られたほどである。 いずれにせよ、第2幕ではそれまでの救出劇から登場人物の(フリーメイソン的な)修行と試練の内容に変わる{{要出典|date=2021年3月}}。これと対照的なのが[[オペラ・ブッファ|ブッファ]]的・道化的なキャラクターのパパゲーノである。シカネーダー自身が演じる役なので当然だが、要所要所に登場し、場をもりあげる役割を果たしている。モーツァルトもこの役に親しみやすく魅力的な音楽を与えており、魔笛を代表するキャラクターとなった。 途中から善悪交代する夜の女王とザラストロは[[オペラ・セリア]]的な役柄である。このオペラの中の最高音と最低音をそれぞれ歌う歌い手でもある。特に[[夜の女王のアリア|夜の女王の2つのアリア]]([[#音楽|No4, No,14]])は至難なコロラトゥーラの技巧を要求する難曲であり、才能あるソプラノが若いころに歌って注目をあつめることがよくある。ドイツ圏のソプラノには、若年期に夜の女王を演じた後、娘のパミーナへ役を転じる例も多い。その一人である[[ルチア・ポップ]]に至っては、夜の女王の後で三人の童子の一人を演じた記録が残っている。ザラストロの2曲([[#音楽|No10, No,15]])も、低音が豊かなバッソ・プロフォンド歌手にとって重要なレパートリーのひとつでもある。 なお、文豪[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]は、「魔笛」を愛し、その第2部を執筆しようとしたが、[[多神教]]的性格を好まなかったためか断念した{{要出典|date=2021年3月}}。 ジングシュピールは殆どの場合、楽譜に書かれた台詞に変更が施され、CD録音でも対訳が付かないことで知られないニュアンスが少なからずある。音楽之友社による注釈付き対訳で荒井秀直が指摘するようにパミーナの父と力の源となる"Sonnenkreis"の存在も変更され、ほとんど表出しない。 == 登場人物 == # [[神官]][[ザラストロ]](B) # [[夜の女王]](S) - 初演ではモーツァルトの義理の姉ヨゼーファ・ホーファーが歌った。 # [[タミーノ|王子タミーノ]](T) [[ファイル:Mozart - Die Zauberflöte - Tamino and Pamina - Fresco in the Vienna Opera - The Victrola book of the opera.jpg|サムネイル|233x233px|[[ウィーン国立歌劇場]]の[[フレスコ|フレスコ画]]に描かれたタミーノとパミーナ。]] # 夜の女王の娘パミーナ(S) # [[鳥刺し]]パパゲーノ(BまたはBr) - 初演ではシカネーダー自身が歌った。 # 老女/パパゲーナ(S) # 夜の女王の3人の侍女(S,S,S) # [[三人の童子|3人の童子]](S,S,S)- 以前はおおむね成人女性歌手が演じたが、近年は少年([[ボーイソプラノ]])が演じるケースが多い。 # 弁者(B) # 3人の神官(T,B,Sp) # 2人の武者(T,B) # 奴隷頭の黒人モノスタトス(T) * S:[[ソプラノ]]、T:[[テノール]]、B:[[バス (声域)|バス]]、Br:[[バリトン]]、Sp:[[語り役]] * 3人1組の役が多いのは[[フリーメイソン]]の象徴的数字だといわれる。 == あらすじ == 時と場所:時代不詳の[[エジプト]](正確には、漠然と「ラムセスの時代」と書かれている) === 第1幕 === 日本の[[狩衣]]を着た<ref>通行の台本には日本とは記されていないが、1791年版のリブレットに「in einem prächtigen javonischen Jagdkleide」とあり、このjavonischenは通常「日本の」(japonischen)のことだと解釈されている([[フラクトゥール]]のvとpは誤りやすい)。ただし「ジャワの」(javanischen)の可能性もある。参照:{{citation|url=http://opera.stanford.edu/Mozart/Zauberflote/libnotes.html|title=Die Zauberflöte: Notes on the Libretto|publisher=OperaGlass}}</ref>王子タミーノが大蛇(初演前の原案ではライオン)に襲われ、「神々よ助けて!」と叫ぶ。そこに3人の侍女があらわれ彼を救出する。3人はタミーノのことを夜の女王に報告に行くが、そこへ鳥を女王に献上して暮らす鳥刺しのパパゲーノがやってくる。大蛇(ライオン)のことを聞かれ、成り行きから自分でやっつけたとパパゲーノは嘘をつくが、戻ってきた3人の侍女に見つかり口に鍵をかけられてしまう。侍女たちがタミーノに女王の娘パミーナの絵姿を見せると彼は彼女に一目惚れする。そこに夜の女王が登場し、悪魔ザラストロにさらわれて娘を失った悲しみを語り、彼に救出を依頼し、タミーノは意気込んで引き受け、ようやくしゃべることを許されたパパゲーノとともに姫の救出に向かう。2人にはお供の3人の童子が付き添い、タミーノには魔法の笛(魔笛)、パパゲーノには魔法の鈴が渡される。 ザラストロの[[神殿]]内。逃げ出そうとしたパミーナを捕らえようとする奴隷頭モノスタトスと部下の奴隷の前に、偵察に来たパパゲーノが突然現れる。彼らは互いに初めて見る姿に驚き、双方ともパミーナを置き去りにして逃げ出す。しかしパパゲーノはすぐに引き返し、パミーナに救出にきたことを告げる。 ザラストロの神殿前にタミーノが案内役の童子につれられてやってくる。3つの扉を順に試すと、最後の扉が開いて弁者(神官の一人)が登場する。2人の長い問答が始まり、ザラストロは悪人ではなく夜の女王のほうが悪人であると告げ、タミーノらは夜の女王達の甘言に引っかかったことに気づく。一人になったタミーノが笛を吹くと、神殿から逃げようとしていたパパゲーノとパミーナが聞きつけやってくる。そこにモノスタトスが登場し、2人を捕らえるが、パパゲーノの鳴らす魔法の鈴の音に動物たちも、奴隷たちも皆浮かれて踊ってどこかに去ってしまう。そこへザラストロと神官たちが登場する。彼は逃げようとしたパミーナにやさしく語り掛けるが、そこにモノスタトスがタミーノを捕らえてやってくる。初対面にもかかわらず、パミーナとタミーノは互いに惹かれて走り寄り、抱き合う。怒ったモノスタトスが2人を引き離すが、ザラストロに足を77回叩きの仕置きを受ける。一同ザラストロの裁きを受け容れて讃える合唱で幕となる。 === 第2幕 === ザラストロは神殿で神官たちにタミーノに試練の儀式を受けさせることを説明し、賛同を得る。一同[[イシス]]神と[[オシリス]]神を称える。 神官がタミーノとパパゲーノのもとへやってきて、試練について説明する。試練に挑むというタミーノとは対照的に、パパゲーノはそんな面倒なことは御免こうむるという。神官はパパゲーノに試練に打ち勝ったら似合いの娘を世話するといい、ようやくパパゲーノはその気になる。 そこに3人の侍女がやってくる。彼女たちはタミーノがザラストロの言うなりになっているのに驚き、翻意させようとするがタミーノは取り合わない。一方パパゲーノは侍女たちの話に釣られそうになるが、そこに雷鳴とともに神官が現れ彼女らは去る。 場面が変わり、庭でパミーナが眠っている。そこにモノスタトスがやってきてパミーナを我が物にしたいと狂わしい思いを歌うが、そこに夜の女王が登場し、彼は隠れる。女王は復讐の思いを強烈に歌い、パミーナに剣を渡しこれでザラストロを刺すように命じて去る。 隠れていたモノスタトスが出てきてパミーナに迫るが、ザラストロが登場し、彼を叱責して去らせる。モノスタトスは今後は夜の女王に寝返るか、とつぶやく。 パミーナが母の命令のことを話すと、ザラストロは「この神聖な殿堂には復讐などない」、と教団の理想を歌い上げる。 場面転換。2人の神官がタミーノとパパゲーノに沈黙の修行を課して去る。しかしパパゲーノは黙っていることができず、しきりに喋ってはタミーノに制止される。そこへ黒いフードで顔を隠した老女がやってくる。彼女に歳を尋ねると自分は18歳だと言うので、パパゲーノは涙を流して大笑いする。そんなに若いなら彼女には年頃の恋人がいるはずだと思い、パパゲーノが聞いてみると案の定、恋人はいるという。しかもその名はパパゲーノだというので驚いてお前は誰だ?と尋ねる、それと同時に雷鳴が轟き、名前を告げずして彼女はどこかに消えてしまった。 そこへ3人の童子が登場し、2人を励まし酒や食べ物を差し入れる。パパゲーノが喜んで飲み食いしていると、パミーナが現れる。彼女はタミーノを見つけて喜び話しかけるが彼は修行中なので口を利かない。パパゲーノもまた口いっぱいに頬張っているので喋れない(自省して喋れないとする演出もある)。相手にしてもらえないパミーナは、もう自分が愛想をつかされたと勘違いし、大変悲しんでその場を去る。 次の場面で、神官たちとともにザラストロが登場し、タミーノに新たな試練を課すと告げる。パミーナも出てきて試練を受けに出発するタミーノと互いに別れを告げる。 沈黙の業に落第したパパゲーノが神殿に近寄れずうろついていると、神官がやってきて、お前の望みは何かと尋ねる。パパゲーノは恋人か女房がいればいいのに、というと先程の老女がやってきて、私と一緒になると誓わないと地獄に落ちると脅かす。パパゲーノがとりあえず一緒になると約束すると、老女は若い娘に変身する。「パパゲーナ!」と呼びかけ、パパゲーノは彼女に抱擁をしようとするが、神官がパパゲーノにはまだ早いと彼女を連れ去る。 場面が変る。パミーナはタミーノに捨てられたと思い込み、母のくれた剣で自殺しようとしている。3人の童子が現れてそれを止め、彼女をタミーノのもとに連れて行く。タミーノが試練に立ち向かっているところにパミーナが合流し、魔法の笛を使って火と水の試練を通過する。 さらに場面が変り、パパゲーナを失ったパパゲーノが絶望して首を吊ろうとしている。そこに再び童子たちが登場して魔法の鈴を使うように勧める。パパゲーノが鈴を振ると不思議なことにパパゲーナがあらわれ、2人は喜んで子どもを大勢作るんだ、とおおはしゃぎする。 場面が変り、夜の女王と侍女たちを案内してモノスタトスが神殿を襲撃しようとやってくる。しかし光に打ち勝つことはできない。 ザラストロが太陽を讃え、一同イシスとオシリスを讃える合唱のうちにタミーノとパミーナを祝福して幕となる。 == 音楽 == {{管弦楽編成| フルート=2 (ピッコロ)| オーボエ=2| クラリネット=2 (B♭管、C管、バセットホルン持ち替え)| ファゴット=2| ホルン=2| トランペット=2| トロンボーン=3| ティンパニ=●| 第1ヴァイオリン=●| 第2ヴァイオリン=●| ヴィオラ=●| チェロ=●| コントラバス=●| その他=[[鍵盤付きグロッケンシュピール|グロッケンシュピール(鍵盤式)]]| }} ※なお、[[鍵盤付きグロッケンシュピール|グロッケンシュピール]]は[[チェレスタ]]で代用される場合が多い。 {{listen|type=music | filename = Magic Flute Overture.ogg | title = 序曲 | description = Trisdee na Patalung(指揮)、サイアム交響楽団による演奏 | filename2 = March of the Priests.ogg | title2 = 神官の行進(第2幕冒頭) | description2 = Trisdee na Patalung(指揮)、サイアム交響楽団による演奏 | filename3 = Der Hoelle Rache.ogg | title3 = 復讐の炎は地獄のように我が心に燃え | description3 = Sandra Partridge(ソプラノ)、Trisdee na Patalung(指揮)、サイアム交響楽団による演奏 | filename4 = TelefunkenE2688 01.oga | title4 = ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが | description4 = {{仮リンク|アウリッキ・ラウタヴァーラ|en|Aulikki Rautawaara}}(ソプラノ)、[[ハンス・シュミット=イッセルシュテット]](指揮)、[[ベルリン・ドイツ・オペラ]]管弦楽団による演奏(1938年) }} ; 序曲 ''Ouverture'' : 全曲を通じて大きな役割を果たす「フリーメイソンの三和音」が登場する。なお、主部の第1主題は[[ムツィオ・クレメンティ|クレメンティ]]の『ピアノソナタ 変ロ長調』(作品24-2)の第1楽章主題に酷似しており、モーツァルトがこの曲でクレメンティをからかったという見方がある。序奏・アダージョ→アレグロ・[[ソナタ形式]]、[[変ホ長調]]。序曲の編成は、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦5部。 ; 第1幕 :* No.1: 導入「助けてくれ! 助けてくれ!」 ''Introduktion - Zu Hilfe! zu Hilfe!''(タミーノ、3人の侍女) :* No.2: アリア「[[私は鳥刺し]]」 ''Arie - Der Vogelfänger bin ich ja''(パパゲーノ)<br/> パパゲーノがパンフルートを吹きながら愉快に歌う。(なお、3番目の歌詞は台本、自筆譜ともに記載されていない) :* No.3: アリア「{{仮リンク|なんと美しい絵姿|en|Dies Bildnis ist bezaubernd schön}}」 ''Arie - Dies Bildnis ist bezaubernd schön''(タミーノ)<br/> タミーノの歌うパミーナへの愛の歌である。 :* No.4: レシタティーヴォとアリア「{{仮リンク|ああ、怖れおののかなくてもよいのです、わが子よ!|en|O zittre nicht, mein lieber Sohn}}」 ''Rezitativ und Arie - O zitt're nicht, mein lieber Sohn!''(夜の女王)<br/> 有名な2つの「[[夜の女王のアリア]]」の1曲目。レチタティーヴォの後、アンダンテが続き、その後極めて技巧的な[[コロラトゥーラ]]が出現する。[[コロラトゥーラ・ソプラノ]]のための曲で、極めて高い演奏技術を要する。 :* No.5: 五重唱「ウ! ウ! ウ! ウ!」 ''Quintett - Hm! hm! hm! hm!''(パパゲーノ、タミーノ、3人の侍女)<br/> 口に鍵を付けられたパパゲーノがしゃべれないまま錠を取ってくれと歌うユーモラスな歌。侍女たちは、世の嘘つきたちにこのような罰を与えればよいのに、と歌う。 :* No.6: 三重唱「可愛い子よ、お入りなさい」 ''Terzett - Du feines Täubchen, nur herein!''(モノスタートス、パミーナ、パパゲーノ)<br/> :* No.7: 二重唱「{{仮リンク|愛を感じる男の人達には|es|Bei Männern, welche Liebe fühlen}}」 ''Duett - Bei Männern, welche Liebe fühlen''(パミーナ、パパゲーノ)<br/> 愛することの喜びを歌った美しい二重唱。(なお冒頭の4つの音に続くクラリネットとホルンのアッコードは、自筆譜には記載されていない) :* No.8: フィナーレ「この道はあなたを目的へと導いていく」 ''Finale - Zum Ziele fuhrt dich diese Bahn'' ; 第2幕 :* No.9: 神官の行進 ''Marsch der Priester'' :* No.10: 合唱つきアリア「{{仮リンク|おおイシスとオシリスの神よ|fr|O Isis und Osiris}}」 ''Arie und Chor - O Isis und Osiris''(ザラストロ、合唱) :* No.11: 二重唱「女の奸計から身を守れ」 ''Duett - Bewahret euch vor Weibertücken'' :* No.12: 五重唱「どうしたの? どうしたの? どうしたの?」 ''Quintett - Wie? Wie? Wie?'' :* No.13: アリア「{{仮リンク|誰でも恋の喜びを知っている|fr|Alles fühlt der Liebe Freuden}}」 ''Arie - Alles fühlt der Liebe Freuden''(モノスタートス) :* No.14: アリア「[[復讐の炎は地獄のように我が心に燃え]]」 ''Arie - Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen''(夜の女王)<br/> 「夜の女王のアリア」の2曲目。超絶技巧を要する。 :* No.15: アリア「[[この聖なる殿堂では]]」 ''Arie - In diesen heil'gen Hallen''(ザラストロ) :* No.16: 三重唱「再びようこそ」 ''Terzett - Seid uns zum zweitenmal willkommen'' :* No.17: アリア「{{仮リンク|ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが|fr|Ach, ich fühl's, es ist verschwunden!}}」 ''Arie - Ach, ich fühl's, es ist verschwunden''(パミーナ) :* No.18: 神官たちの合唱「おお[[イシス]]と[[オシリス]]の神よ、なんという喜び!」 ''Chor der Priester - O, Isis und Osiris, welche Wonne!'' :* No.19: 三重唱「愛しい人よ、もうあなたにお会いできないのですか?」 ''Terzett - Soll ich dich, Teurer, nicht mehr seh'n?'' :* No.20: アリア「[[娘か可愛い女房が一人]]」 ''Arie - Ein Mädchen oder Weibchen wünscht Papageno sich!''(パパゲーノ)<br/> パパゲーノが、可愛い女の子か奥さんがいたら、この世は実に素晴らしい、と歌う楽天的なアリア。グロッケンシュピールの音が美しく響く。モーツァルトは、2つのパパゲーノのアリアを、当時の流行歌から取ったという。 :* No.21: フィナーレ「やがて朝を告げるために輝きわたるのは」 ''Finale - Bald prangt, den Morgen zu verkünden'' 演奏時間は台詞付きで各幕約70分、約90分、計約2時間40分。 == 映画化作品 == {{main|{{ill2|『魔笛』を題材にした作品|en|Works inspired by The Magic Flute}}}} * [[魔笛 (1975年の映画)]] - スウェーデン映画、[[イングマール・ベルイマン]]監督作品。スウェーデン語訳詞による歌唱。 * [[魔笛 (2006年の映画)]] - イギリス映画、[[ケネス・ブラナー]]監督作品。英語訳詞による歌唱。 * 2022年にもドイツでフロリアン・ジーグル監督、ジャック・ウルフ主演で映画化された。[[ローランド・エメリッヒ]]が製作に名を連ねている。『[[アマデウス (映画)]]』でサリエーリを演じた[[F・マーリー・エイブラハム]]も出演。2013年以来多くの実演で夜の女王を歌った{{仮リンク|サビーヌ・ドゥヴィエル|fr|Sabine Devieilhe}}(フランスのコロラトゥーラ・ソプラノ)が同じ役で登場する。台詞と歌詞は英語。 * ドイツ語歌唱で映画形式製作されたものは多数存在すると思われるが、日本で劇場公開されたものはない。ヨアヒム・ヘス、[[ピーター・ユスティノフ]]監督、ホルスト・シュタイン指揮の[[1971年]]ハンブルク国立歌劇場製作のものは、豪華スターぞろい([[ハンス・ゾーティン]]、[[ニコライ・ゲッダ]]、[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]、[[クリスティーナ・ドイテコム]]、[[エディト・マティス]]、[[クルト・モル]])で今日も親しまれている。舞台公演のライブ映像は数え切れないほど多く発売されているが、こちらは映画版とは逆に訳詞版が国内販売された例はない。 == 参考文献 == * 『1791,MOZART'S LAST YEAR』2nd Edition * H.C.Robbins Landon著 ([[1990年]] Fontana Paperbacks, ISBN 0-00-654324-3) (海老沢敏 訳『モーツァルト最後の年』, 中央公論新社, [[2001年]](底本は1999年版)) * 北原博,モーツァルト『魔笛』と 18世紀フリーメイソンの古代密儀イメージ,北海学園大学論集(147)101-116,2011年3月25日 ==出典== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[パパゲーノ効果]] - マスメディアが人生相談や自殺を思い留まり成功した例を挙げることで、大衆の自殺を抑制する効果。 *[[パパゲーナ (カクテル)]] == 外部リンク == {{Portal クラシック音楽}} {{Commonscat|Die Zauberflöte}} * {{IMSLP2|work=Die_Zauberfl%C3%B6te,_K.620_%28Mozart,_Wolfgang_Amadeus%29 |cname=魔笛}} {{モーツァルトのオペラ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:まてき}} [[Category:魔笛|*]] [[Category:モーツァルトのオペラ]] [[Category:ドイツ語のオペラ]] [[Category:エジプトを舞台とした作品]] [[Category:1790年代のオペラ]] [[Category:1791年の音楽]] [[Category:楽器を題材とした作品]] [[Category:王子を主人公とした舞台作品]]
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葛西駅
葛西駅(かさいえき)は、東京都江戸川区中葛西五丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅である。駅番号はT 17。 副駅名は地下鉄博物館前。博物館の大きな看板もホームの側壁中央に飾られている。 中央に通過線2線(本線)、その外側に副本線2線があり、副本線に面して2面の相対式ホームを有する高架駅である。この通過線を利用し各駅停車が快速の通過待ちを行うことが多い。日中の快速は上下線とも全列車が当駅で追い抜きを行う。浦安側の本線には渡り線があり、2番線ホームから西船橋方面への折り返しが可能である。そのため、一部運転見合わせとなった場合には葛西行きが運行されることがある。 改札は2か所あり、中央改札の他に、駅の南側に隣接する歩道橋と2番線ホームの浦安寄りとを接続した形で地下鉄博物館口が設置されている。同改札口は23時以降閉鎖される。 (出典:東京メトロ:構内図) 2015年6月10日から向谷実作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。 2022年度の1日平均乗降人員は89,311人であり、東京メトロ全130駅中31位。東西線の駅としては門前仲町駅に次いで23駅中第11位。他線と接続しない同線の単独駅としては東陽町駅に次いで第2位で、東陽町 - 西船橋間の快速通過駅では第1位。 近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通り。 当駅発着の路線バスは都営バスが主体であるが、京成バスも5路線が発着し、小岩駅、東京臨海病院、亀有駅、葛西臨海公園駅、東京ディズニーリゾート、東京スカイツリータウンへ向かうバスが運行されている。また羽田空港・成田空港への空港連絡バスや三井アウトレットパーク 木更津への高速バスも発着する。5時~15時の間に空港連絡バス、高速バスに現金で乗車する場合はミスタードーナツ葛西駅前ショップの前に設けられた券売機で乗車券を購入する必要がある。 地下駐輪場建設に伴い、2005年から2008年9月まで一部の系統が仮設停留所から発着していたが、同月25日より新停留所に改められ、一部の仮設停留所が常設になった。
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葛西駅(かさいえき)は、東京都江戸川区中葛西五丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅である。駅番号はT 17。 副駅名は地下鉄博物館前。博物館の大きな看板もホームの側壁中央に飾られている。
{{出典の明記|date=2012年11月10日 (土) 11:44 (UTC)|ソートキー=駅}} {{統合文字|葛}} {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 葛西駅 |画像 = Kasai Station-1.JPG |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎中央口(2012年2月19日撮影) |よみがな = かさい |ローマ字 = Kasai |副駅名 = 地下鉄博物館前{{要出典|date=2023年12月}} |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}} |前の駅 = T 16 [[西葛西駅|西葛西]] |駅間A = 1.2 |駅間B = 1.9 |次の駅 = [[浦安駅 (千葉県)|浦安]] T 18 |電報略号 = カサ |駅番号 = {{駅番号r|T|17|#009bbf|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#009bbf|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ東西線|東西線]] |キロ程 = 20.9 |起点駅 = [[中野駅 (東京都)|中野]] |所在地 = [[東京都]][[江戸川区]][[中葛西]]五丁目43-11 |緯度度 = 35 |緯度分 = 39 |緯度秒 = 49 |経度度 = 139 |経度分 = 52 |経度秒 = 21.7 |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[3月29日]]<ref name="eidan50_251" /> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />89,311 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} '''葛西駅'''(かさいえき)は、[[東京都]][[江戸川区]][[中葛西]]五丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ東西線|東西線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''T 17'''。 {{要出典範囲|date=2023年12月|副駅名は'''[[地下鉄博物館]]前'''}}。博物館の大きな看板もホームの側壁中央に飾られている。 == 歴史 == * [[1969年]]([[昭和]]44年)[[3月29日]]:開業<ref name="eidan50_251">[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、pp.251 - 252。</ref>。 * [[1986年]](昭和61年)[[7月12日]]:浦安寄りの高架下に地下鉄博物館が開館<ref name="eidan50_703">[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、p.703。</ref>。 * [[1993年]]([[平成]]5年) ** [[8月1日]]:2番線ホームの浦安寄りに地下鉄博物館口を開設。 ** [[11月4日]]:継続定期券発売機を導入<ref>'94営団地下鉄ハンドブック</ref><ref>[[上野駅]]、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ヶ関駅]]、[[銀座駅]]、[[新橋駅]]、[[秋葉原駅]]、[[御茶ノ水駅]]と同時に導入。翌[[1994年]]に導入された[[後楽園駅]]も合わせて、営団では数少ない継続定期券発売機設置駅であった。</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)[[4月1日]]:葛西駅前地下駐輪場が完成。葛西土地区画整理組合から南口に風車「風とともに」が寄贈される。 * [[2013年]](平成25年)[[8月27日]]:「東西線ソーラー発電所」計画の一環で当駅に[[太陽光発電|太陽光発電システム]]が導入される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130821_tozaisolar082627.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212094312/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130821_tozaisolar082627.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「東西線ソーラー発電所」計画、続々進行中 東西線地上駅3駅に太陽光発電システムを新たに導入 既設の南行徳駅にも太陽光パネルを増設し、さらにパワーアップします|publisher=東京地下鉄|date=2013-08-21|accessdate=2020-12-12|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[6月10日]]:[[発車メロディ]]を導入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[12月4日]]:[[ホームドア]]供用開始<ref>[https://www.gikai.city.edogawa.tokyo.jp/voices/cgi/voiweb.exe?ACT=200&KENSAKU=1&SORT=0&KTYP=0,1,2,3&KGTP=3&FYY=2021&TYY=2021&TITL=%8C%9A%90%DD%88%CF%88%F5%89%EF&TITL_SUBT=%97%DF%98a%82R%94N%82P%82Q%8C%8E%81@%8C%9A%90%DD%88%CF%88%F5%89%EF%81%7C12%8C%8E03%93%FA-08%8D%86&KGNO=1426&FINO=1987&HUID=159004&UNID=k_R03120340081 江戸川区議会 令和3年12月建設委員会 12月03日 - 08号] - 2022年10月3日閲覧。</ref>。 == 駅構造 == 中央に通過線2線([[停車場#本線|本線]])、その外側に副本線2線があり、副本線に面して2面の[[相対式ホーム]]を有する[[高架駅]]である。この通過線を利用し[[東京メトロ東西線#各駅停車|各駅停車]]が[[東京メトロ東西線#快速|快速]]の通過待ちを行うことが多い。日中の快速は上下線とも全列車が当駅で追い抜きを行う。浦安側の本線には[[分岐器#形状による分類|渡り線]]があり、2番線ホームから西船橋方面への折り返しが可能である<ref name="RJ926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。そのため、一部運転見合わせとなった場合には葛西行きが運行されることがある。 [[改札口|改札]]は2か所あり、中央改札の他に、駅の南側に隣接する[[人道橋|歩道橋]]と2番線ホームの浦安寄りとを接続した形で'''地下鉄博物館口'''が設置されている。同改札口は23時以降閉鎖される。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 |[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kasai/timetable/tozai/a/index.html |title=葛西駅時刻表 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kasai/timetable/tozai/b/index.html |title=葛西駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/kasai/index.html 東京メトロ:構内図]) <gallery widths="190" style="font-size:90%;"> Kasai Station-4.JPG|駅入口(2012年2月19日) Kasai-Station-Subway-Museum-Direction-gate.jpg|地下鉄博物館方面改札(2018年9月15日) Tokyo Metro Kasai sta 003.jpg|ホーム(2008年2月10日) Tokyo Metro kasai sta 98 001.jpg|ペデストリアンデッキ塗色変更前の葛西駅(1998年9月) Tokyo Metro kasai sta 98 002.jpg|1990年代当時の改札口 営団の全駅への自動改札導入完了後もしばらくラッチの有人改札が自動改札と共存していた(1998年9月) </gallery> === 発車メロディ === 2015年6月10日から[[向谷実]]作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]を参照)。 == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''89,311人'''であり<ref group="メトロ" name="me2022" />、東京メトロ全130駅中31位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。東西線の駅としては[[門前仲町駅]]に次いで23駅中第11位。他線と接続しない同線の単独駅としては[[東陽町駅]]に次いで第2位で、東陽町 - 西船橋間の快速通過駅では第1位。 近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.edogawa.tokyo.jp/kuseijoho/tokei/tokei/index.html 統計江戸川] - 江戸川区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |1969年(昭和44年) |<ref name="eidan50_388">[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、p.388。</ref>14,401 | | |- |1974年(昭和49年) |<ref name="eidan50_388" />30,684 | | |- |1978年(昭和53年) |<ref name="eidan50_388" /><ref>{{Cite book|和書|author=大塚和之・諸河久|title=日本の私鉄⑧ 営団地下鉄|publisher=[[保育社]]|date=1993-09-30|page=44|isbn=978-4586508549}}</ref>60,850 | | |- |1979年(昭和54年) |<ref name="eidan50_388" />60,708 | | |- |1980年(昭和55年) |<ref name="eidan50_388" />52,691 | | |- |1984年(昭和59年) |<ref name="eidan50_388" />57,193 | | |- |1989年(平成元年) |<ref name="eidan50_388" />69,997 | | |- |1990年(平成{{0}}2年) | |37,238 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |39.268 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |41,033 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | |42,178 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | |42,663 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | |43,183 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | |43,545 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | |43,405 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | |44,035 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | |44,325 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) | |45,038 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | |45,753 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31" />91,079 |45,595 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>91,511 |45,738 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |91,299 |45,449 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |91,906 |45,693 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |94,113 |46,929 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |96,422 |48,260 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |97,118 |48,704 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |96,508 |48,373 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |96,928 |48,501 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |95,750 |47,938 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |97,394 |48,769 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |100,279 |50,219 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |101,096 |50,507 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |103,531 |51,672 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |105,189 |52,468 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |106,899 |53,288 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |108,225 |53,942 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |107,152 |53,432 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>78,926 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>81,519 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>89,311 | | |} == 駅周辺 == [[画像:Kasai Station, east square-1.JPG|thumb|240px|東口駅前広場]] {{See also|中葛西|東葛西}} === 行政機関 === * [[葛西警察署|警視庁葛西警察署]] * 葛西区民館([[江戸川区役所]]葛西事務所・江戸川区葛西健康サポートセンター) === 郵便局 === * 葛西駅前郵便局 * 江戸川東葛西六郵便局 === 教育機関 === * [[江戸川区立第二葛西小学校]] * [[江戸川区立東葛西中学校]] === 博物館 === * [[地下鉄博物館]] === 商業施設 === * [[ユアサ・フナショク#ビジネスホテル事業|パールホテル]]葛西 * [[リブ・マックス|ホテルリブマックス]]葛西駅前 * [[スターツコーポレーション|ホテルルミエール]]葛西 * メトロセンター * [[マルエツ]] 葛西店 * フジマート 葛西店 * [[くすりの福太郎]] [[中葛西]]3丁目店、東葛西店、東葛西2号店 * [[ワイズマート]] 葛西店 * [[ポポラマーマ]]本社・葛西駅前店 === 道路等 === * [[東京都道318号環状七号線]](環七通り) * [[東京都道450号新荒川葛西堤防線]](清砂大橋通り) * 三角葛西通り * 葛西駅西通り === 駐輪場 === * [[自転車]]用[[駐輪場]] * [[原動機付自転車|原付]] / [[オートバイ|二輪車]]用駐輪場 == バス路線 == 当駅発着の[[路線バス]]は[[都営バス]]が主体であるが、[[京成バス]]も5路線が発着し、[[小岩駅]]、[[東京臨海病院]]、[[亀有駅]]、[[葛西臨海公園駅]]、[[東京ディズニーリゾート]]、[[東京スカイツリータウン]]へ向かうバスが運行されている。また[[東京国際空港|羽田空港]]・[[成田国際空港|成田空港]]への[[リムジンバス|空港連絡バス]]や[[三井アウトレットパーク 木更津]]への高速バスも発着する。5時~15時の間に空港連絡バス、高速バスに現金で乗車する場合はミスタードーナツ葛西駅前ショップの前に設けられた券売機で乗車券を購入する必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiseibus.co.jp/kousoku/hnd02.html#sec-01 |title=羽田空港行きのバスに乗車する場合 |website=亀有駅・小岩駅・葛西駅〜羽田空港 |publisher=京成バス |accessdate=2022-07-08}}</ref>。 地下駐輪場建設に伴い、2005年から2008年9月まで一部の系統が仮設停留所から発着していたが、同月25日より新停留所に改められ、一部の仮設停留所が常設になった。 === 中央口 === {|class="wikitable" !のりば!!系統名 経由地・行先!!運行事業者・備考 |- |1||[[京成バス江戸川営業所#環七シャトル|SS07]] [[一之江駅]]経由 [[小岩駅]]行(環七シャトル)<br />[[京成バス江戸川営業所#環七シャトル|SS08]] 一之江駅経由 [[亀有駅]]行(環七シャトル)<br /> 【特急】新小岩駅東北広場行<br />[[京成バス江戸川営業所#臨海病院線・西瑞江線|りんかいシャトル]] [[東京臨海病院]]行<br />(系統番号なし)一之江駅西口・瑞江コミュニティ会館経由 [[瑞江駅]]行・江戸川スポーツランド行|| rowspan="2" |[[京成バス]] |- |2||[[京成バス江戸川営業所#第二南小岩線|小76]] [[鹿骨]]区民館経由 小岩駅行 |- |3||[[都営バス臨海支所#新小29系統|新小29・新小29-2]] [[一之江駅]]・同潤会・新小岩駅北口経由 [[東新小岩]]四丁目行<br />[[都営バス臨海支所#平23系統|平23]] [[松江 (江戸川区)|松江]]・[[東小松川|京葉交差点]]経由 [[平井駅 (東京都)|平井駅]]行||rowspan="5"|[[都営バス]] |- |4||[[都営バス臨海支所#秋26系統|秋26]] 葛西橋・[[清澄白河駅]]・[[神田駅 (東京都)|神田駅]]経由 [[秋葉原駅]]行(休日は神田駅前通過) |- |5||[[都営バス江戸川営業所#新小22系統|新小22]] 一之江駅・松江・江戸川区役所経由 [[新小岩駅]]行<br />新小22 一之江駅・松江経由[[船堀駅]]前行(夜間の1本のみ) |- |6||[[都営バス臨海支所#葛西24系統|葛西24]] [[江戸川区立第六葛西小学校|第六葛西小学校]]・[[江戸川区立宇喜田小学校|宇喜田小学校]]経由 船堀駅行<br />[[都営バス江戸川営業所#臨海28-1系統|臨海28-1]] (環七経由)一之江駅行・[[一之江橋]]西詰行(朝夕のみ)<br />[[都営バス臨海支所#葛西22系統・臨海28-2,3系統|臨海28-2]] (環七経由)一之江駅行 |- |12||[[都営バス江戸川営業所#錦25系統|錦25]] 三角・[[船堀駅]]・京葉交差点経由 [[錦糸町駅]]行<br />[[都営バス江戸川営業所#FL01系統|FL01]] 三角・船堀駅・[[東大島駅]]入口経由 錦糸町駅行(土曜・休日のみ)<br />錦25 江戸川車庫行 |- |rowspan="4"|14||深夜急行バス([[東京駅のバス乗り場|東京駅八重洲口]]・葛西臨海公園駅発) 降車専用<ref name="パチンコ屋前">パチンコ屋前</ref>||京成バス |- |スカイツリーシャトル [[錦糸町駅]]・[[東京スカイツリータウン]]行<ref name="パチンコ屋前" />||京成バス<br />[[東武バスセントラル]] |- |空港連絡バス(羽田空港発、成田空港発) 降車専用<ref name="パチンコ屋前" />||京成バス<br />[[東京空港交通]] |- |高速バス(三井アウトレットパーク木更津発) 降車専用<ref name="パチンコ屋前" />||[[小湊鉄道]] |} === 地下鉄博物館口 === {|class="wikitable" !のりば!!系統名 経由地・行先!!運行事業者・備考 |- |7||[[都営バス臨海支所#葛西24系統|葛西24]] [[東京都立葛西南高等学校|葛西南高校]]入口・堀江団地経由 なぎさニュータウン行||rowspan="3"|[[都営バス]] |- |8||[[都営バス江戸川営業所#臨海28-1系統|臨海28-1]] 堀江団地経由 葛西臨海公園駅行<br />臨海28-1堀江団地経由 臨海車庫前行<br />[[都営バス臨海支所#葛西22系統・臨海28-2,3系統|臨海28-2]] 堀江団地経由 臨海車庫行<br />臨海28-2出入 富士公園経由 コーシャハイム南葛西行<br />[[都営バス臨海支所#葛西22系統・臨海28-2,3系統|臨海28-3]]中左近橋経由 臨海車庫行<br />[[都営バス臨海支所#新小29系統|新小29-2]] 臨海町二丁目団地経由 [[東京臨海病院]]行 |- |9||[[都営バス江戸川営業所#葛西21系統|葛西21]] なぎさニュータウン・コーシャハイム南葛西経由 葛西臨海公園駅行(平日・土曜は朝夕、休日は日中のみ運行)<br />葛西21 なぎさニュータウン経由 コーシャハイム南葛西行 |- |10||SS07・SS08 葛西臨海公園駅経由 [[東京ディズニーリゾート]]行(環七シャトル)<br />【特急】 総合リクリエーション公園・葛西臨海公園駅通過 東京ディズニーリゾート行||[[京成バス]] |- |11||[[都営バス臨海支所#葛西22系統・臨海28-2,3系統|葛西22]] 雷・今井経由 一之江駅行||都営バス |- |rowspan="3"|13||空港連絡バス [[東京国際空港|羽田空港]]行/[[成田国際空港|成田空港]]行<ref name="ミスタードーナツ前">ミスタードーナツ前</ref>||京成バス<br />[[東京空港交通]](羽田空港行の一部) |- || スカイツリーシャトル 降車専用<ref name="ミスタードーナツ前" /> ||京成バス<br />東武バスセントラル |- || 高速バス [[三井アウトレットパーク 木更津]]行<ref name="ミスタードーナツ前" /> ||小湊鉄道 |} == 隣の駅 == <!-- 種別色は15000系のフルカラーLEDの色に準拠 --> ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 :: {{Color|red|■}}快速 :::; 通過 :: {{Color|#0c6|■}}通勤快速(中野方面のみ運転)・{{Color|#18469d|■}}各駅停車 ::: [[西葛西駅]] (T 16) - '''葛西駅 (T 17)''' - [[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]] (T 18) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=営団地下鉄五十年史|publisher=[[帝都高速度交通営団]]|date=1991-07-04|ref=eidan50}} == 関連項目 == {{commonscat|Kasai Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[葛西]] * [[葛西臨海公園駅]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/kasai/index.html 葛西駅/T17 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{東京メトロ東西線}} {{DEFAULTSORT:かさいえき}} [[Category:江戸川区の鉄道駅|かさい]] [[Category:日本の鉄道駅 か|さい]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅|かさい]] [[Category:1969年開業の鉄道駅|かさい]] [[Category:葛西]]
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SFC
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'''SFC'''とは以下を指す、もしくはそれらの略語である。 == 企業・団体・組織 == * 台湾のマルチタレント [[羅志祥]](ショウ・ルオ/SHOW)の国際ファンクラブ名(羅志祥國際歌迷會 S.F.C. (Show Fans Club))。 * [[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス]] (Shonan Fujisawa Campus) ** 転じて、湘南藤沢キャンパスにある同大学[[総合政策学部]]・[[環境情報学部]]・[[看護医療学部]]・大学院[[政策・メディア研究科]]・大学院[[健康マネジメント研究科]]の総称 * {{仮リンク|証券先物事務監察委員会|en|Securities and Futures Commission|zh|證券及期貨事務監察委員會}}({{lang-zh-short|證券及期貨事務監察委員會}}、{{lang-en-short|Securities and Futures Commission}}) [[香港証券取引所]](香港期貨交易所含む。「期貨交易」は「先物取引」のこと)の監督当局 * [[住友林業]] (Sumitomo Forestry Co., LTD)、またはその[[ドメイン名]] sfc.jp * [[太陽予報センター]] (Solar Forecast Center) * [[サラワク林業公社]] (Sarawak Forestry Corporation) == コンピュータ・情報技術 == * [[Software Freedom Conservancy]] - [[FLOSS]]プロジェクト向けの法的代理人組織。 * {{仮リンク|System File Checker|en|System File Checker}} - 保護されたシステムファイルのバージョンをスキャンし、誤りのあるファイルを正しいファイルに置き換える[[Microsoft Windows|Windows]]のコマンド * [[シーケンシャル・ファンクション・チャート]] (sequential function chart) - プログラミング言語 * フィーチャコメントファイル(Scadec Feature Comment file) - [[CAD]]データ交換標準、ファイルの拡張子。[[SXF]]参照。 * 単一ファイルコンポーネント(Single File Component) - JavaScriptのフレームワーク「Vue.js」における概念のひとつ。 == ゲーム == * [[スーパーファミコン]] (Super Famicom) - [[任天堂]]の家庭用ゲーム機。'''SF'''とも。 * [[スターフォックス コマンド]] (Star Fox Command) - 任天堂のシューティングゲーム。 * [[シャイニング・フォース クロス]](Shining Force CROSS) - [[セガ]]のアーケードゲーム。 == その他 == * [[スーパーファインコーティング]] (Super Fine Coating) - 1988年、[[日産・ローレル]]に世界で初めて採用された塗装技術 * [[ANAスーパーフライヤーズカード]] (Super Flyers Card) - 同カード保持者を指すこともある * [[超臨界流体クロマトグラフィー]] (Supercritical Fluid Chromatography, Super Fast Chromatography) * [[燃料消費率]]([[燃費]])(specific fuel consumption) {{aimai}}
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和歌山線
和歌山線(わかやません)は、奈良県北葛城郡王寺町の王寺駅と和歌山県和歌山市の和歌山駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。ラインカラーはピーチ(薄いピンク)である。 奈良県内は中西部の王寺町・香芝市・大和高田市・葛城市・御所市・五條市を金剛山地に沿って、五条駅 - 和歌山駅間は奈良県五條市から和歌山県橋本市・かつらぎ町・紀の川市・岩出市を経て和歌山市までを紀の川に沿って結んでいる。現在、関西本線(大和路線)と接続する王寺駅 - 高田駅間および一部は王寺駅 - 五条駅間で、朝と夜に大阪方面からの快速や区間快速などの直通列車が多く運転されているが、高田駅 - 和歌山駅間は線内のみのローカル輸送に徹する形となっている。 和歌山県内では紀の川流域に人口が集中しているため、岩出駅 - 橋本駅近郊など区間によっては利用客が増えている区間があるが、原則としてほとんどが2両編成や4両編成で運転されている。 全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」、およびIC乗車カード「ICOCA」エリアに含まれている。王寺駅 - 和歌山駅間は関西本線(大和路線)・阪和線の天王寺駅経由の方が所要時間・距離共に短い。距離は異なるものの、両駅間は大都市近郊区間制度により和歌山線経由であっても安価な電車特定区間運賃が適用される天王寺駅経由の運賃で乗車できる。 王寺駅 - 五条駅間は近畿統括本部大阪支社王寺鉄道部の管轄(ただし王寺駅は近畿統括本部の管轄)、五条駅(構内を除く)- 和歌山駅間は和歌山支社の管轄である。路線記号はT。 2023年春に、橋本駅 - 和歌山駅間に無線式ATCが導入される予定であったが、2022年2月18日、JR西日本は導入を中止すると発表した。 王寺駅始発の列車は基本的に4・5番のりば(通称:和歌山線ホーム)から発車する。ポイントの制限30 km/hが続いてホームを離れると関西本線は左手に分かれて北上し、和歌山線は右に分かれて南下を始める。左側にある近鉄田原本線とわずかに接近し、葛下川を渡ると国道168号と並走して南下する。王寺ニュータウンや西大和ニュータウン近傍の畠田駅を過ぎると香芝市に入る。西名阪自動車道の高架下、平野川を渡って橋上駅舎となった志都美駅、さらに南下を続けて中和幹線と交差して香芝駅、その先で近鉄大阪線をくぐると、左手には近鉄の五位堂検修車庫がある。信号場から駅に格上げされたJR五位堂駅を過ぎると、一度進路を東に変えるが、近鉄大阪線が接近してくるとサクラの名所で有名な高田川を渡って右にカーブして桜井線(万葉まほろば線)との分岐駅である高田駅に到着する。大和高田市の中心駅ではあるが近鉄大阪線の大和高田駅や近鉄南大阪線の高田市駅の方が乗降者数が多い。王寺駅 - 高田駅間は沿線の宅地開発が激しく、また近鉄大阪線とも競合している。 桜井線は左に分かれるが、和歌山線は高田駅から再び南下を始める。住宅街の中を抜けて近鉄南大阪線をくぐったあたりからは田畑が目立つようになる。葛城市に入って大和新庄駅付近から国道24号と共に和歌山市を目指すようになり、御所市内から右側には近鉄御所線が御所駅まで並走する。御所駅を出ると左にカーブして一度国道24号と分かれて玉手駅・掖上駅と続きながら南下し、右手に国道309号が、左側から近鉄吉野線が合流してくると、隠れ里吉野への入口にあたる吉野口駅に到着する。吉野口駅を過ぎて近鉄吉野線と分かれると山間の景色が色濃くなる。2つのカーブを抜けると、京奈和自動車道五條北インターチェンジ付近で御所駅で分かれた国道24号と再び並走を始めて下り勾配を進み、五條市に入って近畿地方で唯一スイッチバックがあった北宇智駅に到着する。現在はスイッチバックが解消されて停留場となっているが、旧ホームなどはそのまま残されている。下りこう配は次の五条駅まで長く続く。五条駅は和歌山線の要衝の駅で構内に留置線があり、五条駅を始発・終着とする列車も設定されている。 五条駅からは和歌山市に向かって西進し始める。1984年に五条駅 - 和歌山駅間が電化されたが、通常の電化方式(シンプルカテナリー方式)ではなく、列車本数も少ないため低コストの直接吊架式が採用された。ただし、吹田総合車両所日根野支所新在家派出所 - 和歌山駅間と紀ノ川橋梁区間はシンプルカテナリー方式となっている。 五条駅の先で左手にカーブをして分かれるような空き地があるが、これが五新線となる場所であった。太平洋戦争前に五条駅から新宮駅まで計画されていたが、採算性などの問題から未成線となった。途中の城戸付近まで路盤や橋梁、トンネルが完成しており、国鉄時代に一般車の通行できないバス専用道として整備され、国鉄バス→西日本ジェイアールバス阪本線(ジェイアールバスの撤退以降は奈良交通)のバスが利用していたが、利用者減やトンネルの老朽化により2014年9月限りで運行が廃止された。五新線との分岐点の先で寿命川を渡ると大和二見駅で、右側からは京奈和自動車道が接近してくる。1982年までこの駅から貨物支線が分岐していたため、五条駅付近と同じく左手にカーブをして分かれる廃線跡の土地が見える。左にカーブしながら国道24号をくぐり、左手に上野公園を眺めながら今度は右にカーブをすると、左手には吉野川が見え始めると、和歌山県橋本市に入って隅田駅で、この付近から住宅が目立つようになる。下兵庫駅と続いて、国道24号を再びくぐり、南海高野線を越えると橋本駅に到着する。橋本駅は南海高野線との接続駅で、かつて橋本鉄道部が設けられていたが、2009年に和歌山支社直轄となり、同鉄道部に代わって橋本運転区が設けられていた。2012年に橋本運転区は旧和歌山列車区の運転士部門と統合されて廃止された。 橋本駅を出ると、右に南海高野線が分かれていき紀伊山田駅に着く。紀伊山田駅を出ると高野口駅、中飯降駅と続き、かつらぎ町の妙寺駅に着く。この駅は、以前2面3線式のホームであったが中線が取り払われ旧3番線が現在の2番線となっている。妙寺駅を出ると大谷駅・笠田駅を過ぎ大きく右にカーブすると西笠田駅に着く。西笠田駅からは国道24号を挟んで紀ノ川が見え、紀ノ川の中州には通称「ヘビ島」が見える。西笠田駅を出ると国道480号を越えると名手駅に止まり、2面3線の粉河駅に着く。粉河駅は西国三十三所第三番札所の粉河寺の最寄り駅で、日中は和歌山方面からの列車の半数はこの駅で折り返す。粉河駅を出ると長田観音の最寄り駅紀伊長田駅を過ぎ、紀の川市の中心駅打田駅に着く。紀の川市役所や那賀病院の最寄り駅であり、快速列車の停車駅でもある。打田駅を出ると、田園地帯を走り下井阪駅に着く。国道24号岩出バイパスをくぐり、右手に岩出警察署を見ながら左にカーブすると岩出市の中心駅岩出駅に着く。岩出駅を出ると紀ノ川を渡り右にカーブして船戸駅に着く。船戸駅を出て間もなく右側に小さな小山が見えるが、これはかつての船戸仮駅の跡地である。和歌山市に入って田園地帯の中を走りほぼ直線で紀伊小倉駅に着く。紀伊小倉駅は近くに団地もあり県立和歌山高等学校もあるため、駅の規模の割に利用客が多いが快速列車は通過する。紀伊小倉駅を出て布施屋駅・千旦駅と和歌山線最後の田井ノ瀬駅を過ぎ、国道24号和歌山バイパス、阪和自動車道をくぐり、右手に吹田総合車両所日根野支所新在家派出所を見ながら左に大きくカーブする。大門川を渡り右手から紀勢本線と阪和線が合流してきて終点の和歌山駅である。日根野電車区新在家派出所があるため当路線からは和歌山駅のすべてのホームに進入できるような配線となっている。 この路線にトンネルは存在しないが、1951年(昭和26年) までは隅田駅東側の県境付近で真土山の下を通る旧線が使用されており、その区間に真土トンネルがあった。紀和鉄道がこの区間を敷設した1897年(明治30年) - 1898年(明治31年)当時の建設のため老朽化が進み、本トンネル南側に新線が敷設され放棄された。 運行形態は、王寺駅 - 和歌山駅間直通列車も設定されているものの、日中以外の時間帯は高田駅や五条駅で分かれている。普通列車・快速列車のみ運転されている。 通勤・通学路線であり、朝は上り王寺方面、夕方は下り高田方面への利用が多く、このような流動に合わせたダイヤとなっている。朝ラッシュ時は毎時4本程度、昼間は毎時2本程度、夕ラッシュ時は毎時3本程度の運行である。なお、大和路線直通の快速・区間快速も設定されているが和歌山線内では各駅に停車する。 朝ラッシュ時7・8時台の上りは高田発基準で計7本運転されている。7時台の3本と8時台の2本は大和路線(関西本線)に直通する快速(7時台1本のみ普通電車:大和路線区間も各駅停車)JR難波行きで、車両は吹田総合車両所奈良支所所属の221系のほか201系も使用されている。この時間帯の下り列車は上り快速の車両送り込みを兼ねた王寺発高田行き(うち平日1本はJR難波始発)に前述の車両群が使用されている。 日中は王寺駅 - 高田駅間で227系1000番台2両編成の普通列車が1時間あたり2本(30分間隔)で運転されている。このうち1本は和歌山方面直通で、もう1本は土休日のみの運転の区間列車である。これらの列車は基本的に王寺駅で大和路快速、王寺駅 - 和歌山駅間直通列車は高田駅で万葉まほろば線(桜井線)の列車との接続が考慮されている。 18 - 20時台には大和路線から高田駅・五条駅まで直通する列車が平日に6本・土休日に3本運転されており、うち平日の4本(区間快速)・土休日の2本(王寺まで大和路快速・王寺から快速)が大阪環状線からの直通である。23時台にも大阪環状線から五条駅まで直通する区間快速が1本設定されている。 このほか、朝と夕方以降に万葉まほろば線直通の王寺駅 - 奈良駅間の列車や、早朝や深夜には主として227系1000番台のワンマン運転による王寺駅発着列車が運転されている。大和路線区間も各駅停車になるJR難波駅発着の普通電車は、前述の朝の高田発を除くと、平日朝6時台にJR難波発(王寺発は7時台)高田行きと、21時台に高田発JR難波行きが運行されている。 王寺駅 - 高田駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、201系6両編成の3号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。 和歌山線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。 朝ラッシュ時は一部に和歌山駅 - 王寺駅間で運転する列車があるが、基本的に五条駅から高田方面行き、和歌山行きが運転されている。五条発の快速も運転されており、JR難波行きが221系4両で毎日1本(王寺駅で後ろに4両増結し8両となる)、和歌山行きが227系1000番台で平日朝のみ2本運転されている。和歌山行きは4両編成の列車は粉河駅で後ろ2両を切り離し、切り離された2両は後続の普通として運転されているほか、2両編成の列車は粉河駅で普通と接続している。なお、王寺駅 - 和歌山駅間を通しで運転する快速列車はない。 日中は王寺駅 - 高田駅 - 和歌山駅間の線内通しの列車が1時間に1本運転されている(2021年10月1日までは、粉河駅 - 和歌山駅間は2本運行だった)。また時間帯によっては五条駅で乗り換えとなる列車もある。2022年3月11日までは万葉まほろば線(桜井線)経由で奈良駅 - 高田駅 - 和歌山駅間の運転であった。正月三が日の日中は、万葉まほろば線での多客対応のため高田駅で系統分割を行い、万葉まほろば線に直通せずに高田駅で折り返していた。 夕ラッシュ時は、五条駅で系統が分かれる列車のほかに、線内通しの列車が運転される。快速は、大和路線(関西本線)から五条行が毎日3本運転、和歌山駅発の五条方面行が平日は2本、土休日は1本運転されている。 高田駅 - 五条駅間で221系で運転される3往復を除いて、227系1000番台2両・4両編成(早朝・夜間のみ)でのワンマン運転を行っている。駅停車時にはすべての車両のドアが開閉する。 高田駅 - 和歌山駅間の沿線の岩出市も大和高田市周辺のように宅地開発が激しく住宅が多く存在し、和歌山線から離れている山側に住宅地が多く、岩出市の住宅街から離れた所をかする程度にしか通っていないものの通学客が多い。同じ区間の橋本市なども住宅が多く存在しているため五条駅 - 紀伊山田駅間も利用客が多い。 かつて五条駅を経由してJR難波駅 - 和歌山駅間を直通する列車、和歌山駅で紀勢本線の列車(紀伊田辺駅または御坊駅発着)の増解結を行い、阪和線経由で五条駅 - 天王寺駅間を直通する列車も運転されていたが、現在は存在しない。和歌山駅経由で五条駅 - 天王寺駅間を運転していた快速は、1989年3月10日から2000年3月10日まで運転されていた。 沿線の花火大会などの催事において、臨時列車が運転されている。五條市で行われる吉野川花火大会では五条駅 → 高田駅間で、橋本市で行われる紀ノ川祭では和歌山駅 - 橋本駅間で、それぞれ運転されている。特に紀ノ川祭では、普段和歌山線での定期運用のない113系が和歌山駅 - 橋本駅間に乗り入れていた。 過去には、吉野山への観光客輸送として大阪駅 - 吉野口駅間で快速「吉野ライナー号」が運転されていたことがあったほか、大晦日深夜から元旦にかけて王寺駅 - 高田駅間で終夜運転が約60分間隔で行われていたが、この終夜運転は2017年度をもって取り止めとなった。 すべて電車で運転されている。特記されていない車両は、全区間で運用されている。 王寺駅 - 高田駅間は大阪鉄道 が1891年に開業させた。その後、桜井方面へ路線を延伸した大阪鉄道から分岐する形で、南和鉄道が高田駅 - 五条駅間を1896年に開業させた。 五条駅 - 和歌山市駅(のちに現在の和歌山駅への支線が開業)間は、紀和鉄道の手により開業した。和歌山県下初の鉄道路線として五条駅 - 橋本駅間を1898年に開業させた後、和歌山側から順次延伸し、五条駅 - 和歌山駅(現在の紀和駅)間が開通したのは1900年である。 その後、南海鉄道(南海電気鉄道の前身)の全通と同日に和歌山市駅まで全通した。なお南海鉄道の開業以前は、この路線が大阪駅 - 和歌山駅間移動ルートとしての役目を担っていたこともあった。大阪鉄道・南和鉄道・紀和鉄道は、関西鉄道に合併された後に国有化された。 また、田井ノ瀬 - 和歌山間は開業当時貨物支線であり、正式に旅客営業を開始したのは1972年(昭和47年)。ただ、実際には紀勢本線箕島方面への直通列車を中心とした一部の旅客列車が、この貨物支線を経由して乗り入れていた。しかし、正式な旅客営業路線ではなく、営業キロが設定されていなかったため、運賃は紀伊中ノ島駅経由で計算していた。その旨の注意書きが、当時の時刻表にも記載されていた。 国鉄時代の1980年に王寺駅 - 五条駅間、1984年に五条駅 - 和歌山駅間が電化された。 1960年代には、東京駅に直通する急行「大和」の寝台車(和歌山線内では普通列車に連結して運転)や、1960年代から1980年代には紀勢本線白浜方面に直通する急行「しらはま」、その後身の急行「紀ノ川」といった優等列車が運転されていたが、五条駅 - 和歌山駅間電化時に「紀ノ川」が廃止されて以来、定期優等列車は設定されていない。 以下の地点はそれぞれ同一地点を指す このほかの24駅は終日無人駅である。 ( )内は起点からの営業キロ 和歌山市駅の接続路線は和歌山線としては過去の接続路線であるが、廃止された路線を除いて1972年3月15日以降は紀勢本線の接続路線となっている。
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和歌山駅間が電化されたが、通常の電化方式(シンプルカテナリー方式)ではなく、列車本数も少ないため低コストの直接吊架式が採用された。ただし、吹田総合車両所日根野支所新在家派出所 - 和歌山駅間と紀ノ川橋梁区間はシンプルカテナリー方式となっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "五条駅の先で左手にカーブをして分かれるような空き地があるが、これが五新線となる場所であった。太平洋戦争前に五条駅から新宮駅まで計画されていたが、採算性などの問題から未成線となった。途中の城戸付近まで路盤や橋梁、トンネルが完成しており、国鉄時代に一般車の通行できないバス専用道として整備され、国鉄バス→西日本ジェイアールバス阪本線(ジェイアールバスの撤退以降は奈良交通)のバスが利用していたが、利用者減やトンネルの老朽化により2014年9月限りで運行が廃止された。五新線との分岐点の先で寿命川を渡ると大和二見駅で、右側からは京奈和自動車道が接近してくる。1982年までこの駅から貨物支線が分岐していたため、五条駅付近と同じく左手にカーブをして分かれる廃線跡の土地が見える。左にカーブしながら国道24号をくぐり、左手に上野公園を眺めながら今度は右にカーブをすると、左手には吉野川が見え始めると、和歌山県橋本市に入って隅田駅で、この付近から住宅が目立つようになる。下兵庫駅と続いて、国道24号を再びくぐり、南海高野線を越えると橋本駅に到着する。橋本駅は南海高野線との接続駅で、かつて橋本鉄道部が設けられていたが、2009年に和歌山支社直轄となり、同鉄道部に代わって橋本運転区が設けられていた。2012年に橋本運転区は旧和歌山列車区の運転士部門と統合されて廃止された。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "橋本駅を出ると、右に南海高野線が分かれていき紀伊山田駅に着く。紀伊山田駅を出ると高野口駅、中飯降駅と続き、かつらぎ町の妙寺駅に着く。この駅は、以前2面3線式のホームであったが中線が取り払われ旧3番線が現在の2番線となっている。妙寺駅を出ると大谷駅・笠田駅を過ぎ大きく右にカーブすると西笠田駅に着く。西笠田駅からは国道24号を挟んで紀ノ川が見え、紀ノ川の中州には通称「ヘビ島」が見える。西笠田駅を出ると国道480号を越えると名手駅に止まり、2面3線の粉河駅に着く。粉河駅は西国三十三所第三番札所の粉河寺の最寄り駅で、日中は和歌山方面からの列車の半数はこの駅で折り返す。粉河駅を出ると長田観音の最寄り駅紀伊長田駅を過ぎ、紀の川市の中心駅打田駅に着く。紀の川市役所や那賀病院の最寄り駅であり、快速列車の停車駅でもある。打田駅を出ると、田園地帯を走り下井阪駅に着く。国道24号岩出バイパスをくぐり、右手に岩出警察署を見ながら左にカーブすると岩出市の中心駅岩出駅に着く。岩出駅を出ると紀ノ川を渡り右にカーブして船戸駅に着く。船戸駅を出て間もなく右側に小さな小山が見えるが、これはかつての船戸仮駅の跡地である。和歌山市に入って田園地帯の中を走りほぼ直線で紀伊小倉駅に着く。紀伊小倉駅は近くに団地もあり県立和歌山高等学校もあるため、駅の規模の割に利用客が多いが快速列車は通過する。紀伊小倉駅を出て布施屋駅・千旦駅と和歌山線最後の田井ノ瀬駅を過ぎ、国道24号和歌山バイパス、阪和自動車道をくぐり、右手に吹田総合車両所日根野支所新在家派出所を見ながら左に大きくカーブする。大門川を渡り右手から紀勢本線と阪和線が合流してきて終点の和歌山駅である。日根野電車区新在家派出所があるため当路線からは和歌山駅のすべてのホームに進入できるような配線となっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この路線にトンネルは存在しないが、1951年(昭和26年) までは隅田駅東側の県境付近で真土山の下を通る旧線が使用されており、その区間に真土トンネルがあった。紀和鉄道がこの区間を敷設した1897年(明治30年) - 1898年(明治31年)当時の建設のため老朽化が進み、本トンネル南側に新線が敷設され放棄された。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "運行形態は、王寺駅 - 和歌山駅間直通列車も設定されているものの、日中以外の時間帯は高田駅や五条駅で分かれている。普通列車・快速列車のみ運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "通勤・通学路線であり、朝は上り王寺方面、夕方は下り高田方面への利用が多く、このような流動に合わせたダイヤとなっている。朝ラッシュ時は毎時4本程度、昼間は毎時2本程度、夕ラッシュ時は毎時3本程度の運行である。なお、大和路線直通の快速・区間快速も設定されているが和歌山線内では各駅に停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "朝ラッシュ時7・8時台の上りは高田発基準で計7本運転されている。7時台の3本と8時台の2本は大和路線(関西本線)に直通する快速(7時台1本のみ普通電車:大和路線区間も各駅停車)JR難波行きで、車両は吹田総合車両所奈良支所所属の221系のほか201系も使用されている。この時間帯の下り列車は上り快速の車両送り込みを兼ねた王寺発高田行き(うち平日1本はJR難波始発)に前述の車両群が使用されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日中は王寺駅 - 高田駅間で227系1000番台2両編成の普通列車が1時間あたり2本(30分間隔)で運転されている。このうち1本は和歌山方面直通で、もう1本は土休日のみの運転の区間列車である。これらの列車は基本的に王寺駅で大和路快速、王寺駅 - 和歌山駅間直通列車は高田駅で万葉まほろば線(桜井線)の列車との接続が考慮されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "18 - 20時台には大和路線から高田駅・五条駅まで直通する列車が平日に6本・土休日に3本運転されており、うち平日の4本(区間快速)・土休日の2本(王寺まで大和路快速・王寺から快速)が大阪環状線からの直通である。23時台にも大阪環状線から五条駅まで直通する区間快速が1本設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このほか、朝と夕方以降に万葉まほろば線直通の王寺駅 - 奈良駅間の列車や、早朝や深夜には主として227系1000番台のワンマン運転による王寺駅発着列車が運転されている。大和路線区間も各駅停車になるJR難波駅発着の普通電車は、前述の朝の高田発を除くと、平日朝6時台にJR難波発(王寺発は7時台)高田行きと、21時台に高田発JR難波行きが運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "王寺駅 - 高田駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、201系6両編成の3号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "和歌山線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "朝ラッシュ時は一部に和歌山駅 - 王寺駅間で運転する列車があるが、基本的に五条駅から高田方面行き、和歌山行きが運転されている。五条発の快速も運転されており、JR難波行きが221系4両で毎日1本(王寺駅で後ろに4両増結し8両となる)、和歌山行きが227系1000番台で平日朝のみ2本運転されている。和歌山行きは4両編成の列車は粉河駅で後ろ2両を切り離し、切り離された2両は後続の普通として運転されているほか、2両編成の列車は粉河駅で普通と接続している。なお、王寺駅 - 和歌山駅間を通しで運転する快速列車はない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日中は王寺駅 - 高田駅 - 和歌山駅間の線内通しの列車が1時間に1本運転されている(2021年10月1日までは、粉河駅 - 和歌山駅間は2本運行だった)。また時間帯によっては五条駅で乗り換えとなる列車もある。2022年3月11日までは万葉まほろば線(桜井線)経由で奈良駅 - 高田駅 - 和歌山駅間の運転であった。正月三が日の日中は、万葉まほろば線での多客対応のため高田駅で系統分割を行い、万葉まほろば線に直通せずに高田駅で折り返していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "夕ラッシュ時は、五条駅で系統が分かれる列車のほかに、線内通しの列車が運転される。快速は、大和路線(関西本線)から五条行が毎日3本運転、和歌山駅発の五条方面行が平日は2本、土休日は1本運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "高田駅 - 五条駅間で221系で運転される3往復を除いて、227系1000番台2両・4両編成(早朝・夜間のみ)でのワンマン運転を行っている。駅停車時にはすべての車両のドアが開閉する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "高田駅 - 和歌山駅間の沿線の岩出市も大和高田市周辺のように宅地開発が激しく住宅が多く存在し、和歌山線から離れている山側に住宅地が多く、岩出市の住宅街から離れた所をかする程度にしか通っていないものの通学客が多い。同じ区間の橋本市なども住宅が多く存在しているため五条駅 - 紀伊山田駅間も利用客が多い。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "かつて五条駅を経由してJR難波駅 - 和歌山駅間を直通する列車、和歌山駅で紀勢本線の列車(紀伊田辺駅または御坊駅発着)の増解結を行い、阪和線経由で五条駅 - 天王寺駅間を直通する列車も運転されていたが、現在は存在しない。和歌山駅経由で五条駅 - 天王寺駅間を運転していた快速は、1989年3月10日から2000年3月10日まで運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "沿線の花火大会などの催事において、臨時列車が運転されている。五條市で行われる吉野川花火大会では五条駅 → 高田駅間で、橋本市で行われる紀ノ川祭では和歌山駅 - 橋本駅間で、それぞれ運転されている。特に紀ノ川祭では、普段和歌山線での定期運用のない113系が和歌山駅 - 橋本駅間に乗り入れていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "過去には、吉野山への観光客輸送として大阪駅 - 吉野口駅間で快速「吉野ライナー号」が運転されていたことがあったほか、大晦日深夜から元旦にかけて王寺駅 - 高田駅間で終夜運転が約60分間隔で行われていたが、この終夜運転は2017年度をもって取り止めとなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "すべて電車で運転されている。特記されていない車両は、全区間で運用されている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "王寺駅 - 高田駅間は大阪鉄道 が1891年に開業させた。その後、桜井方面へ路線を延伸した大阪鉄道から分岐する形で、南和鉄道が高田駅 - 五条駅間を1896年に開業させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "五条駅 - 和歌山市駅(のちに現在の和歌山駅への支線が開業)間は、紀和鉄道の手により開業した。和歌山県下初の鉄道路線として五条駅 - 橋本駅間を1898年に開業させた後、和歌山側から順次延伸し、五条駅 - 和歌山駅(現在の紀和駅)間が開通したのは1900年である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その後、南海鉄道(南海電気鉄道の前身)の全通と同日に和歌山市駅まで全通した。なお南海鉄道の開業以前は、この路線が大阪駅 - 和歌山駅間移動ルートとしての役目を担っていたこともあった。大阪鉄道・南和鉄道・紀和鉄道は、関西鉄道に合併された後に国有化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、田井ノ瀬 - 和歌山間は開業当時貨物支線であり、正式に旅客営業を開始したのは1972年(昭和47年)。ただ、実際には紀勢本線箕島方面への直通列車を中心とした一部の旅客列車が、この貨物支線を経由して乗り入れていた。しかし、正式な旅客営業路線ではなく、営業キロが設定されていなかったため、運賃は紀伊中ノ島駅経由で計算していた。その旨の注意書きが、当時の時刻表にも記載されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "国鉄時代の1980年に王寺駅 - 五条駅間、1984年に五条駅 - 和歌山駅間が電化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1960年代には、東京駅に直通する急行「大和」の寝台車(和歌山線内では普通列車に連結して運転)や、1960年代から1980年代には紀勢本線白浜方面に直通する急行「しらはま」、その後身の急行「紀ノ川」といった優等列車が運転されていたが、五条駅 - 和歌山駅間電化時に「紀ノ川」が廃止されて以来、定期優等列車は設定されていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以下の地点はそれぞれ同一地点を指す", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "このほかの24駅は終日無人駅である。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "( )内は起点からの営業キロ", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "和歌山市駅の接続路線は和歌山線としては過去の接続路線であるが、廃止された路線を除いて1972年3月15日以降は紀勢本線の接続路線となっている。", "title": "駅一覧" } ]
和歌山線(わかやません)は、奈良県北葛城郡王寺町の王寺駅と和歌山県和歌山市の和歌山駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。ラインカラーはピーチ(薄いピンク)である。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 和歌山線 |路線色 = #f79fba |ロゴ = JRW kinki-T.svg |ロゴサイズ = 40px |画像 = Jrwest227-1000 SR10 wakayama 20210829.jpg |画像サイズ = |画像説明 = 和歌山駅に停車中の[[JR西日本227系電車|227系電車]] |国 = {{JPN}} |所在地 = [[奈良県]]、[[和歌山県]] |起点 = [[王寺駅]]<ref name="sone 15">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 15頁]]</ref> |終点 = [[和歌山駅]]<ref name="sone 15"/> |駅数 = 36駅<ref name="sone 15"/> |電報略号 = ワカセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局|date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref> |路線記号 = {{JR西路線記号|K|T}} |開業 = [[1891年]][[3月1日]] |全通 = [[1900年]][[11月25日]]<ref name="sone 15"/> |廃止 = |所有者 = [[西日本旅客鉄道]] |運営者 = 西日本旅客鉄道 |車両基地 = [[吹田総合車両所]][[日根野電車区|日根野支所]]新在家派出所ほか |使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離 = 87.5 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) |線路数 = 全線[[単線]] |閉塞方式 = 自動閉塞式(特殊) |保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最高速度 = 85 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図 = |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[地方交通線]])}} '''和歌山線'''(わかやません)は、[[奈良県]][[北葛城郡]][[王寺町]]の[[王寺駅]]と[[和歌山県]][[和歌山市]]の[[和歌山駅]]までを結ぶ[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である<ref name="sone 15"/>。ラインカラーは'''ピーチ'''(薄いピンク)である。 == 概要 == 奈良県内は中西部の[[王寺町]]・[[香芝市]]・[[大和高田市]]・[[葛城市]]・[[御所市]]・[[五條市]]を[[金剛山地]]に沿って、五条駅 - 和歌山駅間は奈良県五條市から和歌山県[[橋本市]]・[[かつらぎ町]]・[[紀の川市]]・[[岩出市]]を経て和歌山市までを[[紀の川]]に沿って結んでいる<ref name="sone 15"/>。現在、[[関西本線]]([[大和路線]])と接続する王寺駅 - 高田駅間および一部は王寺駅 - 五条駅間で、朝と夜に[[大阪市|大阪]]方面からの快速や区間快速などの直通列車が多く運転されているが、高田駅 - 和歌山駅間は線内のみのローカル輸送に徹する形となっている。 和歌山県内では紀の川流域に人口が集中しているため、岩出駅 - 橋本駅近郊など区間によっては利用客が増えている区間があるが、原則としてほとんどが2両編成や4両編成で運転されている。 全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」エリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。王寺駅 - 和歌山駅間は関西本線(大和路線)・[[阪和線]]の[[天王寺駅]]経由の方が所要時間・距離共に短い<ref group="注釈">距離は和歌山線経由が87.5kmに対し、天王寺駅経由の場合は83.4kmと、4.1km短い。</ref>。距離は異なるものの、両駅間は大都市近郊区間制度により和歌山線経由であっても安価な[[電車特定区間]]運賃が適用される天王寺駅経由の運賃で乗車できる。 王寺駅 - 五条駅間は[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]][[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]][[王寺鉄道部]]の管轄(ただし王寺駅は近畿統括本部の管轄)、五条駅(構内を除く)- 和歌山駅間は[[西日本旅客鉄道和歌山支社|和歌山支社]]の管轄である。[[駅ナンバリング|路線記号]]は'''T'''<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。 2023年春に、橋本駅 - 和歌山駅間に[[車上主体列車制御システム|無線式ATC]]が導入される予定であったが<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/05/page_12408.html 2023年春より和歌山線 橋本~和歌山駅間 に無線式ATCを導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2018年5月23日</ref>、2022年2月18日、JR西日本は導入を中止すると発表した<ref>{{Cite press release|和書|title=無線による保安システム導入計画の見直しについて|publisher=西日本旅客鉄道|date=2022-02-18|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/220218_05_system.pdf|format=PDF|accessdate=2022-02-21}}</ref>。 === 路線データ === * 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):87.5 km<ref name="sone 15"/> * [[軌間]]:1067mm * 駅数:36(起終点駅含む)<ref name="sone 15"/> ** 和歌山線所属駅に限定した場合、関西本線所属の王寺駅と紀勢本線所属の和歌山駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref> が除外され、34駅となる。 * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[直流電化|直流]]1,500 V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式(特殊) * [[運転指令所]]: ** 王寺駅 - 五条駅:[[大阪総合指令所]] ** 五条駅 - 和歌山駅:[[和歌山指令所]] * 最高速度:85 km/h * [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間: ** [[ICOCA]]エリア:全線(五条駅-和歌山駅間は車載型IC改札機での対応、全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間でもある。) == 沿線概況 == {{和歌山線路線図}} === 王寺駅 - 五条駅間 === 王寺駅始発の列車は基本的に4・5番のりば(通称:和歌山線ホーム)から発車する。ポイントの制限30 km/hが続いてホームを離れると関西本線は左手に分かれて北上し、和歌山線は右に分かれて南下を始める。左側にある[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄田原本線|田原本線]]とわずかに接近し、[[葛下川]]を渡ると[[国道168号]]と並走して南下する。[[王寺ニュータウン]]や[[西大和ニュータウン]]近傍の[[畠田駅]]を過ぎると[[香芝市]]に入る。[[西名阪自動車道]]の高架下、平野川を渡って橋上駅舎となった[[志都美駅]]、さらに南下を続けて[[中和幹線]]と交差して[[香芝駅]]、その先で[[近鉄大阪線]]をくぐると、左手には近鉄の[[五位堂検修車庫]]がある。[[信号場]]から駅に格上げされた[[JR五位堂駅]]を過ぎると、一度進路を東に変えるが、近鉄大阪線が接近してくると[[サクラ]]の名所で有名な[[高田川 (奈良県)|高田川]]を渡って右にカーブして[[桜井線]](万葉まほろば線)との分岐駅である[[高田駅 (奈良県)|高田駅]]に到着する。[[大和高田市]]の中心駅ではあるが近鉄大阪線の[[大和高田駅]]や[[近鉄南大阪線]]の[[高田市駅]]の方が乗降者数が多い。王寺駅 - 高田駅間は沿線の宅地開発が激しく、また近鉄大阪線とも競合している。 桜井線は左に分かれるが、和歌山線は高田駅から再び南下を始める。住宅街の中を抜けて近鉄南大阪線をくぐったあたりからは田畑が目立つようになる。[[葛城市]]に入って[[大和新庄駅]]付近から[[国道24号]]と共に和歌山市を目指すようになり、[[御所市]]内から右側には[[近鉄御所線]]が[[御所駅]]まで並走する。御所駅を出ると左にカーブして一度国道24号と分かれて[[玉手駅]]・[[掖上駅]]と続きながら南下し、右手に[[国道309号]]が、左側から[[近鉄吉野線]]が合流してくると、隠れ里[[吉野]]への入口にあたる[[吉野口駅]]に到着する。吉野口駅を過ぎて近鉄吉野線と分かれると山間の景色が色濃くなる。2つのカーブを抜けると、[[京奈和自動車道]][[五條北インターチェンジ]]付近で御所駅で分かれた国道24号と再び並走を始めて下り勾配を進み、[[五條市]]に入って[[近畿地方]]で唯一[[スイッチバック]]があった[[北宇智駅]]に到着する。現在はスイッチバックが解消されて[[停車場#停車場の定義|停留場]]となっているが、旧ホームなどはそのまま残されている。下りこう配は次の[[五条駅 (奈良県)|五条駅]]まで長く続く。五条駅は和歌山線の要衝の駅で構内に留置線があり、五条駅を始発・終着とする列車も設定されている。 === 五条駅 - 和歌山駅間 === 五条駅からは和歌山市に向かって西進し始める。1984年に五条駅 - 和歌山駅間が電化されたが、通常の電化方式([[架空電車線方式|シンプルカテナリー]]方式)ではなく、列車本数も少ないため低コストの[[架空電車線方式|直接吊架式]]が採用された。ただし、[[吹田総合車両所]]日根野支所新在家派出所 - 和歌山駅間と紀ノ川橋梁区間はシンプルカテナリー方式となっている。 五条駅の先で左手にカーブをして分かれるような空き地があるが、これが[[五新線]]となる場所であった。[[太平洋戦争]]前に五条駅から[[新宮駅]]まで計画されていたが、採算性などの問題から[[未成線]]となった。途中の城戸付近まで路盤や橋梁、トンネルが完成しており、国鉄時代に一般車の通行できないバス専用道として整備され、[[国鉄バス]]→[[西日本ジェイアールバス]]阪本線(ジェイアールバスの撤退以降は[[奈良交通]])のバスが利用していたが、利用者減やトンネルの老朽化により2014年9月限りで運行が廃止された。五新線との分岐点の先で寿命川を渡ると[[大和二見駅]]で、右側からは京奈和自動車道が接近してくる。1982年までこの駅から貨物支線が分岐していたため、五条駅付近と同じく左手にカーブをして分かれる廃線跡の土地が見える。左にカーブしながら国道24号をくぐり、左手に上野公園を眺めながら今度は右にカーブをすると、左手には[[吉野川 (奈良県)|吉野川]]が見え始めると、和歌山県[[橋本市]]に入って[[隅田駅]]で、この付近から住宅が目立つようになる。[[下兵庫駅]]と続いて、国道24号を再びくぐり、[[南海電気鉄道|南海]][[南海高野線|高野線]]を越えると[[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]に到着する。橋本駅は南海高野線との接続駅で、かつて[[橋本鉄道部]]が設けられていたが、2009年に和歌山支社直轄となり、同鉄道部に代わって[[橋本運転区]]が設けられていた。2012年に橋本運転区は旧和歌山列車区の運転士部門と統合されて廃止された。 橋本駅を出ると、右に南海高野線が分かれていき[[紀伊山田駅]]に着く。紀伊山田駅を出ると[[高野口駅]]、[[中飯降駅]]と続き、[[かつらぎ町]]の[[妙寺駅]]に着く。この駅は、以前2面3線式のホームであったが中線が取り払われ旧3番線が現在の2番線となっている。妙寺駅を出ると[[大谷駅 (和歌山県)|大谷駅]]・[[笠田駅]]を過ぎ大きく右にカーブすると[[西笠田駅]]に着く。西笠田駅からは国道24号を挟んで[[紀の川|紀ノ川]]が見え、紀ノ川の中州には通称「ヘビ島」が見える。西笠田駅を出ると[[国道480号]]を越えると[[名手駅]]に止まり、2面3線の[[粉河駅]]に着く。粉河駅は[[西国三十三所]]第三番札所の[[粉河寺]]の最寄り駅で、日中は和歌山方面からの列車の半数はこの駅で折り返す。粉河駅を出ると長田観音の最寄り駅[[紀伊長田駅]]を過ぎ、[[紀の川市]]の中心駅[[打田駅]]に着く。紀の川市役所や那賀病院の最寄り駅であり、快速列車の停車駅でもある。打田駅を出ると、田園地帯を走り[[下井阪駅]]に着く。国道24号[[岩出バイパス]]をくぐり、右手に岩出警察署を見ながら左にカーブすると[[岩出市]]の中心駅[[岩出駅]]に着く。岩出駅を出ると紀ノ川を渡り右にカーブして[[船戸駅]]に着く。船戸駅を出て間もなく右側に小さな小山が見えるが、これはかつての船戸仮駅の跡地である。[[和歌山市]]に入って田園地帯の中を走りほぼ直線で[[紀伊小倉駅]]に着く。紀伊小倉駅は近くに団地もあり県立和歌山高等学校もあるため、駅の規模の割に利用客が多いが快速列車は通過する。紀伊小倉駅を出て[[布施屋駅]]・[[千旦駅]]と和歌山線最後の[[田井ノ瀬駅]]を過ぎ、国道24号[[和歌山バイパス]]、[[阪和自動車道]]をくぐり、右手に吹田総合車両所日根野支所新在家派出所を見ながら左に大きくカーブする。大門川を渡り右手から[[紀勢本線]]と[[阪和線]]が合流してきて終点の和歌山駅である。日根野電車区新在家派出所があるため当路線からは和歌山駅のすべてのホームに進入できるような配線となっている。 この路線に[[トンネル]]は存在しないが、[[1951年]](昭和26年)<ref>木下晃博「全国線路変更区間一覧」[[宮脇俊三]]『鉄道廃線跡を歩くVIII』[[JTB]]、2001年、p.215。{{ISBN2|4-533-03907-3}}。</ref> までは隅田駅東側の県境付近で真土山の下を通る旧線が使用されており、その区間に真土トンネルがあった。紀和鉄道がこの区間を敷設した[[1897年]](明治30年) - [[1898年]](明治31年)当時の建設のため老朽化が進み、本トンネル南側に新線が敷設され放棄された。 <gallery> ファイル:JRW kitauchi swichback.jpg|スイッチバックが存在していた時の北宇智駅(2005年) ファイル:Wakayama Line Matsuchi Tunnel.jpg|旧 真土トンネル跡。隅田駅側坑口(2016年) ファイル:Suda stn 2.jpg|隅田駅構内の直接吊架式架線と[[分岐器|スプリングポイント]] ファイル:JRW Wakayama Line view-01.jpg|和歌山線が直接吊架式となっているのに対し、新在家派出所構内はシンプルカテナリー方式となっている </gallery> == 運行形態 == 運行形態は、王寺駅 - 和歌山駅間直通列車も設定されているものの、日中以外の時間帯は高田駅や五条駅で分かれている。[[普通列車]]・[[快速列車]]のみ運転されている。 === 王寺駅 - 高田駅間 === 通勤・通学路線であり、朝は上り王寺方面、夕方は下り高田方面への利用が多く、このような流動に合わせたダイヤとなっている。朝ラッシュ時は毎時4本程度、昼間は毎時2本程度、夕ラッシュ時は毎時3本程度の運行である。なお、大和路線直通の快速・区間快速も設定されているが和歌山線内では各駅に停車する。 朝ラッシュ時7・8時台の上りは高田発基準で計7本運転されている。7時台の3本と8時台の2本は大和路線(関西本線)に直通する快速(7時台1本のみ普通電車:大和路線区間も各駅停車)[[JR難波駅|JR難波]]行きで、車両は[[吹田総合車両所]][[奈良電車区|奈良支所]]所属の[[JR西日本221系電車|221系]]のほか[[国鉄201系電車|201系]]も使用されている。この時間帯の下り列車は上り快速の車両送り込みを兼ねた王寺発高田行き(うち平日1本はJR難波始発)に前述の車両群が使用されている。 日中は王寺駅 - 高田駅間で227系1000番台2両編成の普通列車が1時間あたり2本(30分間隔)で運転されている。このうち1本は和歌山方面直通で、もう1本は土休日のみの運転の区間列車である。これらの列車は基本的に王寺駅で大和路快速、王寺駅 - 和歌山駅間直通列車は高田駅で万葉まほろば線([[桜井線]])の列車との接続が考慮されている。 18 - 20時台には大和路線から高田駅・五条駅まで直通する列車が平日に6本・土休日に3本運転されており、うち平日の4本(区間快速)・土休日の2本(王寺まで[[大和路快速]]・王寺から快速)が[[大阪環状線]]からの直通である。23時台にも大阪環状線から五条駅まで直通する区間快速が1本設定されている。 このほか、朝と夕方以降に万葉まほろば線直通の王寺駅 - 奈良駅間の列車や、早朝や深夜には主として227系1000番台のワンマン運転による王寺駅発着列車が運転されている。大和路線区間も各駅停車になるJR難波駅発着の普通電車は、前述の朝の高田発を除くと、平日朝6時台にJR難波発(王寺発は7時台)高田行きと、21時台に高田発JR難波行きが運行されている。 ==== 女性専用車 ==== {|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;" |- |style="background-color:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #F79FBA;"|女性専用車 |- |{{TrainDirection|王寺|高田}} |- | {|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em;" |- |style="width:2em;"|6 |style="width:2em;"|5 |style="width:2em;"|4 |style="width:2em; background:#fcf"|3 |style="width:2em;"|2 |style="width:2em;"|1 |} |} 王寺駅 - 高田駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、201系6両編成の3号車に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。 和歌山線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた<ref name="jrw_20040721">[https://web.archive.org/web/20041022202346/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/040721a.html 阪和線、大和路線に「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2004年7月21日</ref> が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110918003636/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html |date=2011年9月18日 }} ・ [http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111216182135/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html |date=2011年12月16日 }} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。 === 高田駅 - 和歌山駅間 === 朝ラッシュ時は一部に和歌山駅 - 王寺駅間で運転する列車があるが、基本的に五条駅から高田方面行き、和歌山行きが運転されている。五条発の快速も運転されており、JR難波行きが221系4両で毎日1本(王寺駅で後ろに4両増結し8両となる)、和歌山行きが227系1000番台で平日朝のみ2本運転されている。和歌山行きは4両編成の列車は粉河駅で後ろ2両を切り離し、切り離された2両は後続の普通として運転されているほか、2両編成の列車は粉河駅で普通と接続している。なお、王寺駅 - 和歌山駅間を通しで運転する快速列車はない。 日中は王寺駅 - 高田駅 - 和歌山駅間の線内通しの列車が1時間に1本運転されている<ref>『JTB時刻表』2022年3月号、[[JTBパブリッシング]]。pp.302-305</ref>(2021年10月1日までは、粉河駅 - 和歌山駅間は2本運行だった)。また時間帯によっては五条駅で乗り換えとなる列車もある。2022年3月11日までは万葉まほろば線(桜井線)経由で奈良駅 - 高田駅 - 和歌山駅間の運転であった<ref>『JTB時刻表』2021年10月号、JTBパブリッシング。pp.304-307</ref>。[[正月三が日]]の日中は、万葉まほろば線での多客対応のため高田駅で系統分割を行い、万葉まほろば線に直通せずに高田駅で折り返していた。 夕ラッシュ時は、五条駅で系統が分かれる列車のほかに、線内通しの列車が運転される。快速は、大和路線(関西本線)から五条行が毎日3本運転、和歌山駅発の五条方面行が平日は2本、土休日は1本運転されている<ref>『JTB時刻表』2016年4月号、JTBパブリッシング。</ref>。 高田駅 - 五条駅間で221系で運転される3往復を除いて、227系1000番台2両・4両編成(早朝・夜間のみ)でのワンマン運転を行っている。駅停車時にはすべての車両のドアが開閉する。 高田駅 - 和歌山駅間の沿線の岩出市も大和高田市周辺のように宅地開発が激しく住宅が多く存在し、和歌山線から離れている山側に住宅地が多く、岩出市の住宅街から離れた所をかする程度にしか通っていないものの通学客が多い。同じ区間の橋本市なども住宅が多く存在しているため五条駅 - 紀伊山田駅間も利用客が多い。 かつて五条駅を経由してJR難波駅 - 和歌山駅間を直通する列車、和歌山駅で紀勢本線の列車(紀伊田辺駅または御坊駅発着)の[[増解結]]を行い、阪和線経由で五条駅 - 天王寺駅間を直通する列車も運転されていたが、現在は存在しない。和歌山駅経由で五条駅 - 天王寺駅間を運転していた快速は、1989年3月10日から2000年3月10日まで運転されていた。 === 臨時列車 === 沿線の花火大会などの催事において、臨時列車が運転されている。[[五條市]]で行われる吉野川花火大会では五条駅 → 高田駅間で、[[橋本市]]で行われる紀ノ川祭では和歌山駅 - 橋本駅間で、それぞれ運転されている。特に紀ノ川祭では、普段和歌山線での定期運用のない[[国鉄113系電車|113系]]が和歌山駅 - 橋本駅間に乗り入れていた<ref>[http://railf.jp/news/2011/08/17/174200.html 113系が和歌山線に入線] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年8月17日</ref>。 過去には、[[吉野山]]への観光客輸送として大阪駅 - 吉野口駅間で快速「吉野ライナー号」が運転されていたことがあった<ref>[https://web.archive.org/web/19980625054640/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970120b.html 平成9年《春》の臨時列車の運転について]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年1月20日</ref>ほか、[[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけて王寺駅 - 高田駅間で[[終夜運転]]が約60分間隔で行われていたが、この終夜運転は2017年度をもって取り止めとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>。 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === すべて[[電車]]で運転されている。特記されていない車両は、全区間で運用されている。 * [[JR西日本227系電車|227系1000番台]] ([[吹田総合車両所]][[日根野電車区|日根野支所]]新在家派出所所属) *: 2019年3月16日に営業運転開始<ref name="railfjp20190317" />。2019年9月30日までに2両編成28本、計56両を導入<ref name="jrw20190822">[https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/08/page_14730.html 227系の投入完了と奈良中南部エリアの活性化]- 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2019年8月22日</ref>。近畿圏では初となる車載型ICカード改札機を設置し、2020年3月14日から使用開始<ref name="jrw12012">{{Cite press release|和書|title=和歌山線・桜井線への新型車両導入と車載型IC改札機を使用したICOCAエリア拡大について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2018年3月7日|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/03/page_12012.html|accessdate=2018-03-07}}</ref><ref name="jrw191213" />。2019年3月16日から2021年3月12日まではドアが通年[[半自動ドア|半自動扱い]]だった。 * [[JR西日本221系電車|221系]](吹田総合車両所奈良支所所属) *: 王寺駅 - 五条駅間で運用されている。1994年9月4日 - 1998年3月13日と2000年3月11日 - 2002年3月22日の間は五条駅 - 和歌山駅間でも運転していた。主に王寺駅で大和路線(奈良方面)の列車と解・併結する区間快速・快速として運用される。 <gallery> Kumoha227-1016F-2019-7-15.jpg|227系1000番台 </gallery> === 過去の使用車両 === * [[国鉄103系電車|103系]](吹田総合車両所[[奈良電車区|奈良支所]]所属) *: 2018年1月まで運行。奈良支所所属の6両編成が201系と共通運用で、王寺駅 - 高田駅間で運用されていた。過去には高田駅 - 和歌山駅間でも運用されていた。このほか日根野支所の紀勢本線(きのくに線)乗り入れ対応車両が和歌山駅 - 五条駅間で運用されていた時期もあった。 * [[国鉄105系電車|105系]](吹田総合車両所日根野支所新在家派出所所属) *: 和歌山線における主力車両であり、最大4両編成で運転されていた。かつては一部区間で3本併結の6両編成も存在した。平日の朝ラッシュ時に万葉まほろば線へ直通する105系4両編成は車掌が乗務していたが、和歌山線では4両編成であっても基本的にワンマン運転を行っていた。227系の投入完了に伴い、2019年9月末に和歌山線での運用を終了した<ref name="railfjp20191001">[https://railf.jp/news/2019/10/01/203000.html 和歌山線・桜井線の105系が引退] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年10月1日</ref>。 * [[国鉄201系電車|201系]](吹田総合車両所奈良支所所属) *: 王寺駅 - 高田駅間で朝夕に運用されていた。2006年12月20日に運用開始したが、2022年3月の改正で撤退した。 * [[国鉄113系電車|113系]]:奈良電車区(現:吹田総合車両所奈良支所)に所属していた朱帯の列車や湘南色のほか、日根野電車区(現:吹田総合車両所日根野支所)に所属していた阪和色の列車も入線していた。2002年3月23日で定期運用を終了した<ref>ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2011夏』[[交通新聞社]]、2011年。{{ISBN2|978-4-330-21211-1}}。</ref>。 * [[国鉄117系電車|117系]](吹田総合車両所日根野支所新在家派出所所属) *: 王寺駅 - 和歌山駅間で使用されていた。朝夕を中心に運用されていたが、2019年3月16日のダイヤ改正で営業運転終了<ref>[https://railf.jp/news/2019/03/16/183500.html 117系が和歌山線の定期運用から撤退] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年3月16日</ref>。 <gallery> JRW-Series105_Wakayama.jpg|105系 JRwest201uguisuColor.JPG|201系 JRW series117-Wakayama.jpg|117系 </gallery> ==== 電化前 ==== * 気動車 ** [[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]:普通列車。 ** [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]:急行「しらはま」や「紀ノ川」として運転されていた。 * 客車 ** [[国鉄50系客車|50系]]:普通列車。全線電化時まで王寺駅 - 和歌山市駅間で1往復運転されていた。 ** [[旧型客車]]:普通列車。50系登場以前。 ** [[国鉄10系客車|10系]]:東京駅 - 和歌山市駅間急行「[[紀伊 (列車)#東京対奈良・紀伊半島沿線都市間夜行列車沿革|大和]]」の寝台車。 == 歴史 == 王寺駅 - 高田駅間は[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]] が1891年に開業させた。その後、桜井方面へ路線を延伸した大阪鉄道から分岐する形で、[[南和鉄道]]が高田駅 - 五条駅間を1896年に開業させた<ref name="sone 20">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 20頁]]</ref>。 五条駅 - 和歌山市駅(のちに現在の和歌山駅への支線が開業)間は、[[紀和鉄道]]の手により開業した。和歌山県下初の鉄道路線として五条駅 - 橋本駅間を1898年に開業させた後、和歌山側から順次延伸し、五条駅 - 和歌山駅(現在の紀和駅)間が開通したのは1900年である<ref name="sone 20"/>。 その後、南海鉄道([[南海電気鉄道]]の前身)の全通と同日に和歌山市駅まで全通した。なお南海鉄道の開業以前は、この路線が大阪駅 - 和歌山駅間移動ルートとしての役目を担っていたこともあった。大阪鉄道・南和鉄道・紀和鉄道は、[[関西鉄道]]に合併された後に国有化された<ref name="sone 20"/>。 また、田井ノ瀬 - 和歌山間は開業当時貨物支線であり、正式に旅客営業を開始したのは[[1972年]](昭和47年)。ただ、実際には紀勢本線箕島方面への直通列車を中心とした一部の旅客列車が、この貨物支線を経由して乗り入れていた<ref name="sone 21">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 21頁]]</ref>。しかし、正式な旅客営業路線ではなく、営業キロが設定されていなかったため、運賃は[[紀伊中ノ島駅]]経由で計算していた。その旨の注意書きが、当時の時刻表にも記載されていた。 [[日本国有鉄道|国鉄]]時代の1980年に王寺駅 - 五条駅間、1984年に五条駅 - 和歌山駅間が電化された<ref name="sone 21"/>。 1960年代には、[[東京駅]]に直通する[[急行列車|急行]]「[[紀伊 (列車)#大和|大和]]」の寝台車(和歌山線内では普通列車に連結して運転)や、1960年代から1980年代には[[紀勢本線]][[白浜駅|白浜]]方面に直通する急行「[[くろしお (列車)#しらはま・紀ノ川|しらはま]]」、その後身の急行「[[くろしお (列車)#しらはま・紀ノ川|紀ノ川]]」といった[[優等列車]]が運転されていたが、五条駅 - 和歌山駅間電化時に「紀ノ川」が廃止されて以来、定期優等列車は設定されていない。 === 年表 === 以下の地点はそれぞれ同一地点を指す * 紀和鉄道接続点・南和鉄道接続点・大和二見駅 * 南海連絡点・紀和連絡点・国社分界点・両社分界点 ==== 大阪鉄道 ==== * [[1891年]]([[明治]]24年)[[3月1日]]:[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]] により、王寺駅 - 高田駅間(7[[マイル|M]]9[[チェーン (単位)|C]]≒11.45 km)が開業<ref name="sone 20"/>。下田駅(現在の香芝駅)・高田駅が開業<ref name="sone 20"/>。 * [[1893年]](明治26年)[[5月23日]]:[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]まで延伸開業<ref>[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 23頁]]</ref>。 * [[1894年]](明治27年)[[1月29日]]:王寺駅 - 高田駅間の営業距離が2C(≒0.04 km)延長。 * [[1902年]](明治35年)[[11月12日]]:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(7M11C→7.1M)。 ==== 南和鉄道 ==== * [[1896年]](明治29年) ** [[5月10日]]:[[南和鉄道]]により、高田駅 - 葛駅間(8M27C≒13.42 km)が開業<ref name="sone 20"/>。新庄駅(現在の大和新庄駅)・御所駅・掖上駅・葛駅(現在の吉野口駅)が開業<ref name="sone 20"/>。 ** [[10月25日]]:葛駅 - 二見駅間(8M33C≒13.54 km)が延伸開業<ref name="sone 20"/>。北宇智駅・五条駅・二見駅(初代、後の川端駅)が開業<ref name="sone 20"/>。五条駅 - 二見駅間は貨物線<ref name="sone 20"/>。 * [[1898年]](明治31年) ** [[4月11日]]:五条駅 - 二見駅間に紀和鉄道接続点を設置<ref name="sone 20"/>。紀和鉄道が五条駅 - 紀和鉄道接続点間に乗り入れ開始<ref name="sone 20"/>。 * [[1902年]](明治35年) ** [[6月3日]]:紀和鉄道接続点に二見駅(2代目、現在の大和二見駅)が開業<ref name="sone 20"/>。初代二見駅を川端駅に改称。<!-- 停車場変遷大事典による --> ** 11月12日:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(16M16C≒16.8M)。 * [[1903年]](明治36年)[[5月15日]]:掖上駅を壺阪駅に、葛駅を吉野口駅に改称。 ==== 紀和鉄道 ==== * 1898年(明治31年) ** 4月11日:[[紀和鉄道]]により、五条駅 - 南和鉄道接続点(現在の大和二見駅) - 橋本駅間が開業(接続点 - 橋本駅間は6M1C≒9.68 km)<ref name="sone 20"/>。五条駅 - 南和鉄道接続点間は南和鉄道と共用<ref name="sone 20"/>。隅田駅・橋本駅が開業<ref name="sone 20"/>。 ** [[5月4日]]:和歌山駅(初代) - 船戸仮停車場間(6M69C≒11.04 km)が開業<ref>和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年。</ref>。和歌山駅(現在の紀和駅)・岩橋駅(現在の田井ノ瀬駅)・船戸仮停車場が開業<ref name="sone 20"/>。 * [[1899年]](明治32年) ** [[1月1日]]:船戸仮停車場 - 船戸駅間(46C≒0.93 km)が延伸開業。船戸駅が開業、船戸仮停車場が廃止。 ** [[1月15日]]:岩橋駅が田井ノ瀬駅に改称。 ** [[5月3日]]:布施屋臨時停車場が開業。 ** [[9月18日]]:南和鉄道接続点 - 隅田駅間に二見臨時停車場が開業。 ** [[10月1日]]:布施屋臨時停車場が布施屋駅に変更。二見臨時停車場が廃止。 * [[1900年]](明治33年) ** [[8月24日]]:船戸駅 - 粉河仮停車場間(5M19C≒8.43 km)が延伸開業<ref name="sone 20"/>。打田駅・粉河仮停車場が開業<ref name="sone 20"/>。 ** [[11月25日]]:橋本駅 - 粉河仮停車場間が延伸開業(13M44C≒21.81 km)し、王寺駅 - 和歌山駅間が全通<ref name="sone 20"/>。妙寺駅・笠田駅・粉河駅が開業<ref name="sone 20"/>。粉河仮停車場が廃止。 * [[1901年]](明治34年) ** [[3月29日]]:名倉駅(現在の高野口駅)が開業<ref name="sone 20"/>。 ** 10月1日:名手駅が開業。 ** 10月10日:大宮仮停車場が開業。 * [[1902年]](明治35年) ** 3月1日:大宮仮停車場が大宮駅(現在の岩出駅)に変更。 ** [[4月1日]]:大宮駅が岩出駅に改称。 ** 11月12日:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(31M20C→31.3M)。 * [[1903年]](明治36年) ** 1月1日:名倉駅が高野口駅に改称。 ** [[3月7日]]:長田臨時停車場が開業。 ** [[3月21日]]:紀和鉄道の和歌山(初代) - 南海連絡点、南海鉄道の紀和連絡点 - 和歌山市駅間が開業<ref name="sone 20"/>。 ==== 関西鉄道 ==== * [[1900年]](明治33年)[[6月6日]]:大阪鉄道が[[関西鉄道]]に路線を譲渡<ref name="sone 20"/>。 * [[1904年]](明治37年) ** [[8月27日]]:紀和鉄道が関西鉄道に路線を譲渡<ref name="sone 20"/>。 ** [[12月9日]]:南和鉄道が関西鉄道に路線を譲渡<ref name="sone 20"/>。 ==== 国鉄時代 ==== * [[1907年]](明治40年)[[10月1日]]:関西鉄道が[[鉄道国有法]]により国有化<ref name="sone 20"/>。 * [[1908年]](明治41年)[[2月22日]]:長田臨時停車場が長田仮停車場に変更。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]の制定により、王寺駅 - 和歌山駅(現在の紀和駅) - 和歌山市駅間を'''和歌山線'''とする<ref>[{{NDLDC|2951241/3}} 「鉄道院告示第54号」『官報』1909年10月12日] (国立国会図書館デジタルコレクション)では「王寺和歌山市間及貨物支線」となっており南海鉄道境界点 - 和歌山市間も含まれている。</ref>。 * [[1912年]](明治45年)以前:長田仮停車場が長田仮乗降場に変更。 * [[1915年]]([[大正]]4年)[[9月11日]]:新庄駅が大和新庄駅に改称。 * [[1919年]](大正8年)[[4月15日]]:二見駅が大和二見駅に改称。 * [[1930年]]([[昭和]]5年)4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(王寺駅 - 和歌山市駅間 55.3M→89.3 km)。 * [[1934年]](昭和9年)7月20日:五条駅 - 和歌山市駅間で[[気動車]]運行開始<ref>[{{NDLDC|1114638/98}} 『鉄道省年報. 昭和9年度』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。 * [[1935年]](昭和10年)1月1日:田井ノ瀬駅 - 和歌山駅(現在の紀和駅)間に、[[阪和電気鉄道]]線(現在の[[阪和線]])乗り換え駅として[[紀伊中ノ島駅]]が開業<ref name="sone 21"/>。 * [[1938年]](昭和13年)[[7月15日]]:下井阪駅・紀伊小倉駅が開業<ref name="sone 21"/>。長田仮乗降場が紀伊長田駅に変更。 * [[1940年]](昭和15年) ** [[2月8日]]:志都美信号場・五位堂信号場が開設。 ** 10月1日:壺阪駅を掖上駅に改称。 * [[1949年]](昭和24年) **[[1月14日]]:五条駅の待合室に貨物列車が突入。死者8人、重軽傷者20人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=71|isbn=9784816922749}}</ref>。 **[[7月15日]]:志都美信号場・五位堂信号場(初代)が廃止。 * [[1951年]](昭和26年)10月5日:大和二見駅 - 隅田駅間が経路変更<ref>『近畿地方の日本国有鉄道-大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.359。</ref>。 * [[1952年]](昭和27年)10月1日:紀伊山田駅・大谷駅・西笠田駅・千旦駅が開業<ref name="sone 21"/>。 * [[1955年]](昭和30年) ** 2月8日:五位堂信号場(2代目)が開設。 ** [[12月27日]]:畠田駅・志都美駅が開業。 * [[1957年]](昭和32年)[[5月1日]]:中飯降駅が開業。 * [[1961年]](昭和36年)[[7月1日]]:貨物支線 田井ノ瀬駅 - 東和歌山駅(現在の和歌山駅)間が使用開始<ref name="sone 21"/>。当時は営業キロの設定なし<ref name="sone 21"/>。同年10月1日ダイヤ改正時の時刻表では、団体専用の準急「南紀観光」号(東和歌山駅発京都駅行の上り1本の運行)がこの支線を経由して運行されている。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[3月1日]]:準急「はまゆう」(上記「南紀観光」号を一般開放し、下り列車も設定)、準急「はやたま」が運転を開始<ref name="sone 21"/>。いずれも田井ノ瀬駅 - 東和歌山駅間の貨物支線を経由<ref name="sone 21"/>。 ** 3月10日:[[東京駅]] - 王寺駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間(東海道本線・関西本線経由)の急行「大和」に東京駅 - 王寺駅 - 和歌山市駅間の編成が連結開始(2等寝台1両のみで、和歌山線内は普通列車に併結)<ref name="sone 21"/>。 ** [[12月31日]]:田井ノ瀬駅 - 和歌山駅(現在の紀和駅)間の貨物営業廃止。 * [[1963年]](昭和38年)1月1日:貨物支線 田井ノ瀬駅 - 東和歌山駅間に営業キロ (4.6 km) を設定。1964年10月1日ダイヤ改正時の時刻表では、東和歌山駅行きの下り普通列車が1本設定されており、普通列車もこの支線経由の運行を開始した。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[3月5日]]:準急「はまゆう」、準急「はやたま」が急行に格上げ<ref name="sone 21"/>。 ** 10月1日:急行「はまゆう」が王寺駅経由から桜井線経由に変更。 * [[1967年]](昭和42年)10月1日:急行「はやたま」が王寺駅経由から桜井線経由に変更。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[2月1日]]:和歌山駅(初代)が紀和駅に改称<ref name="sone 21"/>。 ** 3月1日:東和歌山駅が和歌山駅(2代目)に改称<ref name="sone 21"/>。 ** 10月1日:下兵庫駅が開業。急行「大和」廃止。急行「はまゆう」「はやたま」が統合され、急行「しらはま」となる<ref name="sone 21"/>。 * [[1972年]](昭和47年)[[3月15日]]:田井ノ瀬駅 - 和歌山駅間の旅客営業開始、本線に編入<ref name="sone 21"/>。田井ノ瀬駅 - 紀和駅間は支線となる<ref name="sone 21"/>。紀和駅 - 国社分界点 - 和歌山市駅間 (0.5 km + 1.0 km) が紀勢本線に編入<ref name="sone 21"/>。この日のダイヤ改正で、定期列車はすべて和歌山駅発着となる。 * [[1973年]](昭和48年)9月30日:田井ノ瀬駅 - 和歌山駅間が自動閉塞化<ref>『天王寺鉄道管理局三十年写真史』天王寺鉄道管理局、1981年、p.231。同書では1974年3月15日に自動閉塞化と混在。</ref>。 * [[1974年]](昭和49年)10月1日:支線 田井ノ瀬駅 - 紀和駅間 (4.5 km) が廃止<ref name="sone 21"/>。 * [[1977年]](昭和52年)11月1日:大和二見駅 - 川端駅間の旅客営業廃止<ref>『天王寺鉄道管理局三十年写真史』天王寺鉄道管理局、1981年、p.239。</ref>。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[2月1日]]:王寺駅 - 高田駅間が自動信号化<ref name="kinkijnr_377">『近畿地方の日本国有鉄道-大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.377。</ref>。 ** 3月30日:高田駅 - 五条駅間が自動信号化<ref name="kinkijnr_377" />。 ** [[12月14日]]:王寺駅 - 五条駅間に[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入<ref>『近畿地方の日本国有鉄道-大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.378。</ref>。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[3月3日]]:王寺駅 - 五条駅間が電化<ref name="sone 21"/>。 ** 10月1日:急行「しらはま」の運転区間が[[京都駅]] - [[和歌山駅]]間(奈良線・桜井線・和歌山線経由)に短縮され、急行「紀ノ川」に改称<ref name="sone 21"/>。 * [[1982年]](昭和57年)10月1日:貨物支線 大和二見駅 - 川端駅間 (1.5 km) が廃止<ref name="sone 21"/><ref>{{Cite news |title=日本国有鉄道公示第111号 |newspaper=[[官報]] |date=1982-09-30 }}</ref><ref>{{Cite news |title=日本国有鉄道公示第112号 |newspaper=[[官報]] |date=1982-09-30 }}</ref>。 * [[1984年]](昭和59年) ** 2月1日:全線の貨物営業廃止<ref name="sone 21"/>。 ** 7月6日:五条駅 - 田井ノ瀬駅間が自動信号化<ref name="kinkijnr_381">『近畿地方の日本国有鉄道-大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.381。</ref>。 ** 10月1日:五条駅 - 和歌山駅間が電化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●奈良線、和歌山線五条・和歌山間ほか2線区の電気運転について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1984-09-22 |page=2 }}</ref>。急行「紀ノ川」が廃止。 ** 10月20日:五条駅 - 和歌山駅間に CTC が導入<ref name="kinkijnr_381" />。 ==== 民営化後 ==== * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により西日本旅客鉄道に承継<ref name="sone 21"/>。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月11日]]:玉手駅が開業<ref name="sone 21"/>。日中の和歌山駅 - 粉河駅間の列車が橋本駅発着に延長される。 * [[1991年]](平成3年) ** 4月1日:王寺駅 - 五条駅間が大阪支社から王寺鉄道部の管轄に、五条駅 - 和歌山駅間が和歌山支社から[[橋本鉄道部]]の管轄になる。 ** 12月3日:一部の列車でワンマン運転開始<ref>ジェー・アール・アール編『JR気動車客車編成表 2011』[[交通新聞社]]、2011年。{{ISBN2|978-4-330-22011-6}}。</ref><ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=184 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)[[3月16日]]:日中の王寺駅 - 高田駅間で関西本線(大和路線)直通の快速が運転される<ref name="sone 21"/>。 * [[1997年]](平成9年)[[3月8日]]:日中の運転区間が高田駅で系統分割、王寺駅 - 高田駅間では関西本線(大和路線)の快速の一部が区間快速に変更されるとともに増発される<ref>[https://web.archive.org/web/19970208163747/http://www.westjr.co.jp/new/1press/kaisei9.htm 平成9年3月アーバンネットワークのダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1996年12月16日</ref>。 * [[1998年]](平成10年)[[12月1日]]:高田駅 - 和歌山駅間が[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]になり、全区間が大阪近郊区間になる<ref>[https://web.archive.org/web/19991013193747/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n981026a.html 大阪近郊区間を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1998年10月26日</ref>。 * [[1999年]](平成11年)[[5月10日]]:阪和線からの直通快速列車が廃止。 * [[2002年]](平成14年)[[3月23日]]:117系の運用開始。日中の和歌山駅 - 橋本駅間の列車が粉河駅まで短縮され、粉河駅 - 橋本駅間の列車が半減。関西本線直通列車以外の全列車がワンマン化<ref name="sone 21"/>。また、保守工事のため五条駅 - 粉河駅間などで日中の運休日が設定される<ref name="sone 21"/>。 * [[2003年]](平成15年) ** 10月1日:コンコースの喫煙コーナーが廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。 ** 11月1日:王寺駅 - 高田駅間にて[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」サービス開始。 * [[2004年]](平成16年) ** [[3月13日]]:下田駅が香芝駅に改称、五位堂信号場が駅に変更されてJR五位堂駅が開業<ref name="sone 21"/><ref>[https://web.archive.org/web/20031217162618/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/031212a.html 和歌山線下田・高田間新駅の開業および下田駅駅名変更](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年12月12日</ref>。 ** [[10月18日]]:王寺駅 - 高田駅間の一部列車で女性専用車が導入<ref name="jrw_20040721" />。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:北宇智駅の移転によりスイッチバックが廃止され、吉野口駅 - 五条駅間の営業キロが0.4km短縮<ref name="sone 21"/><ref group="注釈">吉野口駅 - 北宇智駅間を6.7kmから6.6kmに、北宇智駅 - 五条駅間を4.2kmから3.9kmに改キロ。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070318050253/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1172825_799.html 和歌山線北宇智駅の駅構内改良に伴うバス代行](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2007年2月19日</ref>。 ** [[11月11日]]:王寺駅 - 五条駅間が[[天王寺指令所]]から新大阪総合指令所に移管。[[自動進路制御装置]] (SRC) 使用開始。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:関西本線(大和路線)直通の区間快速が快速に変更。 * [[2009年]](平成21年)[[6月1日]]:橋本鉄道部が廃止され、五条駅 - 和歌山駅間が和歌山支社の管轄に変更。 * [[2010年]](平成22年)[[6月28日]]:無人駅に簡易券売機が設置されたのに伴い、桜井線(万葉まほろば線)とともにワンマン列車における乗車整理券を廃止。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月12日]]:日中の関西本線(大和路線)直通の快速が削減<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2010年12月17日</ref>。 ** 4月18日:女性専用車が毎日、終日設定される<ref name="jrw_20110304" />。 * [[2018年]](平成30年)3月17日:ICOCAの利用可能エリアが王寺駅 - 五条駅間に拡大<ref>{{Cite press release |和書 |title=2018年春 和歌山線ICOCA利用可能エリア拡大日が決まりました |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2018-01-22 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/01/page_11739.html |accessdate=2018-08-04}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)3月16日:227系1000番台電車を投入<ref name="railfjp20190317">[https://railf.jp/news/2019/03/17/205200.html 227系1000番台の営業運転開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年3月17日</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** 3月13日:日中の関西本線(大和路線)直通の快速がこの日の運転をもって終了。 ** 3月14日:ICOCAの利用可能エリアが全線に拡大<ref name="jrw191213">{{Cite press release|和書|title=2020年春ダイヤ改正について|publisher=西日本旅客鉄道和歌山支社|date=2019年12月13日|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/191213_00_wakayama.pdf#page=3|accessdate=2019-12-14}}</ref><ref name="jrw12012"/>。 * [[2021年]](令和3年) ** 10月2日:同日のダイヤ改正で日中の和歌山駅 - 粉河駅間の区間列車5往復中4往復を廃止<ref>『JTB時刻表』2021年10月号、JTBパブリッシング、pp.特集2,305-306</ref>。 == 駅一覧 == * 停車駅 ** 普通…すべての駅に停車 ** 王寺駅 - 五条駅間の快速・区間快速は当線では各駅に停車 ** 快速(五条駅 - 和歌山駅間)…●印の駅は停車、|印の駅は通過 *** 和歌山発の快速は五条駅から普通として運転 * 線路(全線単線) … ◇・∨・∧:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可 {| class="wikitable" rules="all" |- style="border-bottom:solid 3px #f79fba;" !style="width:6.5em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|駅間<br />営業キロ !style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ !style="background:#feb;"|{{縦書き|快速}} !接続路線 !style="width:1em;"|{{縦書き|線路}} !colspan="2"|所在地 |- |[[王寺駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |&nbsp; |[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-Q.svg|17px|Q]] [[関西本線]]([[大和路線]]) (JR-Q31)<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|G}} [[近鉄生駒線|生駒線]] (G28)<br />近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|I}} [[近鉄田原本線|田原本線]] …[[新王寺駅]] (I43) |∨ |rowspan="14" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[奈良県]]|height=6em}} |rowspan="2"|[[北葛城郡]]<br />[[王寺町]] |- |[[畠田駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|2.6 |&nbsp; |&nbsp; || |- |[[志都美駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|4.5 |&nbsp; |&nbsp; |◇ |rowspan="3"|[[香芝市]] |- |[[香芝駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|6.6 |&nbsp; |&nbsp; |◇ |- |[[JR五位堂駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|8.7 |&nbsp; |&nbsp; |◇ |- |[[高田駅 (奈良県)|高田駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|11.5 |&nbsp; |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-U.svg|17px|U]] [[桜井線]](万葉まほろば線) |◇ |style="white-space:nowrap;"|[[大和高田市]] |- |[[大和新庄駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|14.9 |&nbsp; |&nbsp; || |[[葛城市]] |- |[[御所駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|17.6 |&nbsp; |&nbsp; |◇ |rowspan="4"|[[御所市]] |- |[[玉手駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|19.4 |&nbsp; |&nbsp; || |- |[[掖上駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|20.9 |&nbsp; |&nbsp; |◇ |- |[[吉野口駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|24.9 |&nbsp; |近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄吉野線|吉野線]] (F48) |◇ |- |[[北宇智駅]] |style="text-align:right;"|6.6 |style="text-align:right;"|31.5 |&nbsp; |&nbsp; || |rowspan="3"|[[五條市]] |- |[[五条駅 (奈良県)|五条駅]] |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:right;"|35.4 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |- |[[大和二見駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|37.1 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; || |- |[[隅田駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|41.1 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |rowspan="22" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[和歌山県]]|height=8em}} |rowspan="5"|[[橋本市]] |- |[[下兵庫駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|43.2 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; || |- |[[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|45.1 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |[[南海電気鉄道]]:[[ファイル:Nankai koya line simbole.svg|15px|■]] [[南海高野線|高野線]] (NK77) |◇ |- |[[紀伊山田駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|48.0 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; || |- |[[高野口駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|50.6 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |- |[[中飯降駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|53.0 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; || |rowspan="5"|[[伊都郡]]<br />[[かつらぎ町]] |- |[[妙寺駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|54.6 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |- |[[大谷駅 (和歌山県)|大谷駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|56.7 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; || |- |[[笠田駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|58.2 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |- |[[西笠田駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|61.3 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; || |- |[[名手駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|63.2 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |rowspan="5"|[[紀の川市]] |- |[[粉河駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|66.0 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |- |[[紀伊長田駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|67.2 |style="text-align:center; background:#feb;"|| |&nbsp; || |- |[[打田駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|69.8 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |- |[[下井阪駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|72.0 |style="text-align:center; background:#feb;"|| |&nbsp; || |- |[[岩出駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|74.2 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |&nbsp; |◇ |rowspan="2"|[[岩出市]] |- |[[船戸駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|75.3 |style="text-align:center; background:#feb;"|| |&nbsp; |◇ |- |[[紀伊小倉駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|77.6 |style="text-align:center; background:#feb;"|| |&nbsp; || |rowspan="5"|[[和歌山市]] |- |[[布施屋駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|79.9 |style="text-align:center; background:#feb;"|| |&nbsp; |◇ |- |[[千旦駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|81.4 |style="text-align:center; background:#feb;"|| |&nbsp; || |- |[[田井ノ瀬駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|82.9 |style="text-align:center; background:#feb;"|| |&nbsp; |◇ |- |[[和歌山駅]] |style="text-align:right;"|4.6 |style="text-align:right;"|87.5 |style="text-align:center; background:#feb;"|● |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-R.svg|17px|R]] [[阪和線]] (JR-R54)・[[ファイル:JRW kinki-W.svg|17px|W]] [[紀勢本線]]<br />[[和歌山電鐵]]:[[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]] (01) |∧ |} * JR西日本の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](6駅) ** 王寺駅・高田駅・吉野口駅・五条駅・橋本駅・和歌山駅 * [[JR西日本交通サービス]]による[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]](5駅) ** 畠田駅・志都美駅・香芝駅・JR五位堂駅・岩出駅 *[[日本の鉄道駅#簡易委託駅|簡易委託駅]](1駅) ** 御所駅 このほかの24駅は終日[[無人駅]]である。 === 廃止区間・他線への編入区間 === ( )内は起点からの営業キロ ; 1974年10月1日廃止 : 田井ノ瀬駅 (0.0) - [[紀伊中ノ島駅]] (3.7) - [[紀和駅]] (4.5) - 国社分界点(5.0) - [[和歌山市駅]] (6.0) :: 紀和駅 - 和歌山市駅間は1972年3月15日に紀勢本線に編入され現存 ; 1982年10月1日廃止(貨物支線) : 大和二見駅 (0.0) - [[川端駅 (奈良県)|川端駅]] (1.5) === 過去の接続路線 === * 和歌山駅:[[南海電気鉄道|南海]][[南海和歌山軌道線|和歌山軌道線]] - 1971年4月1日廃止 ** 田井ノ瀬駅 - 和歌山駅間は開業当時貨物支線であり、正式に旅客営業キロを設定して旅客営業を開始したのは1972年のことである。このため1971年廃止の南海和歌山軌道線とは路線自体は接続しているが、名目上は旅客列車としては接続していないことになる。ただし、実際には1972年以前から箕島方面への直通列車を中心とした旅客列車がこの貨物支線を利用して和歌山駅に乗り入れていたので、事実上の接続はあった。ただ、正式な旅客営業線ではなかったので、紀伊中ノ島駅経由の営業キロで計算しており、当時の時刻表にもその但し書きがあった。 * 紀伊中ノ島駅:[[阪和線]] * 紀和駅:[[紀勢本線]] * 和歌山市駅: ** [[南海本線]] ** 南海[[南海加太線|加太線]] - 1950年9月まで ***南海加太線は、当初は和歌山市駅 - 北島駅 - 東松江駅 - 加太駅間であったが、1950年に台風のため和歌山市 - 北島間が不通となり、1955年に同区間廃止、北島駅 - 東松江駅間が北島支線、紀ノ川駅 - 東松江駅 - 加太駅間が加太線となった。詳細は[[南海加太線]]・[[南海北島支線]]の項を参照。なお、加太線に直通する列車は和歌山市駅から発着している。 ** 南海[[南海和歌山港線|和歌山港線]] ** 南海和歌山軌道線 - 1971年4月1日廃止 和歌山市駅の接続路線は和歌山線としては過去の接続路線であるが、廃止された路線を除いて1972年3月15日以降は紀勢本線の接続路線となっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『JR時刻表』各号、交通新聞社。 * [[川島令三]]編著『東海道ライン - 全線・全駅・全配線』9 奈良・東大阪、[[講談社]]、2009年。{{ISBN2|978-4-06-270019-1}}。 * 川島令三編著『東海道ライン - 全線・全駅・全配線』10 阪南・紀勢西部、講談社、2009年。{{ISBN2|978-4-06-270020-7}}。 * {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=42号 阪和線・和歌山線・桜井線・湖西線・関西空港線|date=2010-05-16|ref=sone42}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Wakayama Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[交通権]] - 地方交通線認定による運賃格差につき訴訟が起こされた。 *[[京奈和自動車道]] == 外部リンク == * [https://www.train-guide.westjr.co.jp/wakayama2.html 和歌山線(王寺~五条):JR西日本 列車走行位置] * [https://www.train-guide.westjr.co.jp/wakayama1.html 和歌山線(五条~和歌山):JR西日本 列車走行位置] {{アーバンネットワーク}} {{西日本旅客鉄道近畿エリア}} {{西日本旅客鉄道近畿統括本部}} {{DEFAULTSORT:わかやま}} [[Category:和歌山線|*]] [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]] [[Category:関西鉄道|路わかやま]] [[Category:大阪鉄道(初代)|路]] [[Category:南和鉄道|路]] [[Category:紀和鉄道|路]] 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プラセオジム
プラセオジム(英: praseodymium [ˌpreɪzi.ɵˈdɪmiəm, ˌpreɪsi.ɵ-])は原子番号59の元素。元素記号は Pr。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。 ギリシャ語でニラを意味する prason と(三価のイオンが緑色を呈することから)、ジジミウム(元は、双子を意味する didymos から命名された)を合成したのが語源。 和名のプラセオジムとは、ドイツ語の Praseodym [prazeoˈdyːm]からきている。なお、プラセオジウムと呼ばれたり記述することもあるが、これは間違った呼称である。 銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は、複六方最密充填構造(ABACスタッキング)。798 °C以上で体心立方構造が安定となる。比重は6.77、融点は935 °C、沸点は3020 °C (3127 °C)。 常温下の空気中で酸化され表面は黄色の酸化物で覆われる。290 °C以上で発火し Pr6O11 の組成の酸化物を生成する。展性、延性があり、熱水と徐々に反応し水素および水酸化物を生成する。酸には易溶で淡緑色の3価の水和イオンを生成する。 加熱下で水素、窒素と反応する。原子価は+3, 4価をとり、4価は固体(化合物)の場合のみ安定である。イオンの色は3価では緑色、4価では黄色。 プラセオジムは極低温下で特殊な磁気構造をとる。 Pr6O10はガラスの着色剤(黄緑色)に使われる。また黄色顔料のプラセオジムイエローはジルコンに4価のプラセオジムイオンが固溶したものである。 光ファイバの増幅器で、励起光の波長制御のため添加される。 コバルトとの合金はプラセオジム磁石の材料となる。また、ネオジムとの合金はジジムといい、防眩(ぼうげん)ガラス及び防塵ガラスの材料ならびに特殊合金に用いられる。 キュービックジルコニアベースの人造ペリドットの色を出すことや、炭素アーク灯の電極棒の芯に含まれていたりもする。 オーストリアのカール・アウアー・フォン・ヴェルスバッハが、もともと一つの元素と考えられていた混合物であるジジミウム(英: didymium、ジジム 独: Didym)からネオジムと共に1885年に発見。 2014年、三菱重工業は重水素を使い、少ないエネルギーでセシウムをプラセオジムに核変換させる実験を成功させた。
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プラセオジムは原子番号59の元素。元素記号は Pr。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。
{{Expand English|Praseodymium|date=2023-11}} {{Elementbox |name=praseodymium |japanese name=プラセオジム |number=59 |symbol=Pr |pronounce={{IPAc-en|ˌ|p|r|eɪ|z|i|.|ɵ|ˈ|d|ɪ|m|i|əm}} {{respell|PRAY|zee-o|DIM|ee-əm}}<br />{{IPAc-en|ˌ|p|r|eɪ|s|i|.|ɵ|ˈ|d|ɪ|m|i|əm}} {{respell|PRAY|see-o|DIM|ee-əm}} |left=[[セリウム]] |right=[[ネオジム]] |above=- |below=[[プロトアクチニウム|Pa]] |series=ランタノイド |group=3 |period=6 |block=f |image name=Praseodymium.jpg |appearance=銀白色 |atomic mass=140.90765 |electron configuration=&#91;[[キセノン|Xe]]&#93; 4f<sup>3</sup> 6s<sup>2</sup> |electrons per shell=2, 8, 18, 21, 8, 2 |phase=固体 |density gpcm3nrt=6.77 |density gpcm3mp=6.50 |melting point K=1208 |melting point C=935 |melting point F=1715 |boiling point K=3793 |boiling point C=3520 |boiling point F=6368 |heat fusion=6.89 |heat vaporization=331 |heat capacity=27.20 |vapor pressure 1=1771 |vapor pressure 10=1973 |vapor pressure 100=(2227) |vapor pressure 1 k=(2571) |vapor pressure 10 k=(3054) |vapor pressure 100 k=(3779) |vapor pressure comment= |crystal structure=hexagonal |japanese crystal structure=[[六方晶系]] |oxidation states=4, '''3''', 2(弱[[塩基性酸化物]]) |electronegativity=1.13 |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=527 |2nd ionization energy=1020 |3rd ionization energy=2086 |atomic radius=182 |covalent radius=203 ± 7 |magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name=jackson>M. Jackson "Magnetism of Rare Earth" [http://www.irm.umn.edu/quarterly/irmq10-3.pdf The IRM quarterly col. 10, No. 3, p. 1, 2000]</ref> |electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (α, poly)<br />0.700 µ |thermal conductivity=12.5 |thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 6.7 |speed of sound rod at 20=2280 |Young's modulus=(α) 37.3 |Shear modulus=(α) 14.8 |Bulk modulus=(α) 28.8 |Poisson ratio=(α) 0.281 |Vickers hardness=400 |Brinell hardness=481 |CAS number=7440-10-0 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_stable | mn=141 | sym=Pr | na=100% | n=82}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=142 | sym=Pr | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=19.12 [[時間|h]] | dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de1=2.162 | pn1=142 | ps1=[[ネオジム|Nd]] | dm2=[[電子捕獲|ε]] | de2=0.745 | pn2=142 | ps2=[[セリウム|Ce]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=143 | sym=Pr | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=13.57 [[日|d]] | dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.934 | pn=143 | ps=[[ネオジム|Nd]]}} |isotopes comment= }} '''プラセオジム'''({{lang-en-short|praseodymium}} {{IPA-en|ˌpreɪzi.ɵˈdɪmiəm, ˌpreɪsi.ɵ-|}})は[[原子番号]]59の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Pr'''。[[希土類元素]]の一つ([[ランタノイド]]にも属す)。 == 名称 == [[ギリシャ語]]でニラを意味する prason と(三価のイオンが緑色を呈することから)、ジジミウム(元は、双子を意味する didymos から命名された)を合成したのが語源<ref name="sakurai" />。 和名のプラセオジムとは、ドイツ語の ''Praseodym'' {{IPA-de|prazeoˈdyːm|}}からきている。なお、プラセオジ'''ウ'''ムと呼ばれたり記述することもあるが、これは間違った呼称である。 == 性質 == [[ファイル:Praseodymium.svg|thumb|プラセオジム]] 銀白色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は、複[[六方最密充填構造]](ABACスタッキング)。798 {{℃}}以上で[[体心立方構造]]が安定となる。比重は6.77、[[融点]]は935 {{℃}}、[[沸点]]は3020 {{℃}} (3127 {{℃}})。 常温下の空気中で酸化され表面は[[黄色]]の酸化物で覆われる。290 {{℃}}以上で発火し Pr<sub>6</sub>O<sub>11</sub> の組成の酸化物を生成する。[[展性]]、[[展延性|延性]]があり、熱水と徐々に反応し水素および水酸化物を生成する。[[酸]]には易溶で淡緑色の3価の水和イオンを生成する。 : <chem>2Pr + 6 H^+(aq) -> Pr^{3+}(aq) + 3 H2</chem> : <chem>Pr^{3+}(aq){} + 3\mathit{e}^- =\ Pr </chem> <math>\ E^\circ = -2.35 \mathrm{V}</math> 加熱下で[[水素]]、[[窒素]]と反応する。原子価は+3, 4価をとり、4価は固体(化合物)の場合のみ安定である。イオンの色は3価では[[緑|緑色]]、4価では黄色。 プラセオジムは極低温下で特殊な磁気構造をとる。 == 用途 == Pr<sub>6</sub>O<sub>10</sub>は[[ガラス]]の着色剤([[黄緑|黄緑色]])に使われる。また黄色[[顔料]]の[[プラセオジムイエロー]]は[[ジルコン]]に4価のプラセオジムイオンが固溶したものである。 [[光ファイバ]]の増幅器で、[[励起]]光の波長制御のため添加される。 [[コバルト]]との合金は[[プラセオジム磁石]]の材料となる。また、[[ネオジム]]との合金はジジムといい、防眩(ぼうげん)ガラス及び防塵ガラスの材料ならびに特殊合金に用いられる<ref>岩波書店 岩波科学百科 1020頁</ref>。 キュービックジルコニアベースの人造ペリドットの色を出すことや、炭素アーク灯の電極棒の芯に含まれていたりもする。 == 歴史 == [[オーストリア]]の[[カール・ヴェルスバッハ|カール・アウアー・フォン・ヴェルスバッハ]]が、もともと一つの元素と考えられていた混合物である[[ジジミウム]]({{lang-en-short|didymium}}、[[ジジム]] {{lang-de-short|Didym}})から[[ネオジム]]と共に[[1885年]]に発見<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 265|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。 2014年、[[三菱重工業]]は[[重水素]]を使い、少ないエネルギーで[[セシウム]]をプラセオジムに[[核変換]]させる実験を成功させた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ040JJ_X00C14A4000000/ |title=放射性廃棄物の無害化に道? 三菱重、実用研究へ |publisher=日本経済新聞 |date=2014-04-08 |accessdate=2022-06-19}}</ref>。 == プラセオジムの化合物 == * {{chem|PrT|4|X|12}}(T = Fe, Ru, Os、X = P, As, Sb、充填スクッテルダイト化合物) * [[十一酸化六プラセオジム]] ({{chem|Pr|6|O|11}}) - 3価および4価の混合酸化物 * [[硫酸プラセオジム(III)]] ({{chem|Pr|2|(SO|4|)|3|·8H|2|O}}) - 淡緑色結晶 == 同位体 == {{Main|プラセオジムの同位体}} == 出典 == {{Reflist}} {{Commons|Praseodymium}} {{元素周期表}} {{プラセオジムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふらせおしむ}} [[Category:プラセオジム|*]] [[Category:元素]] [[Category:ランタノイド]] [[Category:第6周期元素]]
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キュリウム
キュリウム (英: curium [ˈkjʊəriəm]) は原子番号96の元素。元素記号は Cm。アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。 銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は面心立方構造 (α、fcc)で、約500°Cで体心立方(β、dcc)、更に約1000°Cで六方最密充填構造(γ、hcp)が安定となる。比重は理論値で13.51、融点は1340 °C (1350 °C)、沸点は3520 °C。原子価は+3、+4価。 元素名は、キュリー夫妻(ピエール・キュリー、マリ・キュリー)に由来する。 1944年、シーボーグ等(米国)により、プルトニウム239に32 × 10 eVのα粒子をぶつけることにより、キュリウム242(半減期163日)が作られた。その後、いくつかの同位体が発見されたが、最も半減期が長いものはキュリウム247の1560万年である。最も大量に入手できるのはキュリウム244(半減期18.1年)。 アメリシウムに中性子を照射することによってキュリウムが人工的に作られる(アメリシウム243 + 中性子 → キュリウム244)。 キュリウムは銀白色の金属で安定同位体は存在せず、すべてが放射性である。化学的性質はガドリニウムに似るが、ガドリニウムよりも複雑な結晶構造を持つ。 キュリウムには19の同位体が存在する。しかし安定同位体は存在せず、すべてが放射性である。さらにキュリウムには四つの核異性体が存在する。質量範囲は233から252まで。最も半減期が長いのはキュリウム247で1560万年の半減期を持つ。その他にも、34000年の半減期を持つキュリウム248、9000年の半減期を持つキュリウム250、8500年の半減期を持つキュリウム245などが比較的安定している。 残りの同位体は30年未満の半減期を持っており、その大半は35日未満の半減期を持っている。 原子力電池や、惑星探査機のαプロトンX線分光計、実験用のアルファ線源としての用途がある。 原子力発電の使用済み核燃料を再処理した際に発生する廃液(高レベル放射性廃棄物)中には、キュリウムのほかアメリシウムなどの半減期の長い核種が含まれる。これら核種はマイナーアクチニドと呼ばれる。キュリウムを含む高レベル放射性廃棄物はガラス固化体に加工され、日本の場合は高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターで保管。ゆくゆくは地層処分される。
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キュリウム は原子番号96の元素。元素記号は Cm。アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。 銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は面心立方構造 (α、fcc)で、約500℃で体心立方(β、dcc)、更に約1000℃で六方最密充填構造(γ、hcp)が安定となる。比重は理論値で13.51、融点は1340 °C、沸点は3520 °C。原子価は+3、+4価。
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[[電子ボルト|eV]]の[[α粒子]]をぶつけることにより、[[キュリウム242]]([[半減期]]163日)が作られた<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 394~395|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。その後、いくつかの同位体が発見されたが、最も半減期が長いものは[[キュリウム247]]の1560万年である<ref name="sakurai" />。最も大量に入手できるのは[[キュリウム244]](半減期18.1年)。 [[アメリシウム]]に[[中性子]]を照射することによってキュリウムが人工的に作られる([[アメリシウム243]] + 中性子 → [[キュリウム244]])。 == 特徴 == [[File:Cm-Fluoreszenz.png|thumb|レーザー光 (396.6 nm)で励起したトリス(ヒドロトリス)ピラゾリルボラト-キュリウム(III) tris(hydrotris)pyrazolylborato-Cm(III) 複合体溶液中のキュリウム(III)イオン Cm<sup>3+</sup> の蛍光。(レーザー誘起蛍光法)]] キュリウムは銀白色の金属で安定同位体は存在せず、すべてが放射性である。化学的性質は[[ガドリニウム]]に似るが、ガドリニウムよりも複雑な結晶構造を持つ。 == 同位体 == {{main|キュリウムの同位体}} キュリウムには19の同位体が存在する。しかし安定同位体は存在せず、すべてが放射性である。さらにキュリウムには四つの[[核異性体]]が存在する。質量範囲は233から252まで。最も半減期が長いのは[[キュリウム247]]で1560万年の半減期を持つ。その他にも、34000年の半減期を持つ[[キュリウム248]]、9000年の半減期を持つ[[キュリウム250]]、8500年の半減期を持つ[[キュリウム245]]などが比較的安定している。 残りの同位体は30年未満の半減期を持っており、その大半は35日未満の半減期を持っている。 == キュリウムの化合物 == * [[フッ化キュリウム(III)]] (CmF<sub>3</sub>) * [[酸化キュリウム(III)]] (Cm<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) * [[酸化キュリウム(IV)]] (CmO<sub>2</sub>) == 用途 == [[原子力電池]]や、惑星探査機の[[αプロトンX線分光計]]、実験用のアルファ線源としての用途がある。 == 放射性廃棄物として == [[原子力発電]]の[[使用済み核燃料]]を再処理した際に発生する廃液([[高レベル放射性廃棄物]])中には、キュリウムのほかアメリシウムなどの半減期の長い核種が含まれる。これら核種はマイナーアクチニドと呼ばれる。キュリウムを含む高レベル放射性廃棄物は[[ガラス固化体]]に加工され、日本の場合は[[高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター]]で保管。ゆくゆくは[[地層処分]]される<ref>{{Cite web |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesjb/62/8/62_438/_pdf/-char/ja |title=第4回 今こそ,高速炉の話:持続性あるエネルギー供給へ |publisher=日本原子力開発機構 |date=2020年 |accessdate=2023-11-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.jnfl.co.jp/ja/business/about/hlw/summary/return-vitrified-object.html |title=返還されるガラス固化体について |publisher=日本原燃 |date= |accessdate=2023-11-08}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} {{Commons|Curium}} {{元素周期表}} {{キュリウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きゆりうむ}} [[Category:キュリウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:アクチノイド]] [[Category:第7周期元素]]
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10,490
天外魔境
天外魔境(てんがいまきょう)は、1989年(平成元年)にハドソンから発売された、PCエンジン CD-ROM用のコンピューターRPGから始まったゲームシリーズ。通称は「天外」。 株式会社ハドソンは2012年にコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収合併され、以降KDEとレッド・エンタテインメントがシリーズの著作権を保有している。 企画、原案は当時レッドカンパニー(現:レッド・エンタテインメント)を主催していた広井王子。原作はスミソニアン博物館東洋研究第3主事の東洋研究家であるP.H.チャダ著『FAR EAST OF EDEN』とされているが、これは広井らが作り上げた架空の書籍である。「P.H.チャダ(ポール・ヒエロニムス・チャダ)」は原作者あだちひろしの別ペンネームであり、あだちの個人サイト「あ氏の部屋」のトップにはチャダの肖像画が掲載されていた。P.H.は広井王子のペンネームでPrince Hiroiの頭文字から取っている。 舞台は「西洋から観た誤った日本観」をコンセプトとする16~18世紀頃を時代設定とした架空の国「ジパング」。古来からジパングの危機になると現れて国を救った「火の一族」の血を受け継ぐ者たちの活躍を中心に描く。火の一族がどのような存在であるかは、作品ごとに異なる場合があり、『II』では「マリ」によって生み出されたとされ、『ZERO』では「アグニ」によって生み出され高天原から遣わされた、『第四の黙示録』ではエデンという楽園を守護していた一族、という設定になっている。 当初は実写映画やアニメ作品として企画されたもので、およそ当時のゲームに収まる内容ではなかったが、媒体にCD-ROMを使用することでゲーム化が実現した(詳細は『天外魔境 ZIRIA』の記事を参照)。なお『青の天外』(2003年)発表時の広井へのインタビューによると、天外魔境は「3部作3シリーズ」という『スター・ウォーズ』と同様の構想があったとの事。その場合のタイトルはシリーズ毎のまとまりが理解しやすい「第五の黙示録」「第六の黙示録」や「赤の天外」等が考えられていた。シリーズ累計で220万本以上のセールスを記録している。 ちなみに放送開始一週間前の9月28日には東京ゲームショウのハドソン・ブースで新番組スタート記念・公開録音をし、同日23時30分~24時に「天外魔境発売記念スペシャル・天外ラヂヲ~黄金国伝説」という名前でスペシャル版も放送していた。
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天外魔境(てんがいまきょう)は、1989年(平成元年)にハドソンから発売された、PCエンジン CD-ROM2用のコンピューターRPGから始まったゲームシリーズ。通称は「天外」。 株式会社ハドソンは2012年にコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収合併され、以降KDEとレッド・エンタテインメントがシリーズの著作権を保有している。
{{Otheruseslist|コンピュータゲームの『'''天外魔境'''』シリーズ|シリーズの第1作|天外魔境 ZIRIA|それ以外の続編|天外魔境#シリーズ|関連商品(小説やCDなど)|天外魔境#関連商品|}} {{コンピュータゲームシリーズ | title = 天外魔境 | image = <!-- [[File:Far East of Eden logo - circa Zirca 2010.png|frameless|upright=1.15]] --> | caption = | platforms = | creator = [[広井王子]](企画・監修)<br>[[辻野芳輝|辻野寅次郎]](絵師)<br>[[桝田省治]]<br>[[竹部隆司]]<br>[[荒井弘二]]<br>[[久保久]]<br>[[田中公平]]<br>[[笹川敏幸]] | first release version = [[天外魔境 ZIRIA]] | first release date = 1989年6月30日 | latest release version = 天外魔境 for GREE | latest release date = 2011年7月6日 | developer = [[レッド・エンタテインメント]]<br />[[ハドソン]] | publisher = ハドソン | genre =[[コンピュータRPG]] | spinoffs = | spinoff of = | website = }} '''天外魔境'''(てんがいまきょう)は、[[1989年]](平成元年)に[[ハドソン]]から発売された、[[PCエンジン]] [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]用の[[コンピューターRPG]]から始まったゲームシリーズ。通称は「天外」。 株式会社ハドソンは2012年に[[コナミデジタルエンタテインメント]] (KDE) に吸収合併され、以降KDEとレッド・エンタテインメントがシリーズの著作権を保有している。 == 概要 == 企画、原案は当時レッドカンパニー(現:[[レッド・エンタテインメント]])を主催していた[[広井王子]]。原作は[[スミソニアン博物館]]東洋研究第3主事の東洋研究家であるP.H.チャダ著『FAR EAST OF EDEN』とされているが、これは広井らが作り上げた架空の書籍である。「P.H.チャダ(ポール・ヒエロニムス・チャダ)」は原作者あだちひろしの別ペンネームであり、あだちの個人サイト「あ氏の部屋」のトップにはチャダの肖像画が掲載されていた<ref>https://web.archive.org/web/20210126144025/http://www006.upp.so-net.ne.jp/ashi/</ref>。P.H.は広井王子のペンネームでPrince Hiroiの頭文字から取っている。 舞台は「[[ステレオタイプ#人種・国籍・肌の色など|西洋から観た誤った日本観]]」をコンセプトとする16~18世紀頃を時代設定とした架空の国「[[ジパング]]」。古来からジパングの危機になると現れて国を救った「火の一族」の血を受け継ぐ者たちの活躍を中心に描く。火の一族がどのような存在であるかは、作品ごとに異なる場合があり、『II』では「マリ」によって生み出されたとされ、『ZERO』では「アグニ」によって生み出され高天原から遣わされた、『第四の黙示録』ではエデンという楽園を守護していた一族、という設定になっている。 当初は実写映画やアニメ作品として企画されたもので、およそ当時のゲームに収まる内容ではなかったが、媒体に[[CD-ROM]]を使用することでゲーム化が実現した(詳細は『[[天外魔境 ZIRIA]]』の記事を参照)。なお『青の天外』(2003年)発表時の広井へのインタビューによると、天外魔境は「3部作3シリーズ」という『[[スター・ウォーズ]]』と同様の構想があったとの事。その場合のタイトルはシリーズ毎のまとまりが理解しやすい「第五の黙示録」「第六の黙示録」や「赤の天外」等が考えられていた。シリーズ累計で220万本以上のセールスを記録している<ref>{{Cite news |title=あの「天外魔境」シリーズの最新作が,ついに! |url=https://www.4gamer.net/games/120/G012010/20100911002/ |publisher=[[Aetas]] |work=[[4Gamer.net]] |date=2010-09-13 |accessdate=2015-04-24}}</ref>。 == シリーズ == === 家庭用ゲーム機・アーケード向けタイトル === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! タイトル !! 発売日 !! ハード !! ジャンル !! 備考 |- | '''[[天外魔境 ZIRIA]]''' || {{Flagicon|JPN}} [[1989年]][[6月30日]] || [[PCエンジン]]<br />[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] || rowspan="3"|[[コンピュータRPG|RPG]] || ジパングの東側、坂東地方編。<br/>世界初の[[CD-ROM]]を媒体としたRPG。<br/>マサカドの復活を企む邪教集団「大門教」との戦いを描く。<br/>音楽プロデュースを[[坂本龍一]]が手掛ける。 |- | '''[[天外魔境II 卍MARU]]''' || {{Flagicon|JPN}} [[1992年]][[3月26日]] || rowspan="2"|PCエンジン<br />[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] || ジパングの西側、大和地方編。<br/>「30分に一度は大きなイベントが発生する」という触れ込みで宣伝がなされ、<br/>ハード普及台数とほぼ同数を売り上げる<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/corp/news/bn2003/030828.pdf|title=天外魔境II MANJIMARU ハドソンニュースリリース(GC/PS2)|date=20050827153348}}</ref>。<br/>悪神ヨミの復活を企む「根の一族」との戦いを描く。<br/>音楽を[[久石譲]]と[[福田裕彦]]が手掛ける。 |- | '''[[天外魔境 風雲カブキ伝]]''' || {{Flagicon|JPN}} [[1993年]][[7月10日]] || 『II 卍MARU』の登場キャラクター<br />「カブキ団十郎」を主人公としたスピンオフ番外編。<br/>[[京都]]および[[ロンドン]]が舞台。<br/>再びジパング侵攻を開始した「デーモン教(大門教)」との戦いを描く。<br/>音楽を[[田中公平]]が手掛ける。 |- | '''[[カブキ一刀涼談]]''' || {{Flagicon|JPN}} [[1995年]][[2月24日]] || PCエンジン<br />[[アーケードカード]]CD-ROM<sup>2</sup> || rowspan="2"|[[対戦型格闘ゲーム]] ||『風雲カブキ伝』のキャラクターが中心に登場する。 |- | '''[[天外魔境 真伝]]''' || {{Flagicon|JPN}} MVS:[[1995年]][[6月20日]]<br />{{Flagicon|JPN}} ネオジオ:1995年[[7月28日]]<br />{{Flagicon|JPN}} ネオジオCD:1995年[[12月8日]] || [[Multi Video System]]<br />[[ネオジオ]]<br />[[ネオジオCD]] || 『ZIRIA』と『II 卍MARU』のキャラクター達が登場する。 |- | '''[[天外魔境 電脳絡繰格闘伝]]''' || {{Flagicon|JPN}} 1995年7月28日 || [[PC-FX]] || 対戦格闘ゲーム || PC-FXの性能を活かした、フルアニメーションによるゲーム展開が特徴。 |- | '''[[天外魔境ZERO]]''' || {{Flagicon|JPN}} 1995年[[12月22日]] || [[スーパーファミコン]] || rowspan="8"|RPG || 太古のジパングを舞台とした作品。<br/>[[ロムカセット]]の中に[[リアルタイムクロック|カレンダー機能]]が内蔵され、<br/>プレイする日付に連動してイベントが発生する<br/>「パーソナル・ライブ・ゲームシステム(PLGS)」を採用。<br/>ニニギ率いる「地獄の軍団」との戦いが描く。<br/>音楽をハドソンのサウンドプロデューサーの[[笹川敏幸]]と<br/>『カブキ伝』を担当した田中が手掛ける。 |- | '''[[天外魔境 第四の黙示録]]''' || {{Flagicon|JPN}} [[1997年]][[1月14日]] || [[セガサターン]] || [[アメリカ合衆国|アメリカ]]編。<br/>これまでとは反対に「日本から観た誤った西洋観」をテーマとした、<br/>ホラーテイストの世界観となっている。<br/>「第四」というタイトルは、当時発売が予定されていた<br/>『III』を踏まえたシリーズ4作目と位置づけられているため。<br/>「暗黒教団」との戦いが描く。<br/>音楽は『ZERO』を担当した笹川が手掛けている。 |- | '''天外魔境II MANJI MARU''' || {{Flagicon|JPN}} GC:[[2003年]][[9月25日]]<br />{{Flagicon|JPN}} PS2:2003年[[10月2日]] || [[ニンテンドーゲームキューブ]]<br />[[PlayStation 2]] || PCE版『II 卍MARU』のリメイク移植。<br/>3D[[ポリゴン]]化やビジュアルシーンのムービー化がされ、<br/>PCE内蔵音源の曲はリニューアルされた。<br/>ゲームバランスの変更など賛否が分かれる点も。 |- | '''[[オリエンタルブルー 青の天外]]''' || {{Flagicon|JPN}} 2003年[[10月24日]] || [[ゲームボーイアドバンス]] || 「ジパング」とはまた違った東洋世界をブレンドした世界観を持つ。<br/>魔石の合成システムが特徴。<br/>当時はシリーズ第7作目(第3部1作目)という扱いが<br />与えられていたようである。<br/>元々は[[64DD]]のソフトとして企画されていた<ref>[http://www.nintendo.co.jp/nom/0310/t_inter/index.html N.O.M 2003年10月号Vol.63 開発者インタビュー]</ref>。<br/>開発元は従来通りハドソンだが、発売元は[[任天堂]]となっている。 |- | '''[[天外魔境III NAMIDA]]''' || {{Flagicon|JPN}} [[2005年]][[4月14日]] || [[PlayStation 2]] || ジパング九洲編。<br/>PCEやPC-FXでの『天外魔境III』の発売予定が開発中止となった後、<br/>10年近く後に再び企画が立ち上がって発売された。<br/>ただし1990年代中盤当初の企画でのストーリー・キャラクター設定は<br/>使われることなくお蔵入りとなり、タイトル名以外は新たに別の内容で作られた。<br/>割れた神鏡から現れた異形の者達「アミ」との戦いを描く。<br/>音楽を[[加藤和彦]]が手掛ける。 |- | '''天外魔境II MANJI MARU''' || {{Flagicon|JPN}} [[2006年]][[3月9日]] || [[ニンテンドーDS]] || PCE版『天外魔境II 卍MARU』のリメイク移植。<br/>DSの2画面への対応などリメイク要素は少なめで、<br/>PS2・GC移植版と比較して高いレベルでPCE版を忠実に再現している<br/>(内蔵音源だった曲はPS2・GC版でのアレンジバージョンになっている)。 |- | '''天外魔境 ZIRIA<br/>〜遥かなるジパング〜''' || {{Flagicon|JPN}} 2006年[[3月23日]] || [[Xbox 360]] || PCE版『天外魔境 ZIRIA』をベースに、<br/>原案要素などを交えて再構築された完全リメイク作品。 |- | '''天外魔境 第四の黙示録''' || {{Flagicon|JPN}} 2006年[[7月13日]] || rowspan="2"|[[PlayStation Portable]] || SS版『天外魔境 第四の黙示録』の移植作品。<br/>新規シナリオ追加。<br/>随時セーブ可能になったため、<br/>真実の書(セーブポイント)が削除されている。<br/>また、SS版のコラボレーション企画であった[[井村屋]]と<br/>秋山食品による販売及びアイテムも削除された。 |- | '''[[PC Engine Best Collection|PC Engine Best Collection<br/>天外魔境コレクション]]''' || {{Flagicon|JPN}} [[2008年]][[7月31日]] || [[オムニバス]] || PCE版の『ZIRIA』、『II 卍MARU』、<br/>『天風雲カブキ伝』、『カブキ一刀涼談』+イラスト集を収録。 |- |} === PC・モバイル向けタイトル === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! タイトル !! 発売日 !! 対応機種・サービス !! 備考 |- | '''モバイル天外魔境''' || {{Flagicon|JPN}} [[2004年]][[4月5日]] || [[iアプリ]] || 携帯電話端末を使用した[[MMORPG|多人数参加型ネットワークRPG]]。 |- | '''天外魔境 ZIRIA''' || {{Flagicon|JPN}} 2004年 - [[2006年]] || iアプリ<br />[[BREW|EZアプリ]]<br />[[S!アプリ]] || PCE版『天外魔境 ZIRIA』をベースとして、携帯電話用アプリとして開発されたリメイク移植作品。 |- | '''天外魔境 ZIRIA PremiumEdition''' || {{Flagicon|JPN}} [[2010年]]6月16日 || [[iモード]] || Xbox 360版『天外魔境 ZIRIA ~遥かなるジパング~』をベースとして、<br/>携帯電話用アプリとして開発されたリメイク移植作品。<br/>3Dから2Dに変更されており、村人用ボイスも追加され完全フルボイス化している。<br/>ストーリーは12章に分けて配信され、追加ダンジョンや機能拡張なども実施された。 |- | '''天外魔境 JIPANG7''' || {{Flagicon|JPN}} [[2011年]][[2月7日]]<br/>クローズドβテスト開始 || [[ブラウザゲーム]]<br/>[[Microsoft Windows XP|XP]]<br />[[Microsoft Windows Vista|Vista]]<br />[[Microsoft Windows 7|Win7]] || [[ソーシャルゲーム|戦乱ソーシャルオンライン活劇]]。<br/>『天外魔境II 卍MARU』の千年前が舞台。<br/>4月12日に正式サービスを開始したが、7月26日をもってサービスを終了<ref>[https://www.4gamer.net/games/120/G012010/20110706094/ 「ブラウザゲーム『天外魔境 JIPANG7』,7月26日をもってサービス終了」]</ref>した。<br/>開発・運営元は[[九鬼 (アダルトビデオ)#アルケミア|アルケミア]]。 |- | '''天外魔境 for GREE''' || {{Flagicon|JPN}} 2011年[[7月6日]]配信開始 || [[GREE]] || 仲間カードをベースにしたソーシャルゲーム。<br/>2012年1月6日をもってサービスを終了した。 |- |} == 関連商品 == === ゲーム === * 天外魔境 電々の伝(1994年、PCエンジン SUPER CD-ROM<sup>2</sup>) : 『[[ボンバーマン'94]]』の体験版のキャラクターをカブキ団十郎に差し替えたもの。 * [[鮫亀 (スーパーファミコン)|鮫亀キャラデータ集 天外魔境編]](1996年、スーパーファミコン) * [[サターンボンバーマン]](1996年、セガサターン) : バトルゲームに戦国卍丸、カブキ団十郎、絹、マントーが登場する(マントーは隠しキャラクター)。 * [[ドリームミックスTV ワールドファイターズ]](2003年、PlayStation 2/ゲームキューブ) : 戦国卍丸がプレイヤーキャラとして登場し、暗黒ランがバトルステージとして登場。 * [[ボンバーマンシリーズ#シリーズ|HI-TEN キャラBOM]](1994年、イベント用ソフト) : 戦国卍丸とカブキ団十郎がプレイヤーキャラクターとして登場。 * [[PCエンジン mini]](2020年) : 日本版の本体にPCE版『天外魔境II 卍MARU』が収録された。一部文言、敵グラフィック、点滅表現などの修正あり。 === 映像作品 === ==== アニメーション ==== * 天外魔境 自来也おぼろ変(1990年、OVA) ==== 実写ドラマ ==== * [[運命の逆転 (テレビドラマ)|運命の逆転]](1992年、TBS系) * 天外魔境 電々の伝 電脳電撃カブキ伝(1993年、VHS) ==== その他 ==== * 天外魔境III メイキングDVD(2003年) === 小説 === * 天外魔境 FAR EAST OF EDEN(1989年11月、角川書店) * 天外魔境(2)大門招来編 上の巻(1991年5月、角川書店) * 天外魔境(3)大門招来編 下の巻(1991年11月、角川書店) * 天外魔境 風雲カブキ伝リプレイ(1994年3月、角川書店) * 天外魔境ZERO 炎の勇者たち(1996年2月、角川書店) * 天外魔境 第四の黙示録(1997年8月、メディアワークス) * 天外魔境 I・II 架話 髑髏譚 -SKULL TALE-(2021年2月、KADOKAWA) *: Amazon、エビテンの限定販売。 === ゲームブック === * 天外魔境 魔城の聖戦(1989年10月、双葉社) * 天外魔境ZERO ゲームブック(1)FAR EAST OF EDEN(1996年4月、双葉社) === 攻略本 === * 天外魔境II 卍MARU 公式ガイドブック(1992年5月、角川書店) * 天外魔境 風雲カブキ伝 これぞ天下無敵の究極攻略本!!!(1993年8月、集英社) * ゲーメストムック 天外魔境 真伝(1995年9月、新声社) * 天外魔境ZERO マル秘公式ガイドブック(1996年1月、アスペクト) * 天外魔境 第四の黙示録 公式ガイドブック(1997年3月、アスペクト) * ORIENTAL BLUE 青の天外 -マルチシナリオRPGを存分に楽しむための1冊(2003年12月、小学館) * オリエンタルブルー 青の天外 コンプリートガイド(2003年11月、ソフトバンクパブリッシング) * 天外魔境II MANJI MARU 炎之奥義書(2003年10月、集英社) * 天外魔境II MANJI MARU 公式完全攻略絵巻(2003年12月、エンターブレイン) * 天外魔境III NAMIDA 公式ガイドブック(2005年4月、エンターブレイン) * 天外魔境III NAMIDA 公式完全攻略絵巻(2005年6月、エンターブレイン) === その他の書籍 === * 天外魔境 ビデオ&ゲーム大集成(1990年10月、角川書店) * PCエンジンCD-ROMカプセル特別版 天外魔境 風雲カブキ伝 出撃の書(1993年6月、小学館) * 天外魔境 第四の黙示録 公式設定資料集(1997年1月、アスペクト) * FAR EAST OF EDEN 研究序説(2003年、レッド・エンタテインメント) * 天外画廊:辻野芳輝画集(2017年、徳間書店) : 辻野による画集。天外魔境シリーズを含めた辻野が作成したゲーム・アニメ等の制作資料が収録されている。 === CD === * 天外魔境 自来也おぼろ変 映像的電子蓄音盤(1990年8月) * [[天外魔境II 卍MARU#サウンドトラック|天外魔境II 卍MARU]](1992年2月) * [[天外魔境 風雲カブキ伝 オリジナル・サウンドトラック]](1993年7月) * 天外魔境ヒストリー・パーフェクト・グラフィティ(1993年12月) * [[ドラマCD|CDドラマ]] 天外魔境(1)風雲カブキ伝 アメリケン異聞 凱旋公開!カブキ伝顛末記(1994年3月) * CDドラマ 天外魔境(2)風雲カブキ伝 アメリケン異聞 大陸横断鉄道騒動記(1994年7月) * 天外魔境 真伝(1995年11月) * [[ミュージカル天外魔境夢まつり]](1995年12月) : 1995年に行われたハドソン全国キャラバン「劇場空間天外ごっこ 誰がハドソン夢まつり'95」に使用された楽曲が収録されている。『天外魔境』だけでなく、『[[ボンバーマンシリーズ]]』、『桃太郎シリーズ』([[桃太郎伝説シリーズ|桃太郎伝説]]・[[桃太郎電鉄シリーズ|桃太郎電鉄]]など)、『[[鮫亀 (スーパーファミコン)|鮫亀]]』をモチーフとした歌曲も収録されている。 * [[天外魔境ZERO デジタルリミックス]](1996年1月) * [[天外魔境 第四の黙示録 ヴォーカル・セレクション]](1997年2月) * [[天外魔境 第四の黙示録 オリジナル・サウンド・トラック]](1997年2月) * 天外魔境II MANJI MARU オリジナル・サウンドトラック(2003年10月) : ゲームキューブ版・PlayStation 2版のサウンドトラック。 * 天外魔境III NAMIDA オリジナル・サウンドトラック(2005年04月) * ドラマCD 天外飯店(2005年04月) === パチスロ === * CR天外魔境 卍MARU ([[2009年]](平成21年)[[2月]]下旬より順次導入) ** テーマ曲「時代を駆ける」は、IIの主人公「戦国卍丸」役を担当した[[伊倉一恵]]が歌を、シリーズ原作者広井王子が作詞を、[[桃太郎電鉄シリーズ]]の音楽を手掛ける[[池毅]]が作曲を担当している。 * パチスロ天外魔境 ([[2009年]](平成21年)夏より順次導入) === ラジオ === *天外魔境〜無国籍食堂(であいのちゃや) **1996年10月4日から1997年3月28日まで[[文化放送]]で放送された。「天外魔境 第四の黙示録」のタイアップ番組で、パーソナリティは[[山口勝平]]と[[櫻井智|桜井智]]。それぞれ当該ゲームにおいて、ヒロインの夢見役(桜井)とパーティメンバーのエース役(山口)を担当している。詳細は[[天外魔境 第四の黙示録#ラジオ]]を参照。 *tengai.jp 今夜もはてぃはてぃ **2003年6月6日に始まった「天外魔境」プロジェクトの第1弾として、「天外魔境II」のリメイク版「天外魔境II MANJI MARU」を[[ニンテンドーゲームキューブ]]と[[PlayStation 2]]で発売するにあたって公式サイト「tengai.jp」を設立すると同時に放送を開始。「天外魔境」プロジェクトの情報を提供していた。 *天外ラヂヲ~黄金国伝説 **2003年10月5日から2004年6月27日まで文化放送で放送された。([[BSQR489]]では4日遅れの10月9日より毎週木曜日20時から20時30分に放送)毎週日曜日23時30分から24時までの30分番組でパーソナリティは[[中原麻衣]]、[[柊瑠美]]。「天外魔境II・III」の世界観をベースにしたラジオ番組だった。パーソナリティの2人はそれぞれ「天外魔境III NAMIDA」において、白縫姫役(中原)とミヤ役(柊)を担当している。 ちなみに放送開始一週間前の9月28日には[[東京ゲームショウ]]のハドソン・ブースで新番組スタート記念・公開録音をし、同日23時30分~24時に「天外魔境発売記念スペシャル・天外ラヂヲ~黄金国伝説」という名前でスペシャル版も放送していた。 {{前後番組| |放送局=[[文化放送]] |放送枠=金曜[[文化放送平日ナイターオフ夜9時枠|21時枠]] |番組名=天外魔境〜無国籍食堂(であいのちゃや) |前番組= |次番組=ZMAP=ZMAP |2放送局=文化放送 |2放送枠=日曜23:30-24:00枠 |2番組名=tengai.jp/今夜もはてぃはてぃ |2前番組=[[北へ。|tryme.jp/今夜もはてぃはてぃ]] |2次番組=天外ラヂヲ〜黄金国(ジパング)伝説〜 |3放送局=[[BSQR489]] |3放送枠=木曜20:00-20:30枠 |3番組名=tengai.jp/今夜もはてぃはてぃ<br/>(2003年7月-2003年10月4日) |3前番組=tryme.jp/今夜もはてぃはてぃ<br/>(2003年4月17日-2003年7月) |3次番組=天外ラヂヲ〜黄金国(ジパング)伝説〜<br/>(2003年10月9日-2004年7月1日) |4放送局=文化放送 |4放送枠=日曜23:30-24:00枠 |4番組名=天外ラヂヲ〜黄金国(ジパング)伝説〜 |4前番組=tengai.jp/今夜もはてぃはてぃ |4次番組=[[マグナカルタ (ゲーム)|マグナカルタ Radio]] |5放送局=BSQR489 |5放送枠=木曜20:00-20:30枠 |5番組名=天外ラヂヲ〜黄金国(ジパング)伝説〜<br/>(2003年10月9日-2004年7月1日) |5前番組=tengai.jp/今夜もはてぃはてぃ<br/>(2003年7月-2003年10月4日) |5次番組=マグナカルタ Radio<br/>(2004年7月-2004年12月)}} {{video-game-stub}} == 脚注 == <references/> == 外部リンク == *{{Wayback |url=http://tengai.jp:80/jp/top/index.html|title=- 天外魔境 公式サイト -|date=20091006175751 }} *{{Wayback |url=http://tengai.jp:80/jp/seriese/index.html|title=- 天外魔境 公式サイト - 全作品一覧|date=20090927152343 }} *{{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp/gamenavi/psp/pce-best/pce_tengai.html|title=天外魔境コレクション / PC Engine Best Collection|date=20081115020140 }} * [http://red-entertainment.co.jp/gallery/cat02/392.html 天外魔境 | 株式会社レッド・エンタテインメント] * [http://www.sanyobussan.co.jp/products/pk_tengai/ CR天外魔境 卍MARU 公式サイト] * [http://www.sanyobussan.co.jp/products/slot_tengai/index.html パチスロ 天外魔境 卍MARU 公式サイト] {{天外魔境}} {{DEFAULTSORT:てんかいまきよう}} [[Category:天外魔境|*]]
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日本電気ホームエレクトロニクス
日本電気ホームエレクトロニクス株式会社(にっぽんでんきホームエレクトロニクス)は、かつて存在した日本電気(NEC)の兄弟会社である。家電製品の製造販売を手がけていた。略称はNEC-HE。 旧称は新日本電気株式会社。1992年以降は NECホームエレクトロニクスを公称としていた。 1953年6月、NECのラジオ事業部を独立させ、新日本電気株式会社として発足。本社は当初大阪市であったが、後に東京に本社機能を移して大阪は支社扱いとなる。扱い品目は真空管、ブラウン管、照明器具、テープレコーダーなど。その後ラジオ受信機や白物家電の製造販売へ事業を拡充、1963年よりテレビ受像機の製造部門をNECから移管して総合電機メーカーとしての商品ラインを整備した。1970年代からは市民ラジオ・アマチュア無線機器も生産販売。 1980年代、家庭用VTR市場にベータフォーマット方式で参入、規格主幹であるソニーとは違った観点で製品開発を行い、高い技術力を発揮した(ベータフォーマット方式の劣勢から、のちにVHS方式に転換)。 1981年、日本の家庭用パソコンの先駆けでパピコンの愛称で親しまれたPC-6001を開発し販売。 1983年、商号を日本電気ホームエレクトロニクス株式会社に変更。同年オーディオ分野に進出。CDプレーヤ(CD-803)やプリメインアンプ A-10などを販売。 1989年にNECスーパータワーが完成してNEC本社が移転すると、本社を住友三田ビルから、それまでNEC本社が入っていた森永プラザビル(森永製菓本社)に移した。 1989年当時、PI(パーソナルインテリジェンス)事業部にてPC-8800シリーズの開発と製造、PC-9800シリーズの委託製造(開発はNEC本体)を行っていた。 1987年にはPCエンジンを開発・発売し家庭用ゲーム機の分野にも進出する。このPCエンジンは当時の市場を席巻していた任天堂のファミリーコンピュータを性能で凌ぎ、大ヒットとはならなかったが日本国内で累計750万台を販売した。 さらには周辺機器としてソフトウェア媒体にCD-ROMを使用したCD-ROMも発表、後のゲーム機市場に大きな影響を与えた。PCエンジンの成功により、日本電気ホームエレクトロニクスは任天堂やセガと並ぶ大手ゲーム機メーカーの一つとなる。また、出荷数はわずかだが、パイオニアのOEMでレーザーアクティブを販売していたためメガドライブ互換機を販売していた。 PCエンジンシリーズの後継機として1994年末に投入された、PC-FXが市場の動向を読み誤るなどの戦略ミスが原因で売り上げ不振に陥る。以降の業績悪化も招き、1999年9月28日に発表されたNECグループの大規模リストラによって事業分割・移管のうえ会社解散が決定。2000年3月31日をもって事業活動を終了し、2002年2月に清算完了。 ・センサードライ ※家庭用の多くは三洋電機OEMだったが、大容量モデルの一部は東芝OEMもあった。 業務用エアコンは、「白樺」「ソフィール」ブランドで展開。三洋電機OEM。 ・三洋電機が新日本電気製の古い年式の扇風機の相談を受け付けている。
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日本電気ホームエレクトロニクス株式会社(にっぽんでんきホームエレクトロニクス)は、かつて存在した日本電気(NEC)の兄弟会社である。家電製品の製造販売を手がけていた。略称はNEC-HE。 旧称は新日本電気株式会社。1992年以降は NECホームエレクトロニクスを公称としていた。
{{複数の問題 | 出典の明記 =2021年7月29日 | 単一の出典 = 2021年7月29日 | 特筆性 = 2021年7月29日 | 宣伝 = 2021年7月29日 }} '''日本電気ホームエレクトロニクス株式会社'''(にっぽんでんきホームエレクトロニクス)は、かつて存在した[[日本電気]](NEC)の兄弟会社である。[[家庭用電気機械器具|家電製品]]の製造販売を手がけていた。略称は'''NEC-HE'''。 旧称は'''新日本電気株式会社'''。[[1992年]]以降は '''NECホームエレクトロニクス'''を公称としていた。 == 概要 == ===創設期=== [[1953年]][[6月]]、NECのラジオ事業部を独立させ、'''新日本電気株式会社'''として発足。本社は当初[[大阪市]]であったが、後に東京に本社機能を移して大阪は支社扱いとなる。扱い品目は[[真空管]]、[[ブラウン管]]、照明器具、[[テープレコーダー]]など。その後[[受信機|ラジオ受信機]]や[[白物家電]]の製造販売へ事業を拡充、[[1963年]]より[[テレビ受像機]]の製造部門をNECから移管して総合電機メーカーとしての商品ラインを整備した。[[1970年代]]からは[[市民ラジオ]]・[[アマチュア無線]]機器も生産販売。<br> ===PC-6001発売=== [[1980年代]]、[[ビデオテープレコーダ|家庭用VTR]]市場に[[ベータマックス|ベータフォーマット]]方式で参入、規格主幹であるソニーとは違った観点で製品開発を行い、高い技術力を発揮した(ベータフォーマット方式の劣勢から、のちに[[VHS]]方式に転換)。 [[1981年]]、日本の家庭用パソコンの先駆けで'''パピコン'''の愛称で親しまれた[[PC-6001]]を開発し販売。 [[1983年]]、商号を'''日本電気ホームエレクトロニクス株式会社'''に変更。同年オーディオ分野に進出。CDプレーヤ(CD-803)やプリメインアンプ A-10などを販売。 [[1989年]]に[[NECスーパータワー]]が完成してNEC本社が移転すると、本社を住友三田ビルから、それまでNEC本社が入っていた森永プラザビル([[森永製菓]]本社)に移した。 [[1989年]]当時、PI(パーソナルインテリジェンス)事業部にて[[PC-8800シリーズ]]の開発と製造、[[PC-9800シリーズ]]の委託製造(開発はNEC本体)を行っていた。 ===PCエンジン発売=== [[1987年]]には[[PCエンジン]]を開発・発売し[[コンシューマーゲーム|家庭用]][[ゲーム機]]の分野にも進出する。このPCエンジンは当時の市場を席巻していた[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]を性能で凌ぎ、大ヒットとはならなかったが日本国内で累計750万台を販売した。 さらには周辺機器としてソフトウェア媒体にCD-ROMを使用した[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]も発表、後のゲーム機市場に大きな影響を与えた。PCエンジンの成功により、日本電気ホームエレクトロニクスは任天堂や[[セガ]]と並ぶ大手ゲーム機メーカーの一つとなる。また、出荷数はわずかだが、[[パイオニア]]のOEMでレーザーアクティブを販売していたためメガドライブ互換機を販売していた。 === 解散まで === PCエンジンシリーズの後継機として[[1994年]]末に投入された、[[PC-FX]]が市場の動向を読み誤るなどの戦略ミスが原因で売り上げ不振に陥る。以降の業績悪化も招き、[[1999年]][[9月28日]]に発表された[[NECグループ]]の大規模リストラによって事業分割・移管のうえ会社解散が決定。[[2000年]][[3月31日]]をもって事業活動を終了し、[[2002年]]2月に清算完了。 == 業務承継会社 == * NECライティング株式会社([[照明器具]]・管球事業) - 2019年4月に事業譲渡により[[ホタルクス]]となり、NECグループを離れる。 * [[NECディスプレイソリューションズ|NECディスプレイソリューションズ株式会社]](コンピュータ[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]、[[プロジェクタ]]) ** 同社は当初[[三菱電機]]との合弁で「NEC三菱電機ビジュアルシステムズ株式会社」という社名だったが、[[2005年]][[3月31日]]を以て合弁解消、NECの完全子会社となって社名も変更。 ** 2020年11月1日、66%の株式がシャープに譲渡され、社名を「[[シャープNECディスプレイソリューションズ|シャープNECディスプレイソリューションズ株式会社]]」に変更。 * [[BIGLOBE|ビッグローブ株式会社]] - PCエンジン(PC Engine)の[[商標|登録商標]]や[[リンダキューブ]]の著作権の一部など、ゲーム作品の権利を継承。なお、同社は2014年4月よりNECグループを離脱し、2016年から[[KDDI]]の傘下となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1906/12/news131.html|title=「PCエンジン」の商標を、BIGLOBEが持ってるワケ|accessdate=2019年6月13日|publisher=ITmedia(2019年6月12日作成)}}</ref>。 == 主な製品一覧 == === カラーテレビ、オーディオ=== * [[トランジスタ]]テレビ 「オートカラー『太陽』」シリーズ(1960年代後半) * タッチセンサー選局方式テレビ「パピプペポン」シリーズ(1976年頃) : 「太陽」「パピプペポン」の[[コマーシャルメッセージ|CM]]には、[[俳優]]の[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]が出演した。前者は「'''太陽の男・高橋英樹'''」のキャッチフレーズにて宣伝活動を行った。 * 音声多重テレビ「語学友パペット9」シリーズ(1979年頃) : この「語学友パペット9」のCMには、[[ゴダイゴ]]が出演した。 * 2画面テレビ「ポップビジョン」シリーズ(1980年代初頭) * リモコン付テレビ「カードチャンネル」シリーズ(1980年代初頭) * マルチメディア([[RGB21ピン|RGB端子]]付)テレビ「ターミナル」シリーズ(1984年頃) * ステレオ「田園」シリーズ(時期不詳) * [[日経ラジオ社|ラジオたんぱ]]専用[[トランジスタラジオ]]「ワンタッチたんぱ」(時期不詳) * コンポーネントステレオ「DianGo」(1980年代) : サラウンドデコーダのみ、「パラボーラ」に継承された。 * ビデオデッキ「ビスタック」シリーズ(1980年代初頭~1990年代前半) : 80年代には、ベータ&VHS/[[S-VHS]]のCMには、主に[[斉藤由貴]]が出演した。NECのイメージキャラクターでもあった。 :デジタルノイズワイパーという前後の画像をデジタル的に差分をとり、その差分をノイズとしてフィルタリングする機能があった。 :この「ノイズワイパー」は、他社にはない技術でかなりの評価があった。 * [[ベータマックス|ベータ]]Hi-Fiビデオデッキ「ベータハイファイ」シリーズ(1980年代) * VHSコンピュータビデオデッキ「コンボイ」シリーズ : パソコン(NEC PC-9800シリーズ)よりコントロールできる。 * 業務/教育向け[[U規格|Uマチック]]VTR(1970年代) * [[文字多重放送]]対応テレビ「moji<sup>2</sup>(モジモジ)」 : カラーテレビの[[コマーシャルメッセージ|CM]]には、「太陽」シリーズから「moji<sup>2</sup>」シリーズまでの長きに渡り、高橋英樹が出演した。 * [[衛星放送]]受信システム「パラボーラ」(1980年代後半~1990年代) : 商品ブランドは「[[パラボラアンテナ]]」をもじったもの。 * [[ゴースト障害|ゴースト]]除去チューナ「ゴーストクリア」(1990年代) * [[インターネット]]対応テレビ「インタ楽TV(インタラクティブ)」(1996年頃) : ブラウザにはNavio([[ネットスケープ]]の[[子会社]]が開発)が採用されている。 * 液晶ディスプレイテレビ「nextv(ネクスティブ)」(1990年代中頃) * プラズマテレビ「PLASMA X」(1990年代中頃) * [[MVDISC]]ビデオレコーダー「[[Giga Station]]」(末期の製品) : 記録型DVDの登場により衰退。 : なお、後に発売されたPK型番のホームAVサーバは、[[NECパーソナルプロダクツ]]の製品。 === トランシーバー === * CQ-Pシリーズ([[アマチュア無線]]用) * NTRシリーズ([[市民バンド]]用) === 冷凍冷蔵庫(三洋電機OEM)=== * 大型冷蔵庫「ファミリア」シリーズ(1960年代~1990年代) * 小型冷蔵庫「テイスティミニ」シリーズ(1980年代後半?~1990年代) === 洗濯機(三洋電機OEM) === * 二槽式・全自動式洗濯機「ネオクイーン」シリーズ(1990年代) === 衣類乾燥機(三洋電機OEM) === ・センサードライ === エアコン === * 壁掛け・窓用タテ型「白樺」シリーズ(1980年代) * 壁掛け・窓用タテ型「ソフィール」シリーズ(1990年代) ※家庭用の多くは三洋電機OEMだったが、大容量モデルの一部は東芝OEMもあった。 業務用エアコンは、「白樺」「ソフィール」ブランドで展開。三洋電機OEM。 === 扇風機(三洋電機OEM) === ・[[三洋電機]]が新日本電気製の古い年式の扇風機の相談を受け付けている。 === 真気発生器 === * 森・近・感(1990年代) === 電子レンジ(三洋電機OEM) === * ジモティー * MC-E2 === オーブントースター(三洋電機OEM) === === 炊飯器 === * NKJ-054T-H === 掃除機 === === 電気式アイロン === === 電熱調理器 === === 石油ファンヒーター === === 電子カーペット === === 赤外線ホームコタツ === === 布団乾燥機(三洋電機OEM) === * Sunace7 * ダニボンバー * SA・RA・SA === 電気毛布 === * ハイユニケット(1970年代(昭和40年代)に発売。CMキャラクターは[[林家こん平]]) === カルシウムイオン水生成装置 === === 家庭用ゲーム機 === ==== 据え置き型 ==== * [[PCエンジン]] ** [[PCエンジンシャトル]] ** [[PCエンジンコアグラフィックス]] ** PCエンジンコアグラフィックスII ** [[PCエンジンLT]] * [[PCエンジンスーパーグラフィックス]] * [[PCエンジンDuo]] ** PCエンジンDuo-R ** PCエンジンDuo-RX * [[PC-FX]] * [[レーザーアクティブ]] ==== 携帯型 ==== * [[PCエンジンGT]] ==== 周辺機器 ==== * [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] * [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] * [[PC-KD863G]] PCエンジン内蔵型CRTモニター === 情報機器 === ==== ディスプレイ・プロジェクタ ==== ==== パーソナルコンピュータ ==== * [[PC-6000シリーズ]] * [[PC-6600シリーズ]] * [[PC-8000シリーズ]] * [[PC-8800シリーズ]] ==== その他のパソコン周辺機器 ==== * PC-FXボード(CanBe専用) * PC-FXGA * PC 3D Engine * PC 3D Engine 2 ==== [[ワープロ]]専用機 ==== * [[文豪]]シリーズ === 照明器具 === * ソフトインバーター(蛍光灯器具・1980年代後半) * かんたっち(蛍光灯器具・1990年代前半) * サンホワイト5(普及型(一般照明用)昼白色蛍光ランプ) * ライフルック(3波長型蛍光ランプ) * [[ホタルック]] === カーエレクトロニクス === * [[カーナビゲーション]]「GoGoNavi」(1990年代) ===バス用機器=== * [[運賃箱]] * [[運賃表示器]] * 車内放送装置 * [[乗車券]]・[[定期乗車券|定期券]]発行装置 : [[バス (交通機関)|バス]]用機器については田村電機(現:[[サクサ]])に事業譲渡された。 ===コンシューマー機用ゲームソフト=== ====1991年==== * 「[[ゲンジ通信あげだま]]」(PCエンジン) ====1993年==== * 「[[ストリートファイターII|ストリートファイターIIダッシュ]]」(PCエンジン) * 「[[眠れぬ夜の小さなお話]]」(PCエンジン) * 「[[マジクール]]」(PCエンジン) * 「[[ムーンライトレディ]]」(PCエンジン) * 「[[メタモジュピター]]」(PCエンジン) ====1994年==== * 「[[エメラルドドラゴン]]」(PCエンジン) * 「[[ゲッツェンディーナー]]」(PCエンジン) * 「[[サーク III]]」(PCエンジン) * 「[[3×3EYES 三只眼變成]]」(PCエンジン) * 「[[Jリーグ トリメンダスサッカー'94]]」(PCエンジン) * 「[[藤子・F・不二雄の21エモン めざせ!! ホテル王]]」(PCエンジン) * 「[[ブランディッシュ]]」(PCエンジン) * 「[[ぽっぷるメイル]]」(PCエンジン) * 「[[マッドストーカー|マッドストーカー フルメタルフォース]]」(PCエンジン) * 「[[女神天国]]」(PCエンジン) ====1995年==== * 「[[アニメフリークFX]] Vol.1」(PC-FX) * 「アニメフリークFX Vol.2」(PC-FX) * 「[[機装ルーガ|機装ルーガII]]」(PCエンジン) * 「[[雀神伝説]]」(PCエンジン) * 「[[となりのプリンセス ロルフィー]]」(PC-FX) * 「[[ソリッド・フォース]]」(PCエンジン) * 「[[全日本女子プロレス Queen of Queens]]」(PC-FX) * 「[[プライベート・アイ・ドル]]」(PCエンジン) * 「[[プリンセスメーカー|プリンセスメーカー1]]」(PCエンジン) * 「[[プリンセスメーカー2]]」(PCエンジン) * 「[[リンダキューブ]]」(PCエンジン) * 「[[レッスルエンジェルス#レッスルエンジェルス DOUBLE IMPACT|レッスルエンジェルス ダブルインパクト 団体経営編&新人デビュー編]]」(PCエンジン) ====1996年==== * 「[[赤ずきんチャチャ#ゲーム|赤ずきんチャチャ -お騒がせ! パニックレース!-]]」(PC-FX) * 「アニメフリークFX Vol.3」(PC-FX) * 「[[Go!Go!バーディチャンス]]」(PCエンジン) * 「[[バザールでござーる]]のゲームでござーる」(PCエンジン) * 「[[はたらく☆少女 てきぱきワーキン・ラブ]]」(PCエンジン) * 「[[女神天国II]]」(PC-FX) ====1997年==== * 「アニメフリークFX Vol.4」(PC-FX) * 「アニメフリークFX Vol.5」(PC-FX) * 「[[アルバレアの乙女]]」(PC-FX) * 「[[こみっくろーど]]」(PC-FX) * 「[[スパークリングフェザー]]」(PC-FX) ====1998年==== * 「アニメフリークFX Vol.6」(PC-FX) * 「[[セブンスクロス]]」(ドリームキャスト) * 「[[はたらく☆少女 てきぱきワーキン・ラブ|はたらく☆少女 てきぱきワーキン♥ラブFX]]」(PC-FX) * 「[[ルルリ・ラ・ルラ]]」(PC-FX) ====1999年==== * 「[[エスピオネージェンツ]]」(ドリームキャスト) * 「[[デッド・オブ・ザ・ブレイン|デッド・オブ・ザ・ブレインI&II]]」(PCエンジン) * 「[[戦国TURB]]」(ドリームキャスト) * 「[[戦国TURB Fanfan I love me Dunce-doublentendre -]]」(ドリームキャスト) ====発売中止==== * 「[[フラッシュエンゼルス]]」(PCエンジン) * 「[[ミサイルファイター]]」(PCエンジン) * 「[[バーチャルインベーダー]]」(PC-FX) == 脚注・出典 == <references /> ==関連項目== * [[NECグループ]] * [[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]] * [[植木等]] * [[欽ちゃんのどこまでやるの!?]](初期はNEC HE単体で、以降はNECグループの一員としてスポンサー参加) * [[ゲンジ通信あげだま]](NEC HE単体でスポンサー参加) * [[野生の王国]](NECグループの一員としてスポンサー参加) * [[それは秘密です!!]](同上) * [[ゴールデン洋画劇場]](同上) * [[FBSニュースリポート]](同上) * [[阿部文明]](同社所属のマラソン選手) * [[浅井えり子]](1982 - 1996年、同社陸上部所属選手。1988年[[1988年ソウルオリンピック|ソウル五輪]]女子マラソン日本代表) * [[佐々木功 (陸上選手)|佐々木功]](1980 - 1995年まで同社陸上部所属監督。1995年3月、52歳で死去) * [[大竹まことのただいま!PCランド]] * [[NECホームエレクトロニクス・ホワイトブリッツ]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.nehe.nec.co.jp/ |title=NECホームエレクトロニクス |date=20000229164014}} {{家庭用ゲーム機メーカー}} {{NEC Group}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にほんてんきほおむえれくとろにくす}} [[Category:NECグループの歴史|ほおむえれくとろにくす]] [[Category:かつて存在した日本の電気機器メーカー]] [[Category:かつての音響機器メーカー]] [[Category:かつての映像機器メーカー]] [[Category:日本の輸送機器メーカー|廃]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]] [[Category:2002年廃止の企業]]
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バカゲー
バカゲーとは、コンピュータゲームを分類する俗称のひとつ。「馬鹿馬鹿しいゲーム」の略で、主に奇抜なストーリーやデザイン、常軌を逸したセンスなどを持つゲームを指す。「くだらないゲーム」の呼称の一つとして「クソゲー」と似た扱いをされることもあるが「クソゲー」が単純に面白くないゲームや完成度の低いゲームの蔑称として使われることが多いことに対し「バカゲー」は比較的ポジティブな用語として扱われることが多い。 初出は1992年、コンシューマーゲーム専門誌『BEEP!メガドライブ』の単発企画(後に「バヵ王」のコーナータイトルで連載)にて提唱されたもの。この時の定義は、ただ単に「バカなゲーム」である。コーナーでは大別して、妙な演出や奇抜な表現などで意図的にバカっぽくなる(笑いをとる)ように作られた「真正バカゲー」と、狙っていないのに笑えてしまう「仮性バカゲー」の2つに分類していた。 後に上記とは無関係に、中古ゲーム専門誌『ユーズド・ゲームズ』(のちの『GAME SIDE』)の連載記事「美食倶楽部バカゲー専科」で提唱された語も存在する。いわゆるクソゲーに対する再評価を試みるべく、同誌の編集者だった引地幸一により命名されたものである。メーカーの技術的未熟さや演出面での過剰、画期的過ぎたゲームシステム等から伴う、操作性およびゲームテンポの悪さや理不尽な事などでバカゲーといわれるようになったゲーム=クソゲーのマイナス要因を、批判するのではなく別の視点から捉えて楽しもうという意図があるとされる。 『ユーズド・ゲームズ』の定義では「クソゲーでなければバカゲーにはなり得ない」事になるが、件の連載記事は、回を重ねるにつれ、いわゆる佳作・良作ゲームであっても、普通にプレイしている分にはわからない「バカな(笑うしかない)部分」を持つ作品も取り上げるようになった。そもそもの趣旨は異なっても、結果的には『BEEP!メガドライブ』の定義と、指し示す物は変わらなくなっている。 派生系として「バカメーカー」「バカゲーメーカー」などの用語もある。これは単にバカゲーを出したメーカーの事ではなく、「出すゲームがバカゲーばかりでまともな作品の方が少ないメーカー」の事である。もっともこの言葉も恣意的な面が多分にあり、作品以外の面でのメーカーの印象が反映される部分が大きい。データイーストのように奇作を多数発売した伝説的なメーカーもあるが、『デスクリムゾン』一作で名を馳せたエコールソフトウェアや「セガゲー」という言葉に象徴されるセガなどもバカメーカーに含まれる場合があり、一般的な傾向を取り出すのは難しい。 公式メディアが「バカゲー」と明言している、その他のメディア媒体で「バカゲー」として取り上げられたことがあるなどの特筆性のある作品のみを列挙する。
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バカゲーとは、コンピュータゲームを分類する俗称のひとつ。「馬鹿馬鹿しいゲーム」の略で、主に奇抜なストーリーやデザイン、常軌を逸したセンスなどを持つゲームを指す。「くだらないゲーム」の呼称の一つとして「クソゲー」と似た扱いをされることもあるが「クソゲー」が単純に面白くないゲームや完成度の低いゲームの蔑称として使われることが多いことに対し「バカゲー」は比較的ポジティブな用語として扱われることが多い。
'''バカゲー'''とは、[[コンピュータゲーム]]を分類する俗称のひとつ。「馬鹿馬鹿しいゲーム」の略で、主に奇抜なストーリーやデザイン、常軌を逸したセンスなどを持つゲームを指す<ref name= e-xtreme>{{Cite web|和書|url= https://www.e-xtreme.co.jp/ip/choaniki/|title= IP実績・メサイヤが誇る「バカゲー」の代名詞|publisher= 株式会社エクストリーム|accessdate= 2023-08-29}}</ref><ref name= gamespark>{{Cite web|和書|url= https://www.gamespark.jp/article/2019/06/03/90174.html|title= PSの「おバカ」枠代表な『せがれいじり』が20周年─“ナンセンス”だけど“ハイセンス”!? セケンに飛び出す「せがれ」は成長するのか|publisher= gamespark|accessdate= 2023-08-29}}</ref>。「くだらないゲーム」の呼称の一つとして「[[クソゲー]]」と似た扱いをされることもあるが「クソゲー」が単純に面白くないゲームや完成度の低いゲームの蔑称として使われることが多いことに対し「バカゲー」は比較的ポジティブな用語として扱われることが多い<ref name= gamespark/>。 == 由来 == {{独自研究|section=1|date=2008年4月}} 初出は[[1992年]]、コンシューマーゲーム専門誌『[[BEEP!メガドライブ]]』の単発企画(後に「バヵ王」のコーナータイトルで連載)にて提唱されたもの。この時の定義は、ただ単に「バカなゲーム」である。コーナーでは大別して、妙な演出や奇抜な表現などで意図的にバカっぽくなる(笑いをとる)ように作られた「真正バカゲー」と、狙っていないのに笑えてしまう「仮性バカゲー」の2つに分類していた。 後に上記とは無関係に、中古ゲーム専門誌『ユーズド・ゲームズ』(のちの『[[GAME SIDE]]』)の連載記事「[[美食倶楽部バカゲー専科]]」で提唱された語も存在する。いわゆる[[クソゲー]]に対する再評価を試みるべく、同誌の編集者だった引地幸一により命名されたものである。メーカーの技術的未熟さや演出面での過剰、画期的過ぎたゲームシステム等から伴う、操作性およびゲームテンポの悪さや理不尽な事などでバカゲーといわれるようになったゲーム=クソゲーのマイナス要因を、批判するのではなく別の視点から捉えて楽しもうという意図があるとされる。 『ユーズド・ゲームズ』の定義では「クソゲーでなければバカゲーにはなり得ない」事になるが、件の連載記事は、回を重ねるにつれ、いわゆる佳作・良作ゲームであっても、普通にプレイしている分にはわからない「バカな(笑うしかない)部分」を持つ作品も取り上げるようになった。そもそもの趣旨は異なっても、結果的には『BEEP!メガドライブ』の定義と、指し示す物は変わらなくなっている。 派生系として「バカメーカー」「バカゲーメーカー」などの用語もある。これは単にバカゲーを出したメーカーの事ではなく、「出すゲームがバカゲーばかりでまともな作品の方が少ないメーカー」の事である。もっともこの言葉も恣意的な面が多分にあり、作品以外の面でのメーカーの印象が反映される部分が大きい。[[データイースト]]のように奇作を多数発売した伝説的なメーカーもあるが、『[[デスクリムゾン]]』一作で名を馳せた[[エコールソフトウェア]]や「セガゲー」という言葉に象徴される[[セガ]]などもバカメーカーに含まれる場合があり、一般的な傾向を取り出すのは難しい。 <!--[[1998年]]に刊行された、『[[ゲーム批評]]』の誌面において、バカゲーに関する特集が掲載され、[[スーパーファミコン]]用RPG『[[ラブクエスト]]』の[[ゲームクリエイター]]、[[イワタカヅト]]を「バカゲー師」と報道した経緯がある。--> == 著名なバカゲー作品 == 公式メディアが「バカゲー」と明言している、その他のメディア媒体で「バカゲー」として取り上げられたことがあるなどの特筆性のある作品のみを列挙する。 ; [[超兄貴]]<ref name= e-xtreme/> : 開発ゲーム会社自ら「バカゲーの代名詞」として挙げているバカゲー<ref name= e-xtreme/>。「筋肉美」がテーマのシューティングゲームで、奇抜なデザインと世界観からカルト的な人気を誇る<ref name= e-xtreme/>。後にシリーズ化し続編や対戦型格闘ゲームなどの関連作品が発売されたほか、ドラマCDやコミカライズ、音楽イベントの開催などのメディアミックスも行われた<ref name= e-xtreme/>。 ; [[せがれいじり]]<ref name= gamespark/> : 「おバカに徹する」がコンセプトのアクションアドベンチャーゲーム。「主人公・せがれをいじって大きくする(成長させる)」ことがゲームの目的であり、シュールかつナンセンスな世界観が特徴<ref name= gamespark/>。『[[ウゴウゴルーガ]]』で知られる[[秋元きつね]]が開発に参加しており、意欲的な3D表現やCG映像を中心に評価が高い<ref name= gamespark/>。斬新な広告やゲーム性が話題になり17万本の売上を記録し、後に続編『[[続せがれいじり 変珍たませがれ]]』が発売された。なお、当時の公式サイトのコメントなどでは「バカソフト」と表記されていた。 <!--また『[[建設重機喧嘩バトル ぶちギレ金剛!!]]』、『[[シャドウゲイト]]』、『[[マインドシーカー]]』、『[[美食戦隊薔薇野郎]]』などが例として挙げられることが多い。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[クソゲー]] == 外部リンク == *[https://gemanizm.com/ ゲマニズム] 主に1980〜2000年代のバカゲーを題材にしたゲームサイト {{コンピュータゲームのジャンル}} {{DEFAULTSORT:はかけ}} [[Category:コンピュータゲームのジャンル]] [[Category:コンピュータゲーム用語]]
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ブローダーバンド
ブローダーバンド (Brøderbund) は、1980年2月に設立されたコンピューターゲームおよび教育ソフト、実用ソフトのメーカーである。「Broderbund」との表記もある。 設立者であるダグ・カールストンはもともとは弁護士であり、ブローダーバンド設立前は趣味としてTRS-80でプログラムを組み、大手のソフトハウスに投稿していた。 1980年、ソフト開発に専念すべく弁護士を廃業し、弟のゲーリー、妹のキャシーと共同でブローダーバンドを設立。社名の「Broderbund」というのは、英語でいう「Brotherhood」(兄弟の縁・愛情)を意味するスウェーデン語で、3人兄妹で創業したことから命名したものである。同社製ゲームソフトのタイトル画面でもよく表示され1998年まで使用された「トリプル・クラウン(3つの王冠)」のコーポレートマークもここに由来する。会社設立後、Apple II用ソフトウェアの開発・販売を開始。当初は社長であるダグ自らプログラムを組み、セールスして回っていた。 基本的に同社のゲームソフトは、優秀な投稿作品を送ってきたユーザーと個人契約を交わし、共同で作品をブラッシュアップして製品化する形態が多く、そういった作品はタイトル画面に制作者の名前が明記されていた。 日本国内においても、1980年代前半にロードランナー、チョップリフター、バンゲリングベイ、スペランカー、カラテカをはじめとする同社の作品が次々に日本国産のPCや家庭用ゲーム機へ移植され、知名度を上げていく。1986年には、日本法人ブローダーバンドジャパンを設立するに至った。 1998年に、同じく教育ソフトメーカーのThe Learning Company(英語版)に売却されたが、2014年現在も実用ソフトのブランドとしてブローダーバンドの名前は存続している。 日本国産機への移植・販売についてはブローダーバンドは直接関わらず、日本国内の各ソフトハウス、もしくはブローダーバンドジャパンが行っていた。なお、日本国産のゲーム機へ移植された作品については太字で表記する。 代表的なホームアプリケーションには以下のものがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ブローダーバンド (Brøderbund) は、1980年2月に設立されたコンピューターゲームおよび教育ソフト、実用ソフトのメーカーである。「Broderbund」との表記もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "設立者であるダグ・カールストンはもともとは弁護士であり、ブローダーバンド設立前は趣味としてTRS-80でプログラムを組み、大手のソフトハウスに投稿していた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1980年、ソフト開発に専念すべく弁護士を廃業し、弟のゲーリー、妹のキャシーと共同でブローダーバンドを設立。社名の「Broderbund」というのは、英語でいう「Brotherhood」(兄弟の縁・愛情)を意味するスウェーデン語で、3人兄妹で創業したことから命名したものである。同社製ゲームソフトのタイトル画面でもよく表示され1998年まで使用された「トリプル・クラウン(3つの王冠)」のコーポレートマークもここに由来する。会社設立後、Apple II用ソフトウェアの開発・販売を開始。当初は社長であるダグ自らプログラムを組み、セールスして回っていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "基本的に同社のゲームソフトは、優秀な投稿作品を送ってきたユーザーと個人契約を交わし、共同で作品をブラッシュアップして製品化する形態が多く、そういった作品はタイトル画面に制作者の名前が明記されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本国内においても、1980年代前半にロードランナー、チョップリフター、バンゲリングベイ、スペランカー、カラテカをはじめとする同社の作品が次々に日本国産のPCや家庭用ゲーム機へ移植され、知名度を上げていく。1986年には、日本法人ブローダーバンドジャパンを設立するに至った。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1998年に、同じく教育ソフトメーカーのThe Learning Company(英語版)に売却されたが、2014年現在も実用ソフトのブランドとしてブローダーバンドの名前は存続している。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本国産機への移植・販売についてはブローダーバンドは直接関わらず、日本国内の各ソフトハウス、もしくはブローダーバンドジャパンが行っていた。なお、日本国産のゲーム機へ移植された作品については太字で表記する。", "title": "発売された主なゲーム" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "代表的なホームアプリケーションには以下のものがある。", "title": "発売された主なホームアプリケーション" } ]
ブローダーバンド (Brøderbund) は、1980年2月に設立されたコンピューターゲームおよび教育ソフト、実用ソフトのメーカーである。「Broderbund」との表記もある。 設立者であるダグ・カールストンはもともとは弁護士であり、ブローダーバンド設立前は趣味としてTRS-80でプログラムを組み、大手のソフトハウスに投稿していた。 1980年、ソフト開発に専念すべく弁護士を廃業し、弟のゲーリー、妹のキャシーと共同でブローダーバンドを設立。社名の「Broderbund」というのは、英語でいう「Brotherhood」(兄弟の縁・愛情)を意味するスウェーデン語で、3人兄妹で創業したことから命名したものである。同社製ゲームソフトのタイトル画面でもよく表示され1998年まで使用された「トリプル・クラウン(3つの王冠)」のコーポレートマークもここに由来する。会社設立後、Apple II用ソフトウェアの開発・販売を開始。当初は社長であるダグ自らプログラムを組み、セールスして回っていた。 基本的に同社のゲームソフトは、優秀な投稿作品を送ってきたユーザーと個人契約を交わし、共同で作品をブラッシュアップして製品化する形態が多く、そういった作品はタイトル画面に制作者の名前が明記されていた。 日本国内においても、1980年代前半にロードランナー、チョップリフター、バンゲリングベイ、スペランカー、カラテカをはじめとする同社の作品が次々に日本国産のPCや家庭用ゲーム機へ移植され、知名度を上げていく。1986年には、日本法人ブローダーバンドジャパンを設立するに至った。 1998年に、同じく教育ソフトメーカーのThe Learning Companyに売却されたが、2014年現在も実用ソフトのブランドとしてブローダーバンドの名前は存続している。
'''ブローダーバンド''' ('''Brøderbund''') は、[[1980年]]2月に設立された[[コンピューターゲーム]]および[[教育ソフト]]、実用ソフトのメーカーである。「Broderbund」との表記もある。 設立者である[[ダグ・カールストン]]はもともとは[[弁護士]]であり、ブローダーバンド設立前は趣味として[[TRS-80]]でプログラムを組み、大手のソフトハウスに投稿していた。 [[1980年]]、ソフト開発に専念すべく弁護士を廃業し、弟のゲーリー、妹のキャシーと共同でブローダーバンドを設立。社名の「Broderbund」というのは、[[英語]]でいう「Brotherhood」(兄弟の縁・愛情)を意味する[[スウェーデン語]]で、3人兄妹で創業したことから命名したものである。同社製ゲームソフトのタイトル画面でもよく表示され1998年まで使用された「トリプル・クラウン(3つの王冠)」のコーポレートマークもここに由来する。会社設立後、[[Apple II]]用ソフトウェアの開発・販売を開始。当初は社長であるダグ自らプログラムを組み、セールスして回っていた。 基本的に同社のゲームソフトは、優秀な投稿作品を送ってきたユーザーと個人契約を交わし、共同で作品をブラッシュアップして製品化する形態が多く、そういった作品はタイトル画面に制作者の名前が明記されていた。 日本国内においても、1980年代前半に[[ロードランナー]]、[[チョップリフター]]、[[バンゲリングベイ]]、[[スペランカー]]、[[カラテカ (ゲーム)|カラテカ]]をはじめとする同社の作品が次々に日本国産のPCや家庭用ゲーム機へ移植され、知名度を上げていく。[[1986年]]には、日本法人ブローダーバンドジャパンを設立するに至った。 [[1998年]]に、同じく教育ソフトメーカーの{{仮リンク|The Learning Company|en|The Learning Company}}に売却されたが、[[2014年]]現在も実用ソフトのブランドとしてブローダーバンドの名前は存続している。 == 発売された主なゲーム == 日本国産機への移植・販売についてはブローダーバンドは直接関わらず、日本国内の各ソフトハウス、もしくはブローダーバンドジャパンが行っていた。なお、日本国産のゲーム機へ移植された作品については'''太字'''で表記する。 * [[ギャラクティックサーガシリーズ]] - ダグ自身がプログラミングした。このシリーズを販売するために会社が設立された。 ** [[ギャラクティック・エンパイア]](1980年) ** [[ギャラクティック・トレーダー]](1980年) ** [[ギャラクティック・レボリューション]](1980年) ** [[タワラズ・ラスト・リダウト]](1981年) * [[エイリアンレイン]](1981年) - [[スタークラフト (ゲーム会社) |スタークラフト]]のトニー鈴木が制作した、[[ギャラクシアン]]タイプの固定画面シューティング。 * [[ジェネティック・ドリフト]](1982年) * [[アップルパニック]](1982年) - [[ロードランナー]]の原型ともいえる固定画面アクション。 * [[トラック・アタック]](1982年) * '''[[A.E.]]'''(1982年) - [[ギャラクシアン]]タイプの固定画面シューティング。制作者が日本人で、敵機がエイのためA.E.と命名された。 * '''[[チョップリフター]]'''(1982年) * '''[[デイヴィッズ ミッドナイトマジック]]'''(1982年) - [[PC-6001mkIISR]]や[[PC-6601SR]]の標準添付ソフトにも選定された、ピンボールゲームの人気作。盤面デザインはピンボール機「Black Knight」(1980年、Williams)を参考にしている。 * [[スカイブレイザー]](1983年) * '''[[ブロディア (コンピュータゲーム)|ディアブロ]]'''(1983年) - [[PCエンジン]]版は「ブロディア」と改題。 * '''[[スペランカー]]'''(1983年) * '''ドロール'''(1983年) * '''ガムボール'''(1983年) * '''[[ロードランナー]]'''(1983年) ** '''[[チャンピオンシップロードランナー]]'''(1984年) * '''[[バンゲリングベイ]]'''(1984年) * '''[[カラテカ (ゲーム)|カラテカ]]'''(1984年) * ステルス(1984年) * '''アート・オブ・ウォー'''(1984年) * [[キャプテン・グッドナイト]](1985年) * '''[[カルメン・サンディエゴ|カルメン・サンディエゴを追え! 世界編]]'''(1985年) - ゲーム仕立ての[[教育ソフト]]シリーズ。 * [[エアーハート]](1986年) * '''[[アート・オブ・ウォー 海戦版]]'''(1987年) * '''[[ウイングス オブ フューリー]]'''(1987年) * '''[[シャッフルパック カフェ]]'''(1988年) * [[イースI|イース]](1989年) - [[日本ファルコム]]が[[1987年]]に制作した作品を「[[Ancient Land of Ys]]」のタイトルで移植。 * '''[[プレイメーカー フットボール]]'''(1989年) * '''[[プリンス・オブ・ペルシャ]]'''(1989年) ** '''[[プリンス・オブ・ペルシャ2]]'''(1993年) * '''[[MYST]]'''(1993年) == 発売された主なホームアプリケーション == 代表的なホームアプリケーションには以下のものがある。 * [[プリントショップ]] * [[プリントショップコンパニオン]] * [[バンクストリートライター]] * [[バンクストリートスペラー]] * [[サイエンスツールキット]](1985年)- [[Apple II]]を理科の実験に使用するためのキット。専用の周辺機器とセットで販売された。 == 外部リンク == * [http://www.broderbund.com/ Broderbund] {{Video-game-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふろおたあはんと}} [[Category:ブローダーバンド|*]] [[Category:アメリカ合衆国のソフトウェア会社]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のコンピュータゲームメーカー]] [[Category:オレゴン州の企業]] [[Category:マリン郡の企業]] [[Category:1980年設立の企業]]
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ハッティ
ハッティ (Hatti)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハッティ (Hatti)", "title": null } ]
ハッティ (Hatti) 紀元前2千年紀のアナトリア半島に一大帝国を築いた民族。英語名ヒッタイトを参照。 紀元前2500年-紀元前2000年頃にアナトリア半島に居住していた民族で、ヒッタイトの先住民。「原ハッティ」「ハッティ人」などと呼ばれる。→ ハッティ人
'''ハッティ''' (Hatti) * [[紀元前2千年紀]]の[[アナトリア半島]]に一大帝国を築いた[[民族]]。英語名[[ヒッタイト]]を参照。 * [[紀元前2500年]]-[[紀元前2000年]]頃にアナトリア半島に居住していた民族で、ヒッタイトの先住民。「原ハッティ」「ハッティ人」などと呼ばれる。→ [[ハッティ人]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:はつてい}} [[Category:中東の民族]] [[Category:ヒッタイト帝国]]
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PCエンジンシャトル
PCエンジンシャトル(PC Engine Shuttle)とは、1989年11月22日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された家庭用ゲーム機。PCエンジンの一種。当時のメーカー希望小売価格は18,800円。 低年齢層を狙った廉価版として発売された。宇宙船をイメージした流線型のデザインが特徴的。当初、CD-ROMなどと接続する拡張バスを省略して価格を抑える事をコンセプトとした。広告や付属の小冊子にはドラえもんがイメージキャラクターとして起用された。スーパーグラフィックスほどではないが本体は大型化し横幅は初代PCエンジンの対角線より大きい。既存のPCエンジン用のソフトウェアと周辺機器をそのまま利用できたが、拡張バスがないためCD-ROMやプリントブースタなどのコア構想でのオプション機器は接続不可で利用できなかった。本体の色は、同時発売されたPCエンジンコアグラフィックス同様に、ダークグレー色を基調とし、RCA端子と連射機能付きジョイパッドが標準装備された。 ROMカード (HuCARD) のゲームソフトで十分と考えるユーザーを狙った廉価版とはいえ、当時の店頭では旧機種(初代PCエンジン)の販売価格がPCエンジンシャトルと同等まで下がっており、拡張性の無さが嫌われてあまり売れなかった。廉価なセーブユニットとして普及した「天の声2」が使用できず、高価な純正品しか選択肢がない事も廉価版としての商品価値を低下させた。PCエンジンの市場がCD-ROMに移行するとこれを接続できないシャトルの存在は省みられなくなり、NECは機能削減のない廉価商品としてコアグラフィックスIIを発売した。 パッド(コントローラー)は、当時としてはまだ珍しい、エルゴノミクス構造となっており、全PCエンジンシリーズの標準パッドとして唯一の採用である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "PCエンジンシャトル(PC Engine Shuttle)とは、1989年11月22日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された家庭用ゲーム機。PCエンジンの一種。当時のメーカー希望小売価格は18,800円。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "低年齢層を狙った廉価版として発売された。宇宙船をイメージした流線型のデザインが特徴的。当初、CD-ROMなどと接続する拡張バスを省略して価格を抑える事をコンセプトとした。広告や付属の小冊子にはドラえもんがイメージキャラクターとして起用された。スーパーグラフィックスほどではないが本体は大型化し横幅は初代PCエンジンの対角線より大きい。既存のPCエンジン用のソフトウェアと周辺機器をそのまま利用できたが、拡張バスがないためCD-ROMやプリントブースタなどのコア構想でのオプション機器は接続不可で利用できなかった。本体の色は、同時発売されたPCエンジンコアグラフィックス同様に、ダークグレー色を基調とし、RCA端子と連射機能付きジョイパッドが標準装備された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ROMカード (HuCARD) のゲームソフトで十分と考えるユーザーを狙った廉価版とはいえ、当時の店頭では旧機種(初代PCエンジン)の販売価格がPCエンジンシャトルと同等まで下がっており、拡張性の無さが嫌われてあまり売れなかった。廉価なセーブユニットとして普及した「天の声2」が使用できず、高価な純正品しか選択肢がない事も廉価版としての商品価値を低下させた。PCエンジンの市場がCD-ROMに移行するとこれを接続できないシャトルの存在は省みられなくなり、NECは機能削減のない廉価商品としてコアグラフィックスIIを発売した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "パッド(コントローラー)は、当時としてはまだ珍しい、エルゴノミクス構造となっており、全PCエンジンシリーズの標準パッドとして唯一の採用である。", "title": "概要" } ]
PCエンジンシャトルとは、1989年11月22日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された家庭用ゲーム機。PCエンジンの一種。当時のメーカー希望小売価格は18,800円。
{{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = PCエンジンシャトル |画像 = [[ファイル:PC Engine Shuttle.jpg|250px]] |画像コメント = PCエンジンシャトル |メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第4世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1989年]][[11月22日]] |CPU = [[MOS 6502|MOS 65C02]] |GPU = [[HuC62]] |メディア = [[HuCARD]] |ストレージ = [[バッテリーバックアップ]] |コントローラ = ケーブル |外部接続端子 = 専用バックアップユニット |オンラインサービス = 非対応 |売上台数 = |最高売上ソフト = |互換ハード = [[PCエンジン]] |前世代ハード = |次世代ハード = [[PC-FX]] }} '''PCエンジンシャトル'''(''PC Engine Shuttle'')とは、[[1989年]][[11月22日]]<ref>{{Wayback|url=http://www.nehe-et.gr.jp/kh/kh/products/pcengine.htm |title=PCEngine博物館 |date=19990116234241}}</ref>に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)より発売された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。[[PCエンジン]]の一種。当時の[[メーカー]][[希望小売価格]]は18,800円<ref name="ベーマガ199001"/>。 == 概要 == 低年齢層を狙った[[廉価版]]として発売された。[[宇宙船]]を[[イメージ]]した流線型の[[デザイン]]が特徴的<ref name="ベーマガ199001">{{Cite journal|和書|author=|title=PCEngineファミリーに新機種登場 PCEngine CoreGrafix / PCEngine Shuttle|journal=[[マイコンBASICマガジン]]|volume=1990年1月号(第9巻第1号)|publisher=[[電波新聞社]]|date=1990年1月1日|page=60}}</ref><ref group="注釈">ファンの間では「'''カブトガニ'''」と言われ親しまれていた。</ref>。当初、[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]などと接続する[[拡張バス]]を省略して価格を抑える事を[[概念|コンセプト]]とした。広告や付属の小冊子には[[ドラえもん]]がイメージキャラクターとして起用された。[[スーパーグラフィックス]]ほどではないが本体は大型化し横幅は初代PCエンジンの対角線より大きい。既存のPCエンジン用のソフトウェアと周辺機器をそのまま利用できたが、拡張バスがないためCD-ROM<sup>2</sup>やプリントブースタなどのコア構想でのオプション機器は接続不可で利用できなかった<ref name="ベーマガ199001"/>。本体の色は、同時発売された[[PCエンジンコアグラフィックス]]同様に、ダークグレー色を基調とし、[[RCA端子]]と連射機能付き[[ゲームコントローラ|ジョイパッド]]が標準装備された<ref name="ベーマガ199001"/>。 ROMカード ([[HuCARD]]) のゲームソフトで十分と考えるユーザーを狙った廉価版とはいえ<ref name="ベーマガ199001"/>、当時の店頭では旧機種(初代PCエンジン)の販売価格がPCエンジンシャトルと同等まで下がっており、拡張性の無さが嫌われてあまり売れなかった。廉価なセーブユニットとして普及した「天の声2」が使用できず、高価な純正品しか選択肢がない事も廉価版としての商品価値を低下させた。PCエンジンの市場がCD-ROM<sup>2</sup>に移行するとこれを接続できないシャトルの存在は省みられなくなり、NECは機能削減のない廉価商品として[[PCエンジンコアグラフィックス|コアグラフィックス]]IIを発売した。 [[ゲームコントローラ|パッド]](コントローラー)は、{{要出典|当時としてはまだ珍しい、[[人間工学|エルゴノミクス]]構造となっており|date=2016年10月}}、全PCエンジンシリーズの標準パッドとして唯一の採用である。 {{clear}} == 周辺機器 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:5.5em"|型番 ! style="width:15%"|名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PAD-106 | ACアダプタ | | 本体に同梱。 |- | PI-PD002<br/>PI-PD06<br/>PI-PD8 | ターボパッド | rowspan="2" |1987年10月30日 | コアグラフィックスの色調に合わせたターボパッド。初代PCエンジンでは別売りだったが、PCエンジンコアグラフィックス以降の機種ではそれぞれ色調を合わせた連射パッドが標準装備されることとなった。 |- | PI-PD003 | [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]] | パッドを5つまで接続できる純正機器。本体のみではパッドを1つしか接続できなかった弱点が逆に普及を促し、ファミコン以上に多人数同時プレイソフトを登場させることとなった。2人用や4人用のサードパーティ製のものもあった。 |- | PI-PD05 | ターボパッドII | rowspan="4" | 1989年11月22日 | PCエンジンシャトル付属のターボパッド。独自の形状を持つが性能は通常のターボパッドと変わらない。 |- | PI-AD9 | シャトル専用<br />バックアップユニット | シャトルは拡張バスが削除されたことから通常のバックアップブースターが使用出来なかったため、専用端子を使うユニットが発売された。 |- | PI-AN2 | AVケーブル | テレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。本体に同梱。 |- | PI-AN3 | RFユニット | [[コンポジット映像信号]]出力のマシンに使用し、RF信号を出力するための機器。 |- | NAPD-1001 | アベニューパッド3 | 1991年1月31日 | 3ボタン操作の[[ロストワールド (ゲーム)|フォーゴットンワールド]]の発売に合わせて登場。IIIボタンはSELECTかRUNボタンのいずれかに設定して使用する、連射もできるのでRUNボタンに設定してスローモーション(ポーズの連射)をかけることも可能。 |- | PI-PD11 | コードレスマルチタップ | rowspan="2" | 1992年12月18日 | PCエンジンDuoに合わせたデザインの純正品。パッド信号を[[赤外線]]で伝達することでコントローラのコードレス化を実現。コードレスマルチタップ自体はPCエンジン本体のパッド端子に接続する。コードレスパッドを5本揃えれば5人同時プレイ可能である。受信可能距離は約3mまで。 |- | PI-PD12 | コードレスパッド | コードレスマルチタップ用のパッド。単四乾電池4本必要。 |- | NAPD-1002 | アベニューパッド6 | 1993年5月28日 | 6ボタンパッド。[[ストリートファイターII]]の移植に対応する形で登場。 |- | PCE-TP1 | アーケードパッド6 | 1994年6月25日 | 6ボタンパッド。 |- |} == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} {{家庭用ゲーム機/NEC}} {{DEFAULTSORT:ひいしいえんしんしやとる}} [[Category:ゲーム機]] [[Category:PCエンジン]] [[Category:1989年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:ハドソン]] [[Category:1980年代の玩具]]
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PCエンジンコアグラフィックス
PCエンジンコアグラフィックス(PC Engine CoreGrafx)とは、1989年12月8日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は24,800円。 初代PCエンジンからのマイナーチェンジ版であり、PCエンジンシャトル、PCエンジンスーパーグラフィックスと並んで発表された新型PCエンジンの一つである。 同時期に発売された新型機の中で唯一CD-ROMを直結できる機種であり、当時CD-ROMが普及しつつあったPCエンジン市場においてDuo登場まで主力商品となる。 フランスでは国内版にないRGB出力を追加された仕様で発売された。初代機も僅かに輸入され流通していたが、コアグラフィックスから正式な代理店による販売が開始したためCoreGrafXがPCエンジンを指す通用名詞的に扱われた。 従来機からデザインが一部改良され、カラーリングを暗灰色に変更しただけでなく、テレビへの出力端子を従来のRF端子からAV端子に変更したことが大きな特徴である。本体同梱の付属コントローラには連射機能を付け、利便性の向上を図った。 本体およびコントローラの色は濃いグレーとし、ロゴや文字などのアクセントは青色とした。 従来機と同様に拡張バスを備えており、CD-ROM 等の各種周辺機器が接続が可能である。また、以降のPCエンジンのコントローラには標準的に連射機能が内蔵されることとなった。 1991年6月21日には、同時発売のSUPER CD-ROMにカラーリングを合わせ、本体およびコントローラの色を薄いグレーとし、アクセントをオレンジ色に変えたマイナーチェンジ版であるPCエンジンコアグラフィックスII (PC Engine CoreGrafx II) (当時のメーカー希望小売価格は19,800円)も発売された。これはPC-FX発売年まで公式カタログに掲載されており、初代と合わせるとPCエンジン機器の中で最も現役期間の長い機種だった。 ロールプレイングゲーム (RPG) などのゲームを楽しむときに、ゲームの状態を保存できる「コアグラフィックス」用の「バックアップブースターII」も、「PCエンジンコアグラフィックス」と同時発売されている。バックアップに対応しているゲームで利用でき、記憶容量は2KB(キロバイト)。このほか、従来のPCエンジン(初代)の周辺機器をすべて利用できる。
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PCエンジンコアグラフィックス(PC Engine CoreGrafx)とは、1989年12月8日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は24,800円。 初代PCエンジンからのマイナーチェンジ版であり、PCエンジンシャトル、PCエンジンスーパーグラフィックスと並んで発表された新型PCエンジンの一つである。 同時期に発売された新型機の中で唯一CD-ROM2を直結できる機種であり、当時CD-ROM2が普及しつつあったPCエンジン市場においてDuo登場まで主力商品となる。 フランスでは国内版にないRGB出力を追加された仕様で発売された。初代機も僅かに輸入され流通していたが、コアグラフィックスから正式な代理店による販売が開始したためCoreGrafXがPCエンジンを指す通用名詞的に扱われた。
{{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = PCエンジンコアグラフィックス |画像 = [[ファイル:PC Engine Core Grafx.jpg|300px]] |画像コメント = PCエンジンコアグラフィックス |メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第4世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1989年]][[12月8日]] |CPU = [[MOS 6502|MOS 65C02]] |GPU = [[HuC62]] |メディア = [[HuCARD]]<br />[[アーケードカード]]<br />[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]<br />[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] |ストレージ = [[バッテリーバックアップ]] |コントローラ = ケーブル |外部接続端子 = |オンラインサービス = [[PCエンジン#通信装置|通信Booster]] |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 392万台 |最高売上ソフト = |互換ハード = [[PCエンジン]] |前世代ハード = |次世代ハード = [[PC-FX]] }} '''PCエンジンコアグラフィックス'''(''PC Engine CoreGrafx'')とは、[[1989年]][[12月8日]]<ref name=PCEngine博物館>{{Wayback|url=http://www.nehe-et.gr.jp/kh/kh/products/pcengine.htm |title=PCEngine博物館 |date=19990116234241}}</ref>に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)より発売された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。当時の[[メーカー]][[希望小売価格]]は24,800円<ref name="ベーマガ199001"/>。 初代PCエンジンからの[[モデルチェンジ|マイナーチェンジ版]]であり、[[PCエンジンシャトル]]、[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]と並んで発表された新型PCエンジンの一つである<ref name="ベーマガ199001">{{Cite journal|和書|author=|title=PCEngineファミリーに新機種登場 PCEngine CoreGrafix / PCEngine Shuttle|journal=[[マイコンBASICマガジン]]|volume=1990年1月号(第9巻第1号)|publisher=[[電波新聞社]]|date=1990年1月1日|page=60}}</ref>。 同時期に発売された新型機の中で唯一CD-ROM<sup>2</sup>を直結できる機種であり、当時CD-ROM<sup>2</sup>が普及しつつあったPCエンジン市場において[[PCエンジンDuo|Duo]]登場まで主力商品となる。 [[フランス]]では国内版にない[[RGB]]出力を追加された仕様で発売された。初代機も僅かに輸入され流通していたが、コアグラフィックスから正式な代理店による販売が開始したためCoreGrafXがPCエンジンを指す通用名詞的に扱われた。 == ハードウェア == 従来機からデザインが一部改良され、カラーリングを暗灰色に変更しただけでなく、テレビへの出力端子を従来の[[RF端子]]から[[AV端子]]に変更したことが大きな特徴である<ref name="ベーマガ199001"/>。本体同梱の付属コントローラには連射機能を付け、[[アクセシビリティ|利便性]]の向上を図った<ref name="ベーマガ199001"/>。 本体およびコントローラの[[色]]は濃い[[灰色|グレー]]とし、[[ロゴタイプ|ロゴ]]や[[文字]]などの[[アクセント]]は[[青色]]とした。 従来機と同様に[[拡張バス]]を備えており、[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] 等の各種[[周辺機器]]が接続が可能である。また、以降のPCエンジンのコントローラには標準的に連射機能が内蔵されることとなった。 == PCエンジンコアグラフィックスII == {{節スタブ}} {{Gallery |File:NEC-PC-Engine-Core-Grafx-II-Console-FL.jpg|PCエンジンコアグラフィックスII }} [[1991年]][[6月21日]]{{R|PCEngine博物館}}には、同時発売の[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]にカラーリングを合わせ、本体およびコントローラの色を薄いグレーとし、アクセントを[[オレンジ色]]に変えたマイナーチェンジ版である'''PCエンジンコアグラフィックスII''' (''PC Engine CoreGrafx II'') (当時のメーカー希望小売価格は19,800円)も発売された。これは[[PC-FX]]発売年まで公式カタログに掲載されており、初代と合わせるとPCエンジン機器の中で最も現役期間の長い機種だった。 == 周辺機器 == [[ロールプレイングゲーム]] (RPG) などのゲームを楽しむときに、ゲームの状態を保存できる「コアグラフィックス」用の「バックアップブースターII」も、「PCエンジンコアグラフィックス」と同時発売されている<ref name="ベーマガ199001"/>。バックアップに対応しているゲームで利用でき、記憶容量は2KB([[キロバイト]])<ref name="ベーマガ199001"/>。このほか、従来のPCエンジン(初代)の周辺機器をすべて利用できる<ref name="ベーマガ199001"/>。 {{Gallery |File:NEC-PC-Engine-SuperGrafx-Controller.jpg||ターボパッド }} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:5.5em"|型番 ! style="width:15%"|名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PAD-106 | ACアダプタ | | 本体に同梱。 |- | PI-PD002<br/>PI-PD06<br/>PI-PD8 | ターボパッド | rowspan="2" |1987年10月30日 | コアグラフィックスの色調に合わせたターボパッド。初代PCエンジンでは別売りだったが、PCエンジンコアグラフィックス以降の機種ではそれぞれ色調を合わせた連射パッドが標準装備されることとなった。 |- | PI-PD003 | [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]] | パッドを5つまで接続できる純正機器。本体のみではパッドを1つしか接続できなかった弱点が逆に普及を促し、ファミコン以上に多人数同時プレイソフトを登場させることとなった。2人用や4人用のサードパーティ製のものもあった。 |- | PI-PD5 | ターボパッドII | rowspan="3" | 1989年11月22日 | PCエンジンシャトルの形状に合わせたターボパッド。 |- | PI-AN2 | AVケーブル | テレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。本体に同梱。 |- | PI-AN3 | RFユニット | [[コンポジット映像信号]]出力のマシンに使用し、RF信号を出力するための機器。 |- | PI-AD8 | バックアップブースターII | 1989年12月8日 | バックアップ用電源がキャパシタ([[コンデンサ]])に変更され、通電により充電されるようになった。また、AV出力を搭載したコアグラフィックスでの使用を前提としており、AVブースター機能を削除し、価格も下げられた。 |- | CDR-30 | [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] | rowspan="3"| 1988年12月4日 | PCエンジンのCD-ROMドライブ。 |- | IFU-30 | インターフェースユニット | CD-ROM<sup>2</sup>本体を構成するハードの内の一つ。<br />PCエンジンとCD-ROMドライブを繋ぐために使用され、AV出力端子およびCD-ROM<sup>2</sup>ソフトのセーブデータを保有する機能(容量は2KB、電源はコンデンサ)を持つ。 |- | PAD-123 | ACアダプタ | CD-ROM2用ACアダプタ |- | | システムカード ver 1.0 | | タイトル画面でI+II+右上+SELECT押下でバイナリエディタが立ち上がり、バックアップメモリを直接編集できる。 |- | | システムカード ver 2.0 | | エディタによるデバッグ機能は削除され、CD-G機能が追加されている。 |- | | システムカード ver 2.1 | 1990年7月6日 | スーパーシステムカード以降の物を除けば唯一別売りされたシステムカード。 |- | NAPD-1001 | アベニューパッド3 | 1991年1月31日 | 3ボタン操作の[[ロストワールド (ゲーム)|フォーゴットンワールド]]の発売に合わせて登場。IIIボタンはSELECTかRUNボタンのいずれかに設定して使用する、連射もできるのでRUNボタンに設定してスローモーション(ポーズの連射)をかけることも可能。 |- | PI-CD1 | [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] | rowspan="2"| 1991年12月13日 | 上位規格のCD-ROM<sup>2</sup>システム。 |- | PAD-125 | ACアダプタ | SUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のACアダプタ。 |- | PI-SC1 | スーパーシステムカード ver 3.0 | 1991年10月26日 | CD-ROM<sup>2</sup>専用。[[HuCARD]]スロットに挿入することでSUPER CD-ROM<sup>2</sup>へアップグレードされる。SUPER CD-ROM<sup>2</sup>システム対応のソフトを遊ぶためには必須となる。 |- | PI-PD11 | コードレスマルチタップ | rowspan="2" | 1992年12月18日 | PCエンジンDuoに合わせたデザインの純正品。パッド信号を[[赤外線]]で伝達することでコントローラのコードレス化を実現。コードレスマルチタップ自体はPCエンジン本体のパッド端子に接続する。コードレスパッドを5本揃えれば5人同時プレイ可能である。受信可能距離は約3mまで。 |- | PI-PD12 | コードレスパッド | コードレスマルチタップ用のパッド。単四乾電池4本必要。 |- | PI-AD19 | メモリーベース128 | 1993年3月 | パッド端子に接続して使用するセーブ用外部メモリ。後期ソフトのセーブデータの肥大化に対応し容量は128KBと非常に大きいが、対応ソフト以外は使用不可能。[[コーエー]]発売の同機能の周辺機器「セーブくん」もある(『[[信長の野望・武将風雲録]]』・『[[三國志III]]』などの一部に同梱)。<br />対応ソフトのうち、『[[エメラルドドラゴン]]』・『[[リンダキューブ]]』・『[[プライベート・アイ・ドル]]』・『[[ぽっぷるメイル]]』の4本には本体のバックアップメモリとの間でセーブデータをコピーするなどの操作が出来る管理ユーティリティを内蔵。『エメラルドドラゴン』・『リンダキューブ』は共通のツールでデータの互換性があるが、『プライベート・アイ・ドル』と『ぽっぷるメイル』は両者との互換性はない。 |- | NAPD-1002 | アベニューパッド6 | 1993年5月28日 | 6ボタンパッド。[[ストリートファイターII]]の移植に対応する形で登場。 |- | PCE-AC2 | [[アーケードカード|アーケードカードPRO]] | rowspan="2"| 1994年3月12日 | CD-ROM<sup>2</sup>専用のアーケードカード。DRAMが内蔵されていること以外はスーパーシステムカードと同機能であり、スーパーシステムカードと同様に下部にT字状の補強カバーがある。 |- | PCE-AC1 | [[アーケードカード|アーケードカードDUO]] | PCエンジンDuo系の機種やSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のアーケードカード。 |- | PCE-TP1 | アーケードパッド6 | 1994年6月25日 | 6ボタンパッド。 |- |} == 脚注 == {{Commonscat|PC Engine CoreGrafx}} {{Commonscat|PC Engine CoreGrafx II|PCエンジンコアグラフィックスII}} === 出典 === {{Reflist}} {{家庭用ゲーム機/NEC}} {{DEFAULTSORT:ひいしいえんしんこあくらふいつくす}} [[Category:PCエンジン]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1989年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:ハドソン]] [[Category:1980年代の玩具]]
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PCエンジンスーパーグラフィックス
PCエンジンスーパーグラフィックス(ピーシーエンジンスーパーグラフィックス、PC Engine SuperGrafx)とは、1989年12月8日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された家庭用ゲーム機。PCエンジンの上位互換機。当時のメーカー希望小売価格は39,800円。 1989年の年末商戦前のPCエンジンの販売戦略リニューアルの際に発表された。高スペックを売りにしており、従来機のPCエンジンと比較してスプライト及びバックグラウンドの表示が2倍、それに合わせて搭載メモリ容量を増量している。 欧米市場ではSuperGrafx(スーパーグラフィックス)の商品名で発売された。 PCエンジンに使用されていたグラフィックチップHuC6270を2個搭載する事により、スプライト、バックグラウンドの仕様を2倍に強化したマシンである。搭載メモリの容量も増量され、アナログコントローラ用の18ピンパラレル端子を備えていた。 独立した2つのビデオチップから出力される2系統のビデオデータ信号を1つに合成しモニターへ出力する方式がとられている都合上、ゲームのアルゴリズム制御と画面描画を統一的に管理しにくく、各々のチップそのものの制約はそのまま受けるなどプログラミングが煩雑で扱いにくいマシンとなっていた。 筐体は自動車のV型6気筒エンジンをイメージした様な意匠・形状でサイズは従来機の3倍以上である。 他機器との接続において、ジョイパッドや周辺機器に関しては、基本的に従来機であるPCエンジンと同じ物が使用できる。ただしCD-ROMの利用において注意するべき点が存在する。 CPUおよび音源などのスペックはPCエンジンと同一の物であるため詳細は『PCエンジン』を参照。ここでは概要の記載のみに留める。 ハードウェアの拡張部分とコーディングの都合により従来の一部のソフトでは後部の切り替えスイッチによるPCエンジンモードでの起動が必要である。 発売された専用ソフトは5本に両対応ソフトが1本のみであり、この機種に応じた市場を形成することはできなかった。 通常のPCエンジンでもプレイ可能だが、スーパーグラフィックスで起動した場合はスプライトの横並びのチラつきが軽減されるなどの恩恵がある。両対応ソフトは起動の際にソフト側でハードを認識し、PCエンジンでの起動の際はビデオチップ1個、スーパーグラフィックスでの起動時にはビデオチップ2個を使用するという方式だった。
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PCエンジンスーパーグラフィックスとは、1989年12月8日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された家庭用ゲーム機。PCエンジンの上位互換機。当時のメーカー希望小売価格は39,800円。 1989年の年末商戦前のPCエンジンの販売戦略リニューアルの際に発表された。高スペックを売りにしており、従来機のPCエンジンと比較してスプライト及びバックグラウンドの表示が2倍、それに合わせて搭載メモリ容量を増量している。 欧米市場ではSuperGrafx(スーパーグラフィックス)の商品名で発売された。
{{Pathnav|PCエンジン|frame=1}} {{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = PCエンジンスーパーグラフィックス |ロゴ = [[File:SuperGrafx logo.svg|200px]] |画像 = [[ファイル:SuperGrafx-Console-Set.png|300px]] |画像コメント = PCエンジンスーパーグラフィックス |メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第4世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1989年]][[11月30日]]<ref name=NECHE>{{Wayback|url=http://www.nehe-et.gr.jp/kh/kh/products/pcengine.htm |title=PCEngine博物館 NECホームエレクトロニクス |date=19990116234241}}</ref>{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=53|loc=PC ENGINE PLUS}}<br />{{Flagicon|FRA}} [[1990年]][[5月]]{{要出典|date=2023年12月}} |CPU = [[HuC62|HuC6280]]([[MOS 6502]]ベース) |GPU = [[HuC62|HuC6260 + HuC6270]] |メディア = [[HuCARD]]<br />[[アーケードカード]]<br />[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]<br />[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] |ストレージ = [[バッテリーバックアップ]] |コントローラ = ケーブル |外部接続端子 = パワーコンソール(未発売) |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 7.5万台 |最高売上ソフト = |互換ハード = [[PCエンジン]] |前世代ハード = |次世代ハード = [[PC-FX]] }} '''PCエンジンスーパーグラフィックス'''(ピーシーエンジンスーパーグラフィックス、''PC Engine SuperGrafx'')とは、[[1989年]][[11月30日]]{{R|NECHE}}{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=53|loc=PC ENGINE PLUS}}に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)より発売された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。[[PCエンジン]]の[[上位互換]]機。当時の[[メーカー]][[希望小売価格]]は39,800円。 1989年10月7日に日本電気ホームエレクトロニクス本社にて{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=53|loc=PC ENGINE PLUS}}、年末商戦前のPCエンジンの販売戦略リニューアルの際に発表された。高スペックを売りにしており、従来機のPCエンジンと比較して[[スプライト (映像技術)|スプライト]]及び[[背景|バックグラウンド]]の表示が2倍、それに合わせて搭載メモリ容量を増量している。 [[フランス|フランス市場]]では'''[[w:SuperGrafx|SuperGrafx]]'''(スーパーグラフィックス)の商品名で発売された{{要出典|date=2023年12月}}。 == ハードウェア == PCエンジンに使用されていたグラフィックチップHuC6270を2個搭載する事により、[[スプライト (映像技術)|スプライト]]、[[背景|バックグラウンド]]の仕様を2倍に強化したマシンである。搭載メモリの容量も増量され、アナログコントローラ用の18ピンパラレル端子を備えていた。 独立した2つのビデオチップから出力される2系統のビデオデータ信号を1つに合成しモニターへ出力する方式がとられている都合上、ゲームのアルゴリズム制御と画面描画を統一的に管理しにくく、各々のチップそのものの制約はそのまま受けるなどプログラミングが煩雑で扱いにくいマシンとなっていた。 筐体は自動車の[[V型6気筒]][[内燃機関|エンジン]]をイメージした様な意匠・形状でサイズは従来機の3倍以上である。 他機器との接続において、[[ゲームパッド|ジョイパッド]]や[[周辺機器]]に関しては、基本的に従来機であるPCエンジンと同じ物が使用できる。ただしCD-ROM<sup>2</sup>の利用において注意するべき点が存在する。 *[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]に接続する場合には、形状の問題から専用の接続アダプタが必要。 *[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]に接続する場合には、電源供給ケーブルが非対応のため双方のACアダプタが必要。後にこの問題を解消する同人ハードウェアが発売<ref>[https://www.retrogamecave.com/product-page/super-cd-rom2-to-super-grafx-power-jumper SuperGrafx to SuperCD-ROM2 Jumper]</ref>。 == 仕様 == CPUおよび音源などのスペックはPCエンジンと同一の物であるため詳細は『[[PCエンジン]]』を参照。ここでは概要の記載のみに留める。 * CPU:[[HuC62|HuC6280]](クロック:7.16MHz 音源内蔵) * 音源:[[波形メモリ音源|波形メモリ]]6音~波形メモリ4音+ノイズ2音 * メモリ:メイン[[Random Access Memory|RAM]]32KB/[[VRAM]]128KB * 同時発色数:512色中最大481色{{Efn|スプライト240色(15色×16パレット、透明色は透過処理に使われるので発色はできない)とBG241色(15色×16パレット+共通色)合わせての数字。HuC6270を2個搭載するものの、実際の映像出力に用いられるパレット・色情報をもつHuC6260は1個のままであるので同時発色数に関しては拡張されない。}} * スプライト:一画面中に最大128個、横方向へ16×16のサイズを最大32個表示可能 * BG(背景):2画面 * HuC6202:2個のビデオチップから送られてくるビデオデータ信号を1つに合成して出力 == 周辺機器 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:5.5em"|型番 ! style="width:15%" |名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PAD-113 | ACアダプタ | | 市販はされず、修理のみ対応。後に同人ハードとして同等品を購入できるようになった<ref>[https://www.retrogamecave.com/product-page/supergrafx-psu SUPERGRAFX PSU]</ref>。 |- | PI-PD002<br/>PI-PD06<br/>PI-PD8 | ターボパッド | rowspan="2" | 1987年10月30日 | 連射機能を搭載したPCエンジン用のコントローラ。 |- | PI-PD003 | [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]] | パッドを5つまで接続できる純正機器。本体のみではパッドを1つしか接続できなかった弱点が逆に普及を促し、ファミコン以上に多人数同時プレイソフトを登場させることとなった。2人用や4人用のサードパーティ製のものもあった。 |- | PI-PD5 | ターボパッドII | rowspan="3" | 1989年11月22日 | PCエンジンシャトルの形状に合わせたターボパッド。 |- | PI-AN2 | AVケーブル | テレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。本体に同梱。 |- | PI-AN3 | RFユニット | [[コンポジット映像信号]]出力のマシンに使用し、RF信号を出力するための機器。 |- | PI-AD8 | バックアップブースターII | 1989年12月8日 | バックアップ用電源がキャパシタ([[コンデンサ]])に変更され、本体使用中に充電されるようになった。同時発売のコアグラフィックスでの使用が前提でAVブースター機能を削除し価格も下げられた。 |- | CDR-30 | [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] | rowspan="3"| 1988年12月4日 | PCエンジンのCD-ROMドライブ。 |- | IFU-30 | インターフェースユニット | CD-ROM<sup>2</sup>本体を構成するハードの内の一つ。<br />PCエンジンとCD-ROMドライブを繋ぐために使用され、AV出力端子およびCD-ROM<sup>2</sup>ソフトのセーブデータを保有する機能(容量は2KB、電源はコンデンサ)を持つ。 |- | PAD-123 | ACアダプタ | CD-ROM2用ACアダプタ |- | | システムカード ver 1.0 | | タイトル画面でI+II+右上+SELECT押下でバイナリエディタが立ち上がり、バックアップメモリを直接編集できる。 |- | | システムカード ver 2.0 | | エディタによるデバッグ機能は削除され、CD-G機能が追加されている。 |- | RAU-30 | ROM<sup>2</sup>アダプター | 1990年4月8日 | PCエンジンスーパーグラフィックスをCD-ROM<sup>2</sup>と接続する際に必須になるアダプタ<ref>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/FXHP/pcengine/hard/romada.html ROM2アダプタ]</ref>。 |- | | システムカード ver 2.1 | 1990年7月6日 | スーパーシステムカード以降の物を除けば唯一別売りされたシステムカード。 |- | NAPD-1001 | アベニューパッド3 | 1991年1月31日 | 配色をスーパーグラフィックスに合わせた3ボタンコントローラ<ref>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/FXHP/pcengine/hard/avepad3.html アベニューパッド3]</ref> |- | PI-CD1 | [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] | rowspan="2"| 1991年12月13日 | 上位規格のCD-ROM<sup>2</sup>システム。 |- | PAD-125 | ACアダプタ | SUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のACアダプタ。 |- | PI-SC1 | スーパーシステムカード ver 3.0 | 1991年10月26日 | CD-ROM<sup>2</sup>専用。[[HuCARD]]スロットに挿入することでSUPER CD-ROM<sup>2</sup>へアップグレードされる。SUPER CD-ROM<sup>2</sup>システム対応のソフトを遊ぶためには必須となる。 |- | PI-PD11 | コードレスマルチタップ | rowspan="2" | 1992年12月18日 | PCエンジンDuoに合わせたデザインの純正品。パッド信号を[[赤外線]]で伝達することでコントローラのコードレス化を実現。コードレスマルチタップ自体はPCエンジン本体のパッド端子に接続する。コードレスパッドを5本揃えれば5人同時プレイ可能である。受信可能距離は約3mまで。 |- | PI-PD12 | コードレスパッド | コードレスマルチタップ用のパッド。単四乾電池4本必要。 |- | PI-AD19 | メモリーベース128 | 1993年3月 | パッド端子に接続して使用するセーブ用外部メモリ。後期ソフトのセーブデータの肥大化に対応し容量は128KBと非常に大きいが、対応ソフト以外は使用不可能。[[コーエー]]発売の同機能の周辺機器「セーブくん」もある(『[[信長の野望・武将風雲録]]』・『[[三國志III]]』などの一部に同梱)。<br />対応ソフトのうち、『[[エメラルドドラゴン]]』・『[[リンダキューブ]]』・『[[プライベート・アイ・ドル]]』・『[[ぽっぷるメイル]]』の4本には本体のバックアップメモリとの間でセーブデータをコピーするなどの操作が出来る管理ユーティリティを内蔵。『エメラルドドラゴン』・『リンダキューブ』は共通のツールでデータの互換性があるが、『プライベート・アイ・ドル』と『ぽっぷるメイル』は両者との互換性はない。 |- | style="white-space:nowrap" | NAPD-1002 | アベニューパッド6 | 1993年5月28日 | 6ボタンパッド。[[ストリートファイターII]]の移植に対応する形で登場。 |- | PCE-AC2 | [[アーケードカード|アーケードカードPRO]] | rowspan="2"| 1994年3月12日 | CD-ROM<sup>2</sup>専用のアーケードカード。DRAMが内蔵されていること以外はスーパーシステムカードと同機能であり、スーパーシステムカードと同様に下部にT字状の補強カバーがある。 |- | PCE-AC1 | [[アーケードカード|アーケードカードDUO]] | PCエンジンDuo系の機種やSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のアーケードカード。 |- | PCE-TP1 | アーケードパッド6 | 1994年6月25日 | 6ボタンパッド。 |- |} * パワーコンソール(未発売) : スーパーグラフィックスの発表時には、本体に覆いかぶせて収納する専用の大型アナログジョイスティック「パワーコンソール」の発売も同時発表された。設定された予定小売価格は59,800円。 : プレイを記録するマクロ機能、ゲームと連動する[[インジケーター]]、ジョグダイヤル、テンキーなどの様々な機能を満載していた。 : 価格設定や内部の駆動系の強度に問題があったことなどから、パワーコンソールの商品化は見送られ発売はされなかった。 : 後に[[プロトタイプ|試作品]]が、[[コミックマーケット]]の企業ブースで[[オークション]]として売りに出された。 == ソフトウェア == ハードウェアの拡張部分とコーディングの都合により従来の一部のソフト{{Efn|スペースハリアー、桃太郎電鉄、P47}}では後部の切り替えスイッチによるPCエンジンモードでの起動が必要である。 === 専用ソフト === * [[バトルエース]]([[ハドソン]]、1989年11月30日{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=127|loc=COMING SOON}}) * [[魔動王グランゾート]](ハドソン、1990年4月6日) * [[大魔界村]]([[NECアベニュー]]、1990年7月27日) - PCエンジン用タイトルとして発売予定だった{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=126|loc=開発状況}}。 * [[オルディネス]](ハドソン、1991年2月22日) * [[1941 Counter Attack]](ハドソン、1991年8月23日) === 両対応ソフト === 両対応ソフトは起動の際にソフト側でハードを認識し、PCエンジンでの起動の際はビデオチップ1個、スーパーグラフィックスでの起動時にはビデオチップ2個を使用する。通常のPCエンジンでもプレイ可能だが、スーパーグラフィックスで起動した場合はスプライトの横並びのチラつきが軽減されるなどの恩恵がある。 * [[ダライアス|ダライアスプラス]](NECアベニュー、1990年9月21日) * ダライアスアルファ(NECアベニュー、1990年) - プレゼント用非売品 === 発売されなかったソフト === * [[ストライダー飛竜]](NECアベニュー)- PCエンジン用タイトルとして発売予定だったがスーパーグラフィックス用タイトルに変更になる{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=126|loc=開発状況}}も、仕様変更により発売されず、その後[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]へ変更されるも、さらに[[アーケードカード|アーケードCD-ROM<sup>2</sup>]]に変更されて発売された。 * [[フォゴットンワールド]] - 両対応ソフトで発売予定だったが仕様変更により[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]へ移行した。 == 反響 == 『月刊PCエンジン』ではPCエンジン参入メーカー29社に対して、スーパーグラフィックス用のタイトルの開発予定があるかアンケートを取り、1989年12月号(1989年10月30日発売)で結果が発表されたが、開発を行っていたのはハドソンとNECアベニューの2社のみであった{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=54|loc=PC ENGINE PLUS}}。開発予定があると答えたのはインテック、日本ソフト販売、ビデオシステム、ホームデータの4社{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=54|loc=PC ENGINE PLUS}}で、ホームデータは「囲碁ソフト」、他の3社は「具体的な企画は検討中」だった{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=55|loc=PC ENGINE PLUS}}。残りのメーカーは「現時点ではわからない」と答えたが、その理由は「本体の普及台数をみて考える」「本体の性能が詳しくわからないため」だった{{Sfn|月刊PCエンジン|1989|p=54|loc=PC ENGINE PLUS}}。 結果的に、発売された専用ソフトはハドソンとNECアベニューから合計5本に両対応ソフトが1本のみであり、この機種に応じた市場を形成することはできなかった。 == 脚注 == {{Commonscat|PC Engine}} {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite magazine |和書 |magazine=月刊PCエンジン |publisher=小学館 |volume=1 |issue=12 |date=1989-12-01 |ref={{SfnRef|月刊PCエンジン|1989}}}} == 関連項目 == * [[PCエンジン mini]] - 外見は初代PCエンジンを模しているが、[[プリインストール]]されるゲームソフト群の一つとして、本機専用ソフトである2作品『大魔界村』と『オルディネス』を収録。 * [[PC-FX]] - グラフィックチップを2個搭載してグラフィック性能を強化する同様の構成を採用。 {{家庭用ゲーム機/NEC}} {{DEFAULTSORT:ひいしいえんしんすうはあくらふいつくす}} [[Category:ゲーム機]] [[Category:PCエンジン]] [[Category:1989年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:ハドソン]] [[Category:1980年代の玩具]]
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PIECE
PIECEまたはP/ECE(いずれも「ピース」)はアクアプラスによって発売されたPDAもしくは携帯型ゲーム機。 ドリームキャスト用ビジュアルメモリやPlayStation用PocketStationのPC版といった存在で、ファームウェアやソフトウェアの転送を要するため、PCとUSBケーブルが別途必須である。 PCとはUSBで接続する。開発にはGCCが付属し、サンプルゲームとして「おでかけマルチ」などが用意された。本体カラーは初回版は『シルバー&ブラック』。通常版はカラーバリエーションに『クリアレッド』、『パールホワイト』、『クリアブルー』の三種類が存在する。 ハードウェア製品でありながらソフトウェアの流通を経由して市場に出ており、主にパソコンショップのソフトコーナーに置かれた。アクアプラスのPC作品がアダルトゲームを主力としており、その販路を使用したことや、市販ソフトで対応したものがアダルトゲームに多かった事もあり、アダルトゲームコーナーに陳列されることが少なくなかった。発売当初にはメーカー主催でソフトコンテストが行われたほか、内容紹介や解説とソフトを収録した書籍が出版されたりもしたが、前述の販路や、ハードウェアスペック、携帯性などから爆発的な人気とはならず、静かに市場から姿を消した。 市販アプリケーションは単体でのリリースはなく、アクアプラス、並びにその配下のブランドからリリースされたWindows用ソフトウェアに対応ソフトが含まれるほか、いくつかのアダルトゲームソフトハウスにより対応ソフトが作られた。また、そのライセンスや公開された仕様により、ソフトウェア、ハードウェアともに同人活動などに利用され、工作の難易度は高いにもかかわらず、ハードウェアへのアプローチも積極的に行われた。 USBデバイスとしての動作をプログラムによって定義できるため、純正のソフトウェアでジョイスティックとして動作するプログラムや、ユーザの手によって、赤外線リモコンや、NAS用LCDモジュール、USBサウンドデバイスなどとして振舞うプログラムも公開されている。 一般ユーザーによるソフト開発が可能な携帯ゲームということでワンダーウイッチと比較されることが多い。ワンダーウィッチはハードウェアの直接操作を許さない方針だったのに対し、当機はハードウェアの回路図までが公開されており、またソフトウェアの配布もロイヤリティ&ライセンスフリーとした。そのため、ワンダーウィッチから乗り換えたユーザーもいた。また、ファームウェアを含むソフトウェアは著作権こそ保持したままであるが、改変・改造されたものも、必要事項が明記されているという前提で、かつ同機で運用される限りは自由とされている。 本体プロセッサのパフォーマンスはワンダースワンよりも高く設計されている。しかし、液晶はモノクロで解像度も諧調も低く、サウンド面も含め、専用の回路を持たない。そのため、全ての処理に対してプロセッサが直接処理を行う必要があり、システム全体としてのパフォーマンスは低目となると同時に消費電力が大きめになっている。また、電源としてUSBのバスパワー若しくは単三乾電池一本を必要とする。消費電力に対して乾電池の容量はきわめて小さく、携帯時の稼働時間は他のゲーム機などよりも著しく短くなっていた。コントローラ、ボタンを含む塗装、実装には実用性よりも価格や小型であることを重視した部分が見られ、短期間の使用であっても、塗装の剥離、ボタンの故障なども少なくなかった。 ハードウェアの仕様が公開されていることもあり、その大きさから細かな作業が必要とされるにもかかわらず、コアなユーザーの間では改造も広く行われている。中でもデバッグ用のパターンに端子を取り付ける『拡張端子増設』は半ば標準とも呼べる改造であり、積極的に利用されている。同パターンを利用したマルチメディアカード、あるいはSDメモリーカードを読み書きできる手法も考案され、読み出しに対応したカーネルもユーザーの手で製作されている。それに伴ってminiSDカードを本体に内蔵する改造も流行する。仕様を利用したオーバークロックや、デバイスを休止させる事による消費電力の削減等もユーザによって開発され、フラッシュメモリの張り替えによる増設サービスなどもユーザレベルで行われていた。これら、積極的なユーザーの成果が、公式ファームウェアへ反映される現象もあった。
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PIECEまたはP/ECE(いずれも「ピース」)はアクアプラスによって発売されたPDAもしくは携帯型ゲーム機。 ドリームキャスト用ビジュアルメモリやPlayStation用PocketStationのPC版といった存在で、ファームウェアやソフトウェアの転送を要するため、PCとUSBケーブルが別途必須である。
{{otheruses|携帯端末|その他の用法|ピース}} {{出典の明記|date=2020-03-20}} {{Infobox コンシューマーゲーム機 | 名称 = PIECE | ロゴ = | ロゴコメント = | 画像 = [[ファイル:Piece PME-001.jpg|180px]] | 画像コメント = | メーカー = [[アクアプラス]] | 種別 = [[ゲーム機|携帯型ゲーム機]] | 世代 = | 発売日 = | 価格 = | SoC = | CPU = | GPU = | ディスプレイ = | メディア = | ストレージ = | コントローラ = | 外部接続 = | オンラインサービス = | 売上台数 = | 最高売上ソフト = | 互換ハード = | 後方互換 = | 前世代ハード = | 次世代ハード = }} '''PIECE'''または'''P/ECE'''(いずれも「ピース」)は[[アクアプラス]]によって発売された[[携帯情報端末|PDA]]もしくは[[携帯型ゲーム機]]。 [[ドリームキャスト]]用[[ビジュアルメモリ]]や[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用[[PocketStation]]のPC版といった存在で、ファームウェアやソフトウェアの転送を要するため、PCとUSBケーブルが別途必須である。 == 概要 == PCとは[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]で接続する。開発には[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]が付属し、サンプルゲームとして「[[おでかけマルチ]]」などが用意された。本体カラーは初回版は『シルバー&ブラック』。通常版はカラーバリエーションに『クリアレッド』、『パールホワイト』、『クリアブルー』の三種類が存在する。 ハードウェア製品でありながらソフトウェアの流通を経由して市場に出ており、主にパソコンショップのソフトコーナーに置かれた。アクアプラスのPC作品がアダルトゲームを主力としており、その販路を使用したことや、市販ソフトで対応したものがアダルトゲームに多かった事もあり、アダルトゲームコーナーに陳列されることが少なくなかった。発売当初にはメーカー主催でソフトコンテストが行われたほか、内容紹介や解説とソフトを収録した書籍が出版されたりもしたが、前述の販路や、ハードウェアスペック、携帯性などから爆発的な人気とはならず、静かに市場から姿を消した。 市販アプリケーションは単体でのリリースはなく、アクアプラス、並びにその配下のブランドからリリースされたWindows用ソフトウェアに対応ソフトが含まれるほか、いくつかのアダルトゲームソフトハウスにより対応ソフトが作られた。また、そのライセンスや公開された仕様により、ソフトウェア、ハードウェアともに同人活動などに利用され、工作の難易度は高いにもかかわらず、[[ハードウェア]]へのアプローチも積極的に行われた。 USBデバイスとしての動作をプログラムによって定義できるため、純正のソフトウェアでジョイスティックとして動作するプログラムや、ユーザの手によって、赤外線リモコンや、NAS用LCDモジュール、USBサウンドデバイスなどとして振舞うプログラムも公開されている。 == ハードウェア == {{Empty section|date=2023年4月}} == 仕様 == *画面:FSTN 4階調のモノクロ[[液晶]] *[[VRAM]]:[[ビットマップ]]方式 **[[スプライト (映像技術)|スプライト]]などはない。 *[[解像度]]:128ドット×88ライン *CPU:[[セイコーエプソン|EPSON]] S1C33209 24MHz(32ビットRISC) *メインメモリ:[[スタティックランダムアクセスメモリ|SRAM]] 256KB *ストレージ:フラッシュRAM 512KB *サウンド:[[パルス幅変調|PWM]]で再生(ソフトウェア多チャンネル合成) **[[PC-9800シリーズ]]用の音源ドライバ。P.M.D.の仕様に近似したMMLを利用可能。 *インターフェイス:[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]Bポート/赤外線ユニット == 対応ソフトウェア == === 専用ソフト === ;アクアプラス開発 :これらのソフトウェアは、公式サイトからのダウンロード、並びに製品に添付される形でリリースされた。 :*Picket - スケジューラ・住所録などのソフト。本体に付属。 :*[[おでかけマルチ]] - 『[[To Heart]]』のキャラクター「マルチ」が活躍する[[育成シミュレーションゲーム]]・[[カードゲーム]]。初回版に付属。サブセットが通常版用にダウンロード可能になっている。 :*Black Wings - [[アクションロールプレイングゲーム|アクションRPG]]。[[Leaf]]の様々なキャラクターがゲスト出演している。初回版に付属。 :*TANK BATTLE - 戦車の性能やアルゴリズムをプログラミングして敵戦車と対決するゲーム。初回版に付属する予定だったが、諸事情により収録されず後日配布された。 :*お嬢様は魔女ミニ - 『To Heart』のキャラクターが活躍する[[アクションゲーム]]。 :*猪名川で売ろう!! - 『[[こみっくパーティー]]』のキャラクターが活躍するカードゲーム。 === 対応ソフトウェアが付属しているパソコンゲームソフト === ;Leaf/アクアプラス :*[[痕]](2002年リニューアル版) :*[[うたわれるもの]] :*[[テネレッツァ]] ;その他のソフトハウス :*[[催眠シリーズ (アダルトゲーム)|催眠術]]([[レインエンターテイメント|BLACKRAINBOW]]) :*巫 -かんなぎ-(BLACKRAINBOW) :*ハヤシ迷作劇場([[林組 (ブランド)|林組]]) :*From M(BLACKRAINBOW) :*催眠学園(BLACKRAINBOW) == その他 == 一般ユーザーによるソフト開発が可能な携帯ゲームということで[[ワンダーウイッチ]]と比較されることが多い。ワンダーウィッチはハードウェアの直接操作を許さない方針だったのに対し、当機はハードウェアの回路図までが公開されており、またソフトウェアの配布もロイヤリティ&ライセンスフリーとした。そのため、ワンダーウィッチから乗り換えたユーザーもいた。また、ファームウェアを含むソフトウェアは著作権こそ保持したままであるが、改変・改造されたものも、必要事項が明記されているという前提で、かつ同機で運用される限りは自由とされている。 本体プロセッサのパフォーマンスは[[ワンダースワン]]よりも高く設計されている。しかし、液晶はモノクロで解像度も諧調も低く、サウンド面も含め、専用の回路を持たない。そのため、全ての処理に対してプロセッサが直接処理を行う必要があり、システム全体としてのパフォーマンスは低目となると同時に消費電力が大きめになっている。また、電源としてUSBのバスパワー若しくは単三乾電池一本を必要とする。消費電力に対して乾電池の容量はきわめて小さく、携帯時の稼働時間は他のゲーム機などよりも著しく短くなっていた。コントローラ、ボタンを含む塗装、実装には実用性よりも価格や小型であることを重視した部分が見られ、短期間の使用であっても、塗装の剥離、ボタンの故障なども少なくなかった。 ハードウェアの仕様が公開されていることもあり、その大きさから細かな作業が必要とされるにもかかわらず、コアなユーザーの間では改造も広く行われている。中でもデバッグ用のパターンに端子を取り付ける『拡張端子増設』は半ば標準とも呼べる改造であり、積極的に利用されている。同パターンを利用した[[マルチメディアカード]]、あるいは[[SDメモリーカード]]を読み書きできる手法も考案され、読み出しに対応したカーネルもユーザーの手で製作されている。それに伴って[[SDメモリーカード#miniSDカード|miniSDカード]]を本体に内蔵する改造も流行する。仕様を利用したオーバークロックや、デバイスを休止させる事による消費電力の削減等もユーザによって開発され、フラッシュメモリの張り替えによる増設サービスなどもユーザレベルで行われていた。これら、積極的なユーザーの成果が、公式ファームウェアへ反映される現象もあった。 == 関連書籍 == *『'''P/ECE HANDBOOK'''』 [[電波新聞社]] ISBN 4-88554-716-4 *『'''P/ECE HANDBOOK VOL.2'''』 電波新聞社 ISBN 4-88554-727-X == 脚注 == {{Empty section|date=2023年4月}} == 関連項目 == *[[ワンダーウィッチ]] - ワンダースワンでユーザの作成したソフトウェアを動作させるプラットホーム。 *[[マイコンBASICマガジン]] - ユーザーの投稿プログラムの掲載、ソフトウェアの講座などの記事が掲載された。 == 外部リンク == *[http://www.aquaplus.jp/piece/ PIECE Official WebPage] *[http://www.piece-me.org/ P/ECE研究室] - ユーザによる研究サイト。 {{Leaf}} {{video-game-stub}} {{DEFAULTSORT:ひいす}} [[Category:携帯型ゲーム機]] [[Category:携帯可能なコンピュータ]] [[Category:アクアプラス|機]] [[Category:2000年代の玩具]]
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サニーデイ・サービス
サニーデイ・サービス(Sunny Day Service)は、日本のロックバンド。ボーカル、ギターの曽我部恵一を中心として1992年に結成され、1994年にミニ・アルバム『星空のドライブep』でメジャーデビュー。2000年の解散後、2008年に再結成された。
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サニーデイ・サービスは、日本のロックバンド。ボーカル、ギターの曽我部恵一を中心として1992年に結成され、1994年にミニ・アルバム『星空のドライブep』でメジャーデビュー。2000年の解散後、2008年に再結成された。
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> |名前 = サニーデイ・サービス |画像 = |画像説明 = |画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = band |別名 = <!-- 活動時に使用した別名義を記載。通称や略称ではありません --> |出身地 = {{JPN}}・[[東京都]] |ジャンル = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]<ref>{{Cite web |title=サニーデイ・サービス(サニーデイ・サービス)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E3%82%B5%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9 |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2020-12-16 }}</ref>|[[フォークロック]]<ref>{{Cite web |title=サニーデイ・サービス |url=https://artist.cdjournal.com/a/sunny-day-service/111439 |website=CDJournal |publisher=株式会社シーディージャーナル |accessdate=2020-12-16 }}</ref>|[[ガレージロック]]<ref name="cdj">{{Cite web |title=サニーデイ・サービス - ミニ・レビュー |url=https://artist.cdjournal.com/a/sunny-day-service/111439/review/ |website=CDJournal |publisher=株式会社シーディージャーナル |accessdate=2020-12-16 }}</ref>|[[ネオアコ]]<ref name="cdj" />|[[渋谷系]]<ref>{{Cite news |title=「渋谷系」とは何だったのか? “最後の渋谷系”が当時を語る |url=https://www.excite.co.jp/news/article/OhtaBooks_014620/ |newspaper=エキサイトニュース |publisher=[[エキサイト]] |date=2019-04-22 |accessdate=2020-12-16 }}</ref>}} |活動期間 = {{Plainlist| * {{Start date|1992}} - {{End date|2000}} * {{Start date|2008}} - }} |レーベル = {{Hlist-comma|PUSHBIKE|[[UNDER FLOWER RECORDS|UNDER FLOWER]]|GIANT-ROBOT|RHYME|[[ミディ|MIDI]]|Q&A COMMUNICATIONS|ROSE}} |事務所 = 有限会社スタジオ・ローズ |共同作業者 = [[渡邊文武]](ディレクター) |公式サイト = {{URL|http://rose-records.jp/artists/sunnydayservice/|所属事務所による公式ページ}} |メンバー = {{Plainlist| * [[曽我部恵一]]([[ボーカル]]・[[ギター]]) * 田中貴([[エレクトリックベース|ベース]]) * 大工原幹雄([[ドラムセット|ドラムス]]) }} |旧メンバー = {{Plainlist| * 片山紀夫([[パーカッション]]) * 児玉清([[キーボード (楽器)|キーボード]]) * 丸山晴茂(ドラムス) }} }} {{Infobox YouTube personality | name = サニーデイ・サービス | channel_display_name = Sunny Day Service / keiichi Sokabe official | channel_direct_url = c/SunnyDayServiceofficial | years_active = {{Start date|2007}} - | genre = [[音楽]] | subscribers = 約3.66万人 | views = 約1610.2万回 | stats_update = {{Start date|2022|11|23}} }} '''サニーデイ・サービス'''({{Lang|en|''Sunny Day Service''}})は、[[日本]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]。ボーカル、ギターの[[曽我部恵一]]を中心として1992年に結成され、1994年にミニ・アルバム『星空のドライブep』でメジャーデビュー。2000年の解散後、2008年に再結成された。 == メンバー == * '''[[曽我部恵一]]'''(そかべ けいいち、{{生年月日と年齢|1971|8|26}} - ) : {{unbulleted list|[[ボーカル]]、[[ギター]]担当。|[[香川県]][[坂出市]]出身。[[立教大学]]中退。}} * '''田中貴'''(たなか たかし、{{生年月日と年齢|1971}} ) : {{unbulleted list|[[ベース (弦楽器)|ベース]]担当。|[[愛媛県]][[今治市]]出身。}} * '''大工原幹雄'''(だいくはら みきお、{{生年月日と年齢|1982|3|3}} - ) : {{unbulleted list|[[ドラムセット|ドラムス]]担当。|[[神奈川県]][[横須賀市]]出身。|[[Qomolangma Tomato]]、Baduerykah、ボロキチのメンバーとしても活動。}} === 旧メンバー === * '''片山紀夫'''(かたやま のりお) : パーカッション、[[リズムボックス]]担当(1992年 - 1995年)。 * '''児玉清'''(こだま きよし) : [[キーボード (楽器)|キーボード]]担当(1993年 - 1995年)。 * '''丸山晴茂'''(まるやま はるしげ、[[1970年]][[11月6日]] - {{死亡年月日と没年齢|1970|11|6|2018|5|}}) : {{unbulleted list|ドラムス担当(1995年 - 2018年)。|[[東京都]][[東村山市|北区]]出身。[[日本大学鶴ヶ丘高等学校]]卒業。|2015年夏頃から体調不良により音楽活動を休むようになり、2016年2月にバンドを離れて療養に入る<ref name="post_335">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/02/post_335.html |title=サニーデイ・サービスからのお知らせ |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-02-09 |accessdate=2016-02-09}}</ref>。2018年5月、[[食道静脈瘤]]破裂により死去。享年47<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/07/post_492.html |title=訃報 |work=ROSE RECORDS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-07-15 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。曽我部は訃報にて、丸山が長年「[[アルコール依存症|アルコールの問題]]」を抱えていた旨を語っている<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/07/post_492.html |title=訃報 |work=ROSE RECORDS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-07-15 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。}} === サポート・メンバー === * 高野勲(元Freedom Suit、[[benzo]]) - キーボード({{Start date|1996}} - {{End date|2000}}、{{Start date|2008}} - ) * 宇佐美慶洋 - キーボード({{Start date|1996}}) * 新井仁(元N.G.three、RON RON CLOU、northern bright) - ギター({{Start date|1997}} - {{End date|1998}}、{{Start date|2008}} - ) * 細野しんいち(元[[magoo swim|Magoo Swim]]) - キーボード、ギター({{Start date|1999}} - {{End date|2000}}) * 横山裕章([[agehasprings]]) - キーボード({{Start date|2020}} - ) * 三原重夫 - パーカッション({{Start date|1999}} - {{End date|2000}}) * 鈴木正敏([[初恋の嵐]]) - ドラムス({{Start date|2010}}、{{Start date|2015}} - {{End date|2016}})<ref name="post_335" /> * 岡山健二([[andymori]]) - ドラムス({{Start date|2016}} - {{End date|2019}}) == 略歴 == <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1990年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[立教大学]]在学中に曽我部恵一と片山紀夫が、[[フォークロック]]バンド「ロックンロール・スター」を結成。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1991年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * ロックンロール・スターに田中貴が加入。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1992年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 春、「サニーデイ・サービス」結成。名称は曽我部が当時愛聴していた[[イギリス]]のバンド「アナザー・サニーデイ([[:en:Another Sunny Day|Another Sunny Day]])」から。結成当初はダンス・カルチャーとロックが融合したサウンドを指向していた。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1993年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * N.G.THREEとのスプリット・シングル「My everlasting happiness (N.G.THREE) ⁄ S.F.COLOUR IS BORN (SUNNY DAY SERVICE)」発売。 * [[8月5日]]、[[UNDER FLOWER RECORDS]]傘下のPUSHBIKE LABELより「COSMO-SPORTS ep」発売。 * 秋、児玉清が加入。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1994年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 2月、下北沢251でのライブイベントで、酔った曽我部と田中がイベントの主催者だった[[ミディ|MIDIレコード]]のディレクター渡邊文武に絡む。渡邊はインディーのオムニバスで名前は見ていたが、なぜかその時の様子を見ただけで漠然と「根拠のない自信」を感じ、この人たちと何かやりたいと思ったという<ref name="music_magagine_200702">『[[ミュージック・マガジン]]』2007 2月号(ミュージック・マガジン)pp54-57、2007年2月1日発行</ref>。 * [[2月15日]]、UNDER FLOWER RECORDS傘下のGIANT ROBOT LABELよりアルバム『SUPER DISCO』発売。 * 春、MIDIと契約。 * [[7月21日]]、MIDI傘下のRHYMEよりミニ・アルバム『INTERSTELLAR OVERDRIVE EP』発売。メジャーデビューを果たす。 * [[11月21日]]、ミニ・アルバム『コズミック・ヒッピー ep』発売(限定7インチアナログ盤[[11月21日]]発売)。 * 冬、片山と児玉が脱退。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1995年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 初頭、[[Electric Glass Balloon]]{{efn2|後に[[SUGIURUMN]]としても活動する杉浦英治が在籍。杉浦は「青春狂走曲」のPVに観客の1人として出演。}}(サニーデイと同じレーベルに所属)の元メンバー、丸山晴茂が加入。最終的なメンバー構成となる。 * [[3月21日]]、1stシングル「[[ご機嫌いかが?⁄街へ出ようよ|ご機嫌いかが? ⁄ 街へ出ようよ]]」発売。レコーディングには曽我部のみ参加。 * [[4月21日]]、1stアルバム『[[若者たち (サニーデイ・サービスのアルバム)|若者たち]]』発売。1970年代の邦楽のエッセンスを積極的に受け継ぐスタイルを打ち出す。 * [[7月21日]]、2ndシングル「[[青春狂走曲]]」発売。 * [[11月21日]]、3rdシングル「[[恋におちたら (サニーデイ・サービスの曲)|恋におちたら]]」発売。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1996年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[2月20日]]、インストア・イベント“曽我部ソロ・ライブ”開催([[タワーレコード]]心斎橋店)。 * [[2月21日]]、2ndアルバム『[[東京 (サニーデイ・サービスのアルバム)|東京]]』発売(限定アナログ盤[[8月31日]]発売)。 * [[2月24日]]、インストア・イベント“ミニ・ライブ”開催(タワーレコード渋谷店)。 * [[2月25日]]、インストア・イベント“曽我部恵一×北沢夏音トーク・ライブ”開催([[HMV]]渋谷店)。 * [[4月20日]]、ビデオクリップ集『Teenage Flashback vol.1』発売。 * [[4月24日]]、[[クラブクアトロ|渋谷CLUB QUATTRO]]。公式デビュー・ライブ。 * [[4月25日]]、心斎橋CLUB QUATTRO。 * 6月、“フォーキーブームツアー'96”開始。 ** [[6月29日]]、心斎橋CLUB QUATTRO。 ** [[7月1日]]、福岡ガヤ・ホール。 ** [[7月5日]]、心斎橋CLUB QUATTRO。 * [[7月5日]]、4thシングル「[[ここで逢いましょう]]」発売。 * [[8月28日]]、“JAPAN ACT”出演(新宿LIQUIDROOM、共演:[[エレファントカシマシ]])。 * [[9月22日]]、[[トラッシュ・キャン・シナトラズ]]のフロントアクトを務める(渋谷CLUB QUATTRO)。 * 10月、全国ツアー“TOUR'96”開始(サポート・ミュージシャン:高野勲(Key)、宇佐美慶洋(Key))。 ** [[10月7日]]、札幌PENNY LANE 24。 ** [[10月8日]]、仙台141スタジオホール。 ** [[10月11日]]、名古屋CLUB QUATTRO。 ** [[10月12日]]、心斎橋CLUB QUATTRO。 ** [[10月14日]]、広島ネオポリス。 ** [[10月16日]]、福岡スカラエスパシオ。 ** [[10月23日]]、渋谷ON AIR EAST。 * [[10月25日]]、5thシングル「[[サマー・ソルジャー]]」発売。 * 10月、[[香港]]にて3rdアルバムジャケット撮影。 * 11月、[[FM横浜]]レギュラー番組「サブストリーム」開始。 * [[11月4日]]、[[明治大学]]学園祭。 * [[11月17日]]、[[東洋大学]]学園祭。 * [[11月28日]]、渋谷CLUB QUATTRO(共演:[[遠藤賢司]])。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1997年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[1月15日]]、3rdアルバム『[[愛と笑いの夜]]』発売。 * [[2月12日]]、6thシングル「[[白い恋人 (サニーデイ・サービスの曲)|白い恋人]]」発売。 * 3月、ツアー“TOUR DE JAPON”開始(サポート・ミュージシャン:高野勲(Key)、新井仁(G))。 ** [[3月4日]]、名古屋CLUB QUATTRO。 ** [[3月6日]]、心斎橋CLUB QUATTRO。 ** [[3月7日]]、京都磔磔。 ** [[3月9日]]、新宿LIQUIDROOM{{efn2|name="eiichi_otaki"|[[大瀧詠一]]がライブを観に来場。}}。 * 4月、JFN系全国12局ネットレギュラー番組「フリースタイル・サービス」開始。 * [[5月5日]]、[[スペースシャワーTV]]ライブイベント“[[SWEET LOVE SHOWER|SWEET LOVE SHOWER'97]]”出演([[日比谷野外大音楽堂]]){{efn2|name="eiichi_otaki"}}。 * [[5月25日]]、ショーケース・ライブ(香港ハードロックカフェ)。 * 5月25日、7thシングル「[[恋人の部屋]]」発売(SONY[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]CMソング、[[テレビ朝日]]「MEW」テーマソング)。 * [[7月27日]]、日比谷野外大音楽堂。 * [[7月31日]]、ライブイベント“リズムターミナル”出演(大阪野外音楽堂、共演:[[東京スカパラダイスオーケストラ]]、[[フィッシュマンズ]] 他)。 * [[8月3日]]、ライブイベント“HASS IN WONDER ROCKET '97”出演([[真駒内オープンスタジアム]]、共演:[[ウルフルズ]]、[[THE HIGH-LOWS]] 他)。 * ライブイベント“LOVE CLAPPER”出演(仙台市民会館大ホール、共演:[[山崎まさよし]]、[[ヒックスヴィル]]、[[ザ・コレクターズ]] 他)。 * [[8月23日]]、ライブイベント“YOUG SOUND FEVER”出演(福岡DRUM LOGOS、共演:[[フラワーカンパニーズ]]、栗原淳 他)。 * [[8月24日]]、ライブイベント“SUPER NOVA”出演([[レオマワールド|香川レオマワールド]]、共演:山崎まさよし、[[thee michelle gun elephant]] 他)。 * [[9月26日]]、8thシングル「NOW」発売([[ロッテ]]ガーナミルクチョコレートCMソング)。 * [[10月22日]]、4thアルバム『[[サニーデイ・サービス (アルバム)|サニーデイ・サービス]]』発売(「baby blue」[[城南予備校]]CMソング、「旅の手帖」[[四国旅客鉄道|JR四国]]CMソング)。 * 10月、全国ツアー“サニーデイ・サービス TOUR'97”開始(サポート・ミュージシャン:高野勲(Key)、新井仁(G))。 ** [[10月20日]]、熊本フィーリングホール。 ** [[10月22日]]、福岡DRUM LOGOS。 ** [[10月23日]]、広島南区民センター。 ** [[10月27日]]、高松オリーブホール。 ** [[10月28日]]、高松サロンキティ。 ** [[11月4日]]、仙台ビーブベースメントシアター。 ** [[11月5日]]、仙台ビーブベースメントシアター。 ** [[11月11日]]、金沢AZホール。 ** [[11月12日]]、新潟フェイズ。 ** [[11月14日]]、札幌PENNY LANE 24。 ** [[11月19日]]、名古屋[[CLUB DIAMOND HALL|ダイアモンドホール]]。 ** [[11月20日]]、大阪IMPホール。 ** [[12月4日]]、京都磔磔(追加公演)。 ** [[12月6日]]、神戸チキンジョージ(追加公演)。 ** [[12月8日]]、名古屋CLUB QUATTRO(追加公演)。 ** [[12月10日]]、川崎クラブチッタ(追加公演)。 ** [[12月11日]]、新宿LIQUIDROOM(追加公演)。 ** [[12月18日]]、渋谷公会堂。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1998年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[2月11日]]、[[クイックジャパン]]ライブイベント“新宿マッド'98 若松孝二セッションズ”出演([[九段会館]]、共演:[[中原昌也]]、高井康生、[[湯浅学]]、[[秋山道男]])。 * [[2月28日]]、[[FM大阪]]ライブイベント“EASY851 &amp; Lマガジン NEW LIVE JACK”出演(梅田HEATBEAT、共演:フラワーカンパニーズ)。 * [[3月6日]]、イギリスを旅行(〜17日まで)。トラッシュ・キャン・シナトラズを[[スコットランド]]のキルマーノックに訪ね、数日セッションを行う。その間に彼らのスタジオ“Shabby Road Studio”で、互いのフェイバリットである「ハーパース・ビザール([[:en:Harpers Bizarre|Harpers Bizarre]])」の曲「SNOW」をレコーディングする。 * [[3月18日]]、ビデオクリップ集『Teenage Flashback vol.2』発売。 * [[3月24日]]、[[ぴあ]]・CLUB QUATTRO ライブイベント“STYLE 1998 Vol.11”出演(渋谷CLUB QUATTRO、共演:THE PASTELS)。 * [[4月22日]]、ライブイベント“ムサシノ・コズミック・バスキング”出演(新宿パワーステーション、共演:[[カーネーション (バンド)|カーネーション]]、[[小島麻由美]])。 * [[5月27日]]、9thシングル「[[さよなら! 街の恋人たち]]」発売。 * [[7月5日]]、日比谷野外大音楽堂。 * [[7月13日]]、ライブイベント“ロックロックこんにちは!”出演(大阪IMPホール)。 * [[7月14日]]、5thアルバム『[[24時 (サニーデイ・サービスのアルバム)|24時]]』発売。 * [[8月1日]]、ライブイベント“KSB KIRINラガーサウンド”出演(宇多津臨海公園多目的広場)。 * [[8月20日]]、ライブイベント“THE ELECTRIC FOOL - AID”出演(新宿LIQUIDROOM、共演:[[GREAT3]] DJ:北沢夏音)。 * [[9月2日]]、10thシングル「[[今日を生きよう]]」発売。 * 9月、全国ツアー“サニーデイ・サービス TOUR'98”開始(サポート・ミュージシャン:高野勲(Key)、新井仁(G))。 ** [[9月19日]]、福岡DRUM LOGOS。 ** [[9月20日]]、福岡DRUM LOGOS。 ** [[9月22日]]、大分ドラムトップス。 ** [[9月23日]]、熊本ライブベースクルー。 ** [[9月25日]]、長崎NCC&amp;スタジオ。 ** [[10月2日]]、渋谷公会堂。 ** [[10月5日]]、新宿LIQUIDROOM。 ** [[10月6日]]、新宿LIQUIDROOM。 ** [[10月8日]]、仙台電力ホール。 ** [[10月10日]]、札幌PENNY LANE 24。 ** [[10月11日]]、札幌PENNY LANE 24。 ** [[10月14日]]、青森ラビナホール。 ** [[10月15日]]、秋田ジョイナス。 ** [[10月21日]]、浜松フォルテホール。 ** [[10月23日]]、大阪IMPホール。 ** [[10月24日]]、大阪IMPホール。 ** [[10月26日]]、名古屋ダイアモンドホール。 ** [[10月27日]]、名古屋ダイアモンドホール。 ** [[10月29日]]、[[滋賀大学]]学園祭。 ** [[10月30日]]、金沢AZホール。 ** [[10月31日]]、金沢AZホール。 ** [[11月2日]]、長野ライブハウスJ。 ** [[11月3日]]、新潟フェイズ。 ** [[11月12日]]、高知キャラバンサライ。 ** [[11月13日]]、高松オリーブホール。 ** [[11月14日]]、高松オリーブホール。 ** [[11月16日]]、松山サロンキティ。 ** [[11月17日]]、松山サロンキティ。 ** [[11月19日]]、広島南区民文化センター。 ** [[11月20日]]、広島南区民文化センター。 ** [[11月22日]]、米子ファンフェルナンデス。 ** [[11月24日]]、京都磔磔。 ** [[11月25日]]、神戸チキンジョージ。 ** [[11月27日]]、倉敷芸文官。 ** [[11月30日]]、渋谷公会堂。 ** [[12月5日]]、沖縄ヒューマンステージ。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">1999年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[4月16日]]、ライブイベント“ウッドストック30周年”出演(福岡イズム、共演:[[:en:Hirth Martinez|ハース・マルティネス]]&amp;[[ジョン・サイモン]]、THE SUZUKI、[[南佳孝]])。 * [[5月22日]]、ライブイベント“和歌山県串本町湖畔野外コンサート”出演(共演:[[木村充揮|木村君]]と[[有山じゅんじ|有山君]]、[[センチメンタル・シティ・ロマンス]])。 * [[6月13日]]、ライブイベント“Your Bloods!”出演(日比谷野外大音楽堂、共演:[[ソウルフラワーユニオン]]、[[くるり]])。 * [[6月23日]]、ライブイベント“クアトロミーティングスペシャル”出演(渋谷CLUB QUATTRO、共演:[[ゆらゆら帝国]])。 * [[8月18日]]、11thシングル「[[スロウライダー]]」発売(限定12インチアナログ盤同時発売)。 * [[8月21日]]、ライブイベント“[[ライジング・サン・ロックフェスティバル#1999年|RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO]]”出演。 * [[9月22日]]、12thシングル「夢見るようなくちびるに」発売(限定12インチアナログ盤[[10月1日]]発売)。 * [[10月20日]]、6thアルバム『[[MUGEN (サニーデイ・サービスのアルバム)|MUGEN]]』発売(限定アナログ盤[[12月25日]]発売)。 * 10月、全国ツアー“サニーデイ・サービス TOUR'99”開始(サポート・ミュージシャン:高野勲(Key)、細野しんいち(Key,G)、三原重夫(Per))。 ** [[10月10日]]、[[中京女子大学]]学園祭。 ** [[10月23日]]、[[聖心女子大学]]学園祭。 ** [[10月30日]]、[[神戸商科大学]]学園祭。 ** [[11月3日]]、[[大阪商業大学]]学園祭。 ** [[11月5日]]、金沢文化ホール。 ** [[11月7日]]、新潟フェイズ。 ** [[11月12日]]、岡山オルガホール。 ** [[11月13日]]、広島女子学院大学学園祭。 ** [[11月15日]]、福岡電気ホール。 ** [[11月18日]]、渋谷公会堂。 ** [[11月23日]]、札幌PENNY LANE 24。 ** [[11月25日]]、[[仙台電力ホール]]。 ** [[12月13日]]、[[愛知勤労会館]]。 ** [[12月16日]]、[[香川県民ホール]]。 ** [[12月20日]]、[[大阪厚生年金会館]]。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2000年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[3月11日]]、ライブイベント“マジックファンフェアーVol.2”出演(渋谷CLUB QUATTRO、共演:ザ・コレクターズ、[[Scoobie Do]])。 * [[5月24日]]、13thシングル「夜のメロディ ⁄ 恋は桃色」発売(限定12インチアナログ盤同時発売)。 * [[5月29日]]、曽我部、ライブイベント“宇田川町ブルース”にソロで出演。 * [[6月12日]]、曽我部ソロライブ(下北沢CLUB Que、ワンマン)。 * [[7月26日]]、14thシングル「[[魔法 (サニーデイ・サービスの曲)|魔法]]」発売(限定12インチアナログ盤[[8月1日]]発売)。 * [[9月20日]]、7thアルバム『[[LOVE ALBUM]]』発売(限定2枚組アナログ盤[[10月6日]]発売)。 * [[10月1日]]、ライブイベント“bizarre love triangle (高野勲祭り)”出演(下北沢CLUB Que、共演:JOEY、新井仁)。 * [[10月3日]]、ライブイベント出演(渋谷CLUB QUATTRO、共演:[[バッドリー・ドローン・ボーイ]])。 * [[10月6日]]、リミックス・アルバム『[[PARTY LOVE ALBUM]]』発売(ライブ会場での限定販売、限定アナログ盤同時発売)。 * 10月、全国ツアー“LOVE ALBUM TOUR”開始(サポート・ミュージシャン:高野勲(Key)、細野しんいち(Key,G)、三原重夫(Per))。 ** [[10月6日]]、宮城Zepp Sendai。 ** [[10月10日]]、新潟フェイズ。 ** [[10月11日]]、富山教育文化会館。 ** [[10月13日]]、大阪厚生年金会館大ホール。 ** [[10月16日]]、京都会館中ホール。 ** [[10月18日]]、香川県民ホール・アクト。 ** [[10月20日]]、福岡メルパルクホール。 ** [[10月21日]]、広島アステールプラザホール。 ** [[10月22日]]、広島アステールプラザホール。 ** [[10月24日]]、岡山オルガホール。 ** [[10月27日]]、[[武庫川女子大学]]学園祭。 ** [[10月30日]]、[[愛知勤労会館]]。 ** [[11月2日]]、渋谷公会堂。 ** [[11月13日]]、札幌PENNY LANE 24。 ** [[11月15日]]、青森クオーター。 ** [[11月16日]]、秋田ジョイナス。 ** [[11月18日]]、郡山ヒップショット。 ** [[11月22日]]、長野ジャンクボックス。 ** [[11月23日]]、金沢AZホール。 ** [[11月25日]]、[[奈良県立医科大学]]学園祭。 ** [[11月27日]]、米子ファンフェルナンデス。 ** [[11月29日]]、高知キャラバンサライ。 ** [[11月30日]]、松山サロンキティ。 ** [[12月2日]]、鹿児島キャパルホール。 ** [[12月3日]]、熊本2000GTR。 ** [[12月5日]]、長崎NCC&amp;スタジオ。 ** [[12月6日]]、大分トップス。 ** [[12月13日]]、新宿LIQUIDROOM。 ** [[12月14日]]、新宿LIQUIDROOM。 * 12月6日、ライブアルバム『FUTURE KISS〜LIVE RECORDING AT 宝陽幼稚園』発売(限定10インチアナログ盤同時発売)。 * [[12月8日]]、12月21日収録予定のスペースシャワーTV『梁山泊』への出演が解散という急な事態によりキャンセルとなったことが同番組のホームページで掲載され、解散が公になる。追って、MIDIから13,14日の新宿LIQUIDROOMのライブをもって解散する旨の発表が出された。 * 12月14日、解散。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2001年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[5月23日]]、ベスト・アルバム『[[Best Sky]]』,『[[Best Flower|Best Flower -B side collection-]]』発売(限定2枚組アナログ盤同時発売)。 * [[12月15日]]、曽我部1stソロ・シングル「ギター」発売(7インチアナログ盤同時発売)。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2006年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[7月16日]]、曽我部ソロライブ(下高井戸シネマ)。アルバム『東京』収録曲をすべて曲順どおりにアコーステック・ギターの弾き語りで演奏(後にライブ・アルバム『東京コンサート』として[[10月6日]]に限定発売)。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2008年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[7月25日]]、再結成を発表<ref>[https://sokabekeiichi-diary.hatenadiary.org/entries/2008/07/25 曽我部恵一日記 2008-07-25 “サニーデイ・サービス”]</ref>。RISING SUN ROCK FESTIVALでのライブが決定。 * [[8月21日]]、ライブイベント“[[ライジング・サン・ロックフェスティバル#2008年|RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO]]”出演。 * [[8月23日]]、曽我部ソロライブ(葉山 BLUE MOON)。アンコールに田中 丸山と新井仁が登場、サニーデイ・サービスとして「海岸行き」を演奏。 * [[12月3日]]、DVD『TEENAGE FLASHBACK 1995-2000』発売。 * [[12月24日]]、曽我部恵一 クリスマス・ミニ・ライブ“24×24”(下北沢City Country City、サポート・ミュージシャン:田中貴(G))。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2009年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[4月4日]]、ライブイベント“ウォッチング・ザ・スカイ 2009”出演([[上野恩賜公園]]野外ステージ、共演:ジェシー・ハリス、[[キセル (バンド)|キセル]]、おおはた雄一、Port of Notes)<ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/13594 |title=サニーデイ・サービス、上野野外フェスに出演決定 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |publisher=株式会社ナターシャ |date=2009-02-20 |accessdate=2009-02-20}}</ref>。 * [[7月26日]]、ライブイベント“[[フジロックフェスティバル#2009年|FUJI ROCK FESTIVAL 09]]”出演(新潟苗場スキー場“FIELD OF HEAVEN”)、曽我部は曽我部恵一BANDでも出演(苗場食堂)。 * [[10月12日]]、“東京360分 -ROSE RECORDS &amp; LIQUIDROOM 5th Anniversary-”開催(恵比寿LIQUIDROOM、LIVE:曽我部恵一BAND、曽我部恵一ランデヴーバンド、サニーデイ・サービス、ホテルニュートーキョー、[[豊田道倫]]、ワッツーシゾンビ、中村ジョー、冬の踊り子、Cheekbone、タカハシヨウヘイ、島津田四郎、The COMMONS、上間常弘、ザ・テレパシーズ、神さま、aCae、ライスボウル、松本敏将(tobaccojuice) DJ:ランタンパレード、DJ YOGURT、[[やついいちろう]]([[エレキコミック]])、三浦康嗣([[□□□]])、[[フルカワミキ]]、AYASHIGE([[WRENCH]]))。 * 10月、新アルバムに向けてのレコーディング開始<ref>[https://sokabekeiichi-diary.hatenadiary.org/entries/2009/10/22 曽我部恵一日記 2009-10-22 “the band goes on...”]</ref>。 * [[11月19日]]、曽我部、“GreatMeeting -session.3-”ゲスト出演(下北沢440、出演:サンコンJr.(Dr)、田中貴(B)、後藤秀人(G)、諸岡大也(Key))。 * [[12月21日]]、ライブイベント“SPACE X'MAS + official bootleg TOUR 2009”出演(心斎橋CLUB QUATTRO、共演:[[少年ナイフ]]、[[ブラッドサースティー・ブッチャーズ]])。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2010年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[1月17日]]、ライブイベント“MINE★ROCK FESTIVAL”出演(新木場STUDIO COAST、共演:Scoobie Do、[[ZAZEN BOYS]]、[[サンボマスター]]、[[monobright]]、a flood of circle、[[音速ライン]])。 * [[1月21日]]、ライブイベント“MEET AFTER TEN YEARS.”出演(姫路マッシュルーム、共演:フラワーカンパニーズ)。 * [[1月22日]]、“海岸行き 2010”にアコースティックセットで出演(高松umie)。 * [[1月23日]]、ライブイベント“MEET AFTER TEN YEARS.”出演(歌山club GATE、共演:フラワーカンパニーズ)。 * [[1月24日]]、ライブイベント“MEET AFTER TEN YEARS.”出演(浜松窓枠、共演:フラワーカンパニーズ)。 * [[3月1日]]、“Sunny Day Service × Trashcan Sinatras”出演(渋谷CLUB QUATTRO、共演:[[トラッシュ・キャン・シナトラズ]])。 * [[3月2日]]、“Sunny Day Service × Trashcan Sinatras”出演(心斎橋CLUB QUATTRO、共演:トラッシュ・キャン・シナトラズ)。 * [[3月4日]]、“Sunny Day Service × Trashcan Sinatras”出演(渋谷CLUB QUATTRO、共演:トラッシュ・キャン・シナトラズ)。 * [[4月21日]]、9年ぶりとなる8thアルバム『[[本日は晴天なり (サニーデイ・サービスのアルバム)|本日は晴天なり]]』発売(限定アナログ盤発売)。インストア フリーライブ開催(タワーレコード新宿店7F イベントスペース)。 * [[4月29日]]、ライブイベント“SPACE SHOWER TV presents Sound Garden”出演(日比谷野外大音楽堂、共演:[[二階堂和美]] with [[Double Famous]]、[[トクマルシューゴ]])。 * [[5月1日]]、ライブイベント“[[荒吐ロックフェスティバル#2010年ARABAKI ROCK FEST.10|ARABAKI ROCK FEST.10]]”出演(宮城エコキャンプみちのく MICHINOKUステージ)。 * [[5月17日]]、丸山が体調不良のためバンド活動を休むことが発表される。曽我部はすべての活動をキャンセルすべきか迷ったが、サニーデイが続くことを重視して当面、ライブは曽我部と田中の二人にサポート・メンバーを迎えた形で予定通り行うことになった。 * [[5月22日]]、ライブイベント“Springfields '10 〜九州場所〜”出演(福岡海の中道海浜公園デイキャンプ場、共演:[[細野晴臣]]、[[UA (歌手)|UA]]、[[SAKEROCK]]、[[向井秀徳|向井秀徳アコースティック&amp;エレクトリック]])。 * [[5月29日]]、ライブイベント“[[ROCKS TOKYO#2010年|ROCKS TOKYO]]”出演(東京新木場 若洲公園)。 * [[7月18日]]、ライブイベント“JOIN ALIVE”出演(北海道いわみざわ公園、共演:[[EGO-WRAPPIN'|EGO-WRAPPIN' AND THE GOSSIP OF JAXX]]、[[サカナクション]]、[[ザ・クロマニヨンズ]]、[[10-FEET]]、東京スカパラダイスオーケストラ、[[福原美穂]]、[[PE'Z]] 他)。 * [[8月8日]]、ライブイベント“[[ROCK IN JAPAN FESTIVAL|ROCK IN JAPAN FES.2010]]”出演([[国営ひたち海浜公園|茨城ひたち海浜公園]])。 * [[8月19日]]、インストア・ライブ“HMV渋谷おつかれサマーフェス”出演(HMV渋谷店)<ref>{{cite video |people= |date=2010-08-22 |title=サニーデイ・サービス @ HMV渋谷 1ステージ目 |url=https://www.youtube.com/watch?v=Ib_b7T9wd9o |format= |medium= |language= |publisher=Rose Records TV |location=HMV渋谷 |archiveurl= |archivedate= |accessdate=2010-08-22 |time= |id= |isbn= |oclc= |quote= |ref= }}</ref><ref>{{cite video |people= |date=2010-08-22 |title=サニーデイ・サービス @ HMV渋谷 2ステージ目 |url=https://www.youtube.com/watch?v=p853uXk41bs |format= |medium= |language= |publisher=Rose Records TV |location=HMV渋谷 |archiveurl= |archivedate= |accessdate=2010-08-22 |time= |id= |isbn= |oclc= |quote= |ref= }}</ref>。急性膵炎で長期入院していた丸山が退院、復帰。追って9月3日からの全国ツアー“サニーデイ・サービス TOUR 2010”より完全復帰することが公式サイトで発表される。 * [[8月28日]]、ライブイベント“[[コヤブソニック|KOYABU SONIC 2010]]”出演(大阪 インテックス大阪5号館、共演:[[ET-KING]]、[[カジヒデキ]]、[[加藤紀子]]、[[斉藤和義]]、[[ビッグポルノ]]、[[ホフディラン]]、[[YO-KING]]、1234's([[BONNIE PINK]] &amp; [[ウルフルケイスケ]]) 他)。 * [[8月29日]]、スペースシャワーTVライブイベント“SWEET LOVE SHOWER 2010 15th ANNIVERSARY”出演(山中湖交流プラザきらら)。 * 9月、全国ツアー“サニーデイ・サービス TOUR 2010”開始(サポート・ミュージシャン:高野勳(Key)、新井仁(G))。 ** [[9月3日]]、恵比寿LIQUIDROOM。 ** [[9月5日]]、広島CLUB QUATTRO。 ** [[9月10日]]、名古屋ダイアモンドホール。 ** [[9月20日]]、福岡DRUM LOGOS。 ** [[10月10日]]、高松オリーブホール。 ** [[10月11日]]、心斎橋CLUB QUATTRO。 ** [[10月23日]]、新潟LOTS。 ** [[11月3日]]、札幌PENNY LANE 24。 ** [[11月22日]]、宮城Zepp Sendai。 ** [[11月28日]]、九段会館 大ホール。 * [[12月5日]]、ライブイベント“みやこ音楽祭'10”出演(京都 KBSホール、共演:くるり、[[ハンバートハンバート]]、neco眠る、CRACKS&amp;RABBITS、ザ・ドクロズ、片山ブレイカーズ&amp;ザ☆ロケンローパーティ 他)。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2011年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[5月3日]]、ライブイベント“祝 春一番 2011”出演(大阪 服部緑地野外音楽堂、共演:[[おおはた雄一]]、コオロギ三郎&amp;キリギリス二郎、佐藤GWAN博、渋谷毅オーケストラ、[[東京ローカル・ホンク]]、[[友部正人]]、[[中川イサト]]、[[中川五郎]]、NIMAと[[坂田明]]、はじめにきよし、パパラッコスペシャル([[古澤良治郎]]追悼BAND)、ペーソス、[[松田幸一]]、[[村上律]])。 * [[5月4日]]、“J-WAVE &amp; Roppongi Hills present TOKYO M.A.P.S YUKIHIRO TAKAHASHI EDITION”出演(東京 [[六本木ヒルズ]]アリーナ、共演:[[小坂忠]]、[[清竜人]]、[[キリンジ]]、[[高野寛]]、[[リリー・フランキー]]、4 bonjour's parties)。 * [[5月22日]]、ライブイベント“[[コヤブソニック|KOYABU SONIC 2011]]”出演(大阪 舞洲コヤブソニック特設会場、共演:[[AFRA]]、[[EGO-WRAPPIN'|EGO-WRAPPIN' AND THE GOSSIP OF JAXX]]、[[小泉今日子]]、[[スチャダラパー]]、[[TOKYO No.1 SOUL SET]]、[[ハナレグミ]]、[[HALCALI]]、[[ビッグポルノ]]、1234's([[BONNIE PINK]] &amp; ウルフルケイスケ) 他)。 * [[7月5日]]、『がんフーフー日記』出版記念イベント“ヨメハゲフェス 2011”出演(表参道CAY、【トークショー】[[清水浩司]] &amp; 渡辺祐、【ライブ】Permanents([[田中和将]] &amp; 高野勲 from [[GRAPEVINE]])、[[秦基博]])。 * [[7月6日]]、DJやついいちろう presents “七夕ナイト” GOLDEN HITSリリースツアー出演([[Shibuya O-EAST]]、出演:DJやついいちろう、[[andymori]]、[[レキシ]]、[[IMARU]])。 * [[7月29日]]、ライブイベント“FUJI ROCK FESTIVAL 11”出演(新潟苗場スキー場“WHITE STAGE”)。 * [[9月15日]]、マンスリー・ライブ&lt;曽我部恵一 presents“shimokitazawa concert”第九夜・九月&gt;出演(下北沢440、共演:[[前野健太]]とDAVID BOWIEたち DJ:田中貴、曽我部恵一)。 * [[9月27日]]、“LIQUIDROOM 7th ANNIVERSARY”出演(恵比寿LIQUIDROOM、共演:TOKYO NO.1 SOUL SET)。 * [[10月15日]]、ライブイベント“SATURN”出演(大阪 なんばHATCH、共演:SAKEROCK、[[LITTLE CREATURES]]、[[トクマルシューゴ]]、[[七尾旅人]]、[[イルリメ]]、MaNHATTAN、浦朋恵リズム&amp;ブルースブレイカーズ他)。 * [[11月3日]]、ライブイベント“プチロックフェスティバル”出演([[日本大学]]芸術学部 江古田キャンパス 録音スタジオA、共演:鴨田潤、cero、三輪二郎、oono yuuki、カミイショータグループ、チェンチェン)。 * [[12月8日]]、ライブイベント“Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ 2011”出演(東京 [[日本武道館]])。 * [[12月10日]]、ライブイベント“愛と笑いの夜”出演(渋谷CLUB QUATTRO、共演:GOING UNDER GROUND、[[エレキコミック]]、向井秀徳アコースティック&amp;エレクトリック)。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2012年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[3月24日]]、韓国空中キャンプ×日本cafeSTAND presents“STANDARD CAMP 〜第二夜 SUNNY DAY SERVICE〜”出演(韓国 空中キャンプ、共演:K-indie Band)。 * [[8月8日]]、ROSE RECORDS &amp; LIQUIDROOM 8th Anniversary“サニーデイ・サービス ワンマンライブ 〜夏は行ってしまった〜”出演(恵比寿LIQUIDROOM)。15thシングル「[[夏は行ってしまった]]」発売(アナログ盤7インチ+CD)。オンラインショップのほか、ライブ会場でも限定販売。 * [[9月26日]]、16thシングル「[[One Day (サニーデイ・サービスの曲)#7inch EP+CD:ROSE 139|One Day]]」発売(アナログ盤7インチ+CD)。オンラインショップでの限定販売。 * [[9月29日]]、ライブイベント“[[コヤブソニック|KOYABU SONIC 2012]]”出演(大阪 舞洲コヤブソニック特設会場、共演:[[AFRA]]、[[EGO-WRAPPIN'|EGO-WRAPPIN' AND THE GOSSIP OF JAXX]]、[[加藤紀子]]、[[小泉今日子]]、[[サイプレス上野とロベルト吉野]]、[[スチャダラパー]]、スモールポルノ、[[田島貴男]]([[Original Love|ORIGINAL LOVE]])、[[チャットモンチー]]、[[TOKYO No.1 SOUL SET]]、[[ビッグポルノ]]、N´夙川BOYS 他)。 * [[10月19日]]、“中村一義デビュー15周年記念ライブ 中村一義×サニーデイ・サービス”出演(名古屋ダイアモンドホール)。 * [[10月20日]]、“中村一義デビュー15周年記念ライブ 中村一義×サニーデイ・サービス”出演(名古屋ダイアモンドホール)。 * [[11月22日]]、16thシングル「[[One Day (サニーデイ・サービスの曲)#7inch EP+CD:ROSE 141|One Day]]」セカンド・プレス発売(アナログ盤7インチ+CD)。カップリングにBushmindによるリミックスを収録した、9月発売のシングルの新装版。オンラインショップでの限定販売。 * 11月、“サニーデイ・サービス 冬のコンサート 2012”開始。 ** [[11月24日]]、札幌 モエレ沼公園 ガラスのピラミッド{{efn2|01. baby blue〜02. 今日を生きよう〜03. 虹の午後に〜04. 枯れ葉〜05. 経験〜06. スロウライダー〜07. 果実〜08. 白い恋人〜09. 月光荘〜10. PINK MOON〜11. 星を見たかい?〜12. シルバー・スター〜13. 青春狂走曲〜14. NOW〜15. ぼくは死ぬのさ〜16. ここで逢いましょう〜17. 24時のブルース〜18. ふたつのハート〜19. 胸いっぱい〜20. 若者たち〜21. 恋におちたら〜22. 東京〜encore:01. きれいだね〜02. コーヒーと恋愛}}。 ** [[12月18日]]、石川 金沢21世紀美術館シアター21{{efn2|01. baby blue〜02. 朝〜03. 知らない街にふたりぼっち〜04. 枯れ葉〜05. 経験〜06. スロウライダー〜07. 果実〜08. だれも知らなかった朝に〜09. 白い恋人〜10. ぼくは死ぬのさ〜11. 時計をとめて夜待てば〜12. 24時のブルース〜13. シルバー・スター〜14. 青春狂走曲〜15. 月光荘〜16. 東京〜17. 恋におちたら〜18. ふたつのハート〜19. NOW〜encore:01. コーヒーと恋愛}}。 ** [[12月23日]]、青森県立美術館シアター{{efn2|01. baby blue〜02. 朝〜03. 枯れ葉〜04. 恋はいつも〜05. スロウライダー〜06. 果実〜07. ぼくは死ぬのさ〜08. 白い恋人〜09. 時計をとめて夜待てば〜10. PINK MOON〜11. 星を見たかい?〜12. ここで逢いましょう〜13. 月光荘〜14. シルバー・スター〜15. 青春狂走曲〜16. 胸いっぱい〜17. ふたつのハート〜18. 恋におちたら〜19. 若者たち〜20. NOW〜21. 東京〜22. コーヒーと恋愛〜encore:01. きれいだね〜24. One Day}}。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2013年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[4月27日]]、ライブイベント“[[荒吐ロックフェスティバル|ARABAKI ROCK FEST.13]]”出演(宮城エコキャンプみちのく 津軽ステージ サポート・ミュージシャン:高野勳(Key)、新井仁(G)){{efn2|SC. スロウライダー〜SC. あじさい〜1. baby blue〜2. 恋におちたら〜3. 花咲くころ〜4. ここで逢いましょう〜5. ふたつのハート〜6. NOW〜7. サマー・ソルジャー〜encore:青春狂走曲}}。 * [[6月26日]]、ベスト・アルバム『[[サニーデイ・サービス BEST 1995-2000]]』発売。 * [[7月15日]]、インストア・イベント“曽我部恵一&amp;サニーデイ・サービス スペシャルライブ+サイン会”出演(タワーレコード新宿店 7Fイベントスペース){{efn2|1. ギター(曽我部ソロ 弾き語り)〜2. サマー・シンフォニー(曽我部ソロ 弾き語り)〜3. 恋はいつも〜4. スロウライダー〜5. あじさい〜6. 恋におちたら〜7. サマー・ソルジャー〜8. ふたつのハート〜9. 6月の歌(新曲、曽我部ソロ弾き語り)}}。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2014年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[8月1日]]、ライブイベント“はみ出し夏ノ陣!!クリスマスツリー返還LIVE”出演<ref name="81live_club_que">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2014/08/_liveup81live_club_que.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。8/1<はみ出し夏ノ陣!!クリスマスツリー返還LIVE>@下北沢 CLUB Que |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2014-08-02 |accessdate=2014-08-02}}</ref>(下北沢CLUB Que、共演:踊ってばかりの国)。 * [[8月15日]]、17thシングル「[[アビーロードごっこ]]」発売(アナログ盤7インチ+CD)。オンラインショップ限定販売。 * [[10月21日]]、9thアルバム『[[Sunny (サニーデイ・サービスのアルバム)|Sunny]]』発売(限定アナログ盤発売)。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2015年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * [[2月24日]]、デビュー20周年を記念したアナログLPリリース・プロジェクトが決定。未アナログ化のアルバム4作品『若者たち』『愛と笑いの夜』『サニーデイ・サービス』『24時』の順次リリースを発表<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/02/20lp.html |title=サニーデイ・サービス、デビュー20周年を記念したアナログLPリリースが決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-02-24 |accessdate=2015-02-24}}</ref>。 * [[3月27日]]、“サニーデイ・サービス 渋谷公会堂コンサート 2015”開催([[渋谷公会堂]])<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/03/_liveup327_2015.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。3/27<サニーデイ・サービス 渋谷公会堂コンサート 2015>@渋谷公会堂 |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-03-27 |accessdate=2015-03-27}}</ref>。同会場での15年ぶりのワンマン・ライブ。 * [[4月11日]]、『サニーデイ・サービス 田中貴プロデュース ラーメン本 Ra:』発売記念 トークショー・ミニライブ・サイン会(17:30- タワーレコード渋谷店B1F「CUTUP STUDIO」)※出演:田中貴、曽我部恵一、丸山晴茂 司会:モリタタダシ(Ra: ライター)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/04/_liveup411_ra.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。4/11<『サニーデイ・サービス 田中貴プロデュース ラーメン本 Ra:』発売記念 トークショー・ミニライブ・サイン会> |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-04-11 |accessdate=2015-04-11}}</ref> * [[4月15日]]、アナログ盤『[[若者たち (サニーデイ・サービスのアルバム)#LP:SGLP-1001|若者たち]]』発売(3月27日の渋谷公会堂公演で先行販売)。2015年最新マスタリングによる完全限定プレス。発売当時の復刻ポスターを封入。 * [[4月26日]]、ライブイベント“[[荒吐ロックフェスティバル|ARABAKI ROCK FEST.15]]”出演<ref name="arabaki_2015">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/04/_liveup42526arabaki_rock_fest15.html |title=曽我部恵一,サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。4/25,26<ARABAKI ROCK FEST.15>@宮城エコキャンプみちのく |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-04-27 |accessdate=2015-04-27}}</ref>(宮城エコキャンプみちのく 鰰ステージ)。 * [[5月10日]]、ライブイベント“森、道、市場2015〜モリハイヅコヘ〜”出演<ref name="live_20150510">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/05/_liveup5102015.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。5/10<森、道、市場2015〜モリハイヅコヘ〜>@蒲郡 大塚海浜緑地 |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-04-27 |accessdate=2015-04-27}}</ref>(蒲郡 [[大塚海浜緑地]])。 * 5月、“SUNNY DAY SERVICE Asia tour Live”開始<ref name="asia_tour_live">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/03/sunny_day_service_asia_tour_live.html |title=サニーデイ・サービスの香港と台湾ライブ<SUNNY DAY SERVICE Asia tour Live>が決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-03-02 |accessdate=2015-03-02}}</ref>。 ** [[5月29日]]、香港 Music Zone@E-Max ** [[5月30日]]、台湾 Riverside Live House ** [[7月10日]]、韓国 空中キャンプ<ref name="asia_tour_live_add">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/04/sunny_day_service_asia_tour_live_1.html |title=サニーデイ・サービスのアジアツアー<SUNNY DAY SERVICE Asia tour Live>に韓国空中キャンプが追加決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-04-29 |accessdate=2015-04-29}}</ref>(共演:K-indie Band) ** [[7月11日]]、韓国 空中キャンプ<ref name="asia_tour_live_add" />(共演:K-indie Band) * [[6月21日]]、ライブイベント“YATSUI FESTIVAL! 2015”出演<ref name="yatsui_festival_2015">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/06/_liveup621yatsui_festival_2015_10.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。6/21<YATSUI FESTIVAL! 2015>@東京 渋谷10会場 |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-06-22 |accessdate=2015-06-22}}</ref> * [[6月26日]]、デビュー20周年を記念したアナログLPの第2弾リリースとして、アナログ盤『愛と笑いの夜』発売。2015年最新マスタリングによる完全限定プレス。発売当時の復刻ポスターを封入<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/05/20lp626.html |title=サニーデイ・サービス、デビュー20周年を記念したアナログLPリリース第二弾『愛と笑いの夜』6/26発売です。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-05-26 |accessdate=2015-05-26}}</ref>。 * [[7月17日]]、15年ぶりに開催された東京・渋谷公会堂でのワンマン・ライブから楽曲をセレクトしたライブ・アルバム『[[Birth of a Kiss]]』発売。CDと数量限定のアナログ盤、ROSE RECORDSオンライン・ショップ限定のボックス・セットの3仕様で発売<ref name="20150702_live_1">{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/145869 |title=サニーデイ・サービス渋公ライブがCD化、限定ボックスにはDVDも |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2015-04-30 |accessdate=2015-04-30}}</ref><ref name="20150702_live_2">{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/147929 |title=サニーデイ渋公ライブアルバム、タイトルは「Birth of a Kiss」 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2015-05-21 |accessdate=2015-05-21}}</ref>。いくつかの変更や修正が重なったため、発売日が当初の[[7月2日]]から変更された<ref>{{Twitter status|keiichisokabe|613623000034734080}}</ref>。 * [[7月24日]]、“[[フジロックフェスティバル#2015年|FUJI ROCK FESTIVAL '15]]”出演([[新潟県]][[湯沢町]][[苗場スキー場]])。 * [[8月1日]]、“オハラ☆ブレイク'15夏”出演([[福島県]][[猪苗代湖]]畔 天神浜) * [[8月14日]]、“[[ライジング・サン・ロックフェスティバル#2015年|RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO]]”出演(北海道 [[石狩湾新港]]樽川埠頭横野外特設ステージ)。 * [[8月15日]]、“RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO”出演(北海道 石狩湾新港樽川埠頭横野外特設ステージ)。 * [[8月29日]]、“shima fes SETOUCHI 2015 〜百年つづく、海の上の音楽祭〜”出演(香川 [[小豆島]] ふるさと村)。曽我部ソロの出演から、急遽サニーデイ・サービスでの出演へ変更された<ref name="shima_fes_setouchi_2015">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/08/_liveup829shima_fes_setouchi_2015.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。8/29<shima fes SETOUCHI 2015>@香川 小豆島 ふるさと村 |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-08-30 |accessdate=2015-08-30}}</ref>。 * [[9月12日]]、“AOMORI ROCK FESTIVAL'15〜夏の魔物〜”出演(青森県東津軽郡平内町 夜越山スキー場、サポート・ミュージシャン:鈴木正敏([[初恋の嵐]])(ds))<ref name="aomori_rock_festival15">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/09/_liveup912aomori_rock_festival15.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。9/12<AOMORI ROCK FESTIVAL'15〜夏の魔物〜>@青森 夜越山スキー場 |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-09-13 |accessdate=2015-09-13}}</ref>。体調不良のため丸山不参加<ref>{{Twitter status|keiichisokabe|642509090069987328}}</ref>。 * [[10月22日]]、デビュー20周年を記念したアナログLPの第三弾リリースとして、アナログ盤『サニーデイ・サービス』発売。2015年最新マスタリングによる完全限定プレス。発売当時の復刻ポスターを封入<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/09/20lp626_1.html |title=サニーデイ・サービス、デビュー20周年を記念したアナログLPリリース第三弾『サニーデイ・サービス』10/22発売です。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-09-14 |accessdate=2015-09-14}}</ref>。 * 11月、再結成後初となる全国ホールツアー“サニーデイ・サービス TOUR 2015”開始。丸山の体調改善の見込みが難しい状態が続くことから、サポート・ドラマーに鈴木正敏が参加<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/11/post_322.html |title=サニーデイ・サービスからのお知らせ |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-11-04 |accessdate=2015-11-04}}</ref>。 ** [[11月13日]]、福岡 イムズホール<ref name="liveup_tour_2015">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/12/_liveup_tour_2015.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。&lt;サニーデイ・サービス TOUR 2015&gt; |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-12-29 |accessdate=2015-12-29}}</ref>。 ** [[11月21日]]、仙台 イズミティ21 小ホール<ref name="liveup_tour_2015" />。 ** [[12月12日]]、[[東京グローブ座]]<ref name="liveup_tour_2015" />。 ** [[12月13日]]、東京グローブ座<ref name="liveup_tour_2015" />。 ** [[12月18日]]、名古屋市芸術創造センター<ref name="liveup_tour_2015" />。 ** [[12月20日]]、メルパルク大阪<ref name="liveup_tour_2015" />。 ** [[12月26日]]、香川 ユープラザうたづ<ref name="liveup_tour_2015" />。 * [[12月21日]]、デビュー20周年を記念したアナログLPの第四弾リリースとして、アナログ盤『24時』発売。2枚組LP+7インチEP「ベイビー、カム・ヒア組曲」という構成。2015年最新マスタリングによる完全限定プレス。発売当時の復刻ポスターを封入<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/11/20lp241221.html |title=サニーデイ・サービス、デビュー20周年を記念したアナログLPリリース第四弾『24時』12/21発売です。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-11-10 |accessdate=2015-11-10}}</ref>。 * 12月28日、サニーデイ主催のイベント“魔法の言葉・十二月”開催(東京 LIQUIDROOM ebisu、共演:PIZZICATO ONE、DJ:北沢夏音)<ref name="pizzicato_one_2liquidroom_ebisu">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/10/pizzicato_one_2liquidroom_ebisu.html |title=12/28(月) サニーデイ・サービス×PIZZICATO ONE 2マンライブ&lt;魔法の言葉・十二月&gt;@LIQUIDROOM ebisu が決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-10-06 |accessdate=2015-10-06}}</ref><ref name="1228liquidroom_ebisu">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/12/_liveup1228liquidroom_ebisu.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。12/28&lt;魔法の言葉・十二月&gt;@LIQUIDROOM ebisu |work=ROSE RECORDS - LIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-12-29 |accessdate=2015-12-29}}</ref>。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2016年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 1月15日、18thシングル「[[苺畑でつかまえて]]」発売(アナログ盤7インチ+CD)。オンラインショップでの限定販売(2015年12月28日に主催イベント「魔法の言葉・十⼆月」にて先行販売)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2015/12/_115_7cdichigobatake.html |title=サニーデイ・サービス 1/15 アナログ7インチシングル+CD『苺畑でつかまえて』の発売が決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2015-12-15 |accessdate=2015-12-15}}</ref>。 * 2月9日、丸山が長引く体調不良のため、サニーデイ・サービスとしての活動から離れることを公式サイトにて発表。今後はサポート・ドラマーとして、鈴木正敏を迎えることが併せて発表された<ref name="post_335" />。 * 2月24日、“東京キネマ倶楽部プレゼンツ 〜ヨカノスゴシカタ 2〜”出演(東京・[[東京キネマ倶楽部]]、共演:[[シャムキャッツ]])。 * 3月、ワンマンLIVE“サニーデイ・サービス LIVE 2016 春風ロンリー”開始<ref name="live_2016_shangri-la_club_que">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/02/_live_2016_shangri-la_club_que.html |title=&lt;サニーデイ・サービス LIVE 2016 春風ロンリー&gt; 3/28@梅田 Shangri-La、4/2,3@下北沢 CLUB Que が決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-02-03 |accessdate=2016-02-03}}</ref><ref name="liveup_live_2016">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/04/_liveup_live_2016.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。&lt;サニーデイ・サービス LIVE 2016 春風ロンリー&gt; |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-04-03 |accessdate=2016-04-03}}</ref>。 ** 3月28日、大阪・梅田 Shangri-La<ref name="live_2016_shangri-la_club_que" /><ref name="liveup_live_2016" />。 ** 4月2日、東京・下北沢 CLUB Que<ref name="live_2016_shangri-la_club_que" /><ref name="liveup_live_2016" />。 ** 4月3日、東京・下北沢 CLUB Que<ref name="live_2016_shangri-la_club_que" /><ref name="liveup_live_2016" />。 * 4月29日、“ARABAKI ROCK FEST.16”出演(宮城・エコキャンプみちのく 津軽ステージ)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/04/_liveup429arabaki_rock_fest16.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。4/29&lt;ARABAKI ROCK FEST.16&gt;@宮城エコキャンプみちのく |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-04-30 |accessdate=2016-04-30}}</ref>。※サニーデイ・サービス &lt;はっぴいえんど『ゆでめん』トリビュートLIVE&gt; * 5月7日、“忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー 日比谷野外音楽堂 Love&amp;Peace”出演(東京・[[日比谷野外音楽堂]])<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/05/_liveup57_lovepeace_201657.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。5/7&lt;忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー 日比谷野外音楽堂 Love&Peace&gt;@日比谷野外音楽堂 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-05-07 |accessdate=2016-05-07}}</ref>。 * 5月18日、発売から20年を記念して、『東京』を最新リマスタリングによるCDと限定LP、そして限定BOXセット『[[東京 20th anniversary BOX|「東京」 20th anniversary BOX]]』にてリリース<ref name="20cdlpbox">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/02/20cdlpbox.html |title=サニーデイ・サービス『東京』20周年を記念した、CD,LP,BOXのリリース &amp; 全曲再演コンサートが決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-02-20 |accessdate=2016-02-20}}</ref>。 * 5月21日、“GREENROOM FESTIVAL'16”出演(神奈川・[[横浜赤レンガ倉庫|横浜赤レンガ地区野外特設会場]])<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/05/_liveup57_lovepeace.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。5/21&lt;GREENROOM FESTIVAL'16&gt;@横浜 赤レンガ地区野外特設会場 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-05-21 |accessdate=2016-05-21}}</ref>。 * 6月17日、サニーデイ・サービス『東京』20周年記念コンサート“東京再訪”開催<ref name="20cdlpbox" />(東京・渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、鈴木正敏(dr)、高野勲(key)、新井仁(g))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/06/_liveup61720.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。6/17&lt;サニーデイ・サービス『東京』20周年記念コンサート "東京再訪"&gt;@渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-06-27 |accessdate=2016-06-27}}</ref>。 * 6月18日、“YATSUI FESTIVAL! 2016”出演(東京・渋谷TSUTAYA O-EAST)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/06/_liveup618yatsui_festival_2016_10.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。6/18&lt;YATSUI FESTIVAL! 2016&gt;@東京 渋谷10会場 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-06-19 |accessdate=2016-06-19}}</ref>。 * 6月27日、サニーデイ・サービス『東京』20周年記念コンサート“東京再訪”追加公演開催(東京・渋谷 CLUB QUATTRO、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、鈴木正敏(dr)、高野勲(key)、新井仁(g))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/03/20.html |title=6/27 サニーデイ・サービス『東京』20周年を記念した、全曲再演コンサートの追加公演@渋谷CLUB QUATTRO が決定しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-03-15 |accessdate=2016-03-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/06/_liveup6276_27_20_club_quattro.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。6/27&lt;サニーデイ・サービス『東京』20周年記念コンサート "東京再訪" 追加公演&gt;@渋谷 CLUB QUATTRO |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-06-27 |accessdate=2016-06-27}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://rockinon.com/news/detail/145025 |title=【完全レポ】サニーデイ・サービス、初ワンマンの地で『東京』完全再現! 今なおヒリつく進行形の姿を観た! |work=rockin'on RO69 |publisher=株式会社ロッキング・オン・ホールディングス |date=2016-06-29 |accessdate=2016-06-29}}</ref>。 * 7月16日、“JOIN ALIVE 2016”出演(北海道・[[いわみざわ公園]])<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/07/_liveup716join_alive_2016.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。7/16&lt;JOIN ALIVE 2016&gt;@北海道いわみざわ公園 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-07-18 |accessdate=2016-07-18}}</ref>。※VELVET CIRCUS 17:35- * 8月3日、10thアルバム『[[DANCE TO YOU]]』発売(限定アナログ盤・[[カセットテープ]]発売)。 * 9月21日、“[[遠藤賢司]] with サニーデイ・サービス『満足できるかな』”開催(東京・渋谷 CLUB QUATTRO)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/09/_liveup921_with_club_quattro.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。9/21&lt;遠藤賢司 with サニーデイ・サービス『満足できるかな』&gt;@渋谷 CLUB QUATTRO |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-09-22 |accessdate=2016-09-22}}</ref>。 * 10月7日、“CASSETTE STORE DAY JAPAN 2016”にサニーデイ・サービス曽我部と田中が2人でいろいろやるBANDが出演(東京・Live &amp; Bar Shibuya Milkyway)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/10/2band_liveup107cassette_store_day_japan_2016_shibuya_milkyway.html |title=サニーデイ・サービス曽我部と田中が2人でいろいろやるBAND LIVEセットリストUPしました。10/7&lt;CASSETTE STORE DAY JAPAN 2016&gt;@東京 Shibuya Milkyway |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-10-08 |accessdate=2016-10-08}}</ref>。 * 10月8日、『DANCE TO YOU』の[[インストゥルメンタル|インストゥルメンタル・バージョン]]を全曲収録したカセットテープ『透明 DANCE TO YOU』を&lt;CASSETTE STORE DAY 2016&gt;限定タイトルとして発売(DLコード付き/数量限定)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/10/_dance_to_you_1.html |title=サニーデイ・サービス『透明 DANCE TO YOU』本日発売日です。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-10-08 |accessdate=2016-10-08}}</ref>。 * 10月 - 11月、全国ツアー“サニーデイ・サービス TOUR 2016”開始。CD+マガジン+おまけの『お土産用 DANCE TO YOU』をツアー会場限定にて発売<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2016/09/cd_dance_to_you.html |title=サニーデイ・サービス、ツアー会場限定のCD+マガジン+おまけの『お土産用 DANCE TO YOU』の発売が決定しました! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2016-09-30 |accessdate=2016-09-30}}</ref>。 ** 10月21日、大阪・umeda AKASO<ref name="natalie_193838">{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/193838 |title=サニーデイ・サービス、過去最高の制作時間をかけたニューアルバムの全貌 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2016-07-08 |accessdate=2016-07-08}}</ref>。 ** 10月28日、岡山・CRAZYMAMA KINGDOM<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月3日、北海道・札幌PENNY LANE24<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月6日、宮城・[[Rensa]]<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月12日、広島・[[CLUB QUATTRO|広島CLUB QUATTRO]]<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月13日、福岡・BEAT STATION<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月19日、香川・DIME<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月20日、愛知・名古屋CLUB QUATTRO<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月23日、京都・磔磔<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月26日、新潟・GOLDEN PIGS RED STAGE<ref name="natalie_193838" />。 ** 11月27日、石川・Kanazawa AZ<ref name="natalie_193838" />。 ** 12月14・15日、東京・[[LIQUIDROOM]]<ref name="natalie_193838" />。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2017年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 8月27日、“サニーデイ・サービス サマーライブ 2017”開催(東京・[[日比谷野外大音楽堂]]、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、新井仁(g)、高野勲(key))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2017/08/_liveup827_2017.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。8/27<サニーデイ・サービス サマーライブ 2017>@日比谷野外大音楽堂 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2017-08-28 |accessdate=2017-08-28}}</ref> * 9月23日、“OKAYAMA マチノブンカサイ 2017”出演(岡山・旧[[岡山市立岡山中央小学校|内山下小学校]]、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2017/10/_liveup104liquidroom_13th_anniversary.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。9/23<OKAYAMA マチノブンカサイ 2017>@岡山 旧内山下小学校 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2017-09-25 |accessdate=2017-09-25}}</ref> * 10月4日、“LIQUIDROOM 13th ANNIVERSARY”出演(東京・恵比寿LIQUIDROOM、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、新井仁(g)、高野勲(key)、共演:[[Polaris (バンド)|Polaris]])<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2017/10/_liveup104liquidroom_13th_anniversary.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。10/4<LIQUIDROOM 13th ANNIVERSARY>@恵比寿リキッドルーム |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2017-10-05 |accessdate=2017-10-05}}</ref> * 10月21日、“TOYOTA ROCK FESTIVAL 2017”出演(愛知・[[豊田スタジアム]]外周、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、新井仁(g))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2017/10/_liveup1021toyota_rock_festival_2017.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。10/21<TOYOTA ROCK FESTIVAL 2017>@豊田スタジアム外周 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2017-10-23 |accessdate=2017-10-23}}</ref> * 12月18日、“DANCE TO THE POPCORN CITY”開催(東京・恵比寿LIQUIDROOM、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、新井仁(g)、高野勲(key)、加藤雄一郎(sax))<ref name="liveupdance_to_the_popcorn_city">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2017/12/_liveupdance_to_the_popcorn_city.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。<DANCE TO THE POPCORN CITY> |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2017-12-22 |accessdate=2017-12-22}}</ref> * 12月18日、“DANCE TO THE POPCORN CITY”開催(大阪・[[CLUB QUATTRO|梅田CLUB QUATTRO]]、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、新井仁(g)、高野勲(key)、加藤雄一郎(sax))<ref name="liveupdance_to_the_popcorn_city" /> </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2018年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 1月20日、“中村一義デビュー20周年ライブイベント「20→」(トゥエンティ・ゴー)”出演(東京・Zepp Tokyo、共演:中村一義、[[SPECIAL OTHERS]]、[[小谷美紗子]])<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/01/_liveup1202020zepp_tokyo.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。1/20<中村一義デビュー20周年ライブイベント「20→」(トゥエンティ・ゴー)>@Zepp Tokyo |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-01-21 |accessdate=2018-01-21}}</ref> * 2月24日、“KIRIN BEER "Good Luck" LIVE”出演(東京・TOKYO FM(JFN 全国38局ネット)、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/02/_liveup224kirin_beer_good_luck_livetokyo_fm.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。2/24<KIRIN BEER "Good Luck" LIVE>@TOKYO FM |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-02-24 |accessdate=2018-07-15}}</ref> * 3月13日、12thアルバム『the CITY』をストリーミング・ダウンロードにて、配信開始。併せてアルバム2曲目の「ジーン・セバーグ」のMVを[[YouTube]]で公開。監督は「セツナ」「青い戦車」に続く、川原康臣<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/03/_newthe_city_mv_1.html |title=サニーデイ・サービス NEWアルバム『the CITY』配信開始 &「ジーン・セバーグ」MV公開しました。 |work=ROSE RECORDS - MEDIA |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-03-13 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 3月、全国ツアー“サニーデイ・サービス LIVE 2018”開始(メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、新井仁(g)、高野勲(key))<ref name="2018dance_to_the_popcorn_city_2">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/03/_liveup_live_2018dance_to_the_popcorn_city_2.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。<サニーデイ・サービス LIVE 2018>&<DANCE TO THE POPCORN CITY #2> |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-03-28 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 ** 3月19日、愛知・名古屋CLUB QUATTRO ** 3月20日、大阪・梅田BANANA HALL ** 3月26日、東京・渋谷CLUB QUATTRO ※ゲスト:MARIA、MGF ** 3月27日、追加公演“DANCE TO THE POPCORN CITY #2”開催(東京・[[WWW (ライブハウス)|Shibuya WWWX]])<ref name="2018dance_to_the_popcorn_city_2" /> * 4月7日、ライブ・イベント“SYNCHRONICITY'18”出演(東京・[[Shibuya O-EAST|渋谷 O-EAST]]、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、高野勲(key))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/04/_liveup47synchronicity18_8.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。4/7<SYNCHRONICITY'18>@渋谷 8会場 |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-04-08 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 4月18日、ライブ・イベント“FSBM たかしの今夜も最高!!”出演(東京・恵比寿LIQUIDROOM、共演:[[サンボマスター]]、渡辺俊美([[TOKYO No.1 SOUL SET]])、[[松本素生]]([[GOING UNDER GROUND]]、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/04/_liveup418fsbm.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。4/18<FSBM たかしの今夜も最高!!>@恵比寿リキッドルーム |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-04-19 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 4月22日、ライブ・イベント“宮川企画「マイセルフ,ユアセルフ」”出演(東京・下北沢SHELTER、共演:台風クラブ、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/04/_liveup422shelter.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。4/22<宮川企画「マイセルフ,ユアセルフ」>@下北沢SHELTER |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-04-22 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 4月25日、12thアルバム『the CITY』アナログ盤2枚組発売(CDでの発売予定なし)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/04/_newthe_city_315.html |title=サニーデイ・サービス NEWアルバム『the CITY』アナログ盤 本日発売日です。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-04-25 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 4月28日、 LIVEアルバム『DANCE TO THE POPCORN CITY』をストリーミング・ダウンロードにて、配信開始。『[[DANCE TO YOU]]』、『Popcorn Ballads』、『the CITY』の3作品を中心に構成された春のワンマンツアーより、3月26日の渋谷クラブクアトロでの最終日と、追加公演となった 翌27日のshibuya WWWXの公演から11曲をセレクトしたライヴ・アルバム<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/04/_livedance_to_the_popcorn_city.html |title=サニーデイ・サービス LIVEアルバム『DANCE TO THE POPCORN CITY』配信開始しました。 |work=ROSE RECORDS - RELEASE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-04-27 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 4月28日、“ARABAKI ROCK FEST.18”出演(宮城・エコキャンプみちのく TSUGARUステージ)<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/04/_liveup42829arabaki_rock_fest18.html |title=サニーデイ・サービス,曽我部恵一 LIVEセットリストUPしました。4/28,29<ARABAKI ROCK FEST.18>@宮城 エコキャンプみちのく |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-04-30 |accessdate=2016-07-15}}</ref>。 * 5月7日、3月リリースの12thアルバム『the CITY』全曲の解体と再構築を図る、総勢18組のアーティストによるプロジェクトをリスナーとシェアしていく[[Spotify]]プレイリスト“the SEA”を公開。プレイリストには、アルバム『the SEA』に収録される楽曲を随時追加。初日には第1弾として、「ラブソング 2」を曽我部自らがリミックスを手掛け、Illicit Tsuboiがミックスを担当したダンストラックの「FUCK YOU音頭」<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/05/spotifythe_sea.html |title=サニーデイ・サービスが新作制作過程をリスナーとシェアしていくSpotifyプレイリスト<the SEA>を公開しました。 |work=ROSE RECORDS - RELEASE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-05-07 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 5月13日、ライブ・イベント“森、道、市場2018”出演(愛知・蒲郡市[[大塚海浜緑地|ラグーナビーチ]] GRASS STAGE、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、新井仁(g)、高野勲(key))<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/05/_liveup5132018.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。5/13<森、道、市場2018>@蒲郡市 ラグーナビーチ |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-05-15 |accessdate=2016-07-15}}</ref>。 * 5月14日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に、betcover!!による「熱帯低気圧 (betcover!! Remix)」 と石田彰による「甲州街道の十二月 (石田彰 Remix)」の2曲を追加<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/05/the_seabetcover.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>にbetcover!!と石田彰さんの曲を追加しました。 |work=ROSE RECORDS - RELEASE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-05-14 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 5月21日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に、Have a Nice Day!による「雨はやんだ feat. 尾崎友直 (Have a Nice Day! Remix)」、MASONNAによる「すべての若き動物たち HAIR STYLISTICS REMIX (MASONNA Remix)」、[[田中フミヤ|Fumiya Tanaka]]による、「音楽 (Fumiya Tanaka Remix)」の3曲を追加<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/05/the_seahave_a_nice_daymasonnafumiya_tanaka.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>にHave a Nice Day!、MASONNAさん、Fumiya Tanakaさんの曲を追加しました。 |work=ROSE RECORDS - RELEASE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-05-21 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 5月28日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に、[[平賀さち枝]]による「ジュース feat. bonstar (平賀さち枝 Cover)」、藤井洋平による「ザッピング feat. 髙城晶平([[cero (バンド)|cero]]) (藤井洋平 Remix)」、DJ MAYAKUによる「完全な夜の作り方 (DJ MAYAKU Remix)」の3曲を追加<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/05/the_seadj_mayaku.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>に平賀さち枝さん、藤井洋平さん、DJ MAYAKUさんの曲を追加しました。 |work=ROSE RECORDS - RELEASE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-05-28 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 6月4日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に、原摩利彦による「さよならプールボーイ feat. MGF (原摩利彦 Remix)」、荒井優作による「ジーン・セバーグ (荒井優作 Remix)」、Ahh! Folly Jetによる「シックボーイ組曲 (Ahh! Folly Jet Remix)」の3曲を追加<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/06/the_seaahh_folly_jet.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>に原摩利彦さん、荒井優作さん、Ahh! Folly Jet の曲を追加しました。 |work=ROSE RECORDS - RELEASE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-06-04 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 6月12日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に、KASHIFによる「卒業 (KASHIF Remix)」を追加。また、この原曲となる「卒業」のMVも同時公開。監督は松本壮史<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/06/the_seakashif_mvup.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>にKASHIFさん登場 &「卒業」MVをUPしました。 |work=ROSE RECORDS - MEDIA |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-06-12 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 6月13日、リミックス企画“the SEA”の1曲としてプレイリストに公開された「FUCK YOU音頭」のアナログ7インチと、先行配信されているライヴ・アルバム『DANCE TO THE POPCORN CITY』のアナログLPを同時発売。 * 6月15日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に、[[MURO]]による「イン・ザ・サン・アゲイン (MURO Remix)」を追加。なお、このリミックス・バージョンはMUROが所属するTOKYO RECORDSからライセンス7インチカットによる発売が決定した<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/06/the_seamuroremix.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>にMUROさんRemixを追加しました。 |work=ROSE RECORDS - MEDIA |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-06-15 |accessdate=2018-07-15}}</ref>。 * 6月18日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に「Tokyo Sick feat. MARIA (VaVa Remix)」を追加。同曲はレーベル“SUMMIT”に所属するVaVaが、レーベルメイトでもあるMARIAをフィーチャーした「Tokyo Sick」をリミックス。さらに、三宅唱監督による同曲のMVも同時公開<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/06/the_seatokyo_sick_feat_maria_vava_remixmv.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>に「Tokyo Sick feat. MARIA (VaVa Remix)」を追加、三宅唱監督によるMVも同時公開しました。 |work=ROSE RECORDS - MEDIA |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-06-18 |accessdate=2018-07-16}}</ref>。 * 6月25日、Spotifyプレイリスト“the SEA”に[[鈴木慶一]]による「おばあちゃんのドライフラワー (鈴木慶一 Remix)」、Illicit Tsuboiによる「23時59分 feat. MC松島 (The Anticipation Illicit Tsuboi Remix)」、CRZKNYによる「町は光でいっぱい (CRZKNY Remix)」の3曲が追加され、全18曲が公開された<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/06/the_seaillicit_tsuboicrzkny_318.html |title=サニーデイ・サービスのプレイリスト<the SEA>ついに完成。鈴木慶一さん、Illicit Tsuboiさん、CRZKNYさんの3曲追加で全18曲が公開しました。 |work=ROSE RECORDS - MEDIA |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-06-25 |accessdate=2018-07-16}}</ref>。 * 7月15日、体調不良のため2016年2月より活動を休止していた丸山が、5月に食道静脈瘤破裂のため死去していたことを所属事務所のスタジオ・ローズより発表。葬儀はすでに家族の意向を尊重し、近親者のみで執り行われたことが併せて発表された<ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/291257 |title=サニーデイ・サービス丸山晴茂、食道静脈瘤破裂のため5月に死去 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2018-07-15 |accessdate=2018-07-16}}</ref>。 * 8月8日、Spotifyプレイリストでリミックス楽曲を毎週公開し、約2か月に渡り展開された“the SEA”が完成し、リミックス・アルバム『the SEA』として配信開始<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/07/spotifythe_sea88lp829.html |title=サニーデイ・サービス、Spotifyプレイリストで公開中のリミックスアルバム『the SEA』を8/8配信スタート、LPは8/29発売です。 |work=ROSE RECORDS - MEDIA |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-07-13 |accessdate=2018-07-16}}</ref>。 * 11月21日、各音楽ストリーミングサービスにて、サニーデイ・サービスがMIDI時代に発表した作品の配信スタート。サニーデイ・サービスがMIDIよりリリースしたシングル、アルバムなど計26タイトルのサブスクリプション配信が解禁。さらに配信限定作品『サニーデイ・サービス BEST 1995-2018』が同時リリース。MIDIのみならず、ROSE RECORDSからリリースされた[[スタジオ・アルバム|アルバム]]『the CITY』までをカバーしたベスト・アルバムとなっていて、曽我部恵一自身が編曲し、マスタリングを新たに手がけている。また、曽我部恵一初のソロアルバム『曽我部恵一』をはじめとしたユニバーサル時代の作品群、さらに、ROSE RECORDSからリリースされている曽我部恵一関連作20タイトル以上もサブスクリプション配信開始。アナログ盤やライブ会場・通販のみという限定リリース作品の多くもサブスクリプション配信ストアにて配信がスタートした<ref name="50_1">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/11/50_1.html |title=サニーデイ・サービス、曽我部恵一ソロ関連作など50タイトル以上がサブスクリプション配信を開始しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-11-20 |accessdate=2019-11-16}}</ref>。 * 11月28日、「Christmas of Love」を配信リリース<ref name="christmas_of_love">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/11/christmas_of_love.html |title=サニーデイ・サービスのクリスマスシングル「Christmas of Love」、配信開始しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-11-27 |accessdate=2019-11-16}}</ref>。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2019年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 1月13日、“ORIGINAL LOVE presents Love Jam vol.4”出演(東京 Zepp DiverCity、メンバー:曽我部恵一(vo,g)、田中貴(b)、岡山健二(dr)、高野勲(key,etc)、細野しんいち(key)、新井仁(g)、中村ジョー(ag)、小田島等(Synth)、共演:ORIGINAL LOVE、[[PUNPEE]])<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2019/01/_liveup1228_1994_1.html |title=サニーデイ・サービス LIVEセットリストUPしました。1/13<ORIGINAL LOVE presents Love Jam vol.4>@Zepp DiverCity |work=ROSE RECORDS - LIVE ARCHIVE |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2019-01-14 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 9月4日、DVD『birth of a kiss』発売。曽我部・田中・丸山というオリジナル・メンバー3人のみで演奏する唯一の公式映像であるこのDVDは、ROSE RECORDSオンラインショプのみで限定販売されたBOXセット『Birth of a Kiss』(2015年)にパッケージされていたものの単独リリース<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2019/09/dvdbirth_of_a_kiss_1.html |title=サニーデイ・サービスの渋公ライブを収めたDVD『birth of a kiss』本日発売日です! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2019-09-04 |accessdate=2019-11-16}}</ref>。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2020年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 1月1日、春にリリースされるアルバムからのリードトラックとして、「雨が降りそう」をMVで公開<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/01/mv_11.html |title=サニーデイ・サービス、新曲「雨が降りそう」をMVで公開!春にニューアルバムリリース! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-01-01 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 1月16日、「雨が降りそう」を配信リリース<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/01/post_521.html |title=サニーデイ・サービス、復活の第一歩となる新曲「雨が降りそう」を配信リリース! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-01-15 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 1月28日、新メンバーとして大工原幹雄(Dr / [[Qomolangma Tomato]]、Baduerykah、ボロキチ)の加入を発表<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/01/_515_line_cube_shibuya.html |title=サニーデイ・サービス 、新メンバーとして大工原幹雄が加入し、 5/15@ LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)を皮切りに全国ツアー決定!! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-01-28 |accessdate=2022-11-23}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/364932 |title=サニーデイ・サービスに新メンバー大工原幹雄加入、4年ぶりの全国ツアーも決定 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2020-01-28 |accessdate=2020-01-29}}</ref>。 * 3月18日、13thアルバム『[[いいね! (アルバム)|いいね!]]』を翌日の3月19日より、配信を開始することをTwitterにて告知。Apple MusicやSpotify、[[YouTube]]も含んだプラットフォーム上で翌日、配信開始<ref name="202003_post527">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/03/post_527.html |title=サニーデイ・サービス、ニューアルバム『いいね!』今夜配信スタート! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-03-18 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 4月13日、13thアルバム『いいね!』から、「春の風」をMVで公開<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/04/mv_15.html |title=サニーデイ・サービス最新アルバム『いいね!』から、「春の風」MV公開! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-04-13 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 4月24日、“サニーデイ・サービス TOUR 2020”について、新型コロナウイルスの感染拡大防止および、観客の安全確保を考慮した上、5月15日-7月17日までの10公演の開催延期と振替を発表<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/04/_tour_2020515-717.html |title=サニーデイ・サービス <サニーデイ・サービス TOUR 2020>5/15-7/17までの開催延期、振替に関してのお知らせ(4/28正午修正) |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-04-24 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 5月22日、アルバム『いいね!』フィジカル・リリース<ref name="202003_post528">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/03/post_528.html |title=サニーデイ・サービス『いいね!』のフィジカルリリースが決定! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-03-25 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 6月14日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[Love music]]』に“LIVE ARTIST”として出演(24:30-25:25)。「春の風」をスタジオ演奏で披露<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/06/love_music.html |title=サニーデイ・サービスが「Love music」に出演します |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-06-12 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 7月22日、アルバム『いいね!』アナログ盤LPの2ndプレスと[[カセットテープ]]リリース<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/06/lp2nd.html |title=サニーデイ・サービス『いいね!』アナログ盤LPの2ndプレスとカセットテープのリリースが決定!ただ今より通販予約受付スタート! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-06-11 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 11月25日、リミックス・アルバム『もっといいね!』をダウンロード・ストリーミングにて配信開始<ref name="2020_11_remixloveless_love">{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2020/11/_remixloveless_love.html |title=サニーデイ・サービス リミックスアルバム『もっといいね!』/ 曽我部恵一 ニューアルバム『Loveless Love 』リリース決定!! |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2020-11-20 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 * 12月、全国ツアー“サニーデイ・サービス TOUR 2020”振替公演開始。当初5月15日-7月17日まで予定されていた10公演の延期分。リミックス・アルバム『もっといいね!』のフィジカル2枚組LP、CDの販売をツアー初日より先行販売開始<ref name="2020_11_remixloveless_love" />。 ** 12月22日、愛知・名古屋ボトムライン ** 12月23日、大阪・サンケイホールブリーゼ ** 12月25日、広島・[[CLUB QUATTRO|広島CLUB QUATTRO]] ** 12月26日、香川・高松festhalle ** {{Start date|2021|3|20}}、京都・磔磔 ※延期・追加公演 ** {{Start date|2021|3|24}}、宮城・仙台 RENSA ** {{Start date|2021|3|26}}、北海道・札幌 cube garden ※延期・追加公演 ** {{Start date|2021|4|3}}、熊本・熊本 B.9 V1 ※振替公演 ** {{Start date|2021|4|4}}、福岡・福岡 DRUM LOGOS ※振替公演 ** {{Start date|2021|4|10}}、岡山・岡山 YEBISU YA PRO ※振替公演 ** {{Start date|2021|4|11}}、香川・高松 MONSTER ※追加公演 ** {{Start date|2021|4|12}}、名古屋・名古屋CLUB QUATTRO ※追加公演 ** {{Start date|2021|4|22}}、石川・金沢 AZ ※振替公演 ** {{Start date|2021|4|23}}、新潟・GOLDEN PIGS RED STAGE ※振替公演 ** {{Start date|2021|5|14}}、東京・LINE CUBE SHIBUYA([[渋谷公会堂]]) ※振替公演 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2022年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> *10月15日〜10月28日、東名阪で「サニーデイ・サービス オータム・ツアー2022」開催。全3公演。 </div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead">2023年</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> *2月10日〜4月23日、「サニーデイ・サービス TOUR 2023」開催予定。全12公演。 </div></div> == ディスコグラフィ == === デモテープ === # '''sunny day service'''({{Start date|1992|6|7}}録音) #* (love is like a) easy warp #* electric love milk #* red roses, silver chime #* frisky calling # '''le nouveau monde'''({{Start date|1992}}秋録音) #* how we were before #* (love is like a) easy warp # '''SUNNY DAY SERVICE'''(録音日不明) #* WEEKEND FILM #* HOW WE WERE BEFORE #* CENTURY TRUE === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! # !! style="width:30%"|タイトル !! 発売日 !! 規格 !! [[規格品番|品番]] !! {{Nowrap|最高位}} !! 備考 |- !colspan="7"| [[ミディ]] |- ! 1 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">[[御機嫌いかが?/街へ出ようよ|'''御機嫌いかが? / 街へ出ようよ''']]</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 御機嫌いかが? # 街へ出ようよ # 御機嫌いかが? (Instrumental) # 街へ出ようよ (Instrumental)</div></div> | style="white-space:nowrap;" | {{Start date|1995|3|21}} || {{Center|SCD}} || MDDS-69 || {{Center|-}} || &nbsp; |- ! 2 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[青春狂走曲]]'''</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 青春狂走曲 # いつもだれかに (新録バージョン) # 続・青春狂走曲</div></div> | {{Start date|1995|7|21}} || rowspan="10" | {{Center|CD}} || MDDS-71 || {{Center|-}} || &nbsp; |- ! 3 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">[[恋におちたら (サニーデイ・サービスの曲)|'''恋におちたら''']]</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 恋におちたら # コーヒーと恋愛 (Home Recording)</div></div> | {{Start date|1995|11|21}} || MDDZ-54 || {{Center|-}} || &nbsp; |- ! 4 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[ここで逢いましょう]]'''</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # ここで逢いましょう # 花咲くころ</div></div> | {{Start date|1996|7|5}} || MDCS-1001 || {{Center|-}} || |- ! 5 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[サマー・ソルジャー]]'''</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # サマー・ソルジャー # 湖畔の嵐 # タランチュラ # TARANTULA part2</div></div> | {{Start date|1996|10|25}} || MDCS-1004 || {{Center|-}} || |- ! 6 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">[[白い恋人 (サニーデイ・サービスの曲)|'''白い恋人''']]</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 白い恋人 # 都会</div></div> | {{Start date|1997|2|12}} || MDCS-1006 || {{Center|-}} || |- ! 7 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[恋人の部屋]]'''</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 恋人の部屋 # 一緒にいたいなら</div></div> | {{Start date|1997|5|25}} || MDCS-1007 || {{Center|-}} || &nbsp; |- ! 8 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">[[NOW (サニーデイ・サービスの曲)|'''NOW''']]</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # NOW # あの花と太陽と # 何処へ? # 1997年の夏</div></div> | {{Start date|1997|9|26}} || MDCS-1008 || {{Center|-}} || |- ! 9 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[さよなら! 街の恋人たち]]'''</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # さよなら! 街の恋人たち # 黄昏 # 3月29日のバラード</div></div> | {{Start date|1998|5|27}} || MDCS-1011 || {{Center|-}} || &nbsp; |- ! 10 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[今日を生きよう]]'''</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 今日を生きよう 〜single mix〜 live for today # からっぽの朝のブルース empty morning blues # 成長するってこと growin' up</div></div> | {{Start date|1998|9|2}} || MDCS-1015 || {{Center|-}} || &nbsp; |- ! rowspan="2" | 11 | rowspan="2" | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[スロウライダー]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">CD</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # スロウライダー # 土曜日と日曜日 # スロウライダーREMIX (edit version)</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">Analog 12inch</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;SIDE A # スロウライダー # 土曜日と日曜日 (STEREO MIX) ;SIDE B # スロウライダー REMIX (long version) # スロウライダー REMIX (inst.)</div></div> | rowspan="2" | {{Start date|1999|8|18}} || MDCS-1026 || rowspan="2" | {{Center|-}} || rowspan="2" | |- | {{Center|12inch}} || CXLP-1018 |- ! rowspan="2" | 12 | rowspan="2" | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[夢見るようなくちびるに]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">CD</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 夢見るようなくちびるに # 情景 # テーマ</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">Analog 12inch</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;SIDE A :# 夢見るようなくちびるに ;SIDE B :# 情景 :# テーマ</div></div> | {{Start date|1999|9|22}} || {{Center|CD}} || MDCS-1029 || rowspan="2" | {{Center|-}} || rowspan="2" | 「テーマ」…[[ツムラ]] [[バスクリン]]ソフレCMソング |- | {{Start date|1999|10|1}} || {{Center|12inch}} || CXLP-1022 |- ! rowspan="2" | 13 | rowspan="2" | <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[夜のメロディ/恋は桃色|'''夜のメロディ ⁄ 恋は桃色''']]</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">CD</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 夜のメロディ # 恋は桃色 # 夜のメロディ (Instrumental) # 恋は桃色 (Instrumental)</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">Analog 12inch</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;SIDE A # 夜のメロディ # 夜のメロディ (Instrumental) ;SIDE B # 恋は桃色 (Extended Version)</div></div> | rowspan="2" | {{Start date|2000|5|24}} || {{Center|CD}} || MDCS-1042(Q&amp;A001C) || rowspan="2" | {{Center|42位}} || rowspan="2" | &nbsp; |- | {{Center|12inch}} || CXLP-1026 (Q&amp;A001R) |- ! rowspan="2" | 14 | rowspan="2" | <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[魔法 (サニーデイ・サービスの曲)|'''魔法''']]</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">CD</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # ORIGINAL VERSION # SUSUMU YOKOTA MIX # CARNIVAL MIX # BEACH ACAPPELLA # ORIGINAL VERSION (INST.) # SUSUMU YOKOTA MIX (INST.) # CARNIVAL MIX (INST.) # BEACH ACAPPELLA (INST.)</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">Analog 12inch</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;SIDE A # ORIGINAL VERSION # CARNIVAL MIX ;SIDE B # SUSUMU YOKOTA MIX (12"VERSION) # SUSUMU YOKOTA MIX (INST.)</div></div> | {{Start date|2000|7|26}} || {{Center|CD}} || MDCS-1043(Q&amp;A002C) || rowspan="2" | {{Center|47位}} || rowspan="2" | &nbsp; |- | {{Start date|2000|8|1}} || {{Center|12inch}} || CXLP-1027(Q&amp;A002R) |- ! colspan="7" | ROSE RECORDS |- ! 15 | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[夏は行ってしまった]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;side A # 夏は行ってしまった ;side B # 2番目の罪</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«CD»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 夏は行ってしまった # 2番目の罪 # 夏は行ってしまった inst. # 2番目の罪 inst. # 夏は行ってしまった chill outro # 2番目の罪 acapella</div></div> | {{Start date|2012|8|8}} || rowspan="5" style="text-align:center;" | 7inch+CD || ROSE 138 || {{Center|-}} || アナログ盤7インチ+CD。オンラインショップ、ライブ会場限定販売。 |- ! rowspan="2" | 16 | <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[One Day (サニーデイ・サービスの曲)#7inch EP+CD:ROSE 139|'''One Day''']]</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;side A # One Day ;side B # One Day Live 2012</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«CD「One Day」»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Original # Inst. # Acappella # Live 2012</div></div> | {{Start date|2012|9|26}} || ROSE 139/139CD || {{Center|-}} || アナログ盤7インチ+CD。 |- | <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[One Day (サニーデイ・サービスの曲)#7inch EP+CD:ROSE 141|'''One Day''']]</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;side A # One Day ;side AA # One Day Bleeders Remix</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«CD「One Day」»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Original # Bleeders Remix</div></div> | {{Start date|2012|11|22}} || ROSE 141/141CD || {{Center|-}} || アナログ盤7インチ+CD。9月発売のシングルの新装丁によるセカンド・プレス。 |- ! 17 | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[アビーロードごっこ]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch &amp; CD»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # アビーロードごっこ # サンバ</div></div> | {{Start date|2014|8|15}} || ROSE 173 || {{Center|-}} || アナログ盤7インチ+CD。オンラインショップ限定販売。 |- ! 18 | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[苺畑でつかまえて]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch &amp; CD»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 苺畑でつかまえて # コバルト</div></div> | {{Start date|2016|1|15}} || ROSE 195 || {{Center|-}} || アナログ盤7インチ+CD。オンラインショップ、ライブ会場限定販売。 |- ! rowspan="2" | 19 | rowspan="2" | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[桜 super love]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«CD»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 桜 super love (single mix) # 桜 super love (ly summer chan remix) remixed by [[ラブリーサマーちゃん]] # JAZZとテレビ # 春うらら # 血を流そう (live) # コバルト (live) # 胸いっぱい (live) # セツナ (live) # セツナ (live) # 桜 super love (instrumental)</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; SIDE A :# 桜 super love (single mix) ; SIDE B :# 桜 super love (ly summer chan remix) remixed by [[ラブリーサマーちゃん]]</div></div> | rowspan="2" | {{Start date|2017|3|15}} || {{Center|CD}} || ROSE 206 || {{Center|-}} || |- | rowspan="3" | {{Center|7inch}} || ROSE 207 || {{Center|-}} || 限定盤。 |- ! 20 | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[クリスマス -white falcon & blue christmas- remixed by 小西康陽]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; side A :# クリスマス –white falcon & blue christmas– remixed by [[小西康陽]] ; side B :# Rose for Sally(クリスマス・ソング)</div></div> | {{Start date|2017|12|13}} || ROSE 216 || {{Center|-}} || 限定盤。 |- ! 21 | <div class="NavHead" style="text-align:left;">'''[[FUCK YOU音頭]]'''</div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">«Analog 7inch»</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; side A :# FUCK YOU音頭 :; side B # あなたが唄うFUCK YOU音頭</div></div> | {{Start date|2018|6|13}} || ROSE 226 || {{Center|-}} || 限定盤<ref name="natalie_282681">{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/282681 |title=サニーデイ「FUCK YOU音頭」と「DANCE TO THE POPCORN CITY」をアナログ化 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2018-05-18 |accessdate=2018-05-18}}</ref>。 |- ! 22 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">[[Christmas of Love]]</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Christmas of Love # Christmas of Love (Beatles)</div></div> | {{Start date|2018|12|20}} || rowspan="2" | {{Center|CD}} || ROSE 237 || {{Center|-}} || {{Start date|2018|11|28}}に先行配信開始<ref name="christmas_of_love" />。ROSE RECORDSオンラインショップとライブ会場の限定発売。同年12月19日の恵比寿リキッドルーム・ライブにて先行販売。オンラインショップでは、12月20日から発送を開始<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/12/christmas_of_lovecd_rose.html |title=サニーデイ・サービスのクリスマスシングル『Christmas of Love』CDの発売が決定 &amp; ROSEオンラインショップの予約受付を開始しました。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-12-12 |accessdate=2019-11-16}}</ref>。 |- ! 23 | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">冷し中華 EP</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 冷し中華 # じゃすみん # その気になれば # 夏のにおい # 冷し中華 -Chill Inst.- (CDのみ収録)</div></div> | {{Start date|2022|7|22}} || ROSE 295 || {{Center|-}} || 7月15日にストリーミング・ダウンロード開始。 |} === 配信限定シングル === {|class="wikitable" style=font-size:small |- ! タイトル !! 発売日 |- | '''雨が降りそう''' || {{Start date|2020|1|16}} |- | '''TOKYO SUNSET''' || {{Start date|2021|10|13}} |- | '''おみやげを持って''' || {{Start date|2022|1|26}} |- | '''ライラック・タイム''' || {{Start date|2022|7|4}} |} === アルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! # !! style="width:30%;" |タイトル !! 発売日 !! 規格 !! [[規格品番|品番]] !! {{Nowrap|最高位}} !! 備考 |- ! - | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">'''SUPER DISCO'''</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # introduction # cosmo-sports # bossa holiday # pekin '67〜indian club # S.F.colour is born - part 2 # swimmin' in the mondnan ocean # international LOVE-IN # enchanted lagoon # saturday music # sunday music # anniversary of love # hare krishna # how we were before</div></div> | {{Start date|1994|5|23}} || {{Center|CD}} || ROBOT-001 || {{Center|-}} || インディーズ・アルバム |- ! colspan="7" | [[ミディ]] |- ! - | <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">INTERSTELLA OVERDRIVE EP 星空のドライブEP</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # {{unbulleted list|星空のドライヴ|INTERSTELLER OVERDRIVE}} # {{unbulleted list|クイズ・アカデミー|THEME FROM "NATIONAL QUIZ ACADEMY"}} # {{unbulleted list|ミラー・ミラー|MIRROR MIRROR}} # {{unbulleted list|アニヴァーサリー・オブ・ラヴ|ANNIVERSARY OF LOVE}} # {{unbulleted list|クイズ・アカデミー(インストゥルメンタル)|THEME FROM "NATIONAL QUIZ ACADEMY" (INSTRUMENTAL)}}</div></div> | {{Nowrap|{{Start date|1994|7|21}}}} || rowspan="2" | {{Center|CD}} || MDCL-1279 || {{Center|-}} || ミニ・アルバム。 |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"|<div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">COSMIC HIPPIE</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # {{unbulleted list|コズミック・ヒッピー|COSMIC HIPPIE}} # {{unbulleted list|トーキン・スイート,トーキン・ソウル|TALKIN' SWEET, TALKIN' SOUL}} # {{unbulleted list|エアプレイン・ソング|AIRPLANE SONG}} # {{unbulleted list|ピクチャー・イン・ザ・スカイ|PICTURE IN THE SKY}}</div></div> <div class="NavFrame" style="border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:left;">COSMIC HIPPIE アナログ盤</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> ;SIDE A # {{unbulleted list|コズミック・ヒッピー|COSMIC HIPPIE}} ;SIDE B # {{unbulleted list|エアプレイン・ソング|AIRPLANE SONG}}</div></div> | rowspan="2"| {{Start date|1994|11|21}} || MDCL-1285 || rowspan="2"| {{Center|-}} || rowspan="2" | ミニ・アルバム。EPは7インチ盤。2曲ともシングル・ヴァージョン。完全限定生産。 |- | {{Center|EP}} || MDKZ-100 |- ! rowspan="2"| 1 | rowspan="2"| [[若者たち (サニーデイ・サービスのアルバム)|'''若者たち''']] || {{Start date|1995|4|21}} || {{Center|CD}} || MDCL-1289 || {{Center|-}} || &nbsp; |- | {{Start date|2015|4|15}} || {{Center|LP}} || SGLP-1001 || {{Center|-}} || 2015年リマスタリング、完全限定プレス。ポスター封入。 |- ! rowspan="3"| 2 | rowspan="3"| [[東京 (サニーデイ・サービスのアルバム)|'''「東京」''']] || {{Start date|1996|2|21}} || {{Center|CD}} || MDCL-1303 || 29位 || &nbsp; |- | {{Start date|1996|8|31}} || {{Center|LP}} || MDJL-1001 || {{Center|-}} || 完全限定プレス。 |- | {{Start date|2016|5|18}} || rowspan="2" | {{Center|CD}} || MDCL-1552 || {{Center|-}} || 2016年リマタリング。 |- ! rowspan="2"| 3 | rowspan="2"| '''[[愛と笑いの夜]]''' || {{Start date|1997|1|15}} || MDCL-1313 || 10位 || &nbsp; |- | {{Start date|2015|6|26}} || {{Center|LP}} || SGLP-1004 || {{Center|-}} || 2015年リマスタリング、完全限定プレス。ポスター封入。 |- ! rowspan="2"| 4 | rowspan="2"| [[サニーデイ・サービス (アルバム)|'''サニーデイ・サービス''']] || {{Start date|1997|10|21}} || {{Center|CD}} || MDCL-1321 || {{00}}7位 || &nbsp; |- | {{Start date|2015|10|22}} || {{Center|LP}} || SGLP-1005 || {{Center|-}} || 2015年リマスタリング、完全限定プレス。ポスター封入。 |- ! rowspan="2"| 5 | rowspan="2"| [[24時 (サニーデイ・サービスのアルバム)|'''24時''']] || {{Start date|1998|7|15}} || {{Center|CD+SCD}} || MDCL-1322 || 10位 || &nbsp; |- | {{Start date|2015|12|21}} || {{Center|2LP+1EP}} || {{unbulleted list|SGLP-1006/7,|SGEP-1001}} || {{Center|-}} || 2015年リマスタリング、完全限定プレス。ポスター封入。 |- ! rowspan="2"| 6 | rowspan="2"| [[MUGEN (サニーデイ・サービスのアルバム)|'''MUGEN''']] || {{Start date|1999|10|20}} || {{Center|CD}} || MDCL-1356 || 10位 || &nbsp; |- | {{Start date|1999|12|25}} || {{Center|LP}} || CXLP-1024 || {{Center|-}} || 完全限定プレス。 |- ! rowspan="2"| 7 | rowspan="2"| '''[[LOVE ALBUM]]''' || {{Start date|2000|9|20}} || {{Center|CD}} || MDCL-1393 (QA004C) || 14位 || &nbsp; |- | {{Start date|2000|10|6}} || {{Center|2LP}} || CXLP-1028/9 (QA003R) || {{Center|-}} || 完全限定プレス。 |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"| '''[[PARTY LOVE ALBUM]]''' || rowspan="2"| {{Start date|2000|10|6}} || {{Center|CD}} || CXCI-1019 (QA006C) || rowspan="2"| {{Center|-}} || rowspan="2"| 『LOVE ALBUM』から6曲をセレクトしたリミックス・アルバム。ライブ会場での限定発売。 |- | {{Center|12inch}} || QA004R |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"| [[FUTURE KISS (サニーデイ・サービスのアルバム)|'''FUTURE KISS''']] || rowspan="2"| {{Start date|2000|12|6}} || {{Center|CD}} || MDCL-1402 || rowspan="2"| {{Center|38位}} || rowspan="2"| ライブ・ミニ・アルバム。アナログは10インチ盤、完全限定プレス。 |- | {{Center|LP}} || CXLP-1033 (QA007R) |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"| '''[[Best Sky]]''' || {{Start date|2001|5|23}} || {{Center|CD}} || MDCL-1407 || rowspan="2"| {{Center|17位}} ||rowspan="2"| 1994年から2000年までの7枚のアルバムからのセレクト。アナログ盤は完全限定生産の2枚組。 |- | {{Start date|2001|6|25}} || {{Center|2LP}} || CXLP-1039/40 |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"| [[Best Flower|'''Best Flower -B side collection-''']] || {{Start date|2001|5|23}} || {{Center|CD}} || MDCL-1407 || rowspan="2"| {{Center|18位}} ||rowspan="2"| アルバム未収録曲集。アナログ盤は完全限定生産の2枚組。 |- | 2001年6月25日 || {{Center|2LP}} || CXLP-1041/2 |- ! - | '''[[サニーデイ・サービス BEST 1995-2000]]''' || {{Start date|2013|6|26}} || {{Center|2CD}} || MDCL-1538/9 || {{Center|-}} || 最新リマスタリングによる[[スーパー・ハイ・マテリアルCD|SHM-CD]]仕様の2枚組ベスト・アルバム。 |- ! colspan="7"| ROSE RECORDS |- ! rowspan="2"| 8 | rowspan="2"| [[本日は晴天なり (サニーデイ・サービスのアルバム)|'''本日は晴天なり''']] || rowspan="2"| {{Start date|2010|4|21}} || {{Center|CD}} || ROSE 102 || rowspan="2"| {{Center|16位}} || &nbsp; |- | {{Center|LP}} || ROSE 102X || 完全限定プレス。 |- ! rowspan="2"| 9 | rowspan="2"| [[Sunny (サニーデイ・サービスのアルバム)|'''Sunny''']] || rowspan="2"| {{Start date|2014|10|21}} || {{Center|CD}} || ROSE 176 || rowspan="2"| {{Center|49位}} || &nbsp; |- | {{Center|{{unbulleted list|ANALOG ALBUM|+CD ALBUM}}}} || ROSE 176X || 数量限定。アナログ盤収録曲と同内容のCD付き。 |- ! rowspan="3"| - | rowspan="3"| '''[[Birth of a Kiss]]''' || rowspan="3"| {{Start date|2015|7|2}} || {{Center|{{unbulleted list|CD ALBUM+DVD|Special BOX}}}} || ROSE 190 || rowspan="3"| {{Center|-}} || rowspan="3"| {{Start date|2015|3|27}}に行われた[[渋谷公会堂]]での模様を収めたライブ・アルバム。[[ボックス・セット]]はオンライン・ショップのみの数量限定販売。CDには当日のライブ音源から12曲を収録。アナログ盤はCD収録の12曲に1曲を加えた13曲収録。完全限定プレス。 |- | {{Center|CD}} || ROSE 191 |- | {{Center|2LP}} || ROSE 191X |- ! rowspan="3"| 10 | rowspan="3"| '''[[DANCE TO YOU]]''' || rowspan="3"| {{Start date|2016|8|3}} || {{Center|CD}} || ROSE 198 || rowspan="3"| {{Center|25位}} || &nbsp; |- | {{Center|ANALOG ALBUM}} || ROSE 198X || rowspan="2"| 数量限定。 |- | {{Center|[[カセットテープ|CASSETTE TAPE]]}} || ROSE 198C |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"| [[DANCE TO YOU#DANCE TO YOU REMIX|'''DANCE TO YOU REMIX''']] || rowspan="2"| {{Start date|2017|1|15}} || {{Center|CD}} || ROSE 202 || rowspan="2"| {{Center|-}} || rowspan="2"| 9人のアーティストによる『DANCE TO YOU』の全曲リミックス・アルバム。ライブ会場、オンラインショップ限定発売。 |- | {{Center|12inch×2}} || ROSE 202X |- ! rowspan="2"| 11 | rowspan="2"| '''[[Popcorn Ballads]]''' || rowspan="2"| {{Start date|2017|12|25}} || {{Center|CD}} || ROSE 214 || rowspan="2"| {{Center|45位}} || rowspan="2"| 2枚組アルバム。{{Start date|2017|6|2}}に[[Apple Music]]と[[Spotify]]の[[ストリーミング]]配信で先行発売後、さらにミックスやアレンジや曲順に変更が加えられ、新たな楽曲も追加されて12月25日にフィジカルで発売。 |- | {{Center|2LP}} || ROSE 214X |- ! rowspan="2"| 12 | rowspan="2"| '''[[the CITY]]''' || {{Start date|2018|3|14}} || ストリーミング・ダウンロード || ROSE 218 || rowspan="2"| {{Center|-}} || rowspan="2"| CD盤でのリリース予定なし<ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/273286 |title=サニーデイ・サービス新アルバムにcero高城、SIMI LABのMARIAら参加 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2018-03-13 |accessdate=2018-03-13}}</ref>。 |- | {{Start date|2018|4|25}} || {{Center|2LP}} || ROSE 218X |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"| '''[[DANCE TO THE POPCORN CITY]]''' || {{Start date|2018|4|28}} || ストリーミング・ダウンロード || ROSE 227 || rowspan="2"| {{Center|-}} || rowspan="2"| 同年3月26日に東京・渋谷[[CLUB QUATTRO]]で行われた春ツアーの最終公演と、翌27日に東京・[[WWW (ライブハウス)|WWW X]]で行われた追加公演の音源を収録した[[ライブ・アルバム]]。CD盤でのリリース予定なし<ref name="natalie_282681" />。 |- | {{Start date|2018|6|13}} || {{Center|LP}} || ROSE 227X |- ! rowspan="2"| - | rowspan="2"| '''[[the SEA]]''' || 2018年6月26日 || {{Nowrap|ストリーミング・ダウンロード}} || ROSE 228 || style="text-align:center;" rowspan="2"| - || rowspan="2"| [[スタジオ・アルバム|アルバム]]『the CITY』全曲をさまざまなアーティストが[[Spotify]]のプレイリスト上で解体、再構築していくプロジェクト<ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/music/news/288360 |title=サニーデイ・サービス「the SEA」最終更新で鈴木慶一、Illicit Tsuboi、CRZKNY追加 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2018-06-26 |accessdate=2019-11-16}}</ref>。CD盤でのリリース予定なし<ref>{{Cite web |url=http://rose-records.jp/2018/08/_the_sealp.html |title=サニーデイ・サービス リミックスアルバム『the SEA』LP2枚組、本日発売日です。 |work=ROSE RECORDS - NEWS |publisher=ROSE RECORDS CO.,LTD |date=2018-08-29 |accessdate=2019-11-16}}</ref>。 |- | {{Start date|2018|8|29}} || {{Center|2LP}} || ROSE 228X |- ! rowspan="5"| 13 | rowspan="5"| [[いいね! (アルバム)|'''いいね!''']] || {{Start date|2020|3|19}}<ref name="202003_post527" /> || ストリーミング・ダウンロード || ROSE 247 || rowspan="5"| {{Center|28位}} || rowspan="4"| CD初回限定盤は2020年1月4日、江ノ島オッパーラにて行われたワンマンライブから9曲/50分を収録したDVD付きのスリップケース仕様。アナログ盤LPは初回プレスのみ限定カラーVinyl。初回出荷分のみポスター封入。 |- | rowspan="3"| {{Start date|2020|5|22}}<ref name="202003_post528" /> || {{Center|CD+DVD}} || ROSE 249DX |- | {{Center|CD}} || ROSE 249 |- | {{Center|LP}} || ROSE 249X |- | {{Start date|2020|7|22}} || {{Center|[[カセットテープ|CASSETTE TAPE]]}}|| ROSE 249CT || 数量限定盤 |- ! rowspan="3"| - | rowspan="3"| '''もっといいね!''' || {{Start date|2020|11|25}} || ストリーミング・ダウンロード || || rowspan="3"| {{Center|-}} || rowspan="3"| リミックス・アルバム |- | rowspan="2"| {{Start date|2020|12|22}} || {{Center|CD}} || ROSE 259 |- | {{Center|2LP}} || ROSE 259X |- ! rowspan="5"| 14 | rowspan="5"| '''DOKI DOKI''' || {{Start date|2022|11|1}} || ストリーミング・ダウンロード || || rowspan="5"| {{Center|-}} || |- | rowspan="4"| {{Start date|2022|11|19}} || {{Center|CD}} || ROSE 300 || 初回限定盤のみスリーブケース仕様/ステッカー封入 |- | {{Center|[[カセットテープ|CASSETTE TAPE]]}}|| ROSE 300CT || 数量限定盤 |- | rowspan="2"| {{Center|LP}} || ROSE 300X || LP通常盤 / 数量限定盤 |- | ROSE 300EX || LP重量盤 / 数量限定盤 |} === ボックス・セット === # “MIDI” COMPLETE BOX(2002年7月24日) - 初期作品やアルバム未収録曲と、すべてのオリジナル・アルバムを網羅したCD12枚に特製ブックレットをあわせた[[ボックス・セット]]。 # [[東京 20th anniversary BOX|「東京」 20th anniversary BOX]](2016年5月18日) - 1996年にリリースされたアルバム『東京』発売20周年を記念した完全限定ボックス・セット。 === インディーズ盤 === # S.F.colour is born(1993年) - 大学の1年先輩[[新井仁]]の[[N.G.THREE]]とのスプリット・シングル、アナログ7インチ盤。 # COSMO-SPORTS ep(1993年) - CD:UFPB-002 ※シングル。 #* cosmo-sports #* pancake pretty #* century true #* picture in the sky # HAPPY DAY, HAPPY TIME!!(1993年) - PUSHBIKEからリリースされたオムニバス・アルバム、「SF COLOUR IS BORN」を収録。 === 参加作品 === # 桜通信 ORIGINAL SOUNDTRACK(1997年8月6日)CD:VICL-60024 - [[遊人]]原作『[[桜通信]]』のOVAのサウンドトラック・アルバム。曽我部恵一作詞・作曲、サニーデイ・サービス編曲、桑田貴子ボーカルによる「きみの窓から」「恋は風に乗って」を収録。 # HIT RADIO 802(1997年10月1日) - [[FM802]]から発信された、ポリグラム系列の楽曲から選曲されたコンピレーション・アルバム。「都会(Version#2)」を収録。 # [[東京こんぴ]](2012年3月7日)CD:VICL-63845 - すべて「東京」というタイトルの楽曲で構成されたオムニバス・アルバム。サニーデイ・サービスの「東京」を収録。 # [[DISH//|DJ To-i]]『TOY BOX II -All Night Mix-』(2020年1月15日)CD+オリジナルグッズ:SRCL 11300-1【初回生産限定盤】、CD:SRCL 11302【通常盤】 - DJ To-iによる[[ミックステープ|ミックスCD]]。「街角のファンク (feat. C.O.S.A. & KID FRESINO) 」と「Tokyo Sick feat. MARIA (VaVa Remix)」を収録。 === その他 === # 蜂と蜘蛛(1998年9月19日) - 1998年のツアー・パンフレットに付属していたボーナス・シングル、「蜂と蜘蛛」,「蜂と蜘蛛 田中貴プロデュース・バージョン」を収録。 # TOWN FOXES ep(2010年3月1日)- 2010年3月のジョイント・ライブ“Sunny Day Service × Trashcan Sinatras”で販売されたスプリット盤。[[トラッシュ・キャン・シナトラズ]]「TOWN FOXES」の日本語カヴァー「夢色の街で」を収録。 === 配信限定 === # サニーデイ・サービス BEST 1995-2018(2018年11月21日) - [[スタジオ・アルバム|アルバム]]『若者たち』から『the CITY』まで、MIDIレコードとROSE RECORDSといった2つのレーベルをまたいでセレクトされた楽曲全32曲を収録。曽我部恵一自ら編曲とマスタリングを手がけた<ref name="50_1" />。 === 映像作品 === * TEENAGE FLASHBACK Vol.1(1996年4月20日、[[VHS]]) - [[ミュージック・ビデオ|PV]]集 * TEENAGE FLASHBACK Vol.2(1998年3月18日、VHS) - PV集 * TEENAGE FLASHBACK 1995-2000(2008年12月3日、[[DVD]]) - PV集 ** Vol.1とVol.2の内容に加えて、1998年以降に制作された全PVと初公開の「さよなら! 街の恋人たち」ムービー・バージョンを収録。 * サニーデイ・サービス in 日比谷 夏のいけにえ(2017年12月25日、DVD) ** 2017年8月27日に[[日比谷野外音楽堂|日比谷野外大音楽堂]]で行われた「サニーデイ・サービス サマーライブ 2017」を収録したライブDVD。 * birth of a kiss(2019年9月4日、DVD) ** ROSE RECORDSオンラインショプのみで限定販売されたBOXセット『[[Birth of a Kiss]]』(2015年)にパッケージされていた映像作品の単独リリース。 == 関連書籍 == * 青春狂走曲(スタンド・ブックス、{2017年8月30日) {{ISBN2|4909048014}} ライター・北沢夏音によるインタビュー集 * [[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 2018年1月号 特集=サニーデイ・サービス([[青土社]]、2017年12月27日) {{ISBN2|479170343X}} == タイアップ == {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" ! 使用年 !! 曲名 !! タイアップ |- ! rowspan="2" | 1996年 | '''[[ここで逢いましょう]]''' || [[NHK-FM放送|NHK-FM]]『[[ミュージックスクエア (NHK-FM)|ミュージック・スクエア]]』1996年4・5月度エンディングテーマ |- | '''[[サマー・ソルジャー]]''' || [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[週刊スタミナ天国]]』オープニングテーマ |- ! rowspan="6" | 1997年 | [[白い恋人 (サニーデイ・サービスの曲)|'''白い恋人''']] || [[TBSテレビ|TBS]]系『BLITZ INDEX』オープニングテーマ |- | rowspan="2" | '''[[恋人の部屋]]''' || [[テレビ朝日]]系『Mew』オープニングテーマ |- | [[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータ・エンタテインメント]]「ザ・ベストある女の子編/PSゲームソフト」CMソング<ref group=注>CMでは「恋人の部屋」インストバージョン(未発表)が使われた(1997年5月)。</ref><ref group=注>CMで使われたPSゲームソフトは「[[ダービースタリオン]]」</ref> |- | '''NOW''' || [[ロッテ]]「[[ガーナチョコレート|ガーナミルクチョコレート]]」CMソング<ref group=注>CMバージョンを使用(1997年9月)。</ref><ref group=注>ロッテ販促用非売品CDあり</ref> |- | [[サニーデイ・サービス (アルバム)|'''baby blue''']] || [[城南予備校]] CMソング |- | [[サニーデイ・サービス (アルバム)|'''旅の手帖''']] || 四国観光立県協会「しあわせ四国」CMソング |- ! 1998年 | '''[[今日を生きよう]]''' || [[中国電力]] CMソング |- ! rowspan="2" | 1999年 | '''[[スロウライダー]]''' || NHK-FM『ミュージック・スクエア』1999年8・9月度オープニングテーマ |- | '''テーマ''' || [[ツムラ]]「[[バスクリン|バスクリンソフレ]]」CMソング |- ! 2000年 | [[LOVE ALBUM|'''胸いっぱい''']] || [[アクサ生命保険|アクサニチダン生命保険]] CMソング |- ! 2018年 | [[the CITY|'''甲州街道の十二月''']] || [[YouTube]]配信 短編ドラマ『[[青葉家のテーブル]]』主題歌 |- ! rowspan="3" | 2022年 | '''おみやげを持って''' || [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[ぶらり途中下車の旅]]』エンディングテーマ |- | '''ライラック・タイム''' || アパレルブランド「foufou」企画テーマソング |- | '''海辺のレストラン''' || [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]『[[これって攻めすぎ!?世界旅行]]』オープニングテーマ |} === ヘビーローテーション/パワープレイ === {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" ! 放送年 !! 曲名 !! ヘビーローテーション/パワープレイ |- ! 1995年 | [[恋におちたら (サニーデイ・サービスの曲)|'''恋におちたら''']] || [[スペースシャワーTV]] 1995年11月度[[スペースシャワーTV歴代POWER PUSH一覧|POWER PUSH!]] |} == エピソード == * インディーズ時代、友人のバンドが出演するライブを観に行った曽我部は、酔っ払ってしまった挙句、見ず知らずの男性に絡んだ。この絡まれた男性が後のディレクターの渡邊文武で、絡みながらも、たまたま持参していたCDを渡したことがメジャーデビューへの足がかりとなった<ref>「[[FM STATION]]」 1995年3月27日号</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Official website|rose-records.jp/artists/sunnydayservice/}} - ローズ・レコーズ内アーティスト・ページ * {{URL|d.hatena.ne.jp/sunny_day_service/|サニーデイ・サービスweb}} - 旧公式ウェブサイト * Twitter ** {{Twitter|rose_records|ローズレコーズ}} ** {{Twitter|keiichisokabe|曽我部恵一}} ** {{Twitter|TAKASHI_TANAKA_|田中貴}} ** {{Twitter|mrdyke|大工原幹雄}} ** {{Twitter|haruru6106|丸山晴茂}} {{サニーデイ・サービス}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さにいていさあひす}} [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:フォーク・ロック・バンド]] [[Category:ガレージロック・バンド]] [[Category:渋谷系]] [[Category:1992年に結成した音楽グループ]] [[Category:2000年に解散した音楽グループ]] [[Category:2008年に再結成した音楽グループ]] [[Category:フジロック・フェスティバル出演者]] [[Category:ROCK IN JAPAN FESTIVAL出場者]]
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文部省
文部省(もんぶしょう、英: Ministry of Education, Science, Sports and Culture)は、かつて存在した日本の行政機関のひとつ。教育政策、学術政策、スポーツ政策、文化政策などを所管していた。 2001年(平成13年)の中央省庁再編において、文部省は総理府外局であった科学技術庁と統合され、文部科学省となった。なお、日本以外の外国で文教行政を所管する行政官庁の多くは「教育省」と邦訳されることが多く、「文部省」が使われることはない。 文部省は、1871年9月2日(明治4年7月18日)、「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」(明治4年7月18日太政官布告)により設置された省である。 1932年には財団法人日本学術振興会を創設した。設立時の総裁は秩父宮雍仁親王、会長は海軍軍人の斎藤実、理事長は帝国学士院院長で枢密顧問官の櫻井錠二、他に大学総長や研究所所長等が理事であった。。以後も皇族の閑院宮春仁王等が総裁を歴任してきた。 戦前まで、旧内務省が寺社と共に各道府県学務部を統轄していたが、1952年(昭和27年)に、義務教育費国庫負担法成立に伴い、教員給与の3分の1を国が負担することで、次いで1956年(昭和31年)に、地方教育行政の組織及び運営に関する法律成立に伴い、教育委員会委員の任命権を国が動かすことができるようになったため、小・中・高等学校の監督権を獲得し掌るようになった。 学校教育、社会教育など教育分野全般の他、学術、スポーツ、文化、児童の健康に関する事項などを所管してきた。 2001年(平成13年)の中央省庁再編において文部科学省が新しく設置されたため、文部省は廃止された。 地方単位または管区単位の出先機関をもたないが、国立大学など国立学校を所管しており、人事交流は文部科学省となった現在でも盛んである。 国家行政組織法(昭和23年法律第120号)、文部省設置法(昭和24年法律第146号)、文部省組織令(昭和27年政令第387号)の規定に基づいて記述。名称は全て当時のもの。 文部卿は7代、文部大臣は130代(文部科学省のサイトによれば125代)まで続き、文部科学大臣に引き継がれている。
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文部省は、かつて存在した日本の行政機関のひとつ。教育政策、学術政策、スポーツ政策、文化政策などを所管していた。 2001年(平成13年)の中央省庁再編において、文部省は総理府外局であった科学技術庁と統合され、文部科学省となった。なお、日本以外の外国で文教行政を所管する行政官庁の多くは「教育省」と邦訳されることが多く、「文部省」が使われることはない。
{{Otheruseslist|かつて[[日本]]において[[文化|文]][[教育|教]]行政を担った[[行政]][[官庁]]|文部省と[[科学技術庁]]とが統合されることで設置された行政官庁|文部科学省|外国において文教行政を担う行政官庁|教育省}} [[File:Former Monbushō Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology building 2010.jpg|thumb|250px|right|旧文部省庁舎]] '''文部省'''(もんぶしょう、{{lang-en-short|Ministry of Education, Science, Sports and Culture}})は、かつて存在した[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ。[[教育政策]]、[[学術]][[政策]]、[[スポーツ]]政策、[[文化政策]]などを所管していた。 [[2001年]](平成13年)の[[中央省庁再編]]において、文部省は[[総理府]][[外局]]であった[[科学技術庁]]と統合され、'''[[文部科学省]]'''となった。なお、日本以外の外国で文教行政を所管する行政官庁の多くは「教育省」と邦訳されることが多く、「文部省」が使われることはない。{{main|[[教育省]]}} == 概要 == 文部省は、[[1871年]][[9月2日]]([[明治]]4年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]])、「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」(明治4年7月18日太政官布告<ref>[{{NDLDC|787951/180}} 「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」(明治4年7月18日太政官布告」]、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。</ref>)により設置された省である。 [[1932年]]には財団法人[[日本学術振興会]]を創設した。設立時の総裁は[[秩父宮雍仁親王]]、会長は[[大日本帝国海軍|海軍軍人]]の[[斎藤実]]、理事長は[[帝国学士院]]院長で[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]の[[櫻井錠二]]、他に大学総長や研究所所長等が理事であった。<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145393/8 『日本学術振興会年報 第1号』]、日本学術振興会([[1932年]])</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142253/26 『日本学術振興会要覧 昭和16年3月』]、同([[1941年]])</ref>。以後も[[皇族]]の[[閑院宮春仁王]]等が総裁を歴任してきた。 戦前まで、旧[[内務省 (日本)|内務省]]が[[寺社]]と共に各道府県学務部を統轄していたが、[[1952年]](昭和27年)に、[[義務教育費国庫負担法]]成立に伴い、教員給与の3分の1を国が負担することで、次いで1956年(昭和31年)に、[[地方教育行政の組織及び運営に関する法律]]成立に伴い、[[教育委員会]]委員の任命権を国が動かすことができるようになったため、小・中・高等学校の監督権を獲得し掌るようになった。 [[学校教育]]、[[社会教育]]など教育分野全般の他、[[学問|学術]]、[[スポーツ]]、[[文化]]、児童の健康に関する事項などを所管してきた。 [[2001年]](平成13年)の[[中央省庁再編]]において[[文部科学省]]が新しく設置されたため、文部省は廃止された。 地方単位または管区単位の[[出先機関]]をもたないが、[[国立大学]]など[[国立学校]]を所管しており、人事交流は文部科学省となった現在でも盛んである。 == 沿革 == * 「文部省」の名称が日本史上最初に出現したのは[[758年]]([[天平宝字]]2年)のことである。ただし、これは[[式部省]]を[[官職の唐風改称|一時的に改称した]]際に命名された名称である。読みは「ぶんぶしょう」であり、業務内容も一部の学校を所掌した以外は教育・学術などとは無関係であったため、[[文部科学省]]の前身たる文部省とも当然無関係である。[[764年]](天平宝字8年)を最後に元の「式部省」に再改称された。 * [[1871年]][[9月2日]]([[明治]]4年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]])、明治政府により教育・学術などを担当する行政官庁として東京神田の[[湯島聖堂]]内([[昌平坂学問所]]・昌平学校跡)に設置された。[[大木喬任]]が初代文部卿を命ぜられ、近代的な[[教育制度]]・[[学制]]・[[師範学校]]の導入にあたった。このことから、昌平学校廃止後の湯島聖堂構内界隈<!--構内の範囲が不明。東京女子師範学校が設けられた現在のお茶の水橋界隈まであったのか?。従って、「界隈」と付記。-->には、文部省、[[東京高等師範学校|東京師範学校]](現在の[[筑波大学]])、[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]](現在の[[お茶の水女子大学]])<ref group="注釈">後に設置された[[附属学校]]たる練習小学校(現在の[[筑波大学附属小学校]])、および、[[筑波大学附属中学校・高等学校]]、[[お茶の水女子大学附属幼稚園]]、[[お茶の水女子大学附属小学校]]、[[お茶の水女子大学附属中学校]]、[[お茶の水女子大学附属高等学校]]などの前身諸校も含む。</ref>、国立博物館(現在の[[東京国立博物館]]および[[国立科学博物館]])などが置かれていた。 * 1872年(明治5年)に大手町へ移転。 * 1877年(明治10年)からは竹平町(現・千代田区一ツ橋)に庁舎を構えた。 * 1923年(大正12年)年に発生した「関東大震災」により焼失し、1933年(昭和8年)に、三年町(現・霞が関三丁目)に新しく建てられた庁舎へ移転。 * [[1885年]](明治18年)[[12月22日]]の[[内閣職権|内閣制度発足]]に伴って、[[森有礼]]が初代文部大臣を命ぜられた。 * [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]の[[中央省庁再編]]に伴って、[[科学技術庁]]と統合されて[[文部科学省]]となった。 == 組織 == [[国家行政組織法]](昭和23年法律第120号)、[[文部省設置法]](昭和24年法律第146号)、[[文部省組織令]](昭和27年政令第387号)の規定に基づいて記述。名称は全て当時のもの。 *[[文部大臣]] *文部[[政務次官]] *文部[[事務次官]] *文部大臣[[秘書官]] === 本省 === ==== 内部部局 ==== *[[大臣官房]] **人事課、総務課、会計課、政策課、調査統計企画課、福利課 **文教施設部 ***技術参事官 ***指導課、計画課、技術課 **総務審議官 **[[審議官]](6人) *生涯学習局 **生涯学習振興課、社会教育課、学習情報課、青少年教育課、男女共同参画学習課 *初等中等教育局 **幼稚園課、小学校課、中学校課、高等学校課、職業教育課、特殊教育課、教科書課、初等中等教育企画課 *教育助成局 **財務課、地方課、教職員課、海外子女教育課、施設助成課 *高等教育局 **科学官(3人) **企画課、大学課、専門教育課、医学教育課、学生課 **私学部 ***私学行政課、学校法人調査課、私学助成課 *学術国際局 **科学官(12人) **学術課、研究機関課、研究助成課、学術情報課、国際企画課、国際学術課、留学生課 *体育局 **体育課、生涯スポーツ課、競技スポーツ課、学校健康教育課 ==== 審議会等 ==== *[[中央教育審議会]] *理科教育及び産業教育審議会 *教育課程審議会 *教科用図書検定調査審議会 *教育職員養成審議会 *学術審議会 *測地学審議会 *保健体育審議会 ==== 施設等機関 ==== *[[国立学校]] *[[国立教育研究所]] *[[国立特別支援教育総合研究所]](元・国立特殊教育総合研究所) *[[国立科学博物館]] *[[国立オリンピック記念青少年総合センター]] *[[国立青年の家]] *[[国立少年自然の家]] *[[国立婦人教育会館]] ==== 特別の機関 ==== *[[日本ユネスコ国内委員会]] *[[日本学士院]] ---- === 文化庁 === *文化庁[[長官]] *[[次長]] ==== 内部部局 ==== *長官官房 **審議官 **総務課、著作権課、国際著作権課 *文化部 **芸術文化課、地域文化振興課、国語課、宗務課 *文化財保護部 **文化財鑑査官 **伝統文化課、記念物課、美術学芸課、建造物課 ==== 審議会等 ==== *著作権審議会 *国語審議会 ==== 施設等機関 ==== *[[国立博物館]] *[[国立近代美術館]] *[[国立西洋美術館]] *[[国立国際美術館]] *[[文化財研究所|国立文化財研究所]] ==== 特別の機関 ==== *[[日本芸術院]] == 歴代の文部卿・文部大臣 == {{main|文部大臣}} 文部卿は7代、文部大臣は130代([https://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki/rekidai/daijin.htm 文部科学省のサイト]によれば125代)まで続き、[[文部科学大臣]]に引き継がれている。 == 歴代の文部次官・文部事務次官 == {{Main|事務次官等の一覧#文部事務次官(文部次官)}} == 文部省の著作 == * [[あたらしい憲法のはなし]]([[1947年]](昭和22年)) * 教育[[白書]](毎年) * [[学習指導要領]](幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校(盲学校・聾学校・養護学校))(およそ10年毎) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{wikisource portal}} {{Commonscat|Ministry of Education, Science, Sports and Culture}} * [[文部科学省]] * [[文部省唱歌]] * [[大学校 (1869年)|大学校・大学]] - 文部省および[[東京大学]]の前身機関。 == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.monbu.go.jp/ |title=公式サイト |date=19990125101328 }} * {{Kotobank}} {{Gov-stub}} {{中央省庁(中央省庁再編前)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もんふしよう}} [[Category:文部科学省の歴史|*]] [[Category:文部省|*]] [[Category:1871年設立の政府機関]] [[Category:2001年廃止の政府機関]]
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木構造
木構造
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木構造 木構造 (建築)(もくこうぞう) 木 (数学)(き) 木構造 (データ構造)(きこうぞう) 木構造 (言語)(きこうぞう)
'''木構造''' * [[木構造 (建築)]](もくこうぞう) * [[木 (数学)]](き) * [[木構造 (データ構造)]](きこうぞう) * [[木構造 (言語)]](きこうぞう) {{aimai}} {{DEFAULTSORT:もくこうそう}}
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ジャドーズ
ジャドーズ(JADOES)は、和製ソウルファンクバンド及びコントグループ。 藤沢 秀樹(ふじさわ ひでき、1963年10月12日 - ) 斎藤 謙策(さいとう けんさく、1963年2月4日 - ) 島村 幸男(しまむら ゆきお、1963年12月20日 - ) 伝田 一正(でんだ かずまさ、1963年12月9日 - ) 平間 あきひこ(ひらま あきひこ、1964年11月3日 - ) 渡部 達也(わたなべ たつや、1968年4月1日 - ) 酒井 彰(さかい あきら、生年月日不明) 元から音楽バンドではあったが、先にお笑いグループでデビューしたことからそれで知名度を得る。その後の1986年、角松敏生プロデュースによってレコードデビューした。シティ・ポップとエレクトロファンクをベースにしたダンス・ミュージック路線で一部の愛好家には絶賛された一方、ヒット曲を持つことは叶わなかったため、知る人ぞ知る存在となってしまう。角松敏生プロデュースを離れた1990年代に入ると、路線は変更されていき、当時流行りの夏の海辺や冬のスキー場などを舞台にしたリゾート・ミュージック路線を取っていく。しかしながら、やはりヒット曲は掴めず、それが迷いとなってメンバー二人が相次いで脱退してしまう。1990年代半ばまでアルバムおよびシングルをリリースしていったが、以後は途絶える。1990年代後半、ライブの余興でやっていたり、ジャドーズとは離れて趣味としてアマチュアのバンドでやっていた、著名洋楽曲にその原曲とは全く違う意味の日本語詞を載せて歌う“ダンス☆マン”がウケていてCD化もしたところ、好評だったため、以降はそちらのほうへ活動のシフトを置く。 元メンバー・ドラムスの島村幸男は、ジャドーズでの活躍以前はフュージョンバンド、カシオペアの専属ローディーに就いていた。現在はラジオDJやナレーターとして活躍。 1984年結成。元々は獨協大学生と立教大学生による学生ノリのアマチュアバンドで、ライブのMCでやったモノマネ芸がウケて、1986年のレコードデビュー以前から藤沢、斎藤、島村の三人組で、当時数多存在したセミプロ・レベルの素人演芸コーナーがあるテレビのバラエティ番組、『オールナイトフジ』や『ミッドナイトin六本木』などに出演して人気を博すようになった。その芸風は、オリジナルの「じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃんッ!」というブリッジのフレーズで繋ぐ一発芸やショートコントで、荒井注、遠藤周作、長嶋茂雄、紙を破る音のマネ、ジャドーズならではの音楽面を強調したものには小森のおばちゃまのモノマネで歌うチャカ・カーンの「アイ・フィール・フォー・ユー」など、プロのお笑い芸人のそれとは違う、大学生らが仲間内でやる飲み会、いわゆるコンパでの宴会芸を昇華した都会的なものであり、そういったものに共感する、流行に敏感な若者層を中心に支持を得ていった。 そして、テレビ番組の出演ばかりでなく、コント赤信号の渡辺正行とテレビ番組での共演を通じて親交を持ったことから、氏が主催となって始めたお笑いライブ「ラ・ママ新人コント大会」にもその最初期から出演していく。とんねるずに続く「お笑い第三世代」が世に出始めたときであり、そういった輪の中でこの当時交友を持っていたお笑い仲間に、かけ出し時代のウッチャンナンチャンがいた。 それまでなかった種類の芸であり、ウッチャンナンチャンがブレイクすることになったショートコントは、じつはその先駆けとなったジャドーズから強く影響を受けてやり始めたものだと渡辺正行、太田光らの証言で裏付けられている。 ウッチャンナンチャンとは特に親しくて「お笑い×音楽&お笑い」という対バン型式でライブをやったり、彼らがテレビ番組などでレギュラーを持つようになると、ジャドーズが番組に幾度もゲスト出演したりし、番組が「企画モノ」で出すCDの音楽ブレーンになったりするなど現在に至るまで親交がある。 1986年、レコードデビュー直前のころは、ゴールデンタイムのテレビ番組にも頻繁に出演するなどその認知度は高く、また、レギュラー出演していたものには、ラジオ番組『斉藤由貴 ネコの手も借りたい』(ニッポン放送)のオープニングでパーソナリティの斉藤由貴とともにミニドラマ(コント)も行っていたこともある。 お笑い芸人グループとして注目を浴びていた彼らは、1985年のある日、音楽活動でのデビューを図りたいばかりに、彼らが音楽面で尊敬してやまなかった角松敏生の自宅住所を知人のつてを辿って知り、その郵便受けに直接デモテープとプロフィール表を投函した。それには「今度、×××というテレビ番組に出ますんで観て下さい」などとも書いてアピールした。突拍子もない彼らの存在に角松は度肝を抜かれたが、これに応えてジャドーズと交流を持つようになってプロデュースを請け負い、日本コロムビアから1986年10月にシングル「FRIDAY NIGHT」と翌11月にアルバム『IT'S FRIDAY』で晴れて音楽バンドとしてデビューを果たす。それまでの角松は杏里や西城秀樹などのプロデュースには関わっていたが、全くの新人は初めてであったことから、角松は手取り足取り彼らに仕事を覚えさせたことによって師弟関係も築かれていった。また、対等な遊び仲間としてジャドーズと角松は当時四六時中過ごしていた。 1980年代後半の角松は打ち込みやプログラミングによる音楽づくりに傾倒していて、また自身の名義によるアルバム制作はニューヨークで現地のエンジニアとプロデューサーを囲んで行われていた。そこで得た当時最先端のレコーディング技術を国内で行われるジャドーズのレコーディングに惜しみなく投影させ、1988年5月に発表した4枚目のアルバム『a lie』までシングルを含めてすべての作品で角松は音楽プロデューサーとして全面的に関わっていく。その楽曲群は、メンバーのオリジナルによる詞と曲、角松からの提供曲及びメンバーとのコラボレーション曲で構成されたシティ・ポップであり、そこにアメリカのファンクやソウルミュージックの要素を入れたもので、お笑い芸人によるウケねらいのそれとは一線を画していた。 この当時、角松はその人気が全盛期であり、“踊らせるための音楽”という共通コンセプトもあって両者の作品は常に近似性があったものの、セールス面では不調を来たしてしまい、新人ながらも抜群の知名度があったはずのジャドーズはマイナーバンドの道を歩みだす。一方、同時期の角松はジャドーズと同じ傾向の手法で、当時のトップアイドル歌手、中山美穂のシングル「CATCH ME」(イントロ冒頭の“ア〜、ウッ!”の掛け声はジャドーズ)とシングル「You're My Only Shinin' Star」、そしてアルバム『CATCH THE NITE』のプロデュースにも関わっており、そちらでは成功を収めた。 当時、お笑い芸人グループからプロの音楽バンドへと活動のシフトを移すようになっていったが、レコードデビュー以降もお笑い芸人グループ時代からの知名度を活かしたテレビ番組出演や古舘伊知郎の後任として『不二家歌謡ベストテン』(ニッポン放送)のパーソナリティを担当するなどして積極的にメディアへ露出していって、その存在感は示してはいた。 1990年より角松の手から離れたものの、長年の修練によって自分たちでも良質のサウンドを作り出せるようにはなっていった。しかし、相変わらずセールス面での浮上はせず、これが焦りになってしまいバンドの方向性に迷いを示し出す(この時期、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』に再び芸人として登場したこともあった)。そして、1991年にキーボードの平間が脱退し、1994年にはリーダーである島村も脱退。かわりにサポートメンバーを入れながらも、オリジナルアルバムは1992年に、シングルも1995年を最後として制作活動は休止状態となる。その後の活動は1996年にはサポートメンバーの渡部がアレンジを手掛けた松本梨香の『めざせポケモンマスター』にバンドサウンドのアレンジが採用された為、演奏を担当。藤沢がコーラスアレンジを手掛け、コーラスも担当した他声優、歌手・金月真美のアルバム『catchy』収録の「Love & Possesions」のアレンジと演奏を手掛けるのみに留まる。 アルバムを制作しなくなって以降のライブ活動は企画色が強いものとなり、培った高次元な音楽性をベースとして笑いを取るコミックバンド的なことをやっていくようにもなる。そのなかのひとつが「ダンス☆マン」だった。ジャドーズとは離れて趣味としてアマチュアのバンドでもやっていき、そのコンセプトを体現する、1970年代のディスコ音楽シーンを彷彿とさせるアフロヘアと長い揉み上げ、サングラスで素顔を隠して全身ギンギラギンのド派手なセットアップスーツ姿でキメた覆面ミュージシャン・ダンス☆マンは、ジャドーズのライブメンバーにサポートメンバーを加えた編成の専属バンドのバンド☆マンを引き連れて数々のイベントやテレビ番組に出演するうちに、1998年にCDデビューを果たし、さらに音楽プロデューサー、つんくの目に留まり、1999年にモーニング娘。の最大のヒット曲、「LOVEマシーン」の編曲に抜擢されたことにより、さらなる注目を浴びる。しかし、その裏でジャドーズの活動は衰退してしまい、毎年行われるファンクラブのパーティーで演奏するのみの状態となってしまった。2000年にはこの状況を打破するためにバンド名を「ジャンジャ・ナル・ジンジェ」と改名して名乗るも、何も活動をしていないので全く浸透せず、先述のパーティーでさえもジャドーズのサウンドコンセプトとは懸け離れたアンプラグドの演奏でお茶を濁すばかりでバンド演奏を見せずじまいとなっていく。 しかし、藤沢の「バンド演奏をしたい!」という欲求にファンクラブ限定ながら2005年4月に久々にライブが開催された。また、5月18日にはベストセレクション盤『ゴールデン☆ベスト』(発売元:コロムビアミュージックエンタテインメント)が発売された。しかし、それ以外は目立った活動することができず、依然として活動休止状態が続いている。
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ジャドーズ(JADOES)は、和製ソウルファンクバンド及びコントグループ。
{{出典の明記|date=2016年7月10日 (日) 15:27 (UTC)}} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = ジャドーズ | 画像 = | 画像説明 = | 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = band | 出生名 = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> | 別名 = ジャンジャ・ナル・ジンジェ | 出生 = <!-- 個人のみ --><!-- {{生年月日と年齢|XXXX|XX|XX}} --> | 出身地 = {{JPN}} | 死没 = <!-- 個人のみ --><!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 学歴 = <!-- 個人のみ --> | ジャンル = [[フュージョン_(音楽)|フュージョン]]<br />[[ソウルミュージック|ソウル]][[ファンク]]<br />[[コミックバンド]] | 職業 = <!-- 個人のみ --> | 担当楽器 = <!-- 個人のみ --> | 活動期間 = [[1984年]] - [[2005年]] | レーベル = [[日本コロムビア]] | 事務所 = インターセプト<ref>{{Cite web|和書|url=http://i-cept.com/|title=インターセプト Intercept -- オフィシャルサイト|publisher=インターセプト|accessdate=2022-06-30}}</ref> | 共同作業者 = [[角松敏生]] | 公式サイト = | メンバー = [[藤沢秀樹]](ベース、ボーカル)<br />斎藤謙策(パーカッション、コーラス)<br />伝田一正(ギター、コーラス) | 旧メンバー = 平間あきひこ(キーボード、コーラス)<br />[[島村幸男]](ドラム、コーラス) }} '''ジャドーズ'''('''JADOES''')は、和製[[ソウルミュージック|ソウル]][[ファンク]][[バンド (音楽)|バンド]]及び[[お笑いタレント|コントグループ]]。 == メンバー == '''[[ダンス☆マン|藤沢 秀樹]]'''(ふじさわ ひでき、[[1963年]][[10月12日]] - ) *[[東京都]][[杉並区]]生まれ:[[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[ボーカル]]。 '''斎藤 謙策'''(さいとう けんさく、[[1963年]][[2月4日]] - ) *[[神奈川県]][[川崎市]]生まれ:[[パーカッション]]、[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]。 '''[[島村幸男|島村 幸男]]'''(しまむら ゆきお、[[1963年]][[12月20日]] - ) *[[東京都]][[杉並区]]生まれ:[[ドラムセット|ドラム]]、コーラス。[[1994年]]脱退・2人目の脱退者。 '''伝田 一正'''(でんだ かずまさ、[[1963年]][[12月9日]] - ) *[[東京都]][[世田谷区]]生まれ:[[ギター]]、コーラス。 '''平間 あきひこ'''(ひらま あきひこ、[[1964年]][[11月3日]] - ) *[[神奈川県]][[横須賀市]]生まれ:[[キーボード (楽器)|キーボード]]、コーラス。[[1991年]]脱退・1人目の脱退者。 '''[[渡部チェル|渡部 達也]]'''(わたなべ たつや、[[1968年]][[4月1日]] - ) *[[東京都]]生まれ:キーボード。サポートメンバーとして[[1995年]]に加入。 '''酒井 彰'''(さかい あきら、生年月日不明) *出身地不明:ドラム。サポートメンバーとして[[1995年]]に加入。 == 概要 == 元から音楽バンドではあったが、先にお笑いグループでデビューしたことからそれで知名度を得る。その後の[[1986年の日本|1986年]]、[[角松敏生]]プロデュースによってレコードデビューした。[[シティ・ポップ]]と[[エレクトロファンク]]をベースにしたダンス・ミュージック路線で一部の愛好家には絶賛された一方、ヒット曲を持つことは叶わなかったため、知る人ぞ知る存在となってしまう。角松敏生プロデュースを離れた1990年代に入ると、路線は変更されていき、当時流行りの夏の海辺や冬のスキー場などを舞台にしたリゾート・ミュージック路線を取っていく。しかしながら、やはりヒット曲は掴めず、それが迷いとなってメンバー二人が相次いで脱退してしまう。1990年代半ばまでアルバムおよびシングルをリリースしていったが、以後は途絶える。1990年代後半、ライブの余興でやっていたり、ジャドーズとは離れて趣味としてアマチュアのバンドでやっていた、著名洋楽曲にその原曲とは全く違う意味の日本語詞を載せて歌う“[[ダンス☆マン]]”がウケていてCD化もしたところ、好評だったため、以降はそちらのほうへ活動のシフトを置く。 元メンバー・ドラムスの[[島村幸男]]は、ジャドーズでの活躍以前は[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]バンド、[[カシオペア (バンド)|カシオペア]]の専属[[ローディー]]に就いていた。現在は[[ディスクジョッキー|ラジオDJ]]や[[ナレーター]]として活躍。 == 活動史 == === お笑い芸人グループ時代 === 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[[1986年の日本|1986年]]、レコードデビュー直前のころは、ゴールデンタイムのテレビ番組にも頻繁に出演するなどその認知度は高く、また、レギュラー出演していたものには、ラジオ番組『[[斉藤由貴 ネコの手も借りたい]]』([[ニッポン放送]])のオープニングで[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]の[[斉藤由貴]]とともにミニドラマ(コント)も行っていたこともある。 === バンド活動期 === お笑い芸人グループとして注目を浴びていた彼らは、[[1985年]]のある日、音楽活動でのデビューを図りたいばかりに、彼らが音楽面で尊敬してやまなかった[[角松敏生]]の自宅住所を知人のつてを辿って知り、その郵便受けに直接デモテープとプロフィール表を投函した。それには「今度、×××というテレビ番組に出ますんで観て下さい」などとも書いてアピールした。突拍子もない彼らの存在に角松は度肝を抜かれたが、これに応えてジャドーズと交流を持つようになってプロデュースを請け負い、[[日本コロムビア]]から1986年10月にシングル「FRIDAY NIGHT」と翌11月にアルバム『IT'S FRIDAY』で晴れて音楽バンドとしてデビューを果たす。それまでの角松は[[杏里]]や[[西城秀樹]]などのプロデュースには関わっていたが、全くの新人は初めてであったことから、角松は手取り足取り彼らに仕事を覚えさせたことによって師弟関係も築かれていった。また、対等な遊び仲間としてジャドーズと角松は当時四六時中過ごしていた。 1980年代後半の角松は[[打ち込み]]やプログラミングによる音楽づくりに傾倒していて、また自身の名義によるアルバム制作は[[ニューヨーク]]で現地のエンジニアとプロデューサーを囲んで行われていた。そこで得た当時最先端のレコーディング技術を国内で行われるジャドーズのレコーディングに惜しみなく投影させ、1988年5月に発表した4枚目のアルバム『a lie』までシングルを含めてすべての作品で角松は[[音楽プロデューサー]]として全面的に関わっていく。その楽曲群は、メンバーのオリジナルによる詞と曲、角松からの提供曲及びメンバーとのコラボレーション曲で構成された[[シティ・ポップ]]であり、そこにアメリカの[[ファンク]]や[[ソウルミュージック]]の要素を入れたもので、お笑い芸人によるウケねらいのそれとは一線を画していた。 この当時、角松はその人気が全盛期であり、“踊らせるための音楽”という共通コンセプトもあって両者の作品は常に近似性があったものの、セールス面では不調を来たしてしまい、新人ながらも抜群の知名度があったはずのジャドーズはマイナーバンドの道を歩みだす。一方、同時期の角松はジャドーズと同じ傾向の手法で、当時のトップアイドル歌手、[[中山美穂]]のシングル「[[CATCH ME (中山美穂の曲)|CATCH ME]]」(イントロ冒頭の“ア〜、ウッ!”の掛け声はジャドーズ)とシングル「[[You're My Only Shinin' Star]]」、そしてアルバム『[[CATCH THE NITE]]』のプロデュースにも関わっており、そちらでは成功を収めた。 当時、お笑い芸人グループからプロの音楽バンドへと活動のシフトを移すようになっていったが、レコードデビュー以降もお笑い芸人グループ時代からの知名度を活かしたテレビ番組出演や[[古舘伊知郎]]の後任として『[[不二家歌謡ベストテン]]』([[ニッポン放送]])の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を担当するなどして積極的に[[メディア (媒体)|メディア]]へ露出していって、その存在感は示してはいた。 [[1990年]]より角松の手から離れたものの、長年の修練によって自分たちでも良質のサウンドを作り出せるようにはなっていった。しかし、相変わらずセールス面での浮上はせず、これが焦りになってしまいバンドの方向性に迷い<ref group="注">9枚目のアルバムの事。</ref>を示し出す(この時期、『[[GAHAHAキング 爆笑王決定戦]]』に再び芸人として登場したこともあった)。そして、[[1991年]]にキーボードの平間が脱退し、[[1994年]]にはリーダーである島村も脱退。かわりにサポートメンバーを入れながらも、オリジナルアルバムは[[1992年]]に、シングルも[[1995年]]を最後として制作活動は休止状態となる。その後の活動は[[1996年]]にはサポートメンバーの渡部がアレンジを手掛けた[[松本梨香]]の『[[めざせポケモンマスター]]』にバンドサウンドのアレンジが採用された為、演奏を担当。藤沢がコーラスアレンジを手掛け、コーラスも担当した他[[声優]]、[[歌手]]・[[金月真美]]のアルバム『catchy』収録の「Love & Possesions」のアレンジと演奏を手掛けるのみに留まる。 === ダンス☆マンの活動の裏で === アルバムを制作しなくなって以降のライブ活動は企画色が強いものとなり、培った高次元な音楽性をベースとして笑いを取るコミックバンド的なことをやっていくようにもなる。そのなかのひとつが「[[ダンス☆マン]]」だった。ジャドーズとは離れて趣味としてアマチュアのバンドでもやっていき、そのコンセプトを体現する、1970年代のディスコ音楽シーンを彷彿とさせるアフロヘアと長い揉み上げ、サングラスで素顔を隠して全身ギンギラギンのド派手なセットアップスーツ姿でキメた覆面ミュージシャン・ダンス☆マンは、ジャドーズのライブメンバーにサポートメンバーを加えた編成の専属バンドのバンド☆マンを引き連れて数々のイベントやテレビ番組に出演するうちに、[[1998年]]にCDデビューを果たし、さらに音楽プロデューサー、[[つんく]]の目に留まり、[[1999年]]に[[モーニング娘。]]の最大のヒット曲、「[[LOVEマシーン]]」の[[編曲]]に抜擢されたことにより、さらなる注目を浴びる。しかし、その裏でジャドーズの活動は衰退してしまい、毎年行われるファンクラブのパーティーで演奏するのみの状態となってしまった。[[2000年]]にはこの状況を打破するためにバンド名を「'''ジャンジャ・ナル・ジンジェ'''」と改名して名乗るも、何も活動をしていないので全く浸透せず、先述のパーティーでさえもジャドーズのサウンドコンセプトとは懸け離れた[[アンプラグド]]の演奏でお茶を濁すばかりでバンド演奏を見せずじまいとなっていく。 しかし、藤沢の「バンド演奏をしたい!」という欲求にファンクラブ限定ながら2005年4月に久々にライブが開催された。また、5月18日にはベストセレクション盤『ゴールデン☆ベスト』(発売元:コロムビアミュージックエンタテインメント)が発売された。しかし、それ以外は目立った活動することができず、依然として活動休止状態が続いている。 == ディスコグラフィー == === アルバム === ==== オリジナル・アルバム ==== # IT'S FRIDAY(1986.11.21) # Free Drink(1987.7.1) # a lie(1988.5.21) # DUMPO(1989.3.1) # DOGORODON JHAN(1990.3.21) # LOVE INJECTION(1990.11.21) # JADOES ISLAND CLUB(1991.6.21) # CD買って下さい(1992.11.1) ==== ベスト・アルバム ==== # BEFORE THE BEST(1987.12.21) # J's HOT(1994.12.21) # J's SWEET(1994.12.21) # THE JADOESゴールデン☆ベスト(2005.5.18) # ゴールデン☆ベスト ジャドーズ -JADOES FUNK LOVE CLUB-(2017.8.30) ===シングル=== # FRIDAY NIGHT/FRIDAY NIGHT STORY(1986.10.21) # FRIDAY NIGHT(EXTENDED DANCE MIX)/IKASUMAN(EXTENDED DANCE MIX)(1986.11.21) # Summer Lady/Summer Lady(M-Version)(1987.6.21) # HEART BEAT CITY/WONDER LOVE(1987.11.1) # All My Dream/Somethig To Love(1988.4.21) # STEP INTO THE CITY LIGHT/Days gone by(1988.11.1) # STAY! BY MY LOVE/Living in the night(1989.2.21) # Morning Love/僕の傍に/Midnight Love(1989.9.21) # BIG SHOOTER/FUNKY BIG SHOOTER(1989.12.1) # MAN FREAK/Girl Freak(1990.2.21) # 1・2・3・Fight/眠れないヒマワリ(1990.10.21) # 夏はDon't Worry(1991.5.21) # ゲレンデよ今年もありがとう/トナカイとなかいいんだ(1991.11.21) # I LOVE YOU〜あなたは宝物〜/だったら、ごはん。(1993.5.21) # 地図と彼女を助手席に乗せて/地図と彼女を助手席に乗せて(Instrumental Reggae Version)(1994.5.1) # ぼくのクラスは最先端/ぼくのクラスは最先端(オリジナル・カラオケ)(1995.9.1) == タイアップ一覧 == {{節スタブ}} {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" ! 起用年 ! 曲名 ! タイアップ |- ! 1988年 | '''All My Dream''' | [[ロッテリア]] CMソング |- ! 1990年 | '''1・2・3・Fight!''' | 朋友建設 CMソング |- ! rowspan="2" | 1991年 | '''夏は,DON'T WORRY''' | [[テレビ朝日]]系『PRE・STAGE』エンディングテーマ |- | '''ゲレンデよ今年もありがとう''' | [[アシックス]]「KILLY」CMソング |- ! 1993年 | '''I LOVE YOU〜あなたは宝物〜''' | [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[ウンナン世界征服宣言]]』エンディングテーマ |- ! rowspan="2" | 1994年 | '''地図と彼女を助手席に乗せて''' | [[TXNネットワーク|テレビ東京系]]『日陰温子の日立サンデーゴルフ』オープニングテーマ |- | '''地図と彼女を助手席に乗せて(Instrumental Reggae Version)''' | テレビ東京系『日陰温子の日立サンデーゴルフ』エンディングテーマ |- ! 1995年 | '''ぼくのクラスは最先端''' | [[NHK]]『[[みんなのうた]]』1995年8月・9月放送曲 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://columbia.jp/artist-info/jadoes/ JADOES | 日本コロムビアオフィシャルサイト] {{Music-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやとおす}} [[Category:日本の音楽バンド]] [[Category:コミックバンド]] [[Category:日本のお笑いグループ]] [[Category:1984年に結成した音楽グループ]]
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ダンス☆マン
ダンス☆マン(だんすまん、本名: 藤沢 秀樹、1963年〈昭和38年〉10月12日 - )は、日本のミュージシャン。 「ミラーボール星」からやって来たという自称"宇宙人"。アフロヘアーとサングラスがトレードマーク。主に1970年代から80年代のダンス・クラシックスに空耳アワーのごとく日本語詞をつけ、カバーしたアルバムをエイベックスより多数発表した。自身の活動の他には編曲家としても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も行っている。名前からよく勘違いされることがあるが、ミュージシャンでありダンサーではない。デビュー10周年を迎えた2008年3月に、カバー曲なしの全曲オリジナルのアルバムを、新会社イン・ダ・グルーヴ(in da groove)の同名新レーベルから発売。その後2019年7月にタワーレコードからオリジナル・アルバムを発売。デビュー25周年を迎えた2023年4月には、エイベックスからリリースされた全楽曲が一挙に配信された。 本名はテリー・D(ダンス☆マン)・ファンク。地球での仮の姿として藤沢 秀樹(ふじさわ ひでき)を名のることもある。出身地は東京都調布市。現在は東京都世田谷区在住。専属バックバンドの名前は「ザ・バンドマン」。2007年には本人を題材としたパチスロも発売されている。 獨協大学経済学部中退。もともとは獨協大学の音楽サークルで結成されたバンド「ジャドーズ」でボーカルとベースを担当していた。ジャドーズは角松敏生のプロデュースを受けて1986年にデビューする(デビュー前、ジャドーズのドラマーだった島村幸男が、カシオペアの専属ローディーをやっていたことで、藤沢も度々ローディーを行っていた。それが縁で、2000年12月のカシオペアのライブに客演し、スキャット・パートがある代表曲「dazzling」を歌った)。その後ジャドーズとしての活動はほぼ休止している。 1997年に「ダンス☆マン」として六本木ヴェルファーレでライブを開催し、1998年にカール・カールトンの「She's A Bad Mama Jama」をカヴァーした「背の高いやつはジャマ」でCDデビューする。 1999年にモーニング娘。の大ヒット曲「LOVEマシーン」の編曲を手がけたことで編曲家として注目を浴びる。以降、多くのアーティストへの楽曲提供も行っている。2000年にモーニング娘。の「恋のダンスサイト」と郷ひろみの「なかったコトにして」で第42回日本レコード大賞編曲賞を受賞し、郷ひろみの応援ゲストとして第51回NHK紅白歌合戦に出場した。 アニメ版『ケロロ軍曹』の初期にはエンディングに「アフロ軍曹」を歌う。アニメ内にも本人役で登場。また、「ダソヌ☆マソ」と言う偽者とその妹の「ダソヌ☆マリ」がいる(詳細はケロロ軍曹の登場人物一覧#ダンス☆マン・ダソヌ☆マソ関連を参照)。 コナミデジタルエンタテインメントの音楽ゲーム「beatmania IIDX 12 HAPPY SKY」では楽曲提供(「We are Disっ娘よっつ打ち命(『DANCE☆MAN feat. Disっ娘』名義)」「オレはビートマニア!お前は何マニア」)を行っている。本人単独名義の曲では彼自身が後者のムービーに出演している。ちなみに両曲とも同ゲーム用に書き下ろされたものである。 2000年にセガより本人の楽曲をフィーチャーしたメダルゲーム、「ダンシングフィーバー」が発売された。なお、翌年には楽曲を増やしバージョンアップした「ダンシングフィーバー ゴールド」も発売された。 2008年、「ダンス☆マン」としての活動10周年を契機に、カバー曲を封印した全曲オリジナルアルバム『FUNK LOVE』をイン・ダ・グルーヴより発表した。ほぼ全ての演奏を本人が行なっており、ザ・バンド・マンからはジャンプ・マンとDJイチロー(ピストン西沢)が参加しているのみである。11月12日には、ナンテンマン名義(公表ではナンテンマンの正体は謎とされている)でピストン西沢プロデュースの『南天のど飴の歌』をエイベックスより発売した。 2009年、『ケロロ軍曹』でこれまでに歌った曲を1枚にまとめたアルバムを発表した。9月のライブで、ドリー・D(ダイヤ☆モンド)・ファンク・ジュニアという兄がいることが発覚。2人で兄弟デュオTHE☆FUNKS(ザファンクス)を結成した。 2010年7月21日、2009年9月にアレンジャー活動10周年を迎えた記念アルバムとして、ダンス☆マンがアレンジ/リミックスした楽曲のオリジナル音源が、レコード会社の垣根を越え多数収録された『ディスコ戦隊 アフレンジャー』(※アフレンジャー=アフロのアレンジャー)を発売。 2018年4月より、NHK Eテレ『ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!』の全音楽を担当。音楽制作の他、”音あそびが好きな宇宙人”として番組出演もしている。 2019年7月17日、全曲オリジナルアルバム『From Planet Mirrorball』をタワーレコードから発売。本作には、ゴスペラーズやNegiccoがコーラスで参加している。 2022年3月30日、ミラーボール星の兄と結成したTHE☆FUNKSのデビューアルバム『愛の12星座』をギャラクシーレコードから発売。収録された「カクゴして」はアンジュルムにTHE☆FUNKSが提供した楽曲のセルフカバー。ボーカルとして元アンジュルムメンバー和田彩花と勝田里奈が参加している。 (カッコ内は原曲) 演奏も全て「ザ・バンドマン」が務めている。 初ライブ以来、ダンス☆マンのバックバンドを務めている。
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ダンス☆マンは、日本のミュージシャン。
{{存命人物の出典明記|date=2023年11月}} {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{Infobox Musician | Name = ダンス☆マン | Img = | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = singer | Birth_name = 藤沢 秀樹(ふじさわ ひでき) | Alias = DANCE☆MAN<br/>ナンテンマン | Blood = <!-- 個人のみ --> | School_background = [[獨協大学]] | Born = {{生年月日と年齢|1963|10|12}} | Died = <!-- 個人のみ --> | Origin = {{JPN}}・[[東京都]][[調布市]]<br/>(公式にはミラーボール星) | Instrument = [[ボーカル]]<br/>[[ベース (弦楽器)|ベース]](ジャドーズで) | Genre = ダンス・クラシックス | Occupation = [[歌手]]、[[翻訳|訳詞]]、[[編曲]]、[[作曲]] | Years_active = [[1986年]] - (ジャドーズとして)<br/>[[1997年]] - | Label = {{Hlist-comma|[[エイベックス]]|イン・ダ・グルーヴ|[[タワーレコード]]}} | Production = [[インターセプト]] | Associated_acts = [[ザ・バンドマン]]<br/>[[ジャドーズ]] | Influences = | URL = | Current_members = <!-- グループのみ --> | Past_members = <!-- グループのみ --> | Notable_instruments = }} '''ダンス☆マン'''(だんすまん<ref>「☆」は読まない。</ref>、本名: 藤沢 秀樹、[[1963年]]〈[[昭和]]38年〉[[10月12日]] - )は、[[日本]]の[[音楽家|ミュージシャン]]。 ==人物== 「[[ミラーボール]]星」からやって来たという自称"宇宙人"。[[アフロヘアー]]と[[サングラス]]がトレードマーク。主に1970年代から80年代のダンス・クラシックスに[[空耳アワー]]のごとく日本語詞をつけ、[[カバー]]したアルバムを[[エイベックス]]より多数発表した。自身の活動の他には[[編曲家]]としても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も行っている。名前からよく勘違いされることがあるが、ミュージシャンでありダンサーではない。デビュー10周年を迎えた2008年3月に、カバー曲なしの全曲オリジナルのアルバムを、新会社イン・ダ・グルーヴ(in da groove)の同名新レーベルから発売。その後2019年7月に[[タワーレコード]]から[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]を発売。デビュー25周年を迎えた2023年4月には、[[エイベックス・エンタテインメント|エイベックス]]からリリースされた全楽曲が一挙に配信された。 本名は'''テリー・D(ダンス☆マン)・ファンク'''。地球での仮の姿として'''藤沢 秀樹'''(ふじさわ ひでき)を名のることもある。出身地は[[東京都]][[調布市]]。現在は東京都[[世田谷区]]在住。専属バックバンドの名前は「'''ザ・バンドマン'''」。2007年には本人を題材とした[[パチスロ]]も発売されている。 ==来歴== [[獨協大学]][[経済学部]]中退。もともとは獨協大学の音楽サークルで結成されたバンド「'''[[ジャドーズ]]'''」で[[ボーカル]]と[[ベース (弦楽器)|ベース]]を担当していた。ジャドーズは[[角松敏生]]のプロデュースを受けて[[1986年]]にデビューする(デビュー前、ジャドーズのドラマーだった[[島村幸男]]が、[[カシオペア (バンド)|カシオペア]]の専属[[ローディー]]をやっていたことで、藤沢も度々ローディーを行っていた。それが縁で、[[2000年]]12月のカシオペアのライブに客演し、スキャット・パートがある代表曲「dazzling」を歌った)。その後ジャドーズとしての活動はほぼ休止している。 [[1997年]]に「ダンス☆マン」として[[六本木]][[ヴェルファーレ]]でライブを開催し、[[1998年]]にカール・カールトンの「She's A Bad Mama Jama」をカヴァーした「背の高いやつはジャマ」でCDデビューする。 1999年に[[モーニング娘。]]の大ヒット曲「[[LOVEマシーン]]」の[[編曲]]を手がけたことで[[編曲家]]として注目を浴びる。以降、多くのアーティストへの楽曲提供も行っている。[[2000年]]にモーニング娘。の「[[恋のダンスサイト]]」と[[郷ひろみ]]の「[[なかったコトにして]]」で[[第42回日本レコード大賞]]編曲賞を受賞し、郷ひろみの応援ゲストとして[[第51回NHK紅白歌合戦]]に出場した。 [[ケロロ軍曹 (アニメ)|アニメ版『ケロロ軍曹』]]の初期にはエンディングに「アフロ軍曹」を歌う。アニメ内にも本人役で登場。また、「ダソヌ☆マソ」と言う偽者とその妹の「ダソヌ☆マリ」がいる(詳細は[[ケロロ軍曹の登場人物一覧#ダンス☆マン・ダソヌ☆マソ関連]]を参照)。 [[コナミデジタルエンタテインメント]]の[[音楽ゲーム]]「[[beatmania IIDX]] 12 HAPPY SKY」では楽曲提供(「We are Disっ娘よっつ打ち命(『DANCE☆MAN feat. Disっ娘』名義)」「オレはビートマニア!お前は何マニア」)を行っている。本人単独名義の曲では彼自身が後者のムービーに出演している。ちなみに両曲とも同ゲーム用に書き下ろされたものである。 [[2000年]]に[[セガ]]より本人の楽曲をフィーチャーした[[メダルゲーム]]、「ダンシングフィーバー」が発売された。なお、翌年には楽曲を増やしバージョンアップした「[http://sega.jp/arcade/dancingf/ ダンシングフィーバー ゴールド]」も発売された。 [[2008年]]、「ダンス☆マン」としての活動10周年を契機に、カバー曲を封印した全曲オリジナルアルバム『FUNK LOVE』をイン・ダ・グルーヴより発表した。ほぼ全ての演奏を本人が行なっており、ザ・バンド・マンからはジャンプ・マンとDJイチロー([[ピストン西沢]])が参加しているのみである。11月12日には、'''ナンテンマン'''名義(公表ではナンテンマンの正体は謎とされている)でピストン西沢プロデュースの『[[常盤薬品工業|南天のど飴]]の歌』をエイベックスより発売した。 [[2009年]]、『ケロロ軍曹』でこれまでに歌った曲を1枚にまとめたアルバムを発表した。9月のライブで、'''ドリー・D(ダイヤ☆モンド)・ファンク・ジュニア'''という兄がいることが発覚。2人で兄弟デュオ[[THE☆FUNKS]](ザファンクス)を結成した。 2010年7月21日、2009年9月にアレンジャー活動10周年を迎えた記念アルバムとして、ダンス☆マンがアレンジ/リミックスした楽曲のオリジナル音源が、レコード会社の垣根を越え多数収録された『ディスコ戦隊 アフレンジャー』(※アフレンジャー=アフロのアレンジャー)を発売。 2018年4月より、NHK Eテレ『[[ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!]]』の全音楽を担当。音楽制作の他、”音あそびが好きな宇宙人”として番組出演もしている。 2019年7月17日、全曲オリジナルアルバム『From Planet Mirrorball』をタワーレコードから発売。本作には、[[ゴスペラーズ]]や[[Negicco]]がコーラスで参加している。 2022年3月30日、ミラーボール星の兄と結成した[[THE☆FUNKS]]のデビューアルバム『愛の12星座』をギャラクシーレコードから発売。収録された「カクゴして」は[[アンジュルム]]にTHE☆FUNKSが提供した楽曲のセルフカバー。ボーカルとして元アンジュルムメンバー[[和田彩花]]と[[勝田里奈]]が参加している。 ==ディスコグラフィ== ===シングル=== (カッコ内は原曲) #[[1998年]]3月18日 背の高いやつはジャマ(SHE'S A BAD MAMA JAMA/CARL CARLTON) #1998年11月18日 ワンBOXのオーナー(THAT'S THE WAY(I LIKE IT)/[[KC&ザ・サンシャイン・バンド|KC & THE SUNSHINE BAND]])/ダンス部 部長南原(BOOGIE WONDERLAND/[[アース・ウィンド・アンド・ファイアー|EARTH WIND & FIRE]])【両A面】 #[[1999年]]5月26日 ヘンなあだ名はイヤ(RELIGHT MY FIRE/DAN HARTMAN) #[[2000年]]4月26日 接吻のテーマ([[セプテンバー (EW&Fの曲)|SEPTEMBER]]/EARTH WIND & FIRE) #2000年7月5日 “ドーム3コ分”ってどのくらい?(ONLY SO MUCH OIL IN THE GROUND/TOWER OF POWER) #2000年10月18日 漢字読めるけど書けない(IT'S TIME TO PARTY NOW/[[レイ・パーカー・ジュニア|RAY PARKER JR. & RAYDIO]]) #2000年12月20日 恋と愛の天国(オリジナル) #[[2001年]]6月6日 JAZZ SOUL FUNK(HAVE SOME FUN/B.T. EXPRESS) #2001年10月3日 LA☆BOOO(オリジナル) #[[2002年]]1月30日 勝利 V 絶対つかもう!(CELEBRATION/[[クール&ザ・ギャング|Kool & The Gang]]) #[[2004年]]5月8日 アフロ軍曹(オリジナル) ※アニメ『[[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]]』初代エンディングテーマ、[[ビクターエンタテインメント]]よりリリース #[[2008年]]11月12日 南天のど飴の歌(オリジナル)※ナンテンマン名義 #2023年4月25日 みっつの袋([[平祐奈]]主演 BS松竹東急ドラマ『[[半熟ファミリア 腹ペコ兄妹の熟成レシピ|半熟ファミリア]]』主題歌) ===アルバム=== #1998年6月24日 MIRRORBALLISM ~New Generation Dance Classics~ #1999年7月14日 MIRRORBALLISM 2~New Generation Dance Classics~ #2000年11月15日 MIRRORBALLISM 3~New Generation Dance Classics~ #2002年2月27日 MIRRORBALLISM 4~New Generation Dance Classics~ #2002年6月19日 Greatest Hits #2004年4月14日 Funkcoverlic #2007年7月11日 DANCE☆MAN RETURNS #2008年3月19日 FUNK LOVE #2009年2月25日 ダンス☆マン respects ケロロ軍曹 #2010年7月21日 ディスコ戦隊 アフレンジャー #2019年7月17日 From Planet Mirrorball #2022年3月30日 愛の12星座(THE☆FUNKS) ===ビデオ・DVD=== *2001年3月7日 MIRRORBALLISMOVIE *2007年12月6日 ミラーボール星人 ダンス☆マン Season1 ==ダンス☆マンが手がけたアーティスト・作品== ===アーティスト=== *[[モーニング娘。]]「[[LOVEマシーン]]」「[[恋のダンスサイト]]」「[[3rd -LOVEパラダイス-|DANCEするのだ!]]」「[[3rd -LOVEパラダイス-|「、、、 好きだよ!」]]」「[[ハッピーサマーウェディング]]」「[[恋愛レボリューション21]]」「[[ザ☆ピ〜ス!]]」「[[そうだ! We're ALIVE]]」「[[4th「いきまっしょい!」|いいことある記念の瞬間]]」「[[4th「いきまっしょい!」|本気で熱いテーマソング]]」「[[No.5 (アルバム)|「すっごい仲間」]]」(編曲) *[[ミニハムず]]「[[ミニハムずの結婚ソング]]」(編曲) *[[Berryz工房]]「[[ジンギスカン (Berryz工房の曲)|ジンギスカン]]」「[[私の未来のだんな様/流星ボーイ|流星ボーイ]]」(編曲) *[[音楽ガッタス]]「[[やったろうぜ!]]」(編曲) *[[アンジュルム]]「[[S/mileage / ANGERME SELECTION ALBUM「大器晩成」|カクゴして!]]」(編曲) *[[Juice=Juice]]「[[Dream Road〜心が躍り出してる〜/KEEP ON 上昇志向!!/明日やろうはバカやろう|KEEP ON 上昇志向!!]]」(編曲)、「[[Juice=Juiceシャープ2 -¡Una más!-|あばれてっか?! ハヴアグッタイ]]」(作曲・編曲) *[[こぶしファクトリー]]「[[ドスコイ!ケンキョにダイタン/ラーメン大好き小泉さんの唄/念には念(念入りVer.)|ラーメン大好き小泉さんの唄]]」「[[桜ナイトフィーバー/チョット愚直に!猪突猛進/押忍!こぶし魂|桜ナイトフィーバー]]」(編曲) *[[つばきファクトリー]]「[[就活センセーション/笑って/ハナモヨウ|就活センセーション]]」(編曲) *[[BEYOOOOONDS]]「[[BEYOOOOO2NDS#DISC 1(BEYO盤)|虎視タンタ・ターン]]」(編曲) *Spark「My Wonderful Days...」(リミックス) *[[ラスト☆エンジェル]]「小さなHappy」(作詞・作曲・編曲) *[[アトミック・キトゥン|ATOMIC KITTEN]]「RIGHT NOW」(リミックス) *[[シャ乱Q]]「[[新・ラーメン大好き小池さんの唄]]」(編曲) *[[観月ありさ]]「BREAKE ALL DAY!」(編曲) *[[キーヤキッス]]「デラックス」(編曲) *[[郷ひろみ]]「[[なかったコトにして]]」「[[ワキワキマイフレンド]]」(作曲・編曲) *[[松田聖子]]「[[チェリーブラッサム]]」(リミックス) *[[安西ひろこ]]「アンデルセン」(作曲・編曲) *[[ノーナ・リーヴス]]「I LOVE YOUR SOUL」(リミックス) *[[PaniCrew]]「七つの武器」「もう少しこのままで」(作詞・作曲・編曲) *坂本龍一「桜のころ」(編曲) *[[少年隊]]「TOMATO JUICE」(作曲・編曲) *クイヌパナ「WHITE」(作曲・編曲)「K.G.D.S・」「(Pana)Change The Wolrd」(作詞・作曲・編曲) *[[相川七瀬]]「[[COSMIC LOVE (相川七瀬の曲)|COSMIC LOVE]]」(リミックス) *Kaci「paradise」(リミックス) *[[ダンディ坂野]]「OH! NICE GET'S!!」(リミックス)「ゲッツだぜ!!」(編曲) *[[KinKi Kids]]「Destination」(編曲) *[[椎名純平]]「You were mine」(編曲) *[[RUN&GUN]]「BELIEVE」「裸のココロ」(編曲) *オンド☆ガールmeetsケロロ小隊「地球(ペコポン)侵略音頭」(作詞) *[[藤木直人]]「君は友達」(作詞・編曲) *川島祐介「奇跡のかけら」(リミックス) *[[及川光博]]「Shinin' Star」(作曲・編曲)「Don't Stop Me Baby」(作曲・編曲(及川光博との共作)) *[[つじあやの]]と[[BEAT CRUSADERS]]「[[ありえないくらい奇跡]]」(リミックス) *[[デブパレード]]「Body & Soul」(編曲) *[[狩野英孝]]「ようこそ!イケメン・パラダイス」(作曲・編曲)「ラブハリケーン」(作曲・編曲) *[[RAG FAIR]]「Good Good Day!」(編曲) *[[テゴマス]]「たったひとつだけ」(編曲) *SPANKY GIRLS「マブーカ」(作詞) *[[ヒゲドライバー]]「ハローハロー」(リミックス) *[[フェロ☆メン]]「MIDNIGHT☆BUTTERFLY」(作曲・編曲) *[[中島愛]]「Wake Up!」(作詞・作曲・編曲) *[[牧野由依]] *[[ステップス]] *[[はっぱ隊]]「[[YATTA!]]」 *[[鈴木みのり (声優)|鈴木みのり]]「ヘンなことがしたい!」 *[[能登麻美子|More]] *[[池澤春菜|Peach]] *[[斎藤千和|Summer]] *[[広橋涼|Snow]] *[[輪廻のラグランジェ|鴨女ジャージ部]] *[[甘党男子]] feat [[はるな愛]] *[[清竜人25]]「Will♡You♡Marry♡Me?」「ラブ♡ボクシング」(編曲) *[[EUPHORIA-ユーフォリア-]]「[[熱烈LOVE!!]]」(編曲) *[[BESTIEM]]「[[Hanky Panky Funky Punky ! feat. MIRI|Hanky Panky Funky Punky! feat. MIRI]](DANCE☆MAN Remix)」 *[[THE IDOLM@STERの登場人物|我那覇響]]「Super Funky Piece!!」[[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]](作詞・作曲・編曲) *[[和田アキ子]]「KANPAI FUNK」(編曲) 演奏も全て「ザ・バンドマン」が務めている。 ===その他・楽曲提供=== *[[安倍なつみのスーパーモーニングライダー]] - 番組のジングルを提供 *[[クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦]] - 主題歌を提供。他に鉄砲足軽役で出演している。 *[[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]] - 前述のとおりテーマ曲を歌ったアニメで、本人も出演。 <!-- *[[めざせポケモンマスター]] おいている意味が分からない --> *[[ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!|ニャンちゅう!宇宙!放送チュー! -]] - 音楽担当。本人役でも出演。 *「[[高田純次 日曜テキトォールノ]]」([[文化放送]]) - オープニング/エンディングテーマ・[[ジングル_(ラジオ)|ジングル]]<ref>第一回放送([[2015年]][[4月5日]])に電話出演</ref> * [[子育てTV ハピクラ]]([[キッズステーション]]) - エンディングテーマ『☆すだんすだんす☆』(作詞・作曲・編曲)<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=U-Fk78kfi6c 【オリジナルソング】☆すだんすだんす☆(2020 Ver.)] - ハピクラワールド公式YouTubeチャンネル</ref> * トリバンフェスティバル - テーマ曲『張りきって行こうよ!/ Ogyan & TB with D☆M」(作詞・作曲・編曲) ==ザ・バンドマン== 初ライブ以来、ダンス☆マンのバックバンドを務めている。 ===メンバー=== *JUMP MAN [= 伝田一正(ジャック・伝ヨール)]([[ギター|Guitar]]) *STAGE CHAKKA MAN [= 斎藤謙策](Moriage & [[打楽器|Percussions]]) *HYU HYU [= 酒井彰]([[ドラムセット|Drums]]) *WATA-BOO [= [[渡部チェル]]]([[キーボード (楽器)|Keyboards]]) *YOGA FIRE!([[ベース (弦楽器)|Bass]]) *O.L.([[ボーカル|Vocal]] & [[コーラス (ポピュラー音楽)|Chorus]]) *ANNIE(Chorus) *DJ.ICHIRO [= [[ピストン西沢]]]([[レコードプレーヤー|Turntable]]) *DJ.SABURO(Turntable) ===旧メンバー=== *TOCA [= 割貝明弘](Bass)※2001年1月死去 *BOMB(Guitar)※2001年5月脱退 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist}} ==関連項目== *[[ジャドーズ]] - 所属しているバンド。 *[[ゴスペラーズ]] == 外部リンク == *[http://www.dance-man.net ダンス☆マン(オフィシャルサイト)] *[http://i-cept.com/ インターセプト(所属事務所)] *{{Twitter|dance_man_98|ダンス☆マン}} *{{Facebook|funkmasterdanceman|ダンスマン}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たんすまん}} [[Category:ディスコ]] [[Category:日本の男性ポップ歌手]] [[Category:日本のソングライター]] [[Category:日本の編曲家]] [[Category:日本の音響技術者]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:架空の地球外生命体の個体]] [[Category:エイベックス・グループのアーティスト]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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西蔵
西蔵(せいぞう、シーツァン、旧字体では西藏、中国語拼音: Xīzàng)は歴史的チベットのうち、アムドやカムを除く、西南部2分の1程度を占める部分に対する中国語による呼称として成立した、地域概念の用語。元代より康熙中期ごろまで用いられた烏斯蔵に代わり、康熙末年ごろより使用され始めた地域概念である。その後、中国以外の漢字圏でこの表記がとりいれられ、あるいは中国国外在住の中国語話者たちが発信するチベット関連の情報において、中国における概念・用法にあわせてチベットの一部として、もしくは中国における概念・用法とは別個に全チベットの総称として、使用されるようになった。本来の、および派生した概念・用法の主要なものは、以下のとおり。 中国におけるチベットの総称は、7世紀、吐蕃によってチベットが統一されて以来、長らく「吐蕃」が用いられ続けていた。たとえば明代に編纂された『元史』の「宣政院」の条では、「烏思蔵・納里速古児孫(ウーツァン・ガリコルスム)」と「朶甘(ド・カム)」をあわせた範囲が「吐蕃」の名で一括されている。 中国において、チベットの一部分を表す呼称として「西蔵」という名称が出現したのは、清朝時代である。その当初から、この用語が示す領域は、きわめて明確であった。以下、「西蔵」という呼称をタイトルに掲げた最も初期の文献のひとつである『西蔵記』(18世紀中葉成立)と、清初以来、清朝が収集、蓄積してきたチベット、モンゴル、東トルキスタンの情報を集大成して成立した『外藩蒙古回部王公表伝』(1789年成立。清朝より爵位を受ける「外藩」(モンゴル、東トルキスタン、チベット)の王公貴族の系譜を網羅的に整理、提示したもの)の記述を紹介する。 『西蔵記』では「西蔵」を次のように定義する。 西蔵の一隅は、諸書にはあまり詳しく載っていない。その地は西吐蕃にあたると思われる(考其地則西吐蕃也)。唐は烏斯国といい、明は烏斯蔵(ウーツァン)といい、今は図伯特(トゥベト)といい、また唐古忒(タングート)という。......土人は三部に分けて、康(カム)といい、衛(ウー)といい、蔵(ツァン)という。康はすなわち今の察木多(チャムド)一路である。衛はつまり西蔵、ラサの召(ジョー)一帯である。蔵は後蔵のタシルンポ一帯である。 『外藩蒙古回部王公表伝』の巻九十一に収録されている「西蔵部総伝」は「西蔵」の定義を次のように述べる。 この箇所では、西蔵=バロン・ジョー=タングート=トゥベトであり、その領域としてはガリ、ウー、ツァンおよび「喀木」が提示されている。一方で、上引部よりややあとには、 という記事がある。また同書の巻八十一「青海部総伝」には、「ふるくは」として、つぎのような記述もある。 このように、『王公表伝』では、現在の状況として、西蔵=タングートとし、その領域を、ガリ、ウー、ツァン、カム(西部)に限定する一方、「タングート」の過去の領域としては、青海、バルカム(カム全域)も含めていることが読み取れる。 「タングート」から「四大部」の「青海」が除外され、「バルカム」が分割された時期について、『西蔵記』「疆圉」の項は、カム地方についてのみ明快な年次を示し、1725年(雍正3年)とする。 1732年(雍正9年)に行われた西蔵と青海の境界の設定をはじめ、清朝の雍正帝によって行われたチベットの分割の詳細については「雍正のチベット分割」の項を参照。 1637年から1642年にかけてチベットの大部分を征服したグシ・ハンは、チベットの政治・文化の中心ヤルンツァンポ河流域を主とする地方をダライラマ五世に寄進、自らとダライラマ領の統治者デシーを、「ダライラマの権威の下で、チベットにおける太陽と月の一対」と位置づけ、ダライラマ領を除く各地の諸侯に対しては、自身と子孫との間に貢納と所領の安堵を媒介とする主従関係を結ばせた。 清国の雍正帝は、グシ・ハン一族の内紛に乗じて1723年 - 1724年、チベット東北部のアムド地方に出兵し、この地に本拠をおいていたグシ・ハン一族を屈服させ、グシ・ハン王朝の成立以来、彼らがチベットの各地やチベット人諸侯に対して保有していた権益や支配権をすべて接収した(雍正のチベット分割)。 清国は、接収したグシハン一族の属領をタンラ山脈からディチュ河(金沙江)にかけての線で二分し、その北部・東部に対しては、青海地方のほか甘粛、雲南、四川等の諸省の間で分割し、その南部は、ダライ・ラマを擁し、ラサに本拠をおくガンデンポタンの管轄下にゆだねた。「西蔵」という単語は17世紀の資料にも散見されるが、この分割以降、チベットのうち、ガンデンポタンが管轄する領域の呼称となる。この線の北部・東部のモンゴル人・チベット人諸侯は「旗制」もしくは「土司」制度のもと、青海、四川、甘粛、雲南等の諸地方に分配され、個別に清朝皇帝に臣属することとなった。 18世紀に成立した「西蔵」の枠組みは、19世紀には早くも揺らぎだす。カム地方ニャロン(中国名新龍県)の領主グンポナムギャルは、19世紀半ば、近隣の征服に乗り出し、十八諸侯とよばれるカム地方の領主の大部分を制圧した。これらの諸侯は1725年以来、成都の四川総督を介して兵部から冊封を受けており、清の朝廷はグンポナムギャルを阻止し、清を宗主として仰ぐ諸侯を救援せねばならない立場にあった。しかし清国はこの時期太平天国との戦いに没頭しており、カム地方の戦乱に介入する余力はなかった。 清にかわってこの動乱を収束させたのがガンデンポタンである。ガンデンポタンは数年をかけてグンポナムギャルの勢力を打倒し、カムの十八諸侯を旧領に復帰させた。清の朝廷は、ガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンがニャロン(グンポナムギャルの本拠)を接収することを認めた。ガンデンポタンはニャロンにニャロン総督(ニャロン・チキャプ)を派遣し、直轄地として支配した。 以上の結果、ガンデンポタンの勢力圏は、ディチュ河を越えて東方に拡大し、従来名目的には四川省に帰属していたカム地方東部の諸侯にもつよい影響力を発揮するようになった。 清国は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、モンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制・行政制度のもと、盟・旗の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、省・州・県を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった(東トルキスタンでは、すでに1878年に省制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。 四川総督趙爾豊は、1909年、四川軍を率いてカム地方からチベットに侵攻、翌年にはラサを占領し、ダライ・ラマ13世はインドへ逃れた。趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、従来ガンデンポタンの統治下にあったカム地方西部とカム地方の東部をあわせた領域に「西康省」を、中央チベットには「西蔵省」を設けようと試みた。しかしながら1911年、中国で辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところを革命派に殺害され、チベット側はこれに乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言するとともに、1917年 - 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1724年、チベット東北部のアムド地方に出兵し、この地に本拠をおいていたグシ・ハン一族を屈服させ、グシ・ハン王朝の成立以来、彼らがチベットの各地やチベット人諸侯に対して保有していた権益や支配権をすべて接収した(雍正のチベット分割)。", "title": "「西蔵」という地理的枠組みの起源" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "清国は、接収したグシハン一族の属領をタンラ山脈からディチュ河(金沙江)にかけての線で二分し、その北部・東部に対しては、青海地方のほか甘粛、雲南、四川等の諸省の間で分割し、その南部は、ダライ・ラマを擁し、ラサに本拠をおくガンデンポタンの管轄下にゆだねた。「西蔵」という単語は17世紀の資料にも散見されるが、この分割以降、チベットのうち、ガンデンポタンが管轄する領域の呼称となる。この線の北部・東部のモンゴル人・チベット人諸侯は「旗制」もしくは「土司」制度のもと、青海、四川、甘粛、雲南等の諸地方に分配され、個別に清朝皇帝に臣属することとなった。", "title": "「西蔵」という地理的枠組みの起源" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "18世紀に成立した「西蔵」の枠組みは、19世紀には早くも揺らぎだす。カム地方ニャロン(中国名新龍県)の領主グンポナムギャルは、19世紀半ば、近隣の征服に乗り出し、十八諸侯とよばれるカム地方の領主の大部分を制圧した。これらの諸侯は1725年以来、成都の四川総督を介して兵部から冊封を受けており、清の朝廷はグンポナムギャルを阻止し、清を宗主として仰ぐ諸侯を救援せねばならない立場にあった。しかし清国はこの時期太平天国との戦いに没頭しており、カム地方の戦乱に介入する余力はなかった。", "title": "「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "清にかわってこの動乱を収束させたのがガンデンポタンである。ガンデンポタンは数年をかけてグンポナムギャルの勢力を打倒し、カムの十八諸侯を旧領に復帰させた。清の朝廷は、ガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンがニャロン(グンポナムギャルの本拠)を接収することを認めた。ガンデンポタンはニャロンにニャロン総督(ニャロン・チキャプ)を派遣し、直轄地として支配した。", "title": "「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "以上の結果、ガンデンポタンの勢力圏は、ディチュ河を越えて東方に拡大し、従来名目的には四川省に帰属していたカム地方東部の諸侯にもつよい影響力を発揮するようになった。", "title": "「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "清国は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、モンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制・行政制度のもと、盟・旗の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、省・州・県を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった(東トルキスタンでは、すでに1878年に省制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。", "title": "「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "四川総督趙爾豊は、1909年、四川軍を率いてカム地方からチベットに侵攻、翌年にはラサを占領し、ダライ・ラマ13世はインドへ逃れた。趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、従来ガンデンポタンの統治下にあったカム地方西部とカム地方の東部をあわせた領域に「西康省」を、中央チベットには「西蔵省」を設けようと試みた。しかしながら1911年、中国で辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところを革命派に殺害され、チベット側はこれに乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言するとともに、1917年 - 1918年、1931年 - 1933年にかけて、中華民国と戦火を交え、ディチュ河(金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。", "title": "「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "チベットと中国は、それぞれカム地方の全域が自国の管轄下にあるという建前の地方行政単位をもうけた。チベットは、カム地方西部の中心都市チャムドに「ドカム総督府」を置き、閣僚級のアムド・カム総督(ドメーチーキャプ)を配して統治にあたらせた。一方、中華民国は、発足以来、カム地方に対して省制を施行することができず、川辺特別区をおいていたが、国民政府時代の1939年、実効支配の及ぼばないディチュ河以西をも名目上の範囲として、西康省を設置した。", "title": "「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国共産党は、長征の途上、中国国民政府の支配下にあった(主要都市とその連絡路のみを確保する点と線の支配)カム地方東部を通過し、この地でチベット社会と接触を持った。この時期、共産党は少数民族に対して「民族自決権」を認めることを掲げており、「少数民族」は「民主自治邦」を樹立して、「中華連邦」に自由に加盟したり、離脱する権利を有すると謳っていた。共産党は、カム地方東部において、この政策のもと、占拠したカムの町々のチベット人たちに「波巴政府」を樹立させ、これらの合同会議である「波巴依得巴全国大会」を開催し、1935年、「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写、「波巴依得巴」は 「bod pa'i sde pa(チベット人の政権)の音写で、これらは実際にはカム地方東部の人々の参加しかなかったが、名義の上ではチベット「全国」の大会、チベット人の「中央政府」を標榜するものであった。この「人民共和国」は、共産党軍が去り、国民政府がこの地を再び支配下におさめるとともに、消滅した。", "title": "現行の枠組みの成立" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "中国共産党は、国共内戦に勝利して1949年、中国人民政府を樹立し、1950年までにディチュ河以東の地域にふたたび支配権を確立した。この時期の共産党はすでに「民族自決権」を積極的に掲げることをやめており、この時には、この地をチベット人の民族自治区として位置づけるにとどめ、その結果、西康省全域を領域とする西康省蔵族自治区が発足することとなった。", "title": "現行の枠組みの成立" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "名義上は西康省に属するが、実際にはガンデンポタンの統治下にあったディチュ河以西の地は、1950年 - 1951年のいわゆる「西蔵和平解放」により中国の制圧するところとなった。中国政府はこの地を西康省蔵族自治区に組み込むことなく、中国政府に忠実な現地人に組織させた昌都解放委員会(チャムドかいほういいんかい)の管轄下のもと、引き続き西蔵に帰属させた。", "title": "現行の枠組みの成立" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1955年 、中国政府は西康省を廃止、自治州に格下げし、カンゼ・プーリー・ランキョン・クル(甘孜蔵族自治州)として四川省に組み込んだ。チベット動乱を経た1965年、西蔵においてチベット人の省級の民族区域自治単位である「西蔵自治区」が発足したが、隣接する各級の「チベット族(蔵族)」の民族自治州、県、郷はこの自治区に統合されることなく、現在に至っている。", "title": "現行の枠組みの成立" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中国国内で用いられている「西蔵」の用法は、清末いらい現代にいたるまで一貫しており、中国政府が各種媒体で用いる例、中国国内のチベット学専門家が寄稿する『中国蔵学』(北京・蔵学研究中心刊)、「西蔵研究」(ラサ・西蔵社会科学院刊)などの学術雑誌、中国国内で出版・販売されたベストセラーの小説や歌謡曲、中国国内のプロバイダーで開設されているWebページなどで用いられている「西蔵」は、ほぼ例外なく、チベットの西南の二分の一程度を占める、【ンガリ地方、ウーツァン地方、カム地方西部などをまとめて呼ぶ場合の呼称】として用いられている。", "title": "中国国内における現行の用例" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以下は、中国国内で活動する仏教団体による2008年の用例。", "title": "中国国内における現行の用例" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "", "title": "中国国内における現行の用例" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "チベットと言えば、人々は祖国の南西辺境にある青い空と白い雲の下に比類なくそびえ立つ「西藏」をとても自然に思い起こす。そこでは悠揚と念仏が唱えられ、経文を印刷した旗が僧院の金瓦の屋根に翩翻とたなびいている。ツァンパや牛・羊の肉を食べ、バター茶やチンコー酒を飲み、酸素の希薄な高原の大気と強烈な紫外線にさらされて、私は肌が浅黒く、身体壮健な、馬を自由に駆るチベット族同胞と向き合う・・・。", "title": "中国国内における現行の用例" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「西藏」が中国チベットの中心であり、世界仏教のなかで独特の一大体系をなしているチベット仏教の聖地であることは疑いもない。しかしながら、中国チベットは、「西藏」だけがそうなのではなく、チベット高原の東部・東北部外縁の青海、甘粛、四川、雲南等の省内の草原上に位置するものであり、そして広大な「チベット族」の「集住地域」に広がっているものなのである。チベット民族の伝統的な習慣では、この(=「チベット」)の中には「アムド人のチベット」と「カム人のチベット」も含まれ、これらは過去に「衛藏」と呼ばれた「西藏」とともに、中国の「3チベット」を形成しているのである", "title": "中国国内における現行の用例" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "中国の国内・国外で活動する、中国の現体制に反対する組織・団体や活動家・作家が中国語で発信する文章の中には、「西蔵」を、自治区の部分にとどまらないチベットの総称として用いる用法が見られる。", "title": "反体制組織・団体、作家・活動家などによる用例" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "本節では、中国以外の漢字圏諸国における「西蔵」の用例について紹介する。", "title": "中国以外の漢字圏諸国における用例" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本の多田等観(1890-1967)は、西蔵を「チベット」と読み、アムドやカムの全域をふくむ全チベットの総称として使用している。以下、多田等観「西蔵事情」(多田明子・山口瑞鳳編『多田等観:チベット大蔵経にかけた生涯』春秋社、2005年8月、pp.217-355)より引用。", "title": "中国以外の漢字圏諸国における用例" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "晩年の多田を含む、日本におけるチベット学の研究者たちによって1953年(昭和28年)に組織された学会は、「日本西蔵学会」と表記し、「にほん-ちべっと-がっかい」と発音する呼称を正式名称として発足した。2007年の同会の「大会」において、事務局より、学会の呼称を「日本チベット学会」という表記にあらためる件について検討するよう提案があり、2008年の大会において、表記の変更が採択された。ただし機関誌『日本西藏學會々報』については、従来どおりの表記を残すこともあわせて決定した。", "title": "中国以外の漢字圏諸国における用例" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "中国では清朝の康熙年間まで、チベットの総称としては吐蕃、図伯特、唐古特等の用語が使用されていた。雍正のチベット分割 (1723-25) の際、ガンデンポタンの管轄下におかれた領域が「西蔵」の領域で、「青海」とともに藩部と位置づけられた。のこる各地は隣接する甘粛、四川、雲南等の諸省に分属させ、「内地」に帰属するものとされた。", "title": "中国歴代政権による地方行政単位としての「西蔵」" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "清代の西蔵:理藩院管轄下の藩部。", "title": "中国歴代政権による地方行政単位としての「西蔵」" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "中華民国の西蔵:(詳細は西蔵地方を参照)", "title": "中国歴代政権による地方行政単位としての「西蔵」" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の西蔵:(詳細はチベット(西蔵)自治区参照)", "title": "中国歴代政権による地方行政単位としての「西蔵」" } ]
西蔵は歴史的チベットのうち、アムドやカムを除く、西南部2分の1程度を占める部分に対する中国語による呼称として成立した、地域概念の用語。元代より康熙中期ごろまで用いられた烏斯蔵に代わり、康熙末年ごろより使用され始めた地域概念である。その後、中国以外の漢字圏でこの表記がとりいれられ、あるいは中国国外在住の中国語話者たちが発信するチベット関連の情報において、中国における概念・用法にあわせてチベットの一部として、もしくは中国における概念・用法とは別個に全チベットの総称として、使用されるようになった。本来の、および派生した概念・用法の主要なものは、以下のとおり。 「西蔵」の語の伝統的な用法、および中華人民共和国における現行の用法では、チベットのうち、西端のガリ地方、チベットの南部のウーツァン地方、チベット高原中央部のチャンタン地方、カム地方の西半部などにあたる範囲の総称として使用される。チベットの東端に位置するカム地方の東部(時期によっては西部も含む全域)や、東北部に位置するアムド地方の全域はこの西蔵の範囲には含まれない。1911年の辛亥革命以降、チベットのガンデンポタンは、「中国とは別個の国家」であることを主張し、チベットのうちの西蔵部分に実効支配を確立したが、これに対し、中華民国の歴代政権は、チベットの独立をみとめない立場から、自身の支配が及ばない西蔵の部分があくまでも中国の一部であることを強調する「西蔵地方」という用語もひろく用い始めた。「西蔵地方」の概念が指し示す領域の時期ごとの変遷については「西蔵地方」の項で詳述するが、中国国内では、西蔵、西蔵地方とも、中国を構成する地方のひとつという観念を背景として、チベットの一部分だけを指す呼称として使用されている。 アムドの全域やカムの東部も含む全チベットの総称として、主として明治末期から昭和期にかけて使用された呼称。欧州語によるチベットの総称「Tibet」の訳語として「西蔵」という漢字表記が採用され、この表記に対し「チベット」(もしくは「ティベット」)と発音したり、フリガナをふる用法が広く用いられた。チベットにおける王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用。昭和後期より次第に廃れ、現在はカタカナのみで「チベット」と表記される場合が多い(→この用法の用例については下記を、中央アジアの国あるいは地域としてのチベットそのものの説明についてはチベットの項を参照)。
{{otheruses|地域概念|中華人民共和国の行政区|チベット自治区|中華民国の行政区|西蔵地方}} '''西蔵'''(せいぞう、シーツァン、旧字体では'''西藏'''、[[中国語]]{{ピン音|''Xīzàng''}})は歴史的[[チベット]]のうち、[[アムド]]や[[カム (チベット)|カム]]を除く、西南部2分の1程度を占める部分に対する中国語による呼称として成立した、地域概念の用語。[[元 (王朝)|元]]代より[[康熙帝|康熙]]中期ごろまで用いられた[[烏斯蔵]]に代わり、康熙末年ごろより使用され始めた地域概念である。その後、中国以外の漢字圏でこの表記がとりいれられ、あるいは中国国外在住の中国語話者たちが発信するチベット関連の情報において、中国における概念・用法にあわせて'''チベットの一部'''として、もしくは中国における概念・用法とは別個に'''全チベットの総称'''として、使用されるようになった。本来の、および派生した概念・用法の主要なものは、以下のとおり。 *「西蔵」の語の伝統的な用法、および[[中華人民共和国]]における現行の用法では、チベットのうち、西端の[[ンガリ|ガリ]]地方、チベットの南部の[[ウー (チベット)|ウー]][[ツァン]]地方、[[チベット高原]]中央部の[[チャンタン]]地方、[[カム (チベット)|カム地方]]の西半部などにあたる範囲の総称として使用される。チベットの東端に位置するカム地方の東部<span style="font-size:90%;">(時期によっては西部も含む全域)</span>や、東北部に位置するアムド地方の全域はこの'''西蔵'''の範囲には含まれない。[[1911年]]の[[辛亥革命]]以降、チベットの[[ガンデンポタン]]は、[[チベット・モンゴル相互承認条約|「中国とは別個の国家」であることを主張し]]、チベットのうちの西蔵部分に実効支配を確立したが、これに対し、中華民国の歴代政権は、チベットの独立をみとめない立場から、自身の支配が及ばない西蔵の部分があくまでも'''中国の一部である'''ことを強調する「[[西蔵地方]]」という用語もひろく用い始めた。「'''西蔵地方'''」の概念が指し示す領域の時期ごとの変遷については「西蔵地方」の項で詳述するが、中国国内では、'''西蔵'''、'''西蔵地方'''とも、'''中国を構成する地方のひとつ'''という観念を背景として、'''チベットの一部分'''だけを指す呼称として使用されている。 <!--#'''西蔵'''(''Xīzàng''', '''シーツァン'''、'''せいぞう''')は、アムドの全域や[[カム地方|カム]]の東部も含む、欧州語によるチベットの総称「Tibet」の訳語として、主として国外で刊行される中国語の文献に登場する中国語の呼称。チベットにおける王朝や政権の変遷を超えた[[国号]]としても使用される。【用例とその傾向を十分には確認していないのでコメントアウト】--> *アムドの全域やカムの東部も含む全チベットの総称として、主として[[明治]]末期から[[昭和]]期にかけて使用された呼称。欧州語によるチベットの総称「Tibet」の訳語として「西蔵」という漢字表記が採用され、この表記に対し「チベット」(もしくは「ティベット」)と発音したり、フリガナをふる用法が広く用いられた。[[チベット]]における王朝や政権の変遷を超えた[[国号]]としても使用。[[昭和]]後期より次第に廃れ、現在はカタカナのみで「チベット」と表記される場合が多い(→この用法の用例については[[#中国以外の漢字圏諸国における用例|下記]]を、[[中央アジア]]の[[国]]あるいは[[地域]]としての'''チベット'''そのものの説明については[[チベット]]の項を参照)。 == 中国におけるチベットの総称 == 中国におけるチベットの総称は、[[7世紀]]、[[吐蕃]]によってチベットが統一されて以来、長らく「[[吐蕃]]」が用いられ続けていた。たとえば[[明]]代に編纂された『[[元史]]』の「[[宣政院]]」の条では、「[[烏斯蔵|烏思蔵]]・納里速古児孫([[ウー]][[ツァン]]・[[ガリー|ガリコルスム]])」と「朶甘([[アムド|ド]]・[[カム (チベット)|カム]])」をあわせた範囲が「吐蕃」の名で一括されている。 == 中国における初期の用例 == 中国において、チベットの一部分を表す呼称として「西蔵」という名称が出現したのは、清朝時代である。その当初から、この用語が示す領域は、きわめて明確であった。以下、「西蔵」という呼称をタイトルに掲げた最も初期の文献のひとつである『西蔵記』([[18世紀]]中葉成立)と、清初以来、清朝が収集、蓄積してきた[[チベット]]、[[モンゴル]]、[[東トルキスタン]]の情報を集大成して成立した『外藩蒙古回部王公表伝』(1789年成立。清朝より爵位を受ける「外藩」(モンゴル、東トルキスタン、チベット)の王公貴族の系譜を網羅的に整理、提示したもの)の記述を紹介する。 『西蔵記』では「西蔵」を次のように定義する。 {{quotation| 西蔵の一隅は、諸書にはあまり詳しく載っていない。その地は{{Color|red|'''西吐蕃にあたる'''}}と思われる(考其地則西吐蕃也)。唐は烏斯国といい、明は[[烏斯蔵]](ウーツァン)といい、今は図伯特(トゥベト)といい、また[[唐古忒]](タングート)という。……土人は三部に分けて、康([[カム (チベット)|カム]])といい、衛([[ウー (チベット)|ウー]])といい、蔵([[ツァン]])という。康はすなわち今の察木多(チャムド)一路である。衛はつまり西蔵、ラサの召(ジョー)一帯である。蔵は後蔵のタシルンポ一帯である。 {{番号付きリスト| style="font-size:smaller" |1= [[吐蕃]]は、古代チベットを統一した王朝の名称であるが、[[元 (王朝)|元]]、[[明]]時期の中国では、[[チベット]]全域を示す総称のひとつとして用いられ続けていた。 |2= ここでいう「康」は、チベット語でチベットの東部地方をさす「[[カム (チベット)|カム]]」を音写したものであるが、「疆圉」の項目に「西蔵の東は、バタン(巴塘)の南墩、寧静山に至りて界となす」とある。寧静山(チベット名ブムラ)は、[[ディチュ河]](金沙江)水系の西側の分水嶺であり、すなわち本書でいう「康」はカム地方の西半部分のみを指していることになる。 |3= 「ジョー」とは、元来は[[ラサ]]の[[トゥルナン寺]]の釈尊像(jo bo、ジョウォ)がなまったもので、モンゴル語としては、チベットのラサ周辺一帯を指す地域名称となった。「召」はこの「ジョー」を漢字で音写したものである。 }} }} <!-- quotation 終わり --> 『外藩蒙古回部王公表伝』の巻九十一に収録されている「西蔵部総伝」は「西蔵」の定義を次のように述べる。 {{quotation|漢文版:西蔵すなわち唐古特。別に土伯特と称する。およそ四部、曰く衛、曰く蔵、曰く喀木、曰く阿里。<br/>モンゴル語版:バロン・ジョーすなわちタングート。別にトゥベトともいう。四アイマクあり。ウイ、ジョー、カム、アリという。}} この箇所では、西蔵=バロン・ジョー=タングート=トゥベトであり、その領域としてはガリ、ウー、ツァンおよび「喀木」が提示されている。一方で、上引部よりややあとには、 {{quotation|初め、ツァン、ウーおよび青海、バルカムはみなタングートに隷した。グシハンは襲って青海に拠り、バルカムに命じて税を納めさせ、またツァン、ウーを侵し、表向きは釈尊の教えを尊ぶようにみせかけ、裏では自強を図って、ダライラマ、パンチェンラマにこれらの土地を給付した。}} という記事がある。また同書の巻八十一「青海部総伝」には、「ふるくは」として、つぎのような記述もある。 {{quotation|また青海および巴爾喀木、蔵、衛はふるくは唐古特の四大部と称した。グシハンは侵してここに依り、青海の地が広くて牧畜に適しており、巴爾喀木は食料に富んでいたので、子孫を青海に遊牧させ、巴爾喀木に賦税を納めさせた。衛、蔵はふるくはダライラマ、パンチェンラマに給された地であった。}} このように、『王公表伝』では、現在の状況として、西蔵=タングートとし、その領域を、ガリ、ウー、ツァン、カム(西部)に限定する一方、「タングート」の過去の領域としては、青海、バルカム(カム全域)も含めていることが読み取れる。 「タングート」から「四大部」の「青海」が除外され、「バルカム」が分割された時期について、『西蔵記』「疆圉」の項は、カム地方についてのみ明快な年次を示し、[[1725年]](雍正3年)とする。 {{quotation|雍正3年、松潘鎮総兵官周瑛、疆址を勘定す。初めて南墩、寧静山の嶺上を境界と定め、あわせて分界碑を立てた。嶺の東バタンは四川に属する。嶺の西は西蔵に属する。その宗吽察卡、中甸は雲南に属する。三處の疆界が初めて分けられた。}} [[1732年]](雍正9年)に行われた西蔵と青海の境界の設定をはじめ、清朝の雍正帝によって行われたチベットの分割の詳細については「[[雍正のチベット分割]]」の項を参照。 == 「西蔵」という地理的枠組みの起源 == [[1637年]]から[[1642年]]にかけてチベットの大部分を征服したグシ・ハンは、チベットの政治・文化の中心ヤルンツァンポ河流域を主とする地方をダライラマ五世に寄進、自らとダライラマ領の統治者[[デシー]]を、「ダライラマの権威の下で、チベットにおける太陽と月の一対」と位置づけ、ダライラマ領を除く各地の諸侯に対しては、自身と子孫との間に貢納と所領の安堵を媒介とする主従関係を結ばせた。 [[清|清国]]の[[雍正帝]]は、グシ・ハン一族の内紛に乗じて[[1723年]] - [[1724年]]、チベット東北部の[[アムド]]地方に出兵し、この地に本拠をおいていた[[グシ・ハン]]一族を屈服させ、[[グシ・ハン王朝]]の成立以来、彼らがチベットの各地やチベット人諸侯に対して保有していた権益や支配権をすべて接収した([[雍正のチベット分割]])。 清国は、接収したグシハン一族の属領を[[タンラ山脈]]から[[ディチュ河]](金沙江)にかけての線で二分し、その北部・東部に対しては、[[青海]]地方のほか[[甘粛省|甘粛]]、[[雲南省|雲南]]、[[四川省|四川]]等の諸省の間で分割し、その南部は、[[ダライ・ラマ]]を擁し、[[ラサ]]に本拠をおく[[ガンデンポタン]]の管轄下にゆだねた。「西蔵」という単語は[[17世紀]]の資料にも散見されるが、この分割以降、チベットのうち、[[ガンデンポタン]]が管轄する領域の呼称となる。この線の北部・東部のモンゴル人・チベット人諸侯は「[[旗制]]」もしくは「[[土司]]」制度のもと、青海、四川、甘粛、雲南等の諸地方に分配され、個別に清朝皇帝に臣属することとなった。 == 「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い == [[18世紀]]に成立した「西蔵」の枠組みは、[[19世紀]]には早くも揺らぎだす。[[カム (チベット)|カム]]地方[[ニャロン]](中国名[[新龍県]])の領主[[グンポナムギャル]]は、19世紀半ば、近隣の征服に乗り出し、[[十八諸侯]]とよばれるカム地方の領主の大部分を制圧した。これらの諸侯は[[1725年]]以来、[[成都]]の[[四川総督]]を介して[[兵部]]から[[冊封]]を受けており、清の[[朝廷]]はグンポナムギャルを阻止し、清を[[宗主国|宗主]]として仰ぐ諸侯を救援せねばならない立場にあった。しかし清国はこの時期[[太平天国]]との戦いに没頭しており、カム地方の戦乱に介入する余力はなかった。 清にかわってこの動乱を収束させたのがガンデンポタンである。ガンデンポタンは数年をかけてグンポナムギャルの勢力を打倒し、カムの十八諸侯を旧領に復帰させた。清の[[朝廷]]は、ガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンがニャロン(グンポナムギャルの本拠)を接収することを認めた。ガンデンポタンはニャロンに[[チキャプ|ニャロン総督]](ニャロン・チキャプ)を派遣し、直轄地として支配した。 以上の結果、ガンデンポタンの勢力圏は、[[ディチュ河]]を越えて東方に拡大し、従来名目的には[[四川省]]に帰属していたカム地方東部の諸侯にもつよい影響力を発揮するようになった。 [[清|清国]]は、[[中国]]における諸反乱をほぼ収束させると、[[清末新制]]に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、[[モンゴル]]などに対しては、従来[[中国とは別個の法制・行政制度]]のもと、[[盟]]・[[旗]]の長や[[土司]]職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、[[省]]・[[州]]・[[県]]を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった([[東トルキスタン]]では、すでに[[1878年]]に[[省]]制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。 [[四川総督]][[趙爾豊]]は、[[1909年]]、四川軍を率いてカム地方からチベットに侵攻、翌年には[[ラサ]]を占領し、[[ダライ・ラマ13世]]はインドへ逃れた。趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、従来ガンデンポタンの統治下にあったカム地方西部とカム地方の東部をあわせた領域に「[[西康省]]」を、中央チベットには「西蔵省」を設けようと試みた。しかしながら[[1911年]]、中国で[[辛亥革命]]が勃発、趙は成都に戻ったところを革命派に殺害され、チベット側はこれに乗じて反攻を開始、[[1913年]]にラサを奪還して独立を宣言するとともに、[[1917年]] - [[1918年]]、[[1931年]] - [[1933年]]にかけて、[[中華民国]]と戦火を交え、[[ディチュ河]](金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。 チベットと中国は、それぞれカム地方の全域が自国の管轄下にあるという建前の地方行政単位をもうけた。チベットは、カム地方西部の中心都市[[チャムド]]に「[[ドカム総督府]]」を置き、閣僚級の[[アムド・カム総督]](ドメーチーキャプ)を配して統治にあたらせた。一方、中華民国は、発足以来、カム地方に対して[[省]]制を施行することができず、[[川辺特別区]]をおいていたが、[[国民政府]]時代の[[1939年]]、実効支配の及ぼばないディチュ河以西をも名目上の範囲として、[[西康省]]を設置した。 == 現行の枠組みの成立 == [[中国共産党]]は、[[長征]]の途上、中国[[国民政府]]の支配下にあった(主要都市とその連絡路のみを確保する点と線の支配)カム地方東部を通過し、この地でチベット社会と接触を持った。この時期、共産党は[[少数民族]]に対して「[[民族自決権]]」を認めることを掲げており、「少数民族」は「民主自治邦」を樹立して、「中華連邦」に自由に加盟したり、離脱する権利を有すると謳っていた。共産党は、カム地方東部において、この政策のもと、占拠したカムの町々のチベット人たちに「波巴政府」を樹立させ、これらの合同会議である「波巴依得巴全国大会」を開催し、[[1935年]]、「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写、「波巴依得巴」は 「bod pa'i sde pa(チベット人の政権)の音写で、これらは実際にはカム地方東部の人々の参加しかなかったが、名義の上ではチベット「全国」の大会、チベット人の「中央政府」を標榜するものであった。この「人民共和国」は、共産党軍が去り、国民政府がこの地を再び支配下におさめるとともに、消滅した。 [[中国共産党]]は、[[国共内戦]]に勝利して[[1949年]]、[[中華人民共和国|中国人民政府]]を樹立し、[[1950年]]までにディチュ河以東の地域にふたたび支配権を確立した。この時期の共産党はすでに「民族自決権」を積極的に掲げることをやめており、この時には、この地を[[チベット人]]の民族[[民族区域自治|自治区]]として位置づけるにとどめ、その結果、[[西康省]]全域を領域とする[[西康省蔵族自治区]]が発足することとなった。 名義上は西康省に属するが、実際には[[ガンデンポタン]]の統治下にあったディチュ河以西の地は、[[1950年]] - [[1951年]]のいわゆる「[[チベット侵攻 (1950-1951)|西蔵和平解放]]」により中国の制圧するところとなった。中国政府はこの地を西康省蔵族自治区に組み込むことなく、中国政府に忠実な現地人に組織させた[[昌都解放委員会]](チャムドかいほういいんかい)の管轄下のもと、引き続き西蔵に帰属させた。 [[1955年]] 、中国政府は西康省を廃止、自治州に格下げし、[[カンゼ州|カンゼ・プーリー・ランキョン・クル]](甘孜蔵族自治州)として[[四川省]]に組み込んだ。[[チベット動乱]]を経た[[1965年]]、西蔵においてチベット人の省級の[[民族区域自治]]単位である「[[チベット自治区|西蔵自治区]]」が発足したが、隣接する各級の「[[チベット民族|チベット族(蔵族)]]」の[[民族区域自治|民族自治州、県、郷]]はこの自治区に統合されることなく、現在に至っている。 == 中国国内における現行の用例 == 中国国内で用いられている「西蔵」の用法は、清末いらい現代にいたるまで一貫しており、中国政府が各種媒体で用いる例、中国国内のチベット学専門家が寄稿する『中国蔵学』([[北京市|北京]]・[[蔵学研究中心]]刊)、「西蔵研究」([[ラサ]]・[[西蔵社会科学院]]刊)などの学術雑誌、中国国内で出版・販売されたベストセラーの小説や歌謡曲、中国国内のプロバイダーで開設されているWebページなどで用いられている「西蔵」は、ほぼ例外なく、チベットの西南の二分の一程度を占める、【[[ンガリ]]地方、[[ウー (チベット)|ウー]][[ツァン]]地方、[[カム (チベット)|カム]]地方西部などをまとめて呼ぶ場合の呼称】として用いられている。 以下は、中国国内で活動する仏教団体による2008年の用例。<ref>王云峰,2008。チベットの全域を指す用語としては「藏区」が使用されている。<br> 原文<br> <blockquote>'' 说起藏区,人们很自然就想到蓝天、白云下绝世耸立于祖国西南边陲的西藏,想到那里法号悠扬、经幡飘动的金顶寺院;吃糌粑、牛羊肉,喝酥油茶、青稞酒,任高原氧气稀少、紫外线强烈,我自面色黝黑,身体强健,策马奔驰的藏族同胞…… 无疑,西藏是中国藏区的中心、世界佛教中独树一帜的一大体系藏传佛教的圣地。但中国藏区并不仅仅是西藏,在位于青藏高原东部、东北部边缘的青海、甘肃、四川、云南等省份的草原上,还分布着广大的藏族聚居区。在藏民族的传统习惯中,这里被称为安多藏区和康巴藏区,它们与过去被称为卫藏的西藏一起,组成了中国的三大藏区。''</blockquote></ref> <blockquote>'' チベットと言えば、人々は祖国の南西辺境にある青い空と白い雲の下に比類なくそびえ立つ「{{color|red|'''西藏'''}}」をとても自然に思い起こす。そこでは悠揚と念仏が唱えられ、経文を印刷した旗が僧院の金瓦の屋根に翩翻とたなびいている。ツァンパや牛・羊の肉を食べ、バター茶やチンコー酒を飲み、酸素の希薄な高原の大気と強烈な紫外線にさらされて、私は肌が浅黒く、身体壮健な、馬を自由に駆るチベット族同胞と向き合う・・・。<br> 「{{color|red|'''西藏'''}}」が中国チベットの中心であり、世界仏教のなかで独特の一大体系をなしているチベット仏教の聖地であることは疑いもない。しかしながら、中国チベットは、「{{color|red|'''西藏'''}}」だけがそうなのではなく、チベット高原の東部・東北部外縁の青海、甘粛、四川、雲南等の省内の草原上に位置するものであり、そして広大な「チベット族」の「集住地域」に広がっているものなのである。チベット民族の伝統的な習慣では、この(=「チベット」)の中には「アムド人のチベット」と「カム人のチベット」も含まれ、これらは過去に「衛藏」と呼ばれた「{{color|red|'''西藏'''}}」とともに、中国の「3チベット」を形成しているのである''</blockquote> == 反体制組織・団体、作家・活動家などによる用例 == <!--中国の国外で刊行された中国語文献における「西蔵」の用例で、伝統的もしくは中国国内の現行の用法とはことなるものがあれば、実際の用例のサンプルとともに紹介してください。--> 中国の国内・国外で活動する、中国の現体制に反対する組織・団体や活動家・作家が中国語で発信する文章の中には、「西蔵」を、自治区の部分にとどまらない[[チベット]]の総称として用いる用法が見られる。 *[http://woeser.middle-way.net/ 惟色『看不見的西蔵』] 北京市在住の作家[[ツェリン・オーセル]]のブログ<ref>2011年4月17日のエントリー[http://woeser.middle-way.net/2011/04/blog-post_17.html 「惟有這無用詩,献給洛桑次巴…」]では、次のような1節が見られる。 :''而這西藏――'' :''當然,完整的名字是圖伯特。'' </ref> *[http://www.dalailamaworld.com/ 『第十四世達頼喇嘛官方国際華文網站』] ダライラマ法王庁公式サイト中国語版 == 中国以外の漢字圏諸国における用例 == 本節では、中国以外の漢字圏諸国における「西蔵」の用例について紹介する。 [[日本]]の[[多田等観]](1890-1967)は、'''西蔵'''を「チベット」と読み、[[アムド]]や[[カム (チベット)|カム]]の全域をふくむ全[[チベット]]の総称として使用している。<span style="font-size:90%;">以下、多田等観「西蔵事情」(多田明子・山口瑞鳳編『多田等観:チベット大蔵経にかけた生涯』春秋社、2005年8月、pp.217-355)より引用。</span> :: '''西蔵'''の境域は、東経七十八度から百三度、北緯二十七度から三十九度に至る地域を占めている。面積は大略七十五万マイル、日本全土(旧朝鮮、台湾を含む)の約二倍半である。南は[[ヒマラヤ山脈]]、北は[[崑崙山脈]]、東は[[インドシナ山脈]]、この三つの山脈によって押し上げられた高原国である。'''この地理的範囲は[[西蔵人]]が自分の国として考えている国土の面積である。[[青海]]や[[カム地方|喀木]](カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では[[青海省]]や[[西康省]]を除外した部分を西蔵と称している。''' (p.233) :: 西蔵という名称は近代においての支那からの呼称であって、かの国自称の国名ではない。支那では古い時代に[[チベット|図伯特]]とか[[唐古特]]などと呼んだことがあった。唐代には[[吐蕃]]といい、明代には[[烏斯蔵|烏斯、蔵]]もしくは[[烏斯蔵]]と称し、清朝に至りて[[前蔵]]・[[後蔵]]と名づけ、近代にこれを[[内蔵]]・[[外蔵]]というようになった。ヨーロッパでは Tibet と呼んでいるので、わが日本では西蔵の支那音はシーツァンといい、チベットという音がないにかかわらず、西蔵と書いてチベットと読ませて、こう呼んでいる。 (p.249) 晩年の多田を含む、日本におけるチベット学の研究者たちによって[[1953年]](昭和28年)に組織された学会は、「[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jats2/ 日本西蔵学会]{{リンク切れ|date=August 2017}}」と表記し、「にほん-ちべっと-がっかい」と発音する呼称を正式名称として発足した。[[2007年]]の同会の「大会」において、事務局より、学会の呼称を「日本チベット学会」という表記にあらためる件について検討するよう提案があり、[[2008年]]の大会において、表記の変更が採択された。ただし機関誌『日本西藏學會々報』については、従来どおりの表記を残すこともあわせて決定した。 == 中国歴代政権による地方行政単位としての「西蔵」 == 中国では清朝の康熙年間まで、チベットの総称としては[[吐蕃]]、[[チベット|図伯特]]、[[唐古特]]等の用語が使用されていた。[[雍正のチベット分割]] (1723-25) の際、[[ガンデンポタン]]の管轄下におかれた領域が「西蔵」の領域で、「青海」とともに[[藩部]]と位置づけられた。のこる各地は隣接する[[甘粛]]、[[四川]]、[[雲南省|雲南]]等の諸省に分属させ、「内地」に帰属するものとされた。 清代の西蔵:[[理藩院]]管轄下の[[藩部]]。 :1723年-1724年 清朝、青海地方に侵攻、[[グシ・ハン]]一族を制圧し、その属領を接収。 :1725年 グシ・ハン一族の旧属領のうちカム地方を[[ガンデンポタン]]領と四川、雲南との間で三分割。 :1732年 [[グシ・ハン]]一族の旧属民の[[七十九族]]を[[タンラ山脈]]を境に南北に2分、北部の[[玉樹四十族]]は青海に、南部の[[ホル三十九族]]はガンデンポタン(1751年以降は[[駐蔵大臣]])に帰属。地域単位としての'''西蔵'''の成立。 :19世紀 グンポナムギャルの「乱」を契機に、ガンデンポタン領がディチュ河東岸にも拡大。 :1905年-1911年 [[趙爾豊]]、西蔵より[[カム (チベット)|カム]]地方の西部を削り、[[雍正のチベット分割]]の際に[[四川省]]に組み込まれていたカム地方東部とあわせて[[西康省]]を、また[[ガンデンポタン]]による統治を廃止して[[西蔵省]]の設置を目指す。 中華民国の西蔵:(詳細は[[西蔵地方]]を参照) :[[辛亥革命]]以降、中華民国の歴代政権は「西蔵」に対して[[実効支配]]を確立できたことはなかったが、「チベット独立」の主張にたいし、あくまでも「中国の一部を構成する[[西蔵地方]]」であると主張。また引き続き、[[西康省]]の設置を根ざす。チベットの'''西蔵'''部分を実効支配する[[ガンデンポタン]]は、「チベット国の中央政府」として「全チベットの統治」を目指し、民国の地方政権と軍事衝突を含めて紛争。 中華人民共和国の西蔵:(詳細は[[チベット自治区|チベット(西蔵)自治区]]参照) :1950年、カム地方東部のみで[[西康省|西康省蔵族自治区]]を発足させる。またカム地方西部に本拠をおく[[ガンデンポタン]]の[[ドメー・チーキャプ]](アムド・カム総督)を[[チャムド戦役]]によって降伏させるが、カム地方西部を[[西康省]]に組み込むことはせず、この地に[[昌都解放委員会]](チャムドかいほういいんかい)を組織する。 :1951年、「西蔵和平解放」。この際締結された[[十七ヶ条協定]]では[[ガンデンポタン]]を「西蔵地方政府」と規定。 :1955年、西康省蔵族自治区廃止。[[中華人民共和国によるチベットの分割と再編]]、省レベルではほぼ完成。 :1959年、[[チベット動乱]]。[[中華人民共和国国務院|国務院]]「西蔵地方政府の廃止」を布告。[[ガンデンポタン]]、インドへ脱出、[[チベット臨時政府]]の発足。 :1966年、[[チベット自治区|西蔵自治区]]発足。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == *王云峰 「[http://www.beita.org/html/chuanchengcang/jinxiandaidade/200812/05-1521_70.html 金席大師貢唐倉」(70)](『佛学宝蔵ー法脉相承』)2008-12-05 == 関連項目 == * [[烏斯蔵]](うしぞう、ウーツァン) * [[吐蕃]](とばん) * [[西番]](せいばん) * [[唐古特]](タングート) {{DEFAULTSORT:せいそう}} [[Category:チベットの別名]] [[Category:中国史の民族]] [[Category:藩部]]
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外房線
外房線(そとぼうせん)は、千葉県千葉市中央区の千葉駅から同県茂原市の茂原駅を経由して千葉県鴨川市の安房鴨川駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。外房線の前身である房総東線についても記述する。 千葉から房総半島を横断し、同半島の東岸(太平洋)沿いを南下して鴨川へ至る路線。蘇我駅で内房線が分岐し、安房鴨川駅で再び内房線と接続する。 千葉駅 - 上総一ノ宮駅間は全区間複線であり、列車本数も比較的多く、東京方面から総武快速線や京葉線の快速電車や東金線から各駅停車が乗り入れている。一方上総一ノ宮駅以南は単線区間があり、列車本数が少なくなるが、東京から京葉線経由の特急列車が安房鴨川駅まで運転されている。 房総各線の中では、旅客人キロ・平均通過人員・旅客運輸収入いずれもトップである。 全線が旅客営業規則の定める「大都市近郊区間」の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。 全線がJR東日本千葉支社の管轄である。 房総半島の太平洋側を巡る鉄道として、房総鉄道が1896年1月に蘇我駅 - 大網駅間を開業したのが始まりである。2月には千葉で総武鉄道と接続し、1897年に一ノ宮駅(現在の上総一ノ宮駅)、1899年に大原まで延伸された。1907年に鉄道国有法により官設鉄道に編入され、房総線(ぼうそうせん)となった。 以降も順次延伸され、1913年に勝浦駅、1927年に上総興津駅、1929年に安房鴨川駅まで延伸され、1925年に安房鴨川駅まで達していた北条線(現在の内房線)と接続し、同時に北条線を編入して千葉駅 - 大網駅 - 安房北条駅 - 木更津駅 - 蘇我駅間が房総線とされた。しかし、1933年には再び千葉駅 - 大網駅 - 安房鴨川駅間が分離され、房総東線(ぼうそうとうせん)となり、1972年に現在の外房線に改称された。 また、総武鉄道と接続した当初より、千葉駅と大網駅でスイッチバック(方向転換)をする配線だったが、1963年に千葉駅を西千葉駅方向に0.8km、1972年に大網駅を土気駅寄りに0.6kmそれぞれ移設して同時に新線を敷設したため、東京方面から大原方面へ方向転換なしで運転可能な配線となり、スピードアップにつながった。その一方、大網駅のスイッチバック解消後、総武本線の自動列車制御装置 (ATC) の関係から房総半島を一周する特急・快速列車が設定できなくなった。なお大網(旧)駅に接続する旧線は、東金線から新茂原方面へ直通する貨物列車のルートとして残されたが、1996年から実質的に休止状態で、1999年に廃止された。 基本的に1時間ごとに、京葉線の東京駅から上総一ノ宮駅・勝浦駅・安房鴨川駅まで特急「わかしお」が運行されている。かつては255系電車による列車が特急「ビューわかしお」として運行されていたが、2005年12月10日のダイヤ改正で特急「わかしお」に統一された。夜の一部列車は勝浦駅 → 安房鴨川駅間で普通列車として運転されている。 基本的に最長でも安房鴨川駅までの運転で、定期列車として安房鴨川駅から内房線に直通する特急列車は現在設定されていないが、臨時列車として土曜・休日に新宿駅 - 安房鴨川駅間で運転されている特急「新宿わかしお」が期間限定で和田浦駅まで運転されたことがあった。毎年元日には初日の出専用列車の特急「外房初日の出」が高尾駅・新宿駅から内房線太海駅・千倉駅・館山駅まで直通運転している。毎年12月上旬頃に長者町駅付近でのいすみ健康マラソン開催時には、同駅始発の上り臨時特急「いすみマラソン」が運転される。また、1975年までは房総半島を一周する列車が走っており(「わかしお (列車)」参照)、その後も臨時快速「ぐるり房総号」を運転していた時期があった。 起点は原則として千葉駅である。千葉駅と蘇我駅の間は内房線の列車も走り、途中の本千葉駅にもすべての列車が停車する。また、千葉駅 - 大網駅間では東金線との直通列車が走る。 普通列車の大半は、千葉駅と茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅および東金線成東駅との間で運転されているが、日中は茂原駅・上総一ノ宮駅および成東駅発着中心の運転で、大原・勝浦・安房鴨川方面とは上総一ノ宮駅で乗り換えとなる。また、朝・夕ラッシュには誉田駅発着の列車の設定がある。 京葉線直通東京行きの各駅停車は、平日朝には誉田発(京葉車両センターから回送)が1本、夜間は上総一ノ宮始発(2本)や誉田始発(平日のみ。1本)が設定されている。2022年3月の改正からは、上総一ノ宮始発で朝に1本が設定される。なお、京葉線からの系統で全区間各駅停車の設定はない。 日中は、東金線発着・茂原・上総一ノ宮発着が1時間に1本ずつ運転されている。 2021年3月13日のダイヤ改正で、普通列車は京葉線直通列車が10両編成で、東金線直通列車と大原・大網駅発着各1往復が6両編成となり、それ以外は8両編成に統一された。これにより4両編成の定期運行は消滅した。ほとんどの列車が上総一ノ宮駅で系統分離された。 かつては、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間では最大10両編成、東金線直通列車は最大6両編成で運転されていた。また、上総一ノ宮以南に乗り入れ大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅を発着する列車は最大8両だった。なお、編成両数は一定でなかった。 朝夕の時間帯を中心に総武快速線からの15両編成の列車が乗り入れる(後節も参照)。列車有効長が足らない駅があるため、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間で快速運転を行っている。かつては大原駅まで直通していた。 上総一ノ宮以南では、2021年3月13日のダイヤ改正より朝と夜の一部列車を除き上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅 - 内房線木更津駅間直通のワンマン運転列車(E131系2両編成)が1時間に1本運転されており、日中時間帯は上総一ノ宮駅で京葉線直通の快速列車と接続しているほか、朝夕の一部は普通列車や総武線直通の快速列車と接続している。 このほか、209系を利用した千葉駅発着列車も朝夕に設定されている。基本的には千葉発着だが、安房小湊発安房鴨川行きの設定もある。 夜の下り特急列車のうち2本は勝浦駅 - 安房鴨川駅間が普通列車となる。 2021年3月のダイヤ改正前は、千葉駅 - 大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅間の列車が多数運転されていた。普通列車は、三門駅・浪花駅が8両までしか対応することができないため、最大8両編成で運転されていたが、前述の通り編成両数は不揃いだった。 安房鴨川駅で内房線と相互直通を行う列車は、一時期設定されていなかった時期があったが、2021年3月13日のダイヤ改正で安房鴨川駅を越えて運転される列車が復活した。 繁忙期には、これに加えて209系使用の臨時列車が運行されることもある。 横須賀線・総武快速線に直通する列車と京葉線に直通する列車が設定されている。 東京駅・錦糸町駅・船橋駅・千葉駅などを経由する横須賀・総武快速線との直通列車は、外房線・総武快速線内では快速運転を行う。下りは横須賀線からの直通も多いが、上りは横須賀線に乗り入れない東京止まりも多く設定されている。日中にも設定があり、かつては勝浦駅発着で運転されていたが、1998年に大原駅発着に見直され(付属編成のみで運転されるものは1998年以降も勝浦駅発着を維持)、2004年10月16日のダイヤ改正で上総一ノ宮駅発着に統一された。さらに、2010年12月4日のダイヤ改正では日中の運転は取り止められ、京葉線直通の列車に置き換えられた。 大幅なダイヤ乱れが発生した場合は、上総一ノ宮まで運行せず、津田沼駅・千葉駅・誉田駅・茂原駅のいずれかで運行を終了し、東京方面に折り返す運用が行われることもある。そのため、運用車両には普段はない「茂原」行きの表示が用意されている。 国鉄時代の総武線直通快速の千葉駅 - 勝浦駅間の停車駅は蘇我駅・誉田駅・大網駅・茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・御宿駅であったが、ダイヤ改正を重ねるにつれ停車駅が増加し、現在では千葉駅 - 大網駅間は各駅に停車する。総武線快速の車両は鎌倉車両センターのE217系またはE235系の11両編成か15両編成である。 京葉線東京駅を発着し新木場駅・舞浜駅・海浜幕張駅などを経由する直通列車も運転されている。 以前は京葉線直通列車は主に早朝・夜間のみの運転であったが、2010年12月4日のダイヤ改正より、日中にも京葉線 - 外房線を直通する快速列車の運転が開始された。ほとんどの京葉線直通列車は蘇我駅で内房線の列車と相互接続を行う。 早朝・夜間に運転されている快速列車は外房線内でも一部の駅を通過するが、日中の快速列車は外房線内の各駅に停車する。このタイプは、勝浦・安房鴨川方面の普通列車との接続はなかったが、前述した通り2021年3月から接続するようになった。 通勤快速は、上総一ノ宮駅発着と、成東駅・勝浦駅発着が存在する。このうち、前者は2022年3月のダイヤ改正で普通に格下げされる。 夜の京葉線東京発の通勤快速(土曜・休日は快速)10両編成は誉田駅で分割し、前4両が大網経由東金線成東行き(誉田駅から先の各駅は各駅に停車)、後6両が通勤快速勝浦行き(上総一ノ宮駅からは各駅に停車、土曜・休日は快速)として運転される。また、朝の勝浦・成東発通勤快速(土曜・休日は快速)は、勝浦発(6両編成、上総一ノ宮駅までは各駅に停車)の列車が、誉田駅で後から来る東金線成東発の通勤快速(4両編成、土曜・休日は快速)と連結して10両編成となる。 1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 安房鴨川駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・大網駅・茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・御宿駅・勝浦駅・鵜原駅・上総興津駅・行川アイランド駅・安房小湊駅・安房天津駅・安房鴨川駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で誉田駅・本納駅・太東駅・長者町駅、1979年10月1日のダイヤ改正で蘇我駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。 2014年3月改正時点では、千葉駅 - 蘇我駅間で1日2往復の貨物列車が経由するが、外房線内の駅では貨物取扱は行わず、どちらも蘇我駅から京葉臨海鉄道臨海本線に直通し、千葉貨物駅を発着駅としている。1往復は常磐線隅田川駅からの高速貨物列車、もう1往復は東海道貨物線川崎貨物駅からの専用貨物列車である。 すべて電車で運転されている。 日本国有鉄道(国鉄)時代は、夏季になると、海水浴臨時快速列車(両国発着の房総循環列車)の増発に対応するため、千葉地区に在籍する気動車だけでは間に合わなかったことから、東北・新潟(盛岡鉄道管理局から仙台鉄道管理局まで)から近畿・中国(大阪鉄道管理局から米子鉄道管理局のすべて)・四国・九州(門司鉄道管理局から鹿児島管理局のすべて)まで全国で在籍していた区所から駆り出されたり、新潟鐵工所・富士重工業・東急車輛製造といったメーカーで落成したばかりの車両が、予定の区所に配置される前から落成順に試運転前提で千葉地区で運用されたりした。前者は全国から駆り出された車両には近いところでは八高・川越・足尾線用高崎区からと中京(関西線)・関西エリアから貸し出されたキハ30系列。修学旅行色やキハ20形をベースに2基エンジン搭載車のキハ52形、準急日光用キハ55系、碓氷峠(横軽)通過対応のキハ57形、千葉鉄道管理局管内に配置がないエンジン2基搭載のキハ58形、2013年からいすみ鉄道で運転されているキハ28-2346号車、二段窓のキハ65形、後者の試運転を兼ねて運用された車両には北海道仕様から近畿・中国・四国・九州向けの新車も含まれ、夏季に限って札サウから鹿カコまで、千葉鉄道管理局(ここでは千葉気動車区〈千チハ〉の所属である)管内以外の所属区所表記を付けた車両を千葉地区で見ることもできた。電気機関車ないしディーゼル機関車牽引で全国各所から無動力で回送されていた車両は実はこのためであった。そして1972年の電化以降は新製電車が投入されたため、見ることはなくなっていった。 以下で使用種別について特記ないものは普通列車に使用。 東京都心への通勤・通学利用が多い区間で、外房線の利用者の大半はこの区間となり、1999年から2019年度までの乗車人員の増加率は約29%である。外房線の普通列車は千葉駅を発着する。1時間あたりの運行本数は、千葉駅 - 蘇我駅間では内房線の列車も含めてピーク時13 - 14本、日中6 - 7本、蘇我駅 - 大網駅間ではピーク時10 - 11本、日中4 - 5本となっている。千葉駅から本千葉駅を過ぎるまで高架を走行し、並行する京成千原線が左へカーブを描きオーバーパスした後、高架から地上へ降り、京葉線の高架線が海側から上り線と下り線の間に現れて蘇我駅に到着する。蘇我駅 - 大網駅間は房総台地を横切って、九十九里平野へ一直線で向かう路線形態となる。緩やかな勾配が連続し、トンネル区間もあるなど、車窓には山地を走行する雰囲気が映る。蘇我駅 - 大網駅間は東京のベッドタウンとして、大規模な宅地造成が行われた。鎌取駅は千葉・市原ニュータウンの「おゆみ野」「ちはら台」地区の玄関口であり、土気駅はあすみが丘ニュータウンの玄関口である。特に鎌取駅は発展が著しく、駅周辺は商業施設・マンションが密集し、近未来的な住宅都市の光景が広がる。利用者の増加に対応して、ラッシュ時には誉田駅で千葉方面に折り返す列車も設定されている。 千葉駅発着の普通列車のほかに、総武線・京葉線と直通する快速・通勤快速が設定され、東京都心へ乗り換えなしでアクセスできる。東京駅までの所要時間は京葉線直通の通勤快速で40 - 50分ほど、総武線直通の快速で60分ほどである。なお、すべての快速列車が蘇我駅 - 大網駅間の各駅に停車する。 大網駅より先は南に進路を変え、標高がやや高い房総台地から一転して、低地の九十九里平野を走行する。 この区間は乗車人員が1,000人から2,000人ほどの小規模な駅が続き、駅周辺に住宅地がある程度で周囲は田園風景が広がりのどかである。しかし新茂原駅を過ぎる辺りから、林と住宅が連なる住宅街が現れ、しばらくすると高架になる。茂原駅は、九十九里平野の中で最大の都市の中心駅であり、電子部品関連や製薬関連、また天然ガス関連の企業が集う商工業都市であるため、11,000人程のまとまった乗車人員がある。またこの駅を境に、外房線における旅客輸送に大きな段差が生じる。 上総一ノ宮駅は外房線における運行形態の境界駅で、この駅まで1時間にピーク時7 - 8本、日中3 - 4本の列車が運行される。 千葉駅 - 大網駅間に比べると、中心都市があるため、東京のベッドタウンとしての住宅地は少ないが、京葉線・総武線に直通する快速・通勤快速が上総一ノ宮駅(京葉線直通の一部列車は勝浦発着)まで運行していることから、東京都心への通勤利用もある。 上総一ノ宮駅より先は、普通列車の本数が1時間に1本ほどとなる。上りの大原駅から千葉方面・勝浦駅から千葉方面の普通列車は始発から8時頃までと下りの千葉方面から大原駅までは16時頃から終電までは毎時2 - 5本程運行されている。 単線区間を基本とするが、一部複線化されている区間もある。上総一ノ宮駅 - 東浪見駅間、長者町駅 - 御宿駅間では複線化準備施設や、用地買収によって生じた長い空地などが車窓からも分かるが、現時点での輸送需要から本格的な複線化工事に進む見通しは立っていない。 大原駅ではいすみ鉄道いすみ線(元の国鉄木原線)と接続している。 御宿駅までは太平洋と1kmほどの距離を置きながら走行するため、車窓に海が見える区間は非常に少ない。御宿駅 - 安房鴨川駅間は太平洋沿岸に沿って走行し、沿線には海水浴場やマリンスポット、リゾートホテルなどの海関係の観光施設が点在する。また日蓮聖人ゆかりの清澄寺・誕生寺などの古刹も点在している。外房線はこれら地域へのアクセス手段としての利用が多い。 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、東浪見駅・三門駅・浪花駅・鵜原駅・行川アイランド駅・安房天津駅である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "外房線(そとぼうせん)は、千葉県千葉市中央区の千葉駅から同県茂原市の茂原駅を経由して千葉県鴨川市の安房鴨川駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。外房線の前身である房総東線についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "千葉から房総半島を横断し、同半島の東岸(太平洋)沿いを南下して鴨川へ至る路線。蘇我駅で内房線が分岐し、安房鴨川駅で再び内房線と接続する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "千葉駅 - 上総一ノ宮駅間は全区間複線であり、列車本数も比較的多く、東京方面から総武快速線や京葉線の快速電車や東金線から各駅停車が乗り入れている。一方上総一ノ宮駅以南は単線区間があり、列車本数が少なくなるが、東京から京葉線経由の特急列車が安房鴨川駅まで運転されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "房総各線の中では、旅客人キロ・平均通過人員・旅客運輸収入いずれもトップである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全線が旅客営業規則の定める「大都市近郊区間」の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "全線がJR東日本千葉支社の管轄である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "房総半島の太平洋側を巡る鉄道として、房総鉄道が1896年1月に蘇我駅 - 大網駅間を開業したのが始まりである。2月には千葉で総武鉄道と接続し、1897年に一ノ宮駅(現在の上総一ノ宮駅)、1899年に大原まで延伸された。1907年に鉄道国有法により官設鉄道に編入され、房総線(ぼうそうせん)となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以降も順次延伸され、1913年に勝浦駅、1927年に上総興津駅、1929年に安房鴨川駅まで延伸され、1925年に安房鴨川駅まで達していた北条線(現在の内房線)と接続し、同時に北条線を編入して千葉駅 - 大網駅 - 安房北条駅 - 木更津駅 - 蘇我駅間が房総線とされた。しかし、1933年には再び千葉駅 - 大網駅 - 安房鴨川駅間が分離され、房総東線(ぼうそうとうせん)となり、1972年に現在の外房線に改称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、総武鉄道と接続した当初より、千葉駅と大網駅でスイッチバック(方向転換)をする配線だったが、1963年に千葉駅を西千葉駅方向に0.8km、1972年に大網駅を土気駅寄りに0.6kmそれぞれ移設して同時に新線を敷設したため、東京方面から大原方面へ方向転換なしで運転可能な配線となり、スピードアップにつながった。その一方、大網駅のスイッチバック解消後、総武本線の自動列車制御装置 (ATC) の関係から房総半島を一周する特急・快速列車が設定できなくなった。なお大網(旧)駅に接続する旧線は、東金線から新茂原方面へ直通する貨物列車のルートとして残されたが、1996年から実質的に休止状態で、1999年に廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "基本的に1時間ごとに、京葉線の東京駅から上総一ノ宮駅・勝浦駅・安房鴨川駅まで特急「わかしお」が運行されている。かつては255系電車による列車が特急「ビューわかしお」として運行されていたが、2005年12月10日のダイヤ改正で特急「わかしお」に統一された。夜の一部列車は勝浦駅 → 安房鴨川駅間で普通列車として運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "基本的に最長でも安房鴨川駅までの運転で、定期列車として安房鴨川駅から内房線に直通する特急列車は現在設定されていないが、臨時列車として土曜・休日に新宿駅 - 安房鴨川駅間で運転されている特急「新宿わかしお」が期間限定で和田浦駅まで運転されたことがあった。毎年元日には初日の出専用列車の特急「外房初日の出」が高尾駅・新宿駅から内房線太海駅・千倉駅・館山駅まで直通運転している。毎年12月上旬頃に長者町駅付近でのいすみ健康マラソン開催時には、同駅始発の上り臨時特急「いすみマラソン」が運転される。また、1975年までは房総半島を一周する列車が走っており(「わかしお (列車)」参照)、その後も臨時快速「ぐるり房総号」を運転していた時期があった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "起点は原則として千葉駅である。千葉駅と蘇我駅の間は内房線の列車も走り、途中の本千葉駅にもすべての列車が停車する。また、千葉駅 - 大網駅間では東金線との直通列車が走る。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "普通列車の大半は、千葉駅と茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅および東金線成東駅との間で運転されているが、日中は茂原駅・上総一ノ宮駅および成東駅発着中心の運転で、大原・勝浦・安房鴨川方面とは上総一ノ宮駅で乗り換えとなる。また、朝・夕ラッシュには誉田駅発着の列車の設定がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "京葉線直通東京行きの各駅停車は、平日朝には誉田発(京葉車両センターから回送)が1本、夜間は上総一ノ宮始発(2本)や誉田始発(平日のみ。1本)が設定されている。2022年3月の改正からは、上総一ノ宮始発で朝に1本が設定される。なお、京葉線からの系統で全区間各駅停車の設定はない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日中は、東金線発着・茂原・上総一ノ宮発着が1時間に1本ずつ運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2021年3月13日のダイヤ改正で、普通列車は京葉線直通列車が10両編成で、東金線直通列車と大原・大網駅発着各1往復が6両編成となり、それ以外は8両編成に統一された。これにより4両編成の定期運行は消滅した。ほとんどの列車が上総一ノ宮駅で系統分離された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "かつては、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間では最大10両編成、東金線直通列車は最大6両編成で運転されていた。また、上総一ノ宮以南に乗り入れ大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅を発着する列車は最大8両だった。なお、編成両数は一定でなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "朝夕の時間帯を中心に総武快速線からの15両編成の列車が乗り入れる(後節も参照)。列車有効長が足らない駅があるため、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間で快速運転を行っている。かつては大原駅まで直通していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "上総一ノ宮以南では、2021年3月13日のダイヤ改正より朝と夜の一部列車を除き上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅 - 内房線木更津駅間直通のワンマン運転列車(E131系2両編成)が1時間に1本運転されており、日中時間帯は上総一ノ宮駅で京葉線直通の快速列車と接続しているほか、朝夕の一部は普通列車や総武線直通の快速列車と接続している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このほか、209系を利用した千葉駅発着列車も朝夕に設定されている。基本的には千葉発着だが、安房小湊発安房鴨川行きの設定もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "夜の下り特急列車のうち2本は勝浦駅 - 安房鴨川駅間が普通列車となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2021年3月のダイヤ改正前は、千葉駅 - 大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅間の列車が多数運転されていた。普通列車は、三門駅・浪花駅が8両までしか対応することができないため、最大8両編成で運転されていたが、前述の通り編成両数は不揃いだった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "安房鴨川駅で内房線と相互直通を行う列車は、一時期設定されていなかった時期があったが、2021年3月13日のダイヤ改正で安房鴨川駅を越えて運転される列車が復活した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "繁忙期には、これに加えて209系使用の臨時列車が運行されることもある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "横須賀線・総武快速線に直通する列車と京葉線に直通する列車が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "東京駅・錦糸町駅・船橋駅・千葉駅などを経由する横須賀・総武快速線との直通列車は、外房線・総武快速線内では快速運転を行う。下りは横須賀線からの直通も多いが、上りは横須賀線に乗り入れない東京止まりも多く設定されている。日中にも設定があり、かつては勝浦駅発着で運転されていたが、1998年に大原駅発着に見直され(付属編成のみで運転されるものは1998年以降も勝浦駅発着を維持)、2004年10月16日のダイヤ改正で上総一ノ宮駅発着に統一された。さらに、2010年12月4日のダイヤ改正では日中の運転は取り止められ、京葉線直通の列車に置き換えられた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大幅なダイヤ乱れが発生した場合は、上総一ノ宮まで運行せず、津田沼駅・千葉駅・誉田駅・茂原駅のいずれかで運行を終了し、東京方面に折り返す運用が行われることもある。そのため、運用車両には普段はない「茂原」行きの表示が用意されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "国鉄時代の総武線直通快速の千葉駅 - 勝浦駅間の停車駅は蘇我駅・誉田駅・大網駅・茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・御宿駅であったが、ダイヤ改正を重ねるにつれ停車駅が増加し、現在では千葉駅 - 大網駅間は各駅に停車する。総武線快速の車両は鎌倉車両センターのE217系またはE235系の11両編成か15両編成である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "京葉線東京駅を発着し新木場駅・舞浜駅・海浜幕張駅などを経由する直通列車も運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "以前は京葉線直通列車は主に早朝・夜間のみの運転であったが、2010年12月4日のダイヤ改正より、日中にも京葉線 - 外房線を直通する快速列車の運転が開始された。ほとんどの京葉線直通列車は蘇我駅で内房線の列車と相互接続を行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "早朝・夜間に運転されている快速列車は外房線内でも一部の駅を通過するが、日中の快速列車は外房線内の各駅に停車する。このタイプは、勝浦・安房鴨川方面の普通列車との接続はなかったが、前述した通り2021年3月から接続するようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "通勤快速は、上総一ノ宮駅発着と、成東駅・勝浦駅発着が存在する。このうち、前者は2022年3月のダイヤ改正で普通に格下げされる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "夜の京葉線東京発の通勤快速(土曜・休日は快速)10両編成は誉田駅で分割し、前4両が大網経由東金線成東行き(誉田駅から先の各駅は各駅に停車)、後6両が通勤快速勝浦行き(上総一ノ宮駅からは各駅に停車、土曜・休日は快速)として運転される。また、朝の勝浦・成東発通勤快速(土曜・休日は快速)は、勝浦発(6両編成、上総一ノ宮駅までは各駅に停車)の列車が、誉田駅で後から来る東金線成東発の通勤快速(4両編成、土曜・休日は快速)と連結して10両編成となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 安房鴨川駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・大網駅・茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・御宿駅・勝浦駅・鵜原駅・上総興津駅・行川アイランド駅・安房小湊駅・安房天津駅・安房鴨川駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で誉田駅・本納駅・太東駅・長者町駅、1979年10月1日のダイヤ改正で蘇我駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2014年3月改正時点では、千葉駅 - 蘇我駅間で1日2往復の貨物列車が経由するが、外房線内の駅では貨物取扱は行わず、どちらも蘇我駅から京葉臨海鉄道臨海本線に直通し、千葉貨物駅を発着駅としている。1往復は常磐線隅田川駅からの高速貨物列車、もう1往復は東海道貨物線川崎貨物駅からの専用貨物列車である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "すべて電車で運転されている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道(国鉄)時代は、夏季になると、海水浴臨時快速列車(両国発着の房総循環列車)の増発に対応するため、千葉地区に在籍する気動車だけでは間に合わなかったことから、東北・新潟(盛岡鉄道管理局から仙台鉄道管理局まで)から近畿・中国(大阪鉄道管理局から米子鉄道管理局のすべて)・四国・九州(門司鉄道管理局から鹿児島管理局のすべて)まで全国で在籍していた区所から駆り出されたり、新潟鐵工所・富士重工業・東急車輛製造といったメーカーで落成したばかりの車両が、予定の区所に配置される前から落成順に試運転前提で千葉地区で運用されたりした。前者は全国から駆り出された車両には近いところでは八高・川越・足尾線用高崎区からと中京(関西線)・関西エリアから貸し出されたキハ30系列。修学旅行色やキハ20形をベースに2基エンジン搭載車のキハ52形、準急日光用キハ55系、碓氷峠(横軽)通過対応のキハ57形、千葉鉄道管理局管内に配置がないエンジン2基搭載のキハ58形、2013年からいすみ鉄道で運転されているキハ28-2346号車、二段窓のキハ65形、後者の試運転を兼ねて運用された車両には北海道仕様から近畿・中国・四国・九州向けの新車も含まれ、夏季に限って札サウから鹿カコまで、千葉鉄道管理局(ここでは千葉気動車区〈千チハ〉の所属である)管内以外の所属区所表記を付けた車両を千葉地区で見ることもできた。電気機関車ないしディーゼル機関車牽引で全国各所から無動力で回送されていた車両は実はこのためであった。そして1972年の電化以降は新製電車が投入されたため、見ることはなくなっていった。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "以下で使用種別について特記ないものは普通列車に使用。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "東京都心への通勤・通学利用が多い区間で、外房線の利用者の大半はこの区間となり、1999年から2019年度までの乗車人員の増加率は約29%である。外房線の普通列車は千葉駅を発着する。1時間あたりの運行本数は、千葉駅 - 蘇我駅間では内房線の列車も含めてピーク時13 - 14本、日中6 - 7本、蘇我駅 - 大網駅間ではピーク時10 - 11本、日中4 - 5本となっている。千葉駅から本千葉駅を過ぎるまで高架を走行し、並行する京成千原線が左へカーブを描きオーバーパスした後、高架から地上へ降り、京葉線の高架線が海側から上り線と下り線の間に現れて蘇我駅に到着する。蘇我駅 - 大網駅間は房総台地を横切って、九十九里平野へ一直線で向かう路線形態となる。緩やかな勾配が連続し、トンネル区間もあるなど、車窓には山地を走行する雰囲気が映る。蘇我駅 - 大網駅間は東京のベッドタウンとして、大規模な宅地造成が行われた。鎌取駅は千葉・市原ニュータウンの「おゆみ野」「ちはら台」地区の玄関口であり、土気駅はあすみが丘ニュータウンの玄関口である。特に鎌取駅は発展が著しく、駅周辺は商業施設・マンションが密集し、近未来的な住宅都市の光景が広がる。利用者の増加に対応して、ラッシュ時には誉田駅で千葉方面に折り返す列車も設定されている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "千葉駅発着の普通列車のほかに、総武線・京葉線と直通する快速・通勤快速が設定され、東京都心へ乗り換えなしでアクセスできる。東京駅までの所要時間は京葉線直通の通勤快速で40 - 50分ほど、総武線直通の快速で60分ほどである。なお、すべての快速列車が蘇我駅 - 大網駅間の各駅に停車する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "大網駅より先は南に進路を変え、標高がやや高い房総台地から一転して、低地の九十九里平野を走行する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この区間は乗車人員が1,000人から2,000人ほどの小規模な駅が続き、駅周辺に住宅地がある程度で周囲は田園風景が広がりのどかである。しかし新茂原駅を過ぎる辺りから、林と住宅が連なる住宅街が現れ、しばらくすると高架になる。茂原駅は、九十九里平野の中で最大の都市の中心駅であり、電子部品関連や製薬関連、また天然ガス関連の企業が集う商工業都市であるため、11,000人程のまとまった乗車人員がある。またこの駅を境に、外房線における旅客輸送に大きな段差が生じる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "上総一ノ宮駅は外房線における運行形態の境界駅で、この駅まで1時間にピーク時7 - 8本、日中3 - 4本の列車が運行される。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "千葉駅 - 大網駅間に比べると、中心都市があるため、東京のベッドタウンとしての住宅地は少ないが、京葉線・総武線に直通する快速・通勤快速が上総一ノ宮駅(京葉線直通の一部列車は勝浦発着)まで運行していることから、東京都心への通勤利用もある。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "上総一ノ宮駅より先は、普通列車の本数が1時間に1本ほどとなる。上りの大原駅から千葉方面・勝浦駅から千葉方面の普通列車は始発から8時頃までと下りの千葉方面から大原駅までは16時頃から終電までは毎時2 - 5本程運行されている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "単線区間を基本とするが、一部複線化されている区間もある。上総一ノ宮駅 - 東浪見駅間、長者町駅 - 御宿駅間では複線化準備施設や、用地買収によって生じた長い空地などが車窓からも分かるが、現時点での輸送需要から本格的な複線化工事に進む見通しは立っていない。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大原駅ではいすみ鉄道いすみ線(元の国鉄木原線)と接続している。 御宿駅までは太平洋と1kmほどの距離を置きながら走行するため、車窓に海が見える区間は非常に少ない。御宿駅 - 安房鴨川駅間は太平洋沿岸に沿って走行し、沿線には海水浴場やマリンスポット、リゾートホテルなどの海関係の観光施設が点在する。また日蓮聖人ゆかりの清澄寺・誕生寺などの古刹も点在している。外房線はこれら地域へのアクセス手段としての利用が多い。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、東浪見駅・三門駅・浪花駅・鵜原駅・行川アイランド駅・安房天津駅である。", "title": "駅一覧" } ]
外房線(そとぼうせん)は、千葉県千葉市中央区の千葉駅から同県茂原市の茂原駅を経由して千葉県鴨川市の安房鴨川駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。外房線の前身である房総東線についても記述する。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 外房線 |路線色=#db4028 |画像=JRE 209 2000 makuhari.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=外房線の主力車両209系電車<br>(2010年4月6日 [[本千葉駅]]) |国={{JPN}} |所在地=[[千葉県]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]]) |起点=[[千葉駅]] |終点=[[安房鴨川駅]] |駅数=27駅 |電報略号 = ホトセ(房総東線時代)<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p23">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局|date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=23}}</ref> |開業=[[1896年]][[1月20日]] |休止= |廃止= |所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |運営者=東日本旅客鉄道(全線)<br>[[日本貨物鉄道]](千葉 - 蘇我間) |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照 |路線距離=93.3 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]](千葉 - 上総一ノ宮間、東浪見 - 長者町間、御宿 - 勝浦間)、[[単線]](左記以外) |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=(複線および単線)自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]] |最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]](優等列車) |路線図=File:JR Sotobo Line linemap.svg }} '''外房線'''(そとぼうせん)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]の[[千葉駅]]から同県[[茂原市]]の[[茂原駅]]を経由して千葉県[[鴨川市]]の[[安房鴨川駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。外房線の前身である'''房総東線'''についても記述する。 == 概要 == [[千葉市|千葉]]から[[房総半島]]を横断し、同半島の東岸([[太平洋]])沿いを南下して[[鴨川市|鴨川]]へ至る路線<ref name="sone 17">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻31号 内房線・外房線・久留里線 17頁]]</ref>。[[蘇我駅]]で[[内房線]]が分岐し、[[安房鴨川駅]]で再び内房線と接続する。 [[千葉駅]] - [[上総一ノ宮駅]]間は全区間[[複線]]であり、列車本数も比較的多く、東京方面から[[総武快速線]]や[[京葉線]]の快速電車や[[東金線]]から各駅停車が乗り入れている。一方上総一ノ宮駅以南は[[単線]]区間があり、列車本数が少なくなるが、[[東京駅|東京]]から京葉線経由の[[特別急行列車|特急列車]]が安房鴨川駅まで運転されている。 房総各線の中では、旅客人キロ・平均通過人員・旅客運輸収入いずれもトップである<ref name="sone 18">[http://www.yosensha.co.jp/book/b186679.html 徹底解析!! JR東日本]</ref>。 全線が[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]」の「東京近郊区間」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれている。 === 路線データ === * 管轄・路線距離([[営業キロ]]):93.3km<ref name="sone 17"/> ** 東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]): *** 千葉駅 - 安房鴨川駅間 93.3km ** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]): *** 千葉駅 - 蘇我駅間(3.8km) * [[軌間]]:1067mm * 駅数:27(起終点駅含む)<ref name="sone 17"/> ** 外房線所属駅に限定した場合、総武本線所属の千葉駅、内房線所属の安房鴨川駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref>が除外され、25駅となる。 * 複線区間: ** 千葉駅 - 上総一ノ宮駅間 ** 東浪見駅 - 長者町駅間 ** 御宿駅 - 勝浦駅間 * 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:(複線および単線)自動閉塞式 * 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]] * 最高速度: ** 千葉駅 - 蘇我駅間 95km/h ** 蘇我駅 - 勝浦駅間 120km/h<ref name="交通951106">{{Cite news |title=JR東日本 利用者本位をさらに深度化 来月1日ダイヤ改正を見る 千葉、常磐方面に主眼 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-11-06 |page=2 }}</ref> ** 勝浦駅 - 安房鴨川駅間 95km/h * [[運転指令所]]:千葉総合指令室(千葉駅 - 蘇我駅間:内房指令、蘇我駅 - 安房鴨川駅間:外房指令・[[列車集中制御装置|CTC]]) ** 運転取扱駅(駅が信号を制御、運行を管理):なし ** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):蘇我駅・上総一ノ宮駅・大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅 全線がJR東日本[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]の管轄である。 == 歴史 == {{基礎情報 会社 |社名 = 房総鉄道 |ロゴ = [[File:BosoRyLogo.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[千葉県]][[千葉郡]][[千葉町]]<ref name="NDLDC780119"/> |設立 = [[1893年]](明治26年)9月<ref name="NDLDC780119"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |代表者 = 専務取締役 [[大野丈助]]<ref name="NDLDC780119"/> |資本金 = 1,905,000円<ref name="NDLDC780119"/><br />(払込高:1,040,000円)<ref name="NDLDC780119"/> |特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119">[{{NDLDC|780119/480}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}} 房総半島の太平洋側を巡る鉄道として、'''房総鉄道'''が1896年1月に蘇我駅 - 大網駅間を開業したのが始まりである<ref name="sone 22">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻31号 内房線・外房線・久留里線 22頁]]</ref>。2月には千葉で[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]と接続し、1897年に一ノ宮駅(現在の上総一ノ宮駅)、1899年に大原まで延伸された<ref name="sone 22"/>。1907年に[[鉄道国有法]]により官設鉄道に編入され、'''房総線'''(ぼうそうせん)となった<ref name="sone 22"/>。 以降も順次延伸され、1913年に勝浦駅、1927年に上総興津駅、1929年に安房鴨川駅まで延伸され、1925年に安房鴨川駅まで達していた北条線(現在の内房線)と接続し、同時に北条線を編入して千葉駅 - 大網駅 - 安房北条駅 - 木更津駅 - 蘇我駅間が房総線とされた<ref name="sone 22"/>。しかし、1933年には再び千葉駅 - 大網駅 - 安房鴨川駅間が分離され、'''房総東線'''(ぼうそうとうせん)となり<ref name="sone 22"/>、1972年に現在の'''外房線'''に改称された<ref name="sone 23">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻31号 内房線・外房線・久留里線 23頁]]</ref>。 また、総武鉄道と接続した当初より、千葉駅と大網駅で[[スイッチバック]](方向転換)をする配線だったが、1963年に千葉駅を西千葉駅方向に0.8km、1972年に大網駅を土気駅寄りに0.6kmそれぞれ移設して同時に新線を敷設したため、東京方面から大原方面へ方向転換なしで運転可能な配線となり、スピードアップにつながった。その一方、大網駅のスイッチバック解消後、[[総武本線]]の[[自動列車制御装置]] (ATC) の関係から房総半島を一周する特急・快速列車が設定できなくなった。なお大網(旧)駅に接続する旧線は、[[東金線]]から新茂原方面へ直通する貨物列車のルートとして残されたが、1996年から実質的に休止状態で、1999年に廃止された。 === 年表 === * [[1893年]]([[明治]]26年)[[9月7日]]:房総鉄道馬車会社に対し鉄道免許状下付(千葉郡蘇我町 - 山辺郡大網町間)<ref>[{{NDLDC|2946338/4}} 「私設鉄道免許状下付」『官報』1893年9月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1896年]](明治29年) ** [[1月20日]]:'''房総鉄道'''蘇我駅 - 大網駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2947050/12}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1896年1月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[2月25日]]:千葉駅 - 蘇我駅間が延伸開業<ref>[{{NDLDC|2947075/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1896年2月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[11月1日]]:土気駅が開業<ref>[{{NDLDC|2947283/4}} 「停車常設置」『官報』1896年10月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1897年]](明治30年)[[4月17日]]:大網駅 - 一ノ宮駅(現在の上総一ノ宮駅)間が延伸開業<ref>[{{NDLDC|2947426/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年4月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1898年]](明治31年)[[3月25日]]:岩沼駅(現在の八積駅)が開業<ref>[{{NDLDC|2947708/4}} 「停車場設置並哩程数訂正」『官報』1898年3月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1899年]](明治32年)[[12月13日]]:一ノ宮駅 - 大原駅間が延伸開業<ref>[{{NDLDC|2948229/6}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年12月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1902年]](明治35年) ** [[1月28日]]:寒川駅が本千葉駅に改称<ref>[{{NDLDC|2948870/20}} 「停車場改称」『官報』1902年1月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[8月10日]] - [[9月30日]]:長者町駅 - 大原駅間に臨時駅として東海駅が開業し<ref>[{{NDLDC|2949037/4}} 「仮停車場開始」『官報』1902年8月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、営業。1903年の同時期にも開設<ref>[{{NDLDC|2949350/8}} 「仮停車場開始」『官報』1903年8月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1903年]](明治36年)[[8月16日]]:三門駅が開業<ref>[{{NDLDC|2949350/8}} 「停車場開始」『官報』1903年8月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:鉄道国有法により房総鉄道を買収し、官設鉄道に編入<ref name="sone 22"/>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定。千葉駅 - 大原駅間を'''房総線'''とする<ref name="sone 22"/>。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[6月20日]]:大原駅 - 勝浦駅間が延伸開業<ref name="sone 22"/>。 * [[1914年]](大正3年)[[12月1日]]:野田駅が誉田駅に改称。 * [[1915年]](大正4年)[[3月11日]]:岩沼駅が八積駅に改称。 * [[1916年]](大正5年)[[1月1日]]:一ノ宮駅が上総一ノ宮駅に改称。 * [[1925年]](大正14年)[[12月15日]]:東浪見駅が開業。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]]:勝浦駅 - 上総興津駅間が延伸開業<ref name="sone 22"/>。 * [[1929年]](昭和4年)[[4月15日]]:上総興津駅 - 安房鴨川駅間が延伸開業し全通。北条線が房総線に編入<ref name="sone 22"/>。 * [[1933年]](昭和8年) ** 4月1日:千葉駅 - 大網駅 - 安房鴨川駅間が'''房総東線'''に分離<ref name="sone 22"/>。 ** 9月15日:気動車運転開始(千葉 - 本千葉間)<ref name="名前なし-1">[{{NDLDC|1114644/101}} 『鉄道省年報. 昭和10年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * 1935年(昭和10年)7月1日:気動車運転開始(本千葉 - 大網間)<ref name="名前なし-1"/>。 * [[1938年]](昭和13年)[[1月15日]]:蘇我駅 - 誉田駅間に大巌寺駅が開業。 * [[1941年]](昭和16年)[[8月10日]]:大巌寺駅が廃止。 * [[1952年]](昭和27年) ** 3月:土気トンネル(旧)が断面狭小かつ老朽化のため、開削工法にて一部を残して撤去する工事を開始(1954年完成)。 ** [[6月15日]]:鎌取駅が開業<ref name="sone 23"/>。 * [[1954年]](昭和29年)[[10月1日]]:2往復をのぞき、全列車を気動車化。1時間間隔のパターンダイヤが導入。 * [[1955年]](昭和30年)[[9月15日]]:新茂原駅が開業<ref name="sone 23"/>。 * [[1959年]](昭和34年)[[3月20日]]:永田駅が開業。 * [[1960年]](昭和35年)[[7月15日]]:本千葉駅 - 蘇我駅間が複線化および[[鉄道信号機#自動信号機|自動信号化]]<ref name="sone 23"/>。 * [[1963年]](昭和38年)[[4月28日]]:千葉駅移転により房総東線のスイッチバック解消(改キロ-0.3km)<ref name="sone 23"/>。千葉駅 - 本千葉駅間が複線化および自動信号化<ref name="sone 23"/>。 * [[1965年]](昭和40年)[[2月1日]]:全線に[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-S]]を導入<ref>{{Cite news |和書|title=国鉄主要幹線のATS化進む |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1965-02-02 |page=2 }}</ref>。 * [[1968年]](昭和43年)[[7月13日]]:千葉駅 - 蘇我駅間が電化<ref name="sone 23"/>。 * [[1969年]](昭和44年)[[8月20日]]:勝浦行き221列車さよなら運転([[国鉄C57形蒸気機関車|C57 105]]牽引)。[[蒸気機関車]]牽引の旅客列車の定期運用がなくなる。 * [[1970年]](昭和45年)[[7月2日]]:臨時駅として行川アイランド駅が開業<ref name="sone 23"/>。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[5月27日]]:大網駅移転により同駅のスイッチバック解消(改キロなし)<ref name="sone 23"/>。土気トンネル(新)完成。土気駅 - 永田駅間が複線化<ref name="sone 23"/>。蘇我駅 - 安房鴨川駅間が自動信号化。 ** [[7月1日]]:蘇我駅 - 安房鴨川駅間に[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入。 ** 7月15日:'''外房線'''に改称<ref name="sone 23"/>。蘇我駅 - 安房鴨川駅間が電化<ref name="sone 23"/>。183系電車を使用して特急「わかしお」運転開始<ref name="sone 23"/>。 * [[1973年]](昭和48年)7月1日:誉田駅 - 土気駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●外房線誉田・土気間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1973-06-28 |page=4 }}</ref>。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[10月25日]]:鎌取駅 - 誉田駅間が複線化<ref name="sone 23"/>。 ** [[12月12日]]:蘇我駅 - 鎌取駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●外房線蘇我・鎌取間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1974-12-11 |page=7 }}</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[3月17日]] - 本格パイプラインが整備されていなかった新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])への航空燃料輸送(暫定輸送)が開始される(京葉ルート。外房線乗り入れは、千葉駅 - 蘇我駅間)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a085005.htm|title=石油パイプライン事業法に基づく諸規則の運用の実態に関する質問主意書|accessdate=2017-10-08|date=1978-10-06|publisher=衆議院}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|year=2021|date=2021-2-20|title=証言 DD51 成田空港ジェット燃料輸送|journal=ジェイ・トレイン|issue=81|page=37|ASIN=B08TYSB939}}</ref>。[[ファイル:航空燃料暫定輸送鉄道ルート案略図.jpg|代替文=|なし|サムネイル|航空燃料暫定輸送鉄道ルート案略図]] *[[1980年]](昭和55年)[[9月11日]]:八積駅 - 上総一ノ宮駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●外房線八積・上総一ノ宮間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1980-09-06 |page=1 }}</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:大原駅 - 安房鴨川駅間の貨物営業廃止<ref name="sone 23"/><ref>{{Cite news |title=日本国有鉄道公示第166号 |newspaper=[[官報]] |date=1982-11-13 }}</ref>。 * [[1983年]](昭和58年)2月25日:永田駅 - 本納駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●外房線永田・本納間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1983-02-24 |page=1 }}</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:新茂原駅 - 大原駅間の貨物営業廃止。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月1日]]:本納駅 - 新茂原駅間が複線化<ref>{{Cite news |title=「通報」外房線本納・新茂原間増設線路設備の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1985-02-26 |page=2 }}</ref>。 * [[1986年]](昭和61年)[[10月27日]]:新茂原駅 - 八積駅間が複線化<ref name="sone 23"/>。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道に承継<ref name="sone 23"/>。蘇我駅 - 大網駅間の貨物営業廃止。同時に千葉駅 - 蘇我駅および大網駅 - 新茂原駅間で日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる。行川アイランド駅が常設駅になる。 * [[1995年]]([[平成]]7年) ** [[11月26日]]:御宿駅 - 勝浦駅間が複線化<ref name="sone 23"/><ref>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。 ** 12月1日:蘇我駅 - 勝浦駅間の最高速度が120km/hに引き上げられる{{R|交通951106}}。 * [[1996年]](平成8年) ** [[11月17日]]:東浪見駅 - 長者町駅間が複線化<ref name="sone 23"/><ref name=JRR1997>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。 ** 12月:大網駅構内旧線の線路撤去。 * [[1997年]](平成9年)[[3月22日]]:大原駅 - 安房鴨川駅間の普通列車が禁煙となる<ref>{{Cite news |title=普通列車内の禁煙・分煙化 JR千葉支社22日から拡大 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-12 |page=3 }}</ref>。 * [[1998年]](平成11年) ** [[12月8日]]:鎌取駅が快速の停車駅になる。 * [[1999年]](平成11年) ** [[3月31日]]:大網駅 - 新茂原駅間の日本貨物鉄道第二種鉄道事業廃止。 ** [[12月4日]]:土気駅が快速の停車駅になる。 * [[2000年]](平成12年) ** [[2月6日]]:千葉駅 - 蘇我駅間で ATS-P 使用開始。 ** [[8月17日]]:蘇我駅 - 上総一ノ宮駅間で ATS-P 使用開始。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:当時の[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]に当たる千葉駅 - 茂原駅間で、ICカード「[[Suica]]」サービス開始。 * [[2004年]](平成16年)[[10月16日]] 特急「わかしお」にE257系500番台電車を投入<ref name="sone 23"/>。茂原駅 - 大原駅間が東京近郊区間に組み込まれ、同時にICカード「Suica」サービス開始。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月14日]]:大原駅 - 安房鴨川駅間が東京近郊区間に組み込まれ、同時にICカード「Suica」サービス開始<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2008年12月22日</ref>。 ** 10月1日:209系電車2000番台・2100番台投入を開始<ref>{{PDFlink|[http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20090821209kei.pdf 普通列車の車両変更について]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社プレスリリース 2009年8月21日</ref>。 ** [[12月20日]]:上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅間で ATS-P 使用開始。 * [[2010年]](平成22年) ** [[2月10日]]:蘇我駅 - 安房鴨川駅間の CTC および[[自動進路制御装置]] (PRC) 装置更新。外房線PRC型自動放送を永田駅 - 新茂原駅、八積駅 - 安房鴨川駅間で導入。 ** [[9月26日]]:[[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]の千葉県訪問(国体視察など)に伴う[[JR東日本E655系電車|E655系]](特別車両 E655-1 を含む6両)使用の[[お召し列車]]が、蘇我駅 - 茂原駅間および茂原駅 - 勝浦駅間に運転される<ref>[http://railf.jp/news/2010/09/26/180000.html E655系を使用したお召列車が運転される] - 鉄道ファン(交友社)「railf.jp」鉄道ニュース、2010年9月26日</ref>。 ** [[12月4日]]:本千葉駅が快速の停車駅になる。 * [[2011年]](平成23年) ** [[9月1日]]:この日をもって113系の定期運用が終了する。 ** [[9月24日]]:113系のさよなら運転が両国から外房線経由で館山まで運転され、1969年から約42年間続いた外房線での113系の運転が終了した。 ** [[9月30日]]:211系が定期運用から離脱。 * [[2015年]](平成27年)11月:茂原駅 - 川越駅間に臨時快速「おさんぽ川越号」1往復運転(以後も不定期に運転) * [[2016年]](平成28年)8月22日:[[平成28年台風第9号|台風9号]]による被害が発生。特に上総一ノ宮以南での被害が酷く同日昼から翌23日夜まで運転を見合わせ。当初23日は終日運転見合わせの予定であったが復旧作業が進捗し同日の夜には運転を再開(特急「わかしお」は22日昼から23日終日にかけて運転を見合わせた)。 * [[2017年]](平成29年)10月23日:[[平成29年台風第21号|台風21号]]の影響で勝浦駅 - 安房鴨川駅間が始発から10時42分まで運転見合わせ<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001207225.pdf#page=47 台風第21号による被害状況等について(第3報) (2017/10/23 12:00現在)]}} - 国土交通省</ref>。土気駅 - 誉田駅間でも当初は本数を減らしての運転であったが、倒木やパンタグラフ支障により、同日15時半頃まで運転を見合わせた。 * [[2018年]](平成30年)[[1月13日]]:「[[BOSO BICYCLE BASE]]」による[[サイクルトレイン]]「B.B.BASE外房」を両国駅 - 勝浦駅間で運行開始<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1711_bbbase.pdf 2018年1月6日!B.B.BASE始動!!!B.B.BASEの運転スケジュールおよび旅行商品について]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社、2017年11月24日</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[5月8日]]:15時55分頃、安房天津駅 - 安房鴨川駅間で、安房鴨川発千葉行普通列車が[[列車脱線事故|脱線]]<ref>{{Cite news |title=JR外房線で脱線事故 安房鴨川駅付近、救急搬送なし |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2020-05-08 |url=https://www.asahi.com/articles/ASN586F91N58UDCB00M.html |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2020-05-11 }}</ref>。同日は安房小湊駅 − 安房鴨川駅間で終日、翌9日は勝浦駅 − 安房鴨川駅間で15時50分頃まで運転を見合わせ。当初9日は終日運転見合わせの予定であったが復旧作業が進捗し同日の15時50分頃には運転を再開。のちに、10歳の男児による[[置き石]]が原因だったことが判明している<ref>{{Cite news|title=JR外房線脱線は置き石の疑い 10歳男児、児相に書類送致|newspaper=共同通信|date=2020-06-19|url=https://web.archive.org/web/20200619093749/https://this.kiji.is/646575636468515937?c=626016390609077345&s=t|publisher=共同通信社|accessdate=2020-06-19}}</ref>。 ** [[11月19日]]:津波避難誘導看板の設置が完了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201223_c04.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201224081235/https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201223_c04.pdf|format=PDF|language=日本語|title=津波避難誘導看板設置完了のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-12-23|accessdate=2020-12-24|archivedate=2020-12-24}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅間において、E131系電車の投入・ワンマン運転・内房線([[安房鴨川駅]] - [[木更津駅]]間)との直通運転開始<ref name="pr20201218">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201218_c01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218080057/https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201218_c01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-12-18|accessdate=2020-12-18|archivedate=2020-12-18}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[9月8日]]:[[令和5年台風第13号|台風13号]]による大雨の影響で土気駅 - 大網駅間の上り線路脇の[[のり面]]で土砂崩れが発生<ref>{{Cite web |title=千葉県内、9日も交通網乱れ続く JR外房、内房線で土砂崩れ 10日も一部運休 台風13号【追記あり】 |website=千葉日報オンライン |url=https://www.chibanippo.co.jp/news/national/1104604 |date=2023-10-15 |access-date=2023-12-30|archive-url=https://web.archive.org/web/20231015045142/https://www.chibanippo.co.jp/news/national/1104604 |archive-date=2023-10-15}}</ref>。数日間誉田駅 - 大網駅間で運転を取りやめたが、12日から運転を再開した<ref>{{Cite web |title=JR外房線 4日ぶり全線で運転再開 利用客からは復旧を喜ぶ声 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230912/k10014192641000.html |website=NHK NEWSWEB |publisher=日本放送協会 |date=2023-09-13 |access-date=2023-12-30|archive-url=https://web.archive.org/web/20230913231818/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230912/k10014192641000.html |archive-date=2023-09-13}}</ref>。 == 運行形態 == [[ファイル:SotoboLine-via Kiyo Sobu.jpg|250px|thumb|運行系統図]] === 優等列車 === 基本的に1時間ごとに、京葉線の東京駅から上総一ノ宮駅・勝浦駅・安房鴨川駅まで特急「[[わかしお (列車)|わかしお]]」が運行されている。かつては[[JR東日本255系電車|255系]]電車による列車が特急「[[わかしお (列車)|ビューわかしお]]」として運行されていたが、2005年12月10日のダイヤ改正で特急「わかしお」に統一された。夜の一部列車は勝浦駅 → 安房鴨川駅間で普通列車として運転されている。 基本的に最長でも安房鴨川駅までの運転で、定期列車として安房鴨川駅から[[内房線]]に直通する特急列車は現在設定されていないが、臨時列車として土曜・休日に[[新宿駅]] - 安房鴨川駅間で運転されている特急「[[わかしお (列車)|新宿わかしお]]」が期間限定で[[和田浦駅]]まで運転されたことがあった。毎年[[元日]]には[[初日の出]]専用列車の特急「[[わかしお (列車)|外房初日の出]]」が[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]・新宿駅から内房線[[太海駅]]・[[千倉駅]]・[[館山駅]]まで直通運転している。毎年12月上旬頃に[[長者町駅]]付近でのいすみ健康マラソン開催時には、同駅始発の上り臨時特急「いすみマラソン」が運転される。また、1975年までは房総半島を一周する列車が走っており(「[[わかしお (列車)]]」参照)、その後も臨時快速「ぐるり房総号」を運転していた時期があった。 <gallery widths="250px"> ファイル:E257 10car Wakashio.jpg|安房天津 - 安房鴨川間(2016年5月) </gallery> === 地域輸送 === 起点は原則として[[千葉駅]]である。千葉駅と蘇我駅の間は[[内房線]]の列車も走り、途中の本千葉駅にもすべての列車が停車する。また、千葉駅 - 大網駅間では[[東金線]]との直通列車が走る。 ==== 普通 ==== 普通列車の大半は、千葉駅と[[茂原駅]]・[[上総一ノ宮駅]]・[[大原駅 (千葉県)|大原駅]]・[[勝浦駅]]・[[安房鴨川駅]]および東金線[[成東駅]]との間で運転されているが、日中は茂原駅・上総一ノ宮駅および成東駅発着中心の運転で、大原・勝浦・安房鴨川方面とは上総一ノ宮駅で乗り換えとなる。また、朝・夕ラッシュには誉田駅発着の列車の設定がある。 ===== 千葉駅 - 上総一ノ宮駅間 ===== [[京葉線]]直通東京行きの各駅停車は、平日朝には誉田発([[京葉車両センター]]から回送)が1本、夜間は上総一ノ宮始発(2本)や誉田始発(平日のみ。1本)が設定されている。2022年3月の改正からは、上総一ノ宮始発で朝に1本が設定される<ref group="注">通勤快速からの格下げによる。</ref>。なお、京葉線からの系統で全区間各駅停車の設定はない。 日中は、東金線発着・茂原・上総一ノ宮発着が1時間に1本ずつ運転されている。 2021年3月13日のダイヤ改正で、普通列車は京葉線直通列車が10両編成で、東金線直通列車と大原・大網駅発着各1往復が6両編成となり、それ以外は8両編成に統一された。これにより4両編成の定期運行は消滅した。ほとんどの列車が上総一ノ宮駅で系統分離された。 かつては、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間では最大10両編成、東金線直通列車は最大6両編成で運転されていた。また、上総一ノ宮以南に乗り入れ大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅を発着する列車は最大8両だった。なお、編成両数は一定でなかった。 朝夕の時間帯を中心に総武快速線からの15両編成の列車が乗り入れる([[#横須賀・総武快速線直通(快速)|後節]]も参照)。列車有効長が足らない駅があるため、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間で快速運転を行っている。かつては大原駅まで直通していた。 ===== 上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅間 ===== 上総一ノ宮以南では、2021年3月13日のダイヤ改正より朝と夜の一部列車を除き上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅 - 内房線[[木更津駅]]間直通の[[ワンマン運転]]列車([[JR東日本E131系電車|E131系]]2両編成)が1時間に1本運転されており<ref name="pr20201218" />、日中時間帯は上総一ノ宮駅で京葉線直通の快速列車と接続しているほか、朝夕の一部は普通列車や総武線直通の快速列車と接続している。 このほか、209系を利用した千葉駅発着列車も朝夕に設定されている。基本的には千葉発着だが、安房小湊発安房鴨川行きの設定もある。 夜の下り特急列車のうち2本は勝浦駅 - 安房鴨川駅間が普通列車となる。 2021年3月のダイヤ改正前は、千葉駅 - 大原駅・勝浦駅・安房鴨川駅間の列車が多数運転されていた。普通列車は、三門駅・浪花駅が8両までしか対応することができないため、最大8両編成で運転されていたが、前述の通り編成両数は不揃いだった。 安房鴨川駅で内房線と相互直通を行う列車は、一時期設定されていなかった時期があったが、2021年3月13日のダイヤ改正で安房鴨川駅を越えて運転される列車が復活した<ref name="pr20201218" />。 繁忙期には、これに加えて209系使用の臨時列車が運行されることもある。 ==== 快速 ==== [[ファイル:Sotobō Line via Kiyo Sobu.jpg|250px|thumb|経由地が異なる東京行(茂原駅)]] [[横須賀線]]・[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]に直通する列車と[[京葉線]]に直通する列車が設定されている。 ===== 横須賀・総武快速線直通(快速) ===== 東京駅・錦糸町駅・船橋駅・千葉駅などを経由する横須賀・総武快速線との直通列車は、外房線・総武快速線内では快速運転を行う。下りは横須賀線からの直通も多いが、上りは横須賀線に乗り入れない東京止まりも多く設定されている。日中にも設定があり、かつては勝浦駅発着で運転されていたが、1998年に大原駅発着に見直され(付属編成のみで運転されるものは1998年以降も勝浦駅発着を維持)、2004年10月16日のダイヤ改正で上総一ノ宮駅発着に統一された。さらに、2010年12月4日のダイヤ改正では日中の運転は取り止められ、京葉線直通の列車に置き換えられた。 大幅なダイヤ乱れが発生した場合は、上総一ノ宮まで運行せず、[[津田沼駅]]・千葉駅・誉田駅・茂原駅のいずれかで運行を終了し、東京方面に折り返す運用が行われることもある。そのため、運用車両には普段はない「茂原」行きの表示が用意されている。 国鉄時代の総武線直通快速の千葉駅 - 勝浦駅間の停車駅は蘇我駅・誉田駅・大網駅・茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・御宿駅であったが、ダイヤ改正を重ねるにつれ停車駅が増加し、現在では千葉駅 - 大網駅間は各駅に停車する。総武線快速の車両は鎌倉車両センターの[[JR東日本E217系電車|E217系]]または[[JR東日本E235系電車|E235系]]の11両編成か15両編成である。 ===== 京葉線直通 ===== 京葉線東京駅を発着し新木場駅・舞浜駅・海浜幕張駅などを経由する直通列車も運転されている<ref group="注" name="retsuban">京葉線直通列車は蘇我駅で列車番号が変わる。勝浦駅・成東駅発着列車の場合、東京駅 - 蘇我駅間、蘇我駅 - 誉田駅 - 上総一ノ宮駅間、上総一ノ宮駅 - 勝浦駅間、誉田駅 - 成東駅間が列車番号の上ではそれぞれ独立した列車となっている。</ref>。 以前は京葉線直通列車は主に早朝・夜間のみの運転であったが、[[2010年]][[12月4日]]のダイヤ改正より、日中にも京葉線 - 外房線を直通する快速列車の運転が開始された。ほとんどの京葉線直通列車は蘇我駅で内房線の列車と相互接続を行う。 早朝・夜間に運転されている快速列車は外房線内でも一部の駅を通過するが、日中の快速列車は外房線内の各駅に停車する<ref>{{PDFlink|[http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20100924daiya.pdf 『2010年12月ダイヤ改正について』] - JR東日本千葉支社 2010年9月24日}}</ref>。このタイプは、勝浦・安房鴨川方面の普通列車との接続はなかったが、前述した通り2021年3月から接続するようになった。 通勤快速は、上総一ノ宮駅発着と、成東駅・勝浦駅発着が存在する。このうち、前者は2022年3月のダイヤ改正で普通に格下げされる。 夜の京葉線東京発の[[京葉線#通勤快速|通勤快速]](土曜・休日は快速)<ref group="注" name="retsuban" />10両編成は[[誉田駅]]で分割し、前4両が大網経由東金線成東行き(誉田駅から先の各駅は各駅に停車)<ref group="注" name="naruto">蘇我駅 - 大網駅間は各駅に停車するため、成東駅発着列車は実質的に蘇我駅 - 大網駅 - 成東駅間は普通列車と同じである。</ref>、後6両が通勤快速勝浦行き(上総一ノ宮駅からは各駅に停車、土曜・休日は快速)として運転される。また、朝の勝浦・成東発通勤快速(土曜・休日は快速)<ref group="注" name="retsuban" />は、勝浦発(6両編成、上総一ノ宮駅までは各駅に停車)の列車が、誉田駅で後から来る東金線成東発の通勤快速(4両編成、土曜・休日は快速)<ref group="注" name="naruto" />と連結して10両編成となる。 {| class="wikitable" style="margin:1em 0em 2em 3em; text-align:center; font-size:90%; border:solid 1px #999; padding:1em;" |+京葉線直通列車の運行本数'''<br />(2010年12月4日以降) !colspan="3"|&nbsp; !style="background-color:#cfc;"|平日 !style="background-color:#f9f;"|休日 |- !rowspan="3"|朝 !rowspan="3" style="background-color:#fc9;"|上り !style="font-size:80%; background-color:#fc9;"|誉田発 |普通&nbsp;1本||&nbsp; |- !style="font-size:80%; background-color:#fc9;"|上総一ノ宮発 |快速&nbsp;1本<br />通快&nbsp;1本||快速&nbsp;2本 |- !style="font-size:80%; background-color:#fc9;"|勝浦・成東発 |通快&nbsp;1本||快速&nbsp;1本 |- !rowspan="2"|昼 !style="background-color:#cf9;"|下り !style="font-size:80%; background-color:#cf9;"|上総一ノ宮行 |快速&nbsp;6本||快速&nbsp;6本 |- !style="background-color:#cff;"|上り !style="font-size:80%; background-color:#cff;"|上総一ノ宮発 |快速&nbsp;6本||快速&nbsp;6本 |- !rowspan="5"|夜 !rowspan="3" style="background-color:#ccf;"|下り !style="font-size:80%; background-color:#ccf;"|誉田行 |快速&nbsp;1本||&nbsp; |- !style="font-size:80%; background-color:#ccf;"|上総一ノ宮行 |快速&nbsp;4本||快速&nbsp;4本 |- !style="font-size:80%; background-color:#ccf;"|勝浦・成東行 |通快&nbsp;1本||快速&nbsp;1本 |- !rowspan="2" style="background-color:#fcc;"|上り !style="font-size:80%; background-color:#fcc;"|誉田発 |普通&nbsp;1本||&nbsp; |- !style="font-size:80%; background-color:#fcc;"|上総一ノ宮発 |普通&nbsp;2本||普通&nbsp;2本 |} === 過去の列車 === ==== 快速(千葉駅発着)==== 1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 安房鴨川駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた<ref>鉄道ピクトリアル2021年9月号 №989 p.22 2021年9月1日発行</ref>。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・大網駅・茂原駅・上総一ノ宮駅・大原駅・御宿駅・勝浦駅・鵜原駅・上総興津駅・行川アイランド駅・安房小湊駅・安房天津駅・安房鴨川駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で誉田駅・本納駅・太東駅・長者町駅、1979年10月1日のダイヤ改正で蘇我駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。 === 貨物輸送 === 2014年3月改正時点では、千葉駅 - 蘇我駅間で1日2往復の貨物列車が経由するが、外房線内の駅では貨物取扱は行わず、どちらも蘇我駅から[[京葉臨海鉄道臨海本線]]に直通し、[[千葉貨物駅]]を発着駅としている。1往復は[[常磐線]][[隅田川駅]]からの[[高速貨物列車]]、もう1往復は[[東海道貨物線]][[川崎貨物駅]]からの[[専用貨物列車]]である<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=貨物時刻表 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=134|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。 == 使用車両 == すべて[[電車]]で運転されている。<!-- 内房線と違って特急と普通に節を分けていないのは、特急車両による普通列車運用があるため。 --> * [[JR東日本255系電車|255系]]([[幕張車両センター]]所属) ** [[1993年]]運用開始<ref name="sone 31">[[内房線#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻31号 内房線・外房線・久留里線 31頁]]</ref>。9両編成で運行される特急列車に使用されている。 * [[JR東日本E257系電車#500番台|E257系500番台]](幕張車両センター所属) ** [[2004年]]運用開始<ref name="sone 312">[[内房線#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻31号 内房線・外房線・久留里線 31頁]]</ref>。基本的に5両または10両編成で運行される特急列車に使用されているが、勝浦駅 - 安房鴨川駅間は普通列車としても運用されている。 <gallery> Wakashio 255.E257 in ōami.png|E257系500番台(右)と255系(左)の特急列車 </gallery> * [[JR東日本209系電車#2000番台・2100番台|209系2000番台・2100番台]](幕張車両センター所属) ** [[2009年]]運用開始<ref name="209-2100">{{Cite press release|和書|title=普通列車の車両変更について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2009-08-21|url=http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20090821209kei.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100215154551/http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20090821209kei.pdf|archivedate=2010-02-15}}</ref>。現在は6両または8両編成で各駅停車として運行されている。臨時列車では4両編成で運行されることもあるほか、かつては10両編成での運行も存在した。 * [[JR東日本E131系電車|E131系]](幕張車両センター所属) ** [[2021年]][[3月13日]]より上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅間で運行開始<ref name="pr20201218"/><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200512_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200512084545/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200512_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=房総・鹿島エリアへの新型車両の投入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-12|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-05-12}}</ref>。2両編成で運行される。 ** 幕張車両センターから外房線への入出庫は内房線経由で行うため、蘇我駅 - 上総一ノ宮駅間には入線しない。 * [[JR東日本209系電車#500番台|209系500番台]]・[[JR東日本E233系電車#5000番台|E233系5000番台]]([[京葉車両センター]]所属) ** 209系500番台は[[2010年]][[3月]]、E233系5000番台は2010年[[7月]]運用開始<ref>{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/4429|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113041738/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/4429|title=E233系運転開始へ 来月1日、新習志野駅で出発式 JR新型車両|newspaper=千葉日報|date=2010-06-27|accessdate=2020-11-13|archivedate=2020-11-13}}</ref>。京葉線直通列車のほか、1日3往復千葉発着の内房線列車にも使用している関係で千葉駅 - 蘇我駅間でも運転されている。10両編成で運行されているが、分割併合を行う成東駅・勝浦駅発着列車に関しては、E233系5000番台のうち分割可能な編成が使用され、誉田駅 - 成東駅間が4両編成、誉田駅 - 勝浦駅間が6両編成で運行される。 * [[JR東日本E217系電車|E217系]]([[鎌倉車両センター]]所属) ** [[1994年]]運用開始。横須賀・総武快速線直通列車に使用される。11両または15両編成で運行され、15両編成の場合は[[横須賀線]][[逗子駅]]以南では[[久里浜駅]]寄り4両が逗子駅で[[増解結]]される。 * [[JR東日本E235系電車#1000番台|E235系1000番台]](鎌倉車両センター所属) ** 横須賀・総武快速線直通列車として千葉駅 - 上総一ノ宮駅間で2020年12月21日より運行開始<ref name="jreaste235-1000">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20201112_y02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201112062336/https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20201112_y02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=横須賀・総武快速線E235系営業運転開始について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-11-12}}</ref>。 <gallery> JRE-209-2100-C607.jpg|209系の普通列車 SotoboLine via Kiyo Sobu.jpg|E233系の京葉線直通(右)とE217系の総武快速線直通(左) 2019-12-24 Uchibo-Line Series 209-34.jpg|209系500番台の京葉線直通 </gallery> === 過去の使用車両 === ==== 気動車 ==== * [[国鉄キハ07形気動車|キハ42200形]]([[天然ガス]]動車) * [[国鉄キハ10系気動車|キハ10系]] * [[国鉄キハ20系気動車|キハ20系]] * [[国鉄キハ35系気動車|キハ30系]] * [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]](準急・急行・普通) * [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]](準急・急行・普通) * [[国鉄キハ45系気動車|キハ45系]] [[日本国有鉄道]](国鉄)時代は、夏季になると、海水浴臨時快速列車(両国発着の房総循環列車)の増発に対応するため、千葉地区に在籍する[[気動車]]だけでは間に合わなかったことから、東北・新潟(盛岡鉄道管理局から仙台鉄道管理局まで)から近畿・中国(大阪鉄道管理局から米子鉄道管理局のすべて)・四国・九州(門司鉄道管理局から鹿児島管理局のすべて)まで全国で在籍していた区所から駆り出されたり、[[新潟鐵工所]]・[[富士重工業]]・[[東急車輛製造]]といったメーカーで落成したばかりの車両が、予定の区所に配置される前から落成順に試運転前提で千葉地区で運用されたりした。前者は全国から駆り出された車両には近いところでは八高・川越・足尾線用高崎区からと中京(関西線)・関西エリアから貸し出されたキハ30系列。修学旅行色やキハ20形をベースに2基エンジン搭載車のキハ52形、準急日光用キハ55系、碓氷峠(横軽)通過対応のキハ57形、千葉鉄道管理局管内に配置がないエンジン2基搭載のキハ58形、2013年から[[いすみ鉄道]]で運転されている[[国鉄キハ58系気動車|キハ28]]-2346号車、二段窓のキハ65形、後者の試運転を兼ねて運用された車両には北海道仕様から近畿・中国・四国・九州向けの新車も含まれ、夏季に限って[[札幌運転所|札サウ]]から[[鹿児島車両センター|鹿カコ]]まで<!--区所の名称は年代により異なるので所属略号のままにしました。-->、千葉鉄道管理局(ここでは[[千葉気動車区]]〈千チハ〉の所属である)管内以外の所属区所表記を付けた車両を千葉地区で見ることもできた。電気機関車ないしディーゼル機関車牽引で全国各所から無動力で回送されていた車両は実はこのためであった。そして1972年の電化以降は新製電車が投入されたため、見ることはなくなっていった。 ==== 電車 ==== <!-- この記事はあくまで「外房線」です。外房線での運用を記述してください。京葉線内の運用は各車両の記事または[[京葉線]]に記述を。--> 以下で使用種別について特記ないものは普通列車に使用。 * [[国鉄72系電車|72系]]([[国鉄32系電車|32系]]からの改造車を含む。[[習志野運輸区|津田沼電車区]]所属) * [[国鉄101系電車|101系]] ** 1972年の電化当初より比較的短期間で使用されていた。もともとは総武線緩行電車用としていた編成で気動車時代のダイヤを踏襲して両国から安房鴨川への臨時快速電車に充当してきたが、113系の追加投入により消滅。以降は総武緩行線へ転じた。 * [[国鉄103系電車|103系]](通勤快速・京葉線快速) ** 1990年の京葉線東京開業とともに京葉線直通の快速で運用された車両だが、[[東金線]][[成東駅|成東]]方面へ分かれる編成のため途中の[[誉田駅|誉田]]での切り離しを考慮した分割編成のみが乗り入れていた。たいてい蘇我寄りの付属4連がクモハ103形を先頭とするAU712形分散冷房装置搭載編成(Mc-M'-T-Tc)で、付属編成がATCタイプのクハ103形率いるAU75系冷房装置搭載編成(Tc-M-M'-Tc)は当初2編成程だった。[[国鉄205系電車|205系]]の投入により[[京浜東北線]]で運用を終えた103系のほかに[[武蔵野線]]運用へ回した都合による入れ替えなどで一部[[埼京線]]から転属した編成もあった(埼京線もやはり205系の投入によるもの)。1995年頃までは分割編成のみの体制を維持してきたが1990年代後半になると快速増発や205系の検査予備確保目的により、209系の投入に伴い京浜東北線から転属した京葉線103系史上初10連貫通編成も登場し(AU75搭載でユニット窓のサハ103形も暫定開業時の東京モーターショー輸送対応で習志野区から借り入れた編成と武蔵野線列車を除けば開業以来の初登場)かつ205系の検査代走も行った。 * [[国鉄113系電車|113系]](総武線快速・普通) ** 1972年の電化時より2011年8月まで使用された車両。千葉地域ローカル編成は1990年代前半まで快速以外のほとんどが地下対応1000番台非冷房車(または115系寒冷地域で見られた冷房準備車)であったため、グリーン車([[成田国際空港|成田空港]]対応サロ113形・サロ110-1200またはサロ124形)つきの横須賀・総武線直通快速列車との格差が大きく出ていた。さらには都心直通をやめた冷房準備車も運用に付く結果となった。国鉄末期には静岡鉄道管理局から転属してきた[[湘南電車#湘南色|湘南色]]のほか、[[阪和線]]から転入してきた[[国鉄113系電車#JR化後に採用された塗装|阪和色]]のままの車両などの混結も存在していた。総武線直通の快速では1998年に運用終了した。ローカル編成で改善が見られていたのが[[国府津車両センター|国府津電車区]]からの転入車でAU75系の冷房装置付であった。本格的な改善はJR化後で[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]への[[国鉄211系電車|211系]]の投入で捻出された冷房付シートピッチ改善車2000番台によって非冷房車の置き換えが始まった。この状況は1990年代後半以降も続き、横須賀線への[[JR東日本E217系電車|E217系]]導入によって冷房付1500番台も移籍してきた。2004年になると、[[JR東日本E231系電車|E231系]]の投入で[[国府津車両センター]]からの転入も加速してAU712形冷房装置搭載の113系1000番台は淘汰され、2004年から引退時までの時点でAU75系搭載地上型基本番台・2000番台・1500番台の3種類へ移行した。 * [[国鉄153系電車|153系]](急行・普通) * [[国鉄165系電車|165系]](急行・普通) ** 1972年の電化時より投入されたこれらの車両は、東海道線の急行「伊豆」系統で運用車両の見直しや[[山陽新幹線]]開業で廃止された[[山陽本線]]急行などからの捻出車でありかつ大阪鉄道管理局・広島鉄道管理局に所属していた車両であった。これらの車両を使う急行などが新宿・両国発着だった背景は気動車時代もさることながら、[[総武快速線|総武地下線]](東京 - 錦糸町間)ではすでに[[自動列車制御装置|ATC]]化されていたこともあり入線できないためだった。1982年の急行廃止後は、165系の一部を残して廃車された。 * [[国鉄183系電車|183系]](特急・特急の普通区間) ** 1972年の電化時に投入された先頭部貫通式基本番台のみで維持してきたが、1982年になると[[上越新幹線]]開業に伴い廃止された在来線特急「[[とき (列車)|とき]]」で使用されていた新潟鉄道管理局[[新潟車両センター|新潟運転所(現在の新潟車両センター)]]所属の耐寒形1000番台車が房総急行廃止と引き換えで転属してきた。これまで先頭車が貫通型の基本番台のみだった千葉局では初の非貫通車であり、当時はATCの関係で先頭車がクハ183形1000番台のままでは入線できなかった都合からATCを設置する改造(または完全新製)で1500番台とした。上越用12両編成のままでは過剰であったことから、[[付随車]]サロ183形では基本番台同様MG/CPなしの1000番台のみが選出された。残った[[動力車|モハユニット]]やサロ183-1100は「あずさ」用に松本へ移され、または「あさま」増発のため189系へ編入改造を受けて長野へ転属した。 * [[国鉄201系電車|201系]](通勤快速・京葉線快速) ** 2000年から2001年にかけて、[[中央・総武緩行線]]が[[JR東日本E231系電車|E231系]]化され、捻出された201系が103系の置き換えで2000年から京葉線に投入され、外房線直通列車にも運用された。関西地区ではすでに[[京阪神緩行線]]で登場していたスカイブルー塗装の201系は関東地区では初である。普通列車として使用されていたこともあり状態は良好であったので中央線快速の201系とは対照的であった。2007年から中央線快速で使われていた10両貫通編成も2編成転入し2008年まで運用された。2011年に京葉線・外房線での運用を終了した。 * [[国鉄205系電車|205系]](通勤快速・京葉線快速・普通) ** 1990年の京葉線全面開業時に快速用として投入された、これまでから一転したデザインの正面スタイル(通称:京葉仮面、メルヘンマスク)の編成が、朝夕の通勤快速と平日の一部直通列車で蘇我を介して上総一ノ宮まで乗り入れた。乗り入れは12編成(Tc-108〜119)あるこの編成限定で行われた。この編成限定という断りがあるのは、京葉車両センターに配置された205系に110km/h運転対応がなされておらず京葉線内限定運用であった山手線からの転入車が存在するためである。 * [[国鉄211系電車#1000・3000番台|211系3000番台]] ** [[高崎線]]・[[宇都宮線]]の普通列車がすべてグリーン車付きとなったのを受けて、編成間調整などにより2006年に[[高崎車両センター]]から幕張車両センターに転属してきた。千葉地区投入時に帯色が湘南色から黄色と青に変更された。この帯色は2009年に千葉地区に投入された209系へ踏襲された。これまでの113系が最短4両編成、最長6両編成であったのに対して211系は最短でも5両編成のため閑散時では半端となった。そのため、113系の根本的な置き換えには至らなかった。2011年に外房線での運用を終了した。 * [[国鉄72系電車#郵便・荷物電車への改造車|クモハユ74形]] * [[国鉄72系電車#郵便・荷物電車への改造車|クモユニ74形]] ** 1972年の電化から1986年のクモユニ143形の転入まで使用された[[国鉄72系電車|72系]]改造の[[郵便車|郵便]]・[[荷物車|荷物]]電車。これまでの気動車に代わり、[[田町車両センター|田町電車区]]・[[神領車両区|神領電車区]]・[[大垣車両区|大垣電車区]]から転入してきた100番台であった。両国から千葉地区各路線向け(輸送品目は[[新聞]]である)に4両連結で千葉まで運転され、総武・成田・内房・外房各路線に千葉で1両切り離すことにより1列車ずつ普通列車と併結し外房線では内房線とともに安房鴨川へ往復して千葉から各線から戻った車両を連結して両国まで4両で運転するダイヤだった。転入当時はすべてが湘南色だったため異彩を放っていたが大船工場入場時に順次[[横須賀線#車両の色|横須賀色]]へ変更した。そして、1986年に運転が終了した。 * [[国鉄143系電車|クモユニ143形]] ** 1972年の電化以来使用していたクモユニ74形が老朽化したことに加え、国鉄末期に郵便荷物輸送が廃止された最中で房総半島での交通事情によりJR化後も唯一存続が認められた千葉地区に[[長岡車両センター|長岡運転所]]から国鉄時代の1986年に4両が転入した郵便・荷物電車。全車とも[[近畿車輛]]製で、1981年に製造され1985年まで沼津機関区に配置され[[身延線]]で使用されていた。4両のうち1両だけが身延線色(他は湘南色)を纏い、異彩を放っていた。両国から(輸送品目はやはり新聞である)2両連結で千葉へ。千葉で切り離してそれぞれ外房線・内房線の普通列車と併結しともに安房鴨川まで往復し、千葉から2両連結して両国へ戻る運用だった。工場入場時より横須賀色へ変更されて千葉地区で過ごしていたが、輸送の合理化で1996年に運用を終了した。 <gallery> ファイル:JRE 113-SotobouLine.jpg|113系 ファイル:Keiyo-205.jpg|京葉線直通列車で使用されていた205系<br />(2004年4月10日 舞浜駅) ファイル:JRE 211 Sotobo Line.jpg|211系 </gallery> == 沿線概況 == {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#db4028}} {{BS-table}} {{BS6text|1||2|3||||1: [[京成電鉄|京成]]:[[京成千葉線|千葉線]]<!-- 経路図の横幅を狭く保つため、一行を全角12文字(キロ程除く)以下に押さえています。加筆の際にはご配慮下さい -->|}} {{BS6|STR|STRc2|STR3|STR|||||2: [[中央・総武緩行線|総武緩行線]]|}} {{BS6|STR|STR+1|STR+l|O3=STRc4|ABZgr|||||3: [[総武快速線]]|}} {{BS6|STR|KBHFe|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|BHF|O4=HUBlg|||0.0|[[千葉駅]]|(II) 1963-|}} {{BS6|eABZgl|exSTR+r|STR|STRl|O4=HUB|STRq|STR+r||||}} {{BS6|KRZu|xKRZ|KRZu|BHFq|O4=HUBe|STR+r|STR|||[[千葉都市モノレール]]:[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]|}} {{BS6|HST|exSTRl|eKRZ|exSTR+r|ABZgl|KRZu|||[[京成千葉駅]] (II) 1958-|}} {{BS6|STR2|STRc3|eABZg+l|exKRZo|eKRZ|eABZg+r|||<!-- 旧線とモノレールは同時に存在したことがないので立体交差ではなく単なる交差で表現 -->|}} {{BS6|STRc1|STR+4|STR|exSTR|STR|eBHF||''千葉駅''|(I) -1963|}} {{BS6||STR|STR|exSTR|STR|STRl|||[[総武本線]]|}} {{BS4|STR|STR|exKHSTe|STR|||''京成千葉駅'' (I) -1958|}} {{BS4|STR|STR||STRl|||千葉都市モノレール:[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]|}} {{BS4|HST|eBHF||||''[[本千葉駅]]''|(I) -1958|}} {{BS4|STR|STR|||||[[千葉中央駅]]|}} {{BS4|STR|BHF|||1.4|[[本千葉駅]]|(II) 1958-|}} {{BS4|STRl|KRZu|STRq|STR+r|||京成:[[京成千原線|千原線]]|}} {{BS4||ABZg+r||LSTR|||[[京葉線]]|}} {{BS2|BHF||3.8|[[蘇我駅]]||}} {{BS2|ABZgr||||[[京葉臨海鉄道]]:[[京葉臨海鉄道臨海本線|臨海本線]]|}} {{BS4|STRc2|ABZ23|STRc3|||||}} {{BS4|STR+1|O1=POINTERf@gq|STRc14|STR+4||||[[内房線]]|}} {{BS4|LSTR||eBHF|LSTR|5.7|''[[大巌寺駅]]''|-1941|''}} {{BS4|||KRZu|STRr||||}} {{BS2||BHF|8.8|[[鎌取駅]]||}} {{BS2||BHF|12.6|[[誉田駅]]||}} {{BS2||BHF|18.1|[[土気駅]]||}} {{BS4|||eABZgl|exSTR+r||||}} {{BS4||exSTR+l|eKRZ|exSTRr||||}} {{BS2|exSTR|TUNNEL1||土気トンネル||881m}} {{BS4||exSTRl|eKRZ|exSTR+r||||}} {{BS4|||eABZg+l|exSTRr||||}} {{BS2||BHF|22.9|[[大網駅]]|(II)|}} {{BS4|||ABZgl+xl|eBHFq||''大網駅''|(I)|}} {{BS2||STR|||[[東金線]]|}} {{BS2||BHF|25.3|[[永田駅 (千葉県)|永田駅]]||}} {{BS2||BHF|27.7|[[本納駅]]||}} {{BS6||||eABZgl|exSTRq|exSTR+r||||}} {{BS6||||BHF||exSTR|31.4|[[新茂原駅]]||}} {{BS6||||eABZg+l|exSTRq|exABZg+r||||}} {{BS6||||STR|exKBSTa|exSTR|||''茂原航空基地''|}} {{BS6||||STR|exSTR|exKBSTe|||''[[三井東圧化学]]''|}} {{BS4||exSTR+r|STR|exSTR|||''[[南総鉄道]]''|}} {{BS4||exHST|eABZg+l|exSTRr|||''上総高師駅''|}} {{BS4|uexKBHFeq|O1=HUBaq|exKBHFe|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||34.3|[[茂原駅]]||}} {{BS2||STR|||''[[庁南茂原間人車軌道|県営軌道庁南線]]''|}} {{BS2||BHF|38.9|[[八積駅]]||}} {{BS2||hKRZWae|||[[一宮川]]|}} {{BS2||BHF|43.0|[[上総一ノ宮駅]]||}} {{BS4|||eABZgl|exKBSTeq|||''[[風船爆弾]]基地''|}} {{BS2||BHF|46.2|[[東浪見駅]]||}} {{BS2||BHF|49.3|[[太東駅]]||}} {{BS2||hKRZWae|||[[夷隅川]]|}} {{BS2||BHF|52.1|[[長者町駅]]||}} {{BS2||BHF|53.7|[[三門駅]]||}} {{BS2||eHST|55.6|''東海駅''|(仮)|}} {{BS2|STR+r|STR|||[[いすみ鉄道]]:[[いすみ鉄道いすみ線|いすみ線]]|}} {{BS4|uexKBHFeq|O1=HUBaq|KBHFe|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||57.2|[[大原駅 (千葉県)|大原駅]]||}} {{BS2||STR|||''[[夷隅軌道]]''|}} {{BS2||BHF|60.5|[[浪花駅]]||}} {{BS2||TUNNEL1|||}} {{BS2||BHF|65.4|[[御宿駅]]||}} {{BS2||TUNNEL1|||}} {{BS2||BHF|70.9|[[勝浦駅]]||}} {{BS2||TUNNEL1||鵜原トンネル||}} {{BS2||BHF|74.3|[[鵜原駅]]||}} {{BS2||TUNNEL1||興津トンネル||}} {{BS2||BHF|77.2|[[上総興津駅]]||}} {{BS2||TUNNEL1|||}} {{BS2||BHF|80.5|[[行川アイランド駅]]||}} {{BS2||TUNNEL1||内浦トンネル||}} {{BS2||BHF|84.3|[[安房小湊駅]]||}} {{BS2||TUNNEL1||大風沢トンネル||}} {{BS2||BHF|87.7|[[安房天津駅]]||}} {{BS4|LSTR||STR||||[[内房線]]|}} {{BS4|STRl|BHFq|STRr||93.3|[[安房鴨川駅]]||}} |} |} === 千葉駅 - 大網駅間 === [[東京]]都心への通勤・通学利用が多い区間で、外房線の利用者の大半はこの区間となり、1999年から2019年度までの乗車人員の増加率は約29%である。外房線の普通列車は[[千葉駅]]を発着する。1時間あたりの運行本数は、千葉駅 - 蘇我駅間では[[内房線]]の列車も含めてピーク時13 - 14本、日中6 - 7本、蘇我駅 - 大網駅間ではピーク時10 - 11本、日中4 - 5本となっている。千葉駅から[[本千葉駅]]を過ぎるまで高架を走行し、並行する[[京成千原線]]が左へカーブを描きオーバーパスした後、高架から地上へ降り、[[京葉線]]の高架線が海側から上り線と下り線の間に現れて[[蘇我駅]]に到着する。蘇我駅 - 大網駅間は[[房総丘陵|房総台地]]を横切って、[[九十九里平野]]へ一直線で向かう路線形態となる。緩やかな勾配が連続し、トンネル区間もあるなど、車窓には山地を走行する雰囲気が映る。蘇我駅 - 大網駅間は東京の[[ベッドタウン]]として、大規模な宅地造成が行われた。[[鎌取駅]]は千葉・市原ニュータウンの「[[おゆみ野]]」「[[ちはら台]]」地区の玄関口であり、[[土気駅]]は[[あすみが丘]]ニュータウンの玄関口である。特に鎌取駅は発展が著しく、駅周辺は商業施設・マンションが密集し、近未来的な住宅都市の光景が広がる。利用者の増加に対応して、ラッシュ時には誉田駅で千葉方面に折り返す列車も設定されている。 千葉駅発着の普通列車のほかに、総武線・京葉線と直通する快速・通勤快速が設定され、東京都心へ乗り換えなしでアクセスできる。[[東京駅]]までの所要時間は[[京葉線]]直通の通勤快速で40 - 50分ほど、総武線直通の快速で60分ほどである。なお、すべての快速列車が蘇我駅 - 大網駅間の各駅に停車する。 === 大網駅 - 上総一ノ宮駅間 === 大網駅より先は南に進路を変え、標高がやや高い房総台地から一転して、低地の九十九里平野を走行する。 この区間は乗車人員が1,000人から2,000人ほどの小規模な駅が続き、駅周辺に住宅地がある程度で周囲は田園風景が広がりのどかである。しかし[[新茂原駅]]を過ぎる辺りから、林と住宅が連なる住宅街が現れ、しばらくすると高架になる。[[茂原駅]]は、九十九里平野の中で最大の都市の中心駅であり、電子部品関連や製薬関連、また[[天然ガス]]関連の企業が集う商工業都市であるため、11,000人程のまとまった乗車人員がある。またこの駅を境に、外房線における旅客輸送に大きな段差が生じる。 上総一ノ宮駅は外房線における運行形態の境界駅で、この駅まで1時間にピーク時7 - 8本、日中3 - 4本の列車が運行される。 千葉駅 - 大網駅間に比べると、中心都市があるため、東京のベッドタウンとしての住宅地は少ないが、京葉線・総武線に直通する快速・通勤快速が上総一ノ宮駅(京葉線直通の一部列車は勝浦発着)まで運行していることから、東京都心への通勤利用もある。 === 上総一ノ宮駅 - 安房鴨川駅間 === 上総一ノ宮駅より先は、普通列車の本数が1時間に1本ほどとなる。上りの大原駅から千葉方面・勝浦駅から千葉方面の普通列車は始発から8時頃までと下りの千葉方面から大原駅までは16時頃から終電までは毎時2 - 5本程運行されている。 単線区間を基本とするが、一部複線化されている区間もある。上総一ノ宮駅 - 東浪見駅間、長者町駅 - 御宿駅間では複線化準備施設や、用地買収によって生じた長い空地などが車窓からも分かるが、現時点での輸送需要から本格的な複線化工事に進む見通しは立っていない。 大原駅では[[いすみ鉄道いすみ線]](元の国鉄木原線)と接続している。 御宿駅までは[[太平洋]]と1kmほどの距離を置きながら走行するため、車窓に海が見える区間は非常に少ない。御宿駅 - 安房鴨川駅間は太平洋沿岸に沿って走行し、沿線には[[海水浴場]]やマリンスポット、リゾートホテルなどの海関係の観光施設が点在する。また[[日蓮]]聖人ゆかりの[[清澄寺 (鴨川市)|清澄寺]]・[[誕生寺 (鴨川市)|誕生寺]]などの古刹も点在している。外房線はこれら地域へのアクセス手段としての利用が多い。 == 駅一覧 == * 千葉駅 - 蘇我駅間では[[内房線]]の列車が乗り入れている。 * 停車駅 ** 普通…全駅に停車 ** 快速・通勤快速…●印の駅は停車、○印の駅は昼間の京葉線直通快速のみ停車、|印の駅は通過 ** 特急…「[[わかしお (列車)]]」参照 * 線路 … ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能、∨:これより下は単線、∧:これより下は複線 * 全駅[[千葉県]]内に所在。 * 接続路線 : 東日本旅客鉄道の路線名は運転系統上の名称(正式路線名とは異なる)。駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。 * 蘇我駅について、京葉線の駅ナンバリングはこの駅のみ割り振られていない。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:8.5em; border-bottom:3px solid #db4028;"|駅名<!--「行川アイランド駅」が折り返されない列幅で--> !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #db4028;"|駅間<br />営業キロ !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #db4028;"|累計<br />営業キロ !style="width:1em; background:#bcf; border-bottom:3px solid #db4028; line-height:1.1;"|{{縦書き|総武線 快速|height=7em}} !style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:3px solid #db4028; line-height:1.1;"|{{縦書き|京葉線 快速|height=7em}} !style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:3px solid #db4028; line-height:1.1;"|{{縦書き|京葉線 通勤快速|height=9em}} !style="border-bottom:3px solid #db4028;"|接続路線 !style="width:1em; border-bottom:3px solid #db4028;"|{{縦書き|線路|height=3em}} !colspan="2" style="border-bottom:3px solid #db4028;"|所在地 |- |[[千葉駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |style="background:#acf; text-align:center;"|● | rowspan="2" colspan="2" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;" |{{縦書き|京葉線直通}} |[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線|総武線(快速)]](JO 28)([[横須賀線]][[久里浜駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]](JB 39)・{{Color|#ffc20d|■}}[[総武本線]]([[成東駅|成東]]方面)・{{Color|#00b261|■}} [[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[成田線]]<ref group="*">成田線の正式な起点は総武本線[[佐倉駅]]だが、運転系統上は千葉駅に乗り入れている</ref><br />[[千葉都市モノレール]]:[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール1号線|1号線]]・[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール2号線|2号線]] (CM03)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成千葉線|千葉線]] ⇒ [[京成千葉駅]] (KS59) |∥ |rowspan="6" style="width:1em; text-align:center; line-heght:1.1;"|{{縦書き|[[千葉市]]|height=4em}} |rowspan="3"|[[中央区 (千葉市)|中央区]] |- |[[本千葉駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|1.4 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |&nbsp; |∥ |- |[[蘇我駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|3.8 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#c9252f|■}}<!-- 京葉線の駅ナンバリングはこの駅のみ割り振られていない -->[[京葉線]](東京駅まで直通運転)・{{Color|#00B2E5|■}}[[内房線]]<br /><small>[[京葉臨海鉄道]]:[[京葉臨海鉄道臨海本線|臨海本線]](貨物線)</small> |∥ |- |[[鎌取駅]] |style="text-align:right;"|5.0 |style="text-align:right;"|8.8 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∥ |rowspan="3"|[[緑区 (千葉市)|緑区]] |- |[[誉田駅]] |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|12.6 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∥ |- |[[土気駅]] |style="text-align:right;"|5.5 |style="text-align:right;"|18.1 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∥ |- |[[大網駅]] |style="text-align:right;"|4.8 |style="text-align:right;"|22.9 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#f15a22|■}}[[東金線]](蘇我方面と直通運転) |∥ |rowspan="2" colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[大網白里市]] |- |[[永田駅 (千葉県)|永田駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|25.3 |style="background:#acf; text-align:center;"|| |style="background:#fcc; text-align:center;"|○ |style="background:#fcc; text-align:center;"|| |&nbsp; |∥ |- |[[本納駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|27.7 |style="background:#acf; text-align:center;"|| |style="background:#fcc; text-align:center;"|○ |style="background:#fcc; text-align:center;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="3" colspan="2"|[[茂原市]] |- |[[新茂原駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|31.4 |style="background:#acf; text-align:center;"|| |style="background:#fcc; text-align:center;"|○ |style="background:#fcc; text-align:center;"|| |&nbsp; |∥ |- |[[茂原駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|34.3 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∥ |- |[[八積駅]] |style="text-align:right;"|4.6 |style="text-align:right;"|38.9 |style="background:#acf; text-align:center;"|| |style="background:#fcc; text-align:center;"|○ |style="background:#fcc; text-align:center;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center; line-heght:1.1;"|{{縦書き|[[長生郡]]|height=4em}} |[[長生村]] |- |[[上総一ノ宮駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|43.0 |style="background:#acf; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∨ |rowspan="2"|[[一宮町]] |- |[[東浪見駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|46.2 |&nbsp; |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∧ |- |[[太東駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|49.3 |&nbsp; |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∥ |rowspan="5" colspan="2"|[[いすみ市]] |- |[[長者町駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|52.1 |&nbsp; |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |∨ |- |[[三門駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|53.7 |&nbsp; |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; || |- |[[大原駅 (千葉県)|大原駅]] |style="text-align:right;"|3.5 |style="text-align:right;"|57.2 |&nbsp; |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |[[いすみ鉄道]]:[[いすみ鉄道いすみ線|いすみ線]] |◇ |- |[[浪花駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|60.5 |&nbsp; |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |&nbsp; |◇ |- |[[御宿駅]] 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[https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=42=1=%8aO%96%5b%90%fc 検索結果(外房線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}} * {{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/chiba/images/raininfo/soubu.pdf 総武・房総路線図]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社 {{東日本旅客鉄道の鉄道路線}} {{東京近郊区間}} {{東日本旅客鉄道千葉支社}} {{デフォルトソート:そとほう}} [[Category:外房線|*]] [[Category:関東地方の鉄道路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:成田空港航空燃料暫定輸送]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]] [[Category:房総鉄道|路そとほう]] [[Category:千葉県の交通]]
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ブノワ・マンデルブロ
ブノワ・マンデルブロ(仏: Benoît B. Mandelbrot、1924年11月20日 - 2010年10月14日)は、フランスの数学者、経済学者。パシフィック・ノースウェスト国立研究所フェロー、IBM・トーマス・J・ワトソン研究所名誉フェロー、イェール大学名誉教授。フラクタルを導入したことで著名である。本人は[bənwa mɑ̃dɛlbʁot](ブヌワ・マンデルブロット)と発音していたが、日本では文献によりベンワまたはマンデルブロと書いているところも多い。 マンデルブロはポーランドのワルシャワで、リトアニア系ユダヤ人の家庭に生まれた。家系はリトアニアからの移民であった。ブノワが11歳の時、ポーランドの政治的背景から一家はフランスに移住した。戦争が近づく中、一家はブノワの教育課程が修了するまでフランスに留まった。ブノワの家庭は大変教育熱心で、彼は医師である母の2人の伯父から数学の教育を受けた。伯父シューレム・マンデルブロはパリで著名な数学者であった。父は衣服の流通で生計を立てていた。 マンデルブロは第二次世界大戦開戦前に一家でチュールに引っ越すまで、パリのリセ・ロランに通学していた。1944年彼は再びパリに戻り、1945年から1947年にかけ高等教育機関エコール・ポリテクニークに在籍、ガストン・ジュリアとポール・レヴィに師事した。その後2年間はアメリカ合衆国のカリフォルニア工科大学にて航空工学を学んだ。その後再びフランスに戻り、1952年にパリ大学にて数学の博士号を取得した。 1949年から1957年にかけてはフランス国立科学研究センターの研究員として働いた。この間、彼はジョン・フォン・ノイマンに後援され、ニュージャージー州のプリンストン高等研究所に在籍した。1955年、マンデルブロは結婚しジュネーヴに転居、更にリールに引っ越した。 1958年、夫妻はアメリカ合衆国に移住、ニューヨーク州ヨークタウン・ハイツにあるIBMのトーマス・J・ワトソン研究所に研究員として就職した。その後IBMで32年間働き、後にフェロー、更に名誉フェローになった。 1951年からマンデルブロは数学だけでなく、経済学、流体力学や情報理論の研究と論文発表を行なった。これらの研究の結果、彼は長距離秩序と自己相似という2つの研究テーマを選んだ。マンデルブロは金融市場の価格変動が正規分布ではなく、理論的には分散が無限大である安定分布に従っている事を発見した。彼は一例として、綿花の価格はパラメータが2の正規分布よりも、パラメータαが1.7の安定分布に従うことを突き止めた。 1975年、マンデルブロは一連の図形を表現するためにフラクタルという概念を考案し、1977年に 『Les objets fractals: forme, hasard et dimension』 という論文で発表した。 1979年、ハーバード大学数学科の客員教授として勤務している間、マンデルブロは充填ジュリア集合についての研究を始めた。マンデルブロはコンピュータを使って数式 z − μ のイメージを得た。充填ジュリア集合の位相が複素パラメータ μ にどう依存するかを調べる過程で、後に彼に因んで名前が付けられる事となるマンデルブロ集合について研究した。 1982年、マンデルブロは自身の理論を拡張し、『フラクタル幾何学』として発表した。この論文の影響により、マンデルブロの理論は一般的な数学と専門的な分野の両方で主流となった。 1987年にはIBMを退職、マンデルブロはイェール大学の数学科に加わった。2005年にはこの職を退職、同時に数学科の名誉教授となった。 2010年10月14日膵癌のために療養中のケンブリッジのホスピスで死去。85歳没。
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ブノワ・マンデルブロは、フランスの数学者、経済学者。パシフィック・ノースウェスト国立研究所フェロー、IBM・トーマス・J・ワトソン研究所名誉フェロー、イェール大学名誉教授。フラクタルを導入したことで著名である。本人は(ブヌワ・マンデルブロット)と発音していたが、日本では文献によりベンワまたはマンデルブロと書いているところも多い。
{{Infobox scientist | name = ブノワ・マンデルブロ<br />Benoît Mandelbrot | image = Benoit Mandelbrot, TED 2010.jpg | image_size = | alt = | caption = [[TED (カンファレンス)|TED conference]]にて<br />[[フラクタル]]について語るマンデルブロ(2010年) | birth_date = {{生年月日と年齢|1924|11|20|no}} | birth_place = {{POL1918}} [[ワルシャワ]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1924|11|20|2010|10|14}} | death_place = {{USA}} [[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]] | residence = {{flagicon|POL}} ポーランド、{{FRA}}、{{flagicon|USA}} アメリカ合衆国 | citizenship = | nationality = {{flagicon|FRA}} フランス、{{flagicon|USA}} アメリカ合衆国 | fields = [[数学]],[[空気力学]],[[経済学]] | workplaces = [[イェール大学]]<br />[[IBM]]<br />パシフィック・ノースウェスト国立研究所 | alma_mater = [[エコール・ポリテクニーク]]<br />[[カリフォルニア工科大学]]<br />[[パリ大学]] | doctoral_advisor = | academic_advisors = | doctoral_students = [[ユージン・ファーマ]] | notable_students = | known_for = [[フラクタル]]<br />[[マンデルブロ集合]] | author_abbrev_bot = | author_abbrev_zoo = | influences = [[ヨハネス・ケプラー]] | influenced = | awards = [[ハーヴェイ賞]](1989年)<br />[[ウルフ賞物理学部門]](1993年)<br />[[日本国際賞]](2003年)<br />[[フランクリン・メダル]]<br />[[レジオンドヌール勲章]] | signature = <!--(ファイル名のみ)--> | signature_alt = | footnotes = }} '''ブノワ・マンデルブロ'''({{Lang-fr-short|'''Benoît B. Mandelbrot'''}}、[[1924年]][[11月20日]] - [[2010年]][[10月14日]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/マンデルブロー-156089 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-05-13 }}</ref>)は、[[フランス]]の[[数学者]]、[[経済学者]]。パシフィック・ノースウェスト国立研究所[[フェロー]]、[[IBM]]・[[トーマス・J・ワトソン研究所]][[名誉フェロー]]、[[イェール大学]][[名誉教授]]。[[フラクタル]]を導入したことで著名である。本人は{{IPA-fr|bənwa mɑ̃dɛlbʁot|}}(ブヌワ・マンデルブロ'''ット''')と発音していたが<ref>[http://bigthink.com/videos/big-think-interview-with-benoit-mandelbrot BigThinkでの英語でのインタビュー]</ref>、日本では文献により'''ベン'''ワまたはマンデルブ'''ロ'''と書いているところも多い。 == 略歴 == === 幼少期から青年期まで === マンデルブロは[[ポーランド]]の[[ワルシャワ]]で、リトアニア系ユダヤ人の家庭に生まれた。家系は[[リトアニア]]からの移民であった。ブノワが11歳の時、ポーランドの政治的背景から一家は[[フランス]]に移住した。戦争が近づく中、一家はブノワの教育課程が修了するまでフランスに留まった。ブノワの家庭は大変教育熱心で、彼は医師である母の2人の伯父から数学の教育を受けた。伯父シューレム・マンデルブロはパリで著名な数学者であった。父は衣服の流通で生計を立てていた。 マンデルブロは[[第二次世界大戦]]開戦前に一家で[[チュール]]に引っ越すまで、[[パリ]]のリセ・ロランに通学していた。[[1944年]]彼は再びパリに戻り、[[1945年]]から[[1947年]]にかけ[[高等教育機関]][[エコール・ポリテクニーク]]に在籍、[[ガストン・ジュリア]]とポール・レヴィに師事した。その後2年間は[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア工科大学]]にて[[航空工学]]を学んだ。その後再びフランスに戻り、[[1952年]]に[[パリ大学]]にて数学の[[博士号]]を取得した。 [[1949年]]から[[1957年]]にかけては[[フランス国立科学研究センター]]の研究員として働いた。この間、彼は[[ジョン・フォン・ノイマン]]に後援され、[[ニュージャージー州]]の[[プリンストン高等研究所]]に在籍した。[[1955年]]、マンデルブロは結婚し[[ジュネーヴ]]に転居、更に[[リール (フランス)|リール]]に引っ越した。 [[1958年]]、夫妻はアメリカ合衆国に移住、[[ニューヨーク州]]ヨークタウン・ハイツにある[[IBM]]の[[トーマス・J・ワトソン研究所]]に研究員として就職した。その後IBMで32年間働き、後に[[フェロー]]、更に[[名誉フェロー]]になった。 === 青年期から === [[1951年]]からマンデルブロは数学だけでなく、[[経済学]]、[[流体力学]]や[[情報理論]]の研究と論文発表を行なった。これらの研究の結果、彼は[[長距離秩序]]と[[自己相似]]という2つの研究テーマを選んだ。マンデルブロは[[金融市場]]の価格変動が[[正規分布]]ではなく、理論的には[[分散 (確率論)|分散]]が[[無限|無限大]]である[[安定分布]]に従っている事を発見した。<!--Mandelbrot found that price changes in financial markets did not follow a Gaussian distribution, but rather other Lévy stable distributions, having theoretically infinite variance.-->彼は一例として、綿花の価格はパラメータが2の正規分布よりも、パラメータαが1.7の安定分布に従うことを突き止めた。<!--"Stable" distributions have the property that the sum of many instances of a random variable follows the same distribution but with a larger scale parameter.--> [[1975年]]、マンデルブロは一連の図形を表現するために[[フラクタル]]という概念を考案し、[[1977年]]に 『''Les objets fractals: forme, hasard et dimension''』 という論文で発表した。 [[1979年]]、[[ハーバード大学]]数学科の[[客員教授]]として勤務している間、マンデルブロは[[充填ジュリア集合]]についての研究を始めた。<!-- Mandelbrot began to study fractals called Julia sets that were invariant under certain transformations of the complex plane.-->マンデルブロは[[コンピュータ]]を使って数式 ''z''<sup>2</sup> &minus; μ のイメージを得た。充填ジュリア集合の位相が複素パラメータ μ にどう依存するかを調べる過程で、後に彼に因んで名前が付けられる事となる[[マンデルブロ集合]]について研究した。<!-- Building on previous work by Gaston Julia and Pierre Fatou, Mandelbrot used a computer to plot images of the Julia sets of the formula z2 - μ. While investigating how the topology of these Julia sets depended on the complex parameter μ he discovered the Mandelbrot set fractal that is now named after him (note that the Mandelbrot set is now usually defined in terms of the formula z2 + c, so Mandelbrot's early plots in terms of the earlier parameter μ are left-right mirror images of more recent plots in terms of the parameter c) .--> [[1982年]]、マンデルブロは自身の理論を拡張し、『フラクタル幾何学』として発表した。この論文の影響により、マンデルブロの理論は一般的な数学と専門的な分野の両方で主流となった。 [[1987年]]にはIBMを退職、マンデルブロは[[イェール大学]]の数学科に加わった。[[2005年]]にはこの職を退職、同時に数学科の[[名誉教授]]となった。 [[2010年]][[10月14日]][[膵癌]]のために療養中の[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]の[[ホスピス]]で死去<ref>[http://www.nytimes.com/2010/10/17/us/17mandelbrot.html Benoît Mandelbrot, Novel Mathematician, Dies at 85] Newyork Times 2010-10-17</ref>。{{没年齢|1924|11|20|2010|10|14}}。 == 受賞歴 == *[[1986年]] [[フランクリン・メダル]] *[[1988年]] [[フンボルト賞]] *[[1989年]] [[ハーヴェイ賞]] *[[1993年]] [[ウルフ賞物理学部門]] *[[1994年]] [[本田賞]] *[[2000年]] [[ルイス・フライ・リチャードソン#リチャードソン・メダル|ルイス・フライ・リチャードソン・メダル]] *[[2003年]] [[日本国際賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=ジャパンプライズ(Japan Prize/日本国際賞)|website=[[国際科学技術財団]]|url=https://www.japanprize.jp/laureates_by_year2000.html |accessdate=2022-09-04}}</ref> *[[2006年]] [[アメリカ数学会|AMS]]アインシュタインレクチャーシップ == 著作 == *{{Cite book|和書|author=ベンワー・B・マンデルブロ|others=[[広中平祐]] 監訳|title=フラクタル幾何学|year=1985|month=1|publisher=[[日経サイエンス]]|isbn=4-532-06254-3|ref={{Harvid|マンデルブロ|広中|1985}}}} - 発売:[[日本経済新聞社]]。原タイトル:''The fractal geometry of nature.'' rev.ed. **{{Cite book|和書|author=B・マンデルブロ|others=広中平祐 監訳|title=フラクタル幾何学|date=2011-02-08|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま学芸文庫]] マ34-1. Math & science|isbn=978-4-480-09356-1|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093561/|volume=上|ref={{Harvid|マンデルブロ|広中|2011}}}} - 原タイトル:''The fractal geometry of nature.'' **{{Cite book|和書|author=B・マンデルブロ|others=広中平祐 監訳|title=フラクタル幾何学|date=2011-02-08|publisher=筑摩書房|series=ちくま学芸文庫 マ34-2. Math & science|isbn=978-4-480-09357-8|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093578/|volume=下|ref={{Harvid|マンデルブロ|広中|2011}}}} - 原タイトル:''The fractal geometry of nature.'' *{{Cite book|和書|others=ブノワ・B・マンデルブロー 述、[[鈴木増雄]]・[[宮島佐介]] 訳|title=フラクタル,認識と印象の統合|year=1994|publisher=本田財団|series=本田財団レポート no.79|ref={{Harvid|マンデルブロー|鈴木|宮島|1994}}}} - 英語書名:''Fractals and the unity of knowing and feeling.''、英文併記。 *{{Cite book|和書|author=ベノワ・B・マンデルブロ|coauthors=[[リチャード・L・ハドソン]]|others=[[高安秀樹]] 監訳、[[雨宮絵里]]・[[高安美佐子]]・[[冨永義治]]・[[山崎和子]] 訳|title=禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン|date=2008-06-05|publisher=[[東洋経済新報社]]|isbn=978-4-492-65417-0|url=http://www.toyokeizai.net/shop/books/detail/BI/615e4307485bbf1689076525fc0e5702/|ref={{Harvid|マンデルブロ|ハドソン|高安|2008}}}} - 原タイトル:''The(mis)behavior of markets.'' *{{Cite book|和書|author=ベノワ・B・マンデルブロ|others=[[田沢恭子]] 訳|title=フラクタリスト マンデルブロ自伝|date=2013-09-20|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4-15-209401-8|url=http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/116805.html|ref={{Harvid|マンデルブロ|田沢|2013}}}} - 原タイトル:''THE FRACTALIST'' == 脚註 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[フラクタル]] * [[マンデルブロ集合]] * [[マンデルブロ (小惑星)]] == 外部リンク == * [http://www.math.yale.edu/mandelbrot/ イェール大学のマンデルブロのサイト] * [http://www.ted.com/talks/benoit_mandelbrot_fractals_the_art_of_roughness.html "Benoit Mandelbrot: Fractals and the art of roughness"] [[TED (カンファレンス)|TED]]での講演映像 (2010年) *{{Find a Grave|154577154}} {{Fractals}} {{ウルフ賞物理学部門}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まんてるふろ ふのわ}} [[Category:ブノワ・マンデルブロ|*]] [[Category:20世紀の数学者|241120]] [[Category:21世紀の数学者|-241120]] [[Category:フランスの数学者]] [[Category:カオス理論家]] [[Category:ウルフ賞物理学部門受賞者]] [[Category:日本国際賞受賞者]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:アメリカ物理学会フェロー]] [[Category:ノルウェー科学文学アカデミー会員]] [[Category:イェール大学の教員]] [[Category:ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:ユダヤ系フランス人]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:IBMフェロー]] [[Category:トーマス・J・ワトソン研究所の人物]] [[Category:膵癌で亡くなった人物]] [[Category:カリフォルニア工科大学出身の人物]] [[Category:エコール・ポリテクニーク出身の人物]] [[Category:ワルシャワ出身の人物]] [[Category:1924年生]] [[Category:2010年没]]
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自己相似
自己相似(じこそうじ、英: self-similar)とは何らかの意味で、全体と部分とが相似(再帰)であることをさす言葉である。すべてのスケールにおいて自己相似となる図形は、スケール不変性を有する。 図形においては、ある図形の断片を取ってきたとき、それより小さな断片の形状と図形全体の形状とが相似である場合を指す。このようなフラクタル図形などに代表される形状に関する自己相似は大変有名である。なお、フラクタルが全く幾何学には限られず数学の多様な分野で議論されるものであるように、自己相似も「幾何的形状」だけに限定されない。自然界や人工物には、海岸線の長さやインターネットのトラフィックのように統計的に自己相似なものの方が多く存在する。統計的な自己相似とは、同一対象について時間や空間的に異なるスケール(分解能)で計測された統計が同じ分布族に従い、分布やモーメント等の統計的性質が計測スケールに関して相似である場合を指す。これは、相似図形はその形状が同じで一辺の長さや面積の比が(空間的スケール比である)相似比を用いて特定の比例関係として表されるのと同様、分布の形が同じで統計的性質(平均や分散など)がスケールを用いて特定の比例関係として表される場合を統計的相似と考えるとわかりやすい。 対数螺旋(等角螺旋)は自己相似かつスケール不変である。 フラクタルに関する書籍において自己相似の例として植物はよく登場する。 海岸線の長さは計測に使用するモノサシの目盛の粗さ(スケール)によって変わり、目盛の細かいモノサシを使用するほど海岸線の長さはより長く計測される(海岸線のパラドックス)。 目盛スケールを G とすると、計測される海岸線の長さは おおよそ L(G)=MG となる。ここで、D はフラクタル次元である。 パケットデータ(Ethernet, IP, TCP, VOIP等)のトラフィックパターンは統計的に自己相似な性質をもつと報告されている。 したがって、ポアソン分布を使用した単純なモデルでは不十分である。統計的自己相似性を考慮に入れずに設計された通信網は、モデルの想定どおりに機能しない可能性があり、通信網のデザインを行う際に考慮すべき重要な性質のひとつである。 株式市場や為替市場における価格変動は統計的自己相似性をもつ。ただし、相似比をあらわすハースト指数(スケーリング指数)が時間スケールにより変化するマルチフラクタルである。
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自己相似とは何らかの意味で、全体と部分とが相似(再帰)であることをさす言葉である。すべてのスケールにおいて自己相似となる図形は、スケール不変性を有する。
'''自己相似'''(じこそうじ、{{lang-en-short|self-similar}})とは何らかの意味で、全体と部分とが[[図形の相似|相似]]([[再帰]])であることをさす言葉である。すべてのスケールにおいて自己相似となる図形は、[[スケール不変性]]を有する。 == 概要 == 図形においては、ある図形の断片を取ってきたとき、それより小さな断片の形状と図形全体の形状とが相似である場合を指す。このような[[フラクタル]]図形などに代表される形状に関する自己相似は大変有名である。なお、フラクタルが全く幾何学には限られず数学の多様な分野で議論されるものであるように、自己相似も「幾何的形状」だけに限定されない。自然界や人工物には、海岸線の長さやインターネットのトラフィックのように統計的に自己相似なものの方が多く存在する。統計的な自己相似とは、同一対象について時間や空間的に異なるスケール(分解能)で計測された統計が同じ分布族に従い、分布やモーメント等の統計的性質が計測スケールに関して相似である場合を指す。これは、相似図形はその形状が同じで一辺の長さや面積の比が(空間的スケール比である)相似比を用いて特定の比例関係として表されるのと同様、分布の形が同じで統計的性質(平均や分散など)がスケールを用いて特定の比例関係として表される場合を統計的相似と考えるとわかりやすい。 == 例 == === 対数螺旋 === [[対数螺旋]](等角螺旋)は自己相似かつ[[スケール不変性|スケール不変]]である。 :<math>\log{\frac{r(\theta)}{a}} = \frac{1}{\lambda}\log{\frac{r(\lambda\theta)}{a}}</math> === 植物=== フラクタルに関する書籍において自己相似の例として植物はよく登場する。 * カリフラワーの一種である[[ロマネスコ]]は自己相似の様相を呈した花蕾をつける。 * バーンスレイのシダ(Barnsley fern) - バーンスレイの考案したシダの葉の数学モデルは植物の葉の形状とよく似ている。 <gallery widths="200px" heights="150px"> File:Cauliflower_Fractal_AVM.JPG|ロマネスコの花蕾 File:Barnsley fern plotted with VisSim.PNG|反復関数系を使用して計算された<br>[[バーンズリーのシダ|バーンスレイのシダ]]の葉 File:Sa-fern.jpg|モデルとなった「本物のシダ」の葉 </gallery> === 海岸線の長さ === 海岸線の長さは計測に使用するモノサシの目盛の粗さ(スケール)によって変わり、目盛の細かいモノサシを使用するほど海岸線の長さはより長く計測される([[海岸線のパラドックス]])。 目盛スケールを ''G'' とすると、計測される海岸線の長さは おおよそ L(G)=MG<sup>1-D</sup> となる。ここで、''D'' はフラクタル次元である<ref>[[ブノワ・マンデルブロ]], 1967, ''How Long Is the Coast of Britain? Statistical Self-Similarity and Fractional Dimension.'' ''Science,'' New Series, Vol. 156, No. 3775. (May 5, 1967), pp. 636-638. doi:[https://doi.org/10.1126/science.156.3775.636 10.1126/science.156.3775.636] </ref><ref> [http://www.math.yale.edu/mandelbrot/web_pdfs/howLongIsTheCoastOfBritain.pdf PDF version from Mandelbrot's home page] </ref>。 === インターネット・トラフィック === パケットデータ(Ethernet, IP, TCP, VOIP等)のトラフィックパターンは統計的に自己相似な性質をもつと報告されている<ref> Leland ''et al.'' "[http://ccr.sigcomm.org/archive/1995/jan95/ccr-9501-leland.pdf On the self-similar nature of Ethernet traffic]", ''IEEE/ACM Transactions on Networking'', Volume '''2''', Issue 1 (February 1994) </ref><ref> [https://books.google.co.jp/books?id=1XvtySPYCmAC&printsec=frontcover&source=gbs_atb&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false Next generation teletraffic and wired/wireless advanced networking]: 6th international conference, NEW2AN 2006, St. Petersburg, Russia, May 29-June 2, 2006 : proceedings, p.236. </ref>。 したがって、[[ポアソン分布]]を使用した単純なモデルでは不十分である。統計的自己相似性を考慮に入れずに設計された通信網は、モデルの想定どおりに機能しない可能性があり、通信網のデザインを行う際に考慮すべき重要な性質のひとつである。 === 金融市場における価格変動 === 株式市場や為替市場における価格変動は統計的自己相似性をもつ。ただし、相似比をあらわす[[ハースト指数]](スケーリング指数)が時間スケールにより変化する[[マルチフラクタル]]である<ref>[http://arxiv.org/PS_cache/cond-mat/pdf/0501/0501292v1.pdf THE DYNAMICS OF FINANCIAL MARKETS – MANDELBROT’S MULTIFRACTAL CASCADES, AND BEYOND], Lisa Borland, Jean-Philippe Bouchaud,Jean-Fran¸cois Muzy, Gilles Zumbach, February 2, 2008</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[短距離秩序]]、[[長距離秩序]] *[[反復関数系]] *[[自己アフィン性]] *[[自己相似過程]] *[[順位・規模法則]] *[[斉次函数|斉一次性]]: ''f''(''c'''''x''') = ''cf'' ('''x''') == 外部リンク == * [http://topicmaps.u-gakugei.ac.jp/form/world/selfsimilar/selfsimilar_1.htm 形の科学 自己相似] {{Fractals}} {{Sci-stub}} {{DEFAULTSORT:しこそうし}} [[Category:フラクタル]] [[Category:システム]] [[Category:数学に関する記事]]
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10,534
動画
動画(どうが)には次の2つの意味がある。 コンピュータで動画像を扱う際に、編集により再生時間を減じる事無く、必要な記憶容量を減じる事を圧縮と言う。 圧縮には、元のデータに完全に復元できる可逆圧縮(Losslessとも呼ばれる)と、圧縮の段階で元のデータには復元できない処理を施す代わりに高い圧縮を行う非可逆圧縮(Lossyとも呼ばれる)がある。その中でも、特に動画に対しては動画(あるいはそれを視聴する人間)の持つさまざまな性質・特性を踏まえた特別なアルゴリズムによる圧縮が行われる場合が多い。その際に用いられる圧縮・展開(エンコード/デコード)を行うアルゴリズムプログラムのことを、特にコーデックと呼ぶ。 動画は多くの枚数の画像を連続的に扱わなければならず、ほとんどの動画は静止画と比べ、処理しなければならない情報量が圧倒的に大きい。また同時に、再生時においては多数の情報を(その本来の時間軸を損なう事なく)高速かつ連続的に処理を行うことも要求される。そのため、動画の圧縮アルゴリズムの多くは静止画のそれとは異なる圧縮技術、あるいは既存の圧縮技術にさらに他の圧縮技術を組み合わせた形で構成されている。 一般に静止画の圧縮は空間方向のみを考慮すれば良いが、動画圧縮の場合はそこに加え時間方向の情報も考慮した圧縮が行なわれる場合が多い(MPEGなど)。但し、これらのアルゴリズムはラスタ画像を扱うことを前提としており、Flashムービー(.SWF)などで用いられるベクタ画像などには当てはまらない。 動画を格納するファイルフォーマットとしては以下のものがある(括弧内は、Windowsにおけるファイル拡張子)。
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動画(どうが)には次の2つの意味がある。 (歴史の長い用法)アニメーション。動画はもともとは、あくまでアニメーション(animation)の日本語訳である。日本語の「動画」は、アニメーター・映像作家の政岡憲三(1898年-1988年)が英語の「animation アニメーション」の訳語として考案・提唱したものが最初とされ、東映動画など「〜動画」という社名のアニメ会社も複数設立されるなど、あくまでアニメーションという意味だけで長らく使われてきた。 (近年の、特に用法)コンピュータなどの画像の中でも、特に動きのあるもの。静止画と対極の語であり、狭い定義では「動く画像」、広い定義では時間軸に同期させた音声・音楽と共に提供されるメディアパッケージを指す場合もある。選択した静止画を順次切り替える「スライドショー」「紙芝居」とは異なり、連続して変化する静止画像を高速に切り替え続けると人間の視覚の錯覚として静止画が動いているように見えるベータ運動を利用した表現様式(メディア)である。あくまで、2000年代以降になって使われるようになった意味。
{{Otheruses|動画という用語の歴史的な変遷|アニメーション制作における作業工程の1つの動画|動画 (アニメーション)|絵ではなく[[写真]]を連続的に動かす技法|映画|世の中で画面内に動く写真全般を、そして現在でもNHKでは現在でもテレビに映る動く写真を指すために使っている用語(概念)(で、最近の20代以下の若者は馴染みのない用法)|映像|写真であれアニメであれ、走査線に分解して、遠方に向けて動く写真や絵を伝送する手法|テレビジョン}} {{WikipediaPage|ウィキペディアにおける動画の作成については[[Help:音声・動画の作成と利用]]を、ウィキペディアにおける動画の再生については[[Help:音声・動画の再生]]をご覧ください。}} {{出典の明記|date=2011年11月}} '''動画'''(どうが)には次の2つの意味がある。 *(歴史の長い用法)[[アニメーション]]<ref>精選版 日本国語大辞典 【動画】</ref>。動画はもともとは、あくまで[[アニメーション]](animation)の日本語訳である<ref>[https://www.sanseido.biz/User/Dic/Index.aspx?TWords=%e5%8b%95%e7%94%bb&st=0&DORDER=&DailyJJ=checkbox&DailyEJ=checkbox&DailyJE=checkbox 三省堂ウェブディクショナリー国語・和英「動画」]</ref>。日本語の「動画」は、[[アニメーター]]・映像作家の[[政岡憲三]](1898年-1988年)が英語の「animation アニメーション」の訳語として考案・提唱したものが最初とされ、[[東映アニメーション|東映動画]]など「〜動画」という社名のアニメ会社も複数設立されるなど、あくまでアニメーションという意味だけで長らく使われてきた。 *(近年の、特に(200X年以降の)用法)[[コンピュータ]]などの[[画像]]の中でも、特に動きのあるもの<ref>精選版 日本国語大辞典 【動画】</ref>。[[静止画]]と対極の語であり、狭い定義では「動く画像」<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8B%95%E7%94%BB-6577|title=動画とは|accessdate=2018-1-9|publisher=朝日新聞社}}</ref>、広い定義では時間軸に同期させた音声・音楽と共に提供されるメディアパッケージを指す場合もある。選択した静止画を順次切り替える「[[スライドショー]]」「[[紙芝居]]」とは異なり、連続して変化する静止画像を高速に切り替え続けると人間の視覚の錯覚として静止画が動いているように見える{{仮リンク|ベータ運動|en|Beta movement}}を利用した表現様式([[メディア (媒体)|メディア]])である。あくまで、2000年代以降になって使われるようになった意味。 == アニメーション == {{Main|アニメーション}} == コンピュータの動画 == === 動画圧縮 === {{Main2|動画圧縮の各方式については、[[コーデック#動画圧縮のコーデック|動画圧縮のコーデック]]を}} [[コンピュータ]]で動画像を扱う際に、編集により再生時間を減じる事無く、必要な記憶容量を減じる事を[[データ圧縮|圧縮]]と言う。 圧縮には、元のデータに完全に復元できる[[可逆圧縮]](Losslessとも呼ばれる)と、圧縮の段階で元のデータには復元できない処理を施す代わりに高い圧縮を行う[[非可逆圧縮]](Lossyとも呼ばれる)がある。その中でも、特に動画に対しては動画(あるいはそれを視聴する人間)の持つさまざまな性質・特性を踏まえた特別なアルゴリズムによる圧縮が行われる場合が多い。その際に用いられる圧縮・展開(エンコード/デコード)を行うアルゴリズムプログラムのことを、特に[[コーデック]]と呼ぶ。 動画は多くの枚数の画像を連続的に扱わなければならず、ほとんどの動画は静止画と比べ、処理しなければならない情報量が圧倒的に大きい。また同時に、再生時においては多数の情報を(その本来の時間軸を損なう事なく)高速かつ連続的に処理を行うことも要求される。そのため、動画の圧縮アルゴリズムの多くは静止画のそれとは異なる圧縮技術、あるいは既存の圧縮技術にさらに他の圧縮技術を組み合わせた形で構成されている。 一般に静止画の圧縮は空間方向のみを考慮すれば良いが、動画圧縮の場合はそこに加え時間方向の情報も考慮した圧縮が行なわれる場合が多い(MPEGなど)。但し、これらのアルゴリズムはラスタ画像を扱うことを前提としており、Flashムービー(.SWF)などで用いられるベクタ画像などには当てはまらない。 === ファイルフォーマット === {{See also|コンテナフォーマット}} 動画を格納するファイルフォーマットとしては以下のものがある(括弧内は、Windowsにおける[[ファイル拡張子]])。 * [[Animated Portable Network Graphics|APNG]] ( .png ) * [[Audio Video Interleave|AVI]] ( .avi ) * [[Advanced Systems Format|ASF]] ( .asf, .asx, .wmv, .wvx, .wma, .wax ) * [[DivX#DivX Media Format|DivX Media Format]] ( .divx .div ) * [[Matroska]] ( .mkv .mka .mks ) * [[MPEG-2システム|MPEG-2 TS]] ( .m2t .m2ts ) * [[MP4]] ( .mp4, .m4v, .m4a ) * [[Multiple-image Network Graphics]] ( .MNG ) * [[Ogg]] ( .ogg .ogx .ogv .oga ) * [[Ogg Media]] ( .ogm ) * [[QuickTime]] ( .mov .qt ) * [[GIFアニメーション|アニメーションGIF]] ( .gif ) * [[Flash Video]] ( .flv ) * [[WebM]] ( .webm ) === デジタル化 === * [[ストップモーション・アニメーション]] * [[コンピュータグラフィックス|CG]] - [[2次元コンピュータグラフィックス|2DCG]]・[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]] <!-- == ビデオグラフィ == '''ビデオグラフィ'''({{lang-en|videography}})とは、[[デジタルビデオカメラ]]で、動画を撮影し[[コンピュータ]]で[[映像編集]]し、1つの動画像(映像作品)をつくる[[技術]]、画法、[[学問]]、表現方法、表現手段、表現形式のことである。 [[映画]]や[[テレビドラマ]]の撮影において、撮影開始を「'''[[クランク (機械要素)|クランク]]イン'''」、撮影終了を「'''クランクアップ'''」と呼ぶ。これは、カメラが手回し式だった頃の、手回しハンドル(クランク)に由来するとされる。 [[スタジオ]]内の撮影を「'''スタジオ撮影'''」「'''セット撮影'''」などと呼び、撮影所の外の屋外での撮影は「'''[[ロケーション撮影]]'''」または「'''[[オープン]]撮影'''」と呼ぶ。また、[[VFX]]を用いる映画では[[ブルーバック]]撮影(緑色を使う場合はグリーンバックと呼ばれる)などがある。 映画やビデオカメラの撮影においては[[スチル写真]]にはない動きを伴う[[カメラワーク]]([[パン (撮影技法)|パン]]、[[トラッキング]]、[[ドリー]]、[[ズーミング]]、[[ピント送り]]など)による表現が可能になり、また、多くの場合、[[音声]]の[[録音]]も必要とされてくる。また、撮影が終わった後で映像や音声の[[編集]]が必要である。編集にあたっては[[モンタージュ]]の技法や、[[ナレーション]]の付加により、映像に一定の意味が与えられる。 --> <!-- == 歴史 == 映画やその他のメディアの詳細な歴史については各項を参照。 === 動画の祖 === [[19世紀]]から末にかけて、[[フェナキストスコープ|フェナキスティスコープ]](1831年ごろ)、[[ゾエトロープ]](1834年ごろ)、[[プラキシノスコープ]](1877年ごろ)など、残像現象を利用した「動く絵」を見せるための道具は既に存在していた。それぞれの構造は若干異なるが、基本的には紙の上に連続的に描かれた絵を[[スリット]]を通じて覗く事で絵が動いているように見えると言うものであった。 簡素な構造ではあったが、現代の動画と同じく残像を利用して人間の視覚を利用して「動き」を再現していると言う点で、動画の祖と呼べるものである。 === 映画の発明 === 動画像が(メディアとして)扱えるようになったのは1890年代とされる。 1891年、アメリカの有名な発明家、[[トーマス・エジソン]]による[[キネトスコープ]]([[w:Kinetoscope|kinestoscope]])の特許取得。これは、一定速度で[[フィルム]]を送り出す機構とそのフィルムの絵を投影するための光源で構成されており、現在の[[映写機]]によく似た機械であったが、現在の映画のようにスクリーンに投影する能力は無かった。 ほぼ時を同じくし、1895年、フランスの発明家オーギュストとルイの[[リュミエール兄弟]]が[[シネマトグラフ]]の特許を取得。これは、キネストスコープとは異なり、[[スクリーン]]への映像の投影が可能であった。 キネストスコープ、そしてシネマトグラフの開発によって、それまで静止画像によってしか撮影出来なかった風景や人物を動画像として撮影出来るようになり、時間の流れや人物の仕草の変化などを、連続的かつ容易に、そしてより自然な形で記録・再生することが出来るようになった。 ただし、当時の撮影機はあくまで視覚情報のみを記録するものであり、また現像技術の制限から、撮影・再生される映像はモノクロであった。現在のように色付きの映像を扱ったり、音声や音楽を付随させることが出来るようになるのはもう少し後の時代になってからである。 === 音声・音楽との融合 === * [[映画]] * [[サイレント映画]] * [[トーキー]] === テレビの普及 === 1900年代初頭にテレビが発明され、一般家庭に普及すると、動画像は人間にとってより身近なものとなる。 普及に伴う技術の進歩によって、当初はモノクロでしか表現出来なかったものが自然色で表現出来るようになり、また、秒間辺りのコマ数(フレームレート、またはfps)を向上させることで、動きを滑らかに表現出来るようになるなど、動画像はより高密度・高精度化して行く。 * [[テレビ]] * [[カラーテレビ]] * [[テレビアニメ]] --> == 関連項目 == * [[コンテナフォーマット]] * [[ストリーミング]] * [[サンプル動画]] * [[画像]] * [[映像]] * [[動画共有サービス]] ==出典== {{Reflist}} {{美術}} {{西洋の芸術運動}} {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:とうか}} [[Category:コンピュータのデータ]] [[Category:コンピュータグラフィックス]] [[Category:映像技術]]
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10,541
プロメチウム
プロメチウム(英: promethium [proʊˈmiːθiəm])は、原子番号61の元素。元素記号は Pm。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。安定同位体は存在しない。発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、プロメチウム145の17.7年。ウランの核分裂生成物よりマクロの量で得られているのはプロメチウム147である。 プロメチウムという元素名はギリシャ神話に登場するプロメテウス(人類に火を伝えたとされる)にちなんで名付けられた。 銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は、複六方最密充填構造(ABACスタッキング)。比重は7.2で、融点は1,168 °C、沸点は2,460 °C。原子価は 4f の電子配置をとる3価が安定で、水和イオン Pm aq は淡紅色である。物理的、化学的性質は不明な部分が多い。 放射性があるため、青白色~緑色の蛍光を放出するという性質がある。このためプロメチウム147は夜光塗料(→時計の文字盤などに利用)に添加され発光の元として利用されていた(安全性が問題になり、現在では日本国内では使われていない)。他に、蛍光灯のグロー放電管にも利用される。 また、シリコンなどの半導体に挟み、放出されるβ線エネルギーを電気エネルギーに変換する原子力電池の素材としての用途が考えられている。 1902年にチェコの化学者ブラウナー(Bohuslav Brauner)がネオジムとサマリウムの間の原子量の差が当時知られていた全ランタノイド中最大であることを発見し、この2元素の間に両者の中間的な性質を持った未発見の新元素がある可能性を示唆した。 1913年に英国の物理学者モーズリーが原子番号が原子核中の正電荷(=陽子の数)に対応していることを発見(モーズリーの法則)し、これに伴ってそれまで原子量の順に配列されていた周期表が、正しく原子番号順の配置に改められた。 これによって、モリブデンとルテニウムの間の43番元素(テクネチウム)およびネオジムとサマリウムの間の61番元素(プロメチウム)その他が未発見であることが明確になった。しかし両元素とも知られている全ての核種が放射性で不安定であったため、その後発見されるまで時間がかかった。 いくつかの発見の報があるが、確実と思われるのは、1947年にマリンスキー(J. A. Marinsky)、グレンデニン(L. E. Glendinin)、コリエル(C. D. Coryell)等がウラン235の核分裂生成物中からイオン交換法を用いて、プロメチウム147、149を分離して発見したというものである。 マリンスキーらの発見方法より、天然におけるプロメチウムは、プロメチウム147が天然のウラン鉱石中に非常にごく僅かに存在が認められている。これはウランの自発核分裂の結果、極僅かに生成したものとされている。しかしその存在量は極めてわずかで、地球全体の存在量はわずかに780gと見積もられている。 プロメチウムには安定同位体が存在せず、全ての同位体が放射性である。このように放射性同位体しかない元素(放射性元素)は、他にはテクネチウムとビスマス以降の元素がある。 恒星アンドロメダ座GY星からは、輝線スペクトル中にプロメチウムが発見されている。
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{{Redirect|プロメシウム|[[松本零士]]の作品の登場人物|ラー・アンドロメダ・プロメシューム}} {{Expand English|Promethium|date=2023-11}} {{Elementbox |name=promethium |japanese name=プロメチウム |number=61 |symbol=Pm |pronounce={{IPAc-en|p|r|ɵ|ˈ|m|iː|θ|i|əm}} {{respell|pro|MEE|thee-əm}} |left=[[ネオジム]] |right=[[サマリウム]] |above=- |below=[[ネプツニウム|Np]] |series=ランタノイド |group=3 |period=6 |block=f |image name= |appearance=銀白色(プロメチウム金属がどのように見えるかのフォトモンタージュ。放射性が高すぎて実際の画像は利用できません<ref>https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Promethium.jpg</ref>) |atomic mass=[145] |electron configuration=&#91;[[キセノン|Xe]]&#93; 4f{{sup|5}} 6s{{sup|2}} |electrons per shell=2, 8, 18, 23, 8, 2 |phase=固体 |density gpcm3nrt=7.26 |melting point K=1,315 |melting point C=1,042 |melting point F=1,908 |boiling point K=3,273 |boiling point C=3,000 |boiling point F=5,432 |heat fusion=7.13 |heat vaporization=289 |crystal structure=hexagonal |japanese crystal structure=[[六方晶系]] |oxidation states=3(弱[[塩基性酸化物]]) |electronegativity=? 1.13 |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=540 |2nd ionization energy=1,050 |3rd ionization energy=2,150 |atomic radius=183 |covalent radius=199 |magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name=magnet>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf |date=2012年1月12日 }}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) est. 0.75 µ |thermal conductivity=17.9 |thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (α, poly) est. 11 |Young's modulus=(α form) est. 46 |Shear modulus=(α form) est. 18 |Bulk modulus=(α form) est. 33 |Poisson ratio=(α form) est. 0.28 |CAS number=7440-12-2 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay | mn=145 | sym=Pm | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=17.7 [[年|y]] | dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.163 | pn=145 | ps=[[ネオジム|Nd]]}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=146 | sym=Pm | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=5.53 [[年|y]] | dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=1.472 | pn1=146 | ps1=[[ネオジム|Nd]] | dm2=[[ベータ崩壊|β{{sup|−}}]] | de2=1.542 | pn2=146 | ps2=[[サマリウム|Sm]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=147 | sym=Pm | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=2.6234 [[年|y]] | dm=[[ベータ崩壊|β{{sup|−}}]] | de=0.224 | pn=147 | ps=[[サマリウム|Sm]]}} |isotopes comment= }} '''プロメチウム'''({{lang-en-short|promethium}} {{IPA-en|proʊˈmiːθiəm|}})は、[[原子番号]]61の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Pm'''。[[希土類元素]]の一つ(ランタノイドにも属す)。安定同位体は存在しない。発見された同位体の中で最も[[半減期]]が長いのは、プロメチウム145の17.7年。[[ウラン]]の[[核分裂反応|核分裂]]生成物よりマクロの量で得られているのはプロメチウム147である<ref name=Topp>N.E.Topp著、塩川二郎、足立吟也 共訳 『希土類元素の化学』 化学同人、1986年</ref><ref name=Cotton>FA コットン, G. ウィルキンソン著, 中原 勝儼訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年</ref>。 == 名称 == プロメチウムという元素名は[[ギリシャ神話]]に登場する[[プロメーテウス|プロメテウス]](人類に火を伝えたとされる)にちなんで名付けられた<ref name="sakurai" />。 == 性質 == 銀白色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は、複六方最密充填構造(ABACスタッキング)。比重は7.2で、[[融点]]は1,168 {{℃}}、[[沸点]]は2,460 {{℃}}。原子価は 4f{{sup|4}} の電子配置をとる3価が安定で、水和イオン Pm{{sup|3+}} aq は淡紅色である。物理的、化学的性質は不明な部分が多い。 放射性があるため、青白色~緑色の蛍光を放出するという性質がある<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 273|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。このためプロメチウム147は[[蓄光|夜光]]塗料(→時計の文字盤などに利用)に添加され発光の元として利用されていた(安全性が問題になり、現在では日本国内では使われていない)。他に、[[蛍光灯]]の[[点灯管|グロー放電管]]にも利用される。 また、[[ケイ素|シリコン]]などの[[半導体]]に挟み、放出される[[β線]]エネルギーを電気エネルギーに変換する[[原子力電池]]の素材としての用途が考えられている<ref name=Topp />。 == 歴史 == 1902年にチェコの化学者ブラウナー(Bohuslav Brauner)がネオジムとサマリウムの間の原子量の差が当時知られていた全ランタノイド中最大であることを発見し、この2元素の間に両者の中間的な性質を持った未発見の新元素がある可能性を示唆した<ref>{{cite journal | title =A Revised Periodic Table: With the Lanthanides Repositioned | journal =Foundations of Chemistry | volume = 7 | issue = 3 | year = 2005 | doi = 10.1007/s10698-004-5959-9 | pages = 203&ndash;233 | first = Michael | last = Laing}}</ref>。 1913年に英国の物理学者[[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|モーズリー]]が原子番号が原子核中の正電荷(=陽子の数)に対応していることを発見([[モーズリーの法則]])し、これに伴ってそれまで原子量の順に配列されていた周期表が、正しく原子番号順の配置に改められた。 これによって、モリブデンとルテニウムの間の43番元素([[テクネチウム]])およびネオジムとサマリウムの間の61番元素(プロメチウム)その他が未発見であることが明確になった。しかし両元素とも知られている全ての核種が放射性で不安定であったため、その後発見されるまで時間がかかった。 いくつかの発見の報があるが、確実と思われるのは、[[1947年]]にマリンスキー(J. A. Marinsky)、グレンデニン(L. E. Glendinin)、コリエル(C. D. Coryell)等が[[ウラン235]]の核分裂生成物中から[[イオン交換]]法を用いて、プロメチウム147、149を分離して発見したというものである<ref>Jacob A. Marinsky, Lawrence E. Glendenin, Charles D. Coryell: "The Chemical Identification of Radioisotopes of Neodymium and of Element 61", ''[[J. Am. Chem. Soc.]]'', '''1947''', ''69''&nbsp;(11), pp.&nbsp;2781–2785; {{DOI|10.1021/ja01203a059}}.</ref><ref name="sakurai" />。 == 天然での存在 == マリンスキーらの発見方法より、天然におけるプロメチウムは、プロメチウム147が天然のウラン鉱石中に非常にごく僅かに存在が認められている。これはウランの[[自発核分裂]]の結果、極僅かに生成したものとされている。しかしその存在量は極めてわずかで、地球全体の存在量はわずかに780gと見積もられている<ref name="sakurai" />。 プロメチウムには安定同位体が存在せず、全ての同位体が放射性である。このように[[放射性同位体]]しかない元素(放射性元素)は、他には[[テクネチウム]]と[[ビスマス]]以降の元素がある。 恒星[[アンドロメダ座GY星]]からは、[[輝線スペクトル]]中にプロメチウムが発見されている。 == 出典 == <!-- 関連項目の節が出来たときは、そちらに移動してください --> {{Commons|Promethium}} {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{元素周期表}} {{プロメチウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふろめちうむ}} [[Category:プロメチウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:ランタノイド]] [[Category:第6周期元素]]
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きつね (麺類)
うどん・そばにおいてのきつねとは、かけうどん・かけそばに甘辛く煮た油揚げを乗せたものであり、「きつねうどん」「きつねそば」と呼ぶ。 ただし、地方によって指すものが異なる場合がある(#各地方の特徴にて詳述)。 地方によっては違いがあるが、使用する油揚げは、まず湯で油抜きをし、砂糖・醤油・みりんなどを使用して、しっかりと甘辛く味付ける。麺のダシ(つゆ)は濃口醤油と鰹節主体の強めのものである。熱いつゆばかりでなく、冷やしや鍋物もある。 きつねうどんがいつできたかについては諸説ある。江戸時代に大阪で作られたという説や、明治10年代に大阪で誕生したという説など、大阪で考案されたという説が多い。油揚げをのせたうどんを考案したのは1893年(明治26年)創業の大阪市船場のうどん屋「松葉家」とされ、同店には「大阪きつねうどん」の石碑が建てられている。古川ロッパは、エッセイ「うどんのお化け」で、きつねうどんについて「油揚げの入った奴。無論関西から来たもの」と述べている。 一方で、江戸で油揚げを種にした蕎麦があり、文献によれば大坂よりも江戸の方が古いとする説もある。 『衣食住語源辞典』(東京堂出版、1996年)では、きつねうどんが先行し後にきつねそばが誕生したものと解説されている。 名称は稲荷寿司と同様、油揚げがキツネの好物とされていることに由来する。一説には油揚げの色(きつね色)・形がキツネがうずくまる姿に似ているからだともいう。 「けつねうどん」あるいは「けつね」と発音されることもある。 「しのだ」ともいい、漢字では「信太」、「信田」、「志乃田」とも表記される。これは信太の森の伝説に由来する(葛の葉を参照)。 このほか「はいから」とも呼ばれる。ただし、いわゆる「たぬきうどん」を「ハイカラ」として売り出している店もある。 「きつねうどん」のうどんの台をそばの台にかえたものを「きつねそば」とも言うが、地方によってはその「きつねそば」を「たぬき」と称するなど、地方によって名称や特徴が異なる。 各地域の名称と内容を下記に記述する。 1806年の書「船頭深話」に、ネギと油揚げをあしらったそばが記述されるなど歴史が古い。夜鳴き蕎麦の種物としても出ている。「南蛮」にも油揚げを入れる店も多い。江戸風俗研究家の杉浦日向子は、江戸・東京では単品で食べられる事が多いと解説している。カップ麺「どん兵衛」の東日本向けでは、西日本向けよりしっとりした揚げであり、味もこってりしている(東京の揚げ物はごま油を使用し、色よく揚げるのが主流)。 京都の方言では、けつねとも発音する。『芦屋道満大内艦』に描かれた泉州の信太の森の葛の葉狐にちなんで「しのだ」と呼ばれることもある。京都のきつねうどんには、「味の付いた三角形の油揚げ」のものと「味付けしない刻んだ油揚げ」のものとがあり、前者は「甘ぎつね」、後者は「刻みきつね」または単に「きつね」とも呼ばれる。 一般的に「きつねそば」と呼ばれている物を、大阪では「たぬき」と称する。大阪を中心とした近畿地方では、醤油と砂糖で甘辛く煮た薄揚げを乗せたうどん料理を「きつね」、そば料理を「たぬき」と呼ぶことが一般的であり、「きつねそば」や「たぬきうどん」というメニューは通常存在しない。近畿において、一部に前述の京都の様に、同じ名称でも出される物が異なることがある。けつねなどと訛って発音する者もいるが、これは親愛をこめた呼び方といわれ、また、多くの場合は軽いジョークの様なノリで、わざとそう呼んで注文している場合であるともいわれる。大阪でも「しのだ」と呼称されることがある。 カップ麺としては、日清食品の「どん兵衛 きつねうどん」が全国的に発売された後に、東洋水産が「赤いきつねうどん」「紺のきつねそば」を全国に発売している。エースコックの「天ぷらきつねそば」は、そばの上に天ぷらと煮つけた揚げが乗っている。 また、徳島製粉の「金ちゃんきつねうどん」も有名である。
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うどん・そばにおいてのきつねとは、かけうどん・かけそばに甘辛く煮た油揚げを乗せたものであり、「きつねうどん」「きつねそば」と呼ぶ。 ただし、地方によって指すものが異なる場合がある(#各地方の特徴にて詳述)。 地方によっては違いがあるが、使用する油揚げは、まず湯で油抜きをし、砂糖・醤油・みりんなどを使用して、しっかりと甘辛く味付ける。麺のダシ(つゆ)は濃口醤油と鰹節主体の強めのものである。熱いつゆばかりでなく、冷やしや鍋物もある。
{{右| [[ファイル: Udon_(Kitsune_udon)_2.jpg|thumb|200px|none|きつねうどん]] [[ファイル:Kitsune soba by adactio at E-Kagen in Brighton.jpg|thumb|200px|none|一般的なきつねそば]] }} うどん・そばにおいての'''きつね'''とは、'''かけ[[うどん]]'''・'''[[かけそば]]'''に甘辛く煮た[[油揚げ]]を乗せたものであり、「'''きつねうどん'''」「'''きつねそば'''」と呼ぶ<ref>日本国語大辞典第2版、きつねうどん・きつねそば、の項。</ref>。 ただし、地方によって指すものが異なる場合がある([[#各地方の特徴]]にて詳述)。 地方によっては違いがあるが、使用する油揚げは、まず湯で油抜きをし、[[砂糖]]・[[醤油]]・[[みりん]]などを使用して、しっかりと甘辛く味付ける。麺のダシ(つゆ)は濃口醤油と鰹節主体の強めのものである。熱いつゆばかりでなく、冷やしや鍋物もある。 == 歴史 == きつねうどんがいつできたかについては諸説ある。[[江戸時代]]に大阪で作られたという説<ref>『そば・うどん技術教本 うどんの技術』</ref>や、[[明治10年]]代に大阪で誕生したという説<ref>『図説 大阪府の歴史』</ref><ref name="osaka_p52"/>など、大阪で考案されたという説が多い。油揚げをのせたうどんを考案したのは[[1893年]]([[明治]]26年)創業の[[大阪市]][[船場 (大阪市)|船場]]のうどん屋「[[うさみ亭マツバヤ|松葉家]]」とされ<ref>『きつねうどん口伝』</ref><ref name="tabemonokigen_p126"/>、同店には「大阪きつねうどん」の石碑が建てられている。[[古川ロッパ]]は、エッセイ「うどんのお化け」で、きつねうどんについて「油揚げの入った奴。無論関西から来たもの」と述べている<ref>{{Cite web|和書|title=うどんのお化け|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/001558/files/52321_46409.html|website=www.aozora.gr.jp|accessdate=2022-02-19|language=ja|last=古川緑波}}</ref>。 一方で、江戸で油揚げを種にした蕎麦があり、文献によれば[[大坂]]よりも[[江戸]]の方が古いとする説もある<ref>[http://www2.menkyo.or.jp/soba_banashi04.html 東京都麺類協同組合・東京都麺類生活衛生同業組合]</ref><ref name="sendo">[[1806年]]刊 [[式亭三馬]]『船頭深話』「菱屋の蕎麦は、葱に油揚げ等をあしらいたるものを…」</ref>。 『衣食住語源辞典』(東京堂出版、1996年)では、きつねうどんが先行し後にきつねそばが誕生したものと解説されている<ref name="isyokujuugogenjiten_p97"/>。 == 由来 == 名称は[[稲荷寿司]]と同様、[[油揚げ]]がキツネの好物とされていることに由来する<ref name="isyokujuugogenjiten_p97">『衣食住語源辞典』東京堂出版 p.97 1996年</ref>。一説には油揚げの色([[きつね色]])・形がキツネがうずくまる姿に似ているからだともいう。 == 別称 == 「けつねうどん」あるいは「けつね」と発音されることもある<ref name="tabemonokigen_p126"/>。 「しのだ」ともいい、漢字では「信太<ref name="osaka_p52">大谷晃一著『大阪学』新潮文庫 p.52 1994年</ref>」、「信田<ref name="tabemonokigen_p126"/>」、「志乃田<ref name="tabemonokigen_p126"/>」とも表記される。これは信太の森の伝説に由来する<ref name="osaka_p52"/><ref name="tabemonokigen_p126"/>([[葛の葉]]を参照)。 このほか「はいから」とも呼ばれる<ref name="tabemonokigen_p126"/>。ただし、いわゆる「[[たぬき (麺類)|たぬきうどん]]」を「ハイカラ」として売り出している店もある<ref name="osaka_p60">大谷晃一著『大阪学』新潮文庫 p.60 1994年</ref>。 == 各地方の特徴 ==<!--通例に従い、北から南・東から西へ記述--> 「きつねうどん」のうどんの台をそばの台にかえたものを「きつねそば」とも言うが、地方によってはその「きつねそば」を「たぬき」と称する<ref name="maruzenshokuhinsogojiten_p274">『丸善食品総合辞典』丸善 p.274 1998年</ref><ref name="tabemonokigen_p126">岡田哲著『たべもの起源事典』東京堂出版 p.126 2003年</ref><ref>[http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/9450/kitsune.html 「きつねうどん」と「たぬきそば」の謎] 「☆名称だけが西へ」</ref>など、地方によって名称や特徴が異なる<ref>参考:[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/6062/noodle.html たぬきときつね] 複数サイトを参照しメーリングリストや掲示板からの意見をまとめたもの</ref>。 各地域の名称と内容を下記に記述する。 === 東京 === [[1806年]]の書「[[船頭]]深話」に、ネギと油揚げをあしらったそばが記述されるなど歴史が古い<ref name="sendo" />。[[物売り#食事|夜鳴き蕎麦]]の種物としても出ている。「[[蕎麦#南蛮蕎麦|南蛮]]」にも油揚げを入れる店も多い。江戸風俗研究家の[[杉浦日向子]]は、[[江戸]]・東京では単品で食べられる事が多いと解説している。カップ麺「[[どん兵衛]]」の[[東日本]]向けでは、[[西日本]]向けよりしっとりした揚げであり、味もこってりしている(東京の揚げ物は[[ごま油]]を使用し、色よく[[揚げる]]のが主流)。 <!--特筆性? === 諏訪 === きつね蕎麦の蕎麦が隠れるほど揚げが大きい<ref>[http://with.sonysonpo.co.jp/hs/detail/kanto_shinetsu/118183.php sonysonpo] 「松本名物大揚げきつねそば」</ref>。 --> === 京都 === 京都の方言では、'''けつね'''とも発音する<ref>大辞林、三省堂</ref><ref>我流京都探訪</ref>。『芦屋道満大内艦』に描かれた[[和泉国|泉州]]の[[信太村 (大阪府)|信太]]の森の[[信太妻|葛の葉狐]]にちなんで「しのだ」と呼ばれることもある<ref>[[牧村史陽]]編、『大阪方言事典』297頁、杉本書店、1955、大阪</ref>。京都のきつねうどんには、「味の付いた三角形の油揚げ」のものと「味付けしない刻んだ油揚げ」のものとがあり、前者は「甘ぎつね」、後者は「刻みきつね」または単に「きつね」とも呼ばれる<ref>[https://souda-kyoto.jp/travel/eat/udon.html 京都のうどんの謎 たぬきは化ける!?] - そうだ京都、行こう</ref><ref>[https://www.mag2.com/p/news/263880 京都の「きつねうどん」の油揚げが細く刻まれている深い理由] - MAG2NEWS(2017年9月8日)</ref>。 === 大阪 === 一般的に「きつねそば」と呼ばれている物を、大阪では「たぬき」と称する<ref name="maruzenshokuhinsogojiten_p274">『丸善食品総合辞典』丸善 p.274 1998年</ref><ref name="tabemonokigen_p126">岡田哲著『たべもの起源事典』東京堂出版 p.126 2003年</ref>。[[大阪]]を中心とした[[近畿地方]]では、醤油と砂糖で甘辛く煮た薄揚げを乗せたうどん料理を「きつね」、そば料理を「たぬき」と呼ぶことが一般的であり、「きつねそば」や「たぬきうどん」というメニューは通常存在しない{{efn2|大阪で「たぬきうどん」や「きつねそば」を注文すると店がどのような調理をすれば良いか分からない事があるため、確認を求められる場合がある。}}。近畿において、一部に前述の京都の様に、同じ名称でも出される物が異なることがある。'''けつね'''などと訛って発音する者もいるが<ref>大辞林(三省堂)「けつね」の項。</ref>、これは親愛をこめた呼び方といわれ<ref name="osaka_p50">大谷晃一著『大阪学』新潮文庫 p.50 1994年</ref>、また、多くの場合は軽い[[ジョーク]]の様なノリで、わざとそう呼んで注文している場合であるともいわれる<ref>四日市市四郷地区ふるさと方言録</ref>。大阪でも「しのだ」と呼称されることがある<ref name="isyokujuugogenjiten_p97" />。 {|class="wikitable" |- !!!関西以外!!関西 |- ! きつね  | * '''油揚げ'''をのせたそば又はうどん<br>(きつねうどん、きつねそば) | * 油揚げをのせた'''うどん'''(けつね、しのだ) |- ! たぬき  | * '''揚げ玉'''をのせたそば又はうどん<br>(たぬきうどん、たぬきそば) | * 京都:刻んだ油揚げの上から葛餡を掛けたうどん * 大阪:油揚げをのせた'''そば''' |- ! ハイカラ  |   - | * '''揚げ玉'''をのせたうどん(ハイカラうどん){{efn2|揚げ玉は無料でのせられる店も多いため、特に料理名を付けないこともある。}} |- |} == 即席めん == [[カップ麺]]としては、[[日清食品]]の「'''[[どん兵衛]] きつねうどん'''」が全国的に発売された後に、[[東洋水産]]が「'''[[マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき|赤いきつねうどん]]'''」「[[マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき#主なシリーズ商品|紺の'''きつねそば''']]」を全国に発売している。[[エースコック]]の「'''天ぷらきつねそば'''」は、そばの上に天ぷらと煮つけた揚げが乗っている。 また、[[徳島製粉]]の「'''金ちゃんきつねうどん'''」も有名である。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|3}} == 参考文献 == * 宇佐美辰一(述)『きつねうどん口伝』[[筑摩書房]]、1991年11月、{{ISBN2|4-480-81301-2}}、[[ちくま文庫]]: 1998年10月、{{ISBN2|4-480-03425-0}} == 関連項目 == {{Commonscat||きつねうどん}} * [[換喩]](メトニミー) * [[キツネ]] * [[日本の文化における狐]] - [[稲荷神]]・[[稲荷寿司]] * [[志の田うどん]] - [[愛知県]][[名古屋市]]の、きつねうどんに類似したメニュー * [[たぬき (麺類)]](たぬきうどん・たぬきそば) * [[かけそば]] {{DEFAULTSORT:きつね}} [[Category:うどん]] [[Category:蕎麦]] [[Category:稲荷信仰]]
2003-06-28T07:34:26Z
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たぬき (麺類)
たぬきそば(狸蕎麦)・たぬきうどん(狸饂飩)は、蕎麦やうどん料理の一種である。地方によって呼称や調理法が異なる(#各地方の特徴にて詳述)。 ネギや鳴門巻などを入れる場合もある。これを冷やしたものは「冷やし たぬきそば・冷やし たぬきうどん」と呼ぶ。 大正時代、東京で揚げ玉を無料で出していたところ人気となり、東京では後に有料となったことから地域差が生まれた。戦時中にはパーッと広がる様子から「バクダン」とも呼ばれた。 古川ロッパは、エッセイ「うどんのお化け」で、たぬきうどんについて以下のように述べている。 語源には諸説ある。蕎麦や饂飩の「たぬき」が表す料理は地方によって異なる料理を示す事もありそれぞれ異なる説もある。 地方によって名称や特徴が異なり、下記に記述する。 過去に北海道ではかき揚げをのせたものをたぬきと称すると書かれた文献もあるが、昭和の時代から北海道でもたぬきそばは天かすを入れたそばであり、かき揚げを乗せたそばはかき揚げそばと称するのが一般的である。 東日本において、「たぬき」は一般には揚げ玉(天かす)をのせたものを指し、たぬきそば・たぬきうどんは、かけよりも価格は高く設定されていることが多い。蕎麦屋によっては、揚げ玉を「たぬき」として売っているところがある。 たぬきうどんは、揚げ玉入りのうどんであるが、金沢市では京都と同じたぬきうどんを出す店もある。 京都では刻んだ油揚げの上から葛餡を掛けたうどんを「たぬき」と呼ぶ。大阪で一般的にいわれる「たぬき」とは異なるため、単に「たぬき」とだけ注文された場合には店側がうどんのものかそばのものか念を押すことがあるとされる。 「京風うどん」を提供する全国丼ぶりチェーン店『なか卯』の天かす・揚げ玉入りうどんは「はいからうどん」が商品名。 大阪では油揚げを乗せた「そば」を「たぬき」と呼ぶ。油揚げは甘辛く味付けしたものである(当地のきつねの台を蕎麦にしたものが「たぬき」)。大阪周辺の立ち食いうどん店などでは天かす(関東では揚げ玉)は無料で提供されている事がある。 この地域では「ハイカラうどん」という名で売り出している店もある。なお、「はいから」はいわゆる「きつねうどん」の別称でもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "たぬきそば(狸蕎麦)・たぬきうどん(狸饂飩)は、蕎麦やうどん料理の一種である。地方によって呼称や調理法が異なる(#各地方の特徴にて詳述)。 ネギや鳴門巻などを入れる場合もある。これを冷やしたものは「冷やし たぬきそば・冷やし たぬきうどん」と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大正時代、東京で揚げ玉を無料で出していたところ人気となり、東京では後に有料となったことから地域差が生まれた。戦時中にはパーッと広がる様子から「バクダン」とも呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古川ロッパは、エッセイ「うどんのお化け」で、たぬきうどんについて以下のように述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "語源には諸説ある。蕎麦や饂飩の「たぬき」が表す料理は地方によって異なる料理を示す事もありそれぞれ異なる説もある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "地方によって名称や特徴が異なり、下記に記述する。", "title": "各地方の特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "過去に北海道ではかき揚げをのせたものをたぬきと称すると書かれた文献もあるが、昭和の時代から北海道でもたぬきそばは天かすを入れたそばであり、かき揚げを乗せたそばはかき揚げそばと称するのが一般的である。", "title": "各地方の特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "東日本において、「たぬき」は一般には揚げ玉(天かす)をのせたものを指し、たぬきそば・たぬきうどんは、かけよりも価格は高く設定されていることが多い。蕎麦屋によっては、揚げ玉を「たぬき」として売っているところがある。", "title": "各地方の特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "たぬきうどんは、揚げ玉入りのうどんであるが、金沢市では京都と同じたぬきうどんを出す店もある。", "title": "各地方の特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "京都では刻んだ油揚げの上から葛餡を掛けたうどんを「たぬき」と呼ぶ。大阪で一般的にいわれる「たぬき」とは異なるため、単に「たぬき」とだけ注文された場合には店側がうどんのものかそばのものか念を押すことがあるとされる。 「京風うどん」を提供する全国丼ぶりチェーン店『なか卯』の天かす・揚げ玉入りうどんは「はいからうどん」が商品名。", "title": "各地方の特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大阪では油揚げを乗せた「そば」を「たぬき」と呼ぶ。油揚げは甘辛く味付けしたものである(当地のきつねの台を蕎麦にしたものが「たぬき」)。大阪周辺の立ち食いうどん店などでは天かす(関東では揚げ玉)は無料で提供されている事がある。", "title": "各地方の特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この地域では「ハイカラうどん」という名で売り出している店もある。なお、「はいから」はいわゆる「きつねうどん」の別称でもある。", "title": "各地方の特徴" } ]
たぬきそば(狸蕎麦)・たぬきうどん(狸饂飩)は、蕎麦やうどん料理の一種である。地方によって呼称や調理法が異なる(#各地方の特徴にて詳述)。 ネギや鳴門巻などを入れる場合もある。これを冷やしたものは「冷やし たぬきそば・冷やし たぬきうどん」と呼ぶ。
[[File:Tanuki soba by WordRidden at E-Kagen in Brighton.jpg|thumb|right|イギリス・[[ブライトン]]のたぬきそば]] [[File:Jin Kichi, Hampstead, London (3955870186).jpg|thumb|right|イギリス・ロンドンのたぬきうどん]] [[File:Tanuki.soba.higashinihon.jpg|thumb|right|東日本暖簾わけ店のたぬきそば(食品サンプル)]] [[File:Tanuki soba.JPG|thumb|right|大阪の立ち食いそば屋のたぬきそば(食品サンプル)]] '''たぬきそば'''(狸蕎麦)・'''たぬきうどん'''(狸饂飩)は、[[蕎麦]]や[[うどん]]料理の一種<ref name="定義">新明解国語辞典第7版(2012、三省堂)</ref>である。地方によって呼称や調理法が異なる([[#各地方の特徴]]にて詳述)。 [[ネギ]]や[[鳴門巻]]などを入れる場合もある<ref name="isyokujuugogenjiten_p195">『衣食住語源辞典』東京堂出版 p.195 1996年</ref>。これを冷やしたものは「冷やし たぬきそば・冷やし たぬきうどん」と呼ぶ<ref>[http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20120709/129261/?P=3&rt=nocnt “冷たいカップ麺”はおいしいのか!?] 日経ウーマンオンライン【食のトレンド発掘隊】、2012年7月11日</ref>。 == 歴史 == [[大正時代]]<ref name="tanukisoba">[http://www.nichimen.or.jp/menu/tanuki.html そば屋メニュー紹介「たぬきそば」] 日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会</ref>、[[東京]]で[[天かす|揚げ玉]]を無料で出していたところ人気となり、東京では後に有料となったことから地域差が生まれた。戦時中にはパーッと広がる様子から「バクダン」とも呼ばれた<ref name="tanukisoba" />。 [[古川ロッパ]]は、エッセイ「うどんのお化け」で、たぬきうどんについて以下のように述べている<ref>{{Cite web|和書|title=うどんのお化け|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/001558/files/52321_46409.html|website=www.aozora.gr.jp|accessdate=2022-02-19|language=ja|last=古川緑波}}</ref>。 {{quotation|又、たぬきというのもある。これは、何かと思ったら(昔は、あんかけを、たぬきに称していたようだが)揚げカスを、載っけた奴であった。それなら、つい先頃まで、ハイカラうどんと称していた筈である。}} == 語源 == 語源には諸説ある。蕎麦や饂飩の「たぬき」が表す料理は地方によって異なる料理を示す事もありそれぞれ異なる説もある。 * 天かすを入れたものをたぬきと称する事に関する説 ** タネ抜きの転訛であるとする説 *:[[天ぷら]]の「タネ」を入れない(タネを抜いた)揚げ物の「タネヌキ」であり<ref>「天かす」項目内の「[[天かす#「天かす」と「揚げ玉」|「天かす」と「揚げ玉」]]」の節参照</ref>、そば屋で「[[天ぬき|ぬき]]」を頼むと天ぷらそばのそば抜き(そばつゆに天ぷらだけが入っている)が出てくるのと同様で、「タネ抜き」を語源に「たぬき」とした説<ref>[http://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-08_08.html 小麦粉のある風景「うどん」「そば」にしひがし] 財団法人製粉振興会</ref><ref name="sobajiten_p153">植原路郎著・中村綾子改訂『蕎麦辞典 改訂新版』東京堂出版 p.153 2002年</ref><ref name="500_p247">平川陽一編『今さら誰にも聞けない500の常識』廣済堂文庫 p.247 2003年</ref><ref name="tabemonokigen_p280">岡田哲著『たべもの起源事典』東京堂出版 p.280 2003年</ref>。 **[[きつね (麺類)|きつねそば・きつねうどん]]に比べてかけ汁の色合いが濃く濃厚な味付けであることに由来するとみる説<ref name="sobajiten_p153"/><ref name="tabemonokigen_p280"/><ref name="komugiko_p191">岡田哲編『コムギ粉料理探究事典』東京堂出版 p.191 1999年</ref>。 ** [[世田谷区]][[砧 (世田谷区)|砧]](キヌタ)家で始めたキヌタソバがその始まりだという説<ref>新明解国語辞典第5版(三省堂)</ref>があり、「きぬた」を逆さに読んだ。 ** 天かすの印象が腹を膨らませた「[[タヌキ|たぬき]]」の様子を連想させることに由来するという説<ref name="isyokujuugogenjiten_p195"/>。 * 油揚げを入れたそばの語源に関する説 ** うどんの麺の白に対して、そばの麺の黒を「たぬき」に例えたとする説<ref name="500_p248">平川陽一編『今さら誰にも聞けない500の常識』廣済堂文庫 p.248 2003年</ref>。 ** 関西においては、そばよりうどんが一般的に好まれているとされる事を元にして「うどんからそばに化けた」事から「たぬき」と呼ばれるようになったという説<ref name="500_p248"/>。 ** 関東において、江戸後期のある店でイカの[[かき揚げ]]の衣に対して具が小さいものが出され、それがたぬきに化かされた感じがすることから「たぬき」と呼ばれるようになったという説<ref>札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』2006年、新潮社、p171</ref> == 各地方の特徴 == 地方によって名称や特徴が異なり<ref>参考:[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/6062/noodle.html たぬきときつね] 複数サイトを参照しメーリングリストや掲示板からの意見をまとめたもの</ref>、下記に記述する。 <!--通例に倣い北から--> === 北海道 === 過去に[[北海道]]ではかき揚げをのせたものをたぬきと称すると書かれた文献もあるが<ref>どんぶり探偵団・編『ベストオブ丼』文春文庫・97頁</ref>、昭和の時代から北海道でもたぬきそばは天かすを入れたそばであり、かき揚げを乗せたそばはかき揚げそばと称するのが一般的である。 === 東日本 === [[東日本]]において、「たぬき」は一般には揚げ玉(天かす)をのせたものを指し、たぬきそば・たぬきうどんは、かけよりも価格は高く設定されていることが多い<ref name="osaka_p60">大谷晃一著『大阪学』新潮文庫 p.60 1994年</ref>。蕎麦屋によっては、揚げ玉を「たぬき」として売っているところがある{{efn2|胡麻油と白絞油の油を使用し、天ぷらとは別に作り上げたもの<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tomisen.com/SHOP/004.html|title=たぬき(あげ玉)|date=|publisher=そば 富泉|accessdate=2020-5-30}}</ref>。}}。 === 石川 === たぬきうどんは、揚げ玉入りのうどんであるが、[[金沢市]]では京都と同じたぬきうどんを出す店もある。 === 京都 === [[京都]]では刻んだ油揚げの上から[[クズ|葛]][[餡]]を掛けたうどんを「たぬき」と呼ぶ<ref name="komugiko_p191"/><ref name="tabemonokigen_p281">岡田哲著『たべもの起源事典』東京堂出版 p.281 2003年</ref><ref name="osaka_p59">大谷晃一著『大阪学』新潮文庫 p.247 1994年</ref><ref>[http://www.kbs-kyoto.co.jp/tv/ippin/2009/03/a127.htm 第127回みんなが愛する庶民の味 京のおうどん] - KBS京都『[[京のいっぴん物語]]』、文中に「たぬき」の説明</ref>。大阪で一般的にいわれる「たぬき」とは異なるため、単に「たぬき」とだけ注文された場合には店側がうどんのものかそばのものか念を押すことがあるとされる<ref name="osaka_p59"/>。 「京風うどん」を提供する全国丼ぶり[[チェーン店]]『[[なか卯]]』の天かす・揚げ玉入りうどんは「はいからうどん」が商品名。 === 大阪 === [[大阪]]では[[油揚げ]]を乗せた「そば」を「たぬき」と呼ぶ<ref name="komugiko_p191"/><ref name="tabemonokigen_p281"/>。油揚げは甘辛く味付けしたものである(当地の[[きつね (麺類)|きつね]]の台を蕎麦にしたものが「たぬき」<ref name="osaka_p59"/>)。大阪周辺の[[立ち食いうどん]]店などでは天かす(関東では揚げ玉)は無料で提供されている事がある<ref name="osaka_p60"/>。 === 中四国・九州北部 === この地域では「ハイカラうどん」という名で売り出している店もある<ref name="osaka_p60"/>。なお、「はいから」はいわゆる「きつねうどん」の別称でもある<ref name="tabemonokigen_p126">岡田哲著『たべもの起源事典』東京堂出版 p.126 2003年</ref>。 {|class="wikitable" |- !!!関西以外!!関西 |- ! きつね | *'''油揚げ'''の甘煮をのせたそば又はうどん<br>(きつねうどん、きつねそば) | *油揚げの甘煮をのせた'''うどん'''(けつね、しのだ) |- ! たぬき | *'''揚げ玉'''をのせたそば又はうどん<br>(たぬきうどん、たぬきそば) | *京都:'''刻んだ油揚げ'''{{efn2|通常、甘煮ではない素の油揚げが用いられる。}}と青ねぎを[[あんかけ]]にしたうどん又はそば *大阪:油揚げの甘煮またはキザミをのせた'''そば''' |- ! ハイカラ |   - | *'''揚げ玉'''をのせたうどん又はそば{{efn2|前述のように、揚げ玉は無料でのせられる店も多いため、特に料理名を付けないこともある。}} |- ! きざみ |   - | *'''刻んだ油揚げ'''をのせたうどん又はそば |- |} == 即席めん == * [[大黒食品工業]]の「たぬきうどん」は揚げ玉入りである<ref>参考 : [http://soule.uvia.wpu.jp/detail_555573.html 食品のグッジョブ!SOULE]</ref>。また、「たぬきそば」はのり天入りである。 * [[エースコック]]の「京都たぬきうどん」は「餡かけ」のうどんである。 * [[東洋水産]]の「[[マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき|マルちゃん緑のたぬき天そば]]」は、[[エビ|小エビ]]の天ぷら(揚げ玉及び天かすと小エビで作った[[かき揚げ]])入りの蕎麦である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考資料 == *『蕎麦辞典』 *『そば・うどん百味百題』 == 関連項目 == * [[タヌキ]]([[動物]]) * [[丼物]](揚げ玉(卵でとじる場合もある)を乗せた「[[たぬき丼]]」がある) * [[おにぎり]](揚げ玉をご飯に混ぜて握る「[[たぬきおにぎり]]」がある) * [[かけそば]](基本となるそば) * [[きつね (麺類)]] - 同じく動物の名前が使われる事から、たぬきとともに取り上げられる麺類。 == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://web.archive.org/web/20190330143727/http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/9450/kitsune.html 「きつねうどん」と「たぬきそば」の謎] 大林憲司 - [[ウェイバックマシン]](2019年3月30日アーカイブ分) {{DEFAULTSORT:たぬき}} [[Category:蕎麦]] [[Category:うどん]] [[Category:天ぷら]]
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ドブニウム
ドブニウム(Dubnium)は、元素記号Db、原子番号105の化学元素である。高い放射性を持ち、最も安定な既知の同位体であるドブニウム268の半減期は約16時間である。このため、この元素に関する実験は非常に制限されている。 ドブニウムは地球上では天然に生成せず、人工的に作られる。ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所は、1968年にこの元素の発見を主張し、1970年にはアメリカ合衆国のローレンス・バークレー国立研究所が続いた。両チームが各々新元素への命名を提案し、公式な承認なしで用いた。長い議論は、1993年にIUPAC/IUPAP超フェルミウム元素作業部会が発見に関する主張を公式に調査し発見は両チームによるものだと公式に認定するまで続いた。1997年に、ドゥブナ合同原子核研究所の所在地であるドゥブナの町に因んで、ドブニウムと公式に命名された。 6dブロックの第5族元素であり、周期表上では、バナジウム、ニオブ、タンタルの下に位置する。相対論効果により若干の違いはあるものの、価電子の電子配置や+5の酸化状態が支配的であること等、多くの性質が第5族元素と共通であると考えられており、ドブニウムの化学的性質に関する限られた実験によりこれが確かめられている。 重い原子核は、2つの異なる原子核の核融合反応により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、クーロンの法則により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、強い相互作用がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、加速器で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)。核融合が起こる場合、複合核と呼ばれる一時的な融合状態が励起状態となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る。この事象は、最初の衝突の約10秒後に起こる 粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され、表面障壁型半導体検出器に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される。移送には約10秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される。 原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子(陽子と中性子)が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない。そのため、重元素の原子核は、このような反発によるアルファ崩壊や自発核分裂のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない。 重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる。 天然である程度の量が生成する最も重い元素は原子番号92のウランである。これより重い元素は人工合成により作られる。新元素の最初の合成は、原子番号93のネプツニウムで、1940年にアメリカ合衆国の科学者チームにより達成された。これに続き、1955年までに、原子番号101番のメンデレビウムまでが人工合成された。102番元素以降は、アメリカ合衆国とソビエト連邦の物理学者の間で、発見の優先権が争われた。新しい元素とその発見を巡るこの争いは、後にw:Transfermium Warsと名付けられた。 105番元素の発見に関する最初の報告は、1968年4月にドゥブナ合同原子核研究所から出された。Am原子核を標的としてNeイオンのビームを照射した。9.4 MeV(半減期0.1-3秒)及び9.7 eV(半減期0.05秒以上)のアルファ崩壊の後に、103または103のものと似たアルファ崩壊が続いたと報告した。以前の理論予測に基づき、2つの崩壊系列は、105と105に割り当てられた。 105番元素のアルファ崩壊の観測の後、この元素の自発核分裂を観測し、結果として生じる分裂断片を研究することが目指された。彼らは1970年2月に論文を発表し、半減期が14ミリ秒と2.2±0.5秒の複数の崩壊の事例を報告し、前者をAm、後者を105番元素の同位体に起因するとした。この反応の収率はAmを生成する移行反応よりもかなり低く、理論予測と一致しているため、この崩壊が105番元素によるものではなく移行反応に起因する可能性は低いことが示唆された。 この崩壊が(Ne,xn)反応に起因するものではないことを立証するために、Am原子核を標的としてOイオンを照射する実験が行われた。103及び103を生成する反応は自発核分裂をほとんど起こさず、より重い103及び103を生成する反応は自発核分裂を全く起こさなかった。これは理論データと一致した。その結果、観測された崩壊は、105番元素の自発核分裂に起因するものと結論付けられた。 1970年4月、ローレンス・バークレー国立研究所のチームは、Cf原子核にNイオンのビームを照射して9.1 MeVの崩壊を観測し、105番元素を合成したと主張した。この崩壊が別の反応に起因するものではないことを示すため、CfとN、PbとN、HgとNを用いた別の反応も試した。これらの反応では崩壊は観測されず、娘核の性質は103とよく一致するものであったことから、親核は105であることが示唆された。 これらの結果は、9.4 MeVまたは9.7 MeVのエネルギーを持つ105のアルファ崩壊を観測したドゥブナの発見と一致せず、合成された同位体の可能性は105だけに絞られた。 ドゥブナのチームは、その後、105番元素を生成する別の実験を行い、1970年5月に報告を公表した。彼らは、さらに多くの105番元素の原子核を合成し、この実験により以前の研究が裏付けられたと主張した。論文によると、彼らが作成した同位体は恐らく105か105であった。この報告は、温度勾配ガスクロマトグラフィーによって、自発核分裂により形成されたものの塩化物が、四塩化ハフニウムではなく五塩化ニオブとほぼ一致することを初めて実証した。またチームは、エカタンタルの特性を示す揮発性塩化物の半減期2.2秒の自発核分裂を特定し、自発核分裂を起こした核種が105番元素に間違いないと推測した。 1970年6月、ドゥブナのチームは、彼らの最初の実験を改良した。より純粋な標的を用い、またキャッチャーの前にコリメーターを設置することで移行反応の可能性を減らした。今回は、 娘核が103または103であることを示す9.1 MeVのアルファ崩壊が観測され、親核が105か105であることが示唆された。 ドゥブナのチームは、105番元素の合成を主張する最初の報告で、慣例として行われていた命名の提案をしなかった。そのため、バークレーのチームは、彼らが合成の主張を裏付ける十分な実験データを得られていないと信じた。より多くのデータを集めた後、ドゥブナは、デンマークの核物理学者で原子構造理論及び量子理論の創設者であるニールス・ボーアの名前に因んだボーリウム(Bo)という名前を提案したが、その後すぐに、ホウ素(boron)との混同を避けるため、ニールスボーリウム(Ns)に提案を変えた。他に提案された名前には、ドブニウムがあった。バークレーのチームは、105番元素の合成を最初に公表した際、ドイツの化学者で「核化学の父」と呼ばれるオットー・ハーンに因んだハーニウム(Ha)という名前を提案し、元素の命名を巡る論争が生じた。 1970年代初期には、両チームは次の元素である106番元素の合成を報告したが、やはり名前を提案しなかった。ドゥブナのチームは、発見の基準を明確にするための国際委員会の設立を提案した。この提案は1974年に受け入れられ、中立の合同グループが設立された。どちらのチームも第三者に論争の解決を任せることを望まず、合同中立グループの設立を不要とし論争を内部で解決するために、バークレーのチームを率いるアルバート・ギオルソとグレン・シーボーグが1975年にドゥブナを訪問し、ドゥブナのチームを率いるゲオルギー・フリョロフ、ユーリイ・オガネシアンらと面会した。2時間の議論の後、これは失敗に終わった。合同の中立グループは主張を評価するために集まることはなく、紛争は未解決のままとなった。1979年、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は、恒久的な名前が決定する前に仮名として用いられる、元素の系統名を提案した。これに基づき、105番元素はウンニルペンチウムとされたが、どちらのチームも彼らの主張を弱めることを望まず、これを無視した。 1981年、西ドイツの重イオン研究所が107番元素の合成を主張した。この報告はドゥブナによる最初の報告より5年遅れていたが、より正確で発見に関するより強固な主張であった。重イオン研究所は、この新元素にニールスボーリウムという名前を提案することで、ドゥブナの貢献に報いた。ドゥブナは、105番元素に新しい名前を提案せず、まず発見者を確定することがより重要であると述べた。 1985年、IUPACと国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)は、議論のある元素について発見者を評価し、正式な名前を確定するために、超フェルミウム作業部会(TWG)を創設した。競合する3つの機関から代表団を招いて会議を開催し、1990年に元素の認識の基準を策定し、1991年には発見を評価する作業を終了し、解散した。これらの結果は1993年に公表された。報告書によると、成功が確実な最初の実験は、1970年4月のバークレーでのもので、その直後6月のドゥブナでの実験が続いた。そのため、この元素の発見は、2つのチームが分け合うべきとされた。 バークレーのチームは、レビューの中で、ドゥブナのチームは彼らの1年後にようやく105番元素を疑いなく合成できたに過ぎず、その成果が過大評価されていると主張したが、ドゥブナと重イオン研究所のチームはこの報告を支持した。 1994年、IUPACは、議論のある元素の命名に関する勧告を公表し、105番元素については、フランスの物理学者で核物理学及び核化学の発展に貢献したフレデリック・ジョリオ=キュリーの名前に因むジョリオチウム(Jl)という名前を提案した。この名前は、もともとソビエト連邦のチームが、それまで長い間ノーベリウムと呼ばれていた102番元素に提案していたものだった。この勧告は、いくつかの理由からアメリカの科学者に批判された。第一に、この提案はそれまでの提案をごちゃ混ぜにしたもので、もともとバークレーが104番元素と105番元素に提案していたラザホージウム、ハッシウムという名前を各々106番元素、108番元素に割り当てていた。第二に、バークレーが共同発見者と認識されていた104番元素と105番元素にはドゥブナの支持する名前が与えられた。第三に、そして最も重要なことには、1993年の報告で106番元素はバークレーの単独の発見であると認定されていたにもかかわらず、存命人物に因む元素名は認めないという新しい規則を元に、IUPACはこの元素に対するシーボーギウムという命名の提案を拒絶した。 1995年、IUPACは議論を呼んだ規則を廃止し、妥協点を探し出すために、国家の代表による委員会を設立した。彼らは、106番元素をシーボーギウムと命名する代わりに、103番元素に対するローレンシウムという確立していた命名を除いて、他の全てのアメリカの提案を撤回するという提案をした。 102番元素に対して等しく定着していたノーベリウムという名前は、1993年の報告でこの元素の最初の合成がドゥブナによるものであると認定された後、ゲオルギー・フリョロフに因むフレロビウムという名前に置き換えられた。この決定はアメリカの科学者に拒絶され、撤回された。フレロビウムという名前は、後に114番元素に用いられた。 1996年、IUPACは別の会議を開催し、提案されていた全ての命名案を再検討し、一連の別の勧告を提案した。これは1997年に承認されて公表された。105番元素はドゥブナという地名に因んでドブニウムと命名され、アメリカの提案は、102番、103番、104番、106番元素に使われた。ドブニウムという名前は、以前のIUPACの勧告では104番元素に用いられていた。アメリカの科学者は「しぶしぶ」この決定を受け入れた。IUPACは、バークレーの提案は、既にバークリウム、カリホルニウム、アメリシウムの命名において複数認めれており、104番元素へのラザホージウム、106番元素へのシーボーギウムという命名は、104-106番元素の発見に対するドゥブナの貢献に報いることで相殺されるべきであると指摘した。 1997年以降になっても、ローレンス・バークレー国立研究所は、自身の発行する論文誌等において105番元素に対するハーニウムという名前を用いることがあり、これは2014年まで続いた。しかし、Radiochimica Acta誌のエディタであるJens Volker Kratzが、1997 年のIUPAC勧告を使用していない論文の受理を拒否したことで、この問題は解決された。 原子番号105のドブニウムは超重元素であり、このような大きな原子番号を持つ他の元素と同様に、非常に不安定である。半減期が最も長い既知の同位体はDbであり、半減期は約1日である。安定同位体は知られておらず、2012年にドゥブナで行われた計算では、全てのドブニウム同位体の半減期は1日を大きく超えないことが示された。ドブニウムは人工合成のみで得られる。 短い半減期のため、ドブニウムの実験は難しい。さらに悪いことに、最も安定な同位体は、合成が最も難しい。原子番号が小さい元素は、原子番号が大きい元素よりも中性子:陽子比が低い安定同位体を持っている。つまり、超重元素を合成するために使用する標的とビーム核は、これらの最も安定な同位体を形成するのに必要な量よりも少ない中性子を持つ(2010年代時点で、r過程と核子移行反応に基づく様々な技術が検討されているが、この分野では未だ大小の原子核の衝突に基づく技術が支配的である)。 各々の実験で合成されるDbは数原子のみであり、そのため、測定された寿命は過程によって大きく変わりうる。2022年時点で、ドゥブナで追加的に行われた実験では、Dbの半減期は、16-4時間と測定されている。 Dbの次に安定な同位体であるDbは、さらに合成例が少ない。合計3原子が報告されており、それぞれ33.4時間、1.3時間、1.6時間で崩壊している。これら2つは、ドブニウムの既知の最も重い同位体であり、これらを合成した実験はもともとドゥブナで、Caビームのために設計されたものであったため、どちらも直接合成ではなく、より重い原子核であるMc、Tsの崩壊により生成される。Caは、実用可能な全ての安定原子核の中で、その質量に対して定量的及び相対的に中性子過剰が圧倒的に大きいものであるため、より多くの中性子を含む超重原子核を合成するのに役立つが、この利点は、原子番号が高いほど核融合の可能性が低下することによって相殺される。 周期表上では、ドブニウムは、バナジウム、ニオブ、タンタルとともに、第5族元素に分類される。105番元素の性質に関するいくつかの実験が行われ、周期律により予測される性質と一般的には一致することが確かめられた。しかし、原子的及び巨視的な物理的性質を大きく変える相対論効果により、大きく差が出る部分もある。これらの性質は、超重元素の合成の難しさや収率の低さ、放射線対策の必要性、短い半減期等の様々な理由により、測定が難しくなっており、これまでのところ、単原子に対する実験のみが行われている。 直接の相対論効果は、元素の原子番号が増えるにつれ、電子と原子核の間の静電引力が増加する結果、最内殻の電子が原子核の周りをより高速に回り始めることである。同様の効果は最外殻のs軌道(及びドブニウムでは空であるがp1/2軌道)でも見られ、例えば、7s軌道の大きさは25%収縮し、2.6 eV安定化する。 より間接的な効果には、s軌道及びp1/2軌道による核子の電荷の遮蔽効果がより有効になり、外殻のd電子及びf電子に与えられる電荷が減少することで、より大きな軌道に移動する。ドブニウムはこの効果を大きく受け、他の第5族元素とは異なり、7s電子は6d電子よりも引き抜かれにくくなる。 他の効果には、スピン軌道相互作用、特にスピン軌道分裂があり、6d小軌道(d殻の軌道角運動量lは2)が2つの小軌道に分裂する。10個の軌道のうち4つはlが3/2に下がり、一方6つはlが5/2に上がる。10個全てのエネルギー準位は上がり、そのうち4つは他の6つより低くなる(3つの6d電子は通常、最低のエネルギー準位6d3/2を占める)。 1価のイオン化したドブニウム原子(Db)は、中性原子と比べて6d電子を失いやすい。2価(Db)及び3価(Db)のイオン化原子は、より軽い同族元素と異なり、7s電子を失う。この変化に関わらず、ドブニウムはやはり5つの価電子を持つと推測され、7pエネルギー準位はドブニウム及びその性質に影響を与えていないように見える。ドブニウムの6d軌道はタンタルのの5d軌道よりも不安定化するため、Dbは7s電子ではなく、2つの6d電子が残ると推測される。結果として生じる+3の酸化状態は不安定で、タンタルのものよりも生じにくいと推測される。最大の+5の酸化状態のドブニウムのイオン化エネルギーは、タンタルのものよりも若干低く、イオン半径はタンタルと比べて大きくなる。これは、ドブニウムの化学的性質に大きく影響している。 固体状態のドブニウム原子は、他の第5族元素と同様、体心立方格子に配列する。予想される密度は、21.6 g/cmである。 分子間相互作用が取るに足りないものとして無視できるため、計算化学は、気相において最も単純化される。複数の研究者が五フッ化ドブニウムの研究を行っており、計算によると、周期律に従って他の第5族元素と同様の性質を示す。例えば、分子軌道準位は、ドブニウムが推測どおり3つの6d電子準位を用いていることを示す。タンタルのアナログと比較すると、五フッ化ドブニウムは共有結合性が増加し、原子の有効電荷が減少し、ドブニウムと塩素の軌道間の重なりが大きくなることが推測される。 溶液の化学的性質の計算では、最大の酸化状態である+5の状態がニオブやタンタルよりも安定化し、+3や+4の状態がより不安定化することが示される。最大酸化状態の陽イオンの加水分解の傾向は、第5族元素内で減少するはずであるが、それでも非常に急速であると予測される。ドブニウムの錯化は、その豊富さにおいて第5族元素の傾向を踏襲すると予測される。水酸化物錯体、塩化物錯体の計算では、第5族元素の錯体の形成や抽出の傾向と逆行し、タンタルと比べてより逆行しやすいことが示される。 ドブニウムの化学的性質に関する実験は、1974年から1976年まで遡る。ドゥブナの研究者は、サーモクロマトグラフィーを用いて臭化ドブニウムは臭化ニオブよりも揮発性が低く、臭化ハフニウムと同程度であると結論付けた。検出された分裂生成物は確定しておらず、親核が本当に105番元素であったかどうかははっきり分かっていない。これらの結果は、ドブニウムがニオブよりもタンタルと似た挙動を示すことを示唆する。 ドブニウムの化学的性質に関する次の実験は、1988年にバークレーで行われ、水溶液中でドブニウムの最も安定な酸化状態が+5であるかどうかが確かめられた。2度燻蒸し、濃硝酸で洗って、スライドガラス上に吸着したドブニウムを、同様の処理を行った第5族元素のニオブ、タンタル、第4族元素のジルコニウム、ハフニウムと比較した。第5族元素はガラス表面に吸着することが知られているが、第4族元素はそうではなく、ドブニウムは第5族であることが確認された。驚いたことに、硝酸/フッ化水素酸混合物溶液からメチルイソブチルケトンへの抽出物の挙動は、ドブニウム、タンタル、ニオブの間で異なった。ドブニウムは抽出されず、その挙動はタンタルよりもニオブと似ており、錯化挙動は周期表の族の中での傾向を単に外挿するだけでは予測できないことが示された。 これにより、ドブニウム錯体の化学的挙動のさらなる研究が促されることとなった。1988年から1993年まで、いくつかの研究所が共同で数千回に及ぶクロマトグラフィー実験を繰り返した。第5族の全ての元素とプロトアクチニウムを濃塩酸から抽出し、低濃度の塩化水素と混合した後、少量のフッ化水素を添加して、選択的再抽出が開始された。ドブニウムは、塩化水素濃度が12 M以下の範囲で、タンタルとは異なるがニオブや擬同族体であるプロトアクチニウムと似た挙動を示した。2つの元素のこの類似性は、形成された錯体がDbOX4または[Db(OH)2X4]であることを示す。臭化水素からプロトアクチニウム用の抽出剤であるジイソブチルカルビオール(2,6-ジメチルヘプタン-4-オール)でドブニウムを抽出した後、続いて塩化水素/臭化水素の混合物と塩化水素で溶出し、ドブニウムはプロトアクチニウムやニオブと比べて抽出されにくい傾向があることが示された。これは、複数負電荷を持った抽出できない錯体の形成が増える傾向から説明される。1992年に行われた追加の実験で、+5状態の安定化が確認された。Db(V)は、他の第5族元素やプロトアクチニウムと同様にα-ヒドロキシイソ酪酸を用いて陽イオン交換樹脂から抽出可能であることが示されたが、Db(III)とDb(IV)はそうではない。1998年と1999年には、新しい予測により、ハロゲン化溶液から、ニオブとほぼ同程度、タンタルよりもよく抽出されることが示され、後に確認された。 半減期35秒のDbを用いて、等温ガスクロマトグラフィーの実験が1992年に初めて行われた。ニオブとタンタルの揮発性は誤差の範囲内で類似していたが、ドブニウムは揮発性が若干低かった。これは、系の中の痕跡量の酸素が、DbBr5よりも揮発性が低いと予測されるDbOBr3の形成を促進していたためと推測された。1996年の実験で、タンタルを除く第5族元素の塩化物は、対応する臭化物と比べて揮発性が高いことが示され、これは恐らくTaOCl3の形成のためであると考えられた。後に行われた実験では、ドブニウムとニオブを制御された酸素分圧の関数とし、生成した酸塩化物の揮発性は、一般的に酸素の濃度に依存することが示された。また酸塩化物は塩化物よりも揮発しにくいことが示された。 2004-05年、ドゥブナとリバモアの研究者は、新しく合成された115番元素(モスコビウム)の5回目のアルファ崩壊の生成物として、ドブニウムの新しい同位体Dbを同定した。この新しい同位体は、約1日の半減期で、化学実験を行うのに十分な寿命を持つことが明らかとなり、2004年、標的の表面からドブニウムを含む薄層を除去し、トレーサー、ランタンキャリアとともに王水に溶解し、水酸化アンモニウムを加えると、そこから、+3、+4、+5の様々な化学種が沈殿した。沈殿を洗って塩酸に溶かすと硝酸塩に変化し、その後薄層上で乾燥させ、計数した。大部分は+5の化学種であり、すぐにドブニウムに由来するものと判断されたが、+4の化学種も存在し、この結果から、チームはさらなる化学分離が必要であると決定した。2005年にこの実験が繰り返され、最終生成物は硝酸塩の沈殿ではなく水酸化物であることが分かり、リバモアでは逆相クロマトグラフィー、ドゥブナでは陰イオン交換クロマトグラフィーにより、さらなる処理が行われた。+5の化学種は効率的に分離された。ドブニウムは、タンタルのみの画分に3回現れ、ニオブのみの画分には全く現れなかった。これらの実験は、ドブニウムの一般的な化学プロファイルを描くには不十分なものであったことには留意が必要である。 2009年、日本原子力研究開発機構のタンデム加速器内で、ニオブがNbOF4、タンタルがTaF6を形成する程度の濃度で、硝酸とフッ化水素酸によるドブニウムの処理が行われた。ドブニウムの挙動は、ニオブの挙動と似ているがタンタルの挙動とは似ておらず、ドブニウムがDbOF4を形成していることが示唆された。入手可能な情報から、ドブニウムはしばしばニオブと、また時にプロトアクチニウムと似た挙動を示すが、タンタルと似た挙動は滅多に示さないと結論付けられた。 2021年、日本原子力研究開発機構のタンデム加速器を用いて第5族元素の揮発性の酸塩化物MOCl3 (M = Nb, Ta, Db)の実験が行われた。揮発性の傾向は、NbOCl3 > TaOCl3 > DbOCl3であり、周期律に従った傾向を示した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ドブニウム(Dubnium)は、元素記号Db、原子番号105の化学元素である。高い放射性を持ち、最も安定な既知の同位体であるドブニウム268の半減期は約16時間である。このため、この元素に関する実験は非常に制限されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ドブニウムは地球上では天然に生成せず、人工的に作られる。ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所は、1968年にこの元素の発見を主張し、1970年にはアメリカ合衆国のローレンス・バークレー国立研究所が続いた。両チームが各々新元素への命名を提案し、公式な承認なしで用いた。長い議論は、1993年にIUPAC/IUPAP超フェルミウム元素作業部会が発見に関する主張を公式に調査し発見は両チームによるものだと公式に認定するまで続いた。1997年に、ドゥブナ合同原子核研究所の所在地であるドゥブナの町に因んで、ドブニウムと公式に命名された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "6dブロックの第5族元素であり、周期表上では、バナジウム、ニオブ、タンタルの下に位置する。相対論効果により若干の違いはあるものの、価電子の電子配置や+5の酸化状態が支配的であること等、多くの性質が第5族元素と共通であると考えられており、ドブニウムの化学的性質に関する限られた実験によりこれが確かめられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "重い原子核は、2つの異なる原子核の核融合反応により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、クーロンの法則により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、強い相互作用がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、加速器で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)。核融合が起こる場合、複合核と呼ばれる一時的な融合状態が励起状態となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る。この事象は、最初の衝突の約10秒後に起こる", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され、表面障壁型半導体検出器に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される。移送には約10秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子(陽子と中性子)が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない。そのため、重元素の原子核は、このような反発によるアルファ崩壊や自発核分裂のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "天然である程度の量が生成する最も重い元素は原子番号92のウランである。これより重い元素は人工合成により作られる。新元素の最初の合成は、原子番号93のネプツニウムで、1940年にアメリカ合衆国の科学者チームにより達成された。これに続き、1955年までに、原子番号101番のメンデレビウムまでが人工合成された。102番元素以降は、アメリカ合衆国とソビエト連邦の物理学者の間で、発見の優先権が争われた。新しい元素とその発見を巡るこの争いは、後にw:Transfermium Warsと名付けられた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "105番元素の発見に関する最初の報告は、1968年4月にドゥブナ合同原子核研究所から出された。Am原子核を標的としてNeイオンのビームを照射した。9.4 MeV(半減期0.1-3秒)及び9.7 eV(半減期0.05秒以上)のアルファ崩壊の後に、103または103のものと似たアルファ崩壊が続いたと報告した。以前の理論予測に基づき、2つの崩壊系列は、105と105に割り当てられた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "105番元素のアルファ崩壊の観測の後、この元素の自発核分裂を観測し、結果として生じる分裂断片を研究することが目指された。彼らは1970年2月に論文を発表し、半減期が14ミリ秒と2.2±0.5秒の複数の崩壊の事例を報告し、前者をAm、後者を105番元素の同位体に起因するとした。この反応の収率はAmを生成する移行反応よりもかなり低く、理論予測と一致しているため、この崩壊が105番元素によるものではなく移行反応に起因する可能性は低いことが示唆された。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この崩壊が(Ne,xn)反応に起因するものではないことを立証するために、Am原子核を標的としてOイオンを照射する実験が行われた。103及び103を生成する反応は自発核分裂をほとんど起こさず、より重い103及び103を生成する反応は自発核分裂を全く起こさなかった。これは理論データと一致した。その結果、観測された崩壊は、105番元素の自発核分裂に起因するものと結論付けられた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1970年4月、ローレンス・バークレー国立研究所のチームは、Cf原子核にNイオンのビームを照射して9.1 MeVの崩壊を観測し、105番元素を合成したと主張した。この崩壊が別の反応に起因するものではないことを示すため、CfとN、PbとN、HgとNを用いた別の反応も試した。これらの反応では崩壊は観測されず、娘核の性質は103とよく一致するものであったことから、親核は105であることが示唆された。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これらの結果は、9.4 MeVまたは9.7 MeVのエネルギーを持つ105のアルファ崩壊を観測したドゥブナの発見と一致せず、合成された同位体の可能性は105だけに絞られた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ドゥブナのチームは、その後、105番元素を生成する別の実験を行い、1970年5月に報告を公表した。彼らは、さらに多くの105番元素の原子核を合成し、この実験により以前の研究が裏付けられたと主張した。論文によると、彼らが作成した同位体は恐らく105か105であった。この報告は、温度勾配ガスクロマトグラフィーによって、自発核分裂により形成されたものの塩化物が、四塩化ハフニウムではなく五塩化ニオブとほぼ一致することを初めて実証した。またチームは、エカタンタルの特性を示す揮発性塩化物の半減期2.2秒の自発核分裂を特定し、自発核分裂を起こした核種が105番元素に間違いないと推測した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1970年6月、ドゥブナのチームは、彼らの最初の実験を改良した。より純粋な標的を用い、またキャッチャーの前にコリメーターを設置することで移行反応の可能性を減らした。今回は、 娘核が103または103であることを示す9.1 MeVのアルファ崩壊が観測され、親核が105か105であることが示唆された。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ドゥブナのチームは、105番元素の合成を主張する最初の報告で、慣例として行われていた命名の提案をしなかった。そのため、バークレーのチームは、彼らが合成の主張を裏付ける十分な実験データを得られていないと信じた。より多くのデータを集めた後、ドゥブナは、デンマークの核物理学者で原子構造理論及び量子理論の創設者であるニールス・ボーアの名前に因んだボーリウム(Bo)という名前を提案したが、その後すぐに、ホウ素(boron)との混同を避けるため、ニールスボーリウム(Ns)に提案を変えた。他に提案された名前には、ドブニウムがあった。バークレーのチームは、105番元素の合成を最初に公表した際、ドイツの化学者で「核化学の父」と呼ばれるオットー・ハーンに因んだハーニウム(Ha)という名前を提案し、元素の命名を巡る論争が生じた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1970年代初期には、両チームは次の元素である106番元素の合成を報告したが、やはり名前を提案しなかった。ドゥブナのチームは、発見の基準を明確にするための国際委員会の設立を提案した。この提案は1974年に受け入れられ、中立の合同グループが設立された。どちらのチームも第三者に論争の解決を任せることを望まず、合同中立グループの設立を不要とし論争を内部で解決するために、バークレーのチームを率いるアルバート・ギオルソとグレン・シーボーグが1975年にドゥブナを訪問し、ドゥブナのチームを率いるゲオルギー・フリョロフ、ユーリイ・オガネシアンらと面会した。2時間の議論の後、これは失敗に終わった。合同の中立グループは主張を評価するために集まることはなく、紛争は未解決のままとなった。1979年、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は、恒久的な名前が決定する前に仮名として用いられる、元素の系統名を提案した。これに基づき、105番元素はウンニルペンチウムとされたが、どちらのチームも彼らの主張を弱めることを望まず、これを無視した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1981年、西ドイツの重イオン研究所が107番元素の合成を主張した。この報告はドゥブナによる最初の報告より5年遅れていたが、より正確で発見に関するより強固な主張であった。重イオン研究所は、この新元素にニールスボーリウムという名前を提案することで、ドゥブナの貢献に報いた。ドゥブナは、105番元素に新しい名前を提案せず、まず発見者を確定することがより重要であると述べた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1985年、IUPACと国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)は、議論のある元素について発見者を評価し、正式な名前を確定するために、超フェルミウム作業部会(TWG)を創設した。競合する3つの機関から代表団を招いて会議を開催し、1990年に元素の認識の基準を策定し、1991年には発見を評価する作業を終了し、解散した。これらの結果は1993年に公表された。報告書によると、成功が確実な最初の実験は、1970年4月のバークレーでのもので、その直後6月のドゥブナでの実験が続いた。そのため、この元素の発見は、2つのチームが分け合うべきとされた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "バークレーのチームは、レビューの中で、ドゥブナのチームは彼らの1年後にようやく105番元素を疑いなく合成できたに過ぎず、その成果が過大評価されていると主張したが、ドゥブナと重イオン研究所のチームはこの報告を支持した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1994年、IUPACは、議論のある元素の命名に関する勧告を公表し、105番元素については、フランスの物理学者で核物理学及び核化学の発展に貢献したフレデリック・ジョリオ=キュリーの名前に因むジョリオチウム(Jl)という名前を提案した。この名前は、もともとソビエト連邦のチームが、それまで長い間ノーベリウムと呼ばれていた102番元素に提案していたものだった。この勧告は、いくつかの理由からアメリカの科学者に批判された。第一に、この提案はそれまでの提案をごちゃ混ぜにしたもので、もともとバークレーが104番元素と105番元素に提案していたラザホージウム、ハッシウムという名前を各々106番元素、108番元素に割り当てていた。第二に、バークレーが共同発見者と認識されていた104番元素と105番元素にはドゥブナの支持する名前が与えられた。第三に、そして最も重要なことには、1993年の報告で106番元素はバークレーの単独の発見であると認定されていたにもかかわらず、存命人物に因む元素名は認めないという新しい規則を元に、IUPACはこの元素に対するシーボーギウムという命名の提案を拒絶した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1995年、IUPACは議論を呼んだ規則を廃止し、妥協点を探し出すために、国家の代表による委員会を設立した。彼らは、106番元素をシーボーギウムと命名する代わりに、103番元素に対するローレンシウムという確立していた命名を除いて、他の全てのアメリカの提案を撤回するという提案をした。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "102番元素に対して等しく定着していたノーベリウムという名前は、1993年の報告でこの元素の最初の合成がドゥブナによるものであると認定された後、ゲオルギー・フリョロフに因むフレロビウムという名前に置き換えられた。この決定はアメリカの科学者に拒絶され、撤回された。フレロビウムという名前は、後に114番元素に用いられた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1996年、IUPACは別の会議を開催し、提案されていた全ての命名案を再検討し、一連の別の勧告を提案した。これは1997年に承認されて公表された。105番元素はドゥブナという地名に因んでドブニウムと命名され、アメリカの提案は、102番、103番、104番、106番元素に使われた。ドブニウムという名前は、以前のIUPACの勧告では104番元素に用いられていた。アメリカの科学者は「しぶしぶ」この決定を受け入れた。IUPACは、バークレーの提案は、既にバークリウム、カリホルニウム、アメリシウムの命名において複数認めれており、104番元素へのラザホージウム、106番元素へのシーボーギウムという命名は、104-106番元素の発見に対するドゥブナの貢献に報いることで相殺されるべきであると指摘した。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1997年以降になっても、ローレンス・バークレー国立研究所は、自身の発行する論文誌等において105番元素に対するハーニウムという名前を用いることがあり、これは2014年まで続いた。しかし、Radiochimica Acta誌のエディタであるJens Volker Kratzが、1997 年のIUPAC勧告を使用していない論文の受理を拒否したことで、この問題は解決された。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "原子番号105のドブニウムは超重元素であり、このような大きな原子番号を持つ他の元素と同様に、非常に不安定である。半減期が最も長い既知の同位体はDbであり、半減期は約1日である。安定同位体は知られておらず、2012年にドゥブナで行われた計算では、全てのドブニウム同位体の半減期は1日を大きく超えないことが示された。ドブニウムは人工合成のみで得られる。", "title": "同位体" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "短い半減期のため、ドブニウムの実験は難しい。さらに悪いことに、最も安定な同位体は、合成が最も難しい。原子番号が小さい元素は、原子番号が大きい元素よりも中性子:陽子比が低い安定同位体を持っている。つまり、超重元素を合成するために使用する標的とビーム核は、これらの最も安定な同位体を形成するのに必要な量よりも少ない中性子を持つ(2010年代時点で、r過程と核子移行反応に基づく様々な技術が検討されているが、この分野では未だ大小の原子核の衝突に基づく技術が支配的である)。", "title": "同位体" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "各々の実験で合成されるDbは数原子のみであり、そのため、測定された寿命は過程によって大きく変わりうる。2022年時点で、ドゥブナで追加的に行われた実験では、Dbの半減期は、16-4時間と測定されている。 Dbの次に安定な同位体であるDbは、さらに合成例が少ない。合計3原子が報告されており、それぞれ33.4時間、1.3時間、1.6時間で崩壊している。これら2つは、ドブニウムの既知の最も重い同位体であり、これらを合成した実験はもともとドゥブナで、Caビームのために設計されたものであったため、どちらも直接合成ではなく、より重い原子核であるMc、Tsの崩壊により生成される。Caは、実用可能な全ての安定原子核の中で、その質量に対して定量的及び相対的に中性子過剰が圧倒的に大きいものであるため、より多くの中性子を含む超重原子核を合成するのに役立つが、この利点は、原子番号が高いほど核融合の可能性が低下することによって相殺される。", "title": "同位体" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "周期表上では、ドブニウムは、バナジウム、ニオブ、タンタルとともに、第5族元素に分類される。105番元素の性質に関するいくつかの実験が行われ、周期律により予測される性質と一般的には一致することが確かめられた。しかし、原子的及び巨視的な物理的性質を大きく変える相対論効果により、大きく差が出る部分もある。これらの性質は、超重元素の合成の難しさや収率の低さ、放射線対策の必要性、短い半減期等の様々な理由により、測定が難しくなっており、これまでのところ、単原子に対する実験のみが行われている。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "直接の相対論効果は、元素の原子番号が増えるにつれ、電子と原子核の間の静電引力が増加する結果、最内殻の電子が原子核の周りをより高速に回り始めることである。同様の効果は最外殻のs軌道(及びドブニウムでは空であるがp1/2軌道)でも見られ、例えば、7s軌道の大きさは25%収縮し、2.6 eV安定化する。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "より間接的な効果には、s軌道及びp1/2軌道による核子の電荷の遮蔽効果がより有効になり、外殻のd電子及びf電子に与えられる電荷が減少することで、より大きな軌道に移動する。ドブニウムはこの効果を大きく受け、他の第5族元素とは異なり、7s電子は6d電子よりも引き抜かれにくくなる。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "他の効果には、スピン軌道相互作用、特にスピン軌道分裂があり、6d小軌道(d殻の軌道角運動量lは2)が2つの小軌道に分裂する。10個の軌道のうち4つはlが3/2に下がり、一方6つはlが5/2に上がる。10個全てのエネルギー準位は上がり、そのうち4つは他の6つより低くなる(3つの6d電子は通常、最低のエネルギー準位6d3/2を占める)。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1価のイオン化したドブニウム原子(Db)は、中性原子と比べて6d電子を失いやすい。2価(Db)及び3価(Db)のイオン化原子は、より軽い同族元素と異なり、7s電子を失う。この変化に関わらず、ドブニウムはやはり5つの価電子を持つと推測され、7pエネルギー準位はドブニウム及びその性質に影響を与えていないように見える。ドブニウムの6d軌道はタンタルのの5d軌道よりも不安定化するため、Dbは7s電子ではなく、2つの6d電子が残ると推測される。結果として生じる+3の酸化状態は不安定で、タンタルのものよりも生じにくいと推測される。最大の+5の酸化状態のドブニウムのイオン化エネルギーは、タンタルのものよりも若干低く、イオン半径はタンタルと比べて大きくなる。これは、ドブニウムの化学的性質に大きく影響している。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "固体状態のドブニウム原子は、他の第5族元素と同様、体心立方格子に配列する。予想される密度は、21.6 g/cmである。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "分子間相互作用が取るに足りないものとして無視できるため、計算化学は、気相において最も単純化される。複数の研究者が五フッ化ドブニウムの研究を行っており、計算によると、周期律に従って他の第5族元素と同様の性質を示す。例えば、分子軌道準位は、ドブニウムが推測どおり3つの6d電子準位を用いていることを示す。タンタルのアナログと比較すると、五フッ化ドブニウムは共有結合性が増加し、原子の有効電荷が減少し、ドブニウムと塩素の軌道間の重なりが大きくなることが推測される。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "溶液の化学的性質の計算では、最大の酸化状態である+5の状態がニオブやタンタルよりも安定化し、+3や+4の状態がより不安定化することが示される。最大酸化状態の陽イオンの加水分解の傾向は、第5族元素内で減少するはずであるが、それでも非常に急速であると予測される。ドブニウムの錯化は、その豊富さにおいて第5族元素の傾向を踏襲すると予測される。水酸化物錯体、塩化物錯体の計算では、第5族元素の錯体の形成や抽出の傾向と逆行し、タンタルと比べてより逆行しやすいことが示される。", "title": "予測される性質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ドブニウムの化学的性質に関する実験は、1974年から1976年まで遡る。ドゥブナの研究者は、サーモクロマトグラフィーを用いて臭化ドブニウムは臭化ニオブよりも揮発性が低く、臭化ハフニウムと同程度であると結論付けた。検出された分裂生成物は確定しておらず、親核が本当に105番元素であったかどうかははっきり分かっていない。これらの結果は、ドブニウムがニオブよりもタンタルと似た挙動を示すことを示唆する。", "title": "ドブニウムに関する実験" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ドブニウムの化学的性質に関する次の実験は、1988年にバークレーで行われ、水溶液中でドブニウムの最も安定な酸化状態が+5であるかどうかが確かめられた。2度燻蒸し、濃硝酸で洗って、スライドガラス上に吸着したドブニウムを、同様の処理を行った第5族元素のニオブ、タンタル、第4族元素のジルコニウム、ハフニウムと比較した。第5族元素はガラス表面に吸着することが知られているが、第4族元素はそうではなく、ドブニウムは第5族であることが確認された。驚いたことに、硝酸/フッ化水素酸混合物溶液からメチルイソブチルケトンへの抽出物の挙動は、ドブニウム、タンタル、ニオブの間で異なった。ドブニウムは抽出されず、その挙動はタンタルよりもニオブと似ており、錯化挙動は周期表の族の中での傾向を単に外挿するだけでは予測できないことが示された。", "title": "ドブニウムに関する実験" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これにより、ドブニウム錯体の化学的挙動のさらなる研究が促されることとなった。1988年から1993年まで、いくつかの研究所が共同で数千回に及ぶクロマトグラフィー実験を繰り返した。第5族の全ての元素とプロトアクチニウムを濃塩酸から抽出し、低濃度の塩化水素と混合した後、少量のフッ化水素を添加して、選択的再抽出が開始された。ドブニウムは、塩化水素濃度が12 M以下の範囲で、タンタルとは異なるがニオブや擬同族体であるプロトアクチニウムと似た挙動を示した。2つの元素のこの類似性は、形成された錯体がDbOX4または[Db(OH)2X4]であることを示す。臭化水素からプロトアクチニウム用の抽出剤であるジイソブチルカルビオール(2,6-ジメチルヘプタン-4-オール)でドブニウムを抽出した後、続いて塩化水素/臭化水素の混合物と塩化水素で溶出し、ドブニウムはプロトアクチニウムやニオブと比べて抽出されにくい傾向があることが示された。これは、複数負電荷を持った抽出できない錯体の形成が増える傾向から説明される。1992年に行われた追加の実験で、+5状態の安定化が確認された。Db(V)は、他の第5族元素やプロトアクチニウムと同様にα-ヒドロキシイソ酪酸を用いて陽イオン交換樹脂から抽出可能であることが示されたが、Db(III)とDb(IV)はそうではない。1998年と1999年には、新しい予測により、ハロゲン化溶液から、ニオブとほぼ同程度、タンタルよりもよく抽出されることが示され、後に確認された。", "title": "ドブニウムに関する実験" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "半減期35秒のDbを用いて、等温ガスクロマトグラフィーの実験が1992年に初めて行われた。ニオブとタンタルの揮発性は誤差の範囲内で類似していたが、ドブニウムは揮発性が若干低かった。これは、系の中の痕跡量の酸素が、DbBr5よりも揮発性が低いと予測されるDbOBr3の形成を促進していたためと推測された。1996年の実験で、タンタルを除く第5族元素の塩化物は、対応する臭化物と比べて揮発性が高いことが示され、これは恐らくTaOCl3の形成のためであると考えられた。後に行われた実験では、ドブニウムとニオブを制御された酸素分圧の関数とし、生成した酸塩化物の揮発性は、一般的に酸素の濃度に依存することが示された。また酸塩化物は塩化物よりも揮発しにくいことが示された。", "title": "ドブニウムに関する実験" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2004-05年、ドゥブナとリバモアの研究者は、新しく合成された115番元素(モスコビウム)の5回目のアルファ崩壊の生成物として、ドブニウムの新しい同位体Dbを同定した。この新しい同位体は、約1日の半減期で、化学実験を行うのに十分な寿命を持つことが明らかとなり、2004年、標的の表面からドブニウムを含む薄層を除去し、トレーサー、ランタンキャリアとともに王水に溶解し、水酸化アンモニウムを加えると、そこから、+3、+4、+5の様々な化学種が沈殿した。沈殿を洗って塩酸に溶かすと硝酸塩に変化し、その後薄層上で乾燥させ、計数した。大部分は+5の化学種であり、すぐにドブニウムに由来するものと判断されたが、+4の化学種も存在し、この結果から、チームはさらなる化学分離が必要であると決定した。2005年にこの実験が繰り返され、最終生成物は硝酸塩の沈殿ではなく水酸化物であることが分かり、リバモアでは逆相クロマトグラフィー、ドゥブナでは陰イオン交換クロマトグラフィーにより、さらなる処理が行われた。+5の化学種は効率的に分離された。ドブニウムは、タンタルのみの画分に3回現れ、ニオブのみの画分には全く現れなかった。これらの実験は、ドブニウムの一般的な化学プロファイルを描くには不十分なものであったことには留意が必要である。", "title": "ドブニウムに関する実験" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2009年、日本原子力研究開発機構のタンデム加速器内で、ニオブがNbOF4、タンタルがTaF6を形成する程度の濃度で、硝酸とフッ化水素酸によるドブニウムの処理が行われた。ドブニウムの挙動は、ニオブの挙動と似ているがタンタルの挙動とは似ておらず、ドブニウムがDbOF4を形成していることが示唆された。入手可能な情報から、ドブニウムはしばしばニオブと、また時にプロトアクチニウムと似た挙動を示すが、タンタルと似た挙動は滅多に示さないと結論付けられた。", "title": "ドブニウムに関する実験" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2021年、日本原子力研究開発機構のタンデム加速器を用いて第5族元素の揮発性の酸塩化物MOCl3 (M = Nb, Ta, Db)の実験が行われた。揮発性の傾向は、NbOCl3 > TaOCl3 > DbOCl3であり、周期律に従った傾向を示した。", "title": "ドブニウムに関する実験" } ]
ドブニウム(Dubnium)は、元素記号Db、原子番号105の化学元素である。高い放射性を持ち、最も安定な既知の同位体であるドブニウム268の半減期は約16時間である。このため、この元素に関する実験は非常に制限されている。 ドブニウムは地球上では天然に生成せず、人工的に作られる。ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所は、1968年にこの元素の発見を主張し、1970年にはアメリカ合衆国のローレンス・バークレー国立研究所が続いた。両チームが各々新元素への命名を提案し、公式な承認なしで用いた。長い議論は、1993年にIUPAC/IUPAP超フェルミウム元素作業部会が発見に関する主張を公式に調査し発見は両チームによるものだと公式に認定するまで続いた。1997年に、ドゥブナ合同原子核研究所の所在地であるドゥブナの町に因んで、ドブニウムと公式に命名された。 6dブロックの第5族元素であり、周期表上では、バナジウム、ニオブ、タンタルの下に位置する。相対論効果により若干の違いはあるものの、価電子の電子配置や+5の酸化状態が支配的であること等、多くの性質が第5族元素と共通であると考えられており、ドブニウムの化学的性質に関する限られた実験によりこれが確かめられている。
{{要改訳|date=2023年1月}} {{Elementbox |name=dubnium |japanese name=ドブニウム |pronounce={{IPAc-en|ˈ|d|uː|b|n|i|əm}} {{respell|D'''OO'''B|nee-əm}} |number=105 |symbol=Db |left=[[ラザホージウム]] |right=[[シーボーギウム]] |above=[[タンタル|Ta]] |below=[[ウンペントペンチウム|Upp]] |series=遷移金属 |group=5 |period=7 |block=d |appearance=不明 |atomic mass=[268] |electron configuration=&#91;[[ラドン|Rn]]&#93; 5f<sup>14</sup> 6d<sup>3</sup> 7s<sup>2</sup>(推定) |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 32, 11, 2(推定) |phase=不明 |density gpcm3nrt= |crystal structure= |oxidation states=5 |atomic radius calculated= |covalent radius=149 |CAS number=53850-35-4 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ドブニウム262|262]] | sym=Db | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|34 s]]<ref>{{cite journal|last1=Münzenberg|first1=G.|last2=Gupta|first2=M.|title=Production and Identification of Transactinide Elements|pages=877|year=2011|doi=10.1007/978-1-4419-0720-2_19}}</ref><ref name=lifetimes/> | dm1=[[アルファ崩壊|α]] (67%) | de1=8.66, 8.45 | pn1=[[ローレンシウム258|258]] | ps1=[[ローレンシウム|Lr]] | dm2=[[自発核分裂|SF]] (33%) | de2= |pn2 = |ps2=}} {{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[ドブニウム263|263]] | sym=Db | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|27 s]]<ref name=lifetimes/> | dm1=[[自発核分裂|SF]] (56%) | de1= | pn1= | ps1= | dm2=[[アルファ崩壊|α]] (41%) |de2=8.36 | pn2=[[ローレンシウム259|259]] | ps2=[[ローレンシウム|Lr]] | dm3=[[電子捕獲|ε]] (3%) | de3= | pn3=[[ラザホージウム263m|263m]] | ps3=[[ラザホージウム|Rf]]}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ドブニウム266|266]] | sym=Db | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E3 s|22 min]]<ref name=lifetimes/> | dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1= | pn1=| ps1= | dm2=[[電子捕獲|ε]] | de2= | pn2=[[ラザホージウム266|266]] | ps2=[[ラザホージウム|Rf]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ドブニウム267|267]] | sym=Db | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E3 s|1.2 h]]<ref name=lifetimes/> | dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ドブニウム268|268]] | sym=Db | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|29 h]]<ref name=lifetimes>http://newscenter.lbl.gov/news-releases/2010/10/26/six-new-isotopes/</ref> | dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1= | pn1= | ps1= | dm2=[[電子捕獲|ε]] | de2= | pn2=[[ラザホージウム268|268]] | ps2=[[ラザホージウム|Rf]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ドブニウム270|270]] | sym=Db | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E4 s|23.15 h]]<ref>{{cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Abdullin|first2=F. Sh.|last3=Bailey|first3=P. D.|last4=Benker|first4=D. E.|last5=Bennett|first5=M. E.|last6=Dmitriev|first6=S. N.|last7=Ezold|first7=J. G.|last8=Hamilton|first8=J. H.|last9=Henderson|first9=R. A.|title=Synthesis of a New Element with Atomic Number Z=117|journal=Physical Review Letters|volume=104|year=2010|doi=10.1103/PhysRevLett.104.142502|pmid=20481935}}</ref> | dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}} |isotopes comment=[[半減期]][[1 E0 s|5 s]]以上の[[同位体]]のみ記載 |density gpcm3nrt 3=29 (推定)}} '''ドブニウム'''(Dubnium)は、[[元素記号]]Db、[[原子番号]]105の化学[[元素]]である。高い[[放射性]]を持ち、最も安定な既知の[[同位体]]である[[ドブニウム268]]の[[半減期]]は約16時間である。このため、この元素に関する実験は非常に制限されている。 ドブニウムは地球上では天然に生成せず、人工的に作られる。[[ソビエト連邦]]の[[ドゥブナ合同原子核研究所]]は、1968年にこの元素の発見を主張し、1970年には[[アメリカ合衆国]]の[[ローレンス・バークレー国立研究所]]が続いた。両チームが各々新元素への命名を提案し、公式な承認なしで用いた。長い議論は、1993年にIUPAC/IUPAP超フェルミウム元素作業部会が発見に関する主張を公式に調査し発見は両チームによるものだと公式に認定するまで続いた。1997年に、ドゥブナ合同原子核研究所の所在地である[[ドゥブナ]]の町に因んで、ドブニウムと公式に命名された。 [[dブロック元素|6dブロック]]の[[第5族元素]]であり、[[周期表]]上では、[[バナジウム]]、[[ニオブ]]、[[タンタル]]の下に位置する。[[相対論効果]]により若干の違いはあるものの、[[価電子]]の[[電子配置]]や+5の[[酸化状態]]が支配的であること等、多くの性質が第5族元素と共通であると考えられており、ドブニウムの化学的性質に関する限られた実験によりこれが確かめられている。 ==導入== [[ファイル:Deuterium-tritium fusion.svg|upright=1.00|alt=A graphic depiction of a nuclear fusion reaction|thumb|left|核融合反応の図示。2つの原子核が1つに融合し、1つの中性子を放出する。]] 重い{{efn|核物理学では、原子番号の大きい元素は、「重い」元素と呼ばれる。原子番号82の鉛は、重い元素の一例である。「超重元素」という用語は、通常、原子番号103番以降の元素を指す(ただし、原子番号100<ref>{{Cite web|url=https://www.chemistryworld.com/news/explainer-superheavy-elements/1010345.article|title=Explainer: superheavy elements|last=Kramer|first=K.|date=2016|website=Chemistry World|accessdate=2020-03-15}}</ref>以降とするものや112以降<ref>{{Cite web|archive-url=https://web.archive.org/web/20150911081623/https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|url=https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|title=Discovery of Elements 113 and 115|publisher=Lawrence Livermore National Laboratory|archive-date=2015-09-11|accessdate=2020-03-15}}</ref>とするもの等、いくつかの定義がある。[[超アクチノイド元素]]と同義の言葉として使われることもある<ref>{{cite encyclopedia|last1=Eliav|first1=E.|title=Electronic Structure of the Transactinide Atoms|date=2018|encyclopedia=Encyclopedia of Inorganic and Bioinorganic Chemistry|pages=1-16|editor-last=Scott|editor-first=R. A.|publisher=John Wiley & Sons|doi=10.1002/9781119951438.eibc2632|isbn=978-1-119-95143-8|last2=Kaldor|first2=U.|last3=Borschevsky|first3=A.|s2cid=127060181 }}</ref>)。ある元素における「重い同位体」や「重い核」という言葉は、各々、質量の大きい同位体、質量の大きい核を指す。}}[[原子核]]は、2つの異なる原子核{{Efn|2009年、[[ユーリイ・オガネシアン]]率いるドゥブナ合同原子核研究所のチームは、対称の<sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe反応におるハッシウム合成の試みの結果について公表した。彼らはこの反応で単原子を観測できず、反応断面積の上限を2.5 pbとした<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Dmitriev|first2=S. N.|last3=Yeremin|first3=A. V.|last4=Aksenov|first4=N. V.|last5=Bozhikov|first5=G. A.|last6=Chepigin|first6=V. I.|last7=Chelnokov|first7=M. L.|last8=Lebedev|first8=V. Ya.|last9=Malyshev|first9=O. N.|last10=Petrushkin|first10=O. V.|last11=Shishkin|first11=S. V.|display-authors=3|date=2009|title=Attempt to produce the isotopes of element 108 in the fusion reaction <sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe |journal=Physical Review C|volume=79|issue=2|pages=024608|doi=10.1103/PhysRevC.79.024608|issn=0556-2813}}</ref>。対称的に、ハッシウムの発見に繋がった反応である<sup>208</sup>Pb + <sup>58</sup>Feの反応断面積は、発見者らにより19<sup>+19</sup><sub>-11</sub>pbと推定された<ref name="84Mu01">{{cite journal|last1=Munzenberg|first1=G.|last2=Armbruster|first2=P.|last3=Folger|first3=H.|last4=Hesberger|first4=F. P.|last5=Hofmann|first5=S.|last6=Keller|first6=J.|last7=Poppensieker|first7=K.|last8=Reisdorf|first8=W.|last9=Schmidt|first9=K.-H.|display-authors=3|date=1984|title=The identification of element 108|url=http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|url-status=dead|journal=Zeitschrift fur Physik A|volume=317|issue=2|pages=235-236|bibcode=1984ZPhyA.317..235M|doi=10.1007/BF01421260|archive-url=https://web.archive.org/web/20150607124040/http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|archive-date=7 June 2015|accessdate=20 October 2012|first10=H.-J.|last10=Schott|first11=M. E.|last11=Leino|first12=R.|last12=Hingmann|s2cid=123288075 }}</ref>。}}の[[核融合反応]]により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる<ref name="Bloomberg">{{Cite web |last=Subramanian |first=S. |date=2019 |title=Making New Elements Doesn't Pay. Just Ask This Berkeley Scientist |url=https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-url=https://archive.today/20201114183428/https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-date=November 14, 2020 |url-status=live |accessdate=2020-01-18 |website=Bloomberg Businessweek}}</ref>。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、[[クーロンの法則]]により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、[[強い相互作用]]がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、[[加速器]]で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10<sup>-20</sup>秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)<ref name="n+1">{{Cite web|url=https://nplus1.ru/material/2019/03/25/120-element|title=Сверхтяжелые шаги в неизвестное|last=Ivanov|first=D.|date=2019|website=N+1|language=ru|trans-title=Superheavy steps into the unknown|access-date=2020-02-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://theconversation.com/something-new-and-superheavy-at-the-periodic-table-26286|title=Something new and superheavy at the periodic table|last=Hinde|first=D.|date=2014|website=The Conversation|accessdate=2020-01-30}}</ref>。核融合が起こる場合、[[複合核]]と呼ばれる一時的な融合状態が[[励起状態]]となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る{{Efn|励起エネルギーが大きくなるほど、より多くの中性子が放出される。励起エネルギーが、各々の中性子を残りの核子に結び付けるエネルギーより低い場合、中性子は放出されない。その代わり、複合核は[[ガンマ線]]を放出して脱励起する<ref name=CzechNuclear/>。}}。この事象は、最初の衝突の約10<sup>-16</sup>秒後に起こる<ref name="CzechNuclear">{{cite web|url=http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20190303183952/http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|url-status=dead|archive-date=2019-03-03|title=Neutron Sources for ADS|last=Krasa|first=A.|date=2010|publisher=Czech Technical University in Prague|pages=4-8|s2cid=28796927 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>{{efn|共同作業部会による定義では、その核が10<sup>-14</sup>秒にわたり崩壊しない場合にのみ、発見として認定される。この値は、原子核が外側の電子を獲得して化学的性質を示すのにかかる時間の推定値として選択された<ref>{{Cite journal|last=Wapstra|first=A. H.|date=1991|title=Criteria that must be satisfied for the discovery of a new chemical element to be recognized|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1991/pdf/6306x0879.pdf|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=63|issue=6|page=883|doi=10.1351/pac199163060879|s2cid=95737691 |issn=1365-3075|accessdate=2020-08-28}}</ref>。また、一般的に考えられる複合核の寿命の上限値を示すものでもある<ref name=BerkeleyNoSF/>。}} 粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる<ref name="SHEhowvideo">{{Cite web|url=https://www.scientificamerican.com/article/how-to-make-superheavy-elements-and-finish-the-periodic-table-video/|title=How to Make Superheavy Elements and Finish the Periodic Table [Video]|author=Chemistry World|date=2016|website=Scientific American|accessdate=2020-01-27}}</ref>。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され{{Efn|この分離は、生成した原子核が未反応の粒子線の原子核よりも、標的の上をよりゆっくり通り過ぎることに基づく。セパレーター内には、特定の粒子速度で移動する粒子への影響が相殺される電磁場がある{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=334}}。このような分離は、[[飛行時間型質量分析計]]や反跳エネルギー測定でも用いられ、この2つを組み合わせて、原子核の質量を推定することが可能となる{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=335}}。}}、表面障壁型[[半導体検出器]]に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される<ref name="SHEhowvideo" />。移送には約10<sup>-6</sup>秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある{{sfn|Zagrebaev|Karpov|Greiner|2013|page=3}}。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される<ref name="SHEhowvideo" />。 原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く<!--セミコロンでセンテンスが切れていることを見落としている。as 以下は独立した別のセンテンスとして読まなければならない。元の訳文は意味の上でも因果関係が転倒した大きな誤訳-->、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子([[陽子]]と[[中性子]])が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない{{sfn|Beiser|2003|p=432}}。そのため、重元素の原子核は、このような反発による[[アルファ崩壊]]や[[自発核分裂]]{{efn|全ての崩壊モードが静電反発を原因とするのではなく、例えば、[[ベータ崩壊]]の原因は[[弱い相互作用]]である{{sfn|Beiser|2003|p=439}}。}}のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており<!--元の訳文の「重元素の原子核は理論的には予測されており」は、原子核の何が予測されているのか明確ではない。原子核の存在が予測されているかのように読める。センテンス全体の構造を捉えていない誤訳--><ref>{{Cite journal|last1=Staszczak|first1=A.|last2=Baran|first2=A.|last3=Nazarewicz|first3=W.|date=2013|title=Spontaneous fission modes and lifetimes of superheavy elements in the nuclear density functional theory|journal=Physical Review C|volume=87|issue=2|pages=024320-1|doi=10.1103/physrevc.87.024320|arxiv=1208.1215|bibcode=2013PhRvC..87b4320S|s2cid=118134429 |issn=0556-2813}}</ref>、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた{{sfn|Audi|Kondev|Wang|Huang|2017|pp=030001-128-030001-138}}。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる{{efn|原子核の質量は直接測定されず、ほかの原子核の値から計算され、このような方法を間接的と呼ぶ。直接測定も可能であるが、もっとも重い原子核については<!--訳抜け-->ほとんどの場合可能ではない<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Rykaczewski|first2=K. P.|date=2015|title=A beachhead on the island of stability|journal=Physics Today|volume=68|issue=8|pages=32-38|doi=10.1063/PT.3.2880|bibcode=2015PhT....68h..32O|osti=1337838|s2cid=119531411 |issn=0031-9228|url=https://www.osti.gov/biblio/1337838}}</ref>。超重元素の質量の直接測定は、2018年に[[ローレンス・バークレー国立研究所]]により初めて報告された<ref>{{Cite journal|last=Grant |first=A.|date=2018|title=Weighing the heaviest elements|journal=Physics Today|doi=10.1063/PT.6.1.20181113a|s2cid=239775403 }}</ref>。}}。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない{{efn|自発核分裂は、ドゥブナ合同原子核研究所を率いていた[[ゲオルギー・フリョロフ]]により発見され<ref name=Distillations>{{Cite journal|last=Robinson|first=A. E.|url=https://www.sciencehistory.org/distillations/the-transfermium-wars-scientific-brawling-and-name-calling-during-the-cold-war|title=The Transfermium Wars: Scientific Brawling and Name-Calling during the Cold War|date=2019|journal=Distillations|accessdate=2020-02-22}}</ref>、この研究所の得意分野となった<ref name="coldfusion77">{{Cite web|url=http://n-t.ru/ri/ps/pb106.htm|title=Популярная библиотека химических элементов. Сиборгий (экавольфрам)|trans-title=Popular library of chemical elements. Seaborgium (eka-tungsten)|language=ru|website=n-t.ru|accessdate=2020-01-07}} Reprinted from {{cite book|author=<!--none-->|date=1977|title=Популярная библиотека химических элементов. Серебро - Нильсборий и далее|chapter=Экавольфрам|trans-title=Popular library of chemical elements. Silver through nielsbohrium and beyond|trans-chapter=Eka-tungsten|language=ru|publisher=Nauka}}</ref>。対称的に、ローレンス・バークレー国立研究所の科学者は、自発核分裂から得られる情報は新元素の合成を裏付けるのに不十分であると信じていた。これは、複合核が中性子だけを放出し、陽子やアルファ粒子のような荷電粒子を放出しないことを立証するのは困難なためである<ref name=BerkeleyNoSF>{{Cite journal|last1=Hyde|first1=E. K.|last2=Hoffman|first2=D. C.|last3=Keller|first3=O. L.|date=1987|title=A History and Analysis of the Discovery of Elements 104 and 105|journal=Radiochimica Acta|volume=42|issue=2|doi=10.1524/ract.1987.42.2.57|issn=2193-3405|pages=67-68|s2cid=99193729 |url=http://www.escholarship.org/uc/item/05x8w9h7}}</ref>。そのため彼らは、連続的なアルファ崩壊により、新しい同位体を既知の同位体と結び付ける方法を好んだ<ref name=Distillations/>。}}。 重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる{{Efn|例えば、1957年にスウェーデンの[[ノーベル物理学研究所]]は、102番元素を誤同定した<ref name=RSC>{{Cite web|url=https://www.rsc.org/periodic-table/element/102/nobelium|title=Nobelium - Element information, properties and uses {{!}} Periodic Table|publisher=Royal Society of Chemistry|accessdate=2020-03-01}}</ref>。これ以前にこの元素の合成に関する決定的な主張はなく、発見者により、[[ノーベリウム]]と命名されたが、後に、この同定は誤りであったことが分かった{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。翌年、ローレンス・バークレー国立研究所は、ノーベル物理学研究所による結果は再現性がなく、代わりに彼ら自身がこの元素を合成したと発表したが、この主張も後に誤りであったことが判明した{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。ドゥブナ合同原子核研究所は、彼らこそがこの元素を最初に合成したと主張し、ジョリオチウムと命名したが{{sfn|Kragh|2018|p=40}}、この名前も認定されなかった(ドゥブナ合同原子核研究所は、のちに、102番元素の命名は「性急」であったと述べた)<ref name="1993 responses">{{Cite journal|year=1993|title=Responses on the report 'Discovery of the Transfermium elements' followed by reply to the responses by Transfermium Working Group|url=https://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|url-status=live|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|issue=8|pages=1815-1824|doi=10.1351/pac199365081815|archive-url=https://web.archive.org/web/20131125223512/http://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|archive-date=25 November 2013|accessdate=7 September 2016|last1=Ghiorso|first1=A.|last2=Seaborg|first2=G. T.|last3=Oganessian|first3=Yu. Ts.|last4=Zvara|first4=I|last5=Armbruster|first5=P|last6=Hessberger|first6=F. P|last7=Hofmann|first7=S|last8=Leino|first8=M|last9=Munzenberg|first9=G|last10=Reisdorf|first10=W|last11=Schmidt|first11=K.-H|s2cid=95069384 |display-authors=3}}</ref>。「ノーベリウム」という名前は、広く使われていたため、変更されなかった<ref name=IUPAC97>{{Cite journal|doi=10.1351/pac199769122471|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1997)|date=1997|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=69|pages=2471-2474|issue=12|author=Commission on Nomenclature of Inorganic Chemistry|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1997/pdf/6912x2471.pdf}}</ref>。}}。 ==発見== ===背景=== 天然である程度の量が生成する最も重い元素は原子番号92の[[ウラン]]である。これより重い元素は人工合成により作られる。新元素の最初の合成は、原子番号93の[[ネプツニウム]]で、1940年にアメリカ合衆国の科学者チームにより達成された<ref>{{Cite book|title=Radiochemistry and Nuclear Chemistry|last1=Choppin|first1=G. R.|last2=Liljenzin|first2=J.-O.|last3=Rydberg|first3=J.|publisher=Elsevier|year=2002|isbn=978-0-7506-7463-8|page=416}}</ref>。これに続き、1955年までに、原子番号101番の[[メンデレビウム]]までが人工合成された。102番元素以降は、アメリカ合衆国とソビエト連邦の物理学者の間で、発見の優先権が争われた<ref>{{cite report|url=http://www.iaea.org/inis/collection/NCLCollectionStore/_Public/28/017/28017156.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20171009195038/http://www.iaea.org/inis/collection/NCLCollectionStore/_Public/28/017/28017156.pdf |archive-date=2017-10-09 |url-status=live|title=The Transuranium Elements: From Neptunium and Plutonium to Element 112|last=Hoffman|first=D. C.|publisher=Lawrence Livermore National Laboratory|accessdate=October 10, 2017|year=1996}}</ref>。新しい元素とその発見を巡るこの争いは、後に[[:w:Transfermium Wars]]と名付けられた<ref>{{cite journal | journal = Chemical & Engineering News | date = 1994 | volume = 74 | issue = 22 | pages = 2-3 | title = The Transfermium Wars | first=P. | last=Karol| doi = 10.1021/cen-v072n044.p002 | doi-access = free }}</ref>。 ===報告=== 105番元素の発見に関する最初の報告は、1968年4月にドゥブナ合同原子核研究所から出された。<sup>243</sup>Am原子核を標的として<sup>22</sup>Neイオンのビームを照射した。9.4 MeV(半減期0.1-3秒)及び9.7 eV(半減期0.05秒以上)の[[アルファ崩壊]]の後に、<sup>256</sup>103または<sup>257</sup>103のものと似たアルファ崩壊が続いたと報告した。以前の理論予測に基づき、2つの崩壊系列は、<sup>261</sup>105と<sup>260</sup>105に割り当てられた<ref name="1993 report" />。 :{{su|p=243|b=95|a=r}}Am + {{su|p=22|b=10}}Ne → {{su|p=265-x|b=}}105 + x n (x=4, 5) 105番元素のアルファ崩壊の観測の後、この元素の[[自発核分裂]]を観測し、結果として生じる分裂断片を研究することが目指された。彼らは1970年2月に論文を発表し、半減期が14ミリ秒と2.2±0.5秒の複数の崩壊の事例を報告し、前者を<sup>242mf</sup>Am{{efn|この表記は、核が自然分裂によって崩壊する[[核異性体]]であることを意味している。}}、後者を105番元素の同位体に起因するとした。この反応の収率は<sup>242mf</sup>Amを生成する移行反応よりもかなり低く、理論予測と一致しているため、この崩壊が105番元素によるものではなく移行反応に起因する可能性は低いことが示唆された。 この崩壊が(<sup>22</sup>Ne,xn)反応に起因するものではないことを立証するために、<sup>243</sup>Am原子核を標的として<sup>18</sup>Oイオンを照射する実験が行われた。<sup>256</sup>103及び<sup>257</sup>103を生成する反応は自発核分裂をほとんど起こさず、より重い<sup>258</sup>103及び<sup>259</sup>103を生成する反応は自発核分裂を全く起こさなかった。これは理論データと一致した。その結果、観測された崩壊は、105番元素の自発核分裂に起因するものと結論付けられた<ref name="1993 report" />。 1970年4月、ローレンス・バークレー国立研究所のチームは、<sup>249</sup>Cf原子核に<sup>15</sup>Nイオンのビームを照射して9.1 MeVの崩壊を観測し、105番元素を合成したと主張した。この崩壊が別の反応に起因するものではないことを示すため、<sup>249</sup>Cfと<sup>14</sup>N、Pbと<sup>15</sup>N、Hgと<sup>15</sup>Nを用いた別の反応も試した。これらの反応では崩壊は観測されず、娘核の性質は<sup>256</sup>103とよく一致するものであったことから、親核は<sup>260</sup>105であることが示唆された<ref name="1993 report" />。 :{{su|p=249|b=98|a=r}}Cf + {{su|p=15|b=7}}N → {{su|p=260|b=}}105 + 4 n これらの結果は、9.4 MeVまたは9.7 MeVのエネルギーを持つ<sup>260</sup>105のアルファ崩壊を観測したドゥブナの発見と一致せず、合成された同位体の可能性は<sup>261</sup>105だけに絞られた<ref name="1993 report" />。 ドゥブナのチームは、その後、105番元素を生成する別の実験を行い、1970年5月に報告を公表した。彼らは、さらに多くの105番元素の原子核を合成し、この実験により以前の研究が裏付けられたと主張した。論文によると、彼らが作成した同位体は恐らく<sup>261</sup>105か<sup>260</sup>105であった<ref name="1993 report" />。この報告は、温度勾配[[ガスクロマトグラフィー]]によって、自発核分裂により形成されたものの塩化物が、[[四塩化ハフニウム]]ではなく[[五塩化ニオブ]]とほぼ一致することを初めて実証した。またチームは、エカタンタルの特性を示す揮発性塩化物の半減期2.2秒の自発核分裂を特定し、自発核分裂を起こした核種が105番元素に間違いないと推測した<ref name="1993 report" />。 1970年6月、ドゥブナのチームは、彼らの最初の実験を改良した。より純粋な標的を用い、またキャッチャーの前に[[コリメーター]]を設置することで移行反応の可能性を減らした。今回は、 娘核が<sup>256</sup>103または<sup>257</sup>103であることを示す9.1 MeVのアルファ崩壊が観測され、親核が<sup>260</sup>105か<sup>261</sup>105であることが示唆された<ref name="1993 report" />。 ===命名を巡る論争=== {{multiple image | footer = ともに105番元素の名前に提案されたニールス・ボーアとオットー・ハーン | align = left | direction = | width = | width1 = 125 | width2 = 125 | image1 = Niels Bohr.jpg | alt1 = Photo of Niels Bohr | caption1 = | image2 = Otto Hahn (Nobel).jpg | alt2 = Photo of Otto Hahn | caption2 = }} ドゥブナのチームは、105番元素の合成を主張する最初の報告で、慣例として行われていた命名の提案をしなかった。そのため、バークレーのチームは、彼らが合成の主張を裏付ける十分な実験データを得られていないと信じた<ref>{{Cite encyclopedia|url=https://www.britannica.com/science/dubnium|title=Dubnium {{!}} chemical element|encyclopedia=Encyclopedia Britannica|accessdate=March 25, 2018|language=en}}</ref>。より多くのデータを集めた後、ドゥブナは、[[デンマーク]]の[[核物理学]]者で[[原子構造]]理論及び[[量子理論]]の創設者である[[ニールス・ボーア]]の名前に因んだボーリウム(Bo)という名前を提案したが<ref>{{Cite book |last1=Stadtler |first1=Ingrid |url=https://www.google.com/books/edition/Symbolik_und_Fachausdruecke_Mathematik_P/314LAQAAIAAJ?hl=en&gbpv=0 |title=Symbolik und Fachausdruecke. Mathematik, Physik, Chemie |last2=Niemann |first2=Hans |publisher=Verlag Enzyklopadie |year=1971 |location=Germany |page=83 |language=de}}</ref>、その後すぐに、[[ホウ素]](boron)との混同を避けるため、ニールスボーリウム(Ns)に提案を変えた<ref>{{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=GDU7AAAAMAAJ |title=Industries atomiques et spatiales, Volume 16 |date=1972 |year=1972 |location=Switzerland |pages=30-31 |language=fr}}</ref>。他に提案された名前には、ドブニウムがあった<ref>{{cite book | url=https://www.google.ru/books/edition/Radiochemistry/6GCqk1BSid0C?hl=ru&gbpv=1&dq=dubnium&pg=PA59&printsec=frontcover | isbn=9780851862545 | title=Radiochemistry | year=1972 | publisher=Royal Society of Chemistry }}</ref><ref>{{cite book | url=https://www.google.ru/books/edition/Suomen_kemistilehti/dI3QAAAAMAAJ?hl=ru&gbpv=1&bsq=dubnium&dq=dubnium&printsec=frontcover | title=Suomen kemistilehti | year=1971 | publisher=Suomalaisten Kemistien Seura. }}</ref>。バークレーのチームは、105番元素の合成を最初に公表した際、[[ドイツ]]の化学者で「[[核化学]]の父」と呼ばれる[[オットー・ハーン]]に因んだハーニウム(Ha)という名前を提案し、元素の命名を巡る論争が生じた<ref name="FontaniCosta2014">{{cite book|last1=Fontani|first1=M.|last2=Costa|first2=M.|last3=Orna|first3=M. V.|title=The Lost Elements: The Periodic Table's Shadow Side|url=https://books.google.com/books?id=Te1jBAAAQBAJ&pg=PA386|date=2014|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-938335-1|page=386|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20180227084247/https://books.google.com/books?id=Te1jBAAAQBAJ&pg=PA386|archive-date=February 27, 2018}}</ref>。 1970年代初期には、両チームは次の元素である106番元素の合成を報告したが、やはり名前を提案しなかった<ref>{{cite book|title=Можно ли сделать золото? Мошенники, обманщики и ученые в истории химических элементов|trans-title=Can one make gold? Swindlers, deceivers and scientists from the history of the chemical elements|language=ru|last=Hoffmann|first=K.|pages=180-181|year=1987|publisher=Nauka}} Translation from {{cite book|title=Kann man Gold machen? Gauner, Gaukler und Gelehrte. Aus der Geschichte der chemischen Elemente|trans-title=Can one make gold? Swindlers, deceivers and scientists. From the history of the chemical elements|language=de|last=Hoffmann|first=K.|year=1979|publisher=Urania}}</ref>。ドゥブナのチームは、発見の基準を明確にするための国際委員会の設立を提案した。この提案は1974年に受け入れられ、中立の合同グループが設立された<ref name="1993 response">{{Cite journal|year=1993|title=Responses on the report 'Discovery of the Transfermium elements' followed by reply to the responses by Transfermium Working Group|url=https://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|url-status=live|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|issue=8|pages=1815-1824|doi=10.1351/pac199365081815|archive-url=https://web.archive.org/web/20131125223512/http://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|archive-date=25 November 2013|accessdate=7 September 2016|last1=Ghiorso|first1=A.|last2=Seaborg|first2=G. T.|last3=Oganessian|first3=Yu. Ts.|last4=Zvara|first4=I|last5=Armbruster|first5=P|last6=Hessberger|first6=F. P|last7=Hofmann|first7=S|last8=Leino|first8=M|last9=Munzenberg|first9=G|last10=Reisdorf|first10=W|last11=Schmidt|first11=K.-H|s2cid=95069384|display-authors=3}}</ref>。どちらのチームも第三者に論争の解決を任せることを望まず、合同中立グループの設立を不要とし論争を内部で解決するために、バークレーのチームを率いる[[アルバート・ギオルソ]]と[[グレン・シーボーグ]]が1975年にドゥブナを訪問し、ドゥブナのチームを率いる[[ゲオルギー・フリョロフ]]、[[ユーリイ・オガネシアン]]らと面会した。2時間の議論の後、これは失敗に終わった<ref>{{Cite journal|last=Robinson|first=A.|date=2017|title=An Attempt to Solve the Controversies Over Elements 104 and 105: A Meeting in Russia, 23 September 1975|url=http://meetings.aps.org/Meeting/APR17/Session/B10.3|journal=Bulletin of the American Physical Society|volume=62|pages=B10.003|accessdate=October 14, 2017|number=1|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20170922194715/http://meetings.aps.org/Meeting/APR17/Session/B10.3|archive-date=September 22, 2017|bibcode=2017APS..APRB10003R}}</ref>。合同の中立グループは主張を評価するために集まることはなく、紛争は未解決のままとなった<ref name="1993 response" />。1979年、[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)は、恒久的な名前が決定する前に仮名として用いられる、元素の系統名を提案した。これに基づき、105番元素はウンニルペンチウムとされたが、どちらのチームも彼らの主張を弱めることを望まず、これを無視した<ref>{{Cite journal|last1=Ohrstrom|first1=L.|last2=Holden|first2=N. E.|year=2016|title=The Three-letter Element Symbols|journal=Chemistry International|volume=38|issue=2|doi=10.1515/ci-2016-0204|doi-access=free}}</ref>。 1981年、[[西ドイツ]]の[[重イオン研究所]]が107番元素の合成を主張した。この報告はドゥブナによる最初の報告より5年遅れていたが、より正確で発見に関するより強固な主張であった<ref name="1993 report">{{Cite journal|year=1993|title=Discovery of the Transfermium elements|url=http://s3.documentcloud.org/documents/562229/iupac1.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20160920113229/http://s3.documentcloud.org/documents/562229/iupac1.pdf |archive-date=2016-09-20 |url-status=live|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|issue=8|pages=1757|doi=10.1351/pac199365081757|accessdate=September 7, 2016|last1=Barber|first1=R. C.|last2=Greenwood|first2=N. N.|last3=Hrynkiewicz|first3=A. Z.|display-authors=3|last4=Jeannin|first4=Y. P|last5=Lefort|first5=M|last6=Sakai|first6=M|last7=Ulehla|first7=I|last8=Wapstra|first8=A. H|last9=Wilkinson|first9=D. H|s2cid=195819585}}</ref>。重イオン研究所は、この新元素にニールスボーリウムという名前を提案することで、ドゥブナの貢献に報いた<ref name="1993 response" />。ドゥブナは、105番元素に新しい名前を提案せず、まず発見者を確定することがより重要であると述べた<ref name="1993 response" />。 {{Location map+ |European Russia |width=250 |float=right|caption=[[ヨーロッパロシア]]内での位置 |alt= Dubna is located in European Russia.|places= {{Location map~ |European Russia |lat_deg=56|lat_min=44|lon_deg=37|lon_min=10|position=right|label='''[[Dubna]]'''}} }} 1985年、IUPACと[[国際純粋・応用物理学連合]](IUPAP)は、議論のある元素について発見者を評価し、正式な名前を確定するために、超フェルミウム作業部会(TWG)を創設した<ref name="1993 report" />。競合する3つの機関から代表団を招いて会議を開催し、1990年に元素の認識の基準を策定し、1991年には発見を評価する作業を終了し、解散した。これらの結果は1993年に公表された。報告書によると、成功が確実な最初の実験は、1970年4月のバークレーでのもので、その直後6月のドゥブナでの実験が続いた。そのため、この元素の発見は、2つのチームが分け合うべきとされた<ref name="1993 report" />。 バークレーのチームは、レビューの中で、ドゥブナのチームは彼らの1年後にようやく105番元素を疑いなく合成できたに過ぎず、その成果が過大評価されていると主張したが、ドゥブナと重イオン研究所のチームはこの報告を支持した<ref name="1993 response" />。 1994年、IUPACは、議論のある元素の命名に関する勧告を公表し、105番元素については、[[フランス]]の物理学者で核物理学及び核化学の発展に貢献した[[フレデリック・ジョリオ=キュリー]]の名前に因むジョリオチウム(Jl)という名前を提案した。この名前は、もともとソビエト連邦のチームが、それまで長い間[[ノーベリウム]]と呼ばれていた102番元素に提案していたものだった<ref name="1994 IUPAC">{{Cite journal|year=1994|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1994)|url=https://www.iupac.org/publications/pac-2007/1994/pdf/6612x2419.pdf|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=66|issue=12|pages=2419-2421|doi=10.1351/pac199466122419|accessdate=September 7, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20170922194905/https://www.iupac.org/publications/pac-2007/1994/pdf/6612x2419.pdf|archive-date=September 22, 2017}}</ref>。この勧告は、いくつかの理由からアメリカの科学者に批判された。第一に、この提案はそれまでの提案をごちゃ混ぜにしたもので、もともとバークレーが104番元素と105番元素に提案していた[[ラザホージウム]]、[[ハッシウム]]という名前を各々106番元素、108番元素に割り当てていた。第二に、バークレーが共同発見者と認識されていた104番元素と105番元素にはドゥブナの支持する名前が与えられた。第三に、そして最も重要なことには、1993年の報告で106番元素はバークレーの単独の発見であると認定されていたにもかかわらず、存命人物に因む元素名は認めないという新しい規則を元に、IUPACはこの元素に対する[[シーボーギウム]]という命名の提案を拒絶した<ref>{{Cite web|url=http://www2.lbl.gov/Science-Articles/Archive/seaborgium-dispute.html|title=Naming of element 106 disputed by international committee|last=Yarris|first=L.|year=1994|accessdate=September 7, 2016}}</ref>。 1995年、IUPACは議論を呼んだ規則を廃止し、妥協点を探し出すために、国家の代表による委員会を設立した。彼らは、106番元素をシーボーギウムと命名する代わりに、103番元素に対する[[ローレンシウム]]という確立していた命名を除いて、他の全てのアメリカの提案を撤回するという提案をした。 102番元素に対して等しく定着していたノーベリウムという名前は、1993年の報告でこの元素の最初の合成がドゥブナによるものであると認定された後、ゲオルギー・フリョロフに因む[[フレロビウム]]という名前に置き換えられた。この決定はアメリカの科学者に拒絶され、撤回された<ref name="AlbertC2000">{{harvnb|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|pp=389-394}}</ref><ref name=Haire>{{cite book| title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements| editor1-last=Morss|editor1-first=L.R.|editor2-first=N. M.| editor2-last=Edelstein| editor3-last=Fuger|editor3-first=Jean| last1=Hoffman|first1=D. C. |last2=Lee |first2=D. M. |last3=Pershina |first3=V.|chapter=Transactinides and the future elements| publisher= [[Springer Science+Business Media]]| year=2006| isbn=978-1-4020-3555-5| edition=3rd|pages=1652–1752| ref=CITEREFHaire2006}}</ref>。フレロビウムという名前は、後に114番元素に用いられた<ref>{{cite journal |last1=Loss |first1=R. D. |last2=Corish |first2=J. |date=2012 |title=Names and symbols of the elements with atomic numbers 114 and 116 (IUPAC Recommendations 2012) |url=https://www.iupac.org/publications/pac/pdf/2012/pdf/8407x1669.pdf |journal=Pure and Applied Chemistry |volume=84 |issue=7 |pages=1669-1672 |doi=10.1351/PAC-REC-11-12-03 |s2cid=96830750 |accessdate=21 April 2018}}</ref>。 1996年、IUPACは別の会議を開催し、提案されていた全ての命名案を再検討し、一連の別の勧告を提案した。これは1997年に承認されて公表された<ref name="Bera1999">{{Cite journal|last=Bera|first=J. K.|year=1999|title=Names of the Heavier Elements |journal=Resonance|volume=4|issue=3|pages=53-61|doi=10.1007/BF02838724|s2cid=121862853}}</ref>。105番元素はドゥブナという地名に因んでドブニウムと命名され、アメリカの提案は、102番、103番、104番、106番元素に使われた。ドブニウムという名前は、以前のIUPACの勧告では104番元素に用いられていた。アメリカの科学者は「しぶしぶ」この決定を受け入れた<ref>{{harvnb|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|pp=369-399}}</ref>。IUPACは、バークレーの提案は、既に[[バークリウム]]、[[カリホルニウム]]、[[アメリシウム]]の命名において複数認めれており、104番元素へのラザホージウム、106番元素へのシーボーギウムという命名は、104-106番元素の発見に対するドゥブナの貢献に報いることで相殺されるべきであると指摘した<ref>{{cite journal | doi=10.1351/pac199769122471|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1997) | year=1997 | journal=Pure and Applied Chemistry | volume=69 | pages=2471-2474 | issue=12}}</ref>。 1997年以降になっても、ローレンス・バークレー国立研究所は、自身の発行する論文誌等において105番元素に対するハーニウムという名前を用いることがあり、これは2014年まで続いた<ref>{{cite web |url=https://www2.lbl.gov/abc/marsh-nuclei/images/table_sig.jpg |title=Periodic Table of the Elements |last= |first= |date=1999 |website=lbl.gov |publisher=Lawrence Berkeley National Laboratory |accessdate=6 December 2022 |quote=}}</ref><ref>{{cite thesis |last=Wilk |first=P. A. |date=2001 |title=Properties of Group Five and Group Seven transactinium elements |url=https://www.osti.gov/biblio/785268 |type=PhD |chapter= |publisher=University of California, Berkeley |doi=10.2172/785268 |docket= |oclc= |accessdate=6 December 2022}}</ref><ref>{{cite web |url=https://alumni.berkeley.edu/california-magazine/spring-2014-branding/branding-elements-berkeley-stakes-its-claims-periodic-table |title=Branding the Elements: Berkeley Stakes its Claims on the Periodic Table |last=Buhler |first=Brendan |date=2014 |website=alumni.berkeley.edu |publisher=Cal Alumni Association |accessdate=6 December 2022 |quote=Poor element 105 has had five different names-Berkeley partisans still call it hahnium.}}</ref><ref>{{Cite tweet |user=BerkeleyLab |number=420831560573521921 |title=#16elements from Berkeley Lab: mendelevium, nobelium, lawrencium, rutherfordium, hahnium, seaborgium.|accessdate=2022-12-23}}</ref>。しかし、''Radiochimica Acta''誌のエディタであるJens Volker Kratzが、1997 年のIUPAC勧告を使用していない論文の受理を拒否したことで、この問題は解決された<ref>{{cite journal |last1=Armbruster |first1=Peter |last2=Munzenberg |first2=Gottfried |date=2012 |title=An experimental paradigm opening the world of superheavy elements |url=https://link.springer.com/article/10.1140/epjh/e2012-20046-7 |journal=The European Physical Journal H |volume=37 |issue= |pages=237-309 |doi=10.1140/epjh/e2012-20046-7 |accessdate=6 December 2022}}</ref>。 ==同位体== {{main|ドブニウムの同位体}} [[ファイル:Nucleus half life and decay.svg|left|thumb|upright=2.0|alt=A 2D graph with rectangular cells in black and white, spanning from the lower left corner to the upper right corner, with cells mostly becoming lighter closer to the latter|2012年にドゥブナ合同原子核研究所で使用された、核種の安定性の表。存在が確認された同位体は、黒枠の正方形で描かれている。<ref name="Karpov graph">{{Cite book|title=Exciting Interdisciplinary Physics|last1=Karpov|first1=A. V.|last2=Zagrebaev|first2=V. I.|last3=Palenzuela|first3=Y. M.|last4=Greiner|first4=W.|date=2013|publisher=Springer International Publishing|isbn=978-3-319-00046-6|editor-last=Greiner|editor-first=W.|series=FIAS Interdisciplinary Science Series|article=Superheavy Nuclei: Decay and Stability|pages=69-79|language=en|doi=10.1007/978-3-319-00047-3_6}}</ref>]] 原子番号105のドブニウムは[[超重元素]]であり、このような大きな原子番号を持つ他の元素と同様に、非常に不安定である。半減期が最も長い既知の同位体は<sup>286</sup>Dbであり、半減期は約1日である<ref name="NUBASE">{{cite journal |first1=G. |last1=Audi |first2=F. G. |last2=Kondev |first3=M. |last3=Wang |first4=B. |last4=Pfeiffer |first5=X. |last5=Sun |first6=J. |last6=Blachot |first7=M. |last7=MacCormick |display-authors=3 |year=2012 |title=The NUBASE2012 evaluation of nuclear properties |url=http://amdc.in2p3.fr/nubase/Nubase2012-v3.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20160706052152/http://amdc.in2p3.fr/nubase/Nubase2012-v3.pdf |archive-date=July 6, 2016 |journal=Chinese Physics C |volume=36 |issue= 12 |pages=1157-1286 |doi=10.1088/1674-1137/36/12/001|bibcode=2012ChPhC..36....1A |s2cid=123457161 }}</ref>。安定同位体は知られておらず、2012年にドゥブナで行われた計算では、全てのドブニウム同位体の半減期は1日を大きく超えないことが示された<ref name="Karpov graph" />{{efn|<sup>268</sup>Dbの半減期の現在の実験値は28{{su|p=+11|b=-4}}時間であるが、実験 (崩壊) の数が非常に限られているため、半減期の決定が依存する[[大数の法則]]を直接適用することはできない。不確実性の範囲は、95%の確からしさで半減期がこの範囲内にあることを示す。}}。ドブニウムは人工合成のみで得られる{{efn|原子核に関する現代の理論は、ドブニウムの長寿命同位体が存在することを示唆していないが、かつては、超重元素の未知の同位体が原始地球上に存在していたという主張がなされていた。例えば、1963 年には、4億年から5億年の半減期を持つ<sup>267</sup>108<ref name="emsley">{{cite book|last=Emsley|first=J.|title=Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements|edition=New|year=2011|publisher=Oxford University Press|location=New York|isbn=978-0-19-960563-7|pages=215-217}}</ref>、2009年には1億年以上の半減期を持つ<sup>292</sup>122<ref>{{Cite journal|title=Evidence for a long-lived superheavy nucleus with atomic mass number A=292 and atomic number Z=~122 in natural Th |journal=International Journal of Modern Physics E |volume=19 |issue=1 |pages=131-140 |first1=A. |last1=Marinov|first2= I. |last2=Rodushkin |first3=D. |last3=Kolb |first4=A.|last4= Pape |first5= Y. |last5=Kashiv |first6=R. |last6=Brandt |first7=R.V. |last7=Gentry |first8=H.W. |last8=Miller |display-authors=3 |arxiv=0804.3869 |year=2010 |bibcode=2010IJMPE..19..131M |doi=10.1142/S0218301310014662|s2cid=117956340 }}</ref>が存在するという主張がなされたが、どちらの主張も合意が得られていない。}}。 短い半減期のため、ドブニウムの実験は難しい。さらに悪いことに、最も安定な同位体は、合成が最も難しい<ref>{{cite book|doi=10.1007/978-3-319-00047-3_6|chapter=Superheavy Nuclei: Decay and Stability|title=Exciting Interdisciplinary Physics|series=FIAS Interdisciplinary Science Series|page=69|year=2013|last1=Karpov|first1=A. V.|last2=Zagrebaev|first2=V. I.|last3=Palenzuela|first3=Y. M.|last4=Greiner|first4=W.|display-authors=3 |isbn=978-3-319-00046-6}}</ref>。原子番号が小さい元素は、原子番号が大きい元素よりも[[中性子]]:[[陽子]]比が低い[[安定同位体]]を持っている。つまり、超重元素を合成するために使用する標的とビーム核は、これらの最も安定な同位体を形成するのに必要な量よりも少ない中性子を持つ(2010年代時点で、[[r過程]]と[[核子移行反応]]に基づく様々な技術が検討されているが、この分野では未だ大小の原子核の衝突に基づく技術が支配的である)<ref>{{Cite journal |last1=Botvina |first1=Al. |last2=Mishustin |first2=I. |last3=Zagrebaev |first3=V. |last4=Greiner |first4=W. |display-authors=3 |date=2010 |title=Possibility of synthesizing superheavy elements in nuclear explosions |journal=International Journal of Modern Physics E |volume=19 |issue=10 |pages=2063-2075 |doi=10.1142/S0218301310016521 |arxiv=1006.4738 |bibcode=2010IJMPE..19.2063B|s2cid=55807186 }}</ref><ref>{{Cite journal |last1=Wuenschel |first1=S. |last2=Hagel |first2=K. |last3=Barbui |first3=M. |last4=Gauthier |first4=J. |display-authors=3 |date=2018|title=An experimental survey of the production of alpha decaying heavy elements in the reactions of <sup>238</sup>U +<sup>232</sup>Th at 7.5-6.1 MeV/nucleon |journal=Physical Review C |volume=97 |issue=6 |pages=064602 |arxiv=1802.03091|bibcode=2018PhRvC..97f4602W |doi=10.1103/PhysRevC.97.064602 |s2cid=67767157 }}</ref>。 各々の実験で合成される<sup>268</sup>Dbは数原子のみであり、そのため、測定された寿命は過程によって大きく変わりうる。2022年時点で、ドゥブナで追加的に行われた実験では、<sup>268</sup>Dbの半減期は、16<sup>+6</sup><sub>-4</sub>時間と測定されている<ref name=SHEfactory0922>{{cite journal |last1=Oganessian |first1=Yu. Ts. |last2=Utyonkov |first2=V. K. |last3=Kovrizhnykh |first3=N. D. |last4=Abdullin |first4=F. Sh. |last5=Dmitriev |first5=S. N. |last6=Ibadullayev |first6=D. |last7=Itkis |first7=M. G. |last8=Kuznetsov |first8=D. A. |last9=Petrushkin |first9=O. V. |last10=Podshibiakin |first10=A. V. |last11=Polyakov |first11=A. N. |last12=Popeko |first12=A. G. |last13=Sagaidak |first13=R. N. |last14=Schlattauer |first14=L. |last15=Shirokovski |first15=I. V. |last16=Shubin |first16=V. D. |last17=Shumeiko |first17=M. V. |last18=Solovyev |first18=D. I. |last19=Tsyganov |first19=Yu. S. |last20=Voinov |first20=A. A. |last21=Subbotin |first21=V. G. |last22=Bodrov |first22=A. Yu. |last23=Sabel'nikov |first23=A. V. |last24=Khalkin |first24=A. V. |last25=Zlokazov |first25=V. B. |last26=Rykaczewski |first26=K. P. |last27=King |first27=T. T. |last28=Roberto |first28=J. B. |last29=Brewer |first29=N. T. |last30=Grzywacz |first30=R. K. |last31=Gan |first31=Z. G. |last32=Zhang |first32=Z. Y. |last33=Huang |first33=M. H. |last34=Yang |first34=H. B. |display-authors=3 |title=First experiment at the Super Heavy Element Factory: High cross section of <sup>288</sup>Mc in the<sup>243</sup>Am+<sup>48</sup>Ca reaction and identification of the new isotope <sup>264</sup>Lr |journal=Physical Review C |date=29 September 2022 |volume=106 |issue=3 |pages=L031301 |doi=10.1103/PhysRevC.106.L031301 |s2cid=252628992 |url=https://journals.aps.org/prc/abstract/10.1103/PhysRevC.106.L031301}}</ref>。 <sup>268</sup>Dbの次に安定な同位体である<sup>270</sup>Dbは、さらに合成例が少ない。合計3原子が報告されており、それぞれ33.4時間<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Abdullin|first2=F. Sh.|last3=Bailey|first3=P. D.|last4=Benker|first4=D. E.|last5=Bennett|first5=M. E.|last6=Dmitriev|first6=S. N.|last7=Ezold|first7=J. G.|last8=Hamilton|first8=J. H.|last9=Henderson|first9=R. A.|display-authors=3|date=2010|title=Synthesis of a New Element with Atomic Number Z=117|url=https://www.researchgate.net/publication/44610795|journal=Physical Review Letters|volume=104|issue=14|doi=10.1103/PhysRevLett.104.142502|pmid=20481935|pages=142502|bibcode=2010PhRvL.104n2502O|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20161219150219/https://www.researchgate.net/publication/44610795_Synthesis_of_a_New_Element_with_Atomic_Number_Z117|archive-date=December 19, 2016}}</ref>、1.3時間、1.6時間で崩壊している<ref>{{Cite journal|last1=Khuyagbaatar|first1=J.|last2=Yakushev|first2=A.|last3=Dullmann|first3=Ch. E.|last4=Ackermann|first4=D.|last5=Andersson|first5=L.-L.|last6=Asai|first6=M.|last7=Block|first7=M.|last8=Boll|first8=R. A.|last9=Brand|first9=H.|display-authors=3|date=2014|title=<sup>48</sup>Ca + <sup>249</sup>Bk Fusion Reaction Leading to Element ''Z'' = 117: Long-Lived α-Decaying <sup>270</sup>Db and Discovery of <sup>266</sup>Lr |journal=Physical Review Letters |volume=112 |issue=17 |pages=172501 |doi=10.1103/PhysRevLett.112.172501 |bibcode=2014PhRvL.112q2501K |pmid=24836239|url=http://lup.lub.lu.se/search/ws/files/2377958/4432321.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20170817044936/http://lup.lub.lu.se/search/ws/files/2377958/4432321.pdf |archive-date=2017-08-17 |url-status=live|hdl=1885/148814|s2cid=5949620 |hdl-access=free}}</ref>。これら2つは、ドブニウムの既知の最も重い同位体であり、これらを合成した実験はもともとドゥブナで、<sup>48</sup>Caビームのために設計されたものであったため、どちらも直接合成ではなく、より重い原子核である<sup>288</sup>Mc、<sup>294</sup>Tsの崩壊により生成される<ref>{{cite journal |title=Science Magazine Podcast. Transcript, 9 September 2011 |year=2011 |journal=Science |last1=Wills |first1=S. |last2=Berger |first2=L. |accessdate=October 12, 2016|url=http://science.sciencemag.org/content/sci/suppl/2011/09/08/333.6048.1479-b.DC1/SciencePodcast_110909.pdf |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20161018212118/http://science.sciencemag.org/content/sci/suppl/2011/09/08/333.6048.1479-b.DC1/SciencePodcast_110909.pdf |archive-date=October 18, 2016 }}</ref>。<sup>48</sup>Caは、実用可能な全ての安定原子核の中で、その質量に対して定量的及び相対的に[[中性子過剰]]が圧倒的に大きいものであるため<ref name="NUBASE" />、より多くの中性子を含む超重原子核を合成するのに役立つが、この利点は、原子番号が高いほど[[核融合]]の可能性が低下することによって相殺される<ref>{{cite journal |last1=Oganessian |first1=Yu. Ts. |last2=Sobiczewski |first2=A. |last3=Ter-Akopian |first3=G. M. |date=2017 |title=Superheavy nuclei: from prediction to discovery |journal=Physica Scripta |volume=92 |issue=2 |pages=023003 |doi=10.1088/1402-4896/aa53c1|bibcode=2017PhyS...92b3003O |s2cid=125713877 }}</ref>。 ==予測される性質== 周期表上では、ドブニウムは、バナジウム、ニオブ、タンタルとともに、第5族元素に分類される。105番元素の性質に関するいくつかの実験が行われ、[[周期律]]により予測される性質と一般的には一致することが確かめられた。しかし、原子的及び巨視的な物理的性質を大きく変える相対論効果により、大きく差が出る部分もある{{efn|相対論効果は、物体が[[光速]]に近い速度で移動する時に生じる。原子の場合、高速に移動する物体は電子である。}}。これらの性質は、超重元素の合成の難しさや収率の低さ、放射線対策の必要性、短い半減期等の様々な理由により、測定が難しくなっており、これまでのところ、単原子に対する実験のみが行われている<ref name="Haire" />。 ===物理学的性質=== [[ファイル:7s electrons dubnium relativistic vs nonrelativistic.svg|thumb|ドブニウムの7s電子の、相対論的(実線)および非相対論的(破線)の半径方向分布。]] 直接の相対論効果は、元素の原子番号が増えるにつれ、電子と原子核の間の静電引力が増加する結果、最内殻の電子が原子核の周りをより高速に回り始めることである。同様の効果は最外殻のs軌道(及びドブニウムでは空であるがp<sub>1/2</sub>軌道)でも見られ、例えば、7s軌道の大きさは25%収縮し、2.6 eV安定化する<ref name="Haire" />。 より間接的な効果には、s軌道及びp<sub>1/2</sub>軌道による核子の電荷の[[遮蔽効果]]がより有効になり、外殻のd電子及びf電子に与えられる電荷が減少することで、より大きな軌道に移動する。ドブニウムはこの効果を大きく受け、他の第5族元素とは異なり、7s電子は6d電子よりも引き抜かれにくくなる<ref name="Haire" />。 [[ファイル:Atomic orbitals dubnium.svg|thumb|5族元素におけるs軌道の相対論的安定性、d軌道の不安定性、および各スピンの軌道分裂。]] 他の効果には、[[スピン軌道相互作用]]、特にスピン軌道分裂があり、6d[[小軌道]](d殻の[[軌道角運動量]]lは2)が2つの小軌道に分裂する。10個の軌道のうち4つはlが3/2に下がり、一方6つはlが5/2に上がる。10個全ての[[エネルギー準位]]は上がり、そのうち4つは他の6つより低くなる(3つの6d電子は通常、最低のエネルギー準位6d<sub>3/2</sub>を占める)<ref name="Haire" />。 1価のイオン化したドブニウム原子(Db<sup>+</sup>)は、中性原子と比べて6d電子を失いやすい。2価(Db<sup>2+</sup>)及び3価(Db<sup>3+</sup>)のイオン化原子は、より軽い同族元素と異なり、7s電子を失う。この変化に関わらず、ドブニウムはやはり5つの[[価電子]]を持つと推測され、7pエネルギー準位はドブニウム及びその性質に影響を与えていないように見える。ドブニウムの6d軌道はタンタルのの5d軌道よりも不安定化するため、Db<sup>3+</sup>は7s電子ではなく、2つの6d電子が残ると推測される。結果として生じる+3の酸化状態は不安定で、タンタルのものよりも生じにくいと推測される。最大の+5の[[酸化状態]]のドブニウムの[[イオン化エネルギー]]は、タンタルのものよりも若干低く、[[イオン半径]]はタンタルと比べて大きくなる。これは、ドブニウムの化学的性質に大きく影響している<ref name="Haire" />。 固体状態のドブニウム原子は、他の第5族元素と同様、[[体心立方格子]]に配列する<ref name=bcc>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.84.113104|title=First-principles calculation of the structural stability of 6d transition metals|year=2011|last1=Östlin|first1=A.|last2=Vitos|first2=L.|journal=Physical Review B|volume=84|issue=11|bibcode=2011PhRvB..84k3104O }}</ref>。予想される[[密度]]は、21.6 g/cm<sup>3</sup>である<ref name=density>{{cite journal |last1=Gyanchandani |first1=Jyoti |last2=Sikka |first2=S. K. |title=Physical properties of the 6 d -series elements from density functional theory: Close similarity to lighter transition metals |journal=Physical Review B |date=10 May 2011 |volume=83 |issue=17 |pages=172101 |doi=10.1103/PhysRevB.83.172101}}</ref>。 ===化学的性質=== [[ファイル:Radiochem 104+ Transactinide.svg|thumb|left|五塩化物MCl<sub>5</sub>の有効電荷(Q<sub>M</sub>)と有効共有結合電荷(OP)の、相対論的(rel)および非相対論的(nr)数値。ここで、M = V, Nb, Ta, および Db。]] [[分子間相互作用]]が取るに足りないものとして無視できるため、[[計算化学]]は、気相において最も単純化される。複数の研究者<ref name="Haire" />が[[五フッ化ドブニウム]]の研究を行っており、計算によると、周期律に従って他の第5族元素と同様の性質を示す。例えば、分子軌道準位は、ドブニウムが推測どおり3つの6d電子準位を用いていることを示す。タンタルのアナログと比較すると、五フッ化ドブニウムは[[共有結合性]]が増加し、原子の[[有効電荷]]が減少し、ドブニウムと[[塩素]]の軌道間の重なりが大きくなることが推測される<ref name="Haire" />。 溶液の化学的性質の計算では、最大の酸化状態である+5の状態がニオブやタンタルよりも安定化し、+3や+4の状態がより不安定化することが示される。最大酸化状態の陽イオンの[[加水分解]]の傾向は、第5族元素内で減少するはずであるが、それでも非常に急速であると予測される。ドブニウムの錯化は、その豊富さにおいて第5族元素の傾向を踏襲すると予測される。水酸化物[[錯体]]、塩化物錯体の計算では、第5族元素の錯体の形成や抽出の傾向と逆行し、タンタルと比べてより逆行しやすいことが示される<ref name="Haire" />。 ==ドブニウムに関する実験== ドブニウムの化学的性質に関する実験は、1974年から1976年まで遡る。ドゥブナの研究者は、サーモクロマトグラフィーを用いて[[臭化ドブニウム]]は[[臭化ニオブ]]よりも揮発性が低く、[[臭化ハフニウム]]と同程度であると結論付けた。検出された[[分裂生成物]]は確定しておらず、親核が本当に105番元素であったかどうかははっきり分かっていない。これらの結果は、ドブニウムがニオブよりもタンタルと似た挙動を示すことを示唆する<ref name="Haire" />。 ドブニウムの化学的性質に関する次の実験は、1988年にバークレーで行われ、[[水溶液]]中でドブニウムの最も安定な酸化状態が+5であるかどうかが確かめられた。2度燻蒸し、[[濃硝酸]]で洗って、[[スライドガラス]]上に吸着したドブニウムを、同様の処理を行った第5族元素のニオブ、タンタル、第4族元素の[[ジルコニウム]]、[[ハフニウム]]と比較した。第5族元素はガラス表面に吸着することが知られているが、第4族元素はそうではなく、ドブニウムは第5族であることが確認された。驚いたことに、硝酸/[[フッ化水素酸]]混合物溶液から[[メチルイソブチルケトン]]への抽出物の挙動は、ドブニウム、タンタル、ニオブの間で異なった。ドブニウムは抽出されず、その挙動はタンタルよりもニオブと似ており、錯化挙動は周期表の族の中での傾向を単に外挿するだけでは予測できないことが示された<ref name="Haire" />。 これにより、ドブニウム錯体の化学的挙動のさらなる研究が促されることとなった。1988年から1993年まで、いくつかの研究所が共同で数千回に及ぶクロマトグラフィー実験を繰り返した。第5族の全ての元素と[[プロトアクチニウム]]を[[濃塩酸]]から抽出し、低濃度の[[塩化水素]]と混合した後、少量の[[フッ化水素]]を添加して、選択的再抽出が開始された。ドブニウムは、塩化水素濃度が12 M以下の範囲で、タンタルとは異なるがニオブや擬同族体であるプロトアクチニウムと似た挙動を示した。2つの元素のこの類似性は、形成された錯体がDbOX<sub>4</sub><sup>-</sup>または[Db(OH)<sub>2</sub>X<sub>4</sub>]<sup>-</sup>であることを示す。[[臭化水素]]からプロトアクチニウム用の抽出剤である[[ジイソブチルカルビオール(2,6-ジメチルヘプタン-4-オール)]]でドブニウムを抽出した後、続いて塩化水素/臭化水素の混合物と塩化水素で溶出し、ドブニウムはプロトアクチニウムやニオブと比べて抽出されにくい傾向があることが示された。これは、複数負電荷を持った抽出できない錯体の形成が増える傾向から説明される。1992年に行われた追加の実験で、+5状態の安定化が確認された。Db(V)は、他の第5族元素やプロトアクチニウムと同様に[[α-ヒドロキシイソ酪酸]]を用いて陽[[イオン交換樹脂]]から抽出可能であることが示されたが、Db(III)とDb(IV)はそうではない。1998年と1999年には、新しい予測により、ハロゲン化溶液から、ニオブとほぼ同程度、タンタルよりもよく抽出されることが示され、後に確認された<ref name="Haire" />。 半減期35秒の<sup>262</sup>Dbを用いて、等温ガスクロマトグラフィーの実験が1992年に初めて行われた。ニオブとタンタルの揮発性は誤差の範囲内で類似していたが、ドブニウムは揮発性が若干低かった。これは、系の中の痕跡量の[[酸素]]が、DbBr<sub>5</sub>よりも揮発性が低いと予測されるDbOBr<sub>3</sub>の形成を促進していたためと推測された。1996年の実験で、タンタルを除く第5族元素の塩化物は、対応する臭化物と比べて揮発性が高いことが示され、これは恐らくTaOCl<sub>3</sub>の形成のためであると考えられた。後に行われた実験では、ドブニウムとニオブを制御された酸素分圧の関数とし、生成した酸塩化物の揮発性は、一般的に酸素の濃度に依存することが示された。また酸塩化物は塩化物よりも揮発しにくいことが示された<ref name="Haire" />。 2004-05年、ドゥブナとリバモアの研究者は、新しく合成された115番元素([[モスコビウム]])の5回目のアルファ崩壊の生成物として、ドブニウムの新しい同位体<sup>268</sup>Dbを同定した。この新しい同位体は、約1日の半減期で、化学実験を行うのに十分な寿命を持つことが明らかとなり、2004年、標的の表面からドブニウムを含む薄層を除去し、トレーサー、ランタンキャリアとともに王水に溶解し、[[水酸化アンモニウム]]を加えると、そこから、+3、+4、+5の様々な化学種が沈殿した。沈殿を洗って塩酸に溶かすと[[硝酸塩]]に変化し、その後薄層上で乾燥させ、計数した。大部分は+5の化学種であり、すぐにドブニウムに由来するものと判断されたが、+4の化学種も存在し、この結果から、チームはさらなる化学分離が必要であると決定した。2005年にこの実験が繰り返され、最終生成物は硝酸塩の沈殿ではなく水酸化物であることが分かり、リバモアでは[[逆相クロマトグラフィー]]、ドゥブナでは陰イオン交換クロマトグラフィーにより、さらなる処理が行われた。+5の化学種は効率的に分離された。ドブニウムは、タンタルのみの画分に3回現れ、ニオブのみの画分には全く現れなかった。これらの実験は、ドブニウムの一般的な化学プロファイルを描くには不十分なものであったことには留意が必要である<ref>{{cite report |df=ja |first1=N. J. |last1=Stoyer |first2=J. H. |last2=Landrum |first3=P. A. |last3=Wilk |title=Chemical Identification of a Long-Lived Isotope of Dubnium, a Descendant of Element 115 |year=2006 |publisher=IX International Conference on Nucleus Nucleus Collisions |url=https://e-reports-ext.llnl.gov/pdf/338922.pdf |accessdate=October 9, 2017 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20170131161312/https://e-reports-ext.llnl.gov/pdf/338922.pdf |archive-date=January 31, 2017 }}</ref>。 2009年、[[日本原子力研究開発機構]]のタンデム加速器内で、ニオブがNbOF<sub>4</sub><sup>-</sup>、タンタルがTaF<sub>6</sub><sup>-</sup>を形成する程度の濃度で、[[硝酸]]と[[フッ化水素酸]]によるドブニウムの処理が行われた。ドブニウムの挙動は、ニオブの挙動と似ているがタンタルの挙動とは似ておらず、ドブニウムがDbOF<sub>4</sub><sup>-</sup>を形成していることが示唆された。入手可能な情報から、ドブニウムはしばしばニオブと、また時にプロトアクチニウムと似た挙動を示すが、タンタルと似た挙動は滅多に示さないと結論付けられた<ref>{{Cite journal |last1=Nagame |first1=Y.|last2=Kratz |first2=J. V. |last3=Schadel |first3=M.|date=2016 |title=Chemical properties of rutherfordium (Rf) and dubnium (Db) in the aqueous phase|journal=EPJ Web of Conferences|language=en|volume=131|doi=10.1051/epjconf/201613107007|page=07007|bibcode=2016EPJWC.13107007N|url=https://jopss.jaea.go.jp/pdfdata/BB2016-0022.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20190428145306/https://jopss.jaea.go.jp/pdfdata/BB2016-0022.pdf |archive-date=2019-04-28 |url-status=live|doi-access=free}}</ref>。 2021年、日本原子力研究開発機構のタンデム加速器を用いて第5族元素の揮発性の酸塩化物MOCl<sub>3</sub> (M = Nb, Ta, Db)の実験が行われた。揮発性の傾向は、NbOCl<sub>3</sub> > TaOCl<sub>3</sub> > DbOCl<sub>3</sub>であり、周期律に従った傾向を示した<ref>{{cite journal |last1=Chiera |first1=Nadine M. |last2=Sato |first2=Tetsuya K. |first3=Robert |last3=Eichler |first4=Tomohiro |last4=Tomitsuka |first5=Masato |last5=Asai |first6=Sadia |last6=Adachi |first7=Rugard |last7=Dressler |first8=Kentaro |last8=Hirose |first9=Hiroki |last9=Inoue |first10=Yuta |last10=Ito |first11=Ayuna |last11=Kashihara |first12=Hiroyuki |last12=Makii |first13=Katsuhisa |last13=Nishio |first14=Minoru |last14=Sakama |first15=Kaori |last15=Shirai |first16=Hayato |last16=Suzuki |first17=Katsuyuki |last17=Tokoi |first18=Kazuaki |last18=Tsukada |first19=Eisuke |last19=Watanabe |first20=Yuichiro |last20=Nagame |display-authors=3 |date=2021 |title=Chemical Characterization of a Volatile Dubnium Compound, DbOCl<sub>3</sub> |url= |journal=Angewandte Chemie International Edition |volume=60 |issue=33 |pages=17871-17874 |doi=10.1002/anie.202102808 |accessdate=}}</ref>。 ==脚注== {{notelist}} ==出典== {{Reflist|30em}} ==関連文献== * {{cite journal |title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties |doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001 |last1=Audi |first1=G. |last2=Kondev |first2=F. G. |last3=Wang |first3=M. |last4=Huang |first4=W. J. |last5=Naimi |first5=S. |display-authors=3 |journal=Chinese Physics C |volume=41 |issue=3 <!--Citation bot deny-->|pages=030001 |year=2017 |bibcode=2017ChPhC..41c0001A }}<!--for consistency and specific pages, do not replace with {{NUBASE2016}}--> * {{cite book|last=Beiser|first=A.|title=Concepts of modern physics|date=2003|publisher=McGraw-Hill|isbn=978-0-07-244848-1|edition=6th|oclc=48965418}} * {{cite book |last1=Hoffman |first1=D. C. |last2=Ghiorso |first2=A. |last3=Seaborg |first3=G. T. |title=The Transuranium People: The Inside Story |year=2000 |publisher=World Scientific |isbn=978-1-78-326244-1}} * {{cite book |last=Kragh |first=H. |date=2018 |title=From Transuranic to Superheavy Elements: A Story of Dispute and Creation |publisher=Springer Science+Business Media |isbn=978-3-319-75813-8}} * {{cite journal|last1=Zagrebaev|first1=V.|last2=Karpov|first2=A.|last3=Greiner|first3=W.|date=2013|title=Future of superheavy element research: Which nuclei could be synthesized within the next few years?|journal=Journal of Physics: Conference Series|volume=420|issue=1|pages=012001|doi=10.1088/1742-6596/420/1/012001|arxiv=1207.5700|bibcode=2013JPhCS.420a2001Z|s2cid=55434734|issn=1742-6588}} {{元素周期表}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とふにうむ}} [[Category:ドブニウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:遷移金属]] [[Category:第5族元素]] [[Category:第7周期元素]]
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PCエンジンGT
PCエンジンGT(ピーシーエンジン ジーティー)とは、1990年12月1日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された携帯型ゲーム機。PCエンジンの一種である。当時のメーカー希望小売価格は44,800円。「GT」は「Game and TV」の略称である。 世界初となる据え置き型ゲーム機との互換性がある携帯型ゲーム機で、PCエンジンスーパーグラフィックスを除くPCエンジン用の全てのHuCARDタイトルがほぼそのまま遊べる。発売当時、市場で先行していた任天堂のゲームボーイに対抗して発売した。 欧米市場ではTurboExpress(ターボエクスプレス)の商品名で発売された。 コントローラーには連射機能付き。通信端子が設けられ、対応ソフトであれば専用ケーブルでGT同士をつなぐとゲームボーイのように対戦ゲームが楽しめる。本体に拡張バスが無く、CD-ROM等のPCエンジン用各種周辺機器は接続が不可能である。 同時期のカラー液晶を搭載した携帯型ゲーム機であるゲームギアのSTN液晶と比べて高品質なTFT液晶を採用しており、表示は美麗ながら価格が倍以上と高価であった。また、ゲームギアと同じく消費電力の多いバックライトが必須だったため、市販の乾電池ではバッテリーの持ちが悪く、連続稼働時間はアルカリ乾電池6本で約3時間程度だった。液晶はPCエンジンの横解像度が256-512ドットであるのに対しRGB合わせて横336ドットしかないため、白色の点は色づき原色の点はまばらにしか表示されない。このためゲームによってはRPGのパスワードが読み辛いものもある。 以下の仕様は、PCエンジンGT(PI-TG6)のもの。 以下二点は樫木総業からの発売
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PCエンジンGTとは、1990年12月1日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された携帯型ゲーム機。PCエンジンの一種である。当時のメーカー希望小売価格は44,800円。「GT」は「Game and TV」の略称である。 世界初となる据え置き型ゲーム機との互換性がある携帯型ゲーム機で、PCエンジンスーパーグラフィックスを除くPCエンジン用の全てのHuCARDタイトルがほぼそのまま遊べる。発売当時、市場で先行していた任天堂のゲームボーイに対抗して発売した。 欧米市場ではTurboExpress(ターボエクスプレス)の商品名で発売された。
{{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = PCエンジンGT |ロゴ = |画像 = [[ファイル:NEC-TurboExpress-Upright-FL.png|230px]] |画像コメント = PCエンジンGT(海外版) |メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]] |種別 = [[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]] |世代 = |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1990年]][[12月1日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[1992年]] |CPU = [[MOS 6502|MOS 65C02]] |GPU = [[HuC62]] |メディア = [[HuCARD]] |ストレージ = 使用不可 |コントローラ = 内蔵 |外部接続端子 = 通信端子 |オンラインサービス = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 35万台{{要出典|date=2023年12月}}<br />{{Flagicon|USA}} 35万台{{要出典|date=2023年12月}}<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 150万台 {{要出典|date=2023年12月}} |最高売上ソフト = |互換ハード = [[PCエンジン]] |前世代ハード = |次世代ハード = [[PC-FX]] }} '''PCエンジンGT'''(ピーシーエンジン ジーティー)とは、[[1990年]][[12月1日]]{{Efn|NECホームエレクトロニクスのウェブページ<ref>{{Wayback|url=http://www.nehe-et.gr.jp/kh/kh/products/pcengine.htm |title=PCEngine博物館 |date=19990116234241}}</ref>および当時の広告<ref>{{Cite web|和書|url=https://livedoor.blogimg.jp/games_meeting_place/imgs/f/6/f675f110.jpg |title=まことにGT。|accessdate=2022-09-28}}</ref>では11月10日発売}}に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)より発売された[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]。[[PCエンジン]]の一種である。当時の[[メーカー]][[希望小売価格]]は44,800円<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、54ページ</ref>。「'''GT'''」は「'''Game''' and '''TV'''」の略称である<ref>『[[PC Engine FAN]]』1990年12月号</ref>。 [[世界初の一覧|世界初]]となる[[コンシューマーゲーム|据え置き型ゲーム機]]との[[互換性]]がある携帯型ゲーム機で<ref>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/FXHP/pcengine/hard/gt.html PCエンジンGT]</ref>、[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]を除くPCエンジン用の全ての[[HuCARD]]タイトルがほぼそのまま遊べる。発売当時、市場で先行していた[[任天堂]]の[[ゲームボーイ]]に対抗して発売した<ref name="natsukashiGB"/>。 [[欧米|欧米市場]]では'''[[w:TurboExpress|TurboExpress]]'''(ターボエクスプレス)の商品名で発売された。 == ハードウェア == [[ゲームコントローラ|コントローラー]]には連射機能付き。通信端子が設けられ、対応ソフトであれば専用ケーブルでGT同士をつなぐとゲームボーイのように対戦ゲームが楽しめる<ref name="natsukashiGB"/>。本体に[[拡張カード|拡張バス]]が無く、[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]等のPCエンジン用各種[[周辺機器]]は接続が不可能である。 同時期のカラー液晶を搭載した携帯型ゲーム機である[[ゲームギア]]の[[STN液晶]]と比べて[[品質|高品質]]な[[薄膜トランジスタ|TFT液晶]]を採用しており、表示は美麗ながら価格が倍以上と高価であった。また、ゲームギアと同じく消費電力の多いバックライトが必須だったため、市販の乾電池ではバッテリーの持ちが悪く、連続稼働時間は[[アルカリマンガン乾電池|アルカリ乾電池]]6本で約3時間程度だった<ref name="natsukashiGB"/>。液晶はPCエンジンの横解像度が256-512ドットであるのに対しRGB合わせて横336ドットしかないため、白色の点は色づき原色の点はまばらにしか表示されない。このためゲームによっては[[コンピュータRPG|RPG]]の[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]]が読み辛いものもある。 == 仕様 == 以下の仕様は、PCエンジンGT(PI-TG6)のもの。 *外径 **縦185mm×横108mm×厚さ46.8mm *重量 **本体のみ約410g(電池含み約550g) *表示部 **2.6型 アクティブマトリクス駆動方式 バックライト付きカラー液晶画面 336×221=74,256画素(RGBを別カウントした数値) *音声出力 **スピーカ:丸型(直径28mm)ダイナミックスピーカ **ヘッドホン端子:直径3.5mmステレオミニジャック *使用電源 **単三乾電池×6(DC9V) *消費電力 **4.6W *使用環境 **温度5-35度 湿度20-80% *保存環境 **温度-10-55度 *付属品 **単三マンガン乾電池×6/ハンドストラップ/取扱説明書一式 == 周辺機器 == === NECホームエレクトロニクス純正 === {{Gallery |File:NEC-TurboVision-Express-TV-Adapter-Top.jpg|TVチューナー |File:NEC-TurboExpress-wTurboVision.jpg|PCエンジンGTとTVチューナーを接続させた状態 |File:NEC-TurboExpress-COM-Link-Cable.jpg|コムケーブル }} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:5.5em"|型番 ! style="width:15%"|名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PI-AD11 | TVチューナー | rowspan="5" | 1990年12月1日 | PCエンジンGT専用のTVチューナー。発売当時の[[コマーシャルメッセージ|テレビコマーシャル]]には、[[大竹まこと]]を起用し「GTならテレビも見られるしね」を謳い文句にしていた。 |- | PI-AD12 | GTカーアダプタ | 車用のカーアダプタ。 |- | LC-AV1 | GTAVケーブル | TVチューナーを介しGTにAV機器を接続するケーブル。 |- | LC-RF1 | エキストラアンテナコネクタ | GTチューナーへ接続する。 |- | PAD-121 | GTACアダプタ | PCエンジンGT用のACアダプタ。 |- | PI-AN4 | コムケーブル | 1990年12月7日 | 通信ケーブル。対応ソフトはわずか6本<ref>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/FXHP/pcengine/hard/comke.html COMケーブル]</ref>。 |- |} === 他社発売 === 以下二点は樫木総業からの発売 *パワーパック PK-001(6,900円) PCエンジンGT用の充電式バッテリー。単二型[[ニッケル・カドミウム蓄電池|ニッカド電池]]6本使用<ref>[https://www.kashinoki.shop/?pid=122072545 パワーパック PK-001] - 樫木総業(株) 通信販売部</ref>。<br />非公式だが、マルチキットとの併用で通常のコアマシンでも使用出来る<ref>{{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/MotorCity/7994/pce.html|title=PCエンジンの怪しい環境|date=20190330171526}}</ref>。 *マルチキット PI-01P(980円) パワーパック用の変換プラグ。ゲームボーイ用A-KIT、ゲームギア用B-KITのセット。 == 動作に支障があるカード == ;ゲームタイトル *[[スペースハリアー]] *アウトライブ *F-1 PILOT *[[死霊戦線]] *[[弁慶外伝]] *[[ニュージーランドストーリー]] *キングオブカジノ *[[イメージファイト]] *カトちゃんケンちゃん *ビックリマンワールド *邪聖剣ネクロマンサー  ;使用不可 *[[PCエンジンスーパーグラフィックス|スーパーグラフィックス]]専用カード *システムカード *スーパーシステムカード *[[アーケードカード]] *[[PCエンジン#セーブ用外部メモリ|天の声BANK]] == 脚注 == {{Commonscat|PC Engine}} {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[PCエンジン mini]] - 2020年に発売された復刻型ゲーム機。PCエンジンGTの液晶表示風の画面で遊べるフィルター機能が搭載された。この機能により、他に収録のCD-ROM2のタイトルを実機ではできない液晶表示風の画面でプレイが可能となる。 * [[エネミー・オブ・アメリカ]] - TurboExpressが劇中での重要アイテムとして小道具で使われた。主演の[[ウィル・スミス]]や[[ジーン・ハックマン]]も同ハードを手に取るシーンもある。 *[[Nintendo Switch Lite]] - 本機と同様に、据え置き型ゲーム機との互換性がある携帯用ゲーム機 {{家庭用ゲーム機/NEC}} {{DEFAULTSORT:ひいしいえんしんしいていい}} [[Category:PCエンジン]] [[Category:1990年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:携帯型ゲーム機]] [[Category:ハドソン]] [[Category:1990年代の玩具]]
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10,551
PCエンジンDuo
PCエンジンDuo(ピーシーエンジンデュオ)とは、1991年9月21日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された、PCエンジンの姉妹機にあたる家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は59,800円。 本機はHuCARDのみに対応したPCエンジンやPCエンジンコアグラフィックスとCD-ROMのみに対応したCD-ROMやSUPER CD-ROMの機能を一体化させた製品である。一体化に伴い、周辺機器を接続する端子を削除したため、NECホームエレクトロニクスが提唱したコア構想は事実上の終焉を迎えた。 1993年3月25日にはヘッドフォン端子やバッテリー端子を削除するなどして費用を削減し、丸みを帯びた形状で本体色を白に変更したPCエンジンDuo-R、1994年6月25日にはPCエンジンDuo-Rの本体色を変更し、同梱のパッドを6ボタンとしたPCエンジンDuo-RXが発売された。 欧米市場ではTurboDuo(ターボデュオ)の商品名で発売されたが、PCエンジンDuo-R、PCエンジンDuo-RXは未発売である。
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PCエンジンDuo(ピーシーエンジンデュオ)とは、1991年9月21日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売された、PCエンジンの姉妹機にあたる家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は59,800円。 本機はHuCARDのみに対応したPCエンジンやPCエンジンコアグラフィックスとCD-ROMのみに対応したCD-ROM2やSUPER CD-ROM2の機能を一体化させた製品である。一体化に伴い、周辺機器を接続する端子を削除したため、NECホームエレクトロニクスが提唱したコア構想は事実上の終焉を迎えた。 1993年3月25日にはヘッドフォン端子やバッテリー端子を削除するなどして費用を削減し、丸みを帯びた形状で本体色を白に変更したPCエンジンDuo-R、1994年6月25日にはPCエンジンDuo-Rの本体色を変更し、同梱のパッドを6ボタンとしたPCエンジンDuo-RXが発売された。 欧米市場ではTurboDuo(ターボデュオ)の商品名で発売されたが、PCエンジンDuo-R、PCエンジンDuo-RXは未発売である。
{{Pathnav|PCエンジン|frame=1}} {{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = PCエンジンDuo |画像 = [[ファイル:PC-Engine-Duo-Console-Set.png|350px]] |画像コメント = PCエンジンDuo |メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第4世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1991年]][[9月21日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[1992年]][[10月10日]] |CPU = [[HuC62|HuC6280]]([[MOS 6502]]ベース) |GPU = [[HuC62|HuC6260 + HuC6270]] |メディア = [[HuCARD]]<br />[[アーケードカード]]<br />[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]<br />[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] |ストレージ = [[バッテリーバックアップ]] |コントローラ = ケーブル |外部接続端子 = |オンラインサービス = 非対応 |売上台数 ={{Flagicon|JPN}} 92万台 |最高売上ソフト = |互換ハード = [[PCエンジン]]<br />[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] |前世代ハード = |次世代ハード = [[PC-FX]] }} '''PCエンジンDuo'''(ピーシーエンジンデュオ)は、[[1991年]][[9月21日]]<ref name=PCEngine博物館>{{Wayback|url=http://www.nehe-et.gr.jp/kh/kh/products/pcengine.htm |title=PCEngine博物館 |date=19990116234241}}</ref>に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)より発売された、[[PCエンジン]]の姉妹機にあたる[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。当時の[[メーカー]][[希望小売価格]]は59,800円。 本機は[[HuCARD]]のみに対応したPCエンジンや[[PCエンジンコアグラフィックス]]と[[CD-ROM]]のみに対応した[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]や[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]の機能を一体化させた製品である。一体化に伴い、周辺機器を接続する端子を削除したため、NECホームエレクトロニクスが提唱した[[コア構想]]は事実上の終焉を迎えた。 [[1993年]][[3月25日]]{{R|PCEngine博物館}}には[[ヘッドフォン]]端子や[[組電池|バッテリー]]端子を削除するなどして費用を削減し、丸みを帯びた形状で本体色を白に変更した'''PCエンジンDuo-R'''、[[1994年]][[6月25日]]{{R|PCEngine博物館}}にはPCエンジンDuo-Rの本体色を変更し、同梱のパッドを6ボタンとした'''PCエンジンDuo-RX'''が発売された。 [[欧米|欧米市場]]では'''[[w:TurboDuo|TurboDuo]]'''(ターボデュオ)の商品名で発売されたが、PCエンジンDuo-R、PCエンジンDuo-RXは未発売である。 == ハードウェア == {{Empty section|date=2021年11月}} == 仕様 == {{Empty section|date=2021年11月}} == バリエーション == ; PCエンジンDuo (PI-TG8) : 1991年9月21日発売 59,800円 : 最初に発売されたモデル。SUPER CD-ROM<sup>2</sup>との一体型。[[PCエンジンシャトル|シャトル]]以外の機種に搭載されていた拡張バスが廃止された。 : 別売りのDuoモニター(PI-LM1)とDuoバッテリー(PI-AD15)を接続することにより持ち運びが可能になる。 : 1991年には[[通商産業省]]の[[グッドデザイン賞]]を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.g-mark.org/award/describe/17803|title=Good Design Award - PCエンジンDuo|publisher=[[日本デザイン振興会]]|accessdate=2021-08-22}}</ref>。 ; TurboDuo(HES-DUO-01) : [[ファイル:TurboDuo-Console-Set.png|thumb|250px|TurboDuo]] : 1992年10月10日に$299.99で欧米市場で発売されたモデル。日本では未発売。 : ソフト3本付属。 :*''[[イースI・II#PCエンジン版|Ys Book I & II]]''(CD-ROM<sup>2</sup>) :*''[[ゲート オブ サンダー|Gate of Thunder]], [[:w:Bonk's Adventure|Bonk's Adventure]]''(英語圏版[[PC原人 (1989年のゲーム)|PC原人]]), ''[[:w:Bonk's Revenge|Bonk's Revenge]]''(英語圏版[[PC原人2]])(Super CD-ROM<sup>2</sup> 3-in-1) : 対応コネクターを組み込む事で[[Mac (コンピュータ)|Macintosh]]用のCD-ROMプレイヤーとして使用が可能。その時は周辺機器となり[[Apple|アップル]]とライセンス契約を結ぶ必要がなく、通常に比べて半分以下の価格でマッキントッシュユーザーはCD-ROMの機能を取り入れ、TurboDuoで遊ぶこともできる様になるため、[[ゲーム雑誌]]だけでなく[[パソコン雑誌]]にも掲載がされている。<ref>{{Cite book|和書|title=ファミコン通信 No.190 ターゲットはアップルユーザー?|date=1992年8月7日|year=1992|publisher=アスキー|page=8}}</ref> :*''[[ダンジョンエクスプローラー|Dungeon Explorer]]''([[HuCARD]]) ; PCエンジンDuo-R(PI-TG10) : [[ファイル:PC-Engine-Duo-R.png|thumb|250px|PCエンジンDuo-R]] : 1993年3月25日に39,800円で発売。海外では未発売。 : NECの[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]が新しいものに変更された。 : 本体のカラーリングの変更とヘッドフォン端子やバッテリー端子等を省いた[[廉価版]]。 : バッテリー端子等を省いたことにより持ち運びが出来なくなった。 : コストダウンのために基板上の部品の実装密度を下げたところ、DUOの大きさではおさまらず、横から見た時の高さが15mm増加した。 : 本体やパッドのカラーリングは限りなく白に近いグレーとなり、当時のパソコンなどに使われている色に近くなった<ref>{{Cite book|title=電撃PCエンジン|date=1993年3月1日|year=1993|publisher=メディアワークス|page=4,5,}}</ref>。 : Duo用のACアダプタ(PAD-124)と異なるACアダプタ(PAD-129/PAD-130)に変更された。 : デザインが丸みを帯びているところから「Round」の頭文字を取って「R」と名付けられている。 : 1993年に通商産業省のグッドデザイン賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.g-mark.org/award/describe/19995|title=Good Design Award - PCエンジンDuo-R|publisher=日本デザイン振興会|accessdate=2021-08-22}}</ref>。 ; PCエンジンDuo-RX(PCE-DUORX) : [[ファイル:PC Engine Duo-RXFreeBG.png|thumb|250px|PCエンジンDuo-RX]] : 1994年6月25日発売に29,800円で発売。海外では未発売。 : Duo-Rの[[モデルチェンジ|マイナーチェンジ機種]]。さらに低価格化したもの。 : 本体のカラーリングをシャドーグレーへと一部変更、同梱のコントローラが6ボタンのアーケードパッド6に変更された。 : CD-ROMドライブがピックアップ移動や読み取り精度の上がったものに変更されており、CDからのデータ読み込みが速くなった。 {{Clear}} == 周辺機器 == === NECホームエレクトロニクス純正 === {{Gallery |File:PC Engine Duo BatterySet.jpg|バッテリーセット |File:PC_Engine_ArcadeCard_DUO.jpg|アーケードカードDUO }} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:6em" | 型番 ! style="width:15%" | 名称 ! style="width:8.5em" | 発売日 ! 備考 |- | PI-PD002<br/>PI-PD06<br/>PI-PD8 | ターボパッド | rowspan="2" | 1987年10月30日 | 本体に同梱。 |- | PI-PD003 | [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]] | パッドを5つまで接続できる純正機器。本体のみではパッドを1つしか接続できなかった弱点が逆に普及を促し、ファミコン以上に多人数同時プレイソフトを登場させることとなった。2人用や4人用のサードパーティ製のものもあった。 |- | PI-PD5 | ターボパッドII | rowspan="3" | 1989年11月22日 | PCエンジンシャトルの形状に合わせたターボパッド。 |- | PI-AN2 | AVケーブル | テレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。本体に同梱。 |- | PI-AN3 | RFユニット | [[コンポジット映像信号]]出力のマシンに使用し、RF信号を出力するための機器。 |- | NAPD-1001 | アベニューパッド3 | 1991年1月31日 | 3ボタン操作の[[ロストワールド (ゲーム)|フォーゴットンワールド]]の発売に合わせて登場。IIIボタンはSELECTかRUNボタンのいずれかに設定して使用する、連射もできるのでRUNボタンに設定してスローモーション(ポーズの連射)をかけることも可能。 |- | PAD-124 | ACアダプタ | rowspan="8" | 1991年9月21日 | PCエンジンDuo用のACアダプタ。本体に同梱。 |- | PI-LM1 | Duo モニター | [[TVチューナー]]内蔵の4.3インチ[[薄膜トランジスタ|TFT]][[液晶ディスプレイ|液晶モニター]] |- | PI-AD13 | Duoカーアダプタ | 車用のPCエンジンDuoアダプタ。 |- | PI-AD16 | Duoモニターカーアダプタ | 車用のDuo Monitorアダプタ。 |- | PI-AD17 | Duoモニターバッテリーパック | 市販のアルカリ乾電池をDuoモニタで使用可能にするボックス。 |- | PI-AN5 | DuoモニターAVケーブル | DuoモニターにAV機器を接続する際に必要となる。 |- | PI-AN6 | Duoモニターアンテナコネクタ | Duoモニター用アンテナ整合器。 |- | PAD-126 | DuoモニターACアダプタ | Duoモニター用のACアダプタ。市販はされず、修理のみ対応。 |- | PI-AD14 | バッテリーセット | rowspan="2" | 1991年11月21日 | 本体をバッテリー駆動にする。なお、PI-AD14はバッテリーチャージャーの型番である。 |- | PI-AD15 | Duoバッテリーパック | PCエンジンDuo用のバッテリー。 |- | PI-PD11 | コードレスマルチタップ | rowspan="2" | 1992年12月18日 | PCエンジンDuoに合わせたデザインの純正品。パッド信号を[[赤外線]]で伝達することでコントローラのコードレス化を実現。コードレスマルチタップ自体はPCエンジン本体のパッド端子に接続する。コードレスパッドを5本揃えれば5人同時プレイ可能である。受信可能距離は約3mまで。 |- | PI-PD12 | コードレスパッド | コードレスマルチタップ用のパッド。単四乾電池4本必要。 |- | PI-AD19 | メモリーベース128 | 1993年3月 | パッド端子に接続して使用するセーブ用外部メモリ。後期ソフトのセーブデータの肥大化に対応し容量は128KBと非常に大きいが、対応ソフト以外は使用不可能。[[コーエー]]発売の同機能の周辺機器「セーブくん」もある(『[[信長の野望・武将風雲録]]』・『[[三國志III]]』などの一部に同梱)。<br />対応ソフトのうち、『[[エメラルドドラゴン]]』・『[[リンダキューブ]]』・『[[プライベート・アイ・ドル]]』・『[[ぽっぷるメイル]]』の4本には本体のバックアップメモリとの間でセーブデータをコピーするなどの操作が出来る管理ユーティリティを内蔵。『エメラルドドラゴン』・『リンダキューブ』は共通のツールでデータの互換性があるが、『プライベート・アイ・ドル』と『ぽっぷるメイル』は両者との互換性はない。 |- | NAPD-1002 | アベニューパッド6 | 1993年5月28日 | 6ボタンパッド。[[ストリートファイターII]]の移植に対応する形で登場。 |- | PAD-129 | ACアダプタ | 1993年11月1日 | PCエンジンDuo-R用のACアダプタ。本体に同梱。 |- | PCE-AC1 | [[アーケードカード|アーケードカードDUO]] | 1994年3月12日 | PCエンジンDuo系の機種やSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のアーケードカード。 |- | PAD-130 | ACアダプタ | rowspan="2" |1994年6月25日 | PCエンジンDuo-RX用のACアダプタ。本体に同梱。 |- | PCE-TP1 | アーケードパッド6 | 6ボタンパッド。PCエンジンDuo-RXに同梱。PC-FXの標準パッドとデザインがほぼ同じ。 |- |} === 他社発売 === *「HACKER CD CARD」については[[ハッカーインターナショナル#PCエンジン|ハッカーインターナショナルのツール類]]を参照。 == その他 == *{{要検証|=その成功は[[ソニー]]が[[任天堂]]に[[CD-ROM]]を用いたゲームを採用するように提案するきっかけとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2013年3月21日|url=http://toyokeizai.net/articles/-/13310?page=2|title=プレステ4巻き返しへの課題 先駆的だったPCエンジン|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2013年3月21日}}</ref>|date=2016年1月}}<!-- 記者はソニーの誰に確認を取ったのか?それを証明するものは? -->。 *PCエンジンDuoの[[コマーシャルソング]]および[[サウンドロゴ]]を歌っていたのは、当時4歳の[[Crystal Kay]]である<ref>[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]、[[2011年]][[11月29日]]放映の「テレフォンショッキング」より。</ref>。 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == {{Commonscat|PC Engine Duo}} * [[PCエンジンLT]] == 外部リンク == {{Empty section|date=2021年11月}} {{家庭用ゲーム機/NEC}} {{DEFAULTSORT:ひいしいえんしんてゆお}} [[Category:ゲーム機]] [[Category:PCエンジン]] [[Category:1991年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:ハドソン]] [[Category:1990年代の玩具]] [[Category:グッドデザイン賞]]
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地球環境問題
地球環境問題(ちきゅうかんきょうもんだい)とは、環境問題の一種で、問題の発生源や被害が特に広域的な、地球規模のものを指す。人間活動の影響力の増大によって、環境変化を自然が修復できなくなることによって発生する。 工業化の進展や自動車の普及に伴って発生した。 窒素・リンや有機物を原因とする富栄養化で水質汚染が発生する。この原因は1960 - 70年代では工業排水であったが、現在は生活排水である。 排出されたフロンガスが成層圏に蓄積することで紫外線と光化学反応を起こし、生成した塩素原子がオゾンを破壊する。 二酸化炭素等の温室効果ガスの放出などによる。 狩猟や開発などに伴う。 これらにおいて、環境への影響が国境を越えて波及する点も、大きな問題の一つである。ある国内で環境保護のための法整備を進めても、他国での環境破壊行為によって環境被害を受けることもあるため、地球環境問題は国際的な枠組みでの対策を必要とするのである。
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地球環境問題(ちきゅうかんきょうもんだい)とは、環境問題の一種で、問題の発生源や被害が特に広域的な、地球規模のものを指す。人間活動の影響力の増大によって、環境変化を自然が修復できなくなることによって発生する。
{{出典の明記|date=2017年8月}} '''地球環境問題'''(ちきゅうかんきょうもんだい)とは、[[環境問題]]の一種で、問題の発生源や[[被害]]が特に広域的な、[[地球]]規模のものを指す。人間活動の影響力の増大によって、環境変化を自然が修復できなくなることによって発生する{{sfn|松岡ほか|2007|p=2}}。 == 主要例 == * [[大気汚染]]・[[酸性雨]] [[工業化]]の進展や[[自動車]]の普及に伴って発生した。 * [[水質汚染]]・[[土壌汚染]] [[窒素]]・[[リン]]や[[有機物]]を原因とする[[富栄養化]]で水質汚染が発生する。この原因は1960 - 70年代では工業排水であったが、現在は生活排水である{{sfn|松岡ほか|2007|pp=48-49}}。 * [[オゾン層破壊]] 排出された[[フロンガス]]が[[成層圏]]に蓄積することで[[紫外線]]と[[光反応|光化学反応]]を起こし、生成した[[塩素]]原子が[[オゾン]]を破壊する{{sfn|松岡ほか|2007|p=3}}。 * [[地球温暖化]]・[[海面上昇]]・[[凍土融解]] [[二酸化炭素]]等の[[温室効果ガス]]の放出などによる。 * [[生物多様性]]の減退・[[生態系]]の破壊 狩猟や[[開発]]などに伴う。 * [[自然]]への影響を考えない土地の開発、[[植林]]を考慮しない大規模な[[森林]]の伐採。 == 問題点 == これらにおいて、環境への影響が国境を越えて波及する点も、大きな問題の一つである。ある国内で[[環境保護]]のための法整備を進めても、他国での[[自然破壊|環境破壊]]行為によって[[環境被害]]を受けることもあるため、地球環境問題は国際的な枠組みでの対策を必要とするのである。 * [[河川]]の上流地域(例:[[ネパール]])で森林を伐採することにより、上流の山が保水力を失い、下流(例:[[バングラデシュ]]、[[コルカタ|カルカッタ]]など)で[[洪水]]が発生する。 * 旧[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国での、無害化が不十分な排煙によって、[[ヨーロッパ|欧州]]全体に[[酸性雨]]被害が発生する。 * [[先進国]]での[[二酸化炭素]]排出が[[地球温暖化]]を招くことで、[[島嶼]]諸国が[[海面上昇]]による水没の危機にさらされる。 == 出典 == <references /> == 参考文献 == * {{Citation|和書|editor=松岡憲知・田中博・杉田倫明・村山祐司・手塚章・恩田裕一|year=2007|title=地球環境学―地球環境を調査・分析・診断するための30章―|publisher=古今書院|isbn=978-4-7722-5203-4|ref={{Sfnref|松岡ほか|2007}}}} == 関連項目 == <!--{{Commonscat|}}--> * [[環境問題関連の記事一覧]] * [[環境装置]] * [[環境学]] * [[環境法]] * [[国際環境法]] * [[環境政策学]] * [[持続可能な開発]]・[[持続可能性]] ** 空気:[[大気汚染]]/[[酸性雨]]/[[オゾン層破壊]]/[[二酸化炭素]]/[[温室効果ガス]] ** 水:[[水質汚染]]/[[生活排水]] ** 地面:[[砂漠化]]/[[土壌汚染]]/[[海面上昇]]/[[凍土融解]]/[[放射能汚染]] ** 生物:[[生物多様性]]の減退/[[生態系]]の破壊 == 外部リンク == * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/index.html 地球環境 | 外務省] * [http://www.eic.or.jp EICネット] - 環境情報案内・交流サイト。 * [http://www.worldwatch-japan.org/NEWS/reportindex.htm レポート一覧 | WorldWatch Japan(WWJ)] {{環境問題|||uncollapsed|}} {{env-stub}} {{DEFAULTSORT:ちきゆうかんきようもんたい}} [[Category:環境問題]]
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理解社会学
理解社会学(りかいしゃかいがく、独:verstehende Soziologie)は、マックス・ウェーバーが提唱した社会学上の立場である。 理解社会学の特徴は、観察対象となる社会現象や集団、社会的な行為の行為者にとっての意味(主観的意味)を理解(了解)しようと努める点にある。社会的事象を個人の行為に還元して分析しようとする際には、外面的な因果関係による「説明」では不十分であり、その行為者にとっての意味や動機が問われなければならないからだ。 ただし、ここでの主観的意味は、個別の「心理的」な感情ではなく、「社会的」文脈に根ざした「意味連関」のうちに理解されなくてはならない。たとえば、伝統的行動様式を支える価値的態度(エートス)などがこの主観的意味に含まれる。こうした価値と複雑に結びついた歴史社会的事象を科学的に分析する手続きとして理念型が設定されそれとの比較検討が進められる。ウェーバーは、このようにして、歴史の因果的経過の「説明」を社会的行為における意味の「理解」と関連づけようとしたのである。 また、ウェーバーの理解社会学とフッサールの現象学の総合のうえに、アルフレッド・シュッツの現象学的社会学が成立することになった。すなわち、シュッツにとって、社会科学の用いる概念は、「類型的概念構成の指示するかたちで生活世界のなかで個々の行為者の遂行する行為が、行為者の仲間だけでなく、行為者自身にとっても、日常生活の常識的解釈という観点から理解可能になるように構成されなければならない」のである(『シュッツ著作集』第1巻、98頁)。 理解社会学では社会の生産について社会の成員による達成という点が強調されるが、このことと、必ずしも人間は自らが選択できる条件の下で社会を形成するわけではないとする社会思想との整合性が問題になり、以後、社会的生産と再生産との接合を目指す論がピエール・ブルデューやアンソニー・ギデンズなどによって生み出されていくことになる。
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理解社会学は、マックス・ウェーバーが提唱した社会学上の立場である。
{{参照方法|date=2018年2月}} '''理解社会学'''(りかいしゃかいがく、独:verstehende Soziologie)は、[[マックス・ウェーバー]]が提唱した[[社会学]]上の立場である。 == 概要 == 理解社会学の特徴は、[[観察]]対象となる[[社会現象]]や[[集団]]、[[社会的行為|社会的な行為]]の行為者にとっての[[意味]](主観的意味)を理解([[了解]])しようと努める点にある。社会的事象を個人の行為に還元して分析しようとする際には、外面的な因果関係による「[[説明]]」では不十分であり、その行為者にとっての意味や[[動機]]が問われなければならないからだ。 ただし、ここでの主観的意味は、個別の「心理的」な感情ではなく、「社会的」文脈に根ざした「意味連関」のうちに理解されなくてはならない。たとえば、伝統的行動様式を支える価値的態度([[エートス]])などがこの主観的意味に含まれる。こうした[[価値]]と複雑に結びついた歴史社会的事象を科学的に分析する手続きとして[[理念型]]が設定されそれとの[[比較社会学|比較]]検討が進められる。ウェーバーは、このようにして、歴史の因果的経過の「説明」を社会的行為における意味の「理解」と関連づけようとしたのである。 また、ウェーバーの理解社会学と[[エトムント・フッサール|フッサール]]の[[現象学]]の総合のうえに、[[アルフレッド・シュッツ]]の[[現象学的社会学]]が成立することになった。すなわち、シュッツにとって、社会科学の用いる[[概念]]は、「類型的概念構成の指示するかたちで生活世界のなかで個々の行為者の遂行する行為が、行為者の仲間だけでなく、行為者自身にとっても、日常生活の常識的解釈という観点から理解可能になるように構成されなければならない」のである(『シュッツ著作集』第1巻、98頁)。 == 学説上の位置 == 理解社会学では社会の生産について社会の成員による達成という点が強調されるが、このことと、必ずしも人間は自らが選択できる条件の下で社会を形成するわけではないとする社会思想との整合性が問題になり、以後、社会的生産と再生産との接合を目指す論が[[ピエール・ブルデュー]]や[[アンソニー・ギデンズ]]などによって生み出されていくことになる。 ==関連項目== *[[了解]] *[[マックス・ウェーバー]] *[[タルコット・パーソンズ]] == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=アルフレッド・シュッツ|translator=佐藤嘉一|year=2006|title=社会的世界の意味構成-理解社会学入門|publisher=木鐸社|edition=改訳版|isbn=9784833290180}} *{{Cite book|和書|author=アンソニー・ギデンズ|translator=松尾精文・小幡正敏・藤井達也|year=2000|title=社会学の新しい方法規準-理解社会学の共感的批判|publisher=而立書房|edition=第2版|isbn=9784880592701}} *{{Cite book|和書|author=マックス・ウェーバー|translator=林道義|year=2002|title=理解社会学のカテゴリー|publisher=岩波書店|edition=新訳版|series=岩波文庫|isbn=9784003420911}} {{socsci-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りかいしやかいかく}} [[Category:社会理論]] [[Category:批判理論]] [[Category:社会科学の哲学]] [[Category:ドイツ哲学]]
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東急7200系電車
東急7200系電車(とうきゅう7200けいでんしゃ)は、1967年(昭和42年)3月27日に営業運転を開始した東京急行電鉄(以下 東急)の通勤形電車。1972年(昭和47年)までに53両が導入された。 東急では1962年(昭和37年)から東横線の輸送力増強および地下鉄日比谷線乗り入れ用として7000系を設計・導入し、1966年(昭和41年)からは田園都市線の溝の口駅 - 長津田駅間延伸用に引き続き7000系を増備した。 しかし、7000系は地下鉄乗り入れに必要な性能を満たすため全電動車方式であり、東横線では急行用としてもその性能が生かされたが、東横線以外の各線(田園都市線、目蒲線、および池上線)では必ずしもそこまでの性能を必要としておらず、導入費および保守費の高さが問題となっていた。 そこで、7000系の両数が134両に達した1967年(昭和42年)に、MT比(動力車と付随車の構成比)を1対1としたモデルチェンジ車として本形式を設計・導入した。 7000系同様の18m級オールステンレス車体(アルミ合金で製造された2両を除く)で、側面の客用ドアは3か所設けられている。正面は「く」の字状に上下左右に折れ曲がった「ダイヤモンドカット」と呼ばれる特徴的なデザインを有する。 連結面は広幅貫通路であるため、後の3両編成化時に連結面と編成中間に組み込まれたデハ7200形の運転台側を連結する際は、8500系の付随車代用としてクハ8000形を組み込んだ編成の当該連結面や貫通扉増設車の連結面と同様に、連結面側の貫通路をステンレス板で狭めて対応していた。 車両番号の下2桁が50番台の車両は東洋電機製造(東洋)製の制御装置を搭載し、それ以外の車両は日立製作所(日立)製の制御装置を搭載する。なお、当初は東洋車についても0番台であったが、途中で変更・改番されており、併せて日立車にも改番が発生した。 抵抗制御方式、界磁調整器(東洋車)もしくは界磁制御器(日立車)による回生ブレーキを使用している。主電動機には出力110 kWの複巻電動機を採用し東洋車がTDK841-A1・日立車がHS-833-Irbである。歯車比は両者とも86:15とされた。 旧5000系と同じく1M方式で、電動車と付随車(制御車)の組み合わせにより自在に経済的な編成を組成することが可能である。同系よりも定格速度は低い。起動加速度はMT比1:1で2.5km/h/s、2:1で2.8km/h/s、3:1で3.2km/h/sである。 目蒲線・池上線での運用を考慮し、車幅を地方鉄道車両定規に収め、当時の東急の鉄道線全線に入線可能とした。地上線専用として屋根・天井が高くなった車体断面は8000系へとつながる。 オールステンレス車両が故、車体が腐食する心配がないと判断したため、東急の軌道線用のデハ150形に続いて、関東大手私鉄の鉄道線用車両で戦後初めて1段下降式窓を採用した。 冷房装置は8000系と同一の分散式を各車に4基搭載する。 台車は電動車がTS-802形、付随車はPIII-707形パイオニア台車とした。 当初の計画ではデハ7200形 (Mc)、デハ7300形 (M)、サハ7400形 (T)、クハ7500形 (Tc) の4形式を予定していたが、実際に製造されたのは下記の4形式53両である。なお、以下に示す番号は改番後のものである。 1967年(昭和42年)12月12日にアルミ車体の試作車両(7200 - 7500号車)が導入された。これはメーカーであり東急グループである東急車輛製造のアルミ車製作技術習得の目的があった。当初は無塗装であったが、汚れが目立ちやすかったため後にメタリックグレーに塗装された。外観は、コルゲートがステンレス車に比べ少ない、幕板部分のコルゲートがないなど、ステンレス車より若干平滑なデザインになっている。 当初は他の7200系編成とともに運用され、旧田園都市線(現・大井町線)と東横線を経て、1980年(昭和55年)から1989年(平成元年)までこどもの国線専用車として活躍した。この際、黄緑色の帯を車体に貼り、こどもの国のマークを貼って運転された。 その後の田園都市線のATC化に伴い、先代の動力車デハ3499と架線検測車デヤ3001が同線を走行できなくなるのを受けて、デハ7200は両運転台・動力車化の改造を受けてデヤ7200に、クハ7500は両運転台・電動車(7600系デハ7673への改造に伴い捻出されたデハ7402の電装品を利用)・架線試験車化の改造を受けてデヤ7290とした。7200は改造当初デハのままであったが、1996年にデヤへと変更されている。両運化に伴う新設側運転台は、切妻形で配管が露出し方向幕は正面左側窓に吊り下げ式の簡易な構造。両車ともATC車上装置を搭載し、マスコンは他系列と共通のワンハンドル式としたが、ブレーキ方式は他系列の電気指令式 (HRD) とは異なり、新造時からの電磁直通式HSC-RをHRDに近い機構に改造して使用している。また、HRDの他、9000系などのHRAブレーキの制御指令の読み替えをすることもできるが、新3000系などのHRDAには対応していない。なお、後述するサヤ7590のブレーキはHRDとなっている(後述)。車体が黄・赤・青の派手な塗装であることから「派手車」という愛称もあった。また、デヤ7200の室内戸袋部にはこどもの国線専用車時代のイラストが広告枠ごと残されていた。 奇数月に東急全線および横浜高速鉄道みなとみらい線を3両で検測走行した他(軌道線の世田谷線は除く)、不定期でサヤ7590を抜いた2両でATC車上装置を搭載しない池上線・東急多摩川線の車両(ATC車上装置を搭載する7000系は除く)の車輪転削や検査などでの回送牽引車として使用された。界磁制御器を撤去しているため、回生ブレーキ機能を持たないほか、力行時の弱め界磁制御ができないため中速以上の加速性能も悪くなっている。 2012年3月に新検測車となる7500系「TOQ i」が導入されるのに伴い、同年2月26日にさよなら運転を行った。一方デヤ7200は2013年11月10日のJリーグ・川崎フロンターレの試合前イベントとして等々力陸上競技場前広場で展示・公開後に解体。デヤ7290も2014年9月の「東急電車まつり in 長津田」で展示されたのを最後に廃車となった。 当時検測車として使用されていたデヤ7200・デヤ7290に組み込んで使用する軌道検測車として、サヤ7590が1998年(平成10年)1月に製造された。入籍は同年3月30日、本格的な稼動は同年5月20日からである。デヤ7200形置き換え後は、連結相手を7500系「TOQ i」に変更し、継続して使用されている。 車体は、東急の車両では初となるビードのないステンレス鋼製となっており、塗装は当時使用されていた検測車デヤ7200・デヤ7290に合わせたカラーリングをまとっている。連結面寄りは8000系同様の貫通開き戸を設置しているほか、側面には作業者の出入り用の側開き戸が設置されている。側面には側窓が4か所設置されており、中央の2か所は固定窓、連結面寄りの2か所は開閉可能な下降窓構造となっている。空調装置は9,000kcal/h容量の冷房装置を2台搭載し、車内には扇風機3台が設置されている。 台車については、検測装置を取り付けることから、3台車方式となっている。両端(連結面寄り)の台車はTS-333形で空気ばね方式、中間の台車はTS-334形でコイルばね方式である。いずれも軸箱支持は軸箱守(ペデスタル)方式で、基礎ブレーキ装置はTS-333形のみ両抱き踏面ブレーキを装備しており、中間台車のTS-334形にはブレーキを装備していない。 台車には渦電流式変位検出器、光式レール変位検出器、ガードレール検出器といった各種検出器が装備されている。また、軌道検測時の精度を確保するため、滑走防止装置が設けられている。連結器は動力車との頻繁な連結・解放作業が行われることから、自動密着連結器構造となっている。 室内は、当時主力車両として使用されていた8000系の室内更新車に準じた内装カラーとしている。室内の中央付近は高床構造として検測機器を設置している。上り側(渋谷寄り)にはロッカーと打ち合わせ用のテーブルを配置し、下り寄りには3人掛けのロングシートが両側面に設置されている。 本車両に搭載される軌道検測装置は以下の10点で構成されている。 多摩田園都市の開発により急速に乗客が増加していた田園都市線へ1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)にかけて導入されたほか、1972年(昭和47年)には7260編成(3両:デハ7260-デハ7452-クハ7560)が目蒲線初の冷房車として導入された。これは東横線などへの冷房車の投入などに比して、旧型車がほとんどの目蒲線・池上線との格差の発生に配慮したものといわれている。 田園都市線時代は大井町駅 - 鷺沼駅間を4両編成で、同駅で2両を切り離して以西を2両編成で運転していたため、2両+2両の編成を基本としていた。1972年4月にはデハ7251 - 7254とクハ7551 - 7554の8両に冷房化が実施され、同線初の冷房車となった。 1984年(昭和59年)には、冷房化したデハ7300形またはデハ7400形を組み込んだ3両編成を目蒲線に増発、池上線で初の冷房車として運転を開始した。ただし、一部には非冷房のまま両線に転入し、後に冷房化した編成も存在した。また、中間車はデハ7300・7400形が合わせて7両しかなく、不足分はデハ7200形を組み込むことで対応していた。 なお、東横線での急行運用時は7000系・6000系・8000系と同様に先頭車の前面と側面に「急行」の種別板を装着して運用していた。 1987年(昭和62年)には、目蒲線・池上線に7200系全車を集約させる際に、M車(電動車)が不足しTc車(制御車)が余剰となることから、クハ7500形6両が7600系に改造された。その後、断続的に改造が行われ、最終的には9両が7600系となる。また、同年にアルミ車を除くすべての7200系の冷房化が完了した。 1988年(昭和63年)春から、先頭車の前面に赤帯が施された。ただし、編成の中間に組み込まれた先頭車には貼られなかった車両もある。 1989年(平成元年)には、同年3月19日からの目蒲線4両編成化に伴い、7600系を含む全編成が池上線配属となった。 1992年(平成4年)から1000系の池上線配属に伴い10両が廃車となり、上田交通(現・上田電鉄)に譲渡されるとともに、20両が4両編成化されて目蒲線に転属した。目蒲線での使用は3年ぶりとなる。 1995年(平成7年)には7700系がワンマン運転対応改造の上で池上線に配属された際に、残りの12両も目蒲線に転属した。同年10月までに池上線での運転は終了した。 2000年(平成12年)8月4日をもって一般営業運転を終了し、同年11月12日に池上線と東急多摩川線でさよなら運転を行った。さよなら運転時は赤帯を剥がしたうえ、前面および側面には東横線の「急行」サボを掲出して走行した。 上記のアルミ試作車2両と、7600系に改造された9両を除く42両全車が他鉄道事業者に譲渡され、2021年3月末日現在でそのうち32両が営業運転に使用されている。 なお譲渡ではないが、下記の他に伊豆急行の1960年代の夏季多客時輸送に、デハ3600形・クハ3670形や7000系などとともに同社に貸し出されたことがある。 上田交通には、デハ7200形・クハ7500形各5両の計10両が1993年に譲渡された。なお2005年に鉄道事業は上田電鉄に分社化されている。1000系の入線に伴い2018年5月をもって引退。豊橋鉄道と東急車輛製造に各2両が再譲渡された。 豊橋鉄道にはデハ7200形15両・デハ7300形3両・デハ7400形3両・クハ7500形9両の計30両が2000年に譲渡され、1800系に改番された。デハ7200形のうち3両は部品取り車となったが、2001年に火災により営業用の車両が2両廃車されたため2両がその代替車となり、残り1両も2008年に上田電鉄からの譲渡車と編成を組んで営業運転に使用されている。 十和田観光電鉄には、デハ7200形2両(デハ7211・デハ7259)が両運転台構造に改造された上で2002年に譲渡され、モハ7204・モハ7305となった。新設側の運転台は切妻形となっている。2012年3月31日、廃線に伴い全廃。2014年6月、大井川鐵道に再譲渡された。 大井川鐵道は、2014年6月に十和田観光電鉄から7200系2両の譲渡を受けた。運行開始時期は2014年の冬を予定していたが、諸事情で約2ヶ月遅れ、2015年2月23日の運行開始となった。運行開始以降2両編成での運用が続いていたが、2019年6月より全線での単行運転を開始した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東急7200系電車(とうきゅう7200けいでんしゃ)は、1967年(昭和42年)3月27日に営業運転を開始した東京急行電鉄(以下 東急)の通勤形電車。1972年(昭和47年)までに53両が導入された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東急では1962年(昭和37年)から東横線の輸送力増強および地下鉄日比谷線乗り入れ用として7000系を設計・導入し、1966年(昭和41年)からは田園都市線の溝の口駅 - 長津田駅間延伸用に引き続き7000系を増備した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "しかし、7000系は地下鉄乗り入れに必要な性能を満たすため全電動車方式であり、東横線では急行用としてもその性能が生かされたが、東横線以外の各線(田園都市線、目蒲線、および池上線)では必ずしもそこまでの性能を必要としておらず、導入費および保守費の高さが問題となっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "そこで、7000系の両数が134両に達した1967年(昭和42年)に、MT比(動力車と付随車の構成比)を1対1としたモデルチェンジ車として本形式を設計・導入した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "7000系同様の18m級オールステンレス車体(アルミ合金で製造された2両を除く)で、側面の客用ドアは3か所設けられている。正面は「く」の字状に上下左右に折れ曲がった「ダイヤモンドカット」と呼ばれる特徴的なデザインを有する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "連結面は広幅貫通路であるため、後の3両編成化時に連結面と編成中間に組み込まれたデハ7200形の運転台側を連結する際は、8500系の付随車代用としてクハ8000形を組み込んだ編成の当該連結面や貫通扉増設車の連結面と同様に、連結面側の貫通路をステンレス板で狭めて対応していた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "車両番号の下2桁が50番台の車両は東洋電機製造(東洋)製の制御装置を搭載し、それ以外の車両は日立製作所(日立)製の制御装置を搭載する。なお、当初は東洋車についても0番台であったが、途中で変更・改番されており、併せて日立車にも改番が発生した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "抵抗制御方式、界磁調整器(東洋車)もしくは界磁制御器(日立車)による回生ブレーキを使用している。主電動機には出力110 kWの複巻電動機を採用し東洋車がTDK841-A1・日立車がHS-833-Irbである。歯車比は両者とも86:15とされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "旧5000系と同じく1M方式で、電動車と付随車(制御車)の組み合わせにより自在に経済的な編成を組成することが可能である。同系よりも定格速度は低い。起動加速度はMT比1:1で2.5km/h/s、2:1で2.8km/h/s、3:1で3.2km/h/sである。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "目蒲線・池上線での運用を考慮し、車幅を地方鉄道車両定規に収め、当時の東急の鉄道線全線に入線可能とした。地上線専用として屋根・天井が高くなった車体断面は8000系へとつながる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "オールステンレス車両が故、車体が腐食する心配がないと判断したため、東急の軌道線用のデハ150形に続いて、関東大手私鉄の鉄道線用車両で戦後初めて1段下降式窓を採用した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "冷房装置は8000系と同一の分散式を各車に4基搭載する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "台車は電動車がTS-802形、付随車はPIII-707形パイオニア台車とした。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当初の計画ではデハ7200形 (Mc)、デハ7300形 (M)、サハ7400形 (T)、クハ7500形 (Tc) の4形式を予定していたが、実際に製造されたのは下記の4形式53両である。なお、以下に示す番号は改番後のものである。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)12月12日にアルミ車体の試作車両(7200 - 7500号車)が導入された。これはメーカーであり東急グループである東急車輛製造のアルミ車製作技術習得の目的があった。当初は無塗装であったが、汚れが目立ちやすかったため後にメタリックグレーに塗装された。外観は、コルゲートがステンレス車に比べ少ない、幕板部分のコルゲートがないなど、ステンレス車より若干平滑なデザインになっている。", "title": "アルミ試作車→事業用車" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当初は他の7200系編成とともに運用され、旧田園都市線(現・大井町線)と東横線を経て、1980年(昭和55年)から1989年(平成元年)までこどもの国線専用車として活躍した。この際、黄緑色の帯を車体に貼り、こどもの国のマークを貼って運転された。", "title": "アルミ試作車→事業用車" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後の田園都市線のATC化に伴い、先代の動力車デハ3499と架線検測車デヤ3001が同線を走行できなくなるのを受けて、デハ7200は両運転台・動力車化の改造を受けてデヤ7200に、クハ7500は両運転台・電動車(7600系デハ7673への改造に伴い捻出されたデハ7402の電装品を利用)・架線試験車化の改造を受けてデヤ7290とした。7200は改造当初デハのままであったが、1996年にデヤへと変更されている。両運化に伴う新設側運転台は、切妻形で配管が露出し方向幕は正面左側窓に吊り下げ式の簡易な構造。両車ともATC車上装置を搭載し、マスコンは他系列と共通のワンハンドル式としたが、ブレーキ方式は他系列の電気指令式 (HRD) とは異なり、新造時からの電磁直通式HSC-RをHRDに近い機構に改造して使用している。また、HRDの他、9000系などのHRAブレーキの制御指令の読み替えをすることもできるが、新3000系などのHRDAには対応していない。なお、後述するサヤ7590のブレーキはHRDとなっている(後述)。車体が黄・赤・青の派手な塗装であることから「派手車」という愛称もあった。また、デヤ7200の室内戸袋部にはこどもの国線専用車時代のイラストが広告枠ごと残されていた。", "title": "アルミ試作車→事業用車" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "奇数月に東急全線および横浜高速鉄道みなとみらい線を3両で検測走行した他(軌道線の世田谷線は除く)、不定期でサヤ7590を抜いた2両でATC車上装置を搭載しない池上線・東急多摩川線の車両(ATC車上装置を搭載する7000系は除く)の車輪転削や検査などでの回送牽引車として使用された。界磁制御器を撤去しているため、回生ブレーキ機能を持たないほか、力行時の弱め界磁制御ができないため中速以上の加速性能も悪くなっている。", "title": "アルミ試作車→事業用車" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2012年3月に新検測車となる7500系「TOQ i」が導入されるのに伴い、同年2月26日にさよなら運転を行った。一方デヤ7200は2013年11月10日のJリーグ・川崎フロンターレの試合前イベントとして等々力陸上競技場前広場で展示・公開後に解体。デヤ7290も2014年9月の「東急電車まつり in 長津田」で展示されたのを最後に廃車となった。", "title": "アルミ試作車→事業用車" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当時検測車として使用されていたデヤ7200・デヤ7290に組み込んで使用する軌道検測車として、サヤ7590が1998年(平成10年)1月に製造された。入籍は同年3月30日、本格的な稼動は同年5月20日からである。デヤ7200形置き換え後は、連結相手を7500系「TOQ i」に変更し、継続して使用されている。", "title": "サヤ7590形" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "車体は、東急の車両では初となるビードのないステンレス鋼製となっており、塗装は当時使用されていた検測車デヤ7200・デヤ7290に合わせたカラーリングをまとっている。連結面寄りは8000系同様の貫通開き戸を設置しているほか、側面には作業者の出入り用の側開き戸が設置されている。側面には側窓が4か所設置されており、中央の2か所は固定窓、連結面寄りの2か所は開閉可能な下降窓構造となっている。空調装置は9,000kcal/h容量の冷房装置を2台搭載し、車内には扇風機3台が設置されている。", "title": "サヤ7590形" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "台車については、検測装置を取り付けることから、3台車方式となっている。両端(連結面寄り)の台車はTS-333形で空気ばね方式、中間の台車はTS-334形でコイルばね方式である。いずれも軸箱支持は軸箱守(ペデスタル)方式で、基礎ブレーキ装置はTS-333形のみ両抱き踏面ブレーキを装備しており、中間台車のTS-334形にはブレーキを装備していない。", "title": "サヤ7590形" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "台車には渦電流式変位検出器、光式レール変位検出器、ガードレール検出器といった各種検出器が装備されている。また、軌道検測時の精度を確保するため、滑走防止装置が設けられている。連結器は動力車との頻繁な連結・解放作業が行われることから、自動密着連結器構造となっている。", "title": "サヤ7590形" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "室内は、当時主力車両として使用されていた8000系の室内更新車に準じた内装カラーとしている。室内の中央付近は高床構造として検測機器を設置している。上り側(渋谷寄り)にはロッカーと打ち合わせ用のテーブルを配置し、下り寄りには3人掛けのロングシートが両側面に設置されている。", "title": "サヤ7590形" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "本車両に搭載される軌道検測装置は以下の10点で構成されている。", "title": "サヤ7590形" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "多摩田園都市の開発により急速に乗客が増加していた田園都市線へ1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)にかけて導入されたほか、1972年(昭和47年)には7260編成(3両:デハ7260-デハ7452-クハ7560)が目蒲線初の冷房車として導入された。これは東横線などへの冷房車の投入などに比して、旧型車がほとんどの目蒲線・池上線との格差の発生に配慮したものといわれている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "田園都市線時代は大井町駅 - 鷺沼駅間を4両編成で、同駅で2両を切り離して以西を2両編成で運転していたため、2両+2両の編成を基本としていた。1972年4月にはデハ7251 - 7254とクハ7551 - 7554の8両に冷房化が実施され、同線初の冷房車となった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1984年(昭和59年)には、冷房化したデハ7300形またはデハ7400形を組み込んだ3両編成を目蒲線に増発、池上線で初の冷房車として運転を開始した。ただし、一部には非冷房のまま両線に転入し、後に冷房化した編成も存在した。また、中間車はデハ7300・7400形が合わせて7両しかなく、不足分はデハ7200形を組み込むことで対応していた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお、東横線での急行運用時は7000系・6000系・8000系と同様に先頭車の前面と側面に「急行」の種別板を装着して運用していた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)には、目蒲線・池上線に7200系全車を集約させる際に、M車(電動車)が不足しTc車(制御車)が余剰となることから、クハ7500形6両が7600系に改造された。その後、断続的に改造が行われ、最終的には9両が7600系となる。また、同年にアルミ車を除くすべての7200系の冷房化が完了した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)春から、先頭車の前面に赤帯が施された。ただし、編成の中間に組み込まれた先頭車には貼られなかった車両もある。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)には、同年3月19日からの目蒲線4両編成化に伴い、7600系を含む全編成が池上線配属となった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)から1000系の池上線配属に伴い10両が廃車となり、上田交通(現・上田電鉄)に譲渡されるとともに、20両が4両編成化されて目蒲線に転属した。目蒲線での使用は3年ぶりとなる。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)には7700系がワンマン運転対応改造の上で池上線に配属された際に、残りの12両も目蒲線に転属した。同年10月までに池上線での運転は終了した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)8月4日をもって一般営業運転を終了し、同年11月12日に池上線と東急多摩川線でさよなら運転を行った。さよなら運転時は赤帯を剥がしたうえ、前面および側面には東横線の「急行」サボを掲出して走行した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "上記のアルミ試作車2両と、7600系に改造された9両を除く42両全車が他鉄道事業者に譲渡され、2021年3月末日現在でそのうち32両が営業運転に使用されている。", "title": "他鉄道事業者への譲渡" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお譲渡ではないが、下記の他に伊豆急行の1960年代の夏季多客時輸送に、デハ3600形・クハ3670形や7000系などとともに同社に貸し出されたことがある。", "title": "他鉄道事業者への譲渡" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上田交通には、デハ7200形・クハ7500形各5両の計10両が1993年に譲渡された。なお2005年に鉄道事業は上田電鉄に分社化されている。1000系の入線に伴い2018年5月をもって引退。豊橋鉄道と東急車輛製造に各2両が再譲渡された。", "title": "他鉄道事業者への譲渡" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "豊橋鉄道にはデハ7200形15両・デハ7300形3両・デハ7400形3両・クハ7500形9両の計30両が2000年に譲渡され、1800系に改番された。デハ7200形のうち3両は部品取り車となったが、2001年に火災により営業用の車両が2両廃車されたため2両がその代替車となり、残り1両も2008年に上田電鉄からの譲渡車と編成を組んで営業運転に使用されている。", "title": "他鉄道事業者への譲渡" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "十和田観光電鉄には、デハ7200形2両(デハ7211・デハ7259)が両運転台構造に改造された上で2002年に譲渡され、モハ7204・モハ7305となった。新設側の運転台は切妻形となっている。2012年3月31日、廃線に伴い全廃。2014年6月、大井川鐵道に再譲渡された。", "title": "他鉄道事業者への譲渡" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "大井川鐵道は、2014年6月に十和田観光電鉄から7200系2両の譲渡を受けた。運行開始時期は2014年の冬を予定していたが、諸事情で約2ヶ月遅れ、2015年2月23日の運行開始となった。運行開始以降2両編成での運用が続いていたが、2019年6月より全線での単行運転を開始した。", "title": "他鉄道事業者への譲渡" } ]
東急7200系電車(とうきゅう7200けいでんしゃ)は、1967年(昭和42年)3月27日に営業運転を開始した東京急行電鉄の通勤形電車。1972年(昭和47年)までに53両が導入された。
{{鉄道車両 | 車両名 = 東急7200系電車 | 背景色 = #FF1A0F | 文字色 = #FFFFFF | 画像 = Tokyu 7200 in Mekama line01.jpg | 画像説明 = 7200系ステンレス車<br>(2000年8月3日 [[鵜の木駅]]) | 運用者 = [[東京急行電鉄]] | 製造所 = [[東急車輛製造]] | 製造年 = 1967年 - 1972年 | 製造数 = 53両 | 運用開始 = 1967年3月27日 | 運用終了 = 2000年11月12日(一般車)<br>2012年2月26日(事業用車) | 廃車 = 2014年 | 編成 = 最終時4両編成<br>過去2両・3両・6両・8両編成 | 軌間 = 1,067 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 100 km/h | 設計最高速度 = 100 km/h | 起動加速度 = 2.5 km/h/s([[MT比]]1:1)<ref name="rf200104">久保敏 「田園都市線開業から目蒲線終えんまで 東急7200系活躍の記録」 『鉄道ファン』2001年4月号(通巻480号)93p 「7200系主要諸元表」、交友社</ref><br>2.8 km/h/s(2M1T 3両編成)<ref name="rp199412">「現有車両諸元表」 『鉄道ピクトリアル』 1994年12月号臨時増刊(通巻600号)286p、電気車研究会</ref><br />3.2 km/h/s(3M1T 4両編成)<ref name="rp199412"/> | 常用減速度 = 3.5 km/h | 非常減速度 = 4.5 km/h | 編成定員 = | 車両定員 = 先頭車140(座席48)人<ref name="rf20121181"/><br />中間車150(座席56)人 | 自重 = デハ7200形33.3→34.0t(アルミ車30.0t)<br>クハ7500形21.0→24.0または24.5t(アルミ車17.9t)<br>・非冷房→冷房化後 カッコはアルミ車改造前 | 全長 = 18,000 mm<ref name="rf20121181"/> | 全幅 = 2,744 mm(先頭車)<br/>2,740 mm(中間車)<ref name="rf20121181"/> | 全高 = 4,100 mm<ref name="rf20121181"/> | 車体 = [[アルミニウム合金]](デハ7200・クハ7500)<br>[[ステンレス鋼]](それ以外)<ref name="rf20121181">鉄道ファン、交友社、2012年11月号、p.81</ref> | 台車 = 軸ばね式ダイレクトマウント空気ばね台車<br>[[動力車|電動車]]TS-802形<br>[[付随車]]PIII-707形→PIII-708形<ref name="rf20121181"/>(一部TS-839形に再交換) | 主電動機 = [[複巻整流子電動機|直流複巻電動機]]<br>[[日立製作所]]:HS-833-Irb<br>[[東洋電機製造]]:TDK-841-A1 | 主電動機出力 = 110 kW × 4<ref name="rf20121181"/> | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 86:15=5.73 | 制御方式 = [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]] | 制御装置 = | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電磁直通ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車停止装置#東急型ATS|東急形ATS]]<br>[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]](デヤ7200・7290のみ) | 備考 = }} '''東急7200系電車'''(とうきゅう7200けいでんしゃ)は、[[1967年]]([[昭和]]42年)[[3月27日]]に営業運転を開始<ref name="Hoikusha1990">保育社カラーブックス 日本の私鉄「東 急」(1990年発行)</ref>した[[東京急行電鉄]](以下 東急)の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。[[1972年]]([[昭和]]47年)までに53両が導入された。 == 概要 == 東急では[[1962年]]([[昭和]]37年)から[[東急東横線|東横線]]の輸送力増強および[[東京メトロ日比谷線|地下鉄日比谷線]]乗り入れ用として[[東急7000系電車 (初代)|7000系]]を設計・導入し、[[1966年]](昭和41年)からは[[東急田園都市線|田園都市線]]の[[溝の口駅]] - [[長津田駅]]間延伸用に引き続き7000系を増備した。 しかし、7000系は地下鉄乗り入れに必要な性能を満たすため全電動車方式であり、東横線では[[急行列車|急行]]用としてもその性能が生かされたが、東横線以外の各線(田園都市線、[[東急目蒲線|目蒲線]]、および[[東急池上線|池上線]])では必ずしもそこまでの性能を必要としておらず、導入費および保守費の高さが問題となっていた。 そこで、7000系の両数が134両に達した[[1967年]](昭和42年)に、[[MT比]]([[動力車]]と[[付随車]]の構成比)を1対1としたモデルチェンジ車として本形式を設計・導入した。 == 車両概説 == === 車体 === 7000系同様の18m級[[オールステンレス車両|オールステンレス車体]](アルミ合金で製造された2両を除く)で、側面の客用ドアは3か所設けられている。正面は「く」の字状に上下左右に折れ曲がった「ダイヤモンドカット」と呼ばれる特徴的なデザインを有する。 連結面は広幅貫通路であるため、後の3両編成化時に連結面と編成中間に組み込まれたデハ7200形の[[操縦席|運転台]]側を連結する際は、[[東急8500系電車|8500系]]の付随車代用としてクハ8000形を組み込んだ編成の当該連結面や[[貫通扉]]増設車の連結面と同様に、連結面側の貫通路をステンレス板で狭めて対応していた。 === 構造 === [[鉄道の車両番号|車両番号]]の下2桁が50番台の車両は[[東洋電機製造]](東洋)製の制御装置を搭載し、それ以外の車両は[[日立製作所]](日立)製の制御装置を搭載する。なお、当初は東洋車についても0番台であったが、途中で変更・改番されており、併せて日立車にも改番が発生した。 [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]方式、界磁調整器(東洋車)もしくは界磁制御器(日立車)による[[回生ブレーキ]]を使用している。主電動機には出力110 kWの複巻電動機を採用し東洋車がTDK841-A1・日立車がHS-833-Irbである。歯車比は両者とも86:15とされた。 [[東急5000系電車 (初代)|旧5000系]]と同じく1M方式で、[[動力車|電動車]]と[[付随車]]([[制御車]])の組み合わせにより自在に経済的な編成を組成することが可能である。同系よりも定格速度は低い。[[起動加速度]]は[[MT比]]1:1で2.5km/h/s<ref name="rf200104"/>、2:1で2.8km/h/s<ref name="rp199412"/>、3:1で3.2km/h/s<ref name="rp199412"/>である。 目蒲線・池上線での運用を考慮し<ref>宮田道一『日本の私鉄 (8) 東急』 [[保育社]]カラーブックス</ref>、車幅を地方鉄道車両定規に収め、当時の東急の鉄道線全線に入線可能とした<ref group="注">厳密には[[東急玉川線|玉川線]]の一部である砧線も鉄道線であった。</ref>。地上線専用として屋根・天井が高くなった車体断面は[[東急8000系電車|8000系]]へとつながる。 オールステンレス車両が故、車体が腐食する心配がないと判断したため、東急の[[軌道線]]用の[[東急デハ150形電車|デハ150形]]に続いて、関東大手私鉄の鉄道線用車両で[[戦後]]初めて1段下降式窓を採用した。 [[エア・コンディショナー|冷房装置]]は8000系と同一の[[分散式冷房装置|分散式]]を各車に4基搭載する。 [[鉄道車両の台車|台車]]は電動車がTS-802形、付随車はPIII-707形パイオニア台車とした。 == 形式 == 当初の計画ではデハ7200形 (Mc)、デハ7300形 (M)、サハ7400形 (T)、クハ7500形 (Tc) の4形式を予定していたが<ref>『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション15「東京急行電鉄」』P72</ref>、実際に製造されたのは下記の4形式53両<ref group="注">事業用車として新製されたサヤ7590を除く。</ref>である。なお、以下に示す番号は改番後のものである。 ;デハ7200形 :1967年に登場した[[渋谷駅|渋谷]]向き<ref group="注" name=dir>東急の鉄道線では配線の関係で、線区によって編成の方向が上下逆転する箇所はない。このため、渋谷向きは上り向き、桜木町向きは下り向きと同義となる。</ref>制御電動車。オールステンレス車が22両(日立車12両:デハ7201 - 7212、東洋車10両:デハ7251 - 7260)とアルミ車が1両(日立車:デハ7200)製造された。 ;デハ7300形 :1969年に登場した中間電動車。オールステンレス車が3両(日立車2両:デハ7301 - 7302、東洋車1両:デハ7351)製造された。 :当初は4両編成用の中間車として製造されたため電動発電機と空気圧縮機を搭載していなかったが、3両編成化を考慮して1980~81年にかけて全車がこれらの機器を搭載した<ref>保育社カラーブックス「日本の私鉄6 東急」宮田道一、いのうえ・こーいち共著(1989年12月31日発行) p.77</ref>。この際空気圧縮機のみは旧品のC-1000形が流用されたが(デハ7200・7400形はHB-1500形)、1987年にHS-20G形に交換されている。 ;デハ7400形 :1969年に登場した中間電動車。オールステンレス車が4両(日立車2両:デハ7401 - 7402、東洋車2両:デハ7451 - 7452)製造された。 :デハ7300形と違い、製造当初より電動発電機と空気圧縮機を搭載するため形式が分けられた。東洋車がデハ7300形より1両多いのは下記の目蒲線用新製冷房車に3両編成の中間車として製造されたためである。デハ7402から7600系に編入改造されたデハ7673も当初は本形式のままであったが、更新時にデハ7670形に編入されている。 ;クハ7500形 :1967年に登場した[[桜木町駅|桜木町]]向き<ref group="注" name=dir />制御車、オールステンレス車が22両(日立車12両:クハ7501 - 7512、東洋車10両:クハ7551 - 7560)とアルミ車が1両(日立車:クハ7500)製造された。冷房化後は電源用の[[電動発電機]]または[[静止形インバータ]]を搭載した。 == アルミ試作車→事業用車 == [[1967年]](昭和42年)12月12日に[[アルミニウム合金|アルミ]]車体の[[プロトタイプ|試作]]車両(7200 - 7500号車)が導入された<ref name="Hoikusha1990" />。これはメーカーであり[[東急グループ]]である東急車輛製造のアルミ車製作技術習得の目的があった。当初は無塗装であったが、汚れが目立ちやすかったため後にメタリックグレーに塗装された。外観は、コルゲートがステンレス車に比べ少ない、幕板部分のコルゲートがないなど、ステンレス車より若干平滑なデザインになっている。 {{Double image aside|right|Tokyu 7500 Kodomonokuni 198508a.jpg|160|Tokyu-7200-Kensoku.jpg|180|こどもの国線で運用されていたころの東急7200系アルミ車<br />(1985年8月 / こどもの国駅)|東急7200系事業用車<br />(2007年2月25日 / つくし野駅)}} 当初は他の7200系編成とともに運用され、旧田園都市線(現・[[大井町線]])と[[東横線]]を経て、[[1980年]](昭和55年)から[[1989年]](平成元年)まで[[東急こどもの国線|こどもの国線]]専用車として活躍した。この際、黄緑色の帯を車体に貼り、[[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]のマークを貼って運転された。 その後の田園都市線の[[自動列車制御装置|ATC]]化に伴い、先代の動力車[[東急デハ3450形電車|デハ3499]]と[[架線]][[試験車|検測車]][[東急3000系電車 (初代)#デヤ3000形|デヤ3001]]が同線を走行できなくなるのを受けて、デハ7200は両運転台・動力車化の改造を受けてデヤ7200に、クハ7500は両運転台・電動車(7600系デハ7673への改造に伴い捻出されたデハ7402の電装品を利用)・架線試験車化の改造を受けてデヤ7290とした。7200は改造当初デハのままであったが、[[1996年]]にデヤへと変更されている。両運化に伴う新設側運転台は、切妻形で配管が露出し方向幕は正面左側窓に吊り下げ式の簡易な構造。両車ともATC車上装置を搭載し、[[マスター・コントローラー|マスコン]]は他系列と共通のワンハンドル式としたが、ブレーキ方式は他系列の[[電気指令式ブレーキ|電気指令式]] (HRD) とは異なり、新造時からの[[電磁直通ブレーキ|電磁直通式]]HSC-RをHRDに近い機構に改造して使用している。また、HRDの他、9000系などのHRAブレーキの制御指令の読み替えをすることもできるが、[[東急3000系電車 (2代)|新3000系]]などのHRDAには対応していない。なお、後述するサヤ7590のブレーキはHRDとなっている(後述)。車体が黄・赤・青の派手な塗装であることから「'''派手車'''」という[[愛称]]もあった。また、デヤ7200の室内戸袋部にはこどもの国線専用車時代のイラストが広告枠ごと残されていた。 [[File:Tokyu-7200-todoroki.jpg|thumb|<SMALL>廃車前日の2013年11月10日、等々力陸上競技場前広場で展示されたデヤ7200</SMALL>]] 奇数月に東急全線および[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]を3両で検測走行した他(軌道線の[[東急世田谷線|世田谷線]]は除く)、不定期でサヤ7590を抜いた2両でATC車上装置を搭載しない池上線・東急多摩川線の車両(ATC車上装置を搭載する[[東急7000系電車 (2代)|7000系]]は除く)の車輪転削や検査などでの[[回送]]牽引車として使用された。界磁制御器を撤去しているため、回生ブレーキ機能を持たないほか、力行時の[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱め界磁制御]]ができないため中速以上の加速性能も悪くなっている。 [[2012年]]3月に新検測車となる[[東急7500系電車|7500系「TOQ i」]]が導入されるのに伴い、同年[[2月26日]]に[[さよなら運転]]を行った<ref>[https://web.archive.org/web/20131110032214/http://www.tokyu.co.jp/railway/toq_i/old_inspection.html 「デヤ7200・デヤ7290さよなら運転」(旧検測車)] - 東急電鉄([[インターネットアーカイブ]])</ref><ref>[http://railf.jp/news/2012/02/27/132900.html デヤ7200・デヤ7290さよなら運転] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2012年2月27日</ref>。一方デヤ7200は[[2013年]][[11月10日]]の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[川崎フロンターレ]]の試合前イベントとして[[等々力陸上競技場]]前広場で展示・公開後に解体<ref>[https://web.archive.org/web/20131110031550/http://www.jsgoal.jp/photo/00122800/00122801.html 川崎F:今回で見納め!旧検測車デヤ7200の展示] - [[J's GOAL]] 2013年11月9日(インターネットアーカイブ)</ref>。デヤ7290も[[2014年]]9月の「東急電車まつり in 長津田」で展示されたのを最後に廃車となった。 == サヤ7590形 == [[File:東急 軌道検測車7590 (3745387444).jpg|thumb|サヤ7590]] 当時検測車として使用されていたデヤ7200・デヤ7290に組み込んで使用する軌道検測車として、サヤ7590が1998年(平成10年)1月に製造された<ref name="Tech38">レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」No.38「東京急行電鉄 軌道検測車サヤ7590形の概要」</ref>。入籍は同年3月30日、本格的な稼動は同年5月20日からである<ref name="Tech38" /><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/980515.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041212184848/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/980515.html|language=日本語|title=高速軌道検測車の使用を本格的に開始 軌道検測作業の業務改善で効率化を図る|publisher=東京急行電鉄|date=1998-05-15|accessdate=2021-06-27|archivedate=2004-12-12}}</ref>。デヤ7200形置き換え後は、連結相手を7500系「TOQ i」に変更し、継続して使用されている<ref>鉄道ジャーナル社「鉄道ジャーナル」2012年6月号148頁RAILWAY TOPICS「東急電鉄が総合検測車「TOQ i」</ref>。 車体は、東急の車両では初となるビードのない[[ステンレス鋼]]製となっており、塗装は当時使用されていた検測車デヤ7200・デヤ7290に合わせたカラーリングをまとっている<ref name="Fan1998-7">交友社「鉄道ファン」1998年7月号新車ガイド「東京急行電鉄サヤ7590形軌道検測車」</ref>。連結面寄りは[[東急8000系電車|8000系]]同様の[[貫通扉|貫通開き戸]]を設置しているほか、側面には作業者の出入り用の側開き戸が設置されている<ref name="Tech38" />。側面には側窓が4か所設置されており、中央の2か所は固定窓、連結面寄りの2か所は開閉可能な下降窓構造となっている。[[エア・コンディショナー|空調装置]]は9,000kcal/h容量の冷房装置を2台搭載し、車内には[[扇風機]]3台が設置されている<ref name="Tech38" />。 [[鉄道車両の台車|台車]]については、検測装置を取り付けることから、3台車方式となっている<ref name="Fan1998-7" />。両端(連結面寄り)の台車はTS-333形で[[空気ばね]]方式、中間の台車はTS-334形でコイルばね方式である<ref name="Fan1998-7" />。いずれも軸箱支持は軸箱守(ペデスタル)方式で、基礎ブレーキ装置はTS-333形のみ両抱き[[踏面ブレーキ]]を装備しており、中間台車のTS-334形にはブレーキを装備していない<ref name="Fan1998-7" />。 台車には渦電流式変位検出器、光式レール変位検出器、ガードレール検出器といった各種検出器が装備されている<ref name="Tech38" />。また、軌道検測時の精度を確保するため、[[フラット防止装置|滑走防止装置]]が設けられている<ref name="Fan1998-7" />。[[連結器]]は動力車との頻繁な連結・解放作業が行われることから、自動密着連結器構造となっている<ref name="Tech38" />。 室内は、当時主力車両として使用されていた8000系の室内更新車に準じた内装カラーとしている<ref name="Tech38" />。室内の中央付近は高床構造として検測機器を設置している<ref name="Tech38" />。上り側(渋谷寄り)にはロッカーと打ち合わせ用のテーブルを配置し、下り寄りには3人掛けのロングシートが両側面に設置されている<ref name="Tech38" />。 本車両に搭載される軌道検測装置は以下の10点で構成されている<ref name="Tech38" />。 *変換器(9台:通り変換器3台・高低変換器6台) *渦電流式変位検出器(6台) *光式レール変位検出器(2台) *動揺加速度検出器(2台) *ファイバージャイロ装置(1台) *ガードレール検出器(4台) *距離パルス発生器(1台) *電源装置(2台・無停電電源装置を含む) *演算処理装置(3台) *データ処理装置(1台) == 運用 == [[File:Tokyu 7200 lastrun.jpg|240px|thumb|7200系さよなら運転の様子<br />(2000年11月12日 / 旗の台駅)]] [[多摩田園都市]]の開発により急速に乗客が増加していた[[東急田園都市線|田園都市線]]へ[[1967年]](昭和42年)から[[1968年]](昭和43年)にかけて導入されたほか、1972年(昭和47年)には7260編成(3両:デハ7260-デハ7452-クハ7560)が[[東急目蒲線|目蒲線]]初の冷房車として導入された。これは東横線などへの冷房車の投入などに比して、[[東急3000系電車 (初代)|旧型車]]がほとんどの目蒲線・池上線との格差の発生に配慮したものといわれている。 田園都市線時代は大井町駅 - [[鷺沼駅]]間を4両編成で、同駅で2両を切り離して以西を2両編成で運転していたため、2両+2両の編成を基本としていた。1972年4月にはデハ7251 - 7254とクハ7551 - 7554の8両に冷房化が実施され、同線初の冷房車となった。 [[1984年]](昭和59年)には、冷房化したデハ7300形またはデハ7400形を組み込んだ3両編成を目蒲線に増発、[[東急池上線|池上線]]で初の冷房車として運転を開始した。ただし、一部には非冷房のまま両線に転入し、後に冷房化した編成も存在した。また、中間車はデハ7300・7400形が合わせて7両しかなく、不足分はデハ7200形を組み込むことで対応していた。 なお、[[東急東横線|東横線]]での急行運用時は7000系・[[東急6000系電車 (初代)|6000系]]・[[東急8000系電車|8000系]]と同様に先頭車の前面と側面に「急行」の[[行先標|種別板]]を装着して運用していた。 [[1987年]](昭和62年)には、目蒲線・池上線に7200系全車を集約させる際に、M車([[動力車|電動車]])が不足しTc車(制御車)が余剰となることから、クハ7500形6両が[[東急7600系電車|7600系]]に改造された。その後、断続的に改造が行われ、最終的には9両が7600系となる。また、同年にアルミ車を除くすべての7200系の冷房化が完了した。 [[1988年]](昭和63年)春から、先頭車の前面に赤帯が施された。ただし、編成の中間に組み込まれた先頭車には貼られなかった車両もある。 [[1989年]](平成元年)には、同年[[3月19日]]からの目蒲線4両編成化に伴い、7600系を含む全編成が池上線配属となった。 [[1992年]](平成4年)から[[東急1000系電車|1000系]]の池上線配属に伴い10両が[[廃車 (鉄道)|廃車]]となり、[[上田交通]](現・[[上田電鉄]])に譲渡されるとともに、20両が4両編成化されて目蒲線に転属した。目蒲線での使用は3年ぶりとなる。 [[1995年]](平成7年)には7700系が[[ワンマン運転]]対応改造の上で池上線に配属された際に、残りの12両も目蒲線に転属した。同年10月までに池上線での運転は終了した<ref name="PIC1995">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1996年10月号臨時増刊号新車年鑑93頁</ref>。 [[2000年]]([[平成]]12年)[[8月4日]]をもって一般営業運転を終了し、同年[[11月12日]]に池上線と[[東急多摩川線]]で[[さよなら運転]]を行った<ref name="RailfanTokyu7200">[https://web.archive.org/web/20041120144429/http://www.railfan.ne.jp/tokyu/topics1/topics72.shtml 7200系ファイナルイベントのご報告(レールファン東急)](インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。さよなら運転時は赤帯を剥がしたうえ、前面および側面には東横線の「急行」サボを掲出して走行した<ref name="RailfanTokyu7200" />。 == 他鉄道事業者への譲渡 == 上記のアルミ試作車2両と、7600系に改造された9両を除く42両全車が他鉄道事業者に譲渡され、2021年3月末日現在でそのうち32両が営業運転に使用されている。 なお譲渡ではないが、下記の他に[[伊豆急行]]の[[1960年代]]の夏季多客時輸送に、[[東急3600系電車|デハ3600形・クハ3670形]]や7000系などとともに同社に貸し出されたことがある。 === 上田交通 === {{main|上田交通7200系電車}} [[上田交通]]には、デハ7200形・クハ7500形各5両の計10両が1993年に譲渡された。なお[[2005年]]に鉄道事業は上田電鉄に分社化されている。[[上田電鉄1000系電車|1000系]]の入線に伴い2018年5月をもって引退<ref>[https://response.jp/article/2017/12/08/303518.html 上田電鉄7200系「最後の編成」が引退へ 2018年5月] - レスポンス 2017年12月8日</ref>。[[豊橋鉄道]]と東急車輛製造に各2両が再譲渡された。 === 豊橋鉄道 === {{main|豊橋鉄道1800系電車 (2代)}} [[豊橋鉄道]]にはデハ7200形15両・デハ7300形3両・デハ7400形3両・クハ7500形9両の計30両が2000年に譲渡され、'''1800系'''に改番された。デハ7200形のうち3両は[[部品取り]]車となったが、2001年に火災により営業用の車両が2両廃車されたため2両がその代替車となり、残り1両も2008年に上田電鉄からの譲渡車と編成を組んで営業運転に使用されている。 === 十和田観光電鉄 === [[十和田観光電鉄]]には、デハ7200形2両(デハ7211・デハ7259)が両運転台構造に改造された上で2002年に譲渡され、モハ7204・モハ7305となった。新設側の運転台は切妻形となっている。2012年3月31日、[[廃線]]に伴い全廃。2014年6月、大井川鐵道に再譲渡された。 === 大井川鐵道 === [[大井川鐵道]]は、2014年6月に十和田観光電鉄から7200系2両の譲渡を受けた<ref name="at-s20140622">{{Cite news |title=大井川鉄道に旧東急7200系2両 今冬デビュー見込み |newspaper=静岡新聞NEWS |date=2014-06-22 |url=http://www.at-s.com/news/detail/1081644847.html |publisher=静岡新聞社 |accessdate=2019-12-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140623134619/http://www.at-s.com/news/detail/1081644847.html |archivedate=2014-06-23}}</ref>。運行開始時期は2014年の冬を予定していたが、諸事情で約2ヶ月遅れ、2015年2月23日の運行開始となった<ref>[https://web.archive.org/web/20140623134619/http://www.at-s.com/news/detail/1081644847.html 「大井川鉄道に旧東急7200系2両 今冬デビュー見込み」] - 静岡新聞NEWS 2014年6月22日(インターネットアーカイブ)</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/article/20150223-a504/ 大井川鐵道7200系、元東急・十和田観光電鉄の車両「第3の人生」がスタート] - マイナビニュース 2015年2月23日</ref>。運行開始以降2両編成での運用が続いていたが、2019年6月より全線での単行運転を開始した。 <gallery> ファイル:Ueda-7255F.JPG|上田交通への譲渡車両<br />(写真は上田電鉄への分社後、2010年3月) ファイル:Toyotetsu1801F.JPG|豊橋鉄道への譲渡車両<br />(2014年11月) ファイル:TowadaKanko Moha7305.jpg|十和田観光電鉄への譲渡車両(新設運転台側)<br />(2006年9月) ファイル:Oigawa-railway series 7200 at shin-kanaya.jpg|大井川鐵道への譲渡車両(既存運転台側)<br />(2016年8月) </gallery> {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *宮田道一「新車インタビュー 東京急行電鉄7200・7500形」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』72号、[[交友社]]、1967年。 *東京急行電鉄株式会社車両部車両課「東京急行電鉄デヤ7290形電気検測車」『[[鉄道ピクトリアル]]』550号、[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]、1991年。 *久保敏「田園都市線開業から目蒲線終えんまで 東急7200系活躍の記録」『鉄道ファン』480号、交友社、2001年。 *レールアンドテック出版「鉄道車両と技術」No.38「東京急行電鉄 軌道検測車サヤ7590形の概要」 *交友社「鉄道ファン」1998年7月号新車ガイド「東京急行電鉄サヤ7590形軌道検測車」(東京急行電鉄(株)交通事業本部車両部車両課) == 関連項目 == *[[静岡鉄道1000形電車]] {{commonscat|Tōkyū 7200 series}} {{東急電鉄の車両}} {{大井川鐵道の車両}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1= 十和田観光電鉄7200系電車|1-1= 十和田観光電鉄|1-2= 東急電鉄から譲渡された鉄道車両 |redirect2= 大井川鐵道7200系電車|2-1= 大井川鐵道の電車|2-2= 他社から譲り受けた鉄道車両 }} {{DEFAULTSORT:とうきゆう7200けいてんしや}} [[Category:東急電鉄の電車|7200]] [[Category:1967年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]]
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キダイ
キダイ (黄鯛、英: Yellowback seabream、Dentex hypselosomus)は、スズキ目スズキ亜目タイ科に属する魚類。食用に漁獲される。 生鮮魚介類として流通する場合などにはレンコダイ(連子鯛)の名称も用いられ、また、単にレンコとも称される。釣り人や漁業関係者にはレンコダイの方が通用しやすい。このほか地方名としてハナオレダイ(九州西部・東京)、コダイ(高知・九州南部)、メンコダイ(愛媛)、バジロ(中国地方)、ベンコダイ、アカメ、ハジロ、バンジロ、メッキなどもある。 体は側扁した楕円形で、体色が赤っぽい典型的な鯛の仲間である。全長40cmに達するが、20-30cm程度が多く、マダイやチダイより小さい。体には青い小斑点がなく、全体的な体色は朱色を帯びる。目から鼻孔・上顎にかけてが黄色で、背鰭に沿って3対の淡い黄色斑もある。「黄鯛」の名称はここに由来する。また、マダイやチダイに比べて鼻孔周辺がへこみ、口が前方に突き出る。 キダイ及びその近縁種の歯は全て円錐状に尖り、臼歯がない点で他のタイ科魚類と区別できる。タイ科の分類上ではキダイ亜科 Denticinae という分類群が設定されている。 本州中部以南からオーストラリアまでの西太平洋に分布するが、南西諸島沿岸には分布しない。主に沖合いから大陸棚周辺の、水深50-200mの海底付近に生息する。マダイなどと違って海岸付近には生息せず、瀬戸内海のような内海には見られない。 群れを好み、海底付近を泳ぐ。食性は肉食性で、小魚、甲殻類、頭足類などを捕食する。産卵期は初夏と秋で、分離浮性卵を産卵する。なお、一部のメスは雌性先熟の性転換を行うことが知られ、5歳を超えた大型個体ではオスが多くなる。 群れを作るために底引き網や延縄で漁獲され易い。別名「レンコダイ」は延縄で次々と連なって漁獲される様に因んでいる。 特に日本海西部や東シナ海の沖合漁業では重要種の一つに挙げられていて、資源量も比較的安定している。釣りで漁獲されることもあるが狙って釣る人は少なく、マダイ、アマダイ、イトヨリダイ、ヒラメなど沖合いの底ものの外道として揚がる。 マダイより安価に流通するが身が柔らかく癖のない美味である。また、沖合いの底引き網で揚がるものは消費者の手に渡るまで時間がかかるため、鮮度的な理由から刺身よりも塩焼きなどにされることが多い。結婚式などで供される小振りの塩焼きのタイは、ほとんどキダイが用いられる。他にも吸い物、煮付け、唐揚げ、南蛮漬けなど、様々な料理に用いられる。 食料として見た場合、キダイの体内に含まれる微量の水銀に注意する必要がある。 厚生労働省は、キダイを妊婦が摂食量を注意すべき魚介類の一つとして挙げており、2005年11月2日の発表では、1回に食べる量を約80gとした場合、キダイの摂食は週に2回まで(1週間当たり160g程度)を目安としている。
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キダイ は、スズキ目スズキ亜目タイ科に属する魚類。食用に漁獲される。 生鮮魚介類として流通する場合などにはレンコダイ(連子鯛)の名称も用いられ、また、単にレンコとも称される。釣り人や漁業関係者にはレンコダイの方が通用しやすい。このほか地方名としてハナオレダイ(九州西部・東京)、コダイ(高知・九州南部)、メンコダイ(愛媛)、バジロ(中国地方)、ベンコダイ、アカメ、ハジロ、バンジロ、メッキなどもある。
{{生物分類表 |名称 = キダイ |画像 = [[File:Dentex tumifrons Kyoto aquarium 1.jpg|250px|キダイ]] |画像キャプション = キダイ ''Dentex hypselosomus'' |省略 = 条鰭綱 |亜綱=[[新鰭亜綱]] [[:en:Neopterygii|Neopterygii]] |上目=[[棘鰭上目]] [[:en:Acanthopterygii|Acanthopterygii]] |目=[[スズキ目]] [[:en:Perciformes|Perciformes]] |亜目=[[スズキ亜目]] [[:en:Percoidei|Percoidei]] |科=[[タイ科]] [[:en:Sparidae|Sparidae]] |亜科=[[キダイ亜科]] [[:en:Denticinae|Denticinae]] |属=[[キダイ属]] [[:en:Dentex|''Dentex'']] |種='''キダイ''' ''D. hypselosomus'' |学名=Dentex hypselosomus Bleeker, 1854 (Yellowfin seabream) |英名= [[:en:Yellowback seabream|Yellowback seabream]] |和名= '''キダイ''' (黄鯛)<br />'''レンコダイ'''(連子鯛) }} '''キダイ''' (黄鯛、英: [[:en:Yellowback seabream|Yellowback seabream]]、''Dentex hypselosomus'')は、[[スズキ目]][[スズキ亜目]][[タイ科]]に属する[[魚類]]。食用に漁獲される。 生鮮魚介類として流通する場合などには'''レンコダイ'''(連子鯛)の名称も用いられ<ref name="jfa">{{Cite web|和書|url=http://www.jfa.maff.go.jp/j/kakou/hyouzi/pdf/beppyou1.pdf|title=魚介類の名称表示等について(別表1)|publisher=水産庁|accessdate=2013-05-29}}</ref>、また、単に'''レンコ'''とも称される。[[釣り]]人や漁業関係者にはレンコダイの方が通用しやすい。このほか地方名としてハナオレダイ(九州西部・東京)、コダイ(高知・九州南部)、メンコダイ(愛媛)、バジロ(中国地方)、ベンコダイ、アカメ、ハジロ、バンジロ、メッキなどもある。 ==形態== 体は側扁した楕円形で、体色が[[赤]]っぽい典型的な鯛の仲間である。全長40cmに達するが、20-30cm程度が多く、[[マダイ]]や[[チダイ]]より小さい。体には青い小斑点がなく、全体的な体色は[[朱色]]を帯びる。[[目]]から[[鼻孔]]・上顎にかけてが黄色で、背鰭に沿って3対の淡い[[黄色]]斑もある。「黄鯛」の名称はここに由来する。また、マダイやチダイに比べて鼻孔周辺がへこみ、[[口]]が前方に突き出る。 キダイ及びその近縁種の[[歯]]は全て円錐状に尖り、[[臼歯]]がない点で他のタイ科魚類と区別できる。タイ科の分類上ではキダイ亜科 Denticinae という分類群が設定されている。 ==生態== [[本州]]中部以南から[[オーストラリア]]までの西[[太平洋]]に分布するが、[[南西諸島]]沿岸には分布しない。主に沖合いから[[大陸棚]]周辺の、水深50-200mの海底付近に生息する。マダイなどと違って海岸付近には生息せず、[[瀬戸内海]]のような内海には見られない。 [[群れ]]を好み、海底付近を泳ぐ。食性は肉食性で、小魚、甲殻類、頭足類などを捕食する。産卵期は初夏と秋で、分離浮性卵を産卵する。なお、一部のメスは[[雌性先熟]]の[[性転換]]を行うことが知られ、5歳を超えた大型個体ではオスが多くなる。 ==利用== 群れを作るために[[底引き網]]や[[延縄]]で漁獲され易い。別名「レンコダイ」は延縄で次々と連なって漁獲される様に因んでいる。 特に[[日本海]]西部や[[東シナ海]]の沖合漁業では重要種の一つに挙げられていて、資源量も比較的安定している。[[釣り]]で漁獲されることもあるが狙って釣る人は少なく、マダイ、[[アマダイ]]、[[イトヨリダイ]]、[[ヒラメ]]など沖合いの底ものの外道として揚がる。 マダイより安価に流通するが身が柔らかく癖のない美味である。また、沖合いの底引き網で揚がるものは消費者の手に渡るまで時間がかかるため、鮮度的な理由から[[刺身]]よりも[[焼き魚|塩焼き]]などにされることが多い。[[結婚式]]などで供される小振りの塩焼きのタイは、ほとんどキダイが用いられる。他にも[[吸い物]]、[[煮付け]]、[[唐揚げ]]、[[南蛮漬け]]など、様々な料理に用いられる。 食料として見た場合、キダイの体内に含まれる微量の[[水銀]]に注意する必要がある。 厚生労働省は、キダイを[[妊婦]]が摂食量を注意すべき魚介類の一つとして挙げており、2005年11月2日の発表では、1回に食べる量を約80gとした場合、キダイの摂食は週に2回まで(1週間当たり160g程度)を目安としている<ref>{{Cite web|和書|author=厚生労働省医薬食品局食品安全部基準審査課 |date=2003-6-3 |url=http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/qa/051102-1.html |title=妊婦への魚介類の摂食と水銀に関する注意事項の見直しについて(Q&A)(平成17年11月2日) |work=魚介類に含まれる水銀について<!-- https://web.archive.org/web/20130213050625/http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/suigin/index.html , http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/suigin/index.html --> |publisher=厚生労働省 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130319141411/http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/qa/051102-1.html |archivedate=2013-3-19 |accessdate=2013-4-15 }}</ref>。 ==近縁種== ;キビレアカレンコ(黄鰭赤連子) ''Dentex'' ''abei'' Iwatsuki, Akazaki & Taniguchi, 2007 :和名通り背鰭や胸鰭が黄色を帯びる。[[奄美群島]]以南の[[琉球列島]]沿岸に分布し、キダイとは明らかに分布域が異なる。島嶼沿岸の水深50-100mほどの斜面に生息する。[[沖縄本島]]ではフカヤーマジクと呼ばれる。 ==参考文献== *永岡書店「釣った魚が必ずわかるカラー図鑑」 ISBN 4-522-21372-7 *山渓カラー名鑑「日本の海水魚」岡村収監修 ISBN 4-635-09027-2 *時村宗春『東シナ海のさかなたち「キダイ」』 - [[水産総合研究センター]]発行「おさかな瓦版」No.15, 2007年2月 *Iwatsuki, Y., Akazaki, M., & Taniguchi, N. (2007). Review of the species of the genus ''Dentex'' (Perciformes: Sparidae) in the western Pacific defined as the ''D. hypselosomus'' complex with the description of a new species, ''Dentex abei'' and a redescription of ''Evynnis tumifrons''. [https://www.kahaku.go.jp/research/publication/zoology_s/download/s01/1-02.pdf Bulletin of the National Museum of Nature and Science (Ser. A), Supplement, 1, 29-49.]2023年7月2日閲覧. == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:きたい}} [[Category:タイ科]] [[category:白身魚]]
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スペースデブリ
スペースデブリ(古フランス語: débris, 英語: space debris、orbital debrisとも)または宇宙ゴミ(うちゅうゴミ、アメリカ英語: space junk)とは、なんらかの意味がある活動を行うことなく地球の衛星軌道上〔低・中・高軌道〕を周回している人工物体のことである。宇宙開発に伴ってその数は年々増え続け、対策が必要となってきている。 ここで言う「スペースデブリ」には、耐用年数を過ぎ機能を停止した(された)、または事故・故障により制御不能となった人工衛星から、衛星などの打上げに使われたロケット本体や、その一部の部品、多段ロケットの切り離しなどによって生じた破片、デブリ同士の衝突で生まれた微細デブリ、更には宇宙飛行士が落とした「手袋・工具・部品」なども含まれる。なお、天然岩石や鉱物・金属などで構成された宇宙塵(微小な隕石)は「流星物質」と呼ばれ区別されている。 これらスペースデブリの総数は増加の一途を辿っているうえ、それぞれ異なる軌道を周回しているため、回収及び制御が難しい状態である。これらが活動中の人工衛星や有人宇宙船、国際宇宙ステーション(ISS)などに衝突すれば、設備が破壊されたり乗員の生命に危険が及ぶ恐れがあるため、国際問題となっている。現にニアミスや微小デブリとの衝突などは頻繁に起こっており、1996年にスペースシャトル・エンデバーのミッション(STS-72)で若田光一宇宙飛行士が回収した日本の宇宙実験室(SFU)には、微細なものを含めると500箇所近い衝突痕が確認された。 スペースデブリは、地表から300 - 450kmの低軌道では7 - 8km/s、36,000kmの静止軌道では3km/sと非常に高速で移動している。さらに軌道傾斜角によっては相対的に10km/s以上で衝突する場合もありえる。運動エネルギーは速度の2乗に比例するため、スペースデブリの破壊力はすさまじく、直径が10cmほどあれば宇宙船は完全に破壊されてしまう。数cmでも致命的な損傷は免れない。さらに数mmのものであっても場合によっては宇宙船の任務遂行能力を奪う。5 - 10mmのデブリと衝突するのは弾丸を撃ち込まれるに等しい。 このような衝突を防ぐことを目的として地球近傍のデブリ等を観測する活動は宇宙状況認識(SSA)と呼ばれる。北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)の宇宙監視ネットワーク(Space Surveillance Network、略称:SSN)、ロシアの宇宙監視システム(Space Surveilance System、略称:SSS)などでは約10cm以上の比較的大きなデブリをカタログに登録して常時監視が行われており、日本でも美星スペースガードセンター(BSGC)、上斎原スペースガードセンター(KSGC)の2施設でデブリの監視が行われている。また、航空自衛隊宇宙作戦隊でもデブリ監視を行う予定である。カタログ登録されたデブリの数だけでも約9,000個に及び、1mm以下の微細デブリまでも含めると数百万とも数千万個とも言われる。 2017年4月18日からドイツ・ダルムシュタットで開催されたスペースデブリに関する会合で、スペースデブリは4半世紀で倍増したと報告された。最高速度28000km/hで地球の軌道を周回しているため、小さなゴミでも有人宇宙船、人工衛星の表面を破壊するほどの衝撃力を持ち、危険である。1993年には、地上のレーダー観測で、地球軌道上に10cm以上のスペースデブリが約8000個確認されている。それが2017年現在では約20000個に増え、1m以上の宇宙ゴミも5000個あるという。約1cmほどのスペースデブリは「飛んでいる弾丸」ともいわれ、75万個に上り、1mm以上のものは1億5000万個あるとする欧州宇宙機関(ESA)の予測モデルもある。こうした、スペースデブリが互いに衝突してさらにゴミが拡散しかねない状況を招いた2つの要因として、中国の老朽化した気象衛星「風雲」を対衛星兵器で破壊した2007年1月の実験と、2009年2月のロシアの軍事衛星「コスモス2251」とアメリカイリジウム・サテライト社の通信衛星との衝突が考えられるという。 プロジェクト・ウェストフォードと呼ばれる実験が、アメリカ・マサチューセッツ工科大学のリンカーン研究所によって1963年に行われた。これは、長さ2cmの銅製の針を高度3,500 - 3,800km、傾斜角87 - 96度の軌道に散布し、そこに電波を照射して反射させることによって長距離通信を目指す、いわば、宇宙空間に人為的に電離層を作り出すものだった。結果、初期の目的は達成されたものの、散布された針は実に4億8千万個に及ぶこととなり、国際的な批判を浴びた。2020年1月時点になお軌道を周回し、追跡されている針は42個である。 人工衛星や多段ロケットの最終段などが軌道上で爆発することを「ブレークアップ(破砕、爆散)」という。1961年から2000年までに163回のブレークアップが起きている。ひとたびブレークアップが起きると、観測可能なものだけでも多い時で数百個から数千個のスペースデブリが発生する。これらは爆発前の軌道に沿って雲のような塊(デブリ・クラウド)を形成し、時間が経つにつれて徐々に拡散していく。 ブレークアップの原因としては次のようなものが挙げられる。 その他、ブレークアップほど深刻ではないが、微細なデブリが生じるケースとして、衛星の熱制御に使われる冷媒の漏れ、固体ロケットモーターの燃焼時に噴煙内に生じる微細な粒子、塗料が剥離した破片も問題になっており、これらの発生を減らすような対策が検討されている。 カタログ登録された直径10cm以上のデブリは軌道が判っているため、ニアミスの恐れがある場合は衛星あるいは宇宙機の方が軌道を修正して回避することが可能であり、また1cm以下のデブリなら有人宇宙機にバンパーを設けることで衝突した時のダメージを軽減できるが、その中間の大きさのデブリへの有効な対処は難しい。 デブリを減らすためには、使用済みのロケットや人工衛星を他の人工衛星と衝突しない軌道(墓場軌道)に乗せるか大気圏突入させる、デブリを何らかの手段で回収するなどの対策が必要である。これらの対策は少しずつ開始されているが、既に軌道上にあるデブリを回収・除去する手段については、後述のように、導電性テザーを利用する方法や、レーザーを利用する方法など、様々な方法が提案・実験されているものの、まだ本格的な実用化には至っていない。基本的なデブリ対策としては、地上におけるゴミ問題と同様に、ゴミを発生させないようにするのが最良策である。 デブリの対策は、当初は各宇宙機関が独自のガイドラインを作って規制していたが、2007年に機関間スペースデブリ調整委員会 IADC(Inter-Agency Space Debris Coordination Committee)が国際的なガイドラインを策定しており、現在はそれに従って対応が行われている。高度約2,000km以下の低周回軌道の衛星の場合は、運用終了から25年以内に大気圏への再突入・落下が行われるよう考慮して運用が行われている。またそれよりも高度が高い衛星(静止衛星など)は、運用に使われる軌道から外して墓場軌道に投入する必要がある。 具体的に取られている措置としては、初期の頃はロケットからの衛星分離時に破片が飛散していたが、日・米・欧州のロケット・衛星では、これらをほとんど飛散しないような設計に変更している。その他、衛星を再突入させるほどの推進剤が残っていない場合でもできるだけ高度を下げて軌道上滞在年数を減らすことで他のデブリとの衝突リスクを下げる試みがERS-2やUARS衛星などで行われている。また衛星を軌道投入した後、ロケットに軌道変更の余力が残っている場合は制御しながら再突入する試みが始まっており、日本ではH-IIBロケット2号機で試験が行われた。 2015年4月21日には日本の理化学研究所により、理化学研究所、エコール・ポリテクニーク、パリ第7大学、トリノ大学、カリフォルニア大学アーバイン校からなる共同研究グループが高強度レーザーを使用してデブリを除去する技術を考案したことを発表した。 導電性テザーをスペースデブリに取り付け、テザーに発生するローレンツ力を利用してデブリの勢いを殺し大気圏に突入させるというアイデアもJAXA等で研究されている。2016年12月に打ち上げられたこうのとり6号機では実際にテザーシステムが搭載され、本任務である国際宇宙ステーション(ISS)への補給任務完了後に実証実験を行う予定だったが、装置の不具合で実験が行えなかった。 デブリ対策にビジネスとして取り組むことを掲げるベンチャー企業「アストロスケール」が2013年に設立された。CEOは日本人の岡田光信で、現在は日本に拠点を置いている。具体的には、まずデブリの分布を把握するための人工衛星を、続いてデブリを除去する衛星の打ち上げを目指している。2018年9月19日にはサリー・サテライト・テクノロジーによって開発されたスペースデブリを軌道から取り除く世界初の実験衛星であるRemoveDEBRIS(リムーブデブリス)が網による超小型衛星の捕獲に成功した。 人工衛星の素材面からのアプローチとして、京都大学と住友林業はデブリ対策として木材の利用を検討。2022年には国際宇宙ステーションでホオノキなど使った宇宙暴露試験も行われた。2024年には、外板に木材を使用した人工衛星の打ち上げが計画されている。 宇宙空間に長期間曝露されていた物体の表面には衝突により多数の微小なクレーターが形成される。この成因の衝突物体が流星物質であるかデブリであるかは、クレーターの底に付着した残留物を分析したり、クレーターの形状から衝突速度と角度を推定したりすることにより判断される。 1983年に打ち上げられたスペースシャトル・チャレンジャー(STS-7)では、軌道上で窓ガラスに何かが衝突し、深さ約0.5mmの微小クレーターが形成された。衝突したのは人工衛星から剥がれた塗料片だろうと考えられている。 また、1984年にチャレンジャー(STS-41-C)によって回収されたソーラーマックス衛星の外壁2.5平方メートルの表面には、約3年の宇宙空間への曝露により千個ものクレーターが形成されていた。このうちの約7割が人工的なデブリによるものとされている。 その後も同様の調査により、時代が下るにつれて衝突頻度が加速度的に上昇していることが判明している。デブリが調査された代表的なものには、 などが含まれている。また、ミールや国際宇宙ステーションから回収されたものでも分析が行われている。 このように、現在、微小デブリとの衝突はきわめて日常的な出来事になっている。 人工衛星レベル程度なら再突入に耐えられずに燃え尽きるが、それ以上のロケットのエンジン部などは燃え尽きずに地上に落下する。計画的に制御されて太平洋上の人家から遠く離れた到達不能極スペースクラフト・セメタリーへ落下させれば安全であるが、そうでない場合もある。それらを以下に示す。 なお、地上に被害が出た場合は、宇宙損害責任条約を批准していれば打ち上げた国が補填する。 1993年に機関間スペースデブリ調整委員会 IADC(Inter-Agency Space Debris Coordination Committee)が設立され、各国の宇宙機関の間でスペースデブリの対策に対して協議されている。 2007年にIADCは、スペースデブリ軽減のためのガイドライン(Space Debris Mitigation Guidelines)を発行した。現在はこのガイドラインに従ってデブリをこれ以上増やさないような努力が行われている。 2019年2月11日から、オーストリアで開かれる国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS)で、日本は、米国など10カ国とともにスペースデブリ抑制など宇宙空間の長期利用に向けた取り組みを求める声明を出すことが2月5日判明した。日本が率先して、今後本格化する国際ルールづくりで主導権を確保する狙いがある。声明は、COPUOSの下部組織の科学技術小委員会で12日(現地時間)に発出し、日本の呼び掛けに米国、英国、フランス、ドイツ、カナダ、イタリア、韓国、豪州、ニュージーランドの計9カ国が応じ、同様の声明を出す。
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スペースデブリまたは宇宙ゴミとは、なんらかの意味がある活動を行うことなく地球の衛星軌道上〔低・中・高軌道〕を周回している人工物体のことである。宇宙開発に伴ってその数は年々増え続け、対策が必要となってきている。
[[File:Debris-LEO1280.jpg|thumb|right|200px|高度2,000km以下の軌道を周回するスペースデブリの分布。]] [[File:Debris-sAfrica.jpg|thumb|right|200px|大気圏突入した大きなスペースデブリの一部が燃え尽きずに地上へ落下したもの。[[デルタロケット|デルタ2]]の燃料タンク。]] '''スペースデブリ'''([[古フランス語]]: débris, {{lang-en|space debris}}、{{lang|en|orbital debris}}とも)または'''宇宙ゴミ'''(うちゅうゴミ、<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/スペースデブリ-169012 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-03-04 }}</ref>{{lang-en-us|space junk}})とは、なんらかの意味がある活動を行うことなく[[地球]]の[[衛星軌道]]上〔[[低軌道|低]]・[[中軌道|中]]・[[高軌道]]〕を周回している人工物体のことである。[[宇宙開発]]に伴ってその数は年々増え続け、対策が必要となってきている。 == 概要 == ここで言う「スペースデブリ」には、[[耐用年数]]を過ぎ機能を停止した(された)、または事故・故障により制御不能となった[[人工衛星]]から、衛星などの打上げに使われた[[ロケット]]本体や、その一部の部品、[[多段ロケット]]の切り離しなどによって生じた破片、デブリ同士の衝突で生まれた微細デブリ、更には宇宙飛行士が落とした「手袋・工具<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2540659?pid=3539864 エンデバー宇宙飛行士、作業中に宇宙空間でカバンを「紛失」] AFP、2008年11月19日</ref>・部品」なども含まれる。なお、天然岩石や鉱物・金属などで構成された[[宇宙塵]](微小な[[隕石]])は「'''[[流星物質]]'''」と呼ばれ区別されている。 これらスペースデブリの総数は増加の一途<ref>[http://orbitaldebris.jsc.nasa.gov/newsletter/newsletter.html Orvital Debris Quarterly News (脚注先のページ内よりリンクされているPDFファイルの最終ページ)]{{En icon}}</ref><ref>[http://celestrak.com/satcat/boxscore.asp CelesTrak SATCAT Boxscore (国別の衛星とデブリの集計)]</ref>を辿っているうえ、それぞれ異なる[[衛星軌道|軌道]]を周回しているため、回収及び制御が難しい状態である。これらが活動中の人工衛星や有人宇宙船、[[国際宇宙ステーション]](ISS)などに衝突すれば、設備が破壊されたり乗員の生命に危険が及ぶ恐れがあるため、国際問題となっている。現にニアミスや[[#微小デブリ|微小デブリ]]との衝突などは頻繁に起こっており、1996年に[[スペースシャトル・エンデバー]]のミッション([[STS-72]])で[[若田光一]]宇宙飛行士が回収した日本の宇宙実験室([[SFU (人工衛星)|SFU]])には、微細なものを含めると500箇所近い衝突痕が確認された。 スペースデブリは、地表から300 - 450kmの低軌道では7 - 8km/s、36,000kmの静止軌道では3km/sと非常に高速で移動している。さらに[[軌道傾斜角]]によっては相対的に10km/s以上で衝突する場合もありえる。[[運動エネルギー]]は[[速度]]の2乗に比例するため<ref> <math>U = \frac{1}{2}mv^{2}</math> U:運動エネルギー m:質量 v:速度</ref>、スペースデブリの破壊力はすさまじく、直径が10cmほどあれば宇宙船は完全に破壊されてしまう。数cmでも致命的な損傷は免れない。さらに数mmのものであっても場合によっては宇宙船の任務遂行能力を奪う。5 - 10mmのデブリと衝突するのは[[弾丸]]を撃ち込まれるに等しい。 このような衝突を防ぐことを目的として地球近傍のデブリ等を観測する活動は[[宇宙状況認識]](SSA)と呼ばれる。[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部]](NORAD)の宇宙監視ネットワーク([[:en:United States Space Surveillance Network|Space Surveillance Network]]、略称:SSN)、ロシアの宇宙監視システム(Space Surveilance System、略称:SSS)などでは約10cm以上の比較的大きなデブリをカタログに登録して常時監視が行われており、日本でも[[美星スペースガードセンター]](BSGC)、[[上斎原スペースガードセンター]](KSGC)の2施設でデブリの監視が行われている。また、航空自衛隊[[宇宙作戦隊]]でもデブリ監視を行う予定である。カタログ登録されたデブリの数だけでも約9,000個に及び、1mm以下の微細デブリまでも含めると数百万とも数千万個とも言われる。 [[File:SpaceDebrisHistogram.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:SpaceDebrisHistogram.png|代替文=Graph with blue line|サムネイル|LEO(~2000km)までのデブリ分布。2011年NASAの報告 [[:en:United_Nations_Office_for_Outer_Space_Affairs|United Nations Office for Outer Space Affairs]]<ref>{{cite web|title=USA Space Debris Environment, Operations, and Policy Updates|url=http://www.oose.unvienna.org/pdf/pres/stsc2011/tech-31.pdf|work=NASA|publisher=UNOOSA|accessdate=1 October 2011}}{{dead link|date=November 2017|bot=Balon Greyjoy|fix-attempted=yes}}</ref>]]<!--しかし、実際デブリによる事故が起こる可能性は、[[宇宙塵]]の衝突による事故よりも低いと考えられており、[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)のデブリ監視局([[:en:NASA Orbital Debris Program Office|Orbital Debris Program Office]]、略称:ODPO)は予算の無駄とし、縮小されている{{要出典}}。--> [[File:Spacedebris_small.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Spacedebris_small.png|代替文=Graph with red line|サムネイル|ESA MASTER-2001によるデブリの分布。古いデータのため中国の衛星迎撃実験及び2009年の衝突事故によるデブリは含まれていない。]] [[2017年]][[4月18日]]から[[ドイツ]]・[[ダルムシュタット]]で開催されたスペースデブリに関する会合で、スペースデブリは4半世紀で倍増したと報告された。最高速度28000km/hで地球の軌道を周回しているため、小さなゴミでも有人宇宙船、人工衛星の表面を破壊するほどの衝撃力を持ち、危険である。[[1993年]]には、地上のレーダー観測で、地球軌道上に10cm以上のスペースデブリが約8000個確認されている。それが2017年現在では約20000個に増え、1m以上の宇宙ゴミも5000個あるという。約1cmほどのスペースデブリは「飛んでいる弾丸」ともいわれ、75万個に上り、1mm以上のものは1億5000万個あるとする[[欧州宇宙機関]](ESA)の予測モデルもある。こうした、スペースデブリが互いに衝突してさらにゴミが拡散しかねない状況を招いた2つの要因として、[[中国]]の老朽化した気象衛星「風雲」を対衛星兵器で破壊した[[2007年]]1月の実験と、[[2009年]]2月の[[ロシア]]の[[軍事衛星]]「コスモス2251」と[[アメリカイリジウム・サテライト]]社の通信衛星との衝突が考えられるという<ref name="yahoo.co.jp">[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170419-00000016-jij_afp-sctch Yahoo!ニュース 悪化する宇宙ごみ問題、「飛んでいる弾丸」75万個 専門家 AFP=時事 4/19(水) 11:52配信]</ref>。 === 意図的なデブリの散布 === [[ウェスト・フォード計画|プロジェクト・ウェストフォード]]と呼ばれる実験が、アメリカ・[[マサチューセッツ工科大学]]の[[リンカーン研究所]]によって1963年に行われた。これは、長さ2cmの銅製の針を高度3,500 - 3,800km、傾斜角87 - 96度の軌道に散布し、そこに電波を照射して反射させることによって長距離通信を目指す、いわば、宇宙空間に人為的に[[電離層]]を作り出すものだった。結果、初期の目的は達成されたものの、散布された針は実に4億8千万個に及ぶこととなり、国際的な批判を浴びた。2020年1月時点になお軌道を周回し、追跡されている針は42個である<ref>space-track.org提供 [http://stuffin.space/?intldes=1963-014AA&search=westford Stuff in Space] 2017年10月13日閲覧時点</ref>。 === ブレークアップ === 人工衛星や多段ロケットの最終段などが軌道上で爆発することを「ブレークアップ(破砕、爆散)」という。1961年から2000年までに163回<!--もっと新しい数値があったら修正お願いします-->のブレークアップが起きている。ひとたびブレークアップが起きると、観測可能なものだけでも多い時で数百個から数千個のスペースデブリが発生する。これらは爆発前の軌道に沿って雲のような塊(デブリ・クラウド)を形成し、時間が経つにつれて徐々に拡散していく。 ブレークアップの原因としては次のようなものが挙げられる。 ; 人工衛星破壊 : [[衛星攻撃兵器]](ASAT)実験による破壊や、[[軍事衛星]]などの老朽化した人工衛星が他国の領内に落下することを防ぐために指令破壊することで発生。 : [[冷戦]]以降、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]は競って人工衛星の破壊実験を行い数百億と言われるスペースデブリを発生させた。アメリカが1985年9月に行った[[F-15 (戦闘機)|F-15]]戦闘機からの[[ミサイル]]発射によるP78-1 Solwind衛星の破壊では、高度525kmの軌道上に地上から観測可能なほど大きなデブリ200個が発生し全てのデブリが地上に落下するまで17年の歳月を要した<ref>https://web.archive.org/web/20080312195625/http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200701191525</ref>。[[2007年]]1月11日には[[中華人民共和国|中国]]も[[弾道ミサイル]]を使って老朽化した人工衛星[[風雲 (気象衛星)#人工衛星破壊実験による風雲1号Cの破壊|風雲1号C]](高度850km)を破壊する実験を行った。この破壊では、2,841個のデブリが発生した<ref name="ODQNv14i3">[http://www.orbitaldebris.jsc.nasa.gov/newsletter/pdfs/ODQNv14i3.pdf July 2010 Top Ten Satellite Breakups]</ref>。 : 現在、[[国際連合|国連]]では宇宙空間で人工衛星を破壊することを禁じる決議が採択されているが、[[アメリカ航空宇宙局]]は衛星破壊によるスペースデブリは大きな脅威ではないとしている。 : 2021年11月15日、ロシアが自国の衛星「[[ツェリーナ (人工衛星)|ツェリーナD]]」をミサイルで破壊する実験を行い<ref>{{Cite news|title=ロシア、衛星破壊は成功と発表 宇宙活動への悪影響否定|url=https://jp.reuters.com/article/usa-russia-space-ministry-idJPKBN2I201T|work=Reuters|date=2021-11-17|access-date=2022-06-18|language=ja}}</ref>、その時点で1500個以上のスペースデブリが発生したため、[[国際宇宙ステーション]]の搭乗員らが一時的に緊急用シェルターに退避することを強いられた<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアがミサイルで人工衛星を破壊、1500以上のスペースデブリに ISSの宇宙飛行士は一時避難 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2111/16/news121.html |website=ITmedia NEWS |access-date=2022-06-18 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=アメリカ、ロシアの衛星攻撃実験は「危険で無責任」 ISSの宇宙飛行士が一時避難|url=https://www.bbc.com/japanese/59289183|work=BBCニュース|access-date=2022-06-18|language=ja}}</ref>。4日前に新しい搭乗員が加わったばかりのISSは、その時点で米国人4人、ドイツ人1人、ロシア人2人で構成されていた<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアが衛星破壊実験 大量の宇宙デブリが国際宇宙ステーションを今後数年脅かすか |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/technology/2021/11/post-97477.php |website=Newsweek日本版 |date=2021-11-16 |access-date=2022-06-18 |language=ja}}</ref>。米国はロシアの実験を「向こう見ずで無責任」と非難し、日本政府も、ロシアの行動が2007年にロシアを含む国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS)で全会一致で採択された「スペースデブリ低減ガイドライン」に違反するものとして強く抗議した<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア政府による衛星破壊実験について(外務報道官談話) |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page3_003159.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2022-06-18 |language=ja}}</ref>。ロシアは実験を成功と報告し、過去の米中インドの衛星破壊実験をひきあいにして宇宙活動に脅威を与えるものではないと主張した<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアが衛星破壊実験を実施。米国からの非難にロシアは「衛星の破片は宇宙活動の脅威にはならない」と応答(秋山文野) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f3da6643b88276756e729cbebac308aaa381238c |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-06-18 |language=ja}}</ref>。 : 2022年4月18日、ハリス米副大統領は米国が[[衛星攻撃兵器]](ASAT)を使った衛星破壊実験を中止すると発表し、他国にも実験中止を呼び掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=米、衛星破壊実験を中止 「無責任」と中ロ非難:時事ドットコム |url=https://web.archive.org/web/20220419135458/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022041901101&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2022-06-18 |language=ja}}</ref>。 ; 推進剤の爆発 : 役目を終えた液体燃料ロケットの[[ロケットエンジンの推進剤#液体燃料ロケット|推進剤]]が残っていると、タンクの隔壁に亀裂が入って燃料と酸化剤が接触・反応したり、太陽熱によってタンクの内圧が上がったりして爆発することがある。これはタンク内の推進剤をすべて放出してしまえば防ぐことが出来るが、そうした措置が取られるようになる前に打ち上げられたロケットが10年以上経ってから爆発した事例もある。 : 2007年2月19日に発生したロシアの[[プロトン (ロケット)|プロトンロケット]][[ブリーズ-M|上段ブースター]]の爆発では、1100個以上のデブリの発生が確認されている<ref>「[http://www.spaceref.co.jp/news/3Wed/2007_02_28son.html ロシアのロケット爆発、さらなるデブリ発生:中国より多量]」[http://www.spaceref.co.jp/ 宇宙開発情報]、2007年2月27日。</ref>。 ; 電気回路のショート : 人工衛星に搭載されている[[二次電池]]の圧力容器が回路のショートによって加熱、爆発する可能性がある。 ; 衝突 : 人工衛星同士、デブリと人工衛星、あるいはデブリ同士の衝突。[[#衝突事例|衝突事例]]を参照。 : 特定の軌道をとるデブリの密度が臨界値を越えると、衝突によるブレークアップが連鎖的に発生してデブリが自己増殖する可能性があると言われており、[[ケスラーシンドローム]]とも呼ばれる。 その他、ブレークアップほど深刻ではないが、微細なデブリが生じるケースとして、衛星の熱制御に使われる冷媒の漏れ、固体ロケットモーターの燃焼時に噴煙内に生じる微細な粒子、塗料が剥離した破片も問題になっており、これらの発生を減らすような対策が検討されている。 === 対策 === カタログ登録された直径10cm以上のデブリは軌道が判っているため、ニアミスの恐れがある場合は衛星あるいは宇宙機の方が軌道を修正して回避することが可能であり、また1cm以下のデブリなら有人宇宙機に[[バンパー]]を設けることで衝突した時のダメージを軽減できるが、その中間の大きさのデブリへの有効な対処は難しい。 デブリを減らすためには、使用済みのロケットや人工衛星を他の人工衛星と衝突しない軌道([[墓場軌道]])に乗せるか[[大気圏突入]]させる、デブリを何らかの手段で回収するなどの対策が必要である。これらの対策は少しずつ開始されているが、既に軌道上にあるデブリを回収・除去する手段については、後述のように、導電性[[テザー推進|テザー]]を利用する方法や、[[レーザー]]を利用する方法など、様々な方法が提案・実験されているものの、まだ本格的な実用化には至っていない。基本的なデブリ対策としては、地上におけるゴミ問題と同様に、ゴミを発生させないようにするのが最良策である。 デブリの対策は、当初は各宇宙機関が独自のガイドラインを作って規制していたが、2007年に機関間スペースデブリ調整委員会 IADC(Inter-Agency Space Debris Coordination Committee)が国際的なガイドラインを策定しており、現在はそれに従って対応が行われている。高度約2,000km以下の低周回軌道の衛星の場合は、運用終了から25年以内に大気圏への再突入・落下が行われるよう考慮して運用が行われている。またそれよりも高度が高い衛星(静止衛星など)は、運用に使われる軌道から外して墓場軌道に投入する必要がある。 具体的に取られている措置としては、初期の頃はロケットからの衛星分離時に破片が飛散していたが、日・米・欧州のロケット・衛星では、これらをほとんど飛散しないような設計に変更している。その他、衛星を再突入させるほどの推進剤が残っていない場合でもできるだけ高度を下げて軌道上滞在年数を減らすことで他のデブリとの衝突リスクを下げる試みがERS-2や[[UARS]]衛星などで行われている<ref>[http://www.esa.int/esaEO/SEMRKKFTFQG_index_0.html Lowering of ERS-2 orbit continues]</ref>。また衛星を軌道投入した後、ロケットに軌道変更の余力が残っている場合は制御しながら再突入する試みが始まっており、日本では[[H-IIBロケット]]2号機で試験が行われた<ref>[https://www.jaxa.jp/countdown/h2bf2/overview/h2b_j.html#reentry 第2段制御落下実験]</ref>。 2015年4月21日には日本の[[理化学研究所]]により、理化学研究所、[[エコール・ポリテクニーク]]、[[パリ大学|パリ第7大学]]、[[トリノ大学]]、[[カリフォルニア大学アーバイン校]]からなる共同研究グループが高強度レーザーを使用してデブリを除去する技術を考案したことを発表した<ref name="rika20150421">{{Cite web|和書|url=http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150421_2/|title=高強度レーザーによるスペースデブリ除去技術|publisher=[[理化学研究所]]|date=2015年4月21日|accessdate=2015年4月22日}}</ref>。 導電性[[テザー推進|テザー]]をスペースデブリに取り付け、テザーに発生する[[ローレンツ力]]を利用してデブリの勢いを殺し大気圏に突入させるというアイデアもJAXA等で研究されている。2016年12月に打ち上げられた[[こうのとり6号機]]では実際にテザーシステムが搭載され、本任務である[[国際宇宙ステーション]](ISS)への補給任務完了後に実証実験を行う予定だったが<ref>[http://www.ard.jaxa.jp/publication/pamphlets/pdf/saizensen6.pdf 宇宙開発最前線! Vol.6(2015年春号)] - JAXA</ref>、装置の不具合で実験が行えなかった<ref>[https://www.sankei.com/article/20170206-MXJT5ZV6SJNZDOK2K3HNLCQJD4/ こうのとり「宇宙ごみ除去」実験失敗 JAXA発表] - 産経ニュース・2017年2月6日</ref>。 デブリ対策にビジネスとして取り組むことを掲げる[[ベンチャー企業]]「アストロスケール」が2013年に設立された。[[最高経営責任者|CEO]]は[[日本人]]の[[岡田光信]]で、現在は日本に拠点を置いている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ideaosg1.com/mission/astro/|title=アストロスケール社について|publisher=アストロスケールHP|accessdate=2022-12-17}}</ref>。具体的には、まずデブリの分布を把握するための人工衛星を、続いてデブリを除去する衛星の打ち上げを目指している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/projects/feature/debris/okada_j.html|title=岡田光信「民間の力で宇宙をきれいにする」|publisher=JAXAホームページ|accessdate=2017-8-1}}</ref>。2018年9月19日には[[サリー・サテライト・テクノロジー]]によって開発されたスペースデブリを軌道から取り除く世界初の実験衛星であるRemoveDEBRIS(リムーブデブリス)が網による[[超小型衛星]]の捕獲に成功した<ref >{{Cite web|和書|title=スペースデブリを軌道上で網が捉えた驚きの映像。英小型衛星企業が実験成功 |date=|url=https://rdsig.yahoo.co.jp/_ylt=A2RiooEB4qVbHE8AfDuEEv17/RV=2/RE=1537684353/RH=cmRzaWcueWFob28uY28uanA-/RB=/RU=aHR0cHM6Ly9uZXdzLnlhaG9vLmNvLmpwL2J5bGluZS9ha2l5YW1hYXlhbm8vMjAxODA5MjAtMDAwOTc1NDcvAA--/RK=0/RS=t0Y0y33rZQ_ifv5DUxbVvaGN8EA- |accessdate=2018-12-19}}</ref>。 人工衛星の素材面からのアプローチとして、[[京都大学]]と[[住友林業]]はデブリ対策として[[木材]]の利用を検討。2022年には国際宇宙ステーションで[[ホオノキ]]など使った宇宙暴露試験も行われた。2024年には、外板に木材を使用した人工衛星の打ち上げが計画されている<ref>宇宙暴露実験を完了 「宇宙ゴミ」を残さない人工衛星向け『日刊工業新聞』2023年5月24日29面</ref>。 === イリジウム衛星とグローバルスター衛星の場合の廃棄運用例 === *第一世代のイリジウム衛星は、退役時に近地点高度を250kmまで下げる事を計画していた。2014年の時点で76機の衛星すべてが退役予定を超えており、高度778kmで運用が続けられている。イリジウム社は、2015年半ばから2017年末にかけて、第二世代の衛星を71機打ち上げる予定で、これらが軌道上に配置されると第一世代の衛星はデオービットを行う事になるが、第一世代の衛星も一部は予備として残すという計画であった。7-10機の衛星は残り燃料が少なくなっているため、250kmまで高度を下げられなくなっている。このため、近地点高度を600kmまでにしたいと[[連邦通信委員会]]に求めていたがこれが認められた。同社はこの高度でも25年以内には再突入すると説明しており、解析によれば3-10年で再突入する見込みとのこと<ref>{{cite news | title = FCC Greenlights Iridium Plan for Deorbiting Its 1st-generation Constellation | url = http://spacenews.com/41898fcc-greenlights-iridium-plan-for-deorbiting-its-1st-generation/ | publisher = SpaceNews | date = 2014-09-17 | accessdate = 2015-1-18}}</ref>。 *Globalstar衛星ネットワークは1990年代に打ち上げられた低周回軌道(LEO)上の3大衛星通信ネットワークの一つ(あとの2つはイリジウムとOrbcomm)で、これらの衛星は1998-2000年にかけて52機打ち上げられたが、当時はLEO衛星の廃棄ガイドラインはまだなかった。Gobalstar衛星は高度1,414kmの軌道に投入されたため、ミッション終了後は、高度を下げて25年以内に大気圏に再突入させるよりもLEO軌道のガイドライン上限である高度2,000km以上へ移動させる方が効率的とされた。運用高度よりも600km以上も高い高度へ移動させる燃料を積む設計にはなっていなかったが、これまでに退役した Globalstar衛星は約2,000kmあるいはそれ以上高い高度へ移動することができた。2013年は4機がそのような方法で軌道を引き上げた。2013年末現在、退役した37機のうち、25機が200km以上高度を上げることに成功している。12機は1,900km以上の軌道へ到達した<ref>{{cite news | title = Orbital Debris Quarterly News Volume 18, Issue 1, January 2014 | url = http://orbitaldebris.jsc.nasa.gov/newsletter/pdfs/ODQNv18i1.pdf | publisher = NASA | date = 2014年1月 | accessdate = 2015-1-18}}</ref>。 == 衝突事例 == * [[1981年]]には[[コスモス1275号]]が何らかの原因によって破壊された。この衛星には圧力容器のような爆発の原因となりうる内部構造が無いため、その原因としてデブリとの衝突が疑われている。なお、コスモス1275号自体もこの破壊によって300個以上のデブリを発生させた。 * [[1991年]]12月末には、1988年に打ち上げられたソ連の[[コスモス1934号]]に、[[コスモス926号]]の破片が衝突していたのが後にわかった<ref name="/ODQNv9i2">[http://www.orbitaldebris.jsc.nasa.gov/newsletter/pdfs/ODQNv9i2.pdf Accidental Collisions of Cataloged Satellites Identified]</ref>。 * [[1996年]]7月には[[フランス]]の人工衛星[[スリーズ (人工衛星)|スリーズ]](Cerise)がデブリと衝突し、衛星の本体からもぎ取られた一部が新たなデブリになっている。衝突の相手は1986年に[[アリアン]]・ロケットが破壊された際のデブリのうちの一つである。この衝突は、[[カタログ物体]]同士の初の衝突である。 * [[2005年]][[1月17日]]には、1974年に打ち上げられたアメリカのロケット上段と、1999年に打ち上げられ2000年に爆発した中国のロケットの破片が、2005年南極上空で衝突した<ref name="/ODQNv9i2" />。 * [[2006年]]3月には[[ロシア]]の[[静止衛星]][[エクスプレスAM11]](Express-AM11)がデブリとの衝突によって機能不全に陥り、[[静止軌道]]から[[墓場軌道]]へ移動した後、運用を終了した。 * [[2009年]][[2月12日]]には、機能停止中の[[ロシア]]の軍事[[通信衛星]][[コスモス2251号]]と、[[衛星電話#イリジウム|イリジウム]]社が当時運用中だった通信衛星[[イリジウム33号]]とが[[2009年人工衛星衝突事故|衝突し]]た。この衝突によって少なくとも500個以上のデブリが発生した<ref>[http://www.space.com/news/090211-satellite-collision.html U.S. Satellite Destroyed in Space Collision (Space.com)] 2009.2.12{{En icon}}</ref>。その後の調査でコスモス2251号が1,267個、イリジウム33号が521個の破片を生じたことが報告された<ref name="ODQNv14i3" />。これは非意図的な人工衛星本体同士の衝突としては世界初のものである。([[2009年人工衛星衝突事故]]を参照) * [[2013年]][[1月22日]]に、ロシアの小型衛星[[BLITS]]に破片が衝突し、衛星が使用不能になっている事が同年[[3月8日]]に発表された。当初は2007年に破壊された中国の衛星[[風雲 (気象衛星)|風雲1号C]]の破片との衝突と思われていた<ref>{{cite news | title = Russian Satellite Hit by Debris from Chinese Anti-Satellite Test | url = http://www.space.com/20138-russian-satellite-chinese-space-junk.html | publisher = Space.com | date = 2013-3-8 | accessdate = 2015-1-18}}</ref>が、後にこれは未知のデブリとの衝突だった事が分かった。 * 2013年5月、[[エクアドル]]の超小型衛星ペガソが、旧ソビエト連邦が打ち上げたロケットの周囲に漂っていたデブリクラウドと衝突した模様(ロケット本体との衝突では無かった)で、制御不能となった<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20130607172740/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0528&f=national_0528_058.shtml |title=中国打ち上げのエクアドル衛星が「宇宙ごみ」に衝突、機能喪失 |work=サーチナ |publisher=サーチナ |date=2013-05-28 |accessdate=2013-09-12 }}</ref>。 === 微小デブリ === [[File:SMM_panel_hole.jpg|thumb|right|220px|[[ソーラーマックス]]のデブリ痕]] 宇宙空間に長期間曝露されていた物体の表面には衝突により多数の微小な[[クレーター]]が形成される。この成因の衝突物体が流星物質であるかデブリであるかは、クレーターの底に付着した残留物を分析したり、クレーターの形状から衝突速度と角度を推定したりすることにより判断される。 [[1983年]]に打ち上げられた[[スペースシャトル・チャレンジャー]]([[STS-7]])では、軌道上で窓ガラスに何かが衝突し、深さ約0.5mmの微小クレーターが形成された。衝突したのは人工衛星から剥がれた塗料片だろうと考えられている。 また、[[1984年]]にチャレンジャー([[STS-41-C]])によって回収された[[ソーラーマックス]]衛星の外壁2.5平方メートルの表面には、約3年の宇宙空間への曝露により千個ものクレーターが形成されていた。このうちの約7割が人工的なデブリによるものとされている。 その後も同様の調査により、時代が下るにつれて衝突頻度が加速度的に上昇していることが判明している。デブリが調査された代表的なものには、 * [[:en:Long Duration Exposure Facility|Long Duration Exposure Facility]](LDEF) - 1990年に回収されるまで68ヶ月間曝露 * [[EURECA]] - 曝露期間:1992年- 1993年 * [[ハッブル宇宙望遠鏡]]の太陽電池パネル - 曝露期間:[[1990年]] - [[1993年]] * [[SFU (人工衛星)|SFU]] - 曝露期間:[[1995年]] - 1996年 などが含まれている。また、ミールや国際宇宙ステーションから回収されたものでも分析が行われている。 このように、現在、微小デブリとの衝突はきわめて日常的な出来事になっている。 ==落下物== {{main|{{ill2|再突入したスペースデブリ一覧|en|List of reentering space debris}}}} === 制御不能落下物 === 人工衛星レベル程度なら再突入に耐えられずに燃え尽きるが、それ以上のロケットのエンジン部などは燃え尽きずに地上に落下する。計画的に制御されて太平洋上の人家から遠く離れた[[到達不能極]][[スペースクラフト・セメタリー]]へ落下させれば安全であるが、そうでない場合もある。それらを以下に示す<ref>[https://edition.cnn.com/2020/05/11/us/china-rocket-scn-trnd/index.html One of the largest uncontrolled pieces of space debris fell down to Earth today]CNN May 11, 2020 参照日:Jun 26, 2020</ref>。 * サターン5型ロケットの第二段 S-II - 1975年1月11日に大気圏に再突入。太平洋上に落下 * [[スカイラブ計画|スカイラブ]] - 1979年に再突入。オーストラリア西部 * [[サリュート7号]] - 1991年2月7日に再突入。太平洋の無人エリアに落下 * [[スペースシャトル・コロンビア]] - 2003年2月1日、帰還時に空中分解して落下。詳細は[[コロンビア号空中分解事故]] * [[長征5号]]Bの1段目 - 2020年5月11日に地上に落下 なお、地上に被害が出た場合は、[[宇宙損害責任条約]]を批准していれば打ち上げた国が補填する。 == 機関間スペースデブリ調整委員会 == {{Main|[[:en:Inter-Agency Space Debris Coordination Committee]]}} 1993年に機関間スペースデブリ調整委員会 IADC(Inter-Agency Space Debris Coordination Committee)が設立され、各国の宇宙機関の間でスペースデブリの対策に対して協議されている。 2007年にIADCは、スペースデブリ軽減のためのガイドライン(Space Debris Mitigation Guidelines)を発行した<ref>{{cite news | title = IADC Space Debris Mitigation Guidelines | url = http://www.iadc-online.org/Documents/IADC-2002-01,%20IADC%20Space%20Debris%20Guidelines,%20Revision%201.pdf | publisher = IADC | date = 2007年9月 | accessdate = 2015-1-18}}</ref>。現在はこのガイドラインに従ってデブリをこれ以上増やさないような努力が行われている。 === 参加機関 === * {{Flagicon|ITA}} [[イタリア宇宙機関]](ASI) * {{Flagicon|GBR}} [[イギリス国立宇宙センター]](BNSC) * {{Flagicon|FRA}} [[フランス国立宇宙研究センター]](CNES) * {{Flagicon|CHN}} [[中国国家航天局]](CNSA) * {{Flagicon|GER}} [[ドイツ航空宇宙センター]](DLR) * {{Flagicon|EU}} [[欧州宇宙機関]](ESA) * {{Flagicon|IND}} [[インド宇宙研究機関]](ISRO) * {{Flagicon|JPN}} [[宇宙航空研究開発機構]](JAXA) * {{Flagicon|USA}} [[アメリカ航空宇宙局]](NASA) * {{Flagicon|UKR}} [[ウクライナ国立宇宙機関]](NSAU) * {{Flagicon|RUS}} [[ロシア連邦宇宙局]](ROSCOSMOS) * {{Flagicon|CAN}} [[カナダ宇宙庁]](CSA) == 国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS) == 2019年2月11日から、[[オーストリア]]で開かれる[[国連宇宙空間平和利用委員会]](COPUOS)で、日本は、米国など10カ国とともにスペースデブリ抑制など宇宙空間の長期利用に向けた取り組みを求める声明を出すことが2月5日判明した。日本が率先して、今後本格化する国際ルールづくりで主導権を確保する狙いがある。声明は、COPUOSの下部組織の科学技術小委員会で12日(現地時間)に発出し、日本の呼び掛けに米国、英国、フランス、ドイツ、カナダ、イタリア、韓国、豪州、ニュージーランドの計9カ国が応じ、同様の声明を出す<ref>{{Cite web|和書|title=政府、宇宙ごみ削減の声明へ 10カ国とともに宇宙空間長期利用|url=https://www.sankei.com/article/20190206-C6HTOBP2AVMTZCADFEX5P6X3EU/|website=産経ニュース|date=2019-02-06|accessdate=2019-02-06|publisher=産経新聞社}}</ref>。 == スペースデブリを扱った作品 == * 『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』 - 多くの作品でスペースデブリに関する描写がなされている。[[宇宙戦艦|戦艦]]や[[モビルスーツ]]をはじめとした兵器などの残骸がデブリ化するほか、そうしたデブリを回収するジャンク屋や回収業者なども登場する。 * [[漫画]]『[[プラネテス]]』 - スペースデブリ回収業者を主人公として、本問題を大きく扱った作品。[[テレビアニメ]]化もされた。 * [[映画]]『[[ゼロ・グラビティ (映画)|ゼロ・グラビティ]]』 - スペースデブリがシャトルに衝突し、シャトルが破壊されたため宇宙に取り残されてしまった人たちの運命を描いた作品。 * 映画『[[スーパーマンIV|スーパーマンIV/最強の敵]]』 - 作品冒頭、スペースデブリの衝突で危機に見舞われる旧ソ連[[宇宙ステーション]]を主人公が救うシーンがある。 * 映画『[[COSMIC RESCUE]]』 - 物語後半、スペースデブリに衝突して遭難した宇宙船が主人公のレスキューチームに救助されるシーンがある。 * ドラマ『[[ブラッシュアップライフ]]』 - みーぽんと、なっちの乗った航空機と衝突し墜落する周回がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考書籍 == * 『宇宙のゴミ問題-スペースデブリ』([[八坂哲雄]] [[裳華房]] 1997年) == 関連項目 == * [[ClearSpace-1]] * [[ケスラーシンドローム]] * [[スペースガード]] * [[衝突回避 (宇宙開発)#軌道上での回避|デブリ回避マヌーバ]] * [[:en:Orbital Debris Co-ordination Working Group|スペースデブリ調整作業部会]] * [[6Q0B44E]] * [[プラネテス]] * {{ill2|ゾンビ衛星|en|Zombie satellite}} - 通信が不定期に復活する制御不能状態で漂流している宇宙機 == 外部リンク == {{Commons|Space debris}} * [https://www.orbitaldebris.jsc.nasa.gov/ NASA Orbital Debris Program Office]{{En icon}} * [https://www.nasa.gov/pdf/692076main_Orbital_Debris_Management_and_Risk_Mitigation.pdf Orbital Debris Management & Risk Mitigation] 2012年12月 NASA (デブリ問題の全体像を分かりやすくまとめたpdfファイル(36ページ)) * [https://www.esa.int/Our_Activities/Operations/Space_Safety_Security/Space_Debris ESA Space Debris Office] * [https://www.space-track.org/ Space-Track - The Source for Space Surveillance Data] * [https://celestrak.com/ CelesTrak] * [http://www.sgo.fi/~jussi/spade/ipy/index.html EISACT Space Debris during the international polar year] * [https://aerospace.org/story/space-debris-and-space-traffic-management "What is Orbital Debris?" from the Center for Orbital and Reentry Debris Studies at The Aerospace Corporation] * [http://lasp.colorado.edu/~lix/class/asen5335/hw6.html Intro to mathematical modeling of space debris flux] * Leonard David, "The Clutter Above," ''Bulletin of the Atomic Scientists'', July/August 2005 * [http://www.celestrak.com/SOCRATES/ SOCRATES: A free daily service predicting close encounters on orbit between satellites and debris orbiting Earth] * [https://www.theglobaleducationproject.org/earth/global-ecology.php#8 A summary of current space debris by type and orbit] * [http://www.astronomycast.com/astronomy/planets/our-solar-system/ep-82-space-junk/ Space Junk] [[Astronomy Cast]] episode #82, includes full transcript * [http://www.eclipsetours.com/paul-maley/space-debris-2/ Paul Maley's Space debris] これまでに地上へ落下してきた様々なスペースデブリの写真を網羅して掲載したHP * [http://www.universetoday.com/2008/04/11/space-debris-illustrated-the-problem-in-pictures/ Space Debris Illustrated: The Problem in Pictures] * [http://www.eagletv.co.uk/home/space.htm "Space the final junkyard" documentary film] * [https://www.huffpost.com/entry/the-strange-problem-of-sp_b_214600 The Strange Problem of Space Junk - And How It Threatens Our Way of Life] by Johann Hari, ''The Huffington Post'', June 11 2009 * {{Spedia|Space_debris|Space debris}} * [https://www.kenkai.jaxa.jp/research/debris/debris.html スペースデブリ対策の研究(JAXA)] * [https://news.mynavi.jp/techplus/article/20111022-spacedebris/ 本当に人に当たる確率はどれくらい? - デブリに関する説明会をJAXAが開催(2011/10/22 マイナビニュース)] * [https://www.kids.isas.jaxa.jp/faq/satellite/sa02/000067.html 「宇宙ゴミ」ってなんですか?] - JAXA * [http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150421_2/ 高強度レーザーによるスペースデブリ除去技術] 2015年4月21日 理化学研究所プレスリリース {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すへえすてふり}} [[Category:スペースデブリ|*]] [[カテゴリ:人工衛星]] [[Category:地球近傍天体]] [[Category:天文学に関する記事]]
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カリホルニウム
カリホルニウム(英: californium [ˌkælɨˈfɔrniəm])は、原子番号98の元素。元素記号は Cf。アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。比重は15.1、融点は900 °Cである。安定同位体は存在しない。物理的、化学的性質も不明な部分が多い。原子価は+3価。実用的な用途がある最も原子番号の大きい元素でもある。カリホルニウムには3つの同素体(α、β、γ)がある。 元素名は、地名であるカリフォルニア(米国)、及びカリフォルニア大学に由来する。そのため「カリフォルニウム」と日本語表記されることもあるが、学術用語集で定められた日本語表記は「カリホルニウム」である。 いくつかの同位体が発見されているが、最も半減期が長いのはカリホルニウム251で898年である。原子炉内でウラン235が中性子の捕獲を繰り返して出来るカリホルニウム252は、半減期が2.65年である。このカリホルニウム252は、自発核分裂(平均3.8個の中性子を出す)する。 1949年、カリフォルニア大学バークレー校[:en]のグレン・シーボーグ (G.T.Seaborg)、トンプソン (G.Thompson)、ギオルソ (A.Ghiorso) らが、キュリウム242にサイクロトロンで35 × 10 eVに加速したα粒子をぶつけてカリホルニウム245(半減期45分)を発見した。 日本では、1973年、日本原子力研究所がカリホルニウムの合成、検出に成功したと発表。アメリシウム241に中性子を46日間照射後、中性子を吸収して成長した物質を化学的手法で分離、これを濃縮した物質からカリホルニウム250とカリホルニウム252を検出したもの。 カリホルニウム252は、中性子線源や、非破壊検査、その他研究用に使用される。また、原子炉建設後、最初の中性子源としても利用されるが、必要量はμg単位にすぎない。仮に100 gの価格を単純に計算すると約7兆円になる。 原子爆弾にカリホルニウムを使用した場合、非常に小型化できる可能性が高いため研究されていた時期があり、サイエンス・フィクションでも個人が持ち運びできるものとして描写されている。 しかし、先述のとおり大変高価な物質なので、兵器としての運用は現実的でないと考えられている。
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カリホルニウムは、原子番号98の元素。元素記号は Cf。アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。比重は15.1、融点は900 °Cである。安定同位体は存在しない。物理的、化学的性質も不明な部分が多い。原子価は+3価。実用的な用途がある最も原子番号の大きい元素でもある。カリホルニウムには3つの同素体(α、β、γ)がある。
{{Expand English|Californium|date=2021年3月|fa=yes}} {{Elementbox |name=californium |japanese name=カリホルニウム |pronounce={{IPAc-en|ˌ|k|æ|l|ɨ|ˈ|f|ɔr|n|i|əm}}<br />{{respell|KAL|ə|FOR|nee-əm}} |number=98 |symbol=Cf |left=[[バークリウム]] |right=[[アインスタイニウム]] |above=[[ジスプロシウム|Dy]] |below=[[ウンクアドオクチウム|Uqo]] |series=アクチノイド |group=n/a |period=7 |block=f |appearance=銀白色 |image name=Californium.jpg |image alt=A very small disc of silvery metal, magnified to show its metallic texture |image size=176 |atomic mass=[251] |electron configuration=&#91;[[ラドン|Rn]]&#93; 5f<sup>10</sup> 7s<sup>2</sup>{{sfn|CRC|2006|p=1.14}} |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 28, 8, 2 |phase=固体 |Mohs hardness=3–4{{sfn|CRC|1991|p=254}} |density gpcm3nrt=15.1{{sfn|CRC|2006|p=4.56}}<!-- {{sfn|O'Neil|2006|p=276}} --> |melting point K=1173<!-- {{sfn|Greenwood|1997|p=1263}} --> |melting point C='''900'''{{sfn|CRC|2006|p=4.56}} |melting point F=1652 <!-- NEEDS CITE |boiling point K=1743 |boiling point C=1470 |boiling point F=2678 --> |oxidation states=2, '''3''', 4{{sfn|Greenwood|Earnshaw|1997|p=1265}} |electronegativity=1.3{{sfn|Emsley|1998|p=50}} |number of ionization energies=1 |1st ionization energy=608{{sfn|CRC|2006|p=10.204}} |CAS number=7440-71-3{{sfn|CRC|2006|p=4.56}} |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[カリホルニウム248|248]] | sym=Cf | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|333.5 d]] | dm1=[[アルファ崩壊|α]] (100 %) | de1=6.369 | pn1=[[キュリウム244|244]] | ps1=[[キュリウム|Cm]] | dm2=[[自発核分裂|SF]] (2.9 × 10<sup>-3</sup> %) | de2=0.0029 | pn2= | ps2=-}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[カリホルニウム249|249]] | sym=Cf | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E10 s|351 y]] | dm1=[[アルファ崩壊|α]] (100 %) | de1=6.295 | pn1=[[キュリウム245|245]] | ps1=[[キュリウム|Cm]] | dm2=[[自発核分裂|SF]] (5.0 × 10<sup>-7</sup> %) | de2=4.4 × 10<sup>-7</sup> | pn2= | ps2=-}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[カリホルニウム250|250]] | sym=Cf | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E8 s|13.08 y]] | dm1=[[アルファ崩壊|α]] (99.92 %) | de1=6.129 | pn1=[[キュリウム246|246]] | ps1=[[キュリウム|Cm]] | dm2=[[自発核分裂|SF]] (0.08 %) | de2=0.077 | pn2= | ps2=-}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[カリホルニウム251|251]] | sym=Cf | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E10 s|898 y]] | dm=[[アルファ崩壊|α]] (100 %) | de=6.172 | pn=[[キュリウム247|247]] | ps=[[キュリウム|Cm]]}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[カリホルニウム252|252]] | sym=Cf | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|2.645 y]] | dm1=[[アルファ崩壊|α]] (96.91 %) | de1=6.217 | pn1=[[キュリウム248|248]] | ps1=[[キュリウム|Cm]] | dm2=[[自発核分裂|SF]] (3.09 %) | de2=- | pn2= | ps2=-}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[カリホルニウム253|253]] | sym=Cf | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|17.81 d]] | dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] (99.69 %) | de1=0.29 | pn1=[[アインスタイニウム253|253]] | ps1=[[アインスタイニウム|Es]] | dm2=[[アルファ崩壊|α]] (0.31 %) | de2=6.126 | pn2=[[キュリウム249|249]] | ps2=[[キュリウム|Cm]]}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[カリホルニウム254|254]] | sym=Cf | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|60.5 d]] | dm1=[[自発核分裂|SF]] (99.69 %) | de1=- | pn1= | ps1=- | dm2=[[アルファ崩壊|α]] (0.31 %) | de2=5.930 | pn2=[[キュリウム250|250]] | ps2=[[キュリウム|Cm]]}} |isotopes comment=出典:{{sfn|CRC|2006|p=11.196}} |covalent radius=168|crystal structure=六方最密充填構造 (α-Cf) 体心立方格子 (β-Cf) 面心立方格子 (γ-Cf)}} '''カリホルニウム'''({{lang-en-short|californium}} {{IPA-en|ˌkælɨˈfɔrniəm|}})は、[[原子番号]]98の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Cf'''。[[アクチノイド元素]]の一つ。[[超ウラン元素]]でもある。比重は15.1、[[融点]]は900 {{℃}}である。[[安定同位体]]は存在しない。物理的、化学的性質も不明な部分が多い。[[原子価]]は+3価。実用的な用途がある最も原子番号の大きい元素でもある。カリホルニウムには3つの同素体(α、β、γ)がある。 == 名称 == 元素名は、地名である[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]([[アメリカ合衆国|米国]])、及びカリフォルニア大学に由来する<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 400-401|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。そのため「カリ'''フォ'''ルニウム」と日本語表記されることもあるが、[[学術用語集]]で定められた日本語表記は「カリ'''ホ'''ルニウム」である<ref name="sakurai" />。 == 同位体 == {{main|カリホルニウムの同位体}} いくつかの[[同位体]]が発見されているが、最も[[半減期]]が長いのは[[カリホルニウム251]]で898年である。原子炉内で[[ウラン235]]が[[中性子]]の捕獲を繰り返して出来る[[カリホルニウム252]]は、半減期が2.65年である。このカリホルニウム252は、[[自発核分裂]](平均3.8個の中性子を出す)する。 ==歴史== [[1949年]]、[[カリフォルニア大学バークレー校]][[:en:Californium#History|[:en]]]の[[グレン・シーボーグ]] (G.T.Seaborg)、[[スタンリー・ジェラルド・トンプソン|トンプソン]] (G.Thompson)、[[アルバート・ギオルソ|ギオルソ]] (A.Ghiorso) らが、[[キュリウム242]]に[[サイクロトロン]]で35 × 10<sup>6</sup> [[電子ボルト|eV]]に加速した[[α粒子]]をぶつけて[[カリホルニウム245]]([[半減期]]45分)を発見した<!--カリホルニウム244(半減期25分、α崩壊)という説も-->。 日本では、1973年、日本原子力研究所がカリホルニウムの合成、検出に成功したと発表。[[アメリシウム241]]に中性子を46日間照射後、中性子を吸収して成長した物質を化学的手法で分離、これを濃縮した物質から[[カリホルニウム250]]と[[カリホルニウム252]]を検出したもの<ref>「カリフォルニウムを合成」『朝日新聞』昭和48年1月26日朝刊、13面、3面</ref>。 == 用途 == カリホルニウム252は、中性子線源や、[[非破壊検査]]、その他研究用に使用される。また、[[原子炉]]建設後、最初の中性子源としても利用されるが、必要量はμg単位にすぎない。仮に100 gの価格を単純に計算すると約7[[兆]]円になる。 == 原子爆弾 == {{出典の明記|section=1|date=2015-12}} [[原子爆弾]]にカリホルニウムを使用した場合、非常に小型化できる可能性が高いため研究されていた時期があり、[[サイエンス・フィクション]]でも個人が持ち運びできるものとして描写されている。 しかし、先述のとおり大変高価な物質なので、兵器としての運用は現実的でないと考えられている。 ===カリホルニウム爆弾が登場するフィクション=== * [[トップをねらえ!]]シリーズ - 劇中でカリホルニウムを用いた核ミサイルが登場する。 * [[アダルト・ウルフガイ]]シリーズ - カリホルニウムを使用した核小銃弾が登場するエピソードがある。 * [[宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマト(石津嵐小説版)]]ではヤマトの主砲としてカリホルニウム核砲弾が使用されている。 * サイコキネシス大戦争シリーズ - [[豊田有恒]]の小説。アニメのメカデザイナーである主人公の腕にカリホルニウムのカプセルが仕込まれる。 * タイムトルーパー - [[小林源文]]によるSF劇画。1944年のヨーロッパにタイムスリップした22世紀火星軍の下士官兵5名のうち、1名がカリホルニウム弾を携行。 * [[科学忍者隊ガッチャマン]] - 第94話「電魔獣アングラー」にカリホルニウムを用いたペンダント爆弾が登場する。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book2 |author = <nowiki>CRC contributors</nowiki> |title = Handbook of Metal Etchants |editor1-first = Perrin|editor1-last = Walker |editor2-first = William H.| editor2-last = Tarn |year = 1991 |publisher = CRC Press |language=en |isbn = 978-0-8493-3623-2 |ref = {{sfnRef|CRC|1991}}}} * {{cite book2 |author = <nowiki>CRC contributors</nowiki> |title = Handbook of Chemistry and Physics |editor-first = David R.|editor-last = Lide |edition = 87th |year = 2006 |publisher = CRC Press, Taylor & Francis Group |language=en |isbn = 978-0-8493-0487-3 |ref = {{sfnRef|CRC|2006}}}} * {{cite book2 |last1 = Greenwood |first1 = N. N. |last2 = Earnshaw |first2 = A. |title = Chemistry of the Elements |edition = 2nd |publisher = Butterworth-Heinemann |year = 1997 |language=en |isbn = 978-0-7506-3365-9 }} * {{cite book2 |title = The Elements |last = Emsley |first = John |publisher = Oxford University Press |year = 1998 |language=en |isbn = 978-0-19-855818-7 }} {{Commons|Californium}} {{元素周期表}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かりほるにうむ}} [[Category:カリホルニウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:アクチノイド]] [[Category:第7周期元素]]
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総合車両製作所
株式会社総合車両製作所(そうごうしゃりょうせいさくしょ、英: Japan Transport Engineering Company、英略称:J-TREC)は、神奈川県横浜市金沢区に本社を置く、日本の鉄道車両メーカー。東日本旅客鉄道(JR東日本)の完全子会社。 東京急行電鉄子会社であった東急車輛製造の鉄道車両事業を、需要の低迷などを理由にJR東日本に事業譲渡するにあたり、2011年(平成23年)11月9日、東急100%子会社の新東急車輛株式会社として設立され、翌2012年(平成24年)4月1日付で同社へ東急車輛製造の各事業を譲渡した上で、翌4月2日付で新東急車輛の全株式をJR東日本へ売却し同社の完全子会社となるとともに、同日付で株式会社総合車両製作所と商号を変更し、現社名となる。 その上で、東急車輛製造の事業譲受以前より運営する、JR東日本直営の車両製作所である新津車両製作所を、グループ内の車両製造業務を一本化するため、車両製造事業とそれに係る資産や負債、権利および義務を、2014年(平成26年)4月1日付で当社へ会社分割により譲渡し、新津車両製作所を当社の「新津事業所」とする形で現在の体制となった。 これらの経緯により、東京急行電鉄(現・東急)の鉄道車両製造・修理部門を分社化した東急車輛製造、当社設立以前に東急車輛へ吸収合併された梅鉢鉄工所および帝國車輛工業、JR東日本新津車両製作所の3つの源流を持ち、旧東急横浜製作所由来の本社および横浜事業所(神奈川県横浜市金沢区大川)、旧梅鉢車輛・帝国車輛に由来し大阪府堺市から移転した和歌山事業所(和歌山県紀の川市)、JR東日本新津車両製作所を引き継いだ新津事業所(新潟県新潟市秋葉区)の3か所の製造拠点を有する。横浜事業所と新津事業所においては主に鉄道車両、和歌山事業所においてはコンテナの製造を手掛けている。 鉄道車両については、東急電鉄向けの車両は旧・東急車輛製造時代から一貫して製造を担当していたが、JR東日本向けについても、当社設立以降、一般形の電車についてはJR九州BEC819系電車のOEMであるEV-E801系電車(日立製作所製)を除いて当社に製造を集約させている。なお、新幹線車両および特急車両については、他社を含めた形での製造を継続しており、新幹線車両ではE3系の改造やE7系の製造、特急車両ではE353系やE657系の製造に参画している一方、E8系やE261系など、製造に参画していない車両もある。 鉄道車両のほか、鉄道・海上用輸送コンテナの製造も行っている。分岐器・横取り装置をはじめとする軌道関連部品の製造も行っていたが2018年度をもって撤退した。なお、2017年現在、日本国内において一般型鉄道用コンテナのライン製造設備を持つ唯一の企業となっている。 車両の製作をJR東日本新津車両製作所(当時)に委託したものが一部含まれる。東急車輛製造当時に受注・製造したものについてはこちらの項を参照。 東日本地区の鉄道事業者を主要な顧客とするが、合併によって東急車輛製造大阪製作所(現在は和歌山に移転)となった旧帝國車輛工業当時から取引があった南海電気鉄道やその子会社の泉北高速鉄道は、西日本地区における数少ない顧客である。ただし、帝國車輛工業合併以前にもオールステンレス車両である6000系電車などの納入実績がある。これは当時オールステンレス車両の製造技術を有するメーカーが東急車輛製造のみであったことに起因しているが、総合車両製作所への移行後は8000系のみ製造している。なお、2015年(平成27年)秋デビューの8300系は近畿車輛での製造となった。一方で京都市営地下鉄烏丸線(京都市交通局)に導入予定の新車(後の20系)デザイン検討を「1円」で落札したが、2019年7月に行われた「高速鉄道烏丸線新型車両車体及びぎ装」の入札は辞退し近畿車輛が落札した。 日本国外向けステンレス車両については、日本におけるステンレス車両のパイオニアメーカーとして「sustina(サスティナ)」というブランド名を制定、2012年9月下旬にドイツ・ベルリンで開催の世界最大の鉄道関係見本市「InnoTrans2012」に出展した。sustinaとは、JIS規格で規定されるところのSUS鋼と、英単語のsustainableを合成した造語で、ステンレス車体の特徴である美しい外観・高い安全性・長期間持続する高い信頼性、さらにリサイクル性の高さから地球環境の維持にも優れていることをイメージし制定されたものである。「sustina」は後に国内向けにも用いられるようになった。ロゴの違いはsustinaのiの上の点が海外向けは日本(の国旗としての日の丸)をイメージした赤い丸なのに対し、国内向けは地球をイメージしたものとなっている。 ただし、京浜急行電鉄に納入される車両では、京急の意向で「J-TREC」「sustina」のロゴを記載することが認められておらず、漢字で「総合車両製作所」とだけ記されている。 鉄道総合技術研究所と共同研究・開発した通勤車両ロングシートの円弧状手すりは、1000両余(2012年7月現在)で採用され、2012年度「人間工学グッドプラクティス賞 最優秀賞」を一般社団法人日本人間工学会から受賞している。 日本車輌製造が設計幹事会社となり、同社と共同で受注している車両については、日車式ブロック工法の技術供与を受けて製造を行っている。 工作機械分野では速い接合スピードを特長とする独自摩擦攪拌接合(FSW)用ツールを大阪大学監修で開発し、「Smart FSW」の名称で研究開発用に販売しており、特許・意匠・商標出願中である。 東急車輛製造時代に開発製品(メカトロニクス製品・環境システム製品)を扱った時期もあるが、現在は同分野からは撤退してサービス業務のみ継続している。 車両の改造も実施している。主な内容を下に記す。【 】内は改造の内容。 横浜事業所が京浜急行電鉄(京急)の金沢八景駅に隣接して立地する都合上、京急逗子線の金沢八景 - 神武寺間の上り線は、JRなどへの新製車両の納入や、改造車両などの入出場のために横浜事業所からJR逗子駅までの搬出入(回送)線を併設しており、1,435 mm(標準軌)と1,067 mm(狭軌)の三線軌条区間となっている。 京急向けに新製された車両については通常横浜事業所から自力で出場回送されるほか、川崎車両で新製された京急の車両については、回送線を経由して一旦同事業所に搬入され、台車交換・整備が実施された後、同様に自力回送にて出場する。また、京成電鉄・北総鉄道向けに新製された車両は同事業所製のものは直接、日本車輌製造製のものは同事業所を経由し、自力または京成の車両による牽引で京急線・都営浅草線経由にて出場する。同事業所にて都営浅草線向けに新造された車両も初期製造編成以外は自力回送にて出場する。
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株式会社総合車両製作所は、神奈川県横浜市金沢区に本社を置く、日本の鉄道車両メーカー。東日本旅客鉄道(JR東日本)の完全子会社。
{{Pathnav|東日本旅客鉄道|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社総合車両製作所 |英文社名 = Japan Transport Engineering Company |ロゴ = [[ファイル:J-TREC wordmark.svg|200px]] |画像 = [[ファイル:Jtrec container plate.jpg|200px]] |画像説明 = コンテナの銘板 |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> |略称 = J-TREC |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 236-0043 |本社所在地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]][[大川 (横浜市)|大川]]3番1号 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 20|本社緯度秒 = 9|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 37|本社経度秒 = 5.3|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP |設立 = [[2011年]]([[平成]]23年)[[11月9日]]<br />(新東急車輛株式会社) |業種 = 3700 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = [[鉄道車両]]などの製造・販売 |代表者 = 代表取締役社長 西山 隆雄 |売上高 = 370億8200万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/e73f9/311956 株式会社総合車両製作所 第11期決算公告]</ref> |営業利益 = 10億1100万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |経常利益 = 11億1300万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |純利益 = 10億5400万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |純資産 = 299億7500万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |総資産 = 632億6500万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |従業員数 = 1567名(2021年5月1日現在) |決算期 = |主要株主 = [[東日本旅客鉄道]] 100% |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = {{Official URL}} |特記事項 = [[2012年]](平成24年)[[4月1日]]に[[東急車輛製造]]株式会社より鉄道車両製造事業を継承した。 }} '''株式会社総合車両製作所'''(そうごうしゃりょうせいさくしょ、{{Lang-en-short|'''J'''apan '''Tr'''ansport '''E'''ngineering '''C'''ompany}}、英略称:'''''J-TREC''''')は、[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]に本社を置く[[日本]]の[[鉄道車両]]メーカーで、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[完全子会社]]。 == 概要 == {{See also|東急車輛製造#事業譲渡|総合車両製作所新津事業所#概要}} [[東京急行電鉄]]子会社であった[[東急車輛製造]]の鉄道車両事業を、需要の低迷などを理由にJR東日本に事業譲渡するにあたり、[[2011年]]([[平成]]23年)[[11月9日]]、東急100%子会社の'''新東急車輛株式会社'''として設立され<ref name="stcc">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2011/20120304.pdf 鉄道車両新会社の商号について]}} - JR東日本 2012年3月6日</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/ir/upload_file/top_01/9005_2011102715125604_P01_.pdf|title=子会社の事業の譲渡に関するお知らせ|publisher=東京急行電鉄|date=2011-10-27|accessdate=2020-01-26}}</ref>、翌[[2012年]](平成24年)[[4月1日]]付で同社へ東急車輛製造の各事業を譲渡した上で、翌4月2日付で新東急車輛の全株式をJR東日本へ売却し同社の完全子会社となるとともに、同日付で'''株式会社総合車両製作所'''と商号を変更し、現社名となる。 その上で、東急車輛製造の事業譲受以前より運営する、JR東日本直営の車両製作所である[[総合車両製作所新津事業所|新津車両製作所]]を、グループ内の車両製造業務を一本化するため、車両製造事業とそれに係る資産や負債、権利および義務を、[[2014年]](平成26年)4月1日付で当社へ[[会社分割]]により譲渡し<ref name="NT">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131214.pdf 車両製造事業の子会社への会社分割による継承について]}} - JR東日本 2013年12月18日</ref>、新津車両製作所を当社の「[[総合車両製作所新津事業所|新津事業所]]」とする形で現在の体制となった<ref group="注釈">ただし、新津事業所における従業員の雇用契約は引き続きJR東日本が保持し、当社へ出向する形をとる。</ref>。 これらの経緯により、[[東急電鉄|東京急行電鉄]](現・[[東急]])の鉄道車両製造・修理部門を分社化した[[東急車輛製造]]、当社設立以前に東急車輛へ吸収合併された梅鉢鉄工所および[[帝國車輛工業]]、JR東日本[[総合車両製作所新津事業所|新津車両製作所]]の3つの源流を持ち、旧東急横浜製作所由来の'''本社'''および'''横浜事業所'''([[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]][[大川 (横浜市)|大川]])、旧梅鉢車輛・帝国車輛に由来し[[大阪府]][[堺市]]から移転した'''和歌山事業所'''([[和歌山県]][[紀の川市]])、JR東日本新津車両製作所を引き継いだ'''[[総合車両製作所新津事業所|新津事業所]]'''([[新潟県]][[新潟市]][[秋葉区]])の3か所の製造拠点を有する。横浜事業所と新津事業所においては主に鉄道車両、和歌山事業所においてはコンテナの製造を手掛けている。 鉄道車両については、[[東急電鉄]]向けの車両は旧・東急車輛製造時代から一貫して製造を担当していたが、JR東日本向けについても、当社設立以降、[[一般形車両 (鉄道)|一般形]]の電車については[[JR九州BEC819系電車]]のOEMである[[JR東日本EV-E801系電車|EV-E801系電車]]([[日立製作所笠戸事業所|日立製作所]]製)を除いて当社に製造を集約させている。なお、新幹線車両および特急車両については、他社を含めた形での製造を継続しており、新幹線車両では[[新幹線E3系電車|E3系]]の改造<ref group="注釈">東急車輛時代に製造を担当</ref>や[[新幹線E7系・W7系電車|E7系]]の製造、特急車両では[[JR東日本E353系電車|E353系]]や[[JR東日本E657系電車|E657系]]の製造に参画している一方、[[新幹線E8系電車|E8系]]や[[JR東日本E261系電車|E261系]]など、製造に参画していない車両もある。 鉄道車両のほか、鉄道・海上用[[輸送コンテナ]]の製造も行っている。[[分岐器]]・横取り装置をはじめとする[[軌道 (鉄道)|軌道]]関連部品の製造も行っていたが2018年度をもって撤退した。なお、2017年現在、日本国内において一般型鉄道用コンテナのライン製造設備を持つ唯一の企業となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.j-trec.co.jp/company/070/06/jtr06_054-061.pdf 特集「J-TREC 技術の源流をたずねて」]}} - J-TREC 2017年12月</ref><ref group="注釈">[[液体]]用タンクコンテナについては[[日本車輌製造]]でも製造。</ref>。 === 年表 === {{main2|旧東急車輛製造・東急横浜製作所の系譜|東急車輛製造#沿革}} {{main2|旧東急車輛に合併される前の旧帝国車輛工業・梅鉢車輛の系譜|帝國車輛工業#概要}} * [[2011年]]([[平成]]23年)[[11月9日]] - 東急車輛製造株式会社の「鉄道車両新会社」として'''新東急車輛株式会社'''を設立。 * [[2012年]](平成24年) ** [[4月1日]] - 東急車輛製造株式会社より鉄道車両事業、ならびに東急車輛エンジニアリング株式会社および京浜鋼板工業株式会社の株式保有を含む一般管理部門を継承。 ** [[4月2日]] - 新東急車輛株式会社の全株式が[[東日本旅客鉄道]]株式会社に売却され、'''株式会社総合車両製作所'''に商号変更。 ** [[4月6日]] - 総合車両製作所発足後、初の竣功車両として京急新1000形1153編成が落成。出場記念のテープカットを実施<ref>交友社『鉄道ファン』2012年7月号 p.203「出来事2012.3 - 4」記事ならびに2013年1月号「株式会社総合車両製作所について」p.132記事。</ref> ** [[7月23日]] - 横浜事業所構内にて保存中の東急5201号と東急7052号が、[[日本機械学会]]より機械遺産51号「ステンレス鋼製車両群(東急5200系と7000系)」として認定。 ** [[8月10日]] - 総合車両製作所としてのJR東日本向け第1号車両([[JR東日本E657系電車|E657系]])が落成、記念式典を開催。 * [[2013年]](平成25年) ** [[3月]] - 京浜産業株式会社<ref name="keihin-sangyo">[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=2020001022972 京濱産業株式会社の情報]</ref>との合弁会社であった京浜鋼板工業株式会社<ref name="keihin-koban-kogyo">[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=3020001022930 京浜鋼板工業株式会社の情報]</ref>を解散<ref>{{Cite web|和書|publisher=京浜産業株式会社|title=会社概要・沿革|url=http://www.keihin-sangyo.co.jp/company/outline.html|accessdate=2017-06-10}}</ref>{{efn|ただし、登記上は現存している<ref name="keihin-koban-kogyo"/>。}}。 ** [[6月19日]] - フランス・[[アルストム]]社と、同社製LRT(LRV)「[[シタディス]](Citadis)」の国内導入協力に関する覚書を締結<ref>{{PDFlink|[http://www.j-trec.co.jp/news/news_13/130619.pdf ALSTOM社製LRTの国内導入協力に関する覚書の締結について]}} - 総合車両製作所 2013年6月19日</ref>。 * [[2014年]](平成26年)4月1日 - 東日本旅客鉄道株式会社[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]の新津車両製作所の車両製造事業等を継承<ref name="NT"/>。 * [[2019年]](平成31年)[[3月]]末 - [[軌道 (鉄道)|軌道]]関連部品の製造から撤退。 == 製品 == === 鉄道車両 === 車両の製作をJR東日本新津車両製作所(当時)に委託したものが一部含まれる。東急車輛製造当時に受注・製造したものについては[[東急車輛製造#鉄道車両|'''こちらの項''']]を参照。 東日本地区の鉄道事業者を主要な顧客とするが、合併によって東急車輛製造大阪製作所(現在は和歌山に移転)となった旧[[帝國車輛工業]]当時から取引があった[[南海電気鉄道]]やその子会社の[[泉北高速鉄道]]は、西日本地区における数少ない顧客である。ただし、帝國車輛工業合併以前にもオールステンレス車両である[[南海6000系電車|6000系電車]]などの納入実績がある。これは当時オールステンレス車両の製造技術を有するメーカーが東急車輛製造のみであったことに起因しているが、総合車両製作所への移行後は8000系のみ製造している。なお、[[2015年]](平成27年)秋デビューの[[南海8300系電車|8300系]]は[[近畿車輛]]での製造となった<ref>[http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0120150427aaai.html 近畿車両、南海から新型車両受注―40年ぶり、「8300系」30億円規模] - [[日刊工業新聞]]2015年4月27日</ref>。一方で[[京都市営地下鉄烏丸線]]([[京都市交通局]])に導入予定の新車(後の[[京都市交通局20系電車|20系]])デザイン検討を「1円」で落札<ref>[https://response.jp/article/2017/09/01/299245.html 京都市営地下鉄の新造車両、デザイン検討は「1円」…J-TRECが落札、予定価格500万円] Response 2017年9月1日、同10月12日閲覧。</ref>したが、2019年7月に行われた「高速鉄道烏丸線新型車両車体及びぎ装」の入札は辞退し近畿車輛が落札した<ref>[http://www2.nyusatsu.city.kyoto.lg.jp/kotsu/ebid/buppin/kekka2019c/4313000431.htm 高速鉄道烏丸線新型車両車体及びぎ装] 京都市交通局 入札執行結果詳細 <物品> 入札番号4313000431 2019年7月31日</ref>。 [[ファイル:IMG tokyu-3020sustina. jpg.jpg|thumb|国内向けsustinaのロゴ。[[東急3020系電車]]の車内にて。]] [[File :Tokyu 5000 series (II) Nameplate.jpg|thumb|sustinaの国内向け第1号として登場した[[東急5000系電車 (2代)#sustina試験車|東急5050系サハ5576号車]]の車内銘板。]] [[File:Keikyu 1000 series (II) Namesticker.jpg|thumb|[[京浜急行電鉄|京急]][[京急1000形電車 (2代)|1000形電車 (2代)]](12次車・サハ1158)の車内銘板(ステッカータイプ)。「J-TREC」「sustina」いずれのロゴも記されていない。]] 日本国外向けステンレス車両については、日本におけるステンレス車両のパイオニアメーカーとして「'''[[sustina]]'''('''サスティナ''')」というブランド名を制定、2012年[[9月]]下旬に[[ドイツ]]・[[ベルリン]]で開催の世界最大の鉄道関係[[見本市]]「[[イノトランス|InnoTrans]]2012」に出展した<ref name="enactment">{{PDFlink|[http://www.j-trec.co.jp/news/old/120912.pdf 海外向けステンレス車両のブランド名を「sustina(サスティナ)」に]}}<br /> - 総合車両製作所 2012年9月12日</ref>。sustinaとは、[[日本産業規格|JIS規格]]で規定されるところの'''SUS鋼'''と、英単語の'''sustainable'''を合成した造語で、ステンレス車体の特徴である美しい外観・高い安全性・長期間持続する高い信頼性、さらに[[リサイクル]]性の高さから地球環境の維持にも優れていることをイメージし制定されたものである。「sustina」は後に国内向けにも用いられるようになった<ref name="logo">{{PDFlink|[http://www.j-trec.co.jp/news/old/130408.pdf ステンレス車両ブランド「sustina(サスティナ)」国内向けロゴマークの制定について]}}<br /> - 総合車両製作所 2013年4月9日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.j-trec.co.jp/news/old/130410.pdf 〜東急電鉄と総合車両製作所が共同開発〜 次世代ステンレス車両「sustina(サスティナ)」シリーズを導入します 5月に東横線でデビュー]}}<br /> - 総合車両製作所 2013年4月10日</ref>。ロゴの違いはsustinaのiの上の点が海外向けは日本(の国旗としての日の丸)をイメージした赤い丸<ref name="enactment"/>なのに対し、国内向けは地球をイメージしたもの<ref name="logo"/>となっている。 ただし、京浜急行電鉄に納入される車両では、京急の意向で「J-TREC」「sustina」のロゴを記載することが認められておらず、漢字で「総合車両製作所」とだけ記されている。 {{main|京浜急行電鉄#仕様|京急1000形電車 (2代)#12次車}} [[鉄道総合技術研究所]]と共同研究・開発した[[通勤形車両 (鉄道)|通勤車両]][[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]の円弧状手すりは、1000両余(2012年7月現在)で採用され、2012年度「人間工学グッドプラクティス賞 最優秀賞」<ref>{{PDFlink|[http://www.j-trec.co.jp/news/news_12/120703.pdf 鉄道車両用円弧状手すり 人間工学グッドプラクティス賞受賞]}}<br /> - 総合車両製作所 2012年7月3日</ref>を一般社団法人日本人間工学会から受賞している。 [[日本車輌製造]]が設計幹事会社となり、同社と共同で受注している車両については、[[N-QUALIS#日車式ブロック工法|日車式ブロック工法]]の技術供与を受けて製造を行っている。 ==== 電車 ==== * [[東急電鉄]] - [[東急5000系電車 (2代)|5000系列]]・[[東急6000系電車 (2代)|6000系]](デハ6300形)・[[東急7000系電車 (2代)|7000系]]・[[東急2020系電車|2020系]]<ref group="注釈">[[総合車両製作所新津事業所|新津事業所]]でも製造。</ref><ref>[https://www.j-trec.co.jp/news/060/20170321/170321.pdf 東京急行電鉄株式会社田園都市線向け新型車両製造を担当](総合車両製作所公式サイト)2017年3月23日閲覧。</ref>・[[東急6020系電車|6020系]]<ref group="注釈">[[東急2020系電車#Qシート車両|Qシート]]車2両は新津事業所で製造。</ref>・[[東急3020系電車|3020系]] * [[京王電鉄]] - [[京王5000系電車 (2代)|5000系(2代目)]]<ref>[http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr160316_zasekishiteiressha.pdf 2018年春、当社初の座席指定列車を導入します!〜新型車両 「5000系」 登場〜] - 京王電鉄、2016年3月16日</ref>・[[京王デヤ901・902形電車|デヤ901形・902形]]・[[京王サヤ912形貨車|サヤ912]](事業用車) * [[小田急電鉄]] - [[小田急4000形電車 (2代)|4000形(2代)]]・[[小田急5000形電車 (2代)|5000形(2代)]]<ref group="注釈">[[N-QUALIS#日車式ブロック工法|日車式ブロック工法]]及び[[efACE]]の設計も取り入れている車両。</ref><ref>[https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001j5x8-att/o5oaa1000001j5xf.pdf 新型通勤車両「5000形」を導入] - 小田急電鉄公式サイト)2019年5月3日閲覧。</ref> * [[東京都交通局]] - [[東京都交通局10-300形電車|10-300形]]・[[東京都交通局5500形電車 (鉄道)|5500形]]<ref>東京都入札 契約番号27-21335 平成27年12月11日 浅草線車両の製造</ref><ref>[https://www.j-trec.co.jp/news/050/20161207/20161207164447.html 東京都交通局都営浅草線向け新型車両を製造開始] - 総合車両製作所、2016年12月7日</ref> * [[相模鉄道]] - [[相鉄11000系電車|11000系]]・[[相鉄12000系電車|12000系]] * [[京浜急行電鉄]] - [[京急1000形電車 (2代)|新1000形]] * [[京成電鉄]] - [[京成3000形電車 (2代)|3000形(2代)]]<ref group="注釈" name="N-block">日車式ブロック工法を採用している車両。</ref>・[[京成3100形電車 (2代)|3100形(2代)]]<ref group="注釈" name="N-block"/> * [[南海電気鉄道]] - [[南海8000系電車 (2代)|8000系]] * [[静岡鉄道]] - [[静岡鉄道A3000形電車|A3000形]]<ref>[http://train.shizutetsu.co.jp/color.html 静鉄電車 新型車両の製作開始について〜製作会社、形式名、外観カラーリング決定〜、2015年6月19日]</ref><ref>[http://www.shizuoka-rainbow.jp/ 静岡鉄道新型車両スペシャルサイト“shizuoka rainbow trains / 静岡 レインボー トレインズ”]</ref> * [[泉北高速鉄道]] - [[南海12000系電車#泉北高速鉄道12000系|12000系]]<ref>{{Cite press release |和書 |title=「泉北ライナー」用新型特急車両、泉北12000系が光明池車庫に到着しました!|publisher=泉北高速鉄道|date=2016-11-04|url= http://www.semboku.jp/cat_news/4891/|accessdate=2016-11-12}}</ref> * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) **[[新幹線]] *** [[新幹線E7系・W7系電車|E7系]] ** 在来線 ***[[JR東日本E233系電車|E233系]]<ref group="注釈">グリーン車を除いて新津事業所でも製造。[[JR東日本E233系電車#8000番台|8000番台]]は新津事業所でのみ製造。</ref> *** [[JR東日本E235系電車|E235系]]<ref group="注釈">グリーン車は横浜事業所、普通車は新津事業所で製造。</ref> *** [[JR東日本E657系電車|E657系]] *** [[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系]] *** [[JR東日本FV-E991系電車|FV-E991系]]<ref group="注釈">試験用の[[水素]]式[[燃料電池]]電車</ref> *** [[JR東日本E531系電車|E531系]]<ref group="注釈">グリーン車を除いて新津事業所でも製造。</ref> *** [[JR東日本E129系電車|E129系]]<ref group="注釈" name="J-TREC_NT">新津事業所でのみ製造。</ref> *** [[JR東日本E131系電車|E131系]]<ref group="注釈" name="J-TREC_NT"/> *** [[JR東日本E353系電車|E353系]] *** [[JR東日本E721系電車|E721系]][[JR東日本E721系電車#1000番台|1000番台]]<ref group="注釈">先頭車は横浜事業所、中間車は新津事業所で製造。</ref><ref>[http://jr-sendai.com/upload-images/2016/05/e721-1000.pdf E721系1000代 新造車両の投入について] - 東日本旅客鉄道、2016年5月26日</ref> *** [[TRAIN SUITE 四季島]](E001形)<ref group="注釈">5 - 7号車の3両のみ。</ref><ref>{{Cite news |author=上新大介 |url=http://news.mynavi.jp/news/2016/09/27/433/ |title=JR東日本「トランスイート四季島」全車両出そろう - 中間車3両を都内へ輸送 |newspaper=[[マイナビニュース]]|publisher=[[マイナビ]]|date=2016年9月27日 |accessdate=2018年8月21日 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171210123953/https://news.mynavi.jp/article/20160927-a433/ |archivedate=2017-12-10-->}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2016年9月28日 |url=http://railf.jp/news/2016/09/28/150000.html |title=「TRAIN SUITE 四季島」3両が甲種輸送される |publisher=[[交友社]] |accessdate=2016年10月7日}}</ref><ref>「週刊エコノミスト」臨時増刊、2016年5月23日号「ニッポン鉄道の挑戦」p.62-64 [[毎日新聞出版]]。</ref> * [[青い森鉄道]] - [[青い森703系電車|青い森703系]] * [[阿武隈急行]] - [[JR東日本E721系電車#阿武隈急行AB900系|AB900系]]<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201802/20180214_11023.html <宮城県>阿武隈急行に1億円 車両更新を支援 2月補正予算] - 河北新報、2018年2月14日</ref> * [[しなの鉄道]] - [[しなの鉄道SR1系電車|SR1系]]<ref group="注釈">[[しなの鉄道SR1系電車#100番台(ライナー車両)|100番台]]は新津事業所でのみ、[[しなの鉄道SR1系電車#300番台(一般車両)|300番台]]は新津事業所でも製造。</ref><ref>[https://www.j-trec.co.jp/news/070/180613/20180612182638.html しなの鉄道株式会社向け新型車両の製造を担当します]</ref> ===== 案内軌条式鉄道用 ===== * [[横浜シーサイドライン]] - [[横浜新都市交通2000形電車|2000形]] ===== 日本国外 ===== * [[バンコク・メトロ]] - パープルライン用車両 * フィリピン - [[:en:PNR EM10000 class|南北通勤鉄道向け鉄道車両]](製造予定)<ref>[https://www.j-trec.co.jp/news/080/080/20190716164059.html フィリピン 南北通勤鉄道向け鉄道車両104両受注について]</ref> ==== 気動車 ==== * 東日本旅客鉄道(JR東日本) ** [[JR東日本HB-E210系気動車|HB-E210系]] ** [[JR東日本HB-E300系気動車|HB-E300系]] === 鉄道車両以外の製品 === * [[鉄道車両の台車|台車]] - 鉄道車両用台車の生産は東急車輛製造の前身企業である東急横浜製作所当時から行っている。 * 輪重測定装置 * 分岐器など、軌道に付帯する部品 - 2019年度をもって撤退。  * 鉄道輸送用コンテナ - [[京都鉄道博物館]]で展示するためだけのコンテナ([[JR貨物19D形コンテナ|19D-28901]])も製造した<ref>{{PDFlink|[https://www.j-trec.co.jp/news/050/20160422/160422.pdf 京都鉄道博物館にコンテナを納入]}}</ref>。 ** [[JR貨物19D形コンテナ|19D形]] ** [[JR貨物19G形コンテナ|19G形]] ** [[JR貨物20D形コンテナ|20D形]] ** [[JR貨物20E形コンテナ|20E形]] ** [[JR貨物20G形コンテナ|20G形]] ** [[JR貨物30D形コンテナ|30D形]] ** [[JR貨物48A形コンテナ|48A形]] ** [[JR貨物49A形コンテナ|49A形]] ** [[JR貨物UR19A形コンテナ|UR19A形]] ** [[JR貨物UR20A形コンテナ|UR20A形]] ** その他多数形式製作 [[工作機械]]分野では速い接合スピードを特長とする独自[[摩擦攪拌接合]](FSW)用ツールを[[大阪大学]]監修で開発し、「'''Smart FSW'''」の名称で研究開発用に販売しており、特許・意匠・商標出願中である。 東急車輛製造時代に開発製品(メカトロニクス製品・環境システム製品)を扱った時期もあるが、現在は同分野からは撤退してサービス業務のみ継続している。 == 改造車両 == 車両の改造も実施している。主な内容を下に記す。【 】内は改造の内容。 * 東武鉄道 - [[東武6050系電車|6050系]]【[[東武6050系電車#634型「スカイツリートレイン」|634型「スカイツリートレイン」]]への改造】 * 西武鉄道 - [[西武4000系電車|4000系]]【4009編成の「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|西武 旅するレストラン 52席の至福]]」への改造】 * 東日本旅客鉄道(JR東日本) ** [[新幹線200系電車|200系]]【K編成のリニューアル改造のうち、両先頭車を担当】 ** [[新幹線E3系電車|E3系]]【[[新幹線E3系電車|0番台]]から[[新幹線E3系電車|1000番台]]への改造】 ** [[JR東日本E231系電車|E231系]]【サハE231-4620のE235系サハE235-4620への編入改造<ref group="注釈">新津事業所で改造。</ref>】 ** [[JR北海道キハ141系気動車|キハ141系]]【JR東日本「SL銀河」用旅客車(700番台)への改造】 ** [[JR東日本E257系電車|E257系電車]] 【E257系2000番台(NA-06編成<ref group="注釈">外装は[[秋田総合車両センター]]で行われた。</ref>)への改造】 == 横浜事業所回送線 == [[ファイル:Tokyu syarou seizou.JPG|thumb|180px|横浜事業所(左奥)から道路を渡り京急逗子線に繋がる回送線]] 横浜事業所が京浜急行電鉄(京急)の[[金沢八景駅]]に隣接して立地する都合上、[[京急逗子線]]の金沢八景 - [[神武寺駅|神武寺]]間の上り線は、JRなどへの新製車両の納入や、改造車両などの入出場のために横浜事業所からJR[[逗子駅]]までの搬出入([[回送]])線を併設しており、1,435 mm([[標準軌]])と1,067 mm([[狭軌]])の[[三線軌条]]区間となっている。 京急向けに新製された車両については通常横浜事業所から自力で出場回送されるほか、[[川崎車両]]で新製された京急の車両については、回送線を経由して一旦同事業所に搬入され、台車交換・整備が実施された後、同様に自力回送にて出場する。また、京成電鉄・[[北総鉄道]]向けに新製された車両は同事業所製のものは直接、[[日本車輌製造]]製のものは同事業所を経由し、自力または京成の車両による牽引で京急線・[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]経由にて出場する。同事業所にて都営浅草線向けに新造された車両も初期製造編成以外は自力回送にて出場する。 <!-- また、京急と[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]を介して線路が繋がっている京成電鉄および北総鉄道の車両についても、一部の例外<ref>[[京成AE形電車 (2代)|新AE形]]については、車体寸法の関係で都営浅草線内を通過できないことから、直接[[京成電鉄の車両検修施設|宗吾車両基地]]に陸送された。</ref>を除いて京急車と同様に自力で出場回送もしくは京成車の牽引<ref>[[電気指令式ブレーキ]]の新車を[[電磁直通ブレーキ]]の[[赤電 (京成)|赤電]][[京成電鉄#車両|8M]]車で牽引していた時代は、編成全体にブレーキが作用しないため深夜に低速で走行していたが、牽引する電車が[[京成3600形電車#VVVFインバータ制御となった3668編成|3600形VVVF車]](中間の付随車を抜いた4両編成)に変更された後は、牽引車・新車ともに電気指令式ブレーキで統一されて編成全体にブレーキが作用するようになり、営業時間内に通常の速度で走行するようになった。京急線および都営浅草線で使用実績がある形式の場合は、京急の車両と同様に自走で回送される。</ref>によって回送されるほか、[[日本車輌製造]]において新製された車両についても前述川崎重工業製の京急車と同じく回送線を経由して一旦同事業所に搬入され、整備の後同様に出場する。 --> {{main|京急逗子線#その他|逗子駅#総合車両製作所横浜事業所専用鉄道}} {{see also|川崎車両#完成車両の輸送方法|日本車輌製造#車両輸送について}} == グループ企業 == * J-TRECデザインサービス株式会社<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=7020001006500 J-TRECデザインサービス株式会社の情報]</ref> - 東急車輛エンジニアリングより改称 == その他 == * 横浜事業所の近隣には[[京浜急行バス]]([[京浜急行バス能見台営業所#白山道循環線|文5・文6系統]])の停留所があり、この停留所は総合車両製作所への継承・改称から2023年5月現在に至るまで「東急車輌前」のままとなっている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.keikyu-bus.co.jp/line/pdf/map/nokendai.pdf | title= バス路線系統図・能見台営業所 2020年12月16日現在 | format=PDF | publisher=京浜急行バス | accessdate=2021-03-08}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|3}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[土岐實光]] 『電車を創る』 [[交友社]] 雑誌06460-12 == 関連項目 == {{commonscat|Japan Transport Engineering Company}} * [[総合車両製作所新津事業所]] * [[京急逗子線]] * [[東急電鉄]] - 前身である東急車輛製造時代の親会社(東急車輛は完全子会社)。 * [[日本車輌製造]] - [[東海旅客鉄道]](JR東海)の連結子会社の鉄道車両メーカー。 * [[近畿車輛]] - [[近畿日本鉄道]](近鉄)および[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の出資する鉄道車両メーカー(近鉄の持分法適用会社)。 * [[アルナ車両]] - [[阪急阪神ホールディングス]]の完全子会社の鉄道車両メーカー。 * [[鉄道むすめ]] - 東急車両製造時代、溶接工という設定の「金沢あるみ」が商品化された。総合車両製作所への改称後には転属となり、生産本部技術部所属の車両デザイナーという設定になっている。 == 外部リンク == * {{official|https://www.j-trec.co.jp/}} * [https://www.rakuten.co.jp/tetsu/ 電車市場 楽天市場店] - 東急車両製造時代から継続されている鉄道グッズショップ。「自社製品」以外の鉄道グッズも幅広く取り揃えている。 {{Company-stub}} {{Rail-stub}} {{JR東日本}} {{JR}} {{デフォルトソート:そうこうしやりようせいさくしよ}} [[Category:総合車両製作所|*]] [[Category:日本の輸送機器メーカー]] [[Category:日本の鉄道車両メーカー]] [[Category:東日本旅客鉄道|社そうこうしやりようせいさくし]] [[Category:JR東日本グループ]] [[Category:金沢区の企業]] [[Category:2011年設立の企業]] [[Category:東急グループの歴史]] [[Category:路面電車車両メーカー]]
2003-06-28T17:00:08Z
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シーメンス
シーメンス(独: Siemens AG、発音: [ˈziːməns]ズィーメンス)は、ドイツのバイエルン州ミュンヘンにある電機メーカー。ジーメンスとも表記される。 もともと電信、電車、電子機器の製造会社から発展し、現在では情報通信、交通、防衛、生産設備、家電製品等の分野で製造、およびシステム・ソリューション事業を幅広く手がける会社である。フランクフルト証券取引所上場企業 (FWB: SIE)。2006年の連結売上高は873億ユーロ、連結純利益は303億ユーロ。 1847年12月12日に、ヴェルナー・フォン・ジーメンスによってベルリンに創業された電信機製造会社、ジーメンス・ウント・ハルスケに端を発する。後にジーメンス・ハルスケ電車会社に発展し、世界で最初の電車を製造し、1881年に営業運転を開始した。20世紀初頭、ゼネラル・エレクトリックを相手にAEGの支配権を争う格好となり、AEGと関係を深めた。 かつてはリオ・ティントが代表的な株主であったが、現在はミューチュアル・ファンドのバンガード・グループ、マイケル・カレンが2001年に立ち上げたソブリン・ウエルス・ファンドのNew Zealand Superannuation Fundである。 現在では情報通信、電力関連、交通・運輸、医療、防衛、生産設備、家電製品等の分野での製造およびシステム・ソリューション事業などでその名が知られており、特に鉄道車両のVVVFインバーターやMRI装置、補聴器などで大きく市場を占有している。 総合鉄道関連メーカーとしては、アルストムのボンバルディア・トランスポーテーション買収完了後、シーメンスは中国中車、アルストムに次ぐ「ビッグスリー」の一つとなっており、世界の鉄道車両製造では約2割強のシェアを有する。 AEGとの合弁会社 Kraftwerk Union は西ドイツの原子炉、ほぼ全ての製造に関わった。原子炉事業は脱原発の流れを受け、2001年にフラマトムと統合してアレヴァとなった後、2011年4月に同事業からの撤退を発表した。 2005年、携帯電話端末事業を台湾の明基電通(BenQ)に売却しているが、現在は「BenQ Siemens」ブランドで商品を発売するなど提携関係を継続している。また、日本法人が手掛けた医療搬送機器事業は2006年(平成18年)7月神鋼電機に事業譲渡、神鋼電機が自社の病院搬送システム事業と統合、「S&Sエンジニアリング」を設立し事業継続している。 2007年、独コンチネンタルに自動車電子部品部門(シーメンスVDO)を売却した。 2008年(平成20年)、コンピュータ関連部門は事実上富士通に買収される(フジツー・シーメンス・コンピューターズ)。 2013年、ノキアとの合弁である通信設備事業のノキア・シーメンス・ネットワークス(英語版)をノキアに売却した。 2014年、独ロバート・ボッシュとの合弁である家電事業「BSH」の株式をボッシュに売却した。 2016年時点でモノのインターネット (IoT) にも注力しており、ドイツの政策でもある「インダストリー4.0」にも参加している。IoT分野向けにシーメンスはデータ分析基盤「Sinalytics(シナリティクス)」、クラウド基盤「MindSphere(マインド・スフィア)」を開発したことにより、IoT分野における主導権獲得と自社規格の国際標準化を狙い、独SAPや米IBMなどの大手IT企業との提携を相次いで発表し、影響力を拡大させつつ、PLMソフト「Teamcenter(チームセンター)」や、CADソフト「NX(エヌエックス)」、同年に買収した電子系設計自動化ツールビッグスリーの一つである「メンター・グラフィックス」などの自社のもつソフトウェア製品との統合も進めている。 2017年12月に医療機器等のヘルスケア事業を、シーメンスヘルシニアーズ(株式上場は2018年3月、日本法人は引き続きシーメンスヘルスケアの名称を使用)として、2020年4月に発送電・石油ガス・風力等のエネルギー事業を、シーメンス・エナジーとして(株式上場は同年9月)、それぞれ分社した。 国際的展開は大部分がドイツ銀行を通して行われた。 1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へシーメンス製電信機を献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。 1887年 7月中旬にヘルマン・ケスラーが日本に到着し、8月1日、東京の築地にシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。19世紀の主な納入実績には、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、江ノ島電気鉄道株式会社への発電機を含む電車制御機および電車設備一式の供給、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などがある。 1901年にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。 その後も発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気鉄道、古河家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)などへ発電設備を供給した。また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行った。 軍需関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式探照灯、シーメンス・レントゲン装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入した。1914年には海軍省の注文で千葉県船橋に80 - 100キロワットテレフンケン式無線電信局を建築したが、この無線電信局の納入をめぐるリベートが、「シーメンス事件」として政界を揺るがす事件に発展した。 第一次世界大戦中は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、1920年頃から営業を再開した。1923年には古河電気工業と合弁して富士電機製造株式会社を設立、1925年には電話部門を富士電機に譲渡した。 その後も、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への東京大阪間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。関東大震災後には、シーメンスの電話交換機が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。 1929年には、大連逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、1936年に満州国電信電話会社がシーメンス式ベルトコンベアを採用するなど、日本、台湾、満洲の電信局・郵便局のほとんどがこの様式を採用することとなる。 1931年には八幡市水道局にシーメンス製オゾン浄水装置が納入された。1932年には日本活動写真株式会社にトーキー設備40台を納入、以降全国各地の映画館にトーキー映写装置を販売することになる。 1932年、上野帝国図書館は日本最初のシーメンス式自動書類複写機を採用した。1936年には大阪市にも採用された。 満洲事変以降、富士電機は探照燈・特殊電気機器・船舶航空器材など軍需兵器関係の製作に力を入れることになり、シーメンスから専門技師を招致するなどして、シーメンス関連企業が設計製作を行なっていたその種の装置の国産化に努めた。 1938年頃から、アルミニウム工場が日本国内、満洲、朝鮮の各地に建設・増設されたが、シーメンス社はその設備・資材供給で多忙を極めることとなった。発電設備関係では、1939年、満洲国各地、鴨緑江水電株式会社などに、相次いで大型発電設備を供給した。 1941年、ドイツとソビエト連邦が交戦状態に入り、シベリア鉄道経由での貨物輸送が不可能になった。続く日米開戦により、東京シーメンスはほとんど全部の製品を国産化することとなった。この時期の納入実績としては、シーメンス水素電解槽の住友電気工業、日本カーバイド工業、鐘淵紡績等への供給、逓信省への大型短波放送設備の納入などがある。戦争が続く中で、資材の獲得が困難となり、戦時中は保守業務が中心となった。
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シーメンスは、ドイツのバイエルン州ミュンヘンにある電機メーカー。ジーメンスとも表記される。 もともと電信、電車、電子機器の製造会社から発展し、現在では情報通信、交通、防衛、生産設備、家電製品等の分野で製造、およびシステム・ソリューション事業を幅広く手がける会社である。フランクフルト証券取引所上場企業 (FWB: SIE)。2006年の連結売上高は873億ユーロ、連結純利益は303億ユーロ。 1847年12月12日に、ヴェルナー・フォン・ジーメンスによってベルリンに創業された電信機製造会社、ジーメンス・ウント・ハルスケに端を発する。後にジーメンス・ハルスケ電車会社に発展し、世界で最初の電車を製造し、1881年に営業運転を開始した。20世紀初頭、ゼネラル・エレクトリックを相手にAEGの支配権を争う格好となり、AEGと関係を深めた。 かつてはリオ・ティントが代表的な株主であったが、現在はミューチュアル・ファンドのバンガード・グループ、マイケル・カレンが2001年に立ち上げたソブリン・ウエルス・ファンドのNew Zealand Superannuation Fundである。
{{otheruses|ドイツの企業|単位|ジーメンス|ドイツの発明家|ヴェルナー・フォン・ジーメンス|その他の用法|ジーメンス (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 会社 |社名 = シーメンス |英文社名 = {{Lang|de|Siemens AG}} |ロゴ = [[ファイル:Siemens AG logo.svg|250px]] |画像 = [[ファイル:Siemens Palais.JPG|300px]] |画像説明 = ミュンヘンの本社<br />(旧[[ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・バイエルン|ルートヴィヒ・フェルディナント]]宮殿) |種類 = [[株式会社]] |市場情報 = {{FWB|SIE}} |略称 = |本社所在地 = [[バイエルン州]][[ミュンヘン]]・[[ベルリン]] |国籍 = {{DEU}} |設立 = {{start date and age|1847|10|01}} |業種 = [[製造業]] |事業内容 = 鉄道車両用インバータ・情報通信機器等の製造・販売等 |代表者 = Roland Busch(CEO) |資本金 = 20,623 Million Euro<!--p.114--> |発行済株式総数 = |売上高 = 71,977 Million Euro<!--p.144--> |営業利益 = 25,847 Million Euro<!--p.144--> |純利益 = 4,392 Million Euro<!--p.144--> |純資産 = |総資産 = 151,502 Million Euro<!--p.144--> |従業員数 = 311,000人<!--p.144--> |決算期 = 2022年度(連結)<ref name="Siemens_LatestResult">{{cite press release|title=Siemens Report FOR FISCAL 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にも注力しており、ドイツの政策でもある「[[インダストリー4.0]]」にも参加している。IoT分野向けにシーメンスはデータ分析基盤「Sinalytics(シナリティクス)」、クラウド基盤「[[MindSphere|MindSphere(マインド・スフィア)]]」を開発したことにより、IoT分野における主導権獲得と自社規格の国際標準化を狙い、独[[SAP (企業)|SAP]]や米[[IBM]]などの大手IT企業との提携を相次いで発表し、影響力を拡大させつつ、[[商品ライフサイクルマネジメント|PLM]]ソフト「Teamcenter(チームセンター)」や、[[CAD]]ソフト「[[UGS NX|NX]](エヌエックス)」、同年に買収した[[EDA (半導体)|電子系設計自動化ツール]]ビッグスリーの一つである「[[メンター・グラフィックス]]」などの自社のもつソフトウェア製品との統合も進めている<ref>{{Cite web|和書|author=週刊東洋経済編集部|work=東洋経済オンライン|date=2013年7月31日|url=http://toyokeizai.net/articles/-/16430|title=GE、シーメンスVS日立製作所|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151211225521/http://toyokeizai.net/articles/-/16430?|archivedate=2015年12月11日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=お金のコラム|date=2016年4月28日|url=https://money-campus.net/archives/67|title=大手製造業の社内体制変革に注目――GE、シーメンス、日立|publisher=[[みずほ証券]]|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161220081559/https://money-campus.net/archives/67|archivedate=2016年12月20日|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=ビジネス+IT|date=2016年6月7日|url=http://www.sbbit.jp/article/cont1/32220|title=独シーメンスの「Sinalytics」は、どのようにインダストリー4.0を実現するのか|publisher=[[SBクリエイティブ]]|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160611094826/http://www.sbbit.jp/article/cont1/32220|archivedate=2016年6月11日|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news|date=2016年8月16日|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO06098950V10C16A8FFB000/|title=独SAP、提携加速 アップルやシーメンスなど IoTにらみ変革急ぐ|publisher=[[日本経済新聞社]]|newspaper=[[日本経済新聞]]|agency=朝刊|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://archive.is/2016.12.13-200849/http://www.nikkei.com/article/DGKKZO06098950V10C16A8FFB000/|archivedate=2016年12月13日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=ビジネス+IT|date=2016年3月30日|url=http://www.sbbit.jp/article/cont1/31930|title=シーメンス島田専務、SAP馬場氏、長島社長鼎談、インダストリー4.0にどう備えるべきか|publisher=SBクリエイティブ|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160413210627/http://www.sbbit.jp/article/cont1/31930|archivedate=2016年4月13日|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news|author=末岡洋子|date=2015年5月25日|url=http://japan.zdnet.com/article/35064800/|title=SAPの壮大なIoT戦略--センサからERP、そしてビジネスネットワークまで|publisher=[[CNET|ZDNet Japan]]|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150525231531/http://japan.zdnet.com/article/35064800/|archivedate=2015年5月25日}}</ref><ref>{{Cite news|author=加藤貴行|date=2016年12月8日|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN07H28_X01C16A2000000/|title=独シーメンス、IoTで米IBM「ワトソン」と連携|publisher=日本経済新聞社|newspaper=日本経済新聞|agency=電子版|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://archive.is/2016.12.13-175710/http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN07H28_X01C16A2000000/|archivedate=2016年12月13日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=古い工場で実現したデジタルツイン、シーメンスが示す“デジタル”の本当の意味|url=https://monoist.atmarkit.co.jp/mn/articles/1808/20/news062_2.html|website=MONOist|accessdate=2021-02-13|language=ja}}</ref>。 <!--破断 2017年4月11日には、鉄道事業(車両製造部門と信号部門)において、ボンバルディアとの統合を検討している<ref>{{Cite news|author=深尾幸生|date=2017年4月11日|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM11H7E_R10C17A4000000/|title=独シーメンスと加ボンバルディア、鉄道事業統合か 米報道|publisher=日本経済新聞社|newspaper=日本経済新聞|agency=電子版|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://archive.is/2017.04.12-025547/http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM11H7E_R10C17A4000000/|archivedate=2017年4月12日}}</ref>。--> 2017年12月に医療機器等のヘルスケア事業を、[[シーメンスヘルシニアーズ]](株式上場は2018年3月、日本法人は引き続きシーメンスヘルスケアの名称を使用)として<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.innervision.co.jp/products/topics/20180115|title=シーメンス,Siemens Healthineersをフランクフルト証券取引所に上場予定|accessdate=2020-11-26|date=2017-12-01|publisher=innavi net}}</ref>、2020年4月に発送電・石油ガス・風力等のエネルギー事業を、[[シーメンス・エナジー]]として(株式上場は同年9月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://new.siemens.com/jp/ja/kigyou-jouhou/press/pr-se20200410.html|title=シーメンス・エナジー株式会社 設立|publisher=シーメンス|date=2020-04-10|accessdate=2020-11-26}}</ref>、それぞれ分社した。 <gallery mode="packed"> File:High-voltage in Iraq.jpg|シーメンス製の高電圧変圧器 File:SPECT CT.JPG|シーメンス製のSPECT/CTスキャナー File:Hannover-Messe 2012 by-RaBoe 098.jpg|シーメンス製の風力発電機 File:Dampfturbine Laeufer01.jpg|シーメンス製の蒸気タービン File:Lausitzbahn Connex in Weißwasser.JPG|シーメンス製の[[気動車]] File:Bangkok Skytrain 03.jpg|シーメンス製の電車<br />[[バンコク・スカイトレイン]] </gallery> == 国際展開 == 国際的展開は大部分が[[ドイツ銀行]]を通して行われた。 === 日本における事業展開(戦前) === {{出典の明記|date=2022年6月|section=1}} [[1861年]]、ドイツ外交使節が[[徳川将軍家]]へシーメンス製電信機を献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。 [[1887年]] 7月中旬にヘルマン・ケスラーが日本に到着し、8月1日、東京の築地にシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。[[19世紀]]の主な納入実績には、[[足尾銅山]]への電力輸送設備設置、[[九州鉄道]]への[[モールス符号|モールス]]電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、[[江ノ島電鉄|江ノ島電気鉄道株式会社]]への[[発電機]]を含む電車制御機および電車設備一式の供給、[[小石川]]の[[東京砲兵工廠|陸軍砲兵工廠]]への発電機供給、などがある。 [[1901年]]にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。 その後も発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、[[官営八幡製鐵所|八幡製鐵所]]、[[太平洋セメント|小野田セメント]]、[[宮川電気|伊勢電気鉄道]]、[[古河電気工業|古河家日光発電所]]、曽木電気(のちの[[チッソ|日本窒素肥料]])などへ発電設備を供給した。また、[[逓信省]]へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行った。 軍需関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式[[サーチライト|探照灯]]、シーメンス・[[X線写真|レントゲン]]装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入した。[[1914年]]には[[海軍省]]の注文で[[千葉県]][[船橋市|船橋]]に80 - 100キロワット[[海軍無線電信所船橋送信所|テレフンケン式無線電信局]]を建築したが、この無線電信局の納入をめぐる[[リベート]]が、「[[シーメンス事件]]」として政界を揺るがす事件に発展した。 [[第一次世界大戦]]中は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、[[1920年]]頃から営業を再開した。[[1923年]]には[[古河電気工業]]と合弁して[[富士電機ホールディングス|富士電機製造株式会社]]を設立、[[1925年]]には電話部門を富士電機に譲渡した。 その後も、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への[[東京]][[大阪]]間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。[[関東大震災]]後には、シーメンスの[[電話交換機]]が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。 [[1929年]]には、[[大連市|大連]]逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、[[1936年]]に[[満州国]]電信電話会社がシーメンス式[[ベルトコンベア]]を採用するなど、日本、[[台湾]]、満洲の電信局・郵便局のほとんどがこの様式を採用することとなる。 [[1931年]]には[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]水道局にシーメンス製オゾン浄水装置が納入された。[[1932年]]には[[日活|日本活動写真株式会社]]に[[トーキー]]設備40台を納入、以降全国各地の[[映画館]]にトーキー映写装置を販売することになる。 [[1932年]]、[[上野]][[帝国図書館]]は日本最初のシーメンス式自動書類[[複写機]]を採用した。[[1936年]]には[[大阪市]]にも採用された。 [[満洲事変]]以降、[[富士電機]]は探照燈・特殊電気機器・船舶航空器材など軍需兵器関係の製作に力を入れることになり、シーメンスから専門技師を招致するなどして、シーメンス関連企業が設計製作を行なっていたその種の装置の国産化に努めた。 [[1938年]]頃から、[[アルミニウム]]工場が日本国内、満洲、[[朝鮮]]の各地に建設・増設されたが、シーメンス社はその設備・資材供給で多忙を極めることとなった。発電設備関係では、[[1939年]]、満洲国各地、[[鴨緑江]]水電株式会社などに、相次いで大型発電設備を供給した。 [[1941年]]、ドイツと[[ソビエト連邦]]が交戦状態に入り、[[シベリア鉄道]]経由での貨物輸送が不可能になった。続く日米開戦により、東京シーメンスはほとんど全部の製品を国産化することとなった。この時期の納入実績としては、シーメンス水素電解槽の[[住友電気工業]]、[[日本カーバイド工業]]、[[カネボウ (1887-2008)|鐘淵紡績]]等への供給、逓信省への大型[[短波放送]]設備の納入などがある。戦争が続く中で、資材の獲得が困難となり、戦時中は保守業務が中心となった。 == 日本法人 == {{基礎情報 会社 | 社名 = シーメンス株式会社 | 英文社名 = Siemens K.K. | ロゴ = Siemens AG logo.svg | 画像 = Gate city ohsaki shinagawa tokyo 2009-3.JPG | 画像説明 = ゲートシティ大崎ウエストタワー | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 141-8641 | 本社所在地 = [[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]一丁目11番1号<br />[[ゲートシティ大崎]]ウエストタワー | 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 37|本社緯度秒 = 9.9|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139|本社経度分 = 43|本社経度秒 = 50.9|本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = No | 本社地図国コード = JP | 設立 = [[2001年]][[12月20日]] | 業種 = 3650 | 法人番号 = 6011001043766<!-- 複数法人を扱うため --> | 事業内容 = 鉄道車両・情報通信機器等の製造・販売等 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]]兼[[最高経営責任者|CEO]] 堀田邦彦 | 資本金 = 43億3,600万円(2021年9月期)<ref name="fy">{{Cite web|和書|url=https://catr.jp/settlements/d2805/236740|title=シーメンス株式会社 第22期決算公告 {{!}} 官報決算データベース|website=官報決算データベース|accessdate=2023-06-10}}</ref> |売上高 = *387億1,600万円 (2021年9月期)<ref name="fy" /> |営業利益 = *10億6,200万円 (2021年9月期)<ref name="fy" /> |経常利益 = *9億200万円 (2021年9月期)<ref name="fy" /> |純利益 = *4億4,900万円 (2021年9月期)<ref name="fy" /> |純資産 = |総資産 = *237億900万円 (2021年9月期)<ref name="fy" /> | 従業員数 = | 決算期 = 毎年[[9月30日]] | 主要株主 = | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.siemens.com/jp/ja.html | 特記事項 = }} {|class=wikitable |+日本国内のグループ企業 |- !分野!!社名!!本社所在地 |- !rowspan="2"|製造 |シーメンスPLMソフトウェア・コンピューテイショナル・ダイナミックス株式会社 || [[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]]新横浜2-3-12 新横浜スクエアビル16F |- |メンター・グラフィックス・ジャパン株式会社 || 東京都品川区北品川4-7-35 御殿山トラストタワー |- !rowspan="3"|医療 |[[シーメンスヘルシニアーズ|シーメンスヘルスケア株式会社]] || rowspan="2"|東京都品川区大崎1-11-1 ゲートシティ大崎ウエストタワー |- |シーメンスヘルスケア・ダイアグノスティクス株式会社 |- |株式会社アクロラド||[[沖縄県]][[うるま市]]州崎13番地23 |- !rowspan="2"|エネルギー |[[シーメンス・エナジー|シーメンス・エナジー株式会社]] || 東京都品川区上大崎3-1-1 目黒セントラルスクエア |- |[[シーメンスガメサ・リニューアブル・エナジー|シーメンス・ガメサ・リニューアブル・エナジー・ジャパン株式会社]] || 東京都千代田区大手町1-5-1 大手町ファーストスクエアウエストタワー |- |} == 関連項目 == * [[フォーミュラ1]] * [[マルチメディアカード]] * [[Siemens Dispolok]] * [[ジョン・ラーベ]] - 元中国支社総責任者 === 関連企業 === 筆頭は[[ドイツ銀行]]。以下は[[OEM]]先など。 * [[マクラーレン]] * [[安川電機]] * [[富士電機]] (古河電気工業とシーメンスの合弁として始まる。古河の「ふ」とジーメンスの「じ」に、[[富士山]]の「富士」を当てた名前が社名になった) * [[富士通]]   * [[日本電気]] * [[三菱電機]] * [[持田製薬]] * [[レアル・マドリード]](ユニフォームスポンサー:2006/07年シーズンは「BenQ Siemens」) * [[BenQ|明基電通]] * [[インフィニオン・テクノロジーズ]] ** [[キマンダ]] * [[エプコス]](現・[[TDK]]グループ) * [[テレフンケン]] * [[SAP (企業)]] * [http://www.ssecorp.jp/ S&Sエンジニアリング]([[神鋼電機]]全額出資会社:2006/07年設立) === シーメンスが関わった鉄道車両 === {{see|シーメンス・モビリティ}} === 国際決済機関 === * [[クリアストリーム]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat}} * [https://www.siemens.com/jp/ja.html デジタルトランスフォーメーション(DX)ソリューション企業 - シーメンス株式会社 - シーメンス株式会社] * {{Facebook|siemenskk|シーメンス株式会社}} * {{Instagram|siemenskk|シーメンス株式会社}} * [https://www.siemens.com/global/en.html Siemens]{{en icon}} * {{Twitter|siemens|Siemens}}{{en icon}} * {{YouTube|h=Siemens|Siemens}}{{en icon}} {{DAX}} {{Euro Stoxx 50}} {{STOXX Europe}} {{Forbes Global 2000|第97位}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しいめんす}} [[Category:シーメンス|*]] [[Category:ミュンヘンの企業]] [[Category:ドイツの電気機器メーカー]] [[Category:コングロマリット]] [[Category:携帯電話メーカー]] [[Category:ドイツの鉄道車両メーカー]] [[Category:船舶用エンジンメーカー]] [[Category:ドイツの多国籍企業]] [[Category:フランクフルト証券取引所上場企業]] [[Category:コンピュータ・ネットワークの企業]] [[Category:ドイツの軍需関連企業]] [[Category:スタジオ関連機材メーカー]] [[Category:1847年設立の企業]] [[Category:電力工学]] [[Category:ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]
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貫(かん)は、尺貫法における質量の基本単位、また江戸時代以前の銀や銭の通貨単位である。 質量単位の貫は、1000匁に当たり、明治時代の1891年度量衡法において正確に 1貫 はキログラム原器の質量の15⁄4倍 (3.75 kg)、と定義された。江戸時代の一貫は分銅および定位貨幣の実測によれば平均して3.736 kgで年代を通じてほぼ一定であったが、江戸時代後期(19世紀以降)にやや増加して3.75 kgを超えたという。 通貨単位の貫は、1000文、100疋に相当する。 これらを区別するため、質量単位の方を貫目(かんめ、一貫分の目方の略)、通貨単位の方を貫文(かんもん)という場合もある。 貫は現代日本では、計量法上の「非法定計量単位」であり、取引・証明に使用することは禁止されている(計量法第8条第1項、罰則は第173条(50万円以下の罰金))。貫の1000分の1である匁は、平仮名表記の「もんめ」として「真珠の質量の計量」に限定して使用することができる。 貫とは本来は大量の銭を携帯するために銭を束ねた道具「銭貫(ぜにつら)」のことで、材質によって糸貫と木貫が存在した。貫の存在は『史記』(平準書)にも記されている。銭の中央に空いている穴に貫や紐を通して(貫(つらぬ)いて)1000枚を1組としておくということがよく行われた(後に行われた短陌の場合は960枚)。魏の李斐が『漢書』の注(武帝紀「算緡銭」)に緡(さし)とは糸で銭を貫く事を指し、1貫が1000枚であったことが記しており、この頃には1貫を銭1000枚とする風習が存在していた(ただし、全てがそうであった訳ではない、後述)。その後、遅くても南北朝時代までに所定の銅銭をまとめた銭貫を1種の通貨単位と認め、通貨単位としての「貫」が成立する。北朝北魏では任城王元澄が熙平年間(516年–518年)に銭を使う時は銭繦(銭貫)にまとめて使う物であると上奏文の中に記し(『魏書』食貨志)、南朝蕭梁では鉄銭発行による物価騰貴によって大同年間(535年–546年)には銭を使う時は鉄銭を荷車に載せてただ貫の数だけを数えてやりとりをしたという(『隋書』食貨志)。このため、6世紀前半が通貨単位「貫」の成立期であったと考えられている。ただし、古くは1000枚を1組とする場合の他に100枚を1組にする方法も存在しており、北朝では前者が、南朝では後者が主として行われていた。すなわち、北朝では今日知られる1貫=10陌=1000文(枚)であったが、南朝では1貫=1陌=100文(枚)であった。それが1貫=1000枚に統一されたのは、北朝系の隋による中国統一以後であったと考えられている。 後に転じてその銭1000枚分の質量が質量単位としての貫となった。日本では、一文銭の目方であることから「匁」(もんめ、元は文目)と呼び、1000匁を1貫とした。すなわち先に匁という単位があって、その1000倍の質量として貫が定められたものである。しかし、メートル条約加入後の1891年に制定された度量衡法では、1貫は国際キログラム原器の質量(1 kg)の 4分の15 (= 3.75 kg) と定義され、匁はその1000分の1と定められた。 尺貫法における他の質量の単位は、以下のようになる。 質量単位としての貫は日本で作られた単位であり、中国では銭(日本の匁に相当)より上の単位として両・斤・担が使用され、貫は使用されていない。ただし、朝鮮では大韓帝国時代の1909年には日本式の度量衡法が定められ、このときに日本の「匁(돈)・貫(관)」ももたらされた。 秤量銀貨の通貨単位としては質量の測定値である貫および匁がそのまま用いられ、こちらは銀1000匁が銀1貫となる。秤量銀貨の通貨単位についての詳細は匁を参照。
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貫(かん)は、尺貫法における質量の基本単位、また江戸時代以前の銀や銭の通貨単位である。 質量単位の貫は、1000匁に当たり、明治時代の1891年度量衡法において正確に 1貫 はキログラム原器の質量の15⁄4倍、と定義された。江戸時代の一貫は分銅および定位貨幣の実測によれば平均して3.736 kgで年代を通じてほぼ一定であったが、江戸時代後期(19世紀以降)にやや増加して3.75 kgを超えたという。 通貨単位の貫は、1000文、100疋に相当する。 これらを区別するため、質量単位の方を貫目(かんめ、一貫分の目方の略)、通貨単位の方を貫文(かんもん)という場合もある。 貫は現代日本では、計量法上の「非法定計量単位」であり、取引・証明に使用することは禁止されている(計量法第8条第1項、罰則は第173条)。貫の1000分の1である匁は、平仮名表記の「もんめ」として「真珠の質量の計量」に限定して使用することができる。
{{otheruses|質量単位・通貨単位|その他}} {{単位 |名称=貫 |読み=かん |度量衡=[[尺貫法]] |物理量=[[質量]] |定義=(15/4) kg |SI=3.75 kg |由来=銭貨1000枚の重さ |語源=銭貫 |画像=[[Image:Zeni1kanbun.jpg|250px|寛永通寳一貫文]]<br />[[寛永通寳]]一貫文 }} '''貫'''(かん)は、[[尺貫法]]における[[質量]]の基本[[単位]]、また[[江戸時代]]以前の[[丁銀|銀]]や[[銭]]の[[通貨]]単位である。 質量単位の貫は、1000[[匁]]に当たり、明治時代の1891年[[度量衡法]]において正確に 1貫 は[[キログラム原器]]の質量の{{分数|15|4}}倍 (3.75 kg)、と定義された。江戸時代の一貫は[[分銅]]および[[定位貨幣]]の実測によれば平均して3.736 kgで年代を通じてほぼ一定であったが、江戸時代後期([[19世紀]]以降)にやや増加して3.75 kgを超えたという<ref name=iwata>岩田重雄『計量史研究』 「近世における質量標準の変化」、日本計量史学会、1979年</ref>。 通貨単位の貫は、1000[[文 (通貨単位)|文]]、100[[疋]]に相当する。 これらを区別するため、質量単位の方を'''貫目'''(かんめ、一貫分の目方の略)、通貨単位の方を'''貫文'''(かんもん)という場合もある。 貫は現代日本では、[[計量法]]上の「[[非法定計量単位]]」であり、取引・証明に使用することは禁止されている([[計量法]]第8条第1項、[[罰則]]は第173条(50万円以下の[[罰金]]))。貫の1000分の1である[[匁]]は、平仮名表記の「もんめ」として「[[真珠]]の質量の計量」に限定して使用することができる。 == 銭1000枚の単位 == 貫とは本来は大量の銭を携帯するために銭を束ねた道具「[[さし|銭貫]](ぜにつら)」のことで、材質によって糸貫と木貫が存在した。貫の存在は『[[史記]]』(平準書)にも記されている。銭の中央に空いている穴に貫や紐を通して('''貫'''(つらぬ)いて)1000枚を1組としておくということがよく行われた(後に行われた[[短陌]]の場合は960枚)。[[魏 (三国)|魏]]の[[李斐]]が『[[漢書]]』の注(武帝紀「算緡銭」)に[[さし|緡]](さし)とは糸で銭を貫く事を指し、1貫が1000枚であったことが記しており、この頃には1貫を銭1000枚とする風習が存在していた(ただし、全てがそうであった訳ではない、後述)。その後、遅くても[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]までに所定の銅銭をまとめた銭貫を1種の通貨単位と認め、通貨単位としての「貫」が成立する。北朝[[北魏]]では任城王[[元澄]]が[[熙平]]年間([[516年]]–[[518年]])に銭を使う時は銭繦(銭貫)にまとめて使う物であると上奏文の中に記し(『[[魏書]]』食貨志)、南朝[[蕭梁]]では[[鉄銭]]発行による物価騰貴によって[[大同 (梁)|大同]]年間([[535年]]–[[546年]])には銭を使う時は鉄銭を荷車に載せてただ貫の数だけを数えてやりとりをしたという(『[[隋書]]』食貨志)。このため、6世紀前半が通貨単位「貫」の成立期であったと考えられている。ただし、古くは1000枚を1組とする場合の他に100枚を1組にする方法も存在しており、北朝では前者が、南朝では後者が主として行われていた。すなわち、北朝では今日知られる1貫=10[[陌]]=1000[[文 (通貨単位)|文]](枚)であったが、南朝では1貫=1陌=100文(枚)であった。それが1貫=1000枚に統一されたのは、北朝系の[[隋]]による中国統一以後であったと考えられている<ref>宮澤知之『佛教大学鷹陵文化叢書16 中国銅銭の世界―銭貨から経済史へ』([[思文閣出版]]、2007年)ISBN 978-4-7842-1346-7 第6章《貨幣単位「文」「貫」の成立》</ref>。 == 質量単位 == 後に転じてその銭1000枚分の質量が質量単位としての貫となった。日本では、一文銭の目方であることから「'''[[匁]]'''」(もんめ、元は文目)と呼び、1000[[匁]]を1貫とした。すなわち先に[[匁]]という単位があって、その1000倍の質量として貫が定められたものである。しかし、[[メートル条約]]加入後の[[1891年]]に制定された[[度量衡法]]では、1貫は国際[[キログラム原器]]の質量(1 kg)の 4分の15 (= 3.75 kg) と定義され、[[匁]]はその1000分の1と定められた。 尺貫法における他の質量の単位は、以下のようになる。 * 1貫 = 100両 = 1000[[匁]] = 3.75 kg * 1[[両]] = 10[[匁]] = 37.5 [[グラム|g]] * 1[[匁]] = 10[[分 (数)|分]] = 3.75 g * 1分 = 10[[厘]] = 375 [[ミリグラム|mg]] * 1厘 = 10[[毛 (数)|毛]] = 37.5 mg * 1[[斤]] = (16/100)貫 = 600 g * 1貫文 = 2石([[武将|戦国武将]]の[[領地]]を、[[石高制]]になるまでは銭による[[貫高制]]で表すことがあった) 質量単位としての貫は日本で作られた単位であり、中国では銭(日本の匁に相当)より上の単位として[[両]]・[[斤]]・[[担]]が使用され、貫は使用されていない。ただし、朝鮮では[[大韓帝国]]時代の1909年には日本式の度量衡法が定められ、このときに日本の「匁({{lang|ko|돈}})・貫({{lang|ko|관}})」ももたらされた。 [[丁銀|秤量銀貨]]の通貨単位としては質量の測定値である貫および匁がそのまま用いられ、こちらは銀1000匁が銀1貫となる。秤量銀貨の通貨単位についての詳細は[[匁]]を参照。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E8%B2%AB%E7%9B%AE%E3%81%AE%E9%87%8D%E3%81%95%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ 貫(質量)単位換算表] == 関連項目 == * [[貫高制]] * [[文 (通貨単位)]] * [[匁]] {{質量の単位}} {{尺貫法の単位}} {{DEFAULTSORT:かん}} [[Category:尺貫法]] [[Category:質量の単位]] [[Category:流通していない通貨]] [[Category:江戸時代の経済]] [[Category:貨幣史]]
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香具師
香具師()とは、祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露店で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。また野師、野士、弥四、矢師とも表記する。 古くは、香具師()とも読み、主に江戸時代では歯の民間治療をしていた辻医者()や、軽業・曲芸・曲独楽などをして客寄せをし、薬や香具を作ったり、売買していた露天の商売人を指した。明治以降においては、露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする人を指し、的屋()や三寸()とも呼ばれる。詳しくは的屋を参照。 これらの仕切り、管理は一般に賤民(人別帳に記載のない人物、無宿人)、いわゆるヤクザの仕事であり、時代劇や講談などで「香具師の元締」といえばヤクザの親分とほぼ同義である。 「やし」の由来については諸説ある。 この用法においての最初の出典は、1999年2月10日のあやしいわーるど@本店 昼の部まで遡る。固定ハンドルネーム「DTP」を騙るものが使い始めた。この時、ハンドルネーム「DTP」のなりすまし騒動があり、ばれて槍玉に挙げられた騙りの犯人が途中から「DTP@香具師」と自虐的に自分のハンドルネームに用いていた。「騙ったやつ」→「やつ」→「やし」→「香具師」の意味であった。
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香具師とは、祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露店で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。また野師、野士、弥四、矢師とも表記する。
{{読み仮名|'''香具師'''|やし、こうぐし、かうぐし}}とは、[[祭礼]]や[[縁日]]における[[参道]]や[[境内]]や[[門前町]]、もしくは[[市場|市]]が立つ所などで、[[露店]]で出店や、街頭で[[見世物]]などの[[芸]]を披露する[[商売人]]をいう。また'''野師'''、'''野士'''、'''弥四'''、'''矢師'''{{sfn|沖浦|2007|p=157}}とも表記する。 == 概要 == 古くは、{{読み仮名|香具師|こうぐし}}とも読み、主に江戸時代では歯の民間治療をしていた{{読み仮名|辻医者|つじいしゃ}}や、[[軽業]]・[[曲芸]]・[[曲独楽]]などをして客寄せをし、[[薬]]や[[香具]]を作ったり、売買していた露天の商売人を指した。明治以降においては、[[露店]]で[[興行]]・[[物売り]]・場所の割り振りなどをする人を指し、{{読み仮名|'''的屋'''|てきや}}や{{読み仮名|'''三寸'''|さんずん}}とも呼ばれる{{sfn|沖浦|2007|p=128}}。詳しくは[[的屋]]を参照。 これらの仕切り、管理は一般に[[賤民]](人別帳に記載のない人物、無宿人)、いわゆる[[ヤクザ]]の仕事であり、時代劇や講談などで「香具師の元締」といえばヤクザの親分とほぼ同義である{{要出典|date=2023年9月}}。 == 歴史 == *[[1690年]]([[元禄]]3年)の発行の『{{読み仮名|人倫訓蒙図彙|じんりんきんもうずい}}』では江戸、大阪、京都の城下町や港町において、[[丸薬]]や[[鬢付け油]]売りや[[傀儡|傀儡廻し]]や[[物真似]]芸や蛇見せ芸などを披露する[[大道芸人]]の様子が記載されている{{sfn|沖浦|2007|p=156}}。 *[[1735年]](享保20年)に、「'''十三香具師'''」という名で初めて「香具師」という職業名が使われた文書『[[古事類苑]]』の産業の部『香具師一件』が残っている。この十三は「丸、散、丹、円、膏、香、湯、油、子、煎、薬、艾、之古実」などの薬や香や実などを十三香具としている。またその販売方法の分類も文献によりその内容は、異同があるが、『香具師一件』に記述されているものは、「諸国名産の薬の仲卸」、「薬の製造と販売と、口蓋、口腔、歯科治療」、「お笑い芸にて、客寄せする薬売り」、「お笑い芸の見世物」、「居合抜刀芸」、「独楽廻し」、「軽業」、「曲鞠」、「按摩治療と膏薬売りの辻医師」、「その他の諸たる見世物」、「日限売薬」、「施シ治療薬」、「{{読み仮名|艾|もぐさ}}、火口売り」、「往来触売薬」、「歯磨売り」、「紅白粉売」、「小間物売り」、「薬飴売り」、「薬り菓子売り」、「その他、市場、盛り場での往還商人」{{efn2|理解できるものは平易な言葉に変更した}}などとなっている。 *1800年代中盤に江戸・大阪の風俗を記した『[[守貞謾稿]]』は、口上やちょっとした芸で人を集め、薬などを路上で売る職業として「矢師」を紹介している<ref name=morisada>[[喜多川守貞]] 著 『[{{NDLDC|1444386/75}} 類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿]』 更生閣書店、1934年(昭和9年)。</ref>。元は野武士などが貧窮から売薬をしたのが始めとし、「歯抜き」の有名どころとして大阪の松井喜三郎、江戸の長井兵助玄水を挙げ、抜刀や居合、独楽などを見せて人を集め、歯磨き粉や歯の薬を売るほか、歯の治療や[[入れ歯]]なども扱ったと記している{{r|morisada}}。そのほか、能弁によって有能・無能の薬を売ったり、辺土遠国からの名産と称してさまざまな物を売るなどし、香具師には十三種あるというがそれ以上あるとしている{{r|morisada}}。 == 語源 == 「やし」の由来については諸説ある。 *{{読み仮名|薬師|やし}} - という江戸時代の薬の物売り<ref>『[[風俗画報]]』の中の「江戸市中世渡り種」渡部乙羽 著</ref>と同じように、香具師という薬を売っていたものが合わさったという説。[[鎌倉時代]]以前には藥師も医師も「くすし」と呼称されていた{{sfn|沖浦|2007|p=161}}。 * 弥四 - 薬の行商を始めた者の名が「弥四郎」とされ、そこから「{{読み仮名|弥四|やし}}」とされたとする説。 * 野士 - 身を窶した武士が飢えをしのぐために薬を売っていたことから、野武士の「武」が略され「{{読み仮名|野士|やし}}」になったとする説。 **野師 - 上記の「野士」の扱う商品に香具が多かったために、「香具師」に「やし」の読みが当てられたとする説。ゆえに、元は「野士」と「香具師」という別々の語であった。 *「{{読み仮名|山師|やまし}}」を略したとする説。 == インターネットスラング == * やつ、やし - 「[[2ちゃんねる]]」(現・[[5ちゃんねる]])などに見られる一部の[[電子掲示板]]で、'''奴'''(ヤツ)の代わりに使われている[[インターネットスラング]]のこと。片仮名の「ツ」が「シ」に似ており、「やし」とキーを打つと「香具師」に[[日本語入力システム#入力・変換方法|漢字変換]]されることに[[由来]]している。 この用法においての最初の出典は、[[1999年]][[2月10日]]の[[あやしいわーるど@本店]] 昼の部まで遡る。固定[[ハンドルネーム]]「DTP」を騙るものが使い始めた。この時、ハンドルネーム「DTP」の[[なりすまし]]騒動があり、ばれて槍玉に挙げられた[[あおり|騙り]]の犯人が途中から「DTP@香具師」と自虐的に自分のハンドルネームに用いていた。「騙ったやつ」→「やつ」→「やし」→「香具師」の意味であった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} '''注釈''' {{Notelist2}} '''出典''' {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Citation|和書 | last = 沖浦 | first = 和光 | author-link = 沖浦和光 | title = 旅芸人のいた風景 : 遍歴・流浪・渡世 | publisher = [[文藝春秋]] | series = [[文春新書]] | date = 2007-8 | isbn = 978-4-16-660587-3 }} == 関連書籍 == *[[添田知道]] 『香具師(テキヤ)の生活』 雄山閣出版、1964。 *京都府警察部刑事課 『香具師名簿』 京都府警察部、1928。 *[[和田信義]] 『香具師奥義書』 文芸市場社・談奇館随筆、1929。 *ツェザロ・ロセッティ 『英国の香具師』 [[河合俊郎]] 訳、栄光出版社、1979。 *『香具師の全貌 附録・或株式現物屋の懺悔話』 内務省警保局、1942、刑事警察研究資料。 *『のせる 香具師の世界(芸双書 第9巻)』 白水社、1982。 *[[室町京之介]] 『香具師口上集』 正続、創拓社、1983-84。  *[[坂野比呂志]] 『香具師の口上でしゃべろうか』 草思社、1984。 *[[林喜芳]] 『香具師風景走馬灯』 冬鵲房、1984。 *[[川瀬孝二]] 『祭りの商人「香具師」』 日本経済新聞社、1987。 *[[北園忠治]] 『香具師はつらいよ ある露店商人の独白』 葦書房、1990。 == 関連項目 == * [[民間治療]] * [[薬売り]] ** [[ガマの油売り]] * [[啖呵売]] * [[門付]] * [[芸]] - [[猿楽]] == 外部リンク == * [https://gogen-yurai.jp/yashi/ 香具師] - 語源由来辞典 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やし}} [[Category:日本の祭り]] [[Category:大道芸]] [[Category:路上パフォーマンス]] [[Category:ヤクザ]] [[en:Street performer]]
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ローランド
ローランド株式会社(英: Roland Corporation)は、日本の大手電子楽器メーカー。自らが創業したエース電子工業を退社した梯郁太郎が、1972年(昭和47年)に大阪市で創業。長らく、本社・広報機能を大阪に、製造・研究開発拠点を静岡県浜松市に置いていたが、2005年(平成17年)に、本社を浜松に移転した。 スタジオ、ライブ向けのプロ用から家庭用まで、多様な楽器ジャンルの製品を展開する総合電子楽器メーカー。主にシンセサイザー、デジタルピアノ、電子オルガン、電子ドラム、ミキサー、DJ機器、ギターアンプや半導体の製品を開発・製造・販売する。ヤマハやカワイとともに、日本を代表する楽器メーカーのひとつである。 初期には、電気楽器(エレキギター、エレキベース)の演奏時に音色を加工する機器「エフェクター」や演奏用スピーカーアンプ、プリセット式のリズムマシン、音響ミキサーの製造を行っている。1973年(昭和48年)からはシンセサイザーやエレクトロニックピアノなどの製造も手がけるようになった。1977年には音楽用デジタルシーケンサー、マイクロコンポーザーMC-8を発表。以降コンピュータと電子楽器の連携に注力し、1981年にはヤマハ、シーケンシャル・サーキット等と共にMIDI規格を提唱した。 社名は中世ヨーロッパの叙事詩である『ローランの歌』の主人公ローランからとられている 。創業者の梯は日本国外への展開を考え、どの国の言葉で発音してもよく聞こえるような2音節からなる響きのよい社名を探し、まず「R」から始まる言葉にすることを決めた。これは創業当時の電子楽器業界ではRから始まる社名があまり使われておらず、イニシャル1文字で社名を書いたときに都合がよいと考えたからであったという。これらの条件にあてはまる単語として最終的に「ローランド」が選ばれた。 70〜80年台半ばまではモノフォニック(単音)/ポリフォニック(4〜12音)のアナログ・シンセサイザーを製造販売。1987年には同社初のフルデジタル・シンセサイザーD-50を発表、ヒット商品となった。その後デジタルが主流の時代になると、プロやハイアマチュア向けに拡張ボードで波形を供給できる音源モジュールJVシリーズ、XVシリーズを発表した。2000年代以降は、ライブ向けの軽量シンセサイザー、シーケンサー搭載のワークステーション型シンセサイザーなどの製品を中心に販売している。その一方で、クラブ音楽等で根強いアナログ式音源へのニーズを意識した、デジタル信号処理でアナログ音源を再現したアナログ・モデリング方式の製品も展開。近年は完全アナログ方式を望む声に合わせ、デジタル・アナログ統合型のシンセサイザーや、他社との協業企画によるフル・アナログ音源なども製品ラインナップに加えている。 早くから取り組みがなされ、創業2年目の1973年には、アナログ音源電子ピアノ EP-10、翌74年には純電子方式としては初めて鍵盤タッチによる強弱表現を可能にしたEP-30を発売した。1986年にはSA(Structured Adaptive)方式デジタル音源を備えたプロ向けステージピアノ「RD-1000」を発売。従来にない表現力・リアルさを実現した同音源は、「HP」シリーズをはじめとする家庭用モデルにも転用された。その後も30年以上に渡り、88鍵個別サンプリング音源、ピアノの構造や弦素材をモデリングする「V-Piano」音源など、ピアノに特化した様々な音源方式を導入。また鍵盤機構や、家庭用モデルの再生系、ペダル機構、外観デザイン等についても、アコースティックピアノをよりリアルに再現すべく技術開発が繰り返されている。現在、デジタルピアノ市場においてはヤマハ、カワイ、他各社と並ぶ主要ブランドとなっている。 打楽器事業には、1985年「OCTAPAD」(初代・音源を内蔵しないMIDIパッドコントローラー)の発売により本格参入した。ほぼ同時期には同社初のフルドラムキットである電子音源の「αドラム」を発売。同カテゴリで先行していた英SIMMONS社を追う形で、数年に渡り販売した。90年代前半には「コンパクト・ドラム・システム」にコンセプトを改めて電子ドラム製品を復活。PCM音源によるリアルな生ドラム音と小型パッドの組み合わせにより、場所を取らずヘッドホンも使える練習キットとして人気を呼んだ。1997年には、独自開発のメッシュヘッド(打感や静粛性に優れた網状素材の打面)や新音源などを備え、よりアコースティックドラムに近い演奏感を実現した「V-Drums」シリーズを発売。以降同シリーズを基幹製品とし、主な電子ドラムメーカーのひとつとして事業を継続している。この他、サンプリング・パッドや電子音源を組み合わせたカホンなど、ドラムス以外の電子打楽器もしばしば製品化している。 当該分野ではBOSS(元子会社・現在は吸収合併)による各種エフェクター製品が、長年に渡り同分野の定番として認知されている。また楽器用アンプ類は70年代に販売開始。Roland・BOSSの両ブランドにて、様々なギター(ベース)アンプが市場に投入されている。代表的なJCシリーズのJC-120は、1975年の発売以来練習スタジオ等に広く導入され、現在も基本的な構成を変えず生産が継続されている。この他、1970年代後半に富士弦楽器(現・フジゲン)との合弁で「富士ローランド」社にて開発製造を開始したギターシンセサイザーは、現在もBOSSブランドにて最新技術による製品開発・製造が継承されている。これらギター周辺機器の開発製造は、家庭用ピアノ類、電子ドラム類に次ぐ、同社の基幹事業のひとつとなっている。 MIDI規格が制定された後、同社はMT-32等、様々な楽器音をマルチパートで同時発音できる音源モジュール製品を開発。これにパソコン用シーケンサー・ソフトウエアを付属させたパッケージ商品(「ミュージくん」など)を発売し、生演奏ではなくコンピュータにデータを入力することで楽器を演奏する手法(狭義のDTM)を提唱した。このようなパッケージは特に日本国内で受け入れられ、ホビー層を中心に高い人気を得た。1990年代にはDTM向けに特化した音源モジュールとしてGSフォーマット音源SCシリーズを発売。同フォーマットは、後に通信カラオケデータの標準音源としても活用された。 DTM音源の主流がハードウエアからソフトウエアに移行する中で、米Twelve Tone Systems社(当時)の音楽制作ソフトウエアCakewalkの取り扱いを開始。2008年には同社(“Cakewalk”に改称)を買収し傘下に収めたものの、業績不振期の2013年にGibson社に事業売却。DAW販売事業から一時撤退した。その後業績回復・株式再上場を果たした2020年、無償で使用開始できるマルチプラットフォーム(Windows/MacOS/iOS/Android用)の音楽制作アプリZenbeatsを発売。クラウドサービス(Roland Cloud)を活用した、より手軽な制作環境の提供に移行している。 同社としては珍しい楽器系ではない事業分野。各種ビデオミキサー、ビデオスイッチャー、コンバーターなどがラインナップされている。中規模業務用と考えられる仕様、価格帯の製品が中心ではあるが、2018年以降のコロナ禍で増えた少人数でのライブ配信や、動画サイト用コンテンツの個人制作を意識したと思われる製品も拡充されてきている。 1995年、ハードディスクに演奏を記憶して楽曲作成ができるVS-880を発表。追って関係会社のボス(後に吸収合併)からも、ギタリスト向け仕様のハードディスク/メモリーレコーダーを発売した。また2000年代前半には、小型高音質フィールドレコーダー(Rシリーズ)を市場に投入した。 同社は80年代、プログラム可能なリズムマシン「TR-808」「TR-909」、ベース音源「TB-303」などを市場に投入。生産完了後、その独特のアナログサウンドが主にクラブ/ダンスミュージックのアーティストに評価され重用された。これを背景に、90年代後半頃から10年間ほどに渡り、クラブ/ダンスミュージック向けのハードウエア製品(MC-303/505系やSPシリーズのサンプラーなど)に注力した。2014年以降は、同分野に再び参入する形で新製品 (AIRA シリーズ、Boutique シリーズ)を展開している。 楽器商品としては、2016年同社初のデジタル管楽器「エアロフォン」を発売し、管楽器分野への参入を果した他、サブスクリプション方式によるソフトウエア音源提供サービス「Roland Cloud」も立ち上げ、DAWプラグイン音源事業の取り組み強化を打ち出している。楽器関連以外の事業としては、業務用音響機器(デジタルミキサーなど)の開発・販売、海外ブランドのオーディオ周辺機器(ヘッドホンやモニタースピーカーなど)の輸入販売、音楽教室の運営なども行っている。 2014年(平成26年)、楽器事業が四期連続赤字に陥っていた同社は、5月14日アメリカの投資ファンド・タイヨウファンドと三木純一社長によるMBOを実施すると発表。この買収は同月15日から6月25日までを買収期間としたが、7月14日までに延長された。 この買収に対し、創業者の梯郁太郎が「悪辣な乗っ取りだ」として反発。 2014年(平成26年)5月1日に開催されたローランド芸術文化振興財団(現・かけはし芸術文化振興財団)の臨時理事会の招集手続を問題視して理事会をやり直しとなり、同年6月20日の評議員会では売却賛成が3分の2以上に満たないことで否決となった。 そして、2014年(平成26年)6月27日の株主総会では、会社側が「ローランド芸術文化振興財団(現・かけはし芸術文化振興財団)」としての総会出席者は専務理事であるとして、同財団理事長で当社創業者の梯郁太郎を個人株主扱いとした。このため、株主総会でも梯郁太郎と三木社長がMBOの是非を巡り激しく応酬する形となった。また、この株主総会は先述の通り買い付け期間が7月14日までに延長されたことから、買い付け期間中の株主総会という異例のものとなった。 そうした混乱はあったものの、2014年(平成26年)7月14日までに発行株式の約82.92%の応募があったため成立した。ローランド芸術文化振興財団保有分を含む残余株式はローランドが買い取る形となり、同年10月26日に上場廃止となった。 ローランドは、2020年(令和2年)12月16日に東京証券取引所第1部に株式を再上場した。 他多数 ミュージック・プロダクション・システム 音楽制作ソフトウェア 'RSS:業務用音響機器のブランド 1984年(昭和59年)より「ローランドミュージックスタジオ」を運営し、2010年(平成22年)に「ローランド・ミュージック・スクール」へ改称した。 2001年(平成13年)9月7日付けでテクニトーンを用いる日本ビクター・松下電器産業の音楽教室部門 ビクター・テクニクス・ミュージック株式会社を買収し、社名をローランドミュージックスタジオへ改称の上「ローランドRMS音楽教室」へ再編。国内音楽教室業界においてヤマハ・カワイに次ぐ第3位の規模となる。 2001年(平成13年)にビクター・テクニクス・ミュージックから承継した特約店が運営する教室と、国内8ヶ所でローランド直営センタースクールの他、2008年(平成20年)10月1日に「ローランド・サテラ」という直営スクールを運営していたが、後に特約店運営教室に移管された。 ※フレンドリー部門のみ、ファイナルは特別演奏(審査・表彰なし)。 ローランド・オルガン ミュージック・アトリエによるオルガン・ソロ演奏 ※ファイナルは特別演奏(審査・表彰なし)。 ローランド Vドラムシリーズによるドラム・ソロ演奏。参加資格は会員、会員外を問わず可能。ビデオ予選にて優秀賞・各賞数名を表彰。優秀賞受賞者はファイナル進出。ファイナルにて各部門ごとにグランプリ1名、準グランプリ1名を表彰。 ローランド製の鍵盤楽器を中心に、2種類以上の楽器編成で参加するアンサンブル演奏のステージ(2名以上~10名以下)。ローランド・ミュージック・スクール会員(生徒、講師、講習生)が1名以上参加する2名以上10名以下のグループ ※グループ代表者はローランド・ミュージック・スクール会員であること。 ビデオ予選にて優秀賞・各賞数組を表彰。優秀賞受賞グループはファイナル進出。ファイナルにて各部門ごとにグランプリ1組、準グランプリ1組を表彰 ローランドがプロデュースする、楽器店内の専門コーナー。専門スタッフを配置し、ユーザーサポートの役割も担っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ローランド株式会社(英: Roland Corporation)は、日本の大手電子楽器メーカー。自らが創業したエース電子工業を退社した梯郁太郎が、1972年(昭和47年)に大阪市で創業。長らく、本社・広報機能を大阪に、製造・研究開発拠点を静岡県浜松市に置いていたが、2005年(平成17年)に、本社を浜松に移転した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スタジオ、ライブ向けのプロ用から家庭用まで、多様な楽器ジャンルの製品を展開する総合電子楽器メーカー。主にシンセサイザー、デジタルピアノ、電子オルガン、電子ドラム、ミキサー、DJ機器、ギターアンプや半導体の製品を開発・製造・販売する。ヤマハやカワイとともに、日本を代表する楽器メーカーのひとつである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "初期には、電気楽器(エレキギター、エレキベース)の演奏時に音色を加工する機器「エフェクター」や演奏用スピーカーアンプ、プリセット式のリズムマシン、音響ミキサーの製造を行っている。1973年(昭和48年)からはシンセサイザーやエレクトロニックピアノなどの製造も手がけるようになった。1977年には音楽用デジタルシーケンサー、マイクロコンポーザーMC-8を発表。以降コンピュータと電子楽器の連携に注力し、1981年にはヤマハ、シーケンシャル・サーキット等と共にMIDI規格を提唱した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "社名は中世ヨーロッパの叙事詩である『ローランの歌』の主人公ローランからとられている 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ローランド株式会社は、日本の大手電子楽器メーカー。自らが創業したエース電子工業を退社した梯郁太郎が、1972年(昭和47年)に大阪市で創業。長らく、本社・広報機能を大阪に、製造・研究開発拠点を静岡県浜松市に置いていたが、2005年(平成17年)に、本社を浜松に移転した。
{{Otheruses|電子楽器メーカー|その他のローランド|ローランド (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 会社 |社名 = ローランド株式会社 |英文社名 = Roland Corporation |ロゴ = [[ファイル:Roland Corporation logo.svg|240px]] |画像 = Roland HQ.jpg |画像説明 = ローランド本社工場 |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = {{上場情報|東証プライム|7944|2020年12月16日}} |略称= |本社所在地 = [[静岡県]][[浜松市]][[浜名区]]細江町中川2036番地の1<ref name="roland-2014-5-14" /><br />{{ウィキ座標2段度分秒|34|48|31.8|N|137|39|20.6|E|region:JP|display=inline,title}} |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 431-1304 |本店郵便番号 = |本店所在地 = |設立 = [[1972年]]([[昭和]]47年)[[4月18日]]<ref name="roland-2014-5-14" /> |業種 = 3800 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = 電子楽器、電子機器及びソフトウェアの製造販売・輸出入 |代表者 = [[代表取締役]][[社長]]:Gordon Raison |資本金 = 94億9000万円<br />(2020年12月31日現在)<ref name="yuka" /> |発行済株式総数 = |売上高 = 連結:640億44百万円<br />(2020年12月期)<ref name="yuka">[https://data.swcms.net/file/roland-ir/dam/jcr:e3b16271-8bb5-4c14-a8de-c62b9ee044e8/S100L2H1.pdf 第49期有価証券報告書]ローランド 2021年3月31日</ref> |営業利益 = 連結:71億15百万円<br />(2020年12月期)<ref name="yuka" /> |経常利益 = |純利益 = 連結:43億1百万円<br />(2020年12月期)<ref name="yuka" /> |純資産 = 連結:201億51百万円<br />(2020年12月31日現在)<ref name="yuka" /> |総資産 = 連結:460億96百万円<br />(2020年12月31日現在)<ref name="yuka" /> |従業員数 = 連結:2,601名<br />(2020年12月31日現在)<ref name="yuka" /> |支店舗数 = |決算期 = [[12月31日]] |筆頭株主 = TAIYO JUPITER HOLDINGS, L.P. 35.23%<br />(2022年6月30日現在) |主要子会社 = 外部リンク[https://www.roland.com/jp/company/overview/factory_office/ グループ会社]を参照 |関係する人物 = [[梯郁太郎]] |外部リンク = https://www.roland.com/jp/ |特記事項 = }} '''ローランド株式会社'''({{Lang-en-short|Roland Corporation}})は、[[日本]]の大手[[電子楽器]]メーカー。自らが創業した[[エース電子工業]]を退社した[[梯郁太郎]]が、[[1972年]]([[昭和]]47年)に[[大阪市]]で創業<ref>{{Cite web|和書|title=ローランド、創業50年記念で数々の製品をタイムラインで振り返るコンテンツ公開|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000214017|website=BARKS|date=2022-01-21|accessdate=2022-01-25}}</ref>。長らく、本社・広報機能を大阪に、製造・研究開発拠点を[[静岡県]][[浜松市]]に置いていたが、[[2005年]]([[平成]]17年)に、本社を浜松に移転した。 == 概要 == スタジオ、ライブ向けのプロ用から家庭用まで、多様な楽器ジャンルの製品を展開する総合[[電子楽器]]メーカー。主に[[シンセサイザー]]、[[デジタルピアノ]]、[[電子オルガン]]、[[電子ドラム]]、[[ミキシング・コンソール|ミキサー]]、DJ機器、[[ギターアンプ]]や[[半導体]]の製品を開発・製造・販売する。[[ヤマハ]]や[[河合楽器製作所|カワイ]]とともに、日本を代表する楽器メーカーのひとつである。 初期には、[[電気楽器]]([[エレクトリックギター|エレキギター]]、[[エレクトリックベース|エレキベース]])の演奏時に音色を加工する機器「[[エフェクター]]」や演奏用スピーカーアンプ、プリセット式のリズムマシン、音響ミキサーの製造を行っている。[[1973年]](昭和48年)からは[[シンセサイザー]]や[[エレクトロニックピアノ]]などの製造も手がけるようになった。[[1977年]]には音楽用デジタル[[ミュージックシーケンサー|シーケンサー]]、マイクロコンポーザーMC-8を発表。以降コンピュータと電子楽器の連携に注力し、1981年には[[ヤマハ]]、[[シーケンシャル・サーキット]]等と共に[[MIDI]]規格を提唱した。 社名は中世ヨーロッパの叙事詩である『[[ローランの歌]]』の主人公ローランからとられている <ref>[http://www.roland.co.jp/about/slogan.html ローランド社企業理念・スローガン]</ref>。創業者の梯は日本国外への展開を考え、どの国の言葉で発音してもよく聞こえるような2音節からなる響きのよい社名を探し、まず「R」から始まる言葉にすることを決めた。これは創業当時の電子楽器業界ではRから始まる社名があまり使われておらず、イニシャル1文字で社名を書いたときに都合がよいと考えたからであったという。これらの条件にあてはまる単語として最終的に「ローランド」が選ばれた<ref>梯郁太郎『ライフワークは音楽 電子楽器の開発にかけた夢』ISBN 4276237718 [[音楽之友社]]、2001年、41頁。</ref>。 ; シンセサイザー事業 70〜80年台半ばまではモノフォニック(単音)/ポリフォニック(4〜12音)のアナログ・シンセサイザーを製造販売。1987年には同社初のフルデジタル・シンセサイザーD-50を発表、ヒット商品となった。その後デジタルが主流の時代になると、プロやハイアマチュア向けに拡張ボードで波形を供給できる音源モジュール[[ローランド・JVシリーズ|JVシリーズ]]、[[ローランド・XVシリーズ|XVシリーズ]]を発表した。2000年代以降は、ライブ向けの軽量シンセサイザー、シーケンサー搭載のワークステーション型シンセサイザーなどの製品を中心に販売している。その一方で、クラブ音楽等で根強いアナログ式音源へのニーズを意識した、デジタル信号処理でアナログ音源を再現したアナログ・モデリング方式の製品も展開。近年は完全アナログ方式を望む声に合わせ、デジタル・アナログ統合型のシンセサイザーや、他社との協業企画によるフル・アナログ音源なども製品ラインナップに加えている。 ; 電子ピアノ事業 早くから取り組みがなされ、創業2年目の1973年には、アナログ音源電子ピアノ EP-10、翌74年には純電子方式としては初めて鍵盤タッチによる強弱表現を可能にしたEP-30を発売した。1986年にはSA(Structured Adaptive)方式デジタル音源を備えたプロ向けステージピアノ「RD-1000」を発売。従来にない表現力・リアルさを実現した同音源は、「HP」シリーズをはじめとする家庭用モデルにも転用された。その後も30年以上に渡り、88鍵個別サンプリング音源、ピアノの構造や弦素材をモデリングする「V-Piano」音源など、ピアノに特化した様々な音源方式を導入。また鍵盤機構や、家庭用モデルの再生系、ペダル機構、外観デザイン等についても、アコースティックピアノをよりリアルに再現すべく技術開発が繰り返されている。現在、デジタルピアノ市場においてはヤマハ、カワイ、他各社と並ぶ主要ブランドとなっている。 ; 電子ドラム・打楽器関連事業 打楽器事業には、1985年「OCTAPAD」(初代・音源を内蔵しないMIDIパッドコントローラー)の発売により本格参入した。ほぼ同時期には同社初のフルドラムキットである電子音源の「αドラム」を発売。同カテゴリで先行していた英SIMMONS社を追う形で、数年に渡り販売した。90年代前半には「コンパクト・ドラム・システム」にコンセプトを改めて電子ドラム製品を復活。PCM音源によるリアルな生ドラム音と小型パッドの組み合わせにより、場所を取らずヘッドホンも使える練習キットとして人気を呼んだ。1997年には、独自開発のメッシュヘッド(打感や静粛性に優れた網状素材の打面)や新音源などを備え、よりアコースティックドラムに近い演奏感を実現した「V-Drums」シリーズを発売。以降同シリーズを基幹製品とし、主な電子ドラムメーカーのひとつとして事業を継続している。この他、サンプリング・パッドや電子音源を組み合わせたカホンなど、ドラムス以外の電子打楽器もしばしば製品化している。 ; ギター周辺機器事業 当該分野ではBOSS(元子会社・現在は吸収合併)による各種エフェクター製品が、長年に渡り同分野の定番として認知されている。また楽器用アンプ類は70年代に販売開始。Roland・BOSSの両ブランドにて、様々なギター(ベース)アンプが市場に投入されている。代表的なJCシリーズの[[ローランド・JC-120|JC-120]]は、1975年の発売以来練習スタジオ等に広く導入され、現在も基本的な構成を変えず生産が継続されている。この他、1970年代後半に富士弦楽器(現・[[フジゲン]])との合弁で「富士ローランド」社にて開発製造を開始した[[ギターシンセサイザー]]は、現在もBOSSブランドにて最新技術による製品開発・製造が継承されている。これらギター周辺機器の開発製造は、家庭用ピアノ類、電子ドラム類に次ぐ、同社の基幹事業のひとつとなっている。 ; DTM関連事業 MIDI規格が制定された後、同社はMT-32等、様々な楽器音をマルチパートで同時発音できる[[音源モジュール]]製品を開発。これにパソコン用シーケンサー・ソフトウエアを付属させたパッケージ商品(「ミュージくん」など)を発売し、生演奏ではなく[[コンピュータ]]にデータを入力することで楽器を演奏する手法(狭義の[[デスクトップミュージック|DTM]])を提唱した。このようなパッケージは特に日本国内で受け入れられ、ホビー層を中心に高い人気を得た。[[1990年代]]にはDTM向けに特化した音源モジュールとして'''[[GSフォーマット|GS]]'''フォーマット音源[[ローランド・SCシリーズ|SCシリーズ]]を発売。同フォーマットは、後に通信カラオケデータの標準音源としても活用された。 DTM音源の主流がハードウエアからソフトウエアに移行する中で、米Twelve Tone Systems社(当時)の音楽制作ソフトウエアCakewalkの取り扱いを開始。2008年には同社(“Cakewalk”に改称)を買収し傘下に収めたものの、業績不振期の2013年にGibson社に事業売却。DAW販売事業から一時撤退した。その後業績回復・株式再上場を果たした2020年、無償で使用開始できるマルチプラットフォーム(Windows/MacOS/iOS/Android用)の音楽制作アプリZenbeatsを発売。クラウドサービス(Roland Cloud)を活用した、より手軽な制作環境の提供に移行している。 ; ビデオ機器事業 同社としては珍しい楽器系ではない事業分野。各種ビデオミキサー、ビデオスイッチャー、コンバーターなどがラインナップされている。中規模業務用と考えられる仕様、価格帯の製品が中心ではあるが、2018年以降のコロナ禍で増えた少人数でのライブ配信や、動画サイト用コンテンツの個人制作を意識したと思われる製品も拡充されてきている。 ; レコーディング機器事業 1995年、ハードディスクに演奏を記憶して楽曲作成ができる[[ローランド・VSシリーズ|VS-880]]を発表。追って関係会社のボス(後に吸収合併)からも、ギタリスト向け仕様のハードディスク/メモリーレコーダーを発売した。また2000年代前半には、小型高音質フィールドレコーダー(Rシリーズ)を市場に投入した。 ; プログラマブル・リズムマシン〜ダンスミュージック向け製品 同社は80年代、プログラム可能なリズムマシン「TR-808」「TR-909」、ベース音源「TB-303」などを市場に投入。生産完了後、その独特のアナログサウンドが主にクラブ/ダンスミュージックのアーティストに評価され重用された。これを背景に、90年代後半頃から10年間ほどに渡り、クラブ/ダンスミュージック向けのハードウエア製品(MC-303/505系やSPシリーズのサンプラーなど)に注力した。2014年以降は、同分野に再び参入する形で新製品 (AIRA シリーズ、Boutique シリーズ)を展開している。 ; その他の事業分野 楽器商品としては、2016年同社初のデジタル管楽器「エアロフォン」を発売し、管楽器分野への参入を果した他、サブスクリプション方式によるソフトウエア音源提供サービス「Roland Cloud」も立ち上げ、DAWプラグイン音源事業の取り組み強化を打ち出している。楽器関連以外の事業としては、業務用音響機器(デジタルミキサーなど)の開発・販売、海外ブランドのオーディオ周辺機器(ヘッドホンやモニタースピーカーなど)の輸入販売、音楽教室の運営なども行っている。 == ブランド == === 現行ブランド === ; Roland :メインとなるブランド。楽器全般(デジタルピアノ/オルガン、シンセサイザー、電子打楽器、楽器用アンプなど)に広く使用。[[2010年]](平成22年)[[9月]]以降は、レコーダー、業務音響機器、コンピュータミュージック関連ハードウエアも使われている。 ; [[ボス (企業)|BOSS]] : 各種[[エフェクター]]、ギターアンプ及びギター・ベース周辺機器、[[チューニング・メーター|チューナー]]などのブランド。 ; [[V-MODA]] :高級ヘッドホンなどのブランド。[[2016年]]、DJ向けを中心とするヘッドホンを展開していた米 V-MODA LLCの株式を取得して子会社化したことにより、ローランド(株)のブランドとなった。 ; dw :アコースティック・ドラムスのブランド。[[2022年]]、世界的なドラムメーカー Drum Workshop, Inc.の全株式を取得したことにより、ローランド(株)の傘下ブランドとなった。これに伴い同社が持つ Latin Percussion (LP)、Gretsch Drums、Slingerland 等もローランド傘下のブランドとなった。 === 販売終了ブランド === ; EDIROL by Roland : レコーダーなどに使われた旧ブランド。時期によりコンピュータミュージック関連ハードウェアにも使用された。2010年(平成22年)9月、Rolandブランドに統合された。「EDIROL」は edit + Roland の合成語。 ; RSS by Roland : ライブミキサーなど業務音響機器の旧ブランド。2010年(平成22年)9月、Rolandブランドに統合された。RSSはRoland System Solutions の頭文字。同社の3次元音響処理技術「Roland Sound Space」もRSSと表記されるため混同されやすいが別語。 ; Cakewalk by Roland : コンピュータミュージック関連ソフトウエア商品のブランド。一時期は関連ハードウエア製品にも使用された。「by Roland」は、開発元の米Cakewalk社が、ローランドによる株式取得によりグループ会社となって以降付記されたもの。2013年9月同社がCakewalkをGibsonに売却したことにより使用を終了。 ;RODGERS ([[ロジャース・オルガン|ロジャース]]) : 米国のクラシックオルガンのメーカー/ブランド。1988年にローランドの資本傘下となり、デジタル技術を応用したクラシックオルガン製品を展開していたが、2016年1月、オランダの Vandeweerd family に事業売却された<ref>[http://www.rodgersinstruments.com/news/in-memory-of-ikutaro-kakehashi 「IN MEMORY OF IKUTARO KAKEHASHI」] - RODGERS INSTRUMENTS US LLC WEBサイト</ref>。その後(株)河合楽器製作所がロジャース社の日本代理店となっている<ref>[http://www.rodgersinstruments.com/dealers 「DEALERS」] - RODGERS INSTRUMENTS US LLC WEBサイト</ref>。 == 沿革 == * [[1972年]]([[昭和]]47年)[[4月18日]] - 資本金3300万円で[[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]](現在の[[住之江区]])に設立。 * [[1973年]]([[昭和]]48年) - 同社初のシンセサイザーSH-1000発売。 * [[1977年]]([[昭和]]52年) - 国内初<ref group="注">WAVE KIT Guitar Synthesizerが先行していた可能性もある。</ref>の[[ギターシンセサイザー]]GR-500発売。 * [[1984年]]([[昭和]]59年) - [[北区 (大阪市)|大阪市北区]][[梅田]]に音楽教室を開設。 * [[1985年]](昭和60年) - [[東京都]][[渋谷区]]に音楽教室を開設。 * [[1988年]](昭和63年) - [[大阪証券取引所]]第2部に上場。 * [[1993年]]([[平成]]5年) - 本社を大阪市北区に移転。 * [[1996年]](平成8年) - [[ISO9002]]を取得。 * [[1998年]](平成10年) - [[東京証券取引所]]第2部に上場。 * [[1999年]](平成11年) - 東証・大証第1部に上場。 * [[2001年]](平成13年) - ビクター・テクニクス・ミュージック株式会社を子会社化(後に吸収合併)。 * [[2005年]](平成17年) - 本社を[[静岡県]][[浜松市]]の細江工場(現・本社工場)内に移転。 * [[2013年]](平成25年) - [[MIDI規格]]創案の功績により、創業者・梯郁太郎が[[シーケンシャル・サーキット]]社設立者であるデイヴ・スミスとともに[[グラミー賞]]テクニカル賞を個人名で受賞。 * [[2014年]](平成26年) - MBOを実施し上場廃止。上場子会社であったローランド ディー. ジー.株式会社に当社が保有する同社株式の一部を譲渡し、同社を持分法適用関連会社化<ref>[http://contents.xj-storage.jp/xcontents/67890/b954051d/1fc4/42b7/9f38/f5b960a7b745/140120140611088246.pdf 親会社、その他の関係会社及び主要株主の異動に関するお知らせ] - ローランド ディー. ジー.株式会社 ニュースリリース</ref>。 * [[2015年]](平成27年) - 持分法適用関連会社であったローランド ディー. ジー.株式会社株式の一部を売却したため、同社は持分法適用関連会社ではなくなる。 * [[2018年]](平成30年) - 子会社であったボス株式会社を吸収合併<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=5080401004876 ボス株式会社の情報] - 国税庁 法人番号公表サイト</ref>。 * [[2020年]](令和2年) - 東京証券取引所第1部に再上場<ref name="roland-2020-11-11">[https://www.roland.com/RolandComSite/media/jp/news/0889/PR_0889_1_Jojo_Shonin_fin.pdf 東京証券取引所への上場承認に関するお知らせ]ローランド ニュースリリース、2020年11月11日</ref><ref>[https://www.jpx.co.jp/news/1021/20201208-11.html 新規上場に係る市場区分の決定(市場第一部):ローランド(株)]東京証券取引所 2020年12月8日</ref><ref name="go_public_again">{{Cite news |和書|title=楽器のローランドが再上場 6年ぶり |newspaper=産経新聞 |date=2020-12-16 |author= |url=https://www.sankei.com/article/20201216-FDBD5U6ILFO5TCV2AYLRIUPM7Q/ |accessdate=2020-12-16}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) - 米ドラム・メーカーDrum Workshop, Inc. の全株式を取得。創業以来初めてアコースティック楽器事業を傘下に収める。また8月には、初の直営店『Roland Store(ローランド・ストア)』を[[イギリス|英]]・[[ロンドン]]にある楽器店街「デンマーク・ストリート」にオープンした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.musicman.co.jp/business/502299 |title=ローランド、英ロンドンに初の直営店舗「ローランドストア」第1号店をオープン |publisher=Musicman.co.jp |accessdate=2023-07-28}}</ref>。 == MBOによる上場廃止・再上場へ == 2014年(平成26年)、楽器事業が四期連続赤字に陥っていた同社は、5月14日アメリカの[[投資ファンド]]・タイヨウファンドと三木純一社長による[[マネジメント・バイアウト|MBO]]を実施すると発表<ref name="asahi-np-2014-5-15">“ローランドが上場廃止方針 MBO発表”. [[朝日新聞]](朝日新聞社). (2014年5月15日)</ref><ref name="roland-2014-5-14">[http://www.roland.co.jp/news/pdf/20140514_1.pdf MBOの実施及び応募推奨に関するお知らせ] - ローランド ニュースリリース、2014年5月14日</ref>。この買収は同月15日から6月25日までを買収期間としたが<ref name="asahi-np-2014-5-15" />、7月14日までに延長された<ref name="toyokeizai-2014-7-4">{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/41814|title=ローランド総会、創業者と社長が激しい応酬|accessdate=2014-07-12|date=2014-07-04|publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済ONLINE]]}}</ref>。 この買収に対し、創業者の梯郁太郎が「悪辣な乗っ取りだ」として反発<ref name="asahi-np-2014-7-16">鳴沢大(2014年7月16日). “経営再建@浜松 創業者VS.経営陣、最後まで ローランド”. [[朝日新聞]](朝日新聞社)</ref>。 2014年(平成26年)5月1日に開催された[[かけはし芸術文化振興財団|ローランド芸術文化振興財団(現・かけはし芸術文化振興財団)]]の臨時理事会の招集手続を問題視して理事会をやり直しとなり<ref name="asahi-np-2014-7-16" />、同年6月20日の評議員会では売却賛成が3分の2以上に満たないことで否決となった<ref name="asahi-np-2014-7-16" /><ref>{{cite news|title=ローランドのMBO、筆頭株主応じず 創業者が理事長の財団|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2014-06-20|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ200CG_Q4A620C1TJ2000/|accessdate=2014-07-12}}</ref>。 そして、2014年(平成26年)6月27日の株主総会では、会社側が「ローランド芸術文化振興財団(現・かけはし芸術文化振興財団)」としての総会出席者は専務理事であるとして、同財団理事長で当社創業者の梯郁太郎を個人株主扱いとした<ref name="asahi-np-2014-7-16" />。このため、株主総会でも梯郁太郎と三木社長がMBOの是非を巡り激しく応酬する形となった<ref name="asahi-np-2014-7-16" />。また、この株主総会は先述の通り買い付け期間が7月14日までに延長されたことから、買い付け期間中の株主総会という異例のものとなった<ref name="toyokeizai-2014-7-4" />。 そうした混乱はあったものの、2014年(平成26年)7月14日までに発行株式の約82.92%の応募があったため成立した<ref name="asahi-np-2014-7-16" /><ref>[http://www.roland.co.jp/news/pdf/20140715_1.pdf 株式会社常若コーポレーションによる当社株式に対する公開買付けの結果並びに親会社及び主要株主である筆頭株主の異動に関するお知らせ] - ローランド ニュースリリース</ref>。ローランド芸術文化振興財団保有分を含む残余株式はローランドが買い取る形となり、同年10月26日に上場廃止となった<ref>[http://www.roland.co.jp/news/pdf/20140807_1.pdf 定款の一部変更及び全部取得条項付普通株式の取得に関するお知らせ] - ローランド ニュースリリース</ref>。 ローランドは、2020年(令和2年)12月16日に東京証券取引所第1部に株式を再上場した<ref name="roland-2020-11-11" /><ref name="go_public_again" />。 == 主要製品 == === アナログシンセサイザー === * モジュラーシンセサイザー ** System100, System100M, System500, System700 * Promars * SHシリーズ ** SH-09, SH-1, SH-2, SH-2000, SH-3A, SH-5, SH-7, [[w:en:Roland SH-1000|SH-1000]], [[ローランド・SH-101|SH-101]] * Jupiterシリーズ ** Jupiter-4, Jupiter-6, Jupiter-8 * Junoシリーズ ** Juno-6, Juno-60, Juno-106, Juno-106S, αJuno-1, αJuno-2 * JXシリーズ ** JX-3P, JX-8P, JX-10 * MKSシリーズ ** MKS-80 Super Jupiter, MKS-70, MKS-30, MKS-10, MKS-7 * Boutiqueシリーズ ** SE-02 * [[ギターシンセサイザー]]音源ユニット ** [[ローランド・GR-300|GR-300]], GR-500, GR-700 * [[ミュージックシーケンサー|シーケンサー]]内蔵型シンセサイザー ** MC-202 ** [[ローランド・TB-303|TB-303]] === デジタルシンセサイザー === * [[ローランド・Dシリーズ|Dシリーズ]] ** D-5, D-10, D-20, D-50, D-70, D-110 * [[ローランド・Uシリーズ|Uシリーズ]] ** U-20, U-110, U-220 * [[ローランド・JDシリーズ|JDシリーズ]] ** JD-800, JD-990, JD-XA, JD-Xi * [[ローランド・JPシリーズ|JPシリーズ]] ** JP-8000, JP-8080 * [[ローランド・JVシリーズ|JVシリーズ]] ** JV-30, JV-35, JV-50, JV-80, JV-90, JV-880, JV-1000, JV-1010, JV-1080, JV-2080 * [[ローランド・XPシリーズ|XPシリーズ]] ** XP-10, XP-30, XP-50, XP-60, XP-80 * [[ローランド・XVシリーズ|XVシリーズ]] ** XV-88, XV-2020, XV-3080, XV-5050, XV-5080 * [[ローランド・Fantomシリーズ|Fantomシリーズ]] ** Fantom, Fantom-S, Fantom-X, Fantom-XR, Fantom-G,FANTOM * JUNOシリーズ ** JUNO-D, JUNO-Di, JUNO-DS, JUNO-G, JUNO-Gi, JUNO-STAGE * FAシリーズ **FA-06, FA-07, FA-08 * Grooveboxシリーズ ** [[ローランド・MC-303|MC-303]], MC-307, [[ローランド・MC-505|MC-505]], MC-808, MC-909, [[ローランド・MC-09|MC-09]] * AIRAシリーズ ** SYSTEM-1, SYSTEM-1m ** SYSTEM-8 ** TB-3, VT-3 * Boutiqueシリーズ ** JP-08, JU-06, JX-03, VP-03, TB-03, SH-01a, D-05 * V-Synthシリーズ ** V-Synth/V-Synth XT ** V-Synth GT * JUPITERシリーズ、他 ** JUPITER-50, JUPITER-80 ** INTEGRA-7 ** SH-201 ** GAIA SH-01 ** VariOS ** DJ-70 他多数 === リズムマシン === * TRシリーズ ** TR-505, TR-606, TR-626, TR-707, TR-727, [[ローランド・TR-808|TR-808]], [[ローランド・TR-909|TR-909]], TR-8, TR-09, TR-8S *Rシリーズ ** R-5, R-8, R-8M, R-8mkII === ピアノ、オルガンなどの鍵盤楽器 === * [[電子ピアノ|ローランドピアノ・デジタル(電子ピアノ)]] * ステージピアノ ** アナログステージピアノ MP-700, MP-600, EP-09 ** デジタルステージピアノ RD-700, RD-800, RD-1000, RD-2000, V-Piano, FP-90, FP-60, FP-30 * 電子オルガン ** [[ミュージック・アトリエ]] **: 家庭用電子オルガン **: AT-75, AT-100, AT-300, AT-500, AT-800, AT-900C, AT-900 ** [[アトリエ・コンボ]] **: AT-350C ** [[ローランド・VKシリーズ|コンボ・オルガン]] **: VK-09, VK-7, VK-77, VK-8, VK-9, VK-88, VK-8M(モジュールタイプ) ** [[ローランド・VRシリーズ|Vコンボ]] ([[V-Combo]]) **: VR-760, VR-700, VR-09 ** [[ローランド・クラシック・シリーズ]] **: C-200, C-230, C-330, C-380, C-30 (C-30のみ電子チェンバロ) ** [[ロジャースオルガン]](英語:ロジァース・インストゥルメンツ):[[:en:Rodgers_Instruments|[:en]]] **: デジタルクラシックオルガン。教会、ホテルなどの施設に導入されている大型オルガンが中心。 * Vアコーディオン(電子アコーディオン) ** FR-1, FR-1B, FR-1X, FR-1Xb, FR-3, FR-3b, FR-3s, FR-3sb, FR-3X, FR-3Xb, FR-5, FR-5b, FR-7, FR-7b, FR-7X, FR-7Xb, FR-8X,FR-8xb, FV-200 * ボコーダー/ボーカルキーボード ** VP-330 Vocoder Plus ** VP-550, VP-770, VP-7 ** SVC-350 * ストリングスキーボード, 他 ** RS-505 Paraphonic Strings ** RS-09 ** SA-09 Saturn === 打楽器 === * {{仮リンク|Vドラム |en|Roland_V-Drums }}(電子ドラム) === シーケンサー === * アナログ出力デジタル[[ミュージックシーケンサー]] ** CSQ-100 ** CSQ-600 ** [[ローランド MC-8|MC-8]] マイクロコンポーザー **: 同社初。[[1977年]]発売。8ch仕様で合計5400音記憶可能。定価1,200,000円。CPUは[[Intel 8080]]。 ** MC-4 **: FSKインターフェイスが追加されMTRとの同期レコーディングが可能となった。 **: 記憶媒体はカセットテープインターフェースを使用した。 * デジタルキーボードレコーダーMSQシリーズ(MIDI系) ** MSQ-100 ** MSQ-700 * マイクロ・コンポーザーシリーズ(MIDI系) ** MC-500 **: [[1986年]]発売 MIDIシーケンサーである。入力2系統出力2系統。表示画面は20桁×2行のバックライト付きLCD液晶。シーケンスソフトはMRC、2DDフロッピーディスクから起動して使用する。リズムトラック+16ch×4トラック 四分音符あたりの分解能は96。CPUは[[Z80]]。後にMC-500からMC-500mkIIに基板交換する有料バージョンアップサービスが存在した。 ** MC-300 **: [[1988年]]発売。定価98,000円。MC-500のローコスト版。入力1系統、出力2系統。 ** MC-500mkII **: 1988年発売。定価180,000円。シーケンスソフトは大幅に改良されたSuper-MRC。リズムトラック+16ch×8トラック。CPUをZ80から[[HD64180]]Zに変更しメモリーを倍に増やしたモデル。 ** MC-50 **: [[1990年]]発売。定価78,000円。MC-500mkIIのローコストモデル。このモデルからシーケンスソフトが[[Read Only Memory|ROM]]化されている。内蔵しているROMはSuper-MRCとSuper-MRP。Super-MRCをROMで内蔵したため大幅に使い勝手はよくなったが、メモリーはMC-500mkIIより少ないためMC-500mkIIと同様に複数の曲をロードする場合問題がでるケースがある。 ** MC-50mkII **: [[1992年]]発売。MC-50にSMFの対応などしたマイナーチェンジ版。 ** MC-80 **: [[1999年]]発売 定価99,800円 シーケンスソフトはSuper-MRCからシンセサイザーXP-60/XP-80にも搭載されているMRC-Proとなった。20桁X2行のLCD液晶から320×80フル・ドット画面に替わり機能が強化されたがリズムトラックの概念が廃止された。四分音符あたりの分解能は480。従来の2DDから2HDのサポート、HDDやZIPドライブの拡張や音源モジュールの内蔵が可能。 ** MC-80EX **: 1999年発売。定価138,000円。EXはMC-80にSC-88PRO音源モジュールであるVE-GSProを内蔵したもの。 === 音楽制作関連機器 === * [[ミュージくん]] * [[ミュージ郎]] * [[ローランド・SCシリーズ]](サウンド・キャンバス) * [[ローランド・VSC]](バーチャル・サウンド・キャンバス) * [[ローランド・VSシリーズ]] - マルチトラックハードディスクレコーダー * [[エディロール・SDシリーズ]](スタジオ・キャンバス) * [[エディロール・UAシリーズ]](現:[[ローランド・UAシリーズ]]) - USB接続マルチトラックオーディオキャプチャーユニット、およびUSB接続ポータブル[[D/Aコンバータ|DAC]] * [[エディロール・HQソフトウェア・シンセサイザー]] * [[ローランド・Rubixシリーズ]] - USB接続マルチトラックオーディオキャプチャーユニット * [[Sonic Cell]] '''ミュージック・プロダクション・システム''' * MV-30「STUDIO M」 * MV-8000 '''音楽制作ソフトウェア''' * [[Cakewalk SONAR]]シリーズ - Cakewalkが開発する[[デジタルオーディオワークステーション|DAW]]ソフトウェア :2013年9月24日、ローランドは傘下にあった米Cakewalkを[[ギブソン_(楽器メーカー)|ギブソン]]に売却することを発表。以降2017年まで、SONARはギブソンが既に買収していた[[ティアック|TEAC]]のTASCAMブランドの製品として販売された<ref>[http://www.roland.co.jp/ir/pdf/2013/20130924.pdf ローランド ニュースリリース]</ref>。 === 音響関連機器 === '''RSS:業務用音響機器のブランド'' * [[RSS Digital Snake]] * [[RSS V-Mixing System]] - ライブ用ミキシング・システム * [[RSS ARシリーズ]] - メモリー・カード・レコーダー == 音楽教室 == [[1984年]]([[昭和]]59年)より「ローランドミュージックスタジオ」を運営し、[[2010年]]([[平成]]22年)に「ローランド・ミュージック・スクール」へ改称した。 [[2001年]](平成13年)[[9月7日]]付けで[[テクニトーン]]を用いる[[日本ビクター]]・[[パナソニック|松下電器産業]]の音楽教室部門 ビクター・テクニクス・ミュージック株式会社を買収し、社名をローランドミュージックスタジオへ改称の上「ローランドRMS音楽教室」へ再編。国内音楽教室業界において[[ヤマハ]]・[[河合楽器製作所|カワイ]]に次ぐ第3位の規模となる<ref>出典:2001年7月31日、[http://www.roland.co.jp/news/0132.html ローランドニュースリリース]</ref>。 [[2001年]](平成13年)にビクター・テクニクス・ミュージックから承継した特約店が運営する教室と、国内8ヶ所でローランド直営センタースクールの他、[[2008年]](平成20年)[[10月1日]]に「ローランド・サテラ」という直営スクールを運営していたが、後に特約店運営教室に移管された。 === ローランド・ミュージック・スクール === * スクール運営グループ([[東京都]][[千代田区]]) === 開講科目 === * 幼児科([[アトリエランド]]) * [[ピアノ]]科 * [[ミュージック・アトリエ|オルガン]]科 * [[コンピューター・ミュージック]]科 * [[ドラムセット|Vドラム]]コース * [[アコーディオン|Vアコーディオン]]コース === 音楽教室主催イベント === ; ローランド ・フェスティバル : 4つの部門により構成される。 ;[オルガン・ステージ] (旧:ローランド ・オルガン・ミュージックフェスティバル) : 自由曲または課題曲で参加する、オルガン・ソロ演奏のステージ。参加資格はローランド・ミュージック・スクール会員のみ。各予選(楽器店大会/センター予選/ビデオ予選いずれか)ごとに審査し、入賞者の中からファイナル代表者を選出。ファイナルにて各部門ごとにグランプリ1名、準グランプリ1名を表彰。 ※フレンドリー部門のみ、ファイナルは特別演奏(審査・表彰なし)。 ローランド・オルガン ミュージック・アトリエによるオルガン・ソロ演奏 ; 【パフォーマンス・ステージ】 :Vアコーディオン、シンセサイザー、エアロフォンなどのソロ演奏、デジタルピアノやオルガンでの弾き語り、自分で制作した音源をバックに歌うなど、ローランド製の電子楽器を使ったソロパフォーマンス。参加資格は会員、会員外を問わず可能。ビデオ予選にて優秀賞・各賞数名を表彰。 ※ファイナルは特別演奏(審査・表彰なし)。 ; 【Vドラム・ステージ】 :全国のVドラマーが集結するVドラムの祭典! ローランド Vドラムシリーズによるドラム・ソロ演奏。参加資格は会員、会員外を問わず可能。ビデオ予選にて優秀賞・各賞数名を表彰。優秀賞受賞者はファイナル進出。ファイナルにて各部門ごとにグランプリ1名、準グランプリ1名を表彰。 ; 【アンサンブル・ステージ】 :友達同士で、ご家族で、先生と一緒に。 ローランド製の鍵盤楽器を中心に、2種類以上の楽器編成で参加するアンサンブル演奏のステージ(2名以上~10名以下)。ローランド・ミュージック・スクール会員(生徒、講師、講習生)が1名以上参加する2名以上10名以下のグループ ※グループ代表者はローランド・ミュージック・スクール会員であること。 ビデオ予選にて優秀賞・各賞数組を表彰。優秀賞受賞グループはファイナル進出。ファイナルにて各部門ごとにグランプリ1組、準グランプリ1組を表彰 ; ピアノ・ミュージックフェスティバル(旧:ファンタスティック・ピアノコンクール) : ポピュラー曲中心のピアノコンクール。参加はローランド・ミュージック・スクール会員の他、一般も可能。全国を13地区に分け、代表1名がファイナルへの出場権を得る。 == ローランド・プロデュースショップ == ローランドがプロデュースする、楽器店内の専門コーナー。専門スタッフを配置し、ユーザーサポートの役割も担っている。 ; Planet : ローランド電子ドラム、シンセサイザー、コンピュータ関連機器を専門に展示・販売コーナー ; Planet X : 「Planet」をコンパクトにした展示・販売コーナー ; Roland Foresta : ローランドのデジタルピアノを専門に展示・販売コーナー == 主要工場・研究所 == * 本社工場(浜松市浜名区) * 都田工場(浜松市浜名区) * 浜松研究所(浜松市浜名区) * 都田試験センター(浜松市浜名区) * 東京オフィス([[東京都]][[千代田区]]) * 大阪オフィス([[大阪府]][[大阪市]]) == 関連項目 == * [[ローランド ディー. ジー.]] * [[かけはし芸術文化振興財団]] * [[GSフォーマット]] * [[エース電子工業]] * [[りそな銀行]] * [[トート音楽院]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Roland Corporation}} * [https://www.roland.com/jp/ ローランド株式会社 公式サイト] * {{Twitter|MyRoland}} * {{Facebook|roland.co.jp}} * [https://web.archive.org/web/20070301090722/http://www.mc-club.ne.jp/ MC CLUBホームページ] * [http://mnavi.roland.jp/ Roland Music Navi] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろおらんと}} [[Category:ローランド|*]] [[Category:日本の楽器メーカー]] [[Category:日本の音楽教室]] [[Category:ギターアンプメーカー]] [[Category:シンセサイザーメーカー]] [[Category:コンピュータミュージック]] [[Category:日本の電気機器メーカー]] [[Category:日本の音響機器メーカー]] [[Category:浜松市北区の企業]] [[Category:大阪府発祥の企業]] [[Category:東証プライム上場企業]] [[Category:1972年設立の企業]] [[Category:日本の多国籍企業]] [[Category:2020年上場の企業]] [[Category:再上場した企業]]
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桜っ子クラブ
『桜っ子クラブ』(さくらっこクラブ)は、1991年4月6日から1994年9月17日までテレビ朝日で放送されたバラエティ番組、および同番組のメインキャラクターである「桜っ子クラブさくら組(さくらっこクラブさくらぐみ)」。 本項ではこれらを総括して解説する。 前番組『アイドル共和国』に引き続き、西武園ゆうえんちにて収録が行われた。ちなみに「アイドル共和国」とは当時同遊園地内に設置されていたイベントステージの名称で、夏季には同遊園地内のプールでの公開録画も行われた。 司会は森脇健児と、当時光GENJIの一員だった内海光司。メインキャラクターの桜っ子クラブさくら組のほか、SMAPやTOKIOといったジャニーズ事務所の所属グループも出演していた。 前番組では生放送が基本であったが、この番組は収録が基本となり(番組初回も事前収録での放送)、不定期に生放送もあるという放送形態であった。また、番組最末期では西武園ゆうえんちではなくテレビ朝日のスタジオで収録や生放送を行った回もある。さらに放送時間も編成上の都合から通常55分が30分に短縮された回が数回ある。 本番組のメインキャラクターだった女性アイドルグループ。番組内では「さくら組」と略される。 ☆は第1回放送に出演したメンバー、〇は「さくら組卒業スペシャル」に出演したメンバー、★は最終回に出演したメンバーを表す。
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『桜っ子クラブ』(さくらっこクラブ)は、1991年4月6日から1994年9月17日までテレビ朝日で放送されたバラエティ番組、および同番組のメインキャラクターである「桜っ子クラブさくら組(さくらっこクラブさくらぐみ)」。 本項ではこれらを総括して解説する。
{{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 桜っ子クラブ | 画像 = [[File:Seibu yuenchi entrance.JPG|240px]] | 画像説明 = 番組の収録に使われた[[西武園ゆうえんち]] | ジャンル = [[バラエティ番組]] | 放送時間 = 土曜 15:00 - 15:55 | 放送分 = 55 | 放送枠 = | 放送期間 = [[1991年]][[4月6日]] - [[1994年]][[9月17日]] | 放送回数 = | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = [[テレビ朝日]] | 企画 = [[皇達也]](番組初期) | 製作総指揮 = | ディレクター = 山本清(初期)<br />[[河口勇治]]<br />藤川克平(後期)<br />鈴木基之 | 演出 = | 原作 = | 構成 = 鈴木桂<br />高須晶子<br />池田裕機<br />石原久稔<br />石原道好 | プロデューサー = 中村元一(初期)<br />深山典久(中 - 後期) | 出演者 = 桜っ子クラブさくら組<br />[[森脇健児]]<br />[[内海光司]]<br />[[SMAP]]<!--([[中居正広]]、[[木村拓哉]]、[[稲垣吾郎]]、[[草なぎ剛|草彅剛]]、[[香取慎吾]])--><br />[[TOKIO]]<!--([[城島茂]]、[[山口達也_(代表的なトピック)|山口達也]]、[[国分太一]]、[[松岡昌宏]]、[[長瀬智也]])--> ほか | ナレーター = [[大森章督]] | 音声 = | 字幕 = | データ放送 = | OPテーマ = | EDテーマ = | 時代設定 = | 外部リンク = | 外部リンク名 = | 特記事項 = [[西武園ゆうえんち]]での収録放送(稀に[[生放送]]もあった) }} 『'''桜っ子クラブ'''』(さくらっこクラブ)は、[[1991年]][[4月6日]]から[[1994年]][[9月17日]]まで[[テレビ朝日]]で放送された[[バラエティ番組]]、および同番組のメインキャラクターである「'''桜っ子クラブさくら組'''(さくらっこクラブさくらぐみ)」。 本項ではこれらを総括して解説する。 == 概要 == 前番組『[[アイドル共和国]]』に引き続き、[[西武園ゆうえんち]]にて収録が行われた。ちなみに「アイドル共和国」とは当時同遊園地内に設置されていたイベントステージの名称で、夏季には同遊園地内のプールでの公開録画も行われた。 司会は[[森脇健児]]と、当時[[光GENJI]]の一員だった[[内海光司]]。メインキャラクターの'''[[#桜っ子クラブさくら組|桜っ子クラブさくら組]]'''のほか、[[SMAP]]や[[TOKIO]]といった[[ジャニーズ事務所]]の所属グループも出演していた。 前番組では[[生放送]]が基本であったが、この番組は収録が基本となり(番組初回も事前収録での放送)、不定期に生放送もあるという放送形態であった。また、番組最末期では西武園ゆうえんちではなくテレビ朝日のスタジオで収録や生放送を行った回もある。さらに放送時間も編成上の都合から通常55分が30分に短縮された回が数回ある。 == 出演者 == === 司会 === * [[森脇健児]] * [[内海光司]]([[光GENJI]]) === レギュラー === * 桜っ子クラブさくら組 - メインキャラクター。次項にて詳述。 * [[SMAP]] ** [[中居正広]] ** [[木村拓哉]] ** [[稲垣吾郎]] ** [[森且行]] ** [[草彅剛]] ** [[香取慎吾]] * [[TOKIO]] ** [[城島茂]] ** [[山口達也]] ** [[国分太一]] ** [[小島啓]] - 初期メンバー。 ** [[松岡昌宏]] ** [[長瀬智也]] - 当時サポートメンバー。 * [[高嶋秀武]] - 元[[ニッポン放送]]アナウンサーで、さくら組オーディションの司会を務めた。 * [[竹井輝彦]] - [[1992年]]から「さくら組プロモーター」として出演。 * [[大森章督]] - ナレーション担当。 == 桜っ子クラブさくら組 == 本番組のメインキャラクターだった女性アイドルグループ。番組内では「'''さくら組'''」と略される。 === メンバー === ☆は第1回放送に出演したメンバー、〇は「さくら組卒業スペシャル」に出演したメンバー、★は最終回に出演したメンバーを表す。 ==== あ行 ==== * [[相生恵美]]☆ * [[秋元彩香]](古谷玲香 → 麻生玲里 → [[秋元彩香]] → 秋元綾香 → [[秋元彩香]] → [[怜果]]としてドラマ[[警視庁捜査一課9係]]に出演、姉は元タレントの[[古谷芳香]])★ * [[東恵子]](のちにAishaに改名。内部ユニット「[[KEY WEST CLUB]]」にも参加)〇 * [[安藤小径]] * [[井上晴美]]☆〇 * [[岩名美紗子]]★ * 大山アンザ(内部ユニット「[[MOMO (アイドルユニット)|MOMO]]」に参加。現・[[ANZA]]。ミュージカル女優として活躍)〇★ * [[岡田知沙]]★ ==== か行 ==== * [[鹿嶋美由紀]] * [[加藤紀子]](1992年初めまで「加藤のりこ」名義で出演)〇★ * 神山法子(「[[かのこ (アイドル)|かのこ]]」の芸名でも活動したが、本番組には本名で出演)★ * [[菅野美穂]]〇 * [[北川裕子]](→「ラズベリー」)〇 * [[キャサリン・グレイ]]☆ * [[胡桃沢ひろ子]](第1回放送時は恒崎裕美名義で登場)☆〇 * 黒沢真琴(現・[[愛禾みさ]])★ * [[小林美香 (1975年生のアイドル)|小林美香]]☆〇 ==== さ行 ==== * [[斉藤志乃]]★ * 桜まりえ(現・[[浅田真季]]) * [[嶋田茉莉]] * [[白羽玲子]]★ * [[鈴木奈々 (アイドル)|鈴木奈々]]〇★ ==== た行 ==== * [[竹越ミカ]](前田里香に改名)★ ==== な行 ==== * 中條かな子(現・[[緒方かな子]]。その後、広島を中心に活躍)☆ * [[中谷美紀]](内部ユニット「[[KEY WEST CLUB]]」に参加)〇 * [[中元綾子]](のちに[[讀賣テレビ放送]]・[[広島ホームテレビ]]アナウンサー。その後小学校教員を経て広島県拠点のフリーアナウンサー・ローカルタレントとして活動) * [[中山博子]]★ * [[夏目奈美]]☆ ==== は行 ==== * 春原由紀(現・[[春原佑紀]])〇 * [[藤田久美子]] * [[星野麻衣子]]☆ * 星野吏沙(現・[[星野りさ]])☆ ==== ま行 ==== * [[三井美佳]](→センティア)〇 * [[持田真樹]]☆〇 * [[森田淳奈]]★ * [[森野文子]] (内部ユニット「[[MOMO (アイドルユニット)|MOMO]]」に参加)〇★ ==== や行 ==== * [[柳香織]](後に「K3 GIRLS」に参加)☆〇 * 山内麻弥(現・[[山内麻椰]])〇 === ディスコグラフィー === ==== シングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" !# !発売日 !タイトル !c/w !オリコン最高位 |- ! colspan="5" | [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]/EASTWORLD |- ! 1st | [[1992年]][[11月25日]] | '''なにがなんでも'''<br/>作詞:[[川島だりあ]]<br/>作曲:[[織田哲郎]]<br/>編曲:[[寺尾広]] | いつだってJAPANESE{{efn2|[[宮田愛 (歌手)|宮田愛]]と競作}}<br/>作詞:[[小田佳奈子]]<br/>作曲:[[多々納好夫]]<br/>編曲:[[池田大介 (編曲家)|池田大介]] | 99位 |- ! colspan="5" | [[ワーナーミュージック・ジャパン]] |- ! 2nd | [[1993年]][[7月1日]] | '''[[DO-して]]'''<br/>作詞:[[西脇唯]]<br/>作曲:[[斉藤英夫]]<br/>編曲:[[新川博]] | DO-して<br/>([[加藤紀子]] & さくら組)<br/>作詞:西脇唯<br/>作曲:斉藤英夫<br/>編曲:新川博 | 64位 |- ! colspan="5" | [[日本コロムビア]] |- ! 3rd | [[1993年]][[8月1日]] | '''[[ラ・ソウルジャー]]'''<br/>作詞:[[冬杜花代子]]<br/>作曲:[[小坂明子]]<br/>編曲:[[林有三]] | セーラーWar!<br/>作詞:冬杜花代子<br/>作曲:[[つのごうじ]]<br/>編曲:林有三 | 圏外 |- ! colspan="5" | [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]] |- ! 4th | [[1994年]][[8月24日]] | '''もう一度笑ってよ'''<br/>作詞:坂田和子<br/>作曲:[[茂村泰彦]]<br/>編曲:[[福田裕彦]] | おねがいHEAVEN<br/>作詞:AIKO<br/>作曲:北村勝彦<br/>編曲:福田裕彦 | 圏外 |} ==== タイアップ ==== {|class="wikitable" style="font-size:small;" ! 楽曲 !! タイアップ !! 収録作品 |- | rowspan="2"|なにがなんでも | [[ニッポンハム]]「カロリーソフト」CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/211287/products/271160/1/|title=なにがなんでも | 桜っ子クラブさくら組|accessdate=2020-07-22|website=[[オリコン|ORICON]]}}</ref>{{efn2|[[持田真樹]]出演}} | rowspan="3"|シングル「なにがなんでも」 |- | [[テレビ朝日]]系『[[歌謡びんびんハウス]]』エンディングテーマ |- | なにがなんでも (インスト) | テレビ朝日系『桜っ子クラブ』テーマソング{{efn2|インスト版(歌入りよりもキーが高い)は1992年度にオープニングやCM前に使用。}} |- | DO-して | テレビ朝日系アニメ『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』エンディングテーマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/211287/products/311068/1/|title=DO-して | 桜っ子クラブさくら組|accessdate=2020-07-22|website=[[オリコン|ORICON]]}}</ref> | シングル「[[DO-して]]」 |- | ラ・ソウルジャー セーラーWar! | 『[[美少女戦士セーラームーン (ミュージカル)|美少女戦士セーラームーン]]』ミュージカル・テーマソング{{efn2|桜っ子クラブさくら組名義ではあるが、同ミュージカルに出演していたメンバー5人([[ANZA|大山アンザ]]、[[森野文子]]、[[中山博子]]、かのこ、[[鈴木奈々 (アイドル)|鈴木奈々]])で歌われている。}} | シングル「[[ラ・ソウルジャー]]」 |- | もう一度笑ってよ | テレビ朝日系『桜っ子クラブ』テーマソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/211287/products/292778/1/|title=もう一度笑ってよ | 桜っ子クラブさくら組|accessdate=2020-07-22|website=[[オリコン|ORICON]]}}</ref> | シングル「もう一度笑ってよ」 |} ==== 写真集 ==== # Cherry Pie―桜っ子クラブさくら組メモリアル写真集 (1994年4月 [[ぶんか社]]) 撮影:鯨井康雄 ISBN 978-4821120154 == エピソード == * 前番組の『アイドル共和国』同様、テレビ朝日が関東ローカルで『[[全国高校野球選手権大会中継]]』を放送する日は番組ネット局向けに[[裏送り]]で放送した。 * 番組のコーナー(ザ・男対決)でSMAPは騎馬戦を行った。その際に、森が対戦相手に対し飛び蹴りを食らわすなど喧嘩になり、アイドルとして番組としてありえない醜態を晒した。しかし、それがきっかけでメンバーの結束が高めた<!--高まったの間違い?それとも原文まま?-->と後に語っている。 * SMAPのリーダーはこの番組で決定した。1991年のプール大会にて年長の中居と木村で争われ、円柱に抱きつきホースで水をかけ、どちらが長く抱きついていられるかを競った。その結果、中居が勝利し、リーダーに決まった。 * 2009年1月31日放送のテレビ朝日開局50周年記念『[[50時間テレビ]] [[SMAP☆がんばりますっ!!]]』で上記2項目のVTRが放送されたが、森のハイキックは放送されなかった。しかし、木村が「森のハイキック、カットされていますよね?」と触れていた。あのシーンが一番観たかったとコメントしていた。 * プール大会は、1992年はKEY WEST CLUBが水着拒否の方針で不参加。1994年は加藤紀子が父親危篤(まもなく他界)<!--父親が亡くなったことは1995年の「24時間テレビ」にて公表。その日時がちょうどプール大会の収録日と重なっていた。-->の報を受けて帰郷したため不参加。 == ネット局 == {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller;" |- !放送対象地域 !放送局 !系列 !備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]] |[[テレビ朝日]] |rowspan="8"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] |'''制作局''' |- |[[秋田県]] |[[秋田朝日放送]] |1992年10月開局から |- |[[山形県]] |[[山形テレビ]] |1993年4月3日から |- |[[福島県]] |[[福島放送]] |1991年10月からネット開始 |- |[[長野県]] |[[長野朝日放送]] | |- |[[石川県]] |[[北陸朝日放送]] |1991年10月開局から |- |[[山口県]] |[[山口朝日放送]] |1993年10月開局から<br />1994年3月打ち切り |- |[[長崎県]] |[[長崎文化放送]] | |} == スタッフ == * 企画(1991年4月 - 1992年3月):[[皇達也]] * 構成:[[鈴木桂]](1991年4月 - 1992年3月・6月 - 1994年9月)、[[高須晶子]](1991年4月 - 1992年3月)、[[池田裕機]]、[[石原久稔]](1991年4月 - 1992年7月)、[[石原道好]](1992年7月 - 1994年9月) * 振付:[[ボビー吉野]](1991年4月 - 1992年3月) * 監修:[[塚田茂]](1991年4月 - 1994年3月) * ナレーション:[[大森章督]] * 技術協力:[[テレテック]](1991年4月 - 1994年2月・100回記念スペシャル・1994年8月 - 9月) * TD:清水雅夫(1991年4月 - 1993年5月)、伊深喜美夫(1992年12月 - 1993年1月・4月 - 9月)、伊藤博(1993年10月)、山内克彦(1993年10月 - 1994年2月) * SW:平野友章(1993年12月 - 1994年2月・4月 - 9月)、山内克彦(1994年7月 - 8月) * カメラ:小林康比呂(1991年4月 - 1994年2月)、西山和伸(1992年8月・10月・100回記念スペシャル・1994年5月)、山本義治(1992年8月)、品本幸雄(1993年10月)、伊従慈洋(1993年12月・100回記念スペシャル・1994年5月・7月 - 8月)、田中雅積(1994年1月 - 2月)、長谷見一彦(100回記念スペシャル・1994年7月 - 8月)、田中敏和(100回記念スペシャル)、栗林克夫(1994年4月 - 6月)、外川真一(1993年12月 - 1994年1月・7月 - 9月)、古橋稔(1994年7月 - 8月)、石原晋・服部健司・森金昌臣・高村実(1994年9月) * 映像:今野吉徳(1991年4月 - 1994年1月・100回記念スペシャル・1994年5月・8月)、重岡恵吾(1993年10月)、佐野雅彦(1994年1月 - 2月・5月 - 9月)、勝屋一朗(1994年4月)、湯浅直樹(1994年7月)、宮越直幸(1994年7月 - 8月) * VTR:高橋秀行(1994年9月) * 音声:角國寿夫(1991年4月 - 1992年5月・1993年6月 - 1994年2月・100回記念スペシャル・1994年7月)、坂本祐慈(1992年6月 - 1993年1月)、鈴木一長(1992年8月・100回記念スペシャル・1994年5月・7月 - 8月)、斉藤将人(1993年1月 - 5月)、藤田賢一(1993年8月)、川野奈巳(1993年10月)、粕谷真昭(1994年1月 - 2月)、中村政夫(1994年4月 - 9月)、[[TAMCO]](1994年9月)、竹内俊雅・小杉勉(1994年9月) * 照明:高橋孝男(1991年4月 - 1994年1月)、[[東京舞台照明]](1991年4月 - 1992年3月)、星野仁志(1992年4月 - 1994年1月)、金子功(1993年10月・12月 - 1994年9月)、和田良雄(1994年1月 - 9月)、山口崇(1994年5月)、渋谷昇(1994年5月)、古田真司(1994年7月 - 8月) * 音響:肥後真人(1991年4月 - 10月)、[[TAMCO]](1991年10月 - 1994年2月・100回記念スペシャル・1994年5月)、田村智宏(1993年12月 - 1994年1月・1994年4月 - 9月)、斉藤尚(1994年1月 - 2月)、花見秀徳(1994年7月) * PA:[[ロッコウプロモーション|ロッコウ]](1993年10月) * 効果:吉田比呂樹([[東京サウンドプロダクション|TSP]]、1991年4月 - 9月)、高橋直幹(1991年10月 - 1994年4月・7月 - 9月)、吉田誠(1994年5月 - 6月) * 美術:板垣昭次(1991年4月 - 1992年3月)、北原國彦(1991年4月 - 1992年5月)、国沢繁夫(1993年4月 - 1994年4月)、根古屋史彦(1994年4月 - 9月) * 美術進行:栗原康二(1991年10月 - 1993年4月)、工藤敦博(1994年9月) * デザイン:石井哲也(1992年6月 - 1993年2月)、綿貫冬樹(1993年3月 - 1994年9月) * 大道具:[[俳優座劇場|俳優座]](1991年4月 - 9月)、高田一則(1991年10月 - 1994年4月)、渡部修綱(1994年4月 - 9月)、吉野雅則(1994年5月・9月) * 小道具:藤間俊昭(1991年4月 - 1993年9月)、安田佳弘(1993年10月 - 1994年9月)、阿部一博(1994年4月 - 5月) * アクリル装飾:岡林和志(1994年9月) * イントレ:バンセイ(1993年7月) * オブジェ:神保金司(1993年7月)、岡林和志(1993年8月・12月 - 1994年1月) * 特殊効果:渡辺佳紀(1993年12月・1994年2月・7月 - 9月)、大野晃一(1994年9月) * 特殊装置:中島光森(1994年2月・7月 - 9月)、金田一郎(1994年9月) * 電飾:浅海雅樹(1994年2月)、中島光森(1994年5月 - 6月) * 衣裳:高橋英治(1993年7月・1994年7月・9月) * メイク:山崎寿代(1993年7月 - 8月・100回記念スペシャル・1994年5月 - 7月・9月)、湯口佳奈子(1994年9月) * ENG([[テレテック]]):伊従慈洋(1994年5月 - 6月)、長谷見一彦(1994年5月 - 6月) * スタイリスト:六十苅ゆり(1991年4月 - 1994年3月)、三上しろえ(1991年4月 - 1992年7月)、平尾まさえ(1991年10月 - 1992年4月)、森元美津子(1991年7月 - 10月)、忍田しげ子(1991年7月 - 9月)、佐藤美奈子(1992年4月 - 6月・8月 - 1993年1月)、米田由子(1992年7月 - 10月)、磯山賢二(1992年10月)、堀田都志子(1992年11月 - 1994年9月)、黒澤(沢)彰乃(1993年1月 - 1994年1月・100回記念スペシャル・1994年4月 - 9月)、小野美智(1993年6月 - 7月)、伊藤タツロオ(1993年11月 - 1994年9月)、松元瑞恵(1994年1月 - 2月) * タイトル:竹内謙治 * 編集:石川浩通・吉森浩(週替り、[[東北新社]]、1991年4月 - 9月)、日下石京子(週替り、1991年10月 - 1992年3月・1993年3月)、並河(宮澤)美樹(1991年10月 - 1994年9月)、横山亜希子(1994年4月・9月) * MA:坂井真一(1991年4月 - 1993年2月・1994年1月 - 2月・4月・9月)、西村善雄(1993年2月 - 1994年9月) * TK:加藤直子 * グアムコーディネート:OSAMU IGARASHI(1994年2月) * 協力:[[オフィスクレッシェンド|SOLD OUT]](1991年4月 - 6月)、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]](1991年4月 - 1992年5月) * 制作協力:[[テレビ朝日ミュージック]](三橋博・三浦岳史・村本秀美)、[[西武園ゆうえんち]](森沢弘・山本英晶) * 事務局:渡辺真紀 * デスク:小野美智(1994年9月) * AD:稲垣健司(1994年8月 - 9月)、浦田祐一郎(1994年8月 - 9月) * ディレクター:山本清(1991年4月 - 1992年3月)、河口勇治(1991年4月 - 1993年1月)、藤川克平(1993年1月 - 1994年9月)、鈴木基之(1993年5月 - 1994年9月) * プロデューサー・ディレクター:川端信晃(1993年5月 - 7月) * プロデューサー:中村元一(1991年4月 - 1992年4月)、[[三倉文宏]](1991年10月 - 1992年3月)、深山典久(1992年4月 - 1994年9月) * 制作著作:テレビ朝日 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[美少女戦士セーラームーン (ミュージカル)|美少女戦士セーラームーン]] - ミュージカル版の初期のキャストは桜っ子クラブさくら組のメンバーが主にキャスティングされている。また、アニメ版オープニングテーマ「[[ムーンライト伝説]]」をカバーした(1994年3月から1996年2月まで使用)。 * [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]] - 3代目エンディングテーマ「DO-して」を桜っ子クラブさくら組が歌っている(1993年7月から翌年5月まで)。 * [[私立恵比寿中学]] - 「なにがなんでも」のエビ中バージョンが存在。前述した持田真樹などの後輩でもある。 * [[おニャン子クラブ]] - 桜っ子の元ネタとなったグループ。 == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20010806082535/http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/5838/ 桜っ子クラブさくら組のなにがなんでも] {{前後番組 |放送局=[[テレビ朝日]] |放送枠=土曜15時台 |番組名=桜っ子クラブ |前番組=[[アイドル共和国]] |次番組=[[探偵!ナイトスクープ]] }} {{森脇健児}} {{SMAP}} {{TOKIO}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さくらつこくらふ}} [[Category:1991年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:テレビ朝日のバラエティ番組の歴史]] [[Category:テレビのアイドル番組]] [[Category:桜っ子クラブさくら組|*]] [[Category:SMAP]] [[Category:TOKIO]] {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect=桜っ子クラブさくら組 |1=日本のアイドルグループ |2=テレビ朝日の番組発のグループ }}
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アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, de Saint-Exupéry、1900年6月29日 - 推定1944年7月31日)は、フランスの小説家、飛行家。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からはSaint-Exupéryを略したSaint-Exから「サンテックス」の愛称で親しまれる。 リヨン生まれ。飛行家としての経験を素材に、豊かな想像力と人間の本質を見極める観察眼で、詩情豊かな名作を世に出した。なかでも『星の王子さま』は世界中で長く愛読されている。ほかに『南方郵便機(英語版)』『夜間飛行』、エッセイ集『人間の土地』など。 リヨンの伯爵の子として生まれる。イエズス会のノートルダム・ド・サント・クロワ学院を経て、スイスのフリブールにある聖ヨハネ学院では文学にいそしむ。 兵役(志願)で陸軍飛行連隊に所属し、異例の経歴で軍の操縦士(士官)となる。退役後(士官であったため、陸軍予備役少尉となる)は自動車販売員などに就業した後、民間の郵便航空業界に入り、定期郵便飛行に携わる。 1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら以後、自分のパイロットとしての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、「サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくない」と語った兵士もいたという。 1935年、フランス-ベトナム間最短時間飛行記録に挑戦するも機体トラブルでサハラ砂漠に不時着、一時は絶望視されるも3日後に徒歩でカイロに生還した(この体験が後の『星の王子さま』に反映されている)。 1939年9月4日、第二次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務めた。前線への転属を希望したサン=テグジュペリは、伝手を頼り、周囲の反対を押し切る形で転属を実現させる。戦闘隊や爆撃隊は希望せず、1939年11月9日、オルコントに駐屯する偵察隊(II/33部隊)に配属された。1940年3月29日にはブロックMB.174の操縦桿を握っている。部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、ヴィシー政権がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。 亡命先のニューヨークから、自由フランス空軍(自由フランス軍の航空部隊)へ志願、再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴き、1943年6月に原隊であるII/33部隊(偵察飛行隊)に着任する。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、その直後に着陸失敗による機体破損事故を起こし、1943年8月に飛行禁止処分(事実上の除隊処分)を受けてしまう。必死の尽力により復帰を果たすと、爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視し、1944年5月、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していたII/33部隊に戻った。部隊は後にコルシカ島に進出。7月31日、フランス内陸部グルノーブル、シャンベリー、アヌシーの写真偵察のため、ロッキードF-5A(P-38の偵察型)を駆ってボルゴ飛行場(戦後、民間移管されバスティア・ポレッタ国際空港(英語版))から単機で出撃後帰還せず、消息不明となる。 その行方は永らく不明とされていたが、1998年9月7日、地中海のマルセイユ沖にあるリュウ島(フランス語版)近くの海域で、サン=テグジュペリの名と、妻コンスエロの名(括弧書き)、および連絡先(c/o)としてニューヨークの出版社レイナル&ヒッチコックの名と所在地(#作品にあるように、1943年に「星の王子さま」を初出版した版元)が刻まれた、ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって発見された。 同海域には沈船や墜落機の残骸が多数存在しているが、のちにサン=テグジュペリのものと確認されるF-5B(P-38戦闘機の偵察機タイプ)の残骸(車輪を含む左エンジンナセル)は、1950年代には地元のダイバーによりその存在を目視されていた。1982年、複数機種の残骸混在状態で写真撮影もされていたが、この海域は従前サン=テグジュペリの墜落現場候補とは思われておらず、詳しく調査されることはなかった。上記ブレスレットの発見を受けて、改めて広範囲な探索が行われた結果、2000年5月24日に上記残骸がサン=テグジュペリの搭乗機であることを確認。このことが2000年5月26日にマスメディアで報じられ、世界中に知られるところとなった。 遺産相続者の反対などで引き揚げはその後も行われていなかったが、2003年になって、仏米間の政治的な状況の変化も絡んで正式な回収許可が下り、前記の左エンジンナセルが引き揚げられ、さらに、広い海域に散乱していた多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められた。回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、左ターボチャージャーセット外板に刻まれたロッキード社の記帳番号により彼の乗機であることが確認され、戦死が確定した。なお、本人の遺骨は未だ見つかっていない。 2008年3月15日付『ラ・プロヴァンス(電子版)』(プロヴァンスのローカル紙)に、当時Bf109のパイロットだったホルスト・リッパート(Horst Rippert)曹長がサン=テグジュペリの偵察機を撃墜したとする証言が公開された。リッパートは騎士鉄十字章を授与されたエース・パイロット(撃墜数28機)であり、戦後は西ドイツでテレビ局のスポーツリポーターとして活躍していた。リッパートは、サン=テグジュペリが行方不明となった当日の1944年7月31日にマルセイユ-トゥーロン間の地中海上空でP-38様の双発のアメリカ機を撃墜し、パイロットの離脱は確認できなかったと証言し、「もしサン=テグジュペリだと知っていたら、絶対に撃たなかった。サン=テグジュペリは好きな作家の一人だった」と悔やんだ。 リッパートの証言は他の目撃証言や記録とも符合し有力視されているが、一方で引き揚げられた機体は高速で海面に衝突したことを窺わせるものの弾痕を確認できず、未だ謎が残されている。以下の状況証拠から、サン=テグジュペリ自身が起こした事故又は自殺の可能性も指摘される。 サン=テグジュペリの出生届には「Antoine, Jean-Baptiste, Marie, Roger de Saint-Exupéry」と記されていた 。 サン=テグジュペリ家は「11世紀にまで遡る名門貴族の家系」と言われることが多いが、実際には確認できていない(個人が特定できるのは13世紀まで。文献 に少々不明瞭な記載があり、これをも根拠とするなら11世紀にまで遡る)。 文献や資料によれば、サン=テグジュペリ家は複数の家系がある。アントワーヌの家が属するのはそのうちのひとつで、そのなかでも傍流に属する(長男でない当主が複数回)。嫡流のサン=テグジュペリ家が爵位を得たのは18世紀の終わり頃のComte de Saint Amans からで、それ以前は士族に過ぎない。明らかに爵位を得ていない時期から、サン=テグジュペリ姓を名乗っている。すなわち、「サン=テグジュペリ」は単なる固有の姓であって爵位の有無に関係がなく、「Seigneur」や「Comte」と「de Saint-Exupéry」は分離して考えるべきであろう。そして、アントワーヌの祖父フェルナン(Fernand)の「サン=テグジュペリ伯爵(Comte de Saint-Exupéry)」なる称号が本当に存在したか否かも怪しい。 彼の家系は地方士族(後に一時貴族)であって、「名門」とは呼べない(中央の宮廷貴族だけでも4000家以上ある)。アントワーヌ自身は爵位を持っていない。出自は「元(一時は)」伯爵家で、彼の父も爵位は有しておらず、所領もない。すなわち没落貴族である。 デビュー作『南方郵便機』(1929年)は、男女間の恋愛を描いた唯一の作品である。構成技法その他の理由から、あまり高い評価はなされていない。 『夜間飛行』(1931年)と『人間の土地』(1939年)は、ベストセラーとなり代表作として高い評価を受けた、後者でアカデミー・フランセーズ賞を受賞。現在でも世界中で広く愛読されている。アルベール・カミュの『ペスト』などとならび、伝統あるフランス植民地文学の香気を伝えるものとしても名高い。 『戦う操縦士』(1942年)は、書かれた時代背景がその存在意義と評価を決めた。ヒトラー『我が闘争』に対する「民主主義の側からする返答」として高く評価され、アメリカで先行出版された英訳版『アラスへの飛行』(1942年)はベストセラーとなった。占領下のフランスでも制限付き(初版発行部数2000部余り)で発刊されたが、直ぐに発禁図書となり、地下出版物(リヨン版)として反ナチ派の間で読み継がれた。 『星の王子さま』は、自身で描いた素朴な挿絵も含め世界各国で長く愛読された作品だが、1943年4月にニューヨークの「レイナル&ヒッチコック社」から英訳版(『The Little Prince』)とフランス語原文版(『Le Petit Prince』)が、フランス本国では没後の1945年11月に、「ガリマール社」から出版された。ただし出版社自身は、実際に発売されたのは1946年になってからだと主張している。初刊は誤植が多く、挿絵も原画から忠実とは言えなかったが、1999年になりガリマールは誤りを認め、誤植や挿絵を修正した版を出版した。 この挿絵は、彼の肖像画と共にユーロ導入前の50フラン紙幣にも描かれた。 映画『紅の豚』で、1920年代の飛行艇乗りを描いた宮崎駿 は、サン=テグジュペリの長年の愛読者である。
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アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリは、フランスの小説家、飛行家。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からはSaint-Exupéryを略したSaint-Exから「サンテックス」の愛称で親しまれる。 リヨン生まれ。飛行家としての経験を素材に、豊かな想像力と人間の本質を見極める観察眼で、詩情豊かな名作を世に出した。なかでも『星の王子さま』は世界中で長く愛読されている。ほかに『南方郵便機』『夜間飛行』、エッセイ集『人間の土地』など。
{{Infobox 作家 | name = アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ | image = Antoine de Saint-Exupéry.jpg | imagesize = 330px | caption = [[カナダ]]・[[モントリオール]]にて(1942年5月) | pseudonym = | birth_name = Antoine Marie Jean-Baptiste Roger de Saint-Exupéry | birth_date = {{生年月日と年齢|1900|6|29|no}} | birth_place = {{FRA1870}} [[リヨン]] | disappeared_date = {{Disappeared date and age|1944|7|31|1900|6|29}} | disappeared_place = [[マルセイユ]]南方沖 | death_date = 推定{{死亡年月日と没年齢|1900|6|29|1944|7|31}} | death_place = | occupation = [[作家]]、[[パイロット (航空)|パイロット]] | nationality = {{FRA}} | period = [[1926年]] - [[1944年]] | subject = [[小説]]、[[随筆]]、[[ルポルタージュ]]、特許申請 | movement = | notable_works = 『[[夜間飛行]]』<br />『[[人間の土地]]』<br />『[[星の王子さま]]』 | awards = [[レジオンドヌール勲章]](1929年、1939年)<br />[[フェミナ賞]](1929年)<br />[[アカデミー・フランセーズ賞|アカデミー・フランセーズ小説大賞]](1939年) | debut_works = L'Aviateur(1926年、または 『南方郵便機』、1929年) | spouse = [[:en:Consuelo de Saint Exupéry|コンスエロ・スンチン・サンドーヴァル]](1931年 - 1944年) | partner = | children = なし | relations = | influences = | influenced 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[[1926年]]、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら以後、自分のパイロットとしての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となる[[ルフトヴァッフェ|ドイツ空軍]]にも信奉者はおり、「サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくない」と語った兵士もいたという。 [[1935年]]、フランス-ベトナム間最短時間飛行記録に挑戦するも機体トラブルで[[サハラ砂漠]]に不時着、一時は絶望視されるも3日後に徒歩でカイロに生還した(この体験が後の『[[星の王子さま]]』に反映されている)。 1939年9月4日、[[第二次世界大戦]]で召集され、[[トゥールーズ]]で飛行教官を務めた。前線への転属を希望したサン=テグジュペリは、伝手を頼り、周囲の反対を押し切る形で転属を実現させる。戦闘隊や爆撃隊は希望せず、1939年11月9日、[[:fr:Orconte|オルコント]]に駐屯する偵察隊(II/33部隊)に配属された。1940年3月29日には[[ダッソー|ブロック]][[ブロック174|MB.174]]の操縦桿を握っている<ref>万有ガイド・シリーズ4⃣航空機第二次大戦I P.261</ref>。部隊は多大の損害を受け[[アルジェリア]]へ後退したが、[[ヴィシー政権]]がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ亡命。[[1940年]]12月21日[[リスボン]]出航。12月31日[[ニューヨーク]]着。 [[画像:F-5_Lightning_saintex.jpg|thumb|280px|サン=テグジュペリが最後に搭乗したF-5Aのマーキング]] 亡命先のニューヨークから、[[:en:Free French Air Forces|自由フランス空軍]]([[自由フランス軍]]の航空部隊)へ志願、再度の実戦勤務で[[北アフリカ戦線]]へ赴き、1943年6月に原隊であるII/33部隊(偵察飛行隊)に着任する。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、その直後に着陸失敗による機体破損事故を起こし、1943年8月に飛行禁止処分(事実上の除隊処分)を受けてしまう{{Efn|その間、サン=テグジュペリは[[シャルル・ド・ゴール]]将軍から中傷を受け、精神を蝕まれた<ref name=":0" />。}}。必死の尽力により復帰を果たすと、爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視し、[[1944年]]5月、[[サルデーニャ島]]アルゲーロ基地に進出していたII/33部隊に戻った。部隊は後に[[コルシカ島]]に進出。[[7月31日]]、フランス内陸部[[グルノーブル]]、シャンベリー、[[アヌシー]]の写真偵察のため、ロッキードF-5A([[P-38 (航空機)|P-38]]の偵察型)を駆ってボルゴ飛行場(戦後、民間移管され{{仮リンク|バスティア・ポレッタ国際空港|en|Bastia – Poretta Airport}})から単機で出撃後帰還せず、消息不明となる。 == 乗機の引き揚げと戦死の確定 == [[Image:Gourmette de Saint Exupery.jpg|thumb|right|270px|海中から引き揚げられたサン=テグジュペリのブレスレット([[1998年]])]] その行方は永らく不明とされていたが、[[1998年]][[9月7日]]、[[地中海]]の[[マルセイユ]]沖にある{{仮リンク|リュウ島|fr|Île de Riou}}近くの海域で、サン=テグジュペリの名と、妻コンスエロの名(括弧書き)、および連絡先(c/o)としてニューヨークの出版社レイナル&ヒッチコックの名と所在地([[#作品]]にあるように、[[1943年]]に「星の王子さま」を初出版した版元)が刻まれた、[[ブレスレット]]とみられる銀製品が[[トロール船]]によって発見された。 同海域には沈船や墜落機の残骸が多数存在しているが、のちにサン=テグジュペリのものと確認されるF-5B([[P-38 (航空機)|P-38]]戦闘機の偵察機タイプ)の残骸(車輪を含む左エンジンナセル)は、[[1950年代]]には地元のダイバーによりその存在を目視されていた。[[1982年]]、複数機種の残骸混在状態で写真撮影もされていたが、この海域は従前サン=テグジュペリの墜落現場候補とは思われておらず、詳しく調査されることはなかった。上記ブレスレットの発見を受けて、改めて広範囲な探索が行われた結果、[[2000年]][[5月24日]]に上記残骸がサン=テグジュペリの搭乗機であることを確認。このことが2000年[[5月26日]]にマスメディアで報じられ、世界中に知られるところとなった。 遺産相続者の反対などで引き揚げはその後も行われていなかったが、[[2003年]]になって、仏米間の政治的な状況の変化も絡んで正式な回収許可が下り、前記の左エンジンナセルが引き揚げられ、さらに、広い海域に散乱していた多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められた。回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、左ターボチャージャーセット外板に刻まれたロッキード社の記帳番号により彼の乗機であることが確認され<ref>[[産経新聞]]、2004年3月26日〜4月3日。[ル・モンド]、2004年4月7日</ref><ref>「星の王子さまの眠る海」,エルヴェ・ヴォドワ,フィリップ・カステラーノ 著,香川 由利子 訳,ソニー・マガジンズ 社,2005年8月9日,ISBN 4789726118</ref>、[[戦死]]が確定した。なお、本人の遺骨は未だ見つかっていない。 2008年3月15日付『ラ・プロヴァンス(電子版)』([[プロヴァンス]]のローカル紙)に、当時[[メッサーシュミット Bf109|Bf109]]のパイロットだった[[ホルスト・リッパート]]([[:de:Horst Rippert|Horst Rippert]])曹長がサン=テグジュペリの偵察機を撃墜したとする証言が公開された<ref>{{Cite web |title=Ils ont retrouvé le pilote qui a abattu Saint-Exupéry |url=https://www.laprovence.com/article/actualites/21332/ils-ont-retrouve-le-pilote-qui-a-abattu-saint-exupery.html |website=LaProvence.com |date=2008-03-15 |access-date=2022-07-30 |language=fr}}</ref>。リッパートは[[騎士鉄十字章]]を授与された[[エース・パイロット]](撃墜数28機)であり、戦後は[[西ドイツ]]でテレビ局のスポーツリポーターとして活躍していた<ref name=":1">{{Cite web |title="Ich habe den Piloten nicht erkennen können" |url=https://www.morgenpost.de/printarchiv/kultur/article102642027/Ich-habe-den-Piloten-nicht-erkennen-koennen.html |website=www.morgenpost.de |date=2008-03-18 |access-date=2022-07-30 |language=de-DE |first=Philip Cassier und Sven Felix |last=Kellerhoff}}</ref>。リッパートは、サン=テグジュペリが行方不明となった当日の1944年7月31日にマルセイユ-[[トゥーロン]]間の地中海上空でP-38様の双発のアメリカ機を撃墜し、パイロットの離脱は確認できなかったと証言し<ref name=":1" /><ref name=":2" />、「もしサン=テグジュペリだと知っていたら、絶対に撃たなかった。サン=テグジュペリは好きな作家の一人だった」と悔やんだ<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「星の王子さま」著者を撃墜、元独軍パイロットが証言 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News |url=https://www.afpbb.com/articles/fp/2365924 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-07-30 |date=2006-03-17}}</ref>。 リッパートの証言は他の目撃証言や記録とも符合し有力視されているが<ref name=":1" />、一方で引き揚げられた機体は高速で海面に衝突したことを窺わせるものの弾痕を確認できず、未だ謎が残されている。以下の状況証拠から、サン=テグジュペリ自身が起こした事故又は自殺の可能性も指摘される<ref name=":0">{{Cite web |title=Mysteries of Flight: The Disappearance of Antoine de Saint-Exupéry |url=https://www.planeandpilotmag.com/article/the-disappearance-of-antoine-de-saint-exupery/ |website=Plane & Pilot Magazine |access-date=2022-07-30 |language=en-US |first=Desiree |last=Kocis |date=2019-12-17}}</ref>。 * サン=テグジュペリは飛行に対する人一倍の情熱の持ち主であった反面、忍耐力がなく、規律違反の常習犯であり、[[エアマンシップ]]を持ったパイロットであるとは言い難かった。事実、サン=テグジュペリは過去何度も事故を起こしている。 * アメリカにわたって以来、サン=テグジュペリは塞ぎ込んでおり(『星の王子さま』はこの時期に執筆している)、失踪の8日前にはドイツの航空戦隊が敵である自分たちに向けてサン=テグジュペリ機が自暴自棄になったかのように突っ込んでくるのを目撃している(このときドイツ人パイロットらは発砲せずに見逃している)。 == 家系・出自 == サン=テグジュペリの出生届には「Antoine, Jean-Baptiste, Marie, Roger de Saint-Exupéry」と記されていた <ref group="注釈">本ページ冒頭の説をはじめ、異説あり。Antoine, Jean-Baptiste, Marie, Roger, Pierre de Saint- Exupéry 他、諸説が入り乱れる。ここでは、届出書類実物を検証したと思われるものを採用した。</ref><ref>p. 46, ICAREN&ordm; 69, Saint-Exup&#233;ry Tome I, Ed. Syndicat National des Pilots des Ligne, 1974。Acte de nessance N&ordm; 1703, mairie de Lyon-2&ordm;</ref>。 サン=テグジュペリ家は「11世紀にまで遡る名門貴族の家系」と言われることが多いが、実際には確認できていない<ref>Notice g&#233;ne&#233;alogique sur la famille de Saint-Exup&#233;ry:1878, Editeur: Imprimerie D. Jouaust (Paris)【Biblioth&#232;que nationale de France, d&#233;partement Philosophie, histoire, sciences de l'homme, 4-LM3-1478】</ref>(個人が特定できるのは13世紀まで。文献<ref>p.60, ICARE N&ordm; 69, Saint-Exup&#233;ry Tome I, Ed. Syndicat National des Pilotes de Ligne, 1974</ref> に少々不明瞭な記載があり、これをも根拠とするなら11世紀にまで遡る)。 文献や資料によれば、サン=テグジュペリ家は複数の家系がある。アントワーヌの家が属するのはそのうちのひとつで、そのなかでも傍流に属する(長男でない当主が複数回)。嫡流のサン=テグジュペリ家が爵位を得たのは18世紀の終わり頃のComte de Saint Amans からで、それ以前は士族に過ぎない。明らかに爵位を得ていない時期から、サン=テグジュペリ姓を名乗っている。すなわち、「サン=テグジュペリ」は単なる固有の姓であって爵位の有無に関係がなく、「Seigneur」や「Comte」と「de Saint-Exupéry」は分離して考えるべきであろう。そして、アントワーヌの祖父フェルナン(Fernand)の「サン=テグジュペリ伯爵(Comte de Saint-Exupéry)」なる称号が本当に存在したか否かも怪しい<ref>詳しい内容と参照サイト(特に文献出版以降)はファイル 爵位の私称http://www.lepetitprince.net/sub_junkbox/pretensions.html 中に列挙されている。</ref>。 彼の家系は地方士族(後に一時貴族)であって、「名門」とは呼べない(中央の宮廷貴族だけでも4000家以上ある)。アントワーヌ自身は爵位を持っていない。出自は「元(一時は)」伯爵家で、彼の父も爵位は有しておらず、所領もない。すなわち没落貴族である。 == 作品 == [[File:StExStatueBellecourS.jpg|thumb|[[リヨン]]の[[ベルクール広場]]に立つサン=テグジュペリと『星の王子様』の王子の像]] デビュー作『[[南方郵便機]]』(1929年)は、男女間の恋愛を描いた唯一の作品である。構成技法その他の理由から、あまり高い評価はなされていない。 『[[夜間飛行]]』(1931年)と『[[人間の土地]]』(1939年)は、ベストセラーとなり代表作として高い評価を受けた、後者で[[アカデミー・フランセーズ賞]]を受賞。現在でも世界中で広く愛読されている。[[アルベール・カミュ]]の『[[ペスト (カミュ)|ペスト]]』などとならび、伝統あるフランス植民地文学の香気を伝えるものとしても名高い。 『[[戦う操縦士]]』(1942年)は、書かれた時代背景がその存在意義と評価を決めた。ヒトラー『[[我が闘争]]』に対する「民主主義の側からする返答」として高く評価され、アメリカで先行出版された英訳版『アラスへの飛行』(1942年)はベストセラーとなった。占領下のフランスでも制限付き(初版発行部数2000部余り)で発刊されたが、直ぐに発禁図書となり、地下出版物(リヨン版)として[[レジスタンス運動|反ナチ派]]の間で読み継がれた。 『[[星の王子さま]]』は、自身で描いた素朴な挿絵も含め世界各国で長く愛読された作品だが、[[1943年]]4月にニューヨークの「レイナル&ヒッチコック社」から英訳版(『''The Little Prince''』)とフランス語原文版(『''Le Petit Prince''』)が、フランス本国では没後の[[1945年]]11月に、「[[ガリマール]]社」から出版された。ただし出版社自身は、実際に発売されたのは[[1946年]]になってからだと主張している。初刊は誤植が多く、挿絵も原画から忠実とは言えなかったが、1999年になりガリマールは誤りを認め、誤植や挿絵を修正した版を出版した。 この挿絵は、彼の肖像画と共にユーロ導入前の50[[フランス・フラン|フラン]]紙幣にも描かれた。 映画『[[紅の豚]]』で、1920年代の飛行艇乗りを描いた[[宮崎駿]] <ref group="注釈">各・[[堀口大學]]訳で、『[[人間の土地]]』([[新潮文庫]] 改版)にあとがきとカバーイラストを、『[[夜間飛行]]』にカバー・イラスト(同 改版)を担当している。『サン=テグジュペリ デッサン集成』(みすず書房)には、宮崎駿は「序文」を寄稿。</ref> は、サン=テグジュペリの長年の愛読者である。 === 作品一覧 === * {{仮リンク|南方郵便機|fr|Courrier sud}}({{Lang|fr|Courrier Sud}}、1929年6月) * [[夜間飛行]]({{lang|fr|Vol de Nuit}}、1931年10月) * [[人間の土地]]({{lang|fr|Terre des Hommes}}、1939年3月) * [[戦う操縦士]]({{Lang|fr|Pilot de Guerre}}、1942年) * [[ある人質への手紙]]({{lang|fr|Lettre &#224; un Otage}}、1943年2月または6月) * [[星の王子さま]]({{lang|fr|Le Petit Prince}}、1943年4月)- ※訳書多数(リンク先参照) :;以下の作品は、没後の編集出版 * [[城砦 (サン=テグジュペリ)|城砦]]({{lang|fr|Citadelle}}、1948年)- 未完 * [[若き日の手紙1923-1931]]({{lang|fr|Lettres de Jeunesse 1923-1931}}、1953年) * [[手帳(サン=テグジュペリのメモ帳)|手帳]]({{lang|fr|Carnets}}、1953年) * [[母への手紙]]({{lang|fr|Lettres &#224; sa M&#232;re}}、1955年) * [[人生に意味を]]({{lang|fr|Un Sens &#224; la Vie}}、1956年) * [[戦時の記録]]({{lang|fr|&#201;crits de Guerre}}、1982年) * [[踊り子マノン・他]](全4巻 ; {{lang|fr|I:Manon, denseuse ''suive de'' L'Aviateur., II:Autour de ''Courrier Sud'' et de ''Vol de nuit''., III:Je suis all&#233; voir mon avion ce soir ''suive de'' Le pilote ''et de'' On peut croire aux hommes., IV:Sept lettres &#224; Nathalie Paley.}}、2007年)- 日本語訳の刊行は未定 * [[名の明かされない女性への手紙]]({{lang|fr|Lettres &#224; l'inconnue}}、2008年)- 同上 ;主な日本語訳 *「サン=テグジュペリ著作集」([[山崎庸一郎]]ほか訳、[[みすず書房]]、新編 全11巻・別巻(下記)、1983-1990年) **1南方郵便機 人間の大地、2夜間飛行 戦う操縦士、3人生に意味を([[渡辺一民]]訳) **4母への手紙 若き日の手紙([[清水茂 (フランス文学者・詩人)|清水茂]]・山崎庸一郎訳)、5手帖(杉山毅訳) **6・7・8城砦、9・10・11戦時の記録 **改装版〈サン=テグジュペリ・コレクション〉全7巻(2000年)<br/> 山崎訳の上記・4作品、戦時の記録 全3巻「ある人質への手紙」ほか  *『人間の土地』、『夜間飛行』([[堀口大學]]訳、[[新潮文庫]]、新訂版2012年) *『夜間飛行』([[二木麻里]]訳、[[光文社古典新訳文庫]]、2010年)- ※以下は新訳 *『人間の大地』([[渋谷豊]]訳、光文社古典新訳文庫、2015年) *『戦う操縦士』(鈴木雅生訳、光文社古典新訳文庫、2018年) == 主な伝記・回想 == *『サン=テグジュペリデッサン集成』 [[山崎庸一郎]]、佐藤久美子訳、[[みすず書房]] 2007年 *アラン・ヴィルコンドレ 『サン=テグジュペリ 伝説の愛』 ::[[鳥取絹子]]訳、[[岩波書店]]、2006年 ISBN 4-00-023016-6 *R・M・アルベレス『サン=テグジュペリ』 中村三郎訳、[[水声社]] 1998年 *[[ステイシー・シフ]] 『サン=テグジュペリの生涯』 [[檜垣嗣子|桧垣嗣子]]訳、[[新潮社]] 1997年 *リュック・エスタン『サン=テグジュペリの世界 星と砂漠のはざまに』 山崎庸一郎訳、岩波書店 1990年 *『証言と批評 サン=テグジュペリ著作集 別巻』山崎庸一郎編訳、みすず書房 1990年 *『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集 サン=テグジュペリ』2000年7月号、[[青土社]] ;<span style="font-size:120%;">以下は回想 および図版</span> *コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ『バラの回想 夫サン=テグジュペリとの14年』 ::香川由利子訳、[[文藝春秋]]、2000年 - 妻の遺稿 *『庭園の五人の子どもたち アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリとその家族のふるさと』 ::シモーヌ・ド・サン=テグジュペリ、谷合裕香子訳、吉田書店、2012年 - 姉の回想 *[[レオン・ウェルト]]『僕の知っていたサン=テグジュペリ』 ::藤本一勇訳、大月書店、2012年 - 友人の回想 *『永遠の星の王子さま サン=テグジュペリの最後の日々』図版本 ::ジョン・フィリップスほか、山崎庸一郎訳、みすず書房、1994年 *『星の王子さまのメモワール アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの軌跡』図版本 ::ジャン=ピエール・ゲノ、大林薫訳、駿河台出版社、2013年 *ナタリー・デ・ヴァリエール『「星の王子さま」の誕生 サン=テグジュペリとその生涯』 *:山崎庸一郎監修、南条郁子訳、[[「知の再発見」双書]]:創元社、2000年 ;<span style="font-size:110%;">入門書</span> *山崎庸一郎『「[[星の王子さま]]」のひと』 [[新潮文庫]]、2000年 *ポール・ウェブスター『星の王子さまを探して』 [[長島良三]]訳、[[角川文庫]]、1996年 *[[稲垣直樹]]『サン=テグジュペリ 人と思想109』 [[清水書院]] 1992年、新装版2015年 *[[武藤剛史]]『サン=テグジュペリの世界 〈永遠の子ども〉の生涯と思想』 [[講談社]]選書メチエ、2022年 *[[佐藤賢一]]『最終飛行』 [[文藝春秋]]、2021年。長編小説 *『星の王子さまとサン=テグジュペリ 空と人を愛した作家のすべて』 [[河出書房新社]]、2013年。作家・作品論 ==舞台化== * 2012年、[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]][[サン=テグジュペリ (宝塚歌劇)|ミュージカル・ファンタジー『サン=テグジュペリ』-「星の王子さま」になった操縦士(パイロット)-]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連文献 == * {{Citation|和書|title=サン・テグジュペリの『ある人質への手紙』の背景|last=加藤|first=宏幸|date=1985-06-29|url=https://doi.org/10.15113/00013714|publisher=岩手大学人文社会科学部|doi=10.15113/00013714|access-date=2022-07-30}} * {{Citation|和書|title=サン・デグジュペリの『戦時の記録』の内容と解説|last=加藤|first=宏幸|date=1991-12-15|url=https://doi.org/10.15113/00013562|publisher=岩手大学人文社会科学部|doi=10.15113/00013562|access-date=2022-07-30}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Antoine de Saint Exupéry|Antoine de Saint-Exupéry}} {{Wikiquote|アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ}} * [[リヨン・サン=テグジュペリ国際空港]] * [[箱根★サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム]] * [[ジャン・ルノワール]] - 交流があった * [[ジュール・ロワ]] - 回想がある * [[郵便機]] == 外部リンク == * [http://www.antoinedesaintexupery.com/ {{lang|fr|Site officiel d'Antoine de Saint Exupéry}}] * [http://www.biblioweb.org/-SAINT-EXUPERY-.html 伝記。書誌学] (フランス語) * {{青空文庫著作者|1265|サン=テグジュペリ アントワーヌ・ド}} * {{Kotobank|サン・テグジュペリ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さんてくしゆへり あんとわあぬ}} [[Category:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ|*]] [[Category:20世紀フランスの小説家]] [[Category:フランスの児童文学作家]] [[Category:20世紀の児童文学作家]] [[Category:フェミナ賞受賞者]] [[Category:フランスのパイロット]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:フランスの紙幣の人物]] [[Category:第二次世界大戦で戦死した人物]] [[Category:リヨン出身の人物]] [[Category:1900年生]] [[Category:1944年没]]
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国司
国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏。四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指す。さらにその下に史生(ししょう)、博士、医師などが置かれており、広義では国司の中に含めて扱われていた。 守の唐名は刺史、太守など。大国、上国の守は中央では中級貴族に位置する。 任期は6年(のちに4年)だったが、実際には任期が終わらないうちに交代している者が多かった。国司たちは国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられた。 国司たちは、その国内の各郡の官吏(郡司)へ指示を行なった。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧豪族が任命された(詳細は古代日本の地方官制を参照)。 この他に国司の下で事務処理などの雑務を行う書生・雑掌・散事と呼ばれる下級職員がいた。原則として在地の白丁身分から取ることになっていたが、実際には旧豪族層出身が多かったと推測される。 今日において「国司」は、地方(令制国)に派遣された官吏もしくはその官職を指すと定義されるのが一般的であるが、その定義については議論されたことがないとする指摘もある。 公式令では、解の書式として日付の後に提出元の官司に所属する四等官が上位者から下位者に至るまでの位署が定められているが、実際に令制国においては作成された現存の解は「守・介・掾・目」という四等官の順序にて位署が行われており、これは中央における官司と全く同じ手続きと言える。つまり、国司とは地方官個人やその官職を指すのではなく、守を長官とする官司すなわち行政機関の名称であるとする指摘が出されている。つまり、官吏個人を対象として「国司」と呼称するのは本来は誤用であるとみなすべき(守ならば、「国守」と称すべき)であるが、国司そのものが元々は中央(大王・天皇)から地方に派遣された使者の役割を常設機関として置き換えた性格をもっており、公式の場ではともかくそれ以外では早くから官司としての呼称である「国司」をそこに属する官吏に対しても用いることが行われ、平安時代には一般化してしまったと考えられている。しかし、現存する公文書の分析の限りにおいては、公文書においては少なくても9世紀までは国司は官司のみを対象にした用法だという本来の原則が守られていたと考えられている。 『日本書紀』には、大化の改新時の改新の詔において、穂積咋が東国国司に任じられるなど、国司を置いたことが記録されている。このとき、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は国宰(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する大宰(おほ みこともち)が設置されたという(「大宰府」の語はその名残だと言われている)。その後7世紀末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。 8世紀初頭の大宝元年(701年)に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である国郡里制に編成され、地方分権的な律令制が布かれることとなった。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれた。律令制を根幹的に支えた班田収授制は、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取などから構成されていたが、これらはいずれも国司の職務であった。このように、律令制の理念を日本全国に貫徹することが国司に求められていたのである。 国司は中央の官人が任命されて家族を連れて任国に赴くことが認められていた。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかった訳ではなかった。 国司は通常は国府に設けられた国衙の中にある国庁で政務を行っているが、郡司の業務監査や農民への勧農などの業務を果たすために責任者である守が毎年1回国内の各郡を視察する義務があった。これを部内巡行という。 平安時代の天長3年(826年)からは親王任国の制度が始まった。桓武天皇や平城天皇、嵯峨天皇は多くの皇子・皇女に恵まれたため充てるべき官職が不足し、親王の官職として親王任国の国司が充てられ、親王任国の国司筆頭官である守には必ず親王が補任されるようになった。親王任国の守となった親王は太守と称し、任国へ赴任しない遥任だったため、実務上の最高位は次官の介であった。 平安時代になると、朝廷は地方統治の方法を改め、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。また本来、任命された国司(守、介、掾、目)の共同責任だった地方統治を改め、「守」(ただし親王任国では「介」)が租税納入の責任を負うこととなった(受領)。それは、律令制的な統治方法によらなくとも、一定の租税を徴収することが可能になったからである。9世紀〜10世紀頃には田堵と呼ばれる富豪農民が登場し、時を同じくして、国衙(国司の役所)が支配していた公田が、名田という単位に再編された。国司は、田堵に名田を経営させ、名田からの租税納付を請け負わせることで、一定の租税額を確保するようになった(これを負名という)。律令制下では、人民一人ひとりに租税が課せられていたため、人民の個別支配が必要とされていたが、10世紀ごろになると、上記のように名田、すなわち土地を対象に租税賦課する体制(名体制(みょうたいせい))が確立したのである。 一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない遥任国司が多数現れるようになった。そして国司(守、介、掾、目)の中の実際に現地赴任する最高責任者を受領と呼ぶようになった(またそれより下位の国司を任用と呼ぶようになった)。王朝国家体制への転換の中で、受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。 平安時代中期以降は開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を荘園公領制により国司に任命された受領層である中級貴族に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を摂関家などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。『枕草子』には除目の日の悲喜を描いている。平安中期以降、知行国という制度ができた。これは皇族や大貴族に一国を指定して国司推薦権を与えるもので、大貴族は親族や家来を国司に任命させて当国から莫大な収益を得た。 新しく国司に任ぜられる候補としては、蔵人、式部丞、民部丞、外記、検非違使などが巡爵によって従五位に叙せられたものから選ばれるほか、成功、院宮分国制などもあった。 国司の選任に当たっては、その国に住み所領を持つ者は、癒着を防止するという観点から任命を避けるという慣例があった。寛弘3年(1006年)1月28日の除目において、右大臣藤原顕光が伊勢守に平維衡を推挙したが、藤原道長が「維衡はかつて伊勢国で事件を起こしたものである」ことを理由に反対している。この「事件」とは、かつて維衡が伊勢において平致頼と合戦を起こしたことである。なお道長は8年後の長和3年2月の除目で、摂津を地盤としていた源頼親を摂津守に推挙するという矛盾した行動をとっている。 鎌倉時代にも国司は存続したが、鎌倉幕府によって各地に配置された地頭が積極的に荘園、そして国司が管理していた国衙領へ侵出していった。当然、国司はこれに抵抗したが、地頭は国衙領へ侵出することで、徐々に国司の支配権を奪っていった。 また、北条氏による鎌倉幕府の支配が確立してからは、執権が幕府の本拠がある相模国の国司、副執権である連署が武蔵国司に任じられるようになり、執権・連署を併せて「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた。 室町時代になると、守護に大幅な権限、例えば半済給付権、使節遵行権などが付与された。これらの権限は、国司が管理する国衙領においても強力な効力を発揮し、その結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることとなった。国衙の機構は守護(守護大名)に吸収され、大半の国司は名目だけの官職となり、国の支配とは一切関係がなくなった。 戦国時代には武将が、国司の官職を仮名 (通称)として自称、あるいは主君から授けられることが見られるようになった。これは受領名と呼ばれる。一方で自国領土支配もしくは他国侵攻の正当性を主張するため、国司の正式な任官を求める事もみられた。大内義隆の周防介・伊予介、織田信秀・今川義元・徳川家康の三河守などはその例である。こうした戦国大名は叙任のために朝廷や公家に盛んに献金などを行った。これは、天皇の地位が再認識される契機ともなった。 特殊な例としては伊勢国北畠家・飛騨国姉小路家・土佐国一条家のいわゆる「三国司」がある。この三家はいずれも公家としての家格を持ち、守の官職についていたわけではないが、「国司」として一国の支配権を得ていると認識されていた。 江戸幕府成立以降は、大名や旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて受領名を称することが行われた(武家官位)。守や親王任国の介の国司名を称することのできた大名や旗本は「諸大夫」と呼ばれた。しかし受領名は朝廷の正式な叙任を受けた形式をとるにせよ、「名前」の扱いであり、律令制の官位相当における上下は、特段の意味を有していなかった。受領名を称するに当たっては幕府及び朝廷に礼金を支払う事が行われた。受領名は限られていたため、同時期に複数の人物が同じ名を名乗ることも多かった。同じ役職に就いた場合には先任のものに遠慮して他の職に遷任する例であった。また律令における受領の官位相当は考慮されず、上下はなかった。 また、諸大夫以上の家格である「四品」以上の家格を持つ諸大名・高家も「侍従」や「近衛少将」といった官職名とは別に受領名を称した。たとえば赤穂事件で有名な吉良義央は従四位上侍従・近衛少将などの官位にあったが、「上野介」の受領名を称している。なお、国持大名が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、小倉藩から熊本藩へ加増転封されて肥後国主となった細川忠利は息子光尚の元服時に「肥後守」を名乗れるよう運動している。 浄瑠璃などの芸能者や、菓子舗などの職人が朝廷や公家等から免許を受けて掾などの下級の国司名を称することも行われた。播磨節の創始者井上播磨掾や、菓子屋の虎屋が近江大掾を称したのはその例である。 明治維新後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された。 各国に課せられた納税の規模は、当時の各国の国力に基づき判定された。 各国は時節の国情、時勢を元に変動する大国(たいこく、たいごく)・上国(じょうこく、じょうごく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)の4等級に割り付けられた。 国司の格や役職数も時勢に基づき変動したが、基本的に官位相当は大国の守は従五位上、上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、上国には介を置き中国には介を置かず下国には介掾は置かないなどの規則が大宝令・養老令に定められていたものの、実際には各国の国司の繁忙さに合わせて国司の人員調整が行われていた。これを示すものとして、以下のような例がある。 ただし、この増員を国司の繁忙さだけを理由には出来ないとする説もある。天平宝字元年(757年)に余剰の公廨の一部を国司の官人達に分配して収入とすることが認められた結果、国司四等官の地位に利権としての要素が高まり、地方への赴任を臨む者が増加したため、そうした需要に応えるために財政的余裕がある国の定員を増やしたのではないかとする見方もある。神護景雲元年(767年)以降に記録上に現れる権守をはじめとする権官の設置がみられるようになるのも同様の趣旨とみられている。この指摘を裏付ける物として、天応元年(781年)に郡司・軍毅を除いてこれまでの増員分は全て一律に廃止されている。また、権守などの権官は引き続き残されるが、こちらも遙任として扱われるようになっている。 延喜式が策定された10世紀ごろの各国の等級は以下のとおり。 摂関政治期(10世紀)以降には、「熟国」と「亡国」と呼ばれる表現が登場する。熟国は「大国」「要国」とも称されて税収が豊かで朝廷財政を支える国、亡国は「亡弊国」「難国」「難治国」とも称されて税収が不安定であったり、災害や治安の悪化などで統治が困難な国を指した。ただし、その判断は具体的な数字に基づくものではなく、中央の判断に依拠するところが大きい(権力者の思惑で認定の有無が変わることがある)。受領による租税徴収の請負が確立されていた(裏を返せば中央へ納税した後の余剰を収入にすることが可能であった)当時において、多くの人々が熟国の受領に就くことを望み、特にほとんどの時期において熟国と判断されていた播磨国や伊予国の国司になることは大変名誉なこととされていた。ただし、朝廷財政の財源として熟国の租税が期待されており、規定の納税とは別に臨時の納税や成功への協力を求められることが多かった。反対に亡国の国司への任命は租税徴収の不振から受領功過定などで責任を問われる可能性が高くなるために忌避されていた。ただし税の減免申請は亡国にのみ認めるなど中央でも一定の配慮が行われ、更に中央への租税を確実に納めかつ国内の立て直しに成功すれば有能とみなされて、その後の昇進にも大きなプラスに働く可能性もあった。 諸国の任国の内、上総国、常陸国、上野国の三ヶ国は、親王任国として、その長官を「太守(たいしゅ)」と言った。 しかし、皇族であるため赴任はせず、ただ俸給のみをとっていたことから、欠員があっても俸給は他に使わず、無品(むほん)親王方のご入り用にあてられていた。 この三ヶ国を親王の任国としたのは、淳和天皇(延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))の御代から始まったものである。 後醍醐天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))の御代には、陸奥国も親王の任国とされ、義良(よしなが)親王(後村上天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))を太守としたことが「神皇正統記」に記載されている。 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"江戸幕府成立以降は、大名や旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて受領名を称することが行われた(武家官位)。守や親王任国の介の国司名を称することのできた大名や旗本は「諸大夫」と呼ばれた。しかし受領名は朝廷の正式な叙任を受けた形式をとるにせよ、「名前」の扱いであり、律令制の官位相当における上下は、特段の意味を有していなかった。受領名を称するに当たっては幕府及び朝廷に礼金を支払う事が行われた。受領名は限られていたため、同時期に複数の人物が同じ名を名乗ることも多かった。同じ役職に就いた場合には先任のものに遠慮して他の職に遷任する例であった。また律令における受領の官位相当は考慮されず、上下はなかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、諸大夫以上の家格である「四品」以上の家格を持つ諸大名・高家も「侍従」や「近衛少将」といった官職名とは別に受領名を称した。たとえば赤穂事件で有名な吉良義央は従四位上侍従・近衛少将などの官位にあったが、「上野介」の受領名を称している。なお、国持大名が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、小倉藩から熊本藩へ加増転封されて肥後国主となった細川忠利は息子光尚の元服時に「肥後守」を名乗れるよう運動している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "浄瑠璃などの芸能者や、菓子舗などの職人が朝廷や公家等から免許を受けて掾などの下級の国司名を称することも行われた。播磨節の創始者井上播磨掾や、菓子屋の虎屋が近江大掾を称したのはその例である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "明治維新後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "各国に課せられた納税の規模は、当時の各国の国力に基づき判定された。", "title": "国等級区分" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": 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"摂関政治期(10世紀)以降には、「熟国」と「亡国」と呼ばれる表現が登場する。熟国は「大国」「要国」とも称されて税収が豊かで朝廷財政を支える国、亡国は「亡弊国」「難国」「難治国」とも称されて税収が不安定であったり、災害や治安の悪化などで統治が困難な国を指した。ただし、その判断は具体的な数字に基づくものではなく、中央の判断に依拠するところが大きい(権力者の思惑で認定の有無が変わることがある)。受領による租税徴収の請負が確立されていた(裏を返せば中央へ納税した後の余剰を収入にすることが可能であった)当時において、多くの人々が熟国の受領に就くことを望み、特にほとんどの時期において熟国と判断されていた播磨国や伊予国の国司になることは大変名誉なこととされていた。ただし、朝廷財政の財源として熟国の租税が期待されており、規定の納税とは別に臨時の納税や成功への協力を求められることが多かった。反対に亡国の国司への任命は租税徴収の不振から受領功過定などで責任を問われる可能性が高くなるために忌避されていた。ただし税の減免申請は亡国にのみ認めるなど中央でも一定の配慮が行われ、更に中央への租税を確実に納めかつ国内の立て直しに成功すれば有能とみなされて、その後の昇進にも大きなプラスに働く可能性もあった。", "title": "国等級区分" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "諸国の任国の内、上総国、常陸国、上野国の三ヶ国は、親王任国として、その長官を「太守(たいしゅ)」と言った。 しかし、皇族であるため赴任はせず、ただ俸給のみをとっていたことから、欠員があっても俸給は他に使わず、無品(むほん)親王方のご入り用にあてられていた。 この三ヶ国を親王の任国としたのは、淳和天皇(延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))の御代から始まったものである。 後醍醐天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))の御代には、陸奥国も親王の任国とされ、義良(よしなが)親王(後村上天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))を太守としたことが「神皇正統記」に記載されている。", "title": "国等級区分" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "武家官位においても「介」の受領名を称することが通常であり、守を称した例はほとんどないが、織田信長は一時期「上総守」の受領名を称したことがある。", "title": "国等級区分" } ]
国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏。四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指す。さらにその下に史生(ししょう)、博士、医師などが置かれており、広義では国司の中に含めて扱われていた。 守の唐名は刺史、太守など。大国、上国の守は中央では中級貴族に位置する。 任期は6年(のちに4年)だったが、実際には任期が終わらないうちに交代している者が多かった。国司たちは国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられた。 国司たちは、その国内の各郡の官吏(郡司)へ指示を行なった。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧豪族が任命された(詳細は古代日本の地方官制を参照)。 この他に国司の下で事務処理などの雑務を行う書生・雑掌・散事と呼ばれる下級職員がいた。原則として在地の白丁身分から取ることになっていたが、実際には旧豪族層出身が多かったと推測される。
{{Otheruses}} '''国司'''(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の[[日本]]で、[[地方行政]]単位である[[令制国|国]]を支配する行政官として中央から派遣された[[官吏]]。[[四等官]]である'''[[守]]'''(かみ)、'''介'''(すけ)、'''[[掾]]'''(じょう)、'''[[目 (国司)|目]]'''(さかん)を指す。さらにその下に'''[[史生]]'''(ししょう)、博士、医師などが置かれており、広義では国司の中に含めて扱われていた{{Sfn|国史大辞典|1985}}。 守の[[唐名]]は[[刺史]]、[[太守]]など。大国、上国の守は中央では中級貴族に位置する。 任期は6年(のちに4年)だったが、実際には任期が終わらないうちに交代している者が多かった{{Sfn|国史大辞典|1985}}。国司たちは[[国衙]]において政務に当たり、[[祭祀]]・[[行政]]・[[司法]]・[[軍事]]のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられた。 国司たちは、その国内の各[[郡]]の官吏([[郡司]])へ指示を行なった。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧[[豪族]]が任命された(詳細は[[古代日本の地方官制]]を参照)。 この他に国司の下で事務処理などの雑務を行う書生・雑掌・散事と呼ばれる下級職員がいた。原則として在地の[[白丁 (日本史)|白丁]]身分から取ることになっていたが、実際には旧豪族層出身が多かったと推測される<ref>鐘江宏之「八・九世紀の国府構成員」『律令制諸国支配の成立と展開』(吉川弘文館、2023年) ISBN 978-4-642-04672-5 P132-142.</ref>。 == 沿革 == [[File:Re-enactment of the Kokushi in ancient Japan.jpg|thumb|[[1920年]]([[大正]]9年)、樋畑雪湖が[[国勢調査 (日本)|第一回国勢調査]][[記念切手]]の図を制作するに際し、『日本書紀』大化元年9月の「甲申、遣使者於諸国録民元数」の記述から[[高橋健自]]とともに再現した大化年間の国司の姿<ref>樋畑雪湖『[{{国立国会図書館デジタルコレクション|1899368/86}} 日本郵便切手史論]』、2020年1月31日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.stat.go.jp/library/pdf/minitopics22.pdf 統計図書館ミニトピックスNo. 22 第1回国勢調査の記念切手をデザインしたのは? - 国勢調査に係る統計史料を訪ねて【その7】]}} - 統計局、2020年1月31日閲覧。</ref>)。]] === 「国司」とはなにか === 今日において「国司」は、地方([[令制国]])に派遣された官吏もしくはその官職を指すと定義されるのが一般的であるが、その定義については議論されたことがないとする指摘もある<ref>鐘江宏之「国司制の成立」『律令制諸国支配の成立と展開』(吉川弘文館、2023年) ISBN 978-4-642-04672-5 P22-23.</ref>。 [[公式令 (律令法)|公式令]]では、[[解 (公文書)|解]]の書式として日付の後に提出元の[[官司]]に所属する[[四等官]]が上位者から下位者に至るまでの位署が定められているが、実際に令制国においては作成された現存の解は「守・介・掾・目」という四等官の順序にて位署が行われており、これは中央における官司と全く同じ手続きと言える。つまり、本来の国司とは地方官個人やその官職を指すのではなく、'''守を長官とする官司すなわち行政機関の名称'''であるとする指摘が出されている。つまり、官吏個人を対象として「国司」と呼称するのは本来は誤用であるとみなすべき(守ならば、「国守」と称すべき)であるが、国司そのものが元々は中央(大王・天皇)から地方に派遣された使者の役割を常設機関として置き換えた性格をもっており、公式の場ではともかくそれ以外では早くから官司としての呼称である「国司」をそこに属する官吏に対しても用いることが行われ、平安時代には一般化してしまったと考えられている。しかし、現存する公文書の分析の限りにおいては、公文書においては少なくても9世紀までは国司は官司のみを対象にした用法だという本来の原則が守られていたと考えられている<ref>鐘江宏之「国司制の成立」『律令制諸国支配の成立と展開』(吉川弘文館、2023年) ISBN 978-4-642-04672-5 P22-31.</ref>。 === 国司制度の始まり === 『[[日本書紀]]』には、[[大化の改新]]時の[[改新の詔]]において、[[穂積咋]]が[[東国]]国司に任じられるなど、国司を置いたことが記録されている。このとき、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は'''国宰'''(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する'''大宰'''(おほ みこともち)が設置されたという(「[[大宰府]]」の語はその名残だと言われている)。その後[[7世紀]]末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。 [[8世紀]]初頭の[[大宝 (日本)|大宝]]元年([[701年]])に制定された[[大宝律令]]で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である[[国郡里制]]に編成され、地方分権的な[[律令制]]が布かれることとなった。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれた。律令制を根幹的に支えた[[班田収授制]]は、[[古代の戸籍制度|戸籍]]の作成、田地の班給、[[租庸調]]の収取などから構成されていたが、これらはいずれも国司の職務であった。このように、律令制の理念を日本全国に貫徹することが国司に求められていたのである。 国司は中央の官人が任命されて家族を連れて任国に赴くことが認められていた。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかった訳ではなかった<ref>馬場基「中央と地方を結ぶ人々の動き」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 pp.87-89</ref>。 国司は通常は[[国府]]に設けられた国衙の中にある国庁で政務を行っているが、郡司の業務監査や農民への勧農などの業務を果たすために責任者である守が毎年1回国内の各郡を視察する義務があった。これを部内巡行という<ref>鈴木景二「国府・郡家をめぐる交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 pp.87-89</ref>。 [[平安時代]]の[[天長]]3年([[826年]])からは[[親王任国]]の制度が始まった。[[桓武天皇]]や[[平城天皇]]、[[嵯峨天皇]]は多くの皇子・皇女に恵まれたため充てるべき官職が不足し、[[親王]]の官職として親王任国の国司が充てられ、親王任国の国司筆頭官である守には必ず親王が補任されるようになった。親王任国の守となった親王は'''太守'''と称し、任国へ赴任しない[[遥任]]だったため、実務上の最高位は次官の介であった。 === 遙任化と受領 === 平安時代になると、[[朝廷 (日本)|朝廷]]は地方統治の方法を改め、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。また本来、任命された'''国司'''('''守、介、掾、目''')の共同責任だった地方統治を改め、「守」(ただし親王任国では「介」)が租税納入の責任を負うこととなった([[受領]])。それは、律令制的な統治方法によらなくとも、一定の租税を徴収することが可能になったからである。[[9世紀]]〜[[10世紀]]頃には[[田堵]]と呼ばれる富豪農民が登場し、時を同じくして、国衙(国司の役所)が支配していた[[公田]]が、[[名田]]という単位に再編された。国司は、田堵に名田を経営させ、名田からの租税納付を請け負わせることで、一定の租税額を確保するようになった(これを[[負名]]という)。律令制下では、人民一人ひとりに租税が課せられていたため、人民の個別支配が必要とされていたが、10世紀ごろになると、上記のように名田、すなわち土地を対象に租税賦課する体制(名体制(みょうたいせい))が確立したのである。 一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない遥任国司が多数現れるようになった。そして'''国司'''('''守、介、掾、目''')の中の実際に現地赴任する最高責任者を[[受領]]と呼ぶようになった(またそれより下位の国司を任用と呼ぶようになった)。[[王朝国家]]体制への転換の中で、受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。 平安時代中期以降は[[開発領主]]による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を[[荘園公領制]]により国司に任命された受領層である中級[[貴族]]に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を[[摂家|摂関家]]などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。『[[枕草子]]』には[[除目]]の日の悲喜を描いている<ref>「すさまじきもの」三巻本基準で二十五段、能因本基準で二十二段。</ref>。平安中期以降、[[知行国]]という制度ができた。これは皇族や大貴族に一国を指定して国司推薦権を与えるもので、大貴族は親族や家来を国司に任命させて当国から莫大な収益を得た。 新しく国司に任ぜられる候補としては、[[蔵人]]、[[式部省|式部丞]]、[[民部省|民部丞]]、[[外記]]、[[検非違使]]などが[[巡爵]]によって[[従五位下|従五位]]に叙せられたものから選ばれる<ref>[[和田英松]]、<small>[[所功]] 校訂</small>『官職要解』 [[講談社学術文庫]] ISBN 978-4061586215、107-108p</ref>ほか、[[成功_(任官)|成功]]、[[院宮分国制]]などもあった。 国司の選任に当たっては、その国に住み所領を持つ者は、癒着を防止するという観点から任命を避けるという慣例があった。[[寛弘]]3年([[1006年]])[[1月28日_(旧暦)|1月28日]]の除目において、[[右大臣]][[藤原顕光]]が伊勢守に[[平維衡]]を推挙したが、[[藤原道長]]が「維衡はかつて伊勢国で事件を起こしたものである」ことを理由に反対している<ref>[[竹内理三]] 『日本の歴史6 武士の登場』 [[中公文庫]] ISBN 978-4122044388、246p</ref>。この「事件」とは、かつて維衡が伊勢において[[平致頼]]と合戦を起こしたことである<ref>『[[権記]]』 長徳4年12月14日、26日、29日条</ref>。なお道長は8年後の[[長和]]3年2月の除目で、摂津を地盤としていた[[源頼親]]を摂津守に推挙するという矛盾した行動をとっている<ref>『[[小右記]]』 同年2月16日条。なおこの件は実現しなかった。</ref>。 [[鎌倉時代]]にも国司は存続したが、[[鎌倉幕府]]によって各地に配置された[[地頭]]が積極的に[[荘園 (日本)|荘園]]、そして国司が管理していた[[国衙領]]へ侵出していった。当然、国司はこれに抵抗したが、地頭は国衙領へ侵出することで、徐々に国司の支配権を奪っていった。 また、[[北条氏]]による鎌倉幕府の支配が確立してからは、[[執権]]が幕府の本拠がある相模国の国司、副執権である[[連署]]が[[武蔵国司]]に任じられるようになり、執権・連署を併せて「両国司」(『[[沙汰未練書]]』)と呼ばれた<ref>[[日本史史料研究会]]編『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』([[吉川弘文館]]、2018年)P133</ref>。 === 国司の形骸化と受領名の発生 === [[室町時代]]になると、[[守護]]に大幅な権限、例えば[[半済]]給付権、[[使節遵行]]権などが付与された。これらの権限は、国司が管理する国衙領においても強力な効力を発揮し、その結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることとなった。国衙の機構は守護([[守護大名]])に吸収され、大半の国司は名目だけの官職となり、国の支配とは一切関係がなくなった。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[武将]]が、国司の官職を[[仮名 (通称)]]として自称、あるいは主君から授けられることが見られるようになった。これは'''[[受領名]]'''と呼ばれる。一方で自国領土支配もしくは他国[[侵攻]]の正当性を主張するため、国司の正式な任官を求める事もみられた。[[大内義隆]]の周防介・伊予介、[[織田信秀]]・[[今川義元]]・[[徳川家康]]の[[三河国司#三河守|三河守]]などはその例である<ref>[[今谷明]] 『戦国大名と天皇』 [[講談社学術文庫]] ISBN 978-4061594715、111-138p</ref>。こうした[[戦国大名]]は叙任のために[[朝廷 (日本)|朝廷]]や公家に盛んに献金などを行った。これは、[[天皇]]の地位が再認識される契機ともなった<ref>特に[[後土御門天皇]]から[[後奈良天皇]]の時代は皇室の経済状態が疲弊甚だしく、こと国司職に関してはほとんど申請のままに任じられた。</ref>。 特殊な例としては[[伊勢国]][[北畠家]]・[[飛騨国]][[姉小路氏|姉小路家]]・[[土佐国]][[土佐一条氏|一条家]]のいわゆる「[[戦国三国司|三国司]]」がある。この三家はいずれも[[公家]]としての家格を持ち、守の官職についていたわけではないが、「国司」として一国の支配権を得ていると認識されていた。 === 江戸時代の受領名 === [[江戸幕府]]成立以降は、[[大名]]や[[旗本]]、一部の上級[[陪臣]]が幕府の許可を得た上で、家格に応じて受領名を称することが行われた([[武家官位]])。守や親王任国の介の国司名を称することのできた大名や旗本は「[[諸大夫]]」と呼ばれた<ref>尾脇秀和『氏名の誕生』(第1章「2 名前としての官名」>「大和守という名前」)</ref>。しかし受領名は朝廷の正式な叙任を受けた形式をとるにせよ、「名前」の扱いであり、律令制の官位相当における上下は、特段の意味を有していなかった<ref>尾脇秀和『氏名の誕生』(第1章「2名前としての官名」>「官名の選択」、「叙任という手続き」)</ref>。受領名を称するに当たっては幕府及び朝廷に礼金を支払う事が行われた<ref>{{Cite web|和書|title = 大岡越前守忠相の官職名「越前守」などにみられる「○○守」という名称はどのようにつけられたのか?(2007年) - 江戸東京博物館|url = https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/purpose/library/reference/alphabet/5633/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E8%B6%8A%E5%89%8D%E5%AE%88%E5%BF%A0%E7%9B%B8%E3%81%AE%E5%AE%98%E8%81%B7%E5%90%8D%E3%80%8C%E8%B6%8A%E5%89%8D%E5%AE%88%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AB%E3%81%BF%E3%82%89%E3%82%8C|website = 江戸東京博物館|accessdate = 2023-6-17}}</ref>。受領名は限られていたため、同時期に複数の人物が同じ名を名乗ることも多かった。同じ役職に就いた場合には先任のものに遠慮して他の職に遷任する例であった。また律令における受領の官位相当は考慮されず、上下はなかった。 また、諸大夫以上の家格である「[[四品以上に昇進する大名家一覧|四品]]」以上の家格を持つ諸大名・[[高家 (江戸時代)|高家]]も「[[侍従]]」や「[[近衛府|近衛少将]]」といった官職名とは別に受領名を称した。たとえば[[赤穂事件]]で有名な[[吉良義央]]は[[従四位上]][[侍従]]・近衛少将などの官位にあったが、「上野介」の受領名を称している。なお、[[国主|国持大名]]が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、[[小倉藩]]から[[熊本藩]]へ加増転封されて肥後国主となった[[細川忠利]]は息子[[細川光尚|光尚]]の元服時に「肥後守」を名乗れるよう運動している<ref> [[山本博文]]『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』([[講談社学術文庫]]、2004年)P223</ref>。 [[浄瑠璃]]などの芸能者や、菓子舗などの職人が朝廷や公家等から免許を受けて掾などの下級の国司名を称することも行われた。播磨節の創始者[[井上播磨掾]]や、菓子屋の[[虎屋]]が近江大掾を称したのはその例である。 [[明治維新]]後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された。 == 国等級区分 == 各国に課せられた納税の規模は、当時の各国の国力に基づき判定された。 各国は時節の国情、時勢を元に変動する'''[[大国 (令制国)|大国]]'''(たいこく、たいごく)・'''[[上国]]'''(じょうこく、じょうごく)・'''[[中国 (令制国)|中国]]'''(ちゅうごく)・'''[[下国]]'''(げこく)の4等級に割り付けられた。 国司の格や役職数も時勢に基づき変動したが、基本的に[[官位相当制|官位相当]]は大国の守は従五位上、上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、上国には介を置き中国には介を置かず下国には介掾は置かないなどの規則が大宝令・養老令に定められていたものの、実際には各国の国司の繁忙さに合わせて国司の人員調整が行われていた。これを示すものとして、以下のような例がある。 # 『[[続日本紀]]』[[宝亀]]6年([[775年]])[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]の条によれば、「始めて[[伊勢国]]に少[[目 (国司)|目]]2員、[[三河国|参河国]]に大目1員と少目1員、[[遠江国]]に少目2員、[[駿河国]]に大目1員と少目1員、[[武蔵国]]に少目2員、[[下総国]]に少目2員、[[常陸国]]に[[少掾]]2員と少目2員、[[美濃国]]に少目2員、下野国に大目1員と少目1員、[[陸奥国]]に少目2員、[[越前国]]に少目2員、[[越中国]]に大目1員と少目1員、[[但馬国]]に大目1員と少目1員、[[因幡国]]に大目1員と少目1員、[[伯耆国]]に大目1員と少目1員、[[播磨国]]に少目2員、[[美作国]]に大目1員と少目1員、[[備中国]]に大目1員と少目1員、[[阿波国]]に大目1員と少目1員、[[伊予国]]に大目1員と少目1員、[[土佐国]]に大目1員と少目1員、[[肥後国]]に少目2員、[[豊前国]]に大目1員と少目1員を置く」とある。 # 『[[文徳天皇実録]]』[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]の条によれば、「下野国に大掾と少掾を各1名ずつ配置する」とある。 # 『[[日本三代実録]]』[[貞観 (日本)|貞観]]8年([[866年]])[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]の条によれば、当時の国司の介を置いていなかった上国を含む八国([[甲斐国]]、[[能登国]]、[[丹後国]]、[[石見国]]、[[周防国]]、[[長門国]]、[[土佐国]]、[[日向国]])に介を置き[[飛騨国]]に掾を置くなど、[[公廨稲]]・[[公廨田]]・[[事力]]の新たな分配を示す太政官判定があった旨が見え、これら9国で国司の増員が行われていたことが分かる。 ただし、この増員を国司の繁忙さだけを理由には出来ないとする説もある。天平宝字元年(757年)に余剰の[[公廨]]の一部を国司の官人達に分配して収入とすることが認められた結果、国司四等官の地位に利権としての要素が高まり、地方への赴任を臨む者が増加したため、そうした需要に応えるために財政的余裕がある国の定員を増やしたのではないかとする見方もある。神護景雲元年(767年)以降に記録上に現れる権守をはじめとする[[権官]]の設置がみられるようになるのも同様の趣旨とみられている。この指摘を裏付ける物として、天応元年(781年)に郡司・軍毅を除いてこれまでの増員分は全て一律に廃止されている。また、権守などの権官は引き続き残されるが、こちらも遙任として扱われるようになっている<ref>鐘江宏之「国の設置・併合と格付けの変化」『律令制諸国支配の成立と展開』(吉川弘文館、2023年) ISBN 978-4-642-04672-5 P229-235.</ref>。 === 延喜式の時代の各国の等級 === [[延喜式]]が策定された10世紀ごろの各国の等級は以下のとおり。 ;大国(14カ国) :大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国・{{要出典範囲|蝦夷国|date=2023年11月}} ;上国(35カ国) :山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国 ;中国(11カ国) :安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国 ;下国(10カ国) :和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国・{{要出典範囲|琉球国|date=2022年6月}} === 熟国・亡国 === 摂関政治期(10世紀)以降には、「熟国」と「亡国」と呼ばれる表現が登場する。熟国は「大国」「要国」とも称されて税収が豊かで朝廷財政を支える国、亡国は「亡弊国」「難国」「難治国」とも称されて税収が不安定であったり、災害や治安の悪化などで統治が困難な国を指した。ただし、その判断は具体的な数字に基づくものではなく、中央の判断に依拠するところが大きい(権力者の思惑で認定の有無が変わることがある)。受領による租税徴収の請負が確立されていた(裏を返せば中央へ納税した後の余剰を収入にすることが可能であった)当時において、多くの人々が熟国の受領に就くことを望み、特にほとんどの時期において熟国と判断されていた播磨国や伊予国の国司になることは大変名誉なこととされていた。ただし、朝廷財政の財源として熟国の租税が期待されており、規定の納税とは別に臨時の納税や[[成功 (任官)|成功]]への協力を求められることが多かった。反対に亡国の国司への任命は租税徴収の不振から[[受領功過定]]などで責任を問われる可能性が高くなるために忌避されていた。ただし税の減免申請は亡国にのみ認めるなど中央でも一定の配慮が行われ、更に中央への租税を確実に納めかつ国内の立て直しに成功すれば有能とみなされて、その後の昇進にも大きなプラスに働く可能性もあった<ref>神戸航介「熟国・亡国概念と摂関期の地方支配」『日本古代財務行政の研究』(吉川弘文館、2022年) ISBN 978-4-642-04669-5 P242-271.(原論文:『日本研究』52号、2016年)</ref>。 === 親王の任国 === 諸国の任国の内、[[上総国]]、[[常陸国]]、[[上野国]]の三ヶ国は、[[親王任国]]として、その長官を「[[太守]](たいしゅ)」と言った。 しかし、[[皇族]]であるため赴任はせず、ただ俸給のみをとっていたことから、欠員があっても俸給は他に使わず、無品(むほん)親王方のご入り用にあてられていた。 この三ヶ国を親王の任国としたのは、[[淳和天皇]](延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))の御代から始まったものである。 [[後醍醐天皇]](在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))の御代には、[[陸奥国]]も親王の任国とされ、義良(よしなが)親王([[後村上天皇]](在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))を太守としたことが「[[神皇正統記]]」に記載されている。 武家官位においても「介」の受領名を称することが通常であり、守を称した例はほとんどないが、[[織田信長]]は一時期「上総守」の受領名を称したことがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == *[[島司]] *[[八介]] *[[武蔵国司]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくし}} [[Category:律令制の国司|!]] [[Category:日本の行政官職 (廃止)]]
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わくわくワーキング
『わく♥わくワーキング』は、おーはしるいによる日本の4コマ漫画作品。コンビニチェーン店本社の女性営業主任が新人男性社員に片想いするという内容の4コマラブストーリー。竹書房の雑誌『まんがライフ』(月刊)で2001年4月号から2004年10月号までと、2005年2月号から2019年11月号まで連載。なお連載開始時から、いくつかのパターンがあるがタイトル中にはハートマーク(♥)がある。 連載開始前に、「スペシャルゲスト」という名目のパイロット版が発表されている。その時点では(現在の、本作を含む竹書房での発表作品と異なり)キャラクターに鼻が描かれていなかった。人物紹介の絵に鼻がないのはその名残り。第1巻掲載の一話目が、そのときの作品である。 2009年9月発売の『まんがライフセレクション』には、『ばつ×いち』との2作品コラボレーション漫画「わく×ばつ」が、2014年11月発売の同誌には2作品をコラボさせての性別逆転パロディ「ばつ×ぎゃく×わくな1日」掲載された。これらは『ばつ×いち』単行本(前者が第2巻、後者が第5巻)に収録されている。また、『ばつ×いち』第4巻には同じく「わく×ばつシンデレラ」が描き下ろされている。
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『わく♥わくワーキング』は、おーはしるいによる日本の4コマ漫画作品。コンビニチェーン店本社の女性営業主任が新人男性社員に片想いするという内容の4コマラブストーリー。竹書房の雑誌『まんがライフ』(月刊)で2001年4月号から2004年10月号までと、2005年2月号から2019年11月号まで連載。なお連載開始時から、いくつかのパターンがあるがタイトル中にはハートマーク(♥)がある。 連載開始前に、「スペシャルゲスト」という名目のパイロット版が発表されている。その時点では(現在の、本作を含む竹書房での発表作品と異なり)キャラクターに鼻が描かれていなかった。人物紹介の絵に鼻がないのはその名残り。第1巻掲載の一話目が、そのときの作品である。
『'''わく♥わくワーキング'''』は、[[おーはしるい]]による[[日本]]の[[4コマ漫画]]作品。コンビニチェーン店本社の女性営業主任が新人男性社員に片想いするという内容の4コマラブストーリー。[[竹書房]]の雑誌『[[まんがライフ]]』(月刊)で[[2001年]]4月号から[[2004年]]10月号までと、[[2005年]]2月号から2019年11月号まで連載。なお連載開始時から、いくつかのパターンがあるがタイトル中にはハートマーク(♥)がある。 連載開始前に、「スペシャルゲスト」という名目の[[パイロット版#マンガにおけるパイロット版|パイロット版]]が発表されている。その時点では(現在の、本作を含む竹書房での発表作品と異なり)キャラクターに鼻が描かれていなかった。人物紹介の絵に鼻がないのはその名残り。第1巻掲載の一話目が、そのときの作品である。 == 登場人物 == === 主要人物 === ; 松崎みお(まつざき みお) : 本編の[[主人公]]。29歳、独身。5歳上の頼りない兄がいる。「サイガマート」という、[[コンビニエンスストア|コンビニ]]チェーン店の本社営業二課に勤める[[主任]]。通称「鬼の松崎」。 : 仕事は積極的で妥協を許さず、その手腕を買われて女性初の営業主任として、営業二課を任されたキャリアウーマン。そのせいで、周囲にはきつい性格だと思われているが、実は傷つきやすく、人知れず泣くこともしばしば。 : 恋愛が苦手な(と言っても、過去にキスする仲になったくらいの彼氏はいた)のだが、7つ年下の部下である高沢壮太に片想い中。彼と少し手が触れ合っただけで顔を真っ赤にしてしまうほどの純情さを持つ。しかし「キャリアとしての生真面目さ」や「上司と部下であること」「自らの純情」「今まで学業や仕事に打ち込み続けたために恋愛免疫が無いこと」などが災いし、関係を進展させることが全く出来ない。普段は必死の思いで平静を保つが、密かにサイフに仕込んである高沢の写真を見て涙ぐんだりするなど、他人の目の無いところでは乙女チック一直線の行動をとってしまう。また仕事中でも高沢が長期休みや外部出張だったりすると彼の幻覚を見てしまうまでになる症状を引き起こしている。 : 営業一課の主任である中野とはライバル同士。しかし同様の理由のために、中野がみおのことを好きなことには気付けていない。 ; 高沢壮太(たかざわ そうた) : 22歳の新人営業マン。みおの直属の部下。童顔で背が小さい上に非力、臆病で泣き虫と、男としては頼りないが、仕事の成績は、時に新人らしい失敗はしてしまうものの、かなり優秀。ほんわかとした雰囲気と「無敵の笑顔」を武器に社内のアイドル的存在。恋愛に対する勘はとても鈍く、最初はみおと中野が恋人同士だと勘違いするほどである。 : 大学生のころはサイガマートの店舗でアルバイトとして働いていたことがあり、そのころバリバリの鬼営業であったみおに2、3回会ったことがある。仕事のできるみおを見て尊敬の感情を抱き、自分もああいう人になりたいと志し、サイガマートに入社した。幸運にも みおの直属の部下となったが、みおにはこのことをコミックス6巻まで話していない。また、みおはこのことを全く記憶していなかった。 : ここ最近みおと中野のじゃれあいを見ていると、なぜか変な気持ちになる。 : 家族は全員同じ顔で3兄弟の末っ子。長兄は29歳、次兄25歳。 ; 中野考(なかの こう) : みおと同期入社の29歳。5歳下の気の強い妹がいる。営業一課の主任。頭が切れるクールガイ。一課の方が営業成績が良いので、二課主任のみおに嫌味を言いに来る。ただ、高沢のほんわかした雰囲気に嫌味をかわされるので、彼だけは苦手。 : 新人のころからみおに片想い中なのだが、みおが高沢に夢中になっているのでそのことは打ち明けずにいる。「恋愛に不器用で素直になれない」という点ではみおと同じである。高沢絡みの事柄で自分が恋愛面で有利になるとわかっている場合でも、みおが悲しむ顔を思い浮かべた挙句二人の仲を応援するような行動をとってしまう、おまけに肝心のみおが中野の気持ちに全く気づいていないという現状ゆえに、良く言えば「男らしい」、悪く言えば「ドM」な状況に陥っている。 : 世界の遺跡に興味があり、熱く語る一面を持つ。 : 実家は和菓子屋。 ; 池内智美(いけうち ともみ) : みおと同期入社の29歳。総務部主任<!--「まんがライフ」の柱の人物紹介では「経理課主任」だが、単行本では「総務部主任」と記されている。誤植か?-->。新人時代は受付嬢をやっていた。高沢のことが好きだが、恋愛対象というよりは「ペット」のような感情で接している。様々な情報網を駆使していろいろな人の弱み(中には会社を揺るがすほどのネタもあるらしい)を握っており、謀略・策略・裏工作はお手のもの。「可愛い美少女」な外見とは裏腹に、その中身は非常にふてぶてしく、精神が真っ黒。 : みおと中野の気持ちをわかっているので、何かとちょっかいを出しては楽しんでいる。 : 幼いころに両親が離婚。母方に引き取られて育てられた。しかし、実はみおから(非公式に)「鬼[[ファザコン]]」と称されるほど父を愛している。実は父親もサイガマートの社員(人事部長)であり、父の背中を追って入社した経緯がある。同時に、父親がらみで落ち込んだ時にみおに慰められて立ち直ったことから、「みおは全力で守ってあげる、他はどーにでもなれ(7巻)」「みおが男だったらよかった(10巻)」と発言するなど、みおに対して友情を越えた感情に目覚めつつある。 : 入社および出世に関して、父のコネは(表向きでは)利用していない。父親よりも出世した暁には、自らのコネでさらなる上を目指そうと考えているようである。 ; 佐々木美奈(ささき みな) : 高沢と同期入社の22歳<!--「まんがライフセレクション」2008年6月7日増刊号描き下ろしのエピソードでは「20歳」となっている-->。通称「'''ノラムスメ'''」、あるいはそれを略して「'''ノラ'''」。みお曰く、[[キャロライン洋子]]似のキレイな子。新入社員当時、つまらないと思い込んでいた経理職について中野が優しく諭したことから中野を恋い慕うようになる。登場の都度さまざまな方策で中野を自分に振り向かせようと様々な手段で試みているが、中野には全く意に介されていない。勘が鋭く、中野がみおのことを好きであること、みおが高沢のことを好きであることを見抜いたが、これを認識していながらも中野へのアタックをやめようとは全くしていない。また高沢から中野とみおのじゃれあいについて相談された時に、失恋した中野が悲しむ顔を思い浮かべ、せっかくのチャンスをふいにするという行動を取った。のちに高沢陽太と知り合い、みおと壮太をくっつけるための共同戦線を張る。 : 恋敵であるみおには自らが中野を想う者として対等であることをアピールするためか、友達口調で接する。一方でともみに対しては生来の勘によりその危険性を察知し、野性の本能で「逆らってはいけない人間」「関わってはいけない人間」であることを勘付いているため大の苦手としている。その恐怖はともみが近づいただけで震えが止まらなくなり、みおの陰に隠れてしまうほど。 : 実は仕事が速く優秀なのだが、ノルマをこなすと中野を追いかけて職場放棄してしまうため問題児扱いされていた。後に当の中野から間接的にではあるがその態度を非難・軽蔑されたことをきっかけに、仕事に対し積極的になっている。 === 主要人物の家族等 === ; 高沢陽太(たかざわ ようた) : 高沢壮太の次兄。25歳。本名は本編に登場せず、みおたちからは「'''高沢兄'''」と呼ばれる。4巻カバー下表紙のプロフィールで初めて本名が明かされた。 : 壮太そっくりで中野やみおさえ間違えるが、中身は全く違い、ギャンブル狂でかなり金や女にだらしない。壮太自身よく間違われて「金返せ」「女返せ」と間違いで脅迫されて困っている。なお、唯一、ともみだけが彼と壮太の区別を完璧につけることができる(彼女いわく、目の横に目立たないホクロがあることが判別点であるらしい)。 : 特に女好きはかなりのもので、壮太の次の担当店のオーナー夫人が「きれいな人」だと聞くや否や(オーナー夫人を口説いてモノにするために)壮太を縛り上げて彼に成り代わり店に行こうとした。なお、その時にはともみに正体を見破られた上、「鬼の松崎」モードが発動したみおにこっぴどく叱られ、壮太の迷惑になることを諭されて未遂に終わる。 : かなりの問題児だが、弟に対する兄としての家族愛は本物で、壮太に自らの行動の被害が出ると解ると素直に謝り問題を解決しようとする。しかし、問題児であるがゆえに結果が出る(もしくは誰かに結果の予測を教えられて諭される)までにその行動が弟にどういう影響をおよぼすのかが全く理解できない。弟が博愛の人でありながらもみおに上司としての敬意以上の感情を抱きつつあることに気づいており、佐々木美奈と結託してみおと壮太をくっつけるための共同戦線を張る。 : 初めてみおに会ったときはみおたちを「おばはん」呼ばわりして、みおを真っ白にさせ、ともみにシメられ、壮太に叱られ、さらに壮太の強要でみお宛ての反省文まで書かされている。 : 壮太の必殺技である「高沢スマイル」ができない。やろうとすると、かなり腹黒な「企み笑み」になり、見た者の不安感をあおる(みおが見ると「その顔でそんなカオしないで」と泣き出す)。 ; 松崎臣(まつざき おみ) : みおの兄。34歳。身長176センチ。壮太と同様に博愛の人だが特に妹ラブ。八方美人のきらいがあり、それゆえに反感を買うこともある。結婚していたが嫁姑バトルを収められなかったことにより離婚。 ; 有川誠(ありかわ まこと) : 智美の実父でサイガマート人事部長。智美が幼いころに妻と離婚し独身だが、妻への愛情は全く薄れていない。また、ファザコンの娘の行く末を案じている。娘と同じく周囲が怯えるほどの情報網を持っている。壮太たちが勢いで拾ってどうにもならなくなっていた子猫を引き取り育てるなど、面倒見はいい方。 ; 中野加奈(なかの かな) : 考の妹。24歳。兄が長男として優遇されていたように見えていたことで対抗心を燃やし、「先に結婚した方が家を出る(実家を継がなくてもいい)」という取り決めを勝手に作り、交際していると思い込んでいるみおに掣肘を仕掛けるが、のちに若手職人に恋し、恋愛の手ほどきをみおに求めるようになる。 ; 池内智華(いけうち ともか) : 智美の実母。娘から「女帝」と評されるほどお高くとまった女性。娘が幼いころに夫(有川)と離婚しているが、愛情が薄れたためではなく、バレンタインチョコを贈ったり娘を含めた三人でクリスマスのホームパーティーを開いたりと、元夫との関係が良好なことを示している。 ; ジョン : 高沢家で飼っている犬。犬種不明だが大型。 === サイガマート社員等 === ; 阿部 正太(あべ しょうた) : 営業部営業2課所属でみおの部下。長らく本名不詳<ref group="注釈" name="名前">コミック11巻のカバー裏マンガでインタビューされた際に本名を答えているが、なぜか社屋のそばでやっていた工事の騒音が重なって聞き取れずじまいになっている。</ref>だったが、最終話近くになって名前が判明した。がっしりした体格で短髪。能力もやる気も会社への忠誠心もないため、ゆるやかなサボタージュやトラブルによってみおの足を引っ張ったりストレスの種を作ったりしている。 ; 馬場 努(ばば つとむ) : 営業部営業2課所属でみおの部下。長らく本名不詳<ref group="注釈" name="名前" />だったが、みおが海外事業部に転任するにあたり名前が判明した。メガネをかけオールバックにしている。大手会社であるサイガマートに入社できたことでモチベーションが尽き、定年までのんべんだらりと生きられれば良いと考えている。 ; 御局永遠(みつぼね とわ) : 経理三課主任。30歳<ref group="注釈">初登場時は39歳と書かれていたが、のちに訂正された。</ref>、佐々木の上司。作者が初期のころから考えていたキャラで、「真面目」「世話好き」「スタイルはいい」「年下のかわいい子が好み」という特徴がある。当初はノルマを果たすだけで姿を消す佐々木に手を焼いていたが、中野が叱ったことで仕事に打ち込むようになった佐々木を評価している。男性には凛々しさではなく可愛さを求めるタイプで、壮太が好みのド真ん中に入っている。そのため、壮太にそれとなくアプローチを仕掛けており、みおをヤキモキさせることがある。 : 大のアイドルファンで、推しのコンサートのために有休をとり、特別グッズ確保のために朝5時から会場で並べる猛者。さらにはコンサートのハシゴもこなす体力と集中力をもつ。 : 作者の別作品『醍鹿館のシェアメイト』にも登場している。 ; 広川(ひろかわ) : 大手コンビニチェーン「モーソン」からヘッドハンティングされやってきた35歳の女性。引き抜かれてサイガマートに来ただけあって極めて優秀、さらにみおよりも若く見え、加えて可愛らしい容姿をしている。女性が社会で頑張っていくための心得をみおに説くが、直後に10歳年下の同僚と結婚、退職した。 ; 立花亘(たちばな わたる) : サイガマートのオーナー兼店長。30歳。父親からオーナー職を継いだ新人店長。「鬼の松崎」時代のみおを知らないために彼女に好意をもち、あれこれとアタックをしかけるものの、みおが恋愛に関して奥手なためにそれに気づかず、「天然の難攻不落」と恐れている。みおが中野のことをあれこれ言うので「二人は交際しているのではないか?」と疑っていた時期もあった。 == 書誌情報 == * おーはしるい 『わくわくワーキング』 竹書房〈バンブーコミックス〉、全13巻 *# 2003年8月17日初版発行 <!--7月17日発売-->{{ISBN2|4-8124-5828-5}} *# 2005年7月16日初版発行 <!--6月16日発売-->{{ISBN2|4-8124-6193-6}} *# 2006年12月16日初版発行 <!--11月16日発売-->{{ISBN2|4-8124-6538-9}} *# 2008年11月10日初版発行 <!--10月27日発売-->{{ISBN2|978-4-8124-6897-5}} *# 2010年1月10日初版発行 <!--2009年12月26日発売-->{{ISBN2|978-4-8124-7213-2}} *# 2011年5月11日初版発行 <!--2011年4月27日発売-->{{ISBN2|978-4-8124-7544-7}} *# 2012年8月10日初版発行 <!--2012年7月27日発売-->{{ISBN2|978-4-8124-7941-4}} *# 2013年12月10日初版発行 <!--2013年12月27日発売-->{{ISBN2|978-4-8124-8490-6}} *# 2015年12月10日初版発行 <!--2013年12月26日発売-->{{ISBN2|978-4-8019-5435-9}} *# 2018年1月10日初版発行 {{ISBN2|978-4-8019-6147-0}} *# 2019年9月27日発売 {{ISBN2|978-4-8019-6391-7}} *# 2019年7月8日発売 {{ISBN2|978-4-8019-6676-5}} *# 2019年11月7日発売 {{ISBN2|978-4-8019-6794-6}} *:<!--以下、ページ数は扉絵等の描き下ろしを除いた「漫画」としての部分についてである。-->企画ページとして、第1巻では[[小笠原朋子]]による「こんな高沢くんはイヤだー!!」、第2巻では[[師走冬子]]による「こんな中野さんはイヤだー!!」というパロディが、各1ページ掲載されている。 *:第3-4巻には描き下ろしゲストコミックではなく、サイガマートの5人の性別が逆になったセルフパロディ「'''ぎゃくわくワーキング'''」が収録されている。第3巻分は『まんがライフ』2009年5月号の袋とじ付録小冊子に掲載された(その時は2Pでセリフも手書きだった)後に、[[2006年]]7月に発売された『[[まんがライフセレクション]] おーはしるいスペシャル』に収録された(この時点でもう2P描き下ろされ、セリフも写植になった)もの、第4巻分は[[2008年]]5月発売の『まんがライフセレクション』に掲載されたもの4Pである。 *:第5巻には作者による番外編「わくわくハイスクール」4Pが描き下ろされている。 *:第6-7巻には『まんがライフセレクション』に掲載された、おーはしの別作品『[[ばつ×いち]]』『ちび♥ぷり』『そんな毎日』との4作コラボレーション漫画「わく×ばつ×ぷりな毎日♥」(6巻収録、[[2010年]]11月発売号初出)、「[[不思議の国のアリス|不思議の国の]]わく×ばつ×ぷりな毎日♥」(7巻収録、[[2011年]]10月発売号初出)が収録されている。 *:第8巻には[[2013年]]3月発売の『まんがライフセレクション』に掲載された番外編ショートストーリー8Pが収録されている。 == 備考 == [[2009年]]9月発売の『まんがライフセレクション』には、『ばつ×いち』との2作品コラボレーション漫画「わく×ばつ」が、[[2014年]]11月発売の同誌には2作品をコラボさせての性別逆転パロディ「ばつ×ぎゃく×わくな1日」掲載された。これらは『ばつ×いち』単行本(前者が第2巻、後者が第5巻)に収録されている。また、『ばつ×いち』第4巻には同じく「わく×ばつ[[シンデレラ]]」が描き下ろされている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:わくわくわあきんく}} [[Category:漫画作品 わ|くわくわあきんく]] [[Category:2001年の漫画]] [[Category:まんがライフ]] [[Category:4コマ漫画]] [[Category:職場恋愛を扱った作品]]
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ニュートン法
数値解析の分野において、ニュートン法(ニュートンほう、英: Newton's method)またはニュートン・ラフソン法(英: Newton-Raphson method)は、方程式系を数値計算によって解くための反復法による求根アルゴリズムの1つである。対象とする方程式系に対する条件は、領域における微分可能性と2次微分に関する符号だけであり、線型性などは特に要求しない。収束の速さも2次収束なので古くから数値計算で使用されていた。名称はアイザック・ニュートンとジョゼフ・ラフソンに由来する。 この方法の考え方は以下のようである:まず初めに、予想される真の解に近いと思われる値をひとつとる。次に、そこでグラフの接線を考え、その x 切片を計算する。このx切片の値は、予想される真の解により近いものとなるのが一般である。以後、この値に対してそこでグラフの接線を考え、同じ操作を繰り返していく。 上の考え方は次のように定式化される。 ここでは、考える問題を f: R → R, x ∈ Rとして となる x を求めることに限定する。このとき、x の付近に適当な値 x0 をとり、次の漸化式によって、x に収束する数列を得ることができる場合が多い。 例として、 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} を計算で求める場合に、 とおき、f(x) = 0 の解を求めることを考える。 であるので、(1) の式は と書き表せる。たとえば x0 = 2 とおくと、この数列は 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} に収束するが、その収束の仕方は となる。 また、x0 = −1 とおくと、この数列は − 2 {\displaystyle -{\sqrt {2}}} に収束する。 初期値 x 0 {\displaystyle x_{0}} を解の十分近くに選ぶことを要求した上で、 の解を考える(解の存在を仮定する)。 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の x = x 0 {\displaystyle x=x_{0}} でのテーラー展開をすると このとき、(右辺)=0の解は、(左辺)=0の根の x 0 {\displaystyle x_{0}} での多項式次数一次の近似となっている。 右辺の解は 次に、この近似値が、 x 0 {\displaystyle x_{0}} より根に近づいている ということに関する意味を考える。 上式を、次のような離散力学系として考える。 この力学系において、 f ( x ∗ ) = 0 {\displaystyle f(x^{*})=0} となる x ∗ {\displaystyle x^{*}} は明らかに固定点である。 したがって | g ′ ( x ∗ ) | < 1 {\displaystyle |g'(x^{*})|<1} 、つまり x ∗ {\displaystyle x^{*}} が沈点(アトラクター、安定固定点)であり、 与えられた初期条件 x 0 {\displaystyle x_{0}} が、このアトラクターの吸引領域に属していれば x n {\displaystyle x_{n}} の ω {\displaystyle \omega } -極限( n → ∞ {\displaystyle n\rightarrow \infty } )は f ( x ∗ ) = 0 {\displaystyle f(x^{*})=0} となる x ∗ {\displaystyle x^{*}} に収束する。 x ∗ {\displaystyle x^{*}} が沈点である保証は、常に担保されてはいない。 例えばx軸の漸近線や関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の極値近傍では固定点が不安定になる事が知られている。 たとえば f ( x ∗ ) {\displaystyle f(x^{*})} を、適当な近傍の点 x n {\displaystyle x_{n}} で展開すると f ′ ( x ∗ ) ≠ 0 {\displaystyle f'(x^{*})\neq 0} なら、二次の余剰項 R 2 = f ′′ ( ξ n ) 2 ( x n − x ∗ ) 2 {\displaystyle R_{2}={\frac {f''(\xi _{n})}{2}}(x_{n}-x^{*})^{2}} として x n + 1 − x ∗ = − f ′′ ( ξ n ) 2 f ′ ( x n ) ( x n − x ∗ ) 2 {\displaystyle x_{n+1}-x^{*}=-{\frac {f''(\xi _{n})}{2f'(x_{n})}}(x_{n}-x^{*})^{2}} よって2次で収束する。 前節では解の存在を仮定した上で初期値 x 0 {\displaystyle x_{0}} を解の十分近くに選ぶことを要求した。これに対して、解の存在を仮定せず、初期値 x 0 {\displaystyle x_{0}} がある条件を満たすときに解の存在と反復の収束を示す定理を半局所収束定理(semi-local convergence theorem)という。1次元の場合での半局所収束定理はコーシーによって1829年に示され、 n {\displaystyle n} 次元ユークリッド空間での場合はファインによって1916年に示された。その後、バナッハ空間での半局所収束定理がカントロヴィチによって1948年に示され、現代ではニュートン=カントロヴィチの定理と呼ばれている。この定理にはいくつかの変種が知られており、(Ortega & Rheinboldt 1970)にまとめられている。 ニュートン法は、接線を一次近似式、接線のx切片を一次近似式の零点と考えることにより、より高次元の関数の場合に一般化できる。 対象となる関数を f: R → R, x ∈ R とし、 なる点 x を求めるには次のようにする。(f が同じ次元の空間の間の関数であることに注意せよ。) まず、今 x0 ∈ R が既知であるとする。x0における f(x) の一次近似式 を考える。ただし、∂f(x0) は、m × m のヤコビ行列である。 この一次近似式の零点を求める。ヤコビ行列∂f(x0) が正則行列であるとして、 を解いて、 となる。 コンピュータで計算を行う場合 ∂f(x0)f(x0) を直接求めることは困難なので、 という方程式をガウスの消去法などの解法によって線形方程式系を解き r を求め、x = x0 - r によって x を求める。 ここで求めた x はx0よりも f(x) = 0 の解に近いことが見込まれる。そこで、今求めた x を x1 として、再び同様の計算を繰り返す。計算を繰り返すことによって xn は f(x) = 0 の解に近づいていく。 逆行列を求めることを避けるために共役勾配法を用いることがある。 ニュートン法により近似値を求めようとする場合にはヤコビ行列が陽に分からなければ計算できない。しかし、関数 f によってはヤコビ行列が陽に分からない場合もある。この場合にはヤコビ行列を必要としない準ニュートン法を用いる。 また、f (x) = 0 を満たす真の解 x において導関数が f '(x) = 0 であった場合、収束の速さは1次に退化する。 ニュートン法の考え方を少し改良することにより、(1) の代わりに次の式を用いる方法を得る。 この方法は、場合によっては従来の方法より速い。 ニュートン法の局所的な2次収束性を保ちつつ、不安定な振る舞いを抑えるように工夫した方法として平野の変形ニュートン法が知られている。 ニュートン法における導関数の計算を簡略化したものが簡易ニュートン法である: 簡易ニュートン法に対する半局所収束定理は占部の定理として知られる。占部の定理は元々数学的帰納法を使って示されたが、その後、バナッハの不動点定理を使った別証明が与えられた。 簡易ニュートン法に対する半局所収束定理の条件をより容易に評価するために開発された簡易ニュートン法の変種がクラフチック(Krawczyk)法である。 ニュートン法に対する半局所収束定理の条件をより容易に評価するために開発されたニュートン法の変種が区間ニュートン法である。 ニュートン法において微分の代わりに微分のq-類似(q-微分)を使う反復をq-ニュートン法という: q-ニュートン法に対する半局所収束定理がq-ニュートン-カントロビッチの定理である。
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数値解析の分野において、ニュートン法またはニュートン・ラフソン法は、方程式系を数値計算によって解くための反復法による求根アルゴリズムの1つである。対象とする方程式系に対する条件は、領域における微分可能性と2次微分に関する符号だけであり、線型性などは特に要求しない。収束の速さも2次収束なので古くから数値計算で使用されていた。名称はアイザック・ニュートンとジョゼフ・ラフソンに由来する。
[[数値解析]]の分野において、'''ニュートン法'''(ニュートンほう、{{lang-en-short|Newton's method}})または'''ニュートン・ラフソン法'''({{lang-en-short|Newton-Raphson method}})は、[[方程式]]系を数値計算によって解くための[[反復法_(数値計算)|反復法]]による[[求根アルゴリズム]]の1つである。対象とする方程式系に対する条件は、領域における微分可能性と2次微分に関する符号だけであり、[[線型性]]などは特に要求しない。収束の速さも2次収束なので古くから数値計算で使用されていた。名称は[[アイザック・ニュートン]]と[[ジョゼフ・ラフソン]]に由来する。 == 導入 == [[ファイル:newton_iteration.svg|thumb|right|350px|ニュートン法の一手順の概念図 (青い線が関数 ''f'' のグラフで、その接線を赤で示した). ''x''<sub>''n''</sub> よりも ''x''<sub>''n''+1</sub> のほうが、 ''f''(''x'')=0 の解 ''x'' についてのよりよい近似を与えている.]] この方法の考え方は以下のようである:まず初めに、予想される真の解に近いと思われる値をひとつとる。次に、そこでグラフの接線を考え、その ''x'' 切片を計算する。この''x''切片の値は、予想される真の解により近いものとなるのが一般である。以後、この値に対してそこでグラフの接線を考え、同じ操作を繰り返していく。 上の考え方は次のように定式化される。 ここでは、考える問題を ''f'': '''R''' &rarr; '''R''', ''x'' &isin; '''R'''として :<math>f(x) = 0\,</math> となる ''x'' を求めることに限定する。このとき、''x'' の付近に適当な値 ''x''<sub>0</sub> をとり、次の[[漸化式]]によって、''x'' に[[数列の極限|収束]]する数列を得ることができる場合が多い。 :{{anchors|naive-newton}}<math>x_{n+1} = x_n - \frac{f(x_n)}{f'(x_n)} \quad \cdots (1) </math> [[File:Newton-Raphson method.gif|right|400px]] 例として、<math> \sqrt{2} </math> を計算で求める場合に、 :<math>f(x) = x^2 - 2\,</math> とおき、''f''(''x'') = 0 の解を求めることを考える。 :<math>f'(x) = 2x\,</math> であるので、[[#naive-newton|(1)]] の式は :<math>x_{n+1} = x_n - \frac{x_n^2-2}{2x_n} = \frac{1}{2}\left( x_n + \frac{2}{x_n} \right)</math> と書き表せる。たとえば ''x''<sub>0</sub> = 2 とおくと、この数列は <math> \sqrt{2}</math> に収束するが、その収束の仕方は :''x''{{sub|0}} = 2 :''x''{{sub|1}} = {{underline|1}}.5 :''x''{{sub|2}} = {{underline|1.41}}6666… :''x''{{sub|3}} = {{underline|1.41421}}56862745… :''x''{{sub|4}} = {{underline|1.41421356237}}46899… (下線部は<math>\sqrt{2}</math>と一致する部分) となる。 また、''x''<sub>0</sub> = &minus;1 とおくと、この数列は <math>-\sqrt{2}</math>に収束する。 == 理論 == === 局所収束定理 === 初期値<math>x_0</math>を解の十分近くに選ぶことを要求した上で、 :<math>f(x) = 0\,</math> の解を考える(解の存在を仮定する)。 <math>f(x)</math> の <math>x=x_0</math> での[[テーラー展開]]をすると :<math>f(x) =f(x_0)+f^{\prime}(x_0)(x-x_0)+O((x-x_0)^2)</math> このとき、(右辺)=0の解は、(左辺)=0の根の <math>x_0</math>での多項式次数一次の近似となっている。 右辺の解は :<math>x=x_0-\frac{f(x_0)}{f^{\prime}(x_0)}</math> 次に、この近似値が、<math>x_0</math>より根に近づいている ということに関する意味を考える。 上式を、次のような離散力学系として考える。 :<math>x_{n+1} = g(x_n)</math>, ただし <math>g(x) = x - \frac{f(x)}{f'(x)}</math> この力学系において、<math>f(x^*)=0</math> となる<math>x^*</math>は明らかに[[固定点]]である。 したがって<math>|g'(x^*)|<1</math>、つまり<math>x^*</math>が沈点(アトラクター、安定固定点)であり、 与えられた初期条件<math>x_0</math>が、このアトラクターの吸引領域に属していれば <math>x_n</math>の[[w:en:limit set|<math>\omega</math>-極限]](<math>n \rightarrow \infty</math>)は <math>f(x^*)=0</math>となる<math>x^*</math>に収束する。 <math>x^*</math>が沈点である保証は、常に担保されてはいない。 例えばx軸の[[漸近線]]や関数<math>f(x)</math>の[[極値]][[近傍]]では固定点が不安定になる事が知られている。 <ref> {{ cite |url=http://mathworld.wolfram.com/NewtonsMethod.html |title=Newton's Method(Wolfram Math World) |accessdate = 2010-06-08 }}</ref> たとえば<math>f(x^*)</math>を、適当な近傍の点<math>x_n</math>で展開すると<math>f'(x^*)\neq0</math>なら、二次の余剰項<math>R_2=\frac{f''(\xi_n)}{2}(x_n-x^*)^2</math>として <math>x_{n+1}-x^*=-\frac{f''(\xi_n)}{2f'(x_n)}(x_n-x^*)^2</math> よって2次で収束する。 === 半局所収束定理 === {{see also|ニュートン=カントロビッチの定理}} 前節では解の存在を仮定した上で初期値<math>x_0</math>を解の十分近くに選ぶことを要求した。これに対して、解の存在を仮定せず、初期値<math>x_0</math>がある条件を満たすときに解の存在と反復の収束を示す定理を半局所収束定理({{en|semi-local convergence theorem}})という。1次元の場合での半局所収束定理は[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]によって1829年に示され、<math>n</math>次元[[ユークリッド空間]]での場合はファイン<ref> {{cite journal |last=Fine |first=Henry B. |date=1916-09-15 |title=On Newton’s Method of Approximation |journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America |volume=2 |issue=9 |pages=546–552 |jstor=83815 |ref=harv }} </ref>によって1916年に示された。その後、[[バナッハ空間]]での半局所収束定理が[[レオニート・カントロヴィチ|カントロヴィチ]]によって1948年に示され、現代では[[ニュートン=カントロビッチの定理|ニュートン=カントロヴィチの定理]]と呼ばれている<ref>数値解析入門(増訂版)、山本哲朗、[[サイエンス社]]、2003年。</ref>。この定理にはいくつかの変種が知られており、{{harv|Ortega|Rheinboldt|1970}}<ref> {{cite book |first=J. |last=Ortega |first2=W. |last2=Rheinboldt |title=Iterative Solution of Nonlinear Equations in Several Variables |publisher=Academic Press |date=1970 |ref=harv }}</ref>にまとめられている。 == 高次元の場合 == ニュートン法は、接線を一次近似式、接線の''x''切片を一次近似式の零点と考えることにより、より高次元の関数の場合に一般化できる。 対象となる関数を ''f'': '''R'''<sup>''m''</sup> &rarr; '''R'''<sup>''m''</sup>, '''x''' &isin; '''R'''<sup>''m''</sup> とし、 :<math>f(\mathbf{x}) = \mathbf{0}</math> なる点 '''x''' を求めるには次のようにする。(''f'' が同じ次元の空間の間の関数であることに注意せよ。) まず、今 '''x'''<sub>0</sub> &isin; '''R'''<sup>''m''</sup> が既知であるとする。'''x'''<sub>0</sub>における ''f''('''x''') の一次[[近似式]] :<math> f(\mathbf{x}_0) + \partial f(\mathbf{x}_0)(\mathbf{x} - \mathbf{x}_0)</math> を考える。ただし、&part;''f''('''x'''<sub>0</sub>) は、''m'' &times; ''m'' の[[ヤコビ行列]]である。 この一次近似式の零点を求める。ヤコビ行列&part;''f''('''x'''<sub>0</sub>) が[[正則行列]]であるとして、 :<math> f(\mathbf{x}_0) + \partial f(\mathbf{x}_0)(\mathbf{x} - \mathbf{x}_0)=\mathbf{0} </math> を解いて、 :<math> \mathbf{x} = \mathbf{x}_0 - \partial f(\mathbf{x}_0)^{-1} f(\mathbf{x}_0)</math> となる。 コンピュータで計算を行う場合 &part;''f''('''x'''<sub>0</sub>)<sup>-1</sup>''f''('''x'''<sub>0</sub>) を直接求めることは困難なので、 :<math> \partial f(\mathbf{x}_0) \mathbf{r} = f(\mathbf{x}_0) </math> という方程式を[[ガウスの消去法]]などの解法によって[[線形方程式系]]を解き '''r''' を求め、'''x''' = '''x'''<sub>0</sub> - '''r''' によって '''x''' を求める。 ここで求めた '''x''' は'''x'''<sub>0</sub>よりも ''f''('''x''') = '''0''' の解に近いことが見込まれる。そこで、今求めた '''x''' を '''x'''<sub>1</sub> として、再び同様の計算を繰り返す。計算を繰り返すことによって '''x'''<sub>n</sub> は ''f''('''x''') = '''0''' の解に近づいていく。 逆行列を求めることを避けるために共役勾配法を用いることがある。 == 注意 == ニュートン法により近似値を求めようとする場合にはヤコビ行列が陽に分からなければ計算できない。しかし、関数 ''f'' によってはヤコビ行列が陽に分からない場合もある。この場合にはヤコビ行列を必要としない[[準ニュートン法]]を用いる。 また、{{math|''f'' (''x''<sup>*</sup>) {{=}} 0}} を満たす真の解 {{math|''x''<sup>*</sup>}} において導関数が {{math|''f'' '(''x''<sup>*</sup>) {{=}} 0}} であった場合、収束の速さは1次に退化する<ref>{{cite|和書 |editor= |author=小澤一文 |title=Cで学ぶ数値計算アルゴリズム |edition= |publisher=共立出版 |year=2008 |isbn=978-4-320-12221-5 |page=49}}</ref>。 == 改良 == ニュートン法の考え方を少し改良することにより、[[#naive-newton|(1)]] の代わりに次の式を用いる方法を得る。 :<math> x_{k+1}=x_k-\frac{\Bigl[f(x_k)\Bigr]^2} {\; f^{\boldsymbol\prime}(x_k) \Bigl[f(x_k)-f \Bigl( x_k-\dfrac{f(x_k)}{f^{\boldsymbol\prime}(x_k)} \Bigr) \Bigr]\;} </math> この方法は、場合によっては従来の方法より速い<ref>{{cite journal|和書 |last=長島 |first=隆廣 |title=ニュートン近似の改良 |journal=数学セミナー |volume=19 |issue=5 |page=112 |date=1980-05 |publisher=日本評論社 |ref=harv }}</ref>。 <!-- 記:長島 隆廣 --> === 平野の変形ニュートン法 === ニュートン法の局所的な2次収束性を保ちつつ、不安定な振る舞いを抑えるように工夫した方法として'''平野の変形ニュートン法'''が知られている<ref>室田一雄「平野の変形Newton法の大域的収束性」数理解析研究所講究録 (1981), 422: 104-118</ref>。 === 簡易ニュートン法 === ニュートン法における導関数の計算を簡略化したものが'''簡易ニュートン法'''である: :<math>x_{n+1} = x_n - \frac{f(x_n)}{f'(x_0)}. </math> 簡易ニュートン法に対する半局所収束定理は''[[占部実|占部]]の定理''として知られる。[[占部実|占部]]の定理は元々[[数学的帰納法]]を使って示されたが、その後、[[バナッハの不動点定理]]を使った別証明が与えられた<ref>非線形解析入門、[[大石進一]]、[[コロナ社 (出版社)|コロナ社]]、1997年。</ref>。 ==== クラフチック法 ==== 簡易ニュートン法に対する半局所収束定理の条件をより容易に評価するために開発された簡易ニュートン法の変種が'''クラフチック(Krawczyk)法'''である<ref>精度保証付き数値計算、[[大石進一]]、[[コロナ社 (出版社)|コロナ社]]、2000年。</ref><ref>[[大石進一]] et. al. (2018), 精度保証付き数値計算の基礎, [[コロナ社 (出版社)|コロナ社]].</ref>。 === 区間ニュートン法 === {{main|区間ニュートン法}} ニュートン法に対する半局所収束定理の条件をより容易に評価するために開発されたニュートン法の変種が'''区間ニュートン法'''である<ref>[http://www2.math.uni-wuppertal.de/~xsc/xsc/node12.html Interval Newton Method]</ref>。 ==={{mvar|q}}-ニュートン法=== ニュートン法において微分の代わりに微分の[[q-類似]]({{mvar|q}}-微分)を使う反復を'''{{mvar|q}}-ニュートン法'''という<ref>{{Citation|last=Rajković|first=P.|last2=Stanković|first2=M.|last3=Marinković|first3=D, S.|date=2002-01|title=Mean value theorems in g-calculus|journal=Matematički vesnik|volume=54|issue=3-4|pages=171-178|publisher=Mathematical Society of Serbia, Belgrade|url=http://scindeks-clanci.ceon.rs/data/pdf/0025-5165/2002/0025-51650204171R.pdf}}</ref>: :<math>x_{n+1} = x_n - \frac{f(x_n)}{D_q(x_n)}. </math> {{mvar|q}}-ニュートン法に対する半局所収束定理が{{mvar|q}}-ニュートン-カントロビッチの定理である<ref>{{Citation|last=Rajković|first=P. M.|last2=Marinković|first2=S. D.|last3=Stanković|first3=M. S.|date=2005-09-15|title=On q-Newton–Kantorovich method for solving systems of equations|journal=Applied Mathematics and Computation|volume=168|issue=2|pages=1432-1448|publisher=Elsevier|doi=10.1016/j.amc.2004.10.035|url=https://www.researchgate.net/publication/220557685_On_q-Newton-Kantorovich_method_for_solving_systems_of_equations}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[除算 (デジタル)]] * [[ガウス・ニュートン法]] * [[ニュートン=カントロビッチの定理]] == 外部リンク == {{Commonscat|Newton Method}} *{{高校数学の美しい物語|733|ニュートン法の解説とそれを背景とする入試問題}} * 山本哲朗、「[https://doi.org/10.11429/sugaku1947.37.1 Newton法とその周辺]」『数学』 1985年 37巻 1号 p.1-15, {{doi|10.11429/sugaku1947.37.1}}, 日本数学会 {{calculus topics}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にゆうとんほう}} [[Category:アイザック・ニュートン]] [[Category:求根アルゴリズム]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学のエポニム]]
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五稜郭
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭である。 予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。 五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。 現在残る星形の遺構から外側100~350メートルには、北と北西を除いて外郭の土塁がかつて存在したが、現在では国有保安林となっている箇所以外、面影は失われている。 国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。 1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(現在の元町公園。当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった)に置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内の箱館山に登れば奉行所を眼下に見下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面への移転が必要だと上申。そして竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内からの艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中・阿部正弘に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した。 併せて、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部はこれらを同時に築造するのは困難なので、まず弁天岬(弁天台場)と築島(着工されず)に着手するよう指示している。 1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された。当初は工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。 1856年(安政3年)11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画だったが、この地は地盤が脆弱で冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた。 1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した。 五稜郭の総工費は10万4090両(予算14万3千両)、その内訳は堀割・土塁・石垣などの土木工事に5万3144両(予算9万8千両)、建物の建築工事に4万4854両(予算2万5千両)、水道の敷設工事に6092両(予算2万両)というもので、これとは別に弁天台場が10万7277両(予算10万両)を費やして築かれた。この大事業に最繁期で5〜6千人の人夫が使われたといわれ、箱館には人が満ちて街は大いに潤った。 大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの、各地で敗北。10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態だったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。 同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き、大砲を並べ砲撃した。猛烈な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、また五稜郭には堡塁がなかったため、石垣や堤を盾にして畳を敷き、屏風を立ててかろうじて攻撃を凌ぐ有様だった。その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議を経て5月18日に榎本らが降伏、五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍に引き渡された。 明治以降、五稜郭は兵部省から1873年(明治6年)には陸軍省の所管となった。奉行所庁舎および付属建物の多くは、1871年(明治4年)に札幌の開拓使本庁舎建設の資材とする目的で解体されたが、実際には札幌に運ばれず、札幌本道の工事や蓬莱町遊廓の建設資材として使われた。 その後、五稜郭は特に手を加えられることなく、練兵場として使用された。このほか、1890年(明治23年)から1899年(明治32年)まで函館要塞砲兵大隊の仮事務所が置かれた。 一般市民は立入禁止となっていたが、中川嘉兵衛が陸軍の許可を得て、1871年から五稜郭の氷を切り出して「函館氷」として売り出していた。 1913年(大正2年)、函館区長・北守政直が陸軍大臣に、五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行った。陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され、翌年五稜郭公園(ごりょうかくこうえん)として一般開放された。また、『函館毎日新聞』が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹した。この桜は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の花見の名所となっている。 1925年(大正11年)には内務省に所管が変わるとともに、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟に指定された。1929年(昭和4年)には郭外の長斜坂が追加指定され、文部省の所管となった。そして戦後、文化財保護法が制定されると、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。 1954年(昭和29年)には、函館で開催された北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)の第2会場となった。北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌1955年(昭和30年)から市立函館博物館五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、2007年(平成19年)11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していた。また、発掘調査・復元工事が行われる以前には中央部の広場で地元の運動会や夏季の林間学校などが行われ、堀も水質が良好だった時代には、プールやスケートリンクとして使用されていた。 1964年(昭和39年)、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの五稜郭タワーが開業。 1970年(昭和45年)からは毎年5月に「箱館五稜郭祭」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」、土方歳三の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われている。 そのほか、1986年(昭和61年)から2013年(平成25年)までははこだて冬フェスティバルの会場の1つとなり、市民団体えぞ共和国が五稜郭ファミリーイベントを開催。同イベントでは、1990年(平成2年)から2010年(平成22年)まで陸上自衛隊第28普通科連隊が長さ約40メートルの雪像すべり台を製作したほか、北海道大学水産学部の学生が、赤いふんどしに足袋を履いた姿で女性騎手をのせたタイヤチューブを曳き走る赤ふんダービーも行われた。 また、1988年(昭和63年)から五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「市民創作函館野外劇」や、1989年(平成元年)からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢」が始まり、現在まで続いている。2006年(平成18年)には、五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築された。 五稜郭は、2004年(平成16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されたほか、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」と「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している。 函館市では、1983年(昭和58年)頃から五稜郭の復元整備を目的とした資料調査を進めた。これと並行して郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い、奉行所等建物の遺構の残存状況が良好なことを確認し、1985年(昭和60年)から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始した。1985年(昭和60年)から1989年(平成元年)、1993年(平成5年)から2000年(平成12年)、2001年(平成13年)、2005年(平成17年)と4度の発掘調査を行い、復元に向けて多数の基礎的資料を得ている。 この間、有識者で構成された「特別史跡五稜郭跡保存整備委員会」が、2000年(平成12年)に「箱館奉行所復元構想」を、2001年(平成13年)に「箱館奉行所復元計画(郭内土塁内エリア整備計画)」を策定し、箱館奉行所庁舎等の復元整備と活用・公開等についての計画を立案した。その後、文化庁と復元に向けた協議を実施し、2006年(平成18年)に現状変更許可を得て着工した。2010年(平成22年)に復元工事が完成、7月29日に開館した。 五稜郭は、水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートルであり、うち郭内は約12万平方メートルである。 予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小された。当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の斜堤も4辺しか造られなかった。 堀を掘った土で土塁を築いた。本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は砲台として使用された。そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の斜堤が築かれた。 総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた。総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4ないし5メートル、外周は約1.8キロメートル。築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。しかし、第二次世界大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化、悪臭を放つようになったため、1974年(昭和49年)からは水道水を堀に流すようになった。 当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった。函館山などから切り出された石材を使用したが、堀の石垣では資金不足のため赤川や亀田川の石を集めて代用した箇所がある(裏門橋側の一部に見られる)。半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いている。 現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた。なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは太鼓橋が架けられていた。 五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢など計26棟が建てられた。建材は津軽・南部・出羽など、瓦は能登・越後など、釘や畳は江戸というように各地から運ばれた資材が用いられた。なお、建材は能代などで予め加工し、現場では組立だけとすることで、経費節減に努めていた。 郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートル。一部2階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた。また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた。 正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している。 奉行所の復元に際し、当初、函館市は奉行所の建物全体の復元を計画したが、建築基準法では1,000平方メートルごとに防火壁を設置しなければならず、復元と防火壁の両立を文化庁と協議した結果、景観上芳しくないこともあり断念し、約1,000平方メートル以内の復元に留めることとなった。当時と同じ材料、同じ工法で、奉行所の南棟と中央棟部分が復元され、復元された奉行所は、平成23年度の北海道赤レンガ建築賞を受賞している。 築造当時から唯一現存する建物である。明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され、一般開放後、1917年(大正6年)から片上楽天が私設の展示館「懐古館」を開き箱館戦争の資料を展示していたほか、市立博物館の科学教室としても使用されていたことがある。1972-1973年と2001-2002年に復元工事が行われ現在の姿となった。 奉行所復元と同時に、兵糧庫の北側にあった市立博物館五稜郭分館を解体し、板庫(いたくら)と土蔵を復元している。板庫は売店および休憩所、土蔵は管理事務所に使用されている。 五稜郭の北側(現在の中道1丁目および本道1丁目)に、組頭以下同心までの役宅や長屋、数十軒が建設された。付近には郷宿や料理店も開業し街が形成されたが、箱館総攻撃の際に退却する旧幕府軍により焼き払われた。現在は住宅街となっている。 築造時点では大砲を設置していなかったとみられるが、旧幕府軍が五稜郭を占領した時には、二十四斤砲4門が配備されていた。 箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤加農砲9門、四斤施条クルップ砲13門、拇短クルップ砲10門を配備していた。但し降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は、長加農二十四斤砲9門、四斤施条砲3門、短忽微(ホーイッスル)砲2門、亜ホート忽微砲3門、十三拇(ドイム)臼砲16門であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在残る星形の遺構から外側100~350メートルには、北と北西を除いて外郭の土塁がかつて存在したが、現在では国有保安林となっている箇所以外、面影は失われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(現在の元町公園。当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった)に置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内の箱館山に登れば奉行所を眼下に見下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面への移転が必要だと上申。そして竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内からの艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中・阿部正弘に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "併せて、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部はこれらを同時に築造するのは困難なので、まず弁天岬(弁天台場)と築島(着工されず)に着手するよう指示している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された。当初は工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1856年(安政3年)11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画だったが、この地は地盤が脆弱で冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "五稜郭の総工費は10万4090両(予算14万3千両)、その内訳は堀割・土塁・石垣などの土木工事に5万3144両(予算9万8千両)、建物の建築工事に4万4854両(予算2万5千両)、水道の敷設工事に6092両(予算2万両)というもので、これとは別に弁天台場が10万7277両(予算10万両)を費やして築かれた。この大事業に最繁期で5〜6千人の人夫が使われたといわれ、箱館には人が満ちて街は大いに潤った。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの、各地で敗北。10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態だったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き、大砲を並べ砲撃した。猛烈な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、また五稜郭には堡塁がなかったため、石垣や堤を盾にして畳を敷き、屏風を立ててかろうじて攻撃を凌ぐ有様だった。その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議を経て5月18日に榎本らが降伏、五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍に引き渡された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "明治以降、五稜郭は兵部省から1873年(明治6年)には陸軍省の所管となった。奉行所庁舎および付属建物の多くは、1871年(明治4年)に札幌の開拓使本庁舎建設の資材とする目的で解体されたが、実際には札幌に運ばれず、札幌本道の工事や蓬莱町遊廓の建設資材として使われた。 その後、五稜郭は特に手を加えられることなく、練兵場として使用された。このほか、1890年(明治23年)から1899年(明治32年)まで函館要塞砲兵大隊の仮事務所が置かれた。 一般市民は立入禁止となっていたが、中川嘉兵衛が陸軍の許可を得て、1871年から五稜郭の氷を切り出して「函館氷」として売り出していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1913年(大正2年)、函館区長・北守政直が陸軍大臣に、五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行った。陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され、翌年五稜郭公園(ごりょうかくこうえん)として一般開放された。また、『函館毎日新聞』が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹した。この桜は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の花見の名所となっている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1925年(大正11年)には内務省に所管が変わるとともに、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟に指定された。1929年(昭和4年)には郭外の長斜坂が追加指定され、文部省の所管となった。そして戦後、文化財保護法が制定されると、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1954年(昭和29年)には、函館で開催された北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)の第2会場となった。北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌1955年(昭和30年)から市立函館博物館五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、2007年(平成19年)11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していた。また、発掘調査・復元工事が行われる以前には中央部の広場で地元の運動会や夏季の林間学校などが行われ、堀も水質が良好だった時代には、プールやスケートリンクとして使用されていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの五稜郭タワーが開業。 1970年(昭和45年)からは毎年5月に「箱館五稜郭祭」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」、土方歳三の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "そのほか、1986年(昭和61年)から2013年(平成25年)までははこだて冬フェスティバルの会場の1つとなり、市民団体えぞ共和国が五稜郭ファミリーイベントを開催。同イベントでは、1990年(平成2年)から2010年(平成22年)まで陸上自衛隊第28普通科連隊が長さ約40メートルの雪像すべり台を製作したほか、北海道大学水産学部の学生が、赤いふんどしに足袋を履いた姿で女性騎手をのせたタイヤチューブを曳き走る赤ふんダービーも行われた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、1988年(昭和63年)から五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「市民創作函館野外劇」や、1989年(平成元年)からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢」が始まり、現在まで続いている。2006年(平成18年)には、五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "五稜郭は、2004年(平成16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されたほか、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」と「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "函館市では、1983年(昭和58年)頃から五稜郭の復元整備を目的とした資料調査を進めた。これと並行して郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い、奉行所等建物の遺構の残存状況が良好なことを確認し、1985年(昭和60年)から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始した。1985年(昭和60年)から1989年(平成元年)、1993年(平成5年)から2000年(平成12年)、2001年(平成13年)、2005年(平成17年)と4度の発掘調査を行い、復元に向けて多数の基礎的資料を得ている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この間、有識者で構成された「特別史跡五稜郭跡保存整備委員会」が、2000年(平成12年)に「箱館奉行所復元構想」を、2001年(平成13年)に「箱館奉行所復元計画(郭内土塁内エリア整備計画)」を策定し、箱館奉行所庁舎等の復元整備と活用・公開等についての計画を立案した。その後、文化庁と復元に向けた協議を実施し、2006年(平成18年)に現状変更許可を得て着工した。2010年(平成22年)に復元工事が完成、7月29日に開館した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "五稜郭は、水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートルであり、うち郭内は約12万平方メートルである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小された。当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の斜堤も4辺しか造られなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "堀を掘った土で土塁を築いた。本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は砲台として使用された。そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の斜堤が築かれた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた。総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4ないし5メートル、外周は約1.8キロメートル。築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。しかし、第二次世界大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化、悪臭を放つようになったため、1974年(昭和49年)からは水道水を堀に流すようになった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった。函館山などから切り出された石材を使用したが、堀の石垣では資金不足のため赤川や亀田川の石を集めて代用した箇所がある(裏門橋側の一部に見られる)。半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた。なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは太鼓橋が架けられていた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢など計26棟が建てられた。建材は津軽・南部・出羽など、瓦は能登・越後など、釘や畳は江戸というように各地から運ばれた資材が用いられた。なお、建材は能代などで予め加工し、現場では組立だけとすることで、経費節減に努めていた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートル。一部2階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた。また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "奉行所の復元に際し、当初、函館市は奉行所の建物全体の復元を計画したが、建築基準法では1,000平方メートルごとに防火壁を設置しなければならず、復元と防火壁の両立を文化庁と協議した結果、景観上芳しくないこともあり断念し、約1,000平方メートル以内の復元に留めることとなった。当時と同じ材料、同じ工法で、奉行所の南棟と中央棟部分が復元され、復元された奉行所は、平成23年度の北海道赤レンガ建築賞を受賞している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "築造当時から唯一現存する建物である。明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され、一般開放後、1917年(大正6年)から片上楽天が私設の展示館「懐古館」を開き箱館戦争の資料を展示していたほか、市立博物館の科学教室としても使用されていたことがある。1972-1973年と2001-2002年に復元工事が行われ現在の姿となった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "奉行所復元と同時に、兵糧庫の北側にあった市立博物館五稜郭分館を解体し、板庫(いたくら)と土蔵を復元している。板庫は売店および休憩所、土蔵は管理事務所に使用されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "五稜郭の北側(現在の中道1丁目および本道1丁目)に、組頭以下同心までの役宅や長屋、数十軒が建設された。付近には郷宿や料理店も開業し街が形成されたが、箱館総攻撃の際に退却する旧幕府軍により焼き払われた。現在は住宅街となっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "築造時点では大砲を設置していなかったとみられるが、旧幕府軍が五稜郭を占領した時には、二十四斤砲4門が配備されていた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤加農砲9門、四斤施条クルップ砲13門、拇短クルップ砲10門を配備していた。但し降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は、長加農二十四斤砲9門、四斤施条砲3門、短忽微(ホーイッスル)砲2門、亜ホート忽微砲3門、十三拇(ドイム)臼砲16門であった。", "title": "構造" } ]
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭である。 予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。
{{otheruses||テレビドラマ|五稜郭 (テレビドラマ)}} {{画像提供依頼| # 箱館五稜郭祭の維新パレード土方歳三コンテスト # 満開の藤棚 |date=2022年5月|cat=函館市}} {{日本の城郭概要表 |name = 五稜郭 |pref = 北海道 |img = File:Hakodate Goryokaku Panorama 1.JPG |img_capt = [[五稜郭タワー]]から望む五稜郭 {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=275}} |img_width = 275px |ar_called = 亀田(御)役所土塁、柳野城 |struct = 稜堡式 |tower_struct = ''なし'' |builders = 江戸幕府 |build_y = 1866年 |revamp = ''なし'' |rulers = ''なし'' |reject_y = 1869年 |remains = [[土塁]]、[[石垣]]、[[堀]]、兵糧庫 |rebuilding things = 奉行所、板庫、土蔵 |cultural asset = 特別史跡 |location = {{coord|41|47|48.84|N|140|45|25.06|E|type:landmark_region:JP-01_scale:20000|display=inline,title|name=五稜郭}} |地図=Japan Hokkaido |緯度度=41|緯度分=47|緯度秒=48.84 |経度度=140|経度分=45|経度秒=25.06 |ラベル=五稜郭 |アイコン=日本の城跡 |ラベル位置=right }} [[File:5ryokaku stereo.jpg|thumb|360px|五稜郭の[[ステレオグラム|ステレオ]]空中写真(1976年) {{国土航空写真}}]] '''五稜郭'''(ごりょうかく)は、[[江戸時代]]末期に[[江戸幕府]]が[[蝦夷地]]の[[箱館]](現在の[[北海道]][[函館市]])郊外に築造した[[星形要塞|稜堡式]]の[[城|城郭]]{{refnest|group="注釈"|同時期に築城された[[長野県]][[佐久市]]の[[龍岡城]]も稜堡式城郭であり五稜郭と呼ばれるが<ref>{{Cite web|和書|title=龍岡城五稜郭 | 佐久市ホームページ|publisher=佐久市|url=http://www.city.saku.nagano.jp/kanko/spot/meisho_shiseki/tatsuokajogoryokaku.html|accessdate=2015-04-25|}}</ref>、単に「五稜郭」といえば函館の城郭とする場合も多い。[[デジタル大辞泉]]、『[[大辞林]]』第三版、『[[ブリタニカ国際大百科事典]]』、『[[世界大百科事典]]』第2版、『[[日本大百科全書]]』では、五稜郭は函館の城跡と説明されている<ref>{{Cite web|和書|title=五稜郭(ごりょうかく)とは - コトバンク|url=https://kotobank.jp/word/五稜郭-66552|accessdate=2015-01-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150124235137/https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E7%A8%9C%E9%83%AD-66552|archivedate=2015年1月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。}}。 予算書時点から五稜郭の名称は用いられていた<ref name=shishi2-87>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht010430|title=当初の五稜郭プラン |work=函館市史通説編第2巻 |pages=87-88|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>が、築造中は'''亀田役所土塁'''(かめだやくしょどるい)<ref name=shishi1-585>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100010/ht032710|title=築造の予算 |work=函館市史通説編第1巻 |pages=585-586|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>または'''亀田御役所土塁'''(かめだおんやくしょどるい)<ref name=shishi2-92>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht010460|title=御役所の建設 |work=函館市史通説編第2巻 |pages=92-93|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>とも呼ばれた{{Refnest|group="注釈"|「役所」は奉行所建物のことであり、五稜郭完成後、箱館奉行所(俗称)ではなく'''箱館御役所'''(はこだておんやくしょ)と呼ばれた<ref name=shishi2-92 />。}}。元は[[湿地]]で[[ネコヤナギ]]が多く生えていた土地であることから、'''柳野城'''(やなぎのじょう)の別名を持つ<ref>[[#五稜郭物語|五稜郭物語]] p.26</ref>。 == 概要 == 五稜郭は[[函館市|箱館]]開港時に[[函館山]]の[[麓]]に置かれた[[箱館奉行]]所の移転先として築造された。しかし、1866年([[慶応]]2年)の完成からわずか2年後に[[江戸幕府]]が崩壊。短期間[[箱館府]]が使用した後、[[箱館戦争]]で[[榎本武揚]]率いる[[蝦夷共和国|旧幕府軍]]に占領され、その本拠となった。[[明治]]に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の練兵場として使用された。その後、[[1914年]]([[大正]]3年)から'''五稜郭公園'''として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。 現在残る星形の遺構から外側100~350メートルには、北と北西を除いて外郭の[[土塁]]がかつて存在したが、現在では国有[[保安林]]となっている箇所以外、面影は失われている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO39305460S8A221C1CR0000/ 五稜郭「外郭にも価値」研究者ら、保全求める]『[[日本経済新聞]]』夕刊2018年12月22日(社会・スポーツ面)2019年4月14日閲覧。</ref>。 国の[[特別史跡]]に指定され、「五稜郭と[[箱館戦争]]の遺構」として[[北海道遺産]]に選定されている。五稜郭は[[文化庁]]所管の[[国有財産]]であり<ref>{{Cite web|和書||url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/kokuyuzaisan/ |title=国有財産の活用|publisher=文化庁 |accessdate=2017-06-13}}</ref>、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社([[指定管理者]])が管理している<ref>{{Cite web|和書||url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014030800101/ |title=公の施設一覧(平成26年4月1日現在)|publisher=函館市 |accessdate=2014-11-27}}</ref>。 == 沿革 == === 築造 === [[File:GoryokakuPlanLarge.jpg|thumb|「五稜郭之図」。最終設計図の1つとみられている。]] [[File:Hakodate Magistrate's Office 1868.png|thumb|箱館御役所(奉行所庁舎)<br />(1868年冬撮影)]] [[1854年]]([[安政]]元年)3月、[[日米和親条約]]の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は[[松前藩]]領だった箱館周辺を[[上知]]し、同年6月に[[箱館奉行]]を再置した<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100010/ht032610|title=箱館付近の上知|work=函館市史通説編第1巻 |page=579|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(現在の[[元町公園]]。当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった<ref name=shishi2-85>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht010420|title=役所・役宅の新築・移転と防備|work=函館市史通説編第2巻 |pages=85-87|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>)に置かれた。初代奉行の[[竹内保徳]]は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された[[堀利煕]]は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内の[[函館山|箱館山]]に登れば奉行所を眼下に見下ろすことができるので防御に適さず、[[亀田市|亀田]]方面への移転が必要だと上申。そして竹内と堀は江戸に戻ると、[[函館湾|箱館湾]]内からの[[艦砲射撃]]の射程外に位置する[[鍛冶村]]中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を[[老中]]・[[阿部正弘]]に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した<ref name=shishi2-85 />。 併せて、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・[[立待岬]]・築島・沖の口番所の7か所の[[台場]]の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部はこれらを同時に築造するのは困難なので、まず弁天岬([[弁天台場]])と築島(着工されず)に着手するよう指示している<ref name=shishi2-85 />。 [[1855年]](安政2年)7月に[[フランス]]の軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港{{Refnest|group="注釈"|当時まだフランスは条約未締結国だったが、病人を上陸させ養生させたいとの願い出を箱館奉行所が受け入れ、特別に入港を許可した<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht010330|title=フランス軍艦病人の上陸・養生 |work=函館市史通説編第2巻 |pages=67-69|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。}}した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100010/ht033550|title=諸術調所 |work=函館市史通説編第1巻 |pages=663-665|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>[[武田斐三郎]]が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht010340|title=フランスの思惑 |work=函館市史通説編第2巻 |pages=69-70|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|p=18}}</ref>。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万[[両]]の予算書が作成された<ref name=shishi1-585 />。当初は工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩([[戸切地陣屋]])・[[津軽藩]]([[千代ヶ岱陣屋|津軽陣屋]])・[[南部藩]]([[南部陣屋]])・[[仙台藩]]([[白老仙台藩陣屋跡|白老陣屋]])の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった<ref name=shishi2-87 />。 [[1856年]](安政3年)11月、組頭・[[河津祐邦]]、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命<ref name=shishi1-585 />し、[[1857年]](安政4年)7月に五稜郭の築造を開始<ref name=shishi2-88>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht010430|title=当初の五稜郭プラン |work=函館市史通説編第2巻 pp.88-89|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。建物については、[[1856年]](安政5年)から郭外北側に役宅を建設、[[1861年]]([[文久]]元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を[[松川弁之助]]、[[石垣]]工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100010/ht032730|title=五稜郭の築造 |work=函館市史通説編第1巻 |page=588|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。当初は、まず掘割と[[土塁]]工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画だったが、この地は地盤が脆弱で冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた<ref name=shishi2-88 />。 [[1864年]]([[元治]]元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・[[小出秀実]]が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き[[防風林]]や庭木としての[[アカマツ]]の植樹{{Refnest|group="注釈"|このアカマツは箱館奉行所組頭・[[栗本鋤雲|栗本瀬兵衛]]が佐渡から種子を取り寄せ、七重で育てた若木を五稜郭に移植したもの。1872年(明治9年)、[[明治天皇]]が[[官園 (開拓使)|七重勧業課試験場]]に行幸した際に一部が[[札幌本道]]沿いに移植され、[[国道5号|赤松街道]]のはじまりとなった<ref>{{Cite web|和書||url=http://www.town.nanae.hokkaido.jp/hotnews/detail/00000225.html |title=赤松街道|publisher=七飯町 |accessdate=2014-11-19}}</ref>。}}や付帯施設の工事も行われ、[[1866年]]([[慶応]]2年)に全ての工事が完了した<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|p=21}}</ref>。 五稜郭の総工費は10万4090両(予算14万3千両)、その内訳は[[堀|堀割]]・土塁・石垣などの土木工事に5万3144両(予算9万8千両)、建物の建築工事に4万4854両(予算2万5千両)、水道の敷設工事に6092両(予算2万両)というもので、これとは別に弁天台場が10万7277両(予算10万両)を費やして築かれた<ref name=mokuroku20>[[#五稜郭分館常設展示目録|五稜郭分館常設展示目録]] p.20</ref>。この大事業に最繁期で5〜6千人の人夫が使われたといわれ、箱館には人が満ちて街は大いに潤った<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100010/ht032750|title=箱館の繁栄を助ける |work=函館市史通説編第1巻 |page=589|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。 === 箱館戦争 === [[File:Battle of Hakodate Nishiki-e by Nagashima Mosai.png|thumb|300px|「箱館大戦争之図」[[歌川芳虎|永嶌孟斎]]画]] {{main|箱館戦争}} [[大政奉還]]の後、新政府により[[箱館府]]が設置されると、五稜郭は、[[1868年]](慶応4年)閏4月に箱館奉行・[[杉浦梅潭|杉浦誠]]から箱館府知事・[[清水谷公考]]に引き渡され<ref>{{Harvnb|田口英爾|1995|pp=183-184}}</ref>、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に[[榎本武揚]]率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の[[森町 (北海道)|森町]])に上陸。箱館府は迎撃したものの、各地で敗北。10月25日に清水谷知事が箱館から[[青森県|青森]]へ逃走し、10月26日に[[松岡四郎次郎]]隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は[[大鳥圭介]]によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態だったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた<ref>大鳥圭介「南柯紀行」[[#大鳥・今井 1998|大鳥・今井 1998]] pp.72,80</ref>。 同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている<ref>{{Harvnb|田口英爾|1995|p=113}}</ref>。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、[[東艦|甲鉄]]が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により[[古屋佐久左衛門]]らが死傷<ref name=imai183>今井信郎「北国戦争概略衝鉾隊之記」[[#大鳥・今井 1998|大鳥・今井 1998]] p.183</ref>。また、新政府軍は各所に陣地を築き、大砲を並べ砲撃した<ref name=imai183 />。猛烈な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、また五稜郭には[[堡塁]]がなかったため、石垣や堤を盾にして[[畳]]を敷き、[[屏風]]を立ててかろうじて攻撃を凌ぐ有様だった<ref>大鳥圭介「南柯紀行」[[#大鳥・今井 1998|大鳥・今井 1998]] p.96</ref>。その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には[[千代ヶ岱陣屋]]が陥落し<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht011120|title=弁天岬台場降伏と中島三郎助の抵抗 |work=函館市史通説編第2巻 |pages=258-259|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議を経て5月18日に榎本らが降伏、五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍に引き渡された<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht011130|title=五稜郭開城 |work=函館市史通説編第2巻 pp.258-259|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。 === 練兵場 === 明治以降、五稜郭は[[兵部省]]から1873年(明治6年)には[[陸軍省]]の所管となった<ref name=tahara31>{{Harvnb|田原良信|2008|p=31}}</ref>。奉行所庁舎および付属建物の多くは、1871年(明治4年)に札幌の[[開拓使]]本庁舎建設の資材とする目的で解体されたが、実際には札幌に運ばれず、[[札幌本道]]の工事や蓬莱町[[遊廓]]の建設資材として使われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_004.htm|title=市史余話4「五稜郭庁舎 解体材の行方」|publisher=函館市中央図書館|accessdate=2014-11-08|archiveurl=https://archive.is/20140607012343/http://www.lib-hkd.jp/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_004.htm|archivedate=2014年6月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 その後、五稜郭は特に手を加えられることなく、練兵場として使用された<ref name=tahara31 /><ref>{{アジア歴史資料センター|C09071562400|9_19 仙台鎮台伺函館へ練兵場取設の件}}</ref>。このほか、[[1890年]](明治23年)から[[1899年]](明治32年)まで[[津軽要塞|函館要塞]]砲兵大隊の仮事務所が置かれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-02/shishi_05-02-03-03-01.htm|title=函館要塞砲兵大隊 |work=函館市史通説編第3編 |pages=287-288|publisher=函館市|accessdate=2014-11-20|archiveurl=https://archive.is/20141201132823/http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-02/shishi_05-02-03-03-01.htm|archivedate=2014年12月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 一般市民は立入禁止となっていたが、[[中川嘉兵衛]]が陸軍の許可を得て、1871年から五稜郭の氷を切り出して「[[函館氷]]」として売り出していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-09/shishi_04-09-01-04-02.htm|title=函館市史通説編第2編 |pages=1057-1063|publisher=函館市|accessdate=2014-11-20|archiveurl=https://archive.is/20141120005727/http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-09/shishi_04-09-01-04-02.htm|archivedate=2014年11月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 === 五稜郭公園 === [[File:Cherry of Goryokaku 五稜郭の桜 (2497592882).jpg|right|thumb|五稜郭の桜と五稜郭タワー]] 1913年([[大正]]2年)、[[函館区]]長・[[北守政直]]が[[陸軍大臣]]に、五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行った。陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され<ref>{{アジア歴史資料センター|C02031585800|函館五稜廊貸下の件}}</ref>、翌年'''五稜郭公園'''(ごりょうかくこうえん)として一般開放された<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=32-33}}</ref>。また、『[[函館新聞|函館毎日新聞]]』が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて数千本の[[ソメイヨシノ]]を植樹した。この[[サクラ|桜]]は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の[[花見]]の名所となっている<ref name=history03>{{Cite web|和書||date= |url=http://www.goryokaku-tower.co.jp/pdf/history03.pdf |title=幕末の激動と、その後の五稜郭 |format=PDF |publisher=五稜郭タワー |accessdate=2014-11-22}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|五稜郭のソメイヨシノは、函館のサクラの開花観測の標本木となっている<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jma-net.go.jp/hakodate-c/gyoumu/press/2023/press20230420.pdf |title=函館で「サクラの開花」を観測しました。|publisher=函館地方気象台 |accessdate=2023-04-20}}</ref>。}}。 1925年([[大正]]11年)には[[内務省 (日本)|内務省]]に所管が変わるとともに、[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]に基づく[[史蹟]]に指定された。1929年([[昭和]]4年)には郭外の長斜坂が追加指定され、[[文部省]]の所管となった。そして戦後、[[文化財保護法]]が制定されると、[[1952年]](昭和27年)に[[特別史跡]]に指定された<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=33-34}}</ref>。 1954年([[昭和]]29年)には、函館で開催された[[北洋漁業再開記念北海道大博覧会]](北洋博)の第2会場となった<ref name=tahara34>{{Harvnb|田原良信|2008|p=34}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|第1会場は[[函館公園]]。五稜郭は特別史跡に指定されていたため、現状変更は厳しいところ、将来的に奉行所を復元するための資料を充分に得ていることを理由に文化財保護委員会から許可された<ref name=tahara34 />。}}。北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌1955年(昭和30年)から[[市立函館博物館]]五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、2007年([[平成]]19年)11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-02/shishi_07-02-18.htm|work=函館市史通説編第4編 |pages=688-692 |title=コラム18 北洋博覧会の開催 「北洋の基地」から「観光都市」へ|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。また、発掘調査・復元工事が行われる以前には中央部の広場で地元の運動会や夏季の[[林間学校]]などが行われ<ref name=tahara34 />、堀も水質が良好だった時代には、[[プール]]や[[スケートリンク]]として使用されていた<ref name=history03 />。 === 函館を代表する観光地に === [[File:Gtwintower.JPG|right|thumb|新旧五稜郭タワー(2006年1月)]] 1964年(昭和39年)、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの[[五稜郭タワー]]が開業<ref>{{Cite web|和書|url=http://goryokaku-tower.co.jp/html/related/oldtower.html|title=旧タワーについて|publisher=五稜郭タワー|accessdate=2014-11-20|archiveurl=https://archive.is/20141120081709/http://goryokaku-tower.co.jp/html/related/oldtower.html|archivedate=2014年11月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 1970年(昭和45年)からは毎年5月に「[[箱館五稜郭祭]]」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」、[[土方歳三]]の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hotweb.or.jp/goryokaku-sai/index.html|title=箱館五稜郭祭公式ページ|publisher=箱館五稜郭祭協賛会 |accessdate=2014-11-19}}</ref>。 そのほか、1986年(昭和61年)から2013年(平成25年)までは[[はこだて冬フェスティバル]]の会場の1つとなり、市民団体[[えぞ共和国]]が[[五稜郭ファミリーイベント]]を開催。同イベントでは、1990年(平成2年)から2010年(平成22年)まで[[陸上自衛隊]][[第28普通科連隊]]が長さ約40メートルの雪像すべり台を製作したほか、[[北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部|北海道大学水産学部]]の学生が、赤いふんどしに足袋を履いた姿で女性騎手をのせたタイヤチューブを曳き走る[[赤ふんダービー]]も行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://blog.goo.ne.jp/ja8mem/e/d57f846aef91b71e2b5ffeaed5356221|title=“赤ふんダービー”盛り上がる... - JA8MEMのつれづれ日誌|publisher=JA8MEMのつれづれ日誌|accessdate=2023-05-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ehako.com/news/news2013a/5689_index_msg.shtml|title=冬フェス開幕 赤ふんダービー見納め 「五稜郭イベント」今年で終了 | 2013/2/10 函館新聞社/函館地域ニュース by e-HAKODATE|publisher=e-HAKODATE|accessdate=2023-05-25}}</ref>。 また、1988年(昭和63年)から五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「[[市民創作函館野外劇]]」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yagaigeki.com/|title=市民創作函館野外劇公式ページ|publisher=NPO法人市民創作「函館野外劇」の会 |accessdate=2014-11-20}}</ref>や、1989年(平成元年)からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ikamesi.com/hosinoyume/|title=五稜星の夢公式ページ|publisher=まちをつくる“五稜星の夢”実行委員会 |accessdate=2014-11-19}}</ref><ref name="hokkaido-np-2014-11-25">{{Cite news | url = http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/576433.html | title = 函館・五稜郭跡をライトアップ「五稜星の夢」 準備着々、29日に点灯 | newspaper = 『[[北海道新聞]]』 | publisher = 北海道新聞社 | date = 2014-11-25 | archiveurl = https://archive.is/20141125130300/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/576433.html | archivedate = 2014年11月25日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>が始まり、現在まで続いている。2006年(平成18年)には、五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goryokaku-tower.co.jp/facility/|title=施設案内|publisher=五稜郭タワー|accessdate=2020-11-11}}</ref>。 五稜郭は、2004年([[平成]]16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として[[北海道遺産]]に選定<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokkaidoisan.org/heritage/028.html|title=五稜郭と箱館戦争の遺構|publisher=北海道遺産協議会 |accessdate=2014-11-22}}</ref>されたほか、観光地の評価としては、[[ミシュランガイド|ミシュラン・グリーンガイド・ジャパン]]で、「五稜郭跡」と「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.michelin.co.jp/content/download/6005/193094/version/1/file/GVJ_ed3_list_2013_modified_20130312.pdf|title=三つ星・二つ星・一つ星の観光地リスト|format=PDF|publisher=日本ミシュランタイヤ|accessdate=2014-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305160556/http://www.michelin.co.jp/content/download/6005/193094/version/1/file/GVJ_ed3_list_2013_modified_20130312.pdf|archivedate=2016年3月5日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 === 奉行所復元 === 函館市では、1983年(昭和58年)頃から五稜郭の復元整備を目的とした資料調査を進めた<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=39-40}}</ref>。これと並行して郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い、奉行所等建物の遺構の残存状況が良好なことを確認し、1985年(昭和60年)から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始した。1985年(昭和60年)から1989年(平成元年)、1993年(平成5年)から2000年(平成12年)、2001年(平成13年)、2005年(平成17年)と4度の発掘調査を行い、復元に向けて多数の基礎的資料を得ている<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=53-56}}</ref>。 この間、有識者で構成された「特別史跡五稜郭跡保存整備委員会<ref>{{Cite web|和書||url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014012800556/ |title=特別史跡五稜郭跡保存整備委員会|publisher=函館市 |accessdate=2014-11-23}}</ref>」が、2000年(平成12年)に「箱館奉行所復元構想」を、2001年(平成13年)に「箱館奉行所復元計画(郭内土塁内エリア整備計画)」を策定し、箱館奉行所庁舎等の復元整備と活用・公開等についての計画を立案した。その後、文化庁と復元に向けた協議を実施し、2006年(平成18年)に現状変更許可を得て着工した<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=157,163-164}}</ref>。2010年(平成22年)に復元工事が完成、7月29日に開館した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010071601000306.html|title=五稜郭跡の「箱館奉行所」公開 140年ぶり復元|publisher=全国新聞ネット|accessdate=2014-11-28|archiveurl=https://archive.is/20141130232543/http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010071601000306.html|archivedate=2014年11月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 == 構造 == {{建築物 |名称 = 箱館奉行所(木造復元) |旧名称 = |画像 = [[画像:Restored Hakodate Bugyosho.jpg|250px]] |画像説明 = 箱館奉行所 |用途 = 資料館 |旧用途 = |設計者 = [[文化財保存計画協会]] |構造設計者 = |施工 = [[竹中工務店]]・加藤組土建・石井組・野辺工務店・明匠建工 |建築主 = 函館市 |事業主体 = 函館市 |管理運営 = 名美興業(指定管理者) |構造形式 = 木造 |敷地面積= |敷地面積ref= |敷地面積備考= |建築面積= 1033.38|建築面積ref= |建築面積備考= |延床面積= 979.40|延床面積ref= |延床面積備考= |階数 = 平屋建 |高さ = |着工 = |竣工 = [[2010年]] |開館開所 = |改築 = |所在地郵便番号 = 040-0001 |所在地 = 函館市五稜郭町44-3 |緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |経度度 = |経度分 = |経度秒 = |文化財指定 = |指定日 = |備考 = }} [[File:Goryokaku Hakodate Hokkaido Japan01s3.jpg|thumb|築造当時の五稜郭(模型)。手前の橋は裏門橋。]] [[File:GoryokakuSmall.jpg|thumb|半月堡]] 五稜郭は、水堀で囲まれた[[五芒星]]型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁([[土塁]])が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートル<ref>{{Cite web|和書||url=http://www.kokuyuzaisan-info.mof.go.jp/kokuyu-info/info/now/ik_monbu.zip |title=平成24年度国有財産一件別情報(文部科学省)|publisher=財務省理財局管理課国有財産情報室 |accessdate=2014-11-26}}</ref>であり、うち郭内は約12万平方メートルである<ref name=mokuroku20 />。 === 外構 === 予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小された。当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の[[斜堤]]も4辺しか造られなかった<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] pp.120-121</ref>。 ==== 土塁 ==== 堀を掘った土で土塁を築いた。本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は[[砲台]]として使用された。そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の[[斜堤]]が築かれた<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] pp.121-122</ref>。 ==== 堀 ==== 総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] p.122</ref>。総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4ないし5メートル、外周は約1.8キロメートル<ref name=mokuroku20 />。築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた[[亀田川]]に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。しかし、[[第二次世界大戦]]後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化<ref>[[#五稜郭物語|五稜郭物語]] pp.30-32</ref>、悪臭を放つようになったため、1974年(昭和49年)からは水道水を堀に流すようになった<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p.194</ref>。 ==== 石垣 ==== [[File:Goryokaku Hakodate Hokkaido Japan10n.jpg|thumb|大手口から入って左側の本塁の石垣。最上部に刎ね出しがある。右奥に見えるのは見隠塁。]] 当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され<ref name=shishi2-88 />、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] pp.120-123</ref>。函館山などから切り出された石材を使用したが、堀の石垣では資金不足のため赤川や亀田川の石を集めて代用した箇所がある(裏門橋側の一部に見られる)<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=147-149}}</ref>。半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いている。 ==== 橋 ==== 現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた<ref>函館区史 pp.252-253</ref>。なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは[[アーチ橋|太鼓橋]]が架けられていた<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=149-150}}</ref><ref>{{Cite web|和書||url=http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/postcards/4f0b7005ea8e8a0b70000dd7 |title=太鼓橋時代の一の橋の写真|publisher=はこだて未来大学 |accessdate=2014-12-02}}</ref>。 === 建物 === [[File:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan15n.jpg|thumb|right|兵糧庫]] [[File:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan11n.jpg|thumb|right|復元された板庫と土蔵]] 五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の[[長屋]]、[[厩舎|厩]]、仮牢など計26棟が建てられた<ref name=mokuroku20 />。建材は[[津軽]]・[[南部地方|南部]]・[[出羽]]など、[[瓦]]は[[能登]]・[[越後]]など、[[釘]]や[[畳]]は[[江戸]]というように各地から運ばれた資材が用いられた<ref>[[#五稜郭分館常設展示目録|五稜郭分館常設展示目録]] p.24</ref>。なお、建材は[[能代]]などで予め加工し、現場では組立だけとすることで、経費節減に努めていた<ref>[[#五稜郭築造と箱館戦争|五稜郭築造と箱館戦争]] p.29</ref>。 ==== 奉行所 ==== 郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートル。一部2階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|p=57}}</ref>。また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた<ref>[[#五稜郭分館常設展示目録|五稜郭分館常設展示目録]] pp.22-23</ref>。 正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している<ref>{{Harvnb|竹内収太|1983|p=192}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|この作業をさせられたのは、箱館府により牢に入れられ、旧幕府軍の五稜郭占領後、土木工事に従事させられていた中国人であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_023.htm |title=市史余話23 箱館戦争シリーズ 41人の中国人 |publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-27 |archiveurl=https://archive.is/20141130025325/http://www.lib-hkd.jp/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_023.htm |archivedate=2014年11月30日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。}}。 奉行所の復元に際し、当初、函館市は奉行所の建物全体の復元を計画したが、[[建築基準法]]では1,000平方メートルごとに[[防火区画|防火壁]]を設置しなければならず、復元と防火壁の両立を文化庁と協議した結果、景観上芳しくないこともあり断念し、約1,000平方メートル以内の復元に留めることとなった<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=160-162}}</ref>。当時と同じ材料、同じ工法で、奉行所の南棟と中央棟部分が復元され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.takenaka.co.jp/solution/purpose/traditional/service10/|title=特別史跡五稜郭跡内箱館奉行所庁舎復元工事|publisher=竹中工務店|accessdate=2014-11-23|archiveurl=https://archive.is/20141116102618/http://www.takenaka.co.jp/solution/purpose/traditional/service10/|archivedate=2014年11月16日|deadlinkdate=2017年9月}} - 元の建物と復元部分の比較図あり。</ref>、復元された奉行所は、平成23年度の[[赤レンガ建築賞|北海道赤レンガ建築賞]]を受賞している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.do-sumai.jp/weblog02/cat150/|title=平成23年度北海道赤レンガ建築賞|publisher=北海道|accessdate=2014-11-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150421140741/http://www.do-sumai.jp/weblog02/cat150/|archivedate=2015年4月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 ==== 兵糧庫 ==== 築造当時から唯一現存する建物である。明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され<ref>[[#五稜郭物語|五稜郭物語]] p.159</ref>、一般開放後、[[1917年]](大正6年)から片上楽天が私設の展示館「懐古館」を開き箱館戦争の資料を展示していた<ref>[[#五稜郭築造と箱館戦争|五稜郭築造と箱館戦争]] p.69</ref>ほか、市立博物館の科学教室としても使用されていたことがある<ref>{{Harvnb|元木省吾|1987|p=80}}</ref>。1972-1973年と2001-2002年に復元工事が行われ現在の姿となった<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=92-95}}</ref>。 ==== 板庫・土蔵 ==== 奉行所復元と同時に、兵糧庫の北側にあった市立博物館五稜郭分館を解体し、板庫(いたくら)と[[土蔵]]を復元している。板庫は売店および休憩所、土蔵は管理事務所に使用されている<ref name=annai>{{Cite web|和書||url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014012100380/ |title=五稜郭内施設案内|publisher=函館市 |accessdate=2014-11-23}}</ref>。 ==== 役宅 ==== 五稜郭の北側(現在の中道1丁目および本道1丁目)に、組頭以下同心までの役宅や長屋、数十軒が建設された<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100020/ht010450|title=郭外の役宅 |work=函館市史通説編第2巻 |pages=90-91|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>。付近には郷宿や料理店も開業し街が形成された<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100010/ht033990|title=五稜郭付近及び山の手方面 |work=函館市史通説編第1巻 |page=706|publisher=函館市|accessdate=2020-11-11}}</ref>が、箱館総攻撃の際に退却する旧幕府軍により焼き払われた<ref name=imai183 />。現在は住宅街となっている。 === 軍備 === 築造時点では大砲を設置していなかったとみられる<ref name=shishi2-88 />が、旧幕府軍が五稜郭を占領した時には、二十四斤砲4門が配備されていた<ref>{{Harvnb|竹内収太|1983|p=106}}</ref>。 箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤[[カノン砲|加農砲]]9門、四斤[[ライフリング|施条]][[クルップ]]砲13門、拇短クルップ砲10門を配備していた<ref>{{Harvnb|竹内収太|1983|p=199}}</ref>。但し降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は、長加農二十四斤砲9門、四斤施条砲3門、短忽微(ホーイッスル)砲2門、亜ホート忽微砲3門、十三拇([[ドイム]])[[臼砲]]16門であった<ref>丸尾利恒「北州新話」[[#箱館戦争資料集|箱館戦争資料集]] p.161</ref>。 == 石碑その他 == [[File:Goryokaku Hakodate Hokkaido Japan08n.jpg|right|thumb|武田斐三郎先生顕彰碑]] ; 武田斐三郎先生顕彰碑 : 郭内にある。1963年(昭和38年)、五稜郭築城100周年を記念して建てられた。題字は[[太田鶴堂]]で、彫刻家・[[鈴木達]]が作った斐三郎の[[レリーフ]]がはめ込まれている<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p. 195.</ref>。 ; 一万号記念桜樹碑 : 1923年(大正12年)、函館毎日新聞社が五稜郭に植樹した桜が1万本に達したことを記念して建てられた<ref name=annai />。 ; 巌谷小波の句碑 : 一万号記念桜樹碑の隣にあり、1915年(大正4年)に建てられた。1913年(大正2年)に作家・[[巖谷小波]]が来道の際に詠んだ句「其跡や其血の色を艸の花」が刻まれている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.h-bungaku.or.jp/issue/pdf/jiten01.pdf|format=PDF |title=北海道文学大事典 |page=52 |editor=北海道文学館 |publisher=北海道立文学館 |accessdate=2014-11-20}}</ref><ref name=annai />。 ; 箱館戦争当時の大砲 : 五稜郭に配備されていたものではないが、箱館戦争で使用された大砲が2門、郭内に展示されている。1門は、旧幕府軍が箱館占領中に構築した築島台場に備え付けられた砲(英・ブラッケリー社製{{Refnest|group="注釈"|築島台場は、函館港内、現在の豊川町から末広町付近にあったものとみられている。1961年(昭和36年)、北海道漁業協同組合連合会函館支所の建設工事中に土中から発見された<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p. 189.</ref>。}})で、もう1門は明治2年5月11日の[[箱館湾海戦]]で沈没した新政府軍の軍艦「[[朝陽丸|朝陽]]」の砲(独・[[クルップ]]社製{{Refnest|group="注釈"|1932年(昭和7年)、七重浜の埋立工事中に発見され、[[亀田八幡宮]]に奉納された。[[第二次世界大戦]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の目を恐れて土に埋めたが、1958年(昭和33年)、[[上皇明仁|皇太子]]の[[市立函館博物館]]五稜郭分館来館を機に博物館に寄贈された<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p. 190.</ref>。}})である。 <gallery> File:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan13n.jpg|築島台場のブラッケリー砲。 File:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan14n.jpg|朝陽のクルップ砲。 </gallery> ; 藤棚 : 二の橋を渡り郭内に入った正面にあり、5・6月に見ごろを迎える。もとは五稜郭公園の開園当時、園内の食堂経営者が別の場所に植樹したもので、1920年(大正9年)以降に函館市が現在地に移設したという<ref name="函新藤棚">{{Cite web|和書|url= http://www.hakodateshinbun.co.jp/topics/topic_2007_6_27.html |title=市民団体、フジ棚の現状維持を要望〔2007年6月27日(水)掲載〕|函新トピック |publisher=函館新聞社 |accessdate=2014-11-19}}</ref>。奉行所復元工事の際、同所に五稜郭建造当時の表門があったとして藤棚の移設が予定されたが、市民の保存運動により残された<ref name="函新藤棚" />。 ; 男爵芋の碑 : 裏門郭外にある。第二次世界大戦中に[[ジャガイモ|男爵芋]]が食料として市民を飢えから救ったことを感謝して、1947年(昭和22年)に建てられた<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p. 193.</ref>。 ; 一本松の土饅頭 : 1878年(明治11年)の土塁修復工事に際して夥しい量の遺体が発見されており{{要出典|date=2023年6月}}、箱館戦争時の旧幕府軍戦死者の埋葬地と推定されている。1892年(明治32年)9月10日に上野東照宮で開かれた「[[伊庭八郎]]を偲ぶ会」で出席者の一人が「八郎君の墓は箱館五稜郭、[[土方歳三]]氏の墓の傍らにあり。」と語っており<ref>『旧幕府』第3巻第8号。『旧幕府』は明治30年代の雑誌。2003年に山口県の[http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/25842.htm マツノ書店より復刻版(全5巻)]あり。</ref>、また1921年(大正10年)9月刊行の片上楽天 編述『五稜郭史』は一本松の土饅頭を合葬地とし、伊庭八郎も同所に埋葬されたと記している。 == 現地情報 == [[File:Satellite image of Hakodate Goryokaku.jpg|thumb|五稜郭付近の衛星写真([[アメリカ航空宇宙局|NASA]]による資料)]] ; 所在地 : 北海道函館市五稜郭町・本通1 ; 交通アクセス * [[函館市企業局交通部|函館市電]]2系統・5系統[[五稜郭公園前停留場]] - 徒歩15分 * [[函館本線]]・[[道南いさりび鉄道]]の[[五稜郭駅]]からは2キロメートル程度離れている。 * [[函館バス]]「五稜郭公園入口」「五稜郭公園裏」「五稜郭タワー前」停留所 * [[函館タクシー|函館タクシー(函館帝産バス)]]「五稜郭公園入口」停留所 * [[北海道バス]]「五稜郭公園前」停留所 * [[北海道道571号五稜郭公園線]] === 近隣施設 === * [[五稜郭タワー]] * [[北海道立函館美術館]] * [[函館市北洋資料館]] * [[函館市芸術ホール]] * [[函館市中央図書館]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == *『函館市史』函館市([http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/shishi_index.htm 「函館市史」デジタル版]) *『函館区史』函館区([{{NDLDC|763068/1}} 近代デジタルライブラリー]) * {{cite book|和書|author= |year= 2004|title= 市立函館博物館五稜郭分館常設展示目録 五稜郭 箱館戦争|editor=|publisher= 市立函館博物館|isbn= |ref=五稜郭分館常設展示目録}} * {{cite book|和書|author= |year= 2014|title= 五稜郭築造と箱館戦争|editor=|publisher= 市立函館博物館|isbn= |ref=五稜郭築造と箱館戦争}} * {{cite book|和書|author= 大鳥圭介・[[今井信郎]]|year= 1998|title= 南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記|publisher= [[新人物往来社]]|isbn= 4-404-02627-7|ref=大鳥・今井 1998}} * {{cite book|和書|author= [[大山柏]]|year= 1988|title= 補訂・戊辰役戦史|volume=下巻|publisher= [[時事通信社]]|isbn= 4-7887-8840-3|ref=harv}} * {{cite book|和書|author= |year= 1984|title= 箱館戦争のすべて|editor=須藤隆仙・編|publisher= 新人物往来社|isbn= 4-404-01247-0|ref=箱館戦争のすべて}} * {{cite book|和書|author= |year= 2011|title= 箱館戦争資料集|editor=須藤隆仙・編|publisher= 新人物往来社|isbn= 978-4-8354-4741-4|ref=箱館戦争資料集}} * {{cite book|和書|author= 田口英爾|year= 1995|title= 最後の箱館奉行の日記|publisher= [[新潮社]]|series =新潮選書|isbn= 4-10-600475-5|ref=harv}} * {{cite book|和書|author= 竹内収太|year= 1983|title= 箱館戦争|publisher= 五稜郭タワー|ref=harv}} * {{cite book|和書|author= 田原良信|year= 2008|title= 五稜郭|publisher= 同成社|series =日本の遺跡27|isbn= 978-4-88621-434-8|ref=harv}} * {{cite book|和書|author= 元木省吾|year= 1987|title= 新編=函館町物語|publisher= 幻洋社|isbn= 4-906320-02-3|ref=harv}} * {{cite book|和書|author= |year= 1979|title= 五稜郭物語|edition=改訂版|editor=[[北海道新聞社]]函館支社・編|publisher= 五稜郭タワー|ref=五稜郭物語}} * {{cite book|和書|author= |year= 1982|title= はこだて歴史散歩|editor=[[北海道新聞社]]・編|publisher= 北海道新聞社|isbn= 4-89363-315-5|ref=はこだて歴史散歩}} == 関連項目 == {{commonscat|Goryokaku}} {{Osm box|n|462554303}} * [[五稜郭 (テレビドラマ)]] * [[四稜郭]] * [[龍岡城]] - 龍岡五稜郭とも呼ばれる。 * [[星形要塞]] * [[箱館通宝]] *[[:en:Kastellet, Copenhagen|Kastellet]]:コペンハーゲンにある五稜郭と形状が似ているとされる城跡。 * [[:en:Fort_Bourtange|ブルタング]]要塞:オランダにある星型要塞。 * [[ナールデン]]''':'''オランダにある星型要塞都市。 == 外部リンク == * [https://www.hakobura.jp/spots/555 函館市公式観光サイト“はこぶら” 特別史跡五稜郭跡] * [https://www.hakodate-jts-kosya.jp/park/goryokaku/ 市内公園情報 五稜郭公園] 函館市住宅都市施設公社 * [https://web.archive.org/web/20140408213933/http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soshiki/museum/ 函館市立博物館] * [https://hakodate-bugyosho.jp/ 箱館奉行所 公式ウェブサイト] * [https://web.archive.org/web/20210126113603/https://www.hollandflanders.jp/newsletter/15468/ オランダの星型要塞都市] * {{Kotobank}} * [https://sanadada.com/4053/ 「五稜郭」の築城~西洋式築城術を取り入れた城郭~] * {{北海道遺産紹介ページ|id=hakodate_goryokaku|name=五稜郭と箱館戦争の遺構}} {{日本100名城}} {{normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:こりようかく}} [[Category:特別史跡]] [[Category:北海道にある国指定の史跡]] [[category:北海道の城]] [[Category:幕末]] [[Category:箱館戦争]] [[Category:渡島国|城こりようかく]] [[Category:函館市の建築物]] [[Category:函館市の歴史]] [[Category:函館市の観光地]] [[Category:北海道遺産]] [[Category:日本の要塞]] [[Category:日本100名城]] [[Category:桜に関する場所]] [[Category:榎本武揚]]
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札幌ドーム
札幌ドーム(さっぽろドーム、英: Sapporo Dome)は、北海道札幌市豊平区羊ケ丘にあるサッカー・野球兼用のドーム型スタジアム。施設は札幌市が所有し、札幌市と道内財界各社が第三セクター方式で出資する株式会社札幌ドームが指定管理者として運営管理に当たっている。 第44回BCS賞や平成14年度(2002年度)の赤レンガ建築賞を受賞。開業時より「Hiroba」という愛称が付けられていて、開業15周年を迎えた2016年6月2日からは、「チャームコロン」というマスコットキャラクターを使用している。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)北海道コンサドーレ札幌のホームスタジアムで、2004年(平成16)から2022年(令和4年)までは、日本プロ野球(NPB)・パシフィック・リーグ所属の北海道日本ハムファイターズの本拠地球場でもあった。その関係で、プロ野球チームとプロサッカーチームが本拠地を共用する日本唯一のスタジアム となっていた。また、2008年(平成20年)から2009年(平成21年)までプロ野球マスターズリーグ・札幌アンビシャスの本拠地でもあったほか、さまざまなイベントやスポーツの国際大会が開催されている。 日本で唯一の完全屋内天然芝サッカースタジアムで、屋外で育成した天然芝を必要な時に空気圧で浮かせて屋内へ移動させる「ホヴァリングサッカーステージ」を世界で初めて採用したこと により、サッカー用の天然芝グラウンド(サッカーモード)、野球用の巻き取り式人工芝グラウンド(野球モード)、その他のイベント用として、昇降式のピッチャーズマウンドを床下に収納し、人工芝を巻き取った平らなフロア(コンクリートモード)を使い分けられるようになっている。 当施設は道内のプロ野球・Jリーグの公式戦が行われるスタジアムで、初めて常設のナイター設備が整えられたスタジアムとなった。それまでは、コンサドーレがメインホームスタジアムとして使用していた札幌厚別公園競技場でさえ、ナイター開催時は移動照明車を利用していた。 ファイターズが本拠地をエスコンフィールドHOKKAIDO(北海道北広島市)へ移転したことに伴って、同球団主管の公式戦(ホームゲーム)が開催されなくなった2023年(令和5年)には、株式会社札幌ドームと株式会社コンサドーレ(コンサドーレ札幌の運営会社)が「スポーツのチカラ×まちのミライ」と称するパートナーシップ契約を締結。地域振興活動やドーム内の業務(イベントの開催・運営・広報、飲食・物販店の運営、広告営業など)で相互に連携・協力する体制の構築に着手したほか、最大で2万人規模の集客を見込めるイベントに対応した「新モード」の展開を3月から始めている。 メインアリーナと向かい合っており、ホバリングステージは普段はここに設置され、天然芝を育成している。周りはクローズドアリーナのスタンドと同じような面構成の芝生席となっている。北海道コンサドーレ札幌のサテライトの試合が行われたこともある。インターセクション部分を開放すればクローズドアリーナとの連続使用も可能。 北海道コンサドーレ札幌の練習場として使用している「宮の沢白い恋人サッカー場」が芝の養生で使えない時にオープンアリーナを練習場として利用している。 天然芝が植えられた縦120m・横85m・重さ8,300tのステージで、空気圧によって地上から7.5cm浮上。直径600mmの駆動輪26輪・従動輪8輪の電動車輪(400V電圧)で毎分4mの速度で移動する。設計製作は川崎重工業。普段は屋外(オープンアリーナ)で養生されており、サッカーの試合がある時にドーム内(クローズドアリーナ)に移動させたのち、ドーム内で90度回転させてサッカー場(サッカーモード)として使用する。 ホヴァリングサッカーステージの入口は、サッカー場でのバックスタンド、野球場でのセンターの場所にあたる。ステージ移動の際にはこの部分の観客席が約1/3の大きさにまで折り畳まれ、レフト・ライトスタンドの下に収納される。さらにムービングウォールと呼ばれる、クローズドアリーナとオープンアリーナの間に設備されている可動壁を収納し、ステージの通り道ができるようになっている。このため、スコアボード(大型映像装置)は他の球場のようにセンターには設置できず、レフト・ライトスタンド側に設置している。 ステージの高さはラバーフェンスを含めると2.5mあり、2009年3月8日開催のサッカーJ2開幕節コンサドーレ札幌対ベガルタ仙台で、ゴールを決めた仙台の菅井直樹が喜びのあまり仙台サポーターに駆け寄ろうと飛び降りてしまったことがある。また2019年3月9日のJ1第3節の北海道コンサドーレ札幌対清水エスパルスで、札幌に加入したばかりで札幌ドームの構造に不慣れだったアンデルソン・ロペスもゴールを決めた後に飛び降りて一時は治療のためスタッフが駆け寄る事態となったが、怪我はなくその後にも2点を取り合計4得点と大活躍をした。 年間を通して使用回数が少ないことと、寒冷地での芝のメンテナンスについてよく研究されていることもあって芝の状態は良好で、2002年には「Jリーグアウォーズ」で「ベストピッチ賞」を受賞している。 また、プロ野球の試合前には、外に出されているピッチ上で選手がウォーミングアップをすることもある。 屋内に引き入れたステージを90度回転させるためのスペースを必要とするため、野球場の形態(野球モード)ではファウルグラウンドが極めて広くなっているのも特徴である。このため、他の球場ならばスタンドインして捕球される心配のないようなファウルフライでも、野手が追いついて捕球される場合がある。その反面、バックストップ(本塁からバックネットまでの距離)が他と比べ10m前後も長いため、投手の暴投や捕手の後逸時にボールを拾うまでに時間がかかり、走者を余計に進塁させてしまうケースもある。 冬季は屋外のオープンアリーナに設置して冬を越す。天然芝は降り積もった雪によって風や乾燥をしのぐことができ、札幌市の最低気温がマイナス10°Cを下回る厳冬期でも積雪のおかげで地中5cmの部分の温度は約0.5°Cに保たれる。北海道コンサドーレ札幌のホーム開幕戦での使用に向けて、高さ20cmまで除雪用の機械で減らした上で、芝が寒風にさらされて葉が黄化するのを防ぐために高さ10cmまでスコップやスノーダンプなどを使って除雪作業を行う。開幕直前に、最後の仕上げとして北海道コンサドーレ札幌の有志サポーターと一緒に、天然芝を傷つけないように除雪作業を行う。除雪後に土壌の凍結を防ぐためにアンダーヒーティングシステムを使って適切な地温を維持し、目土(補修用の砂)を芝が剥げてしまったところに入れる。トラクターで転圧用のローラーをけん引してピッチ表面を平らにし、転圧作業で寝てしまった芝をブラシがけ作業で起こす。古い葉や茎を取り除き、芝刈りなどを行って天然芝の状態を保つ。目土の充填を繰り返した結果、当初8300トンであったステージの重量は9000トンにまで増加したため、開業から17年目の2018年に初の改修工事を行い、ピッチ表面6.5cmの深さまで土を削り取って元の重量に復元した。 2021年には、サッカーのルヴァンカップA組1次リーグ・北海道コンサドーレ札幌対鹿島アントラーズ戦(5月19日)の開催に向けて前日(18日)に野球モード(16日まで日本ハム対ソフトバンク戦で使用)からサッカーモードへの転換作業を実施したところ、ホヴァリングサッカーステージに開業以来初めての不具合が発生。ステージをオープンアリーナから屋内へ搬入する作業中に設備の電源が一時的に停止したほか、電源の復旧によって当日(19日)の未明に搬入が完了してからも、ステージを90度旋回させる作業中に給電設備の不具合が生じた。原因や復旧時期の調査を短期間で見通せない不具合であったため、回転作業は旋回の途中で終了。オープンアリーナにナイター照明設備がないことや、照明設備の整った屋外サッカー場を他に確保できなかったこから、一時は当該試合の中止も検討された。結局、通常のサッカーモードから90度回転した配置で試合を開催(結果は0対0で引き分け)。試合後に夜を徹して復旧作業が続けられた結果、5月21日の午前中に本来の位置への回転が完了したため、翌22日にはJリーグ公式戦第15節・北海道コンサドーレ札幌対清水エスパルス戦を、通常どおりのピッチの配置で開催できるようになった。 円形スタンドの中に三日月形の可動スタンドを備えている。これは野球場モードでの1・3塁側観客席の前列部分にあたり、サッカーの試合の際にはホームとセンター方向に移動し、メインスタンドとバックスタンドの前列となる。またサッカーモードのバックスタンド中央部、野球モードの外野スタンド中央部は収納式の可動席となっている。この可動席と固定席の間には三角形の空間ができる。これは可動席が折り畳み式であるための設計上の都合である。この部分には2005年から北海道コンサドーレ札幌主催試合では三角形の空間に石屋製菓の広告が設置される。 固定スタンドの傾斜角度は約29度で、後列からも良好な視界を確保することが可能な様に設計面で配慮がされている一方、高齢者を中心に階段の昇降には苦労する角度である(そのため北海道コンサドーレ札幌の主催試合では階段の昇降が少ない「優し~と」という席種を設定している)。また、サッカー場ではメイン・バックスタンドの、野球場では1・3塁側内野席の前方部分となる可動式のスタンドは傾斜角度が約11度と固定スタンドに比べて緩く、低い位置にあるため視界はあまり良くない。これは同様の可動スタンドを持つ球場でも言えることであるが(可動席最後列の高さが外野フェンスの高さと一致するため)、当ドームはホヴァリングステージの存在のため最前列が高く設定されておりより傾斜が緩い。 またスタンドへの出入り口は北海道コンサドーレ札幌の上位シーズンシート向けの専用出入り口が西ゲート付近に設置され2階へ上ることなく出入り出来るが、それ以外では地上2階部分(外野スタンドは最上段)にしかスタンド出入り口がない。2階コンコースにはエレベーターで上がることができるが、スタンド内では階段以外に昇降の手段がないため、階段に手すりが設置されている。 ドーム球場では通常、外野の両翼に添って巨大な広告看板を貼り付けているが、札幌ドームの場合はサッカー場としても利用されることから、バックネット側(サッカー場の場合はメインスタンド側)、外野スタンド側(バックスタンド側)と1・3塁側スタンド(両ゴール裏スタンド)の上方から垂下される形で掲示されている。 フェンス・スタンドの広告は、サッカー・ラグビーの国際大会(国際Aマッチ等)の時はフェンスと同じ黒のシートで覆ったり、スタンドの横断幕をはずしたりする(クリーンスタジアム)が、北海道コンサドーレ札幌の主催試合では特にシートで覆うことはせずそのまま露出される。 2022年から野球場バージョンで3塁側相当、サッカー・ラグビー場バージョンでバックスタンドに相当する箇所の最前列に、リボンビジョンが埋め込み型で設置された。野球場バージョンで使用する場合はこの箇所をシートで隠していた。 応援幕についてはプロ野球とサッカーとで条件が異なる。 サッカー場(サッカーモード)としての使用時には、野球モードと違って、全席が利用できる状態にある。ただし、北海道コンサドーレ札幌の主催によるJリーグ公式戦の開催時には、転落防止の目的で両ゴール裏スタンドの前列3列に、アウェイチームサポーターを隔離し保護する目的でメインスタンドから見て右側のゴール裏スタンドに、それぞれ緩衝地帯を設けて閉鎖する。後者の閉鎖範囲は前者より広く設定されているため、北海道コンサドーレ札幌では、Jリーグ公式戦の定員数を客席の総数よりおよそ2,000人分少なく発表している(同クラブからJリーグに提出した文書では39,856人)。 スタンドとピッチを分けるフェンスが高い一方で、スタンド最前列とピッチとの距離が最大(メインスタンドとの間)で25m・最小(バックスタンドとの間)で12m程度と短く、サッカー場としての観戦環境は陸上競技場兼用の試合会場よりはるかに良好である。スタンド内の客席はピッチを見下ろすように配置されているため、サッカー専用球技場と比較すると一体感や接近感で劣るものの、「準専用球技場」に相当する環境を保持している。 ホヴァリングステージの不具合から通常よりピッチの配置が90度変わった状態での開催を余儀なくされた2021年5月19日のルヴァンカップ・北海道コンサドーレ札幌対鹿島アントラーズ戦(詳細前述)では、通常の使用時にはメインスタンド側に当たる場所がゴール裏に変わったため、両クラブの選手をピッチのコーナー付近からピッチへ入場させる措置を講じた。北海道コンサドーレ札幌も、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が同月16日から北海道内へ発出されていることを踏まえて、この試合の開催に際して異例の方針を発表。感染拡大防止策の一環として全席指定・前売限定で入場券を販売していたことから、購入者の観戦を認める一方で、購入者全員に入場料を払い戻すことを決めた。「(ピッチの角度が通常より)90度変わってしまうことで(ピッチ)見え方が変わってしまうので、クラブとしては(前売座席指定券の購入者から)お金をいただくことはできない」と判断したことによる。実際には、前売座席指定券の購入者から2,829人が、指定された席種・位置と異なる座席での観戦を了承したうえで入場している。 野球開催時にはバックスクリーンに相当する箇所の客席約1,000席分を使わないため、総客席数は40,000人強となる。デラックスシート設置により現在の座席配置となった2007年には北海道日本ハムファイターズ主催時のプロ野球公式戦では満員時の観客数は42,222人、2009年は42,328人と発表されているが、この数字はグラウンド部分を観客席として解放しない際の定員数と考えられている。日本野球機構(NPB)が主催し入場者数を発表する日本シリーズでは、現在の座席配置になってからは2007年の日本シリーズ第2戦で記録された40,770人が最多入場者数となっている。 プロ野球では一般的にホームチームのベンチは1塁側だが、北海道日本ハムファイターズは札幌ドームで3塁側のベンチを使っていた。これは2014年シーズンまではスコアボードが1塁(ライト)側にしか設置されてなく3塁側からの方が見やすかったことや、メインの北側入場ゲート及び最寄の地下鉄東豊線福住駅からのアクセスがよいことなども理由となっていた。福住駅~国道36号線方面より来場する場合、1塁側ではドームの外周を半周して入場する事になる。なお、オープン戦の北海道日本ハムファイターズ対読売ジャイアンツ(巨人)のうち、巨人主催扱いの試合でもベンチ配列は日本ハムが3塁側、巨人が1塁側である。 2006年3月の北海道日本ハムファイターズ主催のオープン戦でバックネット裏を除く内野の防球ネットを試験的に取り外したところ、ファンから好評で安全性も確認されたとして、2006年の北海道日本ハムファイターズ主催の公式戦全戦で防球ネットをはずすことが決まった。ところが、2010年8月にファウルボールが直撃し顔面骨折と片目失明の重傷を負った観客の女性が起こした裁判では防球ネットを外して以降、年間約100件のファウルボール事故が発生していることが指摘されている。また、フィールドシートの導入に関しては北海道日本ハムファイターズからの要請を受け、サッカー場やイベント会場への転換で可動席の移動が頻繁に行われることから取り外し式のフィールドシートを2009年から設置した。ただしフィールドシートには防球ネットが設置されている。 両翼のポールは脱着式となっており、野球・ソフトボール以外のイベントに使うときはこのポールが取り外される。 2014年から3塁側内野席の一部を応援席とし、その一角にお立ち台となる場所を設置して私設応援団やファイターズガール(チアガール)を常駐させて応援の先導をしている。 プロ野球のロケット風船はバックスクリーン付近のスタンド部分等の可動部が多く、除去されなかった風船を巻き込むことで稼働装置の故障が懸念されることを理由に2011年シーズンまで使用が禁止されていたが、専用のポンプで膨らませることを条件に2012年シーズンから全試合解禁になったが、新型コロナウィルスの蔓延による衛生面、感染予防対策の観点から、2020年以後ハンドポンプを含め、ジェット風船は再び全面禁止され、エスコンフィールド移転まで再解禁されることはなかった。2023年のエスコンフィールドも、開場当初はジェット風船はコロナ感染拡大抑制のため、当面ハンドポンプを含め全面禁止のままである。 プロ野球の応援に際し、鳴り物による応援は近隣に配慮してほとんどの野球場が22時までとされているが、音漏れの少ない札幌ドームで騒音に関するトラブルは皆無であり、23時まで鳴り物の応援が許可されている。他球場では振動による近隣や建物への影響を配慮して規制している大人数によるジャンプ行為も開場当時より規制されておらず、コンサドーレサポーターがゴール裏で長年サルトによる応援を続けており、日本ハム移転後は稲葉篤紀へのジャンプ応援でテレビの中継画面が大きく揺れるのが有名となった。ただしこれは、ホヴァリング・ステージを出し入れするために折り畳み式で揺れる事を前提として設計した場所からさらに望遠レンズを使ってバッターボックス方向を撮っているため揺れが強調されており、実際の揺れはもっと小さい。この様に騒音・振動に対して比較的強い建築物である事などから、札幌都心で騒音など様々な問題を引き起こしている「YOSAKOIソーラン祭り」のドーム移転論というのもある。 Google ストリートビューでは、札幌ドームのグラウンドを見ることが出来、三塁側ベンチやホームベース上、マウンドからの眺めが見られるだけでなく、塁間や塁上からの映像もあり、ベースランニングも楽しめる内容となっている。 放送ブース(放送席)は、日本のドーム球場では珍しく内野バックネット裏(メインスタンド)上段に観客席に入り込む形で設置されており、個別に部屋は設けていない。他のドーム球場では内野スタンド上段に個別の部屋を連ね、放送席のみのエリアを設けている。 開場時から2014年シーズンまでは、パナソニック製の「アストロビジョン」がライトスタンド上方に設置されていたが、2015年3月に三菱電機製の「オーロラビジョン」に更新され、新たにレフトスタンド側にも新設された(2015年3月3日の北海道日本ハムファイターズ対読売ジャイアンツのプロ野球オープン戦で運用開始)。基本仕様は以下の通り。 2016年には、レジェンドシリーズとして後楽園時代を模したオレンジ単色表示や、アストロビジョン時代を模した表示がされた。 グッズショップ「グッズ☆ジャム」及びレストラン「スポーツ・スタジアム・サッポロ」はホームチームの入場口となる北ゲート付近に設置されており、場内飲食売店は1階の北ゲート付近を中心に南ゲート・西ゲート付近にも設置している。一方でホヴァリングステージの出し入れのため東側(バックスタンド・外野側)には設置されていない。 他のドーム同様、火をそのまま使えない事で制約を受けるが、開業当初より改善が行われ名物となっているものも登場している。 球場内で売られるビールは、株主に連ねている関係上ほとんどがサッポロビールである。「黒ラベル」「サッポロクラシック」「ヱビスビール」とサッポロビールの3銘柄が揃う。しかし、キリンビールがスポンサーのサッカー日本代表の試合が行われる際は場内からサッポロビールが一掃され、全部の売場でキリンビールが売られる。ラグビーワールドカップ2019の開催時はワールドワイドパートナーのひとつがハイネケンだったことから全部の売場でハイネケンが売られた。アジア野球選手権2003の開催時は、大会メインスポンサーがアサヒビールだったことから球場内広告がアサヒビールに書き換えられ、アサヒビールも売られた。このときはサッポロビールも同時に売られた。 場内では、缶・瓶飲料のほか、環境保全や保健衛生の観点からペットボトル入り飲料(内容量・蓋の有無に関わらず)、及び球場の外部で購入した弁当類は持参禁止となっており、飲料類は各自で水筒・タンブラーにて持参か、会場で紙コップに移してもらう。 1981年(昭和56年)には、北海道庁が全天候型多目的スタジアム「ホワイトドーム」建設構想を発表した。この構想は、1985年(昭和60年)に高額な建設資金などを理由に、いったん凍結された。 その後、ドーム構想の主導権は商工会議所と札幌市に移行した。1988~89年ごろには、小林好宏・北海道大学経済学部教授(当時)を座長とした「ホワイトドーム会」、鈴木茂(札幌商工会議所会頭・北海道拓殖銀行頭取(当時))を会長とした「ホワイトドーム推進会議」が相次いで発足した。プロ野球ファン約600人で構成されていた「北海道にプロ野球を誘致する会」は、「北海道にプロ野球球団を作る会」に改称した。同会は、ホワイトドーム会などと連携し、川島廣守・セントラル・リーグ会長(当時)との面会や、サッポロビールなどの地元有力企業に球団誘致を働きかけるなどの活動をした。板垣式四・札幌市長(当時)は、1989年の年頭記者会見で、「多目的なスポーツの施設としてぜひ実現したい。天候に左右されないため、プロ野球の誘致が可能になれば、札幌市を中心とした経済的波及効果も大きい。なんとか実現へ向けて努力したい」と述べた。ドーム建設候補地として、札幌市豊平区月寒の「世界・食の祭典」会場跡地、豊平区の八紘学園団地、白石区の旧国鉄・東札幌駅跡地(現在の札幌コンベンションセンター一帯)などが挙げられていた。 1992年(平成4年)7月、札幌市が「2002 FIFAワールドカップ」開催候補地として名乗りを挙げると、新たに建設するサッカースタジアムをホワイトドーム構想と関連性を持たせる案が浮上した。 1993年(平成5年)1月には「2002 FIFAワールドカップ」国内開催候補地に決定した。 1996年(平成8年)1月にはサッカー専用競技場として建設した場合、赤字は必至だったため試合数の多いプロ野球球団の誘致がドーム建設の前提とされ、サッカーだけでなく野球など多目的に利用できるドームスタジアムとすることが正式に決定した。 1997年(平成9年)2月に札幌ドーム設計・技術提案競技(コンペ)には9つのグループが参加し、東京大学名誉教授の建築家原広司グループ(原広司、アトリエ・ファイ建築研究所、アトリエブンク、竹中工務店、大成建設、シャールボヴィスインク)が提案したサッカー用の天然芝を空気圧で浮上するステージに乗せてドームに出し入れする「ホヴァリング・ステージ」方式が採用された。ドームの建設場所として、農林水産省北海道農業試験場・甜菜試験農場の一部用地が選ばれた。 1998年(平成10年)6月にドーム建設を着工し、10月に株式会社札幌ドームを設立した。 1999年(平成11年)1月に札幌ドームの愛称を公募し、3月24日に愛称発表および当選作表彰式で応募総数7,722通、4,966作品の中から札幌在住の応募作「HIROBA(ひろば)」が選ばれた。採用した理由は『横文字になる傾向が強いなかで、日本語の原点に戻ることはとても大切なこと。この作品は、施設の持つ集客性と、あるべき姿を端的に表現している』と説明した。しかし、札幌市民や北海道民の間では「ドーム」と言えば通じる事などから定着していない。 2001年(平成13年)5月に完成し、延べ55万人の工事関係者が携わり、総事業費は537億円(建設費用 422億円、土地費用 115億円)だった。同年6月2日に開場した。6月2日には司会に徳光和夫、出演者として札幌出身のシンガーソングライターの大黒摩季らを招いたオープニングの記念イベントが開催された。 2002年FIFAワールドカップ開催時、冬期間のリーグ戦開催において寒さによるピッチの凍結に悩まされるヨーロッパ各国の関係者やマスコミからは、完全屋内で試合のできる本施設に高い評価が与えられた。ただし、札幌ドームでの冬季のサッカー公式戦開催は現状では不可能である。 2002年FIFAワールドカップにおいて、当時のイングランド代表監督だったスヴェン・ゴラン・エリクソンがハーフタイムに戦術指示を示したホワイトボードがそのままのかたちで保存されており、南北の連絡通路のメモリアルコーナーのギャラリーに展示されている。 年間を通して多目的に使える施設であることから、2002 FIFAワールドカップの日本側の会場となった施設では最大の収益を上げており、2001年度の開業から2013年度終了時まで13期連続で黒字となった。2014年度は当時過去最大の売上高を記録したものの、大型映像設備更新に8億2800万円の費用負担があったことから、開業以来初となる単年度赤字決算となった。北海道日本ハムファイターズが使用料減免を要求しているが、上記のように条例で額が定められていることもあり、応えられていない。なお、札幌市は北海道コンサドーレ札幌に対して「札幌ドーム利用料金減免補てん補助金」との名目で、ドーム利用料金の3分の1減免し、これに伴う減収分を株式会社札幌ドームへ補助金(年額3000万)として補填する事業を2000年度から行っている。 2018年9月6日に発生した北海道胆振東部地震の影響で9月11日・12日に予定していた日本ハム対ロッテ戦が中止となった(この2日間の振替試合は10月10日・11日に行われた)。札幌ドームでのプロ野球の試合が中止もしくは延期になったのは、過去に2004年のプロ野球再編問題で日本ハム対近鉄戦がストライキにより中止になったのと、2011年に発生した東日本大震災の影響により開幕自体が延期されたのがあるが、公式戦が行われている期間中に地震の影響で中止になったのはこれが初めてである。9月14日から17日までの日本ハム対オリックスの4連戦は予定通り開催された。 地震による苫東厚真発電所停止中の影響により14日は「20%節電目標」への協力として照明類の一部を消灯・減光したり、オーロラビジョンはライト側の大型ビジョンとバックネット側の小型ビジョンを使ってレフト側の大型ビジョンを未使用とする等の節電対策が行われた他、犠牲者の追悼に伴い一部イベントが中止になり、オーロラビジョンの一部演出を自粛すると共に「ファイターズから皆様へ」と題するビデオの放映が行われた(17日まで継続)。20%節電目標の達成・終了後も15日から17日までは自粛していた一部イベントを再開、オーロラビジョンは引き続き節電の為ライト側とバックネット側2面だけを使用。一部演出は節電によりライト側で再開されるまでに留まる。 9月19日に苫東厚真発電所の1号機が復旧、運転を再開。これに伴い翌20日に開催された日本ハム対ソフトバンク戦から減光中だった照明が通常の明るさに戻り、オーロラビジョンはレフト側大型ビジョンの使用再開に伴い3面ビジョン再開。14日から換算して僅か7日後の出来事である。 2021年には、東京2020オリンピック(五輪)の男女サッカー競技に使用された。 東京2020オリンピックは2020年夏季の開催が当初予定されていたため、NPBは2019年の時点で、2020年6 - 8月のファイターズ主催試合5カード(10試合)で東京ドーム、北海道内で札幌以外のエリアに所在する球場(旭川スタルヒン球場・帯広の森野球場・釧路市民球場)、北海道外でNPB球団の本拠地に使われていない地方球場(沖縄セルラースタジアム那覇・静岡草薙球場)を使用することを計画していた。この計画ではファイターズのナインが30日間に延べ9,000kmもの距離を移動することを想定していたが、2020年の初頭から新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が日本国内で流行している影響で、東京五輪の開催は2021年、NPBの2020年レギュラーシーズン開幕は6月19日(金曜日)まで延期。NPBが2020年シーズン日程の再編成に際して、感染拡大防止策の一環で(ファイターズを含む)全12球団の公式戦会場を球団本拠地の球場とほっともっとフィールド神戸に限定したこともあって、ファイターズは当該期間の主催試合で札幌ドームと東京ドームのみ使用した。 また、2021年6月3日(木曜日)には、サッカー日本代表強化試合(キリンチャレンジカップ、日本A代表対ジャマイカ代表戦)を19:30から予定。ジャマイカ代表チームでは、関係者全員が来日前にPCR検査を受診したうえで、陰性が証明された人物だけを日本向けの飛行機へ搭乗させていた。しかし、一部の選手に向けて発行された陰性証明書に不備が見付かった 影響で、開催2日前(6月1日)までに10人の選手と一部の役員・スタッフしか来日できなかった。主催団体の日本サッカー協会(JFA)は、「代表チームの選手が10人しかいない状況では国際親善試合が成り立たない」との理由で、同日に日本A代表対ジャマイカ代表戦の中止を発表。ジャマイカ代表の来日が困難な事態に備えた「リスクマネジメント」の第2優先案を基に、東京五輪の代表候補選手が集結しているU-24サッカー男子日本代表チームと男子A代表チームによる対戦を、無観客の強化試合として6月3日に札幌ドームで実現させた。TBSテレビと系列全局が強化試合の開催を前提に札幌ドームからの中継枠を19:00 - 21:30の時間帯に確保していたことや、U-24代表が6月5日開催分の強化試合(東平尾公園博多の森球技場(ベスト電器スタジアム)でのU-24ガーナ代表戦)に向けて日本国内で調整していたことを踏まえた変更で、JFAの主催による日本男子代表チーム同士の試合は1980年12月(日本代表対日本代表シニア戦)以来であった(試合は3対0で日本A代表が勝利)。 2020年東京五輪での男女サッカー競技については、2021年7月中に1次ラウンド10試合(男子6試合・女子4試合)が開催された。東京五輪・パラリンピック組織委員会では、日中の開催試合(デイセッション)について、収容人数の50%以内で最大1万人の観客を入れて実施することを同月9日の午後にいったん発表。しかし、当日の夜になって、上記の全10試合を無観客での開催に切り替えることを急遽決定した。東京都内で改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発出されるなどCOVID-19への罹患者が増加していることを背景に、組織委員会が前日(8日)に東京都および(まん延防止等重点措置が適用されている)神奈川県・千葉県・埼玉県内の会場を使用する競技の無観客開催を決めたことを受けて、北海道知事の鈴木直道(宣言・措置の対象地域や肩書はいずれも当時)が「(上記の1都3県を含む)首都圏との観客や関係者の往来を防ぐことが困難」との理由で無観客での開催を要請したことによる。 北海道日本ハムファイターズ(球団)は、日本プロ野球(NPB)の公式戦を常時開催できる環境(開閉式の大屋根など)を備えたグループ直営の野球場を北海道北広島市へ建設したこと に伴って、2023年シーズンに本拠地を札幌ドームから上記の新球場に本拠地を移転。移転後は、10年以上にわたる日本エスコン(ES-CON JAPAN)との施設命名権契約に基づいて、新球場に「エスコンフィールドHOKKAIDO」(「エスコンフィールド北海道」)という名称を使用している。 その一方で、2022年9月24日(土曜日)から同月28日(水曜日)まで札幌ドームで組まれているホームゲーム(パ・リーグのレギュラーシーズン公式戦5試合)を、「FINAL GAMES 2022」として開催。実際にはこの年のレギュラーシーズンを6位で終えることが9月18日(日曜日)に確定したため、公式戦における本拠地としての札幌ドームの使用を、28日の対ロッテ戦(ナイトゲーム)で終了した。なお、28日には来場者全員に「札幌ドーム最終戦観戦証明書」を無料で配布。有料入場者の総数は41,138名で、試合はロッテが11対3で勝利したが、日本ハム球団では札幌ドームを本拠地に使用してきた19年間を締めくくる「ホーム最終戦セレモニー」を試合後に開催している。シーズン終了後の11月23日(水曜日・勤労感謝の日)に開催された「ファンフェスティバル2022」をもって、非公式戦(オープン戦など)を除く球団定例行事での使用を事実上終了。 株式会社札幌ドームは、年間9億円規模のリース料を基調に、総額で年間20億円以上の収入を球団側から得ていた。この収入にはドーム敷地内での球団グッズの販売などによる収入が含まれていたため、球団側はかねてから、ドームの賃借に関する条件の改善(リース料の引き下げなど)を管理母体の札幌市へ要望していた。これに対して、札幌市はリース料の引き上げに踏み切る一方で、球団側から提案されていた運用コストの削減策(他の企業・団体に対する指定管理者の選定など)の採用をことごとく見送っていた。 日本ハム球団は、東京ドームから札幌ドームへの本拠地移転を機に、「『スポーツと生活が近接する社会』(Sports Community)の実現を目指す」という理念を掲げていた。もっとも、札幌ドームをめぐる環境はこの理念の実現に程遠く、ドーム自体にも諸般の制約から改善や拡張の余地がほとんどなかった。高校・大学野球の経験者でスポーツ・マーケティングへ長らく携わっている前沢賢(2023年の時点では球団の事業統括本部長)によれば、ヘッドハンティングで入団した直後(事業部員時代)の2009年にドーム内部の改装を再三にわたって株式会社札幌ドームの取締役(当時)に打診したものの、「ドームの建設当初から定められている札幌市の条例に抵触する」「建設当初の構造に少し手を加えただけでも、他の部分の構造が崩れる恐れがある」との理由で女性用トイレの増設すら認められなかったという。そこで前沢は、スポーツ・マーケティングの知見と経験を踏まえて、北海道内の別のエリアへの本拠地移転を伴う「ボールパーク構想」を発案。この提案に反対していた上司との衝突や人事面での冷遇がきっかけで2011年にいったん退団したものの、札幌ドームからの本拠地の移転先探しが暗礁に乗り上げていた2014年に球団へ復帰すると、大社啓二(当時のオーナー)や島田利正(当時の球団代表)などからの知遇を背景に構想の実現へ本腰を入れ始めた。 その一方で、札幌市に隣接していて新千歳空港に近い北広島市では、総合運動公園を整備する計画が1996年の市制施行前(1968年の町制施行当初)から浮上。この計画は、地方公共団体(当時は北海道札幌郡広島町)としての財政難や、「公共事業」としての優先順位の低さを背景に何度も頓挫していた。 広島町の職員から北広島市の初代助役を経て、2005年から北広島市長を務めている上野正三は、市長として4度目の任期(2015年度)に入るタイミングで「きたひろしま総合運動公園」を本格的に整備する方針を表明。広島町時代からの上野の部下(2015年度の時点では北広島市の企画財政部次長)で、広島町への入庁前年(1988年)に札幌開成高等学校硬式野球部の4番打者として第70回全国高等学校野球選手権大会へ出場した川村宏樹が、この方針の実現に奔走した。その結果、きたひろしま総合運動公園の整備計画が「官民連携支援事業」(日本政府からの助成対象事業)へ正式に認定されたことから、川村は計画の実現に向けたプロジェクトチームの責任者に任命。チームによる民間の開発パートナー探しの一環として、2016年1月には、公園の一角へ野球場を建設することを前提に、北海道日本ハムファイターズ (ファーム) が主管する試合(イースタン・リーグでの主催公式戦)から年間数試合をこの球場で開催することを球団に持ち掛けた。球団を代表して川村と対応した前沢は、当時まだ公表されていなかった「一軍の本拠地を札幌ドームから移転させる」という構想を川村へ打ち明けたうえで、移転先の球場を「きたひろしま総合運動公園」内に建設、球場への最寄り駅を(北広島市内を通る)JR北海道の千歳線に新設することを提案。北広島市はこの提案を受けて、「建設用地の無償貸与」「球場を含めた公園施設の固定資産税・都市計画税の10年間免除」などを条件に、新球場の建設と運営を改めて打診した。 報道関係者で上記の動きをいち早く把握していたのは、北海道日刊スポーツ新聞社の日本ハム担当記者(当時)にして高校野球経験者(新潟明訓高等学校硬式野球部OB)の高山通史で、新球場の建設を軸に"Sports Community"を北広島市に作り出す構想も前沢から極秘裏に打ち明けられていた。前沢への接触はいわゆる「スクープ狙い」の取材の一環であったが、実際には前沢が示した構想のスケールに魅了されるあまり、取材の成果を一切公にしなかった。結局、日本ハムが札幌ドームで成し遂げた2016年の日本シリーズ制覇の原稿を執筆したことを置き土産に、北海道日刊スポーツ新聞社を退社。前沢からの勧めで2017年1月から日本ハム球団に加わると、前年まで「取材の対象」であった新球場の建設構想に「広報部員」の立場で携わっている。 もっとも、球団が北広島市と交渉を重ねていることを2016年5月に北海道新聞が報じたこと から、札幌市も本拠地の移転を前提に野球場を北海道立真駒内公園内へ新設することを球団側に提案。この提案に沿って公園の整備計画を利用者や周辺の住民などに公表したところ、自然環境の保全などの観点から野球場の新設に反対する旨の意見が多く寄せられたため、札幌市は後に提案の撤回や計画の修正を余儀なくされた。 結局、球団側は北広島市からの打診を踏まえて、自前で建設した野球場で発生する収益を球団の経営・戦力の補強へ直結させる方針に転換。2018年11月5日には、きたひろしま総合運動公園内に野球場を建設したうえで、2023年シーズンから本拠地をこの球場へ移転させることを正式に発表した。 NPBでは基本として、レギュラーシーズン開幕カードの主催権を、4年前のレギュラーシーズンでの最終順位が3位以上の球団へ自動的に付与している。日本ハムは2018年の最終順位が3位だったものの、2019年には5位に沈んだため、通例に沿えば2023年の開幕を新球場(ES CON FIELD HOKKAIDO)で迎えられないことになっていた。このような事情から、日本ハム球団では2020年に入ってから、東北楽天ゴールデンイーグルス(2018年最下位→2019年3位)との間で「開幕カード主催権の交換」という異例の交渉を開始。1年にわたる交渉の末に、札幌ドームでの本拠地最後のシーズン(2022年)の開幕カード主催権を楽天へ譲渡する代わりに、2023年シーズンの開幕カードを新球場で主催する権利を得た。 日本ハム球団では、本拠地を移転する2023年以降も、NPBの野球協約第38条に基づく保護地域を北海道に設定。同年には、全ての主管試合(ホームゲーム)を新球場で開催することが、パ・リーグから正式に発表されている。札幌市は、日本ハムが本拠地の移転を決めた2018年から、NPBの他球団に対して札幌ドームでの公式戦の開催を打診。「NPBの公式戦で丸1日使用するだけでも2,000万円」とされる使用料の引き下げにも応じる姿勢を示していたが、結局はどの球団とも折り合いが付かなかった ため、2023年のNPBではセ・パ両リーグとも札幌ドームで公式戦を組まなかった。現に、2022年度のNPBオフシーズン(後述する2023 ワールド・ベースボール・クラシックに向けた強化試合の終了後)には、一・三塁側のフェンスから広告を完全に撤去。2023年度からは、内外野ともフェンス広告の新規販売を中止している。さらに、一・三塁側コーチャーズボックス付近の人工芝に描かれていた企業名を消去したため、場内の広告は大幅に減少。2023年度には、テレビ中継での露出が見込めるNPBの公式戦が開催されなかったこともあって、「コンコースの柱や壁面を含めた広告枠(総数80枠)の3割が、NPBのレギュラーシーズンと重なる上半期(2023年9月)までに埋まらない」という事態に陥った。 NPBが2023年から札幌ドームを(日本ハムの主管試合を含む)公式戦で使用しない背景には、コンクリートの床に巻き取り式の薄い人工芝を敷いた野球仕様のグラウンドによって、他球場を上回るほどの負担が選手や審判の身体に掛かっていたことも挙げられている。現に、本拠地を札幌ドームへ移転してからの日本ハムでレギュラーに定着していた外野手のうち、糸井嘉男・陽岱鋼・中田翔・西川遥輝は慢性的な足腰の故障に悩まされた。さらに、グラウンド上で故障した選手に対するトレーナーの処置がままならないほど、バックヤードのスペースが非常に狭いことが球団関係者の不興を買っていた。2012年から8年間にわたって日本ハムの一軍を指揮した後に野球日本代表の監督へ転じた栗山英樹も、2023のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に向けた強化試合(2022年11月9・10日に札幌ドームで開催)のチームミーティングで、NPBの他球団から日本代表へ招集された選手に対して「札幌ドームでは(グラウンドが他の球場より)急に固くなるので、身体に負担が来てしまう。怪我のないように(強化試合を)終えて欲しいので、絶対に無理をしないように」と忠告している。 ただし、日本ハム球団では2023年の主管オープン戦において、3月4日・5日に楽天との2連戦で札幌ドームを使用。同年のレギュラーシーズン中に新球場で開催する球団主管の公式戦を対象に、観戦を希望する札幌市民を抽選で招待する企画も打ち出していた。発表の時点で球団社長を務めている川村浩二によれば、「北海道日本ハムファイターズは2004年の誕生から北海道(民)やファンの皆様に支えられてきた一方で、新球場の建設や開業に向けて多くの方々にお世話になったので、(札幌ドームが所在する)札幌市民の皆様へ何かしらの御礼をしたい」「新球場を『世界に誇れる共同創造空間』『(札幌ドーム)より多くの方々に御来場いただけるデスティネーション(目的地)』として札幌圏や北海道の発展に寄与できるよう(札幌市民の皆様に)御参画や御協力をお願いしたい」との思いから、札幌ドームにおけるオープン戦の開催と札幌市民の新球場招待企画を決めたという。 さらに、日本ハム球団では2024年にも、3月2日・3日のオープン戦を札幌ドームで開催することを計画している。3月上旬の北海道で例年寒い日が続くことや、新球場(エスコンフィールド北海道)のグラウンドに天然芝を敷設していることを踏まえた計画で、「この時期に(開閉式の屋根を閉めたまま暖房などの目的で)新球場内部の温度を上げることは、天然芝の生育との兼ね合いで難しい」との理由から「新球場に比べて場内の温度を管理しやすいので、選手も観客も寒さを気にせずに済む」という札幌ドームを1年振りに使用する方向で落ち着いた。 開業20周年の2021年に、2031年までの10年間にわたる運営指針として、「SAPPORO DOME VISION 2031(SV-31)」を策定。北海道日本ハムファイターズの本拠地移転(2023年)に伴う減収を少しでも補うべく、この指針に沿って以下の試みが為されている。 札幌ドームでは、パシフィック・リーグ球団の本拠地球場で唯一、2022年度まで施設命名権を第三者に売却していなかった。札幌市は命名権の売却を2007年2月から何度も検討していて、2011年には3度にわたって売却先の公募を実施したものの、売却先の決定には至らなかった。 札幌市が売却先の公募へ初めて踏み切ったのは2011年1月で、公募に際しては、契約期間を5年間に設定。施設名に「札幌ドーム」(またはそれに準ずる名称)を付けることや、年間5億円の権利使用料を札幌ドームへ支払うことを契約の条件に定めていた。これに対してGoogleが公募に名乗りを上げたものの、札幌市側との折り合いが付かなかったため、契約の締結は見送られた。この結果を受けて、札幌市は2月と12月にも公募を実施したが、いずれも応募者は現れなかった。ちなみに、12月の公募では、翌2012年レギュラーシーズン開幕前までの売却を視野に、契約年数の延長によって年間使用料の実質的な軽減を謳っていた。 その一方で、株式会社札幌ドームでは、2014年度から10年間の規模でドームの改修を計画。改修費用が総額で90億円 - 100億円と見込まれることから、札幌市ではこの費用を捻出すべく、2013年12月に通算4回目の公募を実施することを検討していた。検討に際しては、札幌市が陣頭指揮を執っていた過去3回の公募から一転して、株式会社札幌ドーム・北海道日本ハムファイターズとの連携を模索。実際には三者間の調整が付かなかったため、4回目の公募の実施は見送られた。 しかし、北海道日本ハムファイターズが2023年度からの本拠地移転を2018年度内に決めたことを受けて、札幌市は本拠地移転後の5年間(2023 - 2027年度)に見込まれる札幌ドームの事業収支を試算。2022年6月には、この試算に沿った収支の見通しを発表する とともに、上記5年間の指定管理者を選定するタイミングに合わせて施設命名権の売却先を公募することを決定した。 2022年度(2023年3月31日)までの指定管理者であった株式会社札幌ドームも、札幌市との協議などを経て、施設命名権を売却することを検討。同社は2023 - 2027年度にも札幌市から指定管理者に選定されているが、2022年度内の公募は見送られた。 札幌市が公表した2023年度から5年間の収支見通し(前述)によれば、ドームを使用するイベントの年間開催日数を2019年度から20日前後の減少にとどめた場合には、上記5年間の最終損益で900万円の黒字を計上できるという。この見通しでは、Jリーグの公式戦開催日数を増やすことや、ドーム内をカーテンで仕切ることによって小規模のコンサートにも対応することなども想定されている。 札幌ドームでは最大で5万人規模の観客を収容できるにもかかわらず、このような規模でコンサートを開催するアーティストが少ないことが、収入を確保するうえで積年の課題になっていた。株式会社札幌ドームは、「およそ2万人の観客で満員になる」という中規模のイベントやコンサートの需要を掘り起こすべく、「ドーム内の客席の一部を複数の暗幕で仕切る」という仕掛けを構築。このような仕掛けを「新モード」と称して、2023年3月14日に報道陣へ初めて公開した。奇しくも、日本ハムは当日の午後に、新球場で初めての対外試合(埼玉西武ライオンズとのオープン戦)を開催している。 「新モード」では、外野スタンドをイベントの客席に使用する一方で、「野球モード」におけるピッチャーズマウンド付近にステージを組むことを前提に置いている。そのうえで、最も大きな暗幕(高さ30メートル×幅120メートル)をステージの正面、内野席を覆い隠す格好でスタンド席を仕切る暗幕をステージの両側に設置。設置については、およそ10名のスタッフで8時間を要することが見込まれている。 ちなみに、株式会社札幌ドームでは、「新モード」を展開するための改修工事におよそ4億円を投入。また、「新モード」の展開に合わせてステージの照明や音声を充実させための機材を、およそ2億3,000万円で海外から輸入した。「新モード」の展開は2023年3月からで、1日当たりの使用料を従来のモードの7割程度に設定。このモードを使用した中規模イベントを、2023年度に年間で6回、2024年度以降に12回程度開催することを想定している。 「新モード」を使用した初めてのイベントは、ラグビーワールドカップ2023グループリーグ・プールD(日本代表対チリ戦)のパブリックビューイングで、2023年9月10日に開催された。同年11月19日には、「全開エール!!2023」というイベントを「新モード」で開催。「北海道内の高校の吹奏楽部で活動する現役の学生と、『コロナ禍』での高校生活を余儀なくされていた吹奏楽部のOB(卒業生)で構成される7つの団体がマーチング、ダンプレ、吹奏楽の演奏などのパフォーマンスを披露する」というイベントで、開催の前日(18日)には、「通常は関係者にしか使用を認めていない『控室』や『記者室』を、道内の高校(6校)から参加していた吹奏楽部の宿泊を伴う『合宿』に提供する」という試みも為されていた。もっとも、いずれのイベントも、札幌ドーム側から関連団体(北海道ラグビーフットボール協会や北海道内の高校の吹奏楽部)への打診をきっかけに実現。さらに、このような事情から主催団体に会場使用料の減免措置などが適用されたため、実際には札幌ドーム側の利益が少額にとどまっている。 2023年11月の時点では、上記のイベント以外に「新モード」が活用された実績も、札幌ドーム側からの打診と無関係の企業・団体による活用への応募も皆無である。その背景としては、「客席の総数が(常設スタンドの)半分」「イベントでの使い方が分からない」といったイメージが関係者の間に広まっていることや、札幌ドームでのコンサートを希望するアーティストに「ドーム(の常設のスタンド)を(観客で)満員にしたい」との意向が強いことなどが報道などで指摘されている。これに対して、札幌ドーム側では「全開エール!!2023」での試みを足掛かりに、ドーム内のスペースをイベント出演者などの「宿泊」にも活用することを検討している。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)北海道コンサドーレ札幌のホームスタジアム(2014年までは札幌厚別公園競技場と併用)である。2004年度から2022年度まではプロ野球パシフィック・リーグの北海道日本ハムファイターズが本拠地球場として使用していた。 かつては北海道日本ハムファイターズの球団事務所と北海道コンサドーレ札幌のクラブ事務所も設けられていた。北海道日本ハムファイターズの球団事務所は2012年に大幅改修した際、1階会議室の3部屋それぞれの部屋名に「北海道に移転してからの球団の功労者」としてトレイ・ヒルマン、新庄剛志(SHINJO) 、ダルビッシュ有(入団順。序列の有無は不明。)の3人の姓の英語表記を使用した。 野球の国際試合では、2003年にアテネオリンピックのアジア地区予選を兼ねた第22回アジア野球選手権大会や、2015年の第1回WBSCプレミア12の開幕戦などで使用された。 サッカー場としては、2003年にJリーグオールスターサッカーが開催されたほか、サッカー日本代表の国際親善試合(キリンチャレンジカップ)に使用されることも多い。また、2020年東京オリンピック(五輪)で男女サッカー競技の会場に選ばれていたほか、2023年度からは全国高等学校サッカー選手権大会北海道大会の決勝を開催する。 多目的施設でもあるため、2019年ラグビーワールドカップなど、野球・サッカー以外の競技やイベントでも使用されている。 プロ野球の試合開催にあたっては「プロ野球地域保護権」(フランチャイズ制度)という野球協約があり、『フランチャイズ球団の保護地域となっている都道府県で他球団が主催試合をする場合、当該するフランチャイズ地域全球団の許諾を得なくてはならない』と定められている。日本ハムファイターズが本拠地を北海道に移転し北海道日本ハムファイターズとなった2004年以降は、札幌ドーム(実際は札幌ドームに限らず北海道内全ての球場)において北海道日本ハムファイターズ以外の球団が主催試合を開催する場合は予め同球団からの許諾を得ることが必要となった。そのため、以下のセ・リーグ3球団はいずれも2004年以降の主催試合は予め日本ハムに許諾を得た上で開催した。 北海道高等学校野球連盟(北海道高野連)では2023年から、秋季北海道高校野球大会全道大会(毎年10月に主催している秋季全道大会)の全試合で札幌ドームを使用している。全天候型施設の札幌ドームを高校野球の公式戦に使用することは初めてで、北海道高野連が数年前から使用を検討していたところ、日本ハムの本拠地移転決定によって日程の面でドーム側と折り合いが付いたという。ちなみに、北海道高野連が主催する全国高等学校野球選手権地方大会(北北海道大会・南北海道大会)では、移転先のエスコンフィールド北海道で2023年から準決勝(各2試合)と決勝を開催している。 秋季全道大会は北海道高野連が道内で運営する10支部の代表校が集まる大会で、優勝校には明治神宮野球大会(札幌ドームと同様に人工芝を内・外野のフェアグラウンドとファウルゾーンに敷設している明治神宮野球場で毎年11月に開催される全国大会の高校の部)への出場権が与えられることから、札幌ドームでの開催が「明治神宮大会に向けた人工芝対策」や(屋外球場では道内特有の天候や日没などで支障を来しがちだった)試合日程の管理などに良い影響をもたらすことが見込まれている。 北海道コンサドーレ札幌は2003年のJ2降格後、使用料の高い札幌ドームでの開催を減らし、まだ屋外に積雪の残る春季と秋季を中心に利用していた。その結果、2004年は全ホームゲーム22試合中、札幌ドームでの開催が8試合と大幅に減らされ実質準本拠地の扱いだった。しかし、使用料は高いものの観戦時の快適さやアクセスの容易さで厚別に優る札幌ドームでの試合は有意に動員数が多く、多くの入場料収入が見込めるため、2005年以降はほぼ半数程度にまで戻っている。 J2降格となった2013年は、主催21試合のうち8試合の開催にとどまる予定であったものの、北海道日本ハムファイターズがクライマックスシリーズに進出できなかったため、10-11月に予定された主催2試合を急きょ日程面で余裕の出た札幌ドームに変更することとなり、札幌ドームでの開催は10試合となった。 2014年は21試合中17試合が札幌ドームで開催され、開場以来最多となった。これは札幌厚別公園競技場がJリーグクラブライセンス制度のスタジアム基準を満たしていないため、2015年のライセンス基準の厳格運用に先駆けて前倒しで開催を減らしたことによる。なお、札幌厚別公園競技場は2014年度まで札幌ドーム共々本拠地としてJリーグに登録されていたが、2015年度から本拠地を札幌ドーム1か所のみにしている。これに伴い、2015年も21試合中19試合を札幌ドームで開催し、2年連続で開場以来最多試合数となった。 2019年には、ラグビーワールドカップ会場としての準備・使用との兼ね合いで、6 - 10月に主催試合として組まれていたリーグ戦・リーグカップ各3試合 を厚別で開催した。 ファイターズが2022年限りで本拠地を移転したことに伴って、他球団を含めたNPBの公式戦が札幌ドームで組まれていない2023年には、コンサドーレが主管するリーグ戦の大半(全17試合のうち15試合)とルヴァンカップの全3試合をドームで開催することが決まっている。またこれによって、今後はコンサドーレの専用スタジアムに事実上なることから、2022年に札幌ドームの運営会社とホームタウン連携協定を締結。クラブ事務所を同6月の予定で2014年以来7年ぶりに札幌ドームの敷地内に戻すことになった。 また、2024年春からは、厚別の老朽化箇所の全面改修工事が実施される予定のため、コンサドーレ主管試合はすべて札幌ドームで行われる予定となり、これに伴ってコンサドーレ主管試合で利用できる年間シーズンシートについても、従来の「ドームシーズンシート」(札幌ドーム主管試合限定の予約席)、および「フルシーズンシート」(札幌ドームと厚別での主管全試合対応の予約席)に区分されていたものがなくなり「フルシーズンシート」に一本化された。 シーズン閉幕の時期の違いからプロ野球の日程がJリーグよりも先に決定するため、北海道コンサドーレ札幌の札幌ドーム利用日程の決定にあたっては、プロ野球が先に決定した日程の隙間で使わざるを得ないという課題も抱えている。2011年において、東日本大震災により延期された主催3試合(3月12日:ギラヴァンツ北九州戦、3月19日:ジェフユナイテッド市原・千葉戦、4月2日:東京ヴェルディ1969戦)の代替についても一時は厚別など他の競技場への代替も考えられたが、当初の札幌ドームでの開催ができるよう、J2の他チームと異なる日に開催するよう日程調整を行っている(振り替え後の開催日は、北九州戦:7月6日、千葉戦:8月17日、東京V戦:9月21日)。 また北海道コンサドーレ札幌のもう一つホームスタジアムである札幌厚別公園競技場は、11月から翌年4月は基本的には積雪期間に当たり使えないため通常なら札幌ドームを使うところ、11月上旬のホームゲームの開催については、北海道日本ハムファイターズがパ・リーグの上位3チームに入ってクライマックスシリーズ(2006年まではリーグ優勝決定プレーオフ)出場が決定した場合、クライマックスシリーズ・日本シリーズを優先しなければいけないこともあり、11月であっても札幌厚別公園競技場で開催する事例が過去に生じている。またその場合、シーズン開始当初は「会場未定」とした上で後日(半年近く後)に決定するケースもある。 日本ハムが札幌ドームを本拠地とした2004年 - 2022年の間における、日本シリーズとコンサドーレのホームゲームの開催日程が重なった場合の試合の対応は次のとおり。 凡例 注釈 北海道サッカー協会では、毎年秋に主催している全国高等学校サッカー選手権大会(全国高校サッカー)の北海道大会において、2023年度(第102回)の決勝を2023年11月(前述した秋季北海道高校野球大会全道大会の閉幕後)に札幌ドームで実施することを同年4月に株式会社札幌ドームと共同で決定した。 全国高校サッカーの北海道大会は、首都圏で年末年始に組まれている全国大会への出場校を決める大会で、2022年度の第101回までは準決勝と決勝を札幌市内の札幌厚別公園競技場で開催。例年は全国大会開幕の2ヶ月前(10月下旬)に準決勝と決勝を2日連続で実施しているが、大会を通じて道内特有の天候不順に見舞われやすく、2015年度(第95回)の決勝は雪の降りしきる状況での開催を余儀なくされた。 このような日程をめぐっては、北海道大会へ出場する選手のコンディションはもとより、優勝校(北海道代表校)の選手が全国大会の初戦へ臨むまでの実戦感覚に及ぼす影響もかねてから強く懸念されていた。2022年6月に北海道サッカー協会の会長へ就任した越山賢一は、以上の懸念を踏まえて、全国高等学校サッカー北海道大会の決勝を11月中に札幌ドームで開催することを就任の直後に発案。自身が先頭に立って関係者との間で交渉を重ねた結果、コンサドーレ札幌から全面的な協力(ピッチの移動で生じる経費の負担など)を得るに至った。 なお、2023年度は準決勝を2023年10月28日に札幌厚別公園競技場、決勝を同年11月12日に札幌ドームで開催。11月はJリーグのレギュラーシーズン終盤と重なることから、J1リーグのコンサドーレ主管試合(札幌ドーム開催分)の開催日によっては、決勝の開催日を11日に設定することも検討されていた。また、北海道サッカー協会では、2024年度(第103回)以降の北海道大会でも決勝に札幌ドームを使用する意向を示している。 イベントが開催されない日に、ツアーアテンダントの案内によるドームツアーが開催されている。選手が使用するロッカーやブルペン等の見学が出来る。 北海道における屋内最大のコンサート会場として、ドームツアーの一環で利用されることが多い。一般的に東京ドーム・大阪ドーム(京セラドーム大阪)・ナゴヤドーム(バンテリンドーム ナゴヤ)・福岡ドームと合わせて「5大ドームツアー」と称されることがある。 イベント実績については、「札幌ドームのあゆみ・イベント実績」を参照。ドーム初使用順に掲載。赤色の年は開催予定であることを表す。 2004年からは、フランチャイズチームの発展と選手のさらなる活躍に向けた年間表彰制度として「札幌ドームMVP賞」を新設。2022年まではサッカー部門(北海道コンサドーレ札幌)と野球部門(北海道日本ハムファイターズ)に分けたうえで、当該チームで最も活躍した選手に授与していた。ファイターズが札幌ドームを本拠地に使用しない2023年以降はサッカー部門のみ実施している。 MVPの賞金は100万円(サッカー部門ではコンサドーレがJ2リーグに所属した年のみ50万円)で、2009年からは、ノミネート選手を対象にファン投票を実施した結果を基にMVPを選定している。また、西ゲート前のトンネル内に、歴代の表彰選手のプレートを展示している。 詳細は札幌ドームの公式ホームページ内「アクセス・駐車場」を参照。 札幌市営地下鉄東豊線の福住駅から徒歩10分 プロ野球・Jリーグ・コンサート等の大規模イベント時に運行されていたが、2023年9月16日以降は後述の経緯により全便運休となっている。 料金:大人(中学生以上)210円、こども(小学生)110円。ICカード乗車券(SAPICA・Kitaca・Suicaなど)が利用できる。地下鉄乗継割引は対象外。 平岸駅発着便は、札幌ドーム開業当初は札幌市交通局(札幌市営バス)が運行していた。 2008年より、ジェイ・アール北海道バスと北海道中央バスの共同運行による新札幌バスターミナル(JR千歳線:新札幌駅、札幌市営地下鉄東西線:新さっぽろ駅の最寄り)発着便も設定されていた ものの、2019年1月1日以降は運行を取り止めた(最終運行は2018年12月1日の北海道コンサドーレ札幌の試合)。理由としては、乗務員の確保が困難な中、同路線は他のシャトルバスに比べ距離が長く運行効率が悪いことが挙げられている。 2022年3月26日にジェイ・アール北海道バスは、乗務員の確保が困難になっていることから、JR白石駅発着のシャトルバスを当面取り止めると発表した。さらに2023年2月17日には、これに加えて、北海道中央バスが運行する南郷18丁目駅発着のシャトルバスも当面休止すると発表した。規模を縮小しながら運行していたじょうてつバスも、2023年9月6日の運行を最後に休止となり、全路線のシャトルバスが「当面の間」運行休止となった。いずれの社も「乗務員の確保が難しく、現状の路線バスの維持が限界」という理由である。 料金:大人(中学生以上)1,100円、こども(小学生)550円。 各料金:「さっぽろえきバスnavi」を参照。 ドーム内には5か所の徒歩利用者のための入場口があるが、積雪などの関係で冬季(原則11-3月)利用できない入場口がある。 ドーム内で2002年6月23日から在札AM放送局の再送信が開始された。 周波数は、札幌送信所と同じ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "札幌ドーム(さっぽろドーム、英: Sapporo Dome)は、北海道札幌市豊平区羊ケ丘にあるサッカー・野球兼用のドーム型スタジアム。施設は札幌市が所有し、札幌市と道内財界各社が第三セクター方式で出資する株式会社札幌ドームが指定管理者として運営管理に当たっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第44回BCS賞や平成14年度(2002年度)の赤レンガ建築賞を受賞。開業時より「Hiroba」という愛称が付けられていて、開業15周年を迎えた2016年6月2日からは、「チャームコロン」というマスコットキャラクターを使用している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)北海道コンサドーレ札幌のホームスタジアムで、2004年(平成16)から2022年(令和4年)までは、日本プロ野球(NPB)・パシフィック・リーグ所属の北海道日本ハムファイターズの本拠地球場でもあった。その関係で、プロ野球チームとプロサッカーチームが本拠地を共用する日本唯一のスタジアム となっていた。また、2008年(平成20年)から2009年(平成21年)までプロ野球マスターズリーグ・札幌アンビシャスの本拠地でもあったほか、さまざまなイベントやスポーツの国際大会が開催されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本で唯一の完全屋内天然芝サッカースタジアムで、屋外で育成した天然芝を必要な時に空気圧で浮かせて屋内へ移動させる「ホヴァリングサッカーステージ」を世界で初めて採用したこと により、サッカー用の天然芝グラウンド(サッカーモード)、野球用の巻き取り式人工芝グラウンド(野球モード)、その他のイベント用として、昇降式のピッチャーズマウンドを床下に収納し、人工芝を巻き取った平らなフロア(コンクリートモード)を使い分けられるようになっている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当施設は道内のプロ野球・Jリーグの公式戦が行われるスタジアムで、初めて常設のナイター設備が整えられたスタジアムとなった。それまでは、コンサドーレがメインホームスタジアムとして使用していた札幌厚別公園競技場でさえ、ナイター開催時は移動照明車を利用していた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ファイターズが本拠地をエスコンフィールドHOKKAIDO(北海道北広島市)へ移転したことに伴って、同球団主管の公式戦(ホームゲーム)が開催されなくなった2023年(令和5年)には、株式会社札幌ドームと株式会社コンサドーレ(コンサドーレ札幌の運営会社)が「スポーツのチカラ×まちのミライ」と称するパートナーシップ契約を締結。地域振興活動やドーム内の業務(イベントの開催・運営・広報、飲食・物販店の運営、広告営業など)で相互に連携・協力する体制の構築に着手したほか、最大で2万人規模の集客を見込めるイベントに対応した「新モード」の展開を3月から始めている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "メインアリーナと向かい合っており、ホバリングステージは普段はここに設置され、天然芝を育成している。周りはクローズドアリーナのスタンドと同じような面構成の芝生席となっている。北海道コンサドーレ札幌のサテライトの試合が行われたこともある。インターセクション部分を開放すればクローズドアリーナとの連続使用も可能。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "北海道コンサドーレ札幌の練習場として使用している「宮の沢白い恋人サッカー場」が芝の養生で使えない時にオープンアリーナを練習場として利用している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "天然芝が植えられた縦120m・横85m・重さ8,300tのステージで、空気圧によって地上から7.5cm浮上。直径600mmの駆動輪26輪・従動輪8輪の電動車輪(400V電圧)で毎分4mの速度で移動する。設計製作は川崎重工業。普段は屋外(オープンアリーナ)で養生されており、サッカーの試合がある時にドーム内(クローズドアリーナ)に移動させたのち、ドーム内で90度回転させてサッカー場(サッカーモード)として使用する。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ホヴァリングサッカーステージの入口は、サッカー場でのバックスタンド、野球場でのセンターの場所にあたる。ステージ移動の際にはこの部分の観客席が約1/3の大きさにまで折り畳まれ、レフト・ライトスタンドの下に収納される。さらにムービングウォールと呼ばれる、クローズドアリーナとオープンアリーナの間に設備されている可動壁を収納し、ステージの通り道ができるようになっている。このため、スコアボード(大型映像装置)は他の球場のようにセンターには設置できず、レフト・ライトスタンド側に設置している。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ステージの高さはラバーフェンスを含めると2.5mあり、2009年3月8日開催のサッカーJ2開幕節コンサドーレ札幌対ベガルタ仙台で、ゴールを決めた仙台の菅井直樹が喜びのあまり仙台サポーターに駆け寄ろうと飛び降りてしまったことがある。また2019年3月9日のJ1第3節の北海道コンサドーレ札幌対清水エスパルスで、札幌に加入したばかりで札幌ドームの構造に不慣れだったアンデルソン・ロペスもゴールを決めた後に飛び降りて一時は治療のためスタッフが駆け寄る事態となったが、怪我はなくその後にも2点を取り合計4得点と大活躍をした。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "年間を通して使用回数が少ないことと、寒冷地での芝のメンテナンスについてよく研究されていることもあって芝の状態は良好で、2002年には「Jリーグアウォーズ」で「ベストピッチ賞」を受賞している。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、プロ野球の試合前には、外に出されているピッチ上で選手がウォーミングアップをすることもある。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "屋内に引き入れたステージを90度回転させるためのスペースを必要とするため、野球場の形態(野球モード)ではファウルグラウンドが極めて広くなっているのも特徴である。このため、他の球場ならばスタンドインして捕球される心配のないようなファウルフライでも、野手が追いついて捕球される場合がある。その反面、バックストップ(本塁からバックネットまでの距離)が他と比べ10m前後も長いため、投手の暴投や捕手の後逸時にボールを拾うまでに時間がかかり、走者を余計に進塁させてしまうケースもある。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "冬季は屋外のオープンアリーナに設置して冬を越す。天然芝は降り積もった雪によって風や乾燥をしのぐことができ、札幌市の最低気温がマイナス10°Cを下回る厳冬期でも積雪のおかげで地中5cmの部分の温度は約0.5°Cに保たれる。北海道コンサドーレ札幌のホーム開幕戦での使用に向けて、高さ20cmまで除雪用の機械で減らした上で、芝が寒風にさらされて葉が黄化するのを防ぐために高さ10cmまでスコップやスノーダンプなどを使って除雪作業を行う。開幕直前に、最後の仕上げとして北海道コンサドーレ札幌の有志サポーターと一緒に、天然芝を傷つけないように除雪作業を行う。除雪後に土壌の凍結を防ぐためにアンダーヒーティングシステムを使って適切な地温を維持し、目土(補修用の砂)を芝が剥げてしまったところに入れる。トラクターで転圧用のローラーをけん引してピッチ表面を平らにし、転圧作業で寝てしまった芝をブラシがけ作業で起こす。古い葉や茎を取り除き、芝刈りなどを行って天然芝の状態を保つ。目土の充填を繰り返した結果、当初8300トンであったステージの重量は9000トンにまで増加したため、開業から17年目の2018年に初の改修工事を行い、ピッチ表面6.5cmの深さまで土を削り取って元の重量に復元した。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2021年には、サッカーのルヴァンカップA組1次リーグ・北海道コンサドーレ札幌対鹿島アントラーズ戦(5月19日)の開催に向けて前日(18日)に野球モード(16日まで日本ハム対ソフトバンク戦で使用)からサッカーモードへの転換作業を実施したところ、ホヴァリングサッカーステージに開業以来初めての不具合が発生。ステージをオープンアリーナから屋内へ搬入する作業中に設備の電源が一時的に停止したほか、電源の復旧によって当日(19日)の未明に搬入が完了してからも、ステージを90度旋回させる作業中に給電設備の不具合が生じた。原因や復旧時期の調査を短期間で見通せない不具合であったため、回転作業は旋回の途中で終了。オープンアリーナにナイター照明設備がないことや、照明設備の整った屋外サッカー場を他に確保できなかったこから、一時は当該試合の中止も検討された。結局、通常のサッカーモードから90度回転した配置で試合を開催(結果は0対0で引き分け)。試合後に夜を徹して復旧作業が続けられた結果、5月21日の午前中に本来の位置への回転が完了したため、翌22日にはJリーグ公式戦第15節・北海道コンサドーレ札幌対清水エスパルス戦を、通常どおりのピッチの配置で開催できるようになった。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "円形スタンドの中に三日月形の可動スタンドを備えている。これは野球場モードでの1・3塁側観客席の前列部分にあたり、サッカーの試合の際にはホームとセンター方向に移動し、メインスタンドとバックスタンドの前列となる。またサッカーモードのバックスタンド中央部、野球モードの外野スタンド中央部は収納式の可動席となっている。この可動席と固定席の間には三角形の空間ができる。これは可動席が折り畳み式であるための設計上の都合である。この部分には2005年から北海道コンサドーレ札幌主催試合では三角形の空間に石屋製菓の広告が設置される。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "固定スタンドの傾斜角度は約29度で、後列からも良好な視界を確保することが可能な様に設計面で配慮がされている一方、高齢者を中心に階段の昇降には苦労する角度である(そのため北海道コンサドーレ札幌の主催試合では階段の昇降が少ない「優し~と」という席種を設定している)。また、サッカー場ではメイン・バックスタンドの、野球場では1・3塁側内野席の前方部分となる可動式のスタンドは傾斜角度が約11度と固定スタンドに比べて緩く、低い位置にあるため視界はあまり良くない。これは同様の可動スタンドを持つ球場でも言えることであるが(可動席最後列の高さが外野フェンスの高さと一致するため)、当ドームはホヴァリングステージの存在のため最前列が高く設定されておりより傾斜が緩い。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "またスタンドへの出入り口は北海道コンサドーレ札幌の上位シーズンシート向けの専用出入り口が西ゲート付近に設置され2階へ上ることなく出入り出来るが、それ以外では地上2階部分(外野スタンドは最上段)にしかスタンド出入り口がない。2階コンコースにはエレベーターで上がることができるが、スタンド内では階段以外に昇降の手段がないため、階段に手すりが設置されている。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ドーム球場では通常、外野の両翼に添って巨大な広告看板を貼り付けているが、札幌ドームの場合はサッカー場としても利用されることから、バックネット側(サッカー場の場合はメインスタンド側)、外野スタンド側(バックスタンド側)と1・3塁側スタンド(両ゴール裏スタンド)の上方から垂下される形で掲示されている。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "フェンス・スタンドの広告は、サッカー・ラグビーの国際大会(国際Aマッチ等)の時はフェンスと同じ黒のシートで覆ったり、スタンドの横断幕をはずしたりする(クリーンスタジアム)が、北海道コンサドーレ札幌の主催試合では特にシートで覆うことはせずそのまま露出される。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2022年から野球場バージョンで3塁側相当、サッカー・ラグビー場バージョンでバックスタンドに相当する箇所の最前列に、リボンビジョンが埋め込み型で設置された。野球場バージョンで使用する場合はこの箇所をシートで隠していた。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "応援幕についてはプロ野球とサッカーとで条件が異なる。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "サッカー場(サッカーモード)としての使用時には、野球モードと違って、全席が利用できる状態にある。ただし、北海道コンサドーレ札幌の主催によるJリーグ公式戦の開催時には、転落防止の目的で両ゴール裏スタンドの前列3列に、アウェイチームサポーターを隔離し保護する目的でメインスタンドから見て右側のゴール裏スタンドに、それぞれ緩衝地帯を設けて閉鎖する。後者の閉鎖範囲は前者より広く設定されているため、北海道コンサドーレ札幌では、Jリーグ公式戦の定員数を客席の総数よりおよそ2,000人分少なく発表している(同クラブからJリーグに提出した文書では39,856人)。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スタンドとピッチを分けるフェンスが高い一方で、スタンド最前列とピッチとの距離が最大(メインスタンドとの間)で25m・最小(バックスタンドとの間)で12m程度と短く、サッカー場としての観戦環境は陸上競技場兼用の試合会場よりはるかに良好である。スタンド内の客席はピッチを見下ろすように配置されているため、サッカー専用球技場と比較すると一体感や接近感で劣るものの、「準専用球技場」に相当する環境を保持している。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ホヴァリングステージの不具合から通常よりピッチの配置が90度変わった状態での開催を余儀なくされた2021年5月19日のルヴァンカップ・北海道コンサドーレ札幌対鹿島アントラーズ戦(詳細前述)では、通常の使用時にはメインスタンド側に当たる場所がゴール裏に変わったため、両クラブの選手をピッチのコーナー付近からピッチへ入場させる措置を講じた。北海道コンサドーレ札幌も、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が同月16日から北海道内へ発出されていることを踏まえて、この試合の開催に際して異例の方針を発表。感染拡大防止策の一環として全席指定・前売限定で入場券を販売していたことから、購入者の観戦を認める一方で、購入者全員に入場料を払い戻すことを決めた。「(ピッチの角度が通常より)90度変わってしまうことで(ピッチ)見え方が変わってしまうので、クラブとしては(前売座席指定券の購入者から)お金をいただくことはできない」と判断したことによる。実際には、前売座席指定券の購入者から2,829人が、指定された席種・位置と異なる座席での観戦を了承したうえで入場している。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "野球開催時にはバックスクリーンに相当する箇所の客席約1,000席分を使わないため、総客席数は40,000人強となる。デラックスシート設置により現在の座席配置となった2007年には北海道日本ハムファイターズ主催時のプロ野球公式戦では満員時の観客数は42,222人、2009年は42,328人と発表されているが、この数字はグラウンド部分を観客席として解放しない際の定員数と考えられている。日本野球機構(NPB)が主催し入場者数を発表する日本シリーズでは、現在の座席配置になってからは2007年の日本シリーズ第2戦で記録された40,770人が最多入場者数となっている。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "プロ野球では一般的にホームチームのベンチは1塁側だが、北海道日本ハムファイターズは札幌ドームで3塁側のベンチを使っていた。これは2014年シーズンまではスコアボードが1塁(ライト)側にしか設置されてなく3塁側からの方が見やすかったことや、メインの北側入場ゲート及び最寄の地下鉄東豊線福住駅からのアクセスがよいことなども理由となっていた。福住駅~国道36号線方面より来場する場合、1塁側ではドームの外周を半周して入場する事になる。なお、オープン戦の北海道日本ハムファイターズ対読売ジャイアンツ(巨人)のうち、巨人主催扱いの試合でもベンチ配列は日本ハムが3塁側、巨人が1塁側である。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2006年3月の北海道日本ハムファイターズ主催のオープン戦でバックネット裏を除く内野の防球ネットを試験的に取り外したところ、ファンから好評で安全性も確認されたとして、2006年の北海道日本ハムファイターズ主催の公式戦全戦で防球ネットをはずすことが決まった。ところが、2010年8月にファウルボールが直撃し顔面骨折と片目失明の重傷を負った観客の女性が起こした裁判では防球ネットを外して以降、年間約100件のファウルボール事故が発生していることが指摘されている。また、フィールドシートの導入に関しては北海道日本ハムファイターズからの要請を受け、サッカー場やイベント会場への転換で可動席の移動が頻繁に行われることから取り外し式のフィールドシートを2009年から設置した。ただしフィールドシートには防球ネットが設置されている。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "両翼のポールは脱着式となっており、野球・ソフトボール以外のイベントに使うときはこのポールが取り外される。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2014年から3塁側内野席の一部を応援席とし、その一角にお立ち台となる場所を設置して私設応援団やファイターズガール(チアガール)を常駐させて応援の先導をしている。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "プロ野球のロケット風船はバックスクリーン付近のスタンド部分等の可動部が多く、除去されなかった風船を巻き込むことで稼働装置の故障が懸念されることを理由に2011年シーズンまで使用が禁止されていたが、専用のポンプで膨らませることを条件に2012年シーズンから全試合解禁になったが、新型コロナウィルスの蔓延による衛生面、感染予防対策の観点から、2020年以後ハンドポンプを含め、ジェット風船は再び全面禁止され、エスコンフィールド移転まで再解禁されることはなかった。2023年のエスコンフィールドも、開場当初はジェット風船はコロナ感染拡大抑制のため、当面ハンドポンプを含め全面禁止のままである。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "プロ野球の応援に際し、鳴り物による応援は近隣に配慮してほとんどの野球場が22時までとされているが、音漏れの少ない札幌ドームで騒音に関するトラブルは皆無であり、23時まで鳴り物の応援が許可されている。他球場では振動による近隣や建物への影響を配慮して規制している大人数によるジャンプ行為も開場当時より規制されておらず、コンサドーレサポーターがゴール裏で長年サルトによる応援を続けており、日本ハム移転後は稲葉篤紀へのジャンプ応援でテレビの中継画面が大きく揺れるのが有名となった。ただしこれは、ホヴァリング・ステージを出し入れするために折り畳み式で揺れる事を前提として設計した場所からさらに望遠レンズを使ってバッターボックス方向を撮っているため揺れが強調されており、実際の揺れはもっと小さい。この様に騒音・振動に対して比較的強い建築物である事などから、札幌都心で騒音など様々な問題を引き起こしている「YOSAKOIソーラン祭り」のドーム移転論というのもある。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Google ストリートビューでは、札幌ドームのグラウンドを見ることが出来、三塁側ベンチやホームベース上、マウンドからの眺めが見られるだけでなく、塁間や塁上からの映像もあり、ベースランニングも楽しめる内容となっている。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "放送ブース(放送席)は、日本のドーム球場では珍しく内野バックネット裏(メインスタンド)上段に観客席に入り込む形で設置されており、個別に部屋は設けていない。他のドーム球場では内野スタンド上段に個別の部屋を連ね、放送席のみのエリアを設けている。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "開場時から2014年シーズンまでは、パナソニック製の「アストロビジョン」がライトスタンド上方に設置されていたが、2015年3月に三菱電機製の「オーロラビジョン」に更新され、新たにレフトスタンド側にも新設された(2015年3月3日の北海道日本ハムファイターズ対読売ジャイアンツのプロ野球オープン戦で運用開始)。基本仕様は以下の通り。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2016年には、レジェンドシリーズとして後楽園時代を模したオレンジ単色表示や、アストロビジョン時代を模した表示がされた。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "グッズショップ「グッズ☆ジャム」及びレストラン「スポーツ・スタジアム・サッポロ」はホームチームの入場口となる北ゲート付近に設置されており、場内飲食売店は1階の北ゲート付近を中心に南ゲート・西ゲート付近にも設置している。一方でホヴァリングステージの出し入れのため東側(バックスタンド・外野側)には設置されていない。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "他のドーム同様、火をそのまま使えない事で制約を受けるが、開業当初より改善が行われ名物となっているものも登場している。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "球場内で売られるビールは、株主に連ねている関係上ほとんどがサッポロビールである。「黒ラベル」「サッポロクラシック」「ヱビスビール」とサッポロビールの3銘柄が揃う。しかし、キリンビールがスポンサーのサッカー日本代表の試合が行われる際は場内からサッポロビールが一掃され、全部の売場でキリンビールが売られる。ラグビーワールドカップ2019の開催時はワールドワイドパートナーのひとつがハイネケンだったことから全部の売場でハイネケンが売られた。アジア野球選手権2003の開催時は、大会メインスポンサーがアサヒビールだったことから球場内広告がアサヒビールに書き換えられ、アサヒビールも売られた。このときはサッポロビールも同時に売られた。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "場内では、缶・瓶飲料のほか、環境保全や保健衛生の観点からペットボトル入り飲料(内容量・蓋の有無に関わらず)、及び球場の外部で購入した弁当類は持参禁止となっており、飲料類は各自で水筒・タンブラーにて持参か、会場で紙コップに移してもらう。", "title": "施設詳細" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)には、北海道庁が全天候型多目的スタジアム「ホワイトドーム」建設構想を発表した。この構想は、1985年(昭和60年)に高額な建設資金などを理由に、いったん凍結された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その後、ドーム構想の主導権は商工会議所と札幌市に移行した。1988~89年ごろには、小林好宏・北海道大学経済学部教授(当時)を座長とした「ホワイトドーム会」、鈴木茂(札幌商工会議所会頭・北海道拓殖銀行頭取(当時))を会長とした「ホワイトドーム推進会議」が相次いで発足した。プロ野球ファン約600人で構成されていた「北海道にプロ野球を誘致する会」は、「北海道にプロ野球球団を作る会」に改称した。同会は、ホワイトドーム会などと連携し、川島廣守・セントラル・リーグ会長(当時)との面会や、サッポロビールなどの地元有力企業に球団誘致を働きかけるなどの活動をした。板垣式四・札幌市長(当時)は、1989年の年頭記者会見で、「多目的なスポーツの施設としてぜひ実現したい。天候に左右されないため、プロ野球の誘致が可能になれば、札幌市を中心とした経済的波及効果も大きい。なんとか実現へ向けて努力したい」と述べた。ドーム建設候補地として、札幌市豊平区月寒の「世界・食の祭典」会場跡地、豊平区の八紘学園団地、白石区の旧国鉄・東札幌駅跡地(現在の札幌コンベンションセンター一帯)などが挙げられていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)7月、札幌市が「2002 FIFAワールドカップ」開催候補地として名乗りを挙げると、新たに建設するサッカースタジアムをホワイトドーム構想と関連性を持たせる案が浮上した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)1月には「2002 FIFAワールドカップ」国内開催候補地に決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)1月にはサッカー専用競技場として建設した場合、赤字は必至だったため試合数の多いプロ野球球団の誘致がドーム建設の前提とされ、サッカーだけでなく野球など多目的に利用できるドームスタジアムとすることが正式に決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)2月に札幌ドーム設計・技術提案競技(コンペ)には9つのグループが参加し、東京大学名誉教授の建築家原広司グループ(原広司、アトリエ・ファイ建築研究所、アトリエブンク、竹中工務店、大成建設、シャールボヴィスインク)が提案したサッカー用の天然芝を空気圧で浮上するステージに乗せてドームに出し入れする「ホヴァリング・ステージ」方式が採用された。ドームの建設場所として、農林水産省北海道農業試験場・甜菜試験農場の一部用地が選ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1998年(平成10年)6月にドーム建設を着工し、10月に株式会社札幌ドームを設立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)1月に札幌ドームの愛称を公募し、3月24日に愛称発表および当選作表彰式で応募総数7,722通、4,966作品の中から札幌在住の応募作「HIROBA(ひろば)」が選ばれた。採用した理由は『横文字になる傾向が強いなかで、日本語の原点に戻ることはとても大切なこと。この作品は、施設の持つ集客性と、あるべき姿を端的に表現している』と説明した。しかし、札幌市民や北海道民の間では「ドーム」と言えば通じる事などから定着していない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)5月に完成し、延べ55万人の工事関係者が携わり、総事業費は537億円(建設費用 422億円、土地費用 115億円)だった。同年6月2日に開場した。6月2日には司会に徳光和夫、出演者として札幌出身のシンガーソングライターの大黒摩季らを招いたオープニングの記念イベントが開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2002年FIFAワールドカップ開催時、冬期間のリーグ戦開催において寒さによるピッチの凍結に悩まされるヨーロッパ各国の関係者やマスコミからは、完全屋内で試合のできる本施設に高い評価が与えられた。ただし、札幌ドームでの冬季のサッカー公式戦開催は現状では不可能である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2002年FIFAワールドカップにおいて、当時のイングランド代表監督だったスヴェン・ゴラン・エリクソンがハーフタイムに戦術指示を示したホワイトボードがそのままのかたちで保存されており、南北の連絡通路のメモリアルコーナーのギャラリーに展示されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "年間を通して多目的に使える施設であることから、2002 FIFAワールドカップの日本側の会場となった施設では最大の収益を上げており、2001年度の開業から2013年度終了時まで13期連続で黒字となった。2014年度は当時過去最大の売上高を記録したものの、大型映像設備更新に8億2800万円の費用負担があったことから、開業以来初となる単年度赤字決算となった。北海道日本ハムファイターズが使用料減免を要求しているが、上記のように条例で額が定められていることもあり、応えられていない。なお、札幌市は北海道コンサドーレ札幌に対して「札幌ドーム利用料金減免補てん補助金」との名目で、ドーム利用料金の3分の1減免し、これに伴う減収分を株式会社札幌ドームへ補助金(年額3000万)として補填する事業を2000年度から行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2018年9月6日に発生した北海道胆振東部地震の影響で9月11日・12日に予定していた日本ハム対ロッテ戦が中止となった(この2日間の振替試合は10月10日・11日に行われた)。札幌ドームでのプロ野球の試合が中止もしくは延期になったのは、過去に2004年のプロ野球再編問題で日本ハム対近鉄戦がストライキにより中止になったのと、2011年に発生した東日本大震災の影響により開幕自体が延期されたのがあるが、公式戦が行われている期間中に地震の影響で中止になったのはこれが初めてである。9月14日から17日までの日本ハム対オリックスの4連戦は予定通り開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "地震による苫東厚真発電所停止中の影響により14日は「20%節電目標」への協力として照明類の一部を消灯・減光したり、オーロラビジョンはライト側の大型ビジョンとバックネット側の小型ビジョンを使ってレフト側の大型ビジョンを未使用とする等の節電対策が行われた他、犠牲者の追悼に伴い一部イベントが中止になり、オーロラビジョンの一部演出を自粛すると共に「ファイターズから皆様へ」と題するビデオの放映が行われた(17日まで継続)。20%節電目標の達成・終了後も15日から17日までは自粛していた一部イベントを再開、オーロラビジョンは引き続き節電の為ライト側とバックネット側2面だけを使用。一部演出は節電によりライト側で再開されるまでに留まる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "9月19日に苫東厚真発電所の1号機が復旧、運転を再開。これに伴い翌20日に開催された日本ハム対ソフトバンク戦から減光中だった照明が通常の明るさに戻り、オーロラビジョンはレフト側大型ビジョンの使用再開に伴い3面ビジョン再開。14日から換算して僅か7日後の出来事である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2021年には、東京2020オリンピック(五輪)の男女サッカー競技に使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "東京2020オリンピックは2020年夏季の開催が当初予定されていたため、NPBは2019年の時点で、2020年6 - 8月のファイターズ主催試合5カード(10試合)で東京ドーム、北海道内で札幌以外のエリアに所在する球場(旭川スタルヒン球場・帯広の森野球場・釧路市民球場)、北海道外でNPB球団の本拠地に使われていない地方球場(沖縄セルラースタジアム那覇・静岡草薙球場)を使用することを計画していた。この計画ではファイターズのナインが30日間に延べ9,000kmもの距離を移動することを想定していたが、2020年の初頭から新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が日本国内で流行している影響で、東京五輪の開催は2021年、NPBの2020年レギュラーシーズン開幕は6月19日(金曜日)まで延期。NPBが2020年シーズン日程の再編成に際して、感染拡大防止策の一環で(ファイターズを含む)全12球団の公式戦会場を球団本拠地の球場とほっともっとフィールド神戸に限定したこともあって、ファイターズは当該期間の主催試合で札幌ドームと東京ドームのみ使用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、2021年6月3日(木曜日)には、サッカー日本代表強化試合(キリンチャレンジカップ、日本A代表対ジャマイカ代表戦)を19:30から予定。ジャマイカ代表チームでは、関係者全員が来日前にPCR検査を受診したうえで、陰性が証明された人物だけを日本向けの飛行機へ搭乗させていた。しかし、一部の選手に向けて発行された陰性証明書に不備が見付かった 影響で、開催2日前(6月1日)までに10人の選手と一部の役員・スタッフしか来日できなかった。主催団体の日本サッカー協会(JFA)は、「代表チームの選手が10人しかいない状況では国際親善試合が成り立たない」との理由で、同日に日本A代表対ジャマイカ代表戦の中止を発表。ジャマイカ代表の来日が困難な事態に備えた「リスクマネジメント」の第2優先案を基に、東京五輪の代表候補選手が集結しているU-24サッカー男子日本代表チームと男子A代表チームによる対戦を、無観客の強化試合として6月3日に札幌ドームで実現させた。TBSテレビと系列全局が強化試合の開催を前提に札幌ドームからの中継枠を19:00 - 21:30の時間帯に確保していたことや、U-24代表が6月5日開催分の強化試合(東平尾公園博多の森球技場(ベスト電器スタジアム)でのU-24ガーナ代表戦)に向けて日本国内で調整していたことを踏まえた変更で、JFAの主催による日本男子代表チーム同士の試合は1980年12月(日本代表対日本代表シニア戦)以来であった(試合は3対0で日本A代表が勝利)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2020年東京五輪での男女サッカー競技については、2021年7月中に1次ラウンド10試合(男子6試合・女子4試合)が開催された。東京五輪・パラリンピック組織委員会では、日中の開催試合(デイセッション)について、収容人数の50%以内で最大1万人の観客を入れて実施することを同月9日の午後にいったん発表。しかし、当日の夜になって、上記の全10試合を無観客での開催に切り替えることを急遽決定した。東京都内で改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発出されるなどCOVID-19への罹患者が増加していることを背景に、組織委員会が前日(8日)に東京都および(まん延防止等重点措置が適用されている)神奈川県・千葉県・埼玉県内の会場を使用する競技の無観客開催を決めたことを受けて、北海道知事の鈴木直道(宣言・措置の対象地域や肩書はいずれも当時)が「(上記の1都3県を含む)首都圏との観客や関係者の往来を防ぐことが困難」との理由で無観客での開催を要請したことによる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "北海道日本ハムファイターズ(球団)は、日本プロ野球(NPB)の公式戦を常時開催できる環境(開閉式の大屋根など)を備えたグループ直営の野球場を北海道北広島市へ建設したこと に伴って、2023年シーズンに本拠地を札幌ドームから上記の新球場に本拠地を移転。移転後は、10年以上にわたる日本エスコン(ES-CON JAPAN)との施設命名権契約に基づいて、新球場に「エスコンフィールドHOKKAIDO」(「エスコンフィールド北海道」)という名称を使用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その一方で、2022年9月24日(土曜日)から同月28日(水曜日)まで札幌ドームで組まれているホームゲーム(パ・リーグのレギュラーシーズン公式戦5試合)を、「FINAL GAMES 2022」として開催。実際にはこの年のレギュラーシーズンを6位で終えることが9月18日(日曜日)に確定したため、公式戦における本拠地としての札幌ドームの使用を、28日の対ロッテ戦(ナイトゲーム)で終了した。なお、28日には来場者全員に「札幌ドーム最終戦観戦証明書」を無料で配布。有料入場者の総数は41,138名で、試合はロッテが11対3で勝利したが、日本ハム球団では札幌ドームを本拠地に使用してきた19年間を締めくくる「ホーム最終戦セレモニー」を試合後に開催している。シーズン終了後の11月23日(水曜日・勤労感謝の日)に開催された「ファンフェスティバル2022」をもって、非公式戦(オープン戦など)を除く球団定例行事での使用を事実上終了。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "株式会社札幌ドームは、年間9億円規模のリース料を基調に、総額で年間20億円以上の収入を球団側から得ていた。この収入にはドーム敷地内での球団グッズの販売などによる収入が含まれていたため、球団側はかねてから、ドームの賃借に関する条件の改善(リース料の引き下げなど)を管理母体の札幌市へ要望していた。これに対して、札幌市はリース料の引き上げに踏み切る一方で、球団側から提案されていた運用コストの削減策(他の企業・団体に対する指定管理者の選定など)の採用をことごとく見送っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本ハム球団は、東京ドームから札幌ドームへの本拠地移転を機に、「『スポーツと生活が近接する社会』(Sports Community)の実現を目指す」という理念を掲げていた。もっとも、札幌ドームをめぐる環境はこの理念の実現に程遠く、ドーム自体にも諸般の制約から改善や拡張の余地がほとんどなかった。高校・大学野球の経験者でスポーツ・マーケティングへ長らく携わっている前沢賢(2023年の時点では球団の事業統括本部長)によれば、ヘッドハンティングで入団した直後(事業部員時代)の2009年にドーム内部の改装を再三にわたって株式会社札幌ドームの取締役(当時)に打診したものの、「ドームの建設当初から定められている札幌市の条例に抵触する」「建設当初の構造に少し手を加えただけでも、他の部分の構造が崩れる恐れがある」との理由で女性用トイレの増設すら認められなかったという。そこで前沢は、スポーツ・マーケティングの知見と経験を踏まえて、北海道内の別のエリアへの本拠地移転を伴う「ボールパーク構想」を発案。この提案に反対していた上司との衝突や人事面での冷遇がきっかけで2011年にいったん退団したものの、札幌ドームからの本拠地の移転先探しが暗礁に乗り上げていた2014年に球団へ復帰すると、大社啓二(当時のオーナー)や島田利正(当時の球団代表)などからの知遇を背景に構想の実現へ本腰を入れ始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "その一方で、札幌市に隣接していて新千歳空港に近い北広島市では、総合運動公園を整備する計画が1996年の市制施行前(1968年の町制施行当初)から浮上。この計画は、地方公共団体(当時は北海道札幌郡広島町)としての財政難や、「公共事業」としての優先順位の低さを背景に何度も頓挫していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "広島町の職員から北広島市の初代助役を経て、2005年から北広島市長を務めている上野正三は、市長として4度目の任期(2015年度)に入るタイミングで「きたひろしま総合運動公園」を本格的に整備する方針を表明。広島町時代からの上野の部下(2015年度の時点では北広島市の企画財政部次長)で、広島町への入庁前年(1988年)に札幌開成高等学校硬式野球部の4番打者として第70回全国高等学校野球選手権大会へ出場した川村宏樹が、この方針の実現に奔走した。その結果、きたひろしま総合運動公園の整備計画が「官民連携支援事業」(日本政府からの助成対象事業)へ正式に認定されたことから、川村は計画の実現に向けたプロジェクトチームの責任者に任命。チームによる民間の開発パートナー探しの一環として、2016年1月には、公園の一角へ野球場を建設することを前提に、北海道日本ハムファイターズ (ファーム) が主管する試合(イースタン・リーグでの主催公式戦)から年間数試合をこの球場で開催することを球団に持ち掛けた。球団を代表して川村と対応した前沢は、当時まだ公表されていなかった「一軍の本拠地を札幌ドームから移転させる」という構想を川村へ打ち明けたうえで、移転先の球場を「きたひろしま総合運動公園」内に建設、球場への最寄り駅を(北広島市内を通る)JR北海道の千歳線に新設することを提案。北広島市はこの提案を受けて、「建設用地の無償貸与」「球場を含めた公園施設の固定資産税・都市計画税の10年間免除」などを条件に、新球場の建設と運営を改めて打診した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "報道関係者で上記の動きをいち早く把握していたのは、北海道日刊スポーツ新聞社の日本ハム担当記者(当時)にして高校野球経験者(新潟明訓高等学校硬式野球部OB)の高山通史で、新球場の建設を軸に\"Sports Community\"を北広島市に作り出す構想も前沢から極秘裏に打ち明けられていた。前沢への接触はいわゆる「スクープ狙い」の取材の一環であったが、実際には前沢が示した構想のスケールに魅了されるあまり、取材の成果を一切公にしなかった。結局、日本ハムが札幌ドームで成し遂げた2016年の日本シリーズ制覇の原稿を執筆したことを置き土産に、北海道日刊スポーツ新聞社を退社。前沢からの勧めで2017年1月から日本ハム球団に加わると、前年まで「取材の対象」であった新球場の建設構想に「広報部員」の立場で携わっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "もっとも、球団が北広島市と交渉を重ねていることを2016年5月に北海道新聞が報じたこと から、札幌市も本拠地の移転を前提に野球場を北海道立真駒内公園内へ新設することを球団側に提案。この提案に沿って公園の整備計画を利用者や周辺の住民などに公表したところ、自然環境の保全などの観点から野球場の新設に反対する旨の意見が多く寄せられたため、札幌市は後に提案の撤回や計画の修正を余儀なくされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "結局、球団側は北広島市からの打診を踏まえて、自前で建設した野球場で発生する収益を球団の経営・戦力の補強へ直結させる方針に転換。2018年11月5日には、きたひろしま総合運動公園内に野球場を建設したうえで、2023年シーズンから本拠地をこの球場へ移転させることを正式に発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "NPBでは基本として、レギュラーシーズン開幕カードの主催権を、4年前のレギュラーシーズンでの最終順位が3位以上の球団へ自動的に付与している。日本ハムは2018年の最終順位が3位だったものの、2019年には5位に沈んだため、通例に沿えば2023年の開幕を新球場(ES CON FIELD HOKKAIDO)で迎えられないことになっていた。このような事情から、日本ハム球団では2020年に入ってから、東北楽天ゴールデンイーグルス(2018年最下位→2019年3位)との間で「開幕カード主催権の交換」という異例の交渉を開始。1年にわたる交渉の末に、札幌ドームでの本拠地最後のシーズン(2022年)の開幕カード主催権を楽天へ譲渡する代わりに、2023年シーズンの開幕カードを新球場で主催する権利を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "日本ハム球団では、本拠地を移転する2023年以降も、NPBの野球協約第38条に基づく保護地域を北海道に設定。同年には、全ての主管試合(ホームゲーム)を新球場で開催することが、パ・リーグから正式に発表されている。札幌市は、日本ハムが本拠地の移転を決めた2018年から、NPBの他球団に対して札幌ドームでの公式戦の開催を打診。「NPBの公式戦で丸1日使用するだけでも2,000万円」とされる使用料の引き下げにも応じる姿勢を示していたが、結局はどの球団とも折り合いが付かなかった ため、2023年のNPBではセ・パ両リーグとも札幌ドームで公式戦を組まなかった。現に、2022年度のNPBオフシーズン(後述する2023 ワールド・ベースボール・クラシックに向けた強化試合の終了後)には、一・三塁側のフェンスから広告を完全に撤去。2023年度からは、内外野ともフェンス広告の新規販売を中止している。さらに、一・三塁側コーチャーズボックス付近の人工芝に描かれていた企業名を消去したため、場内の広告は大幅に減少。2023年度には、テレビ中継での露出が見込めるNPBの公式戦が開催されなかったこともあって、「コンコースの柱や壁面を含めた広告枠(総数80枠)の3割が、NPBのレギュラーシーズンと重なる上半期(2023年9月)までに埋まらない」という事態に陥った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "NPBが2023年から札幌ドームを(日本ハムの主管試合を含む)公式戦で使用しない背景には、コンクリートの床に巻き取り式の薄い人工芝を敷いた野球仕様のグラウンドによって、他球場を上回るほどの負担が選手や審判の身体に掛かっていたことも挙げられている。現に、本拠地を札幌ドームへ移転してからの日本ハムでレギュラーに定着していた外野手のうち、糸井嘉男・陽岱鋼・中田翔・西川遥輝は慢性的な足腰の故障に悩まされた。さらに、グラウンド上で故障した選手に対するトレーナーの処置がままならないほど、バックヤードのスペースが非常に狭いことが球団関係者の不興を買っていた。2012年から8年間にわたって日本ハムの一軍を指揮した後に野球日本代表の監督へ転じた栗山英樹も、2023のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に向けた強化試合(2022年11月9・10日に札幌ドームで開催)のチームミーティングで、NPBの他球団から日本代表へ招集された選手に対して「札幌ドームでは(グラウンドが他の球場より)急に固くなるので、身体に負担が来てしまう。怪我のないように(強化試合を)終えて欲しいので、絶対に無理をしないように」と忠告している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ただし、日本ハム球団では2023年の主管オープン戦において、3月4日・5日に楽天との2連戦で札幌ドームを使用。同年のレギュラーシーズン中に新球場で開催する球団主管の公式戦を対象に、観戦を希望する札幌市民を抽選で招待する企画も打ち出していた。発表の時点で球団社長を務めている川村浩二によれば、「北海道日本ハムファイターズは2004年の誕生から北海道(民)やファンの皆様に支えられてきた一方で、新球場の建設や開業に向けて多くの方々にお世話になったので、(札幌ドームが所在する)札幌市民の皆様へ何かしらの御礼をしたい」「新球場を『世界に誇れる共同創造空間』『(札幌ドーム)より多くの方々に御来場いただけるデスティネーション(目的地)』として札幌圏や北海道の発展に寄与できるよう(札幌市民の皆様に)御参画や御協力をお願いしたい」との思いから、札幌ドームにおけるオープン戦の開催と札幌市民の新球場招待企画を決めたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "さらに、日本ハム球団では2024年にも、3月2日・3日のオープン戦を札幌ドームで開催することを計画している。3月上旬の北海道で例年寒い日が続くことや、新球場(エスコンフィールド北海道)のグラウンドに天然芝を敷設していることを踏まえた計画で、「この時期に(開閉式の屋根を閉めたまま暖房などの目的で)新球場内部の温度を上げることは、天然芝の生育との兼ね合いで難しい」との理由から「新球場に比べて場内の温度を管理しやすいので、選手も観客も寒さを気にせずに済む」という札幌ドームを1年振りに使用する方向で落ち着いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "開業20周年の2021年に、2031年までの10年間にわたる運営指針として、「SAPPORO DOME VISION 2031(SV-31)」を策定。北海道日本ハムファイターズの本拠地移転(2023年)に伴う減収を少しでも補うべく、この指針に沿って以下の試みが為されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "札幌ドームでは、パシフィック・リーグ球団の本拠地球場で唯一、2022年度まで施設命名権を第三者に売却していなかった。札幌市は命名権の売却を2007年2月から何度も検討していて、2011年には3度にわたって売却先の公募を実施したものの、売却先の決定には至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "札幌市が売却先の公募へ初めて踏み切ったのは2011年1月で、公募に際しては、契約期間を5年間に設定。施設名に「札幌ドーム」(またはそれに準ずる名称)を付けることや、年間5億円の権利使用料を札幌ドームへ支払うことを契約の条件に定めていた。これに対してGoogleが公募に名乗りを上げたものの、札幌市側との折り合いが付かなかったため、契約の締結は見送られた。この結果を受けて、札幌市は2月と12月にも公募を実施したが、いずれも応募者は現れなかった。ちなみに、12月の公募では、翌2012年レギュラーシーズン開幕前までの売却を視野に、契約年数の延長によって年間使用料の実質的な軽減を謳っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "その一方で、株式会社札幌ドームでは、2014年度から10年間の規模でドームの改修を計画。改修費用が総額で90億円 - 100億円と見込まれることから、札幌市ではこの費用を捻出すべく、2013年12月に通算4回目の公募を実施することを検討していた。検討に際しては、札幌市が陣頭指揮を執っていた過去3回の公募から一転して、株式会社札幌ドーム・北海道日本ハムファイターズとの連携を模索。実際には三者間の調整が付かなかったため、4回目の公募の実施は見送られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "しかし、北海道日本ハムファイターズが2023年度からの本拠地移転を2018年度内に決めたことを受けて、札幌市は本拠地移転後の5年間(2023 - 2027年度)に見込まれる札幌ドームの事業収支を試算。2022年6月には、この試算に沿った収支の見通しを発表する とともに、上記5年間の指定管理者を選定するタイミングに合わせて施設命名権の売却先を公募することを決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2022年度(2023年3月31日)までの指定管理者であった株式会社札幌ドームも、札幌市との協議などを経て、施設命名権を売却することを検討。同社は2023 - 2027年度にも札幌市から指定管理者に選定されているが、2022年度内の公募は見送られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "札幌市が公表した2023年度から5年間の収支見通し(前述)によれば、ドームを使用するイベントの年間開催日数を2019年度から20日前後の減少にとどめた場合には、上記5年間の最終損益で900万円の黒字を計上できるという。この見通しでは、Jリーグの公式戦開催日数を増やすことや、ドーム内をカーテンで仕切ることによって小規模のコンサートにも対応することなども想定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "札幌ドームでは最大で5万人規模の観客を収容できるにもかかわらず、このような規模でコンサートを開催するアーティストが少ないことが、収入を確保するうえで積年の課題になっていた。株式会社札幌ドームは、「およそ2万人の観客で満員になる」という中規模のイベントやコンサートの需要を掘り起こすべく、「ドーム内の客席の一部を複数の暗幕で仕切る」という仕掛けを構築。このような仕掛けを「新モード」と称して、2023年3月14日に報道陣へ初めて公開した。奇しくも、日本ハムは当日の午後に、新球場で初めての対外試合(埼玉西武ライオンズとのオープン戦)を開催している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "「新モード」では、外野スタンドをイベントの客席に使用する一方で、「野球モード」におけるピッチャーズマウンド付近にステージを組むことを前提に置いている。そのうえで、最も大きな暗幕(高さ30メートル×幅120メートル)をステージの正面、内野席を覆い隠す格好でスタンド席を仕切る暗幕をステージの両側に設置。設置については、およそ10名のスタッフで8時間を要することが見込まれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ちなみに、株式会社札幌ドームでは、「新モード」を展開するための改修工事におよそ4億円を投入。また、「新モード」の展開に合わせてステージの照明や音声を充実させための機材を、およそ2億3,000万円で海外から輸入した。「新モード」の展開は2023年3月からで、1日当たりの使用料を従来のモードの7割程度に設定。このモードを使用した中規模イベントを、2023年度に年間で6回、2024年度以降に12回程度開催することを想定している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "「新モード」を使用した初めてのイベントは、ラグビーワールドカップ2023グループリーグ・プールD(日本代表対チリ戦)のパブリックビューイングで、2023年9月10日に開催された。同年11月19日には、「全開エール!!2023」というイベントを「新モード」で開催。「北海道内の高校の吹奏楽部で活動する現役の学生と、『コロナ禍』での高校生活を余儀なくされていた吹奏楽部のOB(卒業生)で構成される7つの団体がマーチング、ダンプレ、吹奏楽の演奏などのパフォーマンスを披露する」というイベントで、開催の前日(18日)には、「通常は関係者にしか使用を認めていない『控室』や『記者室』を、道内の高校(6校)から参加していた吹奏楽部の宿泊を伴う『合宿』に提供する」という試みも為されていた。もっとも、いずれのイベントも、札幌ドーム側から関連団体(北海道ラグビーフットボール協会や北海道内の高校の吹奏楽部)への打診をきっかけに実現。さらに、このような事情から主催団体に会場使用料の減免措置などが適用されたため、実際には札幌ドーム側の利益が少額にとどまっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2023年11月の時点では、上記のイベント以外に「新モード」が活用された実績も、札幌ドーム側からの打診と無関係の企業・団体による活用への応募も皆無である。その背景としては、「客席の総数が(常設スタンドの)半分」「イベントでの使い方が分からない」といったイメージが関係者の間に広まっていることや、札幌ドームでのコンサートを希望するアーティストに「ドーム(の常設のスタンド)を(観客で)満員にしたい」との意向が強いことなどが報道などで指摘されている。これに対して、札幌ドーム側では「全開エール!!2023」での試みを足掛かりに、ドーム内のスペースをイベント出演者などの「宿泊」にも活用することを検討している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)北海道コンサドーレ札幌のホームスタジアム(2014年までは札幌厚別公園競技場と併用)である。2004年度から2022年度まではプロ野球パシフィック・リーグの北海道日本ハムファイターズが本拠地球場として使用していた。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "かつては北海道日本ハムファイターズの球団事務所と北海道コンサドーレ札幌のクラブ事務所も設けられていた。北海道日本ハムファイターズの球団事務所は2012年に大幅改修した際、1階会議室の3部屋それぞれの部屋名に「北海道に移転してからの球団の功労者」としてトレイ・ヒルマン、新庄剛志(SHINJO) 、ダルビッシュ有(入団順。序列の有無は不明。)の3人の姓の英語表記を使用した。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "野球の国際試合では、2003年にアテネオリンピックのアジア地区予選を兼ねた第22回アジア野球選手権大会や、2015年の第1回WBSCプレミア12の開幕戦などで使用された。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "サッカー場としては、2003年にJリーグオールスターサッカーが開催されたほか、サッカー日本代表の国際親善試合(キリンチャレンジカップ)に使用されることも多い。また、2020年東京オリンピック(五輪)で男女サッカー競技の会場に選ばれていたほか、2023年度からは全国高等学校サッカー選手権大会北海道大会の決勝を開催する。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "多目的施設でもあるため、2019年ラグビーワールドカップなど、野球・サッカー以外の競技やイベントでも使用されている。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "プロ野球の試合開催にあたっては「プロ野球地域保護権」(フランチャイズ制度)という野球協約があり、『フランチャイズ球団の保護地域となっている都道府県で他球団が主催試合をする場合、当該するフランチャイズ地域全球団の許諾を得なくてはならない』と定められている。日本ハムファイターズが本拠地を北海道に移転し北海道日本ハムファイターズとなった2004年以降は、札幌ドーム(実際は札幌ドームに限らず北海道内全ての球場)において北海道日本ハムファイターズ以外の球団が主催試合を開催する場合は予め同球団からの許諾を得ることが必要となった。そのため、以下のセ・リーグ3球団はいずれも2004年以降の主催試合は予め日本ハムに許諾を得た上で開催した。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "北海道高等学校野球連盟(北海道高野連)では2023年から、秋季北海道高校野球大会全道大会(毎年10月に主催している秋季全道大会)の全試合で札幌ドームを使用している。全天候型施設の札幌ドームを高校野球の公式戦に使用することは初めてで、北海道高野連が数年前から使用を検討していたところ、日本ハムの本拠地移転決定によって日程の面でドーム側と折り合いが付いたという。ちなみに、北海道高野連が主催する全国高等学校野球選手権地方大会(北北海道大会・南北海道大会)では、移転先のエスコンフィールド北海道で2023年から準決勝(各2試合)と決勝を開催している。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "秋季全道大会は北海道高野連が道内で運営する10支部の代表校が集まる大会で、優勝校には明治神宮野球大会(札幌ドームと同様に人工芝を内・外野のフェアグラウンドとファウルゾーンに敷設している明治神宮野球場で毎年11月に開催される全国大会の高校の部)への出場権が与えられることから、札幌ドームでの開催が「明治神宮大会に向けた人工芝対策」や(屋外球場では道内特有の天候や日没などで支障を来しがちだった)試合日程の管理などに良い影響をもたらすことが見込まれている。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "北海道コンサドーレ札幌は2003年のJ2降格後、使用料の高い札幌ドームでの開催を減らし、まだ屋外に積雪の残る春季と秋季を中心に利用していた。その結果、2004年は全ホームゲーム22試合中、札幌ドームでの開催が8試合と大幅に減らされ実質準本拠地の扱いだった。しかし、使用料は高いものの観戦時の快適さやアクセスの容易さで厚別に優る札幌ドームでの試合は有意に動員数が多く、多くの入場料収入が見込めるため、2005年以降はほぼ半数程度にまで戻っている。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "J2降格となった2013年は、主催21試合のうち8試合の開催にとどまる予定であったものの、北海道日本ハムファイターズがクライマックスシリーズに進出できなかったため、10-11月に予定された主催2試合を急きょ日程面で余裕の出た札幌ドームに変更することとなり、札幌ドームでの開催は10試合となった。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2014年は21試合中17試合が札幌ドームで開催され、開場以来最多となった。これは札幌厚別公園競技場がJリーグクラブライセンス制度のスタジアム基準を満たしていないため、2015年のライセンス基準の厳格運用に先駆けて前倒しで開催を減らしたことによる。なお、札幌厚別公園競技場は2014年度まで札幌ドーム共々本拠地としてJリーグに登録されていたが、2015年度から本拠地を札幌ドーム1か所のみにしている。これに伴い、2015年も21試合中19試合を札幌ドームで開催し、2年連続で開場以来最多試合数となった。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2019年には、ラグビーワールドカップ会場としての準備・使用との兼ね合いで、6 - 10月に主催試合として組まれていたリーグ戦・リーグカップ各3試合 を厚別で開催した。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ファイターズが2022年限りで本拠地を移転したことに伴って、他球団を含めたNPBの公式戦が札幌ドームで組まれていない2023年には、コンサドーレが主管するリーグ戦の大半(全17試合のうち15試合)とルヴァンカップの全3試合をドームで開催することが決まっている。またこれによって、今後はコンサドーレの専用スタジアムに事実上なることから、2022年に札幌ドームの運営会社とホームタウン連携協定を締結。クラブ事務所を同6月の予定で2014年以来7年ぶりに札幌ドームの敷地内に戻すことになった。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "また、2024年春からは、厚別の老朽化箇所の全面改修工事が実施される予定のため、コンサドーレ主管試合はすべて札幌ドームで行われる予定となり、これに伴ってコンサドーレ主管試合で利用できる年間シーズンシートについても、従来の「ドームシーズンシート」(札幌ドーム主管試合限定の予約席)、および「フルシーズンシート」(札幌ドームと厚別での主管全試合対応の予約席)に区分されていたものがなくなり「フルシーズンシート」に一本化された。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "シーズン閉幕の時期の違いからプロ野球の日程がJリーグよりも先に決定するため、北海道コンサドーレ札幌の札幌ドーム利用日程の決定にあたっては、プロ野球が先に決定した日程の隙間で使わざるを得ないという課題も抱えている。2011年において、東日本大震災により延期された主催3試合(3月12日:ギラヴァンツ北九州戦、3月19日:ジェフユナイテッド市原・千葉戦、4月2日:東京ヴェルディ1969戦)の代替についても一時は厚別など他の競技場への代替も考えられたが、当初の札幌ドームでの開催ができるよう、J2の他チームと異なる日に開催するよう日程調整を行っている(振り替え後の開催日は、北九州戦:7月6日、千葉戦:8月17日、東京V戦:9月21日)。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "また北海道コンサドーレ札幌のもう一つホームスタジアムである札幌厚別公園競技場は、11月から翌年4月は基本的には積雪期間に当たり使えないため通常なら札幌ドームを使うところ、11月上旬のホームゲームの開催については、北海道日本ハムファイターズがパ・リーグの上位3チームに入ってクライマックスシリーズ(2006年まではリーグ優勝決定プレーオフ)出場が決定した場合、クライマックスシリーズ・日本シリーズを優先しなければいけないこともあり、11月であっても札幌厚別公園競技場で開催する事例が過去に生じている。またその場合、シーズン開始当初は「会場未定」とした上で後日(半年近く後)に決定するケースもある。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "日本ハムが札幌ドームを本拠地とした2004年 - 2022年の間における、日本シリーズとコンサドーレのホームゲームの開催日程が重なった場合の試合の対応は次のとおり。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "凡例", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "注釈", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "北海道サッカー協会では、毎年秋に主催している全国高等学校サッカー選手権大会(全国高校サッカー)の北海道大会において、2023年度(第102回)の決勝を2023年11月(前述した秋季北海道高校野球大会全道大会の閉幕後)に札幌ドームで実施することを同年4月に株式会社札幌ドームと共同で決定した。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "全国高校サッカーの北海道大会は、首都圏で年末年始に組まれている全国大会への出場校を決める大会で、2022年度の第101回までは準決勝と決勝を札幌市内の札幌厚別公園競技場で開催。例年は全国大会開幕の2ヶ月前(10月下旬)に準決勝と決勝を2日連続で実施しているが、大会を通じて道内特有の天候不順に見舞われやすく、2015年度(第95回)の決勝は雪の降りしきる状況での開催を余儀なくされた。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "このような日程をめぐっては、北海道大会へ出場する選手のコンディションはもとより、優勝校(北海道代表校)の選手が全国大会の初戦へ臨むまでの実戦感覚に及ぼす影響もかねてから強く懸念されていた。2022年6月に北海道サッカー協会の会長へ就任した越山賢一は、以上の懸念を踏まえて、全国高等学校サッカー北海道大会の決勝を11月中に札幌ドームで開催することを就任の直後に発案。自身が先頭に立って関係者との間で交渉を重ねた結果、コンサドーレ札幌から全面的な協力(ピッチの移動で生じる経費の負担など)を得るに至った。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "なお、2023年度は準決勝を2023年10月28日に札幌厚別公園競技場、決勝を同年11月12日に札幌ドームで開催。11月はJリーグのレギュラーシーズン終盤と重なることから、J1リーグのコンサドーレ主管試合(札幌ドーム開催分)の開催日によっては、決勝の開催日を11日に設定することも検討されていた。また、北海道サッカー協会では、2024年度(第103回)以降の北海道大会でも決勝に札幌ドームを使用する意向を示している。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "イベントが開催されない日に、ツアーアテンダントの案内によるドームツアーが開催されている。選手が使用するロッカーやブルペン等の見学が出来る。", "title": "使用状況" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "北海道における屋内最大のコンサート会場として、ドームツアーの一環で利用されることが多い。一般的に東京ドーム・大阪ドーム(京セラドーム大阪)・ナゴヤドーム(バンテリンドーム ナゴヤ)・福岡ドームと合わせて「5大ドームツアー」と称されることがある。", "title": "コンサート会場としての使用" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "イベント実績については、「札幌ドームのあゆみ・イベント実績」を参照。ドーム初使用順に掲載。赤色の年は開催予定であることを表す。", "title": "コンサート会場としての使用" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2004年からは、フランチャイズチームの発展と選手のさらなる活躍に向けた年間表彰制度として「札幌ドームMVP賞」を新設。2022年まではサッカー部門(北海道コンサドーレ札幌)と野球部門(北海道日本ハムファイターズ)に分けたうえで、当該チームで最も活躍した選手に授与していた。ファイターズが札幌ドームを本拠地に使用しない2023年以降はサッカー部門のみ実施している。", "title": "札幌ドームMVP賞" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "MVPの賞金は100万円(サッカー部門ではコンサドーレがJ2リーグに所属した年のみ50万円)で、2009年からは、ノミネート選手を対象にファン投票を実施した結果を基にMVPを選定している。また、西ゲート前のトンネル内に、歴代の表彰選手のプレートを展示している。", "title": "札幌ドームMVP賞" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "", "title": "札幌ドームMVP賞" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "詳細は札幌ドームの公式ホームページ内「アクセス・駐車場」を参照。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "札幌市営地下鉄東豊線の福住駅から徒歩10分", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "プロ野球・Jリーグ・コンサート等の大規模イベント時に運行されていたが、2023年9月16日以降は後述の経緯により全便運休となっている。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "料金:大人(中学生以上)210円、こども(小学生)110円。ICカード乗車券(SAPICA・Kitaca・Suicaなど)が利用できる。地下鉄乗継割引は対象外。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "平岸駅発着便は、札幌ドーム開業当初は札幌市交通局(札幌市営バス)が運行していた。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2008年より、ジェイ・アール北海道バスと北海道中央バスの共同運行による新札幌バスターミナル(JR千歳線:新札幌駅、札幌市営地下鉄東西線:新さっぽろ駅の最寄り)発着便も設定されていた ものの、2019年1月1日以降は運行を取り止めた(最終運行は2018年12月1日の北海道コンサドーレ札幌の試合)。理由としては、乗務員の確保が困難な中、同路線は他のシャトルバスに比べ距離が長く運行効率が悪いことが挙げられている。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2022年3月26日にジェイ・アール北海道バスは、乗務員の確保が困難になっていることから、JR白石駅発着のシャトルバスを当面取り止めると発表した。さらに2023年2月17日には、これに加えて、北海道中央バスが運行する南郷18丁目駅発着のシャトルバスも当面休止すると発表した。規模を縮小しながら運行していたじょうてつバスも、2023年9月6日の運行を最後に休止となり、全路線のシャトルバスが「当面の間」運行休止となった。いずれの社も「乗務員の確保が難しく、現状の路線バスの維持が限界」という理由である。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "料金:大人(中学生以上)1,100円、こども(小学生)550円。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "各料金:「さっぽろえきバスnavi」を参照。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "ドーム内には5か所の徒歩利用者のための入場口があるが、積雪などの関係で冬季(原則11-3月)利用できない入場口がある。", "title": "アクセス" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "ドーム内で2002年6月23日から在札AM放送局の再送信が開始された。", "title": "送信施設" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "周波数は、札幌送信所と同じ。", "title": "送信施設" } ]
札幌ドームは、北海道札幌市豊平区羊ケ丘にあるサッカー・野球兼用のドーム型スタジアム。施設は札幌市が所有し、札幌市と道内財界各社が第三セクター方式で出資する株式会社札幌ドームが指定管理者として運営管理に当たっている。 第44回BCS賞や平成14年度(2002年度)の赤レンガ建築賞を受賞。開業時より「Hiroba」という愛称が付けられていて、開業15周年を迎えた2016年6月2日からは、「チャームコロン」というマスコットキャラクターを使用している。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)北海道コンサドーレ札幌のホームスタジアムで、2004年(平成16)から2022年(令和4年)までは、日本プロ野球(NPB)・パシフィック・リーグ所属の北海道日本ハムファイターズの本拠地球場でもあった。その関係で、プロ野球チームとプロサッカーチームが本拠地を共用する日本唯一のスタジアム となっていた。また、2008年(平成20年)から2009年(平成21年)までプロ野球マスターズリーグ・札幌アンビシャスの本拠地でもあったほか、さまざまなイベントやスポーツの国際大会が開催されている。
{{混同|札幌コミュニティドーム}} {{野球場情報ボックス | スタジアム名称 = 札幌ドーム<br />Sapporo Dome | 愛称 = Hiroba | 画像 = [[ファイル:Sapporo Dome.jpg|300 px]] {{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=300|type=point}} | 所在地 = {{Flagicon|JPN}} [[北海道]][[札幌市]][[豊平区]][[羊ケ丘]]1 | pushpin_map = Sapporo2 | 緯度度 = 43 |緯度分 = 0 |緯度秒 = 54.46 |N(北緯)及びS(南緯) =N | 経度度 = 141 |経度分 = 24 |経度秒 = 35.18|E(東経)及びW(西経)=E | 起工 = [[1998年]]([[平成]]10年) | 開場 = [[2001年]](平成13年)[[6月2日]]<ref name="hokkaido-np-2001-6-2">“札幌ドーム特集”. [[北海道新聞]]([[北海道新聞社]]).(2001年6月2日)</ref> | 所有者 = 札幌市 | 管理・運用者 = [https://www.sapporo-dome.co.jp/company/ 株式会社札幌ドーム] | グラウンド = [[芝|天然芝]](サッカー)<br /> 巻き取り式[[人工芝]](野球) | ダグアウト=ホーム - 三塁側 <br /> ビジター - 一塁側 | 建設費 = 約422億円 | 設計者 = [[原広司]]、アトリエ・ファイ建築研究所、<br />アトリエブンク | 建設者 = [[大成建設]]、[[竹中工務店]]、<br />シャール・ボヴィス共同企業体 | 使用チーム、大会 = [[北海道コンサドーレ札幌]](Jリーグ、開場 - 現在)<br />[[北海道日本ハムファイターズ]](2004年 - 2022年)<br />[[2002 FIFAワールドカップ]]<br/>[[ラグビーワールドカップ2019]]<br/>[[2020年東京オリンピック]] | 収容能力 = 41,484席(サッカー開催時、固定客席数)<br />41,138席(野球開催時、固定客席数)<br />53,845人(コンサート開催時) | 規模 = サッカー<br /> ピッチサイズ - 105m×68m<br /> 野球<br />  両翼 - 100m (約328.1 ft)<br />  中堅 - 122m (約400.3 ft)<br />  左右中間 - 116m(約380.6ft) <br />  グラウンド面積 - 14,460[[平方メートル|m<sup>2</sup>]] | フェンスの高さ = 5.75m (約18.9 ft) }} [[ファイル:Sapporo Dome Aerial 2020.png|thumb|250 px|空撮(2020年)。{{国土航空写真}}]] '''札幌ドーム'''(さっぽろドーム、{{lang-en-short|Sapporo Dome}})は、[[北海道]][[札幌市]][[豊平区]][[羊ケ丘]]にある[[サッカー]]・[[野球]]兼用の[[ドーム球場|ドーム型スタジアム]]。施設は札幌市が所有し、札幌市と道内財界各社が[[第三セクター]]方式で出資する'''株式会社札幌ドーム'''が[[指定管理者]]として運営管理に当たっている。 第44回[[BCS賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkenren.com/kenchiku/bcs/detail.html?r=w&ci=684 |title=BCS賞受賞作品 |publisher=[[日本建設業連合会]] |accessdate=2014-06-13}}</ref>や平成14年度([[2002年]]度)の[[赤レンガ建築賞]]を受賞。開業時より「'''Hiroba'''」という愛称が付けられていて、開業15周年を迎えた2016年6月2日からは、「'''チャームコロン'''」という[[マスコット]]キャラクターを使用している<ref group="注">ただし、開業当初には公式キャラクターとして「'''ヒロバくん'''」がいた。</ref>。 [[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)'''[[北海道コンサドーレ札幌]]'''のホームスタジアムで、[[2004年]]([[平成]]16)から[[2022年]]([[令和]]4年)までは、[[日本野球機構|日本プロ野球]](NPB)・[[パシフィック・リーグ]]所属の'''[[北海道日本ハムファイターズ]]'''の[[専用球場|本拠地球場]]でもあった。その関係で、プロ野球チームとプロサッカーチームが本拠地を共用する日本唯一のスタジアム<ref group="注">野球の日本代表(日米野球、アテネオリンピックの予選)、サッカー日本代表も試合をしたことがあるため、「野球とサッカーの日本代表が試合を実施」した唯一のスタジアムでもある。</ref> となっていた。また、[[2008年]](平成20年)から[[2009年]](平成21年)まで[[プロ野球マスターズリーグ]]・札幌アンビシャスの本拠地でもあったほか、さまざまな[[イベント]]やスポーツの国際大会が開催されている。 == 施設概要 == 日本で唯一の完全屋内天然芝[[スタジアム|サッカースタジアム]]<ref group="注">世界には開閉式屋根を利用した、屋内天然芝サッカースタジアムがいくつか存在する。また、移動式天然芝サッカー場を保有するスタジアムは、他にオランダの[[ヘルレドーム]](アーネム)、ドイツの[[フェルティンス・アレーナ]](Veltins-Arena、旧アレーナ・アウフシャルケ)がある。2022年現在、Jリーグのホームスタジアムで競技場全体に屋根が架設されているのは他に[[豊田スタジアム]]([[名古屋グランパス]])・[[大分スポーツ公園総合競技場|昭和電工ドーム大分]]([[大分トリニータ]])・[[御崎公園球技場|ノエビアスタジアム神戸]]([[ヴィッセル神戸]])の3競技場があるがいずれも開閉式屋根である。</ref>で、屋外で育成した[[芝|天然芝]]を必要な時に[[圧縮空気|空気圧]]で浮かせて屋内へ移動させる「ホヴァリングサッカーステージ」を世界で初めて採用したこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sapporo-dome.co.jp/dome/hovering/|title=ホヴァリングサッカーステージ(動画あり)|publisher=札幌ドーム|accessdate=2023-08-14}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=http://www.khi.co.jp/news/detail/c3010529-1.html |title=札幌ドームに世界初、空気圧浮上による可動式天然芝サッカーフィールド「ホヴァリングステージ」と「開閉式可動席」を納入 |date=2001-05-29 |publisher=[[川崎重工業]] |accessdate=2014-09-05}}</ref>により、サッカー用の天然芝グラウンド(サッカーモード)、野球用の巻き取り式[[人工芝]]グラウンド(野球モード)、その他のイベント用として、昇降式の[[マウンド|ピッチャーズマウンド]]を床下に収納し、人工芝を巻き取った平らなフロア(コンクリートモード)を使い分けられるようになっている。 当施設は道内のプロ野球・Jリーグの公式戦が行われるスタジアムで、初めて常設のナイター設備が整えられたスタジアムとなった。<ref>その他では、[[花咲スポーツ公園硬式野球場|旭川スタルヒン球場]]が2013年に設置したのみ。</ref>それまでは、コンサドーレがメインホームスタジアムとして使用していた[[札幌厚別公園競技場]]でさえ、ナイター開催時は[[移動照明車]]を利用していた。 ファイターズが本拠地を[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]([[北海道]][[北広島市]])へ移転したことに伴って、同球団主管の公式戦(ホームゲーム)が開催されなくなった[[2023年]](令和5年)には、株式会社札幌ドームと株式会社コンサドーレ(コンサドーレ札幌の運営会社)が「スポーツのチカラ×まちのミライ」と称するパートナーシップ契約を締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sapporo-dome.co.jp/information/2022/11/05/5731/ |title=株式会社コンサドーレとの「スポーツのチカラ×まちのミライ」パートナーシップ締結について |date=2022-11-05 |accessdate=2022-11-10}}</ref>。地域振興活動やドーム内の業務(イベントの開催・運営・[[広報]]、飲食・物販店の運営、広告営業など)で相互に連携・協力する体制の構築に着手したほか、最大で2万人規模の集客を見込めるイベントに対応した[[#中規模のイベントに対応した「新モード」の展開|「新モード」の展開]]を3月から始めている。 * 敷地面積:305,230m² * 建築面積:55,168m² * 延床面積:98,226.21m² * 容積:158万㎥(クローズドアリーナ) ** メインとなるドームのクローズドアリーナ、屋外でホヴァリングサッカーステージの芝を育成するオープンアリーナ、その他の屋外施設を全て含めた数字である。 * 屋根:固定型シェル(貝)型 ** 札幌周辺は冬季に北西から南東に向かう[[卓越風]]が吹くため、風上を屋根の高い部分に風下を低い部分に設計して屋根に積もった雪が自然に下へと落ちる構造となっており、降雪期も「雪下ろし」の必要が無い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/dome/backstage_facility04.html|title=札幌ドームの誕生秘話&特徴~札幌ドームはなぜこの形になったのか~|work=札幌ドーム(公式サイト)|accessdate=2017-12-24}}</ref>。 [[ファイル:Sapporo Dome 001.jpeg|thumb|300px|展望台へと続いている通称「空中エスカレーター」(右上)]] * ドームの上には展望室が設けてあり、そこへアクセスするエスカレーターがアリーナ内に見える。天気の良い日には[[札幌飛行場|丘珠空港]]を離着陸する飛行機を見る事が可能である。[[新千歳空港]]発着の飛行機は見えないが、札幌ドームでの試合を中継した[[アナウンサー]]が言い間違えたこともある。 * 観客動員数の最高記録は、2009年11月14日 - 15日に開催された[[アイドル]]グループ [[嵐 (グループ)|嵐]] による『ARASHI Anniversary Tour 5×10』2日目(11月15日)。この公演ではスウィート席など全ての座席を開放してコンサートを行い、2009年以降の札幌ドーム公演ではスウィート席を含めた座席開放をしている(なお、2010年の公演で観客動員記録を再び更新している)。 === クローズドアリーナ === [[ファイル:Sapporodome201108172.JPG|thumb|300px|クローズドアリーナ(サッカー場モード。バックスタンドを観る)]] [[ファイル:Sapporo dome 001.jpg|thumb|300px|クローズドアリーナ(野球場モード。メインスタンドを観る)]] [[ファイル:Sapporo-Dome.gif|thumb|野球場モードからサッカー場モードに変わる時のイメージ]] * 階数・構造:地上4階地下2階、鉄筋コンクリート造・鉄骨造・鉄骨鉄筋コンクリート造 ** 掘り下げ式に作られており、[[アリーナ]]面が地下2階となっている。 * 最大収容人数:53,738人 ** 固定客席数:41,484席(シングルスロープスタンド) ** サッカー時収容人数:41,983人 ** 野球時収容人数:42,270人(フィールドシート202席、ファミリーシート50席含む) ** その他:車椅子用席117席、貴賓室・特別室・記者席など。 ** 固定客席数変遷 ::2001年開業時 - 2002年夏:サッカー場約42,300人、野球場約41,300人([[FIFAワールドカップ]]のためプレス席拡張)<ref>{{cite web |url=http://www.sapporo-dome.co.jp/English/shisetsu-e.html |title=Sapporo Dome |language=英語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20011031232041/http://www.sapporo-dome.co.jp/English/shisetsu-e.html |archivedate=2001年10月31日 |deadlinkdate=2017年10月 |accessdate=2014-05-24 }}</ref> ::2002年夏 - 2006年:サッカー場42,831人、野球場41,823人<ref>{{cite web |url=http://www.sapporo-dome.co.jp/foreign/english.html |title=Sapporo Dome |language=英語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021221092917/http://www.sapporo-dome.co.jp/foreign/english.html |archivedate=2002年12月21日 |deadlinkdate=2017年10月 |accessdate=2014-05-24 }}</ref>(プレス席縮小) ::2007年 - 2008年:サッカー場41,580人<ref>{{cite web |url=http://www.sapporo-dome.co.jp/foreign/english.html |title=Sapporo Dome |language=英語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071214212448/http://www.sapporo-dome.co.jp/foreign/english.html |archivedate=2007年12月14日 |deadlinkdate=2017年10月 |accessdate=2014-05-24 }}</ref>、野球場40,572人(デラックスシート新設) ::2009年 - :現在 * アリーナ面積:14,460m² * インターセクション(オープンアリーナとの連結部、外野バックスタンドの可動席部分):3,319m² * フィールドサイズ ** サッカー場:ピッチサイズ縦105m×横68m、ステージサイズ:縦120m×横85m×高さ1.38m、芝のサイズ:縦113.4m×横80m、天然芝グラウンド ** 野球場:両翼100m、センター122m、左右中間116m、巻き取り式全面ショートパイル人工芝([[大塚ターフテック]]製グランドターフ) *** 2013年3月に芝の張り替えを実施<ref>{{cite news |title=札幌ドーム:人工芝8年ぶり張り替え |author=森健太郎 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2013-03-01 |url=http://mainichi.jp/sports/news/20130302k0000m050100000c.html |accessdate=2013-03-02}}</ref>。 *** 2005年以前に使われていた人工芝は[[札幌コミュニティドーム]](つどーむ)の[[軟式野球]]フィールドに流用されている。 *** 多くのドーム球場で使われているフィールドターフは構造上、使用できない。 * 大型映像装置:2基(詳細は[[#大型映像装置|後述]]) ** 大型ビジョン:フルカラーLED方式(縦8.64m×横32.00m・2面) ** サブスコアボード:フルカラーLED方式(縦3.84m×横13.12m・1面) * 展望台:高さ53m(アリーナ面から) * 照明設備 * 温度:夏は約25℃、冬は約20℃ === オープンアリーナ === メインアリーナと向かい合っており、ホバリングステージは普段はここに設置され、天然芝を育成している。周りはクローズドアリーナのスタンドと同じような面構成の芝生席となっている。北海道コンサドーレ札幌の[[Jサテライトリーグ|サテライト]]の試合が行われたこともある。インターセクション部分を開放すればクローズドアリーナとの連続使用も可能。 北海道コンサドーレ札幌の練習場として使用している「宮の沢白い恋人サッカー場」が芝の養生で使えない時にオープンアリーナを練習場として利用している。 * アリーナ面積:18,800m² === 付帯設備 === [[File:Sapporo Dome Outdoor Football Ground.JPG|thumb|300px|屋外サッカー場 2013年10月]] * [[駐車場]]:1,451台(大規模イベント時は前売制) ** 普通車:1,434台(障がい者用駐車場を含む) ** 大型車:17台 * [[バスターミナル]]:48バース(乗り入れ路線は「[[#アクセス]]」の節を参照) * [[タクシー|タクシープール]]:48台 * [[駐輪場]]:自転車393台、バイク112台 * 屋外サッカー練習場:天然芝1面、人工芝1面 ** 北海道コンサドーレ札幌トップチームが練習場として使用。また同ユースチームの公式試合([[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ]]などに利用されている。夜間照明の設備はない。 ** 天然芝の練習場(サッカーステージ含む)は悪天候(雨天・積雪など)の場合、芝生の生育・保護のため使えない。 ** 天然芝の練習場は2016年8月 - 2019年7月までは、[[2019 ラグビーワールドカップ]]・[[2020年夏季オリンピック|2020年東京オリンピック]]開催に向けたサッカー・ラグビー用更新用天然芝の養生のため、全面使用不可となっている<ref>[http://www.sapporo-dome.co.jp/news/dm_rensyujou.html 12~2月分 札幌ドーム 野球・サッカー一般利用の営業について]</ref>。人工芝の練習場については天候に関わらず常時使用可能。 ** 天然芝の練習場(サッカーステージ含む)は芝生保護の観点から使用は[[サッカー]]・[[フットサル]]のみに限定。人工芝の練習場は[[ラグビーフットボール|ラグビー]]、[[アメリカンフットボール]]、[[ラクロス]]、[[グラウンドゴルフ]]などの他の球技やレクリエーションにも使用可能<ref name="サッカー一般利用">{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/guide/rensyujou_sc.html |title=サッカー 一般利用 |publisher=札幌ドーム |accessdate=2014-06-13}}</ref>。 ** 天然芝の練習場は積雪期のみ1周約300 mの[[クロスカントリースキー]]コースが開設され無料開放される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/news/dm_crosscuntryski.html|title=「ミニクロスカントリースキーコース」|work=札幌ドーム(公式サイト)|accessdate=2017-12-30}}</ref>。 ** 毎年11月-翌年4月は芝生の生育・保護に加え、積雪や気候上の観点から天然芝・人工芝とも使用不可<ref>[http://www.city.sapporo.jp/ncms/reiki/d1w_reiki/411901010036000000MH/411901010036000000MH/411901010036000000MH.html 札幌ドーム条例](別表1)において「練習場は5月1日-10月31日までの午前9時から午後6時まで」と明示。</ref> 。 === 使用料 === * 観戦・観劇型イベント ** 利用料金(1日):8,316,000円(入場者が2万人を超える場合は、1人につき415円が加算)<ref>[http://www.city.sapporo.jp/ncms/reiki/d1w_reiki/411901010036000000MH/411901010036000000MH/411901010036000000MH.html 札幌ドーム条例] の別表2参照</ref>。 ** 設営・撤去料金:4,158,000円 * 上記以外のイベント ** 利用料金(1日):4,752,000円 ** 設営・撤去料金:2,376,000円 * その他 ** オープンアリーナ:3,024,000円 ** 貴賓室:237,600円 ** 特別室:226,800円 ** 応接室:216,000円 ** 室内練習場:75,600円 * 一般利用:サッカー:60,000円 ~ 180,000円  野球:100,000円 ~ 300,000円 == 施設詳細 == === ホヴァリングサッカーステージ === [[ファイル:Sapporo Dome Hovering Stage.jpg|thumb|300px|札幌ドームのホヴァリングサッカーステージ(オープンアリーナ)]] 天然芝が植えられた縦120m・横85m・重さ8,300tのステージで、空気圧によって地上から7.5cm浮上。直径600mmの駆動輪26輪・従動輪8輪の電動車輪(400V電圧)で毎分4mの速度で移動する<ref name="hokkaido-np-2000-9-18">“ゆうタウン 来年5月に完成 札幌ドーム ハイテク変身 5時間で野球場→サッカー場 送風機 8300トン浮上させ/車輪 モーターで移動/磁気 定位置へピタリ”. 北海道新聞(北海道新聞社).(2000年9月18日)</ref>。設計製作は[[川崎重工業]]。普段は屋外(オープンアリーナ)で養生されており、サッカーの試合がある時にドーム内(クローズドアリーナ)に移動させたのち、ドーム内で90度回転させてサッカー場(サッカーモード)として使用する。 ホヴァリングサッカーステージの入口は、サッカー場でのバックスタンド、野球場でのセンターの場所にあたる。ステージ移動の際にはこの部分の観客席が約1/3の大きさにまで折り畳まれ、レフト・ライトスタンドの下に収納される。さらにムービングウォールと呼ばれる、クローズドアリーナとオープンアリーナの間に設備されている可動壁を収納し、ステージの通り道ができるようになっている。このため、[[スコアボード]](大型映像装置)は他の球場のようにセンターには設置できず、レフト・ライトスタンド側に設置している。 ステージの高さはラバーフェンスを含めると2.5mあり、2009年3月8日開催のサッカーJ2開幕節コンサドーレ札幌対[[ベガルタ仙台]]で、ゴールを決めた仙台の[[菅井直樹]]が喜びのあまり仙台サポーターに駆け寄ろうと飛び降りてしまったことがある。また2019年3月9日のJ1第3節の北海道コンサドーレ札幌対[[清水エスパルス]]で、札幌に加入したばかりで札幌ドームの構造に不慣れだった[[アンデルソン・ジョゼ・ロペス・デ・ソウザ|アンデルソン・ロペス]]もゴールを決めた後に飛び降りて一時は治療のためスタッフが駆け寄る事態となったが、怪我はなくその後にも2点を取り合計4得点と大活躍をした。 年間を通して使用回数が少ないことと、寒冷地での芝のメンテナンスについてよく研究されていることもあって芝の状態は良好で、2002年には「[[Jリーグアウォーズ]]」で「ベストピッチ賞」を受賞している。 また、プロ野球の試合前には、外に出されているピッチ上で選手がウォーミングアップをすることもある。 屋内に引き入れたステージを90度回転させるためのスペースを必要とするため、野球場の形態(野球モード)ではファウルグラウンドが極めて広くなっているのも特徴である。このため、他の球場ならばスタンドインして捕球される心配のないような[[ファウルボール|ファウルフライ]]でも、野手が追いついて捕球される場合がある。その反面、バックストップ(本塁からバックネットまでの距離)が他と比べ10m前後も長いため、[[投手]]の[[暴投]]や[[捕手]]の[[パスボール|後逸]]時にボールを拾うまでに時間がかかり、走者を余計に進塁させてしまうケースもある。 冬季は屋外のオープンアリーナに設置して冬を越す。天然芝は降り積もった雪によって風や乾燥をしのぐことができ、札幌市の最低気温がマイナス10℃を下回る厳冬期でも積雪のおかげで地中5cmの部分の温度は約0.5℃に保たれる。北海道コンサドーレ札幌のホーム開幕戦での使用に向けて、高さ20cmまで除雪用の機械で減らした上で、芝が寒風にさらされて葉が黄化するのを防ぐために高さ10cmまでスコップやスノーダンプなどを使って除雪作業を行う。開幕直前に、最後の仕上げとして北海道コンサドーレ札幌の有志サポーターと一緒に、天然芝を傷つけないように除雪作業を行う<ref>[http://www.sapporo-dome.co.jp/cgi-bin/detail.fcgi?opt=new&no=20140301_121527 「ホヴァリングサッカーステージ」除雪作業にご協力いただきありがとうございました!] - コンサドーレ札幌・2014年3月1日</ref><ref>[http://www.consadole-sapporo.jp/news/201502193/ 札幌ドーム ホヴァリングステージ(サッカーピッチ)除雪協力のお願い] - コンサドーレ札幌・2015年2月27日</ref>。除雪後に土壌の凍結を防ぐためにアンダーヒーティングシステムを使って適切な地温を維持し、目土(補修用の砂)を芝が剥げてしまったところに入れる。トラクターで転圧用のローラーをけん引してピッチ表面を平らにし、転圧作業で寝てしまった芝をブラシがけ作業で起こす。古い葉や茎を取り除き、芝刈りなどを行って天然芝の状態を保つ。目土の充填を繰り返した結果、当初8300トンであったステージの重量は9000トンにまで増加したため、開業から17年目の2018年に初の改修工事を行い、ピッチ表面6.5cmの深さまで土を削り取って元の重量に復元した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180520/k00/00e/050/168000c 札幌ドーム初の改修 「目砂」除いて芝張り替え] - 毎日新聞・2018年5月20日</ref>。 2021年には、サッカーの[[2021年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]A組1次リーグ・北海道コンサドーレ札幌対[[鹿島アントラーズ]]戦(5月19日)の開催に向けて前日(18日)に野球モード(16日まで日本ハム対ソフトバンク戦で使用)からサッカーモードへの転換作業を実施したところ、ホヴァリングサッカーステージに開業以来初めての不具合が発生。ステージをオープンアリーナから屋内へ搬入する作業中に設備の電源が一時的に停止したほか、電源の復旧によって当日(19日)の未明に搬入が完了してからも、ステージを90度旋回させる作業中に給電設備の不具合が生じた。原因や復旧時期の調査を短期間で見通せない不具合であったため、回転作業は旋回の途中で終了。オープンアリーナにナイター照明設備がないことや、照明設備の整った屋外サッカー場を他に確保できなかったこから、一時は当該試合の中止も検討された<ref name="shinjirarenai4">[https://hochi.news/articles/20210602-OHT1T51049.html?page=1 札幌ドーム 異例の開催にこぎつけた夜通しの努力…サッカーピッチ“故障”の舞台裏] - スポーツ報知・2021年6月2日</ref>。結局、通常のサッカーモードから90度回転した配置で試合を開催(結果は0対0で引き分け)<ref name="shinjirarenai1">[https://www.nikkansports.com/soccer/news/202105190000417.html 【珍事】札幌ドームのサッカー場90度回転した状態で開催 全席払い戻し] - 日刊スポーツ・2021年5月19日</ref><ref name="shinjirarenai2">[https://www.nikkansports.com/soccer/news/202105190001088.html 異例ハプニング動じず札幌ドロー突破「今後につながる」ペトロビッチ監督] - 日刊スポーツ・2021年5月19日</ref>。試合後に夜を徹して復旧作業が続けられた結果<ref name="shinjirarenai4" />、5月21日の午前中に本来の位置への回転が完了したため、翌22日にはJリーグ公式戦第15節・北海道コンサドーレ札幌対[[清水エスパルス]]戦を、通常どおりのピッチの配置で開催できるようになった<ref name="shinjirarenai3">[https://www.nikkansports.com/soccer/news/202105210000542.html 札幌ドーム天然芝「無事」移動完了 22日清水戦は通常通りのピッチ配置] - 日刊スポーツ・2021年5月21日</ref>。 === スタンド・観客席 === [[ファイル:Sapporo dome interior.jpg|thumb|300px|屋内の観客席(中央部が折り畳み収納式可動席)]] ==== 概要 ==== 円形スタンドの中に三日月形の可動スタンドを備えている。これは野球場モードでの1・3塁側観客席の前列部分にあたり、サッカーの試合の際にはホームとセンター方向に移動し、メインスタンドとバックスタンドの前列となる。またサッカーモードのバックスタンド中央部、野球モードの外野スタンド中央部は収納式の可動席となっている。この可動席と固定席の間には三角形の空間ができる。これは可動席が折り畳み式であるための設計上の都合である。この部分には2005年から北海道コンサドーレ札幌主催試合では三角形の空間に[[石屋製菓]]の広告が設置される。 固定スタンドの傾斜角度は約29度で、後列からも良好な視界を確保することが可能な様に設計面で配慮がされている一方、高齢者を中心に階段の昇降には苦労する角度である(そのため北海道コンサドーレ札幌の主催試合では階段の昇降が少ない「優し~と」という席種を設定している)。また、サッカー場ではメイン・バックスタンドの、野球場では1・3塁側内野席の前方部分となる可動式のスタンドは傾斜角度が約11度と固定スタンドに比べて緩く、低い位置にあるため視界はあまり良くない。これは同様の可動スタンドを持つ球場でも言えることであるが(可動席最後列の高さが外野フェンスの高さと一致するため)、当ドームはホヴァリングステージの存在のため最前列が高く設定されておりより傾斜が緩い。 またスタンドへの出入り口は北海道コンサドーレ札幌の上位シーズンシート向けの専用出入り口が西ゲート付近に設置され2階へ上ることなく出入り出来るが、それ以外では地上2階部分(外野スタンドは最上段)にしかスタンド出入り口がない。2階コンコースにはエレベーターで上がることができるが、スタンド内では階段以外に昇降の手段がないため、階段に手すりが設置されている。 ドーム球場では通常、外野の両翼に添って巨大な広告看板を貼り付けているが、札幌ドームの場合はサッカー場としても利用されることから、バックネット側(サッカー場の場合はメインスタンド側)、外野スタンド側(バックスタンド側)と1・3塁側スタンド(両ゴール裏スタンド)の上方から垂下される形で掲示されている。 フェンス・スタンドの広告は、サッカー・ラグビーの国際大会([[国際Aマッチ]]等)の時はフェンスと同じ黒のシートで覆ったり、スタンドの横断幕をはずしたりする([[クリーンスタジアム]])が、北海道コンサドーレ札幌の主催試合では特にシートで覆うことはせずそのまま露出される。 [[2022年]]から野球場バージョンで3塁側相当、サッカー・ラグビー場バージョンでバックスタンドに相当する箇所の最前列に、[[リボンビジョン]]が埋め込み型で設置された。野球場バージョンで使用する場合はこの箇所をシートで隠していた。 応援幕についてはプロ野球とサッカーとで条件が異なる。 * プロ野球開催日 寸法を幅1座席分、縦は座席に座った状態で自分の座高を超えない範囲とする。[[横断幕]]は両手で保持し静止した状態とし、フェンス・壁面などへの貼り付け([[養生テープ]]・ハトメも含む)は不可。 * Jリーグ開催日 アウェーゾーンのみアウェーチームの横断幕のみ設置可能で、それ以外はホームチームである北海道コンサドーレ札幌の横断幕を設置可能。但し緩衝地域と、安全上立ち入り禁止となっている最前列3列部分の客席、セクターフェンスや[[手すり]]、[[非常口]]表示盤付近、コンコースの壁面や柱、メイン・バックスタンド中央部分については設置禁止。 ==== サッカー場としての使用時 ==== [[ファイル:Sapporodome201108171.JPG|thumb|300px|サッカー場使用時]] サッカー場(サッカーモード)としての使用時には、野球モードと違って、全席が利用できる状態にある。ただし、北海道コンサドーレ札幌の主催によるJリーグ公式戦の開催時には、転落防止の目的で両ゴール裏スタンドの前列3列に、アウェイチームサポーターを隔離し保護する目的でメインスタンドから見て右側のゴール裏スタンドに、それぞれ緩衝地帯を設けて閉鎖する。後者の閉鎖範囲は前者より広く設定されているため、北海道コンサドーレ札幌では、Jリーグ公式戦の定員数を客席の総数よりおよそ2,000人分少なく発表している(同クラブからJリーグに提出した文書では39,856人)。 スタンドとピッチを分けるフェンスが高い一方で、スタンド最前列とピッチとの距離が最大(メインスタンドとの間)で25m・最小(バックスタンドとの間)で12m程度と短く、サッカー場としての観戦環境は[[陸上競技場]]兼用の試合会場よりはるかに良好である。スタンド内の客席はピッチを見下ろすように配置されているため、サッカー専用球技場と比較すると一体感や接近感で劣るものの、「準専用球技場」に相当する環境を保持している。 ホヴァリングステージの不具合から通常よりピッチの配置が90度変わった状態での開催を余儀なくされた2021年5月19日のルヴァンカップ・北海道コンサドーレ札幌対鹿島アントラーズ戦([[#ホヴァリングサッカーステージ|詳細前述]])では、通常の使用時にはメインスタンド側に当たる場所がゴール裏に変わったため、両クラブの選手をピッチのコーナー付近からピッチへ入場させる措置を講じた<ref name="shinjirarenai2" />。北海道コンサドーレ札幌も、[[新型インフルエンザ等対策特別措置法#新型インフルエンザ等緊急事態|新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言]]が同月16日から北海道内へ発出されていることを踏まえて、この試合の開催に際して異例の方針を発表。感染拡大防止策の一環として全席指定・前売限定で入場券を販売していたことから、購入者の観戦を認める一方で、購入者全員に入場料を払い戻すことを決めた。「(ピッチの角度が通常より)90度変わってしまうことで(ピッチ)見え方が変わってしまうので、クラブとしては(前売座席指定券の購入者から)お金をいただくことはできない」と判断したことによる<ref name="shinjirarenai1" />。実際には、前売座席指定券の購入者から2,829人が、指定された席種・位置と異なる座席での観戦を了承したうえで入場している<ref name="shinjirarenai3" />。 ==== 野球場としての使用時 ==== [[ファイル:Aurora vision of Sapporo Dome.jpeg|thumb|300px|野球場使用時]] 野球開催時には[[バックスクリーン]]に相当する箇所の客席約1,000席分を使わないため、総客席数は40,000人強となる。デラックスシート設置により現在の座席配置となった2007年には北海道日本ハムファイターズ主催時のプロ野球公式戦では満員時の観客数は42,222人、2009年は42,328人と発表されているが、この数字はグラウンド部分を観客席として解放しない際の定員数と考えられている。日本野球機構(NPB)が主催し入場者数を発表する[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]では、現在の座席配置になってからは[[2007年の日本シリーズ]]第2戦で記録された40,770人が最多入場者数となっている。 プロ野球では一般的にホームチームのベンチは1塁側だが、北海道日本ハムファイターズは札幌ドームで3塁側のベンチを使っていた。これは2014年シーズンまではスコアボードが1塁(ライト)側にしか設置されてなく3塁側からの方が見やすかったことや、メインの北側入場ゲート及び最寄の[[札幌市営地下鉄東豊線|地下鉄東豊線]][[福住駅]]からのアクセスがよいことなども理由となっていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/kids/r_07.html|title=ファイターズのベンチが3塁側の理由|work=札幌ドーム(公式サイト)|accessdate=2017-01-30}}</ref>。福住駅~国道36号線方面より来場する場合、1塁側ではドームの外周を半周して入場する事になる。なお、[[オープン戦]]の北海道日本ハムファイターズ対[[読売ジャイアンツ|読売ジャイアンツ(巨人)]]のうち、巨人主催扱いの試合でもベンチ配列は日本ハムが3塁側、巨人が1塁側である。 2006年3月の北海道日本ハムファイターズ主催のオープン戦でバックネット裏を除く内野の防球ネットを試験的に取り外したところ、ファンから好評で安全性も確認されたとして、2006年の北海道日本ハムファイターズ主催の公式戦全戦で防球ネットをはずすことが決まった。ところが、2010年8月にファウルボールが直撃し顔面骨折と片目失明の重傷を負った観客の女性が起こした裁判では防球ネットを外して以降、年間約100件のファウルボール事故が発生していることが指摘されている{{Refnest|group="注"|2015年3月26日の札幌地裁判決では「ドームの設備は安全性を欠いていた」とする原告側の主張をほぼ認め、日本ハム球団、札幌市、札幌ドームの三社に計4190万円の賠償支払いを命じた<ref>[https://www.j-cast.com/2015/03/27231605.html ファウルで失明、4200万円賠償は適当か 日ハム訴訟判決巡って賛否両論] J-CASTニュース、2015年3月27日、2016年11月27日閲覧。</ref>。控訴審では札幌高等裁判所より2016年5月20日に日本ハムのみに3350万円の賠償支払いを命じる判決が言い渡され、原告・被告共に上告しなかったため判決が確定した<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/549335/ 【日本ハム】ファウルボール裁判上告せず判決確定「球場の安全性確保に鋭意努力」] 東京スポーツ、2016年6月6日、2018年3月37日閲覧</ref>。これは設備ではなく球団が観戦初心者を不適な席に招待したことを問題としたことによる。}}。また、[[フィールドシート]]の導入に関しては北海道日本ハムファイターズからの要請を受け、サッカー場やイベント会場への転換で可動席の移動が頻繁に行われることから取り外し式のフィールドシートを2009年から設置した。ただしフィールドシートには防球ネットが設置されている。 両翼のポールは脱着式となっており、野球・[[ソフトボール]]以外のイベントに使うときはこのポールが取り外される。 2014年から3塁側内野席の一部を応援席とし、その一角にお立ち台となる場所を設置して[[私設応援団]]やファイターズガール(チアガール)を常駐させて応援の先導をしている。 プロ野球の[[ジェット風船|ロケット風船]]はバックスクリーン付近のスタンド部分等の可動部が多く、除去されなかった風船を巻き込むことで稼働装置の故障が懸念されることを理由に2011年シーズンまで使用が禁止されていたが、専用のポンプで膨らませることを条件に2012年シーズンから全試合解禁になった<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.sapporo-dome.co.jp/data/2012318_144713.pdf|title=札幌ドーム「イベント開催時のルール&マナー」一部改正について |date=2012-03-15 |format=PDF |publisher=札幌ドーム |accessdate=2014-06-13}}</ref>が、[[新型コロナウィルス]]の蔓延による衛生面、感染予防対策の観点から、2020年以後ハンドポンプを含め、ジェット風船は再び全面禁止され、エスコンフィールド移転まで再解禁されることはなかった。2023年のエスコンフィールドも、開場当初はジェット風船はコロナ感染拡大抑制のため、当面ハンドポンプを含め全面禁止のままである。 プロ野球の応援に際し、鳴り物による応援は近隣に配慮してほとんどの野球場が22時までとされているが、音漏れの少ない札幌ドームで[[騒音]]に関するトラブルは皆無であり、23時まで鳴り物の応援が許可されている。他球場では[[振動]]による近隣や建物への影響を配慮して規制している大人数によるジャンプ行為も開場当時より規制されておらず、コンサドーレサポーターがゴール裏で長年サルトによる応援を続けており、日本ハム移転後は[[稲葉篤紀]]へのジャンプ応援で[[テレビ]]の中継画面が大きく揺れるのが有名となった。ただしこれは、ホヴァリング・ステージを出し入れするために折り畳み式で揺れる事を前提として設計した場所からさらに[[望遠レンズ]]を使ってバッターボックス方向を撮っているため揺れが強調されており、実際の揺れはもっと小さい。この様に騒音・振動に対して比較的強い建築物である事などから、札幌都心で騒音など様々な問題を引き起こしている「[[YOSAKOIソーラン祭り]]」のドーム移転論というのもある。 [[Google ストリートビュー]]では、札幌ドームのグラウンドを見ることが出来、三塁側ベンチやホームベース上、マウンドからの眺めが見られるだけでなく、塁間や塁上からの映像もあり、ベースランニングも楽しめる内容となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/news/dm_googlemap_kannai.html |title=札幌ドームの館内がGoogle マップのストリートビューに登場! |publisher=札幌ドーム |accessdate=2014-09-05}}</ref>。 === 放送席 === 放送ブース(放送席)は、日本のドーム球場では珍しく内野バックネット裏(メインスタンド)上段に観客席に入り込む形で設置されており、個別に部屋は設けていない。他のドーム球場では内野スタンド上段に個別の部屋を連ね、放送席のみのエリアを設けている。 === 大型映像装置 === [[ファイル:Sapporodome board.jpg|thumb|300px|2014年まで使用されていたパナソニック製アストロビジョン(プロ野球使用時)]] [[ファイル:Aurora vision of new light stand of Sapporo Dome.jpeg|thumb|300px|2015年から使用されている三菱電機製オーロラビジョン(プロ野球使用時・ライトスタンド)]] [[ファイル:Enlarged view of the Aurora vision of Sapporo Dome, which is established in the left stand.jpeg|thumb|300px|2015年から使用されている三菱電機製オーロラビジョン(プロ野球使用時・レフトスタンド)]] 開場時から2014年シーズンまでは、[[パナソニック]]製の「[[アストロビジョン]]」がライトスタンド上方に設置されていたが、2015年3月に[[三菱電機]]製の「[[オーロラビジョン]]」に更新され、新たにレフトスタンド側にも新設された(2015年3月3日の北海道日本ハムファイターズ対読売ジャイアンツのプロ野球オープン戦で運用開始)<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-02 |url=http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2015/pdf/0302.pdf |title=「札幌ドーム」向けオーロラビジョン3面納入のお知らせ|format=PDF |publisher=[[三菱電機]] |accessdate=2015-03-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-02|url=http://www.fighters.co.jp/news/detail/5199.html |title=札幌ドームに新たな大型映像設備が完成 |publisher=[[北海道日本ハムファイターズ]] |accessdate=2015-03-04}}</ref>。基本仕様は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/news/dm_vision.html|title=大型映像設備を2015年3月に向けて更新・増設します|work=札幌ドーム(公式サイト)|accessdate=2017-12-24}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !width="30%"|仕様 !width="35%"|アストロビジョン(旧装置) !width="35%"|オーロラビジョン(新装置) |- |仕様時期 |2001年 - 2014年 |2015年 - |- |表示部仕様 |LED方式 |LED方式(黒色パッケージ) |- |絵素間隔 |40mm |16mm |- |視認角度 |水平方向60度 垂直方向+10、-30度 |水平方向75度 垂直方向+25、-30度 |- |表示素子寿命 |30,000時間 |100,000時間 |- |外野ライト側<br/>バックスタンドアウェー側 |縦7.04m × 横24.96m = 175.71m2 |縦8.64m × 横32.00m = 276.48m2 |- |外野レフト側<br/>バックスタンドホーム側 | - |縦8.64m × 横32.00m = 276.48m2 |- |バックネット側上部<br/>メインスタンドホーム側 |縦2.56m × 横13.12m = 33.58m2 |縦3.84m × 横13.12m = 50.38m2 |- |} * サッカー用の45分タイマーと野球用のボールカウント表示・プレー表示のランプは、外野ライトスタンド側のメインボードではアストロビジョン(旧装置)は右端に配置されていた。対してオーロラビジョン(新装置)では画面内に表示される(ボールカウント表示は、当初は画像にもある通り数字を使用していた。2016年以降はランプ表示に変更)。バックネット側上部側のサブボードではアストロビジョン・オーロラビジョン共に右に野球用のボールカウント表示・プレー表示のランプが、右にサッカー用の45分タイマーがそれぞれ配置されており、更にオーロラビジョンでは45分タイマーの隣に現在時刻を示すための時計が配置されている。大型映像装置に野球用とサッカー用の装置が併設されているのは日本でも[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]](2016年の改修で撤去)と札幌ドームだけである。 * アストロビジョン運用当時の2011年からはボールカウントを「SBO」から国際標準の「BSO」へ変更することが同年3月18日に発表され、開幕までに実施された。 * 野球で使用する場合の[[スコアボード|スコア表示]]は9回まで。延長戦の場合、アストロビジョンは9回までのスコア表示を一旦消去し、改めて1回の表示部から10回以降のスコアを表示する。オーロラビジョンは1回のスコアを一旦消去し、2回から9回までのスコアを左に寄せた状態から10回のスコアを表示する(11回以降も同様)。 * 選手表示は、アストロビジョンでは下部に縦書き・横スクロールで表示、スコア表示と映像表示を併用する場合は右端の広告表示と審判表示部分を使用した。オーロラビジョンでは横書きで表示、スコア表示と映像表示は完全切替方式になったことから併用不可となっている。 * プロ野球の試合開催で、パ・リーグのチームと対戦するリーグ公式戦の試合と、[[セ・パ交流戦]]など[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]のチームと対戦する試合とでは、スコア部分の左にあるチーム表記が異なる。 ** パ・リーグ公式戦では、上の先攻・対戦チームとその下の後攻・ホームチーム(北海道日本ハムファイターズ)のチーム名が、主にユニフォーム胸元のデザインに使われているタイプのものなどで表記される。 ** セ・リーグチームとの試合時には、チームのエンブレムマーク等(F,Sh,Ys,YG,CDなど)のイラストタイプのものが表記される。 :※[[2006年の日本シリーズ|2006年]]と[[2007年の日本シリーズ|2007年]]の[[中日ドラゴンズ]]、[[2012年の日本シリーズ|2012年]]の読売ジャイアンツとの日本シリーズではパ・リーグ公式戦のものと同様の表記、[[2009年の日本シリーズ|2009年]]の読売ジャイアンツ、[[2016年の日本シリーズ|2016年]]の[[広島東洋カープ]]との日本シリーズでは、対セ・リーグ戦用のタイプで表記。また、2011年と2012年の交流戦はパ・リーグ公式戦と同様のもので表記されている。 2016年には、レジェンドシリーズとして後楽園時代を模したオレンジ単色表示や、アストロビジョン時代を模した表示がされた。 * Jリーグ公式戦では、アストロビジョンでは画面左側にスコア表示とMC・[[審判員 (サッカー)|審判員]]の氏名、画面右側に選手名(横書き)が表示されていた。オーロラビジョンでは装置左側(バックスタンドホーム側)は画面左側に45分タイマーとスコア、MC・アセッサー・審判員の各氏名、画面右側にマッチコミッショナーの氏名を表示、装置右側(バックスタンドアウェー側)は画面左にホームの選手名(横書き)、画面右側にアウェーの選手名、中央にスコアが表示される。 === 売店・スタジアムグルメ === グッズショップ「グッズ☆ジャム」及びレストラン「スポーツ・スタジアム・サッポロ」はホームチームの入場口となる北ゲート付近に設置されており、場内飲食売店は1階の北ゲート付近を中心に南ゲート・西ゲート付近にも設置している。一方でホヴァリングステージの出し入れのため東側(バックスタンド・外野側)には設置されていない。 他のドーム同様、火をそのまま使えない事で制約を受けるが、開業当初より改善が行われ名物となっているものも登場している。 球場内で売られる[[ビール]]は、株主に連ねている関係上ほとんどが[[サッポロビール]]である。「[[サッポロ生ビール黒ラベル|黒ラベル]]」「[[サッポロクラシック]]」「[[ヱビスビール]]」とサッポロビールの3銘柄が揃う。しかし、[[麒麟麦酒|キリンビール]]がスポンサーの[[サッカー日本代表]]の試合が行われる際は場内からサッポロビールが一掃され、全部の売場でキリンビールが売られる。[[ラグビーワールドカップ2019]]の開催時はワールドワイドパートナーのひとつが[[ハイネケン]]だったことから全部の売場でハイネケンが売られた。[[アジア野球選手権]]2003の開催時は、大会メインスポンサーが[[アサヒビール]]だったことから球場内広告がアサヒビールに書き換えられ、アサヒビールも売られた。このときはサッポロビールも同時に売られた<ref group="注">[[過度経済力集中排除法]]により1949年に分割されるまでは、両方とも[[大日本麦酒]]の製品だった。</ref>。 場内では、缶・瓶飲料のほか、環境保全や保健衛生の観点から[[ペットボトル]]入り飲料(内容量・蓋の有無に関わらず)、及び球場の外部で購入した[[弁当]]類は持参禁止となっており、飲料類は各自で[[水筒]]・[[タンブラーグラス|タンブラー]]にて持参か、会場で紙コップに移してもらう。<ref group="注">ただし、水筒類についてはイベントにより許可が出ていない場合は持参禁止。そのほか、イベントが行われていない場合のキッズパークでは、遊具そばのベンチでの飲食に限り、トレーニング室は水分補給の目的での利用についてはカン・ビン・ペットボトル・弁当の持参可。また屋内アリーナ(フィールド部)で一般利用する場合、水分補給名目でペットボトルは持参可。[http://www.sapporo-dome.co.jp/dome/rulemanner.html ルール&マナー]</ref> == 歴史 == === 開場までの経緯 === [[ファイル:Norin suisansho Hokkaido nogyo shikenjo tensai shiken nojo 1976.jpg|thumb|300px|農林水産省北海道農業試験場・甜菜試験農場の空中写真画像(1976年)。<br />{{国土航空写真}}。]] [[1981年]](昭和56年)には、北海道庁が全天候型多目的スタジアム「ホワイトドーム」建設構想を発表した<ref name="dome-keii">[https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/00436/contents/036.htm 1.札幌ドーム(仮称)の整備 (1)ドーム建設の経緯] 日本財団図書館(電子図書館) 2022年12月16日閲覧。</ref>。この構想は、[[1985年]](昭和60年)に高額な建設資金などを理由に、いったん凍結された<ref name="dome-keii" />。 その後、ドーム構想の主導権は商工会議所と札幌市に移行した。1988~89年ごろには、[[小林好宏]]・[[北海道大学]]経済学部教授(当時)を座長とした「ホワイトドーム会」、[[鈴木茂 (経営者)|鈴木茂]]([[札幌商工会議所]]会頭・[[北海道拓殖銀行]]頭取(当時))を会長とした「ホワイトドーム推進会議」が相次いで発足した。プロ野球ファン約600人で構成されていた「北海道にプロ野球を誘致する会」は、「北海道にプロ野球球団を作る会」に改称した。同会は、ホワイトドーム会などと連携し、[[川島廣守]]・[[セントラル・リーグ]]会長(当時)との面会や、[[サッポロビール]]などの地元有力企業に球団誘致を働きかけるなどの活動をした。板垣式四・札幌市長(当時)は、1989年の年頭記者会見で、「多目的なスポーツの施設としてぜひ実現したい。天候に左右されないため、プロ野球の誘致が可能になれば、札幌市を中心とした経済的波及効果も大きい。なんとか実現へ向けて努力したい」と述べた。ドーム建設候補地として、札幌市[[豊平区]][[月寒]]の「[[世界・食の祭典]]」会場跡地、豊平区の八紘学園団地、白石区の旧[[日本国有鉄道|国鉄]]・[[東札幌駅 (国鉄)|東札幌駅]]跡地(現在の[[札幌コンベンションセンター]]一帯)などが挙げられていた<ref>磯崎忠夫『M&A戦争 売る球団 買う企業』プラネット出版、1989年、p54~55</ref>。 [[1992年]](平成4年)7月、札幌市が「[[2002 FIFAワールドカップ]]」開催候補地として名乗りを挙げると<ref name="dome-keii" />、新たに建設するサッカースタジアムをホワイトドーム構想と関連性を持たせる案が浮上した。 [[1993年]](平成5年)1月には「2002 FIFAワールドカップ」国内開催候補地に決定した<ref name="dome-hiwa">[https://www.sapporo-dome.co.jp/dome/hirobajournal/2022/03/31/1647/ 札幌ドームの誕生秘話&特徴~札幌ドームはなぜこの形になったのか~ <開業15周年特別企画> A.3.サッカーのFIFAワールドカップを開催するため] 2022年3月31日 札幌ドーム 2022年12月16日閲覧。</ref>。 [[1996年]](平成8年)1月にはサッカー専用競技場として建設した場合、赤字は必至だったため試合数の多いプロ野球球団の誘致がドーム建設の前提とされ<ref>[https://megalodon.jp/2011-0607-1324-16/mainichi.jp/hokkaido/seikei/news/20110605ddlk01020122000c.html サンデー・トピックス:札幌ドーム開業10周年 プロスポーツで人気] 毎日新聞. (2011年6月5日). 2012年7月1日閲覧。</ref>、サッカーだけでなく野球など多目的に利用できるドームスタジアムとすることが正式に決定した<ref name="dome-hiwa" />。 [[1997年]](平成9年)2月に札幌ドーム設計・技術提案競技([[設計競技|コンペ]])には9つのグループが参加し<ref name="dome-konpe">[http://www.jiti.co.jp/graph/toku/w/doom.htm コンペ報告 札幌ドーム] 自治タイムス社 2022年12月16日閲覧。</ref>、[[東京大学]][[名誉教授]]の[[建築家]][[原広司]]グループ(原広司、アトリエ・ファイ建築研究所、アトリエブンク、竹中工務店、大成建設、シャールボヴィスインク)が提案したサッカー用の天然芝を[[気圧|空気圧]]で浮上するステージに乗せてドームに出し入れする「ホヴァリング・ステージ」方式が採用された<ref name="dome-konpe" />。ドームの建設場所として、[[農林水産省]][[北海道農業研究センター|北海道農業試験場]]・[[テンサイ|甜菜]]試験農場の一部用地が選ばれた<ref name="dome-keii" />。 [[1998年]](平成10年)6月にドーム建設を着工し、10月に株式会社札幌ドームを設立した<ref name="dome-hiroba" />。 [[1999年]](平成11年)1月に札幌ドームの愛称を公募し、3月24日に愛称発表および当選作表彰式で応募総数7,722通、4,966作品の中から札幌在住の応募作「HIROBA(ひろば)」が選ばれた<ref name="dome-hiroba">[http://www.jiti.co.jp/graph/toku/w/9903cons/9903cons.htm 愛称は『HIROBA(ヒロバ)』に決定] 自治タイムス社 2022年12月16日閲覧。</ref>。採用した理由は『横文字になる傾向が強いなかで、日本語の原点に戻ることはとても大切なこと。この作品は、施設の持つ集客性と、あるべき姿を端的に表現している』と説明した<ref name="dome-hiroba" />。しかし、札幌市民や北海道民の間では「ドーム」と言えば通じる事などから定着していない。 [[2001年]](平成13年)5月に完成し、延べ55万人の工事関係者が携わり<ref>[https://www.sapporo-dome.co.jp/dome/hirobajournal/2022/03/31/1647/ 札幌ドーム建設の舞台裏 延べ55万人の工事関係者とともに作り上げた札幌ドーム] 2022年3月31日 札幌ドーム 2022年12月16日閲覧。</ref>、総事業費は537億円(建設費用 422億円、土地費用 115億円)だった<ref>[https://www.sapporo-dome.co.jp/dome/ 札幌ドーム概要] 札幌ドーム 2022年12月16日閲覧。</ref><ref name="hokkaido-np-2001-5-25">“開業 札幌ドーム 上 537億円の夢 期待の陰に重い負担 問われる経営手腕”. 北海道新聞(北海道新聞社).(2001年5月25日)</ref>。同年6月2日に開場した<ref name="hokkaido-np-2001-6-2" />。6月2日には司会に[[徳光和夫]]、出演者として札幌出身のシンガーソングライターの[[大黒摩季]]らを招いたオープニングの記念イベントが開催された<ref>[https://www.sapporo-dome.co.jp/dome/hirobajournal/2022/03/31/1647/ オープニングセレモニー] 2022年3月31日 札幌ドーム 2022年12月16日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=札幌ドームオープン |url=https://www.consadeconsa.com/2001/06/02/511517/3966/ |website=コンサデコンサ(CONSA DE CONSA) |date=2001-06-02 |access-date=2023-06-04 |language=ja |last=コンサデコンサ管理人}}</ref>。 === 2002年FIFAワールドカップ === 2002年FIFAワールドカップ開催時、冬期間のリーグ戦開催において寒さによるピッチの凍結に悩まされるヨーロッパ各国の関係者やマスコミからは、完全屋内で試合のできる本施設に高い評価が与えられた。ただし、札幌ドームでの冬季のサッカー公式戦開催は現状では不可能である。 2002年FIFAワールドカップにおいて、当時の[[サッカーイングランド代表|イングランド代表監督]]だった[[スヴェン・ゴラン・エリクソン]]が[[ハーフタイム]]に戦術指示を示した[[ホワイトボード]]がそのままのかたちで保存されており、南北の連絡通路のメモリアルコーナーのギャラリーに展示されている。 年間を通して多目的に使える施設であることから、2002 FIFAワールドカップの日本側の会場となった施設では最大の収益を上げており、2001年度の開業から2013年度終了時まで13期連続で黒字となった。2014年度は当時過去最大の売上高を記録したものの、大型映像設備更新に8億2800万円の費用負担があったことから、開業以来初となる単年度赤字決算となった<ref>[http://www.sapporo-dome.co.jp/data/2015624_121043.pdf 2015 年 3 月期(第 17 期)決算の概要等について] 株式会社札幌ドーム 2015年6月24日 2016年2月16日閲覧</ref>。北海道日本ハムファイターズが使用料減免を要求しているが、[[札幌ドーム#施設概要|上記]]のように条例で額が定められていることもあり、応えられていない。なお、札幌市は北海道コンサドーレ札幌に対して「札幌ドーム利用料金減免補てん補助金」との名目で、ドーム利用料金の3分の1減免し、これに伴う減収分を株式会社札幌ドームへ補助金(年額3000万)として補填する事業を2000年度から行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www3.city.sapporo.jp/somu/hyoka/torikumi/pdf/20151023645.pdf|title=事業評価調書 札幌ドーム利用料金減免補てん補助金 |format=PDF |publisher=札幌市 |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 === 北海道胆振東部地震の影響によるプロ野球公式戦の中止 === [[2018年]][[9月6日]]に発生した[[北海道胆振東部地震]]の影響で[[9月11日]]・[[9月12日|12日]]に予定していた日本ハム対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦が中止となった(この2日間の振替試合は[[10月10日]]・[[10月11日|11日]]に行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://sp.fighters.co.jp/news/detail/00001343.html |title=10/10(水)・11(木)振替試合チケット概要 |publisher=北海道日本ハムファイターズ公式ページ |date=2018-09-17 |accessdate=2018-10-01}}</ref>)。札幌ドームでのプロ野球の試合が中止もしくは延期になったのは、過去に2004年の[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]で日本ハム対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]戦がストライキにより中止になったのと、2011年に発生した[[東日本大震災]]の影響により開幕自体が延期されたのがあるが、'''公式戦が行われている期間中に地震の影響で中止'''になったのはこれが初めてである。[[9月14日]]から[[9月17日|17日]]までの日本ハム対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の4連戦は予定通り開催された。 地震による[[苫東厚真発電所]]停止中の影響により14日は「20%節電目標」への協力として照明類の一部を消灯・減光したり、オーロラビジョンはライト側の大型ビジョンとバックネット側の小型ビジョンを使ってレフト側の大型ビジョンを未使用とする等の節電対策が行われた他、犠牲者の追悼に伴い一部イベントが中止になり、オーロラビジョンの一部演出を自粛すると共に「ファイターズから皆様へ」と題するビデオの放映が行われた(17日まで継続)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sapporo-dome.co.jp/cgi-bin/sp_detail.fcgi?opt=new&no=20180913_132920 |title=新着情報|札幌ドーム 20%の節電対応ならびに9/14(金)以降の営業について |publisher=札幌ドーム公式ページ |date=2018-09-14 |accessdate=2018-10-01}}</ref>。20%節電目標の達成・終了後も15日から17日までは自粛していた一部イベントを再開、オーロラビジョンは引き続き節電の為ライト側とバックネット側2面だけを使用。一部演出は節電によりライト側で再開されるまでに留まる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sapporo-dome.co.jp/cgi-bin/sp_detail.fcgi?opt=new&no=20180915_111840 |title=新着情報|札幌ドーム 9/15(土)以降の節電対応について |publisher=札幌ドーム公式ページ |date=2018-09-15 |accessdate=2018-10-01}}</ref>。 [[9月19日]]に苫東厚真発電所の1号機が復旧、運転を再開<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tomamin.co.jp/news/main/14691/ |title=苫東厚真1号機が再稼働 節電要請を解除「安定的な運転可能に」|publisher=苫小牧新聞|date=2018-09-19 |accessdate=2018-10-01}}</ref>。これに伴い翌[[9月20日|20日]]に開催された日本ハム対[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦から減光中だった照明が通常の明るさに戻り、オーロラビジョンはレフト側大型ビジョンの使用再開に伴い3面ビジョン再開<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/201809210000134_m.html |title=節電解除!札幌ドーム大型www.nikkansports.com/m/baseball/news/ビジョンも照明も普段通り - プロ野球 |publisher=日刊スポーツ |date=2018-09-21 |accessdate=2018-10-01}}</ref>。14日から換算して僅か7日後の出来事である。 === 2020年東京オリンピックと新型コロナウイルスの影響 === 2021年には、[[2020年東京オリンピックのサッカー競技|東京2020オリンピック(五輪)の男女サッカー競技]]に使用された。 東京2020オリンピックは2020年夏季の開催が当初予定されていたため、NPBは2019年の時点で、2020年6 - 8月のファイターズ主催試合5カード(10試合)で[[東京ドーム]]、北海道内で札幌以外のエリアに所在する球場([[旭川スタルヒン球場]]・[[帯広の森野球場]]・[[釧路市民球場]])、北海道外で[[NPB]]球団の[[本拠地]]に使われていない地方球場([[那覇市営奥武山野球場|沖縄セルラースタジアム那覇]]・[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場|静岡草薙球場]])を使用することを計画していた。この計画ではファイターズのナインが30日間に延べ9,000kmもの距離を移動することを想定していた<ref>{{Cite news|url=https://hochi.news/articles/20190729-OHT1T50318.html |title=【日本ハム】30日で9000kmの過酷五輪ロード|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2019-07-29|accessdate=2021-06-03}}</ref>が、2020年の初頭から新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が日本国内で流行している影響で、東京五輪の開催は2021年、NPBの2020年レギュラーシーズン開幕は6月19日(金曜日)まで延期。NPBが2020年シーズン日程の再編成に際して、感染拡大防止策の一環で(ファイターズを含む)全12球団の公式戦会場を球団本拠地の球場と[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]に限定したこともあって、ファイターズは当該期間の主催試合で札幌ドームと東京ドームのみ使用した。 また、2021年6月3日(木曜日)には、サッカー日本代表強化試合([[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ]]、日本A代表対ジャマイカ代表戦)を19:30から予定。ジャマイカ代表チームでは、関係者全員が来日前に[[PCR検査]]を受診したうえで、陰性が証明された人物だけを日本向けの飛行機へ搭乗させていた。しかし、一部の選手に向けて発行された陰性証明書に不備が見付かった<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2021/06/03/kiji/20210603s00002000327000c.html|title=ジャマイカ代表が来日 コロナ陰性証明書の不備で来日遅れ 12日にU24日本代表と国際親善試合|newspaper=[[スポーツニッポン]]|date=2021-06-03|accessdate=2021-06-03}}</ref> 影響で、開催2日前(6月1日)までに10人の選手と一部の役員・スタッフしか来日できなかった。主催団体の[[日本サッカー協会|日本サッカー協会(JFA)]]は、「代表チームの選手が10人しかいない状況では国際親善試合が成り立たない」との理由で、同日に日本A代表対ジャマイカ代表戦の中止を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/news/00027053/ |title=中止のお知らせ キリンチャレンジカップ2021 SAMURAI BLUE 対 ジャマイカ代表【6.3@北海道】|work=日本サッカー協会|date=2021-06-01|accessdate=2021-06-03}}</ref>。ジャマイカ代表の来日が困難な事態に備えた「リスクマネジメント」の第2優先案を基に<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/202106010000632.html |title=【記者の目】サッカー協会の危機管理で実現 禁断の森保ジャパン対U24代表|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2021-06-02|accessdate=2021-06-03}}</ref>、東京五輪の代表候補選手が集結している[[U-23サッカー日本代表|U-24サッカー男子日本代表チーム]]と男子A代表チームによる対戦を、無観客の強化試合として6月3日に札幌ドームで実現させた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/samuraiblue/news/00027080/|title=SAMURAI BLUE 3日の対戦相手はジャマイカ代表からU-24日本代表へ|work=日本サッカー協会|date=2021-06-02|accessdate=2021-06-03}}</ref>。[[TBSテレビ]]と系列全局が強化試合の開催を前提に札幌ドームからの中継枠を19:00 - 21:30の時間帯に確保していたことや、U-24代表が6月5日開催分の強化試合([[東平尾公園博多の森球技場]](ベスト電器スタジアム)での[[サッカーガーナ代表|U-24ガーナ代表]]戦)に向けて日本国内で調整していたことを踏まえた変更で、JFAの主催による日本男子代表チーム同士の試合は1980年12月(日本代表対日本代表シニア戦)以来であった(試合は3対0で日本A代表が勝利)<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/202106030001344.html|title=森保監督涙 禁断の「日本VS日本」歴史的ガチンコ兄弟対決「兄」貫禄勝ち|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2021-06-03|accessdate=2021-06-03}}</ref>。 2020年東京五輪での男女サッカー競技については、2021年7月中に1次ラウンド10試合(男子6試合・女子4試合)が開催された。東京五輪・パラリンピック組織委員会では、日中の開催試合(デイセッション)について、収容人数の50%以内で最大1万人の観客を入れて実施することを同月9日の午後にいったん発表。しかし、当日の夜になって、上記の全10試合を無観客での開催に切り替えることを急遽決定した。東京都内で[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置#緊急事態宣言|改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言]]が発出されるなどCOVID-19への罹患者が増加していることを背景に、組織委員会が前日(8日)に東京都および([[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置#緊急事態宣言|まん延防止等重点措置]]が適用されている)神奈川県・千葉県・埼玉県内の会場を使用する競技の無観客開催を決めたことを受けて、北海道知事の[[鈴木直道]](宣言・措置の対象地域や肩書はいずれも当時)が「(上記の1都3県を含む)[[首都圏 (日本)|首都圏]]との観客や関係者の往来を防ぐことが困難」との理由で無観客での開催を要請したことによる<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107100000019.html|title=北海道も一転、五輪無観客で開催 緊急事態宣言再発令の東京との往来懸念|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2021-07-10|accessdate=2021-07-10}}</ref>。 === 北海道日本ハムファイターズの本拠地移転をめぐる動き === 北海道日本ハムファイターズ(球団)は、[[NPB|日本プロ野球(NPB)]]の公式戦を常時開催できる環境(開閉式の大屋根など)を備えたグループ直営の野球場を[[北海道]][[北広島市]]へ建設したこと<ref name="BJ">{{Cite web|和書|url=https://biz-journal.jp/2021/03/post_213728.html |title=札幌ドーム、経営危機は札幌市による“人災”…日ハムの怒りを買った怠慢、本拠地移転 |work=Buisiness Journal |publisher=[[サイゾー]] |date=2021-03-05 |accessdate=2022-01-14}}</ref><ref name="AERA">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/43036?page=1 |title=日本ハムが新球場へ移転後「札幌ドーム」はどうなってしまうのか? |work=AERAdot. |publisher=朝日新聞 |date=2022-01-03 |accessdate=2022-01-14}}</ref> に伴って、2023年シーズンに本拠地を札幌ドームから上記の新球場に本拠地を移転。移転後は、10年以上にわたる[[日本エスコン|日本エスコン(ES-CON JAPAN)]]との[[施設命名権]]契約に基づいて、新球場に「[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]」(「エスコンフィールド北海道」)という名称を使用している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/12/06/kiji/20211206s00001173044000c.html |title=日本ハム・新庄ビッグボス、北広島をベガスにする!23年移転新本拠から世界一の街づくりの野望 |publisher=スポーツニッポン|date=2021年12月6日 |accessdate=2022年7月1日 }}</ref>。 その一方で、2022年9月24日(土曜日)から同月28日(水曜日)まで札幌ドームで組まれているホームゲーム(パ・リーグのレギュラーシーズン公式戦5試合)を、「FINAL GAMES 2022」として開催。実際にはこの年のレギュラーシーズンを6位で終えることが9月18日(日曜日)に確定したため、公式戦における本拠地としての札幌ドームの使用を、28日の対ロッテ戦(ナイトゲーム)で終了した。なお、28日には来場者全員に「札幌ドーム最終戦観戦証明書」を無料で配布。有料入場者の総数は41,138名で、試合はロッテが11対3で勝利したが、日本ハム球団では札幌ドームを本拠地に使用してきた19年間を締めくくる「ホーム最終戦セレモニー」を試合後に開催している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fighters.co.jp/news/detail/00004292.html |title=すべての感動に、ありがとう。9/24(土)~28(水)《FINAL GAMES 2022》開催!|publisher=北海道日本ハムファイターズ|date=2021年12月6日 |accessdate=2022年9月24日}}</ref>。シーズン終了後の11月23日(水曜日・勤労感謝の日)に開催された「ファンフェスティバル2022」をもって、非公式戦([[オープン戦]]など)を除く球団定例行事での使用を事実上終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fighters.co.jp/news/detail/00004427.html|title=《ファンフェスティバル2022》11/23(水・祝)開催決定!|publisher=北海道日本ハムファイターズ|date=2021年10月4日 |accessdate=2022年12月11日}}</ref>。 ==== 北広島市内の新球場への移転が決まるまでの経緯 ==== 株式会社札幌ドームは、年間9億円規模のリース料を基調に、総額で年間20億円以上の収入を球団側から得ていた。この収入にはドーム敷地内での球団グッズの販売などによる収入が含まれていたため、球団側はかねてから、ドームの賃借に関する条件の改善(リース料の引き下げなど)を管理母体の札幌市へ要望していた。これに対して、札幌市はリース料の引き上げに踏み切る一方で、球団側から提案されていた運用コストの削減策(他の企業・団体に対する指定管理者の選定など)の採用をことごとく見送っていた<ref name="BJ" />。 日本ハム球団は、東京ドームから札幌ドームへの本拠地移転を機に、「『スポーツと生活が近接する社会』(Sports Community)の実現を目指す」という理念を掲げていた。もっとも、札幌ドームをめぐる環境はこの理念の実現に程遠く、ドーム自体にも諸般の制約から改善や拡張の余地がほとんどなかった。高校・大学野球の経験者でスポーツ・マーケティングへ長らく携わっている前沢賢(2023年の時点では球団の事業統括本部長)によれば、ヘッドハンティングで入団した直後(事業部員時代)の2009年にドーム内部の改装を再三にわたって株式会社札幌ドームの取締役(当時)に打診したものの、「ドームの建設当初から定められている札幌市の条例に抵触する」「建設当初の構造に少し手を加えただけでも、他の部分の構造が崩れる恐れがある」との理由で女性用トイレの増設すら認められなかったという。そこで前沢は、スポーツ・マーケティングの知見と経験を踏まえて、北海道内の別のエリアへの本拠地移転を伴う「ボールパーク構想」を発案<ref>[[鈴木忠平]](2023)『アンビシャス 北海道にボールパークを創った男たち』([[文藝春秋]])第1章「流浪する者たち」pp.21 - 23</ref>。この提案に反対していた上司との衝突や人事面での冷遇がきっかけで2011年にいったん退団したものの、札幌ドームからの本拠地の移転先探しが暗礁に乗り上げていた2014年に球団へ復帰すると、[[大社啓二]](当時のオーナー)や[[島田利正 (日本女子ソフトボールリーグ機構)|島田利正]](当時の球団代表)などからの知遇を背景に構想の実現へ本腰を入れ始めた<ref>前掲書『アンビシャス』第3章「フィールド・オブ・ドリームス」</ref>。 その一方で、札幌市に隣接していて[[新千歳空港]]に近い北広島市では、総合運動公園を整備する計画が1996年の市制施行前(1968年の町制施行当初)から浮上。この計画は、地方公共団体(当時は北海道札幌郡広島町)としての財政難や、「公共事業」としての優先順位の低さを背景に何度も頓挫していた。 広島町の職員から北広島市の初代助役を経て、2005年から北広島市長を務めている[[上野正三]]は、市長として4度目の任期(2015年度)に入るタイミングで「[[きたひろしま総合運動公園]]」を本格的に整備する方針を表明。広島町時代からの上野の部下(2015年度の時点では北広島市の企画財政部次長)で、広島町への入庁前年(1988年)に[[札幌開成高等学校]]硬式野球部の4番打者として[[第70回全国高等学校野球選手権大会]]へ出場した川村宏樹が、この方針の実現に奔走した<ref>前掲書『アンビシャス』第2章「眠れる森」</ref>。その結果、きたひろしま総合運動公園の整備計画が「官民連携支援事業」(日本政府からの助成対象事業)へ正式に認定されたことから、川村は計画の実現に向けたプロジェクトチームの責任者に任命。チームによる民間の開発パートナー探しの一環として、2016年1月には、公園の一角へ野球場を建設することを前提に、[[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)]] が主管する試合([[イースタン・リーグ]]での主催公式戦)から年間数試合をこの球場で開催することを球団に持ち掛けた。球団を代表して川村と対応した前沢は、当時まだ公表されていなかった「一軍の本拠地を札幌ドームから移転させる」という構想を川村へ打ち明けたうえで、移転先の球場を「きたひろしま総合運動公園」内に建設、球場への最寄り駅を(北広島市内を通る)[[JR北海道]]の[[千歳線]]に新設することを提案<ref>前掲書『アンビシャス』第5章「アンビシャス・シティ」 </ref>。北広島市はこの提案を受けて、「建設用地の無償貸与」「球場を含めた公園施設の固定資産税・都市計画税の10年間免除」などを条件に、新球場の建設と運営を改めて打診した<ref name="nikkei">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28584170W8A320C1EA1000/ |title=北広島市に米国流「ボールパーク」 日本ハム23年開業 ファイターズ新球場建設地を決定 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2018-03-26 |accessdate=2022-01-14}}</ref>。 報道関係者で上記の動きをいち早く把握していたのは、[[北海道日刊スポーツ新聞社]]の日本ハム担当記者(当時)にして高校野球経験者([[新潟明訓高等学校]]硬式野球部OB)の高山通史で、新球場の建設を軸に"Sports Community"を北広島市に作り出す構想も前沢から極秘裏に打ち明けられていた。前沢への接触はいわゆる「スクープ狙い」の取材の一環であったが、実際には前沢が示した構想のスケールに魅了されるあまり、取材の成果を一切公にしなかった<ref>前掲書『アンビシャス』第4章「食肉王の蹉跌」pp.104 - 119</ref>。結局、日本ハムが札幌ドームで成し遂げた[[2016年の日本シリーズ]]制覇の原稿を執筆したことを置き土産に、北海道日刊スポーツ新聞社を退社。前沢からの勧めで2017年1月から日本ハム球団に加わると、前年まで「取材の対象」であった新球場の建設構想に「広報部員」の立場で携わっている<ref>前掲書『アンビシャス』第9章「運命の日」pp.242 - 247</ref>。 もっとも、球団が北広島市と交渉を重ねていることを2016年5月に[[北海道新聞]]が報じたこと<ref name="BJ" /> から、札幌市も本拠地の移転を前提に野球場を[[北海道立真駒内公園]]内へ新設することを球団側に提案。この提案に沿って公園の整備計画を利用者や周辺の住民などに公表したところ、自然環境の保全などの観点から野球場の新設に反対する旨の意見が多く寄せられたため、札幌市は後に提案の撤回や計画の修正を余儀なくされた<ref name="nikkei" />。 結局、球団側は北広島市からの打診を踏まえて、自前で建設した野球場で発生する収益を球団の経営・戦力の補強へ直結させる方針に転換。2018年11月5日には、きたひろしま総合運動公園内に野球場を建設したうえで、2023年シーズンから本拠地をこの球場へ移転させることを正式に発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fighters.co.jp/news/detail/00001446.html |title=北海道北広島市における新球場建設を正式発表 |publisher=北海道日本ハムファイターズ |date=2018-11-05 |accessdate=2022-01-14}}</ref>。 ==== 本拠地の移転に伴う球団側の動き ==== NPBでは基本として、レギュラーシーズン開幕カードの主催権を、4年前のレギュラーシーズンでの最終順位が3位以上の球団へ自動的に付与している。日本ハムは2018年の最終順位が3位だったものの、2019年には5位に沈んだため、通例に沿えば2023年の開幕を新球場(ES CON FIELD HOKKAIDO)で迎えられないことになっていた。このような事情から、日本ハム球団では2020年に入ってから、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]](2018年最下位→2019年3位)との間で「開幕カード主催権の交換」という異例の交渉を開始。1年にわたる交渉の末に、札幌ドームでの本拠地最後のシーズン(2022年)の開幕カード主催権を楽天へ譲渡する代わりに、2023年シーズンの開幕カードを新球場で主催する権利を得た<ref>{{Cite news|title=日本ハム 新球場で23年開幕迎えるため 楽天と主催権利を交換、来季はビジターから|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/12/03/0014887840.shtml?pg=2|newspaper=デイリースポーツ|accessdate=2021-12-04|language=ja}}</ref>。 日本ハム球団では、本拠地を移転する2023年以降も、[[日本プロフェッショナル野球協約|NPBの野球協約]]第38条に基づく[[プロ野球地域保護権|保護地域]]を北海道に設定。同年には、全ての主管試合(ホームゲーム)を新球場で開催することが、パ・リーグから正式に発表されている<ref name="2023NPB">{{Cite news|url=https://full-count.jp/2022/11/21/post1309755/|title=日本ハム、来季主催全試合を新球場で開催 札幌ドームでプロ野球なし…パ全試合日程を発表|newspaper=Full-Count|accessdate=2022-11-21|language=ja}}</ref>。札幌市は、日本ハムが本拠地の移転を決めた2018年から、NPBの他球団に対して札幌ドームでの公式戦の開催を打診。「NPBの公式戦で丸1日使用するだけでも2,000万円」とされる使用料の引き下げにも応じる姿勢を示していたが、結局はどの球団とも折り合いが付かなかった<ref name="kuriyama">{{Cite news|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20221117-P7W3C7KITVOMLA5MKJVY3RH73I/|title=札幌ドーム、敬遠される切実な理由 多くの主力外野手の選手生命を縮めてきた 日本ハム〝脱出〟で大幅減収、来季のプロ野球誘致も難航|page=1|newspaper=ZAKZAK|accessdate=2022-11-21|language=ja}}</ref> ため、2023年のNPBではセ・パ両リーグとも札幌ドームで公式戦を組まなかった<ref name="2023NPB" />。現に、2022年度のNPBオフシーズン(後述する[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック]]に向けた強化試合の終了後)には、一・三塁側のフェンスから広告を完全に撤去。2023年度からは、内外野ともフェンス広告の新規販売を中止している<ref name="stop">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20231022-OYT1T50067/|title札幌ドーム「新モード」効果薄く…イベント・広告減少、使い方のイメージわかず?|newspaper=読売新聞北海道版|accessdate=2023-11-25|language=ja}}</ref>。さらに、一・三塁側コーチャーズボックス付近の人工芝に描かれていた企業名を消去したため、場内の広告は大幅に減少<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/03/04/kiji/20230304s00001173272000c.html|title=札幌ドームの広告激減 一、三塁側フェンスからは企業名消える|newspaper=スポーツニッポン|accessdate=2023-03-06|language=ja}}</ref>。2023年度には、テレビ中継での露出が見込めるNPBの公式戦が開催されなかったこともあって、「コンコースの柱や壁面を含めた広告枠(総数80枠)の3割が、NPBのレギュラーシーズンと重なる上半期(2023年9月)までに埋まらない」という事態に陥った<ref name="stop" />。 NPBが2023年から札幌ドームを(日本ハムの主管試合を含む)公式戦で使用しない背景には、コンクリートの床に巻き取り式の薄い人工芝を敷いた野球仕様のグラウンドによって、他球場を上回るほどの負担が選手や審判の身体に掛かっていたことも挙げられている。現に、本拠地を札幌ドームへ移転してからの日本ハムでレギュラーに定着していた外野手のうち、[[糸井嘉男]]・[[陽岱鋼]]・[[中田翔]]・[[西川遥輝]]は慢性的な足腰の故障に悩まされた<ref>{{Cite news|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20221117-P7W3C7KITVOMLA5MKJVY3RH73I/2/|title=札幌ドーム、敬遠される切実な理由 多くの主力外野手の選手生命を縮めてきた 日本ハム〝脱出〟で大幅減収、来季のプロ野球誘致も難航|page=2|newspaper=ZAKZAK|accessdate=2022-11-21|language=ja}}</ref>。さらに、グラウンド上で故障した選手に対するトレーナーの処置がままならないほど、バックヤードのスペースが非常に狭いことが球団関係者の不興を買っていた<ref>前掲書『アンビシャス』第1章「流浪する者たち」p.17</ref>。2012年から8年間にわたって日本ハムの一軍を指揮した後に[[野球日本代表]]の監督へ転じた[[栗山英樹]]も、2023のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に向けた強化試合(2022年11月9・10日に札幌ドームで開催)のチームミーティングで、NPBの他球団から日本代表へ招集された選手に対して「札幌ドームでは(グラウンドが他の球場より)急に固くなるので、身体に負担が来てしまう。怪我のないように(強化試合を)終えて欲しいので、絶対に無理をしないように」と忠告している<ref name="kuriyama" />。 ただし、日本ハム球団では2023年の主管[[オープン戦]]において、3月4日・5日に楽天との2連戦で札幌ドームを使用。同年のレギュラーシーズン中に新球場で開催する球団主管の公式戦を対象に、観戦を希望する札幌市民を抽選で招待する企画も打ち出していた<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.fighters.co.jp/news/detail/00004578.html|title=2023年シーズン 札幌ドームでのオープン戦開催(2試合)と新球場エスコンフィールドにおける札幌市民対象の抽選招待企画開催について|publisher=北海道日本ハムファイターズ|date=2022-12-15|accessdate=2022-12-15|language=ja}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://sp.fighters.co.jp/news/detail/00004579.html|title=ES CON FIELD HOKKAIDOで7試合開催!2023年オープン戦日程発表|publisher=北海道日本ハムファイターズ|date=2022-12-15|accessdate=2022-12-15|language=ja}}</ref>。発表の時点で球団社長を務めている川村浩二によれば、「北海道日本ハムファイターズは2004年の誕生から北海道(民)やファンの皆様に支えられてきた一方で、新球場の建設や開業に向けて多くの方々にお世話になったので、(札幌ドームが所在する)札幌市民の皆様へ何かしらの御礼をしたい」「新球場を『世界に誇れる共同創造空間』『(札幌ドーム)より多くの方々に御来場いただけるデスティネーション(目的地)』として札幌圏や北海道の発展に寄与できるよう(札幌市民の皆様に)御参画や御協力をお願いしたい」との思いから、札幌ドームにおけるオープン戦の開催と札幌市民の新球場招待企画を決めたという<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/12/15/kiji/20221215s00001173285000c.html|title=日本ハム 来季のオープン戦2試合を札幌ドームで開催 札幌市民対象新球場招待企画も|publisher=スポーツニッポン|date=2022-12-15|accessdate=2022-12-15}}</ref>。 さらに、NPBにおける2024年のオープン戦でも、3月2日・3日の日本ハム対楽天2連戦で札幌ドームを使用することが決まっている。3月上旬の北海道で例年寒い日が続くことや、新球場(エスコンフィールド北海道)のグラウンドに天然芝を敷設していることを踏まえた決定で、「この時期に(開閉式の屋根を閉めたまま暖房などの目的で)新球場内部の温度を上げることは、天然芝の生育との兼ね合いで難しい」との理由から「新球場に比べて場内の温度を管理しやすいので、選手も観客も寒さを気にせずに済む」という札幌ドームを1年振りに使用する方向で落ち着いた<ref>{{Cite news|url=https://hochi.news/articles/20231207-OHT1T51209.html?page=1|title=【日本ハム】札幌ドームで1年ぶり試合…来年オープン戦開催 エスコン開業後初|newspaper=スポーツ報知|date=2023-12-07|accessdate=2023-12-13}}</ref>。 === 新長期ビジョン === 開業20周年の2021年に、2031年までの10年間にわたる運営指針として、「SAPPORO DOME VISION 2031(SV-31)」を策定<ref name="SV-31">[https://www.sapporo-dome.co.jp/cms/wp-content/themes/dome/pdf/sustainability/report/csr2022_11-14.pdf 札幌ドーム未来への指針] 札幌ドームREPORT2022</ref>。北海道日本ハムファイターズの本拠地移転(2023年)に伴う減収を少しでも補うべく、この指針に沿って以下の試みが為されている。 ==== 施設命名権の売却構想 ==== 札幌ドームでは、パシフィック・リーグ球団の本拠地球場で唯一、2022年度まで施設命名権を第三者に売却していなかった。札幌市は命名権の売却を2007年2月から何度も検討していて、2011年には3度にわたって売却先の公募を実施したものの、売却先の決定には至らなかった。 札幌市が売却先の公募へ初めて踏み切ったのは2011年1月で、公募に際しては、契約期間を5年間に設定。施設名に「札幌ドーム」(またはそれに準ずる名称)を付けることや、年間5億円の権利使用料を札幌ドームへ支払うことを契約の条件に定めていた。これに対して[[Google]]が公募に名乗りを上げたものの、札幌市側との折り合いが付かなかったため、契約の締結は見送られた。この結果を受けて、札幌市は2月と12月にも公募を実施したが、いずれも応募者は現れなかった。ちなみに、12月の公募では、翌2012年レギュラーシーズン開幕前までの売却を視野に、契約年数の延長によって年間使用料の実質的な軽減を謳っていた。 その一方で、株式会社札幌ドームでは、2014年度から10年間の規模でドームの改修を計画。改修費用が総額で90億円 - 100億円と見込まれることから、札幌市ではこの費用を捻出すべく、2013年12月に通算4回目の公募を実施することを検討していた。検討に際しては、札幌市が陣頭指揮を執っていた過去3回の公募から一転して、株式会社札幌ドーム・北海道日本ハムファイターズとの連携を模索<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20131202-1225951.html|title=札幌ドーム命名権 公募で売却へ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2013-12-02|accessdate=2022-11-111}}</ref>。実際には三者間の調整が付かなかったため、4回目の公募の実施は見送られた<ref name="nikkei-name" />。 しかし、北海道日本ハムファイターズが2023年度からの本拠地移転を2018年度内に決めたことを受けて、札幌市は本拠地移転後の5年間(2023 - 2027年度)に見込まれる札幌ドームの事業収支を試算。2022年6月には、この試算に沿った収支の見通しを発表する<ref name="nikkei-name">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFC212ZL0R20C22A9000000/ |title=札幌ドームの命名権売却を検討 22年度内にも公募|publisher=日本経済新聞社|date=2022/09/21|accessdate=2022/09/21}}</ref> とともに、上記5年間の指定管理者を選定するタイミングに合わせて施設命名権の売却先を公募することを決定した。 2022年度(2023年3月31日)までの指定管理者であった株式会社札幌ドームも、札幌市との協議などを経て、施設命名権を売却することを検討<ref name="sankei-name">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220921-4SVWSXI7G5KPXIIIC66IV5F7FI/|title=札幌ドーム命名権売却へ 日ハム移転後の収入確保|publisher=産業経済新聞社|date=2022-09-21|accessdate=2022-09-21}}</ref>。同社は2023 - 2027年度にも札幌市から指定管理者に選定されているが、2022年度内の公募は見送られた。 ==== 中規模のイベントに対応した「新モード」の展開 ==== 札幌市が公表した2023年度から5年間の収支見通し(前述)によれば、ドームを使用するイベントの年間開催日数を2019年度から20日前後の減少にとどめた場合には、上記5年間の最終損益で900万円の黒字を計上できるという{{R|"nikkei-name"}}。この見通しでは、Jリーグの公式戦開催日数を増やすことや、ドーム内をカーテンで仕切ることによって小規模のコンサートにも対応することなども想定されている<ref name="sankei-name" />。 札幌ドームでは最大で5万人規模の観客を収容できるにもかかわらず、このような規模でコンサートを開催するアーティストが少ないことが、収入を確保するうえで積年の課題になっていた<ref name="new-mode2" />。株式会社札幌ドームは、「およそ2万人の観客で満員になる」という中規模のイベントやコンサートの需要を掘り起こすべく、「ドーム内の客席の一部を複数の暗幕で仕切る」という仕掛けを構築。このような仕掛けを「'''新モード'''」と称して、2023年3月14日に報道陣へ初めて公開した<ref name="new-mode1">[https://www.hbc.co.jp/news/ec899dcbde6e4e27e8d29721905119be.html 札幌ドームの新たな収入源は?日本ハムファイターズ本拠地移転に伴い、札幌市が考えた秘策「新モード」](北海道放送 2023年3月14日 同月15日閲覧)</ref>。奇しくも、日本ハムは当日の午後に、新球場で初めての対外試合([[埼玉西武ライオンズ]]とのオープン戦)を開催している。 「新モード」では、外野スタンドをイベントの客席に使用する一方で、「野球モード」におけるピッチャーズマウンド付近にステージを組むことを前提に置いている<ref name="new-mode2">[https://www.htb.co.jp/news/archives_19502.html 「大きな黒い幕」でファイターズの抜けた穴をカバー?札幌ドーム「新モード」公開](北海道テレビ 2023年3月14日 同月15日閲覧)</ref>。そのうえで、最も大きな暗幕(高さ30メートル×幅120メートル)をステージの正面、内野席を覆い隠す格好でスタンド席を仕切る暗幕をステージの両側に設置。設置については、およそ10名のスタッフで8時間を要することが見込まれている<ref name="new-mode1" />。 ちなみに、株式会社札幌ドームでは、「新モード」を展開するための改修工事におよそ4億円を投入。また、「新モード」の展開に合わせてステージの照明や音声を充実させための機材を、およそ2億3,000万円で海外から輸入した。「新モード」の展開は2023年3月からで、1日当たりの使用料を従来のモードの7割程度に設定。このモードを使用した中規模イベントを、2023年度に年間で6回、2024年度以降に12回程度開催することを想定している<ref name="new-mode1" />。 「新モード」を使用した初めてのイベントは、[[ラグビーワールドカップ2023#プールD|ラグビーワールドカップ2023グループリーグ・プールD]]([[ラグビー日本代表|日本代表]]対[[ラグビーチリ代表|チリ]]戦)の[[パブリックビューイング]]で、2023年9月10日に開催された<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2023/09161105/ 日ハムに去られた「札幌ドーム」の現状 「新モード」は見通しが甘すぎた 市民の怒りは行政に](デイリー新潮 2023年9月16日)</ref>。同年11月19日には、「[https://www.sapporo-dome.co.jp/information/2023/09/04/9782/ 全開エール!!2023]」というイベントを「新モード」で開催。「北海道内の高校の吹奏楽部で活動する現役の学生と、『[[コロナ禍]]』での高校生活を余儀なくされていた吹奏楽部のOB(卒業生)で構成される7つの団体がマーチング、ダンプレ、吹奏楽の演奏などのパフォーマンスを披露する」というイベントで、開催の前日(18日)には、「通常は関係者にしか使用を認めていない『控室』や『記者室』を、道内の高校(6校)から参加していた吹奏楽部の宿泊を伴う『合宿』に提供する」という試みも為されていた<ref name="zenkai">[https://news.yahoo.co.jp/articles/5d823ef4738c950b943172b1e57fddc2bfd9a7a1 活用法の模索続く札幌ドーム、次の一手は“宿泊”?高校生らが吹奏楽の「合宿」と「コンサート」 暗幕使った「新モード」も稼働](北海道放送 2023年11月20日)</ref>。もっとも、いずれのイベントも、札幌ドーム側から関連団体(北海道ラグビーフットボール協会や北海道内の高校の吹奏楽部)への打診をきっかけに実現。さらに、このような事情から主催団体に会場使用料の減免措置などが適用されたため、実際には札幌ドーム側の利益が少額にとどまっている<ref name="stop" />。 2023年11月の時点では、上記のイベント以外に「新モード」が活用された実績も、札幌ドーム側からの打診と無関係の企業・団体による活用への応募も皆無である。その背景としては、「客席の総数が(常設スタンドの)半分」「イベントでの使い方が分からない」といったイメージが関係者の間に広まっていることや、札幌ドームでのコンサートを希望するアーティストに「ドーム(の常設のスタンド)を(観客で)満員にしたい」との意向が強いことなどが報道などで指摘されている<ref name="stop" /><ref>[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/864770 札幌ドーム厳しい船出 コンサート「新モード」応募ゼロ 赤字拡大の恐れ](北海道新聞 2023年6月20日)</ref>。これに対して、札幌ドーム側では「全開エール!!2023」での試みを足掛かりに、ドーム内のスペースをイベント出演者などの「宿泊」にも活用することを検討している<ref name="zenkai" />。 == 使用状況 == [[ファイル:Sapporo Dome02.jpg|thumb|300px|ファイターズ主催試合時の様子(2007年当時)]] [[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)'''[[北海道コンサドーレ札幌]]'''のホームスタジアム(2014年までは[[札幌厚別公園競技場]]と併用)である。2004年度から2022年度までは[[プロ野球]][[パシフィック・リーグ]]の'''[[北海道日本ハムファイターズ]]'''が本拠地球場として使用していた{{Efn2|本拠地化する以前にも、2001年から2003年にかけて地方開催扱いで公式戦を開催した。本拠地移転後の2023年も、札幌市および市民への感謝を込めてのものとして、3月4日・5日に[[オープン戦]]対[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]戦を2試合開催した<ref>{{Cite news|title=日本ハムが来年3月4、5日に札幌ドームでのオープン戦開催を決定|newspaper=サンスポ|date=2022-12-15|url=https://www.sanspo.com/article/20221215-7O2HMRGC2RJUTNKRMISBU56F64/|accessdate=2022-12-15}}</ref>。2024年も同様に、3月2日・3日にオープン戦対[[阪神タイガース|阪神]]戦を開催する<ref>{{Cite web |title=春季非公式試合(オープン戦) |publisher=[[日本野球機構]] |date=2023-12-19 |url=https://npb.jp/preseason/2024/schedule_detail.html |accessdate=2023-12-21}}</ref>。}}。 かつては北海道日本ハムファイターズの球団事務所と北海道コンサドーレ札幌のクラブ事務所も設けられていた{{Efn2|北海道日本ハムファイターズは2023年1月4日より[[北広島市]]にある[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]の施設内に<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230104/k10013941121000.html|title=日本ハム 新球場に移転の球団事務所で仕事始め 北海道 北広島 |publisher=日本放送協会 |date=2023-01-04 |accessdate=2023-04-15}}</ref>、北海道コンサドーレ札幌は2014年1月29日より練習場・クラブハウスのある[[石屋製菓#北海道コンサドーレ札幌との関わり|宮の沢白い恋人サッカー場]]に<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.consadole-sapporo.jp/news/2014/01/015995.html |title=クラブ事務所 移転に関わるお知らせ |publisher=コンサドーレ札幌 |date=2014-01-27 |accessdate=2014-02-26}}</ref>、それぞれ事務所を移転した。}}。北海道日本ハムファイターズの球団事務所は2012年に大幅改修した際、1階会議室の3部屋それぞれの部屋名に「北海道に移転してからの球団の功労者」として[[トレイ・ヒルマン]]、[[新庄剛志|新庄剛志(SHINJO)]] 、[[ダルビッシュ有]](入団順。序列の有無は不明。)の3人の姓の英語表記を使用した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/03/01/kiji/K20120301002734300.html |title=新庄、ヒルマンもある 改修の日本ハム球団事務所に“ダル部屋”完成! |publisher=スポーツニッポン|date=2012-03-01 |accessdate=2017-02-05}}</ref>。 野球の国際試合では、2003年に[[2004年アテネオリンピックの野球競技|アテネオリンピック]]のアジア地区予選を兼ねた[[2003年アジア野球選手権大会|第22回アジア野球選手権大会]]や、2015年の[[2015 WBSCプレミア12|第1回WBSCプレミア12]]の開幕戦などで使用された。 サッカー場としては、2003年に[[Jリーグオールスターサッカー]]が開催されたほか、[[サッカー日本代表]]の国際親善試合([[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ]])に使用されることも多い。また、[[2020年東京オリンピックのサッカー競技|2020年東京オリンピック(五輪)で男女サッカー競技]]の会場に選ばれていたほか、2023年度からは[[#全国高校サッカー北海道大会決勝での使用|全国高等学校サッカー選手権大会北海道大会]]の決勝を開催する。 多目的施設でもあるため、[[ラグビーワールドカップ2019|2019年ラグビーワールドカップ]]など、野球・サッカー以外の競技やイベントでも使用されている。 === 野球 === ==== 記録等 ==== * 野球モードでプロ野球の試合を開催する場合には、投手が投げたボールの球速や、打者が放った打球速度の計測値がスコアボードにkm/h単位で表示される。基本として「StalkerSport」(Applied Concepts社製の高性能[[スピードガン]])がホームベースの後方から計測しているが、2020年からは、日本ハム主催試合の開催時に限って、球団側が持ち込む[[トラックマン]]の計測値を表示するようになった<ref>『[[週刊ベースボール]]』2021年7月19日号「球場スピード計測最新事情」p.39</ref>。ただし、スピードガンでもトラックマンでも、スコアボード上の表示では球速と打球速度を区別していない。このため、球速が160km/h台へ達した場合に、その投球に対する打球の速度と判別できない事態も生じている。 ** 2016年10月16日に開催された[[2016年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ#第5戦 10月16日|パシフィック・リーグクライマックスシリーズ ファイナルステージ第5戦(北海道日本ハムファイターズ対福岡ソフトバンクホークス)]]では、「3番・[[指名打者]]」としてスタメンで出場していた日本ハムの[[大谷翔平]]([[二刀流#日本プロ野球|いわゆる「投打の二刀流選手」]])が、指名打者を解除したうえで9回表に救援投手として登板。7番打者・[[吉村裕基]]へ投じた[[速球|ストレート]]の球速が、「StalkerSport」で'''165&nbsp;km/h'''と計測されたうえでスコアボードの全面にわたって表示された。この球速は、レギュラーシーズン・[[日本シリーズ]]を含めた'''[[NPB]]の公式戦で計測・表示された球速としては'''、2021年[[セ・パ交流戦]]開幕(5月25日)の時点で'''最も速い'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/10/16/otani-165_n_12512010.html|title=大谷翔平、日本最速の165キロ! 日本シリーズは日本ハム×広島に(画像集)|publisher=ハフィントン・ポスト日本版|date=2016-10-16|accessdate=2021-06-10}}</ref>。 ** 2021年6月8日にセ・パ交流戦として開催された北海道日本ハムファイターズ対[[阪神タイガース]]戦では、高校時代から大谷と並び称されてきた[[藤浪晋太郎]](大谷と同年齢・同学年の阪神投手)が、7回裏に救援で登板。日本ハムの3番打者・[[近藤健介]]に投じたストレートで近藤がファウルボールを放ったところ、大谷のNPB公式戦最速記録を3km/h上回る球速(168&nbsp;km/h)がスコアボードに表示された。ただし、藤浪が前後に投じたボールの球速がいずれも150km/h台の後半であったことから、スピードガンによる球速の計測が誤っていた可能性<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/06/08/kiji/20210608s00001173516000c.html|title=まさか出た!? 阪神 中継ぎ昇格2戦目の藤浪 札幌ドームで168キロ表示|publisher=スポーツニッポン|date=2016-10-16|accessdate=2021-06-10}}</ref> や、近藤の打球速度が誤って表示された可能性が報道などで指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202106080001019.html|title=阪神藤浪晋太郎、大谷超え168キロ!? 度肝を抜く数字に球場どよめく|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-08|accessdate=2021-06-10}}</ref>。 *** この試合の9回表には、阪神の[[ロベルト・スアレス]]が藤浪の後を継いで登板。近藤に対して投じた4球目のストレートが163km/h(NPB公式戦における歴代3位の最速記録に相当する球速)、5球目のストレートが162km/h(自己最速タイ記録)と表示された。近藤は4球目のストレートでファウルボールを放ったことから、4球目の球速表示には前述した藤浪の168km/hと同様の可能性が含まれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202106080001268.html|title=阪神スアレスがリーグ独走18セーブ目 電光掲示板に「163」球団最速か|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-08|accessdate=2021-06-10}}</ref> が、近藤から空振りで三振を奪った5球目の球速(162&nbsp;km/h)は計測時点でNPBの歴代3位タイ記録に当たる(藤浪も2020年に記録)。 ** 2021年6月13日にセ・パ交流戦として開催された北海道日本ハムファイターズ対[[横浜DeNAベイスターズ]]戦では、かつて日本ハムに在籍していた左投手の[[エドウィン・エスコバー]]が、DeNAの投手として8回裏から登板。[[西川遥輝]]をストレートで見逃しの三振に封じたところ、'''NPBの公式戦に登板した左投手としては歴代最速'''(右投手を含めれば大谷などに次いで当時の歴代2位タイ)'''記録に相当する163km/h'''が計測された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202106130000761.html|title=DeNAエスコバー163キロ「光栄です」左腕最速、NPB2位タイ|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-13|accessdate=2021-07-07}}</ref>。 * 2022年6月7日にセ・パ交流戦として開催された北海道日本ハムファイターズ対横浜DeNAベイスターズ1回戦で、DeNAの[[今永昇太]]が札幌ドーム初の[[ノーヒットノーラン]]を達成<ref>{{Cite news2|title=【DeNA】今永昇太が今季3人目ノーヒットノーラン「何者でもない一投手を」球団52年ぶり|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202206070000908.html|newspaper=nikkansports.com|date=2022-06-07|agency=日刊スポーツ|accessdate=2022-06-07}}</ref>。この年まで本拠地に使用している日本ハムの投手からも、[[コディ・ポンセ]]が8月27日の対[[福岡ソフトバンクホークス]]戦でノーヒットノーランを成し遂げた。日本ハムの投手が札幌ドームでの球団主管公式戦でノーヒットノーランを達成したことは初めてで、2022年に入団したばかりのポンセにとっては、この試合がドームにおける公式戦初登板でもあった<ref>{{Cite web|和書|title=コディ・ポンセ投手がノーヒットノーランを達成|url=https://www.fighters.co.jp/news/detail/00004335.html|newspaper=|date=2022-08-27|publisher=北海道日本ハムファイターズ|accessdate=2022-08-29}}</ref>。 ==== 北海道日本ハムファイターズ以外の球団がプロ野球の主催試合を開催した事例 ==== プロ野球の試合開催にあたっては「[[プロ野球地域保護権]]」(フランチャイズ制度)という野球協約があり、『フランチャイズ球団の保護地域となっている都道府県で他球団が主催試合をする場合、当該するフランチャイズ地域全球団の許諾を得なくてはならない』と定められている。日本ハムファイターズが本拠地を北海道に移転し北海道日本ハムファイターズとなった2004年以降は、札幌ドーム(実際は札幌ドームに限らず北海道内全ての球場)において北海道日本ハムファイターズ以外の球団が主催試合を開催する場合は予め同球団からの許諾を得ることが必要となった。そのため、以下のセ・リーグ3球団はいずれも2004年以降の主催試合は予め日本ハムに許諾を得た上で開催した。 ;読売ジャイアンツ :[[読売ジャイアンツ]]は、[[札幌市円山球場]]時代から行われていた毎年夏の主催試合(北海道シリーズ)を、2001年から2009年まで開催。2010年以降は2022年まで[[セ・パ交流戦]]でビジターとして日本ハムと対戦した。このほか、オープン戦では過去に読売ジャイアンツ主催として対日本ハム戦(日本ハムがビジター扱い)を行ったこともあった。 ;西武ライオンズ :[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]](2008年以降の球団名は埼玉西武ライオンズ)は、日本ハムが北海道に本拠地を移転する前の2002年、2003年に主催試合を行った。札幌ドームの建設には西武ライオンズの当時の親会社であった[[コクド]]が関わっていた事もあり、西武ライオンズとしては当初2003年より札幌ドームを準本拠地化することでファンの新規開拓を狙っていたが、日本ハムが2004年より本拠地として使用する構想が2002年の開幕直前に明らかになったことで当初は日本ハムの移転に難色を示した。その後、日本ハムの本拠地移転後の2004年以降も西武ライオンズも引き続き札幌ドームでも主催試合を行うことで日本ハムと合意したが、のち西武の不祥事などもあり札幌ドームでの西武の主催試合は立ち消えとなった。なお、2002年の[[開幕戦]]は本拠地の[[西武ドーム]]ではなく札幌ドームで開催したが、これは、札幌市、[[東京都区部|東京都]]、[[名古屋市]]、[[大阪市]]、[[広島市]]、[[福岡市]]の全国各地の主要都市で開催するための特例措置であった{{Efn2|同年には[[2002 FIFAワールドカップ|サッカーW杯日韓大会]]の開催を控えていたため、盛り上がっていたサッカー人気に対抗するためプロ野球としてもファンサービスとして、全国各地で分散して開幕戦を開催することとした。そのため、前年(2001年)にAクラスとなったチームによる当年の開幕権は翌2003年に繰り越しとなり、ここから現在に至るまでセ・リーグ、パ・リーグともに開幕権のズレが生じることとなった。}}。 ;ヤクルトスワローズ :[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]は、札幌市円山球場時代から行われていた北海道での主催試合を、2001年から2004年まで開催。2005年以降(球団名は東京ヤクルトスワローズ)は2019年までセ・パ交流戦でビジターとして日本ハムと対戦した。 ;横浜ベイスターズ :[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]は、札幌市円山球場時代から行われていた主催試合を、2001年から2005年まで開催。2005年は主催試合とは別にセ・パ交流戦でビジターとして日本ハムと対戦したが、2006年以降(球団名は2012年より横浜DeNAベイスターズ)は2022年までセ・パ交流戦でビジターとして日本ハムと対戦した。 ==== 高校野球公式戦での使用 ==== 北海道高等学校野球連盟(北海道高野連)では2023年から、秋季北海道高校野球大会全道大会(毎年10月に主催している秋季全道大会)の全試合で札幌ドームを使用している。全天候型施設の札幌ドームを高校野球の公式戦に使用することは初めてで、北海道高野連が数年前から使用を検討していたところ、日本ハムの本拠地移転決定によって日程の面でドーム側と折り合いが付いたという。ちなみに、北海道高野連が主催する[[全国高等学校野球選手権地方大会]]([[全国高等学校野球選手権北北海道大会|北北海道大会]]・[[全国高等学校野球選手権南北海道大会|南北海道大会]])では、移転先のエスコンフィールド北海道で2023年から準決勝(各2試合)と決勝を開催している<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202306220000490.html|title=【日本ハム】エスコンフィールドで開催の高校野球南北北海道大会のチケット販売概要を発表|newspaper=日刊スポーツ|date=2023年6月22日|accessdate=2022年6月22日}}</ref>。 秋季全道大会は北海道高野連が道内で運営する10支部の代表校が集まる大会で、優勝校には[[明治神宮野球大会]](札幌ドームと同様に人工芝を内・外野のフェアグラウンドとファウルゾーンに敷設している[[明治神宮野球場]]で毎年11月に開催される全国大会の高校の部)への出場権が与えられることから、札幌ドームでの開催が「明治神宮大会に向けた人工芝対策」や(屋外球場では道内特有の天候や日没などで支障を来しがちだった)試合日程の管理などに良い影響をもたらすことが見込まれている<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/08/29/kiji/20220829s00001002370000c.html|title=札幌ドームで初の高校野球公式戦開催 来年の秋季全道大会「天候、日没の心配なくメリット」|newspaper=スポーツニッポン|date=2022年8月29日 |accessdate=2022年8月29日}}</ref>。 === サッカー === ==== 北海道コンサドーレ札幌の試合開催数の変遷 ==== [[ファイル:Sapporodome20131103.JPG|thumb|300px|2013年、札幌ドームの日程に空きが出たためJ2第37・39節のコンサドーレ札幌の試合会場が厚別から札幌ドームに変更された。写真はJ2第39節ジェフ千葉戦の会場風景。]] {{see also|北海道コンサドーレ札幌の年度別成績一覧#入場者数・主催試合数(年度別・会場別)}} 北海道コンサドーレ札幌は[[2003年のJリーグ ディビジョン2|2003年]]の[[J2リーグ|J2]]降格後、使用料の高い札幌ドームでの開催を減らし、まだ屋外に積雪の残る春季と秋季を中心に利用していた。その結果、[[2004年のJリーグ ディビジョン2|2004年]]は全ホームゲーム22試合中、札幌ドームでの開催が8試合と大幅に減らされ実質準本拠地の扱いだった。しかし、使用料は高いものの観戦時の快適さやアクセスの容易さで厚別に優る札幌ドームでの試合は有意に動員数が多く、多くの入場料収入が見込めるため、2005年以降はほぼ半数程度にまで戻っている。 J2降格となった[[2013年のJリーグ ディビジョン2|2013年]]は、主催21試合のうち8試合の開催にとどまる予定であったものの、北海道日本ハムファイターズが[[クライマックスシリーズ]]に進出できなかったため、10-11月に予定された主催2試合を急きょ日程面で余裕の出た札幌ドームに変更することとなり、札幌ドームでの開催は10試合となった<ref name="2013年10月1日リリース">[http://www.consadole-sapporo.jp/news/2013/10/015454.html コンサドーレ札幌 ホームゲーム 10月20日山形戦 及び 11月3日千葉戦 試合会場変更のお知らせ](コンサドーレ札幌公式サイト 2013年10月1日(同日閲覧)</ref>。 [[2014年のJリーグ ディビジョン2|2014年]]は21試合中17試合が札幌ドームで開催され<ref>[http://club-consadole.jp/cms/preview.php?pre_no=3 コンサドーレ札幌シーズンシートのご案内](2013年12月21日閲覧)</ref>、開場以来最多となった。これは札幌厚別公園競技場が[[Jリーグクラブライセンス制度]]のスタジアム基準を満たしていないため、2015年のライセンス基準の厳格運用に先駆けて前倒しで開催を減らしたことによる<ref>{{Cite news|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/consadole/512457.html|title=札幌ドーム開催確保へ コンサ来季日程“特例”を要望 3連続ホームなど土日開催死守|newspaper=[[道新スポーツ]]|date=2013-12-27|accessdate=2014-01-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140121014913/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/consadole/512457.html|archivedate=2014年1月21日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。なお、札幌厚別公園競技場は2014年度まで札幌ドーム共々本拠地としてJリーグに登録されていたが、2015年度から本拠地を札幌ドーム1か所のみにしている<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=http://www.j-league.or.jp/club/sapporo|title=クラブガイド:コンサドーレ札幌|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2015-01-25}}</ref>。これに伴い、[[2015年のJリーグ ディビジョン2|2015年]]も21試合中19試合を札幌ドームで開催し、2年連続で開場以来最多試合数となった。 [[2019年のJ1リーグ|2019年]]には、ラグビーワールドカップ会場としての準備・使用との兼ね合いで、6 - 10月に主催試合として組まれていたリーグ戦・リーグカップ各3試合<ref group="注">当初は4試合ずつ予定されていたが、北海道日本ハムファイターズがレギュラーシーズン5位で[[2019年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出の可能性が消滅したことに伴って、10月のリーグ戦・カップ戦各1試合の会場を札幌ドームに変更した。</ref> を厚別で開催した<ref>[https://www.consadole-sapporo.jp/game/game_list/?target=2019 北海道コンサドーレ札幌2019年試合日程・結果一覧]</ref>。 ファイターズが[[2022年]]限りで本拠地を移転したことに伴って、他球団を含めたNPBの公式戦が札幌ドームで組まれていない[[2023年]]には、コンサドーレが主管するリーグ戦の大半(全17試合のうち15試合)とルヴァンカップの全3試合をドームで開催することが決まっている。またこれによって、今後はコンサドーレの専用スタジアムに事実上なることから、[[2022年]]に札幌ドームの運営会社とホームタウン連携協定を締結<ref>[https://www.consadole-sapporo.jp/news/2022/11/8105/ 株式会社札幌ドームと株式会社コンサドーレ「スポーツのチカラ×まちのミライ」パートナーシップ締結について](北海道コンサドーレ札幌)</ref>。クラブ事務所を同6月の予定で[[2014年]]以来7年ぶりに札幌ドームの敷地内に戻すことになった<ref>[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/837426 コンサドーレ事務所、札幌ドーム敷地内に移転 6月上旬にも](北海道新聞)</ref>。 また、[[2024年]]春からは、厚別の老朽化箇所の全面改修工事<ref>[https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20230715/7000059224.html コンサドーレ敗れる 厚別競技場改修前の最後の試合](NHK札幌)</ref>が実施される予定のため、コンサドーレ主管試合はすべて札幌ドームで行われる予定となり、これに伴ってコンサドーレ主管試合で利用できる年間シーズンシートについても、従来の「ドームシーズンシート」(札幌ドーム主管試合限定の予約席)、および「フルシーズンシート」(札幌ドームと厚別での主管全試合対応の予約席)<ref>[https://www.consadole-sapporo.jp/news/2023/11/9411/ 2024クラブコンサドーレ・シーズンシートに関するQ&A]</ref>に区分されていたものがなくなり「フルシーズンシート」に一本化された。 ==== 北海道コンサドーレ札幌の試合日程の調整 ==== シーズン閉幕の時期の違いからプロ野球の日程がJリーグよりも先に決定するため<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.consadole.net/kodama/article/173|title=東京でのホームゲーム|work=コンサ社長日記|date=2007-02-02|accessdate=2013-11-08}}</ref>、北海道コンサドーレ札幌の札幌ドーム利用日程の決定にあたっては、プロ野球が先に決定した日程の隙間で使わざるを得ないという課題も抱えている。[[2011年のJリーグ|2011年]]において、[[東日本大震災]]により延期された主催3試合(3月12日:[[ギラヴァンツ北九州]]戦、3月19日:[[ジェフユナイテッド市原・千葉]]戦、4月2日:[[東京ヴェルディ1969]]戦)の代替についても一時は厚別など他の競技場への代替も考えられたが、当初の札幌ドームでの開催ができるよう、J2の他チームと異なる日に開催するよう日程調整を行っている(振り替え後の開催日は、北九州戦:7月6日、千葉戦:8月17日、東京V戦:9月21日<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.consadole-sapporo.jp/news/2011/04/000634.html|title=2011 J2リーグ代替試合日程決定のお知らせ|work=コンサドーレ札幌公式サイト|date=2011-04-15|accessdate=2011-06-15}}</ref>)。 また北海道コンサドーレ札幌のもう一つホームスタジアムである札幌厚別公園競技場は、11月から翌年4月は基本的には積雪期間に当たり使えないため通常なら札幌ドームを使うところ、11月上旬のホームゲームの開催については、北海道日本ハムファイターズがパ・リーグの上位3チームに入って[[クライマックスシリーズ]](2006年までは[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|リーグ優勝決定プレーオフ]])出場が決定した場合、クライマックスシリーズ・日本シリーズを優先しなければいけないこともあり、11月であっても札幌厚別公園競技場で開催する事例が過去に生じている。またその場合、シーズン開始当初は「会場未定」とした上で後日(半年近く後)に決定するケースもある。{{see also|札幌厚別公園競技場#北海道コンサドーレ札幌の11月のホームゲームでの利用}} 日本ハムが札幌ドームを本拠地とした2004年 - 2022年の間における、日本シリーズとコンサドーレのホームゲームの開催日程が重なった場合の試合の対応は次のとおり。 * 日本シリーズの日程は、西暦奇数年はパ・リーグ本拠地が土日開催、偶数年は平日開催(通常は火水木)である。そのため偶数年は日程が重複しても北海道日本ハムファイターズが使用しないことが確定していることがある。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" !コンサドーレの<br>所属リーグ||日本シリーズの<br />開催予定期間<br />(第7戦まで)||日本シリーズ期間の<br />コンサドーレの<br />ホームゲーム日||対戦相手||シーズン当初の<br />予定会場||実際に開催された<br />試合会場 |- |[[2004年のJリーグ ディビジョン2|J2 2004]] |[[2004年の日本シリーズ|10月16日-10月24日]] |style="background:#D0E7FF"|●10月23日 |[[湘南ベルマーレ]] |colspan=2|札幌厚別公園競技場 |- |[[2005年のJリーグ ディビジョン2|J2 2005]] |[[2005年の日本シリーズ|10月22日-10月30日]] |style="background:#FDE8E9"|☆10月22日 |[[モンテディオ山形]] |colspan=2|[[函館市千代台公園陸上競技場]] |- |[[2006年のJリーグ ディビジョン2|J2 2006]] |[[2006年の日本シリーズ|10月21日-10月29日]] |style="background:#D0E7FF"|●10月21日 |[[ヴィッセル神戸]] |colspan=2|札幌ドーム |- |[[2007年のJリーグ ディビジョン2|J2 2007]] |[[2007年の日本シリーズ|10月27日-11月4日]] |colspan=4|該当試合なし<ref group="*">[[2007年の日本シリーズ]]の期間中、コンサドーレが出場する・出場する可能性のあった試合はアウェー戦(対[[愛媛FC]])ならびに[[第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]4回戦のみであり、ホーム戦は設定されなかった。</ref> |- |[[2008年のJリーグ ディビジョン1|J1 2008]] |[[2008年の日本シリーズ|11月1日-11月9日]] |style="background:#D0E7FF"|●11月8日 |[[浦和レッドダイヤモンズ]] |未定 |札幌ドーム |- |[[2009年のJリーグ ディビジョン2|J2 2009]] |[[2009年の日本シリーズ|10月31日-11月8日]] |style="background:#FDE8E9"|☆11月8日<ref group="*">この日は[[2009年の日本シリーズ]](日本ハム対巨人)の第7戦開催予定日であり、札幌ドームもそのために予定が確保されていたものの、前日・7日に巨人の日本一が決まり、開催されなかった。</ref> |[[カターレ富山]] |未定 |札幌厚別公園競技場 |- |[[2010年のJリーグ ディビジョン2|J2 2010]] |[[2010年の日本シリーズ|10月30日-11月7日]] |style="background:#D0E7FF"|●11月7日 |ジェフ千葉 |未定 |札幌ドーム |- |rowspan="2"|[[2011年のJリーグ ディビジョン2|J2 2011]] |[[2011年の日本シリーズ|10月29日-11月6日]]<br>(当初予定)<ref group="*" name="2011-baseball-rescheduled">[[東北地方太平洋沖地震]]発生に伴うプロ野球の日程変更(当初3月25日→4月12日に開幕日を変更)が生じたため、日本シリーズの開催が延期されたことによるもの。なお、当初日本シリーズの開催が予定されていた期間中には、日程変更に伴いクライマックスシリーズファーストステージが開催されていた。</ref> |style="background:#FDE8E9"|☆10月30日<ref group="*">[[AFCチャンピオンズリーグ2011]]出場の日本からのチームが決勝トーナメントに出場した場合の日程調整が必要なため、当初は10月29日か30日のどちらかでの開催と発表されていた。</ref> |[[ロアッソ熊本]] |colspan="2"|札幌厚別公園競技場{{refnest|当試合については、当初から厚別での開催と発表されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.consadole-sapporo.jp/news/2011/05/002343.html|title=2011J2リーグ コンサドーレ札幌ホームゲーム 第23節 岐阜戦、第33節 熊本戦 キックオフ時間・開催日等決定のお知らせ|work=コンサドーレ札幌公式サイト|date=2011-05-26|accessdate=2011-06-15}}</ref>。|group=*}} |- |[[2011年の日本シリーズ|11月12日-11月20日]]<br>(変更後)<ref group="*" name="2011-baseball-rescheduled" /> |style="background:#FDE8E9"|☆11月12日 |[[大分トリニータ]] |未定 |札幌厚別公園競技場{{refnest|日本ハムは日本シリーズ進出はならなかった([[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2011年のクライマックスシリーズファーストステージ]]で西武相手に敗退)ものの、コンサドーレ戦の会場変更はされなかった。|group=*}} |- |[[2012年のJリーグ ディビジョン1|J1 2012]] |[[2012年の日本シリーズ|10月27日-11月4日]] |colspan=4|該当試合なし<ref group="*">[[2012年の日本シリーズ]]の期間中、コンサドーレが出場する・出場する可能性のあった試合はアウェー戦(対[[FC東京]])ならびに[[2012年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]決勝のみであり、ホーム戦は設定されなかった。</ref> |- |[[2013年のJリーグ ディビジョン2|J2 2013]] |[[2013年の日本シリーズ|10月26日-11月3日]] |style="background:#FDE8E9"|☆11月3日 |[[ジェフ千葉]] |札幌厚別公園競技場 |札幌ドーム{{refnest|当初は厚別での開催を予定していたものの、その後10月20日の[[モンテディオ山形]]戦と11月3日のジェフ千葉戦の2試合を札幌ドームに変更。|group=*}} |- |[[2014年のJリーグ ディビジョン2|J2 2014]] |[[2014年の日本シリーズ|10月25日-11月2日]] |style="background:#D0E7FF"|●10月26日 |湘南ベルマーレ |colspan=2|札幌ドーム |- |[[2015年のJリーグ ディビジョン2|J2 2015]] |[[2015年の日本シリーズ|10月24日-11月1日]] |style="background:#FDE8E9"|☆11月1日 |ジェフ千葉 |札幌厚別公園競技場 |札幌ドーム<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-39074/|title=2015 明治安田生命J2リーグ 第39節 スタジアム変更のお知らせ|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2015-10-15|accessdate=2015-10-20}}</ref>{{refnest|当初は厚別での開催を予定していたものの札幌ドームに変更。これとは別に、当初7月18日に厚別で開催する予定としていた[[カマタマーレ讃岐]]戦<ref>[http://www.consadole-sapporo.jp/news/2015065601/ 7月18日(土)カマタマーレ讃岐戦 開催スタジアム変更のお知らせ]</ref> についても札幌ドームに会場を変更。このため札幌ドームの開催が当初の17試合予定が19試合となった|group=*}} |- |[[2016年のJ2リーグ|J2 2016]] |[[2016年の日本シリーズ|10月22日-10月30日]] |style="background:#D0E7FF"|●10月22日 |東京ヴェルディ1969 |colspan=2|札幌ドーム |- |[[2017年のJ1リーグ|J1 2017]] |[[2017年の日本シリーズ|10月28日-11月5日]] |style="background:#FDE8E9"|☆10月29日{{refnest|group=*|当初の日程発表時点で、この節(第31節)は、他の試合はすべて10月29日に開催されるものの、北海道コンサドーレ札幌の当該試合については、日本シリーズにファイターズが進出した場合を想定して開催日を未定としていたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/img/pdf/20170125_j1.pdf|title=2017明治安田生命J1リーグ|publisher=[[日本プロサッカーリーグ (法人)|日本プロサッカーリーグ]]|accessdate=2017-01-26}}</ref>、ファイターズのクライマックスシリーズ進出が消滅したことを受け、ほかの試合と同じ日に開催されることが決まった。}} |[[鹿島アントラーズ]] |未定 |札幌ドーム |- |[[2018年のJ1リーグ|J1 2018]] |[[2018年の日本シリーズ|10月27日-11月4日]] |style="background:#D0E7FF"|●11月4日<ref group="*">当初は「11月3日か4日のどちらか」と発表されていた。</ref> |[[ベガルタ仙台]] |未定 |札幌ドーム<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.consadole-sapporo.jp/news/20181045276/|title=【10月16日(火)更新】2018明治安田生命J1リーグ第31節ベガルタ仙台戦(@札幌ドーム)につきまして|work=コンサドーレ札幌 オフィシャルサイト|date=2018-10-16|accessdate=2018-10-16}}</ref> |- |[[2019年のJ1リーグ|J1 2019]] |[[2019年の日本シリーズ|10月19日-10月27日]] |style="background:#FDE8E9"|☆10月18日{{refnest|group=*|当初は試合日は未定と発表されていた。なお同節の他の試合については10月18日から20日の間で行われるものと発表されていた。}} |[[セレッソ大阪]] |未定 |札幌ドーム |- |rowspan="2"|[[2020年のJ1リーグ|J1 2020]] |[[2020年の日本シリーズ|11月7日-11月15日]]<br>(当初予定)<ref group="*" name="2020-baseball-rescheduled">[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症流行]]に伴う[[2020年の日本プロ野球]]日程変更により2週間延期。</ref> |style="background:#D0E7FF"|●11月8日<ref group="*" name="2020・11・08">その後日程の組み直しにより、当初10月24日に開催されるとしていた[[2020年のJリーグカップ|Jリーグ・YBCルヴァンカップ]]プライムステージ・決勝戦が11月7日([[国立競技場]])に延期されることが確定し、この週のリーグ戦開催は取りやめとなった。なお大分トリニータとの主催試合は同年8月19日の第11節・会場も札幌厚別公園競技場に変更の上で開催される日程に変更された。</ref> |([[大分トリニータ]])<ref group="*" name="2020・11・08"/> |札幌ドーム||該当試合なし<ref group="*" name="2020・11・08"/> |- |[[2020年の日本シリーズ|11月21日-11月29日]]<br>(変更後)<ref group="*" name="2020-baseball-rescheduled"/> |style="background:#D0E7FF"|●11月21日 |[[清水エスパルス]] |colspan="2"|札幌ドーム |- |rowspan="2"|[[2021年のJ1リーグ|J1 2021]] |[[2021年の日本シリーズ|11月13日-11月21日]]<br>(当初予定) |colspan=4|該当試合なし<ref group="*">[[2021年の日本シリーズ]]の当初予定の期間中、コンサドーレが出場する・出場する可能性のある試合はアウェー戦(対[[サガン鳥栖]])のみであり、ホーム戦は設定されなかった。</ref> |- |[[2021年の日本シリーズ|11月20日-11月28日]]<br>(変更後) |style="background:#FDE8E9"|☆11月27日 |[[柏レイソル]] |colspan="2"|札幌ドーム{{refnest|この試合についてはシーズン開始当初の時点で札幌ドームでの開催予定とされていた<ref>{{Cite web|和書|title=2021明治安田生命J1リーグ|url=https://www.jleague.jp/img/pdf/schedule_j1_2021.pdf|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2021-01-22|accessdate=2021-11-23}}</ref>。その後7月21日に2021年の日本シリーズの日程変更が決定された<ref>{{Cite web|和書|title=CS、日本シリーズ1週間繰り下げ プロ野球オーナー会議|work=[[時事通信社|時事ドットコム]]|url=https://web.archive.org/web/20211026235452/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021072101011|date=2021-07-21|accessdate=2021-11-22}}</ref> ものの、その後の8月5日の北海道コンサドーレ札幌の発表においても、この試合は札幌ドームでの開催と案内していた<ref>{{Cite web|和書|title=2021明治安田生命J1リーグ後期日程発表のお知らせ|publisher=北海道コンサドーレ札幌|url=https://www.consadole-sapporo.jp/news/2021/08/6331/|date=2021-08-05|accessdate=2021-11-22}}</ref>。|group="*"}} |- |[[2022年のJ1リーグ|J1 2022]] |[[2022年の日本シリーズ|10月22日-10月30日]] |colspan=4|該当試合なし<ref group="*">[[2022年の日本シリーズ]]の期間中、コンサドーレが出場する・出場する可能性のある試合はアウェー戦(対[[サンフレッチェ広島]])および[[2022年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]決勝のみであり、ホーム戦は設定されなかった。</ref> |} '''凡例''' * {{colorbox|#FDE8E9|☆}}:日本シリーズのパ・リーグのホームゲーム開催日と重複する日程 * {{colorbox|#D0E7FF|●}}:日本シリーズのパ・リーグのホームゲーム開催日と重複しない日程 '''注釈''' {{reflist|group=*}} ====全国高校サッカー北海道大会決勝での使用 ==== [[北海道サッカー協会]]では、毎年秋に主催している[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高等学校サッカー選手権大会(全国高校サッカー)]]の北海道大会において、2023年度(第102回)の決勝を2023年11月(前述した秋季北海道高校野球大会全道大会の閉幕後)に札幌ドームで実施することを同年4月に株式会社札幌ドームと共同で決定した<ref>[https://www.sapporo-dome.co.jp/cms/wp-content/uploads/2023/04/0df8e678ffa8a46579dd006e8ad32707.pdf 第102回全国高等学校サッカー選手権大会 北海道大会 決勝の札幌ドーム開催が決定](株式会社札幌ドーム2023年4月20日付プレスリリース)</ref>。 全国高校サッカーの北海道大会は、[[首都圏 (日本)|首都圏]]で年末年始に組まれている全国大会への出場校を決める大会で、[[第101回全国高等学校サッカー選手権大会|2022年度の第101回]]までは準決勝と決勝を札幌市内の札幌厚別公園競技場で開催。例年は全国大会開幕の2ヶ月前(10月下旬)に準決勝と決勝を2日連続で実施しているが、大会を通じて道内特有の天候不順に見舞われやすく、[[第94回全国高等学校サッカー選手権大会|2015年度(第95回)]]の決勝は雪の降りしきる状況での開催を余儀なくされた<ref name="koshiyama" />。 このような日程をめぐっては、北海道大会へ出場する選手のコンディションはもとより、優勝校(北海道代表校)の選手が全国大会の初戦へ臨むまでの実戦感覚に及ぼす影響もかねてから強く懸念されていた。2022年6月に北海道サッカー協会の会長へ就任した越山賢一は、以上の懸念を踏まえて、全国高等学校サッカー北海道大会の決勝を11月中に札幌ドームで開催することを就任の直後に発案。自身が先頭に立って関係者との間で交渉を重ねた結果、コンサドーレ札幌から全面的な協力(ピッチの移動で生じる経費の負担など)を得るに至った<ref name="koshiyama" />。 なお、2023年度は準決勝を2023年10月28日に札幌厚別公園競技場、決勝を同年11月12日に札幌ドームで開催。11月はJリーグのレギュラーシーズン終盤と重なることから、J1リーグのコンサドーレ主管試合(札幌ドーム開催分)の開催日によっては、決勝の開催日を11日に設定することも検討されていた。また、北海道サッカー協会では、2024年度(第103回)以降の北海道大会でも決勝に札幌ドームを使用する意向を示している<ref name="koshiyama">{{Cite news|url=https://www.doshinsports.com/article_detail/id=8799|title=全国高校サッカー選手権 北海道大会決勝が初の札幌ドーム開催|newspaper=道新スポーツ|date=2022年3月23日 |accessdate=2023年6月2日}}</ref>。 === サッカー・野球以外のスポーツ大会での使用 === [[ファイル:Mikko Hirvonen - 2008 Rally Japan.jpg|thumb|300px|2008年のラリージャパンの模様]] * [[アメリカンフットボール]]で使用する場合のグラウンド形態は、野球場モードで人工芝グラウンドで試合を行う。 * [[2007年ノルディックスキー世界選手権札幌大会]]では開会式を行った他、[[クロスカントリースキー]]スプリント男女個人戦・団体戦の競技会場としても使用された。 * 2008年と2010年には[[世界ラリー選手権]](WRC)の一戦である[[ラリージャパン]]の主会場の一つとして使用されている。ドーム内にヘッドクォーター(大会本部)とメディアセンター、駐車場にサービスパークが設けられるほか、ドームのアリーナでスーパーSS(ラリーカーが2台同時に走行するスペシャルステージ)が行われた。なお屋内でのスーパーSS開催はWRC史上初であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/038038.html |title=ラリージャパン2008が競技開始 |publisher=Car watch |date=2008-10-31 |accessdate=2014-05-03}}</ref>。 * 2009年第22回[[全国健康福祉祭]]ねんりんピック北海道・札幌2009では開会式を行った。 * 2012年から2014年にかけて、[[TOYOTA BIG AIR]]が会場を[[真駒内屋内競技場|真駒内セキスイハイムアイスアリーナ]]から札幌ドームに変更して開催された。 * [[ラグビーワールドカップ2019]]では予選プール戦が開催され、プールC[[ラグビーオーストラリア代表|オーストラリア]]対[[ラグビーフィジー代表|フィジー]](9月21日)、プールD[[ラグビーイングランド代表|イングランド]]対[[ラグビートンガ代表|トンガ]](9月22日)の2試合が開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sports/rugby/worldcup/2019/stadium/sapporo-dome/ |title=ラグビーワールドカップ2019 会場案内 |publisher=朝日新聞 |date= |accessdate=2019-10-12}}</ref>。ラグビーはサッカー場モード(ホバーリング天然芝を乗り入れた状態)を使って行われ、[[2023年]]には[[ラグビー日本代表]]による[[ラグビーサモア代表]]との[[テストマッチ]]「[[リポビタンDチャレンジ]]」が行われた。試合ではないが、[[ラグビーワールドカップ2023]]期間中の9月10日のチリ戦は新モード(仕切りカーテンを用い、定員2万人程度で行うコンサートホール仕様)、10月8日のアルゼンチン戦はサッカー・ラグビースタジアム仕様で上映する[[パブリックビューイング]]が行われる<ref>[https://www.city.sapporo.jp/sports/rugby/rwc2023pv.html ラグビーワールドカップ2023フランス大会パブリックビューイング]</ref>。 === ドームツアー === イベントが開催されない日に、ツアーアテンダントの案内によるドームツアーが開催されている。選手が使用する[[ロッカー]]や[[ブルペン]]等の見学が出来る<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/guide/dometour.html|title=ドームツアー|ドーム見学・施設利用|work=札幌ドーム公式サイト|accessdate=2015-03-17}}</ref>。 == コンサート会場としての使用 == 北海道における屋内最大のコンサート会場として、ドームツアーの一環で利用されることが多い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zaseki.jp/|title=コンサート会場座席表リンク集|accessdate=2017-12-24}}</ref>。一般的に[[東京ドーム]]・[[大阪ドーム]]([[京セラ]]ドーム大阪)・[[ナゴヤドーム]]([[興和|バンテリン]]ドーム ナゴヤ)・[[福岡ドーム]]<ref group="注">福岡[[Yahoo! JAPAN]]ドーム→福岡[[ヤフオク!]]ドーム→福岡[[PayPay]]ドーム</ref>と合わせて「'''5大ドームツアー'''」と称されることがある。 イベント実績については、「[https://www.sapporo-dome.co.jp/company/history.html 札幌ドームのあゆみ・イベント実績]」を参照。ドーム初使用順に掲載。{{Color|red|赤色}}の年は開催予定であることを表す。 === 国内アーティスト === {|class=wikitable style="font-size:small" ! アーティスト ! 開催年 ! 備考 |- | [[B'z]] | 2001年 - 2003年、2006年、2013年、2018年、2023年 | 2001年の公演は、音楽イベント初開催 |- | [[SMAP]] | 2001年 - 2003年、2005年、2006年、2008年、2010年、2012年、2014年 | |- | [[GLAY]] | 2001年、2005年、2020年 | 2001年はカウントダウン・ライブ<ref>[http://www.glay.co.jp/live/archive.php?year=2001 GLAY LIVE SCHEDULE]</ref> |- | [[桑田佳祐]] | 2002年、2017年、2022年 | 2010年にも公演予定であったが、病気療養の為中止となった。<br/>[[サザンオールスターズ]]としてのライブは以下に別記 |- | [[MISIA]] | 2002年、2004年 | 2002年はカウントダウン・ライブ<ref>[http://www.misia.jp/tour/2003_1_kiss/index.php TOUR | MISIA officialsite]</ref> |- | [[KinKi Kids]] | 2003年 | |- | [[CHAGE and ASKA]] | 2003年 | 2003年はカウントダウン・ライブ<ref>[http://www.chage-aska.net/biography/history/chageandaska/2003 History 2003 « CHAGE and ASKA Official Web Site]</ref> |- | [[Mr.Children]] | 2005年、2009年、2012年、2015年、2017年、2019年 | |- | [[サザンオールスターズ]] | 2005年、2015年、2019年 | |- | [[DREAMS COME TRUE]] | 2007年、2011年、2015年、2019年 | 2015年はカウントダウン・ライブ<ref>[http://dreamscometrue.com/news/2015/03/20/8323 史上最強の移動遊園地 DREAMS COME TRUE WONDERLAND 2015」開催スケジュール発表!!]</ref> |- | [[嵐 (グループ)|嵐]] | 2008年 - 2019年 | 単一ツアーで9公演開催した(『[[ARASHI Anniversary Tour 5×20]]』 2018年11月、2019年5月、2019年11月)。開催公演35回は、史上最多。 |- | [[EXILE]] | 2008年、2011年 - 2015年、2018年 | 2008年はカウントダウン・ライブ<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000045939 EXILE、カウントダウンライヴに『紅白』と『年越しCDTV』が生中継]</ref><br>2012年、2014年は[[EXILE TRIBE]]としてのライブ開催 |- | [[小田和正]] | 2011年 | |- | [[関ジャニ∞]] | 2011年、2013年 - 2019年 | |- | [[安室奈美恵]] | 2012年、2018年 | |- | [[AKB48]] | 2013年 | |- | [[福山雅治]] | 2014年 | |- | [[三代目 J Soul Brothers]] | 2015年、2017年、2019年 | 2017年は2016年12月の振替公演<ref>[http://m.ex-m.jp/news/detail?news_id=12386|title 『三代目J Soul Brothers LIVE TOUR 2016-2017“METROPOLIZ”』札幌公演の振替公演及び払い戻しに関して]</ref> |- | [[EXILE ATSUSHI]] | 2016年 | |- | [[ももいろクローバーZ]] | 2016年 | |- | [[GENERATIONS from EXILE TRIBE]] | 2019年 | |- | [[星野源]] | 2019年 | |- | [[AAA (音楽グループ)|AAA]] | 2021年 | |- | [[back number]] | 2023年 | |- | [[Nissy]](西島隆弘) | 2023年 | |- | [[ONE OK ROCK]] | 2023年 | |- | [[King Gnu]] | {{Color|red|2024年}} | |} === 国外アーティスト === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! アーティスト ! 開催年 ! 備考 |- | [[ボン・ジョヴィ]] |2003年、2006年 |2003年の公演は、外国のアーティスト初の5大ドームツアーの一環として開催 |- | [[エリック・クラプトン]] |2003年、2006年 | |- | [[エアロスミス]] |2004年、2011年 | |- | [[イーグルス]] | 2004年 | |- | [[ローリング・ストーンズ]] | 2006年 | |- | [[ビリー・ジョエル]] | 2006年 | |- | [[サイモン&ガーファンクル]] | 2009年 | |- | K-POP NON STOP LIVE | 2012年 | 音楽イベント。[[KARA]]や[[BEAST (音楽グループ)|BEAST]]、[[RAINBOW (音楽グループ)|RAINBOW]]などが出演 |- | [[東方神起]] | 2013年、2015年、2017年、2019年 | |- | [[BIGBANG]] | 2014年 |2014年1月の公演は、外国のアーティスト初の6大ドームツアーの一環として開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000090847 |title=BIGBANG、72万人動員の日本6大ドームツアー決定 |publisher=[[BARKS]] |date=2013-06-01 |accessdate=2015-08-06}}</ref> |- |[[クイーン+アダム・ランバート]] |{{Color|red|2024年}} | |} == 札幌ドームMVP賞 == 2004年からは、フランチャイズチームの発展と選手のさらなる活躍に向けた年間表彰制度として「札幌ドームMVP賞」を新設<ref name="MVP">{{Cite web|和書|url=https://www.sapporo-dome.co.jp/mvp/ |title=札幌ドームMVP賞 |publisher=札幌ドーム |accessdate=2023-10-10}}</ref>{{Efn2|日本ハムの選手は2003年まで、前本拠地である[[東京ドーム#東京ドームMVP賞|東京ドームMVP賞]]の選出対象であった。}}。2022年まではサッカー部門(北海道コンサドーレ札幌)と野球部門(北海道日本ハムファイターズ)に分けたうえで、当該チームで最も活躍した選手に授与していた。ファイターズが札幌ドームを本拠地に使用しない2023年以降はサッカー部門のみ実施している。 MVPの賞金は100万円<ref name="nikkansports20181122">[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201811220000328.html 日本ハム上沢「うれしい」札幌ドームMVP受賞 - プロ野球]. 日刊スポーツ (2018年11月22日). 2018年11月22日閲覧。</ref>(サッカー部門ではコンサドーレが[[J2リーグ]]に所属した年のみ50万円)で、2009年からは、[[ノミネート]]選手を対象にファン投票を実施した結果を基にMVPを選定している。また、西ゲート前のトンネル内に、歴代の表彰選手のプレートを展示している<ref name="MVP"/><ref name="annex"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !rowspan="2"|年度!!colspan="2"|MVP賞!!rowspan="2"|特別賞など |- !width="120"|サッカー部門!!width="120"|野球部門 |- |[[2004年]]||[[清野智秋]]||[[新庄剛志|SHINJO]]||style="text-align:left;"|野球部門: 特別賞・[[ブリスキー・ザ・ベアー|B・B]](マスコット) |- |[[2005年]]||[[和波智広]]||[[ダルビッシュ有]]|| |- |rowspan="2"|[[2006年]]||rowspan="2"|該当者なし||rowspan="2"|[[森本稀哲]]||style="text-align:left;"|サッカー部門: 優秀選手賞・[[芳賀博信]]、奨励賞・[[砂川誠]]、奨励賞・[[相川進也]] |- |style="text-align:left;"|野球部門: 特別賞・[[金子誠]] |- |rowspan="2"|[[2007年]]||rowspan="2"|[[曽田雄志]]||rowspan="2"|[[稲葉篤紀]]||style="text-align:left;"|サッカー部門: 奨励賞・[[高木貴弘]] |- |style="text-align:left;"|野球部門: 特別賞・ダルビッシュ有、功労賞・[[トレイ・ヒルマン]]、功労賞・[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]] |- |[[2008年]]||[[ダヴィ・ジョゼ・シルバ・ド・ナシメント|ダヴィ]]||ダルビッシュ有|| |- |[[2009年]]||[[チアゴ・キリーノ・ダ・シウヴァ|キリノ]]||金子誠|| |- |[[2010年]]||[[高原寿康]]||[[小谷野栄一]]|| |- |[[2011年]]||[[李昊乗]]||ダルビッシュ有|| |- |[[2012年]]||[[日高拓磨]]||[[吉川光夫]]|| |- |[[2013年]]||[[内村圭宏]]||rowspan="2"|[[陽岱鋼]]|| |- |[[2014年]]||[[都倉賢]]||style="text-align:left;"|野球部門: 功労賞・稲葉篤紀、功労賞・金子誠 |- |[[2015年]]||[[宮澤裕樹]]||rowspan="2"|[[大谷翔平]]|| |- |[[2016年]]||[[福森晃斗]]|| |- |[[2017年]]||[[具聖潤]]||[[西川遥輝]]|| |- |[[2018年]]||[[チャナティップ・ソングラシン|チャナティップ]]||[[上沢直之]]|| |- |[[2019年]]||[[アンデルソン・ジョゼ・ロペス・デ・ソウザ|アンデルソン・ロペス]]||[[有原航平]]|| |- |[[2020年]]||[[荒野拓馬]]||[[中田翔]]|| |- |[[2021年]]||[[菅野孝憲]]||上沢直之|| |- |[[2022年]]||[[青木亮太]]||[[松本剛 (野球)|松本剛]]|| |- |[[2023年]]||[[浅野雄也]]||rowspan="1"| || |- |} <ref name="MVP"/><ref name="annex">[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/12/04/kiji/20201204s00001173234000c.html 日本ハム・中田 札幌ドームMVP賞初受賞] スポニチ Sponichi Annex 野球 (2020年12月4日) 2020年12月11日閲覧。</ref> == アクセス == 詳細は札幌ドームの公式ホームページ内「アクセス・駐車場」を参照<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporo-dome.co.jp/access/index.html |title=アクセス・駐車場 |publisher=札幌ドーム |accessdate=2014-06-13}}</ref>。 === 地下鉄 === [[札幌市営地下鉄]][[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]の[[福住駅]]から徒歩10分 === シャトルバス === プロ野球・Jリーグ・コンサート等の大規模イベント時に運行されていたが、2023年9月16日以降は後述の経緯により'''全便運休'''となっている。 {| class="wikitable" |- !運行事業者 !発着地 !連絡している鉄道路線 |- |rowspan="2"|[[じょうてつ]]||[[平岸駅 (札幌市)|平岸駅]]('''休止中''')||札幌市営地下鉄:[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] |- |[[真駒内駅]]('''休止中''')||札幌市営地下鉄:南北線 |- |[[ジェイ・アール北海道バス]]||[[白石駅 (JR北海道)|JR白石駅]]('''休止中''')||[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]:[[函館本線]]・[[千歳線]] |- |[[北海道中央バス]]||[[南郷18丁目駅]]('''休止中''')||札幌市営地下鉄:[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] |} 料金:大人(中学生以上)210円、こども(小学生)110円。ICカード乗車券([[SAPICA]]・[[Kitaca]]・[[Suica]]など)が利用できる。地下鉄乗継割引は対象外。 平岸駅発着便は、札幌ドーム開業当初は[[札幌市交通局]]([[札幌市営バス]])が運行していた。 2008年より、ジェイ・アール北海道バスと北海道中央バスの共同運行による[[新札幌バスターミナル]](JR千歳線:[[新札幌駅]]、札幌市営地下鉄東西線:[[新さっぽろ駅]]の最寄り)発着便も設定されていた<ref>{{Cite web|和書|title=駅から野球ファン運ぶ「シャトルバス」の実態|author=伊藤歩|work=東洋経済オンライン|publisher=[[東洋経済新報社]]|url=https://toyokeizai.net/articles/-/221003|date=2018-05-23|accessdate=2019-10-29}}</ref> ものの、2019年1月1日以降は運行を取り止めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chuo-bus.co.jp/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%80%9D%E6%96%B0%E3%81%95%E3%81%A3%E3%81%BD%E3%82%8D%E9%A7%85%E7%99%BA%E7%9D%80%E4%BE%BF%E2%80%B3%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/main_info/1030.html|title=札幌ドームシャトルバス〝新さっぽろ駅発着便″廃止のお知らせ|publisher=[[北海道中央バス]]|date=2018-12-20|accessdate=2019-01-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrhokkaidobus.com/pdf/20181219.pdf|title=札幌ドームシャトルバス新札幌駅発着便廃止のお知らせ|publisher=[[ジェイ・アール北海道バス]]|date=2018-12-20|accessdate=2019-01-02}}</ref>(最終運行は2018年12月1日の北海道コンサドーレ札幌の試合<ref name="sapporo-dome-181221">{{Cite web|和書|url=https://www.sapporo-dome.co.jp/cgi-bin/detail.fcgi?opt=new&no=20181221_091411|title=シャトルバス 新札幌バスターミナル発着路線廃止のお知らせ|publisher=札幌ドーム|date=2018-12-21|accessdate=2019-01-19}}</ref>)。理由としては、乗務員の確保が困難な中、同路線は他のシャトルバスに比べ距離が長く運行効率が悪いことが挙げられている<ref name="sapporo-dome-181221" />。 2022年3月26日にジェイ・アール北海道バスは、乗務員の確保が困難になっていることから、JR白石駅発着のシャトルバスを当面取り止めると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=札幌ドームシャトルバス運行休止のお知らせとお詫び|publisher=[[ジェイ・アール北海道バス]]|url=https://www.jrhokkaidobus.com/news/news-2657/|date=2022-03-26|accessdate=2023-04-09}}</ref>。さらに2023年2月17日には、これに加えて、北海道中央バスが運行する南郷18丁目駅発着のシャトルバスも当面休止すると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=シャトルバスJR白石駅・南郷18丁目駅発着便の運行休止について|publisher=札幌ドーム|url=https://www.sapporo-dome.co.jp/information/2023/02/17/6584/|date=2023-02-17|accessdate=2023-04-09}}</ref>。規模を縮小しながら運行していたじょうてつバスも、2023年9月6日の運行を最後に休止となり、全路線のシャトルバスが「当面の間」運行休止となった。いずれの社も「乗務員の確保が難しく、現状の路線バスの維持が限界」という理由である<ref>{{PDFlink|[https://www.jotetsu.co.jp/bus/news/ash96e00000005lp-att/ash96e00000005nr.pdf 札幌ドームシャトル便 運休のお知らせ] - じょうてつバス 2023年9月4日}}</ref><ref>[https://www.j-cast.com/2023/09/12468701.html?p=all 札幌ドーム「シャトルバス運休」はなぜ起きた? 運行3社に聞いて分かった「共通の悩み」] - J-CAST ニュース 2023年9月12日</ref>。 === 空港連絡バス === {| class="wikitable" |- !運行事業者 !停車バス停 !路線 |- |[[北海道中央バス]]||rowspan="2"|札幌ドーム||rowspan="2"|札幌都心(地下鉄福住駅経由)発着路線 |- |[[北都交通 (北海道)|北都交通]] |- |北都交通||福住3条3丁目(降車)<br />福住3条2丁目(乗車)||円山バスターミナル発着路線 |} 料金:大人(中学生以上)1,100円、こども(小学生)550円。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chuo-bus.co.jp/新千歳空港連絡バスの運賃改定のお知らせ…/main_info/1051.html|title=新千歳空港連絡バス運賃改定のお知らせ|publisher=北海道中央バス|date=2019-03-22|accessdate=2019-07-23}}</ref> === 路線バス === {| class="wikitable" |- !運行事業者 !停車バス停 !路線 |- |rowspan="4"|[[北海道中央バス]]||札幌ドーム||平岸線[平50][[北海道中央バス平岡営業所|平岡営業所]]行き・[[平岸駅 (札幌市)|平岸駅]]行き・月寒本線[74][[北海道農業研究センター|農業研究センター]]行き、[80]平岡営業所行き・清田団地線[85・福85]ヒルズガーデン清田行き、[86・福86]清田団地行き<br />有明線[福87][[札幌市立有明小学校|有明小学校]]行き・アンデルセン福祉村行き・[[滝野すずらん丘陵公園|滝野すずらん公園]]行き(真栄団地経由)・真栄団地線[88・福88]美しが丘3条9丁目行き(真栄団地経由)・柏葉台団地線[96]柏葉台団地行き・輪厚行き(桂台団地経由)、[福96]柏葉台団地行き・輪厚行き、[福97]柏葉台団地・希望ヶ丘中央行き([[里塚]]中央経由)<br />真駒内線[真105][[真駒内駅]]行き・[[大谷地駅]]行き・広島線 東部中学校行き・東部中西行き・[[北広島駅]]行き<br />千歳線 [[急行]]・[[千歳駅 (北海道)|千歳駅]]前行き(里塚中央経由)、千歳駅前行き(桂台団地・[[北恵庭駐屯地]]経由)・大曲光線[113・福113]大曲光4丁目行き(桂台団地経由) |- |福住3条3丁目||美しが丘線[福95][[三井アウトレットパーク 札幌北広島|三井アウトレットパーク]]行き・[[大曲工業団地]]行き([[羊ヶ丘通]]経由) |- |月寒東1条16丁目||福住・平岡線[福51][[イオンモール札幌平岡]]・里塚4条3丁目行き([[北野通]]経由)・大谷地線[福63]平岡営業所行き([[南郷18丁目駅]]・北野7条5丁目経由)・大谷地線[福68]真栄行き(南郷18丁目駅・北野7条5丁目経由)・緑ヶ丘団地線[福99]東栄通行き(北野通・桂台団地経由)・[福52]東栄通行き(北野通・里塚4条3丁目経由) |- |福住3条4丁目||羊ヶ丘線[89][[さっぽろ羊ヶ丘展望台|羊ヶ丘展望台]]行き・福住3条9丁目行き |} 各料金:「さっぽろえきバスnavi」を参照<ref>{{Cite web|和書|url=http://ekibus.city.sapporo.jp/ |title=さっぽろえきバスnavi |publisher=札幌市 |accessdate=2014-06-13}}</ref>。 === 徒歩利用者用入場口 === ドーム内には5か所の徒歩利用者のための入場口があるが、積雪などの関係で冬季(原則11-3月)利用できない入場口がある。 ;通年を通して開場 *札幌ドーム歩道橋([[国道36号]]沿い) *バス停口(同上) *福住口(福住桑園通りと、羊ケ丘通りが交わる箇所) ;冬期間のみ閉鎖(いずれも国道36号沿い) *月寒口 *清田口 == 札幌ドームが登場した作品 == ;テレビドラマ * [[PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜]] - [[木村拓哉]]主演の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]。2012年12月24日放送の最終話ラストシーンは、札幌ドーム敷地内から生放送された。 ;漫画 * [[新・野球狂の詩]] - [[東京メッツ|札幌華生堂メッツ]]の本拠地として登場。 * [[太陽の黙示録]] - 札幌に拠点を置く[[新宗教|新興宗教団体]]「既望の会」が大会の会場に使っている。 * [[高校デビュー]] - 作中に札幌ドームの絵が登場する。 ;テレビアニメ * [[プリンス・オブ・ストライド#テレビアニメ|プリンス・オブ・ストライド オルタナティブ]] - STEP08(第8話)『WALL その背中、ただ遠く』にて作中の競技「ストライド」の大会会場として登場する。 ;テレビ番組 * [[HTB開局40周年記念「〜ありがとう40年〜全部たしたら10時間!ユメミル広場に大集合!!」]](2008年8月30日、[[北海道テレビ放送|HTB]]) - HTBの開局40周年を記念した特別番組。[[TEAM NACS]]などが公開生放送を行った。 * [[夜のお楽しみ寝落ちちゃん]](HTB) - バラエティ番組。 ** 2017年10月3日放送回。全日本寝落ち選手権会場。[[内野]]に[[布団]]を敷き生放送。 ** 2019年3月26日放送回。24分マラソン出発地点。生放送。 ;その他 * [[GOLD (B'zの曲)|GOLD]] - [[B'z]]が2001年8月8日に発売した32枚目のシングル。札幌ドーム内で[[ミュージック・ビデオ]]が撮影された。 == 運営会社 == {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社札幌ドーム | 英文社名 = SAPPORO DOME Co.,Ltd. | ロゴ = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 062-0045 | 本社所在地 = [[札幌市]][[豊平区]][[羊ケ丘]]1番地 | 設立 = {{Start date and age|1998|10|01}} | 業種 = サービス業 | 事業内容 = 貸館、商業、観光事業 | 代表者 = [[山川広行]]([[代表取締役]][[社長]]) | 資本金 = 10億円 | 発行済株式総数 = 2万株 | 売上高 = 39億7200万円(2020年03月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/e77fd/169595 株式会社札幌ドーム 第22期決算公告]</ref> | 営業利益 = 2億2900万円(2020年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 経常利益 = 4億1000万円(2020年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 純利益 = 1億8800万円(2020年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 純資産 = 29億9500万円(2020年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 総資産 = 40億3500万円(2020年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 従業員数 = 71人(2019年)<ref name="FY2019">[https://www.sapporo-dome.co.jp/company/190624b.pdf 2019年3月期(第21期)事業報告] 株式会社札幌ドーム</ref> | 決算期 = 3月末日 | 主要株主 = [[札幌市]] 55%<br />[[札幌商工会議所]] 5%<br />[[北海道電力]] 5%<br /><small>2018年時点</small> | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[長沼修]](元社長)<br />[[町田隆敏]](副社長) | 外部リンク = [https://www.sapporo-dome.co.jp/ 札幌ドーム] | 特記事項 = }} === 株主 === * [[札幌市]] * [[札幌商工会議所]] * [[北海道電力]] * [[北海道ガス|北海道瓦斯]] * [[北海道新聞社]] * [[北洋銀行]] * [[北海道銀行]] * [[サッポロビール]] * [[プリンスホテル]] * [[竹中工務店]] * [[大成建設]] * [[北海道コカ・コーラボトリング]] * [[電通]] *電通北海道 * [[大広]] * [[東日本電信電話]] * [[近畿日本ツーリスト]] *NTT東日本-北海道 * [[NTT北海道テレマート]] *北海道キリンビバレッジ *サントリービバレッジサービス * [[北海道旅客鉄道|JR北海道]] *JTB北海道 *JTB商事 * [[北海道放送]] * [[札幌テレビ放送]] * [[北海道テレビ放送]] * [[北海道文化放送]] == 送信施設 == ドーム内で2002年6月23日から在札[[AM放送]]局の[[再送信]]が開始された<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/283520/www.hokkaido-bt.go.jp/C/C14/c140612.htm 札幌ドーム内でAMラジオ放送の受信が可能に -AMラジオ放送の再送信設備を許可] [[北海道総合通信局]] 広報資料 平成14年6月12日([[国立国会図書館]]のアーカイブ:2009年1月13日収集)</ref>。 {| class="wikitable" |- ![[周波数]](kHz) |align="right"|567 |align="right"|747 |align="right"|1287 |align="right"|1440 |- ![[日本のラジオ放送局|放送局名]] |[[日本放送協会|NHK]][[NHK札幌放送局|札幌]][[NHKラジオ第1放送|第1]] |NHK札幌[[NHKラジオ第2放送|第2]] |[[HBCラジオ|北海道放送]](HBC) |[[STVラジオ]] |} 周波数は、[[江別ラジオ放送所#送信設備|札幌送信所]]と同じ。 <!--高周波利用設備による再送信であるので空中線電力、放送区域は存在しない。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Sapporo Dome}} * [[日本のサッカー競技場一覧]] * [[日本の野球場一覧]] * [[羊ケ丘]] * [[福住 (札幌市)|福住]] * [[うらうちない川]] == 外部リンク == * [https://www.sapporo-dome.co.jp/ 札幌ドーム] * {{Twitter|sapporodome_pr}} {{S-start}} {{本拠地の変遷|[[札幌厚別公園競技場]]|1996|2014|[[北海道コンサドーレ札幌]]|2001|現在|n/a| | }} {{本拠地の変遷|[[東京ドーム]]|1988|2003|[[北海道日本ハムファイターズ]]|2004|2022|[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]|2023| }} {{S-end}} {{Jリーグスタジアム}} {{北海道コンサドーレ札幌のメンバー}} {{Jリーグベストピッチ賞}} {{FIFAワールドカップ2002スタジアム}} {{2019ラグビーワールドカップスタジアム}} {{2020年東京オリンピックの競技会場}} {{北海道日本ハムファイターズの本拠地}} {{DEFAULTSORT:さつほろとおむ}} [[Category:札幌市のスポーツ施設]] [[Category:北海道コンサドーレ札幌]] [[Category:Jリーグ公式戦開催競技場]] [[Category:2002 FIFAワールドカップ競技場]] [[Category:2019 ラグビーワールドカップ競技場]] [[Category:北海道のサッカー競技施設]] [[Category:日本の密閉式ドームスタジアム]] [[Category:北海道日本ハムファイターズの歴史]] [[Category:北海道の野球場]] [[Category:北海道の屋内競技施設]] [[Category:かつて日本プロ野球の本拠地として使用された野球場]] [[Category:北海道のコンサート会場]] [[Category:日本のプロレス会場]] [[Category:日本のアメリカンフットボール競技施設]] [[Category:2020年東京オリンピックの会場]] [[Category:日本野球聖地・名所150選]] [[Category:豊平区の建築物]] [[Category:スポーツ関連企業]] [[Category:1998年設立の企業]] [[Category:2001年竣工の日本の建築物]] [[Category:2001年開設のスポーツ施設]] [[Category:第44回BCS賞]] [[Category:オリンピックのサッカー競技会場]] [[Category:原広司]] [[Category:石狩地方の放送送信所]] [[Category:NHK札幌]] [[Category:北海道放送]] [[Category:STVラジオ]]
2003-06-29T04:22:25Z
2023-12-26T13:07:36Z
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構造機能主義
構造機能主義(こうぞうきのうしゅぎ、structural-functionalism)は、学問における立場のひとつ。一般には、タルコット・パーソンズに始まるアメリカ社会学の一主潮を指す(構造-機能分析とも呼ばれる)。また、人類学ではラドクリフ=ブラウンの理論が「構造機能主義」と目される。 構造機能主義の理論的萌芽はハーバート・スペンサーの社会的進化論などにみてとることができるが、パーソンズに代表される構造機能主義社会学のベースの一つをなすのが、ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義人類学である。 デュルケム社会学の影響を強く受けたラドクリフ=ブラウンは、それまでの人類学において奇異の目で見られていた「未開」社会の親族関係について、当該社会の制度構造との関連のなかで、いかに機能しているかという観点から合理的な説明を与えたのである。 そして、パーソンズは、一般システム理論の社会システム論への導入のなかで、このラドクリフ=ブラウンの議論をなぞり、機能主義から構造機能主義への流れを作り出すことになる(ただしラドクリフ=ブラウンは社会構造の単位を人間個人としているのに対して、パーソンズの場合は地位-役割をその単位とする)。 パーソンズ登場以前の機能主義社会学のテーマは、部分と全体との機能的な連関に着目することによって、社会事象に関して帰納的な解釈や説明を与えることにあるが、これに「構造」の概念を持ち込み、「システム問題の解決」を焦点とした構造維持と構造変動という点から社会事象を演繹的に説明しようとするのが、パーソンズに始まる構造機能主義である。 構造機能主義社会学の特徴について、構造機能主義の「構造」と「機能」という言葉から説明する。 まず「構造」であるが、これは社会を構成する諸要素のうち、比較的変化しにくい部分(種々の社会関係がパターン化され統合されたもの)、と説明することができる。教科書的には、“社会の骨組み”と説明されている(文章で言うならば「文法規則」にあたる)。 これに対して「機能」とは、そうした構造が互いに他の構造に対して、また社会全体に対して果たしている貢献ないしは作用、と定義することができる。 これらから、構造機能主義社会学は、各種の構造が如何にして社会全体を維持しているのか、これを解明しようとする社会学理論であると言える。 社会学の根本問題は「個人と社会との関係」をどう捉えるか、という問題である。構造機能主義社会学は、こうした問題に対して、個人というものが、その個人が所属する社会によって社会化される側面をとりわけ強調する社会学の流派であるといえる。 ここから、構造機能主義社会学に関しては、社会の構造と機能が主たる研究単位となり、社会の実質であるはずの個々の人間は研究対象としては後景に退いてしまっている、という批判が生まれる。例えば日本の社会学者である船津衛は、以下の様に批判している。
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構造機能主義(こうぞうきのうしゅぎ、structural-functionalism)は、学問における立場のひとつ。一般には、タルコット・パーソンズに始まるアメリカ社会学の一主潮を指す(構造-機能分析とも呼ばれる)。また、人類学ではラドクリフ=ブラウンの理論が「構造機能主義」と目される。
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東京メトロ有楽町線
有楽町線(ゆうらくちょうせん)は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都江東区の新木場駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。都市交通審議会における路線番号の区間は、小竹向原駅 - 新木場駅間が8号線、和光市駅 - 小竹向原駅間が13号線であるが、国土交通省監修『鉄道要覧』では和光市駅 - 新木場駅間が8号線有楽町線と記載されている。 路線名の由来は、有楽町を経由することから(後節も参照)。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ゴールド」(#c1a470、金色)、路線記号はY。 有楽町線は、東京都心部を概ね北西から南東に縦貫する路線である。A線(和光市→新木場方面)を基準とすると、和光市から小竹向原・池袋・飯田橋付近までは概ね南東方向に走り、飯田橋から市ケ谷までは南北線およびJR中央・総武緩行線に沿うような形で一旦南西に進路を変えるが、市ケ谷からは南東方向に進路を戻して、永田町・有楽町・豊洲と直進し、終点の新木場に至る。 和光市駅を出発すると、35‰の急勾配を上がって東武東上線の下り線を跨ぎ、しばらく並走する。都県境を跨ぎ、東上線が成増駅に接近する直前に当線は地下に潜り、地下鉄成増駅に到着する。東上線とは地下鉄赤塚駅・下赤塚駅まで並走した後、離れる。そして、西武有楽町線と合流した後に小竹向原駅に到着、出発して560 mほど進むと副都心線が分岐し、池袋駅までは当線の直下を走る線路別複々線をなし、同駅から新木場方面および渋谷方面へと分岐する。 地下区間は複線構造の開削工法を基本としながら、前述の副都心線並走区間は上下2段構造のトンネル、麹町駅および銀座一丁目駅は地上の道路幅が狭いことから上下2段構造になっている。本路線ではシールド工法(単線および複線トンネル)が大幅に採用されており、また永田町駅は駅シールド工法により建設された。特に千代田区麹町では三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)麹町支店の真下を通過し、ビルの基礎杭が支障することから、地上9階建て・総重量10,600 tのビルをアンダーピニング(下受け)して地下鉄トンネルを構築する大規模な工事となった(ただし、同ビルは2004年2月に建て替えられ、現在は麹町ダイヤモンドビルとなった)。 さらに辰巳駅を出発すると33 - 34.5‰の急勾配で地上(高架線)へと上がって、東京臨海高速鉄道りんかい線と並行、直上にJR京葉線が合流すると終点の新木場駅に到着する。地下鉄成増駅前後 - 辰巳駅前後間約25 kmのトンネル連続区間は東京メトロで最長である。 月島 - 辰巳の各地下駅は東京湾が近く、高潮などの水害対策として、駅通路部に鋼鉄製の防潮扉を設置している。新富町の月島寄りと辰巳 - 新木場間には、トンネルの全断面を閉鎖する「防水扉」を設置している。通常はトンネル上部の機械室に収容しており、非常時には下降させてトンネルへの浸水を防ぐものである。 1962年(昭和37年)6月8日に答申された都市交通審議会答申第6号では、第6号線以降の地下鉄が計画され、第10号線(当時)は「中村橋方面より目白、飯田橋及び浅草橋の各方面を経て錦糸町方面に至る路線」とされた。この答申に基づいて、同年8月29日に告示された建設省告示第2187号では、答申の第10号線は都市計画第8号線として「中村橋駅 - 江古田 - 西落合 - 椎名町 - 目白駅 - 江戸川橋 - 飯田橋駅 - 神保町 - 須田町 - 東両国緑町 - 錦糸町駅」(17.5 km)が正式に決定した。 この決定を受け、営団地下鉄は1962年(昭和37年)10月16日、同時に都市計画を決定した第7号線(南北線)とともに、第8号線谷原町 - 江東橋間(都市計画上の中村橋から西にやや延伸した20.88 km)として地方鉄道敷設免許を申請した。後に両路線とも東京都(東京都交通局)も路線免許を申請したことから、競願状態となる。 1968年(昭和43年)4月10日に答申された都市交通審議会答申第10号では、第8号線は「成増及び練馬の各方面より向原及び池袋の各方面を経由し、また、中村橋方面より目白方面を経由し、護国寺、飯田橋、市ケ谷、永田町、有楽町及び銀座の各方面を経て明石町方面に至る路線」に変更され、「なお、本路線中 中村橋 - 護国寺間については、輸送需要、宅地の開発等を考慮し、将来中村橋及び護国寺からの路線の延伸等を検討することとする」とされた。 この答申に基づいて、同年12月28日に告示された建設省告示第3731号では、第4号線(丸ノ内線)の一部であった成増 - 池袋間が第8号線に編入され、中村橋 - 錦糸町間であった第8号線は「練馬 - 銀座間の本線(16.5 km)、成増 - 小竹町間(6.3 km)及び中村橋 - 音羽間(9.1 km)の分岐線」へ都市計画路線が大幅に改訂された。 前述の都市交通審議会答申第6号の第8号線は、中村橋 - 目白駅 - 飯田橋駅間が経由ルートを変更して新8号線(有楽町線)に編入され、飯田橋駅 - 錦糸町駅間が経由ルートを変更して第10号線(都営新宿線)に編入されたものである。 この変更を受け、営団地下鉄は1968年(昭和43年)6月6日、第8号線向原 - 成増町間及び西池袋 - 明石町間の地方鉄道敷設免許を申請し、併せて第4号線(丸ノ内線)として免許を所有していた池袋 - 向原間の起業目論見変更認可を申請した。続いて同年7月22日、上鷺宮 - 音羽間(中村橋 - 護国寺)の地方鉄道敷設免許を申請するとともに、申請中であった谷原町 - 江東橋間の免許取り下げ願を提出した。6月6日の免許申請、起業目論見変更申請は、同年10月30日に交付・認可を取得し、免許取り下げは8月13日に受理された。なお、上鷺宮 - 音羽間(中村橋 - 護国寺)の路線免許申請は1973年(昭和48年)10月23日に取り下げている。 第8号線(有楽町線)の路線免許を申請した時点では、池袋 - 明石町(現・新富町)間は1973年(昭和48年)3月開業予定、成増(現・地下鉄成増) - 池袋間は1974年(昭和49年)3月の開業を予定していた。第8号線(有楽町線)のうち、練馬 - 向原(現・小竹向原)間は西武鉄道が建設し、営団地下鉄有楽町線と西武池袋線と相互直通運転を行うことを予定していた。 1968年(昭和43年)9月5日に営団地下鉄と西武鉄道間で相互直通運転に関する覚書を取り交わしており、営団地下鉄有楽町線と西武池袋線間の相互直通運転開始時期は1973年(昭和48年)を目途にするとされていた。実際には、西武池袋線と営団地下鉄有楽町線の本格的な相互直通運転が開始されるのは、それから25年経った1998年(平成10年)である。 営団地下鉄は路線免許取得後、建設工事に向けて手続きを進めていたが、特に練馬区北町(地下鉄赤塚 - 平和台付近)で用地取得が難航したことや平和台 - 要町間の地上を通る放射第36号道路との調整があり、建設工事の着手は遅れた(後述)。 有楽町線が最初に計画された1968年(昭和43年)時点では車両基地は成増付近に計画されていたが、既に周辺は住宅地として開発されており、用地取得の難航が予想されたため、和光市駅 - 朝霞駅間に位置した土地を取得して、和光市付近に車両基地(現在の和光検車区)を設けることとなった。また、和光検車区 - 営団成増間は車庫線(回送線)として計画していたが、沿線住民などから営業線とするよう強い要望があった。 1972年(昭和47年)3月1日に答申された都市交通審議会答申第15号では、第8号線の起点側が中村橋から保谷に変更され、終点側は明石町 - 湾岸間及び豊洲 - 東陽町 - 住吉町 - 押上 - 亀有間が追加された。同答申では保谷 - 練馬間は西武池袋線を複々線化することが示されたほか、中村橋 - 護国寺間は削除され、護国寺 - 目白間が東京12号線に編入され、志木 - 向原間は東京13号線として分離された。 このうち、小竹向原駅 - 新木場駅間が有楽町線、練馬駅 - 小竹向原駅間が西武有楽町線、石神井公園駅 - 練馬駅間が西武池袋線の線増分(複々線化)としてそれぞれ開業している。終点側は京葉間の湾岸沿いに海浜ニュータウン付近まで計画されていたが、ほぼ同じルートで計画されていた京葉線が当時は貨物専用線として計画が進行しており、後に旅客線へと用途が変更されたことを受けて有楽町線は新木場までの計画路線に短縮した。 答申第15号で削除された中村橋 - 目白 - 護国寺間(9.6 km)の分岐線は、不忍通り・目白通り・千川通りに沿うルートにて都市計画決定され現在も有効であるが、前述の通り路線免許は申請段階で取り下げられており、また東京12号線(都営地下鉄大江戸線)の支線として編入された区間も東京都交通局が免許申請を見送り、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号で削除されたため、事実上の計画中止となっている。なお、この分岐線の護国寺駅は現在の有楽町線と別個の駅施設として計画され、直通は考慮されていなかった。 一方、上記答申第15号で新たに東京13号線は「志木 - 和光市 - 成増 - 向原 - 池袋 - 東池袋 - 目白東 - 諏訪町 - 西大久保 - 新宿に至る路線」として答申され、「なお、新宿より渋谷、品川を経て羽田方面への延伸を検討する」とされた。同答申では志木 - 和光市間は東武東上線を複々線化することが示された。 既に第8号線(有楽町線)として建設していた成増 - 小竹向原間は第13号線の一部に編入され、小竹向原 - 池袋間は第8号線と第13号線が並行することとされたが、営団地下鉄はこの区間の建設着工時期が迫っていた。このため、運輸省(当時)と協議を行い、小竹向原 - 池袋間は工事方法の変更扱いとした複々線区間とし、和光市 - 成増間は第15号答申に基づいて路線免許を申請することとした。建設予算は1975年度より第8号線・第13号線の区別なく、有楽町線和光市 - 明石町(後に新木場)間に含まれることになった。 第13号線の制定に伴い、営団地下鉄は西武鉄道ならびに東武鉄道と協議を行い、1975年(昭和50年)8月に第8号線と第13号線との相互直通運転に関する以下に示す覚書を取り交わした。 これは営団地下鉄が成増 - 小竹向原間は第8号線として建設工事に着手し、周辺住民へ「銀座へ直通できる」と宣伝して協力を得ていたことから、和光市方面から有楽町線方面へ行ける列車を設定する必要があったためである。しかし、用地買収や周辺住民への建設同意の問題などから建設工事は大幅に遅れ、小竹向原 - 池袋間の第13号線施設の使用は当面見送られた。 また、営団地下鉄は東武東上線志木 - 和光市間の複々線化計画に合わせ、和光市駅を介して東武東上線と第13号線が相互直通運転を行うことを決定し、和光市 - 営団成増間を営業線として建設するため、同区間の地方鉄道敷設免許を申請することに変更した。和光市 - 営団成増間は1978年(昭和53年)9月に着工し、この時点で和光市 - 池袋間は1981年(昭和56年)9月の開業を予定したが、和光市駅付近の用地買収が遅れたことから1987年(昭和62年)秋まで開業が遅れた。 都市交通審議会答申第15号からすれば、和光市 - 池袋間は第8号線(有楽町線)とは別路線の「第13号線」(現在の副都心線)であるが、この区間は有楽町線池袋 - 新富町間と一体で運行されることや乗客の混乱を起こさないためにも、和光市 - 池袋間も「有楽町線」と呼称することとなった。 このうち和光市駅 - 小竹向原駅間が有楽町線として、志木駅 - 和光市駅間が東武東上線の複々線としてそれぞれ開業した。なお、第13号線の小竹向原駅 - 池袋駅(→新線池袋駅)間は有楽町線新線(現・副都心線)として1994年12月に開業している。 小竹向原駅は西武有楽町線との分岐点となることから2面4線構造として、池袋方には和光市方面からの第13号線列車と、練馬方面からの第8号線列車が双方に乗り入れができるよう、10両編成+αの長さを持つ6線区間を設置した。 小竹向原 - 池袋間は、第8号線と第13号線のトンネルを上下に重ねた一体構造となっている。これは第8号線開業後に改めて第13号線トンネルを構築することは困難であり、上下構造のトンネルを構築することは経済的であること、また第8号線と第13号線のトンネルを並行させることは地上の道路幅の制約から困難であり、用地を節約できる上下トンネル構造を採用した。千川駅と要町駅では、地下2階は第8号線(有楽町線)のホーム、地下3階は第13号線(副都心線)のホームとなっており、1983年(昭和58年)の有楽町線開業時点では地下2階部のみ使用を開始した。 第8号線成増 - 池袋間のうち、川越街道(国道254号)の地下を通る区間(地下鉄成増 - 地下鉄赤塚付近)を除いた区間は、東京都の放射第35号道路、放射第36号道路および補助線街路第78号線(補助第78号線)の計画道路と競合しており、特に放射第36号道路は周辺住民から大きな反対運動があり、当初から用地交渉の難航が予想されていた。川越街道(国道254号線)の地下を通る区間は1972年(昭和47年)2月に建設工事に着手され、1975年(昭和50年)3月に完成していたが、前後の区間の開業が大幅に遅れたため、施設は8年間にわたって未共用の状態となっていた。ただし、オイルショックによるインフレ発生前に完成したため、結果的に建設費用を抑えることができた。 平和台 - 池袋間では東京都の街路事業(都市計画道路)と地下鉄の建設を同時に施工する予定であった。しかし、現道がなく新たに道路を整備する氷川台 - 千川間では、周辺住民から排気ガスや騒音を懸念して計画道路への反対が根強く、道路計画に地下鉄建設も巻き込まれて用地交渉は難航した。ただし、地下鉄建設には賛成の住民が多かった。最終的にはオイルショックの影響によって東京都の財政が急激に悪化し、道路整備は困難となったことから、営団地下鉄は1975年(昭和50年)9月に地下鉄を先行して建設し、東京都の計画道路は地下鉄建設後に改めて整備することに変更した。 建設目的の一つには、車体規格が小さく編成長も短いことから輸送力増強に限界のある丸ノ内線の混雑緩和があった。池袋駅の乗り換えが便利であったため、日比谷線に対する千代田線同様、混雑の緩和に大きく寄与した。 また、1974年(昭和49年)の銀座一丁目 - 池袋間の開業にあたり、丸ノ内線中野坂上駅、日比谷線恵比寿駅に次いで、池袋駅に4基、銀座一丁目駅に2基の自動改札機が設置された。これは、当該区間では他線との改札内連絡がなかったため、集改札自動化の実証実験線区として好適であったためである。両端駅である池袋駅、銀座一丁目駅以外には自動改札機は設置されなかったが、有楽町線の全駅で磁気化券が発売されており、普通乗車券による出場にも対応していた。しかし、当時は他の路線での乗車券の磁気化が進んでおらず、効率的な運用ができなかったことから、営団成増(現・地下鉄成増)延伸時に一旦撤去され、当時の試みは失敗に終わっている。その他、大手町駅で採用された案内サインシステムを全面的に採用した。 13号線については新線池袋駅から西早稲田、新宿三丁目を経て渋谷駅に至るルートが2008年(平成20年)6月14日に東京メトロ副都心線として開業した。さらに、副都心線は2013年(平成25年)3月16日から渋谷駅から東急東横線経由でみなとみらい線元町・中華街駅まで乗り入れを開始した。また、今後の整備計画として8号線については豊洲駅から分岐して野田市駅までの延伸計画がある(詳細は「都市高速鉄道8号線延伸構想」の節を参照)。この区間はかつて営団地下鉄が1982年(昭和57年)1月29日に豊洲 - 亀有間 (14.7 km) の地方鉄道事業免許を申請していたが。免許の交付はされていなかった。営団地下鉄の計画では、1985年度から1992年度の工期で、建設費用は2,720億円を見込んでいた。その後、2022年(令和4年)に東京メトロは豊洲 - 住吉間の鉄道事業許可を申請し、同年国土交通大臣から許可された。 有楽町線は、東京地下鉄において最初に埼玉県に延伸された路線である。東京地下鉄で東京23区外に延びている路線は、当線との重複区間がある副都心線を除くと当線と東西線のみであり、都営地下鉄も含めた東京の地下鉄全路線でも他に都営新宿線を加えた3路線のみである。 「有楽町線」の名称は、1973年(昭和48年)11月1日から同年12月15日までの期間で一般公募が行われ、30,591通の応募があり、2,519種類の路線名が提案された。 その時の得票数第1位は「麹町線」であった。しかし、「麹」の漢字が当用漢字(当時)でないため難しく親しみにくいということ、2位「有楽町線」・5位「有楽線」などの「有楽町」に関する名称がついた内容が記載されたものが多かったこと、将来的に湾岸エリアに延伸する予定であり(選定当時)、延伸開通後有楽町が路線の中間点に位置することから、1974年(昭和49年)1月9日に「有楽町線」と決定した。 応募の中には「カンガルー線」("有"楽町・池"袋" → 有袋類の連想)というものもあったという。 当路線の和光市 - 新木場間(有楽町線新線として建設された区間は含まない)の建設費用は総額4,920億円である。その内訳は土木関係費が2,961億5,032万8,000円、電気関係費が448億2,681万2,000円、車両関係費が658億5,965万4,000円、その他が851億6,320万6,000円となっている。 当路線では国鉄(当時・日本国有鉄道)を除き、地下鉄・私鉄で初めて60 kgレールを採用した(本線部)。60 kgレールを採用することで、レールの強度が1.5倍、耐用年数は4 - 6年長くなる。軌道構造は地下区間では従来から直結軌道を採用してきたが、振動・騒音が大きいことから、本路線では新たに「防振マクラギ構造」を採用した(民有地近辺)。初期はレールと枕木の間にゴムパッドを、枕木は防振ゴムで覆うものであったが、新富町開業以降、枕木部はレール支持部下に防振ゴム、防振パッド、防振クッションから構成される防振装置を敷き、レール間下を中空とした新しい構造を採用した。バラスト軌道区間においても、軌道下に防振マットまたは防振シートを敷き、いずれも振動・騒音低減に大きな効果を発揮した。 和光市駅から東武東上線を経由して川越市駅(朝夕は森林公園駅)まで、小竹向原駅からは西武有楽町線経由池袋線直通で小手指駅(朝・夕の一部列車は飯能駅)までそれぞれ相互乗り入れを行っている。 有楽町線のみの運行となる列車や東武東上線直通列車は全区間各駅停車で運行されているが、西武池袋線直通列車は西武線内を準急・快速・快速急行として運行する列車があり、この場合は小竹向原駅で種別変更を行う。また後述するように2017年3月25日から有料指定列車「S-TRAIN」が運転開始された。有楽町線へは平日ダイヤのみ乗り入れ、小手指駅 - 豊洲駅間で朝に所沢発豊洲行き2本・夕方以降に豊洲発小手指行きを5本運転している。有楽町線内の途中停車駅は飯田橋駅・有楽町駅の2駅で、豊洲行は降車専用、小手指行は乗車専用となり、西武線内のみや有楽町線内のみの利用は不可能である。 和光市駅 - 小竹向原駅間は副都心線と線路・駅施設を共有し、新木場駅発着の列車と渋谷方面(東急東横線・みなとみらい線・東急新横浜線・相鉄線直通)の列車がともに運行されている。 副都心線との共用区間である和光市 - 小竹向原間では10両編成と8両編成の列車で運行されているが、小竹向原 - 新木場間はすべて10両編成の列車で運行されている。 平日朝のラッシュ時の池袋方面では数多くの列車が運行され、小竹向原駅で新木場方面と渋谷方面に振り分けられている。 その他、野球や花火大会などのイベント開催時に運転される臨時列車がある(詳細は「臨時列車」の項を参照)。特に、埼玉西武ライオンズ主催試合など西武ドームでのイベント開催日には西武有楽町線・池袋線西所沢駅経由狭山線西武球場前行が運転され、東京都心および湾岸地区から西武ドームまで乗り換えなしで移動することができる。また、かつては年間30日程度、小田急線直通の臨時特急が運転されていた(詳細は「特急ロマンスカー「ベイリゾート」」の項を参照)。 運用番号の末尾は、東京地下鉄車がS、東武車がT、西武車がMである。東武車は西武の路線に入線できず、西武車は東武の路線に入線できない。副都心線・東横線・みなとみらい線の10両編成列車と共通運用で、東京地下鉄車はもちろん、東武車と西武車にも有楽町線のみの運用があり、西武車も和光市駅まで乗り入れる。東京地下鉄車の一部運用には東武東上線川越市方面および和光市発の列車が、新木場折り返し後に西武池袋線石神井公園方面行の列車となる運用もあり、その逆の運用もある。一方、有楽町線新木場発の列車が和光市・東上線川越市方面・池袋線石神井公園方面で折り返して副都心線・東急東横線・みなとみらい線元町・中華街方面行となる運用もあり(10両編成のホーム有効長の関係上、東横線・みなとみらい線内は急行以上の種別)、その逆の運用もある。運用番号は東京地下鉄車(21S - 97S)は奇数(ただし、平日ラッシュ時は一部の列車が偶数番号で運用された。/48S、52S)、東武車(01T - 23T)と西武車(02M - 38M及びS-TRAINに充当される40000系限定の50M - )の偶数がある。 副都心線で運用される東急電鉄・横浜高速鉄道・相模鉄道の車両は、ダイヤ乱れなど特別の場合を除き、有楽町線の小竹向原 - 新木場間には入線しない。 参考のため、和光市 - 小竹向原の線路共用区間を走る副都心線の列車も記載する。 東武東上線直通列車は志木駅(平日のみの設定)・川越市駅・森林公園駅発着が運転されている。日中の川越市駅発着列車は、小竹向原駅で西武池袋線系統のFライナーに連絡する。また同駅06分および36分発の新木場行き、29分および59分発の和光市行きは同駅で森林公園駅発着のFライナーに連絡する(緩急接続)。 一方線内運転の列車の大多数の列車は和光市駅 - 新木場駅間の運転だが、一部列車は新木場駅 - 池袋駅間の運用がある。また新木場駅 - 小竹向原駅間の列車が設定され、平日は新木場行2本、土休日は小竹向原行・新木場行が1本ずつある。2013年3月16日のダイヤ改正では平日朝に豊洲行きが設定されたが、2019年10月15日のダイヤ修正までに新木場行きに延長され消滅している(詳細は豊洲駅#駅構造を参照)。初電として市ケ谷発和光市行き、有楽町発新木場行きがある。終電として平日に川越市始発(土休日は和光市始発)池袋行きが1本ある。 東上線内で人身事故・各種トラブルなどにより直通運転を見合わせた場合、すべて和光市駅での折り返し運転となるが、その逆もある。また池袋駅で運転を取りやめることもある。 石神井公園駅、清瀬駅発着を中心に運転され、所沢発着も運転されている。飯能発着はわずかに運転されている。平日のみ清瀬発豊洲行き列車が一時期存在していたが、和光市方面・東武東上線直通の節で前述の通り、現在は設定されていない。 日中の小手指駅・保谷駅発着各駅停車は、小竹向原駅で、副都心線各駅停車・東急東横線内急行の和光市駅発着列車(東武東上線森林公園駅発着のFライナーの直前・直後)に連絡する。 西武線内の種別は各駅停車以外に準急・快速・快速急行として運行されるものがある。列車種別はすべて小竹向原駅で変更される。 池袋線内での人身事故・各種トラブルなどにより当路線との直通運転を見合わせた場合、西武線直通列車は池袋駅にて客扱いを打ち切り、小竹向原駅に回送した後に新木場方面へ折り返す。 東京地下鉄線内の各駅に停車する種別。後述の準急廃止後も、副都心線の急行に対しての「各駅停車」の一つの系統としてこの種別の表現は残されている。 有楽町線の種別表示は車種や所属会社によって「各駅停車」と「各停」が混在しているが、前者の場合でも西武池袋線内では「各停」表記に切り替えられる。 東上線内では普通として案内されるが、各停表示のまま運行されることもある。このほかダイヤ乱れの際には、副都心線直通列車の運用変更などにより東上線内急行・快速急行として運転される場合もある。 西武池袋線内は各停以外に小竹向原駅で種別を変更して快速・準急・快速急行として運行するものがある。かつては新木場駅から西武池袋線内の種別を案内していた(正確には各停は西武有楽町線小竹向原駅から普通であった)。一方新木場方面行は西武有楽町線練馬駅から全列車が各駅に停車するため、練馬駅から普通、小竹向原駅から各停として案内されていた。 2022年3月12日のダイヤ改正で日中の西武線直通列車は1時間6往復から4往復に減便され、減便分の運行区間が新木場駅 - 池袋駅間となったため、日中でも池袋行きが設定された。 2017年3月27日より平日の通勤時間帯に運行を開始した座席指定列車。豊洲駅発着で全列車が西武有楽町線・池袋線に直通する。乗車には座席指定券が必要で、途中飯田橋駅・有楽町駅のみ停車する(池袋駅も通過。なお乗務員交代のため小竹向原駅に運転停車する)が、各駅とも朝は降車のみ・夕方は乗車のみの扱いとなり有楽町線内のみの利用は出来ない。有楽町線内で通過駅の設定がある種別としては2010年に廃止になった準急以来となる。 なお、土休日は副都心線・東急東横線・みなとみらい線直通(元町・中華街駅発着)となり、有楽町線には乗り入れない。また、座席指定列車のS-TRAINに限り、座席指定券の確認などを行うことから車掌が乗務しているため、ワンマン運転の対象外である。 副都心線開業後、当路線の和光市駅 - 小竹向原駅間は副都心線との共用区間となっている。この区間には副都心線の各駅停車・通勤急行・急行も運転されている。詳しくは「副都心線」を参照。 2008年6月14日の副都心線開業に伴い、併走区間・線路共用区間のある有楽町線でも大幅なダイヤ改正が行われた。その際の主な変化は以下のとおりである。 小田急電鉄所属の60000形「MSE」により小田急線と千代田線を直通する特急ロマンスカーの一部を、「ベイリゾート」として年間30日程度、千代田線北千住駅から当路線の新木場駅に行き先・始発駅を変更して運転していた。 有楽町線桜田門駅と千代田線霞ケ関駅間を結ぶ連絡線(詳しくは後述)を経由し、霞ケ関駅で方向転換を行う。有楽町線内では豊洲駅と新木場駅のみに停車する。 2011年9月25日以降運行を休止していたが、2012年3月17日のダイヤ改正で運行中止となった。 相互乗り入れ先での種別ということではなく、有楽町線内で通過駅のある列車として初めて設定された種別。2008年6月14日のダイヤ改正で、平日の昼間と、土休日の早朝・深夜を除く時間帯に設定された。併走区間がある副都心線急行・通勤急行とともに、東京の地下鉄での料金不要の優等列車の運転は、東西線快速、都営新宿線急行、都営浅草線エアポート快特に次いで4例目であった。 停車駅は和光市、小竹向原、池袋 - 新木場間の各駅であった。 イメージカラーは黄緑。 設定当初は東武東上線および西武線との相互直通運転をする列車も存在した。運転本数は新木場方面は毎時3本(和光市発2本、小手指発1本)、和光市・東上線系統と西武線系統は毎時各2本ずつで、土休日ダイヤでは21時頃まで運転され、平日で往復22本(土休日は往復44本)が運行されていた。しかし、同年11月29日のダイヤ改正で平日・土休日ダイヤとも日中のみ、両方向とも毎時2本(1日あたり10往復)に大幅減便した上ですべての準急が和光市 - 新木場間の線内運転のみとなり、東武東上線・西武線直通準急や夕方以降の準急は各駅停車に格下げされた。さらに、準急の運行によって要町駅・千川駅では停車列車の本数・乗客の利用機会が減少したため、2駅が所在する豊島区議会は準急全廃を求める意見書を出していた。こうした意見を受け、東京メトロは2010年3月6日のダイヤ改正で準急を廃止することを発表し、有楽町線の準急は登場から2年足らずで姿を消した。 東上線直通の準急は和光市駅で「普通」に種別変更の上、東上線内を普通列車として運行していた(東上線準急と停車駅が変わらないので、7000系の一部車両は「準急」のまま走らせる場合もあった。また、東武車両のフルカラーLED表示は有楽町線準急が緑色、東上線準急が青色であった)。ただし、東上線直通の準急は本数が少なく、平日は新木場→川越市の片道1本が運転されるのみ、土休日も朝の川越市→新木場の3本と夕方以降の5往復が運転されるのみで、土休日に1本森林公園行きがある以外はすべて川越市発着であった。一方、西武線直通の準急は西武線内でも「準急」として運行するものと、小竹向原で「各停」「快速」に種別変更を行うものがあった。また、西武線直通の準急は小手指発着を中心に本数が多く、一部列車は清瀬発着・飯能発着として運行されていた。 なお、有楽町線の準急が廃止された後も、前述の副都心線の急行(Fライナー含む)が和光市、小竹向原、池袋と停まる速達列車として存続している。 現在の車両はすべて副都心線と共通であり、小竹向原以東は原則として10両編成の自社車両・西武車・東武車のみが入線するが、和光市 - 小竹向原間および並走区間である小竹向原 - 池袋間の副都心線の線路には8両編成の自社車両・東急車・横浜高速車・相鉄車も入線する。 小竹向原駅 - 新木場駅間に乗り入れる車両を挙げる。 現在、有楽町線内では各駅停車のみが運行されている。車両側では「各駅停車」と種別を表示する。これに対し、和光市駅 - 小竹向原駅以外の駅の発車案内標では、種別欄が空白となる。 東武東上線と相互乗り入れする列車は、東上線内ではすべて「普通」であるため、和光市駅にて「各駅停車」と「普通」の種別表示を変更する。また、西武線と相互乗り入れする列車は、小竹向原駅で種別表示を変更し、有楽町線内での西武線内の種別の表示は行わずに「各停」と表示する。 なお、副都心線開業前も、有楽町線内は全列車各駅停車であり、副都心線開業前は車両によって種別表示の有無が異なっていた。なお、副都心線開業前は「各停」は用いられず、種別表示は「普通」であった。また、以下のようになっていた。 2005年10月31日から導入され、2013年3月18日より設定時間帯を変更した。 各駅の出入口が先頭車両あるいは最後尾車両に存在する場合が多い。 なお、ダイヤ乱れ時には女性専用車の運用は取りやめられる。 2022年(令和4年)度の最混雑区間(A線、東池袋 → 護国寺間)の混雑率は131%である。 東上線との直通運転を開始した1987年度は混雑率が229%を記録したが、輸送力の増強により1993年度に180%程度に緩和された。1998年度以降は輸送人員が減少傾向となり、副都心線が開業した2008年度に混雑率が170%を下回った。 2007年度の一日平均通過人員は池袋 - 飯田橋間で37万人を超えており、そのうち江戸川橋 - 飯田橋間が378,275人で最も多い。飯田橋で輸送量が減少し、飯田橋 - 市ケ谷間は301,399人である。その後は豊洲まで輸送量が20万人を超えるが、豊洲で再度輸送量が減少し、豊洲 - 辰巳間が112,576人である。一方、和光市方面は池袋を境に輸送人員が減少する。特に西武線と分岐する小竹向原で輸送量が減少し、氷川台 - 小竹向原間が229,420人である。その後も減少傾向が続き、埼玉県との都県境を越える和光市 - 地下鉄成増間が113,140人である。最も通過人員が少ないのは辰巳 - 新木場間で、92,483人である。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 この路線には、他の路線への連絡線が2本ある。 この2つの連絡線は主に千代田線の綾瀬工場へ検査を受ける車両を回送するためにあるが、臨時列車がごく稀に運転される。2002年からは夏の花火大会と冬の年末年始に関連した臨時列車が運転されるのが定番化している。この臨時列車は相互乗り入れの関係上、千代田線からの直通は同線車両(16000系、過去には06系や6000系)、南北線からの直通は同線車両(9000系)が使用される。また、後者の連絡線は半蔵門線用の8000系を更新するため新木場CRへ回送する際にも用いられた。この回送は鷺沼車両基地から東急田園都市線・大井町線・目黒線・南北線を経由して連絡線から有楽町線に入り新木場というルートとなる。 沿線でのイベントなどで臨時列車が運行されることがある。連絡線を介して運行されることが多いが、中には乗り入れ路線発着とした列車が運行される。 下記のほかにも、2004年9月に新木場検車区(現・和光検車区新木場分室)撮影会への臨時列車(千代田線06系・6000系、南北線9000系を使用)や、10月に開業30周年記念列車を運転したことがある。 西武ドームでの催事の際には、西武線直通の定期列車の一部を狭山線西武球場前行きに変更して運行される。 2002年度から、東京湾大華火祭会場最寄りの豊洲駅への輸送を担う列車として打ち上げ花火の名称にちなんだ臨時列車が運行されている。基本的には同大会の開催日に運行されるため中止時は運行されない。往復とも運転される列車には1号、2号、と号数が付く。 なお、2006年は8月12日に運転される予定であったが、雨の影響で開催できなかったため、運転予定の列車すべてが運転中止となった(同大会は翌13日に開催されたが、都営大江戸線の臨時列車は運行された)。また、2007年は愛称の付かない線内運転の臨時列車となった。 いずれも、先頭車の前面に愛称毎のヘッドマークを掲出して運転する。 なお、2003年度から2005年度までは東急田園都市線中央林間駅から東京メトロ半蔵門線永田町駅まで「HA・NA・BIリレー号」(2003年度は半蔵門駅まで運行)と「スターライト号」(2004・2005年度)を運行していた。両愛称とも永田町駅で他の臨時列車に連絡するリレー扱いの臨時列車である。2006年度は運行しなかった。 2003年12月27日・28日・30日と2004年12月25日・26日には、東京ミレナリオ会場最寄りの有楽町駅への輸送を担う列車として「東京ミレナリオトレイン」という臨時列車が運行され、先頭車の前面にヘッドマークを掲出して運転していた(2005年は運行しなかった)。 2004年10月9日と10日に日比谷公園で開催される予定であった「第11回鉄道フェスティバル」への臨時列車も設定されていた。 いずれも10月9日に運転される予定であったが、台風のため、鉄道フェスティバルが同月10日のみの開催となったため運転中止となった。また、2005年度以降は運転されていない。 鉄道の日を記念して、2001年まで営団地下鉄(当時)が中心となって関東私鉄5社が合同で企画された団体臨時列車で、各ルート別に参加者を募って団体列車として運転された。 途中の地下鉄霞ケ関駅で一旦下車し、各ルートからの参加者が合流して、メインイベントが開催された。 なお、2002年以降、ドリームエキスプレスのイベントが開催されなくなったが、この時の5社合同企画が、後の東京湾大華火祭の臨時列車の企画に発展していく。 2015年6月5日・6日には、西武鉄道が新木場駅近くにあるSTUDIO COASTで開催されるクラブイベントageHaとタイアップし、日本初の列車内EDMイベント臨時列車「ageHa TRAIN」が運転された。 2011年2月23日以降、地下鉄成増駅と地下鉄赤塚駅を皮切りに、ホームドアの使用を開始した駅から順次発車メロディ(発車サイン音)を導入している。全てスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、谷本貴義の3名が作曲を手掛けた。 曲名はスイッチの音源リストおよび同社が運営する「鉄道モバイル」による。 豊洲駅で有楽町線から分岐して東武野田線野田市駅まで第8号線を延伸する構想がある。そのうち、豊洲駅 - 住吉駅間4.8 kmについては、東京メトロが有楽町線の延伸として鉄道事業許可を申請し、国土交通大臣から第一種鉄道事業許可を受けている。 都市交通審議会答申第15号で豊洲 - 亀有間 (14.7 km) が追加されたことを受け、営団地下鉄は1982年(昭和57年)1月29日にこの区間の鉄道事業免許を申請している。 1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号において、第8号線は、豊洲から北へ分岐する路線が住吉 - 四ツ木間で第11号線(半蔵門線)と線路を共用し常磐線亀有駅(さらにJR武蔵野線方面)へ至る路線に変更されており、豊洲駅と半蔵門線住吉駅は線路が分岐できるよう2面4線の構造で建設されている。 沿線自治体となる江東区・墨田区・葛飾区・松戸市の3区1市(及び東京都・千葉県の1都1県)は1986年(昭和61年)に「地下鉄8・11号線促進連絡協議会」を組織し、2007年・2008年(平成19年・平成20年)に実施した調査の結果、同協議会が推進する8号線・11号線の延伸計画のうち、豊洲駅 - 住吉駅間(約5.2 km)からの段階的な整備を要望する方針を示し、早期事業化を目指した活動が行われている。うち、江東区(当該先行区間唯一の沿線自治体)は地下鉄8号線の建設および関連付帯設備に要する経費に充てるためとして、「(仮称)江東区地下鉄8号線建設基金」を設置し、平成22年度(2010年度)予算に5億円を計上した。また、豊洲市場を受け入れる条件にもなっているとして東京都などに早期の延伸実現を強く求めている。 ただし、東京メトロは2009年(平成21年)度3月期の有価証券報告書において申請時から事業環境の変化を理由に「整備主体となることは極めて困難」と事業化に消極的な態度を表明していた。 江東区は2011年7月に第三セクターを設立して整備を担い、運営を行う上下分離方式で整備し、豊洲 - 東陽町間(枝川付近)、東陽町 - 住吉間(千田付近)に新駅を建設する計画案をまとめた。2012年8月現在、江東区・東京都・東京メトロなどと検討委員会を作り協議中で、2015年度までの着工を目指していた。 2021年に国土交通省が交通政策審議会鉄道部会内に設けた「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等に関する小委員会」において東京メトロの完全民営化(株式売却)と並行して都心部・品川地下鉄構想と共に有楽町線の延伸計画に触れられており、2021年7月8日行われた第5回小委員会と、同年7月15日に示された「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について」答申において、同区間について東京メトロが主体となって整備を進めるのが適切だとする素案を示すとともに、国や東京都が建設費を補助する方向性を示した。 事業費は2019年時点の試算で1560億円だが、建築資材や人件費の高騰で膨らむ見込みとなり、事業費の4分の3を国や都が支援し、東京メトロの借入金には財政投融資を充てる方針である。2022年1月8日には、延伸に向けた作業が同年4月から本格的に始まる見通しになった。 2022年度は地質調査や環境影響評価などを行い、具体的な金額は2021年度末に決まるが、国と都で計十数億円の見通しとしている。国は2022年度の予算案に環境影響などの調査を補助する費用を計上し、都も新年度予算案に同様の費用を盛り込む方針である。東京メトロは2022年(令和4年)1月28日に豊洲 - 住吉間約4.8 kmの鉄道事業許可を国土交通大臣に申請し、同年3月28日に第一種鉄道事業の許可を受けた。開業時期は2030年代半ばで、事業費は2689億8200万円を予定している。補助金が1738億3200万円、財政投融資資金から951億5000万円を見込んでいる。 新たな駅として、(仮称)枝川駅(豊洲起点1.250 km)、(仮称)東陽町駅(豊洲起点3.070 km)、(仮称)千石駅(豊洲起点4.180 km)の3駅を設置する。また、東陽町は同名の駅がある東西線の地下に新駅が作られ、乗換駅となる。運転間隔は1時間あたり日中で約8本、朝のピーク時で約12本を予定している。本線への乗り入れ本数は今後検討するとし、半蔵門線乗り入れは現時点では検討されていない。 本路線に係る損益は開業14年目で単年度損益が黒字転換、開業29年目に累積損益が黒字転換し、累積損益収支は開業29年目に黒字転換、累積資金収支は開業40年目に黒字転換を想定している。 住吉駅以遠については、八潮駅(つくばエクスプレス)・越谷レイクタウン駅(武蔵野線)を経由する形での延伸も検討されている。現在のところ構想段階であり、運輸政策審議会答申第18号では「2015年までに整備着手することが適当である路線」と位置付けられたが、決定はなされていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "有楽町線(ゆうらくちょうせん)は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都江東区の新木場駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。都市交通審議会における路線番号の区間は、小竹向原駅 - 新木場駅間が8号線、和光市駅 - 小竹向原駅間が13号線であるが、国土交通省監修『鉄道要覧』では和光市駅 - 新木場駅間が8号線有楽町線と記載されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "路線名の由来は、有楽町を経由することから(後節も参照)。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ゴールド」(#c1a470、金色)、路線記号はY。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "有楽町線は、東京都心部を概ね北西から南東に縦貫する路線である。A線(和光市→新木場方面)を基準とすると、和光市から小竹向原・池袋・飯田橋付近までは概ね南東方向に走り、飯田橋から市ケ谷までは南北線およびJR中央・総武緩行線に沿うような形で一旦南西に進路を変えるが、市ケ谷からは南東方向に進路を戻して、永田町・有楽町・豊洲と直進し、終点の新木場に至る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "和光市駅を出発すると、35‰の急勾配を上がって東武東上線の下り線を跨ぎ、しばらく並走する。都県境を跨ぎ、東上線が成増駅に接近する直前に当線は地下に潜り、地下鉄成増駅に到着する。東上線とは地下鉄赤塚駅・下赤塚駅まで並走した後、離れる。そして、西武有楽町線と合流した後に小竹向原駅に到着、出発して560 mほど進むと副都心線が分岐し、池袋駅までは当線の直下を走る線路別複々線をなし、同駅から新木場方面および渋谷方面へと分岐する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "地下区間は複線構造の開削工法を基本としながら、前述の副都心線並走区間は上下2段構造のトンネル、麹町駅および銀座一丁目駅は地上の道路幅が狭いことから上下2段構造になっている。本路線ではシールド工法(単線および複線トンネル)が大幅に採用されており、また永田町駅は駅シールド工法により建設された。特に千代田区麹町では三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)麹町支店の真下を通過し、ビルの基礎杭が支障することから、地上9階建て・総重量10,600 tのビルをアンダーピニング(下受け)して地下鉄トンネルを構築する大規模な工事となった(ただし、同ビルは2004年2月に建て替えられ、現在は麹町ダイヤモンドビルとなった)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "さらに辰巳駅を出発すると33 - 34.5‰の急勾配で地上(高架線)へと上がって、東京臨海高速鉄道りんかい線と並行、直上にJR京葉線が合流すると終点の新木場駅に到着する。地下鉄成増駅前後 - 辰巳駅前後間約25 kmのトンネル連続区間は東京メトロで最長である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "月島 - 辰巳の各地下駅は東京湾が近く、高潮などの水害対策として、駅通路部に鋼鉄製の防潮扉を設置している。新富町の月島寄りと辰巳 - 新木場間には、トンネルの全断面を閉鎖する「防水扉」を設置している。通常はトンネル上部の機械室に収容しており、非常時には下降させてトンネルへの浸水を防ぐものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)6月8日に答申された都市交通審議会答申第6号では、第6号線以降の地下鉄が計画され、第10号線(当時)は「中村橋方面より目白、飯田橋及び浅草橋の各方面を経て錦糸町方面に至る路線」とされた。この答申に基づいて、同年8月29日に告示された建設省告示第2187号では、答申の第10号線は都市計画第8号線として「中村橋駅 - 江古田 - 西落合 - 椎名町 - 目白駅 - 江戸川橋 - 飯田橋駅 - 神保町 - 須田町 - 東両国緑町 - 錦糸町駅」(17.5 km)が正式に決定した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この決定を受け、営団地下鉄は1962年(昭和37年)10月16日、同時に都市計画を決定した第7号線(南北線)とともに、第8号線谷原町 - 江東橋間(都市計画上の中村橋から西にやや延伸した20.88 km)として地方鉄道敷設免許を申請した。後に両路線とも東京都(東京都交通局)も路線免許を申請したことから、競願状態となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)4月10日に答申された都市交通審議会答申第10号では、第8号線は「成増及び練馬の各方面より向原及び池袋の各方面を経由し、また、中村橋方面より目白方面を経由し、護国寺、飯田橋、市ケ谷、永田町、有楽町及び銀座の各方面を経て明石町方面に至る路線」に変更され、「なお、本路線中 中村橋 - 護国寺間については、輸送需要、宅地の開発等を考慮し、将来中村橋及び護国寺からの路線の延伸等を検討することとする」とされた。 この答申に基づいて、同年12月28日に告示された建設省告示第3731号では、第4号線(丸ノ内線)の一部であった成増 - 池袋間が第8号線に編入され、中村橋 - 錦糸町間であった第8号線は「練馬 - 銀座間の本線(16.5 km)、成増 - 小竹町間(6.3 km)及び中村橋 - 音羽間(9.1 km)の分岐線」へ都市計画路線が大幅に改訂された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "前述の都市交通審議会答申第6号の第8号線は、中村橋 - 目白駅 - 飯田橋駅間が経由ルートを変更して新8号線(有楽町線)に編入され、飯田橋駅 - 錦糸町駅間が経由ルートを変更して第10号線(都営新宿線)に編入されたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この変更を受け、営団地下鉄は1968年(昭和43年)6月6日、第8号線向原 - 成増町間及び西池袋 - 明石町間の地方鉄道敷設免許を申請し、併せて第4号線(丸ノ内線)として免許を所有していた池袋 - 向原間の起業目論見変更認可を申請した。続いて同年7月22日、上鷺宮 - 音羽間(中村橋 - 護国寺)の地方鉄道敷設免許を申請するとともに、申請中であった谷原町 - 江東橋間の免許取り下げ願を提出した。6月6日の免許申請、起業目論見変更申請は、同年10月30日に交付・認可を取得し、免許取り下げは8月13日に受理された。なお、上鷺宮 - 音羽間(中村橋 - 護国寺)の路線免許申請は1973年(昭和48年)10月23日に取り下げている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第8号線(有楽町線)の路線免許を申請した時点では、池袋 - 明石町(現・新富町)間は1973年(昭和48年)3月開業予定、成増(現・地下鉄成増) - 池袋間は1974年(昭和49年)3月の開業を予定していた。第8号線(有楽町線)のうち、練馬 - 向原(現・小竹向原)間は西武鉄道が建設し、営団地下鉄有楽町線と西武池袋線と相互直通運転を行うことを予定していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)9月5日に営団地下鉄と西武鉄道間で相互直通運転に関する覚書を取り交わしており、営団地下鉄有楽町線と西武池袋線間の相互直通運転開始時期は1973年(昭和48年)を目途にするとされていた。実際には、西武池袋線と営団地下鉄有楽町線の本格的な相互直通運転が開始されるのは、それから25年経った1998年(平成10年)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "営団地下鉄は路線免許取得後、建設工事に向けて手続きを進めていたが、特に練馬区北町(地下鉄赤塚 - 平和台付近)で用地取得が難航したことや平和台 - 要町間の地上を通る放射第36号道路との調整があり、建設工事の着手は遅れた(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "有楽町線が最初に計画された1968年(昭和43年)時点では車両基地は成増付近に計画されていたが、既に周辺は住宅地として開発されており、用地取得の難航が予想されたため、和光市駅 - 朝霞駅間に位置した土地を取得して、和光市付近に車両基地(現在の和光検車区)を設けることとなった。また、和光検車区 - 営団成増間は車庫線(回送線)として計画していたが、沿線住民などから営業線とするよう強い要望があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)3月1日に答申された都市交通審議会答申第15号では、第8号線の起点側が中村橋から保谷に変更され、終点側は明石町 - 湾岸間及び豊洲 - 東陽町 - 住吉町 - 押上 - 亀有間が追加された。同答申では保谷 - 練馬間は西武池袋線を複々線化することが示されたほか、中村橋 - 護国寺間は削除され、護国寺 - 目白間が東京12号線に編入され、志木 - 向原間は東京13号線として分離された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このうち、小竹向原駅 - 新木場駅間が有楽町線、練馬駅 - 小竹向原駅間が西武有楽町線、石神井公園駅 - 練馬駅間が西武池袋線の線増分(複々線化)としてそれぞれ開業している。終点側は京葉間の湾岸沿いに海浜ニュータウン付近まで計画されていたが、ほぼ同じルートで計画されていた京葉線が当時は貨物専用線として計画が進行しており、後に旅客線へと用途が変更されたことを受けて有楽町線は新木場までの計画路線に短縮した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "答申第15号で削除された中村橋 - 目白 - 護国寺間(9.6 km)の分岐線は、不忍通り・目白通り・千川通りに沿うルートにて都市計画決定され現在も有効であるが、前述の通り路線免許は申請段階で取り下げられており、また東京12号線(都営地下鉄大江戸線)の支線として編入された区間も東京都交通局が免許申請を見送り、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号で削除されたため、事実上の計画中止となっている。なお、この分岐線の護国寺駅は現在の有楽町線と別個の駅施設として計画され、直通は考慮されていなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、上記答申第15号で新たに東京13号線は「志木 - 和光市 - 成増 - 向原 - 池袋 - 東池袋 - 目白東 - 諏訪町 - 西大久保 - 新宿に至る路線」として答申され、「なお、新宿より渋谷、品川を経て羽田方面への延伸を検討する」とされた。同答申では志木 - 和光市間は東武東上線を複々線化することが示された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "既に第8号線(有楽町線)として建設していた成増 - 小竹向原間は第13号線の一部に編入され、小竹向原 - 池袋間は第8号線と第13号線が並行することとされたが、営団地下鉄はこの区間の建設着工時期が迫っていた。このため、運輸省(当時)と協議を行い、小竹向原 - 池袋間は工事方法の変更扱いとした複々線区間とし、和光市 - 成増間は第15号答申に基づいて路線免許を申請することとした。建設予算は1975年度より第8号線・第13号線の区別なく、有楽町線和光市 - 明石町(後に新木場)間に含まれることになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第13号線の制定に伴い、営団地下鉄は西武鉄道ならびに東武鉄道と協議を行い、1975年(昭和50年)8月に第8号線と第13号線との相互直通運転に関する以下に示す覚書を取り交わした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これは営団地下鉄が成増 - 小竹向原間は第8号線として建設工事に着手し、周辺住民へ「銀座へ直通できる」と宣伝して協力を得ていたことから、和光市方面から有楽町線方面へ行ける列車を設定する必要があったためである。しかし、用地買収や周辺住民への建設同意の問題などから建設工事は大幅に遅れ、小竹向原 - 池袋間の第13号線施設の使用は当面見送られた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、営団地下鉄は東武東上線志木 - 和光市間の複々線化計画に合わせ、和光市駅を介して東武東上線と第13号線が相互直通運転を行うことを決定し、和光市 - 営団成増間を営業線として建設するため、同区間の地方鉄道敷設免許を申請することに変更した。和光市 - 営団成増間は1978年(昭和53年)9月に着工し、この時点で和光市 - 池袋間は1981年(昭和56年)9月の開業を予定したが、和光市駅付近の用地買収が遅れたことから1987年(昭和62年)秋まで開業が遅れた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "都市交通審議会答申第15号からすれば、和光市 - 池袋間は第8号線(有楽町線)とは別路線の「第13号線」(現在の副都心線)であるが、この区間は有楽町線池袋 - 新富町間と一体で運行されることや乗客の混乱を起こさないためにも、和光市 - 池袋間も「有楽町線」と呼称することとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このうち和光市駅 - 小竹向原駅間が有楽町線として、志木駅 - 和光市駅間が東武東上線の複々線としてそれぞれ開業した。なお、第13号線の小竹向原駅 - 池袋駅(→新線池袋駅)間は有楽町線新線(現・副都心線)として1994年12月に開業している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "小竹向原駅は西武有楽町線との分岐点となることから2面4線構造として、池袋方には和光市方面からの第13号線列車と、練馬方面からの第8号線列車が双方に乗り入れができるよう、10両編成+αの長さを持つ6線区間を設置した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "小竹向原 - 池袋間は、第8号線と第13号線のトンネルを上下に重ねた一体構造となっている。これは第8号線開業後に改めて第13号線トンネルを構築することは困難であり、上下構造のトンネルを構築することは経済的であること、また第8号線と第13号線のトンネルを並行させることは地上の道路幅の制約から困難であり、用地を節約できる上下トンネル構造を採用した。千川駅と要町駅では、地下2階は第8号線(有楽町線)のホーム、地下3階は第13号線(副都心線)のホームとなっており、1983年(昭和58年)の有楽町線開業時点では地下2階部のみ使用を開始した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第8号線成増 - 池袋間のうち、川越街道(国道254号)の地下を通る区間(地下鉄成増 - 地下鉄赤塚付近)を除いた区間は、東京都の放射第35号道路、放射第36号道路および補助線街路第78号線(補助第78号線)の計画道路と競合しており、特に放射第36号道路は周辺住民から大きな反対運動があり、当初から用地交渉の難航が予想されていた。川越街道(国道254号線)の地下を通る区間は1972年(昭和47年)2月に建設工事に着手され、1975年(昭和50年)3月に完成していたが、前後の区間の開業が大幅に遅れたため、施設は8年間にわたって未共用の状態となっていた。ただし、オイルショックによるインフレ発生前に完成したため、結果的に建設費用を抑えることができた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "平和台 - 池袋間では東京都の街路事業(都市計画道路)と地下鉄の建設を同時に施工する予定であった。しかし、現道がなく新たに道路を整備する氷川台 - 千川間では、周辺住民から排気ガスや騒音を懸念して計画道路への反対が根強く、道路計画に地下鉄建設も巻き込まれて用地交渉は難航した。ただし、地下鉄建設には賛成の住民が多かった。最終的にはオイルショックの影響によって東京都の財政が急激に悪化し、道路整備は困難となったことから、営団地下鉄は1975年(昭和50年)9月に地下鉄を先行して建設し、東京都の計画道路は地下鉄建設後に改めて整備することに変更した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "建設目的の一つには、車体規格が小さく編成長も短いことから輸送力増強に限界のある丸ノ内線の混雑緩和があった。池袋駅の乗り換えが便利であったため、日比谷線に対する千代田線同様、混雑の緩和に大きく寄与した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、1974年(昭和49年)の銀座一丁目 - 池袋間の開業にあたり、丸ノ内線中野坂上駅、日比谷線恵比寿駅に次いで、池袋駅に4基、銀座一丁目駅に2基の自動改札機が設置された。これは、当該区間では他線との改札内連絡がなかったため、集改札自動化の実証実験線区として好適であったためである。両端駅である池袋駅、銀座一丁目駅以外には自動改札機は設置されなかったが、有楽町線の全駅で磁気化券が発売されており、普通乗車券による出場にも対応していた。しかし、当時は他の路線での乗車券の磁気化が進んでおらず、効率的な運用ができなかったことから、営団成増(現・地下鉄成増)延伸時に一旦撤去され、当時の試みは失敗に終わっている。その他、大手町駅で採用された案内サインシステムを全面的に採用した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "13号線については新線池袋駅から西早稲田、新宿三丁目を経て渋谷駅に至るルートが2008年(平成20年)6月14日に東京メトロ副都心線として開業した。さらに、副都心線は2013年(平成25年)3月16日から渋谷駅から東急東横線経由でみなとみらい線元町・中華街駅まで乗り入れを開始した。また、今後の整備計画として8号線については豊洲駅から分岐して野田市駅までの延伸計画がある(詳細は「都市高速鉄道8号線延伸構想」の節を参照)。この区間はかつて営団地下鉄が1982年(昭和57年)1月29日に豊洲 - 亀有間 (14.7 km) の地方鉄道事業免許を申請していたが。免許の交付はされていなかった。営団地下鉄の計画では、1985年度から1992年度の工期で、建設費用は2,720億円を見込んでいた。その後、2022年(令和4年)に東京メトロは豊洲 - 住吉間の鉄道事業許可を申請し、同年国土交通大臣から許可された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "有楽町線は、東京地下鉄において最初に埼玉県に延伸された路線である。東京地下鉄で東京23区外に延びている路線は、当線との重複区間がある副都心線を除くと当線と東西線のみであり、都営地下鉄も含めた東京の地下鉄全路線でも他に都営新宿線を加えた3路線のみである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「有楽町線」の名称は、1973年(昭和48年)11月1日から同年12月15日までの期間で一般公募が行われ、30,591通の応募があり、2,519種類の路線名が提案された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その時の得票数第1位は「麹町線」であった。しかし、「麹」の漢字が当用漢字(当時)でないため難しく親しみにくいということ、2位「有楽町線」・5位「有楽線」などの「有楽町」に関する名称がついた内容が記載されたものが多かったこと、将来的に湾岸エリアに延伸する予定であり(選定当時)、延伸開通後有楽町が路線の中間点に位置することから、1974年(昭和49年)1月9日に「有楽町線」と決定した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "応募の中には「カンガルー線」(\"有\"楽町・池\"袋\" → 有袋類の連想)というものもあったという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "当路線の和光市 - 新木場間(有楽町線新線として建設された区間は含まない)の建設費用は総額4,920億円である。その内訳は土木関係費が2,961億5,032万8,000円、電気関係費が448億2,681万2,000円、車両関係費が658億5,965万4,000円、その他が851億6,320万6,000円となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "当路線では国鉄(当時・日本国有鉄道)を除き、地下鉄・私鉄で初めて60 kgレールを採用した(本線部)。60 kgレールを採用することで、レールの強度が1.5倍、耐用年数は4 - 6年長くなる。軌道構造は地下区間では従来から直結軌道を採用してきたが、振動・騒音が大きいことから、本路線では新たに「防振マクラギ構造」を採用した(民有地近辺)。初期はレールと枕木の間にゴムパッドを、枕木は防振ゴムで覆うものであったが、新富町開業以降、枕木部はレール支持部下に防振ゴム、防振パッド、防振クッションから構成される防振装置を敷き、レール間下を中空とした新しい構造を採用した。バラスト軌道区間においても、軌道下に防振マットまたは防振シートを敷き、いずれも振動・騒音低減に大きな効果を発揮した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "和光市駅から東武東上線を経由して川越市駅(朝夕は森林公園駅)まで、小竹向原駅からは西武有楽町線経由池袋線直通で小手指駅(朝・夕の一部列車は飯能駅)までそれぞれ相互乗り入れを行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "有楽町線のみの運行となる列車や東武東上線直通列車は全区間各駅停車で運行されているが、西武池袋線直通列車は西武線内を準急・快速・快速急行として運行する列車があり、この場合は小竹向原駅で種別変更を行う。また後述するように2017年3月25日から有料指定列車「S-TRAIN」が運転開始された。有楽町線へは平日ダイヤのみ乗り入れ、小手指駅 - 豊洲駅間で朝に所沢発豊洲行き2本・夕方以降に豊洲発小手指行きを5本運転している。有楽町線内の途中停車駅は飯田橋駅・有楽町駅の2駅で、豊洲行は降車専用、小手指行は乗車専用となり、西武線内のみや有楽町線内のみの利用は不可能である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "和光市駅 - 小竹向原駅間は副都心線と線路・駅施設を共有し、新木場駅発着の列車と渋谷方面(東急東横線・みなとみらい線・東急新横浜線・相鉄線直通)の列車がともに運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "副都心線との共用区間である和光市 - 小竹向原間では10両編成と8両編成の列車で運行されているが、小竹向原 - 新木場間はすべて10両編成の列車で運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "平日朝のラッシュ時の池袋方面では数多くの列車が運行され、小竹向原駅で新木場方面と渋谷方面に振り分けられている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "その他、野球や花火大会などのイベント開催時に運転される臨時列車がある(詳細は「臨時列車」の項を参照)。特に、埼玉西武ライオンズ主催試合など西武ドームでのイベント開催日には西武有楽町線・池袋線西所沢駅経由狭山線西武球場前行が運転され、東京都心および湾岸地区から西武ドームまで乗り換えなしで移動することができる。また、かつては年間30日程度、小田急線直通の臨時特急が運転されていた(詳細は「特急ロマンスカー「ベイリゾート」」の項を参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "運用番号の末尾は、東京地下鉄車がS、東武車がT、西武車がMである。東武車は西武の路線に入線できず、西武車は東武の路線に入線できない。副都心線・東横線・みなとみらい線の10両編成列車と共通運用で、東京地下鉄車はもちろん、東武車と西武車にも有楽町線のみの運用があり、西武車も和光市駅まで乗り入れる。東京地下鉄車の一部運用には東武東上線川越市方面および和光市発の列車が、新木場折り返し後に西武池袋線石神井公園方面行の列車となる運用もあり、その逆の運用もある。一方、有楽町線新木場発の列車が和光市・東上線川越市方面・池袋線石神井公園方面で折り返して副都心線・東急東横線・みなとみらい線元町・中華街方面行となる運用もあり(10両編成のホーム有効長の関係上、東横線・みなとみらい線内は急行以上の種別)、その逆の運用もある。運用番号は東京地下鉄車(21S - 97S)は奇数(ただし、平日ラッシュ時は一部の列車が偶数番号で運用された。/48S、52S)、東武車(01T - 23T)と西武車(02M - 38M及びS-TRAINに充当される40000系限定の50M - )の偶数がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "副都心線で運用される東急電鉄・横浜高速鉄道・相模鉄道の車両は、ダイヤ乱れなど特別の場合を除き、有楽町線の小竹向原 - 新木場間には入線しない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "参考のため、和光市 - 小竹向原の線路共用区間を走る副都心線の列車も記載する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "東武東上線直通列車は志木駅(平日のみの設定)・川越市駅・森林公園駅発着が運転されている。日中の川越市駅発着列車は、小竹向原駅で西武池袋線系統のFライナーに連絡する。また同駅06分および36分発の新木場行き、29分および59分発の和光市行きは同駅で森林公園駅発着のFライナーに連絡する(緩急接続)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "一方線内運転の列車の大多数の列車は和光市駅 - 新木場駅間の運転だが、一部列車は新木場駅 - 池袋駅間の運用がある。また新木場駅 - 小竹向原駅間の列車が設定され、平日は新木場行2本、土休日は小竹向原行・新木場行が1本ずつある。2013年3月16日のダイヤ改正では平日朝に豊洲行きが設定されたが、2019年10月15日のダイヤ修正までに新木場行きに延長され消滅している(詳細は豊洲駅#駅構造を参照)。初電として市ケ谷発和光市行き、有楽町発新木場行きがある。終電として平日に川越市始発(土休日は和光市始発)池袋行きが1本ある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "東上線内で人身事故・各種トラブルなどにより直通運転を見合わせた場合、すべて和光市駅での折り返し運転となるが、その逆もある。また池袋駅で運転を取りやめることもある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "石神井公園駅、清瀬駅発着を中心に運転され、所沢発着も運転されている。飯能発着はわずかに運転されている。平日のみ清瀬発豊洲行き列車が一時期存在していたが、和光市方面・東武東上線直通の節で前述の通り、現在は設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "日中の小手指駅・保谷駅発着各駅停車は、小竹向原駅で、副都心線各駅停車・東急東横線内急行の和光市駅発着列車(東武東上線森林公園駅発着のFライナーの直前・直後)に連絡する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "西武線内の種別は各駅停車以外に準急・快速・快速急行として運行されるものがある。列車種別はすべて小竹向原駅で変更される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "池袋線内での人身事故・各種トラブルなどにより当路線との直通運転を見合わせた場合、西武線直通列車は池袋駅にて客扱いを打ち切り、小竹向原駅に回送した後に新木場方面へ折り返す。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "東京地下鉄線内の各駅に停車する種別。後述の準急廃止後も、副都心線の急行に対しての「各駅停車」の一つの系統としてこの種別の表現は残されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "有楽町線の種別表示は車種や所属会社によって「各駅停車」と「各停」が混在しているが、前者の場合でも西武池袋線内では「各停」表記に切り替えられる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "東上線内では普通として案内されるが、各停表示のまま運行されることもある。このほかダイヤ乱れの際には、副都心線直通列車の運用変更などにより東上線内急行・快速急行として運転される場合もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "西武池袋線内は各停以外に小竹向原駅で種別を変更して快速・準急・快速急行として運行するものがある。かつては新木場駅から西武池袋線内の種別を案内していた(正確には各停は西武有楽町線小竹向原駅から普通であった)。一方新木場方面行は西武有楽町線練馬駅から全列車が各駅に停車するため、練馬駅から普通、小竹向原駅から各停として案内されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2022年3月12日のダイヤ改正で日中の西武線直通列車は1時間6往復から4往復に減便され、減便分の運行区間が新木場駅 - 池袋駅間となったため、日中でも池袋行きが設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2017年3月27日より平日の通勤時間帯に運行を開始した座席指定列車。豊洲駅発着で全列車が西武有楽町線・池袋線に直通する。乗車には座席指定券が必要で、途中飯田橋駅・有楽町駅のみ停車する(池袋駅も通過。なお乗務員交代のため小竹向原駅に運転停車する)が、各駅とも朝は降車のみ・夕方は乗車のみの扱いとなり有楽町線内のみの利用は出来ない。有楽町線内で通過駅の設定がある種別としては2010年に廃止になった準急以来となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "なお、土休日は副都心線・東急東横線・みなとみらい線直通(元町・中華街駅発着)となり、有楽町線には乗り入れない。また、座席指定列車のS-TRAINに限り、座席指定券の確認などを行うことから車掌が乗務しているため、ワンマン運転の対象外である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "副都心線開業後、当路線の和光市駅 - 小竹向原駅間は副都心線との共用区間となっている。この区間には副都心線の各駅停車・通勤急行・急行も運転されている。詳しくは「副都心線」を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2008年6月14日の副都心線開業に伴い、併走区間・線路共用区間のある有楽町線でも大幅なダイヤ改正が行われた。その際の主な変化は以下のとおりである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "小田急電鉄所属の60000形「MSE」により小田急線と千代田線を直通する特急ロマンスカーの一部を、「ベイリゾート」として年間30日程度、千代田線北千住駅から当路線の新木場駅に行き先・始発駅を変更して運転していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "有楽町線桜田門駅と千代田線霞ケ関駅間を結ぶ連絡線(詳しくは後述)を経由し、霞ケ関駅で方向転換を行う。有楽町線内では豊洲駅と新木場駅のみに停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2011年9月25日以降運行を休止していたが、2012年3月17日のダイヤ改正で運行中止となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "相互乗り入れ先での種別ということではなく、有楽町線内で通過駅のある列車として初めて設定された種別。2008年6月14日のダイヤ改正で、平日の昼間と、土休日の早朝・深夜を除く時間帯に設定された。併走区間がある副都心線急行・通勤急行とともに、東京の地下鉄での料金不要の優等列車の運転は、東西線快速、都営新宿線急行、都営浅草線エアポート快特に次いで4例目であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "停車駅は和光市、小竹向原、池袋 - 新木場間の各駅であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "イメージカラーは黄緑。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "設定当初は東武東上線および西武線との相互直通運転をする列車も存在した。運転本数は新木場方面は毎時3本(和光市発2本、小手指発1本)、和光市・東上線系統と西武線系統は毎時各2本ずつで、土休日ダイヤでは21時頃まで運転され、平日で往復22本(土休日は往復44本)が運行されていた。しかし、同年11月29日のダイヤ改正で平日・土休日ダイヤとも日中のみ、両方向とも毎時2本(1日あたり10往復)に大幅減便した上ですべての準急が和光市 - 新木場間の線内運転のみとなり、東武東上線・西武線直通準急や夕方以降の準急は各駅停車に格下げされた。さらに、準急の運行によって要町駅・千川駅では停車列車の本数・乗客の利用機会が減少したため、2駅が所在する豊島区議会は準急全廃を求める意見書を出していた。こうした意見を受け、東京メトロは2010年3月6日のダイヤ改正で準急を廃止することを発表し、有楽町線の準急は登場から2年足らずで姿を消した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "東上線直通の準急は和光市駅で「普通」に種別変更の上、東上線内を普通列車として運行していた(東上線準急と停車駅が変わらないので、7000系の一部車両は「準急」のまま走らせる場合もあった。また、東武車両のフルカラーLED表示は有楽町線準急が緑色、東上線準急が青色であった)。ただし、東上線直通の準急は本数が少なく、平日は新木場→川越市の片道1本が運転されるのみ、土休日も朝の川越市→新木場の3本と夕方以降の5往復が運転されるのみで、土休日に1本森林公園行きがある以外はすべて川越市発着であった。一方、西武線直通の準急は西武線内でも「準急」として運行するものと、小竹向原で「各停」「快速」に種別変更を行うものがあった。また、西武線直通の準急は小手指発着を中心に本数が多く、一部列車は清瀬発着・飯能発着として運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "なお、有楽町線の準急が廃止された後も、前述の副都心線の急行(Fライナー含む)が和光市、小竹向原、池袋と停まる速達列車として存続している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "現在の車両はすべて副都心線と共通であり、小竹向原以東は原則として10両編成の自社車両・西武車・東武車のみが入線するが、和光市 - 小竹向原間および並走区間である小竹向原 - 池袋間の副都心線の線路には8両編成の自社車両・東急車・横浜高速車・相鉄車も入線する。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "小竹向原駅 - 新木場駅間に乗り入れる車両を挙げる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "現在、有楽町線内では各駅停車のみが運行されている。車両側では「各駅停車」と種別を表示する。これに対し、和光市駅 - 小竹向原駅以外の駅の発車案内標では、種別欄が空白となる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "東武東上線と相互乗り入れする列車は、東上線内ではすべて「普通」であるため、和光市駅にて「各駅停車」と「普通」の種別表示を変更する。また、西武線と相互乗り入れする列車は、小竹向原駅で種別表示を変更し、有楽町線内での西武線内の種別の表示は行わずに「各停」と表示する。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "なお、副都心線開業前も、有楽町線内は全列車各駅停車であり、副都心線開業前は車両によって種別表示の有無が異なっていた。なお、副都心線開業前は「各停」は用いられず、種別表示は「普通」であった。また、以下のようになっていた。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2005年10月31日から導入され、2013年3月18日より設定時間帯を変更した。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "各駅の出入口が先頭車両あるいは最後尾車両に存在する場合が多い。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "なお、ダイヤ乱れ時には女性専用車の運用は取りやめられる。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の最混雑区間(A線、東池袋 → 護国寺間)の混雑率は131%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "東上線との直通運転を開始した1987年度は混雑率が229%を記録したが、輸送力の増強により1993年度に180%程度に緩和された。1998年度以降は輸送人員が減少傾向となり、副都心線が開業した2008年度に混雑率が170%を下回った。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2007年度の一日平均通過人員は池袋 - 飯田橋間で37万人を超えており、そのうち江戸川橋 - 飯田橋間が378,275人で最も多い。飯田橋で輸送量が減少し、飯田橋 - 市ケ谷間は301,399人である。その後は豊洲まで輸送量が20万人を超えるが、豊洲で再度輸送量が減少し、豊洲 - 辰巳間が112,576人である。一方、和光市方面は池袋を境に輸送人員が減少する。特に西武線と分岐する小竹向原で輸送量が減少し、氷川台 - 小竹向原間が229,420人である。その後も減少傾向が続き、埼玉県との都県境を越える和光市 - 地下鉄成増間が113,140人である。最も通過人員が少ないのは辰巳 - 新木場間で、92,483人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この路線には、他の路線への連絡線が2本ある。", "title": "連絡線" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "この2つの連絡線は主に千代田線の綾瀬工場へ検査を受ける車両を回送するためにあるが、臨時列車がごく稀に運転される。2002年からは夏の花火大会と冬の年末年始に関連した臨時列車が運転されるのが定番化している。この臨時列車は相互乗り入れの関係上、千代田線からの直通は同線車両(16000系、過去には06系や6000系)、南北線からの直通は同線車両(9000系)が使用される。また、後者の連絡線は半蔵門線用の8000系を更新するため新木場CRへ回送する際にも用いられた。この回送は鷺沼車両基地から東急田園都市線・大井町線・目黒線・南北線を経由して連絡線から有楽町線に入り新木場というルートとなる。", "title": "連絡線" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "沿線でのイベントなどで臨時列車が運行されることがある。連絡線を介して運行されることが多いが、中には乗り入れ路線発着とした列車が運行される。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "下記のほかにも、2004年9月に新木場検車区(現・和光検車区新木場分室)撮影会への臨時列車(千代田線06系・6000系、南北線9000系を使用)や、10月に開業30周年記念列車を運転したことがある。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "西武ドームでの催事の際には、西武線直通の定期列車の一部を狭山線西武球場前行きに変更して運行される。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2002年度から、東京湾大華火祭会場最寄りの豊洲駅への輸送を担う列車として打ち上げ花火の名称にちなんだ臨時列車が運行されている。基本的には同大会の開催日に運行されるため中止時は運行されない。往復とも運転される列車には1号、2号、と号数が付く。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "なお、2006年は8月12日に運転される予定であったが、雨の影響で開催できなかったため、運転予定の列車すべてが運転中止となった(同大会は翌13日に開催されたが、都営大江戸線の臨時列車は運行された)。また、2007年は愛称の付かない線内運転の臨時列車となった。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "いずれも、先頭車の前面に愛称毎のヘッドマークを掲出して運転する。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "なお、2003年度から2005年度までは東急田園都市線中央林間駅から東京メトロ半蔵門線永田町駅まで「HA・NA・BIリレー号」(2003年度は半蔵門駅まで運行)と「スターライト号」(2004・2005年度)を運行していた。両愛称とも永田町駅で他の臨時列車に連絡するリレー扱いの臨時列車である。2006年度は運行しなかった。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2003年12月27日・28日・30日と2004年12月25日・26日には、東京ミレナリオ会場最寄りの有楽町駅への輸送を担う列車として「東京ミレナリオトレイン」という臨時列車が運行され、先頭車の前面にヘッドマークを掲出して運転していた(2005年は運行しなかった)。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2004年10月9日と10日に日比谷公園で開催される予定であった「第11回鉄道フェスティバル」への臨時列車も設定されていた。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "いずれも10月9日に運転される予定であったが、台風のため、鉄道フェスティバルが同月10日のみの開催となったため運転中止となった。また、2005年度以降は運転されていない。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "鉄道の日を記念して、2001年まで営団地下鉄(当時)が中心となって関東私鉄5社が合同で企画された団体臨時列車で、各ルート別に参加者を募って団体列車として運転された。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "途中の地下鉄霞ケ関駅で一旦下車し、各ルートからの参加者が合流して、メインイベントが開催された。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "なお、2002年以降、ドリームエキスプレスのイベントが開催されなくなったが、この時の5社合同企画が、後の東京湾大華火祭の臨時列車の企画に発展していく。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2015年6月5日・6日には、西武鉄道が新木場駅近くにあるSTUDIO COASTで開催されるクラブイベントageHaとタイアップし、日本初の列車内EDMイベント臨時列車「ageHa TRAIN」が運転された。", "title": "臨時列車" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2011年2月23日以降、地下鉄成増駅と地下鉄赤塚駅を皮切りに、ホームドアの使用を開始した駅から順次発車メロディ(発車サイン音)を導入している。全てスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、谷本貴義の3名が作曲を手掛けた。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "曲名はスイッチの音源リストおよび同社が運営する「鉄道モバイル」による。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "豊洲駅で有楽町線から分岐して東武野田線野田市駅まで第8号線を延伸する構想がある。そのうち、豊洲駅 - 住吉駅間4.8 kmについては、東京メトロが有楽町線の延伸として鉄道事業許可を申請し、国土交通大臣から第一種鉄道事業許可を受けている。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "都市交通審議会答申第15号で豊洲 - 亀有間 (14.7 km) が追加されたことを受け、営団地下鉄は1982年(昭和57年)1月29日にこの区間の鉄道事業免許を申請している。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号において、第8号線は、豊洲から北へ分岐する路線が住吉 - 四ツ木間で第11号線(半蔵門線)と線路を共用し常磐線亀有駅(さらにJR武蔵野線方面)へ至る路線に変更されており、豊洲駅と半蔵門線住吉駅は線路が分岐できるよう2面4線の構造で建設されている。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "沿線自治体となる江東区・墨田区・葛飾区・松戸市の3区1市(及び東京都・千葉県の1都1県)は1986年(昭和61年)に「地下鉄8・11号線促進連絡協議会」を組織し、2007年・2008年(平成19年・平成20年)に実施した調査の結果、同協議会が推進する8号線・11号線の延伸計画のうち、豊洲駅 - 住吉駅間(約5.2 km)からの段階的な整備を要望する方針を示し、早期事業化を目指した活動が行われている。うち、江東区(当該先行区間唯一の沿線自治体)は地下鉄8号線の建設および関連付帯設備に要する経費に充てるためとして、「(仮称)江東区地下鉄8号線建設基金」を設置し、平成22年度(2010年度)予算に5億円を計上した。また、豊洲市場を受け入れる条件にもなっているとして東京都などに早期の延伸実現を強く求めている。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ただし、東京メトロは2009年(平成21年)度3月期の有価証券報告書において申請時から事業環境の変化を理由に「整備主体となることは極めて困難」と事業化に消極的な態度を表明していた。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "江東区は2011年7月に第三セクターを設立して整備を担い、運営を行う上下分離方式で整備し、豊洲 - 東陽町間(枝川付近)、東陽町 - 住吉間(千田付近)に新駅を建設する計画案をまとめた。2012年8月現在、江東区・東京都・東京メトロなどと検討委員会を作り協議中で、2015年度までの着工を目指していた。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2021年に国土交通省が交通政策審議会鉄道部会内に設けた「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等に関する小委員会」において東京メトロの完全民営化(株式売却)と並行して都心部・品川地下鉄構想と共に有楽町線の延伸計画に触れられており、2021年7月8日行われた第5回小委員会と、同年7月15日に示された「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について」答申において、同区間について東京メトロが主体となって整備を進めるのが適切だとする素案を示すとともに、国や東京都が建設費を補助する方向性を示した。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "事業費は2019年時点の試算で1560億円だが、建築資材や人件費の高騰で膨らむ見込みとなり、事業費の4分の3を国や都が支援し、東京メトロの借入金には財政投融資を充てる方針である。2022年1月8日には、延伸に向けた作業が同年4月から本格的に始まる見通しになった。 2022年度は地質調査や環境影響評価などを行い、具体的な金額は2021年度末に決まるが、国と都で計十数億円の見通しとしている。国は2022年度の予算案に環境影響などの調査を補助する費用を計上し、都も新年度予算案に同様の費用を盛り込む方針である。東京メトロは2022年(令和4年)1月28日に豊洲 - 住吉間約4.8 kmの鉄道事業許可を国土交通大臣に申請し、同年3月28日に第一種鉄道事業の許可を受けた。開業時期は2030年代半ばで、事業費は2689億8200万円を予定している。補助金が1738億3200万円、財政投融資資金から951億5000万円を見込んでいる。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "新たな駅として、(仮称)枝川駅(豊洲起点1.250 km)、(仮称)東陽町駅(豊洲起点3.070 km)、(仮称)千石駅(豊洲起点4.180 km)の3駅を設置する。また、東陽町は同名の駅がある東西線の地下に新駅が作られ、乗換駅となる。運転間隔は1時間あたり日中で約8本、朝のピーク時で約12本を予定している。本線への乗り入れ本数は今後検討するとし、半蔵門線乗り入れは現時点では検討されていない。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "本路線に係る損益は開業14年目で単年度損益が黒字転換、開業29年目に累積損益が黒字転換し、累積損益収支は開業29年目に黒字転換、累積資金収支は開業40年目に黒字転換を想定している。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "住吉駅以遠については、八潮駅(つくばエクスプレス)・越谷レイクタウン駅(武蔵野線)を経由する形での延伸も検討されている。現在のところ構想段階であり、運輸政策審議会答申第18号では「2015年までに整備着手することが適当である路線」と位置付けられたが、決定はなされていない。", "title": "都市高速鉄道8号線延伸構想" } ]
有楽町線(ゆうらくちょうせん)は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都江東区の新木場駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。都市交通審議会における路線番号の区間は、小竹向原駅 - 新木場駅間が8号線、和光市駅 - 小竹向原駅間が13号線であるが、国土交通省監修『鉄道要覧』では和光市駅 - 新木場駅間が8号線有楽町線と記載されている。 路線名の由来は、有楽町を経由することから(後節も参照)。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ゴールド」(#c1a470、金色)、路線記号はY。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Redirectlist|有楽町線|旧「有楽町線新線」|東京メトロ副都心線|西武鉄道の鉄道路線|西武有楽町線}} {{画像提供依頼|<u>有楽町線内</u>を走行する17000系|date=2023年1月|cat=鉄道}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Tokyo Metro logo.svg|20px|東京地下鉄|link=東京地下鉄]] 有楽町線 |路線色=#c1a470 |ロゴ=File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg |ロゴサイズ=40px |画像= Tokyo-Metro-Series17000 17005.jpg |画像サイズ=300px <!-- あくまで「路線記事」なので *有楽町線内* か、新木場行きの電車の画像をお願いします。--> |画像説明=有楽町線の[[東京メトロ17000系電車|17000系]]電車<br>(和光市駅、2021年) |国={{JPN}} |所在地=[[埼玉県]]・[[東京都]] |種類=[[地下鉄]] |路線網=[[東京地下鉄|東京メトロ]] |起点=[[和光市駅]] |終点=[[新木場駅]] |駅数=24駅 |輸送実績=3,035,621千[[輸送量の単位|人キロ]]<small>(2019年度)<ref name="passenger numbers">{{Cite web|和書|url=https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041401.xls|title=東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)/運輸|format=XLS|publisher=[[東京都]]|accessdate =2021-07-31}}</ref></small> |1日利用者数= |路線記号=Y |路線番号=8号線 |路線色3={{Legend2|#c1a470|ゴールド}} |開業=[[1974年]][[10月30日]] |最終延伸=[[1988年]][[6月8日]]<ref name="交通880608" group="新聞">{{Cite news |title=営団地下鉄有楽町線が全通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1988-06-08 |page=1 }}</ref> |休止= |廃止= |所有者=[[東京地下鉄]] |運営者=東京地下鉄 |車両基地=[[和光検車区]]・[[新木場車両基地|和光検車区新木場分室]]<!-- 東京メトロハンドブック2009参照 -->・[[飯田橋検車区]](前身の[[帝都高速度交通営団|営団]]時代に廃止)<br/>[[小手指車両基地]]・[[武蔵丘車両基地]](西武)<br/>[[森林公園検修区]](東武) |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=28.3&nbsp;[[キロメートル|km]]<ref name="metro2" /> |軌間=1,067&nbsp;[[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])<ref name="metro2" /> |線路数=[[複線]] |複線区間=全区間 |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> |最大勾配=35&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="Yurakucho939-940">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.939 - 940。</ref> |最小曲線半径=150.0&nbsp;m<ref name="Yurakucho939-940"/><br>(護国寺→江戸川橋・A線<ref name="Yurakucho939-940"/>) |閉塞方式=速度制御式 |保安装置=[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]<br>[[自動列車運転装置|ATO]](全線) |最高速度=80&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" /> |路線図=File:Tokyo metro map yurakucho.png }} '''有楽町線'''(ゆうらくちょうせん)は、[[埼玉県]][[和光市]]の[[和光市駅]]から[[東京都]][[江東区]]の[[新木場駅]]までを結ぶ、[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営する[[鉄道路線]]である<ref name="Yurakucho-Const49">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.49。</ref>。[[都市交通審議会]]における路線番号の区間は、[[小竹向原駅]] - 新木場駅間が'''8号線'''、和光市駅 - 小竹向原駅間が'''13号線'''であるが、[[国土交通省]]監修『[[鉄道要覧]]』では和光市駅 - 新木場駅間が'''8号線有楽町線'''と記載されている。 路線名の由来は、[[有楽町]]を経由することから([[#路線名|後節]]も参照)。車体および路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「ゴールド」(#c1a470、[[金色]])<ref name="color">{{Cite web|和書|url=https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604113943/https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|title=東京メトロ オープンデータ 開発者サイト|archivedate=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、路線記号は'''Y'''。 == 概要 == {{東京メトロ有楽町線路線図}} 有楽町線は、東京都心部を概ね北西から南東に縦貫する路線である。A線(和光市→新木場方面)を基準とすると、和光市から小竹向原・[[池袋駅|池袋]]・[[飯田橋駅|飯田橋]]付近までは概ね南東方向に走り、飯田橋から[[市ケ谷駅|市ケ谷]]までは[[東京メトロ南北線|南北線]]およびJR[[中央・総武緩行線]]に沿うような形で一旦南西に進路を変えるが、市ケ谷からは南東方向に進路を戻して、[[永田町駅|永田町]]・[[有楽町駅|有楽町]]・[[豊洲駅|豊洲]]と直進し、終点の新木場に至る。 和光市駅を出発すると、35‰の急勾配を上がって[[東武東上本線|東武東上線]]の下り線を跨ぎ、しばらく並走する<ref name="Yurakucho-Const432 - 433">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.432 - 433間「別図 有楽町線線路平面図及び縦断面図」。</ref>。都県境を跨ぎ、東上線が[[成増駅]]に接近する直前に当線は地下に潜り、[[地下鉄成増駅]]に到着する。東上線とは[[地下鉄赤塚駅]]・[[下赤塚駅]]まで並走した後、離れる。そして、[[西武有楽町線]]と合流した後に小竹向原駅に到着、出発して560 mほど進むと[[東京メトロ副都心線|副都心線]]が分岐し、池袋駅までは当線の直下を走る線路別[[複々線]]をなし、同駅から新木場方面および[[渋谷駅|渋谷]]方面へと分岐する。 地下区間は複線構造の[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]を基本としながら、前述の副都心線並走区間は上下2段構造のトンネル、[[麹町駅]]および[[銀座一丁目駅]]は地上の道路幅が狭いことから上下2段構造になっている<ref name="Yurakucho-Const539">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.539 - 540。</ref>。本路線では[[シールドトンネル|シールド工法]](単線および複線トンネル)が大幅に採用されており、また[[永田町駅]]は駅シールド工法により建設された<ref name="Yurakucho-Const539"/>。特に[[千代田区]][[麹町]]では[[三菱銀行]](現・[[三菱UFJ銀行]])麹町支店の真下を通過し、ビルの[[杭基礎|基礎杭]]が支障することから、地上9階建て・総重量10,600 tのビルをアンダーピニング(下受け)して地下鉄トンネルを構築する大規模な工事となった<ref name="Yurakucho-Const429">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.429・526・645 - 648。</ref>(ただし、同ビルは[[2004年]]2月に建て替えられ、現在は麹町ダイヤモンドビルとなった)。 さらに[[辰巳駅]]を出発すると33 - 34.5‰の急勾配で地上(高架線)へと上がって、[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]と並行、直上にJR[[京葉線]]が合流すると終点の新木場駅に到着する<ref name="Yurakucho-Const432 - 433"/>。地下鉄成増駅前後 - 辰巳駅前後間約25&nbsp;kmのトンネル連続区間は東京メトロで最長である<ref group="注">直通運転先のトンネル区間も含めると、南北線と東急目黒線の目黒駅前後 - 赤羽岩淵駅間21.3&nbsp;km余りと埼玉高速鉄道線赤羽岩淵駅 - 浦和美園駅前後間の14.6&nbsp;km足らずの計約35&nbsp;kmが最長となる。</ref>。 [[月島駅|月島]] - 辰巳の各地下駅は[[東京湾]]が近く、[[高潮]]などの[[水害]]対策として、駅通路部に鋼鉄製の防潮扉を設置している<ref name="Yurakucho-Const772">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.772・832・833。</ref>。[[新富町駅|新富町]]の月島寄りと辰巳 - 新木場間には、トンネルの全断面を閉鎖する「防水扉」を設置している<ref name="Yurakucho-Const772"/>。通常はトンネル上部の機械室に収容しており、非常時には下降させてトンネルへの浸水を防ぐものである<ref name="Yurakucho-Const772"/>。 === 都市交通審議会答申第6号 === 1962年(昭和37年)[[6月8日]]に答申された[[都市交通審議会答申第6号]]では、第6号線以降の地下鉄が計画され、'''第10号線'''(当時)は「[[中村橋駅|中村橋]]方面より[[目白]]、[[飯田橋]]及び[[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]の各方面を経て[[錦糸町]]方面に至る路線」とされた<ref name="Hibiya-Const117-120">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.117 - 123・203 - 204。</ref>。この答申に基づいて、同年[[8月29日]]に告示された建設省告示第2187号では、答申の第10号線は'''都市計画第8号線'''として「中村橋駅 - [[江古田]] - [[西落合 (新宿区)|西落合]] - [[椎名町駅|椎名町]] - [[目白駅]] - [[江戸川橋駅|江戸川橋]] - [[飯田橋駅]] - [[神田神保町|神保町]] - [[神田須田町|須田町]] - [[緑 (墨田区)|東両国緑町]] - [[錦糸町駅]]」(17.5 km)が正式に決定した<ref name="Hibiya-Const117-120"/>。 この決定を受け、営団地下鉄は[[1962年]](昭和37年)[[10月16日]]、同時に都市計画を決定した第7号線([[東京メトロ南北線|南北線]])とともに、第8号線[[谷原|谷原町]] - [[江東橋]]間(都市計画上の中村橋から西にやや延伸した20.88 km)として地方鉄道敷設免許を申請した<ref name="Hibiya-Const117-120"/>。後に両路線とも東京都(東京都交通局)も路線免許を申請したことから、競願状態となる。 === 都市交通審議会答申第10号 === [[1968年]](昭和43年)[[4月10日]]に答申された[[都市交通審議会答申第10号]]では、第8号線は「[[成増]]及び[[練馬 (練馬区)|練馬]]の各方面より[[向原 (板橋区)|向原]]及び[[池袋]]の各方面を経由し、また、中村橋方面より目白方面を経由し、[[護国寺駅|護国寺]]、飯田橋、[[市谷|市ケ谷]]、[[永田町]]、[[有楽町]]及び[[銀座]]の各方面を経て[[明石町 (東京都中央区)|明石町]]<ref group="注">現在の新富町駅東側付近。</ref>方面に至る路線」に変更され、「なお、本路線中 中村橋 - 護国寺間については、輸送需要、宅地の開発等を考慮し、将来中村橋及び護国寺からの路線の延伸等を検討することとする」とされた<ref name="Yurakucho-Const16">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.16 - 24。</ref>。 この答申に基づいて、同年[[12月28日]]に告示された建設省告示第3731号では、第4号線([[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]])の一部であった成増 - 池袋間が第8号線に編入され、中村橋 - 錦糸町間であった第8号線は「練馬 - 銀座間の本線(16.5 km)、成増 - [[小竹町 (練馬区)|小竹町]]間(6.3 km)及び中村橋 - [[音羽]]間(9.1 km)の分岐線」へ都市計画路線が大幅に改訂された<ref name="Yurakucho-Const16"/>。 前述の都市交通審議会答申第6号の第8号線は、中村橋 - 目白駅 - 飯田橋駅間が経由ルートを変更して新8号線(有楽町線)に編入され<ref name="KotsuTech1968-7">交通協力会『交通技術』1968年7月号「東京周辺地下高速鉄道網の整備計画」pp.6 - 11。</ref>、飯田橋駅 - 錦糸町駅間が経由ルートを変更して第10号線([[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]])に編入されたものである<ref name="KotsuTech1968-7"/>。 この変更を受け、営団地下鉄は1968年(昭和43年)[[6月6日]]、第8号線向原 - 成増町間及び西池袋 - 明石町間の地方鉄道敷設免許を申請し、併せて第4号線(丸ノ内線)として免許を所有していた池袋 - 向原間の起業目論見変更認可を申請した<ref name="Yurakucho-Const16"/>。続いて同年[[7月22日]]、[[上鷺宮]] - 音羽間(中村橋 - 護国寺)の地方鉄道敷設免許を申請するとともに、申請中であった谷原町 - 江東橋間の免許取り下げ願を提出した<ref name="Yurakucho-Const16"/>。6月6日の免許申請、起業目論見変更申請は、同年[[10月30日]]に交付・認可を取得し、免許取り下げは[[8月13日]]に受理された<ref name="Yurakucho-Const16"/>。なお、上鷺宮 - 音羽間(中村橋 - 護国寺)の路線免許申請は1973年(昭和48年)10月23日に取り下げている<ref name="Yurakucho-Const1266">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.1266。</ref>。 第8号線(有楽町線)の路線免許を申請した時点では、池袋 - 明石町(現・新富町)間は[[1973年]](昭和48年)3月開業予定、成増(現・地下鉄成増) - 池袋間は[[1974年]](昭和49年)3月の開業を予定していた<ref name="Yurakucho-Const93">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.93 - 101。</ref>。第8号線(有楽町線)のうち、練馬 - 向原(現・小竹向原)間は[[西武鉄道]]が建設し、営団地下鉄有楽町線と西武池袋線と相互直通運転を行うことを予定していた<ref name="Yurakucho-Const423">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.423 - 425。</ref>。 [[1968年]](昭和43年)[[9月5日]]に営団地下鉄と西武鉄道間で相互直通運転に関する[[覚書]]を取り交わしており、営団地下鉄有楽町線と西武池袋線間の相互直通運転開始時期は[[1973年]](昭和48年)を目途にするとされていた<ref name="Yurakucho-Const36">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.36 - 46。</ref>。実際には、西武池袋線と営団地下鉄有楽町線の本格的な相互直通運転が開始されるのは、それから25年経った[[1998年]](平成10年)である。 営団地下鉄は路線免許取得後、建設工事に向けて手続きを進めていたが、特に[[練馬区]][[北町 (練馬区)|北町]]([[地下鉄赤塚駅|地下鉄赤塚]] - [[平和台駅 (東京都) |平和台]]付近)で用地取得が難航したことや平和台 - 要町間の地上を通る[[東京都市計画道路幹線街路放射第36号線|放射第36号道路]]との調整があり、建設工事の着手は遅れた<ref name="Yurakucho-Const16"/>(後述)。 有楽町線が最初に計画された[[1968年]](昭和43年)時点では車両基地は[[成増]]付近に計画されていたが、既に周辺は住宅地として開発されており、用地取得の難航が予想されたため、和光市駅 - [[朝霞駅]]間に位置した土地を取得して、和光市付近に車両基地(現在の[[和光検車区]])を設けることとなった<ref name="Yurakucho-Const500">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.500 - 501。</ref>。また、和光検車区 - 営団成増間は車庫線(回送線)として計画していたが、沿線住民などから営業線とするよう強い要望があった<ref name="Yurakucho-Const60">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.60 - 63。</ref>。 === 都市交通審議会答申第15号 === [[1972年]](昭和47年)[[3月1日]]に答申された[[都市交通審議会答申第15号]]では、第8号線の起点側が中村橋から[[保谷市|保谷]]に変更され、終点側は明石町 - 湾岸間及び[[豊洲]] - [[東陽 (江東区)|東陽町]] - [[住吉 (江東区)|住吉町]] - [[押上]] - [[亀有]]間が追加された<ref name="Yurakucho-Const24">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.24 - 48。</ref>。同答申では保谷 - 練馬間は[[西武池袋線]]を[[複々線]]化することが示されたほか、中村橋 - 護国寺間は削除され、護国寺 - 目白間が[[都営地下鉄大江戸線|東京12号線]]に編入され、[[志木市|志木]] - 向原間は'''東京13号線'''として分離された<ref name="Yurakucho-Const24"/>。 このうち、小竹向原駅 - 新木場駅間が有楽町線、練馬駅 - 小竹向原駅間が[[西武有楽町線]]、石神井公園駅 - 練馬駅間が西武池袋線の線増分(複々線化)としてそれぞれ開業している<!--答申に駅名は明記されていないため、起点や経過地に「駅」を付加しないで下さい。また武蔵野線方面への延伸計画については10号・15号答申に記載はありませんので当段落に追記はしないで下さい。-->。終点側は京葉間の湾岸沿いに[[海浜ニュータウン]]付近まで計画されていたが<ref name="Yurakucho-Const24"/>、ほぼ同じルートで計画されていた[[京葉線]]が当時は貨物専用線として計画が進行しており、後に旅客線へと用途が変更されたことを受けて有楽町線は[[新木場]]までの計画路線に短縮した。 答申第15号で削除された中村橋 - 目白 - 護国寺間(9.6&nbsp;km)の分岐線は、[[東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線|不忍通り]]・[[目白通り]]・[[東京都道439号椎名町上石神井線|千川通り]]に沿うルートにて[[都市計画]]決定され現在も有効であるが、前述の通り路線免許は申請段階で取り下げられており、また東京12号線([[都営地下鉄大江戸線]])の支線として編入された区間<ref group="注">[[西落合 (新宿区)|西落合]]([[落合南長崎駅]]付近) - 護国寺間。なお都市計画上、落合南長崎駅付近から[[練馬駅]]南東までは12号線と8号線の重複区間となっている。</ref>も[[東京都交通局]]が免許申請を見送り<ref>{{Cite book |和書 |title=大江戸線放射部建設史|publisher=東京都交通局 |date=2003-03 |page=6}}</ref>、[[1985年]](昭和60年)の[[運輸政策審議会答申第7号]]で削除されたため、事実上の計画中止となっている<ref name="Yurakucho-Const1266"/>。なお、この分岐線の[[護国寺駅]]は現在の有楽町線と別個の駅施設として計画され、直通は考慮されていなかった。 === 第13号線と建設工事の遅れ === 一方、上記答申第15号で新たに東京13号線は「[[志木市|志木]] - [[和光市]] - 成増 - 向原 - 池袋 - [[東池袋]] - 目白東 - [[諏訪町 (新宿区)|諏訪町]] - 西大久保 - [[新宿]]に至る路線」として答申され、「なお、新宿より[[渋谷]]、[[品川 (東京都)|品川]]を経て[[東京国際空港|羽田]]方面への延伸を検討する」とされた<ref name="Yurakucho-Const24"/>。同答申では志木 - 和光市間は[[東武東上本線|東武東上線]]を[[複々線]]化することが示された<ref name="Yurakucho-Const24"/>。 既に第8号線(有楽町線)として建設していた成増 - 小竹向原間は第13号線の一部に編入され、小竹向原 - 池袋間は第8号線と第13号線が並行することとされたが、営団地下鉄はこの区間の建設着工時期が迫っていた<ref name="Yurakucho-Const24"/><ref name="Yurakucho-Const151">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.151 - 155。</ref>。このため、[[運輸省]](当時)と協議を行い、小竹向原 - 池袋間は工事方法の変更扱いとした複々線区間とし、和光市 - 成増間は第15号答申に基づいて路線免許を申請することとした<ref name="Yurakucho-Const52">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.52 - 53。</ref><ref name="Yurakucho-Const151"/>。建設予算は1975年度より第8号線・第13号線の区別なく、有楽町線和光市 - 明石町(後に新木場)間に含まれることになった<ref name="Yurakucho-Const52"/><ref name="Yurakucho-Const151"/>。 第13号線の制定に伴い、営団地下鉄は西武鉄道ならびに[[東武鉄道]]と協議を行い、1975年(昭和50年)8月に第8号線と第13号線との相互直通運転に関する以下に示す覚書を取り交わした<ref name="Yurakucho-Const423"/>。 * 第13号線和光市 - 池袋(→新線池袋→副都心線池袋)間と第8号線(有楽町線)小竹向原 - 池袋間、西武有楽町線練馬 - 小竹向原間は同時開業を前提とする<ref name="Yurakucho-Const245">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.245 - 246。</ref><ref name="Yurakucho-Const423"/>。 * 小竹向原駅は第8号線と第13号線の列車が相互に乗り入れることが可能な配線とする<ref name="Yurakucho-Const24"/><ref name="Yurakucho-Const423"/>。 * 運行形態は、都市交通審議会第15号答申を基本とする<ref name="Yurakucho-Const24"/><ref name="Yurakucho-Const423"/>。 ** 第13号線は東武東上線 - 和光市 - 池袋(→新線池袋→副都心線池袋)間、第8号線は西武池袋線 - 練馬 - 小竹向原 - 有楽町線新富町方面としながら、第13号線から第8号線(有楽町線)方面へはラッシュ時において1時間あたり6本程度乗り入れすることを想定する<ref name="Yurakucho-Const24"/>。将来的は第13号線・第8号線間でダイヤに支障しない範囲で交互に直通運転を行う<ref name="Yurakucho-Const24"/><ref name="Yurakucho-Const423"/>。 これは営団地下鉄が成増 - 小竹向原間は第8号線として建設工事に着手し、周辺住民へ「[[銀座]]へ直通できる」と宣伝して協力を得ていたことから、和光市方面から有楽町線方面へ行ける列車を設定する必要があったためである<ref name="Yurakucho-Const423"/>。しかし、用地買収や周辺住民への建設同意の問題などから建設工事は大幅に遅れ、小竹向原 - 池袋間の第13号線施設の使用は当面見送られた<ref name="Yurakucho-Const245"/>。 また、営団地下鉄は東武東上線志木 - 和光市間の複々線化計画に合わせ、和光市駅を介して東武東上線と第13号線が相互直通運転を行うことを決定し、和光市 - 営団成増間を営業線として建設するため、同区間の地方鉄道敷設免許を申請することに変更した<ref name="Yurakucho-Const423"/>。和光市 - 営団成増間は[[1978年]](昭和53年)9月に着工し<ref name="Yurakucho-Const184">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.164・184・260。</ref>、この時点で和光市 - 池袋間は[[1981年]](昭和56年)9月の開業を予定したが<ref name="Yurakucho-Const184"/>、和光市駅付近の用地買収が遅れたことから[[1987年]](昭和62年)秋まで開業が遅れた<ref name="Yurakucho-Const184"/>。 都市交通審議会答申第15号からすれば、和光市 - 池袋間は第8号線(有楽町線)とは別路線の「第13号線」(現在の副都心線)であるが、この区間は有楽町線池袋 - 新富町間と一体で運行されることや乗客の混乱を起こさないためにも、和光市 - 池袋間も「有楽町線」と呼称することとなった<ref name="Yurakucho-Const233"/>。 このうち和光市駅 - 小竹向原駅間が'''有楽町線'''として、志木駅 - 和光市駅間が[[東武東上本線|東武東上線]]の複々線としてそれぞれ開業した。なお、第13号線の小竹向原駅 - 池袋駅(→新線池袋駅)間は[[東京メトロ副都心線|有楽町線新線(現・副都心線)]]として[[1994年]]12月に開業している。 小竹向原駅は西武有楽町線との分岐点となることから2面4線構造として、池袋方には和光市方面からの第13号線列車と、練馬方面からの第8号線列車が双方に乗り入れができるよう、10両編成+αの長さを持つ6線区間を設置した<ref name="Yurakucho-Const596">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.596 - 602。</ref>。 小竹向原 - 池袋間は、第8号線と第13号線のトンネルを上下に重ねた一体構造となっている<ref name="Yurakucho-Const596"/>。これは第8号線開業後に改めて第13号線トンネルを構築することは困難であり、上下構造のトンネルを構築することは経済的であること、また第8号線と第13号線のトンネルを並行させることは地上の道路幅の制約から困難であり、用地を節約できる上下トンネル構造を採用した<ref name="Yurakucho-Const596"/>。千川駅と要町駅では、地下2階は第8号線(有楽町線)のホーム、地下3階は第13号線(副都心線)のホームとなっており<ref name="Yurakucho-Const596"/>、1983年(昭和58年)の有楽町線開業時点では地下2階部のみ使用を開始した。 第8号線成増 - 池袋間のうち、[[川越街道]]([[国道254号]])の地下を通る区間(地下鉄成増 - 地下鉄赤塚付近)を除いた区間は、東京都の[[東京都市計画道路幹線街路放射第35号線|放射第35号道路]]<ref group="注">平和台駅 - [[練馬区立開進第一小学校]]付近で有楽町線と競合する地上道路。</ref>、[[東京都市計画道路幹線街路放射第36号線|放射第36号道路]]<ref group="注">練馬区立開進第一小学校付近 - 要町駅間で有楽町線と競合する地上道路。</ref>および補助線街路第78号線(補助第78号線)<ref group="注">要町駅 - 池袋駅付近で有楽町線と競合する地上道路。</ref>の計画道路と競合しており、特に放射第36号道路は周辺住民から大きな[[反対運動]]があり、当初から用地交渉の難航が予想されていた<ref name="Yurakucho-Const52"/>。川越街道(国道254号線)の地下を通る区間は[[1972年]](昭和47年)2月に建設工事に着手され、[[1975年]](昭和50年)3月に完成していたが、前後の区間の開業が大幅に遅れたため、施設は8年間にわたって未共用の状態となっていた<ref name="Yurakucho-Const60"/>。ただし、[[オイルショック]]による[[インフレーション|インフレ]]発生前に完成したため、結果的に建設費用を抑えることができた<ref name="Yurakucho-Const60"/>。 平和台 - 池袋間では東京都の街路事業([[都市計画道路]])と地下鉄の建設を同時に施工する予定であった<ref name="Yurakucho-Const503">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.503 - 518。</ref>。しかし、現道がなく新たに道路を整備する氷川台 - 千川間では、周辺住民から[[排気ガス]]や[[騒音]]を懸念して計画道路への反対が根強く、道路計画に地下鉄建設も巻き込まれて用地交渉は難航した<ref name="Yurakucho-Const503"/>。ただし、地下鉄建設には賛成の住民が多かった<ref name="Yurakucho-Const503"/>。最終的にはオイルショックの影響によって東京都の[[財政]]が急激に悪化し、道路整備は困難となったことから、営団地下鉄は1975年(昭和50年)9月に地下鉄を先行して建設し、東京都の計画道路は地下鉄建設後に改めて整備することに変更した<ref name="Yurakucho-Const503"/>。 === 当線について === 建設目的の一つには、車体規格が小さく編成長も短いことから輸送力増強に限界のある[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]の混雑緩和があった<ref name="Yurakucho-Const49"/>。池袋駅の乗り換えが便利であったため、[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]に対する[[東京メトロ千代田線|千代田線]]同様、混雑の緩和に大きく寄与した。 また、[[1974年]](昭和49年)の銀座一丁目 - 池袋間の開業にあたり、丸ノ内線[[中野坂上駅]]、日比谷線[[恵比寿駅]]に次いで、池袋駅に4基、銀座一丁目駅に2基の[[自動改札機]]が設置された。これは、当該区間では他線との改札内連絡がなかったため、集改札自動化の実証実験線区として好適であったためである。両端駅である池袋駅、銀座一丁目駅以外には自動改札機は設置されなかったが、有楽町線の全駅で磁気化券が発売されており、普通乗車券による出場にも対応していた。しかし、当時は他の路線での乗車券の磁気化が進んでおらず、効率的な運用ができなかったことから、営団成増(現・地下鉄成増)延伸時に一旦撤去され、当時の試みは失敗に終わっている<ref name="Yurakucho-Const884">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.884。</ref>。その他、[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]で採用された案内サインシステムを全面的に採用した。 13号線については新線池袋駅から[[西早稲田駅|西早稲田]]、[[新宿三丁目駅|新宿三丁目]]を経て渋谷駅に至るルートが[[2008年]]([[平成]]20年)[[6月14日]]に[[東京メトロ副都心線]]として開業した。さらに、副都心線は[[2013年]](平成25年)3月16日から渋谷駅から[[東急東横線]]経由で[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]まで乗り入れを開始した。また、今後の整備計画として8号線については[[豊洲駅]]から分岐して[[野田市駅]]までの延伸計画がある(詳細は「[[#都市高速鉄道8号線延伸構想|都市高速鉄道8号線延伸構想]]」の節を参照)。この区間はかつて営団地下鉄が[[1982年]](昭和57年)[[1月29日]]に豊洲 - 亀有間 (14.7&nbsp;km) の地方鉄道事業免許を申請していたが<ref name="Yurakucho-Const233">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.233 - 235。</ref>。免許の交付はされていなかった。営団地下鉄の計画では、1985年度から1992年度の工期で、建設費用は2,720億円を見込んでいた<ref name="Yurakucho-Const233"/>。その後、2022年(令和4年)に東京メトロは豊洲 - 住吉間の鉄道事業許可を申請し<ref group="報道" name="metro20220128" />、同年国土交通大臣から許可された<ref group="報道" name="milt20220328" /><ref group="報道" name="metro20220328" />。 有楽町線は、東京地下鉄において最初に埼玉県に延伸された路線である。東京地下鉄で[[東京都区部|東京23区]]外に延びている路線は、当線との重複区間がある副都心線を除くと当線と[[東京メトロ東西線|東西線]]のみであり、都営地下鉄も含めた東京の地下鉄全路線でも他に都営新宿線を加えた3路線のみである。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):28.3&nbsp;km(うち地上部:2.3&nbsp;km)<ref name="metro2" /> * [[軌間]]:1,067&nbsp;mm<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017105609/http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2021-10|archivedate=2021-10-17|accessdate=2021-10-17|publisher=[[日本地下鉄協会|一般社団法人日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref> * 駅数:24駅(起終点駅含む)<ref name="metro2" /> * 複線区間:全線(小竹向原 - 池袋間3.2&nbsp;kmは副都心線との線路別複々線) * 電化区間:全線(直流1,500&nbsp;V[[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:速度制御式([[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]) ** 有楽町線は段階的に路線の延伸を行ってきたことから<ref name="PICT2016-12-38">{{Cite journal|和書|author=米元和重(東京地下鉄鉄道本部運転部輸送課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|pages=38 - 39|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、[[自動列車制御装置#ATC-4型|従来CS-ATC方式]]から新CS-ATCへの切り換えは3区間に分けて実施した<ref name="PICT2016-12-38"/>。[[2002年]](平成14年)[[10月12日]]使用開始の池袋 - 新富町間を皮切りに<ref name="eidan625">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.625。</ref><ref name="PICT2016-12-38"/>、[[2012年]](平成24年)[[8月4日]]に最後の区間となる新富町 - 新木場間が新方式に切り換えられた<ref name="PICT2016-12-38"/>。 **[[2010年]](平成22年)[[5月22日]]からは以後の[[ホームドア]]導入などを考慮して全列車において[[自動列車運転装置|ATO装置]]による自動列車運転を実施している<ref name="PICT2016-12-38" /><ref name="TokyoMetro2010">レールアンドテック出版『鉄道車両と技術』No.177記事「ATOの技術」参照。</ref> 。 * [[列車無線]]方式:[[誘導無線]] (IR) 方式、[[デジタル空間波無線]] (D-SR) 方式 * 最高速度:80&nbsp;km/h<ref name="metro2" /> * 平均速度:41.3&nbsp;km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * [[表定速度]]:33.2&nbsp;km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * 全線所要時分:51分10秒(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * [[車両基地]]:[[和光検車区]]・[[新木場車両基地|和光検車区新木場分室]]<!-- 東京メトロハンドブック2009参照 -->・[[飯田橋検車区]](営団時代に廃止) * 工場:[[綾瀬車両基地#綾瀬工場|綾瀬工場]]([[東京メトロ千代田線|千代田線]]内) * 地上区間:和光市駅付近(1.54&nbsp;km{{Refnest|group="注"|付図「別図 有楽町線線路平面図及び縦断面図(和光市・氷川台間)」には「和光市駅は成増起点1 K790 M899」・「トンネル坑口は0 K250 M899」・「営団成増駅は成増起点0 K429 M101」と書かれている<ref name="Yurakucho-Const432-433">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.432 - 433。</ref>。すなわち、和光市 - 地下鉄成増間の距離は2.22&nbsp;km、和光市駅からトンネル坑口までの地上区間は1.54&nbsp;km、坑口から地下鉄成増駅までの地下区間は680&nbsp;mである。}})・新木場駅付近(820&nbsp;m{{Refnest|group="注"|「別図 有楽町線線路平面図及び縦断面図(辰巳・新木場間)」には「トンネル坑口25 K717 M403」・「新木場駅は成増起点26 K537 M403」と書かれており、地上区間は820&nbsp;mである<ref name="Yurakucho-Const432-433" />。}}) * [[護国寺]] - [[江戸川橋]]駅間には、A線(新木場方面行き)で半径150.0&nbsp;m<ref name="Yurakucho939-940"/>、B線(和光市方面行き)で半径154.8&nbsp;mの急曲線がある<ref name="Yurakucho939-940"/><ref name="Yurakucho728">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.728。</ref>。これは当時の地方鉄道建設既定の160&nbsp;m以下となり<ref name="Yurakucho728"/>、特別設計区間である<ref name="Yurakucho728"/>。 === 路線名 === 「有楽町線」の名称は、[[1973年]](昭和48年)[[11月1日]]から同年[[12月15日]]までの期間で一般公募が行われ、30,591通の応募があり、2,519種類の路線名が提案された<ref name="Yurakucho-Const85"/><ref name="RP291_14">{{Cite journal|和書|author=里田啓(帝都高速度交通営団車両部設計課)|title=営団地下鉄有楽町線と7000系|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1974-04-01|volume=24|issue=第4号(通巻第291号)|page=14|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="Fan1975-1">{{Cite journal|和書|author=大塚和之|date=1975-01-01|title=東京で8番目に開通した地下鉄8号線 営団地下鉄 有楽町線|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=15|issue=第1号(通巻第165号)|pages=126 - 129|publisher=[[交友社]]}}</ref>。 その時の得票数第1位は「麹町線」であった<ref name="Fan1975-1"/>。しかし、「麹」の漢字が[[当用漢字]](当時)でないため難しく親しみにくいということ、2位「有楽町線」・5位「有楽線」などの「有楽町」に関する名称がついた内容が記載されたものが多かったこと<ref name="Fan1975-1"/>、将来的に湾岸エリアに延伸する予定であり(選定当時)、延伸開通後[[有楽町]]が路線の中間点に位置することから<ref name="RP291_14" />、[[1974年]](昭和49年)[[1月9日]]に「有楽町線」と決定した<ref name="Yurakucho-Const85" />。 応募の中には「[[カンガルー]]線」("有"楽町・池"袋" → [[有袋類]]の連想)というものもあったという<ref name="Fan1975-1"/>。 === 建設費用 === 当路線の和光市 - 新木場間(有楽町線新線として建設された区間は含まない)の建設費用は総額4,920億円である。その内訳は土木関係費が2,961億5,032万8,000円、電気関係費が448億2,681万2,000円、車両関係費が658億5,965万4,000円、その他が851億6,320万6,000円となっている<ref name="Yurakucho-Const1214-1219">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.1214 - 1219。</ref>。 ===軌道構造=== 当路線では国鉄(当時・[[日本国有鉄道]])を除き、地下鉄・私鉄で初めて[[軌条#普通レール|60&nbsp;kgレール]]を採用した(本線部)<ref name="Yurakucho-Const729-760">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.729 - 760。</ref>。60&nbsp;kgレールを採用することで、レールの強度が1.5倍、耐用年数は4 - 6年長くなる<ref name="pamphlet TokyoMetro-154">{{Cite book|和書|title=パンフレットで読み解く 東京メトロ 建設と開業の歴史|author=東京地下鉄|publisher=[[実業之日本社]]|date=2014-03-28|page=154|isbn=978-4-408-11060-8}}</ref>。軌道構造は地下区間では従来から[[直結軌道]]を採用してきたが、[[振動]]・[[騒音]]が大きいことから、本路線では新たに「防振マクラギ構造」を採用した(民有地近辺)<ref name="Yurakucho-Const729-760"/>。初期はレールと枕木の間にゴムパッドを、枕木は防振ゴムで覆うものであったが、新富町開業以降、枕木部はレール支持部下に防振ゴム、防振パッド、防振クッションから構成される防振装置を敷き、レール間下を中空とした新しい構造を採用した<ref name="Yurakucho-Const729-760"/><ref name="Tokyo-farlic">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-fabric.co.jp/products/?id=1487842092-511734&pca=2&ca=7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210918113237/https://www.tokyo-fabric.co.jp/products/?id=1487842092-511734&pca=2&ca=7|title=標準タイプ防振まくらぎ装置|archivedate=2021-09-18|accessdate=2021-09-18|publisher=東京ファブリック工業|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。[[バラスト軌道]]区間においても、軌道下に防振マットまたは防振シートを敷き、いずれも振動・騒音低減に大きな効果を発揮した<ref name="Yurakucho-Const729-760"/>。 == 沿革 == * [[1962年]]([[昭和]]37年)[[10月16日]]:第8号線、谷原町 - 江東橋間(中村橋 - 錦糸町間)の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="Hibiya-Const117-120"/>。 * [[1964年]](昭和39年)[[6月4日]]:[[東京都交通局]]が8号線中村橋 - 錦糸町間の地方鉄道敷設免許を申請(のち[[都営地下鉄新宿線|10号線]]免許取得のため1968年7月に取り下げ)<ref>『東京都交通局80年史』東京都交通局、1992年3月、262・689頁。</ref>。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[6月6日]]:第8号線、成増町 - 向原間及び西池袋(現・[[池袋駅|池袋]]) - 明石町(現・[[新富町駅|新富町]])間の地方鉄道敷設免許申請と1962年に路線免許を取得していた向原 - 池袋間の起業目論見変更認可<ref group="注">これは第4号線として免許取得した区間を第8号線とするため、経過地や軌間を変更するためである。</ref>を申請<ref name="Yurakucho-Const16"/>。 ** [[7月22日]]:第8号線、谷原町 - 江東橋間(中村橋 - 錦糸町間)の地方鉄道敷設免許申請を取り下げ、上鷺宮 - 音羽間(中村橋 - 護国寺間)の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="Yurakucho-Const16"/>。 ** [[10月30日]]:第8号線、成増 - 池袋間と西池袋 - 明石町間の地方鉄道敷設免許取得および向原 - 池袋間の起業目論変更を認可される(つまり、現在の地下鉄成増 - 新富町間の地方鉄道敷設免許を取得した)<ref name="Yurakucho-Const16"/>。 * [[1970年]](昭和45年)[[8月19日]]:池袋 - [[銀座一丁目駅|銀座一丁目]]間の建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const58">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.58。</ref>。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[2月26日]]:営団成増(現・[[地下鉄成増駅|地下鉄成増]]) - 池袋間の建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const58"/>。ただし、実際に着手できたのは営団成増 - 営団赤塚(現・[[地下鉄赤塚駅|地下鉄赤塚]])付近のみで、この区間は[[1975年]](昭和50年)3月に先行して完成している<ref name="Yurakucho-Const60"/>。それ以外の区間は[[1976年]](昭和51年)6月以降に建設工事に着手している<ref name="Yurakucho-Const60"/>。 ** [[3月1日]]:都市交通審議会答申第15号が答申され、新たに第13号線(志木 - 和光市 - 成増 - 向原 - 池袋方面)が制定される<ref name="Yurakucho-Const24"/>。 ** [[10月23日]]:上鷺宮 - 音羽間(中村橋 - 護国寺間)の地方鉄道敷設免許の申請を取り下げ<ref name="Yurakucho-Const1266"/>。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[1月9日]]:第8号線を有楽町線と呼称決定<ref name="Yurakucho-Const85">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.85。</ref>。 ** 10月30日:池袋 - 銀座一丁目間開業<ref group="新聞" name="asahi19741003" />。開業当初の同区間の運賃は80円。7000系5両編成で運行された<ref name="RF521_44" /><ref group="新聞" name="asahi19741003">{{Cite news|title=池袋 - 銀座間は20分 30日開業の地下鉄有楽町線|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=1974-10-03|page=21(朝刊)}}</ref>。ただし、池袋駅、銀座一丁目駅は一部工事が遅れており、当初は仮施設で営業していた<ref name="Yurakucho-Const163">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.163 - 165。</ref>。[[1976年]](昭和51年)6月に池袋駅のコンコース部と銀座一丁目駅が完成、同年8月に池袋駅ホーム部分が完成した<ref name="Yurakucho-Const163"/>。 * [[1975年]](昭和50年)[[9月2日]]:第13号線和光市 - 成増間と池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許申請および第8号線向原 - 池袋間の工事方法の一部変更(向原 - 池袋間を複々線とする)認可を申請<ref name="Yurakucho-Const24"/>。 * [[1976年]](昭和51年) ** 3月1日:銀座一丁目 - 新富町間の建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const58"/>。 ** [[8月11日]]:第13号線和光市 - 成増間の地方鉄道敷設免許取得および第8号線向原 - 池袋間の工事方法の一部変更(向原 - 池袋間を複々線とする)が認可される<ref name="Yurakucho-Const24"/>。ただし、池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許の交付は保留となった<ref name="Yurakucho-Const24"/>。 ** [[9月22日]]:[[列車運行管理システム|自動列車運行制御装置]] (PTC) を導入<ref name="eidan595">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.595。</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[9月1日]]:和光市 - 営団成増間の建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const58"/>。 * [[1979年]](昭和54年)[[10月24日]]:新富町 - 湾岸(現・[[新木場駅|新木場]])間の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="Yurakucho-Const192">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.192 - 196・207。</ref>。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[3月27日]]:銀座一丁目 - 新富町間開業<ref name="Yurakucho-Const192"/>。 ** [[9月26日]]:新富町 - 湾岸間の地方鉄道敷設免許を取得<ref name="Yurakucho-Const192"/>。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[1月29日]]:豊洲 - 亀有間 (14.7&nbsp;km) の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="Yurakucho-Const233"/>。ただし、免許の交付はされていない。 ** [[4月1日]]:新富町 - 新木場間の建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const58"/>。 ** [[7月30日]]:第13号線区間となる和光市 - 池袋間について、「有楽町線」と呼称することを正式決定<ref name="Yurakucho-Const233"/>。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[6月17日]]:10両編成の運転開始<ref name="RF521_44">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻第521号]]、p.44。</ref>。 ** [[6月24日]]:営団成増(現・地下鉄成増) - 池袋間開業<ref name="Yurakucho-Const245"/>。 ** [[7月9日]]:全列車が10両編成化<ref name="RF521_44" />。 ** [[10月1日]]:[[西武有楽町線]][[小竹向原駅|小竹向原]] - [[新桜台駅|新桜台]]間開業、乗り入れ開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=来月1日から 西武、営団と相互乗入 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-09-22 |page=1 }}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[8月25日]]:[[和光市駅|和光市]] - 営団成増(現・地下鉄成増)間開業<ref name="eidan604-605">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.604 - 605。</ref>。[[東武東上本線|東武東上線]]との相互乗り入れ開始(東武出入庫車のみ[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]]まで運転し、その他は[[川越市駅]]までの運転)<ref name="eidan604-605" /><ref name="Yurakucho-Const303">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.303 - 305。</ref>。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[6月1日]]:車両冷房の運用を開始<ref name="eidan605">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.605。</ref>。 ** [[6月8日]]:新富町 - 新木場間開業、全線開業{{R|group="新聞"|交通880608}}<ref name="Yurakucho-Const318">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.318 - 321。</ref>。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[3月18日]]:[[営団07系電車|07系]]営業運転開始<ref name="eidan611">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.611。</ref>。 * [[1994年]](平成6年)[[12月7日]]:有楽町線新線小竹向原 - 新線池袋(現・池袋)間開業<ref name="eidan613">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.613。</ref>。同時に西武有楽町線新桜台 - [[練馬駅|練馬]]間が単線で開業したことにより、練馬駅まで乗り入れ開始<ref name="RF521_46">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻第521号]]、p.46。</ref>。西武鉄道の車両の乗り入れを開始<ref name="RF521_46" />。 * [[1995年]](平成7年)[[3月20日]]:[[地下鉄サリン事件]]に関連し午前の運転を休止、午後から再開。 * [[1998年]](平成10年)[[3月26日]]:西武有楽町線が全線複線化され同線経由で西武池袋線との相互乗り入れ開始(乗り入れ区間を[[飯能駅]]まで延長)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/98-04.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205232921/http://www.tokyometro.go.jp/news/98-04.html|language=日本語|title=人にやさしい、より便利な地下鉄を目指して 有楽町線のダイヤ改正を行います。西武池袋線と相互直通運転を実施いたします。|publisher=営団地下鉄|date=1998-02-04|accessdate=2020-11-09|archivedate=2004-02-05}}</ref>。 * [[2002年]](平成14年)[[10月12日]]:池袋駅 - 新富町駅間で新CS-ATCを使用開始<ref name="eidan625"/><ref name="PICT2016-12-38"/>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:[[帝都高速度交通営団]]の民営化により東京地下鉄(東京メトロ)に承継<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-05-14|archivedate=2006-07-08}}</ref>。営団赤塚駅と営団成増駅をそれぞれ[[地下鉄赤塚駅]]と[[地下鉄成増駅]]に改称<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2003-23.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20031219222519/http://www.tokyometro.go.jp/news/2003-23.html|language=日本語|title=有楽町線 営団成増、営団赤塚の駅名を「地下鉄成増」「地下鉄赤塚」に変更いたします。平成16年4月1日|publisher=営団地下鉄|date=2003-07-10|accessdate=2020-05-02|archivedate=2003-12-19}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[10月31日]]:[[女性専用車両]]導入<ref group="報道" name="pr20051013">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2005/2005-34.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512220245/http://www.tokyometro.jp/news/2005/2005-34.html|language=日本語|title=平成17年10月31日(月) 有楽町線で女性専用車両を導入します|publisher=東京地下鉄|date=2005-10-13|accessdate=2020-11-09|archivedate=2012-05-12}}</ref><ref name="PICT2016-12-38" />。 * [[2006年]](平成18年)9月1日:[[東京メトロ10000系電車|10000系]]営業運転開始<ref group="報道" name="10000kei">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-21.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512153259/http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-21.html|language=日本語|title=東京メトロ 有楽町線に新しい顔が登場! 「10000系」新型車両を投入します。|publisher=東京地下鉄|date=2006-05-18|accessdate=2020-11-09|archivedate=2012-05-12}}</ref><ref name="RP926_230">{{Cite journal|和書|author=岸上明彦|title=東京地下鉄 現有車両プロフィール2016|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|pages=230・232・277頁|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="mook_138">{{Cite book|和書|title=トラベルMOOK 新しい東京メトロの世界|publisher=[[交通新聞社]]|page=138|isbn=9784330021218|date=2021-05-17}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[10月27日]]:和光市駅 - 池袋駅・小竹向原駅 - 新線池袋駅(当時)間で新CS-ATCを使用開始<ref name="Fuku-Const711">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.670・711・956。</ref>。 * [[2008年]](平成20年) ** [[5月3日]]:小田急[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]([[小田急60000形電車|60000形「MSE」]])乗り入れ開始<ref name="RP926_230" /><ref name="RP976_145">{{Cite journal|和書|author=杉田弘志|title=小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=145|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ** [[6月14日]]:副都心線開業に伴い、和光市駅 - 小竹向原駅間が同線との共用区間となり、有楽町線新線小竹向原駅 - 新線池袋駅間が副都心線に編入される。準急列車運転開始<ref group="報道" name="pr20080327">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-17.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718015046/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-17.html|language=日本語|title=平成20年6月14日(土)副都心線開業 副都心線・有楽町線のダイヤが決定! 和光市~渋谷間が最短25分(急行)で結ばれ、ますます便利に|publisher=東京地下鉄|date=2008-03-27|accessdate=2021-01-29|archivedate=2017-07-18}}</ref>。 ** [[11月29日]]:準急列車を和光市駅 - 新木場駅間の線内運転のみとした上で本数を大幅に減便<ref group="報道" name="pr20081110">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-m32.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512162756/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-m32.html|language=日本語|title=平成20年11月29日(土) 東京メトロ有楽町線・副都心線のダイヤ改正 東武東上線、西武有楽町・池袋線は一部列車に変更|publisher=東京地下鉄/東武鉄道/西武鉄道|date=2008-11-10|accessdate=2020-11-09|archivedate=2012-05-12}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月6日]]:準急列車が廃止される<ref group="報道" name="numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190616140819/https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-06.html|language=日本語|title= 準急を各駅停車に、休日の急行が明治神宮前に停車! 3月6日(土)有楽町線・副都心線のダイヤ改正 ー明治神宮前駅に「原宿」をあわせてご案内開始しますー|publisher=東京地下鉄|date=2010-02-03|accessdate=2020-11-09|archivedate=2019-06-16}}</ref>。 ** [[5月22日]]:本路線の全列車においてATO装置による自動運転を開始<ref name="PICT2016-12-38" /><ref name="TokyoMetro2010"/>。 ** 平成22年度事業計画において、すでに設置済みの小竹向原駅を除く全駅に順次ホームドアを設置することを表明。また、小竹向原駅 - 千川駅間に連絡線を設置するなど遅延対策に乗り出すことも発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h22.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630105512/http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h22.pdf|title=平成22年度(第7期)事業計画|date=2010-03|archivedate=2018-06-30|pages=3 - 4|accessdate=2021-01-30|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[2月23日]]:この日から地下鉄成増・地下鉄赤塚両駅に[[発車メロディ]]が導入された。以後、ホームドアが稼働している駅から順次発車メロディの使用が開始されている<ref name="melody">[http://www.switching.co.jp/news/archives/194 有楽町線の発車メロディを制作しました] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140724184255/http://www.switching.co.jp/news/archives/194|date=2014年7月24日}} - スイッチ、2011年4月6日。</ref>。 ** [[9月25日]]:小田急ロマンスカーの乗り入れを休止<!--最終運行日は9月24日--><ref name="RP926_230" /><ref name="RP976_145" />。 ** [[10月4日]]:8時54分ごろ、小竹向原駅でコンクリートが落下し、信号ケーブルを切断する。この影響で小竹向原 - 池袋間が17時過ぎまで運休する<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20111004_02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210129092425/https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20111004_02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線小竹向原駅〜池袋駅間の信号トラブルについて|publisher=東京地下鉄|date=2011-10-04|accessdate=2021-01-29|archivedate=2021-01-29}}</ref>。この事故の影響を重く見た[[国土交通省]][[関東運輸局]]は東京地下鉄に対して早期の原因究明と再発防止を求める警告文書を発出した。 ** [[12月7日]]:2時10分ごろ、豊洲駅で夜間作業事故が発生し、死傷者が出る。この影響で銀座一丁目駅 - 新木場駅間が8時30分過ぎまで運休し、銀座一丁目駅で折り返し運転が行われた。 * [[2012年]](平成24年) ** [[3月17日]]:ホームドア設置工事の進捗に伴い、小田急ロマンスカーの乗り入れを中止<ref group="報道" name="odakyu20111216" /><ref name="RP976_145" />。 ** [[9月10日]]:[[東急5000系電車 (2代)|東急5050系4000番台]]の営業運転開始。当日は東武東上線森林公園駅 - 新木場駅間の朝1往復運転。 ** [[8月4日]]:新富町駅 - 新木場駅間で新CS-ATCの使用を開始<ref name="PICT2016-12-38"/>。有楽町線全線の新CS-ATC化を完了<ref name="PICT2016-12-38"/>。 ** [[11月4日]]:小竹向原駅 - 千川駅間の立体交差化工事に伴う線路工事のため、終日和光市駅 - 池袋駅間で運休<ref group="報道" name="pr20120927">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120927metronews_unkyukotake.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190522142002/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120927metronews_unkyukotake.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成24年11月4日(日)有楽町線千川駅線路工事のため 有楽町線和光市駅〜池袋駅間を終日運休します 〜運休区間では副都心線のご利用をお願いします〜|publisher=東京地下鉄|date=2012-09-27|accessdate=2021-01-31|archivedate=2019-05-22}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[2月7日]]:江戸川橋駅 - 新木場駅間で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130206_13-12.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100314/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130206_13-12.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 平成25年2月7日(木)より有楽町線の一部の駅間でも初めて携帯電話の利用が可能に! 東西線 中野駅〜九段下駅間 千代田線 二重橋前駅〜霞ケ関駅間 有楽町線 江戸川橋駅〜新木場駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-02-06|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 ** [[2月21日]]:要町駅 - 江戸川橋駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130220_13-15.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100126/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130220_13-15.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年2月21日(木)より 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア拡大 有楽町線 要町駅〜江戸川橋駅間 副都心線 要町駅〜雑司が谷駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-02-20|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 ** [[3月21日]]:和光市駅 - 要町駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201106181153/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月21日(木)正午より、東京メトロの全線で携帯電話が利用可能に!|publisher=東京地下鉄/NTTドコモ/KDDI/ソフトバンクモバイル/イー・アクセス|date=2013-03-18|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-11-06}}</ref>。 ** [[12月7日]]:全駅のホームドアの設置が完了<ref group="報道" name="tokyometro20130809">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190719233649/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千川駅、豊洲駅、辰巳駅に設置し、有楽町線全駅にホームドアの設置が完了します! 全179駅中84駅にホームドアの設置が完了しホーム上の安全性が向上|publisher=東京地下鉄|date=2013-08-09|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-07-19}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[2月8日]]:千川駅でのホームドア稼働開始をもって、全駅のホームドアが稼働<ref group="報道" name="tokyometro20140123">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20140123_platformscreendoorsyurakucho.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190719233642/https://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20140123_platformscreendoorsyurakucho.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線全駅でホームドア稼働開始! 2月8日(土)から有楽町線千川駅のホームドアが稼働します|publisher=東京地下鉄|date=2014-01-23|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-07-19}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[3月28日]]:和光市 - 小竹向原間の[[ワンマン運転]]が開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150310_23.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200309144835/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150310_23.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線和光市〜小竹向原駅間で、ワンマン運転を実施します。2015年3月28日(土)から|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-10|accessdate=2020-03-09|archivedate=2020-03-09}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[2月14日]]:千川駅 - 小竹向原駅間の有楽町線和光市方面連絡線が完成し、始発から運用が開始される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2016/article_pdf/metroNews20160212_13.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190521234736/https://www.tokyometro.jp/news/2016/article_pdf/metroNews20160212_13.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線小竹向原駅〜千川駅間連絡線設置工事完成! 2016年2月14日(日)始発より運用開始|publisher=東京地下鉄|date=2016-02-22|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-05-21}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:新富町駅と日比谷線[[築地駅]]との乗り換え業務を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_12.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190427212238/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_12.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月17日(土)から新たな乗換駅の設定を開始します 人形町駅(東京メトロ・都営交通)⇔水天宮前駅、築地駅⇔新富町駅|publisher=東京地下鉄|date=2018-02-15|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-04-27}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[6月6日]]:銀座一丁目駅と銀座線・丸ノ内線・日比谷線[[銀座駅]]との乗り換え業務を開始<ref group="報道" name="ginza-norikae">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514061131/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ線でのお乗換えがさらに便利になります! 新たな乗換駅の設定(虎ノ門駅⇔虎ノ門ヒルズ駅、銀座駅⇔銀座一丁目駅)改札外乗換時間を30分から60分に拡大|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-14|accessdate=2020-05-14|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[2月21日]]:[[東京メトロ17000系電車|17000系]]が営業運転開始<ref group="報道" name="pr20210221">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210221_07.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210221000324/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210221_07.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線新型車両17000系いよいよデビュー! 2021年2月21日(日)より運行開始します!|publisher=東京地下鉄|date=2021-02-21|accessdate=2021-02-21|archivedate=2021-02-21}}</ref><ref group="新聞" name="news20210221">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP2P3SPPP2PUTIL002.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210221025855/https://www.asahi.com/articles/ASP2P3SPPP2PUTIL002.html|title=東京メトロ17000系、運行開始 床面は6センチ低く|newspaper=朝日新聞|date=2021-02-21|accessdate=2021-02-21|archivedate=2021-02-21}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[1月28日]]:豊洲 - 住吉間約4.8&nbsp;kmの鉄道事業許可を[[国土交通大臣]]に申請<ref group="報道" name="metro20220128">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220128_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220128073901/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220128_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜より便利で持続可能な社会を目指して〜 有楽町線延伸(豊洲・住吉間)及び南北線延伸(品川・白金高輪間)の鉄道事業許可を申請しました。|publisher=東京地下鉄|date=2022-01-28|accessdate=2022-01-28|archivedate=2022-01-28}}</ref>。 ** [[3月28日]]:国土交通大臣が豊洲 - 住吉間約4.8&nbsp;kmの第一種鉄道事業を許可<ref group="報道" name="milt20220328">{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001472839.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220328101602/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001472839.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京地下鉄株式会社「有楽町・南北線の延伸」に係る鉄道事業許可について 〜有楽町線・南北線の延伸により、国際競争力の強化の拠点である臨海副都心やリニア中央新幹線の始発駅となる品川駅とのアクセス利便性が向上します〜|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|date=2022-03-28|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-28}}</ref><ref group="報道" name="metro20220328">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220328_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220328101242/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220328_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜より便利で持続可能な社会を目指して〜 有楽町線延伸(豊洲・住吉間)及び南北線延伸(品川・白金高輪間)の鉄道事業許可を受けました〈所要時間短縮により、交通利便性・速達性が向上〉|publisher=東京地下鉄|date=2022-03-28|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-28}}</ref>。 ** [[8月6日]]:全線でワンマン運転を開始<ref group="報道" name="press20220720">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220720_44.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220720080057/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220720_44.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線小竹向原駅{{~}}新木場駅間でワンマン運転を開始します 2022年8月6日(土)から開始|publisher=東京地下鉄|date=2022-07-20|accessdate=2022-07-20|archivedate=2022-07-20}}</ref>。 == 運行形態 == 和光市駅から[[東武東上本線|東武東上線]]を経由して[[川越市駅]](朝夕は[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]])まで、小竹向原駅からは[[西武有楽町線]]経由[[西武池袋線|池袋線]]直通で[[小手指駅]](朝・夕の一部列車は[[飯能駅]])までそれぞれ相互乗り入れを行っている。 有楽町線のみの運行となる列車や東武東上線直通列車は全区間各駅停車で運行されているが、西武池袋線直通列車は西武線内を準急・快速・快速急行として運行する列車があり、この場合は小竹向原駅で種別変更を行う。また後述するように2017年3月25日から有料指定列車「[[S-TRAIN]]」が運転開始された。有楽町線へは平日ダイヤのみ乗り入れ、小手指駅 - [[豊洲駅]]間で朝に[[所沢駅|所沢]]発豊洲行き2本・夕方以降に豊洲発小手指行きを5本運転している。有楽町線内の途中停車駅は[[飯田橋駅]]・[[有楽町駅]]の2駅で、豊洲行は降車専用、小手指行は乗車専用となり、西武線内のみや有楽町線内のみの利用は不可能である。 [[和光市駅]] - [[小竹向原駅]]間は[[東京メトロ副都心線|副都心線]]と線路・駅施設を共有し、[[新木場駅]]発着の列車と[[渋谷駅|渋谷]]方面([[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]・[[東急新横浜線]]・[[相模鉄道|相鉄線]]直通)の列車がともに運行されている。 副都心線との共用区間である和光市 - 小竹向原間では10両編成と8両編成の列車で運行されているが、小竹向原 - 新木場間はすべて10両編成の列車で運行されている。 平日朝のラッシュ時の[[池袋駅|池袋]]方面では数多くの列車が運行され、小竹向原駅で新木場方面と渋谷方面に振り分けられている<ref group="注">小竹向原駅基準で平日朝において、7時台は35本(有楽町線21本+副都心線14本)、8時台は36本(有楽町線21本+副都心線15本)設定されている。</ref>。 その他、野球や花火大会などのイベント開催時に運転される臨時列車がある(詳細は「[[#臨時列車|臨時列車]]」の項を参照)。特に、[[埼玉西武ライオンズ]]主催試合など[[西武ドーム]]でのイベント開催日には西武有楽町線・池袋線[[西所沢駅]]経由[[西武狭山線|狭山線]][[西武球場前駅|西武球場前]]行が運転され、東京都心および湾岸地区から西武ドームまで乗り換えなしで移動することができる。また、かつては年間30日程度、[[小田急小田原線|小田急線]]直通の臨時特急が運転されていた(詳細は「[[#特急ロマンスカー「ベイリゾート」|特急ロマンスカー「ベイリゾート」]]」の項を参照)。 運用番号の末尾は、東京地下鉄車がS、東武車がT、西武車がMである。東武車は西武の路線に入線できず、西武車は東武の路線に入線できない。副都心線・東横線・みなとみらい線の10両編成列車と共通運用で、東京地下鉄車はもちろん、東武車と西武車にも有楽町線のみの運用があり、西武車も和光市駅まで乗り入れる。東京地下鉄車の一部運用には東武東上線川越市方面および和光市発の列車が、新木場折り返し後に西武池袋線石神井公園方面行の列車となる運用もあり、その逆の運用もある。一方、有楽町線新木場発の列車が和光市・東上線川越市方面・池袋線石神井公園方面で折り返して副都心線・東急東横線・みなとみらい線元町・中華街方面行となる運用もあり(10両編成のホーム有効長の関係上、東横線・みなとみらい線内は急行以上の種別)、その逆の運用もある。運用番号は東京地下鉄車(21S - 97S)は奇数(ただし、平日ラッシュ時は一部の列車が偶数番号で運用された。/48S、52S<ref group="注">48S、52S運用は2013年3月15日で終了。</ref>)、東武車(01T - 23T)と西武車(02M - 38M及びS-TRAINに充当される40000系限定の50M - )の偶数がある<ref group="注">2008年6月13日まで、東京地下鉄車は前記と同様、東武車(01T - 15T)、西武車(02M - 24M)だった。</ref>。 副都心線で運用される[[東急電鉄]]・[[横浜高速鉄道]]・[[相模鉄道]]の車両は、ダイヤ乱れなど特別の場合を除き、有楽町線の小竹向原 - 新木場間には入線しない。 === 運転本数 === 参考のため、和光市 - 小竹向原の線路共用区間を走る副都心線の列車も記載する。 {| class="wikitable" style="font-size:95%;" |+日中の運行パターン |- !駅名<br>\<br>種別 !直通先 ! style="width:1em;" |和光市 !… ! style="width:1em;" |小竹向原 !… ! style="width:1em;" |池袋 !… ! style="width:1em;" |新木場 !備考 |- style="text-align:center;" | rowspan="4" style="background:lightblue;" |各駅停車 | style="text-align:right" |←川越市|| colspan="7" style="background:lightblue;" |2本 | style="text-align:center;" |東武線内普通 |- style="text-align:center;" | style="text-align:right" |&nbsp;|| colspan="7" style="background:lightblue;" |4本 | style="text-align:center;" | |- style="text-align:center;" | colspan="3" style="text-align:right" |←小手指|| colspan="5" style="background:lightblue;" |2本 | style="text-align:center;" |西武線内各停 |- style="text-align:center;" | colspan="3" style="text-align:right" |←保谷|| colspan="5" style="background:lightblue;" |2本 | style="text-align:center;" |西武線内各停 |- style="text-align:center;" | rowspan="4" style="background:#9c5e31;" |<small>副都心線</small><br />各駅停車 | style="text-align:right" |&nbsp;|| colspan="3" style="background:#9c5e31;" |2本|| colspan="4" style="text-align:left"|元町・中華街→ | style="text-align:center;" |東急線・みなとみらい線内各停 |- style="text-align:center;" | style="text-align:right" |&nbsp;|| colspan="3" style="background:#9c5e31;" |2本|| colspan="4" style="text-align:left"|元町・中華街→ | style="text-align:center;" |東急線・みなとみらい線内急行 |- style="text-align:center;" | style="text-align:right" |&nbsp;|| colspan="3" style="background:#9c5e31;" |1本|| colspan="4" style="text-align:left"|湘南台→ | style="text-align:center;" |東急線内急行<br />相鉄線内各停 |- style="text-align:center;" | style="text-align:right" |←川越市|| colspan="3" style="background:#9c5e31;" |1本|| colspan="4" style="text-align:left"|湘南台→ | style="text-align:center;" |東武線内普通<br />東急線内急行<br />相鉄線内各停 |- style="text-align:center;" | style="background:pink;" |<small>副都心線</small><br />(Fライナー)急行 | style="text-align:right" |←森林公園|| colspan="3" style="background:pink;" |2本|| colspan="4" style="text-align:left"|元町・中華街→ | style="text-align:center;" |東武線内(Fライナー)快速急行<br />東急線・みなとみらい線内(Fライナー)特急 |} ==== 和光市方面・東武東上線直通 ==== ; 朝・夕方:2 - 4分間隔(1時間に10 - 17往復) : 1時間に東上線直通列車(川越市駅・志木駅発着)が6 - 8往復(朝の新木場方面行きと夕方の和光市方面行きは共に森林公園駅発着便もあり)、和光市駅発着列車が4 - 11往復、新木場駅発着が5 - 15往復。全列車各駅停車。 ; 日中:5 - 7分間隔(1時間に6往復) : 1時間に新木場駅 - 川越市駅間の列車が2往復、新木場駅 - 和光市駅間の列車が各4往復。 ; 早朝・夜間:6 - 9分間隔 東武東上線直通列車は志木駅(平日のみの設定)・川越市駅・森林公園駅発着が運転されている。日中の川越市駅発着列車は、小竹向原駅で西武池袋線系統の[[Fライナー]]に連絡する。また同駅06分および36分発の新木場行き、29分および59分発の和光市行きは同駅で森林公園駅発着のFライナーに連絡する(緩急接続)。 一方線内運転の列車の大多数の列車は和光市駅 - 新木場駅間の運転だが、一部列車は新木場駅 - 池袋駅間の運用がある。また新木場駅 - 小竹向原駅間の列車が設定され、平日は新木場行2本、土休日は小竹向原行・新木場行が1本ずつある。2013年3月16日のダイヤ改正では平日朝に豊洲行きが設定されたが、2019年10月15日のダイヤ修正までに新木場行きに延長され消滅している(詳細は[[豊洲駅#駅構造]]を参照)。初電として市ケ谷発和光市行き、有楽町発新木場行きがある。終電として平日に川越市始発(土休日は和光市始発)池袋行きが1本ある。 東上線内で人身事故・各種トラブルなどにより直通運転を見合わせた場合、すべて和光市駅での折り返し運転となるが、その逆もある。また池袋駅で運転を取りやめることもある。 ==== 西武有楽町線・池袋線直通 ==== ; 朝:6 - 9分間隔 : 石神井公園駅・保谷駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着、新木場行き ; その他の時間帯:5 - 30分間隔(1時間に2 - 6往復) : 日中は新木場駅 - 小手指駅間・新木場駅 - 保谷駅間の列車ともに1時間各2往復(計4往復)運行されている。土休日は保谷行き一部が清瀬発着になっている。2022年3月のダイヤ改正で6往復から4往復に減便された<ref group="報道" name="press20211217">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews211217_70.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217061553/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews211217_70.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年3月東京メトロ全線ダイヤ改正のお知らせ|publisher=東京地下鉄|date=2021-12-17|accessdate=2021-12-18|page=4|archivedate=2021-12-17}}</ref><ref group="報道" name="seibu20211217">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20211217_dia.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217062755/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20211217_dia.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年3月12日(土) ダイヤ改正を実施します 〜生活様式の変化を踏まえ、ご利用状況に応じたダイヤに変更〜|publisher=西武鉄道|date=2021-12-17|accessdate=2021-12-18|archivedate=2021-12-17}}</ref>。 : 夕方以降は新木場駅 - 石神井公園駅・飯能駅間の設定もある。 : ※[[西武ドーム]]で野球が開催される場合、西武球場前行きの列車も運行される。 : {{See also|西武有楽町線#西武ドームへの観客輸送}} 石神井公園駅、清瀬駅発着を中心に運転され、所沢発着も運転されている。飯能発着はわずかに運転されている。平日のみ清瀬発豊洲行き列車が一時期存在していたが、[[#和光市方面・東武東上線直通|和光市方面・東武東上線直通]]の節で前述の通り、現在は設定されていない。 日中の小手指駅・保谷駅発着各駅停車は、小竹向原駅で、副都心線各駅停車・東急東横線内急行の和光市駅発着列車(東武東上線森林公園駅発着のFライナーの直前・直後)に連絡する。 西武線内の種別は各駅停車以外に準急・快速・快速急行として運行されるものがある。列車種別はすべて小竹向原駅で変更される。 池袋線内での人身事故・各種トラブルなどにより当路線との直通運転を見合わせた場合、西武線直通列車は池袋駅にて客扱いを打ち切り、小竹向原駅に回送した後に新木場方面へ折り返す。 === 列車種別 === ==== 各駅停車 ==== 東京地下鉄線内の各駅に停車する種別。後述の準急廃止後も、副都心線の急行に対しての「各駅停車」の一つの系統としてこの種別の表現は残されている。 有楽町線の種別表示は車種や所属会社によって「各駅停車」と「各停」が混在しているが、前者の場合でも西武池袋線内では「各停」表記に切り替えられる。 東上線内では普通として案内されるが、各停表示のまま運行されることもある。このほかダイヤ乱れの際には、副都心線直通列車の運用変更などにより東上線内急行・快速急行として運転される場合もある。 西武池袋線内は各停以外に小竹向原駅で種別を変更して快速・準急・快速急行として運行するものがある。かつては新木場駅から西武池袋線内の種別を案内していた(正確には各停は西武有楽町線小竹向原駅から普通であった)。一方新木場方面行は西武有楽町線練馬駅から全列車が各駅に停車するため、練馬駅から普通、小竹向原駅から各停として案内されていた。 2022年3月12日のダイヤ改正で日中の西武線直通列車は1時間6往復から4往復に減便され、減便分の運行区間が新木場駅 - 池袋駅間となったため、日中でも池袋行きが設定された<ref group="報道" name="seibu20211217" />。 ==== S-TRAIN ==== {{Main|S-TRAIN}} 2017年3月27日より平日の通勤時間帯に運行を開始した座席指定列車<ref group="報道" name="S-TRAIN">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181211204927/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有料座席指定列車の愛称・詳細が決定! 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!|publisher=西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2017-01-10|accessdate=2020-03-09|archivedate=2018-12-11}}</ref>。[[豊洲駅]]発着で全列車が西武有楽町線・池袋線に直通する。乗車には座席指定券が必要で、途中[[飯田橋駅]]・[[有楽町駅]]のみ停車する(池袋駅も通過。なお乗務員交代のため小竹向原駅に運転停車する)が、各駅とも朝は降車のみ・夕方は乗車のみの扱いとなり有楽町線内のみの利用は出来ない。有楽町線内で通過駅の設定がある種別としては2010年に廃止になった準急以来となる。 なお、土休日は副都心線・東急東横線・みなとみらい線直通(元町・中華街駅発着)となり、有楽町線には乗り入れない。また、座席指定列車のS-TRAINに限り、座席指定券の確認などを行うことから車掌が乗務しているため、ワンマン運転の対象外である。 === 副都心線の列車 === 副都心線開業後、当路線の和光市駅 - 小竹向原駅間は副都心線との共用区間となっている。この区間には副都心線の各駅停車・通勤急行・急行も運転されている。詳しくは「[[東京メトロ副都心線#列車種別|副都心線]]」を参照。 === 副都心線開業に伴う主な変化 === [[2008年]][[6月14日]]の副都心線開業に伴い、併走区間・線路共用区間のある有楽町線でも大幅なダイヤ改正が行われた。その際の主な変化は以下のとおりである。 * 優等種別の「準急」が設定された(詳細は[[#準急|後述]])。和光市駅 - 新木場駅間の所要時分は各駅停車は49分35秒、準急列車は45分20秒とされた。 * 小竹向原駅で、有楽町線新木場行き列車と副都心線渋谷行き列車、和光市方面行き列車と西武線直通列車で相互接続が行われる。これは、副都心線開業前から新木場行き列車と新線池袋行き列車、和光市方面行き列車と西武線直通列車で相互接続が行われていた(ただし副都心線開業前後とも全便ではない)。 * 小竹向原駅で、片方の列車が遅れた場合でも接続待ちは行わなくなった。そのため接続予定の列車同士でも遅れた場合は接続を行わない。副都心線開業前は片方の列車が遅れた場合接続待ちを行っていた<ref group="注">副都心線開業前でもダイヤが乱れた際には接続を行わないことがあった。</ref>。 * 東武東上線または西武線との相互直通列車で、和光市駅または小竹向原駅にて種別変更を行うものが増えた<ref name="syubetu" group="注">東上線との直通列車については、http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/diagram/choku/2.html を、<br />西武線との直通列車については、http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/diagram/choku/3.html を参照</ref>。 * 西武線直通列車の始発・終着駅の変更や、系統入れ替えが行われた。以下はその一例。 ** 各駅停車は[[清瀬駅|清瀬]]発着が増えた。 ** 日中の新木場 - 飯能発着(快速)と新線池袋 - 小手指間(各駅停車)を入れ替える形で、新木場 - 小手指間(準急)と渋谷 - 飯能間(快速)に変更された。 === 過去に存在した種別 === ==== 特急ロマンスカー「ベイリゾート」 ==== {{Main|はこね (列車)#ベイリゾート}} [[小田急電鉄]]所属の[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]により小田急線と[[東京メトロ千代田線|千代田線]]を直通する[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]の一部を、「[[はこね (列車)#ベイリゾート|ベイリゾート]]」として年間30日程度、千代田線[[北千住駅]]から当路線の新木場駅に行き先・始発駅を変更して運転していた<ref group="注">「[http://www.tokyometro.jp/romancecar/timetable.html 特急ロマンスカー時刻表]」内に、年間運転スケジュールが記載されている。</ref>。 有楽町線[[桜田門駅]]と千代田線[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]間を結ぶ[[#連絡線|連絡線]](詳しくは後述)を経由し、霞ケ関駅で方向転換を行う。有楽町線内では[[豊洲駅]]と[[新木場駅]]のみに停車する<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208113222/https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-02.html|language=日本語|title=平成21年3月14日(土)「特急ロマンスカー」運転時刻一部変更について 利便性の向上を図ります|publisher=東京地下鉄|date=2009-01-14|accessdate=2021-02-20|archivedate=2020-12-08}}</ref>。 2011年9月25日以降運行を休止していたが<ref name="RP926_230" />、2012年3月17日のダイヤ改正で運行中止となった<ref group="報道" name="odakyu20111216">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200629140745/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2012年3月17日(土)ダイヤ改正を実施します。「メトロはこね」を毎日運転、朝方と夕夜間のロマンスカーを増発|publisher=小田急電鉄|page=2|date=2011-12-16|accessdate=2020-06-29|archivedate=2020-06-29}}</ref><ref name="RP976_145" />。 ==== 準急 ==== 相互乗り入れ先での種別ということではなく、有楽町線内で通過駅のある列車として初めて設定された種別。2008年6月14日のダイヤ改正で、平日の昼間と、土休日の早朝・深夜を除く時間帯に設定された<ref group="報道" name="pr20080327" />。併走区間がある副都心線急行・通勤急行とともに、東京の地下鉄での料金不要の優等列車の運転は、[[東京メトロ東西線|東西線]]快速、[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]急行、[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]エアポート快特に次いで4例目であった。 停車駅は和光市、小竹向原、池袋 - 新木場間の各駅であった。 イメージカラーは黄緑。 設定当初は東武東上線および西武線との相互直通運転をする列車も存在した。運転本数は新木場方面は毎時3本(和光市発2本、小手指発1本)、和光市・東上線系統と西武線系統は毎時各2本ずつで、土休日ダイヤでは21時頃まで運転され、平日で往復22本(土休日は往復44本)が運行されていた。しかし、同年[[11月29日]]のダイヤ改正で平日・土休日ダイヤとも日中のみ、両方向とも毎時2本(1日あたり10往復)に大幅減便した上ですべての準急が和光市 - 新木場間の線内運転のみとなり、東武東上線・西武線直通準急や夕方以降の準急は各駅停車に格下げされた<ref group="報道" name="pr20081110"/>。さらに、準急の運行によって要町駅・千川駅では停車列車の本数・乗客の利用機会が減少したため、2駅が所在する豊島区議会は準急全廃を求める意見書を出していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.toshima.lg.jp/kugikai/ikensho/13343/013344.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130523104842/http://www.city.toshima.lg.jp/kugikai/ikensho/13343/013344.html|title=東京メトロ有楽町線要町駅及び千川駅の準急通過の廃止を求める要望書|archivedate=2013-05-23|accessdate=2022-04-09|publisher=豊島区議会|language=日本語|deadlinkdate=2022年4月}}</ref>。こうした意見を受け、東京メトロは[[2010年]][[3月6日]]のダイヤ改正で準急を廃止することを発表し<ref group="報道" name="numbering"/>、有楽町線の準急は登場から2年足らずで姿を消した。 東上線直通の準急は和光市駅で「普通」に種別変更の上、東上線内を普通列車として運行していた(東上線準急と停車駅が変わらないので、[[営団7000系電車|7000系]]の一部車両は「準急」のまま走らせる場合もあった。また、東武車両のフルカラーLED表示は有楽町線準急が緑色、東上線準急が青色であった<ref group="注">後の2013年3月16日のダイヤ改正より、東上線準急は緑色に変更された。</ref>)。ただし、東上線直通の準急は本数が少なく、平日は新木場→川越市の片道1本が運転されるのみ、土休日も朝の川越市→新木場の3本と夕方以降の5往復が運転されるのみで、土休日に1本森林公園行きがある以外はすべて川越市発着であった。一方、西武線直通の準急は西武線内でも「準急」として運行するものと、小竹向原で「各停」「快速」に種別変更を行うものがあった。また、西武線直通の準急は小手指発着を中心に本数が多く、一部列車は清瀬発着・飯能発着として運行されていた。 なお、有楽町線の準急が廃止された後も、前述の副都心線の急行([[Fライナー]]含む)が和光市、小竹向原、池袋と停まる速達列車として存続している。 == 車両 == 現在の車両はすべて副都心線と共通であり、小竹向原以東は原則として10両編成の自社車両・西武車・東武車のみが入線するが、和光市 - 小竹向原間および並走区間である小竹向原 - 池袋間の副都心線の線路には8両編成の自社車両・東急車・横浜高速車・相鉄車も入線する。 === 自社車両 === * [[東京メトロ17000系電車|17000系]] *: [[2021年]][[2月21日]]運行開始<ref group="報道" name="pr20210221" /><ref group="新聞" name="news20210221" />。7000系10両編成を置き換えた<ref group="報道" name="pr20210221" /><ref group="報道" name="release20191111">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews201901111_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200106115929/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews201901111_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線に新型車両17000系を導入します 2020年度営業運転開始予定|publisher=東京地下鉄|date=2019-11-11|accessdate=2020-03-09|archivedate=2020-01-06}}</ref>。 * [[東京メトロ10000系電車|10000系]] *: [[2006年]][[9月1日]]運行開始<ref name="RP926_230" /><ref name="mook_138" />。原則として10両編成であるが、第1 - 5編成は8両編成として運行することも可能である<ref name="RP926_230" />。但し、8両編成は17000系8両編成同様の区間のみの運用となり、有楽町線では運行されない。 <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyo-Metro Series17000-17103.jpg|17000系<br>(2021年7月23日 [[柳瀬川駅]] - [[志木駅]]間) Tokyo-Metro-Series10000_10102.jpg|10000系<br>(2021年10月 [[東松山駅]] - [[高坂駅]]) </gallery> ==== 過去の車両 ==== * [[営団7000系電車|7000系]] *: 有楽町線を通しで走る7000系はゴールド帯の10両編成のみであったが、[[2010年]](平成22年)5月までに10両編成は副都心線・有楽町線兼用車への統一が完了し、ゴールド帯の7000系は消滅し、副都心線カラーの車両が運用されていた。 *: 副都心線開業に備えて改造された8両編成車は有楽町線の運用には入らず、和光市 - 小竹向原間の副都心線との共用区間に副都心線の各駅停車として乗り入れていた。 *: 2022年4月をもって営業運転を終了した<ref group="報道" name="metronews220519">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220519_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220519060058/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220519_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ありがとう! 7000系東京メトロスタンプラリー実施&オリジナル24時間券を発売します! 4つのスタンプを集めると先着2,000名様に「7000系缶バッチ」をプレゼント!! 7000系オリジナル24時間券は2022年5月25日(水)から発売開始!!|publisher=東京地下鉄|date=2022-05-19|accessdate=2022-05-19|archivedate=2022-05-19}}</ref>。 * [[営団07系電車|07系]] *: [[2009年]](平成21年)3月までに全車両が[[東京メトロ東西線|東西線]]に転属した。 <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"> Tobu-TojoLine-Series-Metro7000.jpg|7000系<br>(2017年12月29日 [[川越市駅]]) Tokyometro07002.JPG|07系<br>(2007年2月10日) </gallery> === 乗り入れ車両 === 小竹向原駅 - 新木場駅間に乗り入れる車両を挙げる。 ==== 現在の乗り入れ車両 ==== ; [[西武鉄道]] :* [[西武40000系電車|40000系]] - 0番台(デュアルシート車)は2017年3月25日より運行している「[[S-TRAIN]]」とその[[間合い運用]]で直通運転を行っている<ref group="報道" name="S-TRAIN" />。50番台(ロングシート車)は和光市駅発着を含む一般列車として6000系と共通運用で直通運転を行っている。 :* [[西武6000系電車|6000系]] - 副都心線池袋 - 渋谷間の開業に向けて、2006年度から2010年度にかけて同線への乗り入れ改造工事を施工<ref name="RP884_262">{{Cite journal|和書|author=小林尚智|title=西武鉄道 現有車両プロフィール2013|journal=鉄道ピクトリアル|date=2013-12-10|volume=63|issue=第12号(通巻884号)|pages=262 - 264・289 - 293頁|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。なお、試作車である6101編成・6102編成は運転台機器配置や床下機器配置に量産車との差異が見られる<ref name="RP884_262" />。地下鉄有楽町線・副都心線への直通運転対応改造対象から除外されたため、この2本は副都心線開業前に[[西武新宿線]]・[[西武拝島線|拝島線]]へ転属し、当路線では運用されていない<ref name="RP884_262" />。 <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"> Seibu Railway 40000 Series 40102F set.jpg|40000系0番台 S-TRAIN<br>(2017年3月25日) Seibu-Series40000 40055.jpg|40000系50番台 Seibu-Series6000-6055F.jpg|6000系<br>(2019年8月13日) </gallery> ; [[東武鉄道]] :* [[東武50000系電車#50070型|50000系50070型]] :* [[東武9000系電車|9000系9000型・9050型]] - 副都心線池袋 - 渋谷間の開業に向けて、[[2006年]]度から[[2008年]]度にかけて同線への乗り入れ対応改造工事を施工<ref name="RP949_162">{{Cite journal|和書|author=粂川零一|title=東武車両のリニューアル工事|journal=鉄道ピクトリアル|date=2018-08-10|volume=68|issue=第8号(通巻949号)|pages=162 - 164頁|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RP949_252-257">{{Cite journal|和書|author=粂川零一|title=東武鉄道 現有車両プロフィール2018|journal=鉄道ピクトリアル|date=2018-08-10|volume=68|issue=第8号(通巻949号)|pages=252 - 257頁|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。なお、試作車である9101Fは乗客用扉の間隔が量産車と異なるため改造工事対象外となり、東武東上線池袋 - [[小川町駅_(埼玉県)|小川町]]間の限定運用となった<ref name="RP949_252-257" />。また、2020年7月31日現在、9000型は東京メトロで定期運用される車両として唯一[[電機子チョッパ制御]]の車両となっている。 <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"> Tobu-Tojo-Line-Series51072F.jpg|50000系50070型<br>(2018年6月2日) Tobu-Series9000-9104F.jpg|9000系9000型<br> (2020年4月11日) Tobu-Tojo-Line-Series9151F.jpg|9000系9050型<br>(2016年11月26日) </gallery> ==== 過去の乗り入れ車両 ==== ; [[小田急電鉄]] :* [[小田急60000形電車|60000形 MSE]] - 不定期での運行だった。詳細は[[#特急ロマンスカー「ベイリゾート」]]の節を参照。 <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"> OER Romancecar Bay Resort -MSE-.JPG|60000形 MSE ベイリゾート<br>(2008年8月16日) </gallery> ; [[東急電鉄]] :* [[東急5000系電車 (2代)#5050系4000番台|5050系4000番台]] - 副都心線と東横線が直通運転を開始するのを前に、2012年9月から東武・西武の2社に貸し出され先行運用を開始し、定期運用も存在した<ref>{{Cite web|和書|title= 東急5050系4000番台が東武東上線・地下鉄有楽町線で営業運転開始|url=http://railf.jp/news/2012/09/11/085800.html|website=鉄道ファン・railf.jp|work=鉄道ニュース|publisher=交友社|date=2012-09-11|accessdate=2020-11-27|language=ja}}</ref>。副都心線との直通運転が開始された2013年3月16日以降は、小竹向原 - 新木場間での定期運用は設定されていない。但し、輸送障害時の際には現在でも有楽町線へ入線することがある。 <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyu-Series5050-4000.jpg|5050系4000番台<br>(2019年8月13日) </gallery> === 有楽町線内での種別表示について === 現在、有楽町線内では各駅停車のみが運行されている。車両側では「各駅停車」と種別を表示する。これに対し、和光市駅 - 小竹向原駅以外の駅の発車案内標では、種別欄が空白となる<ref group="注">和光市駅・小竹向原駅の発車案内標では「各停/Local」と表示される。</ref>。 [[ファイル:東京メトロ有楽町線の側面行先表示器.jpg|サムネイル|東京メトロ有楽町線の電車の側面行先表示器]]<ref>2022年8月10日に池袋駅にて撮影</ref> 東武東上線と相互乗り入れする列車は、東上線内ではすべて「普通」であるため、和光市駅にて「各駅停車」と「普通」の種別表示を変更する。また、西武線と相互乗り入れする列車は、小竹向原駅で種別表示を変更し、有楽町線内での西武線内の種別の表示は行わずに「各停」と表示する<ref name="syubetu" group="注"/>。 なお、副都心線開業前も、有楽町線内は全列車各駅停車であり、副都心線開業前は車両によって種別表示の有無が異なっていた。なお、副都心線開業前は「各停」は用いられず、種別表示は「普通」であった。また、以下のようになっていた。 ; 乗り入れ先区間も含めて全区間各駅停車の列車の場合 * 駅の発車標は、和光市駅以外はすべて種別欄が空白だった。 * 東京地下鉄の車両は行先のみを表示した。 * 東武鉄道の車両は50070系および改造工事後の9000系・9050系は前面・側面共に種別表示を行っていた。なお、改造工事前の東武9000系・9050系は、2000年頃までは前面も含め種別表示を行わず、2000年頃からは前面のみ種別表示を行い側面は行先のみを表示していた(改造工事直後の一時期も同様だった)。 * 西武鉄道の車両は当初より前面・側面共に種別表示を行っていた。 ; 西武線内が準急や快速になる場合 * A線(新木場・新線池袋方面) ** 有楽町線内の駅の発車標は、すべて種別欄が空白だった<ref group="注">[[西武有楽町線]]の[[練馬駅]]・[[新桜台駅]]は副都心線開業前は「各停/Local」、副都心線開業後は小竹向原までの種別を表示する。</ref>。 ** 東京地下鉄の車両([[発光ダイオード|LED]]式[[方向幕|行先表示器]]を装備する)は手動で各駅停車(種別無表示)に変更していた。 ** 西武鉄道の車両は[[1998年]][[3月26日]]から[[2005年]]頃までは西武線内の種別表示のまま有楽町線内でも変更は行わなかった。しかし、利用客の誤解や誤乗を防ぐため、また、副都心線開業準備(一部で途中駅から種別が変わる系統が発生するのに備えた)のために、2005年頃から小竹向原駅で種別を「普通」に変更するようになった<ref group="注">副都心線開業前は改造工事後の6000系も「普通」表示だった。</ref>。 * B線(小竹向原・練馬・飯能方面) ** 駅の発車標や東京地下鉄の車両・西武鉄道の車両とも有楽町線内でも始発駅から西武線内の種別を表示していた。なお、東京メトロ民営化後の一時期、車内表示・車内自動放送は有楽町線内では種別を案内しない(種別無案内)時期もあった。 == 女性専用車 == {{See also|日本の女性専用車両#導入理由・導入背景}} [[2005年]][[10月31日]]から導入され<ref group="報道" name="pr20051013"/><ref group="注">「[http://www.tokyometro.jp/safety/attention/women/index.html 東京メトロ公式サイト 女性専用車両]」中の「有楽町線」の項も参照。</ref>、2013年3月18日より設定時間帯を変更した。 ; 2013年3月18日 - :* 平日の始発列車から新木場方面行最後尾の1号車に設置。9時30分をもって終了。他社からの直通や途中駅始発の列車も含むが、「S-TRAIN」は対象外。 : ; 設定開始当初 - 2013年3月15日 :* 平日の朝ラッシュ時、和光市駅を7時07分から9時12分までに発車する新木場行列車または小竹向原駅を7時20分から9時15分までに発車する新木場行き列車の、進行方向最後尾車両に設定。 :* 他社線直通列車は、乗り入れ先の始発駅より実施。 :* 9時20分になった時点で女性専用車の扱いを終了。 各駅の出入口が先頭車両あるいは最後尾車両に存在する場合が多い。 なお、ダイヤ乱れ時には女性専用車の運用は取りやめられる。 == 利用状況 == 2022年(令和4年)度の最混雑区間(A線、東池袋 → 護国寺間)の[[混雑率]]は'''131%'''である<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=3|format=PDF}}</ref>。 東上線との直通運転を開始した1987年度は混雑率が229%を記録したが、輸送力の増強により1993年度に180%程度に緩和された。1998年度以降は輸送人員が減少傾向となり、副都心線が開業した2008年度に混雑率が170%を下回った。 2007年度の一日平均通過人員は池袋 - 飯田橋間で37万人を超えており、そのうち江戸川橋 - 飯田橋間が378,275人で最も多い。飯田橋で輸送量が減少し、飯田橋 - 市ケ谷間は301,399人である。その後は豊洲まで輸送量が20万人を超えるが、豊洲で再度輸送量が減少し、豊洲 - 辰巳間が112,576人である。一方、和光市方面は池袋を境に輸送人員が減少する。特に西武線と分岐する小竹向原で輸送量が減少し、氷川台 - 小竹向原間が229,420人である。その後も減少傾向が続き、埼玉県との都県境を越える和光市 - 地下鉄成増間が113,140人である。最も通過人員が少ないのは辰巳 - 新木場間で、92,483人である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|format=PDF|title=東京地下鉄 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date=|accessdate=2021-01-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190406020630/https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|archivedate=2019-04-06}}</ref>。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|最混雑区間(東池袋 → 護国寺間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref name="eidan50_300">[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、p.300。</ref> !rowspan="2"|特記事項 |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |1975年(昭和50年) | 20 || 14,080 || 22,874 || '''162''' | |- |1976年(昭和51年) | 20 || 14,080 || 26,023 || '''185''' | |- |1977年(昭和52年) | 20 || 14,080 || 26,148 || '''186''' | |- |1978年(昭和53年) | 20 || 14,080 || 26,754 || '''190''' | |- |1979年(昭和54年) | 20 || 14,080 || 29,369 || '''209''' | |- |1980年(昭和55年) | 20 || 14,080 || 29,519 || '''210''' | |- |1981年(昭和56年) | 20 || 14,080 || 30,576 || '''217''' | |- |1982年(昭和57年) | 20 || 14,080 || 30,969 || '''220''' | |- |1983年(昭和58年) | 17 || 24,208 || 40,897 || '''169''' |style="text-align:left;"|1983年6月24日、営団成増 - 池袋間開業 |- |1984年(昭和59年) | 17 || 24,208 || 41,446 || '''171''' | |- |1985年(昭和60年) | 17 || 24,208 || 47,128 || '''195''' | |- |1986年(昭和61年) | 17 || 24,208 || 48,667 || '''201''' | |- |1987年(昭和62年) | 17 || 24,208 || 55,331 || style="background-color: #ffcccc;"|'''229''' |style="text-align:left;"|1987年8月25日、和光市 - 営団成増間開業・東武東上線との直通運転開始 |- |1988年(昭和63年) | 18 || 25,632 || 56,205 || '''219''' |style="text-align:left;"|1988年6月8日、新富町 - 新木場間開業 |- |1989年(平成元年) | 20 || 28,480 || 58,782 || '''206''' | |- |1990年(平成{{0}}2年) | 20 || 28,480 || 59,544 || '''209''' | |- |1991年(平成{{0}}3年) | 20 || 28,480 || 59,993 || '''211''' | |- |1992年(平成{{0}}4年) | 21 || 29,904 || 61,011 || '''204''' | |- |1993年(平成{{0}}5年) | 23 || 32,752 || 59,422 || '''181''' | |- |1994年(平成{{0}}6年) | 23 || 32,752 || 60,401 || '''184''' |style="text-align:left;"|1994年12月7日、有楽町線新線開業 |- |1995年(平成{{0}}7年) | 24 || 34,176 || 61,271 || '''179''' | |- |1996年(平成{{0}}8年) | 24 || 34,176 || 60,729 || '''178''' | |- |1997年(平成{{0}}9年) | 24 || 34,176 || 61,014 || '''179''' |style="text-align:left;"|1998年3月26日、西武池袋線との直通運転開始 |- |1998年(平成10年) | 24 || 34,176 || style="background-color: #ffcccc;"|61,437 || '''180''' | |- |1999年(平成11年) | 24 || 34,176 || 60,460 || '''177''' | |- |2000年(平成12年) | 24 || 34,176 || 60,312 || '''176''' | |- |2001年(平成13年) | 24 || 34,176 || || '''177''' | |- |2002年(平成14年) | 24 || 34,176 || 60,226 || '''176''' | |- |2003年(平成15年) | 24 || 34,176 || 60,113 || '''176''' | |- |2004年(平成16年) | 24 || 34,176 || || '''174''' | |- |2005年(平成17年) | 24 || 34,176 || || '''175''' | |- |2006年(平成18年) | 24 || 34,176 || 60,020 || '''176''' | |- |2007年(平成19年) | 24 || 34,176 || 59,230 || '''173''' | |- |2008年(平成20年) | 24 || 34,176 || 57,590 || '''169''' |style="text-align:left;"|2008年6月14日、東京メトロ副都心線開業 |- |2009年(平成21年) | 24 || 34,176 || 57,109 || '''167''' | |- |2010年(平成22年) | 24 || 34,176 || 57,411 || '''168''' | |- |2011年(平成23年) | 24 || 34,176 || 57,211 || '''167''' | |- |2012年(平成24年) | 24 || 34,176 || 58,050 || '''170''' |style="text-align:left;"|2013年3月16日、副都心線が東急東横線との直通運転開始 |- |2013年(平成25年) | 24 || 34,176 || 56,397 || '''165''' | |- |2014年(平成26年) | 24 || 34,176 || 54,726 || '''160''' | |- |2015年(平成27年) | 24 || 34,176 || 54,915 || '''161''' | |- |2016年(平成28年) | 24 || 34,176 || 54,457 || '''159''' | |- |2017年(平成29年) | 24 || 34,176 || 55,847 || '''163''' | |- |2018年(平成30年) | 24 || 34,176 || 56,254 || '''165''' | |- |2019年(令和元年) | 24 || 34,176 || 56,269 || '''165''' | |- |2020年(令和{{0}}2年) | 24 || 34,176 || 37,419 || '''109''' | |- |2021年(令和{{0}}3年) | 24 || 34,176 || style="background-color: #ccffff;"|34,959 || style="background-color: #ccffff;"|'''102''' | |- |2022年(令和{{0}}4年) | 24 || 36,432 || 47,726 || '''131''' | |} == 駅一覧 == * 駅番号はA線方向(和光市から新木場の方向)に増加。 ; 凡例 : ●:停車駅、|:通過駅、 ◇<!--東急東横線・副都心線・西武池袋線と使用記号を合わせています-->:[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]] : 各駅停車はすべての駅に停車するため省略。 {| class="wikitable" rules="all" !style="border-bottom:3px solid #c1a470;"|{{Nowrap|駅番号}} !style="width:7.5em; border-bottom:3px solid #c1a470;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #c1a470;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #c1a470;"|累計キロ !style="width:1em; border-bottom:3px solid #c1a470; background:white;"|{{縦書き|S-TRAIN|tag=span}} !style="border-bottom:3px solid #c1a470;"|接続路線・備考 !colspan="2" style="border-bottom:3px solid #c1a470;"|所在地 |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="4"|和光市駅から [[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東武東上線]][[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]]まで<br>小竹向原駅から [[File:SeibuIkebukuro.svg|16px|SI]] [[西武有楽町線]]経由 [[File:SeibuIkebukuro.svg|16px|SI]] [[西武池袋線]][[飯能駅]](臨時列車は[[西所沢駅]]経由 [[File:SeibuIkebukuro.svg|16px|SI]] [[西武狭山線]][[西武球場前駅]])まで<!-- <br>○特急… [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]経由 [[File:Odakyu odawara logo.svg|15px|OH]] [[小田急小田原線]][[本厚木駅]]まで --> |- !Y-01 |[[和光市駅]]<ref group="*">和光市駅は他社接続の共同使用駅で、東武鉄道の管轄駅である。</ref> |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="5" style="vertical-align:bottom;"|{{縦書き|西武線直通|height=6em}} |[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] '''東上線(TJ-11)(直通運転)'''<br>[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]](F-01・共用)<br />車両基地所在駅 |colspan="2"|[[埼玉県]]<br>[[和光市]] |- !Y-02 |[[地下鉄成増駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|2.2 |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-02・共用) |rowspan="23" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}} |[[板橋区]] |- !Y-03 |[[地下鉄赤塚駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|3.6 |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-03・共用) |rowspan="4"|[[練馬区]] |- !Y-04 |[[平和台駅 (東京都)|平和台駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|5.4 |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-04・共用) |- !Y-05 |[[氷川台駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|6.8 |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-05・共用) |- !Y-06 |[[小竹向原駅]]<ref group="*">小竹向原駅は他社接続の共同使用駅で、東京地下鉄の管轄駅である。</ref> |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|8.3 |style="text-align:center; background:white;"|◇ |[[西武鉄道]]:[[File:SeibuIkebukuro.svg|16px|SI]] '''西武有楽町線(SI37)(池袋方面から直通運転)'''<br>東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-06・共用) |- !Y-07 |[[千川駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|9.3 |style="text-align:center; background:white;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-07) |rowspan="4"|[[豊島区]] |- !Y-08 |[[要町駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|10.3 |style="text-align:center; background:white;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-08) |- !Y-09 |[[池袋駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|11.5 |style="text-align:center; background:white;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]](M-25)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|副都心線]] 副都心線(F-09)([[渋谷駅|渋谷]]・[[横浜駅|横浜]]方面)<br>[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JA_line_symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]](JA 12)・[[ファイル:JR_JS_line_symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]](JS 21)・[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]](JY 13)<br>東武鉄道:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] 東上線(TJ-01)<br>西武鉄道:[[File:SeibuIkebukuro.svg|16px|SI]] 池袋線(SI01) |- !Y-10 |[[東池袋駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|12.4 |style="text-align:center; background:white;"|| |&nbsp;<!-- 都電・東池袋四丁目停留場は有楽町線では乗り換え案内がなされないため省略 --> |- !Y-11 |[[護国寺駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|13.5 |style="text-align:center; background:white;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[文京区]] |- !Y-12 |[[江戸川橋駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|14.8 |style="text-align:center; background:white;"|| |&nbsp; |- !Y-13 |[[飯田橋駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|16.4 |style="text-align:center; background:white;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|東西線]] [[東京メトロ東西線|東西線]](T-06)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|南北線]] [[東京メトロ南北線|南北線]](N-10)<br>[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]](E-06)<br>東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]](JB 16) |rowspan="2"|[[新宿区]] |- !Y-14 |[[市ケ谷駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|17.5 |style="text-align:center; background:white;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|南北線]] 南北線(N-09)<br>都営地下鉄:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|新宿線]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]](S-04)<br>東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|18px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)(JB 15) |- !Y-15 |[[麹町駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|18.4 |style="text-align:center; background:white;"|| |&nbsp; |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]] |- !Y-16 |[[永田町駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|19.3 |style="text-align:center; background:white;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|半蔵門線]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-04)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|南北線]] 南北線(N-07)・<br>[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]]([[赤坂見附駅]]:G-05)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] 丸ノ内線(赤坂見附駅:M-13) |- !Y-17 |[[桜田門駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|20.2 |style="text-align:center; background:white;"|| |&nbsp; |- !Y-18 |[[有楽町駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|21.2 |style="text-align:center; background:white;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|日比谷線]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]([[日比谷駅]]:H-08)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]](日比谷駅:C-09)<br>都営地下鉄:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|三田線]] [[都営地下鉄三田線|三田線]](日比谷駅:I-08)<br>東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|18px|JY]] 山手線(JY 30)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]](JK 25) |- !Y-19 |[[銀座一丁目駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|21.7 |style="text-align:center; background:white;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] 銀座線([[銀座駅]]:G-09)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] 丸ノ内線(銀座駅:M-16)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|日比谷線]] 日比谷線(銀座駅:H-09) |rowspan="3"|[[中央区 (東京都)|中央区]] |- !Y-20 |[[新富町駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|22.4 |style="text-align:center; background:white;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|日比谷線]] 日比谷線([[築地駅]]:H-11) |- !Y-21 |[[月島駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|23.7 |style="text-align:center; background:white;"|| |都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] 大江戸線(E-16) |- !Y-22 |[[豊洲駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|25.1 |style="text-align:center; background:white;"|● |[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]:[[ファイル:Yurikamome line symbol.svg|18px|U]] [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]](U-16) |rowspan="3"|[[江東区]] |- !Y-23 |[[辰巳駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|26.8 |&nbsp; |&nbsp; |- !Y-24 |[[新木場駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|28.3 |&nbsp; |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JE_line_symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 05)<br>[[東京臨海高速鉄道]]:[[ファイル:Rinkai_Line_symbol.svg|18px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]](R 01)<br />車両基地所在駅 |} {{Reflist|group="*"}} * 連絡駅で一度改札口を出たり、構内を長時間歩いたりする場合が多いため、他の路線との乗り換えには時間がかかる場合が多いが、南北線には比較的スムーズに乗り換えられる。 * 新富町駅は開削工法による対向式ホーム構造でありながら入船橋の下にホームがあるため、線路間の中柱がない。日本の地下駅では類例の少ない構造である。同様の駅として、[[都営地下鉄三田線|都営三田線]][[白山駅 (東京都)|白山駅]]や[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]][[南千住駅]]・[[青井駅]]が挙げられる。 * 有楽町線池袋駅 - 要町駅 - [[東京メトロ副都心線|副都心線]]池袋駅の経路で乗車する、要町駅での折り返し乗り換えを認めていないため、有楽町線新木場方面 - 副都心線渋谷方面間の乗り換えは池袋駅で一度改札外に出る。 * 当線の和光市駅 - 池袋駅を含む定期券を所持していれば副都心線の同区間にも乗車でき、飯田橋駅 - 市ケ谷駅を含む定期券を所持していれば南北線の同区間にも乗車可能である。 * 座席指定列車「S-TRAIN」は有楽町線内では西武池袋線小手指方面への乗車と所沢方面からの降車のみ可能。有楽町線内のみの利用は不可。 * 和光市駅と新木場駅は地上駅、他の駅はすべて地下駅となっている。 == 連絡線 == この路線には、他の路線への[[連絡線]]が2本ある。 ; 8・9号線連絡側線 * [[桜田門駅]]西側から南西へ弧を描いて[[東京メトロ千代田線|千代田線]][[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]の西側へ単線で接続する連絡線<ref name="Yurakucho-Const432 - 433"/>。 **この連絡線は単線で延長577.896&nbsp;mと長く、途中には半径167.595&nbsp;mもの急カーブが存在する<ref name="Yurakucho-Const432 - 433"/>。 * [[市ケ谷駅]]から南東に並行する[[東京メトロ南北線|南北線]]の同駅への連絡線 この2つの連絡線は主に千代田線の[[綾瀬車両基地|綾瀬工場]]へ検査を受ける車両を[[回送]]するためにあるが、臨時列車がごく稀に運転される。2002年からは夏の花火大会と冬の年末年始に関連した臨時列車が運転されるのが定番化している。この臨時列車は相互乗り入れの関係上、千代田線からの直通は同線車両([[東京メトロ16000系電車|16000系]]、過去には[[営団06系電車|06系]]や[[営団6000系電車|6000系]])、南北線からの直通は同線車両([[営団9000系電車|9000系]])が使用される。また、後者の連絡線は[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]用の[[営団8000系電車|8000系]]を更新するため新木場CRへ回送する際にも用いられた。この回送は[[鷺沼検車区|鷺沼車両基地]]から[[東急田園都市線]]・[[東急大井町線|大井町線]]・[[東急目黒線|目黒線]]・南北線を経由して連絡線から有楽町線に入り新木場というルートとなる。 == 臨時列車 == 沿線でのイベントなどで[[臨時列車]]が運行されることがある。[[#連絡線|連絡線]]を介して運行されることが多いが、中には乗り入れ路線発着とした列車が運行される。 下記のほかにも、2004年9月に新木場検車区(現・和光検車区新木場分室)撮影会への臨時列車(千代田線[[営団06系電車|06系]]・[[営団6000系電車|6000系]]、南北線[[営団9000系電車|9000系]]を使用)や、10月に開業30周年記念列車を運転したことがある。 === 西武ドームへの観客輸送 === {{Main|西武有楽町線#西武ドームへの観客輸送}} 西武ドームでの催事の際には、西武線直通の定期列車の一部を狭山線西武球場前行きに変更して運行される。 === 東京湾大華火祭 === 2002年度から、[[東京湾大華火祭]]会場最寄りの[[豊洲駅]]への輸送を担う列車として打ち上げ[[花火]]の名称にちなんだ臨時列車が運行されている。基本的には同大会の開催日に運行されるため中止時は運行されない。往復とも運転される列車には1号、2号、と号数が付く。 なお、2006年は[[8月12日]]に運転される予定であったが、雨の影響で開催できなかったため、運転予定の列車すべてが運転中止となった(同大会は翌[[8月13日|13日]]に開催されたが、[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]の臨時列車は運行された)。また、2007年は愛称の付かない線内運転の臨時列車となった。 * ナイアガラ1・2号 ** [[西武池袋線]][[小手指駅]] - [[新木場駅]]間運転。 *** 往路(1号):西武池袋線・[[西武有楽町線]]内は[[快速列車|快速]]、当線内は[[急行列車|急行]]扱い。 *** 復路(2号):当線内は各駅停車、西武有楽町線・池袋線内は快速扱い。 ** [[西武6000系電車|西武6000系]]で運行。 ** 停車駅: *** 1号:小手指駅から[[ひばりヶ丘駅]]までの各駅→[[石神井公園駅]]→[[練馬駅]]→[[新桜台駅]]→[[小竹向原駅]]→[[池袋駅|<small>有楽町線</small>池袋駅]]→[[飯田橋駅]]→[[永田町駅]]→[[有楽町駅]]→[[月島駅]]→豊洲駅→新木場駅 *** 2号:新木場駅から小竹向原駅までの各駅→新桜台駅→練馬駅→石神井公園駅→ひばりヶ丘駅から小手指駅までの各駅 * スターマイン1・2号(2004年度は往路のみ運転、2005年度は運転なし) ** 2003年度までは[[東武東上本線|東武東上線]][[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]] - 新木場駅間で、2004年度は東武東上線[[川越市駅]]([[高坂駅]] - 川越市駅間回送運転)→新木場駅間に往路のみ運転した。 ** 往路(1号):東武東上線内は各駅停車、当線内は和光市 - 池袋間全て通過、池袋 - 新木場間各駅停車(2003年度までは和光市 - 新木場間が急行運転となり途中小竹向原・池袋・飯田橋・永田町・有楽町・月島・豊洲に停車していた)。 ** 停車駅(2004年度):川越市駅から[[和光市駅]]までの各駅→<small>有楽町線</small>池袋駅から新木場駅までの各駅 ** 復路(2号):当線・東武東上線内とも各駅停車。 ** 2006年度は3年ぶりの往復運転となり、往路(1号)は東武東上線内も急行運転(森林公園駅から川越までの各駅→[[ふじみ野駅]]→[[志木駅]]→[[朝霞台駅]]→和光市駅)で、当線内は2003年度までと同一の停車駅で運行される予定であった。 * ドラゴン号 ** [[小田急多摩線]][[唐木田駅]] - 新木場駅間運転。小田急線内は[[多摩急行]]、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]および当線内は急行扱い。 ** 2005年度は[[小田急小田原線]][[相模大野駅]] - 新木場駅間に運転し、小田急線内を[[快速急行]]で運転した。 ** [[営団06系電車|06系]]または[[営団6000系電車|6000系]]で運行。両形式とも新木場行の行先表示がないため、「新木場」と表記された方向板を付けて運転する。 ** 停車駅:唐木田駅→[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]→[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]→[[栗平駅]]→[[新百合ヶ丘駅]]→[[登戸駅]]→[[成城学園前駅]]→[[経堂駅]]→[[下北沢駅]]→[[代々木上原駅]]→[[表参道駅]]→有楽町駅→月島駅→豊洲駅→新木場駅<br />(2005年度は相模大野駅→[[町田駅]]→新百合ヶ丘駅→下北沢駅→代々木上原駅→表参道駅→有楽町駅→月島駅→豊洲駅→新木場駅) * ファンタジー号(2003年度から運転) ** [[東急目黒線]][[武蔵小杉駅]](2003年度は[[東急東横線]][[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]) - 新木場駅間運転。東急目黒線および[[東京メトロ南北線]]内は各駅停車、当線内は急行扱い。 ** 停車駅(2004・2005年度):武蔵小杉駅から[[市ケ谷駅]](南北線)までの各駅→永田町駅(有楽町線)→有楽町駅→月島駅→豊洲駅→新木場駅 ** [[営団9000系電車|東京地下鉄9000系]]で運行。新木場行の行先表示がないため、「新木場」と表記された方向板を付けて運転する。 ** 2006年度は東急東横線[[菊名駅]]からの運転で、同線内は急行運転(菊名駅→[[綱島駅]]→日吉駅→武蔵小杉駅)で運行される予定であった。 * レインボー号 ** [[埼玉高速鉄道線]][[浦和美園駅]] - 新木場駅間運転。埼玉高速鉄道線および東京メトロ南北線内は各駅停車、当線内は急行扱い。 ** 停車駅:浦和美園駅から市ケ谷駅(南北線)までの各駅→永田町駅(有楽町線)→有楽町駅→月島駅→豊洲駅→新木場駅 ** 東京地下鉄9000系で運行。新木場行の行先表示がないため、「新木場」と表記された方向板を付けて運転する。 いずれも、先頭車の前面に愛称毎のヘッドマークを掲出して運転する。 なお、2003年度から2005年度までは[[東急田園都市線]][[中央林間駅]]から[[東京メトロ半蔵門線]]永田町駅まで「HA・NA・BIリレー号」(2003年度は[[半蔵門駅]]まで運行)と「スターライト号」(2004・2005年度)を運行していた。両愛称とも永田町駅で他の臨時列車に連絡するリレー扱いの臨時列車である。2006年度は運行しなかった。 === 東京ミレナリオ === 2003年[[12月27日]]・[[12月28日|28日]]・[[12月30日|30日]]と2004年[[12月25日]]・[[12月26日|26日]]には、[[東京ミレナリオ]]会場最寄りの[[有楽町駅]]への輸送を担う列車として「東京ミレナリオトレイン」という臨時列車が運行され、先頭車の前面にヘッドマークを掲出して運転していた(2005年は運行しなかった)。 * [[西武池袋線]][[小手指駅]] - [[新木場駅]]間運転。西武池袋線・[[西武有楽町線]]内は快速、当線内は急行扱い。 * 停車駅:小手指駅 - [[ひばりヶ丘駅]]間各駅 - [[石神井公園駅]] - [[練馬駅]] - [[新桜台駅]] - [[小竹向原駅]] - [[池袋駅|<small>有楽町線</small>池袋駅]] - [[飯田橋駅]] - [[永田町駅]] - 有楽町駅 - 新木場駅 * [[西武6000系電車|西武6000系]]で運行。 * 2003年は復路のうち1本が当線内を急行運転していた。 ** 停車駅:新木場駅→有楽町駅→永田町駅→飯田橋駅→池袋駅→小竹向原駅→[[和光市駅]] ** [[営団07系電車|東京地下鉄07系]]で運行していた。この時は行先表示に「急行 和光市」という表示が見られた。 === 鉄道フェスティバル === 2004年[[10月9日]]と[[10月10日|10日]]に[[日比谷公園]]で開催される予定であった「第11回鉄道フェスティバル」への臨時列車も設定されていた。 * [[東武東上本線|東武東上線]][[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]] - [[新木場駅]]間運転。 ** 往路:東武東上線内は各駅停車、当線内は和光市 - 池袋間全て通過、池袋 - 新木場間各駅停車。 ** 復路:当線・東武東上線内とも各駅停車。 * [[西武池袋線]][[小手指駅]] - 新木場駅間運転。西武池袋線・[[西武有楽町線]]内は快速、当線内は各駅停車。 * [[埼玉高速鉄道線]][[浦和美園駅]] - [[有楽町駅]]間運転。埼玉高速鉄道線および東京メトロ南北線内は各駅停車、当線内は市ケ谷 - 有楽町間全て通過。 いずれも10月9日に運転される予定であったが、台風のため、鉄道フェスティバルが同月10日のみの開催となったため運転中止となった。また、2005年度以降は運転されていない。 === ドリームエキスプレス === 鉄道の日を記念して、[[2001年]]まで営団地下鉄(当時)が中心となって関東私鉄5社が合同で企画された団体臨時列車で、各ルート別に参加者を募って団体列車として運転された。 * 有楽町線では、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ヶ関駅]] - [[桜田門駅]]間の[[#連絡線|連絡線]]を経由して霞ヶ関駅に至る東武・西武両線発着のルートとして運転された(開催年によって発着路線・駅が入れ替わる)。 * 他にも、開催年によっては小田急線-千代田線ルートや、東武伊勢崎線 - 日比谷線、東急東横線 - 日比谷線の発着ルートもあった。また、2001年のみ千代田線 - 南北線 - 東急目黒線 - 東急東横線のルートもあった(千代田線 - 南北線のルートについては国会議事堂前-溜池山王接続で南北線に乗り換え)。 途中の地下鉄霞ケ関駅で一旦下車し、各ルートからの参加者が合流して、メインイベントが開催された。 なお、2002年以降、ドリームエキスプレスのイベントが開催されなくなったが、この時の5社合同企画が、後の東京湾大華火祭の臨時列車の企画に発展していく。 === SEIBU RAILWAY PRESENTS ageHa TRAIN === [[2015年]][[6月5日]]・[[6月6日|6日]]には、西武鉄道が[[新木場駅]]近くにある[[STUDIO COAST]]で開催されるクラブイベント[[ageHa]]とタイアップし、日本初の列車内[[エレクトロニック・ダンス・ミュージック|EDM]]イベント臨時列車「ageHa TRAIN」が運転された。 * [[西武有楽町線]][[練馬駅]]→新木場駅間運転。途中停車駅なし。 * [[西武6000系電車|西武6000系]]6151Fで運行。 == 発車メロディ == 2011年2月23日以降、地下鉄成増駅と地下鉄赤塚駅を皮切りに、ホームドアの使用を開始した駅から順次[[発車メロディ]](発車サイン音)を導入している<ref name="melody" />。全て[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、[[塩塚博]]、[[福嶋尚哉]]、[[谷本貴義]]の3名が作曲を手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ 駅発車メロディー & 駅ホーム自動放送 シリーズ[東京メトロ有楽町線 駅発車メロディー & 駅ホーム自動放送:TECD-21634] / TEICHIKU ENTERTAINMENT |url=https://www.teichiku.co.jp/catalog/tokyometro/products/TECD-21634.html |website=テイチクエンタテインメント |accessdate=2019-07-26 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=個人でのソーシャルメディアでの音源使用について |url=http://www.switching.co.jp/news/401 |website=スイッチオフィシャルサイト |accessdate=2020-09-03 |language=ja |publisher=スイッチ}}</ref>。 曲名はスイッチの[http://www.switching.co.jp/sound/index3.html 音源リスト]および同社が運営する「鉄道モバイル」による。<!-- 曲名が判明していない曲は記載しないでください。 --> {| class="wikitable" ! rowspan="2" |駅名 ! colspan="2" |曲名 |- !A線(新木場方面) !B線(和光市・東武線方面) |-style="border-top:3px solid #c1a470;" !和光市<ref group="*">和光市駅は東武鉄道の管轄であるため、接近放送は東武仕様のものが流れる。</ref> |3:(東武鉄道汎用発車メロディ)<ref group="*">2023年10月24日にベルから変更。なお、2012年7月7日から12月17日までは「きらめくホーム」(福嶋作曲・現在は副都心線東新宿駅1番線で使用)が使用されていた。</ref> |2:(東武鉄道汎用発車メロディ) |- !地下鉄成増 |1:電車ライト【福嶋】 |2:はらり【塩塚】 |- !地下鉄赤塚 |1:レッツトレイン【福嶋】 |2:始まるよ【塩塚】 |- !平和台 |1:輪になって【塩塚】 |2:こおろぎ【塩塚】 |- !氷川台 |1:もう来ます【谷本】 |2:ワクワク電車【福嶋】 |- !小竹向原 |1:オーバーフロー【塩塚】<br />2:駅ストレッチ【福嶋】 |3:キャロット【塩塚】<br />4:無休【谷本】 |- !千川 |1:スター車両【福嶋】 |2:さわやかステーション【福嶋】 |- !要町 |1:休みながら【谷本】 |2:電車へステップ【福嶋】 |- !池袋 |3:bright【谷本】 |4:OK!【塩塚】 |- !東池袋 |1:マイルド電車【福嶋】 |2:時のスパイラル【塩塚】 |- !護国寺 |1:冒険電車【福嶋】 |2:かざぐるま【塩塚】 |- !江戸川橋 |1:星の舞踏会【塩塚】 |2:風香る駅【福嶋】 |- !飯田橋 |3:ラブリートレイン【福嶋】 |4:星のゆくえ【塩塚】 |- !市ケ谷 |1:common【谷本】 |2:電車でウキウキ【福嶋】 |- !麹町 |1:キューティー電車【福嶋】 |2:きらめき電車【福嶋】 |- !永田町 |1:サムライ電車【福嶋】 |2:パピヨン【福嶋】 |- !桜田門 |1:雪景色【谷本】 |2:地下鉄が好き【谷本】 |- !有楽町 |1:一緒に【塩塚】 |2:アンブレラ・ワルツ【塩塚】 |- !銀座一丁目 |1:花時計【塩塚】 |2:Rolling【塩塚】 |- !新富町 |1:雨が上がれば【塩塚】 |2:目覚めの電車【福嶋】 |- !月島 |1:江戸の街【福嶋】 |2:旅の前日【谷本】 |- !豊洲 |1:たんとんとん【塩塚】<ref group="*" name="ekimelo">使用開始前に、作曲した塩塚の著書「駅メロ! THE BEST 」([[扶桑社]])の付属[[コンパクトディスク|CD]]に収録されていた。</ref><br />2:(使用停止中)<ref group="*">降車専用ホームのため、使用停止以前からメロディは導入されていない。</ref> |3:(使用停止中)<ref group="*">2013年12月28日に「フラワートレイン」(福嶋作曲)が導入されている。当初は定期列車の発着がなかったためメロディが使用されることはなかったが、2017年のダイヤ改正で平日に当該番線を使用する始発列車が設定されたため、同年3月27日に使用が開始されている。なお、2019年10月15日のダイヤ改正以降は、[[2020年東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]に向けての混雑緩和のため、2番線と同様に使用が停止されている。</ref><br />4:風はみどりの【福嶋】<ref group="*">2013年10月26日から2020年9月2日までは「きらめくホーム」(福嶋作曲)を使用していた。</ref> |- !辰巳 |1:スキップ車両【福嶋】 |2:駆け込み禁止【谷本】 |- !新木場 |1:(降車専用のため無し) |2:明日はきっと【塩塚】<ref group="*" name="ekimelo" /> |- !(車載メロディ) |未来電車【福嶋】 |rapid【谷本】 |} * 上表の数字は各駅の番線、【】内は作曲者を表す。 {{Reflist|group="*"}} == 都市高速鉄道8号線延伸構想 == <!--8号線≠有楽町線であることに注意。8号線としての延伸計画は否定できない。東葉高速線が5号線、埼玉高速線が7号線であるように。--> [[ファイル:TokyoMetro ToyosuStation2.jpg|thumb|240px|right|有楽町線豊洲駅ホーム中央部分<br />(2005年6月)]] {{See also|東京直結鉄道}} [[豊洲駅]]で有楽町線から分岐して[[東武野田線]][[野田市駅]]まで第8号線を延伸する構想がある。そのうち、豊洲駅 - [[住吉駅 (東京都)|住吉駅]]間4.8&nbsp;kmについては、東京メトロが有楽町線の延伸として鉄道事業許可を申請し<ref group="報道" name="metro20220128" />、国土交通大臣から第一種鉄道事業許可を受けている<ref group="報道" name="milt20220328" />。 === 沿革 === [[都市交通審議会答申第15号]]で豊洲 - [[亀有駅|亀有]]間 (14.7&nbsp;km) が追加されたことを受け、営団地下鉄は[[1982年]](昭和57年)[[1月29日]]にこの区間の鉄道事業免許を申請している<ref name="Yurakucho-Const233" />。 [[1985年]](昭和60年)[[7月11日]]の[[運輸政策審議会答申第7号]]において、第8号線は、豊洲から北へ分岐する路線が住吉 - [[四ツ木駅|四ツ木]]間で第11号線([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]])と線路を共用し[[常磐線]]亀有駅(さらにJR[[武蔵野線]]方面)へ至る路線に変更されており<ref name="Yurakucho-Const1199 ">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.1199。</ref>、豊洲駅と半蔵門線住吉駅は線路が分岐できるよう2面4線の構造で建設されている<ref name="trafficnews_20210804">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/109439|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210809083228/https://trafficnews.jp/post/109439|title=有楽町線豊洲駅「埋められた2・3番線」どうなる? 復活後は「別の路線」の可能性も|website=乗りものニュース|date=2021-08-04|accessdate=2021-08-14|archivedate=2021-08-09}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.kensetsunews.com/archives/588677|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210710101438/https://www.kensetsunews.com/archives/588677|title=ホーム南側に立坑/8号線延伸で住吉駅 営業線と近接施工/東京都ら検討|newspaper=建設通信新聞|date=2021-07-07|accessdate=2021-08-14|archivedate=2021-07-10}}</ref>。 沿線自治体となる江東区・墨田区・葛飾区・松戸市の3区1市(及び東京都・千葉県の1都1県)は[[1986年]](昭和61年)に「地下鉄8・11号線促進連絡協議会」を組織し、[[2007年]]・[[2008年]](平成19年・平成20年)に実施した調査の結果、同協議会が推進する8号線・11号線の延伸計画のうち、豊洲駅 - 住吉駅間(約5.2&nbsp;km)からの段階的な整備を要望する方針を示し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.koto.lg.jp/profile/kucho/10150/22710.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101205034727/https://www.city.koto.lg.jp/profile/kucho/10150/22710.html|title=定例記者会見 平成19年7月4日分 > 2 地下鉄8号線(豊洲~住吉間)等の整備について|archivedate=2010-12-05|accessdate=2022-04-09|publisher=江東区政策経営部広報広聴課報道係|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2022年4月}}</ref>、早期事業化を目指した活動が行われている。うち、江東区(当該先行区間唯一の沿線自治体)は地下鉄8号線の建設および関連付帯設備に要する経費に充てるためとして、「(仮称)江東区地下鉄8号線建設基金」を設置し、平成22年度(2010年度)予算に5億円を計上した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.koto.lg.jp/open/koho/yosanpress/50027/50044/50060/file/7-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100601231757/https://www.city.koto.lg.jp/open/koho/yosanpress/50027/50044/50060/file/7-1.pdf|title=新たなネットワークを担う地下鉄整備の実現に向けて (仮称)江東区地下鉄8号線建設基金を創設 みんなの力でのばそう地下鉄!|archivedate=2010-06-12|accessdate=2020-11-21|publisher=江東区|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2020年11月}}</ref>。また、[[豊洲市場]]を受け入れる条件にもなっているとして東京都などに早期の延伸実現を強く求めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=46513944|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210207095637/https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=46513944|title=江東区長「だまし討ちだ」 地下鉄延伸で東京都を厳しく批判|date=2019-06-21|archivedate=2021-02-07|accessdate=2021-02-07|publisher=[[東京メトロポリタンテレビジョン]]|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 ただし、東京メトロは[[2009年]](平成21年)度3月期の[[有価証券報告書]]において申請時から事業環境の変化を理由に「整備主体となることは極めて困難」と事業化に消極的な態度を表明していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/corporate/ir/securities_report/pdf/h2103yuka.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090902102231/http://www.tokyometro.jp/corporate/ir/securities_report/pdf/h2103yuka.pdf|title=有価証券報告書|archivedate=2009-09-21|accessdate=2020-11-21|publisher=東京地下鉄|page=21|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 江東区は[[2011年]]7月に[[第三セクター]]を設立して整備を担い、運営を行う[[上下分離方式]]で整備し、豊洲 - 東陽町間([[枝川 (江東区)|枝川]]付近)、東陽町 - 住吉間([[千田 (江東区)|千田]]付近)に新駅<!--(カッコ内は概ねの位置) 及び[[深川車両基地]]との連絡線(その暁には東西線ともつながる為、同線所属車両を新木場・綾瀬に整備回送させて検車一元化を実現して建設費を上回る車両の維持管理費用の縮減も?) -->を建設する計画案をまとめた<ref group="新聞" name="news20110711"/>。[[2012年]]8月現在、江東区・東京都・東京メトロなどと検討委員会を作り協議中で、2015年度までの着工を目指していた<ref group="新聞" name="news20110711">{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNZO31373680Q1A630C1L71000|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160407194536/http://www.nikkei.com/article/DGXNZO31373680Q1A630C1L71000|title=東京・江東区、有楽町線延伸「上下分離」方式で 計画案、三セクが整備し運営はメトロ|newspaper=日本経済新聞|date=2011-07-11|accessdate=2020-11-21|archivedate=2016-04-07}}</ref>。 2021年に国土交通省が[[交通政策審議会]]鉄道部会内に設けた「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等に関する小委員会」において東京メトロの完全民営化(株式売却)と並行して[[都心部・品川地下鉄構想]]と共に有楽町線の延伸計画に触れられており、2021年7月8日行われた第5回小委員会と、同年7月15日に示された「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について」答申において、同区間について東京メトロが主体となって整備を進めるのが適切だとする素案を示すとともに、国や東京都が建設費を補助する方向性を示した<ref group="報道" name="milt20210715">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001414998.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210715022958/https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001414998.pdf|title=東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について(答申)|date=2021-07-15|archivedate=2021-07-15|accessdate=2021-07-25|publisher=国土交通省交通政策審議会|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA082EH0Y1A700C2000000/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210710104639/https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA082EH0Y1A700C2000000/|title=東京メトロの延伸・新線、国と都が建設費支援へ|newspaper=日本経済新聞|date=2021-07-08|accessdate=2021-07-10|archivedate=2021-07-10}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.kensetsunews.com/archives/591972|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210801014445/https://www.kensetsunews.com/archives/591972|title=有楽町線延伸と都心部・品川地下鉄構想/早期事業化を答申/事業主体 東京メトロが適切/交政審|newspaper=建設通信新聞|date=2021-07-16|accessdate=2021-08-01|archivedate=2021-08-01}}</ref><ref name="NHK20210715">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210715/k10013141171000.html|title=地下鉄有楽町線など延伸 “東京メトロ主体で” 審議会答申|date=2021-07-15|website=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|accessdate=2021-08-01|archivedate=2021年8月1日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210801014741/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210715/k10013141171000.html}}</ref>。 事業費は2019年時点の試算で1560億円だが、建築資材や人件費の高騰で膨らむ見込みとなり、事業費の4分の3を国や都が支援し、東京メトロの借入金には[[財政投融資]]を充てる方針である<ref group="新聞" name="tokyo20211225" />。[[2022年]][[1月8日]]には、延伸に向けた作業が同年4月から本格的に始まる見通しになった<ref name="NHK20220108">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220108/k10013420831000.html|title=東京メトロ 有楽町線と南北線 延伸へ 2030年代半ば開業を想定|date=2022-01-08|website=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|accessdate=2022-01-09|archivedate=2022年1月9日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220109160346/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220108/k10013420831000.html}}</ref>。 2022年度は地質調査や環境影響評価などを行い、具体的な金額は2021年度末に決まるが、国と都で計十数億円の見通しとしている<ref group="新聞" name="tokyo20211225">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/150926|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211226094432/https://www.tokyo-np.co.jp/article/150926|title= 東京メトロ延伸へ出発進行 有楽町線・南北線で2030年代開業目指す 政府が調査費|newspaper=東京新聞|date=2021-12-25|accessdate=2021-12-26|archivedate=2021-12-26}}</ref>。国は2022年度の予算案に環境影響などの調査を補助する費用を計上し、都も新年度予算案に同様の費用を盛り込む方針である<ref name="NHK20220108" />。東京メトロは[[2022年]](令和4年)[[1月28日]]に豊洲 - 住吉間約4.8&nbsp;kmの鉄道事業許可を[[国土交通大臣]]に申請し<ref group="報道" name="metro20220128" />、同年[[3月28日]]に第一種鉄道事業の許可を受けた<ref group="報道" name="milt20220328" /><ref group="報道" name="metro20220328" />。開業時期は[[2030年]]代半ばで、事業費は2689億8200万円を予定している<ref group="報道" name="metro20220128" />。補助金が1738億3200万円、財政投融資資金から951億5000万円を見込んでいる。 新たな駅として、(仮称)[[枝川 (江東区)|枝川]]駅(豊洲起点1.250 km)、(仮称)[[東陽 (江東区)|東陽町]]駅(豊洲起点3.070 km)、(仮称)[[千石 (江東区)|千石]]駅<ref group="注">[[文京区]]に所在する[[都営地下鉄三田線]]の[[千石駅]]とは位置が異なる。</ref>(豊洲起点4.180 km)の3駅を設置する<ref name="railway-pressnet20220507" />。また、東陽町は[[東陽町駅|同名の駅]]がある[[東京メトロ東西線|東西線]]の地下に新駅が作られ、[[乗換駅]]となる<ref group="新聞" name="kensetsu20210405">{{Cite news|url=https://www.kensetsunews.com/archives/557570|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210430104239/https://www.kensetsunews.com/archives/557570|title=地下4階にホーム整備/乗換通路は片押し施工想定/東京都らが8号線延伸で東陽町駅検討|newspaper=建設通信新聞|date=2021-04-05|accessdate=2021-08-06|archivedate=2021-04-30}}</ref>。運転間隔は1時間あたり日中で約8本、朝のピーク時で約12本を予定している<ref name="toshiseibi_yurakutyo">{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/kaito_08gou01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221028063405/https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/kaito_08gou01.pdf|title=いただいたご質問の要旨とそれに対する回答|archivedate=2022-10-28|accessdate=2022-10-28|publisher=東京都都市整備局|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。本線への乗り入れ本数は今後検討するとし、半蔵門線乗り入れは現時点では検討されていない<ref name="toshiseibi_yurakutyo" />。 本路線に係る損益は開業14年目で単年度損益が黒字転換、開業29年目に累積損益が黒字転換し、累積損益収支は開業29年目に黒字転換、累積資金収支は開業40年目に黒字転換を想定している<ref name="railway-pressnet20220507">{{Cite web|和書|title=東京メトロ「品川地下鉄」「有楽町線延伸」運転間隔は最短5分 事業基本計画など判明 |url=https://news.railway-pressnet.com/archives/39509 |website=鉄道プレスネット |date=2022-05-07| accessdate=2022-06-27 |language=ja}}</ref>。 住吉駅以遠については、[[八潮駅]]([[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]])・[[越谷レイクタウン駅]]([[武蔵野線]])を経由する形での延伸も検討されている。現在のところ構想段階であり、[[運輸政策審議会答申第18号]]では「2015年までに整備着手することが適当である路線」と位置付けられたが、決定はなされていない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"|2}} === 新聞記事 === {{Reflist|group="新聞"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_fukutoshin.html/|date=2009-03-31|title=東京地下鉄副都心線建設史|publisher=東京地下鉄|ref=Fukutoshin-Const}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-31|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hibiya-Con}} * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} * {{Cite book|和書|title=営団地下鉄五十年史|publisher=帝都高速度交通営団|date=1991-07-04|ref=eidan50}} * 交通協力会『交通技術』1968年7月号「東京周辺地下高速鉄道網の整備計画」(西脇 等 国鉄本社・審議室調査役) * {{Cite journal|和書|author=増田泰博(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)、佐藤公一、楠居利彦|date=2004-09-01|title=特集:東京メトロ|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=44|issue=第9号(通巻第521号)|pages=pp.9 - 68|publisher=[[交友社]]|ref=RF521}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[東京メトロ副都心線]](旧有楽町線新線) * [[東京地下秘密路線説]] == 外部リンク == {{Commonscat|Tokyo Metro Yūrakuchō Line}} * [https://www.tokyometro.jp/station/line_yurakucho/ 有楽町線/Y | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [http://www.tokyometro.jp/romancecar/ 東京メトロ - 特急ロマンスカー利用案内] * [https://metroarchive.jp/content/yurakucho.html/ 有楽町線の歴史] - メトロアーカイブアルバム(公益財団法人メトロ文化財団) {{東京の地下鉄路線}} {{デフォルトソート:とうきようめとろゆうらくちようせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|ゆうらくちよう]] [[Category:東京地下鉄の鉄道路線|ゆうらくちよう]] [[Category:埼玉県の交通]] [[Category:東京都の交通]]
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計算理論
計算理論(けいさんりろん、Theory Of Computation)または計算論は、理論計算機科学と数学の一部で、計算模型やアルゴリズムを理論的にあつかう学問である。計算複雑性理論、計算可能性理論を含む。ここでいう計算(Computation)とは、数学的に表現できる、あらゆる種類の情報処理のこと。 計算を厳密に研究するため、計算機科学では計算模型と呼ばれるコンピュータの数学的抽象化を行う。その手法はいくつかあるが、最も有名なものはチューリングマシンである。チューリングマシンは、言ってみれば無限のメモリを持つコンピュータであるが、一度にアクセスできるメモリ範囲は非常に限られている。チューリングマシンは十分な計算能力を持つモデルでありながら、単純で定式化しやすく、様々な証明に使い易いため、計算機科学者がよく利用する。無限のメモリというのは非現実的な特徴と思われるかもしれないが、より適切な表現を使うならば「無制限」のメモリであって、読み書きしようとした時にそれができればよく、それに対応する「無限な実体」とでも言うべきものが必要なわけではない。「チューリングマシンで、ある問題が解ける」とは必ず有限のステップで計算が終了することを意味し、よってそれに必要なメモリの量は有限である。よって、チューリングマシンで解くことが出来る問題は、現実のコンピュータであっても必要なだけのメモリがあれば解くことが出来る。 計算可能性理論は、ある問題がコンピュータで解くことができるかどうかを扱う。チューリングマシンの停止問題は計算可能性理論における、ある意味で最も重要な成果である。定式化しやすく、かつチューリングマシンで解けない問題の具体例であり、数学基礎論との関係もある。同時に、静的に無限ループの検出を確実に行う方法は無いことを示している、といったように実応用的な意義もある。 計算複雑性理論は、問題がコンピュータで解けるかどうかだけでなく、その問題の困難さを扱う。時間計算量と空間計算量という2つの観点がある。時間計算量とは計算にかかるステップ数、空間計算量は計算に必要とされるメモリ量に相当する。 あるアルゴリズムが必要とする時間と空間を分析するため、時間や空間を問題の入力量の関数として表現する。例えば、長い数列から特定の数を見つけ出すという問題は、数列が長くなればなるほど難しくなる。数列に n {\displaystyle n} 個の数があるとき、その数列がソートされていなければ、一個一個の数を確認していくしかない。この場合、この問題の解法の時間計算量は入力量に比例して増大するといえる。 これを単純化するため、O記法が使われる。こうすることで特定のマシンの実装を前提とすることなく、問題の本質的な計算量を扱うことができる。従って、上の例の時間計算量は O ( n ) {\displaystyle O(n)} となる。 計算機科学の中でも最も重要な未解決の問題は、NPと呼ばれる計算複雑性クラスの問題が効率的に解けるかどうかである。詳しくは、P≠NP予想を参照して欲しい。 ここでは例として、計算可能性がチューリングマシンと同等な計算モデル(「チャーチ=チューリングのテーゼ」の記事を参照)のいくつかを示す。 計算理論は、チューリングマシンより弱い(制限された)計算モデルを対象とすることもある。これらに関する理論を、「オートマトン(の)理論」と呼ぶことがある(この文脈では「オートマトン」とは、チューリングマシンより弱い(制限された)機械の総称である)。 正規表現は文字列パターンを指定するのによく使われる。また、それと等価な有限オートマトンは回路設計などに使われる。文脈自由文法はプログラミング言語の構文を定義するのに使われる。非決定性プッシュダウン・オートマトンは文脈自由文法と等価である。原始再帰関数は再帰関数のサブクラスを定義したものである。モデルが異なれば得意分野も異なる。 また、形式言語とその文法と、計算モデルとの間には対応する関係があり、計算可能性=表現力について包含関係があることが知られている。チョムスキー階層及び形式言語の階層の記事を参照のこと。
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計算理論または計算論は、理論計算機科学と数学の一部で、計算模型やアルゴリズムを理論的にあつかう学問である。計算複雑性理論、計算可能性理論を含む。ここでいう計算(Computation)とは、数学的に表現できる、あらゆる種類の情報処理のこと。 計算を厳密に研究するため、計算機科学では計算模型と呼ばれるコンピュータの数学的抽象化を行う。その手法はいくつかあるが、最も有名なものはチューリングマシンである。チューリングマシンは、言ってみれば無限のメモリを持つコンピュータであるが、一度にアクセスできるメモリ範囲は非常に限られている。チューリングマシンは十分な計算能力を持つモデルでありながら、単純で定式化しやすく、様々な証明に使い易いため、計算機科学者がよく利用する。無限のメモリというのは非現実的な特徴と思われるかもしれないが、より適切な表現を使うならば「無制限」のメモリであって、読み書きしようとした時にそれができればよく、それに対応する「無限な実体」とでも言うべきものが必要なわけではない。「チューリングマシンで、ある問題が解ける」とは必ず有限のステップで計算が終了することを意味し、よってそれに必要なメモリの量は有限である。よって、チューリングマシンで解くことが出来る問題は、現実のコンピュータであっても必要なだけのメモリがあれば解くことが出来る。
'''計算理論'''(けいさんりろん、Theory Of Computation)または'''計算論'''は、[[理論計算機科学]]と[[数学]]の一部で、[[計算模型]]や[[アルゴリズム]]を理論的にあつかう学問である。[[計算複雑性理論]]、[[計算可能性理論]]を含む。ここでいう'''計算'''(Computation)とは、数学的に表現できる、あらゆる種類の[[情報処理]]のこと。 計算を厳密に研究するため、計算機科学では[[計算模型]]と呼ばれるコンピュータの数学的抽象化を行う。その手法はいくつかあるが、最も有名なものは[[チューリングマシン]]である。チューリングマシンは、言ってみれば無限のメモリを持つコンピュータであるが、一度にアクセスできるメモリ範囲は非常に限られている。チューリングマシンは十分な計算能力を持つモデルでありながら、単純で定式化しやすく、様々な証明に使い易いため、計算機科学者がよく利用する。無限のメモリというのは非現実的な特徴と思われるかもしれないが、より適切な表現を使うならば「無制限」のメモリであって、読み書きしようとした時にそれができればよく、それに対応する「無限な実体」とでも言うべきものが必要なわけではない。「チューリングマシンで、ある問題が解ける」とは必ず有限のステップで計算が終了することを意味し、よってそれに必要なメモリの量は有限である。よって、チューリングマシンで解くことが出来る問題は、現実のコンピュータであっても必要なだけのメモリがあれば解くことが出来る<ref>ただし、厳密にはここの議論はそんなに単純ではない。たとえば無理数である「2の平方根の全ての桁を求める」ことは不可能だが、「それを計算し続ける停止しないチューリングマシン」を構成すること自体は不可能ではない。</ref>。 == 計算可能性理論 == {{main|計算可能性理論}} [[計算可能性理論]]は、ある問題がコンピュータで解くことができるかどうかを扱う。[[チューリングマシンの停止問題]]は計算可能性理論における、ある意味で最も重要な成果である。定式化しやすく、かつチューリングマシンで解けない問題の具体例であり、[[数学基礎論]]との関係もある。同時に、静的に[[無限ループ#無限ループの検出|無限ループの検出]]を確実に行う方法は無いことを示している、といったように実応用的な意義もある。 == 計算複雑性理論 == {{main|計算複雑性理論}} [[計算複雑性理論]]は、問題がコンピュータで解けるかどうかだけでなく、その問題の困難さを扱う。時間計算量と空間計算量という2つの観点がある。時間計算量とは計算にかかるステップ数、空間計算量は計算に必要とされるメモリ量に相当する。 ある[[アルゴリズム]]が必要とする時間と空間を分析するため、時間や空間を問題の入力量の関数として表現する。例えば、長い数列から特定の数を見つけ出すという問題は、数列が長くなればなるほど難しくなる。数列に <math>n</math>個の数があるとき、その数列がソートされていなければ、一個一個の数を確認していくしかない。この場合、この問題の解法の時間計算量は入力量に比例して増大するといえる。 これを単純化するため、[[ランダウの記号|O記法]]が使われる。こうすることで特定のマシンの実装を前提とすることなく、問題の本質的な計算量を扱うことができる。従って、上の例の時間計算量は <math>O(n)</math> となる。 計算機科学の中でも最も重要な未解決の問題は、'''[[NP]]'''と呼ばれる計算複雑性クラスの問題が効率的に解けるかどうかである。詳しくは、[[P≠NP予想]]を参照して欲しい。 == 計算モデル == {{main|計算モデル}} ここでは例として、計算可能性がチューリングマシンと同等な[[計算モデル]](「[[チャーチ=チューリングのテーゼ]]」の記事を参照)のいくつかを示す。 ;[[ラムダ計算]]: 計算を1つの初期ラムダ式(入力を分離したい場合は2つのラムダ式)と有限個のラムダ項で表す。各ラムダ項は前のラムダ項にβ簡約を適用したものである。 ;[[組合せ論理]]: ラムダ計算とよく似ているが、例えばラムダ計算では正規の形式ではない不動点演算子 '''Y''' は組合せ論理では正規に組み込まれているといった違いがある。 ;[[μ再帰関数]]: 複数の自然数を引数として1つの自然数を返す関数であり、[[原始再帰関数]]に基づいて構築され、それにμ再帰を施したもの。<!-- ちょっと自信なし --> ;[[マルコフアルゴリズム]]: [[文字列]]に一種の[[文法]]規則を適用する[[文字列書き換え系]]。 ;[[レジスタマシン]]: コンピュータを抽象化したもの。多くの場合、無限サイズの自然数を格納できるレジスタを持ち、命令数は非常に少ない。チューリングマシンと比較すると無限のメモリが欠けているが、レジスタが無限サイズの自然数を格納できるので、それで代替される。 ;P′′: ([[:en:P%E2%80%B2%E2%80%B2]])チューリングマシンと同様、無限長のテープに記号を記録するが、チューリングマシンにおける有限状態オートマトンに相当するものを、固定長でループの記述が可能な命令の列によって記述する。これを元に、命令セットを理論向けから実装向けに大幅にアレンジして設計された[[プログラミング言語]]が[[Brainfuck]]である。 計算理論は、チューリングマシンより弱い(制限された)計算モデルを対象とすることもある。これらに関する理論を、「オートマトン(の)理論」と呼ぶことがある(この文脈では「[[オートマトン]]」とは、チューリングマシンより弱い(制限された)機械の総称である)。 [[正規表現]]は文字列パターンを指定するのによく使われる。また、それと等価な[[有限オートマトン]]は回路設計などに使われる。[[文脈自由文法]]はプログラミング言語の構文を定義するのに使われる。非決定性[[プッシュダウン・オートマトン]]は文脈自由文法と等価である。[[原始再帰関数]]は再帰関数のサブクラスを定義したものである。モデルが異なれば得意分野も異なる。 また、[[形式言語]]とその文法と、計算モデルとの間には対応する関係があり、計算可能性=表現力について包含関係があることが知られている。[[チョムスキー階層]]及び[[形式言語の階層]]の記事を参照のこと。 == 参考文献 == * マイケル・シプサ、『計算理論の基礎』、渡辺 治 他訳、[[共立出版]]、[[2000年]]、ISBN 4-320-02948-8 ** {{cite book|author = Michael Sipser | date = 2006年 | title = Introduction to the Theory of Computation 2ed | publisher = PWS Publishing | id = ISBN 0-534-94728-X}} Part Two: Computability Theory, chapters 3–6, pp.123–222. * {{cite book|author = Eitan Gurari | date = 1989年 | title = An Introduction to the Theory of Computation | publisher = Computer Science Press | id = ISBN 0-7167-8182-4}} 無料版はこちら: http://www.cse.ohio-state.edu/~gurari/theory-bk/theory-bk.html *Hein, James L: ''Theory of Computation.'' Sudbury, MA: Jones & Bartlett, 1996. 入門書 *Hopcroft, John E., and Jeffrey D. Ullman: ''Introduction to Automata Theory, Languages, and Computation. 2ed'' Reading, MA: Addison-Wesley, 2001. *Taylor, R. Gregory: ''Models of Computation.'' New York: Oxford University Press, 1998. 上級者向け *Hartley Rogers, Jr, ''Theory of Recursive Functions and Effective Computability'', MIT Press, 1987, ISBN 0-262-68052-1 *[http://www.cis.upenn.edu/~giorgi/cl.html Computability Logic]: 対話型計算の理論。 == 注 == <references/> {{コンピュータ科学}} {{数学}} {{DEFAULTSORT:けいさんりろん}} [[Category:理論計算機科学]] [[Category:計算理論|*]] [[Category:離散数学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学基礎論|*]]
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古典派音楽
古典派音楽(こてんはおんがく)は、クラシック音楽の歴史において、18世紀中ごろから19世紀はじめにかけての音楽様式をさす用語。現代においてはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを中心とするウィーン古典派が代表的な存在とされている。 西洋文化・芸術に対して用いられる「古典」という語は、英語でいうクラシック (classic) の訳語であり、「階級」を表すラテン語「class(クラス)」の派生語 classicus(「市民の6つの階級の最上級」の意)から、もとは「一流・最高水準」の意味であった。古代ギリシャ・ローマの優れた著作を指す言葉として古くから使われており、ルネサンスの古典復興の革新運動の中で、古代ギリシャ・ローマの人間中心の見方・考え方を〈規範とすべき第一級の傑作〉という意味で〈classic〉と呼んだことからはじまった。 古代ギリシャ・ローマの芸術を規範とし、調和や普遍性をめざす芸術運動である古典主義は、17世紀ごろから文学や美術でおこりはじめた。音楽における古典派は、直接的に古典主義運動の影響を受けたわけでも古典を復興しようという意識があったわけでもなく、ほぼ同時代のドイツ文学におけるゲーテを中心とした古典主義との類比から名づけられたが、論理的で調和がとれた形式が確立した点は共通している。 この時代のヨーロッパの社会は、絶対王政に象徴される封建制から近代民主主義へと移行する激動の時期にあたる。古典派の初期には、音楽家たちはバロック時代と同様に王侯貴族にめしかかえられ、彼らのために作曲し演奏するのが一般的であった。しかし、市民階級の台頭に伴って、一般市民に音楽を教えたり、楽譜を販売したり、演奏会を開催したりして、定職を持たずフリーの音楽家として生計をたてることも可能となった。 理性を重視する啓蒙時代を背景に楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、ソナタ形式が発展した。17世紀に成立していた機能和声と調性による機能和声的調性は18世紀には中心的語法となり、主調と近親調の間での転調がもたらす緊張-弛緩という調関係は楽曲構成の基本に置かれるようになったが、1本の主旋律と充足した和声というホモフォニーによる作曲が主流となったことと、アマチュア演奏家が増えて即興能力が全体に減退したことにより、通奏低音は廃された。この時代の代表的な楽種として、上述のソナタ形式を含む交響曲や協奏曲、ピアノソナタや弦楽四重奏曲などが盛んに作られた。 古典派音楽の盛期はバロック音楽とロマン派音楽の間に位置しているが、実際には古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽の勃興と並行している。古典派の潮流は1730年頃にフランスのギャラント様式から始まるが、バロック音楽を代表するヨハン・ゼバスティアン・バッハやゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはまだ存命、活動中であった。また、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの死(1827年)をもって古典派の終わりとする考えもあるが、ロマン派とされるフランツ・シューベルトやカール・マリア・フォン・ヴェーバーもほぼ同じ頃に死去している。 古典派音楽の時代区分については諸説あるが、次のように分類する例がある。 前古典派は、バロック後期と、ハイドン・モーツァルトに代表される、いわゆる「古典派」の間に位置し、そのどちらとも重なる18世紀中葉の音楽活動の総括的な呼称。ギャラント様式・多感様式・ベルリン楽派(北ドイツ楽派)・マンハイム楽派・グルックのオペラなど、ウィーン古典派を準備する歴史的位置にある様式・楽派・作曲家があり、これらが前古典派に含まれる。 ここでは、ギャラント様式の誕生を出発点として、場合によっては一般的にはバロックと見なされる作曲家も含め、ウィーン古典派に至る流れの描写を試みる。概説にある区分で言えば、「前古典派、ギャラント様式」と「初期古典派、多感様式」にまたがった時期である。 ヨーロッパ各国の宮廷では、17世紀中葉以降フランス趣味が大流行し、それぞれの宮廷の建築・庭園・衣装・髪型・かつらの形態・所作と娯楽などを変化させていった。各国では15世紀後半から16世紀末まではイタリア趣味が流行し、それが失われたわけではなかったが、フランスはルイ14世以来模範的な宮廷とパリという模範的都市を備えており、科学・文芸・哲学においてヨーロッパ精神のエリート的な存在となっていた。ヴェルサイユ宮殿を模した建造物が各地に造営され、そこでは人々はフランス語を話し、フランス風の衣装をまとい、フランスの作家・パリからの書簡・「文芸通信」を読み、哲学者や芸術家や料理人や洋服屋をフランスから招いた。 宮廷文化は基本的にスペクタクルの文化であり、学問や文芸の「文字の文化」とは長い間対立関係にあったが、17世紀末から18世紀初頭にかけて、サロンとアカデミーという並行した活動のおかげで対立が解消され始めた。これらの組織では、宮廷人が学者と会い、科学と考証の文化が視覚的・文学的な文化と共存することができた。そこから辞書や百科事典、業績を理解させるための演説、学問の要約と抜粋を掲載する定期刊行物の流行が生まれ、啓蒙的な短編作品がこれを補足した。こうして誕生したエリート文化は、18世紀に開花し、フリーメイソンと結びついてヨーロッパ中に広がり、1820年代まで存続した。 18世紀に入り、絶対王政の浸透に伴い文化の中心は教会からサロンに移行し、貴族社会での社交的な世俗音楽の需要が増した。全曲にわたって同一の気分を維持しようとする音楽様式は若い世代の音楽家たちには堅苦しく感じられ、バロック様式への反動が生じた。 こうしたことが重なる中、フランスでは簡潔な和声、メロディックで断片動機の反復を多用した旋律法、小規模な形式、短い範囲内での対比を強調する強弱法、豊かで変化に富んだ装飾法などを特徴とするギャラント様式(ロココ様式とも)が生まれ、短い標題音楽や舞曲風の作品を典型とする音楽が書かれるようになった。 優美で軽快なロココ的な特質を持つ音楽は、イタリア・ドイツ地域の音楽家達にも広がった。ドイツの音楽理論家マッテゾンは1721年の著書「オーケストラの探究」の中で、当世ふうの音楽を「ギャラン」と言う言葉を使って称揚し、さらに「ギャランな人」として、ヴィヴァルディ、A.スカルラッティ、テレマン、ヘンデルを始めとして当時活躍中の10人ほどを挙げている。彼が称揚したのは、優美な旋律を中心にした、つややかに美しく、軽やかでしゃれていて、心地よい、分かり易い音楽であった。こうしたロココ音楽の特質は、18世紀中葉の作曲家たちを経て、クリスティアン・バッハやハイドン、若き日のモーツァルトらの作品にもうかがわれる。 少年時代からフランス風の文芸や音楽を好んでいたプロイセンのフリードリヒ2世(大王、1712~86)は、サンスーシ宮殿に当時の優れた音楽家を集めて楽団を設立した。18世紀後半にベルリンで活躍した作曲家の一群はベルリン楽派と呼ばれるが、大半がフリードリヒ大王との関わりを持っていた。自身フルートを愛好した大王はとりわけ器楽曲、それも後期バロック風の様式を好んでおり、いきおいベルリン楽派の音楽家たちは主君の嗜好を反映した作品を数多く作曲することになった。そのためベルリン楽派は前古典派の中でもバロックの伝統へのつながりがより密接とされる。 前古典派は時期的にJ.S.バッハの息子たちの世代に当たっている。J.S.バッハは生涯に二度結婚し、11男9女をもうけ、うち6男4女が成人し、4男は音楽家として大成した。中でも以下の三名は、前古典派の中でも重要な役割を果たしている。特にC.P.E.バッハは、多感様式の代表者とされる。 ファルツ選帝侯領の首都マンハイムでは、幅広い知的興味を有し芸術を愛好する選帝侯カール4世フィリップ・テオドール(1724~99)が43~78年のマンハイム在任中、多額の出費を惜しまず芸術活動を奨励し、博物館・図書館等の施設を充実させ、さらにとりわけ音楽を重んじ、みずから有能な音楽家を選抜して宮廷に招いた。彼らはマンハイム楽派と呼ばれる。後述のシュターミッツを中心に50名を超える楽団員を有し、その優れた合奏技術、クレッシェンド奏法、トレモロ奏法等によってこの時期の創作活動に多大な影響を与えた。 18世紀にはフランスを除く各地域では、もっぱらイタリア・オペラが支配的となっていた。作曲家は主としてナポリ出身あるいはナポリで訓練を受けていたため、ナポリ楽派のオペラと呼ばれる。最初の黄金期を築いたのはアレッサンドロ・スカルラッティ(先のドメーニコの父、1660~1725)とされる。18世紀後半まで普遍的に行われ、アリアの重視と高度の様式化を特徴としていたが、音楽的な興味がアリアに集中するきらいがあり、アンサンブル・コーラス(やバレエ)・器楽等の諸要素が従属的な地位に追いやられ、作品全体の有機的構成の密度が希薄になる傾向があった。 ナポリ派のオペラではシンフォニアとよばれた序曲がしばしば書かれるようになった。これはオペラ本体とは音楽的にも演劇的にも関連性がない器楽曲で、当時興隆を始めていた市民対象のコンサートでしばしば単独で演奏されたが、やがて序曲と同じ音楽構造の器楽曲が独立して書かれるようになる。この形式は急-緩-急のテンポをとる3楽章で構成され、各楽章内での楽想の展開の仕方は、のちのソナタ形式を予告するものであった。 こうしたシンフォニアが確立されると、ウィーン前古典派やマンハイム楽派を始めとするドイツ系の作曲家たちがすぐにこのアイデアをうけついで数々の独創的な工夫をくわえ、ソナタ形式を確立していくとともに、さまざまな音楽形式・ジャンル・表現形態を生み出していった(交響曲、ソナタ、協奏曲、弦楽四重奏曲など)。 ソナタはもともとは「器楽曲」という意味で、バロック初期に数楽章からなる独奏ないし重奏のための純粋器楽として教会ソナタと室内ソナタがつくられるようになっていたが、前古典派の頃から次第に教会を離れ、宮廷音楽として存続しつつも、市民階級の台頭・楽譜出版と公開演奏会の増加に伴って受容の範囲を飛躍的に拡大し、一般愛好家の娯楽音楽・生徒の練習曲・職業音楽家の技量の見せ所・公開演奏会の曲目としての性格を強めていった。鍵盤楽器独奏、独奏と鍵盤楽器伴奏の二重奏が主流を占めている。単一楽章や2楽章のものもあったが、やがて中庸のテンポでソナタ形式の1楽章、さまざまな形式を取る緩徐楽章の第2楽章、やはりさまざまな形式を取る急速なテンポの3楽章というシンフォニア風の3楽章構成が標準となった。 ソナタ形式は、ソナタの第1楽章で発達してきた形式で、ソナタを始めとして交響曲、協奏曲、室内楽曲など器楽曲の第1楽章で幅広く使われた。バロック時代の舞曲に広範に見られた、両部分が反復する二部形式(|主調―属調|属調―主調|)に起源がある。前古典派初期においては同様の均等な規模の2つの部分から構成されつつ、旋律は1~2個の動機または主題からできていた。対立調はしだいに属調ではなく平行調が好まれるようになった。全体的に規模が拡大するにつれ、主調から対立調への移行が複雑になり、動機も入れて示すと(|A主調―α調的移行―B対立調|A対立調―β転調―B主調|)という形(D.スカルラッティなど)となり、さらには3部分構造や主題回帰を持つロンド形式やリトルネロ形式から影響を受けて(|A主調―α調的移行―B対立調|{A対立調―β転調}―{A主調―B主調}|)という形(C.P.E.バッハの鍵盤ソナタや、マンハイム楽派やウィーン前古典派の交響曲など)に発展した。旋律素材を主題としてのまとまりを持ったものにする努力も行われ、やがてこれは複主題(第1主題と第2主題)の形をとり始める。Bの部分に小終止を導入して旋律的なまとまりをつけることや、第2主題と小終止の間にもう一つの旋律素材を導入することなども行われ、これは第3主題の萌芽あるいは多素材化の傾向と言える。こうして盛期古典派のソナタ形式に存在する材料はすべて出そろったが、全てを兼ね備えた者は18世紀中盤の段階では現れず、1770~80年代のハイドン、モーツァルト、C.P.E.バッハ、J.C.バッハにおいてソナタ形式は古典的完成を見たというのが多くの研究者の意見である。 前古典派のソナタ作曲家としては、サンマルティーニ、アルベルティ、ボッケリーニ、D.スカルラッティ、ソレール、ヴァーゲンザイル、J.シュターミツ、W.F.バッハ、C.P.E.バッハ、ミューテル、ショーベルト、J.C.バッハ、クレメンティが著名とされる。他の場所に記載がない者に関して以下に示す。 ナポリ派のオペラは結局アリアにおける声楽技巧の誇示に陥り、劇と音楽の関連が見失われるような場合すら出てきた。フランス宮廷のオペラに対しても、非現実的な主題や様式化された舞台に不満を持つ人々が現れた。こうして18世紀中葉、各国にオペラ・ブッファ(イタリア)、オペラ・コミック(フランス)、ジングシュピール(ドイツ)、バラッド・オペラ(イギリス)、トナディーリャ(スペイン)が現れる。これらはいずれも題材・音楽とも軽く、気取りも特別な教養もなく楽しめるもので、オペラ・ブッファを除いて、歌の間をレチタティーヴォではなく日常語のセリフでつなぐのを原則とした。 こうした中、言葉によってつたえられるオペラの意味や内容、感情を音楽でも表現するというオペラ本来の目的を回復しようと、一方で新たな様式の開発にとりくんでいたクリストフ・ヴィリバルド・グルックは、詩人カルツァビージと知り合って理想通りの台本の提供を受けることができ、62年にウィーンで初演された「オルフェオとエウリディーチェ」でその理想を結実させ、初演されるや大成功を収めた。 グルックの開始したオペラ改革に対して、猛然と反論をとなえる動きが生じ、1774~81年にはパリでグルック支持派とナポリ出身のニコロ・ピッチンニを擁護するグループとの間で全面的な論争が展開された。が、競作にグルックは勝利を収め、彼によって確立されたさまざまな原則は、モーツァルト、ケルビーニ、ベートーヴェン、ヴァーグナーなどの後世の多くの作曲家に影響をあたえることになっていく。 作品や作曲様式は対位法志向でむしろ過去を向いているが、多くの作曲家を指導した名教師がこの時期に複数いる。 18世紀半ばには、フランスでは「王の24のヴィオロン(Les Vingt-quatre Violons du Roi)」が1761年に財政上の理由で解体され、オーストリアではマリア・テレジアが国力充実のための徹底した経費削減の一環としてオペラやオラトリオの大規模な上演を禁止し、予算を厳しく切り詰められたことで宮廷楽団の人員が大幅に減るなど、大国における宮廷音楽の縮小が相次いだ。一方で、1765年のバッハ=アーベル演奏会の発足やコンセール・スピリチュエルの隆盛など、宮廷外での音楽活動の拡大が見られ始め、音楽の担い手が市民に移りつつあったことを示している。フランスではやがて革命で宮廷文化が終末を迎えるが、ドイツやオーストリアでは半世紀ほど状況が遅れており、宮廷や教会に保護された音楽はまだ盛んであった。 ウィーンを中心に18世紀後半から19世紀初頭の間に活躍した作曲家、一般的にはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを、ウィーン古典派と言う。また彼らの時代は、特に「盛期古典派」と呼ばれることがある。 18世紀末以降、フランス革命やその後のナポレオン戦争によってヨーロッパ各地で貴族社会が崩壊し、ドイツでは多くの宮廷が閉鎖され、そこに雇われていた音楽家たちは路頭に迷うことになった。しかしオーストリア帝国の首都ウィーンでは、ナポレオンに包囲されるなど危機的な状況にあったものの、ハイドンやベートーヴェンが貴族文化の最後の輝きを謳歌した。 オーストリア関係では、1780年にマリア・テレジアが死去し、ヨーゼフ2世の単独統治になる。翌81年にはヨーゼフ2世の啓蒙専制主義に基づく積極的な近代化政策(宗教寛容令・農奴解放令・言語統一令・商工業の保護など)が打ち出されたが、聖職者や貴族の抵抗が強く、90年にヨーゼフ2世が急死したこともあって改革は停滞した。続くレオポルト2世は反革命の立場を打ち出し、92年にフランス革命政府と戦争となる。フランス革命軍との戦争は当初は優位だったが、フランス国民軍の編制・ナポレオンの登場・イタリア遠征軍への敗北・ナポレオン戦争・ナポレオンの皇帝即位・アウステルリッツの戦いでの敗北と事態が進行し、ウィーンは再三フランス軍に脅かされ、貴族階級の疎開や没落が目立つようになった。1806年のライン同盟結成によりフランツ2世が神聖ローマ皇帝を退位し、神聖ローマ帝国は消滅した。1809年にはウィーンはナポレオンに占領される事態となった。1812年にナポレオンはロシア戦役で大敗し、1814~15年のウィーン会議でオーストリアのメッテルニヒの主導でウィーン体制が生まれたが、反動的体制であり、数々の反発を生むことになる。モーツァルトのウィーン到着(1781年)からベートーヴェンの中期の終わり(1815年)までは、このような激動の時代であった。 ウィーン古典派に至り、ソナタ形式は3部分構成を取るようになり、旋律素材の性格がより強調され、旋律と調との緊密な関係がより重視されるようになった。第1部分では性格の明確に異なる2つの主題群が現れ、一つは主調で力強く積極的な性格を持ち(第1主題)、もう一つは属調でより叙情的な性格を持つ(第2主題)。第1部分の前にゆっくりしたテンポの序奏、締めくくりには小結尾部が置かれることも出てきた。第2部分は、前古典派の第2部分の開始部(他調への短い転調を含んでいた部分)を拡大したもので、転調部が拡張されて数も増え、第1部分で提示された旋律素材の断片化・変形・組み替えなどの技法が駆使され大きく発展した。第3部分では、第1主題と第2主題がともに主調で再現される。こうした3部分構成のソナタは、ベートーヴェンの時代になるとグランド・ソナタと呼ばれるようになり、従来のソナタや転調部分が発展していないソナタはソナチネと呼ばれるようになった。19世紀半ばには、3部分構成の3つの部分はその機能に応じて、提示部・展開部・再現部と命名された。 前古典派で3楽章構成が標準だったソナタは、盛期古典派に至り、交響曲と同様に終楽章の前に舞曲楽章としてメヌエットが取り入れられ、さらにベートーヴェンではスケルツォが組み入れられ、4楽章のソナタも出現した。 ドイツのジングシュピールやフランスのオペラ・コミックのような、自国語をテキストとし、市民階級を基盤とした、新しいタイプの国民的なオペラの隆盛がはっきりしてくる。モーツァルト晩年の名作ジングシュピール「魔笛」は、その一例である。この種のオペラは、素朴な感傷、見世物的興味、悪の世界と善の世界の対立などの要素を共通させながら、一方ではケルビーニの「二日間」からベートーヴェンの「フィデリオ」へつながるサスペンスに満ちた〈救出オペラ〉へと発展し、他方ではウェーバーの「魔弾の射手」に典型的な国民的タイプのロマン派オペラへとつながっていくことになる。 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)はウィーンのシュテファン大聖堂の少年合唱団で音楽を学び、さらにザクセン選帝侯の宮廷楽長を務めていたニコラ・ポルポラ(1686~1768)の家に下働きとして住み込み師事した。ボヘミアのモルツィン伯爵の楽長を経て、61年にエステルハージ侯爵の副楽長、66年に同楽長となり、以後25年間その地位にあった。79年の契約書によれば、自作品を楽譜出版業者に売り、代金をうけとる自由を認められるという、当時としては驚くべき待遇を受けている。このためハイドン作品は多くの人の耳に届くこととなり、彼の名声はヨーロッパ中に広がった。90年の侯爵の死に伴う楽団解散により、かえって自由に作曲できる立場となり、2回にわたるザロモンコンサートのためにイギリスに渡り、大成功を収めた。晩年は有名かつ裕福であった。ナポレオン占領下のウィーンで死去。 100曲以上の交響曲を書き、あらゆる可能性や技法を試みてジャンルを成熟させ、交響曲の地位を揺るぎないものにした。60~70年代にかけては、交響曲にメヌエットを導入して4楽章構成を典型とし、同時に第1楽章の冒頭に緩徐な序奏を置くことが多くなった。93~95年にかけて作曲したロンドン・セットの最後の6つの交響曲において、フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルン・トランペット各2本、ティンパニに加えて弦楽を5部に拡大したことで、交響曲の古典的編成である二管編成を完成させた。このためハイドンは「交響曲の父」と呼ばれる。また68曲の弦楽四重奏曲でこのジャンルの先駆者となった。ハイドン作品は量の多さに関わらず、類型に陥らず、独自性を保っている。単純なメロディや主題を予想しない形で複雑に発展させる手法は、革新的と評された。意表を突いた展開、しばしば用いられたユーモラスな効果、民謡的なメロディを好んだところにハイドンの特徴がある。エステルハージ家の宮廷楽長を長く務めたが、印刷楽譜の出版と新作コンサートを通じ、貴族社会の音楽家から近代市民社会の音楽家へと変貌した。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)は生地ザルツブルクで宮廷音楽家を務めていた父レオポルト・モーツァルト(1719~1787)から姉マリア・アンナ(1751~1829)とともにクラヴィーアを学び、5才で作曲を試みている。63年、父に伴われてパリに行き、ルイ15世一族の前で姉と連弾を披露。パリ在住ドイツ系作曲家でソナタの先駆者であるヨハン・ショーベルト(1720/40~67)やヨハン・ゴットフリート・エッカルト(1735~1809)と出会い、影響を受ける。最初の作品集を出版。64年ロンドンに行き、ヨハン・クリスティアン・バッハから作曲を学ぶ。68年ウィーンで歌劇を上演。69年よりザルツブルク大司教宮廷の楽団員になるが、この年から父と3回にわたってイタリア旅行をし、演奏と作品発表の他、ボローニャでジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ(1706~84)の指導を受けた。こうして父による英才教育でフランス・イタリア等の音楽を吸収したことが、天才の育成に大きな役割を果たしている。77年までザルツブルクで活躍したのち、就職口を求めてマンハイムを経てパリに演奏旅行。81年に大司教と決裂して独立した音楽家を目指しウィーンに定住。後述のクレメンティとの共演やハイドンとの友情やベートーヴェンとの出会いなどのエピソードが生まれる。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、ピアノ教師、楽譜の出版などで生計を立てたが、過労から健康を害し貧困のうちに35歳で没した。 初期には前古典派とイタリア古典派の影響が強く、中期にはギャラント様式とマンハイム楽派の様式を取り入れ、30才以後の後期ではバロック音楽への傾倒が加わって古典美の中に深遠な表情をもつようになった。こうした創作の中で、ハイドンが手掛けたピアノソナタ、弦楽四重奏曲、交響曲などの古典派時代のさまざまなジャンルを多様化し、また深化した。ピアノ協奏曲の芸術的完成を果たし、オペラにおいてはハイドンを凌駕している。モーツァルトの音楽では、優美で明快なメロディを重視するイタリア趣味と、形式の洗練と対位法上の工夫を重視するドイツ趣味が結合している。簡潔・明快・均整を旨とした18世紀古典派様式を端的に表現しながら、聴く者の心をゆりうごかす19世紀的傾向も先取りしていた。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)はオランダ系で、同名の祖父がボンに移住しケルン選帝侯の宮廷楽長を務め、父も同地の宮廷歌手であった。父は息子を大音楽家に仕立てようと、幼時から過酷なピアノの練習を強いた。ベートーヴェンは14才で宮廷オルガニストに採用され、81年から宮廷オルガニストのクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748~1798)に師事し、この頃から作曲も手がけた。87年に一度ウィーンを訪れモーツァルトに出会う。その後はブロイニング家の知遇を受けボン大学の聴講生となるなどし、フランス革命の息吹を感じつつ自由への憧れを心に刻んだとされる。92年にワルトシュタイン伯爵がパトロンとなってウィーンへ行き、ハイドンや、シュテファン大聖堂楽長だったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(1736~1809)や後述のシェンクやサリエリに作曲を学ぶ。ウィーンではワルトシュタイン伯爵の紹介もあって社交界デビューを難なく果たし、さらに幾人ものパトロンを得る。ピアニストとして成功し、また複数の楽譜出版業者と契約してその条件も年々有利になり、フリーランスの音楽家として充分に暮らしていくことができた。今日最も有名なベートーヴェンの作品は、1803~12年の10年間に書かれているが、ちょうど同じころ聴覚障害が悪化し、14年を最後に公開演奏会を行わなくなり、18年には筆談帳を用いなければならなくなり、24年の交響曲第9番の初演時は聴衆の大喝采にも気づかなかったという。交際する相手はごく限られるようになっていった。しかし名声は相変わらず高く、晩年の病床には見舞いの品と手紙が山のように届いた。葬送の行列は数万の市民が見送った。 初期には古典派の先人たちの影響を強く留め、ウィーンではC.P.E.バッハの感情過多様式とウィーンの聴衆には洗練され過ぎていたモーツァルトの様式の中間的作風を採った。中期にはその関心はハイドンとモーツァルトがのこした表現手法を洗練させることに向けられ、先人二人の完成させた古典派様式を至上の高みにまで洗練させつつ、大胆な技法による情熱的で力強い表現を獲得し、来たるロマン派音楽への先駆となった。後期にはナポレオン没落と反動体制の時代にあって、自己への沈潜と人類的理想への希求、個々の作品の驚嘆すべき独自の個性に至った。 ベートーヴェンは教会や貴族の注文に応じて音楽を書くのではなく自らの創作意欲にしたがって作曲をし、自作品出版による収益を経済的生活基盤とし、音楽史上で最初に〈自律した音楽家〉と言われた。そのためロマン主義が理想とした英雄的な芸術家像を体現した音楽家として、19世紀にひときわ高くそびえたつ音楽家となった。が、彼の直接的な影響のもとに音楽を書いた作曲家は限られ、ヨハネス・ブラームス(1833~97)やリヒャルト・ヴァーグナー(1813~83)を俟たねばならず、さらにベートーヴェンの交響曲の理想が発展の最終段階を見せるのは19世紀末のアントン・ブルックナー(1824~96)やグスタフ・マーラー(1860~1911)の時代であった。 以下では、盛期古典派のうちウィーン古典派以外の動向について、地域ごとに概況と主だった者を挙げ、状況の描写を試みる。 基本的には、さまざまな地で後のロマン派的・国民楽派的な音楽が準備されつつあるように見える。 ウィーン古典派の3人同様に市民を主な対象とした作曲家と、以前同様に宮廷を舞台に活躍した作曲家の双方が見られる。ここに挙げた者の他、後述のヴァンハル、コジェルフ、ライヒャ、サリエリ、パエールなどチェコやイタリアの出身者を中心に多くの外国人が活躍している。 外交革命を経て行われた七年戦争で勝利したプロイセン(ブランデンブルク辺境伯にルーツを持つ)の優位は明らかになっていたが、選帝侯の皇帝立候補がオーストリア継承戦争の発端となったバイエルン、選帝侯がポーランド王を兼ねたことがあるザクセン、選帝侯がイギリス王を兼ねていたハノーファーなども相変わらず有力であった。こうした選帝侯領の首府は音楽活動の中心地でもあった。1806年にはナポレオンの圧力により神聖ローマ帝国が解体されプロイセンとオーストリア以外のドイツ諸邦の全てがライン同盟としてフランス帝国の傀儡となったが、ナポレオンの没落とともに1813年にライン同盟は解体し、1815年にドイツ連邦として再編された。 チェコ人の音楽家は、三十年戦争以来強力に推し進められたカトリック改宗とドイツ化のもと暗黒時代にあった祖国を離れ、前古典派の時代に続いて主に祖国以外の各地で活躍している。この後1780年以降に盛んになった民族復興運動は、19世紀になってベドルジハ・スメタナ(1824~1884)を始めとするボヘミア楽派の登場を促すことになる。 イタリア戦争後に外国支配の時代が続いていたイタリアは、18世紀にはオーストリアが支配的な勢力となっていたが、イタリア人音楽家、特にナポリ出身者は以前に引き続いて各地で活躍している。しかしイタリア人の創作は徐々にオペラ一辺倒になって行き、19世紀にはその傾向が非常に強まっていくことになる。 18世紀後半のフランスの音楽は、オペラの消費地化と独墺伊オペラの優位、唯一フランス人とフランス音楽の拠点となったオペラ・コミックの誕生、そして何より革命の影響が特徴と言えそうである。また革命後の95年にはパリ音楽院が創設され、これに倣って各国でも19世紀初頭に次々音楽院が創設されることになる。 他には先に挙げたケルビーニやライヒャが活躍している。が、全体としては、「フランス革命は、その思想がベートーヴェンを鼓舞したにせよ、彼に匹敵する音楽家をフランスに与えるどころではなかった」という評価がある。その後にはコルシカ出身のナポレオンが先述のパイジェッロやパエールやスポンティーニなどのイタリア人音楽家を贔屓にした。 先述のソルやアリアーガを除くと、古典派からロマン派時代のスペインは傑出した作曲家をあまり生み出さなかったが、独自の音楽の伝統は劇音楽サルスエラに残っており、後の民族主義楽派につながることになる。ポルトガルではカルロス・セイシャス(1704~42)、フランチェスコ・アントニオ・デ・アルメイダ(?‐1755)らが鍵盤音楽、管弦楽、歌劇に成果を示し首都リスボンで活躍していたが、1755年のリスボン大地震でその多くが失われた。その後カルバーリョ(1745~98)が出たが、19世紀になるとイタリア・オペラの影響が著しく、民族的な特色は後退した。 イギリス音楽は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)の死後は沈滞期になり、イギリスで活躍する主な音楽家のほとんどは外国人となり、ロンドンは音楽の消費地としての性格を強めていく。その他、先に挙げたクレメンティが活躍しており、またここまでに「ヨーロッパ各地で活躍」とした音楽家は全員ロンドンで活躍したことがあり、ハイドンもロンドンの演奏会で成功を収めている。このようなロンドンは、18世紀末には楽譜出版やコンサート運営でパリを追い抜くほどに成長した。 だが、イギリス人で活躍したと言えそうなのはハイドン誕生以前まで範囲を広げてもオペラ作曲家のトマス・アーン(1710~1778)とアンセム作曲家ウィリアム・ボイス(1711~1779)くらいであり、その後の19世紀に至っては「ジョン・フィールド(1782~1837)のピアノ曲と、アーサー・サリヴァン(1842~1900)のオペレッタ以外に特筆すべきものはない」と明言されてしまう始末であった。 ポーランドはカトリック世界であり、仏伊独の音楽を受け入れつつ、ポーランドの作曲家の伝統も育っており、宗教音楽・世俗音楽とも栄えていたが、18世紀には国運が傾き始め、1795年にポーランド分割で滅亡する。こうした時代にあって、国民オペラ・民族的色彩をもつ器楽・闘争歌が生まれる。 ロシアは正教国であり、西欧とは違った独自の教会音楽を形成していたが、17世紀中頃にポーランド支配下にあったウクライナとの統一により、西欧的な音楽の導入・流入が始まる。その後ピョートル大帝の西欧化政策に伴いロシア宮廷にも西欧の音楽の導入が進められ、特にエカチェリーナ2世の在位時には宮廷楽長として先述のパイジェッロやチマローザ、ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂楽長で「オペラ・ブッファの父」と呼ばれたバルダッサーレ・ガルッピ(1706~85)など、数々の一流イタリア人作曲家がペテルブルクに滞在した。また西欧から多くの音楽家が雇われ、宮廷や大貴族の下で演奏や音楽家教育に当たった。18世紀最後の四半世紀には、ロシア人作曲家(ただし、現ウクライナ出身者が非常に多い)が輩出し始める。 ベートーヴェンの交響曲第5番(1807~08年)について、ドイツの文学者で作曲家でもあったE.T.A.ホフマンは1810年の評論で「ロマン主義の本質である無限の憧れをよびおこす」と書いている。フランスの音楽史ではベートーヴェンは19世紀のロマンチシズムの到来の章で紹介され、「彼の音楽は彼自身を考えずにはほとんど聞くことはできない」とされている。岡田暁生は「やや図式化していえば、モーツァルトは『革命以前の人』、ハイドンは『革命後もしばらくは活動していた人』であるのに対し、ベートーヴェンは『革命後の人』であり『19世紀の人』なのである」としている。「ウィーン古典派の三大巨匠」といっても、ハイドン・モーツァルトとベートーヴェンは、活躍した時期も音楽の性格もかなり違い、ベートーヴェンは18世紀までの貴族世界と決定的に縁を切っている。端的にまとめれば「ベートーヴェンは古典派音楽を完成しつつ次に来るロマン主義への志向を示している」となるだろう。 ウィーン体制下では自由主義やナショナリズム運動が徹底的に弾圧され、ビーダーマイヤー(小市民的文化)時代になると、市民たちは抑圧政治から逃避するように、居心地の良い仲間たちとの集い、あるいは分かり易いつかの間の快楽に没頭した。シューベルト「糸を紡ぐグレートヒェン」1815年、ロッシーニ「セビリアの理髪師」1816年、パガニーニ「24の奇想曲」1820年出版などは、こうしたウィーンのこの時期の時代の刻印と捉えることができる。またウェーバー「魔弾の射手」1821年初演(ベルリン)は、あらゆる面でドイツ的であったことから民族愛を高め、熱狂的な支持を集めた。こうした作曲家たちはロマン派の初期として扱われるが、シューベルトには「ロマン派の作曲家に数えられることが多いが、音楽的な実質は古典的であり、(古典派に)含めることができる」とする評価があり、「ベートーヴェンとシューベルトはロマン的要素を有しながら、全体としては古典派に入れられる」とする評価すらある。ベートーヴェンを「ロマン派の作曲家」と呼ぶことはできないにしろ、彼の創作のかなりの部分は初期ロマン派の作曲家たちと時代的に重なり合っており、この時期にもスランプを脱して孤高期のスタイルを打ち立てたピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」1818年に始まるピアノ音楽の作品群を書いている。 一方、ベートーヴェンの死の3年前の交響曲第9番1824年は、壮大な構想、規模の大幅な拡張、独唱と合唱の導入により、古典派の交響曲の概念を打ち破った。それから程なく、メンデルスゾーン「夏の夜の夢 序曲」1826年、ベートーヴェンの死から3年後にはベルリオーズ「幻想交響曲」1830年が作曲されている。以後は敢えて古典主義的な作風を採ったブラームスなどを除くと、全般にロマン派とされる作曲家と作風が主流となり、狭義のロマン派の時代となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "古典派音楽(こてんはおんがく)は、クラシック音楽の歴史において、18世紀中ごろから19世紀はじめにかけての音楽様式をさす用語。現代においてはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを中心とするウィーン古典派が代表的な存在とされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西洋文化・芸術に対して用いられる「古典」という語は、英語でいうクラシック (classic) の訳語であり、「階級」を表すラテン語「class(クラス)」の派生語 classicus(「市民の6つの階級の最上級」の意)から、もとは「一流・最高水準」の意味であった。古代ギリシャ・ローマの優れた著作を指す言葉として古くから使われており、ルネサンスの古典復興の革新運動の中で、古代ギリシャ・ローマの人間中心の見方・考え方を〈規範とすべき第一級の傑作〉という意味で〈classic〉と呼んだことからはじまった。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古代ギリシャ・ローマの芸術を規範とし、調和や普遍性をめざす芸術運動である古典主義は、17世紀ごろから文学や美術でおこりはじめた。音楽における古典派は、直接的に古典主義運動の影響を受けたわけでも古典を復興しようという意識があったわけでもなく、ほぼ同時代のドイツ文学におけるゲーテを中心とした古典主義との類比から名づけられたが、論理的で調和がとれた形式が確立した点は共通している。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この時代のヨーロッパの社会は、絶対王政に象徴される封建制から近代民主主義へと移行する激動の時期にあたる。古典派の初期には、音楽家たちはバロック時代と同様に王侯貴族にめしかかえられ、彼らのために作曲し演奏するのが一般的であった。しかし、市民階級の台頭に伴って、一般市民に音楽を教えたり、楽譜を販売したり、演奏会を開催したりして、定職を持たずフリーの音楽家として生計をたてることも可能となった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "理性を重視する啓蒙時代を背景に楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、ソナタ形式が発展した。17世紀に成立していた機能和声と調性による機能和声的調性は18世紀には中心的語法となり、主調と近親調の間での転調がもたらす緊張-弛緩という調関係は楽曲構成の基本に置かれるようになったが、1本の主旋律と充足した和声というホモフォニーによる作曲が主流となったことと、アマチュア演奏家が増えて即興能力が全体に減退したことにより、通奏低音は廃された。この時代の代表的な楽種として、上述のソナタ形式を含む交響曲や協奏曲、ピアノソナタや弦楽四重奏曲などが盛んに作られた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古典派音楽の盛期はバロック音楽とロマン派音楽の間に位置しているが、実際には古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽の勃興と並行している。古典派の潮流は1730年頃にフランスのギャラント様式から始まるが、バロック音楽を代表するヨハン・ゼバスティアン・バッハやゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはまだ存命、活動中であった。また、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの死(1827年)をもって古典派の終わりとする考えもあるが、ロマン派とされるフランツ・シューベルトやカール・マリア・フォン・ヴェーバーもほぼ同じ頃に死去している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古典派音楽の時代区分については諸説あるが、次のように分類する例がある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前古典派は、バロック後期と、ハイドン・モーツァルトに代表される、いわゆる「古典派」の間に位置し、そのどちらとも重なる18世紀中葉の音楽活動の総括的な呼称。ギャラント様式・多感様式・ベルリン楽派(北ドイツ楽派)・マンハイム楽派・グルックのオペラなど、ウィーン古典派を準備する歴史的位置にある様式・楽派・作曲家があり、これらが前古典派に含まれる。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ここでは、ギャラント様式の誕生を出発点として、場合によっては一般的にはバロックと見なされる作曲家も含め、ウィーン古典派に至る流れの描写を試みる。概説にある区分で言えば、「前古典派、ギャラント様式」と「初期古典派、多感様式」にまたがった時期である。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ各国の宮廷では、17世紀中葉以降フランス趣味が大流行し、それぞれの宮廷の建築・庭園・衣装・髪型・かつらの形態・所作と娯楽などを変化させていった。各国では15世紀後半から16世紀末まではイタリア趣味が流行し、それが失われたわけではなかったが、フランスはルイ14世以来模範的な宮廷とパリという模範的都市を備えており、科学・文芸・哲学においてヨーロッパ精神のエリート的な存在となっていた。ヴェルサイユ宮殿を模した建造物が各地に造営され、そこでは人々はフランス語を話し、フランス風の衣装をまとい、フランスの作家・パリからの書簡・「文芸通信」を読み、哲学者や芸術家や料理人や洋服屋をフランスから招いた。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "宮廷文化は基本的にスペクタクルの文化であり、学問や文芸の「文字の文化」とは長い間対立関係にあったが、17世紀末から18世紀初頭にかけて、サロンとアカデミーという並行した活動のおかげで対立が解消され始めた。これらの組織では、宮廷人が学者と会い、科学と考証の文化が視覚的・文学的な文化と共存することができた。そこから辞書や百科事典、業績を理解させるための演説、学問の要約と抜粋を掲載する定期刊行物の流行が生まれ、啓蒙的な短編作品がこれを補足した。こうして誕生したエリート文化は、18世紀に開花し、フリーメイソンと結びついてヨーロッパ中に広がり、1820年代まで存続した。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "18世紀に入り、絶対王政の浸透に伴い文化の中心は教会からサロンに移行し、貴族社会での社交的な世俗音楽の需要が増した。全曲にわたって同一の気分を維持しようとする音楽様式は若い世代の音楽家たちには堅苦しく感じられ、バロック様式への反動が生じた。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "こうしたことが重なる中、フランスでは簡潔な和声、メロディックで断片動機の反復を多用した旋律法、小規模な形式、短い範囲内での対比を強調する強弱法、豊かで変化に富んだ装飾法などを特徴とするギャラント様式(ロココ様式とも)が生まれ、短い標題音楽や舞曲風の作品を典型とする音楽が書かれるようになった。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "優美で軽快なロココ的な特質を持つ音楽は、イタリア・ドイツ地域の音楽家達にも広がった。ドイツの音楽理論家マッテゾンは1721年の著書「オーケストラの探究」の中で、当世ふうの音楽を「ギャラン」と言う言葉を使って称揚し、さらに「ギャランな人」として、ヴィヴァルディ、A.スカルラッティ、テレマン、ヘンデルを始めとして当時活躍中の10人ほどを挙げている。彼が称揚したのは、優美な旋律を中心にした、つややかに美しく、軽やかでしゃれていて、心地よい、分かり易い音楽であった。こうしたロココ音楽の特質は、18世紀中葉の作曲家たちを経て、クリスティアン・バッハやハイドン、若き日のモーツァルトらの作品にもうかがわれる。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "少年時代からフランス風の文芸や音楽を好んでいたプロイセンのフリードリヒ2世(大王、1712~86)は、サンスーシ宮殿に当時の優れた音楽家を集めて楽団を設立した。18世紀後半にベルリンで活躍した作曲家の一群はベルリン楽派と呼ばれるが、大半がフリードリヒ大王との関わりを持っていた。自身フルートを愛好した大王はとりわけ器楽曲、それも後期バロック風の様式を好んでおり、いきおいベルリン楽派の音楽家たちは主君の嗜好を反映した作品を数多く作曲することになった。そのためベルリン楽派は前古典派の中でもバロックの伝統へのつながりがより密接とされる。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前古典派は時期的にJ.S.バッハの息子たちの世代に当たっている。J.S.バッハは生涯に二度結婚し、11男9女をもうけ、うち6男4女が成人し、4男は音楽家として大成した。中でも以下の三名は、前古典派の中でも重要な役割を果たしている。特にC.P.E.バッハは、多感様式の代表者とされる。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ファルツ選帝侯領の首都マンハイムでは、幅広い知的興味を有し芸術を愛好する選帝侯カール4世フィリップ・テオドール(1724~99)が43~78年のマンハイム在任中、多額の出費を惜しまず芸術活動を奨励し、博物館・図書館等の施設を充実させ、さらにとりわけ音楽を重んじ、みずから有能な音楽家を選抜して宮廷に招いた。彼らはマンハイム楽派と呼ばれる。後述のシュターミッツを中心に50名を超える楽団員を有し、その優れた合奏技術、クレッシェンド奏法、トレモロ奏法等によってこの時期の創作活動に多大な影響を与えた。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "18世紀にはフランスを除く各地域では、もっぱらイタリア・オペラが支配的となっていた。作曲家は主としてナポリ出身あるいはナポリで訓練を受けていたため、ナポリ楽派のオペラと呼ばれる。最初の黄金期を築いたのはアレッサンドロ・スカルラッティ(先のドメーニコの父、1660~1725)とされる。18世紀後半まで普遍的に行われ、アリアの重視と高度の様式化を特徴としていたが、音楽的な興味がアリアに集中するきらいがあり、アンサンブル・コーラス(やバレエ)・器楽等の諸要素が従属的な地位に追いやられ、作品全体の有機的構成の密度が希薄になる傾向があった。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ナポリ派のオペラではシンフォニアとよばれた序曲がしばしば書かれるようになった。これはオペラ本体とは音楽的にも演劇的にも関連性がない器楽曲で、当時興隆を始めていた市民対象のコンサートでしばしば単独で演奏されたが、やがて序曲と同じ音楽構造の器楽曲が独立して書かれるようになる。この形式は急-緩-急のテンポをとる3楽章で構成され、各楽章内での楽想の展開の仕方は、のちのソナタ形式を予告するものであった。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうしたシンフォニアが確立されると、ウィーン前古典派やマンハイム楽派を始めとするドイツ系の作曲家たちがすぐにこのアイデアをうけついで数々の独創的な工夫をくわえ、ソナタ形式を確立していくとともに、さまざまな音楽形式・ジャンル・表現形態を生み出していった(交響曲、ソナタ、協奏曲、弦楽四重奏曲など)。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ソナタはもともとは「器楽曲」という意味で、バロック初期に数楽章からなる独奏ないし重奏のための純粋器楽として教会ソナタと室内ソナタがつくられるようになっていたが、前古典派の頃から次第に教会を離れ、宮廷音楽として存続しつつも、市民階級の台頭・楽譜出版と公開演奏会の増加に伴って受容の範囲を飛躍的に拡大し、一般愛好家の娯楽音楽・生徒の練習曲・職業音楽家の技量の見せ所・公開演奏会の曲目としての性格を強めていった。鍵盤楽器独奏、独奏と鍵盤楽器伴奏の二重奏が主流を占めている。単一楽章や2楽章のものもあったが、やがて中庸のテンポでソナタ形式の1楽章、さまざまな形式を取る緩徐楽章の第2楽章、やはりさまざまな形式を取る急速なテンポの3楽章というシンフォニア風の3楽章構成が標準となった。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ソナタ形式は、ソナタの第1楽章で発達してきた形式で、ソナタを始めとして交響曲、協奏曲、室内楽曲など器楽曲の第1楽章で幅広く使われた。バロック時代の舞曲に広範に見られた、両部分が反復する二部形式(|主調―属調|属調―主調|)に起源がある。前古典派初期においては同様の均等な規模の2つの部分から構成されつつ、旋律は1~2個の動機または主題からできていた。対立調はしだいに属調ではなく平行調が好まれるようになった。全体的に規模が拡大するにつれ、主調から対立調への移行が複雑になり、動機も入れて示すと(|A主調―α調的移行―B対立調|A対立調―β転調―B主調|)という形(D.スカルラッティなど)となり、さらには3部分構造や主題回帰を持つロンド形式やリトルネロ形式から影響を受けて(|A主調―α調的移行―B対立調|{A対立調―β転調}―{A主調―B主調}|)という形(C.P.E.バッハの鍵盤ソナタや、マンハイム楽派やウィーン前古典派の交響曲など)に発展した。旋律素材を主題としてのまとまりを持ったものにする努力も行われ、やがてこれは複主題(第1主題と第2主題)の形をとり始める。Bの部分に小終止を導入して旋律的なまとまりをつけることや、第2主題と小終止の間にもう一つの旋律素材を導入することなども行われ、これは第3主題の萌芽あるいは多素材化の傾向と言える。こうして盛期古典派のソナタ形式に存在する材料はすべて出そろったが、全てを兼ね備えた者は18世紀中盤の段階では現れず、1770~80年代のハイドン、モーツァルト、C.P.E.バッハ、J.C.バッハにおいてソナタ形式は古典的完成を見たというのが多くの研究者の意見である。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "前古典派のソナタ作曲家としては、サンマルティーニ、アルベルティ、ボッケリーニ、D.スカルラッティ、ソレール、ヴァーゲンザイル、J.シュターミツ、W.F.バッハ、C.P.E.バッハ、ミューテル、ショーベルト、J.C.バッハ、クレメンティが著名とされる。他の場所に記載がない者に関して以下に示す。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ナポリ派のオペラは結局アリアにおける声楽技巧の誇示に陥り、劇と音楽の関連が見失われるような場合すら出てきた。フランス宮廷のオペラに対しても、非現実的な主題や様式化された舞台に不満を持つ人々が現れた。こうして18世紀中葉、各国にオペラ・ブッファ(イタリア)、オペラ・コミック(フランス)、ジングシュピール(ドイツ)、バラッド・オペラ(イギリス)、トナディーリャ(スペイン)が現れる。これらはいずれも題材・音楽とも軽く、気取りも特別な教養もなく楽しめるもので、オペラ・ブッファを除いて、歌の間をレチタティーヴォではなく日常語のセリフでつなぐのを原則とした。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "こうした中、言葉によってつたえられるオペラの意味や内容、感情を音楽でも表現するというオペラ本来の目的を回復しようと、一方で新たな様式の開発にとりくんでいたクリストフ・ヴィリバルド・グルックは、詩人カルツァビージと知り合って理想通りの台本の提供を受けることができ、62年にウィーンで初演された「オルフェオとエウリディーチェ」でその理想を結実させ、初演されるや大成功を収めた。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "グルックの開始したオペラ改革に対して、猛然と反論をとなえる動きが生じ、1774~81年にはパリでグルック支持派とナポリ出身のニコロ・ピッチンニを擁護するグループとの間で全面的な論争が展開された。が、競作にグルックは勝利を収め、彼によって確立されたさまざまな原則は、モーツァルト、ケルビーニ、ベートーヴェン、ヴァーグナーなどの後世の多くの作曲家に影響をあたえることになっていく。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "作品や作曲様式は対位法志向でむしろ過去を向いているが、多くの作曲家を指導した名教師がこの時期に複数いる。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "18世紀半ばには、フランスでは「王の24のヴィオロン(Les Vingt-quatre Violons du Roi)」が1761年に財政上の理由で解体され、オーストリアではマリア・テレジアが国力充実のための徹底した経費削減の一環としてオペラやオラトリオの大規模な上演を禁止し、予算を厳しく切り詰められたことで宮廷楽団の人員が大幅に減るなど、大国における宮廷音楽の縮小が相次いだ。一方で、1765年のバッハ=アーベル演奏会の発足やコンセール・スピリチュエルの隆盛など、宮廷外での音楽活動の拡大が見られ始め、音楽の担い手が市民に移りつつあったことを示している。フランスではやがて革命で宮廷文化が終末を迎えるが、ドイツやオーストリアでは半世紀ほど状況が遅れており、宮廷や教会に保護された音楽はまだ盛んであった。", "title": "前古典派" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ウィーンを中心に18世紀後半から19世紀初頭の間に活躍した作曲家、一般的にはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを、ウィーン古典派と言う。また彼らの時代は、特に「盛期古典派」と呼ばれることがある。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "18世紀末以降、フランス革命やその後のナポレオン戦争によってヨーロッパ各地で貴族社会が崩壊し、ドイツでは多くの宮廷が閉鎖され、そこに雇われていた音楽家たちは路頭に迷うことになった。しかしオーストリア帝国の首都ウィーンでは、ナポレオンに包囲されるなど危機的な状況にあったものの、ハイドンやベートーヴェンが貴族文化の最後の輝きを謳歌した。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "オーストリア関係では、1780年にマリア・テレジアが死去し、ヨーゼフ2世の単独統治になる。翌81年にはヨーゼフ2世の啓蒙専制主義に基づく積極的な近代化政策(宗教寛容令・農奴解放令・言語統一令・商工業の保護など)が打ち出されたが、聖職者や貴族の抵抗が強く、90年にヨーゼフ2世が急死したこともあって改革は停滞した。続くレオポルト2世は反革命の立場を打ち出し、92年にフランス革命政府と戦争となる。フランス革命軍との戦争は当初は優位だったが、フランス国民軍の編制・ナポレオンの登場・イタリア遠征軍への敗北・ナポレオン戦争・ナポレオンの皇帝即位・アウステルリッツの戦いでの敗北と事態が進行し、ウィーンは再三フランス軍に脅かされ、貴族階級の疎開や没落が目立つようになった。1806年のライン同盟結成によりフランツ2世が神聖ローマ皇帝を退位し、神聖ローマ帝国は消滅した。1809年にはウィーンはナポレオンに占領される事態となった。1812年にナポレオンはロシア戦役で大敗し、1814~15年のウィーン会議でオーストリアのメッテルニヒの主導でウィーン体制が生まれたが、反動的体制であり、数々の反発を生むことになる。モーツァルトのウィーン到着(1781年)からベートーヴェンの中期の終わり(1815年)までは、このような激動の時代であった。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ウィーン古典派に至り、ソナタ形式は3部分構成を取るようになり、旋律素材の性格がより強調され、旋律と調との緊密な関係がより重視されるようになった。第1部分では性格の明確に異なる2つの主題群が現れ、一つは主調で力強く積極的な性格を持ち(第1主題)、もう一つは属調でより叙情的な性格を持つ(第2主題)。第1部分の前にゆっくりしたテンポの序奏、締めくくりには小結尾部が置かれることも出てきた。第2部分は、前古典派の第2部分の開始部(他調への短い転調を含んでいた部分)を拡大したもので、転調部が拡張されて数も増え、第1部分で提示された旋律素材の断片化・変形・組み替えなどの技法が駆使され大きく発展した。第3部分では、第1主題と第2主題がともに主調で再現される。こうした3部分構成のソナタは、ベートーヴェンの時代になるとグランド・ソナタと呼ばれるようになり、従来のソナタや転調部分が発展していないソナタはソナチネと呼ばれるようになった。19世紀半ばには、3部分構成の3つの部分はその機能に応じて、提示部・展開部・再現部と命名された。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "前古典派で3楽章構成が標準だったソナタは、盛期古典派に至り、交響曲と同様に終楽章の前に舞曲楽章としてメヌエットが取り入れられ、さらにベートーヴェンではスケルツォが組み入れられ、4楽章のソナタも出現した。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ドイツのジングシュピールやフランスのオペラ・コミックのような、自国語をテキストとし、市民階級を基盤とした、新しいタイプの国民的なオペラの隆盛がはっきりしてくる。モーツァルト晩年の名作ジングシュピール「魔笛」は、その一例である。この種のオペラは、素朴な感傷、見世物的興味、悪の世界と善の世界の対立などの要素を共通させながら、一方ではケルビーニの「二日間」からベートーヴェンの「フィデリオ」へつながるサスペンスに満ちた〈救出オペラ〉へと発展し、他方ではウェーバーの「魔弾の射手」に典型的な国民的タイプのロマン派オペラへとつながっていくことになる。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)はウィーンのシュテファン大聖堂の少年合唱団で音楽を学び、さらにザクセン選帝侯の宮廷楽長を務めていたニコラ・ポルポラ(1686~1768)の家に下働きとして住み込み師事した。ボヘミアのモルツィン伯爵の楽長を経て、61年にエステルハージ侯爵の副楽長、66年に同楽長となり、以後25年間その地位にあった。79年の契約書によれば、自作品を楽譜出版業者に売り、代金をうけとる自由を認められるという、当時としては驚くべき待遇を受けている。このためハイドン作品は多くの人の耳に届くこととなり、彼の名声はヨーロッパ中に広がった。90年の侯爵の死に伴う楽団解散により、かえって自由に作曲できる立場となり、2回にわたるザロモンコンサートのためにイギリスに渡り、大成功を収めた。晩年は有名かつ裕福であった。ナポレオン占領下のウィーンで死去。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "100曲以上の交響曲を書き、あらゆる可能性や技法を試みてジャンルを成熟させ、交響曲の地位を揺るぎないものにした。60~70年代にかけては、交響曲にメヌエットを導入して4楽章構成を典型とし、同時に第1楽章の冒頭に緩徐な序奏を置くことが多くなった。93~95年にかけて作曲したロンドン・セットの最後の6つの交響曲において、フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルン・トランペット各2本、ティンパニに加えて弦楽を5部に拡大したことで、交響曲の古典的編成である二管編成を完成させた。このためハイドンは「交響曲の父」と呼ばれる。また68曲の弦楽四重奏曲でこのジャンルの先駆者となった。ハイドン作品は量の多さに関わらず、類型に陥らず、独自性を保っている。単純なメロディや主題を予想しない形で複雑に発展させる手法は、革新的と評された。意表を突いた展開、しばしば用いられたユーモラスな効果、民謡的なメロディを好んだところにハイドンの特徴がある。エステルハージ家の宮廷楽長を長く務めたが、印刷楽譜の出版と新作コンサートを通じ、貴族社会の音楽家から近代市民社会の音楽家へと変貌した。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)は生地ザルツブルクで宮廷音楽家を務めていた父レオポルト・モーツァルト(1719~1787)から姉マリア・アンナ(1751~1829)とともにクラヴィーアを学び、5才で作曲を試みている。63年、父に伴われてパリに行き、ルイ15世一族の前で姉と連弾を披露。パリ在住ドイツ系作曲家でソナタの先駆者であるヨハン・ショーベルト(1720/40~67)やヨハン・ゴットフリート・エッカルト(1735~1809)と出会い、影響を受ける。最初の作品集を出版。64年ロンドンに行き、ヨハン・クリスティアン・バッハから作曲を学ぶ。68年ウィーンで歌劇を上演。69年よりザルツブルク大司教宮廷の楽団員になるが、この年から父と3回にわたってイタリア旅行をし、演奏と作品発表の他、ボローニャでジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ(1706~84)の指導を受けた。こうして父による英才教育でフランス・イタリア等の音楽を吸収したことが、天才の育成に大きな役割を果たしている。77年までザルツブルクで活躍したのち、就職口を求めてマンハイムを経てパリに演奏旅行。81年に大司教と決裂して独立した音楽家を目指しウィーンに定住。後述のクレメンティとの共演やハイドンとの友情やベートーヴェンとの出会いなどのエピソードが生まれる。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、ピアノ教師、楽譜の出版などで生計を立てたが、過労から健康を害し貧困のうちに35歳で没した。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "初期には前古典派とイタリア古典派の影響が強く、中期にはギャラント様式とマンハイム楽派の様式を取り入れ、30才以後の後期ではバロック音楽への傾倒が加わって古典美の中に深遠な表情をもつようになった。こうした創作の中で、ハイドンが手掛けたピアノソナタ、弦楽四重奏曲、交響曲などの古典派時代のさまざまなジャンルを多様化し、また深化した。ピアノ協奏曲の芸術的完成を果たし、オペラにおいてはハイドンを凌駕している。モーツァルトの音楽では、優美で明快なメロディを重視するイタリア趣味と、形式の洗練と対位法上の工夫を重視するドイツ趣味が結合している。簡潔・明快・均整を旨とした18世紀古典派様式を端的に表現しながら、聴く者の心をゆりうごかす19世紀的傾向も先取りしていた。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)はオランダ系で、同名の祖父がボンに移住しケルン選帝侯の宮廷楽長を務め、父も同地の宮廷歌手であった。父は息子を大音楽家に仕立てようと、幼時から過酷なピアノの練習を強いた。ベートーヴェンは14才で宮廷オルガニストに採用され、81年から宮廷オルガニストのクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748~1798)に師事し、この頃から作曲も手がけた。87年に一度ウィーンを訪れモーツァルトに出会う。その後はブロイニング家の知遇を受けボン大学の聴講生となるなどし、フランス革命の息吹を感じつつ自由への憧れを心に刻んだとされる。92年にワルトシュタイン伯爵がパトロンとなってウィーンへ行き、ハイドンや、シュテファン大聖堂楽長だったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(1736~1809)や後述のシェンクやサリエリに作曲を学ぶ。ウィーンではワルトシュタイン伯爵の紹介もあって社交界デビューを難なく果たし、さらに幾人ものパトロンを得る。ピアニストとして成功し、また複数の楽譜出版業者と契約してその条件も年々有利になり、フリーランスの音楽家として充分に暮らしていくことができた。今日最も有名なベートーヴェンの作品は、1803~12年の10年間に書かれているが、ちょうど同じころ聴覚障害が悪化し、14年を最後に公開演奏会を行わなくなり、18年には筆談帳を用いなければならなくなり、24年の交響曲第9番の初演時は聴衆の大喝采にも気づかなかったという。交際する相手はごく限られるようになっていった。しかし名声は相変わらず高く、晩年の病床には見舞いの品と手紙が山のように届いた。葬送の行列は数万の市民が見送った。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "初期には古典派の先人たちの影響を強く留め、ウィーンではC.P.E.バッハの感情過多様式とウィーンの聴衆には洗練され過ぎていたモーツァルトの様式の中間的作風を採った。中期にはその関心はハイドンとモーツァルトがのこした表現手法を洗練させることに向けられ、先人二人の完成させた古典派様式を至上の高みにまで洗練させつつ、大胆な技法による情熱的で力強い表現を獲得し、来たるロマン派音楽への先駆となった。後期にはナポレオン没落と反動体制の時代にあって、自己への沈潜と人類的理想への希求、個々の作品の驚嘆すべき独自の個性に至った。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンは教会や貴族の注文に応じて音楽を書くのではなく自らの創作意欲にしたがって作曲をし、自作品出版による収益を経済的生活基盤とし、音楽史上で最初に〈自律した音楽家〉と言われた。そのためロマン主義が理想とした英雄的な芸術家像を体現した音楽家として、19世紀にひときわ高くそびえたつ音楽家となった。が、彼の直接的な影響のもとに音楽を書いた作曲家は限られ、ヨハネス・ブラームス(1833~97)やリヒャルト・ヴァーグナー(1813~83)を俟たねばならず、さらにベートーヴェンの交響曲の理想が発展の最終段階を見せるのは19世紀末のアントン・ブルックナー(1824~96)やグスタフ・マーラー(1860~1911)の時代であった。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "以下では、盛期古典派のうちウィーン古典派以外の動向について、地域ごとに概況と主だった者を挙げ、状況の描写を試みる。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "基本的には、さまざまな地で後のロマン派的・国民楽派的な音楽が準備されつつあるように見える。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ウィーン古典派の3人同様に市民を主な対象とした作曲家と、以前同様に宮廷を舞台に活躍した作曲家の双方が見られる。ここに挙げた者の他、後述のヴァンハル、コジェルフ、ライヒャ、サリエリ、パエールなどチェコやイタリアの出身者を中心に多くの外国人が活躍している。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "外交革命を経て行われた七年戦争で勝利したプロイセン(ブランデンブルク辺境伯にルーツを持つ)の優位は明らかになっていたが、選帝侯の皇帝立候補がオーストリア継承戦争の発端となったバイエルン、選帝侯がポーランド王を兼ねたことがあるザクセン、選帝侯がイギリス王を兼ねていたハノーファーなども相変わらず有力であった。こうした選帝侯領の首府は音楽活動の中心地でもあった。1806年にはナポレオンの圧力により神聖ローマ帝国が解体されプロイセンとオーストリア以外のドイツ諸邦の全てがライン同盟としてフランス帝国の傀儡となったが、ナポレオンの没落とともに1813年にライン同盟は解体し、1815年にドイツ連邦として再編された。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "チェコ人の音楽家は、三十年戦争以来強力に推し進められたカトリック改宗とドイツ化のもと暗黒時代にあった祖国を離れ、前古典派の時代に続いて主に祖国以外の各地で活躍している。この後1780年以降に盛んになった民族復興運動は、19世紀になってベドルジハ・スメタナ(1824~1884)を始めとするボヘミア楽派の登場を促すことになる。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イタリア戦争後に外国支配の時代が続いていたイタリアは、18世紀にはオーストリアが支配的な勢力となっていたが、イタリア人音楽家、特にナポリ出身者は以前に引き続いて各地で活躍している。しかしイタリア人の創作は徐々にオペラ一辺倒になって行き、19世紀にはその傾向が非常に強まっていくことになる。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "18世紀後半のフランスの音楽は、オペラの消費地化と独墺伊オペラの優位、唯一フランス人とフランス音楽の拠点となったオペラ・コミックの誕生、そして何より革命の影響が特徴と言えそうである。また革命後の95年にはパリ音楽院が創設され、これに倣って各国でも19世紀初頭に次々音楽院が創設されることになる。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "他には先に挙げたケルビーニやライヒャが活躍している。が、全体としては、「フランス革命は、その思想がベートーヴェンを鼓舞したにせよ、彼に匹敵する音楽家をフランスに与えるどころではなかった」という評価がある。その後にはコルシカ出身のナポレオンが先述のパイジェッロやパエールやスポンティーニなどのイタリア人音楽家を贔屓にした。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "先述のソルやアリアーガを除くと、古典派からロマン派時代のスペインは傑出した作曲家をあまり生み出さなかったが、独自の音楽の伝統は劇音楽サルスエラに残っており、後の民族主義楽派につながることになる。ポルトガルではカルロス・セイシャス(1704~42)、フランチェスコ・アントニオ・デ・アルメイダ(?‐1755)らが鍵盤音楽、管弦楽、歌劇に成果を示し首都リスボンで活躍していたが、1755年のリスボン大地震でその多くが失われた。その後カルバーリョ(1745~98)が出たが、19世紀になるとイタリア・オペラの影響が著しく、民族的な特色は後退した。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "イギリス音楽は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)の死後は沈滞期になり、イギリスで活躍する主な音楽家のほとんどは外国人となり、ロンドンは音楽の消費地としての性格を強めていく。その他、先に挙げたクレメンティが活躍しており、またここまでに「ヨーロッパ各地で活躍」とした音楽家は全員ロンドンで活躍したことがあり、ハイドンもロンドンの演奏会で成功を収めている。このようなロンドンは、18世紀末には楽譜出版やコンサート運営でパリを追い抜くほどに成長した。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "だが、イギリス人で活躍したと言えそうなのはハイドン誕生以前まで範囲を広げてもオペラ作曲家のトマス・アーン(1710~1778)とアンセム作曲家ウィリアム・ボイス(1711~1779)くらいであり、その後の19世紀に至っては「ジョン・フィールド(1782~1837)のピアノ曲と、アーサー・サリヴァン(1842~1900)のオペレッタ以外に特筆すべきものはない」と明言されてしまう始末であった。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ポーランドはカトリック世界であり、仏伊独の音楽を受け入れつつ、ポーランドの作曲家の伝統も育っており、宗教音楽・世俗音楽とも栄えていたが、18世紀には国運が傾き始め、1795年にポーランド分割で滅亡する。こうした時代にあって、国民オペラ・民族的色彩をもつ器楽・闘争歌が生まれる。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ロシアは正教国であり、西欧とは違った独自の教会音楽を形成していたが、17世紀中頃にポーランド支配下にあったウクライナとの統一により、西欧的な音楽の導入・流入が始まる。その後ピョートル大帝の西欧化政策に伴いロシア宮廷にも西欧の音楽の導入が進められ、特にエカチェリーナ2世の在位時には宮廷楽長として先述のパイジェッロやチマローザ、ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂楽長で「オペラ・ブッファの父」と呼ばれたバルダッサーレ・ガルッピ(1706~85)など、数々の一流イタリア人作曲家がペテルブルクに滞在した。また西欧から多くの音楽家が雇われ、宮廷や大貴族の下で演奏や音楽家教育に当たった。18世紀最後の四半世紀には、ロシア人作曲家(ただし、現ウクライナ出身者が非常に多い)が輩出し始める。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンの交響曲第5番(1807~08年)について、ドイツの文学者で作曲家でもあったE.T.A.ホフマンは1810年の評論で「ロマン主義の本質である無限の憧れをよびおこす」と書いている。フランスの音楽史ではベートーヴェンは19世紀のロマンチシズムの到来の章で紹介され、「彼の音楽は彼自身を考えずにはほとんど聞くことはできない」とされている。岡田暁生は「やや図式化していえば、モーツァルトは『革命以前の人』、ハイドンは『革命後もしばらくは活動していた人』であるのに対し、ベートーヴェンは『革命後の人』であり『19世紀の人』なのである」としている。「ウィーン古典派の三大巨匠」といっても、ハイドン・モーツァルトとベートーヴェンは、活躍した時期も音楽の性格もかなり違い、ベートーヴェンは18世紀までの貴族世界と決定的に縁を切っている。端的にまとめれば「ベートーヴェンは古典派音楽を完成しつつ次に来るロマン主義への志向を示している」となるだろう。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ウィーン体制下では自由主義やナショナリズム運動が徹底的に弾圧され、ビーダーマイヤー(小市民的文化)時代になると、市民たちは抑圧政治から逃避するように、居心地の良い仲間たちとの集い、あるいは分かり易いつかの間の快楽に没頭した。シューベルト「糸を紡ぐグレートヒェン」1815年、ロッシーニ「セビリアの理髪師」1816年、パガニーニ「24の奇想曲」1820年出版などは、こうしたウィーンのこの時期の時代の刻印と捉えることができる。またウェーバー「魔弾の射手」1821年初演(ベルリン)は、あらゆる面でドイツ的であったことから民族愛を高め、熱狂的な支持を集めた。こうした作曲家たちはロマン派の初期として扱われるが、シューベルトには「ロマン派の作曲家に数えられることが多いが、音楽的な実質は古典的であり、(古典派に)含めることができる」とする評価があり、「ベートーヴェンとシューベルトはロマン的要素を有しながら、全体としては古典派に入れられる」とする評価すらある。ベートーヴェンを「ロマン派の作曲家」と呼ぶことはできないにしろ、彼の創作のかなりの部分は初期ロマン派の作曲家たちと時代的に重なり合っており、この時期にもスランプを脱して孤高期のスタイルを打ち立てたピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」1818年に始まるピアノ音楽の作品群を書いている。", "title": "盛期古典派" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "一方、ベートーヴェンの死の3年前の交響曲第9番1824年は、壮大な構想、規模の大幅な拡張、独唱と合唱の導入により、古典派の交響曲の概念を打ち破った。それから程なく、メンデルスゾーン「夏の夜の夢 序曲」1826年、ベートーヴェンの死から3年後にはベルリオーズ「幻想交響曲」1830年が作曲されている。以後は敢えて古典主義的な作風を採ったブラームスなどを除くと、全般にロマン派とされる作曲家と作風が主流となり、狭義のロマン派の時代となる。", "title": "盛期古典派" } ]
古典派音楽(こてんはおんがく)は、クラシック音楽の歴史において、18世紀中ごろから19世紀はじめにかけての音楽様式をさす用語。現代においてはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを中心とするウィーン古典派が代表的な存在とされている。
{{Portal クラシック音楽}} '''古典派音楽'''(こてんはおんがく)は、[[クラシック音楽]]の歴史において、[[18世紀]]中ごろから[[19世紀]]はじめにかけての音楽様式をさす用語<ref name=":2">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%B4%BE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-502833 |title=コトバンク「古典派音楽」 |access-date=2023-10-12}}</ref>。現代においては[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]を中心とする[[ウィーン楽派|ウィーン古典派]]が代表的な存在とされている<ref name=":2" />。 == 用語 == 西洋文化・芸術に対して用いられる「[[古典]]」という語は、英語でいう[[クラシック]] (classic) の訳語であり、「階級」を表す[[ラテン語]]「class([[クラス (曖昧さ回避)|クラス]])」の派生語 classicus(「市民の6つの階級の最上級」の意)から、もとは「一流・最高水準」の意味であった<ref>[[研究社]]『ライトハウス英和辞典』1984年、237頁。</ref>。[[古代ギリシャ・ローマ世界|古代ギリシャ・ローマ]]の優れた著作を指す言葉として古くから使われており、[[ルネサンス]]の古典復興の革新運動の中で、古代ギリシャ・ローマの人間中心の見方・考え方を〈規範とすべき第一級の傑作〉という意味で〈classic〉と呼んだことからはじまった<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「古典古代」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 古代ギリシャ・ローマの芸術を規範とし、調和や普遍性をめざす芸術運動である[[古典主義]]は、17世紀ごろから文学や美術でおこりはじめた<ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「古典派(音楽)」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。音楽における古典派は、直接的に古典主義運動の影響を受けたわけでも古典を復興しようという意識があったわけでもなく<ref name=":3" />、ほぼ同時代の[[ドイツ文学]]における[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]を中心とした古典主義との類比から名づけられたが<ref name=":2" />、論理的で調和がとれた形式が確立した点は共通している<ref name=":3" />。 == 概説 == この時代のヨーロッパの社会は、[[絶対王政]]に象徴される[[封建制]]から近代民主主義へと移行する激動の時期にあたる<ref name=":3" />。古典派の初期には、音楽家たちは[[バロック時代]]と同様に王侯貴族にめしかかえられ、彼らのために作曲し演奏するのが一般的であった<ref name=":3" />。しかし、[[ブルジョワジー|市民階級]]の台頭に伴って、一般市民に音楽を教えたり、楽譜を販売したり、演奏会を開催したりして、定職を持たずフリーの音楽家として生計をたてることも可能となった<ref name=":3" />。 [[理性]]を重視する[[啓蒙時代]]を背景に<ref name="z" />楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、[[ソナタ形式]]が発展した。17世紀に成立していた機能和声と調性による機能和声的調性は18世紀には中心的語法となり、主調と近親調の間での転調がもたらす緊張-弛緩という調関係は楽曲構成の基本に置かれるようになったが<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「調性」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、1本の主旋律と充足した和声というホモフォニーによる作曲が主流となったことと、アマチュア演奏家が増えて即興能力が全体に減退したことにより、通奏低音は廃された<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「通奏低音」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。この時代の代表的な楽種として、上述のソナタ形式を含む[[交響曲]]や[[協奏曲]]、[[ピアノソナタ]]や[[弦楽四重奏曲]]などが盛んに作られた<ref name=":2" />。 古典派音楽の盛期は[[バロック音楽]]と[[ロマン派音楽]]の間に位置しているが、実際には古典派音楽の始まりは[[バロック音楽]]の終焉と、古典派音楽の終わりは[[ロマン派音楽]]の勃興と並行している。古典派の潮流は1730年頃にフランスの[[ギャラント様式]]から始まるが<ref name="z"/>、バロック音楽を代表する[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]や[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]はまだ存命、活動中であった<ref name="z">ウルリヒ・ミヒェルス編 『図解音楽事典』 [[角倉一朗]]日本語版監修、白水社、1989年、333頁。</ref>。また、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の死(1827年)をもって古典派の終わりとする考えもあるが<ref name="z"/>、ロマン派とされる[[フランツ・シューベルト]]や[[カール・マリア・フォン・ヴェーバー]]もほぼ同じ頃に死去している<ref name="z"/>。 古典派音楽の時代区分については諸説あるが、次のように分類する例がある<ref name="z2">ウルリヒ・ミヒェルス編 『図解音楽事典』 角倉一朗日本語版監修、白水社、1989年、332頁。</ref>。 *前古典派、ギャラント様式<ref group="注釈">「ギャラント様式」(艶美様式とも)という語の指し示す範囲は統一されておらず、「ロココ様式」「ロココ音楽」との関係も曖昧である。</ref>(1730年頃 - 1760年) *初期古典派<ref group="注釈">「初期古典派」という用語も定義や用法が統一されているとは言えず、「1760~1780頃のハイドンやモーツァルト」「前古典派と同義」とされる場合もあれば、「前古典派」に包含されて使われない場合もある。</ref>、多感様式<ref group="注釈">「多感様式」は「感情過多様式」とも訳され、「ギャラント様式」との関係は「ほとんど同義」「ドイツで発祥したC.P.E.バッハを代表とする率直で自然な感情表現を重視した様式」など統一されていない。</ref>(1760年 - 1780年) *盛期古典派<ref group="注釈">単に「古典派」と言った場合、この盛期古典派を指す場合も多い。</ref>(1780年 - 1827年) == 前古典派 == === 前古典派 === 前古典派は、バロック後期と、ハイドン・モーツァルトに代表される、いわゆる「古典派」の間に位置し、そのどちらとも重なる18世紀中葉の音楽活動の総括的な呼称<ref name=":19">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「前古典派」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。[[ギャラント様式]]・[[多感様式]]・[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE-130858 ベルリン楽派](北ドイツ楽派)・[[マンハイム楽派]]・[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]のオペラなど、[[ウィーン楽派|ウィーン古典派]]を準備する歴史的位置にある様式・楽派・作曲家があり、これらが前古典派に含まれる<ref name=":25">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「古典派音楽」 |publisher=平凡社}}</ref>。 ここでは、[[ギャラント様式]]の誕生を出発点として、場合によっては一般的にはバロックと見なされる作曲家も含め、ウィーン古典派に至る流れの描写を試みる。概説にある区分で言えば、「前古典派、ギャラント様式」と「初期古典派、多感様式」にまたがった時期である。 ==== 時代背景 ==== ヨーロッパ各国の宮廷では、17世紀中葉以降フランス趣味が大流行し、それぞれの宮廷の建築・庭園・衣装・髪型・かつらの形態・所作と娯楽などを変化させていった<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパとは何か |publisher=平凡社 |page=122}}</ref>。各国では15世紀後半から16世紀末まではイタリア趣味が流行し、それが失われたわけではなかったが、フランスは[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]以来模範的な宮廷と[[パリ]]という模範的都市を備えており、科学・文芸・哲学においてヨーロッパ精神のエリート的な存在となっていた<ref name=":20">{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパとは何か |publisher=平凡社 |pages=122-125}}</ref>。[[ヴェルサイユ宮殿]]を模した建造物が各地に造営され<ref group="注釈">[[ハンプトン・コート宮殿|ハンプトン・コート]]、[[:en:Kuskovo|クスコヴォ]]、[[ラ・グランハ宮殿|グランハ宮殿]]、[[カゼルタ|カセルタ]]、[[ドロットニングホルム宮殿]]、[[ペテルゴフ宮殿|ペトロドヴォレツ]]、[[シェーンブルン宮殿]]、[[ニンフェンブルク宮殿|ニュンフェンブルク]]、[[ツヴィンガー宮殿]]、[[サンスーシ宮殿|サン=スーシ宮殿]]など。</ref>、そこでは人々はフランス語を話し、フランス風の衣装をまとい、フランスの作家・パリからの書簡・「[[:fr:Correspondance_littéraire,_philosophique_et_critique|文芸通信]]」を読み、哲学者や芸術家や料理人や洋服屋をフランスから招いた<ref name=":20" />。 宮廷文化は基本的にスペクタクルの文化であり、学問や文芸の「文字の文化」とは長い間対立関係にあったが、17世紀末から18世紀初頭にかけて、[[サロン]]と[[アカデミー]]という並行した活動のおかげで対立が解消され始めた<ref name=":21">{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパとは何か |publisher=平凡社 |page=126}}</ref>。これらの組織では、宮廷人が学者と会い、科学と考証の文化が視覚的・文学的な文化と共存することができた<ref name=":21" />。そこから辞書や百科事典、業績を理解させるための演説、学問の要約と抜粋を掲載する定期刊行物の流行が生まれ、啓蒙的な短編作品がこれを補足した<ref name=":21" />。こうして誕生したエリート文化は、18世紀に開花し、[[フリーメイソン]]と結びついてヨーロッパ中に広がり、1820年代まで存続した<ref name=":21" />。 ==== ギャラント様式 ==== 18世紀に入り、[[絶対王政]]の浸透に伴い文化の中心は教会から[[サロン]]に移行し、貴族社会での社交的な世俗音楽の需要が増した<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ロココ音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。全曲にわたって同一の気分を維持しようとする音楽様式は若い世代の音楽家たちには堅苦しく感じられ、バロック様式への反動が生じた<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「西洋音楽」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。 こうしたことが重なる中、フランスでは簡潔な和声、メロディックで断片動機の反復を多用した旋律法、小規模な形式、短い範囲内での対比を強調する強弱法、豊かで変化に富んだ装飾法などを特徴とする[[ギャラント様式]]([[ロココ|ロココ様式]]とも)が生まれ、短い標題音楽や舞曲風の作品を典型とする音楽が書かれるようになった<ref name=":0" /><ref name=":1" />。 * [[フランソワ・クープラン]](1668~1733)は音楽家一族の中で特に高名で「大クープラン」と呼ばれるが、宮廷礼拝堂のオルガニストを務めて多くの教会音楽を作曲したほか、クラブサンや器楽合奏の小品にロココ趣味の典型とされる優美繊細な作風を確立した<ref name=":8" />。 * [[ジャン=フィリップ・ラモー|ジャン・フィリップ・ラモー]](1683~1764)は18世紀フランス最大の作曲家で音楽理論家<ref name=":9" />。若い頃は各地で教会オルガニストを務めながらクラブサン楽派を受け継ぐ「クラブサン曲集」を発表、40歳頃にパリに居を構えてからは「和声論」で近代機能和声の理論を確立したほか、後半生は歌劇の作曲家として名声を博した<ref name=":8" />。[[ブフォン論争]]に際してはフランス派の先頭に立って[[ジャン=バティスト・リュリ|リュリ]]以来の伝統を守った<ref name=":8" />。 * [[フランソワ・フランクール]](1698~1787)は王室楽団作曲家、王の24のヴァイオリン団員、王立音楽アカデミー総監督などを歴任した<ref name=":11" />。ロココ様式の作風を貫いた<ref name=":0" group="注釈" />。 ==== ギャラント様式の広がり ==== 優美で軽快なロココ的な特質を持つ音楽は、イタリア・ドイツ地域の音楽家達にも広がった<ref name=":0" />。ドイツの音楽理論家[[ヨハン・マッテゾン|マッテゾン]]は1721年の著書「オーケストラの探究」の中で、当世ふうの音楽を「ギャラン」と言う言葉を使って称揚し、さらに「ギャランな人」として、[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]、[[アレッサンドロ・スカルラッティ|A.スカルラッティ]]、[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]を始めとして当時活躍中の10人ほどを挙げている<ref>{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=136}}</ref><ref group="注釈">その他名前が挙がっているのは、[[:it:Giovanni_Maria_Capelli|ジョヴァンニ・マリア・カペッリ]]、[[アントニオ・ロッティ]]、[[フランチェスコ・ガスパリーニ]]、[[アントニオ・カルダーラ]]、[[アントニオ・マリア・ボノンチーニ]]、[[ベネデット・マルチェッロ]]であり、イタリアオペラの作曲家とウィーン宮廷の楽長・副楽長が名を連ねている(Das forschende orchestre : Mattheson, Johann, 1681-1764 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive)。</ref>。彼が称揚したのは、優美な旋律を中心にした、つややかに美しく、軽やかでしゃれていて、心地よい、分かり易い音楽であった<ref>{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=137}}</ref>。こうしたロココ音楽の特質は、18世紀中葉の作曲家たちを経て、[[ヨハン・クリスティアン・バッハ|クリスティアン・バッハ]]や[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、若き日の[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]らの作品にもうかがわれる<ref name=":0" />。 * [[ラインハルト・カイザー]](1674~1739)[[ハンブルク]]を中心に活躍し、イタリア語による神話・歴史もののオペラのみならず、ドイツ語の世話物を手掛け、ハンブルク歌劇の隆盛を築いた。晩年はカタリナ教会の楽長を務めた。マッテゾンが「ギャランな人」として名を挙げており<ref>{{Cite web |url=https://archive.org/details/bub_gb_WidDAAAAcAAJ/page/276/mode/2up |title=Das forschende orchestre by Mattheson, Johann, 1681-1764 |access-date=2023/11/07}}</ref>、ロココ音楽の初期の代表的な一人とされる<ref name=":0" />。 * [[ヨハン・マッテゾン]](1681~1764)ドイツの音楽理論家、作曲家で外交官<ref name=":10" />。[[ハンブルク州立歌劇場|ハンブルク歌劇場]]の歌手、同地の音楽監督を務め、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]](1685~1759)との交友で知られる<ref name=":8" />。1706年からハンブルク駐在イギリス大使の秘書として活躍しながらも音楽界からは退かず、同地の大聖堂合唱長などを務めた<ref name=":10" />。ロココ音楽の代表者の一人として知られる<ref name=":10" />。音楽作品の他に多くの著書を残したが、中でも全ての楽長・音楽監督のための知識の百科全書として1739年に書かれた「[[:de:Der_vollkommene_Capellmeister|完全なる楽長]]」が有名である<ref name=":10" />。 * [[ドメニコ・スカルラッティ]](1685~1757)は、[[ナポリ楽派]]の歌劇作曲家で、卓越したチェンバロ奏者・オルガニスト<ref name=":8" />。ヴァチカンの楽長などを務めたのち、[[ポルトガル]]宮廷礼拝堂楽長となり[[バルバラ・デ・ブラガンサ|マリア=バルバラ]]王女の音楽指導を務めたが、彼女がスペインに嫁ぐのに伴いマドリードに移り終生この地で過ごした<ref name=":8" />。この時期につくったチェンバロ用練習曲は、鍵盤楽器の新しい技巧の開発・ロココ趣味の音楽の発展の上で極めて重要な位置を占めるものである<ref name=":8" />。 * [[ゲオルク・フィリップ・テレマン]](1681~1767)は生前は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]をしのぐ名声を博した大作曲家で、1721年から終生[[ハンブルク]]市音楽監督を務めた<ref name=":8" />。早熟・多作で、作品はあらゆる分野にわたって数千曲に及ぶと思われる<ref name=":8" />。[[ライプツィヒ]]の大学で学んだのは法律であり、ほとんど独学で作曲を身につけた<ref name=":8" />。バロックのフランス・イタリア・ドイツの様式を自由に使いこなし、ロココ趣味の作風も示した<ref name=":8" />。 ==== フリードリヒ2世とベルリン楽派 ==== 少年時代からフランス風の文芸や音楽を好んでいた[[プロイセン]]の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](大王、1712~86)は<ref name=":10" />、[[サンスーシ宮殿]]に当時の優れた音楽家を集めて楽団を設立した<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽大事典「フリードリヒ2世」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。18世紀後半に[[ベルリン]]で活躍した作曲家の一群は[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE-130858 ベルリン楽派]<ref group="注釈">ベルリン楽派は「北ドイツ楽派」と呼ばれる場合もある。</ref>と呼ばれるが、大半がフリードリヒ大王との関わりを持っていた<ref>{{Cite book|和書 |title=クラシック音楽作品名辞典「ベルリン楽派」の項 |publisher=三省堂}}</ref>。自身[[フルート]]を愛好した大王はとりわけ器楽曲、それも後期バロック風の様式を好んでおり、いきおいベルリン楽派の音楽家たちは主君の嗜好を反映した作品を数多く作曲することになった<ref name=":22">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「ベルリン楽派」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。そのためベルリン楽派は前古典派の中でもバロックの伝統へのつながりがより密接とされる<ref name=":22" />。 * [[ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ]](1697~1773)は初めは[[ポーランド]]宮廷のオーボエ奏者で、1728年よりフリードリヒ皇太子のフルートの師、フリードリヒの即位の翌年の41年に宮廷音楽家・宮廷作曲家に迎えられる<ref name=":8" />。ロココ的後期バロック様式の300曲に及ぶ[[フルート協奏曲]]、200曲におよぶ[[フルートソナタ]]・二重奏・トリオ・ソナタを作曲<ref name=":8" />。フルート奏法に関する理論書もある<ref name=":8" />。 * [[グラウン]]兄弟(兄[[ヨハン・ゴットリープ・グラウン|ヨハン・ゴットリープ]]1703~71、弟[[カール・ハインリヒ・グラウン|カール・ハインリヒ]]1704~59)兄弟ともロココ音楽の作曲家とされる<ref name=":0" />。兄は32年にフリードリヒ皇太子(のちに大王)の宮廷楽団[[コンサートマスター|コンサート・マスター]]になり活躍、100曲を超える[[シンフォニア]]と60曲以上の[[コンチェルト]]などを残し、北ドイツ器楽様式の代表者とされる<ref name=":8" />。弟は35年にフリードリヒの宮廷に招かれ、後に楽長となる<ref name=":8" />。[[ヨハン・アドルフ・ハッセ|ハッセ]]とともにドイツにおける[[ナポリ楽派|ナポリ派]]オペラの代表的作曲家<ref name=":8" />。 * [[ベンダ]]兄弟(兄[[フランツ・ベンダ|フランツ]]1709~86、弟[[ヨハン・ベンダ|ヨハン]]1713~52、弟[[ゲオルク・ベンダ|ゲオルク・アントン]]1722~95)[[チェコ]]出身の音楽家兄弟<ref name=":8" />。一族に音楽家が多い<ref name=":8" />。全員フリードリヒ大王の宮廷ヴァイオリニストを務めている<ref name=":8" />。兄フランツは前期古典派様式の器楽曲を残している<ref name=":8" />。弟ゲオルクは歌劇を14曲残した他、[[ゴータ]]の宮廷楽長として転出した<ref name=":8" />。 ==== バッハの息子たち ==== 前古典派は時期的に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の息子たちの世代に当たっている<ref>{{Cite book|和書 |title=西洋音楽史 |publisher=中央公論社 |page=98 |author=岡田暁生}}</ref>。J.S.バッハは生涯に二度結婚し、11男9女をもうけ、うち6男4女が成人し、4男は音楽家として大成した。中でも以下の三名は、前古典派の中でも重要な役割を果たしている。特に[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]]は、多感様式の代表者とされる<ref name=":9" />。 * [[ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ]](1710~84)[[ドレスデン]]と[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]で教会オルガニストを務め、「ハレのバッハ」と呼ばれた<ref name=":8" />。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の長男<ref name=":8" />。いささかだらしのない異常な性格のため、64年にハレの職を辞さねばならなくなり、死ぬまで定職なく、バッハの息子たちの中で最も豊かな才能を持ちながらも、孤独と貧困のうちに世を去った<ref name=":11" />。ロココ様式の中にも兄弟中最も父親に近い特徴を持ち、その様式は後期バロックと感情過多様式([[多感様式]]<ref name=":1" group="注釈">「ギャラント様式」と「多感様式」、「ギャラント様式」と「ロココ音楽(様式)」の境界や関係もしばしば曖昧であり、さまざまな整理がありうる。</ref>)の中間に位置すると言える<ref name=":11" />。 * [[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]](1714~88)「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」とも呼ばれる<ref name=":8" />。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の次男<ref name=":8" />。40年よりフリードリヒ大王の宮廷音楽家兼チェンバロ奏者となるが、大王と音楽上の趣味が合わず、あまり重用されなかった<ref name=":10" />。67年に父の友人で名付け親の[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]が死ぬと、[[ハンブルク]]市音楽監督に迎えられ、同地で五つの主要教会のために教会音楽を作曲・演奏するとともに、交響曲や室内楽の分野でも市民の音楽生活に大きく貢献した<ref name=":10" />。ベルリン楽派(北ドイツ楽派)の一人<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE-130858 |title=コトバンク「ベルリン楽派」 |access-date=2023/11/09}}</ref>。18世紀中葉におけるロココ音楽の代表者の一人とされる<ref name=":0" />が、斬新な転調、ロマン主義を予測させる自由な感情表出([[多感様式]]<ref name=":1" group="注釈" />)も特徴としている<ref name=":10" />。クラヴィーア・ソナタで急・緩・急の3楽章形式を確立し、第1楽章で古典派の[[ソナタ形式]]への道を開いた功績は大きい<ref name=":10" />。 * [[ヨハン・クリスティアン・バッハ]](1735~82)「ロンドンのバッハ」とも呼ばれる<ref name=":8" />。上記カールの異母弟<ref name=":10" />。ロンドンで[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の後継者となった。オペラ作曲家として、また王室や貴族の音楽教師としても絶大な人気を博した<ref name=":10" />。バッハ=アーベル演奏会を主宰し、公開演奏会の発達に寄与するとともに<ref name=":16" />、一時期マンハイム楽派と関係を持ち、[[ギャラント様式]]の古典派音楽を発展させ<ref name=":8" />、ま''たロンドンを訪れた8歳の[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を親しく教え、大きな影響を与えた''<ref name=":11" />。 ==== マンハイム楽派 ==== [[ライン宮中伯|ファルツ選帝侯]]領の首都[[マンハイム]]では、幅広い知的興味を有し芸術を愛好する選帝侯[[カール4世フィリップ・テオドール]](1724~99)が43~78年のマンハイム在任中、多額の出費を惜しまず芸術活動を奨励し、博物館・図書館等の施設を充実させ、さらにとりわけ音楽を重んじ、みずから有能な音楽家を選抜して宮廷に招いた<ref name=":26">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典、該当事項の項 |publisher=平凡社}}</ref>。彼らは[[マンハイム楽派]]と呼ばれる。後述のシュターミッツを中心に50名を超える楽団員を有し、その優れた合奏技術、クレッシェンド奏法、トレモロ奏法等によってこの時期の創作活動に多大な影響を与えた<ref>{{Cite book|和書 |title=クラシック音楽作品名辞典の該当項目の項 |publisher=三省堂 |author=井上和男}}</ref>。 * [[ヨハン・シュターミッツ]](1717~57)[[ボヘミア]]出身のヴァイオリニストで、マンハイム宮廷管弦楽団のコンサートマスターおよび楽長として、マンハイム楽派の祖にあたる<ref name=":8" />。功績としては、ソナタ形式の確立の初期にあって2つの主題の対比を導入したこと<ref name=":8" />と、「マンハイムの打ち上げ花火」と言われた分散和音による上昇音形や「マンハイムのため息」と言われた掛留音の音形<ref>{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「マンハイム楽派」の項 |publisher=平凡社}}</ref>や「マンハイム・クレッシェンド」と呼ばれた強弱法の大胆な活用<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=144}}</ref>を取り入れてオーケストラの表現を豊かなものにしたこと<ref name=":10" />、リハーサルを楽団に義務付けて演奏技術をヨーロッパ随一と言われるほどに進歩させたこと<ref name=":9" />が挙げられる。 ==== ナポリ楽派のオペラ ==== 18世紀には[[フランス]]を除く各地域では、もっぱらイタリア・オペラが支配的となっていた<ref name=":23">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「オペラ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。作曲家は主として[[ナポリ]]出身あるいはナポリで訓練を受けていたため、[[ナポリ楽派]]のオペラと呼ばれる<ref name=":23" />。最初の黄金期を築いたのは[[アレッサンドロ・スカルラッティ]](先の[[ドメニコ・スカルラッティ|ドメーニコ]]の父、1660~1725)とされる<ref name=":27">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典、該当事項の項 |publisher=平凡社}}</ref>。18世紀後半まで普遍的に行われ、[[アリア]]の重視と高度の様式化を特徴としていたが、音楽的な興味がアリアに集中するきらいがあり、[[アンサンブル]]・コーラス(や[[バレエ]])・器楽等の諸要素が従属的な地位に追いやられ、作品全体の有機的構成の密度が希薄になる傾向があった<ref name=":23" />。 * [[アレッサンドロ・スカルラッティ]](1660~1725)[[ベルカント]]を中心にした歌劇における[[ナポリ楽派]]の創始者<ref name=":8" />。[[イタリア風序曲]]([[シンフォニア]])の形式の確立によって、のちの交響曲の歴史の出発点に立つ作曲家<ref name=":8" />。 * [[ニコラ・ポルポラ]](1686~1768)ナポリに生まれ、当地の音楽院に学び、39歳までここで活動し名声を博したのちヴェネツィアに移り、47歳まで旺盛な活動を続ける<ref name=":11" />。その後ロンドン・ナポリ・ヴェネツィア・ドレスデン・ウィーンを転々としたが満足な定職を得られず、70歳を超えてナポリに戻り不遇な晩年を過ごした<ref name=":11" />。作風は後期バロックからロココ・ギャラント様式にわたり、一部前古典派の語法にも及んでいる<ref name=":11" />。[[ファリネッリ]]や[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の声楽の師として知られる<ref name=":11" />。 * [[ヨハン・アドルフ・ハッセ]](1699~1783)はナポリで[[ニコラ・ポルポラ|ポルポラ]]と[[アレッサンドロ・スカルラッティ|A.スカルラッティ]]に学び、イタリア各地で作曲家として成功<ref name=":8" />。1731年[[ドレスデン]]の宮廷歌劇の監督に迎えられ、ナポリ楽派様式による歌劇を上演<ref name=":8" />。フリードリヒ大王のために多くのフルートのための作品を書いてベルリンに滞在もしている<ref name=":11" />。71年に[[ミラノ]]で最後のオペラを発表したが、このとき同時に15歳の[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]のオペラが上演され、ハッセはモーツァルトの天分を素直に認めた<ref name=":11" />。 * [[ニコロ・ヨンメッリ]](1714~74)[[シュトゥットガルト]]の宮廷楽長および歌劇場総監督を務め、当時としては異例なほどの質の高いアンサンブルを実現<ref name=":11" />。[[ナポリ楽派]]の[[オペラ]]の代表者の一人だが、定型化した[[アリア]]や[[レチタティーヴォ]]の枠にこだわることなく、自然な心理的・劇的な表現を重視し、特に管弦楽伴奏のレチタティーヴォを多用し、のちの[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]に大きな影響を与えた<ref name=":11" />。 * [[トンマーゾ・トラエッタ]](1727~1779)オペラ作曲家<ref name=":11" />。58~65年、[[パルマ公の一覧|パルマ公]]の宮廷楽長を務める<ref name=":11" />。65~68年ヴェネツィアのオスペダレット音楽院院長、その後エカテリーナ2世の宮廷楽長を務め、健康を害して75年にナポリに戻った<ref name=":11" />。ヨンメッリとともにナポリ派後期のオペラの改革的傾向を代表し、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]・[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]に道を開いた人として重要である<ref name=":11" />。 ==== シンフォニア ==== ナポリ派のオペラでは[[シンフォニア]]とよばれた[[序曲]]がしばしば書かれるようになった<ref name=":1" />。これはオペラ本体とは音楽的にも演劇的にも関連性がない器楽曲で、当時興隆を始めていた市民対象の[[演奏会|コンサート]]でしばしば単独で演奏されたが、やがて序曲と同じ音楽構造の器楽曲が独立して書かれるようになる<ref name=":1" />。この形式は急-緩-急のテンポをとる3楽章で構成され、各楽章内での楽想の展開の仕方は、のちの[[ソナタ形式]]を予告するものであった<ref name=":1" />。 こうしたシンフォニアが確立されると、[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE-33628 ウィーン前古典派]<ref group="注釈">「ウィーン前古典派」も、「ウィーン楽派」と言われる場合もあり、統一されていない。</ref>や[[マンハイム楽派]]を始めとするドイツ系の作曲家たちがすぐにこのアイデアをうけついで数々の独創的な工夫をくわえ、ソナタ形式を確立していくとともに、さまざまな音楽形式・ジャンル・表現形態を生み出していった([[交響曲]]、[[ソナタ]]、[[協奏曲]]、[[弦楽四重奏曲]]など)<ref name=":1" />。 * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ]](1701~75)[[アンブロジウス|聖アンブロジオ]]大聖堂を始めとして[[ミラノ]]の種々の教会の楽長を務める。宗教音楽以外の分野でも指揮者・作曲家として活躍、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]の指導をした。オペラの序曲ではない独立したシンフォニアを試みた最初の人とされ<ref name=":11" />、交響曲の歴史に大きな足跡を残し、ハイドンらに影響を与えた<ref name=":10" />。 * [[ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル]](1715~77)オーストリアの宮廷作曲家<ref name=":8" />。交響曲におけるソナタ楽章の3部構造によって古典派のソナタの成立に貢献した<ref name=":8" />。18世紀半ば頃から次第にギャラント様式を見せ始め、[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE-33628 ウィーンにおける前古典派]の重要な作曲家の一人として、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]に少なからぬ影響を与えた<ref name=":10" />。 * [[マティアス・ゲオルク・モン]](1717~50)ウィーン聖カール教会のオルガン奏者<ref name=":11" />。[[ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル|ヴァーゲンザイル]]と共に[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE-33628 ウィーン前古典派]を代表する作曲家の一人<ref name=":11" />。彼の交響曲ははっきりした展開部と主調による再現部をもち、交響曲におけるソナタ形式を予告している<ref name=":11" />。 ==== ソナタとソナタ形式 ==== [[ソナタ]]はもともとは「器楽曲」という意味で、[[バロック音楽|バロック]]初期に数楽章からなる独奏ないし重奏のための純粋器楽として[[教会ソナタ]]と[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%A4%E5%86%85%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF-74191 室内ソナタ]がつくられるようになっていたが、前古典派の頃から次第に教会を離れ、宮廷音楽として存続しつつも、市民階級の台頭・楽譜出版と公開演奏会の増加に伴って受容の範囲を飛躍的に拡大し、一般愛好家の娯楽音楽・生徒の練習曲・職業音楽家の技量の見せ所・公開演奏会の曲目としての性格を強めていった<ref name=":27" />。鍵盤楽器独奏、独奏と鍵盤楽器伴奏の二重奏が主流を占めている<ref name=":27" />。単一楽章や2楽章のものもあったが、やがて中庸のテンポでソナタ形式の1楽章、さまざまな形式を取る緩徐楽章の第2楽章、やはりさまざまな形式を取る急速なテンポの3楽章というシンフォニア風の3楽章構成が標準となった<ref name=":27" />。 [[ソナタ形式]]は、ソナタの第1楽章で発達してきた形式で<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E5%BD%A2%E5%BC%8F-90236 |title=コトバンク「ソナタ形式」 |access-date=2023/11/12}}</ref>、ソナタを始めとして[[交響曲]]、[[協奏曲]]、[[室内楽曲]]など[[器楽曲]]の第1楽章で幅広く使われた<ref name=":27" />。バロック時代の[[舞曲]]に広範に見られた、両部分が反復する[[二部形式]](|[[主調]]―[[属調]]|属調―主調|)に起源がある<ref name=":26" />。前古典派初期においては同様の均等な規模の2つの部分から構成されつつ、旋律は1~2個の動機または主題からできていた<ref name=":28">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ソナタ」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。対立調はしだいに属調ではなく[[平行調]]が好まれるようになった<ref name=":27" />。全体的に規模が拡大するにつれ、主調から対立調への移行が複雑になり、[[モチーフ (音楽)|動機]]も入れて示すと(|A主調―α調的移行―B対立調|A対立調―β転調―B主調|)という形([[ドメニコ・スカルラッティ|D.スカルラッティ]]など)となり、さらには3部分構造や主題回帰を持つ[[ロンド形式]]や[[リトルネロ形式]]から影響を受けて(|A主調―α調的移行―B対立調|{A対立調―β転調}―{A主調―B主調}|)という形(C.P.E.バッハの鍵盤ソナタや、マンハイム楽派やウィーン前古典派の交響曲など)に発展した<ref name=":26" />。旋律素材を[[主題 (音楽)|主題]]としてのまとまりを持ったものにする努力も行われ、やがてこれは複主題(第1主題と第2主題)の形をとり始める<ref name=":26" />。Bの部分に小終止を導入して旋律的なまとまりをつけることや、第2主題と小終止の間にもう一つの旋律素材を導入することなども行われ、これは第3主題の萌芽あるいは多素材化の傾向と言える<ref name=":26" />。こうして盛期古典派のソナタ形式に存在する材料はすべて出そろったが、全てを兼ね備えた者は18世紀中盤の段階では現れず、1770~80年代の[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]]、[[ヨハン・クリスティアン・バッハ|J.C.バッハ]]においてソナタ形式は古典的完成を見たというのが多くの研究者の意見である<ref name=":26" />。 前古典派のソナタ作曲家としては、[[ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ|サンマルティーニ]]、[[ドメニコ・アルベルティ|アルベルティ]]、[[ルイジ・ボッケリーニ|ボッケリーニ]]、[[ドメニコ・スカルラッティ|D.スカルラッティ]]、[[アントニオ・ソレール|ソレール]]、[[ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル|ヴァーゲンザイル]]、[[ヨハン・シュターミッツ|J.シュターミツ]]、[[ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ|W.F.バッハ]]、[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]]、[[:en:Johann_Gottfried_Müthel|ミューテル]]、[[ヨハン・ショーベルト|ショーベルト]]、[[ヨハン・クリスティアン・バッハ|J.C.バッハ]]、[[ムツィオ・クレメンティ|クレメンティ]]が著名とされる<ref name=":29">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ソナタ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。他の場所に記載がない者に関して以下に示す。 * [[ドメニコ・アルベルティ]](1710/17~49)[[ヴェネツィア]]生まれ<ref name=":11" />。貴族出身の[[ディレッタント]]で[[アントニオ・ロッティ|ロッティ]]に学んだ<ref name=":11" />。約40曲の[[チェンバロ]]ソナタで<ref name=":11" />前期古典派のイタリア・ソナタの定型をつくった<ref name=":8" />。チェンバロソナタに多用した左手の[[分散和音]]から「[[アルベルティ・バス]]」の名が生まれた<ref name=":11" />。 * [[ヨハン・ショーベルト]](1720/40~67)ドイツ生まれ、パリで活躍<ref name=":11" />。初期古典派音楽の[[ギャラント様式]]による[[協奏曲]]・[[室内楽曲]]を残す<ref name=":8" />。前古典派の[[クラヴィーア|クラヴーィア]]ソナタの形成に貢献すると同時に、少年[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]に強い影響を与えた<ref name=":11" />。 * [[:en:Johann_Gottfried_Müthel|ヨハン・ゴットフリート・ミューテル]](1728~88)[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|大バッハ]]の最後の弟子<ref name=":8" />。さらに[[ヨハン・アドルフ・ハッセ|ハッセ]]、[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]]、[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]に教えを受ける<ref name=":11" />。[[リガ]]のオルガニスト等を務め、前期古典派様式の[[チェンバロ]]曲を残す<ref name=":8" />。音楽上の「[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]」の典型的な作曲家と考えられている<ref name=":11" />。 * [[アントニオ・ソレール]](1729~83)[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]生まれ<ref name=":11" />。[[マドリード]]で[[ドメニコ・スカルラッティ|D.スカルラッティ]]に学び、その[[チェンバロ]]・ソナタの様式を強く受けた<ref name=":8" />。エスコバルの修道院の僧籍にあり、そこのオルガニスト・合唱長を務め、オルガン曲・チェンバロ曲を残す<ref name=":8" />。[[ジョヴァンニ・マルティーニ|マルティーニ]]とも文通があった<ref name=":11" />。 ==== 庶民的オペラの誕生とオペラ改革 ==== [[ナポリ楽派|ナポリ派]]の[[オペラ]]は結局[[アリア]]における声楽技巧の誇示に陥り、劇と音楽の関連が見失われるような場合すら出てきた<ref name=":23" />。フランス宮廷のオペラに対しても、非現実的な主題や様式化された舞台に不満を持つ人々が現れた<ref name=":23" />。こうして18世紀中葉、各国に[[オペラ・ブッファ]](イタリア)、[[オペラ・コミック]](フランス)、[[ジングシュピール]](ドイツ)、[[バラッド・オペラ]](イギリス)、[[:en:Tonadilla|トナディーリャ]](スペイン)が現れる<ref name=":23" />。これらはいずれも題材・音楽とも軽く、気取りも特別な教養もなく楽しめるもので、オペラ・ブッファを除いて、歌の間を[[レチタティーヴォ]]ではなく日常語のセリフでつなぐのを原則とした<ref name=":23" />。 こうした中、言葉によってつたえられるオペラの意味や内容、感情を音楽でも表現するというオペラ本来の目的を回復しようと、一方で新たな様式の開発にとりくんでいた[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|クリストフ・ヴィリバルド・グルック]]は、詩人[[ラニエーリ・デ・カルツァビージ|カルツァビージ]]と知り合って理想通りの台本の提供を受けることができ、62年に[[ウィーン]]で初演された「[[オルフェオとエウリディーチェ]]」でその理想を結実させ、初演されるや大成功を収めた<ref name=":24">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「グルック」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。 グルックの開始した[[オペラ改革]]に対して、猛然と反論をとなえる動きが生じ、1774~81年にはパリでグルック支持派とナポリ出身の[[ニコロ・ピッチンニ]]を擁護するグループとの間で全面的な論争が展開された<ref name=":24" />。が、競作にグルックは勝利を収め、彼によって確立されたさまざまな原則は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ヴァーグナー]]などの後世の多くの作曲家に影響をあたえることになっていく<ref name=":24" />。 * [[バルダッサーレ・ガルッピ]](1706~85)ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂楽長、エカチェリーナ2世の宮廷楽長を歴任<ref name=":8" />。オペラ・ブッファの作曲家として成功し、「オペラ・ブッファの父」と言われる<ref name=":8" />。また優れたチェンバロ奏者であり、作品には前古典派のソナタの中でも最も優れた曲が含まれる<ref name=":11" />。 * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]](1710~36)はナポリ楽派の前古典派時代を代表する作曲家で、オペラ・ブッファの成立に決定的役割を果たしたほか<ref name=":8" />、豊かでフレーズのはっきりした旋律は、前古典派様式の形成に大きく貢献した<ref name=":9" />。作品にはロココ趣味が現れているとされる<ref name=":0" />。52年にパリでリュリの劇作品「アシスとガラテ」の幕間劇として上演されたオペラ・ブッファ「[[奥様女中]]」は、国王派(フランス・オペラ擁護派)と王妃派([[百科全書派]]などの[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]など)による激しい論争を呼び起こし、「[[ブフォン論争|ブフォン戦争]]」と呼ばれた<ref>{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「ブフォン戦争」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 * [[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|クリストフ・ヴィリバルド・グルック]](1714~87)は[[ミラノ]]で[[ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ|サンマルティーニ]]に学び、イタリアでオペラ作曲家として認められ、その後[[ロンドン]]で活躍<ref name=":8" />。ドイツ各地で自作を上演したのちウィーンに定住<ref name=":8" />。55年からフランス語オペラを手掛け、従来のオペラ・ブッファの様式を捨てて、ドラマと音楽的表現の一致を目指す新しいオペラの創造に取り組んだ<ref name=":8" />。 * [[ニコロ・ピッチンニ]](1728~1800)は[[ナポリ]]に学び、イタリア各地でオペラを成功させ、76年にパリに移り、フランス・オペラを作曲、78年に上演した「ロラン」は成功を収めるが、その数年前から起こっていた[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]のオペラを巡る紛争ではイタリア派の旗印にされ、競作では敗北した<ref name=":11" />。このほか83年にも成功を収めるが、[[フランス革命]]で活動の基盤を失い、91年にナポリへ戻った<ref name=":8" />。 ==== 教育者 ==== 作品や作曲様式は[[対位法]]志向でむしろ過去を向いているが、多くの作曲家を指導した名教師がこの時期に複数いる。 * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ]](1706~1786)マルティーニ師と呼ばれた<ref name=":11" />。[[ボローニャ]]の聖フランチェスコ教会楽長<ref name=":11" />。[[バチカン|ヴァティカン]]その他からの楽長職への招聘を断り生地を離れず作曲・著述・教育に励み、当代有数の知性として全ヨーロッパの尊敬を集めた<ref name=":11" />。100人を超える弟子の中には[[ヨハン・クリスティアン・バッハ|J.C.バッハ]]、[[アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ|グレトリ―]]、[[フェルディナンド・ベルトーニ|ベルトーニ]]、[[ニコロ・ヨンメッリ|ヨンメッリ]]、[[ヨハン・ゴットリープ・ナウマン|J.G.ナウマン]]らがおり、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を指導して、[[ザルツブルク|ザルツブルグ]]帰郷後も書簡で教えを請われたエピソードは有名<ref name=":11" />。[[対位法]]の優れた教師であるが、器楽曲には[[ギャラント様式|ギャラント趣味]]も混入している<ref name=":11" />。 * [[ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー]](1736~1809)前期古典派の作曲家<ref name=":11" />。[[シュテファン大聖堂]]楽長<ref name=":11" />。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の師として有名だが、他に[[ヨハン・ネポムク・フンメル|フンメル]]、[[カール・チェルニー|チェルニー]]、[[:en:Ignaz_Umlauf|ウムラウフ]]、[[ヨーゼフ・ヴァイグル|ヴァイグル]]、[[ヨーゼフ・アイブラー|アイブラー]]、[[イグナーツ・フォン・ザイフリート|ザイフリート]]ら多数の人材を輩出した<ref name=":11" />。18世紀初頭の対位法大家[[ヨハン・ヨーゼフ・フックス|ヨーゼフ・フックス]](1660~1741、[[シュテファン大聖堂]]楽長、宮廷楽長、『[[グラドゥス・アド・パルナッスム]]』著者)の流れを引き、厳格な対位法様式の宗教曲に秀作が多い<ref name=":11" />。 ==== 宮廷文化の揺らぎ ==== 18世紀半ばには、フランスでは「王の24のヴィオロン([[:en:Les_Vingt-quatre_Violons_du_Roi|Les Vingt-quatre Violons du Roi]])」が1761年に財政上の理由で解体され<ref>{{Cite web |url=https://musebaroque.fr/institutions-musicales-versaillaises/ |title=Les Institutions Musicales Versaillaises de Louis XIV à Louis XVI |access-date=2023/10/11 |publisher=https://musebaroque.fr/}}</ref>、オーストリアでは[[マリア・テレジア]]が国力充実のための徹底した経費削減の一環としてオペラやオラトリオの大規模な上演を禁止し<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=84}}</ref>、予算を厳しく切り詰められたことで宮廷楽団の人員が大幅に減る<ref>{{Cite book|和書 |title=ハプスブルクの音楽家たち |publisher=音楽之友社 |page=170}}</ref><ref group="注釈">1751年に宮廷楽団の管理者が交代した際、予算が年額わずか二万フローリンに切り詰められ、脱退や死亡によって空席になったポストを埋めることができなくなり、1715年-1741年まで宮廷楽長を務めた[[ヨハン・ヨーゼフ・フックス|フックス]]の時代には100名を超える楽団員を数えていた宮廷楽団は、1772年にはわずか20名となっていた。</ref>など、大国における宮廷音楽の縮小が相次いだ。一方で、1765年のバッハ=アーベル演奏会の発足や[[コンセール・スピリチュエル]]の隆盛など、宮廷外での音楽活動の拡大が見られ始め、音楽の担い手が市民に移りつつあったことを示している。フランスではやがて革命で宮廷文化が終末を迎えるが、ドイツやオーストリアでは半世紀ほど状況が遅れており、宮廷や教会に保護された音楽はまだ盛んであった<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=91}}</ref>。 == 盛期古典派 == === ウィーン古典派 === [[ウィーン]]を中心に18世紀後半から19世紀初頭の間に活躍した作曲家、一般的には[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]を、[[ウィーン古典派]]と言う<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽大事典「ウィーン古典派」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。また彼らの時代は、特に「盛期古典派」と呼ばれることがある<ref name=":3" />。 ==== 時代背景 ==== 18世紀末以降、[[フランス革命]]やその後の[[ナポレオン戦争]]によってヨーロッパ各地で貴族社会が崩壊し<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=71}}</ref>、ドイツでは多くの宮廷が閉鎖され、そこに雇われていた音楽家たちは路頭に迷うことになった<ref name=":6">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=93}}</ref>。しかしオーストリア帝国の首都ウィーンでは、ナポレオンに包囲されるなど危機的な状況にあったものの、ハイドンやベートーヴェンが貴族文化の最後の輝きを謳歌した<ref name=":6" />。 オーストリア関係では、1780年に[[マリア・テレジア]]が死去し、[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]の単独統治になる<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1001-143.html |title=世界史の窓「ヨーゼフ2世」 |access-date=2023/11/04}}</ref>。翌81年にはヨーゼフ2世の[[啓蒙専制主義]]に基づく積極的な[[近代化]]政策([[宗教寛容令]]・[https://www.y-history.net/appendix/wh1001-143_2.html 農奴解放令]・言語統一令・[[商工業]]の保護など)が打ち出されたが、聖職者や貴族の抵抗が強く、90年にヨーゼフ2世が急死したこともあって改革は停滞した<ref name=":7">{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-095.html |title=世界史の窓「神聖ローマ帝国」 |access-date=2023/11/04}}</ref>。続く[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]は[[反革命]]の立場を打ち出し、92年に[[ジロンド派|フランス革命政府]]と戦争となる<ref name=":7" />。フランス革命軍との戦争は当初は優位だったが、フランス[[国民軍]]の編制・[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の登場・[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア遠征軍]]への敗北・[[ナポレオン戦争]]・[https://www.y-history.net/appendix/wh1103_2-004.html#wh1103_2-020 ナポレオンの皇帝即位]・[[アウステルリッツの戦い]]での敗北と事態が進行し<ref name=":7" />、ウィーンは再三フランス軍に脅かされ、貴族階級の疎開や没落が目立つようになった<ref name=":5" />。1806年の[[ライン同盟]]結成により[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]が[[神聖ローマ皇帝]]を退位し、[[神聖ローマ帝国]]は消滅した<ref name=":7" />。1809年にはウィーンは[[1809年オーストリア戦役|ナポレオンに占領される]]事態となった<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ナポレオン戦争」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。1812年にナポレオンは[[1812年ロシア戦役|ロシア戦役]]で大敗し、1814~15年の[[ウィーン会議]]で[[オーストリア]]の[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の主導で[[ウィーン体制]]が生まれたが、反動的体制であり、数々の反発を生むことになる<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1201-008.html |title=世界史の窓「ウィーン体制」 |access-date=2023/11/04}}</ref>。モーツァルトのウィーン到着(1781年)からベートーヴェンの中期の終わり(1815年)までは、このような激動の時代であった。 ==== ソナタとソナタ形式 ==== ウィーン古典派に至り、[[ソナタ形式]]は3部分構成を取るようになり、旋律素材の性格がより強調され、旋律と調との緊密な関係がより重視されるようになった<ref name=":28" />。第1部分では性格の明確に異なる2つの主題群が現れ、一つは主調で力強く積極的な性格を持ち(第1主題)、もう一つは属調でより叙情的な性格を持つ(第2主題)<ref name=":28" />。第1部分の前にゆっくりしたテンポの序奏、締めくくりには小結尾部が置かれることも出てきた<ref name=":28" />。第2部分は、前古典派の第2部分の開始部(他調への短い転調を含んでいた部分)を拡大したもので、転調部が拡張されて数も増え、第1部分で提示された旋律素材の断片化・変形・組み替えなどの技法が駆使され大きく発展した<ref name=":28" />。第3部分では、第1主題と第2主題がともに主調で再現される<ref name=":28" />。こうした3部分構成のソナタは、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の時代になるとグランド・ソナタと呼ばれるようになり、従来のソナタや転調部分が発展していないソナタは[[ソナチネ]]と呼ばれるようになった<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=89}}</ref>。19世紀半ばには、3部分構成の3つの部分はその機能に応じて、提示部・展開部・再現部と命名された<ref name=":28" />。 前古典派で3楽章構成が標準だったソナタは、盛期古典派に至り、交響曲と同様に終楽章の前に舞曲楽章として[[メヌエット]]が取り入れられ、さらに[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]では[[スケルツォ]]が組み入れられ、4楽章のソナタも出現した<ref name=":29" />。 ==== オペラ ==== ドイツの[[ジングシュピール]]やフランスの[[オペラ・コミック]]のような、自国語をテキストとし、市民階級を基盤とした、新しいタイプの国民的なオペラの隆盛がはっきりしてくる<ref name=":30">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「オペラ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]晩年の名作ジングシュピール「[[魔笛]]」は、その一例である<ref name=":30" />。この種のオペラは、素朴な感傷、見世物的興味、悪の世界と善の世界の対立などの要素を共通させながら、一方では[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]の「[[:en:Les_deux_journées|二日間]]」からベートーヴェンの「[[フィデリオ]]」へつながるサスペンスに満ちた〈[https://kotobank.jp/word/%E6%95%91%E5%87%BA%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9-1300230 救出オペラ]〉へと発展し、他方では[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]の「[[魔弾の射手]]」に典型的な国民的タイプのロマン派オペラへとつながっていくことになる<ref name=":30" />。 === ウィーン古典派の作曲家たち === ==== ハイドン ==== [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]](1732~1809)はウィーンの[[シュテファン大聖堂]]の少年合唱団で音楽を学び、さらに[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]]の[[宮廷楽長]]を務めていた[[ニコラ・ポルポラ]](1686~1768)の家に下働きとして住み込み師事した<ref name=":8">{{Cite book|和書 |title=クラシック音楽作品名辞典、該当人名の項 |year=1990 |publisher=三省堂 |author=井上和男}}</ref>。[[ボヘミア]]の[[:en:Count_Morzin|モルツィン伯爵]]の楽長を経て、61年に[[エステルハージ]]侯爵の副楽長、66年に同楽長となり、以後25年間その地位にあった<ref name=":8" />。79年の契約書によれば、自作品を楽譜出版業者に売り、代金をうけとる自由を認められるという、当時としては驚くべき待遇を受けている<ref name=":9">{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005、該当人名の項 |publisher=Microsoft}}</ref>。このためハイドン作品は多くの人の耳に届くこととなり、彼の名声はヨーロッパ中に広がった<ref name=":9" />。90年の侯爵の死に伴う楽団解散により、かえって自由に作曲できる立場となり、2回にわたる[[ヨハン・ペーター・ザーロモン|ザロモン]]コンサートのためにイギリスに渡り、大成功を収めた<ref name=":8" />。晩年は有名かつ裕福であった。ナポレオン占領下のウィーンで死去。 100曲以上の[[交響曲]]を書き、あらゆる可能性や技法を試みてジャンルを成熟させ<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「交響曲」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、交響曲の地位を揺るぎないものにした<ref name=":31">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=90}}</ref>。60~70年代にかけては、交響曲に[[メヌエット]]を導入して4楽章構成を典型とし、同時に第1楽章の冒頭に緩徐な[[序奏]]を置くことが多くなった<ref name=":31" />。93~95年にかけて作曲した[[ロンドン・セット]]の最後の6つの交響曲において、[[フルート]]・[[オーボエ]]・[[クラリネット]]・[[ファゴット]]・[[ホルン]]・[[トランペット]]各2本、[[ティンパニ]]に加えて[[弦楽合奏|弦楽]]を5部に拡大したことで、交響曲の古典的編成である[[二管編成]]を完成させた<ref name=":31" />。このためハイドンは「交響曲の父」と呼ばれる<ref name=":31" />。また68曲の[[弦楽四重奏曲]]でこのジャンルの先駆者となった<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「弦楽四重奏」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。ハイドン作品は量の多さに関わらず、類型に陥らず、独自性を保っている<ref name=":9" />。単純なメロディや主題を予想しない形で複雑に発展させる手法は、革新的と評された<ref name=":9" />。意表を突いた展開、しばしば用いられたユーモラスな効果、民謡的なメロディを好んだところにハイドンの特徴がある<ref name=":9" />。[[エステルハージ|エステルハージ家]]の宮廷楽長を長く務めたが、印刷楽譜の出版と新作コンサートを通じ、貴族社会の音楽家から近代市民社会の音楽家へと変貌した<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ハイドン」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 ==== モーツァルト ==== [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]](1756~1791)は生地[[ザルツブルク]]で宮廷音楽家を務めていた父[[レオポルト・モーツァルト]](1719~1787)から姉[[マリア・アンナ・モーツァルト|マリア・アンナ]](1751~1829)とともに[[クラヴィーア]]を学び、5才で作曲を試みている<ref name=":8" />。63年、父に伴われて[[パリ]]に行き、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]一族の前で姉と連弾を披露<ref name=":8" />。パリ在住ドイツ系作曲家で[[ソナタ]]の先駆者である[[ヨハン・ショーベルト]](1720/40~67)や[[:en:Johann_Gottfried_Eckard|ヨハン・ゴットフリート・エッカルト]](1735~1809)と出会い、影響を受ける<ref name=":10">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典、該当人名の項 |publisher=平凡社}}</ref>。最初の作品集を出版<ref name=":8" />。64年ロンドンに行き、[[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]から作曲を学ぶ<ref name=":8" />。68年ウィーンで歌劇を上演<ref name=":8" />。69年より[[ザルツブルク大司教]]宮廷の楽団員になるが、この年から父と3回にわたってイタリア旅行をし、演奏と作品発表の他、[[ボローニャ]]で[[ジョヴァンニ・マルティーニ|ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ]](1706~84)の指導を受けた<ref name=":8" />。こうして父による英才教育で[[フランス]]・[[イタリア]]等の音楽を吸収したことが、天才の育成に大きな役割を果たしている<ref name=":8" />。77年までザルツブルクで活躍したのち、就職口を求めて<ref name=":10" />[[マンハイム]]を経てパリに演奏旅行<ref name=":8" />。81年に[[大司教]]と決裂して独立した音楽家を目指しウィーンに定住<ref name=":8" />。後述の[[ムツィオ・クレメンティ|クレメンティ]]との共演<ref name=":10" />やハイドンとの友情<ref name=":10" />やベートーヴェンとの出会い<ref name=":5" />などのエピソードが生まれる。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、ピアノ教師、楽譜の出版などで生計を立てたが<ref name=":3" />、過労から健康を害し貧困のうちに35歳で没した<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「モーツァルト」の項。 |publisher=Microsoft}}</ref>。 初期には前古典派とイタリア古典派の影響が強く、中期には[[ギャラント様式]]と[[マンハイム楽派]]の様式を取り入れ、30才以後の後期ではバロック音楽への傾倒が加わって古典美の中に深遠な表情をもつようになった<ref name=":8" />。こうした創作の中で、ハイドンが手掛けた[[ピアノソナタ]]、[[弦楽四重奏曲]]、[[交響曲]]などの古典派時代のさまざまなジャンルを多様化し、また深化した<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「モーツァルト」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。[[ピアノ協奏曲]]の芸術的完成を果たし、[[オペラ]]においてはハイドンを凌駕している<ref name=":4" />。モーツァルトの音楽では、優美で明快なメロディを重視するイタリア趣味と、形式の洗練と対位法上の工夫を重視するドイツ趣味が結合している<ref name=":9" />。簡潔・明快・均整を旨とした18世紀古典派様式を端的に表現しながら、聴く者の心をゆりうごかす19世紀的傾向も先取りしていた<ref name=":9" />。 ==== ベートーヴェン ==== [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]](1770~1827)は[[フランドル]]系で、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1712-1773)|同名の祖父]]が[[ボン]]に移住し[[ケルン選帝侯]]の宮廷楽長を務め、[[ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン|父]]も同地の宮廷歌手であった<ref name=":8" />。父は息子を大音楽家に仕立てようと、幼時から過酷な[[ピアノ]]の練習を強いた<ref name=":8" />。ベートーヴェンは14才で宮廷オルガニストに採用され<ref name=":8" />、81年から宮廷オルガニストの[[クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ]](1748~1798)に師事し<ref name=":10" />、この頃から作曲も手がけた<ref name=":8" />。87年に一度ウィーンを訪れモーツァルトに出会う<ref name=":8" />。その後はブロイニング家の知遇を受け[[ボン大学]]の聴講生となるなどし、[[フランス革命]]の息吹を感じつつ自由への憧れを心に刻んだとされる<ref name=":8" />。92年に[[フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン|ワルトシュタイン伯爵]]が[[パトロン]]となってウィーンへ行き<ref name=":8" />、ハイドン<ref name=":8" />や、[[シュテファン大聖堂]]楽長だった[[ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー]](1736~1809)<ref name=":8" />や後述の[[ヨハン・バプティスト・シェンク|シェンク]]<ref name=":10" />や[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]<ref name=":8" />に作曲を学ぶ。ウィーンでは[[フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン|ワルトシュタイン伯爵]]の紹介もあって社交界デビューを難なく果たし<ref name=":10" />、さらに幾人ものパトロンを得る<ref name=":8" />。ピアニストとして成功し、また複数の楽譜出版業者と契約してその条件も年々有利になり、フリーランスの音楽家として充分に暮らしていくことができた<ref name=":9" />。今日最も有名なベートーヴェンの作品は、1803~12年の10年間に書かれているが<ref name=":9" />、ちょうど同じころ聴覚障害が悪化し、14年を最後に公開演奏会を行わなくなり<ref name=":9" />、18年には筆談帳を用いなければならなくなり、24年の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]の初演時は聴衆の大喝采にも気づかなかったという<ref name=":10" />。交際する相手はごく限られるようになっていった<ref name=":9" />。しかし名声は相変わらず高く、晩年の病床には見舞いの品と手紙が山のように届いた<ref name=":9" />。葬送の行列は数万の市民が見送った<ref name=":9" />。 初期には古典派の先人たちの影響を強く留め<ref name=":8" />、ウィーンでは[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]]の[[多感様式|感情過多様式]]とウィーンの聴衆には洗練され過ぎていたモーツァルトの様式の中間的作風を採った<ref name=":9" />。中期にはその関心はハイドンとモーツァルトがのこした表現手法を洗練させることに向けられ<ref name=":9" />、先人二人の完成させた古典派様式を至上の高みにまで洗練させつつ<ref name=":5">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ベートーベン」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、大胆な技法による情熱的で力強い表現を獲得し、来たる[[ロマン派音楽]]への先駆となった<ref name=":8" />。後期にはナポレオン没落と反動体制の時代にあって、自己への沈潜と人類的理想への希求<ref name=":8" />、個々の作品の驚嘆すべき独自の個性に至った<ref name=":9" />。 ベートーヴェンは教会や貴族の注文に応じて音楽を書くのではなく自らの創作意欲にしたがって作曲をし<ref>{{Cite book|和書 |title=MicrosoftEncarta2005「ベートーベン」の項 |publisher=Microsoft}}</ref>、自作品出版による収益を経済的生活基盤とし、音楽史上で最初に〈自律した音楽家〉と言われた<ref name=":5" />。そのためロマン主義が理想とした英雄的な芸術家像を体現した音楽家として、19世紀にひときわ高くそびえたつ音楽家となった<ref name=":9" />。が、彼の直接的な影響のもとに音楽を書いた作曲家は限られ、[[ヨハネス・ブラームス]](1833~97)や[[リヒャルト・ワーグナー|リヒャルト・ヴァーグナー]](1813~83)を俟たねばならず、さらにベートーヴェンの交響曲の理想が発展の最終段階を見せるのは19世紀末の[[アントン・ブルックナー]](1824~96)や[[グスタフ・マーラー]](1860~1911)の時代であった<ref name=":9" />。 === ウィーン古典派と同時代の各国 === 以下では、盛期古典派のうちウィーン古典派以外の動向について、地域ごとに概況と主だった者を挙げ、状況の描写を試みる。 基本的には、さまざまな地で後のロマン派的・国民楽派的な音楽が準備されつつあるように見える。 ==== オーストリア(ウィーン古典派の3人以外) ==== ウィーン古典派の3人同様に市民を主な対象とした作曲家と、以前同様に宮廷を舞台に活躍した作曲家の双方が見られる。ここに挙げた者の他、後述の[[ヨハン・バプティスト・ヴァンハル|ヴァンハル]]、[[レオポルト・アントニーン・コジェルフ|コジェルフ]]、[[アントニーン・レイハ|ライヒャ]]、[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]、[[フェルディナンド・パエール|パエール]]など[[チェコ]]や[[イタリア]]の出身者を中心に多くの外国人が活躍している。 * ウィーンで活躍した[[ヨハン・バプティスト・シェンク]](1753~1836)は、[[ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル|ヴァーゲンザイル]]に学んだ作曲家で、[[ジングシュピール]]で大当たりをとった一方、教師としても名声を得て、ベートーヴェンは彼に学んでいる<ref name=":11">{{Cite book|和書 |title=大音楽事典、該当人名の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 * 同様に[[ヨーゼフ・アイブラー|ヨゼフ・レオポルド・アイブラー]](1765~1846)は、後述のサリエリを継いでウィーンの宮廷楽長を務めた。モーツァルトの友人として最後の看病をしたが、[[フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー|フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤー]](1766~1803)に先立って依頼された[[レクイエム]]の補筆を断念している<ref name=":11" />。 * [[ヨハン・ネポムク・フンメル]](1778~1837)は当時[[ハンガリー]]だった現[[スロバキア|スロヴァキア]]の[[ブラチスラヴァ]]に生まれ<ref name=":11" />、モーツァルトの家に2年間住みこんでピアノを学んでデビューしヨーロッパ各地を演奏旅行<ref name=":8" />、やがて[[ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー|アルブレヒツベルガー]]や[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]から作曲を学び<ref name=":11" />、ハイドンに認められエステルハージ家の楽団で活動、その後[[シュトゥットガルト]]や[[ヴァイマル|ワイマール]]の宮廷楽長を務め、さらにはベートーヴェンと親交を結んだ<ref name=":8" />。交響曲は手掛けていないが、その他ほとんどのジャンルに作品を残し、様式史的に重要であり<ref name=":8" />、ドゥシークやクレメンティとともに18世紀の古典派様式と19世紀中葉のロマン派様式を媒介する位置にある<ref name=":11" />。[[フェリックス・メンデルスゾーン]](1809~1847)のピアノ教師でもあり<ref name=":8" />、著書の「ピアノ奏法(1824)」はシューマン以降の世代の教科書となった<ref name=":11" />。 ==== ドイツ ==== [[外交革命]]を経て行われた[[七年戦争]]で勝利した[[プロイセン王国|プロイセン]]([[ブランデンブルク辺境伯領|ブランデンブルク辺境伯]]にルーツを持つ)の優位は明らかになっていたが<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1001-122.html |title=世界史の窓「七年戦争」 |access-date=2023/11/04}}</ref>、[[選帝侯]]の皇帝立候補が[[オーストリア継承戦争]]の発端となった[[バイエルン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1001-118.html |title=世界史の窓「バイエルン」 |access-date=2023/11/04}}</ref>、選帝侯が[[ポーランド国王|ポーランド王]]を兼ねたことがある[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0601-063_1.html |title=世界史の窓「ザクセン人/ザクセン」 |access-date=2023/11/04}}</ref>、選帝侯がイギリス王を兼ねていた[[ハノーファー選帝侯国|ハノーファー]]なども相変わらず有力であった<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1001-086.html |title=世界史の窓「ハノーヴァー朝/ハノーファー」 |access-date=2023/11/04}}</ref>。こうした選帝侯領の首府は音楽活動の中心地でもあった<ref name=":19" />。1806年にはナポレオンの圧力により[[神聖ローマ帝国]]が解体されプロイセンとオーストリア以外のドイツ諸邦の全てが[[ライン同盟]]として[[フランス帝国]]の傀儡となったが<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1103_2-027.html |title=世界史の窓「ライン同盟」 |access-date=2023/11/04}}</ref>、ナポレオンの没落とともに1813年にライン同盟は解体し、1815年に[[ドイツ連邦]]として再編された<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1201-016.html |title=世界史の窓「ドイツ連邦」 |access-date=2023/11/04}}</ref>。 * ウィーンにほど近い南ドイツでは[[マンハイム楽派]]の系譜が続いており、1778年に[[カール・テオドール (バイエルン選帝侯)|カール・テオドール]]の宮廷が[[ミュンヘン]]に移る際には音楽家たちも同行した<ref group="注釈">ここに挙げた人物は全てミュンヘンに移った記載が出典にある。</ref>。[[ヨハン・シュターミッツ]]の次の楽長を務め91曲以上の交響曲と45曲以上の弦楽四重奏曲などを残した[[クリスティアン・カンナビヒ]](1731~98)<ref name=":8" />、ヨハンの息子で後述する[[カール・シュターミッツ]]、晩年に[[カール・マリア・フォン・ウェーバー]](1786~1826)や[[ジャコモ・マイアベーア]](1791~1864)を育成したことで知られる[[ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー]](1749~1814)や<ref name=":11" />、ウィーンで[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]に学んだオペラ作曲家で宮廷楽長の[[ペーター・ヴィンター|ペーター・フォン・ヴィンター]](1754~1825)<ref name=":11" />が知られる。 * 北ドイツの[[プロイセン王国|プロイセン]]では、[[ベルリン]]で、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の楽長を務め[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]や[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]などの詩人と親交を持っていた[[ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト]](1752~1814)<ref name=":8" />や、同じくベルリンでドイツ合唱運動の先駆者として活躍した[[カール・フリードリヒ・ツェルター]](1758~1832)が知られる<ref name=":8" />。ツェルターが指揮者を務めた[[ベルリン・ジングアカデミー|ジングアカデミー]]は29年に弟子の[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の指揮で[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の[[マタイ受難曲]]を蘇演し、再評価の流れをつくった<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC-99028 |title=コトバンク「ツェルター」 |access-date=2023/11/04}}</ref>。 * [[ユゼフ・エルスネル]](1769~1854)は、プロイセンの領土となっていた現[[:en:Grodków|グロドクフ]](現[[シレジア|シロンスク]]地方、ドイツ語で[[シレジア|シュレジエン]]地方)で生まれたドイツ人で、現[[ヴロツワフ]](ドイツ語で[[ブレスラウ]])とウィーンで学び、[[ブルノ]]歌劇場管弦楽団ヴァイオリン奏者を経て[[リヴィウ|リヴォフ]]の劇場の楽長となった<ref name=":11" />。ここで[[ポーランド語]]のオペラを書き始め、99年にワルシャワ国立劇場楽長となり、1815年に声楽・教会音楽協会を設立、ここに歌唱・朗唱学校を開き、これが21年に[[ワルシャワ音楽院]]に発展、以後30年まで校長を務めた<ref name=":11" />。ここでの弟子に[[フレデリック・ショパン]](1810~49)がいた<ref name=":11" />。 * [[フリードリヒ・クーラウ]](1786~1832)は、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯領]]の[[ユルチェンコ|ユルツェン]]に生まれ、[[ハンブルク]]で学んだ後、ナポレオンの徴兵を逃れて10年に[[コペンハーゲン]]に行き、ピアノや理論を教え、18年にデンマークの宮廷作曲家となった<ref name=":11" />。数曲のデンマーク語のオペラを書いたほか、ロマン派初期の室内楽曲・ピアノ曲を多数作曲し、特に[[ソナチネ]]は初心者用練習曲として知られる<ref name=":11" />。また自身フルートの名手であったため多数のフルート作品も残し<ref name=":11" />、「フルートのベートーヴェン」とも呼ばれる<ref name=":0" group="注釈">この情報は、Wikipediaの該当人名の項にしか見当たらない上に、出典が示されていないが、英語版などのWikipediaにも記載があるので、全くのウソでもなさそうである。</ref>。 ==== チェコ ==== チェコ人の音楽家は、[[三十年戦争]]以来強力に推し進められたカトリック改宗とドイツ化のもと暗黒時代にあった祖国を離れ、前古典派の時代に続いて<ref name=":19" />主に祖国以外の各地で活躍している<ref name=":12">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「チェコ」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。この後1780年以降に盛んになった民族復興運動は、19世紀になって[[ベドルジハ・スメタナ]](1824~1884)を始めとする[[ボヘミア楽派]]の登場を促すことになる<ref name=":12" />。 * [[ヨゼフ・ミスリヴェチェク]](1737~1781)は63年に[[ヴェネツィア]]に留学して[[:en:Giovanni_Battista_Pescetti|ジョヴァンニ・バッティスタ・ペシェッティ]]にオペラの作曲を学んだ<ref name=":10" />。イタリア各地で歌劇の作曲家として名声を博し「神の恩寵を受けたボヘミア人」と呼ばれたほか、[[ギャラント様式]]とチェコの郷土色が結びついた美しい室内楽曲を多く残した<ref name=":10" />。初期のモーツァルトに影響を与えたことと彼との交友も有名である<ref name=":10" />。 * [[ヨハン・バプティスト・ヴァンハル]](1739~1813)はウィーンで数多くの交響曲・協奏曲・各種室内楽曲・教会音楽およびピアノ曲を書き、ピアノ小品は当時家庭音楽として愛好され<ref name=":8" />、作曲だけで生計を立てることができた世界初の作曲家と言われている<ref name=":0" group="注釈" />。 * [[レオポルト・アントニーン・コジェルフ]](1747~1818)はいとこの[[ヤン・コジェルフ|ヤン]]と同郷の[[ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク|ドゥシーク]]に学び、ウィーンに出て[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の戴冠式に上演された[[カンタータ]]の成功により宮廷楽長兼宮廷作曲家に任ぜられ、死ぬまでその地位にあった<ref name=":10" />。ピアノ奏者・作曲家・音楽教師として活躍し、ハイドンやモーツァルトの好敵手と目されていた<ref name=":10" />。多数の作品により、ウィーン古典派から初期ロマン派への橋渡しをした<ref name=":10" />。 * [[カール・シュターミッツ]](1745~1801)は父[[ヨハン・シュターミッツ|ヨハン]]から音楽教育を受け、ヴァイオリニストとしてヨーロッパ各地で活躍<ref name=":10" />。特に協奏的交響曲の発展に功績がある<ref name=":8" />。父ヨハンに比してより一層洗練された作風は、優雅な旋律と流麗な運び、明快な構成と親しみやすい表情によって、18世紀後半のギャラント趣味の典型を示している<ref name=":10" />。 * [[:pl:Jan_Stefani|ヤン・ステファニ]](1746~1829)は[[ポーランド・リトアニア共和国]]最後の国王[[スタニスワフ2世アウグスト]]の宮廷楽団で活躍し、ポーランド初の国民的オペラ「クラクフ市民と山人たち」を書き<ref name=":13">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ポーランド音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、これは以後200回以上も上演された。95年に[[ポーランド分割]]でポーランドが消滅するとワルシャワ歌劇場の楽長となり、死ぬまでワルシャワで過ごした。 * [[ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク]](1760~1812)は優れたピアニスト・ピアノ教師としてヨーロッパ各地で活躍し、クレメンティと名声を分かち合った<ref name=":8" />。古典派様式の多数の器楽曲を残している<ref name=":8" />。 * [[アントニーン・レイハ|アントニン・ライヒャ]](1770~1836)は[[ケルン選帝侯]]の楽団のフルート奏者を務め、同楽団のヴィオラ奏者だったベートーヴェンと親交を持つ<ref name=":8" />。後にウィーンで活躍するが、ナポレオンのウィーン占領後パリに移り、[[オペラ・コミック]]の上演と[[パリ音楽院]]教授として名声を得た<ref name=":8" />。古典派様式の多くの器楽曲、特に管楽合奏の室内楽曲が優れている<ref name=":8" />。 ==== イタリア ==== [[イタリア戦争]]後に外国支配の時代が続いていたイタリアは、18世紀にはオーストリアが支配的な勢力となっていたが<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1202-084_0.html |title=世界史の窓「イタリアの統一/リソルジメント」 |access-date=2023/11/04}}</ref>、イタリア人音楽家、特にナポリ出身者は以前に引き続いて各地で活躍している。しかしイタリア人の創作は徐々にオペラ一辺倒になって行き、19世紀にはその傾向が非常に強まっていくことになる<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「イタリア音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 * [[ナポリ楽派]]の[[ジョヴァンニ・パイジエッロ|ジョヴァンニ・パイジェッロ]](1740~1816)と[[ドメニコ・チマローザ]](1749~1801)はイタリア各地で歌劇を上演して成功したのち[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の宮廷作曲家として[[ペテルブルク]]に招かれ、さらにはパイジェッロは帰国後に[[ナポリ王国]]で、チマローザはオーストリアの宮廷楽長を歴任した<ref name=":8" />。どちらも[[オペラ・ブッファ]]で高い評価を得ている<ref name=":8" />。 * [[ルイジ・ボッケリーニ]](1743~1805)はチェロ奏者としてパリで活躍したのち室内楽作品で認められスペインの宮廷音楽家となり王の弟[[ルイス・アントニオ・デ・ボルボーン・イ・ファルネシオ|ドン・ルイス]]に仕えた<ref name=":8" />。85年に王子が没すると、翌年ベルリンの[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]の宮廷作曲家に任命されるが、ベルリンには行かずにスペインに留まっていたようである<ref name=":11" />。ハイドンと同時代にあって古典派音楽を推進した意味で「ハイドン夫人」との異名があった<ref name=":8" />。イタリアの器楽の伝統をもとに、活躍地であるフランスとスペインの趣味に適合した優美な旋律と巧妙なデュナーミク、チェロを中心とした華やかな技巧を特色とするスタイルで、18世紀後半において圧倒的な人気を博した<ref name=":11" />。 * [[ヴェネツィア]]出身の[[アントニオ・サリエリ]](1750~1825)ははじめ[[オペラ・ブッファ]]で成功したのち、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック]](1714~1787)の後を継ぐオペラ作曲家として認められ、88年よりオーストリアの宮廷楽長を務めたが<ref name=":8" />、晩年は世間一般の音楽趣味の変化を強く認識してオペラ作曲の筆を絶ち、教育に力を入れてベートーヴェン、[[フランツ・シューベルト]](1797~1828)、[[カール・チェルニー]](1791~1857)、[[イグナーツ・モシェレス]](1794~1870)ら多くの弟子を育てた<ref name=":10" />。 * [[ムツィオ・クレメンティ]](1752~1832)は66年に渡英後、ピアニスト・作曲家として認められ、ヨーロッパ各地を演奏旅行する中でウィーンで[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と競演している<ref name=":8" />。ピアノの奏法・様式の開拓者として大きな足跡を残した<ref name=":8" />。小形式のソナタはソナチネ・アルバムにおさめられ、初心者の練習曲になっている<ref name=":8" />。[[ヨハン・バプティスト・クラーマー]](1771~1858) 、[[イグナーツ・モシェレス|モシェレス]]、後述の[[ジョン・フィールド|フィールド]]など優秀な弟子を育てた<ref name=":10" />。 * [[ルイジ・ケルビーニ]](1760~1842)は[[ボローニャ]]と[[ミラノ]]で音楽を学び、88年よりパリに定住してフランス語による[[グランド・オペラ]]の作曲家として名声を博し、その豊かな[[管弦楽法]]で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]に影響を与えたほか、1822年からは[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]の院長を務めた<ref name=":11" />。 * [[フェルディナンド・パエール]](1771~1839)はオペラ作曲家として認められてウィーンで活躍し、1802年に[[ドレスデン]]([[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]の首都)の宮廷楽長、07年にはナポレオンの宮廷楽長になった<ref name=":8" />。 * [[ガスパレ・スポンティーニ]](1774~1851)はナポリ楽派でのオペラ作曲家で、1803年にパリに出て新しいロマン派歌劇で成功し、[[グランド・オペラ]]の方向を開いた<ref name=":8" />。[[プロイセン王国|プロイセン]]の宮廷作曲家を務め、[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]や[[リヒャルト・ワーグナー]](1813~1883)に影響を与えた<ref name=":8" />。 ==== フランス ==== 18世紀後半のフランスの音楽は、オペラの消費地化と独墺伊オペラの優位、唯一フランス人とフランス音楽の拠点となった[[オペラ・コミック]]の誕生、そして何より[[フランス革命|革命]]の影響が特徴と言えそうである<ref>{{Cite book|和書 |title=大音楽事典「フランス」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。また革命後の95年には[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]が創設され、これに倣って各国でも19世紀初頭に次々音楽院が創設されることになる<ref name=":14">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「フランス音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。 * ベルギー出身の[[フランソワ=ジョセフ・ゴセック|フランソワ・ジョセフ・ゴセック]](1734~1829)は、[[ヨハン・シュターミッツ]]の大きな影響を受けつつ<ref name=":11" />、歌劇・交響曲・室内楽曲の分野でフランスの古典派様式を確立したほか、[[コンセール・スピリチュエル]]の指揮者を務めて近代管弦楽の大規模な効果の発展に貢献した<ref name=":8" />。[[フランス革命]]に共鳴して多くの大衆歌を作曲<ref name=":8" />、「[[テ・デウム]]」はベートーヴェンの[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第9交響曲]]のモデルともなった<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=96}}</ref>。1795年パリ音楽院創立に際して監督官の一人となった<ref name=":8" />。 * [[アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ]](1741~1813)は古典派様式による[[オペラ・コミック]]の確立者であり、この時期のフランス作曲界の中心人物であった<ref name=":8" />。生涯に60曲を超える歌劇を作曲し、その旋律の美しさ、和音の豊かさで当時もてはやされた<ref name=":8" />。 * オーストリア出身の[[イグナツ・プライエル|イグナーツ・プレイエル]](1757~1831)は、初め[[ヨハン・バプティスト・ヴァンハル|ヴァンハル]]に、後に[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]に師事し、ピアニストとして各地で活躍し、やがてパリに定住して1807年にピアノ製造会社を興し、[[プレイエル|プレイエル・ピアノ]]の名を世界に広めた<ref name=":8" />。 * [[ジャン=フランソワ・ル・スュール]](1760~1837)は、各地の教会楽長を務めたのち、パリの[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]の楽長となり、典礼音楽に管弦楽を加えて劇的効果をつくりだした<ref name=":8" />。パリ音楽院創設に際して音楽監督の一人となり、ナポレオン時代には楽壇の中心人物だった<ref name=":8" />。[[エクトル・ベルリオーズ]](1803~1869)の師であり、彼の大管弦楽の手法に多くの影響を与えた<ref name=":8" />。 * [[エティエンヌ=ニコラ・メユール]](1763~1817)は、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]に私淑して[[オペラ・コミック]]作曲家となった<ref name=":8" />。フランス革命時代には時流に合った題材の歌劇で人気を得て、多くの革命歌も作曲している<ref name=":8" />。やはり同様にパリ音楽院の監督官の一人となった<ref name=":8" />。 他には先に挙げた[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]や[[アントニーン・レイハ|ライヒャ]]が活躍している。が、全体としては、「フランス革命は、その思想がベートーヴェンを鼓舞したにせよ、彼に匹敵する音楽家をフランスに与えるどころではなかった」という評価がある<ref name=":14" />。その後には[[コルシカ島|コルシカ]]出身の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が先述の[[ジョヴァンニ・パイジエッロ|パイジェッロ]]や[[フェルディナンド・パエール|パエール]]や[[ガスパーレ・スポンティーニ|スポンティーニ]]などのイタリア人音楽家を贔屓にした<ref name=":14" />。 * が、そうした中でも[[アルマン=ルイ・クープラン|アルマン・ルイ・クープラン]](1727~1789)や先述の[[ジョヴァンニ・マルティーニ|マルティーニ]]に師事した[[フランソワ=アドリアン・ボイエルデュー|フランソワ・アドリアン・ボワエルデュー]](1775~1834)は19世紀前半のフランスの[[オペラ・コミック]]の代表的な作曲家となり、[[パリ音楽院]]のピアノの教授を務め、ペテルブルクの宮廷に仕えるなどの活躍が見られた<ref name=":11" />。 * [[ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール|ダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール]](1782~1871)は、王政復古期の趣味に投じた才気に富む音楽を書いて成功した作曲家で、アカデミー会員(1829)・宮廷楽団長(1839)・師[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]の後任としてパリ音楽院院長(1842)に任命されるなど、多方面で活躍した<ref name=":10" />。 * スペイン・[[バルセロナ]]出身の[[フェルナンド・ソル]](1778~1839)は、[[モンセラート]]修道院で音楽教育を受けたのち、13年よりパリを中心にロンドン・モスクワなどを演奏旅行し、27年以後はパリを拠点にし<ref name=":10" />、19世紀初頭の[[ギター]]奏者としてウィーンで活躍したナポリ出身の[[マウロ・ジュリアーニ]](1781~1829)と並んで名声を博した<ref name=":8" />。多くの練習曲を残し、ギター奏法のさまざまな技法を開拓した<ref name=":8" />。スペインでは「ギターのベートーヴェン」と呼ばれる<ref name=":0" group="注釈" />。 ==== スペイン・ポルトガル ==== 先述の[[フェルナンド・ソル|ソル]]や[[ホアン・クリソストモ・アリアーガ|アリアーガ]]を除くと、古典派からロマン派時代の[[スペイン]]は傑出した作曲家をあまり生み出さなかったが、独自の音楽の伝統は劇音楽[[サルスエラ]]に残っており、後の民族主義楽派につながることになる<ref>{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「スペイン音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。[[ポルトガル]]では[[カルロス・セイシャス]](1704~42)、[[:en:Francisco_António_de_Almeida|フランチェスコ・アントニオ・デ・アルメイダ]](?‐1755)らが鍵盤音楽、管弦楽、歌劇に成果を示し首都[[リスボン]]で活躍していたが、1755年のリスボン大地震でその多くが失われた<ref name=":32">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ポルトガル」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。その後[[:en:João_de_Sousa_Carvalho|カルバーリョ]](1745~98)が出たが、19世紀になるとイタリア・オペラの影響が著しく、民族的な特色は後退した<ref name=":32" />。 * [[ホアン・クリソストモ・アリアーガ]](1806~27)[[バスク地方|バスク]]地方出身<ref name=":11" />。13歳でオペラ作曲という早熟ぶりと、誕生日が同じこと、そしてそのあまりの短命により、「スペインのモーツァルト」とも称される<ref name=":11" />。同時代のスペインには他に作曲家らしい者はいない<ref name=":8" />。21年からパリ音楽院に学び、24年に助教授に任命されるが、若くしてパリで客死<ref name=":11" />。 * [[:en:João_de_Sousa_Carvalho|ジョアン・デ・ソウザ・カルバーリョ]](1745~98)[[:en:Vila_Viçosa|ヴィラ・ヴィソーザ]]と[[ナポリ]]に学んだ後、[[リスボン]]に戻って当時の王であった[[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ジョゼ1世]]の娘たちに音楽を教え、また[[対位法]]の教授としても多くの弟子たちを育てた<ref name=":33">{{Cite web |url=https://www.encyclopedia.com/arts/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/carvalho-joao-de-sousa |title=Encycropedia.com, Carvalho, Joâo De Sousa |access-date=2023/11/12}}</ref>。78年からは王室音楽教師を務めた<ref name=":33" />。彼は当時最も才能のあるポルトガルの作曲家であり、宗教音楽と世俗音楽の両方に秀でていた<ref name=":33" />。 ==== イギリス ==== イギリス音楽は、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]](1685~1759)の死後は沈滞期になり<ref name=":15">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「イギリス音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>、イギリスで活躍する主な音楽家のほとんどは外国人となり、[[ロンドン]]は音楽の消費地としての性格を強めていく<ref name=":16">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=80}}</ref>。その他、先に挙げた[[ムツィオ・クレメンティ|クレメンティ]]が活躍しており、またここまでに「ヨーロッパ各地で活躍」とした音楽家は全員ロンドンで活躍したことがあり、ハイドンもロンドンの演奏会で成功を収めている。このようなロンドンは、18世紀末には楽譜出版やコンサート運営でパリを追い抜くほどに成長した<ref name=":16" />。 だが、イギリス人で活躍したと言えそうなのはハイドン誕生以前まで範囲を広げてもオペラ作曲家の[[トマス・アーン]](1710~1778)とアンセム作曲家[[ウィリアム・ボイス]](1711~1779)くらいであり、その後の19世紀に至っては「[[ジョン・フィールド]](1782~1837)のピアノ曲と、[[アーサー・サリヴァン]](1842~1900)のオペレッタ以外に特筆すべきものはない」<ref name=":15" />と明言されてしまう始末であった。 * [[ライプツィヒ]]で生まれた[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]](1685~1750)の末子[[ヨハン・クリスティアン・バッハ]](1735~1782)は、兄の[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|エマニュエル]]に学んだ後、ボローニャで[[ジョヴァンニ・マルティーニ|マルティーニ]]に学ぶ<ref name=":8" />。1762年までミラノで、後にロンドンで活躍<ref name=":10" />。64年よりバッハ=アーベル演奏会を組織し、[[演奏会|コンサート]]文化の確立に貢献するとともに、ドイツ語圏の音楽を多数ロンドンに紹介した<ref name=":16" />。一時期[[マンハイム楽派]]とも関係を持ち、[[ギャラント様式]]の古典派様式を発展させ、モーツァルトに多大な影響を与えた<ref name=":8" />。古典派様式の完成に一番貢献したという評価がある<ref>{{Cite book|和書 |title=ヨーロッパ音楽の歴史 |publisher=音楽之友社 |page=143}}</ref>。 * [[サミュエル・ウェスレー|サミュエル・ウェスリー]](1766~1837)は、当時最高のオルガン奏者であり、またバッハの作品を研究した<ref name=":11" />。アンセムに優れた作品が多い。イングランドのモーツァルトという評価も存在する<ref group="注釈">この情報は、Wikipediaの該当人名の項でしか見つけられなかったが、出典として英語の文献が示されている。</ref>。 ==== ポーランド ==== [[ポーランド]]は[[カトリック教会|カトリック]]世界であり、仏伊独の音楽を受け入れつつ、ポーランドの作曲家の伝統も育っており、宗教音楽・世俗音楽とも栄えていたが、18世紀には国運が傾き始め、1795年に[[ポーランド分割]]で滅亡する<ref name=":17">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ポーランド音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。こうした時代にあって、国民オペラ・民族的色彩をもつ器楽・闘争歌が生まれる<ref name=":17" />。 * [[:en:Maciej_Kamieński|マチェイ・カミエンスキ]](1734~1821)は、現ハンガリーのショプロンに生まれ<ref group="注釈">生まれはハンガリーだが、民族的にはスロヴァキア人のようである。</ref>、ウィーンで作曲を学んだ後ワルシャワに定住し、最初オペラ「幸運な貧困」で大好評を博しオペラ作曲家として名をあげた<ref name=":11" />。 * チェコ人ながらポーランド初の国民的オペラを書いた[[:pl:Jan_Stefani|ステファニ]]は先述のとおりである。 * [[ミハウ・カジミェシュ・オギンスキ]](1765~1833)は公爵で政治家であり、ポーランド分割の時期に祖国再興のために奔走した<ref name=":8" />。音楽家としては[[フレデリック・ショパン]](1810~49)以前の[[ポロネーズ]]作曲家として音楽史上重要な位置を占めており、中でも「祖国よ、さらば」は有名である<ref name=":11" />。[[コシチュシュコの蜂起|コシチューシコ反乱]]の際には愛国的な歌曲や行進曲を書いた<ref name=":11" />。ポーランド国歌の「[[ドンブロフスキのマズルカ]]」は、国外で独立のために戦った師団の歌<ref name=":13" />で、以前はオギンスキの作曲と推定されていた<ref group="注釈">Wikipediaの該当記事に言及があるが出典がない。英語版には出典が示されているので、間違いではないと思われる。</ref>。 * 19世紀のポーランドのロマン派音楽は普墺露の三国への抵抗と挫折の中で展開されていくことになるが、先述の[[ユゼフ・エルスネル|エルスネル]]はドイツ人ながら後の[[フレデリック・ショパン|ショパン]]や[[スタニスワフ・モニューシュコ]](1819~72)の民族的作品の先駆者である<ref name=":17" />。 ==== ロシア ==== [[ロシア]]は[[正教会|正教]]国であり、西欧とは違った独自の教会音楽を形成していたが、17世紀中頃にポーランド支配下にあった[[ウクライナ]]との統一により、西欧的な音楽の導入・流入が始まる<ref name=":18">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ロシア・ソビエト音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>。その後[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル大帝]]の西欧化政策に伴いロシア宮廷にも西欧の音楽の導入が進められ、特に[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の在位時には宮廷楽長として先述の[[ジョヴァンニ・パイジエッロ|パイジェッロ]]や[[ドメニコ・チマローザ|チマローザ]]、[[ヴェネツィア]]の[[サン・マルコ寺院|聖マルコ大聖堂]]楽長で「[[オペラ・ブッファ]]の父」と呼ばれた[[バルダッサーレ・ガルッピ]](1706~85)など、数々の一流イタリア人作曲家が[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]に滞在した<ref name=":18" />。また西欧から多くの音楽家が雇われ、宮廷や大貴族の下で演奏や音楽家教育に当たった<ref name=":18" />。18世紀最後の四半世紀には、ロシア人作曲家(ただし、現ウクライナ出身者が非常に多い)が輩出し始める<ref name=":18" />。 * [[ヴァシーリー・パシケーヴィチ|ヴァシーリー・パシケーヴィッチ]](1742~97)はヴァイオリニストとしてエカチェリーナ2世の宮廷楽団で活躍。宮廷作曲家として招かれていたイタリア人との合作など、イタリアの影響を受けながらも<ref name=":8" />、ロシアの民族色を活かしたオペラを多く作曲し、ロシア人歌劇作品の初期を代表する作曲家となった<ref name=":11" />。エカチェリーナ2世の台本によるオペラを複数書いている<ref name=":11" />。 * [[マクシム・ベレゾフスキー]](1745~1777)は、現ウクライナの[[フルーヒウ|グルホフ]]に生まれ、キエフ教会アカデミーに学んだ後、ペテルブルクで宮廷礼拝堂歌手を務めていたが、イタリアに留学して[[ジョヴァンニ・マルティーニ|マルティーニ]]に作曲を学んでいる間にオペラで成功、その他宗教声楽曲を残したが、ロシアに帰国後自殺し、現存する作品は極めて少ない<ref name=":11" />。 * [[ディミトリー・ボルトニャンスキー|ディミトリ・ボルトニャンスキー]](1751~1825)も現ウクライナの[[フルーヒウ|グルホフ]]に生まれ、ペテルブルクの宮廷礼拝堂の歌手になり、楽長の[[バルダッサーレ・ガルッピ|ガルッピ]]に認められて師に従ってイタリアに留学する<ref name=":11" />。ロシアに戻った後は宮廷礼拝堂楽長として、[[ロシア正教会|ロシア正教]]典礼音楽にイタリア様式の和声を導入して刷新した<ref name=":8" />。古典派様式の歌劇や器楽曲を残している<ref name=":8" />。宗教作品の数が多く、その抒情性と優れた対位法によってロシア正教会音楽におけるもっとも重要な作曲家とされている<ref name=":11" />。 * 19世紀に入ると、[[アイルランド]]出身で[[ムツィオ・クレメンティ|クレメンティ]]に学んだピアニストで[[夜想曲]]の創始者とされる[[ジョン・フィールド]](1782~1837)が1804年にペテルブルクデビューを果たし、その後ロシアに住んで多くの弟子を育て、ロシア・ピアノ楽派の祖となった<ref name=":18" />。また夜想曲の名称と構想は[[フレデリック・ショパン|ショパン]]に影響を及ぼし、ピアノ音楽史上重要である<ref name=":11" />。 * またこの頃になると貴族の子女への音楽教育が浸透し、貴族階級からも優れた音楽家が生まれ始める<ref name=":18" />。ナポレオン戦争に参加して軍務の傍ら作曲を発表した[[アレクサンドル・アリャービエフ|アレクサンドル・アリャビエフ]](1787~1851)などに始まる[[:en:Russian_romance|ロシア・ロマンス]]と呼ばれる民謡調の作品や歌劇作品はロシア国民主義の先駆的なものであり、やがて[[ミハイル・グリンカ]](1804~1857)の「[[皇帝に捧げた命]]」、さらにはロシア[[国民楽派]]につながっていく<ref name=":18" />。 === ロマン派との時代的な重なり合い === [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]](1807~08年)について、ドイツの文学者で作曲家でもあった[[E.T.A.ホフマン]]は1810年の評論で「[[ロマン主義]]の本質である無限の憧れをよびおこす」と書いている<ref>{{Cite book|和書 |title=ものがたり西洋音楽史 |publisher=岩波書店 |page=168}}</ref>。フランスの音楽史では[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]は19世紀のロマンチシズムの到来の章で紹介され、「彼の音楽は彼自身を考えずにはほとんど聞くことはできない」とされている<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽の歴史 |publisher=白水社 |pages=91~98}}</ref>。岡田暁生は「やや図式化していえば、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]は『革命以前の人』、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]は『革命後もしばらくは活動していた人』であるのに対し、ベートーヴェンは『革命後の人』であり『19世紀の人』なのである」としている<ref name=":34">{{Cite book|和書 |title=西洋音楽史 |publisher=中央公論社 |pages=120-121}}</ref>。「[[ウィーン古典派]]の三大巨匠」といっても、ハイドン・モーツァルトとベートーヴェンは、活躍した時期も音楽の性格もかなり違い、ベートーヴェンは18世紀までの貴族世界と決定的に縁を切っている<ref name=":34" />。端的にまとめれば「ベートーヴェンは古典派音楽を完成しつつ次に来るロマン主義への志向を示している」<ref name=":25" />となるだろう。 [[ウィーン体制]]下では[[自由主義]]や[[ナショナリズム]]運動が徹底的に弾圧され、[[ビーダーマイヤー]](小市民的文化)時代になると、市民たちは抑圧政治から逃避するように、居心地の良い仲間たちとの集い、あるいは分かり易いつかの間の快楽に没頭した<ref name=":35">{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=97}}</ref>。[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]「[[糸をつむぐグレートヒェン|糸を紡ぐグレートヒェン]]」1815年、[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]「[[セビリアの理髪師]]」1816年、[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]「[[24の奇想曲]]」1820年出版などは、こうしたウィーンのこの時期の時代の刻印と捉えることができる<ref name=":35" />。また[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]「[[魔弾の射手]]」1821年初演(ベルリン)は、あらゆる面でドイツ的であったことから民族愛を高め、熱狂的な支持を集めた<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |pages=98-99}}</ref>。こうした作曲家たちはロマン派の初期として扱われるが、シューベルトには「ロマン派の作曲家に数えられることが多いが、音楽的な実質は古典的であり、(古典派に)含めることができる」<ref name=":25" />とする評価があり、「ベートーヴェンとシューベルトはロマン的要素を有しながら、全体としては古典派に入れられる」<ref name=":36">{{Cite book|和書 |title=世界大百科事典「ロマン派音楽」の項 |publisher=平凡社}}</ref>とする評価すらある。ベートーヴェンを「ロマン派の作曲家」と呼ぶことはできないにしろ、彼の創作のかなりの部分は初期ロマン派の作曲家たちと時代的に重なり合っており<ref name=":34" />、この時期にもスランプを脱して孤高期のスタイルを打ち立てた[[ピアノソナタ第29番 (ベートーヴェン)|ピアノ・ソナタ第29番]]「[[ピアノソナタ第29番 (ベートーヴェン)|ハンマークラヴィーア]]」1818年に始まるピアノ音楽の作品群を書いている<ref name=":5" />。 一方、ベートーヴェンの死の3年前の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]1824年は、壮大な構想、規模の大幅な拡張、独唱と合唱の導入により、古典派の交響曲の概念を打ち破った<ref>{{Cite book|和書 |title=音楽史を学ぶ |publisher=教育芸術社 |page=95}}</ref>。それから程なく、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]「[[夏の夜の夢序曲|夏の夜の夢 序曲]]」1826年、ベートーヴェンの死から3年後には[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]「[[幻想交響曲]]」1830年が作曲されている。以後は敢えて古典主義的な作風を採った[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]<ref name=":9" />などを除くと、全般にロマン派とされる作曲家と作風が主流となり、狭義のロマン派の時代となる<ref name=":36" />。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[バロック音楽]] * [[ロマン派音楽]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{音楽}} {{クラシック音楽-フッター}} {{DEFAULTSORT:こてんはおんかく}} [[Category:古典派音楽|*]] [[Category:クラシック音楽史]] [[Category:音楽のムーブメント]]
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフンに近い、1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、音楽家の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子として生まれる。マリーアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみで、長男のルートヴィヒ・マリーア(1769年4月2日に洗礼)が生誕6日後に死去したため、その3人の中ではルートヴィヒは長男だった。他の二人は、カスパール・アントン・カールとニコラウス・ヨハンである。 ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手かつ鍵盤楽器奏者として知られ、楽長として宮廷の音楽家たちを率いていたベートーヴェンと同姓同名の祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの援助により生計を立てていた。幼少のベートーヴェンも祖父ルートヴィヒを敬愛しており、同時代人からも尊敬されていた。敬愛していた証拠として、ベートーヴェンは祖父の肖像画を何年間も自身の部屋に飾っている。 父ヨハンも宮廷歌手(テノール)であった。しかし、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちだった。1773年12月24日に祖父が亡くなった後ある程度の遺産を相続したが、1784年までにほとんど浪費してしまった。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、デビューを果たす。 1782年からはベートーヴェンにとって最初の重要な教師とされるクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。そして、ネーフェは、当時まだ作品の大半が知られていなかったJ.S.バッハの作品を与え、「平均律クラヴィーア曲集」などを弾かせている。また、同年に作曲した『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』が出版されている。(これは、ベートーヴェンにとって初めての出版作品である) 1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。この時代のウィーンは音楽が盛んで、ヨーロッパ中から音楽家が集まり、貴族、外交団、ブルジョアジーなどが音楽家たちを支援していた。カール・チェルニーの伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」と語ったという。また、この際の旅費を負担したのは、ヴァルトシュタイン伯爵であるとフランツ・ヴェーゲラーは述べているが、実際はボンでのベートーヴェンの最大の支援者であるマクシミリアン・フランツであるとされている。 ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った。母は二か月後の7月に死没した(肺結核)。一方で父親のアルコール依存症と鬱病は悪化していった。 1789年には、家計を支えられるように父親の年収の半分を直接自分に渡してほしいという旨を、父親が無給になった場合にはどこかの村に追放するという条件付きで、選帝侯に嘆願している。しかし、このことを恥じた父ヨハンは自身の給料の半分を年4回の分割で、自らベートーヴェンに渡した。そして、仕事ができなくなった父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、養育と学校教育が必要な二人の弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 一方、この頃からベートーヴェン家は、リース家とフォン・ブロイニング家から生活面で助けを得ていた。ブロイニング家には、ヘレーネ・フォン・ブロイニング夫人、娘のエレオノーレ、息子のクリストフ、シュテファン、ローレンツがおり、ベートーヴェンは特にシュテファンと交流を結んだ。ベートーヴェンは多くの時間をこの家で過ごし、ベートーヴェンの親友のヴェーゲラーも頻繁にこの家に訪れていた。ボン時代の後援者としては、マクシミリアン・フランツ以外にフェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵が知られている。 1790年12月には、イギリスに行く途中で当時絶頂期だったハイドンと興行主ザーロモンがボンに立ち寄り、また1792年7月にロンドンからウィーンに戻る途中でも、ボンに立ち寄っている。どちらの時期かは定かでないが、その際ベートーヴェンはハイドンに自身のカンタータ、『皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ』WoO.87か『皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ』WoO.88のどちらかを見せている。ハイドンはベートーヴェンの才能を認め、1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた。 1792年11月2日の早朝に出発し、フランクフルト、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、パッサウ、リンツ等を経由しながら1週間かけてウィーンに到着した。そして、ベートーヴェンはこれ以降、二度とボンに戻ることはなかった。 当時、ウィーンではフランス革命の影響を受けて報道の自由が規制され、革命支持者に対する措置が厳しくなっており、そのことは1794年にボンに送った手紙の内容からもうかがえる。一方で、ウィーンの貴族のサロンは若い音楽家たちの活躍する場となっており、公開コンサートの数も増えていっていた。ウィーンに到着した際、ベートーヴェンは貴族たちから演奏の招待を多く受けたが、そのほとんどを無視しており、これらに対し怒りの感情すら覚えている。一方で、ベートーヴェンはこの地で多くの後援者を得ることになる。後援者の1人として挙げられるカール・リヒノフスキー侯爵家は気前がよく、イタリア弦楽器一式と600フローリンの年金を与えており、ベートーヴェンは彼の所有する家に下宿している。 1792年12月18日には父ヨハンが死去したが、ベートーヴェンは彼の葬儀のためにボンに戻ることはなく、葬儀はヴェーゲラーたちが済ました。1792年11月~1794年1月までの日記には、買い物の支出の記録やハイドンのもとでのレッスン料の記録は残っているが、父ヨハンの葬儀に関する記録は全く残っていない。1793年4月頃には、選帝侯に宛てて父親の引退後に受け取っていた給料の半分を更新してもらうよう手紙を書いており、5月にはボンから支給されていた奨学金に上乗せして、この金額が払われた。これらの手配は、フランツ・アントン・リースによって進められていた。また、1794年~1796年に、ベートーヴェンはウィーンでヴェーゲラーとブロイニング家のローレンツと再び親交を結んでいる。 ハイドンに教えを乞うためにウィーンに来たベートーヴェンだったが、ハイドンが1791-92年、1794-95年の2回のイギリスの訪問にて成功を収め多忙を極めた事もあり、ベートーヴェンに作曲を教える時間はほとんどなかった。そこで、1793年からハイドンには内緒でヨハン・シェンクに作曲を師事し、彼の下でフックスの『パルナッソス山への階梯』を基に対位法を学び、対位法課題を添削してもらった。そして、ベートーヴェンは更に1794年から当時高名な理論家であったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの下で対位法を学んでいる。これらの対位法の成果は、この頃の作品と考えられているフーガ ハ長調 WoO215や、弦楽四重奏曲のための初期の断片的なフーガに端的に表れている。 ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々にに名声をあげていき、ウィーンに来てから4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。これは1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評の項目において、ベートーヴェンをハイドンの次の位置に配置して評価していることからも分かる。ここではベートーヴェンを次のように評価している。 1796年初頭、ベートーヴェンはプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを旅行し、六か月間に及ぶ演奏会を行った。 20代後半頃より持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化。28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えた。しかし、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞した。しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。翌1827年3月23日には死期を悟って遺書をしたためた。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま同年3月26日、肝硬変のため波乱に満ちた生涯を閉じた。享年58(満56歳没)。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、シューベルト、ヨーゼフ・マイゼダーも参列している。 作曲家としてデビューしたてのころは耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある。 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見することにより脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、のちのロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 1818年の二度目の危機のときには後期の序曲集に代表されるようにスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れることに成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。交響曲第9番では第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章と通常の交響曲の楽章と入れ替えが行われ、さらに第4楽章では独唱・合唱を含む声楽を用い、それまでにない画期的な交響曲を作曲している。 ベートーヴェンが所持したピアノの中に、ウィーンのピアノ製造会社ゲシュヴィスター・シュタインが作った楽器があった。1796年11月19日、ベートーヴェンはナネッテ・シュトライヒャーの夫アンドレアス・シュトライヒャーに、こう手紙を書いている。「一昨日、あなたのフォルテピアノを受け取りました。本当に素晴らしくて、誰もが所有したいと願うでしょう...」 カール・チェルニーの回想によると、1801年に、ベートーヴェンは自宅にワルターのピアノを持っていた。また1802年には、ワルターに1本の弦によるピアノフォルテの製作を依頼するよう、友人のツメスカルに頼んでいる。 そして1803年にベートーヴェンは、エラールのグランドピアノを受け取った。しかし、ニューマンはこう記している。「ベートーヴェンは最初からこの楽器に不満だった。この作曲家には、イングリッシュアクションが非常に重かったのだ」 さらに別のピアノ、1817年製のブロードウッドをトーマス・ブロードウッドから贈られており、ベートーヴェンは1827年に亡くなるまで、この楽器をシュヴァルツシュパニアーハウスの自宅に保管していた。 ベートーヴェンの最後の楽器は、4重弦の張られたグラーフのピアノだった。コンラート・グラーフはベートーヴェンに6オクターブ半のピアノを貸し出し、作曲家の死後にヴィンマー家に売却したと自ら認めている。この楽器は、1889年にボンのベートーヴェンハウスが購入した。 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(およびそのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒としてその理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しないとしている。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。フォン・ベルンハルト夫人は「背が低く、醜く赤いあばた顔をした不器用な男。髪は真っ黒で、顔の周りにもじゃもじゃと垂れ下がっていた」と軽蔑的に述べている。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。基本的に服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。フォン・ベルンハルト夫人は「服はとても平凡で、当時の流行とさほど違いはなかった」と回顧録に記している。 弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会ったとき、「ロビンソン・クルーソーのよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 ベートーヴェンの母語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfn] ( 音声ファイル)またはベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈbeːthoːfən]と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ヴァン・ベートーヴェン」と、「ヴァ」を「バ」に置き換えた「ベートーベン」という記述が浸透していき定着した。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人には、画家のファン・エイク(van Eyck)、ヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。van Beethovenはオランダ語でファン・ベートホーヴェあるいはファン・ベートホーヴェン オランダ語発音: [fɑm ˈbeːtɦoːvə(n)]と発音される。 vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。たとえば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓のほか、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属である。しかし、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のとおりである。 2023年、ケンブリッジ大学を中心とした国際研究チームにより毛髪のゲノム解析が行われ、ベートーベンは死の1か月前にB型肝炎に感染しており、遺伝的に肝臓病になりやすい体質であったことが判明した。 難聴(40歳ごろには全聾となった)の原因については諸説ある。 同姓同名の兄や妹2人がいるが、すぐに亡くなっている。 弟・カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(Karl Julius Maria van Beethoven、1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 ピアノソナタ(全32曲) その他のピアノ曲
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフンに近い、1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、音楽家の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子として生まれる。マリーアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみで、長男のルートヴィヒ・マリーア(1769年4月2日に洗礼)が生誕6日後に死去したため、その3人の中ではルートヴィヒは長男だった。他の二人は、カスパール・アントン・カールとニコラウス・ヨハンである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手かつ鍵盤楽器奏者として知られ、楽長として宮廷の音楽家たちを率いていたベートーヴェンと同姓同名の祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの援助により生計を立てていた。幼少のベートーヴェンも祖父ルートヴィヒを敬愛しており、同時代人からも尊敬されていた。敬愛していた証拠として、ベートーヴェンは祖父の肖像画を何年間も自身の部屋に飾っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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"ハイドンに教えを乞うためにウィーンに来たベートーヴェンだったが、ハイドンが1791-92年、1794-95年の2回のイギリスの訪問にて成功を収め多忙を極めた事もあり、ベートーヴェンに作曲を教える時間はほとんどなかった。そこで、1793年からハイドンには内緒でヨハン・シェンクに作曲を師事し、彼の下でフックスの『パルナッソス山への階梯』を基に対位法を学び、対位法課題を添削してもらった。そして、ベートーヴェンは更に1794年から当時高名な理論家であったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの下で対位法を学んでいる。これらの対位法の成果は、この頃の作品と考えられているフーガ ハ長調 WoO215や、弦楽四重奏曲のための初期の断片的なフーガに端的に表れている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々にに名声をあげていき、ウィーンに来てから4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。これは1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評の項目において、ベートーヴェンをハイドンの次の位置に配置して評価していることからも分かる。ここではベートーヴェンを次のように評価している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1796年初頭、ベートーヴェンはプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを旅行し、六か月間に及ぶ演奏会を行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "20代後半頃より持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化。28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えた。しかし、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "40歳頃(晩年の約15年)には全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞した。しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。翌1827年3月23日には死期を悟って遺書をしたためた。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま同年3月26日、肝硬変のため波乱に満ちた生涯を閉じた。享年58(満56歳没)。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、シューベルト、ヨーゼフ・マイゼダーも参列している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "作曲家としてデビューしたてのころは耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見することにより脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、のちのロマン派の多くの作品がこれに追随した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1818年の二度目の危機のときには後期の序曲集に代表されるようにスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れることに成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。交響曲第9番では第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章と通常の交響曲の楽章と入れ替えが行われ、さらに第4楽章では独唱・合唱を含む声楽を用い、それまでにない画期的な交響曲を作曲している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンが所持したピアノの中に、ウィーンのピアノ製造会社ゲシュヴィスター・シュタインが作った楽器があった。1796年11月19日、ベートーヴェンはナネッテ・シュトライヒャーの夫アンドレアス・シュトライヒャーに、こう手紙を書いている。「一昨日、あなたのフォルテピアノを受け取りました。本当に素晴らしくて、誰もが所有したいと願うでしょう...」", "title": "楽器との関わり" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "カール・チェルニーの回想によると、1801年に、ベートーヴェンは自宅にワルターのピアノを持っていた。また1802年には、ワルターに1本の弦によるピアノフォルテの製作を依頼するよう、友人のツメスカルに頼んでいる。", "title": "楽器との関わり" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "そして1803年にベートーヴェンは、エラールのグランドピアノを受け取った。しかし、ニューマンはこう記している。「ベートーヴェンは最初からこの楽器に不満だった。この作曲家には、イングリッシュアクションが非常に重かったのだ」", "title": "楽器との関わり" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "さらに別のピアノ、1817年製のブロードウッドをトーマス・ブロードウッドから贈られており、ベートーヴェンは1827年に亡くなるまで、この楽器をシュヴァルツシュパニアーハウスの自宅に保管していた。", "title": "楽器との関わり" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンの最後の楽器は、4重弦の張られたグラーフのピアノだった。コンラート・グラーフはベートーヴェンに6オクターブ半のピアノを貸し出し、作曲家の死後にヴィンマー家に売却したと自ら認めている。この楽器は、1889年にボンのベートーヴェンハウスが購入した。", "title": "楽器との関わり" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。", "title": "後世の音楽家への影響と評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(およびそのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。", "title": "後世の音楽家への影響と評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒としてその理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。", "title": "後世の音楽家への影響と評価" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。", "title": "後世の音楽家への影響と評価" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた。", "title": "芸術観" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しないとしている。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。", "title": "芸術観" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。フォン・ベルンハルト夫人は「背が低く、醜く赤いあばた顔をした不器用な男。髪は真っ黒で、顔の周りにもじゃもじゃと垂れ下がっていた」と軽蔑的に述べている。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。基本的に服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。フォン・ベルンハルト夫人は「服はとても平凡で、当時の流行とさほど違いはなかった」と回顧録に記している。 弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会ったとき、「ロビンソン・クルーソーのよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンの母語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfn] ( 音声ファイル)またはベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈbeːthoːfən]と発音される。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ヴァン・ベートーヴェン」と、「ヴァ」を「バ」に置き換えた「ベートーベン」という記述が浸透していき定着した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人には、画家のファン・エイク(van Eyck)、ヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。van Beethovenはオランダ語でファン・ベートホーヴェあるいはファン・ベートホーヴェン オランダ語発音: [fɑm ˈbeːtɦoːvə(n)]と発音される。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。たとえば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓のほか、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属である。しかし、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のとおりである。", "title": "死因と健康について" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2023年、ケンブリッジ大学を中心とした国際研究チームにより毛髪のゲノム解析が行われ、ベートーベンは死の1か月前にB型肝炎に感染しており、遺伝的に肝臓病になりやすい体質であったことが判明した。", "title": "死因と健康について" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "難聴(40歳ごろには全聾となった)の原因については諸説ある。", "title": "死因と健康について" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "同姓同名の兄や妹2人がいるが、すぐに亡くなっている。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "弟・カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(Karl Julius Maria van Beethoven、1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "", "title": "代表作" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ピアノソナタ(全32曲)", "title": "代表作" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "その他のピアノ曲", "title": "代表作" } ]
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。
{{半保護}} {{redirect|ベートーヴェン'''、'''ベートーベン'''、'''ヴァン・ベートーヴェン|その他の用法|ベートーヴェン (曖昧さ回避)}} {{単一の出典|date=2021年6月}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン<br>Ludwig van Beethoven |画像 = Beethoven.jpg |画像説明 = [[ヨーゼフ・カール・シュティーラー]]による肖像画([[1820年]]) |画像サイズ = 200px |背景色 = classic |別名 = 楽聖 |出生 = [[1770年]][[12月16日]]頃<br>{{HRR1512}}<br>[[File:Black St George's Cross.svg|border|25px]] [[ケルン選帝侯領]]<br>[[ボン]] |死没 = {{死亡年月日と没年齢|1770|12|16|1827|3|26}}<br>{{AUT1804}}<br>[[ウィーン]] |学歴 = <!-- 個人のみ --> |ジャンル = [[古典派音楽]] |職業 = [[作曲家]]<br>[[ピアニスト]] |担当楽器 = [[ピアノ]] |活動期間 = [[1792年]] - 1827年 }} [[File:Beethoven Signature.svg|thumb|230px|ベートーヴェンのサイン]] {{Portal クラシック音楽}} '''ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン'''({{lang-de-short|Ludwig van Beethoven}}、標準ドイツ語では'''ルートヴィヒ・ファン・ベートホーフン'''に近い{{efn|{{IPA-de|ˈluːt.vɪç fan ˈbeːt.hoːfn|lang|De-Ludwig_van_Beethoven.ogg}}<ref name="duden">{{Cite book|year= 2005 | title =[[Duden]] Das Aussprachewörterbuch | publisher = Dudenverlag | edition = 6 | page = | isbn =978-3-411-04066-7}}</ref>(オーストリアでは{{IPA-de|ˈluːt.vɪk -|}})/{{small|英国}}{{IPA-en|ˈlʊdvɪɡ væn ˈbeɪthoʊvɨn|lang}}/{{small|米国}}{{IPA-en|ˈlʊdvɪɡ væn ˈbeɪtoʊvɨn|lang|En-LudwigVanBeethoven.ogg}}。[http://ja.forvo.com/word/ludwig_van_beethoven#de 他の発音例]}}、[[1770年]][[12月16日]]頃{{efn|[[洗礼]]を受けたのが[[12月17日]]であることしかわかっていない。}} - [[1827年]][[3月26日]])は、[[ドイツ人|ドイツ]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]。音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、日本では<!--バッハは「父」、モーツァルトは「神童」、ベートーヴェンは-->「'''楽聖'''」とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.suntory-kenko.com/contents/enjoy/hosekibako/hsk-work14.aspx|title=楽聖と呼ばれるゆえんは……「ベートーヴェン」|publisher = サントリーウエルネス Online|accessdate=2020-6-5}} </ref>。その作品は[[古典派音楽]]の集大成かつ[[ロマン派音楽]]の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。 == 生涯 == [[File:Beethoven Hornemann.jpg|right|thumb|200px|ベートーヴェン(1803年)]] [[1770年]][[12月16日]]頃、[[神聖ローマ帝国]][[ケルン大司教]]領の[[ボン]]において、音楽家の父[[ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン]]と、宮廷料理人の娘である母[[マリア・マグダレーナ・ヴァン・ベートーヴェン|マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライム]]の第二子として生まれる。マリーアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみで、長男のルートヴィヒ・マリーア(1769年4月2日に洗礼)が生誕6日後に死去したため、その3人の中ではルートヴィヒは長男だった{{sfn|ロックウッド|2010|pp=38-39}}。他の二人は、[[カスパール・アントン・カール・ヴァン・ベートーヴェン|カスパール・アントン・カール]]と[[ニコラウス・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン|ニコラウス・ヨハン]]である。 ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手かつ鍵盤楽器奏者として知られ、楽長として宮廷の音楽家たちを率いていたベートーヴェンと同姓同名の祖父[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1712-1773)|ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の援助により生計を立てていた{{sfn|ロックウッド|2010|pp=38-39}}。幼少のベートーヴェンも祖父ルートヴィヒを敬愛しており、同時代人からも尊敬されていた{{sfn|ロックウッド|2010|pp=38-39}}。敬愛していた証拠として、ベートーヴェンは祖父の肖像画を何年間も自身の部屋に飾っている。 父ヨハンも宮廷[[歌手]]([[テノール]])<ref name="名前なし-1">[[#ロラン1965|ロラン 1965]]、{{要ページ番号|date=2012年3月}}</ref>であった。しかし、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちだった。[[1773年]]12月24日に祖父が亡くなった後ある程度の遺産を相続したが、[[1784年]]までにほとんど浪費してしまった{{sfn|ロックウッド|2010|p=39}}。[[1774年]]頃よりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽の[[スパルタ教育]]を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。[[1778年]]には[[ケルン]]での演奏会に出演し、デビューを果たす。 [[1782年]]からはベートーヴェンにとって最初の重要な教師とされる[[クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ]]に師事した{{sfn|ロックウッド|2010|pp=43-45}}。そして、ネーフェは、当時まだ作品の大半が知られていなかった[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の作品を与え、「[[平均律クラヴィーア曲集]]」などを弾かせている{{sfn|ロックウッド|2010|p=46}}。また、同年に作曲した『[[ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲]]』が出版されている。(これは、ベートーヴェンにとって初めての出版作品である) [[1787年]]春、16歳のベートーヴェンは[[ウィーン]]に旅し、かねてから憧れを抱いていた[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を訪問した。この時代のウィーンは音楽が盛んで、ヨーロッパ中から音楽家が集まり、貴族、外交団、ブルジョアジーなどが音楽家たちを支援していた{{sfn|ロックウッド|2010|p=62}}。[[カール・チェルニー]]の伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」と語ったという{{sfn|ロックウッド|2010|p=63}}。また、この際の旅費を負担したのは、ヴァルトシュタイン伯爵であると[[フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー|フランツ・ヴェーゲラー]]は述べているが、実際はボンでのベートーヴェンの最大の支援者である[[マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ|マクシミリアン・フランツ]]であるとされている{{sfn|ロックウッド|2010|p=54}}。 ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った{{sfn|ロックウッド|2010|pp=61-62}}。母は二か月後の7月に死没した{{sfn|ロックウッド|2010|p=57}}(肺結核)。<ref name="名前なし-1" />一方で父親の[[アルコール依存症]]と鬱病は悪化していった{{sfn|ロックウッド|2010|p=57}}。 [[1789年]]には、家計を支えられるように父親の年収の半分を直接自分に渡してほしいという旨を、父親が無給になった場合にはどこかの村に追放するという条件付きで、選帝侯に嘆願している{{sfn|ロックウッド|2010|p=58}}。しかし、このことを恥じた父ヨハンは自身の給料の半分を年4回の分割で、自らベートーヴェンに渡した{{sfn|ロックウッド|2010|p=58}}。そして、仕事ができなくなった父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、養育と学校教育が必要な二人の弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした{{efn|ルイス・ロックウッドは、1787年半ばから1792年11月までの家庭内状況は耐えうる限界に近いものだったのに違いないと推測している{{sfn|ロックウッド|2010|p=58}}。}}。 一方、この頃からベートーヴェン家は、リース家とフォン・ブロイニング家から生活面で助けを得ていた{{sfn|ロックウッド|2010|p=59}}。ブロイニング家には、ヘレーネ・フォン・ブロイニング夫人、娘のエレオノーレ、息子のクリストフ、シュテファン、ローレンツがおり、ベートーヴェンは特にシュテファンと交流を結んだ{{sfn|ロックウッド|2010|p=59}}。ベートーヴェンは多くの時間をこの家で過ごし、ベートーヴェンの親友のヴェーゲラーも頻繁にこの家に訪れていた{{sfn|ロックウッド|2010|p=59}}。ボン時代の後援者としては、マクシミリアン・フランツ以外に[[フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン]]伯爵が知られている。 [[1790年]]12月には、イギリスに行く途中で当時絶頂期だった[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]と興行主[[ヨハン・ペーター・ザーロモン|ザーロモン]]がボンに立ち寄り、また[[1792年]]7月に[[ロンドン]]からウィーンに戻る途中でも、ボンに立ち寄っている{{sfn|ロックウッド|2010|p=65}}。どちらの時期かは定かでないが、その際ベートーヴェンはハイドンに自身のカンタータ、『皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ』WoO.87か『皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ』WoO.88のどちらかを見せている{{sfn|ロックウッド|2010|p=65}}。ハイドンはベートーヴェンの才能を認め、[[1792年]]7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた。 1792年11月2日の早朝に出発し、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[ニュルンベルク]]、[[レーゲンスブルク]]、[[パッサウ]]、[[リンツ]]等を経由しながら1週間かけてウィーンに到着した{{sfn|ロックウッド|2010|pp=65,97}}。そして、ベートーヴェンはこれ以降、二度とボンに戻ることはなかった{{sfn|ロックウッド|2010|p=97}}。 当時、ウィーンでは[[フランス革命]]の影響を受けて報道の自由が規制され、革命支持者に対する措置が厳しくなっており、そのことは1794年にボンに送った手紙の内容からもうかがえる{{sfn|ロックウッド|2010|pp=100-101}}{{efn|この手紙では、当時のオーストリア警察の弾圧について次のように語っている{{sfn|ロックウッド|2010|p=101}}。{{Quotation|ここでは、様々な重要人物が拘禁されています。革命がまさに勃発するところだったと言われています。 (中略) 兵士たちは銃に弾丸をこめていました。ここで大声で話してはなりません。さもないと警察のご厄介になります。}}}}。一方で、ウィーンの貴族のサロンは若い音楽家たちの活躍する場となっており、公開コンサートの数も増えていっていた{{sfn|ロックウッド|2010|pp=98,103}}。ウィーンに到着した際、ベートーヴェンは貴族たちから演奏の招待を多く受けたが、そのほとんどを無視しており、これらに対し怒りの感情すら覚えている{{sfn|ロックウッド|2010|pp=112-113}}。一方で、ベートーヴェンはこの地で多くの後援者を得ることになる{{sfn|ロックウッド|2010|p=104}}。後援者の1人として挙げられる[[カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー|カール・リヒノフスキー侯爵]]家は気前がよく、イタリア弦楽器一式と600フローリンの年金を与えており、ベートーヴェンは彼の所有する家に下宿している{{sfn|ロックウッド|2010|pp=106,111}}。 1792年[[12月18日]]には父ヨハンが死去したが、ベートーヴェンは彼の葬儀のためにボンに戻ることはなく{{sfn|ロックウッド|2010|p=58}}、葬儀はヴェーゲラーたちが済ました。[[1792年]]11月~[[1794年]]1月までの日記には、買い物の支出の記録やハイドンのもとでのレッスン料の記録は残っているが、父ヨハンの葬儀に関する記録は全く残っていない{{sfn|ロックウッド|2010|pp=58-59}}{{efn|ルイス・ロックウッドは、「彼がボンに戻ろうという努力を一切しなかったことには目を引く」と述べている。{{sfn|ロックウッド|2010|p=58}}}}。[[1793年]]4月頃には、選帝侯に宛てて父親の引退後に受け取っていた給料の半分を更新してもらうよう手紙を書いており、5月にはボンから支給されていた奨学金に上乗せして、この金額が払われた{{sfn|ロックウッド|2010|p=59}}。これらの手配は、フランツ・アントン・リースによって進められていた{{sfn|ロックウッド|2010|p=59}}。また、[[1794年]]~[[1796年]]に、ベートーヴェンはウィーンでヴェーゲラーとブロイニング家のローレンツと再び親交を結んでいる{{sfn|ロックウッド|2010|p=59}}。 ハイドンに教えを乞うためにウィーンに来たベートーヴェンだったが、ハイドンが1791-92年、1794-95年の2回のイギリスの訪問にて成功を収め多忙を極めた事もあり、ベートーヴェンに作曲を教える時間はほとんどなかった{{sfn|ロックウッド|2010|pp=113-114}}。そこで、1793年からハイドンには内緒で[[ヨハン・バプティスト・シェンク|ヨハン・シェンク]]に作曲を師事し、彼の下で[[ヨハン・ヨーゼフ・フックス|フックス]]の『パルナッソス山への階梯』を基に対位法を学び、対位法課題を添削してもらった{{sfn|ロックウッド|2010|p=114}}。そして、ベートーヴェンは更に1794年から当時高名な理論家であった[[ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー]]の下で対位法を学んでいる{{sfn|ロックウッド|2010|p=114}}。これらの対位法の成果は、この頃の作品と考えられているフーガ ハ長調 WoO215や、弦楽四重奏曲のための初期の断片的なフーガに端的に表れている{{sfn|ロックウッド|2010|p=115}}。 ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々にに名声をあげていき、ウィーンに来てから4年が経った[[1796年]]の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている{{sfn|ロックウッド|2010|pp=118-119}}。これは1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評の項目において{{efn|この作曲家の項目にはベートーヴェンの師であるアルブレヒツベルガー、[[ヨハン・バプティスト・ヴァンハル|ヴァンハル]]や[[ヨーゼフ・ヴァイグル]]、イグナーツ・ウムラウフ、[[レオポルト・アントニーン・コジェルフ|レオポルト・コジェルフ]]、[[アントニオ・サリエリ]]、[[アントニン・ヴラニツキー]]などの当時40歳以上の作曲家に加え、[[フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー|ジュスマイヤー]]、[[ヨーゼフ・ヴェルフル]]などの若手の作曲家も掲載されている{{sfn|ロックウッド|2010|p=118}}。また、この項目に[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]等の作曲家が入っていないのは活動中の作曲家のみを扱っているためである{{sfn|ロックウッド|2010|pp=118-119}}。}}、ベートーヴェンをハイドンの次の位置に配置して評価していることからも分かる{{sfn|ロックウッド|2010|pp=118-119}}。ここではベートーヴェンを次のように評価している{{sfn|ロックウッド|2010|p=119}}。 {{Quotation|彼は演奏の稀にみる速さによって広く称賛されており、最も手強い困難な箇所をいとも簡単に習得してしまうことで驚きを与えている。すでに音楽の内なる聖域に入ってしまったようで、正確さ、感性、趣味において傑出している。~中略~ このような非常に偉大な天才が、その実をこれほど優れた大家たちの指導下に置いたとあれば、そもそも期待できないことなどあろうか!彼は既に数曲の美しいソナタを作曲している。その中で最も新しいものは、特に傑出したものと評価されている{{sfn|ロックウッド|2010|p=119}}。}} [[1796年]]初頭、ベートーヴェンは[[プラハ]]、[[ドレスデン]]、[[ライプツィヒ]]、[[ベルリン]]を旅行し、六か月間に及ぶ演奏会を行った{{sfn|ロックウッド|2010|p=120}}。 20代後半頃より持病の[[難聴]](原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化。28歳の頃には[[中途難聴者|最高度難聴者]]{{要出典|date=2018年8月|title=症状からは伝音性難聴であり現代の定義における最高度難聴とは考えられない。}}となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、[[1802年]]には『[[ハイリゲンシュタットの遺書]]』<ref>{{Cite web |title=ベートーヴェン|遺書|ARCHIVE |url=http://www.project-archive.org/0/013.html |website=ARCHIVE |access-date=2023-12-15 |language=ja-JP}}</ref>をしたためて自殺も考えた。しかし、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 [[1804年]]に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての'''傑作の森'''([[ロマン・ロラン]]による表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 [[ファイル:Beethoven on his deathbed.jpg|サムネイル|[[ヨーゼフ・ダンハウザー]]によるスケッチ]] 40歳頃(晩年の約15年)には[[聴覚障害者|全聾]]{{要出典|date=2018年8月|title=症状からは伝音性難聴であり現代の定義における全聾とは考えられない。}}となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした[[甥]]・[[カール・ヴァン・ベートーヴェン|カール]]の後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞した。しかし、そうした苦悩の中で書き上げた[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]や『[[ミサ・ソレムニス#ベートーヴェンのミサ・ソレムニス|ミサ・ソレムニス]]』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。 [[1826年]]12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。翌[[1827年]][[3月23日]]には死期を悟って遺書をしたためた{{efn|日本語訳で「友らよ、御喝采のほどを、喜劇は終わりぬ」<ref>{{Cite Kotobank |word=ベートーベン |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |accessdate=2022-11-27}}</ref>}}。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま同年[[3月26日]]、[[肝硬変]]のため波乱に満ちた生涯を閉じた。享年58({{没年齢2|1770|12|16|1827|3|26}})。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった<ref>{{Cite web|和書|title=2万人以上集まったというベートーヴェンの葬儀この偉大な先人に挑戦し発展させ「ロマン派」が花開く |url=https://diamond.jp/articles/-/184444 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2018-11-08 |access-date=2022-08-09 |language=ja}}</ref>。この葬儀には、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[ヨーゼフ・マイゼダー]]も参列している。 == 作風 == === 初期 === 作曲家としてデビューしたてのころは耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の強い影響下にあるためとの指摘もある<ref>{{Cite book|和書|editor=淺香淳|editor-link=淺香淳|year=1981|title=標準音楽辞典|publisher=音楽之友社|pages=1106-1107}}</ref>。 === 中期 === 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、[[ウィーン古典派]]の形式を再発見することにより脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、[[コーダ (音楽)|コーダ]]の拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の[[交響曲]]は[[メヌエット]]ではなく[[スケルツォ]]の導入(第2番以降)、従来の[[ソナタ形式]]を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、[[古典派音楽|古典派]]の様式美と[[ロマン主義]]とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、のちの[[ロマン派音楽|ロマン派]]の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 === 後期 === [[1818年]]の二度目の危機のときには後期の序曲集に代表されるように[[スランプ]]に陥っていたが、[[ホモフォニー]]全盛であった当時において[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の遺産、[[対位法]]つまり[[ポリフォニー]]を研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れることに成功し危機を乗り越えた。[[変奏曲]]や[[フーガ]]はここに究められた。これにより晩年の[[弦楽四重奏曲]]、[[ピアノソナタ]]、『[[ミサ・ソレムニス#ベートーヴェンのミサ・ソレムニス|ミサ・ソレムニス]]』、『[[ディアベリ変奏曲]]』、[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]などの後期の代表作が作られた。交響曲第9番では第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章と通常の交響曲の楽章と入れ替えが行われ、さらに第4楽章では独唱・合唱を含む声楽を用い、それまでにない画期的な交響曲を作曲している。 == 楽器との関わり == ベートーヴェンが所持したピアノの中に、[[ウィーン]]のピアノ製造会社ゲシュヴィスター・シュタイン<ref>Morrisroe, Patricia, ''[https://www.nytimes.com/2020/11/06/arts/music/beethoven-piano.html The Woman Who Built Pianos for Beethoven]'', The New York Times, New York Edition, Section C, Page 1, November 7, 2020</ref>が作った楽器があった。1796年11月19日、ベートーヴェンは[[ナネッテ・シュトライヒャー]]の夫[[ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー|アンドレアス・シュトライヒャー]]に、こう手紙を書いている。''「一昨日、あなたのフォルテピアノを受け取りました。本当に素晴らしくて、誰もが所有したいと願うでしょう…」''<ref>[https://www.beethoven.de/en/media/view/6748358303547392/scan/0 Ludwig van Beethoven, Brief an Andreas Streicher in Wien, Preßburg, 19. November 1796, Autograph]. </ref> [[カール・チェルニー]]の回想によると、1801年に、ベートーヴェンは自宅に[[アントン・ワルター|ワルター]]のピアノを持っていた<ref>Carl Czerny, Über den richtigen Vortrag der sämtlichen Beethovenschen Klavierwerke (Vienna 1963), ed. Paul Badura-Skoda p.10</ref>。また1802年には、ワルターに1本の弦によるピアノフォルテの製作を依頼するよう、友人の[[:en:Nikolaus_Zmeskall|ツメスカル]]に頼んでいる<ref>[https://www.beethoven.de/en/media/view/6076153240485888/Ludwig+van+Beethoven%2C+Brief+an+Nikolaus+Zmeskall%2C+Wien%2C+November+1802%2C+Autograph?fromArchive=5649946187399168 Ludwig van Beethoven, Brief an Nikolaus Zmeskall, Wien, November 1802, Autograph]</ref>。 そして1803年にベートーヴェンは、[[セバスチャン・エラール|エラール]]のグランドピアノを受け取った。しかし、ニューマンはこう記している。''「ベートーヴェンは最初からこの楽器に不満だった。この作曲家には、イングリッシュアクションが非常に重かったのだ」''<ref>[https://books.google.cz/books/about/Beethoven_on_Beethoven.html?id=q6oZkreoZtQC&redir_esc=y Willian Newman. Beethoven on Beethoven (New York, 1988) pp. 45-54] </ref> さらに別のピアノ、1817年製の[[ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズ|ブロードウッド]]をトーマス・ブロードウッドから贈られており<ref>[https://special-collections.wp.st-andrews.ac.uk/2018/02/02/beethoven-two-men-and-a-fortepiano/ Letter from Ludwig van Beethoven to Thomas Broadwood, 3 February 1818], in French</ref>、ベートーヴェンは1827年に亡くなるまで、この楽器を[https://www.geschichtewiki.wien.gv.at/Schwarzspanierhaus シュヴァルツシュパニアーハウス]の自宅に保管していた<ref>[https://www.beethoven.de/en/media/view/5356326855114752/Beethovens+Wohn-+und+Musikzimmer+im+%26quot%3BSchwarzspanierhaus%26quot%3B+in+Wien%2C+1827+-+Radierung+von+Gustav+Leybold+nach+einer+Zeichnung+von+Johann+Nepomuk+Hoechle?fromArchive=5461069061423104 Beethovens Wohn- und Musikzimmer im "Schwarzspanierhaus" in Wien, 1827 - Radierung von Gustav Leybold nach einer Zeichnung von Johann Nepomuk Hoechle]</ref>。 ベートーヴェンの最後の楽器は、4重弦の張られた[[コンラート・グラーフ|グラーフ]]のピアノだった。コンラート・グラーフはベートーヴェンに6オクターブ半のピアノを貸し出し、作曲家の死後にヴィンマー家に売却したと自ら認めている<ref>[https://www.beethoven.de/en/media/view/5758857464774656/Conrad+Graf%2C+Echtheitsbest%C3%A4tigung+f%C3%BCr+den+Fl%C3%BCgel+Ludwig+van+Beethovens%2C+Wien%2C+26.+Juni+1849%2C+Autograph?fromHansexpSearch=1&person=Graf%252C%2BConrad&parent=6261811254919168 Conrad Graf, Echtheitsbestätigung für den Flügel Ludwig van Beethovens, Wien, 26. Juni 1849, Autograph]</ref>。この楽器は、1889年に[[ボン]]の[[ベートーヴェン・ハウス|ベートーヴェンハウス]]が購入した<ref>S. Geiser, 'Ein Beethoven-Flügel in der Schweiz', Der Bund, no.469 (Berne, 3 Nov 1961), no.480 (10 Nov 1961)</ref>。 == 後世の音楽家への影響と評価 == ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、[[宮廷]]や有力[[貴族]]に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうした[[パトロン]]との主従関係(およびそのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。'''[[音楽家]]=[[芸術家]]'''であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でも[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]は、ベートーヴェンの[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、[[ロマン派音楽]]の急先鋒としてその理念をより押し進め、[[楽劇]]を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により[[音響]]効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な[[和声法]]を解体し、[[トリスタン和音]]に代表される革新的[[和声]]で[[調性]]を拡大した。 一方の[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]は、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には[[古典派音楽|古典派]]的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性は[[ロマン派]]以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]や[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、20世紀においては[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]、[[ヘルムート・ラッヘンマン|ラッヘンマン]]にまで影響を与えている。 == 芸術観 == 同時代のロマン派を代表する芸術家[[E.T.A.ホフマン]]は、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時の[[ロマン派]]の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くは[[ウィリアム・シェイクスピア]]らのものであり、本業の音楽ではバッハ、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]やモーツァルトなどから影響を受けた{{sfn|木之下|堀内|1996|p=85}}。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。[[原博 (作曲家)|原博]]は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り<ref>[[原博 (作曲家)|原博]]『無視された聴衆』アートユニオン、1996年。ISBN 978-4-9012-0901-4</ref>、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しないとしている。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 == 思想 == * ベートーヴェンは[[カトリック教会|カトリック]]であったが敬虔な[[キリスト教]]徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「[[イエス・キリスト|キリスト]]などただの[[磔]]にされた[[ユダヤ人]]にすぎない」と発言した。[[ホメロス]]や[[プラトン]]などの古代[[ギリシア]]思想に共感し、『[[バガヴァッド・ギーター]]』を読み込むなどして[[インド哲学]]に近づき、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]などの教養人にもみられる[[異端]]とされる[[汎神論]]的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった[[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|交響曲第10番]]においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]につながった。 * また哲学者[[イマヌエル・カント|カント]]の思想にも触れ、カントの講義に出席することも企画していたといわれる{{sfn|木之下|堀内|1996|p=85}}。また、[[1789年]]5月14日には、ボン・アカデミーの哲学部の学生として登録している{{sfn|ロックウッド|2010|p=51}}。 * 政治思想的には自由主義者であり、[[リベラル]]で進歩的な政治思想を持っていた{{efn|ルイス・ロックウッドは、「政治・芸術の自由は心から信奉していたが、革命に本気で傾倒していたわけではないし、自らのキャリアを伸ばすためには貴族の役割を容認しているようにみえる。」と述べている。}}。このことを隠さなかったため[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の[[ウィーン体制]]では反体制分子と見られた。 * 音楽学者ルイス・ロックウッドは「貴族階級と良い関係を続ける必要に縛られながらも、自ら決定できる社会的地位に就いていることに、凄まじい誇りを持っていた。」と述べている{{sfn|ロックウッド|2010|p=67}}。 * [[天文学]]についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やブロイニング家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにもかかわらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 == 人物 == === 身なり === 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。フォン・ベルンハルト夫人は「背が低く、醜く赤いあばた顔をした不器用な男。髪は真っ黒で、顔の周りにもじゃもじゃと垂れ下がっていた」と軽蔑的に述べている{{sfn|ロックウッド|2010|p=109}}。肌は浅黒く、[[天然痘]]の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。基本的に服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。フォン・ベルンハルト夫人は「服はとても平凡で、当時の流行とさほど違いはなかった」と回顧録に記している{{sfn|ロックウッド|2010|p=109}}。 弟子の[[カール・チェルニー|チェルニー]]は初めてベートーヴェンに会ったとき、「[[ロビンソン・クルーソー]]のよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上[[引越し]]を繰り返したことも知られている。 * 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでもほかのどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からもうかがえる。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]政権によるデマであるとする見解もある。 * 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 * 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人付きあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなど、しばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 ** 師[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]に、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられたときは、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 ** パトロンの[[カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー]]侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。([[1812年]])このような「場をまったくわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 ** また、後援者のリヒノフスキー家に下宿している際に正餐のために毎日4時に集まるように言われると、それを断り、「毎日、三時半に家に帰り、服を着替え、髭を剃ったりしなくてはならないのか?まっぴらごめんだ!」とヴェーゲラーに述べている{{sfn|ロックウッド|2010|p=111}}。 ** [[テプリツェ]]で[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]とともに散歩をしていたところ、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。のちにゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 * [[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、[[ピアノソナタ第17番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第17番]]が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」の[[アントン・シンドラー]]の著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 * 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、[[ロマン・ロラン]]をはじめ、彼を[[ヒーロー|英雄]]視・神格化する人々が多く生まれた。 * 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。[[テレーゼ・ブルンスヴィック ]]やその妹[[ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック]]などとする説があったが、現在では{{ill|メイナード・ソロモン|en|Maynard Solomon}}らが提唱する[[アントニー・ブレンターノ]]([[クレメンス・ブレンターノ]]らの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説がもっとも有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」<ref name="h">古山和男『秘密諜報員ベートーヴェン』新潮新書、2010年。ISBN 978-4-1061-0366-7</ref>のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 **これらは氷山の一角に過ぎず、20 - 30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年の[[フランツ・リスト]]がいる。 * [[メトロノーム]]の価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラヴィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 **彼は[[イタリア語]]ではなく、母語[[ドイツ語]]で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 *[[パン]]と生卵を入れて煮込んだ[[スープ]]や、[[魚料理]]に[[肉料理]]、[[マカロニ・アンド・チーズ|茹でたてのマカロニにチーズを和えたもの]]が大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物の[[トカイワイン]]を好んでいた。父親に似て大の酒好きであった。 * [[コーヒー]]は必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという<ref>{{Cite web|和書|date=2014年06月05日 16時30分 JST|url=https://www.huffingtonpost.jp/2014/06/04/9-famous-geniuses-who-were-also-huge-coffee-addicts_n_5443662.html|title=9人の偉人がコーヒー中毒だったなんて驚きだ|publisher=[[The Huffington Post]]|author=Amanda Scherker|accessdate=2017-8-20}}</ref>。 === 名前と日本語表記 === ベートーヴェンの母語である[[ドイツ語]]ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフン {{IPA-de|ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfn|-|De-Ludwig van Beethoven.ogg}}<ref name="duden"/>またはベートホーフェン {{IPA-de|ˈbeːthoːfən}}<ref>『現代独和辞典』[[三修社]]、1992年、第1354版。</ref>と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ヴァン・ベートーヴェン」と、「ヴァ」を「バ」に置き換えた「ベートーベン」という記述が浸透していき定着した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/maisho/articles/20201222/kei/00s/00s/012000c |title=疑問氷解:「ベートーベン」と「ベートーヴェン」。どちらの表記が正しいのでしょうか |website=毎日小学生新聞 |publisher=毎日新聞 |date=2020-12-22 |accessdate=2022-11-27}}</ref>。 姓に“[[ファン (前置詞)|van]]”がついているのは、ベートーヴェン家が[[ネーデルラント]]([[フランドル]])にルーツがあるためである(祖父の代に[[ボン]]に移住)。vanがつく著名人には、画家の[[ヤン・ファン・エイク|ファン・エイク]](van Eyck)、[[アンソニー・ヴァン・ダイク|ヴァン・ダイク]](van Dyck)、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ファン・ゴッホ]](van Gogh)などがいる。{{要出典|date=2020-3|van Beethovenは[[オランダ語]]でファン・ベートホーヴェあるいはファン・ベートホーヴェン {{IPA-nl|fɑm ˈbeːtɦoːvə(n)}}と発音される}}。 vanはドイツ語、[[オランダ語]]では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von([[フォン (前置詞)|フォン]])」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「[[テーブルビート|ビート]](Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在する<!--文聖張亜子・武聖関公・巧聖魯班・楽聖師曠をあわせて「四聖」と呼ぶなど-->が、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。たとえば[[3月26日]]の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 === ベートーヴェンとフリーメイソンリー === {{Main|フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン}} == 死因と健康について == {{see|ベートーヴェンの死}} 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓のほか、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い[[鉛]]が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属である。しかし、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のとおりである。 *ワインの甘味料として用いられた[[酢酸鉛]]とする説。 *1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 2023年、[[ケンブリッジ大学]]を中心とした国際研究チームにより毛髪の[[ゲノム解析]]が行われ、ベートーベンは死の1か月前に[[B型肝炎]]に感染しており、遺伝的に[[肝臓病]]になりやすい体質であったことが判明した<ref>[https://wired.jp/article/beethovens-hair-analyzed-for-causes-of-death/?utm_medium=social&utm_source=twitter ベートーベンは肝臓病になりやすい体質で、B型肝炎に感染していた:死後196年目のゲノム解析で明らかになったこと]Wired, 2023.03.24</ref><ref>[https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(23)00181-1#secsectitle0040 Genomic analyses of hair from Ludwig van Beethoven]Current Biology, March 22, 2023</ref>。 === 聴覚障害について === 難聴(40歳ごろには全聾{{要出典|date=2018年8月|title=ベートーヴェンの症状と「全聾(両耳の聴力が100dB以上)」は矛盾する。}}となった)の原因については諸説<ref>{{Cite book|和書|author=ジョン・オシエー|others=菅野弘之 訳|year=2007|month=11|title=音楽と病 病歴にみる大作曲家の姿|edition=新装版|series=HUPミュージックコレクション|publisher=[[法政大学出版局]]|isbn=978-4-588-41021-5}}</ref>ある。 ;[[耳硬化症]]説 :伝音性の難聴。[[中耳]]の[[耳小骨]]の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる病気。現代では手術で改善される。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声はまったく聞こえていなかったにもかかわらず、肖像画のモデルになっていた時、後ろでピアノを弾いていた甥のカールが失敗する度に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる<ref>{{Cite book|和書|editor=夢プロジェクト|title=名曲(クラシック)謎解きミステリー あのクラシックの名曲に隠された驚きの真実とは… |year=2007 |month=2 |publisher=河出書房新社 |series=(KAWADE夢文庫 |isbn=978-4-3094-9640-5 |pages=92-94 |chapter=耳の不自由なベートーヴェンが作曲できた秘密って?}}</ref>。これは耳硬化症に特有の、人の声はまったく聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動はわずかに感じ取ることができる性質にあると考えられる。 :また、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックでつなぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる(高度難聴以上は感音性難聴であり、骨導音の利用は無意味であるため)。 :医学的分析としては、これらの症状から導出された仮想オージオグラムと、実際の耳硬化症およびページェット病の顕微鏡写真との比較などから、耳科医の多数意見は耳硬化症であるとの論文<ref> Shearer, Patricia D. M.D., M.S. [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/2240185 "The deafness of Beethoven: an audiologic and medical overview."], ''American Journal of Otology. 11(5):370-374, September 1990.'', September 1990 </ref>があり、有力説となっている。 :なお、耳硬化症だとすると、伝音性難聴であり高度難聴や全聾になることは稀であり、現代の医学分類ではせいぜい中度難聴であると考えられる。 ;先天性[[梅毒]]説 :「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ([[水銀]]の可能性。当時[[梅毒]]の治療法の一つ)」という記述があるため、論拠とされている。しかし、のちにベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、また梅毒は[[眩暈]]の症状を併発するにもかかわらず、そうした話がないために、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 ;鉛中毒説 :上載の[[#死因と健康について|死因と健康について]]を参照。成人の低レベルの鉛への継続的被爆が聴覚障害を生むことはParkほかの論文<ref>Park, et al. [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2934752/ "Cumulative Lead Exposure and Age-related Hearing Loss: The VA Normative Aging Study"], "Hearing Research Volume 269, Issues 1–2, 1 October 2010, Pages 48-55"</ref>などで示されている。しかし、全聾というほど重篤なものに帰結するかは議論の余地がある。たとえば、前述のParkほかの論文では、30dB程度であり、軽度難聴である(ただし、この聴力だとすると、リストを褒めたなどのベートーヴェンの行動に説明がつく)。 ;メッテルニヒ政権対策(実際は全聾ではなかった)説 :21世紀の現代では、ベートーヴェンがその自由主義的な主張で[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]政権下では反体制分子と見られていたことを挙げて、難聴だったとしても全聾までは悪化しておらず、盗聴を防ぐために「[[ベートーヴェンの会話帳|筆談帳]]」を使った可能性も指摘されている。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく『秘密諜報員ベートーヴェン』<ref name="h"/>という書籍が出版された。 :この説については、たとえばベートーヴェン晩年の1823年4月13日にデビュー直後の[[フランツ・リスト|リスト]]{{efn|当時11歳の彼はベートーヴェンと縁のあるサリエリとチェルニーに師事していた。}}の演奏に臨み、彼を高く評価したエピソードが残っているが、耳硬化症による難聴ならばまだしも、全聾であればそういったことはできないという指摘や、「女中に卵を投げつけた」という類の有名な逸話も、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。<!--これも、失聴していればこの行動は可能ではない。←目が見えていれば必ずしも不可能ではないのでコメントアウト--> :また、完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に[[ウィリアム・ボイス|ボイス]]や[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]がいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいる{{efn|フォーレは聴覚障害になってからも30作以上は発表しているが、ベートーヴェンに比べれば少ない。}}のに対し、ベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている点も指摘される。 == 関連人物 == === 親族 === * 祖父:[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1712-1773)|ルートヴィヒ]](同姓同名) * 祖母:マリア・ヨゼファ * 父:[[ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン|ヨハン]] * 母:[[マリア・マグダレーナ・ヴァン・ベートーヴェン|マリア・マグダレーナ]] - ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 * 弟:カスパール・アントン・カール **甥:[[カール・ヴァン・ベートーヴェン|カール]] - カスパールの息子。[[1806年]]生まれ~[[1858年]]没。[[1826年]]にピストル自殺未遂事件を起こす。 * 弟:[[ニコラウス・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン|ニコラウス・ヨーハン]] 同姓同名の兄や妹2人がいるが、すぐに亡くなっている。 弟・カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン([[:de:Karl van Beethoven#Karl Julius Maria van Beethoven|Karl Julius Maria van Beethoven]]、[[1870年]][[5月8日]]生まれ)が[[1917年]][[12月10日]]に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 === 弟子 === * [[カール・チェルニー]] - 鍵盤楽器奏者・作曲家。 * [[フェルディナント・リース]] - [[ボン]]の鍵盤楽器奏者・作曲家。 * [[ルドルフ・ヨハネス・フォン・エスターライヒ|ルドルフ大公]] - ベートーヴェンの最大の[[パトロン]]。のちに[[オロモウツ|オルミュッツ]][[大司教]]。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 * [[ドロテア・フォン・エルトマン|ドロテア・エルトマン男爵夫人]] - [[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]と交流。 * [[アントン・シンドラー]] - 秘書だが、弟子とされることがある。 === 後援者 === * [[ゴットフリート・ファン・スヴィーテン|ヴァン・スヴィーテン男爵]] * [[フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン|フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵]] * [[フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ|フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ侯爵]] * [[ヨハン・ゲオルク・フォン・ブロウネ=カミュ|ヨハン・ゲオルク・フォン・ブロウネ伯爵]] * [[カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー|カール・リヒノフスキー侯爵]] * クリスティアーネ侯爵夫人 - カール・リヒノフスキー侯爵の妻。 * モーリツ・リヒノフスキー侯爵 - カール・リヒノフスキー侯爵の弟。 == 代表作 == {{main|ベートーヴェンの楽曲一覧}} === 交響曲(全9曲)=== {{columns-list|2| *[[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|第1番 ハ長調]] 作品21 *[[交響曲第2番 (ベートーヴェン)|第2番 ニ長調]] 作品36 *[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|第3番 変ホ長調 『エロイカ(英雄)』]] 作品55{{efn|name="大辞林"|[[大辞林]]第3版「ベートーベン」で代表作に挙げている。}}{{efn|name="大辞泉"|デジタル[[大辞泉]]「ベートーベン」で代表作に挙げている<ref>{{Cite Kotobank |word=ベートーベン |encyclopedia=デジタル大辞泉 |hash=#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |accessdate=2022-11-27}}</ref>。}} *[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|第4番 変ロ長調]] 作品60 *[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|第5番 ハ短調 (運命)]] 作品67 {{efn|name="大辞林"}}{{efn|name="大辞泉"}} *[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|第6番 ヘ長調 『田園』]] 作品68 {{efn|name="大辞林"}} *[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|第7番 イ長調]] 作品92 *[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|第8番 ヘ長調]] 作品93 *[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第9番 ニ短調 (合唱付き)]] 作品125 {{efn|name="大辞林"}}{{efn|name="大辞泉"}} === 管弦楽曲 === * [[レオノーレ序曲第1番|『レオノーレ』序曲第1番]] 作品138 * [[レオノーレ序曲第3番|『レオノーレ』序曲第3番]] 作品72b * 序曲『[[コリオラン]]』 作品62 * 『[[ウェリントンの勝利|ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い]]』 作品91 * 『[[アテネの廃墟]]』序曲 作品113 * 『[[命名祝日]]』序曲 作品115 * 『[[献堂式]]』序曲 作品124 === 協奏曲、協奏的作品=== *[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調『皇帝』]]作品73 {{efn|name="大辞林"}} *[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲 ニ長調]] 作品61 *[[ロマンス第1番 (ベートーヴェン)|ロマンス第1番]] ト長調 作品40 *[[ロマンス第2番 (ベートーヴェン)|ロマンス第2番]] ヘ長調 作品50 *[[三重協奏曲 (ベートーヴェン)|三重協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための)ハ長調]] 作品56 *[[合唱幻想曲|合唱幻想曲 ハ短調]] 作品80 === 室内楽曲 === *'''[[弦楽四重奏曲]]'''(全16曲) ** [[弦楽四重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|第7番 ヘ長調]](ラズモフスキー第1番) 作品59-1 ** [[弦楽四重奏曲第8番 (ベートーヴェン)|第8番 ホ短調]](ラズモフスキー第2番) 作品59-2 ** [[弦楽四重奏曲第9番 (ベートーヴェン)|第9番 ハ長調]](ラズモフスキー第3番) 作品59-3 ** [[弦楽四重奏曲第10番 (ベートーヴェン)|第10番 変ホ長調]](ハープ) 作品74 ** [[弦楽四重奏曲第11番 (ベートーヴェン)|第11番 ヘ短調]]『セリオーソ』 作品95 ** [[弦楽四重奏曲第12番 (ベートーヴェン)|第12番 変ホ長調]] 作品127 ** [[弦楽四重奏曲第13番 (ベートーヴェン)|第13番 変ロ長調]] 作品130 ** [[大フーガ (ベートーヴェン)|大フーガ 変ロ長調]] 作品133 ** [[弦楽四重奏曲第14番 (ベートーヴェン)|第14番 嬰ハ短調]] 作品131 ** [[弦楽四重奏曲第15番 (ベートーヴェン)|第15番 イ短調]] 作品132 ** [[弦楽四重奏曲第16番 (ベートーヴェン)|第16番 ヘ長調]] 作品135 *'''[[弦楽五重奏曲]]''' (全3曲) *'''[[ヴァイオリンソナタ]]'''(全10曲) ** [[ヴァイオリンソナタ第5番 (ベートーヴェン)|第5番 ヘ長調『春』]] 作品24 ** [[ヴァイオリンソナタ第9番 (ベートーヴェン)|第9番 イ長調『クロイツェル』]] 作品47 *'''[[チェロソナタ]]'''(全5曲) *'''[[ピアノ三重奏曲]]'''(全7曲) ** [[ピアノ三重奏曲第5番 (ベートーヴェン)|第5番 ニ長調『幽霊』]] 作品70-1 ** [[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|第7番 変ロ長調『大公』]] 作品97 *'''その他の室内楽曲''' ** [[ホルンソナタ (ベートーヴェン)|ホルン・ソナタ ヘ長調]] 作品17 ** [[六重奏曲 (ベートーヴェン)|六重奏曲]] 作品81b ** [[七重奏曲 (ベートーヴェン)|七重奏曲 変ホ長調]] 作品20 === ピアノ曲 === '''[[ピアノソナタ]]'''(全32曲) *[[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|第8番 ハ短調『悲愴』]] 作品13 *[[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|第14番 嬰ハ短調 『月光』]] 作品27-2 {{efn|name="大辞泉"}} *[[ピアノソナタ第15番 (ベートーヴェン)|第15番 ニ長調 『田園』]] *[[ピアノソナタ第17番 (ベートーヴェン)|第17番 ニ短調『テンペスト』]] 作品31-2 *[[ピアノソナタ第21番 (ベートーヴェン)|第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』]] 作品53 *[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|第23番 ヘ短調 『熱情』]] 作品57 {{efn|name="大辞林"}}{{efn|name="大辞泉"}} *[[ピアノソナタ第26番 (ベートーヴェン)|第26番 変ホ長調『告別』]] 作品81a *[[ピアノソナタ第29番 (ベートーヴェン)|第29番 変ロ長調『ハンマークラヴィーア』]] 作品106 *[[ピアノソナタ第30番 (ベートーヴェン)|第30番 ホ長調]] 作品109 *[[ピアノソナタ第31番 (ベートーヴェン)|第31番 変イ長調]] 作品110 *[[ピアノソナタ第32番 (ベートーヴェン)|第32番 ハ短調]] 作品111 '''その他のピアノ曲''' *[[エロイカ変奏曲|創作主題による15の変奏曲とフーガ]](エロイカ変奏曲)変ホ長調 作品35 *[[ディアベリ変奏曲|ディアベリのワルツによる33の変容]](ディアベリ変奏曲)ハ長調 作品120 *[[6つのバガテル (ベートーヴェン)|6つのバガテル]] 作品126 *[[アンダンテ・ファヴォリ]] ヘ長調 WoO.57 *[[創作主題による32の変奏曲]] ハ短調 WoO.80 *バガテル『[[エリーゼのために]]』 WoO.59 **本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 === オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 === *歌劇『[[フィデリオ]]』作品72c *劇付随音楽『[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]』作品84 *劇付随音楽『[[アテネの廃墟]]』作品113 *バレエ音楽『[[プロメテウスの創造物]]』作品43 *オラトリオ『[[オリーヴ山上のキリスト]]』作品85 *カンタータ『[[静かな海と楽しい航海 (ベートーヴェン)|静かな海と楽しい航海]]』作品112 === 宗教曲 === *[[ミサ曲 ハ長調 (ベートーヴェン)|ミサ曲 ハ長調]] 作品86 *[[ミサ・ソレムニス#ベートーヴェンのミサ・ソレムニス|ミサ・ソレムニス ニ長調]] {{efn|name="大辞林"}} === 歌曲 === *[[遥かなる恋人に|連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』]] 作品98 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|30em}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=青木やよひ|authorlink=青木やよひ|date=2009-12-15|title=ベートーヴェンの生涯|series=平凡社新書 502|publisher=平凡社|isbn=978-4-582-85502-9}} *{{Cite book|和書|author=木之下晃|authorlink=木之下晃|author2=堀内修|authorlink2=堀内修 (音楽評論家)|date=1996-11-25|title=ベートーヴェンへの旅|series=とんぼの本|publisher=新潮社|isbn=4-10-602052-1 |ref={{sfnref|木之下|堀内|1996}} }} *{{Cite book|和書|editor1-first=昭|editor1-last=平野|editorlink1-link=平野昭|editor2-first=英三郎|editor2-last=土田|editorlink2-link=土田英三郎|editor3-first=稔|editor3-last=西原|editorlink3-link=西原稔|year=1999|month=8|title=ベートーヴェン事典|series=全作品解説事典|publisher=東京書籍|isbn=4-487-73204-2|ref=平野&土田&西原1999}} *{{Cite book|和書|author=アントン・シントラー|authorlink=アントン・シントラー|others=[[柿沼太郎]] 訳|year=1969|title=ベートーヴェンの生涯|edition=改訂版|series=角川文庫|publisher=角川書店|ref=シントラー1969}} *{{Cite book|和書|author=ヴァルター・リーツラー|authorlink=ヴァルター・リーツラー|others=[[筧潤二]] 訳|year=1981|month=5|title=ベートーヴェン|edition=改訂新版|publisher=音楽之友社|isbn=4-276-22305-9|ref=リーツラー1981}} - 原タイトル: ''Beethoven. 11. Aufl.''。 *{{Cite book|和書|author=ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|authorlink=ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|others=[[芦津丈夫]] 訳|year=1996|month=12|title=[[音と言葉]]|edition=新装版|publisher=白水社|isbn=4-560-03728-0|ref=フルトヴェングラー1996}} - 原タイトル:''Ton und Wort''。 *{{Cite book|和書|author=バリー・クーパー原著監修|authorlink=バリー・クーパー|others=[[平野昭]]・[[西原稔]]・[[横原千史]] 訳|year=1997|month=12|title=ベートーヴェン大事典|publisher=平凡社|isbn=4-582-10922-5|ref=クーパー1997}} - 原タイトル: ''The Beethoven Compendium''。 *{{Cite book|和書|author=ハインリヒ・シェンカー|authorlink=ハインリヒ・シェンカー|others=[[野口剛夫]] 訳|year=2000|month=2|title=ベートーヴェン第5交響曲の分析|publisher=音楽之友社|isbn=4-276-13122-7}} *{{Cite book|和書|author=パウル・ベッカー|authorlink=パウル・ベッカー|others=[[大田黒元雄]] 訳|year=1970|title=ベートーヴェン|publisher=音楽之友社|ref=ベッカー1970}} *{{Cite book|和書|author=ルイス・ロックウッド|authorlink=ルイス・ロックウッド|date=2010-11-30|title=ベートーヴェン 音楽と生涯|others=土本英三郎・藤本一子[監訳]、沼口隆・堀朋平[訳]|publisher=春秋社|isbn=978-4-393-93170-7|ref={{SfnRef|ロックウッド|2010}} }} *{{Cite book|和書|author=ロマン・ロラン|authorlink=ロマン・ロラン|others=[[片山敏彦]] 訳|year=1965|title=ベートーヴェンの生涯|edition=改版|series=岩波文庫 赤556-2|publisher=岩波書店|isbn=4-00-325562-3|ref=ロラン1965}} *ベートーヴェン「[https://www.project-archive.org/0/013.html ハイリゲンシュタットの遺書]」(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳内) *{{Cite book|first=Heinrich|last=Schenker|authorlink=ハインリヒ・シェンカー|year=|month=|title=Monographie über Beethovens neunte Sinfonie|publisher=|isbn=|ref=Schenker}} *{{Cite book|first=Alexander Wheelock|last=Thayer|year=2012|month=January|title=Ludwig van Beethovens Leben|publisher=Nabu Press|isbn=978-1-2727-7180-5|ref=Thayer2012}} *{{Cite book|first=Richard|last=Wagner|authorlink=リヒャルト・ワーグナー|date=June 2000|title=Beethoven|publisher=Adamant Media Corporation|isbn=978-1-4212-3760-2|ref=Wagner2000}} == 関連項目 == *[[ベートーヴェンの楽曲一覧]] **[[Hess番号]] *[[ベートーヴェンの関連作品]] *[[ボン・ベートーヴェン音楽祭]] *[[不滅の恋人]] *[[ベートーヴェン記念碑]] *[[ベートーヴェン (小惑星)]] *[[GRB 991216]] - 「ベートーヴェンバースト」の別名を持つ[[ガンマ線バースト]] *[[ベートーヴェンとモーツァルト]] * [[ベートーヴェン・ハウス]] - ボンの町にある博物館。ベートーヴェンが使用していた4個の[[補聴器]](Beethoven’s Ear Trumpets)などが展示されている。 == 外部リンク == {{Commons&cat}} {{Wikiquote|ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン}} {{Wikisource author|wslanguage=ja}} * {{青空文庫著作者|1702|ベートーヴェン ルートヴィヒ・ヴァン}} * [https://www.project-archive.org/0/013.html ベートーヴェン「ハイリゲンシュタットの遺書」(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳内]) - ARCHIVE * {{PTNA2|persons|302|ベートーヴェン/Beethoven, Ludwig van}} * {{IMSLP|id=Beethoven, Ludwig van}} * [[choralwiki:Ludwig van Beethoven|CPDL内に掲載のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのページ。]] - CPDL: The Choral Public Domain Library 〔合唱(声楽)関連の楽譜が無料で入手可能〕 * {{Kotobank|ベートーベン}} * [[imdbtitle:11496350|Louis van Beethoven Movie (2020)]] * [https://sites.google.com/view/beethovenkreis/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0 日本ベートーヴェンクライス] === 録音ファイル === * [https://archive.org/search.php?query=Beethoven%20AND%20(date%3A%5b1850%20TO%201945%5d%20OR%20collection%3A(78rpm)%20OR%20mediatype%3A(78rpm)%20OR%20collection%3Acylindertransfer)%20AND%20mediatype%3Aaudio Internet Archive Search: Beethoven AND (date:[1850 TO 1945&#93; OR collection:(78rpm) OR mediatype:(78rpm) OR collection:cylindertransfer)] 著作権切れ録音のmp3ファイル * [https://classical-music-online.net/en/composer/Beethoven/33 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽] *Ronald Brautigam. Ludwig van Beethoven. [https://bis.se/performers/brautigam-ronald/beethoven-complete-works-for-solo-piano-vol2 Complete Works for Solo Piano]. Played on copies of Walter, Stein and Graf pianos made by Paul McNulty. *Malcolm Bilson, Tom Beghin, David Breitman, Ursula Dütschler, Zvi Meniker, Bart van Oort, Andrew Willis. Ludwig van Beethoven. [https://www.claves.ch/collections/ursula-dutschler/products/cd-9707-10 The complete Piano Sonatas on Period Instruments].   *Robert Levin, John Eliot Gardiner. Ludwig van Beethoven. Piano Concertos. Played on a copy of a Walter instrument  made by Paul McNulty. *András Schiff. Ludwig van Beethoven. [https://rateyourmusic.com/release/album/andras-schiff/beethovens-broadwood-piano/ Beethoven’s Broadwood Piano]. === 伝記 === * {{青空文庫|001093|54931|新字新仮名|ベートーヴェンの生涯}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へえとおうえん るうとういひ うあん}} [[Category:ベートーヴェン|!]] [[Category:ベートーヴェン家|るとういひ]] [[Category:在オーストリア・ドイツ人]] [[Category:18世紀の音楽家]] [[Category:19世紀の音楽家]] [[Category:ドイツの作曲家]] [[Category:オーストリアの作曲家]] [[Category:古典派の作曲家]] [[Category:ロマン派の作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:18世紀ドイツの人物]] [[Category:19世紀ドイツの人物]] [[Category:聴覚障害を持つ人物]] [[Category:ウィーン中央墓地に埋葬された人物]] [[Category:ボン出身の人物]] [[Category:1770年生]] [[Category:1827年没]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3
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計算可能性理論
計算可能性理論(けいさんかのうせいりろん、英: computability theory)とは、チューリングマシンなどの計算模型でいかなる計算問題が解けるか、またより抽象的に、計算可能な問題のクラスがいかなる構造をもっているかを調べる、計算理論や数学の一分野である。 理論計算機科学の中心的課題の1つとして、コンピュータを使って解ける問題の範囲を理解することでコンピュータの限界に対処する、ということがあった。コンピュータは無限の計算能力を持つと思われがちだし、十分な時間さえ与えられればどんな問題も解けると想像することは易しい。しかし間違っており、そのことは「チューリングマシンの停止問題」の否定的解決として示された。以下では、そこに至る過程とそこから先の発展を述べる。 計算可能性理論では、次の質問に答えることでコンピュータの能力を明らかにする。すなわち「ある形式言語と文字列が与えられたとき、その文字列はその形式言語に含まれるか?」である。この質問はやや難解なので、もう少し判り易く例を挙げる。まず、全ての素数を表す数字列の集合を言語として定義する。入力文字列がその形式言語に含まれるかどうかという質問は、この場合、その数が素数であるかを問うのと同じことである。同様に、全ての回文の集合や、文字 'a' だけからなる全ての文字列の集合などが形式言語の例である。これらの例では、それぞれの問題を解くコンピュータの構築の容易さが言語によって異なることは明白である。 しかし、この観測された明白な違いはどういう意味で正確なのか? ある特定の問題をコンピュータで解く際の困難さの度合いを定式化し定義できるか? その質問に答えるのが計算可能性理論の目標である。 計算可能性理論の中心課題に答えるために、「コンピュータとは何か」を形式的に定義する必要がある。利用可能な計算モデルはいくつか存在する。以下に代表例を挙げる。 これらの計算モデルについて、その限界を定めることができる。すなわち、どのクラスの形式言語をその計算モデルは受容するか、である。 有限状態機械が受容する言語のクラスを正規言語と呼び、正規文法で記述される。有限状態機械が持つことができる状態は有限個であるためであり、正規言語でない言語を扱うには無限の状態数を扱える必要がある。 正規言語でない言語の例として、文字 'a' と 'b' から構成され、各文字列に必ず 'a' と 'b' が同数含まれている言語がある。この言語が有限状態機械で認識できない理由を調べるため、まずこの言語を受容するための有限状態機械 M {\displaystyle M} があるとする。 M {\displaystyle M} は n {\displaystyle n} 個の状態を持つとする。ここで、文字列 x {\displaystyle x} が ( n + 1 ) {\displaystyle (n+1)} 個の 'a' の後に ( n + 1 ) {\displaystyle (n+1)} 個の 'b' があるような構成であるとする。 M {\displaystyle M} の状態数は n {\displaystyle n} しかないため、 x {\displaystyle x} を入力としたときに最初の 'a' が連続する部分の長さが ( n + 1 ) {\displaystyle (n+1)} であることから、鳩の巣原理により、何らかの状態を繰り返すことになる。 ( n + 1 ) {\displaystyle (n+1)} 個の 'a' を読み込んだ状態 S {\displaystyle S} が 'a' を d {\displaystyle d} 個読み込んだ時に再度現われるとする( d > 0 {\displaystyle d>0} とする)。つまり、 ( n + d + 1 ) {\displaystyle (n+d+1)} 個の 'a' を読み込んだときと ( n + 1 ) {\displaystyle (n+1)} 個の 'a' を読み込んだときの状態が区別されない。従って、 M {\displaystyle M} が x {\displaystyle x} を受容するなら、その機械は ( n + d + 1 ) {\displaystyle (n+d+1)} 個の 'a' と ( n + 1 ) {\displaystyle (n+1)} 個の 'b' からなる文字列も受容してしまう。しかしその文字列は 'a' と 'b' が同数でないため、言語の定義からは受容してはいけない文字列なのである。 従って、この言語は有限状態機械では正しく受容できず、正規言語ではないということになる。これを一般化したものを正規言語の反復補題と呼び、各種言語クラスが有限状態機械で認識できないことを示すのに使われる。 この言語を認識できるプログラムは簡単に書けると思われるかもしれない。そして、現在のコンピュータは有限状態機械でモデル化できると上に書いてある。もちろんプログラムは書けるが、この問題の本質はメモリ容量の限界の見極めにある。非常に長い文字列を与えられた場合、コンピュータのメモリ容量が足りなくなって入力文字数を数えられなくなり、オーバーフローするだろう。その意味で、現代のコンピュータは有限状態機械と同じと言える。したがって、この言語の文字列の大部分は認識できるとしても、必ず認識できない文字列が存在する。 プッシュダウン・オートマトンが受容する言語のクラスを文脈自由言語と呼び、文脈自由文法によって記述される。正規言語でないとされた 'a' と 'b' を同数含む文字列からなる言語はプッシュダウン・オートマトンで判定可能である。また一般に、プッシュダウン・オートマトンを有限状態機械のように動作させることもできるので、正規言語も判定可能である。従ってこの計算モデルは有限状態機械よりも強力である。 しかし、プッシュダウン・オートマトンでも判定できない言語がある。その詳細は(正規言語のときとあまり変わらないので)ここでは述べない。文脈自由言語の反復補題も存在する。例えば、素数の集合からなる言語がその例である。 チューリングマシンは任意の文脈自由言語を判定できるだけでなく、プッシュダウン・オートマトンが判定できない言語(例えば素数の集合からなる言語)も判定可能である。したがってチューリングマシンはさらに強力な計算モデルと言うことができる。 チューリングマシンでは、入力テープに「バックアップ」を置くことができるため、上で説明した計算モデルには不可能な方法で動作可能である。入力に対して停止しないチューリングマシンを構築することもできる。チューリングマシンはあらゆる入力について停止して答え(言語と入力の判定)を返す機械である。このようにチューリングマシンが必ず停止する言語クラスを帰納言語と呼ぶ。ある言語に含まれる文字列を与えられたときには停止するが、その言語に含まれない文字列を与えられたときに停止しない可能性があるというチューリングマシンもある。このような言語を帰納的可算言語と呼ぶ。 チューリングマシンは非常に強力な計算モデルである。チューリングマシンの定義を修正してより強力なモデルを作ろうとしても失敗する。例えば、1次元だったテープを2次元や3次元に拡張したチューリングマシンや、複数のテープを持つチューリングマシンなどが考えられるが、いずれも1次元の1個のテープを持つチューリングマシンでシミュレート可能であることが判っている。つまり、それらのモデルの能力は通常のチューリングマシンと同じである。実際、チャーチ=チューリングのテーゼでは、チューリングマシンで判定できない言語を判定可能な計算モデルはないと推定されている。様々な人々がチューリングマシンよりも強力だという計算モデルを提案してきた。しかし、それらは非現実的であるか不合理である(下記参照)。 従ってチューリングマシンは計算可能性の限界に関する広範囲な問題を解析する強力な手法である。そこで次の疑問が生まれる。「帰納的可算だが帰納でない言語はあるのか?」である。また、「帰納的可算でもない言語はあるのか?」という疑問も生まれる。 停止問題は計算機科学の重要な問題の1つであり、計算可能性理論だけでなく日々のコンピュータの利用にも深い意味を持っている。停止問題を簡単に述べると次のようになる: ここでチューリングマシンが判定しようとするのは素数や回文といった単純な問題ではなく、チューリングマシンで他のチューリングマシンに関する質問への答えを得ようとしているのである。詳しくは主項目(チューリングマシンの停止問題)を参照してもらうとして、結論としてこの問いに(あらゆる場合に)答えられるチューリングマシンは構築できない。 すなわち、あるプログラムとその入力があったとき、それが停止するかどうかは単にそのプログラムを実行してみるしかないということになる。そして、停止すれば停止することがわかる。停止しない場合は、それがいつか停止するのか、それとも停止せずに永遠に動作するのかは判らない。あらゆるチューリングマシンに関する記述とあらゆる入力の停止する全組合せからなる言語は帰納言語ではない。従って、停止問題は計算不能または判定不能と呼ばれる。 停止問題を拡張したライスの定理では、言語が特定の自明な特性を持つかどうかは(一般に)判定不能であるとされる。 しかし、停止しないチューリングマシンの記述を入力として与えられたとき、それを判定するチューリングマシンが永遠に動作することを許容するなら、停止問題は一応解決する。従って、停止問題判定は帰納的可算言語である。しかし、帰納的可算ですらない言語も存在する。 そのような言語の単純な例は、停止判定の補問題である。つまり、全てのチューリングマシンとそれらが停止しない入力の全組合せからなる言語である。この言語が帰納的可算言語でないことを示すため、そのような全チューリングマシンについて停止して答えを返すチューリングマシン M {\displaystyle M} を構築することを考える。このマシンはチューリングマシンとその入力の組合せが停止する場合は永遠に動作し続ける。そして、このマシンの動作をシミュレートするチューリングマシン M ′ {\displaystyle M'} を考える。つまり、入力として M {\displaystyle M} の記述とその入力(別のチューリングマシンの記述とその入力)が与えられる。さらにタイムシェアリングによって M ′ {\displaystyle M'} は M {\displaystyle M} の入力(あるチューリングマシンとその入力)も並行して実行するものとする。 M {\displaystyle M} の入力であるチューリングマシンの記述と入力が停止しない組合せの場合、 M {\displaystyle M} は停止し、そのシミュレーションも停止することになる。従って、 M ′ {\displaystyle M'} は一方のスレッドが停止し、もう一方が停止しないことから停止問題の判定機能を備えることになる。しかし、既に示したように停止問題は判定不能である。この矛盾により、 M {\displaystyle M} が存在するという仮定が誤っていたことがわかる。以上から停止判定言語の補問題は帰納的可算言語ではないことがわかる。 チャーチ=チューリングのテーゼでは、チューリングマシンよりも強力な計算モデルは存在しないと推測した。ここでは、その推定に反する「不合理」な計算モデルの例をいくつか示す。計算機科学者は様々な「ハイパーコンピュータ」を想像してきた(ここでいうハイパーコンピュータとは、スーパーコンピュータのさらに高性能なものという意味ではない)。 計算の各ステップが前のステップの半分の時間しかかからない機械を考える。第一ステップにかかる時間を 1 に正規化すると、実行にかかる時間は となる。この無限数列の総和は 2 に近づいていく。つまり、このチューリングマシンは 2 単位の時間内に無限の処理を実行できる。この機械は、対象となる機械の実行を直接シミュレーションすることで停止問題の判定が可能である。 神託機械とは、特定の決定不能な問題への解を「神託」として与える機械である。例えば、チューリングマシンに「停止問題の神託機械」が付属していれば、与えられた入力についてそのチューリングマシンが停止するかどうかは即座に判定できる。このような機械は再帰理論の中心的話題である。 これらのマシンにも限界はある。あるチューリングマシンの停止問題を解くことができるとしても、それらの機械自身の停止問題は解くことが出来ない。つまり、神託機械は、ある神託機械が停止するかどうかに答えることはできない。 アロンゾ・チャーチとスティーブン・コール・クリーネが開発したラムダ計算により、計算可能性理論の定式化に重要な役割を果たした。アラン・チューリングは現代計算機科学の父とされる人物であり、チューリングマシンなど計算可能性理論にも数々の重要な足跡を残している(、1936年)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "計算可能性理論(けいさんかのうせいりろん、英: computability theory)とは、チューリングマシンなどの計算模型でいかなる計算問題が解けるか、またより抽象的に、計算可能な問題のクラスがいかなる構造をもっているかを調べる、計算理論や数学の一分野である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "理論計算機科学の中心的課題の1つとして、コンピュータを使って解ける問題の範囲を理解することでコンピュータの限界に対処する、ということがあった。コンピュータは無限の計算能力を持つと思われがちだし、十分な時間さえ与えられればどんな問題も解けると想像することは易しい。しかし間違っており、そのことは「チューリングマシンの停止問題」の否定的解決として示された。以下では、そこに至る過程とそこから先の発展を述べる。", "title": "はじめに" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "計算可能性理論では、次の質問に答えることでコンピュータの能力を明らかにする。すなわち「ある形式言語と文字列が与えられたとき、その文字列はその形式言語に含まれるか?」である。この質問はやや難解なので、もう少し判り易く例を挙げる。まず、全ての素数を表す数字列の集合を言語として定義する。入力文字列がその形式言語に含まれるかどうかという質問は、この場合、その数が素数であるかを問うのと同じことである。同様に、全ての回文の集合や、文字 'a' だけからなる全ての文字列の集合などが形式言語の例である。これらの例では、それぞれの問題を解くコンピュータの構築の容易さが言語によって異なることは明白である。", "title": "はじめに" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、この観測された明白な違いはどういう意味で正確なのか? ある特定の問題をコンピュータで解く際の困難さの度合いを定式化し定義できるか? その質問に答えるのが計算可能性理論の目標である。", "title": "はじめに" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "計算可能性理論の中心課題に答えるために、「コンピュータとは何か」を形式的に定義する必要がある。利用可能な計算モデルはいくつか存在する。以下に代表例を挙げる。", "title": "計算の形式モデル" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これらの計算モデルについて、その限界を定めることができる。すなわち、どのクラスの形式言語をその計算モデルは受容するか、である。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "有限状態機械が受容する言語のクラスを正規言語と呼び、正規文法で記述される。有限状態機械が持つことができる状態は有限個であるためであり、正規言語でない言語を扱うには無限の状態数を扱える必要がある。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "正規言語でない言語の例として、文字 'a' と 'b' から構成され、各文字列に必ず 'a' と 'b' が同数含まれている言語がある。この言語が有限状態機械で認識できない理由を調べるため、まずこの言語を受容するための有限状態機械 M {\\displaystyle M} があるとする。 M {\\displaystyle M} は n {\\displaystyle n} 個の状態を持つとする。ここで、文字列 x {\\displaystyle x} が ( n + 1 ) {\\displaystyle (n+1)} 個の 'a' の後に ( n + 1 ) {\\displaystyle (n+1)} 個の 'b' があるような構成であるとする。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "M {\\displaystyle M} の状態数は n {\\displaystyle n} しかないため、 x {\\displaystyle x} を入力としたときに最初の 'a' が連続する部分の長さが ( n + 1 ) {\\displaystyle 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"この言語を認識できるプログラムは簡単に書けると思われるかもしれない。そして、現在のコンピュータは有限状態機械でモデル化できると上に書いてある。もちろんプログラムは書けるが、この問題の本質はメモリ容量の限界の見極めにある。非常に長い文字列を与えられた場合、コンピュータのメモリ容量が足りなくなって入力文字数を数えられなくなり、オーバーフローするだろう。その意味で、現代のコンピュータは有限状態機械と同じと言える。したがって、この言語の文字列の大部分は認識できるとしても、必ず認識できない文字列が存在する。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プッシュダウン・オートマトンが受容する言語のクラスを文脈自由言語と呼び、文脈自由文法によって記述される。正規言語でないとされた 'a' と 'b' を同数含む文字列からなる言語はプッシュダウン・オートマトンで判定可能である。また一般に、プッシュダウン・オートマトンを有限状態機械のように動作させることもできるので、正規言語も判定可能である。従ってこの計算モデルは有限状態機械よりも強力である。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかし、プッシュダウン・オートマトンでも判定できない言語がある。その詳細は(正規言語のときとあまり変わらないので)ここでは述べない。文脈自由言語の反復補題も存在する。例えば、素数の集合からなる言語がその例である。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "チューリングマシンは任意の文脈自由言語を判定できるだけでなく、プッシュダウン・オートマトンが判定できない言語(例えば素数の集合からなる言語)も判定可能である。したがってチューリングマシンはさらに強力な計算モデルと言うことができる。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "チューリングマシンでは、入力テープに「バックアップ」を置くことができるため、上で説明した計算モデルには不可能な方法で動作可能である。入力に対して停止しないチューリングマシンを構築することもできる。チューリングマシンはあらゆる入力について停止して答え(言語と入力の判定)を返す機械である。このようにチューリングマシンが必ず停止する言語クラスを帰納言語と呼ぶ。ある言語に含まれる文字列を与えられたときには停止するが、その言語に含まれない文字列を与えられたときに停止しない可能性があるというチューリングマシンもある。このような言語を帰納的可算言語と呼ぶ。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "チューリングマシンは非常に強力な計算モデルである。チューリングマシンの定義を修正してより強力なモデルを作ろうとしても失敗する。例えば、1次元だったテープを2次元や3次元に拡張したチューリングマシンや、複数のテープを持つチューリングマシンなどが考えられるが、いずれも1次元の1個のテープを持つチューリングマシンでシミュレート可能であることが判っている。つまり、それらのモデルの能力は通常のチューリングマシンと同じである。実際、チャーチ=チューリングのテーゼでは、チューリングマシンで判定できない言語を判定可能な計算モデルはないと推定されている。様々な人々がチューリングマシンよりも強力だという計算モデルを提案してきた。しかし、それらは非現実的であるか不合理である(下記参照)。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "従ってチューリングマシンは計算可能性の限界に関する広範囲な問題を解析する強力な手法である。そこで次の疑問が生まれる。「帰納的可算だが帰納でない言語はあるのか?」である。また、「帰納的可算でもない言語はあるのか?」という疑問も生まれる。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "停止問題は計算機科学の重要な問題の1つであり、計算可能性理論だけでなく日々のコンピュータの利用にも深い意味を持っている。停止問題を簡単に述べると次のようになる:", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ここでチューリングマシンが判定しようとするのは素数や回文といった単純な問題ではなく、チューリングマシンで他のチューリングマシンに関する質問への答えを得ようとしているのである。詳しくは主項目(チューリングマシンの停止問題)を参照してもらうとして、結論としてこの問いに(あらゆる場合に)答えられるチューリングマシンは構築できない。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "すなわち、あるプログラムとその入力があったとき、それが停止するかどうかは単にそのプログラムを実行してみるしかないということになる。そして、停止すれば停止することがわかる。停止しない場合は、それがいつか停止するのか、それとも停止せずに永遠に動作するのかは判らない。あらゆるチューリングマシンに関する記述とあらゆる入力の停止する全組合せからなる言語は帰納言語ではない。従って、停止問題は計算不能または判定不能と呼ばれる。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "停止問題を拡張したライスの定理では、言語が特定の自明な特性を持つかどうかは(一般に)判定不能であるとされる。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、停止しないチューリングマシンの記述を入力として与えられたとき、それを判定するチューリングマシンが永遠に動作することを許容するなら、停止問題は一応解決する。従って、停止問題判定は帰納的可算言語である。しかし、帰納的可算ですらない言語も存在する。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "そのような言語の単純な例は、停止判定の補問題である。つまり、全てのチューリングマシンとそれらが停止しない入力の全組合せからなる言語である。この言語が帰納的可算言語でないことを示すため、そのような全チューリングマシンについて停止して答えを返すチューリングマシン M {\\displaystyle M} を構築することを考える。このマシンはチューリングマシンとその入力の組合せが停止する場合は永遠に動作し続ける。そして、このマシンの動作をシミュレートするチューリングマシン M ′ {\\displaystyle M'} を考える。つまり、入力として M {\\displaystyle M} の記述とその入力(別のチューリングマシンの記述とその入力)が与えられる。さらにタイムシェアリングによって M ′ {\\displaystyle M'} は M {\\displaystyle M} の入力(あるチューリングマシンとその入力)も並行して実行するものとする。 M {\\displaystyle M} の入力であるチューリングマシンの記述と入力が停止しない組合せの場合、 M {\\displaystyle M} は停止し、そのシミュレーションも停止することになる。従って、 M ′ {\\displaystyle M'} は一方のスレッドが停止し、もう一方が停止しないことから停止問題の判定機能を備えることになる。しかし、既に示したように停止問題は判定不能である。この矛盾により、 M {\\displaystyle M} が存在するという仮定が誤っていたことがわかる。以上から停止判定言語の補問題は帰納的可算言語ではないことがわかる。", "title": "計算モデルの能力" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "チャーチ=チューリングのテーゼでは、チューリングマシンよりも強力な計算モデルは存在しないと推測した。ここでは、その推定に反する「不合理」な計算モデルの例をいくつか示す。計算機科学者は様々な「ハイパーコンピュータ」を想像してきた(ここでいうハイパーコンピュータとは、スーパーコンピュータのさらに高性能なものという意味ではない)。", "title": "不合理な計算モデル" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "計算の各ステップが前のステップの半分の時間しかかからない機械を考える。第一ステップにかかる時間を 1 に正規化すると、実行にかかる時間は", "title": "不合理な計算モデル" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "となる。この無限数列の総和は 2 に近づいていく。つまり、このチューリングマシンは 2 単位の時間内に無限の処理を実行できる。この機械は、対象となる機械の実行を直接シミュレーションすることで停止問題の判定が可能である。", "title": "不合理な計算モデル" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "神託機械とは、特定の決定不能な問題への解を「神託」として与える機械である。例えば、チューリングマシンに「停止問題の神託機械」が付属していれば、与えられた入力についてそのチューリングマシンが停止するかどうかは即座に判定できる。このような機械は再帰理論の中心的話題である。", "title": "不合理な計算モデル" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これらのマシンにも限界はある。あるチューリングマシンの停止問題を解くことができるとしても、それらの機械自身の停止問題は解くことが出来ない。つまり、神託機械は、ある神託機械が停止するかどうかに答えることはできない。", "title": "不合理な計算モデル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アロンゾ・チャーチとスティーブン・コール・クリーネが開発したラムダ計算により、計算可能性理論の定式化に重要な役割を果たした。アラン・チューリングは現代計算機科学の父とされる人物であり、チューリングマシンなど計算可能性理論にも数々の重要な足跡を残している(、1936年)。", "title": "歴史" } ]
計算可能性理論とは、チューリングマシンなどの計算模型でいかなる計算問題が解けるか、またより抽象的に、計算可能な問題のクラスがいかなる構造をもっているかを調べる、計算理論や数学の一分野である。
{{複数の問題 |参照方法=2017年10月 |出典の明記=2021年3月}} {{重複|dupe=再帰理論|date=2023-12}} '''計算可能性理論'''(けいさんかのうせいりろん、{{lang-en-short|computability theory}})とは、[[チューリングマシン]]などの[[計算模型]]でいかなる計算問題が解けるか、またより抽象的に、計算可能な問題のクラスがいかなる構造をもっているかを調べる、[[計算理論]]や[[数学]]の一分野である。<!-- 計算可能性は[[計算複雑性]]の特殊なものともいえるが、ふつう複雑性理論といえば[[チューリングマシン|計算可能関数]]のうち計算資源を制限して解ける問題を対象とするのに対し、計算可能性理論は、計算可能関数またはより大きな問題クラスを主に扱う。 --><!-- どちらかというと、明確に問題クラスが異なる分野である、という気がしますが…… --> == はじめに == [[理論計算機科学]]の中心的課題の1つとして、コンピュータを使って解ける問題の範囲を理解することでコンピュータの限界に対処する、ということがあった。コンピュータは無限の計算能力を持つと思われがちだし、十分な時間さえ与えられればどんな問題も解けると想像することは易しい。しかし間違っており、そのことは「チューリングマシンの[[停止性問題|停止問題]]」の否定的解決として示された。以下では、そこに至る過程とそこから先の発展を述べる。 計算可能性理論では、次の質問に答えることでコンピュータの能力を明らかにする。すなわち「ある[[形式言語]]と文字列が与えられたとき、その文字列はその形式言語に含まれるか?」である。この質問はやや難解なので、もう少し判り易く例を挙げる。まず、全ての素数を表す数字列の集合を言語として定義する。入力文字列がその形式言語に含まれるかどうかという質問は、この場合、その数が素数であるかを問うのと同じことである。同様に、全ての[[回文]]の集合や、文字 'a' だけからなる全ての文字列の集合などが形式言語の例である。これらの例では、それぞれの問題を解くコンピュータの構築の容易さが言語によって異なることは明白である。 しかし、この観測された明白な違いはどういう意味で正確なのか? ある特定の問題をコンピュータで解く際の困難さの度合いを定式化し定義できるか? その質問に答えるのが計算可能性理論の目標である。 == 計算の形式モデル == 計算可能性理論の中心課題に答えるために、「コンピュータとは何か」を形式的に定義する必要がある。利用可能な[[計算模型|計算モデル]]はいくつか存在する。以下に代表例を挙げる。 ; [[決定性有限オートマトン|決定性有限状態機械]] : 決定性有限オートマトン(DFA)、あるいは単に有限状態機械とも呼ぶ。単純な計算モデルである。現在、実際に使われているコンピュータは、有限状態機械としてモデル化できる。この機械は状態の集合を持ち、入力列によって働く状態遷移の集合を持つ。一部の状態は受容状態と呼ばれる。入力列は一度に1文字ずつ機械に入力され、現在状態から状態遷移先への遷移条件と入力が比較され、マッチングするものがあればその状態が新たな状態となる。入力列が終了したとき機械が受容状態にあれば、全入力列が受容されたということができる。 ; [[プッシュダウン・オートマトン]] : 有限状態機械に似ているが、任意のサイズに成長可能な実行[[スタック]]を利用可能である点が異なる。状態遷移の際に記号をスタックに積むかスタックから記号を除くかを指定できる。 ; [[チューリングマシン]] : これも有限状態機械に似ているが、入力が「テープ」の形式になっていて、読むだけでなく書くこともでき、テープを送ったり巻き戻したりして読み書きの位置を決めることができる。テープのサイズは任意である。チューリングマシンは時間さえかければ、かなり複雑な問題も解くことができる。このモデルは計算機科学では最も重要な計算モデルであり、資源の限界がない計算をシミュレートしたものである。 == 計算モデルの能力 == これらの計算モデルについて、その限界を定めることができる。すなわち、どのクラスの[[形式言語]]をその計算モデルは受容するか、である。 === 有限状態機械の能力 === 有限状態機械が受容する言語のクラスを'''[[正規言語]]'''と呼び、'''[[正規文法]]'''で記述される。有限状態機械が持つことができる状態は有限個であるためであり、正規言語でない言語を扱うには無限の状態数を扱える必要がある。 正規言語でない言語の例として、文字 'a' と 'b' から構成され、各文字列に必ず 'a' と 'b' が同数含まれている言語がある。この言語が有限状態機械で認識できない理由を調べるため、まずこの言語を受容するための有限状態機械 <math>M</math> があるとする。<math>M</math> は <math>n</math> 個の状態を持つとする。ここで、文字列 <math>x</math> が <math>(n+1)</math> 個の 'a' の後に <math>(n+1)</math> 個の 'b' があるような構成であるとする。 <math>M</math> の状態数は <math>n</math> しかないため、<math>x</math> を入力としたときに最初の 'a' が連続する部分の長さが<math>(n+1)</math>であることから、[[鳩の巣原理]]により、何らかの状態を繰り返すことになる。<math>(n+1)</math> 個の 'a' を読み込んだ状態 <math>S</math> が 'a' を <math>d</math> 個読み込んだ時に再度現われるとする(<math>d > 0</math>とする)。つまり、<math>(n+d+1)</math> 個の 'a' を読み込んだときと <math>(n+1)</math> 個の 'a' を読み込んだときの状態が区別されない。従って、<math>M</math> が <math>x</math> を受容するなら、その機械は <math>(n+d+1)</math> 個の 'a' と <math>(n+1)</math> 個の 'b' からなる文字列も受容してしまう。しかしその文字列は 'a' と 'b' が同数でないため、言語の定義からは受容してはいけない文字列なのである。 従って、この言語は有限状態機械では正しく受容できず、正規言語ではないということになる。これを一般化したものを[[正規言語の反復補題]]と呼び、各種言語クラスが有限状態機械で認識できないことを示すのに使われる。 この言語を認識できるプログラムは簡単に書けると思われるかもしれない。そして、現在のコンピュータは有限状態機械でモデル化できると上に書いてある。もちろんプログラムは書けるが、この問題の本質はメモリ容量の限界の見極めにある。非常に長い文字列を与えられた場合、コンピュータのメモリ容量が足りなくなって入力文字数を数えられなくなり、オーバーフローするだろう。その意味で、現代のコンピュータは有限状態機械と同じと言える。したがって、この言語の文字列の大部分は認識できるとしても、必ず認識できない文字列が存在する。 === プッシュダウン・オートマトンの能力 === [[プッシュダウン・オートマトン]]が受容する言語のクラスを'''[[文脈自由言語]]'''と呼び、'''[[文脈自由文法]]'''によって記述される。正規言語でないとされた 'a' と 'b' を同数含む文字列からなる言語はプッシュダウン・オートマトンで判定可能である。また一般に、プッシュダウン・オートマトンを有限状態機械のように動作させることもできるので、正規言語も判定可能である。従ってこの計算モデルは有限状態機械よりも強力である。 しかし、プッシュダウン・オートマトンでも判定できない言語がある。その詳細は(正規言語のときとあまり変わらないので)ここでは述べない。[[文脈自由言語の反復補題]]も存在する。例えば、素数の集合からなる言語がその例である。 === チューリングマシンの能力 === [[チューリングマシン]]は任意の文脈自由言語を判定できるだけでなく、プッシュダウン・オートマトンが判定できない言語(例えば素数の集合からなる言語)も判定可能である。したがってチューリングマシンはさらに強力な計算モデルと言うことができる。 チューリングマシンでは、入力テープに「バックアップ」を置くことができるため、上で説明した計算モデルには不可能な方法で動作可能である。入力に対して停止しないチューリングマシンを構築することもできる。チューリングマシンはあらゆる入力について停止して答え(言語と入力の判定)を返す機械である。このようにチューリングマシンが必ず停止する言語クラスを'''[[帰納言語]]'''と呼ぶ。ある言語に含まれる文字列を与えられたときには停止するが、その言語に含まれない文字列を与えられたときに停止しない可能性があるというチューリングマシンもある。このような言語を'''[[帰納的可算言語]]'''と呼ぶ。 チューリングマシンは非常に強力な計算モデルである。チューリングマシンの定義を修正してより強力なモデルを作ろうとしても失敗する。例えば、1次元だったテープを2次元や3次元に拡張したチューリングマシンや、複数のテープを持つチューリングマシンなどが考えられるが、いずれも1次元の1個のテープを持つチューリングマシンでシミュレート可能であることが判っている。つまり、それらのモデルの能力は通常のチューリングマシンと同じである。実際、[[チャーチ=チューリングのテーゼ]]では、チューリングマシンで判定できない言語を判定可能な計算モデルはないと推定されている。様々な人々がチューリングマシンよりも強力だという計算モデルを提案してきた。しかし、それらは非現実的であるか不合理である([[#不合理な計算モデル|下記]]参照)。 従ってチューリングマシンは計算可能性の限界に関する広範囲な問題を解析する強力な手法である。そこで次の疑問が生まれる。「帰納的可算だが帰納でない言語はあるのか?」である。また、「帰納的可算でもない言語はあるのか?」という疑問も生まれる。 ==== 停止問題 ==== {{Main|チューリングマシンの停止問題}} 停止問題は計算機科学の重要な問題の1つであり、計算可能性理論だけでなく日々のコンピュータの利用にも深い意味を持っている。停止問題を簡単に述べると次のようになる: : チューリングマシンと入力が与えられたとき、その入力を与えられたプログラム(チューリングマシン)は停止(完了)するかどうかを求めよ。停止しない場合、永遠に動作し続ける。 ここでチューリングマシンが判定しようとするのは素数や回文といった単純な問題ではなく、チューリングマシンで他のチューリングマシンに関する質問への答えを得ようとしているのである。詳しくは主項目([[チューリングマシンの停止問題]])を参照してもらうとして、結論としてこの問いに(あらゆる場合に)答えられるチューリングマシンは構築できない。 すなわち、あるプログラムとその入力があったとき、それが停止するかどうかは単にそのプログラムを実行してみるしかないということになる。そして、停止すれば停止することがわかる。停止しない場合は、それがいつか停止するのか、それとも停止せずに永遠に動作するのかは判らない。あらゆるチューリングマシンに関する記述とあらゆる入力の停止する全組合せからなる言語は帰納言語ではない。従って、停止問題は計算不能または[[判定不能]]と呼ばれる。 停止問題を拡張した[[ライスの定理]]では、言語が特定の自明な特性を持つかどうかは(一般に)判定不能であるとされる。 ==== 帰納言語以上の言語 ==== しかし、停止しないチューリングマシンの記述を入力として与えられたとき、それを判定するチューリングマシンが永遠に動作することを許容するなら、停止問題は一応解決する。従って、停止問題判定は帰納的可算言語である。しかし、帰納的可算ですらない言語も存在する。 そのような言語の単純な例は、停止判定の[[補問題]]である。つまり、全てのチューリングマシンとそれらが停止'''しない'''入力の全組合せからなる言語である。この言語が帰納的可算言語でないことを示すため、そのような全チューリングマシンについて停止して答えを返すチューリングマシン <math>M</math> を構築することを考える。このマシンはチューリングマシンとその入力の組合せが停止する場合は永遠に動作し続ける。そして、このマシンの動作をシミュレートするチューリングマシン <math>M'</math> を考える。つまり、入力として<math>M</math>の記述とその入力(別のチューリングマシンの記述とその入力)が与えられる。さらに[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]]によって<math>M'</math>は<math>M</math>の入力(あるチューリングマシンとその入力)も並行して実行するものとする。<math>M</math>の入力であるチューリングマシンの記述と入力が停止しない組合せの場合、<math>M</math> は停止し、そのシミュレーションも停止することになる。従って、<math>M'</math>は一方のスレッドが停止し、もう一方が停止しないことから停止問題の判定機能を備えることになる。しかし、既に示したように停止問題は判定不能である。この矛盾により、<math>M</math> が存在するという仮定が誤っていたことがわかる。以上から停止判定言語の補問題は帰納的可算言語ではないことがわかる。 == 不合理な計算モデル == [[チャーチ=チューリングのテーゼ]]では、チューリングマシンよりも強力な計算モデルは存在しないと推測した。ここでは、その推定に反する「不合理」な計算モデルの例をいくつか示す。計算機科学者は様々な「[[ハイパーコンピュータ]]」を想像してきた(ここでいうハイパーコンピュータとは、[[スーパーコンピュータ]]のさらに高性能なものという意味ではない)。 === 無限実行 === 計算の各ステップが前のステップの半分の時間しかかからない機械を考える。第一ステップにかかる時間を 1 に正規化すると、実行にかかる時間は :<math>1 + {1 \over 2} + {1 \over 4} + \cdots</math> となる。この無限数列の総和は 2 に近づいていく。つまり、このチューリングマシンは 2 単位の時間内に無限の処理を実行できる。この機械は、対象となる機械の実行を直接シミュレーションすることで[[チューリングマシンの停止問題|停止問題]]の判定が可能である。 === 神託機械 === [[神託機械]]とは、特定の決定不能な問題への解を「神託」として与える機械である。例えば、チューリングマシンに「停止問題の神託機械」が付属していれば、与えられた入力についてそのチューリングマシンが停止するかどうかは即座に判定できる。このような機械は[[再帰理論]]の中心的話題である。 === ハイパーコンピュータの限界 === これらのマシンにも限界はある。あるチューリングマシンの停止問題を解くことができるとしても、それらの機械自身の停止問題は解くことが出来ない。つまり、神託機械は、ある神託機械が停止するかどうかに答えることはできない。 == 歴史 == [[アロンゾ・チャーチ]]と[[スティーブン・コール・クリーネ]]が開発した[[ラムダ計算]]により、計算可能性理論の定式化に重要な役割を果たした。[[アラン・チューリング]]は現代計算機科学の父とされる人物であり、[[チューリングマシン]]など計算可能性理論にも数々の重要な足跡を残している([http://web.comlab.ox.ac.uk/oucl/research/areas/ieg/e-library/sources/tp2-ie.pdf]、1936年)。 ==参考文献== * {{cite book|author = Michael Sipser | date = 1997年 | title = Introduction to the Theory of Computation | publisher = PWS Publishing | id = ISBN 0-534-94728-X}} Part Two: Computability Theory, chapters 3&ndash;6, pp.123&ndash;222. * {{cite book|author = Christos Papadimitriou | date = 1993年 | title = Computational Complexity | publisher = Addison Wesley | edition = 1st edition | id = ISBN 0-201-53082-1}} Chapter 3: Computability, pp.57&ndash;70. ==関連項目== *[[オートマトン]] *[[計算模型]] *[[計算複雑性理論]] *[[チョムスキー階層]] {{コンピュータ科学}} {{デフォルトソート:けいさんかのうせいりろん}} [[Category:計算可能性理論|*]] [[Category:数理論理学]] [[Category:数学に関する記事]]
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芥川也寸志
芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年(大正14年)7月12日 - 1989年(平成元年)1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。JASRAC元理事長。 芥川也寸志の作風は大きく分けて3つに分かれる。東京音楽学校を卒業後、快活な旋律とリズムで彩られた作風が魅力の第1期。それらの要素を削ぎ落とし、減衰、静的な要素を取り入れた前衛的作風に転換した第2期。そして第1期の快活明朗なるリズムを用いつつも、第2期以来の作風とクロスオーバーさせ、新たな世界への転換を図った第3期。この区分においても共通するものに、彼自身の生涯のテーマとなるオスティナートの使用がある。リズムを失った音楽は死ぬ、と述べているように、リズムこそ彼の音楽そのものであった。映画音楽・放送音楽の分野でも『八甲田山』『八つ墓村(野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』などが知られるとともに、童謡『小鳥の歌』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の校歌や日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソングや社歌も手がけている。 小説家・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現:東京都北区)田端に生まれる。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・文。長兄は俳優・芥川比呂志。次兄は多加志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし万葉仮名に当て命名された。 父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったので、自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後で気に入って自ら出版したこともある。 東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた。1941年、東京高等師範附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽を志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始する。このとき無理が祟って肋膜炎を患う。東京高師附属中の同期には、石川六郎(鹿島建設名誉会長)、山本卓眞(富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)などがいる。 1943年、東京音楽学校予科作曲部(現:東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格したものの、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を学ぶ。 1944年10月、学徒動員で徴兵され陸軍戸山学校軍楽隊に配属。東京音楽学校からは伊藤栄一、梶原完、萩原哲昌ら14人の配属者がいたが、芥川は8か月の教育期間を首席で卒業し、教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜った。その後、作曲係上等兵として團伊玖磨、奥村一、斎藤高順と共に終戦まで勤務。様々な隊歌や軍楽隊向けの作編曲を行う。 1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼす。 1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した。 1949年、東京音楽学校研究科を卒業する。在学中に作曲した『交響三章』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。1950年、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念管弦楽懸賞に特賞入賞する。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった。同年3月21日、『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。 同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで』(監督;今井正)に、ピアノを弾く学生の役で出演する。 1953年に同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成する。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。同年開催された毎日映画コンクールでは、『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得している。 1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に、自作を携えて単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーの知遇を得て、ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。中国から香港(当時イギリス領)経由で半年後に帰国する。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。 1956年、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成する。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1976年、当時としては画期的な、1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を2晩にわたり行い、その功績を讃えられて翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞した。その後もショスタコーヴィチの交響曲第4番の日本初演を行うなど活発に活動をした。一方で、同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行った。 1957年にはヨーロッパ旅行の帰途、インドに立ち寄ってエローラ石窟院のカイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲、代表作の一つとなった。この頃から、動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。この『エローラ交響曲』は、伊福部と同様に若き芥川に芸術観形成で大きな影響を与えた早坂文雄に捧げられた(芥川は修業時代、早坂の許で映画音楽作曲のアシスタントを勤めた)。 1958年6月16日、京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川の部屋に京都大学医学部助教授夫人(35歳)が乱入し、服毒自殺を遂げるという事件が発生する。この女性は芥川に熱烈な思慕を寄せ、一方的に恋文攻勢や待ち伏せ(現在でいうストーカー行為)を繰り返していたが、恐れをなした芥川にきっぱり撥ねつけられ、絶望して覚悟の死を選んだものである。 1959年『Nyambe』が放送初演。『エローラ交響曲』で見せ始めた前衛的な語法が前面に押し出せれ、半音階的趣味、無調性、微分音なども多用されている。 1960年には大江健三郎の台本でオペラ『暗い鏡』を発表。原爆後遺症に苦しむ青年を描いた問題作として話題となった。この作品はのちにテレビオペラ『ヒロシマのオルフェ』と改作される。 1962年には『絃楽のための音楽 第1番』が東京現代音楽祭で初演される。ポスト・ヴェーベルン的な点描様式と日本の間の美学が組み合わされ、その静謐な作品は武満徹に捧げられた。1966年にはこの作品の編成を拡大した「絃楽オーケストラのための『陰画』」を放送初演。自身の「マイナス空間論」と「男と女の性」に関する探求を深めた。 1966年には新交響楽団が労音から独立。この動きはマスメディアにも取り上げられ、社会問題として扱われた。 1967年12月、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立する。 1967年には、それまでの作風から転換し、再びオスティナートを前面に押し出した作風へ回帰する。その背景には、松村禎三の「頭だけで考えていては何もできない」という言葉があったという。 その後は、「オスティナータ・シンフォニカ」(1967)や「舞踏組曲『蜘蛛の糸』」(1968)、「オーケストラのためのラプソディ」(1971)などを発表。それまでの前衛的手法から徐々に従来持っているオスティナート技法を取り戻していくことになる。 1969年の「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」では、徹底的なオスティナートを堅持した作風を披露した。 1977年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京『木曜洋画劇場』)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ『百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。 1978年、第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。 1988年夏、日ソ音楽交流の一環で松村禎三らと訪ソし、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮するオーケストラが芥川の『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定だったが、渡航直前の6月、健康診断を受けた際に進行した肺癌が見付かり、東京都中央区の国立がんセンターに入院、手術治療を受け、いったんは成功。退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、なかにし礼の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に再び病状が悪化し再入院。それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションはできていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三と黛敏郎に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼。そして、芥川は、病状好転せぬまま、1989年1月31日入院先にて逝去した。63歳没。 逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか...あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の“いのち”という題は、なかにしの発案によったが、なかにしは、芥川からタイトルを訊かれた際に、その病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。鈴木が補作して完成した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』は、1989年5月2日に東京・サントリーホールで開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。没後、勲二等瑞宝章を追贈された。 生前、芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたと窺わせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。 曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・木之下晃が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真の中に写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。 芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。芥川の死の半年後、埼玉県北葛飾郡松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。 2002年、芥川を記念する「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が設立された。 芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若い頃父の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つとしてあるといわれる。1989年には芥川の肖像が、著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている(但し郵政省の公式の見解では「特定の人物を描いたものではない」とされていた)。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動以外に、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。 快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。 父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。 結婚を3度している。 1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(声楽科卒。のち離婚後の再婚により間所紗織となる)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。これはマーラーが妻・アルマに取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」というもっと即物的な理由であった。歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向、程なく画家として認められる。しかし、二女をもうけた後、1957年に離婚した。 長女・芥川麻実子(1948年生)はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。 2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる。 3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。真澄との間に生まれた息子・芥川貴之志(1972年生)は、エディター・スタイリストとして活動している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。 ほか多数
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"1967年には、それまでの作風から転換し、再びオスティナートを前面に押し出した作風へ回帰する。その背景には、松村禎三の「頭だけで考えていては何もできない」という言葉があったという。 その後は、「オスティナータ・シンフォニカ」(1967)や「舞踏組曲『蜘蛛の糸』」(1968)、「オーケストラのためのラプソディ」(1971)などを発表。それまでの前衛的手法から徐々に従来持っているオスティナート技法を取り戻していくことになる。 1969年の「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」では、徹底的なオスティナートを堅持した作風を披露した。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1977年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京『木曜洋画劇場』)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ『百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1978年、第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1988年夏、日ソ音楽交流の一環で松村禎三らと訪ソし、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮するオーケストラが芥川の『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定だったが、渡航直前の6月、健康診断を受けた際に進行した肺癌が見付かり、東京都中央区の国立がんセンターに入院、手術治療を受け、いったんは成功。退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、なかにし礼の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に再び病状が悪化し再入院。それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションはできていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三と黛敏郎に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼。そして、芥川は、病状好転せぬまま、1989年1月31日入院先にて逝去した。63歳没。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか...あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の“いのち”という題は、なかにしの発案によったが、なかにしは、芥川からタイトルを訊かれた際に、その病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。鈴木が補作して完成した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』は、1989年5月2日に東京・サントリーホールで開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。没後、勲二等瑞宝章を追贈された。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "生前、芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたと窺わせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・木之下晃が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真の中に写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。芥川の死の半年後、埼玉県北葛飾郡松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2002年、芥川を記念する「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が設立された。", "title": "来歴と作風" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若い頃父の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つとしてあるといわれる。1989年には芥川の肖像が、著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている(但し郵政省の公式の見解では「特定の人物を描いたものではない」とされていた)。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動以外に、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "結婚を3度している。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(声楽科卒。のち離婚後の再婚により間所紗織となる)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。これはマーラーが妻・アルマに取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」というもっと即物的な理由であった。歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向、程なく画家として認められる。しかし、二女をもうけた後、1957年に離婚した。 長女・芥川麻実子(1948年生)はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。真澄との間に生まれた息子・芥川貴之志(1972年生)は、エディター・スタイリストとして活動している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ほか多数", "title": "主な作品" } ]
芥川 也寸志は、日本の作曲家、指揮者。JASRAC元理事長。
{{別人|芥川保志}} {{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = {{ruby|芥川|あくたがわ}} {{ruby|也寸志|やすし}}<br /><small>AKUTAGAWA Yasushi</small> |画像 = Akutagawa Yasushi.jpg |画像説明 = 芥川也寸志([[1952年]]) |背景色 = classic |出生 = {{生年月日と年齢|1925|7|12|no}}<br />{{JPN}}、[[東京府]][[東京市]][[滝野川区]]<br />(現:[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]) |死没 = {{死亡年月日と没年齢|1925|7|12|1989|1|31}}<br />{{JPN}}、東京都[[中央区 (東京都)|中央区]] |学歴 = [[東京高等師範学校]]附属小学校<br />(現:[[筑波大学附属小学校]])<br />[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]] |ジャンル = [[近代音楽]]、[[映画音楽]] |職業 = [[作曲家]]、[[指揮者]] }} {{Portal box|クラシック音楽|映画}} {{ウィキプロジェクトリンク|音楽家|[[File:Band Silhouette 04.jpg|35px|ウィキプロジェクト 音楽家]]}} '''芥川 也寸志'''(あくたがわ やすし、[[1925年]]([[大正]]14年)[[7月12日]] - [[1989年]]([[平成]]元年)[[1月31日]])は、[[日本]]の[[作曲家]]、[[指揮者]]。[[日本音楽著作権協会|JASRAC]]元理事長。 == 作風 == 芥川也寸志の作風は大きく分けて3つに分かれる。東京音楽学校を卒業後、快活な旋律とリズムで彩られた作風が魅力の第1期。それらの要素を削ぎ落とし、減衰、静的な要素を取り入れた前衛的作風に転換した第2期。そして第1期の快活明朗なるリズムを用いつつも、第2期以来の作風とクロスオーバーさせ、新たな世界への転換を図った第3期。この区分においても共通するものに、彼自身の生涯のテーマとなる[[オスティナート]]の使用がある。リズムを失った音楽は死ぬ、と述べているように、リズムこそ彼の音楽そのものであった。[[映画音楽]]・放送音楽の分野でも『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』『[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]]([[野村芳太郎]]監督)』『[[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]のテーマ』などが知られるとともに、[[童謡]]『小鳥の歌』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の[[校歌]]や[[日産自動車]]の「[[世界の恋人]]」など、団体(企業等)の[[コマーシャルソング|CMソング]]や[[社歌]]も手がけている。 == 来歴と作風 == 小説家・[[芥川龍之介]]の三男として[[東京市]][[滝野川区]](現:[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]])[[田端 (東京都北区)|田端]]に生まれる<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。</ref>。母は[[大日本帝国海軍|海軍]]少佐・[[塚本善五郎]]の娘・[[芥川文|文]]。長兄は俳優・[[芥川比呂志]]。次兄は多加志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・[[恒藤恭]](つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし[[万葉仮名]]に当て命名された。 父は[[1927年]]に自殺したが、也寸志は父の遺品である[[レコード|SPレコード]]を愛聴し、とりわけ[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]に傾倒した。兄弟で毎日『[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]』や『[[ペトルーシュカ]]』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったので、自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後で気に入って自ら出版したこともある<ref>{{Cite book|和書 |author = 芥川也寸志 |title = 人はさまざま歩く道もさまざま〈続〉―芥川也寸志対話集 |publisher = 芸術現代社 |page = 220 |date = 1978-7 }}</ref>。 [[東京高等師範学校]]附属小学校(現:[[筑波大学附属小学校]])在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた<ref>対話集『続 人はさまざま 歩く道もさまざま』芸術現代社、1978年、pp.220</ref>。[[1941年]]、東京高等師範附属中学校(現:[[筑波大学附属中学校・高等学校]])4年在学時に初めて音楽を志し、[[橋本國彦]]の紹介で[[井口基成]]に師事して[[フェルディナント・バイエル|バイエル]]から猛勉強を開始する。このとき無理が祟って[[肋膜炎]]を患う。東京高師附属中の同期には、[[石川六郎]]([[鹿島建設]]名誉会長)、[[山本卓眞]]([[富士通]]名誉会長)、[[嘉治元郎]](元[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]長)、[[森亘]](元[[東京大学]]総長)などがいる。 [[1943年]]、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]予科作曲部(現:東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格したものの、[[乗杉嘉壽]]校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。橋本國彦に近代[[和声学]]と[[管弦楽法]]、[[下総皖一]]と[[細川碧]]に[[対位法]]を学ぶ。 [[1944年]]10月、[[学徒勤労動員|学徒動員]]で徴兵され[[陸軍戸山学校]]軍楽隊に配属。東京音楽学校からは[[伊藤栄一]]、[[梶原完]]、[[萩原哲昌]]ら14人の配属者がいたが<ref>芥川也寸志『音楽の旅』旺文社, 1981年, p24</ref>、芥川は8か月の教育期間を首席で卒業し、教育総監だった[[土肥原賢二]]中将から銀時計を賜った。その後、作曲係上等兵として[[團伊玖磨]]、[[奥村一]]、[[斎藤高順]]と共に終戦まで勤務。様々な隊歌や軍楽隊向けの作編曲を行う。 [[1945年]]8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた[[伊福部昭]]と出会い、決定的な影響を受けた。当時の[[進駐軍]]向けラジオ放送で[[ソビエト連邦|ソ連]]音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼす。 [[1947年]]に東京音楽学校本科を首席で卒業する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。伊福部が初めて音楽を担当した映画『[[銀嶺の果て]]』ではピアノ演奏を担当した。 [[1949年]]、東京音楽学校研究科を卒業する。在学中に作曲した『[[交響三章 (芥川也寸志)|交響三章]]』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。[[1950年]]、『[[交響管弦楽のための音楽|交響管絃楽のための音楽]]』がNHK放送25周年記念管弦楽懸賞に特賞入賞する。このとき、もう一人の受賞者は[[團伊玖磨]]だった。同年[[3月21日]]、『交響管絃楽のための音楽』が[[近衛秀麿]]指揮の日本交響楽団([[NHK交響楽団]]の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。 同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『[[また逢う日まで (1950年の映画)|また逢う日まで]]』(監督;[[今井正]])に、ピアノを弾く学生の役で出演する。 [[1953年]]に同じく若手作曲家である[[黛敏郎]]、團伊玖磨と共に「[[三人の会]]」を結成する。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。同年開催された[[毎日映画コンクール]]では、『[[煙突の見える場所]]』が音楽賞を獲得している。 [[1954年]]、当時まだ日本と国交がなかったソ連に、自作を携えて単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]や[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]、[[ドミトリー・カバレフスキー|カバレフスキー]]の知遇を得て、ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。[[中華人民共和国|中国]]から[[香港]](当時イギリス領)経由で半年後に帰国する。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。 [[画像:Akutagawa yasushi.jpg|250px|thumb|right|芥川也寸志]] [[1956年]]、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて[[新交響楽団 (アマチュア・オーケストラ)|新交響楽団]]を結成する。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。[[1976年]]、当時としては画期的な、1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「[[日本の交響作品展]]」を2晩にわたり行い、その功績を讃えられて翌年には鳥居音楽賞(後の[[サントリー音楽賞]])を受賞した。その後も[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第4番]]の日本初演を行うなど活発に活動をした。一方で、同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく[[1986年]]に創立30年記念演奏会を自作のみで行った。 [[1957年]]にはヨーロッパ旅行の帰途、[[インド]]に立ち寄って[[エローラ石窟群|エローラ]]石窟院のカイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲、代表作の一つとなった。この頃から、動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。この『エローラ交響曲』は、伊福部と同様に若き芥川に芸術観形成で大きな影響を与えた[[早坂文雄]]に捧げられた(芥川は修業時代、早坂の許で映画音楽作曲のアシスタントを勤めた)。 [[1958年]][[6月16日]]、京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川の部屋に[[京都大学大学院医学研究科・医学部|京都大学医学部]][[助教授]]夫人(35歳)が乱入し、服毒自殺を遂げるという事件が発生する。この女性は芥川に熱烈な思慕を寄せ、一方的に恋文攻勢や待ち伏せ(現在でいう[[ストーカー]]行為)を繰り返していたが、恐れをなした芥川にきっぱり撥ねつけられ、絶望して覚悟の死を選んだものである。 1959年『Nyambe』が放送初演。『エローラ交響曲』で見せ始めた前衛的な語法が前面に押し出せれ、半音階的趣味、無調性、微分音なども多用されている。 1960年には大江健三郎の台本でオペラ『暗い鏡』を発表。原爆後遺症に苦しむ青年を描いた問題作として話題となった。この作品はのちにテレビオペラ『ヒロシマのオルフェ』と改作される。 1962年には『絃楽のための音楽 第1番』が東京現代音楽祭で初演される。ポスト・ヴェーベルン的な点描様式と日本の間の美学が組み合わされ、その静謐な作品は武満徹に捧げられた。1966年にはこの作品の編成を拡大した「絃楽オーケストラのための『陰画』」を放送初演。自身の「マイナス空間論」と「男と女の性」に関する探求を深めた。 1966年には新交響楽団が労音から独立。この動きはマスメディアにも取り上げられ、社会問題として扱われた。 [[1967年]][[12月]]、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立する。 1967年には、それまでの作風から転換し、再びオスティナートを前面に押し出した作風へ回帰する。その背景には、松村禎三の「頭だけで考えていては何もできない」という言葉があったという。  その後は、「オスティナータ・シンフォニカ」(1967)や「舞踏組曲『蜘蛛の糸』」(1968)、「オーケストラのためのラプソディ」(1971)などを発表。それまでの前衛的手法から徐々に従来持っているオスティナート技法を取り戻していくことになる。  1969年の「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」では、徹底的なオスティナートを堅持した作風を披露した。 [[1977年]]から[[1984年]]まで、[[日本放送協会|NHK]]の音楽番組『[[音楽の広場]]』に司会として[[黒柳徹子]]とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京『[[木曜洋画劇場]]』)。ラジオの分野では[[1967年]]より死の前年まで[[TBSラジオ]]『[[百万人の音楽]]』で[[野際陽子]]とパーソナリティを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。 [[1978年]]、[[第1回日本アカデミー賞]]で『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』と『[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]]』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。 [[1988年]]夏、日ソ音楽交流の一環で[[松村禎三]]らと訪ソし、[[ヴァレリー・ゲルギエフ]]の指揮するオーケストラが芥川の『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定だったが、渡航直前の6月、健康診断を受けた際に進行した[[肺癌]]が見付かり、東京都[[中央区 (東京都)|中央区]]の[[国立がんセンター]]に入院、手術治療を受け、いったんは成功。退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、[[なかにし礼]]の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に再び病状が悪化し再入院。それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションはできていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の[[松村禎三]]と[[黛敏郎]]に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった[[鈴木行一]]に残りのオーケストレーションの完成を依頼。そして、芥川は、病状好転せぬまま、[[1989年]][[1月31日]]入院先にて逝去した。{{没年齢|1925|7|12|1989|1|31}}。 逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた[[黛敏郎]]の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、[[東京新聞]]に掲載された黛による追悼記事に残されている。最後の言葉は「[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第1番 (ブラームス)|一番]]を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の“いのち”という題は、なかにしの発案によったが、なかにしは、芥川からタイトルを訊かれた際に、その病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。鈴木が補作して完成した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』は、[[1989年]][[5月2日]]に東京・[[サントリーホール]]で開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。没後、[[勲二等瑞宝章]]を追贈された。 生前、芥川は「[[古事記]]による[[オラトリオ]]をライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたと窺わせる発言もあり、[[1990年]]に予定されていた[[サントリー音楽財団]]による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。 曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・[[木之下晃]]が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真の中に写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。 芥川の音楽界での功績を記念して[[1990年]]4月、[[サントリー音楽財団]]により「[[芥川作曲賞]]」が創設された。芥川の死の半年後、[[埼玉県]][[北葛飾郡]][[松伏町]]に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った[[田園ホール・エローラ]]が完成した。 [[2002年]]、芥川を記念する「[[オーケストラ・ニッポニカ|芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ]]」が設立された。 == 人物 == 芥川には[[うたごえ運動]]の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:[[紺谷邦子]])は広く歌われた。音楽著作権関連の活動では[[日本音楽著作権協会]](JASRAC)理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若い頃父の[[印税]]が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つとしてあるといわれる。[[1989年]]には芥川の肖像が、著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている(但し[[郵政省]]の公式の見解では「特定の人物を描いたものではない」とされていた)<ref>「エディターズ アイ 戦後日本初の追悼切手」『[[郵趣 (雑誌)|郵趣]]』([[日本郵趣協会]])1989年12月号、7頁。</ref>。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動以外に、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。 快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。 父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。 == 私生活 == 結婚を3度している。 [[1948年]]2月、東京音楽学校で知り合った[[芥川(間所)紗織|山田紗織]](声楽科卒。のち離婚後の再婚により間所紗織となる)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。これは[[グスタフ・マーラー|マーラー]]が妻・[[アルマ・マーラー|アルマ]]に取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」というもっと即物的な理由であった{{Refnest|group="注"|結婚後の紗織がこの理由で声楽を諦めたことは、当時の画家仲間の[[池田龍雄]]も証言している<ref name="nikkei">日本経済新聞・2020年10月11日(日)・第14-15面の美術特集記事「メキシコの衝撃(1) 民衆とつながる生へのエネルギー」(筆者・[[窪田直子]])より。1955年9月10日より[[東京国立博物館]]で盛大に開催された「メキシコ美術展」に感銘を受けた美術家の一人として、芥川紗織にスポットを当てている。</ref>。}}。歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向、程なく画家として認められる。しかし、二女をもうけた後、1957年に離婚した{{Refnest|group="注"|芥川紗織は離婚の2年後に単身渡米し、その3年後に帰国、[[建築家]]の[[間所幸雄]]と再婚する。が、1966年、妊娠中毒症のため42歳で死去した<ref name="nikkei"/>。}}。 長女・[[芥川麻実子]](1948年生)はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』([[サンケイ出版]]、1977年)の著書がある。 2度目の妻は女優の[[草笛光子]]である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる<ref>[[内外タイムス]]文化部編『ゴシップ10年史』([[三一新書]]、1964年)p.244</ref>。 3度目の妻は[[東京芸術大学]]作曲科出身で[[石桁真礼生]]門下の作曲家・[[エレクトーン]]奏者の[[芥川真澄|江川真澄]](1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。真澄との間に生まれた息子・[[芥川貴之志]](1972年生)は、エディター・スタイリストとして活動している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。 == 主な作品 == === 管弦楽 === * 交響管絃楽のための前奏曲(1947年) * [[交響三章 (芥川也寸志)|交響三章]](トリニタ・シンフォニカ)(1948年) * 小管弦楽のための組曲(1949年)- NHKラジオ「日曜随想」にて放送。「Basso ostinato」と「終曲 - トッカァタ」の2曲が現存。前者はピアノのための『ラ・ダンス』の間奏曲の編曲。 * [[交響管弦楽のための音楽]](1950年) * マイクロフォンのための音楽(1952年)一管編成+テープ操作 * バレエ音楽「失楽園」(1950年) * バレエ音楽「湖底の夢」(1950年) - 二幕四場、総譜は行方不明。 * バレエ音楽「Kappa」(1951年)- 総譜は大部分が現存するが一部は行方不明。 * バレエ音楽「炎も星も」(1953年) - 二幕四場、総譜は行方不明。 * [[弦楽のための三楽章]](トリプティーク)(1953年) * [[交響曲第1番 (芥川也寸志)|交響曲第1番]](1954年、1955年改訂) * 喜遊曲(ディベルティメント)(1955年)- 終曲を交響曲第1番の1955年改訂版第2楽章に改作。その後、本作は破棄された。ただし楽譜は現存する。 * 子供のための交響曲「双子の星」(1957年、[[宮澤賢治]]作「雙子の星」による) * [[エローラ交響曲]](1958年) * Marcia in do(1959年)- 吹奏楽曲。[[古関裕而]]と[[飯田三郎]]と1楽章ずつ合作した「祝典組曲」の3曲目。 * [[弦楽のための「陰画」]](1966年) * オスティナータ・シンフォニカ(1967年) * 舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968年) * [[チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」]](1969年) * オスティナータ・シンフォニカ'70(1970年)-「オスティナータ・シンフォニカ」の改訂版 * [[オーケストラのためのラプソディー]](1971年) * GXコンチェルト ~GX-1とオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート~(1974年)- [[ヤマハ・GX-1]]とオーケストラのための協奏曲。 * ヴァイオリンとオーケストラのための《秋田地方の子守歌》(1977年)- NHK委嘱・NHK「音楽の広場」のための * Do Re Mi Fa So Ra Si Do! (1977年)- 二管編成、NHK「音楽の広場」のための * Clapping Orchestra(1978年)- 二管編成、NHK「音楽の広場」のための * 森のすきなおとなとこどものための音楽童話「ポイパの川とポイパの木」(1979年)- 語り手とorch * March1979「栄光をめざして」(1979年)- 管弦楽版と吹奏楽版が存在 * 証城寺の腹づつみ ~オーケストラとティンパニのための~(1979年)NHK「音楽の広場」のための * 行進曲「風に向かって走ろう」(1982年)- 管弦楽版と吹奏楽版が存在 * アレグロ・オスティナート(1986年)- [[外山雄三]]、[[三枝成章]]、[[石井眞木]]と共に1楽章ずつ合作した交響組曲『東京』の終曲。[[FM東京]]開局15周年記念委嘱作品。GXコンチェルトの一部を改作したもの。 * [[オルガンとオーケストラのための「響」]](1986年)- [[サントリーホール]]落成記念委嘱作品。「オスティナータ・シンフォニカ」の素材が多く用いられている。 * ゴジラの主題によせるバラード(1988年)-「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」にて発表された小品。 === 劇場作品 === * バレエ音楽「失楽園」(1950年) * バレエ音楽「湖底の夢」(1950年) - 二幕四場、総譜は行方不明。 * バレエ音楽「Kappa」(1951年)- 総譜は大部分が現存するが一部は行方不明。 * コメディ・バレエ「巴里の騎士」(1952年11月1日 - 11月30日、宝塚大劇場)中井光晴と共作。 * バレエ音楽「炎も星も」(1953年) - 二幕四場、総譜は行方不明。 * 歌劇「暗い鏡」(1960年) -台本・[[大江健三郎]] 破棄 後にヒロシマのオルフェに改作 * 歌劇「ヒロシマのオルフェ」(1967年)- 台本:[[大江健三郎]] ザルツブルク・オペラ・コンクール第1位。[[西村朗]]による室内管弦楽編曲版が存在。 * バレエ音楽「蜘蛛の糸」(1968年) * 音楽と舞踏による映像絵巻「月」(1981年)- イタリア放送協会賞、[[エミー賞]]受賞。 === 室内楽・器楽 === * 前奏曲集「田舎より」(1944年、ピアノ) * ピアノ詩曲(1944年、ピアノ) * 無題(1946年、ピアノ) * ピアノ三重奏曲(1946年) * ラ・ダンス(1948年、ピアノ) * 弦楽四重奏曲(1948年、SQ) - 2、3楽章を「弦楽のための三楽章(トリプティク)」として改作後、破棄された。ただし、楽譜は現存する。 * ヴァイオリンとピアノのための「バラッタ」(1951年) * Nyambe(1959年)- 破棄。ただし楽譜は現存する。 * 弦楽のための音楽第1番(1962年、9人の弦楽奏者のための) * ヴァイオリンとピアノのためのSASARA(1978年) * ヴァイオリンとピアノのための《東北の獅子舞》(1978年、Vn・ピアノ) * 3つの子供のうた(1978年、2Vn・2Vc・ピアノ) * 子供のための「24の前奏曲」(1979年、ピアノ) * 遊園地(1984年、ピアノ、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための) * 赤ずきん(1985年、ピアノ、[[奥村一]]らとの共作「4つのおはなし」の一曲) * 帰れよ(1985年、ピアノ) * 5本の指の踊り(1985年、ピアノ) * ちっちゃなワルツとちっちゃなメヌエット(1986年、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための) * ノクターン(1987年、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための) === 声楽曲、合唱曲 === * つつとりて(1945年以前、独唱・ピアノ) * 白秋抒情小曲集 - [[北原白秋]]詞。團伊玖磨によれば、[[陸軍戸山学校]]軍楽隊時代から終戦直後にかけて作曲された[[橋本国彦]]風の作品。<ref>團伊玖磨、「芥川也寸志のこと」、フィルハーモニー Vol.22 No.9、1950年、NHK交響楽団</ref> * 歌曲集《車塵集より》(1949年、メゾソプラノ独唱・ピアノ) * パプア島土蛮の歌(1950年、声・ピアノ) - 歌詞はパプア語による * やわらかき光の中に(1950年、ソプラノとピアノ)楽譜未発見(1950年の[[中村淑子|香山淑子]]独唱会で初演) * 罌粟(けし)よ罌粟よ(1950年、ソプラノとピアノ)楽譜未発見(1950年の香山淑子独唱会で初演) * 若き日の夢(1950年、ソプラノとピアノ)楽譜未発見(1950年の香山淑子独唱会で初演) * 奉讃歌「ひじりの宮の御前にありて」(1951年) - 團伊玖磨、[[清水脩]]との共作(3つの楽章を各作曲家が担当) * 心の種子(1951年、合唱・ピアノ) - 全国唱歌ラジオコンクール(現 [[[NHK全国学校音楽コンクール]]]中学校の部課題曲) * 仲間たち(1952年、合唱・ピアノ) * 祖国の山河に(1953年、無伴奏合唱) - [[うたごえ運動]]のための * 砂川(1956年、混声合唱・ピアノ) - うたごえ運動のための * 新聞(1956年、4声) * みち-あかつきの子らのために-(1956年、歌) * パプア族の2つの旋律(1957年、合唱・打楽器) - 歌曲「パプア島土蛮の歌」の改作 * コント・フランセーズ(1958年、4声) * お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく(1958年、無伴奏混声合唱) * かま焚きのうた(1958、[[岩谷時子]]詞) * オケラのうた(1969、無伴奏合唱、[[宮沢章二]]詞) * 春には花の下で(1977年、[[山川啓介]]詞) * 大いなる旅(1977年、[[山川啓介]]詞) * うたの旅(1977年 - 1984年、NHK『音楽の広場』のための) * みずでっぽう(1979年、[[佐藤義美|さとうよしみ]]詞、合唱と管弦楽) * こどものうた(1972年 - 、[[小林純一]]とのコンビによる未発表の作品、両者の没後出版) * 食いしん坊のうた-萩野昭三のために-(1981年、作詞:北彰介) * 津軽戯歌(1981年、萩野昭三リサイタルのために) * 自我偈(1981年、[[日蓮宗教文]]詞、合唱) * 21世紀賛歌・人間はまだ若い(1983年、混声合唱・2管Orch・ブラス、宮沢章二詞) * 月夜のでんしんばしら(編曲・1983年、合唱・弦楽・打楽器)宮沢賢治の作詩作曲「音楽の広場 銀河のメロディ~宮沢賢治~」に於ける芥川編曲(宮沢章二ではなく宮沢賢治の間違い) * 星めぐりの歌(編曲・1983年、宮沢賢治:作詩作曲)「音楽の広場 銀河のメロディ~宮沢賢治~」に於ける芥川編曲 * 雪(1983年、メゾソプラノ独唱・ピアノ、[[高田敏子]]詞)第16回新しい日本の歌のために * あやめ(1984年、アルト独唱・ピアノ、高田敏子詞)第17回新しい日本の歌のために * 若木の枝のねむの花(1985年、メゾソプラノ独唱・ピアノ、高田敏子詞)第18回新しい日本の歌のために * コスモスの花(1986年、アルト独唱・ピアノ、高田敏子詞)第19回新しい日本の歌のために * かたくりの花(1987年、歌、ピアノ)第20回新しい日本の歌のために * 佛立開導日扇聖人奉讃歌「いのち」(1988年、混声合唱・3管Orch、[[なかにし礼]]詞) - 絶筆。[[鈴木行一]]補作。1989年、追悼コンサートにて初演。 === 舞台音楽 === * 挿話(1949年、文学座) * 道遠からん(1950年、文学座) * クック船長航海異聞(1950年、文学座) * 雪の女王(1952年、木馬座、作詞:北牧子)バラの歌、粉雪の歌などを含む * どん底(1954年、文学座) * 赤いランプ(1954年、俳優座) * なよたけ(1955年、文学座) * マリアの首(1959年、新人会) * 歯車の中で(1961年、ミュージカル、大阪労音) * 草っぱらの子供たち(1963年、ミュージカル、成城学園児童劇) * 子供のまつり(1966年、ミュージカル、成城学園児童劇) * みつばちマーヤ(1967年、ミュージカル、成城学園児童劇) * 日本の騎士(1970年、雲) === 放送音楽 === * [[えり子とともに]](NHKラジオ、1949年) * アメアメコンコ(NHKラジオ、1950年) * [[森永製菓#楽曲『エンゼルはいつでも』|エンゼルはいつでも]](1951年)- [[森永製菓]]CM曲 * メロディの流れ(NHKラジオ、1952年) * 海外の話題(NHKラジオ、1952年) * ぼくちゃん(NHKラジオ、1952年) * 双子の星(新日本放送、1953年) * ラジオ音楽教室(NHKラジオ、1953年) * NHKTVの放送開始及び終了の音楽(NHKテレビ、1953年) * 秋の歌(ラジオ九州、1953年)- 共作:團伊玖磨、黛敏郎 * かっぱ川太郎(NHKテレビ、1954年) * 若い日記(NHKテレビ、1954年) * 放送劇「一度きりの機会」(TBSラジオ、1954年) * 放送劇「何処にバラの花は咲く」(TBSラジオ、1955年) * 詩劇「らいおん物語」(TBSラジオ、1958年) * ひげの生えたパイプ(NHKラジオ、1959年) * 今日の医学(NHKテレビ、1959年) * 放送劇「吼えろ」(ABCラジオ、1962年) * "ドラマ 縮尺9,800万分の1"(NHKテレビ、1963年) * [[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]](NHKテレビ、1964年) * [[世界の恋人]](1964年)- [[日産自動車]]社歌、企業CM曲 * [[松坂屋 テレビバーゲン]] - イメージ音楽 * [[愛の学校クオレ物語]](毎日放送、1981年)- オープニングテーマ「クオレ物語」、エンディングテーマ「白い日記」のみ * [[武蔵坊弁慶 (テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]](NHKテレビ、1986年)- オープニングテーマのみ * 若い農民(NHK) * 声くらべのどくらべ子供音楽会(NHK) * 家庭の音楽(NHK) * 日曜随想(NHK) * NHK教養大学(NHK) * 日本の歩み(NHK) * NHK「音楽の広場」のための管弦楽小品(1977年 - 84年) ** 火遊び ** 阿波踊り ** ほほえみは愛 ** クラシックなロンドン橋 ** 突っ張り交響曲 ** いろんなひつじさん ** 大来外相かく語りき(Br独唱つき) * NHK「音楽の広場」のためのうた(1977年 - 84年) ** ここは瀬戸内(1977年、[[中村千栄子|中村千榮子]]詞、管弦楽伴奏の女声合唱) ** 太陽の町(1978年、増永道子詞、管弦楽と児童合唱) ** 雛の春(1979年、[[高田敏子 (詩人)|高田敏子]]詞、管弦楽伴奏の女声合唱) ** 大地はともだち(1979年、[[山川啓介]]詞、管弦楽伴奏の児童合唱) ** うたいましょう うたいましょう(1979年、[[江間章子]]詞、管弦楽伴奏の女声合唱) ** 南の旅へ(1979年、[[岩谷時子]]詞、管弦楽伴奏の女声合唱) ** 母のアルバム30年(1980年、鈴木悦夫詞、管弦楽伴奏の女声合唱) ** 海濱獨唱(1980年、[[室生犀星]]詞、管弦楽伴奏の男声合唱) ** 森の街(1980年、[[岩谷時子]]詞、管弦楽伴奏の児童合唱) ** 生きている国(1980年、[[山川啓介]]詞、管弦楽伴奏の児童合唱) ** 音楽の好きな街(1980年、[[岩谷時子]]詞、管弦楽伴奏の児童合唱) === 童謡、放送歌謡 === *うさぎのお耳(1945年) *山のはたおり(1945年) *春が来る(1945年) *春の知らせ(1950年、NHKラジオ歌謡・作詞:武田雪夫) *霧(1950年、NHKラジオ歌謡・作詞:薮田義雄) *黙って花を(1950年、NHKラジオ歌謡・作詞:本町博史) *ぶらんこ(1950年) *きゅっきゅっきゅっ(作詞:相良和子、1950年) *いとすぎはひとり立っている(1951年、NHKラジオ歌謡・作詞:藤浦洸) *角から二軒目の花の店(NHKラジオ歌謡・作詞:武井つたひ) *小鳥のうた(1952年、作詞:[[与田準一]]) *ヨットの歌(1953年、NHKラジオ歌謡・作詞:西沢義久) *すずかけの路(作詞:岩尾好子、歌:岡部多喜子)ABCホームソング *キンダーブックのうた(1953年) *そらをみる(1953年) *何故だかしらない(1958年、作詞:[[谷川俊太郎]]) *はるだよどじょっこ(1961年) *すてきな音が(1964年) *まんなかとはじっこ(1968年、作詞:谷川俊太郎) *涙と汗と海と雨(1968年、作詞:谷川俊太郎) *3ぷんかんのスーパーマン(作詞:谷口裕治、歌:水木一郎) ほか多数 === 団体歌(社歌・組合・地方公共団体) === *[[篠ノ井市]]の歌(1959年頃、詞:[[西尾実]]) *[[日本航空]]の歌(1963年、詞:[[谷川俊太郎]]) *[[日本航空|JAL]]マーチ(1964年、詞:谷川俊太郎) *[[日産自動車]]社歌 - 「[[世界の恋人]]」(1964年、詞:[[野上彰]]) *[[曙ブレーキ工業]]社歌(1966年、詞:社歌制定委員会) *[[三菱電機]]讃歌(1970年、詞:谷川俊太郎) *[[日本ペイント]]社歌(1980年、詞:[[岩谷時子]]) *[[東京ガス]]讃歌(1984年、詞:谷川俊太郎) *ネグロス電工株式会社「山あるところ山を越え」/詞:宮沢章二/1987年 *東洋レーヨン(現:東レ)労働組合歌/詞:村上政二郎 *全林野労働組合歌(1955年、詞:[[鶴野孝典]]) *自治労・組合歌/詞:原口拓三 *東京ロータリークラブ「いざ友よ」/詞:星野哲郎/1986年 *[[慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団|慶應義塾大学ワグネル・ソサエティー]]の歌~管弦楽と男声合唱のために/詞:藤浦洸/1950年 *[[松山市の歌]](1979年、詞:[[大野志津根]]) *三鷹市民の歌/詞:河西新太郎 *大潟村民の歌/詞:村上一栄 *鹿児島ナポリターナ/詞:ホセ・しばさき === 映画音楽 === *[[えり子とともに]]第1部・第2部(1951年) *青春会議(1952年) *[[南国の肌]](1952年) *いとし子と耐えてゆかむ(1952年) *[[若い人]](1952年) *いついつまでも(1952年) - 音楽監督: [[早坂文雄]] *春の囁き(1952年) *[[煙突の見える場所]](1953年)第4回ブルーリボン賞音楽賞(第4回から新設され、初の受賞者となった)第8回毎日映画コンクール音楽賞 *[[吹けよ春風]](1953年) *抱擁(1953年) *[[飛び出した日曜日]](1953年) *私は狙われている(1953年) *[[銀二郎の片腕]](1953年) *愛情について(1953年) *[[続思春期|続・思春期]](1953年) *広場の孤独(1953年) *[[雲ながるる果てに]](1953年) *[[夜の終わり]](1953年) *[[地獄門]](1953年)この作品は[[第7回カンヌ国際映画祭]]で最高賞であるグランプリ(現パルムドール)、[[第27回アカデミー賞]]で[[アカデミー外国語映画賞|名誉賞]]と[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]を受賞した *[[戦艦大和 (映画)|戦艦大和]](1953年) *大阪の宿(1954年) *[[風立ちぬ (1954年の映画)|風立ちぬ]](1954年) *ともしび(1954年) *最後の女たち(1954年) *[[たけくらべ (1955年の映画)|たけくらべ]](1955年) *[[たそがれ酒場]](1955年) *33号車応答なし(1955年) *サラリーマン目白三平(1955年) - 共作: 武満徹 *続・サラリーマン目白三平(1955年) *花ひらく(1955年) *自分の穴の中で(1955年) *[[浮草日記]](1955年) *彼奴を逃すな(1956年) *雪崩(1956年) *或る夜ふたたび(1956年) *この雪の下に(1956年) *[[猫と庄造と二人のをんな]](1956年) *[[台風騒動記]](1956年) *[[挽歌 (小説)|挽歌]](1957年) *黄色いからす(1957年) *[[米 (映画)|米]](1957年) *糞尿譚(1957年) *[[異母兄弟 (映画)|異母兄弟]](1957年) *[[危険な英雄]](1957年) *お姉さんといっしょ(1957年) - 共作: 草川啓 *夕凪(1957年) *穴(1957年) *脱獄囚(1957年) *[[怒りの孤島]](1958年) *[[負ケラレマセン勝ツマデハ]](1958年) *[[怒りの孤島]](1958年) *新しき大地(1958年)- 共作:[[林光]] *[[螢火 (映画)|螢火]](1958年) *欲(1958年) *花の慕情(1958年) *[[裸の太陽 (映画)|裸の太陽]](1958年) *道産子(1958年) *蟻の街のマリア(1958年) *佐久間ダム・総集編(1958年) *[[花のれん]](1959年) *[[野火 (小説)|野火]](1959年) *[[からたち日記]](1959年) *男性飼育法(1959年) *どんと行こうぜ(1959年) *[[鍵 (1959年の映画)|鍵]](1959年) *チョゴリザ(1959年) *暗道行路(1959年) *[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]](1960年) *[[ぼんち (小説)#映画|ぼんち]](1960年) *わが愛(1960年) *[[女経 (1960年の映画)|女経]](1960年) *白い崖(1960年) *白い牙(1960年) *最後の切り札(1960年) *マッキンレー征服(1960年) *[[猟銃 (小説)|猟銃]](1961年) *[[ゼロの焦点#1961年|ゼロの焦点]](1961年) *[[黒い十人の女]](1961年) *[[愛情の系譜]](1961年) *別れて生きるときも(1961年) *東京夜話(1961年) *巨船ネス・サブリン(1961年) *[[私は二歳]](1962年) *[[破戒 (小説)|破戒]](1962年) *背徳のメス(1962年) *かあちゃん結婚しろよ(1962年) *東京湾(1962年) *[[雪之丞変化]](1963年)- 共作:[[八木正生]] *[[拝啓天皇陛下様]](1963年) *嘘(1963年) *[[百万人の娘たち]](1963年) *[[太平洋ひとりぼっち]](1963年) - 共作:[[武満徹]] *[[五瓣の椿]](1964年) *[[続・拝啓天皇陛下様]](1964年) *波影(1965年) *[[地獄変#映画|地獄変]](1969年) *[[影の車#映画|影の車]](1970年) *[[砂の器#映画|砂の器]](1974年)- 音楽監督。作曲は[[菅野光亮]]。第29回毎日映画コンクール音楽賞 *[[八甲田山 (映画)|八甲田山]](1977年)- 第1回日本アカデミー賞最優秀音楽賞作 *[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]](1977年)- 第1回日本アカデミー賞最優秀音楽賞作 *[[鬼畜 (松本清張)#映画|鬼畜]](1978年)- 第2回日本アカデミー賞優秀音楽賞作 *[[事件 (小説)#映画|事件]](1978年)- 音楽監督。作曲は [[松田昌]]。 *[[日蓮 (映画)|日蓮]](1979年)- 第3回日本アカデミー賞優秀音楽賞作 *[[配達されない三通の手紙]](1979年)- 第3回日本アカデミー賞優秀音楽賞作 *[[わるいやつら#映画版|わるいやつら]](1980年)- 第4回日本アカデミー賞優秀音楽賞作 *[[震える舌]](1980年)- 音楽監督。作曲は[[小熊達弥]]。第4回日本アカデミー賞優秀音楽賞作 *[[幻の湖]](1982年)- 第6回日本アカデミー賞優秀音楽賞作 *[[疑惑 (松本清張)#映画|疑惑]](1982年) - 共作: [[毛利蔵人]]。第6回日本アカデミー賞優秀音楽賞作 === 校歌(幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・専門学校) === *鳴海ヶ丘幼稚園 [http://www.eiko-gakuen.ac.jp/narumigaoka-yochien/] *[[弘前大学教育学部附属小学校]] *新潟県[[長岡市立大河津小学校]] [http://www.kome100.ne.jp/ookoudu-es/] 詞:片桐顕智 *新潟県[[柏崎市立鯨波小学校]] [http://kedu.kenet.ed.jp/kujira/kouka/kouka1.htm] 詞:保坂弘司 *新潟小学校/詞:西條八十 *群馬県[[前橋市立若宮小学校]] [http://menet.ed.jp/wakamiya-es/information/?action=common_download_main&upload_id=226] 詞:有川美亀男 *[[千葉市立稲毛小学校]] 詞:松原至夫/1953 *千葉県[[市川市立宮田小学校]] [http://www.nishitokyo.ed.jp/e-yato/shokai/koka.html] 詞:西條八十/1955 *千葉県[[市原市立平三小学校]] 詞:松原至大 [http://www.city.ichihara.chiba.jp/shisetsu/syou_cyuu_gakkou/el/el_heisan/ 2016年閉校] *埼玉県[[皆野町立皆野小学校]] [http://www.town.minano.saitama.jp/es_minano/about/] 詞:金子伊昔紅 *埼玉県[[越谷市立蒲生小学校]](作詞:[[下山懋|下山つとむ]]) *東京都[[足立区立舎人第一小学校]] 詞:片岡輝 *東京都[[足立区立皿沼小学校]] 詞:片岡輝 *東京都[[足立区立辰沼小学校]] 詞:村山俊幸 *東京都[[葛飾区立道上小学校]] 詞:勝承夫 *東京都[[世田谷区立東玉川小学校]] 詞:栗原源七 *東京都[[渋谷区立富谷小学校]] 詞:PTA *東京都[[立川市立第七小学校]] 詞:原田重久/1963 *東京都[[西東京市立谷戸小学校|西東京(田無)市立谷戸小学校]] [http://www.nishitokyo.ed.jp/e-yato/] 詞:宮田重雄/1958 *長野県[[松本市立鎌田小学校]] 詞:亀井勝一郎/1957 *長野県[[松本市立島内小学校]] 詞:臼井吉見/1969 *長野県[[塩尻市立片丘小学校]] 詞:西岡実/1968 *[[信州大学教育学部附属松本小学校]] [http://shinshu-u-fuzoku.jp/msho/introduction/index.html] 詞:臼井吉見/1958 *三重県渡会郡南勢町迫間小学校 詞:楠井不二/1972/廃校 *長野県平谷小学校・中学校 [http://myschoolsong.com/6027_hiraya_scjh/] 詞:臼井吉見/1964 *青森県中津軽郡大浦村外二ケ村学校組合津軽中学校(現:[[弘前市立津軽中学校]])詞:横山武夫/1952 *宮城県[[気仙沼市立津谷中学校]] 詞:水上不二/1958 *宮城県[[気仙沼市立大島中学校]] 詞:水上不二 *秋田県[[羽後町立羽後中学校]] 詞:井上靖/1975 *福島県石川郡石川町立石川中学校 [https://ishikawa.fcs.ed.jp/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1/%E6%A0%A1%E6%AD%8C%E3%83%BB%E6%A0%A1%E7%AB%A0] 詞:栗原一登 *新潟県[[両津市立東中学校]] 詞:佐藤春夫(平成24年より統合され、佐渡市立両津中学校となり新校歌が公募され現在は使われていない) *新潟県春日村(現:上越市)春日中学校/詞:亀井勝一郎/1957 廃校 *千葉県[[千葉市立緑町中学校]] 詞:松原至大 *千葉県[[市原市立八幡中学校]] 詞:松原至大 *千葉県[[市原市東海中学校]] 詞:市原三郎 *千葉県[[君津市立周南中学校]] *埼玉県[[川口市立元郷中学校]] 詞:[[服部嘉香]] *埼玉県[[さいたま市立本太中学校]] 詞:本太中学校/1953 *[[慶應義塾中等部]] 詞:折口信夫/1948 *東京都[[文京区立第八中学校]] 詞:校歌選定委員会 *東京都[[墨田区立両国中学校]] 詞:佐藤義美/1950 *東京都にしみたか学園三鷹市立第二中学校詞:[[服部嘉香]]/1957 *神奈川県[[藤沢市立長後中学校]] 詞:草野心平 *神奈川県[[相模原市立上溝南中学校]] 詞:宮沢章二/1983 *神奈川県[[箱根町立仙石原中学校]] 詞:谷馨 2008年閉校 *長野県東筑摩郡[[波田町立波田中学校]] 詞:西尾実/1963 *長野県[[安曇野市立堀金中学校]] [http://www.city.azumino.ed.jp/horigane_jhs/index.html] 詞:臼井吉見/1953 *[[名古屋市立桜丘中学校]]『天地の』詞:柏木義雄/1986 *[[京都教育大学附属京都小中学校]]中・高等部 詞:伊吹武彦/1957 *愛媛県[[大洲市立大洲北中学校]] 詞:小山龍之輔(北中と南中は同じ学校が分かれて2つになったため同じ歌詞・同じ作曲の校歌を持つ) *愛媛県[[大洲市立大洲南中学校]] 詞:小山龍之輔(北中と南中は同じ学校が分かれて2つになったため同じ歌詞・同じ作曲の校歌を持つ) *長野県 [http://www.mis.janis.or.jp/~ananone/ 阿南町立阿南第一中学校] 詞:西尾実、山下宏/1967 *広島県[[廿日市市立大野東中学校]] 詞:石本美由起 * *[[北海道赤平茂尻高等学校]]/詞:藤島宇内/1958?/現在は閉校 *[[青森県立弘前南高等学校]]/詞:小野正文 *東陵高等学校(宮城県)/詞:佐藤朔 *[[山形県立寒河江高等学校]] *[[常総学院中学校・高等学校]](茨城県)/詞:西澤爽 *[[群馬県立高崎高等学校]]/詞:草野心平/1957 *[[群馬県立富岡東高等学校]]/詞:佐藤春夫/1952 *[[樹徳中学校・高等学校|樹徳高等学校]](群馬県) *[[千葉県立鎌ケ谷西高等学校]]/詞:大賀初太/1981 *[[千葉県立佐倉高等学校]]『第二応援歌』 *[[東京都立井草高等学校]] *[[東京都立竹台高等学校]]/詞:土岐善麿/1955 *[[日体荏原高等学校]]・[[桜華女学院]](東京都)/詞:室生犀星 *[[山梨県立甲府昭和高等学校]]/金田一春彦/1984 *[[静岡県立修善寺工業高等学校]]/詞:井上靖/1957 2010年、統合により校歌変更。 *[[静岡県立吉原工業高等学校]] *三重県立尾鷲高等学校長島校/詞:津坂忍/1958 2008年閉校 *[[岐阜県立東濃高等学校]]/詞:佐藤春夫/1951 *[[京都府立洛北高等学校・附属中学校]]/詞:[[吉川幸次郎]] *[[京都府立北稜高等学校]]/詞:佐藤孝雄 *[[京都府立莵道高等学校]]詞:吉田金彦/1987 *[[岡山県立吉備北陵高等学校]]/詞:楠田清毅 [[岡山県立高梁高等学校|2008年に岡山県立高梁高等学校]]に統合された。 *[[岡山県立矢掛高等学校]]/詞:小川博史 *岡山県立琴浦高等学校(2005年[[岡山県立倉敷鷲羽高等学校]]に統合し閉校)/詞:柏野勝子 *岡山県玉野市立玉野商業高等学校(現:[[玉野市立玉野商工高等学校]]) *[[徳島県立小松島高等学校]]校歌/詞:神保光太郎 *[[香川県立高松高等学校]]/詞:川西新太郎 *[[鹿児島市立鹿児島女子高等学校]]/詞:菅原杜子雄/1960 * *[[高崎商科大学]]/詞:依光良馨 *[[早稲田大学]]『早稲田の栄光』詞:岩崎巌 *[[法政大学]]学生歌『未来圏から吹く風』/詞:條達夫 *流通経済大学応援歌「われらが勇者」詞:北耕平 *紅陵大学(現:[[拓殖大学]])新応援歌/詞:大木敦夫/1949 *[[京都府立大学]]「曙」/詞:小谷勝一 *[[大阪産業大学]] *労働大学の歌「われら労大の仲間」/詞:清水克二 * *[[武蔵野短期大学]]/詞:田健一 *[[大阪社会事業短期大学]]([[1982年]]廃止)/詞:小野十三郎 *埼玉県警察学校寮歌/詞:中村彬之助 *中央協同組合学園/詞:西澤爽/2000年に廃校 *武蔵野看護専門学校/詞:草野心平/1953 *魚菜学園 自由が丘お料理学校/詞:佐藤沙羅夫 == 著書 == *現代人のための音楽([[新潮社]]/1953年) - 共著。 *現代音楽に関する3人の意見([[中央公論社]]/1956年) - [[團伊玖磨]]、[[黛敏郎]]との共著。 *私の音楽談義([[青木書店]]/1956年 → [[音楽之友社]]/1959年 → [[ちくま文庫]]/1991年) *音楽の現場(音楽之友社/1962年) *音楽を愛する人に――私の名曲案内([[筑摩書房]]/1967年 → [[旺文社]]文庫/1981年 → ちくま文庫/1990年) - [[日本点字図書館]]から1991年に点字版が刊行された。 *音楽の基礎([[岩波新書]]/1971年) *音楽の遊園地([[れんが書房]]/1973年 → 旺文社文庫/1982年) *歌の絵本(全2巻)(講談社/1977年・1979年) - 編纂。 *人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集([[芸術現代社]]/1978年) *人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集 続(芸術現代社/1978年) *音楽の旅(旺文社文庫/1981年) *ぷれりゅうど(筑摩書房/1990年) === 訳書 === *ドナルド・エリオット文、クリントン・アロウッド絵『絵本ワニのオーケストラ入門』(岩波書店/1983年) - 石井史子との共訳。 == 出演歴 == === テレビ === *[[音楽の広場]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]、1976年4月10日 - 1984年3月23日) *[[N響アワー]]([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]、1984年4月7日 - 1988年9月24日) *[[私のクイズ]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1963年1月11日 - 1964年11月27日) *[[土曜ロータリー]]([[TBSテレビ]]、1965年4月 - 8月) *芥川也寸志の土曜パートナー(TBSテレビ、1965年 - 1970年) *芥川也寸志のコンサート・コンサート(TBSテレビ、1970年)<ref>ヒナ檀がくずれる TBSスタジオ 録画の14人重軽傷『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月7日朝刊 12版 22面</ref> *[[木曜洋画劇場]](東京12チャンネル (現:[[テレビ東京]])、1969年10月16日 - 1973年4月26日) === ラジオ === *音楽クラブ - やぶにらみの音楽論([[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ]]、1956年 - 1960年) *[[オーナー (ラジオ番組)|オーナー]]([[TBSラジオ]]、1964年7月13日 - 1966年10月1日) *サンスイ名曲サロン([[TBSラジオ]]、1964年4月3日 - 1965年4月30日) *今晩は! 音楽です([[TBSラジオ]]、1965年8月5日 - 1966年4月7日) *[[百万人の音楽]](TBSラジオ、1967年4月16日 - 1988年) === CM === *[[富士通ゼネラル|ゼネラル]]「ザ・マルチ」([[カラーテレビ]]) *[[コニカ|小西六]](現[[コニカミノルタ]])「サクラカラー400」 *[[プラチナ万年筆]] *[[大正製薬]]「サモン」 == 関連人物 == === 門下 === *[[いずみたく]] *[[菅野よう子]] === アシスタント === *[[武満徹]] *[[菅野光亮]] *[[毛利蔵人]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20160920112127/http://www003.upp.so-net.ne.jp/johakyu/ak.htm 芥川也寸志の団体歌] *{{Jmdb name|0061330}} *{{allcinema name}} *{{Kinejun name}} *{{imdb|0015614}} *{{NHK人物録|D0009070428_00000}} *[http://salida1.web.fc2.com/hayasakahumiwotoakutagawayasushinotaiwatoptape.html 『早坂文雄と芥川也寸志の対話』](Salida、2022年7月)※1955年5月の芥川也寸志によるインタビュー音源 {{日本アカデミー賞最優秀音楽賞}} {{毎日映画コンクール音楽賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あくたかわ やすし}} [[Category:芥川也寸志|*]] [[Category:芥川家|やすし]] [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:日本の指揮者]] [[Category:近現代の作曲家]] [[Category:日本の映画音楽の作曲家]] [[Category:日本のオペラ作曲家]] [[Category:合唱音楽の作曲家]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:勲二等瑞宝章受章者]] [[Category:日本から密出国した人物]] [[Category:東京芸術大学出身の人物]] [[Category:筑波大学附属高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1925年生]] [[Category:1989年没]]
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長野市
長野市(ながのし)は、長野県の北信地方にある県内で最も人口が多い市であり、長野県の県庁所在地、中核市に指定されている。また、長野都市圏・北信地方の中心都市。 1998年には第18回冬季オリンピック長野大会及び第7回冬季パラリンピック長野大会が開催された。また、2005年には第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会が行われた。 市内にある長野県庁本庁舎は、標高371.3メートルの地点に建っており、日本の47都道府県庁舎の中で最も高い場所にある。 長野市は上信越高原国立公園の飯縄山、戸隠山、黒姫山などの北信五岳を背景に、市内の中央には一級河川である千曲川、犀川の2大河川が流れている。 長野盆地は、東部山地と西部山地に挟まれた、面積およそ300平方キロメートル、標高330~380メートルの盆地である。善光寺平とも呼ばれてきた。長野盆地の中には千曲川・犀川・裾花川など大小の河川が多数流れ込み、千曲川に合流している。長野盆地内の千曲川は高低差が小さいため、流れが穏やかである。千曲川沿いには、洪水の際に川が氾濫して土砂が堆積した沖積地が広がっている。洪水の被害を受けやすい沖積地は昔から主に耕作地として利用されてきたが、治水が進んだ現代では市街地化が進んだところも見られる。 西部山地から流れ込む犀川と裾花川は、上流から多量の砂礫を盆地内へ運び込んでいるため、傾斜が緩やかで大規模な扇状地を形成している。長野市の主な市街地は、こうした扇状地の上に形成されている。 西部山地は戸隠山や聖山、虫倉山など一部の山を除くと、標高1000メートル以下のなだらかな山々から構成されている。山地をつくっている地層が比較的新しくて軟質なため、地滑りが多く発生している。古い地滑りの跡地は、とてもなだらかな地形をしていて土壌も肥沃なため、耕作地や住宅地として利用されている。 西部山地の斜面は、かつては薪炭林や農耕に必要な採草地として利用されていたが、現在ではあまり利用や手入れが行われておらず、荒廃が進んでいる。 東部山地は、高いところで標高1200メートル以上以上もある高い山地で、しかも硬い岩盤でできているため、とても急峻な地形をしている。山地に平地が乏しいので耕作地は少なく、その大半が森林となっている。若穂や松代の山際には、小規模な扇状地が見られる。土壌が砂礫質で地表に水が乏しいため、一部が住宅地として利用されているほかは主に果樹園として利用されている。 2008年における地目別の土地面積は次の通りであった。 市の中心部は盆地に位置することから寒暖の差が激しい。夏に高温を記録することも多い一方で、冬の寒さは厳しい。このように、気温の日較差、年較差が大きい大陸性気候と言える。中央高地式気候の典型とされることもあるが、日本海側気候の特色も併せ持ち、市北部の山間部は日本海側気候の豪雪地帯である。一方で、市街地中心部は降雨も降雪も限られている。 気温は年間を通して東北地方南部の会津若松市や山形市と同程度であり、県庁所在地としても冷涼な都市に属する。冬季の寒さは日照時間の短さに由来するが、一方で平均的な雲量は7前後と決して多くないことから放射冷却が発生しやすく、日没後には気温が急速に低下する。1月の平均最低気温は−3.9 °Cと、全国的に見ても低い。ただし、長野県内では高い方である。最低気温記録は−17.0 °C(1934年1月24日)であるが、これは長野県内では高い。曇天の日が多いこともあり日中の気温が上がらず真冬日を観測することも珍しくなく、長野県内の主要都市では諏訪市と並んで真冬日が多い地域とされる。最低気温については上昇傾向が見られ、これはヒートアイランド・都市化の影響を受ける市街地で顕著である。かつては毎年のように記録していた−10 °C以下の気温が観測されることは80年代以降少なくなっている。21世紀に入ってからその傾向は顕著となり、2007年から2023年までの間で−10 °C以下の気温を観測したのは2012年、2016年、2018年、2022年、2023年のみである。1961年以降の最低気温は−15.0 °C(1967年1月17日)、2000年以降では−12.0°C(2001年1月16日)と、県内の気象観測地点では県南部の南信濃に次いで高い。 長野市でも北部山間部は、日本海側気候の特性が強い豪雪地帯である。その一方で、中心市街地より南は、山脈の下降気流の影響を受けるため、降雪量は少なくなり、そこそこ積もるという程度である。中心市街地に近い長野地方気象台(長野市箱清水1丁目)を例にとると、年間降雪量は163 cmで、従前の平年値に比較して100cmほど減少したものの、それでも豪雪地のイメージを持つ新潟市を上回る量であり、冬型の気圧配置による降雪だけでなく南岸低気圧の影響による降雪も見られるため、降雪が少ないとは言えない。ただし冬期の降水量は月間で50mm前後に過ぎず、年間の最深積雪も40cm以下に収まる年が多い。観測史上の最深積雪も1946年12月11日に観測された80 cmであり、より降雪量が少ない松本市の78cmと同程度となる。 降水は年間を通して少なく、都道府県庁所在地中最小の降水量である。長野市以外の県庁所在地で降水量が少ない都市として岡山市や甲府市、札幌市が挙げられるが、いずれも平年降水量は1100 mmを超えるのに対し長野市の平年降水量は965 mmと、際立って低い印象を受ける。ただし、2000年以降は年間降水量が1000mmを超える年が目立っており、2011年から2020年までの間で1000mmを下回った回数は2012年と2017年のみである。 夏は、日本国内で見れば晴天が多く、日照時間も多い方であり、日射しも強い。観測史上の最高気温は1994年8月16日の38.7 °Cである。8月の平均最高気温は31.1 °Cに達し、猛暑日が観測されることも珍しくないなど昼間の暑さは厳しい。1994年以降は年間の猛暑日日数が0日になったことがない。相対湿度も日本の中では上位だが、一方で日本気象協会が提唱する「ジメ暑日」は少ない。最低気温は比較的低く熱帯夜になることは稀に観測する程度で記録がない年も多く、朝晩は過ごしやすいと言える。 長野地方気象台は1889年から気象観測が行われてきたことと、観測露場の環境が良いために、気象庁による東日本の平均気温の算出地点の1つにされている。 14の管区と52の地区から構成される(以下の人口はいずれも2023年3月1日現在の推計人口。 長野市域における人類のあゆみは飯綱高原などの高原や山地から始まった。代表的な飯綱高原の上ケ屋遺跡は約2万年前の旧石器時代のものである。縄文時代の遺跡も、豊野地区の上浅野遺跡(市有形文化財)、中条地区の宮遺跡をはじめとして多彩に見つかっており、当時のムラの様子をうかがうことができる。 弥生時代には長野盆地でも稲作が行われるようになる。また、この時代にはコメなどをめぐり争いが発生。柳原地区の水内坐一元神社遺跡は、防御用の大きな溝を巡らせた環濠集落であり、そのことがうかがえる。弥生時代後半には「赤い土器(箱清水式土器)」が特徴的に使われだし、長野盆地を中心とした千曲川・犀川流域は「赤い土器のクニ」と呼ばれる独自の文化圏を形成した。 4世紀の中ごろ以降、千曲川を見下ろす山の上には、川柳将軍塚古墳(篠ノ井石川)や和田東山3号墳(若穂保科)といった大型の前方後円墳が築かれるようになる。これらは地域の「王」であるのと同時に、ヤマト政権のメンバーでもあった。5世紀中ごろになると、大型古墳の築造と入れ替わるように、大室地区に集中的に古墳が築かれるようになる。総数500基を超える大室古墳群は朝鮮半島とかかわりのあった人々の墓と考えられる。 善光寺平の中心とした「シナノ」のクニは少なくとも4世紀前半にはヤマト政権のもとに入っていたと考えられる。「シナノ」は和銅5年(712年)編纂の『古事記』では「科野」、養老4年(720年)の『日本書紀』では「信濃」が統一的に使われている。このことから、7世紀後半には「科野」が用いられ、大宝令の制定を経た大宝4年(704年)に諸国の刻印が初めて鋳造された際、「信濃」の表記に改称されたと推定される。 長野市の代表的な寺社に善光寺と戸隠神社がある。善光寺の名が文献上初めて登場するのは平安時代、10世紀に成立した『僧妙達蘇生注記』で、このころには地方の有力寺院となっていたことがわかる。一方、戸隠神社は、11世紀初めの『能因歌枕』で歌枕のひとつに「とがくし」が挙げられているなど、存在が中央に認められつつあったことがわかっている。 治承4年(1180年)、木曾義仲は平氏を追討するため兵を挙げ、中信から東北信に進出した。これに対し、越後の平氏方の城資職は数万騎を率いて信濃に入る。平氏約4万、源氏約3千の両軍が養和元年(1181年)に篠ノ井の横田で戦った。これが横田河原の戦いである。義仲は、高井郡の井上光盛ら北信濃の豪族たちの助力によって勝利した。 長野市は善光寺の門前町として発展してきた。善光寺は治承3年(1179年)焼失したが、源平合戦に勝利した源頼朝の命によって10年後の建久2年に再興された。その後も執権・北条家が善光寺を篤く信仰し、鎌倉時代には善光寺信仰が全国に広まり、門前町として地域が形成されていくことになる。『一遍聖絵』からは、この当時の善光寺と門前の賑わいを見て取ることができる。 鎌倉幕府が滅びると、北条時行が諏訪氏を頼って挙兵。八幡河原、篠井河原、四宮河原で信濃守護・小笠原貞宗と戦った。中先代の乱(青沼合戦)である。観応の擾乱に続く南北朝の争いでは国人領主達が2派閥に別れ、これらが守護や関東管領の命令に従わず、市内や近隣の各所は戦場と化した。 南北朝の動乱がようやく治まった応永6年(1399年)、室町幕府の足利義満は小笠原長秀を信濃守護に任命。それに対し、地元の北信濃きっての有力国人「村上氏」たちは大文字一揆を形成。二者は対立し、大塔合戦が起きた。結果、小笠原氏は降伏し、京都に逃れることとなる。 戦国時代になると武田信玄と上杉謙信が対立し、天文22年(1533年)に両軍は川中島で決戦することとなった。戦いは小競り合いも含めて5回起き、中でも永禄4年(1561年)秋の戦いは激戦となった。この川中島の戦いは地域の武将だけでなく、寺社にも影響を与える。善光寺の本尊・善光寺如来は権威の象徴として、武将の手を転々とすることになる。まず武田信玄とその子・勝頼、次に織田信長、徳川家康、そして豊臣秀吉の手に渡る。最終的に善光寺に帰るまでの44年間、本尊は各地を流転し、そのため門前町も衰退することになった。また戸隠神社は騒乱に巻き込まれたため、信徒たちは文禄3年(1594年)まで、30年間も小川筏ヶ峰(現在の小川村)に避難を余儀なくされた。 戦国時代後期、現長野市域を含む北信濃は武田領であったが、1582年の武田氏の滅亡によって一時的に織田領となった後、本能寺の変以降は上杉氏が北信濃の川中島四郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡)を慶長年間初頭まで支配した。なお、川中島の合戦の際に武田方の拠点として松代に造られた海津城は、江戸時代に入ると川中島四郡を治める信濃国最大の領国の中核として発展した。 江戸時代になると主要5街道に次ぐ脇街道として北国街道が整備された。北国街道は追分宿(軽井沢町)で中山道から分岐し、矢代宿(千曲市)を過ぎて2つに分かれる。ひとつは千曲川と犀川を越えて善光寺宿から牟礼宿(飯綱町)に至るルート、もうひとつは松代城下を通り、福島宿(須坂市)北で千曲川を渡り長沼宿から牟礼宿に至るルートであった。江戸時代初期以降、繁栄する善光寺町を通る前者が北国街道の主となり、後者は犀川の洪水による舟留めの際の迂回ルートとして利用された。 北国街道は諸大名が参勤交代するルートとしても使われた。また、江戸まで距離も短く難所も少ないため、佐渡金銀の「御金荷」を運ぶ輸送路にもなっていた。 またこの時代、長野市域の大半は松代藩領で占められ、そこに善光寺や戸隠山といった寺社領、飯山藩領、須坂藩領、上田藩領、塩崎知行所などが所在した。その松代藩の政庁である松代城は、先に述べた海津城がその始まりとされる。その後、城下町も整備され、松代城は北信濃支配の拠点として重要な役割を担うようになっていった。 元和8年(1622年)、真田信之が移管されて初代松代藩主となる。ここに真田氏による松代藩の治世が始まり、それは明治維新まで10代250年も続いた。信之は町づくりや産業振興に力を尽くす一方、質素倹約を励行すると共に文武を奨励。それは幕末や明治に活躍する佐久間象山や長谷川昭道を輩出する下地となった。 一方、衰退していた善光寺と門前町だが、本尊が戻ったことによって次第に復興していく。本堂が火災で焼失すると、その資金調達のために自ら出向いて出開帳を行い、全国へさらに善光寺信仰を広めるきっかけとなった。全国各地から善光寺参りの参詣者が集まり、門前町はより繁栄。信濃へ入る道はすべて善光寺道と呼ばれた。 発展した長野市域だが、江戸時代には巨大な災害が2つ起きている。寛保2年(1742年)、7月下旬から起きた大暴風雨によって千曲川本流支流ともにすさまじい氾濫が起きた。被害は甚大で、松代藩領では住宅の被害が2835軒、死者1220名、死んだ馬が32匹に及んだ。松代城にまで浸水し、「戌の満水」と呼ばれる。 また弘化4年(1847年)3月24日夜10時ごろ、マグニチュード7.4と推定される大地震が北信濃を襲った。今日では善光寺地震と呼ばれ、長野県下で発生した地震の中でも最大規模とされている。折しも善光寺では御開帳が行われ、大勢の参詣者が集まっていた。多数の家屋が倒壊すると共に、門前町は猛火に包まれ、数千人の犠牲者が出たとされる。また二次災害として山崩れ、洪水なども起き、死者は8586人に及んでいる。 長野県の前身は中野県だったが、松代騒動に続く明治3年(1870年)の中野騒動により、現在の中野市にあった中野県庁が焼き討ちに遭って焼失。結局、明治4年(1871年)に長野村の善光寺町へ県庁を移転、長野県に名前を変更することが決まった。最初の長野県は旧幕府領を管轄する県だったが、明治4年の廃藩置県に伴い、東北信6郡を管轄する長野県となった。さらに明治9年(1876年)、筑摩県の中南信4群をあわせて、旧信濃国10郡が長野県となった。 明治7年(1874年)、長野村は長野町となり、同9年(1876年)長野町は箱清水村と合併。さらに同22年(1889年)の町村制で長野町、南長野町、西長野町、鶴賀町と茂菅村が合併して新たな長野町が誕生した。さらに、明治30年(1897年)には県下最初の市制を施行して、ついに長野市となった。 明治21年(1888年)、長野から直江津まで鉄道が開通したことをきっかけに、商工業が発展し近代的市街地が形成された。大規模敷地を要する官庁や文化施設は市街地縁辺部に設置され、市街地との連絡道路が建設されることで、新しい町が生まれて市街地が拡大していった。 明治には富国策として繊維産業に力が入れられ、その影響で市域でも蚕を飼う養蚕農家が急増した。そんな中、明治7年(1874年)には旧松代藩士・大里忠一郎ら数名が、松代町西条に国内初の民間資本による器械製糸場を設立した(西条村製糸場、後に六公社と改称)。六公社には官営の富岡製糸場で工女として働き、蒸気器械製糸技術を学んだ和田英らの十数名も技術指導者として参画した。 しかし、世界恐慌が起きると昭和5年(1930年)には生糸関連の価格が大暴落する昭和恐慌が始まった。ほとんどの農家が養蚕を行い、製糸工場の女工も多かった長野市の影響は甚大だった。昭和7年(1932年)には景気が急激に回復するが、製糸工場はその波に乗り遅れ、少しずつ衰退していった。 太平洋戦争の敗色が濃厚になった昭和19年(1944年)、天皇と直属の最高作戦指導機関の大本営を東京から長野に移す計画が始まる。同年10月に松代の象山、舞鶴山、皆神山に巨大な地下壕を設ける工事が開始。翌年8月15日、日本の降伏で戦争が終結したため工事は中止されたが、本体の8割方は完成していた。工事の主要な労働は勤労動員、学徒動員、朝鮮労働者らが担ったとされる。 またアメリカ軍による本土爆撃も激しさを増した昭和20年(1945年)、8月13日の早朝午前6時50分ごろから午後3時50分ごろまで、6回に渡って長野市は機銃の掃射や爆撃を受けた。終戦2日前のことであり、長野空襲と称される。この時の死者は47人であったとされる。 戦後から現在に至るまで、4回の市町村合併が行われた。まず昭和28年(1954年)の昭和の大合併で、長野市へ周辺の10か村が編入された。次に昭和41年(1966)年にはさらに篠井市など7市町村と大合併を行う。そして平成の大合併では平成17年(2005年)に4町村を、同22年(2010年)にはさらに2町村を長野市に合併した。 一方、昭和40年(1965)年から松代で微小の地震が日に何度も起こる松代群発地震が発生。4年後終息するまで、64万8000回を数えた。昭和60年(1985年)には地附山で大規模な地滑りが発生し、26人の死者と多くの住宅被害を出した。台風による犀川や千曲川の氾濫、堤防の決壊は戦後何度も起こり、そのたびに農地や家屋が被害に遭った。特に令和元年(2019年)の台風19号災害では、長沼地区や豊野地区を中心に例を見ないほどの多くの被害が出た。 また交通分野では、平成5年(1993年)に長野自動車道・上越自動車道が開通。平成9年(1997年)には、長野新幹線が開通した。さらに、平成27年(2015年)には長野‐金沢間が開通し、北陸新幹線として開業した。 平成10年(1998年)に開催された長野オリンピック・パラリンピックでは競技会場が充実すると共に、外国からの訪問者との交流も盛んになった。その中でも一校一国運動はその後、世界的に広まった。現在、長野市は国際会議観光都市として認定されている。 町村制施行前の沿革については上水内郡、更級郡、埴科郡、上高井郡も参照 「長野」という地名が歴史上初めて登場するのは、戦国時代・元亀元年(1570年)の武田信玄の書状である。長野市立図書館のある長門町一帯が、近世には「長野町」とも呼ばれていたようで、上長野・下長野という小字名がある。また、現在の信大教育学部のあたりには袖長野・中長野・西長野の小字名があり、信大教育学部あたりから長門町付近にかけての緩傾斜地についた小土地名が「長野」と考えられる。 この「長野」という地名は、善光寺平に裾花川が砂礫を運んでつくった扇状地に由来すると思われる。「野」はゆるく傾斜する場所を意味することから、長い緩やかな傾斜地を「長野」と呼んだのだろう。 「長野村」という地名は、中世末期から見られたらしい。中世末から近世にかけての「水内郡長野村」は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。1601年(慶長6年)に、同郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部(間もなく平柴村に変更)と共に善光寺領とされた。 箱清水村は、1875年(明治8年)に長野町と合併、七瀬村は1876年(明治9年)に鶴賀村の一部となり鶴賀町を経て長野町へ、三輪村は1889年(明治22年)に三輪村、平柴村は1889年(明治22年)に安茂里村を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道のルートとされたことから宿場町としても発展して市街地化(町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市大字南長野)および権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。 しかし、検地帳上の公的な村名は善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけではなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。 長野県は1995年の段階で、ゴミのリサイクル率17.0パーセントと、当時の日本の都道府県の中で2位の水準にあった。そんな背景がある中で、長野市では環境問題への取組みとして、第6回持続可能な地域社会をつくる日本の環境首都コンテストに参加した。 集配郵便局 無集配郵便局 簡易郵便局 博物館・記念館 (かつては飯綱高原スキー場、地附山スキー場があった。) 県立:12校(普通科9校、職業科3校) 市立:1校(職業科1校) 私立:8校(普通科8校) 国立:1校 市立:25校 私立:4校 長野市は都市圏人口が約60万人である。車社会が進展している一方で、日本の中規模地方都市としては公共交通手段を利用した通勤・通学が盛んであり、朝夕のラッシュ時には鉄道駅やバス停が多くの通勤・通学客で混雑する。そのため信越本線は朝ラッシュ時6両の編成による運行が見られ、長電長野線においても短い間隔で通勤形車両によって運行されるほか、通勤利用による混雑の対策として長野駅には自動改札機が設置されている。また、路線バスにおいては川中島バスが長野駅~松代間にて座席指定制の「通勤ライナー」を運行するなど、通勤利用対策を行っている。 東日本旅客鉄道(JR東日本)、しなの鉄道、長野電鉄の3社の路線が市内を通る。 2011年12月6日、松代・若穂・篠ノ井・更北・川中島の沿線5地区の住民自治協議会長の連名で、長野電鉄屋代線廃止後の跡地を活用したLRTの導入を求める請願が長野市議会に提出され、同年12月16日の長野市議会12月定例会にて全会一致の賛成で採択された。これを受けて長野市は市の交通対策審議会に諮問、新交通システム導入検討部会において、LRT及び長野駅‐松代駅間の新交通システム導入に関する調査検討を行った。 2013年5月29日から同年6月21日に実施した「長野市新交通システム導入可能性調査」の結果を踏まえて、長野市交通対策審議会は2014年2月12日に、旧屋代線を除いた計画中の5ルート(長野駅 - 善光寺、長野駅 - 若槻団地、長野駅 - 綿内駅、長野駅 - 松代、長野駅 - 篠ノ井駅)での採算性や事業実施の難易度(市が検討する中で最も営業区間の長い長野駅 - 篠ノ井駅ルートの場合、市が負担する事業費を172億円、年間運行経費が6億4000万円と見込み1人当たりの平均運賃を試算すると、LRTで570円、BRTでは280円にのぼる)を考え、中期的にはBRTについて検討を進め、長期的には将来の需要喚起や技術革新などを勘案した上で、LRTへの移行を踏まえ今後検討を深めていく必要があるとした。 その後、2014年7月30日に発表された「新交通システムの導入に関する中間報告書」においては、「LRT化には、大規模な投資が必要となるが、投資を上回る事業便益が生じてこない状況」(「継続した運行のためには、相当高い運賃設定」か「相当な観光客の誘客(現状松代地区に年間60万人であるところ、215万人)」が必要)とし、運行は「沿線人口の大幅な増加又はLRT利用観光客の大幅な増加」もしくは「赤字分を全て行政で負担」が条件だが、いずれもその可能性は低いと評価した。 県道(一部) 都市の成り立ちが県庁所在地であり、官公署が集中していたことから、卸売業を中心に商業が発達している。現在は卸売業・小売業・宿泊業・飲食サービス業の企業が多い。これらのうち卸売業・小売業では飲食料品小売業が、宿泊業・飲食サービス業では飲食店が、それぞれ最も多い業種である。 また、工業の特色としては、企業数で食料品、印刷業、生産用機械器具がトップ3を占め、製造品出荷額では、電子回路基板、みそ、無線通信機械器具、オフセット印刷、電子計算機(パソコンを除く)の品目が出荷額の多い順になっている。 明治以降から印刷業が発達してきたため、長野市では印刷業の企業数およびその製造品出荷額が非常に多い。近年のデジタル化、紙離れなどにより業界は厳しい状況にあるが、現在でも脈々とその流れは続いている。 また、出荷額の多い電子回路基板、無線通信機械器具、電子計算機の品目を製造する企業のほとんどは、昭和初期から戦争中の疎開によって長野市に移転したものである。戦後も当地に留まり、時代の流れと共に大きく発展した。 製造品出荷額のトップ20には食料品製造業の「みそ」を筆頭に、惣菜、精米・精麦があり、自然の豊かな長野市の気候風土を反映しているといえる。 第1次産業 - 農業産出額(2020年)163.4億円(県3位) 第2次産業 - 工業製造品出荷額(2020年)5938億円(県2位) 第3次産業 - 年間商品販売額(卸売業・小売業、2015年)1兆6850億円(県1位) FM長野は松本市に本社を置くが、それ以外の局は長野市に本社、本部を置く。 建築物 史跡 仏像 工芸品・書跡など 絵画 無形民俗文化財 天然記念物 登録記念物 重要伝統的建造物群保存地区
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "長野市(ながのし)は、長野県の北信地方にある県内で最も人口が多い市であり、長野県の県庁所在地、中核市に指定されている。また、長野都市圏・北信地方の中心都市。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1998年には第18回冬季オリンピック長野大会及び第7回冬季パラリンピック長野大会が開催された。また、2005年には第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会が行われた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "市内にある長野県庁本庁舎は、標高371.3メートルの地点に建っており、日本の47都道府県庁舎の中で最も高い場所にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "長野市は上信越高原国立公園の飯縄山、戸隠山、黒姫山などの北信五岳を背景に、市内の中央には一級河川である千曲川、犀川の2大河川が流れている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "長野盆地は、東部山地と西部山地に挟まれた、面積およそ300平方キロメートル、標高330~380メートルの盆地である。善光寺平とも呼ばれてきた。長野盆地の中には千曲川・犀川・裾花川など大小の河川が多数流れ込み、千曲川に合流している。長野盆地内の千曲川は高低差が小さいため、流れが穏やかである。千曲川沿いには、洪水の際に川が氾濫して土砂が堆積した沖積地が広がっている。洪水の被害を受けやすい沖積地は昔から主に耕作地として利用されてきたが、治水が進んだ現代では市街地化が進んだところも見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "西部山地から流れ込む犀川と裾花川は、上流から多量の砂礫を盆地内へ運び込んでいるため、傾斜が緩やかで大規模な扇状地を形成している。長野市の主な市街地は、こうした扇状地の上に形成されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西部山地は戸隠山や聖山、虫倉山など一部の山を除くと、標高1000メートル以下のなだらかな山々から構成されている。山地をつくっている地層が比較的新しくて軟質なため、地滑りが多く発生している。古い地滑りの跡地は、とてもなだらかな地形をしていて土壌も肥沃なため、耕作地や住宅地として利用されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "西部山地の斜面は、かつては薪炭林や農耕に必要な採草地として利用されていたが、現在ではあまり利用や手入れが行われておらず、荒廃が進んでいる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東部山地は、高いところで標高1200メートル以上以上もある高い山地で、しかも硬い岩盤でできているため、とても急峻な地形をしている。山地に平地が乏しいので耕作地は少なく、その大半が森林となっている。若穂や松代の山際には、小規模な扇状地が見られる。土壌が砂礫質で地表に水が乏しいため、一部が住宅地として利用されているほかは主に果樹園として利用されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2008年における地目別の土地面積は次の通りであった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "市の中心部は盆地に位置することから寒暖の差が激しい。夏に高温を記録することも多い一方で、冬の寒さは厳しい。このように、気温の日較差、年較差が大きい大陸性気候と言える。中央高地式気候の典型とされることもあるが、日本海側気候の特色も併せ持ち、市北部の山間部は日本海側気候の豪雪地帯である。一方で、市街地中心部は降雨も降雪も限られている。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "気温は年間を通して東北地方南部の会津若松市や山形市と同程度であり、県庁所在地としても冷涼な都市に属する。冬季の寒さは日照時間の短さに由来するが、一方で平均的な雲量は7前後と決して多くないことから放射冷却が発生しやすく、日没後には気温が急速に低下する。1月の平均最低気温は−3.9 °Cと、全国的に見ても低い。ただし、長野県内では高い方である。最低気温記録は−17.0 °C(1934年1月24日)であるが、これは長野県内では高い。曇天の日が多いこともあり日中の気温が上がらず真冬日を観測することも珍しくなく、長野県内の主要都市では諏訪市と並んで真冬日が多い地域とされる。最低気温については上昇傾向が見られ、これはヒートアイランド・都市化の影響を受ける市街地で顕著である。かつては毎年のように記録していた−10 °C以下の気温が観測されることは80年代以降少なくなっている。21世紀に入ってからその傾向は顕著となり、2007年から2023年までの間で−10 °C以下の気温を観測したのは2012年、2016年、2018年、2022年、2023年のみである。1961年以降の最低気温は−15.0 °C(1967年1月17日)、2000年以降では−12.0°C(2001年1月16日)と、県内の気象観測地点では県南部の南信濃に次いで高い。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "長野市でも北部山間部は、日本海側気候の特性が強い豪雪地帯である。その一方で、中心市街地より南は、山脈の下降気流の影響を受けるため、降雪量は少なくなり、そこそこ積もるという程度である。中心市街地に近い長野地方気象台(長野市箱清水1丁目)を例にとると、年間降雪量は163 cmで、従前の平年値に比較して100cmほど減少したものの、それでも豪雪地のイメージを持つ新潟市を上回る量であり、冬型の気圧配置による降雪だけでなく南岸低気圧の影響による降雪も見られるため、降雪が少ないとは言えない。ただし冬期の降水量は月間で50mm前後に過ぎず、年間の最深積雪も40cm以下に収まる年が多い。観測史上の最深積雪も1946年12月11日に観測された80 cmであり、より降雪量が少ない松本市の78cmと同程度となる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "降水は年間を通して少なく、都道府県庁所在地中最小の降水量である。長野市以外の県庁所在地で降水量が少ない都市として岡山市や甲府市、札幌市が挙げられるが、いずれも平年降水量は1100 mmを超えるのに対し長野市の平年降水量は965 mmと、際立って低い印象を受ける。ただし、2000年以降は年間降水量が1000mmを超える年が目立っており、2011年から2020年までの間で1000mmを下回った回数は2012年と2017年のみである。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "夏は、日本国内で見れば晴天が多く、日照時間も多い方であり、日射しも強い。観測史上の最高気温は1994年8月16日の38.7 °Cである。8月の平均最高気温は31.1 °Cに達し、猛暑日が観測されることも珍しくないなど昼間の暑さは厳しい。1994年以降は年間の猛暑日日数が0日になったことがない。相対湿度も日本の中では上位だが、一方で日本気象協会が提唱する「ジメ暑日」は少ない。最低気温は比較的低く熱帯夜になることは稀に観測する程度で記録がない年も多く、朝晩は過ごしやすいと言える。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "長野地方気象台は1889年から気象観測が行われてきたことと、観測露場の環境が良いために、気象庁による東日本の平均気温の算出地点の1つにされている。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "14の管区と52の地区から構成される(以下の人口はいずれも2023年3月1日現在の推計人口。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "長野市域における人類のあゆみは飯綱高原などの高原や山地から始まった。代表的な飯綱高原の上ケ屋遺跡は約2万年前の旧石器時代のものである。縄文時代の遺跡も、豊野地区の上浅野遺跡(市有形文化財)、中条地区の宮遺跡をはじめとして多彩に見つかっており、当時のムラの様子をうかがうことができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "弥生時代には長野盆地でも稲作が行われるようになる。また、この時代にはコメなどをめぐり争いが発生。柳原地区の水内坐一元神社遺跡は、防御用の大きな溝を巡らせた環濠集落であり、そのことがうかがえる。弥生時代後半には「赤い土器(箱清水式土器)」が特徴的に使われだし、長野盆地を中心とした千曲川・犀川流域は「赤い土器のクニ」と呼ばれる独自の文化圏を形成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "4世紀の中ごろ以降、千曲川を見下ろす山の上には、川柳将軍塚古墳(篠ノ井石川)や和田東山3号墳(若穂保科)といった大型の前方後円墳が築かれるようになる。これらは地域の「王」であるのと同時に、ヤマト政権のメンバーでもあった。5世紀中ごろになると、大型古墳の築造と入れ替わるように、大室地区に集中的に古墳が築かれるようになる。総数500基を超える大室古墳群は朝鮮半島とかかわりのあった人々の墓と考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "善光寺平の中心とした「シナノ」のクニは少なくとも4世紀前半にはヤマト政権のもとに入っていたと考えられる。「シナノ」は和銅5年(712年)編纂の『古事記』では「科野」、養老4年(720年)の『日本書紀』では「信濃」が統一的に使われている。このことから、7世紀後半には「科野」が用いられ、大宝令の制定を経た大宝4年(704年)に諸国の刻印が初めて鋳造された際、「信濃」の表記に改称されたと推定される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "長野市の代表的な寺社に善光寺と戸隠神社がある。善光寺の名が文献上初めて登場するのは平安時代、10世紀に成立した『僧妙達蘇生注記』で、このころには地方の有力寺院となっていたことがわかる。一方、戸隠神社は、11世紀初めの『能因歌枕』で歌枕のひとつに「とがくし」が挙げられているなど、存在が中央に認められつつあったことがわかっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "治承4年(1180年)、木曾義仲は平氏を追討するため兵を挙げ、中信から東北信に進出した。これに対し、越後の平氏方の城資職は数万騎を率いて信濃に入る。平氏約4万、源氏約3千の両軍が養和元年(1181年)に篠ノ井の横田で戦った。これが横田河原の戦いである。義仲は、高井郡の井上光盛ら北信濃の豪族たちの助力によって勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "長野市は善光寺の門前町として発展してきた。善光寺は治承3年(1179年)焼失したが、源平合戦に勝利した源頼朝の命によって10年後の建久2年に再興された。その後も執権・北条家が善光寺を篤く信仰し、鎌倉時代には善光寺信仰が全国に広まり、門前町として地域が形成されていくことになる。『一遍聖絵』からは、この当時の善光寺と門前の賑わいを見て取ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "鎌倉幕府が滅びると、北条時行が諏訪氏を頼って挙兵。八幡河原、篠井河原、四宮河原で信濃守護・小笠原貞宗と戦った。中先代の乱(青沼合戦)である。観応の擾乱に続く南北朝の争いでは国人領主達が2派閥に別れ、これらが守護や関東管領の命令に従わず、市内や近隣の各所は戦場と化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "南北朝の動乱がようやく治まった応永6年(1399年)、室町幕府の足利義満は小笠原長秀を信濃守護に任命。それに対し、地元の北信濃きっての有力国人「村上氏」たちは大文字一揆を形成。二者は対立し、大塔合戦が起きた。結果、小笠原氏は降伏し、京都に逃れることとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "戦国時代になると武田信玄と上杉謙信が対立し、天文22年(1533年)に両軍は川中島で決戦することとなった。戦いは小競り合いも含めて5回起き、中でも永禄4年(1561年)秋の戦いは激戦となった。この川中島の戦いは地域の武将だけでなく、寺社にも影響を与える。善光寺の本尊・善光寺如来は権威の象徴として、武将の手を転々とすることになる。まず武田信玄とその子・勝頼、次に織田信長、徳川家康、そして豊臣秀吉の手に渡る。最終的に善光寺に帰るまでの44年間、本尊は各地を流転し、そのため門前町も衰退することになった。また戸隠神社は騒乱に巻き込まれたため、信徒たちは文禄3年(1594年)まで、30年間も小川筏ヶ峰(現在の小川村)に避難を余儀なくされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "戦国時代後期、現長野市域を含む北信濃は武田領であったが、1582年の武田氏の滅亡によって一時的に織田領となった後、本能寺の変以降は上杉氏が北信濃の川中島四郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡)を慶長年間初頭まで支配した。なお、川中島の合戦の際に武田方の拠点として松代に造られた海津城は、江戸時代に入ると川中島四郡を治める信濃国最大の領国の中核として発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "江戸時代になると主要5街道に次ぐ脇街道として北国街道が整備された。北国街道は追分宿(軽井沢町)で中山道から分岐し、矢代宿(千曲市)を過ぎて2つに分かれる。ひとつは千曲川と犀川を越えて善光寺宿から牟礼宿(飯綱町)に至るルート、もうひとつは松代城下を通り、福島宿(須坂市)北で千曲川を渡り長沼宿から牟礼宿に至るルートであった。江戸時代初期以降、繁栄する善光寺町を通る前者が北国街道の主となり、後者は犀川の洪水による舟留めの際の迂回ルートとして利用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "北国街道は諸大名が参勤交代するルートとしても使われた。また、江戸まで距離も短く難所も少ないため、佐渡金銀の「御金荷」を運ぶ輸送路にもなっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "またこの時代、長野市域の大半は松代藩領で占められ、そこに善光寺や戸隠山といった寺社領、飯山藩領、須坂藩領、上田藩領、塩崎知行所などが所在した。その松代藩の政庁である松代城は、先に述べた海津城がその始まりとされる。その後、城下町も整備され、松代城は北信濃支配の拠点として重要な役割を担うようになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "元和8年(1622年)、真田信之が移管されて初代松代藩主となる。ここに真田氏による松代藩の治世が始まり、それは明治維新まで10代250年も続いた。信之は町づくりや産業振興に力を尽くす一方、質素倹約を励行すると共に文武を奨励。それは幕末や明治に活躍する佐久間象山や長谷川昭道を輩出する下地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方、衰退していた善光寺と門前町だが、本尊が戻ったことによって次第に復興していく。本堂が火災で焼失すると、その資金調達のために自ら出向いて出開帳を行い、全国へさらに善光寺信仰を広めるきっかけとなった。全国各地から善光寺参りの参詣者が集まり、門前町はより繁栄。信濃へ入る道はすべて善光寺道と呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "発展した長野市域だが、江戸時代には巨大な災害が2つ起きている。寛保2年(1742年)、7月下旬から起きた大暴風雨によって千曲川本流支流ともにすさまじい氾濫が起きた。被害は甚大で、松代藩領では住宅の被害が2835軒、死者1220名、死んだ馬が32匹に及んだ。松代城にまで浸水し、「戌の満水」と呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また弘化4年(1847年)3月24日夜10時ごろ、マグニチュード7.4と推定される大地震が北信濃を襲った。今日では善光寺地震と呼ばれ、長野県下で発生した地震の中でも最大規模とされている。折しも善光寺では御開帳が行われ、大勢の参詣者が集まっていた。多数の家屋が倒壊すると共に、門前町は猛火に包まれ、数千人の犠牲者が出たとされる。また二次災害として山崩れ、洪水なども起き、死者は8586人に及んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "長野県の前身は中野県だったが、松代騒動に続く明治3年(1870年)の中野騒動により、現在の中野市にあった中野県庁が焼き討ちに遭って焼失。結局、明治4年(1871年)に長野村の善光寺町へ県庁を移転、長野県に名前を変更することが決まった。最初の長野県は旧幕府領を管轄する県だったが、明治4年の廃藩置県に伴い、東北信6郡を管轄する長野県となった。さらに明治9年(1876年)、筑摩県の中南信4群をあわせて、旧信濃国10郡が長野県となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "明治7年(1874年)、長野村は長野町となり、同9年(1876年)長野町は箱清水村と合併。さらに同22年(1889年)の町村制で長野町、南長野町、西長野町、鶴賀町と茂菅村が合併して新たな長野町が誕生した。さらに、明治30年(1897年)には県下最初の市制を施行して、ついに長野市となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "明治21年(1888年)、長野から直江津まで鉄道が開通したことをきっかけに、商工業が発展し近代的市街地が形成された。大規模敷地を要する官庁や文化施設は市街地縁辺部に設置され、市街地との連絡道路が建設されることで、新しい町が生まれて市街地が拡大していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "明治には富国策として繊維産業に力が入れられ、その影響で市域でも蚕を飼う養蚕農家が急増した。そんな中、明治7年(1874年)には旧松代藩士・大里忠一郎ら数名が、松代町西条に国内初の民間資本による器械製糸場を設立した(西条村製糸場、後に六公社と改称)。六公社には官営の富岡製糸場で工女として働き、蒸気器械製糸技術を学んだ和田英らの十数名も技術指導者として参画した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "しかし、世界恐慌が起きると昭和5年(1930年)には生糸関連の価格が大暴落する昭和恐慌が始まった。ほとんどの農家が養蚕を行い、製糸工場の女工も多かった長野市の影響は甚大だった。昭和7年(1932年)には景気が急激に回復するが、製糸工場はその波に乗り遅れ、少しずつ衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "太平洋戦争の敗色が濃厚になった昭和19年(1944年)、天皇と直属の最高作戦指導機関の大本営を東京から長野に移す計画が始まる。同年10月に松代の象山、舞鶴山、皆神山に巨大な地下壕を設ける工事が開始。翌年8月15日、日本の降伏で戦争が終結したため工事は中止されたが、本体の8割方は完成していた。工事の主要な労働は勤労動員、学徒動員、朝鮮労働者らが担ったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "またアメリカ軍による本土爆撃も激しさを増した昭和20年(1945年)、8月13日の早朝午前6時50分ごろから午後3時50分ごろまで、6回に渡って長野市は機銃の掃射や爆撃を受けた。終戦2日前のことであり、長野空襲と称される。この時の死者は47人であったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "戦後から現在に至るまで、4回の市町村合併が行われた。まず昭和28年(1954年)の昭和の大合併で、長野市へ周辺の10か村が編入された。次に昭和41年(1966)年にはさらに篠井市など7市町村と大合併を行う。そして平成の大合併では平成17年(2005年)に4町村を、同22年(2010年)にはさらに2町村を長野市に合併した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一方、昭和40年(1965)年から松代で微小の地震が日に何度も起こる松代群発地震が発生。4年後終息するまで、64万8000回を数えた。昭和60年(1985年)には地附山で大規模な地滑りが発生し、26人の死者と多くの住宅被害を出した。台風による犀川や千曲川の氾濫、堤防の決壊は戦後何度も起こり、そのたびに農地や家屋が被害に遭った。特に令和元年(2019年)の台風19号災害では、長沼地区や豊野地区を中心に例を見ないほどの多くの被害が出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また交通分野では、平成5年(1993年)に長野自動車道・上越自動車道が開通。平成9年(1997年)には、長野新幹線が開通した。さらに、平成27年(2015年)には長野‐金沢間が開通し、北陸新幹線として開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "平成10年(1998年)に開催された長野オリンピック・パラリンピックでは競技会場が充実すると共に、外国からの訪問者との交流も盛んになった。その中でも一校一国運動はその後、世界的に広まった。現在、長野市は国際会議観光都市として認定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "町村制施行前の沿革については上水内郡、更級郡、埴科郡、上高井郡も参照", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「長野」という地名が歴史上初めて登場するのは、戦国時代・元亀元年(1570年)の武田信玄の書状である。長野市立図書館のある長門町一帯が、近世には「長野町」とも呼ばれていたようで、上長野・下長野という小字名がある。また、現在の信大教育学部のあたりには袖長野・中長野・西長野の小字名があり、信大教育学部あたりから長門町付近にかけての緩傾斜地についた小土地名が「長野」と考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この「長野」という地名は、善光寺平に裾花川が砂礫を運んでつくった扇状地に由来すると思われる。「野」はゆるく傾斜する場所を意味することから、長い緩やかな傾斜地を「長野」と呼んだのだろう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「長野村」という地名は、中世末期から見られたらしい。中世末から近世にかけての「水内郡長野村」は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。1601年(慶長6年)に、同郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部(間もなく平柴村に変更)と共に善光寺領とされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "箱清水村は、1875年(明治8年)に長野町と合併、七瀬村は1876年(明治9年)に鶴賀村の一部となり鶴賀町を経て長野町へ、三輪村は1889年(明治22年)に三輪村、平柴村は1889年(明治22年)に安茂里村を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道のルートとされたことから宿場町としても発展して市街地化(町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市大字南長野)および権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかし、検地帳上の公的な村名は善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけではなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "長野県は1995年の段階で、ゴミのリサイクル率17.0パーセントと、当時の日本の都道府県の中で2位の水準にあった。そんな背景がある中で、長野市では環境問題への取組みとして、第6回持続可能な地域社会をつくる日本の環境首都コンテストに参加した。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "", "title": "公的機関" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "", "title": "公的機関" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "集配郵便局", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "無集配郵便局", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "簡易郵便局", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "博物館・記念館", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "(かつては飯綱高原スキー場、地附山スキー場があった。)", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "県立:12校(普通科9校、職業科3校)", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "市立:1校(職業科1校)", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "私立:8校(普通科8校)", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "国立:1校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "市立:25校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "私立:4校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "長野市は都市圏人口が約60万人である。車社会が進展している一方で、日本の中規模地方都市としては公共交通手段を利用した通勤・通学が盛んであり、朝夕のラッシュ時には鉄道駅やバス停が多くの通勤・通学客で混雑する。そのため信越本線は朝ラッシュ時6両の編成による運行が見られ、長電長野線においても短い間隔で通勤形車両によって運行されるほか、通勤利用による混雑の対策として長野駅には自動改札機が設置されている。また、路線バスにおいては川中島バスが長野駅~松代間にて座席指定制の「通勤ライナー」を運行するなど、通勤利用対策を行っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)、しなの鉄道、長野電鉄の3社の路線が市内を通る。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2011年12月6日、松代・若穂・篠ノ井・更北・川中島の沿線5地区の住民自治協議会長の連名で、長野電鉄屋代線廃止後の跡地を活用したLRTの導入を求める請願が長野市議会に提出され、同年12月16日の長野市議会12月定例会にて全会一致の賛成で採択された。これを受けて長野市は市の交通対策審議会に諮問、新交通システム導入検討部会において、LRT及び長野駅‐松代駅間の新交通システム導入に関する調査検討を行った。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2013年5月29日から同年6月21日に実施した「長野市新交通システム導入可能性調査」の結果を踏まえて、長野市交通対策審議会は2014年2月12日に、旧屋代線を除いた計画中の5ルート(長野駅 - 善光寺、長野駅 - 若槻団地、長野駅 - 綿内駅、長野駅 - 松代、長野駅 - 篠ノ井駅)での採算性や事業実施の難易度(市が検討する中で最も営業区間の長い長野駅 - 篠ノ井駅ルートの場合、市が負担する事業費を172億円、年間運行経費が6億4000万円と見込み1人当たりの平均運賃を試算すると、LRTで570円、BRTでは280円にのぼる)を考え、中期的にはBRTについて検討を進め、長期的には将来の需要喚起や技術革新などを勘案した上で、LRTへの移行を踏まえ今後検討を深めていく必要があるとした。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "その後、2014年7月30日に発表された「新交通システムの導入に関する中間報告書」においては、「LRT化には、大規模な投資が必要となるが、投資を上回る事業便益が生じてこない状況」(「継続した運行のためには、相当高い運賃設定」か「相当な観光客の誘客(現状松代地区に年間60万人であるところ、215万人)」が必要)とし、運行は「沿線人口の大幅な増加又はLRT利用観光客の大幅な増加」もしくは「赤字分を全て行政で負担」が条件だが、いずれもその可能性は低いと評価した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "県道(一部)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "都市の成り立ちが県庁所在地であり、官公署が集中していたことから、卸売業を中心に商業が発達している。現在は卸売業・小売業・宿泊業・飲食サービス業の企業が多い。これらのうち卸売業・小売業では飲食料品小売業が、宿泊業・飲食サービス業では飲食店が、それぞれ最も多い業種である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また、工業の特色としては、企業数で食料品、印刷業、生産用機械器具がトップ3を占め、製造品出荷額では、電子回路基板、みそ、無線通信機械器具、オフセット印刷、電子計算機(パソコンを除く)の品目が出荷額の多い順になっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "明治以降から印刷業が発達してきたため、長野市では印刷業の企業数およびその製造品出荷額が非常に多い。近年のデジタル化、紙離れなどにより業界は厳しい状況にあるが、現在でも脈々とその流れは続いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、出荷額の多い電子回路基板、無線通信機械器具、電子計算機の品目を製造する企業のほとんどは、昭和初期から戦争中の疎開によって長野市に移転したものである。戦後も当地に留まり、時代の流れと共に大きく発展した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "製造品出荷額のトップ20には食料品製造業の「みそ」を筆頭に、惣菜、精米・精麦があり、自然の豊かな長野市の気候風土を反映しているといえる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "第1次産業 - 農業産出額(2020年)163.4億円(県3位)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "第2次産業 - 工業製造品出荷額(2020年)5938億円(県2位)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "第3次産業 - 年間商品販売額(卸売業・小売業、2015年)1兆6850億円(県1位)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "FM長野は松本市に本社を置くが、それ以外の局は長野市に本社、本部を置く。", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "建築物", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "史跡", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "仏像", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "工芸品・書跡など", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "絵画", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "無形民俗文化財", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "天然記念物", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "登録記念物", "title": "観光・文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "重要伝統的建造物群保存地区", "title": "観光・文化" } ]
長野市(ながのし)は、長野県の北信地方にある県内で最も人口が多い市であり、長野県の県庁所在地、中核市に指定されている。また、長野都市圏・北信地方の中心都市。 1998年には第18回冬季オリンピック長野大会及び第7回冬季パラリンピック長野大会が開催された。また、2005年には第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会が行われた。 市内にある長野県庁本庁舎は、標高371.3メートルの地点に建っており、日本の47都道府県庁舎の中で最も高い場所にある。
{{otheruses|[[長野県]]の市|[[大阪府]]の市|河内長野市}} {{簡易区別|[[愛媛県]][[鬼北町]]の地名「永野市」}} {{日本の市 | 自治体名 = 長野市 | 画像 = Nagano Montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td colspan="2">[[戸隠山]]</tr> <tr><td>[[善光寺]]<td>[[松代城]]</tr> <tr><td>[[権堂町 (長野市)|権堂]]<td>[[奥裾花渓谷]]</tr> <tr><td colspan="2">[[エムウェーブ]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Nagano, Nagano.svg|100px|border|長野市旗]] | 市旗の説明 = 長野[[市町村旗|市旗]]<br />[[1967年]][[3月29日]]制定 | 市章 = [[ファイル:Symbol of Nagano Nagano.svg|65px|長野市章]] | 市章の説明 = 長野[[市町村章|市章]]<br />1967年3月29日制定 | 都道府県 = 長野県 | コード = 20201-1 | 隣接自治体 = [[須坂市]]、[[中野市]]、[[千曲市]]、[[上田市]]、[[大町市]]、[[東筑摩郡]][[筑北村]]、[[麻績村]]、[[生坂村]]、[[上水内郡]][[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]、[[飯綱町]]、[[小川村]]、[[北安曇郡]][[白馬村]]、[[小谷村]]、[[上高井郡]][[小布施町]]<br />[[新潟県]][[妙高市]] | 木 = [[シナノキ]] | 花 = [[リンゴ]]<ref>井上 繁 『47都道府県・くだもの百科』 本文の<!--注釈と区別するために、念のために「本文の」と断りを入れてあります。-->p.302 丸善出版 2017年5月30日発行 ISBN 978-4-621-30167-8</ref> | シンボル名 = 市の歌 | 鳥など =[[長野市市歌]](1967年3月29日制定) | 郵便番号 = 380-8512 | 所在地 = 長野市大字鶴賀緑町1613番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-20|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Nagano City Office Bldg. 1.JPG|250px]]<br />長野市役所 | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|20|201|image=Nagano in Nagano Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=220|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} | 特記事項 = <!--海抜:362.49 m--> }} [[ファイル:Skyline of NaganoCity from Unjoden0.jpg|thumb|200px|[[善光寺]]雲上殿から見た長野市中心部。]] '''長野市'''(ながのし)は、[[長野県]]の[[北信地方]]にある県内で最も人口が多い市であり、長野県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]、[[中核市]]に指定されている。また、[[長野都市圏]]・北信地方の[[中心都市]]。 [[1998年]]には[[1998年長野オリンピック|第18回冬季オリンピック長野大会]]及び[[1998年長野パラリンピック|第7回冬季パラリンピック長野大会]]が開催された。また、2005年には[[スペシャルオリンピックス|第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会]]が行われた。 市内にある[[長野県庁舎|長野県庁本庁舎]]は、[[標高]]371.3メートルの地点に建っており<ref>[http://maps.gsi.go.jp/#18/36.651326/138.180805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1 長野県庁(画面左下に標高表示)] - 国土地理院地図</ref>、日本の47都道府県庁舎の中で最も高い場所にある。 == 地理 == [[ファイル:Nagano city center area Aerial photograph.1975.jpg|thumb|200px|長野市中心部周辺の空中写真。1975年撮影の18枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] === 地形 === 長野市は[[上信越高原国立公園]]の[[飯縄山]]、[[戸隠山]]、[[黒姫山 (長野県)|黒姫山]]などの[[北信五岳]]を背景に、市内の中央には[[一級河川]]である[[千曲川]]、[[犀川 (長野県)|犀川]]の2大河川が流れている。 ==== 長野盆地 ==== [[長野盆地]]は、東部山地と西部山地に挟まれた、面積およそ300平方キロメートル、標高330~380メートルの盆地である。善光寺平とも呼ばれてきた。長野盆地の中には千曲川・犀川・[[裾花川]]など大小の河川が多数流れ込み、千曲川に合流している。長野盆地内の千曲川は高低差が小さいため、流れが穏やかである。千曲川沿いには、洪水の際に川が氾濫して土砂が堆積した[[沖積地]]が広がっている。洪水の被害を受けやすい沖積地は昔から主に耕作地として利用されてきたが、治水が進んだ現代では市街地化が進んだところも見られる。 西部山地から流れ込む犀川と裾花川は、上流から多量の砂礫を盆地内へ運び込んでいるため、傾斜が緩やかで大規模な扇状地を形成している。長野市の主な市街地は、こうした扇状地の上に形成されている<ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |pages=34-35}}</ref>。 ==== 西部山地 ==== 西部山地は戸隠山や[[聖山 (長野県)|聖山]]、虫倉山など一部の山を除くと、標高1000メートル以下のなだらかな山々から構成されている。山地をつくっている地層が比較的新しくて軟質なため、地滑りが多く発生している。古い地滑りの跡地は、とてもなだらかな地形をしていて土壌も肥沃なため、耕作地や住宅地として利用されている。 西部山地の斜面は、かつては薪炭林や農耕に必要な採草地として利用されていたが、現在ではあまり利用や手入れが行われておらず、荒廃が進んでいる。<ref name=":3" /> ==== 東部山地 ==== 東部山地は、高いところで標高1200メートル以上以上もある高い山地で、しかも硬い岩盤でできているため、とても急峻な地形をしている。山地に平地が乏しいので耕作地は少なく、その大半が森林となっている。若穂や松代の山際には、小規模な扇状地が見られる。土壌が砂礫質で地表に水が乏しいため、一部が住宅地として利用されているほかは主に果樹園として利用されている。<ref name=":3" />[[ファイル:161009 Kagami-ike Togakushi Nagano Japan01s3.jpg|thumb|200px|[[戸隠山]]]] [[ファイル:鳥居川上流.jpg|thumb|200px|[[鳥居川]]]] [[ファイル:Okususobana Dam lake 2006-10.jpg|thumb|200px|[[奥裾花ダム|奥裾花湖]]]] ; 主な山 * [[飯縄山]] * [[妻女山]] * [[高妻山]] * [[地附山]] * [[戸隠山]] * [[聖山 (長野県)|聖山]] * [[皆神山]] * [[髻山]] * 虫倉山 ; 主な峠 * [[大望峠]] ; 主な高原 * [[飯綱高原]] ; 主な川 * [[千曲川]]([[信濃川]]) * [[犀川 (長野県)|犀川]] * [[鳥居川]] * [[浅川 (長野県)|浅川]] * [[裾花川]] * ; 中洲 * [[川中島]] * [[大豆島]] ; 主な谷 * [[奥裾花渓谷]] * [[裾花渓谷]] ; 主な湖 * [[奥裾花ダム|奥裾花湖]](ダム湖) * [[水内ダム|琅鶴湖]](ダム湖) ; 主な池 * 浅川大池 * [[大座法師池]] * 猫又池 * 大花見池 * [[鏡池]] * [[金井池]] * [[田子池]] * [[善光寺地震|柳久保池]] * [[嫁殺しの池]] ; 主な湿地帯 * [[逆谷地湿原]] === 土地利用 === 2008年における地目別の土地面積は次の通りであった。 * 水田 - 38.36&nbsp;km<sup>2</sup> * 畑 - 78.71&nbsp;km<sup>2</sup> * 池沼 - 0.33&nbsp;km<sup>2</sup> * 山林 - 323.85&nbsp;km<sup>2</sup> * 宅地 - 61.67&nbsp;km<sup>2</sup> * その他 - 133.24&nbsp;km<sup>2</sup> * 総計 - 730.83&nbsp;km<sup>2</sup> === 隣接する自治体 === : ※ 北の妙高市以外は、長野県。 * 北 - [[上水内郡]][[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]、[[飯綱町]]、[[新潟県]][[妙高市]] * 東 - [[中野市]]、[[上高井郡]][[小布施町]]、[[須坂市]] * 南 - [[上田市]]、[[千曲市]] * 南西 - [[大町市]]、[[東筑摩郡]][[麻績村]]、[[筑北村]]、[[生坂村]] * 西 - 上水内郡[[小川村]] * 北西 - [[北安曇郡]][[白馬村]]、[[小谷村]] == 気候 == 市の中心部は[[盆地]]に位置することから寒暖の差が激しい。夏に高温を記録することも多い一方で、冬の寒さは厳しい。このように、気温の日較差、年較差が大きい[[大陸性気候]]と言える。[[中央高地式気候]]の典型とされることもあるが、[[日本海側気候]]の特色も併せ持ち、市北部の山間部は日本海側気候の[[豪雪地帯]]である。一方で、市街地中心部は降雨も降雪も限られている。 気温は年間を通して[[東北地方]]南部の[[会津若松市]]や[[山形市]]と同程度であり、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]としても冷涼な都市に属する。冬季の寒さは日照時間の短さに由来するが、一方で平均的な雲量は7前後と決して多くないことから[[放射冷却]]が発生しやすく、日没後には気温が急速に低下する。1月の平均最低気温は&minus;3.9 ℃と、全国的に見ても低い。ただし、長野県内では高い方である。最低気温記録は&minus;17.0 ℃([[1934年]]1月24日)であるが、これは長野県内では高い。曇天の日が多いこともあり日中の気温が上がらず[[真冬日]]を観測することも珍しくなく、長野県内の主要都市では[[諏訪市]]と並んで真冬日が多い地域とされる。最低気温については上昇傾向が見られ、これは[[ヒートアイランド]]・都市化の影響を受ける市街地で顕著である。かつては毎年のように記録していた&minus;10 ℃以下の気温が観測されることは[[1980年代|80年代]]以降少なくなっている。21世紀に入ってからその傾向は顕著となり、2007年から2023年までの間で&minus;10 ℃以下の気温を観測したのは2012年、2016年、2018年、2022年、2023年のみである。1961年以降の最低気温は&minus;15.0 ℃([[1967年]]1月17日)、2000年以降では&minus;12.0℃(2001年1月16日)と、県内の気象観測地点では県南部の南信濃に次いで高い。 長野市でも北部山間部は、日本海側気候の特性が強い豪雪地帯である。その一方で、中心市街地より南は、山脈の下降気流の影響を受けるため、降雪量は少なくなり、そこそこ積もるという程度である。中心市街地に近い[[長野地方気象台]](長野市箱清水1丁目)を例にとると、年間降雪量は163 cmで、従前の平年値に比較して100cmほど減少したものの、それでも豪雪地のイメージを持つ[[新潟市]]を上回る量であり、冬型の気圧配置による降雪だけでなく[[南岸低気圧]]の影響による降雪も見られるため、降雪が少ないとは言えない。ただし冬期の降水量は月間で50mm前後に過ぎず、年間の最深積雪も40cm以下に収まる年が多い。観測史上の最深積雪も[[1946年]]12月11日に観測された80 cmであり、より降雪量が少ない松本市の78cmと同程度となる。 降水は年間を通して少なく、都道府県庁所在地中最小の降水量である。長野市以外の県庁所在地で降水量が少ない都市として[[岡山市]]や[[甲府市]]、[[札幌市]]が挙げられるが、いずれも平年降水量は1100 mmを超えるのに対し長野市の平年降水量は965 mmと、際立って低い印象を受ける。ただし、2000年以降は年間降水量が1000mmを超える年が目立っており、2011年から2020年までの間で1000mmを下回った回数は2012年と2017年のみである。 夏は、日本国内で見れば晴天が多く、日照時間も多い方であり、日射しも強い。観測史上の最高気温は[[1994年]]8月16日の38.7 ℃である。8月の平均最高気温は31.1 ℃に達し、[[猛暑日]]が観測されることも珍しくないなど昼間の暑さは厳しい。1994年以降は年間の猛暑日日数が0日になったことがない。相対湿度も日本の中では上位だが、一方で日本気象協会が提唱する「ジメ暑日」は少ない。最低気温は比較的低く[[熱帯夜]]になることは稀に観測する程度で記録がない年も多く、朝晩は過ごしやすいと言える。 長野地方気象台は[[1889年]]から気象観測が行われてきたことと、観測露場の環境が良いために、[[気象庁]]による[[東日本]]の平均気温の算出地点の1つにされている。 * 気温 - 最高38.7 ℃([[1994年]](平成6年)[[8月16日]])、最低&minus;17.0 ℃([[1934年]](昭和9年)[[1月24日]]) * 最大日降水量 - 132.0&nbsp;mm([[2019年]](令和元年)[[10月12日]]) * 最大瞬間風速 - 31.4 m([[1948年]](昭和23年)[[8月23日]]) * 最深積雪 - 80&nbsp;cm([[1946年]](昭和21年)[[12月11日]]) * 夏日最多日数 - 133日([[2013年]](平成25年)) * 真夏日最多日数 - 71日([[1914年]](大正3年)) * 猛暑日最多日数 - 22日(1994年(平成6年)) * 熱帯夜最多日数 - 7日(2019年(令和元年)) * 冬日最多日数 - 143日([[1943年]](昭和18年)寒候年) * 真冬日最多日数 - 33日([[1945年]](昭和20年)寒候年) {{Nagano weatherbox}} {{Weather box |location = 長野地方気象台(1961 - 1990年平均) |metric first = Yes |single line = Yes |Jan high C = 3.1 |Feb high C = 4.2 |Mar high C = 8.6 |Apr high C = 17.1 |May high C = 23.3 |Jun high C = 25.0 |Jul high C = 28.7 |Aug high C = 30.5 |Sep high C = 24.9 |Oct high C = 18.5 |Nov high C = 12.6 |Dec high C = 6.4 |year high C = 16.8 |Jan mean C = -1.2 |Feb mean C = -0.5 |Mar mean C = 3.0 |Apr mean C = 10.4 |May mean C = 15.7 |Jun mean C = 19.6 |Jul mean C = 23.5 |Aug mean C = 24.8 |Sep mean C = 19.9 |Oct mean C = 13.1 |Nov mean C = 7.2 |Dec mean C = 1.7 |year mean C = 11.5 |Jan low C = -4.9 |Feb low C = -4.3 |Mar low C = -1.5 |Apr low C = 4.8 |May low C = 10.0 |Jun low C = 15.3 |Jul low C = 19.8 |Aug low C = 20.9 |Sep low C = 16.3 |Oct low C = 8.8 |Nov low C = 2.7 |Dec low C = -2.1 |year low C = 7.2 |source 1 = 理科年表 |date=March 2013 }}{{Weather box|location=信州新町(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=15.3|Feb record high C=21.0|Mar record high C=25.8|Apr record high C=30.1|May record high C=34.6|Jun record high C=35.8|Jul record high C=37.2|Aug record high C=38.6|Sep record high C=35.3|Oct record high C=29.8|Nov record high C=24.4|Dec record high C=21.6|year record high C=38.6|Jan high C=3.6|Feb high C=4.9|Mar high C=9.9|Apr high C=17.1|May high C=22.8|Jun high C=25.8|Jul high C=29.2|Aug high C=30.4|Sep high C=25.4|Oct high C=19.1|Nov high C=13.2|Dec high C=6.8|year high C=17.4|Jan mean C=-1.4|Feb mean C=-0.8|Mar mean C=3.1|Apr mean C=9.3|May mean C=15.1|Jun mean C=19.2|Jul mean C=22.9|Aug mean C=23.9|Sep mean C=19.5|Oct mean C=13.0|Nov mean C=6.6|Dec mean C=1.2|year mean C=11.0|Jan low C=-5.5|Feb low C=-5.4|Mar low C=-2.1|Apr low C=2.8|May low C=8.5|Jun low C=14.1|Jul low C=18.8|Aug low C=19.5|Sep low C=15.5|Oct low C=8.8|Nov low C=2.0|Dec low C=-2.7|year low C=6.2|Jan record low C=-15.3|Feb record low C=-13.4|Mar record low C=-10.3|Apr record low C=-5.8|May record low C=-1.5|Jun record low C=4.1|Jul record low C=11.6|Aug record low C=11.2|Sep record low C=4.3|Oct record low C=-0.6|Nov record low C=-4.6|Dec record low C=-12.3|year record low C=-15.3|Jan precipitation mm=56.2|Feb precipitation mm=52.4|Mar precipitation mm=76.3|Apr precipitation mm=76.4|May precipitation mm=88.7|Jun precipitation mm=123.2|Jul precipitation mm=146.5|Aug precipitation mm=111.2|Sep precipitation mm=148.7|Oct precipitation mm=122.8|Nov precipitation mm=53.8|Dec precipitation mm=51.3|year precipitation mm=1107.4|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=10.4|Feb precipitation days=8.8|Mar precipitation days=10.8|Apr precipitation days=9.4|May precipitation days=9.5|Jun precipitation days=11.0|Jul precipitation days=13.4|Aug precipitation days=9.9|Sep precipitation days=10.4|Oct precipitation days=9.1|Nov precipitation days=7.6|Dec precipitation days=10.3|year precipitation days=120.7|Jan sun=123.2|Feb sun=139.5|Mar sun=171.6|Apr sun=200.4|May sun=209.3|Jun sun=158.7|Jul sun=158.1|Aug sun=192.1|Sep sun=137.1|Oct sun=145.0|Nov sun=139.5|Dec sun=124.8|year sun=1899.1|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=48&block_no=0400&year=&month=&day=&view= |title=信州新町 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-10-05 |publisher=気象庁}}</ref>}} == 人口 == * [[人口集中地区|DID]]人口比は67.7%(2015年国勢調査)。 {{人口統計|code=20201|name=長野市|image=Demography20201.svg}} == 地域 == === 地区 === {{長野市の地域}} 14の管区と52の地区から構成される(以下の人口はいずれも2023年3月1日現在の推計人口。 ==== 長野管区 (人口215,642人) ==== {{Col| * 第一地区 * 第二地区 * 第三地区 * 第四地区 * 第五地区 | * [[芹田 (長野市)|芹田]]地区 * [[古牧]]地区 * [[三輪 (長野市)|三輪]]地区 * [[吉田 (長野市)|吉田]]地区 * [[古里 (長野市)|古里]]地区 | * [[柳原 (長野市)|柳原]]地区 * [[浅川 (長野市)|浅川]]地区 * [[大豆島]]地区 * [[朝陽]]地区 * [[若槻]]地区 | * [[長沼 (長野市)|長沼]]地区 * [[安茂里]]地区 * [[小田切]]地区 * [[芋井]]地区 }}{{clear|left}} {{col-begin}} {{col-4}} ==== [[篠ノ井]]管区 (人口40,730人) ==== * 篠ノ井地区 * [[塩崎村 (長野県)|塩崎]]地区 * [[共和村 (長野県)|共和]]地区 * [[川柳村 (長野県)|川柳]]地区 * [[西寺尾村|西寺尾]]地区 * [[東福寺村|東福寺]]地区 * [[信里村|信里]]地区 {{col-4}} ==== [[松代町 (長野県)|松代]]管区 (人口16,479人) ==== *松代地区 * [[清野村 (長野県)|清野]]地区 * [[西条村 (長野県)|西条]]地区 * [[豊栄村 (長野県)|豊栄]]地区 * [[東条村 (長野県)|東条]]地区 * [[寺尾村 (長野県)|寺尾]]地区 * [[西寺尾村|西寺尾]]地区 {{col-4}} ==== [[若穂]]管区 (人口11,703人) ==== * [[若穂#若穂綿内|綿内]]地区 * [[若穂#若穂川田|川田]]地区 * [[若穂#若穂保科|保科]]地区 {{col-4}} ==== [[川中島]]管区 (人口27,142人) ==== *中津地区 *御厨地区 *川中島地区 {{col-end}} {{col-begin}} {{col-4}} ==== [[更北]]管区 (人口33,825人) ==== * [[青木島町|青木島]]地区 * [[真島村|真島]]地区 * [[小島田村|小島田]]地区 * [[稲里町 (長野市)|稲里]]地区 {{col-4}} ==== [[七二会]]管区 (人口1,336人) ==== *七二会地区 {{col-4}} ==== [[信更]]管区 (人口1,733人) ==== * [[信田村|信田]]地区 * [[更府村|更府]]地区 {{col-4}} ==== [[豊野町 (長野県)|豊野]]管区 (人口9,207人) ==== *豊野地区 {{col-end}} {{col-begin}} {{col-4}} ==== [[戸隠]]管区 (人口3,123人) ==== *戸隠地区 {{col-4}} ==== [[鬼無里村|鬼無里]]管区 (人口1,143人) ==== *鬼無里地区 {{col-4}} ==== [[大岡村 (長野県)|大岡]]管区 (人口825人) ==== *大岡地区 {{col-4}} ==== [[信州新町]]管区 (人口3,477人) ==== *信州新町地区 {{col-end}} ==== [[中条村 (長野県)|中条]]管区 (人口1,524人) ==== *中条地区 === 大字・町丁 === ; あ行 {{Col| * [[長野アークス|アークス]] * [[青木島町#青木島|青木島]] 1 - 4丁目(あおきじま) * [[青木島町#青木島町青木島|青木島町青木島]](あおきじままち・あおきじま) * [[青木島町#青木島町大塚|青木島町大塚]](あおきじままち・おおつか) * [[青木島町#青木島町綱島|青木島町綱島]](あおきじままち・つなしま) * [[長沼 (長野市)#赤沼|赤沼]](あかぬま) * 上ケ屋(あげや) * [[浅川 (長野市)#浅川|浅川]] 1 - 5丁目(あさかわ) * [[浅川 (長野市)#浅川一ノ瀬|浅川一ノ瀬]](あさかわ・いちのせ) * [[浅川 (長野市)#浅川押田|浅川押田]](あさかわ・おしだ) * [[浅川 (長野市)#浅川清水|浅川清水]](あさかわ・きよみず) * [[浅川 (長野市)#浅川西条|浅川西条]](あさかわ・にしじょう) * [[浅川 (長野市)#浅川西平|浅川西平]](あさかわ・にしひら) | * [[浅川 (長野市)#浅川畑山|浅川畑山]](あさかわ・はたやま) * [[浅川 (長野市)#浅川東条|浅川東条]](あさかわ・ひがしじょう) * [[浅川 (長野市)#浅川福岡|浅川福岡]](あさかわ・ふくおか) * [[安茂里]](あもり) * [[安茂里#安茂里小市|安茂里小市]]1- 4丁目(あもり・こいち) * [[朝陽#石渡|石渡]](いしわた) * 泉平(いずみだいら) * [[安茂里#伊勢宮|伊勢宮]] 1 - 3丁目(いせみや) * [[長野地方卸売市場|市場]](いちば) * [[稲里町 (長野市)#稲里|稲里]]1丁目(いなさと) * [[稲里町 (長野市)#稲里町下氷鉋|稲里町下氷鉋]](いなさとまち・しもひがの) * [[稲里町 (長野市)#稲里町田牧|稲里町田牧]](いなさとまち・たまき) * [[稲里町 (長野市)#稲里町中央|稲里町中央]]1- 4丁目(いなさとまち・ちゅうおう) |* [[稲里町 (長野市)#稲里町中氷鉋|稲里町中氷鉋]](いなさとまち・なかひがの) * [[稲田 (長野市)|稲田]] 1 - 4丁目(いなだ) * [[稲葉 (長野市)|稲葉]](いなば) * [[鶴賀 (長野市)#居町|居町]](いまち) * 入山(いりやま) * [[上松 (長野市)|上松]] 1 - 5丁目・[[上松 (長野市)|上松]](うえまつ) * [[若槻#上野|上野]]1~3丁目(うわの) * [[大岡村 (長野県)|大岡]]乙(おおおか・おつ) * 大岡甲(おおおか・こう) * 大岡中牧(おおおか・なかまき) * 大岡弘崎(おおおか・ひろさき) * 大岡丙(おおおか・へい) * [[青木島町#大橋南|大橋南]] 1 - 2丁目(おおはしみなみ) * [[長沼 (長野市)#大町|大町]](おおまち) * 小島田町(おしまだまち) }} ; か行 {{Col| * [[浅川 (長野市)#神楽橋|神楽橋]](かぐらばし) * [[風間 (長野市)|風間]](かざま) * 合戦場 1 - 3丁目(かっせんば) * [[浅川 (長野市)#門沢|門沢]](かどさわ) * 金井田(かないだ) * [[古里 (長野市)#金箱|金箱]](かねばこ) * [[古里 (長野市)#上駒沢|上駒沢]](かみこまざわ) * [[川合新田 (長野市)|川合新田]](かわいしんでん) * [[川中島町]]今井(かわなかじままち・いまい) * 川中島町今井原(かわなかじままち・いまいはら) |* 川中島町今里(かわなかじままち・いまさと) * 川中島町上氷鉋(かわなかじままち・かみひがの) * 川中島町原(かわなかじままち・はら) * 川中島町御厨(かわなかじままち・みくりや) * 川中島町四ツ屋(かわなかじままち・よつや) * [[尾張部 (長野市)#北尾張部|北尾張部]](きたおわりべ) * [[浅川 (長野市)#北郷|北郷]](きたごう) * [[高田 (長野市)#北条町|北条町]](きたじょうまち) |* [[朝陽#北長池|北長池]](きたながいけ) * [[朝陽#北堀|北堀]](きたぼり) * [[鬼無里村|鬼無里]](きなさ) * 鬼無里日下野(きなさ・くさがの) * 鬼無里日影(きなさ・ひかげ) * [[桐原 (長野市)|桐原]] 1 - 2丁目(きりはら) * [[栗田 (長野市)|栗田]](くりた) * [[安茂里#小柴見|小柴見]](こしばみ) * [[柳原 (長野市)#小島|小島]](こじま) * 小鍋(こなべ) }} ; さ行 {{Col| * [[浅川 (長野市)#坂中|坂中]](さかなか) * 桜(さくら) * [[尾張部 (長野市)#桜新町|桜新町]](さくらしんまち) * [[安茂里#差出南|差出南]] 1 - 3丁目(さしでみなみ) * 里島(さとじま) * [[鶴賀 (長野市)#早苗町|早苗町]](さなえちょう) * [[三才 (長野市)|三才]](さんさい) * [[青木島町#三本柳|三本柳西]] 1 - 3丁目(さんぼんやなぎ・にし) * [[青木島町#三本柳|三本柳東]] 1 - 3丁目(さんぼんやなぎ・ひがし) * [[篠ノ井市|篠ノ井]]会(しののい・あい) * 篠ノ井石川(しののい・いしかわ) * 篠ノ井有旅(しののい・うたび) * 篠ノ井岡田(しののい・おかだ) * 篠ノ井御幣川(しののい・おんべがわ) * 篠ノ井杵淵(しののい・きねぶち) * 篠ノ井小松原(しののい・こまつばら) * 篠ノ井小森(しののい・こもり) * 篠ノ井塩崎(しののい・しおざき) * 篠ノ井東福寺(しののい・とうふくじ) * 篠ノ井西寺尾(しののい・にしてらお) * 篠ノ井布施五明(しののい・ふせごみょう) * 篠ノ井布施高田(しののい・ふせたかだ) * 篠ノ井二ツ柳(しののい・ふたつやなぎ) * 篠ノ井山布施(しののい・やまぶせ) * 篠ノ井横田(しののい・よこた)| * [[古里 (長野市)#下駒沢|下駒沢]](しもこまざわ) * [[稲里町 (長野市)#下氷鉋|下氷鉋]]1丁目(しもひがの) * [[浅川 (長野市)#伺去|伺去]](しゃり) * 塩生乙(しおぶ・おつ) * 塩生甲(しおぶ・こう) * [[浅川 (長野市)#真光寺|真光寺]](しんこうじ) * [[信更|信更町]]赤田(しんこうまち・あかだ) * 信更町上尾(しんこうまち・あげお) * 信更町今泉(しんこうまち・いまいずみ) * 信更町桜井(しんこうまち・さくらい) * 信更町三水(しんこうまち・さみず) * 信更町下平(しんこうまち・しもだいら) * 信更町高野(しんこうまち・たかの) * 信更町田沢(しんこうまち・たざわ) * 信更町田野口(しんこうまち・たのぐち) * 信更町灰原(しんこうまち・はいばら) * 信更町氷ノ田(しんこうまち・ひのた) * 信更町古藤(しんこうまち・ふるふじ) * 信更町宮平(しんこうまち・みやだいら) * 信更町安庭(しんこうまち・やすにわ) * 信更町吉原(しんこうまち・よしわら) * 信更町涌池(しんこうまち・わくいけ) * [[信州新町]]上条(しんしゅうしんまち・かみじょう) * 信州新町越道(しんしゅうしんまち・こえどう) * 信州新町里穂刈(しんしゅうしんまち・さとほかり)| * 信州新町下市場(しんしゅうしんまち・しもいちば) * 信州新町新町(しんしゅうしんまち・しんまち) * 信州新町左右(しんしゅうしんまち・そう) * 信州新町竹房(しんしゅうしんまち・たけぶさ) * 信州新町中牧(しんしゅうしんまち・なかまき) * 信州新町信級(しんしゅうしんまち・のぶしな) * 信州新町日原西(しんしゅうしんまち・ひはらにし) * 信州新町日原東(しんしゅうしんまち・ひはらひがし) * 信州新町弘崎(しんしゅうしんまち・ひろさき) * 信州新町牧田中(しんしゅうしんまち・まきだなか) * 信州新町牧野島(しんしゅうしんまち・まきのしま) * 信州新町水内(しんしゅうしんまち・みのち) * 信州新町山上条(しんしゅうしんまち・やまかみじょう) * 信州新町山穂刈(しんしゅうしんまち・やまほかり) * [[西長野#新諏訪町|新諏訪]] 1 - 2丁目(しんすわ) * 神明(しんめい) }} ; た行 {{Col| * [[高田 (長野市)|高田]](たかだ) * [[若槻#田子|田子]](たこ) * 鑪(たたら) * [[若槻#田中|田中]](たなか) * [[青木島町#丹波島|丹波島]] 1 - 3丁目(たんばじま) * [[浅川 (長野市)#台ケ窪|台ケ窪]](だいがくぼ) * [[長沼 (長野市)#津野|津野]](つの) * [[鶴賀 (長野市)|鶴賀]](つるが) | * [[戸隠村|戸隠]](とがくし) * 戸隠祖山(とがくし・そやま) * 戸隠栃原(とがくし・とちはら) * 戸隠豊岡(とがくし・とよおか) * [[徳間 (長野市)|徳間]]1丁目・[[徳間 (長野市)|徳間]](とくま) * 富田(とみた) * [[古里 (長野市)#富竹|富竹]](とみたけ) * [[豊野町 (長野県)|豊野町]]浅野(とよのまち・あさの) | * 豊野町石(とよのまち・いし) * 豊野町大倉(とよのまち・おおくら) * 豊野町蟹沢(とよのまち・かにさわ) * 豊野町川谷(とよのまち・かわたに) * 豊野町豊野(とよのまち・とよの) * 豊野町南郷(とよのまち・みなみごう) }} ; な行 {{Col| * [[中越 (長野市)|中越]] 1 - 2丁目(なかごえ) * [[中御所#中御所(住居表示施行地区)|中御所]] 1 - 5丁目・[[中御所#岡田町|中御所]](なかごしょ) * [[中御所#中御所町四丁目|中御所町4丁目]](なかごしょまち(4ちょうめ)) * [[中条村 (長野県)|中条]](なかじょう) * 中条日下野(なかじょう・くさがの) * 中条住良木(なかじょう・すめらぎ) | * 中条日高(なかじょう・ひだか) * 中条御山里(なかじょう・みやまさ) * [[浅川 (長野市)#中曽根|中曽根]](なかそね) * [[長野 (長野市)|長野]](ながの) * [[鶴賀 (長野市)#七瀬|七瀬]](ななせ) * [[七二会]](なにあい) | * [[尾張部 (長野市)#西尾張部|西尾張部]](にしおわりべ) * [[三才 (長野市)#西三才|西三才]](にしさんさい) * [[西長野]](にしながの) * [[西和田 (長野市)|西和田]] 1 - 2丁目・[[西和田 (長野市)|西和田]](にしわだ) }} ; は行 {{Col| * [[長野 (長野市)#箱清水|箱清水]] 1 - 3丁目(はこしみず) * 東犀南(ひがしさいなみ) * [[鶴賀 (長野市)#東鶴賀町|東鶴賀町]](ひがしつるがまち) * [[東和田 (長野市)|東和田]](ひがしわだ) | * [[安茂里#平柴|平柴]](ひらしば) * [[安茂里#平柴台|平柴台]](ひらしばだい) * [[平林 (長野市)|平林]] 1 - 2丁目・[[平林 (長野市)|平林]](ひらばやし) * 広瀬(ひろせ) | * [[稲里町 (長野市)#広田|広田]](ひろた) * [[長沼 (長野市)#穂保|穂保]](ほやす) }} ; ま行 {{Col| * 真島町川合(ましままち・かわい) * 真島町真島(ましままち・ましま) * [[大豆島#松岡|松岡]] 1 - 2丁目(まつおか) * [[松代温泉#地名(大字)としての松代温泉|松代温泉]](まつしろおんせん) * [[松代町 (長野県)|松代町]]岩野(まつしろまち・いわの) * 松代町大室(まつしろまち・おおむろ) * 松代町小島田(まつしろまち・おしまだ) * 松代町清野(まつしろまち・きよの) * 松代町柴(まつしろまち・しば) * 松代町城東(まつしろまち・じょうとう) * 松代町城北(まつしろまち・じょうほく) * 松代町豊栄(まつしろまち・とよさか)| * 松代町西条(まつしろまち・にしじょう) * 松代町西寺尾(まつしろまち・にしてらお) * 松代町東条(まつしろまち・ひがしじょう) * 松代町東寺尾(まつしろまち・ひがしてらお) * 松代町牧島(まつしろまち・まきしま) * 松代町松代(まつしろまち・まつしろ) * [[大豆島]](まめじま) * [[大豆島#大豆島西沖|大豆島西沖]](まめじまにしおき) * [[檀田]]1- 2丁目・[[檀田]](まゆみだ) |* みこと川(みことがわ) * [[浅川 (長野市)#三ツ出|三ツ出]](みついで) * 皆神台(みなかみだい) * [[高田 (長野市)#南高田|南高田]] 1 - 2丁目(みなみたかだ) * [[鶴賀 (長野市)#南千歳町|南千歳]] 1 - 2丁目(みなみちとせ) * [[南長池]](みなみながいけ) * [[南長野]](みなみながの) * [[朝陽#南堀|南堀]](みなみぼり) * [[安茂里#宮沖|宮沖]](みやおき) * [[三輪 (長野市)|三輪]] 1 - 10丁目・[[三輪 (長野市)|三輪]](みわ) * [[柳原 (長野市)#村山|村山]](むらやま) * [[茂菅]](もすげ) }} ; や・わ行 {{Col| * [[浅川 (長野市)#屋敷田|屋敷田]](やしきだ) * [[朝陽#屋島|屋島]](やしま) * [[柳原 (長野市)|柳原]](やなぎはら) * [[三輪 (長野市)#柳町|柳町]](やなぎまち) * 山田中(やまだなか) * [[若槻#吉|吉]](よし) | * [[吉田 (長野市)|吉田]] 1 - 5丁目(よしだ) * [[若里]]1- 7丁目・[[若里]](わかさと) * [[若槻団地]](わかつきだんち) * [[若槻#若槻西条|若槻西条]](わかつき・にしじよう) * [[若槻#若槻東条|若槻東条]](わかつき・ひがしじょう) * [[若穂#若穂牛島|若穂牛島]](わかほ・うしじま) | * [[若穂#若穂川田|若穂川田]](わかほ・かわだ) * [[若穂#若穂保科|若穂保科]](わかほ・ほしな) * [[若穂#若穂綿内|若穂綿内]](わかほ・わたうち) * [[尾張部 (長野市)#若宮|若宮]] 1 - 2丁目(わかみや) }} == 歴史 == === 原始から古代 - シナノから信濃国へ === 長野市域における人類のあゆみは[[飯綱高原]]などの高原や山地から始まった。代表的な飯綱高原の上ケ屋遺跡は約2万年前の[[旧石器時代]]のものである。縄文時代の遺跡も、[[豊野町 (長野県)|豊野]]地区の上浅野遺跡(市有形文化財)、中条地区の宮遺跡をはじめとして多彩に見つかっており、当時のムラの様子をうかがうことができる<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 第2版 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |pages=40,41}}</ref>。 [[弥生時代]]には[[長野盆地]]でも稲作が行われるようになる。また、この時代にはコメなどをめぐり争いが発生。柳原地区の水内坐一元神社遺跡は、防御用の大きな溝を巡らせた[[環濠集落]]であり、そのことがうかがえる。弥生時代後半には「赤い土器(箱清水式土器)」が特徴的に使われだし、長野盆地を中心とした[[千曲川]]・[[犀川 (長野県)|犀川]]流域は「'''赤い土器のクニ'''」と呼ばれる独自の文化圏を形成した<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=42}}</ref>。 [[ファイル:大室古墳群244号墳石室内部.JPG|サムネイル|大室古墳群244号墳石室内部]] 4世紀の中ごろ以降、千曲川を見下ろす山の上には、[[川柳将軍塚古墳]]([[篠ノ井市|篠ノ井]]石川)や和田東山3号墳([[若穂]]保科)といった大型の[[前方後円墳]]が築かれるようになる。これらは地域の「王」であるのと同時に、[[ヤマト政権]]のメンバーでもあった。5世紀中ごろになると、大型古墳の築造と入れ替わるように、大室地区に集中的に古墳が築かれるようになる。総数500基を超える[[大室古墳群 (長野市)|大室古墳群]]は[[朝鮮半島]]とかかわりのあった人々の墓と考えられる<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2008 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=41}}</ref>。 善光寺平の中心とした「シナノ」のクニは少なくとも4世紀前半にはヤマト政権のもとに入っていたと考えられる。「シナノ」は[[和銅]]5年(712年)編纂の『[[古事記]]』では「科野」、[[養老]]4年(720年)の『[[日本書紀]]』では「信濃」が統一的に使われている。このことから、7世紀後半には「科野」が用いられ、[[大宝令]]の制定を経た[[大宝 (日本)|大宝]]4年(704年)に諸国の刻印が初めて鋳造された際、「信濃」の表記に改称されたと推定される<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=44}}</ref>。 === 中世 - 門前町の発展と相次ぐ戦乱 === 長野市の代表的な寺社に[[善光寺]]と[[戸隠神社]]がある。善光寺の名が文献上初めて登場するのは[[平安時代]]、10世紀に成立した『[[僧妙達蘇生注記]]』で、このころには地方の有力寺院となっていたことがわかる。一方、戸隠神社は、11世紀初めの『能因歌枕』で歌枕のひとつに「とがくし」が挙げられているなど、存在が中央に認められつつあったことがわかっている<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2008 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=45}}</ref>。 [[治承]]4年(1180年)、[[木曾義仲]]は[[平氏]]を追討するため兵を挙げ、中信から東北信に進出した。これに対し、[[越後国|越後]]の平氏方の[[城資職]]は数万騎を率いて信濃に入る。平氏約4万、源氏約3千の両軍が[[養和]]元年(1181年)に篠ノ井の横田で戦った。これが[[横田河原の戦い]]である。義仲は、[[高井郡]]の[[井上氏|井上光盛]]ら北信濃の豪族たちの助力によって勝利した<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=48}}</ref>。 長野市は善光寺の門前町として発展してきた。善光寺は[[治承]]3年(1179年)焼失したが、[[源平合戦]]に勝利した[[源頼朝]]の命によって10年後の[[建久]]2年に再興された。その後も[[執権]]・北条家が善光寺を篤く信仰し、[[鎌倉時代|鎌倉時]]代には善光寺信仰が全国に広まり、門前町として地域が形成されていくことになる。『[[一遍聖絵]]』からは、この当時の善光寺と門前の賑わいを見て取ることができる<ref>{{Cite book|和書 |title=善光寺史研究 |date=2000年5月29日 |publisher=信濃毎日新聞社}}</ref>。 [[鎌倉幕府]]が滅びると、[[北条時行]]が[[諏訪氏]]を頼って挙兵。八幡河原、篠井河原、四宮河原で信濃[[守護]]・[[小笠原貞宗]]と戦った。[[中先代の乱]]([[青沼合戦]])である。[[観応の擾乱]]に続く[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の争いでは[[国人]]領主達が2派閥に別れ、これらが[[守護]]や[[関東管領]]の命令に従わず、市内や近隣の各所は戦場と化した。 南北朝の動乱がようやく治まった[[応永]]6年(1399年)、[[室町幕府]]の[[足利義満]]は[[小笠原長秀]]を信濃守護に任命。それに対し、地元の北信濃きっての有力国人「[[村上氏]]」たちは[[大文字一揆]]を形成。二者は対立し、[[大塔合戦]]が起きた。結果、[[小笠原氏]]は降伏し、京都に逃れることとなる<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=50}}</ref>。 [[ファイル:BattleKawanakajima.jpg|サムネイル|川中島の合戦]] 戦国時代になると[[武田信玄]]と[[上杉謙信]]が対立し、[[天文 (元号)|天文]]22年(1533年)に両軍は[[川中島]]で決戦することとなった。戦いは小競り合いも含めて5回起き、中でも[[永禄]]4年(1561年)秋の戦いは激戦となった。この[[川中島の戦い]]は地域の武将だけでなく、寺社にも影響を与える。善光寺の本尊・善光寺如来は権威の象徴として、武将の手を転々とすることになる。まず武田信玄とその子・[[武田勝頼|勝頼]]、次に[[織田信長]]、[[徳川家康]]、そして[[豊臣秀吉]]の手に渡る。最終的に善光寺に帰るまでの44年間、本尊は各地を流転し、そのため門前町も衰退することになった。また戸隠神社は騒乱に巻き込まれたため、信徒たちは文禄3年(1594年)まで、30年間も小川筏ヶ峰(現在の[[小川村]])に避難を余儀なくされた<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=50,51}}</ref>。 戦国時代後期、現長野市域を含む北信濃は武田領であったが、1582年の武田氏の滅亡によって一時的に織田領となった後、[[本能寺の変]]以降は上杉氏が北信濃の川中島四郡([[高井郡]]、[[水内郡]]、[[更級郡]]、[[埴科郡]])を[[慶長]]年間初頭まで支配した。なお、川中島の合戦の際に武田方の拠点として松代に造られた[[海津城]]は、江戸時代に入ると川中島四郡を治める信濃国最大の領国の中核として発展した。 === 近世 - 繁栄と災害 === [[江戸時代]]になると主要5街道に次ぐ脇街道として[[北国街道 (信越)|北国街道]]が整備された。北国街道は[[追分宿]]([[軽井沢町]])で[[中山道]]から分岐し、[[矢代宿]]([[千曲市]])を過ぎて2つに分かれる。ひとつは千曲川と犀川を越えて善光寺宿から[[牟礼宿]]([[飯綱町]])に至るルート、もうひとつは松代城下を通り、[[福島宿 (中山道)|福島宿]]([[須坂市]])北で千曲川を渡り[[長沼 (長野市)|長沼]]宿から[[牟礼宿]]に至るルートであった。江戸時代初期以降、繁栄する善光寺町を通る前者が北国街道の主となり、後者は犀川の洪水による舟留めの際の迂回ルートとして利用された<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=55}}</ref>。 北国街道は諸大名が[[参勤交代]]するルートとしても使われた。また、江戸まで距離も短く難所も少ないため、[[佐渡島|佐渡]]金銀の「御金荷」を運ぶ輸送路にもなっていた。 またこの時代、長野市域の大半は松代藩領で占められ、そこに善光寺や戸隠山といった寺社領、飯山藩領、須坂藩領、上田藩領、塩崎[[知行所]]などが所在した。その松代藩の政庁である[[松代城]]は、先に述べた海津城がその始まりとされる。その後、[[城下町]]も整備され、松代城は北信濃支配の拠点として重要な役割を担うようになっていった。 [[ファイル:Sanada Nobuyuki2.jpg|サムネイル|真田信之]] [[元和 (日本)|元和]]8年(1622年)、[[真田信之]]が移管されて初代松代藩主となる。ここに真田氏による松代藩の治世が始まり、それは明治維新まで10代250年も続いた。信之は町づくりや産業振興に力を尽くす一方、質素倹約を励行すると共に文武を奨励。それは幕末や明治に活躍する[[佐久間象山]]や[[長谷川昭道]]を輩出する下地となった<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=53}}</ref>。 一方、衰退していた善光寺と門前町だが、本尊が戻ったことによって次第に復興していく。本堂が火災で焼失すると、その資金調達のために自ら出向いて出開帳を行い、全国へさらに善光寺信仰を広めるきっかけとなった。全国各地から善光寺参りの参詣者が集まり、門前町はより繁栄。信濃へ入る道はすべて善光寺道と呼ばれた。 発展した長野市域だが、江戸時代には巨大な災害が2つ起きている。[[寛保]]2年(1742年)、7月下旬から起きた大暴風雨によって千曲川本流支流ともにすさまじい氾濫が起きた。被害は甚大で、松代藩領では住宅の被害が2835軒、死者1220名、死んだ馬が32匹に及んだ。松代城にまで浸水し、「[[戌の満水]]」と呼ばれる<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=59}}</ref>。 [[ファイル:『地震後世俗語之種』より、善光寺地震の図01.jpg|サムネイル|『地震後世俗語之種』より、善光寺地震]] また[[弘化]]4年(1847年)3月24日夜10時ごろ、マグニチュード7.4と推定される大地震が北信濃を襲った。今日では[[善光寺地震]]と呼ばれ、長野県下で発生した地震の中でも最大規模とされている。折しも善光寺では御開帳が行われ、大勢の参詣者が集まっていた。多数の家屋が倒壊すると共に、門前町は猛火に包まれ、数千人の犠牲者が出たとされる。また二次災害として山崩れ、洪水なども起き、死者は8586人に及んでいる<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |pages=61,62}}</ref>。 === 近代 - 長野市の誕生 === 長野県の前身は中野県だったが、[[松代騒動]]に続く明治3年(1870年)の[[中野騒動]]により、現在の中野市にあった[[中野陣屋・県庁記念館|中野県庁]]が焼き討ちに遭って焼失。結局、明治4年(1871年)に長野村の善光寺町へ県庁を移転、長野県に名前を変更することが決まった。最初の長野県は旧幕府領を管轄する県だったが、明治4年の廃藩置県に伴い、東北信6郡を管轄する長野県となった。さらに明治9年(1876年)、筑摩県の中南信4群をあわせて、旧信濃国10郡が長野県となった。 明治7年(1874年)、長野村は長野町となり、同9年(1876年)長野町は箱清水村と合併。さらに同22年(1889年)の[[町村制]]で長野町、南長野町、西長野町、鶴賀町と[[茂菅|茂菅村]]が合併して新たな長野町が誕生した。さらに、明治30年(1897年)には県下最初の[[市制]]を施行して、ついに長野市となった。 明治21年(1888年)、長野から[[直江津市|直江津]]まで鉄道が開通したことをきっかけに、商工業が発展し近代的市街地が形成された。大規模敷地を要する官庁や文化施設は市街地縁辺部に設置され、市街地との連絡道路が建設されることで、新しい町が生まれて市街地が拡大していった。 明治には富国策として繊維産業に力が入れられ、その影響で市域でも蚕を飼う[[養蚕業|養蚕]]農家が急増した。そんな中、明治7年(1874年)には旧松代藩士・[[大里忠一郎]]ら数名が、松代町西条に国内初の民間資本による器械製糸場を設立した(西条村製糸場、後に[[六工社|六公社]]と改称)。六公社には官営の[[富岡製糸場]]で工女として働き、蒸気器械製糸技術を学んだ[[和田英]]らの十数名も技術指導者として参画した。 [[ファイル:Nagano downtown in Taisho era.JPG|thumb|大正期の長野市街]] しかし、[[世界恐慌]]が起きると昭和5年(1930年)には生糸関連の価格が大暴落する[[昭和恐慌]]が始まった。ほとんどの農家が養蚕を行い、製糸工場の女工も多かった長野市の影響は甚大だった。昭和7年(1932年)には景気が急激に回復するが、製糸工場はその波に乗り遅れ、少しずつ衰退していった。 [[太平洋戦争]]の敗色が濃厚になった昭和19年(1944年)、[[天皇]]と直属の最高作戦指導機関の[[大本営]]を東京から長野に移す計画が始まる。同年10月に松代の象山、舞鶴山、皆神山に巨大な地下壕を設ける工事が開始。翌年8月15日、日本の降伏で戦争が終結したため工事は中止されたが、本体の8割方は完成していた。工事の主要な労働は[[勤労動員]]、[[学徒動員]]、朝鮮労働者らが担ったとされる。 またアメリカ軍による本土爆撃も激しさを増した昭和20年(1945年)、8月13日の早朝午前6時50分ごろから午後3時50分ごろまで、6回に渡って長野市は機銃の掃射や爆撃を受けた。終戦2日前のことであり、[[長野空襲]]と称される。この時の死者は47人であったとされる。 === 現代 === 戦後から現在に至るまで、4回の市町村合併が行われた。まず昭和28年(1954年)の[[日本の市町村の廃置分合|昭和の大合併]]で、長野市へ周辺の10か村が編入された。次に昭和41年(1966)年にはさらに篠井市など7市町村と大合併を行う。そして平成の大合併では平成17年(2005年)に4町村を、同22年(2010年)にはさらに2町村を長野市に合併した。 [[ファイル:2019-10-13 (JST) Img51440 JR East Nagano Shinkansen Rolling Stock Center.jpg|thumb|2019年10月13日、台風19号の影響で冠水した車両センター]]一方、昭和40年(1965)年から松代で微小の地震が日に何度も起こる[[松代群発地震]]が発生。4年後終息するまで、64万8000回を数えた。昭和60年(1985年)には[[地附山]]で大規模な[[地すべり|地滑り]]が発生し、26人の死者と多くの住宅被害を出した。台風による犀川や千曲川の氾濫、堤防の決壊は戦後何度も起こり、そのたびに農地や家屋が被害に遭った。特に令和元年(2019年)の台風19号災害では、長沼地区や豊野地区を中心に例を見ないほどの多くの被害が出た。 また交通分野では、平成5年(1993年)に長野自動車道・上越自動車道が開通。平成9年(1997年)には、[[長野新幹線]]が開通した。さらに、平成27年(2015年)には長野‐金沢間が開通し、[[北陸新幹線]]として開業した。 [[ファイル:Central Square and Nagano Olympic Memorial Park.jpg|サムネイル|オリンピックメモリアルパーク]] 平成10年(1998年)に開催された[[長野オリンピック]]・[[長野パラリンピック|パラリンピック]]では競技会場が充実すると共に、外国からの訪問者との交流も盛んになった。その中でも[[一校一国運動]]はその後、世界的に広まった。現在、長野市は[[国際会議観光都市]]として認定されている。 === 沿革 === {{日本の市 (廃止) | 廃止日 = 1966年10月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''長野市'''(旧)、[[篠ノ井市]]、[[川中島町]]、[[更北|更北村]]、[[信更|信更村]]、[[七二会|七二会村]]、[[松代町 (長野県)|松代町]]、[[若穂|若穂町]]→長野市 | 現在の自治体 = 長野市 | よみがな = ながのし | 自治体名 = 長野市 | 都道府県 = 長野県 | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = | 人口の出典 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] | 人口の時点 = | 隣接自治体 = [[須坂市]]、篠ノ井市、[[上水内郡]][[豊野町 (長野県)|豊野町]]、[[牟礼村 (長野県)|牟礼村]]、[[戸隠村]]、七二会村、[[更級郡]]川中島町、更北村、[[上高井郡]]若穂町、[[小布施町]] | 所在地 = 長野市 | 位置画像 = | 特記事項 = }} ''[[町村制]]施行前の沿革については[[上水内郡]]、[[更級郡]]、[[埴科郡]]、[[上高井郡]]も参照'' * 1601年(慶長6年) - [[水内郡]][[長野 (長野市)|長野村]]・[[長野 (長野市)#箱清水|箱清水村]]・[[鶴賀 (長野市)#七瀬|七瀬村]]・[[安茂里#平柴|平柴村]]が[[善光寺]]領とされた。 * 1871年([[明治]]4年) - 善光寺領長野村・箱清水村・七瀬村・平柴村が、中野県の管轄に変更。中野県が県庁を長野村の善光寺町に移転して[[長野県]]に改称。 * [[1874年]](明治7年)[[11月8日]] - 長野村が、長野町に改称。 * [[1876年]](明治9年)[[5月30日]] - 水内郡[[鶴賀 (長野市)#問御所町|問御所村]]・[[権堂町 (長野市)|権堂村]]・[[鶴賀 (長野市)#七瀬|七瀬村]]が合併し、[[鶴賀 (長野市)|鶴賀村]]と改称。長野町が箱清水村を合併。 * [[1879年]](明治12年)[[1月4日]] - 長野県で[[郡区町村編制法]]が施行されたことにより、水内郡長野町・鶴賀村・[[西長野|腰村]]・[[南長野#妻科|妻科村]]・[[茂菅|茂菅村]]が[[上水内郡]]の所属に変更。 * [[1881年]](明治14年)[[6月24日]] - 上水内郡妻科村が、[[南長野|南長野町]]と改称。 * 1881年(明治14年)[[11月10日]] - 上水内郡腰村が、[[西長野|西長野町]]と改称。 * [[1885年]](明治18年)[[2月19日]] - 上水内郡鶴賀村が、[[鶴賀 (長野市)|鶴賀町]]と改称。 * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、上水内郡長野町・西長野町・南長野町・茂菅村および鶴賀町の一部(七瀬および居町を除く)の区域を以って'''長野町'''が発足。 ** 鶴賀町の残部(七瀬および居町)は、上水内郡[[芹田 (長野市)|芹田村]]の一部となった。 * [[1897年]](明治30年)[[4月1日]] - 上水内郡長野町が市制施行して'''長野市'''が発足(長野県第1号、全国第43号)。 * [[1923年]]([[大正]]12年)[[7月1日]] - 上水内郡[[吉田 (長野市)|吉田町]]・[[芹田 (長野市)|芹田村]]・[[三輪 (長野市)|三輪村]]・[[古牧|古牧村]]を編入。 * [[1954年]]([[昭和]]29年)4月1日 - 上水内郡[[朝陽|朝陽村]]・[[古里 (長野市)|古里村]]・[[柳原 (長野市)|柳原村]]・[[若槻|若槻村]]・[[浅川 (長野市)|浅川村]]・[[長沼 (長野市)|長沼村]]・[[安茂里|安茂里村]]・[[小田切|小田切村]]・[[芋井|芋井村]]・[[大豆島|大豆島村]]を編入。 * [[1966年]](昭和41年)[[10月16日]] - 長野市・[[篠ノ井市]]・[[更級郡]][[川中島町]]・[[更北|更北村]]・[[信更|信更村]]・[[上水内郡]][[七二会|七二会村]]・[[埴科郡]][[松代町 (長野県)|松代町]]・[[上高井郡]][[若穂|若穂町]]が合併し、改めて'''長野市'''が発足。 * [[1967年]](昭和42年)[[3月29日]] - 市旗・市章を制定<ref>『[[#図典 日本の市町村章|図典 日本の市町村章]]』p115</ref><ref>[http://www.city.nagano.lg.jp/reiki/34290250002700000000/34290250002700000000/34290250002700000000.html 長野市市章・市旗・市歌制定の件]</ref>。 * [[1999年]](平成11年) - [[中核市]]へ移行。 * [[2005年]]([[平成]]17年)[[1月1日]] - [[上水内郡]][[豊野町 (長野県)|豊野町]]、[[戸隠村]]、[[鬼無里村]]、および、[[更級郡]][[大岡村 (長野県)|大岡村]]を編入。 * [[2010年]](平成22年)1月1日 - 上水内郡[[信州新町]]・[[中条村 (長野県)|中条村]]を編入。 === 「長野」という地名の由来 === 「長野」という地名が歴史上初めて登場するのは、戦国時代・[[元亀]]元年(1570年)の武田信玄の書状である。長野市立図書館のある長門町一帯が、近世には「長野町」とも呼ばれていたようで、上長野・下長野という[[小字]]名がある。また、現在の信大教育学部のあたりには袖長野・中長野・西長野の小字名があり、信大教育学部あたりから長門町付近にかけての緩傾斜地についた小土地名が「長野」と考えられる<ref name=":0" />。 この「長野」という地名は、善光寺平に裾花川が砂礫を運んでつくった扇状地に由来すると思われる。「野」はゆるく傾斜する場所を意味することから、長い緩やかな傾斜地を「長野」と呼んだのだろう<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 第2版 |date=2018年6月1日 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=16}}</ref>。 === 「長野村」と「善光寺町」 === 「長野村」という地名は、[[中世]]末期から見られたらしい。中世末から近世にかけての「水内郡長野村」は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。[[1601年]]([[慶長]]6年)に、同郡[[長野 (長野市)#箱清水|箱清水村]]、[[鶴賀 (長野市)#七瀬|七瀬村]]、及び[[三輪 (長野市)|三輪村]]の一部(間もなく[[安茂里#平柴|平柴村]]に変更)と共に[[善光寺]]領とされた。 箱清水村は、[[1875年]](明治8年)に長野町と合併、七瀬村は[[1876年]](明治9年)に鶴賀村の一部となり[[鶴賀 (長野市)|鶴賀町]]を経て長野町へ、三輪村は[[1889年]](明治22年)に三輪村、平柴村は[[1889年]](明治22年)に[[安茂里|安茂里村]]を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は[[門前町]]として、また[[北国街道 (信越)|北国街道]]のルートとされたことから[[宿場町]]としても発展して[[市街地]]化([[町場]]化)した。こうして市街地化した区域、および[[松代藩]]領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市[[南長野|大字南長野]])および[[権堂町 (長野市)|権堂村]](現長野市[[鶴賀 (長野市)|大字鶴賀]]の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として[[善光寺|善光寺町]](または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。 しかし、検地帳上の公的な村名は善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま[[明治維新]]後に至った。すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけではなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。 == 行政 == {{Main|長野市役所}} === 市長 === ;歴代市長 * 現職 [[荻原健司]] ([[2021年]][[11月11日]]就任 1期目) {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller" |+歴代市長<ref>[http://www.city.nagano.nagano.jp/site/shicyo/18773.html 長野市ホームページ 歴代長野市長].2015年2月20日閲覧。</ref> !代!!氏名!!就任日!!退任日!!備考 |- !colspan="5"|官選 |- |1||[[佐藤八郎右衛門]]||1897年(明治30年)7月14日||1899年(明治32年)1月13日|| |- |rowspan="2"|2||rowspan="2"|[[鈴木小右衛門]]||1899年(明治32年)4月22日||1905年(明治38年)4月21日 |rowspan="2"| |- |1905年(明治38年)4月22日||1911年(明治44年)4月21日 |- |rowspan="2"|3||rowspan="2"|[[牧野元]]||1911年(明治44年)6月7日||1917年(大正6年)6月6日 |rowspan="2"| |- |1917年(大正6年)6月7日||1921年(大正10年)1月25日 |- |4||[[三田幸司]]||1921年(大正10年)4月30日||1921年(大正10年)12月27日|| |- |rowspan="3"|5||rowspan="3"|[[丸山弁三郎]]||1922年(大正11年)4月26日||1926年(大正15年)4月25日 |rowspan="3"| |- |1926年(大正15年)4月26日||1930年(昭和5年)4月25日 |- |1930年(昭和5年)4月26日||1934年(昭和9年)4月25日 |- |6||[[七沢清助]]||1934年(昭和9年)5月1日||1934年(昭和9年)7月12日|| |- |7||[[藤井伊右衛門]]||1934年(昭和9年)12月7日||1937年(昭和12年)5月23日|| |- |8||[[高野忠衛]]||1937年(昭和12年)10月4日||1941年(昭和16年)10月3日|| |- |9||[[石垣倉治]]||1941年(昭和16年)10月20日||1942年(昭和17年)4月7日||死去 |- |rowspan="2"|10||rowspan="2"|高野忠衛||1942年(昭和17年)4月17日||1946年(昭和21年)4月16日 |rowspan="2"| |- |1946年(昭和21年)6月21日||1946年(昭和21年)11月12日 |- !colspan="5"|公選(旧・長野市) |- |rowspan="2"|11||rowspan="2"|[[松橋久左衛門]]||1947年(昭和22年)4月5日||1951年(昭和26年)4月4日 |rowspan="2"| |- |1951年(昭和26年)4月25日||1954年(昭和29年)11月19日 |- |rowspan="2"|12||rowspan="2"|[[倉島至]]||1954年(昭和29年)12月12日||1958年(昭和33年)12月11日 |rowspan="2"| |- |1958年(昭和33年)12月12日||1962年(昭和37年)12月5日 |- |13||[[夏目忠雄]]||1962年(昭和37年)12月6日||1966年(昭和41年)10月15日|| <ref group="注釈">合併に伴う新長野市発足により任期途中で失職(その後の新長野市の市長選で当選)</ref> |- !colspan="5"|公選(現・長野市) |- |rowspan="2"|1||rowspan="2"|夏目忠雄||1966年(昭和41年)11月14日||1970年(昭和45年)11月13日 |rowspan="2"| <ref group="注釈">1966年の新長野市発足後初めて再選され、2期務める(旧長野市時代も入れて3期)。'''</ref> |- |1970年(昭和45年)11月14日||1973年(昭和48年)10月18日 |- |rowspan="3"|2||rowspan="3"|[[柳原正之]]||1973年(昭和48年)11月11日||1977年(昭和52年)11月10日 |rowspan="3"| |- |1977年(昭和52年)11月11日||1981年(昭和56年)11月10日 |- |1981年(昭和56年)11月11日||1985年(昭和60年)11月10日 |- |rowspan="4"|3||rowspan="4"|[[塚田佐]]||1985年(昭和60年)11月11日||1989年(平成元年)11月10日 |rowspan="4"| |- |1989年(平成元年)11月11日||1993年(平成5年)11月10日 |- |1993年(平成5年)11月11日||1997年(平成9年)11月10日 |- |1997年(平成9年)11月11日||2001年(平成13年)11月10日 |- |rowspan="3"|4||rowspan="3"|[[鷲澤正一]]||2001年(平成13年)11月11日||2005年(平成17年)11月10日 |rowspan="3"| |- |2005年(平成17年)11月11日|| 2009年(平成21年)11月10日 |- |2009年(平成21年)11月11日|| 2013年(平成25年)11月10日 |- | rowspan="2" |5|| rowspan="2" |[[加藤久雄 (長野市長)|加藤久雄]]||2013年(平成25年)11月11日|| 2017年(平成29年)11月10日|| |- |2017年(平成29年)11月11日 |2021年(令和3年)11月10日 | |- |6 |[[荻原健司]] |2021年(令和3年)11月11日 |現職 | |} === 環境事業 === 長野県は1995年の段階で、ゴミのリサイクル率17.0パーセントと、当時の日本の都道府県の中で2位の水準にあった<ref group="注釈">ちなみに、1995年当時の日本の都道府県の中で、ゴミのリサイクル率が1位だったのは千葉県だった。なお、ここで言う「ゴミのリサイクル率」とは、ゴミの総排出量に対する、ゴミの再資源化量の割合である。</ref><ref>朝日新聞東京本社地域報道部 『都道府県ランキング くらしデータブック』 p.107、p.146、p.147<!--p,108からp.145は無関係なので、勝手にp.107 - p.147などとはせぬこと。--> 朝日新聞社 2001年4月15日発行 ISBN 4-02-228295-9</ref>。そんな背景がある中で、長野市では環境問題への取組みとして、第6回[[持続可能な地域社会をつくる日本の環境首都コンテスト]]に参加した。 == 議会 == === 長野市議会 === {{main|長野市議会}} === 長野県議会 === {{Main|2019年長野県議会議員選挙}} * 選挙区:長野市・上水内郡選挙区 * 定数:11人 * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 * 投票日:2019年4月7日 * 当日有権者数:330,530人 * 投票率:41.39% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 加藤康治 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 47 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 新 || 14,812票 |- | 西沢正隆 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 47 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 14,556票 |- | 風間辰一 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 57 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 11,740票 |- | 鈴木清 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 71 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 11,418票 |- | 服部宏昭 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 74 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 11,347票 |- | 高島陽子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || 11,310票 |- | 和田明子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 59 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 10,081票 |- | 望月義寿 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 9,462票 |- | 埋橋茂人 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 66 || [[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:right" | 9,292票 |- | 池田清 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 64 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 8,580票 |- | 山口典久 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 58 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:right" | 8,447票 |- | 金沢敦志 || style="text-align:center;" | 落 || style="text-align:center" | 56 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:right" | 6,934票 |- | 野本靖 || style="text-align:center;" | 落 || style="text-align:center" | 46 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 6,866票 |} === 衆議院 === ;長野1区 * 選挙区:[[長野県第1区|長野1区]] (長野市(旧大岡村・豊野町・戸隠村・鬼無里村・信州新町・中条村域を除く)、[[須坂市]]、[[中野市]]、[[飯山市]]、[[上高井郡]]、[[下高井郡]]、[[下水内郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:425,440人 * 投票率:59.74% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[若林健太]] || align="center" | 57 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 新 || 128,423票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[篠原孝]] || align="center" | 73 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 121,962票 || align="center" | ○ |} ;長野2区 * 選挙区:[[長野県第2区|長野2区]] (長野市(旧[[大岡村 (長野県)|大岡村]]・[[豊野町 (長野県)|豊野町]]・[[戸隠村]]・[[鬼無里村]]・[[信州新町]]・[[中条村 (長野県)|中条村]]域)、[[松本市]]、[[大町市]]、[[安曇野市]]、[[東筑摩郡]]、[[北安曇郡]]、[[上水内郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:382,123人 * 投票率:57.03% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[下条みつ]] || align="center" | 65 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 101,391票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[務台俊介]] || align="center" | 65 || style="background-color:#ffdddd;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || align="right" | 68,958票 || align="center" | ○ |- | || 手塚大輔 || align="center" | 38 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || align="right" | 43,026票 || align="center" | ○ |} == 公的機関 == === 行政機関 === {{Col| ;[[警察庁]] * [[関東管区警察局]]長野県情報通信部 ;[[総務省]] * [[信越総合通信局]] * 関東[[管区行政評価局]]長野行政監視行政相談センター ;[[法務省]] * 長野[[地方法務局]] * [[長野刑務所]] * 長野[[少年鑑別所]] * 長野[[保護観察所]] * [[出入国在留管理庁]][[東京出入国在留管理局]] 長野出張所 * [[公安調査庁]]関東[[公安調査局]]長野公安調査事務所 * [[長野地方検察庁]] * [[長野区検察庁]] | ;[[財務省 (日本)|財務省]] * [[関東財務局]]長野[[財務事務所]] * [[名古屋税関]]長野地区政令派出所 * [[国税庁]][[関東信越国税局]]長野税務署 * [[国税庁]]関東信越[[国税不服審判所]]長野支部 ;[[厚生労働省]] * [[長野労働局]] ** 長野[[労働基準監督署]] ** 長野[[公共職業安定所]] ** 篠ノ井公共職業安定所 ;[[日本年金機構]] * 長野北年金事務所 * 長野南年金事務所 ;[[農林水産省]] * [[関東農政局]]長野県拠点 * [[林野庁]][[中部森林管理局]] | ;[[国土交通省]] * [[関東地方整備局]]長野国道事務所 * 関東地方整備局長野営繕事務所 * [[北陸地方整備局]]千曲川河川事務所 * [[北陸信越運輸局]][[長野運輸支局]] * [[気象庁]][[長野地方気象台]] ;[[環境省]] * [[中部地方環境事務所]]信越自然環境事務所 ** 戸隠自然保護官事務所 ;[[防衛省]] * [[自衛隊長野地方協力本部]] }}{{clear|left}} === 司法機関 === ;裁判所 * [[長野地方裁判所]] * [[長野家庭裁判所]] * [[長野簡易裁判所]] === 独立行政法人 === {{Col| * [[高齢・障害・求職者雇用支援機構]]長野支部 * 長野[[職業能力開発促進センター]](ポリテクセンター長野) * 長野産業保健総合支援センター * [[東長野病院]] | * 中部整備局長野水源林整備事務所 * [[ジェトロ]]長野 * [[自動車技術総合機構]] 長野事務所 * [[自動車事故対策機構]] 長野支所 }}{{clear|left}} == 施設 == [[ファイル:Nagano prefectural government01s3200.jpg|thumb|200px|[[長野県警察]]本部の入る[[長野県庁]]]] === 警察 === ;本部 * [[長野県警察]] ** [[長野中央警察署]] - 旧上水内郡・上高井郡の区域 ** [[長野南警察署]] - 旧埴科郡・更級郡の区域 ;交番 * 長野中央 {{Col| ** 権堂町交番(長野市権堂町) ** 長野駅前交番(長野市南石堂町) ** 若里交番(長野市若里五丁目) ** 安茂里交番(長野市安茂里) ** 若松町交番(長野市若松町) ** 三輪交番(長野市三輪九丁目) ** 吉田交番(長野市吉田三丁目) | ** 柳町交番(長野市柳町) ** 和田交番(長野市東和田) ** 東北交番(長野市富竹) ** 若槻大通り交番(長野市若槻東条) ** 大豆島交番(長野市大豆島) ** 豊野町交番(長野市豊野町豊野) ** 信州新町交番 (長野市信州新町新町) }}{{clear|left}} * 長野南 ** 篠ノ井駅前交番 ** 川中島交番 ** 更北交番 ** 松代交番 ;駐在所 * 長野中央 ** 七二会駐在所(長野市七二会甲) ** 芋井駐在所(長野市桜) ** 綿内駐在所(長野市若穂綿内) ** 保科駐在所(長野市若穂保科) ** 川田駐在所(長野市若穂川田) ** 戸隠駐在所(長野市戸隠豊岡) ** 鬼無里駐在所(長野市鬼無里) ** 中条駐在所(長野市中条) * 長野南 ** 共和駐在所 ** 信里駐在所 ** 塩崎駐在所 ** 信更駐在所 ** 大岡駐在所 [[ファイル:Nagano City Chuo Fire Station.jpg|thumb|200px|[[長野市消防局]]]] === 消防 === {{Col| ;本部 * [[長野市消防局]] ;消防署 * 中央消防署(大字長野旭町) * 鶴賀消防署(大字鶴賀) * 篠ノ井消防署(篠ノ井会) * 松代消防署(松代町西寺尾) * 新町消防署(信州新町里穂刈) | ;分署 * 中央 ** 安茂里(安茂里小市) ** 七二会(七二会己) ** 飯綱(大字上ヶ屋) ** 鬼無里(鬼無里日影) * 鶴賀 ** 若槻(大字若槻東条) ** 柳原(大字柳原) ** 東部(大字南長池) ** 豊野(豊野町豊野) | * 篠ノ井 ** 更北(青木島町大塚) ** 塩崎(篠ノ井塩崎) * 松代 ** 若穂(若穂綿内) }} [[ファイル:Nagano Matsushiro General Hospital.JPG|thumb|200px|[[長野松代総合病院]]]] === 医療 === ;主な病院 * [[朝日ながの病院]] * [[篠ノ井総合病院]] * [[長野市民病院]] * [[長野赤十字病院]] * [[長野中央病院]] * [[長野松代総合病院]] * [[国立病院機構東長野病院]] ;[[長野市保健所]] : 2021年4月に[[松本市保健所]]ができるまでは、県内市町村の中で唯一、単独で[[保健所]]を設置する、[[保健所政令市]]であった。 [[ファイル:Nagano City Library exterior ac (2).jpg|thumb|200px|[[長野市立図書館]]]] === 図書館 === * [[長野市立図書館]] ** 長野市立長野図書館 ** 長野市立南部図書館 * [[県立長野図書館]] * [[ライブラリー82]] [[ファイル:Nagano-chuo post-office.jpg|thumb|200px|[[長野中央郵便局]]]] === 郵便局 === '''[[集配郵便局]]''' {{col| * [[長野中央郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]直営店) * [[長野東郵便局]](地域区分業務局) * [[長野南郵便局]] | * 鬼無里郵便局 * 信州新町郵便局 | * 中条郵便局 * 戸隠郵便局 }} '''無集配郵便局''' {{col| * 青木島郵便局 * 浅川郵便局 * 浅野郵便局 * 朝陽郵便局 * 安茂里郵便局 * [[稲荷山駅]]前郵便局 * 芋井郵便局 * 大岡郵便局 * 小島田郵便局 * 川田郵便局 * [[川中島駅]]前郵便局 * 小市郵便局 * 更府郵便局 * 更北郵便局 * 三本柳郵便局 * 塩崎郵便局 * 篠ノ井郵便局 * 信更郵便局 * [[善光寺]]郵便局 | * 祖山郵便局 * 津和郵便局 * 寺尾郵便局 * [[戸隠神社]]前郵便局 * 戸隠郵便局 * 豊栄郵便局 * 豊野郵便局 * 長沼郵便局 * 長野相ノ木郵便局 * 長野旭郵便局 * [[長野駅]]前郵便局 * [[長野栗田郵便局]] * [[長野県庁舎|長野県庁内]]郵便局 * 長野古牧郵便局 * 長野権堂郵便局 * 長野桜枝郵便局 * 長野鶴賀郵便局 * 長野中御所郵便局 * 長野七瀬郵便局 | * 長野箱清水郵便局 * 長野緑郵便局 * 長野柳町郵便局 * 長野吉田一郵便局 * 長野吉田東町郵便局 * 長野吉田郵便局 * 長野淀ヶ橋郵便局 * 長野若里郵便局 * 七二会郵便局 * 日原郵便局 * 古里郵便局 * 保科郵便局 * 牧郷郵便局 * 松代郵便局 * 大豆島郵便局 * 柳原郵便局 * 若槻郵便局 * 若穂郵便局 }} '''[[簡易郵便局]]''' {{col| * 赤沼簡易郵便局 * 上ケ屋簡易郵便局 * 朝陽駅前簡易郵便局 * 伊勢宮簡易郵便局 * 市場簡易郵便局 * 尾張部簡易郵便局 * 御幣川簡易郵便局 * 上駒沢簡易郵便局 * 共和簡易郵便局 * 五明簡易郵便局 * 犀南簡易郵便局 * 犀北簡易郵便局 | * 三陽簡易郵便局 * 篠ノ井高田簡易郵便局 * 東福寺簡易郵便局 * 徳間簡易郵便局 * 中越簡易郵便局 * 中氷鉋簡易郵便局 * [[長野アークス]]簡易郵便局 * 長野上松簡易郵便局 * 長野宇木簡易郵便局 * 長野九反簡易郵便局 * 長野小柴見簡易郵便局 * 長野新諏訪簡易郵便局 | * 信里簡易郵便局 * 東和田簡易郵便局 * 日詰簡易郵便局 * 北部簡易郵便局 * 真島簡易郵便局 * 松岡簡易郵便局 * 御厨簡易郵便局 * 南郷簡易郵便局 * 母袋簡易郵便局 * 屋島簡易郵便局 * 若槻団地簡易郵便局 * 若穂団地簡易郵便局 }} === 文化施設 === ;集会施設 * [[長野県県民文化会館]] * [[長野市芸術館]] * [[蔵春閣 (長野市)|蔵春閣]](閉館) * [[勤労者女性会館しなのき]] * [[もんぜんぷら座]] * [[TOiGO#施設概要|TOiGO WEST]] '''博物館・記念館'''{{Col| * [[長野市立博物館]] * [[象山記念館|象山記念館・松代通信資料館]] * [[大室古墳館]] * 戸隠そば博物館 とんくるりん * [[信濃教育会教育博物館]] * 戸隠民俗館・戸隠流忍法資料館 * [[大峰城|大峰城チョウと自然の博物館]](閉館) * 茶臼山自然史館(閉館) | * [[宮入慶之助]]記念館 * [[古代遺跡徳間博物館]] * [[七二会郷土歴史資料館]] * 川中島[[典厩寺]]記念館 * 善光寺大勧進宝物館 * 善光寺大本願宝物殿 * [[象山地下壕]] * [[豊野郷土資料館]](閉鎖) * [[小市大本営海軍部豪資料館]] | * [[戸隠地質化石博物館]] * [[信州新町化石博物館]] * [[鬼無里ふるさと資料館]] * [[有島生馬記念館]] * [[真田宝物館]] * ちょっ蔵おいらい館 * [[長野オリンピックミュージアム]] * [[中条歴史民俗資料館]] }}{{clear|left}} {{Col| ;美術館 * [[長野県立美術館|長野県立美術館・東山魁夷館]] * [[池田満寿夫美術館]] * [[水野美術館]] * [[北野美術館]] * [[北野カルチュラルセンター]] * [[驥山館]] * ひとミュージアム上野誠版画館 | ;科学館 * [[長野市少年科学センター]](閉館) ;動物園 * [[長野市茶臼山動物園]] * [[長野市城山動物園]] ;植物園 * [[茶臼山自然植物園]] * [[戸隠森林植物園]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://togakushi-21.jp/spot/365/|title=戸隠森林植物園|work=一般社団法人 戸隠観光協会|accessdate=2020-08-10}}</ref> | ;劇場 * [[北野文芸座]] * [[長野松竹相生座]] - 日本最古級の映画館。 * [[長野千石劇場]] * [[ネオンホール]] * [[長野グランドシネマズ]] }}{{clear|left}}<gallery> ファイル:Naganoken Kenmin Bunka kaikan entrance.jpg|長野県民文化会館 ファイル:Nagano City Museum.jpg|長野市立博物館 ファイル:Sanada Tresures Museum.jpg|真田宝物館 ファイル:Nagano Prefectural Art Museum 2021-12 1.jpg|長野県立美術館 ファイル:Kitano Art Museum.jpg|北野美術館 ファイル:Shochiku-Aioiza, Nagano.JPG|長野松竹相生座 </gallery> [[ファイル:Nagano Olympic Stadium in 2018.jpg|サムネイル|長野オリンピックスタジアム]] [[ファイル:Big Hat 02.jpg|サムネイル|ビッグハット]] [[ファイル:Aqua Wing Arena.JPG|サムネイル|アクアウィング]] === 運動施設 === * [[長野運動公園]] ** [[長野運動公園総合運動場総合市民プール|長野運動公園総合運動場総合市民プール(アクアウィング)]] ** [[長野市営陸上競技場]] ** [[長野県営野球場]] * [[南長野運動公園]] ** [[南長野運動公園総合球技場]] ** [[長野オリンピックスタジアム]] * [[長野市オリンピック記念アリーナ|長野市オリンピック記念アリーナ(エムウェーブ)]] * [[長野市ボブスレー・リュージュパーク|長野市ボブスレー・リュージュパーク(スパイラル)]] * [[長野市若里多目的スポーツアリーナ|長野市若里多目的スポーツアリーナ(ビッグハット)]] * [[長野市真島総合スポーツアリーナ|長野市真島総合スポーツアリーナ(ホワイトリング)]] * [[北部スポーツ・レクリエーションパーク]] * [[長野市青少年錬成センター]] * [[サンマリーンながの]] ;主なスキー場 * [[いいづなリゾートスキー場]] * [[戸隠スキー場]] (かつては[[飯綱高原スキー場]]、[[善光寺ロープウェイ|地附山スキー場]]があった。) ;主なキャンプ場 * [[戸隠キャンプ場]] === 公園・自然公園 === * [[城山公園 (長野市)|城山公園]] * [[セントラルスクゥエア|セントラルスクウェア]] * [[川中島古戦場史跡公園]] * [[長野市茶臼山恐竜公園]]、[[茶臼山自然植物園]] * [[昭和の森公園]] * [[奥裾花自然園]] == 対外関係 == === 姉妹都市・提携都市 === ==== 国外 ==== ;姉妹都市 * {{Flagicon|USA}} [[クリアウォーター|クリアウォーター市]]([[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]]) *: [[1959年]](昭和34年)3月、姉妹都市締結 ;友好都市 * {{Flagicon|CHN}} [[石家荘]]市([[中華人民共和国]] [[河北省]]) *: [[1981年]](昭和56年)4月、友好都市締結 ==== 国内 ==== ;集客プロモーションパートナー都市 * {{Flagicon|新潟県}}[[上越市]]([[新潟県]]) *: [[2005年]][[10月14日]]集客プロモーションパートナー都市締結 * {{Flagicon|石川県}}[[金沢市]]([[石川県]]) *: [[2007年]][[2月15日]]集客プロモーションパートナー都市締結 * {{Flagicon|山梨県}}[[甲府市]]([[山梨県]]) *: [[2007年]][[9月1日]]集客プロモーションパートナー都市締結 * {{Flagicon|静岡県}}[[静岡市]]([[静岡県]]) *: [[2010年]][[7月1日]]集客プロモーションパートナー都市締結 * {{Flagicon|富山県}}[[富山市]]([[富山県]]) *: [[2012年]][[10月2日]]集客プロモーションパートナー都市締結 * {{Flagicon|福井県}}[[福井市]]([[福井県]]) *: [[2013年]][[8月9日]]集客プロモーションパートナー都市締結 == 教育 == [[ファイル:UniversityOfNagano.jpg|thumb|right|長野県立大学]] === 大学 === ;国立 * [[信州大学]] 長野(教育)キャンパス・長野(工学)キャンパス ;公立 [[ファイル:SeiJo Nagano Station.jpg|thumb|right|清泉女学院大学の長野駅東口キャンパス]] * [[長野県立大学]] ;私立 * [[清泉女学院大学]] * [[長野保健医療大学]] === 短期大学 === ;私立 * [[清泉女学院短期大学]] * [[長野女子短期大学]] === 専修学校 === ;公立 * [[長野県農業大学校]] ;私立 {{Div col}} * OKA学園トータルデザインアカデミー * 信越情報専門学校21ルネサンス学院 * [[信州スポーツ医療福祉専門学校]] * 専門学校カレッジオブキャリア ** 長野校 ** 共和校 * 豊野高等専修学校 * 長野看護専門学校 * [[長野社会福祉専門学校]] * 長野スクールオブビジネス * 長野美術専門学校 * 長野ビジネスアカデミー * 長野平青学園 * 長野法律高度専門学校 * 長野調理製菓専門学校 * 長野理容美容専門学校 * [[文化学園長野専門学校]] * [[学校法人大原学園]]長野校 ** 大原簿記情報ビジネス医療専門学校長野校 ** 大原スポーツ公務員専門学校長野校 {{Div col end}} === 高等専門学校 === ;国立 * [[長野工業高等専門学校]] === 高等学校 === '''県立''':12校(普通科9校、職業科3校) ::{{small|長野県の県立高校は、校名の前に「長野県」と付く。}} {{Col| * [[長野県長野高等学校]] * [[長野県長野吉田高等学校]] ** 長野県長野吉田高等学校定時制戸隠分校 * [[長野県長野西高等学校]] ** [[長野県長野西高等学校中条校]] * [[長野県長野東高等学校]] | * [[長野県長野工業高等学校]] * [[長野県長野商業高等学校]] * [[長野県長野南高等学校]] * [[長野県更級農業高等学校]] * [[長野県篠ノ井高等学校]] ** [[長野県篠ノ井高等学校犀峡校]] * [[長野県松代高等学校]](普通科、商業科) }}{{clear|left}} '''市立''':1校(職業科1校) * [[長野市立長野中学校・高等学校|長野市立長野高等学校]](総合学科)(※中高併設) '''私立''':8校(普通科8校) * [[長野清泉女学院中学校・高等学校|長野清泉女学院高等学校]](※中高併設) * [[長野女子高等学校]] * [[長野俊英高等学校]] * [[長野日本大学中学校・高等学校|長野日本大学高等学校]](※中高併設) * [[文化学園長野中学校・高等学校|文化学園長野高等学校]](※中高併設) * [[さくら国際高等学校]]長野キャンパス * [[つくば開成高等学校|つくば開成学園高等学校]]長野学習センター * [[明蓬館高等学校#SNEC|祥雲高等学院]] === 中学校 === '''国立''':1校 * [[信州大学教育学部附属長野中学校]] '''市立''':25校 {{Div col}} * [[長野市立柳町中学校]] * [[長野市立櫻ヶ岡中学校]] * [[長野市立東部中学校]] * [[長野市立西部中学校]] * [[長野市立北部中学校]] * [[長野市立三陽中学校]] * [[長野市立裾花中学校]] * [[長野市立東北中学校]] * [[長野市立犀陵中学校]] * [[長野市立若穂中学校]] * [[長野市立川中島中学校]] * [[長野市立広徳中学校]] * [[長野市立更北中学校]] * [[長野市立篠ノ井西中学校]] * [[長野市立篠ノ井東中学校]] * [[長野市立松代中学校]] * [[長野市立信更中学校]] * [[長野市立七二会中学校]] * [[長野市立豊野中学校]] * [[長野市立戸隠中学校]] * [[長野市立鬼無里中学校]] * [[長野市立大岡中学校]] * [[長野市立信州新町中学校]] * [[長野市立中条中学校]] * [[長野市立長野中学校・高等学校|長野市立長野中学校]](※中高併設) {{Div col end}} '''私立''':4校 * [[長野日本大学中学校・高等学校|長野日本大学中学校]](※中高併設) * [[長野清泉女学院中学校・高等学校|長野清泉女学院中学校]](※中高併設) * [[文化学園長野中学校・高等学校|文化学園長野中学校]](※中高併設) * グリーン・ヒルズ中学校(※小中併設) === 小学校 === {{Div col}} * [[長野市立城山小学校]] * [[長野市立城東小学校]] * [[長野市立鍋屋田小学校]] * 長野市立加茂小学校 * 長野市立山王小学校 * [[長野市立芹田小学校]] * [[長野市立古牧小学校]] * 長野市立三輪小学校 * [[長野市立緑ヶ丘小学校]] * 長野市立三本柳小学校 * 長野市立吉田小学校 * [[長野市立裾花小学校]] * 長野市立湯谷小学校 * [[長野市立南部小学校]] * 長野市立大豆島小学校 * 長野市立朝陽小学校 * 長野市立長沼小学校 * 長野市立古里小学校 * [[長野市立若槻小学校]] * 長野市立徳間小学校 * 長野市立浅川小学校 * [[長野市立芋井小学校]] * [[長野市立柳原小学校]] * [[長野市立安茂里小学校]] * 長野市立松ヶ丘小学校 * 長野市立通明小学校 * 長野市立篠ノ井東小学校 * 長野市立篠ノ井西小学校 * 長野市立共和小学校 * 長野市立信更小学校 * 長野市立塩崎小学校 * 長野市立松代小学校 * 長野市立清野小学校 * 長野市立西条小学校 * 長野市立豊栄小学校 * 長野市立東条小学校 * 長野市立寺尾小学校 * 長野市立綿内小学校 * 長野市立川田小学校 * 長野市立保科小学校 * 長野市立昭和小学校 * [[長野市立川中島小学校]] * 長野市立青木島小学校 * 長野市立下氷鉋小学校 * 長野市立真島小学校 * 長野市立七二会小学校 * 長野市立豊野西小学校 * 長野市立豊野東小学校 * 長野市立戸隠小学校 * 長野市立鬼無里小学校 * 長野市立大岡小学校 * 長野市立信州新町小学校 * 長野市立中条小学校 * [[信州大学教育学部附属長野小学校]](※小中併設) * いいづな学園グリーン・ヒルズ小学校(※小中併設) {{Div col end}} === 特別支援学校 === * 長野県長野養護学校 * [[長野県若槻養護学校]] * [[信州大学教育学部附属特別支援学校]] * 長野県長野聾学校 * 長野県長野盲学校 == 交通 == 長野市は都市圏人口が約60万人である。[[モータリゼーション|車社会]]が進展している一方で、日本の中規模地方都市としては[[公共交通|公共交通手段]]を利用した通勤・通学が盛んであり、朝夕のラッシュ時には鉄道駅やバス停が多くの通勤・通学客で混雑する。そのため[[信越本線]]は朝ラッシュ時6両の編成による運行が見られ、長電長野線においても短い間隔で[[通勤形車両]]によって運行されるほか、通勤利用による混雑の対策として[[長野駅]]には[[自動改札機]]が設置されている。また、路線バスにおいては[[川中島バス]]が長野駅~[[松代町 (長野県)|松代]]間にて座席指定制の「通勤ライナー」を運行するなど、通勤利用対策を行っている<ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~ktnh/mich/ido/nagano_rush/ 「通勤」ラッシュのある街-長野市の朝-]</ref>。 === 鉄道 === [[ファイル:Nagano Station 2023-05-27.jpg|thumb|200px|[[長野駅]]]] 東日本旅客鉄道(JR東日本)、しなの鉄道、長野電鉄の3社の路線が市内を通る。 ;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[北陸新幹線]] ** [[長野駅]] * [[信越本線]] ** [[篠ノ井駅]] - [[今井駅]] - [[川中島駅]] - [[安茂里駅]] - 長野駅 * [[篠ノ井線]] ** 篠ノ井駅 - [[稲荷山駅]] * [[飯山線]] ** [[豊野駅]] - [[信濃浅野駅]] - [[立ケ花駅]] ;[[しなの鉄道]] * [[しなの鉄道線]] ** 篠ノ井駅 * [[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]] **長野駅 - [[北長野駅]] - [[三才駅]] - 豊野駅 ;[[長野電鉄]] * [[長野電鉄長野線|長野線]] ** 長野駅 - [[市役所前駅 (長野県)|市役所前駅]] - [[権堂駅]] - [[善光寺下駅]] - [[本郷駅 (長野県)|本郷駅]] - [[桐原駅 (長野県)|桐原駅]] - [[信濃吉田駅]] - [[朝陽駅]] - [[附属中学前駅]] - [[柳原駅 (長野県)|柳原駅]] ==== 過去の路線 ==== ; 長野電鉄 * [[長野電鉄屋代線|屋代線]](2012年廃止) : [[岩野駅]] - [[象山口駅]] - [[松代駅]] - [[金井山駅]] - [[大室駅]] - [[信濃川田駅]] - [[若穂駅]] - [[綿内駅]] ; [[善光寺白馬電鉄]] * [[善光寺白馬電鉄#鉄道事業|善光寺白馬電鉄線]](1969年廃止) : [[南長野駅]] - [[山王駅]] - [[妻科駅]] - [[信濃善光寺駅]] - [[茂菅駅]] - [[善光寺温泉東口駅]](仮設駅、1936年廃止) - [[善光寺温泉駅]] - [[裾花口駅]] ; 長野市開発公社 * [[善光寺ロープウェイ]](1975年廃止) : [[雲上台駅]] - [[地附山頂駅駅]] ==== 新交通システム・LRT構想 ==== [[2011年]]12月6日、松代・若穂・篠ノ井・更北・川中島の沿線5地区の住民自治協議会長の連名で、長野電鉄屋代線廃止後の跡地を活用した[[ライトレール|LRT]]の導入を求める[[請願]]が長野市議会に提出され、同年12月16日の長野市議会12月定例会にて全会一致の賛成で採択された。これを受けて長野市は市の交通対策審議会に諮問、新交通システム導入検討部会において、LRT及び[[長野駅]]‐[[松代駅]]間の新交通システム導入に関する調査検討を行った。 2013年5月29日から同年6月21日に実施した「長野市新交通システム導入可能性調査」の結果を踏まえて、長野市交通対策審議会は2014年2月12日に、旧屋代線を除いた計画中の5ルート(長野駅 - [[善光寺]]、長野駅 - [[若槻団地]]、長野駅 - [[綿内駅]]、長野駅 - [[松代町 (長野県)|松代]]、長野駅 - [[篠ノ井駅]])での採算性や事業実施の難易度(市が検討する中で最も営業区間の長い長野駅 - 篠ノ井駅ルートの場合、市が負担する事業費を172億円、年間運行経費が6億4000万円と見込み1人当たりの平均運賃を試算すると、LRTで570円、[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]では280円にのぼる)を考え、中期的にはBRTについて検討を進め、長期的には将来の需要喚起や技術革新などを勘案した上で、LRTへの移行を踏まえ今後検討を深めていく必要があるとした。 その後、2014年7月30日に発表された「新交通システムの導入に関する中間報告書」においては、「LRT化には、大規模な投資が必要となるが、投資を上回る事業便益が生じてこない状況」(「継続した運行のためには、相当高い運賃設定」か「相当な観光客の誘客(現状松代地区に年間60万人であるところ、215万人)」が必要)とし、運行は「沿線人口の大幅な増加又はLRT利用観光客の大幅な増加」もしくは「赤字分を全て行政で負担」が条件だが、いずれもその可能性は低いと評価した<ref>{{PDFlink|[https://www.city.nagano.nagano.jp/uploaded/attachment/40097.pdf 新交通システムの導入に関する中間報告書]}} - 長野市交通対策審議会新交通システム導入検討部会(2014年7月30日)</ref>。 === バス === ;路線バス * [[長電バス]] * [[アルピコ交通]](通称・[[川中島バス]]) * [[ぐるりん号 (長野市)|ぐるりん号]](市内循環、若里・更北ぐるりん号、東北ぐるりん号の3系統) * [[長野市営バス]](合併前の自治体が営んでいた路線バスを吸収) === 道路 === ;高速自動車国道 * {{Ja Exp Route Sign|E18}}[[上信越自動車道]]([[長野インターチェンジ|長野IC]]、[[須坂長野東インターチェンジ|須坂長野東IC]](※所在地は須坂市)) * {{Ja Exp Route Sign|E19}}[[長野自動車道]](市内をかすめているがICは無い。) ;一般国道 * [[国道18号]]([[長野バイパス]]、[[篠ノ井バイパス]]、[[長野東バイパス]]、[[アップルライン]]) * [[国道19号]]([[長野南バイパス]]、[[県庁通り (長野県)|県庁通り]]、[[昭和通り (長野市)|昭和通り]]) * [[国道117号]](県庁通り) * [[国道403号]]([[谷街道]]) * [[国道406号]]([[平林街道]]) '''県道'''(一部) {{Col| * [[長野県道31号長野大町線|県道31号長野大町線]] * [[長野県道34号長野菅平線|県道34号長野菅平線]] * [[長野県道35号長野真田線|県道35号長野真田線]] * [[長野県道37号長野信濃線|県道37号長野信濃線]] * [[長野県道58号長野須坂インター線|県道58号長野須坂インター線]] * [[長野県道60号長野荒瀬原線|県道60号長野荒瀬原線]] | * [[長野県道70号長野信州新線|県道70号長野信州新線]] * [[長野県道76号長野戸隠線|県道76号長野戸隠線]] * [[長野県道77号長野上田線|県道77号長野上田線]] * [[長野県道86号戸隠篠ノ井線|県道86号戸隠篠ノ井線]] | * [[長野県道12号丸子信州新線|県道12号丸子信州新線]] * [[長野県道29号中野豊野線|県道29号中野豊野線]] * [[長野県道36号信濃信州新線|県道36号信濃信州新線]] * [[長野県道66号豊野南志賀公園線|県道66号豊野南志賀公園線]] | * [[長野県道401号小川長野線|県道401号小川長野線]] * [[長野県道452号古屋敷境ノ沢線|県道452号古屋敷境ノ沢線]] * [[長野県道475号信州新中条線|県道475号信州新中条線]] }}{{clear|left}} ;[[有料道路]] * [[五輪大橋有料道路]] * [[白馬長野有料道路]] ;その他主要道路 : [[長野中央通り|中央通り]]、[[長野大通り]]、[[長野県道376号長野停車場岡田線|ターミナル通り]]、[[東通り (長野市)|東通り]]、[[若槻大通り]]、[[北部幹線 (長野市)|サンロード]]、[[戸隠バードライン]]、[[浅川ループライン]]、[[長野環状道路]]、[[北信五岳道路]]、[[南長野公園通り]]、[[二線路通り]]、[[ユメリア通り]] ;[[道の駅]] * [[道の駅長野市大岡特産センター|長野市大岡特産センター]] * [[道の駅信州新町|信州新町]] * [[道の駅中条|中条]] == 経済 == [[ファイル:Densan nagano.jpg|thumb|200px|[[鶴賀 (長野市)#七瀬|七瀬中町]]にある[[電算]]本社]] [[ファイル:Nagano Terminal St.jpg|thumb|200px|[[金融街]]の[[長野県道376号長野停車場岡田線|ターミナル通り]]]] [[ファイル:Showa-dori Street Nagano City.jpg|thumb|200px|[[ビジネス街]]となっている<br />[[昭和通り (長野市)|昭和通]]]] [[ファイル:West Entrance of Gondo Arcade Nagano City.jpg|thumb|200px|県下随一の[[繁華街]]である[[権堂町 (長野市)|権堂]]]] [[ファイル:Nagano C-one building2.jpg|thumb|200px|[[二線路通り]]]] 都市の成り立ちが県庁所在地であり、官公署が集中していたことから、[[卸売業]]を中心に商業が発達している。現在は卸売業・小売業・宿泊業・飲食サービス業の企業が多い。これらのうち卸売業・小売業では飲食料品小売業が、宿泊業・飲食サービス業では飲食店が、それぞれ最も多い業種である。<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |pages=272,273}}</ref> また、工業の特色としては、企業数で食料品、印刷業、生産用機械器具がトップ3を占め、製造品出荷額では、電子回路基板、みそ、無線通信機械器具、[[オフセット印刷]]、電子計算機(パソコンを除く)の品目が出荷額の多い順になっている。<ref name=":1" /> 明治以降から印刷業が発達してきたため、長野市では[[印刷業]]の企業数およびその製造品出荷額が非常に多い。近年のデジタル化、紙離れなどにより業界は厳しい状況にあるが、現在でも脈々とその流れは続いている。<ref name=":1" /> また、出荷額の多い電子回路基板、無線通信機械器具、電子計算機の品目を製造する企業のほとんどは、昭和初期から戦争中の疎開によって長野市に移転したものである。戦後も当地に留まり、時代の流れと共に大きく発展した。<ref name=":1" /> 製造品出荷額のトップ20には食料品製造業の「みそ」を筆頭に、惣菜、精米・精麦があり、自然の豊かな長野市の気候風土を反映しているといえる。<ref name=":1" /> === 産業別生産 === [[第一次産業|第1次産業]] - 農業産出額(2020年)163.4億円(県3位)<ref>{{Cite book|和書 |title=生産農業所得統計 |year=2020年 |publisher=農林水産省}}</ref> [[第二次産業|第2次産業]] - 工業製造品出荷額(2020年)5938億円(県2位)<ref>{{Cite book|和書 |title=工業統計表市区町村編 |date=2021年6月1日 |publisher=経済産業省}}</ref> [[第3次産業]] - 年間商品販売額(卸売業・小売業、2015年)1兆6850億円(県1位)<ref>{{Cite book|和書 |title=商業統計表産業編 |date=2016年6月1日 |publisher=経済産業省}}</ref> === 日本一 === * きのこの人工栽培・販売・売上高・生産量 ** 市に本社を置くきのこメーカーの[[ホクト株式会社]]はきのこの年間売り上げ高、ブナシメジの生産シェア、エリンギの生産シェアで日本一になっている。<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018年 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |pages=298-300}}</ref> * そば粉・そば茶 ** 市内に本社を置く[[日穀製粉|日穀製粉株式会社]]は、そば粉の生産量とそば茶の生産量が日本一である。<ref name=":2" /> * 日本最古のスキーメーカー ** 市内の[[小賀坂スキー製作所|小賀坂スキー製造所]]は、日本最古のスキーメーカーである。<ref name=":2" /> === 商業 === ;長野駅周辺の主な商業施設 {{colbegin|2}} * [[ながの東急百貨店]](本館、別館「Cher-Cher」) ** [[平安堂|平安堂長野店]] * [[ステーションビルMIDORI|MIDORI]] * [[C-one (長野市)|マイタウン シーワン]] * [[TOiGO]]([[信越放送]]) * [[もんぜんぷら座]] * [[ぱてぃお大門]] {{colend}} ;主な繁華街 {{Div col}} * [[南長野#末広町|末広町]] * [[鶴賀 (長野市)#南千歳町|南千歳町]] * [[鶴賀 (長野市)#上千歳町|上千歳町]] * [[南長野#新田町|新田町]] * [[南長野#県町|県町]] * [[南長野#南石堂町|石堂町]] * [[鶴賀 (長野市)#問御所町|問御所町]] * [[鶴賀 (長野市)#東鶴賀町|鶴賀]] * [[権堂町 (長野市)|権堂町]] * [[権堂町 (長野市)#権堂通り(権堂アーケード)|権堂アーケード]] * [[信州善光寺仲見世通り]] {{Div col end}} === 市内に本社機能を置く主な企業 === {{Col| * [[八十二銀行]](金融、[[東京証券取引所|東証]]一部上場) * [[新光電気工業]](電子機器、東証一部上場) * [[長野日本無線]](電子機器) * [[マルコメ]](食品) * [[ホクト]](農水、東証一部上場) * [[サニーヘルス]](健康食品) * [[前田製作所 (長野県)|前田製作所]](機械、[[JASDAQ]]上場) * [[北野建設 (長野県)|北野建設]](建設、東証一部上場) * [[守谷商会 (長野県)|守谷商会]](建設、JASDAQ上場) * [[TOSYS]](建設、[[コムシスホールディングス]]傘下) * [[角藤]](建設) * [[高見澤]](ガラス・土石製品、JASDAQ上場) * [[長野電鉄]](鉄道) * [[長電バス]](バス運輸) * [[川中島バス]](バス運輸) - 2011年4月1日に[[アルピコ交通]](本社:[[松本市]])に統合された。 * [[ながの東急百貨店]](百貨店、JASDAQ上場) * [[マルイチ産商]](食料品卸売業、[[名古屋証券取引所|名証]]二部上場) |* [[タカチホ (卸売業)|タカチホ]](土産品卸売業、JASDAQ上場) * [[東京法令出版]](出版) * [[平安堂]](書店) * [[小賀坂スキー製作所]](スキー製造) * [[電算]](情報処理、東証一部上場) * [[北信理化]](理化学機器販売業) * [[長野都市ガス]](ガス供給) * [[モリキ]](保険調剤、ドラッグストア) * [[高沢産業]](鉄鋼・建設資材・OAシステム・環境リサイクル) * [[共和コーポレーション]](サービス業、東証二部上場) * [[八幡屋礒五郎]] (食品) * [[アールエフ]](医療機器・映像機器) * [[日穀製粉]](食品) * [[みすずコーポレーション]](食品) * [[シューマート]](小売) * [[BOSTEC|株式会社BOSTEC]](券売機メーカー) * [[AC長野パルセイロ|長野パルセイロ・アスレチッククラブ]](サッカークラブの運営) * [[信州ブレイブウォリアーズ|NAGANO SPIRITS]](プロバスケットボールクラブの運営) }}{{clear|left}} == マスメディア == [[長野エフエム放送|FM長野]]は[[松本市]]に本社を置くが、それ以外の局は長野市に本社、本部を置く。 [[ファイル:The Shinano Mainichi Shimbun Nagano Honsha.jpg|サムネイル|信濃毎日新聞社本社ビル]] === 新聞・通信社 === ;地方紙 * [[信濃毎日新聞]] 本社:長野市[[南長野#南県町|南県町]](長野県の地方紙、県内購読率約6割) * 長野市民新聞 本社:長野市[[南長池]] * [[新建新聞社|新建新聞]] 本社:長野市[[南県町]] ;全国紙・ブロック紙 * [[朝日新聞]] 支局:長野市[[栗田 (長野市)|栗田]] * [[毎日新聞]] 支局:長野市[[南長野#妻科|妻科]] * [[読売新聞]] 支局:長野市[[鶴賀 (長野市)#上千歳町|上千歳町]] * [[日本経済新聞]] 支局:長野市[[南長野#県町|県町]] * [[産経新聞]] 支局:長野市[[南長野#北石堂町|北石堂町]] * [[共同通信社]] 支局:長野市[[南長野#南県町|南県町]](信濃毎日新聞本社内) * [[時事通信社]] 支局:長野市南県町(信濃毎日新聞本社内) * [[中日新聞]] 支局:長野市[[中御所#岡田町|岡田町]] * [[日刊工業新聞|日刊工業新聞社]]長野支局 *[[日本農業新聞]]信越支局 [[ファイル:NHK Nagano.jpg|サムネイル|NHK長野放送局]] === 放送 === ;テレビ * [[NHK長野放送局]] 本部:長野市[[稲葉 (長野市)|稲葉]] ** [[NHK総合テレビジョン|NHK総合長野放送局 (1ch)]] ** [[NHK教育テレビジョン|NHK教育長野放送局 (2ch)]] * [[信越放送|SBC信越放送]] 本社:長野市[[鶴賀 (長野市)#問御所町|問御所町]](6ch) * [[長野放送|NBS長野放送]] 本社:長野市[[中御所#岡田町|岡田町]] (8ch) * [[テレビ信州|TSBテレビ信州]] 本社:長野市[[若里]] (4ch) * [[長野朝日放送|abn長野朝日放送]] 本社:長野市[[栗田 (長野市)|栗田]] (5ch) : ※ テレビは[[リモコンキーID]]のチャンネルで掲載。長野市では全般的にはテレビ・FMラジオは善光寺平中継局の電波を受信する。 ;ケーブルテレビ * [[インフォメーション・ネットワーク・コミュニティ|INC長野ケーブルテレビ]] 本社:長野市[[南長野#南県町|南県町]] : 長野市(一部地域を除く)をサービスエリアとするケーブルテレビ局。インターネット接続サービスや、テレビ局は長野県の地上波放送局 (NHK, SBC, NBS, TSB, abn) に加え、[[テレビ東京]](キー局)を再送信。ラジオ局は長野県のFM局(NHK-FM、FM長野、FMぜんこうじ)に加え、関東地方の[[エフエム東京|TOKYO FM]](キー局)と[[J-WAVE]](キー局)を再送信。 ;ラジオ * [[NHKラジオ第1]](長野819&nbsp;kHz) * [[NHKラジオ第2]](長野1467&nbsp;kHz) * [[NHK-FM放送|NHKFM放送]](美ヶ原84.0&nbsp;MHz, 善光寺平85.7&nbsp;MHz) * 信越放送(長野1098&nbsp;kHz) * [[長野エフエム放送]] 支社:長野市[[鶴賀 (長野市)#南千歳町|南千歳]](美ヶ原79.7&nbsp;MHz, 善光寺平83.3&nbsp;MHz) * [[ながのコミュニティ放送|FMぜんこうじ]] 本社:長野市[[南長野#新田町|新田町]](長野76.5&nbsp;MHz) : FMぜんこうじは長野市を中心に北信地方を放送範囲とするコミュニティFM放送局。 : ※その他、場所により関東地方のAM局を終日聴取可能。東海・関西地方のAM局は深夜に限り聴取可能。 == 観光・文化 == === エリア別解説 === ==== 善光寺・表参道エリア ==== * [[善光寺]]は今から1400年前に創建されたとされる。本堂は国宝、山門は重要文化財となっており、その他にも境内では様々な建築・仏像・塚などを見ることができる。善光寺一山には、大勧進を本坊とする天台宗25院と、大本願を本坊とする浄土宗14坊があり、宿坊として参詣客を迎え、信仰を支えている。また、[[信州善光寺仲見世通り|仲見世通り]]には、50以上の店が軒を連ね、景観も素晴らしい。その門前町にも注目である。 [[ファイル:Former Matsushiro Literary and Military School.jpg|サムネイル|松代・文武学校]] ==== 松代エリア ==== * 松代藩の繁栄により、今なお多くの武家屋敷や古寺が残り、往時の面影を忍ばせている。[[松代城]]、映画やドラマのロケにもよく使われる[[文武学校]]、旧横田家住宅、など松代藩を象徴する重要な建物や史跡がある。また、真田邸、真田家の菩提寺である[[長国寺 (長野市)|長国寺]]、重要文化財の[[真田信之]]霊屋、など藩主にまつわるもの、さらに[[佐久間象山]]を祀る[[象山神社]]、第二次大戦末期に大本営を移すため掘られた[[象山地下壕]]など、いわれのある神社仏閣や歴史的遺跡が数多くある。 ==== 川中島エリア ==== * 武田信玄と上杉謙信の[[川中島の戦い]]の地で、[[川中島古戦場史跡公園]]がある。御厨戸部伊勢社の「おたや(御旅屋)祭り」が有名。 ==== 篠ノ井エリア ==== * [[長野市茶臼山動物園]]、[[長野市茶臼山恐竜公園|茶臼山恐竜公園]]、茶臼山自然植物園があり、恐竜公園は実物大の恐竜が25体あって、これは日本一の規模である。また、書家・[[川村驥山]]が晩年を過ごした地でもあり、[[驥山館]]がある。さらに、長野オリンピックの開閉会式場になった[[南長野運動公園]]もあり、その敷地には[[長野オリンピックスタジアム]]、[[南長野運動公園総合球技場]]、などがあって、スポーツの聖地となっている。 [[ファイル:飯縄山を望む - panoramio.jpg|サムネイル|飯縄山]] ==== 飯綱エリア ==== * [[飯綱高原]]は、古くから[[飯縄権現]]・[[修験道]]で知られた霊山である飯縄山の麓に広がる高原である。[[いいづなリゾートスキー場]]や[[大座法師池]]、飯綱高原キャンプ場など、レジャー施設が点在するリゾート地。また、飯綱火まつりは長野市の夏の花火を代表するイベントである。 ==== 戸隠エリア ==== * 太古の神話に彩られた[[山岳信仰]]のメッカ。霊山[[戸隠山]]の麓にあり、奥社・中社・宝光社・九頭竜社・火之御子社の5社からなる[[戸隠神社]]は、その中心的存在である。中でも奥社への参道は、2キロにも及ぶ樹齢約400年の杉並木が続いており、圧巻の景色である。また、中社・宝光社には伝統的な宿坊が立ち並び、国の[[重要伝統的建造物群保存地区]]に選ばれている。このほか、鏡池や戸隠牧場、戸隠キャンプ場などで自然と触れ合うこともできる。 [[ファイル:Okususobana Dam lake 2006-10.jpg|サムネイル|奥裾花ダムの景色]] ==== 鬼無里エリア ==== * 豊かで美しい自然を多く抱える、伝統と文化の里。[[奥裾花自然園]]では、広大な[[ブナ]]の原生林の中で、7ヘクタールもの湿原地帯があり、81万本もの[[ミズバショウ]]が群生している。秋には一帯が[[紅葉狩り]]の名所となる。ほかに[[白髯神社 (長野市)|白髯神社]]、鬼女[[紅葉伝説]]の松厳寺、鬼無里神社などがある。春と秋には鬼女紅葉祭りが開かれ、普段は鬼無里ふるさと資料館に展示されている屋台が町を練り歩く。 [[ファイル:Kumejikyo 2014-05.jpg|サムネイル|久米路峡の景色]] ==== 信州新町エリア ==== * [[水内ダム|琅鶴湖]]と[[ジンギスカン (料理)|ジンギスカン]]で有名。琅鶴湖は屋形船遊覧も楽しめ、秋には景勝地「[[久米路峡]]」で船上から見事な紅葉を楽しむことができる。昭和20年代からジンギスカンは信州新町の名物料理として知られており、国道19号線は料理店が多いことから「ジンギスカン街道」と呼ばれる。その他にも、[[信州新町美術館]]、[[有島生馬記念館]]、信州新町化石博物館、ろうかく梅園のほか、その上部の武富佐神社は知る人ぞ知る親孝行のパワースポットであるなど、様々な見どころがある。 === 国指定等文化財 === {{Col|'''建築物''' * [[善光寺]]本堂 -'''国宝'''<ref>[http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page0971.html 善光寺本堂附厨子1基]</ref> * 善光寺山門(三門) * 善光寺経蔵 * [[葛山落合神社]]本殿 * [[真田信之]]霊屋 * [[真田信重]]霊屋 * 旧横田家住宅 * [[白髯神社 (長野市)|白髯神社]]本殿 '''史跡''' * [[大室古墳群]](松代町大室) * 旧[[文武学校]](松代町松代) * [[松代城]]跡附新御殿跡 * 松代藩真田家墓所 * [[川柳将軍塚古墳]]・姫塚古墳 * [[埴科古墳群]]土口将軍塚古墳 | '''仏像''' * 金銅[[阿弥陀如来]]及び両脇侍立像(善光寺) * 銅造釈迦[[涅槃仏|涅槃]]像(世尊院・釈迦堂) * 木造阿弥陀如来像(蓮台寺) * 木造[[聖観音]]立像([[七二会]]己瀬脇) * 木造伝子安荒神坐像(三宝寺) * 木造聖観音立像(若穂保科・[[清水寺 (長野市若穂保科)|清水寺]]) * 木造[[千手観音]]及脇侍[[地蔵菩薩]]像(清水寺) * 木造阿弥陀如来立像(清水寺) * 木造[[薬師如来]]坐像(清水寺) * 木造[[広目天]]立像・[[多聞天]]立像(清水寺) * 銅造[[観音菩薩]]立像([[山千寺]]観音堂) * 木造[[十一面観音]]立像([[信更町]]下平・観音寺) * 木造観音菩薩立像(松代・[[清水寺 (長野市松代町西条)|清水寺]]) * 木造地蔵菩薩立像(松代・清水寺) | '''工芸品・書跡など''' * 紙本墨書[[法華経]]残闕(戸隠神社) * 牙笏(戸隠神社) * 鉄鍬形(若穂保科・清水寺) * 青江の大太刀([[真田宝物館]]) * 善光寺造営図(善光寺大勧進) * 紙本墨書[[源氏物語]]事書(善光寺大勧進) '''絵画''' * 絹本著色了界[[曼荼羅]]図(若穂保科・清水寺) * 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図(善光寺大本願)}}{{Col| '''[[無形民俗文化財]]''' * 高岡の小豆焼き行事(若穂保科) '''[[天然記念物]]''' * [[素桜神社]]の神代ザクラ | '''[[登録記念物]]''' * 旧[[山寺常山]]氏庭園 * 大木氏庭園 * [[象山神社]]園池 * 野中氏庭園 | '''[[重要伝統的建造物群保存地区]]''' * 戸隠伝統的建造物群保存地区 }}<gallery> ファイル:Zenkoji temple 2.jpg|善光寺山門 ファイル:Zenkoji temple 5.jpg|善光寺経蔵 ファイル:Sanada Nobuyuki Byosho.jpg|真田信之霊屋 ファイル:大室古墳群244号墳.JPG|大室古墳群 ファイル:Suzakura-jinja Jindaizakura.jpg|素桜神社の神代ザクラ </gallery> === その他の名所・旧跡 === ==== 寺院・神社 ==== {{Columns-list|4| * [[西光寺 (長野市)|かるかや山西光寺]] * [[寛慶寺]] * [[長谷寺 (長野市)|長谷寺]] * [[清水寺 (長野市松代町西条)|清水寺(長野市松代町西条)]] * [[清水寺 (長野市若穂保科)|清水寺(長野市若穂保科)]] * [[戸隠神社]] * [[南方神社]] * [[飯綱権現|飯綱神社]] * [[美和神社]] * [[武冨佐神社]] * [[弥栄神社 (長野市)|弥栄神社]] * [[加茂神社 (長野市西長野)|加茂神社(長野市西長野)]] * [[湯福神社]] * [[武井神社]] * [[健御名方富命彦神別神社 (長野市箱清水)|健御名方富命彦神別神社]] * [[妻科神社]] * [[駒形嶽駒弓神社]] * [[日吉神社]]([[栗田城]]跡) * 瑠璃光寺 * 水内坐一元神社 * 中俣神社 * [[北郷朝川原神社]] * 諏訪神社(長野市浅川西条) * 伺去真光寺 * 山千寺 * [[正覚院 (長野市)|正覚院]] * [[無常院 (長野市)|無常院]] * [[犀川神社太々神楽|犀川神社]] * [[素桜神社]] * 蓮台寺 * 切勝寺 * 忠恩寺 * [[白髯神社 (長野市)|白髯神社]] * [[正法寺 (長野市)|正法寺(長野市)]] * [[象山神社]] * [[会津比売神社]] * [[恵明寺]] * [[布施神社]] * [[長谷寺]]}} <gallery> ファイル:Karukayayama.JPG|かるかや山西光寺 ファイル:戸隠神社中社 - panoramio.jpg|戸隠神社中社 ファイル:飯縄神社 (Iizuna Zinja).jpg|飯綱神社 ファイル:Zouzan-jinjya 3.jpg|象山神社 ファイル:Kinasa sirahigejinjas.jpg|白髯神社 </gallery> ==== 城跡・古戦場 ==== {{Columns-list|3| * [[旭山城]]跡 * [[葛山城 (信濃国)|葛山城]]跡 * [[大峰城]]跡 * [[横山城 (信濃国)|横山城]]跡 * 二柳城跡 * 夏目城跡 * [[横田城 (信濃国)|横田城]]跡 * [[長沼城 (信濃国)|長沼城]]跡 * 小森城跡 * 杵淵城跡 * [[尼巌城]]跡 * 金井山城跡 * 寺尾城跡 * [[春山城]]跡 * [[清滝城]]跡 * [[牧之島城]]跡 * [[柏鉢城]]跡 * [[荻野城]]跡 * [[大倉城]]跡 * 木曽殿アブキ }} ==== 近代遺産 ==== {{Columns-list|3| * 西条村製糸場跡 * 旧信濃中牛馬合資会社社屋 * 旧三河屋商店(ちょっ蔵おいらい館) * 三原屋商店 * 長野電燈株式会社発電所跡 * 内務省堤防(千曲川堤防) * [[久米路橋]] * 善白鉄道跡 * [[松代大本営跡]] * 長野飛行場跡 * 旧長野県庁舎 * [[長野刑務所]]跡 * 往生地浄水場 * 旧日本赤十字社長野県支部 * 長野聖救主教会 * 旧ダニエル・ノルマン邸 * 旧長野県師範学校教師館 * 旧作新学校本館 * 信州大学教育学部書庫 * 安茂里小学校赤心館 * [[長野県長野高等学校|長野高等学校]]旧南校舎 }} ==== 旧住宅 ==== * 樋口家住宅 * 寺町商屋(旧金箱家住宅) <gallery> ファイル:Kawanakajima Takeda Shingen vs Uesugi Kenshin statue.jpg|川中島古戦場 ファイル:Matsushiro Zozan Underground Imperial Headquarters inside 1.jpg|象山地下壕(松代大本営跡) ファイル:Former Residence of Daniel Norman.jpg|旧ダニエル・ノルマン邸 ファイル:Asahiyamajyo.jpg|旭山城主郭部 ファイル:Former Higuchi Residence.jpg|旧樋口家住宅 </gallery> ==== 温泉 ==== * 国民宿舎 松代荘 * 豊野温泉 りんごの湯 * 温湯温泉 湯~ぱれあ * [[戸隠神告げ温泉]] * [[加賀井温泉]] ==== 認定物 ==== * [[信州三十三観音札所]]:市内10か所の霊場が選ばれている。 * [[日本の音風景100選]]:善光寺の鐘 * [[棚田百選]]:大岡地区の根越沖・原田沖・慶師沖、信州新町地区の塩本、中条地区の栃倉・大西・田沢沖の7か所が認定。 * [[信州のサンセットポイント]]:「[[妻女山]]展望台」「松代町~若穂千曲川右岸堤防」「城山公園」「芦ノ尻道祖神」「鏡池」が認定。 * [[歩きたくなるみち500選]]:[[日本ウオーキング協会|日本ウォーキング協会]]が「牛に引かれて善光寺参り、展望のみち」を認定。 * [[日本100名城]]:[[財団法人]][[日本城郭協会]]が松代城を認定。 * [[甦る水100選]]:[[建設省]]が選定。城山公園堀切沢での事業が評価。 === 名産物・郷土食 === [[ファイル:JapaneseBuddhistCuisineInSpring ShojinRyouri.jpg|サムネイル|精進料理]] ==== 名産品 ==== * 信州牛 * [[長芋]] - 松代地区を代表する特産品。 * 綿内れんこん - 若穂綿内でつくられる。 * 戸隠大根 * おかわさび - 葉や茎を酒粕と合わせてわさび漬けとして食べる。信州新町が産地。 * [[マコモタケ]] - 豊野地区 * 果物 - 長野市は標高が高く、雨量が少ないので果樹の栽培に大変適している。6月のアンズから2月のりんごまで、年間を通して旬の果物を楽しめる。 ** その代表である'''りんご'''は、平成18年市町村別生産量で全国2位だった。<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=256}}</ref>また、2012年から2014年に総務省が日本の県庁所在地と政令指定都市を対象に家計調査を行った結果、りんごの1世帯当たりの年間購入量の平均値は、長野市が日本一であった<ref>井上 繁 『47都道府県・くだもの百科』 本文の<!--注釈と区別するために、念のために「本文の」と断りを入れてあります。-->p.152 丸善出版 2017年5月30日発行 ISBN 978-4-621-30167-8</ref>。 ** '''もも'''は川中島の名前を冠した「川中島白桃」「川中島白鳳」が全国で栽培されて人気を博している。ほかに、「なつっこ」「黄金桃」なども川中島で生まれた。<ref>{{Cite web|和書|title=もも {{!}} 果実 {{!}} 農産物情報 |url=https://www.ja-grn.iijan.or.jp/food/fruit/peach.php |website=JAグリーン長野 |access-date=2023-03-01 |language=ja}}</ref> ** '''[[ネクタリン]]''' - モモの変種である。長野県は2014年現在、ネクタリンの収穫量で日本の74.9パーセントを占めており、長野県内では松本市周辺などと並んで長野市周辺もネクタリンの産地として知られている<ref>井上 繁 『47都道府県・くだもの百科』 注釈のiiページ<!--前書きの注釈であり「ii」とページ数が振られている。勝手に数字にせぬこと-->、本文のp.152、p.153 丸善出版 2017年5月30日発行 ISBN 978-4-621-30167-8</ref>。 ** '''[[プルーン]]''' - 長野県は2014年現在、日本におけるプルーンの収穫量の67.7パーセントを占めており、長野県内では佐久市周辺などと並んで長野市周辺もプルーンの産地として知られている<ref>井上 繁 『47都道府県・くだもの百科』 注釈のiiページ<!--前書きの注釈であり「ii」とページ数が振られている。勝手に数字にせぬこと-->、本文のp.154 丸善出版 2017年5月30日発行 ISBN 978-4-621-30167-8</ref>。 ** [[ファイル:160429 Shinshu soba Nagano Japan01s8.jpg|サムネイル|信州そば]]その他にも、'''ぶどう'''、'''なし'''などが収穫される。 * [[信州そば]] - 日本三大そばのひとつ「'''戸隠そば'''」、善光寺界隈で有名な「'''門前そば'''」、「'''鬼無里そば'''」「'''大岡そば'''」「'''信州新町左右高原のそば'''」など、各地で特色がある。 * [[ファイル:Shichimi togarashi package by titanium22.jpg|サムネイル|八幡屋磯五郎の七味唐辛子]][[七味唐辛子]] - [[八幡屋礒五郎]]の七味唐辛子は日本三大七味の一つとされる。 * 善光寺[[精進料理]] - 39ある宿坊でそれぞれのものを味わえる。 * ジンギスカン - 信州新町。国道19号は「ジンギスカン街道」と呼ばれる。 * 信州みそ - 日本で消費される味噌の4割が信州みそと言われ、市内には老舗の味噌蔵が多くある。<ref>{{Cite book|和書 |title=ながの市完全読本 |year=2018 |publisher=NAGANO検定実行委員会 |page=259}}</ref> * 地酒 - 「よしのや」「[[今井酒造店 (長野県)|今井酒造店]]」「酒千蔵野」「[[尾澤酒造場|尾澤酒造所]]」「西飯田酒造店」「大信州酒造」「東飯田酒造店」など。 * [[松代焼]] - 陶器 * 戸隠竹細工 - 根曲がり竹を使用する。 ==== 郷土食 ==== {{Div col}} * [[おしぼりうどん]] - 大根のしぼり汁で食べる。 * お煮かけ * うすやき・せんべい * 丸なすの[[おやき]] * 丸なすのしん焼き * はたきなす * おぶっこ * [[やしょうま]] * こりんと * 大豆のてんぷら * おとうじ * [[えご]] * つるしがき - [[干し柿]] * つけば {{Div col end}} [[ファイル:Binzuru preparation and Niomon at Zenkoji.jpg|サムネイル|長野びんずるの善光寺]] === 祭事・催事 === * [[弥栄神社 (長野市)|弥栄神社]]の御祭礼(ながの祇園祭御祭礼屋台巡行) * [[長野びんずる祭り]] * 松代藩真田十万石まつり * [[長野灯明まつり]] * 善光寺花回廊 * ろうかく梅園花祭り * [[長野オリンピック記念長野マラソン|長野マラソン]] * 仏都花祭り * おたや(御旅屋)祭り * 飯綱火祭り * 善光寺お盆縁日 * 信州新町納涼大会 * 川中島古戦場まつり * [[長野えびす講煙火大会]] [[ファイル:内裏屋敷鬼女紅葉供養塔.jpg|サムネイル|旧鬼無里村根上地区にある内裏屋敷跡地鬼女紅葉供養塔]] === 伝説 === * 善光寺 ** 善光寺だけでも多数の伝説がある。[[善光寺|善光寺#伝説]]参照。 * [[天岩戸]]伝説 ** 神々の時代、[[天照大神]]が怒り、天岩戸の中に隠れてしまった。困った神々は天照大神の隠れた岩戸の前でにぎやかに歌い、踊った。その様子を聞いた天照大神が岩戸を少し開けたとき、[[手力雄命]]がその岩戸を引き開けて飛ばしてしまった。その岩戸の落ちた場所が、今の戸隠だという。 * [[ダイダラボッチ]]伝説 ** ダイダラボッチが飯縄山に座り、一歩踏み出したときに湿地帯に足がはまってしまった。そうしてできたのが[[大座法師池]]だという。 * 鬼女[[紅葉伝説]] ** 平安時代、紅葉という女性が京の都から水無瀬(今の鬼無里)に追放されてきた。紅葉は妖術で村を荒らすようになり、鬼女と呼ばれるようになった。朝廷は[[平維茂]]に鬼女退治を命じる。維茂は征伐に向かうが、最初は太刀打ちできず失敗してしまう。そこで維茂は上田の別所にある[[北向観音]]に祈願した。すると紅葉の妖術は聞かなくなり、退治に成功。水無瀬は「鬼無里」と呼ばれるようになったという。 * 一夜山の鬼伝説 ** [[天武天皇]]が遷都を計画し、その候補地に水無瀬(今の鬼無里)がよいのではないかという案が出た。それを知った水無瀬の鬼たちは、都ができぬように里の真ん中に山を造ってしまった。そのために遷都ができなくなり、天武天皇は[[阿倍比羅夫]]に命じて鬼たちを退治してしまった。このときから水無瀬は鬼無里と呼ばれるようになったという。また、鬼たちがつくった山を一夜山と呼ぶようになったともいう。 == スポーツチーム == ;野球 * [[信濃グランセローズ]]:株式会社長野県民球団が市内に本社置いている。[[日本プロ野球]][[独立リーグ]]の[[ベースボール・チャレンジ・リーグ|BCリーグ]]に所属する。 * [[信越硬式野球クラブ]](旧:NTT信越硬式野球部):当市に本拠地を置く[[日本野球連盟|JABA]][[社会人野球]]の[[クラブチーム (社会人野球)|クラブチーム]]。 ;サッカー * [[AC長野パルセイロ]]:当市に本拠地を置くサッカークラブ。 * [[AC長野パルセイロ・レディース]]:長野市に本拠を置く女子サッカークラブ。 ;フットサル * [[ボアルース長野]]:長野市に本拠を置くフットサルクラブ。 ;バスケットボール * [[信州ブレイブウォリアーズ]]:長野市、千曲市などに拠点を置くバスケットボールクラブ。 == 出身・関連著名人 == === 近代以前の人物 === {{Div col}} * [[青木儀作]] - 煙火師 * [[青木雪卿]] - 武士・絵師 * [[石坂周造]] - 石油事業者 * [[井上操]] - 法律家 * [[今井武夫]] - 陸軍軍人 * [[岩下清周]] - 実業家 * [[岩下貞融]] - 国学者・歴史家 * [[大里忠一郎]] - 製糸家 * [[大平喜間多]] - 郷土史家 * [[恩田民親]] - 松代藩家老 * [[川上冬崖]] - 洋画家 * [[川村驥山|川村麒山]] - 書家 * [[北村四海]] - 彫刻家 * [[草川信]] - 作曲家 * [[倉田葛三]] - 俳人 * [[栗林忠道]] - 陸軍軍人 * [[河野通勢]] - 洋画家 * [[小坂善之助]] - 政治家、実業家 * [[小林暢]] - 実業家、政治家 * [[小松謙次郎]] - 政治家 * [[佐久間象山]] - 武士・儒学者・兵学者 * [[真田信之]] - [[松代藩]]初代藩主 * [[鈴木梅四郎]] - 実業家、政治家 * [[慈延]] - 僧・歌人 * [[関山仙太夫]] - 囲碁棋士 * [[田中穂積]] - 経済学者 * [[冢田大峯]] - 儒学者 * [[津村信夫]] - 詩人 * [[寺島宗伴]] - [[和算家]] * [[等順]] - 僧・[[善光寺]]別当大勧進第80世 * [[常田壬太郎]] - [[船大工]] * [[富岡永洗]] - 日本画家 * [[戸谷敏之]] - 経済学者、歴史学者 * [[羽志主水]] - 小説家 * [[藤原銀次郎]] - 実業家 * [[藤原善九郎]] - 煙火師 * [[堀内文次郎]] - 軍人、スキー発展に尽力 * [[三沢勝衛]] - 教育者・地理学者 * [[峯村白斎]] - 俳人 * [[宮入慶之助]] - 寄生虫・衛生学者 * [[松井須磨子]] - 女優 * [[松本総吾]] - 牧師 * [[丸山幹治]] - ジャーナリスト * [[茂呂何丸]] - 俳人・俳学者 * [[槍ヶ嶽峯五郎]] - [[力士]] * [[横田秀雄]] - [[大審院長]]、[[明治大学]]総長 * [[鷲ヶ濱音右エ門]] - 力士 * [[和田英]] - 工女 * [[渡辺驥]] - 大審院検事長 {{Div col end}} === 政財界 === {{Div col}} * [[青木一男]] - [[財務省 (日本)|財務]][[官僚]]、[[参議院]][[日本の国会議員|議員]] * [[今井勇]] - [[厚生大臣]] * [[内堀雅雄]] - [[福島県知事一覧|福島県知事]] * [[金井政明]] - 実業家、[[良品計画]]社長 * [[北澤俊美]] - [[防衛大臣]] * [[小坂憲次]] - [[文部科学大臣]] * [[小坂善太郎]] - [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] * [[小坂順造]] - 実業家、政治家 * [[小坂徳三郎]] - [[運輸大臣]] * [[小山峰男]] - 参議院議員 * [[田中秀征]] - [[経済企画庁長官]]、[[政治学者]] * [[林利勇]] - 実業家、[[ヒューテックノオリン]]創業者 * [[樋口高顕]] - [[千代田区]]長 * [[平木大作]] - [[復興副大臣]] * [[曲渕文昭]] - 実業家、[[アルピコホールディングス]]社長 * [[丸田芳郎]] - 実業家、[[花王]]社長、会長 * [[宮沢隆仁]] - [[衆議院]]議員 * [[義家弘介]] - [[法務副大臣]]、[[文部科学副大臣]] * [[若林正俊]] - [[農林水産大臣]]、[[環境大臣]] * [[鷲澤正一]] - 長野市長 * [[和田恭良]] - 長野県副知事、長野県社会福祉事業団理事長 {{Div col end}} === 法曹界 === * [[才口千晴]] - [[最高裁判所裁判官]] === 官界 === * [[池田憲治]] - [[自治省|自治]]・[[総務省|総務]][[官僚]]。[[宮内庁]]次長 === 学界・教育界 === ==== 社会科学・人文科学 ==== {{Div col}} * [[小林計一郎]] - [[歴史家]]・郷土史家 * [[田中穂積 (法学博士)|田中穂積]] - [[法学]] * [[中村彰憲]] - [[経営学]] * [[花岡信昭]] - 政治評論家 * [[宝月圭吾]] - [[歴史学]] * [[丸山幹治]] - 政治評論家 * [[宮沢俊義]] - [[憲法学]]、[[日本野球機構]][[コミッショナー]] * [[山岸敬子]] - [[行政法]] * [[山田欣吾]] - 歴史学 * [[若林正丈]] - [[政治学]] {{Div col end}} ==== 自然科学 ==== {{Div col}} * [[秋元波留夫]] - [[精神医学]] * [[今井勇之進]] - [[金属工学]] * [[岡田弘]] - [[地球科学]] * [[北村晃寿]] - 地球科学 * [[田中豊 (技術者)|田中豊]] - 土木技師 * [[長岡亮介 (数学者)|長岡亮介]] - [[数学]] * [[西沢一俊]] - [[化学]] * [[宝月欣二]] - [[植物学]] * [[八木健三]] - [[岩石学]] * [[若槻哲雄]] -[[物理学者]] {{Div col end}} === 文学 === {{Div col}} * [[猪瀬直樹]] - 作家、政治家 * [[小林照幸]] - 作家 * [[日垣隆]] - 作家 * [[マブソン青眼]] - 俳人 * [[山田真美]] - 作家 * [[山口泉]] - 小説家 * [[三神万里子]] - ジャーナリスト {{Div col end}} === 芸術 === {{Div col}} * [[池田満寿夫]] - [[版画家]] * [[上野誠 (版画家)]] * [[藤井令太郎]] - 洋画家 * [[篠原新三]] - 水彩画家 * [[岨手由貴子]] - 映画監督 * [[千野共美]] - 華道 * [[永島四郎]] - 華道 * [[堀内真直]] - [[映画監督]] * [[瑞穂春海]] - 映画監督 * [[横井弘三]] - 洋画家{{Div col end}} === サブカルチャー === {{Div col}} * [[内田保憲]] - 映像作家 * [[カラサワイサオ]] - アクション監督 * [[川嶋龍太郎]] - テレビプロデューサー * [[小林英造]] - 脚本家 * [[小林雄次]] - 脚本家 * [[下條よしあき]] - 漫画家 * [[須田剛一]] - ゲームデザイナー * [[塚田庄英]] - アニメーター * [[中山史郎]] - テレビディレクター、演出家 * [[野村達雄]] - ゲームクリエイター * [[兵頭二十八]] - 軍事ライター * [[真島ヒロ]] - 漫画家 * [[宮尾佳和]] - メカニックデザイナー、アニメ監督 {{Div col end}} === 芸能 === {{Div col}} * [[天城れいん]] - [[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]男役 * [[市川春代]] - 女優 * [[伊藤かな恵]] - 声優 * [[岩崎紘子]] - 作家、タレント * [[大久保ノブオ]] - [[ポカスカジャン]] * [[岡村文子]] - 女優 * [[小林尊]] - フードファイター * [[清瀬やえこ]] - 女優 * [[倉石功]] - 俳優 * [[島田秀平]] - 手相占い師 * [[清水まなぶ]] - 歌手・俳優 * [[徳川ミキ]] - 俳優 * [[ともさかりえ]] - 女優 * [[新田恵海]] - 声優 * [[秦瑞穂]] - 女優 * [[樋口日奈]] - [[乃木坂46]]メンバー * [[星セント]] - 漫才師 * [[本多知恵子]] - 声優 * [[松井由貴美]] - [[ファッションモデル]] * [[水谷大輔]] - 俳優 * [[宮下ジェイミー静]] - タレント * [[もう中学生]] - お笑い芸人 * [[YOFFY]] - [[サイキックラバー]]{{Div col end}} === 報道機関 === {{Div col}} * [[五十嵐竜馬]] - [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]アナウンサー * [[伊東秀一]] - 元[[テレビ信州]]アナウンサー * [[太田恒太郎]] - 元[[信越放送]]アナウンサー * [[倉田大誠]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー * [[久保正彰 (アナウンサー)|久保正彰]] - 信越放送アナウンサー * [[久保田浩史]] - [[高知放送]]アナウンサー * [[小松美帆]] - 元信越放送アナウンサー * [[斎藤陽子]] - タレント、[[長野朝日放送]]元アナウンサー * [[坂橋克明]] - 元信越放送アナウンサー 、フリーパーソナリティ * [[田村泰崇]] - [[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * [[冨坂和男]] - NHKアナウンサー * [[中澤輝]] - NHKアナウンサー * [[丸山幹治]] - 信越放送アナウンサー * [[三島さやか]] - 信越放送アナウンサー * [[山田康弘]] - NHKアナウンサー {{Div col end}} === 音楽 === {{Div col}} * [[青山陽一]] - シンガー・ソングライター * [[阿木燿子]] - 作詞家 * [[海沼實]] - 作曲家 * [[杵淵直都]] - ピアノ調律師 * [[小山清茂]] - 作曲家 * [[coba]] - アコーディオニスト * [[坂口淳]] - 作詞家 * [[真田志ん]] - 八橋流・[[箏曲]]伝承者 * [[SUKISHA]] - シンガー・トラックメイカー * [[傳田真央]] - 歌手 * [[羽賀朱音]] - 「[[モーニング娘。]]」のメンバー * [[為永幸音]] - 「[[アンジュルム]]」([[ハロー!プロジェクト]])のメンバー * [[ヒグチアイ]] - シンガーソングライター * [[松坂勇介]] - ギタリスト * maya([[LM.C]]) - ロックシンガー・ギタリスト * [[水谷大輔]] - 歌手 * [[宮川真衣]] - シンガー・ソングライター * [[宮下富実夫]] - ヒーリングミュージック・ミュージックセラピー * ユウト([[PENTAGON (音楽グループ)|PENTAGON]]) - K-POPグループ「PENTAGON」の日本人メンバー * [[YOU THE ROCK☆]] - ラッパー * [[山上武夫]] - 作詞家 * [[山本貴志]] - ピアニスト * [[綿内克幸]] - シンガー・ソングライター {{Div col end}} === スポーツ === {{Div col}} * [[青木辰子]] - [[パラリンピック]]メダリスト(アルペンスキー選手) * [[青野和人]] - バスケットボール選手 * [[新井光 (サッカー選手)|新井光]] - サッカー選手 * [[宇都宮正]] - 元バスケットボール選手 * [[岡田伊津美]] - ゴルファー * [[小口貴久]] - [[リュージュ]]選手 * [[笠原歩]] - 元ラグビー選手 * [[金子千尋]] - 野球選手 * [[蒲原唯]] - 女子プロレスラー * {{仮リンク|川船暁海|en|Akimi Kawafune}} - サッカー選手 * [[木村庄之助 (21代)|二十一代目木村庄之助]] - [[行司|相撲行司]] * [[小関桃]] - ボクサー * [[小西陽向]] - サッカー選手 * [[小林聡]] - キックボクサー * [[佐藤亮太 (野球)|佐藤亮太]] - 元野球選手 * [[田中聡 (サッカー選手)]] * [[戸井田カツヤ]] - [[総合格闘家]] * [[直江大輔]] - 野球選手 * {{仮リンク|中村恵実|en|Megumi Nakamura}} - サッカー選手 * [[白田博子]] - バレーボール選手 * [[箱山愛香]] - 元[[アーティスティックスイミング]]選手 * [[平野星矢]] - 自転車競技選手 * [[町田行彦]] - 野球選手 * [[松橋周平]] - プロラグビー選手 * [[松橋慶季]] - 野球選手 * [[松本慶彦]] - バレーボール選手 * [[峯村沙紀]] - バレーボール選手 * [[宮崎剛 (1918年生の内野手)|宮崎剛]] - 野球選手 * [[宮澤太成]] - 野球選手 * [[宮澤崇史]] - 自転車競技選手 * [[山岡聡子]] - スノーボーダー * [[横山航太]] - 自転車競技選手 * [[論田愛空隆]] - 総合格闘家 * [[伊藤崇之]] - アイスホッケー選手 * [[伊藤俊之]] - アイスホッケー選手 {{Div col end}} === 囲碁・将棋 === * [[田中悠一]] - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]] * [[丸田祐三]] - 将棋棋士 == 長野市を舞台・ロケ地にした作品 == * [[生存 LifE|生存~LifE~]](漫画・ドラマ)画・[[かわぐちかいじ]]、原作・[[福本伸行]] * [[信濃のコロンボ]]シリーズ(小説・ドラマ)著・[[内田康夫]] * [[五分後の世界]]1&2(小説)著・[[村上龍]] * [[けいさつのおにーさん]](漫画)[[からけみ]] - 権堂町交番が舞台。 * [[仮面ライダークウガ]](2000 - 2001:テレビ 特撮)- 劇中序盤の舞台およびロケ === アニメ === * [[世紀末オカルト学院]](2010:テレビ)- 主な舞台は松代地区 * [[空の境界 (2013年の映画)|空の境界]](2013:映画) - アクアウィング 檀田通り<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=ロケ実績|ながのフィルムコミッション |url=https://www.nagano-fc.org/archive/index.php?cate=0 |website=www.nagano-fc.org |access-date=2023-03-07}}</ref> * [[長門有希ちゃんの消失]](2015:テレビ)- 主な舞台は[[兵庫県]][[西宮市]]だが、作中の旅行先で[[善光寺]]とその周辺が登場する。 * [[ツルネ -風舞高校弓道部-]](1期 2018、2期 2023:テレビ) - [[長野高校]]と[[長野西高校]]がモデル。 === 映画 === * [[野菊の如き君なりき|野菊の如く君なりき]](1955) - 千曲川関崎橋周辺 若里姫塚<ref name=":4" /> * [[喜びも悲しみも幾歳月|喜びも悲しみも幾年月]](1957) - 西尾張部 八幡神社<ref name=":4" /> * [[風花 (1959年の映画)|風花(1959年の映画)]] - 千曲川(関崎橋周辺) 若穂 村山(小坂家)<ref name=":4" /> * [[笛吹川 (映画)|笛吹川]](1960) - 千曲川関崎橋周辺<ref name=":4" /> * [[黒の死球]](1963) - 長野駅東口(旧レンガ倉庫) 二線路通り など<ref name=":4" /> * [[トラック野郎・熱風5000キロ]](1979) - 善光寺、真田邸、飯綱高原、川中島古戦場、旧長野駅前、旧長野中央青果市場他<ref name=":4" /> * [[羊のうた]](2002) - NTT東日本長野病院 植木商店<ref name=":4" /> * [[蝉しぐれ]](2005) - 文武学校<ref name=":4" /> * [[転校生 (映画)|転校生-さよなら あなた-]](2007) - 善光寺周辺一帯 松代 戸隠<ref name=":4" /> * [[ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ]](2008) - アクアウィング<ref name=":4" /> * [[ラストゲーム 最後の早慶戦]](2008) - 文武学校 旧長野県庁舎(自治研修所)<ref name=":4" /> * [[凍える鏡]](2008) - 豊野ひがし保育園 長野市豊野支所 他<ref name=":4" /> * [[山桜 (藤沢周平の小説)|山桜]](2008) - 文武学校 松代城跡、真田邸(真田公園)<ref name=":4" /> * [[クラシコ (映画)|クラシコ]](2010) - [[AC長野パルセイロ]]のドキュメンタリー。 * [[花のあと]](2010) - 文武学校、松代城跡<ref name=":4" /> * [[学校をつくろう]](2011) - [[文武学校]] 横田家住宅<ref name=":4" /> * [[君へ。]](2011) - 鬼無里<ref name=":4" /> * [[清須会議 (小説)|清須会議]](2013) - 松代城跡<ref name=":4" /> * [[蜩ノ記]](2014) - 文武学校<ref name=":4" /> * [[るろうに剣心 京都大火編|るろうに剣心 伝説の最期編]](2014) - 旧長野県庁舎(自治研修所)<ref name=":4" /> * [[アイスマン (2014年の映画)|アイスマン(2014年の映画)]] - 戸隠スキー場<ref name=":4" /> * [[海月姫]](2014) - 旧長野県庁舎(自治研修所)内 備品<ref name=":4" /> * [[64(ロクヨン)|64-ロクヨン-]] (2016) * [[殿、利息でござる!|殿、利息でござる!]](2016) - 松代(真田邸、文武学校、松代城跡、加賀井温泉)<ref name=":4" /> * [[ホテルコパン]](2016) - 長野駅前 今井ニュータウン他<ref name=":4" /> * [[紅い襷〜富岡製糸場物語〜]](2017) - 旧横田家住宅。<ref name=":4" />[[和田英]]を描いている。 * [[仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判]](2017) - 旧長野県庁舎、大座法師池、鏡池、大望峠、長野県道506号戸隠高原浅川線<ref name=":4" /> * [[散り椿]](2018) - 文武学校 真田勘解由家<ref name=":4" /> * [[ニセコイ]](2018) - 戸隠神社奥社参道 戸隠牧場<ref name=":4" /> * [[楽園 (2019年の映画)|楽園(2019年の映画)]] - 長野市戸隠上祖山平出集落、長野市豊野町蟹沢 大蔵そば(ヤングイレブン)<ref name=":4" /> * [[兄消える]](2019) - JR長野駅善光寺口駅前広場<ref name=":4" /> * [[サヨナラまでの30分]](2020) - 善光寺仲見世通り(高田屋銘産店、滝屋本店)、大門町(玉屋長野大門)、妻科神社、松代の個人住宅(主人公:颯太の部屋)<ref name=":4" /> * [[るろうに剣心 最終章 The Final]](2021) - 旧長野県庁舎<ref name=":4" /> * [[流浪の月]](2022) - 主な舞台は松本市だが、長野市役所周辺も使用されている。 * [[峠 最後のサムライ]](2022) - 旧文武学校<ref>{{Cite web|和書|title=信州ロケ、舞台裏語る 映画「峠 最後のサムライ」監督、長野で舞台あいさつ|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト |url=https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022062600048 |website=信濃毎日新聞デジタル |access-date=2023-03-07 |language=ja}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite|和書|author = |title = 図典 日本の市町村章 |date = 2007 |publisher = 小学館 |isbn = 978-4-09-526311-3 |ref = 図典 日本の市町村章 }} * 『NAGANO検定公式テキストブック改訂版 ながの市完全読本』NAGANO検定実行委員会、2018年。 == 外部リンク == {{Commons&cat|長野市|Nagano, Nagano}} {{Multimedia|長野市の画像}} === 行政 === * {{Official website|name=長野市ホームページ}} * {{Twitter|nagano_city}} * {{Instagram|naganocity_official}} * {{YouTube|channel=UC5WVBhAtSLEHNZaOM8sGtSw}} === ライブカメラ === * [https://www.nagano-city.com/ 長野市のライブカメラ] === その他 === * {{Osmrelation|3648962}} *[https://nagano-cvb.or.jp/ ながの観光ネット] - ながの観光コンベンションビューロー * {{ウィキトラベル インライン|長野市|長野市}} * {{wikivoyage-inline|ja:長野市|長野市{{ja icon}}}} * {{wikivoyage-inline|en:Nagano|長野市{{en icon}}}} {{Geographic Location |Centre=長野市 |North=[[新潟県]][[妙高市]] [[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]] |Northeast=[[飯綱町]] [[中野市]]<br />[[小布施町]] |Northwest=[[小谷村]]<br />[[白馬村]] |West=[[小川村]]<br />[[大町市]] |East=[[高山村 (長野県)|高山村]]<br />[[須坂市]] |Southeast = [[上田市]] |South=[[千曲市]]<br />[[麻績村]] [[坂城町]] |Southwest=[[池田町 (長野県)|池田町]] [[生坂村]] }} {{長野県の自治体}} {{長野市の地域}} {{日本の都道府県庁所在地}} {{日本の中核市}} {{日本100大都市}} {{冬季オリンピック開催都市}} {{冬季パラリンピック開催都市}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なかのし}} [[Category:長野県の市町村]] [[Category:長野市|*]] [[Category:都道府県庁所在地]] [[Category:中核市]] [[Category:門前町]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1966年設置の日本の市町村]]
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デモクリトス
デモクリトス(デーモクリトス、希: Δημόκριτος、羅: Democritus、紀元前460年頃-紀元前370年頃)は、古代ギリシアの哲学者。 ソクラテスよりも後に生まれた人物だが、慣例でソクラテス以前の哲学者に含まれる。 トラキア地方のアブデラ(Abdera)の人。レウキッポスを師として原子論を大成した。アナクサゴラスの弟子でもあり、ペルシアの僧侶やエジプトの神官に学び、エチオピアやインドにも旅行したと伝えられる。財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養されたが、その著作の公開朗読により100タレントの贈与を受け、国葬されたという。哲学のほか数学・天文学・音楽・詩学・倫理学・生物学などに通じ、その博識のために「知恵(Sophia)」と呼ばれた。またおそらくはその快活な気性のために、「笑う人(Gelasinos)」とも称された。 「原子(アトム)」は不生・不滅・無性質・分割不可能な自然の最小単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として「空虚(ケノン)」の存在が前提される。無限の空虚の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる対象や生滅の現象が生じる。また魂と火(熱)とを同一視し、原子は無数あるが、あらゆるものに浸透して他を動かす「球形のものが火であり、魂である」とした。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも偶然によって起こりえない」と述べた。 デモクリトスの倫理学においては、政治の騒がしさや神々への恐怖から解放された「魂の快活さ/晴れやかさ(エウテュミア, εὐθυμία)」が理想の境地・究極目的とされ、それは「幸福(エウエストー, εὐεστὼ)」であるとも表現されている。また詩学においては霊感の力が説かれている。原子論を中心とする彼の学説は、古代ギリシアにおける唯物論の完成であると同時に、後代のエピクロス及び近代の自然科学に決定的な影響を与えた。 しかし、プラトンやアリストテレスの学説に比べてデモクリトスの学説は当時あまり支持されず、彼の著作は断片しか残されていない。プラトンが手に入る限りのデモクリトスの著作を集めて、すべて焼却したという伝説もある。プラトンの対話篇には同時代の哲学者が多数登場するが、デモクリトスに関しては一度も言及されていない。それに対して、セネカやキケロなどの古代ローマの知識人にはその鋭敏な知性と魂の偉大さを高く評価されている。 また、自然の根源についての学説は、アリストテレスが完成させた四大元素説が優勢であり、原子論は長らく顧みられる事は無かった。18世紀以降、化学者のジョン・ドルトンやアントワーヌ・ラヴォアジエによって原子論が優勢となり四大元素説は放棄された。もっともドルトンやラヴォアジエ以降の近代的な原子論は、デモクリトスの古代原子論と全く同一という訳ではない。ただし「原子」と「空虚」が存在するという意味において、デモクリトスの原子論は現代の原子論とも共通するとされる。 上述した通り、デモクリトスの著作は中世以降の歴史の過程で散逸してしまったが、その膨大な量の著作は、少なくとも古代ローマには継承されていたこと、そして『プラトン全集』と同じく、トラシュロスによって、それらが四部作集にまとめられていたことが、『ギリシア哲学者列伝』第9巻 第7章で述べられている。(そして、セネカの『心の平静について』第2章3節などで、デモクリトスの著作・思想について好意的に言及されていることが、ローマにおけるデモクリトスの著作の継承・普及を傍証している。) 『列伝』に列挙されているデモクリトスの著作は、以下の通り。
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デモクリトスは、古代ギリシアの哲学者。 ソクラテスよりも後に生まれた人物だが、慣例でソクラテス以前の哲学者に含まれる。
{{otheruses|哲学者|‎リベーラの絵画|デモクリトス (リベーラ)}} {{Infobox 哲学者 | name = デモクリトス | image = Democritus2.jpg | birth_date = 紀元前460年 | birth_place = [[トラキア]]地方の[[アブデラ]] | death_date = 紀元前370年<!--PLEASE SEE TALK BEFORE CHANGING DATE--> (90歳頃) | death_place = | era = [[古代哲学]] | region = [[西洋哲学]] | school_tradition = [[ソクラテス以前の哲学者|ソクラテス以前の哲学]] | main_interests = {{hlist|style=padding:0.1em 0;line-height:1.3em; |[[形而上学]] |[[数学]] |[[天文学]] |[[音楽]] |[[詩学]] |[[倫理学]]}} | notable_ideas = {{unbulleted list |item_style=padding:0.15em 0;line-height:1.25em; | [[原子論]] | [[因果性]] | [[天の川]] (''Via Lactea'') 遠方の星々の集合体としての認識<ref>DK 59 A80: [[Aristotle]], ''[[Meteorologica]]'' 342b.</ref> }} | influences = {{hlist |[[パルメニデス]] |[[メリッソス]] |[[レウキッポス]]}} | influenced = {{hlist |[[アリストテレス]] |[[エピクロス]] |[[ピュロン]] |[[ルクレティウス]] |[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]] |[[Marco Aurelio Severino|Severino]] |[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]] |[[カール・マルクス]] |[[フリードリヒ・ニーチェ]] |[[ジョージ・サンタヤーナ]] |[[ミシェル・オンフレ]]}} }} '''デモクリトス'''(デーモクリトス、{{lang-el-short|Δημόκριτος}}、{{lang-la-short|Democritus}}、[[紀元前460年]]頃-[[紀元前370年]]頃)は、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]。 [[ソクラテス]]よりも後に生まれた人物だが、慣例で[[ソクラテス以前の哲学者]]に含まれる。 == 生涯と伝説 == [[ファイル:(Toulouse) Démocrite (1630) - Jusepe de Ribera - Madrid, Museo Nacional del Prado.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|[[ホセ・デ・リベーラ]]『[[デモクリトス (リベーラ)|デモクリトス]]』[[プラド美術館]]、[[マドリード]]]] [[トラキア]]地方の[[アブデラ]]([[:en:Abdera, Thrace|Abdera]])の人。[[レウキッポス]]を師として[[原子論]]を大成した。[[アナクサゴラス]]の弟子でもあり、ペルシアの僧侶やエジプトの神官に学び、エチオピアやインドにも旅行したと伝えられる。財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養されたが、その著作の公開朗読により100タレントの贈与を受け、[[国葬]]されたという。哲学のほか数学・天文学・音楽・詩学・倫理学・生物学などに通じ、その博識のために「知恵(Sophia)」と呼ばれた。またおそらくはその快活な気性のために、「笑う人(Gelasinos)」とも称された。 == 学説 == 「原子(アトム)」は不生・不滅・無性質・分割不可能な自然の最小単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として「空虚(ケノン)」の存在が前提される。無限の空虚の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる対象や生滅の現象が生じる。また[[魂]]と火(熱)とを同一視し、原子は無数あるが、あらゆるものに浸透して他を動かす「球形のものが火であり、魂である」とした<ref>岩波『哲学・思想辞典』 p.1306</ref>。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも[[偶然]]によって起こりえない」と述べた。 デモクリトスの[[倫理学]]においては、政治の騒がしさや神々への恐怖から解放された「魂の快活さ/晴れやかさ(エウテュミア, {{lang|el|εὐθυμία}})」が理想の境地・究極目的とされ、それは「幸福(エウエストー, {{lang|el|εὐεστὼ}})」であるとも表現されている<ref>『列伝』9巻7章</ref>。また[[詩学]]においては[[霊感]]の力が説かれている。原子論を中心とする彼の学説は、古代ギリシアにおける[[唯物論]]の完成であると同時に、後代の[[エピクロス]]及び近代の自然科学に決定的な影響を与えた。 しかし、プラトンやアリストテレスの学説に比べてデモクリトスの学説は当時あまり支持されず、彼の著作は断片しか残されていない。[[プラトン]]が手に入る限りのデモクリトスの著作を集めて、すべて焼却したという伝説もある<ref>DK 68 A1</ref>。プラトンの対話篇には同時代の哲学者が多数登場するが、デモクリトスに関しては一度も言及されていない。それに対して、[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|セネカ]]や[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]などの古代ローマの知識人にはその鋭敏な知性と魂の偉大さを高く評価されている<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=26}}</ref>。 また、自然の根源についての学説は、[[アリストテレス]]が完成させた[[四大元素]]説が優勢であり、[[原子論]]は長らく顧みられる事は無かった。18世紀以降、化学者の[[ジョン・ドルトン]]や[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]によって原子論が優勢となり四大元素説は放棄された。もっともドルトンやラヴォアジエ以降の近代的な原子論は、デモクリトスの古代原子論と全く同一という訳ではない。ただし「原子」と「空虚」が存在するという意味において、デモクリトスの原子論は現代の原子論とも共通するとされる<ref>[[カール・セーガン]]は[[コスモス (テレビ番組)|コスモス]]において、アリストテレス説とデモクリトス説の違いについて述べている。物質は常に連続していると考えたアリストテレスによれば、[[リンゴ]]を半分に切った場合は、両者の切断面の面積は全く同一であるとされる。一方で物質が「原子」と「空虚」で構成されるとしたデモクリトス説では、リンゴの切断面は僅かながら面積が異なる。そしてデモクリトス説のほうが正しいとコメントしている。</ref>。 == 著作 == 上述した通り、デモクリトスの著作は中世以降の歴史の過程で散逸してしまったが、その膨大な量の著作は、少なくとも古代ローマには継承されていたこと、そして『[[プラトン全集]]』と同じく、[[トラシュロス]]によって、それらが四部作集にまとめられていたことが、『[[ギリシア哲学者列伝]]』第9巻 第7章で述べられている。(そして、[[セネカ]]の『心の平静について』第2章3節などで、デモクリトスの著作・思想について好意的に言及されていることが、ローマにおけるデモクリトスの著作の継承・普及を傍証している。) 『列伝』に列挙されているデモクリトスの著作は、以下の通り。 ; 倫理学 * 1 ** ピュタゴラス ** 賢者のあり方について ** ハデス(冥界)にいる者たちについて ** アテネ女神(トリートゲネイア) * 2 ** 男の卓越性について、あるいは徳(勇気)について ** アマルテイア(山羊神)の角 ** 快活さ(エウテュミア)について ** 倫理学覚書 ; 自然学 * 3 ** 大宇宙体系(※[[ペリパトス派]]では[[レウキッポス]]の作とも) ** 小宇宙体系 ** 世界形状論 ** 諸惑星について * 4 ** 自然について(第1) ** 人間の本性について(あるいは、肉体について) - 自然について(第2) ** 知性について ** 感覚について * 5 ** 味について ** 色について ** 種々の形態(アトム)について ** 形態(アトム)の変換について * 6 ** 学説の補強 ** 映像(エイドーロン)について、あるいは(未来の)予知について ** 論理学上の規準について、3巻 ** 問題集 * その他 ** 天体現象の諸原因 ** 空中の現象の諸原因 ** 地上の現象の諸原因 ** 火および火の中にあるものについての諸原因 ** 音に関する諸原因 ** 種子、植物、および果実に関する諸原因 ** 動物に関する諸原因、3巻 ** 原因雑纂 ** 磁石について ; 数学 * 7 ** 意見の相違について、あるいは円と球の接触について ** 幾何学について ** 幾何学の諸問題 ** 数 * 8 ** 通約不可能な線分と立体について、2巻 ** ([[渾天儀]]の) 投影図 ** [[大年]]、あるいは天文学、暦 ** 水時計 (と天(の時間)と) の争い * 9 ** 天界の記述 ** 大地の記述(地理学) ** 極地の記述 ** 光線論 ; 文芸・音楽 * 10 ** 韻律と調和について ** 詩作について ** 詩句の美しさについて ** 発音しやすい文字と発音しにくい文字について * 11 ** ホメロス論、あるいは正しい措辞と稀語について ** 歌について ** 語句論 ** 語彙集 ; 技術 * 12 ** 予後 ** 養生について、あるいは養生論 ** 医療の心得 ** 時期外れのものと季節にかなったものに関する諸原因 * 13 ** 農業について、あるいは土地測定論 ** 絵画について ** 戦術論 ** 重武装戦闘論 ; 覚書からの抜粋 * [[バビュロン]]の神聖な文書について * [[メロエー]]の神聖な文書について * オケアノス(大洋)の周航 * 歴史研究について * [[カルダイオス]]人の言説 * [[プリュギア]]人の言説 * 発熱および病気のために咳をしている人たちについて * 法律の原因(起源) * 手製の防具 == 参考資料 == *F.A.ランゲ『唯物論史 Geschichte des Materialismus und Kritik seiner Bedeutung in der Gegenwart』1866年 *H.Ritter, L.Preller共著『ギリシア哲学史 Historia Philosophiae Graecae』1934年 *H.Diels『ソクラテス以前哲学者断片集 Die Fragmente der Vorsokratiker』第2巻 1935年 * {{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス, 加来彰俊 |title=ギリシア哲学者列伝 上 中 下 |publisher=岩波書店 |year=1984 |series=岩波文庫 青(33)-663-1,2,3 |NCID=BN01500219 |ISBN=4003366336}} 下巻より == 出典 == {{Reflist}} ==関連項目== * [[ギリシア哲学]] * [[ソクラテス以前の哲学者]] * [[形而上学]] * [[原子論]] * [[原子]] * [[実体]] * [[物理学]] * [[化学]] * [[デモクリトス (小惑星)]] * [[デモクリトス (クレーター)]] == 外部リンク == * [http://www.las.osakafu-u.ac.jp/~yosyam/demarist.html デモクリトスとアリストテレス] * {{Cite journal|和書|author=三浦要 |title=デモクリトスの倫理学説について |journal=金沢大学人間科学系紀要 |ISSN=1883-5368 |publisher=金沢大学人間科学系紀要編集委員会 |year=2009 |month=mar |issue=1 |pages=37-56 |naid=120001170147 |url=https://hdl.handle.net/2297/17155}} * {{SEP|democritus|デモクリトス}} * {{IEP|democrit|デモクリトス}} {{ソクラテス以前の哲学者}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てもくりとす}} [[Category:デモクリトス|*]] [[Category:紀元前5世紀の哲学者]] [[Category:ソクラテス以前の哲学者]] [[Category:古代ギリシアの哲学者]] [[Category:原子論]] [[Category:機械論者]] [[Category:紀元前460年代生]] [[Category:紀元前370年代没]]
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平方キロメートル
平方キロメートル(へいほうキロメートル、英: square kilometre、記号 km)は、面積の単位で、一辺の長さが1キロメートルである正方形の面積である。 国際単位系では、SI組立単位となっており、計量法では法定計量単位となっている。 計量法における計量単位の名称は「平方キロメートル」である。口頭では平方キロと略称することがあるが、取引・証明に用いる場合には、そのような略称を用いることは禁止されている。 単位記号は国際単位系でも計量法でも小文字・立体の km である。KMや Kmとするのは、国際単位系が定める単位記号の記法に反している(キロ#小文字を使う理由)。
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平方キロメートルは、面積の単位で、一辺の長さが1キロメートルである正方形の面積である。 国際単位系では、SI組立単位となっており、計量法では法定計量単位となっている。
[[File:1 km2.svg|thumb|280 px|横に1 kmの正方形で表された1 km<sup>2</sup>の領域のイラスト。 1 km<sup>2</sup>の面積は100 haで構成され、各1 haブロックには{{val|10000}} m<sup>2</sup>が含まれている。]] '''平方キロメートル'''(へいほうキロメートル、{{lang-en-short|square kilometre}} 、{{Lang-en-us|square kilometer}}、記号 '''km<sup>2</sup>''')は、面積の単位で、一辺の[[長さ]]が1[[キロメートル]]である[[正方形]]の面積である。 国際単位系では、[[SI組立単位]]となっており、[[計量法]]では[[法定計量単位]]となっている。 == 名称など == 計量法における計量単位の名称は「平方キロメートル」である。口頭では'''平方キロ'''と略称することがあるが、[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いる場合には、そのような略称を用いることは禁止されている。 [[単位記号]]は国際単位系でも計量法でも[[小文字]]・[[立体活字|立体]]の '''km<sup>2</sup>''' である。KM<sup>2</sup>や Km<sup>2</sup>とするのは、国際単位系が定める単位記号の記法に反している([[キロ#小文字を使う理由]])。 ==単位換算== * 1 km<sup>2</sup> = {{val|1000000}} [[平方メートル|m<sup>2</sup>]] = 100 [[ヘクタール|ha]] = {{val|10000}} [[アール (単位)|a]] * 1 km<sup>2</sup> {{Unicode|≈}} 247.1 [[エーカー]] * 1 km<sup>2</sup> {{Unicode|≈}} 100.83 [[町 (単位)#面積の単位|町]] * 1 km<sup>2</sup> {{Unicode|≈}} 1008.33 [[反#土地の面積の単位|反]] == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[面積の比較]] * [[単位一覧]] * [[単位の換算一覧]] {{面積の単位}} {{DEFAULTSORT:へいほうきろめえとる}} [[Category:面積の単位]] [[de:Quadratmeter#Quadratkilometer]]
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決定問題
決定問題(けっていもんだい、decision problem)とは、各入力に対して受理か拒絶かのうち片方を出力する形式の問題をいう。判定問題とも呼ばれる。形式的には、文字列全体の集合 { 0 , 1 } ∗ {\displaystyle \{0,1\}^{*}} 、あるいは { 0 , 1 } ∗ {\displaystyle \{0,1\}^{*}} の部分集合から { 0 , 1 } {\displaystyle \{0,1\}} への写像である。 たとえば、ある命題論理式を充足する真理値割り当てがあるかないか(充足可能性問題)、与えられた自然数が素数か否か(素数判定問題)、といったものがある。これに対し、受理か拒絶かだけでなく真理値割り当てや素因数分解の結果といったものの出力を要求する問題は函数問題(function problem)と呼ばれる。 決定問題は、数学的に定式化しやすく、かつ出力に関わる時間を考慮しなくてよいことから、計算理論でよく使われる。
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'''決定問題'''(けっていもんだい、decision problem)とは、各入力に対して受理か拒絶かのうち片方を出力する形式の問題をいう。'''判定問題'''とも呼ばれる。形式的には、文字列全体の集合<math>\{0, 1\} ^*</math>、あるいは<math>\{0, 1\} ^*</math>の部分集合から<math>\{0, 1\}</math>への写像である。 たとえば、ある[[命題論理|命題論理式]]を充足する真理値割り当てがあるかないか([[充足可能性問題]])、与えられた[[自然数]]が[[素数]]か否か([[素数判定|素数判定問題]])、といったものがある。これに対し、受理か拒絶かだけでなく真理値割り当てや[[素因数分解]]の結果といったものの出力を要求する問題は[[函数問題]](function problem)と呼ばれる。 決定問題は、数学的に定式化しやすく、かつ出力に関わる時間を考慮しなくてよいことから、[[計算理論]]でよく使われる。 == 関連項目 == *[[計算複雑性理論]] *[[決定可能性]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けつていもんたい}} [[Category:論理学]] [[Category:計算理論]] [[Category:数学に関する記事]]
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交響曲
交響曲(こうきょうきょく、英: Symphony、独: Sinfonie / Symphonie)は、管弦楽によって演奏される多楽章構成の大規模な楽曲である。シンフォニー、シンフォニア(伊: Sinfonia)とも呼ばれる。「管弦楽のためのソナタ」でもある。 原則として4つ程度の楽章によって構成され、そのうちの少なくとも1つの楽章がソナタ形式であることが定義であるが、特に近現代においては例外も多い。 17世紀イタリアでオペラの序曲がシンフォニアと呼ばれていたが、G.B.サンマルティーニがこの序曲のみを独立させ、演奏会用に演奏したのが起源とされる。また、バロック時代の合奏協奏曲(特にコンチェルト・シンフォニア、サンフォニー・コンセルタンテ)も交響曲の成立、発展に影響を与えたとも考えられる。特にスカルラッティによるイタリア式序曲は「急-緩-急」の3部からなり、この3部分が後に楽章として独立することとなる。これはヴィヴァルディやペルゴレージに受け継がれ発展し、ガルッピらによってソナタ形式の楽章を持つ楽曲形式として発展していった。さらに、マンハイム楽派のシュターミッツやカンナビヒによってさまざまな管弦楽手法が研究され、メヌエットの楽章が付け加えられるなどし、古典派音楽へとつながった。 古典派により交響曲の形式は一応の完成を見た。ハイドンやモーツァルトの交響曲形式は が標準的なものであった。 ベートーヴェンは、第3楽章に使われていたメヌエットをスケルツォに変え、古典派の交響曲の形式を完成させた。交響曲第5番ハ短調(運命)ではピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンの導入により音響の増大を図ると共に、第3楽章と第4楽章を続けて演奏することを指示した。交響曲第6番ヘ長調「田園」においては楽章の数を5つにし、第3から第5楽章までを繋げて演奏、各楽章には場面や内容を表す「標題」が付けられた。これについてベートーヴェンは、単なる風景を描写したものではなく人間の内面を表現したものだと言っており、次第にロマン派的傾向を強めていったことがわかる。交響曲第9番では終楽章で独唱と合唱、そして複数の打楽器を新たに取り入れ、さらに緩徐楽章とスケルツォの順番を逆にするなどの斬新な手法で、古典派における交響曲の頂点に達した。 ロマン派の時代には、交響曲が人間の内面を表現する手段となる。ドイツ系の作曲家であるシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンの交響曲は、ベートーヴェンの影響が大きく形式上の大きな発展は見られなかった。一方ベルリオーズは「幻想交響曲」において巨大なオーケストラを想定したり、固定楽想(イデー・フィクス)を導入するなど、ロマン派における交響曲の大規模化の発端をつくった。これに対しブラームスは、厳格なソナタ形式と弦楽器を中心にしたオーケストラの響きを重視した「新古典主義」的態度を取ったが、彼が作曲した交響曲では4曲とも三拍子のスケルツォが置かれておらず、第4番の最終楽章ではベートーヴェンよりも古いバロックのパッサカリア(シャコンヌ)を用いるなどしている。またロマン派時代においては、緩徐楽章が近親調だけでなく、より遠い関係調となったり、ベートーヴェンの第7番で試みられたようにスケルツォ楽章が近親調や、より遠い関係調となる例も多くなった。これは交響曲のみならず、独奏ソナタや室内楽曲についても同様である。さらにセザール・フランクは循環形式による堅固な構成の交響曲を一曲残している。 ベルリオーズの交響曲『イタリアのハロルド』のように実質的には半ば協奏曲という作品もある。ラロの『スペイン交響曲』などは「交響曲」と名付けられているものの、実際にはヴァイオリン協奏曲であり、交響曲とは見なされていない。 ブルックナーにおいては、ソナタ形式が拡大され、従来の2つの主題に加えて第3主題をもつようになった〔ブルックナー形式〕。管弦楽手法としては、尊敬するワーグナーの影響から金管楽器が華麗に響くような巨大なオーケストラを使用すると共に、オルガンの奏法を応用した大胆なユニゾンや和声的展開を用いた。ウィーンの大学で彼の講義を受けていたマーラーにおいては単なる主題から『主題群』に発展し、管弦楽の規模の拡大(4管編成から5管編成まで)、自作の歌曲集からの引用、独唱や合唱等の声楽を含めたことが特徴的である。また、最終楽章も主調ではないことがあり、最終的には主調にたどり着いて終わるもの(第1番、第6番、第10番)もあるが、平行調で終わるもの(第2番、大地の歌)、半音上の調で終わるもの(第5番)、半音下の調で終わるもの(第9番)などもあり、調の扱いについても極限にまで拡大、または解体されている。交響曲第8番は、初演で独唱者7人と少年合唱、さらに2つの混声合唱団を伴った1千人余りによって演奏されたことから、『千人の交響曲』の異名を持つ巨大な作品である。リヒャルト・シュトラウスは初期に2曲の絶対音楽としての交響曲を書いているが、あまり注目されず、その後書かれた『家庭交響曲』や『アルプス交響曲』は初期の交響詩群を拡大させた標題音楽という意味で極めて高く評価されている。 国民楽派、民族楽派に分類される作曲家は後期ロマン派と時代が重なるが(広い意味でのロマン派でもある)、交響曲は彼らにとっても重要な表現手段であり、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、グラズノフ、スクリャービン、シベリウス、ニールセン、エルガー、ヴォーン・ウィリアムス、バックス、ハチャトゥリアン、シマノフスキ、トゥビンらがそれぞれ3曲から9曲の交響曲(未完のものを含む、ただしトゥビンは11曲。)を残している。あまり注目されないが、ミャスコフスキーは27曲の交響曲を残しており、ブライアンはその交響曲第1番「ゴシック」で8管編成による当時史上最大の交響曲を残している。 現代においても交響曲というジャンルは残っているが、内容的に大きな変貌を遂げたものも含まれている。新ウィーン楽派においてはシェーンベルクの室内交響曲のような形式の変容や、ヴェーベルンの交響曲作品21のように完全に音列技法に組み入れられたのもある。ソナタ形式の伝統に連なる交響曲作家としては、プロコフィエフとショスタコーヴィチが、今のところ最後の双璧である。以降も(古典的な意味での)交響曲を主たる表現手段とする作曲家はいるが、現代音楽の中心的な存在とはなっていない。 アイヴズの6つの交響曲(最後のユニヴァース交響曲は未完)、コープランドの4つの交響曲、メシアンの『トゥランガリーラ交響曲』、グレツキの交響曲第3番『悲しみの歌の交響曲』などの曲は有名であるが、形式や内容はロマン派の交響曲からは大きな隔たりがある。韓国の最初の大作曲家であるユン・イサンの交響曲は5曲あるが、本人は最後の題名付けに大変悩み、苦し紛れに半ばでっち上げで「交響曲」としたもので、内容を意識した物ではないとの見解を1990年当時示していた。 それでも現在も交響曲が作曲され、フィンランドの作曲家・指揮者のレイフ・セーゲルスタムは史上最多の200曲の交響曲を量産している。 日本における交響曲の受容は、山田耕筰が交響曲「かちどきと平和」を作曲したのが初めで、その後、諸井三郎、橋本國彦が続き、金井喜久子による日本の女流作曲家として初めての交響曲(第1番。第1楽章〜第3楽章は1940年初演、第4楽章は未完)の作曲を経て、伊福部昭、矢代秋雄、別宮貞雄、松村禎三、團伊玖磨、黛敏郎、柴田南雄、林光、吉松隆、池辺晋一郎などが交響曲を作曲している。2013年には佐村河内守のアイデアを基に実際には新垣隆によって作曲された交響曲第1番『HIROSHIMA』がCD売上においてオリコン週間総合チャートで2位となり、交響曲としては異例のヒットを記録した。テクノロジーが進歩した21世紀に於いては、コンピュータで交響曲を作曲・演奏し、双方向メディアで発表する者もいる。 ベートーヴェン以前は交響曲に限らず、絶対音楽をジャンル別に区分し、作曲あるいは出版順に通し番号を付与するという発想や習慣がなかった。ベートーヴェン以降の作曲家が複数の交響曲を作曲した場合、作曲者や出版社によって「交響曲第○番」というように通し番号が付けられはじめた。ただし作曲者が習作にはあえて通し番号を与えなかったり、あるいは作曲順に出版することをせず、作曲順と異なった通し番号が与えられた場合、後世の研究者が付与する場合がある。 具体的には、かつてはドヴォルザークの「新世界より」は出版順に第5番とされていたが、のちの研究により作曲順に通し番号が与えられ、第9番に変更されている。シューベルトの場合、元来は「未完成」やホ長調のオーケストレイション未完成稿(D 729)が知られるようになる以前に再発見された「ザ・グレイト」が第7番とされてはいたが、その後の検証により、D 729に第7番、「未完成」に第8番が付与され、「ザ・グレイト」に第9番が付与された。この通し番号は一旦は慣れ親しまれたものの、さらにその後、D 729が通し番号から外されることとなったため、7番「未完成」、8番「ザ・グレイト」と繰り下がるようになった。ただし、ながらく慣れ親しまれた都合上、7(8)番「未完成」、8(9)番「ザ・グレイト」と併記されることも多い。 またブルックナーのように第1番が作曲される前に作曲された交響曲には番号が与えられず(習作の慣例)、第1番のあとに作曲された交響曲に作曲者自身が第0番という番号を与えた場合、現状では番号の入れ替え、第1番からの順送り通し番号といった変更はなされていない。また、メンデルスゾーンの交響曲ように作曲順に変更されず、定着した出版順の通し番号が用いられている場合もある。 マーラーは第9番目の交響曲のナンバリングに忌み嫌いを持ち、9番目の交響曲を単に交響曲『大地の歌』としたものの、その次に作曲した交響曲を第10番とはせず、第9番としたケースがある。 ベルリオーズは『幻想交響曲』(op.14a)、『イタリアのハロルド』(op.16)、『劇的交響曲ロメオとジュリエット』(op.17)、『葬送と勝利の大交響曲』(op.15)と4曲の標題音楽的交響曲を発表し、また、この系列としてリストの『ファウスト交響曲』と『ダンテ交響曲』や、チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』、リヒャルト・シュトラウスの『家庭交響曲』(op.53)と『アルプス交響曲』(op.64)、シベリウスの『クレルヴォ交響曲』などは標題交響曲とも呼ばれる交響詩と交響曲の中間的存在であり、作曲者も出版社も番号を与えないことが多い。 その他ではヴォーン・ウィリアムズは『海の交響曲』(第1番)、『ロンドン交響曲』(第2番)、『田園交響曲』(第3番)、『南極交響曲』(第7番)の4曲の表題交響曲にナンバリングをしたものの番号は括弧に入れて、ナンバリングで呼ばれることを望まなかったケースがある。 なお、ドイツやオーストリアでは、モーツァルトや番号に議論のあるシューベルトの交響曲を番号無しで調性、およびケッヘル番号やドイッチュ番号などの作品番号だけで呼ぶこともある。 ハイドンやモーツァルトにおいては、交響曲が音楽以外のものと結びついた副題を予め与えられることは、一部の特殊な製作事情をもつ作品を除き、ほぼなかった。これは交響曲が絶対音楽として成立していたことを示す。 ハイドンにおいては、第45番『告別』や第94番『驚愕』・第101番『時計』・第104番『ロンドン』などの名前を持つものがあるが、これは曲の特徴や初演された場所を愛称として付したものであり、副題の内容を音楽として表現したものでないため、絶対音楽と言える。モーツァルトの第31番『パリ』・第35番『ハフナー』・第41番『ジュピター』なども同様である(第35番はハフナー家のために作曲された)。ただし、ハイドンの第6番『朝』、第7番『昼』、第8番『晩』は、当時仕えていたエステルハージ侯爵から題を与えられて作曲したものであるとされ、標題音楽的側面も持つといえよう。また、第8番『晩』の第4楽章にはハイドンによって『嵐』という副題がつけられている。 ベートーヴェンは、第3番『英雄』・第6番『田園』において自ら副題を与えるというやり方を開始した。第3番は、最初『ボナパルト』と題されて作曲されたことからも、ナポレオン・ボナパルトを念頭においた標題音楽であると言うこともできる。なお、第5番『運命』、第9番『合唱(合唱付き)』は後世の人が与えた愛称であり、標題ではない。ただし、第9番はシラーの詩による「歓喜の歌」を含み、その言語により意図していることは明確であり、絶対音楽ではない。 以降のロマン派の交響曲は、絶対音楽と標題音楽の狭間を揺れ動きつつ、発展を遂げることになった。 ベルリオーズは『幻想交響曲』において、1人の女性の幻影につきまわれるという筋立てのもと、女性の幻影を旋律にし、固定観念(イデー・フィクス)として用いた。5つの楽章は「夢と情熱」、「舞踏会」、「野の風景」、「断頭台への行進」、「悪魔の祝日と夜の夢」という副題を持つ。この曲は、後の交響詩の発展の先駆けともなった。 シューマン、メンデルスゾーンの交響曲も副題を持つものがあるが、形式的には絶対音楽の範疇にとどまっている。 ブルックナーはかたくななまでに絶対音楽の形式を守った。マーラーは1番と3番で作曲途中に標題を付けたが、最終的には標題を削除している。2番「復活」、7番「夜の歌」、8番「千人の交響曲」は他人によってつけられた通称であり、6番「悲劇的」もマーラー自身によって付けられたものかは定かではない。マーラー本人が明確に題を残したものは歌曲集と交響曲との中間的な存在である「大地の歌」のみである。ただし、マーラーの交響曲には声楽を含むものも多く、意味のある歌詞を含むようになった以上、それらは絶対音楽ではあり得ない。また、最終的に標題を削除した交響曲についても、作曲の過程で標題を意識したものがほとんどであり、いずれの交響曲も大なり小なり標題性を持つ。 リストの『ファウスト交響曲』と『ダンテ交響曲』、シベリウスの『クッレルヴォ交響曲』、マーラーの交響曲『大地の歌』、チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』など、番号付き作品の系列外に標題を持つ作品もある。 エドゥアール・ラロの『スペイン交響曲』(ヴァイオリン協奏曲第2番)、ヴァンサン・ダンディの『フランスの山人の歌による交響曲』、伊福部昭の『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』など、実質は独奏楽器と管弦楽のための協奏曲であるが規模の大きな作品を、あえて交響曲と呼ぶ例もある。 (生年順に並べてある) ここでは、交響曲という名を冠するさまざまなジャンルについて触れる。
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"ベートーヴェンは、第3番『英雄』・第6番『田園』において自ら副題を与えるというやり方を開始した。第3番は、最初『ボナパルト』と題されて作曲されたことからも、ナポレオン・ボナパルトを念頭においた標題音楽であると言うこともできる。なお、第5番『運命』、第9番『合唱(合唱付き)』は後世の人が与えた愛称であり、標題ではない。ただし、第9番はシラーの詩による「歓喜の歌」を含み、その言語により意図していることは明確であり、絶対音楽ではない。", "title": "交響曲の副題" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "以降のロマン派の交響曲は、絶対音楽と標題音楽の狭間を揺れ動きつつ、発展を遂げることになった。", "title": "交響曲の副題" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ベルリオーズは『幻想交響曲』において、1人の女性の幻影につきまわれるという筋立てのもと、女性の幻影を旋律にし、固定観念(イデー・フィクス)として用いた。5つの楽章は「夢と情熱」、「舞踏会」、「野の風景」、「断頭台への行進」、「悪魔の祝日と夜の夢」という副題を持つ。この曲は、後の交響詩の発展の先駆けともなった。", "title": "交響曲の副題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "シューマン、メンデルスゾーンの交響曲も副題を持つものがあるが、形式的には絶対音楽の範疇にとどまっている。", "title": "交響曲の副題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ブルックナーはかたくななまでに絶対音楽の形式を守った。マーラーは1番と3番で作曲途中に標題を付けたが、最終的には標題を削除している。2番「復活」、7番「夜の歌」、8番「千人の交響曲」は他人によってつけられた通称であり、6番「悲劇的」もマーラー自身によって付けられたものかは定かではない。マーラー本人が明確に題を残したものは歌曲集と交響曲との中間的な存在である「大地の歌」のみである。ただし、マーラーの交響曲には声楽を含むものも多く、意味のある歌詞を含むようになった以上、それらは絶対音楽ではあり得ない。また、最終的に標題を削除した交響曲についても、作曲の過程で標題を意識したものがほとんどであり、いずれの交響曲も大なり小なり標題性を持つ。", "title": "交響曲の副題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "リストの『ファウスト交響曲』と『ダンテ交響曲』、シベリウスの『クッレルヴォ交響曲』、マーラーの交響曲『大地の歌』、チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』など、番号付き作品の系列外に標題を持つ作品もある。", "title": "交響曲の副題" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "エドゥアール・ラロの『スペイン交響曲』(ヴァイオリン協奏曲第2番)、ヴァンサン・ダンディの『フランスの山人の歌による交響曲』、伊福部昭の『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』など、実質は独奏楽器と管弦楽のための協奏曲であるが規模の大きな作品を、あえて交響曲と呼ぶ例もある。", "title": "交響曲の副題" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "(生年順に並べてある)", "title": "主な作曲家と作品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ここでは、交響曲という名を冠するさまざまなジャンルについて触れる。", "title": "さまざまな交響曲" } ]
交響曲は、管弦楽によって演奏される多楽章構成の大規模な楽曲である。シンフォニー、シンフォニアとも呼ばれる。「管弦楽のためのソナタ」でもある。 原則として4つ程度の楽章によって構成され、そのうちの少なくとも1つの楽章がソナタ形式であることが定義であるが、特に近現代においては例外も多い。
{{出典の明記|date=2013年5月6日 (月) 12:32 (UTC)}} {{ページ番号|date=2021年6月16日 (水) 05:01 (UTC)}} {{Portal クラシック音楽}} '''交響曲'''(こうきょうきょく、{{lang-en-short|Symphony}}、{{lang-de-short|Sinfonie / Symphonie}})は<ref group="注釈">'''交響楽'''(こうきょうがく)ともいうが、どちらも[[ドイツ]]留学経験のある[[森鷗外]]による訳語である。</ref>、[[オーケストラ|管弦楽]]によって演奏される多楽章構成の大規模な楽曲である。'''シンフォニー'''、'''シンフォニア'''({{lang-it-short|Sinfonia}})とも呼ばれる。「管弦楽のための[[ソナタ]]」でもある。 原則として4つ程度の[[楽章]]によって構成され、そのうちの少なくとも1つの楽章が[[ソナタ形式]]であることが定義であるが、特に近現代においては例外も多い。 == 歴史 == [[17世紀]][[イタリア]]で[[オペラ]]の[[序曲]]が'''[[シンフォニア]]'''と呼ばれていたが、[[ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ|G.B.サンマルティーニ]]がこの序曲のみを独立させ、演奏会用に演奏したのが起源とされる。また、[[バロック音楽|バロック時代]]の[[合奏協奏曲]](特にコンチェルト・シンフォニア、サンフォニー・コンセルタンテ)も交響曲の成立、発展に影響を与えたとも考えられる。特に[[アレッサンドロ・スカルラッティ|スカルラッティ]]による[[イタリア式序曲]]は「急-緩-急」の3部からなり、この3部分が後に楽章として独立することとなる。これは[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]や[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ|ペルゴレージ]]に受け継がれ発展し、[[バルダッサーレ・ガルッピ|ガルッピ]]らによってソナタ形式の楽章を持つ楽曲形式として発展していった。さらに、[[マンハイム楽派]]の[[ヨハン・シュターミッツ|シュターミッツ]]や[[クリスティアン・カンナビヒ|カンナビヒ]]によってさまざまな管弦楽手法が研究され、[[メヌエット]]の楽章が付け加えられるなどし、[[古典派音楽]]へとつながった。 古典派により交響曲の形式は一応の完成を見た。[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の交響曲形式は *第1楽章 - [[ソナタ形式]] *第2楽章 - 緩徐楽章([[変奏曲]]または[[複合三部形式]]) 調は第1楽章の[[関係調|近親調]] *第3楽章 - [[メヌエット]] 主調(第1楽章と同じ調) *第4楽章 - ソナタ形式または[[ロンド形式]] 主調または同主調 が標準的なものであった。 [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]は、第3楽章に使われていたメヌエットを'''[[スケルツォ]]'''に変え、古典派の交響曲の形式を完成させた。[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番ハ短調]](運命)では[[ピッコロ]]、[[コントラファゴット]]、[[トロンボーン]]の導入により音響の増大を図ると共に、第3楽章と第4楽章を続けて演奏することを指示した。[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番ヘ長調「田園」]]においては楽章の数を5つにし、第3から第5楽章までを繋げて演奏、各楽章には場面や内容を表す「標題」が付けられた。これについてベートーヴェンは、単なる風景を描写したものではなく人間の内面を表現したものだと言っており、次第に[[ロマン派音楽|ロマン派]]的傾向を強めていったことがわかる。[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]では終楽章で独唱と合唱、そして複数の打楽器を新たに取り入れ、さらに緩徐楽章とスケルツォの順番を逆にするなどの斬新な手法で、古典派における交響曲の頂点に達した。 [[ロマン派音楽|ロマン派]]の時代には、交響曲が人間の内面を表現する手段となる。ドイツ系の作曲家である[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の交響曲は、ベートーヴェンの影響が大きく形式上の大きな発展は見られなかった。一方[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]は「[[幻想交響曲]]」において巨大なオーケストラを想定したり、固定楽想(イデー・フィクス)を導入するなど、ロマン派における交響曲の大規模化の発端をつくった。これに対し[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]は、厳格なソナタ形式と弦楽器を中心にしたオーケストラの響きを重視した「[[新古典主義音楽|新古典主義]]」的態度を取ったが、彼が作曲した交響曲では4曲とも三拍子のスケルツォが置かれておらず、[[交響曲第4番 (ブラームス)|第4番]]の最終楽章ではベートーヴェンよりも古い[[バロック音楽|バロック]]の[[パッサカリア]](シャコンヌ)を用いるなどしている。またロマン派時代においては、緩徐楽章が近親調だけでなく、より遠い関係調となったり、ベートーヴェンの[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|第7番]]で試みられたようにスケルツォ楽章が近親調や、より遠い関係調となる例も多くなった。これは交響曲のみならず、独奏ソナタや室内楽曲についても同様である。さらに[[セザール・フランク]]は[[循環形式]]による堅固な構成の交響曲を一曲残している。 [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の[[イタリアのハロルド|交響曲『イタリアのハロルド』]]のように実質的には半ば協奏曲という作品もある。[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]の『[[スペイン交響曲]]』などは「交響曲」と名付けられているものの、実際には[[ヴァイオリン協奏曲]]であり、交響曲とは見なされていない。 [[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]においては、ソナタ形式が拡大され、従来の2つの主題に加えて第3主題をもつようになった〔ブルックナー形式〕。管弦楽手法としては、尊敬する[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響から金管楽器が華麗に響くような巨大なオーケストラを使用すると共に、オルガンの奏法を応用した大胆なユニゾンや和声的展開を用いた。ウィーンの大学で彼の講義を受けていた[[グスタフ・マーラー|マーラー]]においては単なる主題から『主題群』に発展し、管弦楽の規模の拡大(4管編成から5管編成まで)、自作の歌曲集からの引用、独唱や合唱等の声楽を含めたことが特徴的である。また、最終楽章も主調ではないことがあり、最終的には主調にたどり着いて終わるもの([[交響曲第1番 (マーラー)|第1番]]、[[交響曲第6番 (マーラー)|第6番]]、[[交響曲第10番 (マーラー)|第10番]])もあるが、平行調で終わるもの([[交響曲第2番 (マーラー)|第2番]]、[[大地の歌]])、半音上の調で終わるもの([[交響曲第5番 (マーラー)|第5番]])、半音下の調で終わるもの([[交響曲第9番 (マーラー)|第9番]])などもあり、調の扱いについても極限にまで拡大、または解体されている。[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番]]は、初演で独唱者7人と少年合唱、さらに2つの混声合唱団を伴った1千人余りによって演奏されたことから、『千人の交響曲』の異名を持つ巨大な作品である。[[リヒャルト・シュトラウス]]は初期に2曲の[[絶対音楽]]としての交響曲を書いているが、あまり注目されず、その後書かれた『[[家庭交響曲]]』や『[[アルプス交響曲]]』は初期の[[交響詩]]群を拡大させた標題音楽という意味で極めて高く評価されている。 [[国民楽派]]、民族楽派に分類される作曲家は後期ロマン派と時代が重なるが(広い意味でのロマン派でもある)、交響曲は彼らにとっても重要な表現手段であり、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[アレクサンドル・ボロディン|ボロディン]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]、[[アレクサンドル・グラズノフ|グラズノフ]]、[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]、[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]、[[カール・ニールセン|ニールセン]]、[[エドワード・エルガー|エルガー]]、[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ|ヴォーン・ウィリアムス]]、[[アーノルド・バックス|バックス]]、[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]、[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]]、[[トゥビン]]らがそれぞれ3曲から9曲の交響曲(未完のものを含む、ただしトゥビンは11曲。)を残している。あまり注目されないが、[[ニコライ・ミャスコフスキー|ミャスコフスキー]]は27曲の交響曲を残しており、[[ハヴァーガル・ブライアン|ブライアン]]はその[[交響曲第1番 (ブライアン)|交響曲第1番「ゴシック」]]で8管編成による当時史上最大の交響曲を残している。 現代においても交響曲というジャンルは残っているが、内容的に大きな変貌を遂げたものも含まれている。[[新ウィーン楽派]]においては[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]の[[室内交響曲]]のような形式の変容や、[[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]]の[[交響曲 (ヴェーベルン)|交響曲作品21]]のように完全に[[十二音技法|音列技法]]に組み入れられたのもある。ソナタ形式の伝統に連なる交響曲作家としては、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]と[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]が、今のところ最後の双璧である。以降も(古典的な意味での)交響曲を主たる表現手段とする作曲家はいるが、[[現代音楽]]の中心的な存在とはなっていない。 [[チャールズ・アイヴズ|アイヴズ]]の6つの交響曲(最後の[[ユニヴァース交響曲]]は未完)、[[アーロン・コープランド|コープランド]]の4つの交響曲、[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]の『[[トゥランガリーラ交響曲]]』、[[ヘンリク・グレツキ|グレツキ]]の[[交響曲第3番 (グレツキ)|交響曲第3番『悲しみの歌の交響曲』]]などの曲は有名であるが、形式や内容はロマン派の交響曲からは大きな隔たりがある。韓国の最初の大作曲家である[[尹伊桑|ユン・イサン]]の交響曲は5曲あるが、本人は最後の題名付けに大変悩み、苦し紛れに半ばでっち上げで「交響曲」としたもので、内容を意識した物ではないとの見解を1990年当時示していた。 それでも現在も交響曲が作曲され、[[フィンランド]]の作曲家・指揮者の[[レイフ・セーゲルスタム]]は史上最多の200曲の交響曲を量産している。 日本における交響曲の受容は、[[山田耕筰]]が交響曲「[[かちどきと平和]]」を作曲したのが初めで、その後、[[諸井三郎]]、[[橋本國彦]]が続き、[[金井喜久子]]による日本の女流作曲家として初めての交響曲(第1番。第1楽章〜第3楽章は1940年初演、第4楽章は未完)の作曲を経て、[[伊福部昭]]、[[矢代秋雄]]、[[別宮貞雄]]、[[松村禎三]]、[[團伊玖磨]]、[[黛敏郎]]、[[柴田南雄]]、[[林光]]、[[吉松隆]]、[[池辺晋一郎]]などが交響曲を作曲している。[[2013年]]には[[佐村河内守]]のアイデアを基に実際には[[新垣隆]]によって作曲された[[交響曲第1番 (佐村河内守)|交響曲第1番『HIROSHIMA』]]がCD売上においてオリコン週間総合チャートで2位となり、交響曲としては異例のヒットを記録した<ref>{{Cite web|和書|date=2013-04-08|url=http://biz-m.oricon.co.jp/news/data/1044.shtml|title=三度浮上し、最高位大幅更新〜佐村河内守が異例のロングセールス|work=ORICON BiZ|author=|publisher=[[オリコン|オリコン・リサーチ]]|accessdate=2013-05-06}}</ref>。テクノロジーが進歩した21世紀に於いては、コンピュータで交響曲を作曲・演奏し、双方向メディアで発表する者もいる。 == 交響曲の番号 == [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]以前は交響曲に限らず、絶対音楽をジャンル別に区分し、作曲あるいは出版順に通し番号を付与するという発想や習慣がなかった。ベートーヴェン以降の作曲家が複数の交響曲を作曲した場合、作曲者や出版社によって「交響曲第○番」というように通し番号が付けられはじめた。ただし作曲者が習作にはあえて通し番号を与えなかったり、あるいは作曲順に出版することをせず、作曲順と異なった通し番号が与えられた場合、後世の研究者が付与する場合がある。 具体的には、かつては[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の「[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|新世界より]]」は出版順に第5番とされていたが、のちの研究により作曲順に通し番号が与えられ、第9番に変更されている。シューベルトの場合、元来は「[[交響曲第7番 (シューベルト)|未完成]]」やホ長調のオーケストレイション未完成稿(D 729)が知られるようになる以前に再発見された「[[交響曲第8番 (シューベルト)|ザ・グレイト]]」が第7番とされてはいたが、その後の検証により、D 729に第7番、「未完成」に第8番が付与され、「ザ・グレイト」に第9番が付与された。この通し番号は一旦は慣れ親しまれたものの、さらにその後、D 729が通し番号から外されることとなったため、7番「未完成」、8番「ザ・グレイト」と繰り下がるようになった。ただし、ながらく慣れ親しまれた都合上、7(8)番「未完成」、8(9)番「ザ・グレイト」と併記されることも多い。 また[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]のように第1番が作曲される前に作曲された交響曲には番号が与えられず(習作の慣例)、第1番のあとに作曲された交響曲に作曲者自身が第0番という番号を与えた場合、現状では番号の入れ替え、第1番からの順送り通し番号といった変更はなされていない。また、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の交響曲ように作曲順に変更されず、定着した出版順の通し番号が用いられている場合もある。 [[グスタフ・マーラー|マーラー]]は第9番目の交響曲のナンバリングに忌み嫌いを持ち、9番目の交響曲を単に交響曲『[[大地の歌]]』としたものの、その次に作曲した交響曲を第10番とはせず、第9番としたケースがある。 [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]は『[[幻想交響曲]]』(op.14a)、『[[イタリアのハロルド]]』(op.16)、『[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|劇的交響曲ロメオとジュリエット]]』(op.17)、『[[葬送と勝利の大交響曲]]』(op.15)と4曲の[[標題音楽]]的交響曲を発表し、また、この系列として[[フランツ・リスト|リスト]]の『[[ファウスト交響曲]]』と『[[ダンテ交響曲]]』や、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の『[[マンフレッド交響曲]]』、[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[家庭交響曲]]』(op.53)と『[[アルプス交響曲]]』(op.64)、[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]の『[[クレルヴォ交響曲]]』<ref group="注釈">ただし、作曲者自身はこの曲を交響曲とは銘打っていない。</ref>などは[[:en:Program symphony|標題交響曲]]とも呼ばれる交響詩と交響曲の中間的存在であり、作曲者も出版社も番号を与えないことが多い。 その他では[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ|ヴォーン・ウィリアムズ]]は『[[海の交響曲]]』(第1番)、『[[ロンドン交響曲]]』(第2番)、『[[田園交響曲]]』(第3番)、『[[南極交響曲]]』(第7番)の4曲の表題交響曲にナンバリングをしたものの番号は括弧に入れて、ナンバリングで呼ばれることを望まなかったケースがある。 なお、ドイツやオーストリアでは、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や番号に議論のあるシューベルトの交響曲を番号無しで[[調性]]、および[[ケッヘル番号]]や[[ドイッチュ番号]]などの作品番号だけで呼ぶこともある。 == 交響曲の副題 == {{main|交響曲の副題}} ハイドンやモーツァルトにおいては、交響曲が音楽以外のものと結びついた副題を予め与えられることは、一部の特殊な製作事情をもつ作品を除き、ほぼなかった。これは交響曲が[[絶対音楽]]として成立していたことを示す。 ハイドンにおいては、[[交響曲第45番 (ハイドン)|第45番『告別』]]や[[交響曲第94番 (ハイドン)|第94番『驚愕』]]・[[交響曲第101番 (ハイドン)|第101番『時計』]]・[[交響曲第104番 (ハイドン)|第104番『ロンドン』]]などの名前を持つものがあるが、これは曲の特徴や初演された場所を愛称として付したものであり、副題の内容を音楽として表現したものでないため、絶対音楽と言える。モーツァルトの[[交響曲第31番 (モーツァルト)|第31番『パリ』]]・[[交響曲第35番 (モーツァルト)|第35番『ハフナー』]]・[[交響曲第41番 (モーツァルト)|第41番『ジュピター』]]なども同様である(第35番はハフナー家のために作曲された)。ただし、ハイドンの[[交響曲第6番 (ハイドン)|第6番『朝』]]、[[交響曲第7番 (ハイドン)|第7番『昼』]]、[[交響曲第8番 (ハイドン)|第8番『晩』]]は、当時仕えていた[[ニコラウス・エステルハージ|エステルハージ侯爵]]から題を与えられて作曲したものであるとされ、標題音楽的側面も持つといえよう。また、第8番『晩』の第4楽章にはハイドンによって『嵐』という副題がつけられている。 ベートーヴェンは、[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|第3番『英雄]]』・[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|第6番『田園』]]において自ら副題を与えるというやり方を開始した。第3番は、最初『ボナパルト』と題されて作曲されたことからも、[[ナポレオン・ボナパルト]]を念頭においた[[標題音楽]]であると言うこともできる。なお、[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|第5番『運命』]]、[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第9番『合唱(合唱付き)』]]は後世の人が与えた愛称であり、標題ではない。ただし、第9番は[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の詩による「[[歓喜の歌]]」を含み、その言語により意図していることは明確であり、絶対音楽ではない。 以降のロマン派の交響曲は、絶対音楽と標題音楽の狭間を揺れ動きつつ、発展を遂げることになった。 ベルリオーズは『[[幻想交響曲]]』において、1人の女性の幻影につきまわれるという筋立てのもと、女性の幻影を旋律にし、固定観念(イデー・フィクス)として用いた。5つの楽章は「夢と情熱」、「舞踏会」、「野の風景」、「断頭台への行進」、「悪魔の祝日と夜の夢」という副題を持つ。この曲は、後の[[交響詩]]の発展の先駆けともなった。 シューマン、メンデルスゾーンの交響曲も副題を持つものがあるが、形式的には[[絶対音楽]]の範疇にとどまっている。 ブルックナーはかたくななまでに絶対音楽の形式を守った。マーラーは1番と3番で作曲途中に標題を付けたが、最終的には標題を削除している。2番「復活」、7番「夜の歌」、8番「千人の交響曲」は他人によってつけられた通称であり、6番「悲劇的」もマーラー自身によって付けられたものかは定かではない。マーラー本人が明確に題を残したものは歌曲集と交響曲との中間的な存在である「大地の歌」のみである。ただし、マーラーの交響曲には声楽を含むものも多く、意味のある歌詞を含むようになった以上、それらは絶対音楽ではあり得ない。また、最終的に標題を削除した交響曲についても、作曲の過程で標題を意識したものがほとんどであり、いずれの交響曲も大なり小なり標題性を持つ。 リストの『[[ファウスト交響曲]]』と『[[ダンテ交響曲]]』、シベリウスの『[[クッレルヴォ交響曲]]』、マーラーの交響曲『[[大地の歌]]』、チャイコフスキーの『[[マンフレッド交響曲]]』など、番号付き作品の系列外に標題を持つ作品もある。 [[エドゥアール・ラロ]]の『[[スペイン交響曲]]』(ヴァイオリン協奏曲第2番)、[[ヴァンサン・ダンディ]]の『[[フランスの山人の歌による交響曲]]』、[[伊福部昭]]の『[[ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲]]』など、実質は独奏楽器と管弦楽のための協奏曲であるが規模の大きな作品を、あえて交響曲と呼ぶ例もある。 == 主な作曲家と作品 == === 古典派まで === (生年順に並べてある) *1658年 [[ジュゼッペ・トレッリ|トレッリ]](イタリア) - 4声のシンフォニアで交響曲の原型を示す *1678年 [[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]](イタリア) - 23曲のシンフォニア *1701年 [[ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ|サンマルティーニ]](イタリア) - 70曲以上の交響曲。交響曲の始祖といわれる。 *1710年 [[ウィリアム・ボイス|ボイス]](イギリス) - 8曲のシンフォニア *1714年 [[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]](ドイツ) - 20曲のシンフォニア *1715年 [[ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル|ヴァーゲンザイル]](オーストリア) - ? *1717年 [[ゲオルク・マティアス・モン|モン]](オーストリア) - 16曲の交響曲。初めて第3楽章にメヌエットを導入。 *1717年 [[ヨハン・シュターミッツ|J.シュターミツ]](チェコ) - 50曲以上の交響曲。第3楽章に常にメヌエットを配置。 *1718年 ブリック - ? *1725年 [[カール・フリードリヒ・アーベル|アーベル]](ドイツ) - ? *1732年 [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ヨーゼフ・ハイドン]](オーストリア) - 104曲の番号付き交響曲([[交響曲第6番 (ハイドン)|6]]「朝」、[[交響曲第7番 (ハイドン)|7]]「昼」、[[交響曲第8番 (ハイドン)|8]]「夜」、[[交響曲第9番 (ハイドン)|9]]、[[交響曲第13番 (ハイドン)|13]]、[[交響曲第21番 (ハイドン)|21]]、[[交響曲第22番 (ハイドン)|22]]「哲学者」、[[交響曲第23番 (ハイドン)|23]]、[[交響曲第24番 (ハイドン)|24]]、[[交響曲第25番 (ハイドン)|25]]、[[交響曲第26番 (ハイドン)|26]]「ラメンタチオーネ」、[[交響曲第30番 (ハイドン)|30]]「アレルヤ」、[[交響曲第31番 (ハイドン)|31]]「ホルン信号」、[[交響曲第38番 (ハイドン)|38]]、[[交響曲第39番 (ハイドン)|39]]、[[交響曲第43番 (ハイドン)|43]]「マーキュリー」、[[交響曲第44番 (ハイドン)|44]]「悲しみ」、[[交響曲第45番 (ハイドン)|45]]「告別」、[[交響曲第46番 (ハイドン)|46]]、[[交響曲第48番 (ハイドン)|48]]「マリア・テレジア」、[[交響曲第49番 (ハイドン)|49]]「受難」、[[交響曲第50番 (ハイドン)|50]]、[[交響曲第53番 (ハイドン)|53]]「帝国」、[[交響曲第55番 (ハイドン)|55]]「校長先生」、[[交響曲第59番 (ハイドン)|59]]「火事」、[[交響曲第60番 (ハイドン)|60]]「うかつ者」、[[交響曲第63番 (ハイドン)|63]]「ラ・ロクサーヌ」、[[交響曲第64番 (ハイドン)|64]]「時の移ろい」、」、[[交響曲第67番 (ハイドン)|67]]、[[交響曲第69番 (ハイドン)|69]]「ラウドン」、[[交響曲第70番 (ハイドン)|70]]、[[交響曲第72番 (ハイドン)|72]]、[[交響曲第73番 (ハイドン)|73]]「狩」、[[交響曲第76番 (ハイドン)|76]]、[[交響曲第82番 (ハイドン)|82]]「熊」、[[交響曲第83番 (ハイドン)|83]]「めんどり」、[[交響曲第85番 (ハイドン)|85]]「王妃」、[[交響曲第88番 (ハイドン)|88]]、[[交響曲第89番 (ハイドン)|89]]、[[交響曲第90番 (ハイドン)|90]]、[[交響曲第91番 (ハイドン)|91]]、[[交響曲第92番 (ハイドン)|92]]「オックスフォード」、[[交響曲第93番 (ハイドン)|93]]、[[交響曲第94番 (ハイドン)|94]]「驚愕」、[[交響曲第95番 (ハイドン)|95]]、[[交響曲第96番 (ハイドン)|96]]、[[交響曲第97番 (ハイドン)|97]]、[[交響曲第98番 (ハイドン)|98]]、[[交響曲第99番 (ハイドン)|99]]、[[交響曲第100番 (ハイドン)|100]]「軍隊」、[[交響曲第101番 (ハイドン)|101]]「時計」、[[交響曲第102番 (ハイドン)|102]]、[[交響曲第103番 (ハイドン)|103]]「太鼓連打」、[[交響曲第104番 (ハイドン)|104]]「ロンドン」)+[[交響曲A (ハイドン)|交響曲A]]、[[交響曲B (ハイドン)|B]] *1734年 [[フランソワ=ジョセフ・ゴセック|ゴセック]](フランス) - ? *1735年 [[ヨハン・クリスティアン・バッハ|J.C.バッハ]](ドイツ) - ? *1737年 [[ミヒャエル・ハイドン]](オーストリア) - 40曲以上の交響曲 *1739年 [[ヨハン・バプティスト・ヴァンハル|ヴァンハル]](チェコ) - ? *1739年 [[カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ|ディッタースドルフ]](オーストリア) - 100曲以上の交響曲 *1741年 [[アンドレア・ルケージ|ルケージ]](イタリア) - *1743年 [[ルイジ・ボッケリーニ|ボッケリーニ]](イタリア) - 27曲(?)の交響曲 *1750年 [[アントニオ・ロセッティ|ロセッティ]](チェコ) - *1752年 [[ムツィオ・クレメンティ|クレメンティ]](イタリア) - *1756年 [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]](オーストリア) - 38曲の番号付き(2、3番と37番のほとんどは他人の作)交響曲([[交響曲第1番 (モーツァルト)|1]]、[[交響曲第2番 (モーツァルト)|2]]、[[交響曲第4番 (モーツァルト)|4]]、[[交響曲第5番 (モーツァルト)|5]]、[[交響曲第6番 (モーツァルト)|6]]、[[交響曲第7番 (モーツァルト)|7]]、[[交響曲第8番 (モーツァルト)|8]]、[[交響曲第9番 (モーツァルト)|9]]、[[交響曲第10番 (モーツァルト)|10]]、[[交響曲第16番 (モーツァルト)|16]]、[[交響曲第20番 (モーツァルト)|20]]、[[交響曲第25番 (モーツァルト)|25]]、[[交響曲第26番 (モーツァルト)|26]]、[[交響曲第27番 (モーツァルト)|27]]、[[交響曲第28番 (モーツァルト)|28]]、[[交響曲第29番 (モーツァルト)|29]]、[[交響曲第30番 (モーツァルト)|30]]、[[交響曲第31番 (モーツァルト)|31]]、[[交響曲第32番 (モーツァルト)|32]]、[[交響曲第33番 (モーツァルト)|33]]、[[交響曲第34番 (モーツァルト)|34]]、[[交響曲第35番 (モーツァルト)|35]]「ハフナー」、[[交響曲第36番 (モーツァルト)|36]]「リンツ」、[[交響曲第37番 (モーツァルト)|37]]、[[交響曲第38番 (モーツァルト)|38]]「プラハ」、[[交響曲第39番 (モーツァルト)|39]]、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|40]]、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|41]]「ジュピター」)+14曲(?)の番号無し *1757年 [[イグナツ・プライエル|プライエル]](オーストリア) - 41曲の交響曲。 *1763年 [[エティエンヌ=ニコラ・メユール|メユール]](フランス) - 4曲以上の交響曲。 *1770年 [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]](ドイツ) - 9曲の交響曲([[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|1]]、[[交響曲第2番 (ベートーヴェン)|2]]、[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|3「英雄」]]、[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|4]]、[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|5「運命」]]、[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|6「田園」]]、[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|7]]、[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|8]]、[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|9「合唱付き」]])+[[ウェリントンの勝利]]+スケッチのみの[[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|10]] === ロマン派 - 近代 === *1784年 [[ジョルジュ・オンスロウ|オンスロウ]](フランス) - 4曲 *1784年 [[ルイ・シュポーア|シュポーア]](ドイツ) - 9曲([[交響曲第1番 (シュポーア)|1]]、[[交響曲第2番 (シュポーア)|2]]、[[交響曲第3番 (シュポーア)|3]]、[[交響曲第4番 (シュポーア)|4「音の浄化」]]、[[交響曲第5番 (シュポーア)|5]]、[[交響曲第6番 (シュポーア)|6「歴史的」]]、[[交響曲第7番 (シュポーア)|7「人生の世俗と神聖」]]、[[交響曲第8番 (シュポーア)|8]]、[[交響曲第9番 (シュポーア)|9「四季」]])+未完1曲 *1786年 [[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]](ドイツ) - 2曲([[交響曲第1番 (ウェーバー)|1]], [[交響曲第2番 (ウェーバー)|2]]) *1792年 [[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]](イタリア) - 1曲 *1796年 [[フランツ・ベルワルド|ベルワルド]](スウェーデン) - 番号付き4曲([[交響曲第1番 (ベルワルド)|1]]、[[交響曲第2番 (ベルワルド)|2]]、[[交響曲第3番 (ベルワルド)|3]]、[[交響曲第4番 (ベルワルド)|4]])+1曲の習作 *1797年 [[フランツ・シューベルト|シューベルト]](オーストリア) - 7曲([[交響曲第1番 (シューベルト)|1]]、[[交響曲第2番 (シューベルト)|2]]、[[交響曲第3番 (シューベルト)|3]]、[[交響曲第4番 (シューベルト)|4「悲劇的」]]、[[交響曲第5番 (シューベルト)|5]]、[[交響曲第6番 (シューベルト)|6]]、[[交響曲第8番 (シューベルト)|8「ザ・グレート」]])+未完6曲([[交響曲第7番 (シューベルト)|7]]「未完成」) *1803年 [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]](フランス) - 4曲([[幻想交響曲]]、[[イタリアのハロルド]]、[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|ロメオとジュリエット]]、[[葬送と勝利の大交響曲]]) *1803年 [[フランツ・ラハナー|ラハナー]](ドイツ)- 8曲 *1806年 [[ホアン・クリソストモ・アリアーガ|アリアーガ]] (スペイン) - 1曲<ref name="名前なし-1">最新名曲解説全集補巻1 交響曲・管弦楽曲・協奏曲」([[音楽之友社]])参照</ref> *1809年 [[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]](ドイツ) - 5曲([[交響曲第1番 (メンデルスゾーン)|1]]、[[交響曲第2番 (メンデルスゾーン)|2「讃歌」]]、[[交響曲第3番 (メンデルスゾーン)|3「スコットランド」]]、[[交響曲第4番 (メンデルスゾーン)|4「イタリア」]]、[[交響曲第5番 (メンデルスゾーン)|5「宗教改革」]])+13曲の[[弦楽のための交響曲 (メンデルスゾーン)|弦楽交響曲]] *1810年 [[ロベルト・シューマン|シューマン]](ドイツ) - 番号付き4曲([[交響曲第1番 (シューマン)|1「春」]]、[[交響曲第2番 (シューマン)|2]]、[[交響曲第3番 (シューマン)|3「ライン」]]、[[交響曲第4番 (シューマン)|4]])+番号無し1曲+未完1曲([[ツヴィッカウ交響曲]]) *1811年 [[フランツ・リスト|リスト]](ハンガリー) - 2曲([[ファウスト交響曲]]、[[ダンテ交響曲]]) *1813年 [[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]](ドイツ) - [[交響曲 (ワーグナー)|交響曲ハ長調]]+未完のホ長調+未完の1曲 *1815年 [[ローベルト・フォルクマン|フォルクマン]](ドイツ) - 2曲 *1817年 [[ニルス・ゲーゼ|ゲーゼ]](デンマーク) - 8曲([[交響曲第1番 (ゲーゼ)|1]]) *1818年 [[シャルル・グノー|グノー]](フランス) - 2曲 + [[小交響曲 (グノー)|小交響曲]] *1822年 [[セザール・フランク|フランク]](ベルギー) - 1曲([[交響曲 (フランク)|交響曲ニ短調]]) *1822年 [[ヨアヒム・ラフ|ラフ]](ドイツ) - 11曲([[交響曲第1番 (ラフ)|1「祖国に寄す」]]、2、[[交響曲第3番 (ラフ)|3「森の中で」]]、4、[[交響曲第5番 (ラフ)|5「レノーレ」]]、6、7「アルプスにて」、8「春の響き」、9「夏に」、10「秋の時に」、11「冬」)+大交響曲イ短調 *1823年 [[エドゥアール・ラロ|ラロ]](フランス) - [[交響曲 (ラロ)|1曲]] *1824年 [[カール・ライネッケ|ライネッケ]](ドイツ) - 3曲 *1824年 [[アントン・ブルックナー|ブルックナー]](オーストリア) - 番号付き9曲([[交響曲第1番 (ブルックナー)|1]]、[[交響曲第2番 (ブルックナー)|2]]、[[交響曲第3番 (ブルックナー)|3「ワーグナー」]]、[[交響曲第4番 (ブルックナー)|4「ロマンチック」]]、[[交響曲第5番 (ブルックナー)|5]]、[[交響曲第6番 (ブルックナー)|6]]、[[交響曲第7番 (ブルックナー)|7]]、[[交響曲第8番 (ブルックナー)|8]]、[[交響曲第9番 (ブルックナー)|9]](未完))+2曲の習作([[交響曲ヘ短調 (ブルックナー)|00]]、[[交響曲第0番 (ブルックナー)|0]]) *1824年 [[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]](チェコ) - 1曲(祝典交響曲) *1829年 [[アントン・ルビンシテイン|ルビンシテイン]](ロシア) - 6曲([[交響曲第2番 (ルビンシテイン)|2「大洋」]]、[[交響曲第4番 (ルビンシテイン)|4「ドラマチック」]]、5「ロシア的」) *1830年 [[カール・ゴルトマルク|ゴルトマルク]](ハンガリー) [[田舎の婚礼の交響曲|交響曲第1番「田舎の婚礼」]] *1833年 [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]](ドイツ)- 4曲([[交響曲第1番 (ブラームス)|1]]、[[交響曲第2番 (ブラームス)|2]]、[[交響曲第3番 (ブラームス)|3]]、[[交響曲第4番 (ブラームス)|4]]) *1833年 [[アレクサンドル・ボロディン|ボロディン]](ロシア) - 2曲([[交響曲第1番 (ボロディン)|1]],[[交響曲第2番 (ボロディン)|2]])+未完1曲([[交響曲第3番 (ボロディン)|3]]) *1835年 [[フェリクス・ドレーゼケ|ドレーゼケ]](ドイツ) - 4曲([[交響曲第3番 (ドレーゼケ)|3]]) *1835年 [[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]](フランス) - 番号付き3曲([[交響曲第1番 (サン=サーンス)|1]]、[[交響曲第2番 (サン=サーンス)|2]]、[[交響曲第3番 (サン=サーンス)|3「オルガン付き」]])、番号なし2曲 *1837年 [[ミリイ・バラキレフ|バラキレフ]](ロシア) - 2曲([[交響曲第1番 (バラキレフ)|1]]、[[交響曲第2番 (バラキレフ)|2]]) *1838年 [[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]](フランス) - [[交響曲 (ビゼー)|交響曲]]、[[ローマ (ビゼー)|交響曲「ローマ」]] *1838年 [[マックス・ブルッフ|ブルッフ]](ドイツ) - 3曲([[交響曲第1番 (ブルッフ)|1]]、[[交響曲第2番 (ブルッフ)|2]]、[[交響曲第3番 (ブルッフ)|3]]) *1840年 [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]](ロシア) - 番号付き6曲([[交響曲第1番 (チャイコフスキー)|1「冬の日の幻想」]]、[[交響曲第2番 (チャイコフスキー)|2「小ロシア」]]、[[交響曲第3番 (チャイコフスキー)|3「ポーランド」]]、[[交響曲第4番 (チャイコフスキー)|4]]、[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|5]]、[[交響曲第6番 (チャイコフスキー)|6「悲愴」]])+1曲([[マンフレッド交響曲]])、未完1曲([[交響曲第7番 (チャイコフスキー)|7]]) *1840年 [[ヨハン・スヴェンセン|スヴェンセン]](ノルウェー) - 2曲 *1841年 [[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]](チェコ) - 9曲([[交響曲第1番 (ドヴォルザーク)|1「ズロニツェの鐘」]]、[[交響曲第2番 (ドヴォルザーク)|2]]、[[交響曲第3番 (ドヴォルザーク)|3]]、[[交響曲第4番 (ドヴォルザーク)|4]]、[[交響曲第5番 (ドヴォルザーク)|5]]、[[交響曲第6番 (ドヴォルザーク)|6]]、[[交響曲第7番 (ドヴォルザーク)|7]]、[[交響曲第8番 (ドヴォルザーク)|8]]、[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|9「新世界より」]]) *1841年 [[ジョヴァンニ・ズガンバーティ|ズガンバーティ]](イタリア) - 2曲 *1842年 [[アーサー・サリヴァン|サリヴァン]] (イギリス) - [[交響曲 (サリヴァン)|(アイルランド風の)交響曲]] *1843年 [[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]](ノルウェー) - [[交響曲 (グリーグ)|1曲]] *1844年 [[シャルル=マリー・ヴィドール|マリー・ヴィドール]](フランス) -3曲([[交響曲第3番 (ヴィドール)|3]]) *1844年 [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]](ロシア) - 3曲([[交響曲第1番 (リムスキー=コルサコフ)|1]]、2「[[アンタール]]」、[[交響曲第3番 (リムスキー=コルサコフ)|3]]) *1847年 {{仮リンク|クルークハルト|en|August Klughardt}} (ドイツ) - 6曲(「森の生活」、1、2、3、4、5) *1848年 [[チャールズ・ヒューバート・パリー|パリー]](イギリス) - 5曲(1、2「ケンブリッジ」、3「イングリッシュ」、4、5) *1850年 [[ズデニェク・フィビフ|フィビフ]](チェコ) - 3曲 *1851年 [[ヴァンサン・ダンディ|ダンディ]](フランス) - 3曲+1曲([[フランスの山人の歌による交響曲]]) *1852年 [[ハンス・フーバー|フーバー]](スイス) - 8曲 *1852年 [[チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード|スタンフォード]](イギリス) - 7曲([[交響曲第1番 (スタンフォード)|1]]、[[交響曲第2番 (スタンフォード)|2]]、[[交響曲第3番 (スタンフォード)|3]]、[[交響曲第4番 (スタンフォード)|4]]、[[交響曲第5番 (スタンフォード)|5]]、[[交響曲第6番 (スタンフォード)|6]]、[[交響曲第7番 (スタンフォード)|7]]) *1855年 [[エルネスト・ショーソン|ショーソン]](フランス) - [[交響曲 (ショーソン)|1曲]]+未完1曲 *1856年 [[ジュゼッペ・マルトゥッチ|マルトゥッチ]](イタリア) - 2曲 *1856年 [[クリスティアン・シンディング|シンディング]](ノルウェー) - 4曲 *1856年 [[セルゲイ・タネーエフ|タネーエフ]](ロシア) - 4曲([[交響曲第1番 (タネーエフ)|1]]、[[交響曲第2番 (タネーエフ)|2]]、[[交響曲第3番 (タネーエフ)|3]]、[[交響曲第4番 (タネーエフ)|4]]) *1857年 [[エドワード・エルガー|エルガー]](イギリス) - 2曲([[交響曲第1番 (エルガー)|1]]、[[交響曲第2番 (エルガー)|2]])+未完1曲([[交響曲第3番 (エルガー)|3]]) *1858年 [[ハンス・ロット|ロット]](オーストリア) - [[交響曲第1番 (ロット)|1曲]] *1859年 [[ヨゼフ・ボフスラフ・フェルステル|フェルステル]](チェコ) - 5曲 *1859年 [[セルゲイ・リャプノフ|リャプノフ]](ロシア) - 2曲 *1859年 [[ミハイル・イッポリトフ=イワノフ|イッポリトフ=イワノフ]](ロシア) - 2曲 (1、2「カレリア」) *1860年 [[エミール・フォン・レズニチェク|レズニチェク]](オーストリア) - 5曲(1「悲劇的」、2「皮肉」、3「古風な様式で」、4、5「舞踏交響曲」) *1860年 [[グスタフ・マーラー|マーラー]](オーストリア) - 番号付き9曲([[交響曲第1番 (マーラー)|1「巨人」]]、[[交響曲第2番 (マーラー)|2「復活」]]、[[交響曲第3番 (マーラー)|3]]、[[交響曲第4番 (マーラー)|4]]、[[交響曲第5番 (マーラー)|5]]、[[交響曲第6番 (マーラー)|6「悲劇的」]]、[[交響曲第7番 (マーラー)|7「夜の歌」]]、[[交響曲第8番 (マーラー)|8「千人」]]、[[交響曲第9番 (マーラー)|9]])+[[大地の歌]]+未完1曲([[交響曲第10番 (マーラー)|10]]) *1860年 [[イグナツィ・パデレフスキ|パデレフスキ]] - [[交響曲 (パデレフスキ)|交響曲「ポーランド」]] *1862年 [[クロード・アシル・ドビュッシー|ドビュッシー]](フランス) - 1曲(ピアノ連弾譜のみ) *1863年 [[フェリックス・ワインガルトナー|ヴァインガルトナー]](オーストリア) - 7曲 *1864年 [[ヨハン・ハルヴォルセン|ハルヴォルセン]](ノルウェー) - 3曲 *1864年 [[リヒャルト・シュトラウス|R.シュトラウス]](ドイツ) - 2曲([[交響曲第1番 (リヒャルト・シュトラウス)|1]]、[[交響曲第2番 (リヒャルト・シュトラウス)|2]])+[[家庭交響曲]]、[[アルプス交響曲]] *1864年 [[ギィ・ロパルツ|ロパルツ]](フランス) - 5曲([[交響曲第3番 (ロパルツ)|3]]) *1864年 [[ルイ・グラス]](デンマーク) - 6曲 *1865年 [[ジャン・シベリウス|シベリウス]](フィンランド) - 7曲([[交響曲第1番 (シベリウス)|1]]、[[交響曲第2番 (シベリウス)|2]]、[[交響曲第3番 (シベリウス)|3]]、[[交響曲第4番 (シベリウス)|4]]、[[交響曲第5番 (シベリウス)|5]]、[[交響曲第6番 (シベリウス)|6]]、[[交響曲第7番 (シベリウス)|7]])+[[クレルヴォ交響曲|クッレルヴォ交響曲]])+未完1曲([[交響曲第8番 (シベリウス)|8]]) *1865年 [[カール・ニールセン|ニールセン]](デンマーク) - 6曲([[交響曲第1番 (ニールセン)|1]]、[[交響曲第2番 (ニールセン)|2「4つの気質」]]、[[交響曲第3番 (ニールセン)|3「広がり」]]、[[交響曲第4番 (ニールセン)|4「不滅」]]、[[交響曲第5番 (ニールセン)|5]]、[[交響曲第6番 (ニールセン)|6「素朴な交響曲」]]) *1865年 [[アレクサンドル・グラズノフ|グラズノフ]](ロシア) - 8曲([[交響曲第1番 (グラズノフ)|1「スラヴ」]]、[[交響曲第2番 (グラズノフ)|2]]、[[交響曲第3番 (グラズノフ)|3]]、[[交響曲第4番 (グラズノフ)|4]]、[[交響曲第5番 (グラズノフ)|5]]、[[交響曲第6番 (グラズノフ)|6]]、[[交響曲第7番 (グラズノフ)|7「田園」]]、[[交響曲第8番 (グラズノフ)|8]])+未完1曲([[交響曲第9番 (グラズノフ)|9]]) *1865年 [[ポール・デュカス|デュカス]](フランス) - [[交響曲 (デュカス)|1曲]] *1865年 [[アルベリク・マニャール|マニャール]](フランス) - 4曲([[交響曲第1番 (マニャール)|1]]、[[交響曲第2番 (マニャール)|2]]、[[交響曲第3番 (マニャール)|3]]、[[交響曲第4番 (マニャール)|4]]) *1866年 [[ヴァシリー・カリンニコフ|カリンニコフ]](ロシア) - 2曲([[交響曲第1番 (カリンニコフ)|1]]、[[交響曲第2番 (カリンニコフ)|2]]) *1867年 [[エイミー・ビーチ|ビーチ]](アメリカ) - [[交響曲 (ビーチ)|交響曲 「ゲール風」]] *1869年 [[アルベール・ルーセル|ルーセル]](フランス) - 4曲([[交響曲第1番 (ルーセル)|1]]、[[交響曲第2番 (ルーセル)|2]]、[[交響曲第3番 (ルーセル)|3]]、[[交響曲第4番 (ルーセル)|4]]) *1870年 [[フローラン・シュミット]](フランス) - 2曲 *1870年 [[シャルル・トゥルヌミール|トゥルヌミール]] - 8曲([[交響曲第6番 (トゥルヌミール)|6]]、[[交響曲第7番「生命の舞曲」|7]]) *1871年 [[アレクサンダー・ツェムリンスキー|ツェムリンスキー]](オーストリア) - 3曲([[交響曲第1番 (ツェムリンスキー)|1]]、[[交響曲第2番 (ツェムリンスキー)|2]]、[[抒情交響曲]])、シンフォニエッタ *1871年 [[ヴィルヘルム・ステーンハンマル|ステーンハンマル]](スウェーデン) - 2曲([[交響曲第2番 (ステーンハンマル)|2]]) *1872年 [[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]](ロシア) - 5曲([[交響曲第1番 (スクリャービン)|1]]、[[交響曲第2番 (スクリャービン)|2]]、[[交響曲第3番 (スクリャービン)|3]]、[[交響曲第4番 (スクリャービン)|4「法悦の詩」]]、[[交響曲第5番 (スクリャービン)|5「プロメテウス」]]) *1872年 [[ヒューゴ・アルヴェーン|アルヴェーン]](スウェーデン) - 5曲([[交響曲第1番 (アルヴェーン)|1]]、[[交響曲第2番 (アルヴェーン)|2]]、[[交響曲第3番 (アルヴェーン)|3]]、[[交響曲第4番 (アルヴェーン)|4「海辺の岩礁から」]]、[[交響曲第5番 (アルヴェーン)|5]]) *1872年 [[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ|ヴォーン・ウィリアムズ]](イギリス) - 9曲([[海の交響曲]](1)、[[ロンドン交響曲 (ヴォーン・ウィリアムズ)|ロンドン交響曲]](2)、[[田園交響曲 (ヴォーン・ウィリアムズ)|田園交響曲]](3)、[[交響曲第4番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|4]]、[[交響曲第5番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|5]]、[[交響曲第6番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|6]]、[[南極交響曲]](7)、[[交響曲第8番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|8]]、[[交響曲第9番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|9]]) *1873年 [[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]](ロシア) - 5曲:3曲の番号付き交響曲([[交響曲第1番 (ラフマニノフ)|1]]、[[交響曲第2番 (ラフマニノフ)|2]]、[[交響曲第3番 (ラフマニノフ)|3]])+[[ユース・シンフォニー]]、[[合唱交響曲]]「[[鐘 (ラフマニノフ)|鐘]]」 *1874年 [[チャールズ・アイヴズ|アイヴズ]](アメリカ) - 4曲([[交響曲第1番 (アイヴズ)|1]]、[[交響曲第2番 (アイヴズ)|2]]、[[交響曲第3番 (アイヴズ)|3]]、[[交響曲第4番 (アイヴズ)|4]])と[[ホリデイ・シンフォニー|交響曲「祭日」]]、[[ユニヴァース交響曲|宇宙交響曲]](未完成) *1874年 [[フランツ・シュミット]](オーストリア) - 4曲([[交響曲第4番 (フランツ・シュミット)|4]]) *1874年 [[ヨセフ・スク (作曲家)|スク]](チェコ) - 2曲(交響曲ホ長調、[[アスラエル交響曲]]) *1874年 [[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]](オーストリア) - [[室内交響曲]]([[室内交響曲第1番 (シェーンベルク)|1]], [[室内交響曲第2番 (シェーンベルク)|2]]) *1875年 [[レインゴリト・グリエール|グリエール]]([[ウクライナ]]) - 3曲(1、2、[[交響曲第3番 (グリエール)|3「イリヤ・ムーロメツ」]]) *1875年 [[リヒャルト・ヴェッツ|ヴェッツ]](ドイツ)- 3曲(1、2、3) *1875年 [[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]](フランス)- 1曲(スケッチのみ) *1876年 [[エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ|ヴォルフ=フェラーリ]](イタリア) - 室内交響曲1曲 *1876年 [[ハヴァーガル・ブライアン|ブライアン]](イギリス) - 32曲([[交響曲第1番 (ブライアン)|1「ゴシック」]]、[[交響曲第2番 (ブライアン)|2]]、[[交響曲第32番 (ブライアン)|32「記念日に」]]) *1877年 [[エルンスト・フォン・ドホナーニ|ドホナーニ]](ハンガリー) - 2曲([[交響曲第2番 (ドホナーニ)|2]]) *1878年 [[フランツ・シュレーカー|シュレーカー]](オーストリア) - 室内交響曲1曲 *1879年 [[オタカル・オストルチル|オストルチル]](チェコ) - 1曲(交響曲イ長調)+ シンフォニエッタ *1879年 [[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]](イタリア) - 2曲(交響曲ト長調、劇的交響曲) *1879年 [[ハミルトン・ハーティ|ハーティ]] (アイルランド) - [[アイルランド交響曲]] *1879年 [[オット・オルソン|オルソン]](スウェーデン)- 1曲 *1880年 [[エルネスト・ブロッホ|ブロッホ]](スイス-アメリカ) - 4曲(交響曲嬰ハ短調、[[イスラエル交響曲]]、シンフォニア・ブレーヴェ(短編交響曲)、交響曲変ホ調) *1880年 [[イルデブランド・ピツェッティ|ピツェッティ]](イタリア) - [[交響曲 (ピツェッティ)|1曲]] *1881年 [[カール・ヴァイグル|ヴァイグル]](オーストリア) - 6曲 *1881年 [[ニコライ・ミャスコフスキー|ミャスコフスキー]](ロシア) - 27曲([[交響曲第1番 (ミャスコフスキー)|1]]、[[交響曲第2番 (ミャスコフスキー)|2]]、[[交響曲第3番 (ミャスコフスキー)|3]]、[[交響曲第4番 (ミャスコフスキー)|4]]、[[交響曲第5番 (ミャスコフスキー)|5]]、[[交響曲第6番 (ミャスコフスキー)|6]]、[[交響曲第7番 (ミャスコフスキー)|7]]、[[交響曲第8番 (ミャスコフスキー)|8]]、[[交響曲第9番 (ミャスコフスキー)|9]]、[[交響曲第10番 (ミャスコフスキー)|10]]、[[交響曲第11番 (ミャスコフスキー)|11]]、[[交響曲第12番 (ミャスコフスキー)|12]]、[[交響曲第13番 (ミャスコフスキー)|13]]、[[交響曲第14番 (ミャスコフスキー)|14]]、[[交響曲第15番 (ミャスコフスキー)|15]]、[[交響曲第16番 (ミャスコフスキー)|16]]、[[交響曲第17番 (ミャスコフスキー)|17]]、[[交響曲第18番 (ミャスコフスキー)|18]]、[[交響曲第19番 (ミャスコフスキー)|19]]、[[交響曲第20番 (ミャスコフスキー)|20]]、[[交響曲第21番 (ミャスコフスキー)|21]]、[[交響曲第22番 (ミャスコフスキー)|22]]、[[交響曲第23番 (ミャスコフスキー)|23]]、[[交響曲第24番 (ミャスコフスキー)|24]]、[[交響曲第25番 (ミャスコフスキー)|25]]、[[交響曲第26番 (ミャスコフスキー)|26]]、[[交響曲第27番 (ミャスコフスキー)|27]]) *1881年 [[ジョルジェ・エネスク|エネスク]](ルーマニア) - 3曲 *1882年 [[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]](ロシア) - 4曲([[交響曲第1番 (ストラヴィンスキー)|1]]、[[詩篇交響曲]]、[[交響曲ハ調 (ストラヴィンスキー)|交響曲ハ調]]、[[3楽章の交響曲]]、※[[管楽器のための交響曲|管楽器のシンフォニー]]は特殊な事例として除外) *1882年 [[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]](ポーランド) - 4曲([[交響曲第1番 (シマノフスキ)|1]]、[[交響曲第2番 (シマノフスキ)|2]]、[[交響曲第3番 (シマノフスキ)|3]]「夜の歌」、[[交響曲第4番 (シマノフスキ)|4]]) *1882年 [[コダーイ・ゾルターン|コダーイ]](ハンガリー) - [[交響曲 (コダーイ)|1曲]] *1882年 [[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ|マリピエロ]](イタリア) - 17曲 *1882年 [[ホアキン・トゥリーナ|トゥリーナ]] (スペイン) - セビーリャ交響曲<ref name="名前なし-1"/> *1883年 [[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]](オーストリア) - [[交響曲 (ヴェーベルン)|1曲]] *1883年 [[アルフレード・カゼッラ|カゼッラ]](イタリア) - 3曲 (1、2、3「シンフォニア」) *1883年 [[アーノルド・バックス|バックス]](イギリス) - 7曲([[交響曲第1番 (バックス)|1]]、[[交響曲第2番 (バックス)|2]]、[[交響曲第3番 (バックス)|3]]、[[交響曲第4番 (バックス)|4]]、[[交響曲第5番 (バックス)|5]]、[[交響曲第6番 (バックス)|6]]、[[交響曲第7番 (バックス)|7]])+ シンフォニエッタ *1884年 [[テューレ・ラングストレム|ラングストレム]](スウェーデン) - 4曲 *1885年 [[オットー・クレンペラー|クレンペラー]](ドイツ) - 6曲 *1885年 [[エゴン・ヴェレス|ヴェレス]](オーストリア) - 9曲 *1886年 [[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]](ドイツ) - 3曲([[交響曲第1番 (フルトヴェングラー)|1]]、[[交響曲第2番 (フルトヴェングラー)|2]]、[[交響曲第3番 (フルトヴェングラー)|3]]) *1886年 [[山田耕筰]](日本) - 「[[勝鬨と平和|かちどきと平和]]」、「明治頌歌」、「昭和頌歌」、舞踏交響曲「マグダラのマリア」、長唄交響曲第1番「越後獅子」、長唄交響曲第2番「吾妻八景」、長唄交響曲第3番「[[鶴亀 (山田耕筰)|鶴亀]]」 *1886年 [[ヘスース・グリーディ|グリーディ]] (スペイン)- [[ピレネー交響曲]] *1887年 [[エイトル・ヴィラ=ロボス|ヴィラ=ロボス]](ブラジル) - 12曲 *1887年 [[エルンスト・トッホ|トッホ]](オーストリア) - 7曲 + 室内交響曲、ピアノとオーケストラのための交響曲 *1887年 [[クット・アッテルベリ|アッテルベリ]](スウェーデン) - 9曲([[交響曲第1番 (アッテルベリ)|1]]、[[交響曲第2番 (アッテルベリ)|2]]、[[交響曲第3番 (アッテルベリ)|3]]「西海岸の光景」、[[交響曲第4番 (アッテルベリ)|4]]、[[交響曲第5番 (アッテルベリ)|5]]、[[交響曲第6番 (アッテルベリ)|6]]、[[交響曲第7番 (アッテルベリ)|7]]、[[交響曲第8番 (アッテルベリ)|8]]、[[交響曲第9番 (アッテルベリ)|9]]) *1890年 [[ボフスラフ・マルティヌー|マルティヌー]](チェコ) - 6曲([[交響曲第1番 (マルティヌー)|1]]、[[交響曲第2番 (マルティヌー)|2]]、[[交響曲第3番 (マルティヌー)|3]]、[[交響曲第4番 (マルティヌー)|4]]、[[交響曲第5番 (マルティヌー)|5]]、[[交響曲第6番 (マルティヌー)|6]]「交響的幻想曲」) *1890年 [[ルイス・デ・フレイタス・ブランコ|ブランコ]](ポルトガル) - 4曲 *1890年 [[ジャック・イベール|イベール]](フランス) - 1曲(「海の交響曲」)+ 未完1曲(「ボストニアーナ」) *1890年 [[フランク・マルタン|マルタン]](スイス) - 3曲(交響曲、小協奏交響曲、協奏交響曲) *1891年 [[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]](ロシア) - 7曲([[交響曲第1番 (プロコフィエフ)|古典交響曲]](1)、[[交響曲第2番 (プロコフィエフ)|2]]、[[交響曲第3番 (プロコフィエフ)|3]]、[[交響曲第4番 (プロコフィエフ)|4]]、[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|5]]、[[交響曲第6番 (プロコフィエフ)|6]]、[[交響曲第7番 (プロコフィエフ)|7]])+シンフォニエッタ *1891年 [[アーサー・ブリス|ブリス]] (イギリス) - [[色彩交響曲]]( [[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ|ヴォーン・ウィリアムズ]]・監修) *1892年 [[アルテュール・オネゲル|オネゲル]](スイス) - 5曲([[交響曲第1番 (オネゲル)|1]]、[[交響曲第2番 (オネゲル)|2]]、[[交響曲第3番 (オネゲル)|3「典礼風」]]、[[交響曲第4番 (オネゲル)|4「バーゼルの喜び」]]、[[交響曲第5番 (オネゲル)|5「三つのレ」]]) *1892年 [[ヒルディング・ルーセンベリ|ルーセンベリ]](スウェーデン) - 8曲 *1892年 [[ライタ・ラースロー|ライタ]](ハンガリー) - 9曲 *1892年 [[ダリウス・ミヨー|ミヨー]](フランス) - 12曲の交響曲([[交響曲第1番 (ミヨー)|1]]、[[交響曲第2番 (ミヨー)|2]]、[[交響曲第3番 (ミヨー)|3]]「テ・デウム」、[[交響曲第4番 (ミヨー)|4]])+ 6曲の室内交響曲([[室内交響曲第1番 (ミヨー)|1「春」]]、2、3、4、5、6) *1893年 [[マルツェル・テュベルク|テュベルク]](オーストリア) - 3曲 *1893年 [[ルーズ・ランゴー|ランゴー]](デンマーク) - 16曲 *1893年 [[アーサー・ベンジャミン]](オーストラリア) - [[交響曲第1番 (ベンジャミン)|1曲]] *1894年 [[ウォルター・ピストン|ピストン]] (アメリカ)- 8曲 ([[交響曲第2番 (ピストン)|2]]<ref>4と5は「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照]</ref> *1894年 [[エルヴィン・シュルホフ|シュルホフ]](チェコ) - 8曲 *1894年 [[アーネスト・ジョン・モーラン|モーラン]](イギリス) - 1曲([[交響曲 (モーラン)|交響曲ト短調]]) +[[シンフォニエッタ (モーラン)|シンフォニエッタ]] *1895年 [[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]](ドイツ) - 6曲([[画家マティス (交響曲)|画家マティス]]、[[交響曲変ホ調 (ヒンデミット)|変ホ調]]、[[吹奏楽のための交響曲 (ヒンデミット)|吹奏楽のための交響曲]]、「世界の調和」 <ref>「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref> *1895年 [[ボリス・リャトシンスキー|リャトシンスキー]](ウクライナ) - 5曲({{ill|交響曲第3番 (リャトシンスキー)|en|Symphony No. 3 (Lyatoshynsky)|label=3}}) *1896年 [[ハワード・ハンソン|ハンソン]](アメリカ) - 7曲([[交響曲第1番 (ハンソン)|1]]「北欧風」, [[交響曲第2番 (ハンソン)|2]]「ロマンティック」, [[交響曲第3番 (ハンソン)|3]], [[交響曲第4番 (ハンソン)|4]]「レクイエム」) *1896年 [[ロジャー・セッションズ|セッションズ]](アメリカ) - 9曲 <ref>2, 5, 8は「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref> *1897年 [[ハラール・セーヴェルー|セーヴェルー]](ノルウェー) - 9曲(1、2、3、4、5「幻想曲ふうに」、6「哀しみの交響曲」、7「詩篇交響曲」、8「ミネソタ」、9) *1897年 [[エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト|コルンゴルト]](オーストリア→アメリカ) -[[交響曲 (コルンゴルト)|1曲]]+未完1曲 *1898年 [[ロイ・ハリス|ハリス]](アメリカ) - 15曲([[交響曲第3番 (ハリス)|3]]、[[交響曲第4番 (ハリス)|民謡交響曲]](4)、[[交響曲第8番 (ハリス)|8]]、[[交響曲第9番 (ハリス)|9]]) *1898年 [[ヴィクトル・ウルマン|ウルマン]](チェコ) - 2曲 *1898年 [[ハンス・アイスラー|アイスラー]](ドイツ) - 1曲([[ドイツ交響曲]]) *1899年 [[アレクサンドル・チェレプニン]](ロシア) - 4曲([[交響曲第1番 (アレクサンドル・チェレプニン)|1]]) *1899年 [[ロヴロ・フォン・マタチッチ|マタチッチ]](ユーゴスラビア) - 1曲([[対決の交響曲]]) *1899年 [[カルロス・チャベス|チャベス]](メキシコ) - 6曲(1「アンティゴナ」、2「インディゴ」、3、4「ロマンティック」、5、6 <ref>2と6は「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref> *1900年 [[アーロン・コープランド|コープランド]](アメリカ) - 3曲([[交響曲第3番 (コープランド)|3]])+ [[舞踊交響曲 (コープランド)|舞踊交響曲]] *1900年 [[エルンスト・クルシェネク|クルシェネク]](オーストリア) - 5曲の番号付き交響曲+2曲、交響曲《パラス・アテネ》(最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照)、シンフォニエッタ *1900年 [[クルト・ヴァイル|ヴァイル]](ドイツ) - 2曲([[交響曲第1番 (ヴァイル)|1]]、[[交響曲第2番 (ヴァイル)|2]])<ref>共に『最新名曲解説全集補巻1 交響曲・管弦楽曲・協奏曲』([[音楽之友社]])参照</ref> === 20世紀以降に生まれた作曲家 === *1901年 [[エドムンド・ラッブラ|ラッブラ]](イギリス) - 11曲 *1901年 [[ヴィクター・ヘリー=ハッチンソン|ヘリー=ハッチンソン]] (南アフリカ)- [[キャロル交響曲]]、他に 小管弦楽のための交響曲 *1902年 [[ウィリアム・ウォルトン|ウォルトン]](イギリス) - 2曲([[交響曲第1番 (ウォルトン)|1]]、[[交響曲第2番 (ウォルトン)|2]]) *1902年 [[ヴィッサリオン・シェバリーン|シェバリーン]](ロシア) - 5曲+劇的交響曲「レーニン」、シンフォニエッタ *1903年 [[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]](アルメニア) - 3曲([[交響曲第1番 (ハチャトゥリアン)|1]]、[[交響曲第2番 (ハチャトゥリアン)|2]]、[[交響曲第3番 (ハチャトゥリアン)|3]](交響詩曲)) *1903年 [[諸井三郎]](日本) - 6曲?([[交響曲第2番 (諸井三郎)|2]]、[[交響曲第3番 (諸井三郎)|3]])、[[こどものための小交響曲]] *1904年 [[橋本國彦]](日本) - 2曲([[交響曲第1番 (橋本國彦)|1]]「ニ調」、[[交響曲第2番 (橋本國彦)|2]]「祝典交響曲(ヘ調)」) *1904年 [[ガヴリール・ポポフ|ポポフ]](ロシア) - 6曲([[交響曲第1番 (ポポーフ)|1]]、[[交響曲第3番 (ポポーフ)|3]]、[[交響曲第6番 (ポポーフ)|6]]) *1905年 [[ウィリアム・オルウィン|オルウィン]](イングランド) - 5曲 *1905年 [[マイケル・ティペット|ティペット]](イギリス) - 4曲([[交響曲第1番 (ティペット)|1]]、[[交響曲第2番 (ティペット)|2]]、[[交響曲第3番 (ティペット)|3]]、[[交響曲第4番 (ティペット)|4]]) *1905年 [[エドゥアルド・トゥビン|トゥビン]](エストニア) - 10曲+未完1曲 *1905年 [[カール・アマデウス・ハルトマン|ハルトマン]](ドイツ) - 8曲<ref>6は、「最新名曲解説全集補巻1 交響曲・管弦楽曲・協奏曲」([[音楽之友社]])参照</ref> *1906年 [[ベンジャミン・フランケル|フランケル]](イギリス) - 8曲 *1906年 [[金井喜久子]](日本) - 1曲+未完1曲 *1906年 [[アンタル・ドラティ|ドラティ]](ハンガリー) - 2曲([[交響曲第2番 (ドラティ)|2]]) *1906年 [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]](ロシア) - 15曲([[交響曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|1]]、[[交響曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|2]]「10月革命に捧ぐ」、[[交響曲第3番 (ショスタコーヴィチ)|3]]「メーデー」、[[交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|4]]、[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|5]]、[[交響曲第6番 (ショスタコーヴィチ)|6]]、[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|7]]「レニングラード」、[[交響曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|8]]、[[交響曲第9番 (ショスタコーヴィチ)|9]]、[[交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|10]]、[[交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)|11]]「1905年」、[[交響曲第12番 (ショスタコーヴィチ)|12]]「1917年」、[[交響曲第13番 (ショスタコーヴィチ)|13]]「バビヤール」、[[交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|14]]「死者の歌」、[[交響曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|15]]) *1906年 [[大澤壽人]] (日本) - 3曲([[交響曲第2番 (大澤壽人)|2]], [[交響曲第3番 (大澤壽人)|3]]) *1906年 [[ボリス・コジェヴニコフ|コジェヴニコフ]](ロシア) - 5曲(1、2「勝利」、3「スラヴャンスカヤ」、4、5「バム鉄道建設労働者たちに捧ぐ」) *1907年 [[アフメト・アドナン・サイグン|サイグン]](トルコ) - 5曲 *1908年 [[オリヴィエ・メシアン|メシアン]](フランス) - [[トゥランガリーラ交響曲]] *1909年 [[ヴァン・ホルンボー|ホルンボー]](デンマーク) - 13曲 *1909年 [[貴志康一]](日本)- [[仏陀 (交響曲)]] *1910年 [[ジャン・マルティノン|マルティノン]](フランス) - 4曲([[交響曲第4番 (マルティノン)|4]]「至高」) *1910年 [[サミュエル・バーバー|バーバー]](アメリカ) - 2曲([[交響曲第1番 (バーバー)|1]]、[[交響曲第2番 (バーバー)|2]]) *1910年 [[ウィリアム・シューマン]](アメリカ) - 8曲([[交響曲第3番 (ウィリアム・シューマン)|3]]、[[弦楽のための交響曲 (ウィリアム・シューマン)|弦楽のための交響曲]]) *1911年 [[アラン・ホヴァネス|ホヴァネス]](アメリカ) - 67曲([[交響曲第1番 (ホヴァネス)|1]]「追放」, [[交響曲第2番 (ホヴァネス)|2]]「神秘の山」、[[交響曲第3番 (ホヴァネス)|3]]、[[交響曲第4番 (ホヴァネス)|4]]、[[交響曲第6番 (ホヴァネス)|6]]「天空の門」[[交響曲第22番 (ホヴァネス)|22]]「光の都市」、[[交響曲第50番 (ホヴァネス)|50]]「セント・ヘレンズ山」) *1911年 [[バーナード・ハーマン|ハーマン]](アメリカ) - 1曲 *1911年 [[安部幸明]](日本) - 2曲([[交響曲第1番 (安部幸明)|1]]) *1911年 [[アラン・ペッタション|ペッタション]](スウェーデン) - 17曲 *1911年 [[ニーノ・ロータ|ロータ]](イタリア) - 1曲 *1911年 [[尾高尚忠]](日本)- [[交響曲第1番 (尾高尚忠)|未完1曲]] *1911年 [[丁善徳]](中国) - 1曲(交響曲「長征」) *1912年 [[市川都志春]] (日本) - [[日本旋法を基調とした交響曲]] *1912年 [[セルジュ・チェリビダッケ|チェリビダッケ]](ルーマニア) - 3曲 *1912年 [[馬思聡]](中国) - 2曲? *1912年 [[ドン・ギリス|ギリス]](アメリカ) - 10曲(交響曲51/2番) *1913年 [[ジョージ・ロイド|ロイド]](イギリス) - 12曲 *1913年 [[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]](イギリス) - シンフォニエッタ、[[シンプル・シンフォニー]]、[[シンフォニア・ダ・レクイエム]]、[[春の交響曲]] *1913年 [[ヴィトルト・ルトスワフスキ|ルトスワフスキ]](ポーランド) - 4曲<ref>2は、最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref> *1914年 [[伊福部昭]](日本) - [[シンフォニア・タプカーラ]] *1914年 [[アンジェイ・パヌフニク|パヌフニク]](ポーランド) - 10曲(5「空間の交響曲」、6「神秘の交響曲」、8「平和の交響曲」、9「希望の交響曲」) *1915年 [[デイヴィッド・ダイアモンド|ダイアモンド]](アメリカ) - 11曲 *1915年 [[ハンフリー・サール|サール]](イングランド) - 5曲 *1915年 [[ヴィンセント・パーシケッティ|パーシケッティ]](アメリカ) - 9曲(1、2、3、4、5、[[交響曲第6番 (パーシケッティ)|6]]、[[交響曲第7番 (パーシケッティ)|7「典礼風」]]、8、9「ヤニクルム」) *1916年 [[小倉朗]](日本) - 1曲<ref>最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref> *1916年 [[エイナル・エングルンド|エングルンド]](フィンランド) - 7曲 *1916年 [[アンリ・デュティユー|デュティユー]](フランス) - 2曲([[交響曲第1番 (デュティユー)|1]]、[[交響曲第2番 (デュティユー)|2「ル・ドゥーブル」]]) *1916年 [[柴田南雄]](日本) - 2曲(シンフォニア、[[ゆく河の流れは絶えずして|「ゆく川の流れは絶えずして」]]) *1917年 [[ルー・ハリソン|ハリソン]](アメリカ) - 4曲 *1917年 [[ミハイル・ゴルトシュタイン]](ロシア→ドイツ) - ? *1917年 [[尹伊桑]](韓国) - 5曲([[交響曲第1番 (尹伊桑)|1]]、[[交響曲第4番 (尹伊桑)|4]]「暗黒の中で歌う」) *1918年 [[ゴットフリート・フォン・アイネム|アイネム]] (オーストリア) - [[フィラデルフィア交響曲]] *1918年 [[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]](アメリカ) - 3曲([[交響曲第1番 (バーンスタイン)|1「エレミア」]]、[[交響曲第2番 (バーンスタイン)|2「不安の時代」]]、[[交響曲第3番 (バーンスタイン)|3「カディッシュ」]]) *1919年 [[アルフレッド・リード|リード]](アメリカ) - 5曲(金管楽器と打楽器のための交響曲(1)、2、3、4、5「さくら」) *1919年 [[モイセイ・ヴァインベルク|ヴァインベルク]](ポーランド→ロシア) - 番号付き19曲([[交響曲第4番 (ヴァインベルク)|4]]、[[交響曲第10番 (ヴァインベルク)|10]])+交響曲「カディッシュ」、シンフォニエッタ2曲、室内交響曲4曲 *1919年 [[スルタン・ガジベコフ|ガジベコフ]](アゼルバイジャン) - 2曲? *1919年 [[ガリーナ・ウストヴォリスカヤ|ウストヴォリスカヤ]](ロシア) - 5曲 *1921年 [[マルコム・アーノルド|アーノルド]](イギリス) - 11曲([[交響曲第1番 (アーノルド)|1]]、2、3、4、5、6、7、8、9、弦楽のための交響曲、金管楽器のための交響曲) *1921年 [[ロバート・シンプソン|シンプソン]](イギリス) - 11曲 *1921年 [[カレル・フサ|フサ]](チェコ - アメリカ) - 現時点で2曲(2「リフレクションズ」) *1922年 [[別宮貞雄]](日本) - 5曲([[交響曲第1番 (別宮貞雄)|1]]、[[交響曲第2番 (別宮貞雄)|2]]、3、4、5「人間」) *1922年 [[ルーカス・フォス|フォス]](ドイツ - アメリカ) - 4曲 *1922年 [[松下眞一]](日本) - 7曲<ref>3は、「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref> *1923年 [[ピーター・メニン|メニン]](アメリカ) - 9曲 *1924年 [[團伊玖磨]](日本) - 6曲([[交響曲第1番 (團伊玖磨)|1]]、[[交響曲第2番 (團伊玖磨)|2]]、[[交響曲第3番 (團伊玖磨)|3]]、[[交響曲第4番 (團伊玖磨)|4]]、[[交響曲第5番 (團伊玖磨)|5]]、[[交響曲第6番 (團伊玖磨)|6「HIROSHIMA」]])、[[ブルレスケ風交響曲]]+未完1曲 *1924年 [[オタール・タクタキシヴィリ|タクタキシヴィリ]](ロシア) - 2曲 ([[交響曲第2番(タクタキシヴィリ)|2]]) *1924年 [[ミハイル・ノスイレフ|ノスイレフ]](ロシア) - 4曲 *1925年 [[アンドレイ・エシュパイ|エシュパイ]](ロシア) - 9曲 *1925年 [[芥川也寸志]](日本)‐ 2曲([[交響曲第1番 (芥川也寸志)|1]])、[[エローラ交響曲]] *1925年 [[ボリス・チャイコフスキー]](ロシア) - 4曲 *1926年 [[ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ|ヘンツェ]](ドイツ) - 10曲([[交響曲第1番 (ヘンツェ)|1]]、[[交響曲第2番 (ヘンツェ)|2]]、[[交響曲第3番 (ヘンツェ)|3]]、[[交響曲第4番 (ヘンツェ)|4]]、[[交響曲第5番 (ヘンツェ)|5]]<ref>「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref>、[[交響曲第6番 (ヘンツェ)|6]]、[[交響曲第7番 (ヘンツェ)|7]]、[[交響曲第8番 (ヘンツェ)|8]]、[[交響曲第9番 (ヘンツェ)|9]]、[[交響曲第10番 (ヘンツェ)|10]]) *1928年 [[タデウシュ・バイルト|バイルト]] (ポーランド) -3曲<ref>1と3は、「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref> *1928年 [[エフゲニー・スヴェトラーノフ|スヴェトラーノフ]](ロシア) - 1曲 *1928年 [[エイノユハニ・ラウタヴァーラ|ラウタヴァーラ]](フィンランド) - 8曲(1、2「シンフォニア・インティマ」、3、4「アラベスカータ」、5、6「ヴィンセンティアーナ」、7「光の天使」、8「旅」) *1929年 [[黛敏郎]](日本) - [[涅槃交響曲]]、[[曼荼羅交響曲]] *1929年 [[矢代秋雄]](日本) - [[交響曲 (矢代秋雄)|1曲]] *1929年 [[松村禎三]](日本) - 2曲([[交響曲第1番 (松村禎三)|1]]、[[交響曲第2番 (松村禎三)|2]]) *1929年 [[アーヴェト・テルテリャーン|テルテリャーン]](アゼルバイジャン) - 8曲(未完9番)([[交響曲第3番(テルテリャーン)|3]]) *1931年 [[ソフィア・グバイドゥーリナ|グバイドゥーリナ]] - 現時点で1曲([[声…沈黙…]]) *1931年 [[林光]](日本) - 4曲(こどもの交響曲、1、2、3) *1932年 [[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]](アメリカ) - 1曲 *1932年 [[クロード・トーマス・スミス|スミス]](アメリカ) - 1曲 *1932年 [[冨田勲]](日本)- 3曲([[イーハトーヴ交響曲]]) *1932年 [[ジョン・バーンズ・チャンス|チャンス]](アメリカ) - 2曲 *1933年 [[一柳慧]](日本)- 11曲 *1933年 [[イダ・ゴトコフスキー|ゴトコフスキー]] (フランス) - [[春の交響曲 (ゴトコフスキー)|春の交響曲]]、弦楽と打楽器のための交響曲、25管楽器のための交響曲、耀かしい交響曲、黄金交響曲(15本のサクソフォーンのための)、若々しい交響曲 *1933年 [[ヘンリク・グレツキ|グレツキ]](ポーランド) - 4曲(1「[[1959年]]」、[[交響曲第2番 (グレツキ)|2「コペルニクス党」]]、[[交響曲第3番 (グレツキ)|3「悲歌のシンフォニー」]]、4「[[アレクサンデル・タンスマン|タンスマン]]のエピソード」) *<!--+現在第9番を作曲中?-->1933年 [[クシシュトフ・ペンデレツキ|ペンデレツキ]](ポーランド) - 8曲([[交響曲第1番 (ペンデレツキ)|1]]、[[交響曲第2番 (ペンデレツキ)|2]]、[[交響曲第3番 (ペンデレツキ)|3、]]7「エルサレムの七つの門」) *1934年 [[アルフレート・シュニトケ|シュニトケ]](ロシア) - 9曲([[交響曲第0番 (シュニトケ)|0]]、[[交響曲第1番 (シュニトケ)|1]]、2「聖フロリアン」、3、4、5「コンツェルト・グロッソ第四番」、5、6、7、8) + 9(未完成。補筆完成版あり) *1934年 [[アレムダール・カラマーノフ|カラマーノフ]](ロシア) - 24曲 *1935年 [[アルヴォ・ペルト|ペルト]](エストニア) - 4曲 *1935年 [[ヘルムート・ラッヘンマン|ラッヘンマン]](ドイツ) - 交響曲ホ短調(15歳時の習作) *1935年 [[ギヤ・カンチェリ|カンチェリ]](グルジア) - 現時点で7曲(1、2「歌々」、3、4「ミケランジェロの思い出に」、5「我が両親の思い出に」、6、7「エピローグ」) *1937年 [[フィリップ・グラス|グラス]](アメリカ) - 現時点で12曲 *1937年 [[ジョン・コリリアーノ|コリリアーノ]](アメリカ) - 現時点で3曲(1、2、[[交響曲第3番 (コリリアーノ)|3「キルクス・マクシムス」]]) *1937年 [[ヴァレンティン・シルヴェストロフ|シルヴェストロフ]] (ウクライナ) - 現時点で7曲 *1937年 [[ロリス・チェクナヴォリアン|チェクナヴォリアン]](イラン) *1938年 [[チャールズ・ウォリネン|ウォリネン]](アメリカ) - 8曲 *1939年 [[ボリス・ティシチェンコ|ティシチェンコ]](ロシア) - 現時点で7曲 *1939年 [[ロバート・ジェイガー|ジェイガー]](アメリカ) - 現時点で3曲 ([[交響曲第1番 (ジェイガー)|1]]、[[交響曲第2番 (ジェイガー)|2「三法印」]]、3「神のかがやき」) *1940年 [[野田暉行]](日本) - 現時点で2曲<ref>1は、「最新名曲解説全集3 交響曲Ⅲ」([[音楽之友社]])参照</ref>、 他にコラール交響曲 *1941年 [[デリク・ブルジョワ|ブルジョワ]] (イギリス) - 116曲([[交響曲第6番 (ブルジョワ)|6]]「コッツウォルド」) *1943年 [[池辺晋一郎]](日本) - 現時点で10曲 *1943年 [[デイヴィッド・マスランカ|マスランカ]](アメリカ) - 現時点で9曲(1、2、3、4、5、6「地球は生きている」、7、8、9)+小交響曲1曲(「我らに今日の糧を与え給え」)※「小交響曲 〜バニー・チャイルズの名による」はソロ・クラリネットのための作品のため除外 *1944年 [[レイフ・セーゲルスタム|セーゲルスタム]] - 2008年9月現在で215曲 *1947年 [[ジョン・クーリッジ・アダムズ|アダムズ]](アメリカ) - 現時点で2曲([[室内交響曲 (アダムズ)|室内交響曲]]、[[原爆博士|交響曲「原爆博士」]]) *1949年 [[カレヴィ・アホ|アホ]](フィンランド) - 14曲 *1949年 [[ジェイムズ・バーンズ (作曲家)|バーンズ]](アメリカ) - 現時点で8曲(1、2、[[交響曲第3番 (バーンズ)|3]]、4「イエローストーン・ポートレート」、5「フェニックス」、6、交響的葬送曲(7)、8、9) *1950年 [[レポ・スメラ|スメラ]](エストニア) - 6曲 *1950年 [[中村滋延]](日本) - 現時点で5曲 *1950年 [[久石譲]](日本) - 現時点で2曲の交響曲と2曲の室内交響曲。未完1曲。他に「THE EAST LAND SYMPHONY」、「ASIAN SYMPHONY」 *1951年 [[フィリップ・スパーク|スパーク]](イギリス) - 現時点で番号付き3曲(1「大地、水、太陽、風」、2「サヴァンナ・シンフォニー」、3「カラー・シンフォニー」)+ [[ピッツバーグ交響曲 (スパーク)|ピッツバーグ交響曲]] *1953年 [[ヨハン・デ・メイ|デ・メイ]](オランダ) - 現時点で5曲([[交響曲第1番 (デ・メイ)|1「指輪物語」]]、[[交響曲第2番 (デ・メイ)|2「ビッグ・アップル」]]、[[交響曲第3番 (デ・メイ)|3「プラネット・アース」]]、[[交響曲第4番 (デ・メイ)|4「ジンフォニー・デア・リーダー」]]、5「リターン・トゥー・ミドルアース」) *1953年 [[吉松隆]](日本) - 現時点で6曲([[交響曲第1番 (吉松隆)|カムイチカプ交響曲]](1)、2「地球(テラ)にて」、3、[[交響曲第4番 (吉松隆)|4]]、[[交響曲第5番 (吉松隆)|5]]、6「鳥と天使たち」) *1953年 [[西村朗]](日本) - 現時点で3曲の交響曲と3曲の室内交響曲 *1956年 [[ヤン・ヴァン・デル・ロースト|ヴァン・デル・ロースト]](ベルギー) - 現時点で1曲([[シンフォニア・フンガリカ]])+シンフォニア、シンフォニエッタ1曲 *1953年 [[オリヴァー・ナッセン|ナッセン]](イギリス) - 3曲 *1957年 [[譚盾]](中国) - 現時点で3曲(交響曲1997「天、地、人」、2000トゥデイ〜ワールド・シンフォニー・フォー・ザ・ミレニアム、インターネット交響曲) *1957年 [[天野正道]] - 現時点で1曲(1「グラール」) *1958年 [[ロバート・W・スミス|スミス]] - 現時点で3曲(交響曲第1番「神曲」、交響曲第2番「オデッセイ」、交響曲第3番「ドン・キホーテ」) *1959年 [[エリッキ=スヴェン・トゥール|トゥール]](エストニア) - 現時点で8曲(交響曲第4番「マグマ」) *1960年 [[カムラン・インス|インス]](トルコ) - 5曲?(交響曲第2番「コンスタンティノープルの陥落」、[[交響曲第3番 (インス)|交響曲第3番「ウィーンの包囲」]]、交響曲第4番「サルディス」) *1960年 [[伊藤康英]](日本) - 現時点で3曲(交響曲、ジュビリーシンフォニー(祝祭交響曲)、シンガポールシンフォニー) *1960年 [[千住明]](日本) - 現時点で1曲 *1961年 [[大島ミチル]](日本) - 現時点で2曲 *1964年 [[長生淳]](日本) - 現時点で5曲(すべて[[吹奏楽]]) *1966年 [[フェレール・フェラン|フェラン]](スペイン) - 現時点で4曲 (1「砂漠の嵐」、[[交響曲第2番 (フェラン)|2「キリストの受難」]]、3「偉大なる精神」、4「巨人」) + 小交響曲1曲 (「山の呼び声」) *1970年 [[新垣隆]](日本) - ([[交響曲第1番 (佐村河内守)|「HIROSHIMA」]]、「HARIKOMI」、「連祷」) *1973年 [[ベルト・アッペルモント|アッペルモント]] - 現時点で2曲([[交響曲第1番 (アッペルモント)|1]]) *1977年 [[菅野祐悟]](日本) - 現時点で2曲 *1978年 [[アガタ・ズベル]](ポーランド) - 現時点で2曲 *1991年 [[ジェイ・グリーンバーグ]](アメリカ) - 現時点で6曲 == さまざまな交響曲 == ここでは、交響曲という名を冠するさまざまなジャンルについて触れる。 ; [[合唱交響曲]] : [[エクトール・ベルリオーズ]]の『ロミオとジュリエット』、ベートーヴェンの[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]の流れを汲む、管弦楽、合唱、時には独唱を伴う大規模な交響曲。 ; [[シンフォニエッタ]] : イタリア語で「小さな交響曲」を指す。下の室内交響曲とは違い、通常の管弦楽編成で演奏されるものが多い。「小交響曲」とも訳されるが、[[シャルル・グノー|グノー]]の[[小交響曲 (グノー)|小交響曲]]のように、原題が''Petite Symphonie''となっているものもある。 ; [[室内交響曲]] : 室内楽、室内管弦楽のための交響曲。[[アーノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]の2曲が知られている。ショスタコーヴィチの「室内交響曲」は[[ルドルフ・バルシャイ|他者]]による弦楽四重奏曲の編曲である。 ; [[協奏交響曲]] : 18世紀に多く書かれたジャンル。[[ジュゼッペ・カンビーニ|カンビーニ]]、[[アントン・シュターミッツ|シュターミッツ]]らに数多くの作品がある。[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]のものがよく知られている。 ; [[オルガン交響曲]] : [[シャルル=マリー・ヴィドール]]ら[[フランス]]の作曲家による[[オルガン]]独奏曲にSymphonie pour orgue(オルガンのための交響曲)と名付けられたものがある。これらは通常の交響曲とは別のものであり、「オルガン交響曲」または「サンフォニー」と呼んで区別する。なお、ヴィドールのサンフォニー第5番第5楽章「トッカータ」は特に有名で、演奏機会も多い。後世のイギリスの作曲家[[カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ|ソラブジ]]には3つのオルガン交響曲があるが、演奏時間が桁違いに長く、2時間から6時間40分もかかる。 ; ピアノ交響曲 : [[カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ|ソラブジ]]は長大な演奏時間を要する数曲の「ピアノ交響曲」を作ったが、同じく数時間かかる[[ピアノソナタ|ピアノ・ソナタ]]や6管編成などのオーケストラ伴奏付きの[[ピアノ協奏曲]]などの延長上の作品、またはそれらを遥かに超えた作品としてみることが出来る。 :また、ピアノ独奏曲として、[[シャルル=ヴァランタン・アルカン|アルカン]]の「短調による12の練習曲 op.39」の第4曲から第7曲までが「交響曲」と題され、管弦楽を用いた交響曲的な響きの再現が追求されている。 == 類似の形式を持つ楽曲 == *独奏[[協奏曲]] *独奏[[ソナタ]] **[[ピアノソナタ]] **[[ヴァイオリンソナタ]] **[[チェロソナタ]] *[[弦楽四重奏曲]] *[[ピアノ三重奏曲]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *ウルリヒ・ミヒェルス編 『図解音楽事典』 角倉一朗日本語版監修、[[白水社]]、1989年。ISBN 4-560-03686-1 == 関連項目 == {{Wiktionary|交響曲}} *[[交響曲の一覧]] *[[交響詩]] *[[協奏曲]] *[[未完成交響曲]] *[[第九の呪い]] *[[交響曲の標題]] *[[交響曲作曲家]] *[[吹奏楽のための交響曲]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{交響曲}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうきようきよく}} [[Category:交響曲|*]] [[Category:楽式]]
2003-06-29T07:44:15Z
2023-11-12T13:10:39Z
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[ "Template:Normdaten", "Template:Lang-it-short", "Template:Notelist", "Template:仮リンク", "Template:交響曲", "Template:ページ番号", "Template:Lang-de-short", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Wiktionary", "Template:Kotobank", "Template:Portal クラシック音楽", "Template:Lang-en-short", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:出典の明記", "Template:Ill" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2
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NP完全問題
NP完全(な)問題(エヌピーかんぜん(な)もんだい、NP-complete problem)とは、(1) クラスNP(Non-deterministic Polynomial)に属する決定問題(言語)で、かつ (2) クラスNPに属する任意の問題から多項式時間還元(帰着)可能なもののことである。条件 (2) を満たす場合は、問題の定義が条件 (1) を満たさない場合にも、NP困難な問題とよびその計算量的な困難性を特徴づけている。多項式時間還元の推移性から、クラスNPに属する問題で、ある一つのNP完全問題から多項式時間還元可能なものも、またNP完全である。現在発見されているNP完全問題の証明の多くはこの推移性によって充足可能性問題などから導かれている。充足可能性問題がNP完全であることは1971年、スティーブン・クックによって証明され、R. M. カープの定義した多項式時間還元によって多くの計算量的に困難な問題が NP 完全であることが示された。 NP困難 (NP-hard) は「NP完全な問題と比べ、同等またはそれ以上に難しい」という意味である。一方、NP完全はあくまでNPに属する問題で、NP困難である問題は必ずしもNPに属さなくてもよいという違いがある。 一般にNP完全とNP困難は極めて混同されやすく、特にアルゴリズムを扱う本などでは、NP完全と表記しながらもNP困難の説明をしていたり、本来はNP困難ではあってもNP完全ではない問題を「NP完全の例」として挙げる物が多々ある。 これは定義をよく理解せずに議論していることが主な理由だが、多くのNP完全な問題は、組合せ最適化問題の問題例にコスト/ゲインの閾値を与えた決定問題として定義されていることも一因であろう。 以下の問題は、NP完全である。NP完全な問題はすべて同じ難しさというわけではなく、最適化問題に直したときに問題によって近似可能性が大きく異なることがある。
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NP完全(な)問題とは、(1) クラスNPに属する決定問題(言語)で、かつ (2) クラスNPに属する任意の問題から多項式時間還元(帰着)可能なもののことである。条件 (2) を満たす場合は、問題の定義が条件 (1) を満たさない場合にも、NP困難な問題とよびその計算量的な困難性を特徴づけている。多項式時間還元の推移性から、クラスNPに属する問題で、ある一つのNP完全問題から多項式時間還元可能なものも、またNP完全である。現在発見されているNP完全問題の証明の多くはこの推移性によって充足可能性問題などから導かれている。充足可能性問題がNP完全であることは1971年、スティーブン・クックによって証明され、R. M. カープの定義した多項式時間還元によって多くの計算量的に困難な問題が NP 完全であることが示された。
'''NP完全(な)問題'''(エヌピーかんぜん(な)もんだい、NP-complete problem)とは、(1) クラス[[NP]](Non-deterministic Polynomial)に属する決定問題(言語)で、かつ (2) クラスNPに属する任意の問題から[[多項式時間変換|多項式時間還元(帰着)]]可能なもののことである。条件 (2) を満たす場合は、問題の定義が条件 (1) を満たさない場合にも、[[NP困難|NP困難な問題]]とよびその計算量的な困難性を特徴づけている。多項式時間還元の推移性から、クラスNPに属する問題で、ある一つのNP完全問題から多項式時間還元可能なものも、またNP完全である。現在発見されているNP完全問題の証明の多くはこの推移性によって[[充足可能性問題]]などから導かれている。[[充足可能性問題]]がNP完全であることは[[1971年]]、[[スティーブン・クック]]によって証明され<ref>(Stephen Cook (1971). "The Complexity of Theorem Proving Procedures". Proceedings of the third annual ACM symposium on Theory of computing. pp. 151–158.)</ref>、R. M. カープの定義した多項式時間還元<ref>(Richard M. Karp (1972). "Reducibility Among Combinatorial Problems" (PDF). In R. E. Miller and J. W. Thatcher (editors). Complexity of Computer Computations. New York: Plenum. pp. 85–103.)</ref>によって多くの計算量的に困難な問題が NP 完全であることが示された。 == NP困難との違い == '''NP困難 (NP-hard)''' は「NP完全な問題と比べ、同等またはそれ以上に難しい」という意味である。一方、'''NP完全'''はあくまでNPに属する問題で、NP困難である問題は必ずしもNPに属さなくてもよいという違いがある。 一般にNP完全とNP困難は極めて混同されやすく、特に[[アルゴリズム]]を扱う本などでは、NP完全と表記しながらもNP困難の説明をしていたり、本来はNP困難ではあってもNP完全ではない問題を「NP完全の例」として挙げる物が多々ある。 これは定義をよく理解せずに議論していることが主な理由だが、多くのNP完全な問題は、組合せ最適化問題の問題例にコスト/ゲインの閾値を与えた決定問題として定義されていることも一因であろう。 == NP完全な問題の例 == 以下の問題は、NP完全である。NP完全な問題はすべて同じ難しさというわけではなく、最適化問題に直したときに問題によって近似可能性が大きく異なることがある。 ; [[充足可能性問題]] : 変数の集合<math>X=\{ x_1, \ldots , x_n \}</math>上のクローズ<math>C_1, \ldots , C_k</math>の集合が与えられる。これらすべてを充足する変数への真偽割り当ては存在するか?という問題。英語表記の最初の三文字をとってSATともいう。クローズの長さを3に制限した3-SATもNP完全であることが知られている。ある問題がNP完全であることを示そうとするとき、リダクションによく使われる問題である。<ref>J.Kleinberg・E.Tardos『アルゴリズムデザイン』浅野孝夫ほか訳, 共立出版, 2008, 455ページ</ref> ; [[頂点被覆問題]] : 点カバー問題ともいう。グラフ<math>G</math>と整数<math>k</math>が与えられる。このときGにサイズが高々<math>k</math>の点カバーが存在するか?という問題。この問題の最適化版(できるだけ少ない頂点数の点カバーを求める)は2-近似アルゴリズムを持ち、この近似比はP≠NPとユニークゲーム問題のNP困難性を仮定すれば最善である。<ref>David P.Williamson・Daivid B.Shmoys『近似アルゴリズムデザイン』浅野孝夫訳, 共立出版, 2015,21ページ</ref> ; [[ハミルトン閉路問題]] : 有向グラフ<math>G</math>が与えられる。このとき<math>G</math>に[[ハミルトン路|ハミルトン閉路]]が存在するか?という問題。この問題の最適化版(できるだけ最大次数が小さな全点木を求める)は、最小次数全点木問題と呼ばれる。 ; [[部分和問題|部分集合和問題]] : 部分和問題ともいう。整数<math>w_1, \ldots , w_n</math>と目標値<math>W</math>が与えられる。このとき<math>\{ w_1, \ldots , w_n \}</math>の部分集合<math>U </math>であって合計がちょうど<math>W</math>となるものは存在するか?という問題。 ; [[巡回セールスマン問題]] : 英語の頭文字をとってTSPともいう。<math>n</math>個の点をもつ完全グラフ<math>G</math>と、<math>G</math>の任意の辺<math>e</math>に対する非負の重み<math>w_e</math>と上限<math>D</math>が与えられる。このとき重みの総和が高々<math>D</math>であるような<math>G</math>のハミルトン閉路は存在するか?という問題。この問題の最適化版(できるだけ重みが小さなハミルトン路を求める)は、P=NPでない限りいかなる定数近似アルゴリズムも持たないことが知られている。辺重みが三角不等式を満たしているような特別な場合には、1.5-近似アルゴリズム(Christofidesのアルゴリズム)が知られている。<ref>David P.Williamson・Daivid B.Shmoys『近似アルゴリズムデザイン』浅野孝夫訳, 共立出版, 2015, 43ページ</ref> ; [[ナップサック問題]] : 品物の集合<math>J = \{ j_1, \ldots , j_n \}</math>とその価値<math>p_j \; (j \in J)</math>と重み<math>w_j \; (j \in J)</math>とナップサックの容量<math>W</math>と要求量<math>D</math>が与えられる。<math>J</math>の部分集合<math>U</math>はそのなかの品物の重みの総和が<math>W</math>以下であるとき許容できると言われる。このとき、許容できる集合<math>U</math>であって、そのなかの品物の価値の総和が<math>D</math>以上になるようなものは存在するか?という問題。この問題の最適化版(できるだけ価値が大きな許容できる部分集合を求める)は、[[多項式時間近似スキーム]](PTAS)を持つ。つまり任意の正の数<math>0 < \epsilon \leq 1</math>に対して、<math>(1 - \epsilon)</math>-近似アルゴリズムが存在する。<ref>David P.Williamson・Daivid B.Shmoys『近似アルゴリズムデザイン』浅野孝夫訳, 共立出版, 2015,67ページ</ref> ; [[グラフ彩色|点彩色問題]] : グラフ<math>G</math>と3以上の上界<math>k</math>が与えられる。このとき、<math>G</math>はk-点彩色を持つか?という問題。<math>k=2</math>のときはこれはグラフが二部グラフかどうか決定する問題と同じになる。 ; そのほか : [[テトリス]]をはじめとした様々なパズルゲーム<ref>{{citation|title=Tetris is Hard, Even to Approximate|first=Erik D. last=Demaine|coauthors= Susan Hohenberger, David Liben-Nowell|id=Technical Report MIT-LCS-TR-865}}、 {{Citation|first1=Nobuhisa|last1=Ueda|first2=Tadaaki|last2=Nagao|title=NP-completeness results for NONOGRAM via Parsimonious Reductions|year=1996|place=Technical Report, Department of Computer Science, Tokyo Institute of Technology|id=TR96-0008}}、{{citation|title=ぷよぷよはNP完全|author=牟田 秀俊|journal=IEICE technical report. Theoretical foundations of Computing|volume=105|number=72|pages=39-44|year=2005}}、{{citation|title=I.Q Intelligent QubeのNP完全性の証明|author=水野 秀一|coauthors=田中 哲朗|journal=情報処理学会研究報告. GI, [ゲーム情報学] |year=2008|volume=28|pages=53-59}}</ref>もNP困難であることが知られている。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * J.Kleinberg・E.Tardos『アルゴリズムデザイン』浅野孝夫ほか訳, 共立出版, 2008 * David P.Williamson・Daivid B.Shmoys『近似アルゴリズムデザイン』浅野孝夫訳, 共立出版, 2015 {{複雑性クラス}} {{DEFAULTSORT:えぬひいかんせんもんたい}} [[Category:NP完全問題|*]] [[Category:計算問題]] [[Category:数学の問題]] [[Category:数学に関する記事|NPえぬひいかんせんもんたい]]
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東京メトロ副都心線
副都心線(ふくとしんせん)は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は13号線副都心線。和光市駅 - 小竹向原駅間は有楽町線と線路・駅・施設を共用している。 路線名の由来は、池袋・新宿・渋谷の三大副都心を縦断することから。池袋駅 - 新宿三丁目駅 - 渋谷駅間は山手線のバイパス的な役割を持つ。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ブラウン」(#9c5e31、茶)、路線記号はF。 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の民営化後(東京メトロ発足後)初の路線として開業した。また、東京メトロの9路線で唯一千代田区を通っていない。 和光市駅から東武東上線に、小竹向原駅から西武有楽町線を経由して西武池袋線と相互直通運転を行っているほか、渋谷駅から先はほぼ全ての列車が東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線に直通しており、運転系統も完全に一体化している。本路線を含めた鉄道6事業者(東武鉄道・西武鉄道・東京地下鉄・東急電鉄・横浜高速鉄道・相模鉄道)による相互直通運転が行われており、埼玉県西部の小川町・川越市(東武東上線)、飯能市・所沢市(西武線)の各方面から神奈川県横浜市(東急東横線・みなとみらい線)、大和市・海老名市・藤沢市(相鉄線)までの広域鉄道網を形成している。和光市駅 - 池袋駅間は東武東上線と並行しており、特に和光市駅 - 地下鉄赤塚駅(下赤塚駅)間は両鉄道事業者の駅が近接している。 和光市駅から小竹向原駅までは有楽町線と同じ線路を走行する。西武有楽町線との合流点でもある小竹向原駅を出発すると有楽町線の線路から分かれるが、要町駅まで同線の直下を走る。隣の池袋駅のホームは同線のホームとは離れた位置にあるが、線区上は同駅まで並走扱いとなる。池袋駅で有楽町線と分かれ、山手線と並行しながら南下する。途中の東新宿駅のホームは上下2層の2面4線構造となっており、同駅で急行・通勤急行が各駅停車を追い抜くことが可能である。終点の渋谷駅は東急東横線の線路と繋がっている。 東武東上線小川町駅 - みなとみらい線元町・中華街駅間および西武池袋線飯能駅 - 元町・中華街駅間のそれぞれについて、日中の時間帯に本路線を経由して各線内を特別料金不要の最速達(副都心線内は急行運転)で運行される列車については「Fライナー」の愛称がつく。また、土休日には西武秩父駅 - 元町・中華街駅間で有料座席指定列車の「S-TRAIN」が運行される。 有楽町線および直通先の東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線、東武東上線和光市駅 - 小川町駅間および西武有楽町線・池袋線練馬駅 - 飯能駅間を含めた営業キロは150.4 kmで、これは東京メトロ関連の一般列車の運用距離としては千代田線(綾瀬 - 北綾瀬間・常磐緩行線・小田急小田原線代々木上原 - 伊勢原間・多摩線含む)の113.0 kmや、日比谷線・半蔵門線(東武伊勢崎線東武動物公園 - 久喜間・日光線東武動物公園 - 南栗橋間・東急田園都市線含む)の119.6 kmを上回り最長である。土休日限定でS-TRAINが入線する池袋線飯能 - 吾野間・西武秩父線を含めると183.5 km、臨時列車として入線する狭山線も含めると187.7 kmで、これは千代田線の小田急ロマンスカー(小田原線伊勢原 - 小田原間・江ノ島線・箱根登山鉄道鉄道線小田原 - 箱根湯本間含む)を含めた運用距離177.0 kmを上回る。 距離・駅数は小竹向原駅 - 渋谷駅間のもの。 本路線のうち池袋 - 渋谷間の建設に要した建設費用は総額2,404億円(消費税除く)である。その内訳は土木関係費が1,773億5,144万3,000円、電気関係費が248億2,662万9,000円、車両関係費が170億8,065万8,000円、その他が211億4,127万円となっている 。 当初第8号線(有楽町線)として計画・建設工事に着工し、後述する都市交通審議会答申第15号によって第13号線となった和光市 - 小竹向原間の建設費用は、有楽町線の建設費用として計上されている。なお、小竹向原 - 新線池袋間の建設費用は1992年度 - 1994年度に計上され、計126億6,016万6,000円を要した。 本路線では保安装置に車内信号式自動列車制御装置(新CS-ATC)を導入しており、自動列車運転装置 (ATO) での自動運転によるワンマン運転を行っている。施工に当たっては、有楽町線の新CS-ATC化の2期工事区間(和光市 - 池袋間・小竹向原 - 新線池袋間・2007年10月27日使用開始)と一括発注し、コストダウンを図った。なお、開業時での運転間隔は10両編成による3分間隔を、将来的には10両編成による2分間隔で運転することを想定している。 ATO装置の最終的な停止精度は前後45 cm以内であるが、 副都心線開業時点から当面は10 cmの余裕を持たせた前後55 cm以内に設定している。 副都心線は1972年(昭和47年)3月の東京圏の鉄道網整備計画「都市交通審議会答申第15号」において東京13号線として答申されたもので、第8号線から削除した成増 - 向原間に志木 - 成増間および向原 - 新宿間を加え、「志木から和光市、成増、向原、池袋、東池袋、目白東、諏訪町、西大久保を経由して新宿へ至る路線」として初めて示された。第13号線は和光市 - 向原間は第8号線(有楽町線)と線路を共有し、向原 - 池袋間は第8号線と同一のルートを通る複々線とされた。 同時に志木 - 和光市間は東武東上線を複々線化することならびに新宿より渋谷、品川を経て羽田空港方面への延伸を検討することも示された。その後、1985年(昭和60年)7月の運輸政策審議会答申第7号では池袋以南の南下について、終点を渋谷とすることが示された。 このうち、志木 - 和光市間は東武東上線の複々線化を実施し、和光市 - 小竹向原駅は有楽町線として、小竹向原 - 池袋間は有楽町線新線としてそれぞれ開通した。有楽町線新線は、副都心線開業までの間「有楽町線(新線)」または単に「新線」(英: New Line)と案内され、同線の終着であった池袋駅は広く「新線池袋」(英: New Line Ikebukuro)と案内されていた。 有楽町線の建設当初、第13号線の開業時期は先になることが予想されていた。しかし、有楽町線との一体建設によるコスト低減、沿線住民への配慮、道路占有手続きなど総合的に判断して、小竹向原 - 池袋間は有楽町線と同時に建設を行った。また、この区間は、手続き上は有楽町線の複々線部として取り扱うことになった。 このため、1977年(昭和52年)9月に小竹向原 - 池袋間を複々線とする工事計画変更認可を受け、同区間の建設工事に着手した。用地節約のため、この区間は4線並列ではなく、上下2段のトンネル構造としている。上段部の有楽町線は1983年(昭和58年)6月に開業し、第13号線となる下段部(現在の副都心線部)は、1985年(昭和60年)8月に池袋駅(後の新線池袋駅、現在の副都心線池袋駅)の完成により、全ての地下構造物の構築を完了した。 その後、有楽町線池袋以西の混雑緩和のため、第13号線小竹向原 - 池袋間を先行して開業することが決定され、1992年(平成4年)5月から1994年(平成6年)10月にかけて下段トンネル内の清掃、漏水処理、連結送水管の設置、(新線)池袋駅にエレベーター、エスカレーターの設置や出入口の構築、電気工事等を行い、1994年(平成6年)12月7日に有楽町線新線として開業することになった(この区間の開業式では「有楽町線複々線 小竹向原 - 池袋開通」と書かれていた)。この開業時点では千川駅・要町駅のホームは未開業で全列車通過とされ、第13号線の池袋駅は新線池袋駅と呼称することになった。また、この時より路線図や池袋駅の案内サイン類にてブラウンのラインカラーが使用されている。 この区間は小竹向原 - 新線池袋間をノンストップで走り、有楽町線本線よりも2分短い4分で走っていた。運転本数は朝ラッシュ時で1時間あたり6本(約10分間隔)、平日の日中および土休日は1時間あたり4本(約15分間隔)で運転していた。営業キロは2.96 kmであり、最小曲線は240 m、最急勾配は35‰である。 第13号線池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許は、同じ第13号線の和光市 - 成増間の免許申請とともに1975年(昭和50年)9月2日に申請していた。なお、答申されていたのは志木 - 新宿間であるが、新宿付近は地理的、技術的な制約から折り返し設備が渋谷に近い代々木付近まで伸びること、渋谷まで延伸することは大きな輸送需要が見込めることから、渋谷まで延長して申請したものである。 しかし、翌1976年(昭和51年)8月11日に和光市 - 成増間の路線免許は交付されたが、池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許の交付は保留となり、以来は免許申請中状態が続いていた。1975年(昭和50年)の池袋 - 渋谷間路線免許申請では、同区間の建設費用は2,085億円を想定していた。 その後、政府は長引く不況への景気回復策として1998年11月に緊急経済対策を策定し、翌月に補正予算の編成を行った。そして、地下鉄13号線については整備による地域経済の活性化、雇用の拡大などによる景気回復に有効であるとの理由から建設予算の確保に至った。この補正予算の編成に合わせ、当時の帝都高速度交通営団は池袋・新宿・渋谷といった3大副都心への重要なアクセス、JR山手線・埼京線に対する混雑緩和へ寄与するなど、建設によるメリットが大きいことから地下鉄13号線の建設を進めることを決定した。 このため、1975年以来申請中であった地方鉄道敷設免許→改正により第1種鉄道事業免許の追加申請を1998年12月17日に実施した。そして、1999年1月25日に池袋 - 渋谷間の第1種鉄道事業免許を取得した。その後、各種手続きを経た2001年6月15日に同区間の建設が開始された(2004年4月1日に営団が民営化され建設は東京地下鉄に継承)。なお、千川駅と要町駅は駅躯体工事のみ施工されていたことから内装工事の実施、新線池袋駅(後の副都心線池袋駅)では躯体工事のみ施工されていた丸ノ内線との連絡通路や連絡階段などの内装工事が実施された(2007年5月 - 2008年7月)。半蔵門線渋谷駅は、副都心線乗り入れに伴い改良工事が実施された(2007年1月 - 2008年7月)。 池袋 - 渋谷間の建設に当たり、営団地下鉄が1951年の丸ノ内線建設を施工して以来、半世紀にわたり培ってきた地下鉄建設技術を集結させた上、各種の新技術を採用した。このことから「環境負荷低減への積極的な取り組み」「建設コストの削減」「建設工事に関する沿道とのコンセンサス形成」の3点に重点を置いて建設を行った。 雑司が谷駅 - 渋谷駅間では明治通りの直下を通り、本区間で新設した7駅のうち雑司が谷駅と西早稲田駅は駅シールド工法で、それ以外の駅は開削工法で建設されている。東新宿駅は急行待避線を設置する関係で2段構造の駅としている。また、新宿三丁目駅構内には渋谷方からの折り返し用の引き上げ線が設置されている。本区間の建設には計10台のシールドマシンが使用された。 駅間は池袋駅 - 新宿三丁目間が単線シールド構造、新宿三丁目 - 渋谷間は複線シールド構造を採用している。このうち、明治神宮前 - 渋谷間の複線シールドには新たに開発した複合円形複線シールドを採用した。このトンネルは従来の丸形シールドトンネルよりも上下方向に圧縮した楕円形の断面とし、土砂掘削量の削減やトンネル下部に使用するコンクリート材を減少させ、従来のシールドトンネルと同等のコストに抑えている。 2007年1月24日、13号線の路線名を「副都心線」とすることが発表された。合わせて建設中の正式な駅名も発表し、池袋駅側から順に雑司が谷(雑司ヶ谷)、西早稲田、東新宿(新宿七丁目)、新宿三丁目、北参道(新千駄ヶ谷)、明治神宮前とした(カッコ内はそれまでの仮称)。 2008年6月14日に全線が開業した。これに合わせ、有楽町線新線を編入した上で和光市 - 渋谷間を「副都心線」と命名し、和光市 - 小竹向原間は有楽町線と線路・駅・施設を共有することになった。有楽町線新線から副都心線への改称に合わせて、便宜上「新線池袋駅」と案内されてきた同駅が「池袋駅」に改称され、千川駅と要町駅の営業が開始された。また、開業と同時に東武東上線や西武有楽町線を経由して池袋線との相互直通運転が開始された(相互直通運転自体は有楽町線新線時代から実施)。 開業後の利用者数は増加の一途をたどっている。都内鉄道駅を対象に2009年度と2014年度の利用者数を比較しその増加率を見ると、渋谷駅が第2位、東新宿駅が第3位、北参道駅が第7位、明治神宮前駅が第9位に入る。また、東京13号線計画とは別に2013年3月16日から渋谷駅で東急東横線との相互直通運転を行っており(後述)、利便性のさらなる高まりにより、東新宿駅などの利用者数をさらに押し上げている。 こうした輸送人員の大幅な増加によって、路線の経営状態も大きく改善している。週刊東洋経済が、国土交通省鉄道局『鉄道統計年報』から営業係数を算出したところ、2008年度の104.3に対し、2013年度は79.5となり、丸ノ内線や南北線を上回る黒字路線へと成長している。 また、2022年1月には東急東横線および2023年3月に開業する東急新横浜線を経由して相模鉄道の相鉄新横浜線と直通運転を行うことが発表された。同年12月には相模鉄道、東急電鉄、鉄道・運輸機構の三社合同で発表し、東急新横浜線・相鉄新横浜線(新横浜駅)の開業日が2023年3月18日に正式決定され、同日から東急新横浜線を経由して相鉄線との相互直通運転を開始した。 なお、一部は有楽町線として建設された区間も含む。 副都心線の急行・通勤急行は全列車10両編成、各駅停車は大部分が8両編成である。10両編成と8両編成では停止位置が異なることから、駅の時刻表・発車標・接近放送では列車の編成両数も案内されている。また、乗り入れ先である渋谷駅からの東急東横線、東急線経由での相鉄線(東急新横浜線、相鉄新横浜線経由相鉄本線、いずみ野線)、小竹向原駅からの西武線(西武有楽町線経由池袋線)、和光市駅からの東武東上線内において種別が変わる列車が多数設定されているため、乗り入れ先の路線内の種別も案内される。 副都心線の終点である渋谷駅からは和光市発の終電を除き全列車が東急東横線に乗り入れる。そのうち大半の列車は東横線の終着駅である横浜駅から先、横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅、または日吉駅から東急新横浜線、相鉄新横浜線、相鉄本線、いずみ野線を経由して湘南台駅(朝夕は海老名駅)まで乗り入れる。なお、東横線・みなとみらい線には副都心線に乗り入れない列車(渋谷駅折り返し)が終日にわたり多数設定されている。 日中は30分サイクルのパターンダイヤで運行されている。その間に急行が15分間隔で2本、各駅停車は間隔不定で5本あり、このうち1本は池袋駅で東横線方面に折り返す。 日中の運行パターンは下表のとおり。参考のため、和光市 - 小竹向原の線路共用区間を走る有楽町線の列車も記載する。 2013年3月16日のダイヤ改正より、新たにもう一方の終端駅である渋谷駅で東急東横線と東横線の終点である横浜駅から横浜高速鉄道みなとみらい線に乗り入れ、元町・中華街駅までの相互直通運転を開始した。 副都心線の渋谷側では、渋谷発和光市行き2本または4本(早朝の初電1本のほか、平日の夕方の各駅停車1本、土休日夕方以降の各駅停車2本と急行1本)と和光市始発の渋谷行き終電を除く全列車が東急東横線との相互直通運転を行う。日中時間帯は、副都心線内急行は東横線内で特急として、副都心線内各駅停車のうち1時間に4本は東横線内で急行として運転する。一方、東横線からの各駅停車が8本あるうち1時間に2本が池袋行き、2本が渋谷駅発着(副都心線へ乗り入れない)となっている。 東横線内で特急・通勤特急として運転されている列車は横浜駅および元町・中華街駅発着で各社の10両編成での運行されるが、土休日1本のみ特急横浜行きが設定されている(横浜駅には2番線に到着し、1番線に停車中の各駅停車元町・中華街行きに接続)。 東横線内で急行として運転されている列車は元町・中華街駅発着の列車と相鉄線直通列車が大半を占めるが、武蔵小杉駅・菊名駅発着の列車も設定されている。 東横線内で各駅停車として運転されている列車は元町・中華街駅発着が中心だが、一部列車は武蔵小杉駅・元住吉駅・菊名駅および横浜駅発着で運転される。 この相互直通運転開始は東横線渋谷駅 - 代官山駅間の地下化にあわせて行われ、副都心線渋谷駅は開業当初から東京急行電鉄(当時、以下「東急電鉄」)の100%子会社である東急レールウェイサービスが東急田園都市線(半蔵門線)の駅と一体的に駅管理業務を行っている。駅構内の旅客向け案内板や発車標などは東急仕様であるが、接近放送と発車メロディは東京地下鉄のものが使用されていた。現在でも副都心線として出発する電車には東京地下鉄仕様の発車メロディと注意喚起放送が使われている。 副都心線との相互直通運転開始以前の東横線とみなとみらい線はすべての列車が8両編成であったが、副都心線への乗り入れを機に速達列車(特急・通勤特急・急行)を一部列車を除き10両編成に増強するため、東横線とみなとみらい線の速達列車停車駅では10両編成の列車が停車できるようにホーム延伸工事を行った。ただし、各駅停車は従来通り8両編成での運転となる。副都心線開業当初から各駅停車に8両編成の運用が存在していたのはこのためである。 空港連絡鉄道として検討されている蒲蒲線(新空港線)について大田区が作成したパンフレットでは、東横線・東急多摩川線を介して副都心線と京急蒲田駅方面と直通運転が可能となる旨の記述がある。 2008年6月14日の開業当初は和光市駅で東武東上線森林公園駅まで直通運転を行っていたが、2019年3月16日のダイヤ改正からは小川町駅まで直通運転を行っている。急行・通勤急行・各駅停車ともに、東上線内は各駅に停車する「普通」として運行していたが2016年3月26日以降は日中時に副都心線急行は「急行」で運転され、土休日の一部列車は「快速急行」として運転されている。 2016年3月26日のダイヤ改正までは基本的に川越市駅発着列車が運転され、森林公園駅発着列車は駅構内に隣接する森林公園検修区への出入庫を兼ねた朝と夜の東武車に限られていた。2013年3月16日のダイヤ改正以降、日中は川越市駅発着の急行(東上線内普通)が30分間隔で運転されていたが、2016年3月26日のダイヤ改正以降は、森林公園駅発着(東上線内急行)に変更された。10両編成で運転されている。2019年3月16日のダイヤ改正より、土休日ダイヤのみ朝の一部列車が小川町駅発着となった。 平日ダイヤのみ、朝と夕方以降の一部列車に志木駅発着の列車が存在する。こちらは8両編成でも運転されている。 相鉄の車両は東武線内には乗り入れない。 2008年6月14日の開業当初から小竹向原駅から西武有楽町線を経由して西武池袋線飯能駅まで直通運転を行っている。なお、西武線直通の速達列車は、「急行」と「通勤急行」で運転される。小竹向原駅で種別の変更が行われる列車があり、西武線内は快速急行・快速・準急・各駅停車のいずれかに変更する。 2013年3月16日のダイヤ改正以降、日中時間帯の急行は西武線内快速から「快速急行」に格上げされた。この時間帯は、急行(西武線内快速急行)と各駅停車(西武線内各駅停車)が2本ずつ30分間隔で運行されており、2022年3月ダイヤ改正までは1時間に小手指駅・飯能駅発着の急行がそれぞれ1本ずつ、保谷駅・石神井公園駅発着の各駅停車がそれぞれ1本ずつであった。2013年改正前は飯能駅発着の急行(西武線内快速)と石神井公園駅発着の各駅停車がそれぞれ30分間隔で運行されていた。2022年ダイヤ改正より日中の西武線直通急行は小手指発着の快速急行、各駅停車は石神井公園行きとして運転し、うち1本は西武線内は準急となる。 西武線内で各駅停車となる列車は終日運転されており、日中は前述の通り石神井公園駅発着が設定されている。朝・夕には保谷駅、清瀬駅・小手指駅発着の列車が設定されているほか、土休日には飯能行きが1本、所沢駅発着が1往復設定されている。所沢発着は8両で運転されるがそれ以外の列車は両数問わず運転されている。 西武線内で準急となる列車は石神井公園駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が、西武線内で快速となる列車は飯能駅発着と平日に所沢行きが、西武線内快速急行となる列車は所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。 2016年6月16日、有料の座席指定制直通列車を2017年春に導入することが発表された。2017年1月10日には運行開始予定日、ダイヤや料金等の詳細が発表された。列車名は「S-TRAIN」で、同年3月25日より運行を開始した 西武ドームにおいてプロ野球の試合などの大規模イベントが開催される場合は、小手指行きの急行(みなとみらい線・東横線内特急、西武線内快速急行のFライナー)を西武球場前行きの急行(みなとみらい線・東横線内特急、西武線内快速)に変更する。この場合、代替としてひばりヶ丘発の快速急行小手指行きが運行され、当該列車は「Fライナー」を名乗らない。 2023年3月18日の東急新横浜線・相鉄新横浜線全線開業に伴い、相鉄線との直通運転を開始した。平日朝ラッシュ時の都心方面行きと夕ラッシュ時の相鉄線方面行きは最大毎時4本、ラッシュ時の逆方向は毎時3本、平日昼間及び土休日は毎時2本程度が運転される。ほとんどは相鉄いずみ野線・湘南台駅を発着駅とし、副都心線内新宿三丁目駅・池袋駅・和光市駅折り返しのほか、東武東上線へ乗り入れる列車も運転される。早朝の都心方面行きと夜間の相鉄方面行きには相鉄本線・海老名駅とを結ぶ列車が運転される(平日朝ラッシュ終盤にも新宿三丁目発・相鉄本線大和駅行きが1本ある)。 相鉄直通の全列車が東急線内は急行となり、10両編成で運転される。運用は東急または相鉄の車両に限定される。西武線と直通する列車は運行されていない。 副都心線では以下の種別の列車が運転されている。 副都心線内の現行の停車駅は 「駅一覧」を参照。S-TRAINを含め当線内でも速達運転を行う優等種別が日本の地下鉄で初めて3種類運行されている。 2017年3月25日より土休日に運行を開始した座席指定列車。みなとみらい線元町・中華街駅 - 西武秩父線 西武秩父駅間で運行される。乗車には座席指定券が必要で、途中渋谷駅・新宿三丁目駅・池袋駅に停車する(他に乗務員交代のため小竹向原駅に運転停車)が、副都心線内のみの座席指定券は発行されない。また、池袋駅からの乗車は出来ない。日本の地下鉄線内での座席指定列車の運行は千代田線で運行されている「特急ロマンスカー」以来2例目となる。 なお、平日は有楽町線直通(豊洲駅発着)となり、副都心線には乗り入れない。 東京地下鉄の路線では、東西線の快速から2例目となる地下鉄線内無料速達列車として、和光市駅 - 渋谷駅間の全線で急行運転を行っており、全列車が10両編成で運行される。 定期ダイヤでは、東新宿駅で大部分の急行が各駅停車を追い抜く。そのため、南行は新宿三丁目駅で直後の各駅停車(東横線・みなとみらい線内急行)に、北行は池袋駅で同じく直後の各駅停車に接続する。有楽町線との接続駅である小竹向原駅では、東武東上線方面発着の急行と和光市発着の各駅停車(有楽町線直通)・その直後の西武線方面発着の各駅停車(有楽町線直通)、または西武線方面発着の急行(西武線内は定期列車では急行以外の種別)と東武東上線方面の各駅停車(有楽町線直通)が接続する。また、渋谷駅では東横線方面は西武線からの列車と池袋発の元町・中華街行きが、東上線からの列車が渋谷駅始発の元町・中華街行きと、和光市方面は東上線直通列車が池袋行きと接続する。日中時間帯は渋谷駅から先の東横線内は「特急」に、西武線直通列車は小竹向原から「快速急行」に、東武東上線直通列車は「急行」となる。この組み合わせの列車種別で運行される列車は「Fライナー」の愛称が付く。2016年3月25日までは、東武東上線直通列車の東上線内種別は「普通」であった。 停車駅に違いはないがFライナーの急行については赤色に白文字、Fライナー対象外の急行は朱色に黒文字で表示される。土休日の急行のみが明治神宮前駅に停車していた2016年3月25日までは、Fライナーと平日運転時の急行が赤色、土休日運転時の急行が朱色で表示されていた。 池袋駅 - 渋谷駅間の所要時間は、速達列車の急行・通勤急行が埼京線・湘南新宿ラインと同等の11分である。朝と夜間に和光市発着がある以外は東武東上線または西武池袋線に直通運転を行っているほか、全列車が東急東横線・みなとみらい線に直通運転を行っている。 東武東上線直通列車は主に森林公園駅発着で運転され、一部は川越市駅・小川町駅発着も運行されている。川越市駅発着列車は和光市駅で種別を「普通」に、森林公園駅発着列車は「普通」「急行」(土日のみ運転の小川町発着列車は小川町始発が「急行」、小川町行きが「快速急行」)のいずれかに変更する。日中は北行・南行とも小竹向原駅で和光市駅 - 有楽町線新木場駅間の各駅停車に連絡する。 西武池袋線直通は主に小手指駅発着が運行されているが、一部列車は保谷駅・清瀬駅、石神井公園駅、飯能駅からも運行されている。小竹向原駅で種別を「各停」「準急」「快速」「快速急行」(快速急行は2013年3月から)のいずれかに変更する。日中は北行・南行とも小竹向原駅で東武東上線川越市駅 - 有楽町線新木場駅間の各駅停車に連絡する。 東急東横線・みなとみらい線直通列車は土休日2本の菊名駅発を除く全列車が元町・中華街駅発着で運転されており、渋谷駅で種別を「特急」「通勤特急」「急行」のいずれかに変更する。相鉄線直通列車は海老名駅発の小川町行きが土休日1本設定されており、相鉄線内は特急、東急線内は急行、東武線内は快速急行で運転される。 また、副都心線内発着として和光市駅発着が設定されている。このうち土休日の和光市行き1本のみ車両交換も兼ねて渋谷発(元住吉検車区より回送)で、東急東横線からの特急渋谷行きと接続を取るが、2023年3月ダイヤ改正で廃止される。 当初は都営地下鉄新宿線の急行と同様、2駅以上に連続停車しなかったが、2010年3月6日のダイヤ改正より、土曜・休日ダイヤの急行が明治神宮前駅に停車するようになった。これにより、停車日が限られるものの東京メトロ他路線と接続するすべての駅に停車するようになった。2016年3月28日から平日ダイヤの急行も明治神宮前駅へ停車するのと併せ、2016年3月26日のダイヤ改正より、東武東上線で急行または西武線内で快速急行、副都心線内で急行、東急東横線・みなとみらい線内で特急の組み合わせとなる列車に限り「Fライナー」の愛称が付与されている。 2023年3月のダイヤ改正で、「通勤急行」が明治神宮前に停車することになったため、西武線直通は「急行」と停車駅が変わらなくなったため、西武線直通で副都心線内通過運転をする列車は「急行」に統一された。 平日の朝夕ラッシュ時に運行される。和光市駅 - 小竹向原駅間は各駅に停車し、小竹向原駅 - 渋谷駅間で通過運転を行う。車両や駅の種別表示では「通勤急行」または「通急」と案内されるが、北行の小竹向原駅 - 和光市駅間は全列車が和光市まで各駅に停車するため、その区間では各駅停車として案内されている。なお、朝に数本、東上線内で急行運転される列車もあり、この場合はその旨も案内される。全列車が10両編成で運行される。急行と同様に東新宿駅で各駅停車を追い抜く。 基本的にオレンジ・黄色で表示される。 設定当初、小竹向原駅 - 渋谷駅間においては急行との停車駅の違いが無かったため、西武線直通列車については運行時間帯においても全て急行として運転されていた。2016年3月26日のダイヤ改正で明治神宮前駅が平日の急行停車駅に加わり、これまで通り明治神宮前駅を通過する通勤急行と停車駅の差異が生じたため、西武線直通列車にも新たに通勤急行が設定された。しかし、2023年3月18日のダイヤ改正で通勤急行の停車駅に明治神宮前駅が追加され、再び差異が無くなったため、西武線直通の通勤急行は急行に変更された。 東武東上線内の種別は普通が中心で、一部列車は快速急行および急行になる列車が設定されている。川越市駅(普通のみ)・森林公園駅発着が存在する。 東急東横線・みなとみらい線直通は大多数の列車が元町・中華街駅発着で運転され、渋谷駅で特急・通勤特急・急行のいずれかに種別が変わるが、急行の一部列車は武蔵小杉駅・菊名駅・横浜駅発が設定されている。 相鉄線直通については海老名駅(発のみ)・湘南台駅・西谷駅(発のみ)発着が設定されている。相鉄線内は特急・通勤特急・各停で運転され、東急線内では急行で運転される。湘南台駅発の1本は相鉄車で運転され、それ以外の列車は東急車で運転される。 駅・車両の種別表示でも現在は「各駅停車」と案内される。池袋駅 - 渋谷駅間の所要時間は山手線と同等の16分である。基本的に東京メトロ車・東急車・横浜高速車の8両編成で運行されるが、東急東横線に直通しない、もしくは渋谷駅で種別変更する一部の列車は各社の10両編成で運行される(東横線・みなとみらい線内の急行通過駅の有効長は8両なので、東横線内各駅停車の列車は必然的に8両となる)。車両の編成はダイヤによって決まっており、駅の時刻表において数字が四角で囲まれている列車が8両編成である(ただし、検査による車両不足やダイヤ乱れの場合は8両編成運用を10両編成で代走する場合がある)。開業時から全列車が東新宿駅で待避線に入っていたが、通過線側の壁が撤去されたため2015年5月30日より急行・通勤急行の通過待ちを行わない列車は東新宿駅でも本線に入線するようになった。基本的に東横線内で急行となる列車が東新宿駅で急行(東横線内特急)・通勤急行の通過待ちを行う。東横線内で各駅停車となる列車は日中以外に通過待ちする列車もあるが、大半が副都心線内は渋谷駅(ほとんどが東横線自由が丘駅まで)・小竹向原駅まで先行する。 日中の時間帯の各駅停車は東横線内で急行となる列車が和光市発着4本(本線系統・相鉄線直通系統各2本)、副都心線内から元町・中華街まで各駅停車となる池袋駅 - 元町・中華街駅間運転が2本、和光市駅発着2本、西武線直通が2本運行される。東横線内で急行となる列車は前述通り東新宿で通過待ちを行い、池袋発着は渋谷駅で東横線方面は西武線からの特急と、和光市方面は東上線直通の急行と接続する。 2017年3月25日のダイヤ改正から、東横線・みなとみらい線内で急行になる列車のうち、東新宿駅でS-TRAINのみの通過待ちを行う列車が設定された。この場合、料金不要列車として渋谷駅・小竹向原駅まで先着する。 基本的に和光市駅・池袋駅発着で東急東横線・みなとみらい線直通と、みなとみらい線・東急東横線 - 副都心線 - 西武池袋線直通で運転されるが、朝夕を中心に新宿三丁目駅発着東急東横線・みなとみらい線直通、和光市より先の東武東上線に直通する列車もある。そのほか、小竹向原発元町・中華街行きが早朝1本、副都心線内のみを運転する渋谷発和光市行きが平日2本、土日は急行1本と各駅停車3本、和光市始発渋谷行き終電が毎日1本、千川発武蔵小杉行きが平日1本、元町・中華街行きが平日1本設定されている。 東武東上線直通は志木駅(平日のみ)を中心に一部列車は川越市駅・森林公園駅発着で運転される。和光市駅では、東上線内急行として運転する平日の1往復を除いたすべての列車が種別を「各停」から「普通」に変更する。8両編成はすべて志木駅発着で運転される。 西武線直通は保谷駅・石神井公園駅(一部列車は清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅)発着で運転される。日中は石神井公園駅発着が設定されている。基本的に8両編成で運転されているが、一部は10両編成で運転される。小竹向原駅で種別を快速急行・快速・準急に変更する列車が存在し、副都心線を挟み西武線内準急、東横線・みなとみらい線内急行などとして両端で優等運転する列車も存在する。東横線内急行のため、東新宿駅で通過待ちを行う。 東急東横線直通は、日中は元町・中華街駅発着で運行されるが、朝晩を中心に武蔵小杉駅・元住吉駅(最終のみ)、菊名駅と横浜駅止まりの列車も存在する。一部列車は渋谷駅で種別を急行・特急・通勤特急に変更する。ホーム有効長の関係上、東横線内各駅停車となる列車はすべて8両編成で運転され、東武車、西武車の運用はない。 種別色は基本的に青色や白黒で表記されるが、駅や車両により異なる。 東京メトロ副都心線は、乗り入れ先を含め、副都心線あるいは有楽町線で何らかの運行障害が発生すると、その影響を受けやすいとともに運行形態が大きく変わる。 運行障害が発生すると、以下のように切り替わる。 副都心線開業当初はダイヤの乱れが発生した場合は、小竹向原 - 渋谷間で折り返し運転を行っていたが、小竹向原駅での案内が不十分であったために、乗客がなかなか降車せず、ダイヤの乱れが増大した。このため池袋 - 渋谷間での折り返し運転に変更された。しかし、池袋駅の副都心線ホームと有楽町線ホームが離れているため、改札外乗り換えとなっており、乗り換えるのに少々不便を強いられた。その後、小竹向原駅の連絡線工事が進展したことにより、小竹向原駅の千川寄りの配線を使用して折り返せるようになったことから、2013年(平成25年)の工事終了翌日以降は現行の形態となり、有楽町線・副都心線の乗り換えは千川駅での階段の昇り降りで済むようになった。 開業当初から小竹向原駅 - 渋谷駅間でATOによるワンマン運転を実施しており、2015年3月28日から和光市駅 - 小竹向原駅間もワンマン運転を実施している。なお、10両編成でのワンマン運転は本路線が日本国内では初めてである(8両編成までのワンマン運転は都営大江戸線などの例がある)。 また、小竹向原駅 - 渋谷駅間では開業時から京三製作所製のハーフハイトタイプのホームドアが設置されていた(小竹向原と池袋では2008年4月1日使用開始)。その後、地下鉄成増駅 - 氷川台駅間にも2010年10月までにホームドアが設置された後、和光市駅にも2012年4月に設置(同年7月7日使用開始)され、全駅にホームドアが設置された。東京地下鉄におけるホームドア採用例は南北線、千代田線支線(北綾瀬線)、丸ノ内線分岐線に次ぐ4路線目である。 副都心線は南北線とは異なり、車両がホームドアの設置を考慮したものではなく、車両によってドアの位置が多少異なるという難点があり、ドア位置の異なる車種へ対応するため、ホームドア開口幅は2,480 mmと大きいものとなった。ホームドアの最も長いもので片側1,680 mmとなり、従来の片側戸袋部分にドアが収納できないことから、収納時のホームドアが戸袋部で重なる方式となった。ホームドアは大中小3種類の大きさがある。 車両とホームとの隙間が大きい駅では可動式ステップを設置している。これは列車が到着し、開扉時に自動でステップが張り出すもので、ホームドアが閉扉されるとステップも自動で収納される。また、この可動ステップが張り出しているときはATCにより、停止信号を現示し、列車が発車できないように制御されている。 全車両、和光検車区所属。 有楽町線新線時代は07系全6編成 (07-101F - 106F) も運用されていたが、有楽町線との共用駅である小竹向原駅へのホームドア設置に伴い、扉間隔の異なる07系は有楽町線・副都心線どちらにも対応できなくなり、最終的には全編成が東西線に転出した。 どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号で判別できる。2023年3月18日改正ダイヤでは、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両(8両編成は01S - 19S/10両編成は21S - 91Sの奇数番号)、「M」が西武車両(02M - 34Mの偶数番号および71M - 75M)、「T」が東武車両(01T - 25Tの奇数番号)、「K」が東急車両(8両編成は横浜高速鉄道車両と共通運用で01K - 33K/10両編成は51K - 64K/ダイヤ乱れの場合は41K - 46K)、「G」が相鉄車両(91G - 95G)となっている。なお、列車番号が6桁の数字で表される東横線・みなとみらい線では上3桁が運用番号を示し、700番台が東京メトロ車両、100番台が西武車両、000番台が東急・横浜高速車両、800番台が東武車両、900番台が相鉄車両となっている(例えば「01S」は東横線・みなとみらい線では「701」となる)。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)などで確認できる。 10両編成は有楽町線と共通運用されており、西武車も和光市駅までは乗り入れる。東急車を除く10両編成は和光市駅で折り返しが有楽町線の列車に変わる運用もある。多くはメトロ車の運用だが、一部は東急車や西武車、東武車が運用に就く。8両編成は、平日も土休日も東急車の運用が大半で、メトロ車は渋谷始発の東急東横線・みなとみらい線直通列車の運用に就くことがある。2016年3月26日ダイヤ改正で、東武東上線内急行運転開始により日中の乗り入れ区間が森林公園駅まで延長されたことで、平日日中の東武車運用が復活した。 2023年3月18日改正ダイヤでは、東京メトロ車両では10両編成2本および8両編成2本が東急の元住吉検車区、10両編成1本が西武の武蔵丘車両基地、10両編成1本が東武の森林公園検修区でそれぞれ夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。東京メトロの車両基地では和光検車区に東武車2本、東急車の8両編成2本と10両編成1本、西武車1本が、新木場車両基地に西武車1本が夜間留置される。 相互直通運転時には従来、車両保有会社が乗り入れ先の路線に対応するように改造することが暗黙の合意の基、“相直の精神”とされてきた 。 副都心線との相互直通運転にあたり、東武鉄道・西武鉄道の車両にも同線に対応するATO装置などのワンマン運転機器の設置に伴う車両改造工事が必要となり、2社に対する依頼が必要となった。 しかし、東武と西武からは「副都心線に必要なATO装置・ワンマン運転機器は、東京地下鉄の経営効率化のためであり、自社線内では不要である。改造費用の全額負担はできず、東京地下鉄の負担とするべき」と主張された。 その後、東京地下鉄・東武・西武の3社で協議の結果「副都心線のワンマン運転に必要な車両改造の初期費用は東京地下鉄が負担する。対応機器は車両保有会社が所有するが、機器の使用権利は東京地下鉄に属する」という条件の元に2社の車両の副都心線対応改造が実施された。 副都心線では、平日始発から9時30分までの全列車で和光市駅寄り先頭車両(1号車)が女性専用車となる。なお、小児や障害者、その保護者や介助者は性別不問で女性専用車への乗車が可能である。副都心線内の設定区間は以下の通り。 10両編成と8両編成で女性専用車となる車両の停止位置が異なる駅は10両編成の女性専用車乗車位置にピンク色のステッカーを貼付し、8両編成は緑色のステッカーを貼付している。10両編成と8両編成の1号車の停車位置が同一の駅は乗車目標がピンク色である。 東京地下鉄の駅構内出口階段は、最前部または最後部に存在するケースが多い。その出口階段に最も近い場所に女性専用車が停車する場合が多い。 副都心線の女性専用車は開業から2日後にあたる2008年6月16日に導入され、当初は平日ダイヤのうち和光市駅(東武東上線からの直通列車を含む)を午前7時06分から9時20分まで、ならびに西武線からの直通列車で午前7時20分から9時20分まで小竹向原駅に発着する渋谷行のみの実施(副都心線内走行中の列車は9時20分で一斉終了)であったが、2013年3月16日の東横線・みなとみらい線との直通運転開始に際し実施形態が変更された。 2023年3月20日 同年3月18日のダイヤ改正による、東急新横浜線と相鉄新横浜線(羽沢横浜国大 - 新横浜間)の開業ならびに同線および相鉄各線との直通運転開始に伴い、これらの区間と直通運転を行う電車において、女性専用車の設定を開始した。副都心線内においては設定時間帯等の変更はない。 2021年(令和3年)度の最混雑区間(A線、要町→ 池袋間)の混雑率は101%である。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 本路線の新たに建設された雑司が谷駅 - 明治神宮前駅では、駅の周辺環境をはじめとした歴史や文化などをイメージした各駅ごとのデザインコンセプトとステーションカラーを導入した。千川駅 - 池袋駅では既存の駅施設があるため、駅構内の一部のみで採用している。なお、渋谷駅は東急電鉄の施工のため、東京地下鉄は担当していない。 本路線は比較的深い駅が多く、東京地下鉄全駅の中では、東新宿駅(B線ホーム)は4番目、雑司が谷駅は5番目、西早稲田駅は7番目、渋谷駅は9番目に深い駅に該当する。小竹向原駅の深さは17.3 mである。 和光市駅以外の全駅で発車メロディ(発車サイン音)を使用している。すべてスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、谷本貴義の3名が作曲を手掛けた(2015年5月30日使用開始の東新宿駅3番線のメロディは山崎泰之作曲)。 開業当初はワンマン運転を実施している小竹向原駅 - 渋谷駅間のみ導入されていたが、2011年2月23日からは地下鉄成増駅 - 氷川台駅間の各駅でも順次使用を開始した。 曲名はスイッチのホームページおよび同社が運営する「鉄道モバイル」から。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "副都心線(ふくとしんせん)は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は13号線副都心線。和光市駅 - 小竹向原駅間は有楽町線と線路・駅・施設を共用している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "路線名の由来は、池袋・新宿・渋谷の三大副都心を縦断することから。池袋駅 - 新宿三丁目駅 - 渋谷駅間は山手線のバイパス的な役割を持つ。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ブラウン」(#9c5e31、茶)、路線記号はF。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の民営化後(東京メトロ発足後)初の路線として開業した。また、東京メトロの9路線で唯一千代田区を通っていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "和光市駅から東武東上線に、小竹向原駅から西武有楽町線を経由して西武池袋線と相互直通運転を行っているほか、渋谷駅から先はほぼ全ての列車が東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線に直通しており、運転系統も完全に一体化している。本路線を含めた鉄道6事業者(東武鉄道・西武鉄道・東京地下鉄・東急電鉄・横浜高速鉄道・相模鉄道)による相互直通運転が行われており、埼玉県西部の小川町・川越市(東武東上線)、飯能市・所沢市(西武線)の各方面から神奈川県横浜市(東急東横線・みなとみらい線)、大和市・海老名市・藤沢市(相鉄線)までの広域鉄道網を形成している。和光市駅 - 池袋駅間は東武東上線と並行しており、特に和光市駅 - 地下鉄赤塚駅(下赤塚駅)間は両鉄道事業者の駅が近接している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "和光市駅から小竹向原駅までは有楽町線と同じ線路を走行する。西武有楽町線との合流点でもある小竹向原駅を出発すると有楽町線の線路から分かれるが、要町駅まで同線の直下を走る。隣の池袋駅のホームは同線のホームとは離れた位置にあるが、線区上は同駅まで並走扱いとなる。池袋駅で有楽町線と分かれ、山手線と並行しながら南下する。途中の東新宿駅のホームは上下2層の2面4線構造となっており、同駅で急行・通勤急行が各駅停車を追い抜くことが可能である。終点の渋谷駅は東急東横線の線路と繋がっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "東武東上線小川町駅 - みなとみらい線元町・中華街駅間および西武池袋線飯能駅 - 元町・中華街駅間のそれぞれについて、日中の時間帯に本路線を経由して各線内を特別料金不要の最速達(副都心線内は急行運転)で運行される列車については「Fライナー」の愛称がつく。また、土休日には西武秩父駅 - 元町・中華街駅間で有料座席指定列車の「S-TRAIN」が運行される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "有楽町線および直通先の東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線、東武東上線和光市駅 - 小川町駅間および西武有楽町線・池袋線練馬駅 - 飯能駅間を含めた営業キロは150.4 kmで、これは東京メトロ関連の一般列車の運用距離としては千代田線(綾瀬 - 北綾瀬間・常磐緩行線・小田急小田原線代々木上原 - 伊勢原間・多摩線含む)の113.0 kmや、日比谷線・半蔵門線(東武伊勢崎線東武動物公園 - 久喜間・日光線東武動物公園 - 南栗橋間・東急田園都市線含む)の119.6 kmを上回り最長である。土休日限定でS-TRAINが入線する池袋線飯能 - 吾野間・西武秩父線を含めると183.5 km、臨時列車として入線する狭山線も含めると187.7 kmで、これは千代田線の小田急ロマンスカー(小田原線伊勢原 - 小田原間・江ノ島線・箱根登山鉄道鉄道線小田原 - 箱根湯本間含む)を含めた運用距離177.0 kmを上回る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "距離・駅数は小竹向原駅 - 渋谷駅間のもの。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本路線のうち池袋 - 渋谷間の建設に要した建設費用は総額2,404億円(消費税除く)である。その内訳は土木関係費が1,773億5,144万3,000円、電気関係費が248億2,662万9,000円、車両関係費が170億8,065万8,000円、その他が211億4,127万円となっている 。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当初第8号線(有楽町線)として計画・建設工事に着工し、後述する都市交通審議会答申第15号によって第13号線となった和光市 - 小竹向原間の建設費用は、有楽町線の建設費用として計上されている。なお、小竹向原 - 新線池袋間の建設費用は1992年度 - 1994年度に計上され、計126億6,016万6,000円を要した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本路線では保安装置に車内信号式自動列車制御装置(新CS-ATC)を導入しており、自動列車運転装置 (ATO) での自動運転によるワンマン運転を行っている。施工に当たっては、有楽町線の新CS-ATC化の2期工事区間(和光市 - 池袋間・小竹向原 - 新線池袋間・2007年10月27日使用開始)と一括発注し、コストダウンを図った。なお、開業時での運転間隔は10両編成による3分間隔を、将来的には10両編成による2分間隔で運転することを想定している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ATO装置の最終的な停止精度は前後45 cm以内であるが、 副都心線開業時点から当面は10 cmの余裕を持たせた前後55 cm以内に設定している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "副都心線は1972年(昭和47年)3月の東京圏の鉄道網整備計画「都市交通審議会答申第15号」において東京13号線として答申されたもので、第8号線から削除した成増 - 向原間に志木 - 成増間および向原 - 新宿間を加え、「志木から和光市、成増、向原、池袋、東池袋、目白東、諏訪町、西大久保を経由して新宿へ至る路線」として初めて示された。第13号線は和光市 - 向原間は第8号線(有楽町線)と線路を共有し、向原 - 池袋間は第8号線と同一のルートを通る複々線とされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "同時に志木 - 和光市間は東武東上線を複々線化することならびに新宿より渋谷、品川を経て羽田空港方面への延伸を検討することも示された。その後、1985年(昭和60年)7月の運輸政策審議会答申第7号では池袋以南の南下について、終点を渋谷とすることが示された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このうち、志木 - 和光市間は東武東上線の複々線化を実施し、和光市 - 小竹向原駅は有楽町線として、小竹向原 - 池袋間は有楽町線新線としてそれぞれ開通した。有楽町線新線は、副都心線開業までの間「有楽町線(新線)」または単に「新線」(英: New Line)と案内され、同線の終着であった池袋駅は広く「新線池袋」(英: New Line Ikebukuro)と案内されていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "有楽町線の建設当初、第13号線の開業時期は先になることが予想されていた。しかし、有楽町線との一体建設によるコスト低減、沿線住民への配慮、道路占有手続きなど総合的に判断して、小竹向原 - 池袋間は有楽町線と同時に建設を行った。また、この区間は、手続き上は有楽町線の複々線部として取り扱うことになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このため、1977年(昭和52年)9月に小竹向原 - 池袋間を複々線とする工事計画変更認可を受け、同区間の建設工事に着手した。用地節約のため、この区間は4線並列ではなく、上下2段のトンネル構造としている。上段部の有楽町線は1983年(昭和58年)6月に開業し、第13号線となる下段部(現在の副都心線部)は、1985年(昭和60年)8月に池袋駅(後の新線池袋駅、現在の副都心線池袋駅)の完成により、全ての地下構造物の構築を完了した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、有楽町線池袋以西の混雑緩和のため、第13号線小竹向原 - 池袋間を先行して開業することが決定され、1992年(平成4年)5月から1994年(平成6年)10月にかけて下段トンネル内の清掃、漏水処理、連結送水管の設置、(新線)池袋駅にエレベーター、エスカレーターの設置や出入口の構築、電気工事等を行い、1994年(平成6年)12月7日に有楽町線新線として開業することになった(この区間の開業式では「有楽町線複々線 小竹向原 - 池袋開通」と書かれていた)。この開業時点では千川駅・要町駅のホームは未開業で全列車通過とされ、第13号線の池袋駅は新線池袋駅と呼称することになった。また、この時より路線図や池袋駅の案内サイン類にてブラウンのラインカラーが使用されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この区間は小竹向原 - 新線池袋間をノンストップで走り、有楽町線本線よりも2分短い4分で走っていた。運転本数は朝ラッシュ時で1時間あたり6本(約10分間隔)、平日の日中および土休日は1時間あたり4本(約15分間隔)で運転していた。営業キロは2.96 kmであり、最小曲線は240 m、最急勾配は35‰である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第13号線池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許は、同じ第13号線の和光市 - 成増間の免許申請とともに1975年(昭和50年)9月2日に申請していた。なお、答申されていたのは志木 - 新宿間であるが、新宿付近は地理的、技術的な制約から折り返し設備が渋谷に近い代々木付近まで伸びること、渋谷まで延伸することは大きな輸送需要が見込めることから、渋谷まで延長して申請したものである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、翌1976年(昭和51年)8月11日に和光市 - 成増間の路線免許は交付されたが、池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許の交付は保留となり、以来は免許申請中状態が続いていた。1975年(昭和50年)の池袋 - 渋谷間路線免許申請では、同区間の建設費用は2,085億円を想定していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、政府は長引く不況への景気回復策として1998年11月に緊急経済対策を策定し、翌月に補正予算の編成を行った。そして、地下鉄13号線については整備による地域経済の活性化、雇用の拡大などによる景気回復に有効であるとの理由から建設予算の確保に至った。この補正予算の編成に合わせ、当時の帝都高速度交通営団は池袋・新宿・渋谷といった3大副都心への重要なアクセス、JR山手線・埼京線に対する混雑緩和へ寄与するなど、建設によるメリットが大きいことから地下鉄13号線の建設を進めることを決定した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このため、1975年以来申請中であった地方鉄道敷設免許→改正により第1種鉄道事業免許の追加申請を1998年12月17日に実施した。そして、1999年1月25日に池袋 - 渋谷間の第1種鉄道事業免許を取得した。その後、各種手続きを経た2001年6月15日に同区間の建設が開始された(2004年4月1日に営団が民営化され建設は東京地下鉄に継承)。なお、千川駅と要町駅は駅躯体工事のみ施工されていたことから内装工事の実施、新線池袋駅(後の副都心線池袋駅)では躯体工事のみ施工されていた丸ノ内線との連絡通路や連絡階段などの内装工事が実施された(2007年5月 - 2008年7月)。半蔵門線渋谷駅は、副都心線乗り入れに伴い改良工事が実施された(2007年1月 - 2008年7月)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "池袋 - 渋谷間の建設に当たり、営団地下鉄が1951年の丸ノ内線建設を施工して以来、半世紀にわたり培ってきた地下鉄建設技術を集結させた上、各種の新技術を採用した。このことから「環境負荷低減への積極的な取り組み」「建設コストの削減」「建設工事に関する沿道とのコンセンサス形成」の3点に重点を置いて建設を行った。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "雑司が谷駅 - 渋谷駅間では明治通りの直下を通り、本区間で新設した7駅のうち雑司が谷駅と西早稲田駅は駅シールド工法で、それ以外の駅は開削工法で建設されている。東新宿駅は急行待避線を設置する関係で2段構造の駅としている。また、新宿三丁目駅構内には渋谷方からの折り返し用の引き上げ線が設置されている。本区間の建設には計10台のシールドマシンが使用された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "駅間は池袋駅 - 新宿三丁目間が単線シールド構造、新宿三丁目 - 渋谷間は複線シールド構造を採用している。このうち、明治神宮前 - 渋谷間の複線シールドには新たに開発した複合円形複線シールドを採用した。このトンネルは従来の丸形シールドトンネルよりも上下方向に圧縮した楕円形の断面とし、土砂掘削量の削減やトンネル下部に使用するコンクリート材を減少させ、従来のシールドトンネルと同等のコストに抑えている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2007年1月24日、13号線の路線名を「副都心線」とすることが発表された。合わせて建設中の正式な駅名も発表し、池袋駅側から順に雑司が谷(雑司ヶ谷)、西早稲田、東新宿(新宿七丁目)、新宿三丁目、北参道(新千駄ヶ谷)、明治神宮前とした(カッコ内はそれまでの仮称)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2008年6月14日に全線が開業した。これに合わせ、有楽町線新線を編入した上で和光市 - 渋谷間を「副都心線」と命名し、和光市 - 小竹向原間は有楽町線と線路・駅・施設を共有することになった。有楽町線新線から副都心線への改称に合わせて、便宜上「新線池袋駅」と案内されてきた同駅が「池袋駅」に改称され、千川駅と要町駅の営業が開始された。また、開業と同時に東武東上線や西武有楽町線を経由して池袋線との相互直通運転が開始された(相互直通運転自体は有楽町線新線時代から実施)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "開業後の利用者数は増加の一途をたどっている。都内鉄道駅を対象に2009年度と2014年度の利用者数を比較しその増加率を見ると、渋谷駅が第2位、東新宿駅が第3位、北参道駅が第7位、明治神宮前駅が第9位に入る。また、東京13号線計画とは別に2013年3月16日から渋谷駅で東急東横線との相互直通運転を行っており(後述)、利便性のさらなる高まりにより、東新宿駅などの利用者数をさらに押し上げている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうした輸送人員の大幅な増加によって、路線の経営状態も大きく改善している。週刊東洋経済が、国土交通省鉄道局『鉄道統計年報』から営業係数を算出したところ、2008年度の104.3に対し、2013年度は79.5となり、丸ノ内線や南北線を上回る黒字路線へと成長している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、2022年1月には東急東横線および2023年3月に開業する東急新横浜線を経由して相模鉄道の相鉄新横浜線と直通運転を行うことが発表された。同年12月には相模鉄道、東急電鉄、鉄道・運輸機構の三社合同で発表し、東急新横浜線・相鉄新横浜線(新横浜駅)の開業日が2023年3月18日に正式決定され、同日から東急新横浜線を経由して相鉄線との相互直通運転を開始した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、一部は有楽町線として建設された区間も含む。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "副都心線の急行・通勤急行は全列車10両編成、各駅停車は大部分が8両編成である。10両編成と8両編成では停止位置が異なることから、駅の時刻表・発車標・接近放送では列車の編成両数も案内されている。また、乗り入れ先である渋谷駅からの東急東横線、東急線経由での相鉄線(東急新横浜線、相鉄新横浜線経由相鉄本線、いずみ野線)、小竹向原駅からの西武線(西武有楽町線経由池袋線)、和光市駅からの東武東上線内において種別が変わる列車が多数設定されているため、乗り入れ先の路線内の種別も案内される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "副都心線の終点である渋谷駅からは和光市発の終電を除き全列車が東急東横線に乗り入れる。そのうち大半の列車は東横線の終着駅である横浜駅から先、横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅、または日吉駅から東急新横浜線、相鉄新横浜線、相鉄本線、いずみ野線を経由して湘南台駅(朝夕は海老名駅)まで乗り入れる。なお、東横線・みなとみらい線には副都心線に乗り入れない列車(渋谷駅折り返し)が終日にわたり多数設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日中は30分サイクルのパターンダイヤで運行されている。その間に急行が15分間隔で2本、各駅停車は間隔不定で5本あり、このうち1本は池袋駅で東横線方面に折り返す。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日中の運行パターンは下表のとおり。参考のため、和光市 - 小竹向原の線路共用区間を走る有楽町線の列車も記載する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2013年3月16日のダイヤ改正より、新たにもう一方の終端駅である渋谷駅で東急東横線と東横線の終点である横浜駅から横浜高速鉄道みなとみらい線に乗り入れ、元町・中華街駅までの相互直通運転を開始した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "副都心線の渋谷側では、渋谷発和光市行き2本または4本(早朝の初電1本のほか、平日の夕方の各駅停車1本、土休日夕方以降の各駅停車2本と急行1本)と和光市始発の渋谷行き終電を除く全列車が東急東横線との相互直通運転を行う。日中時間帯は、副都心線内急行は東横線内で特急として、副都心線内各駅停車のうち1時間に4本は東横線内で急行として運転する。一方、東横線からの各駅停車が8本あるうち1時間に2本が池袋行き、2本が渋谷駅発着(副都心線へ乗り入れない)となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "東横線内で特急・通勤特急として運転されている列車は横浜駅および元町・中華街駅発着で各社の10両編成での運行されるが、土休日1本のみ特急横浜行きが設定されている(横浜駅には2番線に到着し、1番線に停車中の各駅停車元町・中華街行きに接続)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東横線内で急行として運転されている列車は元町・中華街駅発着の列車と相鉄線直通列車が大半を占めるが、武蔵小杉駅・菊名駅発着の列車も設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "東横線内で各駅停車として運転されている列車は元町・中華街駅発着が中心だが、一部列車は武蔵小杉駅・元住吉駅・菊名駅および横浜駅発着で運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この相互直通運転開始は東横線渋谷駅 - 代官山駅間の地下化にあわせて行われ、副都心線渋谷駅は開業当初から東京急行電鉄(当時、以下「東急電鉄」)の100%子会社である東急レールウェイサービスが東急田園都市線(半蔵門線)の駅と一体的に駅管理業務を行っている。駅構内の旅客向け案内板や発車標などは東急仕様であるが、接近放送と発車メロディは東京地下鉄のものが使用されていた。現在でも副都心線として出発する電車には東京地下鉄仕様の発車メロディと注意喚起放送が使われている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "副都心線との相互直通運転開始以前の東横線とみなとみらい線はすべての列車が8両編成であったが、副都心線への乗り入れを機に速達列車(特急・通勤特急・急行)を一部列車を除き10両編成に増強するため、東横線とみなとみらい線の速達列車停車駅では10両編成の列車が停車できるようにホーム延伸工事を行った。ただし、各駅停車は従来通り8両編成での運転となる。副都心線開業当初から各駅停車に8両編成の運用が存在していたのはこのためである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "空港連絡鉄道として検討されている蒲蒲線(新空港線)について大田区が作成したパンフレットでは、東横線・東急多摩川線を介して副都心線と京急蒲田駅方面と直通運転が可能となる旨の記述がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2008年6月14日の開業当初は和光市駅で東武東上線森林公園駅まで直通運転を行っていたが、2019年3月16日のダイヤ改正からは小川町駅まで直通運転を行っている。急行・通勤急行・各駅停車ともに、東上線内は各駅に停車する「普通」として運行していたが2016年3月26日以降は日中時に副都心線急行は「急行」で運転され、土休日の一部列車は「快速急行」として運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2016年3月26日のダイヤ改正までは基本的に川越市駅発着列車が運転され、森林公園駅発着列車は駅構内に隣接する森林公園検修区への出入庫を兼ねた朝と夜の東武車に限られていた。2013年3月16日のダイヤ改正以降、日中は川越市駅発着の急行(東上線内普通)が30分間隔で運転されていたが、2016年3月26日のダイヤ改正以降は、森林公園駅発着(東上線内急行)に変更された。10両編成で運転されている。2019年3月16日のダイヤ改正より、土休日ダイヤのみ朝の一部列車が小川町駅発着となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "平日ダイヤのみ、朝と夕方以降の一部列車に志木駅発着の列車が存在する。こちらは8両編成でも運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "相鉄の車両は東武線内には乗り入れない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2008年6月14日の開業当初から小竹向原駅から西武有楽町線を経由して西武池袋線飯能駅まで直通運転を行っている。なお、西武線直通の速達列車は、「急行」と「通勤急行」で運転される。小竹向原駅で種別の変更が行われる列車があり、西武線内は快速急行・快速・準急・各駅停車のいずれかに変更する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2013年3月16日のダイヤ改正以降、日中時間帯の急行は西武線内快速から「快速急行」に格上げされた。この時間帯は、急行(西武線内快速急行)と各駅停車(西武線内各駅停車)が2本ずつ30分間隔で運行されており、2022年3月ダイヤ改正までは1時間に小手指駅・飯能駅発着の急行がそれぞれ1本ずつ、保谷駅・石神井公園駅発着の各駅停車がそれぞれ1本ずつであった。2013年改正前は飯能駅発着の急行(西武線内快速)と石神井公園駅発着の各駅停車がそれぞれ30分間隔で運行されていた。2022年ダイヤ改正より日中の西武線直通急行は小手指発着の快速急行、各駅停車は石神井公園行きとして運転し、うち1本は西武線内は準急となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "西武線内で各駅停車となる列車は終日運転されており、日中は前述の通り石神井公園駅発着が設定されている。朝・夕には保谷駅、清瀬駅・小手指駅発着の列車が設定されているほか、土休日には飯能行きが1本、所沢駅発着が1往復設定されている。所沢発着は8両で運転されるがそれ以外の列車は両数問わず運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "西武線内で準急となる列車は石神井公園駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が、西武線内で快速となる列車は飯能駅発着と平日に所沢行きが、西武線内快速急行となる列車は所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2016年6月16日、有料の座席指定制直通列車を2017年春に導入することが発表された。2017年1月10日には運行開始予定日、ダイヤや料金等の詳細が発表された。列車名は「S-TRAIN」で、同年3月25日より運行を開始した", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "西武ドームにおいてプロ野球の試合などの大規模イベントが開催される場合は、小手指行きの急行(みなとみらい線・東横線内特急、西武線内快速急行のFライナー)を西武球場前行きの急行(みなとみらい線・東横線内特急、西武線内快速)に変更する。この場合、代替としてひばりヶ丘発の快速急行小手指行きが運行され、当該列車は「Fライナー」を名乗らない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2023年3月18日の東急新横浜線・相鉄新横浜線全線開業に伴い、相鉄線との直通運転を開始した。平日朝ラッシュ時の都心方面行きと夕ラッシュ時の相鉄線方面行きは最大毎時4本、ラッシュ時の逆方向は毎時3本、平日昼間及び土休日は毎時2本程度が運転される。ほとんどは相鉄いずみ野線・湘南台駅を発着駅とし、副都心線内新宿三丁目駅・池袋駅・和光市駅折り返しのほか、東武東上線へ乗り入れる列車も運転される。早朝の都心方面行きと夜間の相鉄方面行きには相鉄本線・海老名駅とを結ぶ列車が運転される(平日朝ラッシュ終盤にも新宿三丁目発・相鉄本線大和駅行きが1本ある)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "相鉄直通の全列車が東急線内は急行となり、10両編成で運転される。運用は東急または相鉄の車両に限定される。西武線と直通する列車は運行されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "副都心線では以下の種別の列車が運転されている。 副都心線内の現行の停車駅は 「駅一覧」を参照。S-TRAINを含め当線内でも速達運転を行う優等種別が日本の地下鉄で初めて3種類運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2017年3月25日より土休日に運行を開始した座席指定列車。みなとみらい線元町・中華街駅 - 西武秩父線 西武秩父駅間で運行される。乗車には座席指定券が必要で、途中渋谷駅・新宿三丁目駅・池袋駅に停車する(他に乗務員交代のため小竹向原駅に運転停車)が、副都心線内のみの座席指定券は発行されない。また、池袋駅からの乗車は出来ない。日本の地下鉄線内での座席指定列車の運行は千代田線で運行されている「特急ロマンスカー」以来2例目となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "なお、平日は有楽町線直通(豊洲駅発着)となり、副都心線には乗り入れない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "東京地下鉄の路線では、東西線の快速から2例目となる地下鉄線内無料速達列車として、和光市駅 - 渋谷駅間の全線で急行運転を行っており、全列車が10両編成で運行される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "定期ダイヤでは、東新宿駅で大部分の急行が各駅停車を追い抜く。そのため、南行は新宿三丁目駅で直後の各駅停車(東横線・みなとみらい線内急行)に、北行は池袋駅で同じく直後の各駅停車に接続する。有楽町線との接続駅である小竹向原駅では、東武東上線方面発着の急行と和光市発着の各駅停車(有楽町線直通)・その直後の西武線方面発着の各駅停車(有楽町線直通)、または西武線方面発着の急行(西武線内は定期列車では急行以外の種別)と東武東上線方面の各駅停車(有楽町線直通)が接続する。また、渋谷駅では東横線方面は西武線からの列車と池袋発の元町・中華街行きが、東上線からの列車が渋谷駅始発の元町・中華街行きと、和光市方面は東上線直通列車が池袋行きと接続する。日中時間帯は渋谷駅から先の東横線内は「特急」に、西武線直通列車は小竹向原から「快速急行」に、東武東上線直通列車は「急行」となる。この組み合わせの列車種別で運行される列車は「Fライナー」の愛称が付く。2016年3月25日までは、東武東上線直通列車の東上線内種別は「普通」であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "停車駅に違いはないがFライナーの急行については赤色に白文字、Fライナー対象外の急行は朱色に黒文字で表示される。土休日の急行のみが明治神宮前駅に停車していた2016年3月25日までは、Fライナーと平日運転時の急行が赤色、土休日運転時の急行が朱色で表示されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "池袋駅 - 渋谷駅間の所要時間は、速達列車の急行・通勤急行が埼京線・湘南新宿ラインと同等の11分である。朝と夜間に和光市発着がある以外は東武東上線または西武池袋線に直通運転を行っているほか、全列車が東急東横線・みなとみらい線に直通運転を行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "東武東上線直通列車は主に森林公園駅発着で運転され、一部は川越市駅・小川町駅発着も運行されている。川越市駅発着列車は和光市駅で種別を「普通」に、森林公園駅発着列車は「普通」「急行」(土日のみ運転の小川町発着列車は小川町始発が「急行」、小川町行きが「快速急行」)のいずれかに変更する。日中は北行・南行とも小竹向原駅で和光市駅 - 有楽町線新木場駅間の各駅停車に連絡する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "西武池袋線直通は主に小手指駅発着が運行されているが、一部列車は保谷駅・清瀬駅、石神井公園駅、飯能駅からも運行されている。小竹向原駅で種別を「各停」「準急」「快速」「快速急行」(快速急行は2013年3月から)のいずれかに変更する。日中は北行・南行とも小竹向原駅で東武東上線川越市駅 - 有楽町線新木場駅間の各駅停車に連絡する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "東急東横線・みなとみらい線直通列車は土休日2本の菊名駅発を除く全列車が元町・中華街駅発着で運転されており、渋谷駅で種別を「特急」「通勤特急」「急行」のいずれかに変更する。相鉄線直通列車は海老名駅発の小川町行きが土休日1本設定されており、相鉄線内は特急、東急線内は急行、東武線内は快速急行で運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また、副都心線内発着として和光市駅発着が設定されている。このうち土休日の和光市行き1本のみ車両交換も兼ねて渋谷発(元住吉検車区より回送)で、東急東横線からの特急渋谷行きと接続を取るが、2023年3月ダイヤ改正で廃止される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "当初は都営地下鉄新宿線の急行と同様、2駅以上に連続停車しなかったが、2010年3月6日のダイヤ改正より、土曜・休日ダイヤの急行が明治神宮前駅に停車するようになった。これにより、停車日が限られるものの東京メトロ他路線と接続するすべての駅に停車するようになった。2016年3月28日から平日ダイヤの急行も明治神宮前駅へ停車するのと併せ、2016年3月26日のダイヤ改正より、東武東上線で急行または西武線内で快速急行、副都心線内で急行、東急東横線・みなとみらい線内で特急の組み合わせとなる列車に限り「Fライナー」の愛称が付与されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2023年3月のダイヤ改正で、「通勤急行」が明治神宮前に停車することになったため、西武線直通は「急行」と停車駅が変わらなくなったため、西武線直通で副都心線内通過運転をする列車は「急行」に統一された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "平日の朝夕ラッシュ時に運行される。和光市駅 - 小竹向原駅間は各駅に停車し、小竹向原駅 - 渋谷駅間で通過運転を行う。車両や駅の種別表示では「通勤急行」または「通急」と案内されるが、北行の小竹向原駅 - 和光市駅間は全列車が和光市まで各駅に停車するため、その区間では各駅停車として案内されている。なお、朝に数本、東上線内で急行運転される列車もあり、この場合はその旨も案内される。全列車が10両編成で運行される。急行と同様に東新宿駅で各駅停車を追い抜く。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "基本的にオレンジ・黄色で表示される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "設定当初、小竹向原駅 - 渋谷駅間においては急行との停車駅の違いが無かったため、西武線直通列車については運行時間帯においても全て急行として運転されていた。2016年3月26日のダイヤ改正で明治神宮前駅が平日の急行停車駅に加わり、これまで通り明治神宮前駅を通過する通勤急行と停車駅の差異が生じたため、西武線直通列車にも新たに通勤急行が設定された。しかし、2023年3月18日のダイヤ改正で通勤急行の停車駅に明治神宮前駅が追加され、再び差異が無くなったため、西武線直通の通勤急行は急行に変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "東武東上線内の種別は普通が中心で、一部列車は快速急行および急行になる列車が設定されている。川越市駅(普通のみ)・森林公園駅発着が存在する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "東急東横線・みなとみらい線直通は大多数の列車が元町・中華街駅発着で運転され、渋谷駅で特急・通勤特急・急行のいずれかに種別が変わるが、急行の一部列車は武蔵小杉駅・菊名駅・横浜駅発が設定されている。 相鉄線直通については海老名駅(発のみ)・湘南台駅・西谷駅(発のみ)発着が設定されている。相鉄線内は特急・通勤特急・各停で運転され、東急線内では急行で運転される。湘南台駅発の1本は相鉄車で運転され、それ以外の列車は東急車で運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "駅・車両の種別表示でも現在は「各駅停車」と案内される。池袋駅 - 渋谷駅間の所要時間は山手線と同等の16分である。基本的に東京メトロ車・東急車・横浜高速車の8両編成で運行されるが、東急東横線に直通しない、もしくは渋谷駅で種別変更する一部の列車は各社の10両編成で運行される(東横線・みなとみらい線内の急行通過駅の有効長は8両なので、東横線内各駅停車の列車は必然的に8両となる)。車両の編成はダイヤによって決まっており、駅の時刻表において数字が四角で囲まれている列車が8両編成である(ただし、検査による車両不足やダイヤ乱れの場合は8両編成運用を10両編成で代走する場合がある)。開業時から全列車が東新宿駅で待避線に入っていたが、通過線側の壁が撤去されたため2015年5月30日より急行・通勤急行の通過待ちを行わない列車は東新宿駅でも本線に入線するようになった。基本的に東横線内で急行となる列車が東新宿駅で急行(東横線内特急)・通勤急行の通過待ちを行う。東横線内で各駅停車となる列車は日中以外に通過待ちする列車もあるが、大半が副都心線内は渋谷駅(ほとんどが東横線自由が丘駅まで)・小竹向原駅まで先行する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "日中の時間帯の各駅停車は東横線内で急行となる列車が和光市発着4本(本線系統・相鉄線直通系統各2本)、副都心線内から元町・中華街まで各駅停車となる池袋駅 - 元町・中華街駅間運転が2本、和光市駅発着2本、西武線直通が2本運行される。東横線内で急行となる列車は前述通り東新宿で通過待ちを行い、池袋発着は渋谷駅で東横線方面は西武線からの特急と、和光市方面は東上線直通の急行と接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2017年3月25日のダイヤ改正から、東横線・みなとみらい線内で急行になる列車のうち、東新宿駅でS-TRAINのみの通過待ちを行う列車が設定された。この場合、料金不要列車として渋谷駅・小竹向原駅まで先着する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "基本的に和光市駅・池袋駅発着で東急東横線・みなとみらい線直通と、みなとみらい線・東急東横線 - 副都心線 - 西武池袋線直通で運転されるが、朝夕を中心に新宿三丁目駅発着東急東横線・みなとみらい線直通、和光市より先の東武東上線に直通する列車もある。そのほか、小竹向原発元町・中華街行きが早朝1本、副都心線内のみを運転する渋谷発和光市行きが平日2本、土日は急行1本と各駅停車3本、和光市始発渋谷行き終電が毎日1本、千川発武蔵小杉行きが平日1本、元町・中華街行きが平日1本設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "東武東上線直通は志木駅(平日のみ)を中心に一部列車は川越市駅・森林公園駅発着で運転される。和光市駅では、東上線内急行として運転する平日の1往復を除いたすべての列車が種別を「各停」から「普通」に変更する。8両編成はすべて志木駅発着で運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "西武線直通は保谷駅・石神井公園駅(一部列車は清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅)発着で運転される。日中は石神井公園駅発着が設定されている。基本的に8両編成で運転されているが、一部は10両編成で運転される。小竹向原駅で種別を快速急行・快速・準急に変更する列車が存在し、副都心線を挟み西武線内準急、東横線・みなとみらい線内急行などとして両端で優等運転する列車も存在する。東横線内急行のため、東新宿駅で通過待ちを行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "東急東横線直通は、日中は元町・中華街駅発着で運行されるが、朝晩を中心に武蔵小杉駅・元住吉駅(最終のみ)、菊名駅と横浜駅止まりの列車も存在する。一部列車は渋谷駅で種別を急行・特急・通勤特急に変更する。ホーム有効長の関係上、東横線内各駅停車となる列車はすべて8両編成で運転され、東武車、西武車の運用はない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "種別色は基本的に青色や白黒で表記されるが、駅や車両により異なる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "東京メトロ副都心線は、乗り入れ先を含め、副都心線あるいは有楽町線で何らかの運行障害が発生すると、その影響を受けやすいとともに運行形態が大きく変わる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "運行障害が発生すると、以下のように切り替わる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "副都心線開業当初はダイヤの乱れが発生した場合は、小竹向原 - 渋谷間で折り返し運転を行っていたが、小竹向原駅での案内が不十分であったために、乗客がなかなか降車せず、ダイヤの乱れが増大した。このため池袋 - 渋谷間での折り返し運転に変更された。しかし、池袋駅の副都心線ホームと有楽町線ホームが離れているため、改札外乗り換えとなっており、乗り換えるのに少々不便を強いられた。その後、小竹向原駅の連絡線工事が進展したことにより、小竹向原駅の千川寄りの配線を使用して折り返せるようになったことから、2013年(平成25年)の工事終了翌日以降は現行の形態となり、有楽町線・副都心線の乗り換えは千川駅での階段の昇り降りで済むようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "開業当初から小竹向原駅 - 渋谷駅間でATOによるワンマン運転を実施しており、2015年3月28日から和光市駅 - 小竹向原駅間もワンマン運転を実施している。なお、10両編成でのワンマン運転は本路線が日本国内では初めてである(8両編成までのワンマン運転は都営大江戸線などの例がある)。", "title": "ワンマン運転とホームドア" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また、小竹向原駅 - 渋谷駅間では開業時から京三製作所製のハーフハイトタイプのホームドアが設置されていた(小竹向原と池袋では2008年4月1日使用開始)。その後、地下鉄成増駅 - 氷川台駅間にも2010年10月までにホームドアが設置された後、和光市駅にも2012年4月に設置(同年7月7日使用開始)され、全駅にホームドアが設置された。東京地下鉄におけるホームドア採用例は南北線、千代田線支線(北綾瀬線)、丸ノ内線分岐線に次ぐ4路線目である。", "title": "ワンマン運転とホームドア" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "副都心線は南北線とは異なり、車両がホームドアの設置を考慮したものではなく、車両によってドアの位置が多少異なるという難点があり、ドア位置の異なる車種へ対応するため、ホームドア開口幅は2,480 mmと大きいものとなった。ホームドアの最も長いもので片側1,680 mmとなり、従来の片側戸袋部分にドアが収納できないことから、収納時のホームドアが戸袋部で重なる方式となった。ホームドアは大中小3種類の大きさがある。", "title": "ワンマン運転とホームドア" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "車両とホームとの隙間が大きい駅では可動式ステップを設置している。これは列車が到着し、開扉時に自動でステップが張り出すもので、ホームドアが閉扉されるとステップも自動で収納される。また、この可動ステップが張り出しているときはATCにより、停止信号を現示し、列車が発車できないように制御されている。", "title": "ワンマン運転とホームドア" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "全車両、和光検車区所属。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "有楽町線新線時代は07系全6編成 (07-101F - 106F) も運用されていたが、有楽町線との共用駅である小竹向原駅へのホームドア設置に伴い、扉間隔の異なる07系は有楽町線・副都心線どちらにも対応できなくなり、最終的には全編成が東西線に転出した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号で判別できる。2023年3月18日改正ダイヤでは、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両(8両編成は01S - 19S/10両編成は21S - 91Sの奇数番号)、「M」が西武車両(02M - 34Mの偶数番号および71M - 75M)、「T」が東武車両(01T - 25Tの奇数番号)、「K」が東急車両(8両編成は横浜高速鉄道車両と共通運用で01K - 33K/10両編成は51K - 64K/ダイヤ乱れの場合は41K - 46K)、「G」が相鉄車両(91G - 95G)となっている。なお、列車番号が6桁の数字で表される東横線・みなとみらい線では上3桁が運用番号を示し、700番台が東京メトロ車両、100番台が西武車両、000番台が東急・横浜高速車両、800番台が東武車両、900番台が相鉄車両となっている(例えば「01S」は東横線・みなとみらい線では「701」となる)。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)などで確認できる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "10両編成は有楽町線と共通運用されており、西武車も和光市駅までは乗り入れる。東急車を除く10両編成は和光市駅で折り返しが有楽町線の列車に変わる運用もある。多くはメトロ車の運用だが、一部は東急車や西武車、東武車が運用に就く。8両編成は、平日も土休日も東急車の運用が大半で、メトロ車は渋谷始発の東急東横線・みなとみらい線直通列車の運用に就くことがある。2016年3月26日ダイヤ改正で、東武東上線内急行運転開始により日中の乗り入れ区間が森林公園駅まで延長されたことで、平日日中の東武車運用が復活した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2023年3月18日改正ダイヤでは、東京メトロ車両では10両編成2本および8両編成2本が東急の元住吉検車区、10両編成1本が西武の武蔵丘車両基地、10両編成1本が東武の森林公園検修区でそれぞれ夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。東京メトロの車両基地では和光検車区に東武車2本、東急車の8両編成2本と10両編成1本、西武車1本が、新木場車両基地に西武車1本が夜間留置される。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "相互直通運転時には従来、車両保有会社が乗り入れ先の路線に対応するように改造することが暗黙の合意の基、“相直の精神”とされてきた 。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "副都心線との相互直通運転にあたり、東武鉄道・西武鉄道の車両にも同線に対応するATO装置などのワンマン運転機器の設置に伴う車両改造工事が必要となり、2社に対する依頼が必要となった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "しかし、東武と西武からは「副都心線に必要なATO装置・ワンマン運転機器は、東京地下鉄の経営効率化のためであり、自社線内では不要である。改造費用の全額負担はできず、東京地下鉄の負担とするべき」と主張された。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "その後、東京地下鉄・東武・西武の3社で協議の結果「副都心線のワンマン運転に必要な車両改造の初期費用は東京地下鉄が負担する。対応機器は車両保有会社が所有するが、機器の使用権利は東京地下鉄に属する」という条件の元に2社の車両の副都心線対応改造が実施された。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "副都心線では、平日始発から9時30分までの全列車で和光市駅寄り先頭車両(1号車)が女性専用車となる。なお、小児や障害者、その保護者や介助者は性別不問で女性専用車への乗車が可能である。副都心線内の設定区間は以下の通り。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "10両編成と8両編成で女性専用車となる車両の停止位置が異なる駅は10両編成の女性専用車乗車位置にピンク色のステッカーを貼付し、8両編成は緑色のステッカーを貼付している。10両編成と8両編成の1号車の停車位置が同一の駅は乗車目標がピンク色である。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "東京地下鉄の駅構内出口階段は、最前部または最後部に存在するケースが多い。その出口階段に最も近い場所に女性専用車が停車する場合が多い。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "副都心線の女性専用車は開業から2日後にあたる2008年6月16日に導入され、当初は平日ダイヤのうち和光市駅(東武東上線からの直通列車を含む)を午前7時06分から9時20分まで、ならびに西武線からの直通列車で午前7時20分から9時20分まで小竹向原駅に発着する渋谷行のみの実施(副都心線内走行中の列車は9時20分で一斉終了)であったが、2013年3月16日の東横線・みなとみらい線との直通運転開始に際し実施形態が変更された。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2023年3月20日 同年3月18日のダイヤ改正による、東急新横浜線と相鉄新横浜線(羽沢横浜国大 - 新横浜間)の開業ならびに同線および相鉄各線との直通運転開始に伴い、これらの区間と直通運転を行う電車において、女性専用車の設定を開始した。副都心線内においては設定時間帯等の変更はない。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)度の最混雑区間(A線、要町→ 池袋間)の混雑率は101%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "本路線の新たに建設された雑司が谷駅 - 明治神宮前駅では、駅の周辺環境をはじめとした歴史や文化などをイメージした各駅ごとのデザインコンセプトとステーションカラーを導入した。千川駅 - 池袋駅では既存の駅施設があるため、駅構内の一部のみで採用している。なお、渋谷駅は東急電鉄の施工のため、東京地下鉄は担当していない。", "title": "各駅のデザインコンセプトとステーションカラー" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "本路線は比較的深い駅が多く、東京地下鉄全駅の中では、東新宿駅(B線ホーム)は4番目、雑司が谷駅は5番目、西早稲田駅は7番目、渋谷駅は9番目に深い駅に該当する。小竹向原駅の深さは17.3 mである。", "title": "各駅のデザインコンセプトとステーションカラー" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "和光市駅以外の全駅で発車メロディ(発車サイン音)を使用している。すべてスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、谷本貴義の3名が作曲を手掛けた(2015年5月30日使用開始の東新宿駅3番線のメロディは山崎泰之作曲)。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "開業当初はワンマン運転を実施している小竹向原駅 - 渋谷駅間のみ導入されていたが、2011年2月23日からは地下鉄成増駅 - 氷川台駅間の各駅でも順次使用を開始した。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "曲名はスイッチのホームページおよび同社が運営する「鉄道モバイル」から。", "title": "発車メロディ" } ]
副都心線(ふくとしんせん)は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は13号線副都心線。和光市駅 - 小竹向原駅間は有楽町線と線路・駅・施設を共用している。 路線名の由来は、池袋・新宿・渋谷の三大副都心を縦断することから。池袋駅 - 新宿三丁目駅 - 渋谷駅間は山手線のバイパス的な役割を持つ。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ブラウン」(#9c5e31、茶)、路線記号はF。 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の民営化後(東京メトロ発足後)初の路線として開業した。また、東京メトロの9路線で唯一千代田区を通っていない。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Redirect|副都心線|「臨海副都心線」と称する鉄道路線|東京臨海高速鉄道りんかい線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Tokyo Metro logo.svg|20px|東京地下鉄|link=東京地下鉄]] 副都心線 |路線色=#9c5e31 |ロゴ=File:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg |ロゴサイズ=40px |画像=Tokyo-Metro Series17000-17188.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=副都心線で使用される[[東京メトロ17000系電車|17000系]]<br />(2022年5月23日 東急東横線[[多摩川駅]]) |国={{JPN}} |所在地=[[埼玉県]]・[[東京都]] |種類=[[地下鉄]] |路線網=[[東京地下鉄|東京メトロ]] |起点=[[小竹向原駅]]([[和光市駅]] - 小竹向原駅間は[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と共用) |終点=[[渋谷駅]] |駅数=11駅(小竹向原駅 - 渋谷駅間)<ref name="metro2" /> |輸送実績=1,316,631千[[輸送量の単位|人キロ]]<small>(2019年度)<ref name="passenger numbers">{{Cite web|和書|url=https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041401.xls|title=東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)/運輸|format=XLS|publisher=[[東京都]]|accessdate =2021-07-31}}</ref></small> |1日利用者数= |路線記号=F |路線番号=13号線 |路線色3={{Legend2|#9c5e31|ブラウン}} |開業=[[2008年]][[6月14日]] |休止= |廃止= |所有者=[[東京地下鉄]] |運営者=東京地下鉄 |車両基地=[[和光検車区]]・[[新木場車両基地|和光検車区新木場分室]]<br />[[小手指車両基地]](西武車)<br />[[武蔵丘車両基地]](西武車)<br />[[森林公園検修区]](東武車)<br />[[元住吉検車区]](東急・横浜高速鉄道車)<br />[[かしわ台車両センター]](相鉄車) |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=11.9&nbsp;[[キロメートル|km]](小竹向原駅 - 渋谷駅間)<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017105609/http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2021-10|archivedate=2021-10-17|accessdate=2021-10-17|publisher=[[日本地下鉄協会|一般社団法人日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref> |軌間=1,067&nbsp;[[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])<ref name="metro2" /> |線路数=[[複線]] |複線区間=全区間 |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> |最大勾配=40&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="Fuku-Const760">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.760。</ref><br>(新宿三丁目→東新宿・B線<ref name="Fuku-Const760"/>) |最小曲線半径=160.4&nbsp;m<ref name="Fuku-Const760"/><br>(新宿三丁目→北参道・A線<ref name="Fuku-Const760"/>) |閉塞方式=[[車内信号]]閉塞式 |保安装置=[[自動列車制御装置|新CS-ATC]]<br/>[[自動列車制御装置|ATO]] |最高速度=80&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" /> |路線図=File:Tokyo metro map fukutoshin.png }} {{Osm box|r|5375678}} '''副都心線'''(ふくとしんせん)は、[[埼玉県]][[和光市]]の[[和光市駅]]から[[東京都]][[渋谷区]]の[[渋谷駅]]までを結ぶ、[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営する[[鉄道路線]]である。『[[鉄道要覧]]』における名称は'''13号線副都心線'''。和光市駅 - [[小竹向原駅]]間は[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と線路・駅・施設を共用している<ref name="Fuku-Const281">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.281。</ref>。 路線名の由来は、[[池袋]]・[[新宿]]・[[渋谷]]の三大[[副都心]]を縦断することから<ref name="Yurakucho-Const36">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.36 - 40。</ref>。池袋駅 - [[新宿三丁目駅]] - 渋谷駅間は[[山手線]]のバイパス的な役割を持つ。車体および路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「ブラウン」(#9c5e31、茶)<ref name="color">{{Cite web|和書|url=https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604113943/https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|title=東京メトロ オープンデータ 開発者サイト|archivedate=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、路線記号は'''F'''。 [[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)の民営化後(東京メトロ発足後)初の路線として開業した<ref group="注">和光市駅 - 小竹向原駅間は有楽町線、小竹向原駅 - 池袋駅(当時は新線池袋駅)間は有楽町線新線として営団時代に開業していたが、2008年の池袋駅 - 渋谷駅間開業時に副都心線に編入された。[[#沿革|沿革]]節を参照。</ref>。また、東京メトロの9路線で唯一[[千代田区]]を通っていない<ref group="注">都営地下鉄では[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]も同様に千代田区を経由していない(ただし大江戸線は[[文京区]]にある[[飯田橋駅]]が近接している)。</ref>。 == 概要 == {{東京メトロ副都心線路線図}} [[和光市駅]]から[[東武東上本線|東武東上線]]に、[[小竹向原駅]]から[[西武有楽町線]]を経由して[[西武池袋線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行っているほか、渋谷駅から先はほぼ全ての列車が[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]に直通しており、運転系統も完全に一体化している。本路線を含めた鉄道6事業者([[東武鉄道]]・[[西武鉄道]]・東京地下鉄・[[東急電鉄]]・[[横浜高速鉄道]]・[[相模鉄道]])による相互直通運転が行われており、埼玉県西部の[[小川町]]・[[川越市]](東武東上線)、[[飯能市]]・[[所沢市]](西武線)の各方面から[[神奈川県]][[横浜市]](東急東横線・みなとみらい線)、[[大和市]]・[[海老名市]]・[[藤沢市]](相鉄線)までの広域鉄道網を形成している。和光市駅 - [[池袋駅]]間は東武東上線と並行しており、特に和光市駅 - [[地下鉄赤塚駅]]([[下赤塚駅]])間は両鉄道事業者の駅が近接している。 和光市駅から小竹向原駅までは有楽町線と同じ線路を走行する。西武有楽町線との合流点でもある小竹向原駅を出発すると有楽町線の線路から分かれるが、要町駅まで同線の直下を走る。隣の池袋駅のホームは同線のホームとは離れた位置にあるが、線区上は同駅まで並走扱いとなる。池袋駅で有楽町線と分かれ、[[山手線]]と並行しながら南下する。途中の東新宿駅のホームは上下2層の2面4線構造となっており、同駅で急行・通勤急行が各駅停車を追い抜くことが可能である。終点の渋谷駅は東急東横線の線路と繋がっている。 東武東上線[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]] - みなとみらい線[[元町・中華街駅]]間および西武池袋線[[飯能駅]] - 元町・中華街駅間のそれぞれについて、日中の時間帯に本路線を経由して各線内を特別料金不要の最速達(副都心線内は急行運転)で運行される列車については「[[Fライナー]]」の愛称がつく。また、土休日には[[西武秩父駅]] - 元町・中華街駅間で有料座席指定列車の「[[S-TRAIN]]」が運行される。 有楽町線および直通先の東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線、東武東上線和光市駅 - 小川町駅間および西武有楽町線・池袋線[[練馬駅]] - 飯能駅間を含めた営業キロは150.4&nbsp;kmで、これは東京メトロ関連の一般列車の運用距離としては[[東京メトロ千代田線|千代田線]](綾瀬 - 北綾瀬間・[[常磐緩行線]]・[[小田急小田原線]]代々木上原 - [[伊勢原駅|伊勢原]]間・[[小田急多摩線|多摩線]]含む)の113.0&nbsp;kmや、[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]・[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]([[東武伊勢崎線]][[東武動物公園駅|東武動物公園]] - [[久喜駅|久喜]]間・[[東武日光線|日光線]]東武動物公園 - [[南栗橋駅|南栗橋]]間・[[東急田園都市線]]含む)の119.6&nbsp;kmを上回り最長である<ref group="注">ただし、これらの区間を運転する時間帯は限られているため、終日にわたって直通運転が行われる区間は依然として半蔵門線が最長である。</ref>。土休日限定でS-TRAINが入線する池袋線飯能 - [[吾野駅|吾野]]間・西武秩父線を含めると183.5&nbsp;km、臨時列車として入線する[[西武狭山線|狭山線]]も含めると187.7&nbsp;kmで、これは千代田線の[[小田急ロマンスカー]](小田原線伊勢原 - [[小田原駅|小田原]]間・[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]・[[箱根登山鉄道鉄道線]]小田原 - [[箱根湯本駅|箱根湯本]]間含む)を含めた運用距離177.0&nbsp;kmを上回る。 === 路線データ === 距離・駅数は[[小竹向原駅]] - [[渋谷駅]]間のもの。 * 路線距離([[営業キロ]]):11.9&nbsp;[[キロメートル|km]]<ref name="metro2" /> ** [[和光市駅]] - 小竹向原駅間の8.3&nbsp;kmは有楽町線の線路を使用<ref>[http://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/lines/index.html 営業状況] - 東京地下鉄</ref>。副都心線和光市駅 - 渋谷駅間の営業キロは20.2&nbsp;km。 * [[軌間]]:1,067&nbsp;[[ミリメートル|mm]]<ref name="metro2" /> * 駅数:11駅(起終点駅含む)<ref name="metro2" /> * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]、[[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:速度制御式([[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]])・[[自動列車運転装置|ATO]](全線) * [[列車無線]]方式:[[誘導無線]] (IR) 方式、[[デジタル空間波無線方式]] (D-SR) 方式 * 最高速度:80&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" /> * 平均速度:急行 49.0&nbsp;km/h・各停 40.2&nbsp;km/h(小竹向原駅 - 渋谷駅間)、急行 54.3&nbsp;km/h・各停 47.4&nbsp;km/h(和光市駅 - 小竹向原駅間)(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /><!--表定・平均速度は日中時間が基本のため通勤急行は含まない。--> * [[表定速度]]:急行 43.9&nbsp;km/h・各停 31.9&nbsp;km/h(小竹向原駅 - 渋谷駅間)、急行 54.3&nbsp;km/h・各停 40.9&nbsp;km/h(和光市駅 - 小竹向原駅間)(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * 全線所要時分:急行 16分15秒・各停 22分25秒(小竹向原駅 - 渋谷駅間)、急行 9分10秒・各停 12分10秒(和光市駅 - 小竹向原駅間)(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * [[車両基地]]:[[和光検車区]]・[[新木場車両基地|和光検車区新木場分室]] * 工場:[[綾瀬車両基地#綾瀬工場|綾瀬工場]]([[東京メトロ千代田線|千代田線]]内) * 最急勾配:40&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="Fuku-Const760"/>(新宿三丁目 → 東新宿・B線のみ<ref name="Fuku-Const760"/>) 本路線のうち池袋 - 渋谷間の建設に要した建設費用は総額2,404億円(消費税除く)である<ref name="Fuku-Const45">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.45。</ref>。その内訳は土木関係費が1,773億5,144万3,000円<ref name="Fuku-Const45"/>、電気関係費が248億2,662万9,000円<ref name="Fuku-Const45"/>、車両関係費が170億8,065万8,000円<ref name="Fuku-Const45"/>、その他が211億4,127万円となっている<ref name="Fuku-Const45"/> 。 当初第8号線(有楽町線)として計画・建設工事に着工し、後述する[[都市交通審議会答申第15号]]によって第13号線となった和光市 - 小竹向原間の建設費用は、有楽町線の建設費用として計上されている<ref name="Yurakucho-Const52- 154">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.52 - 53・154 - 155。</ref>。なお、小竹向原 - 新線池袋間の建設費用は1992年度 - 1994年度に計上され、計126億6,016万6,000円を要した<ref name="Yurakucho-Const1075"/>。 === 保安装置 === 本路線では保安装置に[[車内信号]]式自動列車制御装置([[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]])を導入しており、[[自動列車運転装置]] (ATO) での自動運転による[[ワンマン運転]]を行っている。施工に当たっては、有楽町線の新CS-ATC化の2期工事区間(和光市 - 池袋間・小竹向原 - 新線池袋間・[[2007年]][[10月27日]]使用開始)と一括発注し、コストダウンを図った<ref name="Fuku-Const711">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.670・711・956。</ref>。なお、開業時での運転間隔は10両編成による3分間隔を、将来的には10両編成による2分間隔で運転することを想定している<ref name="Fuku-Const671">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.671。</ref>。 ATO装置の最終的な停止精度は前後45&nbsp;cm以内であるが、 副都心線開業時点から当面は10&nbsp;cmの余裕を持たせた前後55&nbsp;cm以内に設定している<ref name="Fuku-Const829">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.829。</ref>。 == 沿革 == === 計画・建設時 === 副都心線は[[1972年]](昭和47年)3月の東京圏の鉄道網整備計画「[[都市交通審議会答申第15号]]」において'''東京13号線'''として答申されたもので、[[東京メトロ有楽町線#概要|第8号線]]から削除した成増 - 向原間に志木 - 成増間および向原 - 新宿間を加え、「[[志木市|志木]]から[[和光市]]、[[成増]]、[[向原 (板橋区)|向原]]、[[池袋]]、[[東池袋]]、目白東、[[諏訪町 (新宿区)|諏訪町]]、西大久保を経由して[[新宿]]へ至る路線」として初めて示された<ref name="Yurakucho-Const24">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.24 - 40。</ref>。第13号線は和光市 - 向原間は第8号線(有楽町線)と線路を共有し、向原 - 池袋間は第8号線と同一のルートを通る複々線とされた<ref name="Yurakucho-Const24"/>。 同時に志木 - 和光市間は[[東武東上本線|東武東上線]]を[[複々線]]化することならびに新宿より[[渋谷]]、[[品川 (東京都)|品川]]を経て[[東京国際空港|羽田空港]]方面への延伸を検討することも示された<ref name="Yurakucho-Const24"/>。その後、[[1985年]](昭和60年)7月の[[運輸政策審議会答申第7号]]では池袋以南の南下について、終点を渋谷とすることが示された<ref name="Yurakucho-Const1200">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.1200。</ref>。 {{See also|東京メトロ有楽町線#第13号線と建設工事の遅れ}} このうち、志木 - 和光市間は東武東上線の複々線化を実施し、和光市 - 小竹向原駅は[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]として、小竹向原 - 池袋間は有楽町線新線としてそれぞれ開通した。有楽町線新線は、副都心線開業までの間「有楽町線(新線)」または単に「新線」({{Lang-en-short|''New Line''}})と案内され、同線の終着であった池袋駅は広く「新線池袋」({{Lang-en-short|''New Line Ikebukuro''}})と案内されていた。 === 小竹向原 - 池袋間の先行建設 === 有楽町線の建設当初、第13号線の開業時期は先になることが予想されていた<ref name="Yurakucho-Const1075">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.1075 - 1078。</ref><ref name="eidan195-196">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.195 - 196。</ref>。しかし、有楽町線との一体建設によるコスト低減、沿線住民への配慮、道路占有手続きなど総合的に判断して、小竹向原 - 池袋間は有楽町線と同時に建設を行った<ref name="Yurakucho-Const1075"/><ref name="eidan195-196"/>。また、この区間は、手続き上は有楽町線の複々線部として取り扱うことになった<ref name="Yurakucho-Const52- 154"/>。 このため、[[1977年]](昭和52年)9月に小竹向原 - 池袋間を[[複々線]]とする工事計画変更認可を受け、同区間の建設工事に着手した<ref name="Yurakucho-Const1075"/><ref name="eidan195-196"/>。用地節約のため、この区間は4線並列ではなく、上下2段のトンネル構造としている<ref name="Yurakucho-Const1075"/><ref name="eidan195-196"/>。上段部の有楽町線は[[1983年]](昭和58年)6月に開業し、第13号線となる下段部(現在の副都心線部)は、[[1985年]](昭和60年)8月に[[池袋駅]](後の新線池袋駅、現在の副都心線池袋駅)の完成により、全ての地下構造物の構築を完了した<ref name="Yurakucho-Const1075"/><ref name="eidan195-196"/>。 その後、有楽町線池袋以西の混雑緩和のため、第13号線小竹向原 - 池袋間を先行して開業することが決定され、[[1992年]](平成4年)5月から[[1994年]](平成6年)10月にかけて下段トンネル内の清掃、漏水処理、[[連結送水管]]の設置、(新線)池袋駅に[[エレベーター]]、[[エスカレーター]]の設置や出入口の構築、電気工事等を行い、1994年(平成6年)[[12月7日]]に'''有楽町線新線'''として開業することになった<ref name="Yurakucho-Const1075"/><ref name="eidan195-196"/>(この区間の開業式では「有楽町線複々線 小竹向原 - 池袋開通」と書かれていた)。この開業時点では千川駅・要町駅のホームは未開業で全列車通過とされ、第13号線の池袋駅は'''新線池袋駅'''と呼称することになった<ref name="eidan195-196"/>。また、この時より路線図や池袋駅の案内サイン類にてブラウンのラインカラーが使用されている。 この区間は小竹向原 - 新線池袋間をノンストップで走り、有楽町線本線よりも2分短い4分で走っていた<ref name="Yurakucho-Const1100">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.1099 - 1106。</ref>。運転本数は朝ラッシュ時で1時間あたり6本(約10分間隔)、平日の日中および土休日は1時間あたり4本(約15分間隔)で運転していた<ref name="Yurakucho-Const1100"/>。営業キロは2.96 kmであり、最小曲線は240 m、最急勾配は35‰である<ref name="Yurakucho-Const1075"/>。 === 池袋 - 渋谷間の建設 === [[ファイル:Construction of Kita-Sando Station at April 6th 2006.jpg|thumb|right|240px|[[北参道駅]]建設工事<br />(2006年4月 [[明治通り (東京都)|明治通り]]上)]] 第13号線池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許は、同じ第13号線の和光市 - 成増間の免許申請とともに[[1975年]](昭和50年)[[9月2日]]に申請していた<ref name="Yurakucho-Const36"/><ref name="Yurakucho-Const157">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.157 - 159。</ref>。なお、答申されていたのは志木 - 新宿間であるが、新宿付近は地理的、技術的な制約から折り返し設備が渋谷に近い[[代々木]]付近まで伸びること、渋谷まで延伸することは大きな輸送需要が見込めることから、渋谷まで延長して申請したものである<ref name="Yurakucho-Const157"/>。 しかし、翌[[1976年]](昭和51年)[[8月11日]]に和光市 - 成増間の路線免許は交付されたが、池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許の交付は保留となり、以来は免許申請中状態が続いていた<ref name="Yurakucho-Const36"/>。1975年(昭和50年)の池袋 - 渋谷間路線免許申請では、同区間の建設費用は2,085億円を想定していた<ref name="Yurakucho-Const157"/>。 その後、[[日本国政府|政府]]は[[失われた10年|長引く不況]]への[[景気]]回復策として[[1998年]]11月に緊急経済対策を策定し、翌月に[[予算|補正予算]]の編成を行った<ref name="Fuku-Const22">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.22 - 31。</ref>。そして、地下鉄13号線については整備による地域経済の活性化、[[雇用]]の拡大などによる景気回復に有効であるとの理由から建設予算の確保に至った<ref name="Fuku-Const22"/>。この補正予算の編成に合わせ、当時の[[帝都高速度交通営団]]は[[池袋]]・[[新宿]]・[[渋谷]]といった3大[[副都心]]への重要なアクセス、JR[[山手線]]・[[埼京線]]<!--・[[湘南新宿ライン]] →1998年時点ではまだない。-->に対する混雑緩和へ寄与するなど<ref name="Fuku-Const22"/>、建設によるメリットが大きいことから地下鉄13号線の建設を進めることを決定した<ref name="Fuku-Const22"/>。 このため、1975年以来申請中であった地方鉄道敷設免許→改正により第1種鉄道事業免許の追加申請を1998年[[12月17日]]に実施した<ref name="Fuku-Const22"/>。そして、[[1999年]][[1月25日]]に池袋 - 渋谷間の第1種鉄道事業免許を取得した<ref name="Fuku-Const22"/>。その後、各種手続きを経た[[2001年]][[6月15日]]に同区間の建設が開始された([[2004年]][[4月1日]]に営団が[[民営化]]され建設は[[東京地下鉄]]に継承)<ref name="Fuku-Const22"/>。なお、[[千川駅]]と[[要町駅]]は駅躯体工事のみ施工されていたことから内装工事の実施、新線池袋駅(後の副都心線池袋駅)では躯体工事のみ施工されていた丸ノ内線との連絡通路や連絡階段などの内装工事が実施された(2007年5月 - 2008年7月)<ref name="Fuku-Const347">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.347 - 349・531。</ref><ref name="Fuku-Const651">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.651 - 653。</ref>。半蔵門線渋谷駅は、副都心線乗り入れに伴い改良工事が実施された(2007年1月 - 2008年7月)<ref name="Fuku-Const347"/><ref name="Fuku-Const651"/>。 池袋 - 渋谷間の建設に当たり、営団地下鉄が[[1951年]]の丸ノ内線建設を施工して以来、半世紀にわたり培ってきた地下鉄建設技術を集結させた上、各種の新技術を採用した。このことから「環境負荷低減への積極的な取り組み」「建設コストの削減」「建設工事に関する沿道とのコンセンサス形成」の3点に重点を置いて建設を行った。 [[雑司が谷駅]] - 渋谷駅間では[[明治通り (東京都)|明治通り]]の直下を通り、本区間で新設した7駅のうち雑司が谷駅と[[西早稲田駅]]は[[シールドトンネル|駅シールド工法]]で、それ以外の駅は[[開削工法]]で建設されている<ref name="Fuku-Const327">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.327 - 339。</ref>。[[東新宿駅]]は[[待避駅|急行待避線]]を設置する関係で2段構造の駅としている<ref name="Fuku-Const284">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.284 - 286。</ref>。また、[[新宿三丁目駅]]構内には渋谷方からの折り返し用の[[引き上げ線]]が設置されている<ref name="Fuku-Const284"/>。本区間の建設には計10台の[[シールドマシン]]が使用された<ref name="Fuku-Const327"/>。 駅間は池袋駅 - 新宿三丁目間が単線シールド構造、新宿三丁目 - 渋谷間は複線シールド構造を採用している<ref name="Fuku-Const327"/>。このうち、明治神宮前 - 渋谷間の複線シールドには新たに開発した複合円形複線シールドを採用した<ref name="Fuku-Const327"/>。このトンネルは従来の丸形シールドトンネルよりも上下方向に圧縮した楕円形の断面とし、土砂掘削量の削減やトンネル下部に使用する[[コンクリート]]材を減少させ、従来のシールドトンネルと同等のコストに抑えている<ref name="Fuku-Const327"/>。 [[2007年]][[1月24日]]、13号線の路線名を「副都心線」とすることが発表された<ref group="報道" name="pr20070124" />。合わせて建設中の正式な駅名も発表し、池袋駅側から順に雑司'''が'''谷(雑司'''ヶ'''谷)、西早稲田、東新宿(新宿七丁目)、新宿三丁目、北参道(新千駄ヶ谷)、明治神宮前とした(カッコ内はそれまでの仮称)<ref group="報道" name="pr20070124" />。 <gallery> ファイル:Fuku-Ikebukuro1.jpg|池袋駅ホームより、新たに建設されたA線渋谷方面を見る。 ファイル:Fuku-Ikebukuro2.jpg|左の写真の拡大版。雑司が谷駅まで単線シールドトンネルが続く。 ファイル:Fuku-Shibuya1.jpg|渋谷駅構内。撮影当時は2面4線化される前。 ファイル:Fuku-Shibuya2.jpg|渋谷駅ホームから見た池袋方面のシールドトンネル。横方向に圧縮した楕円形の「複合円形トンネル」である。奥にある両渡り線は現在撤去されている。 </gallery> === 全線開通後 === [[2008年]][[6月14日]]に全線が開業した。これに合わせ、有楽町線新線を編入した上で和光市 - 渋谷間を「副都心線」と命名し、和光市 - 小竹向原間は有楽町線と線路・駅・施設を共有することになった。有楽町線新線から副都心線への改称に合わせて、便宜上「新線池袋駅」と案内されてきた同駅が「池袋駅」に改称され、千川駅と要町駅の営業が開始された。また、開業と同時に[[東武東上本線|東武東上線]]や[[西武有楽町線]]を経由して[[西武池袋線|池袋線]]との[[直通運転|相互直通運転]]が開始された(相互直通運転自体は有楽町線新線時代から実施)。 開業後の利用者数は増加の一途をたどっている。都内鉄道駅を対象に2009年度と2014年度の利用者数を比較しその増加率を見ると、渋谷駅が第2位、[[東新宿駅]]が第3位、[[北参道駅]]が第7位、[[明治神宮前駅]]が第9位に入る<ref name="toyokeizai2016">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/124679|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180320045505/https://toyokeizai.net/articles/-/124679|title=都内駅「利用者増減率」トップ50・ワースト50 5年で約10倍も増えたのは意外な駅だった|date=2016-06-28|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2021-02-02|archivedate=2018-03-20}}</ref>。また、東京13号線計画とは別に[[2013年]][[3月16日]]から[[渋谷駅]]で[[東急東横線]]との相互直通運転を行っており([[#相互直通運転|後述]])、利便性のさらなる高まりにより、東新宿駅などの利用者数をさらに押し上げている<ref name="toyokeizai2016" />。 こうした輸送人員の大幅な増加によって、路線の経営状態も大きく改善している。[[週刊東洋経済]]が、国土交通省鉄道局『鉄道統計年報』から[[営業係数]]を算出したところ、2008年度の104.3に対し、2013年度は79.5となり、[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]や[[東京メトロ南北線|南北線]]を上回る黒字路線へと成長している<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/125964|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190430134011/https://toyokeizai.net/articles/-/125964|title=「いちばん儲けている地下鉄」はどこの路線か 全国各都市の地下鉄「営業係数」を独自試算!|date=2016-07-08|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2021-02-02|archivedate=2019-04-30}}</ref>。 また、2022年1月には東急東横線および[[2023年]]3月に開業する[[東急新横浜線]]を経由して[[相模鉄道]]の[[相鉄新横浜線]]と直通運転を行うことが発表された<ref group="報道" name="metroNews220127_g01_1">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220127_g01_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127092346/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220127_g01_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月(予定)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業!鉄道がもっと便利になります 〜神奈川県央地域及び横浜市西部から東京・埼玉に至る広域的な鉄道ネットワークの形成〜|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref>。同年12月には相模鉄道、東急電鉄、鉄道・運輸機構の三社合同で発表し、東急新横浜線・相鉄新横浜線(新横浜駅)の開業日が2023年[[3月18日]]に正式決定<ref group="報道" name="metroNews221216_g35">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_g35.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216172728/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_g35.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業に伴い形成される 広域鉄道ネットワークの直通運転形態および主な所要時間について|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>され、同日から東急新横浜線を経由して相鉄線との相互直通運転を開始した。 === 年表 === なお、一部は有楽町線として建設された区間も含む。 * [[1972年]]([[昭和]]47年) ** [[2月26日]]:後に共用区間となる成増 - 池袋間の建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const58">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.58。</ref>。 ** [[3月1日]]:都市交通審議会答申第15号において都市高速鉄道第13号線(志木 - 和光市 - 向原 - 池袋 - 新宿)が追加<ref name="Yurakucho-Const24"/><ref name="Fuku-Const4">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.4 - 5・8。</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)[[9月2日]]:第13号線和光市 - 成増間と池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許の申請ならびに第8号線向原 - 池袋間の工事方法一部変更(13号線として別に建設する)する認可を申請<ref name="Yurakucho-Const36"/><ref name="Fuku-Const5" />。 * [[1976年]](昭和51年)[[8月11日]]:第13号線和光市 - 成増間の地方鉄道敷設免許取得ならびに第8号線向原 - 池袋間の工事変更が認可<ref name="Yurakucho-Const36"/><ref name="Fuku-Const5">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.5 - 7。</ref>。なお、第13号線池袋 - 渋谷間の地方鉄道敷設免許の交付はされなかった<ref name="Yurakucho-Const36"/><ref name="Fuku-Const5" />。 * [[1977年]](昭和52年)[[4月8日]]:建設工事計画変更により、第8号線・第13号線の共用区間である小竹向原 - 新線池袋間の建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const67">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.67「小竹一工区 - 西池袋三工区」。</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[9月1日]]:同じく共用区間となる和光市 - 成増間建設工事に着手<ref name="Yurakucho-Const58"/>。 * [[1983年]](昭和58年)[[6月24日]]:営団成増(現・地下鉄成増) - 池袋間開業<ref name="Yurakucho-Const245">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.245 - 246。</ref>。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[7月11日]]:運輸政策審議会答申第7号において志木から渋谷に至る路線として再度制定<ref name="Fuku-Const22" />。 ** [[8月]]:第13号線小竹向原 - 池袋(→新線池袋→副都心線池袋)間の建設工事を完了<ref name="eidan195-196"/>(この時点では未開業)。 * [[1987年]](昭和62年)[[8月25日]]:和光市 - 営団成増(現・地下鉄成増)間開業<ref name="Yurakucho-Const303">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.303 - 305。</ref>。 * [[1992年]]([[平成]]4年)5月:第13号線小竹向原 - 新線池袋間(現・副都心線池袋)の開業に備え、同区間の工事を開始<ref name="Yurakucho-Const1075"/><ref name="eidan195-196"/>。 * [[1994年]](平成6年)[[12月7日]]:小竹向原 - 新線池袋(現・副都心線池袋)間を有楽町線新線として開業<ref name="eidan195-196"/>。ただし、途中の千川駅と要町駅は通過(駅構造物自体は有楽町線建設時に構築済み)。 * [[1998年]](平成10年)[[12月17日]]:1975年以来、免許申請中であった第13号線池袋 - 渋谷間の鉄道事業免許を追加申請<ref name="Fuku-Const23">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.23 - 27・34。</ref><ref group="報道" name="pr19981217">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/98-35.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205231501/http://www.tokyometro.go.jp/news/98-35.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して 地下鉄13号線池袋・渋谷間(建設キロ 8.9キロ)の鉄道事業免許を申請いたしました。|publisher=営団地下鉄|date=1998-12-17|accessdate=2020-11-21|archivedate=2004-02-05}}</ref>。山手線の急行線的性格を持たせ、また建設費を削減するために、設置駅を4駅にすると発表<ref>{{Cite book|和書|editor=川島令三 |title=全国鉄道事情大研究 東京都心部篇|year=2000|publisher=草思社|pages=pp.170|id=ISBN 978-4-794-20967-2}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年) ** [[1月25日]]:第13号線池袋 - 渋谷間鉄道事業免許取得<ref name="Fuku-Const28">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.28 - 30・34。</ref><ref group="報道" name="pr19990520"/>。 ** [[5月25日]]:新千駄ケ谷駅(仮称)を設置する事業基本計画変更を運輸省関東運輸局長に申請<ref group="報道" name="pr19990520">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/99-12.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205155654/http://www.tokyometro.go.jp/news/99-12.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して 地下鉄13号線(池袋・渋谷間)に『新千駄ケ谷駅(仮称)』を設置します。|publisher=営団地下鉄|date=1999-05-20|accessdate=2020-11-21|archivedate=2004-02-05}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[3月30日]]:第13号線池袋 - 渋谷間工事施工認可<ref name="Fuku-Const31">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.31・34。</ref>。 ** [[5月15日]]:池袋 - 渋谷間の都市計画を決定<ref name="Fuku-Const31" />。 ** [[6月15日]]:第13号線池袋 - 渋谷間建設工事に着手<ref name="Fuku-Const31" />。 * [[2002年]] (平成14年)[[1月29日]]:[[東急東横線]]との直通運転が決定<ref group="報道" name="pr20020129">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205111915/http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-02.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して 営団13号線・東急東横線相互直通運転を行います|publisher=営団地下鉄|date=2002-01-29|accessdate=2020-11-21|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/020129.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414120902/http://www.tokyu.co.jp/file/020129.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東急東横線と営団13号線の相互直通運転実施を決定 2012年度の相互直通運転開始を目指す|publisher=東京急行電鉄|date=2002-01-29|accessdate=2020-11-21|archivedate=2015-04-14}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年) ** [[1月24日]]:第13号線の路線名称を「副都心線」とし、新規開業区間(池袋駅 - 渋谷駅間)の正式な駅名を発表。池袋駅から順に、雑司が谷(雑司ヶ谷)、西早稲田、東新宿(新宿七丁目)、新宿三丁目、北参道(新千駄ヶ谷)、明治神宮前、渋谷となる(カッコ内は建設中の仮称)<ref group="報道" name="pr20070124">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718141305/http://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-01.html|language=日本語|title=東京メトロ13号線の路線名称が『副都心線』に決定!! 〜あわせて新設した7駅の名称も決まる〜|publisher=東京地下鉄|date=2007-01-24|accessdate=2020-11-21|archivedate=2017-07-18}}</ref>。 ** [[12月5日]]:東新宿駅構内でレール締結式<ref name="Fuku-Const585">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、巻頭・pp.585・646 - 647。</ref>、東新宿変電所で通電式を実施<ref name="Fuku-Const585"/>。 ** [[12月7日]]:池袋 - 渋谷間で初めて列車入線試験を実施<ref name="Fuku-Const585"/>。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月18日]] - [[6月1日]]:池袋 - 渋谷間で乗務員[[習熟運転]]を実施<ref name="Fuku-Const827">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.827 - 831。</ref>。 ** [[3月27日]]:6月14日以降の有楽町線・副都心線のダイヤ概要を発表<ref group="報道" name="pr20080327">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-17.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718015046/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-17.html|language=日本語|title=平成20年6月14日(土)副都心線開業 副都心線・有楽町線のダイヤが決定! 和光市~渋谷間が最短25分(急行)で結ばれ、ますます便利に|publisher=東京地下鉄|date=2008-03-27|accessdate=2020-11-21|archivedate=2017-07-18}}</ref>。副都心線は急行と通勤急行、有楽町線は同線内では初めて通過運転を行う準急の運行開始を発表<ref group="報道" name="pr20080327"/>。 ** [[4月16日]]:副都心線公式試運転が実施される<ref name="Fuku-Const585"/>。 ** [[6月13日]]:開業に先がけて新宿三丁目駅構内で修祓式と発車式(開業記念式典)を実施<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008061301000219.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080623224055/http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008061301000219.html|title=地下鉄副都心線14日に開業 メトロと都が記念式典|newspaper=共同通信|date=2008-06-13|accessdate=2021-02-01|archivedate=2008-06-13}}</ref>。 ** [[6月14日]]:副都心線 池袋駅 - 渋谷間が開業<ref group="報道" name="pr20080327" />。同時に有楽町線新線を副都心線に編入、新線池袋駅を池袋駅に改称、[[東武東上本線|東武東上線]]・[[西武有楽町線]]経由[[西武池袋線]]との相互直通運転開始<ref group="報道" name="pr20080327" />。当初予定の2008年3月から3か月遅らせての開業。 ** [[6月16日]]:[[女性専用車両|女性専用車]]を導入<ref group="報道" name="pr20080514">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-26.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718015841/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-26.html|language=日本語|title=平成20年6月16日(月)副都心線で女性専用車両を導入します|publisher=東京地下鉄|date=2008-05-14|accessdate=2020-11-21|archivedate=2017-07-18}}</ref>。開業後初となる平日ダイヤでの運行日であったが、[[小竹向原駅]]を核とした複雑な相互乗り入れにより、終日本路線と有楽町線のダイヤが乱れ、乗り入れ先の東武東上線や西武線の一部列車にも遅れ等が生じた。運行本数の多い朝ラッシュ時間帯において、乗り入れ先からの列車の進入遅れに対する対応の不手際・8両編成と10両編成の混在・乗務員の機器操作不慣れ・誤ったルートを設定したことが大混乱の原因である。また、本路線では各駅停車が[[東新宿駅]]を誤通過(誤って通過線に進入)を起こした。一連の混乱はメディアでも大きく取り上げられ話題になった。 ** [[11月29日]]:有楽町線とともにダイヤ改正を実施し、 一部列車の発着時刻・行き先を変更<ref group="報道" name="pr20081110">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-m32.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512162756/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-m32.html|language=日本語|title=平成20年11月29日(土) 東京メトロ有楽町線・副都心線のダイヤ改正 東武東上線、西武有楽町・池袋線は一部列車に変更|publisher=東京地下鉄/東武鉄道/西武鉄道|date=2008-11-10|accessdate=2020-11-21|archivedate=2012-05-12}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月6日]]:明治神宮前駅に副駅名「原宿」を併記<ref group="報道" name="2010-02-03"/>。ダイヤ改正に伴い、土休日ダイヤに限り同駅に急行が停車するようになる<ref group="報道" name="2010-02-03">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190616140819/https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-06.html|language=日本語|title=準急を各駅停車に、休日の急行が明治神宮前に停車! 3月6日(土)有楽町線・副都心線のダイヤ改正 ー明治神宮前駅に「原宿」をあわせてご案内開始しますー|publisher=東京地下鉄|date=2010-02-03|accessdate=2020-03-09|archivedate=2019-06-16}}</ref>。また、有楽町線では準急を廃止し全列車各駅停車に戻る<ref group="報道" name="2010-02-03"/>。 ** [[10月16日]]:地下鉄成増 - 小竹向原間各駅へのホームドア設置により和光市駅を除く副都心線全駅で可動式ホームドア使用開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190719233649/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千川駅、豊洲駅、辰巳駅に設置し、有楽町線全駅にホームドアの設置が完了します! 全179駅中84駅にホームドアの設置が完了しホーム上の安全性が向上|publisher=東京地下鉄|date=2013-08-09|accessdate=2020-03-09|archivedate=2019-07-19}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[2月23日]]:地下鉄成増 - 氷川台、小竹向原B線に発車サイン音が導入<ref name="melody">[http://www.switching.co.jp/news/archives/194 有楽町線の発車メロディを制作しました] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140724184255/http://www.switching.co.jp/news/archives/194 |date=2014年7月24日 }} - 株式会社スイッチ、2011年4月6日。</ref>。 ** [[3月14日]]:同月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線との相互直通運転および急行・通勤急行・和光市 - 池袋間の運転が休止される。 ** [[4月1日]]:東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線との相互直通運転および急行・通勤急行・和光市 - 池袋間の運転を平日の朝・夕ラッシュ時に限り再開。 ** [[6月11日]]:土休日ダイヤが平常に戻り、東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線との相互直通運転および急行・和光市 - 池袋間の運転を全面的に再開。 ** [[9月12日]]:平日ダイヤが平常に戻り、東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線との相互直通運転および急行・和光市 - 池袋間の運転を全面的に再開。 ** [[10月4日]]:8時54分ごろ、小竹向原駅でコンクリートが落下し、信号ケーブルを切断する<ref group="報道" name="pr20111004">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20111004_02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210129092425/https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20111004_02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線小竹向原駅〜池袋駅間の信号トラブルについて|publisher=東京地下鉄|date=2011-10-04|accessdate=2021-01-29|archivedate=2021-01-29}}</ref>。この影響で小竹向原 - 新宿三丁目間が17時過ぎまで運休し、急行・通勤急行が終日運休<ref group="報道" name="pr20111004" />。この事故の影響を重く見た[[国土交通省]][[関東運輸局]]は東京地下鉄に対して早期の原因究明と再発防止を求める警告文書を発出した。 ** [[12月7日]]:2時10分ごろ、有楽町線豊洲駅で夜間作業事故が発生し、死傷者が出る。この影響で8時30分過ぎまで運休。 * [[2012年]](平成24年) ** [[4月21日]]:和光市駅にホームドアが設置され、7月7日に稼働し全駅稼働および初の有楽町線設置とともに地上駅設置となった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120327_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718123000/http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120327_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線:和光市駅に設置! 設置駅数は全179駅中78駅に(設置率約44%に)|publisher=東京地下鉄|date=2012-03-27|accessdate=2020-11-21|archivedate=2017-07-18}}</ref>。また、同駅に発車メロディが導入され、これにより副都心線全駅に設置された。 ** 7月1日:後述の東急東横線との相互直通運転開始に先立ち、渋谷駅を本格的に2面4線化させるため、この日の始発から同駅3番線と4番線(現6番線)との間に設置されていた仮通路が撤去され、ホーム上で行き来ができなくなる。 ** [[9月7日]]:後述の東急東横線との相互直通運転開始に先立ち、[[東急5000系電車 (2代)|東急5050系4000番台]]の1編成が副都心線での営業運転を開始。運用は朝1往復のみ。 ** [[12月20日]]:雑司が谷駅 - 渋谷駅間で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121213_1292.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100521/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121213_1292.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 平成24年12月20日(木)より半蔵門線・副都心線の一部の駅間でも初めて携帯電話の利用が可能に! 丸ノ内線 池袋駅〜茗荷谷駅、東京駅〜霞ケ関駅、中野新橋駅〜方南町駅間 半蔵門線 三越前駅〜押上駅間 副都心線 雑司が谷駅〜渋谷駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-12-13|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 ** [[12月26日]]:千川駅 - 要町駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121219_12-97.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170543/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121219_12-97.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成24年12月26日(水)よりますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 丸ノ内線 赤坂見附駅〜新宿御苑前駅間 千代田線 霞ケ関駅〜代々木上原駅間 半蔵門線 永田町駅〜神保町駅間 副都心線 千川駅〜要町駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-12-19|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[2月21日]]:要町駅 - 雑司が谷駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130220_13-15.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100126/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130220_13-15.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年2月21日(木)より 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア拡大 有楽町線 要町駅〜江戸川橋駅間 副都心線 要町駅〜雑司が谷駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-02-20|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 ** 3月16日:ダイヤ改正により、東急東横線・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]との相互直通運転開始<ref group="報道" name="tokyu-release120724">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/120724-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414174240/http://www.tokyu.co.jp/file/120724-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東急東横線と東京メトロ副都心線 相互直通運転の開始日が2013年3月16日に決定!|publisher=東京急行電鉄|date=2012-07-24|accessdate=2020-11-21|archivedate=2015-04-14}}</ref><ref group="報道" name="tokyu-release130122" /><ref group="報道" name="metro-release120724">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120724metronews_soutyoku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200928081154/http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120724metronews_soutyoku.pdf|format=PDF|language=日本語|title=横浜エリアから副都心(渋谷・新宿・池袋)エリアへのアクセスが向上! 速達列車を日中15分間隔で運行 平成25年3月16日(土)から相互直通運転開始 副都心線と東急東横線・横浜高速みなとみらい線がつながります|publisher=東京地下鉄|date=2012-07-24|accessdate=2020-11-21|archivedate=2020-09-28}}</ref><ref group="報道" name="tobu-release120724">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/9e67f9298f0c2a004a27615807b6cc25/120724.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160805024636/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/9e67f9298f0c2a004a27615807b6cc25/120724.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東武東上線がより便利に! 自由が丘、横浜、元町・中華街方面とつながります! 〜2013年3月16日(土)東急東横線・横浜高速みなとみらい線との相互直通運転を開始〜|publisher=東武鉄道|date=2012-07-24|accessdate=2020-11-21|archivedate=2016-08-05}}</ref><ref group="報道" name="seibu-release120724">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/07/24/20120724soutyoku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130215102503/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/07/24/20120724soutyoku.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜池袋線と横浜方面がつながります!〜 池袋線が東急東横線、横浜高速みなとみらい線との相互直通運転を開始します。2013年3月16日(土)から運転開始|publisher=西武鉄道|date=2013-02-15|accessdate=2020-11-21|archivedate=2013-02-15}}</ref>。 ** 3月18日:東横線・みなとみらい線との相互直通運転開始に伴い、平日ダイヤにおける女性専用車の運用時間変更ならびに設定区間拡大を実施<ref group="報道" name="tokyu-release130122">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/130122.pdf|title=東京メトロ副都心線との相互直通運転開始に伴い3月16日(土)に東横線のダイヤを改正します|publisher=東京急行電鉄|date=2013-01-22|accessdate=2021-01-31|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140220185913/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/130122.pdf|archivedate=2014-02-20}}</ref>。 ** [[3月21日]]:和光市駅 - 千川駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201106181153/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月21日(木)正午より、東京メトロの全線で携帯電話が利用可能に!|publisher=東京地下鉄/NTTドコモ/KDDI/ソフトバンクモバイル/イー・アクセス|date=2013-03-18|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-11-06}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:ダイヤ改正を実施し、平日早朝に小竹向原駅において有楽町線新木場行からの接続改善、平日6時台から7時台にかけて渋谷方面からの新宿三丁目行を2往復増発<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20131220_1399.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304112333/http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20131220_1399.pdf|format=PDF|language=日本語|title=―お客様の利便性向上に向けて― 千代田線、半蔵門線、南北線、副都心線のダイヤ改正 ―列車増発、最終列車の時刻繰り下げ、接続改善を実施―|publisher=東京地下鉄|date=2013-12-20|accessdate=2020-11-21|archivedate=2016-03-04}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[3月28日]]:和光市 - 小竹向原間のワンマン運転が開始される<ref group="報道" name="metroNews20150310_23">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150310_23.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200309144835/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150310_23.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線和光市〜小竹向原駅間で、ワンマン運転を実施します。 2015年3月28日(土)から|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-10|accessdate=2020-03-09|archivedate=2020-03-09}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:ダイヤ改正により、東武東上線との直通運転区間を[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]まで延長<ref group="報道" name="pr20190129">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190129_09.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116092435/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190129_09.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年3月16日(土) 日比谷線、半蔵門線、有楽町線・副都心線、南北線のダイヤを改正します|publisher=東京地下鉄|date=2019-01-29|accessdate=2020-11-21|archivedate=2020-11-16}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f/190129_1.pdf?date=20190129171435|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201203143747/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f/190129_1.pdf?date=20190129171435|format=PDF|pages=3 - 4|language=日本語|title=「川越特急」運転開始や「TJライナー」増発でますます快適・便利に! 3月16日(土)東武東上線でダイヤ改正を実施! 〜土休日下り快速急行の運転区間を延長し全列車小川町行きに! 土休日池袋発川越市行き下り最終列車の繰下げ等を実施します!〜|publisher=東武鉄道|date=2019-01-29|accessdate=2021-02-09|archivedate=2020-12-03}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[2月21日]]:[[東京メトロ17000系電車|17000系]]が営業運転開始<ref group="報道" name="pr20210221">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210221_07.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210221000324/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210221_07.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線新型車両17000系いよいよデビュー! 2021年2月21日(日)より運行開始します!|publisher=東京地下鉄|date=2021-02-21|accessdate=2021-02-21|archivedate=2021-02-21}}</ref><ref group="新聞" name="news20210221">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP2P3SPPP2PUTIL002.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210221025855/https://www.asahi.com/articles/ASP2P3SPPP2PUTIL002.html|title=東京メトロ17000系、運行開始 床面は6センチ低く|newspaper=朝日新聞|date=2021-02-21|accessdate=2021-02-21|archivedate=2021-02-21}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)3月18日:ダイヤ改正により、[[東急新横浜線]]・[[相模鉄道#現有路線|相鉄線]]との相互直通運転開始<ref group="報道" name="press20221216">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_85.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216073926/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_85.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月ダイヤ改正のお知らせ 東西線、千代田線、有楽町線、半蔵門線、南北線、副都心線でダイヤ改正を行います|publisher=東京地下鉄|pages=3 - 4|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref><ref group="報道" name="metroNews221216_g35" />。明治神宮前駅が通勤急行の停車駅となる<ref group="報道" name="press20221216" />。 == 運行形態 == <!--{{Main2|小竹向原駅以東で有楽町線池袋駅・飯田橋駅方面に直通する列車|東京メトロ有楽町線#運行形態}}副都心線和光市方面と有楽町線新木場方面で直通運転を行っているわけではなく和光市 - 小竹向原も有楽町線の扱い--> [[ファイル:Fukutoshinline-doors information.jpg|thumb|right|240px|地下鉄成増駅にある案内(2013年7月)]] 副都心線の急行・通勤急行は全列車10両編成、各駅停車は大部分が8両編成である。10両編成と8両編成では停止位置が異なることから、駅の時刻表・[[発車標]]・接近放送では列車の編成両数も案内されている。また、乗り入れ先である[[渋谷駅]]からの[[東急東横線]]、東急線経由での相鉄線([[東急新横浜線]]、[[相鉄新横浜線]]経由[[相鉄本線]]、[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]])、[[小竹向原駅]]からの西武線([[西武有楽町線]]経由[[西武池袋線|池袋線]])、[[和光市駅]]からの[[東武東上本線|東武東上線]]内において種別が変わる列車が多数設定されているため、乗り入れ先の路線内の種別も案内される。 副都心線の終点である渋谷駅からは和光市発の終電を除き全列車が東急東横線に乗り入れる<ref group="注">副都心線には「渋谷行き」の運用は和光市発の終電を除き設定されていないが渋谷発池袋方面行きは数本存在する(渋谷5番線留置車の始発と元住吉駅から回送される渋谷発)</ref>。そのうち大半の列車は東横線の終着駅である[[横浜駅]]から先、[[横浜高速鉄道みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]、または[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]から東急新横浜線、相鉄新横浜線、相鉄本線、いずみ野線を経由して[[湘南台駅]](朝夕は[[海老名駅]])まで乗り入れる。なお、東横線・みなとみらい線には副都心線に乗り入れない列車(渋谷駅折り返し)が終日にわたり多数設定されている。 日中は30分サイクルのパターンダイヤで運行されている。その間に急行が15分間隔で2本、各駅停車は間隔不定で5本あり、このうち1本は池袋駅で東横線方面に折り返す。 {{-}} 日中の運行パターンは下表のとおり。参考のため、和光市 - 小竹向原の線路共用区間を走る有楽町線の列車も記載する。 {| class="wikitable" style="font-size:95%;" |+日中の運行パターン<br />(和光市 - 小竹向原間は線路共用している有楽町線系統含む) |- !路線名 ! rowspan="2" |運行本数 ! colspan="2" rowspan="2" |東武東上線<br>西武池袋線<br>方面 ! colspan="8" |東京メトロ<br>副都心線 ! colspan="5" |東急東横線 ! colspan="3" |みなと<br>みらい線 ! rowspan="2" |備考 |- !駅名<br>\<br>種別 ! style="width:1em;" |和光市 !… ! colspan="2" style="width:1em;" |小竹向原 !… ! style="width:1em;" |池袋 !… ! colspan="2" style="width:1em;" |渋谷 !… ! style="width:1em;" |日吉 !… ! colspan="2" style="width:1em;" |横浜 !… ! style="width:1em;" |元町<br />・<br />中華街 |- style="text-align:center;" | rowspan="2" style="background:pink;" |急行<br />(Fライナー) |2本 | colspan="2" style="text-align:right" |←森林公園|| colspan="8" style="background:pink;" | | colspan="8" style="background:orange;" | | rowspan="2" style="text-align:center;" |西武線・東武線内(Fライナー)快速急行<br />東急線・みなとみらい線内(Fライナー)特急 |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="4" style="text-align:right" |←小手指|| colspan="6" style="background:pink;" | | colspan="8" style="background:orange;" | |- style="text-align:center;" | rowspan="2" style="background:lightblue;" |各駅停車<br><small>(相鉄線直通系統)</small> |1本 | colspan="2" style="text-align:right" |←川越市|| colspan="8" style="background:lightblue;" | | colspan="3" style="background:pink;" | || colspan="5" style="text-align:left" |湘南台→ | rowspan="2" style="text-align:center;" |東急線内急行 |- style="text-align:center;" |1本 | colspan="2" style="text-align:right" | || colspan="8" style="background:lightblue;" | | colspan="3" style="background:pink;" | || colspan="5" style="text-align:left" |湘南台→ |- style="text-align:center;" | rowspan="4" style="background:lightblue;" |各駅停車<br><small>(みなとみらい線<br />直通系統)</small> |2本 | colspan="2" style="text-align:right" | || colspan="8" style="background:lightblue;" | | colspan="8" style="background:pink;" | | style="text-align:center;" |東急線・みなとみらい線内急行 |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="2" style="text-align:right" | || colspan="16" style="background:lightblue;" | | rowspan="3" style="text-align:center;" | |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="4" style="text-align:right" |←石神井公園|| colspan="14" style="background:lightblue;" | |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="7" style="text-align:right" | || colspan="11" style="background:lightblue;" | |- style="text-align:center;" | rowspan="2" style="background:#c1a470;" |<small>有楽町線</small><br />各駅停車 |2本 | colspan="2" style="text-align:right" |←川越市|| colspan="4" style="background:#c1a470;" | | colspan="12" style="text-align:left" |新木場→ | rowspan="2" style="text-align:center;" | |- style="text-align:center;" |4本 | colspan="2" style="text-align:right" | || colspan="4" style="background:#c1a470;" | | colspan="12" style="text-align:left" |新木場→ |} === 相互直通運転 === ==== 東急東横線・みなとみらい線直通 ==== 2013年3月16日のダイヤ改正より、新たにもう一方の終端駅である[[渋谷駅]]で東急東横線と東横線の終点である[[横浜駅]]から横浜高速鉄道みなとみらい線に乗り入れ、[[元町・中華街駅]]までの相互直通運転を開始した。 副都心線の渋谷側では、渋谷発和光市行き2本または4本(早朝の初電1本のほか、平日の夕方の各駅停車1本、土休日夕方以降の各駅停車2本と急行1本)と和光市始発の渋谷行き終電を除く全列車が東急東横線との相互直通運転を行う<ref group="注">東急東横線との直通運転開始当初は和光市方面からの渋谷止まりの定期列車は設定されず、東急東横線に乗り入れない列車は渋谷発和光市行きのみの設定だった。</ref>。日中時間帯は、副都心線内急行は東横線内で特急として、副都心線内各駅停車のうち1時間に4本は東横線内で急行として運転する。一方、東横線からの各駅停車が8本あるうち1時間に2本が池袋行き、2本が渋谷駅発着(副都心線へ乗り入れない)となっている。 東横線内で特急・通勤特急として運転されている列車は横浜駅および元町・中華街駅発着で各社の10両編成での運行されるが、土休日1本のみ特急横浜行きが設定されている(横浜駅には2番線に到着し、1番線に停車中の各駅停車元町・中華街行きに接続)。 東横線内で急行として運転されている列車は元町・中華街駅発着の列車と相鉄線直通列車が大半を占めるが、[[武蔵小杉駅]]・[[菊名駅]]発着の列車も設定されている。 東横線内で各駅停車として運転されている列車は元町・中華街駅発着が中心だが、一部列車は武蔵小杉駅・[[元住吉駅]]・菊名駅および横浜駅発着で運転される。 この相互直通運転開始は東横線渋谷駅 - [[代官山駅]]間の地下化にあわせて行われ、副都心線渋谷駅は開業当初から東京急行電鉄(当時、以下「[[東急電鉄]]」)の100%子会社である[[東急レールウェイサービス]]が[[東急田園都市線]]([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]])の駅と一体的に駅管理業務を行っている<ref group="注">直通運転開始前の東横線渋谷駅は東急電鉄渋谷駅管内として管理されており、東急レールウェイサービスが管理している田園都市線・半蔵門線・副都心線渋谷駅とは形態が異なり、事実上別の駅として機能していた。</ref>。駅構内の旅客向け案内板や発車標などは東急仕様であるが、接近放送と発車メロディは東京地下鉄のものが使用されていた。現在でも副都心線として出発する電車には東京地下鉄仕様の発車メロディと注意喚起放送が使われている。 副都心線との相互直通運転開始以前の東横線とみなとみらい線はすべての列車が8両編成であったが、副都心線への乗り入れを機に速達列車(特急・通勤特急・急行)を一部列車を除き10両編成に増強するため、東横線とみなとみらい線の速達列車停車駅では10両編成の列車が停車できるようにホーム延伸工事を行った。ただし、各駅停車は従来通り8両編成での運転となる。副都心線開業当初から各駅停車に8両編成の運用が存在していたのはこのためである。 [[空港連絡鉄道]]として検討されている[[蒲蒲線]](新空港線)について[[大田区]]が作成したパンフレットでは、東横線・[[東急多摩川線]]を介して副都心線と[[京急蒲田駅]]方面と直通運転が可能となる旨の記述がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/koutsu/kamakamasen/pr_leaflet.files/shinkuukousen-panf_2017_05.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200722160324/http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/koutsu/kamakamasen/pr_leaflet.files/shinkuukousen-panf_2017_05.pdf|title=つながり はばたけ 新空港線(蒲蒲線)|archivedate=2020-07-22|accessdate=2021-02-07|publisher=大田区まちづくり推進部都市計画課|format=PDF|page=3|language=日本語|deadlinkdate=2021年2月}}</ref>。 ==== 東武東上線直通 ==== [[2008年]][[6月14日]]の開業当初は[[和光市駅]]で[[東武東上本線|東武東上線]][[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]]まで[[直通運転]]を行っていたが、[[2019年]][[3月16日]]のダイヤ改正からは[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]まで直通運転を行っている。急行・通勤急行・各駅停車ともに、東上線内は各駅に停車する「普通」として運行していたが[[2016年]][[3月26日]]以降は日中時に副都心線急行は「急行」で運転され、土休日の一部列車は「快速急行」として運転されている。 2016年3月26日のダイヤ改正までは基本的に川越市駅発着列車が運転され、森林公園駅発着列車は駅構内に隣接する[[森林公園検修区]]への出入庫を兼ねた朝と夜の東武車に限られていた<ref group="注">2008年6月14日から2011年3月4日までは東京メトロ車による森林公園駅発着列車も存在していた。</ref>。[[2013年]][[3月16日]]のダイヤ改正以降、日中は川越市駅発着の急行(東上線内普通)が30分間隔で運転されていたが、2016年3月26日のダイヤ改正以降は、森林公園駅発着(東上線内急行)に変更された。10両編成で運転されている。2019年3月16日のダイヤ改正より、土休日ダイヤのみ朝の一部列車が小川町駅発着となった<ref group="報道" name="pr20190129"/>。 平日ダイヤのみ、朝と夕方以降の一部列車に[[志木駅]]発着の列車が存在する。こちらは8両編成でも運転されている。 相鉄の車両は東武線内には乗り入れない。 ==== 西武線直通 ==== 2008年6月14日の開業当初から[[小竹向原駅]]から[[西武有楽町線]]を経由して[[西武池袋線]][[飯能駅]]まで直通運転を行っている。なお、西武線直通の速達列車は、「急行」と「通勤急行」で運転される。小竹向原駅で種別の変更が行われる列車があり、西武線内は快速急行・快速・準急・各駅停車のいずれかに変更する。 2013年3月16日のダイヤ改正以降、日中時間帯の急行は西武線内快速から「快速急行」に格上げされた。この時間帯は、急行(西武線内快速急行)と各駅停車(西武線内各駅停車)が2本ずつ30分間隔で運行されており、2022年3月ダイヤ改正までは1時間に[[小手指駅]]・飯能駅発着の急行がそれぞれ1本ずつ、[[保谷駅]]・[[石神井公園駅]]発着の各駅停車がそれぞれ1本ずつであった。2013年改正前は飯能駅発着の急行(西武線内快速)と石神井公園駅発着の各駅停車がそれぞれ30分間隔で運行されていた。2022年ダイヤ改正より日中の西武線直通急行は小手指発着の快速急行、各駅停車は石神井公園行きとして運転し、うち1本は西武線内は準急となる。 西武線内で各駅停車となる列車は終日運転されており、日中は前述の通り石神井公園駅発着が設定されている。朝・夕には保谷駅、[[清瀬駅]]・小手指駅発着の列車が設定されているほか、土休日には飯能行きが1本、所沢駅発着が1往復設定されている。所沢発着は8両で運転されるがそれ以外の列車は両数問わず運転されている。 西武線内で準急となる列車は石神井公園駅<ref>日中時間帯のみ。</ref>・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が、西武線内で快速となる列車は飯能駅発着と平日に所沢行きが、西武線内快速急行となる列車は所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。 2016年6月16日、有料の座席指定制直通列車を[[2017年]]春に導入することが発表された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/images_h/3486c5e9418064c7cefd2bb9c2876bb1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160705015044/http://www.tokyometro.jp/news/images_h/3486c5e9418064c7cefd2bb9c2876bb1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=お出かけや都心への通勤・通学がますます便利に! 2017 年春座席指定制の直通列車を導入します! 西武線〜東京メトロ線〜東急線〜みなとみらい線にゆったり座れる座席指定制の直通列車を運行します。東京メトロ副都心線・東急東横線・みなとみらい線では初の座席指定制列車となります。西武線では通勤車両として初の座席指定制列車となります。|publisher=西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2016-06-16|accessdate=2020-11-21|archivedate=2016-07-05}}</ref>。2017年1月10日には運行開始予定日、ダイヤや料金等の詳細が発表された。列車名は「[[S-TRAIN]]」で、同年3月25日より運行を開始した<ref group="報道" name="S-TRAIN">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181211204927/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有料座席指定列車の愛称・詳細が決定! 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!|publisher=西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2017-01-10|accessdate=2020-03-09|archivedate=2018-12-11}}</ref> ===== 西武ドームへの観客輸送 ===== {{Main|西武有楽町線#西武ドームへの観客輸送}} [[西武ドーム]]においてプロ野球の試合などの大規模イベントが開催される場合は、小手指行きの急行(みなとみらい線・東横線内特急、西武線内快速急行のFライナー)を西武球場前行きの急行(みなとみらい線・東横線内特急、西武線内快速)に変更する。この場合、代替として[[ひばりヶ丘駅|ひばりヶ丘]]発の快速急行小手指行きが運行され、当該列車は「Fライナー」を名乗らない。 ==== 東急線経由相鉄線直通 ==== 2023年3月18日の[[東急新横浜線]]・[[相鉄新横浜線]]全線開業に伴い、相鉄線との直通運転を開始した。平日朝ラッシュ時の都心方面行きと夕ラッシュ時の相鉄線方面行きは最大毎時4本、ラッシュ時の逆方向は毎時3本、平日昼間及び土休日は毎時2本程度が運転される。ほとんどは[[相鉄いずみ野線]]・[[湘南台駅]]を発着駅とし、副都心線内[[新宿三丁目駅]]・[[池袋駅]]・[[和光市駅]]折り返しのほか、東武東上線へ乗り入れる列車も運転される。早朝の都心方面行きと夜間の相鉄方面行きには[[相鉄本線]]・[[海老名駅]]とを結ぶ列車が運転される(平日朝ラッシュ終盤にも新宿三丁目発・相鉄本線[[大和駅 (神奈川県)|大和駅]]行きが1本ある)。 相鉄直通の全列車が東急線内は急行となり、10両編成で運転される。運用は東急または相鉄の車両に限定される。西武線と直通する列車は運行されていない。 === 列車種別 === 副都心線では以下の種別の列車が運転されている。 副都心線内の現行の停車駅は 「[[#駅一覧|駅一覧]]」を参照。S-TRAINを含め当線内でも速達運転を行う優等種別が日本の地下鉄で初めて3種類運行されている。 ==== S-TRAIN ==== {{Main|S-TRAIN}} 2017年3月25日より土休日に運行を開始した座席指定列車<ref group="報道" name="S-TRAIN"/>。みなとみらい線元町・中華街駅 - [[西武秩父線]] [[西武秩父駅]]間で運行される。乗車には座席指定券が必要で、途中渋谷駅・新宿三丁目駅・池袋駅に停車する(他に乗務員交代のため小竹向原駅に運転停車)が、副都心線内のみの座席指定券は発行されない。また、池袋駅からの乗車は出来ない。日本の地下鉄線内での座席指定列車の運行は千代田線で運行されている「特急ロマンスカー」以来2例目となる。 なお、平日は有楽町線直通([[豊洲駅]]発着)となり、副都心線には乗り入れない。 ==== 急行 ==== {{Seealso|Fライナー}} [[File:Fukutoshin exp 6000.JPG|180px|right|thumb|土休日に急行が明治神宮前駅停車となってからは、朱色もしくは赤色地に黒抜き文字で表現される。2016年3月26日改正以降は、Fライナーを名乗らない急行がこの対象となる。]] 東京地下鉄の路線では、[[東京メトロ東西線|東西線]]の[[快速列車|快速]]から2例目となる地下鉄線内無料速達列車として、和光市駅 - 渋谷駅間の全線で[[急行列車|急行]]運転を行っており、全列車が10両編成で運行される。 定期ダイヤでは、[[東新宿駅]]で大部分の急行が各駅停車を追い抜く。そのため、南行は新宿三丁目駅で直後の各駅停車(東横線・みなとみらい線内急行)に、北行は池袋駅で同じく直後の各駅停車に接続する。有楽町線との接続駅である小竹向原駅では、東武東上線方面発着の急行と和光市発着の各駅停車(有楽町線直通)・その直後の西武線方面発着の各駅停車(有楽町線直通)、または西武線方面発着の急行(西武線内は定期列車では急行以外の種別)と東武東上線方面の各駅停車(有楽町線直通)が接続する。また、渋谷駅では東横線方面は西武線からの列車と池袋発の元町・中華街行きが、東上線からの列車が渋谷駅始発の元町・中華街行きと、和光市方面は東上線直通列車が池袋行きと接続する。日中時間帯は渋谷駅から先の東横線内は「特急」に、西武線直通列車は小竹向原から「快速急行」に、東武東上線直通列車は「急行」となる。この組み合わせの列車種別で運行される列車は「'''[[Fライナー]]'''」の愛称が付く<ref group="報道" name="Fliner" />。2016年3月25日までは、東武東上線直通列車の東上線内種別は「普通」であった。 停車駅に違いはないがFライナーの急行については赤色に白文字、Fライナー対象外の急行は朱色に黒文字で表示される。土休日の急行のみが明治神宮前駅に停車していた2016年3月25日までは、Fライナーと平日運転時の急行が赤色、土休日運転時の急行が朱色で表示されていた。 池袋駅 - 渋谷駅間の所要時間は、速達列車の急行・通勤急行が[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]と同等の11分である。朝と夜間に和光市発着がある以外は東武東上線または西武池袋線に直通運転を行っているほか、全列車が東急東横線・みなとみらい線に直通運転を行っている。 東武東上線直通列車は主に[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]]発着で運転され、一部は[[川越市駅]]・[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]発着も運行されている。川越市駅発着列車は和光市駅で種別を「普通」に、森林公園駅発着列車は「普通」「急行」(土日のみ運転の小川町発着列車は小川町始発が「急行」、小川町行きが「快速急行」)のいずれかに変更する。日中は北行・南行とも小竹向原駅で和光市駅 - 有楽町線新木場駅間の各駅停車に連絡する。 西武池袋線直通は主に[[小手指駅]]発着が運行されているが、一部列車は[[保谷駅]]・[[清瀬駅]]、石神井公園駅、飯能駅からも運行されている。小竹向原駅で種別を「各停」「準急」「快速」「快速急行」(快速急行は2013年3月から<ref group="報道" name="metroNews20130122">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/01/22/20130122diagram.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130812160613/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/01/22/20130122diagram.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2013年3月16日(土)ダイヤ改正を実施します|publisher=西武鉄道|date=2013-01-22|accessdate=2020-11-21|archivedate=2013-08-12}}</ref>)のいずれかに変更する<ref group="注">東京メトロ10000系・17000系と東武9000系・50070系では[[鉄道車両のモニタ装置|モニタ装置]]から行先・種別を設定する際に乗り入れ先の種別も設定する。例えば「東急 - 特急・地下鉄 - 急行・東武 - 普通<!-- この設定画面ではメトロ線は地下鉄と表示する。 -->」と設定するため、境界駅に到着すると自動で乗り入れ先の種別に変わる。</ref>。日中は北行・南行とも小竹向原駅で東武東上線川越市駅 - 有楽町線新木場駅間の各駅停車に連絡する。 東急東横線・みなとみらい線直通列車は土休日2本の[[菊名駅]]発を除く全列車が元町・中華街駅発着で運転されており、渋谷駅で種別を「特急」「通勤特急」「急行」のいずれかに変更する。相鉄線直通列車は海老名駅発の小川町行きが土休日1本設定されており、相鉄線内は特急、東急線内は急行、東武線内は快速急行で運転される。 また、副都心線内発着として和光市駅発着が設定されている。このうち土休日の和光市行き1本のみ車両交換も兼ねて渋谷発(元住吉検車区より回送)で、東急東横線からの特急渋谷行きと接続を取るが、2023年3月ダイヤ改正で廃止される。 当初は[[都営地下鉄新宿線]]の急行と同様、2駅以上に連続停車しなかったが、2010年3月6日のダイヤ改正より、土曜・休日ダイヤの急行が明治神宮前駅に停車するようになった。これにより、停車日が限られるものの東京メトロ他路線と接続するすべての駅に停車するようになった。2016年3月28日から平日ダイヤの急行も明治神宮前駅へ停車するのと併せ<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20151218_102.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200502093812/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20151218_102.pdf|format=PDF|language=日本語|page=2|title=日比谷線、東西線、千代田線、有楽町線、半蔵門線、副都心線のダイヤを改正します|publisher=東京地下鉄|date=2015-12-18|accessdate=2020-11-21|archivedate=2020-05-02}}</ref>、2016年3月26日のダイヤ改正より、東武東上線で急行または西武線内で快速急行、副都心線内で急行、東急東横線・みなとみらい線内で特急の組み合わせとなる列車に限り「Fライナー」の愛称が付与されている<ref group="報道" name="Fliner">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20151218_g41.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151222093809/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20151218_g41.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東武東上線・西武池袋線〜横浜高速みなとみらい線間を運転する速達性の高い直通列車の愛称名を『Fライナー』といたします。〜親しみやすく、より分かりやすい鉄道をご利用いただくために〜|publisher=東武鉄道/西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2020-11-21|archivedate=2015-12-18}}</ref>。 2023年3月のダイヤ改正で、「通勤急行」が明治神宮前に停車することになったため、西武線直通は「急行」と停車駅が変わらなくなったため、西武線直通で副都心線内通過運転をする列車は「急行」に統一された。 ==== 通勤急行 ==== [[File:Com-express seibu6000.jpg|180px|right|thumb|設定開始当初は西武6000系による通勤急行が和光市発着のみ設定されていたが、2016年3月28日より2023年3月17日まで西武線直通にも設定された。<br />(2016年3月31日 [[池袋駅]])]] 平日の朝夕ラッシュ時に運行される。和光市駅 - 小竹向原駅間は各駅に停車し、小竹向原駅 - 渋谷駅間で通過運転を行う。車両や駅の種別表示では「通勤急行」または「通急」と案内されるが、北行の小竹向原駅 - 和光市駅間は全列車が和光市まで各駅に停車するため、その区間では各駅停車として案内されている。なお、朝に数本、東上線内で急行運転される列車もあり、この場合はその旨も案内される。全列車が10両編成で運行される。急行と同様に東新宿駅で各駅停車を追い抜く。 基本的にオレンジ・黄色で表示される。 設定当初、小竹向原駅 - 渋谷駅間においては急行との停車駅の違いが無かったため、西武線直通列車については運行時間帯においても全て急行として運転されていた。2016年3月26日のダイヤ改正で明治神宮前駅が平日の急行停車駅に加わり、これまで通り明治神宮前駅を通過する通勤急行と停車駅の差異が生じたため、西武線直通列車にも新たに通勤急行が設定された。しかし、2023年3月18日のダイヤ改正で通勤急行の停車駅に明治神宮前駅が追加され、再び差異が無くなったため、西武線直通の通勤急行は急行に変更された。 東武東上線内の種別は普通が中心で、一部列車は快速急行および急行になる列車が設定されている。川越市駅(普通のみ)・森林公園駅発着が存在する。 東急東横線・みなとみらい線直通は大多数の列車が元町・中華街駅発着で運転され、渋谷駅で特急・通勤特急・急行のいずれかに種別が変わるが、急行の一部列車は[[武蔵小杉駅]]・菊名駅・[[横浜駅]]発が設定されている。 相鉄線直通については海老名駅(発のみ)・湘南台駅・西谷駅(発のみ)発着が設定されている。相鉄線内は特急・通勤特急・各停で運転され、東急線内では急行で運転される。湘南台駅発の1本は相鉄車で運転され、それ以外の列車は東急車で運転される。 ==== 各駅停車 ==== 駅・車両の種別表示でも現在は「各駅停車」と案内される。池袋駅 - 渋谷駅間の所要時間は[[山手線]]と同等の16分である。基本的に東京メトロ車・東急車・横浜高速車の8両編成で運行されるが、東急東横線に直通しない、もしくは渋谷駅で種別変更する一部の列車は各社の10両編成で運行される(東横線・みなとみらい線内の急行通過駅の[[有効長]]は8両なので、東横線内各駅停車の列車は必然的に8両となる)。車両の編成はダイヤによって決まっており、駅の[[時刻表]]において数字が四角で囲まれている列車が8両編成である(ただし、検査による車両不足やダイヤ乱れの場合は8両編成運用を10両編成で代走する場合がある)。開業時から全列車が東新宿駅で待避線に入っていたが、通過線側の壁が撤去されたため[[2015年]]5月30日より急行・通勤急行の通過待ちを行わない列車は東新宿駅でも本線に入線するようになった。基本的に東横線内で急行となる列車が東新宿駅で急行(東横線内特急)・通勤急行の通過待ちを行う。東横線内で各駅停車となる列車は日中以外に通過待ちする列車もあるが、大半が副都心線内は渋谷駅(ほとんどが東横線[[自由が丘駅]]まで)・小竹向原駅まで先行する。 日中の時間帯の各駅停車は東横線内で急行となる列車が和光市発着4本(本線系統・相鉄線直通系統各2本)、副都心線内から元町・中華街まで各駅停車となる池袋駅 - 元町・中華街駅間運転が2本、和光市駅発着2本、西武線直通が2本運行される。東横線内で急行となる列車は前述通り東新宿で通過待ちを行い、池袋発着は渋谷駅で東横線方面は西武線からの特急と、和光市方面は東上線直通の急行と接続する。 2017年3月25日のダイヤ改正から、東横線・みなとみらい線内で急行になる列車のうち、東新宿駅でS-TRAINのみの通過待ちを行う列車が設定された。この場合、料金不要列車として渋谷駅・小竹向原駅まで先着する。 基本的に[[和光市駅]]・[[池袋駅]]発着で東急東横線・みなとみらい線直通と、みなとみらい線・東急東横線 - 副都心線 - 西武池袋線直通で運転されるが、朝夕を中心に[[新宿三丁目駅]]発着東急東横線・みなとみらい線直通、和光市より先の東武東上線に直通する列車もある。そのほか、[[小竹向原駅|小竹向原]]発元町・中華街行きが早朝1本、副都心線内のみを運転する渋谷発和光市行きが平日2本、土日は急行1本<ref group="注">土休日午後に運転される渋谷駅発急行和光市駅行きは、東横線特急渋谷行き終着の接続を受け、半ば車両交換のような形で運転される(該当列車は元住吉検車区より回送)。</ref>と各駅停車3本、和光市始発渋谷行き終電が毎日1本、[[千川駅|千川]]発武蔵小杉行きが平日1本、元町・中華街行きが平日1本設定されている<ref group="注">大晦日から元旦にかけての終夜運転時は、通常の定期列車で設定が無い渋谷方面からの小竹向原行きも運転される。</ref>。 東武東上線直通は志木駅(平日のみ)を中心に一部列車は川越市駅・森林公園駅発着で運転される。和光市駅では、東上線内急行として運転する平日の1往復を除いたすべての列車が種別を「各停」から「普通」に変更する。8両編成はすべて志木駅発着で運転される。 西武線直通は保谷駅・石神井公園駅(一部列車は清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅)発着で運転される。日中は石神井公園駅発着が設定されている。基本的に8両編成で運転されているが、一部は10両編成で運転される。小竹向原駅で種別を快速急行・快速・準急に変更する列車が存在し<ref group="注">例:[http://www.tokyometro.jp/rosen/eki/senkawa/fukutoshin_b_heijitsu.html 副都心線千川駅時刻表]、飯能駅発着は土休日のみで、西武線内快速または快速急行。</ref>、副都心線を挟み西武線内準急、東横線・みなとみらい線内急行などとして両端で優等運転する列車も存在する。東横線内急行のため、東新宿駅で通過待ちを行う。 東急東横線直通は、日中は元町・中華街駅発着で運行されるが、朝晩を中心に[[武蔵小杉駅]]・[[元住吉駅]](最終のみ)、菊名駅と[[横浜駅]]止まりの列車も存在する。一部列車は渋谷駅で種別を急行・特急・通勤特急に変更する。ホーム有効長の関係上、東横線内各駅停車となる列車はすべて8両編成で運転され、東武車、西武車の運用はない。 種別色は基本的に青色や白黒で表記されるが、駅や車両により異なる。 === ダイヤの乱れ === 東京メトロ副都心線は、乗り入れ先を含め、副都心線あるいは有楽町線で何らかの運行障害が発生すると、その影響を受けやすいとともに運行形態が大きく変わる。 運行障害が発生すると、以下のように切り替わる。 * 副都心線はワンマン運転という運行システムの都合上、[[和光市駅]] - [[小竹向原駅]] - [[千川駅]]間は有楽町線のみ間引き運転となり、千川駅 - [[東急東横線]]方面間で折り返し運転を全列車各駅停車で行う運行形態へと変更される(通勤急行と急行はダイヤの乱れが収まるまで運行休止)。 * 乗り入れ先の東横線・みなとみらい線内は10両編成で各駅停車の運用に就くことができないため、10両編成の車両はダイヤの乱れが収まるまでの間一時的に同線内の待避可能な駅に留置または[[元住吉検車区|元住吉車庫]]に入庫する。このような状況の時は、東武東上線及び西武池袋線への乗り換えは[[池袋駅]]で、小竹向原駅 - 和光市駅間への乗り換えは[[要町駅]]または千川駅で行う。8両編成はそのまま運行を続ける処置をとるか運行間隔の調整を行う。 * 乗り入れ先の西武池袋線内または東武東上線内で運行障害が発生し、そのダイヤ乱れが本路線まで影響が出る場合は、一旦直通運転を打ち切る。その場合、西武線直通または東武東上線直通列車のみ急行は池袋駅または和光市駅 - 東急東横線方面間、各駅停車は池袋駅や千川駅で折り返し運転を行う。 副都心線開業当初はダイヤの乱れが発生した場合は、小竹向原 - 渋谷間で折り返し運転を行っていたが、小竹向原駅での案内が不十分であったために、乗客がなかなか降車せず、ダイヤの乱れが増大した。このため池袋 - 渋谷間での折り返し運転に変更された<ref group="新聞" name="news20080914">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080914/trd0809141302012-n2.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080924190758/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080914/trd0809141302012-n2.htm|title=【鉄道ファン必見】副都心線開業3カ月 トラブル減って乗客は? 10月が“正念場”|newspaper=産経新聞|date=2008-09-14|accessdate=2021-02-01|archivedate=2008-09-24}}</ref>。しかし、池袋駅の副都心線ホームと有楽町線ホームが離れているため、改札外乗り換えとなっており、乗り換えるのに少々不便を強いられた。その後、小竹向原駅の連絡線工事が進展したことにより、小竹向原駅の千川寄りの配線を使用して折り返せるようになったことから、2013年(平成25年)の工事終了翌日以降は現行の形態となり、有楽町線・副都心線の乗り換えは千川駅での階段の昇り降りで済むようになった。 == ワンマン運転とホームドア == 開業当初から小竹向原駅 - 渋谷駅間で[[自動列車運転装置|ATO]]による[[ワンマン運転]]を実施しており、2015年3月28日から和光市駅 - 小竹向原駅間もワンマン運転を実施している<ref group="報道" name="metroNews20150310_23" />。なお、10両編成でのワンマン運転は本路線が日本国内では初めてである(8両編成までのワンマン運転は[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]などの例がある)。 また、小竹向原駅 - 渋谷駅間では開業時から[[京三製作所]]製のハーフハイトタイプの[[ホームドア]]<ref name="Fuku-Const707-708">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、pp.707 - 709・723。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyosan.co.jp/ir/html/pdf/irks20080527.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120311090217/http://www.kyosan.co.jp/ir/html/pdf/irks20080527.pdf|title=株式会社 京三製作所 2008年3月期決算説明会|archivedate=2012-03-11|accessdate=2021-01-30|publisher=京三製作所|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年1月}}</ref>が設置されていた(小竹向原と池袋では2008年4月1日使用開始)。その後、地下鉄成増駅 - 氷川台駅間にも2010年10月までにホームドアが設置された後、和光市駅にも2012年4月に設置(同年7月7日使用開始)され、全駅にホームドアが設置された。東京地下鉄におけるホームドア採用例は[[東京メトロ南北線|南北線]]、[[東京メトロ千代田線|千代田線支線]](北綾瀬線)、[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線分岐線]]に次ぐ4路線目である。 副都心線は南北線とは異なり、車両がホームドアの設置を考慮したものではなく、車両によってドアの位置が多少異なるという難点があり、ドア位置の異なる車種へ対応するため、ホームドア開口幅は2,480&nbsp;mmと大きいものとなった<ref name="Fuku-Const707-708"/>。ホームドアの最も長いもので片側1,680&nbsp;mmとなり、従来の片側戸袋部分にドアが収納できないことから、収納時のホームドアが戸袋部で重なる方式となった<ref name="Fuku-Const707-708"/>。ホームドアは大中小3種類の大きさがある<ref name="Fuku-Const707-708"/>。 車両とホームとの隙間が大きい駅では可動式ステップを設置している<ref name="Fuku-Const707-708"/>。これは列車が到着し、開扉時に自動でステップが張り出すもので、ホームドアが閉扉されるとステップも自動で収納される<ref name="Fuku-Const707-708"/>。また、この可動ステップが張り出しているときはATCにより、停止信号を現示し、列車が発車できないように制御されている<ref name="Fuku-Const707-708"/>。 == 車両 == === 自社車両 === 全車両、[[和光検車区]]所属。 * [[東京メトロ17000系電車|17000系]] *: [[2021年]][[2月21日]]に運行開始<ref group="報道" name="pr20210221" /><ref group="新聞" name="news20210221" />。7000系を置き換えた<ref group="報道" name="pr20210221" /><ref group="報道" name="release20191111">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews201901111_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200106115929/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews201901111_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線・副都心線に新型車両17000系を導入します 2020年度営業運転開始予定|publisher=東京地下鉄|date=2019-11-11|accessdate=2020-03-09|archivedate=2020-01-06}}</ref>。 * [[東京メトロ10000系電車|10000系]] *: 池袋 - 渋谷間の開業に合わせて製造された[[東京地下鉄]]発足後初の新系列車両。[[2006年]](平成18年)[[9月1日]]から有楽町線で営業運転を開始し、翌[[2007年]]度までに10両編成20本(200両)を、開業までにさらに10両編成2本(20両)を配備した。最終的には[[2010年]](平成22年)1月までに10両編成36本(360両)が落成し、増備が完了した<!-- 鉄道ダイヤ情報誌で確認可 -->。副都心線用ドア位置は[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と共用である。 *: なお、副都心線のラインカラーに合わせて帯色が茶色になっている。ただし、1次車の第04編成までは有楽町線との共通運用という点も踏まえて茶色の帯の下に細いゴールドの帯も追加されている。 *: 1次車の第05編成までは中間車2両を抜いた8両編成での運行も可能なため、17000系の8両編成が不足する場合は8両化して運用される場合がある。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyo-Metro-Series17000_17105.jpg|17000系<br>(2021年10月) ファイル:Tokyo-Metro-Series10000_10102.jpg|10000系<br>(2021年10月) </gallery> ==== 過去の車両 ==== * [[営団7000系電車|7000系]] *: 有楽町線用車両として製造されたが、そのうち改造編成が本路線で運用されている。[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]の各停のみ停車する駅は基本的に10両編成対応工事を行わないため、両線との相互直通運転の各駅停車用車両として、第03・09・13・15・16・19 - 20・27 - 34編成を8両編成化するとともに帯色を10000系と同様の帯に変更し、副都心線専用車用の改造が実施された。 *: また、一部の編成は10両編成のまま副都心線対応工事が行われたが、帯色を10000系と同様の帯に変更されている。最終的に有楽町線と兼用の10両編成が6本(60両)、副都心線専用の8両編成が15本(120両)の体制になり、残りの7000系は廃車された。 *: 2022年4月をもって定期運用を終了した<ref group="報道" name="metronews220519">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220519_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220519060058/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220519_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ありがとう! 7000系 東京メトロスタンプラリー実施&オリジナル24時間券を発売します! 4つのスタンプを集めると先着2,000名様に「7000系缶バッチ」をプレゼント!! 7000系オリジナル24時間券は2022年5月25日(水)から発売開始!!|publisher=東京地下鉄|date=2022-05-19|accessdate=2022-05-19|archivedate=2022-05-19}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyo-Metro-Series7000 7130.jpg|7000系<br>(2019年8月) </gallery> 有楽町線新線時代は[[営団07系電車|07系]]全6編成 (07-101F - 106F) も運用されていたが、有楽町線との共用駅である[[小竹向原駅]]への[[ホームドア]]設置に伴い、扉間隔の異なる07系は有楽町線・副都心線どちらにも対応できなくなり、最終的には全編成が[[東京メトロ東西線|東西線]]に転出した<ref group="注">後に推進された東西線でのホームドア導入時には、開口幅の大きいホームドアを採用することで扉間隔の問題を解消している。</ref>。 === 乗り入れ車両 === ; 西武鉄道 : 全車両、[[小手指車両基地]]所属。 :* [[西武40000系電車|40000系]] :*: 0番台(デュアルシート車)は「[[S-TRAIN]]」として直通運転を行っている。代走時を除き、原則として副都心線や東急東横線内、横浜高速鉄道みなとみらい線内での一般列車での営業運転は行っていない。50番台(ロングシート車)は一般列車として6000系と共通運用されている。 :* [[西武6000系電車|6000系]] :*: 6101・6102編成以外の全ての編成で直通運転を行っている<ref name="RP884_262">{{Cite journal|和書|author=小林尚智|title=西武鉄道 現有車両プロフィール2013|journal=鉄道ピクトリアル|date=2013-12-10|volume=63|issue=第12号(通巻884号)|pages=262 - 264・289 - 293頁|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Seibu Railway 40000 Series 40102F set.jpg|40000系0番台 S-TRAIN<br>(2021年10月) ファイル:Seibu-Series40000 40055.jpg|40000系50番台<br>(2021年10月) ファイル:Seibu-Series6000-6003.jpg|6000系<br>(2021年6月) </gallery> ; 東武鉄道 : 全車両、[[森林公園検修区]]所属。 :* [[東武50000系電車#50070型|50000系50070型]] :*: 現在、10両編成7本が在籍しており、9000型・9050型と共通で運用されている。 :* [[東武9000系電車|9000系9000型・9050型]] :*: 第1編成(9101F) <ref group="注">東武9000型9101Fは量産先行車で他編成と扉間隔が異なりホームドアに対応出来ないため。</ref>以外の10両編成9本90両(9102F - 9108F・9151F・9152F)が使用されている。副都心線開業までに9101F以外すべて編成で乗り入れ対応工事を完了させた<ref name="RP949_162">{{Cite journal|和書|author=粂川零一|title=東武車両のリニューアル工事|journal=鉄道ピクトリアル|date=2018-08-10|volume=68|issue=第8号(通巻949号)|pages=162 - 164頁|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RP949_252-257">{{Cite journal|和書|author=粂川零一|title=東武鉄道 現有車両プロフィール2018|journal=鉄道ピクトリアル|date=2018-08-10|volume=68|issue=第8号(通巻949号)|pages=252 - 257頁|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。なお、[[電機子チョッパ制御]]の9000系9000型は東京メトロおよび[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]で運用される車両では唯一、[[可変電圧可変周波数制御|VVVF制御]]ではない車両となっている。 <!--50000型や50090型は副都心線に乗り入れないため、本項では特筆しない。--> <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tobu-Tojo-Line-Series51072F.jpg|50000系50070型<br>(2018年6月) ファイル:Tobu-Series9103.jpg|9000系9000型<br>(2021年3月) Tobu-Series9050R 9152.jpg|9000系9050型(2021年10月) </gallery> ; 東急電鉄・横浜高速鉄道 : 全車両、[[元住吉検車区]]所属。 :* [[東急5000系電車 (2代)#5050系4000番台|5050系4000番台]] :* [[東急5000系電車 (2代)|5000系・5050系]](8両編成) :* [[横浜高速鉄道Y500系電車|Y500系]](8両編成) :*: 2013年3月16日より東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との直通運転が開始されたことに伴い乗り入れ開始。すべての編成が乗り入れに使用されている。東急車と横浜高速車は共通運用である。直通運転に先立ち2012年9月より、東急5050系4104F、4105F、5155Fの各編成が副都心線・有楽町線・東武東上線・西武池袋線各線で先行営業運転を行っていた<ref name="RM120910">[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2012/09/5050_2.html 東急5050系が西武鉄道池袋線で営業運転開始] - 『鉄道ホビダス』 RMニュース 2012年9月10日</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyu-Series5050-4000.jpg|5050系4000番台<br>(2019年8月) ファイル:Tokyu5000series 5122f.jpg|5000系([[東急5000系電車 (初代)|初代5000系]]アオガエル塗装)<br>(2019年8月) ファイル:Tokyu-Series5878.jpg|5050系<br>(2021年3月) ファイル:Yokohama-Series-Y502.jpg|Y500系<br>(2022年5月) </gallery> ; 相模鉄道 : [[かしわ台車両センター]]所属。 :* [[相鉄20000系電車|20000系]] :*: 2023年3月18日より東急新横浜線・相鉄線との直通運転が開始されたことに伴い乗り入れ開始。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Sagami-Railway-21000-20103F.jpg|20000系<br>(2023年4月) </gallery> === 車両運用について === どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号で判別できる。2023年3月18日改正ダイヤでは、列車番号末尾アルファベットの「'''S'''」が東京メトロ車両(8両編成は01S - 19S/10両編成は21S - 91Sの奇数番号)、「'''M'''」が西武車両(02M - 34Mの偶数番号および71M - 75M)、「'''T'''」が東武車両(01T - 25Tの奇数番号)、「'''K'''」が東急車両(8両編成は横浜高速鉄道車両と共通運用で01K - 33K/10両編成は51K - 64K/ダイヤ乱れの場合は41K - 46K)、「'''G'''」が相鉄車両(91G - 95G)となっている<ref>{{Cite web|和書|title=相鉄と東急が3月18日改正後のダイヤを発表 東急車の相鉄横浜駅入線も |url=https://www.tetsudo.com/column/438/ |publisher=鉄道コム |date=2023-02-19 |accessdate=2023-06-07}}</ref>。なお、列車番号が6桁の数字で表される東横線・みなとみらい線では上3桁が運用番号を示し、700番台が東京メトロ車両、100番台が西武車両、000番台が東急・横浜高速車両、800番台が東武車両、900番台が相鉄車両となっている(例えば「01S」は東横線・みなとみらい線では「701」となる)。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』([[交通新聞社]])などで確認できる。 10両編成は有楽町線と共通運用されており、西武車も和光市駅までは乗り入れる。東急車を除く10両編成は和光市駅で折り返しが有楽町線の列車に変わる運用もある<ref group="注">これは逆に折り返し有楽町線→副都心線に変更となる運用もあり、直通先の東武東上線折り返し、西武線折り返しでも発生する。</ref>。多くはメトロ車の運用だが、一部は東急車や西武車、東武車が運用に就く。8両編成は、平日も土休日も東急車の運用が大半で、メトロ車は渋谷始発の東急東横線・みなとみらい線直通列車の運用に就くことがある。2016年3月26日ダイヤ改正で、東武東上線内急行運転開始により日中の乗り入れ区間が森林公園駅まで延長されたことで、平日日中の東武車運用が復活した。 2023年3月18日改正ダイヤでは、東京メトロ車両では10両編成2本および8両編成2本が東急の[[元住吉検車区]]、10両編成1本が西武の[[武蔵丘車両基地]]、10両編成1本が東武の[[森林公園検修区]]でそれぞれ[[夜間滞泊|夜間留置]]となる「[[泊まりダイヤ|外泊運用]]」が組まれている。東京メトロの車両基地では[[和光検車区]]に東武車2本、東急車の8両編成2本と10両編成1本、西武車1本が、[[新木場車両基地]]に西武車1本が夜間留置される。 === 車両改造費用 === 相互直通運転時には従来、車両保有会社が乗り入れ先の路線に対応するように改造することが暗黙の合意の基、“相直の精神”とされてきた<ref name="ToMeFuku788P">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.788。</ref> 。 副都心線との相互直通運転にあたり、[[東武鉄道]]・[[西武鉄道]]の車両にも同線に対応するATO装置などのワンマン運転機器の設置に伴う車両改造工事が必要となり、2社に対する依頼が必要となった<ref name="ToMeFuku788P"/>。 しかし、東武と西武からは「副都心線に必要な[[自動列車運転装置|ATO]]装置・ワンマン運転機器は、東京地下鉄の経営効率化のためであり、自社線内では不要である<ref name="ToMeFuku788P"/>。改造費用の全額負担はできず、東京地下鉄の負担とするべき」と主張された<ref name="ToMeFuku788P"/>。 その後、東京地下鉄・東武・西武の3社で協議の結果「副都心線のワンマン運転に必要な車両改造の初期費用は東京地下鉄が負担する<ref name="ToMeFuku788P"/>。対応機器は車両保有会社が所有するが、機器の使用権利は東京地下鉄に属する」という条件の元に2社の車両の副都心線対応改造が実施された<ref name="ToMeFuku788P"/>。 == 女性専用車 == 副都心線では、平日始発から9時30分までの全列車で[[和光市駅]]寄り先頭車両(1号車)が[[日本の女性専用車両|女性専用車]]となる。なお、小児や障害者、その保護者や介助者は性別不問で女性専用車への乗車が可能である。副都心線内の設定区間は以下の通り<ref>[http://www.tokyometro.jp/safety/attention/women/#anc06 女性専用車 副都心線] - 東京メトロ 2016年7月9日閲覧</ref>。 * A線(渋谷方面行):全区間(9時半をもって設定終了) * B線(和光市方面行):渋谷駅→[[池袋駅]]間(池袋駅到着または9時半をもって設定終了) 10両編成と8両編成で女性専用車となる車両の停止位置が異なる駅は10両編成の女性専用車乗車位置にピンク色のステッカーを貼付し、8両編成は緑色のステッカーを貼付している。10両編成と8両編成の1号車の停車位置が同一の駅は乗車目標がピンク色である。 東京地下鉄の駅構内出口階段は、最前部または最後部に存在するケースが多い。その出口階段に最も近い場所に女性専用車が停車する場合が多い。 副都心線の女性専用車は開業から2日後にあたる[[2008年]][[6月16日]]に導入され、当初は平日ダイヤのうち和光市駅(東武東上線からの直通列車を含む)を午前7時06分から9時20分まで、ならびに西武線からの直通列車で午前7時20分から9時20分まで小竹向原駅に発着する渋谷行のみの実施(副都心線内走行中の列車は9時20分で一斉終了)であったが<ref group="報道" name="pr20080514" />、[[2013年]][[3月16日]]の東横線・みなとみらい線との直通運転開始に際し実施形態が変更された<ref group="報道" name="tokyu-release130122" />。 [[2023年]][[3月20日]] 同年3月18日のダイヤ改正による、東急新横浜線と相鉄新横浜線(羽沢横浜国大 - 新横浜間)の開業ならびに同線および相鉄各線との直通運転開始に伴い、これらの区間と直通運転を行う電車において、女性専用車の設定を開始した。副都心線内においては設定時間帯等の変更はない。 == 利用状況 == [[2021年]](令和3年)度の最混雑区間(A線、要町→ 池袋間)の[[混雑率]]は'''101%'''である<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220722233835/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|title=資料3:都市部の路線における最混雑区間の混雑率(2021)|page=3|date=2022-07-22|archivedate=2022-07-22|accessdate=2022-07-23|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|最混雑区間(要町 → 池袋間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref> !rowspan="2"|特記事項 |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |2008年(平成20年) | || || || ''' ''' |style="text-align:left;"|2008年6月14日、開業 |- |2009年(平成21年) | 17 || 21,616 || style="background-color: #ccffcc;"|22,998 || style="background-color: #ccffcc;"|'''106''' | |- |2010年(平成22年) | 17 || 21,616 || 24,199 || '''112''' | |- |2011年(平成23年) | 17 || 21,616 || 26,693 || '''123''' | |- |2012年(平成24年) | 17 || 21,616 || 27,833 || '''129''' |style="text-align:left;"|2013年3月16日、東急東横線との直通運転開始 |- |2013年(平成25年) | 18 || 22,752 || 31,480 || '''138''' | |- |2014年(平成26年) | 18 || 22,752 || 33,205 || '''146''' | |- |2015年(平成27年) | 18 || 22,752 || 33,182 || '''146''' | |- |2016年(平成28年) | 18 || 22,752 || 33,215 || '''146''' | |- |2017年(平成29年) | 18 || 22,752 || 34,331 || '''151''' | |- |2018年(平成30年) | 18 || 22,752 || 34,526 || '''152''' | |- |2019年(令和元年) | 18 || 23,040 || style="background-color: #ffcccc;"|35,672 || style="background-color: #ffcccc;"|'''155''' | |- |2020年(令和{{0}}2年) | 18 || 23,040 || style="background-color: #ccffff;"|21,678 || style="background-color: #ccffff;"|'''94''' | |- |2021年(令和{{0}}3年) | 18 || 23,040 || 23,214 || '''101''' | |} == 駅一覧 == * 駅番号はA線方向(和光市から渋谷の方向)に増加。 * ●: 停車、◇<!--東急東横線・有楽町線・西武池袋線と使用記号を合わせています-->: [[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]、|: 通過 * 各駅停車はすべての駅に停車するため省略している。 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9c5e31; width:4em;"|駅番号 !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9c5e31; width:11em;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !colspan="2"|運賃<br>計算キロ !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9c5e31; background:#ea6; width:1em;"|{{縦書き|通勤急行|height=5em}} !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9c5e31; background:#fab; width:1em;"|{{縦書き|急行|height=3em}} !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9c5e31; background:#fff; width:1em;"|{{縦書き|S-TRAIN|height=5em}} !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9c5e31;"|接続路線・備考 !rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #9c5e31;"|所在地 |- !style="width:3em; border-bottom:3px solid #9c5e31; width:2.5em;"|駅間 !style="width:3em; border-bottom:3px solid #9c5e31; width:2.5em;"|累計 !style="width:3em; border-bottom:3px solid #9c5e31; width:2.5em;"|駅間 !style="width:3em; border-bottom:3px solid #9c5e31; width:2.5em;"|累計 |- !colspan="6"|直通運転区間 |colspan="6"|和光市駅から [[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東武東上線]][[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]まで<br />小竹向原駅から [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|16px|SI]] [[西武有楽町線]]経由 [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|16px|SI]] [[西武池袋線]][[飯能駅]](「S-TRAIN」は [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|16px|SI]] [[西武秩父線]][[西武秩父駅]])まで |- !F-01 |[[和光市駅]]<ref group="*">和光市駅は他社接続の共同使用駅で、東武鉄道の管轄駅である。</ref> |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|● |rowspan="5" style="vertical-align:bottom;"|{{縦書き|西武線直通|height=6em}} |[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] '''東上線 (TJ-11)(直通運転:上記参照)'''<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]](Y-01・共用)<br />車両基地所在駅 |colspan="2"|[[埼玉県]]<br>[[和光市]] |- !F-02 |[[地下鉄成増駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線(Y-02・共用) |rowspan="15" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}} |style="white-space:nowrap;"|[[板橋区]] |- !F-03 |[[地下鉄赤塚駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線(Y-03・共用) |rowspan="4"|[[練馬区]] |- !F-04 |[[平和台駅 (東京都)|平和台駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線(Y-04・共用) |- !F-05 |[[氷川台駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|6.8 |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|6.8 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線(Y-05・共用) |- !F-06 |[[小竹向原駅]]<ref group="*">小竹向原駅は他社接続の共同使用駅で、東京地下鉄の管轄駅である。</ref> |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|8.3 |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|8.3 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|● |style="text-align:center; background:#fff"|◇ |''待避可能駅''<br/>[[西武鉄道]]:[[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|16px|SI]] '''西武有楽町線 (SI37)(渋谷方面から直通運転あり。上段参照)'''<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線(Y-06・共用) |- !F-07 |[[千川駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|9.4 |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|9.3 |style="text-align:center; background:#ea6"|| |style="text-align:center; background:#fab"|| |style="text-align:center; background:#fff"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線 (Y-07) |rowspan="4"|[[豊島区]] |- !F-08 |[[要町駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|10.4 |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|10.3 |style="text-align:center; background:#ea6"|| |style="text-align:center; background:#fab"|| |style="text-align:center; background:#fff"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線 (Y-08) |- !F-09 |[[池袋駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|11.3 |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|11.5 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|● |style="text-align:center; background:#fff"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-25)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線 (Y-09)([[新木場駅|新木場]]方面)<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 12)・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 21)・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 13)<br />東武鉄道:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] 東上線 (TJ-01)<br />西武鉄道:[[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|16px|SI]] 池袋線 (SI01) |- !F-10 |[[雑司が谷駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|13.1 |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|13.3 |style="text-align:center; background:#ea6"|| |style="text-align:center; background:#fab"|| |style="text-align:center; background:#fff"|| |[[東京都交通局]]:[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|18px|SA]] [[都電荒川線|都電荒川線(東京さくらトラム)]]([[鬼子母神前停留場]]:SA 27) |- !F-11 |[[西早稲田駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|14.6 |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|14.8 |style="text-align:center; background:#ea6"|| |style="text-align:center; background:#fab"|| |style="text-align:center; background:#fff"|| | |rowspan="3"|[[新宿区]] |- !F-12 |[[東新宿駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|15.5 |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|15.7 |style="text-align:center; background:#ea6"|| |style="text-align:center; background:#fab"|| |style="text-align:center; background:#fff"|| |''待避可能駅''<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-02) |- !F-13 |[[新宿三丁目駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|16.6 |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|16.8 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|● |style="text-align:center; background:#fff"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] 丸ノ内線 (M-09)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|新宿線]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] (S-02)<br />※2013年3月16日からは、一部のフリーきっぷについては以下の連絡運輸あり<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/02/18/20130219tickets.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130309084558/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/02/18/20130219tickets.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月16日(土)から東急東横線・横浜高速みなとみらい線との相互直通運転を開始! 〜2つのおトクな乗車券が登場します!〜 横浜・みなとみらいエリアへ直行!「西武横浜ベイサイドきっぷ」を発売! 東急線のおしゃれなトライアングルエリアへ!「西武東急線トライアングルチケット」を発売!|publisher=西武鉄道|date=2013-02-19|accessdate=2020-11-21|archivedate=2013-03-09}}</ref><br />西武鉄道:[[File:Seibu shinjuku logo.svg|16px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]]([[西武新宿駅]]:SS01) |- !F-14 |[[北参道駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|18.0 |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|18.2 |style="text-align:center; background:#ea6"|| |style="text-align:center; background:#fab"|| |style="text-align:center; background:#fff"|| |&nbsp; |rowspan="3"|[[渋谷区]] |- !F-15 |[[明治神宮前駅|明治神宮前〈原宿〉駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|19.2 |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|19.4 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|● |style="text-align:center; background:#fff"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-03)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線([[原宿駅]]:JY 19) |- !F-16 |[[渋谷駅]]<ref group="*">渋谷駅は他社接続の共同使用駅で、東急電鉄の管轄駅である。</ref> |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|20.2 |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|20.4 |style="text-align:center; background:#ea6"|● |style="text-align:center; background:#fab"|● |style="text-align:center; background:#fff"|● |''待避可能駅''<br />[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] '''東横線 (TY01)(直通運転:下記参照)'''・[[ファイル:Tokyu DT line symbol.svg|18px|DT]] [[東急田園都市線|田園都市線]] (DT01)<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-01) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|半蔵門線]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-01)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 20)・[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] 埼京線 (JA 10)・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] 湘南新宿ライン (JS 19)<br />[[京王電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|18px|IN]] [[京王井の頭線|井の頭線]] (IN01) |-style="border-top:#da0442 2px solid;" !colspan="6"|直通運転区間 |colspan="6"|[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線]]経由 [[File:Number prefix Minatomirai.svg|18px]] [[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]まで<br />[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] 東急東横線・[[ファイル:Tokyu SH line symbol.svg|18px|SH]] [[東急新横浜線]]・[[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄新横浜線]]経由 [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線]][[海老名駅]]、 [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄いずみ野線]][[湘南台駅]]まで |} {{Reflist|group="*"}} * 和光市 - 小竹向原間は有楽町線と駅・線路を共用している。また、同区間の駅番号は同線と共通の数字を使っている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-04_1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140420183717/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-04_1.html|title=東京メトロ副都心線(和光市~渋谷間)平成20年6月14日(土)開業(予定)ホームドア・エスカレーター・エレベーターなどの施設も充実!(別紙)|date=2008-01-31|archivedate=2014-04-20|accessdate=2020-11-21|publisher=東京地下鉄|language=日本語}}</ref>(他に[[東京メトロ南北線|南北線]]と[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄三田線|三田線]]が共有している[[目黒駅|目黒]] - [[白金高輪駅|白金高輪]]間でも駅番号に共通の数字を使っている)。 * 副都心線池袋駅 - 要町駅 - [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]池袋駅の経路で乗車する、要町駅での折り返し乗り換えを認めていないため、副都心線渋谷方面 - 有楽町線新木場方面間の乗り換えは池袋駅で一度改札外に出て行う。 * 池袋 - 雑司が谷間の[[東池袋]]周辺地域に新駅を設置する構想があり、予定地のトンネル部はそれを考慮して建設されている。「[[東池袋駅#副都心線の東池袋駅設置計画]]」も参照。 * 渋谷駅のホームは、半蔵門線・東急田園都市線ホームのさらに下方に設置されている。同駅は東急電鉄が副都心線・東急東横線ホームおよび半蔵門線・東急田園都市線ホームと一体で管理されているため、半蔵門線・東急田園都市線とは改札内連絡が可能である。このため、2013年から開始された東急東横線との相互直通運転によって、それまで改札外乗り換え(事実上別の駅)となっていた東横線と田園都市線が名実ともに乗り換え駅となり、東横線・副都心線・田園都市線・半蔵門線の計4路線が改札内で結ばれた。 * 新宿三丁目の池袋側に留置線が設置されている。東横線との相互直通運転開始をにらんで設置され、2017年3月25日ダイヤ改正までは毎時2本東横線方面からの終着電車および東横線方面への始発電車(各停)が設定されていた。同改正では昼間を中心に新宿三丁目折り返しの列車が和光市・池袋方面に延長されて同駅折り返しが減少したが、朝夕には依然として新宿三丁目折り返しの設定がある。 * 全席指定列車「[[S-TRAIN]]」は新宿三丁目駅・渋谷駅では飯能方面、横浜方面ともに乗降車可能。池袋駅では降車のみ。 * 和光市駅のみ地上駅、他の駅はすべて地下駅となっている。 == 各駅のデザインコンセプトとステーションカラー == {{色|節}} 本路線の新たに建設された[[雑司が谷駅]] - [[明治神宮前駅]]では、駅の周辺環境をはじめとした歴史や文化などをイメージした各駅ごとの'''デザインコンセプト'''と'''ステーションカラー'''を導入した<ref name="Fuku-Const659">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.659。</ref>。[[千川駅]] - [[池袋駅]]では既存の駅施設があるため、駅構内の一部のみで採用している<ref name="Fuku-Const659"/>。なお、[[渋谷駅]]は東急電鉄の施工のため、東京地下鉄は担当していない<ref name="Fuku-Const659"/>。 本路線は比較的深い駅が多く、東京地下鉄全駅の中では、東新宿駅(B線ホーム)は4番目、雑司が谷駅は5番目、西早稲田駅は7番目、渋谷駅は9番目に深い駅に該当する<ref name="TokyoMetrohandbook2021">東京地下鉄『東京メトロハンドブック2021』、pp.146 - 149。</ref><ref group="注">1番目は千代田線[[国会議事堂前駅]] (37.9&nbsp;m) 、2番目は南北線[[後楽園駅]] (37.5&nbsp;m) 、3番目は半蔵門線[[永田町駅]] (36.0&nbsp;m) 、6番目は半蔵門線[[住吉駅 (東京都)|住吉駅]](A線ホーム・32.6&nbsp;m)、8番目は南北線[[白金高輪駅]] (29.8&nbsp;m) 、10番目は南北線[[白金台駅]] (28.3&nbsp;m) が該当する。なお、[[都営地下鉄]]も含めると、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]の[[六本木駅]]が一番深い (42.3&nbsp;m) 。詳細は「[[都営地下鉄大江戸線#駅の深さ]]」も参照。</ref><ref group="注">東京地下鉄における「駅の深さ」とは、駅中心部における地表からレール面までの深さを表す。</ref>。小竹向原駅の深さは17.3&nbsp;mである<ref name="TokyoMetrohandbook2021"/>。 {| cellpadding="2" class="wikitable" |+各駅の深さとデザインコンセプト・ステーションカラー<ref name="Fuku-Const659"/> |- !駅名 !ホーム階 !深さ !デザインコンセプト !colspan="2"|ステーションカラー |-style="border-top:3px solid #9c5e31;" !千川駅 |地下3階 |19.7&nbsp;[[メートル|m]] |やすらぎ×木立のある風景 |マロン・グラッセ(幹色) |style="background-color:#aa9872; width:1em;"|&nbsp; |- !要町駅 |地下3階 |23.7&nbsp;m |都会×将来への期待 |卵色 |style="background-color:#ff7f27;"|&nbsp; |- !池袋駅 |地下4階 |25.2&nbsp;m |エネルギー×芸術の自由さ |ブラン・ネージュ(白色) |style="background-color:#ffffff;"|&nbsp; |- !雑司が谷駅 |地下4階<!-- 地形上からホーム前後で異なる --> |33.8&nbsp;m |木漏れ日×過去への思い出 |青竹色 |style="background-color:#4da585;"|&nbsp; |- !西早稲田駅 |地下3階 |29.9&nbsp;m |文教×水流 |水色 |style="background-color:#9dc5d3;"|&nbsp; |- !東新宿駅 |地下5階・6階 |A線:29.2&nbsp;m<br />B線:35.4&nbsp;m |アクティブ×つつじ |薄紅 |style="background-color:#db6e7d;"|&nbsp; |- !新宿三丁目駅 |地下3階 |15.2&nbsp;m |光の帯×内藤新宿 |藤色 |style="background-color:#9698c4;"|&nbsp; |- !北参道駅 |地下2階 |16.5&nbsp;m |喧噪からの開放<ref group="注">日本語としては「からの」には「解放」が続くと考えられるが、東京メトロは「開放」を使っている。[http://www.tokyometro.jp/corporate/csr/report/pdf/env2008_all.pdf#page=11 東京メトロ社会環境報告書2008]</ref>×能楽 |ジョーヌ・サフラン(黄金色) |style="background-color:#d2ae5d;"|&nbsp; |- !明治神宮前駅 |地下5階 |27.8&nbsp;m |ファッション×杜 |スモークブルー |style="background-color:#526c7f;"|&nbsp; |- !渋谷駅<ref group="*">主な工事主が東急であるため、他の駅とはコンセプトは違う。また、ステーションカラーもない。</ref> |地下5階 |28.6&nbsp;m |3つの基軸<br />「心象に残る駅」<br />「安全・安心」<br />「環境への配慮」 |colspan="2"|なし |} {{Reflist|group="*"}} == 発車メロディ == 和光市駅以外の全駅で[[発車メロディ]](発車サイン音)<ref group="注">車内放送では「'''発車サイン音'''」と案内されており、かつての[http://www.tokyometro.jp/fukutoshin/#/data 東京メトロの副都心線の紹介ページ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080131114521/http://www.tokyometro.jp/fukutoshin/ |date=2008年1月31日 }}では「'''発車メロディー'''」と書かれていた。</ref>を使用している。すべて[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、[[塩塚博]]、[[福嶋尚哉]]、[[谷本貴義]]の3名が作曲を手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ 駅発車メロディー & 駅ホーム自動放送 シリーズ[東京メトロ副都心線 駅発車メロディー & 駅ホーム自動放送:TECD-21596] / TEICHIKU ENTERTAINMENT|url=http://www.teichiku.co.jp/catalog/tokyometro/products/TECD-21596.html|website=株式会社テイチクエンタテインメント|accessdate=2019-07-23|language=ja}}</ref>(2015年5月30日使用開始の東新宿駅3番線のメロディは[[山崎泰之]]作曲<ref>{{Cite web|和書|title=個人でのソーシャルメディアでの音源使用について|url=http://www.switching.co.jp/news/401|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2020-01-02|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>)。 開業当初はワンマン運転を実施している小竹向原駅 - 渋谷駅間のみ導入されていたが、2011年2月23日からは地下鉄成増駅 - 氷川台駅間の各駅でも順次使用を開始した<ref name="melody" />。 曲名は[http://www.switching.co.jp/sound/index3.html スイッチのホームページ]および同社が運営する「鉄道モバイル」から。 {| class="wikitable" |- !駅名 !A線(渋谷方面) !B線(和光市方面) |-style="border-top:3px solid #9c5e31;" !和光市<ref group="*">和光市駅は東武鉄道の管轄であるため、接近放送は東武仕様のものが流れる。</ref> |3:(東武鉄道汎用メロディ)<ref name="kirameku" group="*">2023年10月24日にベルから変更。なお、2012年7月7日から12月17日までは「きらめくホーム」(現在は東新宿駅1番線で使用)が使用されていた。</ref> |2:(東武鉄道汎用メロディ) |- !地下鉄成増 |1:電車ライト【福嶋】 |2:はらり【塩塚】 |- !地下鉄赤塚 |1:レッツトレイン【福嶋】 |2:始まるよ【塩塚】 |- !平和台 |1:輪になって【塩塚】 |2:こおろぎ【塩塚】 |- !氷川台 |1:もう来ます【谷本】 |2:ワクワク電車【福嶋】 |- !小竹向原 |1:オーバーフロー【塩塚】<br />2:駅ストレッチ【福嶋】<ref group="*">当初は1番線と同じ「オーバーフロー」であったが、誤乗防止のため2008年9月20日に変更された。</ref> |3:キャロット【塩塚】<ref group="*" name="kotake34">当初は「駅ストレッチ」を使用していたが、運行に支障をきたすため、導入翌日にブザーに変更。2011年2月25日から本曲が使用されている。</ref><br />4:無休【谷本】<ref group="*" name="kotake34" /> |- !千川 |3:オン・ザ・コーナー【塩塚】 |4:Good day【谷本】 |- !要町 |3:City Runner【福嶋】<ref group="*">[[サウンドファクトリー]]の著作権フリー音源集「JPX pro library Vol.13」に収録されている同名の楽曲の流用である。</ref> |4:イーストパラダイス【福嶋】 |- !池袋 |5:TOKYO CITY【塩塚】 |6:Morning station【谷本】 |- !雑司が谷 |1:シーサイド【谷本】 |2:ティータイム【福嶋】 |- !西早稲田 |1:クリストフ【塩塚】 |2:シルバーレール【福嶋】 |- !東新宿 |1:きらめくホーム【福嶋】<ref group="*">2015年5月30日使用開始。かつては和光市駅3番線、[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]][[豊洲駅]]4番線でも使用されていた。</ref><br />2:花咲く街角【福嶋】 |3:風を感じて【山崎】<ref group="*">2015年5月30日使用開始。</ref><br />4:春の翼【福嶋】 |- !新宿三丁目 |3:不思議のワルツ【塩塚】 |4:夢見るハート<ref group="*">スイッチの発表では作曲者は福嶋とされているが、実際はサウンドファクトリーの著作権フリー音源集「JPX pro library Vol.5」に収録されている大和優子作曲の同名の楽曲を編集したものであり、大和が運営する「音楽工場YAMATO」の[https://lhx15.linkclub.jp/music-yamato.jp/train.html 公式サイト]には自作曲として記載があるほか、[[NexTone]]および[[日本音楽著作権協会|JASRAC]]のデータベースにも大和が作曲者としてクレジットされている。</ref> |- !北参道 |1:ぐるぐる【谷本】 |2:プラット散歩2【福嶋】 |- !明治神宮前 |3:てんとう虫のステップ【塩塚】 |4:ゆっくり行こう【谷本】 |- !渋谷<ref group="*">渋谷駅は東急電鉄の管轄駅であり、接近放送は東急仕様のものが流れる。副都心線方面への列車の発車時は、東急仕様の発車放送アナウンスの後、発車メロディに続いて、東京メトロ仕様の扉閉案内放送が流れる。</ref> |3・4・5:(Departing from New Shibuya Terminal)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/130228-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190723183411/https://www.tokyu.co.jp/file/130228-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東横線・東京メトロ副都心線 相互直通運転開始記念! 東横線渋谷駅にオリジナルベルメロディを導入します|publisher=東京急行電鉄|date=2013-02-28|accessdate=2020-11-21|archivedate=2019-07-23}}</ref>{{Refnest|group="*"|[[向谷実]]作曲。2016年7月5日から9月12日までは[[ドラゴンクエストシリーズ]]の「序曲」<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/160630-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160705013945/http://www.tokyu.co.jp:80/file/160630-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「渋谷ヒカリエ」9階 ヒカリエホールでの「ドラゴンクエストミュージアム」開催を記念して、「ドラゴンクエスト」の「序曲」を、東横線渋谷駅の発車メロディとして期間限定で使用します!|publisher=東京急行電鉄|date=2016-06-30|accessdate=2020-11-21|archivedate=2016-07-05}}</ref>、2016年から毎年11月1日から12月25日まではディズニー関連の楽曲<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/1610109-2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191227021455/https://www.tokyu.co.jp/file/1610109-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東急グループとディズニーが贈るクリスマスプロモーション TOKYU CHRISTMAS WONDERLAND 2016 –Disney CRYSTAL MAGIC– この冬、東急線の駅、電車、東急グループの主要商業施設がディズニー一色に染まる! ディズニーのキャラクターが描かれた特別車両が東急線全線※、東急バスで運行! 東急線の主要6駅の発車メロディが、ディズニー作品の「ミッキーマウス・マーチ」などに!|publisher=東急グループ|date=2016-10-19|accessdate=2020-11-21|archivedate=2019-12-27}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/96f9dfbcdb185b1266310c1f804ce649750877fa.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190526145803/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/96f9dfbcdb185b1266310c1f804ce649750877fa.pdf|format=PDF|language=日本語|title=11月1日(水)〜12月25日(月)東急グループとディズニーが贈るクリスマスプロモーション 東急グループの「駅」「電車」「施設」街全体が夢のように楽しく! TOKYUCHRISTMASWONDERLAND2017 - DisneyDREAMMOMENTS|publisher=東急グループ|date=2017-10-23|accessdate=2020-11-21|archivedate=2019-05-26}}</ref>、2018年8月17日から9月16日までは[[安室奈美恵]]の「[[Hero_(安室奈美恵の曲)|Hero]]」<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/information/list/Pid=post_89.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180821160343/https://www.tokyu.co.jp/information/list/Pid=post_89.html|language=日本語|title=【期間限定】東横線渋谷駅 発車メロディ変更のお知らせ|publisher=東京急行電鉄|date=2018-08-03|accessdate=2020-11-21|archivedate=2018-08-21}}</ref>を使用。5番線から発車する東横線の列車でも流れる。}} |5:おとぎのワルツ【塩塚】<br />6:愛ステーション【福嶋】 |- !(車載メロディ) |未来電車【福嶋】 |rapid【谷本】 |} * 上表の数字は各駅の番線、【】内は作曲者を表す。 {{Reflist|group="*"}} == その他 == * 東京地下鉄では、営団地下鉄時代の[[2003年]](平成15年)から「ちかみち13(サーティーン)」という広報紙を年2回程度発行した(開通日の2008年6月14日発行分〈第12号〉で最終号となった)。副都心線連絡駅とその周辺の駅で配布したほか、東京地下鉄の公式サイトからも閲覧できた。 * [[2005年]]公開の映画『[[交渉人 真下正義]]』に登場する建設中の副都心線は、映画内では「地下鉄14号線(仮称)」と表示され、撮影は[[横浜市営地下鉄グリーンライン]]で行われている。なお、映画内ではレールが敷かれていたが、実際の副都心線に敷かれたのは[[2007年]]8月になってからである。 * 2008年2月から7月まで、東京地下鉄各駅や車内などに4種類の開業告知ポスターが3回に分けて掲出された。中には当時の東京地下鉄イメージキャラクターだった[[宮崎あおい]]も掲載されていた。 * 2008年2月14日、副都心線を含む地下鉄の工事に国費([[道路特定財源]])が支出されていることが[[衆議院]]予算委員会で、選挙区が沿線にある[[長妻昭]]が取り上げた「国道事務所での[[アロマセラピー]]の購入」と同様の税金の無駄遣いとして追及された<ref name="syu20080214">[[第169回国会]] 衆議院 予算委員会 第8号 平成20年(2008年)2月14日([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116905261X00820080214 議事録])</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080214/stt0802142156009-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080220011350/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080214/stt0802142156009-n1.htm|title=道路特定財源でアロマ器具を購入 民主・長妻氏が追及|newspaper=産経新聞|date=2008-02-14|accessdate=2021-02-01|archivedate=2008-02-20}}</ref>。ただし、副都心線の工事費用に道路特定財源が使われていることは現場の看板や東京都の広報などに以前から明記されており<ref>[https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/douro/gaiyo/06.html 東京都建設局:道路/道路事業について/道路の管理]</ref>、東京都民には周知の事実であった。 * 2008年6月13日に放送された[[テレビ朝日]]系の番組『[[タモリ倶楽部]]』において、出演者は一般の人として初めて乗車することになった。番組内では「(開業前まで)試運転用のダイヤが組まれていること」「池袋 - [[雑司が谷駅|雑司が谷]]間の下りが[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]の新宿延伸を想定していること」「副都心線の[[新宿三丁目駅]]が丸ノ内線と都営新宿線の間をすり抜けていること、渋谷寄りのカーブ([[タカシマヤタイムズスクエア]]の真下)が副都心線で最も急なカーブとなること」が東京メトロの関係者から公言された。 * 2008年[[11月26日]]から[[2009年]][[1月12日]]まで、「副都心線開業記念展 - 副都心線の新たな発見 -」が[[地下鉄博物館]]で開催された。 * 2008年現在、国土交通省は[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令|新鉄道技術省令]]の解釈基準で電車線の勾配を最大で35‰と規定しているが、[[東新宿駅|東新宿]] - 新宿三丁目間の池袋方面には本路線で中で最も急な40‰の勾配が特認により存在する<ref>[http://response.jp/issue/2007/1119/article102087_1.html 東京地下鉄トンネルウォーク開催…地下に何が!?] - レスポンス、2007年11月19日</ref><ref>[http://radiate.jp/archives/2007/11/18113407.php 地下鉄開通80周年記念 副都心線トンネルウォーク] - ラジエイト</ref>。なおこの特認は路線の事情に鑑みて既存路線でも適宜認められてきたものであり、副都心線に限ったものではない。 * 東武東上線では[[和光市駅|和光市]] - 池袋間、[[西武池袋線]]では[[練馬駅|練馬]] - 池袋間、JR東日本では池袋 - [[新宿駅|新宿]] - [[渋谷駅|渋谷]]間の利用者が減り、収益が減ることが予想されている。その一方で、これらの区間の[[ラッシュ時]]の混雑緩和が期待されている。なお、JRは当初9万人の減少を予想していたが、実際には6万人から7万人が減った程度であり、混雑が大幅に緩和されたわけではない<ref group="新聞" name="news20080914" />。 * 東京メトロの速達列車の設定は、東西線の「快速」・「通勤快速」に次いで2例目となるが、全区間(和光市 - 小竹向原 - 渋谷間)で通過駅がある速達列車が設定されている路線は本路線のみ。なお、西武線内快速急行 - 副都心線内急行 - 東急東横線・みなとみらい線内特急のように3社跨いでの速達列車の設定は、[[都営地下鉄浅草線]]でも[[京成成田空港線#アクセス特急|アクセス特急]]・[[エアポート快特]]がある。また、2016年3月26日のダイヤ改正で、東武東上線内にも優等列車が設定された関係で平日夕方に1本のみ、森林公園発元町・中華街行では、全区間急行となる列車が設定された。 * 東京メトロ各駅のホーム[[発車標]]で本路線のみ行先が3段式を使用している。2020年7月頃から順次LED式から液晶式に切り替わり、同時にホーム内の自動放送も更新された。さらに、2023年3月16日に東急新横浜線開業および相鉄線へ相互直通運転開始に伴い、自動放送のアナウンスが一部変更になった。東急東横線へ直通する列車は「東急東横線・みなとみらい線直通(種別・行先)」から「東急線経由(種別・行先)」に、西武線へ直通する列車は「西武池袋線直通(種別・行先)」から「西武線直通(種別・行先)」へそれぞれ変更された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"|2}} === 新聞記事 === {{Reflist|group="新聞"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_fukutoshin.html/|date=2009-03-31|title=東京地下鉄副都心線建設史|publisher=東京地下鉄|ref=Fukutoshin-Const}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}} * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} * 交通新聞社『マイライン東京時刻表2020』 == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[東京メトロ有楽町線]] * [[都営バス早稲田営業所#池86系統|池86]] - 副都心線に並行する[[都営バス]]の系統。 * [[東京横浜電鉄新宿延伸計画]] * [[蒲蒲線]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/line_fukutoshin/ 副都心線/F | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://web.archive.org/web/20210421080128/https://radiate.jp/20070810/tokyometro_fukutoshin_shinjuku-3chome/ ラジエイト:東京メトロ 副都心線 新宿三丁目駅 建設現場](インターネットアーカイブ・2021年時点の版) * [https://web.archive.org/web/20210911085455/https://radiate.jp/20071118/tokyometro_fukutoshin_tunnelwalk/ ラジエイト:東京メトロ 地下鉄開通80周年記念 副都心線トンネルウォーク](インターネットアーカイブ・2021年時点の版) * [https://web.archive.org/web/20210421085827/https://radiate.jp/20080613/tokyometro_fukutoshin_ceremony/ ラジエイト:東京メトロ 副都心線 開業記念式典](インターネットアーカイブ・2021年時点の版) * {{Cite journal|和書|author=徳永将志, 西村怜馬, 藤田吾郎, 古瀬充穂 |year=2008 |title=広がる地下鉄ネットワーク |journal=電気学会誌 |ISSN=13405551 |publisher=電気学会 |volume=128 |issue=6 |pages=342-345 |doi=10.1541/ieejjournal.128.342 |CRID=1390282679971815168 |ref=harv}} * 編集長敬白アーカイブ:[https://web.archive.org/web/20190627110212/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2005/07/13.html 最後(?)の地下鉄13号線建設中。 - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20200705075023/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2008/02/13_1.html 編集長敬白アーカイブ:東京メトロ副都心線6月開業。 - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20200705075023/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2008/06/post_797.html 編集長敬白アーカイブ:副都心線に試乗。(上) - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20200705075021/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2008/06/post_798.html 編集長敬白アーカイブ:副都心線に試乗。(中) - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20200705075021/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2008/06/post_801.html 編集長敬白アーカイブ:副都心線に試乗。(下) - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20200705075019/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2008/06/post_799.html 編集長敬白アーカイブ:副都心線いよいよ開業。 - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) {{東京の地下鉄路線}} {{デフォルトソート:とうきようめとろふくとしんせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|ふくとしん]] [[Category:東京都の交通]] [[Category:埼玉県の交通]] [[Category:東京地下鉄の鉄道路線|ふくとしん]]
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PCエンジンLT
PCエンジンLT(ピーシーエンジンエルティー)は、1991年12月13日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)から発売された家庭用ゲーム機。「LT」は「Laptop」の略称である。 日本電気ホームエレクトロニクスが発売したゲーム機、PCエンジンシリーズの一つで、メーカー希望小売価格は99,800円であり、同時代に発売された家庭用ゲーム機と比較して最も高価だった。 筐体は折り畳み形。上側に4インチTFT液晶という、当時としては高級な液晶画面を備える。下側にソフトを挿入するスロットや連射機能付きパッドが一体化されており、ゲームボーイアドバンスSPを大型化したような形状をしている。 画面が標準で備わっていることから携帯型に見えるが、バッテリーは内蔵しておらず、使用にはACアダプタまたは同梱の変換プラグで"Duoカーアダプタ PI-AD13"を利用する必要がある。 CD-ROMには標準で、SUPER CD-ROMには別売りのアダプタを利用することにより接続可。オートチューナー式のTVチューナー内蔵。外部入力端子を備えており、汎用モニターとして活用することも出来る。 ゲーム機としての機能も、PCエンジン及びコアグラフィックスと同等の性能・拡張性を備えているが、パッド端子の内部構造上の都合によりメモリーベース128・セーブくんにのみ対応していない。
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PCエンジンLT(ピーシーエンジンエルティー)は、1991年12月13日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)から発売された家庭用ゲーム機。「LT」は「Laptop」の略称である。 日本電気ホームエレクトロニクスが発売したゲーム機、PCエンジンシリーズの一つで、メーカー希望小売価格は99,800円であり、同時代に発売された家庭用ゲーム機と比較して最も高価だった。
{{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = PCエンジンLT |画像 = [[File:PC Engine LT cutout.png|230px]] |画像コメント = PCエンジンLT |メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]] |種別 = [[ゲーム機|携帯型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第4世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1991年]][[12月13日]] |CPU = [[MOS 6502|MOS 65C02]] |GPU = [[HuC62]] |メディア = [[HuCARD]]<br />[[アーケードカード]]<br />[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]<br />[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] |ストレージ = [[バッテリーバックアップ]] |コントローラ = 内蔵 |外部接続端子 = AV入力端子<br />外部アンテナ入力端子 |オンラインサービス = [[PCエンジン#通信装置|通信Booster]] |売上台数 = |最高売上ソフト = |互換ハード = [[PCエンジン]] |前世代ハード = |次世代ハード = [[PC-FX]] }} '''PCエンジンLT'''(ピーシーエンジンエルティー)は、[[1991年]][[12月13日]]<ref>{{Wayback|url=http://www.nehe-et.gr.jp/kh/kh/products/pcengine.htm |title=PCEngine博物館 |date=19990116234241}}</ref>に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)から発売された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。「'''LT'''」は「'''[[ノートパソコン|Laptop]]'''」の略称である。 日本電気ホームエレクトロニクスが発売したゲーム機、[[PCエンジンシリーズ]]の一つで、[[メーカー]][[希望小売価格]]は99,800円であり、同時代に発売された家庭用ゲーム機と比較して最も高価だった。 == ハードウェア == 筐体は折り畳み形。上側に4インチ[[薄膜トランジスタ|TFT]][[液晶ディスプレイ|液晶]]という、当時としては高級な液晶画面を備える。下側に[[ゲームソフト|ソフト]]を挿入する[[スロット]]や連射機能付き[[ゲームパッド|パッド]]が一体化されており、[[ゲームボーイアドバンスSP]]を大型化したような形状をしている。 画面が標準で備わっていることから携帯型に見えるが、[[電池パック|バッテリー]]は内蔵しておらず、使用には[[ACアダプタ]]または同梱の変換プラグで"Duoカーアダプタ PI-AD13"を利用する必要がある。 CD-ROM<sup>2</sup>には標準で、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>には別売りのアダプタを利用することにより接続可。オートチューナー式の[[TVチューナー]]内蔵。外部入力端子を備えており、汎用モニターとして活用することも出来る。 ゲーム機としての機能も、PCエンジン及び[[PCエンジンコアグラフィックス|コアグラフィックス]]と同等の性能・拡張性を備えているが、パッド端子の内部構造上の都合によりメモリーベース128・セーブくんにのみ対応していない。 == 仕様 == *外径 **縦135mm×横140mm×厚さ61mm *重量 **本体のみ約650g *表示部 **4インチ アクティブマトリクス駆動方式 カラー液晶画面(バックライト付き140,300画素) *音声出力 **スピーカ:丸型(直径29mm)ダイナミックスピーカ **ヘッドホン端子:直径3.5mmステレオミニジャック *使用電源 **ACアダプタ *消費電力 **9V *付属品 **専用ACアダプタ/取扱説明書一式 == 周辺機器 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:5.5em"|型番 ! style="width:15%"|名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PAD-127 | ACアダプタ | 1991年12月13日 | PCエンジンLT用のACアダプタ。市販はされず、修理のみ対応。後に同人ハードとして同等品を購入できるようになった<ref>[https://www.retrogamecave.com/product-page/pc-engine-lt-psu PCE LT PSU NICHICON EDITION]</ref>。 |- | PI-PD002<br/>PI-PD06<br/>PI-PD8 | ターボパッド | rowspan="2" | 1987年10月30日 | 別売。コアグラフィックス以降に付属のコントローラ。 |- | PI-PD003 | [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]] | パッドを5つまで接続できる純正機器。本体のみではパッドを1つしか接続できなかった弱点が逆に普及を促し、ファミコン以上に多人数同時プレイソフトを登場させることとなった。2人用や4人用のサードパーティ製のものもあった。 |- | CDR-30 | [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] | rowspan="3"| 1988年12月4日 | PCエンジンのCD-ROMドライブ。 |- | IFU-30 | インターフェースユニット | CD-ROM<sup>2</sup>本体を構成するハードの内の一つ。<br />PCエンジンとCD-ROMドライブを繋ぐために使用され、AV出力端子およびCD-ROM<sup>2</sup>ソフトのセーブデータを保有する機能(容量は2KB、電源はコンデンサ)を持つ。 |- | PAD-123 | ACアダプタ | CD-ROM2用ACアダプタ |- | | システムカード ver 1.0 | | タイトル画面でI+II+右上+SELECT押下でバイナリエディタが立ち上がり、バックアップメモリを直接編集できる。 |- | PI-PD5 | ターボパッドII | 1989年11月22日 | PCエンジンシャトルの形状に合わせたターボパッド。 |- | | システムカード ver 2.0 | | エディタによるデバッグ機能は削除され、CD-G機能が追加されている。 |- | | システムカード ver 2.1 | 1990年7月6日 | スーパーシステムカード以降の物を除けば唯一別売りされたシステムカード。 |- | NAPD-1001 | アベニューパッド3 | 1991年1月31日 | 3ボタン操作の[[ロストワールド (ゲーム)|フォーゴットンワールド]]の発売に合わせて登場。IIIボタンはSELECTかRUNボタンのいずれかに設定して使用する。連射もできるのでRUNボタンに設定してスローモーション(ポーズの連射)をかけることも可能。 |- | PI-AN5 | AV接続ケーブル | rowspan="3" | 1991年9月21日 | LTのモニターにAV機器を接続する際に必要となる。 |- | PI-AN6 | アンテナ整合器 | LTモニター用アンテナ整合器。 |- | PI-AD13 | カーアダプタ | 車用のアダプタ。付属の変換アダプタをつけることによって使用可能。 |- | PI-CD1 | [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] | rowspan="2"| 1991年12月13日 | 上位規格のCD-ROM<sup>2</sup>システム。 |- | PAD-125 | ACアダプタ | SUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のACアダプタ。 |- | PI-SC1 | スーパーシステムカード ver 3.0 | 1991年10月26日 | CD-ROM<sup>2</sup>専用。[[HuCARD]]スロットに挿入することでSUPER CD-ROM<sup>2</sup>へアップグレードされる。SUPER CD-ROM<sup>2</sup>システム対応のソフトを遊ぶためには必須となる。 |- | PI-AD18 | SUPER ROM<sup>2</sup>アダプター | 1992年3月 | PCエンジンLTをSUPER CD-ROM<sup>2</sup>と接続する際に必須になるアダプタ。特に意味は無いもののRAU-30と同時に使用することも出来る<ref>[http://workshop.game.coocan.jp/pceside/99offr.htm 99 3-21福岡オフ会詳細報告]</ref>。 |- | PI-PD11 | コードレスマルチタップ | rowspan="2" | 1992年12月18日 | PCエンジンDuoに合わせたデザインの純正品。パッド信号を[[赤外線]]で伝達することでコントローラのコードレス化を実現。コードレスマルチタップ自体はPCエンジン本体のパッド端子に接続する。コードレスパッドを5本揃えれば5人同時プレイ可能である。受信可能距離は約3mまで。 |- | PI-PD12 | コードレスパッド | コードレスマルチタップ用のパッド。単四乾電池が4本必要。 |- | NAPD-1002 | アベニューパッド6 | 1993年5月28日 | 6ボタンパッド。『[[ストリートファイターII]]』の移植に対応する形で登場。 |- | PCE-AC2 | [[アーケードカード|アーケードカードPRO]] | rowspan="2"| 1994年3月12日 | CD-ROM<sup>2</sup>専用のアーケードカード。DRAMが内蔵されていること以外はスーパーシステムカードと同機能であり、スーパーシステムカードと同様に下部にT字状の補強カバーがある。 |- | PCE-AC1 | [[アーケードカード|アーケードカードDUO]] | PCエンジンDuo系の機種やSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のアーケードカード。 |- | PCE-TP1 | アーケードパッド6 | 1994年6月25日 | 6ボタンパッド。PC-FXの標準パッドとデザインがほぼ同じ。 |- |} == その他 == *[[2020年]][[4月]]上旬に[[コロンバスサークル (企業)|コロンバスサークル]]より無改造でポータブル化できる外付け[[液晶ディスプレイ]]が発売<ref>{{Cite news|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1225409.html |title=4.3インチ液晶パネルを採用!PCエンジンをどこでも楽しむことができる「ポータブルモニター」が登場!|publisher=GAME Watch|author=|date=2019-12-19}}</ref>。これによって安価にPCエンジンLTを再現することが可能になった。 *1987年10月に開催された「'87エレクトロニクスショー」では、CD-ROM2システムのインターフェースユニット左側のCD-ROMドライブが収まる部分に液晶テレビが接続されているものが参考出品として展示されていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{家庭用ゲーム機/NEC}} {{DEFAULTSORT:ひいしてえんしんえるてい}} [[Category:ゲーム機]] [[Category:PCエンジン]] [[Category:1991年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:ハドソン]] [[Category:1990年代の玩具]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/PC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3LT
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最適化問題
最適化問題(さいてきかもんだい、英: optimization problem)とは、特定の集合上で定義された実数値関数または整数値関数についてその値が最小(もしくは最大)となる状態を解析する問題である。こうした問題は総称して数理計画問題(すうりけいかくもんだい、英: mathematical programming problem, mathematical program)、数理計画とも呼ばれる。最適化問題は、自然科学、工学、社会科学などの多種多様な分野で発生する基本的な問題の一つであり、その歴史は18世紀の変分問題に遡る。1940年代に線型計画法が登場して以来、理論的な研究や数値解法の研究が非常に活発に行われ、その応用範囲はいろいろな分野に拡大されていった。実世界の現象の数理的な解析に関わる問題や抽象的な理論の多くをこの最適化問題という一般的なくくりに入れることができる。物理学やコンピュータビジョンにおける最適化問題は、考えている関数をモデル化された系のエネルギーを表すものと見なすことによって、エネルギー最小化問題と呼ばれることもある。 最適化問題を数学的に記述すると、最小化問題の場合 となる。最大化問題の場合には ∀ x ∈ A , f ( x 0 ) ≥ f ( x ) {\displaystyle \forall x\in A,f(x_{0})\geq f(x)} となる x 0 {\displaystyle x_{0}} を探すことになる。最大化問題は max f ( x ) = min ( − f ( x ) ) {\displaystyle \max f(x)=\min(-f(x))} のように目的関数の符号を反転させることにより等価な最小化問題に書き直せるので、最小化用のアルゴリズムが使える。 このときの関数 f {\displaystyle f} を目的関数 (英: objective function, cost function) と呼び、探すべき変数 x {\displaystyle x} が集合 A {\displaystyle A} に含まれるという条件のことを制約条件、制約関数(英: constraint,constraint function)と呼ぶ。制約条件の集合 A を実行可能領域(英: feasible region)あるいは許容領域と呼び、その元(要素)を実行可能解、可能解、許容解 (英: feasible solution, candidate solution) などと呼ぶ。目的関数を最小あるいは最大にするような実行可能解を(大域的)最小解、最大解と呼び、そのときの目的関数値を最小値、最大値と呼ぶ。また最小・最大を区別しないで最適解、最適値(英: optimal solution) とも呼ばれる。なお、ここで「領域」という用語は単に「集合」と同じ意味で使っている。また「解」は「点」と同義語である。したがって実行可能集合とか実行可能点などということもある。(この分野での伝統的・慣習的表現であり、数学的な意味の「領域=連結な開集合」,「解=問題の(最終的つまり最適)解」ということではないので注意。) 最適化問題(数理計画問題)は、いろいろな観点・切り口によって多種多様に分類されるが、基本的な分類として以下がある。 まず考える集合 A の含まれる空間によって、無限次元と有限次元の問題に大別される。すなわち、A が関数空間に含まれる場合、無限次元の最適化問題となり、変分問題や最適制御問題が代表的である。A がユークリッド空間に含まれる場合は、有限次元の最適化問題となる。 また A が全空間のように実質的に制約条件がない問題は無制約問題(制約なし問題)となり、そうでない場合は有制約問題(制約付き問題)となる。 以下、それ以外の分類を有限次元の場合で説明する。 最適化問題は目的関数や制約条件の種類によっていくつかの問題クラスに分けることができる。 連続最適化問題(英: continuous optimization problem)とは、制約条件の集合 A がユークリッド空間 R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の部分集合の物。 無制約問題を解析的に解く場合は、最適性の必要条件(偏微分を取って 0 )を満たす点の中に最小解がある。束縛条件がある場合はラグランジュの未定乗数法が使える。 導関数が必要なアルゴリズムを勾配法という。以下は、勾配法のアルゴリズム。 MathematicaのFindMinimumのデフォルトの設定は、制約条件付きは内点法、目的関数が平方和の場合はレーベンバーグ・マーカート法を使い、そうで無い場合はBFGS法を使い、250次元以上の場合L-BFGS法を使う。 以下は、導関数が不要(英: Derivative-free optimization)なアルゴリズム。 MathematicaのNMinimumのデフォルトの設定は、線形計画問題ならば単体法を使い、整数パラメータがある場合などは差分進化を使い、それ以外はNelder-Mead法を使う。 2次元以上に対応している連続最適化問題のアルゴリズムでも内部で1次元用のアルゴリズムを使用している場合も多い。以下は、1次元用のアルゴリズム。 以下は線形計画問題用のアルゴリズム。 離散最適化問題(英: discrete optimization problem)とは、制約条件の集合 A が Z n {\displaystyle \mathbb {Z} ^{n}} の部分集合の物。詳細は組合せ最適化を参照。 最適化問題としての手法の最も古い登場はカール・フリードリッヒ・ガウスまでさかのぼることができる最急降下法 (steepest descent) である。歴史的に始めに導入された用語は1940年代にジョージ・ダンツィクによって作られた「線型計画法」(linear programming) である。この(「計画法」と訳される)programmingという語の由来は、コンピュータなどのプログラムを書く、機器を設定する、といった意味の「プログラミング」とは別で、軍などにおける(特に、この分野では先行していた米国において、アメリカ軍の用語としての)訓練・補給の予定、という語のprogramからきている。最適化問題の発展に貢献した数学者として らがあげられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "最適化問題(さいてきかもんだい、英: optimization problem)とは、特定の集合上で定義された実数値関数または整数値関数についてその値が最小(もしくは最大)となる状態を解析する問題である。こうした問題は総称して数理計画問題(すうりけいかくもんだい、英: mathematical programming problem, mathematical program)、数理計画とも呼ばれる。最適化問題は、自然科学、工学、社会科学などの多種多様な分野で発生する基本的な問題の一つであり、その歴史は18世紀の変分問題に遡る。1940年代に線型計画法が登場して以来、理論的な研究や数値解法の研究が非常に活発に行われ、その応用範囲はいろいろな分野に拡大されていった。実世界の現象の数理的な解析に関わる問題や抽象的な理論の多くをこの最適化問題という一般的なくくりに入れることができる。物理学やコンピュータビジョンにおける最適化問題は、考えている関数をモデル化された系のエネルギーを表すものと見なすことによって、エネルギー最小化問題と呼ばれることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "最適化問題を数学的に記述すると、最小化問題の場合", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "となる。最大化問題の場合には ∀ x ∈ A , f ( x 0 ) ≥ f ( x ) {\\displaystyle \\forall x\\in A,f(x_{0})\\geq f(x)} となる x 0 {\\displaystyle x_{0}} を探すことになる。最大化問題は max f ( x ) = min ( − f ( x ) ) {\\displaystyle \\max f(x)=\\min(-f(x))} のように目的関数の符号を反転させることにより等価な最小化問題に書き直せるので、最小化用のアルゴリズムが使える。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "このときの関数 f {\\displaystyle f} を目的関数 (英: objective function, cost function) と呼び、探すべき変数 x {\\displaystyle x} が集合 A {\\displaystyle A} に含まれるという条件のことを制約条件、制約関数(英: constraint,constraint function)と呼ぶ。制約条件の集合 A を実行可能領域(英: feasible region)あるいは許容領域と呼び、その元(要素)を実行可能解、可能解、許容解 (英: feasible solution, candidate solution) などと呼ぶ。目的関数を最小あるいは最大にするような実行可能解を(大域的)最小解、最大解と呼び、そのときの目的関数値を最小値、最大値と呼ぶ。また最小・最大を区別しないで最適解、最適値(英: optimal solution) とも呼ばれる。なお、ここで「領域」という用語は単に「集合」と同じ意味で使っている。また「解」は「点」と同義語である。したがって実行可能集合とか実行可能点などということもある。(この分野での伝統的・慣習的表現であり、数学的な意味の「領域=連結な開集合」,「解=問題の(最終的つまり最適)解」ということではないので注意。)", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最適化問題(数理計画問題)は、いろいろな観点・切り口によって多種多様に分類されるが、基本的な分類として以下がある。", "title": "問題の分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "まず考える集合 A の含まれる空間によって、無限次元と有限次元の問題に大別される。すなわち、A が関数空間に含まれる場合、無限次元の最適化問題となり、変分問題や最適制御問題が代表的である。A がユークリッド空間に含まれる場合は、有限次元の最適化問題となる。", "title": "問題の分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また A が全空間のように実質的に制約条件がない問題は無制約問題(制約なし問題)となり、そうでない場合は有制約問題(制約付き問題)となる。", "title": "問題の分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以下、それ以外の分類を有限次元の場合で説明する。", "title": "問題の分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "最適化問題は目的関数や制約条件の種類によっていくつかの問題クラスに分けることができる。", "title": "問題の分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "連続最適化問題(英: continuous optimization problem)とは、制約条件の集合 A がユークリッド空間 R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の部分集合の物。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "無制約問題を解析的に解く場合は、最適性の必要条件(偏微分を取って 0 )を満たす点の中に最小解がある。束縛条件がある場合はラグランジュの未定乗数法が使える。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "導関数が必要なアルゴリズムを勾配法という。以下は、勾配法のアルゴリズム。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "MathematicaのFindMinimumのデフォルトの設定は、制約条件付きは内点法、目的関数が平方和の場合はレーベンバーグ・マーカート法を使い、そうで無い場合はBFGS法を使い、250次元以上の場合L-BFGS法を使う。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "以下は、導関数が不要(英: Derivative-free optimization)なアルゴリズム。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "MathematicaのNMinimumのデフォルトの設定は、線形計画問題ならば単体法を使い、整数パラメータがある場合などは差分進化を使い、それ以外はNelder-Mead法を使う。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2次元以上に対応している連続最適化問題のアルゴリズムでも内部で1次元用のアルゴリズムを使用している場合も多い。以下は、1次元用のアルゴリズム。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "以下は線形計画問題用のアルゴリズム。", "title": "連続最適化問題" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "離散最適化問題(英: discrete optimization problem)とは、制約条件の集合 A が Z n {\\displaystyle \\mathbb {Z} ^{n}} の部分集合の物。詳細は組合せ最適化を参照。", "title": "離散最適化問題" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "最適化問題としての手法の最も古い登場はカール・フリードリッヒ・ガウスまでさかのぼることができる最急降下法 (steepest descent) である。歴史的に始めに導入された用語は1940年代にジョージ・ダンツィクによって作られた「線型計画法」(linear programming) である。この(「計画法」と訳される)programmingという語の由来は、コンピュータなどのプログラムを書く、機器を設定する、といった意味の「プログラミング」とは別で、軍などにおける(特に、この分野では先行していた米国において、アメリカ軍の用語としての)訓練・補給の予定、という語のprogramからきている。最適化問題の発展に貢献した数学者として", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "らがあげられる。", "title": "歴史" } ]
最適化問題とは、特定の集合上で定義された実数値関数または整数値関数についてその値が最小(もしくは最大)となる状態を解析する問題である。こうした問題は総称して数理計画問題、数理計画とも呼ばれる。最適化問題は、自然科学、工学、社会科学などの多種多様な分野で発生する基本的な問題の一つであり、その歴史は18世紀の変分問題に遡る。1940年代に線型計画法が登場して以来、理論的な研究や数値解法の研究が非常に活発に行われ、その応用範囲はいろいろな分野に拡大されていった。実世界の現象の数理的な解析に関わる問題や抽象的な理論の多くをこの最適化問題という一般的なくくりに入れることができる。物理学やコンピュータビジョンにおける最適化問題は、考えている関数をモデル化された系のエネルギーを表すものと見なすことによって、エネルギー最小化問題と呼ばれることもある。
'''最適化問題'''(さいてきかもんだい、{{lang-en-short|optimization problem}})とは、特定の[[集合]]上で定義された[[実数]]値[[関数 (数学)|関数]]または[[整数]]値関数についてその値が[[最小]](もしくは最大)となる状態を解析する問題である<ref name="矢部2006-2">[[#矢部2006|矢部2006]]、2頁。</ref>。こうした問題は総称して'''数理計画問題'''(すうりけいかくもんだい、{{lang-en-short|mathematical programming problem}}, mathematical program)、'''数理計画'''とも呼ばれる<ref name="矢部2006-2" />。最適化問題は、[[自然科学]]、[[工学]]、[[社会科学]]などの多種多様な分野で発生する基本的な問題の一つであり、その歴史は18世紀の[[変分問題]]に遡る<ref name="矢部2006-ⅳ">[[#矢部2006|矢部2006]]、ⅳ頁。</ref>。1940年代に[[線型計画法]]が登場して以来、理論的な研究や数値解法の研究が非常に活発に行われ、その応用範囲はいろいろな分野に拡大されていった<ref name="矢部2006-2" />。実世界の現象の数理的な解析に関わる問題や抽象的な理論の多くをこの最適化問題という一般的なくくりに入れることができる。[[物理学]]や[[コンピュータビジョン]]における最適化問題は、考えている関数を[[モデル (自然科学)|モデル]]化された[[系 (自然科学)|系]]の[[エネルギー]]を表すものと見なすことによって、'''エネルギー最小化問題'''と呼ばれることもある。 == 定義 == 最適化問題を[[数学]]的に記述すると、最小化問題の場合 : 与えられた関数 <math>f: A \to \mathbb{R}</math> について、<math>x_0 \in A: \forall x \in A,\ f(x_0) \le f(x)</math> なる <math>x_0</math> を求めよ となる。最大化問題の場合には <math>\forall x \in A, f(x_0) \ge f(x)</math> となる <math>x_0</math> を探すことになる。最大化問題は<math>\max f(x) = \min (-f(x))</math>のように目的関数の符号を反転させることにより等価な最小化問題に書き直せるので、最小化用の[[アルゴリズム]]が使える<ref name="矢部2006-5">[[#矢部2006|矢部2006]]、5頁。</ref>。 このときの関数 <math>f</math>を'''目的関数''' ({{lang-en-short|objective function, cost function}}) と呼び、探すべき変数 <math>x</math> が集合 <math>A</math> に含まれるという条件のことを'''制約条件、制約関数'''({{lang-en-short|constraint,constraint function}})と呼ぶ<ref name="矢部2006-2" />。制約条件の集合 A を'''実行可能領域'''({{lang-en-short|feasible region}})あるいは'''許容領域'''と呼び、その元(要素)を'''実行可能解、可能解、許容解''' ({{lang-en-short|feasible solution, candidate solution}}) などと呼ぶ<ref name="矢部2006-46">[[#矢部2006|矢部2006]]、46頁。</ref>。目的関数を最小あるいは最大にするような実行可能解を(大域的)最小解、最大解と呼び、そのときの目的関数値を最小値、最大値と呼ぶ。また最小・最大を区別しないで'''最適解、最適値'''({{lang-en-short|optimal solution}}) とも呼ばれる<ref name="矢部2006-47">[[#矢部2006|矢部2006]]、47頁。</ref>。なお、ここで「領域」という用語は単に「集合」と同じ意味で使っている。また「解」は「点」と同義語である。したがって実行可能集合とか実行可能点などということもある。(この分野での伝統的・慣習的表現であり、数学的な意味の「領域=連結な開集合」,「解=問題の(最終的つまり最適)解」ということではないので注意。) == 問題の分類 == 最適化問題(数理計画問題)は、いろいろな観点・切り口によって多種多様に分類されるが、基本的な分類として以下がある。 まず考える集合 A の含まれる空間によって、無限次元と有限次元の問題に大別される。すなわち、A が関数空間に含まれる場合、無限次元の最適化問題となり、変分問題や最適制御問題が代表的である。A がユークリッド空間に含まれる場合は、有限次元の最適化問題となる。 また A が全空間のように実質的に制約条件がない問題は無制約問題(制約なし問題)となり、そうでない場合は有制約問題(制約付き問題)となる。 以下、それ以外の分類を有限次元の場合で説明する。 最適化問題は目的関数や制約条件の種類によっていくつかの問題クラスに分けることができる。 ; [[線型計画問題]] : 目的関数が1次式として表され、制約条件の集合が[[一次方程式]]・[[一次不等式]]によって定義されている場合。 ; [[整数計画問題]] : 線型計画問題のうち、各変数のとる値が[[整数]]に制限されている場合。 ; [[2次計画問題]] : 目的関数が[[2次式]]で定義され、制約条件の集合が一次方程式・一次不等式によって定義されている場合。 ; [[凸計画問題]] : 目的関数が[[凸関数]]で、制約条件の集合も[[凸集合]]である場合。 ; [[半正定値計画問題]] : [[行列の定値性|半正定値行列]]を変数とする凸計画問題。 ; [[非線型計画問題]] : 目的関数や制約条件に非線型なものが含まれる場合。 == 連続最適化問題 == {{main|数理最適化}} 連続最適化問題({{lang-en-short|continuous optimization problem}})とは、制約条件の集合 A が[[ユークリッド空間]] <math>\mathbb{R}^n</math> の部分集合の物。 無制約問題を解析的に解く場合は、最適性の必要条件([[偏微分]]を取って 0 )を満たす点の中に最小解がある。束縛条件がある場合は[[ラグランジュの未定乗数法]]が使える。 === 導関数が必要なアルゴリズム === 導関数が必要なアルゴリズムを[[勾配法]]という。以下は、勾配法のアルゴリズム。 * [[直線探索]]と[[:en:trust region|信頼領域]] - 勾配法における2つの主要な反復法の枠組み * [[最急降下法]] - 最も単純な勾配法 ** [[確率的勾配降下法]] - 最急降下法のオンライン学習版([[ニューラルネットワーク]]などで使用) *** AdaGrad - 学習率の自動調整を行う *** RMSProp *** Adam * [[共役勾配法]] ** [[:en:Biconjugate gradient method|双共役勾配法]] ** [[:en:Nonlinear conjugate gradient method|非線形共役勾配法]] * [[ニュートン法]] * [[準ニュートン法]] ** [[:en:Davidon–Fletcher–Powell formula|DFP法]] ** [[:en:Broyden–Fletcher–Goldfarb–Shanno algorithm|BFGS法]] ** [[:en:Berndt–Hall–Hall–Hausman algorithm|BHHH法]] ** [[:en:Symmetric rank-one|SR1法]] ** 記憶制限準ニュートン法 - 大規模(高次元)問題に対応した物 *** [[:en:Limited-memory BFGS|L-BFGS]] **** L-BFGS-B - L-BFGSに定義域の境界を指定できるようにした物 **** OWL-QN - L-BFGSにおいて目的関数にL1[[正則化]]項がついた形に対応できるようにした物 * [[ガウス・ニュートン法]] - [[非線形最小二乗法]]の問題(平方和の最適化問題)を解く ** [[:en:Levenberg–Marquardt algorithm|レーベンバーグ・マーカート法]] * [[内点法]] [[Mathematica]]のFindMinimumのデフォルトの設定は、制約条件付きは内点法<ref>[http://reference.wolfram.com/language/tutorial/ConstrainedOptimizationLocalNumerical.html 局所的非線形数値最適化—Wolfram言語ドキュメント]</ref>、目的関数が平方和の場合はレーベンバーグ・マーカート法を使い<ref>[http://reference.wolfram.com/language/tutorial/UnconstrainedOptimizationIntroductionLocalMinimization.ja.html 極小値探索概論—Wolfram言語ドキュメント]</ref>、そうで無い場合はBFGS法を使い、250次元以上の場合L-BFGS法を使う<ref>[http://reference.wolfram.com/language/tutorial/UnconstrainedOptimizationQuasiNewtonMethods.ja.html 準ニュートン法—Wolfram言語ドキュメント]</ref>。 === 導関数が不要なアルゴリズム === 以下は、導関数が不要({{lang-en-short|[[:en:Derivative-free optimization|Derivative-free optimization]]}})なアルゴリズム。 * [[Nelder-Mead法]] * [[:en:Coordinate descent|座標降下法]] ** [[:en:Adaptive coordinate descent|適応座標降下法]] ** ブロック座標降下法(block coordinate descent) * [[:en:Michael J. D. Powell|Michael J. D. Powell]] 開発 ** [[:en:Powell's method|Powell法]] ** [[:en:BOBYQA|BOBYQA]] - 非線形関数とパラメータの値域で制約 ** [[:en:LINCOA|LINCOA]] - 非線形関数と線形制約条件 ** [[:en:COBYLA|COBYLA]] - 非線形関数と非線形制約条件 ** [[:en:TOLMIN (optimization software)|TOLMIN]] ** [[:en:UOBYQA|UOBYQA]] ** [[:en:NEWUOA|NEWUOA]] * [[進化戦略]] ** [[CMA-ES]] ** [[:en:Natural evolution strategy|自然進化戦略]] * [[:en:Differential evolution|差分進化]] [[Mathematica]]のNMinimumのデフォルトの設定は、線形計画問題ならば単体法を使い、整数パラメータがある場合などは差分進化を使い、それ以外はNelder-Mead法を使う<ref>[http://reference.wolfram.com/language/tutorial/ConstrainedOptimizationGlobalNumerical.html 大域的非線形数値最適化—Wolfram言語ドキュメント]</ref>。 === 1次元用 === 2次元以上に対応している連続最適化問題のアルゴリズムでも内部で1次元用のアルゴリズムを使用している場合も多い。以下は、1次元用のアルゴリズム。 * [[黄金分割探索]] * [[ブレント法]] === 線形計画問題用 === 以下は[[線形計画問題]]用のアルゴリズム。 * [[単体法]] * [[:en:Ellipsoid method|楕円法]] * [[カーマーカー法]] ==離散最適化問題== {{main|組合せ最適化}} 離散最適化問題({{lang-en-short|discrete optimization problem}})とは、制約条件の集合 A が <math>\mathbb{Z}^n</math> の部分集合の物。詳細は[[組合せ最適化]]を参照。 === 計算理論の問題のクラス === * [[P (計算複雑性理論)|P]] * [[NP]] * [[co-NP]] == 歴史 == 最適化問題としての手法の最も古い登場は[[カール・フリードリッヒ・ガウス]]までさかのぼることができる[[最急降下法]] (steepest descent) である。歴史的に始めに導入された用語は1940年代に[[ジョージ・ダンツィク]]によって作られた「[[線型計画法]]」(linear programming) である。この(「計画法」と訳される)''programming''という語の由来は、コンピュータなどのプログラムを書く、機器を設定する、といった意味の「[[プログラミング (コンピュータ)|プログラミング]]」とは別で、軍などにおける(特に、この分野では先行していた米国において、[[アメリカ軍]]の用語としての)訓練・補給の予定、という語の''program''からきている。最適化問題の発展に貢献した数学者として * [[ジョン・フォン・ノイマン]] * [[レオニート・カントロヴィチ]] * Naum Shor * Leonid Khachian * Boris Polyak * ユーリー・ネステロフ * Arkadii Nemirovskii * Michael J. Todd * [[リチャード・ベルマン]] * [[ホアン・トゥイ (数学者)]] らがあげられる。 == 脚注 == ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 矢部博 |date = 2006-03-25 |title = 工学基礎 最適化とその応用 |publisher = 数理工学社 |edition = 初版 |isbn = 4-901683-34-9 |ref = 矢部2006 }} == 関連項目 == * [[メタヒューリスティクス]] * [[組合せ最適化]] * [[双対問題]] * [[数理最適化]] {{最適化アルゴリズム}} {{数学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さいてきかもんたい}} [[Category:最適化|*]] [[Category:オペレーションズリサーチ]] [[Category:数学の問題]] [[Category:数学に関する記事]]
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2023-03-22T04:01:46Z
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