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分配法則
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分配法則(ぶんぱいほうそく、英: Distributive property)は、数学の法則の一つ。
集合 S に対して、積 × と和 + が定義されている時に、
が任意の元 a,b,c について成り立てば、この積は和に対して分配法則を満たすという。同じことを、積は和に対して分配的であるともいう。特に 1 を左分配法則、2 を右分配法則という。× が交換法則を満たすときには、1, 2 の区別はない。
分配法則は次のようなもので成り立つ。
2つの二項演算の定義された集合を考えるとき、一方の他方に対する分配法則を仮定することが多い。例として、環を参照。
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分配法則は、数学の法則の一つ。 集合 S に対して、積 × と和 + が定義されている時に、 a × = a × b + a × c × c = a × c + b × c が任意の元 a,b,c について成り立てば、この積は和に対して分配法則を満たすという。同じことを、積は和に対して分配的であるともいう。特に 1 を左分配法則、2 を右分配法則という。× が交換法則を満たすときには、1, 2 の区別はない。 分配法則は次のようなもので成り立つ。 実数の積は和に対して分配法則を満たす。
行列の積は和に対して分配法則を満たす。
集合の和は共通部分に対して分配的であり、共通部分は和に対して分配的である。また、共通部分は対称差に対して分配的である。
論理記号の論理和 (or) は論理積 (and) に対して分配的であり、論理積は論理和に対して分配的である。また、論理積は排他的論理和 (xor) に対して分配的である。 2つの二項演算の定義された集合を考えるとき、一方の他方に対する分配法則を仮定することが多い。例として、環を参照。
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'''分配法則'''(ぶんぱいほうそく、{{lang-en-short|''Distributive property''}})は、[[数学]]の法則の一つ。
[[集合]] S に対して、[[積]] × と[[加法|和]] + が定義されている時に、
#<math>a \times (b + c) = a \times b + a \times c</math>
#<math>(a+b) \times c = a \times c + b \times c</math>
が任意の元 a,b,c について成り立てば、この積は和に対して'''分配法則'''を満たすという。同じことを、積は和に対して分配的であるともいう。特に 1 を左分配法則、2 を右分配法則という。× が[[交換法則]]を満たすときには、1, 2 の区別はない。
分配法則は次のようなもので成り立つ。
*[[実数]]の積は和に対して分配法則を満たす。
*[[行列]]の積は和に対して分配法則を満たす。
*集合の[[合併 (集合論)|和]]は[[共通部分 (数学)|共通部分]]に対して分配的であり、共通部分は和に対して分配的である<ref>{{ProofWiki|urlname=Distributive_Laws|title=Distributive Laws}}</ref>。また、共通部分は[[対称差]]に対して分配的である。
*論理記号の[[論理和]] (or) は[[論理積]] (and) に対して分配的であり、論理積は論理和に対して分配的である<ref>{{ProofWiki|urlname=Rule_of_Distribution|title=Rule of Distribution}}</ref>。また、論理積は[[排他的論理和]] (xor) に対して分配的である。
2つの[[二項演算]]の定義された集合を考えるとき、一方の他方に対する分配法則を仮定することが多い。例として、[[環論|環]]を参照。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[多項式の展開]]
*[[因数分解]]
*[[結合法則]]
*[[交換法則]]
*[[推移律]]
*[[代数的構造]]
* {{ill2|分配束|en|Distributive lattice}}
* {{ill2|モナド間の分配法則|en|Distributive law between monads}}
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|urlname=Distributive|title=Distributive}}
* {{nlab|urlname=distributive+law|title=distributive law}}
* {{PlanetMath|urlname=distributivity|title=distributivity}}
* {{ProofWiki|urlname=Definition:Distributive_Operation|title=Definition:Distributive Operation}} / {{ProofWiki|urlname=General_Distributivity_Theorem|title=General Distributivity Theorem}}
* {{SpringerEOM|urlname=Distributivity|title=Distributivity|first=D.M.|last=Smirnov}}
{{DEFAULTSORT:ふんはいほうそく}}
[[Category:代数的構造]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:数学の法則]]
[[Category:矛盾許容型論理]]
[[Category:数学に関する記事]]
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ヴィギャン・バイラヴ・タントラ
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ヴィギヤン・バイラブ・タントラ (Vigyan Bhairav Tantra) は、ヒンドゥー教の聖典の1つで、シヴァとデヴィの会話からなり、シヴァがデヴィに112の瞑想(禅)の技法を伝授する話からなっている。
ヴィギャンは意識
バイラブは意識 を超越した状態、
タントラは(ここでは)技法をそれぞれ意味し、合わせると「 意識を超越する技法 」という意味になる。
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ヴィギャンは意識
バイラブは意識
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タントラは(ここでは)技法をそれぞれ意味し、合わせると「''' 意識を超越する技法 '''」という意味になる。
== 外部リンク ==
*{{Wayback|url=http://www.geocities.com/osho1980/vbt2.html |title=英語訳 |date=20011007103345}}(全文?)
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エネルギー保存の法則
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エネルギー保存の法則(エネルギーほぞんのほうそく、英: law of the conservation of energy)とは、「孤立系のエネルギーの総量は変化しない」という物理学における保存則の一つである。エネルギー保存則とも呼ばれる。
任意の異なる二つの状態について、それらのエネルギー総量の差がゼロであることをいう。
例えば、取り得る状態が全て分かっているとして、全部で 3 つの状態があったとき、それらの状態のエネルギーを A, B, C と表す。
エネルギー保存の法則が成り立つことは、それらの差について、
が成り立っていることをいう。
時間が導入されている場合には、任意の時刻でエネルギー総量の時間変化量がゼロであることをいい、時間微分を用いて表現される。
エネルギー保存の法則は、物理学の様々な分野で扱われる。特に、熱力学におけるエネルギー保存の法則は熱力学第一法則 (英: first law of thermodynamics) と呼ばれ、熱力学の基本的な法則となっている。(
)
熱力学第一法則は、熱力学において基本的な要請として認められるものであり、あるいは熱力学理論を構築する上で成立すべき定理の一つである。第一法則の成立を前提とする根拠は、一連の実験や観測事実のみに基づいており、この意味で第一法則はいわゆる経験則であるといえる。
一方でニュートン力学や量子力学など一般の力学において、エネルギー保存の法則は必ずしも前提とされない。
ルネ・デカルトやゴットフリート・ライプニッツが、それぞれの仕方でこれを主張し、それぞれの支持者によって議論が長年に渡り行われた。
19世紀の中ごろ、ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー、ジェームズ・プレスコット・ジュール、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらによって、「力学的・熱・化学・電気・光などのエネルギーは、それぞれの形態に移り変わるが、エネルギーの総和は変化しない(保存される)」と主張された。
20世紀にアルベルト・アインシュタインによって、質量とエネルギーの等価性という考え方が提唱され、別の形での保存が主張されたが、その有効性や有効範囲については、疑問視されることも多かった。
現在ではエネルギー保存の法則は、しばしば「最も基本的な物理法則の一つ」と考えられている。多くの物理学者が、自然はこの法則にしたがっているはずだ、と信じているのである。
ルネ・デカルトは、1644年に出版した自身の著作『哲学の原理』(Principia Philosophiæ ) で、宇宙においてquantitas motus(運動の量)の総和が保たれている、と主張した。
デカルトが主張した quantitas motus(quantity of motion, 運動の量)という概念は、現代の運動量とある程度似てはいるが、厳密には異なる概念である。デカルトは「質量」という概念を持っていなかったし、デカルトは速度の大きさだけを重視し、向きが変わることについては考慮していなかった。したがって、デカルトの quantitas motus を現代の運動量に対応する量と見なすことはできない。
ゴットフリート・ライプニッツは、運動の量というのを初めて数式で表現してみようと試みたが、デカルトとは異なって mv の総和が保存されている、と主張した。ライプニッツはこの量を vis viva(living force, 活力)と呼んだ。この vis viva という概念は、釣り合いなどの場面で想定される動きとしては見えない vis mortua(dead force, 潜在的な力)と対比しつつ置かれた概念である。
デカルトの考え方を支持する人々と、ライプニッツの考え方を支持する人々で議論が起こるようになった。これを「活力論争 (vis viva controversy)」という。議論は長年に渡って続いた。18世紀半ばになって、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュやジャン・ル・ロン・ダランベールらが、両概念の明確化を試み、それらを区別したことによって、ようやく論争は沈静化した。
1807年にトマス・ヤングは、vis viva という用語で表されていた運動の概念を、"energy" と呼んだ。energy はギリシア語の ἐνέργεια(羅: energeia, エネルゲイア)という語を基にした造語である。ギリシャ語のἐνέργεια (energeia ) というのは語の構成としては εν + εργον (en +ergon ) であり、εργον (ergon ) は「仕事」、εν— (en —) は「~の状態」という意味である。よって「仕事をしている状態」といったような意味である。アリストテレスの哲学において ἐνέργεια は、ものが持つ「可能態」の中から現実化された「現実態」を意味する。つまり、energy という用語を用いている背景には、眼には見えない「活力」が具体的な「仕事」に変化したのだ、という発想がある。
ヤングが energy という用語を用いたからといって、それが人々にすぐに用いられるようになったわけでもなく、人々の間に定着するようになったのは、あくまで後のことである。vis viva 相当の概念は、19世紀半ばでもしばしば、英語圏では "force" と呼ばれていたし、ドイツ語圏では „Kraft” と呼ばれていた。
現代的な意味で energy の語が用いられるようになったのは、ヤングより後のことで、1850年頃にウィリアム・トムソンによって kinetic energy(運動エネルギー)、1853年にウィリアム・ランキンによって potential energy(位置エネルギー)の語が定義された。
19世紀前半のドイツの自然哲学では、「破壊されることもなく、形態が様々に変換する根源的な何か」を „Kraft”(力)と呼んでいた。この自然哲学の概念は、現在の「エネルギー保存の法則」という概念の成立に大きな影響を与えている。
19世紀の中ごろ、ロベルト・マイヤー、ジェームズ・プレスコット・ジュール、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらが、それぞれ独立して「エネルギー保存の法則」という考え方に辿りついた。
マイヤーは、ドイツの医者で、船医としてジャワに行った時に熱量とエネルギーとの関係を考察するようになった。船が熱帯を航海すると水夫らの静脈の血液の赤みが増すことに気付き、気温が上昇したことで体温維持のために酸素が使われる量が減るのだ、と解釈した。
そして1842年、「熱」と「仕事」の関係に関する論文 „Bemerkung über die Kräfte der unbelebten Natur”を発表した。
ジュールは1843年に熱の仕事当量の測定を行い、その後も様々な方法で熱の仕事当量を計測した。
ヘルムホルツは、サディ・カルノーやエミール・クラペイロン、ジュールらの仕事について整理し、1847年に著した „Über die Erhaltung der Kraft”で様々な状況でエネルギー保存の法則が成り立つことを示した。
マイヤーやジュールが熱の仕事当量に関する考察をした頃は、1798年のベンジャミン・トンプソン(ランフォード伯)による指摘などがあったものの、アントワーヌ・ラヴォアジエとピエール=シモン・ラプラスに始まるカロリック説が有力であり、熱は物質であると見なされ、熱は単独で保存されると考えられていた。そのため、熱が仕事に変わり得ることの発見とその事実の定量的評価をすることは、熱力学第一法則を構成する上で重要な仕事だった。
1850年、ルドルフ・クラウジウスは論文 „Über die bewegende Kraft der Wärme”の中で熱力学第一法則について完全な形で述べた。
1905年にアルベルト・アインシュタインは、Annus Mirabilis papers の一つの „Ist die Trägheit eines Körpers von seinem Energieinhalt abhängig?”において、質量とエネルギーが交換可能なのではないか、という提案を行った。これをきっかけとして、物理学が大きく変容していくことになった。「エネルギー」や「物質」という概念自体が大きく変わっていくことになったのである。
特殊相対性理論において、質量はエネルギーの一形態であり、E=mc2 という式の関係が成り立っている。したがって相対論の立場では、エネルギー保存の法則は「質量を含めたエネルギーの総和が保存されている」という主張になる。
他の物理学の様々な主張同様に、このアインシュタインの主張も最初は受け入れられなかったり疑問視されたが、原子核反応や電子対生成などの実験において成立していることが確認されると、アインシュタインの考えが次第に受け入れられるようになっていった。
なおそれに伴って、「質量保存則は(厳密に言えば)成り立っていない」と考えられるようになった。特に、原子核反応を扱う場合においては、質量のエネルギーへの変換は無視できないほど大きく、質量は保存されていない、として計算するようになっている。
ただし、この法則を一応受け入れるとしても、一体どの程度まで受け入れてよいのかということについて見解はバラバラであった。例えばニールス・ボーアは、ベータ崩壊をエネルギー保存の法則が成立していない事例だと考えていた。
ただしそのような状況の中で、1932年にヴォルフガング・パウリとエンリコ・フェルミが、β崩壊の事例でも、仮にエネルギー保存の法則が成立していると仮定して計算したところ、中性の粒子が存在しているだろう、と予想することができた。彼らはその粒子の存在を主張したものの具体的な物証は無く、長らく認められなかったが、1956年になり実験によってその粒子(ニュートリノ)が確認された。この出来事によって、有効範囲については疑問視されることも多かったものの、エネルギー保存の法則が成り立つと仮定してみることが、科学的発見につながるひとつの指針にもなり得ることが知られるようになった。
1918年、エミー・ネーターは論文 „Invariante Variationsprobleme”を出版した。この論文の中で、ネーターが1915年に得た、今日ネーターの第一定理と呼ばれる定理の証明が与えられた。ネーターの定理から、作用積分が不変であるような無限小変換が存在する場合、系はその変換に対して対称であるという。このとき系の対称性に対応した量が保存する。特にエネルギー保存の法則は、時間の並進対称性に対応していることが知られる。
熱力学におけるエネルギー保存の法則は、熱力学第一法則である。熱力学第一法則は次のように表現される。
ここで dU は系の内部エネルギー U の変化量、δQ は系に与えられた熱量、δW は系から取り出された仕事を表す(d は完全微分を、δ は不完全微分(英語版)を表す)。仕事は熱力学的系に繋がっている力学的系へのエネルギーの移動を表し、熱はそれ以外の熱力学的系へのエネルギーの移動を表している。
熱力学第一法則は、エネルギーがひとりでに消えたり生じたりすることはない、という経験的事実を法則化したものであり、上述の定式化では、エネルギーの変化が熱と仕事の和として与えられることで表現されている。
熱力学において第一法則は、上式を満たす状態量(すなわち系に対する操作の方法や途中経過に依存しない量) U が存在することを主張する法則とみなされている。
古典力学におけるエネルギー保存の法則は、力学的エネルギー保存の法則と呼ばれる。力学的エネルギーは位置エネルギーと運動エネルギーに分類され、それらの和が一定であることをいう。
以下に一粒子系の場合についての力学的エネルギー保存の法則を述べる。
一粒子の運動について、粒子に働く力 F ( r ( t ) , t ) {\displaystyle {\boldsymbol {F}}({\boldsymbol {r}}(t),t)} がポテンシャル V ( r ( t ) ) {\displaystyle V({\boldsymbol {r}}(t))} を用いて、
と表される場合について、ニュートン力学の運動の第2法則、
より次の運動方程式が得られる。
ここで、 m {\displaystyle m} は質量、 r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} は粒子の位置、 t {\displaystyle t} は時刻をそれぞれ表し、ナブラ ∇ {\displaystyle \nabla } とポテンシャル V {\displaystyle V} の積 ∇ V {\displaystyle \nabla V} はポテンシャルの勾配を意味する。
このとき仕事は、
と r ( t ) {\displaystyle {\boldsymbol {r}}(t)} についての線積分で表される。ここで中黒 '・' はベクトルの内積を意味する。線積分を時間についての積分に直せば、
となるので、ポテンシャルの時間についての全微分、
を用いて、
と書ける。もし、粒子が受ける力がポテンシャルのみによる場合、 f ( t ) {\displaystyle {\boldsymbol {f}}(t)} は存在しないので、粒子に与えられた仕事 W ( t 1 , t 2 ) {\displaystyle W(t_{1},t_{2})} はポテンシャルの差 − { V ( r ( t 2 ) ) − V ( r ( t 1 ) ) } {\displaystyle -\left\{V({\boldsymbol {r}}(t_{2}))-V({\boldsymbol {r}}(t_{1}))\right\}} に等しい。このときポテンシャル V ( r ( t ) ) {\displaystyle V({\boldsymbol {r}}(t))} は位置エネルギーと呼ばれる。
再び仕事の定義に戻ると、粒子の運動方程式より、次のように書き換えられる。
ここで、ベクトルの内積の微分について、
という公式が成り立つので、
が得られる。ここで得られた関数 1 2 m | d r ( t ) d t | 2 {\displaystyle {\frac {1}{2}}m\left|{\frac {d{\boldsymbol {r}}(t)}{dt}}\right|^{2}} は粒子の運動エネルギーと呼ばれ、この差分は粒子になされた仕事を表す。
ポテンシャルと仕事、運動エネルギーと仕事の関係をそれぞれ見比べると、
という等式が得られる。 f ( t ) {\displaystyle {\boldsymbol {f}}(t)} を粒子に対する力学的な操作によって生じる力だとすれば、それがなす仕事は操作の前後での粒子の力学的エネルギー、すなわち粒子の位置エネルギーと運動エネルギーの和、の差に等しい。 特に、外部から力学的操作を行わない場合には、粒子にはポテンシャルによる力しか働かないので、系の力学的エネルギーは保存されることになる。 また、操作の前後で粒子の速度を変えないようにすれば、操作の前後では粒子の運動エネルギーが変化しないので、外部から与えられた仕事は粒子のポテンシャルの差に等しくなる。
こうして得られた等式が成り立つことを、力学的エネルギー保存の法則と呼ぶ。保存則が成り立っているかどうかは系の設定により、外界の力学的エネルギーを考慮しない場合には、保存則は成り立たないが、外界の力学的エネルギーを考慮するのであれば、外界への仕事を付け加える形で、保存則が成立する。
外界に及ぼされる力は − f ( t ) {\displaystyle -{\boldsymbol {f}}(t)} で表され、摩擦などによる抗力を考える場合には、粒子の速度の関数になる。
以上のことは多粒子系の場合にも成り立つ。一粒子系の場合との変更点は、各粒子に対して力と運動方程式が与えられることと、ポテンシャルがすべての粒子の位置の関数になることである。以下にN 個の粒子がある場合について示す。
力:
運動方程式:
ナブラ ∇ i {\displaystyle \nabla _{i}} は、粒子 i {\displaystyle i} の位置に対する偏微分を表し、ポテンシャルの勾配は次のように変更される。
また、ポテンシャルの時間微分は、それぞれの粒子の速度と粒子が感じるポテンシャルの勾配の内積をすべて足しあわせたものになる。
系になされる仕事は、各粒子に対する仕事の和になる。
以上のことから、力学的エネルギー保存の法則は次のように表される。
一粒子の場合と異なり、各粒子の運動エネルギーの総和と系のポテンシャルの和が系の力学的エネルギーの役割を果たしている。
量子力学においてもエネルギー保存の法則は厳密に成立する。量子力学において、あらゆる物理量はそれに対応する自己共役作用素として定義される。閉じた系のエネルギーを与える作用素は、古典力学のハミルトニアンに対応する作用素 H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} である。
物理量 O ^ {\displaystyle {\hat {O}}} の期待値の時間微分を計算すると、
となり、 O ^ {\displaystyle {\hat {O}}} の時間発展を記述する作用素が得られる。 ここでシュレーディンガー方程式、
を用い時間微分作用素をハミルトニアンに書き換えた。またハミルトニアンが自己共役であることを用いた。 O ^ {\displaystyle {\hat {O}}} がハミルトニアンであるなら、交換子の項はゼロになる。
このとき期待値の時間微分は以下のようになる。
外部系との相互作用がない孤立系を考えると、ハミルトニアン H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} にはあらわな時間依存性がないので、エネルギー保存の法則が成り立っている。
時間とエネルギーの不確定性関係のために短時間ではエネルギー保存則が破れるという記述もあるが、それは摂動論における自由ハミルトニアン部分の保存則の破れにすぎず、相互作用項まで加えた全エネルギーは常に厳密に保存する(詳しくは不確定性原理のページを参照)。
エネルギー保存の法則が成立したと仮定し、宇宙がエネルギーの総量が一定の閉鎖系だと仮定すると、"質"の良い(エントロピーの小さい)エネルギーは時間とともに減少していくことになる。エントロピーは局所的には増加も減少もするが、宇宙全体としては常に増加している(→熱力学第二法則)。エントロピーの増加はエネルギーの"質"(そのエネルギーからどれだけ仕事を得られるか)の低下を意味し、宇宙に存在する全てのエネルギーは最終的にはもはや外部に対して何ら仕事をすることができない均一な熱エネルギーとなる(熱的死)。
エネルギー問題におけるエネルギーの有限性は、"質"の良いエネルギー、すなわち「エントロピーの小さいエネルギー」の存在量を問題としている。人類(および他のあらゆる存在)は、質の良いエネルギーを質の悪い(エントロピーの大きい)エネルギーに転換する過程で仕事を得ているが、エネルギーの仕事への変換効率はエネルギーの質が低くなるほど原理的に低下し、エネルギーを消費していく(仕事に転換していく)と世界はそれだけ「熱的死」に近づいていく。
「《エネルギー保存の法則》が成り立つ」ということは「(有用な)エネルギーはいくら使ってもなくならない」という意味ではない(第二種永久機関の否定)。エネルギー保存の法則は、エネルギー問題においては直接的には第一種永久機関の否定という面でかかわりを持つ。
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"text": "20世紀にアルベルト・アインシュタインによって、質量とエネルギーの等価性という考え方が提唱され、別の形での保存が主張されたが、その有効性や有効範囲については、疑問視されることも多かった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "現在ではエネルギー保存の法則は、しばしば「最も基本的な物理法則の一つ」と考えられている。多くの物理学者が、自然はこの法則にしたがっているはずだ、と信じているのである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ルネ・デカルトは、1644年に出版した自身の著作『哲学の原理』(Principia Philosophiæ ) で、宇宙においてquantitas motus(運動の量)の総和が保たれている、と主張した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "デカルトが主張した quantitas motus(quantity of motion, 運動の量)という概念は、現代の運動量とある程度似てはいるが、厳密には異なる概念である。デカルトは「質量」という概念を持っていなかったし、デカルトは速度の大きさだけを重視し、向きが変わることについては考慮していなかった。したがって、デカルトの quantitas motus を現代の運動量に対応する量と見なすことはできない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "ゴットフリート・ライプニッツは、運動の量というのを初めて数式で表現してみようと試みたが、デカルトとは異なって mv の総和が保存されている、と主張した。ライプニッツはこの量を vis viva(living force, 活力)と呼んだ。この vis viva という概念は、釣り合いなどの場面で想定される動きとしては見えない vis mortua(dead force, 潜在的な力)と対比しつつ置かれた概念である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "デカルトの考え方を支持する人々と、ライプニッツの考え方を支持する人々で議論が起こるようになった。これを「活力論争 (vis viva controversy)」という。議論は長年に渡って続いた。18世紀半ばになって、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュやジャン・ル・ロン・ダランベールらが、両概念の明確化を試み、それらを区別したことによって、ようやく論争は沈静化した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "1807年にトマス・ヤングは、vis viva という用語で表されていた運動の概念を、\"energy\" と呼んだ。energy はギリシア語の ἐνέργεια(羅: energeia, エネルゲイア)という語を基にした造語である。ギリシャ語のἐνέργεια (energeia ) というのは語の構成としては εν + εργον (en +ergon ) であり、εργον (ergon ) は「仕事」、εν— (en —) は「~の状態」という意味である。よって「仕事をしている状態」といったような意味である。アリストテレスの哲学において ἐνέργεια は、ものが持つ「可能態」の中から現実化された「現実態」を意味する。つまり、energy という用語を用いている背景には、眼には見えない「活力」が具体的な「仕事」に変化したのだ、という発想がある。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "ヤングが energy という用語を用いたからといって、それが人々にすぐに用いられるようになったわけでもなく、人々の間に定着するようになったのは、あくまで後のことである。vis viva 相当の概念は、19世紀半ばでもしばしば、英語圏では \"force\" と呼ばれていたし、ドイツ語圏では „Kraft” と呼ばれていた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "現代的な意味で energy の語が用いられるようになったのは、ヤングより後のことで、1850年頃にウィリアム・トムソンによって kinetic energy(運動エネルギー)、1853年にウィリアム・ランキンによって potential energy(位置エネルギー)の語が定義された。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "19世紀前半のドイツの自然哲学では、「破壊されることもなく、形態が様々に変換する根源的な何か」を „Kraft”(力)と呼んでいた。この自然哲学の概念は、現在の「エネルギー保存の法則」という概念の成立に大きな影響を与えている。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "19世紀の中ごろ、ロベルト・マイヤー、ジェームズ・プレスコット・ジュール、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらが、それぞれ独立して「エネルギー保存の法則」という考え方に辿りついた。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "マイヤーは、ドイツの医者で、船医としてジャワに行った時に熱量とエネルギーとの関係を考察するようになった。船が熱帯を航海すると水夫らの静脈の血液の赤みが増すことに気付き、気温が上昇したことで体温維持のために酸素が使われる量が減るのだ、と解釈した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "そして1842年、「熱」と「仕事」の関係に関する論文 „Bemerkung über die Kräfte der unbelebten Natur”を発表した。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "ジュールは1843年に熱の仕事当量の測定を行い、その後も様々な方法で熱の仕事当量を計測した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ヘルムホルツは、サディ・カルノーやエミール・クラペイロン、ジュールらの仕事について整理し、1847年に著した „Über die Erhaltung der Kraft”で様々な状況でエネルギー保存の法則が成り立つことを示した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "マイヤーやジュールが熱の仕事当量に関する考察をした頃は、1798年のベンジャミン・トンプソン(ランフォード伯)による指摘などがあったものの、アントワーヌ・ラヴォアジエとピエール=シモン・ラプラスに始まるカロリック説が有力であり、熱は物質であると見なされ、熱は単独で保存されると考えられていた。そのため、熱が仕事に変わり得ることの発見とその事実の定量的評価をすることは、熱力学第一法則を構成する上で重要な仕事だった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1850年、ルドルフ・クラウジウスは論文 „Über die bewegende Kraft der Wärme”の中で熱力学第一法則について完全な形で述べた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "1905年にアルベルト・アインシュタインは、Annus Mirabilis papers の一つの „Ist die Trägheit eines Körpers von seinem Energieinhalt abhängig?”において、質量とエネルギーが交換可能なのではないか、という提案を行った。これをきっかけとして、物理学が大きく変容していくことになった。「エネルギー」や「物質」という概念自体が大きく変わっていくことになったのである。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "特殊相対性理論において、質量はエネルギーの一形態であり、E=mc2 という式の関係が成り立っている。したがって相対論の立場では、エネルギー保存の法則は「質量を含めたエネルギーの総和が保存されている」という主張になる。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "他の物理学の様々な主張同様に、このアインシュタインの主張も最初は受け入れられなかったり疑問視されたが、原子核反応や電子対生成などの実験において成立していることが確認されると、アインシュタインの考えが次第に受け入れられるようになっていった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "なおそれに伴って、「質量保存則は(厳密に言えば)成り立っていない」と考えられるようになった。特に、原子核反応を扱う場合においては、質量のエネルギーへの変換は無視できないほど大きく、質量は保存されていない、として計算するようになっている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "ただし、この法則を一応受け入れるとしても、一体どの程度まで受け入れてよいのかということについて見解はバラバラであった。例えばニールス・ボーアは、ベータ崩壊をエネルギー保存の法則が成立していない事例だと考えていた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "ただしそのような状況の中で、1932年にヴォルフガング・パウリとエンリコ・フェルミが、β崩壊の事例でも、仮にエネルギー保存の法則が成立していると仮定して計算したところ、中性の粒子が存在しているだろう、と予想することができた。彼らはその粒子の存在を主張したものの具体的な物証は無く、長らく認められなかったが、1956年になり実験によってその粒子(ニュートリノ)が確認された。この出来事によって、有効範囲については疑問視されることも多かったものの、エネルギー保存の法則が成り立つと仮定してみることが、科学的発見につながるひとつの指針にもなり得ることが知られるようになった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1918年、エミー・ネーターは論文 „Invariante Variationsprobleme”を出版した。この論文の中で、ネーターが1915年に得た、今日ネーターの第一定理と呼ばれる定理の証明が与えられた。ネーターの定理から、作用積分が不変であるような無限小変換が存在する場合、系はその変換に対して対称であるという。このとき系の対称性に対応した量が保存する。特にエネルギー保存の法則は、時間の並進対称性に対応していることが知られる。",
"title": "対称性"
},
{
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"text": "熱力学におけるエネルギー保存の法則は、熱力学第一法則である。熱力学第一法則は次のように表現される。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ここで dU は系の内部エネルギー U の変化量、δQ は系に与えられた熱量、δW は系から取り出された仕事を表す(d は完全微分を、δ は不完全微分(英語版)を表す)。仕事は熱力学的系に繋がっている力学的系へのエネルギーの移動を表し、熱はそれ以外の熱力学的系へのエネルギーの移動を表している。",
"title": "各分野において"
},
{
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"tag": "p",
"text": "熱力学第一法則は、エネルギーがひとりでに消えたり生じたりすることはない、という経験的事実を法則化したものであり、上述の定式化では、エネルギーの変化が熱と仕事の和として与えられることで表現されている。",
"title": "各分野において"
},
{
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"tag": "p",
"text": "熱力学において第一法則は、上式を満たす状態量(すなわち系に対する操作の方法や途中経過に依存しない量) U が存在することを主張する法則とみなされている。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "古典力学におけるエネルギー保存の法則は、力学的エネルギー保存の法則と呼ばれる。力学的エネルギーは位置エネルギーと運動エネルギーに分類され、それらの和が一定であることをいう。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "以下に一粒子系の場合についての力学的エネルギー保存の法則を述べる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一粒子の運動について、粒子に働く力 F ( r ( t ) , t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}({\\boldsymbol {r}}(t),t)} がポテンシャル V ( r ( t ) ) {\\displaystyle V({\\boldsymbol {r}}(t))} を用いて、",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "と表される場合について、ニュートン力学の運動の第2法則、",
"title": "各分野において"
},
{
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"tag": "p",
"text": "より次の運動方程式が得られる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ここで、 m {\\displaystyle m} は質量、 r {\\displaystyle {\\boldsymbol {r}}} は粒子の位置、 t {\\displaystyle t} は時刻をそれぞれ表し、ナブラ ∇ {\\displaystyle \\nabla } とポテンシャル V {\\displaystyle V} の積 ∇ V {\\displaystyle \\nabla V} はポテンシャルの勾配を意味する。",
"title": "各分野において"
},
{
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"text": "このとき仕事は、",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "と r ( t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {r}}(t)} についての線積分で表される。ここで中黒 '・' はベクトルの内積を意味する。線積分を時間についての積分に直せば、",
"title": "各分野において"
},
{
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"text": "となるので、ポテンシャルの時間についての全微分、",
"title": "各分野において"
},
{
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"tag": "p",
"text": "を用いて、",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "と書ける。もし、粒子が受ける力がポテンシャルのみによる場合、 f ( t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {f}}(t)} は存在しないので、粒子に与えられた仕事 W ( t 1 , t 2 ) {\\displaystyle W(t_{1},t_{2})} はポテンシャルの差 − { V ( r ( t 2 ) ) − V ( r ( t 1 ) ) } {\\displaystyle -\\left\\{V({\\boldsymbol {r}}(t_{2}))-V({\\boldsymbol {r}}(t_{1}))\\right\\}} に等しい。このときポテンシャル V ( r ( t ) ) {\\displaystyle V({\\boldsymbol {r}}(t))} は位置エネルギーと呼ばれる。",
"title": "各分野において"
},
{
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"text": "再び仕事の定義に戻ると、粒子の運動方程式より、次のように書き換えられる。",
"title": "各分野において"
},
{
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"text": "ここで、ベクトルの内積の微分について、",
"title": "各分野において"
},
{
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"tag": "p",
"text": "という公式が成り立つので、",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "が得られる。ここで得られた関数 1 2 m | d r ( t ) d t | 2 {\\displaystyle {\\frac {1}{2}}m\\left|{\\frac {d{\\boldsymbol {r}}(t)}{dt}}\\right|^{2}} は粒子の運動エネルギーと呼ばれ、この差分は粒子になされた仕事を表す。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ポテンシャルと仕事、運動エネルギーと仕事の関係をそれぞれ見比べると、",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "という等式が得られる。 f ( t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {f}}(t)} を粒子に対する力学的な操作によって生じる力だとすれば、それがなす仕事は操作の前後での粒子の力学的エネルギー、すなわち粒子の位置エネルギーと運動エネルギーの和、の差に等しい。 特に、外部から力学的操作を行わない場合には、粒子にはポテンシャルによる力しか働かないので、系の力学的エネルギーは保存されることになる。 また、操作の前後で粒子の速度を変えないようにすれば、操作の前後では粒子の運動エネルギーが変化しないので、外部から与えられた仕事は粒子のポテンシャルの差に等しくなる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "こうして得られた等式が成り立つことを、力学的エネルギー保存の法則と呼ぶ。保存則が成り立っているかどうかは系の設定により、外界の力学的エネルギーを考慮しない場合には、保存則は成り立たないが、外界の力学的エネルギーを考慮するのであれば、外界への仕事を付け加える形で、保存則が成立する。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "外界に及ぼされる力は − f ( t ) {\\displaystyle -{\\boldsymbol {f}}(t)} で表され、摩擦などによる抗力を考える場合には、粒子の速度の関数になる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "以上のことは多粒子系の場合にも成り立つ。一粒子系の場合との変更点は、各粒子に対して力と運動方程式が与えられることと、ポテンシャルがすべての粒子の位置の関数になることである。以下にN 個の粒子がある場合について示す。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "力:",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "運動方程式:",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ナブラ ∇ i {\\displaystyle \\nabla _{i}} は、粒子 i {\\displaystyle i} の位置に対する偏微分を表し、ポテンシャルの勾配は次のように変更される。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また、ポテンシャルの時間微分は、それぞれの粒子の速度と粒子が感じるポテンシャルの勾配の内積をすべて足しあわせたものになる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "系になされる仕事は、各粒子に対する仕事の和になる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "以上のことから、力学的エネルギー保存の法則は次のように表される。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一粒子の場合と異なり、各粒子の運動エネルギーの総和と系のポテンシャルの和が系の力学的エネルギーの役割を果たしている。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "量子力学においてもエネルギー保存の法則は厳密に成立する。量子力学において、あらゆる物理量はそれに対応する自己共役作用素として定義される。閉じた系のエネルギーを与える作用素は、古典力学のハミルトニアンに対応する作用素 H ^ {\\displaystyle {\\hat {H}}} である。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "物理量 O ^ {\\displaystyle {\\hat {O}}} の期待値の時間微分を計算すると、",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "となり、 O ^ {\\displaystyle {\\hat {O}}} の時間発展を記述する作用素が得られる。 ここでシュレーディンガー方程式、",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "を用い時間微分作用素をハミルトニアンに書き換えた。またハミルトニアンが自己共役であることを用いた。 O ^ {\\displaystyle {\\hat {O}}} がハミルトニアンであるなら、交換子の項はゼロになる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "このとき期待値の時間微分は以下のようになる。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "外部系との相互作用がない孤立系を考えると、ハミルトニアン H ^ {\\displaystyle {\\hat {H}}} にはあらわな時間依存性がないので、エネルギー保存の法則が成り立っている。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "時間とエネルギーの不確定性関係のために短時間ではエネルギー保存則が破れるという記述もあるが、それは摂動論における自由ハミルトニアン部分の保存則の破れにすぎず、相互作用項まで加えた全エネルギーは常に厳密に保存する(詳しくは不確定性原理のページを参照)。",
"title": "各分野において"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "エネルギー保存の法則が成立したと仮定し、宇宙がエネルギーの総量が一定の閉鎖系だと仮定すると、\"質\"の良い(エントロピーの小さい)エネルギーは時間とともに減少していくことになる。エントロピーは局所的には増加も減少もするが、宇宙全体としては常に増加している(→熱力学第二法則)。エントロピーの増加はエネルギーの\"質\"(そのエネルギーからどれだけ仕事を得られるか)の低下を意味し、宇宙に存在する全てのエネルギーは最終的にはもはや外部に対して何ら仕事をすることができない均一な熱エネルギーとなる(熱的死)。",
"title": "エネルギーの「量」と「質」"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "エネルギー問題におけるエネルギーの有限性は、\"質\"の良いエネルギー、すなわち「エントロピーの小さいエネルギー」の存在量を問題としている。人類(および他のあらゆる存在)は、質の良いエネルギーを質の悪い(エントロピーの大きい)エネルギーに転換する過程で仕事を得ているが、エネルギーの仕事への変換効率はエネルギーの質が低くなるほど原理的に低下し、エネルギーを消費していく(仕事に転換していく)と世界はそれだけ「熱的死」に近づいていく。",
"title": "エネルギーの「量」と「質」"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "「《エネルギー保存の法則》が成り立つ」ということは「(有用な)エネルギーはいくら使ってもなくならない」という意味ではない(第二種永久機関の否定)。エネルギー保存の法則は、エネルギー問題においては直接的には第一種永久機関の否定という面でかかわりを持つ。",
"title": "エネルギーの「量」と「質」"
}
] |
エネルギー保存の法則とは、「孤立系のエネルギーの総量は変化しない」という物理学における保存則の一つである。エネルギー保存則とも呼ばれる。
|
{{物理学}}
'''エネルギー保存の法則'''(エネルギーほぞんのほうそく、{{lang-en-short|law of the conservation of energy}})とは、「孤立[[系 (自然科学)|系]]の[[エネルギー]]の総量は変化しない」という[[物理学]]における[[保存則]]の一つである。'''エネルギー保存則'''とも呼ばれる。
==概要==
[[任意]]の異なる二つの[[状態]]について、それらのエネルギー総量の差がゼロであることをいう。
例えば、取り得る状態が全て分かっているとして、全部で {{math|3}} つの状態があったとき、それらの状態のエネルギーを {{math|''A'', ''B'', ''C''}} と表す。
エネルギー保存の法則が成り立つことは、それらの差について、
:{{math|1=''A'' − ''B'' = 0, ''B'' − ''C'' = 0, ''C'' − ''A'' = 0}}
が成り立っていることをいう。
[[時間]]が導入されている場合には、任意の時刻でエネルギー総量の時間変化量がゼロであることをいい、[[時間微分]]を用いて表現される。
エネルギー保存の法則は、物理学の様々な分野で扱われる。特に、[[熱力学]]におけるエネルギー保存の法則は'''熱力学第一法則''' ({{lang-en-short|first law of thermodynamics}}) と呼ばれ、熱力学の基本的な法則となっている。 ({{main|熱力学第一法則}})
熱力学第一法則は、熱力学において基本的な要請として認められるものであり、あるいは熱力学理論を構築する上で成立すべき[[定理]]の一つである。第一法則の成立を前提とする根拠は、一連の実験や観測事実のみに基づいており、この意味で第一法則はいわゆる[[経験則]]であるといえる。
一方で[[ニュートン力学]]や[[量子力学]]など一般の力学において、エネルギー保存の法則は必ずしも前提とされない。
== 歴史 ==
{{Main|熱力学・統計力学の年表|熱の仕事当量}}
=== 概要 ===
{{出典の明記|date=2012年12月21日 (金) 02:00 (UTC)|section=1}}
[[ルネ・デカルト]]や[[ゴットフリート・ライプニッツ]]が、それぞれの仕方でこれを主張し、それぞれの支持者によって議論が長年に渡り行われた。
19世紀の中ごろ、[[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー]]、[[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]らによって、「[[力学的エネルギー|力学的]]・[[熱]]・[[化学]]・[[電力量|電気]]・[[光エネルギー|光]]などのエネルギーは、それぞれの形態に移り変わるが、エネルギーの総和は変化しない(保存される)」と主張された<ref name="tomonaga">{{Cite |和書 |author = 朝永振一郎 ||authorlink = 朝永振一郎|title = 物理学読本|edition = 第2 |date = 1981| pages = 78|publisher = みすず書房 |isbn=4-622-02503-5|ref = harv }}</ref>。
20世紀に[[アルベルト・アインシュタイン]]によって、質量とエネルギーの等価性という考え方が提唱され、別の形での保存が主張されたが、その有効性や有効範囲については、疑問視されることも多かった。
現在ではエネルギー保存の法則は、しばしば「最も基本的な物理法則の一つ」と考えられている。多くの[[物理学者]]が、[[自然]]はこの法則にしたがっているはずだ、と信じているのである。
=== 活力論争 ===
[[ルネ・デカルト]]は、1644年に出版した自身の著作『哲学の原理』{{la|(''Principia Philosophiæ'' )}} で<ref name="Descartes-wksrc">{{Cite wikisource|title=Principia philosophiae|author=Renatus Cartesius|wslanguage=la}}</ref>、宇宙において'''''quantitas motus'''''(運動の量)の総和が保たれている、と主張した。
{{Quotation|Deum esse primariam motus causam: et eandem semper motus quantitatem in niverso conservare.|''Principia philosophiae'', Pars secunda, 36(デカルト『哲学の原理』第二章 36)}}
デカルトが主張した {{la|''quantitas motus''}}({{en|quantity of motion}}, 運動の量)という概念は、現代の[[運動量]]とある程度似てはいるが、厳密には異なる概念である<ref name="Garber">{{Cite book
|author = Daniel Garber
|editor = John Cottingham
|chapter = Descartes' Physics
|pages = 310–319
|title = The Cambridge Companion to Descartes
|year = 1992
|publisher = Cambridge University Press
|isbn = 0-521-36696-8
| url=http://www.cup.es/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521366960}}</ref>。デカルトは「[[質量]]」という概念を持っていなかったし、デカルトは速度の大きさだけを重視し、向きが変わることについては考慮していなかった<ref name="Garber" />。したがって、デカルトの {{la|''quantitas motus''}} を現代の運動量に対応する量と見なすことはできない。
[[ゴットフリート・ライプニッツ]]は、運動の量というのを初めて数式で表現してみようと試みたが、デカルトとは異なって {{math|''mv''<sup>2</sup>}} の総和が保存されている、と主張した。ライプニッツはこの量を {{la|'''''vis viva'''''}}({{en|living force}}, 活力)と呼んだ。この {{la|''vis viva''}} という概念は、釣り合いなどの場面で想定される動きとしては見えない {{la|''vis mortua''}}({{en|dead force}}, 潜在的な力)と対比しつつ置かれた概念である。
デカルトの考え方を支持する人々と、ライプニッツの考え方を支持する人々で議論が起こるようになった。これを「活力論争 {{en|(''vis viva'' controversy)}}」という。議論は長年に渡って続いた。18世紀半ばになって、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]や[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]らが、両[[概念]]の明確化を試み、それらを区別したことによって、ようやく論争は沈静化した。
=== 「エネルギー」の定義 ===
1807年に[[トマス・ヤング]]は、{{la|''vis viva''}} という[[用語]]で表されていた運動の概念を、{{en|"energy"}} と呼んだ。{{en|energy}} は[[ギリシア語]]の {{Polytonic|ἐνέργεια}}({{lang-la-short|''energeia''}}, [[エネルゲイア]])という語を基にした造語である。ギリシャ語の{{Polytonic|ἐνέργεια}} {{la|(''energeia'' )}} というのは語の構成としては {{Polytonic|εν}} + {{Polytonic|εργον}} {{la|(''en'' +''ergon'' )}} であり、{{Polytonic|εργον}} {{la|(''ergon'' )}} は「仕事」、{{Polytonic|εν}}— {{la|(''en'' —)}} は「~の状態」という意味である。よって「仕事をしている状態」といったような意味である。[[アリストテレス]]の[[哲学]]において {{Polytonic|ἐνέργεια}} は、ものが持つ「可能態」の中から現実化された「現実態」を意味する。つまり、{{en|energy}} という用語を用いている背景には、眼には見えない「活力」が具体的な「仕事」に変化したのだ、という[[発想]]がある。
ヤングが {{en|energy}} という用語を用いたからといって、それが人々にすぐに用いられるようになったわけでもなく、人々の間に定着するようになったのは、あくまで後のことである。{{la|''vis viva''}} 相当の概念は、19世紀半ばでもしばしば、[[英語圏]]では {{en|"force"}} と呼ばれていたし、ドイツ語圏では {{de|„Kraft”}} と呼ばれていた。
現代的な意味で {{en|energy}} の語が用いられるようになったのは、ヤングより後のことで、1850年頃に[[ウィリアム・トムソン]]によって {{en|''kinetic energy''}}([[運動エネルギー]])、1853年に[[ウィリアム・ランキン]]によって {{en|''potential energy''}}([[位置エネルギー]])の語が定義された<ref name="Rankine">{{citation|author=William John Macquorn Rankine C.E.F.R.S.E.F.R.S.S.A.|title=On the general Law of the Transformation of Energy|journal=Philosophical Magazine|series=4|volume=5|issue=30|pages=106-117|date=1853|url=http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/14786445308647205|doi=10.1080/14786445308647205}}</ref>。
=== 19世紀前半のドイツ自然哲学 ===
19世紀前半の[[ドイツ]]の[[自然哲学]]では、「[[破壊]]されることもなく、[[形態]]が様々に変換する[[根源]]的な何か」を {{de|„Kraft”}}(力)と呼んでいた。この[[自然哲学]]の[[概念]]は、現在の「エネルギー保存の法則」という概念の成立に大きな影響を与えている。
=== 力学的仕事と熱に関する保存則の発見 ===
{{出典の明記|date=2015年8月9日|section=1}}
19世紀の中ごろ、[[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー|ロベルト・マイヤー]]、[[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]らが、それぞれ独立して「エネルギー保存の法則」という考え方に辿りついた<ref name="tomonaga" />。
マイヤーは、[[ドイツ]]の医者で、[[船医]]として[[ジャワ島]]に行った時に熱量とエネルギーとの関係を考察するようになった。船が[[熱帯]]を[[航海]]すると水夫らの[[静脈]]の[[血液]]の赤みが増すことに気付き、[[気温]]が上昇したことで[[体温]]維持のために[[酸素]]が使われる量が減るのだ、と[[解釈]]した。
そして1842年、「熱」と「仕事」の関係に関する論文 ''{{de|„Bemerkung über die Kräfte der unbelebten Natur”}}''<ref group="注">{{en|Remark upon the Forces of the Inanimate Nature}}, 無生物界の力についての所見。</ref>を発表した<ref name="Mayer">{{citation|author=J. R. Mayer|others=[[ユストゥス・フォン・リービッヒ|Justus Liebig]] (Editor)|url=https://books.google.co.jp/books?id=l4w8AAAAIAAJ&pg=RA2-PA233&redir_esc=y&hl=ja|title= Bemerkung über die Kräfte der unbelebten Natur|journal=[[Liebigs Annalen|Annalen der Chemie und Pharmacie]]|volume=42|pages=233-240|date=1842}}.</ref>。
ジュールは1843年に[[熱の仕事当量]]の[[測定]]を行い、その後も様々な方法で熱の仕事当量を計測した。
ヘルムホルツは、[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー|サディ・カルノー]]や[[エミール・クラペイロン]]、ジュールらの仕事について整理し、1847年に著した ''{{de|„Über die Erhaltung der Kraft”}}''<ref group="注">{{en|On the Conservation of the Force}}.</ref>で様々な状況でエネルギー保存の法則が成り立つことを示した<ref name="Helmholtz">{{citation|author=Hermann von Helmholtz|url=http://edoc.hu-berlin.de/ebind/hdok/h260_helmholtz_1847/PDF/h260_helmholtz_1847.pdf|title=Über die Erhaltung der Kraft|publisher=G. Reimer Berlin|date=1847}}.</ref>。
マイヤーやジュールが熱の仕事当量に関する考察をした頃は、1798年の[[ベンジャミン・トンプソン]](ランフォード伯)による指摘などがあったものの、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]と[[ピエール=シモン・ラプラス]]に始まる[[カロリック説]]が有力であり、熱は物質であると見なされ、熱は単独で保存されると考えられていた。そのため、熱が仕事に変わり得ることの発見とその事実の定量的評価をすることは、熱力学第一法則を構成する上で重要な仕事だった。
1850年、[[ルドルフ・クラウジウス]]は論文 ''{{de|„Über die bewegende Kraft der Wärme”}}''<ref group="注">{{en|On the Moving Force of the Heat}}.</ref>の中で熱力学第一法則について完全な形で述べた<ref name="Clausius-de">{{Citation | author=R. Clausius| title =''Über die bewegende Kraft der Wärme'' , [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k15164w/f384.table Part I], [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k15164w/f518.table Part II] | journal =Annalen der Physik | volume =79 | pages=368–397, 500–524| year =1850 }}. </ref><ref name="Clausius-en">{{citation|author=R. Clausius|url=https://archive.org/details/londonedinburghd02lond|title=On the Moving Force of Heat, and the Laws regarding the Nature of Heat itself which are deducible therefrom|journal=Phil. Mag.|date=1851|series=4|volume=2|pages=1–21, 102–119}}. [https://books.google.co.jp/books?id=JbwdWbbM1KgC&pg=RA1-PA1&redir_esc=y&hl=ja Google Books]. Clausius 1850 の英訳版。</ref>。
[[Image:Joule's Apparatus (Harper's Scan).png|thumb|250px|right|[[ジェームズ・プレスコット・ジュール|ジュール]] (1818 - 1889) は、重りをある高さまで持ち上げて落とすことで上記の装置 (今日 ''{{en|Joule's Apparatus}}'' と呼ばれる)の[[撹拌]]翼を回転させ、水に[[摩擦熱]]を与えることによる温度変化を調べた。その結果、[[仕事 (物理学)|仕事]]と[[熱]]は等価なものであると考えられるようになり、'''エネルギー保存の法則'''の成立へと繋がった。]]
=== 質量とエネルギーの等価性 ===
1905年に[[アルベルト・アインシュタイン]]は、[[:en:Annus Mirabilis papers|Annus Mirabilis papers]] の一つの ''{{de|„Ist die Trägheit eines Körpers von seinem Energieinhalt abhängig?”}}''<ref group="注">このドイツ語を英語に翻訳すると、"''{{en|Does the inertia of a body depend upon its energy-content?}}'' " となる。</ref>において、[[質量]]と[[エネルギー]]が交換可能なのではないか、という提案を行った<ref name="einstein-de">A. Einstein, [https://web.archive.org/web/20140112012646/http://www.itp.kit.edu/~ertl/Hauptseminar_SS13/papers/einstein_ist_die_traegheit_eines_koerpers_von_seinem_Energiegehalt_abhaengig.pdf ''Ist die Trägheit eines Körpers von seinem Energieinhalt abhängig?''], Annalen der Physik '''18''': pp.639–641, 1905. </ref><ref name="einstein-en">A. Einstein, [http://www.fourmilab.ch/etexts/einstein/E_mc2/e_mc2.pdf ''Does the Inertia of a Body depend upon its Energy-Content?''], 1905. John Walker (fourmilab.ch) による英訳版 (pdf)。</ref>。これをきっかけとして、物理学が大きく変容していくことになった。「エネルギー」や「[[物質]]」という概念自体が大きく変わっていくことになったのである。
[[特殊相対性理論]]において、質量はエネルギーの一形態であり、[[質量とエネルギーの等価性|E=mc²]] という式の関係が成り立っている。したがって相対論の立場では、エネルギー保存の法則は「質量を含めたエネルギーの総和が保存されている」という主張になる。
他の物理学の様々な主張同様に、このアインシュタインの主張も最初は受け入れられなかったり疑問視されたが、[[原子核反応]]や電子[[対生成]]などの[[実験]]において成立していることが確認されると、アインシュタインの考えが次第に受け入れられるようになっていった。
なおそれに伴って、「[[質量保存の法則]]は(厳密に言えば)成り立っていない」と考えられるようになった。特に、原子核反応を扱う場合においては、質量のエネルギーへの変換は無視できないほど大きく、質量は保存されていない、として計算するようになっている<ref group="注">厳密には成立していないが、ごく平凡な[[古典]]力学的な状況設定や、ごく平凡な[[化学反応]]においては、質量の増減は無視できるほど小さく、成立しているとして扱っても問題ないので、現在でも“質量保存則”は様々な計算をするための簡便な近似として用いられている。</ref>。
ただし、この[[法則]]を一応受け入れるとしても、一体どの程度まで受け入れてよいのかということについて見解はバラバラであった。例えば[[ニールス・ボーア]]は、[[ベータ崩壊]]をエネルギー保存の法則が成立していない事例だと考えていた<ref>{{cite book | 和書 | title=現代物理学(原子核) | author=武谷 三男, 豊田 利幸, 中村 誠太郎 |series=岩波講座 | volume=第八巻 | publisher=岩波書店 | year=1959 | ref=岩波(1959) | pages=197–201}}</ref>。
ただしそのような状況の中で、1932年に[[ヴォルフガング・パウリ]]と[[エンリコ・フェルミ]]が、[[ベータ崩壊]]の事例でも、仮にエネルギー保存の法則が成立していると仮定して[[計算]]したところ、中性の[[粒子]]が存在しているだろう、と[[予想]]することができた。彼らはその粒子の存在を主張したものの具体的な物証は無く、長らく認められなかったが、1956年になり[[実験]]によってその粒子([[ニュートリノ]])が確認された。この出来事によって、有効範囲については疑問視されることも多かったものの、エネルギー保存の法則が成り立つと仮定してみることが、[[科学]]的[[発見]]につながるひとつの指針にもなり得ることが知られるようになった。
== 対称性 ==
1918年、[[エミー・ネーター]]は[[論文]] ''{{de|„Invariante Variationsprobleme”}}''<ref group="注">{{en|Invariant Variation Problems}}. </ref>を出版した<ref name="Noether-de">{{citation|author=E. Nöther|url=http://www.physics.ucla.edu/~cwp/articles/noether.trans/german/emmy235.html|title=Invariante Variationsprobleme|journal=Nachrichten von der königliche Geselschaft der Wissenschaften zu Göttingen|pages=235-257|date=1918}}.</ref><ref name="Noether-en">{{citation|author=E. Noether|url=http://arxiv.org/abs/physics/0503066|title=Invariant Variation Problems|date=1918}}. M. A. Tavel による英訳。</ref>。この論文の中で、ネーターが1915年に得た、今日[[ネーターの定理]]と呼ばれる[[定理]]の[[証明 (数学)|証明]]が与えられた。ネーターの定理から、[[最小作用の原理#量子力学における最小作用の原理|作用積分]]が不変であるような無限小変換が存在する場合、系はその変換に対して対称であるという。このとき系の対称性に対応した量が保存する。特にエネルギー保存の法則は、'''時間の並進対称性'''に対応していることが知られる<ref>{{cite|和書|author=須藤靖|title=解析力学・量子論|publisher=東京大学出版会|edition=初|year=2008|isbn=978-4-13-062610-1|pages=39-41}}</ref>。
== 各分野において ==
=== 熱力学 ===
{{main|熱力学第一法則}}
[[熱力学]]におけるエネルギー保存の法則は、熱力学第一法則である。熱力学第一法則は次のように表現される。
:<math>dU = \delta Q - \delta W.</math>
ここで {{mvar|dU}} は系の[[内部エネルギー]] {{mvar|U}} の変化量、{{mvar|δ''Q''}} は系に与えられた[[熱|熱量]]、{{mvar|δ''W''}} は系から取り出された[[仕事 (物理学)|仕事]]を表す({{mvar|d}} は[[完全微分]]を、{{mvar|δ}} は{{仮リンク|不完全微分|en|inexact differential}}を表す)。仕事は熱力学的系に繋がっている力学的系へのエネルギーの移動を表し、熱はそれ以外の熱力学的系へのエネルギーの移動を表している。
熱力学第一法則は、エネルギーがひとりでに消えたり生じたりすることはない、という経験的事実を法則化したものであり、上述の定式化では、エネルギーの変化が熱と仕事の和として与えられることで表現されている。
熱力学において第一法則は、上式を満たす[[状態量]](すなわち系に対する操作の方法や途中経過に依存しない量<ref>{{cite|和書 |editor= |author=田崎晴明 |title=熱力学 現代的な視点から |edition= |publisher=培風館 |year=2000 |isbn=4-563-02432-5 |page=59}}</ref>) {{mvar|U}} が存在することを主張する法則とみなされている<ref>{{cite|和書 |editor=久保亮五 |author= |title=大学演習 熱学・統計力学 |edition=修訂 |publisher=裳華房 |year=1998 |isbn=4-7853-8032-2 |page=5}}</ref>。
=== 古典力学 ===
[[古典力学]]におけるエネルギー保存の法則は、[[力学的エネルギー]]保存の法則と呼ばれる。力学的エネルギーは[[位置エネルギー]]と[[運動エネルギー]]に分類され、それらの和が一定であることをいう<ref name="tomonaga2">{{Cite |和書 |author = 朝永振一郎 ||authorlink = 朝永振一郎|title = 物理学読本|edition = 第2 |date = 1981| pages = 74|publisher = みすず書房 |isbn=4-622-02503-5|ref = harv }}</ref>。
====一粒子系での力学的エネルギー保存の法則====
以下に一粒子系の場合についての力学的エネルギー保存の法則を述べる。
一粒子の運動について、粒子に働く力 <math>\boldsymbol{F}(\boldsymbol{r}(t),t)</math> が[[ポテンシャル]] <math>V(\boldsymbol{r}(t))</math> を用いて、
:<math>\boldsymbol{F}(\boldsymbol{r}(t),t) = -\nabla V(\boldsymbol{r}(t)) + \boldsymbol{f}(t)</math>
と表される場合について、ニュートン力学の[[運動の第2法則]]、
:<math>m\frac{d^2\boldsymbol{r}}{dt^2}(t)=\boldsymbol{F}(\boldsymbol{r}(t),t)</math>
より次の[[運動方程式]]が得られる。
:<math>m\frac{d^2\boldsymbol{r}}{dt^2}(t)=-\nabla V(\boldsymbol{r}(t)) + \boldsymbol{f}(t).</math>
ここで、<math>m</math> は[[質量]]、<math>\boldsymbol{r}</math> は粒子の位置、<math>t</math> は時刻をそれぞれ表し、[[ナブラ]] <math>\nabla</math> とポテンシャル <math>V</math> の積 <math>\nabla V</math> はポテンシャルの[[勾配_(ベクトル解析)|勾配]]を意味する。
:<math>\nabla V(\boldsymbol{r}(t)) = \left(
\frac{\partial}{\partial x}V(\boldsymbol{r}(t)),
\frac{\partial}{\partial y}V(\boldsymbol{r}(t)),
\frac{\partial}{\partial z}V(\boldsymbol{r}(t))
\right)^T.</math>
このとき仕事は、
:<math>\begin{align}
W(t_1,t_2) &= \int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{F}(\boldsymbol{r}(t),t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)\\
&= \int_{t_1}^{t_2}\left\{-\nabla V(\boldsymbol{r}(t))+\boldsymbol{f}(t)\right\}\cdot d\boldsymbol{r}(t)
\end{align}</math>
と <math>\boldsymbol{r}(t)</math> についての[[線積分#場の線積分|線積分]]で表される。ここで中黒 '・' は[[ベクトル空間]]の[[内積]]<ref group="注">一般の内積と区別して、しばしば[[ドット積]](点乗積)と呼ばれる。</ref>を意味する。線積分を時間についての積分に直せば、
:<math>\begin{align}
W(t_1,t_2) &= -\int_{t_1}^{t_2}\nabla V(\boldsymbol{r}(t))\cdot d\boldsymbol{r}(t)
+\int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{f}(t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)\\
&= -\int_{t_1}^{t_2}\left\{
\frac{\partial V(\boldsymbol{r}(t))}{\partial x}\frac{dx(t)}{dt}
+\frac{\partial V(\boldsymbol{r}(t))}{\partial y}\frac{dy(t)}{dt}
+\frac{\partial V(\boldsymbol{r}(t))}{\partial z}\frac{dz(t)}{dt}
\right\}dt
+\int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{f}(t) \cdot d\boldsymbol{r}(t),
\end{align}</math>
となるので、ポテンシャルの時間についての[[偏微分#全微分|全微分]]、
:<math>
\frac{dV}{dt}(\boldsymbol{r}(t)) = \left\{
\frac{dx(t)}{dt}\frac{\partial}{\partial x}
+\frac{dy(t)}{dt}\frac{\partial}{\partial y}
+\frac{dz(t)}{dt}\frac{\partial}{\partial z}
\right\}V(\boldsymbol{r}(t))
</math>
を用いて、
:<math>\begin{align}
W(t_1,t_2) &=-\int_{t_1}^{t_2}\frac{d V(\boldsymbol{r}(t))}{dt}dt
+\int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{f}(t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)\\
&=-\left\{V(\boldsymbol{r}(t_2))-V(\boldsymbol{r}(t_1))\right\}
+\int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{f}(t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)
\end{align}</math>
と書ける。もし、粒子が受ける力がポテンシャルのみによる場合、<math>\boldsymbol{f}(t)</math> は存在しないので、粒子に与えられた仕事 <math>W(t_1,t_2)</math> はポテンシャルの差 <math>-\left\{V(\boldsymbol{r}(t_2))-V(\boldsymbol{r}(t_1))\right\}</math> に等しい。このときポテンシャル <math>V(\boldsymbol{r}(t))</math> は位置エネルギー<ref group="注">ポテンシャル・エネルギーとも書かれる。</ref>と呼ばれる。
再び仕事の定義に戻ると、粒子の運動方程式より、次のように書き換えられる。
:<math>\begin{align}
W(t_1,t_2) &= \int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{F}(\boldsymbol{r}(t),t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)\\
&= \int_{t_1}^{t_2}m\frac{d^2}{dt^2}\boldsymbol{r}(t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)\\
&= m\int_{t_1}^{t_2}\frac{d^2}{dt^2}\boldsymbol{r}(t) \cdot \frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt}dt
\end{align}</math>
ここで、ベクトルの内積の微分について、
:<math>\begin{align}
\frac{d}{dt}\left(\boldsymbol{u}(t) \cdot \boldsymbol{v}(t)\right)
&= \sum_{\alpha = x,y,z}\frac{d}{dt}\left(u_\alpha(t)v_\alpha(t)\right)\\
&= \sum_{\alpha = x,y,z}\left(\frac{du_\alpha(t)}{dt}v_\alpha(t)+u_\alpha(t)\frac{dv_\alpha(t)}{dt}\right)\\
&= \frac{d\boldsymbol{u}(t)}{dt}\cdot\boldsymbol{v}(t) + \boldsymbol{u}(t)\cdot\frac{d\boldsymbol{v}(t)}{dt}
\end{align}</math>
という公式が成り立つので、
:<math>\begin{align}
W(t_1,t_2) &= m\int_{t_1}^{t_2}\frac{d^2}{dt^2}\boldsymbol{r}(t) \cdot \frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt}dt\\
&= m\int_{t_1}^{t_2}\left\{\frac{d}{dt}\left(\frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt} \cdot \frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt}\right)
-\frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt} \cdot \frac{d^2\boldsymbol{r}(t)}{dt^2}\right\}dt\\
&= \frac{1}{2}m\int_{t_1}^{t_2}\frac{d}{dt}\left(\frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt} \cdot \frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt}\right)dt\\
&=\frac{1}{2}m\left|\frac{d\boldsymbol{r}(t_2)}{dt}\right|^2 - \frac{1}{2}m\left|\frac{d\boldsymbol{r}(t_1)}{dt}\right|^2
\end{align}</math>
が得られる。ここで得られた[[関数 (数学)|関数]] <math>\frac{1}{2}m\left|\frac{d\boldsymbol{r}(t)}{dt}\right|^2</math> は粒子の運動エネルギーと呼ばれ、この差分は粒子になされた仕事を表す。
ポテンシャルと仕事、運動エネルギーと仕事の関係をそれぞれ見比べると、
:<math>\begin{align}
-\left\{V(\boldsymbol{r}(t_2))-V(\boldsymbol{r}(t_1))\right\}+\int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{f}(t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)
&=\frac{1}{2}m\left|\frac{d\boldsymbol{r}(t_2)}{dt}\right|^2 - \frac{1}{2}m\left|\frac{d\boldsymbol{r}(t_1)}{dt}\right|^2\\
\int_{t_1}^{t_2}\boldsymbol{f}(t) \cdot d\boldsymbol{r}(t)
&= \left\{\frac{1}{2}m\left|\frac{d\boldsymbol{r}(t_2)}{dt}\right|^2 + V(\boldsymbol{r}(t_2))\right\}
- \left\{\frac{1}{2}m\left|\frac{d\boldsymbol{r}(t_1)}{dt}\right|^2 + V(\boldsymbol{r}(t_1))\right\}
\end{align}</math>
という等式が得られる。<math>\boldsymbol{f}(t)</math> を粒子に対する力学的な操作によって生じる力だとすれば、それがなす仕事は操作の前後での粒子の力学的エネルギー、すなわち粒子の位置エネルギーと運動エネルギーの和、の差に等しい。特に、外部から力学的操作を行わない場合には、粒子にはポテンシャルによる力しか働かないので、系の力学的エネルギーは保存されることになる。また、操作の前後で粒子の速度を変えないようにすれば<ref group="注">方程式から明らかなように、操作の途中においては粒子の運動エネルギーを変化させてよい。</ref>、操作の前後では粒子の運動エネルギーが変化しないので、外部から与えられた仕事は粒子のポテンシャルの差に等しくなる。
こうして得られた等式が成り立つことを、力学的エネルギー保存の法則と呼ぶ。保存則が成り立っているかどうかは系の設定により、外界の力学的エネルギーを考慮しない場合には、保存則は成り立たないが、外界の力学的エネルギーを考慮するのであれば、外界への仕事を付け加える形で、保存則が成立する。
外界に及ぼされる力は <math>-\boldsymbol{f}(t)</math> で表され、[[摩擦]]などによる[[抗力]]を考える場合には、粒子の[[速度]]の関数になる。
====多粒子系での力学的エネルギー保存の法則====
以上のことは多粒子系の場合にも成り立つ。一粒子系の場合との変更点は、各粒子に対して力と運動方程式が与えられることと、ポテンシャルがすべての粒子の位置の関数になることである。以下に''N'' 個の粒子がある場合について示す。
力:
:<math>\boldsymbol{F}_i(\{\boldsymbol{r}(t)\},t) = -\nabla_i V(\{\boldsymbol{r}_i(t)\}) + \boldsymbol{f}_i(t) \quad (i=1,\dots,N).</math>
運動方程式:
:<math>m_i\frac{d^2\boldsymbol{r}_i}{dt^2}(t) = \boldsymbol{F}_i(\{\boldsymbol{r}(t)\},t) \quad (i=1,\dots,N).</math>
ナブラ <math>\nabla_i</math> は、粒子 <math>i</math> の位置に対する偏微分を表し、ポテンシャルの勾配は次のように変更される。
:<math>\nabla_i V(\{\boldsymbol{r}_i(t)\}) = \left(
\frac{\partial}{\partial x_i}V(\{\boldsymbol{r}_i(t)\}),
\frac{\partial}{\partial y_i}V(\{\boldsymbol{r}_i(t)\}),
\frac{\partial}{\partial z_i}V(\{\boldsymbol{r}_i(t)\})
\right)^T \quad (i=1,\dots,N).</math>
また、ポテンシャルの時間微分は、それぞれの粒子の速度と粒子が感じるポテンシャルの勾配の内積をすべて足しあわせたものになる。
:<math>\frac{dV}{dt}(\{\boldsymbol{r}_i(t)\}) = \sum_{i=1}^N \frac{d\boldsymbol{r}_i(t)}{dt}\cdot\nabla_i V(\{\boldsymbol{r}_i(t)\}).</math>
系になされる仕事は、各粒子に対する仕事の和になる。
:<math>W(t_1,t_2) = \sum_{i=1}^N \int_{t_1}^{t_2} \boldsymbol{F}_i(\{\boldsymbol{r}_i(t)\},t) \cdot d\boldsymbol{r}_i(t).</math>
以上のことから、力学的エネルギー保存の法則は次のように表される。
:<math>
\sum_{i=1}^N \int_{t_1}^{t_2} \boldsymbol{f}_i(t) \cdot d\boldsymbol{r}_i(t)
= \left\{V(\{\boldsymbol{r}_i(t_2)\}) + \sum_{i=1}^N \left(\frac{1}{2}m_i\left|\frac{d\boldsymbol{r}_i(t_2)}{dt}\right|^2 \right)\right\}
- \left\{V(\{\boldsymbol{r}_i(t_1)\}) + \sum_{i=1}^N \left(\frac{1}{2}m_i\left|\frac{d\boldsymbol{r}_i(t_1)}{dt}\right|^2 \right)\right\}.
</math>
一粒子の場合と異なり、各粒子の運動エネルギーの総和と系のポテンシャルの和が系の力学的エネルギーの役割を果たしている<ref group="注">ポテンシャル <math>\scriptstyle V(\{\boldsymbol{r}_i(t)\})</math> は一つの多粒子系に対して与えられることに注意。</ref>。
=== 量子力学 ===
[[量子力学]]においてもエネルギー保存の法則は厳密に成立する。量子力学において、あらゆる物理量はそれに対応する[[エルミート作用素|エミルート作用素]]として定義される<ref group="注">物理学の文献では自己共役作用素は''エルミート演算子''、[[作用素]]の自己共役性は''演算子のエルミート性'' と呼ばれることも多い。物理量の測定値が[[実数]]であること([[固有値]]が実数であること)、その[[固有状態]]が[[完全系]]をなすなどの理由から、物理量に対応する作用素には自己共役性が課される。</ref>。閉じた系のエネルギーを与える[[作用素]]は、古典力学の[[ハミルトニアン#解析力学(古典力学)|ハミルトニアン]]に対応する作用素 <math>\hat{H}</math> である<ref group="注">こちらの作用素もハミルトニアンと呼ぶ。区別する場合には、「古典力学のハミルトニアン」、「量子力学のハミルトニアン」と呼ぶが、単にハミルトニアンという場合には量子力学における作用素を指すことが多い。</ref>。
物理量 <math>\hat{O}</math> の[[期待値]]の時間微分を計算すると、
:<math>\begin{align}
\frac{d}{dt}\left\langle\psi\right\vert\hat{O}\left\vert\psi\right\rangle
&= \left(\frac{\partial}{\partial t}\left\vert\psi\right\rangle^*
\right)\hat{O}\left\vert\psi\right\rangle
+ \left\vert\psi\right\rangle^*
\frac{\partial}{\partial t}\hat{O}\left\vert\psi\right\rangle\\
&= \frac{i}{\hbar}\left(-\frac{\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial t}\left\vert\psi\right\rangle\right)^*
\hat{O}\left\vert\psi\right\rangle
+ \left\vert\psi\right\rangle^*
\frac{i}{\hbar}\frac{\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial t}\hat{O}\left\vert\psi\right\rangle\\
&= \frac{i}{\hbar}\left\{
\left(\hat{H}\left\vert\psi\right\rangle\right)^*
\hat{O}\left\vert\psi\right\rangle
+\left\vert\psi\right\rangle^*
\frac{\hbar}{i}\left(
\frac{\partial\hat{O}}{\partial t}
+\hat{O}\frac{\partial}{\partial t}\right)
\left\vert\psi\right\rangle
\right\}\\
&= \frac{i}{\hbar}\left\{
\left\vert\psi\right\rangle^*\hat{H}^*\hat{O}\left\vert\psi\right\rangle
+\left\vert\psi\right\rangle^*
\left(
\frac{\hbar}{i}\frac{\partial\hat{O}}{\partial t}
-\hat{O}\hat{H}\right)
\left\vert\psi\right\rangle
\right\}\\
&=\left\langle\psi\right\vert\left(
\frac{\partial\hat{O}}{\partial t}
+\frac{i}{\hbar}\left\{\hat{H}\hat{O}
-\hat{O}\hat{H}\right\}\right)\left\vert\psi\right\rangle
\end{align}</math>
となり、<math>\hat{O}</math> の時間発展を記述する作用素が得られる。ここで[[シュレーディンガー方程式]]、
:<math>\hat{H}\left\vert\psi(t)\right\rangle = -\frac{\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial t}\left\vert\psi(t)\right\rangle</math>
を用い時間微分作用素をハミルトニアンに書き換えた。またハミルトニアンが自己共役であることを用いた。<math>\hat{O}</math> がハミルトニアンであるなら、[[交換子]]の項はゼロになる。
:<math>
\left[\hat{H},\hat{O}\right]
:=\hat{H}\hat{O}-\hat{O}\hat{H}=\hat{H}\hat{H}-\hat{H}\hat{H}=0.
</math>
このとき期待値の時間微分は以下のようになる。
:<math>\frac{d}{dt}\left\langle\psi\right\vert\hat{H}\left\vert\psi\right\rangle
=\left\langle\psi\right\vert
\frac{\partial\hat{H}}{\partial t}
\left\vert\psi\right\rangle.
</math>
外部系との相互作用がない孤立系を考えると、ハミルトニアン <math>\hat{H}</math> にはあらわな時間依存性がないので、エネルギー保存の法則が成り立っている。
:<math>\frac{\partial\hat{H}}{\partial t}=0 ~\Rightarrow~
\frac{d}{dt}\left\langle\psi\right\vert\hat{H}\left\vert\psi\right\rangle=0.
</math>
時間とエネルギーの不確定性関係のために短時間ではエネルギー保存則が破れるという記述もあるが、それは摂動論における自由ハミルトニアン部分の保存則の破れにすぎず、相互作用項まで加えた全エネルギーは常に厳密に保存する(詳しくは[[不確定性原理]]のページを参照)。
== エネルギーの「量」と「質」 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年11月}}
エネルギー保存の法則が成立したと仮定し、宇宙がエネルギーの総量が一定の閉鎖系だ{{要検証|date=2012年11月}}と仮定すると、"質"の良い([[エントロピー]]の小さい)エネルギーは時間とともに減少していくことになる。{{要出典範囲|エントロピーは局所的には増加も減少もするが、宇宙全体としては常に増加している(→[[熱力学第二法則]])。エントロピーの増加はエネルギーの"質"(そのエネルギーからどれだけ[[仕事 (物理学)|仕事]]を得られるか)の低下を意味し、宇宙に存在する全てのエネルギーは最終的にはもはや外部に対して何ら仕事をすることができない均一な[[熱エネルギー]]となる([[熱的死]])。|date=2012年11月}}
{{要出典|date=2012年11月}}[[エネルギー資源]]におけるエネルギーの有限性は、"質"の良いエネルギー、すなわち「エントロピーの小さいエネルギー」の存在量を問題としている。人類(および他のあらゆる存在)は、質の良いエネルギーを質の悪い(エントロピーの大きい)エネルギーに転換する過程で[[仕事 (物理学)|仕事]]を得ているが、エネルギーの仕事への変換効率はエネルギーの質が低くなるほど原理的に低下し、エネルギーを消費していく(仕事に転換していく)と世界はそれだけ「熱的死」に近づいていく。
「《エネルギー保存の法則》が成り立つ」ということは「(有用な)エネルギーはいくら使ってもなくならない」という意味ではない([[永久機関#第二種永久機関|第二種永久機関]]の否定)。エネルギー保存の法則は、エネルギー問題においては直接的には[[永久機関#第一種永久機関|第一種永久機関]]の否定という面でかかわりを持つ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*'''物理学の法則'''
**[[熱力学第零法則]]
**[[熱力学第二法則]]
**[[熱力学第三法則]]
**[[質量保存の法則]]
**[[ヘスの法則]]
*'''物理学に関係する人物'''
**[[ベンジャミン・トンプソン]](ラムフォード伯)
**[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー]]
**[[エミール・クラペイロン]]
**[[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー]]
**[[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]
**[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]
**[[ウィリアム・トムソン]](ケルビン卿)
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えねるきいほそんのほうそく}}
[[Category:エネルギー]]
[[Category:熱力学の法則]]
[[Category:保存則]]
[[Category:量子力学]]
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2003-06-21T05:19:41Z
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2023-12-15T02:57:16Z
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乙一
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乙一(おついち、男性、本名:安達 寛高(あだち ひろたか)、1978年10月21日 -)は、日本の小説家、映画監督。日本推理作家協会会員、本格ミステリ作家クラブ会員。
山白朝子(やましろ あさこ)や中田永一(なかた えいいち)の別名義でも小説を執筆している。
1978年(昭和53年)10月21日、福岡県田主丸町(現・久留米市)に両親と2歳上の姉がいる4人家族の長男として生まれた。田主丸町立川会小学校、田主丸町立田主丸中学校を卒業。小学校高学年からは60kgを超す肥満児となり、周囲からはそのことを揶揄され、コンプレックスから独りでゲームに没頭するようになる。14歳のときに一念発起してダイエットを成し遂げ、中学3年ではクラス委員に選ばれるようになったものの、依然として同級生たちのなかには溶け込めず劣等感は払拭されなかったという。
1994年(平成6年)、久留米工業高等専門学校に入学。高専の5年間を「人生で一番鬱屈した時代だった」と語るが、15歳ごろの夏休み、友人から借りた神坂一のライトノベル『スレイヤーズ』第1巻を読んだことで小説を読むことの楽しみを知り、ゲームや漫画だけでなくライトノベルにも手を出すようになった。それから1年半ほどはライトノベルを読み漁り、また友人や姉から借りた我孫子武丸『殺戮にいたる病』、綾辻行人『十角館の殺人』、島田荘司『御手洗潔シリーズ』などで本格ミステリや叙述トリックにも出会った。
自分で小説を書くようになったのは16歳のとき。富士見ファンタジア小説大賞に応募するための異世界ファンタジー長編を書き始めたものの上手くいかず、次に舞台を地元周辺の田舎町にして書いたものが、1996年(平成8年)に第6回ジャンプ小説大賞を受賞してデビュー作となった『夏と花火と私の死体』である。賞の選考では、審査員を務めた栗本薫が強く推したという。17歳(執筆時は16歳)での作家デビューであった。
1999年(平成11年)に久留米高専を卒業、豊橋技術科学大学工学部エコロジー工学課程に編入学、愛知県豊橋市で一人暮らしを始める。大学ではSF研究会所属。
2002年(平成14年)、豊橋技科大を卒業。この年に出版された『GOTH リストカット事件』で翌年の第3回本格ミステリ大賞を受賞。2003年(平成15年)、豊橋市から東京の学芸大学駅付近に転居、さらに数か月後には川崎市の武蔵中原駅付近に転居。
ある時、編集者から押井守監督作品『イノセンス』(2004年公開)の整音現場の見学に誘われ、そこで押井の娘で、編集者・ライターをしていた押井友絵と出会い、2006年(平成18年)に結婚した。2007年(平成19年)2月に川崎市から転居。2010年(平成22年)には第1子が誕生している。
初期は、奇抜なアイディアの短編小説やハートフルなライトノベルが中心であったが、『GOTH リストカット事件』はミステリー小説として、本格ミステリ大賞を受賞するなど高く評価された。また初期の作品はホラー小説寄りのものと切ないストーリーに大きく分かれていたため、それぞれ「黒乙一」「白乙一」と呼ばれていた。乙一名義では主に集英社、角川書店(現 KADOKAWA)、幻冬舎などで小説を執筆している。
2005年ごろから、メディアファクトリー(現 KADOKAWA)の怪談専門誌『幽』で山白朝子として、また祥伝社の恋愛小説アンソロジーや恋愛小説専門誌『Feel Love』で中田永一として、それぞれ別名義での執筆活動を開始した。当初、同一人物だということは伏せられており、2007年発行『死者のための音楽 山白朝子短篇集』巻末(238ページ)には「1973年、大分県生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。」という乙一本人のプロフィールとは異なる情報が記載されていた。
2011年6月30日に、山白朝子や中田永一の別名義で活動していたことを乙一(安達寛高)のtwitterで明らかにした。2012年11月には、中田永一名義の『くちびるに歌を』が選ばれた小学館児童出版文化賞の贈呈式に出席し、毎日新聞がこの別名義の件を報じた。そのほか、8人の作家がそれぞれ名前を伏せ越前魔太郎名義で1冊ずつ執筆する『魔界探偵冥王星O』というシリーズの企画(2010年)にも参加している。
本名の安達寛高名義では自主映画の制作を行っており、2015年までに4本の作品を発表している。2004年には『ゴーストは小説家が好き』で第5回宝塚映画祭・映像コンクールに上位入選している。2016年には乙一、中田永一、山白朝子、越前魔太郎による短編集(解説は安達寛高)という、5人分の名義が並んだ『メアリー・スーを殺して』を刊行、その巻末でさらに枕木 憂士名義でも映画エッセイを寄稿していることを明かした。『ダ・ヴィンチ』2016年5月号では「奇跡の鼎談が実現」と銘打って乙一・中田永一・山白朝子という別名義同士の鼎談企画も実施した。
小説の執筆にあたっては、まずストーリー展開を決めたうえで、それにあったキャラクター設定を作る方法をとっている。また、デビューからまもない頃に『シナリオ入門』という本で勉強した映画の脚本作りの技術を取り入れている。特に、物語のちょうど真ん中で転換点を迎えるという手法(ミッドポイント)を多用し、全体の構成が4分割、16分割までされているものも多い。
妻の押井友絵は乙一の制作への姿勢について「小説にも映画にも執着してないんじゃないか」といい、本人も「作品が形になっていくのがとにかく楽しくてやっている感じ」だと述べている。
2012年に『このミステリーがすごい!』大賞の優秀賞を受賞し作家デビューした友井羊は、「重度の乙一ファン」だと自称しており、乙一作品を読み漁って勉強することで小説家になったと語っている。
ライトノベルとは、出版界において特殊な位置づけがされている。乙一自身「付き合いのある編集者の中でライトノベルを読んでいる人はいない」と述べている。
これは、乙一が出版界で活動をしてはじめて知った「ライトノベルの地位の低さ(差別)」にも繋がる事実である。乙一がデビューした当時(17歳)、ライトノベルに授けられる賞はひとつもなかった。自らがライトノベルで本を出すことによりライトノベルしか読んでいない人にもミステリーという形式を知ってもらい、いろんなジャンルの本を読んでもらおうと思った乙一は『GOTH』というミステリー小説を最初、ライトノベルというジャンルで出版した。
しかしその後ライトノベルという形式から一般書の形式に変更した。本人はそれを「ライトノベルのままでは手にとってもらえない客層がいるという事実を覆せなかったという点では、ある種の敗北である」とハードカバー版の『失はれる物語』のあとがきの中で述べている。
アニメ、ゲームや漫画、映画鑑賞が趣味。最も好きな映画監督はアンドレイ・タルコフスキー。スタジオジブリ作品のファンであることを公言しており、特に好きな作品は『天空の城ラピュタ』のようである。また、藤子・F・不二雄作品のファンでもあり、『ドラえもん』(原作・アニメ版共に)からは多大な影響を受けており、『F先生のポケット』および『スモールライト・アドベンチャー』ではドラえもんの道具が登場する。
16歳の頃から伊集院光と爆笑問題のラジオ番組を愛好しており、東京に移住したのもラジオの電波が入りやすいという理由からであった。高専時代は友達がいなかった(なぜか人との接触を拒んでいた)ため、一人で本を読んでいる事が多く、「ダメでもいいんだ」というラジオの声に勇気付けられたと話す。ちなみに出身地である福岡県はRKB毎日放送にてずっと伊集院光と爆笑問題のラジオを放送している数少ない地域でもあった(愛知県では放送がなく、東京などの放送波を遠距離受信する必要がある)。
また乙一は1人で遊べるという点からダンスゲーム『Dance Dance Revolution』を愛好しており、最高のレベル10まで踊れると述べている。高校生の時85キロあった体重は大学での一人暮らしにおける肉体改造ともいえるダイエットと『Dance Dance Revolution』のおかげで現在65キロまで落ちている。
ジャンプ ジェイ ブックス出身の作家では定金伸治と松原真琴と特に仲が良く、3人でトルコを旅行し2006年に3人の共著で『とるこ日記』を出版している。また『ファウスト』の若手執筆陣、佐藤友哉、西尾維新、滝本竜彦らと交友がある。
妻の押井友絵(安達友絵)は映画ライターとして活動しており、乙一の監督映画で主演も務めている。また友絵の父は『うる星やつら』などで知られる映画監督の押井守であり、乙一から見ると義父にあたる。押井の監督映画『立喰師列伝』には妻やファウストの小説家仲間と出演している。
候補などを含む。
文芸誌掲載時から単行本・文庫本収録までのあいだに大幅な改稿が入っているものがいくつかある。たとえば『ZOO』収録の「Closet」は細部や結末が変わっており、同「カザリとヨーコ」も友井羊によれば「別作品といってもいいくらい」、『天帝妖狐』にいたっては全面改稿によって「正真正銘別の作品」(友井)となっている。
映像作品においては、本名の「安達寛高」名義で作品を発表することが多い。
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"text": "本名の安達寛高名義では自主映画の制作を行っており、2015年までに4本の作品を発表している。2004年には『ゴーストは小説家が好き』で第5回宝塚映画祭・映像コンクールに上位入選している。2016年には乙一、中田永一、山白朝子、越前魔太郎による短編集(解説は安達寛高)という、5人分の名義が並んだ『メアリー・スーを殺して』を刊行、その巻末でさらに枕木 憂士名義でも映画エッセイを寄稿していることを明かした。『ダ・ヴィンチ』2016年5月号では「奇跡の鼎談が実現」と銘打って乙一・中田永一・山白朝子という別名義同士の鼎談企画も実施した。",
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乙一は、日本の小説家、映画監督。日本推理作家協会会員、本格ミステリ作家クラブ会員。 山白朝子や中田永一の別名義でも小説を執筆している。
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{{for|乙種第1類危険物取扱者(乙1)|危険物取扱者}}
{{Infobox 作家
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|debut_works=『[[夏と花火と私の死体]]』(1996年)
|spouse=押井友絵(妻)
|partner=
|children=
|relations=[[押井守]](義父)
|influences=
|influenced=
|signature=Otsuichi signature.png
|website=[http://www.shueisha.co.jp/otsuichi/ Web Otsuichi]
<!--|footnotes=脚注・小話-->
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''乙一'''|おついち|男性、本名:{{読み仮名_ruby不使用|'''安達 寛高'''|あだち ひろたか}}<ref name="jiten" />{{sfn|小山田桐子|2007|p=6}}、[[1978年]][[10月21日]]<ref name="jiten">『日本現代小説大事典(増補縮刷版)』, p. 1198.</ref><ref name="Turkey" /> - }}は、[[日本]]の[[小説家]]<ref name="jiten" />{{sfn|小山田桐子|2007|p=6}}、[[映画監督]]{{sfn|小山田桐子|2007|p=6}}。[[日本推理作家協会]]会員<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mystery.or.jp/member/detail/0831|title=会員名簿 乙一|publisher=日本推理作家協会|accessdate=2016-05-23}}</ref>、[[本格ミステリ作家クラブ]]会員<ref>{{Cite web|和書|url=http://honkaku.com/kaiin.html|title=会員名簿 2015年7月現在 会員数170|publisher=本格ミステリ作家クラブ|accessdate=2016-05-23}}</ref>。
{{読み仮名_ruby不使用|'''山白朝子'''|やましろ あさこ}}や{{読み仮名_ruby不使用|'''中田永一'''|なかた えいいち}}の別名義でも小説を[[執筆]]している<ref name="twitter20120612">{{cite web|url=https://twitter.com/adachihirotaka/status/86460981403860992|title=Twitter / adachihirotaka:@kameganihiki|author=あだち@adachihirotaka|publisher=[[Twitter]]|date=2011-06-30|accessdate=2012-06-12}}</ref><ref name="mainichi20121120">「乙一さん:人気作家、小学館児童出版文化賞贈呈式で別名義の活動認める」『毎日新聞縮刷版』平成24年11月号(通巻755号)、754頁(11月20日付け夕刊4面)。</ref>。
== 来歴 ==
[[1978年]](昭和53年)[[10月21日]]<ref name="Turkey">『とるこ日記』, p. 17.</ref>、[[福岡県]][[田主丸町]](現・[[久留米市]])に両親と2歳上の姉がいる4人家族の長男として生まれた{{sfn|速水由紀子|2015|p=49}}。田主丸町立川会小学校、田主丸町立田主丸中学校を卒業{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}。小学校高学年からは60kgを超す肥満児となり、周囲からはそのことを揶揄され、コンプレックスから独りでゲームに没頭するようになる{{sfn|速水由紀子|2015|pp=49-50}}。14歳のときに一念発起してダイエットを成し遂げ、中学3年ではクラス委員に選ばれるようになったものの、依然として同級生たちのなかには溶け込めず劣等感は払拭されなかったという{{sfn|速水由紀子|2015|p=50}}。
1994年(平成6年)、[[久留米工業高等専門学校]]に入学{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}。高専の5年間を「人生で一番鬱屈した時代だった」と語るが{{sfn|速水由紀子|2015|p=50}}、15歳ごろの夏休み、友人から借りた[[神坂一]]の[[ライトノベル]]『[[スレイヤーズ]]』第1巻を読んだことで小説を読むことの楽しみを知り、ゲームや漫画だけでなくライトノベルにも手を出すようになった{{sfn|円堂都司昭|2005|p=45}}。それから1年半ほどはライトノベルを読み漁り、また友人や姉から借りた[[我孫子武丸]]『殺戮にいたる病』、[[綾辻行人]]『[[十角館の殺人]]』、[[島田荘司]]『[[御手洗潔シリーズ]]』などで[[本格ミステリ]]や[[叙述トリック]]にも出会った{{sfn|円堂都司昭|2005|p=45}}。
自分で小説を書くようになったのは16歳のとき。[[ファンタジア大賞|富士見ファンタジア小説大賞]]に応募するための異世界ファンタジー長編を書き始めたものの上手くいかず、次に舞台を地元周辺の田舎町にして書いたものが、1996年(平成8年)に第6回[[ジャンプ小説・ノンフィクション大賞|ジャンプ小説大賞]]を受賞してデビュー作となった『[[夏と花火と私の死体]]』である{{sfn|円堂都司昭|2005|p=46}}。賞の選考では、審査員を務めた[[栗本薫]]が強く推したという{{sfn|速水由紀子|2015|p=50}}<ref>『夏と花火と私の死体 (JUMP j BOOKS)』, p. 228.</ref>。17歳(執筆時は16歳)での作家デビューであった{{sfn|PHP文庫「文蔵」編集部|2007|p=28}}。
1999年(平成11年)に久留米高専を卒業、[[豊橋技術科学大学]]工学部エコロジー工学課程に編入学{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}、愛知県[[豊橋市]]で一人暮らしを始める<ref>『小生物語(幻冬舎文庫)』, p. 117.</ref>。大学では[[サイエンス・フィクション|SF]]研究会所属。
2002年(平成14年)、豊橋技科大を卒業{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}。この年に出版された『[[GOTH リストカット事件]]』で翌年の第3回[[本格ミステリ大賞]]を受賞<ref name="jiten" />{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}。2003年(平成15年)、豊橋市から東京の[[学芸大学駅]]付近に転居<ref>『小生物語(幻冬舎文庫)』, p. 171.</ref>、さらに数か月後には[[川崎市]]の[[武蔵中原駅]]付近に転居<ref>『小生物語(幻冬舎文庫)』, p. 263.</ref>。
ある時、編集者から[[押井守]]監督作品『[[イノセンス]]』(2004年公開)の整音現場の見学に誘われ、そこで押井の娘で、編集者・ライターをしていた押井友絵と出会い{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}、2006年(平成18年)に結婚した{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}。2007年(平成19年)2月に川崎市から転居<ref>『小生物語(幻冬舎文庫)』, pp. 262-263.</ref>。2010年(平成22年)には第1子が誕生している{{sfn|速水由紀子|2015|p=52}}。
== 作風・別名義 ==
初期は、奇抜なアイディアの短編小説<ref name="jiten" />{{sfn|PHP文庫「文蔵」編集部|2007|p=29}}やハートフルなライトノベル{{sfn|PHP文庫「文蔵」編集部|2007|p=29}}が中心であったが、『GOTH リストカット事件』はミステリー小説として、[[本格ミステリ大賞]]を受賞するなど高く評価された{{sfn|PHP文庫「文蔵」編集部|2007|p=29}}。また初期の作品はホラー小説寄りのものと切ないストーリーに大きく分かれていたため、それぞれ「黒乙一」「白乙一」と呼ばれていた{{sfn|宣伝会議|2008|p=14}}。乙一名義では主に[[集英社]]、[[角川書店]](現 KADOKAWA)、[[幻冬舎]]などで小説を執筆している。
2005年ごろから、[[メディアファクトリー]](現 KADOKAWA)の怪談専門誌『[[幽]]』で山白朝子として、また[[祥伝社]]の恋愛小説アンソロジーや恋愛小説専門誌『[[Feel Love]]』で中田永一として、それぞれ別名義での執筆活動を開始した。当初、同一人物だということは伏せられており、2007年発行『死者のための音楽 山白朝子短篇集』巻末(238ページ)には「1973年、大分県生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。」という乙一本人のプロフィールとは異なる情報が記載されていた。
2011年6月30日に、山白朝子や中田永一の別名義で活動していたことを乙一(安達寛高)の[[twitter]]で明らかにした<ref name="twitter20120612" />。2012年11月には、中田永一名義の『[[くちびるに歌を]]』が選ばれた[[小学館児童出版文化賞]]の贈呈式に出席し、[[毎日新聞]]がこの別名義の件を報じた<ref name="mainichi20121120" />。そのほか、8人の作家がそれぞれ名前を伏せ[[越前魔太郎]]名義で1冊ずつ執筆する『[[魔界探偵冥王星O]]』というシリーズの企画(2010年)にも参加している。
本名の安達寛高名義では[[自主映画]]の制作を行っており、2015年までに4本の作品を発表している{{sfn|速水由紀子|2015|p=49}}。2004年には『ゴーストは小説家が好き』で第5回[[宝塚映画祭]]・映像コンクールに上位入選している。2016年には乙一、中田永一、山白朝子、越前魔太郎による短編集(解説は安達寛高)という、5人分の名義が並んだ『メアリー・スーを殺して』を刊行、その巻末でさらに'''枕木 憂士'''名義でも映画エッセイを寄稿していることを明かした<ref>『メアリー・スーを殺して』, p. 350.</ref>。『[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]』2016年5月号では「奇跡の鼎談が実現」と銘打って乙一・中田永一・山白朝子という別名義同士の鼎談企画も実施した。
小説の執筆にあたっては、まずストーリー展開を決めたうえで、それにあったキャラクター設定を作る方法をとっている{{sfn|宣伝会議|2008|p=9}}。また、デビューからまもない頃に『シナリオ入門』という本で勉強した映画の脚本作りの技術を取り入れている{{sfn|宣伝会議|2008|p=10}}。特に、物語のちょうど真ん中で転換点を迎えるという手法(ミッドポイント)を多用し{{sfn|友井羊|2014|p=46}}、全体の構成が4分割、16分割までされているものも多い{{sfn|友井羊|2014|p=48}}。
妻の押井友絵は乙一の制作への姿勢について「小説にも映画にも執着してないんじゃないか」といい{{sfn|小山田桐子|2007|p=8}}、本人も「作品が形になっていくのがとにかく楽しくてやっている感じ」だと述べている{{sfn|小山田桐子|2007|p=8}}。
2012年に[[『このミステリーがすごい!』大賞]]の優秀賞を受賞し作家デビューした[[友井羊]]は、「重度の乙一ファン」だと自称しており、乙一作品を読み漁って勉強することで小説家になったと語っている{{sfn|友井羊|2014|p=45}}。
== 乙一とライトノベル ==
ライトノベルとは、出版界において特殊な位置づけがされている。乙一自身「付き合いのある編集者の中でライトノベルを読んでいる人はいない」と述べている<ref>『失はれる物語』(角川文庫)あとがきより</ref>。
これは、乙一が出版界で活動をしてはじめて知った「ライトノベルの地位の低さ(差別)」にも繋がる事実である。乙一がデビューした当時(17歳)、ライトノベルに授けられる賞はひとつもなかった。自らがライトノベルで本を出すことによりライトノベルしか読んでいない人にもミステリーという形式を知ってもらい、いろんなジャンルの本を読んでもらおうと思った乙一は『GOTH』というミステリー小説を最初、ライトノベルというジャンルで出版した<ref>『GOTH 夜の章』『GOTH 僕の章』(角川文庫)あとがきより</ref>。
しかしその後ライトノベルという形式から一般書の形式に変更した。本人はそれを「ライトノベルのままでは手にとってもらえない客層がいるという事実を覆せなかったという点では、ある種の敗北である」とハードカバー版の『失はれる物語』のあとがきの中で述べている。
== 人物 ==
=== 趣味・嗜好 ===
アニメ、ゲームや漫画、映画鑑賞が趣味。最も好きな映画監督は[[アンドレイ・タルコフスキー]]。[[スタジオジブリ]]作品のファンであることを公言しており、特に好きな作品は『[[天空の城ラピュタ]]』のようである。また、[[藤子・F・不二雄]]作品のファンでもあり、『[[ドラえもん]]』(原作・アニメ版共に)からは多大な影響を受けており、『F先生のポケット』および『スモールライト・アドベンチャー』ではドラえもんの道具が登場する。
16歳の頃から[[伊集院光]]と[[爆笑問題]]の[[ラジオ番組]]を愛好しており、東京に移住したのもラジオの電波が入りやすいという理由からであった。高専時代は友達がいなかった(なぜか人との接触を拒んでいた)ため、一人で本を読んでいる事が多く、「ダメでもいいんだ」というラジオの声に勇気付けられたと話す。ちなみに出身地である福岡県は[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]にてずっと伊集院光と爆笑問題のラジオを放送している数少ない地域でもあった(愛知県では放送がなく、東京などの放送波を遠距離受信する必要がある)。
また乙一は1人で遊べるという点からダンスゲーム『[[Dance Dance Revolution]]』を愛好しており、最高のレベル10まで踊れると述べている。高校生の時85キロあった体重は大学での一人暮らしにおける肉体改造ともいえるダイエットと『Dance Dance Revolution』のおかげで現在65キロまで落ちている<ref>『暗いところで待ち合わせ』(2001年、幻冬舎文庫)あとがきより</ref>。
=== 交流 ===
[[ジャンプ ジェイ ブックス]]出身の作家では[[定金伸治]]と[[松原真琴]]と特に仲が良く、3人で[[トルコ]]を旅行し2006年に3人の共著で『とるこ日記』を出版している。また『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』の若手執筆陣、[[佐藤友哉]]、[[西尾維新]]、[[滝本竜彦]]らと交友がある。
=== 家族 ===
[[妻]]の押井友絵(安達友絵)は[[映画]][[著作家|ライター]]として活動しており、乙一の監督映画で主演も務めている。また友絵の父は『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』などで知られる[[映画監督]]の押井守であり、乙一から見ると[[義父]]にあたる。押井の監督映画『[[立喰師列伝]]』には妻やファウストの小説家仲間と出演している。
{{familytree/start}}
{{familytree|MAMORU| | | | |MAMORU=[[押井守]]<span style="display:none">(乙一の妻の父親)</span>}}
{{familytree| |!| | | | | |}}
{{familytree|TOMOE|~|OTSUICHI|TOMOE=押井友絵<span style="display:none">(乙一の妻)</span>|OTSUICHI=乙一|boxstyle_OTSUICHI=background-color: #faa;}}
{{familytree/end}}
== 受賞 ==
候補などを含む。
*『[[夏と花火と私の死体]]』
**'''第6回[[ジャンプ小説・ノンフィクション大賞]]'''(1996年)
*『[[GOTH リストカット事件]]』
**'''第3回[[本格ミステリ大賞]]'''(2003年)
**第5回[[大藪春彦賞]] 候補(2002年)
**[[このミステリーがすごい!]] 2003年 2位
**[[本格ミステリ・ベスト10]] 2003年 5位
**[[週刊文春ミステリーベスト10]] 2002年国内部門 7位
*『[[ZOO (乙一)|ZOO]]』
**第17回[[山本周五郎賞]] 候補(2004年)
**[[週刊文春ミステリーベスト10]] 2003年国内部門 8位
*『銃とチョコレート』
**[[このミステリーがすごい!]] 2007年 5位
**第23回[[うつのみやこども賞]](2007年)
*『[[くちびるに歌を]]』(中田永一名義)
**'''第61回[[小学館児童出版文化賞]]'''(2012年)
**第3回[[山田風太郎賞]] 候補(2012年)
**第9回[[本屋大賞]] 4位(2012年)
*『宗像くんと万年筆事件』(中田永一名義)
**第66回[[日本推理作家協会賞]]候補作(2013年)
*『私は存在が空気』(中田永一名義)
**第29回[[山本周五郎賞]] 候補(2016年)
== 作品 ==
文芸誌掲載時から単行本・文庫本収録までのあいだに大幅な改稿が入っているものがいくつかある。たとえば『ZOO』収録の「Closet」は細部や結末が変わっており{{sfn|友井羊|2014|p=45}}、同「カザリとヨーコ」も[[友井羊]]によれば「別作品といってもいいくらい」{{sfn|友井羊|2014|p=45}}、『天帝妖狐』にいたっては全面改稿によって「正真正銘別の作品」(友井)となっている{{sfn|友井羊|2014|p=45}}。
=== 単行本・文庫 ===
*表の順番は、出版年月順をもとに、文庫版やシリーズなどを前作の次に挿入したもの。
*[[File:Sort both small.svg]]を押すと、書名の五十音順や出版年月での並べ替えが可能。
* 備考欄の鉤括弧内は短編集の収録作
{|class="wikitable sortable" style="font-size:70%"
! style="width:0em"|
! style="width:11em"|書名
! style="width:7em"|レーベル名
! style="width:4em"|名義
! style="width:7em"|絵・共著<br>・原作など
! style="width:4em"|出版社
! style="width:3em"|出版<br>年月
! style="width:12em"|ISBN
! 備考
|-
| 1
! rowspan="2"|{{none|なつと}}[[夏と花火と私の死体]]
| [[ジャンプ ジェイ ブックス|JUMP j BOOKS]] || rowspan="2"|乙一 || 絵:[[幡地英明]] || rowspan="2"|[[集英社]] || 1996-10 || {{small|{{ISBN2|4-08-703052-0}}}} || rowspan="2"|「夏と花火と私の死体」「優子」
|-
| 2
| [[集英社文庫]] || - || 2000-05 || {{small|{{ISBN2|4-08-747198-5}}}}
|-
| 3
! rowspan="2"|{{none|てんてい}}天帝妖狐
| JUMP j BOOKS || rowspan="2"|乙一 || 絵:幡地英明 || rowspan="2"|集英社 || 1998-04 || {{small|{{ISBN2|4-08-703070-9}}}} || rowspan="2"|「A MASKED BALL ア マスクド ボール-及びトイレのタバコさんの出現と消失」「天帝妖狐」<br>ただし、「天帝妖狐」は文庫版で全面的に改稿され、ほぼ別の作品となっている
|-
| 4
| 集英社文庫 || - || 2001-07 || {{small|{{ISBN2|4-08-747342-2}}}}
|-
| 5
! {{none|いしのめ}}石ノ目
| - || rowspan="2"|乙一 || rowspan="2"|- || rowspan="2"|集英社 || 2000-07 || {{small|{{ISBN2|4-08-702013-4}}}} || rowspan="2"|「石ノ目」「はじめ」「BLUE」「平面いぬ。」
|-
| 6
! {{none|へいめん}}平面いぬ。
| 集英社文庫 || 2003-06 || {{small|{{ISBN2|4-08-747590-5}}}}
|-
| 7
! rowspan="2"|{{none|あんこく}}暗黒童話
| - || rowspan="2"|乙一 || rowspan="2"|- || rowspan="2"|集英社 || 2001-09 || {{small|{{ISBN2|4-08-702014-2}}}} || rowspan="2"|-
|-
| 8
| 集英社文庫 || 2004-05 || {{small|{{ISBN2|4-08-747695-2}}}}
|-
| 9
! {{none|しつそう}}[[失踪HOLIDAY]]
| [[角川スニーカー文庫]] || rowspan="2"|乙一 || - || rowspan="2"|[[角川書店]] || 2000-12 || {{small|{{ISBN2|4-04-425301-3}}}} || 「しあわせは子猫のかたち-HAPPINESS IS A WARM KITTY」「失踪HOLIDAY」
|-
| 10
! しあわせは子猫のかたち
| [[角川つばさ文庫]] || 絵:SHEL || 2011-02 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-631146-7}}}} || 「しあわせは子猫のかたち」「失踪ホリデイ」
|-
| 11
! [[きみにしか聞こえない CALLING YOU]]
| 角川スニーカー文庫 || rowspan="2"|乙一 || - || rowspan="2"|角川書店 || 2001-05 || {{small|{{ISBN2|4-04-425302-1}}}} || 「Calling You」「傷-KIZ/KIDS-」「華歌」
|-
| 12
! きみにしか聞こえない
| 角川つばさ文庫 || 絵:SHEL || 2009-05 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-631018-7}}}} || 「きみにしか聞こえない」「傷」「ウソカノ」
|-
| 13
! さみしさの周波数
| 角川スニーカー文庫 || 乙一 || - || 角川書店 || 2002-12 || {{small|{{ISBN2|4-04-425303-X}}}} || 「未来予報 あした、晴れればいい。」「手を握る泥棒の物語」「フィルムの中の少女」「失はれた物語」
|-
| 14
! rowspan="2"|{{none|うしなわ}}失はれる物語
| - || rowspan="2"|乙一 || rowspan="2"|- || rowspan="2"|角川書店 || 2003-12 || {{small|{{ISBN2|4-04-873500-4}}}} || 「Calling You」「失はれる物語」「傷」「手を握る泥棒の物語」「しあわせは子猫のかたち」「マリアの指」
|-
| 15
| [[角川文庫]] || 2006-06 || {{small|{{ISBN2|4-04-425306-4}}}} || 「Calling You」「失はれる物語」「傷」「手を握る泥棒の物語」「しあわせは子猫のかたち」「マリアの指」「ボクの賢いパンツくん」「ウソカノ」
|-
| 16
! {{none|しにそこ}}[[死にぞこないの青]]
| [[幻冬舎文庫]] || 乙一 || - || [[幻冬舎]] || 2001-10 || {{small|{{ISBN2|4-344-40163-8}}}} || -
|-
| 17
! {{none|くらいと}}[[暗いところで待ち合わせ]]
| 幻冬舎文庫 || 乙一 || - || 幻冬舎 || 2002-04 || {{small|{{ISBN2|4-344-40214-6}}}} || -
|-
| 18
! {{none|こすりす}}[[GOTH リストカット事件]]
| - || rowspan="3"|乙一 || rowspan="3"|- || rowspan="3"|角川書店 || 2002-07 || {{small|{{ISBN2|4-04-873390-7}}}} || 「暗黒系 Goth」「リストカット事件 Wristcut」「犬 Dog」「記憶 Twins」「土 Grave」「声 Voice」
|-
| 19
! {{none|こすよる}}GOTH 夜の章
| 角川文庫 || 2005-06 || {{small|{{ISBN2|4-04-425304-8}}}} || 「暗黒系 Goth」「犬 Dog」「記憶 Twins」
|-
| 20
! {{none|こすほく}}GOTH 僕の章
| 角川文庫 || 2005-06 || {{small|{{ISBN2|4-04-425305-6}}}} || 「リストカット事件 Wristcut」「土 Grave」「声 Voice」
|-
| 21
! {{none|こすもり}}GOTH モリノヨル
| - || rowspan="2"|乙一 || 写真:新津保建秀 || rowspan="2"|角川書店 || 2008-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-873924-5}}}} || rowspan="2"|-
|-
| 22
! {{none|こすはん}}GOTH 番外篇 森野は記念写真を撮りに行くの巻
| 角川文庫 || - || 2013-07 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-100925-3}}}}
|-
| 23
! {{none|すう0}}[[ZOO (乙一)|ZOO]]
| - || rowspan="3"|乙一 || rowspan="3"|- || rowspan="3"|集英社 || 2003-06 || {{small|{{ISBN2|4-08-774534-1}}}} || 「カザリとヨーコ」「血液を探せ!」「陽だまりの詩」「SO-far そ・ふぁー」「冷たい森の白い家」「Closet」「神の言葉」「ZOO」「SEVEN ROOMS」「落ちる飛行機の中で」
|-
| 24
! {{none|すう1}}ZOO 1
| 集英社文庫 || 2006-05 || {{small|{{ISBN2|4-08-746037-1}}}} || 「カザリとヨーコ」「SEVEN ROOMS」「SO-far そ・ふぁー」「陽だまりの詩」「ZOO」
|-
| 25
! {{none|すう2}}ZOO 2
| 集英社文庫 || 2006-05 || {{small|{{ISBN2|4-08-746038-X}}}} || 「血液を探せ!」「冷たい森の白い家」「Closet」「神の言葉」「落ちる飛行機の中で」「むかし夕日の公園で」
|-
| 26
! くつしたをかくせ!
| - || 乙一 || 絵:羽住都 || [[光文社]] || 2003-11 || {{small|{{ISBN2|4-334-92414-X}}}} || 絵本
|-
| 27
! rowspan="2"|{{none|しようせい}}小生物語
| - || rowspan="2"|乙一 || rowspan="2"|- || rowspan="2"|幻冬舎 || 2004-07 || {{small|{{ISBN2|4-344-00655-0}}}} || rowspan="2"|エッセイ
|-
| 28
| 幻冬舎文庫 || 2007-04 || {{small|{{ISBN2|4-344-40935-3}}}}
|-
| 29
! とるこ日記〜“ダメ人間”作家トリオの脱力旅行記〜
| - || 乙一 || 共著:[[定金伸治]]<br>共著:[[松原真琴]] || 集英社 || 2006-03 || {{small|{{ISBN2|4-08-780424-0}}}} || エッセイ。短編小説「毒殺天使」を収録
|-
| 30
! rowspan="3"|{{none|しゆうと}}銃とチョコレート
| [[ミステリーランド]] || rowspan="3"|乙一 || rowspan="3"|- || rowspan="3"|[[講談社]] || 2006-05 || {{small|{{ISBN2|4-06-270580-X}}}} || rowspan="3"|-
|-
| 31
| [[講談社ノベルス]] || 2013-10 || {{small|{{ISBN2|978-4-06-182891-9}}}}
|-
| 32
| [[講談社文庫]] || 2016-07 || {{small|{{ISBN2|978-4-06-293396-4}}}}
|-
| 33
! {{none|ししやの1}}死者のための音楽<br>山白朝子短篇集
| [[幽BOOKS]] || rowspan="3"|山白朝子 || rowspan="3"|- || rowspan="2"|[[メディアファクトリー]] || 2007-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-8401-2092-0}}}} || rowspan="3"|「長い旅のはじまり」「井戸を下りる」「黄金工場」「未完の像」「鬼物語」「鳥とファフロッキーズ現象について」「死者のための音楽」
|-
| 34
! rowspan="2"|{{none|ししやの2}}死者のための音楽
| [[MF文庫ダ・ヴィンチ]] || 2011-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-8401-4328-8}}}}
|-
| 35
| 角川文庫 || [[KADOKAWA]] || 2013-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-101076-1}}}}
|-
| 36
! rowspan="3"|{{none|さふつく}}[[The Book (小説)|“The Book” jojo's bizarre adventure 4th another day]]
| - || rowspan="3"|乙一 || rowspan="3"|原作:[[荒木飛呂彦]] || rowspan="3"|集英社 || 2007-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-780476-8}}}} || rowspan="3"|『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』Part4 [[ダイヤモンドは砕けない]]の後日談を描いたノベライズ
|-
| 37
| JUMP j BOOKS || 2011-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-703255-0}}}}
|-
| 38
| 集英社文庫 || 2012-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-745012-5}}}}
|-
| 39
! rowspan="2"|{{none|ももせこ}}[[百瀬、こっちを向いて。]]
| - || rowspan="2"|中田永一 || rowspan="2"|- || rowspan="2"|[[祥伝社]] || 2008-05 || {{small|{{ISBN2|978-4-396-63297-7}}}} || rowspan="2"|「百瀬、こっちを向いて。」「なみうちぎわ」「キャベツ畑に彼の声」「小梅が通る」
|-
| 40
| [[祥伝社文庫]] || 2010-08 || {{small|{{ISBN2|978-4-396-33608-0}}}}
|-
| 41
! rowspan="2"|{{none|きちしよ}}[[吉祥寺の朝日奈くん]]
| - || rowspan="2"|中田永一 || rowspan="2"|- || rowspan="2"|祥伝社 || 2009-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-396-63330-1}}}} || rowspan="2"|「交換日記はじめました!」「ラクガキをめぐる冒険」「三角形はこわさないでおく」「うるさいおなか」「吉祥寺の朝日奈くん」
|-
| 42
| 祥伝社文庫 || 2012-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-396-33802-2}}}}
|-
| 43
! {{none|まかいた}}[[魔界探偵冥王星O|魔界探偵冥王星O<br>ヴァイオリンのV]]
| 講談社ノベルス || [[越前魔太郎]] || 絵:[[redjuice]] || 講談社 || 2010-04 || {{small|{{ISBN2|978-4-06-182711-0}}}} || -
|-
| 44
! なみだめネズミ<br>イグナートのぼうけん
| - || 乙一 || 絵:小松田大全 || 集英社 || 2010-08 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-780574-1}}}} || 児童書
|-
| 45
! rowspan="2"|{{none|はこにわ}}箱庭図書館
| - || rowspan="2"|乙一 || rowspan="2"|原作:(備考参照) || rowspan="2"|集英社 || 2011-03 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-771386-2}}}} || rowspan="2"|「小説家のつくり方」(原作:黄兎『蝶と街灯』)、「コンビニ日和!」(原作:泰)、「青春絶縁体」(原作:イナミツ)、「ワンダーランド」(原作:岡谷『鍵』)、「王国の旗」(原作:怜人)、「ホワイト・ステップ」(原作:たなつ『積雪メッセージ』)<br>出典は集英社サイト「オツイチ小説再生工場」で書かれた短編。一般公募された原稿を、乙一が選考し大胆にリメイクするという読者参加型企画。原作となった応募作はサイト上<ref>[http://renzaburo.jp/8528/index.html 箱庭図書館 乙一|集英社 WEB文芸 RENZABURO レンザブロー]</ref> で閲覧できる
|-
| 46
| 集英社文庫 || 2013-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-745131-3}}}}
|-
| 47
! {{none|へつとた}}ベッドタイム★ストーリー
| [[星海社FICTIONS]] 星海社朗読館 || 乙一 || 朗読:[[坂本真綾]]<br>絵:[[釣巻和]] || [[星海社]] || 2011-09 || {{small|{{ISBN2|978-4-06-138814-7}}}} || -
|-
| 48
! {{none|たいあろ}}ダイアログ・イン・ザ・ダーク
| 星海社FICTIONS 星海社朗読館 || 乙一 || 朗読:[[栗山千明]]<br>絵:釣巻和 || 星海社 || 2012-10 || {{small|{{ISBN2|978-4-06-138842-0}}}} || -
|-
| 49
! rowspan="3"|[[くちびるに歌を]]
| - || rowspan="3"|中田永一 || rowspan="3"|- || rowspan="3"|[[小学館]] || 2011-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-09-386317-9}}}} || rowspan="3"|-
|-
| 50
| [[小学館文庫]] || 2013-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-09-408881-6}}}}
|-
| 51
| 小学館ジュニア文庫 || 2015-02 || {{small|{{ISBN2|978-4-09-230793-3}}}}
|-
| 52
! rowspan="2"|{{none|えむふり}}エムブリヲ奇譚
| 幽BOOKS || rowspan="2"|山白朝子 || rowspan="2"|- || メディアファクトリー || 2012-03 || {{small|{{ISBN2|978-4-8401-4506-0}}}} || rowspan="2"|「エムブリヲ奇譚」「ラピスラズリ幻想」「湯煙事変」「〆」「あるはずのない橋」「顔無し峠」「地獄」「櫛を拾ってはならぬ」「「さあ、行こう」と少年が言った」
|-
| 53
| 角川文庫 || KADOKAWA || 2016-03 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-103716-4}}}}
|-
| 54
! rowspan="2"|{{none|わたしのさ}}私のサイクロプス
| - || rowspan="2"|山白朝子 || - || rowspan="2"|KADOKAWA || 2016-03 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-103727-0}}}} || rowspan="2"|「私のサイクロプス」「ハユタラスの翡翠」「四角い頭蓋骨と子どもたち」「鼻削ぎ寺」「河童の里」「死の山」「呵々の夜」「水汲み木箱の行方」「星と熊の悲劇」
|-
| 55
| 角川文庫 || - || 2019-02 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-107763-4}}}}
|-
| 56
! rowspan="2"|{{none|ああくの1}}Arknoah 1<br>僕のつくった怪物
| - || rowspan="2"|乙一 || 絵:[[toi8]] || rowspan="2"|集英社 || 2013-07 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-780682-3}}}} || rowspan="2"|-
|-
| 57
| 集英社文庫 || - || 2015-09 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-745358-4}}}}
|-
| 58
! rowspan="2"|{{none|ああくの2}}Arknoah 2<br>ドラゴンファイア
| - || rowspan="2"|乙一 || 絵:toi8 || rowspan="2"|集英社 || 2015-09 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-780762-2}}}} || rowspan="2"| -
|-
| 59
| 集英社文庫 || - || 2018-06 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-745750-6}}}}
|-
| 60
! rowspan="2"|{{none|ほくわし}}僕は小説が書けない
| - || rowspan="2"|中田永一 || rowspan="2"|共著:[[中村航]] || rowspan="2"|KADOKAWA || 2014-10 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-101926-9}}}} || rowspan="2"| -
|-
| 61
| 角川文庫 || 2017-06 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-105612-7}}}}
|-
| 62
! rowspan="2"|{{none|はなとあ}}[[花とアリス殺人事件]]
| - || rowspan="2"| 乙一 || rowspan="2"|原作:[[岩井俊二]] || rowspan="2"|小学館 || 2015-02 || {{small|{{ISBN2|978-4-09-386405-3}}}} || rowspan="2"|同名のアニメーション映画のノベライズ
|-
| 63
| 小学館文庫 || 2018-04 || {{small|{{ISBN2|978-4-09-406509-1}}}}
|-
| 64
! rowspan="3"|{{none|わたしわ}}私は存在が空気
| - || rowspan="3"|中田永一 || - || rowspan="2"|祥伝社 || 2015-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-396-63484-1}}}} || rowspan="3"|「少年ジャンパー」「私は存在が空気」「恋する交差点」「スモールライト・アドベンチャー」「ファイアスターター湯川さん」「サイキック人生」
|-
| 65
| 祥伝社文庫 || - || 2018-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-396-34477-1}}}}
|-
| 66
|| [[ポプラキミノベル]] || 絵:[[新井陽次郎]] || [[ポプラ社]] || 2021-03 || {{small|{{ISBN2|978-4-591-16962-9}}}}
|-
| 67
! rowspan="2"|{{none|めありい}}メアリー・スーを殺して<br>幻夢コレクション
| - || rowspan="2"|乙一<br>中田永一<br>山白朝子<br>越前魔太郎<br>安達寛高 || - ||rowspan="2"| [[朝日新聞出版]] || 2016-02 || {{small|{{ISBN2|978-4-02-251310-6}}}} || rowspan="2"|「愛すべき猿の日記」「[[山羊座の友人]]」「宗像くんと万年筆事件」「メアリー・スーを殺して」「トランシーバー」「ある印刷物の行方」「エヴァ・マリー・クロス」
|-
| 68
| [[朝日文庫]] || - || 2019-01 || {{small|{{ISBN2|978-4-02-264912-6}}}}
|-
| 69
! rowspan="2"|{{none|わたしのあ}}私の頭が正常であったなら
| - || rowspan="2"|山白朝子 || rowspan="2"|- || rowspan="2"|KADOKAWA ||2018-02 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-106435-1}}}} || rowspan="2"|「世界で一番、みじかい小説」「首なし鶏、夜をゆく」「酩酊SF」「布団の中の宇宙」「子どもを沈める」「トランシーバー」「私の頭が正常であったなら」「おやすみなさい子どもたち」
|-
| 70
| 角川文庫 || 2021-01 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-110904-5}}}}
|-
| 71
! {{none|たんてら}}ダンデライオン
| - || 中田永一 || - || 小学館 || 2018-10 || {{small|{{ISBN2|978-4-09-386499-2}}}} ||-
|-
| 72
! {{none|しようせつし}}小説 シライサン
| 角川文庫 || 乙一 || - || KADOKAWA || 2019-11 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-108760-2}}}} || -
|-
| 73
! {{none|さまあこ}}[[サマーゴースト]]
| - || 乙一 || 原案:[[loundraw]] || 集英社 || 2021-10 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-790061-3}}}} || 同名のアニメーション映画のノベライズ
|-
| 74
! {{none|いちのせ}}一ノ瀬ユウナが浮いている
| - || 乙一 || - || 集英社 || 2021-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-790063-7}}}} || 映画『サマーゴースト』の姉妹作
|-
| 75
! さよならに反する現象
| - || 乙一 || - || KADOKAWA || 2022-04 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-112074-3}}}} || 「そしてクマになる」「なごみ探偵おそ松さん・リターンズ」「家政婦」「フィルム」「悠川さんは写りたい」
|-
| 76
! {{none|しすみか}}沈みかけの船より、愛をこめて<br>幻夢コレクション
| - || 乙一<br>中田永一<br>山白朝子<br>安達寛高 || - || 朝日新聞出版 || 2022-05 || {{small|{{ISBN2|978-4-02-251823-1}}}} || 「五分間の永遠」「無人島と一冊の本」「パン、買ってこい」「電話が逃げていく」「東京」「蟹喰丸」「背景の人々」「カー・オブ・ザ・デッド」「地球に磔にされた男」「沈みかけの船より、愛をこめて」「二つの顔と表面 Two faces and a surface」
|-
| 77
! {{none|のらいぬ}}野良犬イギー
| - || 乙一 || 原作:荒木飛呂彦 || 集英社 || 2022-5 || {{small|{{ISBN2|978-4-08-790073-6}}}} || 『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の前日譚のノベライズ
|-
| 78
! {{none|かのしよ1}}彼女が生きてる世界線!(1) 僕が悪役に転生!?
| ポプラキミノベル || 中田永一 || 絵:へちま || ポプラ社 || 2022-12 || {{small|{{ISBN2|978-4-591-17577-4}}}} || -
|-
| 79
! {{none|かのしよ2}}彼女が生きてる世界線!(2) 変わっていく原作
| ポプラキミノベル || 中田永一 || 絵:へちま || ポプラ社 || 2023-04 || {{small|{{ISBN2|978-4-591-17781-5}}}} || -
|-
| 80
! {{none|しようせつか}}小説家と夜の境界
| - || 山白朝子 || - || KADOKAWA || 2023-06 || {{small|{{ISBN2|978-4-04-111654-8}}}} || 「墓場の小説家」「小説家、逃げた」「キ」「小説の怪人」「脳内アクター」「ある編集者の偏執的な恋」「精神感応小説家」
|}
=== 単行本未収録作品 ===
*[[File:Sort both small.svg]]を押すと並べ替えが可能。作品名での並べ替えは「英字→ひらがな→カタカナ→漢字」の文字コード順となる。
{|class="wikitable sortable" style="font-size:80%"
! style="width:24em"|作品名
! style="width:10em"|著者名
! style="width:32em"|初出
|-
! 動くおもちゃ
| 乙一
| 『小説すばる』2000年8月号
|-
! 神隠し
| 乙一
| 『小説すばる』2000年8月号
|-
! 妻の電話
| 乙一
| 『小説すばる』2000年8月号
|-
! [[ジョジョの奇妙な冒険]] テュルプ博士の解剖学講義
| 乙一 (原作:[[荒木飛呂彦]])
| 『読むジャンプ』(集英社、2002年10月)
|-
! 祝福された水
| 乙一
| 『ダ・ヴィンチ』2002年11月号
|-
! 階段
| 乙一
| 『悪夢制御装置』(角川文庫、2002年11月)
|-
! F先生のポケット
| 乙一
| 『ファウスト』vol.2 (2004年3月)
|-
! 子供は遠くに行った
| 乙一
| 『ファウスト』vol.4 (2004年12月)
|-
! 誰にも続かない
| 乙一・[[北山猛邦]]・[[佐藤友哉]]・[[滝本竜彦]]・[[西尾維新]]
| 『ファウスト』vol.4 (2004年12月)
|-
! もの思う葦
| 枕木憂士
| 『ファウスト』Vol.4, 5, 6 SIDE-A, 6 SIDE-B、『コミックファウスト』連載
|-
! 窓に吹く風
| 乙一
| 『ファウスト』vol.6 SIDE-A (2005年11月)
|-
! この子の絵は未完成
| 乙一
| 『七つの黒い夢』(新潮文庫、2006年3月)
|-
! UTOPIA
| 乙一
| 『ライトノベルを書く!』(小学館、2006年9月)
|-
! 物語製造装置
| 乙一
| 『2027 ボヤボヤしてたら、すぐやってくる。2027年のお話。』(ブルース・インターアクションズ、2007年4月)
|-
! おじいさんのひげのなか
| 乙一
| 『BALLAD』issue1 (2009年6月)
|-
! 電車のなかで逢いましょう
| 乙一
| 『U-cafe』オツイチ特集号 2010年11月
|-
! きのぼりごはん
| 乙一
| 『BALLAD』issue2 (2010年12月)
|-
! 鯨と煙の冒険 『百瀬、こっちを向いて。』番外編
| 中田永一
| 『ダ・ヴィンチ』2014年4月号-10月号 および JTウェブサイト「ちょっと一服ひろば」に同時掲載
|-
! 舞城王太郎
| 安達寛高
| 映画『ぼくたちは上手にゆっくりできない。』来場者特典(2015年3月)、同映画DVD初回限定版(2016年5月)
|-
! 転生勇者が実体験をもとに異世界小説を書いてみた
| 乙一
| 第2回ジャンプ恋愛小説大賞(描き下ろし短編小説)WEB掲載(2019年)、『STORY MARKET 恋愛小説編』(集英社文庫、2021年3月)
|-
! ステイホーム殺人事件
| 乙一
| 『ステイホームの密室殺人 2 コロナ時代のミステリー小説アンソロジー』(星海社FICTIONS、2020年9月)
|-
! AI Detective 探偵をインストールしました
| 乙一
| 『STORY BOX』6月号(2023年5月)
|-
! スコッパーの女
| 山白朝子
| 『怪と幽』vol.013(2023年4月)
|}
=== 原作・原案 ===
* 密室彼女(2006年、[[劇団、本谷有希子]])
** 出版はされていないが、上演時に会場において、乙一本人による小説形式のプロットが無料で配布された。
* 少年少女漂流記([[小説すばる]])
** 著者名は'''古屋×乙一×兎丸'''([[古屋兎丸]]が作画、乙一が原作)。単行本は、2007年2月26日発売(集英社)。
=== 映像作品 ===
映像作品においては、本名の「安達寛高」名義で作品を発表することが多い。
* 二花子の瞳 〜にかこ、の、ひとみ〜(2002年)
** 佐藤圭作監督作品。脚本:佐藤圭作・'''安達寛高'''。
* プールで泳いだ帰り道(2002年)
** 上映時間5分間の自主製作作品。監督・脚本:'''安達寛高'''。
* 立体東京(2007年)
** 赤緑メガネ([[3次元ディスプレイ|アナグリフ]])を用いた3D作品。ゆうばり応援映画祭にて上映。その後、[[桜井亜美]]との上映イベント「東京小説〜乙桜学園祭〜」としてレイトショー公開。監督:'''安達寛高'''。
* [[ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜]](2009年)
** [[佐藤信介]]監督作品。脚本:'''安達寛高'''、佐藤信介。
* 一周忌物語(2009年)
** 桜井亜美との上映イベント「天体小説〜乙桜学園祭2〜」で公開。監督・脚本:'''安達寛高'''。
* Good Night Caffeine(2015年)
** 桜井亜美、[[舞城王太郎]]とのオムニバス上映「ぼくたちは上手にゆっくりできない。」で公開。監督・脚本・編集:'''安達寛高'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.realcoffee.jp/bokutachi/|title=ぼくたちは上手にゆっくりできない。|publisher=リアルコーヒーエンタテイメント|accessdate=2021-06-05}}</ref>。
* リビング・オブ・ザ・リビングデッド(2017年)
** 第11回[[さぬき映画祭]]で公開。監督・脚本:'''安達寛高'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanukieigasai.com/lineup/2017/film10/index.html|title=若手短編プログラムC 冬のスリラー特集|publisher=[[さぬき映画祭]]|accessdate=2021-06-05}}</ref>。
* [[ウルトラマンジード]](2017年)
** シリーズ構成は'''乙一'''名義、脚本は'''安達寛高'''名義。
*[[ウルトラマンジード#映画|劇場版 ウルトラマンジード つなぐぜ! 願い!!]](2018年)
** [[坂本浩一]]監督作品。脚本協力:'''安達寛高'''。
* [[ウルトラマンR/B]](2018年)
** '''安達寛高'''名義で脚本参加。
* [[シライサン]](2020年)
** 監督・脚本:'''安達寛高'''。出演:[[飯豊まりえ]]、[[稲葉友]]、[[忍成修吾]]、[[谷村美月]]、[[江野沢愛美]]、[[染谷将太]]
* [[恐怖新聞]](2020年)
** シリーズ構成:'''乙一'''(脚本は[[高山直也]])。
* [[サマーゴースト]](2021年)
** 脚本:'''安達寛高'''。
* [[exception (アニメ)|エクセプション]](2022年)
** 原作・脚本:'''安達寛高'''。
* {{仮リンク|ぼくのデーモン|en|My_Daemon}}(Netflix 2023年11月から放送予定)
** 原作・脚本:'''安達寛高'''。
== 作品のメディア展開 ==
=== 映画 ===
* 手を握る泥棒の物語(2004年)
** 監督:[[犬童一心]]、主演:[[内山理名]]、[[忍成修吾]]
** 劇場公開ではなく[[TEPCOひかり]]のコンテンツサイトで公開された。
* [[ZOO (乙一)|ZOO]](2005年)
** 全国の劇場で公開された初の映画化作品。
** 単行本収録作のうち「カザリとヨーコ」「SEVEN ROOMS」「SO-far そ・ふぁー」「陽だまりの詩」「ZOO」の5作品を映画化。「陽だまりの詩」のみアニメーション。作品ごとに監督が異なる。
*[[暗いところで待ち合わせ#映画|暗いところで待ち合わせ]](2006年)
** 監督:[[天願大介]]、主演:[[田中麗奈]]、[[チェン・ボーリン]]
** 2006年11月25日公開。
* [[きみにしか聞こえない CALLING YOU#映画『きみにしか聞こえない』|きみにしか聞こえない]](2007年)
** 監督:[[荻島達也]]、主演:[[成海璃子]]、[[小出恵介]]
* [[KIDS (2008年の映画)|KIDS]](2008年)
** 原作:『傷 -KIZ/KIDS-』
** 監督:荻島達也、出演:[[小池徹平]]、[[玉木宏]]
* [[死にぞこないの青#映画|死にぞこないの青]](2008年)
** 監督:[[安達正軌]]、出演:[[須賀健太]]
* [[GOTH リストカット事件#映画(日本版)|GOTH]](2008年)
** 原作:『GOTH リストカット事件』
** 監督:[[高橋玄]]、出演:[[本郷奏多]]、[[高梨臨]]
* [[吉祥寺の朝日奈くん#映画|吉祥寺の朝日奈くん]](2011年)
** 監督:[[加藤章一]]、主演:[[桐山漣]]、[[星野真里]]
*[[百瀬、こっちを向いて。]](2014年)
**監督:[[耶雲哉治]]、主演:[[早見あかり]]。
* [[くちびるに歌を#映画|くちびるに歌を]](2015年<!--2月28日公開-->)
** 監督:[[三木孝浩]]、脚本:持地佑季子・登米裕一、主演:[[新垣結衣]]、配給:[[アスミック・エース]]
=== 漫画 ===
* はじめ(作画:[[小畑健]]、[[週刊少年ジャンプ]])
** 週刊少年ジャンプ2003年5号(前編)と6・7合併号(後編)に掲載された読み切り漫画。
* GOTH(作画:[[大岩ケンヂ]]、[[月刊少年エース]])
** 単行本({{ISBN2|978-4-04-713553-6}}、カドカワコミックス・エース)として出版されている。
* 傷 -KIZ/KIDS-([[月刊Asuka|あすか]])
* きみにしか聞こえない CALLING YOU([[月刊Asuka|あすか]])
** 単行本(あすかコミックスDX)「傷 -KIZ/KIDS-」も収録。
* きみにしか聞こえない(作画:[[清原紘]]、[[月刊少年エース]])
** 単行本({{ISBN2|978-4-04-713938-1}}、カドカワコミックス・エース)として出版されている。
* 死にぞこないの青(作画:[[山本小鉄子]]、[[ミステリーBst.]])
** 単行本({{ISBN2|978-4-344-81796-8}}、[[幻冬舎コミックス]])。「死にぞこないの青」「暗いところで待ち合わせ」「しあわせは子猫のかたち」の3作を収録。
* ZOO(作画:[[矢也晶久]]、[[ヤングジャンプ]]増刊『[[漫革]]』)
** 単行本({{ISBN2|978-4-08-782152-9}})には「カザリとヨーコ」「神の言葉」「陽だまりの詩」「ZOO」が収録されている。
* 失踪HOLIDAY(作画:清原紘、ビーンズエース)
** 単行本({{ISBN2|978-4-04-713878-0}}、エースコミックス)が2006年11月25日に発売された。
* [[くちびるに歌を]](作画:[[モリタイシ]]、[[ゲッサン|月刊少年サンデー]])
** 単行本1巻({{ISBN2|978-4-09-124405-5}})2巻({{ISBN2|978-4-09-124607-3}}、共にゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)が発売されている。
* [[山羊座の友人]](作画:[[ミヨカワ将]]、[[少年ジャンプ+]])
** 単行本({{ISBN2|978-4-08-880399-9}}、[[ジャンプ・コミックス]])が2015年6月4日に発売された。
* エムブリヲ奇譚(作画:[[屋乃啓人]])
** 単行本({{ISBN2|978-4-04-069251-7}}、カドカワコミックス)が2017年6月23日に発売された。
=== 絵本 ===
* ボクのかしこいパンツくん(2012年9月、[[イースト・プレス]])
** 絵:[[長崎訓子]]、原作:『ボクの賢いパンツくん』
=== ドラマCD ===
* きみにしか聞こえない CALLING YOU(2003年[[スニーカーCDコレクション]])
** 監督:[[郷田ほづみ]]、脚本:'''乙一'''・[[大坂尚子]]、主演:[[新谷良子]]、[[入野自由]]
** 装画:[[羽住都]]
=== ラジオドラマ ===
* しあわせは子猫のかたち
** [[2005年]][[3月12日]]19時00分〜20時00分に[[TBSラジオ]]で[[ラジオワールド]]特別番組として放送された。
** 脚色:高田勝博、出演:[[伊藤陽佑]]・[[大塚ちひろ]]・[[渡辺武彦]]、技術:とみさわよしみつ、演出:飯島和明
** 本作はTBSラジオとして4年ぶりのラジオドラマである。
=== テレビドラマ ===
* 失踪HOLIDAY(2007年、テレビ朝日)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{cite journal|和書|author=[[宣伝会議]]|year=2008|title=巻頭特集 物語=グラフ・編集者=ソムリエ 乙一の小説公式|journal=Web & Publishing 編集会議|publisher=宣伝会議|issue=85|pages=6-19|ref=harv}}
*{{cite journal|和書|author=[[速水由紀子]]|year=2015|title=現代の肖像 作家 乙一 すべては行間にある|journal=[[AERA]]|publisher=朝日新聞出版|volume=28|issue=50|pages=48-52|ref=harv}}
*{{cite journal|和書|author=[[円堂都司昭]]|year=2005|title=インタビュー 乙一 ライトノベルと、ガラスのコップ (特集 ポストライトノベルの時代へ)|journal=小説TRIPPER|issue=2005年春号||publisher=朝日新聞出版|pages=44-51|ref=harv}}
*{{cite journal|和書|author=[[友井羊]]|year=2014|title=ぼくは乙一作品を教科書に、作家になった。 (特集 乙一スペシャル : それでも作家志望の君へ。)|journal=小説TRIPPER|issue=2014年冬号|publisher=朝日新聞出版|pages=44-48|ref=harv}}
*{{cite journal|和書|author=小山田桐子|year=2007|title=フロント・インタビュー(No.133) 安達寛高(乙一)|journal=[[キネマ旬報]]|publisher=キネマ旬報社|issue=1484|pages=6-8|ref=harv}}
*{{cite journal|和書|author=PHP文庫「文蔵」編集部 |year=2007|title=注目株ガイド だから気になる「この8人」―綿矢りさ/乙一/白岩玄/青山七恵/辻村深月/羽田圭介/神山裕右/矢部嵩 (特集 「20代作家」に注目!)|journal=文蔵|publisher=PHP研究所|volume=21|pages=25-35|ref=harv}}
== 外部リンク ==
* [http://www.shueisha.co.jp/otsuichi/ Web Otsuichi] - 集英社の公式サイト
* [http://www.jalan.net/jalan/doc/news/it_niigata/ 作家が綴る旅のショート・ストーリー「いつかの新潟」]
** 単行本未収録作品「祝福された水」が公開されている。
* [http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi69.html 作家の読書道 第69回 乙一さん] - インタビュー
* [http://www.realcoffee.jp/ REALCOFFEE] - 乙一(安達寛高)が所属する映像制作ユニット
* {{Twitter|adachihirotaka|安達寛高}}
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10,220 |
念仏平和主義
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念仏平和主義(ねんぶつへいわしゅぎ)とは、あたかも念仏のごとく「平和、平和」と唱えていれば平和になると信じる戦後日本の風潮を皮肉った言葉である。
歴史作家司馬遼太郎が新聞のコラムの中で用いた造語とされる。
主に、非武装中立論を提唱する論者に対してこの言葉が使われる。
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10,222 |
ランタン
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ランタン(独: Lanthan [lanˈtaːn]、英: lanthanum [ˈlænθənəm])は、原子番号57の元素。元素記号は La。柔らかく、展延性がある銀白色の金属で、空気にさらすとゆっくりと錆び、ナイフで切れるほど柔らかくなる。周期表におけるランタンからルテチウムまでの15の類似元素のグループであるランタノイドの名前の由来であり、そのグループの先頭及びプロトタイプである。第6周期の遷移金属の最初の元素とみなされることもあり、これは第3族に置かれることになるが、代わりにルテチウムがこの位置に置かれることもある。ランタンは伝統的に希土類元素に含まれる。通常の酸化数は+3である。ヒトでは生物学的役割はないが、一部の細菌にとっては不可欠である。特にヒトに有毒ではないがいくらかの抗菌活性を示す。ランタン原子の基底状態はD3/2、イオンの基底状態はSと表される。
ランタンは通常セリウムや他の希土類元素と一緒に生じる。ランタンは1839年に硝酸セリウムの不純物としてスウェーデンの化学者カール・グスタフ・モサンデルにより発見された。それゆえに、名称 lanthanum は古代ギリシア語で「隠れる」を意味する λανθάνειν(lanthanein)に由来する。希土類元素に分類されるが、地殻中に28番目に多く存在し、鉛の約3倍の量存在している。モナザイトやバストネサイトなどの鉱物において、ランタンは含まれるランタノイドの約4分の1を構成している。ランタンは、1923年まで純粋なランタン金属が単離されなかったほど複雑な過程を経ることで、これらの鉱物から抽出される。
ランタンの化合物は触媒、ガラスの添加剤、スタジオ用の照明や映写機の炭素アーク灯、ライターやトーチの点火元素、電子陰極、シンチレータ、GTAW電極など多くの用途がある。炭酸ランタンは腎不全で血液中のリン酸塩濃度が高い場合のリン酸塩結合剤として使用される。
ランタンはランタン系列(ランタノイド)のプロトタイプとなる最初の元素である。周期表では、アルカリ土類金属であるバリウムの右、ランタノイドのセリウムの左に位置する。ランタンは、軽い同族体のスカンジウム、イットリウムや重い放射性のアクチノイドとともに第3族元素と考えられているが、この分類は議論されることもある。スカンジウム、イットリウムやアクチニウム同様、ランタン原子の57個の電子は[Xe]5d6sという配置になっており、3つの価電子が貴ガス中心の外側にある。化学反応においては、ほとんどの場合酸化数+3を形成するために5dおよび6s亜殻からこれら3つの価電子を放出し、貴ガスであるキセノンの安定配置を達成する。いくつかのランタン(II)化合物も知られてはいるが、ずっと安定性が低い。
ランタノイドの中でも、ランタンは任意の4f電子を持っていないため例外的である。実際、ランタノイドの化学的性質にとって重要な4f軌道の急激な収縮とエネルギー低下はセリウムで生じ始める。それゆえ、強い常磁性を持つ以降のランタノイド(最後の2つであるイッテルビウムとルテチウムは例外で4f殻が完全に満たされている)とは異なり非常に弱い常磁性を持つだけである。さらに、3価のランタノイドの融点は6s, 5d, 4f電子のハイブリッド形成の程度に関係しているため、ランタンの融点は全ランタノイドの中でセリウムに次いで2番目に低い920 °Cである。ランタノイドは左から右にいくほど硬くなり、その予想通りランタンは柔らかい金属である。室温で615 nΩmと比較的高い抵抗率を持っており、これと比較して良い導体であるアルミニウムは26.50 nΩmに過ぎない。ランタノイドの中で最も揮発性が低い。ほとんどのランタノイド同様、室温で六方晶構造を持つ。310 °Cで面心立方構造に変化し、865 °Cで体心立方構造に変化する。
周期表の傾向から予想されるように、ランタンはランタノイドで最大の原子半径を持ち、安定な第3族元素である。したがって、ランタノイドの中で最も反応性が高く、空気中でゆっくりと錆び、容易に燃焼して酸化カルシウムとほぼ同じ塩基性の酸化ランタン(III)La2O3を形成する。ランタンのセンチメートルサイズの試料はアルミニウムやランタンの軽い同族体であるスカンジウムやイットリウムのように保護酸化物コーティングを形成するのではなく鉄の錆のように酸化物が破砕するため、1年で完全に腐食する。ランタンは室温でハロゲンと反応して三ハロゲン化物を形成し、温めると非金属の窒素、炭素、硫黄、リン、ホウ素、セレン、ケイ素およびヒ素と二元化合物を形成する。水とゆっくり反応して水酸化ランタン(III)La(OH)3を形成する。希硫酸中では、容易に水和三陽性イオン[La(H2O)9]を形成する。Laはf電子を持たないため、水溶液中では無色である。ランタノイドの中で最も強く最も硬い塩基であり、これはランタノイドの中で最大であることから予想される。
自然発生するランタンは安定したLaと原始の長寿命放射性同位体であるLaの2つの同位体で構成される。Laの方がずっと多く、天然ランタンの99.910%を占める。これはs過程(低度から中程度の質量の星で生じる低速中性子捕獲)およびr過程(コア崩壊超新星で生じる高速中性子捕獲)で生成する。非常にまれな同位体Laは数少ない原始奇数奇数原子核の1つであり、半減期は1.05×10 年と長い。これはs過程とr過程で生成できない陽子の多いp原子核の1つである。Laはより珍しいTaとともにニュートリノが安定した原子核と相互作用するν過程で生成される。他の全てのランタンの同位体は合成により作られ、半減期が約6万年のLaを除いては、半減期はすべて1日未満であり、ほとんどの半減期が1分未満である。同位体LaおよびLaはウランの核分裂により生じる。
酸化ランタンは、それを構成する元素を直接反応させることで調製できる白色固体である。Laイオンが大きいため、La2O3は六方晶7配位構造をとり、高温では酸化スカンジウム(Sc2O3)や酸化イットリウム (Y2O3) の6配位構造に変化する。水と反応すると水酸化ランタンが生成し、この反応では多くの熱が生じシューという音がする。水酸化ランタンは大気中の二酸化炭素と反応して塩基性炭酸塩を生成する。
フッ化ランタンは水に不溶であり、Laの存在を確認するための定性試験として使うことができる。重いハロゲン化合物はすべて非常に可溶性の高い潮解化合物である。無水ハロゲン化合物は、水和物を加熱すると加水分解を引き起こすため、それらの元素の直接反応により生成される。例えば、水和したLaCl3を加熱するとLaOClが生成される。
ランタンは水素と発熱的に反応して二水素化物LaH2を生成する。これは黒色で自然発火し、脆くフッ化カルシウム構造の導電性化合物である。これは非化学量論的な化合物であり、より塩であるLaH3となるまで電気伝導度の損失を伴う水素のさらなる吸収が可能となる。LaI2やLaIと同様に、LaH2はおそらく電子化物である。
Laはイオン半径が大きく電気的陽性度が大きいため、結合に対する共有結合の寄与はあまりなく、したがってイットリウムや他のランタノイドのように限定的な配位化学を持つ。シュウ酸ランタンはアルカリ金属シュウ酸溶液にはあまり溶解せず、[La(acac)3(H2O)2]は500 °C付近で分解する。酸素はランタン錯体の中で最も一般的なドナー原子である。この錯体はほとんどがイオン性であり、しばしば6以上の高い配位数を有し、8が最も特徴的であり、反四角柱形とデルタ十二面体構造を形成する。これらの高配位種はLa2(SO4)3·9H2Oのようなキレート配位子を用いることで配位数は12にまでなり、しばしば立体化学的な要因により対称性が低い。
ランタンの化学的性質は元素の電子配置のためにπ結合を伴わない傾向があり、それゆえ有機金属化学は非常に限られている。最も特徴的な有機ランタン化合物は、テトラヒドロフラン中で無水のLaCl3をNaC5H5と反応させて作られるシクロペンタジエニル錯体La(C5H5)3やそのメチル置換誘導体である。
1751年、スウェーデンの鉱物学者アクセル・フレドリク・クルーンステットはBastnäsの鉱山から重い鉱物を発見した。これは後にセライト(cerite)と命名される。30年後、15歳のVilhelm Hisingerが家族が所有していた鉱山からその試料をカール・シェーレに送ったが、シェーレはその中に新元素を発見することはできなかった。1803年、Hisingerが ironmaster となった後、イェンス・ベルセリウスとともにこの鉱物に立ち返り新たな酸化物を単離し、2年前に発見された準惑星セレスにちなんでセリア (ceria) と名付けた。セリアは同時に独立にドイツでマルティン・ハインリヒ・クラプロートにより単離された。1839年から1843年まで、セリアはベルセリウスと同じ家に住んでいたスウェーデンの外科医・化学者のカール・グスタフ・モサンデルにより酸化物の混合物であることが示された。彼は2つの酸化物を分離し、ランタナ(lanthana)とジジミア(didymia)と名付けた。彼は硝酸セリウム(英語版)の試料を空気中で焙じ、得られた酸化物を希硝酸で処理することで部分的に分解した。ランタンの特性はセリウムの特性とわずかに異なるのみで、その塩の中で一緒に発生するため、これを古代ギリシア語の λανθάνειν [lanthanein](隠れる、人目を避ける)から命名した。比較的純粋なランタン金属は、1923年に最初に単離された。
ランタンはすべてのランタノイドの中で3番目に豊富に存在する。地殻の39 mg/kgを占め、これはセリウムの66.5 mg/kgとネオジムの41.5 mg/kgに次ぐ多さである。地殻では鉛の約3倍存在する。いわゆる「希土類元素」に含まれているが、このように全く珍しくない。しかし、石灰やマグネシアなどの「一般的な土類」よりはまれであり、歴史的に少数の堆積物しか知られていないためこのような名前がついている。採掘過程が難しく、時間がかかり、高価であるため希土類金属と見なされている。希土類鉱物で見つけられる主要なランタノイドであることは滅多になく、化学式では通常セリウムの方が多い。Laの方が多い鉱物の珍しい例はモナザイト-(La)や ランタナイト-(La)である。
Laイオンは周期表ですぐ後に続くセリウムグループの前半のランタノイド(サマリウムとユーロピウムまで)と同様の大きさであるため、リン酸塩、ケイ酸塩、炭酸塩などの鉱物でそれらと一緒に生じる傾向にある。鉱物にはモナザイト (MPO4) やバストネサイト (MCO3F)があり、ここでMはスカンジウムおよび放射性プロメチウム(ほとんどはCe, La, Y)を除くすべての希土類金属を指す。バストネサイトは通常、トリウムと重いランタノイドが不足しており、これから軽いランタノイドの精製にはあまり関わらない。鉱石は粉砕されたのち最初高温の濃硫酸で処理され、二酸化炭素、フッ化水素、四フッ化ケイ素が生じる。次に生成物は乾燥され水で浸出され、ランタン含む前半のランタノイドのイオンが溶液中に残る。
通常全ての希土類とトリウムを含むモナザイトに対する手順の方がより複雑になる。モナザイトはその磁気特性により、電磁分離を繰り返すことで分離できる。分離後、熱濃硫酸で処理すると、希土類の水溶性硫酸塩が生じる。酸性の濾過液は水酸化ナトリウムで部分的に中和され、pH 3–4になる。トリウムは水酸化物として溶液から沈殿し取り除かれる。この後、溶液をシュウ酸アンモニウムで処理し、希土類を不溶性のシュウ酸塩に変化させる。シュウ酸塩はアニーリングにより酸化物に変化する。酸化物は硝酸に溶かされ、その酸化物が硝酸に不溶であり、主要な成分の1つであるセリウムが取り除かれる。ランタンは結晶化により硝酸アンモニウムとの複塩として分離される。この塩は他の希土類複塩よりも溶解度が比較的低いため、残留物として残る。強力なガンマ線を放出するThの娘であるRaが含まれているため、一部の残留物を処理するときには注意が必要である。ランタンは隣接するランタノイドがセリウム1つであるため比較的簡単に抽出できる。セリウムは酸化数+4に酸化されることを利用して取り除くことができる。その後、La(NO3)3·2NH4NO3·4H2の分別晶析法の歴史的な方法、もしくはより高い純度が望まれる場合はイオン交換技術によりランタンを分離することができる。
金属ランタンはその酸化物を塩化アンモニウムまたはフッ化アンモニウム及びフッ化水素酸とともに300-400 °Cで加熱して塩化物やフッ化物を生成することにより得られる。
これに続いて真空中もしくはアルゴン雰囲気中ではアルカリまたはアルカリ土類金属による還元が行われる。
また、純粋なランタンは高温で無水LaCl3およびNaClかKClの溶融混合物の電気分解によっても生成できる。
La2O3 がセラミックコンデンサや、光学レンズの材料に使われる。また、LaNi5 は水素吸蔵合金として注目されている。炭酸ランタンが腎不全患者のリン吸収阻害薬(腸管内でリン化合物を形成し吸収を阻害する)として使用されている。
ヨハネス・ベドノルツとカール・アレクサンダー・ミュラーが最初に発見(発表)した高温超伝導物質(この時点では転移温度は、それほど高温ではなかった)がランタンを含む銅酸化物セラミックスだった。
ランタンの歴史的な最初の用途は、ガスランタンマントルである。カール・ヴェルスバッハは酸化ランタンと酸化ジルコニウムの混合物を使用し、これをActinophorと呼び1886年に特許を取得した。元々のマントルは緑色の光を発しあまり成功せず、1887年にAtzgersdorfに工場を設立した彼の最初の会社は1889年に失敗した。
ランタンの現代的な用途は以下。
ランタンはヒトでの生物学的役割は知られていない。この元素は経口投与後は非常に吸収が悪く、注射した場合その排泄は非常に遅い。炭酸ランタン(Fosrenol)は末期腎疾患の場合に過剰なリン酸塩を吸収するためのリン酸塩結合剤として承認された。
ランタンはいくつかの受容体やイオンチャネルに対して薬理学的効果を持つが、GABA受容体に対する特異性は3価の陽イオンの中でも独特である。ランタンは、ネガティブアロステリックモジュレーターとして知られる亜鉛のGABA受容体上の同じモジュレーター部位で作用する。ランタン陽イオンLaはネイティブおよび組換えGABA受容体においてポジティブアロステリックモジュレーターであり、サブユニット配置に依存した方法で開口チャネル時間を増加させ、脱感作を減少させる。
ランタンはメタン資化細菌Methylacidiphilum fumariolicum SolVのメタノールデヒドロゲナーゼに必須の補因子であるが、ランタノイドの化学的類似性が非常に高いため、セリウム、プラセオジム、ネオジムで置換しても悪影響はなく、それより小さいサマリウム、ユーロピウム、ガドリニウムでも成長が遅い以外の副作用はない。
ランタンは低度から中度の毒性を持ち、取り扱いには注意が必要である。ランタン溶液を注射すると、高血糖症、低血圧、脾臓の変性、肝臓の変化が生じる。炭素アーク灯に用いたことで人々を希土類元素の酸化物やフッ化物にさらし、ときに塵肺を引き起こした。LaイオンはCaイオンと大きさが似ているため、医学研究では後者のトレースが簡単にできる代替物として使用されることがある。他のランタノイド同様、ヒトの代謝に影響を与え、コレステロール値、血圧、食欲、血液凝固のリスクを低下させることが知られている。脳に注射するとモルヒネや他のアヘン剤同様鎮痛剤として機能するが、その背後にあるメカニズムは現在のところ不明である。
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"text": "Laはイオン半径が大きく電気的陽性度が大きいため、結合に対する共有結合の寄与はあまりなく、したがってイットリウムや他のランタノイドのように限定的な配位化学を持つ。シュウ酸ランタンはアルカリ金属シュウ酸溶液にはあまり溶解せず、[La(acac)3(H2O)2]は500 °C付近で分解する。酸素はランタン錯体の中で最も一般的なドナー原子である。この錯体はほとんどがイオン性であり、しばしば6以上の高い配位数を有し、8が最も特徴的であり、反四角柱形とデルタ十二面体構造を形成する。これらの高配位種はLa2(SO4)3·9H2Oのようなキレート配位子を用いることで配位数は12にまでなり、しばしば立体化学的な要因により対称性が低い。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ランタンの化学的性質は元素の電子配置のためにπ結合を伴わない傾向があり、それゆえ有機金属化学は非常に限られている。最も特徴的な有機ランタン化合物は、テトラヒドロフラン中で無水のLaCl3をNaC5H5と反応させて作られるシクロペンタジエニル錯体La(C5H5)3やそのメチル置換誘導体である。",
"title": "化合物"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1751年、スウェーデンの鉱物学者アクセル・フレドリク・クルーンステットはBastnäsの鉱山から重い鉱物を発見した。これは後にセライト(cerite)と命名される。30年後、15歳のVilhelm Hisingerが家族が所有していた鉱山からその試料をカール・シェーレに送ったが、シェーレはその中に新元素を発見することはできなかった。1803年、Hisingerが ironmaster となった後、イェンス・ベルセリウスとともにこの鉱物に立ち返り新たな酸化物を単離し、2年前に発見された準惑星セレスにちなんでセリア (ceria) と名付けた。セリアは同時に独立にドイツでマルティン・ハインリヒ・クラプロートにより単離された。1839年から1843年まで、セリアはベルセリウスと同じ家に住んでいたスウェーデンの外科医・化学者のカール・グスタフ・モサンデルにより酸化物の混合物であることが示された。彼は2つの酸化物を分離し、ランタナ(lanthana)とジジミア(didymia)と名付けた。彼は硝酸セリウム(英語版)の試料を空気中で焙じ、得られた酸化物を希硝酸で処理することで部分的に分解した。ランタンの特性はセリウムの特性とわずかに異なるのみで、その塩の中で一緒に発生するため、これを古代ギリシア語の λανθάνειν [lanthanein](隠れる、人目を避ける)から命名した。比較的純粋なランタン金属は、1923年に最初に単離された。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "ランタンはすべてのランタノイドの中で3番目に豊富に存在する。地殻の39 mg/kgを占め、これはセリウムの66.5 mg/kgとネオジムの41.5 mg/kgに次ぐ多さである。地殻では鉛の約3倍存在する。いわゆる「希土類元素」に含まれているが、このように全く珍しくない。しかし、石灰やマグネシアなどの「一般的な土類」よりはまれであり、歴史的に少数の堆積物しか知られていないためこのような名前がついている。採掘過程が難しく、時間がかかり、高価であるため希土類金属と見なされている。希土類鉱物で見つけられる主要なランタノイドであることは滅多になく、化学式では通常セリウムの方が多い。Laの方が多い鉱物の珍しい例はモナザイト-(La)や ランタナイト-(La)である。",
"title": "存在比・製造"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "Laイオンは周期表ですぐ後に続くセリウムグループの前半のランタノイド(サマリウムとユーロピウムまで)と同様の大きさであるため、リン酸塩、ケイ酸塩、炭酸塩などの鉱物でそれらと一緒に生じる傾向にある。鉱物にはモナザイト (MPO4) やバストネサイト (MCO3F)があり、ここでMはスカンジウムおよび放射性プロメチウム(ほとんどはCe, La, Y)を除くすべての希土類金属を指す。バストネサイトは通常、トリウムと重いランタノイドが不足しており、これから軽いランタノイドの精製にはあまり関わらない。鉱石は粉砕されたのち最初高温の濃硫酸で処理され、二酸化炭素、フッ化水素、四フッ化ケイ素が生じる。次に生成物は乾燥され水で浸出され、ランタン含む前半のランタノイドのイオンが溶液中に残る。",
"title": "存在比・製造"
},
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"text": "通常全ての希土類とトリウムを含むモナザイトに対する手順の方がより複雑になる。モナザイトはその磁気特性により、電磁分離を繰り返すことで分離できる。分離後、熱濃硫酸で処理すると、希土類の水溶性硫酸塩が生じる。酸性の濾過液は水酸化ナトリウムで部分的に中和され、pH 3–4になる。トリウムは水酸化物として溶液から沈殿し取り除かれる。この後、溶液をシュウ酸アンモニウムで処理し、希土類を不溶性のシュウ酸塩に変化させる。シュウ酸塩はアニーリングにより酸化物に変化する。酸化物は硝酸に溶かされ、その酸化物が硝酸に不溶であり、主要な成分の1つであるセリウムが取り除かれる。ランタンは結晶化により硝酸アンモニウムとの複塩として分離される。この塩は他の希土類複塩よりも溶解度が比較的低いため、残留物として残る。強力なガンマ線を放出するThの娘であるRaが含まれているため、一部の残留物を処理するときには注意が必要である。ランタンは隣接するランタノイドがセリウム1つであるため比較的簡単に抽出できる。セリウムは酸化数+4に酸化されることを利用して取り除くことができる。その後、La(NO3)3·2NH4NO3·4H2の分別晶析法の歴史的な方法、もしくはより高い純度が望まれる場合はイオン交換技術によりランタンを分離することができる。",
"title": "存在比・製造"
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"tag": "p",
"text": "金属ランタンはその酸化物を塩化アンモニウムまたはフッ化アンモニウム及びフッ化水素酸とともに300-400 °Cで加熱して塩化物やフッ化物を生成することにより得られる。",
"title": "存在比・製造"
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{
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"tag": "p",
"text": "これに続いて真空中もしくはアルゴン雰囲気中ではアルカリまたはアルカリ土類金属による還元が行われる。",
"title": "存在比・製造"
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"tag": "p",
"text": "また、純粋なランタンは高温で無水LaCl3およびNaClかKClの溶融混合物の電気分解によっても生成できる。",
"title": "存在比・製造"
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"tag": "p",
"text": "La2O3 がセラミックコンデンサや、光学レンズの材料に使われる。また、LaNi5 は水素吸蔵合金として注目されている。炭酸ランタンが腎不全患者のリン吸収阻害薬(腸管内でリン化合物を形成し吸収を阻害する)として使用されている。",
"title": "用途"
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"tag": "p",
"text": "ヨハネス・ベドノルツとカール・アレクサンダー・ミュラーが最初に発見(発表)した高温超伝導物質(この時点では転移温度は、それほど高温ではなかった)がランタンを含む銅酸化物セラミックスだった。",
"title": "用途"
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"tag": "p",
"text": "ランタンの歴史的な最初の用途は、ガスランタンマントルである。カール・ヴェルスバッハは酸化ランタンと酸化ジルコニウムの混合物を使用し、これをActinophorと呼び1886年に特許を取得した。元々のマントルは緑色の光を発しあまり成功せず、1887年にAtzgersdorfに工場を設立した彼の最初の会社は1889年に失敗した。",
"title": "用途"
},
{
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"text": "ランタンの現代的な用途は以下。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ランタンはヒトでの生物学的役割は知られていない。この元素は経口投与後は非常に吸収が悪く、注射した場合その排泄は非常に遅い。炭酸ランタン(Fosrenol)は末期腎疾患の場合に過剰なリン酸塩を吸収するためのリン酸塩結合剤として承認された。",
"title": "生物学的役割"
},
{
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"text": "ランタンはいくつかの受容体やイオンチャネルに対して薬理学的効果を持つが、GABA受容体に対する特異性は3価の陽イオンの中でも独特である。ランタンは、ネガティブアロステリックモジュレーターとして知られる亜鉛のGABA受容体上の同じモジュレーター部位で作用する。ランタン陽イオンLaはネイティブおよび組換えGABA受容体においてポジティブアロステリックモジュレーターであり、サブユニット配置に依存した方法で開口チャネル時間を増加させ、脱感作を減少させる。",
"title": "生物学的役割"
},
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"tag": "p",
"text": "ランタンはメタン資化細菌Methylacidiphilum fumariolicum SolVのメタノールデヒドロゲナーゼに必須の補因子であるが、ランタノイドの化学的類似性が非常に高いため、セリウム、プラセオジム、ネオジムで置換しても悪影響はなく、それより小さいサマリウム、ユーロピウム、ガドリニウムでも成長が遅い以外の副作用はない。",
"title": "生物学的役割"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ランタンは低度から中度の毒性を持ち、取り扱いには注意が必要である。ランタン溶液を注射すると、高血糖症、低血圧、脾臓の変性、肝臓の変化が生じる。炭素アーク灯に用いたことで人々を希土類元素の酸化物やフッ化物にさらし、ときに塵肺を引き起こした。LaイオンはCaイオンと大きさが似ているため、医学研究では後者のトレースが簡単にできる代替物として使用されることがある。他のランタノイド同様、ヒトの代謝に影響を与え、コレステロール値、血圧、食欲、血液凝固のリスクを低下させることが知られている。脳に注射するとモルヒネや他のアヘン剤同様鎮痛剤として機能するが、その背後にあるメカニズムは現在のところ不明である。",
"title": "危険性"
}
] |
ランタンは、原子番号57の元素。元素記号は La。柔らかく、展延性がある銀白色の金属で、空気にさらすとゆっくりと錆び、ナイフで切れるほど柔らかくなる。周期表におけるランタンからルテチウムまでの15の類似元素のグループであるランタノイドの名前の由来であり、そのグループの先頭及びプロトタイプである。第6周期の遷移金属の最初の元素とみなされることもあり、これは第3族に置かれることになるが、代わりにルテチウムがこの位置に置かれることもある。ランタンは伝統的に希土類元素に含まれる。通常の酸化数は+3である。ヒトでは生物学的役割はないが、一部の細菌にとっては不可欠である。特にヒトに有毒ではないがいくらかの抗菌活性を示す。ランタン原子の基底状態は2D3/2、イオンの基底状態は1Sと表される。 ランタンは通常セリウムや他の希土類元素と一緒に生じる。ランタンは1839年に硝酸セリウムの不純物としてスウェーデンの化学者カール・グスタフ・モサンデルにより発見された。それゆえに、名称 lanthanum は古代ギリシア語で「隠れる」を意味する λανθάνειν(lanthanein)に由来する。希土類元素に分類されるが、地殻中に28番目に多く存在し、鉛の約3倍の量存在している。モナザイトやバストネサイトなどの鉱物において、ランタンは含まれるランタノイドの約4分の1を構成している。ランタンは、1923年まで純粋なランタン金属が単離されなかったほど複雑な過程を経ることで、これらの鉱物から抽出される。 ランタンの化合物は触媒、ガラスの添加剤、スタジオ用の照明や映写機の炭素アーク灯、ライターやトーチの点火元素、電子陰極、シンチレータ、GTAW電極など多くの用途がある。炭酸ランタンは腎不全で血液中のリン酸塩濃度が高い場合のリン酸塩結合剤として使用される。
|
{{Otheruses|元素のランタン|照明器具|ランタン (照明器具)|その他}}
{{元素
|name=lanthanum
|japanese name=ランタン
|number=57
|symbol=La
|pronounce={{IPAc-en|ˈ|l|æ|n|θ|ən|əm}}
|left=[[バリウム]]
|right=[[セリウム]]
|above=-
|below=[[アクチニウム|Ac]]
|series=ランタノイド
|group=3
|period=6
|block=f
|altblock=d
|image name=Lanthanum-2.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=138.90547
|electron configuration=[[[キセノン|Xe]]] 5d<sup>1</sup> 6s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 18, 9, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=6.162
|density gpcm3mp=5.94
|melting point K=1193
|melting point C=920
|melting point F=1688
|boiling point K=3737
|boiling point C=3464
|boiling point F=6267
|heat fusion=6.20
|heat vaporization=402.1
|heat capacity=27.11
|vapor pressure 1=2005
|vapor pressure 10=2208
|vapor pressure 100=2458
|vapor pressure 1 k=2772
|vapor pressure 10 k=3178
|vapor pressure 100 k=3726
|vapor pressure comment=(推定)
|crystal structure=hexagonal
|japanese crystal structure=[[六方晶系]]
|oxidation states='''3''', 2(強[[塩基性酸化物]])
|electronegativity=1.10
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy=538.1
|2nd ionization energy=1067
|3rd ionization energy=1850.3
|atomic radius=187
|covalent radius=207 ± 8
|magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name=magnet>{{cite book| url = http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf| title = Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds, in Handbook of Chemistry and Physics| publisher = CRC press| isbn = 0849304814| year = 2000| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf| archivedate = 2012年1月12日| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>
|electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 615 n
|thermal conductivity=13.4
|thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 12.1
|speed of sound rod at 20=2475
|Young's modulus=(α) 36.6
|Shear modulus=(α) 14.3
|Bulk modulus=(α) 27.9
|Poisson ratio=(α) 0.280
|Mohs hardness=2.5
|Vickers hardness=491
|Brinell hardness=363
|CAS number=7439-91-0
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=137 | sym=La
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=60,000 [[年|y]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.600 | pn=137 | ps=[[バリウム|Ba]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=138 | sym=La
| na=0.09% | hl=1.05 × 10<sup>11</sup> [[年|y]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=1.737 | pn1=138 | ps1=[[バリウム|Ba]]
| dm2=[[ベータ線|β<sup>-</sup>]] | de2=1.044 | pn2=138 | ps2=[[セリウム|Ce]]}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=139 | sym=La | na=99.91% | n=82}}
|isotopes comment=
}}
'''ランタン'''({{lang-de-short|Lanthan}} {{IPA-de|lanˈtaːn|}}、{{lang-en-short|lanthanum}} {{IPA-en|ˈlænθənəm|}})は、[[原子番号]]57の[[元素]]。[[元素記号]]は '''La'''。[[硬さ|柔らかく]]、[[展延性]]がある銀白色の[[金属]]で、空気にさらすとゆっくりと[[錆|錆び]]、ナイフで切れるほど柔らかくなる。[[周期表]]におけるランタンから[[ルテチウム]]までの15の類似元素のグループである[[ランタノイド]]の名前の由来であり、そのグループの先頭及びプロトタイプである。第6周期の[[遷移元素|遷移金属]]の最初の元素とみなされることもあり、これは[[第3族元素|第3族]]に置かれることになるが、代わりにルテチウムがこの位置に置かれることもある。ランタンは伝統的に[[希土類元素]]に含まれる。通常の[[酸化数]]は+3である。ヒトでは生物学的役割はないが、一部の細菌にとっては不可欠である。特にヒトに有毒ではないがいくらかの抗菌活性を示す。ランタン原子の基底状態は<sup>2</sup>D3/2、イオンの基底状態は<sup>1</sup>Sと表される。
ランタンは通常[[セリウム]]や他の[[希土類元素]]と一緒に生じる。ランタンは[[1839年]]に[[硝酸セリウム]]の不純物としてスウェーデンの化学者[[カール・グスタフ・モサンデル]]により発見された。それゆえに、名称 {{lang|en|''lanthanum''}} は[[古代ギリシア語]]で「隠れる」を意味する {{lang|grc|''λανθάνειν''}}({{lang|grc-latn|''lanthanein''}})に由来する。希土類元素に分類されるが、地殻中に28番目に多く存在し、[[鉛]]の約3倍の量存在している。[[モナザイト]]や[[バストネサイト]]などの鉱物において、ランタンは含まれるランタノイドの約4分の1を構成している<ref>
{{cite web |url=http://webmineral.com/data/Monazite-(Ce).shtml |title=Monazite-(Ce) Mineral Data |website=Webmineral |access-date=10 July 2016}}</ref>。ランタンは、[[1923年]]まで純粋なランタン金属が単離されなかったほど複雑な過程を経ることで、これらの鉱物から抽出される。
ランタンの化合物は[[助触媒|触媒]]、ガラスの添加剤、スタジオ用の照明や[[映写|映写機]]の炭素アーク灯、[[ライター]]やトーチの点火元素、[[熱陰極|電子陰極]]、[[シンチレータ]]、[[TIG溶接|GTAW]]電極など多くの用途がある。[[炭酸ランタン]]は[[腎不全]]で[[高リン血症|血液中のリン酸塩濃度が高い]]場合の[[リン酸塩]]結合剤として使用される。
==特徴==
===物理的性質===
ランタンはランタン系列([[ランタノイド]])のプロトタイプとなる最初の元素である<ref name="富永 (2005)204">[[#富永 (2005)|富永 (2005)]] p.204</ref>。[[周期表]]では、[[アルカリ土類金属]]である[[バリウム]]の右、ランタノイドのセリウムの左に位置する。ランタンは、軽い同族体の[[スカンジウム]]、[[イットリウム]]や重い放射性の[[アクチノイド]]とともに[[第3族元素]]と考えられているが<ref name=Greenwood1102>Greenwood and Earnshaw, p. 1102</ref>、この分類は議論されることもある。[[スカンジウム]]、イットリウムやアクチニウム同様、ランタン原子の57個の電子は[Xe]5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>という[[電子配置|配置]]になっており、3つの価電子が貴ガス中心の外側にある<ref name="富永 (2005)205">[[#富永 (2005)|富永 (2005)]] p.205</ref>。化学反応においては、ほとんどの場合酸化数+3を形成するために5dおよび6s[[電子殻|亜殻]]からこれら3つの価電子を放出し、貴ガスである[[キセノン]]の安定配置を達成する<ref name=Greenwood1106>Greenwood and Earnshaw, p. 1106</ref>。いくつかのランタン(II)化合物も知られてはいるが、ずっと安定性が低い<ref name=patnaik>{{cite book | last =Patnaik | first =Pradyot | date = 2003 | title =Handbook of Inorganic Chemical Compounds | publisher = McGraw-Hill | pages = 444–446| isbn =978-0-07-049439-8 | url= {{Google books |plainurl=yes |id=Xqj-TTzkvTEC |page=243 }} | accessdate = 2009-06-06}}</ref>。
ランタノイドの中でも、ランタンは任意の4f電子を持っていないため例外的である<ref name="富永 (2005)204" />。実際、ランタノイドの化学的性質にとって重要な4f軌道の急激な収縮とエネルギー低下はセリウムで生じ始める。それゆえ、強い[[常磁性]]を持つ以降のランタノイド(最後の2つである[[イッテルビウム]]と[[ルテチウム]]は例外で4f殻が完全に満たされている)とは異なり非常に弱い[[常磁性]]を持つだけである<ref name="富永 (2005)204" /><ref>Cullity, B. D. and Graham, C. D. (2011) ''Introduction to Magnetic Materials'', John Wiley & Sons, {{ISBN2|9781118211496}}</ref>。さらに、3価のランタノイドの融点は6s, 5d, 4f電子のハイブリッド形成の程度に関係しているため、ランタンの融点は全ランタノイドの中でセリウムに次いで2番目に低い920 °Cである<ref>Krishnamurthy, Nagaiyar and Gupta, Chiranjib Kumar (2004) ''Extractive Metallurgy of Rare Earths'', CRC Press, {{ISBN2|0-415-33340-7}}</ref>。ランタノイドは左から右にいくほど硬くなり、その予想通りランタンは柔らかい金属である。室温で615 nΩmと比較的高い抵抗率を持っており、これと比較して良い導体であるアルミニウムは26.50 nΩmに過ぎない<ref name=Greenwood1429>Greenwood and Earnshaw, p. 1429</ref><ref name=CRC>{{RubberBible86th}}</ref>。ランタノイドの中で最も揮発性が低い<ref name=radio>[http://library.lanl.gov/cgi-bin/getfile?rc000021.pdf The Radiochemistry of the Rare Earths, Scandium, Yttrium, and Actinium]</ref>。ほとんどのランタノイド同様、室温で六方晶構造を持つ。310 °Cで[[面心立方格子|面心立方]]構造に変化し、865 °Cで[[体心立方格子|体心立方]]構造に変化する<ref name=CRC/>。
===化学的性質===
周期表の傾向から予想されるように、ランタンはランタノイドで最大の[[原子半径]]を持ち、安定な[[第3族元素]]である。したがって、ランタノイドの中で最も反応性が高く、空気中でゆっくりと錆び、容易に燃焼して[[酸化カルシウム]]とほぼ同じ塩基性の[[酸化ランタン(III)]]La<sub>2</sub>O<sub>3</sub>を形成する<ref name=Greenwood1105>Greenwood and Earnshaw, p. 1105–7</ref>。ランタンのセンチメートルサイズの試料は[[アルミニウム]]やランタンの軽い同族体であるスカンジウムやイットリウムのように保護酸化物コーティングを形成するのではなく鉄の[[錆]]のように酸化物が[[核破砕反応|破砕]]するため、1年で完全に腐食する<ref>{{cite web|url=http://www.elementsales.com/re_exp/index.htm |title = Rare-Earth Metal Long Term Air Exposure Test|accessdate=2009-08-08}}</ref>。ランタンは室温で[[ハロゲン]]と反応して三ハロゲン化物を形成し、温めると非金属の窒素、炭素、硫黄、リン、ホウ素、セレン、ケイ素およびヒ素と[[二元化合物]]を形成する<ref name=Greenwood1106/><ref name=patnaik/>。水とゆっくり反応して[[水酸化ランタン|水酸化ランタン(III)]]La(OH)<sub>3</sub>を形成する<ref name=webelements>{{cite web| url =https://www.webelements.com/lanthanum/chemistry.html| title =Chemical reactions of Lanthanum| publisher=Webelements| accessdate=2009-06-06}}</ref>。希[[硫酸]]中では、容易に水和三陽性イオン{{nowrap|[La(H<sub>2</sub>O)<sub>9</sub>]<sup>3+</sup>}}を形成する。La<sup>3+</sup>はf電子を持たないため、水溶液中では無色である<ref name=webelements/>。ランタノイドの中で最も強く最も[[HSAB則|硬い]]塩基であり、これはランタノイドの中で最大であることから予想される<ref name=Greenwood1434>Greenwood and Earnshaw, p. 1434</ref>。
===同位体===
[[File:Lanthanum stable nucleus.png|thumb|left|280px|バリウム({{nobr|1=Z = 56}})からネオジム({{nobr|1=Z = 60}})までの安定同位体(黒)を示す核種の図の抜粋]]
{{main|ランタンの同位体}}
自然発生するランタンは安定した<sup>139</sup>Laと原始の長寿命放射性同位体である<sup>138</sup>Laの2つの同位体で構成される<ref name="富永 (2005)203" />。<sup>139</sup>Laの方がずっと多く、天然ランタンの99.910%を占める<ref name="富永 (2005)203">[[#富永 (2005)|富永 (2005)]] p.203</ref>。これは[[s過程]](低度から中程度の質量の星で生じる低速[[中性子]]捕獲)および[[r過程]](コア崩壊[[超新星]]で生じる高速中性子捕獲)で生成する<ref name="Audi">{{citation |title=The N<small>UBASE</small> evaluation of nuclear and decay properties |doi=10.1016/j.nuclphysa.2003.11.001 |last1=Audi |first1=Georges |last2=Bersillon |first2=Olivier |last3=Blachot |first3=Jean |last4=Wapstra |first4=Aaldert Hendrik |authorlink4=:en:Aaldert Wapstra |journal=Nuclear Physics A |volume=729 |pages=3–128 |year=2003 |url=<!-- dead: http://amdc.in2p3.fr/nubase/Nubase2003.pdf -->https://hal.archives-ouvertes.fr/in2p3-00020241/document |bibcode=2003NuPhA.729....3A}}</ref>。非常にまれな同位体<sup>138</sup>Laは数少ない原始[[奇数奇数原子核]]の1つであり、半減期は1.05×10<sup>11</sup> 年と長い。これはs過程とr過程で生成できない陽子の多い[[p原子核]]の1つである。<sup>138</sup>Laはより珍しい[[タンタルの同位体|<sup>180m</sup>Ta]]とともに[[ニュートリノ]]が安定した原子核と相互作用するν過程で生成される<ref name="nu-process">{{cite journal | last1 = Woosley | first1 = S. E. | last2 = Hartmann | first2 = D. H. | last3 = Hoffman | first3 = R. D. | last4 = Haxton | first4 = W. C. | year = 1990| title = The ν-process | url = | journal = The Astrophysical Journal | volume = 356 | issue = | pages = 272–301 | doi = 10.1086/168839 }}</ref>。他の全てのランタンの同位体は合成により作られ、半減期が約6万年の<sup>137</sup>Laを除いては、半減期はすべて1日未満であり、ほとんどの半減期が1分未満である。同位体<sup>139</sup>Laおよび<sup>140</sup>Laはウランの核分裂により生じる<ref name=Audi/>。
==化合物==
[[酸化ランタン]]は、それを構成する元素を直接反応させることで調製できる白色固体である。La<sup>3+</sup>イオンが大きいため、La<sub>2</sub>O<sub>3</sub>は六方晶7配位構造をとり、高温では[[酸化スカンジウム(III)|酸化スカンジウム]](Sc<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)や[[酸化イットリウム(III)|酸化イットリウム]] (Y<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) の6配位構造に変化する。水と反応すると水酸化ランタンが生成し、この反応では多くの熱が生じシューという音がする。水酸化ランタンは大気中の[[二酸化炭素]]と反応して塩基性炭酸塩を生成する<ref name=Greenwood1107>Greenwood and Earnshaw, p. 1107–8</ref>。
フッ化ランタンは水に不溶であり、La<sup>3+</sup>の存在を確認するための[[定性無機分析|定性]]試験として使うことができる。重いハロゲン化合物はすべて非常に可溶性の高い潮解化合物である。無水ハロゲン化合物は、[[水和物]]を加熱すると加水分解を引き起こすため、それらの元素の直接反応により生成される。例えば、水和したLaCl<sub>3</sub>を加熱するとLaOClが生成される<ref name=Greenwood1107/>。
ランタンは水素と発熱的に反応して二水素化物LaH<sub>2</sub>を生成する。これは黒色で[[自然発火性物質|自然発火]]し、脆く[[フッ化カルシウム]]構造の導電性化合物である<ref name="Fukai">{{cite book |last=Fukai |first=Y. |year=2005 |title=The Metal-Hydrogen System, Basic Bulk Properties, 2d edition|publisher=Springer|isbn=978-3-540-00494-3}}</ref>。これは非化学量論的な化合物であり、より塩であるLaH<sub>3</sub>となるまで電気伝導度の損失を伴う水素のさらなる吸収が可能となる<ref name=Greenwood1107/>。LaI<sub>2</sub>やLaIと同様に、LaH<sub>2</sub>はおそらく[[電子化物]]である<ref name=Greenwood1107/>。
La<sup>3+</sup>はイオン半径が大きく電気的陽性度が大きいため、結合に対する[[共有結合]]の寄与はあまりなく、したがってイットリウムや他のランタノイドのように限定的な[[錯体|配位化学]]を持つ<ref name=Greenwood1108>Greenwood and Earnshaw, pp. 1108–9</ref>。シュウ酸ランタンはアルカリ金属シュウ酸溶液にはあまり溶解せず、[La(acac)<sub>3</sub>(H<sub>2</sub>O)<sub>2</sub>]は500 °C付近で分解する。酸素はランタン錯体の中で最も一般的なドナー原子である。この錯体はほとんどがイオン性であり、しばしば6以上の高い配位数を有し、8が最も特徴的であり、[[反四角柱形]]と[[変形双五角錐|デルタ十二面体]]構造を形成する。これらの高配位種はLa<sub>2</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>·9H<sub>2</sub>Oのような[[キレート]]配位子を用いることで配位数は12にまでなり、しばしば立体化学的な要因により対称性が低い<ref name=Greenwood1108/>。
ランタンの化学的性質は元素の電子配置のためにπ結合を伴わない傾向があり、それゆえ有機金属化学は非常に限られている。最も特徴的な有機ランタン化合物は、[[テトラヒドロフラン]]中で無水のLaCl<sub>3</sub>をNaC<sub>5</sub>H<sub>5</sub>と反応させて作られる[[シクロペンタジエニル錯体]]La(C<sub>5</sub>H<sub>5</sub>)<sub>3</sub>やそのメチル置換誘導体である<ref name=Greenwood1110>Greenwood and Earnshaw, p. 1110</ref>。
==歴史==
[[File:Mosander Carl Gustav bw.jpg|thumb|[[カール・グスタフ・モサンデル]]、ランタンの発見者]]
1751年、スウェーデンの鉱物学者[[アクセル・フレドリク・クルーンステット]]は[[:en:Bastnäs|Bastnäs]]の鉱山から重い鉱物を発見した。これは後に[[セライト]]({{lang|en|cerite}})と命名される。30年後、15歳の[[Vilhelm Hisinger]]が家族が所有していた[[鉱山]]からその試料を[[カール・シェーレ]]に送ったが、シェーレはその中に新元素を発見することはできなかった。1803年、Hisingerが {{lang|en|ironmaster}} となった後、[[イェンス・ベルセリウス]]とともにこの鉱物に立ち返り新たな酸化物を単離し、2年前に発見された[[準惑星]][[ケレス (準惑星)|セレス]]にちなんでセリア (ceria) と名付けた<ref>{{cite web|url=http://www.vanderkrogt.net/elements/rareearths.php |title=The Discovery and Naming of the Rare Earths |publisher=Elements.vanderkrogt.net |accessdate=23 June 2016}}</ref>。セリアは同時に独立にドイツで[[マルティン・ハインリヒ・クラプロート]]により単離された<ref name=Greenwood1424>Greenwood and Earnshaw, p. 1424</ref>。1839年から1843年まで、セリアはベルセリウスと同じ家に住んでいたスウェーデンの外科医・化学者の[[カール・グスタフ・モサンデル]]により酸化物の混合物であることが示された<ref name="富永 (2005)156">[[#富永 (2005)|富永 (2005)]] p.156</ref>。彼は2つの酸化物を分離し、ランタナ({{lang|en|lanthana}})と[[ジジミウム|ジジミア]]({{lang|en|didymia}})と名付けた<ref name="富永 (2005)208">[[#富永 (2005)|富永 (2005)]] p.208</ref><ref name="Weeks">{{cite book |last1=Weeks |first1=Mary Elvira |title=The discovery of the elements |date=1956 |publisher=Journal of Chemical Education |location=Easton, PA |url=https://archive.org/details/discoveryoftheel002045mbp |edition=6th }}</ref><ref name="XI">{{cite journal | doi = 10.1021/ed009p1231 | last = Weeks | first = Mary Elvira |authorlink=Mary Elvira Weeks| title = The Discovery of the Elements: XI. Some Elements Isolated with the Aid of Potassium and Sodium:Zirconium, Titanium, Cerium and Thorium | journal = The Journal of Chemical Education | date = 1932 | volume = 9 | issue = 7 | pages = 1231–1243 |bibcode = 1932JChEd...9.1231W }}</ref>。彼は{{仮リンク|硝酸セリウム|en|cerium nitrate}}の試料を空気中で焙じ、得られた酸化物を希[[硝酸]]で処理することで部分的に分解した<ref>See:
* (Berzelius) (1839) [https://archive.org/stream/ComptesRendusAcademieDesSciences0008/ComptesRendusAcadmieDesSciences-Tome008-Janvier-juin1839#page/n361/mode/1up "Nouveau métal"] (New metal), ''Comptes rendus'', ''8'' : 356-357. From p. 356: ''"L'oxide de cérium, extrait de la cérite par la procédé ordinaire, contient à peu près les deux cinquièmes de son poids de l'oxide du nouveau métal qui ne change que peu les propriétés du cérium, et qui s'y tient pour ainsi dire caché. Cette raison a engagé M. Mosander à donner au nouveau métal le nom de ''Lantane''."'' (The oxide of cerium, extracted from cerite by the usual procedure, contains almost two fifths of its weight in the oxide of the new metal, which differs only slightly from the properties of cerium, and which is held in it so to speak "hidden". This reason motivated Mr. Mosander to give to the new metal the name ''Lantane''.)
* (Berzelius) (1839) [https://books.google.com/books?id=dF1KiX7MbSMC&pg=PA390#v=onepage&q&f=false "Latanium — a new metal,"] ''Philosophical Magazine'', new series, '''14''' : 390-391.</ref>。ランタンの特性はセリウムの特性とわずかに異なるのみで、その塩の中で一緒に発生するため、これを[[古代ギリシア語]]の {{lang|grc|''λανθάνειν''}} {{small|{{lang|grc-latn|[lanthanein]}}}}(隠れる、人目を避ける)から命名した{{r|富永 (2005)203|Greenwood1424}}。比較的純粋なランタン金属は、[[1923年]]に最初に単離された{{r|patnaik}}。
==存在比・製造==
ランタンはすべてのランタノイドの中で3番目に豊富に存在する<ref name="富永 (2005)220">[[ランタン#富永 (2005)|富永 (2005)]] p.220</ref>。地殻の39 mg/kgを占め、これはセリウムの66.5 mg/kgと[[ネオジム]]の41.5 mg/kgに次ぐ多さである。地殻では[[鉛]]の約3倍存在する<ref>
{{cite web
|url = http://education.jlab.org/itselemental/index.html
|title = It's Elemental — The Periodic Table of Elements
|publisher = Jefferson Lab
|accessdate = 2007-04-14| archiveurl= https://web.archive.org/web/20070429032414/http://education.jlab.org/itselemental/index.html| archivedate= 29 April 2007| url-status= live}}</ref>。いわゆる「希土類元素」に含まれているが、このように全く珍しくない。しかし、石灰やマグネシアなどの「一般的な土類」よりはまれであり、歴史的に少数の堆積物しか知られていないためこのような名前がついている。採掘過程が難しく、時間がかかり、高価であるため希土類金属と見なされている<ref name=patnaik/>。希土類鉱物で見つけられる主要なランタノイドであることは滅多になく、化学式では通常セリウムの方が多い。Laの方が多い鉱物の珍しい例はモナザイト-(La)や ランタナイト-(La)である<ref name="富永 (2005)220" /><ref>
{{cite web |url=https://www.mindat.org/ |title=Mindat.org |author=Hudson Institute of Mineralogy |date=1993–2018 |website=www.mindat.org |access-date=14 January 2018}}</ref>。
[[File:Monazite acid cracking process.svg|thumb|center|upright=3]]
La<sup>3+</sup>イオンは周期表ですぐ後に続くセリウムグループの前半のランタノイド([[サマリウム]]と[[ユーロピウム]]まで)と同様の大きさであるため、[[リン酸塩]]、[[ケイ酸塩]]、[[炭酸塩]]などの鉱物でそれらと一緒に生じる傾向にある。鉱物には[[モナザイト]] (M<sup>III</sup>PO<sub>4</sub>) や[[バストネサイト]] (M<sup>III</sup>CO<sub>3</sub>F)があり、ここでMはスカンジウムおよび放射性[[プロメチウム]](ほとんどはCe, La, Y)を除くすべての希土類金属を指す<ref name=Greenwood1103>Greenwood and Earnshaw, p. 1103</ref>。バストネサイトは通常、[[トリウム]]と重いランタノイドが不足しており、これから軽いランタノイドの精製にはあまり関わらない。鉱石は粉砕されたのち最初高温の濃硫酸で処理され、二酸化炭素、[[フッ化水素]]、[[四フッ化ケイ素]]が生じる。次に生成物は乾燥され水で浸出され、ランタン含む前半のランタノイドのイオンが溶液中に残る<ref name=Greenwood1426>Greenwood and Earnshaw, p. 1426–9</ref>。
通常全ての希土類とトリウムを含むモナザイトに対する手順の方がより複雑になる。モナザイトはその磁気特性により、電磁分離を繰り返すことで分離できる。分離後、熱濃硫酸で処理すると、希土類の水溶性硫酸塩が生じる。酸性の濾過液は[[水酸化ナトリウム]]で部分的に中和され、pH 3–4になる。トリウムは水酸化物として溶液から沈殿し取り除かれる。この後、溶液を[[シュウ酸アンモニウム]]で処理し、希土類を不溶性の[[シュウ酸塩]]に変化させる。シュウ酸塩はアニーリングにより酸化物に変化する。酸化物は硝酸に溶かされ、その酸化物が硝酸に不溶であり、主要な成分の1つである[[セリウム]]が取り除かれる。ランタンは結晶化により硝酸アンモニウムとの複塩として分離される。この塩は他の希土類複塩よりも溶解度が比較的低いため、残留物として残る<ref name=patnaik/>。強力なガンマ線を放出する<sup>232</sup>Thの娘である[[ラジウム228|<sup>228</sup>Ra]]が含まれているため、一部の残留物を処理するときには注意が必要である<ref name=Greenwood1426/>。ランタンは隣接するランタノイドがセリウム1つであるため比較的簡単に抽出できる。セリウムは酸化数+4に酸化されることを利用して取り除くことができる。その後、La(NO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>·2NH<sub>4</sub>NO<sub>3</sub>·4H<sub>2</sub>の[[分別晶析法]]の歴史的な方法、もしくはより高い純度が望まれる場合はイオン交換技術によりランタンを分離することができる<ref name=Greenwood1426/>。
金属ランタンはその酸化物を[[塩化アンモニウム]]または[[フッ化アンモニウム]]及びフッ化水素酸とともに300-400 °Cで加熱して塩化物やフッ化物を生成することにより得られる<ref name=patnaik/>。
:La<sub>2</sub>O<sub>3</sub> + 6 NH<sub>4</sub>Cl → 2 LaCl<sub>3</sub> + 6 NH<sub>3</sub> + 3 H<sub>2</sub>O
これに続いて真空中もしくはアルゴン雰囲気中ではアルカリまたはアルカリ土類金属による還元が行われる<ref name=patnaik/>。
:LaCl<sub>3</sub> + 3 Li → La + 3 LiCl
また、純粋なランタンは高温で無水LaCl<sub>3</sub>およびNaClかKClの溶融混合物の電気分解によっても生成できる<ref name=patnaik/>。
== 用途 ==
{{chem|La|2|O|3}} が[[セラミックコンデンサ]]や、[[レンズ|光学レンズ]]の材料に使われる<ref name="富永 (2005)203" />。また、{{chem|LaNi|5}} は[[水素吸蔵合金]]として注目されている。炭酸ランタンが[[腎不全]]患者の[[リン]]吸収阻害薬([[腸管]]内でリン化合物を形成し吸収を阻害する)として使用されている。
[[ヨハネス・ベドノルツ]]と[[カール・アレクサンダー・ミュラー]]が最初に発見(発表)した[[高温超伝導]]物質(この時点では[[転移温度]]は、それほど高温ではなかった)がランタンを含む[[銅酸化物セラミックス]]だった。
[[Image:Glowing gas mantle.jpg|thumb|最大光度で光っている[[コールマン (キャンプ用品)|コールマン]]の[[ホワイトガソリン]]を使ったランタンのマントル]]
ランタンの歴史的な最初の用途は、ガスランタン[[ガスマントル|マントル]]である。[[カール・ヴェルスバッハ]]は[[酸化ランタン]]と[[ジルコニア|酸化ジルコニウム]]の混合物を使用し、これを''Actinophor''と呼び1886年に特許を取得した。元々のマントルは緑色の光を発しあまり成功せず、1887年に[[:en:Atzgersdorf|Atzgersdorf]]に工場を設立した彼の最初の会社は1889年に失敗した<ref>{{cite book |title=Episodes from the History of the Rare Earth Elements |page=122 |editor-first=C. H. |editor-last=Evans |publisher=Kluwer Academic Publishers |url=https://books.google.com/?id=EFzuCAAAQBAJ&pg=PA122&lpg=PA122#v=onepage&q=Welsbach%20Actinophor%20Atzgersdorf&f=false|isbn=9789400902879 |date=2012-12-06 }}</ref>。
ランタンの現代的な用途は以下。
[[Image:LaB6HotCathode.jpg|thumb|{{chem|La|B|6}}熱陰極]]
[[File:Zblan transmit.jpg|thumb|ZBLANガラスとシリカの赤外線透過(減衰)率の比較]]
* [[ニッケル・水素充電池]]の負極材として使用される材料の1つは{{chem|La|(Ni|3.6|Mn|0.4|Al|0.3|Co|0.7|)}}である。他のランタノイドを除去するためのコストが高いため、純粋なランタンの代わりにランタンを50%以上含む[[ミッシュメタル]]が使用されている。化合物は{{chem|A|B|5}}タイプの[[金属間化合物]]である<ref>{{cite web|url=http://www.cobasys.com/pdf/tutorial/inside_nimh_battery_technology.pdf |accessdate=2009-06-06 |title=Inside the Nickel Metal Hydride Battery |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090227062546/http://www.cobasys.com/pdf/tutorial/inside_nimh_battery_technology.pdf |archivedate=2009-02-27 }}</ref><ref>{{cite journal | doi = 10.1016/j.jallcom.2006.07.012 | title = AB5-type hydrogen storage alloy used as anodic materials in Ni-MH batteries | date = 2007 | last1 = Tliha | first1 = M. | journal = Journal of Alloys and Compounds | volume = 436 | issue = 1–2 | pages = 221–225 | last2 = Mathlouthi | first2 = H. | last3 = Lamloumi | first3 = J. | last4 = Percheronguegan | first4 = A.}}</ref>。
:2017年頃までの一部のハイブリッドカー、特に日本車はニッケル水素電池を使用しているため<ref>{{Cite book|title=2016 電池関連市場実態総調査 上巻|date=2016/07/12|year=2016|publisher=富士経済}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=車載用電池とは 世界シェア、中国・韓国勢が台頭|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO43651420S9A410C1EA2000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2020-06-19|language=ja}}</ref>、ハイブリッドカーの生産には大量のランタンが必要となる。[[トヨタ・プリウス]]の典型的なハイブリッド自動車用バッテリーには{{convert|10|to|15|kg|lb}}のランタンが必要である。技術者が燃料効率を向上させるために技術を推進すると、1台の自動車につき2倍の量のランタンが必要になる可能性がある<ref>{{cite news| url =https://www.reuters.com/article/ousiv/idUSTRE57U02B20090831| publisher=Reuters 2009-08-31| title =As hybrid cars gobble rare metals, shortage looms | date=2009-08-31}}</ref><ref>{{cite journal | doi = 10.1016/j.jpowsour.2007.08.052 | title = Progress in high-power nickel–metal hydride batteries | date = 2008 | last1 = Bauerlein | first1 = P. | journal = Journal of Power Sources | volume = 176 | pages = 547 | last2 = Antonius | first2 = C. | last3 = Loffler | first3 = J. | last4 = Kumpers | first4 = J. | issue = 2| bibcode = 2008JPS...176..547B }}</ref>。
* 水素スポンジ合金はランタンを含むことができる。これらの合金は可逆的な吸着過程で水素気体を自身の体積の400倍まで貯蔵することができる。熱エネルギーはこれを行うたびに放出される。それゆえ、これらの合金は省エネルギーシステムの可能性を持っている<ref name=CRC/><ref>{{cite journal | doi = 10.1016/S0360-3199(98)00161-X | title = Hydrogen solubility in rare earth based hydrogen storage alloys | date = 1999 | last1 = Uchida | first1 = H. | journal = International Journal of Hydrogen Energy | volume = 24 | pages = 871–877 | issue = 9}}</ref>。
* [[ミッシュメタル]]は軽い火打ち石で使われる[[発火合金]]で、25%から45%のランタンを含む<ref name=CRC2>{{cite book| author = C. R. Hammond |title = The Elements, in Handbook of Chemistry and Physics |edition = 81st| publisher =CRC press| date = 2000| isbn = 978-0-8493-0481-1}}</ref>。
* [[酸化ランタン]]や[[六ホウ化ランタン|ホウ化ランタン]]は、[[電子]]の放射率が高い[[熱陰極]]材料として電子[[真空管]]に使用されている。{{chem| link = 六ホウ化ランタン|La|B|6}}の結晶は[[電子顕微鏡]]や[[ホールスラスタ]]用の高輝度、長寿命、熱電子放出源として使用されている<ref>{{cite journal|url=http://sgc.engin.umich.edu/erps/IEPC_2007/PAPERS/IEPC-2007-078.pdf |title=Effect of Cathode Position on Hall-Effect Thruster Performance and Cathode Coupling Voltage |journal=43rd AIAA/ASME/SAE/ASEE Joint Propulsion Conference & Exhibit, 8–11 July 2007, Cincinnati, OH |author=Jason D. Sommerville |author2=Lyon B. King |last-author-amp=yes |accessdate=2009-06-06 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110720091007/http://sgc.engin.umich.edu/erps/IEPC_2007/PAPERS/IEPC-2007-078.pdf |archivedate=July 20, 2011 }}</ref>。
* [[三フッ化ランタン]]({{chem|La|F|3}})は[[:en:ZBLAN|ZBLAN]]と呼ばれる重フッ化ガラスの必須成分である。このガラスは赤外域の透過率に優れているため、光ファイバ通信システムに使用されている<ref name=rutg>{{cite web |url=http://irfibers.rutgers.edu/pdf_files/ir_fiber_review.pdf
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100802120432/http://irfibers.rutgers.edu/pdf_files/ir_fiber_review.pdf
|archivedate=2010-08-02
|title=Infrared Fiber Optics |publisher=[[Rutgers University]] |author=Harrington, James A.|accessdate=2020-05}}</ref>。
* セリウムをドープした[[臭化ランタン]]や[[塩化ランタン]]は、最近の無機[[シンチレータ]]であり、高い光収率、最高のエネルギー分解能、速い応答性を兼ね備えている。この高い収率は優れたエネルギー分解能に変換され、さらに、光出力は非常に安定しており、非常に広い温度範囲で非常に高いため、高温で使うのには特に魅力的である。これらのシンチレータは、[[中性子]]や[[ガンマ線]]の検出器ですでに広く商業的に使用されている<ref>{{cite web |url=http://www.oilandgas.saint-gobain.com/uploadedFiles/SGoilandgas/Documents/Detectors/Detectors-BrilLanCe-NxGen-Packaging.pdf |title=BrilLanCe-NxGen |accessdate=2009-06-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110429014149/http://www.oilandgas.saint-gobain.com/uploadedFiles/SGoilandgas/Documents/Detectors/Detectors-BrilLanCe-NxGen-Packaging.pdf |archive-date=2011-04-29 |url-status=dead }}</ref>。
* [[放電灯|炭素アーク灯]]は光の質を向上させるために希土類元素の混合物を使用する<ref name="富永 (2005)203" />。この用途、特にスタジオの照明用や投影用の[[映画]]産業によるものは、炭素アーク灯が段階的に廃止されるまで、生産される希土類化合物の約25%を消費していた<ref name=CRC/><ref>{{cite report | id = Bulletin 675 | title = Mineral Facts and Problems | date = 1985 | url = https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc12817/ | chapter-url = https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc12817/m1/663/?q=%22carbon%20arc%22 | page = 655| chapter = Rare Earth Elements and Yttrium | publisher = Bureau of Mines | last = Hendrick | first = James B.}}</ref>。
* [[酸化ランタン]]({{chem|La|2|O|3}})は、[[ガラス]]の耐アルカリ性を向上させ、希土類ガラスの高[[屈折率]]や低分散のため、赤外線吸収ガラスなどの特殊光学ガラスや[[カメラ]]、[[望遠鏡]][[レンズ]]の製造に使われている<ref name=CRC/><ref name="富永 (2005)203" />。また、酸化ランタンは[[窒化ケイ素]]や[[二ホウ化ジルコニウム]]の液相[[焼結]]時の粒成長添加剤として使われている<ref>{{cite journal|doi=10.1016/S1044-5803(03)00055-X|title=The effect of lanthanum on the fabrication of ZrB2–ZrC composites by spark plasma sintering|date=2003|author=Kim, K|journal=Materials Characterization|volume=50|pages=31–37|last2=Shim|first2=Kwang Bo }}</ref>。
* [[鋼]]に添加される少量のランタンは、鋼の[[展延性|展性]]、耐衝撃性、[[展延性|延性]]を向上させる。その一方で[[モリブデン]]にランタンを添加するとその硬度と温度変化への感度を低下させる<ref name=CRC/>。
* 藻類のえさとなるリン酸塩を除去するために、少量のランタンが多くのプール製品に含まれている<ref>{{cite book | url = {{Google books |plainurl=yes |id=Kr3NCY4GJaAC |page=25 }} | title = Pool Care Basics | pages = 25–26}}</ref>。
* タングステンへの酸化ランタン添加剤は[[放射能|放射性]]トリウムの代わりとして、[[TIG溶接]]の電極に使用されている<ref>{{cite book| url={{Google books |plainurl=yes |id=H3BgQGdTP_0C }} | page=139| title =Arc welding automation| author= Howard B. Cary| publisher =CRC Press| date = 1995| isbn =978-0-8247-9645-7}}</ref><ref>{{cite book|isbn=978-1-4018-1046-7 |chapter=Types of Tungsten |page=350 |chapter-url={{Google books |plainurl=yes |id=zeRiW7en7HAC |page=RA1-PA750 }} |author=Larry Jeffus. |date=2003 |publisher=Thomson/Delmar Learning |location=Clifton Park, N.Y. |title=Welding : principles and applications |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100923150541/http://www.cmc.dk/ |archivedate=2010-09-23 }}</ref>。
* ランタンなど希土類元素の各種化合物(酸化物、塩化物など)は、[[クラッキング (化学)|石油分解]][[助触媒]]など様々な触媒の成分である<ref>{{cite book| page = 441| url = {{Google books |plainurl=yes |id=F0Bte_XhzoAC |page=441 }} | title = Extractive metallurgy of rare earths| author = C. K. Gupta| author2 = Nagaiyar Krishnamurthy| publisher =CRC Press| date = 2004| isbn =978-0-415-33340-5}}</ref>。
* ランタン・バリウム[[放射年代測定]]は、岩石や鉱石の年代を推定するために使用されているが、この技術の普及度は限られている<ref>{{cite journal| url =http://www.minsocam.org/ammin/AM73/AM73_1111.pdf | journal =American Mineralogist| date =1988| volume = 7| issue =1–2| page = 1111| title = La-Ba dating of bastnaesite| author = S. Nakai| author2 = A. Masuda| author3 = B. Lehmann| bibcode =1988ChGeo..70...12N| doi =10.1016/0009-2541(88)90211-2}}</ref>。
* [[炭酸ランタン]]は、[[慢性腎不全|末期腎疾患]]に見られる[[高リン血症]]の場合に過剰な[[リン酸塩]]を吸収する薬(Fosrenol, [[シャイアー|シャイアー (企業)]])として承認されている<ref name=fosrenol>{{cite web| url =http://www.medicalnewstoday.com/articles/15538.php| accessdate =2009-06-06|title =FDA approves Fosrenol(R) in end-stage renal disease (ESRD) patients| date=28 October 2004}}</ref>。
* フッ化ランタンは蛍光体ランプのコーティングに使用されている。また、フッ化ユーロピウムと混合して、フッ化物イオン選択電極の結晶膜にも使われている<ref name=patnaik/>。
* [[ホースラディッシュペルオキシダーゼ]]と同様、ランタンは[[分子生物学]]において電子密度の高いトレーサーとして使用されている<ref>{{cite journal | author=Chau YP | author2=Lu KS | title=Investigation of the blood-ganglion barrier properties in rat sympathetic ganglia by using lanthanum ion and horseradish peroxidase as tracers | journal=Acta Anatomica | volume=153 | issue=2 | date=1995 | pages=135–144 | pmid=8560966 | issn=0001-5180 | doi=10.1159/000313647}}</ref>。
* ランタン修飾ベントナイト(または[[:en:phoslock|phoslock]])は、湖沼処理において水からリン酸塩を除去するために使用される<ref>{{cite journal | author=Hagheseresht | title=A novel lanthanum-modified bentonite, Phoslock, for phosphate removal from wastewaters | journal=Applied Clay Science | volume=46 | issue=4 | date=2009 | pages=369–375 | doi=10.1016/j.clay.2009.09.009 | last2=Wang | first2=Shaobin | last3=Do | first3=D. D. }}</ref>。
==生物学的役割==
ランタンはヒトでの生物学的役割は知られていない。この元素は経口投与後は非常に吸収が悪く、注射した場合その排泄は非常に遅い。[[炭酸ランタン]](Fosrenol)は[[腎不全|末期腎疾患]]の場合に過剰なリン酸塩を吸収するためのリン酸塩結合剤として承認された<ref name=fosrenol/>。
ランタンはいくつかの受容体やイオンチャネルに対して薬理学的効果を持つが、[[γ-アミノ酪酸|GABA]]受容体に対する特異性は3価の陽イオンの中でも独特である。ランタンは、ネガティブ[[アロステリック効果|アロステリック]]モジュレーターとして知られる亜鉛の[[GABA受容体]]上の同じモジュレーター部位で作用する。ランタン陽イオンLa<sup>3+</sup>はネイティブおよび組換えGABA受容体においてポジティブアロステリックモジュレーターであり、サブユニット配置に依存した方法で開口チャネル時間を増加させ、脱感作を減少させる<ref>{{cite journal|doi = 10.1007/s10517-005-0503-z|title = Lanthanum Potentiates GABA-Activated Currents in Rat Pyramidal Neurons of CA1 Hippocampal Field|date = 2005|author = Boldyreva, A. A.|journal = Bulletin of Experimental Biology and Medicine|volume = 140|pages = 403–5|pmid = 16671565|issue = 4}}</ref>。
ランタンは[[メタン資化菌|メタン資化細菌]]''[[Methylacidiphilum fumariolicum]]'' SolVのメタノールデヒドロゲナーゼに必須の補因子であるが、ランタノイドの化学的類似性が非常に高いため、セリウム、プラセオジム、ネオジムで置換しても悪影響はなく、それより小さいサマリウム、ユーロピウム、ガドリニウムでも成長が遅い以外の副作用はない<ref>{{cite journal |doi=10.1111/1462-2920.12249 |pmid=24034209 |title=Rare earth metals are essential for methanotrophic life in volcanic mudpots |date=2013 |last1=Pol |first1=Arjan |last2=Barends |first2=Thomas R. M. |last3=Dietl |first3=Andreas |last4=Khadem |first4=Ahmad F. |last5=Eygensteyn |first5=Jelle |last6=Jetten |first6=Mike S. M. |last7=Op Den Camp |first7=Huub J. M. |journal=Environmental Microbiology |volume=16 |issue=1 |pages=255–64}}</ref>。
==危険性==
{{Chembox
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| GHSSignalWord = Danger
| HPhrases = {{H-phrases|260}}
| PPhrases = {{P-phrases|223|231+232|370+378|422}}<ref>{{Cite web|url=https://www.sigmaaldrich.com/catalog/product/aldrich/261130?lang=ja®ion=JP|title=Lanthanum 261130|website=Sigma-Aldrich|accessdate=2020-05}}</ref>
| NFPA-H = 0
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| NFPA-R = 2
| NFPA-S = w
| NFPA_ref =
}}
}}
ランタンは低度から中度の毒性を持ち、取り扱いには注意が必要である。ランタン溶液を注射すると、[[高血糖症]]、低血圧、[[脾臓]]の変性、[[肝臓]]の変化が生じる{{citation needed|date=June 2019|reason=Cannot find book<!--<ref>{{cite book|author=Pof. Dr. M. Zafar Iqbal|title=Elements in Health and Disease |url={{Google books |plainurl=yes |id=vNcYAgAAQBAJ |page=23 }} |publisher=Dr. Ahsan Iqbal|pages=23–|id=GGKEY:KEU6L0DDWZJ}}</ref>-->}}。炭素アーク灯に用いたことで人々を希土類元素の酸化物やフッ化物にさらし、ときに[[塵肺]]を引き起こした<ref>{{cite journal | doi = 10.1016/0048-9697(94)90474-X | title = Lanthanide particles in the lung of a printer | date = 1994 | last1 = Dufresne | first1 = A. | last2 = Krier | first2 = G. | last3 = Muller | first3 = J. | last4 = Case | first4 = B. | last5 = Perrault | first5 = G. | journal = Science of the Total Environment | volume = 151 | issue = 3 | pages = 249–252 | pmid = 8085148| bibcode = 1994ScTEn.151..249D }}</ref><ref>{{cite journal |title = Rare earth deposits in a deceased movie projectionist. A new case of rare earth pneumoconiosis | pmid = 2247001 |date = 1990 |last1 = Waring |first1 = P. M. |last2 = Watling |first2 = R. J. |volume = 153 |issue = 11–12 |pages = 726–30 |journal = The Medical Journal of Australia| doi = 10.5694/j.1326-5377.1990.tb126334.x }}</ref>。La<sup>3+</sup>イオンはCa<sup>2+</sup>イオンと大きさが似ているため、医学研究では後者のトレースが簡単にできる代替物として使用されることがある<ref name=Emsley>{{cite book| pages=266–77| title =Nature's building blocks: an A-Z guide to the elements|first =John|last=Emsley| publisher=Oxford University Press| isbn = 9780199605637| date=2011}}</ref>。他のランタノイド同様、ヒトの代謝に影響を与え、コレステロール値、血圧、食欲、血液凝固のリスクを低下させることが知られている。脳に注射すると[[モルヒネ]]や他のアヘン剤同様鎮痛剤として機能するが、その背後にあるメカニズムは現在のところ不明である<ref name=Emsley/>。
==出典==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==参考文献==
* ''The Industrial Chemistry of the Lanthanons, Yttrium, Thorium and Uranium'', by R. J. Callow, Pergamon Press, 1967
* ''Extractive Metallurgy of Rare Earths'', by C. K. Gupta and N. Krishnamurthy, CRC Press, 2005
* ''Nouveau Traite de Chimie Minerale, Vol. VII. Scandium, Yttrium, Elements des Terres Rares, Actinium'', P. Pascal, Editor, Masson & Cie, 1959
* ''Chemistry of the Lanthanons'', by R. C. Vickery, Butterworths 1953
* {{Cite book|和書|title=図解雑学:元素|date=2005/12/8|year=2005|publisher=ナツメ社|author=富永 裕久|edition=第2版|location=東京都千代田区|isbn=4-8163-4018-1|editor=田村 正隆|ref=富永 (2005)}}
==関連書物==
* {{Greenwood&Earnshaw1st}}
==外部リンク==
* {{Commons&cat-inline|Lanthanum|Lanthanum}}
{{元素周期表}}
{{ランタンの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らんたん}}
[[Category:ランタン|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:ランタノイド]]
[[Category:第6周期元素]]
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10,223 |
第5族元素
|
第5族元素(だいごぞくげんそ)は、周期表において第5族に属する元素の総称であり、バナジウム、ニオブ、タンタル、ドブニウムからなる。バナジウム、ニオブ、タンタルはバナジウム族元素と呼ばれることもある。
いずれも金属で、硬く強靭で耐食性がある。また、融点、沸点も高いのが特徴。酸にも侵されにくい。超硬材料や、触媒などに利用される。
閉殻していないd軌道を持ち、遷移元素として取り扱われる。
第5族元素では価電子および内殻電子の電子構造は周期により異なる。
いずれも硬く強靭な金属で、融点、沸点も高いのが特徴。超硬材料や、触媒などに利用される。物性計算上は単体金属は強い還元剤であることが示唆されるが、容易に不動態皮膜を形成するので常温では耐食性があり非酸化性の酸にも侵されにくい。例えば強くて薄いタンタルの酸化皮膜はタンタルコンデンサーに応用されている。
一方、高温では大抵の非金属元素と反応し、酸化物、炭化物(MC)、窒化物(MN)、硫化物を形成するが、後述の様に生成物の金属の酸化数は多様である。
5族元素いずれもが酸化数-1から+5の多様な化合物、イオンを形成する。代表例を次に挙げる。
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第5族元素(だいごぞくげんそ)は、周期表において第5族に属する元素の総称であり、バナジウム、ニオブ、タンタル、ドブニウムからなる。バナジウム、ニオブ、タンタルはバナジウム族元素と呼ばれることもある。 いずれも金属で、硬く強靭で耐食性がある。また、融点、沸点も高いのが特徴。酸にも侵されにくい。超硬材料や、触媒などに利用される。 閉殻していないd軌道を持ち、遷移元素として取り扱われる。
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{{脚注の不足|date=2022年12月}}
<div style="float:right;margin-left:10px;margin-bottom:20px;text-align:center;">
{| class="wikitable"
|- align="center"
| [[元素の族|'''族''']]
| [[第4族元素|←]] '''5''' [[第6族元素|→]]
|- align="center"
| [[元素の周期|'''周期''']]
|- align="center"
| [[第4周期元素|'''4''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|23}}<br />[[バナジウム|V]]
|- align="center"
| [[第5周期元素|'''5''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|41}}<br />[[ニオブ|Nb]]
|- align="center"
| [[第6周期元素|'''6''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|73}}<br />[[タンタル|Ta]]
|- align="center"
| [[第7周期元素|'''7''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|{{Color|red|105}}}}<br />[[ドブニウム|Db]]
|}
</div>
'''第5族元素'''(だいごぞくげんそ)は、[[周期表]]において第5族に属する[[元素]]の総称であり、[[バナジウム]]、[[ニオブ]]、[[タンタル]]、[[ドブニウム]]からなる。バナジウム、ニオブ、タンタルはバナジウム族元素と呼ばれることもある。
いずれも[[金属]]で、硬く強靭で耐食性がある。また、[[融点]]、[[沸点]]も高いのが特徴。[[酸]]にも侵されにくい。超硬材料や、触媒などに利用される。
閉殻していないd軌道を持ち、[[遷移元素]]として取り扱われる。
== 性質 ==
第5族元素では価電子および内殻電子の[[電子構造]]は周期により異なる。
{| class="wikitable"
!!![[バナジウム]]<br />'''<sub>23</sub>V'''!![[ニオブ]]<br />'''<sub>41</sub>Nb'''!![[タンタル]]<br />'''<sub>73</sub>Ta'''!![[ドブニウム]]<br />'''<sub>105</sub>Db
|-
|[[電子配置]]||<nowiki>[Ar]</nowiki>3d<sup>3</sup>4s<sup>2</sup>||<nowiki>[Kr]</nowiki>4d<sup>4</sup>5s<sup>1</sup>
||<nowiki>[Xe]</nowiki>4f<sup>14</sup>5d<sup>3</sup>6s<sup>2</sup>
||<nowiki>[Rn]</nowiki>5f<sup>14</sup>6d<sup>2</sup>7s<sup>2</sup>
|-
|第1イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)|| 650 || 652.1 || 714 ||
|-
|第2イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)|| 1,413 || 1,382 || 1,500 ||
|-
|第3イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)|| 2,828 || 2,416 || ||
|-
|第4イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)|| 4,506.6 || 3,700 || ||
|-
|第5イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)|| 6,294 || 4,877 || ||
|-
|電子親和力<br />(電子ボルト)||0.525||0.893||0.322||
|-
|電気陰性度<br />(Allred-Rochow)||1.32||1.22||1.23||
|-
|イオン半径<br />(pm; M<sup>5+</sup>)||68(6配位)||62 (4配位)<br /> 78 (6配位)||78 (6配位)<br /> 88 (8配位)||
|-
|結合半径<br />(pm)||131||137||143||139
|-
||融点<br />(K)|| 2,175 || 2,750 || 3,290 ||
|-
|沸点<br />(K)|| 3,682 || 5,017 || 5,731 ||
|-
|酸化還元電位 E<sup>0</sup> (V)|| ||-1.1<br />(M<sup>3+</sup>/M)|| ||
|}
いずれも硬く強靭な[[金属]]で、[[融点]]、[[沸点]]も高いのが特徴。超硬材料や、触媒などに利用される。物性計算上は単体金属は強い還元剤であることが示唆されるが、容易に[[不動態]]皮膜を形成するので常温では耐食性があり非酸化性の[[酸]]にも侵されにくい。例えば強くて薄いタンタルの酸化皮膜は[[タンタルコンデンサー]]に応用されている。
一方、高温では大抵の非金属元素と反応し、酸化物、炭化物(MC)、窒化物(MN)、硫化物を形成するが、後述の様に生成物の金属の酸化数は多様である。
5族元素いずれもが酸化数-1から+5の多様な化合物、イオンを形成する。代表例を次に挙げる。
{| class="wikitable"
!酸化数!!バナジウム!!ニオブ!!タンタル
|-
|height=30pix|-1||V(CO)<sub>6</sub><sup>-</sup>||Nb(CO)<sub>6</sub><sup>-</sup>||Ta(CO)<sub>6</sub><sup>-</sup>
|-
|height=30pix|0||V(CO)<sub>6</sub>|| ||
|-
|height=30pix|+1||V(bpy)<sub>3</sub><sup>+</sup>||(π-C<sub>5</sub>H<sub>5</sub>)Nb(CO)<sub>4</sub>||(π-C<sub>5</sub>H<sub>5</sub>)Ta(CO)<sub>4</sub>
|-
|height=30pix|+2||V(CN)<sub>6</sub><sup>4-</sup>|| ||
|-
|height=30pix|+3||V(NH<sub>3</sub>)<sub>6</sub><sup>3+</sup>||NbCl<sub>3</sub>||TaBr<sub>3</sub>
|-
|height=30pix|+4||K<sub>2</sub>VCl<sub>6</sub>||NbCl<sub>4</sub>||TaO<sub>2</sub>
|-
|height=30pix|+5||VOCl<sub>3</sub>||NbF<sub>5</sub>||Na<sub>2</sub>TaF<sub>8</sub>
|}
: bpy - bipydidyl
: π-C<sub>5</sub>H<sub>5</sub> - cyclopentadienyl
== 引用文献 ==
# 化学便覧 基礎編, 日本化学会編, 改訂5版, 丸善
# R.B.ヘスロップ, K. ジョーンズ, 無機化学, 東京化学同人
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{{Normdaten}}
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[[Category:周期表の族|#05]]
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|
10,225 |
神楽坂駅
|
神楽坂駅(かぐらざかえき)は、東京都新宿区矢来町にある、東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅である。駅番号はT 05。
地下駅であるが、幅員の狭い道路の下に建設されたため、単式ホーム1面1線の2層構造となっている。出入口はそれぞれのホームの端部にある。進行方向に向かって、1番線(地下3階)は左側、2番線(地下2階)は右側のドアが開く。
改札内のエスカレーターは1番線ホームと神楽坂方面改札口を連絡する上り専用のみ設置され、エレベーターは神楽坂方面改札口に設置されている。改札外のエスカレーター(上り・下り)とエレベーターは神楽坂方面改札口から1b番出口にかけて設置されている。
2010年5月31日、飯田橋寄りにある神楽坂方面改札口内の地下1階コンコース部にオストメイト、ベビーベッドつき多機能トイレが設置された。
(出典:東京メトロ:構内図)
2015年5月26日から向谷実作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。
曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。
2022年度の1日平均乗降人員は36,048人であり、東京メトロ全130駅中90位。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表のとおり。
駅前は閑静な住宅街で、神楽坂方面出口からJR飯田橋駅にかけては商店街となっている。坂としての「神楽坂」や明治以来の繁華街はJR飯田橋駅の方が近い。当駅ができたことで神楽坂と呼ばれるエリアが広がった。2000年代以降は雑誌などに取り上げられる店やスポットが多く、休日は各地方から訪れる人達で賑わっている。また、高層マンションなどの開発も進み、昔ながらの街並は変貌している。
駅そばにある赤城神社の大祭が有名で、規模もそれなりに大きい。周辺地区からの神輿で賑わう。
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"text": "2010年5月31日、飯田橋寄りにある神楽坂方面改札口内の地下1階コンコース部にオストメイト、ベビーベッドつき多機能トイレが設置された。",
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"text": "2022年度の1日平均乗降人員は36,048人であり、東京メトロ全130駅中90位。",
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"text": "近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表のとおり。",
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"text": "駅前は閑静な住宅街で、神楽坂方面出口からJR飯田橋駅にかけては商店街となっている。坂としての「神楽坂」や明治以来の繁華街はJR飯田橋駅の方が近い。当駅ができたことで神楽坂と呼ばれるエリアが広がった。2000年代以降は雑誌などに取り上げられる店やスポットが多く、休日は各地方から訪れる人達で賑わっている。また、高層マンションなどの開発も進み、昔ながらの街並は変貌している。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅そばにある赤城神社の大祭が有名で、規模もそれなりに大きい。周辺地区からの神輿で賑わう。",
"title": "駅周辺"
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] |
神楽坂駅(かぐらざかえき)は、東京都新宿区矢来町にある、東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅である。駅番号はT 05。
|
{{otheruses||都営大江戸線の駅|牛込神楽坂駅}}
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|文字色 =
|駅名 = 神楽坂駅
|画像 = Kagurazaka-Station-Exit1b-2020.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 1b番出入口(2020年1月5日撮影)
|よみがな = かぐらざか
|ローマ字 = Kagurazaka
|副駅名 =
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}}
|所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)
|所属路線 = {{color|#009bbf|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ東西線|東西線]]
|前の駅 = T 04 [[早稲田駅|早稲田]]
|駅間A = 1.2
|駅間B = 1.2
|次の駅 = [[飯田橋駅|飯田橋]] T 06
|駅番号 = {{駅番号r|T|05|#009bbf|4}}<ref name="tokyosubway"/>
|キロ程 = 6.8
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|起点駅 = [[中野駅 (東京都)|中野]]
|所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[矢来町]]112
|座標 = {{coord|35|42|14|N|139|44|3.2|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地下駅]]
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|開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[12月23日]]
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|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />36,048
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|備考 =
}}
'''神楽坂駅'''(かぐらざかえき)は、[[東京都]][[新宿区]][[矢来町]]にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ東西線|東西線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''T 05'''。
== 歴史 ==
* [[1964年]]([[昭和]]39年)[[12月23日]]:開業。
* [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[5月26日]]:[[発車メロディ]]を導入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月30日]]:1b番出口が完成(1番出口は1a番出口に改名)。[[エレベーター]](地上-改札階、改札階-ホーム階)と[[エスカレーター]](地上-改札階)を運用開始。
== 駅構造 ==
[[地下駅]]であるが、幅員の狭い道路の下に建設されたため、[[単式ホーム]]1面1線の2層構造となっている。出入口はそれぞれのホームの端部にある。進行方向に向かって、1番線(地下3階)は左側、2番線(地下2階)は右側のドアが開く。
改札内の[[エスカレーター]]は1番線ホームと神楽坂方面改札口を連絡する上り専用のみ設置され、[[エレベーター]]は神楽坂方面改札口に設置されている。改札外のエスカレーター(上り・下り)とエレベーターは神楽坂方面改札口から1b番出口にかけて設置されている。
[[2010年]][[5月31日]]、飯田橋寄りにある神楽坂方面改札口内の地下1階コンコース部に[[オストメイト]]、[[ベビーベッド]]つき多機能[[便所|トイレ]]が設置された。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kagurazaka/timetable/tozai/a/index.html |title=神楽坂駅時刻表 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|-
!2
|[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kagurazaka/timetable/tozai/b/index.html |title=神楽坂駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/kagurazaka/index.html 東京メトロ:構内図])
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
ファイル:TokyoMetro-T05-Kagurazaka-station-2-entrance.jpg|2番出入口(2008年5月23日)
ファイル:Touzaisen Kagurazaka eki 1.jpg|営団時代の2番出入口(2003年6月15日)
ファイル:TokyoMetro-T05-Kagurazaka-station-platform-2.jpg|リニューアル前のホーム(2008年5月23日)
ファイル:Kagurazaka-Station-Nakano-Direction-platform.jpg|リニューアル後のホーム(2018年9月14日)
ファイル:Kagurazaka-Station-2005-10-24.jpg|リニューアル前の神楽坂方面改札口(2005年10月24日)
ファイル:Kagurazaka-station-Kagurazaka-Gate.jpg|リニューアル後の神楽坂方面改札口(2019年8月8日)
ファイル:Kagurazaka-station-Yaraicho-Gate.jpg|リニューアル後の矢来町方面改札口(2019年8月8日)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
2015年5月26日から[[向谷実]]作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。
曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」である(詳細は[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]を参照)。
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''36,048人'''であり<ref group="メトロ" name="me2022" />、東京メトロ全130駅中90位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。
近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表のとおり。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|21,107
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|21,470
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|22,060
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|21,745
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|21,474
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|21,131
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|21,203
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|20,825
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|21,090
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|20,429
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|19,866
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|
|18,866
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref name="RJ759_31" />37,775
|18,740
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>37,859
|18,795
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|37,934
|18,605
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|38,024
|18,584
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|38,056
|18,616
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|39,209
|19,210
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|38,644
|18,899
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|38,323
|18,822
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|38,460
|18,901
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|37,921
|18,728
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|37,976
|18,598
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|38,196
|18,745
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|39,466
|19,325
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|40,041
|19,579
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|39,843
|19,479
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|41,257
|20,162
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|41,992
|20,521
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|42,168
|20,612
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>30,609
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>32,028
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>36,048
|
|
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|矢来町|神楽坂|赤城元町|赤城下町|改代町|中里町 (新宿区)|天神町 (新宿区)|横寺町}}
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|枠幅= 200px
| 1=Kagurazaka-1.jpg
| 2=神楽坂
| 3=Shinjuku Tokyo Kobo-chan Statue 1.jpg
| 4=早稲田通りに設置されている田畑小穂(コボちゃん)の銅像
}}
駅前は閑静な住宅街で、神楽坂方面出口からJR飯田橋駅にかけては[[商店街]]となっている。坂としての「神楽坂」や明治以来の繁華街はJR飯田橋駅の方が近い。当駅ができたことで神楽坂と呼ばれるエリアが広がった。[[2000年代]]以降は[[雑誌]]などに取り上げられる店やスポットが多く、休日は各地方から訪れる人達で賑わっている。また、高層[[マンション]]などの開発も進み、昔ながらの街並は変貌している。
駅そばにある[[赤城神社 (新宿区)|赤城神社]]の大祭が有名で、規模もそれなりに大きい。周辺地区からの[[神輿]]で賑わう。
* [[東京都教育委員会|東京都教育庁]] 神楽坂庁舎
* 新宿区赤城生涯学習館
* [[東京都立新宿山吹高等学校]]
* [[新宿区立市谷小学校]]
* 新宿天神[[郵便局]]
* 新宿改代町郵便局
* [[赤城神社 (新宿区)|赤城神社]]
* [[毘沙門天]]([[善國寺]])
* [[セッションハウス]]
* [[矢来能楽堂]]
* [[新潮社]]
** la kagū(ラカグ) - 新潮社の[[倉庫]](外壁は[[トタン]]の波板)を改装した商業施設(2014年10月開業)
* [[旺文社]]
** [[実用英語技能検定|日本英語検定協会]]
* [[音楽之友社]]
** 音楽の友ホール
* [[アディダス#アディダスジャパン株式会社|アディダスジャパン]]本社
* [[都営地下鉄大江戸線]] [[牛込神楽坂駅]]
* [[早稲田通り]](神楽坂通り)
** [[神楽坂]]
** [[コボちゃん]]像<ref>{{Cite web|和書|date=2015-08-16 |url=http://www.city.shinjuku.lg.jp/whatsnew/pub/2015/0816-01.html |title=4コマ漫画「コボちゃん」ブロンズ像が神楽坂に登場 |publisher=新宿区 |accessdate=2018-11-17}}</ref>
* [[大久保通り]]
== その他 ==
* 映画『[[交渉人 真下正義]]』にて当駅が登場した。但し、[[ロケーション撮影|ロケ]]は当駅ではなく、[[神戸市営地下鉄西神・山手線]][[県庁前駅 (兵庫県)|県庁前駅]]である。
== 隣の駅 ==
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線([[東陽町駅|東陽町]]以西は全列車が各駅に停車)
:: [[早稲田駅]] (T 04) - '''神楽坂駅 (T 05)''' - [[飯田橋駅]] (T 06)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kagurazaka Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyometro.jp/station/kagurazaka/index.html 神楽坂駅/T05 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
{{東京メトロ東西線}}
{{DEFAULTSORT:かくらさか}}
[[Category:新宿区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 か|くらさか]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1964年開業の鉄道駅]]
[[Category:牛込]]
|
2003-06-21T13:55:21Z
|
2023-11-29T13:33:38Z
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[
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite press release",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A5%BD%E5%9D%82%E9%A7%85
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10,228 |
サマリウム
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サマリウム(英: samarium [səˈmɛəriəm])は原子番号62の元素。元素記号は Sm。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。
サマルスキー石から発見されたため、サマリウムと名付けられた。サマルスキー石の鉱物名は鉱物の発見者であるワシーリー・サマルスキー=ビホヴェッツに由来しており、サマリウムは人名が元素名の由来となった初めての元素である。
単体は灰白色の軟らかい金属であり、空気中では徐々に酸化されて表面に酸化被膜を形成する。標準状態における安定構造は三方晶系。希土類元素の中では珍しく+2価の酸化状態を取る。最も安定な酸化物はSm2O3であり、常温で常磁性を示す。ハロゲンやホウ素、酸素族元素、窒素族元素などと化合物を形成し、多くの金属元素と合金を形成する。天然に存在するサマリウムは4つの安定同位体および3つの放射性同位体からなり、128 Bq/gの放射能を有する。
他の軽ランタノイドと共にモナズ石(モナザイト)に含まれ、地殻中における存在度は40番目。主にサマリウムコバルト磁石や触媒、化学試薬として利用され、放射性同位体は放射性医薬品などにも利用される。サマリウムは人体内における生物学的な役割を持たないが、溶解性のサマリウム塩類はわずかに毒性を示す。
灰白色の軟らかい金属であり、比重は7.52、融点は1072 °C、沸点は1794 °C。サマリウムの沸点は希土類元素の中でもイッテルビウム、ユウロピウムに次いで低いため、希土類鉱石からのサマリウムの単離を容易なものとしている。常温、常圧の安定構造は三方晶系(六回対称をもった三方配列の層が、ACACBCBABのスタッキングで9層ずつ繰り返す構造)であり、これはα型と呼ばれる。731 °C以上に加熱すると六方最密充填 (hcp) となるが、この転移温度は金属の純度に依存する。さらに922 °Cまで加熱すると体心立方構造 (bcc) に転移する。40 kbarに加圧した状態で300 °Cまで加熱すると二重六方最密充填 (dhcp) となる。また、数百から数千 kbarに加圧していくことで一連の相変化を示し、特におよそ900 kbarにおいて正方晶系の相が現れる。700 °Cから400 °Cまで急激に冷却する焼戻しを行うことによって、圧力を加えることなく二重六方最密充填の相を生じさせることができる。また、蒸着によって得られるサマリウムの薄膜は周囲の状態によって六方最密充填もしくは二重六方最密充填の相を含んでいる可能性がある。
サマリウムおよびそのセスキ酸化物(三二酸化物、Sm2O3)は常温で常磁性を示す。それらに対応する有効磁気モーメントはランタン、ルテチウム(およびそれらの酸化物)に次いで希土類中3番目に低く、ボーア磁子は2 μB以下である。14.8 K以下に冷却されると反強磁性に転移する。個々のサマリウム原子はフラーレンを用いることで単離することができる。サマリウム原子はまたフラーレンにドープすることもでき、そのようなサマリウムをドープされたフラーレンは8 K以下の温度で超伝導性を示す。高温超電導物質である鉄系超伝導物質 (SrFeAsF) にサマリウムをドープさせることで超伝導転移温度を56 Kまで高めることができ、これは報告のなされた2008年11月時点では鉄系超電導物質の中で最も転移温度の高い物質であった。
サマリウムの金属表面は銀色の光沢を持つが、空気中においては室温で徐々に酸化され、150 °Cで自然発火する。特に箔や粉末状の金属サマリウムは空気中の酸素や湿気によって反応しやすいため、不活性ガス雰囲気下で保存する必要がある。
サマリウムは電気的に陽性であり、冷水とは徐々に、温水となら直ちに反応して水酸化物を形成する。
サマリウムは希硫酸に容易に溶解して黄色 から薄緑色をしたSmイオンとなり、それは[Sm(OH2)9]錯体として存在している。
サマリウムは希土類元素の中では珍しく+2価の酸化状態を取り、Sm イオンは溶液中で赤血色を示す。安定なのは 4f の電子配置をとる+3価であるため+2価のイオン Sm は極めて酸化されやすく、水溶液中においては水を還元して水素を発生し+3価のイオン Sm へと酸化される。その標準酸化還元電位は以下のように見積もられている。
一部の希土類元素の化合物は4f軌道に入っている電子数の揺らぎによって原子価揺動(Valence fluctuation、混合原子価化合物も参照)を起こすが、サマリウム化合物においても原子価揺動が見られる。特にSmB6は最も古くから知られる原子価揺動化合物である。
天然に存在するサマリウムは4つの安定同位体および3つの放射性同位体からなり、128 Bq/gの放射能を有する。Sm、Sm、SmおよびSmの4つがその安定同位体であり、3つの放射性同位体の半減期はそれぞれSm(半減期 = 1.06×10年)、Sm(7×10年)、Sm(2×10年)と非常に長い。天然存在比の最も大きな同位体は26.75%を占めるSmである。Smは様々な資料で安定同位体であるとも、放射性同位体であるとも される。
長寿命な放射性同位体であるSm、SmおよびSmは、主にアルファ崩壊によってネオジムの同位体に崩壊する。それらよりも軽い放射性同位体は主に電子捕獲によってプロメチウムの同位体に崩壊し、より重いものはベータ崩壊によってユウロピウムの同位体に崩壊する。
Smは1.06×10年の半減期でアルファ崩壊しNdとなり、放射年代測定法の一つであるサマリウム-ネオジム法(英語版)として利用される。
SmおよびSmの半減期はそれぞれ90年および340日である。残りの放射性同位体の半減期はいずれも2日未満であり、それらの大部分は48秒未満である。サマリウムはまた5つの核異性体を持ち、最も安定なSmで半減期22.6分、次いでSmが66秒、Smが10.7秒である。
サマリウムの最も安定な酸化物はセスキ酸化物であるSm2O3であり、Sm2O3には複数の結晶系のものが存在している。三方晶系のものは溶融させたものを徐冷することによって得られる。Sm2O3の融点は2365 °Cと高いため、直接的な加熱ではなく高周波コイルによる誘導加熱によって溶融される。Sm2O3の単斜晶の結晶は火炎溶融法(ベルヌーイ法)によって結晶成長させることができ、粉末のSm2O3から直径1 cm、最大長さ数cmのブールが得られる。ブールは純粋で格子欠陥などが含まれていなければ透明であるが、そうでなければオレンジ色を呈する。準安定な三方晶のSm2O3を1900 °Cまで加熱すると、より安定な単斜晶に転移する。立方晶のSm2O3もまた研究されている。
サマリウムは一酸化物SmOを形成する数少ないランタノイドの一つである。この黄金の光沢を持つ化合物はSm2O3を金属サマリウムを用いて1000 °C、50 kbar以上の条件下で還元させることによって得られ、圧力が低いと反応は不完全に終わる。SmOは立方晶の塩化ナトリウム型構造を取る。
サマリウムは硫黄、セレン、テルルと反応し、それぞれ3価の硫化物、セレン化物、テルル化物を形成する。2価のSmS、SmSe、SmTeも知られており、それらはSmOと同様に立方晶の塩化ナトリウム型構造を取る。これらのカルコゲナイドは室温において、圧力を加えることで半導体から金属に変化する性質を有している。SmSeおよびSmTeは20–30 kbarほどの圧力で連続的に変化するが、SmSはわずか6.5 kbarの圧力で急激に変化する。SmSの結晶やフィルムが引っ掻かれたり磨かれたりしたときに、この物性の変化は黒色から明るい黄色という劇的な色の変化を引き起こす。この物性変化によって結晶系は変化しないが、結晶の容積は15%も激減する。圧力から解放されるとSmSは0.4 kbarという非常に低い圧力で半導体に戻り、ヒステリシスを示す。
金属サマリウムは全てのハロゲンと反応して三ハロゲン化物を与える。
これらの三ハロゲン化物は金属サマリウムもしくは金属リチウム、金属ナトリウムと共に700から900 °Cの高温にすることによって更に還元され、二ハロゲン化物を生じる。二ヨウ化物は三ヨウ化物を加熱するか、室温において無水テトラヒドロフランを溶媒として金属サマリウムと1,2-ジヨードエタンを反応させることによっても得ることが出来る。
三ハロゲン化物の還元によって生成されるのは二ハロゲン化物に加え、Sm3F7, Sm14F33, Sm27F64, Sm11Br24, Sm5Br11およびSm6Br13のような明瞭な結晶構造を有する多数の不定比ハロゲン化物も生成される。
下記#サマリウム化合物の一覧の表にあるように、サマリウムのハロゲン化物はハロゲン元素の種類によってその結晶系が変わるという、大部分の元素では見られないような珍しい挙動を示す。ハロゲン化サマリウムの多くは1つの化合物に2つの主要な結晶相があり、一方は安定相でもう一方は準安定相である。準安定相は急冷後に加圧もしくは加熱することによって形成される。例えば、単斜晶(安定相)のヨウ化サマリウム(II)を加圧し、圧力を開放することで塩化鉛型結晶構造を有する斜方晶のヨウ化サマリウム(II)(密度:5.90 g/cm)が得られ、類似の方法によりヨウ化サマリウム(III)の新たな結晶相(密度:5.90 g/cm)も得られる。
酸化サマリウムおよびホウ素の粉末を真空下で焼結させることによっていくつかの相のホウ化サマリウムを含んだ粉末が得られ、サマリウムとホウ素の混合比を調整することで任意の組成の物が得られる。この粉末はアーク溶融もしくはゾーンメルト法によって特定のホウ化サマリウムの大きな結晶とすることができ、溶融、結晶化温度を変えることでそれぞれSmB6 (2580 °C)、SmB4(およそ2300 °C)およびSmB66 (2150 °C) が形成される。これらのホウ化サマリウムは全て硬く脆い暗灰色の固体であり、含まれるホウ素の割合が高くなるほど硬さが増す。二ホウ化サマリウムはこれらの方法で製造するには揮発性すぎるため、安定して結晶成長させるためには高圧(およそ65 kbar)かつ低温(1140から1240 °C)な条件が必要となる。これよりも高温になるとSmB6が優先されて形成する。
六ホウ化サマリウムはSmとSmのサマリウムイオンが3:7の割合で存在する典型的な中間原子価化合物である。それは典型的な近藤絶縁体(近藤効果参照)に属しており、50 Kを越える高温では近藤金属に特有の強い電子散乱による金属的な電気伝導度を示すのに対し、低温ではおよそ4から14 meVという狭いバンドギャップの非磁性絶縁体としてふるまう。六ホウ化サマリウムの冷却によって引き起こされる金属-絶縁体転移には熱伝導率の急激な増加が伴い、それはおよそ15 Kで最大値を示す。この原因は、低温領域における熱伝導は電子が熱の伝導に貢献しないためフォノンのみが熱伝導の要因となり、フォノンは電子による散乱を受けると熱伝導に寄与できなくなるため熱伝導率が低下するが、近藤効果によって金属から絶縁体へと転移することで電子密度が急激に減少するため電子にフォノンが散乱される割合もそれに伴って急激に減少するため、それまで電子による散乱をうけて熱伝導に寄与できなかったフォノンが熱伝導に寄与できるようになるためである。
新しい研究ではトポロジカル絶縁体となるかもしれないことが示されている。
炭化サマリウムはグラファイトと金属サマリウムを混合し、不活性雰囲気下で溶融させることによって得られる。空気中で不安定な物質であるため、研究もまた不活性雰囲気下で行われる。リン化サマリウムSmPはシリコンと同程度のバンドギャップ1.10 eVを示す半導体であり、N型半導体として高い電気伝導度を示す。それはリンと金属サマリウムの混合粉末を石英アンプル中に真空封管し、1100 °Cで焼きなますことによって合成される。リンは高温では非常に揮発性であり爆発の危険があるため、加熱時の昇温ペースは1分間に1 °C以下に保たなければならない。ヒ化サマリウムSmAsも類似の方法で合成されるが、合成温度は1800 °C以上である。
サマリウムの他の二元化合物としては、ケイ素、ゲルマニウム、スズ、鉛、アンチモン、テルルといった第14族元素、第15族元素、第16族元素との化合物が知られており、また多くのグループの元素との間で合金を作る。それらは全て金属サマリウムおよび対応する元素の粉末を混合し、焼きなますことによって得ることができる。そうやって得られた化合物の多くは不定比化合物であり、SmaXb(b / aは0.5から3の間を変化する)という名目上の組成比を持つ。
サマリウムはシクロペンタジエニド Sm(C5H5)3 およびその塩化物誘導体 Sm(C5H5)2Cl を形成する。それらは塩化サマリウム(III)をシクロペンタジエニルナトリウムとともにテトラヒドロフラン中で反応させることによって得られる。Sm(C5H5)3 は他の大部分のランタノイド元素のシクロペンタジエニル錯体とは異なり、一部の C5H5 が隣接するもう一方のサマリウム原子の方へ頂点や辺のみで結合しハプト数 η もしくは η の配位をすることで架橋し、それによってポリマー鎖を形成する。塩化物誘導体は二量体を形成し、より正確には (η-C5H5)2Sm(μ-Cl)2(η-C5H5)2 と表される。それらの塩素橋は例えばヨウ素や水素、窒素、もしくはシアン化物イオンなどによって置換される。
シクロペンタジエニド・サマリウム中の (C5H5) イオンはインデニド (C9H7) もしくはシクロオクタテトラニド (C8H8) 環と置換されて Sm(C9H7)3 もしくは KSm(η-C8H8)2 を形成する。これらの化合物はウラノセンと類似した構造を有する。また、およそ85 °Cで昇華する2価のシクロペンタジエニド Sm(C5H5)2 も存在する。フェロセンとは正反対に、Sm(C5H5)2 中の C5H5 リングは平行でなく45 °傾いている。
サマリウムのアルカンおよびアリール化合物はテトラヒドロフランやエーテル中でメタセシス反応によって得ることができる。
ここで R {\displaystyle {\ce {R}}} は炭化水素基、 Me {\displaystyle {\ce {Me}}} はメチル基を表す。
1879年にポール・ボアボードランによってサマルスキー石から発見された。
ロシアのウラル山脈南部に位置するイリメニ山脈のミアスでワシーリー・サマルスキー=ビホヴェッツが新鉱物を発見し、ロシアの鉱山技術部隊のチーフスタッフであったサマルスキーはドイツの鉱物学者のグスタフ・ローゼおよびハインリヒ・ローゼの兄弟に対して研究のため鉱物標本の利用許可を与えた。1847年にハインリヒ・ローゼはサマルスキーへの献名としてその鉱物をサマルスキー石 (Samarskite, (Y,Ce,U,Fe)3(Nb,Ta,Ti)5O16) と命名した。1879年にフランスの化学者であるポール・ボアボードランはパリでサマルスキー石からサマリウムを酸化物や水酸化物の形で単離し、強い吸収線スペクトルによってそれが新しい元素であることを確認した。サマリウムを含むいくつかの希土類元素の発見は19世紀後半に複数の化学者によって発表されたが、ほとんどの情報源においてボアボードランを一番初めの発見者としている。例えば1878年にスイスの化学者であるマルク・ドラフォンテーヌによって新しい元素としてdecipium(ラテン語で「あてにならない」「紛らわしい」を意味するdecipiensに由来する)が発表されたが、1880年後半から1881年にかけてそれがボアボードランが発見したサマリウムを含むいくつかの元素の混合物であることが証明されている。また、ボアボードランが単離したサマリウムも純粋なものではなく相当量のユウロピウムが含まれていた事も判明しており、純粋なサマリウムはユウロピウムの発見者であるウジェーヌ・ドマルセーによって1901年に得られた。
ボアボードランはこの新しい元素をサマリアと呼んだが後に他の元素の命名則に合わせてサマリウムとなり、サマリアという名称はジルコニアやアルミナ、セリア、ホルミアなどのように酸化サマリウムを言及するための名称としてしばしば利用されている。サマリウムの元素記号としてはSmが提案されたが、1920年代頃まではSaが多用されていた。サマリウムの名称は鉱石の発見者であるサマルスキーの名前が元素名の由来となっており、サマルスキーは人物名が元素名の由来となった初めての人物である。
1950年代にイオン交換による分離技術が出現する以前には、純粋な形でのサマリウムの商業的用途は存在しなかった。しかしネオジムの分別結晶化精製の副産物として生じるサマリウムとガドリニウムの混合物は、それを製造していた会社にちなんで"Lindsay Mix"と名付けられ、初期の原子炉のいくつかで核制御棒として使用された。今日では、これに類似した製品は"サマリウム-ユウロピウム-ガドリニウム" (SEG) と呼ばれている。それはバストネサイト(もしくはモナズ石)から分離されるランタノイドの混合物から溶媒抽出法によって製造される。ランタノイドはより重いものほど溶媒との親和性が高いため、それらは比較的少量の溶媒で容易に抽出される。バストネサイトを処理する全ての希土類製造者が元の鉱石のわずか1~2%を占めるにすぎないSEGの各構成元素をさらに分離するために十分な規模の設備を持つわけではなく、そのような生産者は専門的な処理業者に売却する目的でSEGを製造している。SEGからは蛍光体メーカーが利用する高価なユウロピウムが回収できる。2012年現在サマリウムは供給過剰であり、酸化サマリウムの価格は鉱石中に含まれるサマリウムの相対的な存在量から予測されるよりも安価に供給されている。
サマリウムは地殻中において40番目に多く含まれる元素であり、その濃度は平均およそ8 ppm(百万分の1)である。その存在量はランタノイドの中では5番目であり、スズのような元素よりもありふれた元素である。土壌中のサマリウム濃度は2から22 ppmであり、海水中の濃度は0.5から0.8 ppt(1兆分の1)である。環境中のサマリウムの移動はその化学的状態に強く依存し、非常に不均一である。土壌中においてサマリウムは砂粒子の表面に付着しやすく、間隙水(土壌中において砂の粒子の間で保持される水)中のサマリウム濃度と比較して200倍以上も高く、粘土質な土壌においては1000倍におよぶ。
サマリウムの単体は自然には産出しないが、他の希土類元素と同様にモナズ石やバストネサイト、セル石(英語版)、ガドリン石、サマルスキー石など多くの鉱物中に含まれる。サマリウム源として商業的に利用されるものの大部分はモナズ石およびバストネサイトであり、モナズ石中のサマリウム濃度は最高2.8% である。サマリウムの埋蔵量は全世界でおよそ200万トンと推定されており、それらの大部分は中国、アメリカ合衆国、ブラジル、インド、スリランカおよびオーストラリアに存在している。2001年頃のサマリウムの年間生産量は酸化サマリウムとしておよそ700トン。サマリウムの原料となる希土類鉱石の2014年の生産量は中国が最も大規模で年間9万5000トンであった。それにアメリカの7000トン、インドの3000トン、オーストラリアおよびロシアの2500トン、タイの1100トンと続いており、その他マレーシアやベトナムでも小規模な生産が行われている。2012年における酸化サマリウムのキロ単価は62ドルであり、ランタノイド酸化物の中でもセリウム、ランタンに次いで安価な元素である。
サマリウムをおよそ1%含有する希土類元素混合物であるミッシュメタルが長い間利用されて来たのに対して、比較的純粋なサマリウムはイオン交換法や溶媒抽出法、電気化学的析出法などによって近年単離されるようになったばかりである。金属サマリウムは、しばしば塩化サマリウム(III)を塩化ナトリウムもしくは塩化カルシウムとともに溶融塩電解することによって得られる。サマリウムはまた、酸化サマリウムを金属ランタンで還元させることによっても得られる。この生成物にはランタンが含まれるため、サマリウムの沸点が1794 °C、ランタンの沸点が3464 °Cであることを利用して蒸留によって分離される。
サマリウム-151はウランの核分裂反応によって生成され、その生成割合は全分裂反応の内のおよそ0.4%である。それはまたサマリウム-149の中性子捕獲によっても生成され、原子炉の制御棒に加えられる。そのため、サマリウム-151は使用済み核燃料および放射性廃棄物に含まれる。
サマリウムの最も重要な用途の一つはサマリウムコバルト磁石であり、それはSmCo5もしくはSm2Co17の組成を持つ金属間化合物である。フェライト磁石の1000倍の磁力を有しネオジム磁石に次いで強力な磁石として利用される。ネオジム磁石の方が価格が安く性能もよいが、ネオジム磁石のキュリー温度(磁性がなくなる温度)が300から400 °Cであるのに対してサマリウムコバルト磁石のキュリー温度は約700 °Cと高いため、高温で使用する用途などで使われている。またサマリウムコバルト磁石は、コンピューターのハードディスク、電気自動車やコンプレッサー用のモーター、永久磁石同期電動機、音響機器のスピーカーやヘッドホン、携帯電話、スマートフォン、風力発電等の幅広い用途でも使用されている。
サマリウムおよびその化合物のもう一つの重要な用途は触媒および試薬である。サマリウム触媒はポリ塩化ビフェニル (PCBs) のような汚染物質を脱塩素化して分解したり、エタノールの脱水および脱水素化反応を促進したりする。トリフルオロメタンスルホナトサマリウム (Sm(CF3SO3)3, (Sm(OTf)3) はハロゲンを促進剤とするアルケンのフリーデル・クラフツ反応において最も効果的なルイス酸触媒の一つである。
サマリウムにヨウ素を作用させて得られるヨウ化サマリウム(II) (SmI2) は一般的な還元剤として用いられる。例えば脱スルホニル反応(英語版)のような有機合成におけるカップリング試薬や環化反応、ダニシェフスキー、桑島(英語版)、向山(英語版)、ホルトンなどによるタキソール全合成、ストリキニーネ全合成(英語版)、バルビエ反応、モリブデン触媒を用いたアンモニア合成、その他ヨウ化サマリウム(II)による還元反応(英語版)などが挙げられる。
通常、酸化物の形でサマリウムは赤外線の吸収を増加させるために陶器やガラスに添加される。また、ミッシュメタルの非主要な構成元素として、ライターやトーチランプを点火するための火打石に用いられる。その他、酸化サマリウムから作られるセラミックス材料は電子材料としてコンデンサーや誘電体に用いられるほか、自動車の排気ガス浄化用等、触媒の材料としても注目されている。
放射性同位体のSmは46.3時間の半減期でベータ粒子を放出するβ放射体である。それは肺癌、前立腺癌、乳癌および骨肉腫において癌細胞を殺すのに用いられる。この目的のため、Smはエチレンジアミンテトラメチレンホスホン酸 (EDTMP) とキレート錯体を形成させて静脈注射される。Smをキレート化することによって、放射性サマリウムが体内に蓄積して過剰に被曝することで新たな癌細胞が発生するのを防ぐことができる。対応する薬は、サマリウム (Sm) レキシドロナム(英語版)およびその登録商標であるクアドラメットを含む複数の名称を有している。
Smは中性子捕獲によって41,000 バーンという高い衝突断面積を有しているため、原子炉の制御棒に用いられる。ホウ素やカドミウムといった他の競合する材料に対する利点は、Smの核融合および核崩壊生成物の大部分が良好な中性子吸収材であるサマリウムの他の同位体であり、中性子の吸収が安定しているという点にある。例えばSmの衝突断面積は15,000 バーン、Sm、SmおよびSmの衝突断面積は3桁オーダーであり、各同位体の混合物である自然中のサマリウムの衝突断面積は6,800 バーンである。原子炉中の崩壊生成物であるSmは原子炉の設計と運用においてXeに次いで2番目に重要であると考えられている。
サマリウムをドープしたフッ化カルシウムは初期の固体レーザーの一つにおいて能動媒質として用いられ、それは1960年代初期にIBM研究所で色素レーザーの共同開発者であるピーター・ソローキンおよびミレク・スティーヴンソンによって設計、製造された。このサマリウムレーザーは波長708.5 nmの赤色光を放った。それは液体ヘリウムによって冷却する必要があったため、実用的な用途が見つけられなかった。
もう一つのサマリウムを用いたレーザーは10 nmよりも短い波長で動作する、初めての飽和X線レーザー(英語版)となった。それは波長7.3 nmおよび6.8 nmでパルス幅50ピコ秒のレーザーを発し、ホログラフィー、生物試料の高分解能顕微鏡法、デフレクトメトリ、干渉法および、閉じ込め核融合や天文物理学に関連した高密度プラズマのX線撮影などの用途に適している。飽和動作は取り得る最大のエネルギーがレーザー媒体から取り出されることを意味しており、その結果3 mJの高ピークエネルギーを示す。能動媒質はサマリウム被覆ガラスにNd:YAGレーザー(波長1.05 μm以上)を照射することで生成するサマリウム・プラズマである。
硫化サマリウム (SmS) やセレン化サマリウム (SmSe) などのサマリウムのモノカルコゲナイドは圧力変化に伴って電気抵抗が変化する性質を有しているため、圧力センサーやメモリデバイスに用いることが可能であり、そのようなデバイスは商業的に開発されている。硫化サマリウムはまた、およそ150 °Cの穏やかな加熱に伴って電圧を生じるため、熱電変換素子として利用することもできる。
サマリウムとネオジムの同位体元素Sm、NdおよびNdのそれぞれの相対濃度比の分析によって、岩石や隕石の年代を測定することができる(サマリウム-ネオジム法(英語版))。サマリウムとネオジムは共にランタノイドであり類似した理化学的特性を有している。そのため、これら年代決定の目印となる元素が地質学的なプロセスに影響を受けて分離されるようなことがないか、分離されたとしても十分な知見があり関連元素のイオン半径からモデル化することが可能である。
金属サマリウムは人体内における生物学的な役割を持たない。サマリウム塩類は代謝を促進するが、それが純粋にサマリウムの影響であるのか、もしくは共存する他の希土類元素の影響なのかは不明である。成人の体内に含まれるサマリウムの総量はおよそ50 μgであり、その大部分は肝臓および腎臓に存在しており、血液中に溶存しているサマリウム濃度はおよそ8 μg/Lである。植物はサマリウムを吸収せず測定可能な濃度にまで蓄積されることがないため、サマリウムは通常人間の食事には含まれない。しかしながら、少数の植物や野菜は最大1 ppmのサマリウムを含む可能性がある。サマリウムの不溶性塩類は非毒性であり、溶解性のものはわずかに毒性を示す。
サマリウム塩が摂取された際にはその内のわずか0.05%のみが血液中に吸収され、残りは排出される。血液からは45%が肝臓、45%が骨の表面へと運ばれて10年間残存し、残りの10%は排出される。
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"text": "単体は灰白色の軟らかい金属であり、空気中では徐々に酸化されて表面に酸化被膜を形成する。標準状態における安定構造は三方晶系。希土類元素の中では珍しく+2価の酸化状態を取る。最も安定な酸化物はSm2O3であり、常温で常磁性を示す。ハロゲンやホウ素、酸素族元素、窒素族元素などと化合物を形成し、多くの金属元素と合金を形成する。天然に存在するサマリウムは4つの安定同位体および3つの放射性同位体からなり、128 Bq/gの放射能を有する。",
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"text": "灰白色の軟らかい金属であり、比重は7.52、融点は1072 °C、沸点は1794 °C。サマリウムの沸点は希土類元素の中でもイッテルビウム、ユウロピウムに次いで低いため、希土類鉱石からのサマリウムの単離を容易なものとしている。常温、常圧の安定構造は三方晶系(六回対称をもった三方配列の層が、ACACBCBABのスタッキングで9層ずつ繰り返す構造)であり、これはα型と呼ばれる。731 °C以上に加熱すると六方最密充填 (hcp) となるが、この転移温度は金属の純度に依存する。さらに922 °Cまで加熱すると体心立方構造 (bcc) に転移する。40 kbarに加圧した状態で300 °Cまで加熱すると二重六方最密充填 (dhcp) となる。また、数百から数千 kbarに加圧していくことで一連の相変化を示し、特におよそ900 kbarにおいて正方晶系の相が現れる。700 °Cから400 °Cまで急激に冷却する焼戻しを行うことによって、圧力を加えることなく二重六方最密充填の相を生じさせることができる。また、蒸着によって得られるサマリウムの薄膜は周囲の状態によって六方最密充填もしくは二重六方最密充填の相を含んでいる可能性がある。",
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"text": "サマリウムおよびそのセスキ酸化物(三二酸化物、Sm2O3)は常温で常磁性を示す。それらに対応する有効磁気モーメントはランタン、ルテチウム(およびそれらの酸化物)に次いで希土類中3番目に低く、ボーア磁子は2 μB以下である。14.8 K以下に冷却されると反強磁性に転移する。個々のサマリウム原子はフラーレンを用いることで単離することができる。サマリウム原子はまたフラーレンにドープすることもでき、そのようなサマリウムをドープされたフラーレンは8 K以下の温度で超伝導性を示す。高温超電導物質である鉄系超伝導物質 (SrFeAsF) にサマリウムをドープさせることで超伝導転移温度を56 Kまで高めることができ、これは報告のなされた2008年11月時点では鉄系超電導物質の中で最も転移温度の高い物質であった。",
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"text": "サマリウムの金属表面は銀色の光沢を持つが、空気中においては室温で徐々に酸化され、150 °Cで自然発火する。特に箔や粉末状の金属サマリウムは空気中の酸素や湿気によって反応しやすいため、不活性ガス雰囲気下で保存する必要がある。",
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"text": "一部の希土類元素の化合物は4f軌道に入っている電子数の揺らぎによって原子価揺動(Valence fluctuation、混合原子価化合物も参照)を起こすが、サマリウム化合物においても原子価揺動が見られる。特にSmB6は最も古くから知られる原子価揺動化合物である。",
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"text": "サマリウムの最も安定な酸化物はセスキ酸化物であるSm2O3であり、Sm2O3には複数の結晶系のものが存在している。三方晶系のものは溶融させたものを徐冷することによって得られる。Sm2O3の融点は2365 °Cと高いため、直接的な加熱ではなく高周波コイルによる誘導加熱によって溶融される。Sm2O3の単斜晶の結晶は火炎溶融法(ベルヌーイ法)によって結晶成長させることができ、粉末のSm2O3から直径1 cm、最大長さ数cmのブールが得られる。ブールは純粋で格子欠陥などが含まれていなければ透明であるが、そうでなければオレンジ色を呈する。準安定な三方晶のSm2O3を1900 °Cまで加熱すると、より安定な単斜晶に転移する。立方晶のSm2O3もまた研究されている。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "サマリウムは一酸化物SmOを形成する数少ないランタノイドの一つである。この黄金の光沢を持つ化合物はSm2O3を金属サマリウムを用いて1000 °C、50 kbar以上の条件下で還元させることによって得られ、圧力が低いと反応は不完全に終わる。SmOは立方晶の塩化ナトリウム型構造を取る。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "サマリウムは硫黄、セレン、テルルと反応し、それぞれ3価の硫化物、セレン化物、テルル化物を形成する。2価のSmS、SmSe、SmTeも知られており、それらはSmOと同様に立方晶の塩化ナトリウム型構造を取る。これらのカルコゲナイドは室温において、圧力を加えることで半導体から金属に変化する性質を有している。SmSeおよびSmTeは20–30 kbarほどの圧力で連続的に変化するが、SmSはわずか6.5 kbarの圧力で急激に変化する。SmSの結晶やフィルムが引っ掻かれたり磨かれたりしたときに、この物性の変化は黒色から明るい黄色という劇的な色の変化を引き起こす。この物性変化によって結晶系は変化しないが、結晶の容積は15%も激減する。圧力から解放されるとSmSは0.4 kbarという非常に低い圧力で半導体に戻り、ヒステリシスを示す。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "金属サマリウムは全てのハロゲンと反応して三ハロゲン化物を与える。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "これらの三ハロゲン化物は金属サマリウムもしくは金属リチウム、金属ナトリウムと共に700から900 °Cの高温にすることによって更に還元され、二ハロゲン化物を生じる。二ヨウ化物は三ヨウ化物を加熱するか、室温において無水テトラヒドロフランを溶媒として金属サマリウムと1,2-ジヨードエタンを反応させることによっても得ることが出来る。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "三ハロゲン化物の還元によって生成されるのは二ハロゲン化物に加え、Sm3F7, Sm14F33, Sm27F64, Sm11Br24, Sm5Br11およびSm6Br13のような明瞭な結晶構造を有する多数の不定比ハロゲン化物も生成される。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "下記#サマリウム化合物の一覧の表にあるように、サマリウムのハロゲン化物はハロゲン元素の種類によってその結晶系が変わるという、大部分の元素では見られないような珍しい挙動を示す。ハロゲン化サマリウムの多くは1つの化合物に2つの主要な結晶相があり、一方は安定相でもう一方は準安定相である。準安定相は急冷後に加圧もしくは加熱することによって形成される。例えば、単斜晶(安定相)のヨウ化サマリウム(II)を加圧し、圧力を開放することで塩化鉛型結晶構造を有する斜方晶のヨウ化サマリウム(II)(密度:5.90 g/cm)が得られ、類似の方法によりヨウ化サマリウム(III)の新たな結晶相(密度:5.90 g/cm)も得られる。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "酸化サマリウムおよびホウ素の粉末を真空下で焼結させることによっていくつかの相のホウ化サマリウムを含んだ粉末が得られ、サマリウムとホウ素の混合比を調整することで任意の組成の物が得られる。この粉末はアーク溶融もしくはゾーンメルト法によって特定のホウ化サマリウムの大きな結晶とすることができ、溶融、結晶化温度を変えることでそれぞれSmB6 (2580 °C)、SmB4(およそ2300 °C)およびSmB66 (2150 °C) が形成される。これらのホウ化サマリウムは全て硬く脆い暗灰色の固体であり、含まれるホウ素の割合が高くなるほど硬さが増す。二ホウ化サマリウムはこれらの方法で製造するには揮発性すぎるため、安定して結晶成長させるためには高圧(およそ65 kbar)かつ低温(1140から1240 °C)な条件が必要となる。これよりも高温になるとSmB6が優先されて形成する。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "六ホウ化サマリウムはSmとSmのサマリウムイオンが3:7の割合で存在する典型的な中間原子価化合物である。それは典型的な近藤絶縁体(近藤効果参照)に属しており、50 Kを越える高温では近藤金属に特有の強い電子散乱による金属的な電気伝導度を示すのに対し、低温ではおよそ4から14 meVという狭いバンドギャップの非磁性絶縁体としてふるまう。六ホウ化サマリウムの冷却によって引き起こされる金属-絶縁体転移には熱伝導率の急激な増加が伴い、それはおよそ15 Kで最大値を示す。この原因は、低温領域における熱伝導は電子が熱の伝導に貢献しないためフォノンのみが熱伝導の要因となり、フォノンは電子による散乱を受けると熱伝導に寄与できなくなるため熱伝導率が低下するが、近藤効果によって金属から絶縁体へと転移することで電子密度が急激に減少するため電子にフォノンが散乱される割合もそれに伴って急激に減少するため、それまで電子による散乱をうけて熱伝導に寄与できなかったフォノンが熱伝導に寄与できるようになるためである。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "新しい研究ではトポロジカル絶縁体となるかもしれないことが示されている。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "炭化サマリウムはグラファイトと金属サマリウムを混合し、不活性雰囲気下で溶融させることによって得られる。空気中で不安定な物質であるため、研究もまた不活性雰囲気下で行われる。リン化サマリウムSmPはシリコンと同程度のバンドギャップ1.10 eVを示す半導体であり、N型半導体として高い電気伝導度を示す。それはリンと金属サマリウムの混合粉末を石英アンプル中に真空封管し、1100 °Cで焼きなますことによって合成される。リンは高温では非常に揮発性であり爆発の危険があるため、加熱時の昇温ペースは1分間に1 °C以下に保たなければならない。ヒ化サマリウムSmAsも類似の方法で合成されるが、合成温度は1800 °C以上である。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "サマリウムの他の二元化合物としては、ケイ素、ゲルマニウム、スズ、鉛、アンチモン、テルルといった第14族元素、第15族元素、第16族元素との化合物が知られており、また多くのグループの元素との間で合金を作る。それらは全て金属サマリウムおよび対応する元素の粉末を混合し、焼きなますことによって得ることができる。そうやって得られた化合物の多くは不定比化合物であり、SmaXb(b / aは0.5から3の間を変化する)という名目上の組成比を持つ。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "サマリウムはシクロペンタジエニド Sm(C5H5)3 およびその塩化物誘導体 Sm(C5H5)2Cl を形成する。それらは塩化サマリウム(III)をシクロペンタジエニルナトリウムとともにテトラヒドロフラン中で反応させることによって得られる。Sm(C5H5)3 は他の大部分のランタノイド元素のシクロペンタジエニル錯体とは異なり、一部の C5H5 が隣接するもう一方のサマリウム原子の方へ頂点や辺のみで結合しハプト数 η もしくは η の配位をすることで架橋し、それによってポリマー鎖を形成する。塩化物誘導体は二量体を形成し、より正確には (η-C5H5)2Sm(μ-Cl)2(η-C5H5)2 と表される。それらの塩素橋は例えばヨウ素や水素、窒素、もしくはシアン化物イオンなどによって置換される。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "シクロペンタジエニド・サマリウム中の (C5H5) イオンはインデニド (C9H7) もしくはシクロオクタテトラニド (C8H8) 環と置換されて Sm(C9H7)3 もしくは KSm(η-C8H8)2 を形成する。これらの化合物はウラノセンと類似した構造を有する。また、およそ85 °Cで昇華する2価のシクロペンタジエニド Sm(C5H5)2 も存在する。フェロセンとは正反対に、Sm(C5H5)2 中の C5H5 リングは平行でなく45 °傾いている。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "サマリウムのアルカンおよびアリール化合物はテトラヒドロフランやエーテル中でメタセシス反応によって得ることができる。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ここで R {\\displaystyle {\\ce {R}}} は炭化水素基、 Me {\\displaystyle {\\ce {Me}}} はメチル基を表す。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1879年にポール・ボアボードランによってサマルスキー石から発見された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ロシアのウラル山脈南部に位置するイリメニ山脈のミアスでワシーリー・サマルスキー=ビホヴェッツが新鉱物を発見し、ロシアの鉱山技術部隊のチーフスタッフであったサマルスキーはドイツの鉱物学者のグスタフ・ローゼおよびハインリヒ・ローゼの兄弟に対して研究のため鉱物標本の利用許可を与えた。1847年にハインリヒ・ローゼはサマルスキーへの献名としてその鉱物をサマルスキー石 (Samarskite, (Y,Ce,U,Fe)3(Nb,Ta,Ti)5O16) と命名した。1879年にフランスの化学者であるポール・ボアボードランはパリでサマルスキー石からサマリウムを酸化物や水酸化物の形で単離し、強い吸収線スペクトルによってそれが新しい元素であることを確認した。サマリウムを含むいくつかの希土類元素の発見は19世紀後半に複数の化学者によって発表されたが、ほとんどの情報源においてボアボードランを一番初めの発見者としている。例えば1878年にスイスの化学者であるマルク・ドラフォンテーヌによって新しい元素としてdecipium(ラテン語で「あてにならない」「紛らわしい」を意味するdecipiensに由来する)が発表されたが、1880年後半から1881年にかけてそれがボアボードランが発見したサマリウムを含むいくつかの元素の混合物であることが証明されている。また、ボアボードランが単離したサマリウムも純粋なものではなく相当量のユウロピウムが含まれていた事も判明しており、純粋なサマリウムはユウロピウムの発見者であるウジェーヌ・ドマルセーによって1901年に得られた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ボアボードランはこの新しい元素をサマリアと呼んだが後に他の元素の命名則に合わせてサマリウムとなり、サマリアという名称はジルコニアやアルミナ、セリア、ホルミアなどのように酸化サマリウムを言及するための名称としてしばしば利用されている。サマリウムの元素記号としてはSmが提案されたが、1920年代頃まではSaが多用されていた。サマリウムの名称は鉱石の発見者であるサマルスキーの名前が元素名の由来となっており、サマルスキーは人物名が元素名の由来となった初めての人物である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1950年代にイオン交換による分離技術が出現する以前には、純粋な形でのサマリウムの商業的用途は存在しなかった。しかしネオジムの分別結晶化精製の副産物として生じるサマリウムとガドリニウムの混合物は、それを製造していた会社にちなんで\"Lindsay Mix\"と名付けられ、初期の原子炉のいくつかで核制御棒として使用された。今日では、これに類似した製品は\"サマリウム-ユウロピウム-ガドリニウム\" (SEG) と呼ばれている。それはバストネサイト(もしくはモナズ石)から分離されるランタノイドの混合物から溶媒抽出法によって製造される。ランタノイドはより重いものほど溶媒との親和性が高いため、それらは比較的少量の溶媒で容易に抽出される。バストネサイトを処理する全ての希土類製造者が元の鉱石のわずか1~2%を占めるにすぎないSEGの各構成元素をさらに分離するために十分な規模の設備を持つわけではなく、そのような生産者は専門的な処理業者に売却する目的でSEGを製造している。SEGからは蛍光体メーカーが利用する高価なユウロピウムが回収できる。2012年現在サマリウムは供給過剰であり、酸化サマリウムの価格は鉱石中に含まれるサマリウムの相対的な存在量から予測されるよりも安価に供給されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "サマリウムは地殻中において40番目に多く含まれる元素であり、その濃度は平均およそ8 ppm(百万分の1)である。その存在量はランタノイドの中では5番目であり、スズのような元素よりもありふれた元素である。土壌中のサマリウム濃度は2から22 ppmであり、海水中の濃度は0.5から0.8 ppt(1兆分の1)である。環境中のサマリウムの移動はその化学的状態に強く依存し、非常に不均一である。土壌中においてサマリウムは砂粒子の表面に付着しやすく、間隙水(土壌中において砂の粒子の間で保持される水)中のサマリウム濃度と比較して200倍以上も高く、粘土質な土壌においては1000倍におよぶ。",
"title": "存在と生産"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "サマリウムの単体は自然には産出しないが、他の希土類元素と同様にモナズ石やバストネサイト、セル石(英語版)、ガドリン石、サマルスキー石など多くの鉱物中に含まれる。サマリウム源として商業的に利用されるものの大部分はモナズ石およびバストネサイトであり、モナズ石中のサマリウム濃度は最高2.8% である。サマリウムの埋蔵量は全世界でおよそ200万トンと推定されており、それらの大部分は中国、アメリカ合衆国、ブラジル、インド、スリランカおよびオーストラリアに存在している。2001年頃のサマリウムの年間生産量は酸化サマリウムとしておよそ700トン。サマリウムの原料となる希土類鉱石の2014年の生産量は中国が最も大規模で年間9万5000トンであった。それにアメリカの7000トン、インドの3000トン、オーストラリアおよびロシアの2500トン、タイの1100トンと続いており、その他マレーシアやベトナムでも小規模な生産が行われている。2012年における酸化サマリウムのキロ単価は62ドルであり、ランタノイド酸化物の中でもセリウム、ランタンに次いで安価な元素である。",
"title": "存在と生産"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "サマリウムをおよそ1%含有する希土類元素混合物であるミッシュメタルが長い間利用されて来たのに対して、比較的純粋なサマリウムはイオン交換法や溶媒抽出法、電気化学的析出法などによって近年単離されるようになったばかりである。金属サマリウムは、しばしば塩化サマリウム(III)を塩化ナトリウムもしくは塩化カルシウムとともに溶融塩電解することによって得られる。サマリウムはまた、酸化サマリウムを金属ランタンで還元させることによっても得られる。この生成物にはランタンが含まれるため、サマリウムの沸点が1794 °C、ランタンの沸点が3464 °Cであることを利用して蒸留によって分離される。",
"title": "存在と生産"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "サマリウム-151はウランの核分裂反応によって生成され、その生成割合は全分裂反応の内のおよそ0.4%である。それはまたサマリウム-149の中性子捕獲によっても生成され、原子炉の制御棒に加えられる。そのため、サマリウム-151は使用済み核燃料および放射性廃棄物に含まれる。",
"title": "存在と生産"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "サマリウムの最も重要な用途の一つはサマリウムコバルト磁石であり、それはSmCo5もしくはSm2Co17の組成を持つ金属間化合物である。フェライト磁石の1000倍の磁力を有しネオジム磁石に次いで強力な磁石として利用される。ネオジム磁石の方が価格が安く性能もよいが、ネオジム磁石のキュリー温度(磁性がなくなる温度)が300から400 °Cであるのに対してサマリウムコバルト磁石のキュリー温度は約700 °Cと高いため、高温で使用する用途などで使われている。またサマリウムコバルト磁石は、コンピューターのハードディスク、電気自動車やコンプレッサー用のモーター、永久磁石同期電動機、音響機器のスピーカーやヘッドホン、携帯電話、スマートフォン、風力発電等の幅広い用途でも使用されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "サマリウムおよびその化合物のもう一つの重要な用途は触媒および試薬である。サマリウム触媒はポリ塩化ビフェニル (PCBs) のような汚染物質を脱塩素化して分解したり、エタノールの脱水および脱水素化反応を促進したりする。トリフルオロメタンスルホナトサマリウム (Sm(CF3SO3)3, (Sm(OTf)3) はハロゲンを促進剤とするアルケンのフリーデル・クラフツ反応において最も効果的なルイス酸触媒の一つである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "サマリウムにヨウ素を作用させて得られるヨウ化サマリウム(II) (SmI2) は一般的な還元剤として用いられる。例えば脱スルホニル反応(英語版)のような有機合成におけるカップリング試薬や環化反応、ダニシェフスキー、桑島(英語版)、向山(英語版)、ホルトンなどによるタキソール全合成、ストリキニーネ全合成(英語版)、バルビエ反応、モリブデン触媒を用いたアンモニア合成、その他ヨウ化サマリウム(II)による還元反応(英語版)などが挙げられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "通常、酸化物の形でサマリウムは赤外線の吸収を増加させるために陶器やガラスに添加される。また、ミッシュメタルの非主要な構成元素として、ライターやトーチランプを点火するための火打石に用いられる。その他、酸化サマリウムから作られるセラミックス材料は電子材料としてコンデンサーや誘電体に用いられるほか、自動車の排気ガス浄化用等、触媒の材料としても注目されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "放射性同位体のSmは46.3時間の半減期でベータ粒子を放出するβ放射体である。それは肺癌、前立腺癌、乳癌および骨肉腫において癌細胞を殺すのに用いられる。この目的のため、Smはエチレンジアミンテトラメチレンホスホン酸 (EDTMP) とキレート錯体を形成させて静脈注射される。Smをキレート化することによって、放射性サマリウムが体内に蓄積して過剰に被曝することで新たな癌細胞が発生するのを防ぐことができる。対応する薬は、サマリウム (Sm) レキシドロナム(英語版)およびその登録商標であるクアドラメットを含む複数の名称を有している。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "Smは中性子捕獲によって41,000 バーンという高い衝突断面積を有しているため、原子炉の制御棒に用いられる。ホウ素やカドミウムといった他の競合する材料に対する利点は、Smの核融合および核崩壊生成物の大部分が良好な中性子吸収材であるサマリウムの他の同位体であり、中性子の吸収が安定しているという点にある。例えばSmの衝突断面積は15,000 バーン、Sm、SmおよびSmの衝突断面積は3桁オーダーであり、各同位体の混合物である自然中のサマリウムの衝突断面積は6,800 バーンである。原子炉中の崩壊生成物であるSmは原子炉の設計と運用においてXeに次いで2番目に重要であると考えられている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "サマリウムをドープしたフッ化カルシウムは初期の固体レーザーの一つにおいて能動媒質として用いられ、それは1960年代初期にIBM研究所で色素レーザーの共同開発者であるピーター・ソローキンおよびミレク・スティーヴンソンによって設計、製造された。このサマリウムレーザーは波長708.5 nmの赤色光を放った。それは液体ヘリウムによって冷却する必要があったため、実用的な用途が見つけられなかった。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "もう一つのサマリウムを用いたレーザーは10 nmよりも短い波長で動作する、初めての飽和X線レーザー(英語版)となった。それは波長7.3 nmおよび6.8 nmでパルス幅50ピコ秒のレーザーを発し、ホログラフィー、生物試料の高分解能顕微鏡法、デフレクトメトリ、干渉法および、閉じ込め核融合や天文物理学に関連した高密度プラズマのX線撮影などの用途に適している。飽和動作は取り得る最大のエネルギーがレーザー媒体から取り出されることを意味しており、その結果3 mJの高ピークエネルギーを示す。能動媒質はサマリウム被覆ガラスにNd:YAGレーザー(波長1.05 μm以上)を照射することで生成するサマリウム・プラズマである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "硫化サマリウム (SmS) やセレン化サマリウム (SmSe) などのサマリウムのモノカルコゲナイドは圧力変化に伴って電気抵抗が変化する性質を有しているため、圧力センサーやメモリデバイスに用いることが可能であり、そのようなデバイスは商業的に開発されている。硫化サマリウムはまた、およそ150 °Cの穏やかな加熱に伴って電圧を生じるため、熱電変換素子として利用することもできる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "サマリウムとネオジムの同位体元素Sm、NdおよびNdのそれぞれの相対濃度比の分析によって、岩石や隕石の年代を測定することができる(サマリウム-ネオジム法(英語版))。サマリウムとネオジムは共にランタノイドであり類似した理化学的特性を有している。そのため、これら年代決定の目印となる元素が地質学的なプロセスに影響を受けて分離されるようなことがないか、分離されたとしても十分な知見があり関連元素のイオン半径からモデル化することが可能である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "金属サマリウムは人体内における生物学的な役割を持たない。サマリウム塩類は代謝を促進するが、それが純粋にサマリウムの影響であるのか、もしくは共存する他の希土類元素の影響なのかは不明である。成人の体内に含まれるサマリウムの総量はおよそ50 μgであり、その大部分は肝臓および腎臓に存在しており、血液中に溶存しているサマリウム濃度はおよそ8 μg/Lである。植物はサマリウムを吸収せず測定可能な濃度にまで蓄積されることがないため、サマリウムは通常人間の食事には含まれない。しかしながら、少数の植物や野菜は最大1 ppmのサマリウムを含む可能性がある。サマリウムの不溶性塩類は非毒性であり、溶解性のものはわずかに毒性を示す。",
"title": "生理作用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "サマリウム塩が摂取された際にはその内のわずか0.05%のみが血液中に吸収され、残りは排出される。血液からは45%が肝臓、45%が骨の表面へと運ばれて10年間残存し、残りの10%は排出される。",
"title": "生理作用"
}
] |
サマリウムは原子番号62の元素。元素記号は Sm。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。
|
{{Elementbox
|name=samarium
|japanese name=サマリウム
|number=62
|symbol=Sm
|pronounce={{IPAc-en|s|ə|ˈ|m|ɛər|i|əm}} {{respell|sə|MAIR|ee-əm}}
|left=[[プロメチウム]]
|right=[[ユウロピウム]]
|above=-
|below=[[プルトニウム|Pu]]
|series=ランタノイド
|group=3
|period=6
|block=f
|image name=Samarium-2.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=150.36
|electron configuration=[[[キセノン|Xe]]] 6s{{sup|2}} 4f{{sup|6}}
|electrons per shell=2, 8, 18, 24, 8, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=7.52
|density gpcm3mp=7.16
|melting point K=1345
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|vapor pressure 1=1001
|vapor pressure 10=1106
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|vapor pressure 1 k=(1421)
|vapor pressure 10 k=(1675)
|vapor pressure 100 k=(2061)
|vapor pressure comment=
|crystal structure=rhombohedral
|japanese crystal structure=[[菱面体晶系]]
|oxidation states='''3''', 2(弱[[塩基性酸化物]])
|electronegativity=1.17
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy=544.5
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|atomic radius=180
|covalent radius=198 ± 8
|magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name=magnet>{{Cite web|url=http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf|title=Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds|work=in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition|publisher= CRC press|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pd|archivedate=2004-03-24|accessdate=2015-09-08}}</ref>
|electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 0.940 µ
|thermal conductivity=13.3
|thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 12.7
|speed of sound rod at 20=2130
|Young's modulus=(α form) 49.7
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|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=144 | sym=Sm | na=3.07% | n=82}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=146 | sym=Sm
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=147 | sym=Sm
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=148 | sym=Sm
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'''サマリウム'''({{lang-en-short|samarium}} {{IPA-en|səˈmɛəriəm|}})は[[原子番号]]62の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Sm'''。[[希土類元素]]の一つ(ランタノイドにも属す)。
== 名称 ==
[[サマルスキー石]]から発見されたため、サマリウムと名付けられた。サマルスキー石の鉱物名は鉱物の発見者である[[ワシーリー・サマルスキー=ビホヴェッツ]]に由来しており、サマリウムは人名が元素名の由来となった初めての元素である。
== 性質 ==
単体は灰白色の軟らかい金属であり、空気中では徐々に酸化されて表面に酸化被膜を形成する。[[標準状態]]における安定構造は[[三方晶系]]。希土類元素の中では珍しく+2価の酸化状態を取る。最も安定な酸化物はSm{{sub|2}}O{{sub|3}}であり、常温で[[常磁性]]を示す。[[ハロゲン]]や[[ホウ素]]、[[第16族元素|酸素族元素]]、[[第15族元素|窒素族元素]]などと化合物を形成し、多くの金属元素と[[合金]]を形成する。天然に存在するサマリウムは4つの安定同位体および3つの[[放射性同位体]]からなり、128 [[ベクレル|Bq]]/gの放射能を有する。
他の軽ランタノイドと共に[[モナズ石]](モナザイト)に含まれ、地殻中における存在度は40番目。主に[[サマリウムコバルト磁石]]や[[触媒]]、化学[[試薬]]として利用され、放射性同位体は[[放射性医薬品]]などにも利用される。サマリウムは人体内における生物学的な役割を持たないが、溶解性のサマリウム塩類はわずかに毒性を示す。
=== 物理的性質 ===
灰白色の軟らかい[[金属]]であり、比重は7.52、[[融点]]は1072 {{℃}}、[[沸点]]は1794 {{℃}}<ref>{{Cite book|title=CRC Handbook of Chemistry and Physics|edithon=94th Edition|page=4-86|publisher=CRC Press|year=2013|author=William M. Haynes|isbn=9781466571150}}</ref>。サマリウムの沸点は希土類元素の中でも[[イッテルビウム]]、[[ユウロピウム]]に次いで低いため、希土類鉱石からのサマリウムの単離を容易なものとしている。常温、常圧の安定構造は[[三方晶系]](六回対称をもった三方配列の層が、ACACBCBABのスタッキングで9層ずつ繰り返す構造)であり、これはα型と呼ばれる。731 {{℃}}以上に加熱すると[[六方最密充填]] (hcp) となるが、この転移温度は金属の純度に依存する。さらに922 {{℃}}まで加熱すると[[体心立方構造]] (bcc) に転移する。40 k[[バール (単位)|bar]]に加圧した状態で300 {{℃}}まで加熱すると二重六方最密充填 (dhcp) となる。また、数百から数千 k[[バール (単位)|bar]]に加圧していくことで一連の相変化を示し、特におよそ900 kbarにおいて正方晶系の相が現れる<ref name=sm>{{cite journal|doi=10.1016/0022-5088(85)90294-2|last1=Shi|first1=N|year=1985|page=21|volume=113|journal=Journal of the Less Common Metals|last2=Fort|first2=D|title=Preparation of samarium in the double hexagonal close packed form|issue=2}}</ref>。700 {{℃}}から400 {{℃}}まで急激に冷却する焼戻しを行うことによって、圧力を加えることなく二重六方最密充填の相を生じさせることができる。また、[[蒸着]]によって得られるサマリウムの薄膜は周囲の状態によって六方最密充填もしくは二重六方最密充填の相を含んでいる可能性がある<ref name=sm/>。
サマリウムおよびそのセスキ酸化物(三二酸化物、Sm{{sub|2}}O{{sub|3}})は常温で[[常磁性]]を示す。それらに対応する有効磁気モーメントは[[ランタン]]、[[ルテチウム]](およびそれらの酸化物)に次いで希土類中3番目に低く、[[ボーア磁子]]は2 µB以下である。14.8 [[ケルビン|K]]以下に冷却されると[[反強磁性]]に転移する<ref>{{cite journal|last1= Lock|first1= J M|title= The Magnetic Susceptibilities of Lanthanum, Cerium, Praseodymium, Neodymium and Samarium, from 1.5 K to 300 K|journal= Proceedings of the Physical Society. Section B|volume= 70|page= 566|year= 1957|doi= 10.1088/0370-1301/70/6/304|issue= 6|bibcode = 1957PPSB...70..566L }}</ref><ref>{{cite journal|last1=Huray|first1=P|last2=Nave|first2=S|last3=Haire|first3=R|title=Magnetism of the heavy 5f elements|journal=Journal of the Less Common Metals|volume=93|page=293|year= 1983|doi=10.1016/0022-5088(83)90175-3|issue=2}}</ref>。個々のサマリウム原子は[[フラーレン]]を用いることで単離することができる<ref>{{cite journal|doi = 10.1016/S0921-4526(02)00991-2|title= Electronic and geometric structures of metallofullerene peapods| year = 2002| author = Okazaki, T| journal = Physica B|volume = 323|page=97|bibcode = 2002PhyB..323...97O|last2 = Suenaga|first2 = Kazutomo|last3 = Hirahara|first3 = Kaori|last4 = Bandow|first4 = Shunji|last5 = Iijima|first5 = Sumio|last6 = Shinohara|first6 = Hisanori }}</ref>。サマリウム原子はまたフラーレンに[[ドープ]]することもでき、そのようなサマリウムをドープされたフラーレンは8 K以下の温度で[[超伝導]]性を示す<ref>{{cite journal|last1=Chen|first1=X.|last2=Roth|first2=G.|title=Superconductivity at 8 K in samarium-doped C60|journal=Physical Review B|volume=52|page=15534|year=1995|doi=10.1103/PhysRevB.52.15534|issue=21|bibcode = 1995PhRvB..5215534C }}</ref>。[[高温超電導]]物質である[[鉄系超伝導物質]] (SrFeAsF) にサマリウムをドープさせることで超伝導転移温度を56 Kまで高めることができ、これは報告のなされた2008年11月時点では鉄系超電導物質の中で最も転移温度の高い物質であった<ref name=Wu2008>{{cite journal|arxiv = 0811.0761|title = Superconductivity at 56 K in Samarium-doped SrFeAsF|author = Wu, G. et al.|year = 2008|doi=10.1088/0953-8984/21/14/142203|journal = Journal of Physics: Condensed Matter|volume = 21|issue = 14|page = 142203|bibcode = 2009JPCM...21n2203W }}</ref>。
=== 化学的性質 ===
サマリウムの金属表面は銀色の光沢を持つが、空気中においては[[室温]]で徐々に[[酸化]]され、150 {{℃}}で自然発火する<ref name=emsley/><ref name=CRC>{{cite book| author = C. R. Hammond |chapter = The Elements |title=''Handbook of Chemistry and Physics'' 81st edition| publisher =CRC press| isbn = 0-8493-0485-7}}</ref>。特に箔や粉末状の金属サマリウムは空気中の酸素や湿気によって反応しやすいため、不活性ガス雰囲気下で保存する必要がある<ref>{{Cite web|url=http://www.furuchi.co.jp/info/MSDS_pdf/Sm_2.pdf|title=製品安全データシート Samarium|publisher=フルウチ化学|accessdate=2015-09-07}}</ref>。
サマリウムは電気的に陽性であり、冷水とは徐々に、温水となら直ちに反応して水酸化物を形成する<ref name=we/>。
: <chem>2Sm (s) + 6 H2O (l) -> 2 Sm(OH)3(aq) + 3H2 (g)</chem>
サマリウムは希[[硫酸]]に容易に溶解して黄色<ref name=g1243>Greenwood, p. 1243</ref> から薄緑色をしたSm{{sup|+3}}イオンとなり、それは[Sm(OH{{sub|2}}){{sub|9}}]{{sup|3+}}錯体として存在している<ref name=we>{{cite web| url =https://www.webelements.com/samarium/chemistry.html| title =Chemical reactions of Samarium| publisher=Webelements| accessdate=2009-06-06}}</ref>。
: <chem>2Sm (s) + 3H2SO4(aq) -> 2 Sm^{3+}(aq) + 3SO4^{2-}(aq) + 3H2(g)</chem>
サマリウムは希土類元素の中では珍しく+2価の酸化状態を取り、Sm{{sup|2+}} イオンは溶液中で赤血色を示す<ref name=g1248>Greenwood, p. 1248</ref>。安定なのは 4f{{sup|5}} の[[電子配置]]をとる+3価であるため+2価のイオン Sm{{sup|2+}} は極めて酸化されやすく、水溶液中においては水を還元して水素を発生し+3価のイオン Sm{{sup|3+}} へと酸化される。その[[標準酸化還元電位]]は以下のように見積もられている。
: <chem>Sm^{3+}(aq){} + \mathit{e}^- = Sm^{2+}(aq) </chem> <math>( E^\circ= -1.55 V)</math>
一部の希土類元素の化合物は4f軌道に入っている電子数の揺らぎによって原子価揺動(Valence fluctuation、[[混合原子価化合物]]も参照)を起こすが、サマリウム化合物においても原子価揺動が見られる<ref>{{Cite journal|title=クリスタット 原子価揺動|author=佐々木聡|year=1997|journal=日本結晶学会誌|volume=39|issue=1|page=p. 147|publisher=日本結晶学会}}</ref>。特にSmB{{sub|6}}は最も古くから知られる原子価揺動化合物である<ref>{{Cite web|url=http://lib.laic.u-hyogo.ac.jp/laic/2/archive/annual/a-curren/denji.pdf|title=4f 多電子状態を有する希土類化合物の核磁気共鳴|publisher=兵庫県立大学|accessdate=2015-09-07}}</ref>。
=== 同位体 ===
{{main|サマリウムの同位体}}
天然に存在するサマリウムは4つの安定同位体および3つの[[放射性同位体]]からなり、128 [[ベクレル|Bq]]/gの放射能を有する。{{sup|144}}Sm、{{sup|150}}Sm、{{sup|152}}Smおよび{{sup|154}}Smの4つがその安定同位体であり、3つの放射性同位体の[[半減期]]はそれぞれ{{sup|147}}Sm(半減期 = 1.06×10{{sup|11}}年)、{{sup|148}}Sm(7×10{{sup|15}}年)、{{sup|149}}Sm(2×10{{sup|15}}年)と非常に長い。[[天然存在比]]の最も大きな同位体は26.75%を占める{{sup|152}}Smである<ref name="nubase">{{cite journal|last1=Audi|first1=G|doi=10.1016/j.nuclphysa.2003.11.001|title=The NUBASE evaluation of nuclear and decay properties|year=2003|page=3|volume=729|journal=Nuclear Physics A|url=http://www.nndc.bnl.gov/amdc/nubase/Nubase2003.pdf|bibcode=2003NuPhA.729....3A|last2=Bersillon|first2=O.|last3=Blachot|first3=J.|last4=Wapstra|first4=A.H.}}</ref>。{{sup|149}}Smは様々な資料で安定同位体であるとも<ref name="nubase"/><ref>[http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=62&n=87 Chart of the nuclides], Brookhaven National Laboratory</ref>、放射性同位体であるとも<ref>Holden, Norman E. "Table of the isotopes" in {{RubberBible86th}}</ref> される。
長寿命な放射性同位体である{{sup|146}}Sm、{{sup|147}}Smおよび{{sup|148}}Smは、主に[[アルファ崩壊]]によって[[ネオジム]]の同位体に崩壊する。それらよりも軽い放射性同位体は主に[[電子捕獲]]によって[[プロメチウム]]の同位体に崩壊し、より重いものは[[ベータ崩壊]]によって[[ユウロピウム]]の同位体に崩壊する<ref name="nubase"/>。
{{sup|147}}Smは1.06×10{{sup|11}}年の半減期でアルファ崩壊し{{sup|143}}Ndとなり、[[放射年代測定]]法の一つである{{仮リンク|サマリウム-ネオジム法|en|Samarium-neodymium dating}}として利用される<ref>{{Cite journal|title=Sm-Nd法による年代測定|author=田中剛|journal=地学雑誌|year=1985|volume=94|issue=7|pages=pp. 113-114}}</ref>。
{{sup|151}}Smおよび{{sup|145}}Smの半減期はそれぞれ90年および340日である。残りの放射性同位体の半減期はいずれも2日未満であり、それらの大部分は48秒未満である。サマリウムはまた5つの[[核異性体]]を持ち、最も安定な{{sup|141m}}Smで半減期22.6分、次いで{{sup|143m1}}Smが66秒、{{sup|139m}}Smが10.7秒である<ref name="nubase"/>。
== 化合物 ==
=== 酸化物 ===
サマリウムの最も安定な酸化物はセスキ酸化物であるSm{{sub|2}}O{{sub|3}}であり、Sm{{sub|2}}O{{sub|3}}には複数の結晶系のものが存在している。三方晶系のものは溶融させたものを徐冷することによって得られる。Sm{{sub|2}}O{{sub|3}}の融点は2365 {{℃}}と高いため、直接的な加熱ではなく高周波コイルによる[[誘導加熱]]によって溶融される。Sm{{sub|2}}O{{sub|3}}の単斜晶の結晶は火炎溶融法([[ベルヌーイ法]])によって結晶成長させることができ、粉末のSm{{sub|2}}O{{sub|3}}から直径1 cm、最大長さ数cmのブールが得られる。ブールは純粋で格子欠陥などが含まれていなければ透明であるが、そうでなければオレンジ色を呈する。準安定な三方晶のSm{{sub|2}}O{{sub|3}}を1900 {{℃}}まで加熱すると、より安定な単斜晶に転移する<ref name=smo/>。立方晶のSm{{sub|2}}O{{sub|3}}もまた研究されている<ref name=smo2/>。
サマリウムは一酸化物SmOを形成する数少ないランタノイドの一つである。この黄金の光沢を持つ化合物はSm{{sub|2}}O{{sub|3}}を金属サマリウムを用いて1000 {{℃}}、50 k[[バール (単位)|bar]]以上の条件下で還元させることによって得られ、圧力が低いと反応は不完全に終わる。SmOは立方晶の塩化ナトリウム型構造を取る<ref name=smox/><ref name=g1239>Greenwood, p. 1239</ref>。
=== 他のカルコゲナイド ===
サマリウムは[[硫黄]]、[[セレン]]、[[テルル]]と反応し、それぞれ3価の硫化物、セレン化物、テルル化物を形成する。2価のSmS、SmSe、SmTeも知られており、それらはSmOと同様に立方晶の塩化ナトリウム型構造を取る。これらのカルコゲナイドは室温において、圧力を加えることで半導体から金属に変化する性質を有している。SmSeおよびSmTeは20–30 kbarほどの圧力で連続的に変化するが、SmSはわずか6.5 kbarの圧力で急激に変化する。SmSの結晶やフィルムが引っ掻かれたり磨かれたりしたときに、この物性の変化は黒色から明るい黄色という劇的な色の変化を引き起こす。この物性変化によって結晶系は変化しないが、結晶の容積は15%も激減する<ref name="b1">Beaurepaire, Eric (Ed.) [https://books.google.co.jp/books?id=rGDCn4lqmdsC&pg=PA393&redir_esc=y&hl=ja ''Magnetism: a synchrotron radiation approach''], Springer, 2006 ISBN 3-540-33241-3 p. 393</ref>。圧力から解放されるとSmSは0.4 kbarという非常に低い圧力で半導体に戻り、[[ヒステリシス]]を示す<ref name=emsley/><ref>{{cite journal|last1=Jayaraman|first1=A.|last2=Narayanamurti|first2=V.|last3=Bucher|first3=E.|last4=Maines|first4=R.|title=Continuous and Discontinuous Semiconductor-Metal Transition in Samarium Monochalcogenides Under Pressure|journal=Physical Review Letters|volume=25|page=1430|year=1970|doi=10.1103/PhysRevLett.25.1430|bibcode=1970PhRvL..25.1430J|issue=20}}</ref>。
=== ハロゲン化物 ===
金属サマリウムは全ての[[ハロゲン]]と反応して三ハロゲン化物を与える<ref name=g1236>Greenwood, pp. 1236, 1241</ref>。
: <chem>2Sm(s) + 3\mathit{X}_2(g) -> 2Sm\mathit{X}_3(s)</chem>
これらの三ハロゲン化物は金属サマリウムもしくは金属[[リチウム]]、金属[[ナトリウム]]と共に700から900 {{℃}}の高温にすることによって更に還元され、二ハロゲン化物を生じる<ref name=smcl2/>。二ヨウ化物は三ヨウ化物を加熱するか、室温において無水[[テトラヒドロフラン]]を溶媒として金属サマリウムと1,2-ジヨードエタンを反応させることによっても得ることが出来る<ref name=g1240>Greenwood, p. 1240</ref>。
: <chem>Sm(s) + ICH2-CH2I -> SmI2 + CH2=CH2</chem>
三ハロゲン化物の還元によって生成されるのは二ハロゲン化物に加え、Sm{{sub|3}}F{{sub|7}}, Sm{{sub|14}}F{{sub|33}}, Sm{{sub|27}}F{{sub|64}}<ref name=smf2/>, Sm{{sub|11}}Br{{sub|24}}, Sm{{sub|5}}Br{{sub|11}}およびSm{{sub|6}}Br{{sub|13}}のような明瞭な結晶構造を有する多数の[[不定比化合物|不定比]]ハロゲン化物も生成される<ref>{{cite journal|last1=Baernighausen|first1=H.|last2=Haschke|first2=John M.|title=Compositions and crystal structures of the intermediate phases in the samarium-bromine system|journal=Inorganic Chemistry|volume=17|page=18|year=1978|doi=10.1021/ic50179a005}}</ref>。
下記[[#サマリウム化合物の一覧]]の表にあるように、サマリウムのハロゲン化物はハロゲン元素の種類によってその結晶系が変わるという、大部分の元素では見られないような珍しい挙動を示す。ハロゲン化サマリウムの多くは1つの化合物に2つの主要な結晶相があり、一方は安定相でもう一方は準安定相である。準安定相は急冷後に加圧もしくは加熱することによって形成される。例えば、単斜晶(安定相)の[[ヨウ化サマリウム(II)]]を加圧し、圧力を開放することで[[塩化鉛]]型結晶構造を有する斜方晶のヨウ化サマリウム(II)(密度:5.90 g/cm{{sup|3}})が得られ<ref>{{cite journal|last1=Beck|first1=H. P.|title=Hochdruckmodifikationen der Diiodide von Sr, Sm und Eu. Eine neue PbCl2-Variante?|journal=Zeitschrift für anorganische und allgemeine Chemie|volume=459|page=81|year=1979|doi=10.1002/zaac.19794590108}}</ref>、類似の方法により[[ヨウ化サマリウム(III)]]の新たな結晶相(密度:5.90 g/cm{{sup|3}})も得られる<ref>{{cite journal|last1=Beck|first1=H. P.|last2=Gladrow|first2=E.|title=Zur Hochdruckpolymorphie der Seltenerd-Trihalogenide|journal=Zeitschrift für anorganische und allgemeine Chemie|volume=453|page=79|year=1979|doi=10.1002/zaac.19794530610}}</ref>。
=== ホウ化物 ===
酸化サマリウムおよびホウ素の粉末を真空下で焼結させることによっていくつかの相のホウ化サマリウムを含んだ粉末が得られ、サマリウムとホウ素の混合比を調整することで任意の組成の物が得られる<ref name=smb6b/>。この粉末は[[アーク炉|アーク溶融]]もしくは[[ゾーンメルト法]]によって特定のホウ化サマリウムの大きな結晶とすることができ、溶融、結晶化温度を変えることでそれぞれSmB{{sub|6}} (2580 {{℃}})、SmB{{sub|4}}(およそ2300 {{℃}})およびSmB{{sub|66}} (2150 {{℃}}) が形成される。これらのホウ化サマリウムは全て硬く脆い暗灰色の固体であり、含まれるホウ素の割合が高くなるほど硬さが増す<ref name=smb6/>。二ホウ化サマリウムはこれらの方法で製造するには揮発性すぎるため、安定して結晶成長させるためには高圧(およそ65 kbar)かつ低温(1140から1240 {{℃}})な条件が必要となる。これよりも高温になるとSmB{{sub|6}}が優先されて形成する<ref name=smb2/>。
==== 六ホウ化サマリウム ====
六ホウ化サマリウムはSm{{sup|2+}}とSm{{sup|3+}}のサマリウムイオンが3:7の割合で存在する典型的な中間原子価化合物である<ref name=smb6b>{{cite journal|last1=Nickerson|first1=J.|last2=White|first2=R.|last3=Lee|first3=K.|last4=Bachmann|first4=R.|last5=Geballe|first5=T.|last6=Hull|first6=G.|title=Physical Properties of SmB{{sub|6}} |journal=Physical Review B|volume=3|page=2030|year=1971|doi=10.1103/PhysRevB.3.2030|issue=6|bibcode = 1971PhRvB...3.2030N }}</ref>。それは典型的な近藤絶縁体([[近藤効果]]参照)に属しており、50 [[ケルビン|K]]を越える高温では近藤金属に特有の強い電子散乱による金属的な電気伝導度を示すのに対し、低温ではおよそ4から14 meVという狭い[[バンドギャップ]]の非磁性絶縁体としてふるまう<ref>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.52.R14308|last1=Nyhus|year=1995|first1=P.|pages=R14308|volume=52|last2=Cooper|journal=Physical Review B|first2=S.|last3=Fisk|first3=Z.|last4=Sarrao|first4=J.|title=Light scattering from gap excitations and bound states in SmB{{sub|6}} |issue=20|bibcode = 1995PhRvB..5214308N }}</ref>。六ホウ化サマリウムの冷却によって引き起こされる金属-絶縁体転移には熱伝導率の急激な増加が伴い、それはおよそ15 Kで最大値を示す。この原因は、低温領域における熱伝導は電子が熱の伝導に貢献しないため[[フォノン]]のみが熱伝導の要因となり、フォノンは電子による散乱を受けると熱伝導に寄与できなくなるため熱伝導率が低下するが、近藤効果によって金属から絶縁体へと転移することで電子密度が急激に減少するため電子にフォノンが散乱される割合もそれに伴って急激に減少するため、それまで電子による散乱をうけて熱伝導に寄与できなかったフォノンが熱伝導に寄与できるようになるためである<ref>{{cite journal|last1=Sera|first1=M.|last2=Kobayashi|first2=S.|last3=Hiroi|first3=M.|last4=Kobayashi|first4=N.|last5=Kunii|first5=S.|title=Thermal conductivity of RB{{sub|6}} (R=Ce, Pr, Nd, Sm, Gd) single crystals |journal=Physical Review B |volume=54 |page=R5207 |year=1996 |doi=10.1103/PhysRevB.54.R5207 |issue=8 |bibcode=1996PhRvB..54.5207S }}</ref>。
新しい研究では[[トポロジカル絶縁体]]となるかもしれないことが示されている<ref>{{cite arXiv |last=Botimer|eprint=1211.6769 |first1=J. |author2=Kim |author3=Thomas |author4=Grant |author5=Fisk |author6=Jing Xia |title=Robust Surface Hall Effect and Nonlocal Transport in SmB{{sub|6}}: Indication for an Ideal Topological Insulator |class=cond-mat.str-el |year=2012}}</ref><ref>{{cite journal |last=Zhang |author2=Butch |author3=Syers |author4=Ziemak |author5=Greene |author6=Paglione |title=Hybridization, Correlation, and In-Gap States in the Kondo Insulator SmB{{sub|6}} |year=2012 |doi=10.1103/PhysRevX.3.011011 |first1=Xiaohang |journal=Physical Review X |volume=3 |issue=1|arxiv=1211.5532}}</ref><ref>{{cite arXiv |last=Wolgast|eprint=1211.5104 |author2=Cagliyan Kurdak |author3=Kai Sun |author4=Allen |author5=Dae-Jeong Kim |author6=Zachary Fisk |title=Discovery of the First Topological Kondo Insulator: Samarium Hexaboride |class=cond-mat.str-el |year=2012}}</ref>。
=== 他の無機化合物 ===
[[File:Samarium-sulfate.jpg|thumb|upright|硫酸サマリウム、Sm{{sub|2}}(SO{{sub|4}}){{sub|3}}]]
炭化サマリウムは[[グラファイト]]と金属サマリウムを混合し、不活性雰囲気下で溶融させることによって得られる。空気中で不安定な物質であるため、研究もまた不活性雰囲気下で行われる<ref name=smc/>。リン化サマリウムSmPはシリコンと同程度のバンドギャップ1.10 eVを示す半導体であり、[[N型半導体]]として高い電気伝導度を示す。それはリンと金属サマリウムの混合粉末を石英アンプル中に真空封管し、1100 {{℃}}で焼きなますことによって合成される。リンは高温では非常に揮発性であり爆発の危険があるため、加熱時の昇温ペースは1分間に1 {{℃}}以下に保たなければならない<ref name=smp/>。ヒ化サマリウムSmAsも類似の方法で合成されるが、合成温度は1800 {{℃}}以上である<ref name=smas/>。
サマリウムの他の二元化合物としては、[[ケイ素]]、[[ゲルマニウム]]、[[スズ]]、[[鉛]]、[[アンチモン]]、[[テルル]]といった[[第14族元素]]、[[第15族元素]]、[[第16族元素]]との化合物が知られており、また多くのグループの元素との間で合金を作る。それらは全て金属サマリウムおよび対応する元素の粉末を混合し、焼きなますことによって得ることができる。そうやって得られた化合物の多くは不定比化合物であり、Sm{{sub|a}}X{{sub|b}}(b / aは0.5から3の間を変化する)という名目上の組成比を持つ<ref>{{cite journal|last1=Gladyshevskii|first1=E. I.|last2=Kripyakevich|first2=P. I.|title=Monosilicides of rare earth metals and their crystal structures|journal=Journal of Structural Chemistry|volume=5|page=789|year=1965|doi=10.1007/BF00744231|issue=6}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Smith|first1=G. S.|last2=Tharp|first2=A. G.|last3=Johnson|first3=W.|title=Rare earth–germanium and –silicon compounds at 5:4 and 5:3 compositions|journal=Acta Crystallographica|volume=22|page=940|year=1967|doi=10.1107/S0365110X67001902|issue=6}}</ref><ref>{{cite journal|journal=Inorg. Mater.|year=1971|volume=7|pages=661–665|author=Yarembash E.I., Tyurin E.G., Reshchikova A.A., Karabekov A., Klinaeva N.N.}}</ref>。
=== 有機金属化合物 ===
サマリウムは[[シクロペンタジエン|シクロペンタジエニド]] Sm(C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sub|3}} およびその塩化物誘導体 Sm(C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sub|2}}Cl を形成する。それらは[[塩化サマリウム(III)]]を[[シクロペンタジエニルナトリウム]]とともに[[テトラヒドロフラン]]中で反応させることによって得られる。Sm(C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sub|3}} は他の大部分のランタノイド元素の[[シクロペンタジエニル錯体]]とは異なり、一部の C{{sub|5}}H{{sub|5}} が隣接するもう一方のサマリウム原子の方へ頂点や辺のみで結合し[[ハプト数]] η{{sup|1}} もしくは η{{sup|2}} の配位をすることで架橋し、それによってポリマー鎖を形成する<ref name=g1248/>。塩化物誘導体は二量体を形成し、より正確には (η{{sup|5}}-C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sub|2}}Sm(µ-Cl){{sub|2}}(η{{sup|5}}-C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sub|2}} と表される。それらの塩素橋は例えばヨウ素や水素、窒素、もしくはシアン化物イオンなどによって置換される<ref name=g1249>Greenwood, p. 1249</ref>。
シクロペンタジエニド・サマリウム中の (C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sup|–}} イオンはインデニド (C{{sub|9}}H{{sub|7}}){{sup|–}} もしくは[[シクロオクタテトラエン|シクロオクタテトラニド]] (C{{sub|8}}H{{sub|8}}){{sup|2–}} 環と置換されて Sm(C{{sub|9}}H{{sub|7}}){{sub|3}} もしくは KSm(η{{sup|8}}-C{{sub|8}}H{{sub|8}}){{sub|2}} を形成する。これらの化合物は[[ウラノセン]]と類似した構造を有する。また、およそ85 {{℃}}で[[昇華 (化学)|昇華]]する2価のシクロペンタジエニド Sm(C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sub|2}} も存在する。[[フェロセン]]とは正反対に、Sm(C{{sub|5}}H{{sub|5}}){{sub|2}} 中の C{{sub|5}}H{{sub|5}} リングは平行でなく45 °傾いている<ref name=g1249/><ref>{{cite journal|last1=Evans|first1=William J.|last2=Hughes|first2=Laura A.|last3=Hanusa|first3=Timothy P.|title=Synthesis and x-ray crystal structure of bis(pentamethylcyclopentadienyl) complexes of samarium and europium: (C5Me5)2Sm and (C5Me5)2Eu|journal=Organometallics|volume=5|page=1285|year=1986|doi=10.1021/om00138a001|issue=7}}</ref>。
サマリウムの[[アルカン]]および[[アリール基|アリール]]化合物はテトラヒドロフランや[[エーテル]]中で[[複分解|メタセシス]]反応によって得ることができる<ref name=g1249/>。
: <chem>SmCl3 + 3 LiR -> SmR3 + 3 LiCl</chem>
: <chem>Sm(OR)3 + 3 LiCH(SiMe3)2 -> Sm[CH(SiMe3)2]3 + 3 LiOR</chem>
ここで <chem>R</chem> は炭化水素基、 <chem>Me</chem> はメチル基を表す。
=== サマリウム化合物の一覧 ===
{| class="wikitable mw-collapsed" style="text-align: center;"
|-
! 化学式
! 色
! 結晶系
! [[空間群]]
! No
! [[ピアソン記号]]
! ''a'' (pm)
! ''b'' (pm)
! ''c'' (pm)
! ''Z''
! 密度<br/>g/cm{{sup|3}}
|-
| Sm
| 銀色
| 三方晶<ref name="sm"/>
| R{{overline|3}}m
| 166
| hR9
| 362.9
| 362.9
| 2621.3
| 9
| 7.52
|-
| Sm
| 銀色
| 六方晶<ref name="sm"/>
| P6{{sub|3}}/mmc
| 194
| hP4
| 362
| 362
| 1168
| 4
| 7.54
|-
| Sm
| 銀色
| 正方晶<ref name=sm2>{{cite journal|doi=10.1016/0375-9601(91)90346-A|last1=Vohra|year=1991|first1=Y|page=89|volume=158|journal=Physics Letters A |title=A new ultra-high pressure phase in samarium|bibcode = 1991PhLA..158...89V|last2=Akella|first2=Jagannadham|last3=Weir|first3=Sam|last4=Smith|first4=Gordon S. }}</ref>
| I4/mmm
| 139
| tI2
| 240.2
| 240.2
| 423.1
| 2
| 20.46
|-
| SmO
| 金色
| 立方晶<ref name=smox>{{cite journal|last1=Leger|first1=J|last2=Yacoubi|first2=N|last3=Loriers|first3=J|title=Synthesis of rare earth monoxides|journal=Journal of Solid State Chemistry|volume=36|page=261|year=1981 |doi=10.1016/0022-4596(81)90436-9|issue=3|bibcode = 1981JSSCh..36..261L }}</ref>
| Fm{{overline|3}}m
| 225
| cF8
| 494.3
| 494.3
| 494.3
| 4
| 9.15
|-
| Sm{{sub|2}}O{{sub|3}}
|
| 三方晶<ref name=smo>{{cite journal|doi=10.1016/0022-4596(81)90058-X|last1=Gouteron|year=1981|first1=J|page=288|volume=38|journal=Journal of Solid State Chemistry|title=Raman spectra of lanthanide sesquioxide single crystals: Correlation between A and B-type structures|issue=3|bibcode = 1981JSSCh..38..288G|last2=Michel|first2=D.|last3=Lejus|first3=A.M.|last4=Zarembowitch|first4=J. }}</ref>
| P{{overline|3}}m1
| 164
| hP5
| 377.8
| 377.8
| 594
| 1
| 7.89
|-
| Sm{{sub|2}}O{{sub|3}}
|
| 単斜晶<ref name="smo"/>
| C2/m
| 12
| mS30
| 1418
| 362.4
| 885.5
| 6
| 7.76
|-
| Sm{{sub|2}}O{{sub|3}}
|
| 立方晶<ref name=smo2>{{cite journal|journal=Br. Ceram. Trans. J.|year=1984|volume=83|pages=92–98|author=Taylor D.}}</ref>
| Ia{{overline|3}}
| 206
| cI80
| 1093
| 1093
| 1093
| 16
| 7.1
|-
| SmH{{sub|2}}
|
| 立方晶<ref name=smh2>{{cite journal|last1=Daou|first1=J|last2=Vajda|first2=P|last3=Burger|first3=J|title=Low temperature thermal expansion in SmH2+x|journal=Solid State Communications|volume=71|page=1145|year=1989|doi=10.1016/0038-1098(89)90728-X|issue=12|bibcode = 1989SSCom..71.1145D }}</ref>
| Fm{{overline|3}}m
| 225
| cF12
| 537.73
| 537.73
| 537.73
| 4
| 6.51
|-
| SmH{{sub|3}}
|
| 六方晶<ref name=smh3>{{cite journal|doi=10.1016/S0925-8388(96)03071-X|last1=Dolukhanyan|year=1997|first1=S|page=10|volume=253–254|journal=Journal of Alloys and Compounds|title=Synthesis of novel compounds by hydrogen combustion}}</ref>
| P{{overline|3}}c1
| 165
| hP24
| 377.1
| 377.1
| 667.2
| 6
|
|-
| Sm{{sub|2}}B{{sub|5}}
| 灰色
| 単斜晶<ref>{{cite journal|doi=10.1007/BF00795346|last1=Zavalii|year=1990|first1=L. V.|page=471|volume=29|journal=Soviet Powder Metallurgy and Metal Ceramics|last2=Kuz'ma|first2=Yu. B.|last3=Mikhalenko|first3=S. I.|title=Sm2B5 boride and its structure|issue=6}}</ref>
| P2{{sub|1}}/c
| 14
| mP28
| 717.9
| 718
| 720.5
| 4
| 6.49
|-
| SmB{{sub|2}}
|
| 六方晶<ref name=smb2>{{cite journal|doi=10.1016/0022-5088(77)90221-1|last1=Cannon|year=1977|first1=J|page=83|volume=56|journal=Journal of the Less Common Metals|last2=Cannon|first2=D|last3=Tracyhall|first3=H|title=High pressure syntheses of SmB2 and GdB12}}</ref>
| P6/mmm
| 191
| hP3
| 331
| 331
| 401.9
| 1
| 7.49
|-
| SmB{{sub|4}}
|
| 正方晶<ref>{{cite journal|last1=Etourneau|doi=10.1016/0022-5088(79)90038-9|first1=J|year=1979|page=531|volume=67|last2=Mercurio|journal=Journal of the Less Common Metals|first2=J|last3=Berrada|first3=A|last4=Hagenmuller|first4=P|last5=Georges|first5=R|last6=Bourezg|first6=R|last7=Gianduzzo|first7=J|title=The magnetic and electrical properties of some rare earth tetraborides|issue=2}}</ref>
| P4/mbm
| 127
| tP20
| 717.9
| 717.9
| 406.7
| 4
| 6.14
|-
| SmB{{sub|6}}
|
| 立方晶<ref name=smb6>{{cite journal|doi=10.1111/j.1151-2916.1972.tb11344.x|last1=Solovyev|first1=G. I.|year=1972|page=475|volume=55|journal=Journal of the American Ceramic Society|last2=Spear|first2=K. E.|title=Phase Behavior in the Sm-B System|issue=9}}</ref>
| Pm{{overline|3}}m
| 221
| cP7
| 413.4
| 413.4
| 413.4
| 1
| 5.06
|-
| SmB{{sub|66}}
|
| 立方晶<ref>{{cite journal|last1=Schwetz|first1=K|last2=Ettmayer|first2=P|last3=Kieffer|first3=R|last4=Lipp|first4=A|title=Über die Hektoboridphasen der Lanthaniden und Aktiniden|journal=Journal of the Less Common Metals|volume=26|page=99|year=1972|doi=10.1016/0022-5088(72)90012-4}}</ref>
| Fm{{overline|3}}c
| 226
| cF1936
| 2348.7
| 2348.7
| 2348.7
| 24
| 2.66
|-
| Sm{{sub|2}}C{{sub|3}}
|
| 立方晶<ref name=smc/>
| I{{overline|4}}3d
| 220
| cI40
| 839.89
| 839.89
| 839.89
| 8
| 7.55
|-
| SmC{{sub|2}}
|
| 正方晶<ref name=smc>{{cite journal|doi=10.1021/ja01550a017|last1=Spedding|year=1958|first1=F. H.|page=4499|volume=80|journal=Journal of the American Chemical Society|last2=Gschneidner|first2=K.|last3=Daane|first3=A. H.|title=The Crystal Structures of Some of the Rare Earth Carbides|issue=17}}</ref>
| I4/mmm
| 139
| tI6
| 377
| 377
| 633.1
| 2
| 6.44
|-
| SmF{{sub|2}}
| 紫色<ref name=g1241/>
| 立方晶<ref name=smf2>{{cite journal|last1=Greis|first1=O|title=Über neue Verbindungen im system SmF2_SmF3|journal=Journal of Solid State Chemistry|volume=24|page=227|year=1978|doi=10.1016/0022-4596(78)90013-0|issue=2|bibcode = 1978JSSCh..24..227G }}</ref>
| Fm{{overline|3}}m
| 225
| cF12
| 587.1
| 587.1
| 587.1
| 4
| 6.18
|-
| SmF{{sub|3}}
| 白色<ref name=g1241/>
| 斜方晶<ref name=smf2/>
| Pnma
| 62
| oP16
| 667.22
| 705.85
| 440.43
| 4
| 6.64
|-
| SmCl{{sub|2}}
| 褐色<ref name=g1241/>
| 斜方晶<ref name=smcl2>{{cite journal|doi=10.1016/0022-5088(86)90228-6|last1=Meyer|first1=G|year=1986|page=187|volume=116|journal=Journal of the Less Common Metals|last2=Schleid|first2=T|title=The metallothermic reduction of several rare-earth trichlorides with lithium and sodium}}</ref>
| Pnma
| 62
| oP12
| 756.28
| 450.77
| 901.09
| 4
| 4.79
|-
| SmCl{{sub|3}}
| 黄色<ref name=g1241/>
| 六方晶<ref name=smf2/>
| P6{{sub|3}}/m
| 176
| hP8
| 737.33
| 737.33
| 416.84
| 2
| 4.35
|-
| SmBr{{sub|2}}
| 褐色<ref name=g1241/>
| 斜方晶<ref name=smbr2>{{cite journal|journal=Rev. Chim. Miner.|year=1973|volume=10|pages=77–92|author=Bärnighausen, H.}}</ref>
| Pnma
| 62
| oP12
| 797.7
| 475.4
| 950.6
| 4
| 5.72
|-
| SmBr{{sub|3}}
| 黄色<ref name=g1241/>
| 斜方晶<ref name=smbr3>{{cite journal|last1=Zachariasen|first1=W. H.|title=Crystal chemical studies of the 5f-series of elements. I. New structure types|journal=Acta Crystallographica|volume=1|page=265|year=1948|doi=10.1107/S0365110X48000703|issue=5}}</ref>
| Cmcm
| 63
| oS16
| 404
| 1265
| 908
| 2
| 5.58
|-
| SmI{{sub|2}}
| 緑色<ref name=g1241>Greenwood, p. 1241</ref>
| 単斜晶
| P2{{sub|1}}/c
| 14
| mP12
|
|
|
|
|
|-
| SmI{{sub|3}}
| 橙色<ref name=g1241/>
| 三方晶<ref name=smI3>{{cite journal|last1=Asprey|first1=L. B.|last2=Keenan|first2=T. K.|last3=Kruse|first3=F. H.|journal=Inorganic Chemistry|volume=3|page=1137|year=1964|doi=10.1021/ic50018a015|issue=8}}</ref>
| R{{overline|3}}
| 63
| hR24
| 749
| 749
| 2080
| 6
| 5.24
|-
| SmN
|
| 立方晶<ref name=smn>{{cite journal|last1=Brown|first1=R|title=Composition limits and vaporization behaviour of rare earth nitrides|journal=Journal of Inorganic and Nuclear Chemistry|volume=36|page=2507|year=1974 |doi=10.1016/0022-1902(74)80462-8|issue=11|last2=Clark|first2=N.J.}}</ref>
| Fm{{overline|3}}m
| 225
| cF8
| 357
| 357
| 357
| 4
| 8.48
|-
| SmP
|
| 立方晶<ref name=smp>{{cite journal|last1=Meng|first1=J|title=Studies on the electrical properties of rare earth monophosphides|journal=Journal of Solid State Chemistry|volume=95|page=346|year=1991 |doi=10.1016/0022-4596(91)90115-X|issue=2|bibcode = 1991JSSCh..95..346M|last2=Ren|first2=Yufang }}</ref>
| Fm{{overline|3}}m
| 225
| cF8
| 576
| 576
| 576
| 4
| 6.3
|-
| SmAs
|
| 立方晶<ref name=smas>{{cite journal|last1=Beeken|first1=R.|last2=Schweitzer|first2=J.|title=Intermediate valence in alloys of SmSe with SmAs|journal=Physical Review B|volume=23|page=3620|year=1981|doi=10.1103/PhysRevB.23.3620|issue=8|bibcode = 1981PhRvB..23.3620B }}</ref>
| Fm{{overline|3}}m
| 225
| cF8
| 591.5
| 591.5
| 591.5
| 4
| 7.23
|}
== 歴史 ==
1879年に[[ポール・ボアボードラン]]によって[[サマルスキー石]]から発見された。
[[File:Lecoq de Boisbaudran.jpg|thumb|upright|サマリウムの発見者、[[ポール・ボアボードラン]]]]
[[ロシア]]の[[ウラル山脈]]南部に位置するイリメニ山脈の[[ミアス]]で[[ワシーリー・サマルスキー=ビホヴェッツ]]が新鉱物を発見し、ロシアの鉱山技術部隊のチーフスタッフであったサマルスキーは[[ドイツ]]の鉱物学者のグスタフ・ローゼおよび[[ハインリヒ・ローゼ]]の兄弟に対して研究のため鉱物標本の利用許可を与えた。[[1847年]]にハインリヒ・ローゼはサマルスキーへの[[献名]]としてその鉱物を[[サマルスキー石]] (Samarskite, (Y,Ce,U,Fe){{sub|3}}(Nb,Ta,Ti){{sub|5}}O{{sub|16}}) と命名した<ref>[http://webmineral.com/data/Samarskite-(Y).shtml Samarskite-(Y) Mineral Data] Mineralogy Database</ref><ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 275|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。1879年にフランスの化学者である[[ポール・ボアボードラン]]はパリでサマルスキー石からサマリウムを酸化物や水酸化物の形で単離し、強い吸収線スペクトルによってそれが新しい元素であることを確認した<ref name="CRC"/>。サマリウムを含むいくつかの希土類元素の発見は19世紀後半に複数の化学者によって発表されたが、ほとんどの情報源においてボアボードランを一番初めの発見者としている<ref>Greenwood, p. 1229</ref><ref name=brit>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/520309/samarium Samarium], ブリタニカ百科事典オンライン</ref>。例えば1878年にスイスの化学者である[[マルク・ドラフォンテーヌ]]によって新しい元素として''decipium''(ラテン語で「あてにならない」「紛らわしい」を意味する''decipiens''に由来する)が発表されたが<ref>{{cite journal|title = Sur le décepium, métal nouveau de la samarskite|first = Marc|last = Delafontaine|journal = Journal de pharmacie et de chimie|volume = 28|page = 540|year = 1878|url = http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k78100m.image.r=Decipium.f548.langEN}}</ref><ref>{{cite journal| title = Sur le décepium, métal nouveau de la samarskite| first = Marc| last = Delafontaine| journal = Comptes rendus hebdomadaires| volume = 87| page = 632| year = 1878| url = http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k3044x.image.r=Decipium.f694.langEN}}</ref>、1880年後半から1881年にかけてそれがボアボードランが発見したサマリウムを含むいくつかの元素の混合物であることが証明されている<ref name=iupac>{{cite journal|last1=De Laeter|first1=J. R.|last2=Böhlke|first2=J. K.|last3=De Bièvre|first3=P.|last4=Hidaka|first4=H.|last5=Peiser|first5=H. S.|last6=Rosman|first6=K. J. R.|last7=Taylor|first7=P. D. P.|title=Atomic weights of the elements. Review 2000 (IUPAC Technical Report)|doi=10.1351/pac200375060683|journal=Pure and Applied Chemistry|year=2003 |volume=75|pages= 683–800|publisher=IUPAC|issue=6}}</ref><ref>{{cite journal| title = Sur le décipium et le samarium| first = Marc| last = Delafontaine| journal = Comptes rendus hebdomadaires| volume = 93| page = 63| year = 1881| url = http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k3049g.image.r=Decipium.f63.langEN}}</ref>。また、ボアボードランが単離したサマリウムも純粋なものではなく相当量の[[ユウロピウム]]が含まれていた事も判明しており、純粋なサマリウムはユウロピウムの発見者である[[ウジェーヌ・ドマルセー]]によって[[1901年]]に得られた<ref name=van/>。
ボアボードランはこの新しい元素をサマリアと呼んだが後に他の元素の命名則に合わせてサマリウムとなり、サマリアという名称はジルコニアやアルミナ、セリア、ホルミアなどのように酸化サマリウムを言及するための名称としてしばしば利用されている。サマリウムの元素記号としてはSmが提案されたが、1920年代頃まではSaが多用されていた<ref name=van>[http://elements.vanderkrogt.net/element.php?sym=Sm Samarium: History & Etymology]. Elements.vanderkrogt.net. Retrieved on 2013-03-21.</ref><ref>{{cite journal|last1=Coplen|first1=T. B.|last2=Peiser|first2=H. S.|title=History of the recommended atomic-weight values from 1882 to 1997: A comparison of differences from current values to the estimated uncertainties of earlier values (Technical Report)|journal=Pure and Applied Chemistry |volume=70|page=237|year=1998|doi=10.1351/pac199870010237}}</ref>。サマリウムの名称は鉱石の発見者であるサマルスキーの名前が元素名の由来となっており<ref name="sakurai" />、サマルスキーは人物名が元素名の由来となった初めての人物である<ref name=van/><ref name=RSC>[http://www.rsc.org/chemistryworld/podcast/Interactive_Periodic_Table_Transcripts/Samarium.asp Chemistry in Its Element – Samarium], Royal Society of Chemistry</ref>。
1950年代に[[イオン交換]]による分離技術が出現する以前には、純粋な形でのサマリウムの商業的用途は存在しなかった。しかしネオジムの[[分別結晶化]]精製の副産物として生じるサマリウムと[[ガドリニウム]]の混合物は、それを製造していた会社にちなんで"Lindsay Mix"と名付けられ、初期の[[原子炉]]のいくつかで核[[制御棒]]として使用された。今日では、これに類似した製品は"サマリウム-ユウロピウム-ガドリニウム" (SEG) と呼ばれている<ref name="RSC"/>。それは[[バストネサイト]](もしくは[[モナズ石]])から分離されるランタノイドの混合物から溶媒抽出法によって製造される。ランタノイドはより重いものほど溶媒との親和性が高いため、それらは比較的少量の溶媒で容易に抽出される。バストネサイトを処理する全ての希土類製造者が元の鉱石のわずか1~2%を占めるにすぎないSEGの各構成元素をさらに分離するために十分な規模の設備を持つわけではなく、そのような生産者は専門的な処理業者に売却する目的でSEGを製造している。SEGからは蛍光体メーカーが利用する高価なユウロピウムが回収できる。2012年現在サマリウムは供給過剰であり、酸化サマリウムの価格は鉱石中に含まれるサマリウムの相対的な存在量から予測されるよりも安価に供給されている<ref name=price>[https://web.archive.org/web/20121014122537/http://lynascorp.com/page.asp?category_id=1&page_id=25 What are their prices?], Lynas corp.</ref>。
== 存在と生産 ==
サマリウムは地殻中において40番目に多く含まれる元素であり、その濃度は平均およそ8 [[ppm]](百万分の1)である。その存在量はランタノイドの中では5番目であり、[[スズ]]のような元素よりもありふれた元素である。土壌中のサマリウム濃度は2から22 ppmであり、海水中の濃度は0.5から0.8 ppt(1兆分の1)である<ref name=emsley/>。環境中のサマリウムの移動はその化学的状態に強く依存し、非常に不均一である。土壌中においてサマリウムは砂粒子の表面に付着しやすく、間隙水(土壌中において砂の粒子の間で保持される水)中のサマリウム濃度と比較して200倍以上も高く、粘土質な土壌においては1000倍におよぶ<ref name=LA2/>。
サマリウムの単体は自然には産出しないが、他の希土類元素と同様に[[モナズ石]]や[[バストネサイト]]、{{仮リンク|セル石|en|Cerite}}、[[ガドリン石]]、[[サマルスキー石]]など多くの[[鉱物]]中に含まれる。サマリウム源として商業的に利用されるものの大部分はモナズ石およびバストネサイトであり、モナズ石中のサマリウム濃度は最高2.8%<ref name=CRC/> である。サマリウムの埋蔵量は全世界でおよそ200万トンと推定されており、それらの大部分は[[中華人民共和国|中国]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ブラジル]]、[[インド]]、[[スリランカ]]および[[オーストラリア]]に存在している。2001年頃のサマリウムの年間生産量は酸化サマリウムとしておよそ700トン<ref name=emsley/>。サマリウムの原料となる希土類鉱石の2014年の生産量は中国が最も大規模で年間9万5000トンであった。それにアメリカの7000トン、インドの3000トン、オーストラリアおよびロシアの2500トン、タイの1100トンと続いており、その他マレーシアやベトナムでも小規模な生産が行われている<ref>{{Cite web|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/rare_earths/mcs-2015-raree.pdf|title=Mineral Commodity Summaries 2015 RARE EARTHS|publisher=[[アメリカ地質調査所]]|accessdate=2015-01-16}}</ref>。2012年における酸化サマリウムのキロ単価は62ドルであり、ランタノイド酸化物の中でもセリウム、ランタンに次いで安価な元素である<ref>{{Cite web|url=http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/rare_earths/myb1-2012-raree.pdf|title=2012 Minerals Yearbook - rare earths|publisher=アメリカ地質調査所|accessdate=2015-01-16}}</ref>。
サマリウムをおよそ1%含有する希土類元素混合物である[[ミッシュメタル]]が長い間利用されて来たのに対して、比較的純粋なサマリウムは[[イオン交換]]法や[[溶媒抽出]]法、電気化学的析出法などによって近年単離されるようになったばかりである。金属サマリウムは、しばしば[[塩化サマリウム(III)]]を[[塩化ナトリウム]]もしくは[[塩化カルシウム]]とともに溶融塩電解することによって得られる。サマリウムはまた、酸化サマリウムを金属ランタンで還元させることによっても得られる。この生成物にはランタンが含まれるため、サマリウムの沸点が1794 {{℃}}、ランタンの沸点が3464 {{℃}}であることを利用して蒸留によって分離される<ref name=brit/>。
サマリウム-151は[[ウラン]]の[[核分裂反応]]によって生成され、その生成割合は全分裂反応の内のおよそ0.4%である。それはまたサマリウム-149の[[中性子捕獲]]によっても生成され、原子炉の[[制御棒]]に加えられる。そのため、サマリウム-151は使用済み[[核燃料]]および[[放射性廃棄物]]に含まれる<ref name=LA2/>。
== 用途 ==
[[File:Samariumiodide.jpg|thumb|SmI{{sub|2}}を用いた[[バルビエ反応]]]]
=== サマリウムコバルト磁石 ===
サマリウムの最も重要な用途の一つは[[サマリウムコバルト磁石]]であり、それはSmCo{{sub|5}}もしくはSm{{sub|2}}Co{{sub|17}}の組成を持つ[[金属間化合物]]である。[[フェライト磁石]]の1000倍の磁力を有し[[ネオジム磁石]]に次いで強力な磁石として利用される。ネオジム磁石の方が価格が安く性能もよいが、ネオジム磁石の[[キュリー温度]](磁性がなくなる温度)が300から400 {{℃}}であるのに対してサマリウムコバルト磁石のキュリー温度は約700 {{℃}}と高いため、高温で使用する用途などで使われている。またサマリウムコバルト磁石は、[[コンピューター]]の[[ハードディスク]]、[[電気自動車]]や[[圧縮機|コンプレッサー]]用の[[電動機|モーター]]、[[永久磁石同期電動機]]、音響機器の[[スピーカー]]や[[ヘッドフォン|ヘッドホン]]、[[携帯電話]]、[[スマートフォン]]、[[風力発電]]等の幅広い用途でも使用されている<ref name=emsley/><ref name=monka>{{Cite web|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/housha/002/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2009/04/30/20030724_01c.pdf|title=放射線審議会第15回基本部会 資料第15-3 号 サマリウムの作業場所における線量評価について|format=PDF|pages=4ページ|publisher=文部科学省|accessdate=2010-12-4}}</ref>。
=== 触媒、試薬 ===
サマリウムおよびその化合物のもう一つの重要な用途は触媒および[[試薬]]である。サマリウム触媒は[[ポリ塩化ビフェニル]] (PCBs) のような汚染物質を脱塩素化して分解したり、エタノールの脱水および[[脱水素化]]反応を促進したりする<ref name=CRC/>。トリフルオロメタンスルホナトサマリウム (Sm(CF{{sub|3}}SO{{sub|3}}){{sub|3}}, (Sm(OTf){{sub|3}}) はハロゲンを促進剤とする[[アルケン]]の[[フリーデル・クラフツ反応]]において最も効果的な[[ルイス酸]]触媒の一つである<ref>{{cite journal|author =Hajra, S.; Maji, B. and Bar, S. |title = Samarium Triflate-Catalyzed Halogen-Promoted Friedel-Crafts Alkylation with Alkenes|year = 2007|journal = [[Org. Lett.]]|volume = 9|issue = 15|pages = 2783–2786|doi = 10.1021/ol070813t}}</ref>。
<center>[[Image:FriedelCraftsAlkylationAlkenes.png|400px|center|Friedel-Crafts alkylation by an alkene]]</center>
サマリウムに[[ヨウ素]]を作用させて得られる[[ヨウ化サマリウム(II)]] (SmI{{sub|2}}) は一般的な還元剤として用いられる。例えば{{仮リンク|脱スルホニル反応|en|Desulfonylation reactions}}のような有機合成におけるカップリング試薬や環化反応、[[ダニシェフスキーのタキソール全合成|ダニシェフスキー]]、{{仮リンク|桑島のタキソール全合成|en|Kuwajima Taxol total synthesis|label=桑島}}、{{仮リンク|向山のタキソール全合成|en|Mukaiyama Taxol total synthesis|label=向山}}、[[ホルトンのタキソール全合成|ホルトン]]などによる[[タキソール全合成]]、{{仮リンク|ストリキニーネ全合成|en|Strychnine total synthesis}}、[[バルビエ反応]]、[[モリブデン]]触媒を用いた[[アンモニア]]合成、その他{{仮リンク|ヨウ化サマリウム(II)による還元反応|en|Reductions with samarium(II) iodide}}などが挙げられる<ref>{{cite book| page=1128| url=https://books.google.co.jp/books?id=U3MWRONWAmMC&pg=PA1128&redir_esc=y&hl=ja| title =Advanced inorganic chemistry, 6th ed|author= Cotton|publisher= Wiley-India|year = 2007|isbn =81-265-1338-1}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Ashida|first=Yuya|last2=Arashiba|first2=Kazuya|last3=Nakajima|first3=Kazunari|last4=Nishibayashi|first4=Yoshiaki|date=2019-04|title=Molybdenum-catalysed ammonia production with samarium diiodide and alcohols or water|url=https://www.nature.com/articles/s41586-019-1134-2|journal=Nature|volume=568|issue=7753|pages=536–540|language=en|doi=10.1038/s41586-019-1134-2|issn=1476-4687}}</ref>。
通常、酸化物の形でサマリウムは赤外線の吸収を増加させるために[[陶器]]やガラスに添加される。また、[[ミッシュメタル]]の非主要な構成元素として、[[ライター]]やトーチランプを点火するための[[火打石]]に用いられる<ref name=emsley/><ref name=CRC/>。その他、酸化サマリウムから作られる[[セラミックス]]材料は電子材料として[[コンデンサー]]や[[誘電体]]に用いられるほか、[[自動車]]の[[排気ガス]]浄化用等、[[触媒]]の材料としても注目されている<ref name=monka/>。
[[File:153Sm-lexidronam structure.svg|thumb|{{仮リンク|サマリウム (153Sm) レキシドロナム|en|Samarium (153Sm) lexidronam|label=サマリウム ({{sup|153}}Sm) レキシドロナム}}の化学構造]]
放射性同位体の{{sup|153}}Smは46.3時間の半減期で[[ベータ粒子]]を放出するβ放射体である。それは[[肺癌]]、[[前立腺癌]]、[[乳癌]]および[[骨肉腫]]において癌細胞を殺すのに用いられる。この目的のため、{{sup|153}}Smは[[エチレンジアミンテトラメチレンホスホン酸]] (EDTMP) とキレート錯体を形成させて静脈注射される。{{sup|153}}Smをキレート化することによって、放射性サマリウムが体内に蓄積して過剰に被曝することで新たな癌細胞が発生するのを防ぐことができる<ref name=emsley/>。対応する薬は、{{仮リンク|サマリウム (153Sm) レキシドロナム|en|Samarium (153Sm) lexidronam|label=サマリウム ({{sup|153}}Sm) レキシドロナム}}およびその登録商標であるクアドラメットを含む複数の名称を有している<ref>{{cite web|accessdate=2009-06-06|url=http://www.centerwatch.com/patient/drugs/dru267.html |title=Centerwatch About drug Quadramet}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Pattison|first1=JE|title=Finger doses received during 153Sm injections|journal=Health physics|volume=77|issue=5|pages=530–5|year=1999|pmid=10524506|doi=10.1097/00004032-199911000-00006}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Finlay|first1=IG|last2=Mason|first2=MD|last3=Shelley|first3=M|title=Radioisotopes for the palliation of metastatic bone cancer: a systematic review|journal=The lancet oncology|volume=6|issue=6|pages=392–400|year=2005|pmid=15925817|doi=10.1016/S1470-2045(05)70206-0}}</ref>。
{{sup|149}}Smは中性子捕獲によって41,000 [[バーン (単位)|バーン]]という高い衝突断面積を有しているため、原子炉の制御棒に用いられる。ホウ素やカドミウムといった他の競合する材料に対する利点は、{{sup|149}}Smの核融合および核崩壊生成物の大部分が良好な中性子吸収材であるサマリウムの他の同位体であり、中性子の吸収が安定しているという点にある。例えば{{sup|151}}Smの衝突断面積は15,000 バーン、{{sup|150}}Sm、{{sup|152}}Smおよび{{sup|153}}Smの衝突断面積は3桁オーダーであり、各同位体の混合物である自然中のサマリウムの衝突断面積は6,800 バーンである<ref name=CRC/><ref name=LA2/><ref>[http://www-nds.ipen.br/sgnucdat/b3.pdf Thermal neutron capture cross sections and resonance integrals – Fission product nuclear data]. ipen.br</ref>。原子炉中の崩壊生成物である{{sup|149}}Smは原子炉の設計と運用において[[キセノン135|{{sup|135}}Xe]]に次いで2番目に重要であると考えられている<ref>{{cite book|title = DOE Fundamentals Handbook: Nuclear Physics and Reactor Theory|date = January 1993|publisher = [[U.S. Department of Energy]]|url = https://web.archive.org/web/20090322040810/http://www.hss.energy.gov/nuclearsafety/ns/techstds/standard/hdbk1019/h1019v2.pdf|pages=34, 67}}</ref>。
=== 非商業的、潜在的用途 ===
サマリウムをドープした[[フッ化カルシウム]]は初期の[[固体レーザー]]の一つにおいて能動媒質として用いられ、それは1960年代初期に[[IBM]]研究所で[[色素レーザー]]の共同開発者であるピーター・ソローキンおよびミレク・スティーヴンソンによって設計、製造された。このサマリウムレーザーは波長708.5 nmの赤色光を放った。それは液体ヘリウムによって冷却する必要があったため、実用的な用途が見つけられなかった<ref>Bud, Robert and Gummett, Philip [https://books.google.co.jp/books?id=HMx_6FtHBcUC&pg=PA268&redir_esc=y&hl=ja ''Cold War, Hot Science: Applied Research in Britain's Defence Laboratories, 1945–1990''], NMSI Trading Ltd, 2002 ISBN 1-900747-47-2 p. 268</ref><ref>{{cite journal|last1=Sorokin|first1=P. P.|title=Contributions of IBM to Laser Science—1960 to the Present|journal=IBM Journal of Research and Development|volume=23|page=476|year=1979|doi=10.1147/rd.235.0476|issue=5}}</ref>。
もう一つのサマリウムを用いたレーザーは10 nmよりも短い波長で動作する、初めての飽和{{仮リンク|X線レーザー|en|X-ray laser}}となった。それは波長7.3 nmおよび6.8 nmでパルス幅50ピコ秒のレーザーを発し、[[ホログラフィー]]、生物試料の高分解能顕微鏡法、デフレクトメトリ、[[干渉法]]および、閉じ込め核融合や[[天文物理学]]に関連した高密度プラズマのX線撮影などの用途に適している。飽和動作は取り得る最大のエネルギーがレーザー媒体から取り出されることを意味しており、その結果3 mJの高ピークエネルギーを示す。能動媒質はサマリウム被覆ガラスに[[Nd:YAGレーザー]](波長1.05 μm以上)を照射することで生成するサマリウム・プラズマである<ref>{{cite journal|last1=Zhang|first1=J.|title=A Saturated X-ray Laser Beam at 7 Nanometers|journal=Science|volume=276|page=1097|year=1997|doi=10.1126/science.276.5315.1097|issue=5315}}</ref>。
硫化サマリウム (SmS) やセレン化サマリウム (SmSe) などのサマリウムのモノカルコゲナイドは圧力変化に伴って電気抵抗が変化する性質を有しているため、圧力センサーやメモリデバイスに用いることが可能であり<ref>Elmegreen, Bruce G. et al. [http://www.freepatentsonline.com/y2010/0073997.html Piezo-driven non-volatile memory cell with hysteretic resistance] US patent application 12/234100, 09/19/2008</ref>、そのようなデバイスは商業的に開発されている<ref>[http://www.tenzo-sms.ru/en/about SmS Tenzo]. Tenzo-sms.ru. Retrieved on 2013-03-21.</ref>。硫化サマリウムはまた、およそ150 {{℃}}の穏やかな加熱に伴って電圧を生じるため、[[熱電変換素子]]として利用することもできる<ref>{{cite journal|last1=Kaminskii|first1=V. V.|last2=Solov’ev|first2=S. M.|last3=Golubkov|first3=A. V.|title=Electromotive Force Generation in Homogeneously Heated Semiconducting Samarium Monosulfide|doi=10.1134/1.1467284|year=2002|page=229|volume=28|journal=Technical Physics Letters|url=http://www.tenzo-sms.ru/en/articles/5|issue=3|bibcode = 2002TePhL..28..229K }} [http://www.tenzo-sms.ru/en/articles other articles on this topic]</ref>。
サマリウムとネオジムの同位体元素{{sup|147}}Sm、{{sup|144}}Ndおよび{{sup|143}}Ndのそれぞれの相対濃度比の分析によって、岩石や隕石の年代を測定することができる({{仮リンク|サマリウム-ネオジム法|en|Samarium-neodymium dating}})。サマリウムとネオジムは共にランタノイドであり類似した理化学的特性を有している。そのため、これら年代決定の目印となる元素が地質学的なプロセスに影響を受けて分離されるようなことがないか、分離されたとしても十分な知見があり関連元素の[[イオン半径]]からモデル化することが可能である<ref>Bowen, Robert and Attendorn, H -G [https://books.google.co.jp/books?id=k90iAnFereYC&pg=PA270&redir_esc=y&hl=ja ''Isotopes in the Earth Sciences''], Springer, 1988, ISBN 0-412-53710-9, pp. 270 ff</ref>。
== 生理作用 ==
金属サマリウムは人体内における生物学的な役割を持たない。サマリウム塩類は[[代謝]]を促進するが、それが純粋にサマリウムの影響であるのか、もしくは共存する他の希土類元素の影響なのかは不明である。成人の体内に含まれるサマリウムの総量はおよそ50 μgであり、その大部分は[[肝臓]]および[[腎臓]]に存在しており、血液中に溶存しているサマリウム濃度はおよそ8 μg/Lである。植物はサマリウムを吸収せず測定可能な濃度にまで蓄積されることがないため、サマリウムは通常人間の食事には含まれない。しかしながら、少数の植物や野菜は最大1 [[ppm]]のサマリウムを含む可能性がある。サマリウムの不溶性塩類は非毒性であり、溶解性のものはわずかに毒性を示す<ref name=emsley>{{cite book|title = Nature's Building Blocks: An A–Z Guide to the Elements|last = Emsley|first = John|publisher = Oxford University Press|year = 2001|location = Oxford, England, UK|isbn = 0-19-850340-7|chapter = Samarium|pages = 371–374|url = https://books.google.co.jp/books?id=j-Xu07p3cKwC&pg=PA371&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。
サマリウム塩が摂取された際にはその内のわずか0.05%のみが血液中に吸収され、残りは排出される。血液からは45%が肝臓、45%が骨の表面へと運ばれて10年間残存し、残りの10%は排出される<ref name=LA2>[http://www.ead.anl.gov/pub/doc/samarium.pdf Human Health Fact Sheet on Samarium], Los Alamos National Laboratory</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|colwidth=30em}}
== 参考文献 ==
* {{Greenwood&Earnshaw2nd}}
==関連文献==
* {{Cite journal |和書|author =柳田玲子|author2=[[井深俊郎]]|title =金属サマリウムを利用する合成反応の開発|date =2000|publisher =有機合成化学協会|journal =有機合成化学協会誌|volume =58|issue =6|doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.58.597|pages =597-605 |ref = }}
== 関連項目 ==
{{Commons|Samarium}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
{{サマリウムの化合物}}
{{Good article}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さまりうむ}}
[[Category:サマリウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:ランタノイド]]
[[Category:第6周期元素]]
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2003-06-21T14:36:37Z
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2023-11-20T09:19:19Z
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京成稲毛駅
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京成稲毛駅(けいせいいなげえき)は、千葉県千葉市稲毛区稲毛三丁目にある、京成電鉄千葉線の駅である。駅番号はKS55。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、ホーム有効長は6両編成に対応する。各ホーム間は構内踏切で連絡しており、2番線ホーム側にも改札口(以前は臨時改札口)がある。1番線ホームの中央に男女別の水洗式トイレが設置されており、多機能トイレを併設している。
以前は上野寄りに下り線から上り方面に出発する分岐器が設けられていた。駅長配置駅である。
京成千葉線は、京成本線(京成船橋・京成上野方面)、新京成線(松戸方面)および京成千原線(ちはら台方面)との直通運転も一部実施している。駅ホームの案内標には、京成千葉線との直通運転の設定がない「成田空港」も行先として表記されている。成田空港方面(京成本線)には京成津田沼駅にて乗換が必要となる。
2022年度の一日平均乗降人員は6,846人で、京成線内69駅中第43位であった。
近年の一日平均乗車人員推移は下表の通り。
神谷傳兵衛や愛新覚羅溥傑の時代には国道14号(千葉街道)付近に海岸線があり、海水浴や潮干狩りの客で賑わうリゾート地となっていた。稲毛浅間神社の周辺に広がる松林の中には別荘風旅館「海気館」もあり、海気館には多くの文人墨客が小説執筆や静養のため訪れるなど、文人に愛された地として古くから栄え、駅周辺の高台は別荘地として開発された経緯から高級住宅街となっている。
駅前には千葉県道134号稲毛停車場稲毛海岸線が通り、駅西側には国道14号(千葉街道)、国道357号(東京湾岸道路)、駅北側には東関東自動車道が通る。国道14号(千葉街道)を越えた先からは美浜区に入り、大規模な住宅団地や埋立地が広がる。保養所等も今はなく、埋立前の海岸線は稲毛浅間神社や松林が昔の面影を残している。特に「稲毛の松林(市指定天然記念物)」は稲毛浅間神社の創建以来、次第に形成されてきた松林で、かつてはすぐ近くまで波が打ち寄せた眼望絶景の地であった。浅間神社境内を含めた丘上一帯が名勝地となっており、その一部が市の公園(稲毛公園)として開放されている。
JR総武本線の稲毛駅までは約650メートル(徒歩約8分程度)、JR京葉線稲毛海岸駅までは約1.5キロメートル(徒歩約20分程度)の場所に位置する。
駅周辺には、駅最寄りの「京成稲毛駅」バス停と駅から離れた高台にある「京成稲毛駅入口」バス停(所在地は稲丘町)がある。
かつては京成バスの市街線(現在のちばシティバス作草部線、休止中)・宮野木線・京成団地線などが当駅を起終点としていたが、その後、当地のバス路線中心駅はJR稲毛駅となり、作草部線が2010年3月15日より運行休止となったのを最後に、当駅を起終点とする路線バスはなくなった。京成バス市街線は、千葉都市モノレール開通以前は運転本数も多く、京成バスを代表する主要幹線の一つであった。
|
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"text": "京成稲毛駅(けいせいいなげえき)は、千葉県千葉市稲毛区稲毛三丁目にある、京成電鉄千葉線の駅である。駅番号はKS55。",
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京成稲毛駅(けいせいいなげえき)は、千葉県千葉市稲毛区稲毛三丁目にある、京成電鉄千葉線の駅である。駅番号はKS55。
|
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 京成稲毛駅
|画像 = P3295576 Jpg (158381173)(cropped).jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎 1番線改札口(2016年3月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point}}
|よみがな = けいせいいなげ
|ローマ字 = Keisei-Inage
|副駅名 =
|前の駅 = KS54 [[検見川駅|検見川]]
|駅間A = 2.8
|駅間B = 1.8
|次の駅 = [[みどり台駅|みどり台]] KS56
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|55|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成千葉線|千葉線]]
|キロ程 = 8.1
|起点駅 = [[京成津田沼駅|京成津田沼]]
|所在地 = [[千葉市]][[稲毛区]]稲毛三丁目1番17号
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|38|16|N|140|5|7.83|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1921年]]([[大正]]10年)[[7月17日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京成" name="keisei2022" />6,846
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
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{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br />京成稲毛駅<br />配線図|#1155cc}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}
↑[[検見川駅]]
{{BS2text|1|2|||}}
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{{BS2|STR+BSr|STR+BSl||}}
{{BS2|STR+BSr|STR+BSl||}}
{{BS2|STRg|STRf|||}}
{{BS-colspan}}
↓[[みどり台駅]]
|}
|}
'''京成稲毛駅'''(けいせいいなげえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[稲毛区]]稲毛三丁目にある、[[京成電鉄]][[京成千葉線|千葉線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS55'''。
== 歴史 ==
* [[1921年]]([[大正]]10年)[[7月17日]] - '''稲毛駅'''として開業。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月18日]] - '''京成稲毛駅'''に改称。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]で、ホーム[[有効長]]は6両編成に対応する。各ホーム間は[[踏切#構内踏切|構内踏切]]で連絡しており、2番線ホーム側にも[[改札|改札口]](以前は臨時改札口)がある。1番線ホームの中央に男女別の[[水洗式便所|水洗式トイレ]]が設置されており、[[ユニバーサルデザイン|多機能トイレ]]を併設している。
以前は[[上野駅|上野]]寄りに下り線から上り方面に出発する[[分岐器]]が設けられていた。駅長配置駅である。
=== のりば ===
京成千葉線は、[[京成本線]]([[京成船橋駅|京成船橋]]・[[京成上野駅|京成上野]]方面)、[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]([[松戸駅|松戸]]方面)および[[京成千原線]]([[ちはら台駅|ちはら台]]方面)との直通運転も一部実施している。駅ホームの案内標には、京成千葉線との直通運転の設定がない「[[成田空港駅|成田空港]]」も行先として表記されている。成田空港方面(京成本線)には[[京成津田沼駅]]にて乗換が必要となる。
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]・[[File:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ちはら台駅|ちはら台]]方面
|}
<gallery>
Keiseiinage sta02.jpg|2番線側改札口(2007年8月)
Keisei-Inage-Sta-Platform.JPG|京成千葉側から望む駅ホーム(2011年10月)
Keiseiinage sta03.jpg|1番線ホーム(2007年8月)
Keiseiinage sta04.jpg|2番線ホーム(2007年8月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の一日平均乗降人員は'''6,846人'''<ref group="京成" name="keisei2022" />で、京成線内69駅中第43位であった。
近年の一日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!年度
!一日平均<br />乗降人員
!一日平均<br />乗車人員
|-
|2003年(平成15年)
|6,317
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/temp/toukeisyo/20toukei/20toukei.html 千葉市統計書(平成20年度)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131214111924/http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/temp/toukeisyo/20toukei/20toukei.html |date=2013年12月14日}}</ref>3,117
|-
|2004年(平成16年)
|5,987
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>3,054
|-
|2005年(平成17年)
|5,923
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>3,021
|-
|2006年(平成18年)
|6,056
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>3,086
|-
|2007年(平成19年)
|6,162
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>3,147
|-
|2008年(平成20年)
|6,190
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/24toukeisyo.html 千葉市統計書(平成24年度)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160826102248/http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/24toukeisyo.html |date=2016年8月26日}}</ref>3,162
|-
|2009年(平成21年)
|6,247
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012"/>3,188
|-
|2010年(平成22年)
|6,230
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012"/>3,179
|-
|2011年(平成23年)
|6,097
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012"/>3,114
|-
|2012年(平成24年)
|6,214
|<ref group="*" name="chibapreftoukei2012">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/documents/111n.xls 千葉県統計年鑑(平成25年) 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、平成27年7月25日閲覧</ref>3,170
|-
|2013年(平成25年)
|6,434
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2014">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/26toukeisyo.html 千葉市統計書(平成26年度版)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160810160644/http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/26toukeisyo.html |date=2016年8月10日}}</ref>3,282
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="京成" name="keisei2014">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成26年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160403052643/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |archivedate=2016-04-03 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>6,480
|3,312
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="京成" name="keisei2015">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成27年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161011002200/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |archivedate=2016-10-11 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>6,769
|3,460
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="京成" name="keisei2016">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成28年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180223084532/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.htm |archivedate=2018-02-23 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>6,913
|3,524
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="京成" name="keisei2017">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2017年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2017_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125811/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2017_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>6,998
|<ref group="京成" name="keisei2017" />3,576
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="京成" name="keisei2018">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2018年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2018_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125808/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2018_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>7,064
|<ref group="京成" name="keisei2018" />3,613
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="京成" name="keisei2019">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2019年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125810/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>7,136
|<ref group="京成" name="keisei2019" />3,651
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京成" name="keisei2020">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230405001129/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |archivedate=2023-04-05 |deadlink= |}}</ref>5,822
|<ref group="京成" name="keisei2020" />2,974
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京成" name="keisei2021">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |title=駅別乗降人員(2021年度) |accessdate=2023-07-08 |format= PDF |website= |work= |publisher= |page= |pages= |quote= |language= JP |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220516062126/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |archivedate=2022-05-16 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>6,429
|<ref group="京成" name="keisei2021" />3,285
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>6,846
|<ref group="京成" name="keisei2022" />3,509
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Inage Villa Western-style room ac (4).jpg|thumb|[[旧神谷伝兵衛稲毛別荘]]]]
[[ファイル:InageSengenJinja.jpg|thumb|[[稲毛浅間神社]]]]
[[神谷傳兵衛]]や[[愛新覚羅溥傑]]の時代には[[国道14号]]([[千葉街道]])付近に海岸線があり、[[海水浴]]や[[潮干狩り]]の客で賑わう[[リゾート]]地となっていた。稲毛浅間神社の周辺に広がる[[松林]]の中には[[別荘]]風[[旅館]]「海気館」もあり、海気館には多くの[[文人]]墨客が[[小説]]執筆や静養のため訪れるなど、文人に愛された地として古くから栄え<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.chiba.jp/inage/chiikishinko/villa.html|title=文人に愛された別荘地「稲毛」|accessdate=2019-01-16|last=千葉市|website=千葉市|language=ja}}</ref>、駅周辺の高台は別荘地として開発された経緯から[[高級住宅街]]となっている<ref>{{Cite web|和書|title=船橋・津田沼・幕張-検見川・稲毛・千葉エリア(あの街写真館2)- 住友不動産販売|あの街レポート|url=https://www.stepon.co.jp/townreport/archives/2012/01/post_274.html|website=www.stepon.co.jp|accessdate=2020-01-14}}</ref>。
駅前には[[千葉県道134号稲毛停車場稲毛海岸線]]が通り、駅西側には国道14号(千葉街道)、[[国道357号]]([[東京湾岸道路]])、駅北側には[[東関東自動車道]]が通る。国道14号(千葉街道)を越えた先からは[[美浜区]]に入り、大規模な住宅[[団地]]や[[埋立地]]が広がる。[[保養所]]等も今はなく、埋立前の海岸線は稲毛浅間神社や松林が昔の面影を残している<ref>[http://www.city.chiba.jp/inage/chiikishinko/i-0002-1.html 稲毛の歴史] - 千葉市</ref>。特に「稲毛の松林([[天然記念物|市指定天然記念物]])」は稲毛浅間神社の創建以来、次第に形成されてきた松林で、かつてはすぐ近くまで波が打ち寄せた眼望絶景の地であった。浅間神社境内を含めた丘上一帯が名勝地となっており、その一部が市の公園(稲毛公園)として開放されている<ref>{{Cite web|和書|title=稲毛の松林(市指定名勝)|url=http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/inagematsubayashi.html|website=千葉市|accessdate=2019-02-20|language=ja|last=千葉市}}</ref>。
[[東日本旅客鉄道|JR]][[総武本線]]の[[稲毛駅]]までは約650メートル(徒歩約8分程度)、JR[[京葉線]][[稲毛海岸駅]]までは約1.5キロメートル(徒歩約20分程度)の場所に位置する。
=== 西側 ===
[[ファイル:Chiba-Nishi Police Station.jpg|thumb|[[千葉西警察署|千葉県千葉西警察署]]]]
[[ファイル:TokyoDentalCollege20110319.jpg|thumb|[[東京歯科大学#附属病院|東京歯科大学千葉歯科医療センター]]]]
[[ファイル:ChibaToyopet.jpg|thumb|[[トヨタ勝又グループ|千葉トヨペット本社]](国の[[登録有形文化財]])]]
* [[農林水産省]][[林野庁]][[関東森林管理局]]千葉森林管理事務所
* [[千葉西警察署|千葉県千葉西警察署]]
* 千葉市稲毛公民館
* [[東京歯科大学]] 千葉キャンパス
** [[東京歯科大学歯科衛生士専門学校]]
** 東京歯科大学千葉歯科医療センター
* [[千葉市立稲毛中学校]]
* [[千葉市立稲浜中学校]]
* [[千葉市立稲毛小学校]]
* [[千葉市立稲丘小学校]]
* [[千葉市立稲毛第二小学校]]
* [[千葉市立稲浜小学校]]
* 稲毛自動車教習所
* いなげ西病院
* 稲毛郵便局
* 千葉稲毛海岸郵便局
* [[アコレ]] 稲毛海岸4丁目店
* [[ヤオコー]] ミノリア稲毛海岸店
* ヤオコー 稲毛海岸店
* ピアシティ稲毛海岸
** [[カスミ|カスミフードスクエア]] 稲毛海岸店
** [[サンドラッグ]] 稲毛海岸店
* きらくホテル
* [[トヨタ勝又グループ|千葉トヨペット本社]](社屋は[[日本勧業銀行]]本店建造物)
* [[稲毛園]] 本店
* [[稲毛浅間神社]] - 毎年[[7月14日]]の前夜祭とその翌[[7月15日|15日]]の[[例祭|例大祭]]の時は賑い、当駅の利用客が多くなる。
** 稲毛公園(稲毛の松林)
* [[千葉市民ギャラリー・いなげ]] - 黒松に囲まれた庭園にあるアート・文化の拠点施設。
** [[旧神谷伝兵衛稲毛別荘]] - [[神谷バー]]の創業者である神谷傳兵衛の別荘(洋館建築)。国の[[登録有形文化財]]。
* [[千葉市ゆかりの家・いなげ]](旧武見家住宅) - 映画『[[ラストエンペラー]]』として知られる愛新覚羅溥儀の弟とその妻([[嵯峨実勝]]の長女)が新婚時代(1937年頃)に半年程住んでいた建物。千葉市有形文化財。
* 稲毛海岸公園
=== 東側 ===
{{See also|稲毛駅#駅周辺}}
* 千葉西警察署 稲毛駅前交番
* 稲毛駅前郵便局
* [[千葉銀行]] 稲毛支店
* [[千葉信用金庫]] 稲毛支店
* [[ワイズマート]] 稲毛店
* 在宅支援総合ケアーサービス 本社
* 千葉セラミック工業 本社工場
* 日産レンタカー稲毛西口駅前店
== バス路線 ==
{{出典の明記|date=2023年7月8日|section=1}}
駅周辺には、駅最寄りの「京成稲毛駅」[[バス停留所|バス停]]と駅から離れた高台にある「京成稲毛駅入口」バス停(所在地は稲丘町)がある。
かつては[[京成バス]]の市街線(現在の[[ちばシティバス#作草部線|ちばシティバス作草部線]]、休止中)・[[京成バス長沼営業所#宮野木線|宮野木線]]・[[京成バス長沼営業所#京成団地線、宮野木小学校線|京成団地線]]などが当駅を起終点としていたが、その後、当地のバス路線中心駅はJR稲毛駅となり、作草部線が[[2010年]][[3月15日]]より運行休止となったのを最後に、当駅を起終点とする[[路線バス]]はなくなった。京成バス市街線は、[[千葉都市モノレール]]開通以前は運転本数も多く、京成バスを代表する主要幹線の一つであった。
=== 京成稲毛駅 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
! colspan="2" |系統名
!経由地
!行先
!運行会社
!備考
|-
| rowspan="3" |[[ちばシティバス#プラウドシティ線|プラウドシティ線]]
|稲52
|
|[[稲毛駅]]
| rowspan="3" |[[ちばシティバス]]
|
|-
|稲53
| rowspan="2" |プラウドシティ・イースト
|[[稲毛海岸駅]]
|
|-
|稲55
|ルネグランマークス
|
|}
=== 京成稲毛駅入口 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
!系統名
!経由地
!行先
!運行会社
|-
| rowspan="4" |[[千葉海浜交通#高浜線|高浜線]]
|東京歯科大正門
| rowspan="2" |稲毛海岸駅
| rowspan="10" |[[千葉海浜交通]]
|-
|こじま公園
|-
| rowspan="2" |こじま公園・稲毛海岸駅
|[[稲毛海浜公園|海浜公園]]入口
|-
|[[千葉県立磯辺高等学校|磯辺高校]]
|-
| rowspan="3" |[[千葉海浜交通#高洲線|高洲線]]
|高洲第二・[[千葉市立稲毛高等学校・附属中学校|稲毛高校]]・高浜車庫
|稲毛海浜公園プール
|-
|高洲第二・稲毛高校
|高浜車庫
|-
|高洲一丁目・運輸支局入口・稲毛高校
|稲毛海岸駅
|-
|[[千葉海浜交通#高洲東線|高洲東線]]
|高洲一丁目・運輸支局入口・稲毛海岸駅・[[千葉県立千葉西高等学校|千葉西高校]]
|海浜病院
|-
|[[千葉海浜交通#マリンスタジアム線|マリンスタジアム線]]
|稲毛海岸駅・高洲二中・検見川浜駅・[[海浜幕張駅]]
|[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]
|-
|[[千葉海浜交通#アクアリンク線|アクアリンク線]]
|稲毛海岸駅・[[千葉市立稲毛高等学校・附属中学校|稲毛高校]]・高浜車庫
|アクアリンクちば
|-
|[[千葉海浜交通#幕張メッセ中央線|幕張メッセ中央線]]・[[ちばシティバス#メッセ新都心線|[稲91]]](ちばシティバス)
|プラウドシティウエスト・[[千葉西警察署]]・イオン幕張店・海浜幕張駅・[[幕張メッセ]]中央・[[イオンモール幕張新都心]]
|[[幕張豊砂駅]]
|千葉海浜交通・[[ちばシティバス]]
|-
|[[ちばシティバス#プラウドシティ線|稲57]]
|プラウドシティ・イースト
|稲毛海岸駅
| rowspan="4" |ちばシティバス
|-
|[[ちばシティバス#幸町団地線、幸町循環線|稲61]]
|幸町団地・[[千葉興業銀行|千葉興銀]]本店・[[千葉みなと駅]]
|[[千葉駅]]西口
|-
|[[ちばシティバス#幸町団地線、幸町循環線|稲62]]
| rowspan="2" |幸町団地
|ガーデンタウン
|-
|[[ちばシティバス#幸町団地線、幸町循環線|稲65]]
|幸町中央
|-
|[[ちばシティバス#幸町団地線、幸町循環線|稲66]](ちばシティバス)・[[あすか交通#稲毛線|1-11]](あすか交通)
|幸町団地・幸町公民館・幸町中央
| rowspan="2" |稲毛駅(循環)
|ちばシティバス・あすか交通
|-
|[[あすか交通#稲毛線|1-21]]
|幸町団地・8街区入口・幸町中央
|[[あすか交通]]
|-
|
|
|稲毛駅
|千葉海浜交通・ちばシティバス
|}
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
:: [[検見川駅]] (KS54) - '''京成稲毛駅 (KS55)''' - [[みどり台駅]] (KS56)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!-- === 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}} -->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 利用状況 ====
; 京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|3}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|2}}
; 千葉市統計書
{{Reflist|group="#"|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Keisei Inage Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[稲毛駅]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-inage.php 京成稲毛駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
{{京成千葉線}}
{{DEFAULTSORT:けいせいいなけ}}
[[Category:千葉市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|いせいいなけ]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1921年開業の鉄道駅]]
[[Category:稲毛区の交通|けいせいいなけえき]]
[[Category:稲毛区の建築物]]
|
2003-06-21T14:52:11Z
|
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|
10,233 |
西登戸駅
|
西登戸駅(にしのぶとえき)は、千葉県千葉市中央区登戸四丁目にある、京成電鉄千葉線の駅である。駅番号はKS57。
かつては千葉海岸の最寄り駅として、東京方面からの海水浴客の乗降で賑わった。なお、駅東側は千葉線開通を機に別荘地として開発された。
駅名は千葉市中央区にある「登戸(のぶと)」地区の西部に位置することによる名称であり、当駅の近隣に「西」の付かない「登戸駅」は存在しない。なお、この登戸地区の東部には新千葉駅がある。
また、神奈川県川崎市多摩区登戸にJR南武線、小田急電鉄小田原線の同名の登戸(のぼりと)駅が存在するが、無関係である(当駅は、そちらから見た場合には東の方向に位置している)。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。駅舎は上り線(京成津田沼駅方面)ホーム側にあり、下り線(京成千葉駅方面)ホームとは跨線橋により連絡している。
京成千葉線は、京成本線(京成船橋・京成上野方面)、新京成線(松戸方面)および京成千原線(ちはら台方面)との直通運転も実施している。駅ホームの案内標には、京成千葉線との直通運転の設定がない「成田空港」も行先として表記されている。成田空港方面(京成本線)には京成津田沼駅にて乗換が必要となる。
2022年度の一日平均乗降人員は2,825人で、京成線内69駅中第63位であった。
近年の一日平均乗車人員推移は下表の通り。
東日本旅客鉄道(JR東日本)西千葉駅まで約600メートル(徒歩約6分程度)である。当駅を中心とする約半径1キロメートル(km)範囲内には西千葉駅のほか、隣駅のみどり台駅および新千葉駅があり、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。駅前商業施設や商店街が存在する西千葉駅前とは至近距離にもかかわらず雰囲気が大きく異なり、当駅は閑静な住宅地内にある。駅東側は別荘地として開発された経緯から高級住宅街となっている。駅西側には松林が点在し、海へと続く小道が現存するなど、埋立前の海岸線の面影を偲ぶことができる。南側(海側)は国道14号(千葉街道)、国道357号(東京湾岸道路)が通り、千葉街道を越えた先からは美浜区に入り、千葉ガーデンタウンなどの大規模な住宅団地や埋立地が広がる。
登戸四丁目、幸町一丁目方面(駅改札口、海側)。
春日一丁目・二丁目、汐見丘町方面。
|
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西登戸駅(にしのぶとえき)は、千葉県千葉市中央区登戸四丁目にある、京成電鉄千葉線の駅である。駅番号はKS57。
|
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 西登戸駅
|画像 = Keisei Nishi-Nobuto Sta outbound line side.jpg
|pxl = 280px
|画像説明 = 下り線側駅舎(2022年7月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=280|type=point}}
|よみがな = にしのぶと
|ローマ字 = Nishi-Nobuto
|副駅名 =
|前の駅 = KS56 [[みどり台駅|みどり台]]
|駅間A = 1.0
|駅間B = 0.8
|次の駅 = [[新千葉駅|新千葉]] KS58
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|57|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成千葉線|千葉線]]
|キロ程 = 10.9
|起点駅 = [[京成津田沼駅|京成津田沼]]
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|駅構造 = [[地上駅]]
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|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京成" name="keisei2022" />2,825
|統計年度 = 2022年
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|備考 =
}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br />西登戸駅<br />配線図|#1155cc}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}
↑[[みどり台駅]]
{{BS2text|1|2|||}}
{{BS2|STRg|STRf|||}}
{{BS2|STR+BSr|STR+BSl||}}
{{BS2|STR+BSr|STR+BSl||}}
{{BS2|STRg|STRf|||}}
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↓[[新千葉駅]]
|}
|}
[[ファイル:Keisei Nishi-Nobuto Sta inbound line side.jpg|thumb|上り線側駅舎(2022年7月)]]
[[ファイル:Keisei Nishi-Nobuto Sta 01.jpg|thumb|リニューアル前の駅舎(2012年3月)]]
'''西登戸駅'''(にしのぶとえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]登戸四丁目にある、[[京成電鉄]][[京成千葉線|千葉線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS57'''。
== 歴史 ==
かつては千葉海岸の最寄り駅として、[[東京]]方面からの[[海水浴]]客の乗降で賑わった。なお、駅東側は千葉線開通を機に[[別荘]]地として開発された。
=== 年表 ===
* [[1922年]]([[大正]]11年)[[3月8日]] - '''千葉海岸駅'''として開業。
* [[1967年]]([[昭和]]42年)[[4月1日]] - 海岸の[[埋立地|埋め立て]]に伴い、'''西登戸駅'''に改称。
* [[2021年]]([[令和]]3年)- 駅[[リニューアル]]・バリアフリー化工事を実施。
=== 駅名について ===
駅名は千葉市中央区にある「登戸(のぶと)」地区の西部に位置することによる名称であり、当駅の近隣に「西」の付かない「登戸駅」は存在しない。なお、この登戸地区の東部には[[新千葉駅]]がある。
また、[[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]][[登戸 (川崎市)|登戸]]に[[東日本旅客鉄道|JR]][[南武線]]、[[小田急電鉄]][[小田原線]]の同名の[[登戸駅|登戸(のぼりと)駅]]が存在するが、無関係である(当駅は、そちらから見た場合には東の方向に位置している)。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。駅舎は上り線([[京成津田沼駅]]方面)ホーム側にあり、下り線([[京成千葉駅]]方面)ホームとは[[跨線橋]]により連絡している。
=== のりば ===
京成千葉線は、[[京成本線]]([[京成船橋駅|京成船橋]]・[[京成上野駅|京成上野]]方面)、[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]([[松戸駅|松戸]]方面)および[[京成千原線]]([[ちはら台駅|ちはら台]]方面)との直通運転も実施している。駅ホームの案内標には、京成千葉線との直通運転の設定がない「[[成田空港駅|成田空港]]」も行先として表記されている。成田空港方面(京成本線)には[[京成津田沼駅]]にて乗換が必要となる。
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]・[[File:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ちはら台駅|ちはら台]]方面
|}
<gallery>
Keisei Nishi-Nobuto Sta 02.jpg|1番線ホーム(2012年3月)
Keisei Nishi-Nobuto Sta 03.jpg|2番線ホーム(2012年3月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の一日平均[[乗降人員]]は'''2,825人'''<ref group="京成" name="keisei2022" />で、京成線内69駅中第63位であった。
近年の一日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!年度
!一日平均<br />乗降人員
!一日平均<br />乗車人員
|-
|2003年(平成15年)
|1,875
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/temp/toukeisyo/20toukei/20toukei.html 千葉市統計書(平成20年度)]</ref>934
|-
|2004年(平成16年)
|2,003
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>973
|-
|2005年(平成17年)
|2,061
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>994
|-
|2006年(平成18年)
|2,058
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>996
|-
|2007年(平成19年)
|2,143
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2008"/>1,042
|-
|2008年(平成20年)
|2,155
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/24toukeisyo.html 千葉市統計書(平成24年度)]</ref>1,054
|-
|2009年(平成21年)
|2,213
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012"/>1,084
|-
|2010年(平成22年)
|2,222
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012"/>1,091
|-
|2011年(平成23年)
|2,143
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2012"/>1,050
|-
|2012年(平成24年)
|2,184
|<ref group="*" name="chibapreftoukei2012">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/documents/111n.xls 千葉県統計年鑑(平成25年) 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、平成27年7月25日閲覧</ref>1,069
|-
|2013年(平成25年)
|2,323
|<ref group="#" name="chibacitytoukei2014">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/26toukeisyo.html 千葉市統計書(平成26年度版)]</ref>1,138
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="京成" name="keisei2014">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成26年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160403052643/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |archivedate=2016-04-03 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>2,413
|
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="京成" name="keisei2015">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成27年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161011002200/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |archivedate=2016-10-11 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>2,504
|
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="京成" name="keisei2016">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成28年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180223084532/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.htm |archivedate=2018-02-23 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>2,577
|
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="京成" name="keisei2017">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2017年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2017_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125811/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2017_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>2,631
|<ref group="京成" name="keisei2017" />1,309
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="京成" name="keisei2018">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2018年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2018_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125808/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2018_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>2,695
|<ref group="京成" name="keisei2018" />1,338
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="京成" name="keisei2019">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2019年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2021-05-30 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125810/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>2,636
|<ref group="京成" name="keisei2019" />1,309
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京成" name="keisei2020">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2021-05-30 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230405001129/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |archivedate=2023-04-05 |deadlink= |}}</ref>2,240
|<ref group="京成" name="keisei2020" />1,113
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京成" name="keisei2021">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |title=駅別乗降人員(2021年度) |accessdate=2022-05-22 |format= PDF |website= |work= |publisher= |page= |pages= |quote= |language= JP |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220516062126/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |archivedate=2022-05-16 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>2,485
|<ref group="京成" name="keisei2021" />1,235
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>2,825
|<ref group="京成" name="keisei2022" />1,416
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|みどり台駅#駅周辺|新千葉駅#駅周辺}}
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[西千葉駅]]まで約600メートル(徒歩約6分程度)である。当駅を中心とする約半径1キロメートル(km)範囲内には西千葉駅のほか、隣駅の[[みどり台駅]]および[[新千葉駅]]があり、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。駅前[[商業]]施設や[[商店街]]が存在する西千葉駅前とは至近距離にもかかわらず雰囲気が大きく異なり、当駅は閑静な[[住宅地]]内にある。駅東側は[[別荘]]地として開発された経緯から[[高級住宅街]]となっている<ref>{{Cite web|和書|title=船橋・津田沼・幕張-検見川・稲毛・千葉エリア(あの街写真館2)- 住友不動産販売|あの街レポート|url=https://www.stepon.co.jp/townreport/archives/2012/01/post_274.html|website=www.stepon.co.jp|accessdate=2020-01-14}}</ref>。駅西側には[[松林]]が点在し、海へと続く小道が現存するなど、埋立前の[[海岸|海岸線]]の面影を偲ぶことができる<ref>{{Cite web|和書|title=緑町小学校の歴史と地域の変遷|url=http://www.cabinet-cbc.ed.jp/school/es/034/midorihp/40syunen/40syunen.htm|website=www.cabinet-cbc.ed.jp|accessdate=2020-01-14}}</ref>。南側(海側)は[[国道14号]]([[千葉街道]])、[[国道357号]]([[東京湾岸道路]])が通り、千葉街道を越えた先からは[[美浜区]]に入り、千葉ガーデンタウンなどの大規模な住宅[[団地]]や[[埋立地]]が広がる。
=== 南側 ===
[[ファイル:Chiba Kogyo Bank, headquarters.jpg|thumb|[[千葉興業銀行]] 本店]]
[[ファイル:Chiba City Medical Service Center.jpg|thumb|千葉市総合保健医療センター]]
登戸四丁目、幸町一丁目方面(駅改札口、海側)。
* [[公共職業安定所|千葉公共職業安定所]]
* [[千葉市立幸町第二中学校]]
* [[千葉市立幸町第三小学校]]
* [[千葉市総合保健医療センター]]
** 千葉市休日救急診療所
** 保健福祉局健康部保健所(千葉市保健所)
** 千葉市環境保健研究所
* 千葉登戸郵便局
* 千葉ガーデンタウン郵便局
* [[千葉興業銀行]] 本店
* [[京葉銀行]] 幸町センター
* [[カスミ|カスミフードスクエア]] 千葉みなと店
* [[千葉薬品|ヤックスドラッグ]] 千葉みなと店
* [[トヨタ勝又グループ|トヨタカローラ千葉]] 本社
* [[タクティー|ジェームス]] 美浜店
* [[リブ・マックス|ホテルリブマックス]] 千葉美浜
* 幸町公園
=== 北側 ===
{{See also|西千葉駅#駅周辺}}
春日一丁目・二丁目、汐見丘町方面。
* [[法務省]][[保護観察所|千葉保護観察所]]([[海上保安庁]][[LORAN|千葉ロランセンター]]跡)
* 増田病院
* 一般財団法人市原学園
** 千葉理容専門学校
* 東洋理容美容専門学校 本館
* [[西友]] 西千葉店<ref name="murayma-young-manager-1972">村山元英 『地域環境経営論 青年経営者の指導力理論』 [[白桃書房]]、年。</ref>
* [[フローラ企画|ボンメゾン]] 西千葉店
* 高砂公園
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
:: [[みどり台駅]] (KS56) - '''西登戸駅 (KS57)''' - [[新千葉駅]] (KS58)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!-- === 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}} -->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 利用状況 ====
; 京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|3}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|2}}
; 千葉市統計書
{{Reflist|group="#"|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Nishi-Nobuto Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/nishi-nobuto.php 西登戸駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* {{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/432.pdf 京成電鉄 西登戸駅]}}
{{京成千葉線}}
{{DEFAULTSORT:にしのふと}}
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:千葉市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 に|しのふと]]
[[Category:1922年開業の鉄道駅]]
|
2003-06-21T15:01:43Z
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2023-12-02T09:07:27Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%99%BB%E6%88%B8%E9%A7%85
|
10,237 |
京成千葉駅
|
京成千葉駅(けいせいちばえき)は、千葉県千葉市中央区新町にある、京成電鉄千葉線の駅である。駅番号はKS59。
当駅は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの千葉駅と近接しており、乗換駅となっている。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。下り列車から見て右に大きくカーブを描いており、志津駅上り線と同様に、電車到着時には警告音が鳴り、軌道敷内の照明が点灯する。ホームの有効長は8両編成分である。
改札口は1階コンコースにある西口改札・東口改札と3階コンコースにあるモノレール口改札の計3か所ある。JR千葉駅の東口に近いのは西口改札であるため注意が必要である。西口改札は駅員が配置され終日営業しているのに対し、東口改札とモノレール口改札は無人であり、営業時間も東口改札が6時から21時まで、モノレール口改札が6時30分から20時30分までと限られている。また、駅ホームと1階コンコースの間はエレベーター・エスカレーター・階段が設置されているが、3階コンコースとの間にはエスカレーター・階段のみが設置されており、エレベーターは設置されていない。このため、モノレールとの乗り換えなどで3階コンコースと当駅ホームを行き来する際にエレベーターの利用を必要とする場合、及びモノレール口改札の営業時間外の場合は、3階コンコースと同じフロアにあるそごう千葉店内のエレベーター、センシティタワーのエレベーター、またはモノレール駅のエレベーターを利用し、一旦1階の西口改札を経由する必要がある。
2022年度の1日平均乗降人員は27,978人で、京成線内69駅中第15位であった。千葉線内では最も乗降客の多い駅である。
近年の推移は下表の通り。
駅自体はそごう千葉店本館と一体化しており、そごう本館4階、センシティタワー4階に連絡するモノレール南口(モノレール口改札)がある。千葉都市モノレール1号線・2号線の千葉駅とは一体的な構造となっており、モノレール口改札から連絡通路を通じてJR線にも乗換可能である。
当駅西口(西口改札)より、そごう本館1階、センシティタワー1階、東日本旅客鉄道(JR東日本)の千葉駅南口および駅ビルのペリエ千葉(本館・ストリート1)に連絡し、当駅東口(東口改札)より、高架下商業施設のシーワン(C-One)、オーロラモールジュンヌ1階に連絡する。
当駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの千葉駅東口・西口駅前ロータリー交差点(バスターミナル)に近接している。
|
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] |
京成千葉駅(けいせいちばえき)は、千葉県千葉市中央区新町にある、京成電鉄千葉線の駅である。駅番号はKS59。 当駅は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの千葉駅と近接しており、乗換駅となっている。
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{{Otheruseslist|京成電鉄の駅(1987年までの名称は国鉄千葉駅前駅)|隣接する東日本旅客鉄道(JR東日本)、千葉都市モノレールの駅|千葉駅|1987年まで「京成千葉駅」であった京成電鉄の駅|千葉中央駅}}
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 京成千葉駅*
|画像 = Keisei-Chiba-Sta.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = 西口 [[そごう千葉店|そごう本館]]・[[センシティタワー|1000CITY TOWER]]側<br/>(2016年12月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = けいせいちば
|ローマ字 = Keisei-Chiba
|副駅名 =
|前の駅 = KS58 [[新千葉駅|新千葉]]
|駅間A = 0.6
|駅間B = 0.6
|次の駅 = [[千葉中央駅|千葉中央]] KS60
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|59|#005aaa|4||#005aaa}}
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|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成千葉線|千葉線]]
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|備考 = * [[1987年]]([[昭和]]62年)[[4月1日]] 国鉄千葉駅前駅より改称
}}
{|{{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|<br />京成千葉駅<br />配線図|#1155cc}}
{{BS-table|配線}}
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↑[[新千葉駅]]
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↓[[千葉中央駅]]
|}
|}
[[ファイル:Keiseichibasta-west.jpg|thumb|東口 [[オーロラモールジュンヌ|オーロラモールJunnu]]・[[千葉ショッピングセンター|C-one]]側 <span style="font-size: smaller;">※駅名看板更新前</span>(2009年11月)]]
[[ファイル:Keisei Chiba Station Monorail-Gate 20191225.jpg|thumb|千葉都市モノレール千葉駅に設置されているモノレール口改札(2019年12月)]]
[[ファイル:Sogō Chiba.jpg|thumb|[[そごう千葉店|そごう千葉店本館]] 当駅と一体的な構造となっている]]
'''京成千葉駅'''(けいせいちばえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]新町にある、[[京成電鉄]][[京成千葉線|千葉線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS59'''。
当駅は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[千葉都市モノレール]]の[[千葉駅]]と近接しており{{efn|千葉都市モノレールに関しては同じ建物に存在している。}}、[[乗換駅]]となっている。
== 歴史 ==
* [[1967年]]([[昭和]]42年)[[12月1日]]:'''国鉄千葉駅前駅'''(こくてつちばえきまええき)として開業する<ref>京成の駅今昔・昭和の面影、JTBパブリッシング、2014年、p.163</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、駅名を国鉄千葉駅前駅から'''京成千葉駅'''に変更、さらに従来の京成千葉駅も[[千葉中央駅]]に変更する<ref>{{Cite journal|和書 |date=1987-05 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |volume=21 |issue=6 |pages=104 |publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>。
* [[1994年]]([[平成]]6年)[[7月1日]]:西改札口を開設<ref name="yomiuri199471">{{Cite news |title=西改札口が完成 京成千葉駅、混雑緩和へ |newspaper=読売新聞 |page=32 |publisher=読売新聞社 |date=1994-07-01}}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[8月1日]]:モノレール口を開設<ref name="chibanippo1995729">{{Cite news |title=「モノレール口」を開設 延伸開業で京成千葉駅 1日から |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=1995-07-29}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[12月10日]]:[[新京成電鉄新京成線|新京成電鉄]]と京成千葉線の[[直通運転]]開始に伴い、新京成電鉄の車両が当駅への乗り入れを開始<ref name="chibanippo20061212">{{Cite news |title=京成千葉線乗り入れ開始 新京成電鉄 松戸駅で一番列車出発式 |newspaper=千葉日報 |page=15 |publisher=千葉日報社 |date=2006-12-12}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|京成の車両が新京成電鉄に乗り入れることは[[2016年]]現在ではない。}}。
* [[2018年]](平成30年)[[3月24日]]:フルカラーLED式の発車標を改札前とホームに導入。
== 駅構造 ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年8月}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]である。下り列車から見て右に大きくカーブを描いており、[[志津駅]]上り線と同様に、電車到着時には警告音が鳴り、軌道敷内の照明が点灯する。ホームの[[有効長]]は8両編成分である。
改札口は1階コンコースにある西口改札・東口改札と3階コンコースにあるモノレール口改札の計3か所ある。JR千葉駅の東口に近いのは西口改札であるため注意が必要である。西口改札は駅員が配置され終日営業しているのに対し、東口改札とモノレール口改札は無人であり、営業時間も東口改札が6時から21時まで、モノレール口改札が6時30分から20時30分までと限られている。また、駅ホームと1階コンコースの間はエレベーター・エスカレーター{{Refnest|group="注釈"|各ホームに1基ずつ設置。1番線は終日上り。2番線は始発から10時まで下り、10時以降は下り。}}・階段が設置されているが、3階コンコースとの間にはエスカレーター{{Refnest|group="注釈"|各ホームに1基ずつ設置。1番線、2番線共に終日上り。}}・階段のみが設置されており、エレベーターは設置されていない。このため、モノレールとの乗り換えなどで3階コンコースと当駅ホームを行き来する際にエレベーターの利用を必要とする場合、及びモノレール口改札の営業時間外の場合は、3階コンコースと同じフロアにある[[そごう千葉店]]内のエレベーター{{Refnest|group="注釈"|4階フロアが営業している10時から20時まで利用可能。}}、[[センシティタワー]]のエレベーター{{Refnest|group="注釈"|館内のエレベーターと1階⇔4階往復専用のエレベーターがある。後者の方が利用時間が長いが、早朝深夜は停止となるほか、案内がほとんどないため特に1階から利用する時には場所がわかりにくく、なおかつ遠回りとなる。}}、またはモノレール駅のエレベーター{{Refnest|group="注釈"|終日利用できるが、遠回りであり、途中で信号を渡る必要がある。}}を利用し、一旦1階の西口改札を経由する必要がある。
=== のりば ===
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]{{Refnest|group="注釈"|[[京成津田沼駅]]のりかえ}}・[[File:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[千葉中央駅|千葉中央]]・[[ちはら台駅|ちはら台]]方面
|}
<gallery>
Keisei-Chiba-West-Gate.JPG|西口改札(2016年12月)
Keiseichibasta-westkaisatsu.jpg|東口改札 <span style="font-size: smaller;">※駅名看板更新前</span>(2009年11月)
Keisei-railway-KS59-Keisei-chiba-station-platform-20190701-104412.jpg|駅ホーム(2019年7月)
Keisei-railway-KS59-Keisei-chiba-station-sign-20190701-104512.jpg|2番線駅名標(2019年7月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員]]は'''27,978人'''<ref group="京成" name="keisei2022" />で、京成線内69駅中第15位であった。千葉線内では最も乗降客の多い駅である。
近年の推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[http://www.train-media.net/report/index.html 各種報告書] - 關東交通廣告協議會</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/index.html 千葉縣統計年鑑]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|21,932
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2008">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/temp/toukeisyo/20toukei/20toukei.html 千葉市統計書(平成20年度)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131214111924/http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/temp/toukeisyo/20toukei/20toukei.html |date=2013年12月14日 }}</ref>11,038
|-
|2004年(平成16年)
|21,426
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2008"/>10,943
|-
|2005年(平成17年)
|21,618
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2008"/>11,009
|-
|2006年(平成18年)
|22,332
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2008"/>11,376
|-
|2007年(平成19年)
|23,866
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2008"/>12,039
|-
|2008年(平成20年)
|24,563
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2012">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/24toukeisyo.html 千葉市統計書(平成24年度)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160826102248/http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/24toukeisyo.html |date=2016年8月26日}}</ref>12,318
|-
|2009年(平成21年)
|24,428
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2012"/>12,231
|-
|2010年(平成22年)
|24,804
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2012"/>12,406
|-
|2011年(平成23年)
|24,448
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2012"/>12,237
|-
|2012年(平成24年)
|25,506
|<ref group="統計" name="chibapreftoukei2012">12,727[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/documents/111n.xls 千葉県統計年鑑(平成25年度) 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]、平成27年7月25日閲覧</ref>12,727
|-
|2013年(平成25年)
|26,619
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2014">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/26toukeisyo.html 千葉市統計書(平成26年度版)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160810160644/http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/26toukeisyo.html |date=2016年8月10日 }}</ref>13,275
|-
|2014年(平成26年)
|26,577
|<ref group="統計" name="chibacitytoukei2015">[http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/27toukeisyo.html 千葉市統計書(平成27年版)]</ref>13,235
|-
|2015年(平成27年)
|27,470
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== 駅周辺 ==
{{Main|千葉駅#駅周辺}}
駅自体は[[そごう千葉店]]本館と一体化しており、そごう本館4階、[[センシティタワー]]4階に連絡するモノレール南口(モノレール口改札)がある。[[千葉都市モノレール]][[千葉都市モノレール1号線|1号線]]・[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]の[[千葉駅]]とは一体的な構造となっており、モノレール口改札から連絡通路を通じて[[JR線]]にも乗換可能である。
当駅西口(西口改札)より、そごう本館1階、センシティタワー1階、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の千葉駅南口および[[駅ビル]]の[[千葉ステーションビル|ペリエ千葉]](本館・ストリート1)に連絡し、当駅東口(東口改札)より、高架下商業施設の[[千葉ショッピングセンター|シーワン]](C-One)、[[オーロラモールジュンヌ]]1階に連絡する。
=== バス路線 ===
{{Main|千葉駅バスのりば}}
当駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの千葉駅東口・西口駅前[[ロータリー交差点]]([[バスターミナル]])に近接している。
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
:: [[新千葉駅]] (KS58) - '''京成千葉駅 (KS59)''' - [[千葉中央駅]] (KS60)
== 脚注 ==
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=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
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==== 出典 ====
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=== 利用状況 ===
==== 統計資料 ====
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==== 私鉄の駅別利用客数 ====
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Keisei Chiba Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[三条京阪駅]]
* [[野田阪神駅]]
* [[川西国鉄前駅]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-chiba.php 京成千葉駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/435.pdf 京成千葉駅]}}(駅構内図) - 京成電鉄
{{京成千葉線}}
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[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:千葉市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|いせいちは]]
[[Category:1967年開業の鉄道駅]]
[[Category:千葉駅]]
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内房線
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内房線(うちぼうせん)は、千葉県千葉市中央区の蘇我駅から同県木更津市の木更津駅を経由して同県鴨川市の安房鴨川駅へ至る東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。内房線の前身である房総西線についても記述する。
なお、運転系統としての「内房線」は外房線の千葉駅寄り区間(千葉駅 - 蘇我駅間)を含めた千葉駅 - 安房鴨川駅間となっているが(後述)、木更津駅以南では外房線上総一ノ宮駅までの直通系統が設定されている(詳細は「地域輸送」節を参照)。
千葉市から東京湾沿いに房総半島の西岸(東京湾側)に沿って南下し、太平洋沿岸の鴨川市に至る路線。蘇我駅で外房線から分岐し、安房鴨川駅で再び外房線に接続する。なお、千葉駅から安房鴨川駅までの距離(営業キロ)は、内房線経由より外房線勝浦駅経由のほうが29.9 km短い。
全線が直流電化されているが、国土地理院鹿野山測地観測所の近傍区間については、直直デッドセクション方式(通電区間を数km単位に細分化し、それぞれの通電区間に1変電所を設置。通電区間毎に絶縁する方式)によって観測に影響が出ないよう対策をとっている。
蘇我駅 - 君津駅間は複線区間となっており、列車の本数も比較的多く、東京都区部や神奈川県内と直通運転する快速列車なども運行されている(外房線、横須賀・総武快速線、京葉線を経由)。一方で君津駅以南は単線区間で列車本数は少なくなるが、行楽需要が増える休日には、南房総と新宿駅を結ぶ特急列車「さざなみ」や、自転車を持ち込める「BOSO BICYCLE BASE」が運転される
全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。
全線が千葉支社の管轄である。
房総半島を一周する鉄道のうち、東京湾側の鉄道として1912年(明治45年)に蘇我駅 - 姉ケ崎駅間が木更津線(きさらづせん)として開業したのが始まりである。以後、小刻みに延伸を繰り返し、1919年(大正8年)に安房北条駅(現在の館山駅)まで達したところで北条線(ほうじょうせん)と改称し、その後1925年(大正14年)に安房鴨川駅に達して、現在の内房線の区間が全通した。
1929年(昭和4年)には、房総半島の東側で建設されていた房総線が安房鴨川駅まで延伸され、北条線を編入の上、千葉駅 - 大網駅 - 安房北条駅 - 木更津駅 - 蘇我駅間が房総線(ぼうそうせん)とされた。1933年(昭和8年)には再び蘇我駅 - 木更津駅 - 安房鴨川駅間が房総西線(ぼうそうさいせん)として分離され、1972年(昭和47年)に現在の内房線に改称された。
1950年(昭和25年)の夏には、太平洋戦争後初の海水浴客向けの臨時列車「潮風」を運行する。以後、夏期は各地から房総西線(内房線)へ向けて臨時列車が数多く運行された。1963年(昭和38年)と1964年(昭和39年)の夏には、列車不足を補うために当時未電化であった房総西線に電車も入線させた。電車は千葉駅でパンタグラフを畳み、ディーゼル機関車の牽引によって館山駅まで運行された。
普通列車を中心としたダイヤ編成で、千葉駅を発着する系統が主体である。東京方面から直通する列車は、東京駅 - 千葉駅間は総武本線を、千葉駅 - 蘇我駅間は外房線を経由する。また特急列車と一部の普通列車(快速含む)は京葉線を経由し蘇我駅から当線に合流する。
京葉線の東京駅から君津駅まで特急「さざなみ」が運転されている。かつては特急「ビューさざなみ」や、朝の上りに「おはようさざなみ」、夕方下りに「ホームタウンさざなみ」が運転されていたが、2005年12月10日のダイヤ改正で「さざなみ」に統一された。また、臨時列車であるが、週末に特急「新宿さざなみ」(主に新宿駅 - 館山駅間)が運転されている。
かつては千倉駅まで運転する列車もあった。また、かつては停車パターンが列車ごとに異なっていた。2015年3月14日のダイヤ改正で、特急「さざなみ」の定期運用では全ての列車が平日に東京駅 - 君津駅間での運転に統一され、君津駅 - 館山駅間の特急列車の運用は土曜・日曜・祝日の臨時特急「新宿さざなみ」のみとなった。減便並びに区間短縮の背景には、東京湾アクアライン・館山自動車道・富津館山道路の開通、及びそれに伴う高速バス路線の開設・増便による鉄道利用客の減少がある。
この区間の普通列車は、日中は主に千葉駅 - 木更津駅・君津駅間で運転されている。横須賀・総武線快速直通列車も合わせると1時間に3本程度(巌根駅を除く)運行されている。朝夕は、上総湊駅・館山駅発着と千倉駅発の列車も運転されている。2021年3月までは、安房鴨川までの内房線全線を走破する普通列車が存在したが、系統分離により廃止された。さらに、2023年3月の改正で千倉行きも廃止された。
かつては4・6・8・10両と列車によって編成両数はまちまちだった。しかし、2021年3月のダイヤ改正で、209系2000・2100番台で運転される列車は原則8両編成となり、夜間に設定されている京葉線車両で運転される列車が10両編成となることを除けば両数がほぼ統一された。
京葉線直通列車は君津発東京行きの普通列車(京葉線内も各駅停車)が夜に2本設定されている。2022年3月改正からは朝に1本が追加された。
日中は、木更津駅 - 外房線上総一ノ宮駅間の列車が運転され、横須賀・総武線快速と君津駅で連絡している。
普通列車の系統は千葉駅 - 館山駅間と館山駅 - 安房鴨川駅間に分かれていたが、2017年3月4日のダイヤ改正で日中時間帯の千葉駅 - 館山駅間の系統は木更津駅 - 館山駅間の運転に変更され、横須賀・総武線快速と君津駅で連絡する形になった。
2021年3月13日のダイヤ改正で木更津以南の系統がE131系2・4両によるワンマン運転に変更された。館山駅を跨いで木更津駅と安房鴨川駅間を直通する列車が増加し、さらにその列車のほとんどが安房鴨川駅を越えて木更津駅 - 外房線上総一ノ宮駅間において直通運転するようになり、それまで設定されなくなっていた外房線と相互直通する列車も復活した。朝夕に設定されていた千葉乗り入れは大幅に削減され、朝の上り、夜の下りのみに削減された一方で、君津駅 - 上総湊駅間では増発されている。
その後、E131系では慢性的な混雑が発生したため、途中から木更津駅 - 安房鴨川駅間で209系の運用が復活した。2022年3月のダイヤ改正では一部列車が209系による千葉直通に置き換えられた。
前述の通り、編成両数は列車によってまちまちだったが、2021年3月の改正により209系は原則8両編成に統一された。E131系による列車は2・4両編成で運転されている。
2015年3月14日改正までは館山駅→君津駅間を普通列車で運転し、君津駅→東京駅間を特急「さざなみ」として運転する列車が設定されていた。
快速が停車する各駅については、案内放送や駅の表示などで「総武線経由」「京葉線経由」を表示し、誤乗を防いでいる。
総武線快速が朝の1往復のみ木更津駅発着である以外は君津駅まで乗り入れている。内房線内では巌根駅を除く各駅に停車する。グリーン車付き15両編成または11両編成での運転である。横須賀行き、久里浜行きの15両編成は前4両は逗子止まりである。
運転本数は一部時間帯を除き1時間に1本で、1972年の設定当初は千葉駅 - 木更津駅間の停車駅は五井駅のみだったが、ダイヤ改正を重ねるにつれて停車駅が増えていき、1990年時点の千葉駅からの停車駅は蘇我駅・八幡宿駅・五井駅・姉ケ崎駅・木更津駅となっていた(ラッシュ時のみ長浦駅にも停車)。その後も沿線自治体による快速停車の陳情で、徐々に停車駅が増えていき、2001年12月1日の改正でラッシュ時のみ袖ケ浦駅に停車、2004年10月16日からは長浦駅・袖ケ浦駅に終日停車し、2009年3月のダイヤ改正では浜野駅、2010年12月4日のダイヤ改正から本千葉駅にも停車するようになり、千葉駅 - 木更津駅間の通過駅は巌根駅のみとなっている。
2015年3月14日のダイヤ改正では特急「さざなみ」の本数減便による建て替えで一部の普通列車を総武快速線直通に変更、千葉駅発木更津駅行きの列車(巌根駅は通過)も朝に下り1本のみ新設された。2017年3月4日のダイヤ改正では特別快速が走っていた時間帯に増発され、これにて総武線快速の設定のない時間帯がなくなり、1時間に1本以上運転されるようになった。外房線上総一ノ宮発は横須賀線に乗り入れない東京駅止まりも多いが、内房線発は大半が横須賀線に乗り入れている。
2021年3月13日改正までは、上り列車のみ姉ヶ崎駅で先行する普通列車を追い抜いていた。
京葉線直通の快速・通勤快速が朝夕に運転されており、内房線内では巌根駅を含む全駅に停車する。グリーン車なし全車ロングシート10両編成での運転である。2022年3月12日改正時点の運転本数は以下の通りである。
快速は、平日ダイヤでは朝に上り1本、夜に下り4本運転されており、全て君津駅発着で運転されている。土・休日ダイヤでは、朝に上り2本、夜に下り5本運転されており、朝の上りのうち1本のみ上総湊駅発で、残りは君津駅発着となっている。下りの上総湊駅行きは運転されていない。
通勤快速は平日のみ運転されており、朝に上り1本、夜に下り1本運転されている。朝の上りのみ上総湊駅発であるが、下りの上総湊駅行きは運転されていない。君津駅で夜間滞泊した車両が上総湊駅まで回送され、折り返して営業列車となる。
京葉線直通の通勤快速・快速は2015年3月14日のダイヤ改正より巌根駅も停車駅となり、内房線内は各駅に停車する。しかし、下り列車に関しては「普通」「各駅停車」とは案内されず、「通勤快速」「快速」のまま案内される。
このほか、前述したように京葉線東京駅行き普通列車が朝に1本、夜に2本運転されており、夜1本目の快速と夜2本目の快速(土休日は3本目の快速)が、君津駅到着後に折り返す運用である。なお、夜3本目の快速(土休日の4本目)は、君津駅到着後、普通列車として千葉駅 - 君津駅間を1往復して君津駅まで運行後、木更津まで回送され夜間滞泊する。平日の通勤快速(土休日は快速)は、以前は君津駅到着後、君津駅 - 千葉駅と千葉駅 - 木更津駅間を1往復して終点で夜間滞泊していたが2021年3月13日のダイヤ改正から千葉駅 - 木更津駅間の上り・下りの最終列車としてもう1往復運転されるようになった。これに伴い木更津始発の京葉線車両の運用が定期で初めて設定された。平日の通勤快速(土休日は快速)は木更津駅、夜3本目の快速(土休日の4本目)は君津駅まで運行後、回送され同じく木更津駅で夜間滞泊する。これは、京葉車両センターに所属する京葉線の車両が千葉駅に乗り入れる唯一の運用である。
1955年から1969年までは千葉駅ないしは新宿駅発内房線・外房線回り千葉行きの循環列車が1日1本、快速として設定されていた(「さざなみ (列車)#戦後優等列車の運行開始」「わかしお (列車)#優等列車運行の創始」を参照)。
1975年3月10日のダイヤ改正では千葉駅 - 館山駅間に快速が1日1往復設定された。東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・五井駅・木更津駅・君津駅・大貫駅・上総湊駅・浜金谷駅・安房勝山駅・岩井駅・富浦駅・館山駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で八幡宿駅・姉ケ崎駅・巌根駅、1979年10月1日のダイヤ改正で蘇我駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通列車に格下げされる形で廃止された。
なお、前述のとおり現在でも下りのみ千葉駅始発木更津駅行きの快速が総武快速線の車両で1本運転されている。
2015年3月14日のダイヤ改正(実際は月曜日の16日から)より、東京駅 - 館山駅間に総武快速線直通の特別快速が設定された。運転本数は平日のみに1日1往復であり、東京駅 - 館山駅間の停車駅は、錦糸町駅・船橋駅・津田沼駅・千葉駅・蘇我駅・五井駅・木更津駅・君津駅・佐貫町駅・浜金谷駅・保田駅・岩井駅・富浦駅で、錦糸町駅 - 館山駅間の停車駅は従来の特急「新宿さざなみ」と同一である。車両の編成長は東京駅 - 木更津駅間では15両(グリーン車2両連結)、木更津駅 - 館山駅間では4両(グリーン車連結なし)編成である。
2017年3月4日のダイヤ改正(最終運行は前日の3日)をもって登場からわずか約2年で運転を取り止めた。
現在は全て電車で運転されている。
これら上記以外で、国鉄時代には千葉鉄道局所属のみの車両では手持ちが少ない事を理由に夏期限定で、海水浴臨時快速列車(房総循環)には各製造会社より試運転前提で北海道・東北・新潟・北陸・近畿・中国・四国・九州向けの新車やその他局からの車両が応援で房総地区の路線を走行した。その中には北海道専用キハ56形、碓氷峠(横軽)対策キハ57形、準急日光用キハ55形。中央西線用キハ65形、千葉無配置で他線区向け2基エンジン搭載のキハ58形の新車、同じ仕様でキハ20形をベースとしたキハ52形、そして通勤用キハ30・35・36形の他線区向け新車もあった。
内房線の正式な起点は蘇我であり、千葉駅 - 蘇我駅間は外房線となっている。しかし、内房線の普通列車は千葉駅を発着駅とするため、JRの旅客案内やウェブサイトでの乗換案内では内房線の(事実上の)起点は千葉との案内表記が多く、千葉駅 - 蘇我駅間は内房線・外房線が共用している状態となっている。
この区間は東京や千葉の通勤圏であるとともに京葉工業地域でもある。沿線は住宅地に囲まれているが、この区間でも利用者数が減少し、1992年から2015年度と比べ蘇我駅 - 君津駅間の利用者数は約19.5%減っており、利用者が増加中の駅は浜野駅と袖ケ浦駅のみである。利用者の利便性向上のために、浜野駅・長浦駅・袖ケ浦駅には快速・通勤快速が終日停車するようになった。
東京や千葉市都心部への通勤・通学利用が多く、ラッシュ時は千葉駅発着の普通列車のほかに、総武線に直通する快速、京葉線に直通する快速、通勤快速が設定されており、同区間から東京都心まで1本の列車でアクセスできる。特に京葉線の通勤快速は、京葉線内での通過駅が多いこともあって、所要時間を大幅に短縮している。ただし、東京駅の京葉線地下ホームは地上ホームと離れているため、乗り換えには時間がかかる。
利用者が多い区間のため、特急を除いた(日中時間帯に定期の特急列車は、運行していない)日中の君津駅までの運行本数は1時間に3本(木更津駅 - 館山駅間の列車含む)であり、日中でも総武線快速が直通運転として君津駅まで乗り入れている。
君津駅以南は東京湾と房総丘陵の間のわずかな平地を、東京湾の沿岸に寄り添う形で走行する。沿線にはマザー牧場・鋸山などの観光スポットや、多数の海水浴場が点在する。また館山は南房総における観光拠点の一つであり、観光アクセスとしての役割が目立つ区間である。海岸沿いを走行するため、風の影響を受けやすく、しばしば運休する。複数ある風規制区間のうち、特に運転中止になりやすい佐貫町駅 - 上総湊駅間では、防風柵の設置が行われ、2012年3月21日に完成したが、それ以外の区間でも風規制になることも多く、線区全体での対策が求められている。
この区間の沿線人口は少なく、館山市街地以外は集積した市街地がないため、乗車人員が300 - 400人程度の駅が連続する。君津駅を境界として利用者数の極端な段差があり、君津駅以南の普通列車は日中は1時間に1本で、路線も単線となる。また、この区間の普通列車は、2017年3月4日のダイヤ改正により日中は千葉駅への直通運転がなくなり、木更津駅 - 館山駅間の運行となり、君津・木更津以北の系統と分断されたが、前述の通り、2021年3月13日のダイヤ改正でE131系を使用したワンマン運転列車が導入され、館山駅を跨いで木更津駅と安房鴨川駅間を直通する列車が増加した。
同区間を通過する観光利用者数は減少傾向にある。東京湾アクアラインの通行料金値下げ、館山自動車道・富津館山道路・国道127号館山バイパスの開通により、東京から南房総への往来は自動車の比率が劇的に高まり、これが君津駅以南の観光利用客を減少させる結果となった。平日日中の特急「さざなみ」が、定期列車から臨時列車に変更されたのが代表例である。逆に高速道路網が茂原市までしかない外房線沿線は、鉄道利用が主体となっている。現在でも、外房線の特急「わかしお」はほとんどが東京駅から勝浦駅または安房鴨川駅まで運転され、朝夕には千葉駅から勝浦方面へ直通する普通列車が運行されている。
館山駅より先は進路を東に変えて、外房線と連絡する安房鴨川駅を目指す。この区間は基本的に普通列車のみが運行され、ほとんどの列車は安房鴨川駅を跨いで木更津駅と外房線上総一ノ宮駅間でワンマン運転される。 千倉駅 - 安房鴨川駅間は外房の海である太平洋の沿岸に寄り添って進み、海水浴場やマリンスポット・マリンリゾートの海洋レジャー施設が多くなる。
この区間における利用者は少なく、館山駅 - 安房鴨川駅間の両都市間の相互移動と、南房総の観光の入り口の一つである千倉駅への観光利用のほか、地元住民の利用では安房拓心高等学校の最寄である南三原駅への通学利用や、鴨川市にある亀田総合病院への通院利用が中心である。
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"text": "全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "全線が千葉支社の管轄である。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "房総半島を一周する鉄道のうち、東京湾側の鉄道として1912年(明治45年)に蘇我駅 - 姉ケ崎駅間が木更津線(きさらづせん)として開業したのが始まりである。以後、小刻みに延伸を繰り返し、1919年(大正8年)に安房北条駅(現在の館山駅)まで達したところで北条線(ほうじょうせん)と改称し、その後1925年(大正14年)に安房鴨川駅に達して、現在の内房線の区間が全通した。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "1929年(昭和4年)には、房総半島の東側で建設されていた房総線が安房鴨川駅まで延伸され、北条線を編入の上、千葉駅 - 大網駅 - 安房北条駅 - 木更津駅 - 蘇我駅間が房総線(ぼうそうせん)とされた。1933年(昭和8年)には再び蘇我駅 - 木更津駅 - 安房鴨川駅間が房総西線(ぼうそうさいせん)として分離され、1972年(昭和47年)に現在の内房線に改称された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年)の夏には、太平洋戦争後初の海水浴客向けの臨時列車「潮風」を運行する。以後、夏期は各地から房総西線(内房線)へ向けて臨時列車が数多く運行された。1963年(昭和38年)と1964年(昭和39年)の夏には、列車不足を補うために当時未電化であった房総西線に電車も入線させた。電車は千葉駅でパンタグラフを畳み、ディーゼル機関車の牽引によって館山駅まで運行された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "普通列車を中心としたダイヤ編成で、千葉駅を発着する系統が主体である。東京方面から直通する列車は、東京駅 - 千葉駅間は総武本線を、千葉駅 - 蘇我駅間は外房線を経由する。また特急列車と一部の普通列車(快速含む)は京葉線を経由し蘇我駅から当線に合流する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "京葉線の東京駅から君津駅まで特急「さざなみ」が運転されている。かつては特急「ビューさざなみ」や、朝の上りに「おはようさざなみ」、夕方下りに「ホームタウンさざなみ」が運転されていたが、2005年12月10日のダイヤ改正で「さざなみ」に統一された。また、臨時列車であるが、週末に特急「新宿さざなみ」(主に新宿駅 - 館山駅間)が運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "かつては千倉駅まで運転する列車もあった。また、かつては停車パターンが列車ごとに異なっていた。2015年3月14日のダイヤ改正で、特急「さざなみ」の定期運用では全ての列車が平日に東京駅 - 君津駅間での運転に統一され、君津駅 - 館山駅間の特急列車の運用は土曜・日曜・祝日の臨時特急「新宿さざなみ」のみとなった。減便並びに区間短縮の背景には、東京湾アクアライン・館山自動車道・富津館山道路の開通、及びそれに伴う高速バス路線の開設・増便による鉄道利用客の減少がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "この区間の普通列車は、日中は主に千葉駅 - 木更津駅・君津駅間で運転されている。横須賀・総武線快速直通列車も合わせると1時間に3本程度(巌根駅を除く)運行されている。朝夕は、上総湊駅・館山駅発着と千倉駅発の列車も運転されている。2021年3月までは、安房鴨川までの内房線全線を走破する普通列車が存在したが、系統分離により廃止された。さらに、2023年3月の改正で千倉行きも廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "かつては4・6・8・10両と列車によって編成両数はまちまちだった。しかし、2021年3月のダイヤ改正で、209系2000・2100番台で運転される列車は原則8両編成となり、夜間に設定されている京葉線車両で運転される列車が10両編成となることを除けば両数がほぼ統一された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "京葉線直通列車は君津発東京行きの普通列車(京葉線内も各駅停車)が夜に2本設定されている。2022年3月改正からは朝に1本が追加された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "日中は、木更津駅 - 外房線上総一ノ宮駅間の列車が運転され、横須賀・総武線快速と君津駅で連絡している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "普通列車の系統は千葉駅 - 館山駅間と館山駅 - 安房鴨川駅間に分かれていたが、2017年3月4日のダイヤ改正で日中時間帯の千葉駅 - 館山駅間の系統は木更津駅 - 館山駅間の運転に変更され、横須賀・総武線快速と君津駅で連絡する形になった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2021年3月13日のダイヤ改正で木更津以南の系統がE131系2・4両によるワンマン運転に変更された。館山駅を跨いで木更津駅と安房鴨川駅間を直通する列車が増加し、さらにその列車のほとんどが安房鴨川駅を越えて木更津駅 - 外房線上総一ノ宮駅間において直通運転するようになり、それまで設定されなくなっていた外房線と相互直通する列車も復活した。朝夕に設定されていた千葉乗り入れは大幅に削減され、朝の上り、夜の下りのみに削減された一方で、君津駅 - 上総湊駅間では増発されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "その後、E131系では慢性的な混雑が発生したため、途中から木更津駅 - 安房鴨川駅間で209系の運用が復活した。2022年3月のダイヤ改正では一部列車が209系による千葉直通に置き換えられた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、編成両数は列車によってまちまちだったが、2021年3月の改正により209系は原則8両編成に統一された。E131系による列車は2・4両編成で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2015年3月14日改正までは館山駅→君津駅間を普通列車で運転し、君津駅→東京駅間を特急「さざなみ」として運転する列車が設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "快速が停車する各駅については、案内放送や駅の表示などで「総武線経由」「京葉線経由」を表示し、誤乗を防いでいる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "総武線快速が朝の1往復のみ木更津駅発着である以外は君津駅まで乗り入れている。内房線内では巌根駅を除く各駅に停車する。グリーン車付き15両編成または11両編成での運転である。横須賀行き、久里浜行きの15両編成は前4両は逗子止まりである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "運転本数は一部時間帯を除き1時間に1本で、1972年の設定当初は千葉駅 - 木更津駅間の停車駅は五井駅のみだったが、ダイヤ改正を重ねるにつれて停車駅が増えていき、1990年時点の千葉駅からの停車駅は蘇我駅・八幡宿駅・五井駅・姉ケ崎駅・木更津駅となっていた(ラッシュ時のみ長浦駅にも停車)。その後も沿線自治体による快速停車の陳情で、徐々に停車駅が増えていき、2001年12月1日の改正でラッシュ時のみ袖ケ浦駅に停車、2004年10月16日からは長浦駅・袖ケ浦駅に終日停車し、2009年3月のダイヤ改正では浜野駅、2010年12月4日のダイヤ改正から本千葉駅にも停車するようになり、千葉駅 - 木更津駅間の通過駅は巌根駅のみとなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2015年3月14日のダイヤ改正では特急「さざなみ」の本数減便による建て替えで一部の普通列車を総武快速線直通に変更、千葉駅発木更津駅行きの列車(巌根駅は通過)も朝に下り1本のみ新設された。2017年3月4日のダイヤ改正では特別快速が走っていた時間帯に増発され、これにて総武線快速の設定のない時間帯がなくなり、1時間に1本以上運転されるようになった。外房線上総一ノ宮発は横須賀線に乗り入れない東京駅止まりも多いが、内房線発は大半が横須賀線に乗り入れている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2021年3月13日改正までは、上り列車のみ姉ヶ崎駅で先行する普通列車を追い抜いていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "京葉線直通の快速・通勤快速が朝夕に運転されており、内房線内では巌根駅を含む全駅に停車する。グリーン車なし全車ロングシート10両編成での運転である。2022年3月12日改正時点の運転本数は以下の通りである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "快速は、平日ダイヤでは朝に上り1本、夜に下り4本運転されており、全て君津駅発着で運転されている。土・休日ダイヤでは、朝に上り2本、夜に下り5本運転されており、朝の上りのうち1本のみ上総湊駅発で、残りは君津駅発着となっている。下りの上総湊駅行きは運転されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "通勤快速は平日のみ運転されており、朝に上り1本、夜に下り1本運転されている。朝の上りのみ上総湊駅発であるが、下りの上総湊駅行きは運転されていない。君津駅で夜間滞泊した車両が上総湊駅まで回送され、折り返して営業列車となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "京葉線直通の通勤快速・快速は2015年3月14日のダイヤ改正より巌根駅も停車駅となり、内房線内は各駅に停車する。しかし、下り列車に関しては「普通」「各駅停車」とは案内されず、「通勤快速」「快速」のまま案内される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "このほか、前述したように京葉線東京駅行き普通列車が朝に1本、夜に2本運転されており、夜1本目の快速と夜2本目の快速(土休日は3本目の快速)が、君津駅到着後に折り返す運用である。なお、夜3本目の快速(土休日の4本目)は、君津駅到着後、普通列車として千葉駅 - 君津駅間を1往復して君津駅まで運行後、木更津まで回送され夜間滞泊する。平日の通勤快速(土休日は快速)は、以前は君津駅到着後、君津駅 - 千葉駅と千葉駅 - 木更津駅間を1往復して終点で夜間滞泊していたが2021年3月13日のダイヤ改正から千葉駅 - 木更津駅間の上り・下りの最終列車としてもう1往復運転されるようになった。これに伴い木更津始発の京葉線車両の運用が定期で初めて設定された。平日の通勤快速(土休日は快速)は木更津駅、夜3本目の快速(土休日の4本目)は君津駅まで運行後、回送され同じく木更津駅で夜間滞泊する。これは、京葉車両センターに所属する京葉線の車両が千葉駅に乗り入れる唯一の運用である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1955年から1969年までは千葉駅ないしは新宿駅発内房線・外房線回り千葉行きの循環列車が1日1本、快速として設定されていた(「さざなみ (列車)#戦後優等列車の運行開始」「わかしお (列車)#優等列車運行の創始」を参照)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1975年3月10日のダイヤ改正では千葉駅 - 館山駅間に快速が1日1往復設定された。東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・五井駅・木更津駅・君津駅・大貫駅・上総湊駅・浜金谷駅・安房勝山駅・岩井駅・富浦駅・館山駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で八幡宿駅・姉ケ崎駅・巌根駅、1979年10月1日のダイヤ改正で蘇我駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通列車に格下げされる形で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、前述のとおり現在でも下りのみ千葉駅始発木更津駅行きの快速が総武快速線の車両で1本運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2015年3月14日のダイヤ改正(実際は月曜日の16日から)より、東京駅 - 館山駅間に総武快速線直通の特別快速が設定された。運転本数は平日のみに1日1往復であり、東京駅 - 館山駅間の停車駅は、錦糸町駅・船橋駅・津田沼駅・千葉駅・蘇我駅・五井駅・木更津駅・君津駅・佐貫町駅・浜金谷駅・保田駅・岩井駅・富浦駅で、錦糸町駅 - 館山駅間の停車駅は従来の特急「新宿さざなみ」と同一である。車両の編成長は東京駅 - 木更津駅間では15両(グリーン車2両連結)、木更津駅 - 館山駅間では4両(グリーン車連結なし)編成である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2017年3月4日のダイヤ改正(最終運行は前日の3日)をもって登場からわずか約2年で運転を取り止めた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "現在は全て電車で運転されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "これら上記以外で、国鉄時代には千葉鉄道局所属のみの車両では手持ちが少ない事を理由に夏期限定で、海水浴臨時快速列車(房総循環)には各製造会社より試運転前提で北海道・東北・新潟・北陸・近畿・中国・四国・九州向けの新車やその他局からの車両が応援で房総地区の路線を走行した。その中には北海道専用キハ56形、碓氷峠(横軽)対策キハ57形、準急日光用キハ55形。中央西線用キハ65形、千葉無配置で他線区向け2基エンジン搭載のキハ58形の新車、同じ仕様でキハ20形をベースとしたキハ52形、そして通勤用キハ30・35・36形の他線区向け新車もあった。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "内房線の正式な起点は蘇我であり、千葉駅 - 蘇我駅間は外房線となっている。しかし、内房線の普通列車は千葉駅を発着駅とするため、JRの旅客案内やウェブサイトでの乗換案内では内房線の(事実上の)起点は千葉との案内表記が多く、千葉駅 - 蘇我駅間は内房線・外房線が共用している状態となっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この区間は東京や千葉の通勤圏であるとともに京葉工業地域でもある。沿線は住宅地に囲まれているが、この区間でも利用者数が減少し、1992年から2015年度と比べ蘇我駅 - 君津駅間の利用者数は約19.5%減っており、利用者が増加中の駅は浜野駅と袖ケ浦駅のみである。利用者の利便性向上のために、浜野駅・長浦駅・袖ケ浦駅には快速・通勤快速が終日停車するようになった。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "東京や千葉市都心部への通勤・通学利用が多く、ラッシュ時は千葉駅発着の普通列車のほかに、総武線に直通する快速、京葉線に直通する快速、通勤快速が設定されており、同区間から東京都心まで1本の列車でアクセスできる。特に京葉線の通勤快速は、京葉線内での通過駅が多いこともあって、所要時間を大幅に短縮している。ただし、東京駅の京葉線地下ホームは地上ホームと離れているため、乗り換えには時間がかかる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "利用者が多い区間のため、特急を除いた(日中時間帯に定期の特急列車は、運行していない)日中の君津駅までの運行本数は1時間に3本(木更津駅 - 館山駅間の列車含む)であり、日中でも総武線快速が直通運転として君津駅まで乗り入れている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "君津駅以南は東京湾と房総丘陵の間のわずかな平地を、東京湾の沿岸に寄り添う形で走行する。沿線にはマザー牧場・鋸山などの観光スポットや、多数の海水浴場が点在する。また館山は南房総における観光拠点の一つであり、観光アクセスとしての役割が目立つ区間である。海岸沿いを走行するため、風の影響を受けやすく、しばしば運休する。複数ある風規制区間のうち、特に運転中止になりやすい佐貫町駅 - 上総湊駅間では、防風柵の設置が行われ、2012年3月21日に完成したが、それ以外の区間でも風規制になることも多く、線区全体での対策が求められている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この区間の沿線人口は少なく、館山市街地以外は集積した市街地がないため、乗車人員が300 - 400人程度の駅が連続する。君津駅を境界として利用者数の極端な段差があり、君津駅以南の普通列車は日中は1時間に1本で、路線も単線となる。また、この区間の普通列車は、2017年3月4日のダイヤ改正により日中は千葉駅への直通運転がなくなり、木更津駅 - 館山駅間の運行となり、君津・木更津以北の系統と分断されたが、前述の通り、2021年3月13日のダイヤ改正でE131系を使用したワンマン運転列車が導入され、館山駅を跨いで木更津駅と安房鴨川駅間を直通する列車が増加した。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "同区間を通過する観光利用者数は減少傾向にある。東京湾アクアラインの通行料金値下げ、館山自動車道・富津館山道路・国道127号館山バイパスの開通により、東京から南房総への往来は自動車の比率が劇的に高まり、これが君津駅以南の観光利用客を減少させる結果となった。平日日中の特急「さざなみ」が、定期列車から臨時列車に変更されたのが代表例である。逆に高速道路網が茂原市までしかない外房線沿線は、鉄道利用が主体となっている。現在でも、外房線の特急「わかしお」はほとんどが東京駅から勝浦駅または安房鴨川駅まで運転され、朝夕には千葉駅から勝浦方面へ直通する普通列車が運行されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "館山駅より先は進路を東に変えて、外房線と連絡する安房鴨川駅を目指す。この区間は基本的に普通列車のみが運行され、ほとんどの列車は安房鴨川駅を跨いで木更津駅と外房線上総一ノ宮駅間でワンマン運転される。 千倉駅 - 安房鴨川駅間は外房の海である太平洋の沿岸に寄り添って進み、海水浴場やマリンスポット・マリンリゾートの海洋レジャー施設が多くなる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この区間における利用者は少なく、館山駅 - 安房鴨川駅間の両都市間の相互移動と、南房総の観光の入り口の一つである千倉駅への観光利用のほか、地元住民の利用では安房拓心高等学校の最寄である南三原駅への通学利用や、鴨川市にある亀田総合病院への通院利用が中心である。",
"title": "沿線概況"
}
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内房線(うちぼうせん)は、千葉県千葉市中央区の蘇我駅から同県木更津市の木更津駅を経由して同県鴨川市の安房鴨川駅へ至る東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。内房線の前身である房総西線についても記述する。 なお、運転系統としての「内房線」は外房線の千葉駅寄り区間を含めた千葉駅 - 安房鴨川駅間となっているが(後述)、木更津駅以南では外房線上総一ノ宮駅までの直通系統が設定されている(詳細は「地域輸送」節を参照)。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 内房線
|路線色=#00b2e5
|画像=Series 209 running on Bosyu Bridge.JPG
|画像サイズ=300px
|画像説明=内房線を走行する[[JR東日本209系電車|209系電車]]<br />(2012年5月 [[江見駅]] - [[太海駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[千葉県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線#国鉄再建法上の幹線|幹線]])
|起点=[[蘇我駅]]
|終点=[[安房鴨川駅]]
|駅数=30駅
|電報略号 = ホサセ(房総西線時代)<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p23">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=23}}</ref>
|開業=[[1912年]][[3月28日]]
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線構造=地上
|路線距離=119.4 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])<!-- 左記における加筆部分のみ、鉄道路線テンプレートからそのまま転記し編集しています。-->
|線路数=[[複線]]([[蘇我駅]] - [[君津駅]]間)、[[単線]](君津駅 - [[安房鴨川駅]]間)
|電化区間=全区間
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|閉塞方式=(複線および単線)自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
|最高速度=120[[キロメートル毎時|km/h]]([[特別急行列車|特急列車]])<br />110km/h([[普通列車]])
|路線図=[[File:JR Uchibo Line linemap.svg|none|300px]]<br>赤線が内房線。青線が外房線への直通区間。
}}
'''内房線'''(うちぼうせん)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]の[[蘇我駅]]から同県[[木更津市]]の[[木更津駅]]を経由して同県[[鴨川市]]の[[安房鴨川駅]]へ至る[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線#国鉄再建法上の幹線|幹線]])である。内房線の前身である'''房総西線'''についても記述する。
なお、[[運転系統]]としての「内房線」は[[外房線]]の[[千葉駅]]寄り区間(千葉駅 - 蘇我駅間)を含めた千葉駅 - 安房鴨川駅間となっているが([[#千葉駅 - 君津駅間|後述]])、[[木更津駅]]以南では[[外房線]][[上総一ノ宮駅]]までの直通系統が設定されている(詳細は「[[#地域輸送|地域輸送]]」節を参照)。
== 概要 ==
千葉市から東京湾沿いに[[房総半島]]の西岸([[東京湾]]側)に沿って南下し、[[太平洋]]沿岸の鴨川市に至る路線。蘇我駅で[[外房線]]から分岐し、安房鴨川駅で再び外房線に接続する。なお、千葉駅から安房鴨川駅までの距離([[営業キロ]])は、内房線経由より外房線[[勝浦駅]]経由のほうが29.9 km短い。
全線が[[直流電化]]されているが、[[国土地理院]][[鹿野山測地観測所]]の近傍区間については、直直[[デッドセクション]]方式(通電区間を数km単位に細分化し、それぞれの通電区間に1変電所を設置。通電区間毎に絶縁する方式)によって観測に影響が出ないよう対策をとっている<ref group="注">設備コストとしては非常に高くなるが、当該区間を[[交流電化]]したとしても後々の外房線(当時は房総東線)電化との関連や車両コストなどを含めて考慮した点からも直流電化がトータルコストを抑制できると判断された。</ref><ref group="注">なお、実際には内房線(当時は房総西線)の直流電化によって地磁気観測に支障を生じたため、[[岩手県]][[水沢市]](現・[[奥州市]])に新観測所を新たに開設すると共に観測機器の改良などを実施した。</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=田島稔, 瀬戸孝夫 |title=地磁気観測の計数化処理について |journal=測地学会誌 |ISSN=0038-0830 |publisher=日本測地学会 |year=1970 |volume=15 |issue=4 |pages=150-157 |naid=130004189036 |doi=10.11366/sokuchi1954.15.150 |url=https://doi.org/10.11366/sokuchi1954.15.150}}</ref><ref>[https://www.google.com/maps/d/u/0/viewer?mid=1IModQce-HqypmVYp82xCAzwj8sA&hl=ja&ll=35.26548670186235%2C139.89569315&z=11 鹿野山測地観測所と内房線の直流変電所の位置関係図]</ref>。
蘇我駅 - [[君津駅]]間は[[複線]]区間となっており、列車の本数も比較的多く、[[東京都区部]]や[[神奈川県]]内と直通運転する[[快速列車]]なども運行されている<ref>例:浜野駅平日時刻表 [https://www.jreast-timetable.jp/2207/timetable/tt1247/1247020.html#time_23 内房線 千葉・東京方面 (上り)]2022年6月26日閲覧</ref>(外房線、[[横須賀・総武快速線]]、[[京葉線]]を経由)。一方で君津駅以南は[[単線]]区間で列車本数は少なくなるが、行楽需要が増える休日には、南房総と[[新宿駅]]を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」や、[[自転車]]を持ち込める「[[BOSO BICYCLE BASE]]」が運転される<ref>例:館山駅土曜・休日時刻表 [https://www.jreast-timetable.jp/2207/timetable/tt0969/0969021.html#time_23 内房線 木更津・千葉方面 (上り)]2022年6月26日閲覧</ref>
全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の[[首都圏 (日本)|首都圏]]エリアに含まれている。
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):蘇我駅 - 木更津駅 - 安房鴨川駅間 119.4 km<ref name="sone 5">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻31号 内房線・外房線・久留里線 5頁]]</ref>
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:30(起終点駅含む)<ref name="sone 5"/>
** 内房線所属駅に限定した場合、外房線所属の蘇我駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref>が除外され、29駅となる。
* 複線区間:蘇我駅 - 君津駅間
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:(複線および単線)自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
* 最高速度:
** 蘇我駅 - 君津駅間 120 km/h
** 君津駅 - 安房鴨川駅間 95 km/h
* [[運転指令所]]:千葉総合指令室(千葉駅 - 木更津駅間:内房指令、木更津駅 - [[館山駅]]間:内房指令・[[列車集中制御装置|CTC]]、館山駅 - 安房鴨川駅間:外房指令・CTC)<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2019-2020/jre_youran_group_p44-45.pdf 会社要覧2019-2020/信号通信]}} 東日本旅客鉄道</ref>
** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):蘇我駅、木更津駅、館山駅、安房鴨川駅
全線が[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]の管轄である。
== 歴史 ==
房総半島を一周する鉄道のうち、東京湾側の鉄道として[[1912年]]([[明治]]45年)に蘇我駅 - [[姉ケ崎駅]]間が'''木更津線'''(きさらづせん)として開業したのが始まりである。以後、小刻みに延伸を繰り返し、[[1919年]]([[大正]]8年)に安房北条駅(現在の館山駅)まで達したところで'''北条線'''(ほうじょうせん)と改称し、その後[[1925年]](大正14年)に安房鴨川駅に達して、現在の内房線の区間が全通した<ref name="sone 14">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻31号 内房線・外房線・久留里線 14頁]]</ref>。
[[1929年]]([[昭和]]4年)には、房総半島の東側で建設されていた房総線が安房鴨川駅まで延伸され、北条線を編入の上、千葉駅 - [[大網駅]] - 安房北条駅 - 木更津駅 - 蘇我駅間が'''房総線'''(ぼうそうせん)とされた<ref name="sone 14"/>。[[1933年]](昭和8年)には再び蘇我駅 - 木更津駅 - 安房鴨川駅間が'''房総西線'''(ぼうそうさいせん)として分離され、[[1972年]](昭和47年)に現在の'''内房線'''に改称された<ref name="sone 15">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻31号 内房線・外房線・久留里線 15頁]]</ref>。
[[1950年]](昭和25年)の夏には、[[太平洋戦争]]後初の[[海水浴]]客向けの[[臨時列車]]「潮風」を運行する。以後、夏期は各地から房総西線(内房線)へ向けて臨時列車が数多く運行された。[[1963年]](昭和38年)と[[1964年]](昭和39年)の夏には、列車不足を補うために当時未電化であった房総西線に[[電車]]も入線させた。電車は千葉駅で[[集電装置|パンタグラフ]]を畳み、[[ディーゼル機関車]]の牽引によって館山駅まで運行された<ref>白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』[[崙書房出版]] 1996年 ISBN 9784845510276</ref>。
=== 年表 ===
* [[1912年]](明治45年・大正元年)
** [[3月28日]]:'''木更津線''' 蘇我駅 - 姉ケ崎駅間が開業<ref name="sone 14"/>。
** [[8月21日]]:姉ケ崎駅 - 木更津駅間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1915年]](大正4年)[[1月15日]]:木更津駅 - [[上総湊駅]]間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1916年]](大正5年)[[10月11日]]:上総湊駅 - [[浜金谷駅]]間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1917年]](大正6年)[[8月1日]]:浜金谷駅 - [[安房勝山駅]]間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1918年]](大正7年)[[8月10日]]:安房勝山駅 - [[那古船形駅]]間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1919年]](大正8年)[[5月24日]]:那古船形駅 - 安房北条駅(現在の館山駅)間延伸開業。同時に'''北条線'''に改称<ref name="sone 14"/>。
* [[1921年]](大正10年)[[6月1日]]:安房北条駅 - [[南三原駅]]間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1922年]](大正11年)[[12月20日]]:南三原駅 - [[江見駅]]間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1924年]](大正13年)[[7月25日]]:江見駅 - [[太海駅]]間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1925年]](大正14年)[[7月11日]]:太海駅 - 安房鴨川駅間が延伸開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1926年]](大正15年)[[6月16日]]:[[竹岡駅]]が開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[5月20日]]:千歳仮停車場が開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1929年]](昭和4年)[[4月15日]]:房総線が安房鴨川駅まで延伸され全通。北条線が'''房総線'''に編入<ref name="sone 14"/>。
* [[1930年]](昭和5年)8月1日:千歳仮停車場が[[千歳駅 (千葉県)|千歳駅]]として開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1933年]](昭和8年)[[4月1日]]:房総線の蘇我駅 - 安房鴨川駅間が'''房総西線'''に分離<ref name="sone 14"/>。
* [[1935年]](昭和10年)[[7月1日]]:[[気動車]]運転開始(蘇我駅 - 木更津駅間)<ref>[{{NDLDC|1114644/101}} 『昭和十年度 鐡道省年報』]([[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー)</ref>。
* [[1941年]](昭和16年)[[11月20日]]:[[巌根駅]]が開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1946年]](昭和21年)[[3月1日]]:安房北条駅が館山駅に改称<ref name="sone 14"/>。
* [[1947年]](昭和22年)[[1月10日]]:[[長浦駅 (千葉県)|長浦駅]]が開業<ref name="sone 14"/>。
* [[1954年]](昭和29年)[[10月1日]]:1往復を除き、全列車が気動車化。1時間間隔のパターンダイヤを導入<ref name="sone 15"/>。
* [[1956年]](昭和31年)[[4月10日]]:周西駅が君津駅に改称。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[7月1日]]:蘇我駅 - 浜野駅間が複線化および[[鉄道信号機#自動信号機|自動信号化]]。
** [[9月20日]]:浜野駅 - [[八幡宿駅]]間が複線化および自動信号化。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[2月1日]]:全線に[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-S]]を導入<ref>{{Cite news |和書|title=国鉄主要幹線のATS化進む |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1965-02-02 |page=2 }}</ref>。
** [[7月4日]]:八幡宿駅 - [[五井駅]]間が複線化および自動信号化。
* [[1966年]](昭和41年)[[7月8日]]:五井駅 - 上総湊駅間が自動信号化。
* [[1967年]](昭和42年)[[3月18日]]:上総湊駅 - 館山駅間が自動信号化。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[5月26日]]:五井駅 - 長浦駅間が複線化<ref name="sone 15"/>。
** [[7月13日]]:[[外房線|房総東線]]千葉駅 - 蘇我駅 - 木更津駅間が電化<ref name="sone 15"/>。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[3月20日]]:長浦駅 - 楢葉駅(現在の[[袖ケ浦駅]])間が複線化。
** [[5月31日]]:館山駅 - [[千倉駅]]間が自動信号化。
** [[7月10日]]:館山駅行き135列車[[さよなら運転]]([[国鉄C57形蒸気機関車|C57]]-105号機牽引)、[[蒸気機関車]]牽引の旅客列車の定期運用がなくなる。 <!-- 8月20日は房総東線(外房線)での運転日では? -->
** 7月11日:木更津駅 - 千倉駅間が電化<ref name="sone 15"/>。
* [[1970年]](昭和45年)
** 3月18日:楢葉駅 - 木更津駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●房総西線楢葉・木更津間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1970-03-17 |page=3 }}</ref>。
** [[3月24日]]:木更津駅 - 君津駅間が複線化<ref name="sone 15"/>。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[6月8日]]:千倉駅 - 安房鴨川駅間が自動信号化。
** 7月1日:千倉駅 - 安房鴨川駅間が電化<ref name="sone 15"/>。
* [[1972年]](昭和47年)
** 7月1日:館山駅 - 安房鴨川駅間に [[列車集中制御装置]](CTC)が導入される。
** [[7月15日]]:'''内房線'''に改称。[[国鉄183系電車|183系電車]]を使用した特急「さざなみ」が運転開始<ref name="sone 15"/>。
* [[1974年]](昭和49年)[[3月31日]]:楢葉駅が袖ケ浦駅に改称<ref name="sone 15"/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:木更津駅 - 安房鴨川駅間の貨物営業廃止<ref>{{Cite news |title=日本国有鉄道公示第166号 |newspaper=[[官報]] |date=1982-11-13 }}</ref>。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:君津駅 - 館山駅間が CTC 化。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:蘇我駅 - 木更津駅間の貨物営業廃止。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道(JR東日本)が承継<ref name="sone 15"/>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月9日]]:[[京葉線]]全線開業により、京葉線経由[[東京駅]]までの直通運転開始<ref>「JR京葉線、10日全線開通 蘇我-東京間、通勤快速で43分」『[[朝日新聞]]』1990年3月9日</ref>。
* [[1997年]](平成9年)[[3月22日]]:君津駅 - 安房鴨川駅間の普通列車が全て禁煙となる<ref>{{Cite news |title=普通列車内の禁煙・分煙化 JR千葉支社22日から拡大 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-12 |page=3 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月4日]]:蘇我駅 - 巌根駅間で ATS-P 使用開始。
** [[3月18日]]:巌根駅 - 君津駅間で ATS-P 使用開始。
** [[11月18日]]:当時の[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]に当たる蘇我駅 - 君津駅間で、ICカード「[[Suica]]」サービス開始。
* [[2004年]](平成16年)[[10月16日]]:特急「さざなみ」に[[JR東日本E257系電車|E257系]]500番台電車が投入。
* [[2006年]](平成18年)[[9月3日]]:木更津駅 - 君津駅間が CTC 化、君津駅 - 館山駅間の CTC 装置が更新。蘇我駅 - 館山駅間で [[自動進路制御装置]](PRC)が導入。
* [[2008年]](平成20年)[[9月27日]]:君津駅 - 館山駅間で ATS-P 使用開始。
* [[2009年]](平成21年)
** 3月14日:君津駅 - 安房鴨川駅間が東京近郊区間に組み込まれ、同時にICカード「Suica」サービス開始<ref name="press-20081218">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-22|accessdate=2020-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190503211623/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|archivedate=2019-05-03}}</ref>。
** 10月1日:[[JR東日本209系電車|209系電車]]2000番台・2100番台が運用開始<ref name="209-2100">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20090821209kei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100215154551/http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20090821209kei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=普通列車の車両変更について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2009-08-21|accessdate=2020-11-12|archivedate=2010-02-15}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[2月10日]]:館山駅 - 安房鴨川駅間の外房線 CTC および PRC 装置更新。外房線PRC型自動放送が九重駅 - 安房鴨川駅間で導入。
** [[2月28日]]:館山駅 - 安房鴨川駅間で ATS-P 使用開始。
** [[9月27日]]:[[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]の千葉県訪問([[第65回国民体育大会]]視察など)に伴う[[JR東日本E655系電車|E655系]](特別車両 E655-1 を含む6両編成)使用の[[お召し列車]]が、館山駅から京葉線経由で東京駅間に運転される<ref>[http://railf.jp/news/2010/09/28/184700.html 「E655系を使用したお召列車が内房線・京葉線で運転される」][[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]](交友社)「railf.jp」鉄道ニュース、2010年9月28日</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[11月22日]]:江見駅 - 太海駅間にある山生橋梁が[[土木学会選奨土木遺産]]に認定される<ref>{{Cite web|和書|url=http://tetsupic.com/memo/index2012.html#201211 |title=2012年11月のメモ帳 |website=[[鉄道ピクトリアル]] |publisher=電気車研究会 |accessdate=2021-03-09 }}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/113743|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210301092614/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/113743|title=鴨川「山生橋梁」が土木遺産に 県内鉄道施設で初 JR内房線|newspaper=[[千葉日報]]|date=2012-12-10|accessdate=2021-03-08|archivedate=2021-03-01}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[10月16日]]:[[平成25年台風第26号|台風26号]]の影響で上総湊駅 - 竹岡駅間の湊川橋梁付近で[[法面]]が損壊したため<ref>[http://response.jp/article/2013/10/18/208816.html 「台風26号の影響で一部路線の運休続く…千葉県内」][[Response.|レスポンス]](2013年10月18日)2022年6月26日閲覧</ref>、[[佐貫町駅]] - 浜金谷駅間が19日まで運休となる<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/news/national/162263 「内房線が運転再開 JR千葉支社」]『千葉日報』2013年10月21日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:特急「さざなみ」が平日朝上り・夜下りのみの運転となる<ref name="pr20141219" />。代替として平日に特別快速を東京駅 - 館山駅間に1往復新設<ref name="pr20141219" /><ref group="注">特別快速は土曜・休日運休のため、正式な運転開始日は3月16日となる。</ref>。<!--また、一部の日を除いて特急はすべてE257系での運転となる。 --詳細は上の運行形態の節や列車記事「[[さざなみ (列車)]]」に記述してください。-->
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月3日]]:東京駅 - 館山駅間の特別快速の運転をこの日限りで終了<ref name="jreast-chiba20161216" />。
** [[3月4日]]:この日より日中時間帯は木更津駅を境に一部列車の運転系統を分割、これにより千葉駅 - 木更津駅間の日中時間帯運転本数が、毎時4本から3本に減便、朝夕の一部普通列車の減便・運転区間縮小<ref name="jreast-chiba20161216" />。
* [[2018年]](平成30年)[[1月6日]]:「[[BOSO BICYCLE BASE]]」による[[サイクルトレイン]]「B.B.BASE内房」を[[両国駅]] - [[和田浦駅]]間で運行開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1711_bbbase.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201019221145/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1711_bbbase.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2018年1月6日!B.B.BASE始動!!! B.B.BASEの運転スケジュールおよび旅行商品について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2017-11-14|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-10-19}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[11月19日]]:[[津波]]避難誘導看板の設置が完了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201223_c04.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201224081235/https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201223_c04.pdf|format=PDF|language=日本語|title=津波避難誘導看板設置完了のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-12-23|accessdate=2020-12-24|archivedate=2020-12-24}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:木更津駅 - 安房鴨川駅間において、[[JR東日本E131系電車|E131系]]の投入と[[ワンマン運転]]、外房線([[安房鴨川駅]] - [[上総一ノ宮駅]]間)との直通運転開始<ref name="pr20201218">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201218_c01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218080057/https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201218_c01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-12-18|accessdate=2020-12-18|archivedate=2020-12-18}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)6月11日:蘇我駅 - 姉ケ崎駅開業110周年記念の団体臨時列車が千葉駅 - 館山駅を往復([[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形ディーゼル機関車]]が[[国鉄12系客車|12系客車]]を牽引)<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/184440 【東京新聞 鉄道クラブ】内房線110周年]『[[東京新聞]]』朝刊2022年6月20日26面(2022年6月26日閲覧)</ref>。
== 運行形態 ==
普通列車を中心としたダイヤ編成で、[[千葉駅]]を発着する系統が主体である。東京方面から直通する列車は、東京駅 - 千葉駅間は[[総武本線]]を、千葉駅 - 蘇我駅間は[[外房線]]を経由する。また特急列車と一部の普通列車([[快速列車|快速]]含む)は[[京葉線]]を経由し蘇我駅から当線に合流する。
=== 優等列車 ===
京葉線の東京駅から君津駅まで特急「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」が運転されている。かつては特急「[[さざなみ (列車)|ビューさざなみ]]」や、朝の上りに「おはようさざなみ」、夕方下りに「ホームタウンさざなみ」が運転されていたが<ref name="zikoku"/>、2005年12月10日のダイヤ改正で「さざなみ」に統一された。また、臨時列車であるが、週末に特急「[[さざなみ (列車)|新宿さざなみ]]」(主に新宿駅 - 館山駅間)が運転されている。
かつては千倉駅まで運転する列車もあった<ref name="zikoku"/>。また、かつては停車パターンが列車ごとに異なっていた<ref name="zikoku">『JR時刻表』1994年1月号、[[弘済出版社]]</ref>。2015年3月14日のダイヤ改正で、特急「さざなみ」の定期運用では全ての列車が平日に東京駅 - 君津駅間での運転に統一され、君津駅 - 館山駅間の特急列車の運用は土曜・日曜・祝日の臨時特急「新宿さざなみ」のみとなった<ref name="pr20141219">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1412_timetable.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180612140949/http://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1412_timetable.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2015年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2014-12-19|accessdate=2020-11-12|archivedate=2018-06-12}}</ref>。減便並びに区間短縮の背景には、[[東京湾アクアライン]]・[[館山自動車道]]・[[富津館山道路]]の開通、及びそれに伴う[[高速バス]]路線の開設・増便による鉄道利用客の減少がある<ref>[https://trafficnews.jp/post/36890 「高速道路が影響 縮小していく房総特急」]乗りものニュース(2014年12月21日)2022年6月26日閲覧</ref>。
=== 地域輸送 ===
==== 普通 ====
===== 千葉駅 - 君津駅間 =====
この区間の普通列車は、日中は主に千葉駅 - 木更津駅・君津駅間で運転されている。[[横須賀・総武快速線|横須賀・総武線快速]]直通列車も合わせると1時間に3本程度(巌根駅を除く)運行されている。朝夕は、上総湊駅・館山駅発着と千倉駅発の列車も運転されている。2021年3月までは、安房鴨川までの内房線全線を走破する普通列車が存在したが、系統分離により廃止された<ref name="pr20201218" />。さらに、2023年3月の改正で千倉行きも廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/chiba/20221216_c01.pdf |title=2023年3月ダイヤ改正について |access-date=2023-7-3 |publisher=JR東日本 千葉支社}}</ref>。
かつては4・6・8・10両と列車によって[[編成 (鉄道)|編成]]両数はまちまちだった<ref group="注">安房鴨川行きのみ4・6・8両。</ref>。しかし、2021年3月のダイヤ改正で、209系2000・2100番台で運転される列車は原則8両編成<ref group="注">朝時間帯の一部列車は6両編成で運転。</ref>となり、夜間に設定されている京葉線車両で運転される列車が10両編成となることを除けば両数がほぼ統一された。
京葉線直通列車は君津発東京行きの普通列車(京葉線内も各駅停車)が夜に2本設定されている。2022年3月改正からは朝に1本が追加された<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/chiba/20211217_c01.pdf |title=2022年3月ダイヤ改正について |access-date=2023-7-3 |publisher=JR東日本 千葉支社}}</ref><ref group="注">通勤快速が削減されたため。内房線内の停車駅は変わらない。</ref>。
===== 木更津駅 - 館山駅 - 安房鴨川駅間 =====
日中は、木更津駅 - 外房線上総一ノ宮駅間の列車が運転され、横須賀・総武線快速と君津駅で連絡している<ref group="注">朝夕はこれに当てはまらない列車もある。</ref>。
普通列車の系統は千葉駅 - 館山駅間と館山駅 - 安房鴨川駅間に分かれていたが、2017年3月4日のダイヤ改正で日中時間帯の千葉駅 - 館山駅間の系統は木更津駅 - 館山駅間の運転に変更され、横須賀・総武線快速と君津駅で連絡する形になった<ref name="jreast-chiba20161216" />。
2021年3月13日のダイヤ改正で木更津以南の系統がE131系2・4両によるワンマン運転に変更された<ref name="pr20201218" />。館山駅を跨いで木更津駅と安房鴨川駅間を直通する列車が増加し、さらにその列車のほとんどが安房鴨川駅を越えて木更津駅 - 外房線上総一ノ宮駅間において直通運転するようになり、それまで設定されなくなっていた外房線と相互直通する列車も復活した<ref name="pr20201218" />。朝夕に設定されていた千葉乗り入れは大幅に削減され、朝の上り、夜の下りのみに削減された一方で、君津駅 - 上総湊駅間では増発されている<ref name="pr20201218" />。
その後、E131系では慢性的な混雑が発生したため、途中から木更津駅 - 安房鴨川駅間で209系の運用が復活した。2022年3月のダイヤ改正では一部列車が209系による千葉直通に置き換えられた<ref name=":1" />。
前述の通り、編成両数は列車によってまちまちだった<ref group="注">館山駅 - 安房鴨川駅間には10両編成の乗り入れはなかった。</ref>が、2021年3月の改正により209系は原則8両編成<ref group="注">木更津駅 - 安房鴨川駅間のみの一部列車は4両編成で運転。</ref>に統一された。E131系による列車は2・4両編成で運転されている。
2015年3月14日改正までは館山駅→君津駅間を普通列車で運転し、君津駅→東京駅間を特急「さざなみ」として運転する列車が設定されていた。
==== 快速 ====
快速が停車する各駅については、案内放送や駅の表示などで「総武線経由」「京葉線経由」を表示し、誤乗を防いでいる。
===== 横須賀・総武快速線直通(快速) =====
[[横須賀・総武快速線|総武線快速]]が朝の1往復のみ[[木更津駅]]発着である以外は[[君津駅]]まで乗り入れている。内房線内では[[巌根駅]]を除く各駅に停車する。[[グリーン車]]付き15両編成または11両編成での運転である。横須賀行き、久里浜行きの15両編成は前4両は逗子止まりである。
運転本数は一部時間帯を除き1時間に1本で、1972年の設定当初は千葉駅 - 木更津駅間の停車駅は[[五井駅]]のみだったが、ダイヤ改正を重ねるにつれて停車駅が増えていき、1990年時点の千葉駅からの停車駅は[[蘇我駅]]・[[八幡宿駅]]・五井駅・[[姉ケ崎駅]]・木更津駅となっていた([[ラッシュ時]]のみ[[長浦駅 (千葉県)|長浦駅]]にも停車)。その後も沿線自治体による快速停車の陳情で、徐々に停車駅が増えていき、[[2001年]]12月1日の改正でラッシュ時のみ[[袖ケ浦駅]]に停車、[[2004年]]10月16日からは長浦駅・袖ケ浦駅に終日停車し、[[2001年以降のJRダイヤ改正#3月14日|2009年3月のダイヤ改正]]では[[浜野駅]]、[[2010年]][[12月4日]]のダイヤ改正から[[本千葉駅]]にも停車するようになり<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20100924daiya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101011083614/http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20100924daiya.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2010年12月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2010-09-24|accessdate=2020-11-12|archivedate=2010-10-11}}</ref>、千葉駅 - 木更津駅間の通過駅は巌根駅のみとなっている。
[[2015年]][[3月14日]]のダイヤ改正では特急「さざなみ」の本数減便による建て替えで一部の普通列車を総武快速線直通に変更、千葉駅発木更津駅行きの列車(巌根駅は通過)も朝に下り1本のみ新設された。[[2017年]][[3月4日]]のダイヤ改正では特別快速が走っていた時間帯に増発され、これにて総武線快速の設定のない時間帯がなくなり、1時間に1本以上運転されるようになった。外房線上総一ノ宮発は横須賀線に乗り入れない東京駅止まりも多いが、内房線発は大半が横須賀線に乗り入れている。
2021年3月13日改正までは、上り列車のみ姉ヶ崎駅で先行する普通列車を追い抜いていた。
===== 京葉線直通(快速・通勤快速) =====
{{See also|京葉線#通勤快速}}
[[京葉線]]直通の快速・通勤快速が朝夕に運転されており、内房線内では巌根駅を含む全駅に停車する。グリーン車なし全車[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]10両編成での運転である。2022年3月12日改正時点の運転本数は以下の通りである。
快速は、平日ダイヤでは朝に上り1本、夜に下り4本運転されており、全て君津駅発着で運転されている。土・休日ダイヤでは、朝に上り2本、夜に下り5本運転されており、朝の上りのうち1本のみ[[上総湊駅]]発で、残りは君津駅発着となっている。下りの上総湊駅行きは運転されていない。
通勤快速は平日のみ運転されており、朝に上り1本、夜に下り1本運転されている。朝の上りのみ上総湊駅発であるが、下りの上総湊駅行きは運転されていない。君津駅で[[夜間滞泊]]した車両が上総湊駅まで[[回送]]され、折り返して営業列車となる。
京葉線直通の通勤快速・快速は2015年3月14日のダイヤ改正より巌根駅も停車駅となり、内房線内は各駅に停車する。しかし、下り列車に関しては「普通」「各駅停車」とは案内されず、「通勤快速」「快速」のまま案内される<ref group="注">これは、外房線内でも同じである。</ref>。
このほか、前述したように京葉線東京駅行き普通列車が朝に1本、夜に2本運転されており、夜1本目の快速と夜2本目の快速(土休日は3本目の快速)が、君津駅到着後に折り返す運用である。なお、夜3本目の快速(土休日の4本目)は、君津駅到着後、普通列車として千葉駅 - 君津駅間を1往復して君津駅まで運行後、木更津まで回送され夜間滞泊する。平日の通勤快速(土休日は快速)は、以前は君津駅到着後、君津駅 - 千葉駅と千葉駅 - 木更津駅間を1往復して終点で夜間滞泊していたが2021年3月13日のダイヤ改正から千葉駅 - 木更津駅間の上り・下りの最終列車としてもう1往復運転されるようになった。これに伴い木更津始発の京葉線車両の運用が定期で初めて設定された。平日の通勤快速(土休日は快速)は木更津駅、夜3本目の快速(土休日の4本目)は君津駅まで運行後、回送され同じく木更津駅で夜間滞泊する。これは、[[京葉車両センター]]に所属する京葉線の車両が千葉駅に乗り入れる唯一の運用である。
=== 過去の列車 ===
==== 快速(千葉駅発着)====
1955年から1969年までは千葉駅ないしは新宿駅発内房線・外房線回り千葉行きの循環列車が1日1本、快速として設定されていた(「[[さざなみ (列車)#戦後優等列車の運行開始]]」「[[わかしお (列車)#優等列車運行の創始]]」を参照)。
1975年3月10日のダイヤ改正では千葉駅 - 館山駅間に快速が1日1往復設定された。東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた<ref>鉄道ピクトリアル2021年9月号 №989 p.22 2021年9月1日発行</ref>。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・五井駅・木更津駅・君津駅・[[大貫駅]]・上総湊駅・浜金谷駅・安房勝山駅・[[岩井駅]]・[[富浦駅 (千葉県)|富浦駅]]・館山駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で八幡宿駅・姉ケ崎駅・巌根駅、1979年10月1日のダイヤ改正で蘇我駅が停車駅に追加され、1981年10月1日のダイヤ改正で普通列車に格下げされる形で廃止された。
なお、前述のとおり現在でも下りのみ千葉駅始発木更津駅行きの快速が総武快速線の車両で1本運転されている。
==== 総武快速線直通(特別快速) ====
2015年3月14日のダイヤ改正(実際は月曜日の16日から)より、東京駅 - 館山駅間に[[特別快速#総武快速線・内房線|総武快速線直通の特別快速]]が設定された。運転本数は平日のみに1日1往復であり、東京駅 - 館山駅間の停車駅は、[[錦糸町駅]]・[[船橋駅]]・[[津田沼駅]]・千葉駅・蘇我駅・五井駅・木更津駅・君津駅・佐貫町駅・[[浜金谷駅]]・[[保田駅 (千葉県)|保田駅]]・[[岩井駅]]・[[富浦駅 (千葉県)|富浦駅]]で、錦糸町駅 - 館山駅間の停車駅は従来の特急「[[さざなみ (列車)|新宿さざなみ]]」と同一である。車両の編成長は東京駅 - 木更津駅間では15両(グリーン車2両連結)、木更津駅 - 館山駅間では4両(グリーン車連結なし)編成である<ref name="pr20141219"/>。
2017年3月4日のダイヤ改正(最終運行は前日の3日)をもって登場からわずか約2年で運転を取り止めた<ref name="jreast-chiba20161216">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1612_daikai.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191219115409/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1612_daikai.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2017年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2016-12-16|accessdate=2020-11-12|archivedate=2019-12-19}}</ref>。
== 使用車両 ==
現在は全て[[電車]]で運転されている。
=== 特急列車 ===
* [[JR東日本255系電車|255系]]([[幕張車両センター]]所属)
** [[1993年]]運用開始<ref name="sone 31">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻31号 内房線・外房線・久留里線 31頁]]</ref>。2015年3月のダイヤ改正で消滅していた「さざなみ」としての定期運行が2017年3月のダイヤ改正で復活した(4号のみ)。
* [[JR東日本E257系電車#500番台|E257系500番台]](幕張車両センター所属)
** [[2004年]]運用開始<ref name="sone 31" />。かつては10両編成での運転もあったが、現在の定期運用では5両編成のみ。
<gallery>
ファイル:255 shiosai.jpg|255系
ファイル:JREast-E257-500-NB11-20120106.jpg|E257系500番台
</gallery>
=== 普通列車 ===
* [[JR東日本209系電車#2000番台・2100番台|209系2000番台・2100番台]]([[幕張車両センター]]所属)
** [[2009年]]運用開始<ref name="209-2100"/>。先頭車が[[鉄道車両の座席#セミクロスシート|セミクロスシート]]、中間車がロングシートの編成で、現在は4・6・8両編成で運行されている。かつては10両編成でも使用されていた。
* [[JR東日本E131系電車|E131系]](幕張車両センター所属)
** [[2021年]][[3月13日]]から木更津駅 - 安房鴨川駅間で運行開始<ref name="pr20201218"/><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200512_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200512084545/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200512_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=房総・鹿島エリアへの新型車両の投入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-12|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-05-12}}</ref>。2両または4両編成で運行される。
* [[JR東日本E217系電車|E217系]]([[鎌倉車両センター]]所属)
** [[1994年]]運用開始。総武快速線直通列車用で、11両または15両編成で運行される。2015年3月から2017年3月まで設定されていた[[#総武快速線直通(特別快速)|特別快速]]にも使用されていた。
* [[JR東日本209系電車#500番台|209系500番台]]・[[JR東日本E233系電車#5000番台|E233系5000番台]]([[京葉車両センター]]所属)
** 209系500番台は[[2010年]][[3月]]、E233系5000番台は2010年[[7月]]運用開始<ref>{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/4429|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113041738/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/4429|title=E233系運転開始へ 来月1日、新習志野駅で出発式 JR新型車両|newspaper=千葉日報|date=2010-06-27|accessdate=2020-11-13|archivedate=2020-11-13}}</ref>。京葉線直通列車と夜間の千葉駅 - 木更津駅・君津駅間の間合い運用3往復に使用される京葉線車両で、10両編成で運行される。209系500番台とE233系5000番台は共通運用(209系は1編成のみ)である。E233系の貫通編成が足りない場合は、分割編成が代走することがある。
* [[JR東日本E235系電車#1000番台|E235系1000番台]](鎌倉車両センター所属)
** 総武快速線直通列車用で、[[2020年]][[12月21日]]より千葉駅 - 君津駅間で運行開始<ref name="jreaste235-1000">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20201112_y02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201112062336/https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20201112_y02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=横須賀・総武快速線E235系営業運転開始について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-11-12}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Series209-2100.jpg|209系2000・2100番台
ファイル:Uchibo E217.jpg|E217系
ファイル:E131 series sets R05 20210320 3143M.jpg|E131系
ファイル:2019-12-24 Uchibo-Line Series 209-34.jpg|209系500番台
ファイル:Uchibo 233.jpg|E233系5000番台
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
==== 気動車 ====
* [[国鉄キハ07形気動車|キハ42200形]]([[天然ガス]]動車)
* [[国鉄キハ10系気動車|キハ10系]]
* [[国鉄キハ20系気動車|キハ20系]]
* [[国鉄キハ35系気動車|キハ30系]]<ref name="sone 30"/>
* [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]]([[準急列車|準急]]・[[急行列車|急行]]・普通)
* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]](準急・急行・普通)<ref name="sone 30"/>
* [[国鉄キハ45系気動車|キハ45系]]
これら上記以外で、国鉄時代には千葉鉄道局所属のみの車両では手持ちが少ない事を理由に夏期限定で、海水浴臨時快速列車(房総循環)には各製造会社より試運転前提で[[北海道]]・[[東北地方|東北]]・[[新潟県|新潟]]・[[北陸]]・[[近畿]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]・[[九州]]向けの新車やその他局からの車両が応援で房総地区の路線を走行した。その中には北海道専用[[国鉄キハ56系気動車|キハ56形]]、[[碓氷峠]](横軽)対策キハ57形、準急日光用キハ55形。[[中央西線]]用キハ65形、千葉無配置で他線区向け2基エンジン搭載のキハ58形の新車、同じ仕様でキハ20形をベースとしたキハ52形、そして通勤用キハ30・35・36形の他線区向け新車もあった。
==== 電車 ====
* [[国鉄72系電車|72系]]([[国鉄32系電車|32系]]からの改造車を含む) - [[1968年]]運用開始。[[1976年]]運用終了<ref name="sone 30">[[#sone31|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻31号 内房線・外房線・久留里線 30頁]]</ref>。
* [[国鉄113系電車|113系]](総武線快速・普通) - [[1969年]]運用開始。[[2011年]]に運用終了。
* [[国鉄153系電車|153系]](急行) - [[1975年]]運用開始。急行「内房」号などで使用された。[[1982年]]に定期運用終了。
* [[国鉄165系電車|165系]](急行・普通) - 1969年運用開始。急行「なぎさ」号などで使用された。1982年に定期運用終了。
* [[国鉄183系電車|183系]](特急・普通) - [[1972年]]運用開始。特急「さざなみ」号などで使用された<ref name="sone 30"/>が、2005年に定期運用を終了し、以後は波動用として団体臨時列車等に限定して運用された。
* [[国鉄205系電車|205系]](通勤快速・京葉線快速・普通) - 1990年の京葉線東京駅 - [[新木場駅]]間の全線開通時から運用開始。京葉線直通および間合い運用。2011年に定期運用終了。
* [[国鉄211系電車#1000・3000番台|211系3000番台]] - [[2006年]]運用開始。2011年に定期運用終了。
<gallery>
ファイル:JRE 113-UchibouLine.jpg|113系
ファイル:JRE 205-KeiyouLine Commuter Special Rapid.jpg|京葉線直通列車に使用されていた205系
ファイル:JRE 211 Uchibo Line.jpg|211系
</gallery>
== 沿線概況 ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#00b2e5}}
{{BS-table}}
{{BS6text|1||2|3||||1: [[京成電鉄|京成]]:[[京成千葉線|千葉線]]<!-- 経路図の横幅を狭く保つため、一行を全角12文字(キロ程除く)以下に押さえています。加筆の際にはご配慮下さい -->|}}
{{BS6|STR|STRc2|STR3|STR|||||2: [[中央・総武緩行線|総武緩行線]]|}}
{{BS6|STR|STR+1|STR+l|O3=STRc4|ABZgr|||||3: [[総武快速線]]|}}
{{BS6|STR|KBHFe|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|BHF|O4=HUBlg|||-3.8|[[千葉駅]]|(II) 1963-|}}
{{BS6|eABZgl|exSTR+r|STR|STRl|O4=HUB|STRq|STR+r||||}}
{{BS6|KRZu|xKRZ|KRZu|BHFq|O4=HUBe|STR+r|STR|||[[千葉都市モノレール]]:[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]|}}
{{BS6|HST|exSTRl|eKRZ|exSTR+r|ABZgl|KRZu|||[[京成千葉駅]] (II) 1958-|}}
{{BS6|STR2|STRc3|eABZg+l|exKRZo|eKRZ|eABZg+r|||<!-- 旧線とモノレールは同時に存在したことがないので立体交差ではなく単なる交差で表現 -->|}}
{{BS6|STRc1|STR+4|STR|exSTR|STR|eBHF||''千葉駅''|(I) -1963|}}
{{BS6||STR|STR|exSTR|STR|STRl|||[[総武本線]]|}}
{{BS4|STR|STR|exKHSTe|STR|||''京成千葉駅'' (I) -1958|}}
{{BS4|STR|STR||STRl|||千葉都市モノレール:[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]|}}
{{BS4|STR|STR|O2=POINTERg@fq|||||[[外房線]]|}}
{{BS4|HST|eBHF||||''[[本千葉駅]]''|(I) -1958|}}
{{BS4|STR|STR|||||[[千葉中央駅]]|}}
{{BS4|hKRZWae|hKRZWae|||||[[都川]]|}}
{{BS4|STR|BHF|||-2.4|[[本千葉駅]]|(II) 1958-|}}
{{BS4|STRl|KRZu|STRq|STR+r|||京成:[[京成千原線|千原線]]|}}
{{BS4||ABZg+r||LSTR|||[[京葉線]]|}}
{{BS2|BHF+GRZq||0.0|[[蘇我駅]]||}}
{{BS4|STRq|ABZgr|||||[[京葉臨海鉄道]]|}}
{{BS4||ABZgl|STRq|STR+r|||外房線|}}
{{BS4||hKRZWae||LSTR|||[[生実川]]|}}
{{BS2|hKRZWae||||[[浜野川]]|}}
{{BS2|BHF||3.4|[[浜野駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||[[村田川]]|}}
{{BS2|BHF||5.6|[[八幡宿駅]]||}}
{{BS4||BHF|O2=HUBaq|KBHFa|O3=HUBeq||9.3|[[五井駅]]||}}
{{BS4||STR|STRl||||[[小湊鉄道線]]|}}
{{BS2|hKRZWae||||[[養老川]]|}}
{{BS2|BHF||15.1|[[姉ケ崎駅]]||}}
{{BS2|BHF||20.5|[[長浦駅 (千葉県)|長浦駅]]||}}
{{BS2|BHF||24.4|[[袖ケ浦駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||[[小櫃川]]|}}
{{BS2|BHF||27.5|[[巌根駅]]||}}
{{BS4|exKBSTaq|eABZg+r|||||''[[陸上自衛隊]][[木更津駐屯地]]''|}}
{{BS4||ABZg+l|STRq||||[[久留里線]]|}}
{{BS2|BHF||31.3|[[木更津駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||[[矢那川]]|}}
{{BS4||eABZg+l|exKBSTeq||||''第二海軍航空廠''|}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS2|BHF||38.3|[[君津駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||[[小糸川]]|}}
{{BS2|BHF||42.0|[[青堀駅]]||}}
{{BS4|exKBSTaq|eABZgr|||||''列車砲基地''|}}
{{BS2|BHF||46.6|[[大貫駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS2|BHF||50.7|[[佐貫町駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS2|BHF||55.1|[[上総湊駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||[[湊川 (千葉県)|湊川]]|}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS2|BHF||60.2|[[竹岡駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS4|BOOT|BHF|AETRAM||64.0|[[浜金谷駅]]||}}
{{BS2|STR||||[[金谷港]] / [[鋸山ロープウェー]]|}}
{{BS2|TUNNEL1|||鋸山トンネル||1252m}}
{{BS2|BHF||67.5|[[保田駅 (千葉県)|保田駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||保田川|}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS2|BHF||70.8|[[安房勝山駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||佐久間川|}}
{{BS2|BHF||73.7|[[岩井駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||岩富トンネル||}}
{{BS2|BHF||79.8|[[富浦駅 (千葉県)|富浦駅]]||}}
{{BS2|BHF||82.1|[[那古船形駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||[[平久里川]]|}}
{{BS2|BHF||85.9|[[館山駅]]||}}
{{BS2|BHF||91.7|[[九重駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS2|BHF||96.6|[[千倉駅]]||}}
{{BS2|BHF||98.6|[[千歳駅 (千葉県)|千歳駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae||||[[丸山川]]|}}
{{BS2|BHF||102.2|[[南三原駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||}}
{{BS2|BHF||106.8|[[和田浦駅]]||}}
{{BS2|BHF||111.4|[[江見駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae|||山生橋梁||}}<!--房州大橋は並行する国道128号の橋-->
{{BS2|TUNNEL1||}}
{{BS2|BHF||116.0|[[太海駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||嶺岡トンネル||}}
{{BS4||hKRZWae||LSTR|||[[加茂川 (千葉県)|加茂川]]|}}
{{BS4||STR||STR|O4=POINTERg@fq|||外房線|}}
{{BS4||STRl|BHFq|STRr|119.4|[[安房鴨川駅]]||}}
|}
|}
{{出典の明記|section=1|date=2019年11月26日 (火) 14:03 (UTC)}}
=== 千葉駅 - 君津駅間 ===
内房線の正式な起点は蘇我であり、千葉駅 - 蘇我駅間は[[外房線]]となっている。しかし、内房線の普通列車は千葉駅を発着駅とするため、JRの旅客案内やウェブサイトでの乗換案内では内房線の(事実上の)起点は千葉との案内表記が多く、千葉駅 - 蘇我駅間は内房線・外房線が共用している状態となっている。
この区間は東京や千葉の[[ベッドタウン|通勤圏]]であるとともに[[京葉工業地域]]でもある。沿線は住宅地に囲まれているが、この区間でも利用者数が減少し、1992年から2015年度と比べ蘇我駅 - 君津駅間の利用者数は約19.5%減っており、利用者が増加中の駅は浜野駅と袖ケ浦駅のみである。利用者の利便性向上のために、浜野駅・長浦駅・袖ケ浦駅には快速・通勤快速が終日停車するようになった。
東京や千葉市都心部への通勤・通学利用が多く、ラッシュ時は千葉駅発着の普通列車のほかに、総武線に直通する快速、京葉線に直通する快速、通勤快速が設定されており、同区間から東京都心まで1本の列車でアクセスできる。特に京葉線の通勤快速は、京葉線内での通過駅が多いこともあって、所要時間を大幅に短縮している。ただし、東京駅の京葉線地下ホームは地上ホームと離れているため、乗り換えには時間がかかる。
利用者が多い区間のため、特急を除いた(日中時間帯に定期の特急列車は、運行していない)日中の君津駅までの運行本数は1時間に3本(木更津駅 - 館山駅間の列車含む)であり、日中でも総武線快速が直通運転として君津駅まで乗り入れている。
<gallery widths="200">
Uchibo Line ; 209 series train runs while looking out over the Keiyo Kombinat aside.JPG|多数の石油化学プラントが立ち並ぶ京葉工業地域を走る内房線の209系。<br/>(2014年10月3日撮影)
</gallery>
=== 君津駅 - 館山駅間 ===
君津駅以南は東京湾と[[房総丘陵]]の間のわずかな平地を、東京湾の沿岸に寄り添う形で走行する。沿線には[[マザー牧場]]・[[鋸山 (千葉県)|鋸山]]などの観光スポットや、多数の[[海水浴場]]が点在する。また館山は南房総における観光拠点の一つであり、観光アクセスとしての役割が目立つ区間である。海岸沿いを走行するため、風の影響を受けやすく、しばしば運休する。複数ある風規制区間のうち、特に運転中止になりやすい佐貫町駅 - 上総湊駅間では、防風柵の設置が行われ、2012年3月21日に完成したが<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20120321bohusaku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200811131415/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20120321bohusaku.pdf|format=PDF|language=日本語|title=内房線佐貫町〜上総湊駅間の防風柵の完成について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2012-03-21|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-08-11}}</ref>、それ以外の区間でも風規制になることも多く、線区全体での対策が求められている<ref>{{Cite news|url=http://jrrouso.com/__HPB_Recycled/jrluhp/tibajyouhou/gyoumu1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102192013/http://jrrouso.com/__HPB_Recycled/jrluhp/tibajyouhou/gyoumu1.pdf|title=申1号団体交渉行う! 〜第3回定期大会発言に基づく申し入れ〜|newspaper=業務部NEWS|issue=No.1|date=2009-10-31|accessdate=2020-11-12|archivedate=2014-01-02|publisher=ジェイアール労働組合千葉地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
この区間の沿線人口は少なく、館山市街地以外は集積した市街地がないため、乗車人員が300 - 400人程度の駅が連続する。君津駅を境界として利用者数の極端な段差があり、君津駅以南の普通列車は日中は1時間に1本で、路線も[[単線]]となる。また、この区間の普通列車は、2017年3月4日のダイヤ改正により日中は千葉駅への直通運転がなくなり、木更津駅 - 館山駅間の運行となり、君津・木更津以北の系統と分断されたが、前述の通り、2021年3月13日のダイヤ改正でE131系を使用したワンマン運転列車が導入され、館山駅を跨いで木更津駅と安房鴨川駅間を直通する列車が増加した。
同区間を通過する観光利用者数は減少傾向にある。[[東京湾アクアライン]]の通行料金値下げ、[[館山自動車道]]・[[富津館山道路]]・[[国道127号]][[館山バイパス]]の開通により、[[東京]]から南房総への往来は自動車の比率が劇的に高まり、これが君津駅以南の観光利用客を減少させる結果となった。平日日中の特急「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」が、定期列車から臨時列車に変更されたのが代表例である。逆に高速道路網が[[茂原市]]までしかない外房線沿線は、鉄道利用が主体となっている。現在でも、外房線の特急「[[わかしお (列車)|わかしお]]」はほとんどが東京駅から勝浦駅または安房鴨川駅まで運転され、朝夕には千葉駅から勝浦方面へ直通する普通列車が運行されている。
=== 館山駅 - 安房鴨川駅間 ===
館山駅より先は進路を東に変えて、外房線と連絡する安房鴨川駅を目指す。この区間は基本的に普通列車のみが運行され、ほとんどの列車は安房鴨川駅を跨いで木更津駅と外房線上総一ノ宮駅間でワンマン運転される。
千倉駅 - 安房鴨川駅間は[[外房]]の海である太平洋の沿岸に寄り添って進み、海水浴場やマリンスポット・マリンリゾートの海洋レジャー施設が多くなる。
この区間における利用者は少なく、館山駅 - 安房鴨川駅間の両都市間の相互移動と、南房総の観光の入り口の一つである千倉駅への観光利用のほか、地元住民の利用では[[千葉県立安房拓心高等学校|安房拓心高等学校]]の最寄である[[南三原駅]]への通学利用や、鴨川市にある[[亀田総合病院]]への通院利用が中心である。
== 駅一覧 ==
* 停車駅
** 普通…全駅に停車
** 快速・通勤快速…●印の駅に停車、|印の駅は通過。
** 特急…「[[さざなみ (列車)]]」参照
* 線路 … ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:これより下は単線
* 全駅[[千葉県]]内に所在。
* 接続路線:東日本旅客鉄道の路線名は運転系統上の名称(正式路線名とは異なる)。駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。
* 蘇我駅について、京葉線の駅ナンバリングはこの駅のみ割り振られていない。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #00b2e5;" |{{縦書き|路線名|height=4em}}
!rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:3px solid #00b2e5;" |駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b2e5;" |駅間<br />営業キロ
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="width:1em; background:#bcf; border-bottom:3px solid #00b2e5; line-height:1.1;"|{{縦書き|総武線 快速|height=6em}}
!rowspan="2" style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:3px solid #00b2e5; line-height:1.1;"|{{縦書き|京葉線 快速・通勤快速|height=12em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00b2e5;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #00b2e5;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00b2e5;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b2e5;"|蘇我から
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b2e5;"|千葉から
|-
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|外房線|height=4em}}
|[[千葉駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
| rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;" |{{縦書き|京葉線直通}}
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線|総武線(快速)]](JO 28)([[横須賀線]][[久里浜駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]](JB 39)・{{Color|#ffc20d|■}}[[総武本線]]([[成東駅|成東]]方面)・{{Color|#00b261|■}} [[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[成田線]]<ref group="*">成田線の正式な起点は総武本線[[佐倉駅]]だが、運転系統上は千葉駅に乗り入れている</ref><br />[[千葉都市モノレール]]:[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|千葉都市モノレール]] [[千葉都市モノレール1号線|1号線]]・[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|千葉都市モノレール]] [[千葉都市モノレール2号線|2号線]] (CM03)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成千葉線|千葉線]] ⇒ [[京成千葉駅]] (KS59)
|∥
|rowspan="5"|[[千葉市]]<br />[[中央区 (千葉市)|中央区]]
|-
|[[本千葉駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|1.4
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|
|∥
|-style="height:2em;"
|rowspan="2"|[[蘇我駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|2.4
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|3.8
|rowspan="2" style="background:#acf; text-align:center;"|●
|rowspan="2" style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|rowspan="2"|東日本旅客鉄道:{{Color|#c9252f|■}}<!-- 京葉線の駅ナンバリングはこの駅のみ割り振られていない -->[[京葉線]]([[東京駅]]まで直通運転)・{{Color|#db4028|■}}[[外房線]]([[大網駅|大網]]方面)<br /><small>[[京葉臨海鉄道]]:[[京葉臨海鉄道臨海本線|臨海本線]](貨物線)</small>
|rowspan="2"|∥
|-
|rowspan="30" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''内房線'''|height=6em}}
|-
|[[浜野駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|7.2
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|∥
|-
|[[八幡宿駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|5.6
|style="text-align:right;"|9.4
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|∥
|rowspan="3"|[[市原市]]
|-
|[[五井駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|9.3
|style="text-align:right;"|13.1
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|[[小湊鉄道]]:[[小湊鉄道線]]
|∥
|-
|[[姉ケ崎駅]]
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|15.1
|style="text-align:right;"|18.9
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|∥
|-
|[[長浦駅 (千葉県)|長浦駅]]
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|20.5
|style="text-align:right;"|24.3
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|∥
|rowspan="2"|[[袖ケ浦市]]
|-
|[[袖ケ浦駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|24.4
|style="text-align:right;"|28.2
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|∥
|-
|[[巌根駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|27.5
|style="text-align:right;"|31.3
|style="background:#acf; text-align:center;"||
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|∥
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[木更津市]]
|-
|[[木更津駅]]
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|31.3
|style="text-align:right;"|35.1
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|東日本旅客鉄道:{{Color|#00B5AD|■}}[[久留里線]]
|∥
|-
|[[君津駅]]
|style="text-align:right;"|7.0
|style="text-align:right;"|38.3
|style="text-align:right;"|42.1
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|∨
|[[君津市]]
|-
|[[青堀駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|42.0
|style="text-align:right;"|45.8
|
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|◇
|rowspan="6"|[[富津市]]
|-
|[[大貫駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|46.6
|style="text-align:right;"|50.4
|
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|◇
|-
|[[佐貫町駅]]
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|50.7
|style="text-align:right;"|54.5
|
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|◇
|-
|[[上総湊駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|55.1
|style="text-align:right;"|58.9
|
|style="background:#fcc; text-align:center;"|●
|
|◇
|-
|[[竹岡駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|60.2
|style="text-align:right;"|64.0
|
|
|
|◇
|-
|[[浜金谷駅]]
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|64.0
|style="text-align:right;"|67.8
|
|
|[[鋸山ロープウェー]] ⇒ 鋸山山麓駅
|◇
|-
|[[保田駅 (千葉県)|保田駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|67.5
|style="text-align:right;"|71.3
|
|
|
|◇
|rowspan="2"|[[安房郡]]<br />[[鋸南町]]
|-
|[[安房勝山駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|70.8
|style="text-align:right;"|74.6
|
|
|
||
|-
|[[岩井駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|73.7
|style="text-align:right;"|77.5
|
|
|
|◇
|rowspan="2"|[[南房総市]]
|-
|[[富浦駅 (千葉県)|富浦駅]]
|style="text-align:right;"|6.1
|style="text-align:right;"|79.8
|style="text-align:right;"|83.6
|
|
|
|◇
|-
|[[那古船形駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|82.1
|style="text-align:right;"|85.9
|
|
|
||
|rowspan="3"|[[館山市]]
|-
|[[館山駅]]
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|85.9
|style="text-align:right;"|89.7
|
|
|
|◇
|-
|[[九重駅]]
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|91.7
|style="text-align:right;"|95.5
|
|
|
||
|-
|[[千倉駅]]
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|96.6
|style="text-align:right;"|100.4
|
|
|
|◇
|rowspan="4"|南房総市
|-
|[[千歳駅 (千葉県)|千歳駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|98.6
|style="text-align:right;"|102.4
|
|
|
||
|-
|[[南三原駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|102.2
|style="text-align:right;"|106.0
|
|
|
|◇
|-
|[[和田浦駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|106.8
|style="text-align:right;"|110.6
|
|
|
|◇
|-
|[[江見駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|111.4
|style="text-align:right;"|115.2
|
|
|
|◇
|rowspan="3"|[[鴨川市]]
|-
|[[太海駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|116.0
|style="text-align:right;"|119.8
|
|
|
|◇
|-
|[[安房鴨川駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|119.4
|style="text-align:right;"|123.2
|
|
|東日本旅客鉄道:{{Color|#db4028|■}}外房線(上総一ノ宮駅まで直通運転)
|◇
|}
{{Reflist|group="*"}}
*2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の除外対象となる駅(完全な[[無人駅]])は、竹岡駅・安房勝山駅・那古船形駅・九重駅・千歳駅・和田浦駅・太海駅である。
*市原市の構想として、五井駅 - 姉ケ崎駅間に島野駅(仮称)の設置が検討されている<ref>{{PDFlink|[http://www.city.ichihara.chiba.jp/010kikaku/koutsu/masterplan/documents/6-4syou_1.pdf 市原市交通マスタープラン2010-2019 4章:交通ビジョン] }} - 市原市</ref>。
== 利用状況 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!年度
!平均通過人員(人/日)
!旅客運輸収入(百万円)
!出典
|-
|1987
|25,097
|
|<ref name="rosen_avr2011-2015">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2011-2015.pdf 路線別ご利用状況(2011〜2015年度)]}} - 東日本旅客鉄道</ref>
|-
|2012
|20,667
|
|<ref name="rosen_avr2012-2016" />
|-
|2013
|20,892
|
|<ref name="rosen_avr2012-2016" />
|-
|2014
|20,500
|
|<ref name="rosen_avr2012-2016" />
|-
|2015
|20,566
|
|<ref name="rosen_avr2012-2016" />
|-
|2016
|20,447
|8,487
|<ref name="rosen_avr2012-2016">[http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf 路線別ご利用状況(2012~2016年度)] - 東日本旅客鉄道</ref>
|-
|2017
|20,335
|
|<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2016-2020.pdf |title=路線別ご利用状況(2016~2020年度) |accessdate=2022年3月22日 |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>
|-
|2018
|20,483
|
|<ref name=":0" />
|-
|2019
|20,042
|
|<ref name=":0" />
|-
|2020
|14,864
|5,750
|<ref name=":0" />
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[白土貞夫]]『ちばの鉄道一世紀』[[崙書房]]、1996年7月10日 第1刷発行、1996年10月15日 第2刷発行、ISBN 978-4845510276
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=31号 内房線・外房線・久留里線|pages=16-23|date=2010-02-21|ref=sone31}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Uchibō Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[東京湾アクアライン]]
* [[館山自動車道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=10=1=%93%e0%96%5b%90%fc 検索結果(内房線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* {{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/chiba/images/raininfo/soubu.pdf 総武・房総路線図]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社
* {{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2015-2016/jre_youran_shogen_p81.pdf 営業キロおよび駅数]}} - JR東日本会社要覧2015-2016
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道千葉支社}}
{{デフォルトソート:うちほう}}
[[Category:内房線|*]]
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:千葉県の交通]]
[[Category:1912年開業の施設]]
|
2003-06-21T15:35:42Z
|
2023-12-23T10:56:25Z
| false | false | false |
[
"Template:東日本旅客鉄道の鉄道路線",
"Template:UKrail-header2",
"Template:BS6",
"Template:Cite web",
"Template:出典の明記",
"Template:縦書き",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite journal",
"Template:Cite press release",
"Template:Infobox 鉄道路線",
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"Template:Commons",
"Template:PDFlink",
"Template:Cite news",
"Template:Cite book",
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"Template:Color",
"Template:Reflist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%88%BF%E7%B7%9A
|
10,242 |
大貫駅
|
大貫駅(おおぬきえき)は、千葉県富津市千種新田(ちくさしんでん)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)内房線の駅である。
島式ホーム1面2線を有する地上駅である。ホームは嵩上げされていない。佐貫町駅側に跨線橋があり、駅舎は西側にある。
JR東日本ステーションサービスが受託する業務委託駅(君津駅管理)で、自動券売機2台(どちらもSuica対応)、多機能券売機、簡易Suica改札機が設置されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は841人である。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。
当駅は富津市の中心に位置する(市役所最寄駅)。歩いてしばらくの所に大貫海水浴場がある。
各路線ともに日東交通によって運行される。
|
[
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"text": "島式ホーム1面2線を有する地上駅である。ホームは嵩上げされていない。佐貫町駅側に跨線橋があり、駅舎は西側にある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "JR東日本ステーションサービスが受託する業務委託駅(君津駅管理)で、自動券売機2台(どちらもSuica対応)、多機能券売機、簡易Suica改札機が設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は841人である。",
"title": "利用状況"
},
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"tag": "p",
"text": "JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "当駅は富津市の中心に位置する(市役所最寄駅)。歩いてしばらくの所に大貫海水浴場がある。",
"title": "駅周辺"
},
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"tag": "p",
"text": "各路線ともに日東交通によって運行される。",
"title": "バス路線"
}
] |
大貫駅(おおぬきえき)は、千葉県富津市千種新田(ちくさしんでん)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)内房線の駅である。
|
{{otheruses|千葉県にある内房線の大貫駅|茨城県にあった鹿島軌道の大貫駅|鹿島軌道}}
{{駅情報
|社色 = Green
|文字色 =
|駅名 = 大貫駅
|画像 = JREast-Uchibo-line-Onuki-station-building-201708d(cropped).jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎(2017年8月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = おおぬき
|ローマ字 = Ōnuki
|副駅名 =
|前の駅 = [[青堀駅|青堀]]
|駅間A = 4.6
|駅間B = 4.1
|次の駅 = [[佐貫町駅|佐貫町]]
|電報略号 = オヌ←ヲヌ
|駅番号 =
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{Color|#00B2E5|■}}[[内房線]]
|キロ程 = 46.6 km([[蘇我駅|蘇我]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から50.4
|起点駅 =
|所在地 = [[千葉県]][[富津市]]千種新田364-3
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|17|27.7|N|139|51|20.5|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1915年]]([[大正]]4年)[[1月15日]]<ref name="sone31">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=31号 内房線・外房線・久留里線|pages=14-15|date=2010-02-21}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />841
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
}}
'''大貫駅'''(おおぬきえき)は、[[千葉県]][[富津市]]千種新田(ちくさしんでん)にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[内房線]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 歴史 ==
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[1月15日]]:開業<ref name="sone31"/>。
* [[1962年]]([[昭和]]37年)[[10月1日]]:貨物の取り扱いを廃止<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=618}}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone31"/>。
* [[2006年]]([[平成]]18年)4月1日:この日をもって[[みどりの窓口]]の営業が終了し、「[[もしもし券売機Kaeruくん]]」が設置される<ref>{{Cite news|title=みどりの窓口リストラ|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2006-07-11|page=23 夕刊}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref name="press-20081218">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-22|accessdate=2018-07-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190503211623/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|archivedate=2019-05-03}}</ref>。[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]に組み込まれる<ref name="press-20081218" />。
* [[2012年]](平成24年)[[3月12日]]:「もしもし券売機Kaeruくん」の営業を終了。
* [[2014年]](平成26年)[[10月20日]]:業務委託化<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%e9%a7%85%e6%a5%ad%e5%8b%99%e5%a4%96%e6%b3%a8%e5%8c%96%e3%82%92%e8%a8%b1%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81%e4%bb%8a%e5%be%8c10%e5%b9%b4%e3%81%a7400%e5%90%8d%e3%81%8c%e9%80%80%e8%81%b7%ef%bc%8d/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200508213806/https://doro-chiba.org/nikkan/%e9%a7%85%e6%a5%ad%e5%8b%99%e5%a4%96%e6%b3%a8%e5%8c%96%e3%82%92%e8%a8%b1%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81%e4%bb%8a%e5%be%8c10%e5%b9%b4%e3%81%a7400%e5%90%8d%e3%81%8c%e9%80%80%e8%81%b7%ef%bc%8d/|title=駅業務外注化を許さない!今後10年で400名が退職-必要なのは、定年延長だ!|language=日本語|archivedate=2020-05-08|accessdate=2020-05-08|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|date=2014-11-16}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]である。ホームは嵩上げされていない。佐貫町駅側に[[跨線橋]]があり、駅舎は西側にある。[[木造駅舎]]を有する。
[[JR東日本ステーションサービス]]が受託する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]([[君津駅]]管理)で、[[自動券売機]]2台(どちらも[[Suica]]対応)、[[自動券売機|多機能券売機]]、簡易Suica改札機が設置されている。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
|rowspan="2"|{{Color|#00B2E5|■}}内房線
| style="text-align:center" | 上り
| [[木更津駅|木更津]]・[[千葉駅|千葉]]・[[東京駅|東京]]方面
| 一部は2番線
|-
!2
| style="text-align:center" | 下り
| [[上総湊駅|上総湊]]・[[館山駅|館山]]・[[安房鴨川駅|安房鴨川]]方面
|
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/336.html JR東日本:駅構内図])
* 信号設備上、1・2番線いずれも両方面からの到着および出発が可能である。
* 上記設備を用いて普通列車が通常とは反対側のホームに入り、特急の待避を行う場合がある。
* 非常時には列車が当駅折り返しになることがある([[JR東日本209系電車#2000番台・2100番台|209系2000番台・2100番台]]には「内房線大貫」の表示が用意されている)。
* ホームは11両編成までに対応する。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
JR Uchibō Line Ōnuki Station Gates.jpg|改札口(2022年2月)
JR Uchibō Line Ōnuki Station Platform.jpg|ホーム(2022年2月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''841人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.futtsu.lg.jp/0000001041.html 富津市統計書] - 富津市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|2,504
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|2,496
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|2,483
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|2,417
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|2,435
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|2,176
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|2,024
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|1,827
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|1,741
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|1,715
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_03.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>1,625
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_03.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>1,547
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_03.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>1,526
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_03.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>1,471
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_03.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>1,463
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_03.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>1,420
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_03.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>1,415
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_03.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>1,372
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_03.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>1,319
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_03.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>1,245
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_03.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>1,171
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_03.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>1,139
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_06.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>1,149
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_06.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>1,185
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_05.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>1,132
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_05.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>1,139
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_05.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>1,127
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_05.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>1,080
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_06.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>1,046
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_06.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>989
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_06.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>791
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_06.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>846
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_06.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>841
|
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Futtsu City Hall.JPG|thumb|250px|富津市役所]]
当駅は富津市の中心に位置する(市役所最寄駅)。歩いてしばらくの所に大貫[[海水浴場]]がある。
{{Div col}}
* [[国道465号]]
* [[千葉県道157号大貫青堀線]]
* [[千葉県道159号君津大貫線]]
* [[千葉県道298号絹郡線]]
* 富津市役所
* [[富津郵便局]]
* 富津千種新田[[郵便局]]
* [[千葉県立君津商業高等学校]]
* 富津市立大貫中学校
* [[富津市立大貫小学校]]
* 富津市立吉野小学校
* 川口市立大貫海浜学園<ref group="注釈">[[埼玉県]][[川口市]]の校外学習用の教育施設 ([https://www.city.kawaguchi.lg.jp/shisetsuannai/gakko_kyoiku/sonotanokyouikushisetsu/11278.html 川口市・大貫海浜学園])</ref>
* [[君津中央病院]]大佐和分院
* [[弁天山古墳 (富津市)|弁天山古墳]]
* 小久保藩陣屋跡([[田沼意次]]ゆかりの地)
* 普和山最上寺([[関東三十六不動霊場|関東三十六不動]] 第32番)
* [[おどや]]スーパー&ホーム富津大和田店
* [[千葉薬品|ヤックスドラッグ]]富津大貫店
* [[ウエルシア]]富津大貫店
* [[コメリ|コメリハード&グリーン]]富津大貫店
{{Div col end}}
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
各路線ともに[[日東交通 (千葉県)|日東交通]]によって運行される。
; 大貫駅前
* [[富津公園]]行
* [[佐貫町駅]]行
* 笹毛行
* [[上総湊駅]]行
; 大貫駅東口
* [[君津駅]]南口行
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#00B2E5|■}}内房線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速(平日上り1本のみ)・{{Color|#339966|■}}快速(土休日上り京葉線経由1本のみ)・{{Color|#7bab4f|■}}普通(各駅停車)<!-- 房総地区では「普通」「各駅停車」の両表記が混用されているため併記 --->
::: [[青堀駅]] - '''大貫駅''' - [[佐貫町駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
;JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
;千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ōnuki Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=336|name=大貫}}
{{内房線}}
{{DEFAULTSORT:おおぬき}}
[[Category:千葉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 お|おぬき]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1915年開業の鉄道駅]]
[[Category:内房線]]
[[Category:富津市の交通|おおぬきえき]]
|
2003-06-21T15:43:02Z
|
2023-11-23T10:00:08Z
| false | false | false |
[
"Template:駅情報",
"Template:Cite book",
"Template:Cite press release",
"Template:内房線",
"Template:0",
"Template:Div col",
"Template:Div col end",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
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"Template:外部リンク/JR東日本駅",
"Template:Otheruses",
"Template:Color",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B2%AB%E9%A7%85
|
10,243 |
プロ市民
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プロ市民(プロしみん)とは、以下のような言葉である。
「自覚・責任感を持つ市民」としての「プロ市民」は、1990年代に佐賀県鹿島市長の桑原允彦が考え出した造語であり、鹿島市の総合計画にも見受けられる。政治にもっと関心を持とう、地域密着型の活動を通しプロ意識を持って政治や地域活動に参加する市民になろうという運動や人々を指す言葉であったとされているが、ネガティブな使われ方としての「プロ○○(○○の部分には職業等の名前が入る)」という造語が使われることはこれ以前からも度々あったので、さほど特殊な用語ではなかった(総会屋の別名である「プロ株主」がその好例)。
この「プロ市民」は、以下で記述されている「プロ市民」との意味合い及び関係性は一切無い。
2ちゃんねる用語としては「左翼活動家を言い換える隠れ蓑」あるいは「市民活動で利権を得る者たち」を意味としての「プロ市民」がある。つまり「アマチュアのふりをしたプロによる市民活動」というような意味合いである。プロ市民が左派系市民団体に使われる背景には、右派系が似たような活動を行う際に「市民」ではなく、「右翼団体」「右翼」と表記・報道されてきたからである。鈴木邦男によると日本では人口比で市民活動までする者は僅かだが、メディアにシンパがいることで数百人どころか十数人の活動まで報道されるなどメディア露出が多いと述べている。鈴木は参加者やメンバー自体が少なく、国民にも共感する者が多く得られないであろう左派市民団体の言動がマスコミに大きく取り上げられてきたことを熱心な右翼活動家だった時は不公平だと思っていたと述べている。鈴木は右派は投票程度しか政治的な行為をしない者が圧倒的多数であり、自身の経験から左派団体専従の総数よりも右派系団体のメンバー総数の方が少ないと述べている。更に鈴木はそもそも日本人に馴染みのある国民を使った国民団体にせずに、「市民」「市民団体」という言葉自体が外国籍がいることを内包しているからと解説している。
ジャーナリストの清谷信一も「プロ市民団体」と「普通の市民団体」をメディアはしっかりと分けて伝えるべきだとし、また「右翼団体」の抗議の場合は「右翼団体」として報道されるのに対し、「プロ市民団体」「左翼団体」は単に「市民団体」と報道される矛盾を指摘している。
また漫画家の小林よしのりは、『新・ゴーマニズム宣言』において「プロ市民」という言葉を用いている。小林は薬害エイズ裁判において、共産党など左翼系も受け入れて原告支援団体を率いる立場となった。しかし、次第に労働組合や、日本民主青年同盟(民青)などの共産党系左派組織に乗っ取られ、結果団体から追い出された挙句にバッシングまでされたためである。この経緯については、『新・ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』にて、薬害エイズ支援学生ボランティア団体を「戦争責任追及」など無関係な問題に誘導しようとする左翼活動家たちの暗躍を目の当たりにした小林は、「プロ市民」という言葉を多く用いるようになったと述べている。
以下ではこの意味でのプロ市民について記載する。
似ているが非なる言葉に、労働組合、日本共産党など政治団体などで、会社勤めの傍らで活動に従事するのではなく、労働組合や政治団体自体から給与をもらって活動に専念する人間を意味する「専従」「職業革命家(職革)」がある。
市民活動とは、政治についての知識をある程度身に着けている者、若しくは初心者が、問題意識を持って政治などについて議論や集会などの活動を行うものであるが、プロ市民という際、その活動者の活動を「特定グループに属する市民・党派や、特定のプロパガンダ、外国勢力などのために利益誘導の活動を行っているのであろう」とみなした者が否定的文脈において用いている。この「プロ市民」は、プロ株主の持つ意味合いに近い。
「特定グループに属する市民・党派や、特定のプロパガンダ、外国勢力などのために利益誘導の活動を行っている者」と捉えられる限りにおいて、職業的アジテーターや工作員のほか、職業として市民活動と関わる弁護士(特に人権派と呼ばれる弁護士)・政治家・学者であってもプロ市民とされることがある。なお、欧米諸国によく見られるように、政府の政権交代の度に政府上級官僚とNGOあるいはNPO幹部との間で大規模に人的流動が起きる社会では、社会のエリート層として受け止められている市民セクタのプロフェッショナルという階層が存在する。彼らは自らの主義主張と合致しない政権の時期にはNGO、NPOの幹部、専門性の高い部署の活動家として活動し、主義主張の合致する政権が成立すると、政府の上級官僚として迎え入れられて政府スタッフとして活動する。また、政策立案・政策提言を行うシンクタンクもまた、こういった層による非営利団体により運営されている。
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"text": "市民活動とは、政治についての知識をある程度身に着けている者、若しくは初心者が、問題意識を持って政治などについて議論や集会などの活動を行うものであるが、プロ市民という際、その活動者の活動を「特定グループに属する市民・党派や、特定のプロパガンダ、外国勢力などのために利益誘導の活動を行っているのであろう」とみなした者が否定的文脈において用いている。この「プロ市民」は、プロ株主の持つ意味合いに近い。",
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プロ市民(プロしみん)とは、以下のような言葉である。 「自覚・責任感(=プロ意識)を持つ市民」を意味する造語。2.の意味が普及したため、ほとんどこの意味では用いられない。
「市民」とメディアなどで称されているが、左派系のイデオロギーを持っている左翼活動家であるとの指摘、または彼らを「右翼活動家」のように「左翼活動家」とせずに「(一般)市民」であるように表記・報道する者を批判する際に用いられる言葉。昨今では、「プロ市民」はこの意味で使われることが多い。彼らは県内外から集まるものの、反原発や反オスプレイなど特定の活動参加者と顔ぶれが似通っているとの指摘がある。
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'''プロ市民'''(プロしみん)とは、以下のような言葉である。
#「自覚・責任感(=[[プロフェッショナル|プロ]]意識)を持つ市民」を意味する造語。2.の意味が普及したため、ほとんどこの意味では用いられない<ref name=":0">「右翼」と「左翼」の謎がよくわかる本p171,PHP研究所,監修:鈴木 邦男,2014年</ref>。
#「市民」とメディアなどで称されているが、左派系の[[イデオロギー]]を持っている[[左翼]][[政治活動家|活動家]]であるとの指摘、または彼らを「右翼活動家」のように「左翼活動家」とせずに「(一般)市民」であるように表記・報道する者を批判する際に用いられる言葉<ref name=":0" /><ref name=":1">「だれが沖縄を殺すのか: 県民こそが“かわいそう”な奇妙な構造」 p58,ロバート・D・エルドリッヂ · 2016年</ref>。昨今では、「プロ市民」はこの意味で使われることが多い<ref name=":0" />。彼らは県内外から集まるものの、[[原子力撤廃|反原発]]や[[V-22 (航空機)|反オスプレイ]]など特定の活動参加者と顔ぶれが似通っているとの指摘がある<ref>{{Cite web|和書|title=またも「反対」絶叫の“プロ市民” オスプレイ配備候補地・佐賀ルポ 反原発と同じ顔ぶれ |url=https://web.archive.org/web/20140802203510/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/140731/mca1407311228014-n1.htm |website=SankeiBiz |date=2014-07-31 |access-date=2022-10-05 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。
== 発生 ==
=== 当初の意味 ===
「自覚・責任感を持つ市民」としての「プロ市民」は、[[1990年代]]に[[佐賀県]][[鹿島市|鹿島市長]]の桑原允彦が考え出した造語であり<ref name=":0" />、鹿島市の総合計画にも見受けられる<ref>[http://www.city.kashima.saga.jp/torikumi/kk_daiyonji_kihon_taikou.html 第四次鹿島市総合計画] 鹿島市</ref>。[[政治]]にもっと関心を持とう、地域密着型の活動を通し'''プロ意識'''を持って政治や地域活動に参加する市民になろうという運動や人々を指す言葉であったとされているが、ネガティブな使われ方としての「プロ○○(○○の部分には[[職業]]等の名前が入る)」という造語が使われることはこれ以前からも度々あったので、さほど特殊な用語ではなかった([[総会屋]]の別名である「'''プロ株主'''」がその好例)。
この「プロ市民」は、以下で記述されている「プロ市民」との意味合い及び関係性は一切無い。
=== 変質 ===
2ちゃんねる用語としては「'''左翼活動家を言い換える隠れ蓑'''」あるいは「'''市民活動で利権を得る者たち'''」を意味としての「プロ市民」がある。つまり「アマチュアのふりをしたプロによる市民活動」というような意味合いである。プロ市民が左派系市民団体に使われる背景には、右派系が似たような活動を行う際に「市民」ではなく、「右翼団体」「[[右翼]]」と表記・報道されてきたからである。鈴木邦男によると日本では人口比で市民活動までする者は僅かだが、メディアにシンパがいることで数百人どころか'''十数人の活動まで'''報道されるなどメディア露出が多いと述べている。鈴木は参加者やメンバー自体が少なく、国民にも共感する者が多く得られないであろう左派[[市民団体]]の言動がマスコミに大きく取り上げられてきたことを熱心な右翼活動家だった時は不公平だと思っていたと述べている。鈴木は右派は投票程度しか政治的な行為をしない者が圧倒的多数であり、自身の経験から左派団体専従の総数よりも右派系団体のメンバー総数の方が少ないと述べている。更に鈴木はそもそも日本人に馴染みのある'''国民'''を使った国民団体にせずに、「'''市民'''」「'''市民団体'''」'''という言葉自体が外国籍がいることを内包している'''からと解説している<ref name=":0" />。
[[ジャーナリスト]]の[[清谷信一]]も「プロ市民団体」と「普通の市民団体」を[[マスメディア|メディア]]はしっかりと分けて伝えるべきだとし、また「[[日本の右翼団体|右翼団体]]」の抗議の場合は「右翼団体」として[[報道]]されるのに対し、「プロ市民団体」「[[日本の左翼団体|左翼団体]]」は単に「市民団体」と報道される矛盾を指摘している<ref name="kiyotani2">2006年9月6日 清谷信一公式ブログ[https://megalodon.jp/2009-0611-2100-30/kiyotani.at.webry.info/200609/article_2.html 「プロ市民運動」を「市民運動」を区別しよう]</ref><ref>2009年2月24日 清谷信一公式ブログ [https://megalodon.jp/2009-0611-2112-43/kiyotani.at.webry.info/200902/article_10.html 左翼活動家は「市民運動」で右翼は「右翼」と報道される不思議]</ref>。
また漫画家の[[小林よしのり]]は、『[[新・ゴーマニズム宣言]]』において「プロ市民」という言葉を用いている。小林は[[薬害エイズ事件|薬害エイズ裁判]]において、共産党など左翼系も受け入れて原告支援団体を率いる立場となった。しかし、次第に[[労働組合]]や、[[日本民主青年同盟]](民青)などの共産党系左派組織に乗っ取られ<ref group="注釈">『新・ゴーマニズム宣言』14章で民青や労組関与の問題を訴えた直後、[[全日本民主医療機関連合会]]の[[薬剤師]]から「(民青や労組の関与を批判するとは)お前は思想差別者だ。(労組などの)団体による数の力でしか世の中は動かないのだ。…支える会を辞任せずとも、こちらから首にする」という居丈高な投稿があったことを小林は公表している。</ref>、結果団体から追い出された挙句にバッシングまでされたためである。この経緯については、『[[新・ゴーマニズム宣言#薬害エイズ問題を巡って|新・ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論]]』にて、薬害エイズ支援学生ボランティア団体を「[[戦争責任]]追及」など無関係な問題に誘導しようとする左翼活動家たちの暗躍を目の当たりにした小林は、「プロ市民」という言葉を多く用いるようになったと述べている<ref>新・ゴーマニズム宣言第15巻p34,小林よしのり,小学館</ref>。
以下ではこの意味でのプロ市民について記載する。
== 捉えられ方 ==
似ているが非なる言葉に、労働組合、[[日本共産党]]など政治団体などで、会社勤めの傍らで活動に従事するのではなく、労働組合や政治団体自体から[[給与]]をもらって活動に専念する人間を意味する「[[専従]]」「[[職業革命家]](職革)」がある<ref group="注釈">企業や政治団体において、会社勤めの業務の傍らではなく、組合・政治活動のみを行う者。鈴木は共産党の議員は民間・官公の共産党系労組からの抜擢を除いて、学生時代に民青所属・大卒後に就職せずに党で専従活動を行って、その中で党への貢献が高い専従だけがなれると語っている。共産党では彼らのように就職せずに、党への活動を優先した党員を職業革命家(職革)と呼んでいた。</ref><ref name=":0" />。
[[市民活動]]とは、政治についての知識をある程度身に着けている者、若しくは初心者が、問題意識を持って政治などについて議論や集会などの活動を行うものであるが、プロ市民という際、その活動者の活動を「特定グループに属する市民・党派や、特定の[[プロパガンダ]]、外国勢力などのために利益誘導の活動を行っているのであろう」とみなした者が否定的文脈において用いている。この「プロ市民」は、プロ株主の持つ意味合いに近い。
「特定グループに属する市民・党派や、特定のプロパガンダ、外国勢力などのために利益誘導の活動を行っている者」と捉えられる限りにおいて、職業的[[扇動者|アジテーター]]や[[スパイ|工作員]]のほか、職業として市民活動と関わる[[弁護士]](特に人権派と呼ばれる弁護士)・[[政治家]]・学者であってもプロ市民とされることがある。なお、欧米諸国によく見られるように、政府の[[政権交代]]の度に政府上級[[官僚]]と[[非政府組織|NGO]]あるいは[[NPO]]幹部との間で大規模に人的流動が起きる社会では、社会のエリート層として受け止められている市民セクタの[[プロフェッショナル]]という階層が存在する。彼らは自らの主義主張と合致しない[[政権]]の時期にはNGO、NPOの幹部、専門性の高い部署の活動家として活動し、主義主張の合致する政権が成立すると、政府の上級官僚として迎え入れられて政府スタッフとして活動する{{要出典|date=2009年11月}}。また、[[政策]]立案・政策提言を行う[[シンクタンク]]もまた、こういった層による[[非営利団体]]により運営されている。{{seealso|人権派|人権屋}}
== 活動実態 ==
* 「(一般)市民を装っているが実際には(左翼)政治活動家である人びと」との解説がある<ref name=":1" />。
* [[市民活動]](少なくともその一部)に対して懐疑的な立場の者は、発祥とされる2ちゃんねる外でも使用している。ネット上での使用例は多くあり、議員が運営するウェブサイトでも[http://www5a.biglobe.ne.jp/~minoru-n/tsure.html 使用例]が見受けられる。
* 類似した概念は海外にも存在しており、[[ドナルド・トランプ]]が自身の[[Twitter]]で「'''professional protesters'''」と発信し、日本のメディアもこれを「プロ市民」と訳している<ref>[https://twitter.com/realDonaldTrump/status/796900183955095552 ドナルド・トランプのTwitter]</ref><ref>2016年11月11日 Yahoo!ニュース [http://news.yahoo.co.jp/pickup/6220579 トランプ“大統領“「プロ市民がデモをしている」とつぶやき炎上中]</ref>。[[:en:Paid protester]]も参照。
* 『[[週刊新潮]]』(2007年3月15日号)に、[[2007年東京都知事選挙]]候補であった[[浅野史郎]]の支援団体([[都民のハートに火をつける会|浅野史郎さんのハートに火をつける会]])を「プロ市民」と評する記事が掲載された。
* 2005年、東京都杉並区で『新しい歴史教科書』採択にあたり、反対派市民団体による抗議行動が行われたが、
** [[警察庁]]は2005年の『治安の回顧と展望』において、[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]が「『つくる会の教科書採択に反対する杉並親の会』と共闘して、市民運動を装いながら、杉並区役所の包囲行動、同区教育委員会への抗議・申し入れ、傍聴等に取り組んだ」と伝えた。
** また[[公安調査庁]]の『[[内外情勢の回顧と展望]]』では、この抗議活動に中核派が[[日本教職員組合]]などに対し、共同行動を呼びかけたものとしている。この抗議活動を見た清谷信一は、大型のラウドスピーカーや演説内容を「用意周到に集まった彼ら」は、まさに「プロ」であったと語っている<ref name="kiyotani">2006年9月6日 清谷信一公式ブログ[https://megalodon.jp/2009-0611-2100-30/kiyotani.at.webry.info/200609/article_2.html 「プロ市民運動」を「市民運動」を区別しよう]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|title=プロ市民の、毎日が「反日」デー (特集 内も外も「反日」の嵐) |journal=[[諸君!]]|issue=36|volume=8|pp=164-175|date=2004-08|publisher=[[文藝春秋]] |naid=40006280265}}
== 関連項目 ==
* [[オルグ (社会運動)]]
* [[加入戦術]]
* [[ネットスラング]]
* [[市民ジャーナリズム]]
* [[専従]]/[[職業革命家]]
* [[:en:Crowds on Demand|Crowds on Demand]]-依頼により「群衆(抗議活動家等含む)」に扮した俳優を派遣するアメリカの広告会社。
{{DEFAULTSORT:ふろしみん}}
[[Category:日本のインターネットスラング]]
[[Category:2ちゃんねる用語]]
[[Category:2ちゃんねる関連事象]]
[[Category:日本の市民活動]]
[[Category:戦後日本の社会運動]]
[[Category:政治的蔑称]]
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2003-06-21T16:08:54Z
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2023-10-29T19:41:53Z
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[
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ハバクク書
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『ハバクク書』(ヘブライ語: ספר חבקוק、英語: Book of Habakkuk)は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)中の一書であり、ユダヤ教では「後の預言者」に分類され、キリスト教では預言書(十二小預言書)に分類する。十二小預言書の8番目の預言書。3章からなる。正教会では『アワクム書』と呼ぶ。
著者についての伝記的情報は不明。『ハバクク書』には「預言者」とのみ記されている。文体と内容から、エルサレム神殿に所属する預言者であった可能性が推測されている。『ハバクク書』3章は楽器の伴奏を伴う典礼上の祈祷として書かれており、ここからハバククも竪琴等を奏しながら祈祷を行う神殿付きの預言者であることが示唆されるとする。ハバククは旧約外典の『ダニエル書補遺』「ベルと竜」の登場人物でもある。ここではハバククはユダヤの預言者とされ、バビロンのライオンの洞窟にいるダニエルに超自然的な手段で遣わされ、食事を届ける。
カルデア、すなわちバビロニアが脅威として描かれている ことから、ユダ王国の末期に書かれたと推測する見解がある。エホヤキム王の治下、紀元前609年から紀元前598年が、ひとつの可能性として想定されうる。エルサレムがバビロニアに攻略されるのは紀元前598年である。バビロニアの残酷さは直接的な生々しさをもって描かれている。
『ハバクク書』はユダヤが直面する民族的困難が増大する時代にあって、疑念が付されてきた神への絶対的な信頼と能力の妥当性という問題を扱っている。この時代の中東においては、神の絶対的な権能は、それを崇拝する国家の国力と直接に結び付けられていた。ユダヤ民族の衰退はこれを疑わしめるものであったが、ハバククは「民の悪行に対する神の怒り」「異民族による怒りの執行」という観点に立つことによって、民族的困難と神への信頼を両立させる。同時にここには、そのような他の諸国にも威力を及ぼす神の絶対性と将来の救済、「怒りのうちにも憐れみを忘れぬ神」 という観念がみられる。神は終極においてその支配権をあまねくおよぼし、その民を救い彼らに敵するものを滅ぼす。ハバククは、現在また近い将来ユダに臨む神の怒りと、遠く待望される神との和解と救済を、その預言のなかで提示している。
3章の冒頭に出てくる「シグヨノテ(英訳:Shigionoth)」というフレーズは、新改訳聖書では「悲しみの歌」と訳されると注がある。
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『ハバクク書』は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)中の一書であり、ユダヤ教では「後の預言者」に分類され、キリスト教では預言書(十二小預言書)に分類する。十二小預言書の8番目の預言書。3章からなる。正教会では『アワクム書』と呼ぶ。
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{{旧約聖書}}
『'''ハバクク書'''』({{lang-he|ספר חבקוק}}、{{lang-en|Book of Habakkuk}})は、[[旧約聖書]]([[ヘブライ語]][[聖書]])中の一書であり、[[ユダヤ教]]では「後の預言者」に分類され、[[キリスト教]]では[[預言書]]([[十二小預言書]])に分類する。十二小預言書の8番目の預言書。3章からなる。[[日本ハリストス正教会|正教会]]では『'''アワクム書'''』と呼ぶ。
== 預言者ハバクク ==
著者についての伝記的情報は不明。『ハバクク書』には「預言者」とのみ記されている<ref>1:1</ref>。文体と内容から、[[エルサレム神殿]]に所属する預言者であった可能性が推測されている。『ハバクク書』3章は楽器の伴奏を伴う典礼上の祈祷として書かれており、ここからハバククも竪琴等を奏しながら祈祷を行う神殿付きの預言者であることが示唆されるとする。ハバククは旧約[[外典]]の『ダニエル書補遺』「[[ベルと竜]]」の登場人物でもある<ref>ベルと龍 33-39</ref>。ここではハバククはユダヤの預言者とされ、バビロンのライオンの洞窟にいるダニエルに超自然的な手段で遣わされ、食事を届ける。
== 歴史的文脈 ==
[[カルデア]]、すなわち[[バビロニア]]が脅威として描かれている<ref>1:6-11</ref> ことから、[[ユダ王国]]の末期に書かれたと推測する見解がある。[[エホヤキム (ユダ王)|エホヤキム]]王の治下、[[紀元前609年]]から[[紀元前598年]]が、ひとつの可能性として想定されうる。エルサレムがバビロニアに攻略されるのは紀元前598年である。バビロニアの残酷さは直接的な生々しさをもって描かれている<ref>1:12-17</ref>。
== 主題 ==
『ハバクク書』はユダヤが直面する民族的困難が増大する時代にあって、疑念が付されてきた神への絶対的な信頼と能力の妥当性という問題を扱っている。この時代の中東においては、神の絶対的な権能は、それを崇拝する国家の国力と直接に結び付けられていた。ユダヤ民族の衰退はこれを疑わしめるものであったが、ハバククは「民の悪行に対する神の怒り」「異民族による怒りの執行」という観点に立つことによって、民族的困難と神への信頼を両立させる。同時にここには、そのような他の諸国にも威力を及ぼす神の絶対性と将来の救済、「怒りのうちにも憐れみを忘れぬ神」<ref>3:2</ref> という観念がみられる。神は終極においてその支配権をあまねくおよぼし、その民を救い彼らに敵するものを滅ぼす<ref>3:12-14</ref>。ハバククは、現在また近い将来ユダに臨む神の怒りと、遠く待望される神との和解と救済を、その預言のなかで提示している。
3章の冒頭に出てくる「シグヨノテ(英訳:Shigionoth)」というフレーズは、新改訳聖書では「悲しみの歌」と訳されると注がある。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[ハバクク]]
* [[氷山空母]] - [[第二次世界大戦|第二次世界大戦中]]の[[航空母艦]]製造計画名にハバクク(ハバクック)の名が冠せられた。
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[[Category:ヘブライ語聖書]]
[[Category:旧約聖書正典]]
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コリオリの力
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コリオリの力(コリオリのちから、仏: force de Coriolis)またはコリオリ力(コリオリりょく)とは、慣性系に対して回転する座標系内を運動する物体に作用する慣性力または見かけの力である。時計回りに回転する座標系では、この力は物体の進行方向の左側に働き、反時計回りでは力は右に働く。コリオリの力による物体の偏向はコリオリ効果と呼ばれる。コリオリの力を数学的に表現したのは、1835年にフランスの科学者ガスパール=ギュスターヴ・コリオリが水車の理論に関連して発表した論文が初出である。20世紀初頭、コリオリ力という言葉は気象学に関連して使われ始めた。
ニュートンの運動法則は、慣性(加速しない)系内の物体の運動を記述している。ニュートンの法則を回転系に変換すると、コリオリ加速度と遠心加速度が現れる。質量を持つ物体に適用すれば、それぞれの力は質量に比例する。コリオリ力の大きさは回転速度に比例し、遠心力の大きさは回転速度の2乗に比例する。コリオリ力は、慣性系に対する回転系の角速度と、回転系に対する物体の速度という2つの量に垂直な方向に作用し、その大きさは回転系における物体の速度(より正確には、速度のうち回転軸に垂直な成分)に比例する。遠心力は半径方向の外側に働き、回転フレームの軸からの物体の距離に比例する。これらの付加的な力は、慣性力、見かけの力と呼ばれる。回転系にこれらの見かけの力を導入することで、ニュートンの運動法則をあたかも慣性系であるかのように回転系に適用することができる。
コリオリ力という用語の日常的な使われ方において、回転系は大抵地球を意味している。地球は自転しているため、地球にいる観測者は、物体の運動を正しく分析するためにはコリオリ力を考慮する必要がある。コリオリ力の影響が顕著になるのは、大気中の空気や海洋中の水の大規模な運動など、距離や時間のスケールが大きい運動や、長距離砲やミサイルの軌道のように精度が重要な場合に限られる。このような運動はおよそ地球の表面にに制約されるため、一般にコリオリ力の水平成分のみが重要となる。この力は、地表を移動する物体を、北半球では進行方向に対して右に、南半球では左に偏向させる。この水平偏向の影響は極点付近でより大きくなる。というのも、局所的な鉛直軸を中心とした有効的な回転速度は極点付近で最も大きくなり、赤道付近ではゼロまで減少するからである。風や海流は、非回転系のように単純に高気圧から低気圧へと直接流れるのではなく、赤道より北ではこの方向より右に(反時計回り)、赤道より南ではこの方向より左に(時計回り)流れる傾向がある。この効果によって回転が起こり、台風が形成される。
イタリアの科学者ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリと彼の助手フランチェスコ・マリア・グリマルディは、1651年の『アルマゲストゥム・ノヴム(Almagestum Novum)』の中で、大砲に関連してこの効果を説明し、地球の自転が北に向かって発射された大砲の弾丸を東に偏らせるはずだと書いている。 1674年、クロード・フランソワ・ミリエ・デシャレスは、『キュルス・ゼウ・ムンドゥス・マテマティカス(Cursus seu Mundus Mathematicus)』の中で、地球の自転が、落下する物体や一方の極に向かって発射される弾丸の軌道の偏向を引き起こすはずだと説明している。リッチョーリ、グリマルディ、デチャレスはいずれも、コペルニクスの天動説に対する反論の一環として、この効果を説明した。言い換えれば、彼らは地球の自転がその効果を生み出すはずであり、その効果を検出できないことが地球が不動であることの証左となるだろうと主張した。 コリオリ加速度方程式は1749年にレオンハルト・オイラーによって導かれ、 その効果は1778年にピエール=シモン・ラプラスの潮汐方程式に記述された。
コリオリは、1835年に水車のような回転部分を持つ機械のエネルギー収量に関する論文を発表した。 その論文でコリオリは、回転する系で検出される補助力について考察した。コリオリはこれらの補助力を2つのカテゴリーに分け、その2つ目のカテゴリーには座標系の角速度と系の回転軸に垂直な平面への粒子の速度の射影の外積から生じる力が含まれていた。 コリオリは、第1カテゴリーですでに考慮されていた遠心力との類似性から、この力を「複合遠心力」と呼んだ。 この効果は、20世紀初頭には「コリオリの加速度」として知られ、 1920年までには「コリオリ力」と呼ばれるようになった。
1856年、ウィリアム・フェレルは、コリオリの力による偏西風を含む中緯度の大気循環の存在を提唱した。
地球の自転が気流にどのような影響を与えるかという運動学的な理解は当初部分的なものであったが、 19世紀後半には、気団を等圧線に沿って移動させる原因となる、圧力勾配とコリオリ力の大規模な相互作用の全容が理解された。
コリオリの力を実感するには、フィギュアスケーターのように回転しながら、重り(500 g程度でよい)を持った手を「前にならえ」の要領で前に突き出したり胸元にしまったりを繰り返すと分かりやすい。左回りに回転している場合、腕を前方に突き出す時には重りが右方向に引っ張られるように感じ、腕を胸元にしまうときには左方向に吸い込まれるように感じる。この、重りの進行方向からみて右にずれる方向に働いている見かけ上の力が、コリオリの力である。
コリオリの力を工学的に利用した装置として、角速度を測るジャイロ(角速度計)や流量計などがある。
地球は東向きに自転している。そのため、低緯度の地点から高緯度の地点に向かって運動している物体には東向き、逆に高緯度の地点から低緯度の地点に向かって運動している物体には西向きの力が働く。北半球では右向き、南半球では左向きの力が働くとも言える。例としては、以下のものがある。
ここからは地球の自転によるコリオリの力の大きさを数学的に記述する。地球の角速度を ω {\displaystyle \omega } とすると、緯度 φ {\displaystyle \phi } における地平面内の南北方向の方向ベクトルの角速度は、 ω sin φ {\displaystyle \omega \sin \phi } となるため、地球の自転によるコリオリの力の大きさは物体の速さを v {\displaystyle v} として
で表される。 f {\displaystyle f} はコリオリ因子と呼ばれる。
コリオリの力が与える影響を考える一例として、コリオリの力を一番強く受ける極点において時速 100 k m {\displaystyle 100\mathrm {km} } のボールをピッチャープレートとホームベースの距離 18.4 m {\displaystyle 18.4\mathrm {m} } の間で投げたとする。地球の角速度 ω {\displaystyle \omega } は ω = 7.29 × 10 − 5 r a d / s {\displaystyle \omega =7.29\times 10^{-5}\mathrm {rad/s} } であるから、コリオリの力による加速度の大きさは
である。通過するのにかかる時間 t {\displaystyle t} は t = 0.661 s {\displaystyle t=0.661\mathrm {s} } であるから等加速度運動とみなすとずれの距離 x {\displaystyle x} は
つまり 1 m m {\displaystyle 1\mathrm {mm} } にも満たない。また極点より緯度の小さい地域ではコリオリの力の影響はさらに小さくなる。日常生活の中で地球の回転によって生じるコリオリの力は非常に小さなものなのである。
同じく極点において、今度は秒速1000 mの砲弾を距離10 km先まで飛ばすときのコリオリの力による影響を考える。先ほどと同様に考えると、コリオリの力による加速度の大きさは
であり、通過するのにかかる時間tは t = 10.0 s {\displaystyle t=10.0\mathrm {s} } であるから等加速度運動とみなすとずれの距離 x {\displaystyle x} は
したがって 7 m {\displaystyle 7\mathrm {m} } ものずれが生じる。このように大規模な運動(運動速度が大きくて、運動する時間も長い)では地球の回転によって生じるコリオリの力は大きな影響を及ぼすのである。
慣性系 O − x y {\displaystyle O-xy} に対して原点のまわりを一定の角速度 ω {\displaystyle {\boldsymbol {\omega }}} で回転する座標系 O − x ′ y ′ {\displaystyle O-x'y'} で質点Pに力 F {\displaystyle {\boldsymbol {F}}} が働く場合を考える。 あるベクトル q {\displaystyle {\boldsymbol {q}}} の成分が
慣性系では
回転座標系では
と表されるとき図1,2より q {\displaystyle {\boldsymbol {q}}} は q ′ {\displaystyle {\boldsymbol {q'}}} を原点Oのまわりに ω t {\displaystyle \omega t} だけ回転したものになるので
と表される。
と定義する。すると質点 P {\displaystyle P} の位置ベクトル r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} と回転座標系でみたベクトル r ′ {\displaystyle {\boldsymbol {r'}}} の関係は
と表される。
両辺を時刻 t {\displaystyle t} で微分して
さらに t {\displaystyle t} で微分して
a = d 2 r d t 2 = ω d R ( ω t + π / 2 ) d t r ′ + ω R ( ω t + π / 2 ) d r ′ d t + d R ( ω t ) d t v ′ + R ( ω t ) d v ′ d t = ω 2 R ( ω t + π ) r ′ + 2 ω R ( ω t + π / 2 ) v ′ + R ( ω t ) a ′ = − ω 2 R ( ω t ) r ′ + 2 ω R ( ω t + π / 2 ) v ′ + R ( ω t ) a ′ {\displaystyle {\begin{aligned}{\boldsymbol {a}}&={\frac {d^{2}{\boldsymbol {r}}}{dt^{2}}}\\&=\omega {\frac {d{\boldsymbol {R}}(\omega t+\pi /2)}{dt}}{\boldsymbol {r'}}+\omega {\boldsymbol {R}}(\omega t+\pi /2){\frac {d{\boldsymbol {r'}}}{dt}}+{\frac {d{\boldsymbol {R}}(\omega t)}{dt}}{\boldsymbol {v'}}+{\boldsymbol {R}}(\omega t){\frac {d{\boldsymbol {v'}}}{dt}}\\&=\omega ^{2}{\boldsymbol {R}}(\omega t+\pi ){\boldsymbol {r'}}+2\omega {\boldsymbol {R}}(\omega t+\pi /2){\boldsymbol {v'}}+{\boldsymbol {R}}(\omega t){\boldsymbol {a'}}\\&=-\omega ^{2}{\boldsymbol {R}}(\omega t){\boldsymbol {r'}}+2\omega {\boldsymbol {R}}(\omega t+\pi /2){\boldsymbol {v'}}+{\boldsymbol {R}}(\omega t){\boldsymbol {a'}}\end{aligned}}}
......(1)
ここでは R ( ω t + π ) = − R ( ω t ) {\displaystyle {\boldsymbol {R}}(\omega t+\pi )=-{\boldsymbol {R}}(\omega t)} を用いた。
ベクトル F {\displaystyle {\boldsymbol {F}}} と回転座標系でみたベクトル F ′ {\displaystyle {\boldsymbol {F'}}} の関係は
F = R ( ω t ) F ′ {\displaystyle {\boldsymbol {F}}={\boldsymbol {R}}(\omega t){\boldsymbol {F'}}} ......(2)
と表される。
運動方程式 F = m a {\displaystyle {\boldsymbol {F}}=m{\boldsymbol {a}}} に(1)と(2)を代入して
両辺に R ( − ω t ) {\displaystyle {\boldsymbol {R}}(-\omega t)} をかけて
式変形して
すなわち回転座標系から物体を見た場合実際の力 F {\displaystyle {\boldsymbol {F}}} のほかに m ω 2 r ′ {\displaystyle m\omega ^{2}{\boldsymbol {r'}}} と 2 m ω R ( π / 2 ) v ′ {\displaystyle 2m\omega {\boldsymbol {R}}(\pi /2){\boldsymbol {v'}}} の力が働いているように見える。
この 2 m ω R ( π / 2 ) v ′ {\displaystyle 2m\omega {\boldsymbol {R}}(\pi /2){\boldsymbol {v'}}} は、見かけの力でコリオリの力という。コリオリの力は速度 v ′ {\displaystyle v'} の方向と回転軸の方向 ω {\displaystyle \omega } の両方に垂直である。
m ω 2 r ′ {\displaystyle m\omega ^{2}{\boldsymbol {r'}}} は、質点を回転軸に垂直に引き離そうとする見かけの力で遠心力という。
以下では、地球の公転は無視し、地球は半径 R {\displaystyle R} の球形とする。 静止座標系として、地球の中心を原点とし、地軸の北極方向を z {\displaystyle z} 軸、赤道面を x y {\displaystyle xy} 平面とする座標系を考える。
次に、地球表面の点で、地球の自転とともに動くを観測点 P {\displaystyle P} を考える。
ただし、 R {\displaystyle R} は地球の半径、 α {\displaystyle \alpha } は観測点 P {\displaystyle P} の緯度、 ω {\displaystyle \omega } は地球の自転の角速度 ω = 2 π / ( 24 × 60 × 60 s ) {\displaystyle \omega =2\pi /(24\times 60\times 60~\mathrm {s} )} 、 t {\displaystyle t} は時刻、 δ {\displaystyle \delta } は時刻 t = 0 {\displaystyle t=0} における P {\displaystyle P} の位置を表すパラメータだが、以下コリオリの力に関係ないので δ = 0 {\displaystyle \delta =0} とする。
回転座標系として、 P {\displaystyle P} を原点とし、次の3つの単位ベクトルで張られる座標系を考える。
この座標系で、時刻 t {\displaystyle t} における質点 X {\displaystyle X} の位置が、 f 1 {\displaystyle f_{1}} 成分 a 1 ( t ) {\displaystyle a_{1}(t)} 、 f 2 {\displaystyle f_{2}} 成分 a 2 ( t ) {\displaystyle a_{2}(t)} 、 f 3 {\displaystyle f_{3}} 成分 a 3 ( t ) {\displaystyle a_{3}(t)} で表記されたとする。(以下 t {\displaystyle t} は省略する。)
静止系で表すと
である。
以下時間での微分を ′ {\displaystyle '} で表す。
静止系では運動方程式が成り立つため、質点 X {\displaystyle X} の質量を m {\displaystyle m} 、掛かる力を F {\displaystyle F} とすると、
ここで、
は、この回転座標系での加速度であり、
が、この座標系での「みかけの力」即ち慣性力になる。
上で示した
を使えば、
この部分は、広義のコリオリの力に対応する部分であり、
ことを示している。
これは、 f 2 {\displaystyle f_{2}} と f 3 {\displaystyle f_{3}} で張られた平面(観測点 P {\displaystyle P} を通り地軸に直交する平面)での2次元のコリオリの力に一致する。
なお、
は、 質点 X {\displaystyle X} から地軸に下ろした垂線の足から、質点 X {\displaystyle X} までの方向ベクトルが a 2 f 2 + a 3 f 3 + R cos α f 3 {\displaystyle a_{2}f_{2}+a_{3}f_{3}+R\cos \alpha f_{3}} であることを考えれば、質点 X {\displaystyle X} にかかる「みかけの力」遠心力である。
次に、上記の回転座標系では、北極星の方向、天頂から真南へ角度 α {\displaystyle \alpha } だけ傾けた方向を座標軸とするので不便だから、別の座標系を考える。
P {\displaystyle P} を原点とし、次の3つの単位ベクトル e 1 {\displaystyle e_{1}} 、 e 2 {\displaystyle e_{2}} 、 e 3 {\displaystyle e_{3}} で張られる座標系とする。
基底変換は行列で表すと、
[ f 1 f 2 f 3 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}\ f_{1}&f_{2}&f_{3}\end{bmatrix}}} 座標系の座標
が、
[ e 1 e 2 e 3 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}\ e_{1}&e_{2}&e_{3}\end{bmatrix}}} 座標系の座標
と同じ点を表すには、
のため
でなければならない。
α {\displaystyle \alpha } は時間には依存しないため、
運動方程式を書き換えれば、
について、
上記は加速度の項である。
上記は広義のコリオリの力の項である。
上記は遠心力の項である。
ここで、広義のコリオリの力の項を見ると、
ことが分かる。
このうち、天頂方向の速度と力を捨象した、
と言える。これがコリオリの力である。接平面内であれば、どの方向の速度ベクトルでも北方向と東方向の速度ベクトルの合成で作れるため、「 2 m ω sin α {\displaystyle 2m\omega \sin \alpha } ×速度」だけの接平面内の「みかけの力」がかかることが分かる。
3次元の場合のコリオリの力をまとめると、次の3段階で導出されていることが分かる。
ここで、接平面 T {\displaystyle T} 内の東向き(自転方向の向き)の大きさ v {\displaystyle v} の速度ベクトルについて考えれば、それを平面 L {\displaystyle L} に射影しても変わらずに大きさ v {\displaystyle v} であり、平面 L {\displaystyle L} 内のコリオリの力は、大きさ 2 m ω v {\displaystyle 2m\omega v} 、方向は東と直交し地軸から遠ざかる方向であり、それを接平面 T {\displaystyle T} に射影すると、コリオリの力(の接平面 T {\displaystyle T} 内の成分)は、大きさ 2 m ω v sin α {\displaystyle 2m\omega v\sin \alpha } 、方向は南となる。
接平面 T {\displaystyle T} 内の北向きの大きさ v {\displaystyle v} の速度ベクトルについて考えれば、それを平面 L {\displaystyle L} に射影すると大きさは v sin α {\displaystyle v\sin \alpha } となり、平面 L {\displaystyle L} 内のコリオリの力は、大きさ 2 m ω v sin α {\displaystyle 2m\omega v\sin \alpha } 、方向は東であり、それを接平面 T {\displaystyle T} に射影すると、コリオリの力は変わらず、大きさ 2 m ω v sin α {\displaystyle 2m\omega v\sin \alpha } 、方向は東となる。
接平面 T {\displaystyle T} 内の大きさ v {\displaystyle v} の任意の方向の速度ベクトルは、東方向と北方向の速度ベクトルの一次結合で表せるため、その接平面 T {\displaystyle T} 内のコリオリの力は、大きさ 2 m ω v sin α {\displaystyle 2m\omega v\sin \alpha } 、方向は北極側から見て速度ベクトルの方向から90度時計回りに回転した方向となることが分かる。
地球の表面に沿って北半球を北上する物体を考えると、宇宙空間から見れば物体は真北に進んでいるようには見えず、東進しているように見える(地球の表面とともに右回りに回転している)。北に進むほど、「平行(緯度)方向の半径」が小さくなるため、地表そのものの東進は遅くなるが、一方で物体は(地表の局所的の東向きの速度の低下に合わせて速度を落とすのではなく)最初の東向きの速度を維持するため、東にさらに傾く。
この例では北向きの動きを考えているのでわからないが、進行方向に対しての垂直方向の偏向は、東向きや西向き(あるいはその他の方向)に動く物体にも同じように生じる。 しかし、一般的な大きさの家庭用バスタブ、洗面台、トイレの排水の回転を決めるのはこの力だという説は、現代の科学者たちによって繰り返し否定されている。
地表を「滑る」空気の運動に影響を与える加速度は、次式のコリオリ項の水平成分である。
この成分は地表の速度と直交しており、次式で与えられる。
緯度が正である北半球では、この加速度は上から見て進行方向の右側にある。逆に、南半球では左になる。
南北軸を中心に回転する球体上の緯度 φ の場所を考える。 x 軸を水平に真東、y軸を水平に真北、z軸を垂直に上に向けて局所的座標系を設定する。この局所的座標系で表される回転ベクトル、移動速度、コリオリ加速度(東(e)、北(n)、上(u)の順に成分を列挙する)は以下の通りである:
大気や海洋の力学を考慮する場合、鉛直速度は小さく、コリオリ加速度の鉛直成分 ( v e cos φ {\displaystyle v_{e}\cos \varphi } ) は重力(g, 地球表面付近で約9.81 m/s (32.2 ft/s))に比べて小さいとして、水平(東と北)成分のみが問題にすれば水平面に対する上記の制限は(vu = 0)である。:
ここで f = 2 ω sin φ {\displaystyle f=2\omega \sin \varphi \,} はコリオリパラメータという。
vn = 0 としたことで、(正の φ, ωに対して)東への移動は南への加速となることが直ちににわかる。同様に、ve = 0 とすると、北向きに動くと東向きに加速することがわかる。一般に、加速度の原因となる運動の方向に沿って水平に観察すると、加速度は常に(正のφの場合)右に90度回転しており、進行方向に向きに関係なく同じ大きさである。
別のケースとして、φ=0°とする赤道運動を考える。この場合、Ωは北軸またはn軸に平行である:
したがって、東への運動(つまり球体の回転と同じ方向)はエトヴェシュ効果(英語版)として知られる上向きの加速度をもたらし、上向きの運動は西向きの加速度をもたらす。
コリオリ効果の最も重要な影響は、海洋と大気の大規模な力学であろう。気象学や海洋学では、地球が静止している回転座標系を仮定するのが便利である。この仮定のもとで、遠心力とコリオリ力が導入される。それらの相対的な重要性は、適用されるロスビー数によって決定される。例えば、竜巻は高いロスビー数を持つため、竜巻に関連する遠心力はかなり大きいが、竜巻に関連するコリオリ力は実用上は無視できる。
表層海流は水面上の風の動きによって引き起こされるため、コリオリの力は海流やサイクロンの動きにも影響を与える。海流の多くは、環流と呼ばれる暖かく高気圧に覆われた海域を循環を形成する。この循環は大気中の循環ほど大きくないが、コリオリ効果によって引き起こされる偏向が、これらの環流の渦巻きパターンを生み出している。渦巻き状の風パターンは、ハリケーンの形成を助ける。コリオリ効果による力が強ければ強いほど、風は速く回転し、さらなるエネルギーを拾い上げ、ハリケーンの強さを増す。
高気圧内の空気は、コリオリの力が半径方向内側に向き、半径方向外側の圧力勾配とほぼ釣り合うような方向に回転する。その結果、空気は北半球では高気圧の周りを時計回りに、南半球では反時計回りに移動する。低気圧の周りの空気は反対方向に回転するため、コリオリの力は半径方向外側に向き、半径方向内側の圧力勾配とほぼ釣り合う。
大気中に低気圧が形成されると、空気は低気圧に向かって流れ込む傾向があるが、コリオリの力によって速度に対して垂直に偏向される。その結果、平衡系が形成され、円運動やサイクロン流が発生する。ロスビー数が小さいため、力のバランスは、低気圧に向かって作用する圧力勾配力と、低気圧の中心から離れる方向に作用するコリオリ力の間で大きく変化する。
大気や海洋の大規模な運動は、素直に気圧勾配を下るのではなく、コリオリ力の影響で気圧勾配に垂直に起こる傾向がある。これは地衡流として知られている。 回転していない惑星では、流体は可能な限り直線に沿って流れ、圧力勾配はすぐになくなる。そのため、地衡バランスは「慣性運動」(下記参照)の場合とは大きく異なり、中緯度でのサイクロンがただの慣性円流の場合より桁違いに大きい理由も説明できる。
この偏向のパターンと移動方向は、ビュイス・バロットの法則と呼ばれる。大気圏では、この流れのパターンをサイクロンと呼ぶ。北半球では、低気圧の周りの移動方向は反時計回りである。南半球では、回転力学が鏡像であるため、移動方向は時計回りである。 At high altitudes, outward-spreading air rotates in the opposite direction.赤道付近はコリオリ効果が弱いため、サイクロンが発生することはほとんどない。
速度 v {\displaystyle v\,} で移動する空気または水の塊は、コリオリ力のみを受け、慣性円と呼ばれる円形の軌跡を描く。この力は粒子の運動に対して直角に働くので、粒子は等速円運動をし、その半径 R {\displaystyle R} は:
ここで f {\displaystyle f} は 2 Ω sin φ {\displaystyle 2\Omega \sin \varphi } で表されるコリオリパラメーターである。(上記参照) ( φ {\displaystyle \varphi } は緯度)したがって、物体が円軌道を1周するのにかかる時間は 2 π / f {\displaystyle 2\pi /f} である。コリオリパラメーターは通常、中緯度の値で約10 sなので、典型的な大気速度10 m/s (22 mph)で半径 100 km (62 mi)、周期17 hoursとなる。一方典型的な速度の海流(10 cm/s (0.22 mph)) の場合では、半径は1 km (0.6 mi)となる。これらの慣性円は、北半球では時計回り(軌道が右に曲がる)、南半球では反時計回りである(台風とは逆向きとなることに注意)。
回転系が放物線状のターンテーブル状である場合、 f {\displaystyle f} は一定であり、軌道は正確に円となるが、自転する惑星ではコリオリパラメーター f {\displaystyle f} は緯度によって変化し、粒子の経路は正確な円を描かない。その場合 f {\displaystyle f} は先述の通り緯度の正弦に比例して変化するため、ある速度に伴う回転運動の半径は極点(緯度±90°)で最も小さく、赤道に向かって大きくなる。
コリオリ効果は、大規模な海洋循環や大気循環に強く影響し、ジェット気流や西部境界流のような強固な特徴を形成する。このような地形は、地衡平衡状態(コリオリの力と圧力勾配の力が釣り合っていることを意味する)にある。コリオリ加速は、ロスビー波やケルビン波など、海洋や大気中の多くの種類の波の伝播にも関与している。また、海洋におけるいわゆるエクマン境界層や、風成循環と呼ばれる大規模な海洋の流れパターンの確立にも関与している。
コリオリ効果の実際的な影響は、ほとんどが水平運動によって生じる水平加速度成分によって引き起こされるが、コリオリ効果の他の要素として、西に進む物体は下に偏向され、東に進む物体は上に偏向されるエトヴェシュ効果がある。この効果は赤道付近で最大となる。エトヴェシュ効果によって生じる力は水平方向の成分と似ているが、重力と圧力による垂直方向の力の方がはるかに大きいため、静水圧平衡ではあまり重要ではない。しかし大気中では、風は静水圧平衡からの圧力の小さな偏差と関連している。熱帯大気では、圧力の偏差の大きさのオーダーは非常に小さいので、エトヴェシュ効果の圧力偏差への寄与はかなりのものとなる。
加えて、上方(すなわち外側)または下方(すなわち内側)に進む物体はそれぞれ西または東に偏向し、この影響も赤道付近で最大となる。垂直方向の移動は通常、範囲と時間が限られているため、影響の大きさは小さく、検出には精密な機器が必要となる。例えば、理想化された数値モデリング研究によると、この効果は、大気の長期的(2週間以上)な加熱または冷却があれば、熱帯の大規模風速場におよそ10%直接影響を与える可能性がある。
さらに、軌道に打ち上げられる宇宙船のように運動量が大きく変化する場合、その影響は大きくなる。軌道への最速かつ最も燃料効率の良い経路は、赤道から真東にカーブして打ち上げることである。
赤道に沿って摩擦のない線路を走る列車を考える。走行中は、1日で世界1周するのに必要な速度(465 m/s)で移動すると仮定する。 コリオリ効果は、列車が西に進む場合、静止している場合、東に進む場合の3つのケースで考えることができる。それぞれの場合において、コリオリ効果はまず地球上の回転系から計算し、次に固定慣性系煮直すことができる。下の図は、地球の自転軸に沿った北極上空の定点から、慣性系で静止している観測者が見た3つの場合を示している。 ( 1 day = ∧ 8 s ) : {\displaystyle \left(1{\text{ day}}\mathrel {\overset {\land }{=}} 8{\text{ s}}\right):}
このことは、西に飛ぶ高速の弾丸が下に偏向し、東に飛ぶ弾丸が上に偏向する理由も説明している。このコリオリ効果の垂直成分をエトヴェシュ効果(Eötvös effect)と呼ぶ。
上記の例は、物体の接線速度が地球の自転速度(465 m/s)より速くなると、物体が西に向かうにつれてエトヴェシュ効果が減少し始める理由を説明するために使うことができる。上の例で西向きの列車が速度を上げると、線路を押す重力の一部が、慣性系上で円運動を維持するために必要な求心力を占める。列車が西向きの速度を自転速度の2倍の930 m/s (2,100 mph)にすると、その求心力は列車が停止するときに受ける力と等しくなる。慣性系から見ると、どちらの場合も同じ速度で回転するが、方向は反対である。したがって、エトヴェシュ効果を完全に打ち消す力は同じである。930 m/s (2,100 mph)以上の速度で西に移動する物体は、代わりに上向きの力が加わる。図では、10-キログラム (22 lb)の物体を異なる速度で列車に乗せた場合のエトヴェシュ効果を示している。放物線の形をしているのは、求心力が接線速度の2乗に比例するからである。慣性系上では、放物線の底は原点を中心とする。オフセットは、この議論が地球の回転系を使用しているためである。このグラフは、エトヴェシュ効果が対称的ではなく、高速で西に移動する物体が受ける下向きの力は、同じ速度で東に移動する物体が受ける上向きの力よりも小さいことを示している。
一般にある誤解として、バスタブやトイレなどの水受けは、北半球と南半球で排水方向が逆になることはない。これは、コリオリ力の大きさがこのスケールでは無視できるほど小さいからである。 水の初期状態(排水口の形状、受け皿の形状、水の既存の運動量など)によって決まる力は、通常コリオリの力よりも桁違いに大きく、したがって、水が回転する方向があるとすれば、それらの要因がその方向を決定することになる。例えば、両半球で同じトイレを流した場合、同じ方向に排水されるが、この方向は便器の形状によってほとんど決まる。
現実の条件下では、コリオリの力が水の流れの方向に影響を与えることはない。水が静止しており、地球の実効的な自転速度が容器に対する水の自転速度よりも速い場合、および外部から加えられるトルク(底面の凹凸を流れることによって生じるようなもの)が十分に小さい場合にのみ、コリオリ効果によって渦の方向が実際に決定される可能性がある。このような入念な準備がなければ、コリオリ効果は、水の残留回転や容器の形状などの排水の方向に対する他のさまざまな影響よりもはるかに小さくなる。
1962年、Ascher Shapiro はMITでコリオリの力を試す実験を行った。横長2 meters (6 ft 7 in) の大きな水盤に、回転方向を示す小さな木の十字架を栓穴の上に置き、蓋をして水が落ち着くまで少なくとも24時間待ち排水をおこなった。このような正確な実験条件下で、彼はコリオリ効果と整合した反時計回りの回転(MITは北半球に位置する)を実証した。
彼は以下ように報告している。
ロイド・トレフェセンは、シドニー大学において、18時間以上の沈降時間を伴う5つのテストにおいて、南半球における時計回りの回転を報告した。
コリオリの力は弾道学において、非常に長距離の砲弾の弾道を計算するために重要である。歴史的に最も有名な例は、第一次世界大戦中にドイツ軍が約120 km (75 mi)の距離からパリを砲撃するために使用したパリ砲である。コリオリの力は弾丸の軌道を微細に変化させ、非常に長い距離での命中精度に影響を与える。スナイパーのような長距離射撃の正確な射手は、コリオリの力を調整している。カリフォルニア州サクラメントの緯度では、1,000 yd (910 m)北に向かって撃った弾丸は2.8 in (71 mm)右に偏向する。また、上記のエトヴェシュ効果の項で説明した垂直方向の成分もあり、西向きの射撃は低く、東向きの射撃は高く命中する。
弾道に対するコリオリ力の影響を、ミサイルや人工衛星などの軌道をメルカトル図法のような二次元(平面)地図上にプロットした場合の軌道の湾曲と混同してはならない。地球の3次元曲面を2次元曲面(地図)に投影すると、必然的に歪んだ形状になる。経路の見かけの湾曲は地球の球面性の結果であり、回転していないフレームでも生じる。
移動する弾丸にかかるコリオリ力は、緯度、方位角の3方向すべての速度成分に依存する。方向とは、通常、ダウンレンジ(最初に銃が向いている方向)、垂直方向、クロスレンジの3方向である。
コリオリ効果を実用化したものに管内を流れる流体の質量流量と密度を測定する装置である、コリオリ式質量流量計がある。作動原理は、流体が通過する管の振動を誘発することにある。振動は完全な円形ではないが、コリオリ効果を生み出す回転系となる。具体的な方法は流量計の設計によって異なるが、センサーは振動するフローチューブの周波数、位相シフト、振幅の変化をモニターし分析する。観測された変化から流体の質量流量と密度を分析することができる。
多原子分子では、分子運動は、平衡位置を中心とした原子の剛体回転と内部振動によって記述することができる。原子の振動の結果、原子は分子の回転座標系に対して相対的に運動する。そのためコリオリ効果が存在し、原子を元の振動に垂直な方向に運動させる。このため、分子のスペクトルには回転準位と振動準位が混在することになり、そこからコリオリ結合定数を求めることができる。
ハエ(双翅目)と一部の蛾(鱗翅目)は、体の角速度に関する情報を伝達する特殊な付属器官や器官によって、飛行中のコリオリ効果を利用している。これらの付属器の直線運動から生じるコリオリの力は、昆虫の体の回転系内で検出される。ハエの場合、その特殊な付属器は「ハルテア」と呼ばれるあるダンベル状の器官である。
ハルテアは、主翼と同じ周期で平面振動しているため、体が回転するとハルテアの運動平面から横方向にずれる。
蛾では、ハエのハルテアと同様に同様に触角がコリオリの力を感知する役割を担っていることが知られている。 ハエと蛾の両方において、付属器の基部にある機械受容器は、ピッチとロールの平面における回転に相関する周波数と、ヨーの平面における回転に相関する周波数の2倍の周波数の偏差に敏感である。
天文学では、ラグランジュ点とは、2つの大きな天体の軌道面において、重力の影響だけを受ける小さな天体が、2つの大きな天体に対して安定した位置を保つことができる5つの位置のことである。最初の3点(L1, L2, L3) は2つの大きな天体を結ぶ線上にあり、最後の2点(L4 and L5)はそれぞれ2つの大きな天体と正三角形を形成している。L4とL5は、2つの大きな体とともに回転する座標系における有効ポテンシャルの極大値に対応するが、これらはコリオリ効果により安定である。 この安定性は、トロヤ群が見つかるTadpole orbitとして知られる、L4 またはL5だけを周回する軌道をもたらす。 また、馬蹄形軌道として知られるL3, L4, L5, を取り囲む軌道になることもある。
|
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"text": "コリオリの力(コリオリのちから、仏: force de Coriolis)またはコリオリ力(コリオリりょく)とは、慣性系に対して回転する座標系内を運動する物体に作用する慣性力または見かけの力である。時計回りに回転する座標系では、この力は物体の進行方向の左側に働き、反時計回りでは力は右に働く。コリオリの力による物体の偏向はコリオリ効果と呼ばれる。コリオリの力を数学的に表現したのは、1835年にフランスの科学者ガスパール=ギュスターヴ・コリオリが水車の理論に関連して発表した論文が初出である。20世紀初頭、コリオリ力という言葉は気象学に関連して使われ始めた。",
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"text": "ニュートンの運動法則は、慣性(加速しない)系内の物体の運動を記述している。ニュートンの法則を回転系に変換すると、コリオリ加速度と遠心加速度が現れる。質量を持つ物体に適用すれば、それぞれの力は質量に比例する。コリオリ力の大きさは回転速度に比例し、遠心力の大きさは回転速度の2乗に比例する。コリオリ力は、慣性系に対する回転系の角速度と、回転系に対する物体の速度という2つの量に垂直な方向に作用し、その大きさは回転系における物体の速度(より正確には、速度のうち回転軸に垂直な成分)に比例する。遠心力は半径方向の外側に働き、回転フレームの軸からの物体の距離に比例する。これらの付加的な力は、慣性力、見かけの力と呼ばれる。回転系にこれらの見かけの力を導入することで、ニュートンの運動法則をあたかも慣性系であるかのように回転系に適用することができる。",
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"text": "コリオリ力という用語の日常的な使われ方において、回転系は大抵地球を意味している。地球は自転しているため、地球にいる観測者は、物体の運動を正しく分析するためにはコリオリ力を考慮する必要がある。コリオリ力の影響が顕著になるのは、大気中の空気や海洋中の水の大規模な運動など、距離や時間のスケールが大きい運動や、長距離砲やミサイルの軌道のように精度が重要な場合に限られる。このような運動はおよそ地球の表面にに制約されるため、一般にコリオリ力の水平成分のみが重要となる。この力は、地表を移動する物体を、北半球では進行方向に対して右に、南半球では左に偏向させる。この水平偏向の影響は極点付近でより大きくなる。というのも、局所的な鉛直軸を中心とした有効的な回転速度は極点付近で最も大きくなり、赤道付近ではゼロまで減少するからである。風や海流は、非回転系のように単純に高気圧から低気圧へと直接流れるのではなく、赤道より北ではこの方向より右に(反時計回り)、赤道より南ではこの方向より左に(時計回り)流れる傾向がある。この効果によって回転が起こり、台風が形成される。",
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"text": "イタリアの科学者ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリと彼の助手フランチェスコ・マリア・グリマルディは、1651年の『アルマゲストゥム・ノヴム(Almagestum Novum)』の中で、大砲に関連してこの効果を説明し、地球の自転が北に向かって発射された大砲の弾丸を東に偏らせるはずだと書いている。 1674年、クロード・フランソワ・ミリエ・デシャレスは、『キュルス・ゼウ・ムンドゥス・マテマティカス(Cursus seu Mundus Mathematicus)』の中で、地球の自転が、落下する物体や一方の極に向かって発射される弾丸の軌道の偏向を引き起こすはずだと説明している。リッチョーリ、グリマルディ、デチャレスはいずれも、コペルニクスの天動説に対する反論の一環として、この効果を説明した。言い換えれば、彼らは地球の自転がその効果を生み出すはずであり、その効果を検出できないことが地球が不動であることの証左となるだろうと主張した。 コリオリ加速度方程式は1749年にレオンハルト・オイラーによって導かれ、 その効果は1778年にピエール=シモン・ラプラスの潮汐方程式に記述された。",
"title": "歴史"
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"text": "コリオリは、1835年に水車のような回転部分を持つ機械のエネルギー収量に関する論文を発表した。 その論文でコリオリは、回転する系で検出される補助力について考察した。コリオリはこれらの補助力を2つのカテゴリーに分け、その2つ目のカテゴリーには座標系の角速度と系の回転軸に垂直な平面への粒子の速度の射影の外積から生じる力が含まれていた。 コリオリは、第1カテゴリーですでに考慮されていた遠心力との類似性から、この力を「複合遠心力」と呼んだ。 この効果は、20世紀初頭には「コリオリの加速度」として知られ、 1920年までには「コリオリ力」と呼ばれるようになった。",
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"text": "1856年、ウィリアム・フェレルは、コリオリの力による偏西風を含む中緯度の大気循環の存在を提唱した。",
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"text": "地球の自転が気流にどのような影響を与えるかという運動学的な理解は当初部分的なものであったが、 19世紀後半には、気団を等圧線に沿って移動させる原因となる、圧力勾配とコリオリ力の大規模な相互作用の全容が理解された。",
"title": "歴史"
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"text": "コリオリの力を実感するには、フィギュアスケーターのように回転しながら、重り(500 g程度でよい)を持った手を「前にならえ」の要領で前に突き出したり胸元にしまったりを繰り返すと分かりやすい。左回りに回転している場合、腕を前方に突き出す時には重りが右方向に引っ張られるように感じ、腕を胸元にしまうときには左方向に吸い込まれるように感じる。この、重りの進行方向からみて右にずれる方向に働いている見かけ上の力が、コリオリの力である。",
"title": "現象"
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"text": "コリオリの力を工学的に利用した装置として、角速度を測るジャイロ(角速度計)や流量計などがある。",
"title": "現象"
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"text": "地球は東向きに自転している。そのため、低緯度の地点から高緯度の地点に向かって運動している物体には東向き、逆に高緯度の地点から低緯度の地点に向かって運動している物体には西向きの力が働く。北半球では右向き、南半球では左向きの力が働くとも言える。例としては、以下のものがある。",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "ここからは地球の自転によるコリオリの力の大きさを数学的に記述する。地球の角速度を ω {\\displaystyle \\omega } とすると、緯度 φ {\\displaystyle \\phi } における地平面内の南北方向の方向ベクトルの角速度は、 ω sin φ {\\displaystyle \\omega \\sin \\phi } となるため、地球の自転によるコリオリの力の大きさは物体の速さを v {\\displaystyle v} として",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "で表される。 f {\\displaystyle f} はコリオリ因子と呼ばれる。",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "コリオリの力が与える影響を考える一例として、コリオリの力を一番強く受ける極点において時速 100 k m {\\displaystyle 100\\mathrm {km} } のボールをピッチャープレートとホームベースの距離 18.4 m {\\displaystyle 18.4\\mathrm {m} } の間で投げたとする。地球の角速度 ω {\\displaystyle \\omega } は ω = 7.29 × 10 − 5 r a d / s {\\displaystyle \\omega =7.29\\times 10^{-5}\\mathrm {rad/s} } であるから、コリオリの力による加速度の大きさは",
"title": "現象"
},
{
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"tag": "p",
"text": "である。通過するのにかかる時間 t {\\displaystyle t} は t = 0.661 s {\\displaystyle t=0.661\\mathrm {s} } であるから等加速度運動とみなすとずれの距離 x {\\displaystyle x} は",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "つまり 1 m m {\\displaystyle 1\\mathrm {mm} } にも満たない。また極点より緯度の小さい地域ではコリオリの力の影響はさらに小さくなる。日常生活の中で地球の回転によって生じるコリオリの力は非常に小さなものなのである。",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "同じく極点において、今度は秒速1000 mの砲弾を距離10 km先まで飛ばすときのコリオリの力による影響を考える。先ほどと同様に考えると、コリオリの力による加速度の大きさは",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "であり、通過するのにかかる時間tは t = 10.0 s {\\displaystyle t=10.0\\mathrm {s} } であるから等加速度運動とみなすとずれの距離 x {\\displaystyle x} は",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "したがって 7 m {\\displaystyle 7\\mathrm {m} } ものずれが生じる。このように大規模な運動(運動速度が大きくて、運動する時間も長い)では地球の回転によって生じるコリオリの力は大きな影響を及ぼすのである。",
"title": "現象"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "慣性系 O − x y {\\displaystyle O-xy} に対して原点のまわりを一定の角速度 ω {\\displaystyle {\\boldsymbol {\\omega }}} で回転する座標系 O − x ′ y ′ {\\displaystyle O-x'y'} で質点Pに力 F {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}} が働く場合を考える。 あるベクトル q {\\displaystyle {\\boldsymbol {q}}} の成分が",
"title": "導出"
},
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "慣性系では",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "回転座標系では",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "と表されるとき図1,2より q {\\displaystyle {\\boldsymbol {q}}} は q ′ {\\displaystyle {\\boldsymbol {q'}}} を原点Oのまわりに ω t {\\displaystyle \\omega t} だけ回転したものになるので",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "と表される。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "と定義する。すると質点 P {\\displaystyle P} の位置ベクトル r {\\displaystyle {\\boldsymbol {r}}} と回転座標系でみたベクトル r ′ {\\displaystyle {\\boldsymbol {r'}}} の関係は",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "と表される。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "両辺を時刻 t {\\displaystyle t} で微分して",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "さらに t {\\displaystyle t} で微分して",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "a = d 2 r d t 2 = ω d R ( ω t + π / 2 ) d t r ′ + ω R ( ω t + π / 2 ) d r ′ d t + d R ( ω t ) d t v ′ + R ( ω t ) d v ′ d t = ω 2 R ( ω t + π ) r ′ + 2 ω R ( ω t + π / 2 ) v ′ + R ( ω t ) a ′ = − ω 2 R ( ω t ) r ′ + 2 ω R ( ω t + π / 2 ) v ′ + R ( ω t ) a ′ {\\displaystyle {\\begin{aligned}{\\boldsymbol {a}}&={\\frac {d^{2}{\\boldsymbol {r}}}{dt^{2}}}\\\\&=\\omega {\\frac {d{\\boldsymbol {R}}(\\omega t+\\pi /2)}{dt}}{\\boldsymbol {r'}}+\\omega {\\boldsymbol {R}}(\\omega t+\\pi /2){\\frac {d{\\boldsymbol {r'}}}{dt}}+{\\frac {d{\\boldsymbol {R}}(\\omega t)}{dt}}{\\boldsymbol {v'}}+{\\boldsymbol {R}}(\\omega t){\\frac {d{\\boldsymbol {v'}}}{dt}}\\\\&=\\omega ^{2}{\\boldsymbol {R}}(\\omega t+\\pi ){\\boldsymbol {r'}}+2\\omega {\\boldsymbol {R}}(\\omega t+\\pi /2){\\boldsymbol {v'}}+{\\boldsymbol {R}}(\\omega t){\\boldsymbol {a'}}\\\\&=-\\omega ^{2}{\\boldsymbol {R}}(\\omega t){\\boldsymbol {r'}}+2\\omega {\\boldsymbol {R}}(\\omega t+\\pi /2){\\boldsymbol {v'}}+{\\boldsymbol {R}}(\\omega t){\\boldsymbol {a'}}\\end{aligned}}}",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "......(1)",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ここでは R ( ω t + π ) = − R ( ω t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {R}}(\\omega t+\\pi )=-{\\boldsymbol {R}}(\\omega t)} を用いた。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ベクトル F {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}} と回転座標系でみたベクトル F ′ {\\displaystyle {\\boldsymbol {F'}}} の関係は",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "F = R ( ω t ) F ′ {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}={\\boldsymbol {R}}(\\omega t){\\boldsymbol {F'}}} ......(2)",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "と表される。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "運動方程式 F = m a {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}=m{\\boldsymbol {a}}} に(1)と(2)を代入して",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "両辺に R ( − ω t ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {R}}(-\\omega t)} をかけて",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "式変形して",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "すなわち回転座標系から物体を見た場合実際の力 F {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}} のほかに m ω 2 r ′ {\\displaystyle m\\omega ^{2}{\\boldsymbol {r'}}} と 2 m ω R ( π / 2 ) v ′ {\\displaystyle 2m\\omega {\\boldsymbol {R}}(\\pi /2){\\boldsymbol {v'}}} の力が働いているように見える。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この 2 m ω R ( π / 2 ) v ′ {\\displaystyle 2m\\omega {\\boldsymbol {R}}(\\pi /2){\\boldsymbol {v'}}} は、見かけの力でコリオリの力という。コリオリの力は速度 v ′ {\\displaystyle v'} の方向と回転軸の方向 ω {\\displaystyle \\omega } の両方に垂直である。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "m ω 2 r ′ {\\displaystyle m\\omega ^{2}{\\boldsymbol {r'}}} は、質点を回転軸に垂直に引き離そうとする見かけの力で遠心力という。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "以下では、地球の公転は無視し、地球は半径 R {\\displaystyle R} の球形とする。 静止座標系として、地球の中心を原点とし、地軸の北極方向を z {\\displaystyle z} 軸、赤道面を x y {\\displaystyle xy} 平面とする座標系を考える。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "次に、地球表面の点で、地球の自転とともに動くを観測点 P {\\displaystyle P} を考える。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ただし、 R {\\displaystyle R} は地球の半径、 α {\\displaystyle \\alpha } は観測点 P {\\displaystyle P} の緯度、 ω {\\displaystyle \\omega } は地球の自転の角速度 ω = 2 π / ( 24 × 60 × 60 s ) {\\displaystyle \\omega =2\\pi /(24\\times 60\\times 60~\\mathrm {s} )} 、 t {\\displaystyle t} は時刻、 δ {\\displaystyle \\delta } は時刻 t = 0 {\\displaystyle t=0} における P {\\displaystyle P} の位置を表すパラメータだが、以下コリオリの力に関係ないので δ = 0 {\\displaystyle \\delta =0} とする。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "回転座標系として、 P {\\displaystyle P} を原点とし、次の3つの単位ベクトルで張られる座標系を考える。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この座標系で、時刻 t {\\displaystyle t} における質点 X {\\displaystyle X} の位置が、 f 1 {\\displaystyle f_{1}} 成分 a 1 ( t ) {\\displaystyle a_{1}(t)} 、 f 2 {\\displaystyle f_{2}} 成分 a 2 ( t ) {\\displaystyle a_{2}(t)} 、 f 3 {\\displaystyle f_{3}} 成分 a 3 ( t ) {\\displaystyle a_{3}(t)} で表記されたとする。(以下 t {\\displaystyle t} は省略する。)",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "静止系で表すと",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "以下時間での微分を ′ {\\displaystyle '} で表す。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "静止系では運動方程式が成り立つため、質点 X {\\displaystyle X} の質量を m {\\displaystyle m} 、掛かる力を F {\\displaystyle F} とすると、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ここで、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "は、この回転座標系での加速度であり、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "が、この座標系での「みかけの力」即ち慣性力になる。",
"title": "導出"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "上で示した",
"title": "導出"
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{
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"tag": "p",
"text": "を使えば、",
"title": "導出"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この部分は、広義のコリオリの力に対応する部分であり、",
"title": "導出"
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{
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"tag": "p",
"text": "ことを示している。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "これは、 f 2 {\\displaystyle f_{2}} と f 3 {\\displaystyle f_{3}} で張られた平面(観測点 P {\\displaystyle P} を通り地軸に直交する平面)での2次元のコリオリの力に一致する。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "なお、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "は、 質点 X {\\displaystyle X} から地軸に下ろした垂線の足から、質点 X {\\displaystyle X} までの方向ベクトルが a 2 f 2 + a 3 f 3 + R cos α f 3 {\\displaystyle a_{2}f_{2}+a_{3}f_{3}+R\\cos \\alpha f_{3}} であることを考えれば、質点 X {\\displaystyle X} にかかる「みかけの力」遠心力である。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "次に、上記の回転座標系では、北極星の方向、天頂から真南へ角度 α {\\displaystyle \\alpha } だけ傾けた方向を座標軸とするので不便だから、別の座標系を考える。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "P {\\displaystyle P} を原点とし、次の3つの単位ベクトル e 1 {\\displaystyle e_{1}} 、 e 2 {\\displaystyle e_{2}} 、 e 3 {\\displaystyle e_{3}} で張られる座標系とする。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "基底変換は行列で表すと、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "[ f 1 f 2 f 3 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}\\ f_{1}&f_{2}&f_{3}\\end{bmatrix}}} 座標系の座標",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "が、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "[ e 1 e 2 e 3 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}\\ e_{1}&e_{2}&e_{3}\\end{bmatrix}}} 座標系の座標",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "と同じ点を表すには、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "のため",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "でなければならない。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "α {\\displaystyle \\alpha } は時間には依存しないため、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "運動方程式を書き換えれば、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "について、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "上記は加速度の項である。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "上記は広義のコリオリの力の項である。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "上記は遠心力の項である。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ここで、広義のコリオリの力の項を見ると、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ことが分かる。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "このうち、天頂方向の速度と力を捨象した、",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "と言える。これがコリオリの力である。接平面内であれば、どの方向の速度ベクトルでも北方向と東方向の速度ベクトルの合成で作れるため、「 2 m ω sin α {\\displaystyle 2m\\omega \\sin \\alpha } ×速度」だけの接平面内の「みかけの力」がかかることが分かる。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "3次元の場合のコリオリの力をまとめると、次の3段階で導出されていることが分かる。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ここで、接平面 T {\\displaystyle T} 内の東向き(自転方向の向き)の大きさ v {\\displaystyle v} の速度ベクトルについて考えれば、それを平面 L {\\displaystyle L} に射影しても変わらずに大きさ v {\\displaystyle v} であり、平面 L {\\displaystyle L} 内のコリオリの力は、大きさ 2 m ω v {\\displaystyle 2m\\omega v} 、方向は東と直交し地軸から遠ざかる方向であり、それを接平面 T {\\displaystyle T} に射影すると、コリオリの力(の接平面 T {\\displaystyle T} 内の成分)は、大きさ 2 m ω v sin α {\\displaystyle 2m\\omega v\\sin \\alpha } 、方向は南となる。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "接平面 T {\\displaystyle T} 内の北向きの大きさ v {\\displaystyle v} の速度ベクトルについて考えれば、それを平面 L {\\displaystyle L} に射影すると大きさは v sin α {\\displaystyle v\\sin \\alpha } となり、平面 L {\\displaystyle L} 内のコリオリの力は、大きさ 2 m ω v sin α {\\displaystyle 2m\\omega v\\sin \\alpha } 、方向は東であり、それを接平面 T {\\displaystyle T} に射影すると、コリオリの力は変わらず、大きさ 2 m ω v sin α {\\displaystyle 2m\\omega v\\sin \\alpha } 、方向は東となる。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "接平面 T {\\displaystyle T} 内の大きさ v {\\displaystyle v} の任意の方向の速度ベクトルは、東方向と北方向の速度ベクトルの一次結合で表せるため、その接平面 T {\\displaystyle T} 内のコリオリの力は、大きさ 2 m ω v sin α {\\displaystyle 2m\\omega v\\sin \\alpha } 、方向は北極側から見て速度ベクトルの方向から90度時計回りに回転した方向となることが分かる。",
"title": "導出"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "地球の表面に沿って北半球を北上する物体を考えると、宇宙空間から見れば物体は真北に進んでいるようには見えず、東進しているように見える(地球の表面とともに右回りに回転している)。北に進むほど、「平行(緯度)方向の半径」が小さくなるため、地表そのものの東進は遅くなるが、一方で物体は(地表の局所的の東向きの速度の低下に合わせて速度を落とすのではなく)最初の東向きの速度を維持するため、東にさらに傾く。",
"title": "直感的な説明"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "この例では北向きの動きを考えているのでわからないが、進行方向に対しての垂直方向の偏向は、東向きや西向き(あるいはその他の方向)に動く物体にも同じように生じる。 しかし、一般的な大きさの家庭用バスタブ、洗面台、トイレの排水の回転を決めるのはこの力だという説は、現代の科学者たちによって繰り返し否定されている。",
"title": "直感的な説明"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "地表を「滑る」空気の運動に影響を与える加速度は、次式のコリオリ項の水平成分である。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "この成分は地表の速度と直交しており、次式で与えられる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "緯度が正である北半球では、この加速度は上から見て進行方向の右側にある。逆に、南半球では左になる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "南北軸を中心に回転する球体上の緯度 φ の場所を考える。 x 軸を水平に真東、y軸を水平に真北、z軸を垂直に上に向けて局所的座標系を設定する。この局所的座標系で表される回転ベクトル、移動速度、コリオリ加速度(東(e)、北(n)、上(u)の順に成分を列挙する)は以下の通りである:",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "大気や海洋の力学を考慮する場合、鉛直速度は小さく、コリオリ加速度の鉛直成分 ( v e cos φ {\\displaystyle v_{e}\\cos \\varphi } ) は重力(g, 地球表面付近で約9.81 m/s (32.2 ft/s))に比べて小さいとして、水平(東と北)成分のみが問題にすれば水平面に対する上記の制限は(vu = 0)である。:",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ここで f = 2 ω sin φ {\\displaystyle f=2\\omega \\sin \\varphi \\,} はコリオリパラメータという。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "vn = 0 としたことで、(正の φ, ωに対して)東への移動は南への加速となることが直ちににわかる。同様に、ve = 0 とすると、北向きに動くと東向きに加速することがわかる。一般に、加速度の原因となる運動の方向に沿って水平に観察すると、加速度は常に(正のφの場合)右に90度回転しており、進行方向に向きに関係なく同じ大きさである。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "別のケースとして、φ=0°とする赤道運動を考える。この場合、Ωは北軸またはn軸に平行である:",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "したがって、東への運動(つまり球体の回転と同じ方向)はエトヴェシュ効果(英語版)として知られる上向きの加速度をもたらし、上向きの運動は西向きの加速度をもたらす。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "コリオリ効果の最も重要な影響は、海洋と大気の大規模な力学であろう。気象学や海洋学では、地球が静止している回転座標系を仮定するのが便利である。この仮定のもとで、遠心力とコリオリ力が導入される。それらの相対的な重要性は、適用されるロスビー数によって決定される。例えば、竜巻は高いロスビー数を持つため、竜巻に関連する遠心力はかなり大きいが、竜巻に関連するコリオリ力は実用上は無視できる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "表層海流は水面上の風の動きによって引き起こされるため、コリオリの力は海流やサイクロンの動きにも影響を与える。海流の多くは、環流と呼ばれる暖かく高気圧に覆われた海域を循環を形成する。この循環は大気中の循環ほど大きくないが、コリオリ効果によって引き起こされる偏向が、これらの環流の渦巻きパターンを生み出している。渦巻き状の風パターンは、ハリケーンの形成を助ける。コリオリ効果による力が強ければ強いほど、風は速く回転し、さらなるエネルギーを拾い上げ、ハリケーンの強さを増す。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "高気圧内の空気は、コリオリの力が半径方向内側に向き、半径方向外側の圧力勾配とほぼ釣り合うような方向に回転する。その結果、空気は北半球では高気圧の周りを時計回りに、南半球では反時計回りに移動する。低気圧の周りの空気は反対方向に回転するため、コリオリの力は半径方向外側に向き、半径方向内側の圧力勾配とほぼ釣り合う。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "大気中に低気圧が形成されると、空気は低気圧に向かって流れ込む傾向があるが、コリオリの力によって速度に対して垂直に偏向される。その結果、平衡系が形成され、円運動やサイクロン流が発生する。ロスビー数が小さいため、力のバランスは、低気圧に向かって作用する圧力勾配力と、低気圧の中心から離れる方向に作用するコリオリ力の間で大きく変化する。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "大気や海洋の大規模な運動は、素直に気圧勾配を下るのではなく、コリオリ力の影響で気圧勾配に垂直に起こる傾向がある。これは地衡流として知られている。 回転していない惑星では、流体は可能な限り直線に沿って流れ、圧力勾配はすぐになくなる。そのため、地衡バランスは「慣性運動」(下記参照)の場合とは大きく異なり、中緯度でのサイクロンがただの慣性円流の場合より桁違いに大きい理由も説明できる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "この偏向のパターンと移動方向は、ビュイス・バロットの法則と呼ばれる。大気圏では、この流れのパターンをサイクロンと呼ぶ。北半球では、低気圧の周りの移動方向は反時計回りである。南半球では、回転力学が鏡像であるため、移動方向は時計回りである。 At high altitudes, outward-spreading air rotates in the opposite direction.赤道付近はコリオリ効果が弱いため、サイクロンが発生することはほとんどない。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "速度 v {\\displaystyle v\\,} で移動する空気または水の塊は、コリオリ力のみを受け、慣性円と呼ばれる円形の軌跡を描く。この力は粒子の運動に対して直角に働くので、粒子は等速円運動をし、その半径 R {\\displaystyle R} は:",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ここで f {\\displaystyle f} は 2 Ω sin φ {\\displaystyle 2\\Omega \\sin \\varphi } で表されるコリオリパラメーターである。(上記参照) ( φ {\\displaystyle \\varphi } は緯度)したがって、物体が円軌道を1周するのにかかる時間は 2 π / f {\\displaystyle 2\\pi /f} である。コリオリパラメーターは通常、中緯度の値で約10 sなので、典型的な大気速度10 m/s (22 mph)で半径 100 km (62 mi)、周期17 hoursとなる。一方典型的な速度の海流(10 cm/s (0.22 mph)) の場合では、半径は1 km (0.6 mi)となる。これらの慣性円は、北半球では時計回り(軌道が右に曲がる)、南半球では反時計回りである(台風とは逆向きとなることに注意)。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "回転系が放物線状のターンテーブル状である場合、 f {\\displaystyle f} は一定であり、軌道は正確に円となるが、自転する惑星ではコリオリパラメーター f {\\displaystyle f} は緯度によって変化し、粒子の経路は正確な円を描かない。その場合 f {\\displaystyle f} は先述の通り緯度の正弦に比例して変化するため、ある速度に伴う回転運動の半径は極点(緯度±90°)で最も小さく、赤道に向かって大きくなる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "コリオリ効果は、大規模な海洋循環や大気循環に強く影響し、ジェット気流や西部境界流のような強固な特徴を形成する。このような地形は、地衡平衡状態(コリオリの力と圧力勾配の力が釣り合っていることを意味する)にある。コリオリ加速は、ロスビー波やケルビン波など、海洋や大気中の多くの種類の波の伝播にも関与している。また、海洋におけるいわゆるエクマン境界層や、風成循環と呼ばれる大規模な海洋の流れパターンの確立にも関与している。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "コリオリ効果の実際的な影響は、ほとんどが水平運動によって生じる水平加速度成分によって引き起こされるが、コリオリ効果の他の要素として、西に進む物体は下に偏向され、東に進む物体は上に偏向されるエトヴェシュ効果がある。この効果は赤道付近で最大となる。エトヴェシュ効果によって生じる力は水平方向の成分と似ているが、重力と圧力による垂直方向の力の方がはるかに大きいため、静水圧平衡ではあまり重要ではない。しかし大気中では、風は静水圧平衡からの圧力の小さな偏差と関連している。熱帯大気では、圧力の偏差の大きさのオーダーは非常に小さいので、エトヴェシュ効果の圧力偏差への寄与はかなりのものとなる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "加えて、上方(すなわち外側)または下方(すなわち内側)に進む物体はそれぞれ西または東に偏向し、この影響も赤道付近で最大となる。垂直方向の移動は通常、範囲と時間が限られているため、影響の大きさは小さく、検出には精密な機器が必要となる。例えば、理想化された数値モデリング研究によると、この効果は、大気の長期的(2週間以上)な加熱または冷却があれば、熱帯の大規模風速場におよそ10%直接影響を与える可能性がある。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "さらに、軌道に打ち上げられる宇宙船のように運動量が大きく変化する場合、その影響は大きくなる。軌道への最速かつ最も燃料効率の良い経路は、赤道から真東にカーブして打ち上げることである。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "赤道に沿って摩擦のない線路を走る列車を考える。走行中は、1日で世界1周するのに必要な速度(465 m/s)で移動すると仮定する。 コリオリ効果は、列車が西に進む場合、静止している場合、東に進む場合の3つのケースで考えることができる。それぞれの場合において、コリオリ効果はまず地球上の回転系から計算し、次に固定慣性系煮直すことができる。下の図は、地球の自転軸に沿った北極上空の定点から、慣性系で静止している観測者が見た3つの場合を示している。 ( 1 day = ∧ 8 s ) : {\\displaystyle \\left(1{\\text{ day}}\\mathrel {\\overset {\\land }{=}} 8{\\text{ s}}\\right):}",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "このことは、西に飛ぶ高速の弾丸が下に偏向し、東に飛ぶ弾丸が上に偏向する理由も説明している。このコリオリ効果の垂直成分をエトヴェシュ効果(Eötvös effect)と呼ぶ。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "上記の例は、物体の接線速度が地球の自転速度(465 m/s)より速くなると、物体が西に向かうにつれてエトヴェシュ効果が減少し始める理由を説明するために使うことができる。上の例で西向きの列車が速度を上げると、線路を押す重力の一部が、慣性系上で円運動を維持するために必要な求心力を占める。列車が西向きの速度を自転速度の2倍の930 m/s (2,100 mph)にすると、その求心力は列車が停止するときに受ける力と等しくなる。慣性系から見ると、どちらの場合も同じ速度で回転するが、方向は反対である。したがって、エトヴェシュ効果を完全に打ち消す力は同じである。930 m/s (2,100 mph)以上の速度で西に移動する物体は、代わりに上向きの力が加わる。図では、10-キログラム (22 lb)の物体を異なる速度で列車に乗せた場合のエトヴェシュ効果を示している。放物線の形をしているのは、求心力が接線速度の2乗に比例するからである。慣性系上では、放物線の底は原点を中心とする。オフセットは、この議論が地球の回転系を使用しているためである。このグラフは、エトヴェシュ効果が対称的ではなく、高速で西に移動する物体が受ける下向きの力は、同じ速度で東に移動する物体が受ける上向きの力よりも小さいことを示している。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "一般にある誤解として、バスタブやトイレなどの水受けは、北半球と南半球で排水方向が逆になることはない。これは、コリオリ力の大きさがこのスケールでは無視できるほど小さいからである。 水の初期状態(排水口の形状、受け皿の形状、水の既存の運動量など)によって決まる力は、通常コリオリの力よりも桁違いに大きく、したがって、水が回転する方向があるとすれば、それらの要因がその方向を決定することになる。例えば、両半球で同じトイレを流した場合、同じ方向に排水されるが、この方向は便器の形状によってほとんど決まる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "現実の条件下では、コリオリの力が水の流れの方向に影響を与えることはない。水が静止しており、地球の実効的な自転速度が容器に対する水の自転速度よりも速い場合、および外部から加えられるトルク(底面の凹凸を流れることによって生じるようなもの)が十分に小さい場合にのみ、コリオリ効果によって渦の方向が実際に決定される可能性がある。このような入念な準備がなければ、コリオリ効果は、水の残留回転や容器の形状などの排水の方向に対する他のさまざまな影響よりもはるかに小さくなる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "1962年、Ascher Shapiro はMITでコリオリの力を試す実験を行った。横長2 meters (6 ft 7 in) の大きな水盤に、回転方向を示す小さな木の十字架を栓穴の上に置き、蓋をして水が落ち着くまで少なくとも24時間待ち排水をおこなった。このような正確な実験条件下で、彼はコリオリ効果と整合した反時計回りの回転(MITは北半球に位置する)を実証した。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "彼は以下ように報告している。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ロイド・トレフェセンは、シドニー大学において、18時間以上の沈降時間を伴う5つのテストにおいて、南半球における時計回りの回転を報告した。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "コリオリの力は弾道学において、非常に長距離の砲弾の弾道を計算するために重要である。歴史的に最も有名な例は、第一次世界大戦中にドイツ軍が約120 km (75 mi)の距離からパリを砲撃するために使用したパリ砲である。コリオリの力は弾丸の軌道を微細に変化させ、非常に長い距離での命中精度に影響を与える。スナイパーのような長距離射撃の正確な射手は、コリオリの力を調整している。カリフォルニア州サクラメントの緯度では、1,000 yd (910 m)北に向かって撃った弾丸は2.8 in (71 mm)右に偏向する。また、上記のエトヴェシュ効果の項で説明した垂直方向の成分もあり、西向きの射撃は低く、東向きの射撃は高く命中する。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "弾道に対するコリオリ力の影響を、ミサイルや人工衛星などの軌道をメルカトル図法のような二次元(平面)地図上にプロットした場合の軌道の湾曲と混同してはならない。地球の3次元曲面を2次元曲面(地図)に投影すると、必然的に歪んだ形状になる。経路の見かけの湾曲は地球の球面性の結果であり、回転していないフレームでも生じる。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "移動する弾丸にかかるコリオリ力は、緯度、方位角の3方向すべての速度成分に依存する。方向とは、通常、ダウンレンジ(最初に銃が向いている方向)、垂直方向、クロスレンジの3方向である。",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "地球への応用"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "コリオリ効果を実用化したものに管内を流れる流体の質量流量と密度を測定する装置である、コリオリ式質量流量計がある。作動原理は、流体が通過する管の振動を誘発することにある。振動は完全な円形ではないが、コリオリ効果を生み出す回転系となる。具体的な方法は流量計の設計によって異なるが、センサーは振動するフローチューブの周波数、位相シフト、振幅の変化をモニターし分析する。観測された変化から流体の質量流量と密度を分析することができる。",
"title": "その他の分野におけるコリオリ効果"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "多原子分子では、分子運動は、平衡位置を中心とした原子の剛体回転と内部振動によって記述することができる。原子の振動の結果、原子は分子の回転座標系に対して相対的に運動する。そのためコリオリ効果が存在し、原子を元の振動に垂直な方向に運動させる。このため、分子のスペクトルには回転準位と振動準位が混在することになり、そこからコリオリ結合定数を求めることができる。",
"title": "その他の分野におけるコリオリ効果"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "ハエ(双翅目)と一部の蛾(鱗翅目)は、体の角速度に関する情報を伝達する特殊な付属器官や器官によって、飛行中のコリオリ効果を利用している。これらの付属器の直線運動から生じるコリオリの力は、昆虫の体の回転系内で検出される。ハエの場合、その特殊な付属器は「ハルテア」と呼ばれるあるダンベル状の器官である。",
"title": "その他の分野におけるコリオリ効果"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "ハルテアは、主翼と同じ周期で平面振動しているため、体が回転するとハルテアの運動平面から横方向にずれる。",
"title": "その他の分野におけるコリオリ効果"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "蛾では、ハエのハルテアと同様に同様に触角がコリオリの力を感知する役割を担っていることが知られている。 ハエと蛾の両方において、付属器の基部にある機械受容器は、ピッチとロールの平面における回転に相関する周波数と、ヨーの平面における回転に相関する周波数の2倍の周波数の偏差に敏感である。",
"title": "その他の分野におけるコリオリ効果"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "天文学では、ラグランジュ点とは、2つの大きな天体の軌道面において、重力の影響だけを受ける小さな天体が、2つの大きな天体に対して安定した位置を保つことができる5つの位置のことである。最初の3点(L1, L2, L3) は2つの大きな天体を結ぶ線上にあり、最後の2点(L4 and L5)はそれぞれ2つの大きな天体と正三角形を形成している。L4とL5は、2つの大きな体とともに回転する座標系における有効ポテンシャルの極大値に対応するが、これらはコリオリ効果により安定である。 この安定性は、トロヤ群が見つかるTadpole orbitとして知られる、L4 またはL5だけを周回する軌道をもたらす。 また、馬蹄形軌道として知られるL3, L4, L5, を取り囲む軌道になることもある。",
"title": "その他の分野におけるコリオリ効果"
}
] |
コリオリの力またはコリオリ力(コリオリりょく)とは、慣性系に対して回転する座標系内を運動する物体に作用する慣性力または見かけの力である。時計回りに回転する座標系では、この力は物体の進行方向の左側に働き、反時計回りでは力は右に働く。コリオリの力による物体の偏向はコリオリ効果と呼ばれる。コリオリの力を数学的に表現したのは、1835年にフランスの科学者ガスパール=ギュスターヴ・コリオリが水車の理論に関連して発表した論文が初出である。20世紀初頭、コリオリ力という言葉は気象学に関連して使われ始めた。 ニュートンの運動法則は、慣性(加速しない)系内の物体の運動を記述している。ニュートンの法則を回転系に変換すると、コリオリ加速度と遠心加速度が現れる。質量を持つ物体に適用すれば、それぞれの力は質量に比例する。コリオリ力の大きさは回転速度に比例し、遠心力の大きさは回転速度の2乗に比例する。コリオリ力は、慣性系に対する回転系の角速度と、回転系に対する物体の速度という2つの量に垂直な方向に作用し、その大きさは回転系における物体の速度(より正確には、速度のうち回転軸に垂直な成分)に比例する。遠心力は半径方向の外側に働き、回転フレームの軸からの物体の距離に比例する。これらの付加的な力は、慣性力、見かけの力と呼ばれる。回転系にこれらの見かけの力を導入することで、ニュートンの運動法則をあたかも慣性系であるかのように回転系に適用することができる。 コリオリ力という用語の日常的な使われ方において、回転系は大抵地球を意味している。地球は自転しているため、地球にいる観測者は、物体の運動を正しく分析するためにはコリオリ力を考慮する必要がある。コリオリ力の影響が顕著になるのは、大気中の空気や海洋中の水の大規模な運動など、距離や時間のスケールが大きい運動や、長距離砲やミサイルの軌道のように精度が重要な場合に限られる。このような運動はおよそ地球の表面にに制約されるため、一般にコリオリ力の水平成分のみが重要となる。この力は、地表を移動する物体を、北半球では進行方向に対して右に、南半球では左に偏向させる。この水平偏向の影響は極点付近でより大きくなる。というのも、局所的な鉛直軸を中心とした有効的な回転速度は極点付近で最も大きくなり、赤道付近ではゼロまで減少するからである。風や海流は、非回転系のように単純に高気圧から低気圧へと直接流れるのではなく、赤道より北ではこの方向より右に(反時計回り)、赤道より南ではこの方向より左に(時計回り)流れる傾向がある。この効果によって回転が起こり、台風が形成される。
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{{Short description|慣性系に対して回転する座標系内を移動する物体にかかる力}}
{{古典力学}}
{{物理学}}
[[画像:Corioliskraftanimation.gif|thumb|right|200px|左回りに回転する円盤の中心から等速度運動をする玉(上図)は、円盤上からは進行方向に対し右向きの力で曲げられたように見える(下図)。]]
'''コリオリの力'''(コリオリのちから、{{Lang-fr-short|force de Coriolis}})または'''コリオリ力'''(コリオリりょく)とは、慣性系に対して[[回転座標系|回転する座標系]]内を運動する物体に作用する[[慣性力]]または'''見かけの力'''である。時計回りに回転する座標系では、この力は物体の進行方向の左側に働き、反時計回りでは力は右に働く。コリオリの力による物体の偏向は'''コリオリ効果'''と呼ばれる。コリオリの力を数学的に表現したのは、1835年にフランスの科学者[[ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ]]が[[水車]]の理論に関連して発表した論文が初出である。[[20世紀]]初頭、コリオリ力という言葉は[[気象学]]に関連して使われ始めた。
[[ニュートン力学|ニュートンの運動法則]]は、慣性(加速しない)系内の物体の運動を記述している。ニュートンの法則を回転系に変換すると、コリオリ加速度と[[遠心力|遠心加速度]]が現れる。[[質量]]を持つ物体に適用すれば、それぞれの力は質量に比例する。コリオリ力の大きさは回転速度に比例し、遠心力の大きさは回転速度の2乗に比例する。コリオリ力は、慣性系に対する回転系の[[角速度]]と、回転系に対する物体の速度という2つの量に垂直な方向に作用し、その大きさは回転系における物体の速度(より正確には、速度のうち回転軸に垂直な成分)に比例する。遠心力は半径方向の外側に働き、回転フレームの軸からの物体の距離に比例する。これらの付加的な力は、慣性力、見かけの力と呼ばれる。回転系にこれらの見かけの力を導入することで、ニュートンの運動法則をあたかも慣性系であるかのように回転系に適用することができる。
コリオリ力という用語の日常的な使われ方において、回転系は大抵[[地球]]を意味している。地球は[[自転]]しているため、地球にいる観測者は、物体の運動を正しく分析するためにはコリオリ力を考慮する必要がある。コリオリ力の影響が顕著になるのは、大気中の空気や海洋中の水の大規模な運動など、距離や時間のスケールが大きい運動や、長距離砲や[[ミサイル]]の軌道のように精度が重要な場合に限られる。このような運動はおよそ地球の表面にに制約されるため、一般にコリオリ力の水平成分のみが重要となる。この力は、地表を移動する物体を、[[北半球]]では進行方向に対して右に、[[南半球]]では左に偏向させる。この水平偏向の影響は[[極点]]付近でより大きくなる。というのも、局所的な鉛直軸を中心とした有効的な回転速度は極点付近で最も大きくなり、[[赤道]]付近ではゼロまで減少するからである。風や海流は、非回転系のように単純に[[高気圧]]から[[低気圧]]へと直接流れるのではなく、赤道より北ではこの方向より右に(反時計回り)、赤道より南ではこの方向より左に(時計回り)流れる傾向がある。この効果によって回転が起こり、[[台風]]が形成される。
== 歴史 ==
[[File:Dechales-Coriolis-Cannon.jpg|thumb|upright|デシャレスの『Cursus seu Mundus Mathematicus』(1674年)からの図。回転する地球上で、砲弾の右向きの速度が標的の塔よりも早いためにどのように砲弾が標的の右にそれるかを示している。]]
[[File:Dechales-Coriolis-Tower.jpg|thumb|upright|デシャレスの『Cursus seu Mundus Mathematicus』(1674)にある図で、回転する地球上の塔からボールがどのように落下するかを示している。ボールはFから放たれるが、塔の頂部はその基部よりも速く動くので、ボールが落下する間に塔の基部はIに移動するが、塔の頂部の東向きの速度を持つボールは塔の基部を追い抜き、さらに東のLに着地する。]]
イタリアの科学者[[ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ]]と彼の助手[[フランチェスコ・マリア・グリマルディ]]は、1651年の『アルマゲストゥム・ノヴム(Almagestum Novum)』の中で、[[大砲]]に関連してこの効果を説明し、地球の自転が北に向かって発射された大砲の弾丸を東に偏らせるはずだと書いている。<ref>{{cite journal |doi=10.1063/PT.3.1195 |title=Coriolis effect, two centuries before Coriolis |year=2011 |last1=Graney |first1=Christopher M. |journal=Physics Today |volume=64 |issue=8 |page=8 |bibcode=2011PhT....64h...8G|s2cid=121193379 }}</ref> 1674年、[[w:Claude François Milliet Dechales|クロード・フランソワ・ミリエ・デシャレス]]は、『キュルス・ゼウ・ムンドゥス・マテマティカス(Cursus seu Mundus Mathematicus)』の中で、地球の自転が、落下する物体や一方の極に向かって発射される弾丸の軌道の偏向を引き起こすはずだと説明している。リッチョーリ、グリマルディ、デチャレスはいずれも、コペルニクスの[[天動説]]に対する反論の一環として、この効果を説明した。言い換えれば、彼らは地球の自転がその効果を生み出すはずであり、その効果を検出できないことが地球が不動であることの証左となるだろうと主張した。<ref>{{cite journal |last=Graney |first=Christopher |date=24 November 2016 |title=The Coriolis Effect Further Described in the Seventeenth Century |arxiv=1611.07912 |doi=10.1063/PT.3.3610 |volume=70 |issue=7 |journal=Physics Today |pages=12–13 |bibcode=2017PhT....70g..12G}}</ref> コリオリ加速度方程式は1749年に[[レオンハルト・オイラー]]によって導かれ、<ref>Truesdell, Clifford. Essays in the History of Mechanics. Springer Science & Business Media, 2012., p. 225</ref><ref>Persson, A. "The Coriolis Effect: Four centuries of conflict between common sense and mathematics, Part I: A history to 1885." History of Meteorology 2 (2005): 1–24.</ref> その効果は1778年に[[ピエール=シモン・ラプラス]]の潮汐方程式に記述された。<ref name=Cartwright2000>{{cite book |last=Cartwright |first=David Edgar |title=Tides: A Scientific History |year=2000 |publisher=Cambridge University Press |page=74 |url=https://books.google.com/books?id=78bE5U7TVuIC&pg=PA74 |isbn=9780521797467}}</ref>
コリオリは、1835年に水車のような回転部分を持つ機械のエネルギー収量に関する論文を発表した。<ref name=corps>{{cite journal|author=G-G Coriolis|title=Sur les équations du mouvement relatif des systèmes de corps|journal=Journal de l'École Royale Polytechnique|volume=15|pages=142–154|year=1835|url=https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015005667509&view=1up&seq=152|language=French}}</ref><ref name="Persson1998">{{Cite journal|last=Persson|first=Anders|date=1998-07-01|title=How Do We Understand the Coriolis Force?|url=https://journals.ametsoc.org/doi/abs/10.1175/1520-0477%281998%29079%3C1373%3AHDWUTC%3E2.0.CO%3B2|journal=Bulletin of the American Meteorological Society|volume=79|issue=7|pages=1373–1386|doi=10.1175/1520-0477(1998)079<1373:HDWUTC>2.0.CO;2|bibcode=1998BAMS...79.1373P|s2cid=45799020 |issn=0003-0007}}</ref> その論文でコリオリは、回転する系で検出される補助力について考察した。コリオリはこれらの補助力を2つのカテゴリーに分け、その2つ目のカテゴリーには座標系の角速度と系の回転軸に垂直な平面への粒子の速度の[[射影]]の[[クロス積|外積]]から生じる力が含まれていた。 コリオリは、第1カテゴリーですでに考慮されていた遠心力との類似性から、この力を「'''複合遠心力'''」と呼んだ。<ref>Dugas, René and J. R. Maddox (1988). ''[https://books.google.com/books?id=vPT-JubW-7QC&pg=PA374 A History of Mechanics]''. Courier Dover Publications: p. 374. {{ISBN|0-486-65632-2}}</ref><ref>{{cite book|title=A Treatise on Infinitesimal Calculus : Vol. IV. The dynamics of material systems|author=Price, Bartholomew |publisher=Oxford : University Press|pages=418–420|year=1862|url=https://books.google.com/books?id=qrMA0R_0TPEC&pg=PA420}}</ref> この効果は、20世紀初頭には「コリオリの[[加速度]]」として知られ、<ref>{{cite book|title=The Dynamics of Particles and of Rigid, Elastic, and Fluid Bodies|author=Webster, Arthur Gordon |publisher=B. G. Teubner|year=1912|page=[https://archive.org/details/dynamicsparticl04websgoog/page/n336 320]|url=https://archive.org/details/dynamicsparticl04websgoog|isbn=978-1-113-14861-2}}</ref> 1920年までには「コリオリ力」と呼ばれるようになった。<ref>{{cite journal|title=Space, ''Time'', and Gravitation|journal=The Scientific Monthly|volume=10|author=Wilson, Edwin B.|editor= Cattell, James McKeen |year=1920|page=226|url=https://books.google.com/books?id=xYUZAAAAYAAJ&pg=PA226}}</ref>
1856年、[[ウィリアム・フェレル]]は、コリオリの力による[[偏西風]]を含む中緯度の[[フェレル循環|大気循環]]の存在を提唱した。<ref>{{cite journal|author=Ferrel, William |url=http://www.aos.princeton.edu/WWWPUBLIC/gkv/history/ferrel-nashville56.pdf|title=An Essay on the Winds and the Currents of the Ocean|journal=Nashville Journal of Medicine and Surgery|volume=xi|issue=4|date=November 1856|pages=7–19|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20131011124201/http://www.aos.princeton.edu/WWWPUBLIC/gkv/history/ferrel-nashville56.pdf|archive-date=11 October 2013}} Retrieved on 1 January 2009.</ref>
地球の自転が気流にどのような影響を与えるかという運動学的な理解は当初部分的なものであったが、<ref>{{Cite journal|author=Persson, Anders O. |url=http://www.meteohistory.org/2005historyofmeteorology2/01persson.pdf|title=The Coriolis Effect:Four centuries of conflict between common sense and mathematics, Part I: A history to 1885|publisher=Swedish Meteorological and Hydrological Institute|access-date=26 February 2006|archive-url=https://web.archive.org/web/20140411174448/http://www.meteohistory.org/2005historyofmeteorology2/01persson.pdf|archive-date=11 April 2014|url-status=dead}}</ref> 19世紀後半には、気団を[[等圧線]]に沿って移動させる原因となる、[[圧力勾配]]とコリオリ力の大規模な相互作用の全容が理解された。<ref>{{Cite journal|last1=Gerkema|first1=Theo|last2=Gostiaux|first2=Louis|date=2012|title=A brief history of the Coriolis force|journal=Europhysics News|volume=43|issue=2|pages=16|doi=10.1051/epn/2012202|bibcode=2012ENews..43b..14G|doi-access=free}}</ref>
== 現象 ==
コリオリの力を実感するには、[[フィギュアスケーター]]のように回転しながら、重り(500 [[グラム|g]]程度でよい)を持った手を「前にならえ」の要領で前に突き出したり胸元にしまったりを繰り返すと分かりやすい。左回りに回転している場合、腕を前方に突き出す時には重りが右方向に引っ張られるように感じ、腕を胸元にしまうときには左方向に吸い込まれるように感じる。この、重りの進行方向からみて右にずれる方向に働いている見かけ上の力が、コリオリの力である。
コリオリの力を工学的に利用した装置として、角速度を測る[[ジャイロスコープ|ジャイロ]](角速度計)や[[流量計]]などがある。
=== 地球の自転によるコリオリの力 ===
地球は東向きに自転している。そのため、低緯度の地点から高緯度の地点に向かって運動している物体には東向き、逆に高緯度の地点から低緯度の地点に向かって運動している物体には西向きの力が働く。北半球では右向き、南半球では左向きの力が働くとも言える。例としては、以下のものがある。
[[画像:地衡風.jpg|thumb|300px|地衡風]]
; [[地衡風]]
: 上空で気圧の差があれば気圧の高いほうから低いほうに向かって空気塊を動かそうとする力が働く。この力を[[気圧傾度力]]という。等圧線が平行かつ気圧傾度力が一定ならば空気塊は[[等圧線]]に対して直角に気圧の高いほうから低いほうへ加速される。北半球ではその進行方向右向きコリオリの力が働く。コリオリの力は速度に比例して大きくなるため空気塊は右に曲がりながら速度を上げ最終的には気圧傾度力とコリオリの力は正反対の向きにつりあう。すると空気塊は加速されない向きも変えない安定した風になる。この風を地衡風という。
; [[台風]]
: 台風が北半球で反時計回りの[[渦]]を巻くのは、風が低気圧中心に向かって進む際にコリオリの力を受け、進行方向に対し中心から右にずれた地点に到達するためである<ref>{{Cite |和書 |author = 朝永振一郎 ||authorlink = 朝永振一郎|title = 物理学読本|edition = 第2 |date = 1981| pages = 30|publisher = みすず書房 |isbn=4-622-02503-5|ref = harv }}</ref>。
; [[極軌道]]の[[人工衛星]]
: [[北極点]]上空から[[日本]]上空へ向かおうとする人工衛星は直進するが、地球は自転しているため、地上にいる観測者には、衛星がアジア大陸方面へ逸れていくように見える。
; [[海流]]
: 大気だけでなく、海流の運動もコリオリの力の影響を受けている([[エクマン輸送]])。
; [[砲弾]]
: 北半球で真北に撃った砲弾が、標的よりもわずかに東(右)にずれることは昔から知られていることである。このように、[[大砲]]や[[ロケット]]、1000 m近い長距離での[[狙撃]]などの軌道計算はコリオリの力を考慮した補正が必要である。
[[File:地球でのコリオリ力.JPG|thumb|300px|緯度φでの角速度]]
ここからは地球の自転によるコリオリの力の大きさを数学的に記述する。地球の角速度を<math>\omega </math>とすると、緯度<math>\phi</math>における地平面内の南北方向の方向ベクトルの角速度は、<math>\omega \sin \phi</math>
<ref group="注釈">緯度<math>\phi</math>の地平面内の南北方向の単位方向ベクトルの1日の回転運動を考えると、ベクトルは並行移動しても変わらないため、始点を1点に固定すれば、回転軸に対して角度<math>\phi</math>を維持しながら円錐の側面に沿って1回転することが分かる。時刻<math>t</math>と時刻<math>t+dt</math>(<math>dt</math>は微小時間)における南北方向の単位方向ベクトルの成す角を考えると、始点を1点に固定すれば終点は<math>(\omega\sin\phi )dt</math>だけ移動するため、成す角は<math>(\omega\sin\phi )dt</math>ラジアンであり、1日累積すれば(<math>\omega dt</math>を1日累積すれば<math>2\pi</math>になるため)<math>2\pi\sin\phi</math>であり、また南北方向の単位方向ベクトルの角速度は<math>\omega\sin\phi</math>である。
なお、これは「緯度<math>\phi</math>における南北方向の単位方向ベクトル」の角速度であって、「緯度<math>\phi</math>における観測点」自身の角速度は<math>\omega</math>であって、<math>\omega\sin\phi</math>ではない。遠心力の算出などでは、角速度は<math>\omega\sin\phi</math>ではなく、<math>\omega</math>を使う必要がある。
また、「緯度<math>\phi</math>における東西方向の単位方向ベクトル」の角速度は、(東西方向の単位方向ベクトルは、平行移動すれば、常に回転軸と直交して回転する為)、<math>\omega</math>であり、1日の回転角は<math>2\pi</math>である。実際、東西方向の速度<math>v</math>に対しては、コリオリの力(広義のコリオリの力)は<math>2mv\omega</math>だけ発生するが、このうち鉛直方向成分<math>2mv\omega\cos\phi</math>は重力に比して小さいため無視し、水平方向成分<math>2mv\omega\sin\phi</math>だけを慣習的にコリオリの力という。同じ式となるが、南北方向とは意味が違う。</ref><ref group="注釈">「角速度」を「回転軸方向のベクトル」と捉え、コリオリの力を「ベクトル積」で考える場合、角速度は観測点の緯度に関係なく<math>\omega</math>である。この場合、緯度<math>\phi</math>の南北方向のベクトルとの「ベクトル積」で、<math>\sin\phi</math>の係数が発生する。東西方向のベクトルとの「ベクトル積」では、回転軸方向と直交するため、<math>\sin\phi</math>の係数は発生しない。あるいは、地軸方向の角速度ベクトル<math>\omega</math>を、鉛直方向のベクトル<math>\omega\sin\phi</math>と北方向のベクトル<math>\omega\cos\phi</math>和に分解し、それぞれとの「ベクトル積」をとってコリオリの力を求めることもできる。この場合、鉛直方向のベクトル<math>\omega\sin\phi</math>との「ベクトル積」を「コリオリの力」と言い、北方向のベクトル<math>\omega\cos\phi</math>との「ベクトル積」は、(地平面内のベクトルでは東西方向の成分のみ「ベクトル積」が値を持つが、その方向は鉛直方向となり重力に比べて小さいため)無視することが行われる。</ref>
となるため、地球の自転によるコリオリの力の大きさは物体の速さを<math>v</math>として
:<math>|\boldsymbol{F}_C|=mvf,\quad f=2\omega \sin \phi</math>
で表される。<math>f</math>は[[コリオリパラメータ|コリオリ因子]]と呼ばれる。
コリオリの力が与える影響を考える一例として、コリオリの力を一番強く受ける極点において時速<math>100\mathrm{km}</math>のボールをピッチャープレートとホームベースの距離<math>18.4\mathrm{m}</math>の間で投げたとする。地球の角速度<math>\omega</math>は<math>\omega=7.29\times 10^{-5}\mathrm{rad/s}</math>であるから、コリオリの力による加速度の大きさは
:<math>a' = 2\omega v' =4.03\times 10^{-3}\mathrm{m/s^2}</math>
である。通過するのにかかる時間<math>t</math>は<math>t=0.661\mathrm{s}</math>であるから等加速度運動とみなすとずれの距離<math>x</math>は
:<math>x= {1 \over 2}a't^2\fallingdotseq 0.88\mathrm{mm}</math>
つまり<math>1\mathrm{mm}</math>にも満たない。また極点より緯度の小さい地域ではコリオリの力の影響はさらに小さくなる。日常生活の中で地球の回転によって生じるコリオリの力は非常に小さなものなのである。
同じく極点において、今度は秒速1000 mの砲弾を距離10 km先まで飛ばすときのコリオリの力による影響を考える。先ほどと同様に考えると、コリオリの力による加速度の大きさは
:<math>a' = 2\omega v' =1.46\times 10^{-1}\mathrm{m/s^2}</math>
であり、通過するのにかかる時間tは<math>t=10.0\mathrm{s}</math>であるから等加速度運動とみなすとずれの距離<math>x</math>は
:<math>x= {1 \over 2}a't^2\fallingdotseq 7.3\mathrm{m}</math>
したがって<math>7\mathrm{m}</math>ものずれが生じる。このように大規模な運動(運動速度が大きくて、運動する時間も長い)では地球の回転によって生じるコリオリの力は大きな影響を及ぼすのである。
== 導出 ==
===2次元の場合===
[[画像:回転座標.jpg|thumb|300px|図1 慣性系と回転座標系の関係性]]
[[画像:回転座標系.jpg|thumb|300px|図2 軸を重ねてみた時の慣性系と回転座標系の関係性 ]]
慣性系<math>O-xy</math>に対して原点のまわりを一定の角速度<math>\boldsymbol{\omega}</math>で回転する座標系<math>O-x'y'</math>で質点Pに力<math>\boldsymbol{F}</math>が働く場合を考える。
あるベクトル'''<math>\boldsymbol{q}</math>'''の成分が
慣性系では
:<math>\boldsymbol{q}=\begin{bmatrix}q_{x}\\ q_{y} \end{bmatrix}</math>
回転座標系では
:<math>\boldsymbol{q'}=\begin{bmatrix} q'_{x} \\ q'_{y} \end{bmatrix}</math>
と表されるとき図1,2より<math>\boldsymbol{q}</math>は'''<math>\boldsymbol{q'}</math>'''を原点Oのまわりに<math>\omega t</math>だけ回転したものになるので
:<math>\boldsymbol{q}=\boldsymbol{R}(\omega t)\boldsymbol{q'}</math>
と表される。
:<math>\boldsymbol{R}(\theta )=\begin{bmatrix}\cos \theta &-\sin \theta \\\sin \theta &\cos \theta \\\end{bmatrix}</math>
と定義する。すると質点<math>P</math>の位置ベクトル<math>\boldsymbol{r}</math>と回転座標系でみたベクトル<math>\boldsymbol{r'}</math>の関係は
:<math>\boldsymbol{r}=\boldsymbol{R}(\omega t)\boldsymbol{r'}</math>
と表される。
両辺を時刻<math>t</math>で微分して
:<math>\begin{align}
\boldsymbol{v}
&= \frac{d\boldsymbol{r}}{dt} \\
&= \frac{d\boldsymbol{R}(\omega t)}{dt}\boldsymbol{r'} + \boldsymbol{R}(\omega t) \frac{d\boldsymbol{r'}}{dt} \\
&= \omega \boldsymbol{R} (\omega t + \pi/2) \boldsymbol{r'} + \boldsymbol{R}(\omega t) \boldsymbol{v'}
\end{align}</math>
さらに<math>t</math>で微分して
<blockquote><math>\begin{align}
\boldsymbol{a}
&= \frac{d^2\boldsymbol{r}}{dt^2}\\
&= \omega \frac{d\boldsymbol{R}(\omega t+\pi/2)}{dt} \boldsymbol{r'} +
\omega\boldsymbol{R}(\omega t + \pi/2) \frac{d\boldsymbol{r'}}{dt}
+ \frac{d\boldsymbol{R}(\omega t)}{dt} \boldsymbol{v'} + \boldsymbol{R}(\omega t) \frac{d\boldsymbol{v'}}{dt}\\
&= \omega^2\boldsymbol{R}(\omega t + \pi) \boldsymbol{r'} + 2 \omega \boldsymbol{R}(\omega t + \pi/2) \boldsymbol{v'} + \boldsymbol{R}(\omega t) \boldsymbol{a'} \\
&= -\omega^2 \boldsymbol{R}(\omega t) \boldsymbol{r'} + 2 \omega \boldsymbol{R}(\omega t + \pi/2) \boldsymbol{v'} + \boldsymbol{R}(\omega t) \boldsymbol{a'}
\end{align}
</math></blockquote>
……(1)
:<math>\frac{d\boldsymbol{R}(\omega t)}{dt}
= \frac{d(\omega t)}{dt} \frac{d\boldsymbol{R}(\omega t)}{d(\omega t)}
=\omega \boldsymbol{R}(\omega t + \pi/2)</math>
ここでは <math>\boldsymbol{R}(\omega t+\pi )=-\boldsymbol{R}(\omega t)</math> を用いた。
ベクトル<math>\boldsymbol{F}</math>と回転座標系でみたベクトル<math>\boldsymbol{F'}</math>の関係は
<blockquote><math>\boldsymbol{F}=\boldsymbol{R}(\omega t)\boldsymbol{F'}</math> ……(2)</blockquote>
と表される。
運動方程式<math>\boldsymbol{F}=m\boldsymbol{a}</math>に(1)と(2)を代入して
:<math>\boldsymbol{R}(\omega t) \boldsymbol{F'} = -m\omega ^2 \boldsymbol{R}(\omega t) \boldsymbol{r'} + 2m \omega \boldsymbol{R}(\omega t + \pi/2) \boldsymbol{v'} + \boldsymbol{R}(\omega t) m\boldsymbol{a'}</math>
両辺に<math>\boldsymbol{R}(-\omega t)</math>をかけて
:<math>\boldsymbol{F'} = -m\omega^2 \boldsymbol{r'} + 2m\omega \boldsymbol{R}(\pi/2) \boldsymbol{v'} + m\boldsymbol{a'}</math>
式変形して
:<math>m\boldsymbol{a'} = \boldsymbol{F'} + m\omega^2\boldsymbol{r'} - 2m\omega \boldsymbol{R}(\pi/2) \boldsymbol{v'}</math>
すなわち回転座標系から物体を見た場合実際の力<math>\boldsymbol{F}</math>のほかに<math>m\omega^2\boldsymbol{r'}</math>と<math>2m\omega \boldsymbol{R}(\pi/2)\boldsymbol{v'}</math>の力が働いているように見える。
この<math>2m\omega \boldsymbol{R}(\pi/2)\boldsymbol{v'}</math>は、見かけの力でコリオリの力という。コリオリの力は速度<math>v'</math>の方向と回転軸の方向<math>\omega</math>の両方に垂直である。
<math>m\omega^2\boldsymbol{r'}</math>は、質点を回転軸に垂直に引き離そうとする見かけの力で[[遠心力]]という。
===3次元の場合===
以下では、地球の公転は無視し、地球は半径<math>R</math>の球形とする。
静止座標系として、地球の中心を原点とし、地軸の北極方向を<math>z</math>軸、赤道面を<math>xy</math>平面とする座標系を考える。
次に、地球表面の点で、地球の自転とともに動くを観測点<math>P</math>を考える。
:<math>P=R\begin{bmatrix}\cos\alpha \cos(\omega t+\delta)\\ \cos\alpha \sin(\omega t+\delta) \\ \sin\alpha \end{bmatrix}</math>
ただし、<math>R</math>は地球の半径、<math>\alpha</math>は観測点<math>P</math>の緯度、<math>\omega</math>は地球の自転の角速度<math>\omega =2\pi /(24 \times 60 \times 60 ~ \mathrm{s})</math>、<math>t</math>は時刻、<math>\delta</math>は時刻<math>t=0</math>における<math>P</math>の位置を表すパラメータだが、以下コリオリの力に関係ないので<math>\delta=0</math>とする。
回転座標系として、<math>P</math>を原点とし、次の3つの単位ベクトルで張られる座標系を考える。
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!単位ベクトル!!ベクトルの方向
|-
|<math>f_1=\begin{bmatrix}\ 0\\ 0\\ 1\end{bmatrix}</math>||地軸方向。北極星の方向。
|-
|<math>f_2=\begin{bmatrix}\ -\sin\omega t\\ \cos\omega t\\0\end{bmatrix}</math>||自転方向。東の方向。
|-
|<math>f_3=\begin{bmatrix}\ \cos\omega t\\ \sin\omega t\\0\end{bmatrix}</math>||<math>P</math>点から地軸に下ろした垂線の足と、<math>P</math>を結ぶ直線上の方向で、地軸から離れる方向。天頂から真南へ角度<math>\alpha</math>だけ傾けた方向。
|}
この座標系で、時刻<math>t</math>における質点<math>X</math>の位置が、<math>f_1</math>成分<math>a_1(t)</math>、<math>f_2</math>成分<math>a_2(t)</math>、<math>f_3</math>成分<math>a_3(t)</math>で表記されたとする。(以下<math>t</math>は省略する。)
静止系で表すと
:<math>\begin{align}
X &= a_1f_1+a_2f_2+a_3f_3+P \\
&= a_1f_1+a_2f_2+a_3f_3+R\sin\alpha f_1+R\cos\alpha f_3
\end{align}</math>
である。
以下時間での微分を<math>'</math>で表す。
*<math>f_1'=\begin{bmatrix}\ 0\\ 0\\ 0\end{bmatrix}=0</math>
*<math>f_2'=\begin{bmatrix}\ -\omega\cos\omega t\\ -\omega\sin\omega t\\0\end{bmatrix}=-\omega f_3</math>
*<math>f_3'=\begin{bmatrix}\ -\omega\sin\omega t\\ \omega\cos\omega t\\0\end{bmatrix}=\omega f_2</math>
:<math>\begin{align}
X' &= a_1'f_1+a_2'f_2+a_3'f_3+a_1f_1'+a_2f_2'+a_3f_3'+P' \\
X'' &= a_1''f_1+a_2''f_2+a_3''f_3+2a_1'f_1'+2a_2'f_2'+2a_3'f_3'+a_1f_1''+a_2f_2''+a_3f_3''+P''
\end{align}</math>
静止系では運動方程式が成り立つため、質点<math>X</math>の質量を<math>m</math>、掛かる力を<math>F</math>とすると、
:<math>F=mX''=ma_1''f_1+ma_2''f_2+ma_3''f_3+2ma_1'f_1'+2ma_2'f_2'+2ma_3'f_3'+ma_1f_1''+ma_2f_2''+ma_3f_3''+mP''</math>
:<math>m(a_1''f_1+a_2''f_2+a_3''f_3)=F-2m(a_1'f_1'+a_2'f_2'+a_3'f_3')-m(a_1f_1''+a_2f_2''+a_3f_3''+P'')</math>
ここで、
:<math>a_1''f_1+a_2''f_2+a_3''f_3</math>
は、この回転座標系での加速度であり、
:<math>-2m(a_1'f_1'+a_2'f_2'+a_3'f_3')-m(a_1f_1''+a_2f_2''+a_3f_3''+P'')</math>
が、この座標系での「みかけの力」即ち慣性力になる。
上で示した
*<math>f_1'=0</math>
*<math>f_2'=-\omega f_3</math>
*<math>f_3'=\omega f_2</math>
を使えば、
:<math>-2m(a_1'f_1'+a_2'f_2'+a_3'f_3')=2m\omega(a_2'f_3-a_3'f_2)</math>
この部分は、広義のコリオリの力に対応する部分であり、
*<math>f_2</math>方向の速度<math>a_2'</math>に対し<math>f_3</math>方向に「みかけの力」<math>2m\omega a_2'</math>が働き、
*<math>f_3</math>方向の速度<math>a_3'</math>に対し<math>-f_2</math>方向に「みかけの力」<math>2m\omega a_3'</math>が働く
ことを示している。
これは、<math>f_2</math>と<math>f_3</math>で張られた平面(観測点<math>P</math>を通り地軸に直交する平面)での2次元のコリオリの力に一致する。
なお、
:<math>
\begin{align}
-m(a_1f_1''+a_2f_2''+a_3f_3''+P'')
&= m(-a_1f_1''-a_2f_2''-a_3f_3''-R\sin\alpha f_1''-R\cos\alpha f_3'')\\
&= m\omega(+a_2f_3'-a_3f_2'-R\cos\alpha f_2')\\
&= m\omega^2(a_2f_2+a_3f_3+R\cos\alpha f_3)\\
\end{align}
</math>
は、
質点<math>X</math>から地軸に下ろした垂線の足から、質点<math>X</math>までの方向ベクトルが<math>a_2f_2+a_3f_3+R\cos\alpha f_3</math>であることを考えれば、質点<math>X</math>にかかる「みかけの力」遠心力である。
次に、上記の回転座標系では、北極星の方向、天頂から真南へ角度<math>\alpha</math>だけ傾けた方向を座標軸とするので不便だから、別の座標系を考える。
<math>P</math>を原点とし、次の3つの単位ベクトル<math>e_1</math>、<math>e_2</math>、<math>e_3</math>で張られる座標系とする。
{|class=wikitable
!単位ベクトル!!ベクトルの向き
|-
|<math>e_1=\cos\alpha f_1-\sin\alpha f_3</math>||観測点<math>P</math>で地球に接する平面上の真北の方角
|-
|<math>e_2=f_2</math>||観測点<math>P</math>で地球に接する平面上の真東の方角
|-
|<math>e_3=\sin\alpha f_1+\cos\alpha f_3</math>||観測点<math>P</math>での天頂方向
|}
基底変換は行列で表すと、
:<math>\begin{bmatrix}\ e_1 & e_2 & e_3\end{bmatrix}=\begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & \sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ -\sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}</math>
:<math>\begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix}=\begin{bmatrix}\ e_1 & e_2 & e_3\end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & -\sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ \sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}</math>
<math>\begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix}</math>座標系の座標
:<math>\begin{bmatrix}\ a_1 \\ a_2 \\ a_3\end{bmatrix}</math>
が、
<math>\begin{bmatrix}\ e_1 & e_2 & e_3\end{bmatrix}</math>座標系の座標
:<math>\begin{bmatrix}\ b_1 \\ b_2 \\ b_3\end{bmatrix}</math>
と同じ点を表すには、
:<math>
\begin{align}
\begin{bmatrix}\ e_1 & e_2 & e_3\end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1 \\ b_2 \\ b_3\end{bmatrix}
&= \begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & \sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ -\sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1 \\ b_2 \\ b_3\end{bmatrix}\\
&= \begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ a_1 \\ a_2 \\ a_3\end{bmatrix}\\
\end{align}
</math>
のため
:<math>\begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & \sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ -\sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1 \\ b_2 \\ b_3\end{bmatrix}=\begin{bmatrix}\ a_1 \\ a_2 \\ a_3\end{bmatrix}</math>
でなければならない。
<math>\alpha</math>は時間には依存しないため、
:<math>\begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & \sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ -\sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1' \\ b_2' \\ b_3'\end{bmatrix}=\begin{bmatrix}\ a_1' \\ a_2' \\ a_3'\end{bmatrix}</math>
:<math>\begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & \sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ -\sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1'' \\ b_2'' \\ b_3''\end{bmatrix}=\begin{bmatrix}\ a_1'' \\ a_2'' \\ a_3''\end{bmatrix}</math>
運動方程式を書き換えれば、
:<math>m(a_1''f_1+a_2''f_2+a_3''f_3)=F-2m(a_1'f_1'+a_2'f_2'+a_3'f_3')-m(a_1f_1''+a_2f_2''+a_3f_3''+P'')</math>
について、
:<math>\begin{align}
m(a_1''f_1+a_2''f_2+a_3''f_3)
&= m\begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ a_1'' \\ a_2'' \\ a_3''\end{bmatrix}\\
&= m\begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & \sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ -\sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1'' \\ b_2'' \\ b_3''\end{bmatrix}\\
&= m\begin{bmatrix}\ e_1 & e_2 & e_3\end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1'' \\ b_2'' \\ b_3''\end{bmatrix}\\
&= m(b_1''e_1+b_2''e_2+b_3''e_3)
\end{align}</math>
上記は加速度の項である。
:<math>
\begin{align}
-2m(a_1'f_1'+a_2'f_2'+a_3'f_3')
&= 2m\omega(a_2'f_3-a_3'f_2)\\
&= 2m\omega\begin{bmatrix}\ f_1 & f_2 & f_3\end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ 0 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & -1 \\ 0 & 1 & 0 \end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ a_1'\\ a_2'\\ a_3'\end{bmatrix}\\
&= 2m\omega\begin{bmatrix}\ e_1 & e_2 & e_3\end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & -\sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ \sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ 0 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & -1 \\ 0 & 1 & 0 \end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ \cos\alpha & 0 & \sin\alpha \\ 0 & 1 & 0 \\ -\sin\alpha & 0 & \cos\alpha \end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ b_1' \\ b_2' \\ b_3'\end{bmatrix}\\
&= 2m\omega\begin{bmatrix}\ e_1 & e_2 & e_3\end{bmatrix}\begin{bmatrix}\ 0 & -\sin\alpha & 0 \\ \sin\alpha & 0 & -\cos\alpha \\ 0 & \cos\alpha & 0 \end{bmatrix} \begin{bmatrix}\ b_1' \\ b_2' \\ b_3'\end{bmatrix}\\
&= 2m\omega(b_1'\sin\alpha e_2-b_2'\sin\alpha e_1+b_2'\cos\alpha e_3-b_3'\cos\alpha e_2)
\end{align}</math>
上記は広義のコリオリの力の項である。
:<math>\begin{align}
-m(a_1f_1''+a_2f_2''+a_3f_3''+P'')
&= m\omega^2(a_2f_2+a_3f_3+R\cos\alpha f_3)\\
&= m\omega^2\left\{b_2e_2+(b_1\sin\alpha+b_3\cos\alpha+R\cos\alpha)(\sin\alpha e_1+\cos\alpha e_3)\right\}
\end{align}</math>
上記は遠心力の項である。
ここで、広義のコリオリの力の項を見ると、
*<math>e_1</math>方向(北方向)の速度<math>b_1'</math>に対し、<math>e_2</math>方向(東方向)に「みかけの力」<math>2m\omega b_1'\sin\alpha</math>が働く
*<math>e_2</math>方向(東方向)の速度<math>b_2'</math>に対し、<math>-e_1</math>方向(南方向)に「みかけの力」<math>2m\omega b_2'\sin\alpha</math>が働き、<math>e_3</math>方向(天頂方向)に「みかけの力」<math>2m\omega b_2'\cos\alpha</math>が働く
*<math>e_3</math>方向(天頂方向)の速度<math>b_3'</math>に対し、<math>-e_2</math>方向(西方向)に「みかけの力」<math>2m\omega b_3'\cos\alpha</math>が働く
ことが分かる。
このうち、天頂方向の速度と力を捨象した、
*<math>e_1</math>方向(北方向)の速度<math>b_1'</math>に対し、<math>e_2</math>方向(東方向)に「みかけの力」<math>2m\omega b_1'\sin\alpha</math>が働く
*<math>e_2</math>方向(東方向)の速度<math>b_2'</math>に対し、<math>-e_1</math>方向(南方向)に「みかけの力」<math>2m\omega b_2'\sin\alpha</math>が働く
と言える。これがコリオリの力である。接平面内であれば、どの方向の速度ベクトルでも北方向と東方向の速度ベクトルの合成で作れるため、「<math>2m\omega\sin\alpha</math>×速度」だけの接平面内の「みかけの力」がかかることが分かる。
===3次元の場合のまとめ===
3次元の場合のコリオリの力をまとめると、次の3段階で導出されていることが分かる。
# 観測点<math>P</math>での地球の接平面<math>T</math>内の速度ベクトルを、観測点<math>P</math>を通り地軸と直交する平面(赤道面と平行な平面)<math>L</math>に射影する。
# 平面<math>L</math>内で2次元のコリオリの力を求める。
# 得られた平面<math>L</math>内のコリオリの力を接平面<math>T</math>に射影し、接平面<math>T</math>内のコリオリの力を求める。
ここで、接平面<math>T</math>内の東向き(自転方向の向き)の大きさ<math>v</math>の速度ベクトルについて考えれば、それを平面<math>L</math>に射影しても変わらずに大きさ<math>v</math>であり、平面<math>L</math>内のコリオリの力は、大きさ<math>2m\omega v</math>、方向は東と直交し地軸から遠ざかる方向であり、それを接平面<math>T</math>に射影すると、コリオリの力(の接平面<math>T</math>内の成分)は、大きさ<math>2m\omega v\sin\alpha</math>、方向は南となる。
接平面<math>T</math>内の北向きの大きさ<math>v</math>の速度ベクトルについて考えれば、それを平面<math>L</math>に射影すると大きさは<math>v\sin\alpha</math>となり、平面<math>L</math>内のコリオリの力は、大きさ<math>2m\omega v\sin\alpha</math>、方向は東であり、それを接平面<math>T</math>に射影すると、コリオリの力は変わらず、大きさ<math>2m\omega v\sin\alpha</math>、方向は東となる。
接平面<math>T</math>内の大きさ<math>v</math>の任意の方向の速度ベクトルは、東方向と北方向の速度ベクトルの一次結合で表せるため、その接平面<math>T</math>内のコリオリの力は、大きさ<math>2m\omega v\sin\alpha</math>、方向は北極側から見て速度ベクトルの方向から90度時計回りに回転した方向となることが分かる。
==直感的な説明==
地球の表面に沿って北半球を北上する物体を考えると、宇宙空間から見れば物体は真北に進んでいるようには見えず、東進しているように見える(地球の表面とともに右回りに回転している)。北に進むほど、「平行(緯度)方向の半径」が小さくなるため、地表そのものの東進は遅くなるが、一方で物体は(地表の局所的の東向きの速度の低下に合わせて速度を落とすのではなく)最初の東向きの速度を維持するため、東にさらに傾く。<ref>{{cite book |title=Solar Energy at Urban Scale |first1=Benoit |last1=Beckers |publisher=John Wiley & Sons |year=2013 |isbn=978-1-118-61436-5 |page=116 |url=https://books.google.com/books?id=GAOnjP4k7SQC}} [https://books.google.com/books?id=GAOnjP4k7SQC&pg=PT116 Extract of page 116]</ref><ref>{{cite book |title=Energy and the Environment: Resources, Technologies, and Impacts |first1=Reza |last1=Toossi |publisher=Verve Publishers |year=2009 |isbn=978-1-4276-1867-2 |page=48 |url=https://books.google.com/books?id=-cb2EyrWbg0C}} [https://books.google.com/books?id=-cb2EyrWbg0C&pg=PA48 Extract of page 48]</ref>
この例では北向きの動きを考えているのでわからないが、進行方向に対しての垂直方向の偏向は、東向きや西向き(あるいはその他の方向)に動く物体にも同じように生じる。<ref>{{Cite web|url=https://ocw.mit.edu/courses/earth-atmospheric-and-planetary-sciences/12-090-introduction-to-fluid-motions-sediment-transport-and-current-generated-sedimentary-structures-fall-2006/course-textbook/ch7.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20150907214831/http://ocw.mit.edu/courses/earth-atmospheric-and-planetary-sciences/12-090-introduction-to-fluid-motions-sediment-transport-and-current-generated-sedimentary-structures-fall-2006/course-textbook/ch7.pdf |archive-date=2015-09-07 |url-status=live|title=MIT: Flow in rotating environments|accessdate=2023-07-06}}</ref> しかし、一般的な大きさの家庭用バスタブ、洗面台、トイレの排水の回転を決めるのはこの力だという説は、現代の科学者たちによって繰り返し否定されている。<ref>{{cite journal |doi=10.1119/1.4897580 |title=Debunking Coriolis Force Myths |journal=The Physics Teacher |volume=52 |issue=8 |pages=464–465 |year=2014 |last1=Shakur |first1=Asif |bibcode=2014PhTea..52..464S}}</ref><ref name = SciAmer2/><ref>{{Cite web|url=https://www.snopes.com/fact-check/coriolis-effect/|title=Coriolis Force Effect on Drains|website=Snopes.com}}</ref>
==地球への応用==
地表を「滑る」空気の運動に影響を与える加速度は、次式のコリオリ項の水平成分である。
:<math> -2 \, \boldsymbol{\omega \times v}</math>
この成分は地表の速度と直交しており、次式で与えられる。
:<math> \omega \, v\ 2 \, \sin \phi </math>
* <math> \omega </math> :地球の回転速度
* <math> \phi </math> :緯度。北半球では正、南半球では負にとる。
緯度が正である北半球では、この加速度は上から見て進行方向の右側にある。逆に、南半球では左になる。
===回転する球===
[[File:Earth coordinates.svg|thumb|緯度 φ の座標系で、''x''軸を東、''y''軸を北、''z''軸を上(球の中心から半径方向)にとる。]]
南北軸を中心に回転する球体上の緯度 ''φ'' の場所を考える。 ''x'' 軸を水平に真東、''y''軸を水平に真北、''z''軸を垂直に上に向けて局所的座標系を設定する。この局所的座標系で表される回転ベクトル、移動速度、コリオリ加速度(東(''e'')、北(''n'')、上(''u'')の順に成分を列挙する)は以下の通りである:<ref name=Menke>{{Cite book| title=Geophysical Theory |author = Menke, WIlliam & Abbott, Dallas |pages=124–126 |url=https://books.google.com/books?id=XP3R_pVnOoEC&pg=PA120 |isbn=9780231067928 |year=1990 |location = New York, NY | publisher=Columbia University Press}}</ref>
:<math>\boldsymbol{ \Omega} = \omega \begin{pmatrix} 0 \\ \cos \varphi \\ \sin \varphi \end{pmatrix}\ ,</math> <math>\boldsymbol{ v} = \begin{pmatrix} v_e \\ v_n \\ v_u \end{pmatrix}\ ,</math>
:<math>\boldsymbol{ a}_C =-2\boldsymbol{\Omega \times v}= 2\,\omega\, \begin{pmatrix} v_n \sin \varphi-v_u \cos \varphi \\ -v_e \sin \varphi \\ v_e \cos\varphi\end{pmatrix}\ .</math>
大気や海洋の力学を考慮する場合、鉛直速度は小さく、コリオリ加速度の鉛直成分 (<math>v_e \cos\varphi</math>) は重力(g, 地球表面付近で約{{convert|9.81|m/s2|abbr=on}})に比べて小さいとして、水平(東と北)成分のみが問題にすれば水平面に対する上記の制限は(''v<sub>u</sub>'' = 0)である。:
:<math> \boldsymbol{ v} = \begin{pmatrix} v_e \\ v_n\end{pmatrix}\ ,</math> <math>\boldsymbol{ a}_c = \begin{pmatrix} v_n \\ -v_e\end{pmatrix}\ f\ , </math>
ここで<math>f = 2 \omega \sin \varphi \,</math>は[[コリオリパラメータ]]という。
''v<sub>n</sub>'' = 0 としたことで、(正の φ, ωに対して)東への移動は南への加速となることが直ちににわかる。同様に、''v<sub>e</sub>'' = 0 とすると、北向きに動くと東向きに加速することがわかる。一般に、加速度の原因となる運動の方向に沿って水平に観察すると、加速度は常に(正のφの場合)右に90度回転しており、進行方向に向きに関係なく同じ大きさである。
別のケースとして、φ=0°とする赤道運動を考える。この場合、'''Ω'''は北軸またはn軸に平行である:
:<math>
\boldsymbol{ \Omega} = \omega \begin{pmatrix} 0 \\ 1 \\ 0 \end{pmatrix}\ ,</math> <math>
\boldsymbol{ v} = \begin{pmatrix} v_e \\ v_n \\ v_u \end{pmatrix}\ ,</math> <math>
\boldsymbol{ a}_C = -2\boldsymbol{\Omega \times v} = 2\,\omega\, \begin{pmatrix} -v_u \\0 \\ v_e \end{pmatrix}\ .
</math>
したがって、東への運動(つまり球体の回転と同じ方向)は{{ill|エトヴェシュ効果|en|Eötvös effect}}として知られる上向きの加速度をもたらし、上向きの運動は西向きの加速度をもたらす。
===気象学と海洋学===
[[File:Northern vs Southern hemisphere tropical cyclones.jpg|thumb|コリオリの力により、[[Typhoon Nanmadol (2022)|Typhoon Nanmadol]](左)のような北半球の低気圧は反時計回りに回転し、[[Cyclone Darian]] (右)のような南半球の低気圧は時計回りに回転する。]]
[[File:Coriolis effect10.svg|thumbnail|北半球の低気圧周辺の流れの模式図。ロスビー数は小さいので、遠心力はほとんど無視できる。圧力勾配力は青い矢印、コリオリ加速度(常に速度に垂直)は赤い矢印。]]
[[File:Coriolis effect14.png|thumb|風速約{{convert|50|to|70|m/s|mph|sp=us|abbr=on}}で計算した、他の力がない場合の気塊の慣性円の模式図。]]
[[File:The Earth seen from Apollo 17.jpg|right|thumbnail|アポロ17号が撮影した有名な地球の画像に見られる雲の形。]]
コリオリ効果の最も重要な影響は、海洋と大気の大規模な力学であろう。気象学や海洋学では、地球が静止している回転座標系を仮定するのが便利である。この仮定のもとで、遠心力とコリオリ力が導入される。それらの相対的な重要性は、適用される[[ロスビー数]]によって決定される。例えば、[[竜巻]]は高いロスビー数を持つため、竜巻に関連する遠心力はかなり大きいが、竜巻に関連するコリオリ力は実用上は無視できる。<ref name=Holton2>{{cite book| title=An Introduction to Dynamic Meteorology |year=2004 |author=Holton, James R. |url=https://books.google.com/books?id=fhW5oDv3EPsC&pg=PA64|page=64 |isbn=9780123540157 |publisher=Elsevier Academic Press |location=Burlington, MA}}</ref>
表層海流は水面上の風の動きによって引き起こされるため、コリオリの力は海流やサイクロンの動きにも影響を与える。海流の多くは、[[環流]]と呼ばれる暖かく高気圧に覆われた海域を循環を形成する。この循環は大気中の循環ほど大きくないが、コリオリ効果によって引き起こされる偏向が、これらの環流の渦巻きパターンを生み出している。渦巻き状の風パターンは、ハリケーンの形成を助ける。コリオリ効果による力が強ければ強いほど、風は速く回転し、さらなるエネルギーを拾い上げ、ハリケーンの強さを増す。<ref name="Coriolis effect">{{cite web|last=Brinney|first=Amanda |title= What Is the Coriolis Effect? |url=https://www.thoughtco.com/what-is-the-coriolis-effect-1435315 | work=ThoughtCo.com |accessdate=2023-07-06}}</ref>
高気圧内の空気は、コリオリの力が半径方向内側に向き、半径方向外側の圧力勾配とほぼ釣り合うような方向に回転する。その結果、空気は北半球では高気圧の周りを時計回りに、南半球では反時計回りに移動する。低気圧の周りの空気は反対方向に回転するため、コリオリの力は半径方向外側に向き、半径方向内側の圧力勾配とほぼ釣り合う。<ref>{{Cite news| url=https://www.nationalgeographic.org/encyclopedia/coriolis-effect/ |title=The Coriolis Effect: Earth's Rotation and Its Effect on Weather | format = grades 3-12 teaching resource | author = Evers, Jeannie (Ed.) | date=May 2, 2023| location = Washington, DC | publisher =National Geographic Society| access-date=2018-01-17|language=en}}</ref>
====低圧域での流れ====
{{Main|低気圧}}
大気中に低気圧が形成されると、空気は低気圧に向かって流れ込む傾向があるが、コリオリの力によって速度に対して垂直に偏向される。その結果、平衡系が形成され、円運動やサイクロン流が発生する。ロスビー数が小さいため、力のバランスは、低気圧に向かって作用する圧力勾配力と、低気圧の中心から離れる方向に作用するコリオリ力の間で大きく変化する。
大気や海洋の大規模な運動は、素直に気圧勾配を下るのではなく、コリオリ力の影響で気圧勾配に垂直に起こる傾向がある。これは[[地衡流]]として知られている。<ref name=Barry>{{cite book| title=Atmosphere, Weather and Climate |author = Barry, Roger Graham & Chorley, Richard J. | url=https://books.google.com/books?id=MUQOAAAAQAAJ&pg=PA115|page=115 |isbn=9780415271714 |year=2003 | location = Abingdon-on-Thames, Oxfordshire, England | publisher=Routledge-Taylor & Francis}}</ref> 回転していない惑星では、流体は可能な限り直線に沿って流れ、圧力勾配はすぐになくなる。そのため、地衡バランスは「慣性運動」(下記参照)の場合とは大きく異なり、中緯度でのサイクロンがただの慣性円流の場合より桁違いに大きい理由も説明できる。
この偏向のパターンと移動方向は、[[w:Buys-Ballot's law|ビュイス・バロットの法則]]と呼ばれる。大気圏では、この流れのパターンを[[サイクロン]]と呼ぶ。北半球では、低気圧の周りの移動方向は反時計回りである。南半球では、回転力学が[[鏡像]]であるため、移動方向は時計回りである。<ref>{{cite web | last = Nelson | first = Stephen | title = Tropical Cyclones (Hurricanes) | work = Wind Systems: Low Pressure Centers | location = New Orleans, LA | publisher = [[Tulane University]] | date = Fall 2014 | url = http://www.tulane.edu/~sanelson/New_Orleans_and_Hurricanes/tropical_cyclones.htm | access-date = 2016-12-24 }}</ref> At high altitudes, outward-spreading air rotates in the opposite direction.<ref>For instance, see the image appearing in this source: {{cite web | author = NASA Staff | date = | title = Cloud Spirals and Outflow in Tropical Storm Katrina from Earth Observatory | work = JPL.NASA.gov | url = https://photojournal.jpl.nasa.gov/catalog/PIA04384 | access-date = | location = | publisher = [[NASA]] |accessdate=2023-07-06}}</ref>赤道付近はコリオリ効果が弱いため、サイクロンが発生することはほとんどない。<ref>{{Cite book| url=https://books.google.com/books?id=XRxzAwAAQBAJ&pg=PA326 |title=Encyclopedia of Disaster Relief |last1=Penuel|first1=K. Bradley |last2=Statler|first2=Matt |date=2010-12-29 |publisher=SAGE Publications |isbn=9781452266398 |page=326|language=en}}</ref>
====慣性円流====
速度<math>v\,</math>で移動する空気または水の塊は、コリオリ力のみを受け、慣性円と呼ばれる円形の軌跡を描く。この力は粒子の運動に対して直角に働くので、粒子は等速円運動をし、その半径 <math>R</math>は:
: <math>R = \frac{v}{f}</math>
ここで <math>f</math> は <math>2 \Omega \sin \varphi</math>で表されるコリオリパラメーターである。(上記参照) (<math>\varphi</math> は緯度)したがって、物体が円軌道を1周するのにかかる時間は<math>2\pi/f</math>である。コリオリパラメーターは通常、中緯度の値で約10<sup>−4</sup> s<sup>−1</sup>なので、典型的な大気速度{{convert|10|m/s|mph|sp=us|abbr=on}}で半径 {{convert|100|km|0|sp=us|abbr=on}}、周期17 hoursとなる。一方典型的な速度の海流({{convert|10|cm/s|mph|sp=us|abbr=on}})
の場合では、半径は{{convert|1|km|1|sp=us|abbr=on}}となる。これらの慣性円は、北半球では時計回り(軌道が右に曲がる)、南半球では反時計回りである(台風とは逆向きとなることに注意)。
回転系が放物線状のターンテーブル状である場合、<math>f</math> は一定であり、軌道は正確に円となるが、自転する惑星ではコリオリパラメーター<math>f</math>は緯度によって変化し、粒子の経路は正確な円を描かない。その場合<math>f</math>は先述の通り緯度の正弦に比例して変化するため、ある速度に伴う回転運動の半径は極点(緯度±90°)で最も小さく、赤道に向かって大きくなる。<ref name=Marshall2>{{Cite book|title= Atmosphere, Ocean and Climate Dynamics: An Introductory Text | page = 98 |author1=Marshall, John|author2=Plumb, R. Alan |url=https://books.google.com/books?id=aTGYbmVaA_gC&pg=PA98 |isbn=9780125586917 |year=2007 |publisher=Elsevier Academic Press |location=Amsterdam}}</ref>
====その他の地表への影響====
コリオリ効果は、大規模な海洋循環や大気循環に強く影響し、[[ジェット気流]]や[[西部境界流]]のような強固な特徴を形成する。このような地形は、地衡平衡状態(コリオリの力と圧力勾配の力が釣り合っていることを意味する)にある。コリオリ加速は、[[ロスビー波]]や[[ケルビン波]]など、海洋や大気中の多くの種類の波の伝播にも関与している。また、海洋におけるいわゆる[[エクマン境界層]]や、[[風成循環]]と呼ばれる大規模な海洋の流れパターンの確立にも関与している。
===エトヴェシュ効果===
{{Main|w:Eötvös effect}}
コリオリ効果の実際的な影響は、ほとんどが水平運動によって生じる水平加速度成分によって引き起こされるが、コリオリ効果の他の要素として、西に進む物体は下に偏向され、東に進む物体は上に偏向されるエトヴェシュ効果がある。<ref>{{cite book |title=Fundamentals of Geophysics |edition=illustrated |first1=William |last1=Lowrie |publisher=Cambridge University Press |year=1997 |isbn=978-0-521-46728-5 |page=45 |url=https://books.google.com/books?id=7vR2RJSIGVoC}} [https://books.google.com/books?id=7vR2RJSIGVoC&pg=PA45 Extract of page 45]</ref>この効果は赤道付近で最大となる。エトヴェシュ効果によって生じる力は水平方向の成分と似ているが、重力と圧力による垂直方向の力の方がはるかに大きいため、静水圧平衡ではあまり重要ではない。しかし大気中では、風は静水圧平衡からの圧力の小さな偏差と関連している。熱帯大気では、圧力の偏差の大きさのオーダーは非常に小さいので、エトヴェシュ効果の圧力偏差への寄与はかなりのものとなる。<ref>{{cite journal |last1=Ong |first1=H. |last2=Roundy |first2=P.E. |title=Nontraditional hypsometric equation |journal=Q. J. R. Meteorol. Soc. |date=2020 |volume=146 |issue=727 |pages=700–706 |doi=10.1002/qj.3703|arxiv=2011.09576|bibcode=2020QJRMS.146..700O |s2cid=214368409 |doi-access=free }}</ref>
加えて、上方(すなわち外側)または下方(すなわち内側)に進む物体はそれぞれ西または東に偏向し、この影響も赤道付近で最大となる。垂直方向の移動は通常、範囲と時間が限られているため、影響の大きさは小さく、検出には精密な機器が必要となる。例えば、理想化された数値モデリング研究によると、この効果は、大気の長期的(2週間以上)な加熱または冷却があれば、熱帯の大規模風速場におよそ10%直接影響を与える可能性がある。<ref>{{cite journal |last1=Hayashi |first1=M. |last2=Itoh |first2=H. |title=The Importance of the Nontraditional Coriolis Terms in Large-Scale Motions in the Tropics Forced by Prescribed Cumulus Heating |journal=J. Atmos. Sci. |date=2012 |volume=69 |issue=9 |pages=2699–2716 |doi=10.1175/JAS-D-11-0334.1|bibcode=2012JAtS...69.2699H |doi-access=free }}</ref><ref>{{cite journal |last1=Ong |first1=H. |last2=Roundy |first2=P.E. |title=Linear effects of nontraditional Coriolis terms on intertropical convergence zone forced large‐scale flow |journal=Q. J. R. Meteorol. Soc. |date=2019 |volume=145 |issue=723 |pages=2445–2453 |doi=10.1002/qj.3572|arxiv=2005.12946 |bibcode=2019QJRMS.145.2445O |s2cid=191167018 }}</ref>
さらに、軌道に打ち上げられる宇宙船のように運動量が大きく変化する場合、その影響は大きくなる。軌道への最速かつ最も燃料効率の良い経路は、赤道から真東にカーブして打ち上げることである。
====例====
赤道に沿って摩擦のない線路を走る列車を考える。走行中は、1日で世界1周するのに必要な速度(465 m/s)で移動すると仮定する。<ref name=Persson>{{cite journal |last1=Persson |first1=Anders |title=The Coriolis Effect – a conflict between common sense and mathematics |page=8 |url=http://met.no/english/topics/nomek_2005/coriolis.pdf |access-date=6 September 2015 |publisher=The Swedish Meteorological and Hydrological Institute |location=[[Norrköping]], [[Sweden]] |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20050906101226/http://met.no/english/topics/nomek_2005/coriolis.pdf |archive-date=6 September 2005}}</ref> コリオリ効果は、列車が西に進む場合、静止している場合、東に進む場合の3つのケースで考えることができる。それぞれの場合において、コリオリ効果はまず地球上の回転系から計算し、次に固定慣性系煮直すことができる。下の図は、地球の自転軸に沿った北極上空の定点から、慣性系で静止している観測者が見た3つの場合を示している。<math>\left(1\text{ day} \mathrel\overset{\land}{=} 8\text{ s}\right):</math>
[[File:Earth and train 2FPS.gif|center|Earth and train]]
# 列車が西進している場合: この場合、列車は自転方向とは逆に移動する。したがって、地球の回転系上では、コリオリの項は自転軸の内側(下向き)を向いている。画像のように自転軸の北極上にある固定された非回転系からこの列車を見ると、その速度では、地球がその下で回転しているため、列車は静止したままである。したがって、列車に作用する力は地球の[[重力]]と軌道からの反作用だけである。この力は0.34%<ref name=Persson />だけ乗客と列車が静止状態(地球とともに回転している状態)で受ける力よりも大きい。この差が、回転系におけるコリオリ効果である。
# 列車が停止している場合: 地球の回転系から見ると、列車の速度はゼロであり、したがってコリオリ力もゼロであり、列車とその乗客は通常の重量を回復する。北極上空の固定慣性系から見ると、列車は地球と一緒に回転して、重力の力の0.34%が、その慣性系で円運動をするのに必要な[[求心力]]を提供し、残りの力が回転系で測定されるので、列車と乗客を前の西進の場合よりも「軽く」する。
# 列車は東進する場合:列車は地球の回転方向に動くので、コリオリの項は回転軸から外側(上)に向かう。この上向きの力によって、列車は静止しているときよりも軽く見える。[[File:Eotvos efect on 10Kg.png|thumb|350 px|alt=|地球の赤道に沿って移動する速度の関数としての{{Convert|10|kg|adj=on}}の物体にかかる力のグラフ(回転フレーム内で測定)。(縦軸が効果による力の大きさ。正の速度は東向き、負の速度は西向きである)。]]北極上空の慣性系から見ると、列車は静止していたときの2倍の速度で回転しているので、その円軌道を引き起こすのに必要な求心力は増加し、線路に作用する重力からの力は減少する。列車と一緒に回転する回転系では、[[遠心力]]成分がより大きくなり、前の2つのケースよりも列車と乗客が軽くなる。
このことは、西に飛ぶ高速の弾丸が下に偏向し、東に飛ぶ弾丸が上に偏向する理由も説明している。このコリオリ効果の垂直成分をエトヴェシュ効果('''Eötvös effect''')と呼ぶ。<ref>{{cite book |last1=Lowrie |first1=William |title=A Student's Guide to Geophysical Equations |date=2011 |publisher=[[Cambridge University Press]] |isbn=978-1-139-49924-8 |page=141 |url=https://books.google.com/books?id=HPE1C9vtWZ0C&pg=PA141 |access-date=25 February 2020 |language=en}}</ref>
上記の例は、物体の接線速度が地球の自転速度(465 m/s)より速くなると、物体が西に向かうにつれてエトヴェシュ効果が減少し始める理由を説明するために使うことができる。上の例で西向きの列車が速度を上げると、線路を押す重力の一部が、慣性系上で円運動を維持するために必要な求心力を占める。列車が西向きの速度を自転速度の2倍の{{Convert|930|m/s|mph|abbr=on}}にすると、その求心力は列車が停止するときに受ける力と等しくなる。慣性系から見ると、どちらの場合も同じ速度で回転するが、方向は反対である。したがって、エトヴェシュ効果を完全に打ち消す力は同じである。{{Convert|930|m/s|mph|abbr=on|sp=us}}以上の速度で西に移動する物体は、代わりに上向きの力が加わる。図では、{{Convert|10|kg|adj=on}}の物体を異なる速度で列車に乗せた場合のエトヴェシュ効果を示している。放物線の形をしているのは、求心力が接線速度の2乗に比例するからである。慣性系上では、放物線の底は原点を中心とする。オフセットは、この議論が地球の回転系を使用しているためである。このグラフは、エトヴェシュ効果が対称的ではなく、高速で西に移動する物体が受ける下向きの力は、同じ速度で東に移動する物体が受ける上向きの力よりも小さいことを示している。
===バスタブやトイレの排水溝===
一般にある誤解として、バスタブやトイレなどの水受けは、北半球と南半球で排水方向が逆になることはない。これは、コリオリ力の大きさがこのスケールでは無視できるほど小さいからである。<ref name = SciAmer2>{{cite web| author = Scientific American Staff, and Hanson, Brad; Decker, Fred W.; Ehrlich, Robert & Humphrey, Thomas | date = January 28, 2001 | title = Can Somebody Finally Settle This Question: Does Water Flowing Down a Drain Spin in Different Directions Depending on Which Hemisphere You're In? And If So, Why? | work=ScientificAmerican.com | format = serial expert interviews | location = Berlin | publisher = Scientific American-Springer Nature | url=https://www.scientificamerican.com/article/can-somebody-finally-sett/ |access-date=June 28, 2023}}</ref><ref>{{cite web| author = Fraser, Alistair B. | date = | title = Bad Coriolis... Bad Meteorology | work = EMS.PSU.edu | format = teacher's resource | url=http://www.ems.psu.edu/~fraser/Bad/BadCoriolis.html|access-date=June 28, 2023}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.snopes.com/science/coriolis.asp|title=Flush Bosh |access-date=2016-12-21 |work=www.snopes.com}}</ref><ref>{{cite web |url=http://science.howstuffworks.com/science-vs-myth/everyday-myths/rotation-earth-toilet-baseball2.htm|title=Does the rotation of the Earth affect toilets and baseball games?|date=2009-07-20|access-date=2016-12-21}}</ref> 水の初期状態(排水口の形状、受け皿の形状、水の既存の運動量など)によって決まる力は、通常コリオリの力よりも桁違いに大きく、したがって、水が回転する方向があるとすれば、それらの要因がその方向を決定することになる。例えば、両半球で同じトイレを流した場合、同じ方向に排水されるが、この方向は便器の形状によってほとんど決まる。
現実の条件下では、コリオリの力が水の流れの方向に影響を与えることはない。水が静止しており、地球の実効的な自転速度が容器に対する水の自転速度よりも速い場合、および外部から加えられるトルク(底面の凹凸を流れることによって生じるようなもの)が十分に小さい場合にのみ、コリオリ効果によって渦の方向が実際に決定される可能性がある。このような入念な準備がなければ、コリオリ効果は、水の残留回転や容器の形状などの排水の方向に対する他のさまざまな影響よりもはるかに小さくなる。<ref>{{cite book| url=https://books.google.com/books?id=8hOLs-bmiYYC&pg=PA168| pages=168–9| title=Physics: A World View |author1=Kirkpatrick, Larry D. |author2=Francis, Gregory E. |year=2006 |publisher=Cengage Learning |isbn=978-0-495-01088-3}}</ref><ref>{{cite journal |journal=Journal of Fluid Mechanics |title=Stationary bathtub vortices and a critical regime of liquid discharge |author1=Y. A. Stepanyants |author2=G. H. Yeoh |volume=604 |issue=1 |pages=77–98 |year=2008 |bibcode=2008JFM...604...77S |doi=10.1017/S0022112008001080 |s2cid=53071268 |url=http://eprints.usq.edu.au/5726/2/Stepanyants_Yeoh_2008_PV.pdf }}</ref><ref>{{cite book|title=A Student's Guide to Earth Science: Words and terms |author=Creative Media Applications|publisher=Greenwood Publishing Group|year=2004 |isbn=978-0-313-32902-9 |page=22 |url=https://books.google.com/books?id=fF0TTZVQuZoC&pg=PA22}}</ref>
====非定型条件下での排水の実験室試験====
1962年、[[w:Ascher H. Shapiro|Ascher Shapiro]] は[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]でコリオリの力を試す実験を行った。横長{{Convert|2|m|sp=us}} の大きな水盤に、回転方向を示す小さな木の十字架を栓穴の上に置き、蓋をして水が落ち着くまで少なくとも24時間待ち排水をおこなった。このような正確な実験条件下で、彼はコリオリ効果と整合した反時計回りの回転(MITは北半球に位置する)を実証した。
彼は以下ように報告している。<ref>{{cite journal |last1=Shapiro |first1=Ascher H. |title=Bath-Tub Vortex |journal=Nature |date=December 1962 |volume=196 |issue=4859 |pages=1080–1081 |doi=10.1038/1961080b0|bibcode=1962Natur.196.1080S |s2cid=26568380 }}</ref>
{{Blockquote|text= どちらの考え方もある意味正しい。台所の流し台や浴槽などでの日常的な観察では、渦の方向は、日付や時間帯、実験者の特定の家庭によって予測不可能に変化するようだ。しかし、きちんと管理された実験条件下では、北半球で排水溝を下向きに見ている観察者には常に反時計回りの渦が見え、南半球にいる観察者には常に時計回りの渦が見える。適切に設計された実験では、渦はコリオリの力によって発生し、それは北半球では反時計回りである。}}
ロイド・トレフェセンは、シドニー大学において、18時間以上の沈降時間を伴う5つのテストにおいて、南半球における時計回りの回転を報告した。<ref>{{cite journal |last1=Trefethen |first1=Lloyd M. |last2=Bilger |first2=R. W. |last3=Fink |first3=P. T. |last4=Luxton |first4=R. E. |last5=Tanner |first5=R. I. |title=The Bath-Tub Vortex in the Southern Hemisphere |journal=Nature |date=September 1965 |volume=207 |issue=5001 |pages=1084–1085 |doi=10.1038/2071084a0|bibcode=1965Natur.207.1084T |s2cid=4249876 }}</ref>
===弾道軌道===
コリオリの力は[[弾道学]]において、非常に長距離の[[砲弾]]の弾道を計算するために重要である。歴史的に最も有名な例は、[[第一次世界大戦]]中にドイツ軍が約{{convert|120|km|sp=us|abbr=on}}の距離から[[パリ]]を砲撃するために使用した[[パリ砲]]である。コリオリの力は弾丸の軌道を微細に変化させ、非常に長い距離での命中精度に影響を与える。スナイパーのような長距離射撃の正確な射手は、コリオリの力を調整している。[[カリフォルニア州]][[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]の緯度では、{{convert|1000|yd|abbr=on}}北に向かって撃った弾丸は{{convert|2.8|in|abbr=on}}右に偏向する。また、上記のエトヴェシュ効果の項で説明した垂直方向の成分もあり、西向きの射撃は低く、東向きの射撃は高く命中する。<ref name=Taylor0>The claim is made that in the Falklands in WW I, the British failed to correct their sights for the southern hemisphere, and so missed their targets. {{Cite book|title=A Mathematician's Miscellany |author=John Edensor Littlewood |page=[https://archive.org/details/mathematiciansmi033496mbp/page/n62 51] |url=https://archive.org/details/mathematiciansmi033496mbp |year=1953 |publisher=Methuen And Company Limited}} {{Cite book|title=Classical Mechanics |author=John Robert Taylor |page=364; Problem 9.28 |url=https://books.google.com/books?id=P1kCtNr-pJsC&pg=PA364 |isbn=978-1-891389-22-1 |year=2005 |publisher=University Science Books}} For set up of the calculations, see Carlucci & Jacobson (2007), p. 225</ref><ref>{{cite news |title=Do Snipers Compensate for the Earth's Rotation? |url=https://www.washingtoncitypaper.com/columns/straight-dope/article/13039128/do-snipers-compensate-for-the-earthrsquos-rotation-what-the-coriolis |access-date=16 July 2018 |work=Washington City Paper |date=25 June 2010 |language=en}}</ref>
弾道に対するコリオリ力の影響を、[[ミサイル]]や[[人工衛星]]などの軌道を[[メルカトル図法]]のような二次元(平面)地図上にプロットした場合の軌道の湾曲と混同してはならない。地球の3次元曲面を2次元曲面(地図)に投影すると、必然的に歪んだ形状になる。経路の見かけの湾曲は地球の球面性の結果であり、回転していないフレームでも生じる。<ref>{{cite book |first1=Barry A. |last1=Klinger |first2=Thomas W. N. |last2=Haine |date=2019 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=Kr2GDwAAQBAJ&pg=PA291 |title=Ocean Circulation in Three Dimensions |chapter=Deep Meridional Overturning |department=Thermohaline Overturning |isbn=978-0521768436 |publisher=Cambridge University Press |access-date=2019-08-19 }}</ref>
[[File:Trajectory-groundtrack-drift.png|thumb|Trajectory, ground track, and drift of a typical projectile. The axes are not to scale.]]
移動する弾丸にかかるコリオリ力は、緯度、[[方位角]]の3方向すべての速度成分に依存する。方向とは、通常、ダウンレンジ(最初に銃が向いている方向)、垂直方向、クロスレンジの3方向である。<ref>{{Citation |last=McCoy|first= Robert L.|year= 1999|title=Modern Exterior Ballistics |publisher=Schiffer Military History |isbn=0-7643-0720-7 }}</ref>{{rp|178}}
:<math> A_\mathrm{X} = -2 \omega ( V_\mathrm{Y} \cos \theta_\mathrm{lat} \sin \phi_\mathrm{az} + V_\mathrm{Z} \sin \theta_\mathrm{lat} ) </math>
:<math> A_\mathrm{Y} = 2 \omega ( V_\mathrm{X} \cos \theta_\mathrm{lat} \sin \phi_\mathrm{az} + V_\mathrm{Z} \cos \theta_\mathrm{lat} \cos \phi_\mathrm{az}) </math>
:<math> A_\mathrm{Z} = 2 \omega ( V_\mathrm{X} \sin \theta_\mathrm{lat} - V_\mathrm{Y} \cos \theta_\mathrm{lat} \cos \phi_\mathrm{az}) </math>
* <math> A_\mathrm{X} </math>, ダウンレンジ加速度
* <math> A_\mathrm{Y} </math>, 垂直方向の加速度、正は上向きの加速度を示す。
* <math> A_\mathrm{Z} </math>, クロスレンジ加速度、正は右向きの加速度を示す
* <math> V_\mathrm{X} </math>, ダウンレンジの速度
* <math> V_\mathrm{Y} </math>, 鉛直方向の速度、正は上向きの速度を示す。
* <math> V_\mathrm{Z} </math>, クロスレンジの速度、正は右向きの速度を示す。
* <math> \omega </math> = 0.00007292 rad/sec, 地球の角速度。([[恒星日]]に基づく)
* <math> \theta_\mathrm{lat} </math>, 緯度、正が北半球を示す。
* <math> \phi_\mathrm{az} </math>, 真北から時計回りに測定した方位角。
==その他の分野におけるコリオリ効果==
===コリオリ式質量流量計===
コリオリ効果を実用化したものに管内を流れる流体の[[質量流量]]と[[密度]]を測定する装置である、[[コリオリ式質量流量計]]がある。作動原理は、流体が通過する管の振動を誘発することにある。振動は完全な円形ではないが、コリオリ効果を生み出す回転系となる。具体的な方法は流量計の設計によって異なるが、センサーは振動するフローチューブの周波数、位相シフト、振幅の変化をモニターし分析する。観測された変化から流体の質量流量と密度を分析することができる。<ref>{{cite journal|author=Omega Engineering|url=http://www.omega.com/literature/transactions/volume4/t9904-10-mass.html|title=Mass Flowmeters}}</ref>
===分子物理学===
多原子分子では、分子運動は、平衡位置を中心とした原子の剛体回転と内部振動によって記述することができる。原子の振動の結果、原子は分子の回転座標系に対して相対的に運動する。そのためコリオリ効果が存在し、原子を元の振動に垂直な方向に運動させる。このため、分子のスペクトルには回転準位と振動準位が混在することになり、そこからコリオリ結合定数を求めることができる。<ref>{{cite book |last1=califano |first1=S |title=Vibrational states |year=1976|publisher=Wiley |isbn=978-0471129967|pages=226–227}}</ref>
=== 昆虫の飛行 ===
[[ハエ]]([[双翅目]])と一部の[[蛾]]([[鱗翅目]])は、体の角速度に関する情報を伝達する特殊な付属器官や器官によって、飛行中のコリオリ効果を利用している。これらの付属器の直線運動から生じるコリオリの力は、昆虫の体の回転系内で検出される。ハエの場合、その特殊な付属器は「ハルテア」と呼ばれるあるダンベル状の器官である。<ref>{{cite journal|last1=Fraenkel|first1=G.|last2=Pringle|first2=W.S.|title=Halteres of Flies as Gyroscopic Organs of Equilibrium|journal=Nature|date=21 May 1938|issue=3577|pages=919–920|doi=10.1038/141919a0|volume=141|bibcode = 1938Natur.141..919F |s2cid=4100772}}</ref>
ハルテアは、主翼と同じ周期で平面振動しているため、体が回転するとハルテアの運動平面から横方向にずれる。<ref>{{cite journal|last1=Dickinson|first1=M.|title=Haltere-mediated equilibrium reflexes of the fruit fly, Drosophila melanogaster|journal=Phil. Trans. R. Soc. Lond.|year=1999|issue=1385|pages=903–916|pmc=1692594|pmid=10382224|doi=10.1098/rstb.1999.0442|volume=354}}</ref>
蛾では、ハエのハルテアと同様に同様に触角がコリオリの力を感知する役割を担っていることが知られている。<ref name="Sane S., Dieudonné, A., Willis, M., Daniel, T.date = February 2007">{{Cite journal|title = Antennal mechanosensors mediate flight control in moths|last = Sane S., Dieudonné, A., Willis, M., Daniel, T.|date = February 2007|journal = Science|doi = 10.1126/science.1133598|volume = 315|issue = 5813|pages = 863–866|bibcode = 2007Sci...315..863S|pmid = 17290001|url = http://www.hep.princeton.edu/%7Emcdonald/examples/mechanics/sane_science_315_863_07.pdf|citeseerx = 10.1.1.205.7318|s2cid = 2429129|access-date = 1 December 2017|archive-url = https://web.archive.org/web/20070622084447/http://www.hep.princeton.edu/~mcdonald/examples/mechanics/sane_science_315_863_07.pdf|archive-date = 22 June 2007|url-status = dead}}</ref> ハエと蛾の両方において、付属器の基部にある[[機械受容器]]は、ピッチとロールの平面における回転に相関する周波数と、ヨーの平面における回転に相関する周波数の2倍の周波数の偏差に敏感である。<ref>{{cite journal|last1=Fox|first1=J|last2=Daniel|first2=T|title=A neural basis for gyroscopic force measurement in the halteres of Holorusia|journal=Journal of Comparative Physiology|year=2008|volume=194|issue=10|pages=887–897|doi=10.1007/s00359-008-0361-z|pmid=18751714|s2cid=15260624}}</ref><ref name="Sane S., Dieudonné, A., Willis, M., Daniel, T.date = February 2007" />
===ラグランジュ点の安定性===
天文学では、ラグランジュ点とは、2つの大きな天体の軌道面において、重力の影響だけを受ける小さな天体が、2つの大きな天体に対して安定した位置を保つことができる5つの位置のことである。最初の3点(L<sub>1</sub>, L<sub>2</sub>, L<sub>3</sub>) は2つの大きな天体を結ぶ線上にあり、最後の2点(L<sub>4</sub> and L<sub>5</sub>)はそれぞれ2つの大きな天体と正三角形を形成している。L<sub>4</sub>とL<sub>5</sub>は、2つの大きな体とともに回転する座標系における有効ポテンシャルの極大値に対応するが、これらはコリオリ効果により安定である。<ref>{{cite book |last1=Spohn |first1=Tilman |last2=Breuer |first2=Doris |last3=Johnson |first3=Torrence |url = https://books.google.com/books?id=0bEMAwAAQBAJ&pg=PP1| title=Encyclopedia of the Solar System |year=2014|publisher=Elsevier |isbn=978-0124160347|page=60}}</ref> この安定性は、[[トロヤ群]]が見つかる'''Tadpole orbit'''として知られる、L<sub>4</sub> またはL<sub>5</sub>だけを周回する軌道をもたらす。 また、[[馬蹄形軌道]]として知られるL<sub>3</sub>, L<sub>4</sub>, L<sub>5</sub>, を取り囲む軌道になることもある。
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat}}
'''[[慣性#慣性力|慣性力]]'''
* [[遠心力]]
* [[オイラー力]]
'''現象'''
* [[ナイルの放物線]]
* [[貿易風]]
* [[極風]]
* [[環流]]
* [[地衡風]]
'''装置'''
* [[フーコーの振り子]]
* [[ジャイロスコープ]]
* [[コリオリ式質量流量計]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こりおりのちから}}
[[Category:うず]]
[[Category:力学]]
[[Category:回転]]
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[[Category:ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ]]
[[Category:エポニム]]
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ET
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'''ET''', '''et''', '''Et'''
== ET、E.T. ==
=== 固有名詞 ===
* [[スティーヴン・スピルバーグ]]監督の映画「[[E.T.]]」
* [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[遠州鉄道鉄道線|遠州鉄道線]] ('''E'''nshū'''T'''etsudō) の[[路線記号]]として用いられる。
* [[エンターテイメント・トゥナイト]](Entertainment Tonight)
* [[大紀元時報]](Epoch Times)
* [[東森電視]](Eastern Television)
* [[ケイティ・ペリー]]の楽曲「{{仮リンク|E.T (曲)|en|E.T. (song)|label=E.T.}}」
=== 略語 ===
* [[クレジットタイトル|エンドタイトル]](End Title)の略。
* {{仮リンク|ストーマ療法士|en|Enterostomal Therapis}}の略。
* [[スペース・シャトル外部燃料タンク]](Space Shuttle External Tank)の略。
* [[地球外生命]] (''Extraterrestrial life'') の略
* [[排出取引]](Emissions Trading)の略。
* [[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]の[[Wolfenstein: Enemy Territory]]の略称。表記は「w:ET」とも。
* [[本態性血小板血症]](Essential Thrombocythemia)の略。
* [[有効温度]](Effective Temperature)の略。
* [[暦表時]](Ephemeris Time)の略。
=== 略号 ===
* 接地端子付[[コンセント]]([[コネクタ]]、electronic terminal)。構内電気設備配線用図記号([[JIS]] C 0303:2000)で用いられる。
== コード、識別子 ==
* [[アメリカ合衆国]]の東部時間(''Eastern Time'')の略 → [[東部標準時]](''EST'')
* [[エターナル (ガンダムシリーズ)]]所属であることを示す識別略号。
* [[エチオピア|エチオピア連邦民主共和国]]の[[国名コード]]および[[トップレベルドメイン|ccTLD]]
* [[エチオピア航空]]の [[航空会社コード|IATA航空会社コード(2レターコード)]]
* [[えちごトキめき鉄道]]の車両に冠される文字。
* [[ツンドラ気候]]([[寒帯]]の一部)。[[ケッペンの気候区分]]の一つ。
== Et ==
* [[エチル基]](Ethyl group)の略称
== et ==
* [[ラテン語]]、[[フランス語]]などで「〜と」の意味の、[[英語]]の"and"に相当する単語 ('''et'''、'''[[アンパサンド|&]]''')
=== 略語 ===
* {{仮リンク|胚移植|en|embryo transfer}}(embryo transfer)の略。「[[体外受精]]」参照。
=== 略号 ===
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* [[WPS Spreadsheets]]の[[拡張子]]
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君津駅
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君津駅(きみつえき)は、千葉県君津市東坂田一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)内房線の駅である。
木更津駅 - 当駅間は内房線でもっとも距離が長い区間である。また、起点の蘇我駅から当駅までは複線区間、当駅から先は単線区間となる。
単式ホーム1面1線、島式ホーム1面2線のあわせて2面3線を有する地上駅で、橋上駅舎を持つ。1番線の山側に2本の留置線があり、下り方に引上げ線がある。なお、3番線の海側にも数本の留置線があり、交通建設の車両の留置などに使用している。旅客用の車両が留置されることはない。北口に通じる跨線橋が長いのは、かつて貨物扱いがあり、駅構内が広かったことによる。2007年4月にはエスカレータ・エレベーター・多機能トイレが設置された。2009年6月には各ホームに待合室が設置された。
木更津統括センター傘下の直営駅であり、管理駅として、青堀駅 - 浜金谷駅間の各駅を管理している。自動券売機・指定席券売機・自動改札機・自動精算機が設置されている。
ホーム・改札口ともに電光掲示板が設置されている。改札外にNewDays・コインロッカーがある。公衆電話は駅舎内には改札外に1台、改札内に1台ある。鉄道関連施設として、交通建設木更津工事所がある。
駅の南口・北口ともに、駅前は広めなロータリーとなり、バスやタクシーの便がある。
(出典:JR東日本:駅構内図)
(出典:今尾恵介『JR東日本全線【決定版】鉄道地図帳vol.4 水戸・千葉支社管内編』学研プラス、2010年3月19日。ISBN 978-4056057652。 )
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は6,664人である。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
駅南口には市の行政施設が集約している。イオンタウン君津など大型商業施設も点在する。東坂田・大和田(地名)は一部南口側にもかかる。
駅北口より北東へ徒歩約12分ほどで木更津市との境があり、君津市近隣の木更津市立畑沢小学校などは当駅が最寄駅となる。千葉県立君津高等学校周辺には教育施設が集約している。
日東交通・大新東によって運行されている。
日東交通・京浜急行バス・京成バス・大新東によって運行されている。
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君津駅(きみつえき)は、千葉県君津市東坂田一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)内房線の駅である。 木更津駅 - 当駅間は内房線でもっとも距離が長い区間である。また、起点の蘇我駅から当駅までは複線区間、当駅から先は単線区間となる。
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{{駅情報
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|文字色 =
|駅名 = 君津駅*
|画像 = Kimitsu-station-southexit-stationhouse.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 南口(2007年6月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = きみつ
|ローマ字 = Kimitsu
|前の駅 = [[木更津駅|木更津]]
|駅間A = 7.0
|駅間B = 3.7
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|電報略号 = キミ<br/>スサ(改称前)
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|所属路線 = {{Color|#00B2E5|■}}[[内房線]]
|キロ程 = 38.3 km([[蘇我駅|蘇我]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から42.1
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|所在地 = [[千葉県]][[君津市]][[東坂田]]一丁目1-1
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|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
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|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />6,664
|統計年度 = 2022年
|備考 = [[直営駅]]([[管理駅]])
|備考全幅 = * [[1956年]]に周西駅から改称。
}}
[[ファイル:Kimitsu-Sta-N(cropped).jpg|thumb|250px|北口(2016年8月)]]
'''君津駅'''(きみつえき)は、[[千葉県]][[君津市]][[東坂田]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[内房線]]の[[鉄道駅|駅]]である。
[[木更津駅]] - 当駅間は内房線でもっとも距離が長い区間である。また、起点の[[蘇我駅]]から当駅までは[[複線]]区間、当駅から先は[[単線]]区間となる。
== 歴史 ==
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[1月15日]]:木更津線の'''周西駅'''(すさいえき)として開業<ref name="sone31"/>。
* [[1919年]](大正8年)[[5月24日]]:路線名称変更により北条線の駅となる<ref name="sone31"/>。
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月15日]]:北条線の房総線編入により、房総線の駅となる<ref name="sone31"/>。
* [[1933年]](昭和8年)[[4月1日]]:房総線蘇我 - 安房鴨川間の房総西線分離により、房総西線の駅となる<ref name="sone31"/>。
* [[1956年]](昭和31年)[[4月10日]]:'''君津駅'''に改称。
* [[1969年]](昭和44年)[[7月11日]]:木更津 - 千倉間が電化<ref name="sone31"/>。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月24日]]:木更津駅 - 君津駅間が複線化<ref name="sone31"/>。
* [[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]:路線名称変更により内房線の駅となる<ref name="sone31"/>。また、[[横須賀・総武快速線|総武線快速]]が乗入れその始発・終着駅となる。
* [[1973年]](昭和48年)[[10月11日]]:現在の橋上駅舎が完成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kimitsu.lg.jp/cmsfiles/contents/0000007/7445/18furoku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923203857/http://www.city.kimitsu.lg.jp/cmsfiles/contents/0000007/7445/18furoku.pdf|title=【平成24年版】君津市統計書 付録|archivedate=2015-09-23|page=3|accessdate=2021-02-04|publisher=君津市|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年2月}}</ref>。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:一部の特急列車が停車開始。[[チッキ|荷物]]扱い廃止<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=618}}</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone31"/>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[7月2日]]:全特急列車が停車開始。
* [[1995年]](平成7年)[[2月4日]]:自動改札の供用を開始する<ref name="chibanippo199521">{{Cite news|title=4日から自動改札に 盲人用タイルも張り替え JR君津駅で化粧直し急ピッチ|newspaper=[[千葉日報]]|pages=朝刊 15|publisher=千葉日報社|date=1995-02-01}}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[6月1日]]:[[大都市近郊区間 (JR)|東京近郊区間]]に組み込まれる。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:千葉方面において[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-30|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)3月14日:安房鴨川方面においてICカード「Suica」の利用が可能となる<ref name="press-20081218">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-22|accessdate=2020-04-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190503211623/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|archivedate=2019-05-03}}</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)
** [[3月3日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]が営業を終了<ref name="StationCd_ 601">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=601|title=駅の情報(君津駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2022-02-02|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220202211150/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=601|archivedate=2022-02-02}}</ref><ref name="jreu20211223">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/61c3fc9207a35ff45d3f0835.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211223092144/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/61c3fc9207a35ff45d3f0835.pdf|title=駅の運営体制の見直しについて提案、説明を受ける!|date=2021-12-23|archivedate=2021-12-23|accessdate=2021-12-24|publisher=JR東労組 千葉地方本部|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
** [[3月12日]]:木更津駅・君津駅・久留里駅・木更津運輸区を統合した木更津統括センター発足に伴い、その傘下となる。
== 駅構造 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2014年8月23日 (土) 11:57 (UTC)}}
[[単式ホーム]]1面1線、[[島式ホーム]]1面2線のあわせて2面3線を有する[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を持つ。1番線の山側に2本の[[留置線]]があり、下り方に引上げ線がある。なお、3番線の海側にも数本の留置線があり、交通建設の車両の留置などに使用している。旅客用の車両が留置されることはない。北口に通じる[[跨線橋]]が長いのは、かつて貨物扱いがあり、駅構内が広かったことによる。2007年4月には[[エスカレータ]]・[[エレベーター]]・多機能トイレが設置された。2009年6月には各ホームに[[待合室]]が設置された。
木更津統括センター傘下の[[直営駅]]であり、[[管理駅]]として、[[青堀駅]] - [[浜金谷駅]]間の各駅を管理している。[[自動券売機]]・[[指定席券売機]]・[[自動改札機]]・[[自動精算機]]が設置されている。
ホーム・改札口ともに[[発車標|電光掲示板]]が設置されている。改札外に[[NewDays]]・[[コインロッカー]]がある。公衆電話は駅舎内には改札外に1台、改札内に1台ある。鉄道関連施設として、交通建設木更津工事所がある。
駅の南口・北口ともに、駅前は広めなロータリーとなり、バスやタクシーの便がある。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
! rowspan="2" |1・2・3
|rowspan="2"|{{Color|#00B2E5|■}}内房線
| style="text-align:center" | 下り
|[[館山駅|館山]]・[[安房鴨川駅|安房鴨川]]方面
| 一部列車は2・3番線
|-
| style="text-align:center" | 上り
| [[千葉駅|千葉]]・[[東京駅|東京]]方面
|
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/601.html JR東日本:駅構内図])
* 当駅始発の千葉方面の列車は主に2番線を使用する。館山方面は1番線を使用する列車が多いが、朝9時台から昼過ぎ14時台の列車は快速列車との対面接続を取るため、2・3番線を使用する。
* 1番線は各駅停車10両編成の乗車目標があるが、現ダイヤでは館山方面の10両編成は2・3番線から発車する。
* [[総武快速線|総武線]]・[[京葉線]]直通の快速列車は毎日朝の総武線経由の1本が木更津折り返し、京葉線経由の上り1本が[[上総湊駅|上総湊]]発である以外は当駅で折り返す。なお、上総湊発の列車は当駅から始発駅の上総湊駅まで回送される。また、特急「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」は木更津駅始発の4号を除く全列車が停車し、そのすべてが当駅が始発・終点となっている(平日のみ)。
{| class="wikitable"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!千葉方面着発!!安房鴨川方面着発!!引上げ線着発!!備考
|-
|style="text-align:center"|電2||style="text-align:center"| ||style="text-align:right"|ホームなし||不可||不可||入出区可||留置線
|-
|style="text-align:center"|電1||style="text-align:center"| ||style="text-align:right"|ホームなし||不可||不可||入出区可||留置線
|-
|style="text-align:center"|下本||style="text-align:center"|1||style="text-align:right"|15両分||到着可||出発可||入出区可||下り主本線
|-
|style="text-align:center"|中||style="text-align:center"|2||style="text-align:right"|15両分||到着・出発可||到着・出発可||入出区可||
|-
|style="text-align:center"|上本||style="text-align:center"|3||style="text-align:right"|15両分||到着・出発可||到着・出発可||入出区可||上り主本線
|-
|style="text-align:center"|上1||style="text-align:center"| ||style="text-align:right"|ホームなし||到着・出発可||到着・出発可||不可||架線なし
|}
* 主本線を発着する場合は通過が可能。
* 電留1・2番線と、ホームとの入出区は、[[青堀駅|青堀]]方の[[引上げ線]]にて[[スイッチバック]]を行う。
* 夜間、下り本線に京葉線関連1本、中線に総武快速線関連1本、電留1・2番線(15両対応)に総武快速線関連2本がそれぞれ留置される。臨時列車がある場合は引上げ線上で留置される場合もある。
(出典:<small>{{Cite book|和書|author=今尾恵介|authorlink=今尾恵介|title=JR東日本全線【決定版】鉄道地図帳vol.4 水戸・千葉支社管内編|publisher=[[学研プラス]]|date=2010-03-19|isbn=978-4056057652}}</small>)
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
JR Uchibō Line Kimitsu Station Gates.jpg|改札口(2022年1月)
JR Uchibō Line Kimitsu Station Platform 1.jpg|1番線ホーム(2022年1月)
JR Uchibō Line Kimitsu Station Platform 2・3.jpg|2・3番線ホーム(2022年1月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''6,664人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.kimitsu.lg.jp/soshiki/2/19086.html 君津市統計書] - 君津市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|10,156
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|10,650
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|11,116
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|11,373
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|11,500
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|11,382
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|11,151
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|10,702
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|10,441
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|10,332
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>10,244
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>10,138
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>10,027
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>9,837
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>9,594
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>9,494
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>9,461
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>9,430
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>9,383
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>9,018
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>8,817
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>8,535
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>8,508
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>8,707
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>8,396
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>8,386
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>8,276
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_03.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>8,208
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_03.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>8,251
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_03.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>8,003
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_03.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>5,945
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_03.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>6,263
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_03.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>6,664
|
|}
== 駅周辺 ==
; 周辺の道路
* [[館山自動車道]]木更津南支線([[木更津南インターチェンジ]])
* [[国道16号]]
* [[国道127号]]
* [[千葉県道90号木更津富津線]]
* [[千葉県道158号君津青堀線]]
* [[千葉県道159号君津大貫線]]
* [[千葉県道225号君津停車場線]]
; 南口
{{See also|中野 (君津市)|久保 (君津市)|南久保 (君津市)|人見 (君津市)}}
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Kimitsu City Hall 01.JPG|君津市役所
Kimitsu Police Station.JPG|[[君津警察署]]
</gallery>
駅南口には市の行政施設が集約している。イオンタウン君津など大型商業施設も点在する。東坂田・大和田(地名)は一部南口側にもかかる。
{{Div col}}
* 君津市役所
* 君津[[児童相談所]]
* 君津市立中央図書館
* [[君津警察署]]
* [[君津郵便局]]
* 君津中野郵便局
* 君津南子安郵便局
* [[君津市立君津中学校]]
* 君津市立周西南中学校
* 君津市立周西小学校
* 君津市立坂田小学校
* 君津市立貞元小学校
* 君津市立南子安小学校
* [[イオンタウン]]君津
* [[ビバホーム]]君津店
* [[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]君津店
* [[アピタ]]君津店
* [[京葉学院]]君津校
* [[東進ハイスクール#東進衛星予備校|東進衛星予備校]]君津中野校
* 大野原公園
* 君津中央公園
{{Div col end}}
; 北口
{{See also|東坂田|西坂田|坂田 (君津市)|君津台|高坂 (君津市)|陽光台 (君津市)|北久保 (君津市)|大和田 (君津市)}}<!--東坂田、大和田は南口側にもかかる-->
駅北口より北東へ徒歩約12分ほどで[[木更津市]]との境があり、君津市近隣の木更津市立畑沢小学校などは当駅が最寄駅となる。千葉県立君津高等学校周辺には[[教育施設]]が集約している。
{{Div col}}
* [[職業能力開発促進センター|ポリテクセンター]]君津
* [[千葉県立君津高等学校]]
* 君津市立周西中学校
* 君津市立坂田小学校
* 君津市立大和田小学校
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]君津店
* [[尾張屋]]君津店
* [[ウエルシア]]君津西坂田店
* [[大創産業|ダイソー]]君津駅前店
* 陽光台中央公園
{{Div col end}}
== バス路線 ==
=== 北口発着 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[日東交通 (千葉県)|日東交通]]・大新東によって運行されている。
; 1番のりば
* 君津市内循環線(A回り):八重原方面
* 君津市内循環線(B回り):大和田・[[日本製鉄東日本製鉄所#君津地区|製鉄所]]方面
; 2番のりば
* 君津市内循環線(A回り):畑沢・製鉄所方面
; 3番のりば
* [[イオンモール富津]]行
* [[君津市コミュニティバス|コミュニティバス]]:人見・大和田・神門線
=== 南口発着 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
日東交通・[[京浜急行バス]]・[[京成バス]]・[[大新東]]によって運行されている。
; 1番のりば
* 中島行
* 清和公民館行
* イオンタウン君津行
* 中央門前行 ※平日朝のみ運行
* [[マザー牧場]]行
* [[大貫駅]]東口行
* 高速バス:[[京都市|京都]]・[[大阪市|大阪]]・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]行
; 2番のりば
* コミュニティバス:[[君津市コミュニティバス|小糸川循環線]]
; 3番のりば
* [[イオンモール木更津]]行
* [[木更津駅]]西口行
; 5番のりば
* 高速バス:[[バスターミナル東京八重洲]]・[[京成バス東雲車庫|東雲車庫]]行
; 6番のりば
* 高速バス:[[東京国際空港|羽田空港]]行
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Kimitsu Station South Bus terminal.jpg|南口バス乗り場(2018年11月)
Kimitsu-station-sounthexit-rotary.jpg|南口ロータリー(2007年6月)
</gallery>
== その他 ==
* 2012年[[3月17日]]発売開始の「[[休日おでかけパス]]」は、内房線内当駅まで設定される。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#3399ff|■}}内房線
:* 特急「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」発着駅、臨時特急「新宿さざなみ」停車駅
::{{Color|#0067c0|■}}快速(総武線経由)
::: [[木更津駅]] - '''君津駅'''
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#339966|■}}快速(京葉線経由)・{{Color|#7bab4f|■}}普通(各駅停車)<!-- 房総地区では「普通」「各駅停車」の両表記が混用されているため併記 --->
::: 木更津駅 - '''君津駅''' - [[青堀駅]]
:: ※青堀方で運転される京葉線直通列車は、平日に通勤快速、土休日に快速が、それぞれ上り1本のみ設定されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
;JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
;千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Kimitsu Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=601|name=君津}}
{{内房線}}
{{デフォルトソート:きみつ}}
[[Category:千葉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 き|みつ]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1915年開業の鉄道駅]]
[[Category:内房線]]
[[Category:君津市の交通|きみつえき]]
|
2003-06-21T22:08:39Z
|
2023-11-16T08:20:52Z
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[
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"Template:外部リンク/JR東日本駅",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E6%B4%A5%E9%A7%85
|
10,260 |
本千葉駅
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本千葉駅 (ほんちばえき) は、千葉県千葉市中央区長洲一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)外房線の駅である。
千葉市都市計画マスタープランによる千葉都心(本千葉地区)に位置する官庁街及び文教地区の中心駅である。
東日本旅客鉄道(JR東日本)の外房線が乗り入れ、蘇我駅より乗り入れる内房線の列車も利用できる。近傍には千葉都市モノレールの県庁前駅が位置している。
室町時代に屋形号を称する事が許された有力な大名(関東八屋形)であった千葉氏の初代当主である千葉常重が亥鼻町に居館を構えた亥鼻城(千葉城)があり、周辺は亥鼻公園(歴史公園)として整備されている。江戸時代(幕末)には千葉八景「猪鼻山の望月」に選定されており、古くから名所旧跡として親しまれている。
千葉県庁、千葉県警察本部、千葉市消防局中央消防署、千葉地方裁判所などの行政機関は千葉駅付近ではなく当駅の北東側にある。千葉県立中央図書館、千葉市立郷土博物館、千葉県文化会館、千葉大学附属病院、柏戸病院などの施設も集約している。
駅東口方面は官庁街のほか、千葉大学(医学部、薬学部、看護学部)をはじめ千葉県立千葉中学校・高等学校などを有する文教地区として知られる。
当駅に乗り入れている路線は外房線であり、内房線も乗り入れる。
千葉都市モノレール「県庁前駅」から徒歩4分、京成電鉄「千葉中央駅」から徒歩10分の場所に位置している。
当駅が開業したのは1896年(明治29年)と国内でも早い部類に属しており、その開業は房総鉄道によるものである。開業当初は寒川駅(さむかわえき)と称していたが、1902年(明治35年)に本千葉駅に改称された。
房総鉄道は1907年(明治40年)に国有化され、当駅はその後房総線・房総東線を経て、1972年(昭和47年)には外房線の駅となった。開業当初は京成電鉄千葉中央駅付近に位置していたが第二次世界大戦中に被害を受け、戦後復興の一環として移転した。
島式ホーム1面2線を持つ高架駅で、駅舎は高架下にある。同じ高架下の改札口すぐ外には売店NewDaysとブックオフ本千葉駅前店がある。
JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している千葉駅管理の業務委託駅で、指定席券売機設置駅。2007年12月より、コンコース階とホーム階を結ぶエレベーター・エスカレーターが稼働している。
当駅付近を京成千原線が並行して走っているが、千原線に駅は設置されていない。当初、小湊鉄道が路線を計画していた際は当駅が起点となる予定だったが、後に京成千葉駅(現在の千葉中央駅)に変更されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は11,939人である。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
千葉県庁や千葉地方裁判所などは千葉駅付近ではなく当駅の北東側にある。
駅東口方面は官庁街のほか、千葉大学(医、薬、看護)をはじめ千葉県立千葉中学校・高等学校などを有する文教地区として知られる。
地名である本千葉町は千葉中央駅周辺を指す。
小湊鉄道バスによって運行されており、駅前の道路上にある「本千葉駅」停留所にて発着する。
|
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"text": "室町時代に屋形号を称する事が許された有力な大名(関東八屋形)であった千葉氏の初代当主である千葉常重が亥鼻町に居館を構えた亥鼻城(千葉城)があり、周辺は亥鼻公園(歴史公園)として整備されている。江戸時代(幕末)には千葉八景「猪鼻山の望月」に選定されており、古くから名所旧跡として親しまれている。",
"title": "概要"
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"text": "千葉県庁、千葉県警察本部、千葉市消防局中央消防署、千葉地方裁判所などの行政機関は千葉駅付近ではなく当駅の北東側にある。千葉県立中央図書館、千葉市立郷土博物館、千葉県文化会館、千葉大学附属病院、柏戸病院などの施設も集約している。",
"title": "概要"
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"text": "駅東口方面は官庁街のほか、千葉大学(医学部、薬学部、看護学部)をはじめ千葉県立千葉中学校・高等学校などを有する文教地区として知られる。",
"title": "概要"
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"text": "当駅に乗り入れている路線は外房線であり、内房線も乗り入れる。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "千葉都市モノレール「県庁前駅」から徒歩4分、京成電鉄「千葉中央駅」から徒歩10分の場所に位置している。",
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"text": "当駅が開業したのは1896年(明治29年)と国内でも早い部類に属しており、その開業は房総鉄道によるものである。開業当初は寒川駅(さむかわえき)と称していたが、1902年(明治35年)に本千葉駅に改称された。",
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"text": "房総鉄道は1907年(明治40年)に国有化され、当駅はその後房総線・房総東線を経て、1972年(昭和47年)には外房線の駅となった。開業当初は京成電鉄千葉中央駅付近に位置していたが第二次世界大戦中に被害を受け、戦後復興の一環として移転した。",
"title": "歴史"
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"text": "島式ホーム1面2線を持つ高架駅で、駅舎は高架下にある。同じ高架下の改札口すぐ外には売店NewDaysとブックオフ本千葉駅前店がある。",
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"text": "JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している千葉駅管理の業務委託駅で、指定席券売機設置駅。2007年12月より、コンコース階とホーム階を結ぶエレベーター・エスカレーターが稼働している。",
"title": "駅構造"
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"text": "当駅付近を京成千原線が並行して走っているが、千原線に駅は設置されていない。当初、小湊鉄道が路線を計画していた際は当駅が起点となる予定だったが、後に京成千葉駅(現在の千葉中央駅)に変更されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は11,939人である。",
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"text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。",
"title": "利用状況"
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"text": "千葉県庁や千葉地方裁判所などは千葉駅付近ではなく当駅の北東側にある。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅東口方面は官庁街のほか、千葉大学(医、薬、看護)をはじめ千葉県立千葉中学校・高等学校などを有する文教地区として知られる。",
"title": "駅周辺"
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"text": "地名である本千葉町は千葉中央駅周辺を指す。",
"title": "駅周辺"
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"text": "小湊鉄道バスによって運行されており、駅前の道路上にある「本千葉駅」停留所にて発着する。",
"title": "バス路線"
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] |
本千葉駅 (ほんちばえき) は、千葉県千葉市中央区長洲一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)外房線の駅である。
|
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 本千葉駅{{Refnest|group="*"|[[1902年]](明治35年)[[1月28日]]に「'''寒川駅'''」から改称。}}
|画像 = Hon-Chiba Station 20150415.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 東口駅前ロータリー(2015年4月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|36|4|N|140|7|15.5|E}}}}
|よみがな = ほんちば
|ローマ字 = Hon-Chiba
|前の駅 = JO 28 [[千葉駅#駅構造|千葉]]
|駅間A = 1.4
|駅間B = 2.4
|次の駅 = [[蘇我駅|蘇我]]
|キロ程 = 1.4
|起点駅 = [[千葉駅#駅構造|千葉]]
|電報略号 = ホハ
|駅番号 =
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#ff6600|■}}[[外房線]]<br/>({{color|#00B2E5|■}}[[内房線]]直通含む)
|所在地 = [[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]長洲一丁目30-1
|座標 = {{coord|35|36|4|N|140|7|15.5|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1896年]]([[明治]]29年)[[2月25日]]<ref name="sone31">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=31号 内房線・外房線・久留里線|pages=22-23|date=2010-02-21}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />11,939
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-09-11"/>
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[ファイル:JR Sotobo-Line Hon-Chiba Station West Exit.jpg|thumb|240px|西口(2021年5月)]]
'''本千葉駅''' (ほんちばえき) は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]長洲一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[外房線]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 概要 ==
[[ファイル:View from Chiba Prefectural Government Office Main Building, west side 004.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|千葉県庁から当駅方向を望む]]
千葉市[[都市計画マスタープラン]]<ref>{{Cite web|和書|title=千葉市都市計画マスタープラン(全体構想)|url=http://www.city.chiba.jp/toshi/somu/2016_masterplan.html|website=千葉市|accessdate=2019-02-07|language=ja|last=千葉市}}</ref>による千葉[[都心]]([[本千葉町|本千葉]]地区)に位置する[[官庁街]]及び[[文教地区]]の中心駅である。
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[外房線]]が乗り入れ、[[蘇我駅]]より乗り入れる[[内房線]]の列車も利用できる。近傍には[[千葉都市モノレール]]の[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]]が位置している<ref group="注釈" name="renraku2">連絡定期券は発売していない。</ref>。
[[室町時代]]に[[屋形|屋形号]]を称する事が許された有力な[[大名]]([[関東八屋形]])であった[[千葉氏]]の初代当主である[[千葉常重]]が[[亥鼻|亥鼻町]]に居館を構えた[[亥鼻城]](千葉城)があり、周辺は[[亥鼻公園]]([[歴史公園]])として整備されている。[[江戸時代]]([[幕末]])には千葉八景「猪鼻山の望月」に選定されており、古くから名所旧跡として親しまれている。
[[千葉県庁]]、[[千葉県警察本部]]、[[千葉市消防局]]中央消防署、[[千葉地方裁判所]]などの[[行政機関]]は[[千葉駅]]付近ではなく当駅の北東側にある。[[千葉県立中央図書館]]、[[千葉市立郷土博物館]]、[[千葉県文化会館]]、[[千葉大学附属病院]]、柏戸病院などの[[施設]]も集約している。
駅東口方面は官庁街のほか、[[千葉大学]]([[医学部]]、[[薬学部]]、[[看護学部]])をはじめ[[千葉県立千葉中学校・高等学校]]などを有する[[文教地区]]として知られる。
== 乗り入れ路線 ==
当駅に乗り入れている路線は[[外房線]]であり、[[内房線]]も乗り入れる。
[[千葉都市モノレール]]「[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]]」から徒歩4分、[[京成電鉄]]「[[千葉中央駅]]」から徒歩10分の場所に位置している<ref group="注釈" name="renraku2" />。
== 歴史 ==
当駅が開業したのは[[1896年]]([[明治]]29年)と国内でも早い部類に属しており、その開業は房総鉄道によるものである<ref name="sone31"/>。開業当初は'''寒川駅'''(さむかわえき)と称していたが、[[1902年]](明治35年)に'''本千葉駅'''に改称された。
房総鉄道は[[1907年]](明治40年)に国有化され、当駅はその後房総線・房総東線を経て、[[1972年]]([[昭和]]47年)には外房線の駅となった。開業当初は[[京成電鉄]][[千葉中央駅]]付近に位置していたが[[第二次世界大戦]]中に被害を受け、戦後復興の一環として移転した。
=== 年表 ===
* [[1896年]]([[明治]]29年)[[2月25日]]:[[房総鉄道]]の[[千葉駅]]から[[蘇我駅]]までの開通に伴い'''寒川駅'''として<ref name="sone31"/>、現在の京成電鉄千葉中央駅付近にて開業。旅客・貨物取扱い。
* [[1902年]](明治35年)[[1月28日]]:'''本千葉駅'''に改称<ref>[{{NDLDC|2948870/20}} 「停車場改称」『官報』1902年1月28日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。
* [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:房総鉄道が[[鉄道国有法|買収]]され、[[帝国鉄道庁]]の駅となる<ref name="sone31"/>。
* [[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月7日]]:[[千葉空襲]]で被災<ref name="sone31"/>。
* [[1958年]](昭和33年)[[2月1日]]:千葉市の[[戦災復興事業]]の一環として現在地に移転<ref name="sone31"/>(旧本千葉駅跡には同年2月10日に京成千葉駅(現[[千葉中央駅]])が移転)。
* [[1960年]](昭和35年)[[7月15日]]:当駅から蘇我駅までが[[複線]]化される<ref name="sone31"/>。
* [[1963年]](昭和38年)[[4月28日]]:千葉駅から当駅までが複線化される<ref name="sone31"/>。
* [[1968年]](昭和43年)[[7月13日]]:千葉駅から当駅を経て木更津駅までが[[鉄道の電化|電化]]される<ref name="sone31"/>。
* [[1980年]](昭和55年)12月:高架化工事に着工<ref name="RJ236">{{Cite journal|和書 |date = 1986-08 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 20 |issue = 9 |page = 117 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)12月:上り線高架化<ref name="RJ236"/>。
* [[1986年]](昭和61年)[[5月26日]]:下り線も高架化され工事が完了、[[高架駅]]となる<ref name="RJ236"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone31"/>。
* [[1994年]]([[平成]]6年)[[12月3日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-28|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[12月4日]]:ホームが15両編成対応に延伸され、総武線直通快速停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20100924daiya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101011083614/http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20100924daiya.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2010年12月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2010-09-24|accessdate=2020-03-25|archivedate=2010-10-11}}</ref><ref group="新聞" name="chibanippo2010513">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/3761|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200720225919/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/3761|title=本千葉駅に快速停車へ 東京直通増発に備え 12月めどホーム延伸|newspaper=千葉日報|date=2010-05-13|accessdate=2020-07-20|archivedate=2020-07-20}}</ref><ref group="新聞" name="chibanippo2010925">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/9795|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200720232700/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/9795|title=本千葉駅に快速52本停車 12月4日JRダイヤ改正で|newspaper=千葉日報|date=2010-09-25|accessdate=2020-07-20|archivedate=2020-07-20}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月1日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]の営業が終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E3%83%BC%E3%80%8C%E5%8D%83%E8%91%89%E9%81%8B%E8%BC%B8%E5%8C%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A6%81%E5%93%A1%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%EF%BC%96%E9%A7%85%E5%A7%94%E8%A8%97/ |archiveurl=https://archive.fo/LB6c7|title=千葉支社 「千葉運輸区」の要員を提案 6駅委託と窓口削減・要員削減も提案|accessdate=2019-07-30|publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]]|archivedate=2019-07-30}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[12月10日]]:業務委託化<ref name="2019-09-11">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d78dd06f113d77b495103b5.pdf|title=営業施策について提案を受ける!①|format=PDF|publisher=JR東労組千葉地方本部|date=2019-09-11|accessdate=2019-11-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191128183342/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5d78dd06f113d77b495103b5.pdf|archivedate=2019-11-28}}</ref>。
== 駅構造 ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年8月}}
[[島式ホーム]]1面2線を持つ[[高架駅]]で、駅舎は高架下にある。同じ高架下の改札口すぐ外には売店[[NewDays]]と[[ブックオフ]]本千葉駅前店がある。
[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[千葉駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で<ref name="2019-09-11"/>、[[指定席券売機]]設置駅。2007年12月より、[[コンコース]]階とホーム階を結ぶ[[エレベーター]]・[[エスカレーター]]が稼働している。
当駅付近を[[京成千原線]]が並行して走っているが、千原線に駅は設置されていない。当初、[[小湊鉄道]]が路線を計画していた際は当駅が起点となる予定だったが、後に京成千葉駅(現在の[[千葉中央駅]])に変更されている。
=== のりば ===
<!--ホーム掲示の方面表記と同一にするのが望ましい。これは2012年9月時点のもの-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先
|-
! rowspan=2| 1
| {{color|#ff6600|■}}外房線
| rowspan=2 style="text-align:center" | 下り
| [[大網駅|大網]]・[[茂原駅|茂原]]・[[大原駅 (千葉県)|大原]]方面
|-
| {{color|#00B2E5|■}}内房線
| [[五井駅|五井]]・[[木更津駅|木更津]]・[[館山駅|館山]]方面
|-
! 2
| {{color|#ff6600|■}}外房線<br />({{color|#00B2E5|■}}内房線含む)
| style="text-align:center" | 上り
|[[千葉駅|千葉]]・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1410.html JR東日本:駅構内図])
* 実際の2番線の案内サインについては、誤乗防止のためか路線名を省いて表記される。千葉駅からの直通先である「総武線(快速)」の表記もない。
* ホーム蘇我寄りは構造上、幅員が狭くなっている。
<gallery>
JREast-Hon-chiba-station-entrance.jpg|東口駅出入口(2008年6月)
JR Sotobo-Line Hon-Chiba Station Gates (20210529).jpg|改札口(2021年5月)
JR Sotobo-Line Hon-Chiba Station Platform (20210529).jpg|ホーム(2021年5月)
</gallery>
=== 発車メロディー ===
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3"
|-
|'''1'''
|rowspan="2"|ベル(電子音)
|-
|'''2'''
|}
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''11,939人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|6,920
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|7,443
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|7,881
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|8,124
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|8,191
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|7,866
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|7,608
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|7,435
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|7,384
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|7,010
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>7,037
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>7,338
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>7,575
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>7,622
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>7,814
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>7,881
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>7,939
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>7,985
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
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|2012年(平成24年)
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|-
|2017年(平成29年)
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|-
|2018年(平成30年)
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|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>11,901
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>10,226
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
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|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>11,939
|
|}
== 駅周辺 ==
{{Vertical images list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Chiba prefectural office,Chiba-city,Japan.JPG|説明1=千葉県庁|画像2=Chiba prefectural police headquarters,Chiba-city,Japan.JPG|画像3=Safety Chiba Building.jpg|画像4=Folk museum in Chiba.JPG|説明2=千葉県警本部|説明3=千葉市消防局|説明4=亥鼻城(千葉市郷土資料館)}}千葉県庁や[[千葉地方裁判所]]などは[[千葉駅]]付近ではなく当駅の北東側にある。
駅東口方面は官庁街のほか、[[千葉大学]](医、薬、看護)をはじめ[[千葉県立千葉中学校・高等学校]]などを有する[[文教地区]]として知られる。
地名である[[本千葉町]]は[[千葉中央駅]]周辺を指す。
=== 周辺の駅 ===
* [[千葉都市モノレール1号線]] [[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]] - 徒歩約5分
* [[京成電鉄]][[京成千葉線|千葉線]]・[[京成千原線|千原線]] [[千葉中央駅]] - 徒歩約10分
=== 東口(市場町・長洲・末広・亥鼻・葛城)===
* [[千葉県庁]]
** 千葉県庁内郵便局
* [[亥鼻]]公園([[歴史公園]])
** [[千葉県立中央図書館]]
** [[千葉県文化会館]]
** [[亥鼻城]](千葉城・千葉市立郷土博物館)
* 千葉県立羽衣公園
* 都川公園
* [[千葉大学]]亥鼻キャンパス([[医学部]]・[[薬学部]]・[[看護学部]])
* [[千葉大学医学部附属病院]]
* 柏戸病院
* ミナーレ本千葉([[京成ストア|リブレ京成]]・[[千葉薬品|ヤックスドラッグ]]) - [[千葉中央バス]]本社跡地
* [[千葉市立末広中学校]]
* 千葉市武道館
* [[千葉県立千葉中学校・高等学校]]
* [[トップマート|トップマート・末広店]]
* [[千葉銀行]]長洲支店
* [[千葉地方裁判所]]
* [[千葉県警察本部]]
* [[千葉市消防局]]中央消防署
* [[冨士大石寺顕正会]]千葉会館
=== 西口(長洲・寒川・港町)===
* 本千葉駅前[[郵便局]]
* [[寒川神社 (千葉市)|寒川神社]]
* 厳島神社
* [[千葉市立寒川小学校]]
* [http://www.city.chiba.jp/shisetsu/hoiku/0006.html 寒川保育園]
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[小湊鉄道塩田営業所#現行路線|小湊鉄道バス]]によって運行されており、駅前の道路上にある「本千葉駅」停留所にて発着する。
* JR千葉駅
* 浜野 / [[浜野駅]]東口 / [[八幡宿駅]]西口 / 喜多
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{color|#ff6600|■}}外房線・{{color|#00B2E5|■}}内房線(内房線は蘇我駅まで外房線)
::*臨時快速「B.B.BASE」停車駅
:: {{color|#0067c0|■}}快速・{{Color|#7bab4f|■}}普通(各駅停車)<!-- 房総地区では両名称が混用されているため併記 --->
::: [[千葉駅]] (JO 28) - '''本千葉駅''' - [[蘇我駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"}}
==== 利用状況 ====
{{Reflist|group="統計"}}
;JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
;千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Hon-Chiba Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[亥鼻]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1410|name=本千葉}}
{{外房線}}
{{内房線}}
{{デフォルトソート:ほんちは}}
[[Category:千葉市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ほ|んちは]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:外房線]]
[[Category:房総鉄道]]
[[Category:1896年開業の鉄道駅]]
|
2003-06-21T22:13:13Z
|
2023-11-24T05:45:53Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%8D%83%E8%91%89%E9%A7%85
|
10,263 |
県庁前駅 (千葉県)
|
県庁前駅(けんちょうまええき)は、千葉県千葉市中央区市場町にある、千葉都市モノレール1号線の駅で、同線の終着駅である。駅番号はCM18。関東の駅百選に選定されている。
相対式2面2線ホームを持つ高架駅であるが、定期列車は1番線のみ使用しており、2番線は保線用車両の留置線などとして用いられている。当駅より先への延伸計画が存在したことから、延伸が可能な構造となっている。総ガラス張りのホームから自然光を採り入れている。駅舎を出ると、丸い形の歩道橋が目の前に広がる。駅員無配置。インターホンで他の有人駅と通話が可能。
2019年度の1日平均乗車人員は943人である。
近年の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
千葉市の行政中心部(官庁街、文教地区)である駅東口方面は官庁街のほか、千葉大学(医、薬、看護)をはじめ、千葉県立千葉中学校・高等学校などを有する文教地区として知られる。
北東側には国道126号、南側には千葉県道20号千葉大網線(大網街道)、北西側には千葉県道217号本千葉停車場線が走る。
中央・市場町・長洲・亥鼻・葛城・末広方面
中央・本千葉町・長洲・寒川町方面
「県庁」停留所 主なバス事業者と行先
当初は大和橋上空に駅を造ることを予定していたが、千葉大学の反対で東進予定ルートが変更になったため現在地になった。計画されていた当時は昭文社などから市販されている地図に予定地と予定ルートが書かれていたこともある。
|
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] |
県庁前駅(けんちょうまええき)は、千葉県千葉市中央区市場町にある、千葉都市モノレール1号線の駅で、同線の終着駅である。駅番号はCM18。関東の駅百選に選定されている。
|
{{駅情報
|社色 = #2843ba
|文字色 =
|駅名 = 県庁前駅
|画像 = Kenchō-mae Station, Chiba2.jpg
|pxl = 280
|画像説明 = 駅南側 3・4番<!--番号はGoogle マップより-->出入口
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=280|type=point}}
|よみがな = けんちょうまえ
|ローマ字 = Kenchōmae {{fontsize|small|(Pref.Office)}}
|副駅名 =
|前の駅 = CM17 [[葭川公園駅|葭川公園]]
|駅間A = 0.7
|駅間B =
|次の駅 =
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|CM|18|#0098cf|4||#185aa5}}
|所属事業者 = [[千葉都市モノレール]]
|所属路線 = {{Color|#2843ba|■}}[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]
|キロ程 = 3.2
|起点駅 = [[千葉みなと駅|千葉みなと]]
|所在地 = [[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]市場町1-2
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|36|13.2|N|140|7|19.7|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1999年]](平成11年)[[3月24日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=6 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 943
|乗降人員 = 1,807<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/wp/wp-content/uploads/ce2ed8c41f654b41863a9d9c95cb8a30.pdf|title=移動等円滑化取組報告書 2019年度(軌道駅)|accessdate=2021-07-29|format=PDF|publisher=千葉都市モノレール}}</ref>
|統計年度 = 2019年
|乗換 =
|備考 =[[無人駅]]
}}
[[ファイル:Kenchō-mae Station, Chiba1(cropped).jpg|thumb|駅北側 1・2番<!--番号はGoogle マップより-->出入口]]
'''県庁前駅'''(けんちょうまええき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]市場町にある、[[千葉都市モノレール]][[千葉都市モノレール1号線|1号線]]の[[鉄道駅|駅]]で、同線の[[終着駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''CM18'''。[[関東の駅百選]]に選定されている。
== 歴史 ==
* [[1999年]]([[平成]]11年)
** [[3月24日]] - 開業<ref name="sone30"/>。
** [[10月14日]] - [[関東の駅百選]]に選定される<ref name="stations"/>。選定理由は「総ガラス張りから自然光を取り入れ21世紀の明るい未来を連想させる駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=166-167,228|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[3月14日]] - [[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414235704/http://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2009年3月14日、新たに3事業者でPASMOがご利用いただけるようになります。|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2008-12-22|accessdate=2021-09-04|archivedate=2015-04-14}}</ref><ref name="sone30"/>。
== 駅構造 ==
相対式2面2線ホームを持つ[[高架駅]]であるが、定期列車は1番線のみ使用しており、2番線は保線用車両の留置線などとして用いられている。当駅より先への[[千葉都市モノレール1号線#延伸計画|延伸計画]]が存在したことから、延伸が可能な構造となっている。総ガラス張りのホームから自然光を採り入れている。駅舎を出ると、丸い形の歩道橋が目の前に広がる。[[無人駅|駅員無配置]]。[[インターホン]]で他の[[有人駅]]と通話が可能。
=== のりば ===
{|class="wikitable" rules="rows"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
| rowspan="2" |[[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 1号線
|[[千葉駅|千葉]]・[[千葉みなと駅|千葉みなと]]方面
|-
!2
|<small>(定期列車の発着無し)</small>
|}
<gallery>
Chiba-monorail-CM18-Kenchomae-station-platform-20190701-113716.jpg|ホーム
Kenchō-mae Station (Chiba) 20191031.jpg|モノレール軌道桁の終端
</gallery>
== 利用状況 ==
2019年度の1日平均乗車人員は'''943人'''である<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/index.html 千葉県統計年鑑]</ref>。
近年の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
{|class="wikitable"
!rowspan|年度
!rowspan|一日平均<br>乗車人員
|-
|[[1999年]]
|style="text-align:right"|1,090
|-
|[[2000年]]
|style="text-align:right"|1,156
|-
|[[2001年]]
|style="text-align:right"|1,202
|-
|[[2002年]]
|style="text-align:right"|1,201
|-
|[[2003年]]
|style="text-align:right"|1,112
|-
|[[2004年]]
|style="text-align:right"|958
|-
|[[2005年]]
|style="text-align:right"|920
|-
|[[2006年]]
|style="text-align:right"|899
|-
|[[2007年]]
|style="text-align:right"|835
|-
|[[2008年]]
|style="text-align:right"|822
|-
|[[2009年]]
|style="text-align:right"|877
|-
|[[2010年]]
|style="text-align:right"|855
|-
|[[2011年]]
|style="text-align:right"|
|-
|[[2012年]]
|style="text-align:right"|
|-
|[[2013年]]
|style="text-align:right"|
|-
|[[2014年]]
|style="text-align:right"|
|-
|[[2015年]]
|style="text-align:right"|
|-
|[[2016年]]
|style="text-align:right"|843
|-
|[[2017年]]
|style="text-align:right"|871
|-
|[[2018年]]
|style="text-align:right"|919
|-
|[[2019年]]
|style="text-align:right"|943
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|本千葉駅#駅周辺}}
千葉市の行政中心部([[官庁街]]、[[文教地区]])である駅東口方面は官庁街のほか、[[千葉大学]](医、薬、看護)をはじめ、[[千葉県立千葉中学校・高等学校]]などを有する文教地区として知られる。
北東側には[[国道126号]]、南側には[[千葉県道20号千葉大網線]](大網街道)、北西側には[[千葉県道217号本千葉停車場線]]が走る。
=== 周辺の駅 ===
* [[東日本旅客鉄道|JR東日本]] [[本千葉駅]]
* [[京成電鉄]] [[千葉中央駅]]
=== 東側 ===
[[ファイル:View from Chiba Prefectural Government Office Main Building, east side 006.jpg|thumb|東側周辺]]
[[中央 (千葉市)|中央]]・市場町・長洲・[[亥鼻]]・葛城・末広方面
{{Div col}}
* [[千葉県庁]]
** 千葉県庁内郵便局
** [[千葉銀行]] 県庁支店
** 第二亥鼻別館
* [[千葉地方裁判所]] 本庁
** [[千葉家庭裁判所]]
** [[千葉簡易裁判所]]
* [[千葉地方検察庁]] 本庁・南町分室
* [[千葉県警察]] 本部
* 千葉県教育会館
* [[Qiball]](きぼーる) - 公共施設と商業施設が入居する複合施設
* 千葉県障害者就労事業振興センター
* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]千葉県支部連合会 千葉自由民主会館
* [[全国農業協同組合連合会]]千葉県本部 米穀部蚕糸会館
* 千葉県母子寡婦福祉連合会 千葉県母子福祉会館
* 千葉市亥鼻福祉作業所
* [[千葉大学医学部附属病院]]
* [[千葉大学]] 亥鼻キャンパス(医学部・薬学部・看護学部)
* [[千葉県立千葉中学校・高等学校]]
* パリ総合美容専門学校 千葉校
* 千葉中央四郵便局
* 千葉亥鼻郵便局
* [[中央労働金庫]] 千葉県庁前出張所
* [[千葉日報社]]
* 千葉県土地開発公社
* 日本都市環境公社
* [[ヤマト運輸]] 千葉県庁センター
* [[亥鼻公園]]
** [[千葉市立郷土博物館]] - [[亥鼻城]](千葉城)
** [[千葉県立中央図書館]]
** [[千葉県文化会館]]
* 羽衣公園
* [[胤重寺]]
{{Div col end}}
=== 西側 ===
[[ファイル:View from Chiba Prefectural Government Office Main Building, west side 001.jpg|thumb|西側周辺]]
中央・[[本千葉町]]・長洲・寒川町方面
{{Div col}}
* [[農林水産省]][[関東農政局]]千葉県拠点([[千葉農政事務所]])
* [[千葉市消防局]] 本部
* [[千葉県文書館]]
* 千葉県自治会館
* 千葉県建設会館ビル
** 建設業労働災害防止協会 千葉県支部
** 千葉県商工会連合会
* 柏戸病院
* [[明聖高等学校]]本校
* 本千葉駅前郵便局
* 千葉銀行 長洲支店
* [[農林中央金庫]] 千葉支店
* ミナーレ本千葉
* [[ホテル]]プラザ菜の花
* 都川公園
{{Div col end}}
== バス路線 ==
=== 高速バス ===
* [[安房鴨川駅]]・[[亀田総合病院|亀田病院]]行【[[カピーナ号]]】([[千葉中央バス]]・[[日東交通 (千葉県)|日東交通]])
* [[木更津羽鳥野バスストップ]]経由 [[館山駅]]前・[[安房白浜駅]]行【南総里見号】([[ちばシティバス]]・日東交通)
=== 路線バス ===
「県庁」停留所
主なバス事業者と行先
* [[千葉中央バス]]
** [[誉田駅]]、千葉リハビリセンター、[[鎌取駅]](千葉営業所)、花輪、[[大宮団地]]
* [[小湊鉄道塩田営業所|小湊鉄道バス]]
** [[八幡宿駅]]、大巌寺、[[イオンタウンおゆみ野]]、[[鎌取駅]]、[[千葉県がんセンター]]、白旗、[[学校法人千葉明徳学園|明徳学園]]
== 付記 ==
当初は大和橋上空に駅を造ることを予定していたが、千葉大学の反対で東進予定ルートが変更になったため現在地になった。計画されていた当時は[[昭文社]]などから市販されている[[地図]]に予定地と予定ルートが書かれていたこともある。
== 隣の駅 ==
; 千葉都市モノレール
: [[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 1号線
:: [[葭川公園駅]](CM17) - '''県庁前駅(CM18)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Kenchō-mae Station (Chiba)}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[県庁前駅]](曖昧さ回避)
== 外部リンク ==
* [https://chiba-monorail.co.jp/index.php/info-timetable/station-info/kenchoumae-station/ 千葉都市モノレール 県庁前駅]
{{千葉都市モノレール}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:けんちようまえ}}
[[Category:千葉都市モノレールの鉄道駅]]
[[Category:千葉市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|んちようまえ]]
[[Category:1999年開業の鉄道駅]]
|
2003-06-21T22:26:14Z
|
2023-11-28T23:58:10Z
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10,265 |
千葉みなと駅
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千葉みなと駅(ちばみなとえき)は、千葉県千葉市中央区中央港一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの駅である。
JR東日本の京葉線と千葉都市モノレールの1号線が乗り入れ、接続駅となっている。千葉都市モノレールの駅は1号線の起点かつ同線の単独駅であるが、千葉駅から分岐する2号線の大半の列車も当駅まで乗り入れる。JRの駅にはJE 17、千葉都市モノレールの駅にはCM01の駅番号が付与されている。
島式ホーム1面2線(1・2番線)と単式ホーム1線(3番線)を有する高架駅。駅舎は高架下にある。
JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している新浦安営業統括センター(新浦安駅)管理の業務委託駅。指定席券売機・自動改札機・自動精算機設置駅。2017年2月1日の駅遠隔操作システム導入により、始発から午前6時30分までは改札係員不在となり、一部の自動券売機のみ稼働する(稲毛海岸駅がインターホンによる遠隔対応を行う)。
万葉軒が営業する飲食店「万葉茶屋 千葉みなと」があったが、閉店した。
その後同じスペースに日本レストランエンタプライズが営業する飲食店「いろり庵きらく 千葉みなと店」が出店している。
東京駅から続いてきた京葉線の電車特定区間は当駅までであり、蘇我駅は区間外となっている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
相対式ホーム2面2線を有する高架駅。JRとは別に独自の駅舎を有する。平日朝の一部列車を除き、1番線から動物公園・千城台行が、2番線から県庁前行が発車する。
開業以後の1日平均乗車人員推移は下表の通り。
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"text": "開業以後の1日平均乗車人員推移は下表の通り。",
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千葉みなと駅(ちばみなとえき)は、千葉県千葉市中央区中央港一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの駅である。 JR東日本の京葉線と千葉都市モノレールの1号線が乗り入れ、接続駅となっている。千葉都市モノレールの駅は1号線の起点かつ同線の単独駅であるが、千葉駅から分岐する2号線の大半の列車も当駅まで乗り入れる。JRの駅にはJE 17、千葉都市モノレールの駅にはCM01の駅番号が付与されている。
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{{駅情報
|駅名 = 千葉みなと駅
|よみがな = ちばみなと
|ローマ字 = Chibaminato
|画像 = Chiba-Minato Station west20111028.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = [[千葉港]]側から望むJR駅外観(2011年10月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|marker-color=008000|marker-color2=2843ba|coord={{coord|35|36|25.8|N|140|6|8.7|E}}|title=JR東日本 千葉みなと駅|coord2={{coord|35|36|26.6|N|140|6|9|E}}|title2=千葉都市モノレール 千葉みなと駅}}
|所在地 = [[千葉市]][[中央区_(千葉市)|中央区]]中央港一丁目
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[千葉都市モノレール]]([[#千葉都市モノレール|駅詳細]])}}
}}
'''千葉みなと駅'''(ちばみなとえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]中央港一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[千葉都市モノレール]]の[[鉄道駅|駅]]である。
JR東日本の[[京葉線]]と千葉都市モノレールの[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]が乗り入れ、接続駅となっている。千葉都市モノレールの駅は1号線の起点かつ同線の単独駅であるが、[[千葉駅]]から分岐する[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]の大半の列車も当駅まで乗り入れる。JRの駅には'''JE 17'''、千葉都市モノレールの駅には'''CM01'''の[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。
== 歴史 ==
* [[1986年]]([[昭和]]61年)[[3月3日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)京葉線の'''千葉港駅'''(ちばみなとえき){{Refnest|group="注"|京葉線開業前の仮称は「新町」であった<ref>潮風と走る 東京湾岸通勤新線 国鉄京葉線 日本鉄道建設公団</ref>。}}として開業<ref name="sone45">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=45号 埼京線・八高線・川越線・武蔵野線・京葉線 |date=2010-06-06 |page=27 }}</ref>。「ちばこう」という誤読を防ぐため、駅名標や方向幕などでは当初から「千葉みなと」と表記されることが多かった<ref group="注" name="usui">なお、ICカードの履歴印字は現在も「千葉港」である。似たような事例として[[京成本線]]の[[京成臼井駅]](けいせいうすいえき)があり、そちらに関しては[[北総鉄道北総線]]の[[白井駅]](しろいえき)との誤読を防ぐために「うすい」と表記されることが多い。なお同駅は、現在も「京成臼井駅」が正式名である。</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone45"/>。
* [[1988年]](昭和63年)[[12月1日]]:京葉線が当駅から蘇我駅まで延伸開業<ref name="sone45"/>。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[3月14日]]:正式名称を'''千葉みなと駅'''に改称<ref name="sone45"/><ref name="RJ720_66">{{Cite journal|和書|author=末次清|title=京葉線車両ダイジェスト|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2002-08-01|volume=52|issue=第8号(通巻720号)|page=66|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref group="注" name="usui" />。
* [[1995年]](平成7年)[[8月1日]]:千葉都市モノレール1号線が開業する<ref name="交通19950803">{{Cite news|title=モノレールが延長 千葉-千葉みなと間が開通|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=[[交通新聞社]]|date=1995-08-03|page=1}}</ref><ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=6 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本の駅で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-28|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref><ref group="注">Suica・PASMOなどのICカードを当駅(JR線)で利用し、利用履歴の出力を行った場合、当駅の表示・印字は文字数の関係上、「千葉みなと」ではなく、かつての駅名である「千葉港」と表示・印字される。</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:ダイヤ改正により京葉線の快速電車が停車<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/pdf/syutoken.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630105145/https://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/pdf/syutoken.pdf|title=2002年12月 ダイヤ改正について>III.首都圏輸送>4.京葉線の増発及び輸送体系の変更 |format=PDF|language=日本語|archivedate=2018-06-30|accessdate=2020-05-24|publisher=[[東日本旅客鉄道]]}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月10日]]:JR東日本の駅で[[発車メロディ]]を導入。
* [[2009年]](平成21年)3月14日:千葉都市モノレールの駅でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414235704/http://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2009年3月14日、新たに3事業者でPASMOがご利用いただけるようになります。|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2008-12-22|accessdate=2020-08-21|archivedate=2015-04-14}}</ref><ref group="注">千葉都市モノレール線にてICカードを利用した場合は「千モ 港」と表示・印字される。</ref>。
* [[2014年]](平成25年)[[3月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。
* [[2015年]](平成27年)[[10月20日]]:JR東日本の駅が業務委託化<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E3%83%BC%E3%80%8C%E5%8D%83%E8%91%89%E9%81%8B%E8%BC%B8%E5%8C%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A6%81%E5%93%A1%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%EF%BC%96%E9%A7%85%E5%A7%94%E8%A8%97/ |archiveurl=https://archive.fo/LB6c7|title=千葉支社 「千葉運輸区」の要員を提案 6駅委託と窓口削減・要員削減も提案|accessdate=2019-07-30|publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]]|archivedate=2019-07-30}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[2月]]:千葉都市モノレールの駅のトイレの改修工事(洋式化)完了。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[11月9日]]:JR東日本の駅に駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のテレワークブース「STATION BOOTH」が開設<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20211108_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211108050819/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20211108_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=STATION WORKは全国300カ所超のネットワークへ 〜エキナカからマチナカへの展開により、多様な働き方を実現します〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-11-08|accessdate=2021-11-08|archivedate=2021-11-08}}</ref>。
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|駅名 = JR 千葉みなと駅{{Refnest|group="*"|[[1992年]]([[平成]]4年)[[3月14日]]に「千葉港駅」から「'''千葉みなと駅'''」に改称<ref name="RJ720_66" />。}}
|画像 = 千葉みなと駅(2005-01-19) - panoramio.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = JR駅舎(2005年1月)
|よみがな = ちばみなと
|ローマ字 = Chibaminato
|電報略号 = チナ
|駅番号 = {{駅番号r|JE|17|#c9252f|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#c9252f|■}}[[京葉線]]
|前の駅 = JE 16 [[稲毛海岸駅|稲毛海岸]]{{Refnest|group="*"|この間に[[新港信号場]]有り(当駅から2.2 km先)。}}
|駅間A = 3.7
|駅間B = 4.0
|次の駅 = [[蘇我駅|蘇我]]
|キロ程 = 39.0
|起点駅 = [[東京駅|東京]]
|ホーム = 2面3線
|駅構造 = [[高架駅]]
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />15,354
|統計年度 = 2022年
|所在地 = [[千葉市]][[中央区_(千葉市)|中央区]]中央港一丁目1-1
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|36|25.8|N|140|6|8.7|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 千葉みなと駅}}
|開業年月日 = [[1986年]]([[昭和]]61年)[[3月3日]]<ref name="sone45"/>
|廃止年月日 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing"/>
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[島式ホーム]]1面2線(1・2番線)と[[単式ホーム]]1線(3番線)を有する[[高架駅]]。駅舎は高架下にある。
[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している新浦安営業統括センター([[新浦安駅]])管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35c9764a22fe00e9f1e5d.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613143456/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35c9764a22fe00e9f1e5d.pdf|title=営業施策について提案を受ける!|archivedate=2020-06-13|date=2020-06-12|accessdate=2020-11-30|publisher=JR東労組千葉地方本部|format=PDF|language=日本語}}</ref>。[[指定席券売機]]・[[自動改札機]]・[[自動精算機]]設置駅。[[2017年]][[2月1日]]の駅遠隔操作システム導入により、始発から午前6時30分までは改札係員不在となり、一部の自動券売機のみ稼働する([[稲毛海岸駅]]がインターホンによる遠隔対応を行う)<ref name="a">{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/jr%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E2%80%95%EF%BC%93%E6%9C%88%E3%83%80%E3%82%A4%E6%94%B9%E3%81%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%E5%86%85%E6%88%BF%E7%B7%9A/|title=JR千葉支社-3月ダイ改の労働条件を提案 内房線ー君津系統分離による列車削減=地域切り捨てを絶対許すな!|accessdate=2018-06-13|publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]]|archiveurl=https://archive.li/Jmj9X|archivedate=2018-06-13}}</ref>。
[[万葉軒]]が営業する飲食店「万葉茶屋 千葉みなと」があったが、閉店した。
その後同じスペースに[[日本レストランエンタプライズ]]が営業する飲食店「いろり庵きらく 千葉みなと店」が出店している。
東京駅から続いてきた京葉線の[[電車特定区間]]は当駅までであり、蘇我駅は区間外となっている。
==== のりば ====
<!--行先欄はスマートフォン向けアプリ「JR東日本アプリ」の構内図に従う-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1・2
|rowspan="2"|[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
|style="text-align:center"|下り
|[[蘇我駅|蘇我]]方面
|rowspan="2"|2番線は一部列車
|-
!2・3
|style="text-align:center"|上り
|[[南船橋駅|南船橋]]・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/990.html JR東日本:駅構内図])
* 2番線は通過待ちで用いられる。また、ダイヤが大幅に乱れた場合は外房線および内房線の[[千葉駅|千葉]]行の上り列車が当駅2番線を用いて折り返すことがある。
<gallery>
JR Keiyo-Line Chibaminato Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
JR Keiyo-Line Chibaminato Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
{|class="wikitable"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!東京・西船橋方面着発!!蘇我方面着発!!備考
|-
|style="text-align:center"|1||style="text-align:center"|1||style="text-align:right"|10両分||到着可||出発可||下り主本線
|-
|style="text-align:center"|2||style="text-align:center"|2||style="text-align:right"|10両分||到着・出発可||到着・出発可||副本線
|-
|style="text-align:center"|3||style="text-align:center"|3||style="text-align:right"|10両分||出発可||到着可||上り主本線
|}
* 主本線を発着する場合は通過が可能。
=== 千葉都市モノレール ===
{{駅情報
|社色 = #2843ba
|駅名 = 千葉都市モノレール 千葉みなと駅
|画像 = Chiba-Minato Station east.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = モノレール駅舎(2011年12月)
|よみがな = ちばみなと
|ローマ字 = Chibaminato
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|CM|01|#0098cf|4||#185aa5}}
|所属事業者 = [[千葉都市モノレール]]
|所属路線 = {{Color|#2843ba|■}}[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]<br />({{Color|#2843ba|■}}[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]直通含む)
|前の駅 =
|駅間A =
|駅間B = 0.7
|次の駅 = [[市役所前駅 (千葉県)|市役所前]] CM02
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 千葉みなと
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|乗車人員 = <ref group="#" name="chibacity-R4" />6,910
|統計年度 = 2021年
|所在地 = [[千葉市]][[中央区_(千葉市)|中央区]]中央港一丁目17-12
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|36|26.6|N|140|6|9|E|region:JP_type:railwaystation|name=千葉都市モノレール 千葉みなと駅}}
|開業年月日 = [[1995年]]([[平成]]7年)[[8月1日]]<ref name="交通19950803" /><ref name="sone30"/>
|廃止年月日 =
|備考 =
}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する高架駅。JRとは別に独自の駅舎を有する。平日朝の一部列車を除き、1番線から[[動物公園駅|動物公園]]・[[千城台駅|千城台]]行が、2番線から[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前]]行が発車する。
==== のりば ====
<!-- 現地の案内標では一括して「千葉・千城台・県庁前方面」となっているが、実態に合わせて記載。発着番線は公式サイトの時刻表で参照可能(2012年2月時点) -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先!!備考
|-
!1
|[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 2号線
|[[千葉駅|千葉]]・[[千城台駅|千城台]]方面
|平日朝の一部は2番線から発車
|-
!2
|[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 1号線
|千葉・[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前]]方面
| -
|}
<gallery>
Chibatoshimonorail_Chibaminato_sta_001.jpg|改札口
Chiba-monorail-1-Chiba-minato-station-platform.jpg|ホーム
Chiba-Minato Station, end edge of monorail.jpg|モノレール終端
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''15,354人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
* '''千葉都市モノレール''' - 2021年度の1日平均'''乗車'''人員は'''6,910人'''である<ref group="#" name="chibacity-R4" />。
*: 同社の駅では18駅中2位。
開業以後の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
|-
!年度!!国鉄 / <br />JR東日本!!千葉都市<br />モノレール!!出典
|-
|1985年(昭和60年)
|<ref group="備考">1986年3月3日開業。開業日から同年3月31日までの計29日間を集計したデータ。</ref>2,337
|style="text-align:center" rowspan="10"|未<br />開<br />業
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和61年)]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|1,955
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和62年)]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|2,285
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和63年)]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|3,266
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成元年)]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|4,898
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|6,009
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|6,625
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|6,968
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|7,307
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|7,563
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|8,597
|<ref group="備考">1995年8月1日開業。開業日から翌年3月31日までの計244日間を集計したデータ。</ref>2,919
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|9,439
|3,825
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|9,505
|4,160
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|9,444
|4,174
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|9,432
|4,421
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>9,813
|4,493
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>10,157
|4,540
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>10,592
|4,684
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>11,649
|5,139
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>12,147
|5,448
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>13,118
|5,702
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>14,013
|6,166
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>14,768
|6,573
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
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|6,704
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
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|2009年(平成21年)
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|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
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|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>14,559
|6,342
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|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>15,561
|7,157
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|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>15,699
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|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>14,158
|<ref group="#" name="chibacity-R4">{{Cite web|和書|author=千葉市|url=https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/kikaku/tokei/documents/04toukeisyo.pdf |title=千葉市統計書(令和4年度版)
|type=pdf |page=162-163 |date=2023-03 |accessdate=2023-07-08}}</ref>6,910
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>15,354
|
|
|}
; 備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{columns-list|2|
* [[千葉市役所]]
* [[千葉市議会]]
* 千葉市中央コミュニティセンター
** 中央区役所市役所前市民センター
** 千葉CCプラザ内郵便局
* [[千葉銀行]]本店
* [[京葉銀行]]千葉みなと本部
* [[千葉興業銀行]]本店
* [[千葉中央警察署|千葉県千葉中央警察署]]
* 千葉市中央消防署臨港出張所
* [[千葉中央郵便局]]
** [[かんぽ生命保険]]千葉支店
* 千葉新宿郵便局
* 千葉第一地方合同庁舎
** [[管区行政評価局|関東管区行政評価局]] 千葉行政評価事務所
** [[東京法務局#千葉地方法務局|千葉地方法務局]]
** [[保護観察所|千葉保護観察所]]
** [[公安調査局|関東公安調査局]]千葉公安調査事務所
* 千葉港湾合同庁舎
** [[横浜税関]]千葉税関支署
** [[検疫所#組織体制|東京検疫所]]千葉支所
** [[検疫所#組織体制|横浜植物防疫所]]東京支所千葉出張所
** [[東京管区気象台#管内地方気象台|銚子地方気象台]]千葉[[特別地域気象観測所]]
** [[第三管区海上保安本部]]千葉海上保安部
* [[関東地方整備局]]千葉港湾事務所
* 千葉県千葉地域整備センター千葉港湾事務所
* 千葉市総合保健医療センター
* [[NHK千葉放送局]]
* [[千葉県立美術館]]
* [[千葉ポートパーク]]
* [[千葉ポートタワー]]
* みなと公園
* [[千葉港]]
* [[千葉中央港旅客船桟橋]]
* [[ケーズハーバー]](旅客船ターミナル)
* [[東横イン]] 千葉みなと駅前
* [[ホテルオークラ#国内チェーン|オークラ千葉ホテル]]
* ホテルポートプラザちば
* ホテルニューツカモト
* [[千葉ポートスクエア]]
** [[千葉ポートアリーナ]]
** [[千葉ポートサイドタワー]]
** カンデオホテルズ千葉
* ライオンズマンション千葉グランドタワー
* 千葉マリンコート
* [[NTTドコモ]]千葉ビル
* [[損害保険ジャパン|損保ジャパン]]千葉ビル
* [[日本電信電話|NTT]]千葉ビル
* 一般社団法人[[千葉県建設業協会]]
|}}
<gallery>
View from Chiba Port-Tower East.jpg|[[千葉ポートスクエア]]周辺
Chibaportship.jpg|[[千葉中央港旅客船桟橋]]
Okura Chiba Hotel.jpg|[[ホテルオークラ#国内チェーン|オークラ千葉ホテル]]
千葉ポートタワー - panoramio.jpg|[[千葉ポートタワー]]
Chiba Prefectural Museum of Art 2010.jpg|[[千葉県立美術館]]
</gallery>
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!colspan="3"|東口
|-
!rowspan="2"|1
|style="text-align:center;"|[[小湊鉄道]]
|[[小湊鉄道塩田営業所#塩田本所 3|'''千62''']]:[[蘇我駅]]東口
|-
|style="text-align:center;"|[[千葉中央バス]]
|[[千葉駅]]西口
|-
!rowspan="2"|2
|style="text-align:center;"|小湊鉄道
|'''千41'''・'''千42''':千葉駅
|-
|style="text-align:center;"|[[千葉海浜交通]]
|千葉駅
|-
!rowspan="2"|3
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[ちばシティバス]]|[[日東交通 (千葉県)|日東交通]]}}
|[[ちばシティバス#館山線(南総里見号)|'''高速 南総里見号''']]:[[館山駅]]・[[安房白浜駅]]
|-
|style="text-align:center;"|[[千葉内陸バス]]
|[[千葉内陸バス#現行路線(高速路線)|'''高速''']]:[[成田国際空港|成田空港]]
|-
!rowspan="2"|4
|style="text-align:center;"|小湊鉄道
|'''千62''':[[千葉ポートタワー]]
|-
|style="text-align:center;"|千葉中央バス
|千葉ポートタワー
|-
!rowspan="2"|5<ref group="注">京葉線通り沿いの路上に設置。</ref>
|style="text-align:center;"|小湊鉄道
|{{Unbulleted list|'''千41''':幸町団地|'''千42''':[[稲毛海岸駅]]}}
|-
|style="text-align:center;"|千葉海浜交通
|'''千01''':稲毛海岸駅 / 高浜車庫 / [[千葉市立海浜病院|海浜病院]]
|-
!rowspan="4"|6<ref group="注">ポートプラザちば前の路上に設置。</ref>
|style="text-align:center;"|小湊鉄道
|'''千71''':新港中央市場
|-
|style="text-align:center;"|ちばシティバス
|{{Unbulleted list|[[ちばシティバス#幸町団地線、幸町循環線|'''稲61''']]:稲毛駅|'''稲63''':幸町団地}}
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[京成バス]]|[[京浜急行バス]]|ちばシティバス|[[東京空港交通]]}}
|[[京成バス#羽田空港発着便|'''高速''']]:[[東京国際空港|羽田空港]]
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|千葉内陸バス}}
|[[京成バス#成田空港発着便|'''高速''']]:成田空港
|-
!rowspan="2"|7<ref group="注">千葉みなとガーデンパーク前の路上に設置。</ref>
|style="text-align:center;"|小湊鉄道
|'''千71''':千葉駅西口
|-
|style="text-align:center;"|ちばシティバス
|'''稲61'''・'''稲63''':千葉駅西口
|-
!colspan="3"|西口
|-
!1
|style="text-align:center;"|[[ちばシティバス]]
|{{Unbulleted list|[[ちばシティバス#新港線|'''千38''']]:新港車庫前 / 千葉駅西口|'''千39''':新港イースト / 千葉駅西口}}
|-
!rowspan="2"|2
|style="text-align:center;"|[[小湊鉄道]]
|'''千82''':千葉ポートタワー / 千葉駅西口
|-
|style="text-align:center;"|[[九十九里鉄道|九十九里鐡道]]
|'''[[アリオ蘇我]]シャトルバス''':[[千葉寺駅|京成千葉寺駅]]
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速
:::; 通過
:: {{Color|#339966|■}}快速・{{Color|#0099ff|■}}各駅停車
::: [[稲毛海岸駅]] (JE 16) - ([[新港信号場]]〔旧:[[千葉貨物ターミナル駅]]〕) - '''千葉みなと駅 (JE 17)''' - [[蘇我駅]]
; 千葉都市モノレール
: [[File:Number prefix Chiba monorail.svg|15px|千葉都市モノレール]] 1号線(2号線直通含む)
::: '''千葉みなと駅 (CM01)''' - [[市役所前駅 (千葉県)|市役所前駅]] (CM02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"}}
==== 利用状況 ====
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
; 千葉市統計書
{{Reflist|group="#"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Chiba-Minato Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=990|name=千葉みなと}}
* [https://chiba-monorail.co.jp/index.php/info-timetable/station-info/chibaminato-station/ 千葉都市モノレール 千葉みなと駅]
{{京葉線}}
{{千葉都市モノレール}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect1 = 千葉港駅
|1-1 = 日本の鉄道駅 ち
|1-2 = 日本国有鉄道の鉄道駅
}}
{{DEFAULTSORT:ちはみなと}}
[[Category:千葉市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ち|はみなと]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:千葉都市モノレールの鉄道駅]]
[[Category:1986年開業の鉄道駅]]
[[Category:京葉線]]
|
2003-06-21T22:32:52Z
|
2023-11-15T06:59:11Z
| false | false | false |
[
"Template:駅情報",
"Template:Cite news",
"Template:千葉都市モノレール",
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"Template:Reflist",
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"Template:京葉線",
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"Template:Columns-list",
"Template:Color",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite press release",
"Template:Cite book",
"Template:Cite web",
"Template:リダイレクトの所属カテゴリ"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A8%E9%A7%85
|
10,268 |
小宇宙
|
小宇宙(しょううちゅう)
|
[
{
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}
] |
小宇宙(しょううちゅう) 宇宙全体の一部でありながら全体と類似したもの。人間、芸術作品などをそう捉えるときがある。哲学用語。これに対して宇宙全体のことを大宇宙という。→マクロコスモスとミクロコスモス
銀河のこと。島宇宙。
聖闘士星矢では「コスモ」と読み、心のエネルギーを指す。
|
'''小宇宙'''(しょううちゅう)
*[[宇宙]]全体の一部でありながら全体と類似したもの。人間、芸術作品などをそう捉えるときがある。[[哲学]]用語。これに対して宇宙全体のことを大宇宙という。→[[マクロコスモスとミクロコスモス]]
*[[銀河]]のこと。島宇宙。
*[[聖闘士星矢]]では「コスモ」と読み、心のエネルギーを指す。
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|
10,270 |
片仮名
|
片仮名(かたかな)は、音節文字の一つ。かなの一種である。
吉備真備(695 - 775年)が片仮名を作ったという説があるが、これは俗説に過ぎない。漢字の一部を使いその文字の代わりとして用いることは7世紀中頃から見られるが、片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている。この借字は当初、経典の行間の余白などにヲコト点とともに使われていた。それが小さく素早く記す必要から字形の省略・簡化が進んだ結果、現在見る片仮名の原型となり、ヲコト点に成り代わって盛んに訓読に利用されるようになった。片仮名はその発生の由来から、僧侶や博士家などによって漢字の音や和訓を注記するために使われることが多く、ごく初期から漢字仮名交り文に用いた例も見られる。後には歌集や物語をはじめ、一般社会の日常の筆記にも使用範囲が広がったが、平仮名で書かれたものが美的な価値をもって鑑賞されるに至ったのと比べると、記号的・符号的性格が強い。当初は字体に個人差・集団差が大きく、10世紀中頃までは異体字が多く見られ、時代を経るのに従って字体の整理が進み、12世紀には現在のそれと近いものになった。
平安時代中期に成立した『うつほ物語』の「国譲上」の巻において「書の手本」の中に片仮名があげられており、これにより平安時代中期には、片仮名がひとつの文字体系であると認識されていたことがわかる。なお江戸時代の学者伴信友は、平安時代後期に成立したと見られる『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」に、虫愛づる姫君が男から送られた恋文に対して「仮名(平仮名)はまだ書き給はざりければ、かたかんな(片仮名)に」返事を書いたという記述があることから、当時の文字の習得が片仮名から始めて平仮名に進んでいったとしている。しかし小松英雄はこの説明について、「虫めづる姫君」に見られる記述は虚構である物語における特殊な例であり、実際には初めから仮名(平仮名)を美しく書けるように習得するのが、当時の女性にとっては一般的であったとして退けている。
明治初期のころの字体はJ・C・ヘボン著『和英語林集成』の付表などにもみられる。平仮名に比べ学問的傾向が強いので、戦前の日本ではより正式な文字とみなされ、法令全書その他の公文書で用いられ、教育面でも平仮名に先行して教えられた。また、[v]の発音を表記するため、福澤諭吉によって「ヷ/ヸ/ヴ/ヹ/ヺ」が考案された。
明治33年(1900年)、平安時代から続く片仮名のうち、「小学校令施行規則」の「第一号表」に「48種の字体」だけが示され、以後これらが公教育において教授され一般に普及するようになり、現在に至っている。規則制定の理由は一音一字の原則に従ったためである。これにより「」と「」が用いられなくなった。
第二次世界大戦後、現代仮名遣いが制定された。これにより、特殊な場合を除いて「ヰ」と「ヱ」が用いられなくなった。
中田祝夫は、下の表で見られるような従来の字源についての説明を批判している。それは、従来の説ではまず現在の活字のような楷書体の漢字から片仮名の字源を想定し、各々の片仮名の字源を探ろうとするがそれは誤りであり、片仮名が生まれたころの時代を含めた近代以前には、漢字は実際には行書体や草書体で記される場合がほとんどで、そんな中でいわば平仮名のように、楷書体ではない崩した字体をさらに省略するなどして出来たのが片仮名であったとしている。
現在、日本語で主に使われているものは以下の通りである。
1900年ごろ、日本語で主に使われていたものは以下の通りである。
片仮名には、平仮名における変体仮名と同じく異体字が存在する。
これらの片仮名の異体字は、Unicodeには現在のところ採用されていない。コンピュータ上では似たような漢字などで代用できる場合もあるが、その方法(1文字での代用)によって全てを表示することはできない。
以下の画像に、片仮名の書き順と発音を示す。
"片仮名の書き順" - YouTube
片仮名の性質として画数が少なく直線的な形状、表音文字としての働きの2点が挙げられる。また、片仮名は漢字かな混じり文を中心とする言語生活の中での少数派という立場であり、外来語に使われる慣用として定着している。これらの性質によって片仮名は現代日本の言語生活によってさまざまな場面で使用される。
日本語では主に次のような場面で用いられる。
日本語以外では、アイヌ語表記にも使われる。
また、日本統治時代の台湾で台湾語および客家語の表記に使われた事もある。
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"text": "明治33年(1900年)、平安時代から続く片仮名のうち、「小学校令施行規則」の「第一号表」に「48種の字体」だけが示され、以後これらが公教育において教授され一般に普及するようになり、現在に至っている。規則制定の理由は一音一字の原則に従ったためである。これにより「」と「」が用いられなくなった。",
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"text": "第二次世界大戦後、現代仮名遣いが制定された。これにより、特殊な場合を除いて「ヰ」と「ヱ」が用いられなくなった。",
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"text": "中田祝夫は、下の表で見られるような従来の字源についての説明を批判している。それは、従来の説ではまず現在の活字のような楷書体の漢字から片仮名の字源を想定し、各々の片仮名の字源を探ろうとするがそれは誤りであり、片仮名が生まれたころの時代を含めた近代以前には、漢字は実際には行書体や草書体で記される場合がほとんどで、そんな中でいわば平仮名のように、楷書体ではない崩した字体をさらに省略するなどして出来たのが片仮名であったとしている。",
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"text": "現在、日本語で主に使われているものは以下の通りである。",
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"text": "1900年ごろ、日本語で主に使われていたものは以下の通りである。",
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"text": "片仮名には、平仮名における変体仮名と同じく異体字が存在する。",
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"text": "これらの片仮名の異体字は、Unicodeには現在のところ採用されていない。コンピュータ上では似たような漢字などで代用できる場合もあるが、その方法(1文字での代用)によって全てを表示することはできない。",
"title": "一覧"
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"text": "以下の画像に、片仮名の書き順と発音を示す。",
"title": "筆順"
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"text": "\"片仮名の書き順\" - YouTube",
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"title": "筆順"
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"text": "片仮名の性質として画数が少なく直線的な形状、表音文字としての働きの2点が挙げられる。また、片仮名は漢字かな混じり文を中心とする言語生活の中での少数派という立場であり、外来語に使われる慣用として定着している。これらの性質によって片仮名は現代日本の言語生活によってさまざまな場面で使用される。",
"title": "使い道"
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"text": "日本語では主に次のような場面で用いられる。",
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"text": "日本語以外では、アイヌ語表記にも使われる。",
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"text": "また、日本統治時代の台湾で台湾語および客家語の表記に使われた事もある。",
"title": "使い道"
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片仮名(かたかな)は、音節文字の一つ。かなの一種である。
|
{{出典の明記|date=2021年2月}}
{{Wiktionary|かたかな}}
{{Infobox WS
|name = {{big|{{ruby-ja|片仮名|カタカナ}}}}
|altname =
|type = [[音節文字]]
|languages = [[日本語]]、[[アイヌ語]]、[[琉球語]]
[[台湾語]]、[[パラオ語]] (以前)
|time = 800年 -
|fam1 = [[漢字]]
|fam2 = [[万葉仮名]]
|sisters = [[平仮名]]<!--ウィキペディアの表記ガイドをご覧ください。-->
|sample = Japanese_Katakana_KA.svg
|unicode = [https://www.unicode.org/charts/PDF/U30A0.pdf U+30A0–U+30FF] - [[片仮名 (Unicodeのブロック)|片仮名]]<br/>[https://www.unicode.org/charts/PDF/U31F0.pdf U+31F0–U+31FF] - [[片仮名拡張]]<br/>[https://www.unicode.org/charts/PDF/U1B000.pdf U+1B000] - [[仮名補助]]<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U1B130.pdf U+1B164-U+1B167] - [[小書き仮名拡張]]
|image_size = 100px
|iso15924 = Kana
}}
{{仮名}}
'''片仮名'''(かたかな)は、[[音節文字]]の一つ。[[仮名 (文字)|かな]]の一種である。
== 歴史 ==
=== 平安時代~明治時代 ===
[[File:Myoe Shonin Kashu.jpg|thumb|明恵上人歌集 ACE1248]]
[[吉備真備]](695 - 775年)が片仮名を作ったという説があるが、これは俗説に過ぎない{{efn|古くは[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]から[[室町時代]]にかけての人物明魏([[花山院長親]])の著『倭片仮字反切義解』の序文に、「…天平勝宝年中に到りて、右丞相吉備真備公、我が邦に通用する所の仮字<small>(仮名)</small>四十五字を取り、偏旁点画を省きて片仮字<small>(片仮名)</small>を作る」とあり、1940年代の一部の書物においても片仮名の起源は諸説あるとし、片仮名は漢字の一部から[[吉備真備]]が工夫して創作したのではないかとの記載が見られる。}}<ref>『国語学大系』第四巻(厚生閣、1938年)および『新しき図案文字の描き方 初心者の為に』(国民書院、1940年)「片仮名の起源」(10頁)[{{NDLDC|1036528/19}}]参照。</ref>。漢字の一部を使いその文字の代わりとして用いることは[[7世紀]]中頃から見られるが<ref>正倉院文書 御野国大宝二年戸籍(702年)、石神遺跡出土木簡(665年)における「牟」字の「ム」表記など。</ref>、片仮名の起源は[[9世紀]]初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で[[漢文訓読|漢文を和読する]]ために、訓点として借字([[万葉仮名]])の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている。この借字は当初、経典の行間の余白などに[[ヲコト点]]とともに使われていた。それが小さく素早く記す必要から字形の省略・簡化が進んだ結果、現在見る片仮名の原型となり、ヲコト点に成り代わって盛んに訓読に利用されるようになった。片仮名はその発生の由来から、僧侶や[[博士]]家などによって漢字の音や和訓を注記するために使われることが多く、ごく初期から漢字仮名交り文に用いた例も見られる。後には歌集や物語をはじめ、一般社会の日常の筆記にも使用範囲が広がったが、[[平仮名]]で書かれたものが美的な価値をもって鑑賞されるに至ったのと比べると、記号的・符号的性格が強い。当初は[[字体]]に個人差・集団差が大きく、[[10世紀]]中頃までは異体字が多く見られ、時代を経るのに従って字体の整理が進み、[[12世紀]]には現在のそれと近いものになった。
[[平安時代]]中期に成立した『[[うつほ物語]]』の「国譲<small>上</small>」の巻において「書の手本」の中に片仮名があげられており<ref>[http://daijirin.dual-d.net/extra/hiragana.html 『三省堂大辞林』]「平仮名」の項</ref>、これにより平安時代中期には、片仮名がひとつの文字体系であると認識されていたことがわかる<ref>[http://daijirin.dual-d.net/extra/katakana.html 『三省堂大辞林』]「片仮名」の項</ref>。なお[[江戸時代]]の学者[[伴信友]]は、平安時代後期に成立したと見られる『[[堤中納言物語]]』の「虫めづる姫君」に、虫愛づる姫君が男から送られた恋文に対して「仮名<small>(平仮名)</small>はまだ書き給はざりければ、かたかんな<small>(片仮名)</small>に」返事を書いたという記述があることから、当時の文字の習得が片仮名から始めて平仮名に進んでいったとしている。しかし[[小松英雄]]はこの説明について、「虫めづる姫君」に見られる記述は虚構である物語における特殊な例であり、実際には初めから仮名(平仮名)を美しく書けるように習得するのが、当時の女性にとっては一般的であったとして退けている<ref>小松英雄 『徒然草抜書』〈『講談社学術文庫』947〉 講談社、1990年 ※第二章「うしのつの文字」</ref>。
明治初期のころの字体は[[ジェームス・カーティス・ヘボン|J・C・ヘボン]]著『[[和英語林集成]]』の付表などにもみられる<ref>J・C・ヘボン 『和英語林集成』〈『講談社学術文庫』477〉 松村明解説 1989年 巻頭・付表</ref>。平仮名に比べ学問的傾向が強いので、[[戦前]]の日本ではより正式な文字とみなされ、[[法令全書]]その他の公文書で用いられ、教育面でも平仮名に先行して教えられた。また、[v]の発音を表記するため、[[福澤諭吉]]によって「[[ヷ]]/[[ヸ]]/[[ヴ]]/[[ヹ]]/[[ヺ]]」が考案された。
=== 異体字の抑圧 ===
[[明治]]33年([[1900年]])、平安時代から続く片仮名のうち、「小学校令施行規則」の「第一号表」に「48種の字体」だけが示され、以後これらが公教育において教授され一般に普及するようになり、現在に至っている。規則制定の理由は一音一字の原則に従ったためである。これにより「[[ファイル:Katakana letter Ne 2.svg|20px]]」と「[[ファイル:Katakana letter Wi 2.svg|20px]]」が用いられなくなった。
=== 仮名遣いの改変 ===
第二次世界大戦後、[[現代仮名遣い]]が制定された。これにより、特殊な場合を除いて「[[ヰ]]」と「[[ヱ]]」が用いられなくなった。
== 字体の由来 ==
[[中田祝夫]]は、下の表で見られるような従来の字源についての説明を批判している。それは、従来の説ではまず現在の[[活字]]のような[[楷書]]体の漢字から片仮名の字源を想定し、各々の片仮名の字源を探ろうとするがそれは誤りであり、片仮名が生まれたころの時代を含めた近代以前には、漢字は実際には[[行書]]体や[[草書]]体で記される場合がほとんどで、そんな中でいわば平仮名のように、楷書体ではない崩した字体をさらに省略するなどして出来たのが片仮名であったとしている。
[[ファイル:Katakana origine.svg|none|400px|カタカナの由来]]
*「'''エ'''」は、初期の片仮名では、ヤ行のエであった。<ref>{{citation|和書|url=http://daijirin.dual-d.net/extra/katakana.html|title=日本語の世界4:片仮名|work=[[大辞林]]特別ページ|publisher=三省堂}} 2022年5月17日閲覧</ref>「{{Color|red|'''江'''}}」は、万葉仮名でヤ行のエである。<ref>[https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=375 万葉仮名|国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ (japanknowledge.com)] 2022年5月17日閲覧。</ref>
*「'''キ'''」については「{{Color|red|'''幾'''}}」の[[草書体|草体]]の変形、ならびに[[平仮名]]「{{Color|red|'''き'''}}」の変形とする説がある。
*「'''ケ'''」については「箇」の異体字である「{{Color|red|'''个'''}}」の変形とする説がある。
*「'''ツ'''」については「{{Color|red|'''州'''}}」の草体、「{{Color|red|'''門'''}}」の草体、または「{{Color|red|'''津'''}}」の一部とする諸説がある。
*「'''ト'''」については「{{Color|red|'''外'''}}」の旁を採ったとする説がある。
*「'''ユ'''」については「{{Color|red|'''弓'''}}」の最初の2画を採ったとする説も以前からある。
*「{{Color|red|'''ヰ'''}}」「{{Color|red|'''ヱ'''}}」は、現在[[歴史的仮名遣]]においてのみ用いられる。
*「'''ヰ'''」は「{{Color|red|'''井'''}}」の草体を変形させたものである。
*「'''ヱ'''」については「{{Color|red|'''慧'''}}」の草体の一部を採ったとする説もある。
*「'''ワ'''」については「輪」の意の記号「{{Color|red|○}}」を「{{Color|red|'''()'''}}」と2画で書いたところから生まれたとする説がある。
*「'''ン'''」については漢字でなく[[撥音]]を表す記号({{Color|red|'''V'''}})の変形とする説もある。
== 一覧==
{{seealso|合略仮名|アイヌ語仮名|台湾語仮名}}
現在、日本語で主に使われているものは以下の通りである。
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[わ行|ワ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ら行|ラ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[や行|ヤ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ま行|マ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[は行|ハ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[な行|ナ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[た行|タ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[さ行|サ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[か行|カ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[あ行|ア行]]!!style="background-color: #ffffff;" |
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Wa.svg|20px|link=わ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ra.svg|20px|link=ら]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ya.svg|20px|link=や]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ma.svg|20px|link=ま]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ha.svg|20px|link=は]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Na.svg|20px|link=な]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ta.svg|20px|link=た]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Sa.svg|20px|link=さ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ka.svg|20px|link=か]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter A.svg|20px|link=あ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[あ段|ア段]]
|-style="background-color: #e9e9e9; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ri.svg|20px|link=り]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Mi.svg|20px|link=み]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Hi.svg|20px|link=ひ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ni.svg|20px|link=に]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ti.svg|20px|link=ち]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Si.svg|20px|link=し]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ki.svg|20px|link=き]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter I.svg|20px|link=い]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[い段|イ段]]
|-style="background-color: #e9e9e9; text-align: center; vertical-align: top;"
! !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ru.svg|20px|link=る]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Yu.svg|20px|link=ゆ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Mu.svg|20px|link=む]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Hu.svg|20px|link=ふ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Nu.svg|20px|link=ぬ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Tu.svg|20px|link=つ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Su.svg|20px|link=す]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ku.svg|20px|link=く]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter U.svg|20px|link=う]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[う段|ウ段]]
|-style="background-color: #e9e9e9; text-align: center; vertical-align: top;"
! !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Re.svg|20px|link=れ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Me.svg|20px|link=め]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter He.svg|20px|link=へ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ne.svg|20px|link=ね]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Te.svg|20px|link=て]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Se.svg|20px|link=せ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ke.svg|20px|link=け]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter E.svg|20px|link=え]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[え段|エ段]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Wo.svg|20px|link=を]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ro.svg|20px|link=ろ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Yo.svg|20px|link=よ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Mo.svg|20px|link=も]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ho.svg|20px|link=ほ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter No.svg|20px|link=の]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter To.svg|20px|link=と]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter So.svg|20px|link=そ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ko.svg|20px|link=こ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter O.svg|20px|link=お]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[お段|オ段]]
|}
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[撥音]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter N.svg|20px|link=ん]]
|}
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[拗音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[促音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[拗音]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[ャ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ァ]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ィ]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[ュ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[ッ]]!!style="background-color: #e7f5de;" |[[ゥ]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ェ]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[ョ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ォ]]
|}
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[半濁音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[濁音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[長音]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[゜]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[゛]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[ー]]
|}
1900年ごろ、日本語で主に使われていたものは以下の通りである。
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[わ行|ワ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ら行|ラ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[や行|ヤ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ま行|マ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[は行|ハ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[な行|ナ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[た行|タ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[さ行|サ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[か行|カ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[あ行|ア行]]!!style="background-color: #ffffff;" |
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Wa.svg|20px|link=わ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ra.svg|20px|link=ら]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ya.svg|20px|link=や]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ma.svg|20px|link=ま]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ha.svg|20px|link=は]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Na.svg|20px|link=な]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ta.svg|20px|link=た]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Sa.svg|20px|link=さ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ka.svg|20px|link=か]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter A.svg|20px|link=あ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[あ段|ア段]]
|-style="background-color: #e9e9e9; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Wi 2.svg|20px|link=ゐ]][[File:Katakana letter Wi.svg|20px|link=ゐ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ri.svg|20px|link=り]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Mi.svg|20px|link=み]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Hi.svg|20px|link=ひ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ni.svg|20px|link=に]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ti.svg|20px|link=ち]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Si.svg|20px|link=し]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ki.svg|20px|link=き]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter I.svg|20px|link=い]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[い段|イ段]]
|-style="background-color: #e9e9e9; text-align: center; vertical-align: top;"
! !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ru.svg|20px|link=る]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Yu.svg|20px|link=ゆ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Mu.svg|20px|link=む]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Hu.svg|20px|link=ふ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Nu.svg|20px|link=ぬ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Tu.svg|20px|link=つ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Su.svg|20px|link=す]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ku.svg|20px|link=く]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter U.svg|20px|link=う]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[う段|ウ段]]
|-style="background-color: #e9e9e9; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter We.svg|20px|link=ゑ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Re.svg|20px|link=れ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana_obsolete_ye.svg|20px|link=や行え]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Me.svg|20px|link=め]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter He.svg|20px|link=へ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ne 2.svg|20px|link=ね]][[File:Katakana letter Ne.svg|20px|link=ね]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Te.svg|20px|link=て]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Se.svg|20px|link=せ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ke.svg|20px|link=け]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter E.svg|20px|link=え]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[え段|エ段]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Wo.svg|20px|link=を]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ro.svg|20px|link=ろ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Yo.svg|20px|link=よ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Mo.svg|20px|link=も]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ho.svg|20px|link=ほ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter No.svg|20px|link=の]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter To.svg|20px|link=と]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter So.svg|20px|link=そ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter Ko.svg|20px|link=こ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter O.svg|20px|link=お]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[お段|オ段]]
|}
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[なり (仮名)|ナリ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[とも (仮名)|トモ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[とき (仮名)|トキ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[して (仮名)|シテ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[こと (仮名)|コト]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[いふ (仮名)|イフ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[撥音]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana nari.svg|20px]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana tomo.svg|20px]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana toki 2.svg|20px]][[File:Katakana toki 1.svg|20px]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana shite.svg|20px]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana digraph Koto.svg|20px]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana ifu.svg|20px]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Katakana letter N.svg|20px|link=ん]]
|}
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[拗音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[促音]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[ャ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" |
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[ュ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[ッ]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[ョ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" |
|}
{| class="wikitable"
|- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #becfeb;" |[[半濁音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[濁音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[長音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[踊り字|畳音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[踊り字|畳音]]
|-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;"
! style="background-color: #e7f5de;" |[[゜]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[゛]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[ー]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[〱]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[ヽ]]
|}
=== 異体字 ===
片仮名には、平仮名における[[変体仮名]]と同じく異体字が存在する。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!片仮名!!片仮名異体!!解説!!使用例
|-
!エ
|𛀀
|「衣」の省字
|
|-
! rowspan=2 | ホ
| 甲 || 「甫」からの転化か<ref name="taikei-katakajiyakubun"/><ref name="taikei-p100"/> || 菅家の[[点図]]<ref name="tsuko-chu-3">[[新井白石]] 『[https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ho02/ho02_00107/ho02_00107_0005/ho02_00107_0005.pdf 同文通考 中之三]』</ref><ref name="taikei-katakajiyakubun">[https://books.google.co.jp/books?id=vfvJwwEusDgC&pg=frontcover 國語學大系] P.166-171 福井久蔵 1940年</ref>
|-
| [口/丨] || 「保」の省字<ref name="taikei-katakajiyakubun"/> || 卜部家に伝わる経点の図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
! ワ
| 禾 || 「和」の省字<ref name="taikei-p100">[https://books.google.co.jp/books?id=vfvJwwEusDgC&pg=frontcover 國語學大系] P.100 福井久蔵 1940年</ref> || 日本紀の点<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
!タ
|太|| || 菅家の点図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
!ツ
|⿶儿丨|| || 卜部家に伝わる経点の図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
! rowspan=2 |ネ
|[[File:Katakana letter Ne 2.svg|20px|link=ね]]||||
|-
| [ネ-丶] |||| 卜部家に伝わる経点の図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
! ム
| レ ||「武」の省字<ref name="taikei-p100"/>||
|-
!ヰ
|[[File:Katakana letter Wi 2.svg|20px|link=ゐ]]||||
|-
!ノ
| 𠄎 || 「乃」の省字<ref name="taikei-katakajiyakubun"/> || 卜部家に伝わる経点の図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
!マ
| 丆 ||「万󠄂」の省字<ref name="taikei-katakajiyakubun"/>|| 菅家の点図、<br>卜部家に伝わる点図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
! サ
| 七 || 「㔫」(「左」の俗字)の省字<ref name="taikei-p100"/> || 菅家の点図、<br>卜部家に伝わる点図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
! ミ
| 尸<ref name="taikei-katakajiyakubun"/> || 「民」の省字<ref name="taikei-katakajiyakubun"/> || 菅家の点図、<br>卜部家に伝わる点図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
! rowspan=2 | ス
| 爪 || 「爲」の省字<ref name="taikei-katakajiyakubun"/> || 菅家の点図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
| 寸 |||| 菅家の点図<ref name="tsuko-chu-3"/><ref name="taikei-katakajiyakubun"/>
|-
|-
! ン
| 𠃋<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=4kQdx6wleWkC&pg=frontcover 國語史: 文字篇] P.248 山田孝雄 1937年</ref> || ||
|}
これらの片仮名の異体字は、[[Unicode]]には現在のところ採用されていない。コンピュータ上では似たような漢字などで代用できる場合もあるが、その方法(1文字での代用)によって全てを表示することはできない。
== 筆順 ==
以下の画像に、片仮名の書き順と発音を示す。
[[File:Table_katakana.svg|center]]
{{youtube|AhhO8sRGVMc|"片仮名の書き順"}}
== 使い道 ==
片仮名の性質として画数が少なく直線的な形状、表音文字としての働きの2点が挙げられる。また、片仮名は漢字かな混じり文を中心とする言語生活の中での少数派という立場であり、外来語に使われる慣用として定着している。これらの性質によって片仮名は現代日本の言語生活によってさまざまな場面で使用される。
[[日本語]]では主に次のような場面で用いられる。
[[ファイル:Meiji Kenpo01.jpg|thumb|right|200px|大日本帝国憲法「上諭」1頁目。漢字と片仮名で記載されており、平仮名は用いられていない。]]
[[ファイル:Japanese Name Change Bulletin of Taikyu Court.jpg|thumb|right|200px|[[日本統治時代の朝鮮]]での[[創氏改名|創氏]]の法院公告。漢字と平仮名ではなく、漢字と片仮名で記載されている。なお当時の朝鮮の人々は漢字は読めても仮名は読めなかったため、仮名にはハングルを振っている。]]
* 漢文[[訓読]]・注釈等に関わる場合<!--「漢語訓読」という表現は普通は使いません。-->
** 漢文訓読における[[送り仮名|添え仮名]]
* 音を示すことを目的とする場合
** [[外来語]]
** 和製外国語、外国製日本語や混種語(カラオケなど)
** [[中華圏]]を除く外国の人名・地名などの[[固有名詞]]
***ただし、中華圏の固有名詞でも難読などの理由で片仮名表記が使用されることがある。その他の[[漢字文化圏]]については片仮名表記も多く使われる(朝鮮半島の固有名詞)、基本的に片仮名表記(ベトナム、モンゴルの固有名詞)など混在した状態となっている。
*** 日本人の人名であっても[[キリスト教|キリスト教徒]]の[[洗礼名]]や外国姓を名乗る[[ハーフ]]などの場合は片仮名表記なので名前の表記が片仮名漢字混じりになる。女性、とりわけ[[第二次世界大戦]]以前に生まれた人の[[人名]]ではカタカナが見受けられる。
** [[擬声語|擬音語・擬態語]](ただし、吉田(2000)によれば、平仮名でも表記することができ、特に擬態語に関しては平仮名が主流であるという論もある。)
** [[漢字]]の音([[音読み]]、固有名詞の特殊な読み、日本語以外の言語での発音、[[常用漢字]]外の文字の仮名表記)
*** 逆にあえて平仮名を使うことで、「本来とは違う日本語的な発音」というニュアンスを示せる
* [[電報|かな電報]]の本文。[[合格電報]]の「サクラサク」など
* 一般と異なる表記による効果を目的とする場合
** [[学術用語]]、[[生物]]の[[和名]](イヌ、キジ、サクラなど)
** 難解な漢字表記、他の漢字との混同や一目では見にくい漢字表記を避けつつ、平仮名で書くと読みづらい語を表記するとき(ハレとケ、テキヤ、カギ、フチ、チンドン屋など)
** [[固有名詞]]を強調の意図をもって表記するとき(例えば、広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」と片仮名表記される場合は、広島市への原爆投下の関連での言及が多い)
** その語が特殊な(多くは卑俗な)意味で用いられていることを示すとき(ヤる、イく、テキトウなどの俗語、隠語)
** 日本語でくだけた口調の会話文を表現をする場合(感動詞、終助詞を含む)
** 会社名や商品名などの固有名詞を表記する場合
** 日本語の非[[母語|母語話者]]の片言での会話を表現する場合(コンニチハなど)
** 初期の[[音声合成|機械音声]]の片言および無感情性を表現する場合
** 明治から昭和期まで、[[法律]]、[[政令]]などは漢字カタカナ交じりで表記された。
* 技術的な理由から使用可能な文字が限られている場合
** [[1988年]]8月以前の[[電報]]
** [[マルチバイト文字]]がサポートされていない[[コンピュータ]]環境。「[[半角]]カタカナ」の「カタカナ」部分。{{main|[[半角カナ]]}}
* 項目を列挙する際、各項目の区別または順序を示す記号として用いられる(ア……、イ……、ウ……)。この場合は、[[いろは順]]が採用されることも多い。
*「片仮名」という単語を「カタカナ」と表記することがある。
* "v"音を示す「ヴ」および「ヴァ・ヴィ・ヴェ・ヴォ」は片仮名にのみ存在する。<!-- 平仮名は一部のフォントで対応 -->
日本語以外では、[[アイヌ語]]表記にも使われる。{{see also|[[アイヌ語仮名]]}}また、[[日本統治時代の台湾]]で[[台湾語]]および[[客家語]]の表記に使われた事もある。{{main|[[台湾語仮名]]|[[広東語仮名]]}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*[[小松茂美]] 『かな その成立と変遷』 岩波新書、1968年 ISBN 4004120977
*築島裕 『仮名』〈『日本語の世界』5〉 中央公論社、1981年
*中田祝夫 「片仮名の字形・字源―片仮名の発達史―」 『水茎』(第二十四号) 古筆学研究所、1998年
*吉田由佳「擬音語・擬態語から見た日本語非外来語片仮名表記の考察」『東京外国語大学記述言語論集』、2007年
*喜古容子「片仮名の表現効果:戦後の小説を資料に」『早稲田日本語研究』、2007年
*村中 淑子・黎 婉珊「中上級日本語教科書における非外来語のカタカナ表記の実態」『国際文化論集』、2013年
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Commons&cat|Katakana}}
* [[仮名 (文字)|仮名]]
* [[平仮名|平仮名(ひらがな)]]
* [[捨て仮名]] - 「ぁぃぅぇぉゃゅょ ァィゥェォャュョヵヶ」といった小字で表される仮名。
* [[ローマ字]]
* [[アイヌ語仮名]]
* [[台湾語仮名]]
* [[口訣]]
* [[注音符号]](注音字母)
* [[カナモジカイ]]
* [[合略仮名]]
* [[片仮名 (Unicodeのブロック)]]
<!--
* [[拡張カタカナ]]
アイヌ語等で使われるが、独立記事におよばない。記述するならば片仮名内で十分。
-->
== 外部リンク ==
* [http://daijirin.dual-d.net/extra/katakana.html 大辞林 特別ページ 日本語の世界4 片仮名] 2012年12月20日閲覧
* {{Kotobank}}
{{日本語}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かたかな}}
[[Category:仮名|*かたかな]]
[[Category:音節文字]]
[[sv:Kana (skriftsystem)#Katakana]]
|
2003-06-21T22:46:39Z
|
2023-12-27T05:03:54Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E4%BB%AE%E5%90%8D
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新木場駅
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新木場駅(しんきばえき)は、東京都江東区新木場一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。
以下の3社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。
JR京葉線ホームが4階、コンコースが3階、東京メトロ有楽町線ホームと東京臨海高速鉄道りんかい線ホームが2階にある。
駅の建設にあたり、地元の「東京新木場木材商工協同組合」などから木材の町のシンボル駅として、木材を使用した木造建築を強く要望されたが、建築基準法や消防法の規制による制約のため、木を化粧材のように利用する形態になった経緯がある。屋根は切妻風とし、柱や梁は浮き出させ、白壁造りの「純木造風建築物」をイメージした外観となっている。
駅構内でも階段の笠木(かさぎ)や手すりに木材の集成材を使用しているほか、駅券売機の腰壁、有楽町線ホームへの階段周囲の腰壁、一部ホームの柱にはヒノキの間伐材を使用し、木の香りと木材特有の暖かさを感じさせるものとした。
地元「東京新木場木材商工協同組合」の協力により、木材をテーマにした3体の木製レリーフと木材に江戸文字で書かれた駅名看板が設置されている。この駅名看板は樹齢150年、長さ6 m、高さ90 cm、厚さ23 cmの茨城県産ケヤキ材を使用したものである。
3体のレリーフは「海とみやこどり(有楽町線改札付近・現存)」「さざ波と岩(現存せず)」「荒海(現存せず)」で、木場の街の駅であることを、利用者に強くアピールしている。「海とみやこどり(有楽町線改札付近・現存)」は、ヒバとケヤキを使用。有楽町線とJR京葉線が当駅で接続された姿を、ケヤキ丸太(群馬県産・樹齢350年)の結合で表現し、日本の木工技術の伝統的な継手を配したものである。おだやかな波間に、ユリカモメが舞っている様を表現している。「さざ波と岩(現存せず)」は、ナラの集成材を使用し、穏やかなさざ波を表現した。海岩・岩のイメージとして御影石を配置し、質感の対比により木材の暖かさを強調している。「荒海(現存せず)」は、ヒノキの間伐材を六面加工し、激しい波を表現。スギ板と無垢のスギ(秋田スギ・樹齢150年)の流木を、波間に見え隠れさせている。
1階部分に当たる高架下には飲食店が軒を連ねている。3社とも1か所のコンコースを共用(管理は東京メトロが担当)しており、改札もそれぞれが隣接している。
東京臨海高速鉄道りんかい線は、コミックマーケットをはじめとする年に数回開催される沿線でのイベントに対応するため、混雑時に備えて改札横に臨時出札窓口を数箇所設けている。
島式ホーム1面2線を有する高架駅。駅東側の荒川沿いに新木場車両基地があり、ここに通じる線路が引き上げ線として利用されている。なお、渡り線が引き上げ線側にあるため、ホームで直接和光市方面に折り返すことは不可能であり、新木場駅に到着した列車は全て回送電車として引き上げ線へ入線して折り返しを行う。
当駅は、「大手町駅務管区新木場地域」として近隣の駅を管理している。
辰巳駅寄りの有楽町線本線沿いの南側には「地下鉄新木場ビル」があり、有楽町線の乗務区、技術区、変電所、モーターカー車庫、信号機器室などが収容されている。新木場変電所部は2階建て、乗務区部は3階建て、技術区部は4階建て構造となっており、技術区部の3階は有楽町線本線と同レベルとなっており、モーターカー庫からの線路が本線と直角に交差している。現在は有楽町線の運転士が所属する新木場運転事務室(ほかに和光市駅・小竹向原駅にも乗務管区がある)、有楽町・副都心線工務区、有楽町・副都心線電機区、有楽町・副都心線信通区新木場分室が配置されている。
(出典:東京メトロ:構内図)
2番線のみ、2013年6月29日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。
曲は「明日はきっと」(塩塚博作曲)である。
島式ホーム1面2線を有する高架駅。改札階とホームを連絡する階段は当初は2か所あったが、朝のラッシュ時には不足気味で、改札を抜けるまでに時間がかかることもある。このため2020年東京オリンピックを控えて改良工事が行われ、改札内コンコースを東京寄りに拡張して階段とエレベーターを増設し、2019年12月26日に供用開始した。また、改良工事に併せて改札内への駅ナカ店舗の工事が行われ、2019年12月26日にNewDaysが先行開業し、ベックスコーヒーショップは2020年6月29日、いろり庵きらくは同年7月3日に開業。
千葉支社管轄の直営駅で、指定席券売機・自動券売機・自動改札機・自動精算機設置駅。管理駅として、潮見駅・葛西臨海公園駅を管理下においている。
京葉線の部分開業時には蘇我方にある両渡り線を使用して折り返していたが、当駅 - 東京駅間の開業後は使用停止扱いとされ、当駅での折り返しは不可能となった。しかし、2006年9月28日に発生した東京駅機器室の火災事故に伴い、連動装置を整備し、折り返し機能を復活させた。以後は異常時対応用として、常時使用可能な状態を維持している。
蘇我寄りにはりんかい線との連絡線がある。全線開業前は70-000形電車が検査などのために京葉電車区(現・京葉車両センター)や蘇我経由で大井工場(現・東京総合車両センター)へ自力回送していたり、団体臨時列車が運行されたこともあるが、定期列車が運行されたことは一度もない。これについてはりんかい線との関係も参照のこと。
有楽町線への乗り換え客も多く、それまで通過していた京葉線の通勤快速の停車を求める乗客の要望があったため、2004年(平成16年)10月16日のダイヤ改正より停車となっている。なお、特急列車が定期的に停車したことはないが、金曜夜の「さざなみ」と土曜・休日の「わかしお」を中心に期間を限定して当駅に臨時停車した実績がある。2009年(平成21年)には3月6日から6月26日(3月20日を除く)までの毎週金曜日および3月19日に「さざなみ21号」が臨時停車していた。
(出典:JR東日本:駅構内図)
(出典:祖田圭介(鉄道総合技術研究所)「武蔵野線・京葉線 建設の経緯と線路配線」『鉄道ピクトリアル』第52巻第8号(通巻720号)、電気車研究会、2002年8月1日、55頁、ISSN 0040-4047。 )
2007年3月24日からテイチク制作の発車メロディを使用している。
島式ホーム1面2線を有する高架駅。前記したように、JR京葉線との間に連絡線がある。
平日は朝夕に主に通勤・通学客で混雑し、休日は主に東京ディズニーリゾートや葛西臨海公園、お台場などへ向かう行楽客で賑わう。また、幕張メッセや東京ビッグサイトでのイベント開催時にも混雑することがあり、日によって乗降人員に変動がある。
各年度の1日平均乗降人員数は下表の通り。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。
駅周辺には、駅名の通り貯木場や木材関連企業が多数立地する。近年では、スポーツ施設や大手IT企業も存在している。2019年11月7日には、JR東日本ホテルメッツ東京ベイ新木場が開業した。
江東区木場に所在する東京メトロ東西線の木場駅は別地域で、4 kmほど離れており徒歩圏内ではない。
駅前ロータリーに東京都交通局(都営バス)の新木場駅前停留所があり、以下の路線が発着している。
周辺には、塩浜にジェイアールバス関東東京支店があり、当駅からお台場(りんかい線利用)、葛西臨海公園・東京ディズニーリゾート・幕張メッセ・千葉マリンスタジアム(いずれも京葉線利用)などへのアクセスが至便なため、2000年代に入ってからJRバス系の高速バス路線が東京駅発着の路線を延長するなどして当駅に乗り入れている。また2017年に新木場駅付近にWILLER EXPRESS東京営業所が設置され、同社の高速バスにも新木場駅発着便が設定されている。 各路線とも、当駅発は乗車のみ、当駅着は降車のみの取り扱いとなる。行先・経路は当該記事を参照。
上記の他、WILLER EXPRESS(長野発)が上り便のみ当駅に到着する。下り便は東京駅始発。
また、成田空港から浅草・錦糸町・豊洲エリアへの東京空港交通のリムジンバスが当駅にて2便のみ降車可能。
|
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"text": "新木場駅(しんきばえき)は、東京都江東区新木場一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。",
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"text": "以下の3社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "JR京葉線ホームが4階、コンコースが3階、東京メトロ有楽町線ホームと東京臨海高速鉄道りんかい線ホームが2階にある。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅の建設にあたり、地元の「東京新木場木材商工協同組合」などから木材の町のシンボル駅として、木材を使用した木造建築を強く要望されたが、建築基準法や消防法の規制による制約のため、木を化粧材のように利用する形態になった経緯がある。屋根は切妻風とし、柱や梁は浮き出させ、白壁造りの「純木造風建築物」をイメージした外観となっている。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅構内でも階段の笠木(かさぎ)や手すりに木材の集成材を使用しているほか、駅券売機の腰壁、有楽町線ホームへの階段周囲の腰壁、一部ホームの柱にはヒノキの間伐材を使用し、木の香りと木材特有の暖かさを感じさせるものとした。",
"title": "駅構造"
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"text": "地元「東京新木場木材商工協同組合」の協力により、木材をテーマにした3体の木製レリーフと木材に江戸文字で書かれた駅名看板が設置されている。この駅名看板は樹齢150年、長さ6 m、高さ90 cm、厚さ23 cmの茨城県産ケヤキ材を使用したものである。",
"title": "駅構造"
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"text": "3体のレリーフは「海とみやこどり(有楽町線改札付近・現存)」「さざ波と岩(現存せず)」「荒海(現存せず)」で、木場の街の駅であることを、利用者に強くアピールしている。「海とみやこどり(有楽町線改札付近・現存)」は、ヒバとケヤキを使用。有楽町線とJR京葉線が当駅で接続された姿を、ケヤキ丸太(群馬県産・樹齢350年)の結合で表現し、日本の木工技術の伝統的な継手を配したものである。おだやかな波間に、ユリカモメが舞っている様を表現している。「さざ波と岩(現存せず)」は、ナラの集成材を使用し、穏やかなさざ波を表現した。海岩・岩のイメージとして御影石を配置し、質感の対比により木材の暖かさを強調している。「荒海(現存せず)」は、ヒノキの間伐材を六面加工し、激しい波を表現。スギ板と無垢のスギ(秋田スギ・樹齢150年)の流木を、波間に見え隠れさせている。",
"title": "駅構造"
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"text": "1階部分に当たる高架下には飲食店が軒を連ねている。3社とも1か所のコンコースを共用(管理は東京メトロが担当)しており、改札もそれぞれが隣接している。",
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"text": "東京臨海高速鉄道りんかい線は、コミックマーケットをはじめとする年に数回開催される沿線でのイベントに対応するため、混雑時に備えて改札横に臨時出札窓口を数箇所設けている。",
"title": "駅構造"
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"text": "島式ホーム1面2線を有する高架駅。駅東側の荒川沿いに新木場車両基地があり、ここに通じる線路が引き上げ線として利用されている。なお、渡り線が引き上げ線側にあるため、ホームで直接和光市方面に折り返すことは不可能であり、新木場駅に到着した列車は全て回送電車として引き上げ線へ入線して折り返しを行う。",
"title": "駅構造"
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"text": "当駅は、「大手町駅務管区新木場地域」として近隣の駅を管理している。",
"title": "駅構造"
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"text": "辰巳駅寄りの有楽町線本線沿いの南側には「地下鉄新木場ビル」があり、有楽町線の乗務区、技術区、変電所、モーターカー車庫、信号機器室などが収容されている。新木場変電所部は2階建て、乗務区部は3階建て、技術区部は4階建て構造となっており、技術区部の3階は有楽町線本線と同レベルとなっており、モーターカー庫からの線路が本線と直角に交差している。現在は有楽町線の運転士が所属する新木場運転事務室(ほかに和光市駅・小竹向原駅にも乗務管区がある)、有楽町・副都心線工務区、有楽町・副都心線電機区、有楽町・副都心線信通区新木場分室が配置されている。",
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"text": "(出典:東京メトロ:構内図)",
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"text": "2番線のみ、2013年6月29日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。",
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"text": "曲は「明日はきっと」(塩塚博作曲)である。",
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"text": "島式ホーム1面2線を有する高架駅。改札階とホームを連絡する階段は当初は2か所あったが、朝のラッシュ時には不足気味で、改札を抜けるまでに時間がかかることもある。このため2020年東京オリンピックを控えて改良工事が行われ、改札内コンコースを東京寄りに拡張して階段とエレベーターを増設し、2019年12月26日に供用開始した。また、改良工事に併せて改札内への駅ナカ店舗の工事が行われ、2019年12月26日にNewDaysが先行開業し、ベックスコーヒーショップは2020年6月29日、いろり庵きらくは同年7月3日に開業。",
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"text": "千葉支社管轄の直営駅で、指定席券売機・自動券売機・自動改札機・自動精算機設置駅。管理駅として、潮見駅・葛西臨海公園駅を管理下においている。",
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"text": "京葉線の部分開業時には蘇我方にある両渡り線を使用して折り返していたが、当駅 - 東京駅間の開業後は使用停止扱いとされ、当駅での折り返しは不可能となった。しかし、2006年9月28日に発生した東京駅機器室の火災事故に伴い、連動装置を整備し、折り返し機能を復活させた。以後は異常時対応用として、常時使用可能な状態を維持している。",
"title": "駅構造"
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"text": "蘇我寄りにはりんかい線との連絡線がある。全線開業前は70-000形電車が検査などのために京葉電車区(現・京葉車両センター)や蘇我経由で大井工場(現・東京総合車両センター)へ自力回送していたり、団体臨時列車が運行されたこともあるが、定期列車が運行されたことは一度もない。これについてはりんかい線との関係も参照のこと。",
"title": "駅構造"
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"text": "有楽町線への乗り換え客も多く、それまで通過していた京葉線の通勤快速の停車を求める乗客の要望があったため、2004年(平成16年)10月16日のダイヤ改正より停車となっている。なお、特急列車が定期的に停車したことはないが、金曜夜の「さざなみ」と土曜・休日の「わかしお」を中心に期間を限定して当駅に臨時停車した実績がある。2009年(平成21年)には3月6日から6月26日(3月20日を除く)までの毎週金曜日および3月19日に「さざなみ21号」が臨時停車していた。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:祖田圭介(鉄道総合技術研究所)「武蔵野線・京葉線 建設の経緯と線路配線」『鉄道ピクトリアル』第52巻第8号(通巻720号)、電気車研究会、2002年8月1日、55頁、ISSN 0040-4047。 )",
"title": "駅構造"
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"text": "2007年3月24日からテイチク制作の発車メロディを使用している。",
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"text": "島式ホーム1面2線を有する高架駅。前記したように、JR京葉線との間に連絡線がある。",
"title": "駅構造"
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"text": "平日は朝夕に主に通勤・通学客で混雑し、休日は主に東京ディズニーリゾートや葛西臨海公園、お台場などへ向かう行楽客で賑わう。また、幕張メッセや東京ビッグサイトでのイベント開催時にも混雑することがあり、日によって乗降人員に変動がある。",
"title": "利用状況"
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"text": "各年度の1日平均乗降人員数は下表の通り。",
"title": "利用状況"
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"text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。",
"title": "利用状況"
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"text": "駅周辺には、駅名の通り貯木場や木材関連企業が多数立地する。近年では、スポーツ施設や大手IT企業も存在している。2019年11月7日には、JR東日本ホテルメッツ東京ベイ新木場が開業した。",
"title": "駅周辺"
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"text": "江東区木場に所在する東京メトロ東西線の木場駅は別地域で、4 kmほど離れており徒歩圏内ではない。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅前ロータリーに東京都交通局(都営バス)の新木場駅前停留所があり、以下の路線が発着している。",
"title": "バス路線"
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"text": "周辺には、塩浜にジェイアールバス関東東京支店があり、当駅からお台場(りんかい線利用)、葛西臨海公園・東京ディズニーリゾート・幕張メッセ・千葉マリンスタジアム(いずれも京葉線利用)などへのアクセスが至便なため、2000年代に入ってからJRバス系の高速バス路線が東京駅発着の路線を延長するなどして当駅に乗り入れている。また2017年に新木場駅付近にWILLER EXPRESS東京営業所が設置され、同社の高速バスにも新木場駅発着便が設定されている。 各路線とも、当駅発は乗車のみ、当駅着は降車のみの取り扱いとなる。行先・経路は当該記事を参照。",
"title": "バス路線"
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"text": "上記の他、WILLER EXPRESS(長野発)が上り便のみ当駅に到着する。下り便は東京駅始発。",
"title": "バス路線"
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"text": "また、成田空港から浅草・錦糸町・豊洲エリアへの東京空港交通のリムジンバスが当駅にて2便のみ降車可能。",
"title": "バス路線"
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新木場駅(しんきばえき)は、東京都江東区新木場一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。
|
{{出典の明記|date=2017年6月}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 新木場駅
|画像 = Shin-Kiba Station-1.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2018年9月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=16|frame-align=center|frame-width=300
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|coord={{coord|35|38|45.3|N|139|49|37|E}}|title=東京メトロ 新木場駅
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}}
|よみがな = しんきば
|ローマ字 = Shin-kiba
|副駅名 =
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[東京臨海高速鉄道]](TWR・[[#東京臨海高速鉄道|駅詳細]])}}
|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[新木場]]一丁目
|乗換 =
|備考 =}}
{{座標一覧}}
'''新木場駅'''(しんきばえき)は、[[東京都]][[江東区]][[新木場]]一丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京臨海高速鉄道]](TWR)の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
以下の3社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。
* 東京地下鉄(東京メトロ):[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] - 当駅が終点。[[小竹向原駅]]から[[西武鉄道]][[西武有楽町線]]・[[西武池袋線|池袋線]]、[[和光市駅]]から[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。駅番号は「'''Y 24'''」
* 東日本旅客鉄道(JR東日本):[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] [[京葉線]] - 京葉線の列車のほか、[[西船橋駅]]から[[武蔵野線]]に乗り入れる列車も停車する。また、[[JR]]の[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属するが、京葉線が[[東京駅]]に延伸されるまでは属していなかった。現時点においてこのような前歴を持つ駅は当駅と葛西臨海公園駅と[[おおさか東線]]の[[新加美駅]]の3駅のみである。[[駅ナンバリング|駅番号]]は「'''JE 05'''」
* 東京臨海高速鉄道(TWR):[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] - 当駅が起点となっている。また、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[埼京線]]・[[川越線]]と相互直通運転を行っている。駅番号は「'''R 01'''」
== 歴史 ==
* [[1988年]]([[昭和]]63年)
** [[6月8日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)有楽町線の新木場駅が開業<ref name="Yurakucho318-321">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.318 - 321。</ref><ref name="交通880608" group="新聞">{{Cite news |title=営団地下鉄有楽町線が全通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1988-06-08 |page=1 }}</ref>。
** [[12月1日]]:京葉線の新木場駅が開業し、[[乗換駅]]となる(開業当初は当駅が終点)<ref group="新聞" name="asahi1988121">{{Cite news|title=やっと都内へ京葉線開業 幻の「ディズニー駅」も|newspaper=[[朝日新聞]]|date=1988-12-01|author=|publisher=朝日新聞社|page=19(夕刊)}}</ref><ref group="新聞" name="asahi1988123">{{Cite news|title=新木場へ乗客三万一千余人 延長開業初日の京葉線|newspaper=朝日新聞|date=1988-12-03|author=|publisher=朝日新聞社|page=27(朝刊)}}</ref>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月10日]]:京葉線が東京まで延伸開業、途中駅となる<ref group="新聞" name="asahi1990310">{{Cite news|title=会社は近く、乗り換え遠く 京葉線|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1990-03-10|page=18 夕刊}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)[[12月1日]]:京葉線の快速が土休日に停車を開始<ref name="RJ720_66">{{Cite journal|和書|author=末次清|title=京葉線車両ダイジェスト|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2002-08-01|volume=52|issue=第8号(通巻720号)|page=66|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[3月30日]]:東京臨海高速鉄道臨海副都心線(後のりんかい線)の新木場駅が開業(開業当初は新木場 - [[東京テレポート駅|東京テレポート]]間)<ref group="新聞" name="交通960402">{{cite news|title=臨海副都心線が開業 |newspaper=交通新聞 |date=1996-04-02 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:東京臨海高速鉄道りんかい線の[[天王洲アイル駅|天王洲アイル]] - [[大崎駅|大崎]]間の延伸開業・全線開通に伴い、JR埼京線とりんかい線の相互直通運転を開始<ref group="報道" name="2002-12-01"/>。りんかい線でも「Suica」の利用が可能となる<ref group="報道" name="2002-12-01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171105133949/http://www.jreast.co.jp/press/2002_2/20021004.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaがもっと便利に! 東京臨海高速鉄道(株)との相互利用開始!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-10-08|accessdate=2020-02-04|archivedate=2017-11-05}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** [[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、有楽町線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
** [[10月16日]]:JR東日本のダイヤ改正に伴い、京葉線の通勤快速が停車を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrchiba.jp/press/press160723_3_5.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041205123148/http://www.jrchiba.jp/press/press160723_3_5.html#01|language=日本語|title=2004年10月ダイヤ改正について > 通勤快速が新木場駅に停車します。|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2004-07-23|accessdate=2020-06-12|archivedate=2004-12-05}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
** [[3月24日]]:京葉線ホームに[[発車メロディ]]を導入。
* [[2008年]](平成20年)[[5月3日]]:地下鉄有楽町線の当駅から[[小田急小田原線]][[本厚木駅]]までの臨時[[小田急ロマンスカー|特急列車]]「[[はこね (列車)#ベイリゾート|ベイリゾート]]」号の運転を開始<ref name="RP976_145">{{Cite journal|和書|author=杉田弘志|title=小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=145|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[9月24日]]:この日をもって「ベイリゾート」号の運転を休止<ref group="報道" name="odakyu20111216">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200629140745/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2012年3月17日(土)ダイヤ改正を実施します。「メトロはこね」を毎日運転、朝方と夕夜間のロマンスカーを増発|publisher=小田急電鉄|page=2|date=2011-12-16|accessdate=2021-07-25|archivedate=2020-06-29}}</ref><ref name="RP926_232">{{Cite journal|和書|author=岸上明彦|title=東京地下鉄 現有車両プロフィール2016|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=232|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[6月29日]]:有楽町線ホームで[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130321_hs1012.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191202134354/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130321_hs1012.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有楽町線新富町、月島、新木場駅に設置! 全179駅中81駅がホームドア付きとなり、さらにホームの安全性が向上|publisher=東京地下鉄|date=2013-03-25|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-12-02}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[9月25日]]:京葉線ホームに[[東京圏輸送管理システム]](ATOS)を導入。[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]]の使用を開始<ref>[http://response.jp/article/2016/09/28/282595.html JR京葉線のホームに新たな列車接近音 9月25日から使用開始] - レスポンス、2016年9月28日、同年9月29日閲覧。</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[7月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=859|title=駅の情報(新木場駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-07-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220701084006/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=859|archivedate=2022-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kokurou-chiba.com/wp-content/uploads/2022/04/8912a9dbe6c50b69b12b2cf4b8d42264.pdf|title=現業機関における柔軟な働き方の実現について 窓口閉鎖・営業統括センター化提案!!|format=PDF|publisher=国鉄労働組合千葉地方本部|date=2022-04-27|accessdate=2022-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220427125849/https://kokurou-chiba.com/wp-content/uploads/2022/04/8912a9dbe6c50b69b12b2cf4b8d42264.pdf|archivedate=2022-04-27}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[画像:新木場風景2016-1.jpg|thumb|新木場駅外壁につけられた駅名看板(2016年撮影)]]
JR京葉線[[プラットホーム|ホーム]]が4階、[[コンコース]]が3階、東京メトロ有楽町線ホームと東京臨海高速鉄道りんかい線ホームが2階にある。
駅の建設にあたり、地元の「東京新木場木材商工協同組合」などから[[木材]]の町のシンボル駅として、木材を使用した[[木構造 (建築)|木造建築]]を強く要望されたが、[[建築基準法]]や[[消防法]]の規制による制約のため、木を化粧材のように利用する形態になった経緯がある{{sfn|JREA|1988|p=28}}<ref name="Yurakucho792">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.792 - 794。</ref>。屋根は[[切妻屋根|切妻]]風とし、[[柱]]や[[梁 (建築)|梁]]は浮き出させ、[[漆喰|白壁造り]]の「純木造風建築物」をイメージした外観となっている{{sfn|JREA|1988|p=29}}<ref name="Yurakucho792"/>。
駅構内でも階段の笠木(かさぎ)や手すりに木材の[[集成材]]を使用しているほか、駅券売機の腰壁、有楽町線ホームへの階段周囲の腰壁、一部ホームの柱には[[ヒノキ]]の[[間伐材]]を使用し、木の香りと木材特有の暖かさを感じさせるものとした{{sfn|JREA|1988|p=29}}<ref name="Yurakucho792"/>。
地元「東京新木場木材商工協同組合」の協力により、木材をテーマにした3体の木製[[レリーフ]]と木材に[[江戸文字]]で書かれた駅名看板が設置されている<ref name="Yurakucho792"/><ref name="asahi19880318" group="新聞">{{Cite news|title=6月開業の地下鉄「新木場駅」 大ケヤキで駅名表示板 木材の街イメージアップ|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=朝日新聞社|date=1988-03-18|page=26 東京朝刊}}</ref>。この駅名看板は樹齢150年、長さ6 [[メートル|m]]、高さ90 [[センチメートル|cm]]、厚さ23 cmの[[茨城県]]産[[ケヤキ]]材を使用したものである{{sfn|JREA|1988|p=29}}<ref name="asahi19880318" group="新聞" />。
3体のレリーフは「海とみやこどり(有楽町線改札付近・現存)」「さざ波と岩(現存せず)」「荒海(現存せず)」で、木場の街の駅であることを、利用者に強くアピールしている{{sfn|JREA|1988|pp=29–30}}。「海とみやこどり(有楽町線改札付近・現存)」は、[[ヒバ]]とケヤキを使用{{sfn|JREA|1988|pp=29–30}}。有楽町線とJR京葉線が当駅で接続された姿を、ケヤキ丸太([[群馬県]]産・樹齢350年)の結合で表現し、日本の木工技術の伝統的な継手を配したものである{{sfn|JREA|1988|pp=29–30}}。おだやかな波間に、[[ユリカモメ]]が舞っている様を表現している{{sfn|JREA|1988|p=30}}。「さざ波と岩(現存せず)」は、[[ナラ]]の集成材を使用し、穏やかなさざ波を表現した{{sfn|JREA|1988|p=30}}。海岩・岩のイメージとして[[花崗岩|御影石]]を配置し、質感の対比により木材の暖かさを強調している{{sfn|JREA|1988|p=30}}。「荒海(現存せず)」は、[[ヒノキ]]の間伐材を六面加工し、激しい波を表現{{sfn|JREA|1988|p=30}}。[[スギ]]板と無垢のスギ([[天然秋田杉|秋田スギ]]・樹齢150年)の流木を、波間に見え隠れさせている{{sfn|JREA|1988|p=30}}。
1階部分に当たる高架下には[[飲食店]]が軒を連ねている。3社とも1か所のコンコースを共用(管理は東京メトロが担当)しており、[[改札]]もそれぞれが隣接している。
東京臨海高速鉄道りんかい線は、[[コミックマーケット]]をはじめとする年に数回開催される沿線でのイベントに対応するため、混雑時に備えて改札横に臨時出札窓口を数箇所設けている。
=== 東京メトロ ===
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|文字色 =
|駅名 = 東京メトロ 新木場駅
|画像 =
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = しんきば
|ローマ字 = Shin-kiba
|前の駅 = Y 23 [[辰巳駅|辰巳]]
|駅間A = 1.5
|
|
|駅番号 = {{駅番号r|Y|24|#c1a470|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>
|キロ程 = 28.3
|起点駅 = [[和光市駅|和光市]]
|電報略号 = シハ
|所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)
|所属路線 = {{color|#c1a470|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]
|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[新木場]]一丁目6
|座標 = {{coord|35|38|45.3|N|139|49|37|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ 新木場駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1988年]]([[昭和]]63年)[[6月8日]]{{R|group="新聞"|交通880608}}
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />83,516
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]。駅東側の[[荒川 (関東)|荒川]]沿いに[[新木場車両基地]]があり、ここに通じる線路が[[引き上げ線]]として利用されている。なお、[[分岐器#形状による分類|渡り線]]が引き上げ線側にあるため、ホームで直接和光市方面に折り返すことは不可能であり、新木場駅に到着した列車は全て回送電車として引き上げ線へ入線して折り返しを行う<ref>{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末付録|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
当駅は、「[[大手町駅 (東京都)|大手町]]駅務管区新木場地域」として近隣の駅を管理している<ref name="RP926_17">{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=17|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
辰巳駅寄りの有楽町線本線沿いの南側には「地下鉄新木場ビル」があり、有楽町線の乗務区、技術区、[[変電所]]、[[モーターカー]]車庫、信号機器室などが収容されている<ref name="Yurakucho807">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.798・807 - 808。</ref>。新木場変電所部は2階建て、乗務区部は3階建て、技術区部は4階建て構造となっており、技術区部の3階は有楽町線本線と同レベルとなっており、モーターカー庫からの線路が本線と直角に交差している<ref name="Yurakucho807"/>。現在は有楽町線の[[運転士]]が所属する新木場運転事務室(ほかに[[和光市駅]]・[[小竹向原駅]]にも乗務管区がある)、有楽町・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]工務区、有楽町・副都心線電機区、有楽町・副都心線信通区新木場分室が配置されている<ref>東京地下鉄「東京メトロハンドブック2023」記事。</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線
|降車ホーム
|-
!2
|[[和光市駅|和光市]]・[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園]]・[[飯能駅|飯能]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/shin-kiba/timetable/yurakucho/b/index.html |title=新木場駅時刻表 和光市・森林公園・飯能方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/shin-kiba/index.html 東京メトロ:構内図])
<gallery>
Tokyo-metro shin-kiba-station concourse.jpg|東京メトロ線改札口(2008年2月)
Tokyo-Metro-Shikiba-STA Platform 20210606 144036.jpg|ホーム(2021年6月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
2番線のみ、2013年6月29日から[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。
曲は「明日はきっと」([[塩塚博]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=個人でのソーシャルメディアでの音源使用について|url=http://www.switching.co.jp/news/401|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-10-03|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。
{{-}}
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 新木場駅
|画像 =
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = しんきば
|ローマ字 = Shin-Kiba
|副駅名 =
|所属路線 = {{color|#c9252f|■}}[[京葉線]]<br />({{color|#f15a22|■}}[[武蔵野線]]直通含む)
|隣の駅 =
|前の駅 = JE 04 [[潮見駅|潮見]]
|駅間A = 2.0
|駅間B = 3.2
|次の駅 = [[葛西臨海公園駅|葛西臨海公園]] JE 06
|キロ程 = 7.4
|起点駅 = [[東京駅|東京]]
|電報略号 = シハ
|駅番号 = {{駅番号r|JE|05|#c9242f|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[新木場]]一丁目5
|座標 = {{coord|35|38|46|N|139|49|38.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 新木場駅(4階)}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1988年]]([[昭和]]63年)[[12月1日]]<ref group="新聞" name="asahi1988121"/><ref group="新聞" name="asahi1988123"/>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />60,442
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
}}
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]。改札階とホームを連絡する階段は当初は2か所あったが、朝の[[ラッシュ時]]には不足気味で、改札を抜けるまでに時間がかかることもある。このため[[2020年東京オリンピック]]を控えて改良工事が行われ<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20170606.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200326185511/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20170606.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京2020大会に向けた駅改良の工事計画について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-06-06|accessdate=2020-05-27|archivedate=2020-03-26|page=2}}</ref>、改札内コンコースを東京寄りに拡張して階段とエレベーターを増設し、2019年12月26日に供用開始した{{Refnest|group="注釈"|先行して、駅構内のトイレの拡張は、2019年11月19日より供用開始されている<ref group="報道" name="pre1912_renewal" />。}}<ref group="報道" name="pre1912_renewal">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_renewal.pdf|title=千葉支社管内の駅が使いやすくなります! ~駅設備のリニューアルについて~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2019-12-20|accessdate=2020-04-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200406140515/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1912_renewal.pdf|archivedate=2020-04-06}}</ref>。また、改良工事に併せて改札内への駅ナカ店舗の工事が行われ、2019年12月26日に[[NewDays]]が先行開業し、ベックスコーヒーショップは2020年6月29日、いろり庵きらくは同年7月3日に開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2006_shinkiba.pdf|title=京葉線新木場駅が新しく生まれ変わり、エキナカ商業空間が全面開業します!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612060423/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2006_shinkiba.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。
[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]管轄の[[直営駅]]で、[[指定席券売機]]・[[自動券売機]]・[[自動改札機]]・[[自動精算機]]設置駅。[[管理駅]]として、[[潮見駅]]・[[葛西臨海公園駅]]を管理下においている。
京葉線の部分開業時には蘇我方にある両渡り線を使用して折り返していたが、当駅 - 東京駅間の開業後は使用停止扱いとされ、当駅での折り返しは不可能となった。しかし、2006年9月28日に発生した東京駅機器室の火災事故に伴い、連動装置を整備し、折り返し機能を復活させた。以後は異常時対応用として、常時使用可能な状態を維持している。
蘇我寄りにはりんかい線との[[連絡線]]がある。全線開業前は[[東京臨海高速鉄道70-000形電車|70-000形電車]]が[[日本の鉄道車両検査|検査]]などのために京葉電車区(現・[[京葉車両センター]])や蘇我経由で大井工場(現・[[東京総合車両センター]])へ自力[[回送]]していたり、[[団体専用列車|団体]][[臨時列車]]が運行されたこともあるが、定期列車が運行されたことは一度もない。これについては[[京葉線#りんかい線との関係|りんかい線との関係]]も参照のこと。
有楽町線への乗り換え客も多く、それまで通過していた京葉線の[[京葉線#通勤快速|通勤快速]]の停車を求める乗客の要望があったため、2004年(平成16年)10月16日の[[2001年以降のJRダイヤ改正#10月16日|ダイヤ改正]]より停車となっている。なお、[[特別急行列車|特急列車]]が定期的に停車したことはないが、金曜夜の「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」と土曜・休日の「[[わかしお (列車)|わかしお]]」を中心に期間を限定して当駅に[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|臨時停車]]した実績がある。2009年(平成21年)には3月6日から6月26日(3月20日を除く)までの毎週金曜日および3月19日に「さざなみ21号」が臨時停車していた。
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!rowspan=2|1
|[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
|style="text-align:center"|下り
|[[新浦安駅|新浦安]]・[[蘇我駅|蘇我]]方面
|-
|[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線
|style="text-align:center"| -
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[新松戸駅|新松戸]]方面
|-
!2
|[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
|style="text-align:center"|上り
|[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/859.html JR東日本:駅構内図])
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JRE Shinkiba-STA Gate.jpg|JR線改札口(2021年12月)
JRE Shin-Kiba-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年4月)
</gallery>
{|class="wikitable"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!東京方面着発!!大崎方面着発!!西船橋・蘇我方面着発!!備考
|-
|style="text-align:center"|1||style="text-align:center"|1||style="text-align:right"|10両分||到着可||不可||到着・出発可||下り主本線
|-
|style="text-align:center"|東臨1||style="text-align:center"|(東臨)2||style="text-align:right"|10両分||不可||到着・出発可||出発可||
|-
|style="text-align:center"|東臨2||style="text-align:center"|(東臨)1||style="text-align:right"|10両分||不可||到着・出発可||到着可||
|-
|style="text-align:center"|2||style="text-align:center"|2||style="text-align:right"|10両分||出発可||不可||到着・出発可||上り主本線
|}
* 主本線を発着する場合は通過が可能。ただし[[大崎駅|大崎]]方面は不可。
(出典:{{Cite journal|和書|author=祖田圭介(鉄道総合技術研究所)|title=武蔵野線・京葉線 建設の経緯と線路配線|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2002-08-01|volume=52|issue=第8号(通巻720号)|page=55|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}})
==== 発車メロディ ====
2007年3月24日から[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]制作の発車メロディを使用している。
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
!1
|[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]]
|海岸通り
|-
!2
|[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]]
|シンコペーション
|}
=== 東京臨海高速鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = #00418e
|文字色 =
|駅名 = りんかい線 新木場駅
|画像 =
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = しんきば
|ローマ字 = Shin-kiba
|副駅名 =
|前の駅 =
|駅間A =
|駅間B = 2.2
|次の駅 = [[東雲駅 (東京都)|東雲]] R 02
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 新木場
|電報略号 = シハ
|駅番号 = {{駅番号r|R|01|#00418e|6|#ADD8E6}}
|所属事業者 = [[東京臨海高速鉄道]]
|所属路線 = {{color|#00418e|●}}[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]
|所在地 = [[東京都]][[江東区]][[新木場]]一丁目6
|座標 = {{coord|35|38|46.2|N|139|49|38|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京臨海高速鉄道 新木場駅(2階)}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月30日]]{{R|交通960402|group="新聞"}}
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 21,121
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考 =
}}
島式ホーム1面2線を有する高架駅。前記したように、JR京葉線との間に連絡線がある。
==== のりば ====
<!--番線欄のカラーは発車標などでの上り下りの色分け-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!colspan="2"|行先<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/107/Default.aspx?TabModule1376=0 |title=新木場駅 時刻表 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2023-06-06}}</ref>
|-
! 1・2
|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
|style="background:#00b48d"|
|[[大崎駅|大崎]]・[[File:JR JA line_symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]([[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]])方面
|}
<gallery>
Rinkai Shinkiba-STA Gate.jpg|りんかい線改札口(2021年12月)
Rinkai-Shikiba-STA Platform 20210711 171451.jpg|ホーム(2021年7月)
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
[[平日]]は朝夕に主に通勤・通学客で混雑し、[[休日]]は主に[[東京ディズニーリゾート]]や[[葛西臨海公園]]、[[お台場]]などへ向かう行楽客で賑わう。また、[[幕張メッセ]]や[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]での[[イベント]]開催時にも混雑することがあり、日によって乗降人員に変動がある。
* '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''83,516人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。
*: 東京メトロ全130駅の中では[[浅草駅]]に次いで第37位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。近年は利用客が増加し、2017年度に乗降客数が10万人を超えた。
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''60,442人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
*: JR東日本全体では[[飯田橋駅]]に次いで第63位。また、京葉線内の中間駅の中では1番利用客数が多い。
* '''東京臨海高速鉄道''' - 2021年度の1日平均'''乗車'''人員は'''21,121人'''である<ref group="利用客数">[https://www.twr.co.jp/contact/tabid/224/Default.aspx よくあるご質問|お問い合わせ|お台場電車 りんかい線] (ページ上段) - りんかい線</ref>。
*: りんかい線内8駅中3位。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員数は下表の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="*" name="koto">[http://www.city.koto.lg.jp/kuse/tokeshiryo/databook/index.html 江東区データブック] - 江東区</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|営団 / 東京メトロ
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|<ref name="RJ759_31" />79,884
|
|-
|2003年(平成15年)
|<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>77,448
|−3.0%
|-
|2004年(平成16年)
|79,139
|2.2%
|-
|2005年(平成17年)
|81,599
|3.1%
|-
|2006年(平成18年)
|85,509
|4.8%
|-
|2007年(平成19年)
|92,483
|8.2%
|-
|2008年(平成20年)
|95,926
|3.7%
|-
|2009年(平成21年)
|95,799
|−0.1%
|-
|2010年(平成22年)
|95,920
|0.1%
|-
|2011年(平成23年)
|93,783
|−2.2%
|-
|2012年(平成24年)
|96,852
|3.3%
|-
|2013年(平成25年)
|101,043
|4.3%
|-
|2014年(平成26年)
|102,290
|1.2%
|-
|2015年(平成27年)
|104,996
|2.6%
|-
|2016年(平成28年)
|107,955
|2.8%
|-
|2017年(平成29年)
|109,841
|1.7%
|-
|2018年(平成30年)
|111,872
|1.8%
|-
|2019年(令和元年)
|110,126
|−1.6%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>66,101
|−40.0%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>71,568
|8.3%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>83,516
|16.7%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1988年 - 2000年) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!JR東日本
!営団
!東京臨海<br />高速鉄道
!出典
|-
|1988年(昭和63年)
|<ref group="備考">1988年12月1日開業。開業日から1989年3月31日までの計121日間を集計したデータ。</ref>71,983
|<ref group="備考">1988年6月8日開業。開業日から1989年3月31日までの計297日間を集計したデータ。</ref>12,862
|rowspan=7 style="text-align:center"|未開業
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|36,685
|42,912
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|27,162
|26,929
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|26,260
|25,609
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|27,879
|27,077
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|29,841
|29,000
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|31,518
|31,328
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|32,642
|32,213
|<ref group="備考">1996年3月30日開業。</ref>
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|35,896
|34,213
|7,436
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|37,134
|35,679
|9,784
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|37,564
|36,184
|10,189
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|38,962
|36,563
|12,150
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>41,550
|38,433
|14,121
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="koto" />
!年度
!JR東日本
!営団 /<br />東京メトロ
!東京臨海<br />高速鉄道
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>45,739
|40,795
|16,260
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>48,342
|40,299
|18,156
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>52,625
|38,803
|21,423
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>53,518
|39,381
|21,699
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>55,653
|41,000
|23,132
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>58,886
|42,622
|23,414
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>62,674
|46,270
|25,030
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>65,432
|48,115
|26,411
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>65,813
|48,384
|26,630
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>65,780
|48,482
|26,437
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>64,487
|47,320
|25,887
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>67,590
|48,426
|29,026
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>70,831
|51,216
|30,312
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>71,713
|51,668
|30,896
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>74,150
|52,948
|31,651
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>75,748
|54,373
|32,062
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>77,874
|55,318
|33,268
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>79,161
|56,348
|34,148
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>78,928
|55,489
|33,807
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>48,664
|
|19,624
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>51,956
|
|21,121
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>60,442
|
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|新木場|夢の島}}
駅周辺には、駅名の通り[[木場|貯木場]]や[[木材]]関連企業が多数立地する。近年では、スポーツ施設や大手IT企業も存在している。2019年11月7日には、[[JR東日本ホテルメッツ]]東京ベイ新木場が開業した<ref group="報道" name="nihonhotel/190724release">{{Cite press release|和書|url=https://www.nihonhotel.com/sys/docs/8EKx/190724release.pdf|title=人と木が織りなす、おもてなし。「JR東日本ホテルメッツ 東京ベイ新木場」2019年11月7日(木)開業 ~2019年7月30日(火)予約受付開始~|format=PDF|publisher=日本ホテル|date=2019-07-26|accessdate=2020-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200712090555/https://www.nihonhotel.com/sys/docs/8EKx/190724release.pdf|archivedate=2020-07-12}}</ref>。
江東区[[木場]]に所在する[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ東西線|東西線]]の[[木場駅]]は別地域で、4 kmほど離れており徒歩圏内ではない。
{{columns-list|2|
* [[警視庁]]術科センター
* [[木材・合板博物館]]
* [[東京湾]]
* [[夢の島公園]]
** [[江東区夢の島陸上競技場]]
** [[東京都立第五福竜丸展示館]]
** [[夢の島熱帯植物館]]
** [[東京スポーツ文化館]]
* [[夢の島緑道公園]]
* [[新木場緑道公園]]
* 新木場センタービル
** 新木場センタービル内郵便局
* [[JR東日本ホテルメッツ]]東京ベイ新木場<ref name="nihonhotel/190724release" group="報道" /> - 事前予約をすることで、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=シェアオフィス事業の拡大で働き方改革を加速します ~「STATION WORK」の1,000カ所展開を目指すとともに、ワーケーションの推進を行います~|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-09-03|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|accessdate=2020-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200905155129/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|archivedate=2020-09-05}}</ref>。
* [[東京辰巳国際水泳場]] (※2023年3月31日より約2年半程度休館、改修工事後はアイススケートに転用。代替として当施設の近くに[[東京アクアティクスセンター]]が4月1日より営業を再開している。)
* [[夢の島マリーナ]]
* [[NECソリューションイノベータ]]本社
* [[新木場1stRING]](格闘技会場)
* 東京メトロ[[新木場車両基地]]
** [[和光検車区]]新木場分室
** 新木場CR
** 総合研修訓練センター
* [[WILLER EXPRESS]]東京営業所・新木場BASE
* [[国道357号|湾岸道路]]
* [[明治通り (東京都)|明治通り]]
* [[首都高速湾岸線]]([[新木場出入口]])
* [[東京ヘリポート]]
|}}
== バス路線 ==
=== 路線バス ===
東京都交通局([[都営バス]])の'''新木場駅前'''停留所があり、以下の路線が発着している。このうち「錦18」の錦糸町駅前行は、ロータリー内と明治通り上の2つののりばに連続停車する。
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="4" style="text-align:center;"|都営バス
|[[都営バス深川営業所#木11甲系統|'''木11甲''']]:[[若洲公園|若洲キャンプ場前]]
|
|-
!2
|'''木11甲''':新木場循環
|
|-
!3
|{{Unbulleted list|[[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|'''急行05''']]・[[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|'''直行03''']]:[[日本科学未来館]]|[[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|'''錦18''']]:[[錦糸町駅|錦糸町駅前]] / [[国際展示場駅|国際展示場駅前]]}}
|rowspan="2"|{{Unbulleted list|「急行05」「直行03」は土休日のみ運行|「錦18」は平日のみ運行}}
|-
!4{{Refnest|group="注釈"|明治通りに設置。}}
|{{Unbulleted list|'''木11甲''':[[東陽町駅|東陽町駅前]]・[[木場駅|木場駅前]]|'''急行05'''・'''錦18''':錦糸町駅前}}
|
|}
=== 高速バス ===
周辺には、[[塩浜 (江東区)|塩浜]]に[[ジェイアールバス関東東京支店]]があり、当駅からお台場(りんかい線利用)、葛西臨海公園・東京ディズニーリゾート・幕張メッセ・[[千葉マリンスタジアム]](いずれも京葉線利用)などへのアクセスが至便なため、[[2000年代]]に入ってからJRバス系の高速バス路線が東京駅発着の路線を延長するなどして当駅に乗り入れている。また2017年に新木場駅付近にWILLER EXPRESS東京営業所が設置され、同社の高速バスにも新木場駅発着便が設定されている。
各路線とも、当駅発は乗車のみ、当駅着は降車のみの取り扱いとなる。行先・経路は当該記事を参照。
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!愛称・行先!!備考
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[ジェイアールバス関東]]|[[ジェイアール東海バス]]}}
|[[知多シーガル号|'''ドリーム知多号''']]:[[新安城駅]]・[[知立駅]]北・[[刈谷駅]]・[[太田川駅]]・[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]・[[八田駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|ジェイアール東海バス
|{{Unbulleted list|'''[[ドリームなごや号]]''':[[東岡崎駅]]南口・[[岡崎駅]]・[[三河安城駅]]・[[名古屋駅]] / [[徳重駅 (名古屋市)|地下鉄徳重]]・金山駅・名古屋駅|'''[[ドリーム静岡・浜松号]]''':[[静岡駅]]・[[浜松駅]]}}
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|ジェイアールバス関東|[[西日本ジェイアールバス]]}}
|[[ドリーム号 (東京 - 京阪神)|'''青春エコドリーム号'''・'''グランドリーム号''']]:[[京都駅]]・[[大阪駅]]・[[三宮バスターミナル]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[南海ウイングバス]]
|[[ドリーム和歌山号|'''サザンクロス和歌山号''']]:高速京田辺・南海なんば高速バスターミナル・[[和泉中央駅]]・[[和歌山駅]]・[[和歌山市駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[平成エンタープライズ]]
|'''VIPライナー''':梅田・難波・天王寺・[[堺東駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[WILLER EXPRESS]]
|'''WILLER EXPRESS''':京都・梅田・天王寺・USJ / 名古屋・金城ふ頭 / [[福島駅 (福島県)|福島駅]]・[[仙台駅]] / [[長岡駅]]・[[新潟駅]]・新潟古町
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|WILLER EXPRESS|[[東海バス]]|[[伊豆箱根バス]]}}
|'''三島羽田シャトル''':[[三島駅]]北口・三島駅南口・三島大場(伊豆箱根バス三島営業所)
|昼行便
|}
上記の他、WILLER EXPRESS(長野発)が上り便のみ当駅に到着する。下り便は東京駅始発。
また、[[成田国際空港|成田空港]]から浅草・錦糸町・豊洲エリアへの[[東京空港交通]]の[[リムジンバス]]が当駅にて2便のみ降車可能。
== 付記 ==
* 開業前、営団地下鉄有楽町線の計画(当時終点は[[新富町駅]])では「湾岸駅」、京葉線の計画(当時終点は西船橋駅)では「新砂町駅」と仮称されていた。後者の名前の由来は当駅の北側にある「[[新砂]]」という地名である。
* 初期の計画時点では京葉線は[[東京外環状線]]の一部となる貨物線として、新木場から台場経由で[[東京貨物ターミナル駅]]まで延伸する予定があったため、新木場-東京間の計画はなかった。新木場-東京貨物ターミナル間もトンネルは完成していたが、京葉線が東京駅を目指すことになった後にりんかい線として開業し、東京テレポート-[[東臨運輸区]]間は回送線として利用された。蘇我寄りにある連絡線は、両線が一体の計画であった名残りでもある。
* 当駅およびその周辺の所轄警察署は従来[[城東警察署 (東京都)|城東警察署]]であったが、[[2008年]]度から[[東京湾岸警察署]]に変更となった。
== 隣の駅 ==
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線
::: [[辰巳駅]] (Y 23) - '''新木場駅 (Y 24)'''
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速
::: [[八丁堀駅]] (JE 02) - '''新木場駅 (JE 05)''' - [[蘇我駅]]
:: {{Color|#339966|■}}快速
::: 八丁堀駅 (JE 02) - '''新木場駅 (JE 05)''' - [[舞浜駅]] (JE 07)
:: {{Color|#0099ff|■}}各駅停車(武蔵野線直通含む)
::: [[潮見駅]] (JE 04) - '''新木場駅 (JE 05)''' - [[葛西臨海公園駅]] (JE 06)
; 東京臨海高速鉄道(TWR)
: [[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のフルカラー方向幕の色に準拠 -->
::: '''新木場駅 (R 01)''' - [[東雲駅 (東京都)|東雲駅]] (R 02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
===== 新聞記事 =====
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=== 利用状況 ===
; JR・私鉄・地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
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; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; JR・私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}}
* {{Cite journal |和書|author=堀池均(帝都高速度交通営団工務部)|title=営団地下鉄有楽町線新木場駅の建築について|url=|journal=JREA|format=PDF||volume=31|issue=9|publisher=[[日本鉄道技術協会]]|date=1988-09-01|pages=27 - 30|naid=|ref={{sfnref|JREA|1988}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyometro.jp/station/shin-kiba/index.html 新木場駅/Y24 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=859|name=新木場}}
* [http://www.twr.co.jp/route/tabid/106/Default.aspx 東京臨海高速鉄道 新木場駅]
* [https://web.archive.org/web/20210117061449/http://www.koken-archi.co.jp/works/station/w004627/ 東京メトロ 有楽町線 新木場駅](交建設計・インターネットアーカイブ・2021年時点の版
{{東京メトロ有楽町線}}
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[[Category:江東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|んきは]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
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テイラー展開
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数学においてテイラー級数(テイラーきゅうすう、英: Taylor series)は、関数のある一点での導関数の値から計算される項の無限和として関数を表したものである。そのような級数を得ることをテイラー展開(テイラーてんかい)という。
テイラー級数の概念はスコットランドの数学者ジェームズ・グレゴリーにより定式化され、フォーマルにはイギリスの数学者ブルック・テイラーによって1715年に導入された。0 を中心としたテイラー級数は、マクローリン級数 (英: Maclaurin series) とも呼ばれる。これはスコットランドの数学者コリン・マクローリンにちなんでおり、彼は18世紀にテイラー級数のこの特別な場合を積極的に活用した。
関数はそのテイラー級数の有限個の項を用いて近似することができる。テイラーの定理はそのような近似による誤差の定量的な評価を与える。テイラー級数の最初のいくつかの項として得られる多項式はテイラー多項式と呼ばれる。関数のテイラー級数は、その関数のテイラー多項式で次数を増やした極限が存在すればその極限である。関数はそのテイラー級数がすべての点で収束するときでさえもテイラー級数に等しいとは限らない。開区間(あるいは複素平面の開円板)でテイラー級数に等しい関数はその区間上の解析関数と呼ばれる。
前述の通り、一定の条件の下でテイラー展開の高次の項を無視することができる。例えば単振り子の問題では、振り子の振れ角 x が充分小さいことを利用して、正弦関数 sin x を x で近似できる。このように、関数をテイラー展開することで計算が容易になり、また原点近傍の振る舞いを詳細に調べることができるようになる。
正弦関数 f ( x ) = sin x {\displaystyle f(x)=\sin x} の x = a {\displaystyle x=a} におけるテイラー級数のうち次数の少ない項のみを抽出したもの
∑ k = 0 n f ( k ) ( a ) k ! ( x − a ) k {\displaystyle \sum _{k=0}^{n}{\frac {f^{(k)}(a)}{k!}}(x-a)^{k}}
(マウスホイールで n {\displaystyle n} を変更)
点 a を含む実数の開区間 I ⊆ R 上で無限階微分可能な関数 f ∈ C(I) が与えられたとき、べき級数
を関数 f の点 a まわりのテイラー級数という。ここで n! は n の階乗、f (a) は x = a における f の n 次微分係数である。また、便宜的に (x − a) は 1 であると定義する。テイラー級数が収束し、元の関数 f に一致するとき、f はテイラー展開可能であるという。テイラー展開がある大域的な領域の各点で可能な関数は、その領域において解析的 (analytic) である、またはその領域上の解析関数 (analytic function) であるという。
ここで一般には関数 f が無限回微分可能であってもそのテイラー級数が x ≠ a で収束するとは限らず、たとえ収束しても一致するとは限らないことに注意が必要である。一致するかどうかは、テイラーの定理における剰余項 Rn が 0 に収束するかどうかによって判定できる;ここで剰余項 Rn は、ある c ∈ (a, x) が存在して、
と書ける。または積分を用いて、次のように表せる。
また、この剰余項を評価することで関数の近似値を精度保証つきで数値的に求めることもできる(テイラーの定理#例を参照)。
特に a = 0 における以下のような展開
をマクローリン展開(マクローリンてんかい、英: Maclaurin expansion; 名称は数学者コリン・マクローリンに由来する)と呼ぶ。
いくつかの重要な関数のテイラー展開を以下に示す。これらはすべて複素解析的な関数であり、複素変数であると考えても成り立つ。xについてのforの範囲外の実数をxに代入したら発散する(ただし、元の関数が収束することもある)。
なお、tan(x), csc(x), cot(x), tanh(x) の展開に現われる Bk 、二項展開の ( α n ) {\displaystyle \textstyle {\binom {\alpha }{n}}} 、sec(x) の展開に現われる Ek はそれぞれベルヌーイ数、二項係数、オイラー数である。また、f (x) は f (x) の逆関数であるとする。
点 a を含む開集合 D ⊆ C 上で微分可能、すなわち正則な複素関数 f が与えられたとき、べき級数
を関数 f の点 a まわりのテイラー級数という。正則関数の解析性から、点 a を中心として D に包含されるような任意の開円板 B(a,r) = { z ∈ C | |z − a| < r } ⊆ D 上でこの級数は f (a) に収束する。
剰余項 Rn は複素線積分を用いて、次のように表せる:
ここで C は、点 a を囲み、周および内部が D に含まれるような反時計回りの円周である。
テイラー展開は一変数関数のみならず、多変数関数にも適用できる。d 変数関数 f のテイラー展開は以下の式である。
多重指数記法を用いれば、d 変数関数 f (x) のテイラー展開は次式で表現される。
アインシュタインの縮約記法を用いれば、多変数関数 f (x) のテイラー展開は次式である。
上式の ∂μ は微分演算子であり、ベクトル解析の記法では ∇ に置き換えられる。一番後ろに f (α) があるが、これは f (x) に左の演算子を作用させてから f (x) の引数として α を与えることを表していることに注意する。
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] |
数学においてテイラー級数は、関数のある一点での導関数の値から計算される項の無限和として関数を表したものである。そのような級数を得ることをテイラー展開(テイラーてんかい)という。 テイラー級数の概念はスコットランドの数学者ジェームズ・グレゴリーにより定式化され、フォーマルにはイギリスの数学者ブルック・テイラーによって1715年に導入された。0 を中心としたテイラー級数は、マクローリン級数 とも呼ばれる。これはスコットランドの数学者コリン・マクローリンにちなんでおり、彼は18世紀にテイラー級数のこの特別な場合を積極的に活用した。 関数はそのテイラー級数の有限個の項を用いて近似することができる。テイラーの定理はそのような近似による誤差の定量的な評価を与える。テイラー級数の最初のいくつかの項として得られる多項式はテイラー多項式と呼ばれる。関数のテイラー級数は、その関数のテイラー多項式で次数を増やした極限が存在すればその極限である。関数はそのテイラー級数がすべての点で収束するときでさえもテイラー級数に等しいとは限らない。開区間(あるいは複素平面の開円板)でテイラー級数に等しい関数はその区間上の解析関数と呼ばれる。 前述の通り、一定の条件の下でテイラー展開の高次の項を無視することができる。例えば単振り子の問題では、振り子の振れ角 x が充分小さいことを利用して、正弦関数 sin x を x で近似できる。このように、関数をテイラー展開することで計算が容易になり、また原点近傍の振る舞いを詳細に調べることができるようになる。
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{{出典の明記|date=2016年1月}}
{{参照方法|date=2022年1月}}
{{Calculus |Series}}
[[File:sintay_SVG.svg|thumb|300px|テイラー多項式の次数が上がるにつれて、正しい関数に近づく。この図は {{math|sin ''x''}} と、そのテイラー近似のうち、<span style="color:red;">'''1'''</span>, <span style="color:orange;">'''3'''</span>, <span style="color:yellow;">'''5'''</span>, <span style="color:lime;">'''7'''</span>, <span style="color:blue;">'''9'''</span>, <span style="color:indigo;">'''11'''</span>, <span style="color:violet;">'''13'''</span> 次の多項式を示している。]]
[[File:Exp series.gif|right|thumb|[[指数関数]] {{math|''e''<sup>''x''</sup>}} (青) と、その {{math|0}} におけるテイラー級数の最初の {{math|''n'' + 1}} 項の和 (赤)。]]
[[数学]]において'''テイラー級数'''(テイラーきゅうすう、{{lang-en-short|Taylor series}})は、[[関数 (数学)|関数]]のある一点での[[導関数]]の値から[[計算]]される項の[[総和|無限和]]として関数を表したものである。そのような[[級数]]を得ることを'''テイラー展開'''(テイラーてんかい)という。
テイラー級数の概念は[[スコットランド]]の数学者[[ジェームズ・グレゴリー]]により定式化され、フォーマルには[[イギリス]]の数学者[[ブルック・テイラー]]によって1715年に導入された。0 を中心としたテイラー級数は、'''マクローリン級数''' ({{lang-en-short|Maclaurin series}}) とも呼ばれる。これはスコットランドの数学者[[コリン・マクローリン]]にちなんでおり、彼は18世紀にテイラー級数のこの特別な場合を積極的に活用した。
関数はそのテイラー級数の有限個の項を用いて[[近似法|近似]]することができる。[[テイラーの定理]]はそのような近似による誤差の定量的な評価を与える。テイラー級数の最初のいくつかの項として得られる多項式は[[テイラー多項式]]と呼ばれる。関数のテイラー級数は、その関数のテイラー多項式で次数を増やした[[数列の極限|極限]]が存在すればその極限である。関数はそのテイラー級数がすべての点で[[収束 (数学)|収束]]するときでさえもテイラー級数に等しいとは限らない。[[開区間]](あるいは[[複素平面]]の[[開円板]])でテイラー級数に等しい関数はその区間上の[[解析関数]]と呼ばれる。
前述の通り、一定の条件の下でテイラー展開の高次の項を無視することができる。例えば[[単振り子]]の問題では、振り子の振れ角 {{mvar|x}} が充分小さいことを利用して、[[正弦関数]] {{math|sin ''x''}} を {{mvar|x}} で近似できる。このように、関数をテイラー展開することで計算が容易になり、また原点近傍の振る舞いを詳細に調べることができるようになる。
== 一実変数関数のテイラー展開 ==
{{see also|テイラーの定理}}
<div style="clear:both;"></div>
<div class="thumb tright">
<div class="thumbinner" style="width:516px;">
<div style="background-color:white;border:1px solid lightgray;">
{{Module|正弦関数のテイラー展開}}
</div>
<div class="thumbcaption">
正弦関数<math>f(x)=\sin x</math>の<math>x=a</math>におけるテイラー級数のうち次数の少ない項のみを抽出したもの
<math>\sum_{k=0}^n \frac{f^{(k)}(a)}{k!} (x - a)^{k}</math>
('''マウスホイールで<math>n</math>を変更''')
</div>
</div>
</div>
点 {{mvar|a}} を含む[[実数]]の[[開区間]] {{math|''I'' ⊆ '''R'''}} 上で無限階[[微分可能関数|微分可能]]な関数 {{math|''f'' ∈ ''[[滑らかな関数|C]]''<sup>∞</sup>(''I'')}} が与えられたとき、[[べき級数]]
:<math> \sum_{n=0}^{\infin} \frac{f^{(n)}(a)}{n!} (x - a)^{n} </math>
を関数 {{mvar|f}} の点 {{mvar|a}} まわりの'''テイラー級数'''という。ここで {{math|''n''!}} は {{mvar|n}} の[[階乗]]、{{math|''f'' <sup>(''n'')</sup>(''a'')}} は {{math|''x'' {{=}} ''a''}} における {{mvar|f}} の {{mvar|n}} 次[[微分係数]]である<ref group="注">{{mvar|f}} の {{Math|0}} 次[[導関数]]は {{mvar|f}} 自身である。</ref>。また、便宜的に {{math|(''x'' − ''a'')<sup>0</sup>}} は 1 であると定義する<ref group="注">[[0の0乗]]も参照。定義の衝突を避けるならば、単に {{math|''n'' {{=}} 0}} の項を明示的に書き、{{math|''n'' {{=}} 0}} を含めない形で和を取り直せばよい。</ref>。テイラー級数が[[収束級数|収束]]し、元の関数 {{mvar|f}} に一致するとき、{{mvar|f}} は'''テイラー展開可能'''であるという。テイラー展開がある大域的な[[領域 (解析学)|領域]]の各点で可能な関数は、その領域において'''解析的''' ({{en|analytic}}) である、またはその領域上の'''[[解析関数]]''' ({{en|analytic function}}) であるという。
ここで一般には関数 {{mvar|f}} が無限回微分可能であってもそのテイラー級数が {{math|''x'' ≠ ''a''}} で収束するとは限らず{{sfn|ハイラー|ヴァンナー|2012|loc={{google books quote|id=zML3A8iCmeUC|page=101|演習問題 7.6}}}}、たとえ収束しても一致するとは限らない{{sfn|ハイラー|ヴァンナー|2012|loc={{google books quote|id=zML3A8iCmeUC|page=97|反例 (7.12)}}}}ことに注意が必要である。一致するかどうかは、[[テイラーの定理]]における[[剰余項]] {{mvar|R<sub>n</sub>}} が 0 に収束するかどうかによって判定できる;ここで剰余項 {{mvar|R<sub>n</sub>}} は、ある {{math|''c'' ∈ (''a'', ''x'')}} が存在して、
:<math>R_n (x) = {f^{(n)}(c) \over n!} (x - a)^n</math>
と書ける。または積分を用いて、次のように表せる。
:<math>R_n (x) =\frac{1}{(n-1)!}\int_a^x (x-t)^{n-1} f^{(n)}(t)\, \mathrm dt</math>
また、この剰余項を評価することで関数の近似値を精度保証つきで数値的に求めることもできる([[テイラーの定理#例]]を参照)。
特に {{math|''a'' {{=}} 0}} における以下のような展開
:<math>
\sum_{n=0}^{\infin} \frac{f^{(n)}(0)}{n!} x^{n}
</math>
を'''マクローリン展開'''(マクローリンてんかい、{{lang-en-short|Maclaurin expansion}}; 名称は数学者[[コリン・マクローリン]]に由来する)と呼ぶ。
=== マクローリン級数の例 ===
いくつかの重要な関数のテイラー展開を以下に示す。これらはすべて複素解析的な関数であり、複素変数であると考えても成り立つ。{{Mvar|x}}についてのforの範囲外の実数を{{Mvar|x}}に代入したら[[発散級数|発散]]する(ただし、元の関数が収束することもある)。
なお、{{math|tan(''x''), csc(''x''), cot(''x''), tanh(''x'')}} の展開に現われる {{mvar|B<sub>k</sub>}} 、二項展開の <math>\textstyle \binom{\alpha}{n}</math> 、{{math|sec(''x'')}} の展開に現われる {{mvar|E<sub>k</sub>}} はそれぞれ[[ベルヌーイ数]]、[[二項係数]]、[[オイラー数]]である。また、{{Math|''f'' {{sup|−1}}(''x'')}} は {{Math|''f'' (''x'')}} の[[逆写像|逆関数]]であるとする。
;[[多項式]]
:多項式をマクローリン展開したものは元の多項式自身である。
;[[指数関数]]
:<math>e^{x} = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{x^n}{n!}\quad\mbox{ for all }x</math>
;[[自然対数]]
:<math>\log(1+x) = \sum^{\infin}_{n=1} \frac{(-1)^{n+1}}n x^n\quad\mbox{ for } |x| < 1</math>
;[[幾何級数]]
:<math>\frac{1}{1-x} = \sum^{\infin}_{n=0} x^n\quad\mbox{for } |x| < 1</math>
:<math>\frac{1}{(1-x)^2} = \sum^\infty_{n=1} nx^{n-1}\quad\text{ for }|x| < 1\!</math>
:<math>\frac{x}{(1-x)^2} = \sum^\infty_{n=0} nx^n\quad\text{ for }|x| < 1\!</math>
:<math>\frac{2}{(1-x)^3} = \sum^\infty_{n=2} (n-1)nx^{n-2}\quad\text{ for }|x| < 1\!</math>
:<math>\frac{2x^2}{(1-x)^3} = \sum^\infty_{n=0} (n-1)nx^n\quad\text{ for }|x| < 1\!</math>
;[[二項定理]]
:<math>(1+x)^\alpha = \sum^{\infin}_{n=0} \binom{\alpha}{n} x^n\quad\mbox{for } |x| < 1 \mbox{ and any complex } \alpha</math>
;[[三角関数]]
:<math>\sin x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(-1)^n}{(2n+1)!} x^{2n+1}\quad\mbox{ for all } x</math>
:<math>\cos x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(-1)^n}{(2n)!} x^{2n}\quad\mbox{ for all } x</math>
:<math>\tan x = \sum^{\infin}_{n=1} \frac{B_{2n} (-4)^n (1-4^n)}{(2n)!} x^{2n-1}\quad\mbox{ for } |x| < \frac{\pi}{2}</math>
:<math>\csc x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{ (-1)^n (2-2^{2n}) B_{2n}}{(2n)!} x^{2n-1}\quad\mbox{ for } 0 < |x| < \pi</math>
:<math>\sec x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(-1)^n E_{2n}}{(2n)!} x^{2n}\quad\mbox{ for } |x| < \frac{\pi}{2}</math>
:<math>\cot x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{ (-1)^n 2^{2n} B_{2n}}{(2n)!} x^{2n-1}\quad\mbox{ for } 0 < |x| < \pi</math>
:<math>\sin^{-1} x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(2n)!}{4^n (n!)^2 (2n+1)} x^{2n+1}\quad\mbox{ for } |x| < 1</math>
:<math>\cos^{-1} x = {\pi\over 2}- \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(2n)!}{4^n (n!)^2 (2n+1)} x^{2n+1}\quad\mbox{ for } |x| < 1</math>
:<math>\tan^{-1} x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(-1)^n}{2n+1} x^{2n+1}\quad\mbox{ for } |x| < 1</math>
;[[双曲線関数]]
:<math>\sinh x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{1}{(2n+1)!} x^{2n+1}\quad\mbox{ for all } x</math>
:<math>\cosh x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{1}{(2n)!} x^{2n}\quad\mbox{ for all } x</math>
:<math>\tanh x = \sum^{\infin}_{n=1} \frac{B_{2n} 4^n (4^n-1)}{(2n)!} x^{2n-1}\quad\mbox{ for } |x| < \frac{\pi}{2}</math>
:<math>\sinh^{-1} x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(-1)^n (2n)!}{4^n (n!)^2 (2n+1)} x^{2n+1}\quad\mbox{ for } |x| < 1</math>
:<math>\tanh^{-1} x = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{1}{2n+1} x^{2n+1}\quad\mbox{ for } |x| < 1</math>
;[[ランベルトのW関数]]
:<math>W_0(x) = \sum^{\infin}_{n=1} \frac{(-n)^{n-1}}{n!} x^n\quad\mbox{ for } |x| < \frac{1}{e}</math>
== 一変数複素関数のテイラー展開 ==
点 {{mvar|a}} を含む[[開集合]] {{math|''D'' ⊆ '''C'''}} 上で[[微分可能関数|微分可能]]、すなわち[[正則関数|正則]]な[[複素解析|複素関数]] {{math|''f''}} が与えられたとき、[[べき級数]]
:<math> \sum_{n=0}^{\infin} \frac{f^{(n)}(a)}{n!} (z - a)^{n} </math>
を関数 {{mvar|f}} の点 {{mvar|a}} まわりの'''テイラー級数'''という。[[正則関数の解析性]]から、点 {{mvar|a}} を中心として {{Mvar|D}} に包含されるような任意の[[開円板]] {{math| ''B''(''a'',''r'') {{=}} { ''z'' ∈ '''C''' {{!}} {{abs|''z'' − ''a''}} < ''r'' } ⊆ ''D'' }} 上でこの級数は {{Math|''f'' (''a'')}} に収束する。
剰余項 {{mvar|R<sub>n</sub>}} は[[複素線積分]]を用いて、次のように表せる:
:<math>R_n (z) = (z-a)^n \left [ \frac{1}{2 \pi i}\int_C \frac{f(w)}{(w-a)^{n}(w-z)} \mathrm dw \right ] </math>
ここで {{math|''C''}} は、点 {{math|''a''}} と{{math|''z''}} を囲み、周および内部が {{Mvar|D}} に含まれるような反時計回りの[[円周]]である。
== 多変数関数のテイラー展開 ==
テイラー展開は一変数関数のみならず、[[関数 (数学)#多変数関数と多価関数|多変数関数]]にも適用できる。{{mvar|d}} 変数関数 {{mvar|f}} のテイラー展開は以下の式である。
:<math>f(x_1,\dots,x_d) = \sum_{n_1=0}^\infty \sum_{n_2=0}^\infty \cdots \sum_{n_d = 0}^\infty
\frac{(x_1-a_1)^{n_1}\cdots (x_d-a_d)^{n_d}}{n_1!\cdots n_d!}\,\left(\frac{\partial^{n_1 + \cdots + n_d}f}{\partial x_1^{n_1}\cdots \partial x_d^{n_d}}\right)(a_1,\dots,a_d).\!</math>
[[多重指数|多重指数記法]]を用いれば、{{mvar|d}} 変数関数 {{math|''f'' ('''x''')}} のテイラー展開は次式で表現される。
:<math>f(\mathbf{x}) = \sum_{\alpha\in\mathbb{N}^d_0}^{}\frac{(\mathbf{x}-\mathbf{a})^{\alpha}}{\alpha !}\,({\mathrm{\partial}^{\alpha}}\,f)(\mathbf{a})</math>
[[アインシュタインの縮約記法]]を用いれば、多変数関数 {{math|''f'' (''x<sup>μ</sup>'')}} のテイラー展開は次式である。
:<math>f(x^{\mu}) = \sum^{\infin}_{n=0} \frac{1}{n!} \left[ (x^{\mu} - \alpha^{\mu}) \partial_{\mu} \right]^n f(\alpha^{\mu}) </math>
上式の {{math|∂<sub>''μ''</sub>}} は[[微分作用素|微分演算子]]であり、[[ベクトル解析]]の記法では {{math|∇}} に置き換えられる。一番後ろに {{math|''f'' (''α<sup>μ</sup>'')}} があるが、これは {{math|''f'' (''x<sup>μ</sup>'')}} に左の演算子を作用させてから {{math|''f'' (''x<sup>μ</sup>'')}} の引数として {{mvar|α<sup>μ</sup>}} を与えることを表していることに注意する。
== 脚注 ==
===注===
{{reflist|group="注"}}
===出典===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book
|和書
|last1 = ハイラー
|first1 = E.
|last2 = ヴァンナー
|first2 = G.
|translator = 蟹江幸博
|year = 2012
|title = 解析教程
|volume = 下
|url = {{google books|zML3A8iCmeUC|plainurl=yes}}
|publisher = [[丸善出版]]
|isbn = 978-4-621-06190-9
|ref = harv
}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|Maxima/総和・総積・テイラー展開}}
* [[正則関数]]
* [[解析関数]]
* [[整関数]]
* [[収束半径]]
* [[ローラン展開]]
* [[漸近展開]]
* [[パデ近似]]
== 外部リンク ==
*{{SpringerEOM | title=Taylor series | id=Taylor_series }}
*{{YouTube|lmVb-3lxKg0|微積分I (2012) (12) 漸近展開 (1) (Calculus I (2012), Lecture 12)}}
{{Mathanalysis-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ていらあてんかい}}
[[Category:解析学]]
[[Category:近似法]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:数学のエポニム]]
[[pl:Wzór Taylora#Szereg Taylora]]
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10,279 |
宇宙空間
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宇宙空間()は、地球およびその他の天体(それぞれの大気圏を含む)に属さない空間領域を指す。また別義では、地球以外の天体を含み、したがって、地球の大気圏よりも外に広がる空間領域を指す。なお英語では outer を省いて単に spaceと呼ぶ場合も多い。日本語でも直訳の「外宇宙」という言葉がある。
狭義の宇宙空間には星間ガスと呼ばれる水素 (H) やヘリウム (He) や星間物質と呼ばれるものが存在している。それらによって恒星などが構成されていく。
国際条約において宇宙空間を定義することは領空の上限を定義することを意味するため、各国とも慎重であり明文化された定義は存在しない。近年、宇宙空間の利用が急増しており、国際連合宇宙空間平和利用委員会 (COPUOS) の法律小委員会でもより定義が検討課題になっている。
国際航空連盟 (FAI) では地上から100キロメートルをカーマン・ラインとして、宇宙空間と大気圏の境界線と定義している。一方でアメリカ空軍は80キロメートル以上を宇宙空間としており、宇宙飛行士の認定で差異が生じている。
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"title": "宇宙空間の定義"
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宇宙空間は、地球およびその他の天体(それぞれの大気圏を含む)に属さない空間領域を指す。また別義では、地球以外の天体を含み、したがって、地球の大気圏よりも外に広がる空間領域を指す。なお英語では outer を省いて単に spaceと呼ぶ場合も多い。日本語でも直訳の「外宇宙」という言葉がある。 狭義の宇宙空間には星間ガスと呼ばれる水素 (H) やヘリウム (He) や星間物質と呼ばれるものが存在している。それらによって恒星などが構成されていく。
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{{Expand English|date=2023年1月}}
[[File:Atmosphere layers-ja.svg|thumb|upright|[[大気#地球大気の鉛直構造|地球大気の鉛直構造]]([[縮尺]]は正しくない)]]
{{読み仮名|'''宇宙空間'''|うちゅうくうかん、{{Lang-en-short|outer space}}}}は、[[地球]]およびその他の[[天体]](それぞれの[[大気圏]]を含む)に属さない[[空間]]領域を指す。また別義では、地球以外の天体を含み、したがって、[[地球]]の[[大気圏]]よりも外に広がる[[空間]]領域を指す。<!--いずれにせよ地球の[[大気圏]]は含まれない。-->なお英語では {{en|outer}} を省いて単に {{en|space}}{{r|学術用語集}}{{efn|例えば、space technology、space scienceなど。}}と呼ぶ場合も多い。<!--単に、space(=「空間」)と呼ぶこともある。--><!-- 単に「宇宙」(space)ということもある。 -->日本語でも直訳の「外宇宙」という言葉がある。
狭義の宇宙空間には[[星間ガス]]と呼ばれる[[水素]] (H) や[[ヘリウム]] (He) や[[星間物質]]と呼ばれるものが存在している。それらによって[[恒星]]などが構成されていく。
== 宇宙空間の定義 ==
[[条約|国際条約]]において宇宙空間を定義することは[[領空]]の上限を定義することを意味するため、各国とも慎重であり明文化された定義は存在しない。近年、宇宙空間の利用が急増しており、[[国連宇宙空間平和利用委員会|国際連合宇宙空間平和利用委員会]] (COPUOS) の法律小委員会でもより定義が検討課題になっている。
[[国際航空連盟]] (FAI) では地上から100[[キロメートル]]を[[カーマン・ライン]]として、宇宙空間と[[地球の大気|大気圏]]の境界線と定義している{{r|fai}}。一方で[[アメリカ空軍]]は80キロメートル以上を宇宙空間としており、[[宇宙飛行士]]の認定で差異が生じている{{r|jaxa}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="学術用語集">{{Cite book|和書
| author = [[文部省]]
| coauthors = [[日本天文学会]]編
| title = [[学術用語集]] 天文学編
| edition = 増訂版
| year = 1994
| publisher = [[日本学術振興会]]
| isbn = 4-8181-9404-2 }}</ref>
<ref name="fai">{{Cite web
| url = http://www.fai.org/press_releases/2004/documents/12-04_100km_astronautics.doc
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20061127224948/fai.org/press_releases/2004/documents/12-04_100km_astronautics.doc
| format = DOC
| title = The 100 km Boundary for Astronautics
| publisher = [[国際航空連盟]]
| date = 25 June 2004
| accessdate = 2009-1-7
| archivedate = 2006-11-27
| deadlinkdate = 2017年10月1日 }}</ref>
<ref name="jaxa">{{Cite web|和書
| url = https://fanfun.jaxa.jp/faq/detail/103.html
| title = 空と宇宙の境目はどこですか?
| work = ファン!ファン!JAXA!
| publisher = [[宇宙航空研究開発機構]]
| accessdate = 2019-2-23 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[地球の大気]]
* [[天球]]
* [[宇宙]]
* [[宇宙科学]]
* [[宇宙空間物理学]]([[地球電磁気学]]の一分野)
* [[真空]]
* [[宇宙条約#宇宙空間の法的地位]] - [[宇宙法]]
* [[アストロノーティカ (小惑星)]]
* [[宇宙軍]]
* {{Commonscat-inline}}
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[[Category:宇宙空間|*]]
[[Category:天文学に関する記事]]
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10,280 |
ペルシア
|
ペルシア、ペルシャ(ギリシア語: Περσία)は、現在のイランを表すヨーロッパ側の古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。
古代ペルシア人は「パールサ」(𐎱𐎠𐎼𐎿)を自称していた。それを古代ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」となった。
かつてイランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられたが、1935年3月21日に「イラン」に改めるよう諸外国に要請したものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
イランの主要民族・主要言語は現在もペルシア人・ペルシア語と呼ばれている。なお、イラン人・イラン語はペルシア人・ペルシア語とは示す範囲が異なり、代替可能ではない。
歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方 Pârsâ のこと。語源は騎馬者を意味するパールス Pârs。ギリシャ語ではペルシス(Πέρσις Persis)と呼ばれ、現代イランでファールス地方にあたる。
ペルシアに相当する日本語や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、またはパールサの現代形のファールスと呼ばれている語である。たとえばペルシア語をファールス語に相当する現代のペルシア語ファールスィー(ペルシア語: فارسى fārsi)と呼ぶ。
また、この地に興ったペルシア帝国と呼ばれる諸王朝も指す。ただし、同じ地に興ったパルティア(アルシャク朝)はペルシアとは語源的に無関係である。
イランの文化や特産物に対する呼び名としても使われる。
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ペルシア、ペルシャは、現在のイランを表すヨーロッパ側の古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。
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{{otheruses||ペルージャの古名|ペルシア (ペルージャの古名)}}
{{redirect|ペルシャ|その他|ペルシャ (曖昧さ回避)}}
[[Image:IranFars.png|thumb|現在のイラン全土とファールス地方]]
{{イランの歴史}}
'''ペルシア'''、'''ペルシャ'''({{lang-el|Περσία}}<ref group="注釈">[[ラテン文字]]表記:{{ラテン翻字|el|Persia}}</ref>)は、現在の[[イラン]]を表す[[ヨーロッパ]]側の古名である。漢名は'''波斯'''(はし)・'''波斯国'''(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある<ref>近八郎右衛門編 『明治改正大日本国名尽・世界国名尽』p9、1886年、金沢・近八郎右衛門。「ヤ」は大きい字で表記。</ref>。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。
== 概要 ==
古代ペルシア人は「パールサ」([[wikt:en:𐎱𐎠𐎼𐎿|{{cuneiform|peo|𐎱𐎠𐎼𐎿}}]])を自称していた。それを古代ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」となった<ref>「改訂版 世界の民族地図」p155 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行</ref>。
かつてイランに対する[[外名|外国からの呼び名]]として「ペルシア」が用いられたが、[[1935年]][[3月21日]]に「イラン」に改めるよう諸外国に要請したものの混乱が見られ、[[1959年]]、研究者らの主張によりイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後[[1979年]]の[[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]によって[[イスラム共和制|イスラーム共和国]]の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
イランの主要民族・主要言語は現在も[[ペルシア人]]・[[ペルシア語]]と呼ばれている。なお、[[イラン系民族|イラン人]]・イラン語はペルシア人・ペルシア語とは示す範囲が異なり、代替可能ではない。
歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方 {{lang|fa|Pârsâ}} のこと。語源は[[騎馬]]者を意味するパールス {{lang|fa|Pârs}}。ギリシャ語ではペルシス({{lang|el|Πέρσις Persis}})と呼ばれ、現代イランで[[ファールス (イラン)|ファールス地方]]にあたる。
ペルシアに相当する[[日本語]]や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、またはパールサの現代形のファールスと呼ばれている語である。たとえば[[ペルシア語]]をファールス語に相当する現代のペルシア語ファールスィー({{lang-fa|فارسى}} fārsi)と呼ぶ。
また、この地に興った[[ペルシア帝国]]と呼ばれる諸[[王朝]]も指す。ただし、同じ地に興った[[パルティア]](アルシャク朝)はペルシアとは語源的に無関係である。
イランの[[文化_(代表的なトピック)|文化]]や特産物に対する呼び名としても使われる。
==ペルシアの王朝==
<gallery>
ファイル:Achaemenid-empire-500BCE.png|アケメネス朝の領域
ファイル:LocationParthia.PNG|アルサケス朝の領域
ファイル:Sassanid_Empire_620.png|サーサーン朝の領域
ファイル:Das Reich Timur-i Lenks (1365-1405).GIF|ティムール朝の領域
ファイル:LocationSafavid.PNG|サファヴィー朝の領域
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アーリア人]]
* [[ペルシア人]]
* [[ペルシア語]]
* [[ペルシア文字]]
* [[ペルシア暦]]
* [[ペルシア戦争]]
* [[ペルシア立憲革命]]
* [[ペルシア湾]]
* [[ペルシア高原]]
* [[ペルシャ絨毯]]
* [[ペルシャ (ネコ)|ペルシャ猫]]
* [[パールシー]]
* [[アラブ世界|アラブ]]
* [[ファールス (イラン)]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{History-stub}}
{{DEFAULTSORT:へるしあ}}
[[Category:イラン]]
[[Category:イランの歴史]]
[[Category:ペルシア語の語句]]
|
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2
|
10,282 |
ダブリン
|
ダブリン(愛: Baile Átha Cliath、英: Dublin)は、アイルランド島東部に位置する、アイルランドの首都。
レンスター地方のダブリン県に属している。リフィー川河口、東海岸の湾に位置し、その南北に町が広がる。南にはウィックロー山地の一部であるダブリン山地に接している。2016年の人口は117万3179人だった。
アイルランドの政治・経済・交通・文化の中心地であり、アイルランドの全人口の44%がダブリン首都圏に集中するアイルランド国内最大の都市である。ヨーロッパ有数の世界都市であり、重要な金融センターのひとつになっている。
市内にはアイルランド人の権利の拡大に尽力した人々やイギリスからの独立運動のために命を落とした活動家の名前が記念日や通りの名前に多く見られる。ダニエル・オコンネルに因む町の目抜き通りのオコンネル通りやパトリック・ピアースにちなむピアース通り、コノリー駅などが例に挙げられる。これらは本来は別の名前がつけられていたが、1921年の独立後に改名されたものである(オコンネル通りはかつてはサックビル通りと呼ばれていた)。
「ダブリン」は、初期の古典アイルランド語で「黒い水溜り」を意味する「Dubhlind/Duibhlind」に由来し、「黒い、暗い」を意味する「dubh」と、水溜りを意味する「lind」でからきている。 この水溜まりは、ポドル川がリフィー川に入った位置にあり、ダブリン城の裏手にある城庭の跡地にあった。 現代のアイルランド語では「Duibhlinn」と呼ばれているが、ダブリン県のアイルランド語の韻文によると、「Duílinn」と呼ばれている。 この発音は、古英語の「Difelin」、古ノルド語の「Dyflin・ᛑᛦᚠᛚᛁᚿ」、アイスランド語の「Dyflinn」、マン島語の「Divlyn」、ウェールズ語の「Dulyn」、ブルトン語の「Dulenn」など、他の言語にも受け継がれている。
アイルランドの他の地域では、「Duibhlinn」という名前が付けられており、「Devlin」、「Divlin」、「Difflin」と様々な形で英語化されている。 歴史的には、インシュラー体では、「b」の上に点をつけ、「bh」と書き、「Duḃlinn」または「Duiḃlinn」と表現していた。 アイルランド語の知識がなかった者は、ドットを省略し、「Dublin」と表記した。
現在では、ヴァイキングの入植地が、キリスト教の教会的な入植地として知られる「Duibhlinn」に先行していたと考えられており、そこから「Dyflin」の名前が付けられた。9世紀と10世紀には、現在の街がある場所に2つの集落があった。841年頃のヴァイキングの集落である「Dyflin」と、川をさらに遡ったところにあったゲール人の集落である「Áth Cliath」は、チャーチ通りの下の方にある現在のファーザー・マシュー橋(ダブリン橋としても知られている)にある。「Baile Átha Cliath」は、「編み垣の渡瀬の町」という意味で、現代アイルランド語ではダブリンを指すのに使われている。「Áth Cliath」は、ファザー・マシュー橋付近にある、リフィー川の分岐点を指している地名である。同名の町は他にもあり、例えばスコットランドのイースト・エアシャーのハールフォードには、「Àth Cliath」とスコットランド・ゲール語で表記されている。
ダブリンはリフィー川の河口に位置し、アイルランドの東中央部に位置する約115kmの土地面積を持つ。南はダブリン山地と呼ばれる低山地帯とウィックロー山脈の亜山脈に囲まれ、北と西は平坦な農地に囲まれている。
リフィー川はダブリンを北岸と南岸の間で2つに分けている。リークスリップで北東方向から東方向にカーブしており、この地点で農地利用から都市開発への移行が行われている。
南東にダブリン湾に注ぐトルカ川(英語版)と北東に流れるドダー川があり、リフィー川には複数の支流が存在している。また、複数の小川も海に流れている。
リフィー川に面した港には大型船舶用の埠頭があり、南のロイヤル運河と北のグランド運河の2つの大運河がダブリンとシャノン川を結び、市内を環状に流れている。
南東部のダブリン湾(英語版)にブル島(英語版)があり、付近に塩性湿地と砂丘地形が発達している。植物はアッケシソウ、ハリヒジキ(英語版)、Cakile maritima(英語版)、ボウアオノリ、ヒラアオノリ(英語版)、オオバアオサ(英語版)、Zostera noltii(英語版)などがあり、動物はニシズグロカモメ、コクガン、オグロシギ、オオソリハシシギ、アオサギ、ホオジロガモ、ウミアイサ、アオアシシギ、コアジサシ、ミヤコドリ、ユキウサギのアイルランド亜種などが生息している。バルドイル湾(英語版)を含む一帯はユネスコの生物圏保護区に指定されており、3カ所のラムサール条約登録地がある。
日本の北海道よりも高緯度に位置するが、北西ヨーロッパの他の多くの地域と同様に、ダブリンは海洋性気候(Cfb)に属し、冬は温暖で、夏は涼しく、極端な気温の変化はない。1月の平均最低気温は2.4°C、7月の平均最高気温は20.2°Cである。最も日照時間が長い月は5月と6月で、最も雨の多い月は10月で76mm、最も乾燥している月は2月で46mmである。年間降水量は日本よりも少ないが、降水量は一年を通して均等に分布している。
ダブリンは東海岸に位置しているため、アイルランドで最も乾燥しており、降水量は西海岸の約半分しかない。市内南部のリングゼンドは、年間平均降水量が683mmと国内で最も少なく、市内中心部の年間平均降水量は714mmとなっている。冬の主な降水量は雨であるが、11月から3月にかけては雪が降ることもある。ただ、雪よりも雹が降ることが多い。秋には大西洋からの強い風が吹くが、ダブリンは東海岸のため、他の地域に比べて影響は少ない。しかし、冬になると東風の影響で気温が下がり雪が降ることがある。
20世紀、ダブリンではスモッグと大気汚染が問題となり、1990年に瀝青燃料の使用が禁止された。黒煙の濃度が住民の心血管系や呼吸器系の死亡に関係していたことに対処するためである。禁止以来、非外傷性死亡率、呼吸器死亡率、心血管死亡率は減少しており、年間の死亡者は約350人と推定されている。
ダブリンは、郵便局区によって区分されている。リフィー川以北は奇数、以南は偶数となっている。ダブリン県の一部の地域(ダン・レアリー、ブラックロック、ルーカン、ソーズなど)では、郵便局区がない。
ダブリン市はダブリン市議会が管轄する地域であるが、「ダブリン」とは隣接する地方自治体であるダン・レアリー=ラスダウン市、フィンガル市、南ダブリン市の一部を含む都市部を指す言葉としても使われる。これら4つの地域を合わせ、伝統的にダブリン県を形成しており、「ダブリン地域」と呼ばれることもある。 2016年の国勢調査では、市議会が管理する行政区域の人口は554,554人、都市部の人口は1,173,179人であった。ダブリン県の人口は1,273,069人、ダブリン都市圏(ダブリン県・ミーズ県・キルデア県・ウィックロー県)の人口は1,904,806人だった。人口は急速に拡大しており、中央統計局の推計では2020年には210万人に達するとされている。
第二次世界大戦後、イタリア人はダブリンとアイルランドの両方で圧倒的に最大の移民グループであり、ケータリングやレストランの代名詞となった。 1990年代後半以降、ダブリンは大幅な純移民を経験しており、特にイギリス、ポーランド、リトアニアなどの欧州連合からの移民が最も多くなっている。 また、ブラジル、インド、フィリピン、中華人民共和国、ナイジェリアなど、ヨーロッパ以外の国からの移民も在住している。 ダブリンは、アイルランドの他の地域よりも新しい移民の割合が高い。 アイルランドのアジア系人口の60%がダブリンに在住している。 2006年には、ダブリンの人口の15%以上が外国生まれだった。
ダブリンは、他国からの非カトリック系移民の割合が最も高い。アイルランドでの世俗化の進展により、ダブリンのカトリック教会への定期的な出席率は1970年代半ばには90%を超えていたが、2011年の調査では14%にまで低下している。
2016年の国勢調査によると、ダブリンの人口は白人アイルランド人が86.2%(862,381人)、その他白人が13.2%(132,846人)、白人アイリッシュ・トラヴェラーが0.5%(5,092人)、黒人が2%(2万3,892人)、アジア人が4.6%(4万6,626人)となっている。さらに、2.7%(27,412人)は他の民族や文化的背景を持っており、4.9%(49,092人)は民族性を明言していない。
宗教面では、68.2%がカトリック、12.7%がその他の宗教、19.1%が無宗教を表明していた。
2018年7月時点で、ダブリン地域内でホームレスの宿泊施設やその他の緊急住宅で生活している世帯は1,367世帯だった。
ダブリン湾の地域は有史以前から有人だったが、西暦140年頃のプトレマイオス(古代ギリシャ・ローマ時代の天文学者・地図学者)の記述が、そこに定住していたことを示す最古の文献となっている。これを「Ἔβλανα πόλις」と呼んでいた。
ダブリンは1988年に千年紀を迎えた。アイルランド政府は988年の入植地が後にダブリン市となったと認識している。
現在では、841年頃のヴァイキングの入植が、キリスト教の教会的な入植地として知られる「Duibhlinn」に先行していたと考えられており、「Dyflin」はそこから名を取ったと言われている。9世紀と10世紀には、後に現在のダブリンとなる2つの集落があった。その後のスカンジナビア人の集落は、現在のウッド岸壁として知られる地域のリフィー川の支流であるポドル川に集中していた。「Dubhlinn(ドゥヴ・リン)」は、ポドル川の最も低い場所にある水溜りのことを指し、船を係留するのに使われていた。この水溜りは、ダブリン城内のチェスター・ビーティ図書館の向かい側、現在のキャッスル公園がある場所にもあり、18世紀初頭に都市の成長に伴い、最終的に浸水した。『クーリーの牛争い』では、「Dublind rissa ratter Áth Cliath(オー・クリアと呼ばれているダブリン)」と記載されている。
ダブリンは10世紀にヴァイキングの居住地として設立され、アイルランド人による何度もの攻撃にもかかわらず、1169年にウェールズからノルマン人がアイルランドを侵攻するまで、大部分がヴァイキングの支配下にあった。1166年初頭にアイルランド上王のムルタ・マクロクリンが死去し、コノート王のルアリー・ウア・コンホヴァルがダブリンに上陸し、反対することなくアイルランド王に就任した。
歴史家によると、ダブリンの初期の経済成長の一部は、奴隷貿易に起因しているという説もある。アイルランドとダブリンの奴隷制度は、9世紀から10世紀にかけて頂点に達した。奴隷襲撃や誘拐の囚人は、アイリッシュ海の襲撃者や、奴隷制度を始めたヴァイキングに収益をもたらした。犠牲者の中には、ウェールズ、イングランド、ノルマンディーなどから来ていた。
レンスター王のダーマット・マクモローは、ペンブルック伯のリチャード・ド・クレア(愛称: 強弓)の助けを借り、ダブリンを征服した。マック・マローの死後、強弓は都市の支配権を獲得した後、自らをレンスター王と宣言した。強弓の侵略に成功したイングランド王のヘンリー2世は、1171年に大規模な侵略を行い、アイルランドの領主としての究極の主権となった。この頃、ダブリン市に隣接する一定の自由権とともに、ダブリン市の県(County)が設立され、1840年にダブリン市がダブリン男爵制から分離されるまで続いた。2001年以降は、両男爵領がダブリン市として再指定されている。
アイルランドにおけるノルマン勢力の中心地となったダブリン城は、1204年にイングランド王のジョンの命令を受け、大規模な防衛工事として築城された。1229年に初代ダブリン市長が任命された後、ダブリンの街は拡大し、13世紀末には8,000人の人口を抱えるまでになった。1317年にスコットランド王のロバート1世がダブリンを占領しようとしたにもかかわらず、貿易の中心地として繁栄した。14世紀に入っても、城壁で囲まれた比較的小さな中世の町のままで、周囲の先住民族の脅威にさらされていた。1348年には、ヨーロッパを襲ったペストがダブリンを襲い、その後の10年間で何千人もの死者を出した。
ダブリンは、ペイルとしてイングランド君主に編入された。16世紀のテューダー朝のアイルランド征服は、ダブリンに新たな時代の幕開けを告げ、アイルランドの行政支配の中心地として新たな存在感を発揮した。ダブリンをプロテスタントの街にしようと決意したイングランド女王のエリザベス1世は、1592年にダブリン大学のトリニティ・カレッジをプロテスタントの大学として設立し、カトリック教会の聖パトリック大聖堂とクライストチャーチ大聖堂をプロテスタントに改築するよう命じた。
1640年には21,000人の人口を擁していたが、1649年から1651年にかけてペストが発生し、住民のほぼ半数が全滅した。しかし、その後すぐにイギリスとの羊毛・リネン貿易の結果として再び繁栄し、1700年には人口は5万人を超えた。
1759年にギネス醸造所が設立され、やがて世界最大の醸造所に成長し、ダブリンで最大の雇用主となった。
17世紀、イギリスのピューリタン革命の間、ダブリンはクロムウェルの議会派勢力に包囲された。1798年のアイルランド民族主義組織ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起に際してはダブリン攻略の試みは失敗し、1803年、1847年、1867年にも蜂起がくりかえされた。1916年と1919年から1921年のアイルランド蜂起では、ダブリンははげしい戦場となっている。
歴代のアイルランド王や有力者、またアイルランドを植民地支配したイングランドもダブリン城に行政の拠点を置き、アイルランド独立にいたるまでアイルランドの行政と政治の中心であった。
17世紀末頃より、大陸から来たユグノーやフランドル人によって各種工業が発展し、18世紀には大英帝国第2の都市、ヨーロッパでも5番目に大きい都市となった。旧市街にはこの頃に建てられた建築物が数多く残っている。
1800年の合同法がアイルランド議会にて可決、成立した。これにより、グレートブリテン王国との合同が成され、それとともにアイルランド議会は解散した。この頃より、ダブリンは政治的、経済的衰退に苦しんだ。産業革命では大きな役割を果たさなかったが、行政の中心地であり、島の大部分の交通の要所であり続けた。アイルランドには当時の燃料である石炭の重要な供給源がなく、ダブリンはイギリスとアイルランドの産業発展のもうひとつの原動力である船舶製造の中心地ではなかった。ベルファストは国際貿易、工場でのリネン生地生産、造船業などが混在していたため、この時期のダブリンよりも早く発展した。
12世紀にノルマン人の支配が始まって以来、ダブリンはアイルランド卿(1171年 - 1541年)アイルランド王国(1541年 - 1800年)、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(1801年 - 1922年)、アイルランド共和国(1919年 - 1922年)などの地政学的な組織の中で首都として機能してきた。
ダブリンもまた、30年にも及ぶ北アイルランド紛争の犠牲者だったが、暴力は主に北アイルランド内で発生した。しかし、IRA暫定派はダブリンを含む共和国内からも支援を受けていた。 ロイヤリスト(イギリスと北アイルランドの連合の支持者)の準軍事組織であるアルスター義勇軍は、この時期に街を爆撃し、ダブリン・モナハン爆弾事件では、ダブリン中心部を中心に34人が死亡した。
1997年以降、ダブリンの景観は変化してきた。ケルトの虎時代には、住宅・交通・ビジネスなどの民間部門と国家による開発が行われ、アイルランドの経済発展の先頭に立っていた。 大不況期に経済が落ち込んだ後、ダブリンは立ち直り、2017年現在では完全雇用に近い状態になっている。しかし、市内と周辺地域の住宅供給には依然と問題が残っている。
現在も、市の中心部のメリオン通りおよびメリオン広場周辺にアイルランド政府の議会や主要官庁が立ち並び、アイルランドの政治・経済・文化の中心として栄えている。
1842年からは、ダブリン市とダブリン男爵領の間で境界線が定められていた。 1930年には、地方政府(ダブリン)法によって境界線が拡張された。 その後、1953年には、地方政府暫定令確認法(Local Government Provisional Order Confirmation Act)により、境界線が再び拡大された。
ダブリン市議会(Comhairle Cathrach Bhaile Átha Cliath)は、5年ごとに地方選挙区から選出された63議席で構成される一院制の議会である。
議長は、1年ごとの任期で選出された市長が務め、ダブリンのマンションハウスに居住している。 議会会議はダブリン市庁舎で行われ、行政活動のほとんどはウッド岸壁の市民事務所で行われている。議席数の過半数を占める政党または政党連合が委員を割り当て、政策を紹介し、市長に提案する。議会は、住宅、交通管理、ごみ、排水、計画などの分野に支出するための年間予算を可決する。
大統領府はフェニックス・パークの大統領公邸に、ウラクタスの両院はキルデア通りにあるかつての公爵家の宮殿であるレンスター・ハウスにある。
ダブリンはアイルランドの首都であり、アイルランド国民議会(ウラクタス、ドイル・エアランとシャナズ・エアランの二院で構成)の所在地である。 アイルランド憲法においては、ダブリン及びその近郊に議会を開くことを義務付けている。
1922年にアイルランド自由国が誕生して以来、アイルランド議会の本拠地となっている。 アイルランド王国の旧アイルランド議会議事堂は、カレッジ・グリーンにある。
政府庁は、首相(Taoiseach)省、議会、財務省、司法長官室が入っている。 本館(1911年完成)と2つの棟(1921年完成)からなる。第一次国会は1919年にマンションハウスで開かれていた。
総選挙において、ダブリン5つの選挙区に分割されており、合計19名の国会議員(TD)を選出する。選挙区と定数はダブリン中央が3席、 ダブリン湾北部が5席、 ダブリン北西部が3席、 ダブリン南部が4席、ダブリン湾南部が4席となっている。
2016年の総選挙では、ダブリン市域は統一アイルランド党6名、シン・フェイン党4名、共和党2名、無所属4名、変革のための無所属議員2名、連帯-利益の前の国民1人、緑の党1人、社会民主党1名の議員(Teachta Dála, TD)が選出された。
2020年現在、ダブリン市は以下の都市との姉妹提携を結んでいる。
ダブリンはアイルランドの経済の中心地であり、ケルトの虎時代には国の経済発展の先頭に立っていた。かつては大英帝国第2の都市と呼称されるほどに栄えたものの、独立後アイルランド政府の保守政策と経済不況、またその結果としての人口の移民としての流出のために数十年にわたって寂れた。 しかし欧州共同体への加入、そして1990年代に入ってからのIT・製薬・観光・金融産業などによる急激な経済成長により、かつての植民地時代の規模をはるかに超えた成長と人口増加が見られた。 このため、不動産の高騰や交通渋滞など人口集中に伴う問題が多々起こり、町中のいたるところで街区の再開発が急ピッチで進められている。 2009年には、ダブリンは購買力で世界第4位、個人所得では第10位の富裕層都市に選ばれた。 マーサーの2011年世界生活費調査によると、ダブリンは欧州連合の中で13番目(2010年の10番から減少)、世界で58番目(2010年の42番から減少)に物価が高い都市である。 2017年現在、ダブリン都市圏では約87万4,400人が雇用されており、アイルランドの金融、ICT、専門職に就いている者の約6割が住んでいる
1759年以来、セント・ジェームズ・ゲート醸造所でギネスが醸造されているが、食品加工、繊維製造、醸造、蒸留などの多くは徐々に衰退している。
1990年代の経済改善により、多くのグローバル製薬企業、情報通信技術企業がダブリンとダブリン都市圏に進出してきた。マイクロソフト、Google、Amazon、EBay、PayPal、Yahoo!、Facebook、Twitter、アクセンチュア、ファイザーなどの企業は、ダブリンにヨーロッパ本社や事業拠点を構えており、デジタル・ハブや「シリコン・ドック」などの企業クラスターにも数々の企業が立地している。 これらの企業の存在がダブリンの経済発展を牽引し、ダブリンは「欧州の技術首都」と呼ばれることもある。
金融サービスは、ダブリンが国際金融センターのひとつとして発展するとともに重要な地位を占めるようになり、500以上の金融機関がIFSCプログラムの下で取引を行っている。シティバンクや コメルツ銀行などの海外銀行もダブリンに支店を設置している。主な取引所としては アイルランド証券取引所(ISEQ)やインターネット・ニュートラル取引所(INEX)、 アイルランド為替取引所(IEX)などがある。ダブリンは、イギリスの欧州連合離脱後もユーロ圏へのアクセスを維持したいと考えている金融サービス企業の受け入れを争う主要都市のひとつとして位置づけられている。ケルトの虎の影響で、ダブリン・ドックランズやスペンサー・ドックでは大規模な再開発プロジェクトが行われ、一時的に建設ブームが起こった。完成したプロジェクトには、コンベンション・センター、3アリーナ、ボード・ガシュ・エナジー・シアターなどがある。
2018年第2四半期、ダブリンの失業率はダブリン・エコノミック・モニターが報じた通り5.7%まで低下し、過去10年間で最も低い水準に触れた。
リフィー川はダブリンを南北に分断しており、文化的格差はある程度伝統的に存在していた。 南側は一般的に北側よりも裕福で上品であると見られている。
観光や不動産のマーケティングでは、ダブリン市内を複数の地区に分けることがある。
ダブリンはアイルランドのメディアと通信の中心地であり、多くの新聞社、ラジオ局、テレビ局、電話会社が拠点を置いている。アイルランド放送協会(RTÉ)はアイルランドの国営放送局で、ドニーブルックに本部を置いている。
アイリッシュ・タイムズやアイリッシュ・インデペンデントなどの全国紙や、イブニング・ヘラルドなどの地方紙もダブリンに本社を置いている。
ヴァージン・メディア・テレビジョン、eir Sport、MTV Ireland、Sky Newsもこの街に拠点を置いている。
ダブリンはRTÉラジオの本拠地であるだけでなく、全国放送のToday FMやNewstalkなどのラジオや、地方局も放送している。4fm (94.9 MHz)、Dublin's 98FM(98.1 MHz)、Radio Nova 100FM(100.3 MHz)、Q102(102.2 MHz)、SPIN 1038(103.8 MHz)、FM104(104.4 MHz)、Sunshine 106.8(106.8 MHz)などの民間ラジオ局がある。また、Dublin City FM(103.2 MHz)、Dublin South FM(93.9 MHz)、Liffey Sound FM(96.4 MHz)、Near FM(90.3 MHz)、Raidió Na Life(106.4 MHz)などのコミュニティ・ステーションや特別関心局も多数存在する。
アイルランド郵政事業(An Post)の本社やEirなどの通信会社、携帯電話会社のボーダフォンや3もこの街にある。
ダブリンはアイルランド最大の教育の中心地で、5つの総合大学をはじめ多くの高等教育機関がある。2012年には欧州科学首都に選ばれた。
ダブリン大学は、16世紀に設立されたアイルランド最古の大学で、市内中心部に位置している。唯一の構成カレッジであるトリニティ・カレッジ(TCD)は、1592年にエリザベス1世の王立特許状によって設立された。1793年まではカトリック教徒には閉鎖されていたが、1871年から1970年にかけてアイルランドのカトリック教会は、許可なく入学することを禁じていた。市内中心部のカレッジ・グリーンに位置し、18,000人以上の学生が在籍している。旧図書館では、ケルト美術を代表する作品『ケルズの書』などの収蔵文献が一般向けに公開されている。
アイルランド国立大学はダブリンに本部を置き、3万人以上が在籍しているユニバーシティ・カレッジ・ダブリン(アイルランド国立大学ダブリン校、UCD)の構成大学の所在地でもある。1854年に設立され、現在ではアイルランド最大の大学となっている。UCDの本キャンパスは、市内中心部から約5km離れた南東部郊外のベルフィールドにある。
1887年に起源を持つアイルランド最大の技術教育・研究機関であったダブリン技術学院(DIT)は、郊外にある2つの高等教育機関であるタラ技術学院(ITT)とブランチャーズタウン技術学院(ITB)と合併し、ダブリン工科大学(TUD)が発足した。工学、建築、科学、健康、ジャーナリズム、デジタルメディア、ホスピタリティ、ビジネス、芸術、音楽、人文科学など幅広い分野で教育・研究をしており、グランジゴーマン、タラ、ブランチャーズタウンの3つのキャンパスを有している。
ダブリンシティ大学(DCU)は、以前は国立高等教育機関(NIHE)のダブリン校として、ビジネス、工学、科学、コミュニケーション、語学、初等教育の教育・研究をしていた。約16,000人以上の学生が在籍しており、本キャンパスは市内中心部から約7kmの北部郊外に位置している。日本語・日本文化専攻を設けている。
アイルランド王立外科医学院(RCSI)は、医学部を中心に教育・研究をしており、市内中心部のセント・スティーブンス・グリーンに位置している。アート&デザイン国立大学(NCAD)は、芸術の教育・研究を行っている。アイルランド国立カレッジ(NCI)もダブリンにあり、社会科学の研究所である経済社会研究所、ダブリン高等研究所も市内にある。その他、カレッジ(単科大学)や継続教育も多く存在する。
ダブリンの初等教育機関(日本の小学校に相当)と中等教育機関(日本の中学校・高等学校に相当)では、主に英語を中心に教育が行われている。ダブリンにおいて「gaelscoileanna」と呼ばれるアイルランド語の初等教育機関が34校、「gaelcholáistí」と呼ばれるアイルランド語の中等教育機関が10校あり、12,950人の学生が在籍している。
ダブリン空港(DAAが所有・運営)は、ダブリン県フィンガル市のソーズ付近(ダブリン市から北)に位置している。 アイルランドのフラッグキャリアであるエアリンガスの本社や、コミューター航空会社であるストバートエア、シティジェットの本社があり、近くには格安航空会社のライアンエアーの本社もある。 ダブリン空港は、短・中距離路線、国内線、アメリカ合衆国、カナダ、中東、アジアへの長距離路線が運行されている。 欧州連合の中で11番目に利用者が多い空港で、アイルランド島内では最も利用者が多い空港となっている。 2016年には2,790万人の乗客がダブリン空港を利用し、短距離路線と長距離路線の成長に支えられ、過去最高の記録を樹立した。 2015年と2016年には大西洋横断便が増加し、北米への夏季便が週158便となり、ヨーロッパのハブ空港としては年間で6番目の規模となった。 2010年から2016年にかけて、ダブリン空港の年間旅客数は950万人近く増加しており、 民間航空機の移動数も同様に2013年の163,703便から2015年の191,233便へと成長傾向をたどっている。
ダブリンにはウェストン空港やその他の小規模な施設があり、様々なヘリコプターが利用しており、軍や一部の国家機関は近くのケースメント飛行場を利用している。
アイルランド国鉄により、インターシティ、コミューター、およびダブリン高速輸送(DART)が運行されている。 ダブリン・ヒューストン駅とダブリン・コノリー駅はダブリンの主要ターミナル駅である。 アイルランドで唯一の電車であるDARTはダブリンの沿岸に沿って運行しており、マラハイドとホウスから南下してウィックロー県のグレイストーンズまで、31の駅からなる。
コミューターは気動車であり、ダブリン都市圏とラウス県のドロヘダやダンドーク、ウェックスフォード県のゴリーなどの通勤都市を結んでいる。 2013年のDARTとダブリン郊外線の乗客はそれぞれ1,600万人、1,170万人だった(アイルランド国鉄の乗客全体の約75%)。
ダブリンにはかつて路面電車が通っていたが、1949年までに大部分が廃止された。 2004年には、ルアスと呼ばれる路面電車が運行を開始し、トランスデヴが運営しており、年間3,400万人以上の乗客を運んでいる。 レッドラインはドックランズと市内中心部と南西部の郊外のタラとサガートを結び、グリーンラインは市内北部の郊外と市内中心部と市内南部のサンディフォードやブライズグレンなどの郊外を結んでいる。 これらの路線は合計67の停留場と44.5kmの線路で構成されている。 2013年6月には、ダブリンの北側に6kmのグリーンライン延長工事が開始され、2017年12月9日に開通した。
地下鉄の「メトロリンク」が提案されており、ダブリン県北部のソーズからダブリン空港とセント・スティーブンス・グリーンを経由し、サンディフォードまで走る計画で、2021年以降に着工し、2027年に開通が予定されている。
ダブリンのバスは、市内と郊外を網羅する約200路線をほぼ2階建てバス(ダブルデッカー)で運行している。大部分は、ダブリンバスが運営しており、2018年には複数の路線がゴーアヘッド・アイルランドに移管されたが、中小バス会社もバス運行事業を行っている。 運賃は一般的に移動距離に応じたステージ制で計算される。2012年に導入されたリアルタイムの時刻表が採用されており、導入したバスは位置決定のGPSに基づき、バス到着までの時間を表示している。 国家運輸局(NTA)は、バスと電車などで相互に使えるICカード乗車券のリープカードの導入に携わった。
アイルランドの道路交通網は主にダブリンを中心としている。
高速道M50号はダブリンを半包囲する形で整備されており、国内の他の地域や北アイルランド方面の高速道路と接続している。
2006年に交通渋滞問題解消の第一段階として、ダブリン市の東部バイパスのダブリンポートトンネルが開通し、 ダブリン港や高速道M1号、ダブリン空港と接続している。 ダブリンは内側と外側の自動車専用道路に囲まれており、内側の自動車専用道路は、ジョージアン様式の街の中心部に接続しており、外側の自動車専用道路は、主にダブリン市内の2運河、大運河とロイヤル運河だけでなく、南北循環道路によって形成された自然な円に沿って整備されている。 利用料がほとんど無料であるが、一部の区域では有料となっている。 このうちM50号は料金所が撤去されており、ETCを利用するか、インターネットで翌日午後8時までに通行料金を支払う仕組みである。
2016年には、ダブリンは世界で15番目、ヨーロッパでは7番目に混雑している都市と評価されている。
2011年の国勢調査によると、ダブリンの通勤者の5.9%が自転車で移動している。ダブリン市議会が2013年に発表した市内外の運河を横断する交通の流れに関する報告書によると、全交通量の10%弱が自転車利用者で占められており、2012年比14.1%増、2006年比87.2%増となっている。自転車シェアリング、自転車専用レーンの設置、促進の啓発キャンペーン、市内中心部での速度制限30km/hの導入などの対策が功を奏している。
ダブリン市議会は、1990年代から市内全域に自転車専用レーンの設置を開始し、2012年には総長200kmを超えた。2011年には、世界の自転車に優しい都市ランキングで世界の主要都市の中で9位にランクされた。同指数では2015年に15位まで落ち込み、2017年にはダブリンは上位20圏外となった。
ダブリンバイクは、2009年からダブリンで運営されている自転車シェアリングである。ジェーシードゥコーとオンラインフードデリバリーサービスのJust Eatがスポンサーとなっており、市内中心部の駐輪場44場に数百台の自転車が設置されている。利用者は、1年契約を申し込むか、3日間切符を購入する必要がある。2018年には、66,000人以上の長期加入者が年間200万回以上利用している。
ダブリン港からのフェリーはホーリーヘッド行き、リヴァプール行きなどがあり、ステナライン、P&Oとアイリッシュ・フェリーが運航している。 ダブリン港とダブリン市街地の間には複数のバス路線が運行している。 ホーリーヘッド駅やリヴァプール・ライム・ストリート駅にはロンドン・ユーストン駅行きの列車が発着している。
ユーロラインズにより、ロンドンやエディンバラへの長距離バスが、フェリーを経由して運行されている。
ダブリンには、数百年前に遡る多くのランドマークやモニュメントがある。1169年にノルマン人がアイルランドに侵攻してきた直後の1204年に、イングランド王のジョンの命令で、街の防衛、司法、王の財宝の保護のために、強固な城壁と良好な溝を備えたダブリン城を建設することが命じられた。1230年までに完成した城は、典型的なノルマン様式の中庭型で、中央の広場にはキープがなく、四方を高い防御壁で囲まれ、各角を円形の塔で守っていた。ノルマン時代のダブリンの南東に位置するこの城は、街の外周の一角を形成し、ポドル川を自然の防御手段として利用していた。
ダブリンで最も新しいモニュメントのひとつが、正式には「光のモニュメント」と呼ばれるダブリンの尖塔である。ステンレス鋼製の円錐形の高さ121.2mの尖塔で、ヘンリー通りとノース・アール通りが交差するオコンネル通りにある。ネルソンの柱に代わるもので、21世紀のダブリンを象徴するものとされている。尖塔の設計はイアン・リッチー・アーキテクツが担当し、「芸術と技術の架け橋となるエレガントでダイナミックなシンプルさ」を追求した。モニュメントの基部と上部はライトアップされており、街中を横切る夜空にビーコンを設置している。
ダブリン大学のトリニティ・カレッジの旧図書館には、『ケルズの書』が所蔵されており、ダブリンで最も訪問者が多い場所のひとつである。『ケルズの書』は、西暦800年頃にアイルランドの修道士によって作成された絵入りの写本である。リフィー川にかかる鉄製の歩道橋であるハーフペニー橋は、ダブリンで最も撮影された名所のひとつであり、ダブリンを象徴するランドマークのひとつとされている。
その他のランドマークやモニュメントには、クライストチャーチ大聖堂、聖パトリック大聖堂、マンションハウス、モリー・マローン像、アイルランド国立博物館やアイルランド国立図書館の一部を含むレンスター・ハウス周辺の複合建築物、カスタム・ハウス、大統領公邸などがある。その他には、アンナ・リヴィアのモニュメントがある。発電所のプールベグ・タワーもランドマークのひとつとされており、市内の様々な場所から見ることができる。
ダブリン市内には多くの緑地があり、ダブリン市議会が1,500ヘクタール(3,700エーカー)以上の公園を管理している。公営の公園には、フェニックス・パーク、ハーバート・パーク、セント・スティーブンス・グリーン、セント・アンズ・パーク、ブル島などがある。フェニックス・パークは、市内中心部から西に約3km、リフィー川の北側に位置している。周囲16kmの城壁は707ヘクタール(1,750エーカー)を囲み、ヨーロッパ最大級の城壁都市公園のひとつとなっている。草原と並木道があり、17世紀以来、野生の休耕地の鹿の群れが生息している。1751年に建てられたアイルランド大統領公邸(Áras an Uachtaráin)、ダブリン動物園、アシュタウン城、アメリカ大使の公邸も公園内にある。また、音楽コンサートや日本文化を紹介するエクスペリエンス・ジャパンなどのイベントが開催されることもある。
セント・スティーブンス・グリーンは、繁華街のひとつであるグラフトン・ストリートとスティーブンス・ショッピングセンターに隣接しており、周辺の通りには公共機関が立ち並んでいる。
セント・アンズ・パークは、北岸の郊外にあるレヒーニーとクロンターフの間で共有されている公園で、レクリエーション施設としても利用されている。ダブリンで2番目に大きい市営公園であり、1835年にベンジャミン・ギネスを始めとするギネス家の一族によって集められた2kmの敷地の一部で、5kmにおよぶ海辺が特徴的である。
ダブリンには重要な文学の歴史があり、ノーベル賞受賞者のウィリアム・バトラー・イェイツ、ジョージ・バーナード・ショー、サミュエル・ベケットなど、多くの文学者を輩出している。その他にも、オスカー・ワイルド、ジョナサン・スウィフト、ドラキュラの生みの親であるブラム・ストーカーなど、影響力のある作家や劇作家を輩出している。町の南の郊外には、ジェイムズ・ジョイスが一時滞在していた建物が記念館として残っている。ジョイスはこの地の人々の日常と町の歴史や苦難の過去を重ね写しにした佳作『ダブリン市民』という短編集も書いた。記念館はナポレオンの侵攻に備えて作られた見張り塔だった建物で、チェスの城の駒のかたちで異様な体をなしている。ジョイスの代表作『ユリシーズ』は、ホメロス『オデュッセイア』の主人公2人に見立てたブルームとスティーヴン・ディーダラスが、ダブリンの町を知らず知らず互いを求めながらさまよう物語である。また、この地の出身の哲学者にして、聖職者バークリ僧正は、アメリカに宣教に赴き、カリフォルニア大学バークリ校にその名前を残した。他にも、ジョン・ミリントン・シング、ショーン・オケーシー、 ブレンダン・ビハン、メイヴ・ビンチー、ジョン・バンヴィル、ロディ・ドイルなどの著名な作家が名を連ねている。ダブリンには、アイルランド国立版画博物館やアイルランド国立図書館など、アイルランド最大の図書館や文学博物館がある。ジェイムス・ジョイスタワーと博物館や、かつて存在したダブリン・ライターズ・ミュージアム、2019年に開館したアイルランド文学博物館(英語版)など、文学館は多数ある。2010年7月、ダブリンはエディンバラ、メルボルン、アイオワシティに続き、ユネスコの文学都市に選ばれた。
市内中心部には数々の劇場があり、ノエル・パーセル、マイケル・ガンボン、ブレンダン・グリーソン、スティーヴン・レイ、コリン・ファレル、コルム・ミーニイ、ガブリエル・バーンなど、ダブリンの演劇界からは様々な俳優が登場している。最もよく知られている劇場は、ガイエティ劇場、アベイ座、オリンピア劇場 、ゲート座、ボード・ガシュ・エナジー・シアターなどがある。ガイエティ劇場は、ミュージカルやオペラの作品を専門としており、様々なライブ音楽、ダンス、映画を開催している。アベイ座は、1904年にイェイツを含むグループによって、土着の文学者の才能を促進する目的で設立された。その後、ジョン・ミリントン・シング、イェイツ自身、ジョージ・バーナード・ショーなどの作家の何人かに躍進をもたらした。ゲート座は1928年にヨーロッパとアメリカの前衛作品の振興を目的に設立された。ボード・ガイス・エナジー・シアターは、2010年にグランド・カナル・ドックに開場した劇場である。
ダブリンは、アイルランドの文学や演劇の中心地であるだけでなく、アイルランドの芸術や芸術シーンの中心地でもある。ダブリン大学トリニティ・カレッジには、西暦800年にケルト人の僧侶によって制作された写本の『ケルズの書』が展示されている。ダブリン城に設けられたチェスター・ビーティ図書館には、アメリカの大富豪(アイルランドの名誉市民)であるアルフレッド・チェスター・ビーティ卿(1875年 - 1968年)が収集した写本、細密画、版画、描画、貴重書、装飾美術のコレクションが収蔵されている。紀元前2700年以降のもので、日本の長恨歌絵巻など、アジア、中東、北アフリカ、ヨーロッパの美術コレクションを所蔵している。
また、アイルランド現代美術館、国立美術館、ヒュー・レーン・ギャラリー、ダグラス・ハイド・ギャラリー、プロジェクト・アーツ・センター、ロイヤル・ハイバーニアン・アカデミーの展示スペースなどのギャラリーは、ダブリン市内のいたるところにあり、無料で見学することができる。
アイルランド国立博物館には、キルデア通りにある考古学、コリンズ・バラックスにある装飾美術・歴史、メリオン通りにある自然史の3つの分館がある。フィッツウィリアム通りの29番館やセント・スティーブンス・グリーンの ダブリン・リトル・ミュージアム などの小規模な博物館もある。ダブリンには、1746年に設立されたアート&デザイン国立大学(NCAD)と1991年に設立されたダブリン・デザイン研究所がある。ダブリニアは、ダブリンのヴァイキングや中世の歴史を紹介する歴史のアトラクションである。
ダブリンが2014年の世界デザイン首都の開催候補に選ばれた。当時の首相のエンダ・ケニーは、ダブリンは「2014年に世界デザイン首都を開催するのに理想的な候補になるだろう」と発言した。
ダブリンはナイトライフが盛んであり、ヨーロッパで最も若者が多い都市のひとつとされており、市民の50%が25歳以下と推定されている。セント・スティーブンス・グリーンやグラフトン通り周辺、ハーコート通り、カムデン通り、ウェックスフォード通り、リーソン通りはナイトクラブやパブが多くある場所である。
市内中心部のテンプルバー地区はかつて荒廃していたが、政府の再開発計画によりパブ、ギャラリー、レストラン、カフェ、映画館、クラブ、ライブハウスなどの集中する観光名所・若者の地域として生まれ変わった。イギリスからのバチェラー・パーティーやバチェロレッテ・パーティーなども行われている。
市内の各所では路上で大道芸を繰り広げるミュージシャンの姿を見かける。ダブリンはザ・ダブリナーズ、シン・リジィ、ブームタウン・ラッツ、U2、ザ・スクリプト、シネイド・オコナー、ボーイゾーン、コーダライン、ウエストライフ、ボブ・ゲルドフ、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどの国際的な成功を収めた音楽家やグループを輩出してきた。ダブリンには、ウィーランズ(Whelans)やヴィカー・ストリート(Vicar Street)など、一週間を通してライブミュージックを開催する中規模の会場がいくつかある。ダブリン・ドックランズにある3アリーナでは、世界的なパフォーマーの来日公演が行われている。
2018年のミシュランガイドで、ダブリンにある5つのレストランはミシュランの星を獲得している。アイルランド出身のケビン・ソーントンは2001年にミシュランの2つ星を獲得している。ダブリン技術学院(現在のダブリン工科大学)では、1999年に料理技術の学士号が追加された。
歴史的には、アイルランドのカフェは、メディアで働く人々のものとされていた。21世紀に入ってからは、ダブリンでのアパート暮らしの増加に伴い、カフェには、気軽に集まれる場所やその場しのぎのオフィスを探している若者が集まった。ダブリンではカフェの人気が高まり、Java Republic、Insomnia、O'Brien's Sandwich Barsなどのアイルランド経営のコーヒーチェーンが国際的な競争相手となっている。2008年には、アイルランド人バリスタのスティーブン・モリッシーが世界バリスタ・チャンピオンの称号を獲得した。
紅茶、コーヒーの製造とカフェを運営しているビューリーズは、ダブリンに本社および本店を置いている。
クローク・パークはアイルランド最大のスポーツスタジアムである。ゲーリック体育協会(GAA)の本部で、収容人数は82,300人である。バルセロナのカンプ・ノウ、ロンドンのウェンブリー・スタジアムに次ぐ、ヨーロッパで3番目に大きなスタジアムとなる。ゲーリックフットボールやハーリングの試合、国際ルール・サッカー、不定期にコンサートを含むその他のスポーツイベントや非スポーツイベントが開催されている。モハメド・アリは1972年にここで戦い、2003年のスペシャルオリンピックスの開会式と閉会式の司会を務めた。また、会議や宴会場も併設されている。GAA博物館があり、スタジアムの屋上を歩くツアーなども行われている。ランズダウン・ロードの再開発中、クローク・パークは、ラグビーアイルランド代表とサッカーアイルランド共和国代表の本拠地となったほか、2008年 - 2009年のヨーロピアンラグビーチャンピオンズカップ準決勝のマンスター対レンスター戦が開催され、ラグビーの試合としては世界最高の観客動員数を記録した。ダブリンGAAチームは、ホームリーグのハーリングの試合のほとんどをパーネル・パークで行っている。
ランズダウン・ロードは1874年に建設された。ラグビーアイルランド代表とサッカーアイルランド共和国代表の会場となっていた。アイルランドラグビー協会、フットボール・アソシエーション・オブ・アイルランド、アイルランド政府の共同事業により、2010年5月に開場となった5万席の最新設備を備えたアビバ・スタジアムに再開発された。アビバ・スタジアムでは、2011年のUEFAヨーロッパリーグ決勝戦が開催された。ラグビーユニオンのレンスター・ラグビーは、RDSアリーナとアビバ・スタジアムでホームゲームを行う。
ダブリン県には、ボヘミアンFC、シャムロック・ローヴァーズFC、セント・パトリックス・アスレティックFC、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンAFC、シェルボーンFC、キャビンティーリーFCの6つのリーグ・オブ・アイルランド(サッカー)がある。アイルランドで初めてヨーロッパ大会のグループステージ(2011-12 UEFAヨーロッパリーグのグループステージ)に進出したのは、南ダブリン市のタラ・スタジアムでプレーするシャムロック・ローバーズFCだった。ボヘミアンFCは、国内最古のサッカースタジアムであり、1904年から1990年までアイルランドのサッカーチームのホームグラウンドであったデイリーマウント・パークでプレーしている。セント・パトリック・アスレティックFCはリッチモンド・パークで、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンAFCはダン・レアリー=ラスダウン市のUCDボウルで、シェルボーンFCはトルカ・パークでプレーしている。
ダブリンには、キャッスル・アベニューとマラハイド・クリケット・クラブ・グラウンドの2つのODIクリケット・グラウンドがある。キャッスル・アベニューでは、1999年5月21日にバングラデシュが西インド諸島と対戦した1999年クリケットワールドカップの一環として、最初のワンデー国際試合が開催された。ダブリン大学トリニティ・カレッジのカレッジ・パークは、アイルランド初のテスト・クリケットの試合、2000年のパキスタンとの女子試合が行われた。また、男子のクリケットアイルランド代表は、2018年の間にマラハイド・クリケット・クラブ・グラウンドでパキスタンとの初のテスト・マッチを行った。レンスター・ライトニングは、カレッジ・パークでホームの地方間試合を行っている。
アイリッシュ・ベースボール・リーグのダブリン・ブラックソックス、ダブリン・ハリケーンズ、ダブリン・スパルタズが本拠地としている。
ダブリン・マラソンは1980年から10月末に開催されている。女子ミニ・マラソンは、1983年からアイルランドの銀行の休日でもある6月の第一月曜日に開催されている。世界最大の全女性のイベントと言われている。グレート・アイルランド・ラン(Great Ireland Run)は、4月中旬にダブリンのフェニックス・パークで開催されている。
シェールボーン・パークでドッグレースが、レパーズタウンでは競馬が開催されている。ダブリン・ホース・ショーは、1982年に障害飛越競技の世界選手権が開催されたダブリン王立協会(RDS)で開催される。
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"text": "ダブリン(愛: Baile Átha Cliath、英: Dublin)は、アイルランド島東部に位置する、アイルランドの首都。",
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"text": "レンスター地方のダブリン県に属している。リフィー川河口、東海岸の湾に位置し、その南北に町が広がる。南にはウィックロー山地の一部であるダブリン山地に接している。2016年の人口は117万3179人だった。",
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"text": "アイルランドの政治・経済・交通・文化の中心地であり、アイルランドの全人口の44%がダブリン首都圏に集中するアイルランド国内最大の都市である。ヨーロッパ有数の世界都市であり、重要な金融センターのひとつになっている。",
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"text": "市内にはアイルランド人の権利の拡大に尽力した人々やイギリスからの独立運動のために命を落とした活動家の名前が記念日や通りの名前に多く見られる。ダニエル・オコンネルに因む町の目抜き通りのオコンネル通りやパトリック・ピアースにちなむピアース通り、コノリー駅などが例に挙げられる。これらは本来は別の名前がつけられていたが、1921年の独立後に改名されたものである(オコンネル通りはかつてはサックビル通りと呼ばれていた)。",
"title": "概要"
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"text": "「ダブリン」は、初期の古典アイルランド語で「黒い水溜り」を意味する「Dubhlind/Duibhlind」に由来し、「黒い、暗い」を意味する「dubh」と、水溜りを意味する「lind」でからきている。 この水溜まりは、ポドル川がリフィー川に入った位置にあり、ダブリン城の裏手にある城庭の跡地にあった。 現代のアイルランド語では「Duibhlinn」と呼ばれているが、ダブリン県のアイルランド語の韻文によると、「Duílinn」と呼ばれている。 この発音は、古英語の「Difelin」、古ノルド語の「Dyflin・ᛑᛦᚠᛚᛁᚿ」、アイスランド語の「Dyflinn」、マン島語の「Divlyn」、ウェールズ語の「Dulyn」、ブルトン語の「Dulenn」など、他の言語にも受け継がれている。",
"title": "概要"
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"text": "アイルランドの他の地域では、「Duibhlinn」という名前が付けられており、「Devlin」、「Divlin」、「Difflin」と様々な形で英語化されている。 歴史的には、インシュラー体では、「b」の上に点をつけ、「bh」と書き、「Duḃlinn」または「Duiḃlinn」と表現していた。 アイルランド語の知識がなかった者は、ドットを省略し、「Dublin」と表記した。",
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"text": "現在では、ヴァイキングの入植地が、キリスト教の教会的な入植地として知られる「Duibhlinn」に先行していたと考えられており、そこから「Dyflin」の名前が付けられた。9世紀と10世紀には、現在の街がある場所に2つの集落があった。841年頃のヴァイキングの集落である「Dyflin」と、川をさらに遡ったところにあったゲール人の集落である「Áth Cliath」は、チャーチ通りの下の方にある現在のファーザー・マシュー橋(ダブリン橋としても知られている)にある。「Baile Átha Cliath」は、「編み垣の渡瀬の町」という意味で、現代アイルランド語ではダブリンを指すのに使われている。「Áth Cliath」は、ファザー・マシュー橋付近にある、リフィー川の分岐点を指している地名である。同名の町は他にもあり、例えばスコットランドのイースト・エアシャーのハールフォードには、「Àth Cliath」とスコットランド・ゲール語で表記されている。",
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"text": "ダブリンはリフィー川の河口に位置し、アイルランドの東中央部に位置する約115kmの土地面積を持つ。南はダブリン山地と呼ばれる低山地帯とウィックロー山脈の亜山脈に囲まれ、北と西は平坦な農地に囲まれている。",
"title": "地理"
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"text": "リフィー川はダブリンを北岸と南岸の間で2つに分けている。リークスリップで北東方向から東方向にカーブしており、この地点で農地利用から都市開発への移行が行われている。",
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"text": "南東にダブリン湾に注ぐトルカ川(英語版)と北東に流れるドダー川があり、リフィー川には複数の支流が存在している。また、複数の小川も海に流れている。",
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"text": "リフィー川に面した港には大型船舶用の埠頭があり、南のロイヤル運河と北のグランド運河の2つの大運河がダブリンとシャノン川を結び、市内を環状に流れている。",
"title": "地理"
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"text": "南東部のダブリン湾(英語版)にブル島(英語版)があり、付近に塩性湿地と砂丘地形が発達している。植物はアッケシソウ、ハリヒジキ(英語版)、Cakile maritima(英語版)、ボウアオノリ、ヒラアオノリ(英語版)、オオバアオサ(英語版)、Zostera noltii(英語版)などがあり、動物はニシズグロカモメ、コクガン、オグロシギ、オオソリハシシギ、アオサギ、ホオジロガモ、ウミアイサ、アオアシシギ、コアジサシ、ミヤコドリ、ユキウサギのアイルランド亜種などが生息している。バルドイル湾(英語版)を含む一帯はユネスコの生物圏保護区に指定されており、3カ所のラムサール条約登録地がある。",
"title": "地理"
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"text": "日本の北海道よりも高緯度に位置するが、北西ヨーロッパの他の多くの地域と同様に、ダブリンは海洋性気候(Cfb)に属し、冬は温暖で、夏は涼しく、極端な気温の変化はない。1月の平均最低気温は2.4°C、7月の平均最高気温は20.2°Cである。最も日照時間が長い月は5月と6月で、最も雨の多い月は10月で76mm、最も乾燥している月は2月で46mmである。年間降水量は日本よりも少ないが、降水量は一年を通して均等に分布している。",
"title": "地理"
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"text": "ダブリンは東海岸に位置しているため、アイルランドで最も乾燥しており、降水量は西海岸の約半分しかない。市内南部のリングゼンドは、年間平均降水量が683mmと国内で最も少なく、市内中心部の年間平均降水量は714mmとなっている。冬の主な降水量は雨であるが、11月から3月にかけては雪が降ることもある。ただ、雪よりも雹が降ることが多い。秋には大西洋からの強い風が吹くが、ダブリンは東海岸のため、他の地域に比べて影響は少ない。しかし、冬になると東風の影響で気温が下がり雪が降ることがある。",
"title": "地理"
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"text": "20世紀、ダブリンではスモッグと大気汚染が問題となり、1990年に瀝青燃料の使用が禁止された。黒煙の濃度が住民の心血管系や呼吸器系の死亡に関係していたことに対処するためである。禁止以来、非外傷性死亡率、呼吸器死亡率、心血管死亡率は減少しており、年間の死亡者は約350人と推定されている。",
"title": "地理"
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"text": "ダブリンは、郵便局区によって区分されている。リフィー川以北は奇数、以南は偶数となっている。ダブリン県の一部の地域(ダン・レアリー、ブラックロック、ルーカン、ソーズなど)では、郵便局区がない。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "ダブリン市はダブリン市議会が管轄する地域であるが、「ダブリン」とは隣接する地方自治体であるダン・レアリー=ラスダウン市、フィンガル市、南ダブリン市の一部を含む都市部を指す言葉としても使われる。これら4つの地域を合わせ、伝統的にダブリン県を形成しており、「ダブリン地域」と呼ばれることもある。 2016年の国勢調査では、市議会が管理する行政区域の人口は554,554人、都市部の人口は1,173,179人であった。ダブリン県の人口は1,273,069人、ダブリン都市圏(ダブリン県・ミーズ県・キルデア県・ウィックロー県)の人口は1,904,806人だった。人口は急速に拡大しており、中央統計局の推計では2020年には210万人に達するとされている。",
"title": "地理"
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"text": "第二次世界大戦後、イタリア人はダブリンとアイルランドの両方で圧倒的に最大の移民グループであり、ケータリングやレストランの代名詞となった。 1990年代後半以降、ダブリンは大幅な純移民を経験しており、特にイギリス、ポーランド、リトアニアなどの欧州連合からの移民が最も多くなっている。 また、ブラジル、インド、フィリピン、中華人民共和国、ナイジェリアなど、ヨーロッパ以外の国からの移民も在住している。 ダブリンは、アイルランドの他の地域よりも新しい移民の割合が高い。 アイルランドのアジア系人口の60%がダブリンに在住している。 2006年には、ダブリンの人口の15%以上が外国生まれだった。",
"title": "地理"
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"text": "ダブリンは、他国からの非カトリック系移民の割合が最も高い。アイルランドでの世俗化の進展により、ダブリンのカトリック教会への定期的な出席率は1970年代半ばには90%を超えていたが、2011年の調査では14%にまで低下している。",
"title": "地理"
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"text": "2016年の国勢調査によると、ダブリンの人口は白人アイルランド人が86.2%(862,381人)、その他白人が13.2%(132,846人)、白人アイリッシュ・トラヴェラーが0.5%(5,092人)、黒人が2%(2万3,892人)、アジア人が4.6%(4万6,626人)となっている。さらに、2.7%(27,412人)は他の民族や文化的背景を持っており、4.9%(49,092人)は民族性を明言していない。",
"title": "地理"
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"text": "宗教面では、68.2%がカトリック、12.7%がその他の宗教、19.1%が無宗教を表明していた。",
"title": "地理"
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"text": "2018年7月時点で、ダブリン地域内でホームレスの宿泊施設やその他の緊急住宅で生活している世帯は1,367世帯だった。",
"title": "地理"
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"text": "ダブリン湾の地域は有史以前から有人だったが、西暦140年頃のプトレマイオス(古代ギリシャ・ローマ時代の天文学者・地図学者)の記述が、そこに定住していたことを示す最古の文献となっている。これを「Ἔβλανα πόλις」と呼んでいた。",
"title": "歴史"
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"text": "ダブリンは1988年に千年紀を迎えた。アイルランド政府は988年の入植地が後にダブリン市となったと認識している。",
"title": "歴史"
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"text": "現在では、841年頃のヴァイキングの入植が、キリスト教の教会的な入植地として知られる「Duibhlinn」に先行していたと考えられており、「Dyflin」はそこから名を取ったと言われている。9世紀と10世紀には、後に現在のダブリンとなる2つの集落があった。その後のスカンジナビア人の集落は、現在のウッド岸壁として知られる地域のリフィー川の支流であるポドル川に集中していた。「Dubhlinn(ドゥヴ・リン)」は、ポドル川の最も低い場所にある水溜りのことを指し、船を係留するのに使われていた。この水溜りは、ダブリン城内のチェスター・ビーティ図書館の向かい側、現在のキャッスル公園がある場所にもあり、18世紀初頭に都市の成長に伴い、最終的に浸水した。『クーリーの牛争い』では、「Dublind rissa ratter Áth Cliath(オー・クリアと呼ばれているダブリン)」と記載されている。",
"title": "歴史"
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"text": "ダブリンは10世紀にヴァイキングの居住地として設立され、アイルランド人による何度もの攻撃にもかかわらず、1169年にウェールズからノルマン人がアイルランドを侵攻するまで、大部分がヴァイキングの支配下にあった。1166年初頭にアイルランド上王のムルタ・マクロクリンが死去し、コノート王のルアリー・ウア・コンホヴァルがダブリンに上陸し、反対することなくアイルランド王に就任した。",
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "歴史家によると、ダブリンの初期の経済成長の一部は、奴隷貿易に起因しているという説もある。アイルランドとダブリンの奴隷制度は、9世紀から10世紀にかけて頂点に達した。奴隷襲撃や誘拐の囚人は、アイリッシュ海の襲撃者や、奴隷制度を始めたヴァイキングに収益をもたらした。犠牲者の中には、ウェールズ、イングランド、ノルマンディーなどから来ていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "レンスター王のダーマット・マクモローは、ペンブルック伯のリチャード・ド・クレア(愛称: 強弓)の助けを借り、ダブリンを征服した。マック・マローの死後、強弓は都市の支配権を獲得した後、自らをレンスター王と宣言した。強弓の侵略に成功したイングランド王のヘンリー2世は、1171年に大規模な侵略を行い、アイルランドの領主としての究極の主権となった。この頃、ダブリン市に隣接する一定の自由権とともに、ダブリン市の県(County)が設立され、1840年にダブリン市がダブリン男爵制から分離されるまで続いた。2001年以降は、両男爵領がダブリン市として再指定されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アイルランドにおけるノルマン勢力の中心地となったダブリン城は、1204年にイングランド王のジョンの命令を受け、大規模な防衛工事として築城された。1229年に初代ダブリン市長が任命された後、ダブリンの街は拡大し、13世紀末には8,000人の人口を抱えるまでになった。1317年にスコットランド王のロバート1世がダブリンを占領しようとしたにもかかわらず、貿易の中心地として繁栄した。14世紀に入っても、城壁で囲まれた比較的小さな中世の町のままで、周囲の先住民族の脅威にさらされていた。1348年には、ヨーロッパを襲ったペストがダブリンを襲い、その後の10年間で何千人もの死者を出した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ダブリンは、ペイルとしてイングランド君主に編入された。16世紀のテューダー朝のアイルランド征服は、ダブリンに新たな時代の幕開けを告げ、アイルランドの行政支配の中心地として新たな存在感を発揮した。ダブリンをプロテスタントの街にしようと決意したイングランド女王のエリザベス1世は、1592年にダブリン大学のトリニティ・カレッジをプロテスタントの大学として設立し、カトリック教会の聖パトリック大聖堂とクライストチャーチ大聖堂をプロテスタントに改築するよう命じた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1640年には21,000人の人口を擁していたが、1649年から1651年にかけてペストが発生し、住民のほぼ半数が全滅した。しかし、その後すぐにイギリスとの羊毛・リネン貿易の結果として再び繁栄し、1700年には人口は5万人を超えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1759年にギネス醸造所が設立され、やがて世界最大の醸造所に成長し、ダブリンで最大の雇用主となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "17世紀、イギリスのピューリタン革命の間、ダブリンはクロムウェルの議会派勢力に包囲された。1798年のアイルランド民族主義組織ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起に際してはダブリン攻略の試みは失敗し、1803年、1847年、1867年にも蜂起がくりかえされた。1916年と1919年から1921年のアイルランド蜂起では、ダブリンははげしい戦場となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "歴代のアイルランド王や有力者、またアイルランドを植民地支配したイングランドもダブリン城に行政の拠点を置き、アイルランド独立にいたるまでアイルランドの行政と政治の中心であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "17世紀末頃より、大陸から来たユグノーやフランドル人によって各種工業が発展し、18世紀には大英帝国第2の都市、ヨーロッパでも5番目に大きい都市となった。旧市街にはこの頃に建てられた建築物が数多く残っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1800年の合同法がアイルランド議会にて可決、成立した。これにより、グレートブリテン王国との合同が成され、それとともにアイルランド議会は解散した。この頃より、ダブリンは政治的、経済的衰退に苦しんだ。産業革命では大きな役割を果たさなかったが、行政の中心地であり、島の大部分の交通の要所であり続けた。アイルランドには当時の燃料である石炭の重要な供給源がなく、ダブリンはイギリスとアイルランドの産業発展のもうひとつの原動力である船舶製造の中心地ではなかった。ベルファストは国際貿易、工場でのリネン生地生産、造船業などが混在していたため、この時期のダブリンよりも早く発展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "12世紀にノルマン人の支配が始まって以来、ダブリンはアイルランド卿(1171年 - 1541年)アイルランド王国(1541年 - 1800年)、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(1801年 - 1922年)、アイルランド共和国(1919年 - 1922年)などの地政学的な組織の中で首都として機能してきた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ダブリンもまた、30年にも及ぶ北アイルランド紛争の犠牲者だったが、暴力は主に北アイルランド内で発生した。しかし、IRA暫定派はダブリンを含む共和国内からも支援を受けていた。 ロイヤリスト(イギリスと北アイルランドの連合の支持者)の準軍事組織であるアルスター義勇軍は、この時期に街を爆撃し、ダブリン・モナハン爆弾事件では、ダブリン中心部を中心に34人が死亡した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1997年以降、ダブリンの景観は変化してきた。ケルトの虎時代には、住宅・交通・ビジネスなどの民間部門と国家による開発が行われ、アイルランドの経済発展の先頭に立っていた。 大不況期に経済が落ち込んだ後、ダブリンは立ち直り、2017年現在では完全雇用に近い状態になっている。しかし、市内と周辺地域の住宅供給には依然と問題が残っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "現在も、市の中心部のメリオン通りおよびメリオン広場周辺にアイルランド政府の議会や主要官庁が立ち並び、アイルランドの政治・経済・文化の中心として栄えている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1842年からは、ダブリン市とダブリン男爵領の間で境界線が定められていた。 1930年には、地方政府(ダブリン)法によって境界線が拡張された。 その後、1953年には、地方政府暫定令確認法(Local Government Provisional Order Confirmation Act)により、境界線が再び拡大された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ダブリン市議会(Comhairle Cathrach Bhaile Átha Cliath)は、5年ごとに地方選挙区から選出された63議席で構成される一院制の議会である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "議長は、1年ごとの任期で選出された市長が務め、ダブリンのマンションハウスに居住している。 議会会議はダブリン市庁舎で行われ、行政活動のほとんどはウッド岸壁の市民事務所で行われている。議席数の過半数を占める政党または政党連合が委員を割り当て、政策を紹介し、市長に提案する。議会は、住宅、交通管理、ごみ、排水、計画などの分野に支出するための年間予算を可決する。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "大統領府はフェニックス・パークの大統領公邸に、ウラクタスの両院はキルデア通りにあるかつての公爵家の宮殿であるレンスター・ハウスにある。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ダブリンはアイルランドの首都であり、アイルランド国民議会(ウラクタス、ドイル・エアランとシャナズ・エアランの二院で構成)の所在地である。 アイルランド憲法においては、ダブリン及びその近郊に議会を開くことを義務付けている。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1922年にアイルランド自由国が誕生して以来、アイルランド議会の本拠地となっている。 アイルランド王国の旧アイルランド議会議事堂は、カレッジ・グリーンにある。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "政府庁は、首相(Taoiseach)省、議会、財務省、司法長官室が入っている。 本館(1911年完成)と2つの棟(1921年完成)からなる。第一次国会は1919年にマンションハウスで開かれていた。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "総選挙において、ダブリン5つの選挙区に分割されており、合計19名の国会議員(TD)を選出する。選挙区と定数はダブリン中央が3席、 ダブリン湾北部が5席、 ダブリン北西部が3席、 ダブリン南部が4席、ダブリン湾南部が4席となっている。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2016年の総選挙では、ダブリン市域は統一アイルランド党6名、シン・フェイン党4名、共和党2名、無所属4名、変革のための無所属議員2名、連帯-利益の前の国民1人、緑の党1人、社会民主党1名の議員(Teachta Dála, TD)が選出された。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2020年現在、ダブリン市は以下の都市との姉妹提携を結んでいる。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ダブリンはアイルランドの経済の中心地であり、ケルトの虎時代には国の経済発展の先頭に立っていた。かつては大英帝国第2の都市と呼称されるほどに栄えたものの、独立後アイルランド政府の保守政策と経済不況、またその結果としての人口の移民としての流出のために数十年にわたって寂れた。 しかし欧州共同体への加入、そして1990年代に入ってからのIT・製薬・観光・金融産業などによる急激な経済成長により、かつての植民地時代の規模をはるかに超えた成長と人口増加が見られた。 このため、不動産の高騰や交通渋滞など人口集中に伴う問題が多々起こり、町中のいたるところで街区の再開発が急ピッチで進められている。 2009年には、ダブリンは購買力で世界第4位、個人所得では第10位の富裕層都市に選ばれた。 マーサーの2011年世界生活費調査によると、ダブリンは欧州連合の中で13番目(2010年の10番から減少)、世界で58番目(2010年の42番から減少)に物価が高い都市である。 2017年現在、ダブリン都市圏では約87万4,400人が雇用されており、アイルランドの金融、ICT、専門職に就いている者の約6割が住んでいる",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1759年以来、セント・ジェームズ・ゲート醸造所でギネスが醸造されているが、食品加工、繊維製造、醸造、蒸留などの多くは徐々に衰退している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1990年代の経済改善により、多くのグローバル製薬企業、情報通信技術企業がダブリンとダブリン都市圏に進出してきた。マイクロソフト、Google、Amazon、EBay、PayPal、Yahoo!、Facebook、Twitter、アクセンチュア、ファイザーなどの企業は、ダブリンにヨーロッパ本社や事業拠点を構えており、デジタル・ハブや「シリコン・ドック」などの企業クラスターにも数々の企業が立地している。 これらの企業の存在がダブリンの経済発展を牽引し、ダブリンは「欧州の技術首都」と呼ばれることもある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "金融サービスは、ダブリンが国際金融センターのひとつとして発展するとともに重要な地位を占めるようになり、500以上の金融機関がIFSCプログラムの下で取引を行っている。シティバンクや コメルツ銀行などの海外銀行もダブリンに支店を設置している。主な取引所としては アイルランド証券取引所(ISEQ)やインターネット・ニュートラル取引所(INEX)、 アイルランド為替取引所(IEX)などがある。ダブリンは、イギリスの欧州連合離脱後もユーロ圏へのアクセスを維持したいと考えている金融サービス企業の受け入れを争う主要都市のひとつとして位置づけられている。ケルトの虎の影響で、ダブリン・ドックランズやスペンサー・ドックでは大規模な再開発プロジェクトが行われ、一時的に建設ブームが起こった。完成したプロジェクトには、コンベンション・センター、3アリーナ、ボード・ガシュ・エナジー・シアターなどがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2018年第2四半期、ダブリンの失業率はダブリン・エコノミック・モニターが報じた通り5.7%まで低下し、過去10年間で最も低い水準に触れた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "リフィー川はダブリンを南北に分断しており、文化的格差はある程度伝統的に存在していた。 南側は一般的に北側よりも裕福で上品であると見られている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "観光や不動産のマーケティングでは、ダブリン市内を複数の地区に分けることがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ダブリンはアイルランドのメディアと通信の中心地であり、多くの新聞社、ラジオ局、テレビ局、電話会社が拠点を置いている。アイルランド放送協会(RTÉ)はアイルランドの国営放送局で、ドニーブルックに本部を置いている。",
"title": "情報・通信"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "アイリッシュ・タイムズやアイリッシュ・インデペンデントなどの全国紙や、イブニング・ヘラルドなどの地方紙もダブリンに本社を置いている。",
"title": "情報・通信"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ヴァージン・メディア・テレビジョン、eir Sport、MTV Ireland、Sky Newsもこの街に拠点を置いている。",
"title": "情報・通信"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ダブリンはRTÉラジオの本拠地であるだけでなく、全国放送のToday FMやNewstalkなどのラジオや、地方局も放送している。4fm (94.9 MHz)、Dublin's 98FM(98.1 MHz)、Radio Nova 100FM(100.3 MHz)、Q102(102.2 MHz)、SPIN 1038(103.8 MHz)、FM104(104.4 MHz)、Sunshine 106.8(106.8 MHz)などの民間ラジオ局がある。また、Dublin City FM(103.2 MHz)、Dublin South FM(93.9 MHz)、Liffey Sound FM(96.4 MHz)、Near FM(90.3 MHz)、Raidió Na Life(106.4 MHz)などのコミュニティ・ステーションや特別関心局も多数存在する。",
"title": "情報・通信"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "アイルランド郵政事業(An Post)の本社やEirなどの通信会社、携帯電話会社のボーダフォンや3もこの街にある。",
"title": "情報・通信"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ダブリンはアイルランド最大の教育の中心地で、5つの総合大学をはじめ多くの高等教育機関がある。2012年には欧州科学首都に選ばれた。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ダブリン大学は、16世紀に設立されたアイルランド最古の大学で、市内中心部に位置している。唯一の構成カレッジであるトリニティ・カレッジ(TCD)は、1592年にエリザベス1世の王立特許状によって設立された。1793年まではカトリック教徒には閉鎖されていたが、1871年から1970年にかけてアイルランドのカトリック教会は、許可なく入学することを禁じていた。市内中心部のカレッジ・グリーンに位置し、18,000人以上の学生が在籍している。旧図書館では、ケルト美術を代表する作品『ケルズの書』などの収蔵文献が一般向けに公開されている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "アイルランド国立大学はダブリンに本部を置き、3万人以上が在籍しているユニバーシティ・カレッジ・ダブリン(アイルランド国立大学ダブリン校、UCD)の構成大学の所在地でもある。1854年に設立され、現在ではアイルランド最大の大学となっている。UCDの本キャンパスは、市内中心部から約5km離れた南東部郊外のベルフィールドにある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1887年に起源を持つアイルランド最大の技術教育・研究機関であったダブリン技術学院(DIT)は、郊外にある2つの高等教育機関であるタラ技術学院(ITT)とブランチャーズタウン技術学院(ITB)と合併し、ダブリン工科大学(TUD)が発足した。工学、建築、科学、健康、ジャーナリズム、デジタルメディア、ホスピタリティ、ビジネス、芸術、音楽、人文科学など幅広い分野で教育・研究をしており、グランジゴーマン、タラ、ブランチャーズタウンの3つのキャンパスを有している。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ダブリンシティ大学(DCU)は、以前は国立高等教育機関(NIHE)のダブリン校として、ビジネス、工学、科学、コミュニケーション、語学、初等教育の教育・研究をしていた。約16,000人以上の学生が在籍しており、本キャンパスは市内中心部から約7kmの北部郊外に位置している。日本語・日本文化専攻を設けている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "アイルランド王立外科医学院(RCSI)は、医学部を中心に教育・研究をしており、市内中心部のセント・スティーブンス・グリーンに位置している。アート&デザイン国立大学(NCAD)は、芸術の教育・研究を行っている。アイルランド国立カレッジ(NCI)もダブリンにあり、社会科学の研究所である経済社会研究所、ダブリン高等研究所も市内にある。その他、カレッジ(単科大学)や継続教育も多く存在する。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ダブリンの初等教育機関(日本の小学校に相当)と中等教育機関(日本の中学校・高等学校に相当)では、主に英語を中心に教育が行われている。ダブリンにおいて「gaelscoileanna」と呼ばれるアイルランド語の初等教育機関が34校、「gaelcholáistí」と呼ばれるアイルランド語の中等教育機関が10校あり、12,950人の学生が在籍している。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ダブリン空港(DAAが所有・運営)は、ダブリン県フィンガル市のソーズ付近(ダブリン市から北)に位置している。 アイルランドのフラッグキャリアであるエアリンガスの本社や、コミューター航空会社であるストバートエア、シティジェットの本社があり、近くには格安航空会社のライアンエアーの本社もある。 ダブリン空港は、短・中距離路線、国内線、アメリカ合衆国、カナダ、中東、アジアへの長距離路線が運行されている。 欧州連合の中で11番目に利用者が多い空港で、アイルランド島内では最も利用者が多い空港となっている。 2016年には2,790万人の乗客がダブリン空港を利用し、短距離路線と長距離路線の成長に支えられ、過去最高の記録を樹立した。 2015年と2016年には大西洋横断便が増加し、北米への夏季便が週158便となり、ヨーロッパのハブ空港としては年間で6番目の規模となった。 2010年から2016年にかけて、ダブリン空港の年間旅客数は950万人近く増加しており、 民間航空機の移動数も同様に2013年の163,703便から2015年の191,233便へと成長傾向をたどっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ダブリンにはウェストン空港やその他の小規模な施設があり、様々なヘリコプターが利用しており、軍や一部の国家機関は近くのケースメント飛行場を利用している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "アイルランド国鉄により、インターシティ、コミューター、およびダブリン高速輸送(DART)が運行されている。 ダブリン・ヒューストン駅とダブリン・コノリー駅はダブリンの主要ターミナル駅である。 アイルランドで唯一の電車であるDARTはダブリンの沿岸に沿って運行しており、マラハイドとホウスから南下してウィックロー県のグレイストーンズまで、31の駅からなる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "コミューターは気動車であり、ダブリン都市圏とラウス県のドロヘダやダンドーク、ウェックスフォード県のゴリーなどの通勤都市を結んでいる。 2013年のDARTとダブリン郊外線の乗客はそれぞれ1,600万人、1,170万人だった(アイルランド国鉄の乗客全体の約75%)。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ダブリンにはかつて路面電車が通っていたが、1949年までに大部分が廃止された。 2004年には、ルアスと呼ばれる路面電車が運行を開始し、トランスデヴが運営しており、年間3,400万人以上の乗客を運んでいる。 レッドラインはドックランズと市内中心部と南西部の郊外のタラとサガートを結び、グリーンラインは市内北部の郊外と市内中心部と市内南部のサンディフォードやブライズグレンなどの郊外を結んでいる。 これらの路線は合計67の停留場と44.5kmの線路で構成されている。 2013年6月には、ダブリンの北側に6kmのグリーンライン延長工事が開始され、2017年12月9日に開通した。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "地下鉄の「メトロリンク」が提案されており、ダブリン県北部のソーズからダブリン空港とセント・スティーブンス・グリーンを経由し、サンディフォードまで走る計画で、2021年以降に着工し、2027年に開通が予定されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ダブリンのバスは、市内と郊外を網羅する約200路線をほぼ2階建てバス(ダブルデッカー)で運行している。大部分は、ダブリンバスが運営しており、2018年には複数の路線がゴーアヘッド・アイルランドに移管されたが、中小バス会社もバス運行事業を行っている。 運賃は一般的に移動距離に応じたステージ制で計算される。2012年に導入されたリアルタイムの時刻表が採用されており、導入したバスは位置決定のGPSに基づき、バス到着までの時間を表示している。 国家運輸局(NTA)は、バスと電車などで相互に使えるICカード乗車券のリープカードの導入に携わった。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "アイルランドの道路交通網は主にダブリンを中心としている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "高速道M50号はダブリンを半包囲する形で整備されており、国内の他の地域や北アイルランド方面の高速道路と接続している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2006年に交通渋滞問題解消の第一段階として、ダブリン市の東部バイパスのダブリンポートトンネルが開通し、 ダブリン港や高速道M1号、ダブリン空港と接続している。 ダブリンは内側と外側の自動車専用道路に囲まれており、内側の自動車専用道路は、ジョージアン様式の街の中心部に接続しており、外側の自動車専用道路は、主にダブリン市内の2運河、大運河とロイヤル運河だけでなく、南北循環道路によって形成された自然な円に沿って整備されている。 利用料がほとんど無料であるが、一部の区域では有料となっている。 このうちM50号は料金所が撤去されており、ETCを利用するか、インターネットで翌日午後8時までに通行料金を支払う仕組みである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2016年には、ダブリンは世界で15番目、ヨーロッパでは7番目に混雑している都市と評価されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2011年の国勢調査によると、ダブリンの通勤者の5.9%が自転車で移動している。ダブリン市議会が2013年に発表した市内外の運河を横断する交通の流れに関する報告書によると、全交通量の10%弱が自転車利用者で占められており、2012年比14.1%増、2006年比87.2%増となっている。自転車シェアリング、自転車専用レーンの設置、促進の啓発キャンペーン、市内中心部での速度制限30km/hの導入などの対策が功を奏している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ダブリン市議会は、1990年代から市内全域に自転車専用レーンの設置を開始し、2012年には総長200kmを超えた。2011年には、世界の自転車に優しい都市ランキングで世界の主要都市の中で9位にランクされた。同指数では2015年に15位まで落ち込み、2017年にはダブリンは上位20圏外となった。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ダブリンバイクは、2009年からダブリンで運営されている自転車シェアリングである。ジェーシードゥコーとオンラインフードデリバリーサービスのJust Eatがスポンサーとなっており、市内中心部の駐輪場44場に数百台の自転車が設置されている。利用者は、1年契約を申し込むか、3日間切符を購入する必要がある。2018年には、66,000人以上の長期加入者が年間200万回以上利用している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ダブリン港からのフェリーはホーリーヘッド行き、リヴァプール行きなどがあり、ステナライン、P&Oとアイリッシュ・フェリーが運航している。 ダブリン港とダブリン市街地の間には複数のバス路線が運行している。 ホーリーヘッド駅やリヴァプール・ライム・ストリート駅にはロンドン・ユーストン駅行きの列車が発着している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ユーロラインズにより、ロンドンやエディンバラへの長距離バスが、フェリーを経由して運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ダブリンには、数百年前に遡る多くのランドマークやモニュメントがある。1169年にノルマン人がアイルランドに侵攻してきた直後の1204年に、イングランド王のジョンの命令で、街の防衛、司法、王の財宝の保護のために、強固な城壁と良好な溝を備えたダブリン城を建設することが命じられた。1230年までに完成した城は、典型的なノルマン様式の中庭型で、中央の広場にはキープがなく、四方を高い防御壁で囲まれ、各角を円形の塔で守っていた。ノルマン時代のダブリンの南東に位置するこの城は、街の外周の一角を形成し、ポドル川を自然の防御手段として利用していた。",
"title": "観光"
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "ダブリンで最も新しいモニュメントのひとつが、正式には「光のモニュメント」と呼ばれるダブリンの尖塔である。ステンレス鋼製の円錐形の高さ121.2mの尖塔で、ヘンリー通りとノース・アール通りが交差するオコンネル通りにある。ネルソンの柱に代わるもので、21世紀のダブリンを象徴するものとされている。尖塔の設計はイアン・リッチー・アーキテクツが担当し、「芸術と技術の架け橋となるエレガントでダイナミックなシンプルさ」を追求した。モニュメントの基部と上部はライトアップされており、街中を横切る夜空にビーコンを設置している。",
"title": "観光"
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"text": "ダブリン大学のトリニティ・カレッジの旧図書館には、『ケルズの書』が所蔵されており、ダブリンで最も訪問者が多い場所のひとつである。『ケルズの書』は、西暦800年頃にアイルランドの修道士によって作成された絵入りの写本である。リフィー川にかかる鉄製の歩道橋であるハーフペニー橋は、ダブリンで最も撮影された名所のひとつであり、ダブリンを象徴するランドマークのひとつとされている。",
"title": "観光"
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"text": "その他のランドマークやモニュメントには、クライストチャーチ大聖堂、聖パトリック大聖堂、マンションハウス、モリー・マローン像、アイルランド国立博物館やアイルランド国立図書館の一部を含むレンスター・ハウス周辺の複合建築物、カスタム・ハウス、大統領公邸などがある。その他には、アンナ・リヴィアのモニュメントがある。発電所のプールベグ・タワーもランドマークのひとつとされており、市内の様々な場所から見ることができる。",
"title": "観光"
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"text": "ダブリン市内には多くの緑地があり、ダブリン市議会が1,500ヘクタール(3,700エーカー)以上の公園を管理している。公営の公園には、フェニックス・パーク、ハーバート・パーク、セント・スティーブンス・グリーン、セント・アンズ・パーク、ブル島などがある。フェニックス・パークは、市内中心部から西に約3km、リフィー川の北側に位置している。周囲16kmの城壁は707ヘクタール(1,750エーカー)を囲み、ヨーロッパ最大級の城壁都市公園のひとつとなっている。草原と並木道があり、17世紀以来、野生の休耕地の鹿の群れが生息している。1751年に建てられたアイルランド大統領公邸(Áras an Uachtaráin)、ダブリン動物園、アシュタウン城、アメリカ大使の公邸も公園内にある。また、音楽コンサートや日本文化を紹介するエクスペリエンス・ジャパンなどのイベントが開催されることもある。",
"title": "観光"
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"text": "セント・スティーブンス・グリーンは、繁華街のひとつであるグラフトン・ストリートとスティーブンス・ショッピングセンターに隣接しており、周辺の通りには公共機関が立ち並んでいる。",
"title": "観光"
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"text": "セント・アンズ・パークは、北岸の郊外にあるレヒーニーとクロンターフの間で共有されている公園で、レクリエーション施設としても利用されている。ダブリンで2番目に大きい市営公園であり、1835年にベンジャミン・ギネスを始めとするギネス家の一族によって集められた2kmの敷地の一部で、5kmにおよぶ海辺が特徴的である。",
"title": "観光"
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{
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"text": "ダブリンには重要な文学の歴史があり、ノーベル賞受賞者のウィリアム・バトラー・イェイツ、ジョージ・バーナード・ショー、サミュエル・ベケットなど、多くの文学者を輩出している。その他にも、オスカー・ワイルド、ジョナサン・スウィフト、ドラキュラの生みの親であるブラム・ストーカーなど、影響力のある作家や劇作家を輩出している。町の南の郊外には、ジェイムズ・ジョイスが一時滞在していた建物が記念館として残っている。ジョイスはこの地の人々の日常と町の歴史や苦難の過去を重ね写しにした佳作『ダブリン市民』という短編集も書いた。記念館はナポレオンの侵攻に備えて作られた見張り塔だった建物で、チェスの城の駒のかたちで異様な体をなしている。ジョイスの代表作『ユリシーズ』は、ホメロス『オデュッセイア』の主人公2人に見立てたブルームとスティーヴン・ディーダラスが、ダブリンの町を知らず知らず互いを求めながらさまよう物語である。また、この地の出身の哲学者にして、聖職者バークリ僧正は、アメリカに宣教に赴き、カリフォルニア大学バークリ校にその名前を残した。他にも、ジョン・ミリントン・シング、ショーン・オケーシー、 ブレンダン・ビハン、メイヴ・ビンチー、ジョン・バンヴィル、ロディ・ドイルなどの著名な作家が名を連ねている。ダブリンには、アイルランド国立版画博物館やアイルランド国立図書館など、アイルランド最大の図書館や文学博物館がある。ジェイムス・ジョイスタワーと博物館や、かつて存在したダブリン・ライターズ・ミュージアム、2019年に開館したアイルランド文学博物館(英語版)など、文学館は多数ある。2010年7月、ダブリンはエディンバラ、メルボルン、アイオワシティに続き、ユネスコの文学都市に選ばれた。",
"title": "文化"
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"text": "市内中心部には数々の劇場があり、ノエル・パーセル、マイケル・ガンボン、ブレンダン・グリーソン、スティーヴン・レイ、コリン・ファレル、コルム・ミーニイ、ガブリエル・バーンなど、ダブリンの演劇界からは様々な俳優が登場している。最もよく知られている劇場は、ガイエティ劇場、アベイ座、オリンピア劇場 、ゲート座、ボード・ガシュ・エナジー・シアターなどがある。ガイエティ劇場は、ミュージカルやオペラの作品を専門としており、様々なライブ音楽、ダンス、映画を開催している。アベイ座は、1904年にイェイツを含むグループによって、土着の文学者の才能を促進する目的で設立された。その後、ジョン・ミリントン・シング、イェイツ自身、ジョージ・バーナード・ショーなどの作家の何人かに躍進をもたらした。ゲート座は1928年にヨーロッパとアメリカの前衛作品の振興を目的に設立された。ボード・ガイス・エナジー・シアターは、2010年にグランド・カナル・ドックに開場した劇場である。",
"title": "文化"
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{
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"text": "ダブリンは、アイルランドの文学や演劇の中心地であるだけでなく、アイルランドの芸術や芸術シーンの中心地でもある。ダブリン大学トリニティ・カレッジには、西暦800年にケルト人の僧侶によって制作された写本の『ケルズの書』が展示されている。ダブリン城に設けられたチェスター・ビーティ図書館には、アメリカの大富豪(アイルランドの名誉市民)であるアルフレッド・チェスター・ビーティ卿(1875年 - 1968年)が収集した写本、細密画、版画、描画、貴重書、装飾美術のコレクションが収蔵されている。紀元前2700年以降のもので、日本の長恨歌絵巻など、アジア、中東、北アフリカ、ヨーロッパの美術コレクションを所蔵している。",
"title": "文化"
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{
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"text": "また、アイルランド現代美術館、国立美術館、ヒュー・レーン・ギャラリー、ダグラス・ハイド・ギャラリー、プロジェクト・アーツ・センター、ロイヤル・ハイバーニアン・アカデミーの展示スペースなどのギャラリーは、ダブリン市内のいたるところにあり、無料で見学することができる。",
"title": "文化"
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{
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"text": "アイルランド国立博物館には、キルデア通りにある考古学、コリンズ・バラックスにある装飾美術・歴史、メリオン通りにある自然史の3つの分館がある。フィッツウィリアム通りの29番館やセント・スティーブンス・グリーンの ダブリン・リトル・ミュージアム などの小規模な博物館もある。ダブリンには、1746年に設立されたアート&デザイン国立大学(NCAD)と1991年に設立されたダブリン・デザイン研究所がある。ダブリニアは、ダブリンのヴァイキングや中世の歴史を紹介する歴史のアトラクションである。",
"title": "文化"
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{
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"text": "ダブリンが2014年の世界デザイン首都の開催候補に選ばれた。当時の首相のエンダ・ケニーは、ダブリンは「2014年に世界デザイン首都を開催するのに理想的な候補になるだろう」と発言した。",
"title": "文化"
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"text": "",
"title": "文化"
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{
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"text": "ダブリンはナイトライフが盛んであり、ヨーロッパで最も若者が多い都市のひとつとされており、市民の50%が25歳以下と推定されている。セント・スティーブンス・グリーンやグラフトン通り周辺、ハーコート通り、カムデン通り、ウェックスフォード通り、リーソン通りはナイトクラブやパブが多くある場所である。",
"title": "文化"
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"text": "市内中心部のテンプルバー地区はかつて荒廃していたが、政府の再開発計画によりパブ、ギャラリー、レストラン、カフェ、映画館、クラブ、ライブハウスなどの集中する観光名所・若者の地域として生まれ変わった。イギリスからのバチェラー・パーティーやバチェロレッテ・パーティーなども行われている。",
"title": "文化"
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"text": "市内の各所では路上で大道芸を繰り広げるミュージシャンの姿を見かける。ダブリンはザ・ダブリナーズ、シン・リジィ、ブームタウン・ラッツ、U2、ザ・スクリプト、シネイド・オコナー、ボーイゾーン、コーダライン、ウエストライフ、ボブ・ゲルドフ、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどの国際的な成功を収めた音楽家やグループを輩出してきた。ダブリンには、ウィーランズ(Whelans)やヴィカー・ストリート(Vicar Street)など、一週間を通してライブミュージックを開催する中規模の会場がいくつかある。ダブリン・ドックランズにある3アリーナでは、世界的なパフォーマーの来日公演が行われている。",
"title": "文化"
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{
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"text": "2018年のミシュランガイドで、ダブリンにある5つのレストランはミシュランの星を獲得している。アイルランド出身のケビン・ソーントンは2001年にミシュランの2つ星を獲得している。ダブリン技術学院(現在のダブリン工科大学)では、1999年に料理技術の学士号が追加された。",
"title": "文化"
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"text": "歴史的には、アイルランドのカフェは、メディアで働く人々のものとされていた。21世紀に入ってからは、ダブリンでのアパート暮らしの増加に伴い、カフェには、気軽に集まれる場所やその場しのぎのオフィスを探している若者が集まった。ダブリンではカフェの人気が高まり、Java Republic、Insomnia、O'Brien's Sandwich Barsなどのアイルランド経営のコーヒーチェーンが国際的な競争相手となっている。2008年には、アイルランド人バリスタのスティーブン・モリッシーが世界バリスタ・チャンピオンの称号を獲得した。",
"title": "文化"
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"text": "紅茶、コーヒーの製造とカフェを運営しているビューリーズは、ダブリンに本社および本店を置いている。",
"title": "文化"
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"text": "クローク・パークはアイルランド最大のスポーツスタジアムである。ゲーリック体育協会(GAA)の本部で、収容人数は82,300人である。バルセロナのカンプ・ノウ、ロンドンのウェンブリー・スタジアムに次ぐ、ヨーロッパで3番目に大きなスタジアムとなる。ゲーリックフットボールやハーリングの試合、国際ルール・サッカー、不定期にコンサートを含むその他のスポーツイベントや非スポーツイベントが開催されている。モハメド・アリは1972年にここで戦い、2003年のスペシャルオリンピックスの開会式と閉会式の司会を務めた。また、会議や宴会場も併設されている。GAA博物館があり、スタジアムの屋上を歩くツアーなども行われている。ランズダウン・ロードの再開発中、クローク・パークは、ラグビーアイルランド代表とサッカーアイルランド共和国代表の本拠地となったほか、2008年 - 2009年のヨーロピアンラグビーチャンピオンズカップ準決勝のマンスター対レンスター戦が開催され、ラグビーの試合としては世界最高の観客動員数を記録した。ダブリンGAAチームは、ホームリーグのハーリングの試合のほとんどをパーネル・パークで行っている。",
"title": "スポーツ"
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{
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"text": "ランズダウン・ロードは1874年に建設された。ラグビーアイルランド代表とサッカーアイルランド共和国代表の会場となっていた。アイルランドラグビー協会、フットボール・アソシエーション・オブ・アイルランド、アイルランド政府の共同事業により、2010年5月に開場となった5万席の最新設備を備えたアビバ・スタジアムに再開発された。アビバ・スタジアムでは、2011年のUEFAヨーロッパリーグ決勝戦が開催された。ラグビーユニオンのレンスター・ラグビーは、RDSアリーナとアビバ・スタジアムでホームゲームを行う。",
"title": "スポーツ"
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"text": "ダブリン県には、ボヘミアンFC、シャムロック・ローヴァーズFC、セント・パトリックス・アスレティックFC、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンAFC、シェルボーンFC、キャビンティーリーFCの6つのリーグ・オブ・アイルランド(サッカー)がある。アイルランドで初めてヨーロッパ大会のグループステージ(2011-12 UEFAヨーロッパリーグのグループステージ)に進出したのは、南ダブリン市のタラ・スタジアムでプレーするシャムロック・ローバーズFCだった。ボヘミアンFCは、国内最古のサッカースタジアムであり、1904年から1990年までアイルランドのサッカーチームのホームグラウンドであったデイリーマウント・パークでプレーしている。セント・パトリック・アスレティックFCはリッチモンド・パークで、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンAFCはダン・レアリー=ラスダウン市のUCDボウルで、シェルボーンFCはトルカ・パークでプレーしている。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "ダブリンには、キャッスル・アベニューとマラハイド・クリケット・クラブ・グラウンドの2つのODIクリケット・グラウンドがある。キャッスル・アベニューでは、1999年5月21日にバングラデシュが西インド諸島と対戦した1999年クリケットワールドカップの一環として、最初のワンデー国際試合が開催された。ダブリン大学トリニティ・カレッジのカレッジ・パークは、アイルランド初のテスト・クリケットの試合、2000年のパキスタンとの女子試合が行われた。また、男子のクリケットアイルランド代表は、2018年の間にマラハイド・クリケット・クラブ・グラウンドでパキスタンとの初のテスト・マッチを行った。レンスター・ライトニングは、カレッジ・パークでホームの地方間試合を行っている。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 109,
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"text": "アイリッシュ・ベースボール・リーグのダブリン・ブラックソックス、ダブリン・ハリケーンズ、ダブリン・スパルタズが本拠地としている。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ダブリン・マラソンは1980年から10月末に開催されている。女子ミニ・マラソンは、1983年からアイルランドの銀行の休日でもある6月の第一月曜日に開催されている。世界最大の全女性のイベントと言われている。グレート・アイルランド・ラン(Great Ireland Run)は、4月中旬にダブリンのフェニックス・パークで開催されている。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "シェールボーン・パークでドッグレースが、レパーズタウンでは競馬が開催されている。ダブリン・ホース・ショーは、1982年に障害飛越競技の世界選手権が開催されたダブリン王立協会(RDS)で開催される。",
"title": "スポーツ"
}
] |
ダブリンは、アイルランド島東部に位置する、アイルランドの首都。 レンスター地方のダブリン県に属している。リフィー川河口、東海岸の湾に位置し、その南北に町が広がる。南にはウィックロー山地の一部であるダブリン山地に接している。2016年の人口は117万3179人だった。
|
{{Otheruses|[[アイルランド]]の[[首都]]|その他}}
{{世界の市
|正式名称 = ダブリン<!--必須-->
|公用語名称 = {{lang|ga|Baile Átha Cliath}}<br/>{{lang|en|Dublin}}<br/>{{flagicon|Ireland}}<!--必須-->
|愛称 = {{lang|en|The Fair City}}
|標語 = {{lang|la|Obedientia Civium Urbis Felicitas}}
|画像 = Samuel Beckett Bridge - Dublin, Ireland - August 18, 2017.jpg
|画像サイズ指定 = 280px
|画像の見出し = [[リフィー川]]河口に架かる[[サミュエル・ベケット橋]]
|市旗 = Flag of Dublin.svg
|市章 = Coat-of-arms-of-Dublin.svg
|位置図 = Ireland map County Dublin City.png
|位置図サイズ指定 = 200px
|位置図の見出し = ダブリン県内のダブリンの位置
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|緯度度 = 53 |緯度分 = 20 |緯度秒 = 34 |N(北緯)及びS(南緯) = N
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|標高(フィート) =
|人口の時点 = 2016年
|人口に関する備考 =
|総人口 = 1,173,179<ref name="2016sapmapcity">{{cite web |title=Census of Population 2016 |work= Profile 1 – Geographical distribution |publisher=[[中央統計局]] |date=2017/04/06 |page=15 |url=https://www.cso.ie/en/media/csoie/releasespublications/documents/population/2017/Chapter_2_Geographical_distribution.pdf |accessdate=2020/07/25}}</ref>
|人口密度(平方キロ当たり) = 4,811
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|市街地人口密度(平方マイル) =
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|都市圏人口密度(平方マイル) =
|等時帯 = [[グリニッジ標準時]]
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|ISOコード =
|公式ウェブサイト = {{URL|https://dublincity.ie}}
|備考 =
}}
'''ダブリン'''({{Lang-ga-short|Baile Átha Cliath}}、{{lang-en-short|Dublin}})は、[[アイルランド島]]東部に位置する、[[アイルランド]]の[[首都]]。
[[レンスター地方]]の[[ダブリン県]]に属している。[[リフィー川]]河口、東海岸の湾に位置し、その南北に町が広がる。南には[[ウィックロー山地]]の一部であるダブリン山地に接している。2016年の人口は117万3179人だった<ref name="2016sapmapcity"/>。
== 概要 ==
[[File:THE SAMUEL BECKETT BRIDGE 11 JANUARY 2018 (STILL TRYING FOR A UNIQUE IMAGE OF THIS BRIDGE)-135492 (39657106531).jpg|thumb|200px|left|[[サミュエル・ベケット橋]]]]
[[File:Dublin - Father Mathew Bridge - 110508 182542.jpg|thumb|200px|ダブリン橋としても知られる[[ファザー・マシュー橋]]]]
[[アイルランド]]の政治・経済・交通・文化の中心地であり、アイルランドの全人口の44%がダブリン首都圏に集中するアイルランド国内最大の都市である<ref>{{Cite web|url=https://www.dublinchamber.ie/business-agenda/economic-profile-of-dublin|title=ECONOMIC PROFILE OF DUBLIN|accessdate=2020/07/26|publisher=Dublin Chamber}}</ref>。[[ヨーロッパ]]有数の[[世界都市]]であり、重要な[[金融センター]]のひとつになっている。
市内には[[アイルランド人]]の権利の拡大に尽力した人々や[[イギリス]]からの独立運動のために命を落とした活動家の名前が記念日や通りの名前に多く見られる。[[ダニエル・オコンネル]]に因む町の目抜き通りの[[オコンネル通り]]<ref group="注釈">1882年、リフィー川沿いに彼の像が立てられ、またカーライル橋がオコンネル橋と改名されて以来、この通りがオコンネル通りと呼ばれるようになった。オコンネルは、1841年、カトリック教徒で初めてのダブリン市長になった弁護士。</ref>や[[パトリック・ピアース]]にちなむ[[ピアース通り]]、[[コノリー駅]]などが例に挙げられる。これらは本来は別の名前がつけられていたが、1921年の独立後に改名されたものである(オコンネル通りはかつてはサックビル通りと呼ばれていた)<ref group="注釈">詳細は[[アイルランド独立戦争]]を参照。</ref>。
===名称===
「ダブリン」は、初期の古典[[アイルランド語]]で「黒い水溜り」を意味する「{{Lang|ga|Dubhlind/Duibhlind}}」に由来し、「黒い、暗い」を意味する「{{Lang|ga|dubh}}」と、水溜りを意味する「{{Lang|ga|lind}}」でからきている。
この水溜まりは、[[ポドル川]]が[[リフィー川]]に入った位置にあり、[[ダブリン城]]の裏手にある城庭の跡地にあった。
現代のアイルランド語では「{{Lang|ga|Duibhlinn}}」と呼ばれているが、[[ダブリン県]]のアイルランド語の韻文によると、「{{Lang|ga|Duílinn}}」と呼ばれている。
この発音は、[[古英語]]の「{{Lang|en|Difelin}}」、[[古ノルド語]]の「{{Lang|non|Dyflin}}・{{lang|non|ᛑᛦᚠᛚᛁᚿ}}」、[[アイスランド語]]の「{{Lang|is|Dyflinn}}」、[[マン島語]]の「{{Lang|gv|Divlyn}}」、[[ウェールズ語]]の「{{Lang|cy|Dulyn}}」、[[ブルトン語]]の「{{Lang|br|Dulenn}}」など、他の言語にも受け継がれている。
アイルランドの他の地域では、「{{Lang|ga|Duibhlinn}}」という名前が付けられており、「{{Lang|ga|Devlin}}」<ref>{{cite web|url=http://www.logainm.ie/en/14364|title=Placenames Database of Ireland: Duibhlinn/Devlin|accessdate=13 September 2013}}</ref>、「{{Lang|ga|Divlin}}」<ref>{{cite web|url=http://www.logainm.ie/en/13534|title=Placenames Database of Ireland: Béal Duibhlinne/Ballydivlin|accessdate=13 September 2013}}</ref>、「{{Lang|ga|Difflin}}」<ref>{{cite web|url=http://www.logainm.ie/en/16486|title=Placenames Database of Ireland: Duibhlinn/Difflin|accessdate=13 September 2013}}</ref>と様々な形で英語化されている。
歴史的には、[[インシュラー体]]では、「{{Lang|ga|b}}」の上に点をつけ、「{{Lang|ga|bh}}」と書き、「{{Lang|ga|{{unicode|Du'''ḃ'''linn}}}}」または「{{Lang|ga|{{unicode|Dui'''ḃ'''linn}}}}」と表現していた。
アイルランド語の知識がなかった者は、ドットを省略し、「{{Lang|en|Dublin}}」と表記した。
現在では、[[ヴァイキング]]の入植地が、[[キリスト教]]の教会的な入植地として知られる「{{Lang|ga|Duibhlinn}}」に先行していたと考えられており、そこから「{{Lang|ga|Dyflin}}」の名前が付けられた<ref>{{Cite book|title=Medieval Dublin, the making of a metropolis|last=Clarke|first=Howard|publisher=Irish Academic Press|year=1995|isbn=978-0716524595|location=|page=44}}</ref>。[[9世紀]]と[[10世紀]]には、現在の街がある場所に2つの[[集落]]があった。[[841年]]頃のヴァイキングの集落である「{{Lang|ga|Dyflin}}」と、川をさらに遡ったところにあったゲール人の集落である「{{Lang|ga|Áth Cliath}}」は、チャーチ通りの下の方にある現在の[[ファーザー・マシュー橋]](ダブリン橋としても知られている)にある<ref>{{Cite book|title=The Palgrave Handbook of Literature and the City|last=Tambling|first=Jeremy|publisher=Palgrave Macmillan|year=2017|isbn=978-1137549105|location=|page=98}}</ref>。「{{Lang|ga|Baile Átha Cliath}}」は、「編み垣の[[洗い越し|渡瀬]]の町」という意味で、現代アイルランド語ではダブリンを指すのに使われている。「{{Lang|ga|Áth Cliath}}」は、ファザー・マシュー橋付近にある、[[リフィー川]]の分岐点を指している地名である。同名の町は他にもあり、例えば[[スコットランド]]の[[イースト・エアシャー]]のハールフォードには、「{{Lang|gd|Àth Cliath}}」と[[スコットランド・ゲール語]]で表記されている。
==地理==
===位置===
ダブリンは[[リフィー川]]の河口に位置し、アイルランドの東中央部に位置する約115[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]の土地面積を持つ。南はダブリン山地と呼ばれる低山地帯と[[ウィックロー山地|ウィックロー山脈]]の亜山脈に囲まれ、北と西は平坦な農地に囲まれている<ref name="Facts about Dublin">{{cite web|url=http://www.dublincity.ie/main-menu-services-press-and-news/facts-about-dublin-city|title=Dublin City Council: Facts about Dublin City|publisher=Dublin City Council|accessdate=8 July 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140711014408/http://www.dublincity.ie/main-menu-services-press-and-news/facts-about-dublin-city|archive-date=11 July 2014|url-status=dead}}</ref>。
===地形===
==== 水域 ====
[[File:Dublin SPOT 1023.jpg|thumb|200px|[[アイリッシュ海]]に注ぐ[[リフィー川]]により、ダブリンは[[:en:Northside, Dublin|北岸]]及び[[:en:Southside, Dublin|南岸]]に分けられる。]]
[[リフィー川]]はダブリンを北岸と南岸の間で2つに分けている。リークスリップで北東方向から東方向にカーブしており、この地点で農地利用から都市開発への移行が行われている。
南東にダブリン湾に注ぐ{{仮リンク|トルカ川|en|River Tolka}}と北東に流れる[[ドダー川]]があり、リフィー川には複数の支流が存在している。また、複数の小川も海に流れている。
リフィー川に面した港には大型船舶用の[[埠頭]]があり、南のロイヤル運河と北のグランド運河の2つの大運河がダブリンと[[シャノン川]]を結び、市内を環状に流れている。
南東部の{{仮リンク|ダブリン湾|en|Dublin Bay}}に{{仮リンク|ブル島 (アイルランド)|en|Bull Island|label=ブル島}}があり、付近に[[塩性湿地]]と[[砂丘]]地形が発達している。植物は[[アッケシソウ]]、{{仮リンク|ハリヒジキ|en|Salsola kali}}、{{仮リンク|Cakile maritima|en|Cakile maritima|label=''Cakile maritima''}}、[[ボウアオノリ]]、{{仮リンク|ヒラアオノリ|en|Ulva compressa}}、{{仮リンク|オオバアオサ|en|Ulva lactuca}}、{{仮リンク|Zostera noltii|en|Zostera noltii|label=''Zostera noltii''}}などがあり、動物は[[ニシズグロカモメ]]、[[コクガン]]、[[オグロシギ]]、[[オオソリハシシギ]]、[[アオサギ]]、[[ホオジロガモ]]、[[ウミアイサ]]、[[アオアシシギ]]、[[コアジサシ]]、[[ミヤコドリ]]、[[ユキウサギ]]のアイルランド亜種などが生息している<ref name=":1">{{Cite web |title=Dublin Bay Biosphere Reserve, Republic of Ireland |url=https://en.unesco.org/biosphere/eu-na/dublin-bay |website=UNESCO |date=2019-03-26 |access-date=2023-02-19 |language=en}}</ref><ref name=":2">{{Cite web |title=North Bull Island {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/406 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-02-19 |date=1988-9-6}}</ref><ref name=":4" /><ref name=":3">{{Cite web |title=Baldoyle Bay {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/413 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-02-19 |date=2022-3-16}}</ref>。{{仮リンク|バルドイル湾|en|Baldoyle Bay}}を含む一帯は[[ユネスコ]]の[[生物圏保護区]]に指定されており、3カ所の[[ラムサール条約]]登録地がある<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":4">{{Cite web |title=Sandymount Strand/Tolka Estuary {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/832 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-4-21 |date=2023-3-7}}</ref><ref name=":3" />。
=== 気候 ===
[[日本]]の[[北海道]]よりも高緯度に位置するが、北西ヨーロッパの他の多くの地域と同様に、ダブリンは[[海洋性気候]]([[ケッペンの気候区分|Cfb]])に属し、冬は温暖で、夏は涼しく、極端な気温の変化はない。1月の平均最低気温は2.4℃、7月の平均最高気温は20.2℃である。最も日照時間が長い月は5月と6月で、最も雨の多い月は10月で76mm、最も乾燥している月は2月で46mmである。年間降水量は日本よりも少ないが、降水量は一年を通して均等に分布している。
ダブリンは東海岸に位置しているため、アイルランドで最も乾燥しており、降水量は西海岸の約半分しかない。市内南部のリングゼンドは、年間平均降水量が683[[ミリメートル|mm]]と国内で最も少なく、市内中心部の年間平均降水量は714mmとなっている<ref>{{cite web|publisher=European Climate Assessment & Dataset|title=Climatology details for station DUBLIN (RINGSEND), IRELAND and index RR: Precipitation sum|url=http://eca.knmi.nl/utils/calcdetail.php?seasonid=0&periodid=1981-2010&indexid=RR&stationid=1958|accessdate=21 December 2012}}</ref>。冬の主な降水量は雨であるが、[[11月]]から[[3月]]にかけては[[雪]]が降ることもある。ただ、雪よりも[[雹]]が降ることが多い。秋には大西洋からの強い風が吹くが、ダブリンは東海岸のため、他の地域に比べて影響は少ない。しかし、冬になると東風の影響で気温が下がり雪が降ることがある。
[[20世紀]]、ダブリンでは[[スモッグ]]と[[大気汚染]]が問題となり、[[1990年]]に[[瀝青]]燃料の使用が禁止された。黒煙の濃度が住民の心血管系や呼吸器系の死亡に関係していたことに対処するためである。禁止以来、非外傷性死亡率、呼吸器死亡率、心血管死亡率は減少しており、年間の死亡者は約350人と推定されている<ref>{{cite journal|last1=Clancy|first1=L.|last2=Goodman|first2=P.|last3=Sinclair|first3=H|last4=Dockery|first4=D.|year=2002|title=Effect of air-pollution on death rates in Dublin Ireland: an intervention study|url=http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(02)11281-5/fulltext|journal=The Lancet|volume=360|issue=9341|pages=1210–1214|doi=10.1016/S0140-6736(02)11281-5|pmid=12401247}}</ref><ref name="coalbantimes">{{cite web|url=https://www.irishtimes.com/news/environment/how-the-coal-ban-dealt-with-dublin-s-burning-issue-1.2367021|work=The Irish Times|title=How the coal ban dealt with Dublin's burning issue|date=26 September 2015|accessdate=22 February 2017}}</ref>。
{{Infobox Weather
|metric_first=Yes <!--Entering Yes will display metric first. Leave blank for imperial-->
|single_line=Yes <!--Entering Yes will display metric and imperial units on same line.-->
|location = ダブリン(1981~2020)
|Jan_Hi_°C = 8.0 |Jan_REC_Hi_°C = 17.0
|Feb_Hi_°C = 8.6 |Feb_REC_Hi_°C = 18.1
|Mar_Hi_°C = 10.3 |Mar_REC_Hi_°C = 23.4
|Apr_Hi_°C = 12.4 |Apr_REC_Hi_°C = 22.2
|May_Hi_°C = 15.1 |May_REC_Hi_°C = 26.7
|Jun_Hi_°C = 17.8 |Jun_REC_Hi_°C = 28.9
|Jul_Hi_°C = 19.6 |Jul_REC_Hi_°C = 30.0
|Aug_Hi_°C = 19.4 |Aug_REC_Hi_°C = 30.6
|Sep_Hi_°C = 17.0 |Sep_REC_Hi_°C = 27.6
|Oct_Hi_°C = 13.5 |Oct_REC_Hi_°C = 24.2
|Nov_Hi_°C = 10.3 |Nov_REC_Hi_°C = 19.4
|Dec_Hi_°C = 8.4 |Dec_REC_Hi_°C = 17.2
|Year_Hi_°C = 13.4 |Jan_Lo_°C = 2.7 |Jan_REC_Lo_°C = -15.6
|Feb_Lo_°C = 2.6 |Feb_REC_Lo_°C = -13.4
|Mar_Lo_°C = 3.2 |Mar_REC_Lo_°C = -9.4
|Apr_Lo_°C = 4.2 |Apr_REC_Lo_°C = -7.2
|May_Lo_°C = 6.7 |May_REC_Lo_°C = -5.6
|Jun_Lo_°C = 9.3 |Jun_REC_Lo_°C = -0.6
|Jul_Lo_°C = 11.4 |Jul_REC_Lo_°C = 0.6
|Aug_Lo_°C = 11.4 |Aug_REC_Lo_°C = 0.5
|Sep_Lo_°C = 9.6 |Sep_REC_Lo_°C = -1.7
|Oct_Lo_°C = 7.2 |Oct_REC_Lo_°C = -5.6
|Nov_Lo_°C = 4.7 |Nov_REC_Lo_°C = -9.4
|Dec_Lo_°C = 3.1 |Dec_REC_Lo_°C = -14.0
|Year_Lo_°C = 6.3 |Year_REC_Lo_°C =
|Jan_MEAN_°C = 5.3
|Feb_MEAN_°C = 5.4
|Mar_MEAN_°C = 6.5
|Apr_MEAN_°C = 8.1
|May_MEAN_°C = 10.7
|Jun_MEAN_°C = 13.4
|Jul_MEAN_°C = 15.2
|Aug_MEAN_°C = 15.0
|Sep_MEAN_°C = 13.0
|Oct_MEAN_°C = 10.2
|Nov_MEAN_°C = 7.4
|Dec_MEAN_°C = 5.7
|Year_MEAN_°C = 9.7
|Jan_Precip_mm = 62.8
|Feb_Precip_mm = 53.2
|Mar_Precip_mm = 53.9
|Apr_Precip_mm = 55.1
|May_Precip_mm = 57.6
|Jun_Precip_mm = 63.9
|Jul_Precip_mm = 61.2
|Aug_Precip_mm = 71.6
|Sep_Precip_mm = 63.5
|Oct_Precip_mm = 78.7
|Nov_Precip_mm = 85.3
|Dec_Precip_mm = 73.4
|Sep_Rain_cm = |Jan_Rain_mm = |Feb_Rain_mm = |Mar_Rain_mm = |Apr_Rain_mm = |May_Rain_mm = |Jun_Rain_mm = |Jul_Rain_mm = |Aug_Rain_mm = |Sep_Rain_mm = |Oct_Rain_mm = |Nov_Rain_mm = |Dec_Rain_mm = |date=2022年7月}}
===地域===
====行政区画====
;ダブリン郵便局区
ダブリンは、郵便局区によって区分されている。[[リフィー川]]以北は[[奇数]]、以南は[[偶数]]となっている。[[ダブリン県]]の一部の地域([[ダン・レアリー]]、ブラックロック、ルーカン、ソーズなど)では、郵便局区がない。
{| class="wikitable"
! colspan="2" |ダブリン郵便局区
|-
|'''北岸([[リフィー川]]以北)'''
|'''南岸([[リフィー川]]以南)'''
|-
|ダブリン1区
|ダブリン2区
|-
|ダブリン3区
|ダブリン4区(ダブリン市、[[ダン・レアリー=ラスダウン市]])
|-
|ダブリン5区
|ダブリン6区(ダブリン市、[[ダン・レアリー=ラスダウン市]])
|-
|ダブリン7区
|ダブリン6区(ダブリン市、[[南ダブリン市]])
|-
|ダブリン9区
|ダブリン8区
|-
|ダブリン11区(ダブリン市、[[フィンガル市]])
|ダブリン10区
|-
|ダブリン13区(ダブリン市、[[フィンガル市]])
|ダブリン12区
|-
|ダブリン15区([[フィンガル市]])
|ダブリン14区(ダブリン市、[[ダン・レアリー=ラスダウン市]]、[[南ダブリン市]])
|-
|ダブリン17区(ダブリン市、[[フィンガル市]])
|ダブリン16区([[ダン・レアリー=ラスダウン市]]、[[南ダブリン市]])
|-
| rowspan="4" |
|ダブリン18区([[ダン・レアリー=ラスダウン市]])
|-
|ダブリン20区(ダブリン市、[[南ダブリン市]])
|-
|ダブリン22区([[南ダブリン市]])
|-
|ダブリン24区([[南ダブリン市]])
|}
=== 人口 ===
{| class="infobox" style="float:right;"
|-
| colspan="2" |'''ダブリン市の主な移民グループ(2016年)'''<ref>{{Cite web|url=https://statbank.cso.ie/px/pxeirestat/Statire/SelectOut/PxSort.asp?file=20207261351618003189E7050&PLanguage=0&MainTable=E7050&MainTablePrestext=Population%20Usually%20Resident%20and%20Present%20in%20the%20State%202011%20to%202016%20(Number)&potsize=123|website=statbank.cso.ie|accessdate=2020-07-26|title=Population Usually Resident and Present in the State 2011 to 2016 (Number)|publisher=}}</ref>
|- \
! 国籍 || 人口
|-
|{{GBR}}|| 20,747
|-
|{{POL}}|| 10,106
|-
|{{ROU}}|| 8,476
|-
|{{BRA}}|| 8,007
|-
|{{IND}}||4,459
|-
|{{ITA}}|| 4,439
|-
|{{ESP}}|| 4,032
|-
|{{USA}}|| 3,977
|-
|{{FRA}}|| 3,624
|-
|{{PHL}}|| 3,527
|-
|{{LTU}}|| 2,360
|-
|{{CHN}}|| 3,129
|-
|{{DEU}}|| 2,210
|-
|{{JPN}}
|398
|}
ダブリン市はダブリン市議会が管轄する地域であるが、「ダブリン」とは隣接する地方自治体である[[ダン・レアリー=ラスダウン市]]、[[フィンガル市]]、[[南ダブリン市]]の一部を含む都市部を指す言葉としても使われる。これら4つの地域を合わせ、伝統的に[[ダブリン県]]を形成しており、「[[ダブリン地域]]」と呼ばれることもある。
[[2016年]]の国勢調査では、市議会が管理する行政区域の人口は554,554人、都市部の人口は1,173,179人であった。ダブリン県の人口は1,273,069人、[[ダブリン都市圏]]([[ダブリン県]]・[[ミーズ県]]・[[キルデア県]]・[[ウィックロー県]])の人口は1,904,806人だった。人口は急速に拡大しており、[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]の推計では2020年には210万人に達するとされている<ref>{{cite web|url=http://www.rte.ie/news/2007/0402/87392-dublin/|publisher=Raidió Teilifís Éireann|title=Call for improved infrastructure for Dublin|date=2 April 2007|accessdate=2020/07/26}}</ref>。
====移民====
[[第二次世界大戦後]]、[[イタリア人]]はダブリンとアイルランドの両方で圧倒的に最大の移民グループであり、[[ケータリング]]や[[レストラン]]の代名詞となった<ref>{{cite web|url=https://www.rte.ie/archives/exhibitions/1665-immigration/370199-the-italians/|title=RTÉ Archives | The Italians|publisher=Raidió Teilifís Éireann|accessdate=14 August 2018}}</ref><ref>https://www.ucd.ie/t4cms/WP13_19.pdf</ref>。
[[1990年代]]後半以降、ダブリンは大幅な純移民を経験しており、特に[[イギリス]]、[[ポーランド]]、[[リトアニア]]などの[[欧州連合]]からの移民が最も多くなっている<ref>"[https://www.theguardian.com/media/2006/mar/12/pressandpublishing.business3 Dublin heralds a new era in publishing for immigrants]". ''The Guardian'' 12 March 2006.</ref>。
また、[[ブラジル]]、[[インド]]、[[フィリピン]]、[[中華人民共和国]]、[[ナイジェリア]]など、[[ヨーロッパ]]以外の国からの移民も在住している。
ダブリンは、アイルランドの他の地域よりも新しい移民の割合が高い。
アイルランドのアジア系人口の60%がダブリンに在住している<ref>{{cite web|url=http://www.rte.ie/news/2007/0726/91717-census/|publisher=Raidió Teilifís Éireann|title=Foreign nationals now 10% of Irish population|date=26 July 2007|accessdate=2020/07/26}}</ref>。
[[2006年]]には、ダブリンの人口の15%以上が外国生まれだった<ref>"Dublin". OPENCities, a British Council project. {{cite web|url=http://opencities.britishcouncil.org/web/index.php?p_dublin_en|title=Opencities Britishcouncil.org Dublin|accessdate=5 February 2016|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130330062241/http://opencities.britishcouncil.org/web/index.php?p_dublin_en|archivedate=30 March 2013}}</ref>。
ダブリンは、他国からの非カトリック系移民の割合が最も高い。アイルランドでの世俗化の進展により、ダブリンの[[カトリック教会]]への定期的な出席率は[[1970年代]]半ばには90%を超えていたが、[[2011年]]の調査では14%にまで低下している<ref>[https://www.nytimes.com/2016/01/22/world/europe/ireland-catholic-baptism-school.html Catholic Church's Hold on Schools at Issue in Changing Ireland] ''The New York Times'', 21 January 2016</ref>。
====人種構成====
[[2016年]]の国勢調査によると、ダブリンの人口は[[白人]]アイルランド人が86.2%(862,381人)、その他白人が13.2%(132,846人)、白人[[アイリッシュ・トラヴェラー]]が0.5%(5,092人)、[[黒人]]が2%(2万3,892人)、[[アジア人]]が4.6%(4万6,626人)となっている。さらに、2.7%(27,412人)は他の民族や文化的背景を持っており、4.9%(49,092人)は民族性を明言していない<ref>{{Cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=EED4C2E4-43BA-428E-96FC-1C65CC0A4340#SAPMAP_T2_220|title=Census 2016 Sapmap Area: Settlements Dublin City And Suburbs. Usually resident population by ethnic or cultural background.|website=Central Statistics Office|access-date=12 November 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20181113075445/http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=EED4C2E4-43BA-428E-96FC-1C65CC0A4340#SAPMAP_T2_220|archive-date=13 November 2018|url-status=dead}}</ref>。
====新興宗教====
宗教面では、68.2%が[[カトリック教会|カトリック]]、12.7%がその他の宗教、19.1%が[[無宗教]]を表明していた<ref>{{Cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=EED4C2E4-43BA-428E-96FC-1C65CC0A4340#SAPMAP_T2_220|title=Census 2016 Sapmap Area: Settlements Dublin City And Suburbs. Population by religion.|website=Central Statistics Office|access-date=12 November 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20181113075445/http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=EED4C2E4-43BA-428E-96FC-1C65CC0A4340#SAPMAP_T2_220|archive-date=13 November 2018|url-status=dead}}</ref>。
====ホームレス====
[[2018年]][[7月]]時点で、ダブリン地域内で[[ホームレス]]の宿泊施設やその他の緊急住宅で生活している世帯は1,367世帯だった<ref>{{Cite news|url=https://www.homelessdublin.ie/content/files/DRHE_July_2018_Homeless_Family_Infographic.pdf|website=homelessdublin.ie|title=Dublin Region Families who are Homeless July 2018 (Week of 23rd–29th)|publisher=Dublin Region Homeless Executive|date=July 2018|access-date=13 September 2018}}</ref>。
==歴史==
[[File:Dublin Castle Coach House 01.JPG|thumb|200px|[[ダブリン城]]]]
=== 先史時代・古代 ===
ダブリン湾の地域は有史以前から有人だったが、西暦[[140年]]頃の[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]](古代ギリシャ・ローマ時代の天文学者・[[地図学者]])の記述が、そこに定住していたことを示す最古の文献となっている。これを「{{Lang|ge|Ἔβλανα πόλις}}」と呼んでいた<ref name="Holder">{{cite book|last=Holder|first=Alfred|date=1896|title=Alt-celtischer sprachschatz|url=https://books.google.com/books?id=QWg9AAAAYAAJ&pg=PA1393|language=German|location=Leipzig|publisher=B. G. Teubner|at=col.1393|accessdate=7 November 2014}}</ref>。
ダブリンは[[1988年]]に千年紀を迎えた。アイルランド政府は[[988年]]の入植地が後にダブリン市となったと認識している<ref name="it1986">{{cite news|url=https://www.irishtimes.com/newspaper/opinion/2010/0108/1224261895496.html|title=From the Archives: 8 January 1986: 'Bogus' selection of date to mark Dublin's millennium|last=McDonald|first=Frank|date=8 January 2010|work=[[Irish Times]]|accessdate=21 August 2019}}</ref>。
現在では、[[841年]]頃のヴァイキングの入植が、キリスト教の教会的な入植地として知られる「{{Lang|ga|Duibhlinn}}」に先行していたと考えられており、「{{Lang|ga|Dyflin}}」はそこから名を取ったと言われている<ref>Clarke, Howard (1995). Medieval Dublin, the making of a metropolis. Irish Academic Press. p. 44. {{ISBN2|978-0716524595}}</ref>。[[9世紀]]と[[10世紀]]には、後に現在のダブリンとなる2つの[[集落]]があった。その後のスカンジナビア人の集落は、現在のウッド岸壁として知られる地域の[[リフィー川]]の支流である[[ポドル川]]に集中していた。「{{Lang|ga|Dubhlinn}}(''ドゥヴ・リン'')」は、ポドル川の最も低い場所にある水溜りのことを指し、船を係留するのに使われていた。この水溜りは、[[ダブリン城]]内の[[チェスター・ビーティ図書館]]の向かい側、現在のキャッスル公園がある場所にもあり、[[18世紀]]初頭に都市の成長に伴い、最終的に浸水した。『[[クーリーの牛争い]]』では、「{{Lang|ga|Dublind rissa ratter Áth Cliath}}(''オー・クリアと呼ばれているダブリン'')」と記載されている。
===中世===
ダブリンは10世紀に[[ヴァイキング]]の居住地として設立され、アイルランド人による何度もの攻撃にもかかわらず、[[1169年]]に[[ウェールズ]]から[[ノルマン人のアイルランド侵攻|ノルマン人がアイルランドを侵攻]]するまで、大部分がヴァイキングの支配下にあった<ref name="Davies">{{cite book|last=Davies|first=Norman|title=The Isles: a history|publisher=Macmillan|year=1999|location=London|page=1222|isbn=978-0-333-76370-4|date=}}</ref>。[[1166年]]初頭に[[アイルランド上王]]のムルタ・マクロクリンが死去し、コノート王のルアリー・ウア・コンホヴァルがダブリンに上陸し、反対することなくアイルランド王に就任した。
歴史家によると、ダブリンの初期の経済成長の一部は、[[奴隷貿易]]に起因しているという説もある<ref name="dickson10">{{Cite book|title=Dublin The Making of a Capital City|last=Dickson|first=David|publisher=Profile Books Ltd.|year=2014|isbn=978-0-674-74444-8|location=|page=10}}</ref>。アイルランドとダブリンの奴隷制度は、[[9世紀]]から[[10世紀]]にかけて頂点に達した<ref>{{Cite journal|last=Holm|first=Poul|year=1989|title=The Slave Trade of Dublin, Ninth To Twelfth Centuries|journal=Peritia|pages=x|publisher=Journal of the Medieval Journal of Ireland}}</ref>。奴隷襲撃や誘拐の[[囚人]]は、[[アイリッシュ海]]の襲撃者や、奴隷制度を始めたヴァイキングに収益をもたらした<ref>{{Cite journal|last=Holm|first=Poul|year=1989|title=The Slave Trade of Dublin, Ninth To Twelfth Centuries|journal=Peritia|page=335|publisher=Journal of the Medieval Journal of Ireland|quote=the very idea of the taking of prisoners of war spread to the Irish [from the Vikings] in the tenth century}}</ref>。犠牲者の中には、[[ウェールズ]]、[[イングランド]]、[[ノルマンディー]]などから来ていた<ref name="dickson10" />。
レンスター王のダーマット・マクモローは、ペンブルック伯のリチャード・ド・クレア(愛称: 強弓)の助けを借り、ダブリンを征服した。マック・マローの死後、強弓は都市の支配権を獲得した後、自らをレンスター王と宣言した。強弓の侵略に成功した[[イングランド王]]の[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]は、[[1171年]]に大規模な侵略を行い、アイルランドの領主としての究極の主権となった。この頃、ダブリン市に隣接する一定の自由権とともに、ダブリン市の県({{Lang|en|County}})が設立され、[[1840年]]にダブリン市がダブリン男爵制から分離されるまで続いた。[[2001年]]以降は、両男爵領がダブリン市として再指定されている。
アイルランドにおけるノルマン勢力の中心地となった[[ダブリン城]]は、[[1204年]]に[[イングランド王]]の[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]の命令を受け、大規模な防衛工事として築城された<ref>{{cite DNB|wstitle=Fitzhenry, Meiler}}</ref>。[[1229年]]に初代ダブリン市長が任命された後、ダブリンの街は拡大し、[[13世紀]]末には8,000人の人口を抱えるまでになった。[[1317年]]に[[スコットランド王]]の[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]がダブリンを占領しようとしたにもかかわらず、貿易の中心地として繁栄した。[[14世紀]]に入っても、城壁で囲まれた比較的小さな中世の町のままで、周囲の先住民族の脅威にさらされていた<ref name="Dublin.info">{{cite web|url=http://www.dublin.info/history|title=A Brief History of Dublin, Ireland|publisher=Dublin.info|accessdate=19 August 2011}}</ref>。[[1348年]]には、[[ヨーロッパ]]を襲った[[ペスト]]がダブリンを襲い、その後の10年間で何千人もの死者を出した<ref>"''[https://books.google.com/books?id=R688at3KskQC&pg=PA49#v=onepage The Story of Ireland]''". Brian Igoe (2009). p.49.</ref><ref>"''[https://books.google.com/books?id=yw3HmjRvVQMC&pg=PA58#v=onepage Black Death]''". Joseph Patrick Byrne (2004). p.58. {{ISBN2|0-313-32492-1}}</ref>。
ダブリンは、[[ペイル (アイルランド)|ペイル]]として[[イングランド君主一覧|イングランド君主]]に編入された。[[16世紀]]の[[テューダー朝]]のアイルランド征服は、ダブリンに新たな時代の幕開けを告げ、アイルランドの行政支配の中心地として新たな存在感を発揮した。ダブリンを[[プロテスタント]]の街にしようと決意した[[イングランド女王]]の[[エリザベス1世]]は、[[1592年]]に[[ダブリン大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]をプロテスタントの[[大学]]として設立し、[[カトリック教会]]の[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]]と[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライストチャーチ大聖堂]]をプロテスタントに改築するよう命じた。
[[1640年]]には21,000人の人口を擁していたが、[[1649年]]から[[1651年]]にかけて[[ペスト]]が発生し、住民のほぼ半数が全滅した。しかし、その後すぐにイギリスとの[[ウール|羊毛]]・[[リネン]]貿易の結果として再び繁栄し、[[1700年]]には人口は5万人を超えた<ref>"''[https://books.google.com/books?id=gI8MYY6ASdcC&pg=PA34#v=onepage Dublin: a cultural history]''". Siobhán Marie Kilfeather (2005). Oxford University Press US. pp. 34–35. {{ISBN2|0-19-518201-4}}</ref>。
===近世===
[[1759年]]に[[ギネス醸造所]]が設立され、やがて世界最大の醸造所に成長し、ダブリンで最大の雇用主となった<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/?id=b-tFDwAAQBAJ&pg=PT12&dq=guinness+%22largest+employer%22#v=onepage&q=guinness%20%22largest%20employer%22|publisher=Collins Press|title=Stones of Dublin|author=Lisa Marie Griffith|date=2014|page=|quote=''[Guinness] was Dublin's largest brewery in 1810, Ireland's largest in 1833, and the largest in the world by 1914. Guinness was also the city's largest employer''|isbn=9781848898721}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.irishtimes.com/business/st-james-s-gate-a-brief-history-1.1308346|work=The Irish Times|title=St James's Gate: a brief history|date=16 April 2004|accessdate=17 June 2018|quote=''[in] 1886 Guinness [was] officially the biggest brewery in the world with an annual production of 1.2 million barrels. [And, by] 1906 the workforce exceeds 3,200; some 10,000 are directly dependent on the brewery for their livelihood – one in thirty of Dublin's population''}}</ref>。
[[17世紀]]、イギリスの[[ピューリタン革命]]の間、ダブリンは[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]の議会派勢力に包囲された。[[1798年]]のアイルランド民族主義組織[[ユナイテッド・アイリッシュメン]]の蜂起に際してはダブリン攻略の試みは失敗し、[[1803年]]、[[1847年]]、[[1867年]]にも蜂起がくりかえされた。[[1916年]]と[[1919年]]から[[1921年]]のアイルランド蜂起では、ダブリンははげしい戦場となっている。
歴代のアイルランド王や有力者、またアイルランドを植民地支配したイングランドも[[ダブリン城]]に行政の拠点を置き、アイルランド独立にいたるまでアイルランドの行政と政治の中心であった。
17世紀末頃より、大陸から来たユグノーやフランドル人によって各種工業が発展し、18世紀には[[大英帝国]]第2の都市、ヨーロッパでも5番目に大きい都市となった。旧市街にはこの頃に建てられた建築物が数多く残っている。
===近代===
====イギリス植民地時代====
[[合同法 (1800年)|1800年の合同法]]がアイルランド議会にて可決、成立した。これにより、[[グレートブリテン王国]]との合同が成され、それとともにアイルランド議会は解散した。この頃より、ダブリンは政治的、経済的衰退に苦しんだ。[[産業革命]]では大きな役割を果たさなかったが、行政の中心地であり、島の大部分の交通の要所であり続けた。アイルランドには当時の燃料である[[石炭]]の重要な供給源がなく、ダブリンはイギリスとアイルランドの産業発展のもうひとつの原動力である船舶製造の中心地ではなかった<ref name="Davies2">{{cite book|last=Davies|first=Norman|title=The Isles: a history|publisher=Macmillan|year=1999|location=London|page=1222|isbn=978-0-333-76370-4|date=}}</ref>。[[ベルファスト]]は[[国際貿易]]、工場での[[リネン]]生地生産、[[造船業]]などが混在していたため、この時期のダブリンよりも早く発展した<ref name="Lyons">{{cite book|last=Lyons|first=F.S.L.|title=Ireland since the famine|publisher=Collins / Fontana|year=1973|location=Suffolk|isbn=978-0-00-633200-8|page=[https://archive.org/details/irelandsincefami00lyon/page/880 880]|url-access=registration|url=https://archive.org/details/irelandsincefami00lyon/page/880|date=}}</ref>。
====独立====
[[ファイル:The shell of the G.P.O. on Sackville Street after the Easter Rising (6937669789).jpg|thumb|200px|1916年の[[イースター蜂起]]後のダブリン市内中心部の被害状況(左前:[[中央郵便局 (ダブリン)|中央郵便局]]の廃墟、右奥:[[ネルソンの柱]])]]
*1916年の[[イースター蜂起]]、[[アイルランド独立戦争]]、そしてその後の[[アイルランド内戦]]により、ダブリン中心部はかなりの物理的破壊を受けた。[[アイルランド自由国]]政府はダブリンの中心部を再建し、新しい議会である[[ウラクタス]]を[[レンスター・ハウス]]に設置した。
[[12世紀]]にノルマン人の支配が始まって以来、ダブリンは[[アイルランド卿]](1171年 - 1541年)[[アイルランド王国]](1541年 - 1800年)、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]](1801年 - 1922年)、[[アイルランド共和国 (1919年-1922年)|アイルランド共和国]](1919年 - 1922年)などの地政学的な組織の中で首都として機能してきた。
*[[英愛条約]]に基づき、[[1922年]]のアイルランド分割後、[[アイルランド自由国]](1922年 - 1937年)の首都となり、現在も[[アイルランド]]の首都となっている。記念碑のひとつに追憶の庭({{Lang-ga-short|An Gairdín Cuimhneacháin}}、{{Lang-en-short|Garden of Remembrance}})がある。
*1937年の[[アイルランド憲法|新憲法]]施行により、「独立した民主的な国家」エール({{Lang|ga|Éire}})が成立した。1949年にアイルランドが[[イギリス連邦]]より離脱した。
===現代===
ダブリンもまた、30年にも及ぶ[[北アイルランド紛争]]の犠牲者だったが、暴力は主に[[北アイルランド]]内で発生した。しかし、[[IRA暫定派]]はダブリンを含む共和国内からも支援を受けていた。
[[アルスター・ロイヤリズム|ロイヤリスト]](イギリスと北アイルランドの連合の支持者)の準軍事組織である[[アルスター義勇軍]]は、この時期に街を爆撃し、[[ダブリン・モナハン爆弾事件]]では、ダブリン中心部を中心に34人が死亡した。
[[1997年]]以降、ダブリンの景観は変化してきた。[[ケルトの虎]]時代には、住宅・交通・ビジネスなどの民間部門と国家による開発が行われ、アイルランドの経済発展の先頭に立っていた。
大不況期に経済が落ち込んだ後、ダブリンは立ち直り、[[2017年]]現在では完全雇用に近い状態になっている<ref name=":0">{{Cite news|url=https://issuu.com/256media/docs/dublineconomicmonitor_oct2017?e=16581915/54602478|title=Dublin Economic Monitor – October 2017|work=issuu|access-date=14 December 2017}}</ref>。しかし、市内と周辺地域の住宅供給には依然と問題が残っている<ref>{{cite web|url=https://www.irishtimes.com/news/environment/construction-of-homes-in-dublin-city-halves-1.3737361|title=Construction of homes in Dublin city halves|author=Olivia Kelly|date=19 December 2018|work=The Irish Times|quote=''The number of homes under construction in Dublin city is down almost 50 per cent on last year, with a 20 per cent drop across the region as a whole, according to a new report from the Government's Dublin Housing Supply Task Force''|accessdate=2020/07/26|publisher=}}</ref>。
現在も、市の中心部のメリオン通りおよびメリオン広場周辺に[[アイルランド政府]]の議会や主要官庁が立ち並び、アイルランドの政治・経済・文化の中心として栄えている。
==政治==
===行政===
[[File:Dublin City Council Civic Offices.JPG|thumb|200px|ダブリン市議会議事堂]]
====地方政府====
[[1842年]]からは、ダブリン市とダブリン男爵領の間で境界線が定められていた。
[[1930年]]には、地方政府(ダブリン)法によって境界線が拡張された<ref>Irish Statute Book. [http://www.irishstatutebook.ie/1930/en/act/pub/0027/sched1.html#sched1 Local Government (Dublin) Act]</ref>。
その後、[[1953年]]には、地方政府暫定令確認法({{Lang|en|Local Government Provisional Order Confirmation Act}})により、境界線が再び拡大された<ref>{{cite web|url=http://www.irishstatutebook.ie/1953/en/act/prv/0001/print.html|title=Irish statute book, Local Government Provisional Order Confirmation Act, 1953|publisher=Irishstatutebook.ie|date=28 March 1953|accessdate=13 September 2013}}</ref>。
===議会===
====市議会====
;ダブリン市議会
ダブリン市議会({{Lang|ga|Comhairle Cathrach Bhaile Átha Cliath}})は、5年ごとに地方選挙区から選出された63議席で構成される[[一院制]]の議会である<ref>{{cite web|url=http://www.dublincity.ie/main-menu-your-council/local-elections|title=Local Elections 2014|website=Dublin City Council|accessdate=13 July 2014|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140715001530/http://www.dublincity.ie/main-menu-your-council/local-elections|archivedate=15 July 2014}}</ref>。
;議長
議長は、1年ごとの任期で選出された市長が務め、ダブリンの[[マンションハウス (ダブリン)|マンションハウス]]に居住している。
議会会議は[[ダブリン市庁舎]]で行われ、行政活動のほとんどはウッド岸壁の市民事務所で行われている。議席数の過半数を占める政党または政党連合が委員を割り当て、政策を紹介し、市長に提案する。議会は、住宅、交通管理、ごみ、排水、計画などの分野に支出するための年間予算を可決する。
==国家機関==
[[File:Leinsterhouse.jpg|thumb|200px|アイルランド国民議会([[ウラクタス]])議事堂([[レンスター・ハウス]])]]
===大統領府===
大統領府は[[フェニックス・パーク]]の[[大統領公邸 (アイルランド)|大統領公邸]]に、ウラクタスの両院はキルデア通りにあるかつての公爵家の宮殿である[[レンスター・ハウス]]にある。
===中央議会===
ダブリンは[[アイルランド]]の首都であり、アイルランド国民議会([[ウラクタス]]、[[ドイル・エアラン]]と[[シャナズ・エアラン]]の二院で構成)の所在地である。
[[アイルランド憲法]]においては、ダブリン及びその近郊に議会を開くことを義務付けている。
[[1922年]]に[[アイルランド自由国]]が誕生して以来、アイルランド議会の本拠地となっている。
[[アイルランド王国]]の旧アイルランド議会議事堂は、カレッジ・グリーンにある。
政府庁は、[[アイルランドの首相|首相]]({{Lang|ga|Taoiseach}})省、議会、財務省、司法長官室が入っている。
本館(1911年完成)と2つの棟(1921年完成)からなる。第一次国会は[[1919年]]にマンションハウスで開かれていた。
総選挙において、ダブリン5つの選挙区に分割されており、合計19名の国会議員(TD)を選出する。選挙区と定数はダブリン中央が3席、 ダブリン湾北部が5席、 ダブリン北西部が3席、 ダブリン南部が4席、ダブリン湾南部が4席となっている。
====代表====
2016年の総選挙では、ダブリン市域は[[統一アイルランド党]]6名、[[シン・フェイン党]]4名、[[共和党 (アイルランド)|共和党]]2名、無所属4名、変革のための無所属議員2名、連帯-利益の前の国民1人、[[緑の党 (アイルランド)|緑の党]]1人、社会民主党1名の議員({{Lang|ga|Teachta Dála, TD}})が選出された<ref name="it-elect-2016-results">{{cite news|title=Election 2016 Results|url=https://www.irishtimes.com/election-2016/results-hub|accessdate=16 August 2019|work=The Irish Times|language=en}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.newstalk.com/election2016/Here-are-all-the-TDs-elected-to-the-32nd-Dil-so-far|title=The TDs elected to the 32nd Dáil so far|publisher=Newstalk|accessdate=12 May 2013|archive-url=https://web.archive.org/web/20171209162021/http://www.newstalk.com/election2016/Here-are-all-the-TDs-elected-to-the-32nd-Dil-so-far|archive-date=9 December 2017|url-status=dead}}</ref>。
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
2020年現在、ダブリン市は以下の都市との姉妹提携を結んでいる<ref>{{Cite web|title=International Relations {{!}} Dublin City Council|url=http://www.dublincity.ie/main-menu-services-recreation-culture/international-relations-unit|website=www.dublincity.ie|accessdate=2020-07-26}}</ref><ref>{{Cite web|title=Managing our International relationships {{!}} Dublin City Council|url=http://www.dublincity.ie/managing-our-international-relationships|website=www.dublincity.ie|accessdate=2020-07-26}}</ref>。
*{{flagicon|USA}}[[サンノゼ]]([[アメリカ合衆国]])-(1986年)
*{{flagicon|GBR}}[[リヴァプール]]([[イギリス|イギリス連合王国]])-(1997年)
*{{flagicon|ESP}}[[バルセロナ]]([[スペイン王国]])-(1998年)
*{{flagicon|CHN}}[[北京市]]([[中華人民共和国]])-(2011年)
== 経済 ==
[[File:Grafton St, Dublin.jpg|thumb|200px|[[繁華街]]の[[グラフトン街]]]]
[[File:Grand Canal Dock (Charlotte Quay) - panoramio.jpg|thumb|200px|left|グランド・カナル・ドック]]
[[File:The Ulster Bank Group HQ, George's Quay Plaza - geograph.org.uk - 1743476.jpg|thumb|200px|[[アルスター銀行]]]]
ダブリンは[[アイルランド]]の経済の中心地であり、[[ケルトの虎]]時代には国の経済発展の先頭に立っていた。かつては[[大英帝国]]第2の都市と呼称されるほどに栄えたものの、独立後アイルランド政府の保守政策と経済不況、またその結果としての人口の移民としての流出のために数十年にわたって寂れた。
しかし[[欧州共同体]]への加入、そして[[1990年代]]に入ってからの[[情報技術|IT]]・[[製薬]]・[[観光]]・[[金融|金融産業]]などによる急激な経済成長により、かつての[[植民地]]時代の規模をはるかに超えた成長と人口増加が見られた。
このため、不動産の高騰や交通渋滞など人口集中に伴う問題が多々起こり、町中のいたるところで街区の再開発が急ピッチで進められている。
[[2009年]]には、ダブリンは[[購買力]]で世界第4位、個人所得では第10位の富裕層都市に選ばれた<ref>{{cite web|url=http://www.citymayors.com/economics/usb-purchasing-power.html|title=Richest cities in the world by purchasing power in 2009|publisher=City Mayors|accessdate=17 June 2010}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.citymayors.com/economics/richest_cities.html|title=Richest cities in the world by personal earnings in 2009|publisher=Citymayors.com|date=22 August 2009|accessdate=17 June 2010}}</ref>。
マーサーの2011年世界生活費調査によると、ダブリンは[[欧州連合]]の中で13番目(2010年の10番から減少)、世界で58番目(2010年の42番から減少)に物価が高い都市である<ref>{{cite news|url=https://www.irishtimes.com/news/dublin-falls-in-city-cost-rankings-1.879923|title=Dublin falls in city-cost rankings|work=The Irish Times|date=12 July 2011|accessdate=20 July 2011}}</ref>。
2017年現在、[[ダブリン都市圏]]では約87万4,400人が雇用されており、アイルランドの金融、[[情報通信技術|ICT]]、専門職に就いている者の約6割が住んでいる<ref>{{Cite web|url=http://www.dublinchamber.ie/business-agenda/about-dublin|title=About Dublin. Economic Activity, Tax & Employment|website=Dublin Chamber|access-date=12 November 2018}}</ref>
===第二次産業===
====醸造業====
[[1759年]]以来、セント・ジェームズ・ゲート醸造所で[[ギネス]]が醸造されているが、食品加工、繊維製造、醸造、蒸留などの多くは徐々に衰退している。
====シリコンドック====
[[1990年代]]の経済改善により、多くのグローバル製薬企業、情報通信技術企業がダブリンとダブリン都市圏に進出してきた。[[マイクロソフト]]、[[Google]]、[[Amazon.com|Amazon]]、[[EBay]]、[[PayPal]]、[[Yahoo!]]、[[Facebook]]、[[Twitter]]、[[アクセンチュア]]、[[ファイザー]]などの企業は、ダブリンにヨーロッパ本社や事業拠点を構えており、デジタル・ハブや「シリコン・ドック」などの企業クラスターにも数々の企業が立地している。
これらの企業の存在がダブリンの経済発展を牽引し、ダブリンは「欧州の技術首都」と呼ばれることもある<ref name=":02">{{Cite news|url=https://issuu.com/256media/docs/dublineconomicmonitor_oct2017?e=16581915/54602478|title=Dublin Economic Monitor – October 2017|work=issuu|access-date=14 December 2017}}</ref>。
===第三次産業===
====金融業====
金融サービスは、ダブリンが国際金融センターのひとつとして発展するとともに重要な地位を占めるようになり、500以上の金融機関がIFSCプログラムの下で取引を行っている<ref>{{cite web|url=http://www.ifsc.ie/page.aspx?idpage=6|title=I.F.S.C|publisher=I.F.S.C.ie|date=21 June 2010|accessdate=21 January 2010}}</ref>。[[シティバンク]]や [[コメルツ銀行]]などの海外銀行もダブリンに支店を設置している。主な取引所としては [[アイルランド証券取引所]](ISEQ)や[[インターネット・ニュートラル取引所]](INEX)、 [[アイルランド為替取引所]](IEX)などがある。ダブリンは、[[イギリスの欧州連合離脱]]後も[[ユーロ圏]]へのアクセスを維持したいと考えている金融サービス企業の受け入れを争う主要都市のひとつとして位置づけられている。[[ケルトの虎]]の影響で、ダブリン・ドックランズやスペンサー・ドックでは大規模な再開発プロジェクトが行われ、一時的に建設ブームが起こった。完成したプロジェクトには、[[ダブリン・コンベンション・センター|コンベンション・センター]]、[[3アリーナ]]、[[ボード・ガシュ・エナジー・シアター]]などがある。
[[2018年]]第2四半期、ダブリンの失業率はダブリン・エコノミック・モニターが報じた通り5.7%まで低下し、過去10年間で最も低い水準に触れた<ref>{{cite web|url=https://www.irishexaminer.com/breakingnews/business/monitor-dublin-unemployment-falls-to-lowest-level-in-10-years-amid-economic-resurgence-859553.html|title=Monitor: Dublin unemployment falls to lowest level in 10 years amid economic resurgence|accessdate=2 August 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20181011172942/https://www.irishexaminer.com/breakingnews/business/monitor-dublin-unemployment-falls-to-lowest-level-in-10-years-amid-economic-resurgence-859553.html|archive-date=11 October 2018|url-status=dead}}</ref><ref>{{cite web|url=https://issuu.com/256media/docs/dem_aug18?e=16581915/63526870|title=14th issue of the Dublin Economic Monitor|accessdate=1 August 2018}}</ref>。
===経済格差===
[[リフィー川]]はダブリンを南北に分断しており、文化的格差はある程度伝統的に存在していた。
南側は一般的に北側よりも裕福で上品であると見られている<ref name="northsouthmyth">{{cite news|url=https://www.irishtimes.com/news/time-to-move-beyond-the-northside-southside-myth-1.551483|work=The Irish Times|title=Time to move beyond the northside-southside myth|date=14 November 2012|accessdate=17 June 2018|quote=}}</ref>。
[[観光]]や[[不動産]]の[[マーケティング]]では、ダブリン市内を複数の地区に分けることがある<ref>{{cite web|url=http://www.dublintown.ie/creativequarter|title=Dublin Town – Creative Quarter – DublinTown – What's On, Shopping & Events in Dublin City – Dublin Town|website=What's On, Shopping & Events in Dublin City – Dublin Town|accessdate=13 November 2016}}</ref>。
*中世地区([[ダブリン城]]、[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライストチャーチ大聖堂]]、[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]]、旧城壁)、
*ジョージアン地区([[セント・スティーブンス・グリーン]]、[[ダブリン大学トリニティ・カレッジ]]、メリオン広場周辺)、
*ドックランズ地区(ダブリン・ドックランズ、シリコン・ドック周辺)、
*カルチュラル地区([[テンプルバー (ダブリン)|テンプルバー]]周辺)、
*クリエイティブ地区(サウス・ウィリアム通り、ジョージズ通りの間)
==情報・通信==
[[File:Montrose Studios Donnybrook 2.jpg|thumb|200px|[[RTÉ]]本部前]]
===マスメディア===
ダブリンはアイルランドのメディアと通信の中心地であり、多くの新聞社、ラジオ局、テレビ局、電話会社が拠点を置いている。[[アイルランド放送協会]](RTÉ)はアイルランドの国営放送局で、ドニーブルックに本部を置いている。
====新聞社====
[[アイリッシュ・タイムズ]]や[[アイリッシュ・インデペンデント]]などの全国紙や、イブニング・ヘラルドなどの地方紙もダブリンに本社を置いている。
====放送局====
;テレビ
ヴァージン・メディア・テレビジョン、eir Sport、[[MTV|MTV Ireland]]、[[Sky News]]もこの街に拠点を置いている。
;ラジオ
ダブリンはRTÉラジオの本拠地であるだけでなく、全国放送のToday FMやNewstalkなどのラジオや、地方局も放送している。4fm (94.9 MHz)、Dublin's 98FM(98.1 MHz)、Radio Nova 100FM(100.3 MHz)、Q102(102.2 MHz)、SPIN 1038(103.8 MHz)、FM104(104.4 MHz)、Sunshine 106.8(106.8 MHz)などの民間ラジオ局がある。また、Dublin City FM(103.2 MHz)、Dublin South FM(93.9 MHz)、Liffey Sound FM(96.4 MHz)、Near FM(90.3 MHz)、Raidió Na Life(106.4 MHz)などのコミュニティ・ステーションや特別関心局も多数存在する。
====その他====
;郵便・電信
アイルランド郵政事業({{Lang|ga|An Post}})の本社やEirなどの通信会社、携帯電話会社の[[ボーダフォン]]や3もこの街にある。
== 教育 ==
[[ファイル:Trinity College (8101939192).jpg|thumb|200px|[[ダブリン大学]]<br>[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]]]
=== 高等教育 ===
ダブリンは[[アイルランド]]最大の教育の中心地で、5つの[[大学|総合大学]]をはじめ多くの高等教育機関がある。[[2012年]]には欧州科学首都に選ばれた<ref>{{cite web|url=http://www.esof.eu/past-esof/esof-2012-dublin.html|title=ESOF Dublin|publisher=EuroScience|year=2012|accessdate=29 August 2015|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150908023909/http://www.esof.eu/past-esof/esof-2012-dublin.html|archivedate=8 September 2015}}</ref><ref>{{cite news|last=Walshe|first=John|author2=Reigel, Ralph|url=http://www.independent.ie/irish-news/celebrations-and-hard-work-begin-after-capital-lands-science-olympics-for-2012-26494644.html|title=Celebrations and hard work begin after capital lands science 'Olympics' for 2012|work=Irish Independent|date=25 November 2008|accessdate=17 June 2010}}</ref>。
[[ダブリン大学]]は、[[16世紀]]に設立されたアイルランド最古の大学で、市内中心部に位置している。唯一の構成[[カレッジ]]である[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]](TCD)は、[[1592年]]に[[エリザベス1世]]の王立特許状によって設立された。[[1793年]]までは[[カトリック教徒]]には閉鎖されていたが、[[1871年]]から[[1970年]]にかけてアイルランドのカトリック教会は、許可なく入学することを禁じていた<ref>{{cite web|url=https://www.tcd.ie/about/history/|website=tcd.ie|publisher=Trinity College Dublin|title=History – About Trinity|accessdate=9 July 2019|quote=''Catholics were permitted to enter and take degrees from 1793 [..followed by..] the removal of the Catholic episcopal 'ban' (in 1970)''}}</ref>。市内中心部のカレッジ・グリーンに位置し、18,000人以上の学生が在籍している<ref>{{Cite web|url=https://hea.ie/assets/uploads/2017/04/TCD-Profile-2016.pdf|title=Trinity College Dublin Profile 2016/17|last=|first=|date=2016|website=Higher Education Authority|access-date=2020/07/26|publisher=}}</ref>。[[トリニティ・カレッジ図書館|旧図書館]]では、ケルト美術を代表する作品『[[ケルズの書]]』などの収蔵文献が一般向けに公開されている。
[[アイルランド国立大学]]はダブリンに本部を置き、3万人以上が在籍している[[ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン]](アイルランド国立大学ダブリン校、UCD)の構成大学の所在地でもある。[[1854年]]に設立され、現在ではアイルランド最大の大学となっている。UCDの本キャンパスは、市内中心部から約5[[キロメートル|km]]離れた南東部郊外のベルフィールドにある。
[[1887年]]に起源を持つアイルランド最大の技術教育・研究機関であった[[ダブリン技術学院]](DIT)は、郊外にある2つの高等教育機関である[[タラ技術学院]](ITT)と[[ブランチャーズタウン技術学院]](ITB)と合併し、[[ダブリン工科大学]](TUD)が発足した。[[工学]]、[[建築]]、[[科学]]、[[健康]]、[[ジャーナリズム]]、[[デジタルメディア]]、[[ホスピタリティ]]、[[ビジネス]]、[[芸術]]、[[音楽]]、[[人文科学]]など幅広い分野で教育・研究をしており、グランジゴーマン、タラ、ブランチャーズタウンの3つのキャンパスを有している。
[[ダブリンシティ大学]](DCU)は、以前は国立高等教育機関(NIHE)のダブリン校として、ビジネス、工学、科学、[[コミュニケーション学|コミュニケーション]]、[[語学]]、[[初等教育]]の教育・研究をしていた。約16,000人以上の学生が在籍しており、本キャンパスは市内中心部から約7kmの北部郊外に位置している。日本語・日本文化専攻を設けている<ref>{{Cite web|title=BA in Applied Language and Translation Studies,– DCU|url=https://www.dcu.ie/courses/undergraduate/salis/applied-language-and-translation-studies.shtml|website=www.dcu.ie|accessdate=2020-07-25}}</ref>。
[[アイルランド王立外科医学院]](RCSI)は、[[医学部]]を中心に教育・研究をしており、市内中心部の[[セント・スティーブンス・グリーン]]に位置している。アート&デザイン国立大学(NCAD)は、[[芸術]]の教育・研究を行っている。[[アイルランド国立カレッジ]](NCI)もダブリンにあり、社会科学の研究所である経済社会研究所、[[ダブリン高等研究所]]も市内にある。その他、[[カレッジ]]([[単科大学]])や継続教育も多く存在する。
=== 初等・中等教育 ===
ダブリンの初等教育機関(日本の小学校に相当)と中等教育機関(日本の中学校・高等学校に相当)では、主に英語を中心に教育が行われている。ダブリンにおいて「{{Lang|ga|gaelscoileanna}}」と呼ばれるアイルランド語の初等教育機関が34校、「{{Lang|ga|gaelcholáistí}}」と呼ばれるアイルランド語の中等教育機関が10校あり、12,950人の学生が在籍している<ref>{{cite web|url=http://www.gaelscoileanna.ie/files/Education-through-Irish.pdf|title=Education through the Medium of Irish 2015/2016|year=2016|publisher=gaelscoileanna.ie|accessdate=1 January 2018}}</ref>。
==交通==
===空路===
[[File:Dublin Airport, May 2011 (16).JPG|thumb|200px|[[ダブリン空港]](T2)]]
====空港====
;旅客空港
*[[ダブリン空港]]
[[ダブリン空港]](DAAが所有・運営)は、[[ダブリン県]][[フィンガルの洞窟|フィンガル市]]のソーズ付近(ダブリン市から北)に位置している。
アイルランドの[[フラッグキャリア]]である[[エアリンガス]]の本社や、コミューター航空会社である[[ストバートエア]]、[[シティジェット]]の本社があり、近くには[[格安航空会社]]の[[ライアンエアー]]の本社もある。
ダブリン空港は、短・中距離路線、国内線、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[中東]]、[[アジア]]への長距離路線が運行されている。
[[欧州連合]]の中で11番目に利用者が多い空港で、[[アイルランド島]]内では最も利用者が多い空港となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.daa.ie/annual-report-2017/2017-at-a-glance/|title=2017 Year in Review|website=Dublin Airport|access-date=3 October 2018}}</ref>。
[[2016年]]には2,790万人の乗客がダブリン空港を利用し、短距離路線と長距離路線の成長に支えられ、過去最高の記録を樹立した<ref name="dub2016record2">{{cite web|title=Record 2016 For Dublin Airport With Almost 28M Passengers|url=https://www.dublinairport.com/latest-news/detail/record-2016-for-dublin-airport-with-almost-28m-passengers|website=dublinairport.com|accessdate=1 February 2017}}</ref>。
[[2015年]]と[[2016年]]には[[大西洋横断飛行|大西洋横断便]]が増加し、[[北米]]への夏季便が週158便となり、ヨーロッパのハブ空港としては年間で6番目の規模となった<ref>{{cite web|title=Dublin Airport flying high after record year for transatlantic traffic – Independent.ie|url=http://www.independent.ie/life/travel/travel-news/dublin-airport-flying-high-after-record-year-for-transatlantic-traffic-30900426.html|website=The Irish Independent|accessdate=1 February 2017}}</ref>。
[[2010年]]から[[2016年]]にかけて、ダブリン空港の年間旅客数は950万人近く増加しており<ref name="dub2016record">{{cite web|title=Record 2016 For Dublin Airport With Almost 28M Passengers|url=https://www.dublinairport.com/latest-news/detail/record-2016-for-dublin-airport-with-almost-28m-passengers|website=dublinairport.com|accessdate=1 February 2017}}</ref>、
民間航空機の移動数も同様に[[2013年]]の163,703便から[[2015年]]の191,233便へと成長傾向をたどっている<ref>{{cite web|title=Flight Statistics 1998 – 2014|url=https://www.iaa.ie/who-we-are/flight-statistics/flight-statistics-1998---2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20160411220834/https://www.iaa.ie/who-we-are/flight-statistics/flight-statistics-1998---2014|url-status=dead|archive-date=11 April 2016|website=Irish Aviation Authority|accessdate=1 February 2017|date=11 April 2016}}</ref>。
;その他
ダブリンにはウェストン空港やその他の小規模な施設があり、様々な[[ヘリコプター]]が利用しており、軍や一部の国家機関は近くのケースメント飛行場を利用している。
===鉄道===
[[ファイル:Dart Train at Connolly Station, Dublin. - panoramio.jpg|thumb|200px|[[ダブリン・コノリー駅]]]]
[[ファイル:Dart 8633.jpg|thumb|200px|[[東急車輛製造]]の[[ダブリン高速輸送|DART]]]]
====高速鉄道====
[[アイルランド国鉄]]により、[[インターシティ]]、[[コミューター]]、および[[ダブリン高速輸送]](DART)が運行されている。
[[ダブリン・ヒューストン駅]]と[[ダブリン・コノリー駅]]はダブリンの主要ターミナル駅である。
アイルランドで唯一の[[電車]]である[[ダブリン高速輸送|DART]]はダブリンの沿岸に沿って運行しており、マラハイドとホウスから南下して[[ウィックロー県]]のグレイストーンズまで、31の駅からなる<ref>{{cite web|url=http://www.dublin.ie/transport/dart.htm|title=DART (Dublin Area Rapid Transit)|accessdate=28 July 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20110721123858/http://www.dublin.ie/transport/dart.htm|archive-date=21 July 2011|url-status=dead}}</ref>。
====在来線====
コミューターは[[気動車]]であり、[[ダブリン都市圏]]と[[ラウス県]]の[[ドロヘダ]]や[[ダンドーク]]、[[ウェックスフォード県]]のゴリーなどの通勤都市を結んでいる。
2013年のDARTとダブリン郊外線の乗客はそれぞれ1,600万人、1,170万人だった(アイルランド国鉄の乗客全体の約75%)<ref>{{cite web|url=http://www.cso.ie/px/pxeirestat/Statire/SelectVarVal/Define.asp?maintable=TCA01|title=Passenger Journeys by Rail by Type of Journey and Year – StatBank – data and statistics|accessdate=20 April 2016}}</ref>。
===軌道===
====路面電車====
ダブリンにはかつて[[路面電車]]が通っていたが、[[1949年]]までに大部分が廃止された。
[[2004年]]には、[[ルアス]]と呼ばれる路面電車が運行を開始し、トランスデヴが運営しており、年間3,400万人以上の乗客を運んでいる<ref name="Luas - Frequently Asked Questions">{{cite web|url=https://www.luas.ie/faq.html|title=Luas – Frequently Asked Questions|website=luas.ie|access-date=1 January 2018}}</ref>。
レッドラインはドックランズと市内中心部と南西部の郊外のタラとサガートを結び、グリーンラインは市内北部の郊外と市内中心部と市内南部のサンディフォードやブライズグレンなどの郊外を結んでいる。
これらの路線は合計67の[[路面電車停留場|停留場]]と44.5[[キロメートル|km]]の線路で構成されている<ref name="Luas - Frequently Asked Questions" />。
[[2013年]][[6月]]には、ダブリンの北側に6kmのグリーンライン延長工事が開始され、[[2017年]][[12月9日]]に開通した<ref>{{cite web|url=https://luas.ie/luas-cross-city-opening-2pm-sat-9th-dec/|title=Luas Cross City Opened|date=December 2017|website=Luas.ie|publisher=Transdev|accessdate=14 December 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20171215110751/https://luas.ie/luas-cross-city-opening-2pm-sat-9th-dec/|archive-date=15 December 2017|url-status=dead}}</ref>。
===地下鉄===
[[地下鉄]]の「[[メトロリンク (ダブリン)|メトロリンク]]」が提案されており、[[ダブリン県]]北部のソーズから[[ダブリン空港]]と[[セント・スティーブンス・グリーン]]を経由し、サンディフォードまで走る計画で、[[2021年]]以降に着工し、[[2027年]]に開通が予定されている<ref>{{Cite news|url=https://www.independent.ie/irish-news/news/revealed-preferred-route-for-3bn-metrolink-from-city-centre-to-dublin-airport-unveiled-36732780.html|title=Revealed: Preferred route for €3bn MetroLink from city centre to Dublin Airport unveiled|last=Melia|first=Paul|date=22 March 2018|work=Irish Independent|access-date=12 November 2018}}</ref>。
===バス===
[[ファイル:TFI ENVIRO 400ER.jpg|thumb|200px|ダブリン市内を走るバス(写真は[[ダブリンバス]]社)]]
ダブリンのバスは、市内と郊外を網羅する約200路線をほぼ2階建て[[バス (交通機関)|バス]]([[ダブルデッカー]])で運行している。大部分は、[[ダブリンバス]]が運営しており、2018年には複数の路線が[[ゴーアヘッド・アイルランド]]に移管されたが、中小バス会社もバス運行事業を行っている。 運賃は一般的に移動距離に応じたステージ制で計算される。2012年に導入されたリアルタイムの時刻表が採用されており、導入したバスは位置決定の[[GPS]]に基づき、バス到着までの時間を表示している。 国家運輸局(NTA)は、バスと電車などで相互に使える[[ICカード乗車券]]の[[リープカード]]の導入に携わった。
===道路===
[[File:DublinM50.png|thumb|200px|ダブリンを包囲している高速道M50号]]
[[アイルランド]]の道路交通網は主にダブリンを中心としている。
====高速道路====
高速道M50号はダブリンを半包囲する形で整備されており、国内の他の地域や[[北アイルランド]]方面の高速道路と接続している<ref>{{cite web | title = E-Flow Website | publisher=eFlow | url = http://eflow.ie/| accessdate =29 July 2011 }}</ref>。
====渋滞問題====
[[2006年]]に交通渋滞問題解消の第一段階として、ダブリン市の東部バイパスの[[ダブリンポートトンネル]]が開通し、 [[ダブリン港]]や高速道M1号、[[ダブリン空港]]と接続している<ref>{{Cite web|title=eFlow Website - M50 Toll|url=https://www.eflow.ie/|website=www.eflow.ie|accessdate=2020-08-09}}</ref>。
ダブリンは内側と外側の自動車専用道路に囲まれており、内側の自動車専用道路は、ジョージアン様式の街の中心部に接続しており、外側の自動車専用道路は、主にダブリン市内の2運河、大運河とロイヤル運河だけでなく、南北循環道路によって形成された自然な円に沿って整備されている。
利用料がほとんど無料であるが、一部の区域では有料となっている。
このうちM50号は料金所が撤去されており、[[ETC]]を利用するか、[[インターネット]]<ref>https://www.eflow.ie/</ref>で翌日午後8時までに通行料金を支払う仕組みである<ref>http://www.ikikou.com/archives/78 支払いを怠ると罰金が課され、たとえば[[レンタカー]]を利用していた場合は、その分が料金に追加される。</ref>。
2016年には、ダブリンは世界で15番目、ヨーロッパでは7番目に混雑している都市と評価されている<ref>{{cite news|last1=Kelpie|first1=Colm|title=Revealed: Dublin ranked worse than London or Paris for road congestion|url=http://www.independent.ie/business/irish/revealed-dublin-ranked-worse-than-london-or-paris-for-road-congestion-34563994.html|accessdate=20 December 2016|work=The Irish Independent|date=23 March 2016}}</ref><ref>{{cite web|title=TomTom Traffic Index|url=https://www.tomtom.com/en_ie/trafficindex/list|website=TomTom|accessdate=20 December 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160329034844/http://tomtom.com/en_ie/trafficindex/list|archive-date=29 March 2016|url-status=dead}}</ref>。
===サイクリング===
[[ファイル:DublinBike Station - Wolfe Tone Square (Dublin) - panoramio.jpg|thumb|200px|[[ダブリンバイク]]]]
[[2011年]]の国勢調査によると、ダブリンの通勤者の5.9%が自転車で移動している。ダブリン市議会が[[2013年]]に発表した市内外の運河を横断する交通の流れに関する報告書によると、全交通量の10%弱が自転車利用者で占められており、[[2012年]]比14.1%増、[[2006年]]比87.2%増となっている。[[自転車シェアリング]]、[[自転車専用レーン]]の設置、促進の啓発キャンペーン、市内中心部での速度制限30[[キロメートル毎時|km/h]]の導入などの対策が功を奏している。
ダブリン市議会は、[[1990年代]]から市内全域に自転車専用レーンの設置を開始し、[[2012年]]には総長200[[キロメートル|km]]を超えた<ref>{{cite web|url=http://www.cycledublin.ie/category/cycling-maps|title=Cycling Maps|publisher=Dublincitycycling.ie|accessdate=13 September 2013|archive-url=https://web.archive.org/web/20150620073156/http://www.cycledublin.ie/category/cycling-maps|archive-date=20 June 2015|url-status=dead}}</ref>。2011年には、世界の自転車に優しい都市ランキングで世界の主要都市の中で9位にランクされた<ref>{{cite web|url=http://copenhagenize.eu/index/index.html|title=Copenhagenize Consulting – ''Copenhagenize Index of Bicycle-Friendly Cities 2011''|publisher=Copenhagenize.eu|accessdate=13 September 2013}}</ref>。同指数では[[2015年]]に15位まで落ち込み<ref>{{cite web|url=http://copenhagenize.eu/index/index.html|title=Copenhagenize Consulting – ''Copenhagenize Index of Bicycle-Friendly Cities 2011''|publisher=Copenhagenize.eu|accessdate=3 July 2017}}</ref>、[[2017年]]にはダブリンは上位20圏外となった<ref>{{cite web|url=http://copenhagenize.eu/index/index.html|title=Copenhagenize Consulting – ''Copenhagenize Index of Bicycle-Friendly Cities 2017''|publisher=Copenhagenize.eu|accessdate=12 February 2019}}</ref>。
[[ダブリンバイク]]は、2009年からダブリンで運営されている[[自転車シェアリング]]である。[[ジェーシードゥコー]]と[[オンライン]][[デリバリー|フードデリバリー]]サービスのJust Eatがスポンサーとなっており、市内中心部の駐輪場44場に数百台の自転車が設置されている。利用者は、1年契約を申し込むか、3日間切符を購入する必要がある<ref>{{cite web|url=http://www.dublinbikes.ie/How-does-it-work|title=Dublinbikes – How does it work?|publisher=Dublinbikes|accessdate=29 July 2011}}</ref>。[[2018年]]には、66,000人以上の長期加入者が年間200万回以上利用している<ref>{{cite web|url=http://www.dublinbikes.ie/Magazine/Reports/Just-Eat-dublinbikes-latest-figures|publisher=Dublinbikes.ie|title=Dublinbikes – latest figures|date=21 August 2018|accessdate=3 October 2018}}</ref><ref>{{cite web|url=http://dublinobserver.com/wp-content/uploads/2011/03/Dublin-Bikes-Strategic-Planning-Framework-Document-Full.pdf|title=Dublinbikes Strategic Planning Framework 2011–2016|publisher=Dublin City Council|accessdate=29 July 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120114221413/http://dublinobserver.com/wp-content/uploads/2011/03/Dublin-Bikes-Strategic-Planning-Framework-Document-Full.pdf|archivedate=14 January 2012}}</ref>。
===航路===
====港湾====
*[[ダブリン港]]
====船舶====
ダブリン港からの[[フェリー]]は[[ホーリーヘッド]]行き、[[リヴァプール]]行きなどがあり、[[ステナライン]]、[[P&O]]と[[アイリッシュ・フェリー]]が運航している。
ダブリン港とダブリン市街地の間には複数のバス路線が運行している。
[[ホーリーヘッド駅]]や[[リヴァプール・ライム・ストリート駅]]には[[ユーストン駅|ロンドン・ユーストン駅]]行きの列車が発着している。
[[ユーロラインズ]]により、[[ロンドン]]や[[エディンバラ]]への[[長距離バス]]が、フェリーを経由して運行されている。
== 観光 ==
=== ランドマーク ===
ダブリンには、数百年前に遡る多くの[[ランドマーク]]や[[モニュメント]]がある。[[1169年]]に[[ノルマン人のアイルランド侵攻|ノルマン人がアイルランドに侵攻]]してきた直後の[[1204年]]に、[[イングランド王]]の[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]の命令で、街の防衛、司法、王の財宝の保護のために、強固な城壁と良好な溝を備えた[[ダブリン城]]を建設することが命じられた<ref name="history">{{cite book|last=McCarthy|first=Denis|author2=Benton, David|year=2004|title=Dublin Castle: at the heart of Irish History|location=Dublin|publisher=Irish Government Stationery Office|pages=12–18|isbn=978-0-7557-1975-4}}</ref>。[[1230年]]までに完成した城は、典型的な[[ノルマン様式建築|ノルマン様式]]の中庭型で、中央の広場には[[キープ (城)|キープ]]がなく、四方を高い防御壁で囲まれ、各角を円形の塔で守っていた。ノルマン時代のダブリンの南東に位置するこの城は、街の外周の一角を形成し、[[ポドル川]]を自然の防御手段として利用していた。
ダブリンで最も新しいモニュメントのひとつが、正式には「光のモニュメント」と呼ばれる[[ダブリンの尖塔]]である<ref>{{cite news|url=http://www.independent.ie/irish-news/spire-cleaners-get-prime-view-of-city-26295336.html|title=Spire cleaners get prime view of city|work=Irish Independent|accessdate=5 June 2007|date=5 June 2007}}</ref>。[[ステンレス鋼]]製の円錐形の高さ121.2[[メートル|m]]の[[尖塔]]で、ヘンリー通りとノース・アール通りが交差する[[オコンネル通り]]にある。[[ネルソンの柱]]に代わるもので、[[21世紀]]のダブリンを象徴するものとされている。尖塔の設計はイアン・リッチー・アーキテクツが担当し、「芸術と技術の架け橋となるエレガントでダイナミックなシンプルさ」を追求した。モニュメントの基部と上部はライトアップされており、街中を横切る夜空に[[ビーコン]]を設置している。
[[ダブリン大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]の[[トリニティ・カレッジ図書館|旧図書館]]には、『[[ケルズの書]]』が所蔵されており、ダブリンで最も訪問者が多い場所のひとつである<ref>{{cite web|url=https://www.irishtimes.com/business/transport-and-tourism/guinness-storehouse-tops-list-of-most-visited-attractions-1.1476060|work=The Irish Times|title=Guinness Storehouse tops list of most visited attractions|date=26 July 2013|accessdate=2020/07/26|publisher=}}</ref>。『ケルズの書』は、西暦[[800年]]頃にアイルランドの修道士によって作成された絵入りの[[写本]]である。[[リフィー川]]にかかる鉄製の歩道橋である[[ハーフペニー橋]]は、ダブリンで最も撮影された名所のひとつであり、ダブリンを象徴するランドマークのひとつとされている<ref>{{cite web|url=http://www.traveldir.org/articles/europe/ireland/dublin/some_famous_landmarks_of_dublin.html|title=Some Famous Landmarks of Dublin – Dublin Hotels & Travel Guide|publisher=Traveldir.org|date=8 March 1966|accessdate=16 September 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20110912062428/http://www.traveldir.org/articles/europe/ireland/dublin/some_famous_landmarks_of_dublin.html|archive-date=12 September 2011|url-status=dead}}</ref>。
その他のランドマークやモニュメントには、[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライストチャーチ大聖堂]]、[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]]、[[マンションハウス (ダブリン)|マンションハウス]]、[[モリー・マローン|モリー・マローン像]]、[[アイルランド国立博物館]]や[[アイルランド国立図書館]]の一部を含む[[レンスター・ハウス]]周辺の複合建築物、[[カスタム・ハウス (ダブリン)|カスタム・ハウス]]、[[大統領公邸 (アイルランド)|大統領公邸]]などがある。その他には、[[アンナ・リヴィア]]のモニュメントがある。[[発電所]]の[[プールベグ・タワー]]もランドマークのひとつとされており、市内の様々な場所から見ることができる。<gallery widths="150" heights="150">
ファイル:Samuel Beckett Bridge At Sunset Dublin Ireland (97037639).jpeg|[[サミュエル・ベケット橋]]
ファイル:The Convention Centre Dublin in 2019.jpg|[[ダブリン・コンベンション・センター|コンベンション・センター]]
ファイル:Long Room Interior, Trinity College Dublin, Ireland - Diliff.jpg|[[トリニティ・カレッジ図書館|トリニティ・カレッジ旧図書館]]
ファイル:The Dubhlinn Gardens Dublin Castle 01.JPG|[[ダブリン城]]
ファイル:Half Penny Bridge in Dublin.JPG|[[ハーフペニー橋]]
ファイル:St Patrick's Cathedral Exterior, Dublin, Ireland - Diliff.jpg|[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]]
ファイル:Christ Church Cathedral, Dublin, 2016-06-03.jpg|[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライスト・チャーチ大聖堂]]
ファイル:DublinTheCustomHouse-2014-10.jpg|[[カスタム・ハウス (ダブリン)|カスタム・ハウス]]
ファイル:Dublin Spire and O'Connell Street - geograph.org.uk - 1583347.jpg|[[ダブリンの尖塔|尖塔]]
</gallery>
=== 公園 ===
[[ファイル:Dublin Stephen's Green-44 edit.jpg|サムネイル|[[セント・スティーブンス・グリーン]]の空中写真]]
ダブリン市内には多くの[[緑地]]があり、ダブリン市議会が1,500[[ヘクタール]](3,700[[エーカー]])以上の公園を管理している<ref>{{cite web|url=http://www.dublincity.ie/main-menu-services-recreation-culture/dublin-city-parks|title=Dublin City Parks|publisher=|accessdate=1 September 2015}}</ref>。公営の公園には、[[フェニックス・パーク]]、ハーバート・パーク、[[セント・スティーブンス・グリーン]]、セント・アンズ・パーク、ブル島などがある。フェニックス・パークは、市内中心部から西に約3[[キロメートル|km]]、[[リフィー川]]の北側に位置している。周囲16kmの城壁は707ヘクタール(1,750エーカー)を囲み、ヨーロッパ最大級の城壁都市公園のひとつとなっている<ref>It is larger than all of London's city parks put together, and more than twice the area of New York's Central Park. {{cite web|url=http://phoenixpark.ie/wp-content/uploads/2017/08/Phoenix-Park-Visitors-Guide.pdf|title=The Phoenix Park Visitor Guide|publisher=Office of Public Works|accessdate=1 January 2018}}</ref>。草原と並木道があり、[[17世紀]]以来、野生の[[休耕田|休耕地]]の[[鹿]]の群れが生息している。[[1751年]]に建てられた[[アイルランド大統領公邸]]({{Lang|ga|Áras an Uachtaráin}})<ref>{{cite web|title=Outline History of Áras an Uachtaráin|url=http://www.president.ie/en/explore-visit/the-house|website=Áras an Uachtaráin|accessdate=7 January 2013}}</ref>、[[ダブリン動物園]]、アシュタウン城、アメリカ大使の公邸も公園内にある。また、音楽コンサートや日本文化を紹介する[[フェニックス・パーク#エクスペリエンス・ジャパン|エクスペリエンス・ジャパン]]などのイベントが開催されることもある。
[[セント・スティーブンス・グリーン]]は、[[繁華街]]のひとつである[[グラフトン・ストリート]]とスティーブンス・ショッピングセンターに隣接しており、周辺の通りには公共機関が立ち並んでいる。
セント・アンズ・パークは、北岸の郊外にある[[レヒーニー]]とクロンターフの間で共有されている公園で、レクリエーション施設としても利用されている。ダブリンで2番目に大きい市営公園であり、[[1835年]]に[[ベンジャミン・ギネス]]を始めとする[[ギネス家]]の一族によって集められた2[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]の敷地の一部で、5[[キロメートル|km]]におよぶ海辺が特徴的である。
== 文化 ==
=== 芸術 ===
[[ファイル:National Gallery of Ireland, Nov 2017.jpg|代替文=|サムネイル|[[アイルランド国立美術館]]]]
[[ファイル:ChesterBeattyLibaryFrount.jpg|代替文=|サムネイル|[[チェスター・ビーティ図書館]]]]
[[ファイル:IMMA north facade wiki.jpg|サムネイル|[[アイルランド現代美術館]]]]
ダブリンには重要な文学の歴史があり、[[ノーベル文学賞|ノーベル賞]]受賞者の[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、[[ジョージ・バーナード・ショー]]、[[サミュエル・ベケット]]など、多くの[[文学者]]を輩出している。その他にも、[[オスカー・ワイルド]]、[[ジョナサン・スウィフト]]、[[ドラキュラ伯爵]]の生みの親である[[ブラム・ストーカー]]など、影響力のある作家や劇作家を輩出している。町の南の郊外には、ジェイムズ・ジョイスが一時滞在していた建物が記念館として残っている。ジョイスはこの地の人々の日常と町の歴史や苦難の過去を重ね写しにした佳作『[[ダブリン市民]]』という短編集も書いた。記念館は[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の侵攻に備えて作られた見張り塔だった建物で、[[チェス]]の城の駒のかたちで異様な体をなしている。ジョイスの代表作『[[ユリシーズ]]』は、[[ホメロス]]『[[オデュッセイア]]』の主人公2人に見立てたブルームとスティーヴン・ディーダラスが、ダブリンの町を知らず知らず互いを求めながらさまよう物語である。また、この地の出身の哲学者にして、聖職者[[ジョージ・バークリー|バークリ]]僧正は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に宣教に赴き、[[カリフォルニア大学]][[カリフォルニア大学バークレー校|バークリ校]]にその名前を残した。他にも、[[ジョン・ミリントン・シング]]、[[ショーン・オケーシー]]、 ブレンダン・ビハン、メイヴ・ビンチー、[[ジョン・バンヴィル]]、[[ロディ・ドイル]]などの著名な作家が名を連ねている。ダブリンには、アイルランド国立版画博物館や[[アイルランド国立図書館]]など、アイルランド最大の図書館や文学博物館がある。[[ジェイムス・ジョイスタワーと博物館]]や、かつて存在した[[ダブリン・ライターズ・ミュージアム]]、2019年に開館した{{仮リンク|アイルランド文学博物館|en|Museum of Literature Ireland}}など、文学館は多数ある。[[2010年]][[7月]]、ダブリンは[[エディンバラ]]、[[メルボルン]]、[[アイオワシティ]]に続き、[[ユネスコ]]の文学都市に選ばれた<ref>[http://www.independent.ie/irish-news/delight-at-city-of-literature-accolade-for-dublin-26666430.html ''Irish Independent'' – Delight at City of Literature accolade for Dublin]. Retrieved 26 July 2010.</ref>。
[[ファイル:KellsFol032vChristEnthroned.jpg|左|サムネイル|244x244ピクセル|[[ケルズの書]]]]
市内中心部には数々の劇場があり、ノエル・パーセル、[[マイケル・ガンボン]]、[[ブレンダン・グリーソン]]、[[スティーヴン・レイ]]、[[コリン・ファレル]]、[[コルム・ミーニイ]]、[[ガブリエル・バーン]]など、ダブリンの演劇界からは様々な俳優が登場している。最もよく知られている劇場は、[[ガイエティ劇場]]、[[アベイ座]]、[[オリンピア劇場]] 、ゲート座、[[ボード・ガシュ・エナジー・シアター]]などがある。ガイエティ劇場は、[[ミュージカル]]や[[オペラ]]の作品を専門としており、様々なライブ音楽、ダンス、映画を開催している。アベイ座は、[[1904年]]に[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェイツ]]を含むグループによって、土着の文学者の才能を促進する目的で設立された。その後、[[ジョン・ミリントン・シング]]、イェイツ自身、[[ジョージ・バーナード・ショー]]などの作家の何人かに躍進をもたらした。ゲート座は[[1928年]]にヨーロッパとアメリカの前衛作品の振興を目的に設立された。ボード・ガイス・エナジー・シアターは、[[2010年]]にグランド・カナル・ドックに開場した劇場である。
ダブリンは、アイルランドの文学や演劇の中心地であるだけでなく、アイルランドの芸術や芸術シーンの中心地でもある。[[ダブリン大学トリニティ・カレッジ]]には、西暦[[800年]]に[[ケルト人]]の僧侶によって制作された写本の『[[ケルズの書]]』が展示されている。[[ダブリン城]]に設けられた[[チェスター・ビーティ図書館]]には、アメリカの大富豪(アイルランドの名誉市民)であるアルフレッド・チェスター・ビーティ卿(1875年 - 1968年)が収集した写本、細密画、版画、描画、貴重書、装飾美術のコレクションが収蔵されている。紀元前2700年以降のもので、日本の[[長恨歌絵巻]]など、アジア、中東、北アフリカ、ヨーロッパの美術コレクションを所蔵している。
また、[[アイルランド現代美術館]]、[[アイルランド国立美術館|国立美術館]]、[[ヒュー・レーン・ギャラリー]]、[[ダグラス・ハイド・ギャラリー]]、[[プロジェクト・アーツ・センター]]、[[ロイヤル・ハイバーニアン・アカデミー]]の展示スペースなどの[[ギャラリー (美術)|ギャラリー]]は、ダブリン市内のいたるところにあり、無料で見学することができる。
[[アイルランド国立博物館]]には、キルデア通りにある考古学、コリンズ・バラックスにある装飾美術・歴史、メリオン通りにある自然史の3つの分館がある<ref>{{cite web|url=http://www.museum.ie/en/homepage.aspx|title=National Museum of Ireland|publisher=Museum.ie|date=8 June 2010|accessdate=17 June 2010}}</ref>。フィッツウィリアム通りの29番館や[[セント・スティーブンス・グリーン]]の [[ダブリン・リトル・ミュージアム]] などの小規模な博物館もある。ダブリンには、[[1746年]]に設立されたアート&デザイン国立大学(NCAD)と1991年に設立されたダブリン・デザイン研究所がある。ダブリニアは、ダブリンの[[ヴァイキング]]や[[中世]]の歴史を紹介する歴史のアトラクションである。
ダブリンが2014年の[[世界デザイン首都]]の開催候補に選ばれた<ref>{{cite news|url=http://www.rte.ie/news/2011/0621/302665-dublin/|title=RTÉ report on World Design Capital shortlist|publisher=[[RTÉ News]]|date=21 June 2011|accessdate=14 January 2012}}</ref>。当時の[[アイルランドの首相|首相]]の[[エンダ・ケニー]]は、ダブリンは「2014年に世界デザイン首都を開催するのに理想的な候補になるだろう」と発言した<ref>{{cite news|url=https://www.irishtimes.com/news/dublin-on-shortlist-to-be-world-design-capital-1.602581|title=Dublin on shortlist to be 'World Design Capital'|first=Frank|last=McDonald|work=[[The Irish Times]]|date=22 June 2011|accessdate=14 January 2012}}</ref>。
=== 娯楽 ===
[[ファイル:Temple Bar 02.JPG|サムネイル|テンプルバー・パブ([[テンプルバー (ダブリン)|テンプルバー地区]])]]
ダブリンはナイトライフが盛んであり、[[ヨーロッパ]]で最も若者が多い都市のひとつとされており、市民の50%が25歳以下と推定されている。[[セント・スティーブンス・グリーン]]や[[グラフトン通り]]周辺、ハーコート通り、カムデン通り、ウェックスフォード通り、リーソン通りは[[ナイトクラブ]]や[[パブ]]が多くある場所である。
市内中心部の[[テンプルバー (ダブリン)|テンプルバー地区]]はかつて荒廃していたが、政府の再開発計画により[[パブ]]、[[展覧会|ギャラリー]]、レストラン、カフェ、[[映画館]]、[[クラブ]]、[[ライブハウス]]などの集中する観光名所・若者の地域として生まれ変わった。[[イギリス]]からの[[バチェラー・パーティー]]や[[バチェロレッテ・パーティー]]なども行われている<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/scotland/3578303.stm Article on stag/hen parties in Edinburgh, Scotland (which mentions their popularity in Dublin)], mentioning Dublin. Retrieved 15 February 2009.</ref>。
=== 音楽 ===
市内の各所では路上で[[大道芸]]を繰り広げる[[ミュージシャン]]の姿を見かける。ダブリンはザ・ダブリナーズ、[[シン・リジィ]]、[[ブームタウン・ラッツ]]、[[U2]]、[[ザ・スクリプト]]、[[シネイド・オコナー]]、[[ボーイゾーン]]、[[コーダライン]]、[[ウエストライフ]]、[[ボブ・ゲルドフ]]、[[マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン]]などの国際的な成功を収めた[[音楽家]]やグループを輩出してきた。ダブリンには、ウィーランズ({{Lang|en|Whelans}})やヴィカー・ストリート({{Lang|en|Vicar Street}})など、一週間を通してライブミュージックを開催する中規模の会場がいくつかある<ref>{{cite web|url=https://www.irishtimes.com/culture/whelan-in-the-years-1.752475|publisher=Irish Times|website=irishtimes.com|title=Whelan in the years|date=24 April 2009|accessdate=2020/07/26}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.rte.ie/entertainment/2018/0605/968437-vicar-street-set-to-go-rock-and-room-with-new-hotel/|publisher=RTÉ|website=rte.ie|title=Vicar Street set to go "Rock and Room" with new hotel|date=6 June 2018|accessdate=2020/07/26}}</ref>。ダブリン・ドックランズにある[[3アリーナ]]では、世界的なパフォーマーの来日公演が行われている。
=== 料理 ===
[[2018年]]の[[ミシュランガイド]]で、ダブリンにある5つの[[レストラン]]はミシュランの星を獲得している<ref>{{cite web|url=https://www.joe.ie/life-style/michelin-stared-restaurants-ireland-602736|publisher=Joe.ie|title=Full list of Michelin-starred restaurants in Ireland in the 2018 guide|date=2 October 2017|accessdate=17 June 2018}}</ref>。アイルランド出身のケビン・ソーントンは[[2001年]]にミシュランの2つ星を獲得している<ref>{{cite news|title=Leading chef Kevin Thornton to close Dublin restaurant|first=Conor|last=Pope|url=https://www.irishtimes.com/life-and-style/food-and-drink/leading-chef-kevin-thornton-to-close-dublin-restaurant-1.2774845?mode=sample&auth-failed=1&pw-origin=http%3A%2F%2Fwww.irishtimes.com%2Flife-and-style%2Ffood-and-drink%2Fleading-chef-kevin-thornton-to-close-dublin-restaurant-1.2774845|newspaper=The Irish Times|date=1 September 2016|accessdate=5 September 2016|url-status=bot: unknown|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160902133720/http://www.irishtimes.com/life-and-style/food-and-drink/leading-chef-kevin-thornton-to-close-dublin-restaurant-1.2774845?mode=sample&auth-failed=1&pw-origin=http%3A%2F%2Fwww.irishtimes.com%2Flife-and-style%2Ffood-and-drink%2Fleading-chef-kevin-thornton-to-close-dublin-restaurant-1.2774845|archivedate=2 September 2016}} {{Subscription required}}</ref>。[[ダブリン技術学院]](現在の[[ダブリン工科大学]])では、[[1999年]]に料理技術の学士号が追加された<ref>{{Cite journal|title=The Changing Geography and Fortunes of Dublin's Haute Cuisine Restaurants, 1958–2008|journal=Food, Culture and Society: An International Journal of Multidisiplinary Research|volume=14|issue=4, pp. 525–545}}</ref>。
歴史的には、アイルランドの[[カフェ]]は、メディアで働く人々のものとされていた<ref name="MacConIomaire">{{Cite journal|author=Máirtín Mac Con Iomaire|title=Coffee Culture in Dublin: A Brief History|url=http://journal.media-culture.org.au/index.php/mcjournal/article/viewArticle/456|journal=M/C Journal|volume=2012, Vol. 15 Issue 2}}</ref>。[[21世紀]]に入ってからは、ダブリンでのアパート暮らしの増加に伴い、カフェには、気軽に集まれる場所やその場しのぎのオフィスを探している若者が集まった<ref name="MacConIomaire2">{{Cite journal|author=Máirtín Mac Con Iomaire|title=Coffee Culture in Dublin: A Brief History|url=http://journal.media-culture.org.au/index.php/mcjournal/article/viewArticle/456|journal=M/C Journal|volume=2012, Vol. 15 Issue 2}}</ref>。ダブリンではカフェの人気が高まり、Java Republic、Insomnia、O'Brien's Sandwich Barsなどのアイルランド経営のコーヒーチェーンが国際的な競争相手となっている。[[2008年]]には、アイルランド人[[バリスタ (コーヒー)|バリスタ]]のスティーブン・モリッシーが世界バリスタ・チャンピオンの称号を獲得した<ref>{{cite news|url=http://www.independent.ie/lifestyle/full-of-beans-meet-stephen-the-worlds-best-barista-26462018.html|newspaper=Irish Independent|date=15 July 2008|title=Full of beans: meet Stephen, the world's best barista}}</ref>。
[[紅茶]]、コーヒーの製造とカフェを運営している[[ビューリーズ]]は、ダブリンに本社および本店を置いている。
== スポーツ ==
=== GAA ===
[[クローク・パーク]]はアイルランド最大のスポーツスタジアムである。[[ゲーリック体育協会]](GAA)の本部で、収容人数は82,300人である。[[バルセロナ]]の[[カンプ・ノウ]]、[[ロンドン]]の[[ウェンブリー・スタジアム]]に次ぐ、ヨーロッパで3番目に大きなスタジアムとなる<ref>{{cite web|url=https://crokepark.ie/stadium|title=Croke Park Stadium|publisher=Crokepark.ie|accessdate=13 October 2016}}</ref>。[[ゲーリックフットボール]]や[[ハーリング]]の試合、国際ルール・サッカー、不定期にコンサートを含むその他のスポーツイベントや非スポーツイベントが開催されている。[[モハメド・アリ]]は1972年にここで戦い、[[2003年]]の[[スペシャルオリンピックス]]の開会式と閉会式の司会を務めた。また、会議や宴会場も併設されている。GAA博物館があり、スタジアムの屋上を歩くツアーなども行われている。[[ランズダウン・ロード]]の再開発中、クローク・パークは、[[ラグビーアイルランド代表]]と[[サッカーアイルランド共和国代表]]の本拠地となったほか、2008年 - 2009年の[[ヨーロピアンラグビーチャンピオンズカップ]]準決勝のマンスター対レンスター戦が開催され、ラグビーの試合としては世界最高の観客動員数を記録した<ref>{{cite news|url=https://www.smh.com.au/rugby-union/union-news/world-record-crowd-watches-harlequins-sink-saracens-20120331-1w60r|title=World record crowd watches Harlequins sink Saracens|accessdate=27 April 2012|work=The Sydney Morning Herald|date=1 April 2012}}</ref>。ダブリンGAAチームは、ホームリーグのハーリングの試合のほとんどをパーネル・パークで行っている。
=== ラグビー ===
[[ファイル:Aviva Stadium(Dublin Arena).JPG|サムネイル|[[アビバ・スタジアム]]]]
[[ランズダウン・ロード]]は[[1874年]]に建設された。[[ラグビーアイルランド代表]]と[[サッカーアイルランド共和国代表]]の会場となっていた。[[アイルランドラグビー協会]]、[[フットボール・アソシエーション・オブ・アイルランド]]、アイルランド政府の共同事業により、[[2010年]][[5月]]に開場となった5万席の最新設備を備えた[[アビバ・スタジアム]]に再開発された<ref>{{cite web|title=Taoiseach Officially Opens Aviva Stadium|publisher=IrishRugby.ie|date=14 May 2010|url=http://www.irishrugby.ie/news/19384.php|accessdate=29 August 2015}}</ref>。アビバ・スタジアムでは、[[UEFAヨーロッパリーグ 2010-11|2011年のUEFAヨーロッパリーグ]]決勝戦が開催された<ref>{{cite web|url=http://www.lrsdc.ie|archive-url=http://arquivo.pt/wayback/20160518050241/http://www.lrsdc.ie/|url-status=dead|archive-date=18 May 2016|title=Homepage of Lansdowne Road Development Company (IRFU and FAI JV)|publisher=Lrsdc.Ie|accessdate=17 June 2010}}</ref>。[[ラグビーユニオン]]の[[レンスター・ラグビー]]は、RDSアリーナとアビバ・スタジアムでホームゲームを行う。
=== サッカー ===
[[ダブリン県]]には、[[ボヘミアンFC]]、[[シャムロック・ローヴァーズFC]]、[[セント・パトリックス・アスレティックFC]]、[[ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンAFC]]、[[シェルボーンFC]]、[[キャビンティーリーFC]]の6つの[[リーグ・オブ・アイルランド・プレミアディビジョン|リーグ・オブ・アイルランド]](サッカー)がある。アイルランドで初めてヨーロッパ大会のグループステージ(2011-12 UEFAヨーロッパリーグのグループステージ)に進出したのは、[[南ダブリン|南ダブリン市]]のタラ・スタジアムでプレーするシャムロック・ローバーズFCだった。ボヘミアンFCは、国内最古のサッカースタジアムであり、[[1904年]]から[[1990年]]までアイルランドのサッカーチームのホームグラウンドであったデイリーマウント・パークでプレーしている。セント・パトリック・アスレティックFCはリッチモンド・パークで、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンAFCは[[ダン・レアリー=ラスダウン|ダン・レアリー=ラスダウン市]]のUCDボウルで、シェルボーンFCはトルカ・パークでプレーしている。
=== クリケット ===
ダブリンには、キャッスル・アベニューとマラハイド・クリケット・クラブ・グラウンドの2つのODIクリケット・グラウンドがある。キャッスル・アベニューでは、[[1999年]][[5月21日]]に[[クリケットバングラデシュ代表|バングラデシュ]]が[[クリケット西インド諸島代表|西インド諸島]]と対戦した[[1999 クリケット・ワールドカップ|1999年クリケットワールドカップ]]の一環として、最初のワンデー国際試合が開催された。[[ダブリン大学トリニティ・カレッジ]]のカレッジ・パークは、アイルランド初の[[テスト・クリケット]]の試合、[[2000年]]のパキスタンとの女子試合が行われた<ref>{{cite web|url=https://cricketarchive.com/Archive/Scorecards/70/70315.html|title=Ireland Women v Pakistan Women, 2000, Only Test|publisher=CricketArchive|accessdate=5 September 2013}}</ref>。また、男子の[[クリケットアイルランド代表]]は、2018年の間にマラハイド・クリケット・クラブ・グラウンドで[[クリケットパキスタン代表|パキスタン]]との初のテスト・マッチを行った。レンスター・ライトニングは、カレッジ・パークでホームの地方間試合を行っている<ref>{{cite web|url=https://www.cricketeurope.com/DATABASE/ARTICLES2018/articles/000005/000592.shtml|title=College Park to become Lightning home ground|publisher=CricketEurope|accessdate=15 April 2019}}</ref>。
=== 野球 ===
[[アイリッシュ・ベースボール・リーグ]]の[[ダブリン・ブラックソックス]]、[[ダブリン・ハリケーンズ]]、[[ダブリン・スパルタズ]]が本拠地としている。
=== その他 ===
ダブリン・マラソンは[[1980年]]から[[10月]]末に開催されている。女子ミニ・マラソンは、[[1983年]]からアイルランドの銀行の休日でもある[[6月]]の第一月曜日に開催されている。世界最大の全女性のイベントと言われている<ref>{{cite web|url=http://www.vhiwomensminimarathon.ie/race-information/about-us.300.html|title=History|publisher=VHI Women's Mini Marathon|year=2015|accessdate=29 August 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20151015220106/http://www.vhiwomensminimarathon.ie/race-information/about-us.300.html|archive-date=15 October 2015|url-status=dead}}</ref>。グレート・アイルランド・ラン({{Lang|en|Great Ireland Run}})は、4月中旬にダブリンの[[フェニックス・パーク]]で開催されている<ref>{{cite web|url=http://www.greatirelandrun.org/Events/2010/RaceHistory.aspx|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110726131314/http://www.greatirelandrun.org/Events/2010/RaceHistory.aspx|archivedate=26 July 2011|title=Race History|publisher=Great Ireland Run|accessdate=2020/07/26}}</ref>。
シェールボーン・パークで[[ドッグレース]]が、レパーズタウンでは[[競馬]]が開催されている。ダブリン・ホース・ショーは、[[1982年]]に障害飛越競技の世界選手権が開催されたダブリン王立協会(RDS)で開催される。
==出身関連著名人==
===出身著名人===
{{Main|Category:ダブリン出身の人物}}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references responsive="" />
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Dublin|Dublin}}{{Wiktionary|ダブリン}}
=== 行政 ===
*{{URL|http://www.dublincity.ie|ダブリン市公式サイト}}{{en icon}}
=== 日本国政府 ===
* {{URL|https://www.ie.emb-japan.go.jp/|在アイルランド日本国大使館}}{{ja icon}}
=== 観光局 ===
{{ウィキトラベル インライン|ダブリン|ダブリン}}
* {{URL|https://www.visitdublin.com/|ダブリン市観光局}}{{en icon}}
* {{URL|https://www.ireland.com/ja-jp/目的地/republic-of-ireland/dublin/dublin-city/|アイルランド政府観光庁 - ダブリン}}{{ja icon}}
{{欧州連合加盟国の首都}}
{{ヨーロッパの首都}}
{{世界歴史都市連盟加盟都市}}
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{{デフォルトソート:たふりん}}
[[Category:ダブリン|*]]
[[Category:アイルランドの都市]]
[[Category:ダブリン県]]
[[Category:アイルランドのカウンティ・タウン]]
[[Category:ヨーロッパの首都]]
[[Category:ヨーロッパの港町]]
[[Category:世界歴史都市連盟]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%B3
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楔形文字
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楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ、シュメル語:gu-šúm)とは、メソポタミア文明で使用されていた古代文字である。
筆記には水で練った粘土板に、葦を削ったペンが使われた。最古の出土品は紀元前3400年にまで遡ることができる。文字としては人類史上最も古いものの一つであり、古さでは紀元前3200年前後から使われていた古代エジプトの象形文字に匹敵すると言われている。
楔形文字(cuneiform)という名称は、ラテン語の cuneus (くさび)と、forma (形)からなる造語であり、1712年のエンゲルベルト・ケンペル『廻国奇観』の中で使われてから一般でも使用されるようになったとされている。オリエント学のうち、この文字を使用した文明・文化の研究は、一般に「アッシリア学」と呼ばれる。
楔形文字というのはあくまで文字の形状に注目した名称であり、実際には起源・系統の異なる多様な文字体系を含む。文字の種類としても、代表的なシュメール語・アッカド語の文字は表語文字と音節文字の組み合わせであるが、ウガリット文字はアブジャドであり、古代ペルシア楔形文字はアルファベットである。
ウルク文化期(紀元前3200年)にシュメール人によって絵文字としての性格が強いウルク古拙文字が発明されたが、長期間繰り返し使われるうちに、次第に単純化・抽象化されて、青銅器時代初頭(紀元前2500年)には約1,000文字のシュメール文字になり、青銅器時代末期(紀元前2000年)には約400文字(ヒッタイト語楔形文字)から約200文字(アッカド語楔形文字(英語版))になった。シュメール文字(英語版)はシュメール語に用いられる他、アッカド語(アッカド語楔形文字(英語版))、エラム語(エラム語楔形文字)、ヒッタイト語(ヒッタイト語楔形文字)、楔形文字ルウィ語に借用され、また古代ペルシア語(古代ペルシア楔形文字)やウガリット語(ウガリット文字)などに独自の文字の発達を促す役割をはたした。
最初期の象形文字は、粘土板の上に縦の枠を設け、ペン、すなわちアシで作り先を尖らせた尖筆で書かれた。やがて文字は横書きになり、また先を楔形にした尖筆を粘土板に押し当てて書くようになった。
楔形文字の粘土板は長期記録用に窯で焼くこともでき、また残す必要がないなら再利用することもできた。考古学者が発見した粘土板の中には、粘土板のあった建物が戦乱で焼かれ、結果的に固く焼成されて保存されたものが多くある。
楔形文字は、本来シュメール人によってシュメール語記録のために発明されたもので、メソポタミア全域で3000年にわたって用いられた。しかし、次第に近隣の他の民族に借用され、アッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリアで楔形文字はそれらの民族固有の言語を書くのに用いられた。とはいえ、シュメール人が磨き上げた楔形文字本来の音節文字的な性格は、セム語族などの言語話者には使い勝手のよくない仕組みだった。この事実に多くの言語学者が促され、シュメール文明が再発見される以前から、バビロニア文明に先立つ文明の存在を仮定していた。
シュメール楔形文字の後世の借用は、少なくともシュメール文字のいくつかの特徴を保存している。アッカド語文献は、シュメール語の音節を表す音節文字と一語にまるごと対応する表語文字を含んでいる。楔形文字の多くの文字が、音節と意味の両価を示している (en:polyvalent)。楔形文字がヒッタイト語を書くのに借用されたとき、アッカド語の表語文字的な書き方が加えられ、その結果多くのヒッタイト語の単語が表語文字的に書かれたため、その音価を今日推定することはもはやできなくなった。音節文字と表語文字の複合した筆記システムの複雑さは、日本語の筆記システムの複雑さと比べることができる。日本語が漢字で書かれる場合は、ある文字は表音的で、ある文字は表意的に用いられ、文脈によって音価がまちまちに取られる。また、漢字から発展した純粋に表音的なカナもまた用いられる。楔形文字で書かれたヒッタイト語もまた同じような表記体系を持っていたのである。
楔形をしてはいるが、シュメール・アッカド文字と系統の異なるいくつかの表記体系が存在する。古代ペルシア楔形文字は音素文字(アルファベット)で、各文字の画数はアッシリア文字よりはるかに少ない。頻繁に使われる「神」や「王」といった語は表意化されている。ウガリット文字は楔形文字的方法で書かれた、標準的なセム語形式の文字(アブジャド)であった。
現在知られている楔形文字の最後の例は、紀元後75年に書かれた天文学上の記録である。
1802年G.F.グローテフェントは、ペルセポリスの碑文の写本を利用し、古代ペルシア語の解読に努力した。
アッカド語楔形文字(英語版)の解読には、1621年に発見されたアケメネス朝ペルシャのベヒストゥン碑文(磨崖碑文)が、ヘンリー・ローリンソンによって1835年に再発見され、利用された。ローリンソンはイギリス陸軍の士官で、ペルシアのベヒストゥンの崖でベヒストゥン碑文を発見し、そのいくつかを写し取った。碑文はダレイオス1世の治世下(紀元前522 - 486年)に刻まれており、ペルシア帝国の三つの公用語、古代ペルシア語(古代ペルシア楔形文字)、アッカド語(アッカド語楔形文字(英語版))、エラム語(エラム楔形文字(英語版))で書かれた同一のテキストであった。ベヒストゥン碑文がアッカド語楔形文字解読に果たした役割は、ロゼッタ・ストーンがヒエログリフ解読に果たした役割に相当する。
ローリンソンはまず古代ペルシア語の解読に成功した。これとは別に、アイルランド人のアッシリア学者エドワード・ヒンクスもまた解読に貢献した。
古代ペルシア語を翻訳した後、ローリンソンとヒンクスは次の解読を始めた。ポール・エミール・ボッタが1842年に都市ニネヴェを発見したことで、二人は大いに助けられた。オースティン・ヘンリー・レヤードによって発掘された宝物のうちには、アッカド語楔形文字に覆われた焼かれた粘土板数万点を有するアッシュールバニパル王家の文書庫、アッシュールバニパルの図書館の遺跡があったのである。1851年までに、ローリンソンとヒンクスは200のアッカド語を読むことに成功した。
ローリンソンとヒンクスはほどなく、新たに二人の異なる解読者と協同するようになる。ドイツ生まれの若い学者ユリウス・オッペルトと、学識に富むイギリス人東洋学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットである。
1857年には4人がロンドンで会合し、解読の正確さを試す有名な実験を行った。イギリス王立アジア学会の書記エドウィン・ノリスが、4人それぞれに、最近発見されたアッシリアの皇帝ティグラト・ピレセル1世の治世下に書かれた、碑文の写しを渡した。翻訳中は4人の情報交換は禁止された。
そして学識経験者からなる審判が集まり、4人の翻訳結果を精査し、その正確さを評価した。
4人が行った翻訳はすべての主要な点で、「ここは間違いないだろう」と自信を持った所は他の翻訳者と一致した。「もしかしたら違うかも知れない」と思った所は些細な異同があった。4人のなかでは経験の浅いタルボットは多くの間違いを犯し、オッペルトの翻訳は英語に不慣れなことから来る、幾つかの意味が取りにくい部分を含んでいた。しかしヒンクスとローリンソンの翻訳はほとんど同一であった。
審判は結果に満足したと発表し、またアッカド語楔形文字で書かれたアッカド語の解読は達成されたと宣言した。
この後、ある壷に描かれていたアッカド語楔形文字とヒエログリフが、全く同じ意味である事が発見され、解読達成の裏づけとなった(これが、楔形文字を研究するアッシリア学の公式な成立とされている)。
1930年代にはアッカド語をツールとして、(シュメール語)楔形文字で書かれたシュメール語の解読も開始され、1940年代にサミュエル・クレイマー(英語版)により解読された。
しかし、エラム楔形文字(英語版)で書かれたエラム語の解読は1840年代から行なわれているが、今日に至るも比較対象の資料に乏しく、さらに研究が継続されている。
楔形文字には専用の翻字法がある。楔形文字は多価であるため、翻字により、情報落ちが発生するどころか、元のテキストよりも情報量が増える。例えば、ヒッタイト語テキストの文字DINGIRはヒッタイト語の音節anを表すことも、アッカド語の語句の一部のilであることも、元来のシュメール語の意味である神を表す表意文字であることもありうる。
楔形文字はUnicode 5.0に含まれている。以下の領域に次の文字(982文字)が収録されている。
|
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"text": "楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ、シュメル語:gu-šúm)とは、メソポタミア文明で使用されていた古代文字である。",
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"text": "筆記には水で練った粘土板に、葦を削ったペンが使われた。最古の出土品は紀元前3400年にまで遡ることができる。文字としては人類史上最も古いものの一つであり、古さでは紀元前3200年前後から使われていた古代エジプトの象形文字に匹敵すると言われている。",
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"text": "楔形文字(cuneiform)という名称は、ラテン語の cuneus (くさび)と、forma (形)からなる造語であり、1712年のエンゲルベルト・ケンペル『廻国奇観』の中で使われてから一般でも使用されるようになったとされている。オリエント学のうち、この文字を使用した文明・文化の研究は、一般に「アッシリア学」と呼ばれる。",
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"text": "楔形文字というのはあくまで文字の形状に注目した名称であり、実際には起源・系統の異なる多様な文字体系を含む。文字の種類としても、代表的なシュメール語・アッカド語の文字は表語文字と音節文字の組み合わせであるが、ウガリット文字はアブジャドであり、古代ペルシア楔形文字はアルファベットである。",
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"text": "ウルク文化期(紀元前3200年)にシュメール人によって絵文字としての性格が強いウルク古拙文字が発明されたが、長期間繰り返し使われるうちに、次第に単純化・抽象化されて、青銅器時代初頭(紀元前2500年)には約1,000文字のシュメール文字になり、青銅器時代末期(紀元前2000年)には約400文字(ヒッタイト語楔形文字)から約200文字(アッカド語楔形文字(英語版))になった。シュメール文字(英語版)はシュメール語に用いられる他、アッカド語(アッカド語楔形文字(英語版))、エラム語(エラム語楔形文字)、ヒッタイト語(ヒッタイト語楔形文字)、楔形文字ルウィ語に借用され、また古代ペルシア語(古代ペルシア楔形文字)やウガリット語(ウガリット文字)などに独自の文字の発達を促す役割をはたした。",
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"text": "最初期の象形文字は、粘土板の上に縦の枠を設け、ペン、すなわちアシで作り先を尖らせた尖筆で書かれた。やがて文字は横書きになり、また先を楔形にした尖筆を粘土板に押し当てて書くようになった。",
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"text": "楔形文字の粘土板は長期記録用に窯で焼くこともでき、また残す必要がないなら再利用することもできた。考古学者が発見した粘土板の中には、粘土板のあった建物が戦乱で焼かれ、結果的に固く焼成されて保存されたものが多くある。",
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"text": "楔形文字は、本来シュメール人によってシュメール語記録のために発明されたもので、メソポタミア全域で3000年にわたって用いられた。しかし、次第に近隣の他の民族に借用され、アッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリアで楔形文字はそれらの民族固有の言語を書くのに用いられた。とはいえ、シュメール人が磨き上げた楔形文字本来の音節文字的な性格は、セム語族などの言語話者には使い勝手のよくない仕組みだった。この事実に多くの言語学者が促され、シュメール文明が再発見される以前から、バビロニア文明に先立つ文明の存在を仮定していた。",
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"text": "シュメール楔形文字の後世の借用は、少なくともシュメール文字のいくつかの特徴を保存している。アッカド語文献は、シュメール語の音節を表す音節文字と一語にまるごと対応する表語文字を含んでいる。楔形文字の多くの文字が、音節と意味の両価を示している (en:polyvalent)。楔形文字がヒッタイト語を書くのに借用されたとき、アッカド語の表語文字的な書き方が加えられ、その結果多くのヒッタイト語の単語が表語文字的に書かれたため、その音価を今日推定することはもはやできなくなった。音節文字と表語文字の複合した筆記システムの複雑さは、日本語の筆記システムの複雑さと比べることができる。日本語が漢字で書かれる場合は、ある文字は表音的で、ある文字は表意的に用いられ、文脈によって音価がまちまちに取られる。また、漢字から発展した純粋に表音的なカナもまた用いられる。楔形文字で書かれたヒッタイト語もまた同じような表記体系を持っていたのである。",
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"text": "楔形をしてはいるが、シュメール・アッカド文字と系統の異なるいくつかの表記体系が存在する。古代ペルシア楔形文字は音素文字(アルファベット)で、各文字の画数はアッシリア文字よりはるかに少ない。頻繁に使われる「神」や「王」といった語は表意化されている。ウガリット文字は楔形文字的方法で書かれた、標準的なセム語形式の文字(アブジャド)であった。",
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"text": "アッカド語楔形文字(英語版)の解読には、1621年に発見されたアケメネス朝ペルシャのベヒストゥン碑文(磨崖碑文)が、ヘンリー・ローリンソンによって1835年に再発見され、利用された。ローリンソンはイギリス陸軍の士官で、ペルシアのベヒストゥンの崖でベヒストゥン碑文を発見し、そのいくつかを写し取った。碑文はダレイオス1世の治世下(紀元前522 - 486年)に刻まれており、ペルシア帝国の三つの公用語、古代ペルシア語(古代ペルシア楔形文字)、アッカド語(アッカド語楔形文字(英語版))、エラム語(エラム楔形文字(英語版))で書かれた同一のテキストであった。ベヒストゥン碑文がアッカド語楔形文字解読に果たした役割は、ロゼッタ・ストーンがヒエログリフ解読に果たした役割に相当する。",
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"text": "ローリンソンはまず古代ペルシア語の解読に成功した。これとは別に、アイルランド人のアッシリア学者エドワード・ヒンクスもまた解読に貢献した。",
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"text": "古代ペルシア語を翻訳した後、ローリンソンとヒンクスは次の解読を始めた。ポール・エミール・ボッタが1842年に都市ニネヴェを発見したことで、二人は大いに助けられた。オースティン・ヘンリー・レヤードによって発掘された宝物のうちには、アッカド語楔形文字に覆われた焼かれた粘土板数万点を有するアッシュールバニパル王家の文書庫、アッシュールバニパルの図書館の遺跡があったのである。1851年までに、ローリンソンとヒンクスは200のアッカド語を読むことに成功した。",
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"text": "ローリンソンとヒンクスはほどなく、新たに二人の異なる解読者と協同するようになる。ドイツ生まれの若い学者ユリウス・オッペルトと、学識に富むイギリス人東洋学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットである。",
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"text": "審判は結果に満足したと発表し、またアッカド語楔形文字で書かれたアッカド語の解読は達成されたと宣言した。",
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"text": "この後、ある壷に描かれていたアッカド語楔形文字とヒエログリフが、全く同じ意味である事が発見され、解読達成の裏づけとなった(これが、楔形文字を研究するアッシリア学の公式な成立とされている)。",
"title": "歴史"
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"text": "1930年代にはアッカド語をツールとして、(シュメール語)楔形文字で書かれたシュメール語の解読も開始され、1940年代にサミュエル・クレイマー(英語版)により解読された。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、エラム楔形文字(英語版)で書かれたエラム語の解読は1840年代から行なわれているが、今日に至るも比較対象の資料に乏しく、さらに研究が継続されている。",
"title": "歴史"
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"text": "楔形文字には専用の翻字法がある。楔形文字は多価であるため、翻字により、情報落ちが発生するどころか、元のテキストよりも情報量が増える。例えば、ヒッタイト語テキストの文字DINGIRはヒッタイト語の音節anを表すことも、アッカド語の語句の一部のilであることも、元来のシュメール語の意味である神を表す表意文字であることもありうる。",
"title": "翻字"
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"text": "楔形文字はUnicode 5.0に含まれている。以下の領域に次の文字(982文字)が収録されている。",
"title": "Unicode"
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楔形文字とは、メソポタミア文明で使用されていた古代文字である。 筆記には水で練った粘土板に、葦を削ったペンが使われた。最古の出土品は紀元前3400年にまで遡ることができる。文字としては人類史上最も古いものの一つであり、古さでは紀元前3200年前後から使われていた古代エジプトの象形文字に匹敵すると言われている。
|
{{特殊文字|説明='''楔形文字'''}}
{{Infobox WS
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|type=[[表語文字]]
|typedesc=後に[[音節文字]]の要素も加わる
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|sample=Cuneiform script.jpg
}}
'''楔形文字'''(くさびがたもじ、せっけいもじ、[[シュメル語]]:gu-šúm)とは、[[メソポタミア文明]]で使用されていた古代[[文字]]である。
筆記には水で練った[[粘土板]]に、葦を削った[[ペン]]が使われた。最古の出土品は[[紀元前3400年]]にまで遡ることができる。文字としては人類史上最も古いものの一つであり、古さでは紀元前3200年前後から使われていた[[古代エジプト]]の[[ヒエログリフ|象形文字]]に匹敵すると言われている。
== 楔形文字の呼称 ==
楔形文字(cuneiform)という名称は、[[ラテン語]]の cuneus ([[くさび]])と、forma (形)からなる造語であり、1712年の[[エンゲルベルト・ケンペル]]『[[廻国奇観]]』の中で使われてから一般でも使用されるようになったとされている<ref name="maeda">[[#前田|前田(2000) 5ページ]]</ref><ref>{{cite book|author=Kaempfer, Engelbert|title=Amoenitatum exoticarum|year=1712|pages=331-334|quote=Inscriptionem exhibet, expressam characteribus peregrinis, formam habentibus cuneolorum;|url=https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.31378008345145;view=1up;seq=415}} (hathitrust)</ref>。[[オリエント学]]のうち、この文字を使用した文明・文化の研究は、一般に「[[アッシリア学]]」と呼ばれる。
楔形文字というのはあくまで文字の形状に注目した名称であり、実際には起源・系統の異なる多様な文字体系を含む。文字の種類としても、代表的な[[シュメール語]]・[[アッカド語]]の文字は[[表語文字]]と[[音節文字]]の組み合わせであるが、[[ウガリット文字]]は[[アブジャド]]であり、[[古代ペルシア楔形文字]]は[[アルファベット]]である。
== 歴史 ==
[[ウルク文化]]期([[紀元前33世紀|紀元前3200年]])に[[シュメール人]]によって[[絵文字]]としての性格が強い[[ウルク古拙文字]]が発明されたが、長期間繰り返し使われるうちに、次第に単純化・抽象化されて、[[青銅器時代]]初頭([[紀元前2500年]])には約1,000文字のシュメール文字になり、青銅器時代末期([[紀元前2000年]])には約400文字([[ヒッタイト語楔形文字]])から約200文字({{仮リンク|アッカド語楔形文字|en|Cuneiform#Akkadian cuneiform}})になった。{{仮リンク|シュメール楔形文字|en|Sumerogram|label=シュメール文字}}は[[シュメール語]]に用いられる他、[[アッカド語]]({{仮リンク|アッカド語楔形文字|en|Cuneiform#Akkadian cuneiform}})、[[エラム語]]([[エラム語楔形文字]])、[[ヒッタイト語]]([[ヒッタイト語楔形文字]])、[[楔形文字ルウィ語]]に借用され、また[[古代ペルシア語]]([[古代ペルシア楔形文字]])や[[ウガリット語]]([[ウガリット文字]])などに独自の文字の発達を促す役割をはたした。
=== 文字の歴史 ===
最初期の象形文字は、[[粘土板]]の上に縦の枠を設け、[[ペン]]、すなわち[[ヨシ|アシ]]で作り先を尖らせた[[スタイラス|尖筆]]で書かれた。やがて文字は横書きになり、また先を楔形にした尖筆を粘土板に押し当てて書くようになった。
楔形文字の粘土板は長期記録用に[[窯]]で焼くこともでき、また残す必要がないなら再利用することもできた。考古学者が発見した粘土板の中には、粘土板のあった建物が戦乱で焼かれ、結果的に固く焼成されて保存されたものが多くある。
楔形文字は、本来[[シュメール]]人によって[[シュメール語]]記録のために発明されたもので、[[メソポタミア]]全域で3000年にわたって用いられた。しかし、次第に近隣の他の民族に借用され、[[アッカド]]、[[バビロニア]]、[[エラム]]、[[ヒッタイト]]、[[アッシリア]]で楔形文字はそれらの民族固有の言語を書くのに用いられた。とはいえ、シュメール人が磨き上げた楔形文字本来の[[音節文字]]的な性格は、[[セム語族]]などの言語話者には使い勝手のよくない仕組みだった。この事実に多くの言語学者が促され、シュメール文明が再発見される以前から、バビロニア文明に先立つ文明の存在を仮定していた。
シュメール楔形文字の後世の借用は、少なくともシュメール文字のいくつかの特徴を保存している。[[アッカド語]]文献は、シュメール語の[[音節]]を表す音節文字と一語にまるごと対応する[[表語文字]]を含んでいる。楔形文字の多くの文字が、音節と意味の両価を示している ([[:en:polyvalent]])。楔形文字が[[ヒッタイト語]]を書くのに借用されたとき、アッカド語の表語文字的な書き方が加えられ、その結果多くのヒッタイト語の単語が表語文字的に書かれたため、その音価を今日推定することはもはやできなくなった。音節文字と表語文字の複合した筆記システムの複雑さは、[[日本語]]の筆記システムの複雑さと比べることができる。日本語が漢字で書かれる場合は、ある文字は表音的で、ある文字は表意的に用いられ、文脈によって音価がまちまちに取られる。また、漢字から発展した純粋に表音的なカナもまた用いられる。楔形文字で書かれたヒッタイト語もまた同じような表記体系を持っていたのである。
楔形をしてはいるが、シュメール・アッカド文字と系統の異なるいくつかの表記体系が存在する。[[古代ペルシア楔形文字]]は[[音素文字]]([[アルファベット]])で、各文字の画数はアッシリア文字よりはるかに少ない。頻繁に使われる「神」や「王」といった語は表意化されている。[[ウガリット文字]]は楔形文字的方法で書かれた、標準的なセム語形式の文字([[アブジャド]])であった。
現在知られている楔形文字の最後の例は、紀元後[[75年]]に書かれた天文学上の記録である。
=== 解読の歴史 ===
[[1802年]][[ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェント|G.F.グローテフェント]]は、[[ペルセポリス]]の碑文の写本を利用し、[[古代ペルシア語]]の解読に努力した<ref name="maeda">[[#前田|前田(2000) 5ページ]]</ref>。
{{仮リンク|アッカド語楔形文字|en|Cuneiform#Akkadian cuneiform}}の解読には、[[1621年]]に発見された[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]の[[ベヒストゥン碑文]](磨崖碑文)が、[[ヘンリー・ローリンソン (初代準男爵)|ヘンリー・ローリンソン]]によって[[1835年]]に再発見され、利用された。ローリンソンはイギリス陸軍の士官で、[[ペルシア]]のベヒストゥンの崖でベヒストゥン碑文を発見し、そのいくつかを写し取った。碑文は[[ダレイオス1世]]の治世下([[紀元前522年|紀元前522]] - [[紀元前486年|486年]])に刻まれており、ペルシア帝国の三つの公用語、[[古代ペルシア語]]([[古代ペルシア楔形文字]])、[[アッカド語]]({{仮リンク|アッカド語楔形文字|en|Cuneiform#Akkadian cuneiform}})、[[エラム語]]({{仮リンク|エラム楔形文字|en|Elamite cuneiform}})で書かれた同一のテキストであった。ベヒストゥン碑文がアッカド語楔形文字[[未解読文字|解読]]に果たした役割は、[[ロゼッタ・ストーン]]が[[古代エジプト文字の解読|ヒエログリフ解読]]に果たした役割に相当する。
ローリンソンはまず古代ペルシア語の解読に成功した。これとは別に、アイルランド人の[[アッシリア学|アッシリア学者]][[エドワード・ヒンクス]]もまた解読に貢献した。
古代ペルシア語を翻訳した後、ローリンソンとヒンクスは次の解読を始めた。[[ポール・エミール・ボッタ]]が1842年に都市[[ニネヴェ]]を発見したことで、二人は大いに助けられた。[[オースティン・ヘンリー・レヤード]]によって発掘された宝物のうちには、アッカド語楔形文字に覆われた焼かれた粘土板数万点を有する[[アッシュールバニパル]]王家の文書庫、[[アッシュールバニパルの図書館]]の遺跡があったのである。[[1851年]]までに、ローリンソンとヒンクスは200のアッカド語を読むことに成功した。
ローリンソンとヒンクスはほどなく、新たに二人の異なる解読者と協同するようになる。ドイツ生まれの若い学者[[ユリウス・オッペルト]]と、学識に富むイギリス人[[東洋学|東洋学者]][[ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット]]である。
1857年には4人がロンドンで会合し、解読の正確さを試す有名な実験を行った。[[イギリス王立アジア学会]]の書記[[エドウィン・ノリス]]が、4人それぞれに、最近発見されたアッシリアの皇帝[[ティグラト・ピレセル1世]]の治世下に書かれた、碑文の写しを渡した。翻訳中は4人の情報交換は禁止された。
そして学識経験者からなる審判が集まり、4人の翻訳結果を精査し、その正確さを評価した。
4人が行った翻訳はすべての主要な点で、「ここは間違いないだろう」と自信を持った所は他の翻訳者と一致した。「もしかしたら違うかも知れない」と思った所は些細な異同があった。4人のなかでは経験の浅いタルボットは多くの間違いを犯し、オッペルトの翻訳は英語に不慣れなことから来る、幾つかの意味が取りにくい部分を含んでいた。しかしヒンクスとローリンソンの翻訳はほとんど同一であった。
審判は結果に満足したと発表し、またアッカド語楔形文字で書かれた[[アッカド語]]の解読は達成されたと宣言した。
この後、ある壷に描かれていたアッカド語楔形文字と[[ヒエログリフ]]が、全く同じ意味である事が発見され、解読達成の裏づけとなった(これが、楔形文字を研究する[[アッシリア学]]の公式な成立とされている)。
[[1930年]]代にはアッカド語をツールとして、(シュメール語)楔形文字で書かれた[[シュメール語]]の解読も開始され、[[1940年]]代に{{仮リンク|サミュエル・クレイマー|en|Samuel Noah Kramer}}により解読された。
しかし、{{仮リンク|エラム楔形文字|en|Elamite cuneiform}}で書かれた[[エラム語]]の解読は[[1840年]]代から行なわれているが、今日に至るも比較対象の資料に乏しく、さらに研究が継続されている<ref>Khačikjan, Margaret. 1998. "The Elamite Language". ''Documenta Asiana IV, Consiglio Nazionale delle Ricerche Istituto per gli Studi Micenei ed Egeo-Anatolici.'' ISBN 88-87345-01-5</ref>。
== 翻字 ==
{{Main2|楔形文字の翻字|:en:Cuneiform#Transliteration}}
楔形文字には専用の[[翻字]]法がある。楔形文字は多価であるため、翻字により、情報落ちが発生するどころか、元のテキストよりも情報量が増える。例えば、ヒッタイト語テキストの文字DINGIRはヒッタイト語の音節''an''を表すことも、アッカド語の語句の一部の''il''であることも、元来のシュメール語の意味である[[神]]を表す表意文字であることもありうる。
== Unicode ==
楔形文字は[[Unicode]] 5.0に含まれている。以下の領域に次の文字(982文字)が収録されている。
{|class="wikitable" cellpadding="4" cellspacing="0" style="font-family:Arial,'DejaVu Sans',Akkadian,Assurbanipal,Bisitun,Persepolis,Santakku,UllikummiA,UllikummiB,UllikummiC,Noto Sans Cuneiform;text-align:center;"
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|}
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
== 関連書籍 ==
* Jean-Jacques Glassner (translated and edited by Marc Van De Mieroop and Zainab Bahrani, ''The Invention of Cuneiform: Writing in Sumer'', Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2003.
* {{Cite book|和書|author1=前田徹|authorlink1=前田徹|author2=川崎康司|author3=山田雅道|author4=小野哲|author5=山田重郎|author6=鵜木元尋|year=2000 |title=歴史の現在 古代オリエント |publisher=山川出版社 |isbn=978-4-634-64600-1 |ref=前田}}
* {{Cite book|和書|author=小林登志子|authorlink=小林登志子|year=2005 |title=シュメル 人類最古の文明 |publisher=中央公論新社〈中公新書〉}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Cuneiform}}
* [[:en:Transliterating cuneiform languages]]
* [[:en:Ebla tablets]] - [[エブラ語]]
== 外部リンク ==
* [https://dn-works.com/ufas/ Akkadian] - 楔形文字のUnicodeフォント(free)
{{文字}}
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{{DEFAULTSORT:くさひかたもし}}
[[Category:シュメール]]
[[Category:アジアの文字]]
[[Category:表語文字]]
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[[Category:楔形文字|*]]
[[Category:アッシリア学]]
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奥多摩駅
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奥多摩駅(おくたまえき)は、東京都西多摩郡奥多摩町氷川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。駅番号はJC 74。
青梅線の終着駅で、東京都内で最も西に所在する。標高は東京タワー(海抜高351 m)よりも8 m低い343 mで、東京都内にあるケーブルカーを除いた鉄道駅の中で最も高い。
島式ホーム1面2線を有する地上駅。2番線の有効長は6両編成が入線可能で、臨時列車が使用する場合がある。
駅舎はホームより低い場所にあり、2階建てで1階に奥多摩観光協会が運営する売店があるほか、2階にはカフェ「PORT Okutama」がある。ホームと駅舎の間は階段のほかエレベーターでも連絡している。
かつては2番線の奥に貨物ヤードがあり、隣接する奥多摩工業の工場から川崎方面に向かって石灰石を発送していた。また、過去には水根駅(水根積卸場)へ向かう専用鉄道の東京都水道局小河内線(現・奥多摩工業水根貨物線)と接続していた。現在、これらの貨物用設備は撤去され、専用鉄道の線路とも分断されており、跡地の一部は駐車場になっている。
青梅駅管理の業務委託駅で、青梅駅以西では唯一の有人駅である。自動券売機・簡易Suica改札機が設置されているが、みどりの窓口は設置されていない。
1997年(平成9年)、「関東の駅百選」に認定されている。
発車メロディは、2006年(平成18年)4月より童謡「どんぐりころころ」が採用された。メロディの制作はサウンドフォーラムで、牧野奈津子が編曲を手掛けた。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は807人である。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
貨物取扱廃止までの近年の年間発着トン数は下記の通り。
駅前に西東京バス氷川車庫があり、車庫内のバス停(2番)と、駅を出て左手(3番)、右手(1番)にバス停がある。すべて停留所名は「奥多摩駅」である。系統ごとの運行本数は少ない。川井駅方面・日原鍾乳洞、奥多摩湖を経て山梨県北都留郡丹波山村・小菅村への路線バスが発着する。
駅前にタクシー乗り場がある。
長らく京王自動車が大型車2台を配備していたが、採算性悪化のため町に支援要請を行うも決裂。2012年3月31日に町内の氷川営業所を廃止し、同社は町内より撤退した。
その後、あきる野市の新興企業、リーガルキャブが昼間のみ駅前に1台(夏季は2台)を配車している。夜間は台数に余裕がないためタクシーがゼロになる。このため同社は関東陸運局に増車を申請したが、需要が見込めないとして却下されたため、国に処分取り消しを求める訴訟を起こしたが、一審東京地裁で棄却された。
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"text": "1997年(平成9年)、「関東の駅百選」に認定されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "発車メロディは、2006年(平成18年)4月より童謡「どんぐりころころ」が採用された。メロディの制作はサウンドフォーラムで、牧野奈津子が編曲を手掛けた。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は807人である。",
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"text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。",
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"text": "貨物取扱廃止までの近年の年間発着トン数は下記の通り。",
"title": "利用状況"
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"text": "駅前に西東京バス氷川車庫があり、車庫内のバス停(2番)と、駅を出て左手(3番)、右手(1番)にバス停がある。すべて停留所名は「奥多摩駅」である。系統ごとの運行本数は少ない。川井駅方面・日原鍾乳洞、奥多摩湖を経て山梨県北都留郡丹波山村・小菅村への路線バスが発着する。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅前にタクシー乗り場がある。",
"title": "駅周辺"
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"text": "長らく京王自動車が大型車2台を配備していたが、採算性悪化のため町に支援要請を行うも決裂。2012年3月31日に町内の氷川営業所を廃止し、同社は町内より撤退した。",
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"text": "その後、あきる野市の新興企業、リーガルキャブが昼間のみ駅前に1台(夏季は2台)を配車している。夜間は台数に余裕がないためタクシーがゼロになる。このため同社は関東陸運局に増車を申請したが、需要が見込めないとして却下されたため、国に処分取り消しを求める訴訟を起こしたが、一審東京地裁で棄却された。",
"title": "駅周辺"
}
] |
奥多摩駅(おくたまえき)は、東京都西多摩郡奥多摩町氷川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。駅番号はJC 74。 青梅線の終着駅で、東京都内で最も西に所在する。標高は東京タワー(海抜高351 m)よりも8 m低い343 mで、東京都内にあるケーブルカーを除いた鉄道駅の中で最も高い。
|
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 奥多摩駅{{Refnest|group="*"|[[1971年]]に氷川駅から改称。}}
|画像 = Okutama Station building 1.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2021年9月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|48|33.2|N|139|5|48|E}}}}
|よみがな = おくたま
|ローマ字 = Oku-Tama
|隣の駅 =
|前の駅 = JC 73 [[白丸駅_(東京都)|白丸]]
|駅間A = 2.0
|駅間B =
|次の駅 =
|駅番号 = {{駅番号r|JC|74|#f15a22|1}}
|電報略号 = タマ←ヒワ(改称前)
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#f15a22|■}}[[青梅線]](東京アドベンチャーライン)
|キロ程 = 37.2
|起点駅 = [[立川駅|立川]]
|所在地 = [[東京都]][[西多摩郡]][[奥多摩町]]氷川210
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|48|33.2|N|139|5|48|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面2線<ref name="JR全駅24">[[#zeneki46|『JR全駅・全車両基地』 24頁]]</ref>
|開業年月日 = [[1944年]]([[昭和]]19年)[[7月1日]]<ref name="sone38">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=38号 青梅線・鶴見線・南武線・五日市線 |date=2010-04-11 |pages=9-11}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 807
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
'''奥多摩駅'''(おくたまえき)は、[[東京都]][[西多摩郡]][[奥多摩町]]氷川にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[青梅線]]の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="JR全駅24"/>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JC 74'''。
青梅線の[[終着駅]]で、東京都内で最も西に所在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/104033|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128082802/https://trafficnews.jp/post/104033|title= 東京の駅 最東/最南/最西/最北はどこ? 23区内の端は? 僅差の駅も|website=乗りものニュース|date=2021-01-28|archivedate=2021-01-28|accessdate=2021-01-28}}</ref>。[[標高]]は[[東京タワー]]([[海抜|海抜高]]351 [[メートル|m]])よりも8 m低い343 mで、東京都内にある[[ケーブルカー]]を除いた鉄道駅の中で最も高い。
== 歴史 ==
* [[1944年]]([[昭和]]19年)[[7月1日]]:[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]](→[[運輸省]]→[[日本国有鉄道]])青梅線 御嶽 - 当駅間開通と同時に'''氷川駅'''(ひかわえき)として開業<ref name="sone38"/>。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]。
* [[1952年]](昭和27年)[[12月16日]]:[[東京都水道局]][[東京都水道局小河内線|小河内線]]([[専用鉄道]])が開通。[[小河内貯水池|小河内ダム]]の建設資材運搬用に建設された専用鉄道<ref name="sone38"/>。
* [[1957年]](昭和32年)[[5月10日]]:東京都水道局小河内線、ダム建設竣工が間近となり、運行休止<ref name="sone38"/>。
*: 路線は休止後も撤去されていない。所有者は[[1963年]]に[[西武鉄道]]、[[1978年]]に[[奥多摩工業]]に移っている。
* [[1971年]](昭和46年)[[2月1日]]:国鉄の駅が'''奥多摩駅'''に改称<ref name="sone38" />。 中央線東京駅への直通電車を新設<ref>{{Cite news |和書|title=青梅線・五日市線のダイヤ改正 東京へ直通電車新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-01-30 |page=2 }}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=東京への直通電車出発式 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-02-02 |page=2 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の駅となる<ref name="sone38" />。
* [[1997年]]([[平成]]9年)[[10月14日]]:「[[関東の駅百選]]」に選定<ref name="JR全駅13">[[#zeneki46|『JR全駅・全車両基地』 13頁]]</ref>。選定理由は「自然ゆたかな奥多摩に似合っているロッジ風の山小屋駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=64-65,226|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)[[8月13日]]<ref>[http://www.jreast.co.jp/hachioji/chuousen/history_oume/h_08.html 青梅・五日市線の歴史] - JR東日本八王子支社</ref>:[[貨物列車]]の最終運行日<ref name="JR全駅13"/>。
*: 奥多摩工業の[[石灰石]]積込設備へ[[専用鉄道|専用線]]が続き、石灰石の輸送を行っていた。最終期の行先は、[[浜川崎駅]]にある[[セメント]]工場であった。
* [[1999年]](平成11年)[[3月25日]]:JR貨物の駅(貨物営業)が廃止<ref name="sone38" />。
* [[2002年]](平成14年)[[2月8日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2002年2月 |journal = RAIL FAN |date = 2002-05-01 |issue = 5 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 24 }}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[4月21日]]:奥多摩ステーションギャラリーがオープン<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/pdf/okutama.pdf|title=4月21日(金)「奥多摩ステーションギャラリー」オープン!!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2006-03-23|accessdate=2020-06-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612145734/https://www.jreast.co.jp/hachioji/pdf/okutama.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref><ref name="press/20060419okutama">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/pdf/20060419okutama.pdf|title=「奥多摩ステーションギャラリー」オープニングセレモニー及び奥多摩駅発車メロディー変更について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2006-04-19|accessdate=2020-06-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612145743/https://www.jreast.co.jp/hachioji/pdf/20060419okutama.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。童謡『[[どんぐりころころ]]』の[[発車メロディ]]を導入<ref name="press/20060419okutama" />。
* [[2018年]](平成30年)[[7月1日]]:業務委託化。
* [[2019年]](平成31年)[[4月13日]]:駅舎改装<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20190322/20190322_info02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190826121636/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20190322/20190322_info02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=青梅線 奥多摩駅リニューアルオープンについて|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2019-03-22|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-08-26}}</ref><ref>{{Cite news |title=アウトドア客に快適・便利 JR八王子支社 青梅線奥多摩駅改装 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2019-04-18 |page=3 }}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]<ref name="JR全駅13"/>。2番線の[[有効長]]は6両編成が入線可能で、臨時列車が使用する場合がある。
駅舎はホームより低い場所にあり、2階建てで1階に奥多摩観光協会が運営する[[売店]]があるほか、2階にはカフェ「PORT Okutama」がある。ホームと駅舎の間は階段のほか[[エレベーター]]でも連絡している。
かつては2番線の奥に貨物ヤードがあり、隣接する奥多摩工業の工場から川崎方面に向かって石灰石を発送していた。また、過去には[[水根駅]](水根積卸場)へ向かう[[専用鉄道]]の東京都水道局小河内線(現・奥多摩工業水根貨物線)と接続していた。現在、これらの貨物用設備は撤去され、専用鉄道の線路とも分断されており、跡地の一部は駐車場になっている。
[[青梅駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で、青梅駅以西では唯一の有人駅である。[[自動券売機]]・簡易[[Suica]]改札機が設置されているが、[[みどりの窓口]]は設置されていない。
[[1997年]]([[平成]]9年)、「[[関東の駅百選]]」に認定されている。
[[発車メロディ]]は、[[2006年]](平成18年)4月より[[童謡]]「[[どんぐりころころ]]」が採用された<ref name="press/20060419okutama" />。メロディの制作はサウンドフォーラムで、牧野奈津子が編曲を手掛けた。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先!!備考
|-
!1・2
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 青梅線
|[[青梅駅|青梅]]・[[立川駅|立川]]方面
|2番線は一部列車のみ
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/368.html JR東日本:駅構内図])
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Okutama Station in Okutama, Tokyo 3.JPG|改装前の駅舎(2011年12月)
JR Ōme Line Oku-Tama Station Gates.jpg|改札口(2022年4月)
JR Ōme Line Oku-Tama Station Platform.jpg|ホーム(2022年4月)
奥多摩駅ホーム1番線隙間.JPG|電車とホームの隙間(2010年11月)
Termination of JRE Okutama Station track 1.JPG|1番線の線路終端部(2015年5月)
Termination of JRE Okutama Station track 2.JPG|2番線の線路終端部(2015年5月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''807人'''である。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|1,622
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|1,541
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|1,611
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|1,586
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|1,510
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|1,527
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|1,460
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|1,394
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|1,499
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|1,500
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_03.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>1,401
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_03.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>1,302
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_03.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>1,054
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_03.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>975
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_03.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>984
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_03.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>955
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_03.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>921
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_03.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>925
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_03.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>913
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_03.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>915
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_03.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>902
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_03.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>877
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_06.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>885
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_06.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>919
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_06.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>892
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_06.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>966
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_06.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>929
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_06.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>916
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_06.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>934
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_06.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>866
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_06.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>699
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_06.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>780
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_06.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>807
|
|}
貨物取扱廃止までの近年の年間発着トン数は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
!rowspan=2|年度
!colspan=2|総数
!colspan=2|車扱貨物
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|1990年(平成{{0}}2年)
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|1,485,323
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|
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|
|
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|
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|1993年(平成{{0}}5年)
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|
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|1997年(平成{{0}}9年)
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|1998年(平成10年)
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|
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|1999年(平成11年)
|
|
|
|
|
|
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|}
== 駅周辺 ==
{{columns-list|2|
* [[西東京バス氷川車庫]]
* [[国道411号]]([[青梅街道]])
* [[東京都道204号日原鍾乳洞線]](日原街道)
* [[多摩川]]
* [[日原川]]
* [[奥多摩町]]役場
* [[青梅警察署]]奥多摩交番
* 奥多摩観光案内所
* 奥多摩[[ビジターセンター]]
* [[奥多摩消防署|東京消防庁奥多摩消防署]]
* [[奥多摩町国民健康保険奥多摩病院]]
* 奥多摩郵便局
* [[奥多摩町立氷川小学校]]
* 奥多摩町立奥多摩中学校
* [[奥氷川神社]]
* [[もえぎの湯]]
* [[日原鍾乳洞]]
* [[奥多摩湖]]
* 氷川キャンプ場
* 氷川国際ます釣り場
* [[青梅信用金庫]]奥多摩支店
|}}
=== バス路線 ===
駅前に[[西東京バス氷川車庫]]があり、車庫内の[[バス停留所|バス停]](2番)と、駅を出て左手(3番)、右手(1番)にバス停がある。すべて停留所名は「奥多摩駅」である。系統ごとの運行本数は少ない。[[川井駅]]方面・[[日原鍾乳洞]]、奥多摩湖を経て[[山梨県]][[北都留郡]][[丹波山村]]・[[小菅村]]への[[路線バス]]が発着する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nisitokyobus.co.jp/rosen/noriba/okutama.html|title=乗り場案内・奥多摩駅|publisher=西東京バス|accessdate=2020-11-26}}</ref>。
* 1番:[[西東京バス氷川車庫#奥多摩駅 - 鍾乳洞方面|奥20・21系統]]:日原鍾乳洞方面(鍾乳洞行は平日のみ。休日は手前の東日原まで運行)
* 2番:[[西東京バス氷川車庫#奥多摩駅 - 奥多摩湖・小菅・丹波方面|奥09・10・11・12・14・15系統]]:奥多摩湖、峰谷、留浦、鴨沢西、丹波山村役場、小菅の湯方面
* 3番:[[西東京バス氷川車庫#奥多摩駅 - 古里・川井方面|奥30・31・32系統]]:神庭、川井駅、上日向、清東橋方面、もえぎの湯入口循環
=== タクシー ===
駅前にタクシー乗り場がある。
長らく[[京王自動車]]が大型車2台を配備していたが、採算性悪化のため町に支援要請を行うも決裂。2012年3月31日に町内の氷川営業所を廃止し、同社は町内より撤退した。
その後、[[あきる野市]]の新興企業、リーガルキャブが昼間のみ駅前に1台(夏季は2台)を配車している。夜間は台数に余裕がないためタクシーがゼロになる。このため同社は[[関東運輸局|関東陸運局]]に増車を申請したが、需要が見込めないとして却下されたため、国に処分取り消しを求める訴訟を起こしたが、一審[[東京地方裁判所|東京地裁]]で棄却された<ref>[https://kanz.jp/hanrei/data/html/201409/084929_hanrei.html 平成26年9月12日判決言渡 平成25年(行ウ)第323号 タクシー事業計画変更認可申請に対する処分取消等請求事件] </ref>。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 青梅線(東京アドベンチャーライン)
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたまは定期列車扱い -->(臨時列車のみ)
::: [[御嶽駅]] (JC 69) - '''奥多摩駅 (JC 74)'''
:: {{Color|#ffd400|■}}各駅停車
::: [[白丸駅 (東京都)|白丸駅]] (JC 73) - '''奥多摩駅 (JC 74)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =46号 甲府駅・奥多摩駅・勝沼ぶどう郷駅ほか79駅 |date =2013-07-07 |ref =zeneki46 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Okutama Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日本の都道府県の東西南北端の駅の一覧]]
* [[終着駅]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=368|name=奥多摩}}
{{青梅線|mode=tal}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:おくたま}}
[[Category:東京都の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 お|くたま]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本貨物鉄道の廃駅]]
[[Category:奥多摩町の交通|おくたまえき]]
[[Category:1944年開業の鉄道駅]]
[[Category:青梅線|おくたまえき]]
|
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10,288 |
東松戸駅
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東松戸駅(ひがしまつどえき)は、千葉県松戸市東松戸にある、北総鉄道・京成電鉄・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
北総鉄道の北総線、京成電鉄の成田空港線(成田スカイアクセス線)、JR東日本の武蔵野線が乗り入れている。
このうち、京成電鉄については北総鉄道の線路を借りて運行を行う形態(当駅前後の区間で、北総鉄道が第一種鉄道事業者、京成電鉄が第二種鉄道事業者として施設を共用)のため、両線は実質同じ路線として扱われる。北総鉄道には「HS05」、JR東日本には「JM 13」の駅番号が与えられている。
島式ホーム2面4線を有する高架駅である。JR武蔵野線を跨ぐため、ホームは地上17mの高さにあり、3階が改札コンコース、4階がホームとなり、各階はエスカレーターおよびエレベーターで連絡している。北総鉄道が線路を含む施設全般を保有・駅業務を行っており、標識類は北総様式に準拠している。京成については「京成線」に代わり「成田スカイアクセス線」と標示・案内がされている。これはJR列車内・駅構内も同様である。
開業時は現在の下り3・4番ホームである1面2線で、当初から2面4線への拡張を想定した構造となっていたが、工事開始以前は現2番ホームの路盤と橋脚のみが整備されている状態であった。2010年7月17日の成田国際空港までの延伸に向けて拡張工事が行われ、2009年2月14日から2面(待避駅)化され、新設の上り1・2番ホームの供用が開始された。これによって当駅での通過待避および緩急接続が可能となった。また、将来的に10両編成が停車可能な構造となっている。
NTTBPの公衆無線LAN設備が設置されており、docomo Wi-Fiが利用できる。またUQコミュニケーションズの公衆無線LAN設備が設置されており、Wi2の公衆無線LANサービスが利用できる。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。指定席券売機と短距離自動券売機が設置されている。改札コンコースとホームを連絡するエスカレーター・エレベーターがある。トイレは車椅子などに対応する多機能トイレが併設されている。JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している船橋営業統括センター(西船橋駅)管理の業務委託駅。2018年3月24日より、始発から午前6時30分までの間は遠隔対応(インターホン対応は新八柱駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働している。
武蔵野線の駅としては1990年代に開設された唯一の駅であり、吉川美南駅、越谷レイクタウン駅に次いで3番目に新しい駅である。
(出典:JR東日本:駅構内図)
各社とも乗車・乗降人員は乗換駅としては少ない人数である。その理由の一つとして、北総鉄道北総線経由の運賃が割高で、定期通勤経路として敬遠されやすいことが挙げられる(北総鉄道#運賃問題も参照)。
また、両線とも都心方向に向かう際には当駅で乗換をしなくても到達できる上、両線とも本数が少なめで乗り継ぎが考慮されていない。京成のアクセス特急は当駅を通過する計画であったが、県や市、JR武蔵野線沿線自治体などの要望により停車することになった。
2000年代に入ってからは駅周辺マンションの入居が進み、定期通勤利用が増加したため、各社とも利用客数は増加傾向にある。
近年の1日平均乗降人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。
近年の1日平均乗車人員推移は以下の通りである。
駅勢圏は古くは住宅・農地などが混在する郊外地域であった。北総線開業後の開発の主体となった紙敷土地区画整理事業は一時停滞したが、その後の再減歩と松戸市のてこ入れにより軌道に乗り、2012年2月24日に換地処分を完了するに至った。これにより駅を含む周辺の地名であった「紙敷」は、「東松戸(1丁目 - 4丁目)」に変更された。商店街などはいまだ形成されていないものの、駅前にスーパー・飲食店が徐々にできつつある。
京成バス、松戸新京成バスが運行する路線バスが発着する。なお、各バスのりばは、2016年6月27日から変更された。
|
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東松戸駅(ひがしまつどえき)は、千葉県松戸市東松戸にある、北総鉄道・京成電鉄・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
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{{駅情報
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|地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|35|46|11.6|N|139|56|34.4|E}}|title=北総・京成 東松戸駅|coord2={{coord|35|46|14.2|N|139|56|37.7|E}}|title2=JR東日本 東松戸駅|marker-color=1111cc|marker-color2=008000}}
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}}
'''東松戸駅'''(ひがしまつどえき)は、[[千葉県]][[松戸市]][[紙敷|東松戸]]にある、[[北総鉄道]]・[[京成電鉄]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。<!--開業年月日が早い方から。北総駅と京成駅は同一のため続けて記載-->
== 乗り入れ路線 ==
北総鉄道の[[北総鉄道北総線|北総線]]、京成電鉄の[[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]、JR東日本の[[武蔵野線]]が乗り入れている。
このうち、京成電鉄については北総鉄道の線路を借りて運行を行う形態(当駅前後の区間で、北総鉄道が[[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]、京成電鉄が[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]として施設を共用)のため、両線は実質同じ路線として扱われる。北総鉄道には「'''HS05'''」、JR東日本には「'''JM 13'''」の[[駅ナンバリング|駅番号]]が与えられている。
== 歴史 ==
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月31日]]:北総開発鉄道北総線の駅として開業<ref name="交通910330">{{Cite news |title=北総開発鉄道あす全通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-03-30 |page=2 }}</ref>。当時は島式ホーム1面2線。
** 当初、バス乗降場は現在の[[日本マクドナルド|マクドナルド]]の位置にあった。
* [[1995年]](平成7年)[[5月]]:武蔵野線の駅開設工事が始まる。
* [[1998年]](平成10年)[[3月14日]]:JR東日本の駅が開業<ref name="jtb"/>。開業時より自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。これに伴い駅前ロータリー(現在)の使用を開始。
** 両線とも開業前の仮称は当時の地名の「'''紙敷'''」だったが、開業時に「'''東松戸'''」とされた<ref name="jtb">[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、pp.86-87。</ref>。
*** 北総線の駅は1991年に開業していたが、交差する武蔵野線にはそれから7年間駅は設置されなかった。当時、[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]と北総線は[[直通運転|相互直通運転]]を実施しており、北総線 - 武蔵野線の乗り継ぎ客は、新京成線を経由して[[新八柱駅]]を乗り換え駅としていた。しかし、新京成線の[[新鎌ヶ谷駅]]開業によって、相互直通運転は終了し、同駅と新八柱駅で2度の乗り換えが必要となった。
*** JR東日本の鉄道駅は、設置予定が無かったが、武蔵野線に駅を設置するように利用者や松戸市などから要望が相次ぎ、費用負担を松戸市も行うということ(支出したのは紙敷土地区画整理組合)で、1998年に[[請願駅]]が開業した<ref name="jtb"/>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-28|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[7月1日]]:社名・路線名称の変更により、北総開発鉄道北総線の駅は北総鉄道北総線の駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.hokuso-railway.co.jp/topics/2004/020/index.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040803154818/http://www.hokuso-railway.co.jp/topics/2004/020/index.htm|language=日本語|title=7月1日、当社は社名を「北総開発鉄道」から「北総鉄道」へ 路線名を「北総・公団線」から、「北総線」に変更します。|publisher=北総開発鉄道|date=2004-07-01|accessdate=2022-04-17|archivedate=2004-08-03}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:北総鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-12|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[2月14日]]:北総線の特急・急行の停車駅となる<ref name="Hokuso200902">{{Cite press release|和書|url=http://www.hokuso-railway.co.jp/topics/2009/002/index.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090123233107/http://www.hokuso-railway.co.jp/topics/2009/002/index.htm|language=日本語|title=2月14日(土)北総線ダイヤ改正について|publisher=北総鉄道|date=2009-01-13|accessdate=2022-04-17|archivedate=2009-01-23}}</ref>。
** 上り専用ホームが新設されたが、待避設備は使用されず島式ホーム2面2線となる<ref name="Hokuso200902"/>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[7月17日]]:京成成田空港線(成田スカイアクセス線)の開業により北総線の駅は京成電鉄との共同使用駅となり、アクセス特急の停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://hokuso-railway.co.jp/topics/2010/025/index.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101125003230/http://hokuso-railway.co.jp/topics/2010/025/index.htm|language=日本語|title=7月17日(土)成田スカイアクセス開業に伴うダイヤ改正を実施します|publisher=北総鉄道|date=2010-05-27|accessdate=2022-04-17|archivedate=2010-11-25}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200504185414/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf|format=PDF|language=日本語|title=成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正|publisher=京成電鉄|date=2010-05-28|accessdate=2020-06-09|archivedate=2020-05-04}}</ref>。
** 日付不明:待避設備の使用が開始され、島式ホーム2面4線となる。
* [[2014年]](平成26年)[[3月31日]]:JR東日本の駅の[[みどりの窓口]]の営業を終了。
* [[2015年]](平成27年)[[10月20日]]:JR東日本の駅が業務委託化される<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E3%83%BC%E3%80%8C%E5%8D%83%E8%91%89%E9%81%8B%E8%BC%B8%E5%8C%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A6%81%E5%93%A1%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%EF%BC%96%E9%A7%85%E5%A7%94%E8%A8%97/ |archiveurl=https://archive.fo/LB6c7|title=千葉支社 「千葉運輸区」の要員を提案 6駅委託と窓口削減・要員削減も提案|accessdate=2019-07-30|publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]]|archivedate=2019-07-30}}</ref>。
* [[2022年]] :JR駅構内の立ち食いそば店が閉店。
== 駅構造 ==
=== 北総鉄道・京成電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #1111cc
|文字色 =
|駅名 = 北総・京成 東松戸駅
|画像 = Hokuso Higashi-Matsudo Station 20060317.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2006年3月)
|よみがな = ひがしまつど
|ローマ字 = Higashi-Matsudo
|所在地 = [[千葉県]][[松戸市]][[紙敷|東松戸]]二丁目158
|駅番号 = {{駅番号r|HS|05|#00bdf2|4||#00bdf2}}
|座標 = {{coord|35|46|11.6|N|139|56|34.4|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=北総・京成 東松戸駅}}
|電報略号 =
|開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月31日]]{{R|交通910330}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|所属事業者= [[北総鉄道]]<br />[[京成電鉄]]
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#00bdf2|●}}[[北総鉄道北総線]]**
|前の駅1 = HS04 [[秋山駅|秋山]]
|駅間A1 = 1.3
|駅間B1 = 1.4
|次の駅1 = [[松飛台駅|松飛台]] HS06
|キロ程1 = 7.5
|起点駅1 = [[京成高砂駅|京成高砂]]
|所属路線2 = {{color|#ff8620|●}}[[京成成田空港線|京成成田空港線<br />(成田スカイアクセス線)]]**
|前の駅2 = KS10 [[京成高砂駅|京成高砂]]
|駅間A2 = 7.5
|駅間B2 = 5.2
|次の駅2 = [[新鎌ヶ谷駅|新鎌ヶ谷]] (HS08)
|キロ程2 = 7.5
|起点駅2 = 京成高砂
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = {{Smaller|(北総鉄道)-2019年-}}<br />19,274人/日<hr />{{Smaller|(京成電鉄)-2021年-}}<br />2,919
|統計年度 =
|備考 = [[共同使用駅]](北総鉄道の管轄駅)
|備考全幅 = * 北総と京成の合計値<br />** 京成高砂 - 印旛日本医大間は両社線の共用区間。
}}
[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]である。JR武蔵野線を跨ぐため、ホームは地上17mの高さにあり、3階が[[改札]][[コンコース]]、4階がホームとなり、各階は[[エスカレーター]]および[[エレベーター]]で連絡している。北総鉄道が線路を含む施設全般を保有・駅業務を行っており、標識類は北総様式に準拠している。京成については「京成線」に代わり「成田スカイアクセス線」と標示・案内がされている。これはJR列車内・駅構内も同様である。
開業時は現在の下り3・4番ホームである1面2線で、当初から2面4線への拡張を想定した構造となっていたが、工事開始以前は現2番ホームの路盤と橋脚のみが整備されている状態であった。2010年7月17日の[[成田国際空港]]までの延伸に向けて拡張工事が行われ、2009年2月14日から2面([[待避駅]])化され、新設の上り1・2番ホームの供用が開始された<ref name="Hokuso200902"/>。これによって当駅での[[待避駅#通過追越|通過待避]]および[[待避駅#接続追越|緩急接続]]が可能となった。また、将来的に10両編成が停車可能な構造となっている。
[[NTTBP]]の[[公衆無線LAN]]設備が設置されており、[[docomo Wi-Fi]]が利用できる。また[[UQコミュニケーションズ]]の公衆無線LAN設備が設置されており、[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス|Wi2]]の公衆無線LANサービスが利用できる。
==== のりば ====
<!-- 表記は駅の案内サインに準拠している -->
{|class="wikitable"
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!nowrap|方向!!行先
|-
!1・2
|nowrap rowspan="2"|[[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] 北総線<br />[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成高砂駅|京成高砂]]・[[押上駅|押上]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[浅草駅|浅草]]・[[日本橋駅 (東京都)|日本橋]]・[[西馬込駅|西馬込]]・<br />[[品川駅|品川]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]・[[横浜駅|横浜]]方面
|-
!3・4
|style="text-align:center"|下り
|[[新鎌ヶ谷駅|新鎌ヶ谷]]・[[千葉ニュータウン中央駅|千葉ニュータウン中央]]・[[印西牧の原駅|印西牧の原]]・<br />[[印旛日本医大駅|印旛日本医大]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]方面
|}
* 朝夕時間帯の一部に北総線普通と京成が運行するアクセス特急の緩急接続がある他、北総線の普通が当駅で[[スカイライナー]]の通過待ちを行う場合がある。このほか、アクセス特急が当駅でスカイライナーに抜かれる場合もある。
<gallery>
Higashi-Matsudo-station platform 1-2 20210717 120702.jpg|1・2番線ホーム(2021年7月)
Higashi-Matsudo-station platform 3-4 20210718 094206.jpg|3・4番線ホーム(2021年7月)
</gallery>
==== 駅構内設備 ====
* [[定期乗車券|定期券]]発売所
{{-}}
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 東松戸駅
|画像 = JR Higashi-Matsudo station west 20120929.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 西口(2012年9月)
|よみがな = ひがしまつど
|ローマ字 = Higashi-Matsudo
|前の駅 = JM 14 [[新八柱駅|新八柱]]
|駅間A = 2.4
|駅間B = 1.9
|次の駅 = [[市川大野駅|市川大野]] JM 12
|電報略号 = ヒマ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#f15a22|■}}[[武蔵野線]]
|駅番号 = {{駅番号r|JM|13|#f15a22|1}}
|キロ程 = 92.8 km([[鶴見駅|鶴見]]起点)<br/>[[府中本町駅|府中本町]]から64.0
|起点駅 =
|所在地 = [[千葉県]][[松戸市]][[紙敷|東松戸]]一丁目143
|座標 = {{coord|35|46|14.2|N|139|56|37.7|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR東日本 東松戸駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1998年]]([[平成]]10年)[[3月14日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 19,217
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
}}
[[プラットホーム#相対式ホーム|相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]である<ref name="jtb"/>。[[指定席券売機]]と短距離[[自動券売機]]が設置されている。改札コンコースとホームを連絡するエスカレーター・エレベーターがある。[[便所|トイレ]]は[[車椅子]]などに対応する多機能トイレが併設されている。[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している船橋営業統括センター([[西船橋駅]])管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]。[[2018年]][[3月24日]]より、始発から午前6時30分までの間は遠隔対応(インターホン対応は[[新八柱駅]]が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働している<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525173137/https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|title=JR千葉支社-7駅の遠隔操作=無人化導入と錦糸町駅の旅行業務委託を提案|archivedate=2019-05-25|date=2018-02-20|accessdate=2020-08-02|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|language=日本語}}</ref>。
武蔵野線の駅としては[[1990年代]]に開設された唯一の駅であり、[[吉川美南駅]]、[[越谷レイクタウン駅]]に次いで3番目に新しい駅である。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2" |[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線
|style="text-align:center"|上り
|[[新松戸駅|新松戸]]・[[南浦和駅|南浦和]]・[[府中本町駅|府中本町]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[南船橋駅|南船橋]]・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1708.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Higashi-Matsudo station east 20121122.jpg|東口(2012年11月)
JR Musashino-Line Higashi-Matsudo Station Gates.jpg|改札口(2019年9月)
JR Musashino-Line Higashi-Matsudo Station Platform.jpg|ホーム(2019年9月)
</gallery>
==== 駅構内設備 ====
* [[指定席券売機]]
* [[自動改札機]]
* [[シニアカー]]の利用可
* 点字運賃表
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''北総鉄道''' - 2020年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''15,448人'''である<ref group="利用客数" name="hokso-jyoukou">[https://www.keisei-agency.co.jp/transit_media/ebook/mobilesafari/body_ms.html KEISEI MEDIA GUIDE 2021 2020年度 1日平均乗降客数] - 京成エージェンシー</ref>。
*: 北総線内では[[京成高砂駅]]、[[千葉ニュータウン中央駅]]、[[新鎌ヶ谷駅]]に次ぐ第4位。
* '''京成電鉄''' - 2021年度の1日平均'''乗降'''人員は'''2,919人'''である<ref group="利用客数" name="keisei-jyoukou">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf 駅別乗降人員(一日平均)]}} - 京成電鉄</ref>。
*: 同社全線で第61位。北総鉄道の利用客数のうち、京成電鉄が運行する[[京成成田空港線#アクセス特急|アクセス特急]]を利用した客の人数で換算した値である。
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''19,217人'''である<ref group="利用客数" name="jreast-jyousha">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
*: [[武蔵野線]]内では26駅(貨物専用駅を除く)中、[[新八柱駅]]に次ぐ14位である。
各社とも乗車・乗降人員は[[乗換駅]]としては少ない人数である。その理由の一つとして、[[北総鉄道北総線]]経由の[[運賃]]が割高で、定期通勤経路として敬遠されやすいことが挙げられる([[北総鉄道#運賃問題]]も参照)。
また、両線とも[[都心]]方向に向かう際には当駅で乗換をしなくても到達できる上、両線とも本数が少なめで乗り継ぎが考慮されていない<ref group="注釈">同じ市内にあり、かつ都心に向かう[[常磐線]](2021年8月現在、日中の快速は[https://www.jreast-timetable.jp/2109/timetable/tt1441/1441020.html 7本]、各駅停車は[https://www.jreast-timetable.jp/2109/timetable/tt1441/1441040.html 6本])と比較しても半分程度である</ref>。京成の'''アクセス特急'''は当駅を通過する計画であったが、県や市、JR武蔵野線沿線自治体などの要望により停車することになった<ref>{{PDFlink|[http://www.city.matsudo.chiba.jp/var/rev0/0031/6811/060615.pdf 成田新高速鉄道一般特急の東松戸駅への停車を要望、2万8千人の署名が集まりました]}}広報まつど、No.1260、2006年6月15日、p.3</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.city.matsudo.chiba.jp/shisei/matsudo_kouhou/kouhou/kouhou2010.files/100115.pdf 成田新高速鉄道(成田スカイアクセス)一般特急の東松戸駅停車決定!]}}広報まつど、No.1359、2010年1月15日、p.2</ref>。
[[2000年代]]に入ってからは駅周辺[[マンション]]の入居が進み、定期通勤利用が増加したため、各社とも利用客数は増加傾向にある。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|-
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|北総開発鉄道<br />/ 北総鉄道
!colspan="2"|京成電鉄
|-
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|753
|
|rowspan="8" colspan="2" style="text-align:center;"|未<br />開<br />業
|-
|2000年(平成12年)
|10,120
|
|-
|2004年(平成16年)
|11,576
|
|-
|2006年(平成18年)
|12,659
|
|-
|2007年(平成19年)
|13,717
|8.4%
|-
|2008年(平成20年)
|15,053
|9.7%
|-
|2009年(平成21年)
|15,650
|4.0%
|-
|2010年(平成22年)
|16,479
|5.3%
|-
|2011年(平成23年)
|17,588
|6.7%
|2,676
|
|-
|2012年(平成24年)
|18,880
|7.3%
|3,138
|17.2%
|-
|2013年(平成25年)
|16,909
|−10.3%
|3,472
|10.6%
|-
|2014年(平成26年)
|17,009
|0.6%
|3,572
|2.9%
|-
|2015年(平成27年)
|17,648
|3.8%
|3,757
|5.2%
|-
|2016年(平成28年)
|18,118
|2.7%
|4,040
|7.5%
|-
|2017年(平成29年)
|18,539
|2.3%
|4,250
|5.2%
|-
|2018年(平成30年)
|19,082
|2.9%
|4,405
|3.6%
|-
|2019年(令和元年)
|19,274
|1.0%
|4,537
|3.0%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|15,448<ref>https://www.keisei-agency.co.jp/transit_media/top.html KEISEI MEDIA GUIDE、 2022京成広告料金表、P.8、2020年度1日平均乗降客数</ref>
|−19.9%
|2,456
|−45.9%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|
|2,919
|18.9%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
近年の1日平均'''乗車'''人員推移は以下の通りである。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|-
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref>
|-
!年度
!北総開発鉄道<br />/ 北総鉄道
!京成電鉄
!JR東日本
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|<ref group="備考">1991年3月31日開業。開業日の1日乗降人員を集計したデータ。</ref>1,019
|rowspan="20" style="text-align:center;"|未<br />開<br />業
|rowspan="7" style="text-align:center;"|未<br />開<br />業
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|355
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|456
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|545
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|576
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|655
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|666
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|812
|<ref group="備考">1998年3月14日開業。開業日から同年3月31日までを集計したデータ。</ref>3,904
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|4,163
|5,605
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|4,710
|7,108
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|5,070
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>7,808
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|5,269
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>8,581
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|5,496
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>9,146
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|5,607
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>9,533
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|5,807
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>9,841
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|5,931
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>10,170
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|6,332
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>11,049
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|6,845
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>11,959
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|7,500
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>13,248
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|7,802
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>13,781
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="備考">2012年度までは、北総線に係る総輸送人員(成田スカイアクセス線を含む)である。</ref>8,212
|<ref group="備考">2010年7月17日開業。開業日から翌年3月31日までを集計したデータ。</ref>1,216
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>14,513
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|8,767
|1,383
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>15,405
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|9,412
|1,617
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>16,687
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="備考">2013年度以降は、北総鉄道の旅客運輸収入に対応する人員(成田スカイアクセス線を除く)である。</ref>8,420
|1,785
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>17,691
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|-
|2014年(平成26年)
|8,472
|1,843
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|-
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|2018年(平成30年)
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|-
|2019年(令和元年)
|9,614
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|7,724
|1,251
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|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>19,217
|
|}
; 備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Belx Higashi-Matsudo.jpg|thumb|[[ベルクス]]東松戸店]]
[[ファイル:Higashi Matsudo Hospital 01.jpg|thumb|[[松戸市立福祉医療センター東松戸病院]]]]
駅勢圏は古くは住宅・農地などが混在する郊外地域であった。北総線開業後の開発の主体となった[[紙敷]][[土地区画整理事業]]は一時停滞したが、その後の再減歩と松戸市のてこ入れにより軌道に乗り、2012年2月24日に換地処分を完了するに至った。これにより駅を含む周辺の地名であった「[[紙敷]]」は、「東松戸(1丁目 - 4丁目)」に変更された。商店街などはいまだ形成されていないものの、駅前にスーパー・飲食店が徐々にできつつある。
{{columns-list|2|
* [[マルエツ]]東松戸駅店<ref>[http://www.maruetsu.co.jp/index.php/shop/detail/9434 マルエツ 東松戸駅店]</ref>
* [[ベルクス]]東松戸店<ref>[http://www.sunbelx.com/store/storeinfo/326.html ベクルス東松戸店]</ref>
* [[松戸市役所]] 東部支所<ref>[http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/organization/toubu-sisyo.html 松戸市公式ホームページ 東部支所]</ref>
* 松戸市立図書館 東部分館<ref>[http://www.library-matsudo.jp/bunkan/31toubu/index.html 松戸市立図書館 東部分館]</ref>
* 松戸市東部老人福祉センター<ref>[http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/shisetsu-guide/hukushi-sisetsu/roujinfukushi-c.html 松戸市公式ホームページ 老人福祉センター地図]</ref>
* 松戸市東部消防署
* 松戸市東部スポーツパーク<ref>[http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/shisetsu-guide/sports/toubu_sports.html 松戸市公式ホームページ 東部スポーツパーク]</ref>
* 松戸河原塚郵便局
* [[東京都立八柱霊園]]
* [[東松戸ゆいの花公園]]
* 紙敷さくら通り
* [[河原塚古墳]]
* [[千葉県立松戸南高等学校]]
* [[松戸市立松戸高等学校]]
* 松戸市立河原塚中学校
* 松戸市立東松戸小学校
* 高塚幼稚園
* [[高塚わかば幼稚園]]
* [[松戸新京成バス]] 本社営業所(紙敷車庫)
* 観光梨園
* [[松戸市立福祉医療センター東松戸病院]]
* 東松戸複合施設ひがまつテラス 1F[[松戸市立図書館]]東松戸地域館・2F東松戸支所・青少年プラザ
|}}
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[京成バス]]、[[松戸新京成バス]]が運行する路線バスが発着する。なお、各バスのりばは、2016年6月27日から変更された<ref>[http://www.keiseibus.co.jp/info/news_detail.php?num_c=1606171946115997&t_name=info_t 6/27~ 市川(営)ダイヤ改正のお知らせ]</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!1
|style="text-align:center;"|松戸新京成バス
|{{Unbulleted list|[[松戸新京成バス#八柱線|'''8B''']]:紙敷車庫|[[松戸新京成バス#高塚梨香台線|'''16B''']]:梨香台団地}}
|-
!2
|style="text-align:center;"|京成バス
|{{Unbulleted list|[[京成バス市川営業所#高塚線|'''本31''']]:[[本八幡駅]]|'''本34''':高塚|[[京成バス市川営業所#国分線|'''市45''']]:[[市川駅]]}}
|-
!3
|rowspan="2" style="text-align:center;"|松戸新京成バス
|'''8''':[[八柱駅]]
|-
!4
|[[松戸新京成バス#東松戸線|'''51'''・'''53''']]:[[松戸駅]]東口
|-
!5
|style="text-align:center;"|京成バス
|'''本37''':医療センター入口
|}
== その他 ==
* JRの駅開設には約3年の工期を費やした。これは駅建設場所が[[盛土]]構造であり、上下線を外側に建設した[[仮線]]へ移設した上で盛土を切除、その後新たに建設した[[高架橋]]へ再度線路を切り替え、その両側(仮線跡)にホームを建造するという煩雑な手順が採られたためである<ref name="jtb"/>。
* 町名地番の変更により駅所在地と周辺の地名が、[[2012年]](平成24年)[[2月25日]]から「[[紙敷]]」から「東松戸」に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.matsudo.chiba.jp/shisei/matsudo_kouhou/kouhou/kouhou2012.files/2013820115550.pdf |format=PDF|title=2月25日(土)から、紙敷の一部の町名地番が変わります|publisher=松戸市|work=広報まつど No.1417|page=2|date=2012-02-01|accessdate=2015-05-21}}</ref>。
== 隣の駅 ==
; 北総鉄道・京成電鉄
: [[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] 北総線・[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線(成田空港線)
:: {{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急・{{Color|#e8334a|■}}特急
::: [[京成高砂駅]] (KS10) - '''東松戸駅 (HS05)''' - [[新鎌ヶ谷駅]] (HS08)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[秋山駅]] (HS04) - '''東松戸駅 (HS05)''' - [[松飛台駅]] (HS06)
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線
:: [[市川大野駅]] (JM 12) - '''東松戸駅 (JM 13)''' - [[新八柱駅]] (JM 14)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
; JR・私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
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; JR・私鉄の統計データ
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; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|22em}}
== 参考文献 ==
* 『まつど議会だより』 松戸市議会発行 平成19年10月28日版
* {{Cite book|和書 |author=三好好三 |author2=垣本泰宏 |title=武蔵野線まるごと探見 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |date=2010-02-01 |ref=jtb}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Higashi-Matsudo Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[請願駅]]
* [[八柱村]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1708|name=東松戸}}
* [https://www.hokuso-railway.co.jp/railway/station/higashi_matsudo.html 北総鉄道 東松戸駅]
* [https://www.shinkeisei.co.jp/bus/top_bus_station/higashimatsudo_bus_station/ 松戸新京成バス 東松戸駅]
{{北総鉄道}}
{{京成成田空港線}}
{{武蔵野線・京葉線}}
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[[Category:松戸市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ひ|かしまつと]]
[[Category:北総鉄道の鉄道駅]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
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[[Category:1991年開業の鉄道駅]]
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10,290 |
方南町駅
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方南町駅(ほうなんちょうえき)は、東京都杉並区堀ノ内一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)丸ノ内線(分岐線)の駅で、分岐線の終着駅である。駅番号はMb 03。
東京メトロの駅では数少ない、他の地下鉄や鉄道路線と接続がない単独終端駅である。かつての営団時代は単独終端駅は多数あったが、路線自体の延長による途中駅化や他の路線の接続によって少なくなり、自社では現在では当駅のほか、千代田線の北綾瀬駅のみである。
頭端式ホーム1面2線を有する地下駅である。1番、3a・3b番出入口(西改札)は環七通り(東京都道318号環状七号線)と方南通り(東京都道14号新宿国立線)との交差地点にあり、2番出入口(東改札)は方南通り沿いの方南二丁目に位置する。
当駅のホームは、建設時から6両編成対応として計画されていたが、ホーム有効長は他の荻窪線(当時)の各駅が120 m(新中野駅のみ140 m)であるのに対し、当駅は110 mと短かった。このため過走余裕等の問題から、長らく当駅には最大で3両編成までの電車が乗り入れており、2004年に設置されたホームドアも3両分のみの設置となっていた(他は固定柵のみ設置)。
2012年度事業計画で、ホーム有効長を延伸し6両編成の停車を可能とすることなどが発表され、2013年11月初旬に駅改良工事の着手をした。ホーム延伸工事のため、2018年5月26日よりダイヤを改正し、2番線の使用を休止して1番線のみで運用、同年9月22日から翌年2019年1月25日までは、逆に1番線の使用を休止して2番線のみでの運用となっていた。ホーム延伸工事の完成により、当駅ホームは110 m長から26 m延伸した136 m長となり、合わせてホームドアも6両分設置し、当駅にも6両編成の乗り入れが可能となった。
トイレ・エレベーター・エスカレーターは西改札側にのみ設置されており、東改札側には設置されていない。元々狭い場所に建設された経緯があり、バリアフリー化は困難な状況だった。しかし、新たに土地を取得することでバリアフリー化工事に着手し、従来は地下部分に収容していた施設を、地下1階・地上3階建てのビルに収容した。2017年12月にこのビル内に設けたエレベーターとエスカレーターを備えた3a・3b番出入口の供用を開始した。バリアフリー化工事と合わせたホーム延伸改良工事は、約8年の歳月と約70億円の費用を要した。
2013年5月頃より、個人が市販の戦隊ヒーロー風のコスプレスーツとマスクを付け「ベビーカーおろすんジャー」と名乗り、不定期にエレベーターの無い駅階段でベビーカーや重い荷物を運ぶボランティア活動を行っている。この模様は日本での新聞などで取り上げられ、世界のメディアでも紹介された。2013年9月頃より、駅側が荷物運びを補助する警備員を配置している。
(出典:東京メトロ:構内図)
6両編成の列車の乗り入れ開始と同時に、スイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。
曲は1番線が「スペシャルゲスト」(塩塚博作曲)、2番線が「希望の電車」(福嶋尚哉作曲)である。
2022年度の1日平均乗降人員は34,927人であり、東京メトロ全130駅中93位。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。
1番出入口(西口)からは「方南町駅」停留所(方南通り・和泉4/堀の内1側)と「方南八幡通り」停留所(環七通り・和泉4/方南2側)が近く、2番出入口(東口)からは「峰」停留所(方南通り・方南2 / 南台5側)が近い。特記のないものはすべて京王バスの運行路線である。
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方南町駅(ほうなんちょうえき)は、東京都杉並区堀ノ内一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)丸ノ内線(分岐線)の駅で、分岐線の終着駅である。駅番号はMb 03。
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{{駅情報
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|文字色 =
|駅名 = 方南町駅
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|pxl = 300px
|画像説明 = 3a番出入口(2018年1月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}}
|よみがな = ほうなんちょう
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|次の駅 = [[中野富士見町駅|中野富士見町]] Mb 04
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|所属路線 = {{color|#f62e36|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]](分岐線)
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'''方南町駅'''(ほうなんちょうえき)は、[[東京都]][[杉並区]][[堀ノ内 (杉並区)|堀ノ内]]一丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]](分岐線)の[[鉄道駅|駅]]で、分岐線の[[終着駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''Mb 03'''<ref name="Numbering"/>。
== 歴史 ==
* [[1962年]]([[昭和]]37年)[[3月23日]]:[[中野富士見町駅]] - 当駅間延伸と同時に[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)荻窪線分岐線の駅として開業。
* [[1972年]](昭和47年)[[4月1日]]:荻窪線分岐線を丸ノ内線分岐線に改称。
* [[2004年]]([[平成]]16年)
** 4月1日:営団地下鉄民営化に伴い、当駅は東京メトロに継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
** [[5月8日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2004/2004-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512204047/http://www.tokyometro.jp/news/2004/2004-01.html|language=日本語|title=丸ノ内線4駅(中野坂上−方南町間)に「可動式ホーム柵」を設置 丸ノ内線中野新橋駅、中野富士見町駅に「可動ステップ」を設置|publisher=東京地下鉄|date=2004-04-14|accessdate=2020-05-02|archivedate=2012-05-12}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=米元和重(東京地下鉄鉄道本部運転部輸送課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=36|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)11月:訪日外国人旅行者の利便性向上のため、駅ナンバリングが発音上同一であった「方南町 (m-03)・新高円寺 (M-03)」について、自動放送による発音上の区別をつけるよう、当駅の路線記号を'''m'''(小文字のエム)から'''Mb'''(エムビー、'''M'''arunouchi '''b'''ranch line の頭文字)に変更<ref name="Numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20161104_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200308145340/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20161104_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=丸ノ内線 方南町〜中野新橋駅間の駅ナンバリングを訪日外国人旅行者の利便性向上のため、2016年11月から順次変更します|publisher=東京地下鉄|date=2016-11-04|accessdate=2020-03-08|archivedate=2020-03-08}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[12月9日]]:3a・3b番出入口、[[エレベーター]]の使用開始<ref name="Nikkei2019-7">{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO47220250R10C19A7000000|title=丸ノ内線みんな幸せに 方南町駅のホームどう変わった|date=2019-07-19|publisher=日経BP社|work=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-04-24|archivedate=2021-04-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210424084954/https://style.nikkei.com/article/DGXMZO47220250R10C19A7000000}}</ref><ref name="news20190703">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/amp/287818|title=丸ノ内線「方南町駅」、本線直通で何が変わるか 始発列車が増え、乗り換え駅での混雑緩和も|date=2019-07-03|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2020-06-30|archivedate=2019-11-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191105154449/https://toyokeizai.net/articles/amp/287818}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[5月26日]]:当駅のホーム延伸工事に伴うダイヤ改正により、2番線の使用を休止<ref name="construction-2018-04-27">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180427_3.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191129082425/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180427_3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=方南町駅ホーム延伸工事に伴い2018年5月26日(土)丸ノ内線でダイヤを改正します|publisher=東京地下鉄|date=2018-04-27|accessdate=2020-03-08|archivedate=2019-11-29}}</ref>。
** [[9月22日]]:2番線の使用を再開。1番線の使用を休止<ref name="construction-2018-04-27" />。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** [[1月26日]]:1番線の使用を再開<ref name="2018-12-12" />。ホーム延伸工事終了<ref name="2018-12-12">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20181212_122.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190810110050/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20181212_122.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年1月26日(土)丸ノ内線でダイヤを改正します 夕夜間時間帯の新宿〜荻窪駅間が便利になります|publisher=東京地下鉄|date=2018-12-12|accessdate=2020-03-08|archivedate=2019-08-10}}</ref>。
** [[7月5日]]:当駅のホーム6両化完成に伴い、6両編成での池袋駅 - 当駅間の直通運転開始<ref name="press20190606">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190606_3.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190616000910/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190606_3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年7月5日(金)丸ノ内線でダイヤを改正します|publisher=東京地下鉄|date=2019-06-06|accessdate=2020-03-08|archivedate=2019-06-16}}</ref><ref name="Nikkei2019-7" />。同時に[[発車メロディ]]を導入。
== 駅構造 ==
東京メトロの駅では数少ない、他の地下鉄や鉄道路線と接続がない[[単独終端駅]]である。かつての[[帝都高速度交通営団|営団]]時代は単独終端駅は多数あったが、路線自体の延長による途中駅化や他の路線の接続によって少なくなり、自社では現在では当駅のほか、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の[[北綾瀬駅]]のみである<ref group="注釈">両者とも支線の駅。</ref>。
[[頭端式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]である。1番、3a・3b番出入口(西改札)は環七通り([[東京都道318号環状七号線]])と方南通り([[東京都道14号新宿国立線]])との交差地点にあり、2番出入口(東改札)は方南通り沿いの[[方南]]二丁目に位置する。
当駅のホームは、建設時から6両編成対応として計画されていたが、ホーム有効長は他の荻窪線(当時)の各駅が120 [[メートル|m]]([[新中野駅]]のみ140 m)であるのに対し、当駅は110 mと短かった<ref name="Ogikubo-Const-4">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.4 - 5。</ref>。このため過走余裕等の問題から、長らく当駅には最大で3両編成までの電車が乗り入れており<ref name="Nikkei2019-7" />、[[2004年]]に設置されたホームドアも3両分のみの設置となっていた(他は固定柵のみ設置)。
2012年度事業計画で、ホーム有効長を延伸し6両編成の停車を可能とすることなどが発表され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h24_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210424092158/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h24_1.pdf|title=平成24年度 (第9期)事業計画|date=2012-03|page=3|archivedate=2021-04-24|accessdate=2021-04-24|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、[[2013年]]11月初旬に駅改良工事の着手をした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tomitataku.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/11/71e67b56c769b5f75a604a059642b9691.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210424092609/http://www.tomitataku.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/11/71e67b56c769b5f75a604a059642b9691.pdf|title=丸ノ内線方南町駅改良に伴う土木工事 工事説明会|date=2013-10-30|archivedate=2021-04-24|accessdate=2021-04-24|publisher=東京地下鉄/大林組|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。ホーム延伸工事のため、2018年5月26日よりダイヤを改正し、2番線の使用を休止して1番線のみで運用、同年9月22日から翌年2019年[[1月25日]]までは、逆に1番線の使用を休止して2番線のみでの運用となっていた<ref name="2018-12-12" />。ホーム延伸工事の完成により、当駅ホームは110 m長から26 m延伸した136 m長となり、合わせてホームドアも6両分設置し、当駅にも6両編成の乗り入れが可能となった<ref name="press20190606" /><ref name="Nikkei2019-7"/>。
[[便所|トイレ]]・[[エレベーター]]・[[エスカレーター]]は西改札側にのみ設置されており、東改札側には設置されていない。元々狭い場所に建設された経緯があり、バリアフリー化は困難な状況だった<ref name="Nikkei2019-7"/>。しかし、新たに土地を取得することでバリアフリー化工事に着手し、従来は地下部分に収容していた施設を、地下1階・地上3階建てのビルに収容した<ref name="Nikkei2019-7"/>。2017年12月にこのビル内に設けたエレベーターとエスカレーターを備えた3a・3b番出入口の供用を開始した<ref name="Nikkei2019-7" /><ref name="news20190703" />。[[バリアフリー]]化工事と合わせたホーム延伸改良工事は、約8年の歳月と約70億円の費用を要した<ref name="Nikkei2019-7"/>。
2013年5月頃より、個人が市販の[[スーパー戦隊シリーズ|戦隊ヒーロー]]風のコスプレスーツとマスクを付け「ベビーカーおろすんジャー」と名乗り、不定期にエレベーターの無い駅階段でベビーカーや重い荷物を運ぶボランティア活動を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2013/12/31/babycar_n_4524050.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210424091513/https://www.huffingtonpost.jp/2013/12/31/babycar_n_4524050.html|title=「2020年には、やたらベビーカーを運びたがる国に」 ベビーカーおろすんジャーに聞く「未来のつくりかた」|date=2013-12-31|archivedate=2021-04-23|accessdate=2021-05|website=[[ハフポスト|HUFFPOST]]|deadlinkdate=}}</ref><ref name="tokyo20131014" />。この模様は日本での新聞などで取り上げられ、世界のメディアでも紹介された<ref name="tokyo20131014">{{Cite news|url=http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013101490071310.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131017002012/http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013101490071310.html|title=思いやり広がるんジャー「助ける人増えた」バリアフリー化動く|newspaper=東京新聞|date=2013-10-14|accessdate=2021-04-24|archivedate=2013-10-14}}</ref>。2013年9月頃より、駅側が荷物運びを補助する警備員を配置している<ref name="tokyo20131014" />。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1・2
|[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi branch Line.svg|15px|Mb]] 丸ノ内線
|[[中野坂上駅|中野坂上]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/honancho/timetable/marunouchi/zb/index.html |title=方南町駅時刻表 中野坂上方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/honancho/index.html 東京メトロ:構内図])
* 夜間留置が設定されている。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Honancho-west-gate.jpg|西改札・ホーム(2019年8月)
Honancho-east-gate.jpg|東改札(2019年8月)
Honancho-platform-after-renewal.jpg|ホーム(2019年8月)
TokyoMetro-honancho-platform.jpg|リニューアル前の西改札・ホーム(2006年12月)
Marunouchisen Hounanchou eki 1.jpg|ホームドア設置前の西改札・ホーム(2001年8月)<!--過去版での画像投稿者の記述に基づく-->
Honancho Station platforms east end 20131116.JPG|リニューアル前のホーム(2013年11月)
Honancho-Station-Exit1-renewal.jpg|1番出入口(2018年9月)
Honancho-Sta-1.JPG|リニューアル前の1番出入口(2016年6月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
6両編成の列車の乗り入れ開始と同時に、[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の[[発車メロディ]](発車サイン音)が導入されている。
曲は1番線が「スペシャルゲスト」([[塩塚博]]作曲)、2番線が「希望の電車」([[福嶋尚哉]]作曲)である<ref group="注釈">いずれも、かつて[[茗荷谷駅]]で使用していた曲の流用である。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ丸ノ内線分岐線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/485|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2019-09-21|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''34,927人'''であり<ref group="メトロ" name="me2022" />、東京メトロ全130駅中93位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。
近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.suginami.tokyo.jp/kusei/toukei/toukei/index.html 杉並区統計書] - 杉並区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br/>乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|17,416
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|17,320
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|17,175
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|16,945
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|16,655
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|31,490
|16,281
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|31,178
|16,126
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|30,879
|15,923
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|31,157
|16,079
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|30,300
|15,844
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|30,681
|15,989
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|31,341
|16,233
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|31,281
|16,088
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|31,026
|15,956
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|31,055
|15,808
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|31,442
|15,975
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|31,418
|15,948
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|31,447
|15,948
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|30,946
|15,685
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|31,105
|15,808
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|31,360
|15,882
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|31,095
|15,742
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|32,060
|16,153
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|33,335
|16,153
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|33,904
|16,819
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|35,001
|17,587
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|36,335
|18,227
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|37,224
|18,652
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|38,064
|19,047
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|39,769
|19,891
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>30,412
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>32,003
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>34,927
|
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|}
== 駅周辺 ==
{{See also|和泉 (杉並区)|方南|堀ノ内 (杉並区)|和田 (杉並区)|弥生町 (中野区)|南台 (中野区)}}
<!--ATMのみの銀行無人店舗は記載しない-->
* 杉並区和泉保健センター
* 杉並区方南会館
* [[杉並区立図書館|杉並区立方南図書館]]
* [[佼成学園中学校・高等学校]]
* [[専修大学附属高等学校]]
* 杉並区立済美教育センター
** 杉並区立済美養護学校
* [[立正佼成会]]
** [[立正佼成会附属佼成病院]]
* 杉並方南二[[郵便局]]
* 杉並聖堂前郵便局
* 杉並堀ノ内郵便局
* [[河北総合病院#関連機関等|河北リハビリテーション病院]]
* [[みずほ銀行]] 方南町支店
* 方南銀座商店街
* [[方南通り]]([[東京都道14号新宿国立線]])
* 環七通り([[東京都道318号環状七号線]])
* [[善福寺川]]
* [[神田川 (東京都)|神田川]]
== バス路線 ==
1番出入口(西口)からは「方南町駅」停留所(方南通り・和泉4/堀の内1側)と「方南八幡通り」停留所(環七通り・和泉4/方南2側)が近く、2番出入口(東口)からは「'''峰'''」停留所(方南通り・方南2 / 南台5側)が近い。特記のないものはすべて[[京王電鉄バス#京王バス東|京王バス]]の運行路線である。
; 方南町駅
* [[京王バス東・永福町営業所#方南線|宿33系統]]:[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]行 / [[永福町駅|永福町]]行
* [[京王バス東・中野営業所#大宮線|中71系統]]:[[中野駅 (東京都)|中野駅]]行 / 永福町行
* [[京王バス中野営業所#中野新橋線|中85系統]] 峰経由 中野駅行 / 永福町行
* [[京王バス東・永福町営業所#聖堂線|永70系統]]:佼成会聖堂前行 / 永福町行
; 方南八幡通り
* [[都営バス杉並支所#渋66系統|渋66系統(都営)]]、[[京王バス東・中野営業所#阿佐ヶ谷線|(京王)]]:[[渋谷駅]]行 / [[阿佐ケ谷駅]]行 一部杉並車庫行きのバスも運行(都営)。
* [[都営バス杉並支所#宿91系統|宿91系統(都営)]]:新宿駅西口行 / [[新代田駅]]行
; 峰
* 宿33系統:[[新宿駅]]西口行 / [[永福|永福町]]行
* [[京王バス中野営業所#中野新橋線|中85経由]] [[中野駅 (東京都)|中野駅]]行 / 永福町行
== 隣の駅 ==
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi branch Line.svg|15px|Mb]] 丸ノ内線(分岐線)
:: '''方南町駅 (Mb 03)''' - [[中野富士見町駅]] (Mb 04)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_ogikubo.html/|date=1967-03-31|title=東京地下鉄道荻窪線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Ogikubo-Con}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Honancho Station}}
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyometro.jp/station/honancho/index.html 方南町駅/Mb03 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* [https://web.archive.org/web/20190809045402/https://www.imae.co.jp/works/item/1039-2017-02-21-11-17-24.html 東京メトロ 丸ノ内線方南町駅](入江三宅設計事務所・インターネットアーカイブ・2019年時点の版)
{{東京メトロ丸ノ内線}}
{{デフォルトソート:ほうなんちよう}}
[[Category:杉並区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ほ|うなんちよう]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1962年開業の鉄道駅]]
|
2003-06-22T03:22:33Z
|
2023-11-23T01:05:46Z
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"Template:東京メトロ丸ノ内線"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%8D%97%E7%94%BA%E9%A7%85
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10,292 |
光が丘駅
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光が丘駅(ひかりがおかえき)は、東京都練馬区光が丘二丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅である。同線の終着駅。駅番号はE 38。
当駅は光が丘団地のほぼ中心軸をなしており、駅の周辺には大規模な商業施設(光が丘IMA)がある。光が丘は練馬区の北端に位置しており、板橋区や埼玉県和光市との境界が近い。
駅前大通りの下を通っており、そこを西→南へ進むと地下車両基地の高松車庫に通ずる。
2016年の交通政策審議会答申第198号において、大江戸線(12号線)は当駅からさらに練馬区大泉学園町、埼玉県新座市、東京都清瀬市を経て埼玉県所沢市の東所沢駅への延伸が答申されている。このうち、大泉学園町までは導入空間となる都市計画道路の整備が進められている。
ホームは地上から11.9mの深さにあり、大江戸線内では一番浅い。都営地下鉄最西端に所在する駅である。東京都交通局の資料において、「深さ」とは駅中心位置の地表からホーム面までの距離を示す。
島式ホーム1面2線の地下駅である。
出入口は5か所あり、うち1か所ずつが光が丘IMAと練馬区役所光が丘出張所に併設されている。
当初、大江戸線は大型20m級車両による10両編成での運転が予定され、当駅は島式ホーム2面4線で計画されていたが、計画縮小により現在の形となった。
(出典:都営地下鉄:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は52,831人(乗車人員:26,478人、降車人員:26,353人)である。大江戸線の単独駅では勝どきに次いで利用者が多い。
開業以降の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。
2番のりば ※ 全て国際興業バス
3番のりば ※ 全て西武バス
4番のりば
2001年4月20日 - 2003年3月の間、西武バス・国際興業バス・京浜急行バスの3社で、光が丘駅 - 成増駅 - 高島平駅 - 羽田空港の空港リムジンバスを共同運行していたが、利用者僅少のため廃止となった。その後、2021年7月16日より東京空港交通が光が丘地区にあるホテルカデンツァ東京発着で羽田空港リムジンバスの運行を再開している。
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光が丘駅(ひかりがおかえき)は、東京都練馬区光が丘二丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅である。同線の終着駅。駅番号はE 38。
|
{{複数の問題
|ソートキー = 駅
|出典の明記 = 2015年1月
|独自研究 = 2015年1月
}}
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 光が丘駅
|画像 = Hikarigaoka-Station-A3.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = A3出入口(2010年3月)
|よみがな = ひかりがおか
|ローマ字 = Hikarigaoka
|副駅名 =
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}}
|前の駅 = E 37 [[練馬春日町駅|練馬春日町]]
|駅間A = 1.4
|駅間B =
|次の駅 =
|電報略号 = 光(駅名略称)
|駅番号 = {{駅番号r|E|38|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
|所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]
|キロ程 = 40.7
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|所在地 = [[東京都]][[練馬区]][[光が丘 (練馬区)|光が丘]]二丁目9-5
|緯度度 = 35 |緯度分 = 45 |緯度秒 = 30.6
|経度度 = 139 |経度分 = 37 |経度秒 = 44
|座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[12月10日]]<ref name="yomiuri-news-yearbook-1991">『読売ニュース総覧 1991年版』 [[読売新聞社]]、1992年4月。{{ISBN2|978-4643920338}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />52,831
|統計年度 = 2022年
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|備考 =[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
}}
'''光が丘駅'''(ひかりがおかえき)は、[[東京都]][[練馬区]][[光が丘 (練馬区)|光が丘]]二丁目にある、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]の[[鉄道駅|駅]]である。同線の[[終着駅]]。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''E 38'''。
== 概要 ==
当駅は[[光が丘団地]]のほぼ中心軸をなしており、駅の周辺には大規模な商業施設([[光が丘IMA]])がある。光が丘は練馬区の北端に位置しており、[[板橋区]]や[[埼玉県]][[和光市]]との境界が近い。
駅前大通りの下を通っており、そこを西→南へ進むと地下[[車両基地]]の[[木場車両検修場#高松車庫|高松車庫]]に通ずる。
[[2016年]]の[[交通政策審議会答申第198号]]において、大江戸線(12号線)は当駅からさらに練馬区[[大泉学園町]]、埼玉県[[新座市]]、東京都[[清瀬市]]を経て埼玉県[[所沢市]]の[[東所沢駅]]への延伸が答申されている。このうち、大泉学園町までは導入空間となる[[都市計画道路]]の整備が進められている。
ホームは地上から11.9mの深さにあり、大江戸線内では一番浅い<ref name="aramashi2020"/>。都営地下鉄最西端に所在する駅である。東京都交通局の資料において、「深さ」とは駅中心位置の地表からホーム面までの距離を示す<ref name="aramashi2020">{{Cite journal|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201109043025/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archivedate=2020-11-09|title=各駅の概要|date=2020-09|publisher=東京都交通局|journal=都営交通のあらまし2020|format=PDF|pages=12-13|accessdate=2021-01-01}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[12月10日]]:都営12号線の駅として開業<ref name="yomiuri-news-yearbook-1991" />。
* [[2000年]](平成12年)[[4月20日]]:都営12号線を大江戸線に改称。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[12月8日]]:[[ホームドア]]供用開始。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線の[[地下駅]]である。
出入口は5か所あり、うち1か所ずつが光が丘IMAと練馬区役所光が丘出張所に併設されている。
当初、大江戸線は大型20m級車両による10両編成での運転が予定され、当駅は島式ホーム2面4線で計画されていたが、計画縮小により現在の形となった<ref>{{cite book|和書 |title=今だから話せる都営地下鉄の秘密|author=篠原力|publisher=[[洋泉社]]|date=2011-10-06|isbn=9784862487698|pages=176-177}}</ref>。
<gallery widths="200">
Hikarigaoka Station exit A2 - 2022 Jan 8 - various.jpeg|A2出入口(2022年1月)
Hikarigaoka-Station-A5.jpg|A5出入口(2010年3月)
</gallery>
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E38AD.html |title=光が丘 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
|[[六本木駅|六本木]]・[[大門駅 (東京都)|大門]]方面
|-
! 2
|降車専用
|}
(出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/hikarigaoka.html 都営地下鉄:駅構内図])
* 折り返し電車は当駅の先にある2本の[[引き上げ線]]で折り返す。引き上げ線はさらに[[木場車両検修場#高松車庫|高松車庫]]への入出庫線(延長 625 m <ref name="TOEI-oedo183">東京都交通局『大江戸線放射部建設史』p.183・194。</ref>)へ続いている。<br />引き上げ線は分岐側となっており、本線は将来の大泉方面への延伸に備えた構造としている<ref>{{Cite book |和書 |title=大江戸線放射部建設史 |author=[[東京都交通局]] |date=2003-03 |page=43,187}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |title=大江戸線建設物語 |author=大江戸線建設物語編纂委員会 |publisher=成山堂書店 |date=2015-07-08 |page=258 |isbn=978-4-425-96231-0}}</ref>。このため、大泉方面に向かう下り線(B線)は、高松車庫への入出庫線を35‰の勾配でアンダーパスする部分まで構築されている<ref name="TOEI-oedo194">東京都交通局『大江戸線放射部建設史』p.52・194。</ref>(上り線(A線)はそこまで構築していない<ref name="TOEI-oedo194"/>)。
<gallery widths="200">
Hikarigaoka-STA Gate.jpg|改札口(2023年1月)
Hikarigaoka-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年1月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''52,831人'''([[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]:26,478人、[[乗降人員#降車人員|降車人員]]:26,353人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。大江戸線の単独駅では勝どきに次いで利用者が多い。
開業以降の1日平均'''乗降・乗車'''人員推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/tokei/tokeisho/ 練馬区統計書] - 練馬区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|7,982
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|9,019
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|10,027
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|11,025
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|11,303
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|11,540
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|13,501
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|19,545
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|20,689
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|44,731
|22,284
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|47,999
|23,977
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|50,070
|25,030
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|52,289
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|-
|2004年(平成16年)
|53,505
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|54,613
|27,231
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|56,189
|28,041
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|58,452
|29,252
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|58,467
|29,285
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|57,244
|28,706
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
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== 駅周辺 ==
[[画像:Hikarigaoka-Sta-Stationsquare.JPG|thumb|駅前広場(2016年6月)]]
*; 光が丘
** [[光が丘公園]]
** [[光が丘団地]]
** [[光が丘IMA]]
*** [[イオン (店舗ブランド)|イオン]]
*** [[リヴィン|LIVIN]]
**** [[リブロ]]
*** [[四谷学院]]光が丘駅前教室
** 練馬区役所光が丘出張所
** [[光が丘警察署|警視庁光が丘警察署]]
** [[光が丘郵便局]]([[集配局]]、[[風景印]]あり)
** 練馬区立光が丘図書館
** 光が丘清掃工場
** [[地域医療振興協会練馬光が丘病院|練馬光が丘病院]]
** [[練馬区立光が丘四季の香小学校]]
** [[練馬区立光が丘春の風小学校]]
** [[練馬区立光が丘夏の雲小学校]]
** [[練馬区立光が丘秋の陽小学校]]
** [[練馬区立光が丘第一中学校]]
** [[練馬区立光が丘第二中学校]]
** [[練馬区立光が丘第三中学校]]
** [[練馬区立光が丘第四中学校]]
** [[東京都立田柄高等学校]]
** [[東京都立光丘高等学校]]
** 光が丘東大通り
** 光が丘西大通り
** 夏の雲公園
* [[東京都道443号南田中町旭町線]]
* [[木場車両検修場]]高松車庫
== バス路線 ==
=== 光が丘駅 ===
;1番のりば
* 土支田循環:練馬光が丘病院、[[土支田]]八幡、土支田地蔵循環([[国際興業バス練馬営業所#光が丘駅 - 土支田循環線|国際興業バス]]・[[西武バス練馬営業所#土支田循環線|西武バス]][[共同運行]])
* 練馬区[[みどりバス]](保谷ルートを除き、国際興業バスが受託運行)
** [[みどりバス#北町ルート|北町ルート]]:光が丘公園、練馬第七出張所、[[国際興業バス練馬営業所|練馬北町車庫]]、[[北町 (練馬区)|北町]]一丁目経由 [[東武練馬駅]]入口循環
** 北町ルート:光が丘公園、練馬第七出張所、北町小学校経由 東武練馬駅入口循環(1日4本)
** 北町ルート:練馬光が丘病院行き
** [[みどりバス#氷川台ルート|氷川台ルート]]:[[練馬春日町駅]]東、練馬駅、[[氷川台駅]]、氷川台福祉園、東武練馬駅入口経由 練馬北町車庫循環
** 氷川台ルート:練馬光が丘病院経由、光が丘公園行き
** [[みどりバス#保谷ルート|保谷ルート]]:練馬光が丘病院行き
'''2番のりば''' ※ 全て[[国際興業バス]]
* [[国際興業バス練馬営業所#光が丘駅 - 平和台駅 - 池袋駅線|光01]]:光が丘七丁目、[[平和台駅 (東京都)|平和台駅]]経由 練馬北町車庫行き(朝のみ運転)
* [[国際興業バス練馬営業所#光が丘駅 - 平和台駅 - 池袋駅線|光02]]:光が丘七丁目、平和台駅、練馬北町車庫、[[ときわ台駅 (東京都)|ときわ台駅]]入口経由 [[池袋駅]]東口行き
* [[国際興業バス練馬営業所#光が丘駅 - 平和台駅 - 池袋駅線|光04]]:[[田柄]]五丁目、平和台駅、[[錦 (練馬区)|錦]]団地経由 練馬北町車庫行き(昼以降運転)
'''3番のりば''' ※ 全て[[西武バス]]
* [[西武バス練馬営業所#団地線|光31・練高01・練高02]]:旭町二丁目経由 [[成増駅]]南口行き
* 練高01:光が丘三丁目経由 [[練馬高野台駅]]行き
* 練高02・[[日本の深夜バス|深夜バス]]:光が丘三丁目、練馬高野台駅経由 [[西武バス練馬営業所|南田中車庫]]行き
* 練高03:光が丘七丁目、練馬高野台駅経由 南田中車庫行き
* 練馬区みどりバス[[みどりバス#保谷ルート|保谷ルート]]:長久保、都民農園、大泉第三小学校、西大泉五丁目経由 [[保谷駅]]北口行き(西武バスが受託運行、2022年10月にルート変更)
'''4番のりば'''
* 国際興業バス・西武バス(みどりバス含む)
** 降車専用。
[[2001年]]4月20日<ref>{{Cite news |title=光が丘 - 羽田空港間にバス |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-04-19 |page=1 }}</ref> - [[2003年]]3月の間、西武バス・国際興業バス・[[京浜急行バス]]の3社で、光が丘駅 - 成増駅 - [[高島平駅]] - [[東京国際空港|羽田空港]]の空港リムジンバスを共同運行していたが、利用者僅少のため廃止となった。その後、2021年7月16日より[[東京空港交通]]が光が丘地区にあるホテルカデンツァ東京発着で羽田空港リムジンバスの運行を再開している。
=== 光が丘IMA ===
{{See|光が丘IMA#光が丘IMA停留所を経由するバス路線}}
== 隣の駅 ==
; 東京都交通局(都営地下鉄)
: [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
:: [[練馬春日町駅]] (E 37) - '''光が丘駅 (E 38)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
;東京都交通局 各駅乗降人員
{{Reflist|group="都交"|3}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Hikarigaoka Station}}
* [[光が丘 (練馬区)]]
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/hikarigaoka.html 光が丘 | 東京都交通局]
{{都営地下鉄大江戸線}}
{{デフォルトソート:ひかりかおかえき}}
[[Category:練馬区の鉄道駅|ひかりかおか]]
[[Category:日本の鉄道駅 ひ|かりかおか]]
[[Category:都営地下鉄の鉄道駅|ひかりかおか]]
[[Category:1991年開業の鉄道駅|ひかりかおか]]
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ウルトラマンコスモス
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『ウルトラマンコスモス』(ULTRAMAN COSMOS)は、2001年7月7日から2002年9月28日まで、毎日放送テレビ(MBSテレビ)・TBS系列で毎週土曜日18:00 - 18:30ほかにて放映された、円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ作品、および作中に登場する巨大変身ヒーローの名称。全65話(初回放映時は60話)。キャッチコピーは「強さとやさしさを兼ねそなえたウルトラマン」。
メディアミックス戦略として、放送期間中と放送終了後に計3作の映画版も製作された。第1作は本編の前日譚に相当し、テレビ放送の開始直後に夏休み映画として公開された。第2作・第3作は本編最終話の後のストーリーである。
劇場版については、以下を参照。
ウルトラシリーズ35周年&初期のウルトラシリーズの監修を務めた円谷英二生誕100周年記念として製作されたウルトラシリーズの21世紀最初のテレビシリーズ。
当初は2001年10月に放映開始予定だったが、2001年7月7日が円谷英二生誕100周年に当たるということで3カ月繰り上げて放映開始された。2001年3月上旬に本編パート、半月後に特撮パートがクランクインした。
ウルトラマンコスモスは、テレビシリーズでは『ウルトラマン80』以来となる宇宙から来たウルトラマンであることが明言され、また、主役ウルトラマンとしては初となる基本形態が青いウルトラマンである。
怪獣と人間の共存を願いむやみに殺傷せず、その一方で邪悪な敵には敢然と立ち向かう新しいウルトラマン像の創造を目指した作品である。これまでのシリーズ作品とは異なり、作品中に登場する怪獣を「人間に害を及ぼす可能性はあるが、基本的にコミュニケーションおよび共存が可能である存在」と定義し、「倒すべき相手」ではなく「捕獲して保護地域に隔離することにより守られるべきもの」として描いている。そして主人公の青年・春野ムサシは、超常現象を調査したり怪獣を保護したりする組織「TEAM EYES(チーム アイズ)」に所属している。
ウルトラマンコスモスは、何らかの原因で暴れ出した怪獣と戦うが、殺傷せずに怪獣を無害化して保護する。怪獣が暴れる理由については、怪獣を偏見の目で見たり、頭ごなしに敵視する人間側のいたずらな攻撃や、怪獣に取り憑いて凶暴化させるカオスヘッダーという敵役が設定された。また、当時人気を博していたポケットモンスターシリーズの影響も指摘される。プロデューサーの渋谷浩康は、高い年齢層に設定していた平成ウルトラシリーズ映画作品での動員の主流が予想よりも低年齢であったことを踏まえ、子供の目線を意識した慈愛のウルトラマンを設定したとしている。怪獣をむやみに倒さない優しいウルトラマンは、怪獣を倒すカタルシスがないと批判するウルトラシリーズのファンも存在した一方で、作品の主な視聴者である未就学児童とその親に概ね歓迎された。
毎日放送は『ウルトラマンティガ』から本作品まで、シリーズをTBS系列土曜18時枠で放送してきたが、同枠は後番組『機動戦士ガンダムSEED』以降完全アニメ枠となる。またこの作品を最後に次作『ウルトラマンネクサス』からは制作局を毎日放送から中部日本放送に移し、それに伴い、TBS系列でのウルトラシリーズの放送枠は以降、流動的に変化する。
ドラマとしてのウルトラシリーズ中、最長の5クール・全65話が制作される。制作費は「平成ウルトラマン」の30%ほど縮小したため、本作品はドラマパートがビデオ撮影に変更されたが、特撮パートは従来通りの16mmフィルム撮影で行われた。次作の『ウルトラマンネクサス』以降は、特撮パートもビデオ撮影に移行したため、実質的には本作品がテレビシリーズとしては最後のフィルム作品となった。『ウルトラマンティガ』・『ウルトラマンダイナ』・『ウルトラマンガイア』の3作は予算オーバーや過密スケジュールが続いたことから、本作品以降は予算やスケジュールを厳密に管理しながらの制作となった。そのため中盤から終盤では同じ舞台セットの連続使用が続いた。
本作品の音楽は『ウルトラセブン』、『帰ってきたウルトラマン』、『ウルトラマンA』、『ウルトラマンレオ』、『ザ☆ウルトラマン』、『ウルトラマン80』、『ウルトラマンネオス』で劇伴音楽を担当した冬木透が担当した。
脚本を務めた武上純希によると旧作の怪獣を再登場させる案があり、新たなテレビシリーズであることから旧作のイメージを活かしたニュースタンダードが目指され、結局は劇場版にバルタン星人が登場しただけに留まっている。ただし、ピグモンのオマージュであるミーニンなど、過去に登場した怪獣をオマージュした怪獣は、本編中に何体か登場している。この案が本格的に導入されるのは、次々作『ウルトラマンマックス』以降の作品からとなる。
本作品終了直後にバンダイ(バンダイナムコグループを含む)の村上克司が定年退職しており、アニメ特撮作品を含み村上のバンダイナムコグループ在籍時最後の映像コンテンツ作品である。
ウルトラマンコスモスが初めて地球に来訪し、春野ムサシと出会ってから8年後の西暦2009年。怪獣たちは保護区域に隔離され、人類と共存している。
ある日、宇宙から光る物体が飛来し、保護区域にいた怪獣リドリアスに憑依。リドリアスは禍々しい姿に変貌し、暴れだした。SRC宇宙開発センターのパイロット候補生となっていたムサシはリドリアスを助けようとして窮地に陥るが、ウルトラマンコスモスに助けられた。
リドリアスを救ったムサシはコスモスと一心同体となり、その勇敢な行為からムサシはSRCの特捜部隊・TEAM EYESに入隊。彼らは怪獣たちを保護しながら、「カオスヘッダー」と名付けられた敵と対峙していく。
TEAM EYES全員の隊員の名前の最初には、すべて自然を現す漢字が当てられている。ムサシを除いたメンバーは、劇場版第2作まで全員TEAM EYESに所属していたが、劇場版第3作の時点では隊長に昇進したフブキを除いてEYESから離れている。
木本研作については、ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACTを参照。
ショージについては、ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACTを参照。
「奇跡の光」とも呼ばれる宇宙からやって来た神秘の巨人。争いを好まず、相手を傷つけずに友好関係を築くことを望んでいるが、凶悪で卑劣な者に対しては果敢に立ち向かう戦士である。『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』でバルタン星人を追って地球に飛来し、ムサシと知り合う。
事件解決後、宇宙に帰るが、カオスヘッダーが地球に出現した際に再び地球に現れ、ムサシと一体化する。
著しく活動エネルギーを消耗すると、全身が半透明状態となる。絶体絶命の危機に瀕した際には一体化しているムサシを強制的に分離することもあり、本編の中盤と終盤と映画『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!』において三回自身が倒される直前にムサシを分離している。
いくつかのモードを使い分けるが、テレビシリーズでは怪獣の沈静化を目的とするルナモード、邪悪な敵を倒すコロナモード、ルナとコロナの両方を併せ持つエクリプスモードが主に登場する。
コスモスのモードチェンジは『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』で見られたタイプチェンジにあたるが、コスモスの場合、戦略・状況のために行われた過去のタイプチェンジとは異なり、モードチェンジによって戦闘目的そのものが変わる。
また、コロナモードやエクリプスモードにモードチェンジすると掛け声が野太く力強いものに変わるのも特徴である。
コスモスのデザインはモードチェンジによって(ルナ・コロナ・エクリプスでは)頭部デザインまで変わる。
基本形態のルナモードには頭部に手が加えられておらず、一見トサカにあたる部位がやや長大であること以外は初代ウルトラマンと同様に見えるが体色は青・銀のカラーリングであり、その点が特殊である。コロナモードは平成3部作のウルトラマン同様に頭部を削減したもので、体色はメインが赤・銀でアクセントとして青が入っており、模様は左右非対称である。エクリプスモードも頭部が変化し、体色は赤・青・金・銀の非常に派手なカラーリングになっている。
また、エクリプスモードはカラータイマーの外部が金色に変化している。
主人公ウルトラマンとしては初めて基本形態のカラーリングが青であった。
『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』で、コスモスが11歳のころのムサシに授けた真の勇者にのみ託されるといわれる青い小さな石で、地球に無い鉱物が含まれている。19歳からのムサシはこれをペンダントとして身に着けている。
輝石を持つムサシがコスモスの力を心から必要としている時にコスモスを出現させたり、他者の手に渡って見世物にされそうになると消え去ったり、ムサシの手で振り回して風を切らせることでリドリアスを落ち着かせる音を発するなど、不思議な力を数多く持っている。
テレビシリーズの第1話でムサシとコスモスが一体化した後に、第2話で輝石がスティック状の変身アイテム・コスモプラックに変化した。コスモプラックは変身機能だけでなく、ムサシが自身の中に宿っているコスモスと対話する際の媒体としての力も備えている。これが無いとムサシはコスモスに変身できず、ベリル星人やコイシス星人ジュネに一時的に奪われたこともある。
ムサシとコスモスが分離してしまうとコスモプラックは輝石に戻ってしまう。
第29話のカオスヘッダー・メビュートの戦いに敗れた時や第64話のラストでコスモスがムサシと分離した際に輝石へ戻ってしまい、後者以降は輝石がコスモプラックに変化することはなかったが、『ウルトラマンサーガ』以降の作品ではコスモプラックが再登場した。
ムサシが変身するときは、右手に持ったコスモプラックを空に翳してほとんどの場合は「コスモース!」と叫ぶ。
すると、花の蕾が花開くようにコスモプラックの先端が3方向に開いて内部にある輝石が埋まった細い棒状のパーツが伸張し、輝石から放射された青と金色の閃光がムサシを包み込んで変身する。
このオーソドックスなパターンが最も多かったが、変身の直前に紫色や金色の光がムサシの両手の中に現れたこともあった。
しかし、ムサシとコスモスの両者の意志が合致していないと変身はできず、ムサシが安易にコスモスの力に頼ろうとした第3話や、イフェメラの事情にコスモスが誰よりも早く気が付いていた第12話などではすぐに変身できなかった。つまりムサシがコスモプラックを使用すればいつでも変身できるわけではない。また、コスモス自身がムサシに変身を促すこともあった。
第40話では宇宙のような空間での変身も披露した。
さらにコスモスと分離していた第30話や最終回、 『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』や 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』の劇場版2作品では、輝石を使用して、コスモスと一体化変身を敢行している。
変身直後の青と銀を基調としたコスモスの基本形態。ウルトラマンの「優しさ」「慈愛」を体現する「月の優しき光のごとき、慈愛の巨人」のモード。防御力・持久力に優れ、太極拳のような体術を見せる。相手を攻撃することなく、敵の力を受け流し、拳を握らず平手で怪獣と対峙するのが特徴。
『ウルトラマンサーガ』ではハイパーゼットンと対峙した際もルナモードを使用。この理由は画コンテ集で明らかになった内容として、ハイパーゼットンはカオスヘッダー0を吸収していて、ウルトラマンコスモスはカオスヘッダー0の救出のために参戦するという内容だった名残である。
『ウルトラゼロファイト』では、ウルトラマンダイナ・ミラクルタイプの力と共にルナミラクルとしてウルトラマンゼロに与えられた。
宇宙の秩序を乱す邪悪な敵やロボットのような意思と自我のない敵と対峙する際にルナモードからタイプチェンジする。ウルトラマンの「力」「強さ」を体現した「太陽の燃ゆる炎のごとき、戦いの赤き巨人」の超戦闘モード。
パンチやキック、チョップなどを用いた格闘戦に秀でており、強大な戦闘力を発揮するが、激しくエネルギーを消耗するため、長時間の活動は不可能。
『ウルトラゼロファイト』にてルナモードと同じく、コロナモードの力もウルトラマンダイナ・ストロングタイプの力と共にストロングコロナとしてウルトラマンゼロに与えられた。
『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!』では、映像上の描写はなかったがエクリプスモードからモードチェンジした。
カオスヘッダー・メビュートに敗れ光を失ったコスモスが、ムサシの「勇気」と金環日食の光の中で再度ムサシと一体化することによって復活した、ルナとコロナの両方の力を併せ持つスタイル。ルナの「優しさ」とコロナの「強さ」にムサシの「勇気」を体現した「太陽と月が重なる金環日食の溢れるフレアのごとき、神秘の巨人」のモード。同時に邪悪の撃破と怪獣の浄化を行うことが可能。光線技なども多彩である。
ルナモードからコロナモードを経てチェンジしなければならないため、活動時間は最大約1分が限界となる。また、ムサシと一体化していない状態では変身していない。
第30話で初登場し、後半戦で多く登場した。
劇場版第2作ではこのモードに直接変身し、劇場版第3作ではスペースコロナモードからチェンジした。エクリプスとは日食の意。
カオスダークネスとの最終決戦で力が残り少なくなりピンチになったコスモスに、優しさ、強さ、勇気を知り、「カオスヘッダーを救いたい」と想うムサシが「真の勇者」となって輝石の力で一体化して変身した「本当の愛の巨人」で、奇跡の輝くルナモード。
その光が消えた時、コスモスは力を取り戻した。最終話のみ登場。
SRC は Scientific Research Circle (科学調査サークル)の略で、国家間の壁を越え、怪獣や異星人との諸問題を平和的に解決し、調査・研究および救援・保護を行う機関である。『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』の時は私設ボランティア団体にすぎなかったが、呑龍出現事件とバルタン星人襲撃事件の後に国連の承認を受け、MITIのスポンサードによって国際的科学調査組織として組織の拡大・再編成が行われた。
北アメリカ、アラスカ、南アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、北アジア、南アジア、オーストラリア、南太平洋に各支部を置き、宇宙開発センターや、鏑矢諸島の怪獣保護管理センターなどの様々な各分野における最先端の関連機関が各地域に設けられている。
日本領海内の太平洋上に浮かぶSRCの本部基地である人工島。元々この島は、MITI(水無月工業技術研究所)の実験・研究施設だったが、組織改革によりSRCの科学力を結集してリニューアルされ、約300人の隊員・職員が勤務するSRCの本部となった。
島の景観は一見、大自然の緑豊かな島のように見えるが、中心部に位置する灯台状のコントロールタワーにはTEAM EYESの司令室やレーダー、電波望遠鏡やMITIの実験場が設置されている。他にも、レストランにカフェ、娯楽施設、医療施設、武道場などの設備や、科学分析、情報処理、輸送支援、基地整備、医務管理、メカ開発などの様々なセクションがベース内に点在する。
また、島の地下には隊員たちの私室などの居住区やコアモジュール格納庫、ライドメカの整備工場、各メカの発進口に繋がるカタパルトも完備されていて、このカタパルトは各メカの出撃時に、コアモジュールに前・後部パーツを装着させる作業も兼ねている。島の正面にテックサンダー用の4つの発進口が、海底にシーダイバー用の発進口と日本の首都圏と繋がる海底トンネル『シークレット・ロード』がそれぞれ設けられ、シリーズ中盤以降にはテックブースター用の発進カタパルトが島の中央部に、テックスピナー用の滑走路がテックサンダー用の発進口の両脇にそれぞれ増設された。
一般人向けの見学ツアーも定期的に開かれており、EYESの隊員が1名ずつ交代でガイドを行う。
設定によると、MITIの研究施設だったころにはここでコアテックシステムの最終フライトテストが行われたという。
第13話では、ワロガに送り込まれたレニのバイオチップによって基地機能が一時的にダウンしてしまったり、第19話ではミゲロン星人・レダに司令室を占拠されたこともあった。また、カオスヘッダーに二度襲撃されたこともあり、二度目は基地全体を覆われてしまい、基地内部が酸素不足に陥った。
新生TEAM EYESもこの基地を拠点として活動しているが、司令室のレイアウトは一新されて室内のカラーがブルーからグリーンとなり、大型モニターなどが備わるようになった。
EYESはElite Young Expert Squadronの略で、トレジャーベースにのみ配属されているSRCの実働部隊となる特捜チーム。あくまでも人道的、かつ平和的な事件解決策を模索し、怪獣や異星人のすべてを絶対悪と決めつけず、互いに友好的なコンタクトをはかり、保護を第一に優先することを活動理念とするが、やむを得ない場合は武器の使用も認められている。
出撃態勢は「コンディションレベル・イエロー」(怪獣保護などの態勢)「オレンジ」(保護と攻撃の両面を考えた中間態勢)「レッド」(攻撃態勢)の3つに分けられる。
怪獣目撃情報や隊員日記などが掲載されている、TEAM-EYES Networkという公式ホームページもインターネット上に存在する。
日本国内を外敵から守る防衛組織。略称はJADF。人類に害をなすものは全て排除しようとするため、TEAM EYESとはたびたび対立しているが、互いに協力する時もある。都内某所に広大な駐屯地を有する。
防衛軍の施設は、劇中のセリフの中でしか出てこないものも少なくない。
カッコ内の数字は登場話数。
※参考文献:『テレビマガジン特別編集ウルトラマンコスモス』(講談社・2003年)
歌詞字幕:あり
毎日放送制作土曜夕方6時枠のアニメ作品において、オープニング・エンディングを同一歌手が歌った作品は本作品が最後となっている。また、土6枠作品でOP・EDにおける歌詞字幕表示およびオープニング曲の放送期間が1年を超えたものは本作品が最後である。
本作品で初めてProject DMMがテレビシリーズの主題歌を担当した。以降は『ウルトラマンマックス』、『ウルトラマンメビウス』も担当する。
放送開始日の7月7日は円谷英二の誕生日であり、2001年は生誕100周年の年でもあった。
2002年6月8日の第49話放送後、主演の杉浦氏が本作品放映開始前の2000年に起こった傷害・恐喝事件の被疑者として逮捕された。そのため、結末を放送しないまま番組がいったん打ち切られ、第59・60話と第63 - 65話を再編集した総集編が「特別総集編 前・後編(「コスモス最大の危機」と「コスモス最後の戦い」)」の形で2002年6月22日と6月29日に放送された。
その後、傷害については被害者が「事件の一部を虚偽と認める陳述書」を提出したため不起訴処分に、恐喝についても起訴猶予処分となり、事態は法的に決着した。これを受けて、同年7月20日より放送は再開された。ただし、放送期間があらかじめ定められていたため、撮影自体は終了していた5回分(第50・52・54・56・58話)を間引いての放送だった。放送休止期間中には、アニメ映画『ウルトラマンM78劇場 Love & Peace』、上記の特別総集編、オリジナルビデオ作品『ウルトラマンネオス』が放送された。毎日放送プロデューサーの丸谷嘉彦は、特別総集編1を放送した段階で放送再開の可能性が出てきたため、特別総集編2の時点ではテレビ欄の「終」マークを意図的につけなかったと証言している。
未放映となった5本は2003年3月28日にビデオとDVDとしてリリースされた『ウルトラマンコスモス スペシャルセレクション』(全2巻)に前述の「特別総集編 前・後編」とともに収録され、1巻には3本と「特別総集編 前編」、2巻には2本と「特別総集編 後編」と新編集の特別企画「ムサシの青春」(構成・演出:秋廣秦生)が収録された。また、TBSチャンネルによるCS放送では、未放映話を含む全話を話数順に放映した。第50話は2015年に『新ウルトラマン列伝』第84話で、関東地区では初めて地上波で放送された。
※『ウルトラマンネオス』は『ウルトラマンコスモス』の代替番組として全12話の予定で放送を開始。しかし『ウルトラマンコスモス』の放送再開が決定され、一部の地域を除いて2話で放送中止となった。
以上の代替放送については、17:00および17:30からの時差ネット地域でもキー局と同日の放送。従って、キー局より先行して放送された。また、時差ネット地域ではキー局における休止前の最後の回(第49話)が放送再開後最初の回となったため、第49話とキー局再開初回(第51話。なお第50話は本放送では未放送)では、同時ネット地域と時差ネット地域の間でオープニングと次回予告に違いが生じていた。
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"text": "『ウルトラマンコスモス』(ULTRAMAN COSMOS)は、2001年7月7日から2002年9月28日まで、毎日放送テレビ(MBSテレビ)・TBS系列で毎週土曜日18:00 - 18:30ほかにて放映された、円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ作品、および作中に登場する巨大変身ヒーローの名称。全65話(初回放映時は60話)。キャッチコピーは「強さとやさしさを兼ねそなえたウルトラマン」。",
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"text": "メディアミックス戦略として、放送期間中と放送終了後に計3作の映画版も製作された。第1作は本編の前日譚に相当し、テレビ放送の開始直後に夏休み映画として公開された。第2作・第3作は本編最終話の後のストーリーである。",
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"text": "劇場版については、以下を参照。",
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"text": "ウルトラシリーズ35周年&初期のウルトラシリーズの監修を務めた円谷英二生誕100周年記念として製作されたウルトラシリーズの21世紀最初のテレビシリーズ。",
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"text": "当初は2001年10月に放映開始予定だったが、2001年7月7日が円谷英二生誕100周年に当たるということで3カ月繰り上げて放映開始された。2001年3月上旬に本編パート、半月後に特撮パートがクランクインした。",
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"text": "ウルトラマンコスモスは、テレビシリーズでは『ウルトラマン80』以来となる宇宙から来たウルトラマンであることが明言され、また、主役ウルトラマンとしては初となる基本形態が青いウルトラマンである。",
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"text": "怪獣と人間の共存を願いむやみに殺傷せず、その一方で邪悪な敵には敢然と立ち向かう新しいウルトラマン像の創造を目指した作品である。これまでのシリーズ作品とは異なり、作品中に登場する怪獣を「人間に害を及ぼす可能性はあるが、基本的にコミュニケーションおよび共存が可能である存在」と定義し、「倒すべき相手」ではなく「捕獲して保護地域に隔離することにより守られるべきもの」として描いている。そして主人公の青年・春野ムサシは、超常現象を調査したり怪獣を保護したりする組織「TEAM EYES(チーム アイズ)」に所属している。",
"title": "概要"
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"text": "ウルトラマンコスモスは、何らかの原因で暴れ出した怪獣と戦うが、殺傷せずに怪獣を無害化して保護する。怪獣が暴れる理由については、怪獣を偏見の目で見たり、頭ごなしに敵視する人間側のいたずらな攻撃や、怪獣に取り憑いて凶暴化させるカオスヘッダーという敵役が設定された。また、当時人気を博していたポケットモンスターシリーズの影響も指摘される。プロデューサーの渋谷浩康は、高い年齢層に設定していた平成ウルトラシリーズ映画作品での動員の主流が予想よりも低年齢であったことを踏まえ、子供の目線を意識した慈愛のウルトラマンを設定したとしている。怪獣をむやみに倒さない優しいウルトラマンは、怪獣を倒すカタルシスがないと批判するウルトラシリーズのファンも存在した一方で、作品の主な視聴者である未就学児童とその親に概ね歓迎された。",
"title": "概要"
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"text": "毎日放送は『ウルトラマンティガ』から本作品まで、シリーズをTBS系列土曜18時枠で放送してきたが、同枠は後番組『機動戦士ガンダムSEED』以降完全アニメ枠となる。またこの作品を最後に次作『ウルトラマンネクサス』からは制作局を毎日放送から中部日本放送に移し、それに伴い、TBS系列でのウルトラシリーズの放送枠は以降、流動的に変化する。",
"title": "概要"
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"text": "ドラマとしてのウルトラシリーズ中、最長の5クール・全65話が制作される。制作費は「平成ウルトラマン」の30%ほど縮小したため、本作品はドラマパートがビデオ撮影に変更されたが、特撮パートは従来通りの16mmフィルム撮影で行われた。次作の『ウルトラマンネクサス』以降は、特撮パートもビデオ撮影に移行したため、実質的には本作品がテレビシリーズとしては最後のフィルム作品となった。『ウルトラマンティガ』・『ウルトラマンダイナ』・『ウルトラマンガイア』の3作は予算オーバーや過密スケジュールが続いたことから、本作品以降は予算やスケジュールを厳密に管理しながらの制作となった。そのため中盤から終盤では同じ舞台セットの連続使用が続いた。",
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"text": "本作品の音楽は『ウルトラセブン』、『帰ってきたウルトラマン』、『ウルトラマンA』、『ウルトラマンレオ』、『ザ☆ウルトラマン』、『ウルトラマン80』、『ウルトラマンネオス』で劇伴音楽を担当した冬木透が担当した。",
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"text": "脚本を務めた武上純希によると旧作の怪獣を再登場させる案があり、新たなテレビシリーズであることから旧作のイメージを活かしたニュースタンダードが目指され、結局は劇場版にバルタン星人が登場しただけに留まっている。ただし、ピグモンのオマージュであるミーニンなど、過去に登場した怪獣をオマージュした怪獣は、本編中に何体か登場している。この案が本格的に導入されるのは、次々作『ウルトラマンマックス』以降の作品からとなる。",
"title": "概要"
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"text": "本作品終了直後にバンダイ(バンダイナムコグループを含む)の村上克司が定年退職しており、アニメ特撮作品を含み村上のバンダイナムコグループ在籍時最後の映像コンテンツ作品である。",
"title": "概要"
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"text": "ウルトラマンコスモスが初めて地球に来訪し、春野ムサシと出会ってから8年後の西暦2009年。怪獣たちは保護区域に隔離され、人類と共存している。",
"title": "ストーリー"
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"text": "ある日、宇宙から光る物体が飛来し、保護区域にいた怪獣リドリアスに憑依。リドリアスは禍々しい姿に変貌し、暴れだした。SRC宇宙開発センターのパイロット候補生となっていたムサシはリドリアスを助けようとして窮地に陥るが、ウルトラマンコスモスに助けられた。",
"title": "ストーリー"
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"text": "リドリアスを救ったムサシはコスモスと一心同体となり、その勇敢な行為からムサシはSRCの特捜部隊・TEAM EYESに入隊。彼らは怪獣たちを保護しながら、「カオスヘッダー」と名付けられた敵と対峙していく。",
"title": "ストーリー"
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"text": "TEAM EYES全員の隊員の名前の最初には、すべて自然を現す漢字が当てられている。ムサシを除いたメンバーは、劇場版第2作まで全員TEAM EYESに所属していたが、劇場版第3作の時点では隊長に昇進したフブキを除いてEYESから離れている。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "木本研作については、ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACTを参照。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "ショージについては、ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACTを参照。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "「奇跡の光」とも呼ばれる宇宙からやって来た神秘の巨人。争いを好まず、相手を傷つけずに友好関係を築くことを望んでいるが、凶悪で卑劣な者に対しては果敢に立ち向かう戦士である。『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』でバルタン星人を追って地球に飛来し、ムサシと知り合う。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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{
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"text": "事件解決後、宇宙に帰るが、カオスヘッダーが地球に出現した際に再び地球に現れ、ムサシと一体化する。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
},
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"text": "著しく活動エネルギーを消耗すると、全身が半透明状態となる。絶体絶命の危機に瀕した際には一体化しているムサシを強制的に分離することもあり、本編の中盤と終盤と映画『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!』において三回自身が倒される直前にムサシを分離している。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"text": "いくつかのモードを使い分けるが、テレビシリーズでは怪獣の沈静化を目的とするルナモード、邪悪な敵を倒すコロナモード、ルナとコロナの両方を併せ持つエクリプスモードが主に登場する。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
},
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"text": "コスモスのモードチェンジは『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』で見られたタイプチェンジにあたるが、コスモスの場合、戦略・状況のために行われた過去のタイプチェンジとは異なり、モードチェンジによって戦闘目的そのものが変わる。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"text": "また、コロナモードやエクリプスモードにモードチェンジすると掛け声が野太く力強いものに変わるのも特徴である。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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{
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"text": "コスモスのデザインはモードチェンジによって(ルナ・コロナ・エクリプスでは)頭部デザインまで変わる。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "基本形態のルナモードには頭部に手が加えられておらず、一見トサカにあたる部位がやや長大であること以外は初代ウルトラマンと同様に見えるが体色は青・銀のカラーリングであり、その点が特殊である。コロナモードは平成3部作のウルトラマン同様に頭部を削減したもので、体色はメインが赤・銀でアクセントとして青が入っており、模様は左右非対称である。エクリプスモードも頭部が変化し、体色は赤・青・金・銀の非常に派手なカラーリングになっている。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
},
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"text": "また、エクリプスモードはカラータイマーの外部が金色に変化している。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "主人公ウルトラマンとしては初めて基本形態のカラーリングが青であった。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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{
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"text": "『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』で、コスモスが11歳のころのムサシに授けた真の勇者にのみ託されるといわれる青い小さな石で、地球に無い鉱物が含まれている。19歳からのムサシはこれをペンダントとして身に着けている。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "輝石を持つムサシがコスモスの力を心から必要としている時にコスモスを出現させたり、他者の手に渡って見世物にされそうになると消え去ったり、ムサシの手で振り回して風を切らせることでリドリアスを落ち着かせる音を発するなど、不思議な力を数多く持っている。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "テレビシリーズの第1話でムサシとコスモスが一体化した後に、第2話で輝石がスティック状の変身アイテム・コスモプラックに変化した。コスモプラックは変身機能だけでなく、ムサシが自身の中に宿っているコスモスと対話する際の媒体としての力も備えている。これが無いとムサシはコスモスに変身できず、ベリル星人やコイシス星人ジュネに一時的に奪われたこともある。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"text": "ムサシとコスモスが分離してしまうとコスモプラックは輝石に戻ってしまう。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "第29話のカオスヘッダー・メビュートの戦いに敗れた時や第64話のラストでコスモスがムサシと分離した際に輝石へ戻ってしまい、後者以降は輝石がコスモプラックに変化することはなかったが、『ウルトラマンサーガ』以降の作品ではコスモプラックが再登場した。",
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"text": "ムサシが変身するときは、右手に持ったコスモプラックを空に翳してほとんどの場合は「コスモース!」と叫ぶ。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "すると、花の蕾が花開くようにコスモプラックの先端が3方向に開いて内部にある輝石が埋まった細い棒状のパーツが伸張し、輝石から放射された青と金色の閃光がムサシを包み込んで変身する。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "このオーソドックスなパターンが最も多かったが、変身の直前に紫色や金色の光がムサシの両手の中に現れたこともあった。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "しかし、ムサシとコスモスの両者の意志が合致していないと変身はできず、ムサシが安易にコスモスの力に頼ろうとした第3話や、イフェメラの事情にコスモスが誰よりも早く気が付いていた第12話などではすぐに変身できなかった。つまりムサシがコスモプラックを使用すればいつでも変身できるわけではない。また、コスモス自身がムサシに変身を促すこともあった。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "第40話では宇宙のような空間での変身も披露した。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "さらにコスモスと分離していた第30話や最終回、 『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』や 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』の劇場版2作品では、輝石を使用して、コスモスと一体化変身を敢行している。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "変身直後の青と銀を基調としたコスモスの基本形態。ウルトラマンの「優しさ」「慈愛」を体現する「月の優しき光のごとき、慈愛の巨人」のモード。防御力・持久力に優れ、太極拳のような体術を見せる。相手を攻撃することなく、敵の力を受け流し、拳を握らず平手で怪獣と対峙するのが特徴。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "『ウルトラマンサーガ』ではハイパーゼットンと対峙した際もルナモードを使用。この理由は画コンテ集で明らかになった内容として、ハイパーゼットンはカオスヘッダー0を吸収していて、ウルトラマンコスモスはカオスヘッダー0の救出のために参戦するという内容だった名残である。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
},
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "『ウルトラゼロファイト』では、ウルトラマンダイナ・ミラクルタイプの力と共にルナミラクルとしてウルトラマンゼロに与えられた。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "宇宙の秩序を乱す邪悪な敵やロボットのような意思と自我のない敵と対峙する際にルナモードからタイプチェンジする。ウルトラマンの「力」「強さ」を体現した「太陽の燃ゆる炎のごとき、戦いの赤き巨人」の超戦闘モード。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "パンチやキック、チョップなどを用いた格闘戦に秀でており、強大な戦闘力を発揮するが、激しくエネルギーを消耗するため、長時間の活動は不可能。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "『ウルトラゼロファイト』にてルナモードと同じく、コロナモードの力もウルトラマンダイナ・ストロングタイプの力と共にストロングコロナとしてウルトラマンゼロに与えられた。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!』では、映像上の描写はなかったがエクリプスモードからモードチェンジした。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "カオスヘッダー・メビュートに敗れ光を失ったコスモスが、ムサシの「勇気」と金環日食の光の中で再度ムサシと一体化することによって復活した、ルナとコロナの両方の力を併せ持つスタイル。ルナの「優しさ」とコロナの「強さ」にムサシの「勇気」を体現した「太陽と月が重なる金環日食の溢れるフレアのごとき、神秘の巨人」のモード。同時に邪悪の撃破と怪獣の浄化を行うことが可能。光線技なども多彩である。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "ルナモードからコロナモードを経てチェンジしなければならないため、活動時間は最大約1分が限界となる。また、ムサシと一体化していない状態では変身していない。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "第30話で初登場し、後半戦で多く登場した。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "劇場版第2作ではこのモードに直接変身し、劇場版第3作ではスペースコロナモードからチェンジした。エクリプスとは日食の意。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "カオスダークネスとの最終決戦で力が残り少なくなりピンチになったコスモスに、優しさ、強さ、勇気を知り、「カオスヘッダーを救いたい」と想うムサシが「真の勇者」となって輝石の力で一体化して変身した「本当の愛の巨人」で、奇跡の輝くルナモード。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "その光が消えた時、コスモスは力を取り戻した。最終話のみ登場。",
"title": "ウルトラマンコスモス"
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{
"paragraph_id": 54,
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"text": "SRC は Scientific Research Circle (科学調査サークル)の略で、国家間の壁を越え、怪獣や異星人との諸問題を平和的に解決し、調査・研究および救援・保護を行う機関である。『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』の時は私設ボランティア団体にすぎなかったが、呑龍出現事件とバルタン星人襲撃事件の後に国連の承認を受け、MITIのスポンサードによって国際的科学調査組織として組織の拡大・再編成が行われた。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "北アメリカ、アラスカ、南アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、北アジア、南アジア、オーストラリア、南太平洋に各支部を置き、宇宙開発センターや、鏑矢諸島の怪獣保護管理センターなどの様々な各分野における最先端の関連機関が各地域に設けられている。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "日本領海内の太平洋上に浮かぶSRCの本部基地である人工島。元々この島は、MITI(水無月工業技術研究所)の実験・研究施設だったが、組織改革によりSRCの科学力を結集してリニューアルされ、約300人の隊員・職員が勤務するSRCの本部となった。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "島の景観は一見、大自然の緑豊かな島のように見えるが、中心部に位置する灯台状のコントロールタワーにはTEAM EYESの司令室やレーダー、電波望遠鏡やMITIの実験場が設置されている。他にも、レストランにカフェ、娯楽施設、医療施設、武道場などの設備や、科学分析、情報処理、輸送支援、基地整備、医務管理、メカ開発などの様々なセクションがベース内に点在する。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "また、島の地下には隊員たちの私室などの居住区やコアモジュール格納庫、ライドメカの整備工場、各メカの発進口に繋がるカタパルトも完備されていて、このカタパルトは各メカの出撃時に、コアモジュールに前・後部パーツを装着させる作業も兼ねている。島の正面にテックサンダー用の4つの発進口が、海底にシーダイバー用の発進口と日本の首都圏と繋がる海底トンネル『シークレット・ロード』がそれぞれ設けられ、シリーズ中盤以降にはテックブースター用の発進カタパルトが島の中央部に、テックスピナー用の滑走路がテックサンダー用の発進口の両脇にそれぞれ増設された。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "一般人向けの見学ツアーも定期的に開かれており、EYESの隊員が1名ずつ交代でガイドを行う。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "設定によると、MITIの研究施設だったころにはここでコアテックシステムの最終フライトテストが行われたという。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "第13話では、ワロガに送り込まれたレニのバイオチップによって基地機能が一時的にダウンしてしまったり、第19話ではミゲロン星人・レダに司令室を占拠されたこともあった。また、カオスヘッダーに二度襲撃されたこともあり、二度目は基地全体を覆われてしまい、基地内部が酸素不足に陥った。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "新生TEAM EYESもこの基地を拠点として活動しているが、司令室のレイアウトは一新されて室内のカラーがブルーからグリーンとなり、大型モニターなどが備わるようになった。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "EYESはElite Young Expert Squadronの略で、トレジャーベースにのみ配属されているSRCの実働部隊となる特捜チーム。あくまでも人道的、かつ平和的な事件解決策を模索し、怪獣や異星人のすべてを絶対悪と決めつけず、互いに友好的なコンタクトをはかり、保護を第一に優先することを活動理念とするが、やむを得ない場合は武器の使用も認められている。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 64,
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"text": "出撃態勢は「コンディションレベル・イエロー」(怪獣保護などの態勢)「オレンジ」(保護と攻撃の両面を考えた中間態勢)「レッド」(攻撃態勢)の3つに分けられる。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "怪獣目撃情報や隊員日記などが掲載されている、TEAM-EYES Networkという公式ホームページもインターネット上に存在する。",
"title": "主要な組織"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "日本国内を外敵から守る防衛組織。略称はJADF。人類に害をなすものは全て排除しようとするため、TEAM EYESとはたびたび対立しているが、互いに協力する時もある。都内某所に広大な駐屯地を有する。",
"title": "主要な組織"
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"text": "防衛軍の施設は、劇中のセリフの中でしか出てこないものも少なくない。",
"title": "主要な組織"
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"text": "カッコ内の数字は登場話数。",
"title": "キャスト"
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"text": "※参考文献:『テレビマガジン特別編集ウルトラマンコスモス』(講談社・2003年)",
"title": "キャスト"
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"text": "歌詞字幕:あり",
"title": "音楽"
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"text": "毎日放送制作土曜夕方6時枠のアニメ作品において、オープニング・エンディングを同一歌手が歌った作品は本作品が最後となっている。また、土6枠作品でOP・EDにおける歌詞字幕表示およびオープニング曲の放送期間が1年を超えたものは本作品が最後である。",
"title": "音楽"
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"text": "本作品で初めてProject DMMがテレビシリーズの主題歌を担当した。以降は『ウルトラマンマックス』、『ウルトラマンメビウス』も担当する。",
"title": "音楽"
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"text": "放送開始日の7月7日は円谷英二の誕生日であり、2001年は生誕100周年の年でもあった。",
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"text": "2002年6月8日の第49話放送後、主演の杉浦氏が本作品放映開始前の2000年に起こった傷害・恐喝事件の被疑者として逮捕された。そのため、結末を放送しないまま番組がいったん打ち切られ、第59・60話と第63 - 65話を再編集した総集編が「特別総集編 前・後編(「コスモス最大の危機」と「コスモス最後の戦い」)」の形で2002年6月22日と6月29日に放送された。",
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"text": "その後、傷害については被害者が「事件の一部を虚偽と認める陳述書」を提出したため不起訴処分に、恐喝についても起訴猶予処分となり、事態は法的に決着した。これを受けて、同年7月20日より放送は再開された。ただし、放送期間があらかじめ定められていたため、撮影自体は終了していた5回分(第50・52・54・56・58話)を間引いての放送だった。放送休止期間中には、アニメ映画『ウルトラマンM78劇場 Love & Peace』、上記の特別総集編、オリジナルビデオ作品『ウルトラマンネオス』が放送された。毎日放送プロデューサーの丸谷嘉彦は、特別総集編1を放送した段階で放送再開の可能性が出てきたため、特別総集編2の時点ではテレビ欄の「終」マークを意図的につけなかったと証言している。",
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"text": "未放映となった5本は2003年3月28日にビデオとDVDとしてリリースされた『ウルトラマンコスモス スペシャルセレクション』(全2巻)に前述の「特別総集編 前・後編」とともに収録され、1巻には3本と「特別総集編 前編」、2巻には2本と「特別総集編 後編」と新編集の特別企画「ムサシの青春」(構成・演出:秋廣秦生)が収録された。また、TBSチャンネルによるCS放送では、未放映話を含む全話を話数順に放映した。第50話は2015年に『新ウルトラマン列伝』第84話で、関東地区では初めて地上波で放送された。",
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"text": "※『ウルトラマンネオス』は『ウルトラマンコスモス』の代替番組として全12話の予定で放送を開始。しかし『ウルトラマンコスモス』の放送再開が決定され、一部の地域を除いて2話で放送中止となった。",
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"text": "以上の代替放送については、17:00および17:30からの時差ネット地域でもキー局と同日の放送。従って、キー局より先行して放送された。また、時差ネット地域ではキー局における休止前の最後の回(第49話)が放送再開後最初の回となったため、第49話とキー局再開初回(第51話。なお第50話は本放送では未放送)では、同時ネット地域と時差ネット地域の間でオープニングと次回予告に違いが生じていた。",
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}
] |
『ウルトラマンコスモス』は、2001年7月7日から2002年9月28日まで、毎日放送テレビ(MBSテレビ)・TBS系列で毎週土曜日18:00 - 18:30ほかにて放映された、円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ作品、および作中に登場する巨大変身ヒーローの名称。全65話(初回放映時は60話)。キャッチコピーは「強さとやさしさを兼ねそなえたウルトラマン」。 メディアミックス戦略として、放送期間中と放送終了後に計3作の映画版も製作された。第1作は本編の前日譚に相当し、テレビ放送の開始直後に夏休み映画として公開された。第2作・第3作は本編最終話の後のストーリーである。 劇場版については、以下を参照。 ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT
ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET
ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE
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<!--記事の内容や編集方針についてノートで合意がなされています。編集前にご確認ください。-->
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{{基礎情報 テレビ番組
| 番組名 = ウルトラマンコスモス
| 画像 =
| 画像説明 =
| ジャンル = [[特撮]][[テレビドラマ]]
| 放送時間 = 土曜 18:00 - 18:30
| 放送分 = 30
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| 放送期間 = [[2001年]][[7月7日]] - [[2002年]][[9月28日]]
| 放送回数 = 全65話+特別編3話
| 放送国 = {{JPN}}
| 制作局 = {{Plainlist|
* [[円谷プロダクション]]
* [[毎日放送]](MBSテレビ)
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| 放送局 = [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
| 企画 =
| 製作総指揮 =
| 監督 = {{Plainlist|
* [[北浦嗣巳]]
* [[根本実樹]]
* [[原田昌樹]]
* [[市野龍一]]
* [[小中和哉]]
* [[村石宏實]]
* [[八木毅]]
* [[石井てるよし]]
}}
| 脚本 = {{Plainlist|
* [[大西信介]]
* [[長谷川圭一]]
* [[川上英幸]]
* [[増田貴彦]]
* [[武上純希]]
* [[西園悟]]
* [[太田愛]]
* [[梶研吾]]
* [[林壮太郎]]
* [[荒木憲一]]
* [[右田昌万]]
* [[前川淳 (脚本家)|前川淳]]
* [[山本優]]
* [[鈴木智]]
}}
| プロデューサー = {{Plainlist|
* [[渋谷浩康]]
* 小山信行
* [[諸冨洋史]]
* [[丸谷嘉彦]]
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| 出演者 = {{Plainlist|
* [[杉浦太陽]]
* [[嶋大輔]]
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| ナレーター = [[磯部弘]]
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| OPテーマ = [[Project DMM]]「Spirit」
| EDテーマ = {{Plainlist|
* Project DMM「ウルトラマンコスモス〜君にできるなにか」
* Project DMM「心の絆」
}}
| 時代設定 = 2009年
| 外部リンク =
| 外部リンク名 =
| 特記事項 = 2002年6月15日 - 7月13日は放映休止。
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}}
『'''ウルトラマンコスモス'''』(ULTRAMAN COSMOS)は、[[2001年]][[7月7日]]から[[2002年]][[9月28日]]まで、[[毎日放送テレビ]](MBSテレビ)・[[TBSテレビ|TBS]]系列で毎週土曜日18:00 - 18:30ほかにて放映された、[[円谷プロダクション]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]作品、および作中に登場する巨大変身ヒーローの名称。全65話(初回放映時は60話)。キャッチコピーは「'''強さとやさしさを兼ねそなえたウルトラマン'''」。
[[メディアミックス]]戦略として、放送期間中と放送終了後に計3作の映画版も製作された。第1作は本編の前日譚に相当し、テレビ放送の開始直後に夏休み映画として公開された。第2作・第3作は本編最終話の後のストーリーである。
劇場版については、以下を参照。
* [[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT]]
* [[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]
* [[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE]]
== 概要 ==
ウルトラシリーズ35周年&初期のウルトラシリーズの監修を務めた[[円谷英二]]生誕100周年記念として製作された[[ウルトラシリーズ]]の21世紀最初のテレビシリーズ{{R|TVMAGA超8113}}。
当初は2001年10月に放映開始予定だったが、2001年7月7日が円谷英二生誕100周年に当たるということで3カ月繰り上げて放映開始された{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2003|p=84|loc=「怪獣を殺さないウルトラマン」}}{{R|TVMAGA88}}{{Sfn|円谷英明|2013|p=138}}}}。2001年3月上旬に本編パート、半月後に特撮パートがクランクインした{{R|TVMAGA88|UPM vol.284}}。
ウルトラマンコスモスは、テレビシリーズでは『[[ウルトラマン80]]』以来となる宇宙から来たウルトラマンであることが明言され、また、主役ウルトラマンとしては初となる基本形態が青いウルトラマンである。
怪獣と人間の共存を願いむやみに殺傷せず、その一方で邪悪な敵には敢然と立ち向かう新しいウルトラマン像の創造を目指した作品である。これまでのシリーズ作品とは異なり、作品中に登場する怪獣を「人間に害を及ぼす可能性はあるが、基本的にコミュニケーションおよび共存が可能である存在」と定義し、「倒すべき相手」ではなく「捕獲して保護地域に隔離することにより守られるべきもの」として描いている。そして主人公の青年・春野ムサシは、超常現象を調査したり怪獣を保護したりする組織「TEAM EYES(チーム アイズ)」に所属している。
ウルトラマンコスモスは、何らかの原因で暴れ出した怪獣と戦うが、殺傷せずに怪獣を無害化して保護する。怪獣が暴れる理由については、怪獣を偏見の目で見たり、頭ごなしに敵視する人間側のいたずらな攻撃や、怪獣に取り憑いて凶暴化させるカオスヘッダーという敵役が設定された。また、当時人気を博していた[[ポケットモンスター]]シリーズの影響も指摘される{{Sfn|円谷英明|2013|p=138}}。プロデューサーの[[渋谷浩康]]は、高い年齢層に設定していた平成ウルトラシリーズ映画作品での動員の主流が予想よりも低年齢であったことを踏まえ、子供の目線を意識した慈愛のウルトラマンを設定したとしている{{R|TVMAGA超8113}}<ref>{{Cite book|和書 | title = 円谷ヒーロー ウルトラマン全史 | editor = 講談社 編 | publisher = [[講談社]] | series = 講談社MOOK | date = 2013 |page = 72 | isbn = 978-4-06-389762-3 }}</ref>。怪獣をむやみに倒さない優しいウルトラマンは、怪獣を倒す[[カタルシス]]がないと批判するウルトラシリーズのファンも存在した一方で、作品の主な視聴者である未就学児童とその親に概ね歓迎された{{R|宇宙船100}}。
[[毎日放送]]は『[[ウルトラマンティガ]]』から本作品まで、シリーズをTBS系列土曜18時枠で放送してきたが、同枠は後番組『[[機動戦士ガンダムSEED]]』以降完全アニメ枠となる。またこの作品を最後に次作『[[ウルトラマンネクサス]]』からは制作局を毎日放送から[[CBCテレビ|中部日本放送]]に移し、それに伴い、TBS系列でのウルトラシリーズの放送枠は以降、流動的に変化する。
ドラマとしてのウルトラシリーズ中、最長の5クール・全65話が制作される{{efn|巨大ヒーロー番組全般としても最多話数である。}}。制作費は「平成ウルトラマン」の30%ほど縮小したため、本作品はドラマパートがビデオ撮影に変更されたが、特撮パートは従来通りの16mmフィルム撮影で行われた{{R|UPM vol.284}}。次作の『ウルトラマンネクサス』以降は、特撮パートもビデオ撮影に移行したため、実質的には本作品がテレビシリーズとしては最後のフィルム作品となった。『ウルトラマンティガ』・『[[ウルトラマンダイナ]]』・『[[ウルトラマンガイア]]』の3作は予算オーバーや過密スケジュールが続いたことから、本作品以降は予算やスケジュールを厳密に管理しながらの制作となった。そのため中盤から終盤では同じ舞台セットの連続使用が続いた。
本作品の音楽は『[[ウルトラセブン]]』、『[[帰ってきたウルトラマン]]』、『[[ウルトラマンA]]』、『[[ウルトラマンレオ]]』、『[[ザ☆ウルトラマン]]』、『[[ウルトラマン80]]』、『[[ウルトラマンネオス]]』で劇伴音楽を担当した[[蒔田尚昊|冬木透]]が担当した。
脚本を務めた[[武上純希]]によると旧作の怪獣を再登場させる案があり{{R|宇宙船100}}、新たなテレビシリーズであることから旧作のイメージを活かしたニュースタンダードが目指され{{R|宇宙船100}}、結局は劇場版に[[バルタン星人]]が登場しただけに留まっている。ただし、[[ピグモン]]のオマージュであるミーニンなど、過去に登場した怪獣をオマージュした怪獣は、本編中に何体か登場している。この案が本格的に導入されるのは、次々作『[[ウルトラマンマックス]]』以降の作品からとなる。
本作品終了直後に[[バンダイ]]([[バンダイナムコグループ]]を含む)の[[村上克司]]が定年退職しており、アニメ特撮作品を含み村上の[[バンダイナムコグループ]]在籍時最後の映像コンテンツ作品である{{efn|退職後の後続のウルトラシリーズやその他の作品に関しては、監修として関わっている。}}。
== ストーリー ==
[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT|ウルトラマンコスモスが初めて地球に来訪し、春野ムサシと出会ってから]]8年後の西暦2009年。怪獣たちは保護区域に隔離され、人類と共存している。
ある日、宇宙から光る物体が飛来し、保護区域にいた怪獣リドリアスに憑依。リドリアスは禍々しい姿に変貌し、暴れだした。SRC宇宙開発センターのパイロット候補生となっていたムサシはリドリアスを助けようとして窮地に陥るが、ウルトラマンコスモスに助けられた。
リドリアスを救ったムサシはコスモスと一心同体となり、その勇敢な行為からムサシはSRCの特捜部隊・TEAM EYESに入隊。彼らは怪獣たちを保護しながら、「カオスヘッダー」と名付けられた敵と対峙していく。
== 主な登場人物 ==
=== TEAM EYESメンバー ===
TEAM EYES全員の隊員の名前の最初には、すべて自然を現す漢字が当てられている。ムサシを除いたメンバーは、劇場版第2作まで全員TEAM EYESに所属していたが、劇場版第3作の時点では隊長に昇進したフブキを除いてEYESから離れている。
; {{Anchors|春野ムサシ}}{{読み仮名|春野 ムサシ|はるの ムサシ}}
: 本作品の主人公。SRC宇宙開発センターの宇宙パイロット候補生で、少年時代にウルトラマンコスモスと出会って'''真の勇者'''を目指している。1990年生まれの19歳{{R|UPM vol.2813}}。旧名は'''五十畑ムサシ'''。
: カオスヘッダー襲来時にコスモスと再会して一心同体となった後、リドリアスをおとなしくさせるために単身立ち向かった勇敢な行動を評価されてヒウラにスカウトされてTEAM EYESに入隊する{{R|HMC56}}。
: 社交的で明朗快活な性格だが、時に失言を発してしまい、顰蹙を買うこともしばしば{{R|UPM vol.2813}}。人類と怪獣や地球外生命体との共存というEYESの使命を全うしようと懸命に任務に取り組むがその分無茶をし、窮地に陥ることも少なくないが、最後まで奇跡を信じあきらめない自身の行動は今まで現実だけを見がちだった他の隊員たち(特にフブキ)にも始めはあきれながらも次第に感化されるようになる。しかし怪獣保護に対する理想と現実に苦悩することもあり、第28話ではEYESの怪獣保護の姿勢が世間から認められていないと焦り「怪獣を守る力」を求めるあまりエリガルを死なせてしまい、第32話ではSRCが開発途中だったドリームスリープの完成に鏑矢諸島の怪獣たちを実験台にすることに終始反対しヒウラの命令に背いて前線に出たこともある。後半以降はコスモスと一心同体と知ったカオスヘッダーや様々な侵略者たちに直接襲撃される回数も多かったが、それらの困難を乗り越えて成長していった。
: 最終章で、カオスヘッダーが「心」を持ったことに気付き、コスモスを含む周囲が決闘に望もうとする中、ただ一人その姿勢に疑問を持ち続け、カオスヘッダーも救おうと決意。コスモスやEYES、リドリアスら怪獣たちと共にカオスヘッダーの心から憎しみと怒りを取り除いて、救うことに成功。分離したコスモスからも「真の勇者」になったと認められ、コスモスと涙を流しながら別れた。
:; 『[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT]]』
:: ウルトラマンに会うことと、宇宙飛行士となって火星に行くことを夢見る小学5年生{{R|UPM vol.2813}}。宇宙科学技術者の父親、五十畑浩康を3歳の時に宇宙ロケット事故で亡くす。天体観測をしている際にウルトラマンコスモスと出逢う。
:; 『[[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]』
:: 本作品の2年後のため22歳。コスモスと分離後にTEAM EYESを退任、SRC宇宙開発センターに移籍し、念願のアストロノーツとなった。
:: ツトムの結婚式に出席するために向かったサイパンでかつてのSRC隊員キドと再会、TEAM SEAの臨時隊員となる。その後北九州にスコーピスが出現した際にコスモスと再会し、再び一つとなる。
:; 『[[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE]]』
:: 前作に引き続き宇宙開発センターのアストロノーツを務める。怪獣たちを惑星ジュランに移住させる「ネオユートピア計画」を進める。
:: すべてを守るために再びコスモスと一体化するもジャスティスに敗れ、異次元に閉じ込められた(そのため、この作品ではジュリやフブキたちに比べると出番が少ない)が、仲間のフューチャーエナジーで復活した。
:; 『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』
:: 別次元のムサシ{{efn|DVD特典の絵コンテ集に掲載された監督のコメントによると、尺の都合でカットされてしまったが、コスモスとの関連性を匂わせるセリフが存在していた。}}がZAP SPACYのクルーとして登場。
:; 『[[ウルトラマンサーガ]]』
:: [[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#『ウルトラマンサーガ』に登場するバット星人|バット星人]]の巨大円盤が遊星ジュランに現れたことで再びコスモスと一体化、バット星人の実験場となった別宇宙の地球フューチャーアースへ向かう。そこで出会った[[ウルトラマンゼロ]]=タイガ・ノゾム、[[ウルトラマンダイナ]]=アスカ・シンと共闘、さらに融合して[[ウルトラマンサーガ#ウルトラマンサーガ|ウルトラマンサーガ]]になる。事後は、遊星ジュランへ帰還した。
:: アヤノと結婚し1人息子のソラが誕生しており、家族で遊星ジュランに住んでいることが明かされる{{efn|杉浦の希望により、ムサシがTEAM EYESの隊員服に袖を通すシーンがあったが{{R|SAGA57}}、カットされた。}}。
:: テレビシリーズ当時と比べると落ち着いて大人びた性格になっており、タイガをやさしく諭したり子どもたちと談笑したりしている。
:; 『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!]]』
:: コスモスとして[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!#超時空魔神 エタルガー|エタルガー]]と戦っていたが敗北し、コスモスの封印直前に分離させられた。時空城と共にウルトラマンギンガたちの宇宙にたどり着いた後、エタルガーを追ってきたウルトラマンゼロと共にエタルガーを倒すために、ヒカルとショウにある特訓を課す。
::* 脚本を担当した[[小林雄次]]は、テレビシリーズのムサシであればアレーナと戦うべきか葛藤したであろうが本作品では達観してヒカルとショウに任せているとしており、先輩としての貫禄を表現している{{R|ギンガS}}。
:
; ヒウラ・ハルミツ
: TEAM EYESの隊長{{R|UPM vol.2814}}。33歳{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。元SRC研究セクションの研究員で、MITIにも所属していた。他の隊員たちからは親しみを込めて「キャップ」と呼ばれ、信頼されている。EYESにムサシの資質を見抜いてスカウトした人物でもある。漢字表記は「日浦晴光」{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。
: 基本的に穏和で紳士的な性格だが、理系の頭脳と豪快な行動力で部下を引っ張って職務に当たり、自らテックサンダーに搭乗して現場に出ることも多い。元恋人で、友達以上恋人未満な間柄の科学者、サワグチ・ヤスエからは「大雑把で不完全」と評されているが、隊員たちを厳しく、そして温かく見守る気持ちは本物で、木本博士からも評価されている。また、怪獣や地球外生命体の対応を巡って、自ら統合防衛軍と真っ向から対立する姿も多く見られた。
: 第55話でサワグチから宇宙開発センターに見送りに来るようにと「抜き打ちテスト」を申し込まれたが、ガモランII保護の任務に没頭しすぎたために、見送りには間に合わず「落第点」とみなされ、2人の関係は進展しなかった(しかし、後日サワグチからの手紙で「追試」という再度のチャンスを与えられ、喜んでいた)。
: フブキ、アヤノ同様、ムサシ=コスモスであることに気付いていたがずっと胸に秘めており、物語終盤、コスモス救援のためにフブキが自らにそれを告げようとしたとき、P87ポイントのカオスヘッダー殲滅任務優先のためにそれを大声で遮って言わせなかった{{efn|嶋は「自分が出撃するのを止めるな」という意味での遮りなのか、コスモスの正体を自らも知っていて遮ったのか、というところが複雑であったが、監督の根本から「キャップも気づいていたということにする」と言われたという{{R|HMC75}}。}}。しかし本当は他の隊員同様ムサシを心配しており最後までムサシを見殺しにできず途中で軌道を外れて単独で救出に向かった。
:* 企画書の段階では少し固い印象であったため、嶋なりにアレンジして、そのイメージのままに演じたという{{R|HMC75}}。隊員との距離感を縮める試みの一つとして、「隊長」ではなく「キャップ」と呼ばれ、指令室で隊員に「行ってこい!」というのではなく、現場に自らも積極的に赴いている{{R|HMC75}}。
:* ヒウラ役の嶋は、過去に演じた『[[超獣戦隊ライブマン]]』の強い印象のレッドのイメージを払拭できるかどうか少し不安であったが、従来の隊長像とは異なり、「隊員と距離感が近く、失敗もするし、ズッコケもする隊長にしたい」とプロデューサーの渋谷に言われたことから、少し人間味のある三枚目のようなイメージを嶋に求められたことが嬉しく、自身が演じることで「こんな隊長もいる」と感じてもらえるならやりがいがあると思い、その手の演技に自信があったため、すぐに不安が晴れたという{{R|HMC75}}。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: TEAM EYESを退任しており、SRC技官と大学教授を兼任している{{R|UPM vol.2819}}。
:
; ミズキ・シノブ
: TEAM EYESの副隊長{{R|UPM vol.2814}}。28歳{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。元防衛軍パイロット{{R|超全集33}}。SRCの怪獣保護の理念に共鳴してEYESに入隊した{{R|UPM vol.2814}}。女性ながら他の隊員たちからは「リーダー」と呼ばれ、怪獣保護の任務に謙虚に取り組み、ヒウラ同様信頼されている。冷静沈着な戦闘のプロで、前線に出て指揮を執る場合が多い{{R|UPM vol.2814}}。漢字表記は「水木忍」{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。
: 防衛軍時代の元上官・竹越真一に、「かつての上官とその部下」以上の想いを持っていたが、第18話で「TEAM EYES の一員であることが、今の自分の幸せ」と吹っ切る。また、SRC医師のカワヤからは、数回に渡って求愛され、そのたびに一蹴してきたが、第35話を機に関係が少々変わり始め、第58話のラストで自らカワヤにキスをするまでになった。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: EYESを退任後は防衛軍に戻り{{R|UPM vol.2819}}、教官に復帰する。
:
; フブキ・ケイスケ
: 防衛軍出身の隊員{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。23歳{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。SRCの科学力に魅力を感じてEYESに入隊した{{R|UPM vol.2814}}。漢字表記は「風吹圭介」{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。
: クールな性格だが、短気でやや攻撃的な一面もあり、SRCの甘い理念には当初は危機感を抱き、攻撃的な態度を怪獣に取るなど共感できずにいた{{R|UPM vol.2814}}。そのため、怪獣への対応を巡って他の隊員との対立もしばしばあった。特にムサシとは性格が全く逆なことから火花をちらす場合が多いが、後に彼との関係も氷解し、ムサシと春風コンビ(ヒウラ命名)を組むことになり{{R|UPM vol.2814}}、良きライバルや良き友な関係となっていく。それと同時に、EYESの仲間たちとの触れ合いやコスモスとの出会い、数々の任務を経て怪獣保護の理念には強い意思を持つように目覚める。
: 反面、お化けなどのオカルトは苦手なようで、調査現場で自分の[[ドッペルゲンガー]]を見た際は自分は死ぬのかと怖がり、そこで知り合ったオカルト好きの女子大生・三条寺カスミにすがっていた。後に、彼女とは一緒にカラオケに行く仲にまでになる。
: 中盤以降、「生ぬるい組織」とEYESを馬鹿にしたナガレに「曇った目で見てる」と言い返したり、防衛軍時代の上官・佐原がEYESを防衛軍に統合しようと話を持ち掛けて来た際にはEYESの姿勢は崩さないと堂々と表明する場面をみせ、ムサシ以上に成長が体現された男でもある。カオスウルトラマン戦でムサシを救った際に彼がコスモスではないかと疑い、後に確信したが、長い間自分の心の中にしまっていた。
: 防衛軍空手選手権三連覇の記録を持つ{{efn|三連覇達成時の試合では気を失ったまま戦って勝利した。}}が、少年時代は体が弱く、群馬県の蛍ヶ村で鍛えていたという過去や、プリンが好物な甘党という一面も持つ{{R|超全集33}}。テックサンダーの操縦時にはサングラスを着用することが多い。
: 幼いころにサヤカという妹が亡くなったり、かつての同僚だったミサキ・アイを失うなど、悲しい過去も幾つかある。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: 本編終了後、主要メンバーを退任し、第2世代のTEAM EYES(新生TEAM EYES)結成の際に第1世代のTEAM EYESでの能力が評価されて隊長(キャップ)に昇格した{{R|UPM vol.2819}}。デラシオンの脅威を前に、最後まで希望を捨てずに立ち向かう姿勢を見せ、部下たちにもそう呼びかけている。
:
; ドイガキ・コウジ
: EYESのメカ開発担当の科学者{{R|UPM vol.2814}}。25歳{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。高知県出身で、大学卒業後にEYESに入隊した。元MITIの研究員で、ヒウラの後輩でもあった。漢字表記は「土井垣浩次」{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。
: マイペースな性格で、チームのムードメーカー的存在。生物学や物理学、擬似科学的分野など幅広い分野を持つ天才科学者を自称する博覧強記な巨漢の青年だが、そんな第一印象とは裏腹に蚤の心臓で気が小さい一面もある{{R|UPM vol.2814}}。テックスピナーなど様々なメカ・装備を開発し、遺物の分析など手広く裏方の仕事をこなす{{R|HMC56}}。作戦の立案はドイガキによるものが多い。テックサンダー3号の操縦には当初苦手意識を持っていてなかなかうまく乗りこなせなかったが、見事に克服する活躍を見せた。
: 実家は[[高知県|土佐]]の[[カツオ|かつお]][[漁師]]{{R|超全集33}}。家業を継がなかったため、父親とは関係はあまり良くない。
: 大学時代の友人・吉井ユカリとは、複数の事件を通してその関係を深め合っていき、ついに婚約までした。
: フブキからコスモス=ムサシであることが明かされた際、シノブは直前のヒウラ、フブキ、アヤノの会話からそれを察したが、ドイガキは明かされても最初は信じられずにおり、TEAM EYESの中ではムサシの正体を最後に知った人物である。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: EYESを退任後はSRC科学セクション主任として登場する{{R|UPM vol.2819}}。コスモスの生体エネルギーを頼りに、ムサシを捜索する。ミーニンのことを忘れていたらしい。
:
; モリモト・アヤノ
: 主に通信・データ分析オペレーターを担当する女性隊員{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。司令室の超高性能コンピューター「エイジャーMAX」を使いこなす活発な19歳{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。神流市出身{{efn|地図上では山梨県に位置する。}}。漢字表記は「森本綾乃」{{R|超全集33|UPM vol.2814}}。
: オリジナルセブンのキョウコに憧れて、趣味であるピアノを用いて、日々怪獣や宇宙人を癒やす音楽を作曲している。
: EYESでは最年少だが、ムサシより10か月先輩{{R|UPM vol.2814}}。若干甘えん坊で美男子に惚れっぽく、好奇心旺盛な性格で、他の隊員から子ども扱いされることも少なくないが、本人はそれを嫌っている。そのため当初はやたらとムサシを後輩扱いし、「先輩」と呼ばせようとしていた。だが、隊員としての自覚はきちんと持っており、少女時代に憧れの青年からもらった「カエルの騎士」のキーホルダーにその信念を込めて常に携帯している。怪獣に対する愛情もムサシに負けないほど持ち、中盤以降は怪獣保護の現場に出て活躍するようになる。
: 単独でテックサンダー3号を操縦した時には、コクピットの電飾板に若葉マークを、シェパードを運転して現場に出動した際にはカエルの騎士のステッカーをそれぞれ貼り付けていた。
: 食べることが趣味で、ストレス解消のために美味しいものを食べている{{R|UPM vol.2814}}。
: ムサシのことは「ムサシ隊員」と終盤直前まで呼んでいたが、徐々に彼に惹かれていき「ムサシ」と呼び捨てるようになり、そのころにフブキ同様、ムサシがコスモスであることに薄々感づいていた。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: EYESを退任後は鏑矢怪獣保護区の管理員になった{{R|UPM vol.2819}}。「ムサシが一番会いたい奴」とフブキが噂しており、なかなか会えないようである。ムサシ消失後、真っ先に宇宙開発センターに駆けつけ、ムサシの認証票を見つける。
:; 『ウルトラマンサーガ』
:: ムサシと結婚し姓が「春野」に変わっている。遊星ジュランに移住し息子のソラを儲けていたことが明かされる。
=== SRC職員 ===
木本研作については、[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT]]を参照。
; イケヤマ
: 怪獣保護管理センターの管理官。怪獣に深い愛情を注ぐ好人物であると同時に、ムサシの良き理解者でもあり、彼の相談に乗ることもしばしばある。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: 引き続き鏑矢怪獣保護区の管理官として登場。モリモトアヤノの上司という立場で、ミーニンと共に駆けつけ、ムサシ捜索に活躍した。
:
; {{読み仮名|新見 あづさ|にいみ あづさ}}
: SRCメディカルセンターの医師。33歳。穏やかな性格で、EYESのメンバーのホームドクター的存在。シリーズ前半までの登場。
; {{読み仮名|本田 弘子|ほんだ ひろこ}}
: トレジャーベースのメディカルの看護師。新見のサポートをすることが多い。
; {{読み仮名|大森 登|おおもり のぼる}}
: 第8話に登場したSRC科学分析センターの科学者。自身の発明品であるドリームシアターをEYESに提供した。
; {{読み仮名|右田|みぎた}}{{efn|name="原田"|[[原田昌樹]]監督によると、今回限りのゲストだと思って名前を考えなかったという{{R|TVMAGA88}}。}}
: カワヤの助手のSRCの医師で、彼の一番弟子でもある。休み時間にルールを無視して、カワヤとキャッチボールをしていたこともある。
; サワグチ・ヤスエ
: 民間からヘッドハンティングされ、SRC創成期から所属している科学者。彼女の開発したメカの多くが現在のSRC装備の基本となっている。ヒウラとは昔交際をしており、現在も友達以上・恋人未満な間柄で、「完璧過ぎることが欠点だ」と指摘されたこともある。ムサシは彼女のことを「カミナリおばさん」と陰で呼んでいる。第55話で、宇宙ステーションのジェルミナIIIへ出向した。
; イダ&タナカ
: 第17話に登場したサワグチの助手を務める二人の男性。サワグチと共にEYESアタッシュの開発に携わった。ギギによって縮小されるが、コスモスに救われる。
; ミツヤ
: 宇宙開発センター探査部のアストロノーツ。ムサシと同期であり、ライバル兼親友である。第21話で遊星ジュランを探査中にカオスヘッダーの襲撃を受け負傷するが、後にEYESに助け出される。第63話にも登場し、EYESの元へカオスヘッダーに関する情報がインプットされた鉱石を届けた。
; カワヤ・ノボル
: SRC特殊医療基地の医師。トレジャーベース全女性職員にフラれるという記録を持つまさに女好きな伝説の男であり、彼女らに「王子さまのキス」をした(しようとした)ため、女性全員から嫌われている。しかし、事件に巻き込まれ負傷した青年の応急手当を難なくこなすなど、医者としての腕は確かである。
: 登場する話でよくシノブに言い寄り、冷たくあしらわれてばかりいたが、第35話あたりから、その関係が微妙に変わってくる。
: 前職は臨床医だったが、重病患者である親友の手術から逃げてしまった過去を持ち、そのことを後悔してSRCでの研究医療に転職した。
: ムサシがウルトラマンコスモスであることは終盤まで知らなかったが、彼に「ウルトラ…マンモス健康体」と紛らわしい評価をすることが何度かあった。
; {{読み仮名|原|はら}}
: SRC特殊医療基地の女性看護師で、主にカワヤのサポートを務めている。
; ハズミ
: 防衛軍から移籍した科学者。元防衛軍科学部門の主任で、ヒウラとは大学時代の同期で旧知の仲で、科学を人類のために有効利用しようと誓い合うほどの誠実な人物である。ダビデス909の開発をきっかけに辞任するが、後にドイガキと協力し、カオスキメラの合成・培養に成功する。
=== 統合防衛軍関係者 ===
; {{読み仮名|佐原|さはら}}
: 防衛軍の司令官。
: 自らEYESと連絡を取り、怪獣対策を巡って対立することが非常に多いが、決して冷酷非情な人物ではなく、実はEYESの隊員たちの実力を高く評価しており、第37話でカオスヘッダーに対抗するため、EYESを防衛軍に統合しようと持ちかけて来たこともある。極秘に開発されたヘルズキング改が暴走してしまい、カオスキメラの完成を機に、EYESに協力してカオスヘッダーと戦うことを決意する。第45話では、宇宙へ帰る[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#伝説妖精 ムゲラ|ムゲラ]]に手を振りながら見送り、第61話では大きな力に疑問を抱いていたムサシの意見を理解しつつ反論することなく聞き入れたり、最終話ではカオスダークネスに向かってる怪獣たちの真意に薄々気付き攻撃を止めてしばらく見守ると言った一面もある。
:* 名前の由来は『[[ウルトラQ]]』で万城目淳を演じた[[佐原健二]]から{{R|宇宙船100}}。
; {{読み仮名|宍倉|ししくら}}
: 防衛軍の副司令官。佐原や西条とは対照的に攻撃的な印象がほとんどなく、防衛軍の中でも数少ない穏やかな物腰の好人物。
; {{読み仮名|西条|さいじょう}}
: 佐原の副官(武官)。
: 非常に高圧的かつ攻撃的な性格で、具体的には不明だが、ヒウラと何らかの因縁がある。EYESの怪獣保護の方針にも否定的な立場でシャークスのシゲムラ参謀と全く同じタカ派の思想の持ち主だが、ゴルメデβ出現の原因やカオスキメラを持つマザルガスをダビデス909で死亡させ結果的にカオスマザルガスに変貌させてしまうなど、最終的に事態の悪化や、作戦失敗について責められてしまうこともたびたびあった。
:* 名前の由来は『ウルトラQ』で戸川一平を演じた[[西條康彦|西条康彦(現:西條康彦)]]から{{R|宇宙船100|TVMAGA88}}。
; ナガレ・ジュンヤ
: 怪獣殲滅兵器開発チーム・ガルスのチーフで西条の右腕。かつて怪獣災害によって妹のミユキを亡くしている経験から、怪獣に悪意を抱き、被害者をこれ以上出さないために怪獣と戦うことをモットーとするクールガイ。
: EYESの存在にも否定的だったが、第33話での一件で考えを変え、第62話ではEYESに協力して活躍した。ロケットランチャー・G-YG8を愛用する。
; ベンガルズ
: 防衛軍の主力戦車部隊。第48話で{{読み仮名|岡|おか}}隊長がワロガの攻撃を受けて殉職。その後同話で、{{読み仮名|牛島|うしじま}}班長が自分一人になっても攻撃を果敢に続けた。
; {{読み仮名|石井|いしい}}{{efn|name="原田"}}
: 防衛軍特務部隊チーフ。自ら中心となって、侵略者に対する諜報活動を行う。
=== その他の登場人物 ===
ショージについては、[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT]]を参照。
; {{読み仮名|吉井 ユカリ|よしい ユカリ}}
: ドイガキ隊員の大学の後輩で、ドイガキの言うとおり「最強のマイペース女」で、城南大学考古学研究室の研究員。第10話で初登場し、その後複数の事件を通し、2人の仲が接近し、ついには結婚の約束をする。
; {{読み仮名|三条寺 カスミ|さんじょうでら カスミ}}
: [[13日の金曜日]]生まれのオカルト好きの女子大生で法勢大学オカルト研究会会長。第23話で初登場、フブキとは凸凹コンビぶりを発揮する。フブキと一緒にカラオケに行くまでの仲になる。彼女が前世占いをした際にフブキの前世が[[ミジンコ]]であると出たため、彼を「ミジンコ」と呼ぶことがある。
== ウルトラマンコスモス ==
「奇跡の光」とも呼ばれる宇宙からやって来た神秘の巨人{{R|UPM vol.286}}。争いを好まず、相手を傷つけずに友好関係を築くことを望んでいるが、凶悪で卑劣な者に対しては果敢に立ち向かう戦士である。『[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT]]』で[[バルタン星人]]を追って地球に飛来し、ムサシと知り合う。
事件解決後、宇宙に帰るが、[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスヘッダー|カオスヘッダー]]が地球に出現した際に再び地球に現れ、ムサシと一体化する。
著しく活動エネルギーを消耗すると、全身が半透明状態となる{{R|UPM vol.286}}。絶体絶命の危機に瀕した際には一体化しているムサシを強制的に分離することもあり、本編の中盤と終盤と映画『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!』において三回自身が倒される直前にムサシを分離している。
いくつかのモードを使い分けるが、テレビシリーズでは怪獣の沈静化を目的とするルナモード、邪悪な敵を倒すコロナモード、ルナとコロナの両方を併せ持つエクリプスモードが主に登場する。
コスモスのモードチェンジは『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』で見られたタイプチェンジにあたるが、コスモスの場合、戦略・状況のために行われた過去のタイプチェンジとは異なり、モードチェンジによって戦闘目的そのものが変わる。
また、コロナモードやエクリプスモードにモードチェンジすると掛け声が野太く力強いものに変わるのも特徴である。
コスモスのデザインはモードチェンジによって(ルナ・コロナ・エクリプスでは{{efn|スペースコロナモード・スケルトンコロナモードはコロナモード、フューチャーモードはエクリプスモードの色違い。}})頭部デザインまで変わる。
基本形態のルナモードには頭部に手が加えられておらず、一見トサカにあたる部位がやや長大であること以外は初代ウルトラマンと同様に見えるが体色は青・銀のカラーリングであり、その点が特殊である。コロナモードは平成3部作のウルトラマン同様に頭部を削減したもので、体色はメインが赤・銀でアクセントとして青が入っており、模様は左右非対称である{{efn|そのため、鏡像撮影用に模様を左右逆にしたスーツも作られていた。}}。エクリプスモードも頭部が変化し、体色は赤・青・金・銀の非常に派手なカラーリングになっている。
また、エクリプスモードはカラータイマーの外部が金色に変化している。
主人公ウルトラマンとしては初めて基本形態のカラーリングが青であった。
* ウルトラマンが調和と秩序を司るものであるという基本原則から、優しさの花、無限の宇宙、永遠の秩序の、3つの意味を込めてコスモスという名称となった{{R|UPM vol.284|UPM vol.2832}}。
* デザイン画では、「クリスタル」という名称もあった{{R|デザイン画集245}}。
* 当初は、クリスタル状の全身の透明なイメージのウルトラマンが、2種のモードにチェンジするという案であったが、当時の造形的な限界から見送られ、青いウルトラマンと赤いウルトラマンの2形態が登場するラインに落ち着いていった{{R|UPM vol.284}}。
* 出身地:不明
* 年齢:2万歳
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1"
|-
! 名称 !! 身長 !! 体重 !! 飛行速度 !! 走行速度 !! 水中速度 !! 潜地速度 !! ジャンプ力 !! 握力
|-
! ルナモード
|rowspan=5|47{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="COSMOS"|{{R|TVMAGA14|超全集12|ism98}}}}
|rowspan=5|4万2千{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|COSMOS}}
| [[マッハ数|マッハ]]7{{R|超全集121}}
| マッハ2{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ1{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ1.2{{R|超全集121|ism98}}
| 1,000{{nbsp}}m{{R|超全集121|ism98}}
| 60,000{{nbsp}}t{{R|超全集121}}
|-
! コロナモード{{efn|『ウルトラマンコスモスイズム』ではスケルトンコロナモードの数値をコロナモードと同一としている{{R|ism98}}。}}
| マッハ9{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ2.5{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ1.5{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ2{{R|超全集121|ism98}}
| 1,200{{nbsp}}m{{R|超全集121|ism98}}
| 100,000{{nbsp}}t{{R|超全集121}}
|-
! エクリプスモード
| マッハ16{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ3{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ2{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ1.5{{R|超全集121|ism98}}
| 2,200{{nbsp}}m{{R|超全集121|ism98}}
| 80,000{{nbsp}}t{{R|超全集121}}
|-
! スペースコロナモード
| 大気圏外・計測不能{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ3{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ2{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ2{{R|超全集121|ism98}}
| 1,800{{nbsp}}m{{R|超全集121|ism98}}
| 90,000{{nbsp}}t{{R|超全集121}}
|-
! フューチャーモード
| マッハ18{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ4.5{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ3{{R|超全集121|ism98}}
| マッハ2.5{{R|超全集121|ism98}}
| 2,500{{nbsp}}m{{R|超全集121|ism98}}
| 100,000{{nbsp}}t{{R|超全集121}}
|}
=== 輝石 / コスモプラック ===
『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』で、コスモスが11歳のころのムサシに授けた真の勇者にのみ託されるといわれる青い小さな石で、地球に無い鉱物が含まれている。19歳からのムサシはこれをペンダントとして身に着けている。
輝石を持つムサシがコスモスの力を心から必要としている時にコスモスを出現させたり、他者の手に渡って見世物にされそうになると消え去ったり、ムサシの手で振り回して風を切らせることでリドリアスを落ち着かせる音を発するなど、不思議な力を数多く持っている。
テレビシリーズの第1話でムサシとコスモスが一体化した後に、第2話で輝石がスティック状の変身アイテム・コスモプラックに変化した。コスモプラックは変身機能だけでなく、ムサシが自身の中に宿っているコスモスと対話する際の媒体としての力も備えている。これが無いとムサシはコスモスに変身できず、ベリル星人やコイシス星人ジュネに一時的に奪われたこともある。
ムサシとコスモスが分離してしまうとコスモプラックは輝石に戻ってしまう。
第29話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスヘッダー・メビュート|カオスヘッダー・メビュート]]の戦いに敗れた時や第64話のラストでコスモスがムサシと分離した際に輝石へ戻ってしまい、後者以降は輝石がコスモプラックに変化することはなかったが、『ウルトラマンサーガ』以降の作品ではコスモプラックが再登場した。
=== 変身プロセス ===
ムサシが変身するときは、右手に持ったコスモプラックを空に翳してほとんどの場合は「コスモース!」と叫ぶ。
すると、花の蕾が花開くようにコスモプラックの先端が3方向に開いて内部にある輝石が埋まった細い棒状のパーツが伸張し、輝石から放射された青と金色の閃光がムサシを包み込んで変身する{{R|HMC123|UPM vol.286}}。
このオーソドックスなパターンが最も多かったが、変身の直前に紫色や金色の光がムサシの両手の中に現れたこともあった。
しかし、ムサシとコスモスの両者の意志が合致していないと変身はできず、ムサシが安易にコスモスの力に頼ろうとした第3話や、イフェメラの事情にコスモスが誰よりも早く気が付いていた第12話などではすぐに変身できなかった。つまりムサシがコスモプラックを使用すればいつでも変身できるわけではない。また、コスモス自身がムサシに変身を促すこともあった{{efn|第39話でカオスヘッダーがムサシを襲撃した時など。}}。
第40話では宇宙のような空間での変身も披露した。
さらにコスモスと分離していた第30話や最終回、 『[[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]』や 『[[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE]]』の劇場版2作品では、輝石を使用して、コスモスと一体化変身を敢行している。
=== 形態 ===
==== ルナモード ====
変身直後の青と銀を基調としたコスモスの基本形態{{R|UPM vol.286}}。ウルトラマンの「優しさ」「慈愛」を体現する「月の優しき光のごとき、慈愛の巨人」のモード{{R|UPM vol.286}}。防御力・持久力に優れ、[[太極拳]]のような体術を見せる{{R|必殺技SG88}}。相手を攻撃することなく、敵の力を受け流し、拳を握らず平手で怪獣と対峙するのが特徴。
『[[ウルトラマンサーガ]]』ではハイパーゼットンと対峙した際もルナモードを使用。この理由は画コンテ集{{Full|date=2015年9月}}で明らかになった内容として、ハイパーゼットンはカオスヘッダー0を吸収していて、ウルトラマンコスモスはカオスヘッダー0の救出のために参戦するという内容だった名残である。
『[[ウルトラゼロファイト]]』では、ウルトラマンダイナ・[[ウルトラマンダイナ#タイプチェンジ|ミラクルタイプ]]の力と共に[[ウルトラマンゼロ#ルナミラクルゼロ|ルナミラクル]]としてウルトラマンゼロに与えられた。
* デザインは[[丸山浩 (デザイナー)|丸山浩]]が担当した{{R|TVMAGA14}}。マスクのデザインは初代ウルトラマンBタイプを意識している{{R|TVMAGA14|デザイン画集245}}。耳は三日月を模している{{R|デザイン画集245}}。額のクリスタルは演出上の都合から監督の飯島の要望で付け加えられた{{R|デザイン画集245}}。カラータイマー両隣の銀のラインはウルトラマンを踏襲しているが、塗装では目立たないため、ウエットスーツ素材を貼り付けて立体にしている{{R|デザイン画集245}}。
==== コロナモード ====
宇宙の秩序を乱す邪悪な敵やロボットのような意思と自我のない敵と対峙する際{{efn|必ずしも敵を倒すためだけにタイプチェンジするわけではなく、相手をこらしめて戦意喪失させるためにタイプチェンジすることもあった。}}にルナモードからタイプチェンジする。ウルトラマンの「力」「強さ」を体現した「太陽の燃ゆる炎のごとき、戦いの赤き巨人」の超戦闘モード{{R|必殺技SG90|UPM vol.288}}。
パンチやキック、チョップなどを用いた格闘戦に秀でており{{R|必殺技SG90}}、強大な戦闘力を発揮するが、激しくエネルギーを消耗するため、長時間の活動は不可能{{R|UPM vol.288}}。
『ウルトラゼロファイト』にてルナモードと同じく、コロナモードの力もウルトラマンダイナ・[[ウルトラマンダイナ#タイプチェンジ|ストロングタイプ]]の力と共に[[ウルトラマンゼロ#ストロングコロナゼロ|ストロングコロナ]]としてウルトラマンゼロに与えられた。
『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!]]』では、映像上の描写はなかったがエクリプスモードからモードチェンジした。
* デザインは丸山浩が担当した{{R|TVMAGA14}}。マスクのデザインはウルトラセブンを意識している{{R|デザイン画集245}}。耳は太陽を模している{{R|デザイン画集245}}。カラータイマーを中心に放射状に模様が広がった左右非対称なデザインが特徴である{{R|TVMAGA14}}。差し色として青を入れている{{R|デザイン画集245}}。
==== エクリプスモード ====
カオスヘッダー・メビュートに敗れ光を失ったコスモスが、ムサシの「勇気」と[[日食|金環日食]]の光の中で再度ムサシと一体化することによって復活した、ルナとコロナの両方の力を併せ持つスタイル{{R|UPM vol.289}}。ルナの「優しさ」とコロナの「強さ」にムサシの「勇気」{{efn|プロデューサーの渋谷浩康は、「優しさ」も「強さ」も発揮するためには「勇気」が必要であるとし、子供に持っていて欲しい要素として設定したと述べている{{R|宇宙船100}}。}}を体現した「[[太陽]]と[[月]]が重なる金環日食の溢れるフレアのごとき、神秘の巨人」のモード{{R|必殺技SG92}}。同時に邪悪の撃破と怪獣の浄化を行うことが可能{{R|必殺技SG92}}。光線技なども多彩である。
ルナモードからコロナモードを経てチェンジしなければならないため、活動時間は最大約1分が限界となる{{Refnest|group="出典"|{{R|TVMAGA14|超全集16|UPM vol.289}}}}。また、ムサシと一体化していない状態では変身していない{{efn|ただし劇場版第2作ではムサシと分離した際にこの姿のままムサシを見詰めていた。}}。
第30話で初登場し、後半戦で多く登場した。
劇場版第2作ではこのモードに直接変身し、劇場版第3作ではスペースコロナモードからチェンジした。エクリプスとは日食の意。
* デザインは杉浦千里が担当した{{R|TVMAGA14}}。マスクはルナモードとコロナモード両方の特徴を取り入れている{{R|TVMAGA14}}。
==== ミラクルナモード ====
カオスダークネスとの最終決戦で力が残り少なくなりピンチになったコスモスに、優しさ、強さ、勇気を知り、「カオスヘッダーを救いたい」と想うムサシが「真の勇者」となって輝石の力で一体化して変身した「本当の愛の巨人」で、奇跡の輝くルナモード{{R|UPM vol.286}}。
その光が消えた時、コスモスは力を取り戻した。最終話のみ登場。
==== 本作品以降に登場する形態 ====
* [[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET#スペースコロナモード|スペースコロナモード]]
* [[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET#スケルトンコロナモード|スケルトンコロナモード]]
* [[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE#フューチャーモード|フューチャーモード]]
* [[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!#登場ヒーロー|クロスオーバーフォーメーション]]
* 他のウルトラ戦士との合体
** [[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE#ウルトラマンレジェンド|ウルトラマンレジェンド]]
** [[ウルトラマンサーガ]]
=== 能力・技 ===
==== ルナモードの能力・技 ====
; フルムーンレクト{{Refnest|group="出典"|name="LUNA"|{{R|超全集12|ism100|必殺技SG223|UPM vol.287}}}}
: 凶暴化した相手を鎮める興奮抑制効果を持つ「慈愛の光」で、ウルトラマンコスモス ルナモードを象徴する光線。
: 両手を斜め上に揚げた後、右の手のひらを前に突き出して放つ。
: 攻撃技ではなく、相手の感情を静めて大人しくさせる興奮抑制光線である。
: 実体を持たない相手(第18話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#怨霊鬼 戀鬼|戀鬼]]、第54話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#分身怪獣 タブリス|タブリス]]の分身)や、心を持たない相手(第16話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#精神寄生獣 カオスジラーク|カオスジラーク]]、第29話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスヘッダー・メビュート|カオスヘッダー・メビュート]]の化けていたカオスエリガル)には効かなかった。
: ゲーム作品『ウルトラマン Fighting Evolution Rebirth』では[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマン Fighting Evolution Rebirth』に登場するゴモラ|EXゴモラ]]に改造・強化されたゴモラを浄化させたのと同時に元の姿に戻した。
: 『[[ウルトラマンサーガ]]』では[[ウルトラマンの登場怪獣#『ウルトラマンサーガ』に登場するグビラ|グビラ]]や[[ゴメス (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマンサーガ』に登場するゴメス(S)|ゴメス(S)]]に使用して大人しくさせた。
:
; ルナ・エキストラクト{{Refnest|group="出典"|{{R|TVMAGA14|超全集12|ism100|必殺技SG223|UPM vol.287}}}}
: 右掌を前に突き出して放つ、怪獣に取り憑いたカオスヘッダーを切り離す眩い光。
: 第5話でカオスヘッダーが無機物(ゴミ)に取り憑いて怪獣化した[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスバグ|カオスバグ]]には効かなかった。
: カオスヘッダーは進化してこの光線への耐性を身につけていき、第28話のカオスヘッダーに取り付かれた[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#毒ガス怪獣 エリガル|エリガル]]に至っては効かなくなった。
: それ以降は、エクリプスモードのコズミューム光線を使うようになった。
:
; ネットトラック・ボックス{{R|group="出典"|LUNA}}
: 右掌を前に突き出して放射する、相手の体にエネルギーで作り出した光の網を被せて動きを抑制する光線。
: 劇場版第1作におけるバルタン星人との宇宙戦闘で使ったが、敵のドライクロー光線に相殺された。
:
; コスモ・リアライズ{{R|group="出典"|LUNA}}
: 右掌を前に突き出して放つ、物質の元素固定化をさせる光線。第11話でEYESがベニヤ板に描いたムラノクラフドン幼体の絵を三次元投影から組成を仮定し元素固定化させ、大昔に別れた自分の子供を探していた[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#骨格恐竜 ムードン|ムードン]]に会わせることで、その思いを遂げさせて成仏させた。この元素固定は不安定で短時間しか効果が無い。
:
; ルナストラック{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 右手を前に突き出して放つ破壊ビーム。破壊力は低いが、ルナモードの数少ない攻撃用光線技の一つ。
: 第12話ではバーニングミサイルに使用されたが、ミサイルの迎撃システムの光線に相殺された。
: 第13話では[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#邪悪宇宙生命体 ワロガ|ワロガ]]のアームスショットと相殺した。
: 第14話ではワロガの化けた球体に使うも効果無し。
: 第25話では[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#惑星破壊ロボット グインジェ|グインジェ]]に分離されてかわされた。
: 『ウルトラマンサーガ』では、[[ゼットン#ハイパーゼットン(ギガント)|ハイパーゼットン(ギガント)]]の暗黒火球を撃ち落として子供たちやチームUを守るために使用したが、数発は防いだものの撃ち落とし切れなかった。
:
; エナジーシュート{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 右掌を前に突き出して放つ、相手に高エネルギー{{Sfn|完全超百科|2004|p=110}}を与える光線で攻撃技ではない。
: 第20話で高エネルギーを求めて現れた[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#電撃怪獣 ボルギルス|ボルギルス]]に700年分の高エネルギーを与えておとなしくさせた。
:
; コスモフォース{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 右掌を前に突き出して放つ、相手の傷ついた体にエネルギーを与えて蘇生させる光線。
: 第30話で傷ついた[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#友好巨鳥 リドリアス|リドリアス]]にエネルギーを与えた。
:
; ルナポーション{{R|group="出典"|LUNA}}
: 右掌を前に突き出して放つ、瞬間移動光線。
: 第8話で、[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#夢幻魔獣 インキュラス|インキュラス]]によって眠ったまま目覚めなくなったアヤノの夢の中に侵入した。
: 第34話で活動を停止した[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#古代海神 レイキュラ|レイキュラ]]を元の海底に戻した。
:
; コスモシュートレス{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 右掌を前に突き出して放つ、攻撃無力化光線。
: 第45話で防衛軍がプレジャーパークに発射したミサイルや弾丸を一斉に無力化させた。
:
; ルナサスペンション{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放つ、吸引光線。
: 第45話でコスモシュートレスで無効化したミサイルや弾丸を吸引して集め、防衛軍に突き返して引き下がらせた。
:
; コスモ・リダクター{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放射する、縮小光線。
: 第4話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#友達ロボット イゴマス|イゴマス]]を縮小化させた。
:
; コスモシャワー{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放射する消火ビーム。
: 第12話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#薄命幼獣 イフェメラ|イフェメラ]]の周囲の大規模な山火事を鎮火した。
:
; ルナレインボー{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放つ、七色の分離光線。
: 第16話でカオスジラークに取り込まれた少女・茜を分離させた。残されたカオスジラークは消滅した。
:
; コスモ・カウサー{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放つ、物体や生物を元のサイズに戻す復元光線。
: 第17話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#異次元人 ギギ|ギギ]]に縮小された人々を元に戻した。
: また、第44話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#異次元人 ギギ・ドクター(XX01)|ギギ・ドクター]]の光線銃で巨大化した[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#クレバーゴン・ジャイアント|クレバーゴン・ジャイアント]]を元の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#スーパーハイテクロボット クレバーゴン|クレバーゴン]]に戻した。
:
; トランスバブル{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放つ、相手を泡状のエネルギー球に包み込む光線。
: 第27話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#宇宙怪獣 ザランガ|ザランガ]]を包み込んで海に運んだ。
: 第54話のタブリスの分身には効かなかった。
:
; フィールウォーマー{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放つ、感情に訴えかける光線。
: 第35話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#催眠魔獣 ラグストーン|ラグストーン]]が吸収した人間たちの感情に訴えかけ、敵を内部から崩壊させた。
:
; ムーンライトシャワー{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を前に突き出して放つ特殊光線。
: 第57話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#伝説聖獣 グラルファン|グラルファン]]の扉のカードを開いた。
:
; ルナコールド{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 両手を合わせて放つ、低温ガス。
: 第27話でザランガを冷やした。
:
; ピンポイントクロス{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 左手に十字型の光弾を作り出し、それを絆創膏のごとく相手に貼り付ける。
: 第55話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#隕石大怪獣 ガモランII|ガモランII]]のバイオコントローラーを封じた。
:
; ルナスルーアイ{{R|超全集12|UPM vol.287}}
: 目から放つ、怪獣の体内を調べる透視光線。
: 第1話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスリドリアス|カオスリドリアス]]や第42話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスデルゴラン|カオスデルゴラン]]に取り憑いたカオスヘッダーや、第16話でカオスジラークに取り込まれた少女・茜を発見した。
:
; ラミーサプレー{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 額のムーニースポットから発射する、回復光線。
: 第22話で弱っていた[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#遊星守護獣 パラスタン|パラスタン]]にエネルギーを与えた。
:
; ウエイク・ライサー{{R|超全集12|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 第22話で全身から照射し、遊星ジュランを蘇らせたエネルギー光線。
:
; ミラクル・リアライズ{{R|group="出典"|LUNA}}
: 破壊された建物などを一瞬で修復する光線。
: 劇場版第2作で破壊されたサイパンの街を修復した。コスモ・リアライズと同じ元素固定の原理だが、自身の能力向上に伴い元素固定は完全化している。
:
; コスモヒーリング{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 掌から特殊エネルギーを発して自分の傷口に当てて治療する。
: 第50話で使用。
:
; ムーンライトバリア{{Refnest|group="出典"|name="LUNA2"|{{R|超全集121|ism100|必殺技SG223|UPM vol.287}}}}
: 突き出した両腕から発する光の高エネルギー{{Sfn|完全超百科|2004|p=110}}で敵の攻撃を跳ね返す。これで防がれた攻撃は上下に分かれて逸れる。
: カオスウルトラマンカラミティのブレイキングスマッシュや、カオスダークネスの光球すら防ぐ。
:
; リバースパイク{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 腕から放つエネルギーで発生させた光の壁を、攻撃を押し返しながら前進させて敵にぶつけるバリヤ。
: 第1話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスリドリアス|カオスリドリアス]]の熱線は防げたが、第22話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスパラスタン|カオスパラスタン]]には連続攻撃で破られた。
: カオスパラスタンの攻撃を防いでいるテックブースターのミラーズシールドにこの技を光線状にして当てることで、シールドをカオスパラスタンにぶつけたこともある。第12話ではテックサンダー4号の背後に発生させてミサイルから守った。
:
; ムーンリバースパイク{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 「リバースパイク」のバリエーション技で、四角い光の壁を発生させて敵の攻撃を防ぎつつ、その光の壁で相手を包み込む。
: スピットルを無力化した。
:
; リバースパイクバリア{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 手先から光の円形バリアを発して攻撃を防ぎ押し返す防御技。リバースパイクのように障壁自体は前進しない。
: また、カオスバグやギギとの戦いで使用した際にはビーム攻撃によって破られた。
: 『ウルトラマンサーガ』では、ハイパーゼットン(ギガント)の暗黒火球を防ぐために使用した。
:
; マストアーム・プロテクター{{R|group="出典"|LUNA2}}
: 気(ウルトラ念力)を放ちながら、両肘を使って敵の光弾などを次々と弾き飛ばす防御技。
:
; マストフック・プロテクター{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 足技を使って、敵の放った光線や光弾などを弾き飛ばす技。
: ネオバルタンのバッドナイフやカオスジラークの光の剣を叩き落す際には「マストアーム・プロテクター」と併用することで、効果を上げている。
:
; ルナ・スピンドミル{{R|group="出典"|LUNA2}}
: 両手を水平に開いて、自ら高速スピンして、敵の攻撃を弾き返す。
: 劇場版第1作でバルタン星人の宇宙船「廃月」に仕掛けられた罠の刃を全て破壊した。
:
; ルナシュートレス{{R|必殺技SG223|UPM vol.287}}
: 蹴りを相手の体の1点に放ち、戦闘力を低下させる。
: 一部の文献では、「ジャンプして、捻りを利かせたキックを決める技」と記載されている{{Sfn|完全超百科|2004|p=110}}{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=92}}。
:
; ルナ・パンチ{{R|超全集121|必殺技SG223}}
: [[ジャブ]]、[[フック (打撃)|フック]]、ストレート、[[アッパーカット]]などを使いこなす。
: 得意技は[[掌底打ち|掌底]]で相手を撥ね飛ばす'''パームパンチ'''{{R|UPM vol.287}}。
:
:; エクリプスパンチ{{R|超全集121|UPM vol.287}}
:: 幻の右フックと呼ばれるパンチ技{{R|超全集121}}。
:
; ルナ・チョップ{{R|超全集121}}
:; グラブレス・チョップ{{R|超全集121|UPM vol.287}}
:: ルナモードのチョップ技は'''ルナ・チョップ'''と総称されるが、敵の首筋や胸元を狙った、連続で正面からの手刀を放って相手の動きを止める技を特にこの名で呼ぶ。
:: カオスジラークやゴルメデβ、バデータなどにダメージを与えた。
:
:; ピッキング・ブローク{{R|超全集121|UPM vol.287}}
:: ジャンプしながら敵の脳天めがけて手刀を放つ技。
:: カオスパラスタンに使った。
:
:; スウェード・シェイバー{{R|超全集121|UPM vol.287}}
:: スピードを活かした裏拳の突き技を繰り出すチョップ技。
:: 高い破壊力を持ち、カオスジラークやレイキュラなど、多くの敵にダメージを与えた。また、カオスパラスタンなどに対しては、体を回転させながら放っている。
:
; ルナ・キック{{R|超全集121|必殺技SG223}}
: 正面蹴りや[[回し蹴り]]で攻撃する'''ニンブルスマッシュ'''{{R|超全集121|UPM vol.287}}、急降下しながら敵の首筋や胸に両足キックを食らわす'''ドロップキック'''{{R|超全集121|UPM vol.287}}、ジャンプして光速で宙返りしながらジャンプキックを放つ'''ムーンサルトキック'''{{R|超全集121|UPM vol.287}}、[[膝蹴り]]の'''ニースマッシュ'''{{R|UPM vol.287}}、落下しながら膝蹴りを決める'''ニードロップ'''{{R|UPM vol.287}}といったバリエーションがある。
:
; ルナ・ホイッパー{{R|group="出典"|LUNA2}}
: 序盤戦で多用される[[一本背負投|一本背負い投げ]]。
: 相手にダメージを与えると同時に、ウエイトや反射神経、パワー、スタミナなどを測る意味統合いも持つ。
: この技で敵の戦闘力に探りを入れる。
:
; ルナ・フライングメイヤー{{R|超全集121|UPM vol.287}}
: フロント・ヘッドロックを掛けた後、体を半回転させ、敵を投げる首投げ。ゲルワームに使った。
:
; ルナ・レッグホイップ{{R|超全集121}}
: 突進してくる相手の力を利用して後方に投げる巴投げ。
:
; ルナ・エルボー{{R|超全集121}}
: [[肘打ち]]によって敵にダメージを与える技。
:
:; エルボースマッシュ{{R|超全集121|UPM vol.287}}
:: 敵の首筋や喉元を狙って水平に肘打ちを叩き込む。
:
:; エルボードロップ{{R|超全集121|UPM vol.287}}
:: ルナ・ホイッパーなどで倒れた敵に肘の先端に全ウエイトを乗せて倒れた敵に放つ肘落とし。
:
; コスモリダクション{{R|超全集121|UPM vol.287}}
: 精神統一をすることで、ミクロから等身大、最大47メートルまで、体の大きさを伸縮可能。
: 第17話でギギに使った。
:
; 覚醒能力{{R|UPM vol.287}}
: 第10話で、[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#青銅魔神 ゲシュート|ゲシュート]]のストレスエネルギーで暴走したフブキの眼前で手を叩くことで、フブキを元に戻した。
:
; ルナファイナル{{Sfn|超全集|2003|p=18|loc=「ウルトラマンコスモス ミラクルナモード」}}{{R|UPM vol.286}}
: 最終話でミラクルナモードになることで力を取り戻したコスモスが[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスダークネス|カオスダークネス]]に放った、青い神秘の光線。
: 人間の心を知った[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスヘッダー|カオスヘッダー]](カオスダークネス)に対して、フルムーンレクトの照射を続けて心に訴えかけ、最後にこの光線を注ぐことで、憎しみの心を浄化して[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスヘッダー0|カオスヘッダー0]]に変化させた。
:
; フルムーンフラッシャー{{R|SAGA31|UPM vol.287}}(フルムーンクラッシャー{{R|UPM vol.287}})
: 浄化エネルギーを集めた右掌を突き出して放射し、そのまま突撃して邪気を払う浄化技。
: 『ウルトラマンサーガ』で使用し、ハイパーゼットン(ギガント)の背中の発光部を一つ潰した。
:
; ムーンライトスマッシュ{{R|SAGA31|UPM vol.287}}
: 右手を前に突き出して放つ、超高熱の必殺光線。
: 『ウルトラマンサーガ』で使用し、[[ゼットン#ハイパーゼットン(イマーゴ)|ハイパーゼットン(イマーゴ)]]に向けてウルトラマンゼロのワイドゼロショット、ウルトラマンダイナのソルジェント光線と同時攻撃として放つも、ハイパーゼットンアブゾーブによって吸収・増幅して撃ち返され逆に大きなダメージを受けてしまった。
:
; アンビシャス・ロケッツ{{R|ism100|UPM vol.287|必殺技SG141}}
: 手の甲を敵に向けて振り上げ、撃ち込む光弾。
: 命中すると激しい火花を散らす。
: 威力は低いが、ルナモードの数少ない攻撃用光線技の一つ。
:
; ヒーリングシャワー{{R|超全集121|必殺技SG141}}(本編未使用)
: 相手の痛みを和らげ、傷を治す光流。
: 一部の文献{{Full|date=2015年9月}}では、前述のコスモフォースを「ヒーリングシャワー」と記載している。
:
; ティアーズ・ロム{{R|超全集121|必殺技SG141}}(本編未使用)
: 「慈しみの気」で包み込むような蜃気楼と音で、相手を涙させる。
:
; ルナサブレイ{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 透明な敵や、幻影を見せる敵を実体化させる光線。
: 一部の文献{{Full|date=2015年9月}}では、前述のコスモ・リアライズを「ルナサブレイ」と記載している。
:
; ルナキネシス(本編未使用)
: 念力で物体を動かす。
:
; ルナストップレイ(本編未使用)
: 念力で敵の攻撃を止める。
==== コロナモードの能力・技 ====
; ブレージングウエーブ{{Refnest|group="出典"|name="CORONA"|{{R|超全集14|ism100|必殺技SG223|UPM vol.288}}}}
: 頭上に揚げた両腕を胸の前で回転させて気を集め、両手を突きだすとともに帯状に超高熱火炎の「圧殺波動」を放つ{{R|超全集14}}。
: '''ブレージング・バニッシュ'''{{R|UPM vol.288}}という変形型もあり、第19話で使用された。
: 第7話では諸事情により未使用に終わった。
: 『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!]]』では謎の時空城を破壊した。
:
; ネイバスター光線{{Refnest|group="出典"|{{R|TVMAGA14|超全集14|ism100|必殺技SG223|UPM vol.288}}}}
: 両腕に宇宙エネルギーを集結させ、L字型に組んで放つ破壊光線で、コロナモード最強の光線技{{R|超全集14|ism100}}。
: この技で数多の敵を撃破している。
: 第22話・26話では発射ポーズが異なっていた。
: 第35話のラグストーン、第61話のヘルズキング改には効かなかった。
: 最終回ではエネルギーが足りず、発射出来なかった。
: 他にも『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!』では[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!#超時空魔神 エタルガー|エタルガー]]に使用したが、驚異的な防御力にはまったく効かなかったなど、防がれることも少なくない。
:
; プロミネンスボール{{R|group="出典"|CORONA}}
: コロナモードの必殺技。手の先に「気」を集め、光線エネルギーを超高熱のエネルギーボール{{Sfn|完全超百科|2004|p=111}}に変えて投げつける超破壊弾。
: 第8話でインキュラスを倒した。
:
; コロナエキストラクト{{R|group="出典"|CORONA}}
: 生物からカオスヘッダーを切り離す力を持った光線で、両手を突き出して放つ。
: ルナエキストラクトと効果は同じだが、より強力なカオスヘッダーを切り離すことが可能。
: 第15話で[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスジェルガ|カオスジェルガ]]からカオスヘッダーを分離させた。
: また、第28話ではフルパワーで発射して[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#毒ガス怪獣 エリガル|エリガル]]からカオスヘッダーを分離させたが、エリガルの体がその負担に耐え切れずに死んでしまった。
: それ以降はコズミューム光線を使えるエクリプスモードに変身出来るようになったこともあり、一度も使っていない。
:
; ハンドドラフト{{R|超全集14|必殺技SG223|UPM vol.288}}
: 右手の先から発射する、緑色の矢尻形エネルギー弾。
: 威力は高くはないものの連続発射が可能で、敵の弱点をピンポイントで攻撃する。
: 左右どちらの手からでも発射できる。第7、26、35、38話で使用。
:
; シャイニングフィスト{{Refnest|group="出典"|name="CORONA2"|{{R|超全集121|ism100|必殺技SG223|UPM vol.288}}}}
: 右の拳を突き出して連続発射する楔型{{Sfn|完全超百科|2004|p=111}}の破壊光線で、相手の弱点を突くピンポイントの攻撃において効果を発揮する。
: 第14話でワロガにダメージを与えた。
:
; サンダースマッシュ{{R|group="出典"|CORONA}}
: エネルギーを両手の間でスパークさせ、宇宙に向かって「気」を送ることで、天空に発生させた猛烈な稲妻{{Sfn|完全超百科|2004|p=111}}を敵に落とす荒々しい技。
: 通常の光線技が効かない戀鬼に対して使用し、大きなダメージを与えた。
:
; コスモ・カウサー{{R|group="出典"|CORONA2}}
: 七色に輝く還元光線で、一定のポーズを取った後、両掌から照射する。
: 劇場版第1作で、自爆した[[バルタン星人#ネオバルタン|ネオバルタン]]を元のバルタン星人の姿に再生した。
:
; サンライト・バリア{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.288}}
: 指先から発生させたエネルギーで円形の光の盾を作り、敵の攻撃を防ぐ。
: ムーンライトバリアよりも強力。
: バリアを前進させて押し返すことも、自らバリアを飛び越えて上空から攻撃することも可能。
: エネルギーを光線にして放ち、人々をドーム状に包んで守ることも可能。
:
; リバースパイクハイパー{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.288}}
: 敵から受けた光線などを吸収し、体内で増幅して素早く撃ち返す。
: 第10話でゲシュートの放つストレスエネルギーを、敵がエネルギーを切らすまで受け続け、この技で増幅して撃ち返した。
: ゲシュートは吸収できる許容範囲を超えて爆発した。
:
; コロナ・ウィンドミル{{R|group="出典"|CORONA2}}
: 両手を広げて宙に浮かび、前進しながら縦に高速回転して、敵の攻撃を弾き返す。
: 劇場版第1作でネオバルタンの肩からの連射針・バンプスプレーを全て弾いた。
:
; コロナプロテクト{{R|必殺技SG223}}
: 突き出した両掌から気(ウルトラ念力)を放ち、敵を弾き飛ばす。
:
; コロナ・パンチ{{R|超全集121|必殺技SG223}}
: ジャブ、フック、ストレート、ジャンピングパンチなど、バリエーションの豊富なパンチの総称。
: エリガル戦にアッパーカットでダメージを与えた。
:
:; サンメラリーパンチ{{R|group="出典"|CORONA2}}
:: すべての気を瞬時に両腕に集中させながら敵の体に叩き込むダブルパンチ。
:: ほとんどの戦いで放った代表的な技のひとつ。
:
; コロナ・チョップ{{R|超全集121|必殺技SG223}}
: 多彩なチョップ技の総称。
: 敵の首筋や胸元を正面から手刀で狙う'''ソーラーチョップ'''{{R|超全集121|UPM vol.288}}、音速で敵に迫って手刀の部分で水平打ちする'''スウェード・シェイバー'''{{R|group="出典"|CORONA2}}{{efn|劇場版第1作でネオバルタンの左手の武器を破壊した。}}、ジャンプして手刀を敵の脳天に打ち下ろす'''ピッキング・ブローク'''{{R|超全集121|UPM vol.288}}といったバリエーションがある。
:
; コロナ・キック{{R|超全集121|必殺技SG223}}
: 多彩な蹴り技の総称。
: 強靭な脚力を生かして、前蹴りや横蹴り、回し蹴りといったキックを多くの怪獣に放った。
:
:; コロナ・フライングキック{{R|超全集121|UPM vol.288}}
:: 敵の正面からジャンプしたのち、胸板をめがけて放つ飛び蹴り。
:: カオスゴルメデやヘルズキング改をひるませた。
:
:; ソーラーブレイブキック{{R|group="出典"|CORONA2}}
:: 空中高くジャンプしたのち、最高速度マッハ9のスピードで急降下することにより、破壊力を倍増させる必殺キック。
:: カオスパラスタンSの角を破壊した。
:: 第26話でも使用したが、カオスヘッダー・イブリースのクローキーバリアーで、防がれてしまった。
:
:; コロナ・ローリングハーパーキック{{R|超全集121|UPM vol.288}}
:: 超高速回転しながら敵の弱点を的確に捉える蹴り技。
:
:; コロナサスペンドキック{{R|UPM vol.288}}
:: 空中に静止して全身を発光させ、飛び蹴りを繰り出す技。
:: 第8話でインキュラスに使った。
:
; コロナ・エルボー{{R|超全集121}}
: 肘打ち。
: 水平肘打ちの'''エルボースマッシュ'''{{R|UPM vol.288}}と、倒れた敵に上から食らわす肘打ちの'''エルボードロップ'''{{R|UPM vol.288}}がある。
:
; コロナ・ショルダーアタック{{R|超全集121|UPM vol.288}}
: 敵の胸板などに肩を激しく打ちつける技。
:
; コロナ・レイジホイッパー{{R|超全集121|UPM vol.288}}
: 敵に組みついたのち、驚異的なパワーで遠方に放り投げる。
: ネオバルタンをはじめ、カオスヘッダー・イブリース、ゴルメデβ、カオスダークネス、カオスゴルメデにダメージを与えた。
:
; コロナ・スウィング{{R|超全集121|UPM vol.288}}
: 敵の尻尾や両足を両腕で抱え込み、大きく振り回して放り投げる技。
: カオスパラスタンSやゴルメデβに大きなダメージを与えた。
:
; コロナ・ネックハンギング{{R|超全集121|UPM vol.288}}
: 敵の首を両腕で締めて宙に吊り上げる技。
:
; コロナ・バックドロップ{{R|超全集121|UPM vol.288}}
: 敵の背後に組みついて両腕で抱え上げ、脳天から地表に叩き落とす投げ技。
:
; コロナ・ヘッドバット{{R|超全集121|UPM vol.288}}
: 飛び上がった体勢から敵の頭頂部を目掛けてヘッドバットを食らわす。
: 他にも、頭からスライディングする'''ヘッドスライダー'''も使える。
:
; コロナ・ヘッドロック{{R|超全集121|UPM vol.288}}
: 敵の頭部や首を脇に抱え込み、腕力で締め上げて闘争心を奪い取る技。
: カオスネルドラントやカオステールダスの暴走を止めるために使った。
:
; コロナ・ブランチ{{R|group="出典"|CORONA}}
: 6人に分身して、敵を攻撃する。劇場版第1作で、6人に分身したネオバルタンに対抗して使い、6対6の戦いを繰り広げた。
:
; コロナサスペンダー{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 重力のある空間でも、空中で体を停止できる能力。
:
; コロナパレント{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 障害物の向こう側を透視する。
:
; コロナリスニング{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 遠くの小さな音でも聞き分けられる。
:
; コロナモーション{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 気(ウルトラ念力)を駆使して、瞬間移動する。
:
; コロナスティルレイ{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 飛行能力のある敵などを空中に停止させる空間固定光線。
:
; コロナマテリアル{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 透明な敵や、霊魂などを実体化させる光線。
:
; コロナキネシス{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 気(ウルトラ念力)を駆使して、物体を空中移動させる。
:
; コロナカレント{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 大気中に含まれる様々な物質を体内に集め、右手先から水流・気流・電流・熱流として噴射する。
:
; ヒートパッション{{R|超全集121|必殺技SG141}}(本編未使用)
: 額のサニースポットから発射する超熱線。
:
; グレイシーブーン{{R|超全集121|必殺技SG141}}(本編未使用)
: 両腕で大きく円を描いて凄まじい「気」を溜め、そこから発射する破壊力抜群の虹色光線。
:
; シンディアロウ{{R|超全集121}}(本編未使用)
: 指先で敵の眉間を捉えて放ち、敵の脳回路を破壊する、円筒状の結界。
==== エクリプスモードの能力・技 ====
; コズミューム光線{{Refnest|group="出典"|{{R|TVMAGA14|超全集16|ism100|必殺技SG223|UPM vol.289}}}}
: エクリプスモードの必殺技。両腕をクロスして溜めた宇宙エネルギーを右腕から放つ「優しさ」と「強さ」を併せ持った万能光線。{{要出典範囲|ネイバスター光線以上の威力を誇る|date=2016年1月}}。カオスヘッダーなどの邪悪な力のみを排除する光線なので、カオス怪獣の体内にいるカオスヘッダーだけを倒すことなども可能。ただしその能力を使うためには信頼の心が必要である。第31話では一点集中型のピンポイントショットを使い、[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスクレバーゴン|カオスクレバーゴン]]のバイオチップに取り憑いたカオスヘッダーだけを倒した{{efn|『ウルトラマンコスモス超全集』では名称を'''コズミューム光線・ピンポイントショット'''と記述している{{R|超全集16}}。}}。第43話では分散させて使って[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#ネルドラント・メカレーター|ネルドラント・メカレーター]]の体内のメカを消滅させたが、[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#怪獣狩人 ノワール星人|ノワール星人]]の無理な改造によるネルドラントのショック死は防げなかった。第46・50話では、毒素に苦しむ[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#浄化宇宙人 キュリア星人|キュリア星人]]や[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#密輸怪獣 バデータ|バデータ]]から毒素を消し去った。第55・61話、劇場版第2作では破壊光線として使用。『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!』ではエタルガーに偽りの記憶を光線を浴びて植え付けられていたアレーナに使用し、呪縛から解放させた。
:
; エクリプスブレード{{Refnest|group="出典"|name="ECLIPSE"|{{R|超全集16|ism100|必殺技SG223|UPM vol.289}}}}
: 両腕で破壊エネルギー{{Sfn|完全超百科|2004|p=112}}を集め、三日月型の破壊光刃を発射して邪悪なエネルギーを砕く光線。第40話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスウルトラマン|カオスウルトラマン]]、第62話の[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスウルトラマンカラミティ|カラミティ]]にダメージを与えたが、第64話では素手で防がれた。第51話では[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスマザルガス|カオスマザルガス]]からカオスヘッダーを追い出した。通常の攻撃技としても使用可能で、第53話のノワール星人の円盤や劇場版第2作のスコーピスを粉砕している。
:
; エクリプススパーク{{R|group="出典"|ECLIPSE}}
: 気を腕に集中させて相手の弱点めがけて右手先から放つ矢尻型の光線で連続発射が可能。敵を痺れさせてダメージを与える衝撃波{{Sfn|完全超百科|2004|p=112}}タイプと、威力は低いが連続発射が可能な矢尻型光線形{{Sfn|完全超百科|2004|p=112}}タイプがある。前者は第33話で、後者は第60話、64話、劇場版第3作で使用。第60話のカオスウルトラマンカラミティ(1戦目)には弾き返され、コスモス自身がダメージを受けてしまった。
:
; エクリプス・ブローショット{{R|group="出典"|ECLIPSE}}
: 両腕を広げて気合を溜め、全身から上空に向かって強力な光エネルギーを放出する技。上空にいるスコーピスを倒した。
:
; エクリプスポーション{{R|超全集16|UPM vol.289}}
: 両手を前に突き出して放つ、瞬間移動光線。第54話で佳奈を朋友島へテレポートさせた。
:
; サスペンドショット{{R|group="出典"|ECLIPSE}}
: 両拳から放つ、青くスパークする電撃状の停止光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=112}}。劇場版第3作で[[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE#スペースリセッター グローカー|グローカーボーン]]2体の動きを止めるも、ウルトラマンジャスティスのジャスティスリムーバーで無効化された。
:
; ゴールデンライト・バリア{{Refnest|group="出典"|name="ECLIPSE2"|{{R|超全集121|ism100|必殺技SG223|UPM vol.289}}}}
: 指先から発するコズミックエナジーで半球状の光の幕{{Sfn|完全超百科|2004|p=112}}を作り、敵の攻撃を防ぐ。サンライトバリアよりも強力{{R|超全集121}}。バリアを前進させて押し返すことも可能。第30話でのメビュートの光弾や第63話での[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスエリガルII|カオスエリガルII]]のガス、また、劇場版第3作ではグローカーボーンの攻撃を防ぐもウルトラマンジャスティスのジャスティススマッシュに破られる。第64話のカオスダークネスの破滅魔球は防げなかった。
:
; エクリプス・ウィンドミル{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.289}}
: 空中で静止したのち、横方向に体を高速回転させることにより、敵の攻撃を弾き返す防御技。カオスヘッダー・メビュートが同時に放った、怪光、光弾、衝撃波をことごとく弾き返した。
:
; ライトニングディフェンダー{{R|必殺技SG223|UPM vol.289}}
: 相手の方向に向かって空中を移動しながら、体を縦方向に高速回転させ、足などで敵の光線や武器を弾き返す防御技。カオスヘッダー・メビュートが連続発射した破壊光線を、ことごとく跳ね返した。
:
; エクリプス・レセプト{{R|group="出典"|ECLIPSE2}}
: 腕で敵の攻撃を弾き、自分のエネルギーに変える{{Sfn|完全超百科|2004|p=112}}。[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#カオスネルドラント|カオスネルドラント]]の火炎弾や、スコーピスの光弾を弾いた。
:
; エクリプス・パンチ{{R|必殺技SG223|超全集121}}
: パンチ攻撃の総称。多くの場面で用いたストレートパンチをはじめ、フック、アッパーカットなどのバリエーションを持つ。
:; ダイアモンドクラッシュ{{R|group="出典"|ECLIPSE2}}
:: 強烈なカウンター。劇場版第2作では右腕を光らせて使用、スコーピスを粉砕した。
:
; エクリプス・キック{{R|超全集121|必殺技SG223}}
: 回し蹴りや前蹴りなどの多彩なバリエーションを持つキック攻撃。
:; フライングスパーキー{{R|group="出典"|ECLIPSE2}}
:: エネルギーをスパークさせながら放つ{{Sfn|完全超百科|2004|p=112}}急降下キック。この他にも、急降下しながらかかと落としを決める'''ヒールドロップ'''などが使える。
:
; ハイエスト・スウィング{{R|超全集121|UPM vol.289}}{{efn|書籍『ウルトラマンコスモスイズム』では名称を'''ハイエストスイング'''と表記している{{R|ism100}}。}}
: 敵の腕や脚、尻尾を掴んで振り回し、空中高くに一気に投げ飛ばす。
:
; エクリプス・チョップ{{R|超全集121|必殺技SG223}}
: '''サブサイドショック'''{{R|超全集121|必殺技SG223|UPM vol.289}}などのバリエーションを持つチョップ攻撃。カオスネルドランドの頭部に放ったほか、サンドロスの腕にジャンピングを命中させ、ウルトラマンジャスティスを救出した。
:
; エクリプス・ヘッドロック{{R|必殺技SG223|UPM vol.289}}
: 両腕ないし片腕で相手の頭をつかみ、驚異的な怪力によって締め付けて動きを封じる技。不発弾状態の「NX弾」に近づこうとするカオステールダスの頭部を抱え込んで動きを止めた。
:
; エクリプスパワー{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=94}}{{R|UPM vol.289}}
: 敵を両腕の怪力で持ち上げて地面に叩き落とす技。
:
; 細胞組織変化能力{{R|UPM vol.289}}
: 第63話で使用した能力。ゴールデンライトバリアでカオスエリガルIIのガスを押し戻すと同時に、怪獣の細胞組織を変化させてガス噴出腺を塞ぐ。
:
; ブラベリーアタック{{R|超全集121|必殺技SG141}}(本編未使用)
: 念を込めて両手から弾き出すように発射する攻撃光線。
=== 他のウルトラシリーズへの登場 ===
; 『[[ウルトラマンサーガ]]』
: 時系列的には、最終章『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』の後の出来事。本作品で初めて他のシリーズのウルトラマンとの共演を果たした{{efn|バラエティ作品の『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』を除く。}}。異世界のウルトラ戦士からの知名度も高いようで、[[ウルトラマンゼロ]]もその名を知っていた。
: 本作品では怪獣との戦いがあるにもかかわらず全てルナモードのみの登場であり、モードチェンジはしない{{efn|初期の脚本にはフューチャーモードが登場するものもあり、同作のDVDメモリアルボックスおよびブルーレイメモリアルボックスの特典の絵コンテ集に掲載されている。}}が、新たにルナモードの2種類の攻撃技を使用した。コスモスの人格は表に出ず、変身後も人格は終始ムサシのままである。
: 『新ウルトラマン列伝』で放送されたディレクターズカット版では[[ウルトラマンダイナ]]と同様の方法で別宇宙に渡った描写が追加されている。
:* 初期プロットではウルトラマンサーガとなるのはゼロとダイナのみで、コスモスはジャスティスと合体してウルトラマンレジェンドとして最終決戦に参加するという展開であった{{R|SAGA57}}。
; 『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!]]』
: 時系列的には、『ウルトラマンサーガ』の後の出来事。 遊星ジュランで[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!#超時空魔神 エタルガー|エタルガー]]と戦うが敗北し、アレーナによって「魔鏡」と呼ばれるアイテムで封印されてしまうが、封印直前にムサシは分離させられた。時空城と共にギンガたちの宇宙にたどり着き、時空を超えて追って来たゼロと久々に再会し、アレーナの洗脳を解こうと奮闘する。
; 『[[ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA]]』
: 時系列的には、『ウルトラマンサーガ』の後の出来事。アスカからの要請で一足早く王立惑星カノンに向かい、ダイナやオーブと共に命の樹を巡る戦いに関わる。本作品では一貫してルナモードのみの登場となる。
; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀]]』
: ゼロと出会った後の時系列であるChapter.1『動き出す陰謀 -The Beginning-』に登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/news/post-5639/|title=『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』豪華声優陣 発表! 新キャラ・アブソリュートタルタロスを諏訪部順一さん、ウルトラマン80を長谷川初範さんが担当|work=円谷ステーション|publisher=円谷プロダクション|date=2020-09-24|accessdate=2020-11-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/galaxy-fight/tac/|title=ULTRA GALAXY FIGHT THE ABUSOLUTE CONSPIRACY 【公式】『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2020-11-09}}</ref>。コスモスペースやフューチャーアースでアブソリュートタルタロスが放つ異常なエネルギー反応を観測し、ジャスティスとともに追跡したところでルーゴサイトを発見し、応戦する80たちに協力する。本作品ではルーゴサイト戦時にスペースコロナモードで初登場した後、フューチャーモードにモードチェンジしている。その後のタルタロス戦ではジャスティスと合体してウルトラマンレジェンドとなっている。
=== 関連する能力を持つ戦士 ===
; ウルトラマンゼロ
: ルナモードの力を宿したルナミラクルゼロ、コロナモードの力を宿したストロングコロナゼロにタイプチェンジする。
; ウルトラマンギンガビクトリー
: コスモスの能力を使用可能。
; [[ウルトラマンオーブ#形態|ウルトラマンオーブ フルムーンザナディウム]]
; [[ウルトラマンジード#形態|ウルトラマンジード アクロスマッシャー]]
; ウルトラマンジード マイティトレッカー
; ウルトラマンジード テトライトクロス
== 主要な組織 ==
=== SRC ===
SRC は '''S'''cientific '''R'''esearch '''C'''ircle (科学調査サークル)の略で、国家間の壁を越え、怪獣や異星人との諸問題を平和的に解決し、調査・研究および救援・保護を行う機関である{{R|HMC56}}。『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』の時は私設[[ボランティア]]団体にすぎなかったが、[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT#伝説薬使獣 呑龍|呑龍]]出現事件と[[バルタン星人]]襲撃事件の後に国連の承認を受け、MITIのスポンサードによって国際的科学調査組織として組織の拡大・再編成が行われた{{R|HMC56}}。
[[北アメリカ]]、[[アラスカ]]、[[南アメリカ]]、[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]、[[北アジア]]、[[南アジア]]、[[オーストラリア]]、[[南太平洋]]に各支部を置き、宇宙開発センターや、鏑矢諸島の怪獣保護管理センターなどの様々な各分野における最先端の関連機関が各地域に設けられている{{R|UPM vol.2812}}。
==== トレジャーベース ====
日本領海内の太平洋上に浮かぶSRCの本部基地である人工島。元々この島は、MITI([[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT#科学調査サークルSRC|水無月工業技術研究所]])の実験・研究施設だったが、組織改革によりSRCの科学力を結集してリニューアルされ、約300人の隊員・職員が勤務するSRCの本部となった。
島の景観は一見、大自然の緑豊かな島のように見えるが、中心部に位置する灯台状のコントロールタワーにはTEAM EYESの司令室やレーダー、[[電波望遠鏡]]やMITIの実験場が設置されている{{R|UPM vol.2812}}。他にも、レストランにカフェ、娯楽施設、医療施設、[[武道場]]などの設備や、科学分析、情報処理、輸送支援、基地整備、医務管理、メカ開発などの様々なセクションがベース内に点在する。
また、島の地下には隊員たちの私室などの居住区やコアモジュール格納庫、ライドメカの整備工場、各メカの発進口に繋がる[[カタパルト]]も完備されていて、このカタパルトは各メカの出撃時に、コアモジュールに前・後部パーツを装着させる作業も兼ねている。島の正面にテックサンダー用の4つの発進口が、海底にシーダイバー用の発進口と日本の首都圏と繋がる海底トンネル『シークレット・ロード』がそれぞれ設けられ、シリーズ中盤以降にはテックブースター用の発進カタパルトが島の中央部に、テックスピナー用の滑走路がテックサンダー用の発進口の両脇にそれぞれ増設された。
一般人向けの見学ツアーも定期的に開かれており、EYESの隊員が1名ずつ交代でガイドを行う。
設定によると、MITIの研究施設だったころにはここでコアテックシステムの最終フライトテストが行われたという。
第13話では、ワロガに送り込まれたレニのバイオチップによって基地機能が一時的にダウンしてしまったり、第19話ではミゲロン星人・レダに司令室を占拠されたこともあった。また、カオスヘッダーに二度襲撃されたこともあり、二度目は基地全体を覆われてしまい、基地内部が酸素不足に陥った。
新生TEAM EYESもこの基地を拠点として活動しているが、司令室のレイアウトは一新されて室内のカラーがブルーからグリーンとなり、大型モニターなどが備わるようになった。
==== TEAM EYES ====
EYESは'''E'''lite '''Y'''oung '''E'''xpert '''S'''quadronの略で、トレジャーベースにのみ配属されているSRCの実働部隊となる特捜チーム{{R|HMC56|UPM vol.2812}}。あくまでも人道的、かつ平和的な事件解決策を模索し、怪獣や異星人のすべてを絶対悪と決めつけず、互いに友好的なコンタクトをはかり、保護を第一に優先することを活動理念とするが、やむを得ない場合は武器の使用も認められている{{R|HMC56|UPM vol.2812}}。
出撃態勢は「コンディションレベル・イエロー」(怪獣保護などの態勢)「オレンジ」(保護と攻撃の両面を考えた中間態勢)「レッド」(攻撃態勢)の3つに分けられる。
怪獣目撃情報や隊員日記などが掲載されている、TEAM-EYES Networkという公式ホームページもインターネット上に存在する。
===== 装備 =====
; EYESセービングスーツ
: 薄いブルーを基調としたツーピース構造の特殊繊維製の隊員服で、耐熱・耐寒性に優れ、[[防水]]・防風効果も高い伸縮自在で外部からの衝撃を吸収する怪獣の保護活動に適した万能服である{{Refnest|group="出典"|{{R|マガジンVOL.233|UPM vol.2815|UPM vol.2830}}}}。履いているブーツの踵には特殊プラスチック弾が内蔵されている。ベルトの左腰にはラウンダーショットのホルスターが携行されているほか、バックルには特殊電波発生装置が内蔵されている。新世代のTEAM EYESのものは濃い青に灰色の配色となり、デザインも大きく変わっているほか、大気圏離脱のための防御機能や耐G機能も追加されている{{R|UPM vol.2819}}。
:* 下に着用する各隊員の色違いのインナーは、プレックスがデザインを担当{{R|UPM vol.2830}}。TEAM SEAのものは非戦闘色が強く、ロケ地がサイパンであることから、涼しげな素材のツーピース構造となっている{{R|UPM vol.2830}}。新世代TEAM EYESは、1度のみしか登場しないため、化学繊維製ではあるが、配色はテレビシリーズから離れすぎないものとなっている{{R|UPM vol.2830}}。
; SRCアーマードベスト
: 作戦時にスーツの上から追加着用する、防弾機能と特殊秘具を備える特殊ベスト{{R|UPM vol.2830}}。
; EYESセービングメット{{R|UPM vol.2815}}
: 隊員たちが作戦時にベストと共に装備するヘルメットで、オリジナルセブンが着用していたものに[[CCDカメラ]]と可動式ヘッドマウント・ディスプレイを装備した最新型となっている。ライドメカの操縦補佐機能や高性能小型通信装置、各種センサーも内蔵している新生EYESの物は、高硬度FRP製でより実戦向きなデザインと機能を備えている。
; EYESジャケット
: 作戦行動時に隊員が着るジャケット{{R|マガジンVOL.233}}。
; EYESキャップ{{R|UPM vol.2815}}
: 危険度が低い活動の際や、シーダイバーに乗る際に隊員が被るキャップ。特に特殊機能などはない。
; ラウンダーショット{{R|UPM vol.2815}}
: EYES隊員が右腰に携帯する小型スーパーハンディショットで、SRC創成期に使っていたラウンダーグリップの発展型である。分析用スキャナーとモニターサイトを搭載しており、状況指示をナビゲートするガイダンスサイト、通信機能を持つコミュニケートサイト、分析機能を持つアナライズサイトの3種類の機能があり、モード切り替えによって各機能を選択する{{R|HMC123}}。また、各種レーザー光線を照射するほか、ガンタイプのカートリッジを装填することで、電磁ネットや実弾を発射するなど、万能銃としての機能を備えている{{R|マガジンVOL.233}}。銃として使う際にガンユニット{{R|UPM vol.2815}}(ストック、バレル、スコープ)を装着することで射程・破壊力がアップする{{R|HMC123}}。第30話では集光機のアタッチメントが装着され、コスモスに光を与えた{{R|TVMAGA88}}。TEAM SEAも機能的に改良され、少々一回り小さくなった同タイプを使っていた。新生EYESの物はグリップ部分とガンタイプのアタッチメントが着脱可能なタイプとなっており、モニターサイトが1つに集約され、通信機能も追加されるなど性能・機能も上がっているが使わなかった。
; EYESペーサー{{R|UPM vol.2815}}
: EYES隊員が携行する腕時計タイプの超小型通信機{{R|HMC123}}。探知器・ナビ・特殊カメラ機能も持ち、コアモジュールのイメージがあしらわれている盤面をずらして使用する{{R|HMC123}}。通常のものはリストペーサー、ヒウラのインカム型はインカムペーサーと呼ばれる。新生EYESのものは多機能型高性能モバイルとして生まれ変わった。
; EYESアタッシュ{{R|UPM vol.2815}}
: サワグチが開発した、個人レベルで怪獣探査できる装備一式と、それらを収めたケース。第17話で初登場。専用アタッシュケースの中に、地球外生命体を見分けるデジタルサーチ、怪獣の好きな特殊な音を出すコスモホイッスル{{R|UPM vol.2815}}、TEAM EYESバッジ、旧式ラウンダーグリップのセットが入っている。
; デジタルサーチ{{R|UPM vol.2815}}
: サワグチが開発した超高性能小型探知機。下部に目の前の相手をスキャン・分析することで地球外生命体であるかどうかを即座に判別する特殊小型カメラを内蔵している{{R|HMC123}}。新生EYESでは腕時計型となっており、EYESペーサーの後継機種となっていた。
; ドイガキ特製強力レーザー砲
: 第7話で宇宙から飛来した箱を開けるためにドイガキが開発し、使ったレーザー砲。
; モニターサングラス
: 第35話でシノブがラグストーンコアの内部を透視するために装着した超小型のCCDカメラが内蔵された特殊グラス。
; シールド発生装置
: 第53話でノワール星人の魔手からアラドスを守った広範囲防御システム。
; 物体ファクシミリ
: 第54話でドイガキが開発した、転送先の空間の分子を再構成して複製を作り上げる機器。タブリスがいる朋友島へ佳奈の分身を造り上げて転送した。
===== ライドメカ =====
:{{機動兵器
|名称=コアモジュール
|全長=10{{nbsp}}m
|全幅=8{{nbsp}}m
|全高=約3{{nbsp}}m
|最高速度=マッハ3
|乗員=3名
}}
; コアモジュール{{R|UPM vol.2816}}
: EYESライドメカ(コアテックシステム)の基礎となる中枢メカ。V・STOL機能を搭載している。非武装。左右に背部が展開することで垂直尾翼が起立し、単独飛行が可能で、機首延長がアタッチメントパーツに応じて可能で、ショートノーズ・ロングノーズの2種類を機体によって使い分けている{{R|HMC60}}。緊急脱出用ポッドとしても機能するが、劇中では脱出に成功した描写が一度もない。職員の移動など単体運用も多く{{R|HMC60}}、SRC本部では10機配備されている。
:{{Clear}}
; テックサンダーシリーズ
: EYESの主力万能航空機。それぞれ2種類ずつある、前部パーツ・後部パーツの組合せにより4タイプが存在。4機共通機能・装備は、完全自動操縦、[[V・STOL]]機能、探査カメラ、音波探知機・レーザーネット、特殊ミサイルランチャー、ブライトレーザー砲(1・4号)、多機能砲(1・3号)、エアインテーク内のレーザー砲(2・4号)、多目的ビーム砲(2・4号)など。怪獣や侵略者の反撃を受けて撃墜されることも多い。
::{{機動兵器
|名称=テックサンダー1号
|全長=28{{nbsp}}m
|全幅=26{{nbsp}}m
|全高=約6.8{{nbsp}}m
|総重量=18.5{{nbsp}}t
|最高速度=マッハ7
|乗員=3名
}}
:; テックサンダー1号{{R|UPM vol.2816}}
:: コアモジュール(ロングノーズバージョン)に、前部A1パーツと、後部A2パーツを換装して完成する、テックサンダー4種の中で最高速を誇る、超高速機動タイプ。高速飛行能力とバランス性・さらに[[ステルス性]]まで兼ね備え、偵察任務を得意とする{{R|HMC60}}。レーザービーム砲やネットミサイル、麻酔弾や抑制弾など各種兵器のほかに、偵察・監視用メカも搭載している。コクピット内の電装は赤色で、主にヒウラ・フブキのペアで搭乗し、操縦はフブキ、管制はヒビキが担当する{{R|HMC60}}。
:{{Clear}}
::{{機動兵器
|名称=テックサンダー2号
|全長=20{{nbsp}}m
|全幅=16{{nbsp}}m
|全高=約8.3{{nbsp}}m
|総重量=19{{nbsp}}t
|最高速度=マッハ3
|乗員=3名
}}
:; テックサンダー2号{{R|UPM vol.2816}}
:: 前部B1パーツと、後部B2パーツをコアモジュール(ショートノーズバージョン)に換装して完成する、救助・保護機タイプで、機動性は他のタイプに劣るが、消火弾発射装置やレーザーネットなど怪獣保護・災害対策の救援活動に有用なハイテクメカを多数装備しており、最も怪獣保護理念に適している{{R|HMC60}}。コクピット内の電装は青色で、主にシノブが搭乗{{R|HMC60}}。
:{{Clear}}
::{{機動兵器
|名称=テックサンダー3号
|全長=28{{nbsp}}m
|全幅=20{{nbsp}}m
|全高=約8.3{{nbsp}}m
|総重量=20.5{{nbsp}}t
|最高速度=マッハ4
|乗員=3名
}}
:; テックサンダー3号{{R|UPM vol.2816}}
:: 前部A1パーツと後部B2パーツ、コアモジュール(ロングノーズバージョン)の組み合わせで完成する、1号のバランスと2号の支援、救助機能を兼ね備えた大型支援タイプで、全シリーズの中で随一のパワーを誇る。コクピット内の電装は黄色で、固有の装備は小型発信機・マーカーショットと特殊ケーブル弾。ドイガキは第6話の時点では本機の操縦を不得意としていたが、同話で見事克服した。
:{{Clear}}
::{{機動兵器
|名称=テックサンダー4号
|全長=20{{nbsp}}m
|全幅=26{{nbsp}}m
|全高=約6.8{{nbsp}}m
|総重量=17.5{{nbsp}}t
|最高速度=マッハ5
|乗員=3名
}}
:; テックサンダー4号{{R|UPM vol.2816}}
:: コアモジュール(ショートノーズバージョン)に、前部B1パーツと後部A2パーツを組み合わせて完成する小型高速機タイプで、小型で小回りが利く仕様で、高いレベルで1号のハイスピード飛行能力と優れた運動性能、2号の救援用装備を両立した万能機である{{R|HMC60}}。コクピット内の電装はオレンジ色で、主にムサシが搭乗し、実質的な専用機としていた{{R|HMC60}}。テックスピナーが完成した後も、極めて実戦での使用頻度が高かった。
:{{Clear}}
; テックスピナー
: テックサンダーの前部パーツにドイガキが将棋の駒からヒントを得て新開発した特殊後部パーツ「SP」を回転装着した発展機体{{R|HMC60}}。カオスヘッダーの対策として、機動性と対カオスヘッダー攻撃性能が向上されている{{R|HMC60}}。SPには、オレンジの表面の「SP-S(Surface・表の意)」と、ブルーの裏面の「SP-R(Reverse・裏の意)」の2種類が存在する。1・2号共通武装・特殊装備はブライトレーザーDなどを発射する多機能ビーム砲、3連装ミサイルランチャー、レーザーラック。劇中に登場しなかったが、設定ではテクノプラズマSIIエンジンを搭載した3・4号も存在する。『[[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]』では宇宙用のテックスピナーKS-1が登場。
::{{機動兵器
|名称=テックスピナー1号
|全長=33{{nbsp}}m
|全幅=30{{nbsp}}m
|全高=約12.4{{nbsp}}m
|総重量=21{{nbsp}}t
|最高速度=マッハ9
|乗員=3名
}}
:; テックスピナー1号{{R|UPM vol.2816}}
:: テックサンダーのA1パーツと、SP-Sをコアモジュールに換装して完成する、機動性と安定した超高速飛行に優れ、新たに「救助・支援」機能が追加された超高速機動強化タイプ{{R|HMC60}}。サブバーニアを尾翼に装備しているため、超高速飛行が要求されるミッションで、出撃することが多かった。コクピット内の電装はサンダー1号と同じ赤色。主にフブキが搭乗する。
:{{Clear}}
::{{機動兵器
|名称=テックスピナー2号
|全長=25{{nbsp}}m
|全幅=30{{nbsp}}m
|全高=約9.6{{nbsp}}m
|総重量=20{{nbsp}}t
|最高速度=マッハ6
|乗員=3名
}}
:; テックスピナー2号{{R|UPM vol.2816}}
:: テックサンダーのB1パーツと、SP-Rを換装して完成するサンダー2号以上の救助・保護機能と飛行速度や旋回性能を発揮する捕獲・支援タイプ{{R|HMC60}}。コクピット内の電装はサンダー2号と同様の青色で、固有装備はソアッグビーム砲、強大な破壊力を持つヴィクトランジャー。主にシノブが搭乗する。
:{{Clear}}
:; テックスピナー3号
:: テックサンダーのA1パーツと、SP-Rを換装して完成する「最強形態型」。本編では一度も登場していない。
:; テックスピナー4号
:: テックサンダーのB1パーツと、SP-Sを換装して完成する小回りの利く「データ収集型」。3号同様に、こちらも本編では一度も登場していない。
:{{機動兵器
|名称=テックブースター
|全長=30{{nbsp}}m
|全幅=28{{nbsp}}m
|全高=約14.5{{nbsp}}m
|総重量=29.5{{nbsp}}t
|最高速度=時速1,000万{{nbsp}}[[キロメートル|km]]
|乗員=9名
}}
; テックブースター{{R|UPM vol.2816|マガジンVOL.325}}
: SRC宇宙開発センターの木本研作博士がコアモジュールを基盤にして設計開発した大型宇宙艇タイプのコアテックシステム機{{R|HMC60}}。センターコア、ライトコア、レフトコアの3機から構成され、それぞれにコアモジュールが配されている。各コアモジュールは宇宙仕様超耐圧殻・スーパーストロールでコーティングされた宇宙用防御キャノピーとなっている。テクノプラズマキネティックシステムを搭載したテクノプラズマエンジンにより、太陽系内の目的地なら地球から短時間で到達する超高速宇宙航行が可能となる。光線砲'''ディレクトルビーム'''、ミサイルや威嚇弾など各種特殊弾を発射する多目的砲、センターコア下部のミラージュシールド照射機、対地ミサイル発射機、レフト・ライト両コア下部の大型特殊マニピュレーター・グラップアームなど、豊富な武装・特殊装備を持ち、怪獣への保護と攻撃それぞれに対応する。また、レフト・ライト両コアは本体から分離してモジュールファイターとして単独運用・無人航行も可能{{R|HMC60}}。第64話で両コアにカオスキメラを満載して、カオスヘッダーの出現ポイントである宇宙座標P87ポイントへと発射する作戦が発案され、最終的に月面でコスモスを追い詰めるカオスダークネスに放たれ大ダメージを与えた。
; テックダイバー
: 極地用万能探査メカ。[[ジェットエンジン|ジェット推進装置]]を装備した後部パーツ・Dユニットは共通。
::{{機動兵器
|名称=ランドダイバー
|全長=22{{nbsp}}m
|全幅=16{{nbsp}}m
|全高=約5.8{{nbsp}}m
|重量=24{{nbsp}}t
|最高時速={{Plainlist|
* 243{{nbsp}}km(地上)
* 479{{nbsp}}km(地中)
}}
|乗員=2名
}}
:; ランドダイバー{{R|UPM vol.2816}}
:: パワードリルを装備した前部パーツ・C2ユニットと、Dユニットをコアモジュール(ショートノーズバージョン)に装着して完成する地上・地中活動用のテックダイバー{{R|HMC60}}。ドリルで地中を掘り進み、地上でも高性能機動車として活動する地底ドリルタンク。武装・特殊装備は、ドリル先端から照射する削岩用の超熱線・ダイバーレーザー{{R|HMC60}}とプラズマシールド発生機、コクピット下部左右にある3連装の砲門から発射するブロウビーム・ローレクションW・アンダーグランダー、高性能探査カメラや音波探知機である。
:{{Clear}}
::{{機動兵器
|名称=シーダイバー
|全長=22{{nbsp}}m
|全幅=(翼長)16{{nbsp}}m
|全高=約8{{nbsp}}m
|重量=19.5{{nbsp}}t
|最高時速={{Plainlist|
* 610{{nbsp}}km(水上)
* 285{{nbsp}}[[ノット|kt]](水中)
}}
|乗員=2名
}}
:; シーダイバー{{R|UPM vol.2816}}
:: コアモジュール(ショートノーズバージョン)にマニピュレーターを装備した前部パーツ・C1ユニットとDユニットを装着して完成する水上・水中活動用のテックダイバー{{R|HMC60}}。舷側底部に酸素タンクを積載し、最大水深2万メートルまで潜水可能な特殊潜航艇。プラズマシールド発生機の他、視覚探信光弾・ビジュアル・ピンガー{{R|HMC60}}や、水中望遠レンズ・バンウォッチャーを内蔵した水中探査カメラ、電波探知機、コクピットには緊急用の酸素ボンベなどを装備し、武装は左右2門の魚雷発射口から放つ魚雷とエネルギー光弾・ゲットクーパー。『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』では改良型のマリンダイバーが登場。
:{{Clear}}
:{{機動兵器
|名称=シェパード
|全長=5.1{{nbsp}}m
|全幅=約1.7{{nbsp}}m
|最高時速=520{{nbsp}}km/h
|乗員=4名
}}
; シェパード{{R|UPM vol.2816}}
: EYESが追跡や調査などで外出時に用いられる地上パトロールおよび追跡用の超高速特殊自動車{{R|HMC60}}。複数台存在し、トレジャーベースから首都圏に繋がる海底トンネル・シークレット・ロードを通って出動する。武装はないが、外敵から車体と運転者を守る防衛用のプラズマシールド発生機や、偵察・探査機器を搭載している{{R|HMC60}}。[[ホンダ・インサイト]]がベース{{Sfn|円谷プロ図録|2013|p=141}}{{R|マガジンVOL.233}}。
:* 第41話では合成によって2台に増やしている{{R|TVMAGA88}}。
:{{Clear}}
; 猫じゃらしマシン{{R|UPM vol.2816}}
: 第11話でアヤノが「猫じゃらし大作戦」を行うために、SRC施設部門から借用してきた巨大メカ。上部に猫じゃらしを持った「カエルの騎士」を模ったモニュメントが乗っている。途中で壊れてしまい、ムードンの鼻に猫じゃらしがはまり、くしゃみで周りのアヤノら隊員たちと一緒に大きく吹き飛ばされた。
:{{機動兵器
|名称=コアモジュールSS
|全長=10{{nbsp}}m
|全幅=8{{nbsp}}m
|全高=約3{{nbsp}}m
|最高速度=マッハ3
|乗員=1名
}}
; コアモジュールSS{{R|UPM vol.2817}}
: SRCで主に移動手段として使っている小型VTOL機で、SS(シングルシーター)の名のとおり単座式のコクピットであることと青色であること、コアテックシステムが搭載されていないことが通常のコアモジュールとの違いである。第1話でムサシが乗ってリドリアスを追ったが、カオスリドリアスの光線を受けて破壊された。
:{{Clear}}
; 探査船ワルツ{{R|UPM vol.2817}}
: SRC宇宙開発センター・探査部が所有する宇宙船。第21話で1号機にミツヤが乗って遊星ジュランを探査活動したが、カオスヘッダーに襲われ破壊された。その後第55話ではジェルミナIIIと地球を結ぶ定期ロケットの2号が、第63話では3号が登場し、後者にはミツヤが再びこれに乗って太陽系外縁から鉱石を持ち帰った{{R|HMC60}}。
:* ミニチュアは『[[ウルトラマンティガ]]』のロムルス号の改造{{Sfn|円谷プロ図録|2013|p=92}}。
; 気球{{R|UPM vol.2817}}
: SRCがミーニンをガモランIIの下へ移送する際に使用した、特殊な気球。
; テック00{{R|TVMAGA88}}
: 第35話に登場したテックスピナーのテスト機。
==== その他の施設・機関 ====
; 鏑矢諸島・SRC怪獣保護管理センター
: 鏑矢諸島の大自然には広大な怪獣保護区域が造られ、上空から海底まで、保護した怪獣たちを逃がさないための電磁シールドが鏑矢諸島全体に張り巡らされている。SRC怪獣保護管理センターは、怪獣保護地区全体の管理を行っている。センターのロゴマークには『[[ウルトラマンティガ]]』に登場した怪獣[[ゴルザ]]が使われている。
; SRC宇宙開発センター
: 宇宙全般に関わる調査研究、[[宇宙飛行士|アストロノーツ]]の育成、[[宇宙船]]や[[宇宙ステーション]]などの宇宙活動用メカ開発など宇宙に関する様々なことに携わるセクション{{R|HMC56}}。宇宙ロケットの乗船ターミナルや発着場が広大な敷地にあり、宇宙ステーションとの往来が可能である{{R|HMC56}}。
; ジェルミナIII{{R|UPM vol.2817}}
: SRC宇宙開発センターの人類初の本格的居住型宇宙ステーションで、[[カタツムリ]]の殻のイメージがあしらわれている。建設クルーからは愛情と誇りを込めて「時の娘」という愛称で呼ばれていた{{R|HMC60}}。なお建設中の事故で、クルーの一人であるレニ・クロサキが宇宙装備をしていないまま宇宙空間に放り出され、行方不明になって死亡するという悲劇もあった。一時建設が中断されたが、劇場版第3作ではセリフ上のみだが2009年に完成したジェルミナIV(4)が登場している。
; SRC関連研究機関
: 第17話に登場した、サワグチが勤務する研究施設。一時的にギギに占領された。
:* {{要出典範囲|研究機関の内部は『[[ウルトラマンガイア]]』の終盤に登場したジオベースの司令室の流用。|date=2021年7月}}
; SRC特殊医療基地
: ポイントHH-7付近にある医療施設。第31話ではカオスクレバーゴンが、ここの立体駐車場に停めてあった自動車を大量に奪って体内に取り込み、第48話ではワロガとの総力戦で負傷したEYESと防衛軍双方の隊員たちを収容し野戦病院と化した。
; SRC高濃度エネルギー貯蔵システム
: 第31話で、カオスクレバーゴンがエネルギーを奪おうとした施設。
; SRC研究施設
: 第38話に登場した、高純度エネルギーの貯蔵プラントを持つ施設で、ここへ落下してきたヘルズキングにエネルギーを全て抜き取られた。
; SRC科学分析センター
: 第59話に登場した施設で、ドイガキとハズミがカオスキメラを合成する研究をここで行っていた。2人が退避した後、カオスウルトラマンカラミティに破壊された。
; SRCバイオケミカルセンター
: ドイガキとハズミがカオスキメラの合成研究を続行した研究施設。第60話に登場。
; TEAM SEA
:※ [[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]参照
=== 統合防衛軍 ===
日本国内を外敵から守る防衛組織。略称はJADF。人類に害をなすものは全て排除しようとするため、TEAM EYESとはたびたび対立しているが、互いに協力する時もある。都内某所に広大な駐屯地を有する<ref>『[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT]]』より。</ref>。
==== メカニック・兵器 ====
; 主力戦闘機{{R|UPM vol.2817}}
: 機銃や各種ミサイル兵器などの攻撃性能を重視した主力戦闘機{{R|HMC60}}。改良型のJKも存在するが、形状はほぼ同一。数十機配備されており、スピードと運動性能にも優れるが、防御性能は重視されていないため、撃墜されることが多い{{R|HMC60}}。複数機で編隊を組み、敵を攻撃する戦術はまったく変わっていない。
; 防衛軍戦車
: 主にベンガルズが運用する[[90式戦車]]。強力な砲弾を発射する120ミリクラスの滑空砲を備える。デザートカモフラージュが施してある{{R|UPM vol.2817}}。
; バーニングミサイル
: イフェメラ攻撃に使用された新型ミサイル。[[巡航ミサイル]]に近い兵器だが、着弾の邪魔をする敵を熱感知してレーザーで無差別攻撃をする[[無人攻撃機]]に近い迎撃ビームシステムを搭載している{{R|HMC60}}。三発発射され、フブキのテックサンダーの排熱に誘導されコスモスに破壊されたが、残った一発がイフェメラに命中してしまった{{R|HMC60}}。
; 旧軍事衛星アンジェリカ{{R|UPM vol.2817}}
: 第19話に登場した、耐用年数を過ぎており、「地球平和宣言」により宇宙に廃棄処分された軍事レーザー衛星{{R|HMC60}}。完全に解体されていなかったため、自動迎撃プログラムが誤作動を起こし、ミゲロン星人の宇宙船へレーザーを放って撃墜してしまった{{R|HMC60}}。後にミゲロン星人・レダに操られ、ジェルミナIIIに激突しそうになるが、改心したレダのコントロールで回避され、コスモスが放ったメルティングウエーブで消滅した。後にサンドロス出現を受け、新たな宇宙軍事惑星が2013年に再配備される。
; CHARGERS戦闘機
: 教導部隊CHARGERSが運用する戦闘機{{R|HMC60}}。ミサキ・アイやシノブ、フブキも搭乗していた{{R|HMC60}}。ギラッガス戦では再びシノブが搭乗した{{R|HMC60}}。
; 超高性能ミサイル
: 第21・22話に登場した防衛軍が用意した超大型ミサイルで、地球の衝突軌道に乗った遊星ジュランに対し、発射準備が整えられていた。だが、コスモスとEYESによって軌道が修正されたため、発射されずに終わった{{R|HMC60}}。
:* {{要出典範囲|ミサイルと発射施設の映像は『[[ウルトラマンガイア]]』に登場したワームジャンプミサイルの映像の流用。|date=2021年7月}}
; ダビデス909
: 防衛軍に所属していたころのハズミが怪獣に対しての免疫細胞の研究中に偶然に生まれた副産物を、西条の号令の下で研究を繰り返して発展させて完成した怪獣殲滅兵器{{R|HMC60}}。防衛軍戦闘機に搭載されて運用されるが、照準は地上施設から行われる。撃ち込んだ際の衝撃で弾頭が炸裂し、瞬時に怪獣の細胞核を破壊して細胞レベルで死に至らしめるという中型ミサイルで{{R|HMC60}}、これを喰らったマザルガスは最終的に死亡してしまった。
; 防衛軍テストエリア
: 第61話に登場。ミサイルや強力なビーム砲が配備されている新兵器試験場で、ヘルズキング改の能力テストが行われた。
; ヘルズキング改
: 詳細は『[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#対カオスヘッダー殲滅兵器 ヘルズキング改]]』を参照。
==== 関連施設 ====
防衛軍の施設は、劇中のセリフの中でしか出てこないものも少なくない。
; [[秘密基地]]
: S-2エリアにある防衛軍の基地。第25話でここの上空にグインジェが出現した。
; 開発工場
: 第32話に登場。[[産業廃棄物]]である化学汚染物質を地下水脈に垂れ流していた施設。その結果ゴルメデβが凶暴化してしまった。
; 第二警戒管制施設
: 第33話に登場。この付近一帯には電磁シールドが張り巡らされており、出現したネルドラントが電磁シールドに触れて負傷してしまった。
; 鷹平天文台
: 第48話でワロガからの出現予告電波をキャッチした施設。
; 弾薬倉庫
: 第51話に登場。カオスヘッダーが自らを狙っているマザルガスをここへ誘導した。
== キャスト ==
=== レギュラー・準レギュラー ===
* ムサシ:[[杉浦太陽]]
* ヒウラ:[[嶋大輔]]
* シノブ:[[坂上香織]]
* フブキ:[[市瀬秀和]]
* ドイガキ:[[須藤公一]]
* アヤノ:[[鈴木繭菓]]
* イケヤマ:[[市川兵衛]]
* 新見あづさ:[[小牧かやの]](第8・13・14・20話)
* 吉井ユカリ:[[堀江奈々]](第10・34・46・63・64話)
* 石井:[[石井浩]](第14・25・48・58話)
* ミツヤパイロット:[[高橋一生]](第21・22・63話)
* カワヤ医師:[[影丸茂樹]](第25・31・35・41・43・47・48・50・58・65話)
* 佐原司令官:[[須藤正裕]]
* 宍倉副司令官:[[大城英司]]
* 西条武官:[[奈良坂篤]]
* アヤノ(少女時代):[[近内里緒]](第8・24・45話)
* ベンガルズ隊長・岡:[[おかひでき|岡秀樹]]{{efn|name="cameo"|[[カメオ出演]]。}}(第14・25・48話)
* ハズミ科学主任:[[筒井巧]](第51・59 - 62話)
* ナレーター:[[磯部弘]]
=== 主なゲスト出演者 ===
カッコ内の数字は登場話数。
* 少年時代のムサシ:[[東海孝之助]]{{efn|映像は映画第1作からの流用。}}(第1話)
* 避難民:岡秀樹(第1話){{efn|name="cameo"}}
* コアモジュールパイロット:三村賢一(第2話)
* 新岡英樹:若林衛(第3話)
* 飯島秋子:杉山久美子(第3話)
* 怪獣保護管理センター職員:松橋美奈(第3話)
* 仲澤篤史:[[永川謙]](第4話)
* 土谷竜也:伊織大昌(第4話)
* 井本尚子:今川麻里(第4話)
* 村人:島本ひと之(第5話)
* 少年時代のフブキ:[[荒井賢太]](第5・12話)
* ドイガキの両親:[[三田村賢二]]、[[上杉二美]](第6話)
* ドイガキの少年時代:柿本祐貴(第6話)
* ソウスケ:[[大澤佑介]](第7話)
* ショウコ:古川茉由(第7話)
* ヒロ:[[村野友希]](第7話)
* 島津職員:[[川俣しのぶ]](第7話)
* ソウスケの両親:[[岡村洋一]]、[[蜷川みほ]](第7話)
* 子供:赤山貴大、植木美結、塩月瑞葉、額賀黛士、[[三遊亭愛九|沼田和紘]](第7話)
* 大森登:[[森下じんせい]](第8話)
* 前田幸広:[[多賀基史]](第8話)
* 少年:[[内山昂輝]]、[[小池城太朗]](第8話)
* 岩田裕一:[[木崎大輔]](第9話)
* 康祐の父:[[隈井士門]](第9話)
* 岩田康祐:[[石橋保]] / 子供時代:[[半澤昇|半沢昇]](第9話)
* 研究員:小林宗充(第10・34話)、早乙女修一(第10話)
* 橋本和彦主任:[[河田義市]](第11話)
* 工事作業員:[[芸利古雄]]、本田剛四郎(第11話)
* 白い服の少女:小井沼愛(第12話)
* フブキ・サヤカ:[[今泉野乃香]](第12話)
* レニ・クロサキ:[[三輪ひとみ]](第13・14話)
* 本田広子:広啓子(第13・14話)
* 関教授:[[吉見純麿]](第13・14話){{efn|第14話はノンクレジット。}}
* 防衛軍特殊部隊隊員:[[岩崎晋弥]]、田辺信彦、森英二(第14話)
* フブキの対戦相手:[[那波隆史]](第15話)
* 審判:村田鉄信(第15話)
* 立花茜:[[高畠華澄]](第16話)
* 野田浩太:[[落合モトキ|落合扶樹]](第16話)
* 浩太の父:[[渡辺寛二]](第16話)
* 茜の母:[[今井あずさ]](第16話)
* 浩太の友達:[[島原英希]](裕二)、[[寺門仁美]](奈々子)(第16話)
* サワグチ女史:[[原久美子]](第17・44・55話)
* 助手:戸田知新(イダ)、望月二郎(タナカ)(第17話)
* 竹越真一:[[黒田アーサー]](第18話)
* 竹越みどり:[[盛内愛子]](第18話)
* 役人:[[松澤仁晶]](第18話)
* 村人:[[高尾一生]]、[[代田勝久]]、[[成瀬労]](第18話)
* アナウンサー:須賀友之(第18話)
* 竹越の部下:[[小椋毅]](第18話)
* ミゲロン星人:[[小松拓也]](レダ)、永塚由紀子(レカ)(第19話)
* 警備員:小宮啓志、田辺信彦(第19話)
* 見学客:青山季未(第19話)
* 彼氏{{R|TVMAGA88}}:[[岡野弘之]](第19話)
* 木本研作博士:[[藤村俊二]](第20話)
* 研究員:[[藤真秀]]、[[昌浦龍男]](第20話)
* 防衛軍オペレーター:[[三宅正信]](第21・22話)
* 三条寺カスミ:[[清水真実]](第23・41話)
* 教授:[[鶴田東]](第23話)
* 屈強な警備員:[[二家本辰巳]](第23話)
* トコロ研究員:[[所博昭]](第23話)
* 女子大生:木村有里{{efn|[[木村有里|1948年生の女優・声優]]と別人。}}(第23話)
* 鷹村教授:[[江藤潤]](第23話)
* 高杉純:[[上條誠]] / 少年時代:西山陸(第24話)
* 高杉妙子:[[橋本晶子]](第24話)
* 藤堂ちか:[[渡辺文香]](第24話)
* 神宮写真館・店主:[[武川修三]](第24話)
* 運転手:[[浜近高徳|濱近高徳]](第24話)
* スレイユ星人ラミア:[[ベッキー]](第25話)
* 若者:[[戸室政勝]]、保谷一(ヒロシ)、[[三戸部貴彦]](第25話)
* 狩野良一:[[頭師佳孝]](第26話)
* 狩野美和:[[石浜加奈恵]](第26話)
* 狩野正太:くぼかんじ(第26話)
* 若者:[[江藤大我]](コウジ)、[[竹島正義]](アキオ)(第26話)
* カップル:[[栗原みぃか|栗原みいか]](ノリコ)、[[渡辺慎一郎]](ケンジ)(第26話)
* 若者たち:[[東真彌]]、高田瑞紀、[[浦島三太朗|浜島直人]]、[[比企しのぶ]](第27話)
* 女性ディレクター:[[柚木佑美]](第28話)
* TVスタッフ:佐々木彰司、達川竜司(第28話)
* ショージ:新田亮(第29・30話)
* ユウキ:[[佐藤慶季]](第29・30話)
* SRC宇宙開発センター職員:[[浅木信幸]]、望月明広、町田英祐(第29・30話)
* SRC修理工:[[川嶋秀明]](第31話)
* ナガレ・ジュンヤ:[[正木蒼二]](第33・62話)
* ナガレ・ミユキ:相場梢(第33話)
* 釣り人:[[矢田有三]](第34話)
* 早紀:[[奏谷ひろみ]](第35話)
* 駐在:[[飯島大介]](第36話)
* 青年団:高見周、[[吉田祐健]](第36話)
* サクラ:[[蓮沼藍]](第36話)
* イチロー:深川雄太(第36話)
* ケント:鈴木賢人(第36話)
* ジュンペイ:[[小田惇平]](第36話)
* 長老:[[松村彦次郎]](第36話)
* 奥日高村町長:[[足立建夫]](第36話)
* 運送業者:[[市野龍一]](第36話)
* 看護婦:[[白井弓子 (女優)|白井弓子]](第36話)
* 草野忠雄:[[赤星昇一郎]](第38話)
* 草野香織:広瀬もえ(第38話)
* 警官:[[藤原鉄苹]](第38話)
* 草野和代:[[鈴木ひろみ]](第38話)
* スーパー店長:[[倉持武弘]](第38話)
* 竹内:[[鮪男|川倉正一]](第39・40話)
* エクステル星のアンドロイド:[[杉崎浩一]](第41話)
* グリーンベルト星の人型宇宙植物生命体:水谷悦子(第41話)
* 原看護婦:[[湯田美由紀]](第41・48話)
* 堀村俊司:高橋寿緒(第42話)
* ソル:清水佑樹(第42話)
* 空方村ロケットボーイズ&ガールズの一員:[[尾崎光洋]]、[[サワミオリ|増岡未央]](河合洋子)(第42話)
* ソルの父:[[渡辺航]](第42話)
* 一宏:森翔吾(第42話)
* 黒装束の男(ノワール星人):ボブ鈴木(第43話)
* 村上こうだい:[[今野雅人]](第45話)
* 村上哲平:[[渋谷哲平]](第45話)
* 村上遥:鈴木晴香(第45話)
* 防衛軍隊員:[[武井秀哲]]、[[樋口靖]]、平野郁也(第45話)
* TVアナウンサー:[[井上浩 (俳優)|井上浩]](第45話)
* 防衛軍参謀:[[石井てるよし]](第45話){{efn|name="cameo"}}
* 山野 / キュリア星人:[[角田英介]](第46話)
* 村人:[[咲野俊介]]、[[嶋崎伸夫]]、[[永幡洋]]{{efn|永'''畑'''洋と誤記。}}(第46話)
* ミサキ・アイ / 赤い服の女:[[石橋奈美]](第47・58話)
* 警備員:[[本多隆二|本多隆]](第47話)
* 牛島班長:[[加賀谷圭]](第48話)
* 山崎:[[市村直樹]](第48話)
* 山井英夫:[[酒井敏也]](第50話)
* 岡田:[[佐久間哲]](第50話)
* 佐伯刑事:[[六角精児]](第50話)
* ペットショップ店主:[[山下澄人]](第50話)
* 刑事:[[青柿ひろし]]、[[河合良輔]](第50話)
* コイシス星人ジュネ:[[神崎詩織]](第52話)
* 守沢佳奈:高田知里(第54話)
* 少女時代の佳奈:村上和(第54話)
* 佳奈の母:[[落合ひとみ]](第54話)
* アナウンサー:大塚文雄{{efn|[[大塚文雄|1940年生の民謡歌手]]と別人。}}、倉ゆう子(第54話)
* 少女:秋本眸(第55話)
* 宇宙開発センター従業員:三宅正信(第55話)
* 敬造:[[岡部健]](第56話)
* 正一:[[きくち英一]](第56話)
* 村田刑事:[[友金敏雄]](第56話)
* 取川村の村人:[[大木史朗]]、[[中島元]]、[[村石宏實]]{{efn|name="cameo"}}(第56話)
* 駐在:[[カンカラ#メンバー|入山学]](第56話)
* チンピラ:[[岩田有弘]](ケン)、[[近田慎太郎]](コウ)、[[袴田裕幸]](タカシ)、[[成本玲子]](ナオ)(第56話)
* トマノ老人:[[天本英世]] / 青年時代:[[木村方則]](第57話)
* 暁:[[恭平|大山恭平]](第57話)
* 戸間乃の妻:[[古海裕子]](第57話)
* 戸間乃の息子:[[髙橋郁哉]](第57話)
* 暁の友達:伊織大昌(第57話)
* 青い服の男:[[川本淳市]](第58話)
* 警備員:二家本辰巳(第58話){{efn|ノンクレジット。}}
* ジェルミナIIIのクルー:[[五藤圭子|五藤悠有菜]](第59話)
* SRC研究員:[[佐藤太三夫]]、[[山田裕]](第59話)
* 研究員:[[飯尾英樹]]、[[大西武志]](第61話)
* トレジャーベース修理工:浅倉つとむ、[[島津健太郎]](第64話)
=== 声の出演 ===
* ウルトラマンコスモス:[[佐藤佑暉|佐藤浩之]]
* カオスヘッダー:[[服巻浩司]]
* イゴマス:[[石井浩]](第4話)
* TVアナウンサー:磯部弘(第6話)
* ギギ:[[遠藤守哉]](第17話)
* 戀鬼:[[青山美帆]]、[[勝亦蓮|勝亦正]](第18話)
* コンピューター音声:[[浦和めぐみ]](第19話)
* クレバーゴン:[[桜井浩子]](第29・31・44話)
* ソル:[[摩味]](第42話)
* ノワール星人:[[稲田徹]](第43・53話)
* ギギ・ドクター:遠藤守哉(第44話)
* ムゲラ:[[嶋方淳子]](第45話)
=== スーツアクター ===
※参考文献:『テレビマガジン特別編集ウルトラマンコスモス』([[講談社]]・[[2003年]])
* ウルトラマンコスモス:[[猫俣博志]]、[[寺井大介]]
* ウルトラマンコスモス、カオスウルトラマン、カオスウルトラマンカラミティ:益田康弘
* ウルトラマンコスモス、怪獣・宇宙人:[[岡野弘之]]
* カオスダークネス、その他の怪獣・宇宙人:[[三宅敏夫]]
* 怪獣・宇宙人:[[永田朋裕]]、[[横尾和則]]、福岡まどか、森英二、勝亦正、太田智美、[[山本諭]]、小宮啓志
== スタッフ ==
* 製作:[[円谷一夫]]
* 監修:[[高野宏一]]
* 企画:[[満田かずほ]]、[[丸谷嘉彦]]、森本正博
* プロデューサー:[[渋谷浩康]]、小山信行、[[諸冨洋史]](第1 - 26話)、丸谷嘉彦(第27 - 65話)
* サブプロデューサー(営業):[[竹田青滋]](クレジットなし)
* 技術監督:[[大岡新一]](第1 - 34話)
* シリーズ構成:江藤直行
* 監督:[[北浦嗣巳]]、[[根本実樹]]、[[原田昌樹]]、[[市野龍一]]、[[小中和哉]]、[[村石宏實]]、[[八木毅]]、[[石井てるよし]]
* 特技監督:[[佐川和夫]]、原田昌樹、村石宏實、八木毅、北浦嗣巳、[[髙野敏幸]]、[[鈴木健二 (特撮監督)|鈴木健二]]
* 脚本:[[大西信介]]、[[長谷川圭一]]、[[川上英幸]]、[[増田貴彦]]、[[武上純希]]、[[西園悟]]、[[太田愛]]、[[梶研吾]]、[[林壮太郎]]、[[荒木憲一]]、[[右田昌万]]、[[前川淳 (脚本家)|前川淳]]、[[山本優]]、[[鈴木智]]
* CGI:円谷プロCGIルーム、[[渡部健司]]
* 音楽:[[蒔田尚昊|冬木透]]
* 殺陣:[[車邦秀]]
* メカニカル & アイテムデザイン:[[プレックス]]
* 車両協力:[[本田技研工業]]
* 製作協力:[[ジェイアール東日本企画]](クレジットなし)
* スタント:真木仁(第2話)
* 方言指導:浜田光一(第6話)
== 音楽 ==
=== 主題歌 ===
歌詞字幕:あり
[[毎日放送制作土曜夕方6時枠のアニメ]]作品において、オープニング・エンディングを同一歌手が歌った作品は本作品が最後となっている{{efn|後継の[[毎日放送制作日曜夕方5時枠のアニメ|日曜5時枠アニメ]]でもOP・EDを一貫して同一歌手が歌った作品は現時点で存在していない。}}。また、土6枠作品でOP・EDにおける歌詞字幕表示およびオープニング曲の放送期間が1年を超えたものは本作品が最後である。
本作品で初めて[[Project DMM]]がテレビシリーズの主題歌を担当した。以降は『[[ウルトラマンマックス]]』、『[[ウルトラマンメビウス]]』も担当する。
; オープニング主題歌「Spirit」
: 作詞:[[松井五郎]] / 作曲:[[KATSUMI]] / 編曲:[[小西貴雄]] / 歌:Project DMM
: オープニング曲名がヒーロー名と同じではないのは『[[ウルトラマンティガ]]』の「[[TAKE ME HIGHER]]」([[V6 (グループ)|V6]])以来である。
: 第3、20、33、44、46、59、最終話では挿入歌として使用された。
; エンディング主題歌
:; 「ウルトラマンコスモス〜君にできるなにか」(第1話〜第41話、最終話、特別総集編2)
:: 作詞:松井五郎 / 作曲:[[鈴木キサブロー]] / 編曲:[[京田誠一]] / 歌:Project DMM
:: 曲名に番組タイトルが入っているエンディング。劇場版でもこの曲が2回主題歌となった。
:: 第24話では、出演者によって劇中で歌われている。
:; 「心の絆」(第42話{{efn|当初は第41話からエンディング主題歌になる予定だった。}}〜第64話、特別総集編1)
:: 作詞・作曲:KATSUMI / 編曲:[[大門一也]] / 歌:Project DMM
=== 挿入歌===
; 「Touch the Fire」(第16、17、22、26、28、35、40、51話)
: 作詞:KATSUMI / 作曲・編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
: 第17、35話ではインストゥルメンタル版と併用して使用された。
; 「僕達のエネルギー」(第36、52、56話)
: 作詞・作曲・編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
: 第36話ではインストゥルメンタル版と併用して使用された。
; 「ワンダバ チームEYES」
: 作曲・編曲:冬木透 / コーラス:Project DMM
: ショートバージョン(劇伴扱いでサウンドトラックアルバム第1巻に収録)とロングバージョン(ソングコレクションに収録)の2種類が存在する。
; 「ECLIPSE」
: 作詞・作曲:KATSUMI / 編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
; 「光の伝説」
: 作詞・作曲:KATSUMI / 編曲:京田誠一 / 歌:Project DMM
; 「Christmas for everyone」
: 作詞:KATSUMI / 作曲・編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
; 「Never Stop Dream」
: 作詞・作曲:[[松原剛志]] (Project.R) / 編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
; 「Can We Live? 〜手をとりあって〜」
: 作詞:KATSUMI / 作曲・編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
; 「JAST A HERO」
: 作詞・作曲・編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
; 「Power of Love」
: 作詞・作曲・編曲:大門一也 / 歌:Project DMM
== 放送データ ==
* 放映開始:2001年(平成13年)7月7日
* 放映休止:2002年(平成14年)6月15日 - 2002年(平成14年)7月13日
* 放映終了:2002年(平成14年)9月28日
* 製作:[[毎日放送]](MBS)
* 放送:[[TBSテレビ|TBS]]系
放送開始日の[[7月7日]]は[[円谷英二]]の誕生日であり、2001年は生誕100周年の年でもあった。
=== 主演俳優誤認逮捕とその影響 ===
2002年[[6月8日]]の第49話放送後、主演の杉浦氏が本作品放映開始前の2000年に起こった[[傷害]]・[[恐喝罪|恐喝]]事件の[[被疑者]]として[[逮捕]]された。そのため、結末を放送しないまま番組がいったん打ち切られ、第59・60話と第63 - 65話を再編集した総集編が「特別総集編 前・後編(「コスモス最大の危機」と「コスモス最後の戦い」)」の形で2002年[[6月22日]]と[[6月29日]]に放送された。
その後、傷害については[[被害者]]が「事件の一部を虚偽と認める陳述書」を提出したため[[不起訴処分]]に、恐喝についても[[起訴猶予処分]]となり、事態は法的に決着した。これを受けて、同年[[7月20日]]より放送は再開された{{efn|同時ネット地域では、オープニングの前に杉浦によるメッセージが放送された{{R|TVMAGA88}}。}}。ただし、放送期間があらかじめ定められていたため、撮影自体は終了していた5回分(第50・52・54・56・58話)を間引いての放送だった。放送休止期間中には、アニメ映画『[[ウルトラマンM78劇場 Love & Peace]]』、上記の特別総集編、オリジナルビデオ作品『[[ウルトラマンネオス]]』が放送された。毎日放送プロデューサーの[[丸谷嘉彦]]は、特別総集編1を放送した段階で放送再開の可能性が出てきたため、特別総集編2の時点では[[番組表#記号|テレビ欄の「終」マーク]]を意図的につけなかったと証言している<ref>{{Cite journal |和書|date=2002-11-01 |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.103 |issue=(2002年11月号) |publisher=[[朝日ソノラマ]] |pages=84-85 |title=ウル魂 「ウルトラマンコスモス」毎日放送プロデューサー [[丸谷嘉彦]]インタビュー |id=雑誌コード:01843-11 }}</ref>。
未放映となった5本は[[2003年]]3月28日にビデオとDVDとしてリリースされた『ウルトラマンコスモス スペシャルセレクション』(全2巻)に前述の「特別総集編 前・後編」とともに収録され、1巻には3本と「特別総集編 前編」、2巻には2本と「特別総集編 後編」と新編集の特別企画「ムサシの青春」(構成・演出:秋廣秦生)が収録された。また、TBSチャンネルによるCS放送では、未放映話を含む全話を話数順に放映した。第50話は2015年に『[[ウルトラマン列伝|新ウルトラマン列伝]]』第84話で、関東地区では初めて地上波で放送された。
=== 休止期間中の代替放送 ===
* ウルトラマンM78劇場 Love & Peace(2002年6月15日)
* ウルトラマンコスモス 「特別総集編1 コスモス最大の危機」(2002年6月22日)
* ウルトラマンコスモス 「特別総集編2 コスモス最後の戦い」(2002年6月29日)
* ウルトラマンネオス 第1話「ネオス誕生」(2002年7月6日)
* ウルトラマンネオス 第2話「謎のダークマター」(2002年7月13日)
※『ウルトラマンネオス』は『ウルトラマンコスモス』の代替番組として全12話の予定で放送を開始。しかし『ウルトラマンコスモス』の放送再開が決定され、一部の地域を除いて2話で放送中止となった。
以上の代替放送については、17:00および17:30からの時差ネット地域でもキー局と同日の放送。従って、キー局より先行して放送された。また、時差ネット地域ではキー局における休止前の最後の回(第49話)が放送再開後最初の回となったため、第49話とキー局再開初回(第51話。なお第50話は本放送では未放送)では、同時ネット地域と時差ネット地域の間でオープニングと次回予告に違いが生じていた。
== 放映リスト ==
* 怪獣の詳細・肩書き{{efn|リドリアスの「友好巨獣」などの別名。}}は「[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣]]」を参照。
* 視聴率はビデオリサーチ調べ(関東地区)<ref>[[角川書店]]『[[月刊ニュータイプ]]』掲載。</ref>。
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
!話数!!サブタイトル!!登場怪獣・宇宙人!!脚本!!監督!!特技監督!!放送日!!視聴率
|-
|1||光との再会
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスリドリアス
* リドリアス
* カオスヘッダー
}}
|rowspan="2"|大西信介
|rowspan="2"|北浦嗣巳
|rowspan="3"|佐川和夫
|style="line-height:1.2"|'''2001年'''<br />7月7日||5.3%
|-
|2||カオスヘッダーの影
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスゴルメデ
* ゴルメデ
* リドリアス
* カオスヘッダー
}}
|7月14日||5.2%
|-
|3||飛べ! ムサシ
|style="text-align:left"|スピットル
|長谷川圭一
|根本実樹
|7月21日||3.6%
|-
|4||落ちてきたロボット
|style="text-align:left"|イゴマス
|rowspan="2"|川上英幸
|colspan="2"|原田昌樹
|7月28日||5.0%
|-
|5||蛍の復讐
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* カオスバグ
* 蛍状の発光生命体
* カオスヘッダー
}}
|rowspan="2"|市野龍一
|rowspan="2"|村石宏實
|8月4日||4.7%
|-
|6||怪獣一本釣り
|style="text-align:left"|モグルドン
|増田貴彦
|8月11日||6.1%
|-
|7||空からのプレゼント
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ガモラン
* ミーニン
}}
|武上純希
|rowspan="2"|小中和哉
|rowspan="2"|八木毅
|8月18日||6.2%
|-
|8||乙女の眠り
|style="text-align:left"|インキュラス
|川上英幸
|8月25日||4.9%
|-
|9||森の友だち
|style="text-align:left"|ヤマワラワ
|武上純希
|colspan="2"|原田昌樹
|9月1日||4.9%
|-
|10||青銅の魔神
|style="text-align:left"|ゲシュート
|大西信介
|根本実樹
|佐川和夫
|9月8日||6.0%
|-
|11||動け! 怪獣
|style="text-align:left"|ムードン
|西園悟
|colspan="2" rowspan="2"|北浦嗣巳
|9月15日||5.8%
|-
|12||生命(いのち)の輝き
|style="text-align:left"|イフェメラ
|武上純希
|9月22日||5.5%
|-
|13||時の娘(前編)
|rowspan="2" style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ワロガ
* ガルバス
}}
|rowspan="2"|太田愛
|rowspan="2" colspan="2"|原田昌樹
|9月29日||5.3%
|-
|14||時の娘(後編)
|10月6日||4.3%
|-
|15||深海の死闘{{efn|当初は「深海の春風」というサブタイトルであった{{R|TVMAGA88}}。}}
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスジェルガ
* ジェルガ
* カオスヘッダー
}}
|大西信介
|rowspan="2"|市野龍一
|rowspan="2"|佐川和夫
|10月13日||5.7%
|-
|16||飛ぶクジラ
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスジラーク
* カオスヘッダー
* フライホエールジラーク
}}
|長谷川圭一
|10月20日||6.8%
|-
|17||異次元の罠
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ギギ(A、B、C)
* 三面異次元人ギギ
}}
|武上純希
|colspan="2" rowspan="2"|村石宏實
|10月27日||6.4%
|-
|18||二人(にびと)山伝説
|style="text-align:left"|{{Ruby|戀鬼|れんき}}
|川上英幸
|11月3日||7.3%
|-
|19||星の恋人
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* アングリラ
* ミゲロン星人(レダ、レカ)
}}
|梶研吾
|colspan="2" rowspan="2"|八木毅
|11月10日||7.6%
|-
|20||ムサシの空
|style="text-align:left"|ボルギルス
|林壮太郎
|11月17日||7.7%
|-
|21||テックブースター出動せよ(前編)
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* カオスパラスタン
* カオスヘッダー
}}
|rowspan="2"|{{Plainlist|
* 梶研吾
* 林壮太郎
}}
|rowspan="2"|根本実樹
|rowspan="3"|佐川和夫
|11月24日||5.9%
|-
|22||テックブースター出動せよ(後編)
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスパラスタン
* カオスパラスタンS
* カオスヘッダー
* パラスタン
}}
|12月1日||7.6%
|-
|23||ルナ対ルナ
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ゲルワーム
* ニセウルトラマンコスモス
}}
|荒木憲一
|北浦嗣巳
|12月8日||6.8%
|-
|24||ぬくもりの記憶
|style="text-align:left"|グラガス
|右田昌万
|colspan="2" rowspan="2"|原田昌樹
|12月15日||6.1%
|-
|25||異星の少女(ひと){{efn|脚本では「破壊指令00」というタイトルであった{{R|TVMAGA88}}。}}
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* グインジェ
* スレイユ星人 ラミア
}}
|増田貴彦
|12月22日||7.7%
|-
|26||カオスを倒す力
|style="text-align:left"|カオスヘッダー・イブリース
|大西信介
|北浦嗣巳
|佐川和夫
|12月29日||5.9%
|-
|27||地球生まれの宇宙怪獣
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ザランガ
* ベビーザランガ
}}
|前川淳
|rowspan="2"|市野龍一
|rowspan="2"|高野敏幸
|style="line-height:1.2"|'''2002年'''<br />1月5日||3.6%
|-
|28||強さと力
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスエリガル
* エリガル
* カオスヘッダー
}}
|rowspan="3"|大西信介
|1月12日||6.5%
|-
|29||夢みる勇気
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスヘッダー・メビュート
* リドリアス
* カオスエリガル
}}
|rowspan="2"|根本実樹
|rowspan="2"|佐川和夫
|1月19日||7.0%
|-
|30||エクリプス
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* カオスヘッダー・メビュート
* リドリアス
}}
|1月26日||6.9%
|-
|31||ゴンを救え
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスクレバーゴン
* カオスヘッダー
* クレバーゴン
}}
|武上純希
|colspan="2" rowspan="2"|村石宏實
|2月2日||6.1%
|-
|32||悪夢の実験
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* ゴルメデβ
* リドリアス
* スピットル
* モグルドン
* ミーニン
* イフェメラ
* ジェルガ
* ボルギルス
}}
|山本優
|2月9日||5.4%
|-
|33||怪獣狙撃手(ハンター)
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスネルドラント
* ネルドラント
* カオスヘッダー
}}
|{{Plainlist|
* 梶研吾
* 林壮太郎
}}
|colspan="2" rowspan="2"|八木毅
|2月16日||5.1%
|-
|34||海神の怒り
|style="text-align:left"|レイキュラ
|林壮太郎
|2月23日||6.8%
|-
|35||魔法の石
|style="text-align:left"|ラグストーン
|川上英幸
|colspan="2" rowspan="2"|原田昌樹
|3月2日||6.2%
|-
|36||妖怪の山
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* マハゲノム
* ヤマワラワ
}}
|武上純希
|3月9日||6.1%
|-
|37||フブキ退任?!
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオステールダス
* テールダス
* カオスヘッダー
}}
|前川淳
|rowspan="2"|市野龍一
|rowspan="2"|鈴木健二
|3月16日||6.0%
|-
|38||オヤジ星人
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ヘルズキング
* ベリル星人
}}
|増田貴彦
|3月23日||5.9%
|-
|39||邪悪の光
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* カオスウルトラマン
* カオスヘッダー
}}
|大西信介
|rowspan="2"|根本実樹
|rowspan="4"|佐川和夫
|3月30日||3.5%
|-
|40||邪悪の巨人
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスウルトラマン
* カオスネルドラントII
* ネルドラントII
}}
|川上英幸
|4月6日||6.6%
|-
|41||緑の逃亡者
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* サイドバクター
* エクステル星のアンドロイド
* グリーンベルト星の人型宇宙植物生命体
}}
|荒木憲一
|rowspan="2"|石井てるよし
|4月13日||5.5%
|-
|42||ともだち
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスデルゴラン
* ソル
* カオスヘッダー
* デルゴラン
}}
|大西信介
|4月20日||5.2%
|-
|43||操り怪獣
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* ノワール星人
* テールダス・メカレーター
* ネルドラント・メカレーター
}}
|川上英幸
|colspan="2" rowspan="2"|村石宏實
|4月27日||6.0%
|-
|44||ギギVSゴン
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* ギギ(プログレス)
* ギギドクター
* クレバーゴン
* クレバーゴンジャイアント
}}
|武上純希
|5月4日||5.1%
|-
|45||遊園地伝説
|style="text-align:left"|ムゲラ
|右田昌万
|colspan="2" rowspan="2"|八木毅
|5月11日||4.9%
|-
|46||奇跡の花
|style="text-align:left"|キュリア星人
|林壮太郎
|5月18日||5.8%
|-
|47||空の魔女
|style="text-align:left"|ギリバネス
|鈴木智
|colspan="2" rowspan="2"|原田昌樹
|5月25日||5.7%
|-
|48||ワロガ逆襲
|style="text-align:left"|ワロガ
|右田昌万
|6月1日||4.0%
|-
|49||宇宙の雪
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* アルケラ
* スノースター
}}
|大西信介
|rowspan="2"|市野龍一
|rowspan="2"|鈴木健二
|6月8日||3.9%
|-
|50||怪獣密輸!?
|style="text-align:left"|バデータ
|川上英幸
|style="line-height:1.2"|初回<br />放映なし||—
|-
|51||カオスの敵
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスマザルガス
* マザルガス
* カオスヘッダー
}}
|梶研吾
|rowspan="2"|根本実樹
|rowspan="4"|佐川和夫
|7月20日||4.4%
|-
|52||変身不能!?
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ザゲル
* コイシス星人 ジュネ
}}
|style="line-height:1.2"|{{Plainlist|
* 林壮太郎
* 梶研吾(原案)
}}
|style="line-height:1.2"|初回<br />放映なし||—
|-
|53||未来怪獣
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ラグストーン・メカレーター
* アラドス
* ノワール星人
}}
|荒木憲一
|rowspan="2"|石井てるよし
|7月27日||5.9%
|-
|54||人間転送機
|style="text-align:left"|タブリス
|大西信介
|style="line-height:1.2"|初回<br />放映なし||—
|-
|55||最終テスト
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* ガモランII
* ミーニン
* 宇宙少女
}}
|武上純希
|colspan="2" rowspan="2"|村石宏實
|8月3日||3.4%
|-
|56||かっぱの里
|style="text-align:left"|かわのじ
|川上英幸
|style="line-height:1.2"|初回<br />放映なし||—
|-
|57||雪の扉
|style="text-align:left"|グラルファン
|太田愛
|colspan="2" rowspan="2"|原田昌樹
|8月10日||4.4%
|-
|58||復讐の空
|style="text-align:left"|ギラッガス
|右田昌万
|style="line-height:1.2"|初回<br />放映なし||—
|-
|59||最大の侵略
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* カオスウルトラマン
* カオスウルトラマンカラミティ
}}
|rowspan="2" style="line-height:1.2"|梶研吾
|rowspan="2" colspan="2"|八木毅
|8月17日||4.6%
|-
|60||カオス大戦
|style="text-align:left"|カオスウルトラマンカラミティ
|8月24日||4.7%
|-
|61||禁断の兵器
|style="text-align:left"|ヘルズキング改
|rowspan="2"|増田貴彦
|rowspan="2"|市野龍一
|rowspan="2"|鈴木健二
|8月31日||5.3%
|-
|62||地球の悲鳴
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスウルトラマンカラミティ
* カオスドルバ<
* ドルバ
* リドリアス
* カオスヘッダー
}}
|9月7日||5.6%
|-
|63||カオス激襲
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスエリガルII
* エリガルII
* カオスヘッダー
}}
|rowspan="3"|大西信介
|rowspan="3"|根本実樹
|rowspan="3"|佐川和夫
|9月14日||6.2%
|-
|64||月面の決戦
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスウルトラマンカラミティ
* カオスダークネス
* ミーニン
}}
|9月21日||5.8%
|-
|65||真の勇者
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスダークネス
* リドリアス
* モグルドン
* ボルギルス
* カオスヘッダー0
}}
|9月28日||4.9%
|-
|style="line-height:1.2"|番外<br />(50)||特別総集編1<br />コスモス最大の危機
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* カオスウルトラマン
* カオスウルトラマンカラミティ
}}
|{{Plainlist|
* 梶研吾
* 川上英幸(構成){{R|TVMAGA88}}
}}
|colspan="2"|八木毅
|6月22日||5.0%
|-
|style="line-height:1.2"|番外<br />(51)||特別総集編2<br />コスモス最後の戦い
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* カオスダークネス
* カオスウルトラマンカラミティ
* リドリアス
* モグルドン
* ボルギルス
* カオスヘッダー0
}}
|{{Plainlist|
* 大西信介
* 川上英幸(構成){{R|TVMAGA88}}
}}
|{{Plainlist|
* 八木毅(総集編監督){{R|TVMAGA88}}
* 根本実樹(オリジナル監督){{R|TVMAGA88}}
}}
|佐川和夫(オリジナル特技監督{{efn|ノンクレジット}}){{R|TVMAGA88}}
|6月29日||7.0%
|}
== 他媒体展開 ==
=== 映画作品 ===
; 『[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT]]』
: 本作品の映画作品。少年時代のムサシとウルトラマンコスモスをはじめとする本作品のキャラクターが登場。
; 『[[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]』
: 本作品の映画作品。ムサシとウルトラマンコスモスをはじめとする本作品のキャラクターが登場。
; 『[[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE]]』
: 本作品の映画作品。ムサシとウルトラマンコスモスをはじめとする本作品のキャラクターが登場。
; 『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』
: [[大怪獣バトル|大怪獣バトルシリーズ]]の映画作品。別次元のムサシが登場。
; 『[[ウルトラマンサーガ]]』
: 春野ムサシ / ウルトラマンコスモスとアヤノが登場。
: 初期プロットではムサシとアヤノ以外のTEAM EYESメンバーやジュリ/ウルトラマンジャスティス、ウルトラマンレジェンドなども登場する予定だった{{R|SAGA57}}。
; 『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!]]』
: 春野ムサシ / ウルトラマンコスモスが登場。
=== ネットムービー ===
; 『[[ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA]]』
: [[Amazon Prime Video]]で配信。『[[ウルトラマンオーブ]]』のスピンオフ作品で、春野ムサシ / ウルトラマンコスモスが登場。
; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀]]』<ref>{{Cite web|和書|title=ULTRA GALAXY FIGHT THE ABUSOLUTE CONSPIRACY 【公式】『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|url=https://m-78.jp/galaxy-fight/tac/|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2020-09-24}}</ref>
: [[YouTube]]にて配信。ウルトラマンコスモスとウルトラマンジャスティスが登場。
; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』|ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突]]』
: 前作に引き続き、ウルトラマンコスモスとウルトラマンジャスティスが登場。
=== 映像ソフト化 ===
* 本編のDVDは2002年2月5日 - 2003年3月28日に発売。本放送された全60話を収録。全15巻で、各巻4話収録。特典映像にノンテロップオープニング、エンディング(エンディングは各回ごと)、各話予告編(15秒バージョン)、メイキング、怪獣デザイン画集が収録されている。また、各エピソード毎の開始前にはテレビ版における放映開始前の番組紹介が挿入されている。
* [[2008年]][[2月22日]]にテレビ本編と[[ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT|劇場版1]]の内容を1時間に再編集した「クライマックスストーリーズ ウルトラマンコスモス」が発売。ナレーションは春野ムサシ役の[[杉浦太陽]]が担当。[[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET|劇場版2]]と[[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE|劇場版3]]の収録はされていない。
* [[2011年]][[7月7日]](第1話放送からちょうど10年で、円谷英二の110回目の誕生日でもある)に全65話+特別編3話を収録したDVD-BOXが発売された。
=== 漫画作品 ===
* [[コロコロコミック|てれコロコミック]]
** 2001年夏休み増刊号 [[かとうひろし]]
** 2002年冬休み増刊号 [[犬木栄治]]
* パロディ漫画
** ウルトラかっとび!コスモスくん [[玉井たけし]] てれびくん 2001年 - 2002年連載
** おまかせ!! コスモスくん [[むさしのあつし]] 小学二年生 2002年連載
** ウルトラマンコスモスくん むさしのあつし 小学三年生 2002年連載
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="宇宙船100">{{Cite journal |和書|date=2002-05-01 |title=ウル魂 渋谷浩康インタビュー |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.100 |issue=(2002年5月号) |pages=84-85 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id=雑誌コード:01843-05}}</ref>
<ref name="TVMAGA14">{{Harvnb|テレビマガジン特別編集|2003|pp=14-17|loc=「秩序をもたらす巨人」}}</ref>
<ref name="TVMAGA88">{{Harvnb|テレビマガジン特別編集|2003|pp=88-105|loc=「ウルトラマンコスモス物語65+映画3」}}</ref>
<ref name="超全集12">{{Harvnb|超全集|2003|pp=12-13|loc=「ウルトラマンコスモス ルナモード」}}</ref>
<ref name="超全集14">{{Harvnb|超全集|2003|pp=14-15|loc=「ウルトラマンコスモス コロナモード」}}</ref>
<ref name="超全集16">{{Harvnb|超全集|2003|pp=16-17|loc=「ウルトラマンコスモス エクリプスモード」}}</ref>
<ref name="超全集33">{{Harvnb|超全集|2003|pp=33-35|loc=「TEAM EYES」}}</ref>
<ref name="超全集121">{{Harvnb|超全集|2003|pp=121-123|loc=「ウルトラマンコスモス完全攻略1 ウルトラマンコスモス全技図鑑」}}</ref>
<ref name="ism98">{{Harvnb|コスモスイズム|2003|pp=98-99|loc=「ウルトラマンコスモス 技と能力」}}</ref>
<ref name="ism100">{{Harvnb|コスモスイズム|2003|pp=100-101|loc=「うなれ!コスモス超技の数々!」}}</ref>
<ref name="TVMAGA超8113">{{Harvnb|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009|p=113|loc=「主要ウルトラシリーズ再確認」}}</ref>
<ref name="SAGA31">{{Harvnb|サーガ超全集|2012|p=31|loc=「ウルトラマンコスモス」}}</ref>
<ref name="SAGA57">{{Harvnb|サーガ超全集|2012|pp=57-61|loc=「監督[[おかひでき]]×特技監督[[三池崇史]]対談」}}</ref>
<ref name="ギンガS">「STAFF INTERVIEW 脚本 小林雄次×中野貴雄」Blu-ray『劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!! Blu-ray メモリアル BOX』(バンダイビジュアル BCXS-0996)封入 作品解説書 SPECIAL NOTES(構成・文:島崎淳、監修:小林雄次 執筆協力:戸倉光治)<!--ページ数表記なし--></ref>
<ref name="必殺技SG88">{{Harvnb|必殺技SG|2014|pp=88-89|loc=「ウルトラマンコスモス ルナモード」}}</ref>
<ref name="必殺技SG90">{{Harvnb|必殺技SG|2014|pp=90-91|loc=「ウルトラマンコスモス コロナモード」}}</ref>
<ref name="必殺技SG92">{{Harvnb|必殺技SG|2014|pp=92-93|loc=「ウルトラマンコスモス エクリプスモード」}}</ref>
<ref name="必殺技SG141">{{Harvnb|必殺技SG|2014|p=141|loc=「Column ウルトラ戦士の未公開能力を探る 「幻の必殺技」を追え!!」}}</ref>
<ref name="必殺技SG223">{{Harvnb|必殺技SG|2014|pp=223-224|loc=「ウルトラヒーロー主要必殺技リスト」}}</ref>
<ref name="デザイン画集245">{{Harvnb|デザイン画集|2018|pp=245-246|loc=「丸山浩デザイン解説 ウルトラマンコスモス」}}</ref>
<ref name="マガジンVOL.233">{{Harvnb|マガジンVOL.2|2021|pp=33-41|loc=「スーパーメカニック大全 地上戦力・隊員装備編」}}</ref>
<ref name="マガジンVOL.325">{{Harvnb|マガジンVOL.3|2022|p=25|loc=「スーパーメカニック大全 宇宙メカニック編」}}</ref>
<ref name="HMC56">{{Harvnb|HMC|2021|pp=56-59|loc=「『ウルトラマンコスモス』」}}</ref>
<ref name="HMC60">{{Harvnb|HMC|2021|pp=60-74|loc=「TEAM EYES/SRC/TEAM SEA/統合防衛軍 所属ライドメカ・兵器」}}</ref>
<ref name="HMC75">{{Harvnb|HMC|2021|p=75|loc=「嶋大輔インタビュー」}}</ref>
<ref name="HMC123">{{Harvnb|HMC|2021|p=123|loc=「隊員装備&変身アイテム 設定画集」}}</ref>
<ref name="UPM vol.284">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|pp=4-5|loc=「夢のようなことが訪れる―」}}</ref>
<ref name="UPM vol.286">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=6|loc=「ウルトラマンコスモス ルナモード」}}</ref>
<ref name="UPM vol.287">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=7|loc=「格闘技、必殺光線、特殊能力」}}</ref>
<ref name="UPM vol.288">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=8|loc=「ウルトラマンコスモス コロナモード」}}</ref>
<ref name="UPM vol.289">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=9|loc=「ウルトラマンコスモス エクリプスモード」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2812">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=12|loc=「特捜チーム TEAM EYES」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2813">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=13|loc=「春野ムサシ隊員」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2814">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|pp=14-15|loc=「TEAM EYESメンバー」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2815">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=15|loc=「TEAM EYES装備」}}</ref>
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<ref name="UPM vol.2817">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=17|loc=「SRC関連メカ、統合防衛軍関連メカ」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2819">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=19|loc=「TEAM EYES」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2830">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=30|loc=「ウルトラ特別企画vol.28 ウルトラの特徴!?ユニフォーム考 その2」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2832">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|pp=32-33|loc=「君にも見える ウルトラの証言 渋谷浩康(プロデューサー)」}}</ref>
}}
=== 出典(リンク) ===
{{Reflist|group="出典"|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|others = 構成・執筆・編集 岩畠寿明・鈴木洋一|date = 2003-09-08|title =ウルトラマンコスモス|series=[[テレビマガジン]]特別編集|publisher = [[講談社]]|isbn = 4-06-178429-3|ref = {{SfnRef|テレビマガジン特別編集|2003}} }}
* [[てれびくん]]デラックス愛蔵版([[小学館]])
** {{Cite book|和書 | title = ウルトラマンコスモス[[超全集]] | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版| date = 2003-09-20 | isbn = 4-09-101492-5 | ref = {{SfnRef|超全集|2003}} }}
** {{Cite book|和書|others = 構成 間宮尚彦・乗浜彩乃|title = [[ウルトラマンサーガ]]超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date = 2012-04-23|publisher = 小学館|isbn = 978-4-09-105137-0|ref={{SfnRef|サーガ超全集|2012}} }}
* {{Cite book|和書 | title = ウルトラマンAGEスペシャル ウルトラマンコスモスイズム | publisher = [[辰巳出版]] | series = タツミムック | date = 2003-10-10 | isbn = 4-88641-928-3 | ref = {{SfnRef|コスモスイズム|2003}} }}
* {{Cite book|和書|others=構成・執筆・編集 小野浩一郎・岩畠寿明(エープロダクション)|date=2009-03-27|title=[[テレビマガジン]]特別編集 大決戦!超ウルトラ8兄弟|publisher=講談社|isbn=978-4-06-178434-5|ref={{SfnRef|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009}} }}
* {{Cite book |和書|author= 円谷英明|year= 2013|title= ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗|publisher = [[講談社]]|series = 講談社現代新書|isbn= 978-4-06-288215-6|ref= harv }}
* {{Cite book|和書| title = 円谷プロ図録| publisher = [[ネコ・パブリッシング]]| series = NEKO MOOK| date = 2013| isbn = 978-4-7770-1440-8| ref = {{SfnRef|円谷プロ図録|2013}}}}
* [[テレビマガジン]]デラックス(講談社)
** {{Cite book|和書|date = 2004-06-25|title =決定版 全ウルトラマン完全超百科|publisher = 講談社|isbn = 4-06-304499-8|ref = {{SfnRef|完全超百科|2004}}}}
** {{Cite book|和書|date = 2018-07-03|title =決定版 全ウルトラマン パーフェクト超百科 増補改訂|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-512155-9|ref = {{SfnRef|全ウルトラマン増補改訂|2018}}}}
* {{Cite book|和書|author=繁原稔弘|title=ウルトラヒーロー必殺技スーパーガイド1966-2014|date=2014-03-30|publisher=メディアックス|series=メディアックスMOOK437|isbn=978-4-86201-467-2|ref={{SfnRef|必殺技SG|2014}}}}
* {{Cite book|和書|date=2018-11-22|title=丸山浩ウルトラデザイン画集|publisher=洋泉社|isbn=978-4-8003-1596-0|ref={{SfnRef|デザイン画集|2018}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2021-04-30|title =平成ウルトラマン メカクロニクル|publisher = ぴあ株式会社|series = ぴあMOOK|isbn = 978-4-8356-4288-8|ref = {{SfnRef|HMC|2021}}}}
* 講談社MOOK(講談社)
** {{Cite book|和書|date = 2021-05-24|title =テレビマガジン特別編集 ウルトラ特撮マガジン VOL.2|publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-523014-5|ref = {{SfnRef|マガジンVOL.2|2021}}}}
** {{Cite book|和書|date = 2022-03-03|title =テレビマガジン特別編集 ウルトラ特撮マガジン VOL.3|publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-525946-7|ref = {{SfnRef|マガジンVOL.3|2022}}}}
* {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-08-24|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.28|volume-title=ウルトラマンコスモス|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520962-2|ref = {{SfnRef|UPM vol.28|2021}}}}
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20030810104000/http://mbs.jp/cosmos/ ウルトラマンコスモス](MBS内公式サイトのアーカイブ)
{{前後番組
|放送局=[[毎日放送テレビ]](MBSテレビ)制作・[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]]
|放送枠=[[毎日放送制作土曜夕方6時枠のアニメ|土曜18時台前半枠]]
|番組名=ウルトラマンコスモス
|前番組=[[ゾイド新世紀スラッシュゼロ]]
|次番組=[[機動戦士ガンダムSEED]]<br />(本作品以降、通称“'''土6'''”ならびに完全アニメ枠化)
}}
{{ウルトラシリーズ}}
{{毎日放送制作土6・日5枠}}
{{デフォルトソート:うるとらまんこすもす}}
[[Category:ウルトラシリーズの特撮テレビドラマ|こすもす]]
[[Category:毎日放送の特撮番組]]
[[Category:2001年のテレビドラマ]]
[[Category:2000年代の特撮作品]]
[[Category:長谷川圭一脚本のテレビドラマ]]
[[Category:武上純希脚本のテレビドラマ]]
[[Category:荒木憲一脚本のテレビドラマ]]
|
2003-06-22T04:22:55Z
|
2023-12-16T05:46:43Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%82%B9
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10,294 |
ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT
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『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』(ウルトラマンコスモス ザ ファースト コンタクト)は、2001年7月20日に全国松竹系映画館にて公開されたウルトラシリーズの映画作品、松竹配給。
キャッチコピーは「君も勇者になれる!」「優しさがあれば、強くもなれる!」。
21世紀最初のウルトラシリーズの映画作品。テレビシリーズ(『ウルトラマンコスモス』)の8年前の物語で、ムサシとコスモスの出会いを描いている。
2000年10月にクランクインし、当初は2001年3月に公開予定だったが、松竹側の事情で公開が7月20日に遅れてしまい、さらにテレビシリーズの放送開始時期が同年10月から円谷英二の誕生日である7月7日に繰り上がったため、劇中の時系列と公開の順序が逆になってしまった。
本作品の世界観では「ウルトラマン」はサンタクロースのようなおとぎ話の存在として人々に認知されており、その実在を信じているのはムサシ少年のみである。
本作品には『ウルトラQ』『ウルトラマン』でレギュラー出演していた俳優たちが出演している(黒部進、桜井浩子など)。
本作品にはバルタン星人が登場しており、旧シリーズとの関連が無い『ウルトラマンコスモス』シリーズの作品で唯一旧シリーズの怪獣が登場した例となっている。監督の飯島敏宏はバルタン星人が初登場する『ウルトラマン』第2話の監督であり、プロデューサーの鈴木清からの「飯島ならバルタン星人」というリクエストを受けて登場が決定した。ストーリーは飯島が千束北男名義で1990年代前半に執筆した未製作脚本『ウルトラマン/バルタン星人大逆襲』(飯島敏宏著『バルタンの星のもとに』(風塵社)に収録)の内容を色濃く反映したものとなっている。
一部の登場人物は後の劇場版やテレビシリーズに登場している。
西暦2001年、母星が滅びたため廃月で新たな居住地を求めるバルタン星人と、それを追うウルトラマンコスモスが地球へ飛来した。バルタン星人との戦いでエネルギーを失い倒れたコスモスは、地球人の少年・春野ムサシに救われる。そして地球侵略を開始したバルタン星人に再び立ち向かう。
日本が誇る科学研究所水無月工業技術研究所 (MITI) が設立したボランティア的な科学調査・研究を行い、人類と怪獣や宇宙人との間に発生する諸問題を平和的に解決する機関。正式名称はScientific Research Circle。あくまでボランティア組織であるため、専任の隊員以外にも普段他に職を持っている者も多い。本作品の事件をきっかけに発展・拡大し、テレビシリーズでは国際的科学調査組織になっている。
国家の存亡に関わる重大局面に出動する、防衛軍のエリート部隊。軍内部においても、突出した権力を有するといわれている。SRCとのホットラインも作られている。エンブレムはその名の通り、サメをあしらった物。
本作品ではルナモードとコロナモードが登場している。詳細についてはウルトラマンコスモス#形態にて
遺跡公園の地下に眠っていた怪獣。古代において人々と共存していたらしく、遺跡に神農様の使いとして奉られ、その鱗を煎じて飲むと結核に効く薬になるという伝説が残されていた。固い鱗を持ち、猛炎烈火という火炎を吐く。バルタン星人によって覚醒させられる。SRCが再度冬眠させようとするも、その作戦中にシャークス隊に攻撃されて気絶。その後、SRCにより遺跡公園の地下に運ばれ、再び長い眠りについた。
『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』では、対グローカー戦において遺跡公園から目覚め、リドリアス、ゴルメデ、ボルギルスと共闘する。最後は無事に公園に戻された。
ムサシがゴミ捨て場で拾ったおもちゃのロボットを木本博士が改造したハイテクロボット。愛称はゴン。腹にパソコンを持つ。空中浮遊や脚を伸ばすことも可能。1420MHz(ウルトラ信号)を感知する。武器は目から発射されるショックビーム。テレビシリーズにも度々登場する。
|
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"text": "『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』では、対グローカー戦において遺跡公園から目覚め、リドリアス、ゴルメデ、ボルギルスと共闘する。最後は無事に公園に戻された。",
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"text": "ムサシがゴミ捨て場で拾ったおもちゃのロボットを木本博士が改造したハイテクロボット。愛称はゴン。腹にパソコンを持つ。空中浮遊や脚を伸ばすことも可能。1420MHz(ウルトラ信号)を感知する。武器は目から発射されるショックビーム。テレビシリーズにも度々登場する。",
"title": "登場怪獣・宇宙人"
}
] |
『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』は、2001年7月20日に全国松竹系映画館にて公開されたウルトラシリーズの映画作品、松竹配給。 キャッチコピーは「君も勇者になれる!」「優しさがあれば、強くもなれる!」。
|
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{{Infobox Film
| 作品名 = ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT
| 原題 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[飯島敏宏]]
| 脚本 = [[飯島敏宏|千束北男]]
| 製作総指揮 = [[円谷一夫]]
| ナレーター = [[石坂浩二]]
| 出演者 = {{Plainlist|
* [[赤井英和]]
* [[東海孝之助]]
* [[川野太郎]]
* [[風見しんご]]
* [[舞の海秀平|舞の海]]
* [[中山エミリ]]
* [[宇野あゆみ]]
* [[藤村俊二]]
* [[高橋ひとみ]]
* [[渡辺いっけい]]
}}
| 音楽 = [[蒔田尚昊|冬木透]]
| 主題歌 = [[Project DMM]]「ウルトラマンコスモス〜君にできるなにか」
| 撮影 = [[大岡新一]]
| 編集 = 松木朗
| 製作会社 = 映画ウルトラマンコスモス製作委員会
| 配給 = [[松竹]]
| 公開 = [[2001年]][[7月20日]]
| 上映時間 = 89分{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2003|p=121}}
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = 日本語
| 興行収入 = 5億円<ref>{{Cite journal|和書 |year = 2002|title = 2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて |journal = [[キネマ旬報]] |issue = [[2002年]]([[平成]]14年)[[2月]]下旬号 |pages = 138 |publisher = [[キネマ旬報社]]}}</ref>
| 製作費 =
| 前作 = [[ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY]]
| 次作 = [[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]
}}
{{Portal 映画}}
『'''ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT'''』(ウルトラマンコスモス ザ ファースト コンタクト)は、[[2001年]][[7月20日]]に全国松竹系映画館にて公開された[[ウルトラシリーズ]]の[[映画]]作品、[[松竹]]配給。
キャッチコピーは「'''君も勇者になれる!'''」「'''優しさがあれば、強くもなれる!'''」。
== 概要 ==
21世紀最初の[[ウルトラシリーズ]]の映画作品。テレビシリーズ(『[[ウルトラマンコスモス]]』)の8年前の物語で、ムサシとコスモスの出会いを描いている。
2000年10月にクランクインし、当初は2001年3月に公開予定だったが、松竹側の事情で公開が7月20日に遅れてしまい、さらにテレビシリーズの放送開始時期が同年10月から円谷英二の誕生日である7月7日に繰り上がったため、劇中の時系列と公開の順序が逆になってしまった{{R|TVMAGA84|UPM vol.284}}。
本作品の世界観では「ウルトラマン」はサンタクロースのようなおとぎ話の存在として人々に認知されており、その実在を信じているのはムサシ少年のみである。
本作品には『[[ウルトラQ]]』『[[ウルトラマン]]』でレギュラー出演していた俳優たちが出演している([[黒部進]]、[[桜井浩子]]など){{Sfn|超全集|2001|pp=48-49}}。
本作品には[[バルタン星人]]が登場しており、旧シリーズとの関連が無い『ウルトラマンコスモス』シリーズの作品で唯一旧シリーズの怪獣が登場した例となっている。監督の飯島敏宏はバルタン星人が初登場する『ウルトラマン』第2話の監督であり、プロデューサーの鈴木清からの「飯島ならバルタン星人」というリクエストを受けて登場が決定した{{Sfn|超全集|2001|pp=44-45|loc=「鈴木清プロデューサーインタビュー」}}{{R|TVMAGA84}}。ストーリーは飯島が千束北男名義で1990年代前半に執筆した未製作脚本『ウルトラマン/バルタン星人大逆襲』(飯島敏宏著『バルタンの星のもとに』([[風塵社]])に収録)の内容を色濃く反映したものとなっている{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|超全集|2001|p=2|loc=「御挨拶 株式会社円谷プロダクション代表取締役社長 [[円谷一夫]]」}}{{Sfn|宇宙船YB|2002|p=147}}{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2003|p=105|loc=「劇場版 ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」}}}}。
一部の登場人物は後の劇場版やテレビシリーズに登場している。
== ストーリー ==
西暦2001年、母星が滅びたため廃月で新たな居住地を求めるバルタン星人と、それを追うウルトラマンコスモスが地球へ飛来した。バルタン星人との戦いでエネルギーを失い倒れたコスモスは、地球人の少年・春野ムサシに救われる。そして地球侵略を開始したバルタン星人に再び立ち向かう。
== 登場人物 ==
; [[ウルトラマンコスモス#春野ムサシ|春野ムサシ]] と [[ウルトラマンコスモス#ウルトラマンコスモス|ウルトラマンコスモス]]
: テレビシリーズおよび本作品の主人公。テレビシリーズの8年前のため、この時のムサシは11歳の小学5年生{{R|TVMAGA7}}。タイトル通り、ムサシとコスモスのファーストコンタクトがテーマとして描かれるため、今回では一体化しない。
; 春野勇次郎
: ムサシの義理の父(継父)。39歳{{R|TVMAGA7}}。関西弁を話すKニュータウンの警察官で、階級は[[巡査部長]]。男気溢れる熱血漢で、ムサシの夢や意志を尊重し、見守るよき父親。シゲムラから「春田巡査」と名前と階級を呼び間違えられる。
:; 『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』
:: みち子とともに北海道に移住して牧場を経営している。
; 春野みち子
: ムサシの母。38歳{{R|TVMAGA7}}。旧姓は五十畑。「ウルトラマンを見た」というムサシの話を信じられないなど勇次郎に比べてやや現実的な性格だが、ムサシのことを強く想っている。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: モニター越しに自分の息子であるムサシ(コスモス)を見守った。
:
; マリ
: 本作品のヒロイン。ムサシの同級生で幼馴染。チャイルドバルタンシルビィに憑依される。『ウルトラマンコスモス2』以降、姓が「川瀬」とされる。
:; 『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』
:: チャイルドバルタンシルビィとメール友達になっており、彼を通じてギャシー星人と知り合う。
:; 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』
:: シルヴィともいまだに大の仲良しで、ムサシの復活に協力する。
:
; ツトム
: ムサシの同級生の幼馴染。ムサシとは仲が良いが、当初はムサシのコスモス目撃談を信じなかった。カミナリが苦手。『ウルトラマンコスモス2』以降、姓が「佐々木」とされる。
:; 『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』
:: サイパンの観光局に勤めており、現地の女性リタと結婚した。同級生からは「うらやましい」と言われた。
:
; ショージ
: ムサシの同級生の幼馴染。ツトム同様、ムサシとは仲が良いが、当初はムサシのコスモス目撃談を信じなかった。
:; 『ウルトラマンコスモス』
:: 第29・30話に登場。アヤノは彼に対し、「大してハンサムじゃない」とがっかりしていた。車椅子で入院生活を送っていたユウキという弟がいる。
=== SRCメンバー ===
; {{読み仮名|木本 研作|きもと けんさく}}
: MITIの創始者の一人で、SRCの顧問とメカニックの開発を担当する。普段はおもちゃ病院の院長や宇宙科学博物館の館長をしており、ムサシとも顔なじみである。兵器ではないSRCのメカや装備を「おもちゃ」と呼ぶ穏やかな人物。
:; 『ウルトラマンコスモス』
:: 第20話に登場する。ムサシのことは子どものころからよく知っている。ムサシのよき理解者。「おもちゃ作りに引退はない」をモットーとする。
:
; アカツキ ノボル
: SRCの隊長。元防衛軍の隊員でシャークスのシゲムラ参謀と同期である。名前は暁昇。防衛軍回線のパスワードは「ゴロ寝のパパ」。呑龍(ドンロン)出現時に作戦「トロイ作戦ACT1」を実行。
; ワタナベ キョウコ
: SRCのコンピュータープログラマー担当の女性隊員{{R|UPM vol.2811}}。普段はムサシの小学校で音楽教師をしており、この時は眼鏡を掛けている。名前は渡辺響子。
; キド
: SRCのメカニック担当。トロイAの操縦も行う。普段は自動車の研究所に勤める研究者{{R|UPM vol.2811}}。明るいムードメーカー。
:; 『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』
:: TEAM SEAの隊長になっている。SRC隊員時代と違い少し落ち着いた様子も見せるが、トロイSを開発するなどメカニックの腕は現在でも衰えていない。
:; 『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』
:: 本作品とは別の世界のキドが登場。破壊された[[横浜市|横浜]]で救護活動に奔走する医師。看護師の資格を持つ[[ウルトラマンA#主人公|南夕子]]と娘の七海に支援を受ける。
; ライデン
: 力自慢の隊員。ライデンとは見た目と怪力から江戸時代の力士[[雷電爲右エ門]]にちなんで付けられたあだ名で、本名はカオルという。普段はケーキ職人として働いている。本人も甘党らしい。
; イチノセ
: 天文学に精通しているSRC専任の女性隊員。各メカのオペレーション担当だが、格闘技が得意で力仕事もこなす{{R|UPM vol.2811}}。
; サカグチ
: SRC専任の隊員。物静かな印象だが、主にコンピューターのオペレーションやメカのメンテナンスを行う{{R|UPM vol.2811}}。
=== 統合防衛軍関係者 ===
; シゲムラ参謀
: シャークスの責任者。出動時には、シャークス・モバイルという超高性能小型パソコンを携帯し、部下たちに指令・通信を行う。防衛軍回線のパスワードは「砂漠のサメ」。SRCのアカツキ隊長とは同期であるが、考え方の違いにより対立する。当初は怪獣や宇宙人との共存に否定的であったようだが、その実在が確認されてからは彼らに対して強硬な姿勢を見せるタカ派{{R|UPM vol.2811}}。コスモスと遭遇したという噂を持ったムサシを現実的な視点から疑い、その父親の勇次郎のいうことまで疑う。人間を襲う呑龍やバルタン星人を襲い、バルタン星人と同じE.T.であるコスモスまで狙おうとした。最後は勇次郎と取っ組み合い、罵声を浴びせられる。
; シャークス副官
: シゲムラの補佐を務める忠実な副官。赤いベレー帽と黒い隊員服を着用している。シャークスの行動隊長的存在である。
; シャークス隊員
: 赤いベレー帽と灰色の隊員服を着用し、機関銃を装備している隊員たち。鍛え抜かれた印象だが、ムサシや彼の友人である子供たちとの輝石の取り合いでは、終始翻弄されていた。
== 科学調査サークルSRC ==
日本が誇る科学研究所水無月工業技術研究所 (MITI) が設立したボランティア的な科学調査・研究を行い、人類と怪獣や宇宙人との間に発生する諸問題を平和的に解決する機関{{R|UPM vol.2811}}。正式名称は'''S'''cientific '''R'''esearch '''C'''ircle。あくまでボランティア組織であるため、専任の隊員以外にも普段他に職を持っている者も多い。本作品の事件をきっかけに発展・拡大し、テレビシリーズでは国際的科学調査組織になっている。
=== 隊員装備 ===
; SRC隊員服
: 隊員たちがメカ搭乗時や地上活動用に着用するツーピースの隊員服で、耐熱・耐寒・防御効果が高い{{R|UPM vol.2811}}。出動時にはプロテクターも着用する。状況に応じてベストを着用することもある{{R|UPM vol.2830}}。
; キャップ
: 危険度が低い調査任務の際に身分証明用に被るが、特殊機能などはない{{R|UPM vol.2811}}。
; SRCヘルメット
: 危険が予想される任務や、トロイ搭乗時に被る特殊ヘルメット。隊長用にはレッド、隊員用にはイエローのラインが入り、マイクロカメラと通信器を装備している{{R|UPM vol.2811}}。
; ラウンダーグリップ(マイティツール)
: 計算・分析用の銃のグリップ型の特殊小型コンピューターで、本部のドアのキーとしても機能する{{R|UPM vol.2811}}。
=== メカニック ===
:{{機動兵器
|名称=トロイトータル
|全長=30{{nbsp}}m
|全高=約10{{nbsp}}m
|全幅=約25{{nbsp}}m
|最高速度=マッハ3
|乗員=6名
}}
; トロイトータル
: 木本研作博士の設計の下、SRCが開発した大型航空機。母機'''トロイA'''と子機'''トロイB'''に分離する。この基幹技術や設計思想がテレビシリーズに登場するコアテックシステムの原形となっている{{R|HMC70}}。キーセーバーという防弾・耐熱塗料で特殊コーティングされた外装は、敵の光線を弾くほど強力である。本機もテレビシリーズに登場しており、また映画『[[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]』では発展型の'''トロイS'''が登場している。名の意味は「夢のつまったマシン」。
:* ミニチュアは制作されず、CGのみで表現された{{Sfn|超全集|2001|p=63}}。デザインは、冷たく攻撃的なイメージとならないように曲線を多用している{{Sfn|超全集|2001|pp=50-51|loc=「DESIGN OF TROY TOTAL」}}。
{{-}}
::{{機動兵器
|名称=トロイA
|全長=30{{nbsp}}m
|全高=約10{{nbsp}}m
|全幅=約25{{nbsp}}m
|最高速度=マッハ4
|乗員=3名
}}
:; トロイA
:: トロイBのデータ収集母機・エアマザーとして製作された。作戦指揮機として活躍し、機体下部に敵への直接パンチは勿論、冷凍ガスも放つ大型ミット型キャッチアーム・ドデカローブと、超大型特殊スピーカーのドデカピーカーを装備する。
{{-}}
::{{機動兵器
|名称=トロイB
|全長=11{{nbsp}}m
|全高=約3.7{{nbsp}}m
|全幅=約10.4{{nbsp}}m
|最高速度=マッハ2.5
|乗員=3名
}}
:; トロイB
:: コアモジュールの実験・試作機で、ベイビーコアとも呼ばれる小型ハイテクフライングモジュール{{R|HMC70}}。小回りがきき、バランス性に優れ、VTOL・STOL機能も持つ。装備は、敵に直接パンチと冷凍ガスを放つキャッチアーム・デカローブと、小型超スピーカーのデカピーカー。また、自動操縦装置も備えている。
{{-}}
:{{機動兵器
|名称=バーナード
|全長=4.5{{nbsp}}m
|全高=1.45{{nbsp}}m
|全幅=1.8{{nbsp}}m
|最高時速=380{{nbsp}}km
|乗員=4名
}}
; バーナード
: SRCの公用車で、地上パトロールや調査などに使用する白いメルセデスベンツ。チューンナップされているが{{R|UPM vol.2811}}、特殊な装備は無いようである。
{{-}}
== 防衛軍国家緊急部隊シャークス ==
国家の存亡に関わる重大局面に出動する、防衛軍のエリート部隊。軍内部においても、突出した権力を有するといわれている。SRCとのホットラインも作られている。エンブレムはその名の通り、[[サメ]]をあしらった物。
=== メカニック ===
; シャークスジェット機 JK
: 防衛軍主力戦闘機をチューンナップしたシャークス専用の機体。最高速度はマッハ5。強力機関砲や大型のGミサイル2発、小型ミサイル8発や機首のビーム砲などを装備している。多数の機体で編隊を組んで敵を一斉攻撃し、殲滅を図るのが攻撃パターンである。
; シャークス司令車
: シャークス部隊の指揮を行う司令車で、シゲムラの現場への移動手段も兼ねている。ベース車両は民間用の[[ライトバン]]で、車内にはレーダーや指令用のコンピューターシステムが、車体上部には通信用と思われる小型アンテナが搭載されている。
; [[73式小型トラック]]・[[73式中型トラック]]
: シャークスが使用している実在車両で、兵員の輸送などに用いられている。現実世界では[[陸上自衛隊]]などに配備されている。
; 防衛ミサイル
: 防衛軍駐屯地から発射される大型ミサイル。司令車からの遠隔操作が可能。シゲムラがバルタン星人に勝利した直後のコスモスに向けて発射しようとしたが、勇次郎とムサシの体を張った活躍で阻止された。
== ウルトラマンコスモス ==
本作品ではルナモードとコロナモードが登場している。詳細については[[ウルトラマンコスモス#形態]]にて
== 登場怪獣・宇宙人 ==
* [[バルタン星人#バルタン星人 ベーシカルバージョン|宇宙忍者 バルタン星人ベーシカルバージョン]]
* [[バルタン星人#ネオバルタン|宇宙忍者 ネオバルタン]]
* [[バルタン星人#チャイルドバルタン|宇宙忍者 チャイルドバルタン]]
=== <span id="伝説薬使獣 呑龍"></span>伝説薬使獣 呑龍(ドンロン) ===
{{キャラスペック
|名称=呑龍(ドンロン)
|英字表記=DONRON{{R|超全集25|画報下}}
|別名=伝説薬使獣
|身長=67{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="DONRON"|{{R|超全集25|UYB03|画報下|TV超全集50|ism109|円谷全怪獣|UPM vol.2822}}{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2003|p=11}}}}
|体重=6万7千{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|DONRON}}
|出身地=Kニュータウン遺跡公園{{Refnest|group="出典"|{{R|画報下|TV超全集50|円谷全怪獣}}}}
}}
遺跡公園の地下に眠っていた怪獣。古代において人々と共存していたらしく、遺跡に神農様の使いとして奉られ、その鱗を煎じて飲むと結核に効く薬になるという伝説が残されていた。固い鱗を持ち、'''猛炎烈火'''{{R|TV超全集50}}という火炎を吐く。バルタン星人によって覚醒させられる。SRCが再度冬眠させようとするも、その作戦中にシャークス隊に攻撃されて気絶。その後、SRCにより遺跡公園の地下に運ばれ、再び長い眠りについた。
『[[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE]]』では、対グローカー戦において遺跡公園から目覚め、リドリアス、ゴルメデ、ボルギルスと共闘する。最後は無事に公園に戻された。
* デザインは[[狛犬]]をイメージしている{{R|超全集53}}。デザインモチーフは獅子舞で、当初は結晶体や岩のイメージを加えていたが、最終的には獅子舞の要素が前面に出ている{{R|デザイン画集246}}。初期案では[[ナマズ]]と[[モグラ]]をモチーフとしていた{{R|超全集53}}。デザイン画では、'''コンゴウ'''や'''コンロン'''という名称だった{{R|デザイン画集246}}。
=== スーパーハイテクロボット クレバーゴン ===
{{キャラスペック
|名称=クレバーゴン
|英字表記=CLEVERGON{{R|超全集19|画報下}}
|別名=スーパーハイテクロボット
|身長={{Plainlist|
* 60{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]{{Refnest|group="出典"|name="CLEVERGON"|{{R|超全集19|UYB03|画報下|TVMAGA7|TV超全集32|ism136|円谷全怪獣|UPM vol.2822}}}}
* (脚部伸時:130{{nbsp}}cm){{R|group="出典"|CLEVERGON}}
}}
|体重=9{{nbsp}}[[キログラム|kg]]{{R|group="出典"|CLEVERGON}}
|出身地=地球{{R|画報下}}(おもちゃ病院{{R|円谷全怪獣}})
}}
ムサシがゴミ捨て場で拾ったおもちゃのロボットを木本博士が改造したハイテクロボット。愛称はゴン。腹に[[パソコン]]を持つ。空中浮遊や脚を伸ばすことも可能。1420MHz(ウルトラ信号)を感知する。武器は目から発射されるショックビーム。[[ウルトラマンコスモスの登場怪獣#スーパーハイテクロボット クレバーゴン|テレビシリーズ]]にも度々登場する。
* モデルは『[[ウルトラセブン]]』に登場した[[ウルトラセブンの登場怪獣#ロボット怪獣 クレージーゴン|クレージーゴン]]{{Sfn|超全集|2001|p=52}}。
{{-}}
== キャスト ==
* 春野勇次郎 - [[赤井英和]]
* 春野ムサシ - [[東海孝之助]]
* アカツキ - [[川野太郎]]
* キド - [[風見しんご]]
* ライデン - [[舞の海秀平|舞の海]]
* イチノセ - [[松本智代美]]
* サカグチ - [[蒲地宏]]
* キョウコ - [[中山エミリ]]
* マリ - [[宇野あゆみ]]
* ツトム - [[田中大輔 (俳優)|田中大輔]]
* ショージ - [[上田大樹 (俳優)|上田大樹]]
* タマキ - [[千葉智絵]]
* ミカ - [[安谷屋なぎさ]]
* シャークス副官 - [[安生洋二 (俳優)|安生洋二]]
* 木本研作 - [[藤村俊二]]
* ミツル - [[府金重哉]]
* ヨースケ - [[渡辺諒 (俳優)|渡辺諒]]
* シンゴ - [[佐川将志]]
* フタバ - [[高田奈々子]]
* ヒカル - [[広沢理々子]]
* シャークス隊員A - [[中村正人 (俳優)|中村正人]]
* シャークス隊員B - [[松本真治]]
* シャークス隊員C - [[斉藤陽佐]]
* シャークス隊員D - [[山崎義行]]
* コメディアン - [[360°モンキーズ]](山内崇・[[そうすけ|杉浦又亮]])
* 巡査 - [[相原一夫]]
* 巡査長 - [[黒部進]](友情出演)
* レポーター - [[毒蝮三太夫]](友情出演)
* 野次馬の男性 - [[二瓶正也]](友情出演)
* 西條さん - [[西條康彦]](友情出演)
* 野次馬の女性 - [[桜井浩子]](友情出演)
* 春野みち子 - [[高橋ひとみ]]
* シゲムラ参謀 - [[渡辺いっけい]]
* 五十畑博士{{Sfn|UPM vol.28|2021|p=33|loc=「君にも見える ウルトラの証言 渋谷浩康(プロデューサー)」}} - [[渋谷浩康]] ※カメオ出演
=== 声の出演 ===
* ウルトラマンコスモス - [[小谷津央典]]
* バルタン星人 - [[郷里大輔]]、[[堀之紀]]
* クレバーゴン - 桜井浩子 ※ノンクレジット
* ナレーション - [[石坂浩二]]
=== スーツアクター ===
* ウルトラマンコスモス ルナモード - [[猫俣博志]]
* ウルトラマンコスモス コロナモード - [[荻野英範]]
* バルタン星人・ネオバルタン - [[村田鉄信]]
* 呑龍(ドンロン) - [[山本諭]]、[[寺井大介]]、[[北岡龍貴|北岡久貴]]
== スタッフ ==
* 製作総指揮 - [[円谷一夫]]
* 製作 - 迫本淳一、柴崎誠、角田良平、児玉守弘、門川博美、天野彊二郎、河井常吉、福田年秀
* 企画 - [[満田かずほ]]、[[宮島秀司]]、東聡、[[川城和実]]、原田俊明、安田公一、高田洋一、塩谷雅彦、吉田紀之
* 監修 - [[高野宏一]]
* チーフプロデューサー - [[鈴木清 (映画監督)|鈴木清]]
* プロデューサー - 吉田剛、佐藤明宏、[[河野聡]]、間瀬泰宏、[[丸谷嘉彦]]、水尾芳正、沢辺伸政、桜井靖
* 音楽プロデューサー - 玉川静
* 音楽 - [[蒔田尚昊|冬木透]]
* 脚本 - [[飯島敏宏|千束北男]]
* 撮影 - [[大岡新一]]
* 美術 - [[大澤哲三]]
* 照明 - 高野和男
* 録音 - [[浦田和治]]
* 操演 - 根岸泉
* 監督補 - [[北浦嗣巳]]
* 殺陣 - [[車邦秀]]
* 編集 - 松木朗
* スクリプター - 山内薫
* 製作担当 - 中井光夫
* 製作協力プロデューサー - [[渋谷浩康]]
* 企画協力 - [[諸冨洋史]]、江藤直行、小林敬宜
* 脚本協力 - [[大西信介]]
* 背景 - [[島倉二千六]]
* CGIプロデューサー - 杉村克之
* CGIスーパーバイザー - 渡部健司
* ビジュアルエフェクトコーディネーター - [[菊地雄一]]
* 音響 - 伊藤克巳
* 効果 - 今野康之
* キャラクターデザイン - [[丸山浩 (デザイナー)|丸山浩]]
* イメージボード - 橋爪謙始
* タイトル - 熊谷幸雄
* タイトルロゴ・デザイン - 中田和幸
* キャスティング - 斎藤謙司
* アシスタントプロデューサー - [[笈田雅人]]
* 映画ウルトラマンコスモス製作委員会([[円谷プロダクション]]、[[バンダイ]]、[[バンダイビジュアル]]、[[TBSテレビ|TBS]]、[[毎日放送]]、[[講談社]]、[[小学館]]、[[ジェイアール東日本企画]]、[[松竹]])
* 特技監督 - [[佐川和夫]]
* 監督 - [[飯島敏宏]]
== 主題歌 ==
; 「ウルトラマンコスモス〜君にできるなにか」
: 作詞 - [[松井五郎]] / 作曲 - [[鈴木キサブロー]] / 編曲 - [[京田誠一]] / 歌 - [[Project DMM]]
== 映像ソフト化 ==
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist
|refs=
<ref name="TVMAGA7">{{Harvnb|テレビマガジン特別編集|2003|p=7}}</ref>
<ref name="TVMAGA84">{{Harvnb|テレビマガジン特別編集|2003|p=84|loc=「怪獣を殺さないウルトラマン」}}</ref>
<ref name="超全集19">{{Harvnb|超全集|2001|p=19|loc=「スーパーハイテクロボット クレバーゴン」}}</ref>
<ref name="超全集25">{{Harvnb|超全集|2001|p=25|loc=「伝説薬使獣 呑龍<ドンロン>」}}</ref>
<ref name="画報下">{{Harvnb|画報 下巻|2003|p=176|loc=「ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」}}</ref>
<ref name="UYB03">{{Harvnb|宇宙船YB|2003|p=131|loc=「ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」}}</ref>
<ref name="TV超全集50">{{Harvnb|超全集|2003|p=50|loc=「地球怪獣」}}</ref>
<ref name="超全集53">{{Harvnb|超全集|2003|p=53|loc=「DESIGN OF DONRON」}}</ref>
<ref name="ism109">{{Harvnb|コスモスイズム|2003|p=109|loc=「コスモス怪獣大百科」}}</ref>
<ref name="円谷全怪獣">{{Harvnb|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=303}}</ref>
<ref name="デザイン画集246">{{Harvnb|デザイン画集|2018|p=246|loc=「丸山浩デザイン解説 ウルトラマンコスモス」}}</ref>
<ref name="TV超全集32">{{Harvnb|超全集|2003|p=32|loc=「クレバーゴン」}}</ref>
<ref name="ism136">{{Harvnb|コスモスイズム|2003|p=136|loc=「SRC Technical Reference Journal」}}</ref>
<ref name="HMC70">{{Harvnb|HMC|2021|p=70|loc=「TEAM EYES/SRC/TEAM SEA/統合防衛軍 所属ライドメカ・兵器」}}</ref>
<ref name="UPM vol.284">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|pp=4-5|loc=「夢のようなことが訪れる―」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2811">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=11|loc=「SRC」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2822">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=22|loc=「カオスヘッダー、怪獣、カオス怪獣、宇宙人」}}</ref>
<ref name="UPM vol.2830">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=30|loc=「ウルトラ特別企画vol.28 ウルトラの特徴!?ユニフォーム考 その2」}}</ref>
}}
=== 出典(リンク) ===
{{Reflist|group="出典"|2}}
== 参考文献 ==
* [[てれびくん]]デラックス愛蔵版([[小学館]])
** {{Cite book|和書 | title = 劇場版ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT[[超全集]] | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版| date = 2001-10-01 | isbn = 4-09-101480-1 | ref = {{SfnRef|超全集|2001}} }}
** {{Cite book|和書 | title = ウルトラマンコスモス超全集 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版| date = 2003-09-20 | isbn = 4-09-101492-5 | ref = {{SfnRef|超全集|2003}} }}
* {{Cite book|和書 |editor=竹書房/ブレインナビ| title = ウルトラマン画報 <small>光の戦士三十五年の歩み</small> | publisher = [[竹書房]] | volume = 下巻 | date = 2003-05-09 | isbn = 4-8124-0999-3 | ref = {{SfnRef|画報 下巻|2003}} }}
* {{Cite book|和書 |others = 構成・執筆・編集 岩畠寿明・鈴木洋一 |date = 2003-09-08 |title = [[テレビマガジン]]特別編集 ウルトラマンコスモス |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-178429-3 |ref = {{SfnRef|テレビマガジン特別編集|2003}} }}
* {{Cite book|和書 | title = ウルトラマンAGEスペシャル ウルトラマンコスモスイズム | publisher = [[辰巳出版]] | series = タツミムック | date = 2003-10-10 | isbn = 4-88641-928-3 | ref = {{SfnRef|コスモスイズム|2003}} }}
* {{Cite book|和書 |author = 大石真司 |coauthors = 江口水基・島崎淳・間宮尚彦 |others = 円谷プロダクション監修 |date = 2013-03-11 |title = 円谷プロ全怪獣図鑑 |publisher = 小学館 |isbn = 978-4-09-682074-2 |ref = {{SfnRef|円谷プロ全怪獣図鑑|2013}} }}
* {{Cite book|和書|date=2018-11-22|title=丸山浩ウルトラデザイン画集|publisher=洋泉社|isbn=978-4-8003-1596-0|ref={{SfnRef|デザイン画集|2018}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2021-04-30|title =平成ウルトラマン メカクロニクル|publisher = ぴあ株式会社|series = ぴあMOOK|isbn = 978-4-8356-4288-8|ref = {{SfnRef|HMC|2021}}}}
* {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-08-24|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.28|volume-title=ウルトラマンコスモス|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520962-2|ref = {{SfnRef|UPM vol.28|2021}}}}
* [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]([[朝日ソノラマ]])
** {{Cite journal |和書|date=2002-05-01 |title=綴込特別付録 宇宙船 YEAR BOOK 2002 |journal=宇宙船 |volume=Vol.100 |issue=(2002年5月号)|publisher=朝日ソノラマ |id=雑誌コード:01843-05|ref={{SfnRef|宇宙船YB|2002}}}}
** {{Cite journal |和書|date=2003-05-01 |title=106号巻末特別付録 宇宙船 YEAR BOOK 2003 |journal=宇宙船 |volume=Vol.106 |issue=(2003年5月号) |pages=115-168 |publisher=朝日ソノラマ |id=雑誌コード:01843-05|ref={{SfnRef|宇宙船YB|2003}} }}
== 関連項目 ==
* [[ウルトラシリーズ]]
* [[ウルトラ怪獣一覧]]
* [[ウルトラシリーズ登場兵器一覧]]
* [[ウルトラマンコスモス]]
* [[ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET]]
* [[ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE]]
== 外部リンク ==
* {{jmdb title|2001|dy002020|ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT}}
* {{Allcinema title|163026|ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT}}
* {{Kinejun title|32652|ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT}}
{{ウルトラシリーズ}}
{{DEFAULTSORT:うるとらまんこすもすさふああすとこんたくと}}
[[Category:ウルトラシリーズ映画作品|こすもす1さふああすとこんたくと]]
[[Category:2001年の映画]]
[[Category:松竹特撮映画]]
[[Category:ジェイアール東日本企画の映画作品]]
[[Category:TBS製作の映画]]
[[Category:毎日放送製作の映画]]
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二銭銅貨
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『二銭銅貨』(にせんどうか)は、1923年(大正12年)に江戸川乱歩が発表した短編推理小説であり、探偵小説家江戸川乱歩の処女作である。
芝区にある電機会社の工場の給料日に、新聞記者に変装した紳士泥坊が現れて、まんまと給料袋ごと、職工たちの給料5万円を盗んでしまった。刑事の丹念な捜査で泥坊は捕まったが、肝心の給料袋の行方については一切白状しないまま懲役となった。困り果てた工場支配人は、5万円の給料支払い金に5千円の懸賞金をかけた。
「私」とその友人、松村武は場末の下駄屋の2階の六畳に同居する貧窮青年だったが、世間を騒がすこの事件に強い興味を持っていた。ある日、松村は机の上に「私」が置いた二銭銅貨に目を留めた。そしてこの二銭銅貨の秘密に気がついた松村は、これをきっかけに一人で捜査を始め、ついに盗まれた5万円の行方をつきとめたとして、「私」に得意げにその謎を解き明かしてみせる。
「私」が煙草屋でお釣りにもらったその二銭銅貨は、表と裏が二つに分かれる容器になっていて、中には「南無阿弥陀仏」の文言が列挙された不思議な暗号文が入っていた。松村はこの暗号文の謎を解き、紳士泥坊が巧妙に隠匿した5万円を見つけ出したというのだが...
1922年(大正11年)9月に執筆され、1923年(大正12年)に雑誌『新青年』(博文館)四月増大号に掲載された。初出時の題は『二錢銅貨』。江戸川乱歩の処女作であり、日本最初の本格探偵小説ともいわれる作品である。
内容は乱歩が傾倒したポーの『黄金虫』を彷佛とさせる暗号物である。作中の松村のセリフで「ポオのGold Bug」や、アーサー・コナン・ドイルの『Dancing Men』への言及があり、「Baconの発明したtwo Letter暗号法」(二記号暗号)など暗号に関する蘊蓄が幾らか語られていて、のちに「幻影城」などで内外の推理トリックを紹介する、探偵小説マニアとしての乱歩の片鱗が窺える作品となっている。乱歩は大学時代から暗号に興味を持ち、暗号史を調べていたこともあった。ポーに私淑していた乱歩は、「エドガー・アラン・ポー」をもじった「江戸川乱歩」を本作で自らの筆名とした。
本作の暗号は換字法(Substitution Cipher)の一種(コード(Code)と換字法を組み合せたもの)に、さらに分置式暗号も埋め込まれている。
乱歩は小説に知人の姓名を使うことが多く、本作の「松村武」は、鳥羽造船所勤務時代からの友人「松村家武」の名を拝借している。この松村は同時期に執筆された『一枚の切符』にも登場する。松村が奮発して按摩を呼ぶ場面があるが、乱歩自身も按摩が好きで、当時、小遣いを工面して3日に1回は按摩を呼んでいた。作中の点字の暗号も、この按摩から点字を教えてもらったことから着想を得た。
文中の点字は、戦後になって誤りの指摘を受けた(拗音の表記法を誤解したもので、たとえば「チョ」は「拗音符+ト」とあるべきところを、「チ+拗音符+ヨ」と誤っていた)。そのため、乱歩は1961年(昭和36年)に桃源社から全集が出た際にこれを訂正している。ただし、この乱歩による訂正は周知されず、その後に発行された講談社版第1次全集(第1巻所収、1969年)・同第2次全集(第1巻所収、1978年)や角川文庫版(『一寸法師』所収、1973年)などは初出の『新青年』を底本としたため、かえって誤りが残ってしまう結果になった。また、春陽文庫版(『心理試験』所収、1959年)や新潮文庫版(『江戸川乱歩傑作選』所収、1960年)などの文庫本でも増刷時に修正がなされなかったため、1982年(昭和57年)に読者があらためて誤りを指摘するまでの20年あまりの間、初出時の誤りが踏襲され続けてきた。それ以後に新たに版組がされた文庫版などは桃源社版によるなどとし訂正版の暗号によるのを常としているが、岩波文庫版のみ初出の『新青年』版によっているため間違った暗号が掲載されている。三上延の小説『ビブリア古書堂の事件手帖4』はこの暗号の誤りをテーマにしている。
当時、宇野浩二の小説を愛読していた乱歩は、文章については「『何々したところの』といった浩二式文章の影響を多分に受けている」と語っている。
乱歩は本作について、「最初点字と南無阿弥陀仏の組み合わせて暗号を考え、それに二銭銅貨という隠し場所や、偽札の件なんかを付加えたので、暗号が全体の中心になっていて、その外に大して創意はない訳です」と解説している。原稿料は一枚につき、一円(当時)だった。「『新青年』という雑誌が今よりはけちだったし、今程は売れてもいなかったし、無名作家の原稿なんだから一円は当り前でしょう。今考えると馬鹿に廉い気がするが、当時は、元価一枚三厘か五厘の原稿紙が一円に売れる、ボロイ商売だと有り難く思ったことである」と述懐している。原稿料は全部で50円だったが、当時の水準でもこれはかなり安く、生活を支えるほどの金額ではなかった。
文中で「ゴジヤウダン(御冗談)」と解読される暗号があるが、旧仮名遣いを改めた戦後の出版でも、この仮名遣いだけは意味が通らなくなるので改めていない。乱歩はこれを「八字ずつ飛ばして読むと『ご常談』となる所はどうもぎごちない。あれはなかった方がよいと思う」と戦後になって述べている。
乱歩は大正9年に東京の本郷で弟や友人と古本屋「三人書房」を開き、「智的小説刊行会」を興していた。乱歩はこの古本屋の2階で、友人と一日中探偵小説談議に明け暮れていた。この友人に話し聞かせていた探偵小説のアイディアが、本作の筋立てとなったのである。
乱歩は大正11年7月に化粧品製造業の支配人を辞めて失業し、東京の家を引き払って、妻と赤子とともに大阪の父親の家に転がり込んでいた。貧窮の中の乱歩の楽しみは、『新青年』を読んで探偵小説の世界に浸ることだった。『新青年』はポーやフリーマンの海外翻訳や、馬場孤蝶、小酒井不木、保篠竜緒などの探偵随筆を掲載していて、失業中だった乱歩は乏しい小遣いからこれを買って読み、胸を躍らせていた。のちに次のように回想している。
失業中の乱歩は「2、3か月の間、本当に何もしないでブラブラしていた」といい、あまりの所在のなさに「十万円欲しいなあ、たった五万円でもいい、そうすれば一万円で家を建てて云々という様な、虫のいい妄想を描く片手間に、小さなお膳だか机だかの前に座って、小さくなって書き上げたのが『二錢銅貨』と『一枚の切符』です」とこのときの様子を語っている。乱歩は東京の団子坂時代に大筋だけ考えていた『二錢銅貨』と『一枚の切符』の二編の推理小説を、2、3日で下書きし、大正11年9月末から10月にかけて手を加えて、改めて原稿用紙に書き写した。数え年29歳の時だった。作中の「私」の貧窮描写、「あの泥棒が羨ましい」といったセリフには、乱歩自身の当時の実態が反映していると言われる。
乱歩はこの二つの原稿を「当時、その方の親玉の様に思った」という馬場孤蝶に送ったが、半月ほどたっても返事がないため、憤懣やるかたない乱歩は、質問を箇条書きにした返信用の葉書を同封した「失礼千万な」封書を再送した。しばらくすると馬場から丁重な返事が来た。「樋口一葉の何回忌とかで長らく旅行中だった」との内容だった。乱歩は「邪推をし過ぎて大しくじりだ。なんともお詫びの仕様がない」とこのときの心境を大正15年に「探偵趣味」で述べている。乱歩は後日大阪から上京した際に馬場を訪ね無礼を詫びたが、馬場は意に介していない様子で、乱歩も安心したという。
なにはともあれ原稿を返送してもらったが、再度馬場に見てくれとも言えず、「探偵小説の本舞台」と認める『新青年』の森下雨村に返送料付きでこの原稿を送った。「すぐに送り返してくるだろう、ざまあみろと思っていた」という。返事はなかなか来ず、「目下原稿山積、急には読めない、『新青年』は翻訳物を主としているから日本人の書いた駄作なんて載せられない」というような葉書が来た。癪に障った乱歩は「読む暇がないなら直ちに送り返してくれ、『新青年』が翻訳物専門くらいのことは百も承知だ、もし幸いにして外国作品の間に混ぜることができたらと思って送ったのだ、駄投書家と一緒にされておたまりこぼしがあるものか」と森下宛に返事を書いた。
乱歩のこの一文にあてられた森下は原稿を一読、その内容の斬新さに驚いた森下は返書で本作を次のように絶賛し、「新青年」掲載の旨を返答した。
これには乱歩も「入学試験に一番で合格したほどの喜びを感じ」、「流石に森下雨村眼があると、森下さん、ぐっと好きになった」と大喜びしたという。さらに森下は探偵作家小酒井不木にも本作を見せたところ、小酒井もこれを激賞。こうして本作は大正12年4月、『新青年』4月増刊号に掲載され、探偵作家江戸川乱歩デビューとなったのである。
『新青年』に本作が掲載されると、小酒井不木は本作に、次のような賛辞を添えた。
また松本清張はこの小説について、次のように述べている。
ほか多数。
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『二銭銅貨』(にせんどうか)は、1923年(大正12年)に江戸川乱歩が発表した短編推理小説であり、探偵小説家江戸川乱歩の処女作である。
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『'''二銭銅貨'''』(にせんどうか)は、[[1923年]](大正12年)に[[江戸川乱歩]]が発表した短編[[推理小説]]であり、探偵小説家江戸川乱歩の処女作である。
== あらすじ ==
[[芝区]]にある電機会社の工場の給料日に、新聞記者に変装した紳士泥坊が現れて、まんまと給料袋ごと、職工たちの給料5万円を盗んでしまった。刑事の丹念な捜査で泥坊は捕まったが、肝心の給料袋の行方については一切白状しないまま懲役となった。困り果てた工場支配人は、5万円の給料支払い金に5千円の懸賞金をかけた。
「私」とその友人、松村武は場末の下駄屋の2階の六畳に同居する貧窮青年だったが、世間を騒がすこの事件に強い興味を持っていた。ある日、松村は机の上に「私」が置いた二銭銅貨に目を留めた。そしてこの二銭銅貨の秘密に気がついた松村は、これをきっかけに一人で捜査を始め、ついに盗まれた5万円の行方をつきとめたとして、「私」に得意げにその謎を解き明かしてみせる。
「私」が煙草屋でお釣りにもらったその二銭銅貨は、表と裏が二つに分かれる容器になっていて、中には「南無阿弥陀仏」の文言が列挙された不思議な暗号文が入っていた。松村はこの暗号文の謎を解き、紳士泥坊が巧妙に隠匿した5万円を見つけ出したというのだが…
== おもな登場人物 ==
;私
:場末の貧弱な下駄屋の二階の、ただ一間しかない六畳にゴロゴロしている無職の青年。
;松村武
:「私」の友人で、下駄屋の下宿の同居人。二銭銅貨に隠された暗号文を解読する。
;紳士泥坊
:新聞記者に化け、まんまと工場の給料を盗み出す。盗んだ五万円の在処を吐かずに刑務所入りとなる。
== 作品解説 ==
[[1922年]](大正11年)9月に執筆され、[[1923年]](大正12年)に雑誌『[[新青年 (日本)|新青年]]』(博文館)四月増大号に掲載された。初出時の題は『二錢銅貨』。江戸川乱歩の処女作であり、日本最初の本格探偵小説ともいわれる作品である。
内容は乱歩が傾倒した[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]の『[[黄金虫 (小説)|黄金虫]]』を彷佛とさせる暗号物である。作中の松村のセリフで「ポオのGold Bug」や、[[アーサー・コナン・ドイル]]の『[[踊る人形|Dancing Men]]』への言及があり、「[[フランシス・ベーコン (哲学者)|Bacon]]の発明したtwo Letter暗号法」(二記号暗号)など[[暗号]]に関する蘊蓄が幾らか語られていて、のちに「[[幻影城]]」などで内外の推理トリックを紹介する、探偵小説マニアとしての乱歩の片鱗が窺える作品となっている。乱歩は大学時代から暗号に興味を持ち、暗号史を調べていたこともあった。ポーに私淑していた乱歩は、「エドガー・アラン・ポー」をもじった「江戸川乱歩」を本作で自らの筆名とした。
[[画像:2senM6.jpg|thumb|right|280px|明治から昭和初期にかけて流通した二銭銅貨]]
本作の暗号は[[換字式暗号|換字法]](Substitution Cipher)の一種([[コード (暗号)|コード]](Code)と換字法を組み合せたもの)に、さらに分置式暗号も埋め込まれている。<!--英文ではなく、漢字を用いた純日本的なトリックに独創性があり、作中での[[暗号解読]]は、『黄金虫』や『踊る人形』のような英文の法則を基に解読手法を適用して解き明かしていくものではなく、「南無阿弥陀仏」という極めて東洋的な文言から受ける閃きと推測から法則を読み出して解読する、といったように見る向きもあるようだが、少し考えてみればわかるように、本作の方式は「南無阿弥陀仏」に限らず6種類の記号ないし語を使うフレーズに容易に置換可能であるし、漢字の筆画や構造といった特徴を利用した「漢字に特異な」方式といったようなもの([[長田順行]]『暗号 ——原理とその世界——』のⅦ章などを参照のこと)ではない。暗号に対する攻撃の糸口の基本は古今東西変わっておらず、英日の違いどころかあらゆる言語が本質的に持つ統計的性質と、閃きと推測の、両方から法則を読み出して解読するのであるから、むしろ本作の暗号は(その見た目とは裏腹に)世界的に通用するものとなっている。-->
乱歩は小説に知人の姓名を使うことが多く、本作の「松村武」は、鳥羽造船所勤務時代からの友人「松村家武」の名を拝借している。この松村は同時期に執筆された『[[一枚の切符]]』にも登場する。松村が奮発して按摩を呼ぶ場面があるが、乱歩自身も按摩が好きで、当時、小遣いを工面して3日に1回は按摩を呼んでいた。作中の[[点字]]の暗号も、この按摩から点字を教えてもらったことから着想を得た。
文中の点字は、戦後になって誤りの指摘を受けた([[拗音]]の表記法を誤解したもので、たとえば「チョ」は「拗音符+ト」とあるべきところを、「チ+拗音符+ヨ」と誤っていた)。そのため、乱歩は[[1961年]](昭和36年)に桃源社から全集が出た際にこれを訂正している。ただし、この乱歩による訂正は周知されず、その後に発行された[[講談社]]版第1次全集(第1巻所収、1969年)・同第2次全集(第1巻所収、1978年)や[[角川文庫]]版(『一寸法師』所収、1973年)などは初出の『新青年』を底本としたため、かえって誤りが残ってしまう結果になった。また、春陽文庫版(『心理試験』所収、1959年)や[[新潮文庫]]版(『江戸川乱歩傑作選』所収、1960年)などの文庫本でも増刷時に修正がなされなかったため、[[1982年]](昭和57年)に読者があらためて誤りを指摘するまでの20年あまりの間、初出時の誤りが踏襲され続けてきた<ref>{{Cite news | newspaper = [[読売新聞]]夕刊 | date = 1982-02-20 | page = 5 | title = 江戸川乱歩の処女作 「二銭銅貨」にミス}}</ref>。それ以後に新たに版組がされた文庫版などは桃源社版によるなどとし訂正版の暗号によるのを常としているが、[[岩波文庫]]版のみ初出の『新青年』版によっているため間違った暗号が掲載されている。[[三上延]]の小説『[[ビブリア古書堂の事件手帖]]4』はこの暗号の誤りをテーマにしている。
当時、[[宇野浩二]]の小説を愛読していた乱歩は、文章については「『何々した'''ところの'''』といった浩二式文章の影響を多分に受けている」と語っている。
乱歩は本作について、「最初点字と南無阿弥陀仏の組み合わせて暗号を考え、それに二銭銅貨という隠し場所や、偽札の件なんかを付加えたので、暗号が全体の中心になっていて、その外に大して創意はない訳です」と解説している。原稿料は一枚につき、一円(当時)だった。「『新青年』という雑誌が今よりはけちだったし、今程は売れてもいなかったし、無名作家の原稿なんだから一円は当り前でしょう。今考えると馬鹿に廉い気がするが、当時は、元価一枚三厘か五厘の原稿紙が一円に売れる、ボロイ商売だと有り難く思ったことである」と述懐している<ref>『あの作この作(楽屋噺)』(昭和4年7月)。</ref>。原稿料は全部で50円だったが、当時の水準でもこれはかなり安く、生活を支えるほどの金額ではなかった。
文中で「ゴジヤウダン(御冗談)」と解読される暗号があるが、旧仮名遣いを改めた戦後の出版でも、この仮名遣いだけは意味が通らなくなるので改めていない。乱歩はこれを「八字ずつ飛ばして読むと『ご常談』となる所はどうもぎごちない。あれはなかった方がよいと思う」と戦後になって述べている<ref>『芋虫』(岩谷書店、昭和25年)「あとがき」。本文は「御冗談」だが、この「あとがき」など、乱歩はこれを「ご常談」と書いている。</ref>。
=== 発表までの経緯 ===
乱歩は大正9年に東京の本郷で弟や友人と古本屋「三人書房」を開き、「智的小説刊行会」を興していた。乱歩はこの古本屋の2階で、友人と一日中探偵小説談議に明け暮れていた。この友人<ref>「阿武野丸」(あぶのまる)の筆名で、昭和初期から時代劇探偵小説を書いている。</ref>に話し聞かせていた探偵小説のアイディアが、本作の筋立てとなったのである。
乱歩は大正11年7月に化粧品製造業の支配人を辞めて失業し、東京の家を引き払って、妻と赤子とともに大阪の父親の家に転がり込んでいた。貧窮の中の乱歩の楽しみは、『新青年』を読んで探偵小説の世界に浸ることだった。『新青年』はポーや[[オースティン・フリーマン|フリーマン]]の海外翻訳や、[[馬場孤蝶]]、[[小酒井不木]]、[[保篠竜緒]]などの探偵随筆を掲載していて、失業中だった乱歩は乏しい小遣いからこれを買って読み、胸を躍らせていた。のちに次のように回想している。
:「『新青年』は三回目の増刊を出し、私は乏しい小遣いを割いてこれを買ったのだが、先の二冊の増刊とそれとを前に比べて眺めながら、私はいよいよ探偵小説を書くべき時が来たと思った。失業中のことだから時間は充分にある。もし、その原稿が売れれば、煙草代にも不自由している際、こんな有難いことはない。多年、培ってきた探偵小説への情熱を吐き出すのは今だ、と思った」
失業中の乱歩は「2、3か月の間、本当に何もしないでブラブラしていた」といい、あまりの所在のなさに「十万円欲しいなあ、たった五万円でもいい、そうすれば一万円で家を建てて云々という様な、虫のいい妄想を描く片手間に、小さなお膳だか机だかの前に座って、小さくなって書き上げたのが『二錢銅貨』と『一枚の切符』です」とこのときの様子を語っている。乱歩は東京の団子坂時代に大筋だけ考えていた『二錢銅貨』と『一枚の切符』の二編の推理小説を、2、3日で下書きし、大正11年9月末から10月にかけて手を加えて、改めて原稿用紙に書き写した。数え年29歳の時だった。作中の「私」の貧窮描写、「あの泥棒が羨ましい」といったセリフには、乱歩自身の当時の実態が反映していると言われる。
乱歩はこの二つの原稿を「当時、その方の親玉の様に思った」という[[馬場孤蝶]]に送ったが、半月ほどたっても返事がないため、憤懣やるかたない乱歩は、質問を箇条書きにした返信用の葉書を同封した「失礼千万な」封書を再送した。しばらくすると馬場から丁重な返事が来た。「[[樋口一葉]]の何回忌とかで長らく旅行中だった」との内容だった。乱歩は「邪推をし過ぎて大しくじりだ。なんともお詫びの仕様がない」とこのときの心境を大正15年に「探偵趣味」で述べている。乱歩は後日大阪から上京した際に馬場を訪ね無礼を詫びたが、馬場は意に介していない様子で、乱歩も安心したという。
なにはともあれ原稿を返送してもらったが、再度馬場に見てくれとも言えず、「探偵小説の本舞台」と認める『新青年』の[[森下雨村]]に返送料付きでこの原稿を送った。「すぐに送り返してくるだろう、ざまあみろと思っていた」という。返事はなかなか来ず、「目下原稿山積、急には読めない、『新青年』は翻訳物を主としているから日本人の書いた駄作なんて載せられない」というような葉書が来た。癪に障った乱歩は「読む暇がないなら直ちに送り返してくれ、『新青年』が翻訳物専門くらいのことは百も承知だ、もし幸いにして外国作品の間に混ぜることができたらと思って送ったのだ、駄投書家と一緒にされておたまりこぼしがあるものか」と森下宛に返事を書いた。
乱歩のこの一文にあてられた森下は原稿を一読、その内容の斬新さに驚いた森下は返書で本作を次のように絶賛し、「新青年」掲載の旨を返答した。
:『二錢銅貨』を拝見し、すっかり感心させられました。『一枚の切符』も同様一気に拝見し、大変いい作品だと思いました。正直なところ、『新青年』へ載せた外国物の二、三の作などより遙かにいいものだと存じます。これだけの作ならば、無論、私の方へ掲載しても差支えありません」
これには乱歩も「入学試験に一番で合格したほどの喜びを感じ」、「流石に森下雨村眼があると、森下さん、ぐっと好きになった」と大喜びしたという。さらに森下は探偵作家[[小酒井不木]]にも本作を見せたところ、小酒井もこれを激賞。こうして本作は大正12年4月、『新青年』4月増刊号に掲載され、探偵作家江戸川乱歩デビューとなったのである。
=== 評価 ===
『新青年』に本作が掲載されると、[[小酒井不木]]は本作に、次のような賛辞を添えた。
:「日本にも外国作品に劣らぬ探偵小説が出なくてはならぬ。私たちは常にこう云っていたのである。が、俄然、そうした立派な作品が現れた。真に外国の作品にも劣らない、いや、或る意味においては外国の作品よりも優れた長所を持った純然たる創作が生れたのである。江戸川乱歩氏の作品がそれである」
また[[松本清張]]はこの小説について、次のように述べている。
:「発表された彼の処女作ともいうべき『二錢銅貨』は、『あの泥棒が羨ましい。二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど、そのころは窮迫していた』という書き出しに始まる。私は初めて『二錢銅貨』を読んだとき、この書き出しの素晴らしさに惹かれたものだった。この一行の文章の中に、これから起る事件を読者に予想させ、しかも、端的に現在の状況を説明している。小説の冒頭の巧みさは、このようなものでなければならない。よく引例される[[志賀直哉]]の短篇の冒頭にも匹敵するであろう」
== 収録作品 ==
{||- style="position:relative; left:20px"
|新潮文庫||『江戸川乱歩傑作選』||ISBN 4-10-114901-1
|-
|ちくま文庫||『江戸川乱歩全短篇 1』||ISBN 4-480-03411-0
|-
|創元推理文庫||『日本探偵小説全集 2 江戸川乱歩集』||ISBN 4-488-40002-7
|-
|春陽文庫||『心理試験 <small>他六編</small>』||ISBN 4-394-30110-6
|-
|光文社文庫||『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』||ISBN 4-334-73716-1
|-
|岩波文庫||『江戸川乱歩短篇集』||ISBN 978-4-003-11811-5
|}
ほか多数。
== 改作版 ==
;『二銭銅貨』
:ポプラ社が発行した少年向けシリーズの『少年探偵・江戸川乱歩シリーズ37 暗黒星』に収録。子供向けに翻案され、原作中の一人物がここでは「無名時代の[[明智小五郎]]」になっている。[[氷川瓏]]が乱歩の原典を代作したもの。
== 同名の他作品 ==
*『二銭銅貨』 - [[黒島伝治]]による同名小説。初出時の題名は『銅貨二銭』だった。本作との関連はない。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*『日本推理小説大系第2巻 江戸川乱歩集』(東都書房)[[松本清張]]による解説
*『江戸川乱歩傑作選』([[新潮文庫]])[[荒正人]]による解説
*『江戸川乱歩全集第1巻 屋根裏の散歩者』(光文社文庫)乱歩「自作解説」
*『江戸川乱歩推理文庫(1) 二銭銅貨』(講談社)[[中島河太郎]]による解説
== 関連項目 ==
*[[二銭硬貨]] - この小説の題材となった貨幣について
*[[一枚の切符]] - 本作と並び、江戸川乱歩の処女作品。
*[[乱歩せんべい「二銭銅貨」]] - 乱歩の故郷である[[名張市]]で製造販売されている菓子。
==外部リンク==
*{{青空文庫|001779|56647|新字新仮名|二銭銅貨}}
{{江戸川乱歩}}
{{DEFAULTSORT:にせんとうか}}
[[Category:江戸川乱歩の短編小説]]
[[Category:日本の推理小説]]
[[Category:1922年の小説]]
[[Category:東京都港区を舞台とした小説]]
[[Category:暗号を題材とした作品]]
[[Category:新青年 (日本)]]
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吉祥天
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吉祥天(きっしょうてん / きちじょうてん、梵: Śrī-mahādevī [シュリー・マハーデーヴィー]、音写:摩訶室利など)は、仏教の守護神である天部の1つ。もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミー(Lakṣmī)が仏教に取り入れられたもの。功徳天、宝蔵天女ともいう。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。仏教においては、父は徳叉迦()、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする。妹に黒闇天がいる。毘沙門天の脇侍として善膩師童子と共に祀られる事もある。
早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。北方・毘沙門天の居所を住所とする。不空訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には成仏して吉祥摩尼宝生如来()になると説かれる。
吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。
天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇は天河の上空での天女=吉祥天の舞いを吉祥のしるしととらえ、役行者とともに、伊勢神宮内宮に祀られる女神(天照坐皇大御神荒御魂瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている。
日本においては、神社でも信仰の対象としているところもある。また、埼玉県久喜市など、七福神に吉祥天を加え八福神として信仰している地域もある。
吉祥院天満宮の吉祥院に菅原清公卿、菅原是善公、伝教大師、孔子と共に祀られる。菅原道真公の幼名の一つは吉祥丸であった。道真の祖父清公の遣唐使霊験譚以降菅原家は代々吉祥天信仰になったという。また、道真の正室島田宣来子と習合したとされる。
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吉祥天は、仏教の守護神である天部の1つ。もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミー(Lakṣmī)が仏教に取り入れられたもの。功徳天、宝蔵天女ともいう。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。仏教においては、父は徳叉迦、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする。妹に黒闇天がいる。毘沙門天の脇侍として善膩師童子と共に祀られる事もある。 早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。北方・毘沙門天の居所を住所とする。不空訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には成仏して吉祥摩尼宝生如来になると説かれる。 吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。 天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇は天河の上空での天女=吉祥天の舞いを吉祥のしるしととらえ、役行者とともに、伊勢神宮内宮に祀られる女神(天照坐皇大御神荒御魂瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている。 日本においては、神社でも信仰の対象としているところもある。また、埼玉県久喜市など、七福神に吉祥天を加え八福神として信仰している地域もある。 吉祥院天満宮の吉祥院に菅原清公卿、菅原是善公、伝教大師、孔子と共に祀られる。菅原道真公の幼名の一つは吉祥丸であった。道真の祖父清公の遣唐使霊験譚以降菅原家は代々吉祥天信仰になったという。また、道真の正室島田宣来子と習合したとされる。
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{{Otheruses|仏教における吉祥天|吉田秋生の漫画作品|吉祥天女}}
{{出典の明記|date=2013年12月3日 (火) 02:13 (UTC)}}
'''吉祥天'''(きっしょうてん / きちじょうてん、{{lang-sa-short|Śrī-mahādevī}} {{refnest|name="コトバンク"|[https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%A4%A9-51012 きちじょうてん【吉祥天】 - 大辞林 第三版]}} [{{fontsize|small|シュリー・マハーデーヴィー}}]、音写:摩訶室利など)は、[[仏教]]の守護神である[[天部]]の1つ。もと[[ヒンドゥー教]]の[[女神]]である[[ラクシュミー]]({{Lang|sa|Lakṣmī}})が仏教に取り入れられたもの。'''功徳天'''、'''宝蔵天女'''ともいう{{refnest|name="コトバンク"}}。ヒンドゥー教では[[ヴィシュヌ]]神の妃とされ、また愛神[[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ]]の母とされる。仏教においては、父は{{読み仮名|徳叉迦|とくさか}}、母は[[鬼子母神]]であり、夫を[[毘沙門天]]とする{{refnest|name="コトバンク"}}。妹に[[黒闇天]]がいる。[[毘沙門天]]の[[脇侍]]として[[善膩師童子]]と共に祀られる事もある。
早くより[[帝釈天]]や[[大自在天]]などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に[[弁才天]]と混同されることが多くなった。北方・毘沙門天の居所を住所とする。[[不空]]訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には[[成仏]]して{{読み仮名|吉祥摩尼宝生如来|きちじょうまにほうしょうにょらい}}になると説かれる。
吉祥とは繁栄・幸運を意味し[[幸福]]・[[美]]・[[財産|富]]を顕す神とされる。また、[[美女]]の代名詞として尊敬を集め、[[金光明経]]から[[前科]]に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や[[豊作|五穀豊穣]]でも崇拝されている。
[[天河大弁財天社]]の創建に関わった[[天武天皇]]は天河の上空での天女=吉祥天の舞いを吉祥のしるしととらえ、[[役行者]]とともに、[[伊勢神宮内宮]]に祀られる女神(天照坐皇大御神荒御魂[[瀬織津姫]])を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、[[五節の舞]]として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている。
[[日本]]においては、[[神社]]でも[[信仰]]の対象としているところもある。また、埼玉県久喜市など、七福神に吉祥天を加え八福神として信仰している地域もある{{refnest|[http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/community/hachifukujin.html くりはし八福神巡り:久喜市ホームページ]}}。
[[吉祥院天満宮]]の吉祥院に[[菅原清公]]卿、[[菅原是善]]公、[[最澄|伝教大師]]、[[孔子]]と共に祀られる。[[菅原道真]]公の幼名の一つは吉祥丸であった。道真の祖父清公の遣唐使霊験譚以降菅原家は代々吉祥天信仰になったという。また、道真の正室[[島田宣来子]]と習合したとされる。{{refnest|[http://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-2/newpage764.htm 大阪再発見! 吉祥天女社]}}
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ファイル:Jyoruriji Kissyoten Srii.jpg|[[浄瑠璃寺]]吉祥天立像<br />(重要文化財)
ファイル:Kichijōten.jpg|[[薬師寺吉祥天像]](国宝)
ファイル:Bonji5.jpg|吉祥天を表す[[種子 (密教)|種字]](Śrī)
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== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[仏の一覧]]
* [[吉祥院天満宮]]
* [[天満大自在天神#北政所吉祥女|北政所吉祥女]]
== 外部リンク ==
*[https://mk123456.web.fc2.com/kit.htm 吉祥天]
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ラクシュミー
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ラクシュミー(梵: लक्ष्मी、Lakṣmī)は、ヒンドゥー教の女神の一柱で、美と富と豊穣と幸運を司る。
蓮華の目と蓮華の色をした肌を持ち、蓮華の衣を纏っている。4本の腕を持ち、持物は水蓮。一部画像では貯金箱を持ち、彼女の手から金貨が溢れ出ている。水に浮かんだ紅い蓮華の上に乗った姿で描かれる。
乳海攪拌の際に誕生した。ヒンドゥー教の最高神の1人ヴィシュヌの妻とされており、数多くあるヴィシュヌの化身と共に、ラクシュミーも対応する姿・別名を持っている。幸運を司るため、移り気な性格であるともいわれる。ラクシュミーが誕生した時、アスラたちが彼女を手に入れようとしたが、失敗に終わった。あるアスラはラクシュミーを捕まえることに成功し、頭の上に乗せたが、その途端に逃げられた。かつてはインドラと共にいたこともあったが、インドラでさえラクシュミーを自分の元に留めておくためには、彼女を4つの部分に分けなければならなかったという。
なお、ラクシュミーはアラクシュミーという不幸を司る女神を姉に持つともされ、ヴィシュヌの妻になる際に「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」とヴィシュヌに請願し、ある聖仙(リシ)とアラクシュミーを結婚させ、晴れてヴィシュヌとラクシュミーは一緒になったという神話も一方で残っている。
10月末から11月初めのインド暦の第7番目の月における初めの日「ディワーリ」(दिवाली, diwāli/दीपावली, Dīpāvalī)は、ラクシュミーを祝うお祭りである。
仏教にも取り込まれて吉祥天と呼ばれている。福徳安楽を恵み仏法を護持する天女とされる。また、弁才天(サラスヴァティー)と混同される場合がある。
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ラクシュミーは、ヒンドゥー教の女神の一柱で、美と富と豊穣と幸運を司る。
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{{Hinduism}}
'''ラクシュミー'''({{lang-sa-short|लक्ष्मी}}、{{lang|sa-latn|Lakṣmī}})は、[[ヒンドゥー教]]の[[女神]]の一柱で、[[美]]と[[富]]と[[豊穣]]と[[幸運]]を司る。
== 容姿 ==
[[蓮華]]の目と蓮華の色をした肌を持ち、蓮華の衣を纏っている。4本の腕を持ち、持物は水蓮。一部画像では[[貯金箱]]を持ち、彼女の手から[[金貨]]が溢れ出ている。水に浮かんだ紅い蓮華の上に乗った姿で描かれる。
== 神話 ==
[[乳海攪拌]]の際に誕生した。ヒンドゥー教の最高神の1人[[ヴィシュヌ]]の妻とされており、数多くあるヴィシュヌの化身と共に、ラクシュミーも対応する姿・別名を持っている。幸運を司るため、移り気な性格であるともいわれる。ラクシュミーが誕生した時、[[アスラ]]たちが彼女を手に入れようとしたが、失敗に終わった。あるアスラはラクシュミーを捕まえることに成功し、頭の上に乗せたが、その途端に逃げられた。かつては[[インドラ]]と共にいたこともあったが、インドラでさえラクシュミーを自分の元に留めておくためには、彼女を4つの部分に分けなければならなかったという。
なお、ラクシュミーは[[アラクシュミー]]という不幸を司る女神を姉に持つともされ、ヴィシュヌの妻になる際に「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」とヴィシュヌに請願し、ある聖仙(リシ)とアラクシュミーを結婚させ、晴れてヴィシュヌとラクシュミーは一緒になったという神話も一方で残っている。
== 信仰 ==
10月末から11月初めの'''インド暦'''の第7番目の月における初めの日「[[ディワーリ]]」({{lang|hi|दिवाली}}, {{lang|hi-latn|diwāli}}/{{lang|sa|दीपावली}}, {{lang|sa-latn|Dīpāvalī}})は、ラクシュミーを祝うお祭りである。
[[仏教]]にも取り込まれて[[吉祥天]]と呼ばれている。福徳安楽を恵み仏法を護持する天女とされる。また、弁才天([[サラスヴァティー]])と混同される場合がある。
== 別名 ==
* '''シュリー'''({{lang|hi|श्री}}, {{lang|sa-latn|Śrī}}) - 吉祥。
* '''パドマーヴァティー'''({{lang|hi|पद्मावती}}, {{lang|hi-latn|Padmāvatī}}) - 蓮を持つ女性。
* '''チャンチャラ''' ({{lang|hi|चञ्चल}}、{{lang|hi-latn|Cañcala}}) - 幸運の女神。
== ラクシュミーを扱った画像 ==
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Image:Gaja Lakshmi.jpg|ラクシュミーの絵画(1780年頃)
Image:Gajalakshmi.jpg|19世紀初頭の絵画
Image:Raja Ravi Varma, Goddess Lakshmi, 1896.jpg|ラヴィ・ヴァルマによるラクシュミーの絵画(1896年)
Image:A powerful deity in her own right, Shri Lakshmi herself.jpg|バザールの絵画・1940年代
Image:Lakshmi Vishnu.jpg|ガルダの上に乗るラクシュミーと夫ヴィシュヌ(1820年頃)
Image:Ganesh & Lakshmi Barisha Sarbojanin 2010 Arnab Dutta.JPG|象頭神ガネーシャとラクシュミーの彫像(インド・コルカタ)
Image:Gajalaxmi - Medallion - 2nd Century BCE - Red Sand Stone - Bharhut Stupa Railing Pillar - Madhya Pradesh - Indian Museum - Kolkata 2012-11-16 1837 Cropped.JPG|ストゥーパの彫物(インド・紀元前2世紀)
Image:Coin of Azilises showing Gaja Lakshmi standing on a lotus 1st century BCE.jpg|ガンダーラのコイン(紀元前1世紀)
Image:Le temple de Lakshmi Narayan (Delhi) (8479448047).jpg|ラクシュミーを祀る寺院(インド・デリー)
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== 関連項目 ==
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* [[神の一覧]]
* [[吉祥天]]
* [[ラクシュミー・バーイー]]
* [[ラクシュミー・ミッタル]]
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テイエムオペラオー
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テイエムオペラオー(欧字名:T.M. Opera O、1996年3月13日 - 2018年5月17日)は、日本の競走馬・種牡馬。
1998年に中央競馬でデビュー。1999年のクラシック三冠戦線においてアドマイヤベガ、ナリタトップロードと共に「三強」を形成し、三冠競走初戦・皐月賞を制するなどしてJRA賞最優秀4歳牡馬に選出。2000年には「一強」状態となってシーズンを踏破し、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念を含む年間8戦全勝、年間記録として史上最多のGI競走5勝という成績を挙げ、年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に満票で選出された。2001年には天皇賞(春)を連覇してGI勝利数を当時最多タイ記録の「7」とし、同年末に競走馬を引退。和田竜二が全戦で騎乗し、通算26戦14勝。総獲得賞金額18億3518万9000円は、2017年まで世界最高記録であった。20世紀末に活躍したことから、漫画『北斗の拳』の登場人物・ラオウになぞらえ「世紀末覇王」とも称された。2004年に日本中央競馬会の顕彰馬に選出。
1996年、北海道浦河郡浦河町の杵臼牧場に生まれる。父・オペラハウスは競走馬時代にヨーロッパ各国と北米で走り、18戦8勝。それぞれG1競走のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、エクリプスステークス、コロネーションカップなどを制して1993年には全欧の古馬チャンピオンに選ばれ、1994年に種牡馬として日本に輸入された。母ワンスウェドはアメリカ産馬で競走馬時代は不出走。1987年に上場された繁殖牝馬セールにおいて、杵臼牧場主の鎌田信一に1万5000ドルで購買され、これも日本に輸入されていた。ワンスウェドの父・ブラッシンググルームはこのセールから2年後の1989年にイギリス・アイルランドのリーディングサイアー(首位種牡馬)となるが、当時は日本での注目度はまだ低く、鎌田はむしろその評価が定まっていないところに興味を抱いていた。
ワンスウェドの初年度産駒・チャンネルフォーは中央競馬で4勝を挙げてオープンクラスまで昇り、重賞でもCBC賞(GII)2着、阪急杯(GIII)3着などの実績を残した。他にもワンスウェドの各産駒は堅実に勝ち上がったが、チャンネルフォーも含めて短距離傾向が強い特徴があった。鎌田はワンスウェドからより上のクラスで活躍する馬の誕生を期して、「距離の補強」が期待できる種牡馬を探し、選ばれたのが長距離実績のあったオペラハウスであった。
誕生した本馬を見た鎌田は、丈夫そうで馬体のバランスが良いと感じたものの、強い印象は持たなかった。出生から10日ほどして、後にそれぞれ馬主、調教師となる竹園正繼と岩元市三が牧場を訪れる。引き出された7頭ほどの中から、竹園は本馬をひと目で気に入り、購買を申し出る。オペラハウス産駒には市場取引義務があり、競り市で落札する必要があることを鎌田が告げると、竹園は「絶対に俺が競り落とすから、この馬を他の人に見せちゃ駄目だよ。これは絶対オープンまで行くよ。重賞も取れるかもしれないよ」と話した。竹園は後に「馬体を見た瞬間にいっぺんで惚れこみました。腰が大きく、骨がしっかりしていて、繋も柔らかい。自分なりのチェックポイントを全てクリアしていたうえ、なにか垢抜けた雰囲気があった。もちろんその時はこれほどの馬になるとは思わなかったけど、この馬なら故障の心配はないなと思ったことはよく覚えています」と、その印象を振り返っている。岩元は「そんなに強烈な印象は受けなかった」としている。
1997年10月、静内で開かれた北海道10月市場に上場され、開始と同時に竹園がコールした1000万円で落札されたのち岩元と提携していた賀張共同育成センターで馴致・育成に入る。同センター代表の槇本一雄は、それまで本馬を見た各人と同様に馬体のバランスの良さを感じたが、当初は「中の上」という程度の評価を下していた。若駒がみせるバランスの良さは、それ以上成長の余地がないことと表裏一体という危惧もあったためである。しかし育成が進むにつれて、バランスの良さを保ったまま成長を続ける様子を見て評価を改め、岩元との連絡のたびに「この馬はすごく良い」と伝えるようになっていた。
1998年5月、競走馬名「テイエムオペラオー」と名付けられ、滋賀県・栗東トレーニングセンターの岩元厩舎に入る。馬名は竹園が経営する会社名からとった冠名「テイエム」、父オペラハウスから「オペラ」、サラブレッドの王に、という願いを込めた「オー」の組み合わせである。当初テイエムオペラオーにさほどの印象を持たなかった岩元も調教が進むにつれて動きの良さに期待を高め、特にデビュー戦3日前に行われた最終追い切りでは、栗東Cウッドコースで6ハロン79秒3、ラスト11秒9と、すでに新馬戦を勝ち上がっていた自厩舎の併せ馬ユーセイシュタインに1秒6の差をつけて先着。そのタイムの優秀さに「よその厩舎は知らないが、うちの厩舎ではこんな馬は見たことがない」と舌を巻いた。一方、全戦で騎手を務めることになる当時3年目の和田竜二は「まあ普通の3歳馬っていう感じでしたね。名前そのまんまって......。まだGI級の馬になんか乗ったことがなかったんで、これがGI馬の乗り味か、なんてわからなかったしね」と振り返っている。また、厩務員課程を修了し岩元厩舎に入ったばかりだった調教厩務員の原口政也も「印象は特に覚えていない」といい、同じオペラハウス産駒に前年の東京優駿(日本ダービー)で5着に入ったミツルリュウホウがいたことから、ベテランの調教助手から「あんちゃんの馬もミツルリュウホウぐらい走ってくれたらええな」と声を掛けられ、漠然と「そうなってくれればいいな」と思った程度だったという。
8月15日、京都競馬場で行われた3歳新馬戦(芝1600m)でデビュー。調教内容の良さもあり単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。しかし、スタートが切られると和田が絶えず手綱を押すなど追走に苦労する様子をみせ、最後の直線では2番人気のクラシックステージに突き離され、同馬から6馬身差の2着となった。レース終了後には歩様に乱れがあったことから脚部のレントゲン撮影が行われ、右後肢下腿骨々折の診断が下された。症状としては軽く、治療のため賀張共同育成センターに戻され休養に入る。12月には帰厩し、翌年1月16日には2走目の4歳未勝利戦 (ダート1400m)に出走したが、休養明けの調整途上もあり4着となる。2月6日には市場取引馬・抽せん馬限定の4歳未勝利戦(ダート1800m)に出走、単勝オッズ1.8倍の1番人気となると、最後の直線で和田がほとんど追うこともないまま2着に5馬身差をつけて初勝利を挙げた。2月27日に出走したゆきやなぎ賞から芝コースのレースに戻り、最後の直線ではゴール前が一団となった中から4分の3馬身抜け出して勝利。3月28日にはGIII競走の毎日杯で重賞に初出走、低調なメンバー構成とされた中でも3番人気の評価であったが、2着タガノブライアンに4馬身差をつけての重賞初勝利を挙げた。当日は良馬場だったものの馬場は荒れており、そのうえで2着を4馬身突き離した脚力を、岩元、和田ともに称賛した。これはオペラハウス産駒の重賞初勝利ともなった。
毎日杯の勝利で賞金を加算したテイエムオペラオーは、4歳クラシック三冠初戦・皐月賞への出走が獲得賞金上は可能となったが、ひとつの問題があった。初戦後に判明した骨折による休養から戻ってきた際、「皐月賞には間に合わない」と判断した岩元は、同競走への第2回登録を行っていなかったのである。このためテイエムオペラオーは皐月賞への出走権をもたず、二冠目の日本ダービーから出走可能となっていた。こうしたケースの救済措置として「追加登録」という制度が設けられていたが、通常の第2回登録費用が3万円であるのに対し、200万円と高額な費用を要した。毎日杯の好内容とテイエムオペラオーの更なる良化に岩元は見込み違いを反省し、竹園に皐月賞出走を掛け合う。竹園は当初「青葉賞からダービーを狙えばいい」と相手にしなかったが、岩元が「登録料の半分を自分が負担してもいいから」と説得すると最終的にはこれを受け入れ、テイエムオペラオーは追加登録料200万円を支払い皐月賞へ出走することになった。なお毎日杯から数日後の杵臼牧場に、追加登録制度設置のきっかけになったとされるオグリキャップの調教師であった瀬戸口勉から電話があり、「毎日杯であんなに強い勝ち方をした馬はいないよ。あれは強い。皐月賞でも面白いよ」と話した。まだ追加登録が行われていなかった段階で、瀬戸口は「制度を利用すべきだ」という考えを伝えたかったが同業の岩元に言うのは僭越だと感じ、遠回しに牧場へ伝えたものだったという。
4月18日の皐月賞は、雨中での開催となった。当日1番人気となったアドマイヤベガは調教不順が伝えられていたが、父が当時のリーディングサイアーであったサンデーサイレンス、母は二冠牝馬ベガという「超良血馬」として早くから注目され、前年末にはラジオたんぱ杯3歳ステークスを好内容で勝利、本競走への前哨戦・弥生賞では2着と敗れたものの、直線では鋭い脚力をみせていた。弥生賞で同馬を破った重賞連勝中のナリタトップロードが2番人気。両馬のオッズは2.7倍対3.3倍と、事実上一騎打ちのようにみられていた。テイエムオペラオーはトップクラスとの対戦経験がないとみられたこと、過去毎日杯からの出走組に皐月賞での実績が乏しかったことなどもあり、オッズ11倍の5番人気となった。スタートが切られると、ナリタトップロードが中団、アドマイヤベガが後方、テイエムオペラオーはさらにその後ろに位置した。テイエムオペラオーの位置は戦前の想定より後方になったが、これは2ハロン目(200~400メートル区間)のタイムが10秒4と全体のペースが急激に早くなり、置かれた形となったことも影響していた。第3コーナーから各馬は先行勢をとらえに動いたが、テイエムオペラオーは追い出した時点ではまだ後方におり、竹園は「ああ。だめだ。負けた」と声をあげた。岩元も「何を考えて乗っているのか」と舌打ちし、勝利を諦めていた。しかし最後の直線残り100メートルほどからテイエムオペラオーは一気に差を詰め、先頭のオースミブライトをゴール寸前でクビ差とらえて勝利。GI初制覇を果たした。3着にナリタトップロードが入り、アドマイヤベガは6着となった。
テイエムオペラオーのみならず、竹園、岩元、和田、杵臼牧場の全員にとって、これが初めてのGI制覇であった。また、クラシック追加登録を行った馬の勝利も、制度開始以来のべ30頭目で初めての例となった。和田は競走後、「毎日杯でみせた末脚を信じて、じっくり構えて直線勝負に賭けたのが正解でした。道中は外に振られないようにだけ気を付け、徐々に上がっていこうと思っていたので、ほぼ理想通り」などと感想を述べ、また前週の桜花賞で競馬学校同期の福永祐一がGI初制覇を遂げていたことにも触れ、「自分たちの世代に流れが来ていることを信じて、発奮したのが良かったかもしれません。ダービーでも乗り役の方が負けないように、自信をもって乗りたい」と語った。岩元は「ゴール前では届かないようだったのに、本当によく走ってくれた」とテイエムオペラオーを労い、また「結果として、和田の落ち着いた騎乗が勝利につながった。ダービーで注文を付けることは何もない。テイエムトップダンで乗った経験があるから大丈夫やろう。僕は下手くそなジョッキーやった。それに比べたら、あいつの方がはるかに上手いわ」と、和田の騎乗を称えた。
皐月賞馬となったテイエムオペラオーは、6月6日、二冠を目指して日本ダービーへ出走した。当日はナリタトップロードが単勝オッズ3.9倍の1番人気に支持され、皐月賞からの復調が期待されたアドマイヤベガが同じく3.9倍の2番人気、テイエムオペラオーは4.4倍の3番人気となった。レースは縦長の隊列で展開し、その中でテイエムオペラオーは8番手、ナリタトップロード10番手、アドマイヤベガは後方15番手を進んだ。第3コーナーからテイエムオペラオーは両馬に先んじて先団に進出し、最後の直線半ばでいったん先頭に立ったものの、直後にナリタトップロードにかわされ、さらに後方から一気に追い込んだアドマイヤベガがゴール前で同馬もろとも差し切って優勝。テイエムオペラオーは3着と敗れた。和田は競走後、早めに動いた理由について「前にフラフラしている馬がいて、その馬の後ろには入りたくなかった。ナリタが凄い手応えで来ているのも分かっていたから、早いとは思ったけど、あそこで動かざるを得なかった。負けたのは悔しいけど、きつい競馬をしたのに本当、よく頑張っていますよ」と語った。一方で「勝てると思った瞬間は一度もなかった」、「早めのスパートをかけなくても3着だったかもしれない」ともした。アナウンサーの杉本清によれば、岩元は3着という結果にも満足気であったといい、「ダービーはしょうがない。馬がピークを過ぎてたから」と話したという。その一方で竹園は「結果としてそこ(注:皐月賞)を勝ってくれて嬉しかったし、岩元を非難するつもりはないけれど、でもあのとき皐月賞を使わなければダービーを勝てていたかもしれない......そんなふうに考えることもあるんですよ」と、後のインタビューで吐露している。
ダービーの後は賀張共同育成センターで休養に入り、9月に帰厩。クラシック三冠最終戦・菊花賞へ向けて調教が進められた。前哨戦としては初めて古馬(5歳以上馬)相手となる京都大賞典(GII)か、その一週間後の京都新聞杯(GII)の両睨みとなったが、テイエムオペラオーは食が細りやすい体質だったことから、菊花賞まで調整に余裕をみることができる京都大賞典が選ばれた。この競走では前年の日本ダービーと当年の天皇賞(春)に優勝しているスペシャルウィーク、前年の天皇賞(春)優勝のメジロブライトなどの有力馬がおり、テイエムオペラオーは両馬に次ぐ3番人気となった。レースでは最後の直線で進路を失う形となり、コース内側に持ち出されてから先頭のツルマルツヨシを追ったが、同馬とメジロブライトにおよばず3着となる。和田は道中でスペシャルウィークの直後につけ、同馬が抜け出した跡を通って先頭をうかがう算段であったが、不調のスペシャルウィークが直線で失速したため進路を失ったものであった。
京都大賞典のあと危惧された食細りは起こらず11月3日の菊花賞は絶好調に近い状態で臨んだ。当日は京都新聞杯に勝利してきたアドマイヤベガがオッズ2.3倍の1番人気、テイエムオペラオーが3.4倍の2番人気、京都新聞杯2着のナリタトップロードが4.1倍の3番人気で続き、春に引き続き「三強」の下馬評であった。レースは明確な逃げ馬不在もあり、1000メートル通過が1分4秒3、2000メートル通過が2分8秒4と、「超スローペース」で推移する。そうしたなかナリタトップロードは先団に位置し、アドマイヤベガとテイエムオペラオーはそれぞれ中団後方に並ぶ形で10~11番手を進んだ。周回2週目の最終コーナーからナリタトップロードは先頭をうかがって進出、テイエムオペラオーは最後の直線でこれを急追したが、先に抜け出したナリタトップロードにクビ差及ばずの2着と敗れた。アドマイヤベガは伸びあぐねての6着であった。
テイエムオペラオーの上がり3ハロン(ゴールまでの600メートル)タイム33秒8は、メンバー中最速のものだった。和田は「向こう正面で少し、前との差を詰めておけば良かったのかな。それでも、凌ぐ脚はあると思ったんだけど......力負けではないと思う」と感想を述べた。最終コーナーまで進出しなかった理由については、「アドマイヤベガを意識した」という見方があった一方で、競走後の和田の弁によれば、温存して末脚を引き出したいという意識の方が強かった。また、戦前にはナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦がとったレース運びを思い描いていたともいう。
いずれにしても競走後、和田の騎乗に対しては「仕掛けが遅い」という論評が向けられた。日本ダービーの「早仕掛け」に続く和田の2度目の騎乗ミスとみた竹園は激怒し、岩元に騎手の交代を要求。留保を求める岩元に竹園は強硬な態度を示したが、最後には折れる形となり、和田はテイエムオペラオーの騎手として据え置かれた。岩元は和田を降板させる場合はテイエムオペラオーの転厩を求めたともされ、これ以降、竹園が騎手交代を求めることはなくなった。
竹園は次走を年末のグランプリ有馬記念、または来年まで休養と見積もっていたが、岩元はテイエムオペラオーと和田に「勝ち癖」を付けたいとして、次走にGII・ステイヤーズステークスを選択した。当日の単勝オッズは一時1.0倍、最終オッズでも1.1倍という圧倒的な1番人気に支持されたが、クラシック三冠では目立たなかった同期馬ペインテドブラックに直線で競り負け、2着となった。
この後、岩元は年内休養を考えたが、今度は竹園が有馬記念出走を希望する。菊花賞以来、竹園に自身の要望を通させてきた負い目もあり、岩元はこれを受け入れ、テイエムオペラオーは有馬記念に臨むこととなった。当日は、ここまでGI競走3勝のグラスワンダーが1番人気、京都大賞典から立て直し、秋の天皇賞とジャパンカップを連勝中のスペシャルウィークが2番人気で、この「二強」の対決とされた。ナリタトップロードが4番人気(6.8倍)に入り、テイエムオペラオーは同馬から離れた12倍の5番人気であった。スタートが切られると、追い込み脚質のゴーイングスズカが先頭を切り、前半1000メートルが65秒2という「超スローペース」で展開、テイエムオペラオーは先団5番手につけ、他の有力馬はみな中団より後方に位置した。最後の直線でテイエムオペラオーは先頭に立ったが、直後に後方からグラスワンダーとスペシャルウィークが競り合いながら差し込み、両馬にゴール直前でかわされ勝ったグラスワンダーからハナ、アタマ差での3着となった。
皐月賞以降勝利を挙げることはできなかったが、テイエムオペラオーは当年の年度表彰・JRA賞において最優秀4歳牡馬に選出され、「クラシックではアドマイヤベガ、ナリタトップロードとともに三強を形成し、中でももっとも安定した成績を残した。暮れの有馬記念でも、グラスワンダー、スペシャルウィークと同タイムの3着とあわやのシーンを作り、その実力を大いにアピールした」との選評を受けた。また、仮定の斤量数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションにおいても、4歳馬として1位の119ポンドを与えられている。なお、当年対戦してきた有力馬のうち、スペシャルウィークは有馬記念を最後に予定通り引退、アドマイヤベガは菊花賞のあと長期休養に入り、復帰できないまま翌2000年夏に引退となった。
2000年1月に行われたJRA賞授賞式において、竹園はテーブルを囲む陣営各人に向けて、「こんな賞をもらったからには、今年はもうひとつも負けたらいかん。負けるようなレースには使わない。今年は全部勝つぞ」と檄を飛ばした。その後の厩舎内の様子を、原口は次のように振り返っている。
2000年の初戦には2月20日の京都記念(GII)が選ばれた。ここにはナリタトップロードも出走したが、テイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持されると、最後の直線で同馬との競り合いをクビ差で制し、皐月賞以来の勝利を挙げた。さらに続く阪神大賞典(GII)では、ナリタトップロードに加え、新たな「三強」の形成が期待された菊花賞3着のラスカルスズカも出走したが、最後の直線ではテイエムオペラオーが両馬を突き放し、ラスカルスズカに2馬身差をつけて勝利。他の有力馬より前でレースを進めながら、直線では出走中最速の末脚を発揮したその内容に、スポーツ紙は「完璧な差」と書き立て、日本中央競馬会の広報誌『優駿』は、「善戦どまりだった皐月賞以降とは見違えるほど」と評し、ラスカルスズカ、ナリタトップロード両陣営からも「完敗」という言葉が聞かれた。和田は競走後「本当は、去年もああいうレースをしたかったんです」と述べ、さらに和田と原口は口を揃えて「背中に跨った感じが全体的にパワーアップしている」と評した。
4月30日には、春の大目標としていた天皇賞に臨む。天皇賞は当年より従来出走資格がなかった外国産馬にも門戸が開放され、アメリカ産馬であるグラスワンダーの動向が注目されていたが、同陣営は最大目標とする宝塚記念への出走を優先し、ここを回避。これを受けて、天皇賞は阪神大賞典に続く「三強」の下馬評となった。レースでは中団を進み、その前にナリタトップロード、後ろにラスカルスズカが位置する展開となったが、第3コーナーからナリタトップロードを捉えに進出してそのまま抜け出すと、ゴール前でラスカルスズカの追走を4分の3馬身抑えて勝利した。走破タイム3分17秒6は史上4位、最後の200メートルは11秒9と史上最速(いずれも当時)のタイムであり、競馬専門誌『週刊Gallop』は、「厳しい瞬発力勝負に対応したテイエムオペラオーは真の実力を示した」と論評している。
天皇賞制覇で「三強」の時代を終わらせ「一強」と化したテイエムオペラオーは国産競走馬の頂点に立ち、残るライバルは外国産のグラスワンダーのみとなった。春のグランプリ・宝塚記念(6月25日)への出走馬を決めるファン投票において、テイエムオペラオーは1位に選出される。宝塚記念当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気、グラスワンダーが2.8倍の2番人気となり、この2頭の一騎打ちの下馬評となる。馬場状態は良馬場だったが、発走1時間前より雨が降り始め、そのまま雨中でのレースとなった。スタートが切られると、平均的なペースで推移するなかテイエムオペラオーは2番手集団を見る形で進み、グラスワンダーは中団後方に位置する。第3コーナーでグラスワンダーがテイエムオペラオーの直後につけ、最終コーナーではグラスワンダーが鞍上の蛯名正義が手綱を抑えたまま進出していく傍らで、テイエムオペラオーは和田が手綱をしごきながら大外を回った。しかし最後の直線に入るとグラスワンダーは伸びを欠き、テイエムオペラオーはそのまま先を行くメイショウドトウとジョービッグバンを急追、ゴール前でメイショウドトウをクビ差かわし、天皇賞からのGI連勝を果たした。
競走後、和田は「最後はヒヤヒヤしましたが、力を出してくれました。手応えは前走よりもしんどかったですけど、必ず伸びるのは分かっていました。最後に抜けると気を抜いてしまうところがあるし、気を抜かないようにしただけです。改めて強いと思いました」、岩元は「3コーナーの手応えで今日はやばい、負けるかもと思いましたが、直線で並んだときに何とかなると......。並んだら勝負強い馬ですから」などとそれぞれ感想を述べた。両名とも3コーナーでの反応の悪さに言及したが、原口は、テイエムオペラオーは概してそういった面がある馬だとして「グラスワンダーと手応えこそ違え、一緒に来ていたから心配しなかった」と振り返っている。なお、6着に敗れたグラスワンダーは、競走後のコース上で蛯名が下馬して馬運車で運ばれ、のち「左第三中手骨(管骨)骨折」の診断が下され、引退が発表された。
後年、テイエムオペラオーの伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』を執筆した木村俊太は「このグラスワンダーの故障によって不運にも『力勝負の決着はついていない』という評価をも受ける結果となってしまった」としている。いずれにせよこの勝利によって、テイエムオペラオーは「現役最強馬」の地位についた。
宝塚記念の後には、前年夏と同様に賀張共同育成センターへ送られ、現地で運動を行いながらの休養に入った。春の連戦を経ているにもかかわらず疲労の度合いは低く、到着翌日には人を乗せての運動が始められるなど、充実を物語るものとなった。秋の出走は当初、春秋連覇が懸る天皇賞(秋)へ直接出走する見通しだったが、竹園が様子を視察した際、テイエムオペラオーの状態が非常に良かったことから、「馬が走る気になっているときにリズムを狂わせてもいけない」と、前哨戦の京都大賞典(GII)への出走が決まった。かねてこの競走へ向けて調教が積まれていたナリタトップロードの調教師・沖芳夫は「あの馬(テイエムオペラオー)を負かすなら今回しかない」と公言していたが、レースでは両馬競り合いになったものの、ナリタトップロードが鞍上の渡辺から鞭を連打される傍らで和田は鞭を振るうことなく、テイエムオペラオーがアタマ差で勝利した。
10月29日、天皇賞(秋)に臨む。この競走は当年まで1番人気馬が12連敗という結果が続いており、巷間「テイエムオペラオーが負けるとすれば今回」と囁かれ、マスメディアもこの「ジンクス」を盛んに取り上げた。また、皐月賞と同じ距離でありながらテイエムオペラオーに2000メートルの距離が短いという見方もあり、当日の単勝オッズは近来では高い値となる2.4倍を示した。2番人気には別の前哨戦オールカマーを制してきたメイショウドトウが推され4.4倍、3番人気がナリタトップロードで4.9倍の順となった。スタートが切られると、最初のコーナーでテイエムオペラオーが内を走るイーグルカフェを押圧する形となり、その煽りを受けたステイゴールドが不利を受ける形となった。コーナー通過後は平均的なペースで推移し、テイエムオペラオーは2番手集団の中でメイショウドトウを直前に見る形で進んだ。最後の直線ではまずトゥナンテ(5番人気)が抜け出し、これをメイショウドトウがかわしたが、直後にテイエムオペラオーが両馬を一気に抜き去り、ゴールではメイショウドトウに2馬身半差をつけて勝利した。なお、これは和田にとって東京競馬場での68戦目にしての初勝利であった。
同一年度における天皇賞の春秋連覇は、タマモクロス(1988年)、スペシャルウィーク(1999年)に続く、史上3頭目の記録となった。また、1984年にグレード制が導入されて以降、東京、中山、京都、阪神のJRA四大競馬場全てでGIを制したのは、テイエムオペラオーが初の事例であった。和田は「1番人気が勝てないうえ、僕が東京で未勝利だったことで、いろいろ言われましたが、パーフェクトの内容で鬼門を突破することができました」、岩元は「1番人気の連敗が続いているジンクスと、和田が東京で一度も勝っていない、という2つのことが気になっていましたが、終わってみれば本当にえらい馬だという気持ちでいっぱいになりました」などと感想を述べた。
次走、11月26日に迎えた国際招待競走・ジャパンカップでは、当年のマンノウォーステークスを勝ち、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでも2着の実績を持つファンタスティックライト(UAE)、10歳馬ながら当年アメリカでG1競走2勝を挙げたジョンズコール(アメリカ)など5頭の外国馬に加え、1歳下のクラシック二冠馬エアシャカール(3番人気)、日本ダービー優勝馬のアグネスフライト(4番人気)らが顔を揃えた。この競走は「ジンクス」を盛んに報じられた天皇賞を越える1番人気馬の14連敗が続いていたが、テイエムオペラオーの最終単勝オッズは1.5倍、支持率では1991年のメジロマックイーン(41.4パーセント)を上回り、競走史上最高の50.5パーセントという圧倒的な支持を集めた。ファンタスティックライトが2番人気となったものの、注目はテイエムオペラオーに挑む新世代のクラシックホース2頭という様相となった。レースは逃げ馬不在で前半1000メートル通過が63秒3と非常なスローペースとなり、各馬が先へ行きたがる姿がみられた。テイエムオペラオーは5、6番手を進み、最後の直線では先に抜け出したメイショウドトウと競り合い、さらに後方からファンタスティックライトも追い込んできたが、最後はメイショウドトウをクビ差競り落として勝利を挙げた。なお、エアシャカールとアグネスフライトはそれぞれ13、14着と大敗した。
この勝利により、テイエムオペラオーのここまでの獲得賞金は12億円を超え、それまでの獲得賞金記録保持馬であったスペシャルウィークを上回り「世界賞金王」となった。本競走におけるテイエムオペラオーのパフォーマンスは国際的にも高く評価され、レーシング・ポスト・レイティングでは当時の国内最高値となる126の評価が与えられた。ファンタスティックライトの手綱を取ったランフランコ・デットーリは、テイエムオペラオーに対して「クレイジー・ストロングだ。世界レベルにある」と評した。
春秋天皇賞、宝塚記念、ジャパンカップを制したテイエムオペラオーは、かつて達成馬のいない古馬中長距離GIの完全制覇へ向けて、残る目標は年末の有馬記念のみとなった。ジャパンカップ競走中に他馬と接触して右後大腿部に外傷を負い有馬記念に向けた再始動は遅れ、中間の動きも好調時との比較では落ちるものとなった。さらに有馬記念の競走当日朝、中山競馬場の出張馬房内で、向かいの馬房にいた馬が何らかの事象に驚いて後脚で立ち上がり、その様子に驚いたテイエムオペラオーも同様の態となって、馬房内のいずこかに額を強打した。患部は内出血を起こして大きな腫れを生じたが、出走可能という獣医師の判断で、岩元もこれに従って有馬記念へはそのまま出走することとなった。
有馬記念の出走馬選定ファン投票では10万9140票を集め、第1位で選出。当日のオッズでは1.7倍の1番人気に支持された。竹園は戦前のパドックにおいて、和田に対して「スタートに気を付けて、3、4番手につけて、じっとして、直線で2馬身以上離して勝て」と指示を与えた。レースでテイエムオペラオーは竹園の希望通り好スタートを切ったが、周回1周目の第3コーナーで他馬に進路を塞がれて位置を12~13番手まで大きく下げ、さらに観客スタンド前を通過する辺りではスローペースの馬群の中に閉じこめられる形となる。2番人気メイショウドトウは中団、3番人気ナリタトップロードは先団を進んでいた。最後の直線に入ってもテイエムオペラオーは馬群の中で動けず10番手以下に位置し、観客から大きなどよめきが上がった。直線半ばで馬群がばらけ始るとテイエムオペラオーは追い込みを始め、逃げ粘りを図るダイワテキサスを一気に捉えると、最後はメイショウドトウとの競り合いをハナ差制して優勝。史上初となる古馬中長距離路線の完全制覇を達成し、また同時にこの年からスタートした秋季古馬中長距離のGI3競走(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を同一年で優勝(通称秋古馬三冠)した馬への特別報奨金2億円を獲得した。
競走後、和田は「前につけたかったのですが、1コーナーで挟まれてしまって......失敗したと思いました。動くに動けない状況でしたし、かといって外を回りたくなかったので、これなら開いたところを突っ込んでいくしかないと考えました。詰まったらおしまい。直線では1頭分だけ隙間があったんですが、オペラオーは躊躇なく入っていった。メイショウドトウが差し返してきた時もこちらには勢いがありました。厳しいレースでしたが、終わってみれば1頭だけが次元の違う勝ち方をしてくれていました」、また岩元は「心配していた最も厳しい形になってしまいました。負けてもおかしくなかったと思います。ああいう形になったのに、本当によく勝ってくれたと思います。偉い馬としか言いようがありません」と感想を述べた。また竹園は他馬からの厳しいマークに「馬も騎手も可哀想でした。なんでこんなにいじめられなくちゃいけないんだろうと思いました。(略)本当に涙が出るくらい可哀想でした。(略)本当にもう、抜け出すまでは悲しくて泣きそうでしたけど、抜け出してからはもう絶頂でしたね」と語った。一方、敗れたメイショウドトウ騎乗の安田康彦は「今はあの馬(テイエムオペラオー)とは一緒に走りたくない」と報道陣に吐露している。
2000年のシーズンを8戦8勝、うちGI5勝という成績で終えたテイエムオペラオーには、様々な記録が伴った。まず年間GI5勝は、シンボリルドルフ、ナリタブライアンを抜いて歴代最多、重賞8連勝はタイキシャトルに並び歴代最多タイ、1番人気での8連勝はタケシバオー、マルゼンスキー、マックスビューティに並ぶタイ記録であったが、全て重賞で達成したのはテイエムオペラオーが初めてであった。『優駿』は、年誌にあたる増刊『TURF HERO』においてその戦績を「世紀末覇王伝」のタイトルで回顧し、『週刊Gallop』もまた年誌巻頭のグラビアに「降臨 世紀末覇王」のキャプションを用いた。なお馬主の竹園も、テイエムオーシャンで制した阪神3歳牝馬ステークスと合わせて年間GI勝利数が「6」となり、過去シンボリ牧場、社台レースホース、山路秀則が保持した年間GI4勝の記録を更新している。
当年の年度表彰において、テイエムオペラオーは年度代表馬に満票で選出。満票選出は、テンポイント(1977年)、シンボリルドルフ(1985年)に続く、史上3頭目の事例となった。また、岩元も年間獲得賞金15億837万8000円という記録をもって最多賞金獲得調教師のタイトルを獲得したが、この金額のうち約3分の2がテイエムオペラオーによるものであった。
2001年を迎えたテイエムオペラオーは、連戦疲労が危惧されたことに加え、冬の休養にあたり北海道は寒すぎるという岩元の判断から、通例休養に出される賀張共同育成センターではなく、温浴施設を備え「馬の温泉」の通称があるJRA競走馬総合研究所磐城支所(福島県いわき市)で休養に入った。この休養には原口も帯同した。温泉で疲労を除きつつ、併設の馬場で適度な運動も可能という岩元の見通しであったが、当年のいわきは大雪が続きテイエムオペラオーはほとんど馬房から出ることができず、その一方で日ごろ細かった食欲は増進し、大幅に太った状態で栗東へ帰厩した。
当初は3月の阪神大賞典での復帰が見込まれていたが、調整のピッチが上がらないことから、復帰戦は4月1日の大阪杯(GII)にずれ込んだ。直前の調教では気を抜くような場面もあり、「本来の動きではない」という評もあった。また、競走直前のパドックでは、常なら原口が持つ2本の曳き手を引っ張って歩くところを「1本でも大丈夫なぐらい」大人しい様子であり、和田も返し馬で動きの硬さを感じたという。レースでは中団8~9番手を進んだが、第3コーナーから最終コーナーにかけて、外から馬体を被せてきたアドマイヤボスに合わせて早めに先団に進出。最後の直線では同馬およびエアシャカールと競りあったがこれに遅れ、さらに後方から3頭ごと差し切った9番人気のトーホウドリームの後方で4着と敗れた。競走後、和田は「このひと叩きで変わってくるはず。次は絶対に巻き返しますよ」、岩元は「まあ仕方がない。また出直しや」と語った。春の天皇賞へ向けた他の前哨戦では、阪神大賞典でナリタトップロードが2着に8馬身差をつけてレコードタイムで勝利、日経賞(GII)ではメイショウドトウが勝利を挙げた。
前年からの連覇が懸かる天皇賞(春)へ向けて、当初テイエムオペラオーの状態は極めて悪かったものの、競走10日ほど前から復調気配が表われはじめ、最終調教でも良好な動きをみせた。4月29日の天皇賞当日では、前年秋の天皇賞以来で単勝オッズが1倍台に至らず2.0倍を示した。ナリタトップロードが3.4倍、メイショウドトウが6.5倍でこれに続いた。レースは最初の1000メートル通過が競走史上最速の58秒3というハイペースになり、そのなかでテイエムオペラオーは中団後方に付け、その周囲を他の有力馬がマークするような隊列となる。最後の直線ではいち早くスパートをかけたナリタトップロードがいったん先頭に立ったが、すぐにテイエムオペラオーがこれをかわし、後方から追い込んだメイショウドトウも半馬身抑えて勝利。シンボリルドルフに並ぶ史上最多タイ記録のGI競走7勝目を挙げた。また、春秋の天皇賞3連覇および天皇賞3勝という記録は、史上初の事例となった。竹園は競走後、次走が宝塚記念であること、そしてその結果次第で日本国外への遠征を検討することを表明した。
天皇賞に続く連覇、そして史上最多記録のGI競走8勝が懸かる宝塚記念(6月24日)に臨んで、テイエムオペラオーの状態は極めて良好に仕上がり、戦前に催された「宝塚記念フェスティバル」に出席した和田は「99パーセント勝てる」と明言した。当日の単勝オッズは1.5倍を示し、前年の宝塚記念以来、テイエムオペラオー相手に5度2着となっているメイショウドトウが3.4倍で続いた。レースではテイエムオペラオーはスタートでやや後手を踏んで後方に位置取り、対するメイショウドトウは道中4番手と先行策をとった。メイショウドトウは最終コーナーで先頭に並びかけた一方で、テイエムオペラオーは馬群に押し込められる形となって抜け出すことができず、さらに各馬の進路が混乱した煽りを受けてテイエムオペラオーは進路をなくし、和田が馬上で体を起こし、手綱を引く格好となった。最後の直線で態勢を立て直し後方3番手の位置から追い込んだものの、セーフティリードを取ったメイショウドトウを捉えることはできず、同馬から1馬身4分の1の差で2着と敗れた。
競走後、和田は「狭いところに行ってしまって、行くことができなかった。一番嫌な展開になってしまった。具合が良かっただけに残念」と語った。岩元は「二、三番手で競馬する手もあったと思うが、乗り方は鞍上が決めることやからな。状態が良かっただけに、残念」と述べた。竹園は「あの不利はちょっとひどい。ひどい競馬だった。最後は力のあるところを見せてくれたけど......」と述べ、さらに「負けて海外なんてありえません」として、秋シーズンも国内戦に臨ませることを表明した。一方、メイショウドトウ騎乗の安田康彦は「折り合いもついて、あっち(テイエムオペラオー)が後ろにおることが分かったときに、これなら勝てると思うたね。それぐらい馬の出来もよかったし」と語った。また、メイショウドトウ馬主の松本好雄は後に「私にとってはね、テイエムの2着は非常に大きな2着ですよ。テイエムが2着でなかったら、ちょっと価値が薄れるんですよね。5回負けた馬に勝つということで、凄い値打ちがあるんですよね。(中略)よく来てくれたな、という気持ちですよ」と振り返っている。
夏は賀張共同育成センターで休養に入る。その間の8月1日、竹園よりテイエムオペラオーが当年を限りに引退することが発表された。
秋シーズン初戦は10月7日の京都大賞典で迎えた。当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.4倍の1番人気となり、ナリタトップロードが2.4倍の2番人気、ステイゴールドが10.8倍で3番人気となった。レースの道中はテイエムオペラオーとステイゴールドが2番手で並び、直後をナリタトップロードが進む。最後の直線ではナリタトップロードがいち早く先頭に立ち、これを内からステイゴールドがかわし、さらに外からテイエムオペラオーが並びかけた。この直後にステイゴールド騎乗の後藤浩輝が右鞭を振るうと、ステイゴールドは左側に斜行し、同馬とテイエムオペラオーとの間に挟まれたナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦が落馬。ステイゴールドは勢いを失うことなく1位で入線し、テイエムオペラオーは半馬身差の2位入線となる。しかし審議の結果ステイゴールドは失格となり、テイエムオペラオーは繰上りでの1着となった。競走後の検量室では、危険な騎乗に激怒した竹園が色をなして後藤に詰め寄る一幕もあった。繰上り勝利ではあったものの、これでテイエムオペラオーの重賞勝利は12を数え、スピードシンボリ、オグリキャップに並ぶ最多タイ記録となった。
10月28日、春秋四連覇に挑み天皇賞(秋)に臨んだ。当日は午前から雨となり、前年に続き重馬場で行われることになった。単勝オッズではテイエムオペラオーが2.1倍、メイショウドトウが3.4倍、京都大賞典で1位入線のステイゴールドが4.5倍で続いた。レースは、陣営が「行けるだけ行く」と公言していたサイレントハンターがスタートで大きく出遅れ、押し出される形でメイショウドトウが先頭を切る展開となり、テイエムオペラオーは3~4番手を進んだ。前半1000メートル通過は1分2秒2と馬場状態を考慮しても遅いペースとなり、馬群は一団の状態で最後の直線に向く。ここで伸びかけたステイゴールドが内側に斜行して失速し、テイエムオペラオーは先を行くメイショウドトウとジョウテンブレーヴをかわして先頭に立ったが、大外から追い込んだアグネスデジタルにゴール前で捉えられ、同馬から1馬身差の2着と敗れた。アグネスデジタルは前年のマイルチャンピオンシップ(GI)などに優勝していたが、本競走には直前になって出走を決めており、当日は4番人気ながらそのオッズは20倍であった。
メイショウドトウをかわした直後から和田の視界には大外のアグネスデジタルが入っており、「馬体が合う形になれば、もうひと踏ん張りできる感触はあった」ものの、内外が離れすぎていたため併せにいくことはできなかった。和田は「今日は相手が強かった」とした一方で、「一番いい頃の状態にはまだ一息と感じた。この先、期待通りに上向いてくれる保証はないけれど、もっともっと良くなる可能性を秘めていることは確かです」と語った。また岩元は「馬体が合っていてもあれではかわされていたやろ。力があって、オペラオーより重馬場の得意な馬がいたということ」とした。
引き続き新記録を目指すジャパンカップに向けたテイエムオペラオーの状態は上がらず、競走前の最終追い切りでも動きに精彩を欠き、共同会見で岩元が発した「えらいこっちゃ」という言葉がスポーツ紙でも報じられた。しかしこの調教から数日の間にテイエムオペラオーは急速に食欲を回復させ、競走当日にテイエムオペラオーにまたがった和田は「この秋一番の覇気」を感じたという。当年のジャパンカップにおける外国招待馬には2000ギニーの優勝馬ゴーラン(イギリス)など6頭のG1優勝馬がいたものの、注目馬は不在という下馬評で、単勝オッズの5番人気までを日本馬が占めた。2.8倍の1番人気にテイエムオペラオー、2番人気は当年の日本ダービー優勝馬ジャングルポケットが推され4.2倍、以下メイショウドトウ、ステイゴールドと続いた。レースはスローペースで推移し、テイエムオペラオーは道中3~4番手、ステイゴールドが6~7番手、メイショウドトウとジャングルポケットがそれぞれ10~11番手を進んだ。向正面からペースが上がっていき、最終コーナーから最後の直線に入るとテイエムオペラオーはいち早く先頭に立った。テイエムオペラオーは単走状態では気を抜く傾向があり和田もそれは意識していたものの、すぐ後ろにいたステイゴールドが進出してきたことから、早めにリードをとる選択をしたものだった。テイエムオペラオーは独走態勢に入ったものの、やはり気を抜いてふらつき始め、ゴール目前で大外から一気に伸びてきたジャングルポケットにクビ差かわされ、またも2着に終わった。
和田は競走後、「3歳馬に負けたくない気持ちはあったんですが......。やっぱり目標にされるとつらいです。前回もそんな感じでしたから。周りにもうちょっと馬がいてくれたら良かったんですが......」と語り、岩元は「結局、うちの馬に流れがこなかったということ」と述べた。一方で、ジャングルポケットの管理調教師・渡辺栄は「最近のテイエムオペラオーの競馬を見ていますと、一番良いときに比べて少し力が落ちているように感じていました。あの馬の場合、競って負けたということを見たことがなかった。きょうは競って負かしたことでジャングルポケットの強さを感じました」との感想を述べている。
年末のグランプリ・有馬記念へ向けたファン投票では前年より票数を落としたものの、93217票を集めて2年連続の1位選出馬となる。そして12月23日、引退レースとして有馬記念に臨んだ。当日は単勝オッズ1.8倍の1番人気の支持を受け、これで4(旧5)歳以降出走した全15戦で1番人気となり、1963~64年に走ったメイズイが保持していた連続1番人気記録を更新した。2番人気にメイショウドトウ、3番人気には当年の菊花賞優勝馬マンハッタンカフェが推された。スタートが切られるとレースはスローペースで流れ、テイエムオペラオーは中団から後方を進む。その前方を走っていたメイショウドトウは3番手まで進出したが、和田はこれを追うことなく、そのままテイエムオペラオーを控えさせた。そして最終コーナーから最後の直線にかけて先行したトゥザヴィクトリー、アメリカンボス、メイショウドトウらを捉えに追い込みを始めたが、これらをかわすことができず、さらに後方から追い込んで勝利したマンハッタンカフェの後方で、生涯最低の5着となった。
後方に位置したマンハッタンカフェが勝ったものの、展開としては先行有利であり、中団待機策をとった和田は「向正面でもう少し前につけておけばよかった」、「天皇賞かジャパンカップ、この秋どちらかひとつでも勝てていれば、もっとシャシャッと動けていたかも」と話し、検量室から引き上げる際にも「動いていかなきゃって、頭では分かっていたんやけど......」と何度も繰り返した。岩元は和田の騎乗に対して「全般的に大事に乗りすぎたんじゃないかな。まあ、終わってから言ってもな。うーん......終わったわ」と語った。
この有馬記念での賞金を加えたテイエムオペラオーの総獲得賞金は、自身が竹園に購買された価格の170倍超、当時2位のスペシャルウィークを7億円超上回る18億3518万9000円に及び、この記録は2017年末にキタサンブラックに破られるまで16年間保持された。翌2002年1月13日、京都競馬場でテイエムオペラオーとメイショウドトウが合同での引退式が行われた。インタビューを受けた和田は「テイエムオペラオーからたくさんのものをもらいましたが、僕からは何もお返しできませんでした。これからは一流の男になって、彼に認められるように頑張ります」と、声を詰まらせながら話した。引退式を終えた両馬は栗東トレーニングセンターへ戻されたのち、17日には共に種牡馬として繋養される北海道浦河町のイーストスタッドへ2頭揃って輸送された。
種牡馬入りに際しては一般化していたシンジケートの組織は行われず、競走馬時代から引き続き竹園個人が所有した。近い年代でシンジケートが組まれなかった種牡馬が大きく成功した例はなく、早期に結果が出なければ生産者から見限られるのが早いというリスクもあった。テイエムオペラオーほどの実績を残した馬が個人所有されることは非常に珍しかったが、シンジケート種牡馬は産駒が活躍すれば種付け株が高騰しシンジケート非加入の生産者が交配しにくくなり、その反対に低調に終われば加入者が損を被り、さらには手元に残る種付け株が不良債権のようになるおそれがあり、生産者たちにそうしたリスクを負わせたくない、というのが竹園の言であった。また種牡馬としての繋養先は、テイエムオペラオーの故郷である浦河町のイーストスタッドと、日高軽種馬農協門別種馬場を1年ごとに行き来する形となった。イーストスタッドは中小生産者が集まる日高地方の東側に位置し、門別種馬場は西側に位置することから、地域の生産者に満遍なく便宜を図れるとされた。ただし、当初は有力種牡馬が集う社台スタリオンステーション入りが模索されたが、交渉がうまくいかなかったともされる。初年度の種付け料は500万円に設定され、93頭へ交配された。
産駒デビューを待つ間の2004年には中央競馬の顕彰馬に選出され、殿堂入りを果たした。前年に記者投票制となって初めての選定投票が行われていたが、対象馬における引退からの年数制限がなく票が割れたことが影響して落選しており、当年は「(1)1983年以前に競走馬登録を抹消された馬」、「(2)1984年1月1日から2003年3月31日の間に競走馬登録を抹消された馬」という2つの投票区分に分けられたうえで(2)の区分において選出された。なお、(1)の区分でタケシバオーも選出されていたが、その後顕彰馬選定投票の対象馬は一律に「引退後20年以内」に改められた。サンケイスポーツ記者の鈴木学は「初年度にテイエムオペラオーが落選したことが契機」になったとしている。
2005年に初年度産駒がデビューするも、年々競馬のスピード化が進む傾向にそぐわないスタミナタイプの仔が多く、種牡馬生活通算の成績で勝率は5%、1を平均値とするアーニング・インデックスで0.75と、いずれも平均値を下回っている。産駒からは障害重賞で3勝を挙げたテイエムトッパズレ、中央競馬のオープン馬では6勝を挙げたタカオセンチュリーや、1200メートル戦で5勝を挙げたメイショウトッパ―などが出たが平地重賞を勝つことはできなかった。また、著名な相手牝馬ではテイエムオーシャンと3年連続で交配されたが、テイエムオペラドンが1勝を挙げたのみに終わっている。種牡馬総合ランキングの最高成績は、2008年の37位であった。
2010年いっぱいで門別種馬場が閉鎖されるのにともない、同年6月にテイエム牧場の日高支場に移動、さらに11月にはレックススタッドへ移動し、その後さらに白馬牧場(新冠町)に移動したが、竹園の意向によって所在地は非公開とされていた。
晩年まで種牡馬としての活動を続けていたが、2018年5月17日の放牧中に心臓まひで倒れ、同日に死亡した。22歳没。当年も5頭の繁殖牝馬に種付け予定で、そのうち2頭への種付けを終えた矢先の出来事であった。その死を受けて東京、中山、京都、阪神および小倉の各競馬場には来場者を対象に記帳台が設けられ、11000筆以上が寄せられた。また、5月26日実施の東西メイン競走には「テイエムオペラオー追悼レース」の副称が冠された。6月15日には、同じく5月に白馬牧場で死亡したゴスホークケンと合同での慰霊祭が挙行され、関係者やファンら約50人が参列した。
以下の内容は、JBISサーチおよびnetkeiba.comに基づく。
※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。強調は区分における年度の最高値。
獲得賞金
勝利数・連勝記録
人気
中央競馬重賞勝利馬
中央競馬オープン競走勝利馬
地方競馬重賞勝利馬
2001年春、それぞれ日本中央競馬会(JRA)の傘下にある競走馬総合研究所、日高育成牧場研究室、そして美浦・栗東両トレーニングセンターの診療所が合同し、競走馬の運動強度に伴う負荷の掛かり方を明らかにする「運動負荷試験システムの確立と応用試験」というプロジェクトが発足した。従来JRAは実験馬や馬主に配布される前の抽せん馬を対象にデータを収集していたが、当プロジェクトは現役競走馬を対象にデータを取ることになり、対象馬の1頭にテイエムオペラオーが選ばれた。
これ以前から、テイエムオペラオーを診察していた栗東トレーニングセンターの獣医師は、その心拍数がおおよそ26~28回/毎分と、一般例(約36回/毎分)に比較して非常に少なく、同時に時折「拍動を1回飛ばしたのではないか」と誤認するほど、鼓動と鼓動の間に長い沈黙が現れる例があることを観察していた。拍動数が少ないということは、拍動1回あたりの体内への血液拍出量が多いということで、血液拍出量が多いということは体内に送れる酸素量が多く、身体負荷の掛かりにくい有酸素運動をより長く続けることができると推測された。拍動数に関しては、この獣医師の経験上で近い数字の持ち主は、1997年の菊花賞優勝馬マチカネフクキタルで毎分28回、また伝聞ではシンボリルドルフが毎分30回程度だったとされる。また岩元は経験的に、運動後のテイエムオペラオーの息遣いが平常に戻るのが非常に早いという印象を抱いていた。
2001年宝塚記念前の追い切りで4歳500万下のトップジョリーと共に採取されたデータでは、まず運動強度の低いタイム計測4分前の段階では、トップジョリーの心拍数130に対してテイエムオペラオーは同80、そして運動強度が上がるとテイエムオペラオーの心拍数はトップジョリーよりも素早く上昇しながらも最大心拍数は同馬より少なく(トップジョリー234回/毎分、オペラオー219回/毎分)、ゴール地点を過ぎて心拍数が100回/毎分まで戻る時間も、同1230秒に対して490秒とテイエムオペラオーの方が早かった。調教全体のタイムは全体の6ハロン(1200メートル)でトップジョリーが84秒3に対しテイエムオペラオーが80秒9、最後の1ハロンで前者が13秒6、後者が12秒3というもので、テイエムオペラオーの方が遥かに速かったが、ゴールから4分後に計測された血中乳酸濃度(体内の酸素を使い果たした後に増加する)は前者が19.22、後者が15.35とテイエムオペラオーの方が少なく酸素摂取効率が非常に優れており、競走馬総合研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持った競走馬であることが証明されました」とした。また、2歳8月の実験馬との心臓自体の比較では、心臓の強靭さの目安となる心室厚が実験馬の約1.5倍、1回の血液拍出量は同1.8倍という驚異的な数値であった。
また、宝塚記念後に計測された安静時心拍数は、担当獣医師が以前から観察していた回数を裏付ける25回/毎分であり、また独特の心音の「飛び」も心電図上に記録されていた。心電図から算出された、交感神経・副交感神経のバランスを示すHF(高周波帯域)パワー、LF(低周波帯域)パワーは、同じく実験に協力していたアグネスタキオンなどと比較しても格段に良好な数値であった。この部分に関して、実験を担当した獣医師は岩元への報告書で「今後何かの機会に別の馬で(より)高い数値が記録される機会があるかもしれませんが、おそらくサラブレッド競走馬のMaxの数値に近いのではないでしょうか」と記している。
テイエムオペラオーは、岩元が「こんな馬、男馬では初めて」と嘆くほど「飼い食いが悪い(食が細い)」馬であった。イーストスタッド場長の前田秀二によれば、栗東から北海道への輸送中、テイエムオペラオーは飼い葉を全く口にせず、丸ごとの人参も食べず、細かく刻んだ人参を床に叩きつけて柔らかくしたものを桶に入れてようやく口にしたという。この食の細さは、後述する国外への遠征をしなかった理由のひとつとしても挙げられた。競走前にはしばしば、飼い食いの悪さに岩元の「泣き」が入ることが恒例となっていたが、一方でこれは「人気の重圧を少しでも和らげようと思って、少しオーバーに言っていただけ。口ほど深刻にはとらえていなかった」とも振り返っており、また「飼い食いが悪い」わけではなく「食べるのが遅い」馬だったのだともしている。
騎手を務めた和田は、「『勝った』と思ったらすぐに気を抜く。そんな賢さを持った馬でした。圧勝したレースがほとんどないのはそのため。あれだけ長い間好調を維持できたのは必要以上の力を使わなかったから、という面もあると思うんですよ。後続をぶっちぎって勝つような、瞬間的な強さが高い評価を受けるのは分かりますが、あの馬みたいな長期間にわたる強さにも、すごく価値があると思う。馬の評価は見る人にもよって分かれるんだろうけど、もちろん僕の中ではテイエムオペラオーこそが理想の名馬です」としている。
安藤勝己は「ここ10年ぐらいでは抜けて強い馬だと思う。突き放して勝つとか大差で勝つとか、そういう馬は負けるときコロッとやられるけど、テイエムみたいな馬はそういう風にならないもの。引退すりゃ分かるよ。あの馬がどれだけ強かったか」と評した。また後藤浩輝は「相手のことを分析するとき、この馬はどういうタイプの馬なのか、その弱点をつかむのが攻略するポイントになるけど、テイエムオペラオーに関しては、それが見えてこない。故障がないというのも凄いことなんだけど、レースにおいていつもこういうレースをやっているとか、こうしたらこうなるということが全然、テイエムオペラオーには見えてこない。それがあの馬の強さの秘密なんじゃないか」と述べている。武豊は「強いんじゃないですか。本当に強いと思いますよ。いつも離して勝つわけじゃないから負ける方にしてみればどうにかすれば勝てるんじゃないかと思うんですが勝てませんものね」と述べている。
野平祐二は、テイエムオペラオーの特徴は故障を心配するほどに「いつも真面目に走っている」点にあるとし、「あれだけレースに行ってしっかり走るという馬はほとんど出てこない」、「リボーやミルリーフと比較しても負けない」と評した。また野平はテイエムオペラオーの真骨頂は「馬群を割って伸びる闘争心」にあるとしている。ライターの栗山求は「まあとにかく『ミスター写真判定』って名付けたいぐらいゴール前の競り合いには強い」と評している。
アナウンサーの杉本清は「相当、強い馬には違いないのですが、走っても走っても、勝っても勝っても強いという印象を与えない、不思議な馬」であるとし、その理由として「"相手をねじ伏せる"というような競馬をするタイプではない」、「馬体から迫力を感じる馬ではない」という2点を挙げている。その上で「結果が示しているように、この馬はたしかに強いのです。レースぶりを見て感じるのは、"本当の芯の強さ"がある馬だということです。ねじ伏せる強さはないけれど、どんな展開にも対応できるし、気が付けば勝っているという、見たイメージとは裏腹の、そんな強さを持った馬だと思います」と評している。
着差をつけずに渋太く勝つというスタイルは、往年の五冠馬シンザンに擬せられ、有馬記念の優勝時には「平成のシンザン」という声もあった。ステイゴールドの管理調教師・池江泰郎はテイエムオペラオーを評して「勝負を知っている馬ですね。ゴールがどこにあるかわかっている感じがします。それを示すように接戦のレースが多い。ゴール前ちょっとでも、頭でもクビでもスッと抜け出すのが一番強い馬なんですよ。シンザンもそうでしたから」と述べ、ライターの江面弘也は「テイエムオペラオーのレースは地味だった。レコードも大差勝ちもいらない、ハナ差でも勝ちは勝ち、という『シンザンタイプ』の馬だった」としている。2000年のシーズンは傑出した成績を残しながら、同じ顔触れの2着馬との着差がなかったことでレーティング面では高い数値にならなかったが、選考の席上では「シンザンもおそらく高いレーティングがつく馬ではなかっただろう」と話題に上ったという。
テイエムオペラオーのレーティングによる最高数値は、2000年と2001年のジャパンカップで記録したL(Long)コラム122となった。2000年においては年度の日本調教馬全体の最高数値となったが、過去の数値と比較した場合、フランス遠征のなかで日本調教馬として歴代最高数値を得たエルコンドルパサーの134、日本国内においても前年スペシャルウィークの123を下回っており、決して低くはないものの突出して高いものでもなかった。『優駿』は「GI5勝今季無敗のテイエムだけに、全体に評価が低いのではないか、と感じる方は少なくないように思う」とし、その選考過程を詳説した。
まずジャパンカップにおけるレート決定にあたり、「基準馬」とされたのは安定性の高い能力をもつファンタスティックライトであった。日本のハンデキャッパーは当初、同馬がキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの2着で得ていた「124」の数値を基準として、その馬に勝利したこと、さらに「テイエムオペラオーが今季に残した着差以上のパフォーマンスをプラスαとして加味したい」という考えから、「125」のレートを提案していた。しかし他の各国ハンデキャッパーから「スローペースからの上がり勝負となったジャパンカップの展開で、後方から差し切ることができなかったファンタスティックライトがトップパフォーマンスを示したとは考えられない」と異論が上がり、マンノウォーステークスで得ていた120ポンドが基準値とされ、着差を2ポンド分として加えた122ポンドがテイエムオペラオーの数値とされた。『優駿』は「テイエムオペラオーが残した実績は、空前にしておそらく絶後ともなり得るものである。多くの称賛をもって讃えられるべき歴史的名馬であるといえる。だがまた、競走能力を指数化したレーティングは積み重ねた記録とは別物であるということだ」と、この解説を結んだ。
JRA審判部首席ハンデキャップ役の甲佐勇と古橋明は、当時まだ新しい指標であった国際的な「クラシフィケーション(レーティング)」と、かつて日本で評価指標となっていた「フリーハンデ」の違いを問われ、「クラシフィケーションは1レースごとの評価なんです。各国のハンデキャッパーがレースを見て、こっちは何ポンド、あっちは何ポンドと決めていきます。(中略)一方、フリーハンデはタイトル数や通年の活躍ぶりを評価して付けていた部分がありました。シンザンやシンボリルドルフのように、連勝してGIを数多く勝つと高くなるわけです。テイエムオペラオーもフリーハンデならもっと高くなったはずです。でも1レースごとの評価だと、そうはいかない。クラシフィケーションでは、他の馬との着差がポンド差に反映されるんです。だから、いつも僅差で勝つテイエムオペラオーはなかなか高くならないんですよ」と解説し、また同時に「ファンタスティックライトを負かしたテイエムオペラオーの強さというのは、海外へ行っていなくても認識されていますし。ただアウェーに行って活躍してもらわないと、なかなかクラシフィケーションには反映されないのは事実ですね」とレート決定の内実を語っている。
競走馬時代のテイエムオペラオーは、しばしば「人気がなかった」とされる。和田自身、テイエムオペラオーの人気(大衆的人気)の低さについては「日本人の判官びいきっていうのを感じさせられましたね。きっと外国だったら、勝てば勝つほど人気が上がり、すごいアイドルホースになっていたでしょう。でも日本じゃ、勝つだけでは強い印象を与えられないんですね」との感想を述べている。
河村清明は2000年のテイエムオペラオーの戦績を取り上げて「まさに非の打ち所のない活躍を見せた。1年を通じて、同馬の好調をキープした陣営の手腕は見事だったし、また接戦を必ずものにした勝負強さは稀有なものだったと評価できる」としながらも、「巷間言われるように、テイエムオペラオーには人気がなかった。本来であれば、『どこまで勝ち続けるのか』といった期待がファンに醸成されるはずなのに、そういった気配は感じられず」と続け、その理由として、テイエムオペラオーが連勝中の各競走がどれも似通った展開だったこと、代表的なライバルだったナリタトップロード、メイショウドトウの騎乗に「何の工夫もなく、歯がゆく映って仕方なかった」こと、さらに両馬とテイエムオペラオーの力関係が「展開ひとつで着順の変わる力関係であったのはおよそ間違いなく、(中略)テイエムオペラオーを含めた上位の馬たちは、本当に強いのかと、ファンは信じることができなかったのだ」と論じた。河村はまた、2001年のテイエムオペラオーが新世代の馬たちに敗れ続けた事実をもって、「むろん加齢による能力の衰えは考えられる」としつつも、「オペラオーが絶対的存在でなかったのは間違いなく、ファンはそれを00年の時点で見抜いていたのだ。あの馬の人気のなさは、ファンの眼力の向上を如実に証明していたと私は信じている」と結んでいる。また吉田均も、テイエムオペラオーが勝ったレースの2着馬が「つねにメイショウドトウ、ほかでもナリタトップロードとラスカルスズカ」とバリエーションに乏しいことを取り上げ、「グラスワンダーとスペシャルウィークがいて2000年を勝ち続けていたら凄いと思うし、スター性もあったと思う。本当にスター性がないよね」と評した。
競馬評論家の井崎脩五郎はテイエムオペラオーの競走生活を総括し「ぼくが一番強いと思っているスペシャルウィーク世代にはオペラオーはかなわなかったと思うな。あの世代が根こそぎいなくなったし、海外の方が日本より景気がよくなって一流馬が日本に来なくなった時期とも重なるんだもの。ひとつ上は強いけど、ひとつ下はすごく弱いんだもの」と述べ、一年下の世代ではテイエムオペラオーを破ったアグネスデジタルだけが強かったとし、「テイエムオペラオーはいちばんいいとこで勝っている」とした。それを受けて、キャスターの鈴木淑子が「シンボリルドルフを超える馬かというと『?マーク』がつくのは、めぐり合わせがよくて勝てていると思われているからですか」と問うと「みんなが納得しないのは、それがあるからだろうね」と述べ、同時にファンからの人気が乏しい理由もそこに関係するのではないかとした。
柴田政人は人気に乏しい要因を「毛色にもよるんじゃないか」と推測し、これを受けた野平祐二は「テイエムオペラオーは栗毛でもちょっと色の濃い、栃かかった(栃栗毛に近い)色なんです。グッドルッキングホースというのは結構いるんですよ。それはそれなりに走るんですが、グッドホースになると違うんです。見た目は称賛されなくても競馬にいくと強い馬をそういうんです。テイエムオペラオーは、まさにグッドホースですよね」と称えつつも、「色(の影響)はある」とした。
江面弘也は「勝ち方が地味だとか、名前が悪いとか、あるいは負かした相手が弱すぎるだとか、アンチオペラオーの言い分はさまざまだが、若いファンやマスコミが飛びつく血統や話題性がないのが最大の理由だと私は思っている。たとえば武豊が乗る有力厩舎のサンデーサイレンス産駒だったならば、ずいぶんと状況が違ったはずだ」としている。須田鷹雄は、テイエムオペラオーを支持するファンが「競馬場にはいるのかもしれないけれど、競馬マスコミとか、それを読むファンは支持していないのかもしれませんね。競馬メディアが増えてきて、ひねった見方を提示しなければいけないという考えが固定化し、浸透しすぎてしまった感じもありますから」との見解を示し、これを受けた柏木集保は「それはある意味真理でしょうね」と応じている。阿部珠樹は「血統はサンデーサイレンスとは無縁だった。自厩舎の若い騎手が最後まで手綱を取りつづけた。春も秋も、2000メートル以上のGIにはすべて出走した。しかも2シーズンつづけて。そして国内最強を謳われながら、海外遠征のそぶりも見せなかった。時代の傾向とことごとく反する中で、名馬としての地位を固めていった。それがテイエムオペラオーである」と評し、「アイドル的人気のなさ、反時代的孤立は、むしろ、この馬の勲章といえるのではないか」、「この馬の評価は、10年、20年経って高まるのではないか」とした。
伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』の著者・木村浚太は、同書あとがきの冒頭で「私は常々、テイエムオペラオーに対する世間の評価の低さが不思議でなりませんでした」と書き出し、その「評価の低さ」を生んだ最大の理由を「"ひとり横綱"だったことと、海外遠征を断念(あるいは拒否)したことによる」とし、これがため「最後の最後まで『テイエムオペラオーは強い相手に勝っていない』と言われ続けてしまった」と論じている。
1999年にフランスで活躍したエルコンドルパサーなど、当時は日本調教馬が従来敗退を続けてきたヨーロッパで勝利を挙げる例が相次いでおり、テイエムオペラオーに対してもファンやマスメディアは遠征を希望する声をあげていた。著名な競馬関係者にあっても、たとえば社台ファーム代表の吉田照哉は「テイエムオペラオーの実力は世界最高峰のレベルにある」と評価したうえで、「あの馬ならキングジョージなんて最適の馬場ですから、まず勝てると思うのですが。テイエムオペラオーの種牡馬としての価値を考えても、これ以上日本のレースを勝っても変わりませんが、キングジョージを勝てば世界的な評価が変わってくるはずです。日本の競馬を盛り上げるために国内で走らせるということですが、まずは内国産馬が海外でGIレースを勝って、日本の競馬レベルが本当に欧米と肩を並べたいうことをファンに示すことも、競馬を盛り上げるのに必要なことだと思うのですが」と遠征をしないことへの疑問を呈し、また野平祐二は「できることなら、"キングジョージ"、凱旋門賞、ブリーダーズカップ・ターフのなかの、どれか一つでもいいから、ぜひ走らせてみてほしいと思います。それは、テイエムオペラオーなら当然勝負になるという考えがあるのはもちろん、海外へ遠征することによって、関係者がこれから国内で戦う限り感じざるを得ない大きなプレッシャーから解放されるのではないかという思いもあってのことなのです」と述べた。
中には、「日本の競馬ファンのひとりとして、テイエムオペラオーの1勝をファンに貸していただきたいと、オーナーの竹園正繼氏に失礼を承知でお願いしたい」(江面弘也)、「人気の馬を持ったら公人になって、自分の馬ではなく日本の馬、ファンの馬というようなお考えで、ファンの期待に応えていただきたいとも思います」(鈴木淑子)などと、はっきりと竹園に向けて遠征を促すメッセージを送る者もあったが、テイエムオペラオーが遠征に出なかったことは、竹園よりも調教師である岩元の意向が大きかった。岩元には巷間にあった欧米の競馬を無条件に日本競馬よりも上位とする見方への反感があり、欧米の強豪と戦いたいならばジャパンカップがあり、そもそも同競走はそのために創設されたはずだという意識もあった。また、2000年には欧州で口蹄疫が流行し、検疫が厳しくなっていた状況もあり、そうしたなかで岩元厩舎に遠征のノウハウもない以上、テイエムオペラオーほどの馬を最初のケースにするのはリスクが大きすぎるという判断があった。かつて岩元が心酔していたシンボリルドルフが、アメリカ遠征で怪我を負い引退に追い込まれたという出来事も頭にあったという。竹園も基本的には岩元の考えに同意していたが、遠征を望む声が大きく高まれば行っても良いという程度の考えはあり、実際に2001年の天皇賞(春)を勝った後には「宝塚記念を勝てば遠征も視野に」という見解を示していたが、敗れたことで幻に終わった。一方この天皇賞後のインタビューでも、岩元は「海外遠征ですが、私はあまり興味がありません」と話していた。
なお、2000年から2001年にかけて欧米で継続的に騎乗していた武豊によれば、2001年春にステイゴールドがアラブ首長国連邦のドバイシーマクラシック(G2。当時)を制したあと、「ステイゴールドを何度も負かしている『ティーエムオペラ』という馬は強いのか」と、外国でもしばしば話題に上っていたという。
テイエムオペラオーが出走する競走当日は、天気が崩れる例が目立った。テイエムオペラオーは重馬場巧者であり、原口政也は2000年の天皇賞(秋)における心境を語るなかで「オペラオーが走るときは、なぜか雨が降る。オペラオーにとって雨は喜ばしい。芝が重くなって時計がかかっても大丈夫だし、一発が怖い『切れる』馬は、脚が鈍る。天候さえもオペラオーの味方についてくれて、心強い」と述べている。一方、石田敏徳は「この馬が走るときは不思議に崩れることの多い天候を指して『最強馬ではなく最強運馬だ』などと憎まれ口を叩く者もいる」と紹介したうえで、「中距離の高速戦に対する適性を証明する舞台に、テイエムオペラオーが恵まれてこなかったことは、彼ら(注:テイエムオペラオー陣営)にとってこそ実は"不運"だったかもしれないとは書いておきたい」と取材記で述べている。
上記のうち、識者投票の形であった「年代別代表馬BEST10」の企画では、5人の選者全員がテイエムオペラオーに1位票を投じた。その中で須田鷹雄は「2000年のレースぶりは『単に強いというだけでも、ここまで強ければそれだけで十分価値になる』とでもいうべきものだった。ただ、こういうタイプが何十年後にも強い印象を残しているかどうかは微妙」と述べたが、2021年に行われ、テイエムオペラオーの全盛期からは外れる2001年以降に活躍した馬を対象とした「新世紀の名馬BEST100」の投票で8位にランクインし、三好達彦は「『世紀末覇王』の呼び名さえ聞こえてきたのは20世紀最後の年、2000年のことだった。それにもかかわらず、今回のランキングでベスト10に食い込んだところに、テイエムオペラオーが残した蹄跡の深さをあらためて感じ入った」と評した。この企画の講評会では須田と若年ファン代表の津田麻莉奈が対談し、テイエムオペラオーの順位に触れて津田が「2000年のインパクトが相当だったということですね」と述べ、須田が「8戦8勝でGI5勝だもの」と応じている。
テイエムオペラオー陣営は、馬主・竹園正繼と調教師・岩元市三の間の関係性、そして岩元の師である布施正を介した、当時すでに旧来的といわれた人間関係による結びつきを特徴とした。野平祐二は、牧場からの馬の購入ひとつをとっても「いまは古いつながりを持っていてもお構いなしに外国に行って高くていい馬を買ってきちゃう時代」、騎手起用については「乗り替わりのほうが日常茶飯事」、馬主と調教師の関係性では「高い馬を買ってくれるオーナーがいれば、どこへでもついて行って自分のところにいい馬を入れるような時代」と指摘し、そうした時代の傾向からことごとく反した関係性の中から生まれたテイエムオペラオーを「神の思し召し以外のなにものでもない」、「よくぞやった。よくぞ出てきたもんだ」と称賛した。また石田敏徳は「人馬の巡り合わせとは本当に不思議なもので、もし岩元と竹園の邂逅がなければ、テイエムオペラオーは全く異なる馬生を歩んでいたに違いない。もっと完璧な王道を歩んでいただろうか。あるいは海外へ雄飛していただろうか。だがどんな想像を働かせてみても、岩元の"チーム"に所属するよりさらに魅力的なテイエムオペラオーを、私にはどうしてもイメージすることができないのだ」と述べた。
馬主の竹園正繼と調教師の岩元市三はいずれも鹿児島県肝属郡垂水町(後の垂水市)出身で、幼馴染であった。年齢では1つ、学年では2つ竹園の方が上で、竹園は子供たちのグループのボス的存在で岩元は「配下」のような立ち位置にあったが、ともに母子家庭で互いの母親同士の仲も良く、竹園は仲間内でも岩元に対して特に親身で、「体の鍛錬」として相撲を取ったり海岸線をランニングしていたりしたという。
岩元は中学校卒業後に垂水を離れて大阪の花屋に就職し、地元の仲間とは縁遠くなった。のち店主に誘われて訪れた競馬場で騎手の姿に憧れ、鹿児島県出身騎手の山下一男が所属する布施正厩舎に入門。1974年に26歳という騎手としては遅い年齢でデビューした。一方の竹園は高校卒業後に上京し、建築会社に就職。上京後に趣味として競馬にのめりこみ、毎週のように競馬場へ通うようになったが、やがて事業者として独立を目指すため競馬を断ち、1976年に建築資材を扱う会社「テイエム技研」を設立した。1982年、岩元は騎乗馬バンブーアトラスで日本ダービーに優勝する。会社のテレビで見るともなくこの競走を観戦していた竹園は、勝利騎手インタビューで画面に大写しになった岩元の姿に非常に驚き、同時に「馬主として岩元に再会したい」と思い立つ。そして1987年に馬主資格を取得すると、直後に赴いた小倉競馬場の検量室で両者は20数年ぶりに再会した。このとき岩元は竹園に「大きくなったなあ」と声を掛けたという。その後、竹園は岩元を自身の所有馬の騎手として起用をはじめる。岩元の騎手として引退レースの騎乗馬も竹園の所有馬であった。そして岩元が騎手を引退し、調教師に転身してからは2人で馬産地を回るようになり、そこで見出されたのが後のテイエムオペラオーであった。
なお、竹園は自らテイエムオペラオーを選んだように相馬眼の確かさを謳われるようになるが、竹園に馬の見方を教えたのは布施であった。テイエムオペラオーの競走馬時代には、同馬のほかにGI競走3勝のテイエムオーシャンがおり、2000年には11月26日のジャパンカップをオペラオー、12月3日の阪神3歳牝馬ステークスをオーシャンで連勝し、史上2例、個人馬主では初となる同一馬主による2週連続GI制覇を達成。また、11月11日には京都ハイジャンプ(J・GII)をテイエムダイオー、京王杯3歳ステークス(GII)をテイエムサウスポーが制し、これも史上2例目の同一馬主による1日2重賞勝利を達成した。同年の高額賞金獲得馬ランキングでは、全馬総合でテイエムオペラオー、3(2)歳部門でテイエムサウスポーが1位となった。この時期の竹園所有馬の勢いは「テイエム旋風」とも評された。
全戦で手綱をとった和田竜二は1999年時点でデビュー3年目の若手騎手であった。同期生に福永祐一らがおり、和田も含めて競馬学校花の12期生ともいわれたが、馬の能力に対して和田は技量不足を指摘されることもあった。テイエムオペラオー引退の翌年に行われたインタビューでは、「あのクラスの馬に乗る騎手としては、経験も力量も自分には不足していたのかな、と思うことがあります。うわべは平静を装っていても、実際はついていくのに一杯一杯でしたからね」とその心境を吐露している。竹園は和田に対して「何回もビッシリと説教した」といい、また岩元について「物凄く真面目で努力家でもある岩元は、安心して物事を任せられる人物ですが、人柄がよすぎて、あまりキツいことを言えないところもあるんです。だからそのかわりに僕が言うことにした」と述べている。なお、菊花賞後に竹園が和田の降板を求めた際に岩元は頑としてこれを容れなかったが、この出来事は岩元自身が騎手だった時代、敗戦後に馬主が「次のレースでは別の騎手を」と布施に迫ったとき、布施が「それでは、どうぞあの馬、今すぐ別の厩舎に持っていってください」と岩元を庇っていた、その恩義を守らなければならないという意識も念頭にあった。
テイエムオペラオーで勝ち続けていた最中の勝利騎手インタビューでは、「シャーッ」という雄叫びや、プロレスラー・アントニオ猪木を模した「1、2、3、ダー!」というパフォーマンスを行っていたことでも知られた。ライターの山河拓也は投票企画でテイエムオペラオーに1位票を投じた際に「鞍上は『しゃあー』とか『ダー』とか叫んでいたが」と書いているが、和田のこうした行動の背景には、「もっとテイエムオペラオーを評価して、人気を高めてほしい」という考えもあったという。
その後、和田は北海道で騎乗する機会に合わせてテイエムオペラオーと一度だけ牧場で対面したが、自身の中で「ラストランの有馬記念を勝利で締め括れなかった」という悔いも強くあり、「もう一度GIに勝って一人前の騎手になり、胸を張って会いに行きたい」との考えから、それ以降はテイエムオペラオーのもとを訪れることはなくなった。しかし以降の和田は勝利数やGII以下の重賞では一定の成績を残したものの、GI勝利に手が届かず、再び対面することは叶わないまま2018年5月にテイエムオペラオーは心臓まひで急死する。この時は和田の妻も「(GI勝ちの報告が)間に合わなかったね」と話したという。翌週に和田は牧場を訪れ、テイエムオペラオーの祭壇に花を手向けると共に、「どうにか春のうちに大きいところを勝ちたい」と決意、そして春のグランプリ・宝塚記念をミッキーロケットで制し、2001年の天皇賞(春)以来、17年ぶりのGI勝利を果たした。競走後に和田は目を潤ませながら「テイエムオペラオーが後押ししてくれた」と語った。
調教厩務員を務めた原口政也は、1999年4月に厩務員課程を修了し岩元厩舎に配属されたばかりで、引き継ぎで牝馬を担当していたものの、5月に入厩してきたテイエムオペラオーがデビュー前から担当する初めての馬であった。高校卒業後は一時大学進学を目指したが何事も続かず、一念発起して厩務員を志し、育成牧場で4年の勤務を経て厩務員となっていた。大塚美奈による取材記では「トレセンに入れるだけでよかった」と何度も口にしたという。父親と弟も厩務員を務め、父は定年の65歳まで勤めあげたが、重賞勝利馬には縁がなかった。原口は「テイエムオペラオーは"ごほうび"の気がする。僕なりに闇が多かったから、光を当ててくれた気がする」と語っている。なお、後に原口は東京大賞典四連覇などの成績を挙げたオメガパフューム(安田隆行厩舎を経て安田翔伍厩舎)も担当している。
生産者の杵臼牧場は、テイエムオペラオーが皐月賞に優勝した時点で繋養牝馬数18頭という中小規模の生産牧場であった。公には1959年創業だが、アラブ馬を飼養していた畑作農家からの転業で、正確にいつ頃から競走馬生産を始めたかはっきりしないという。布施と1962年から付き合いがあり、中央競馬へ行く馬についてはほとんどが布施と繋がりのある厩舎に入っていた。牧場生産の重賞初勝利馬でテイエムオペラオー以前の代表馬であったキングラナークは布施厩舎に所属し、岩元の騎手としての重賞初勝利馬でもあった。場主の鎌田信一が「雲の上の存在」と話したGI競走を、テイエムオペラオーで一挙に7つ獲得することとなった。
なお、同場所在の浦河地区は近隣牧場の結束が強く、2000年のジャパンカップ出走時には牧場仲間が杵臼牧場を訪れて「夫妻そろって観戦に行くべきだ」と進言、そうしたいと考えながらも小牧場ゆえに2人も欠ければ手が足りなくなると渋る鎌田に、仲間らは「(不在のあいだ)自分たちが牧場を手伝うから」と申し出て、夫妻を東京競馬場へ送り出したという。鎌田の妻にとっては初めての競馬場におけるレース観戦であり、また当日は独立して札幌や大阪で働いていた子供たちも呼び寄せ、家族揃っての応援であった。
祖父サドラーズウェルズから連なる「サドラーズウェルズ系」は、スタミナ色が濃く「日本競馬に不向き」な血統との評もあるが、父オペラハウスはテイエムオペラオー以外にもGI競走4勝を挙げたメイショウサムソンなど数々の活躍馬を輩出した。また、血統評論家の吉沢譲治は特に母の父ブラッシンググルームと長距離血統の相性の良さに着目し、「すなわちブラッシンググルームの血は、自身のスピード、鋭い決め手を伝える一方で、配合相手から父系、母系に関わらずスタミナを引き出した」と論じ、テイエムオペラオーの鋭い脚はブラッシンググルームからもたらされたものだとしている(両親配合の経緯については#生い立ちを参照のこと)。
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"text": "1998年に中央競馬でデビュー。1999年のクラシック三冠戦線においてアドマイヤベガ、ナリタトップロードと共に「三強」を形成し、三冠競走初戦・皐月賞を制するなどしてJRA賞最優秀4歳牡馬に選出。2000年には「一強」状態となってシーズンを踏破し、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念を含む年間8戦全勝、年間記録として史上最多のGI競走5勝という成績を挙げ、年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に満票で選出された。2001年には天皇賞(春)を連覇してGI勝利数を当時最多タイ記録の「7」とし、同年末に競走馬を引退。和田竜二が全戦で騎乗し、通算26戦14勝。総獲得賞金額18億3518万9000円は、2017年まで世界最高記録であった。20世紀末に活躍したことから、漫画『北斗の拳』の登場人物・ラオウになぞらえ「世紀末覇王」とも称された。2004年に日本中央競馬会の顕彰馬に選出。",
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"text": "1996年、北海道浦河郡浦河町の杵臼牧場に生まれる。父・オペラハウスは競走馬時代にヨーロッパ各国と北米で走り、18戦8勝。それぞれG1競走のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、エクリプスステークス、コロネーションカップなどを制して1993年には全欧の古馬チャンピオンに選ばれ、1994年に種牡馬として日本に輸入された。母ワンスウェドはアメリカ産馬で競走馬時代は不出走。1987年に上場された繁殖牝馬セールにおいて、杵臼牧場主の鎌田信一に1万5000ドルで購買され、これも日本に輸入されていた。ワンスウェドの父・ブラッシンググルームはこのセールから2年後の1989年にイギリス・アイルランドのリーディングサイアー(首位種牡馬)となるが、当時は日本での注目度はまだ低く、鎌田はむしろその評価が定まっていないところに興味を抱いていた。",
"title": "経歴"
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"text": "ワンスウェドの初年度産駒・チャンネルフォーは中央競馬で4勝を挙げてオープンクラスまで昇り、重賞でもCBC賞(GII)2着、阪急杯(GIII)3着などの実績を残した。他にもワンスウェドの各産駒は堅実に勝ち上がったが、チャンネルフォーも含めて短距離傾向が強い特徴があった。鎌田はワンスウェドからより上のクラスで活躍する馬の誕生を期して、「距離の補強」が期待できる種牡馬を探し、選ばれたのが長距離実績のあったオペラハウスであった。",
"title": "経歴"
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"text": "誕生した本馬を見た鎌田は、丈夫そうで馬体のバランスが良いと感じたものの、強い印象は持たなかった。出生から10日ほどして、後にそれぞれ馬主、調教師となる竹園正繼と岩元市三が牧場を訪れる。引き出された7頭ほどの中から、竹園は本馬をひと目で気に入り、購買を申し出る。オペラハウス産駒には市場取引義務があり、競り市で落札する必要があることを鎌田が告げると、竹園は「絶対に俺が競り落とすから、この馬を他の人に見せちゃ駄目だよ。これは絶対オープンまで行くよ。重賞も取れるかもしれないよ」と話した。竹園は後に「馬体を見た瞬間にいっぺんで惚れこみました。腰が大きく、骨がしっかりしていて、繋も柔らかい。自分なりのチェックポイントを全てクリアしていたうえ、なにか垢抜けた雰囲気があった。もちろんその時はこれほどの馬になるとは思わなかったけど、この馬なら故障の心配はないなと思ったことはよく覚えています」と、その印象を振り返っている。岩元は「そんなに強烈な印象は受けなかった」としている。",
"title": "経歴"
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"text": "1997年10月、静内で開かれた北海道10月市場に上場され、開始と同時に竹園がコールした1000万円で落札されたのち岩元と提携していた賀張共同育成センターで馴致・育成に入る。同センター代表の槇本一雄は、それまで本馬を見た各人と同様に馬体のバランスの良さを感じたが、当初は「中の上」という程度の評価を下していた。若駒がみせるバランスの良さは、それ以上成長の余地がないことと表裏一体という危惧もあったためである。しかし育成が進むにつれて、バランスの良さを保ったまま成長を続ける様子を見て評価を改め、岩元との連絡のたびに「この馬はすごく良い」と伝えるようになっていた。",
"title": "経歴"
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"text": "1998年5月、競走馬名「テイエムオペラオー」と名付けられ、滋賀県・栗東トレーニングセンターの岩元厩舎に入る。馬名は竹園が経営する会社名からとった冠名「テイエム」、父オペラハウスから「オペラ」、サラブレッドの王に、という願いを込めた「オー」の組み合わせである。当初テイエムオペラオーにさほどの印象を持たなかった岩元も調教が進むにつれて動きの良さに期待を高め、特にデビュー戦3日前に行われた最終追い切りでは、栗東Cウッドコースで6ハロン79秒3、ラスト11秒9と、すでに新馬戦を勝ち上がっていた自厩舎の併せ馬ユーセイシュタインに1秒6の差をつけて先着。そのタイムの優秀さに「よその厩舎は知らないが、うちの厩舎ではこんな馬は見たことがない」と舌を巻いた。一方、全戦で騎手を務めることになる当時3年目の和田竜二は「まあ普通の3歳馬っていう感じでしたね。名前そのまんまって......。まだGI級の馬になんか乗ったことがなかったんで、これがGI馬の乗り味か、なんてわからなかったしね」と振り返っている。また、厩務員課程を修了し岩元厩舎に入ったばかりだった調教厩務員の原口政也も「印象は特に覚えていない」といい、同じオペラハウス産駒に前年の東京優駿(日本ダービー)で5着に入ったミツルリュウホウがいたことから、ベテランの調教助手から「あんちゃんの馬もミツルリュウホウぐらい走ってくれたらええな」と声を掛けられ、漠然と「そうなってくれればいいな」と思った程度だったという。",
"title": "経歴"
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"text": "8月15日、京都競馬場で行われた3歳新馬戦(芝1600m)でデビュー。調教内容の良さもあり単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。しかし、スタートが切られると和田が絶えず手綱を押すなど追走に苦労する様子をみせ、最後の直線では2番人気のクラシックステージに突き離され、同馬から6馬身差の2着となった。レース終了後には歩様に乱れがあったことから脚部のレントゲン撮影が行われ、右後肢下腿骨々折の診断が下された。症状としては軽く、治療のため賀張共同育成センターに戻され休養に入る。12月には帰厩し、翌年1月16日には2走目の4歳未勝利戦 (ダート1400m)に出走したが、休養明けの調整途上もあり4着となる。2月6日には市場取引馬・抽せん馬限定の4歳未勝利戦(ダート1800m)に出走、単勝オッズ1.8倍の1番人気となると、最後の直線で和田がほとんど追うこともないまま2着に5馬身差をつけて初勝利を挙げた。2月27日に出走したゆきやなぎ賞から芝コースのレースに戻り、最後の直線ではゴール前が一団となった中から4分の3馬身抜け出して勝利。3月28日にはGIII競走の毎日杯で重賞に初出走、低調なメンバー構成とされた中でも3番人気の評価であったが、2着タガノブライアンに4馬身差をつけての重賞初勝利を挙げた。当日は良馬場だったものの馬場は荒れており、そのうえで2着を4馬身突き離した脚力を、岩元、和田ともに称賛した。これはオペラハウス産駒の重賞初勝利ともなった。",
"title": "経歴"
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"text": "毎日杯の勝利で賞金を加算したテイエムオペラオーは、4歳クラシック三冠初戦・皐月賞への出走が獲得賞金上は可能となったが、ひとつの問題があった。初戦後に判明した骨折による休養から戻ってきた際、「皐月賞には間に合わない」と判断した岩元は、同競走への第2回登録を行っていなかったのである。このためテイエムオペラオーは皐月賞への出走権をもたず、二冠目の日本ダービーから出走可能となっていた。こうしたケースの救済措置として「追加登録」という制度が設けられていたが、通常の第2回登録費用が3万円であるのに対し、200万円と高額な費用を要した。毎日杯の好内容とテイエムオペラオーの更なる良化に岩元は見込み違いを反省し、竹園に皐月賞出走を掛け合う。竹園は当初「青葉賞からダービーを狙えばいい」と相手にしなかったが、岩元が「登録料の半分を自分が負担してもいいから」と説得すると最終的にはこれを受け入れ、テイエムオペラオーは追加登録料200万円を支払い皐月賞へ出走することになった。なお毎日杯から数日後の杵臼牧場に、追加登録制度設置のきっかけになったとされるオグリキャップの調教師であった瀬戸口勉から電話があり、「毎日杯であんなに強い勝ち方をした馬はいないよ。あれは強い。皐月賞でも面白いよ」と話した。まだ追加登録が行われていなかった段階で、瀬戸口は「制度を利用すべきだ」という考えを伝えたかったが同業の岩元に言うのは僭越だと感じ、遠回しに牧場へ伝えたものだったという。",
"title": "経歴"
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"text": "4月18日の皐月賞は、雨中での開催となった。当日1番人気となったアドマイヤベガは調教不順が伝えられていたが、父が当時のリーディングサイアーであったサンデーサイレンス、母は二冠牝馬ベガという「超良血馬」として早くから注目され、前年末にはラジオたんぱ杯3歳ステークスを好内容で勝利、本競走への前哨戦・弥生賞では2着と敗れたものの、直線では鋭い脚力をみせていた。弥生賞で同馬を破った重賞連勝中のナリタトップロードが2番人気。両馬のオッズは2.7倍対3.3倍と、事実上一騎打ちのようにみられていた。テイエムオペラオーはトップクラスとの対戦経験がないとみられたこと、過去毎日杯からの出走組に皐月賞での実績が乏しかったことなどもあり、オッズ11倍の5番人気となった。スタートが切られると、ナリタトップロードが中団、アドマイヤベガが後方、テイエムオペラオーはさらにその後ろに位置した。テイエムオペラオーの位置は戦前の想定より後方になったが、これは2ハロン目(200~400メートル区間)のタイムが10秒4と全体のペースが急激に早くなり、置かれた形となったことも影響していた。第3コーナーから各馬は先行勢をとらえに動いたが、テイエムオペラオーは追い出した時点ではまだ後方におり、竹園は「ああ。だめだ。負けた」と声をあげた。岩元も「何を考えて乗っているのか」と舌打ちし、勝利を諦めていた。しかし最後の直線残り100メートルほどからテイエムオペラオーは一気に差を詰め、先頭のオースミブライトをゴール寸前でクビ差とらえて勝利。GI初制覇を果たした。3着にナリタトップロードが入り、アドマイヤベガは6着となった。",
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"text": "テイエムオペラオーのみならず、竹園、岩元、和田、杵臼牧場の全員にとって、これが初めてのGI制覇であった。また、クラシック追加登録を行った馬の勝利も、制度開始以来のべ30頭目で初めての例となった。和田は競走後、「毎日杯でみせた末脚を信じて、じっくり構えて直線勝負に賭けたのが正解でした。道中は外に振られないようにだけ気を付け、徐々に上がっていこうと思っていたので、ほぼ理想通り」などと感想を述べ、また前週の桜花賞で競馬学校同期の福永祐一がGI初制覇を遂げていたことにも触れ、「自分たちの世代に流れが来ていることを信じて、発奮したのが良かったかもしれません。ダービーでも乗り役の方が負けないように、自信をもって乗りたい」と語った。岩元は「ゴール前では届かないようだったのに、本当によく走ってくれた」とテイエムオペラオーを労い、また「結果として、和田の落ち着いた騎乗が勝利につながった。ダービーで注文を付けることは何もない。テイエムトップダンで乗った経験があるから大丈夫やろう。僕は下手くそなジョッキーやった。それに比べたら、あいつの方がはるかに上手いわ」と、和田の騎乗を称えた。",
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"text": "皐月賞馬となったテイエムオペラオーは、6月6日、二冠を目指して日本ダービーへ出走した。当日はナリタトップロードが単勝オッズ3.9倍の1番人気に支持され、皐月賞からの復調が期待されたアドマイヤベガが同じく3.9倍の2番人気、テイエムオペラオーは4.4倍の3番人気となった。レースは縦長の隊列で展開し、その中でテイエムオペラオーは8番手、ナリタトップロード10番手、アドマイヤベガは後方15番手を進んだ。第3コーナーからテイエムオペラオーは両馬に先んじて先団に進出し、最後の直線半ばでいったん先頭に立ったものの、直後にナリタトップロードにかわされ、さらに後方から一気に追い込んだアドマイヤベガがゴール前で同馬もろとも差し切って優勝。テイエムオペラオーは3着と敗れた。和田は競走後、早めに動いた理由について「前にフラフラしている馬がいて、その馬の後ろには入りたくなかった。ナリタが凄い手応えで来ているのも分かっていたから、早いとは思ったけど、あそこで動かざるを得なかった。負けたのは悔しいけど、きつい競馬をしたのに本当、よく頑張っていますよ」と語った。一方で「勝てると思った瞬間は一度もなかった」、「早めのスパートをかけなくても3着だったかもしれない」ともした。アナウンサーの杉本清によれば、岩元は3着という結果にも満足気であったといい、「ダービーはしょうがない。馬がピークを過ぎてたから」と話したという。その一方で竹園は「結果としてそこ(注:皐月賞)を勝ってくれて嬉しかったし、岩元を非難するつもりはないけれど、でもあのとき皐月賞を使わなければダービーを勝てていたかもしれない......そんなふうに考えることもあるんですよ」と、後のインタビューで吐露している。",
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"text": "ダービーの後は賀張共同育成センターで休養に入り、9月に帰厩。クラシック三冠最終戦・菊花賞へ向けて調教が進められた。前哨戦としては初めて古馬(5歳以上馬)相手となる京都大賞典(GII)か、その一週間後の京都新聞杯(GII)の両睨みとなったが、テイエムオペラオーは食が細りやすい体質だったことから、菊花賞まで調整に余裕をみることができる京都大賞典が選ばれた。この競走では前年の日本ダービーと当年の天皇賞(春)に優勝しているスペシャルウィーク、前年の天皇賞(春)優勝のメジロブライトなどの有力馬がおり、テイエムオペラオーは両馬に次ぐ3番人気となった。レースでは最後の直線で進路を失う形となり、コース内側に持ち出されてから先頭のツルマルツヨシを追ったが、同馬とメジロブライトにおよばず3着となる。和田は道中でスペシャルウィークの直後につけ、同馬が抜け出した跡を通って先頭をうかがう算段であったが、不調のスペシャルウィークが直線で失速したため進路を失ったものであった。",
"title": "経歴"
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"text": "京都大賞典のあと危惧された食細りは起こらず11月3日の菊花賞は絶好調に近い状態で臨んだ。当日は京都新聞杯に勝利してきたアドマイヤベガがオッズ2.3倍の1番人気、テイエムオペラオーが3.4倍の2番人気、京都新聞杯2着のナリタトップロードが4.1倍の3番人気で続き、春に引き続き「三強」の下馬評であった。レースは明確な逃げ馬不在もあり、1000メートル通過が1分4秒3、2000メートル通過が2分8秒4と、「超スローペース」で推移する。そうしたなかナリタトップロードは先団に位置し、アドマイヤベガとテイエムオペラオーはそれぞれ中団後方に並ぶ形で10~11番手を進んだ。周回2週目の最終コーナーからナリタトップロードは先頭をうかがって進出、テイエムオペラオーは最後の直線でこれを急追したが、先に抜け出したナリタトップロードにクビ差及ばずの2着と敗れた。アドマイヤベガは伸びあぐねての6着であった。",
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"text": "テイエムオペラオーの上がり3ハロン(ゴールまでの600メートル)タイム33秒8は、メンバー中最速のものだった。和田は「向こう正面で少し、前との差を詰めておけば良かったのかな。それでも、凌ぐ脚はあると思ったんだけど......力負けではないと思う」と感想を述べた。最終コーナーまで進出しなかった理由については、「アドマイヤベガを意識した」という見方があった一方で、競走後の和田の弁によれば、温存して末脚を引き出したいという意識の方が強かった。また、戦前にはナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦がとったレース運びを思い描いていたともいう。",
"title": "経歴"
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"text": "いずれにしても競走後、和田の騎乗に対しては「仕掛けが遅い」という論評が向けられた。日本ダービーの「早仕掛け」に続く和田の2度目の騎乗ミスとみた竹園は激怒し、岩元に騎手の交代を要求。留保を求める岩元に竹園は強硬な態度を示したが、最後には折れる形となり、和田はテイエムオペラオーの騎手として据え置かれた。岩元は和田を降板させる場合はテイエムオペラオーの転厩を求めたともされ、これ以降、竹園が騎手交代を求めることはなくなった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "竹園は次走を年末のグランプリ有馬記念、または来年まで休養と見積もっていたが、岩元はテイエムオペラオーと和田に「勝ち癖」を付けたいとして、次走にGII・ステイヤーズステークスを選択した。当日の単勝オッズは一時1.0倍、最終オッズでも1.1倍という圧倒的な1番人気に支持されたが、クラシック三冠では目立たなかった同期馬ペインテドブラックに直線で競り負け、2着となった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "この後、岩元は年内休養を考えたが、今度は竹園が有馬記念出走を希望する。菊花賞以来、竹園に自身の要望を通させてきた負い目もあり、岩元はこれを受け入れ、テイエムオペラオーは有馬記念に臨むこととなった。当日は、ここまでGI競走3勝のグラスワンダーが1番人気、京都大賞典から立て直し、秋の天皇賞とジャパンカップを連勝中のスペシャルウィークが2番人気で、この「二強」の対決とされた。ナリタトップロードが4番人気(6.8倍)に入り、テイエムオペラオーは同馬から離れた12倍の5番人気であった。スタートが切られると、追い込み脚質のゴーイングスズカが先頭を切り、前半1000メートルが65秒2という「超スローペース」で展開、テイエムオペラオーは先団5番手につけ、他の有力馬はみな中団より後方に位置した。最後の直線でテイエムオペラオーは先頭に立ったが、直後に後方からグラスワンダーとスペシャルウィークが競り合いながら差し込み、両馬にゴール直前でかわされ勝ったグラスワンダーからハナ、アタマ差での3着となった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "皐月賞以降勝利を挙げることはできなかったが、テイエムオペラオーは当年の年度表彰・JRA賞において最優秀4歳牡馬に選出され、「クラシックではアドマイヤベガ、ナリタトップロードとともに三強を形成し、中でももっとも安定した成績を残した。暮れの有馬記念でも、グラスワンダー、スペシャルウィークと同タイムの3着とあわやのシーンを作り、その実力を大いにアピールした」との選評を受けた。また、仮定の斤量数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションにおいても、4歳馬として1位の119ポンドを与えられている。なお、当年対戦してきた有力馬のうち、スペシャルウィークは有馬記念を最後に予定通り引退、アドマイヤベガは菊花賞のあと長期休養に入り、復帰できないまま翌2000年夏に引退となった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "2000年1月に行われたJRA賞授賞式において、竹園はテーブルを囲む陣営各人に向けて、「こんな賞をもらったからには、今年はもうひとつも負けたらいかん。負けるようなレースには使わない。今年は全部勝つぞ」と檄を飛ばした。その後の厩舎内の様子を、原口は次のように振り返っている。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "2000年の初戦には2月20日の京都記念(GII)が選ばれた。ここにはナリタトップロードも出走したが、テイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持されると、最後の直線で同馬との競り合いをクビ差で制し、皐月賞以来の勝利を挙げた。さらに続く阪神大賞典(GII)では、ナリタトップロードに加え、新たな「三強」の形成が期待された菊花賞3着のラスカルスズカも出走したが、最後の直線ではテイエムオペラオーが両馬を突き放し、ラスカルスズカに2馬身差をつけて勝利。他の有力馬より前でレースを進めながら、直線では出走中最速の末脚を発揮したその内容に、スポーツ紙は「完璧な差」と書き立て、日本中央競馬会の広報誌『優駿』は、「善戦どまりだった皐月賞以降とは見違えるほど」と評し、ラスカルスズカ、ナリタトップロード両陣営からも「完敗」という言葉が聞かれた。和田は競走後「本当は、去年もああいうレースをしたかったんです」と述べ、さらに和田と原口は口を揃えて「背中に跨った感じが全体的にパワーアップしている」と評した。",
"title": "経歴"
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"text": "4月30日には、春の大目標としていた天皇賞に臨む。天皇賞は当年より従来出走資格がなかった外国産馬にも門戸が開放され、アメリカ産馬であるグラスワンダーの動向が注目されていたが、同陣営は最大目標とする宝塚記念への出走を優先し、ここを回避。これを受けて、天皇賞は阪神大賞典に続く「三強」の下馬評となった。レースでは中団を進み、その前にナリタトップロード、後ろにラスカルスズカが位置する展開となったが、第3コーナーからナリタトップロードを捉えに進出してそのまま抜け出すと、ゴール前でラスカルスズカの追走を4分の3馬身抑えて勝利した。走破タイム3分17秒6は史上4位、最後の200メートルは11秒9と史上最速(いずれも当時)のタイムであり、競馬専門誌『週刊Gallop』は、「厳しい瞬発力勝負に対応したテイエムオペラオーは真の実力を示した」と論評している。",
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"text": "天皇賞制覇で「三強」の時代を終わらせ「一強」と化したテイエムオペラオーは国産競走馬の頂点に立ち、残るライバルは外国産のグラスワンダーのみとなった。春のグランプリ・宝塚記念(6月25日)への出走馬を決めるファン投票において、テイエムオペラオーは1位に選出される。宝塚記念当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気、グラスワンダーが2.8倍の2番人気となり、この2頭の一騎打ちの下馬評となる。馬場状態は良馬場だったが、発走1時間前より雨が降り始め、そのまま雨中でのレースとなった。スタートが切られると、平均的なペースで推移するなかテイエムオペラオーは2番手集団を見る形で進み、グラスワンダーは中団後方に位置する。第3コーナーでグラスワンダーがテイエムオペラオーの直後につけ、最終コーナーではグラスワンダーが鞍上の蛯名正義が手綱を抑えたまま進出していく傍らで、テイエムオペラオーは和田が手綱をしごきながら大外を回った。しかし最後の直線に入るとグラスワンダーは伸びを欠き、テイエムオペラオーはそのまま先を行くメイショウドトウとジョービッグバンを急追、ゴール前でメイショウドトウをクビ差かわし、天皇賞からのGI連勝を果たした。",
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"text": "競走後、和田は「最後はヒヤヒヤしましたが、力を出してくれました。手応えは前走よりもしんどかったですけど、必ず伸びるのは分かっていました。最後に抜けると気を抜いてしまうところがあるし、気を抜かないようにしただけです。改めて強いと思いました」、岩元は「3コーナーの手応えで今日はやばい、負けるかもと思いましたが、直線で並んだときに何とかなると......。並んだら勝負強い馬ですから」などとそれぞれ感想を述べた。両名とも3コーナーでの反応の悪さに言及したが、原口は、テイエムオペラオーは概してそういった面がある馬だとして「グラスワンダーと手応えこそ違え、一緒に来ていたから心配しなかった」と振り返っている。なお、6着に敗れたグラスワンダーは、競走後のコース上で蛯名が下馬して馬運車で運ばれ、のち「左第三中手骨(管骨)骨折」の診断が下され、引退が発表された。",
"title": "経歴"
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"text": "後年、テイエムオペラオーの伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』を執筆した木村俊太は「このグラスワンダーの故障によって不運にも『力勝負の決着はついていない』という評価をも受ける結果となってしまった」としている。いずれにせよこの勝利によって、テイエムオペラオーは「現役最強馬」の地位についた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "宝塚記念の後には、前年夏と同様に賀張共同育成センターへ送られ、現地で運動を行いながらの休養に入った。春の連戦を経ているにもかかわらず疲労の度合いは低く、到着翌日には人を乗せての運動が始められるなど、充実を物語るものとなった。秋の出走は当初、春秋連覇が懸る天皇賞(秋)へ直接出走する見通しだったが、竹園が様子を視察した際、テイエムオペラオーの状態が非常に良かったことから、「馬が走る気になっているときにリズムを狂わせてもいけない」と、前哨戦の京都大賞典(GII)への出走が決まった。かねてこの競走へ向けて調教が積まれていたナリタトップロードの調教師・沖芳夫は「あの馬(テイエムオペラオー)を負かすなら今回しかない」と公言していたが、レースでは両馬競り合いになったものの、ナリタトップロードが鞍上の渡辺から鞭を連打される傍らで和田は鞭を振るうことなく、テイエムオペラオーがアタマ差で勝利した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "10月29日、天皇賞(秋)に臨む。この競走は当年まで1番人気馬が12連敗という結果が続いており、巷間「テイエムオペラオーが負けるとすれば今回」と囁かれ、マスメディアもこの「ジンクス」を盛んに取り上げた。また、皐月賞と同じ距離でありながらテイエムオペラオーに2000メートルの距離が短いという見方もあり、当日の単勝オッズは近来では高い値となる2.4倍を示した。2番人気には別の前哨戦オールカマーを制してきたメイショウドトウが推され4.4倍、3番人気がナリタトップロードで4.9倍の順となった。スタートが切られると、最初のコーナーでテイエムオペラオーが内を走るイーグルカフェを押圧する形となり、その煽りを受けたステイゴールドが不利を受ける形となった。コーナー通過後は平均的なペースで推移し、テイエムオペラオーは2番手集団の中でメイショウドトウを直前に見る形で進んだ。最後の直線ではまずトゥナンテ(5番人気)が抜け出し、これをメイショウドトウがかわしたが、直後にテイエムオペラオーが両馬を一気に抜き去り、ゴールではメイショウドトウに2馬身半差をつけて勝利した。なお、これは和田にとって東京競馬場での68戦目にしての初勝利であった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "同一年度における天皇賞の春秋連覇は、タマモクロス(1988年)、スペシャルウィーク(1999年)に続く、史上3頭目の記録となった。また、1984年にグレード制が導入されて以降、東京、中山、京都、阪神のJRA四大競馬場全てでGIを制したのは、テイエムオペラオーが初の事例であった。和田は「1番人気が勝てないうえ、僕が東京で未勝利だったことで、いろいろ言われましたが、パーフェクトの内容で鬼門を突破することができました」、岩元は「1番人気の連敗が続いているジンクスと、和田が東京で一度も勝っていない、という2つのことが気になっていましたが、終わってみれば本当にえらい馬だという気持ちでいっぱいになりました」などと感想を述べた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "次走、11月26日に迎えた国際招待競走・ジャパンカップでは、当年のマンノウォーステークスを勝ち、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでも2着の実績を持つファンタスティックライト(UAE)、10歳馬ながら当年アメリカでG1競走2勝を挙げたジョンズコール(アメリカ)など5頭の外国馬に加え、1歳下のクラシック二冠馬エアシャカール(3番人気)、日本ダービー優勝馬のアグネスフライト(4番人気)らが顔を揃えた。この競走は「ジンクス」を盛んに報じられた天皇賞を越える1番人気馬の14連敗が続いていたが、テイエムオペラオーの最終単勝オッズは1.5倍、支持率では1991年のメジロマックイーン(41.4パーセント)を上回り、競走史上最高の50.5パーセントという圧倒的な支持を集めた。ファンタスティックライトが2番人気となったものの、注目はテイエムオペラオーに挑む新世代のクラシックホース2頭という様相となった。レースは逃げ馬不在で前半1000メートル通過が63秒3と非常なスローペースとなり、各馬が先へ行きたがる姿がみられた。テイエムオペラオーは5、6番手を進み、最後の直線では先に抜け出したメイショウドトウと競り合い、さらに後方からファンタスティックライトも追い込んできたが、最後はメイショウドトウをクビ差競り落として勝利を挙げた。なお、エアシャカールとアグネスフライトはそれぞれ13、14着と大敗した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この勝利により、テイエムオペラオーのここまでの獲得賞金は12億円を超え、それまでの獲得賞金記録保持馬であったスペシャルウィークを上回り「世界賞金王」となった。本競走におけるテイエムオペラオーのパフォーマンスは国際的にも高く評価され、レーシング・ポスト・レイティングでは当時の国内最高値となる126の評価が与えられた。ファンタスティックライトの手綱を取ったランフランコ・デットーリは、テイエムオペラオーに対して「クレイジー・ストロングだ。世界レベルにある」と評した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "春秋天皇賞、宝塚記念、ジャパンカップを制したテイエムオペラオーは、かつて達成馬のいない古馬中長距離GIの完全制覇へ向けて、残る目標は年末の有馬記念のみとなった。ジャパンカップ競走中に他馬と接触して右後大腿部に外傷を負い有馬記念に向けた再始動は遅れ、中間の動きも好調時との比較では落ちるものとなった。さらに有馬記念の競走当日朝、中山競馬場の出張馬房内で、向かいの馬房にいた馬が何らかの事象に驚いて後脚で立ち上がり、その様子に驚いたテイエムオペラオーも同様の態となって、馬房内のいずこかに額を強打した。患部は内出血を起こして大きな腫れを生じたが、出走可能という獣医師の判断で、岩元もこれに従って有馬記念へはそのまま出走することとなった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "有馬記念の出走馬選定ファン投票では10万9140票を集め、第1位で選出。当日のオッズでは1.7倍の1番人気に支持された。竹園は戦前のパドックにおいて、和田に対して「スタートに気を付けて、3、4番手につけて、じっとして、直線で2馬身以上離して勝て」と指示を与えた。レースでテイエムオペラオーは竹園の希望通り好スタートを切ったが、周回1周目の第3コーナーで他馬に進路を塞がれて位置を12~13番手まで大きく下げ、さらに観客スタンド前を通過する辺りではスローペースの馬群の中に閉じこめられる形となる。2番人気メイショウドトウは中団、3番人気ナリタトップロードは先団を進んでいた。最後の直線に入ってもテイエムオペラオーは馬群の中で動けず10番手以下に位置し、観客から大きなどよめきが上がった。直線半ばで馬群がばらけ始るとテイエムオペラオーは追い込みを始め、逃げ粘りを図るダイワテキサスを一気に捉えると、最後はメイショウドトウとの競り合いをハナ差制して優勝。史上初となる古馬中長距離路線の完全制覇を達成し、また同時にこの年からスタートした秋季古馬中長距離のGI3競走(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を同一年で優勝(通称秋古馬三冠)した馬への特別報奨金2億円を獲得した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "競走後、和田は「前につけたかったのですが、1コーナーで挟まれてしまって......失敗したと思いました。動くに動けない状況でしたし、かといって外を回りたくなかったので、これなら開いたところを突っ込んでいくしかないと考えました。詰まったらおしまい。直線では1頭分だけ隙間があったんですが、オペラオーは躊躇なく入っていった。メイショウドトウが差し返してきた時もこちらには勢いがありました。厳しいレースでしたが、終わってみれば1頭だけが次元の違う勝ち方をしてくれていました」、また岩元は「心配していた最も厳しい形になってしまいました。負けてもおかしくなかったと思います。ああいう形になったのに、本当によく勝ってくれたと思います。偉い馬としか言いようがありません」と感想を述べた。また竹園は他馬からの厳しいマークに「馬も騎手も可哀想でした。なんでこんなにいじめられなくちゃいけないんだろうと思いました。(略)本当に涙が出るくらい可哀想でした。(略)本当にもう、抜け出すまでは悲しくて泣きそうでしたけど、抜け出してからはもう絶頂でしたね」と語った。一方、敗れたメイショウドトウ騎乗の安田康彦は「今はあの馬(テイエムオペラオー)とは一緒に走りたくない」と報道陣に吐露している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2000年のシーズンを8戦8勝、うちGI5勝という成績で終えたテイエムオペラオーには、様々な記録が伴った。まず年間GI5勝は、シンボリルドルフ、ナリタブライアンを抜いて歴代最多、重賞8連勝はタイキシャトルに並び歴代最多タイ、1番人気での8連勝はタケシバオー、マルゼンスキー、マックスビューティに並ぶタイ記録であったが、全て重賞で達成したのはテイエムオペラオーが初めてであった。『優駿』は、年誌にあたる増刊『TURF HERO』においてその戦績を「世紀末覇王伝」のタイトルで回顧し、『週刊Gallop』もまた年誌巻頭のグラビアに「降臨 世紀末覇王」のキャプションを用いた。なお馬主の竹園も、テイエムオーシャンで制した阪神3歳牝馬ステークスと合わせて年間GI勝利数が「6」となり、過去シンボリ牧場、社台レースホース、山路秀則が保持した年間GI4勝の記録を更新している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "当年の年度表彰において、テイエムオペラオーは年度代表馬に満票で選出。満票選出は、テンポイント(1977年)、シンボリルドルフ(1985年)に続く、史上3頭目の事例となった。また、岩元も年間獲得賞金15億837万8000円という記録をもって最多賞金獲得調教師のタイトルを獲得したが、この金額のうち約3分の2がテイエムオペラオーによるものであった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2001年を迎えたテイエムオペラオーは、連戦疲労が危惧されたことに加え、冬の休養にあたり北海道は寒すぎるという岩元の判断から、通例休養に出される賀張共同育成センターではなく、温浴施設を備え「馬の温泉」の通称があるJRA競走馬総合研究所磐城支所(福島県いわき市)で休養に入った。この休養には原口も帯同した。温泉で疲労を除きつつ、併設の馬場で適度な運動も可能という岩元の見通しであったが、当年のいわきは大雪が続きテイエムオペラオーはほとんど馬房から出ることができず、その一方で日ごろ細かった食欲は増進し、大幅に太った状態で栗東へ帰厩した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "当初は3月の阪神大賞典での復帰が見込まれていたが、調整のピッチが上がらないことから、復帰戦は4月1日の大阪杯(GII)にずれ込んだ。直前の調教では気を抜くような場面もあり、「本来の動きではない」という評もあった。また、競走直前のパドックでは、常なら原口が持つ2本の曳き手を引っ張って歩くところを「1本でも大丈夫なぐらい」大人しい様子であり、和田も返し馬で動きの硬さを感じたという。レースでは中団8~9番手を進んだが、第3コーナーから最終コーナーにかけて、外から馬体を被せてきたアドマイヤボスに合わせて早めに先団に進出。最後の直線では同馬およびエアシャカールと競りあったがこれに遅れ、さらに後方から3頭ごと差し切った9番人気のトーホウドリームの後方で4着と敗れた。競走後、和田は「このひと叩きで変わってくるはず。次は絶対に巻き返しますよ」、岩元は「まあ仕方がない。また出直しや」と語った。春の天皇賞へ向けた他の前哨戦では、阪神大賞典でナリタトップロードが2着に8馬身差をつけてレコードタイムで勝利、日経賞(GII)ではメイショウドトウが勝利を挙げた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "前年からの連覇が懸かる天皇賞(春)へ向けて、当初テイエムオペラオーの状態は極めて悪かったものの、競走10日ほど前から復調気配が表われはじめ、最終調教でも良好な動きをみせた。4月29日の天皇賞当日では、前年秋の天皇賞以来で単勝オッズが1倍台に至らず2.0倍を示した。ナリタトップロードが3.4倍、メイショウドトウが6.5倍でこれに続いた。レースは最初の1000メートル通過が競走史上最速の58秒3というハイペースになり、そのなかでテイエムオペラオーは中団後方に付け、その周囲を他の有力馬がマークするような隊列となる。最後の直線ではいち早くスパートをかけたナリタトップロードがいったん先頭に立ったが、すぐにテイエムオペラオーがこれをかわし、後方から追い込んだメイショウドトウも半馬身抑えて勝利。シンボリルドルフに並ぶ史上最多タイ記録のGI競走7勝目を挙げた。また、春秋の天皇賞3連覇および天皇賞3勝という記録は、史上初の事例となった。竹園は競走後、次走が宝塚記念であること、そしてその結果次第で日本国外への遠征を検討することを表明した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "天皇賞に続く連覇、そして史上最多記録のGI競走8勝が懸かる宝塚記念(6月24日)に臨んで、テイエムオペラオーの状態は極めて良好に仕上がり、戦前に催された「宝塚記念フェスティバル」に出席した和田は「99パーセント勝てる」と明言した。当日の単勝オッズは1.5倍を示し、前年の宝塚記念以来、テイエムオペラオー相手に5度2着となっているメイショウドトウが3.4倍で続いた。レースではテイエムオペラオーはスタートでやや後手を踏んで後方に位置取り、対するメイショウドトウは道中4番手と先行策をとった。メイショウドトウは最終コーナーで先頭に並びかけた一方で、テイエムオペラオーは馬群に押し込められる形となって抜け出すことができず、さらに各馬の進路が混乱した煽りを受けてテイエムオペラオーは進路をなくし、和田が馬上で体を起こし、手綱を引く格好となった。最後の直線で態勢を立て直し後方3番手の位置から追い込んだものの、セーフティリードを取ったメイショウドトウを捉えることはできず、同馬から1馬身4分の1の差で2着と敗れた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "競走後、和田は「狭いところに行ってしまって、行くことができなかった。一番嫌な展開になってしまった。具合が良かっただけに残念」と語った。岩元は「二、三番手で競馬する手もあったと思うが、乗り方は鞍上が決めることやからな。状態が良かっただけに、残念」と述べた。竹園は「あの不利はちょっとひどい。ひどい競馬だった。最後は力のあるところを見せてくれたけど......」と述べ、さらに「負けて海外なんてありえません」として、秋シーズンも国内戦に臨ませることを表明した。一方、メイショウドトウ騎乗の安田康彦は「折り合いもついて、あっち(テイエムオペラオー)が後ろにおることが分かったときに、これなら勝てると思うたね。それぐらい馬の出来もよかったし」と語った。また、メイショウドトウ馬主の松本好雄は後に「私にとってはね、テイエムの2着は非常に大きな2着ですよ。テイエムが2着でなかったら、ちょっと価値が薄れるんですよね。5回負けた馬に勝つということで、凄い値打ちがあるんですよね。(中略)よく来てくれたな、という気持ちですよ」と振り返っている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "夏は賀張共同育成センターで休養に入る。その間の8月1日、竹園よりテイエムオペラオーが当年を限りに引退することが発表された。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "秋シーズン初戦は10月7日の京都大賞典で迎えた。当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.4倍の1番人気となり、ナリタトップロードが2.4倍の2番人気、ステイゴールドが10.8倍で3番人気となった。レースの道中はテイエムオペラオーとステイゴールドが2番手で並び、直後をナリタトップロードが進む。最後の直線ではナリタトップロードがいち早く先頭に立ち、これを内からステイゴールドがかわし、さらに外からテイエムオペラオーが並びかけた。この直後にステイゴールド騎乗の後藤浩輝が右鞭を振るうと、ステイゴールドは左側に斜行し、同馬とテイエムオペラオーとの間に挟まれたナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦が落馬。ステイゴールドは勢いを失うことなく1位で入線し、テイエムオペラオーは半馬身差の2位入線となる。しかし審議の結果ステイゴールドは失格となり、テイエムオペラオーは繰上りでの1着となった。競走後の検量室では、危険な騎乗に激怒した竹園が色をなして後藤に詰め寄る一幕もあった。繰上り勝利ではあったものの、これでテイエムオペラオーの重賞勝利は12を数え、スピードシンボリ、オグリキャップに並ぶ最多タイ記録となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "10月28日、春秋四連覇に挑み天皇賞(秋)に臨んだ。当日は午前から雨となり、前年に続き重馬場で行われることになった。単勝オッズではテイエムオペラオーが2.1倍、メイショウドトウが3.4倍、京都大賞典で1位入線のステイゴールドが4.5倍で続いた。レースは、陣営が「行けるだけ行く」と公言していたサイレントハンターがスタートで大きく出遅れ、押し出される形でメイショウドトウが先頭を切る展開となり、テイエムオペラオーは3~4番手を進んだ。前半1000メートル通過は1分2秒2と馬場状態を考慮しても遅いペースとなり、馬群は一団の状態で最後の直線に向く。ここで伸びかけたステイゴールドが内側に斜行して失速し、テイエムオペラオーは先を行くメイショウドトウとジョウテンブレーヴをかわして先頭に立ったが、大外から追い込んだアグネスデジタルにゴール前で捉えられ、同馬から1馬身差の2着と敗れた。アグネスデジタルは前年のマイルチャンピオンシップ(GI)などに優勝していたが、本競走には直前になって出走を決めており、当日は4番人気ながらそのオッズは20倍であった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "メイショウドトウをかわした直後から和田の視界には大外のアグネスデジタルが入っており、「馬体が合う形になれば、もうひと踏ん張りできる感触はあった」ものの、内外が離れすぎていたため併せにいくことはできなかった。和田は「今日は相手が強かった」とした一方で、「一番いい頃の状態にはまだ一息と感じた。この先、期待通りに上向いてくれる保証はないけれど、もっともっと良くなる可能性を秘めていることは確かです」と語った。また岩元は「馬体が合っていてもあれではかわされていたやろ。力があって、オペラオーより重馬場の得意な馬がいたということ」とした。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "引き続き新記録を目指すジャパンカップに向けたテイエムオペラオーの状態は上がらず、競走前の最終追い切りでも動きに精彩を欠き、共同会見で岩元が発した「えらいこっちゃ」という言葉がスポーツ紙でも報じられた。しかしこの調教から数日の間にテイエムオペラオーは急速に食欲を回復させ、競走当日にテイエムオペラオーにまたがった和田は「この秋一番の覇気」を感じたという。当年のジャパンカップにおける外国招待馬には2000ギニーの優勝馬ゴーラン(イギリス)など6頭のG1優勝馬がいたものの、注目馬は不在という下馬評で、単勝オッズの5番人気までを日本馬が占めた。2.8倍の1番人気にテイエムオペラオー、2番人気は当年の日本ダービー優勝馬ジャングルポケットが推され4.2倍、以下メイショウドトウ、ステイゴールドと続いた。レースはスローペースで推移し、テイエムオペラオーは道中3~4番手、ステイゴールドが6~7番手、メイショウドトウとジャングルポケットがそれぞれ10~11番手を進んだ。向正面からペースが上がっていき、最終コーナーから最後の直線に入るとテイエムオペラオーはいち早く先頭に立った。テイエムオペラオーは単走状態では気を抜く傾向があり和田もそれは意識していたものの、すぐ後ろにいたステイゴールドが進出してきたことから、早めにリードをとる選択をしたものだった。テイエムオペラオーは独走態勢に入ったものの、やはり気を抜いてふらつき始め、ゴール目前で大外から一気に伸びてきたジャングルポケットにクビ差かわされ、またも2着に終わった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "和田は競走後、「3歳馬に負けたくない気持ちはあったんですが......。やっぱり目標にされるとつらいです。前回もそんな感じでしたから。周りにもうちょっと馬がいてくれたら良かったんですが......」と語り、岩元は「結局、うちの馬に流れがこなかったということ」と述べた。一方で、ジャングルポケットの管理調教師・渡辺栄は「最近のテイエムオペラオーの競馬を見ていますと、一番良いときに比べて少し力が落ちているように感じていました。あの馬の場合、競って負けたということを見たことがなかった。きょうは競って負かしたことでジャングルポケットの強さを感じました」との感想を述べている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "年末のグランプリ・有馬記念へ向けたファン投票では前年より票数を落としたものの、93217票を集めて2年連続の1位選出馬となる。そして12月23日、引退レースとして有馬記念に臨んだ。当日は単勝オッズ1.8倍の1番人気の支持を受け、これで4(旧5)歳以降出走した全15戦で1番人気となり、1963~64年に走ったメイズイが保持していた連続1番人気記録を更新した。2番人気にメイショウドトウ、3番人気には当年の菊花賞優勝馬マンハッタンカフェが推された。スタートが切られるとレースはスローペースで流れ、テイエムオペラオーは中団から後方を進む。その前方を走っていたメイショウドトウは3番手まで進出したが、和田はこれを追うことなく、そのままテイエムオペラオーを控えさせた。そして最終コーナーから最後の直線にかけて先行したトゥザヴィクトリー、アメリカンボス、メイショウドトウらを捉えに追い込みを始めたが、これらをかわすことができず、さらに後方から追い込んで勝利したマンハッタンカフェの後方で、生涯最低の5着となった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "後方に位置したマンハッタンカフェが勝ったものの、展開としては先行有利であり、中団待機策をとった和田は「向正面でもう少し前につけておけばよかった」、「天皇賞かジャパンカップ、この秋どちらかひとつでも勝てていれば、もっとシャシャッと動けていたかも」と話し、検量室から引き上げる際にも「動いていかなきゃって、頭では分かっていたんやけど......」と何度も繰り返した。岩元は和田の騎乗に対して「全般的に大事に乗りすぎたんじゃないかな。まあ、終わってから言ってもな。うーん......終わったわ」と語った。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "この有馬記念での賞金を加えたテイエムオペラオーの総獲得賞金は、自身が竹園に購買された価格の170倍超、当時2位のスペシャルウィークを7億円超上回る18億3518万9000円に及び、この記録は2017年末にキタサンブラックに破られるまで16年間保持された。翌2002年1月13日、京都競馬場でテイエムオペラオーとメイショウドトウが合同での引退式が行われた。インタビューを受けた和田は「テイエムオペラオーからたくさんのものをもらいましたが、僕からは何もお返しできませんでした。これからは一流の男になって、彼に認められるように頑張ります」と、声を詰まらせながら話した。引退式を終えた両馬は栗東トレーニングセンターへ戻されたのち、17日には共に種牡馬として繋養される北海道浦河町のイーストスタッドへ2頭揃って輸送された。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "種牡馬入りに際しては一般化していたシンジケートの組織は行われず、競走馬時代から引き続き竹園個人が所有した。近い年代でシンジケートが組まれなかった種牡馬が大きく成功した例はなく、早期に結果が出なければ生産者から見限られるのが早いというリスクもあった。テイエムオペラオーほどの実績を残した馬が個人所有されることは非常に珍しかったが、シンジケート種牡馬は産駒が活躍すれば種付け株が高騰しシンジケート非加入の生産者が交配しにくくなり、その反対に低調に終われば加入者が損を被り、さらには手元に残る種付け株が不良債権のようになるおそれがあり、生産者たちにそうしたリスクを負わせたくない、というのが竹園の言であった。また種牡馬としての繋養先は、テイエムオペラオーの故郷である浦河町のイーストスタッドと、日高軽種馬農協門別種馬場を1年ごとに行き来する形となった。イーストスタッドは中小生産者が集まる日高地方の東側に位置し、門別種馬場は西側に位置することから、地域の生産者に満遍なく便宜を図れるとされた。ただし、当初は有力種牡馬が集う社台スタリオンステーション入りが模索されたが、交渉がうまくいかなかったともされる。初年度の種付け料は500万円に設定され、93頭へ交配された。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "産駒デビューを待つ間の2004年には中央競馬の顕彰馬に選出され、殿堂入りを果たした。前年に記者投票制となって初めての選定投票が行われていたが、対象馬における引退からの年数制限がなく票が割れたことが影響して落選しており、当年は「(1)1983年以前に競走馬登録を抹消された馬」、「(2)1984年1月1日から2003年3月31日の間に競走馬登録を抹消された馬」という2つの投票区分に分けられたうえで(2)の区分において選出された。なお、(1)の区分でタケシバオーも選出されていたが、その後顕彰馬選定投票の対象馬は一律に「引退後20年以内」に改められた。サンケイスポーツ記者の鈴木学は「初年度にテイエムオペラオーが落選したことが契機」になったとしている。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "2005年に初年度産駒がデビューするも、年々競馬のスピード化が進む傾向にそぐわないスタミナタイプの仔が多く、種牡馬生活通算の成績で勝率は5%、1を平均値とするアーニング・インデックスで0.75と、いずれも平均値を下回っている。産駒からは障害重賞で3勝を挙げたテイエムトッパズレ、中央競馬のオープン馬では6勝を挙げたタカオセンチュリーや、1200メートル戦で5勝を挙げたメイショウトッパ―などが出たが平地重賞を勝つことはできなかった。また、著名な相手牝馬ではテイエムオーシャンと3年連続で交配されたが、テイエムオペラドンが1勝を挙げたのみに終わっている。種牡馬総合ランキングの最高成績は、2008年の37位であった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2010年いっぱいで門別種馬場が閉鎖されるのにともない、同年6月にテイエム牧場の日高支場に移動、さらに11月にはレックススタッドへ移動し、その後さらに白馬牧場(新冠町)に移動したが、竹園の意向によって所在地は非公開とされていた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "晩年まで種牡馬としての活動を続けていたが、2018年5月17日の放牧中に心臓まひで倒れ、同日に死亡した。22歳没。当年も5頭の繁殖牝馬に種付け予定で、そのうち2頭への種付けを終えた矢先の出来事であった。その死を受けて東京、中山、京都、阪神および小倉の各競馬場には来場者を対象に記帳台が設けられ、11000筆以上が寄せられた。また、5月26日実施の東西メイン競走には「テイエムオペラオー追悼レース」の副称が冠された。6月15日には、同じく5月に白馬牧場で死亡したゴスホークケンと合同での慰霊祭が挙行され、関係者やファンら約50人が参列した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "以下の内容は、JBISサーチおよびnetkeiba.comに基づく。",
"title": "競走成績"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。強調は区分における年度の最高値。",
"title": "競走成績"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "獲得賞金",
"title": "競走成績"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "勝利数・連勝記録",
"title": "競走成績"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "人気",
"title": "競走成績"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "中央競馬重賞勝利馬",
"title": "重賞勝利産駒"
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{
"paragraph_id": 60,
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"text": "中央競馬オープン競走勝利馬",
"title": "重賞勝利産駒"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "地方競馬重賞勝利馬",
"title": "重賞勝利産駒"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2001年春、それぞれ日本中央競馬会(JRA)の傘下にある競走馬総合研究所、日高育成牧場研究室、そして美浦・栗東両トレーニングセンターの診療所が合同し、競走馬の運動強度に伴う負荷の掛かり方を明らかにする「運動負荷試験システムの確立と応用試験」というプロジェクトが発足した。従来JRAは実験馬や馬主に配布される前の抽せん馬を対象にデータを収集していたが、当プロジェクトは現役競走馬を対象にデータを取ることになり、対象馬の1頭にテイエムオペラオーが選ばれた。",
"title": "特徴・評価"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "これ以前から、テイエムオペラオーを診察していた栗東トレーニングセンターの獣医師は、その心拍数がおおよそ26~28回/毎分と、一般例(約36回/毎分)に比較して非常に少なく、同時に時折「拍動を1回飛ばしたのではないか」と誤認するほど、鼓動と鼓動の間に長い沈黙が現れる例があることを観察していた。拍動数が少ないということは、拍動1回あたりの体内への血液拍出量が多いということで、血液拍出量が多いということは体内に送れる酸素量が多く、身体負荷の掛かりにくい有酸素運動をより長く続けることができると推測された。拍動数に関しては、この獣医師の経験上で近い数字の持ち主は、1997年の菊花賞優勝馬マチカネフクキタルで毎分28回、また伝聞ではシンボリルドルフが毎分30回程度だったとされる。また岩元は経験的に、運動後のテイエムオペラオーの息遣いが平常に戻るのが非常に早いという印象を抱いていた。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2001年宝塚記念前の追い切りで4歳500万下のトップジョリーと共に採取されたデータでは、まず運動強度の低いタイム計測4分前の段階では、トップジョリーの心拍数130に対してテイエムオペラオーは同80、そして運動強度が上がるとテイエムオペラオーの心拍数はトップジョリーよりも素早く上昇しながらも最大心拍数は同馬より少なく(トップジョリー234回/毎分、オペラオー219回/毎分)、ゴール地点を過ぎて心拍数が100回/毎分まで戻る時間も、同1230秒に対して490秒とテイエムオペラオーの方が早かった。調教全体のタイムは全体の6ハロン(1200メートル)でトップジョリーが84秒3に対しテイエムオペラオーが80秒9、最後の1ハロンで前者が13秒6、後者が12秒3というもので、テイエムオペラオーの方が遥かに速かったが、ゴールから4分後に計測された血中乳酸濃度(体内の酸素を使い果たした後に増加する)は前者が19.22、後者が15.35とテイエムオペラオーの方が少なく酸素摂取効率が非常に優れており、競走馬総合研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持った競走馬であることが証明されました」とした。また、2歳8月の実験馬との心臓自体の比較では、心臓の強靭さの目安となる心室厚が実験馬の約1.5倍、1回の血液拍出量は同1.8倍という驚異的な数値であった。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "また、宝塚記念後に計測された安静時心拍数は、担当獣医師が以前から観察していた回数を裏付ける25回/毎分であり、また独特の心音の「飛び」も心電図上に記録されていた。心電図から算出された、交感神経・副交感神経のバランスを示すHF(高周波帯域)パワー、LF(低周波帯域)パワーは、同じく実験に協力していたアグネスタキオンなどと比較しても格段に良好な数値であった。この部分に関して、実験を担当した獣医師は岩元への報告書で「今後何かの機会に別の馬で(より)高い数値が記録される機会があるかもしれませんが、おそらくサラブレッド競走馬のMaxの数値に近いのではないでしょうか」と記している。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "テイエムオペラオーは、岩元が「こんな馬、男馬では初めて」と嘆くほど「飼い食いが悪い(食が細い)」馬であった。イーストスタッド場長の前田秀二によれば、栗東から北海道への輸送中、テイエムオペラオーは飼い葉を全く口にせず、丸ごとの人参も食べず、細かく刻んだ人参を床に叩きつけて柔らかくしたものを桶に入れてようやく口にしたという。この食の細さは、後述する国外への遠征をしなかった理由のひとつとしても挙げられた。競走前にはしばしば、飼い食いの悪さに岩元の「泣き」が入ることが恒例となっていたが、一方でこれは「人気の重圧を少しでも和らげようと思って、少しオーバーに言っていただけ。口ほど深刻にはとらえていなかった」とも振り返っており、また「飼い食いが悪い」わけではなく「食べるのが遅い」馬だったのだともしている。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "騎手を務めた和田は、「『勝った』と思ったらすぐに気を抜く。そんな賢さを持った馬でした。圧勝したレースがほとんどないのはそのため。あれだけ長い間好調を維持できたのは必要以上の力を使わなかったから、という面もあると思うんですよ。後続をぶっちぎって勝つような、瞬間的な強さが高い評価を受けるのは分かりますが、あの馬みたいな長期間にわたる強さにも、すごく価値があると思う。馬の評価は見る人にもよって分かれるんだろうけど、もちろん僕の中ではテイエムオペラオーこそが理想の名馬です」としている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 68,
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"text": "安藤勝己は「ここ10年ぐらいでは抜けて強い馬だと思う。突き放して勝つとか大差で勝つとか、そういう馬は負けるときコロッとやられるけど、テイエムみたいな馬はそういう風にならないもの。引退すりゃ分かるよ。あの馬がどれだけ強かったか」と評した。また後藤浩輝は「相手のことを分析するとき、この馬はどういうタイプの馬なのか、その弱点をつかむのが攻略するポイントになるけど、テイエムオペラオーに関しては、それが見えてこない。故障がないというのも凄いことなんだけど、レースにおいていつもこういうレースをやっているとか、こうしたらこうなるということが全然、テイエムオペラオーには見えてこない。それがあの馬の強さの秘密なんじゃないか」と述べている。武豊は「強いんじゃないですか。本当に強いと思いますよ。いつも離して勝つわけじゃないから負ける方にしてみればどうにかすれば勝てるんじゃないかと思うんですが勝てませんものね」と述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "野平祐二は、テイエムオペラオーの特徴は故障を心配するほどに「いつも真面目に走っている」点にあるとし、「あれだけレースに行ってしっかり走るという馬はほとんど出てこない」、「リボーやミルリーフと比較しても負けない」と評した。また野平はテイエムオペラオーの真骨頂は「馬群を割って伸びる闘争心」にあるとしている。ライターの栗山求は「まあとにかく『ミスター写真判定』って名付けたいぐらいゴール前の競り合いには強い」と評している。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "アナウンサーの杉本清は「相当、強い馬には違いないのですが、走っても走っても、勝っても勝っても強いという印象を与えない、不思議な馬」であるとし、その理由として「\"相手をねじ伏せる\"というような競馬をするタイプではない」、「馬体から迫力を感じる馬ではない」という2点を挙げている。その上で「結果が示しているように、この馬はたしかに強いのです。レースぶりを見て感じるのは、\"本当の芯の強さ\"がある馬だということです。ねじ伏せる強さはないけれど、どんな展開にも対応できるし、気が付けば勝っているという、見たイメージとは裏腹の、そんな強さを持った馬だと思います」と評している。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 71,
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"text": "着差をつけずに渋太く勝つというスタイルは、往年の五冠馬シンザンに擬せられ、有馬記念の優勝時には「平成のシンザン」という声もあった。ステイゴールドの管理調教師・池江泰郎はテイエムオペラオーを評して「勝負を知っている馬ですね。ゴールがどこにあるかわかっている感じがします。それを示すように接戦のレースが多い。ゴール前ちょっとでも、頭でもクビでもスッと抜け出すのが一番強い馬なんですよ。シンザンもそうでしたから」と述べ、ライターの江面弘也は「テイエムオペラオーのレースは地味だった。レコードも大差勝ちもいらない、ハナ差でも勝ちは勝ち、という『シンザンタイプ』の馬だった」としている。2000年のシーズンは傑出した成績を残しながら、同じ顔触れの2着馬との着差がなかったことでレーティング面では高い数値にならなかったが、選考の席上では「シンザンもおそらく高いレーティングがつく馬ではなかっただろう」と話題に上ったという。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "テイエムオペラオーのレーティングによる最高数値は、2000年と2001年のジャパンカップで記録したL(Long)コラム122となった。2000年においては年度の日本調教馬全体の最高数値となったが、過去の数値と比較した場合、フランス遠征のなかで日本調教馬として歴代最高数値を得たエルコンドルパサーの134、日本国内においても前年スペシャルウィークの123を下回っており、決して低くはないものの突出して高いものでもなかった。『優駿』は「GI5勝今季無敗のテイエムだけに、全体に評価が低いのではないか、と感じる方は少なくないように思う」とし、その選考過程を詳説した。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "まずジャパンカップにおけるレート決定にあたり、「基準馬」とされたのは安定性の高い能力をもつファンタスティックライトであった。日本のハンデキャッパーは当初、同馬がキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの2着で得ていた「124」の数値を基準として、その馬に勝利したこと、さらに「テイエムオペラオーが今季に残した着差以上のパフォーマンスをプラスαとして加味したい」という考えから、「125」のレートを提案していた。しかし他の各国ハンデキャッパーから「スローペースからの上がり勝負となったジャパンカップの展開で、後方から差し切ることができなかったファンタスティックライトがトップパフォーマンスを示したとは考えられない」と異論が上がり、マンノウォーステークスで得ていた120ポンドが基準値とされ、着差を2ポンド分として加えた122ポンドがテイエムオペラオーの数値とされた。『優駿』は「テイエムオペラオーが残した実績は、空前にしておそらく絶後ともなり得るものである。多くの称賛をもって讃えられるべき歴史的名馬であるといえる。だがまた、競走能力を指数化したレーティングは積み重ねた記録とは別物であるということだ」と、この解説を結んだ。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 74,
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"text": "JRA審判部首席ハンデキャップ役の甲佐勇と古橋明は、当時まだ新しい指標であった国際的な「クラシフィケーション(レーティング)」と、かつて日本で評価指標となっていた「フリーハンデ」の違いを問われ、「クラシフィケーションは1レースごとの評価なんです。各国のハンデキャッパーがレースを見て、こっちは何ポンド、あっちは何ポンドと決めていきます。(中略)一方、フリーハンデはタイトル数や通年の活躍ぶりを評価して付けていた部分がありました。シンザンやシンボリルドルフのように、連勝してGIを数多く勝つと高くなるわけです。テイエムオペラオーもフリーハンデならもっと高くなったはずです。でも1レースごとの評価だと、そうはいかない。クラシフィケーションでは、他の馬との着差がポンド差に反映されるんです。だから、いつも僅差で勝つテイエムオペラオーはなかなか高くならないんですよ」と解説し、また同時に「ファンタスティックライトを負かしたテイエムオペラオーの強さというのは、海外へ行っていなくても認識されていますし。ただアウェーに行って活躍してもらわないと、なかなかクラシフィケーションには反映されないのは事実ですね」とレート決定の内実を語っている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 75,
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"text": "競走馬時代のテイエムオペラオーは、しばしば「人気がなかった」とされる。和田自身、テイエムオペラオーの人気(大衆的人気)の低さについては「日本人の判官びいきっていうのを感じさせられましたね。きっと外国だったら、勝てば勝つほど人気が上がり、すごいアイドルホースになっていたでしょう。でも日本じゃ、勝つだけでは強い印象を与えられないんですね」との感想を述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 76,
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"text": "河村清明は2000年のテイエムオペラオーの戦績を取り上げて「まさに非の打ち所のない活躍を見せた。1年を通じて、同馬の好調をキープした陣営の手腕は見事だったし、また接戦を必ずものにした勝負強さは稀有なものだったと評価できる」としながらも、「巷間言われるように、テイエムオペラオーには人気がなかった。本来であれば、『どこまで勝ち続けるのか』といった期待がファンに醸成されるはずなのに、そういった気配は感じられず」と続け、その理由として、テイエムオペラオーが連勝中の各競走がどれも似通った展開だったこと、代表的なライバルだったナリタトップロード、メイショウドトウの騎乗に「何の工夫もなく、歯がゆく映って仕方なかった」こと、さらに両馬とテイエムオペラオーの力関係が「展開ひとつで着順の変わる力関係であったのはおよそ間違いなく、(中略)テイエムオペラオーを含めた上位の馬たちは、本当に強いのかと、ファンは信じることができなかったのだ」と論じた。河村はまた、2001年のテイエムオペラオーが新世代の馬たちに敗れ続けた事実をもって、「むろん加齢による能力の衰えは考えられる」としつつも、「オペラオーが絶対的存在でなかったのは間違いなく、ファンはそれを00年の時点で見抜いていたのだ。あの馬の人気のなさは、ファンの眼力の向上を如実に証明していたと私は信じている」と結んでいる。また吉田均も、テイエムオペラオーが勝ったレースの2着馬が「つねにメイショウドトウ、ほかでもナリタトップロードとラスカルスズカ」とバリエーションに乏しいことを取り上げ、「グラスワンダーとスペシャルウィークがいて2000年を勝ち続けていたら凄いと思うし、スター性もあったと思う。本当にスター性がないよね」と評した。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "競馬評論家の井崎脩五郎はテイエムオペラオーの競走生活を総括し「ぼくが一番強いと思っているスペシャルウィーク世代にはオペラオーはかなわなかったと思うな。あの世代が根こそぎいなくなったし、海外の方が日本より景気がよくなって一流馬が日本に来なくなった時期とも重なるんだもの。ひとつ上は強いけど、ひとつ下はすごく弱いんだもの」と述べ、一年下の世代ではテイエムオペラオーを破ったアグネスデジタルだけが強かったとし、「テイエムオペラオーはいちばんいいとこで勝っている」とした。それを受けて、キャスターの鈴木淑子が「シンボリルドルフを超える馬かというと『?マーク』がつくのは、めぐり合わせがよくて勝てていると思われているからですか」と問うと「みんなが納得しないのは、それがあるからだろうね」と述べ、同時にファンからの人気が乏しい理由もそこに関係するのではないかとした。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "柴田政人は人気に乏しい要因を「毛色にもよるんじゃないか」と推測し、これを受けた野平祐二は「テイエムオペラオーは栗毛でもちょっと色の濃い、栃かかった(栃栗毛に近い)色なんです。グッドルッキングホースというのは結構いるんですよ。それはそれなりに走るんですが、グッドホースになると違うんです。見た目は称賛されなくても競馬にいくと強い馬をそういうんです。テイエムオペラオーは、まさにグッドホースですよね」と称えつつも、「色(の影響)はある」とした。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "江面弘也は「勝ち方が地味だとか、名前が悪いとか、あるいは負かした相手が弱すぎるだとか、アンチオペラオーの言い分はさまざまだが、若いファンやマスコミが飛びつく血統や話題性がないのが最大の理由だと私は思っている。たとえば武豊が乗る有力厩舎のサンデーサイレンス産駒だったならば、ずいぶんと状況が違ったはずだ」としている。須田鷹雄は、テイエムオペラオーを支持するファンが「競馬場にはいるのかもしれないけれど、競馬マスコミとか、それを読むファンは支持していないのかもしれませんね。競馬メディアが増えてきて、ひねった見方を提示しなければいけないという考えが固定化し、浸透しすぎてしまった感じもありますから」との見解を示し、これを受けた柏木集保は「それはある意味真理でしょうね」と応じている。阿部珠樹は「血統はサンデーサイレンスとは無縁だった。自厩舎の若い騎手が最後まで手綱を取りつづけた。春も秋も、2000メートル以上のGIにはすべて出走した。しかも2シーズンつづけて。そして国内最強を謳われながら、海外遠征のそぶりも見せなかった。時代の傾向とことごとく反する中で、名馬としての地位を固めていった。それがテイエムオペラオーである」と評し、「アイドル的人気のなさ、反時代的孤立は、むしろ、この馬の勲章といえるのではないか」、「この馬の評価は、10年、20年経って高まるのではないか」とした。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』の著者・木村浚太は、同書あとがきの冒頭で「私は常々、テイエムオペラオーに対する世間の評価の低さが不思議でなりませんでした」と書き出し、その「評価の低さ」を生んだ最大の理由を「\"ひとり横綱\"だったことと、海外遠征を断念(あるいは拒否)したことによる」とし、これがため「最後の最後まで『テイエムオペラオーは強い相手に勝っていない』と言われ続けてしまった」と論じている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 81,
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"text": "1999年にフランスで活躍したエルコンドルパサーなど、当時は日本調教馬が従来敗退を続けてきたヨーロッパで勝利を挙げる例が相次いでおり、テイエムオペラオーに対してもファンやマスメディアは遠征を希望する声をあげていた。著名な競馬関係者にあっても、たとえば社台ファーム代表の吉田照哉は「テイエムオペラオーの実力は世界最高峰のレベルにある」と評価したうえで、「あの馬ならキングジョージなんて最適の馬場ですから、まず勝てると思うのですが。テイエムオペラオーの種牡馬としての価値を考えても、これ以上日本のレースを勝っても変わりませんが、キングジョージを勝てば世界的な評価が変わってくるはずです。日本の競馬を盛り上げるために国内で走らせるということですが、まずは内国産馬が海外でGIレースを勝って、日本の競馬レベルが本当に欧米と肩を並べたいうことをファンに示すことも、競馬を盛り上げるのに必要なことだと思うのですが」と遠征をしないことへの疑問を呈し、また野平祐二は「できることなら、\"キングジョージ\"、凱旋門賞、ブリーダーズカップ・ターフのなかの、どれか一つでもいいから、ぜひ走らせてみてほしいと思います。それは、テイエムオペラオーなら当然勝負になるという考えがあるのはもちろん、海外へ遠征することによって、関係者がこれから国内で戦う限り感じざるを得ない大きなプレッシャーから解放されるのではないかという思いもあってのことなのです」と述べた。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 82,
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"text": "中には、「日本の競馬ファンのひとりとして、テイエムオペラオーの1勝をファンに貸していただきたいと、オーナーの竹園正繼氏に失礼を承知でお願いしたい」(江面弘也)、「人気の馬を持ったら公人になって、自分の馬ではなく日本の馬、ファンの馬というようなお考えで、ファンの期待に応えていただきたいとも思います」(鈴木淑子)などと、はっきりと竹園に向けて遠征を促すメッセージを送る者もあったが、テイエムオペラオーが遠征に出なかったことは、竹園よりも調教師である岩元の意向が大きかった。岩元には巷間にあった欧米の競馬を無条件に日本競馬よりも上位とする見方への反感があり、欧米の強豪と戦いたいならばジャパンカップがあり、そもそも同競走はそのために創設されたはずだという意識もあった。また、2000年には欧州で口蹄疫が流行し、検疫が厳しくなっていた状況もあり、そうしたなかで岩元厩舎に遠征のノウハウもない以上、テイエムオペラオーほどの馬を最初のケースにするのはリスクが大きすぎるという判断があった。かつて岩元が心酔していたシンボリルドルフが、アメリカ遠征で怪我を負い引退に追い込まれたという出来事も頭にあったという。竹園も基本的には岩元の考えに同意していたが、遠征を望む声が大きく高まれば行っても良いという程度の考えはあり、実際に2001年の天皇賞(春)を勝った後には「宝塚記念を勝てば遠征も視野に」という見解を示していたが、敗れたことで幻に終わった。一方この天皇賞後のインタビューでも、岩元は「海外遠征ですが、私はあまり興味がありません」と話していた。",
"title": "特徴・評価"
},
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"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "なお、2000年から2001年にかけて欧米で継続的に騎乗していた武豊によれば、2001年春にステイゴールドがアラブ首長国連邦のドバイシーマクラシック(G2。当時)を制したあと、「ステイゴールドを何度も負かしている『ティーエムオペラ』という馬は強いのか」と、外国でもしばしば話題に上っていたという。",
"title": "特徴・評価"
},
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"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "テイエムオペラオーが出走する競走当日は、天気が崩れる例が目立った。テイエムオペラオーは重馬場巧者であり、原口政也は2000年の天皇賞(秋)における心境を語るなかで「オペラオーが走るときは、なぜか雨が降る。オペラオーにとって雨は喜ばしい。芝が重くなって時計がかかっても大丈夫だし、一発が怖い『切れる』馬は、脚が鈍る。天候さえもオペラオーの味方についてくれて、心強い」と述べている。一方、石田敏徳は「この馬が走るときは不思議に崩れることの多い天候を指して『最強馬ではなく最強運馬だ』などと憎まれ口を叩く者もいる」と紹介したうえで、「中距離の高速戦に対する適性を証明する舞台に、テイエムオペラオーが恵まれてこなかったことは、彼ら(注:テイエムオペラオー陣営)にとってこそ実は\"不運\"だったかもしれないとは書いておきたい」と取材記で述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 85,
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"text": "上記のうち、識者投票の形であった「年代別代表馬BEST10」の企画では、5人の選者全員がテイエムオペラオーに1位票を投じた。その中で須田鷹雄は「2000年のレースぶりは『単に強いというだけでも、ここまで強ければそれだけで十分価値になる』とでもいうべきものだった。ただ、こういうタイプが何十年後にも強い印象を残しているかどうかは微妙」と述べたが、2021年に行われ、テイエムオペラオーの全盛期からは外れる2001年以降に活躍した馬を対象とした「新世紀の名馬BEST100」の投票で8位にランクインし、三好達彦は「『世紀末覇王』の呼び名さえ聞こえてきたのは20世紀最後の年、2000年のことだった。それにもかかわらず、今回のランキングでベスト10に食い込んだところに、テイエムオペラオーが残した蹄跡の深さをあらためて感じ入った」と評した。この企画の講評会では須田と若年ファン代表の津田麻莉奈が対談し、テイエムオペラオーの順位に触れて津田が「2000年のインパクトが相当だったということですね」と述べ、須田が「8戦8勝でGI5勝だもの」と応じている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "テイエムオペラオー陣営は、馬主・竹園正繼と調教師・岩元市三の間の関係性、そして岩元の師である布施正を介した、当時すでに旧来的といわれた人間関係による結びつきを特徴とした。野平祐二は、牧場からの馬の購入ひとつをとっても「いまは古いつながりを持っていてもお構いなしに外国に行って高くていい馬を買ってきちゃう時代」、騎手起用については「乗り替わりのほうが日常茶飯事」、馬主と調教師の関係性では「高い馬を買ってくれるオーナーがいれば、どこへでもついて行って自分のところにいい馬を入れるような時代」と指摘し、そうした時代の傾向からことごとく反した関係性の中から生まれたテイエムオペラオーを「神の思し召し以外のなにものでもない」、「よくぞやった。よくぞ出てきたもんだ」と称賛した。また石田敏徳は「人馬の巡り合わせとは本当に不思議なもので、もし岩元と竹園の邂逅がなければ、テイエムオペラオーは全く異なる馬生を歩んでいたに違いない。もっと完璧な王道を歩んでいただろうか。あるいは海外へ雄飛していただろうか。だがどんな想像を働かせてみても、岩元の\"チーム\"に所属するよりさらに魅力的なテイエムオペラオーを、私にはどうしてもイメージすることができないのだ」と述べた。",
"title": "各関係者について"
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"paragraph_id": 87,
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"text": "馬主の竹園正繼と調教師の岩元市三はいずれも鹿児島県肝属郡垂水町(後の垂水市)出身で、幼馴染であった。年齢では1つ、学年では2つ竹園の方が上で、竹園は子供たちのグループのボス的存在で岩元は「配下」のような立ち位置にあったが、ともに母子家庭で互いの母親同士の仲も良く、竹園は仲間内でも岩元に対して特に親身で、「体の鍛錬」として相撲を取ったり海岸線をランニングしていたりしたという。",
"title": "各関係者について"
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "岩元は中学校卒業後に垂水を離れて大阪の花屋に就職し、地元の仲間とは縁遠くなった。のち店主に誘われて訪れた競馬場で騎手の姿に憧れ、鹿児島県出身騎手の山下一男が所属する布施正厩舎に入門。1974年に26歳という騎手としては遅い年齢でデビューした。一方の竹園は高校卒業後に上京し、建築会社に就職。上京後に趣味として競馬にのめりこみ、毎週のように競馬場へ通うようになったが、やがて事業者として独立を目指すため競馬を断ち、1976年に建築資材を扱う会社「テイエム技研」を設立した。1982年、岩元は騎乗馬バンブーアトラスで日本ダービーに優勝する。会社のテレビで見るともなくこの競走を観戦していた竹園は、勝利騎手インタビューで画面に大写しになった岩元の姿に非常に驚き、同時に「馬主として岩元に再会したい」と思い立つ。そして1987年に馬主資格を取得すると、直後に赴いた小倉競馬場の検量室で両者は20数年ぶりに再会した。このとき岩元は竹園に「大きくなったなあ」と声を掛けたという。その後、竹園は岩元を自身の所有馬の騎手として起用をはじめる。岩元の騎手として引退レースの騎乗馬も竹園の所有馬であった。そして岩元が騎手を引退し、調教師に転身してからは2人で馬産地を回るようになり、そこで見出されたのが後のテイエムオペラオーであった。",
"title": "各関係者について"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "なお、竹園は自らテイエムオペラオーを選んだように相馬眼の確かさを謳われるようになるが、竹園に馬の見方を教えたのは布施であった。テイエムオペラオーの競走馬時代には、同馬のほかにGI競走3勝のテイエムオーシャンがおり、2000年には11月26日のジャパンカップをオペラオー、12月3日の阪神3歳牝馬ステークスをオーシャンで連勝し、史上2例、個人馬主では初となる同一馬主による2週連続GI制覇を達成。また、11月11日には京都ハイジャンプ(J・GII)をテイエムダイオー、京王杯3歳ステークス(GII)をテイエムサウスポーが制し、これも史上2例目の同一馬主による1日2重賞勝利を達成した。同年の高額賞金獲得馬ランキングでは、全馬総合でテイエムオペラオー、3(2)歳部門でテイエムサウスポーが1位となった。この時期の竹園所有馬の勢いは「テイエム旋風」とも評された。",
"title": "各関係者について"
},
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"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "全戦で手綱をとった和田竜二は1999年時点でデビュー3年目の若手騎手であった。同期生に福永祐一らがおり、和田も含めて競馬学校花の12期生ともいわれたが、馬の能力に対して和田は技量不足を指摘されることもあった。テイエムオペラオー引退の翌年に行われたインタビューでは、「あのクラスの馬に乗る騎手としては、経験も力量も自分には不足していたのかな、と思うことがあります。うわべは平静を装っていても、実際はついていくのに一杯一杯でしたからね」とその心境を吐露している。竹園は和田に対して「何回もビッシリと説教した」といい、また岩元について「物凄く真面目で努力家でもある岩元は、安心して物事を任せられる人物ですが、人柄がよすぎて、あまりキツいことを言えないところもあるんです。だからそのかわりに僕が言うことにした」と述べている。なお、菊花賞後に竹園が和田の降板を求めた際に岩元は頑としてこれを容れなかったが、この出来事は岩元自身が騎手だった時代、敗戦後に馬主が「次のレースでは別の騎手を」と布施に迫ったとき、布施が「それでは、どうぞあの馬、今すぐ別の厩舎に持っていってください」と岩元を庇っていた、その恩義を守らなければならないという意識も念頭にあった。",
"title": "各関係者について"
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "テイエムオペラオーで勝ち続けていた最中の勝利騎手インタビューでは、「シャーッ」という雄叫びや、プロレスラー・アントニオ猪木を模した「1、2、3、ダー!」というパフォーマンスを行っていたことでも知られた。ライターの山河拓也は投票企画でテイエムオペラオーに1位票を投じた際に「鞍上は『しゃあー』とか『ダー』とか叫んでいたが」と書いているが、和田のこうした行動の背景には、「もっとテイエムオペラオーを評価して、人気を高めてほしい」という考えもあったという。",
"title": "各関係者について"
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"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "その後、和田は北海道で騎乗する機会に合わせてテイエムオペラオーと一度だけ牧場で対面したが、自身の中で「ラストランの有馬記念を勝利で締め括れなかった」という悔いも強くあり、「もう一度GIに勝って一人前の騎手になり、胸を張って会いに行きたい」との考えから、それ以降はテイエムオペラオーのもとを訪れることはなくなった。しかし以降の和田は勝利数やGII以下の重賞では一定の成績を残したものの、GI勝利に手が届かず、再び対面することは叶わないまま2018年5月にテイエムオペラオーは心臓まひで急死する。この時は和田の妻も「(GI勝ちの報告が)間に合わなかったね」と話したという。翌週に和田は牧場を訪れ、テイエムオペラオーの祭壇に花を手向けると共に、「どうにか春のうちに大きいところを勝ちたい」と決意、そして春のグランプリ・宝塚記念をミッキーロケットで制し、2001年の天皇賞(春)以来、17年ぶりのGI勝利を果たした。競走後に和田は目を潤ませながら「テイエムオペラオーが後押ししてくれた」と語った。",
"title": "各関係者について"
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{
"paragraph_id": 93,
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"text": "調教厩務員を務めた原口政也は、1999年4月に厩務員課程を修了し岩元厩舎に配属されたばかりで、引き継ぎで牝馬を担当していたものの、5月に入厩してきたテイエムオペラオーがデビュー前から担当する初めての馬であった。高校卒業後は一時大学進学を目指したが何事も続かず、一念発起して厩務員を志し、育成牧場で4年の勤務を経て厩務員となっていた。大塚美奈による取材記では「トレセンに入れるだけでよかった」と何度も口にしたという。父親と弟も厩務員を務め、父は定年の65歳まで勤めあげたが、重賞勝利馬には縁がなかった。原口は「テイエムオペラオーは\"ごほうび\"の気がする。僕なりに闇が多かったから、光を当ててくれた気がする」と語っている。なお、後に原口は東京大賞典四連覇などの成績を挙げたオメガパフューム(安田隆行厩舎を経て安田翔伍厩舎)も担当している。",
"title": "各関係者について"
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"text": "生産者の杵臼牧場は、テイエムオペラオーが皐月賞に優勝した時点で繋養牝馬数18頭という中小規模の生産牧場であった。公には1959年創業だが、アラブ馬を飼養していた畑作農家からの転業で、正確にいつ頃から競走馬生産を始めたかはっきりしないという。布施と1962年から付き合いがあり、中央競馬へ行く馬についてはほとんどが布施と繋がりのある厩舎に入っていた。牧場生産の重賞初勝利馬でテイエムオペラオー以前の代表馬であったキングラナークは布施厩舎に所属し、岩元の騎手としての重賞初勝利馬でもあった。場主の鎌田信一が「雲の上の存在」と話したGI競走を、テイエムオペラオーで一挙に7つ獲得することとなった。",
"title": "各関係者について"
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"text": "なお、同場所在の浦河地区は近隣牧場の結束が強く、2000年のジャパンカップ出走時には牧場仲間が杵臼牧場を訪れて「夫妻そろって観戦に行くべきだ」と進言、そうしたいと考えながらも小牧場ゆえに2人も欠ければ手が足りなくなると渋る鎌田に、仲間らは「(不在のあいだ)自分たちが牧場を手伝うから」と申し出て、夫妻を東京競馬場へ送り出したという。鎌田の妻にとっては初めての競馬場におけるレース観戦であり、また当日は独立して札幌や大阪で働いていた子供たちも呼び寄せ、家族揃っての応援であった。",
"title": "各関係者について"
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"text": "祖父サドラーズウェルズから連なる「サドラーズウェルズ系」は、スタミナ色が濃く「日本競馬に不向き」な血統との評もあるが、父オペラハウスはテイエムオペラオー以外にもGI競走4勝を挙げたメイショウサムソンなど数々の活躍馬を輩出した。また、血統評論家の吉沢譲治は特に母の父ブラッシンググルームと長距離血統の相性の良さに着目し、「すなわちブラッシンググルームの血は、自身のスピード、鋭い決め手を伝える一方で、配合相手から父系、母系に関わらずスタミナを引き出した」と論じ、テイエムオペラオーの鋭い脚はブラッシンググルームからもたらされたものだとしている(両親配合の経緯については#生い立ちを参照のこと)。",
"title": "血統"
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テイエムオペラオーは、日本の競走馬・種牡馬。 1998年に中央競馬でデビュー。1999年のクラシック三冠戦線においてアドマイヤベガ、ナリタトップロードと共に「三強」を形成し、三冠競走初戦・皐月賞を制するなどしてJRA賞最優秀4歳牡馬に選出。2000年には「一強」状態となってシーズンを踏破し、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念を含む年間8戦全勝、年間記録として史上最多のGI競走5勝という成績を挙げ、年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に満票で選出された。2001年には天皇賞(春)を連覇してGI勝利数を当時最多タイ記録の「7」とし、同年末に競走馬を引退。和田竜二が全戦で騎乗し、通算26戦14勝。総獲得賞金額18億3518万9000円は、2017年まで世界最高記録であった。20世紀末に活躍したことから、漫画『北斗の拳』の登場人物・ラオウになぞらえ「世紀末覇王」とも称された。2004年に日本中央競馬会の顕彰馬に選出。
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{{馬齢混}}
{{競走馬
|名 = テイエムオペラオー
|英 = T.M. Opera O<ref name="jbis"/>
|画 = [[ファイル:TM Opera O.jpg|200px]]
|説 = 1999年10月10日 [[京都競馬場]]
|性 = [[牡馬|牡]]<ref name="jbis"/>
|色 = [[栗毛]]<ref name="jbis"/>
|種 = [[サラブレッド]]<ref name="jbis"/>
|生 = [[1996年]][[3月13日]]<ref name="jbis"/>
|死 = {{死亡年月日と没馬齢|p=0|1996|3|13|2018|5|17}}<ref name="goku"/>
|登 = 1998年6月11日
|抹 = 2002年1月17日
|父 = [[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]<ref name="jbis"/>
|母 = ワンスウエド<ref name="jbis"/>
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|産 = 杵臼牧場<ref name="jbis"/>
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|調 = [[岩元市三]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]])<ref name="jbis"/>
|助 = [[武田悟]]
|厩 = 原口政也
|冠 = [[JRA賞|JRA賞年度代表馬]](2000年)<br />[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]](1999年)<br />[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|最優秀5歳以上牡馬]](2000年)<br />[[JRA顕彰馬|顕彰馬]](2004年選出)
|績 = 26戦14勝<ref name="jbis"/>
|金 = 18億3518万9000円<ref name="jbis"/><br />※日本調教馬歴代4位(2023年現在)
|レ = [[インターナショナル・クラシフィケーション|IC]]
|レ値 = L122 / 2000年<ref name="yu0102" /><br />L122 / 2001年<ref name="yu0202-4" />
|medaltemplates =
{{MedalGI|[[皐月賞]]|1999年}}
{{MedalGI|[[天皇賞(春)]]|2000年・2001年}}
{{MedalGI|[[宝塚記念]]|2000年}}
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}}
'''テイエムオペラオー'''(欧字名:{{lang|en|T.M. Opera O}}、[[1996年]][[3月13日]] - [[2018年]][[5月17日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/|title=テイエムオペラオー|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|website=JBIS-Search|accessdate=2022-12-23}}</ref>。
1998年に[[中央競馬]]でデビュー。1999年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]戦線において[[アドマイヤベガ]]、[[ナリタトップロード]]と共に「三強」を形成し、三冠競走初戦・[[皐月賞]]を制するなどして[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]に選出。2000年には「一強」状態となってシーズンを踏破し、[[天皇賞(春)]]、[[宝塚記念]]、[[天皇賞(秋)]]、[[ジャパンカップ]]、[[有馬記念]]を含む年間8戦全勝、年間記録として史上最多の[[グレード制|GI競走]]5勝という成績を挙げ、年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に満票で選出された。2001年には天皇賞(春)を連覇してGI勝利数を当時最多タイ記録の「7」とし、同年末に競走馬を引退。[[和田竜二]]が全戦で騎乗し、通算26戦14勝。総獲得賞金額18億3518万9000円は、2017年まで世界最高記録であった<ref name="doudou">『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々』pp.66-69</ref><ref group="注釈">2017年にアメリカの[[アロゲート]]が更新。</ref>。20世紀末に活躍したことから、漫画『[[北斗の拳]]』の登場人物・[[ラオウ]]になぞらえ「'''世紀末覇王'''」とも称された<ref name="yu2108">『優駿』2021年8月号、pp.28-29</ref>。2004年に[[日本中央競馬会]]の[[JRA顕彰馬|顕彰馬]]に選出。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1996年、[[北海道]][[浦河郡]][[浦河町]]の杵臼牧場に生まれる<ref name="kimu">木村(2002)pp.38-42</ref>。父・[[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]は競走馬時代にヨーロッパ各国と北米で走り、18戦8勝<ref name="yu9905">『優駿』1999年5月号、p.141</ref>。それぞれG1競走の[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]、[[エクリプスステークス]]、[[コロネーションカップ]]などを制して1993年には全欧の古馬チャンピオンに選ばれ、1994年に種牡馬として日本に輸入された<ref name="yu9905" />。母ワンスウェドはアメリカ産馬で競走馬時代は不出走<ref name="yu9905" />。1987年に上場された繁殖牝馬セールにおいて、杵臼牧場主の鎌田信一に1万5000ドルで購買され、これも日本に輸入されていた<ref name="yu9908">『優駿』1999年8月号、pp.29-31</ref>。ワンスウェドの父・[[ブラッシンググルーム]]はこのセールから2年後の1989年にイギリス・アイルランドの[[リーディングサイアー]](首位種牡馬)となるが、当時は日本での注目度はまだ低く<ref name="yu9908" />、鎌田はむしろその評価が定まっていないところに興味を抱いていた<ref name="kimu2">木村(2002)pp.30-35</ref>。
ワンスウェドの初年度産駒・チャンネルフォーは中央競馬で4勝を挙げてオープンクラスまで昇り、重賞でも[[CBC賞]](GII)2着、[[阪急杯]](GIII)3着などの実績を残した<ref name="yu9905" />。他にもワンスウェドの各産駒は堅実に勝ち上がったが、チャンネルフォーも含めて短距離傾向が強い特徴があった。鎌田はワンスウェドからより上のクラスで活躍する馬の誕生を期して、「距離の補強」が期待できる種牡馬を探し、選ばれたのが長距離実績のあったオペラハウスであった<ref name="kimu2" />。
誕生した本馬を見た鎌田は、丈夫そうで馬体のバランスが良いと感じたものの、強い印象は持たなかった<ref name="kimu" />。出生から10日ほどして、後にそれぞれ馬主、調教師となる[[竹園正繼]]と[[岩元市三]]が牧場を訪れる。引き出された7頭ほどの中から、竹園は本馬をひと目で気に入り、購買を申し出る<ref name="kimu" />。オペラハウス産駒には市場取引義務があり、競り市で落札する必要があることを鎌田が告げると、竹園は「絶対に俺が競り落とすから、この馬を他の人に見せちゃ駄目だよ。これは絶対オープンまで行くよ。重賞も取れるかもしれないよ」と話した<ref name="kimu" />。竹園は後に「馬体を見た瞬間にいっぺんで惚れこみました。腰が大きく、骨がしっかりしていて、繋も柔らかい。自分なりのチェックポイントを全てクリアしていたうえ、なにか垢抜けた雰囲気があった。もちろんその時はこれほどの馬になるとは思わなかったけど、この馬なら故障の心配はないなと思ったことはよく覚えています」と、その印象を振り返っている<ref name="yu0008">『優駿』2000年8月号、pp.15-17</ref>。岩元は「そんなに強烈な印象は受けなかった」としている<ref name="meiba">『名馬物語』pp.148-154</ref>。
{{Double image aside|right|Masatsugu-Takezono20100404.jpg|150|Ichizo-Iwamoto20100424.jpg|150|竹園正繼(2010年)|岩元市三(2010年)}}
1997年10月、[[静内町|静内]]で開かれた北海道10月市場に上場され、開始と同時に竹園がコールした1000万円で落札された<ref name="kimu3">木村(2002)pp.47-54</ref>のち岩元と提携していた賀張共同育成センターで馴致・育成に入る。同センター代表の槇本一雄は、それまで本馬を見た各人と同様に馬体のバランスの良さを感じたが、当初は「中の上」という程度の評価を下していた<ref name="kimu3" />。若駒がみせるバランスの良さは、それ以上成長の余地がないことと表裏一体という危惧もあったためである<ref name="kimu3" />。しかし育成が進むにつれて、バランスの良さを保ったまま成長を続ける様子を見て評価を改め、岩元との連絡のたびに「この馬はすごく良い」と伝えるようになっていた<ref name="kimu3" />。
1998年5月、競走馬名「テイエムオペラオー」と名付けられ、滋賀県・栗東トレーニングセンターの岩元厩舎に入る<ref name="kimu4">木村(2002)pp.56-62</ref>。馬名は竹園が経営する会社名からとった[[冠名]]「テイエム」、父オペラハウスから「オペラ」、サラブレッドの王に、という願いを込めた「オー」の組み合わせである<ref name="kimu4" />。当初テイエムオペラオーにさほどの印象を持たなかった岩元も調教が進むにつれて動きの良さに期待を高め、特にデビュー戦3日前に行われた最終追い切りでは、栗東Cウッドコースで6ハロン79秒3、ラスト11秒9と、すでに新馬戦を勝ち上がっていた自厩舎の併せ馬ユーセイシュタインに1秒6の差をつけて先着。そのタイムの優秀さに「よその厩舎は知らないが、うちの厩舎ではこんな馬は見たことがない」と舌を巻いた<ref name="kimu4" /><ref name="yu9907" />。一方、全戦で騎手を務めることになる当時3年目の[[和田竜二]]は「まあ普通の3歳馬っていう感じでしたね。名前そのまんまって……。まだGI級の馬になんか乗ったことがなかったんで、これがGI馬の乗り味か、なんてわからなかったしね」と振り返っている<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999~2000』p.92</ref>。また、厩務員課程を修了し岩元厩舎に入ったばかりだった調教[[厩務員]]の原口政也も「印象は特に覚えていない」といい、同じオペラハウス産駒に前年の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]で5着に入ったミツルリュウホウがいたことから、ベテランの[[調教助手]]から「あんちゃんの馬もミツルリュウホウぐらい走ってくれたらええな」と声を掛けられ、漠然と「そうなってくれればいいな」と思った程度だったという<ref name="otsuka">大塚(2002)pp.210-214</ref>。
=== 戦績 ===
==== 1998年・1999年 ====
==== デビューから皐月賞制覇まで ====
[[ファイル:Ryuji-Wada20110522.jpg|サムネイル|和田竜二(2011年)]]
8月15日、京都競馬場で行われた3歳新馬戦(芝1600m)でデビュー。調教内容の良さもあり単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された<ref name="kimu4" />。しかし、スタートが切られると和田が絶えず手綱を押すなど追走に苦労する様子をみせ、最後の直線では2番人気のクラシックステージに突き離され、同馬から6馬身差の2着となった<ref name="kimu4" />。レース終了後には歩様に乱れがあったことから脚部のレントゲン撮影が行われ、右後肢下腿骨々折の診断が下された<ref name="kimu4" />。症状としては軽く、治療のため賀張共同育成センターに戻され休養に入る<ref name="kimu4" />。12月には帰厩し、翌年1月16日には2走目の4歳未勝利戦 ([[ダート]]1400m)に出走したが、休養明けの調整途上もあり4着となる<ref name="kimu5">木村(2002)pp.66-70</ref>。[[2月6日]]には[[市場取引馬]]・[[抽せん馬]]限定の4歳未勝利戦(ダート1800m)に出走、単勝オッズ1.8倍の1番人気となると、最後の直線で和田がほとんど追うこともないまま2着に5馬身差をつけて初勝利を挙げた<ref name="kimu5" />。2月27日に出走したゆきやなぎ賞から芝コースのレースに戻り、最後の直線ではゴール前が一団となった中から4分の3馬身抜け出して勝利<ref>木村(2002)pp.71-76</ref>。3月28日にはGIII競走の毎日杯で重賞に初出走、低調なメンバー構成とされた中でも3番人気の評価であったが、2着タガノブライアンに4馬身差をつけての重賞初勝利を挙げた<ref>木村(2002)pp.80-87</ref>。当日は良馬場だったものの馬場は荒れており、そのうえで2着を4馬身突き離した脚力を、岩元、和田ともに称賛した<ref name="yu9905-2">『優駿』1999年5月号、p.71</ref>。これはオペラハウス産駒の重賞初勝利ともなった<ref name="yu9905-2" />。
毎日杯の勝利で賞金を加算したテイエムオペラオーは、4歳クラシック三冠初戦・皐月賞への出走が獲得賞金上は可能となったが、ひとつの問題があった。初戦後に判明した骨折による休養から戻ってきた際、「皐月賞には間に合わない」と判断した岩元は、同競走への第2回登録を行っていなかったのである<ref name="kimu6">木村(2002)pp.63-65</ref>。このためテイエムオペラオーは皐月賞への出走権をもたず、二冠目の日本ダービーから出走可能となっていた<ref name="kimu7">木村(2002)pp.82-86</ref>。こうしたケースの救済措置として「追加登録」という制度が設けられていたが、通常の第2回登録費用が3万円であるのに対し、200万円と高額な費用を要した。毎日杯の好内容とテイエムオペラオーの更なる良化に岩元は見込み違いを反省し、竹園に皐月賞出走を掛け合う<ref name="yu9906">『優駿』1999年6月号、pp.13-17</ref>。竹園は当初「[[青葉賞]]からダービーを狙えばいい」と相手にしなかったが、岩元が「登録料の半分を自分が負担してもいいから」と説得すると最終的にはこれを受け入れ、テイエムオペラオーは追加登録料200万円を支払い皐月賞へ出走することになった<ref name="yu9906" />。なお毎日杯から数日後の杵臼牧場に、追加登録制度設置のきっかけになったとされる[[オグリキャップ]]の調教師であった[[瀬戸口勉]]から電話があり、「毎日杯であんなに強い勝ち方をした馬はいないよ。あれは強い。皐月賞でも面白いよ」と話した<ref name="kimu7" />。まだ追加登録が行われていなかった段階で、瀬戸口は「制度を利用すべきだ」という考えを伝えたかったが同業の岩元に言うのは僭越だと感じ、遠回しに牧場へ伝えたものだったという<ref name="kimu7" />。
4月18日の皐月賞は、雨中での開催となった<ref name="yu9906-2">『優駿』1999年6月号、pp.9-11</ref>。当日1番人気となった[[アドマイヤベガ]]は調教不順が伝えられていたが、父が当時のリーディングサイアーであった[[サンデーサイレンス]]、母は二冠牝馬[[ベガ (競走馬)|ベガ]]という「超良血馬」として早くから注目され、前年末には[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳ステークス]]を好内容で勝利、本競走への前哨戦・[[弥生賞ディープインパクト記念|弥生賞]]では2着と敗れたものの、直線では鋭い脚力をみせていた<ref name="yu9906-2" />。弥生賞で同馬を破った重賞連勝中の[[ナリタトップロード]]が2番人気。両馬のオッズは2.7倍対3.3倍と、事実上一騎打ちのようにみられていた<ref name="yu9906-2" />。テイエムオペラオーはトップクラスとの対戦経験がないとみられたこと、過去毎日杯からの出走組に皐月賞での実績が乏しかったことなどもあり、オッズ11倍の5番人気となった<ref name="yu9906-2" />。スタートが切られると、ナリタトップロードが中団、アドマイヤベガが後方、テイエムオペラオーはさらにその後ろに位置した。テイエムオペラオーの位置は戦前の想定より後方になったが、これは2ハロン目(200~400メートル区間)のタイムが10秒4と全体のペースが急激に早くなり、置かれた形となったことも影響していた<ref name="kimu8">木村(2002)pp.95-102</ref>。第3コーナーから各馬は先行勢をとらえに動いたが、テイエムオペラオーは追い出した時点ではまだ後方におり、竹園は「ああ。だめだ。負けた」と声をあげた<ref name="kimu8" />。岩元も「何を考えて乗っているのか」と舌打ちし、勝利を諦めていた<ref name="yu9906" />。しかし最後の直線残り100メートルほどからテイエムオペラオーは一気に差を詰め、先頭のオースミブライトをゴール寸前でクビ差とらえて勝利<ref name="yu9906-2" />。GI初制覇を果たした。3着にナリタトップロードが入り、アドマイヤベガは6着となった<ref name="yu9906-2" />。
テイエムオペラオーのみならず、竹園、岩元、和田、杵臼牧場の全員にとって、これが初めてのGI制覇であった<ref name="yu9906-2" /><ref group="注釈">ただし岩元は騎手時代の1981年に騎乗馬[[バンブーアトラス]]で旧[[八大競走]]の日本ダービーを制している。</ref>。また、クラシック追加登録を行った馬の勝利も、制度開始以来のべ30頭目で初めての例となった<ref>『優駿』1999年6月号、p.149</ref>。和田は競走後、「毎日杯でみせた末脚を信じて、じっくり構えて直線勝負に賭けたのが正解でした。道中は外に振られないようにだけ気を付け、徐々に上がっていこうと思っていたので、ほぼ理想通り」などと感想を述べ、また前週の[[桜花賞]]で競馬学校同期の[[福永祐一]]がGI初制覇を遂げていたことにも触れ、「自分たちの世代に流れが来ていることを信じて、発奮したのが良かったかもしれません。ダービーでも乗り役の方が負けないように、自信をもって乗りたい」と語った<ref name="yu9906-3">『優駿』1999年6月号、pp.138-139</ref>。岩元は「ゴール前では届かないようだったのに、本当によく走ってくれた」とテイエムオペラオーを労い<ref name="yu9906-3" />、また「結果として、和田の落ち着いた騎乗が勝利につながった。ダービーで注文を付けることは何もない。テイエムトップダンで乗った経験があるから大丈夫やろう。僕は下手くそなジョッキーやった。それに比べたら、あいつの方がはるかに上手いわ<ref name="yu9906" />」と、和田の騎乗を称えた。
==== 勝ちきれないレース ====
[[ファイル:Admirevega.jpg|サムネイル|アドマイヤベガ]]
皐月賞馬となったテイエムオペラオーは、6月6日、二冠を目指して日本ダービーへ出走した。当日はナリタトップロードが単勝オッズ3.9倍の1番人気に支持され、皐月賞からの復調が期待されたアドマイヤベガが同じく3.9倍の2番人気、テイエムオペラオーは4.4倍の3番人気となった<ref name="yu9907">『優駿』1999年7月号、PP.10-13</ref>。レースは縦長の隊列で展開し<ref name="yu9907" />、その中でテイエムオペラオーは8番手、ナリタトップロード10番手、アドマイヤベガは後方15番手を進んだ。第3コーナーからテイエムオペラオーは両馬に先んじて先団に進出し、最後の直線半ばでいったん先頭に立ったものの、直後にナリタトップロードにかわされ、さらに後方から一気に追い込んだアドマイヤベガがゴール前で同馬もろとも差し切って優勝<ref name="yu9907" />。テイエムオペラオーは3着と敗れた<ref name="yu9907" />。和田は競走後、早めに動いた理由について「前にフラフラしている馬がいて、その馬の後ろには入りたくなかった。ナリタが凄い手応えで来ているのも分かっていたから、早いとは思ったけど、あそこで動かざるを得なかった。負けたのは悔しいけど、きつい競馬をしたのに本当、よく頑張っていますよ」と語った<ref name="yu9907-2">『優駿』1999年7月号、pp.16-21</ref>。一方で「勝てると思った瞬間は一度もなかった」、「早めのスパートをかけなくても3着だったかもしれない」ともした<ref name="yu9907-2" />。アナウンサーの[[杉本清]]によれば、岩元は3着という結果にも満足気であったといい、「ダービーはしょうがない。馬がピークを過ぎてたから」と話したという<ref>杉本(2001)pp.172-173</ref>。その一方で竹園は「結果としてそこ''(注:皐月賞)''を勝ってくれて嬉しかったし、岩元を非難するつもりはないけれど、でもあのとき皐月賞を使わなければダービーを勝てていたかもしれない……そんなふうに考えることもあるんですよ」と、後のインタビューで吐露している<ref name="yu0008" />。
ダービーの後は賀張共同育成センターで休養に入り、9月に帰厩<ref>木村(2002)pp.111-116</ref>。クラシック三冠最終戦・[[菊花賞]]へ向けて調教が進められた。前哨戦としては初めて古馬(5歳以上馬)相手となる[[京都大賞典]](GII)か、その一週間後の[[京都新聞杯]](GII)の両睨みとなったが、テイエムオペラオーは食が細りやすい体質だったことから、菊花賞まで調整に余裕をみることができる京都大賞典が選ばれた<ref name="kimu9">木村(2002)pp.117-120</ref>。この競走では前年の日本ダービーと当年の[[天皇賞(春)]]に優勝している[[スペシャルウィーク]]、前年の天皇賞(春)優勝の[[メジロブライト]]などの有力馬がおり、テイエムオペラオーは両馬に次ぐ3番人気となった。レースでは最後の直線で進路を失う形となり、コース内側に持ち出されてから先頭の[[ツルマルツヨシ]]を追ったが、同馬とメジロブライトにおよばず3着となる<ref name="kimu9" />。和田は道中でスペシャルウィークの直後につけ、同馬が抜け出した跡を通って先頭をうかがう算段であったが、不調のスペシャルウィークが直線で失速したため進路を失ったものであった<ref name="kimu9" />。
[[ファイル:Narita Top Road 19991226R1.jpg|サムネイル|ナリタトップロード]]
京都大賞典のあと危惧された食細りは起こらず11月3日の菊花賞は絶好調に近い状態で臨んだ<ref name="kimu10">木村(2002)pp.122-128</ref>。当日は京都新聞杯に勝利してきたアドマイヤベガがオッズ2.3倍の1番人気、テイエムオペラオーが3.4倍の2番人気、京都新聞杯2着のナリタトップロードが4.1倍の3番人気で続き、春に引き続き「三強」の下馬評であった<ref name="yu9912">『優駿』1999年12月号、pp.10-15</ref>。レースは明確な逃げ馬不在もあり、1000メートル通過が1分4秒3、2000メートル通過が2分8秒4と、「超スローペース」で推移する<ref name="yu9912" />。そうしたなかナリタトップロードは先団に位置し、アドマイヤベガとテイエムオペラオーはそれぞれ中団後方に並ぶ形で10~11番手を進んだ<ref name="yu9912" />。周回2週目の最終コーナーからナリタトップロードは先頭をうかがって進出、テイエムオペラオーは最後の直線でこれを急追したが、先に抜け出したナリタトップロードにクビ差及ばずの2着と敗れた<ref name="yu9912" />。アドマイヤベガは伸びあぐねての6着であった。
テイエムオペラオーの上がり3ハロン(ゴールまでの600メートル)タイム33秒8は、メンバー中最速のものだった<ref name="kimu10" />。和田は「向こう正面で少し、前との差を詰めておけば良かったのかな。それでも、凌ぐ脚はあると思ったんだけど……力負けではないと思う」と感想を述べた<ref name="yu9912-2">『優駿』1999年12月号、pp.16-17</ref>。最終コーナーまで進出しなかった理由については、「アドマイヤベガを意識した<ref name="kimu10" />」という見方があった一方で、競走後の和田の弁によれば、温存して末脚を引き出したいという意識の方が強かった<ref name="yu9912-2" />。また、戦前にはナリタトップロード鞍上の[[渡辺薫彦]]がとったレース運びを思い描いていたともいう<ref name="meiba9900">『競馬名馬&名勝負年鑑 1999~2000』pp.16-17</ref>。
いずれにしても競走後、和田の騎乗に対しては「仕掛けが遅い」という論評が向けられた<ref name="yu9912-2" />。日本ダービーの「早仕掛け」に続く和田の2度目の騎乗ミスとみた竹園は激怒し、岩元に騎手の交代を要求。留保を求める岩元に竹園は強硬な態度を示したが、最後には折れる形となり、和田はテイエムオペラオーの騎手として据え置かれた<ref name="kimu10" />。岩元は和田を降板させる場合はテイエムオペラオーの転厩を求めたともされ<ref>{{Cite web|和書|url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1996100292/story-5.html |title=テイエムオペラオー 王者たるもの王道を問う - 第5話またもや鞍上が…… |publisher=Yahoo!スポーツ競馬 最強ヒストリー |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060427211317/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1996100292/story-5.html |archivedate=2006年4月27日|date=2006年4月27日|accessdate=2022年11月5日}}</ref>、これ以降、竹園が騎手交代を求めることはなくなった<ref name="meiba" />。
竹園は次走を年末のグランプリ有馬記念、または来年まで休養と見積もっていたが、岩元はテイエムオペラオーと和田に「勝ち癖」を付けたいとして、次走にGII・[[ステイヤーズステークス]]を選択した<ref name="kimu10" />。当日の単勝オッズは一時1.0倍、最終オッズでも1.1倍という圧倒的な1番人気に支持されたが<ref name="yu0002">『優駿』2000年2月号、p.62</ref>、クラシック三冠では目立たなかった同期馬[[ペインテドブラック]]に直線で競り負け、2着となった<ref name="kimu11">木村(2002)pp.130-132</ref>。
この後、岩元は年内休養を考えたが、今度は竹園が有馬記念出走を希望する。菊花賞以来、竹園に自身の要望を通させてきた負い目もあり、岩元はこれを受け入れ、テイエムオペラオーは有馬記念に臨むこととなった<ref name="kimu11" />。当日は、ここまでGI競走3勝の[[グラスワンダー]]が1番人気、京都大賞典から立て直し、秋の天皇賞とジャパンカップを連勝中のスペシャルウィークが2番人気で、この「二強」の対決とされた<ref name="kimu12">木村(2002)pp.133-136</ref>。ナリタトップロードが4番人気(6.8倍)に入り、テイエムオペラオーは同馬から離れた12倍の5番人気であった<ref name="kimu12" />。スタートが切られると、追い込み脚質の[[ゴーイングスズカ]]が先頭を切り、前半1000メートルが65秒2という「超スローペース」で展開、テイエムオペラオーは先団5番手につけ、他の有力馬はみな中団より後方に位置した<ref name="yu0002-2">『優駿』2000年2月号、pp.9-13</ref>。最後の直線でテイエムオペラオーは先頭に立ったが、直後に後方からグラスワンダーとスペシャルウィークが競り合いながら差し込み、両馬にゴール直前でかわされ勝ったグラスワンダーからハナ、アタマ差での3着となった<ref name="yu0002-2" />。
皐月賞以降勝利を挙げることはできなかったが、テイエムオペラオーは当年の年度表彰・[[JRA賞]]において[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]に選出され、「クラシックではアドマイヤベガ、ナリタトップロードとともに三強を形成し、中でももっとも安定した成績を残した。暮れの有馬記念でも、グラスワンダー、スペシャルウィークと同タイムの3着とあわやのシーンを作り、その実力を大いにアピールした」との選評を受けた<ref name="yu0002-3">『優駿』2000年2月号、p.33</ref>。また、仮定の[[負担重量|斤量]]数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションにおいても、4歳馬として1位の119[[ポンド (質量)|ポンド]]を与えられている<ref name="yu0002-4">『優駿』2000年2月号、pp.42-43</ref>。なお、当年対戦してきた有力馬のうち、スペシャルウィークは有馬記念を最後に予定通り引退<ref name="yu0002-2" />、アドマイヤベガは菊花賞のあと長期休養に入り、復帰できないまま翌2000年夏に引退となった<ref>『優駿』2000年9月号、p.7</ref>。
==== 2000年 ====
===== 「現役最強馬」となる =====
2000年1月に行われたJRA賞授賞式において、竹園はテーブルを囲む陣営各人に向けて、「こんな賞をもらったからには、今年はもうひとつも負けたらいかん。負けるようなレースには使わない。今年は全部勝つぞ」と檄を飛ばした<ref name="kimu13">木村(2002)pp.138-142</ref>。その後の厩舎内の様子を、原口は次のように振り返っている<ref name="meiba0001" />。
{{Quotation|''(前略)''岩元先生が、オペラオーの厩の前へ来て、<br />「竹園さんが、今年負けなしでいけっ、て、言うてはったから、しっかりな!」<br />僕に言うなり、スタスタ洗い場の方へと歩いて行った。<br />「エッ!?負けなし!」<br />一瞬たじろいだ。よくよく考えてみても、夢のような話だ。あのスペシャルウィークやシンボリルドルフでさえも、一度や二度は負けている。<br />それくらいの気持ちを持ってやれ、ということだろう。そう考えると、気が楽になって、淡々と仕事ができた。そのうち、今度は和田竜二が珍しくやって来て、<br />「今年は、全勝ッす、全勝」<br />やたらと気合が入っている。<br />両腕をグルグル回しながら、オペラオーの姿をひと目見て去っていった。<br />僕は、オペラオーとそのうしろ姿を見届けながら、<br />「そんなに、うまいこといくかなぁ」<br />とつぶやくと、オペラオーもコクリとうなずいた。}}
2000年の初戦には2月20日の[[京都記念]](GII)が選ばれた。ここにはナリタトップロードも出走したが、テイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持されると、最後の直線で同馬との競り合いをクビ差で制し、皐月賞以来の勝利を挙げた<ref>木村(2002)pp.140-141</ref>。さらに続く阪神大賞典(GII)では、ナリタトップロードに加え、新たな「三強」の形成が期待された菊花賞3着の[[ラスカルスズカ]]も出走したが、最後の直線ではテイエムオペラオーが両馬を突き放し、ラスカルスズカに2馬身差をつけて勝利<ref name="yu0005-2">『優駿』2000年5月号、p.56</ref>。他の有力馬より前でレースを進めながら、直線では出走中最速の末脚を発揮した<ref name="yu0005" />その内容に、スポーツ紙は「完璧な差」と書き立て<ref name="yu0005-3">『優駿』2000年5月号、pp.80-83</ref>、日本中央競馬会の広報誌『優駿』は、「善戦どまりだった皐月賞以降とは見違えるほど」と評し<ref name="yu0005-2" />、ラスカルスズカ、ナリタトップロード両陣営からも「完敗」という言葉が聞かれた<ref name="yu0005">『優駿』2000年5月号、pp.28-32</ref>。和田は競走後「本当は、去年もああいうレースをしたかったんです」と述べ、さらに和田と原口は口を揃えて「背中に跨った感じが全体的にパワーアップしている」と評した<ref name="yu0005" />。
4月30日には、春の大目標としていた天皇賞に臨む。天皇賞は当年より従来出走資格がなかった[[外国産馬]]にも門戸が開放され、アメリカ産馬であるグラスワンダーの動向が注目されていたが、同陣営は最大目標とする宝塚記念への出走を優先し、ここを回避<ref name="yu0006">『優駿』2000年6月号、pp.40-41</ref>。これを受けて、天皇賞は阪神大賞典に続く「三強」の下馬評となった<ref name="yu0006" />。レースでは中団を進み、その前にナリタトップロード、後ろにラスカルスズカが位置する展開となったが、第3コーナーからナリタトップロードを捉えに進出してそのまま抜け出すと、ゴール前でラスカルスズカの追走を4分の3馬身抑えて勝利した<ref name="yu0006" />。走破タイム3分17秒6は史上4位、最後の200メートルは11秒9と史上最速(いずれも当時)のタイムであり、競馬専門誌『週刊Gallop』は、「厳しい瞬発力勝負に対応したテイエムオペラオーは真の実力を示した」と論評している<ref name="gallo">『臨時増刊号 Gallop2000』pp.54-57</ref>。
[[ファイル:Grass Wonder 19991226.jpg|サムネイル|グラスワンダー]]
天皇賞制覇で「三強」の時代を終わらせ「一強」と化した<ref name="gallo" />テイエムオペラオーは国産競走馬の頂点に立ち、残るライバルは外国産のグラスワンダーのみとなった<ref name="yu0006" />。春のグランプリ・宝塚記念(6月25日)への出走馬を決めるファン投票において、テイエムオペラオーは1位に選出される。宝塚記念当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気、グラスワンダーが2.8倍の2番人気となり、この2頭の一騎打ちの下馬評となる<ref name="yu0008-2">『優駿』2000年8月号、pp.42-43</ref>。馬場状態は良馬場だったが、発走1時間前より雨が降り始め、そのまま雨中でのレースとなった<ref name="yu0008-2" />。スタートが切られると、平均的なペースで推移するなかテイエムオペラオーは2番手集団を見る形で進み、グラスワンダーは中団後方に位置する<ref name="yu0008" />。第3コーナーでグラスワンダーがテイエムオペラオーの直後につけ、最終コーナーではグラスワンダーが鞍上の[[蛯名正義]]が手綱を抑えたまま進出していく傍らで、テイエムオペラオーは和田が手綱をしごきながら大外を回った<ref name="yu0008-2" />。しかし最後の直線に入るとグラスワンダーは伸びを欠き、テイエムオペラオーはそのまま先を行く[[メイショウドトウ]]とジョービッグバンを急追、ゴール前でメイショウドトウをクビ差かわし、天皇賞からのGI連勝を果たした<ref name="yu0008-2" />。
競走後、和田は「最後はヒヤヒヤしましたが、力を出してくれました。手応えは前走よりもしんどかったですけど、必ず伸びるのは分かっていました。最後に抜けると気を抜いてしまうところがあるし、気を抜かないようにしただけです。改めて強いと思いました」、岩元は「3コーナーの手応えで今日はやばい、負けるかもと思いましたが、直線で並んだときに何とかなると……。並んだら勝負強い馬ですから」などとそれぞれ感想を述べた<ref>『臨時増刊号 Gallop2000』pp.78--81</ref>。両名とも3コーナーでの反応の悪さに言及したが、原口は、テイエムオペラオーは概してそういった面がある馬だとして「グラスワンダーと手応えこそ違え、一緒に来ていたから心配しなかった」と振り返っている<ref name="meiba0001">『競馬名馬&名勝負年鑑 2000~2001』pp.24-29</ref>。なお、6着に敗れたグラスワンダーは、競走後のコース上で蛯名が下馬して馬運車で運ばれ、のち「左第三中手骨(管骨)骨折」の診断が下され、引退が発表された<ref name="yu0008" />。
後年、テイエムオペラオーの伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』を執筆した木村俊太は「このグラスワンダーの故障によって不運にも『力勝負の決着はついていない』という評価をも受ける結果となってしまった」としている<ref name="kimu14">木村(2002)pp.161-164</ref>。いずれにせよこの勝利によって、テイエムオペラオーは「現役最強馬」の地位についた<ref name="名前なし-2">『優駿』2000年11月号、p.30</ref>。
==== 史上初の古馬中長距離GI完全制覇 ====
宝塚記念の後には、前年夏と同様に賀張共同育成センターへ送られ、現地で運動を行いながらの休養に入った。春の連戦を経ているにもかかわらず疲労の度合いは低く、到着翌日には人を乗せての運動が始められるなど、充実を物語るものとなった<ref name="yu0009">『優駿』2000年9月号、p.16</ref>。秋の出走は当初、春秋連覇が懸る天皇賞(秋)へ直接出走する見通しだったが<ref name="yu0009" /><ref name="gallo-2">『臨時増刊号 Gallop2000』p.99</ref>、竹園が様子を視察した際、テイエムオペラオーの状態が非常に良かったことから、「馬が走る気になっているときにリズムを狂わせてもいけない」と<ref name="yu0102-2">『優駿』2001年2月号、pp.86-89</ref>、前哨戦の京都大賞典(GII)への出走が決まった<ref name="gallo-2" />。かねてこの競走へ向けて調教が積まれていたナリタトップロードの調教師・[[沖芳夫]]は「あの馬(テイエムオペラオー)を負かすなら今回しかない」と公言していたが<ref>『優駿』2000年12月号、p.61</ref>、レースでは両馬競り合いになったものの、ナリタトップロードが鞍上の渡辺から鞭を連打される傍らで和田は鞭を振るうことなく、テイエムオペラオーがアタマ差で勝利した<ref name="gallo-2" />。
[[ファイル:Meisho Doto 20020113.jpg|サムネイル|メイショウドトウ。翌年の天皇賞(春)までGI競走5戦連続でテイエムオペラオーの2着となった。]]
10月29日、天皇賞(秋)に臨む。この競走は当年まで1番人気馬が12連敗という結果が続いており、巷間「テイエムオペラオーが負けるとすれば今回」と囁かれ、マスメディアもこの「[[ジンクス]]」を盛んに取り上げた<ref name="yu0012">『優駿』2000年12月号、pp.11-13</ref>。また、皐月賞と同じ距離でありながらテイエムオペラオーに2000メートルの距離が短いという見方もあり、当日の単勝オッズは近来では高い値となる2.4倍を示した<ref name="yu0012" /><ref name="kimu15">木村(2002)pp.169-176</ref>。2番人気には別の前哨戦[[オールカマー]]を制してきたメイショウドトウが推され4.4倍、3番人気がナリタトップロードで4.9倍の順となった<ref name="kimu15" />。スタートが切られると、最初のコーナーでテイエムオペラオーが内を走る[[イーグルカフェ]]を押圧する形となり、その煽りを受けた[[ステイゴールド (競走馬)|ステイゴールド]]が不利を受ける形となった<ref name="yu0012" />。コーナー通過後は平均的なペースで推移し、テイエムオペラオーは2番手集団の中でメイショウドトウを直前に見る形で進んだ<ref name="yu0012" />。最後の直線ではまず[[トゥナンテ]](5番人気)が抜け出し、これをメイショウドトウがかわしたが、直後にテイエムオペラオーが両馬を一気に抜き去り、ゴールではメイショウドトウに2馬身半差をつけて勝利した<ref name="yu0012" />。なお、これは和田にとって東京競馬場での68戦目にしての初勝利であった。
同一年度における天皇賞の春秋連覇は、[[タマモクロス]](1988年)、スペシャルウィーク(1999年)に続く、史上3頭目の記録となった<ref name="yu0012" />。また、1984年にグレード制が導入されて以降、東京、中山、京都、阪神のJRA四大競馬場全てでGIを制したのは、テイエムオペラオーが初の事例であった<ref name="yu0012-2">『優駿』2000年12月号、pp.138</ref>。和田は「1番人気が勝てないうえ、僕が東京で未勝利だったことで、いろいろ言われましたが、パーフェクトの内容で鬼門を突破することができました」、岩元は「1番人気の連敗が続いているジンクスと、和田が東京で一度も勝っていない、という2つのことが気になっていましたが、終わってみれば本当にえらい馬だという気持ちでいっぱいになりました」などと感想を述べた<ref>『優駿』2000年12月号、p.127</ref>。
[[ファイル:Fantastic_Light_20001126R1.jpg|thumb|2000年 第20回ジャパンカップ。手前にいる青一色の勝負服を着たフランキー・デットーリが駆る馬がファンタスティックライト。|200px]]
次走、11月26日に迎えた国際招待競走・[[ジャパンカップ]]では、当年の[[マンノウォーステークス]]を勝ち、[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]でも2着の実績を持つ[[ファンタスティックライト]]([[アラブ首長国連邦|UAE]])、10歳馬ながら当年アメリカでG1競走2勝を挙げた[[ジョンズコール]](アメリカ)など5頭の外国馬に加え、1歳下のクラシック二冠馬[[エアシャカール]](3番人気)、日本ダービー優勝馬の[[アグネスフライト]](4番人気)らが顔を揃えた<ref name="yu0101-2">『優駿』2001年1月号、pp.11-15</ref>。この競走は「ジンクス」を盛んに報じられた天皇賞を越える1番人気馬の14連敗が続いていたが<ref name="yu0101-3">『優駿』2001年1月号、pp.6-7</ref>、テイエムオペラオーの最終単勝オッズは1.5倍、支持率では1991年の[[メジロマックイーン]](41.4パーセント)を上回り、競走史上最高の50.5パーセントという圧倒的な支持を集めた<ref name="yu0101-2">『優駿』2001年1月号、pp.11-15</ref>。ファンタスティックライトが2番人気となったものの、注目はテイエムオペラオーに挑む新世代のクラシックホース2頭という様相となった<ref name="yu0101-2" />。レースは逃げ馬不在で前半1000メートル通過が63秒3と非常なスローペースとなり、各馬が先へ行きたがる姿がみられた<ref name="yu0101-2" />。テイエムオペラオーは5、6番手を進み、最後の直線では先に抜け出したメイショウドトウと競り合い、さらに後方からファンタスティックライトも追い込んできたが、最後はメイショウドトウをクビ差競り落として勝利を挙げた<ref name="yu0101-2" />。なお、エアシャカールとアグネスフライトはそれぞれ13、14着と大敗した<ref name="yu0101-2" />。
この勝利により、テイエムオペラオーのここまでの獲得賞金は12億円を超え、それまでの獲得賞金記録保持馬であったスペシャルウィークを上回り「世界賞金王」となった<ref name="yu0101-2" />。本競走におけるテイエムオペラオーのパフォーマンスは国際的にも高く評価され、[[レーシング・ポスト]]・レイティングでは当時の国内最高値<ref group=注釈>海外での競走を含めた日本調教馬への評価としては[[エルコンドルパサー]]に次ぐ第2位。</ref><ref group=注釈>2003年12月28日の有馬記念で[[シンボリクリスエス]]が記録を更新。ジャパンカップでの記録としては[[2006年]]に[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が記録を更新。</ref>となる126の評価が与えられた<ref>{{Cite web |url=https://www.racingpost.com/results/315/tokyo/2000-11-26/294328 |title=Full Result 6.20 Tokyo (JPN) |website=Racing Post |date=2000-11-26 |accessdate=2021-05-16}}</ref>。ファンタスティックライトの手綱を取った[[ランフランコ・デットーリ]]は、テイエムオペラオーに対して「クレイジー・ストロングだ。世界レベルにある」と評した<ref name="Gallop2000" />。
春秋天皇賞、宝塚記念、ジャパンカップを制したテイエムオペラオーは、かつて達成馬のいない古馬中長距離GIの完全制覇へ向けて、残る目標は年末の有馬記念のみとなった。ジャパンカップ競走中に他馬と接触して右後大腿部に外傷を負い有馬記念に向けた再始動は遅れ<ref name="kimu15" />、中間の動きも好調時との比較では落ちるものとなった<ref name="kimu17">木村(2002)pp.188-192</ref>。さらに有馬記念の競走当日朝、中山競馬場の出張馬房内で、向かいの馬房にいた馬が何らかの事象に驚いて後脚で立ち上がり、その様子に驚いたテイエムオペラオーも同様の態となって、馬房内のいずこかに額を強打した<ref name="kimu16" />。患部は内出血を起こして大きな腫れを生じたが、出走可能という獣医師の判断で、岩元もこれに従って有馬記念へはそのまま出走することとなった<ref name="kimu16" />。
有馬記念の出走馬選定ファン投票では10万9140票を集め、第1位で選出<ref name="yu0101-2" />。当日のオッズでは1.7倍の1番人気に支持された<ref name="yu0102-4" />。竹園は戦前のパドックにおいて、和田に対して「スタートに気を付けて、3、4番手につけて、じっとして、直線で2馬身以上離して勝て」と指示を与えた<ref name="yu0102-2" />。レースでテイエムオペラオーは竹園の希望通り好スタートを切ったが、周回1周目の第3コーナーで他馬に進路を塞がれて位置を12~13番手まで大きく下げ、さらに観客スタンド前を通過する辺りではスローペースの馬群の中に閉じこめられる形となる<ref name="yu0102-4" />。2番人気メイショウドトウは中団、3番人気ナリタトップロードは先団を進んでいた<ref name="yu0102-4" />。最後の直線に入ってもテイエムオペラオーは馬群の中で動けず10番手以下に位置し、観客から大きなどよめきが上がった<ref name="yu0102-4" />。直線半ばで馬群がばらけ始るとテイエムオペラオーは追い込みを始め、逃げ粘りを図るダイワテキサスを一気に捉えると、最後はメイショウドトウとの競り合いをハナ差制して優勝<ref name="yu0102-4" />。史上初となる古馬中長距離路線の完全制覇を達成し、また同時にこの年からスタートした秋季古馬中長距離のGⅠ3競走(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を同一年で優勝(通称[[三冠_(競馬)#その他|秋古馬三冠]]{{efn|2022年現在、達成したのはテイエムオペラオーと[[ゼンノロブロイ]](2004年)の2頭のみ}})した馬への特別報奨金2億円を獲得した。
競走後、和田は「前につけたかったのですが、1コーナーで挟まれてしまって……失敗したと思いました。動くに動けない状況でしたし、かといって外を回りたくなかったので、これなら開いたところを突っ込んでいくしかないと考えました。詰まったらおしまい。直線では1頭分だけ隙間があったんですが、オペラオーは躊躇なく入っていった。メイショウドトウが差し返してきた時もこちらには勢いがありました。厳しいレースでしたが、終わってみれば1頭だけが次元の違う勝ち方をしてくれていました」、また岩元は「心配していた最も厳しい形になってしまいました。負けてもおかしくなかったと思います。ああいう形になったのに、本当によく勝ってくれたと思います。偉い馬としか言いようがありません」と感想を述べた<ref>『優駿』2001年2月号、p.127</ref>。また竹園は他馬からの厳しいマークに「馬も騎手も可哀想でした。なんでこんなにいじめられなくちゃいけないんだろうと思いました。''(略)''本当に涙が出るくらい可哀想でした。''(略)''本当にもう、抜け出すまでは悲しくて泣きそうでしたけど、抜け出してからはもう絶頂でしたね」と語った<ref name="yu0102-2" />。一方、敗れたメイショウドトウ騎乗の[[安田康彦]]は「今はあの馬(テイエムオペラオー)とは一緒に走りたくない」と報道陣に吐露している<ref>『優駿』2001年8月号、pp.57-59</ref>。
2000年のシーズンを8戦8勝、うちGI5勝という成績で終えたテイエムオペラオーには、様々な記録が伴った。まず年間GI5勝は、[[シンボリルドルフ]]、[[ナリタブライアン]]を抜いて歴代最多<ref name="gallo6">『臨時増刊号 Gallop2000』pp.3-5</ref>、重賞8連勝は[[タイキシャトル]]に並び歴代最多タイ<ref name="gallo6" /><ref group=注釈>タイキシャトルは8連勝の間にフランス遠征を挿んでおり、JRA重賞に限るとテイエムオペラオーは単独首位。</ref>、1番人気での8連勝は[[タケシバオー]]、[[マルゼンスキー]]、[[マックスビューティ]]に並ぶタイ記録であったが、全て重賞で達成したのはテイエムオペラオーが初めてであった<ref name="gallo6" />。『優駿』は、年誌にあたる増刊『TURF HERO』においてその戦績を「'''世紀末覇王'''伝」のタイトルで回顧し、『週刊Gallop』もまた年誌巻頭のグラビアに「降臨 '''世紀末覇王'''」のキャプションを用いた<ref name="gallo6" />。なお馬主の竹園も、[[テイエムオーシャン]]で制した[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]と合わせて年間GI勝利数が「6」となり、過去[[シンボリ牧場]]、[[社台レースホース]]、[[山路秀則]]が保持した年間GI4勝の記録を更新している<ref name="0102-7">『優駿』2001年2月号、p.138</ref>。
当年の年度表彰において、テイエムオペラオーは年度代表馬に満票で選出<ref name="yu0102-5">『優駿』2001年2月号、pp.20-26</ref>。満票選出は、[[テンポイント]](1977年)、シンボリルドルフ(1985年)に続く、史上3頭目の事例となった<ref name="yu0102-5" /><ref group=注釈>ほか、記者投票による選出ではなかった「啓衆社賞」時代に[[メイヂヒカリ]]が「満場一致」で年度代表馬となった例がある。</ref>。また、岩元も年間獲得賞金15億837万8000円という記録をもって[[JRA賞最多賞金獲得調教師|最多賞金獲得調教師]]のタイトルを獲得したが、この金額のうち約3分の2がテイエムオペラオーによるものであった<ref name="yu0102-5" />。
=== 2001年 ===
==== 天皇賞連覇とライバルの雪辱 ====
2001年を迎えたテイエムオペラオーは、連戦疲労が危惧されたことに加え、冬の休養にあたり北海道は寒すぎるという岩元の判断から、通例休養に出される賀張共同育成センターではなく、温浴施設を備え「馬の温泉」の通称がある[[競走馬総合研究所|JRA競走馬総合研究所]]磐城支所([[福島県]][[いわき市]])で休養に入った<ref name="kimu18">木村(2002)pp.200-207</ref>。この休養には原口も帯同した。温泉で疲労を除きつつ、併設の馬場で適度な運動も可能という岩元の見通しであったが、当年のいわきは大雪が続きテイエムオペラオーはほとんど馬房から出ることができず、その一方で日ごろ細かった食欲は増進し、大幅に太った状態で栗東へ帰厩した<ref name="kimu18" />。
当初は3月の阪神大賞典での復帰が見込まれていたが、調整のピッチが上がらないことから、復帰戦は4月1日の[[大阪杯]](GII)にずれ込んだ<ref name="kimu18" />。直前の調教では気を抜くような場面もあり、「本来の動きではない」という評もあった<ref name="kimu18" />。また、競走直前のパドックでは、常なら原口が持つ2本の曳き手を引っ張って歩くところを「1本でも大丈夫なぐらい」大人しい様子であり、和田も返し馬<ref group="注釈">競走前の待機所への移動に兼ねて行われるウォーミングアップ。</ref>で動きの硬さを感じたという<ref name="yu0105">『優駿』2001年5月号、pp.26-28</ref>。レースでは中団8~9番手を進んだが、第3コーナーから最終コーナーにかけて、外から馬体を被せてきた[[アドマイヤボス]]に合わせて早めに先団に進出<ref>『優駿』2001年5月号、pp.6-7</ref>。最後の直線では同馬およびエアシャカールと競りあったが<ref name="yu0105-3">『優駿』2001年5月号、p.121</ref>これに遅れ、さらに後方から3頭ごと差し切った9番人気のトーホウドリームの後方で4着と敗れた<ref name="yu0105-3" />。競走後、和田は「このひと叩きで変わってくるはず。次は絶対に巻き返しますよ」、岩元は「まあ仕方がない。また出直しや」と語った<ref name="yu0105" />。春の天皇賞へ向けた他の前哨戦では、阪神大賞典でナリタトップロードが2着に8馬身差をつけてレコードタイムで勝利、[[日経賞]](GII)ではメイショウドトウが勝利を挙げた<ref name="yu0105" />。
[[ファイル:Symboli rudolf.jpg|サムネイル|シンボリルドルフ。1984年から85年にかけて中央競馬史上最多のGI競走7勝を挙げ、「七冠馬」あるいは「皇帝」とも称された。]]
前年からの連覇が懸かる天皇賞(春)へ向けて、当初テイエムオペラオーの状態は極めて悪かったものの、競走10日ほど前から復調気配が表われはじめ、最終調教でも良好な動きをみせた<ref name="kimu18" />。4月29日の天皇賞当日では、前年秋の天皇賞以来で単勝オッズが1倍台に至らず2.0倍を示した<ref name="yu0106">『優駿』2001年6月号、pp.26-29</ref>。ナリタトップロードが3.4倍、メイショウドトウが6.5倍でこれに続いた<ref name="yu0106" />。レースは最初の1000メートル通過が競走史上最速の58秒3というハイペースになり、そのなかでテイエムオペラオーは中団後方に付け、その周囲を他の有力馬がマークするような隊列となる<ref name="yu0106" />。最後の直線ではいち早くスパートをかけたナリタトップロードがいったん先頭に立ったが、すぐにテイエムオペラオーがこれをかわし、後方から追い込んだメイショウドトウも半馬身抑えて勝利。シンボリルドルフに並ぶ史上最多タイ記録のGI競走7勝目を挙げた<ref name="yu0106" />。また、春秋の天皇賞3連覇および天皇賞3勝という記録は、史上初の事例となった<ref name="yu0106-2">『優駿』2001年6月号、pp.136-137</ref>。竹園は競走後、次走が宝塚記念であること、そしてその結果次第で日本国外への遠征を検討することを表明した<ref name="yu0106" />。
天皇賞に続く連覇、そして史上最多記録のGI競走8勝が懸かる宝塚記念(6月24日)に臨んで、テイエムオペラオーの状態は極めて良好に仕上がり<ref name="kimu19">木村(2002)pp.213-217</ref>、戦前に催された「宝塚記念フェスティバル」に出席した和田は「99パーセント勝てる」と明言した<ref name="yu0108-2">『優駿』2001年8月号、pp.37-39</ref>。当日の単勝オッズは1.5倍を示し、前年の宝塚記念以来、テイエムオペラオー相手に5度2着となっているメイショウドトウが3.4倍で続いた<ref name="yu0108-2" />。レースではテイエムオペラオーはスタートでやや後手を踏んで後方に位置取り、対するメイショウドトウは道中4番手と先行策をとった<ref name="yu0108-2" />。メイショウドトウは最終コーナーで先頭に並びかけた一方で、テイエムオペラオーは馬群に押し込められる形となって抜け出すことができず、さらに各馬の進路が混乱した煽りを受けてテイエムオペラオーは進路をなくし、和田が馬上で体を起こし、手綱を引く格好となった<ref name="kimu19" />。最後の直線で態勢を立て直し後方3番手の位置から追い込んだものの、セーフティリードを取ったメイショウドトウを捉えることはできず、同馬から1馬身4分の1の差で2着と敗れた<ref name="kimu19" />。
競走後、和田は「狭いところに行ってしまって、行くことができなかった。一番嫌な展開になってしまった。具合が良かっただけに残念」と語った<ref>『臨時増刊号 Gallop2001』p.76</ref>。岩元は「二、三番手で競馬する手もあったと思うが、乗り方は鞍上が決めることやからな。状態が良かっただけに、残念」と述べた<ref name="kimu19" />。竹園は「あの不利はちょっとひどい。ひどい競馬だった。最後は力のあるところを見せてくれたけど……」と述べ、さらに「負けて海外なんてありえません」として、秋シーズンも国内戦に臨ませることを表明した<ref name="kimu19" />。一方、メイショウドトウ騎乗の安田康彦は「折り合いもついて、あっち(テイエムオペラオー)が後ろにおることが分かったときに、これなら勝てると思うたね。それぐらい馬の出来もよかったし」と語った。また、メイショウドトウ馬主の[[松本好雄]]は後に「私にとってはね、テイエムの2着は非常に大きな2着ですよ。テイエムが2着でなかったら、ちょっと価値が薄れるんですよね。5回負けた馬に勝つということで、凄い値打ちがあるんですよね。''(中略)''よく来てくれたな、という気持ちですよ」と振り返っている<ref>『優駿』2001年8月号、p.68</ref>。
夏は賀張共同育成センターで休養に入る。その間の8月1日、竹園よりテイエムオペラオーが当年を限りに引退することが発表された。
==== 新記録ならず - 引退 ====
秋シーズン初戦は10月7日の京都大賞典で迎えた。当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.4倍の1番人気となり、ナリタトップロードが2.4倍の2番人気、ステイゴールドが10.8倍で3番人気となった<ref name="kimu25" />。レースの道中はテイエムオペラオーとステイゴールドが2番手で並び、直後をナリタトップロードが進む<ref name="yu011-2">『優駿』2001年11月号、p.120</ref>。最後の直線ではナリタトップロードがいち早く先頭に立ち、これを内からステイゴールドがかわし、さらに外からテイエムオペラオーが並びかけた。この直後にステイゴールド騎乗の[[後藤浩輝]]が右鞭を振るうと、ステイゴールドは左側に斜行し、同馬とテイエムオペラオーとの間に挟まれたナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦が落馬<ref name="kimu25" />。ステイゴールドは勢いを失うことなく1位で入線し、テイエムオペラオーは半馬身差の2位入線となる<ref name="kimu25" />。しかし審議の結果ステイゴールドは失格となり、テイエムオペラオーは繰上りでの1着となった<ref name="kimu25" />。競走後の検量室では、危険な騎乗に激怒した竹園が色をなして後藤に詰め寄る一幕もあった<ref name="kimu25" />。繰上り勝利ではあったものの、これでテイエムオペラオーの重賞勝利は12を数え、[[スピードシンボリ]]、[[オグリキャップ]]に並ぶ最多タイ記録となった<ref name="kimu25" />。
[[ファイル:Agnes Digital 20010603P1.jpg|サムネイル|アグネスデジタル。芝・ダートや馬場状態を問わず活躍し、最終的に国内外でGI競走6勝を挙げた。]]
10月28日、春秋四連覇に挑み天皇賞(秋)に臨んだ。当日は午前から雨となり、前年に続き重馬場で行われることになった<ref name="yu0112">『優駿』2001年12月号、pp.11-15</ref>。単勝オッズではテイエムオペラオーが2.1倍、メイショウドトウが3.4倍、京都大賞典で1位入線のステイゴールドが4.5倍で続いた。レースは、陣営が「行けるだけ行く」と公言していた[[サイレントハンター (競走馬)|サイレントハンター]]がスタートで大きく出遅れ、押し出される形でメイショウドトウが先頭を切る展開となり、テイエムオペラオーは3~4番手を進んだ<ref name="yu0112" />。前半1000メートル通過は1分2秒2と馬場状態を考慮しても遅いペースとなり、馬群は一団の状態で最後の直線に向く<ref name="yu0112" />。ここで伸びかけたステイゴールドが内側に斜行して失速し、テイエムオペラオーは先を行くメイショウドトウと[[ジョウテンブレーヴ]]をかわして先頭に立ったが、大外から追い込んだ[[アグネスデジタル]]にゴール前で捉えられ、同馬から1馬身差の2着と敗れた<ref name="yu0112" />。アグネスデジタルは前年の[[マイルチャンピオンシップ]](GI)などに優勝していたが、本競走には直前になって出走を決めており、当日は4番人気ながらそのオッズは20倍であった<ref name="yu0112" />。
メイショウドトウをかわした直後から和田の視界には大外のアグネスデジタルが入っており、「馬体が合う形になれば、もうひと踏ん張りできる感触はあった」ものの、内外が離れすぎていたため併せにいくことはできなかった<ref name="yu0112-2">『優駿』2001年12月号、pp.16-19</ref>。和田は「今日は相手が強かった」とした一方で、「一番いい頃の状態にはまだ一息と感じた。この先、期待通りに上向いてくれる保証はないけれど、もっともっと良くなる可能性を秘めていることは確かです」と語った<ref name="yu0112-2" />。また岩元は「馬体が合っていてもあれではかわされていたやろ。力があって、オペラオーより重馬場の得意な馬がいたということ」とした。
[[ファイル:Jungle Pocket.jpg|サムネイル|ジャングルポケット。テイエムオペラオーの次走・有馬記念には出走しなかった。]]
引き続き新記録を目指すジャパンカップに向けたテイエムオペラオーの状態は上がらず、競走前の最終追い切りでも動きに精彩を欠き、共同会見で岩元が発した「えらいこっちゃ」という言葉がスポーツ紙でも報じられた<ref name="yu0201">『優駿』2002年1月号、pp.10-13</ref>。しかしこの調教から数日の間にテイエムオペラオーは急速に食欲を回復させ、競走当日にテイエムオペラオーにまたがった和田は「この秋一番の覇気」を感じたという<ref name="yu0201" />。当年のジャパンカップにおける外国招待馬には[[2000ギニーステークス|2000ギニー]]の優勝馬[[ゴーラン]](イギリス)など6頭のG1優勝馬がいたものの、注目馬は不在という下馬評で、単勝オッズの5番人気までを日本馬が占めた<ref name="yu0201-2">『優駿』2002年1月号、pp.22-25</ref>。2.8倍の1番人気にテイエムオペラオー、2番人気は当年の日本ダービー優勝馬[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]が推され4.2倍、以下メイショウドトウ、ステイゴールドと続いた。レースはスローペースで推移し、テイエムオペラオーは道中3~4番手、ステイゴールドが6~7番手、メイショウドトウとジャングルポケットがそれぞれ10~11番手を進んだ<ref name="yu0201-2" />。向正面からペースが上がっていき、最終コーナーから最後の直線に入るとテイエムオペラオーはいち早く先頭に立った<ref name="yu0201" />。テイエムオペラオーは単走状態では気を抜く傾向があり和田もそれは意識していたものの、すぐ後ろにいたステイゴールドが進出してきたことから、早めにリードをとる選択をしたものだった。テイエムオペラオーは独走態勢に入ったものの、やはり気を抜いてふらつき始め<ref name="yu0201" />、ゴール目前で大外から一気に伸びてきたジャングルポケットにクビ差かわされ、またも2着に終わった<ref name="yu0201-2" />。
和田は競走後、「3歳馬に負けたくない気持ちはあったんですが……。やっぱり目標にされるとつらいです。前回もそんな感じでしたから。周りにもうちょっと馬がいてくれたら良かったんですが……」と語り<ref name="ga01-2">『臨時増刊号 Gallop2001』pp.127-129</ref>、岩元は「結局、うちの馬に流れがこなかったということ」と述べた<ref name="yu0201" />。一方で、ジャングルポケットの管理調教師・[[渡辺栄]]は「最近のテイエムオペラオーの競馬を見ていますと、一番良いときに比べて少し力が落ちているように感じていました。あの馬の場合、競って負けたということを見たことがなかった。きょうは競って負かしたことでジャングルポケットの強さを感じました」との感想を述べている<ref name="ga01-2" />。
[[ファイル:Manhattan Cafe 20020428.jpg|サムネイル|マンハッタンカフェ。翌2002年の天皇賞(春)にも優勝した。]]
年末のグランプリ・有馬記念へ向けたファン投票では前年より票数を落としたものの、93217票を集めて2年連続の1位選出馬となる<ref>『優駿』2002年1月号、p.19</ref>。そして12月23日、引退レースとして有馬記念に臨んだ。当日は単勝オッズ1.8倍の1番人気の支持を受け<ref name="yu0202">『優駿』2002年2月号、pp.36-38</ref>、これで4(旧5)歳以降出走した全15戦で1番人気となり、1963~64年に走った[[メイズイ]]が保持していた連続1番人気記録を更新した<ref name="doudou" />。2番人気にメイショウドトウ、3番人気には当年の菊花賞優勝馬[[マンハッタンカフェ]]が推された<ref name="yu0202" />。スタートが切られるとレースはスローペースで流れ、テイエムオペラオーは中団から後方を進む。その前方を走っていたメイショウドトウは3番手まで進出したが、和田はこれを追うことなく、そのままテイエムオペラオーを控えさせた<ref name="yu0202" />。そして最終コーナーから最後の直線にかけて先行した[[トゥザヴィクトリー]]、[[アメリカンボス]]、メイショウドトウらを捉えに追い込みを始めたが、これらをかわすことができず、さらに後方から追い込んで勝利したマンハッタンカフェの後方で、生涯最低の5着となった<ref name="yu0202" />。
後方に位置したマンハッタンカフェが勝ったものの、展開としては先行有利であり、中団待機策をとった和田は「向正面でもう少し前につけておけばよかった」、「天皇賞かジャパンカップ、この秋どちらかひとつでも勝てていれば、もっとシャシャッと動けていたかも」と話し、検量室から引き上げる際にも「動いていかなきゃって、頭では分かっていたんやけど……」と何度も繰り返した<ref name="yu0202-2">『優駿』2002年2月号、pp.39-42</ref>。岩元は和田の騎乗に対して「全般的に大事に乗りすぎたんじゃないかな。まあ、終わってから言ってもな。うーん……終わったわ」と語った<ref>『臨時増刊号 Gallop2001』pp.4-5</ref>。
この有馬記念での賞金を加えたテイエムオペラオーの総獲得賞金は、自身が竹園に購買された価格の170倍超、当時2位のスペシャルウィークを7億円超上回る18億3518万9000円に及び<ref name="yu1203" />、この記録は2017年末にキタサンブラックに破られるまで16年間保持された。翌2002年1月13日、京都競馬場でテイエムオペラオーとメイショウドトウが合同での引退式が行われた。インタビューを受けた和田は「テイエムオペラオーからたくさんのものをもらいましたが、僕からは何もお返しできませんでした。これからは一流の男になって、彼に認められるように頑張ります」と、声を詰まらせながら話した<ref name="yu0202-3">『優駿』2002年2月号、p.107</ref>。引退式を終えた両馬は栗東トレーニングセンターへ戻されたのち、17日には共に種牡馬として繋養される北海道浦河町の[[イーストスタッド]]へ2頭揃って輸送された<ref name="yu0202-2" />。
=== 種牡馬時代 ===
種牡馬入りに際しては一般化していた[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]の組織は行われず、競走馬時代から引き続き竹園個人が所有した<ref name="kimu25">木村(2002)pp.218-219</ref>。近い年代でシンジケートが組まれなかった種牡馬が大きく成功した例はなく、早期に結果が出なければ生産者から見限られるのが早いというリスクもあった<ref name="yu0208">『優駿』2002年8月号、p.11</ref>。テイエムオペラオーほどの実績を残した馬が個人所有されることは非常に珍しかったが、シンジケート種牡馬は産駒が活躍すれば種付け株が高騰しシンジケート非加入の生産者が交配しにくくなり、その反対に低調に終われば加入者が損を被り、さらには手元に残る種付け株が[[不良債権]]のようになるおそれがあり、生産者たちにそうしたリスクを負わせたくない、というのが竹園の言であった<ref name="kimu25" />。また種牡馬としての繋養先は、テイエムオペラオーの故郷である浦河町のイーストスタッドと、[[日高軽種馬農業協同組合|日高軽種馬農協]]門別種馬場を1年ごとに行き来する形となった。イーストスタッドは中小生産者が集まる日高地方の東側に位置し、門別種馬場は西側に位置することから、地域の生産者に満遍なく便宜を図れるとされた<ref name="kimu25" />。ただし、当初は有力種牡馬が集う[[社台スタリオンステーション]]入りが模索されたが、交渉がうまくいかなかったともされる<ref name="bun">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/58321?page=2 |title=《産駒の4割が総賞金0円》G1・7勝馬のテイエムオペラオーとディープインパクトの決定的な違い |publisher=[[文春オンライン]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221029210344/https://bunshun.jp/articles/-/58321 |archivedate=2022年10月29日|date=2022年10月30日|accessdate=2022年11月5日}}</ref>。初年度の種付け料は500万円に設定され<ref name="yu0208" />、93頭へ交配された<ref name="meiba" />。
産駒デビューを待つ間の2004年には中央競馬の顕彰馬に選出され、殿堂入りを果たした。前年に記者投票制となって初めての選定投票が行われていたが、対象馬における引退からの年数制限がなく票が割れたことが影響して落選しており<ref name="sanspo">{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20220611-JH7SCXH4BVL3PIQ6NNS5XWGSJE/ |title=【甘口辛口】アーモンドアイが殿堂入りできなかったのは、新たに選定対象馬になったことを一部記者が見逃した? |author=鈴木学 |publisher=sanspo.com |accessdate=2022年11月5日 |date=2022-6-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220610223532/https://www.sanspo.com/article/20220611-JH7SCXH4BVL3PIQ6NNS5XWGSJE/ |archivedate=2022年6月10日}}</ref>、当年は「(1)1983年以前に競走馬登録を抹消された馬」、「(2)1984年1月1日から2003年3月31日の間に競走馬登録を抹消された馬」という2つの投票区分に分けられたうえで(2)の区分において選出された<ref name="ken">{{Cite web|和書|url=http://www.keibado.ne.jp/keibabook/040510/plaza_t.html |title=オペラオー、タケシバオー顕彰馬に |author= |publisher=競馬道online |accessdate=2022年11月5日 |date=2004-5-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040803230426/http://www.keibado.ne.jp/keibabook/040510/plaza_t.html |archivedate=2004年8月3日 }}</ref>。なお、(1)の区分で[[タケシバオー]]も選出されていたが<ref name="ken" />、その後顕彰馬選定投票の対象馬は一律に「引退後20年以内」に改められた<ref name="sanspo" />。サンケイスポーツ記者の鈴木学は「初年度にテイエムオペラオーが落選したことが契機」になったとしている<ref name="sanspo" />。
2005年に初年度産駒がデビューするも、年々競馬のスピード化が進む傾向にそぐわないスタミナタイプの仔が多く、種牡馬生活通算の成績で勝率は5%、1を平均値とするアーニング・インデックスで0.75と、いずれも平均値を下回っている<ref name="bun" />。産駒からは障害重賞で3勝を挙げた[[テイエムトッパズレ]]、中央競馬のオープン馬では6勝を挙げたタカオセンチュリーや、1200メートル戦で5勝を挙げたメイショウトッパ―などが出たが平地重賞を勝つことはできなかった<ref name="bun" />。また、著名な相手牝馬では[[テイエムオーシャン]]と3年連続で交配されたが、テイエムオペラドンが1勝を挙げたのみに終わっている<ref name="bun" />。種牡馬総合ランキングの最高成績は、2008年の37位であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/sire/record/ |title=テイエムオペラオー 種牡馬成績 |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年11月5日 |date=}}</ref>。
[[2010年]]いっぱいで門別種馬場が閉鎖されるのにともない、同年6月に[[テイエム牧場]]の日高支場に移動<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=47320 |title=テイエムオペラオー、ブラックタキシードが移動 |author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2022年11月5日 |date=2010-7-7 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210825120241/https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=47320 |archivedate=2021年8月25日}}</ref>、さらに11月には[[レックススタッド]]へ移動し<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.sp.netkeiba.com/?pid=news_view&no=50946 |title=テイエムオペラオーがレックススタッドに入厩 |author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2022年11月5日 |date=2010-11-3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150504080624/http://news.sp.netkeiba.com/?pid=news_view&no=50946 |archivedate=2015年5月4日}}</ref>、その後さらに白馬牧場([[新冠町]])に移動したが、竹園の意向によって所在地は非公開とされていた<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2018/05/20/kiji/20180520s00004000188000c.html |title=世紀末覇王・テイエムオペラオー死す 和田竜二悲痛「天国から見守って」 |newspaper=Sponichi Annex |date=2018-05-20 |accessdate=2018-05-20}}</ref>。
晩年まで種牡馬としての活動を続けていたが、2018年5月17日の放牧中に心臓まひで倒れ、同日に死亡した<ref name="goku">{{Cite web|和書|url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201805210000163&year=2018&month=05&day=21 |title=テイエムオペラオー突然死、22歳 放牧中倒れる |author= |publisher=極ウマ(日刊スポーツ) |accessdate=2022年11月5日 |date=2018-5-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221105014640/https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201805210000163&year=2018&month=05&day=21 |archivedate=2022年11月5日}}</ref>。22歳没。当年も5頭の繁殖牝馬に種付け予定で、そのうち2頭への種付けを終えた矢先の出来事であった<ref name="goku"/>。その死を受けて東京、中山、京都、阪神および小倉の各競馬場には来場者を対象に記帳台が設けられ、11000筆以上が寄せられた<ref name="irei">{{Cite news |url=https://uma-furusato.com/news/93896.html |title=白馬牧場でテイエムオペラオー、ゴスホークケンの合同慰霊祭|newspaper=競走馬のふるさと案内所 |date=2018-06-18 |accessdate=2018-06-18}}</ref>。また、5月26日実施の東西メイン競走には「テイエムオペラオー追悼レース」の副称が冠された<ref>{{Cite web|和書|url=https://sarabure.jp/articles/40866 |title=テイエムオペラオー追悼行事をJRAが開催 |author= |publisher=サラブレモバイル |accessdate=2022年11月5日 |date=2018-5-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221105022702/https://sarabure.jp/articles/40866 |archivedate=2022年11月5日}}</ref>。6月15日には、同じく5月に白馬牧場で死亡した[[ゴスホークケン]]と合同での慰霊祭が挙行され、関係者やファンら約50人が参列した<ref name="irei" />。
== 競走成績 ==
以下の内容は、JBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/record/|title= テイエムオペラオー 競走成績|work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2022-02-04}}</ref>およびnetkeiba.com<ref name="netrcd">{{Cite web|和書|url=https://db.sp.netkeiba.com/horse/result/1996100292/|title=テイエムオペラオーの競走成績|work=netkeiba|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2021-02-15}}</ref>に基づく。
{|style="font-size:90%;text-align:center;border-collapse:collapse;white-space:nowrap"
|-
!colspan="3"|年月日!!競馬場!!競走名!![[競馬の競走格付け|格]]!!頭<br />数
!枠<br />番
!馬<br />番!!オッズ<br>(人気)!!着順!!距離(馬場)!!タイム<br>([[上がり (競馬)|上り]]3[[ハロン (単位)|F]])!!騎手!!1着(2着)馬
|-
|[[1998年|1998.]]
|8.
|[[8月15日|15]]
|[[京都競馬場|京都]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
|12
|6
|8
|1.5(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1600m(良)
|1:36.7 (36.9)
|[[和田竜二]]
|クラシックステージ
|-
|[[1999年|1999.]]
|1.
|[[1月16日|16]]
|京都
|4歳未勝利
|
|16
|6
|12
|3.9(2人)
|4着
|ダ1400m(良)
|1:28.0 (37.2)
|和田竜二
|ゼンノホーインボー
|-
|
|2.
|[[2月6日|6]]
|京都
|4歳未勝利
|
|10
|2
|2
|1.8(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1800m(良)
|1:55.6 (38.3)
|和田竜二
|(ヒミノコマンダー)
|-
|
|2.
|[[2月27日|27]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
|ゆきやなぎ賞
|
|14
|8
|13
|4.8(2人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(稍)
|2:05.3 (36.6)
|和田竜二
|(アンクルスルー)
|-
|
|3.
|[[3月28日|28]]
|阪神
|[[毎日杯]]
|{{GIII}}
|14
|1
|1
|7.3(3人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(良)
|2:04.1 (36.7)
|和田竜二
|(タガノブライアン)
|-
|
|4.
|[[4月18日|18]]
|[[中山競馬場|中山]]
|[[皐月賞]]
|{{GI}}
|17
|6
|12
|11.1(5人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(良)
|2:00.7 (35.2)
|和田竜二
|([[オースミブライト]])
|-
|
|6.
|[[6月6日|6]]
|[[東京競馬場|東京]]
|[[東京優駿]]
|{{GI}}
|18
|7
|14
|4.2(3人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝2400m(良)
|2:25.6 (35.3)
|和田竜二
|[[アドマイヤベガ]]
|-
|
|10.
|[[10月10日|10]]
|京都
|[[京都大賞典]]
|{{GII}}
|10
|8
|10
|5.5(3人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝2400m(良)
|2:24.4 (34.3)
|和田竜二
|[[ツルマルツヨシ]]
|-
|
|11.
|[[11月7日|7]]
|京都
|[[菊花賞]]
|{{GI}}
|15
|3
|4
|3.5(2人)
|{{color|darkblue|2着}}
|芝3000m(良)
|3:07.7 (33.8)
|和田竜二
|[[ナリタトップロード]]
|-
|
|12.
|[[12月4日|4]]
|中山
|[[ステイヤーズステークス|ステイヤーズS]]
|{{GII}}
|14
|6
|10
|1.1(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|芝3600m(良)
|3:46.2 (35.8)
|和田竜二
|[[ペインテドブラック]]
|-
|
|12.
|[[12月26日|26]]
|中山
|[[有馬記念]]
|{{GI}}
|14
|6
|11
|12.0(5人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|芝2500m(良)
|2:37.2 (34.9)
|和田竜二
|[[グラスワンダー]]
|-
|[[2000年|2000.]]
|2.
|[[2月20日|20]]
|京都
|[[京都記念]]
|{{GII}}
|11
|7
|8
|1.9(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2200m(良)
|2:13.8 (34.4)
|和田竜二
|(ナリタトップロード)
|-
|
|3.
|[[3月19日|19]]
|阪神
|[[阪神大賞典]]
|{{GII}}
|9
|1
|1
|2.0(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝3000m(稍)
|3:09.4 (35.3)
|和田竜二
|([[ラスカルスズカ]])
|-
|
|4.
|[[4月30日|30]]
|京都
|[[天皇賞(春)]]
|{{GI}}
|12
|5
|5
|1.7(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝3200m(良)
|3:17.6 (34.4)
|和田竜二
|(ラスカルスズカ)
|-
|
|6.
|[[6月25日|25]]
|阪神
|[[宝塚記念]]
|{{GI}}
|11
|1
|1
|1.9(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2200m(良)
|2:13.8 (35.7)
|和田竜二
|([[メイショウドトウ]])
|-
|-
|
|10.
|[[10月8日|8]]
|京都
|京都大賞典
|{{GII}}
|12
|1
|1
|1.8(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(良)
|2:26.0 (33.3)
|和田竜二
|(ナリタトップロード)
|-
|
|10.
|[[10月29日|29]]
|東京
|[[天皇賞(秋)]]
|{{GI}}
|16
|7
|13
|2.4(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(重)
|1:59.9 (35.3)
|和田竜二
|(メイショウドトウ)
|-
|
|11.
|[[11月26日|26]]
|東京
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|{{GI}}
|16
|4
|8
|1.5(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(良)
|2:26.1 (35.2)
|和田竜二
|(メイショウドトウ)
|-
|
|12.
|[[12月24日|24]]
|中山
|有馬記念
|{{GI}}
|16
|4
|7
|1.7(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2500m(良)
|2:34.1 (36.4)
|和田竜二
|(メイショウドトウ)
|-
|[[2001年|2001.]]
|4.
|[[4月1日|1]]
|阪神
|[[大阪杯|産経大阪杯]]
|{{GII}}
|14
|8
|14
|1.3(1人)
|4着
|芝2000m(良)
|1:58.7 (35.6)
|和田竜二
|[[トーホウドリーム]]
|-
|
|4.
|[[4月29日|29]]
|京都
|天皇賞(春)
|{{GI}}
|12
|1
|1
|2.0(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝3200m(良)
|3:16.2 (35.5)
|和田竜二
|(メイショウドトウ)
|-
|
|6.
|[[6月24日|24]]
|阪神
|宝塚記念
|{{GI}}
|12
|4
|4
|1.5(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|芝2200m(良)
|2:11.9 (35.0)
|和田竜二
|メイショウドトウ
|-
|
|10.
|[[10月7日|7]]
|京都
|京都大賞典
|{{GII}}
|7
|5
|5
|1.4(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(良)
|2:25.0 (34.1)
|和田竜二
|([[スエヒロコマンダー]])
|-
|
|10.
|[[10月28日|28]]
|東京
|天皇賞(秋)
|{{GI}}
|13
|5
|6
|2.1(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|芝2000m(重)
|2:02.2 (35.8)
|和田竜二
|[[アグネスデジタル]]
|-
|
|11.
|[[11月25日|25]]
|東京
|ジャパンC
|{{GI}}
|13
|5
|6
|2.8(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|芝2400m(良)
|2:23.8 (35.1)
|和田竜二
|[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]
|-
|
|12.
|[[12月23日|23]]
|中山
|有馬記念
|{{GI}}
|13
|8
|12
|1.8(1人)
|5着
|芝2500m(良)
|2:33.3 (34.3)
|和田竜二
|[[マンハッタンカフェ]]
|}
=== レーティング ===
{| class="wikitable"
!年度!!馬齢!!馬場!!距離区分([[メートル|m]])!!値!!対象!!出典
|-
|1999年||4(3)歳||rowspan="6"|芝||L(2200-2799)||119||rowspan="6"|JPNクラシフィケーション||<ref name="yu0002-4" />
|-
|rowspan="3"|2000年||rowspan="3"|5(4)歳||I(1900-2199)||'''121'''||rowspan="3"|<ref name="yu0102" />
|-
||L(2200-2799)||'''122'''
|-
||E(2800-)||'''117'''
|-
|rowspan="2"|2001年||rowspan="2"|5歳||L(2200-2799)||122||rowspan="2"|<ref name="yu0202-4">『優駿』2002年2月号、pp.70-73</ref>
|-
||E(2800-)||'''117'''
|}
※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。'''強調'''は区分における年度の最高値。
=== 記録(引退時) ===
'''獲得賞金'''
*歴代最高賞金獲得: 18億3518万9000円<ref name="yu1203">『優駿』2012年3月号、pp.12-13</ref>
*歴代最高年間賞金獲得: 10億3600万4000円<ref name="yu1203" />
'''勝利数・連勝記録'''
*GI通算最多勝利: 7勝(タイ)<ref name="yu0106" />
*GI年間最多勝利: 5勝<ref name="gallo6" />
*GI最多連勝: 6連勝<ref>『優駿』2001年6月号、p.147</ref>
<!-- *GI最多連対: 11連対 ※出典のない記述をコメントアウト。復帰の場合は出典を付してください-->
*GI最多連続連対: 9連続連対<ref name="doudou" />
*重賞最多勝利: 12勝(タイ記録)<ref>『臨時増刊号 Gallop2000』p.161</ref>
*重賞最多連勝: 8連勝(タイ記録)<ref name="gallo6" />
<!-- *重賞年間最多勝利: 8勝 ※出典のない記述をコメントアウト。復帰の場合は出典を付してください-->
*天皇賞最多勝: 3勝<ref name="yu0106-2" />
*主要全4場([[東京競馬場|東京]]・[[中山競馬場|中山]]・[[京都競馬場|京都]]・[[阪神競馬場|阪神]])でGI勝利(グレード制導入後初)<ref name="yu0012-2" />
'''人気'''
*連続1番人気: 15戦<ref name="doudou" />
== 重賞勝利産駒 ==
'''中央競馬重賞勝利馬'''
*[[テイエムトッパズレ]](2003年産 2008年[[京都ジャンプステークス]] 2009年[[京都ハイジャンプ]]、[[東京ハイジャンプ]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000758405/ |title=テイエムトッパズレ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*[[テイエムエース]](2003年産 2008年東京ハイジャンプ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000761188/ |title=テイエムエース |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
'''中央競馬オープン競走勝利馬'''
*ダイナミックグロウ(2004年産 2008年阿蘇ステークス、ほか地方競馬重賞2勝)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000806848/ |title=ダイナミックグロウ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムキュウコー(2011年産 2013年[[ひまわり賞_(小倉競馬)|ひまわり賞]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001139852/ |title=テイエムキュウコー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムヒッタマゲ(2014年産 2017年昇竜ステークス、ほか地方競馬重賞1勝)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001188622/ |title=テイエムヒッタマゲ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
'''地方競馬重賞勝利馬'''
*カゼノコウテイ(2003年産 2010年[[瑞穂賞]]・[[門別競馬場|門別]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000751346/ |title=カゼノコウテイ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムハエドー(2003年産 2006年[[肥後の国グランプリ]]・[[荒尾競馬場|荒尾]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000760169/ |title=テイエムハエドー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*タカオセンチュリー(2003年産 2011年[[アフター5スター賞]]・[[大井競馬場|大井]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000755066/ |title=タカオセンチュリー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムジカッド (2004年産 2007年[[たんぽぽ賞]]・荒尾 2008年[[霧島賞]]・荒尾) <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000799046/ |title=テイエムジカッド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*バグパイプウィンド(2004年産 2009年[[金盃]]・大井)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000807170/ |title=バグパイプウィンド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムヨカドー(2004年産 2010年霧島賞・荒尾 2011年[[東京シンデレラマイル]]・大井)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20100826/233/09/ |title=テイエムヨカドー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムヒッカテ(2006年産 2009年[[門松賞]]・荒尾)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000996322/ |title=テイエムヒッカテ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムハエンカゼ(2009年産 2011年霧島賞・荒尾 2011年たんぽぽ賞・荒尾)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001104772/ |title=テイエムハエンカゼ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムゲッタドン(2011年産 2014年霧島賞・荒尾)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001104772/ |title=テイエムハエンカゼ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムマケンゲナ(2013年産 2017年すみれ賞・[[佐賀競馬場|佐賀]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001171130/ |title=テイエムマケンゲナ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムサツマオー(2018年産 2021年[[飛燕賞]]・佐賀)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001263092/ |title=テイエムサツマオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
== 特徴・評価 ==
=== 身体面に関する特徴・評価 ===
==== 心臓の強さ ====
2001年春、それぞれ日本中央競馬会(JRA)の傘下にある競走馬総合研究所、日高育成牧場研究室、そして美浦・栗東両トレーニングセンターの診療所が合同し、競走馬の運動強度に伴う負荷の掛かり方を明らかにする「運動負荷試験システムの確立と応用試験」というプロジェクトが発足した。従来JRAは実験馬や馬主に配布される前の[[抽せん馬]]を対象にデータを収集していたが、当プロジェクトは現役競走馬を対象にデータを取ることになり、対象馬の1頭にテイエムオペラオーが選ばれた<ref name="yu0203">『優駿』2002年3月号、pp.99-104</ref>。
これ以前から、テイエムオペラオーを診察していた栗東トレーニングセンターの獣医師は、その心拍数がおおよそ26~28回/毎分と、一般例(約36回/毎分)に比較して非常に少なく、同時に時折「拍動を1回飛ばしたのではないか」と誤認するほど、鼓動と鼓動の間に長い沈黙が現れる例があることを観察していた<ref name="yu0203" />。拍動数が少ないということは、拍動1回あたりの体内への血液拍出量が多いということで、血液拍出量が多いということは体内に送れる酸素量が多く、身体負荷の掛かりにくい[[有酸素運動]]をより長く続けることができると推測された<ref name="yu0203" />。拍動数に関しては、この獣医師の経験上で近い数字の持ち主は、1997年の菊花賞優勝馬[[マチカネフクキタル]]で毎分28回、また伝聞ではシンボリルドルフが毎分30回程度だったとされる<ref name="yu0203" />。また岩元は経験的に、運動後のテイエムオペラオーの息遣いが平常に戻るのが非常に早いという印象を抱いていた<ref name="yu0203" />。
2001年宝塚記念前の追い切りで4歳500万下<ref group="注釈">2019年以降のクラス呼称は「1勝クラス」。</ref>のトップジョリーと共に採取されたデータでは、まず運動強度の低いタイム計測4分前の段階では、トップジョリーの心拍数130に対してテイエムオペラオーは同80<ref name="yu0203" />、そして運動強度が上がるとテイエムオペラオーの心拍数はトップジョリーよりも素早く上昇しながらも最大心拍数は同馬より少なく(トップジョリー234回/毎分、オペラオー219回/毎分<ref name="souken">{{Cite web|和書|url=http://www.equinst.go.jp/JP/topics/eto.html|title=テイエムオペラオーの強さの秘密|publisher=競走馬総合研究所|writer=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061206003706/http://www.equinst.go.jp/JP/topics/eto.html|archivedate=2006年12月31日|date=2002年7月1日|accessdate=2022年10月22日}}</ref>)、ゴール地点を過ぎて心拍数が100回/毎分まで戻る時間も、同1230秒に対して490秒とテイエムオペラオーの方が早かった<ref name="souken" />。調教全体のタイムは全体の6ハロン(1200メートル)でトップジョリーが84秒3に対しテイエムオペラオーが80秒9、最後の1ハロンで前者が13秒6、後者が12秒3というもので、テイエムオペラオーの方が遥かに速かったが、ゴールから4分後に計測された血中[[乳酸]]濃度(体内の酸素を使い果たした後に増加する)は前者が19.22、後者が15.35とテイエムオペラオーの方が少なく酸素摂取効率が非常に優れており<ref name="yu0203" />、競走馬総合研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持った競走馬であることが証明されました」とした<ref name="souken" />。また、2歳8月の実験馬との心臓自体の比較では、心臓の強靭さの目安となる心室厚が実験馬の約1.5倍、1回の血液拍出量は同1.8倍という驚異的な数値であった<ref name="yu0203" />。
また、宝塚記念後に計測された安静時心拍数は、担当獣医師が以前から観察していた回数を裏付ける25回/毎分であり、また独特の心音の「飛び」も心電図上に記録されていた。心電図から算出された、[[交感神経系|交感神経]]・[[副交感神経系|副交感神経]]のバランスを示すHF(高周波帯域)パワー、LF(低周波帯域)パワーは、同じく実験に協力していた[[アグネスタキオン]]などと比較しても格段に良好な数値であった<ref name="yu0203" />。この部分に関して、実験を担当した獣医師は岩元への報告書で「今後何かの機会に別の馬で(より)高い数値が記録される機会があるかもしれませんが、おそらくサラブレッド競走馬のMaxの数値に近いのではないでしょうか」と記している<ref name="yu0203" />。
==== 食の細さ ====
テイエムオペラオーは、岩元が「こんな馬、男馬では初めて」と嘆くほど「飼い食いが悪い(食が細い)」馬であった<ref name="yu0005-3" /><ref group="注釈">競馬用語で、食が細い、細りやすい様子を言う。「飼い」は飼い葉=飼料のこと。</ref>。イーストスタッド場長の前田秀二によれば、栗東から北海道への輸送中、テイエムオペラオーは飼い葉を全く口にせず、丸ごとの[[人参]]も食べず、細かく刻んだ人参を床に叩きつけて柔らかくしたものを桶に入れてようやく口にしたという<ref name="kimu24">木村(2002)pp.248-255</ref>。この食の細さは、後述する国外への遠征をしなかった理由のひとつとしても挙げられた<ref name="Gallop2000" />。競走前にはしばしば、飼い食いの悪さに岩元の「泣き」が入ることが恒例となっていたが、一方でこれは「人気の重圧を少しでも和らげようと思って、少しオーバーに言っていただけ。口ほど深刻にはとらえていなかった」とも振り返っており<ref name="meiba" />、また「飼い食いが悪い」わけではなく「食べるのが遅い」馬だったのだともしている<ref>杉本(2001)p.176</ref>。
=== 競走能力・レーススタイルに関する特徴・評価 ===
騎手を務めた和田は、「『勝った』と思ったらすぐに気を抜く。そんな賢さを持った馬でした。圧勝したレースがほとんどないのはそのため。あれだけ長い間好調を維持できたのは必要以上の力を使わなかったから、という面もあると思うんですよ。後続をぶっちぎって勝つような、瞬間的な強さが高い評価を受けるのは分かりますが、あの馬みたいな長期間にわたる強さにも、すごく価値があると思う。馬の評価は見る人にもよって分かれるんだろうけど、もちろん僕の中ではテイエムオペラオーこそが理想の名馬です」としている<ref name="meiba">『名馬物語』pp.148-154</ref>。
[[安藤勝己]]は「ここ10年ぐらいでは抜けて強い馬だと思う。突き放して勝つとか大差で勝つとか、そういう馬は負けるときコロッとやられるけど、テイエムみたいな馬はそういう風にならないもの。引退すりゃ分かるよ。あの馬がどれだけ強かったか」と評した<ref name="takara0001">『競馬名馬&名勝負年鑑 2000-2001』pp.57-58</ref>。また[[後藤浩輝]]は「相手のことを分析するとき、この馬はどういうタイプの馬なのか、その弱点をつかむのが攻略するポイントになるけど、テイエムオペラオーに関しては、それが見えてこない。故障がないというのも凄いことなんだけど、レースにおいていつもこういうレースをやっているとか、こうしたらこうなるということが全然、テイエムオペラオーには見えてこない。それがあの馬の強さの秘密なんじゃないか」と述べている<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 2000-2001』p.18</ref>。[[武豊]]は「強いんじゃないですか。本当に強いと思いますよ。いつも離して勝つわけじゃないから負ける方にしてみればどうにかすれば勝てるんじゃないかと思うんですが勝てませんものね」と述べている<ref name="yu0107">『優駿』2001年7月号、p.52</ref>。
[[野平祐二]]は、テイエムオペラオーの特徴は[[故障]]を心配するほどに「いつも真面目に走っている」点にあるとし、「あれだけレースに行ってしっかり走るという馬はほとんど出てこない」、「[[リボー]]や[[ミルリーフ]]と比較しても負けない」と評した<ref name="Gallop2000" />。また野平はテイエムオペラオーの真骨頂は「馬群を割って伸びる闘争心」にあるとしている<ref name="yu0101">『優駿』2001年1月号、pp.16-17</ref>。ライターの[[栗山求]]は「まあとにかく『ミスター写真判定』って名付けたいぐらいゴール前の競り合いには強い」と評している<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 2000-2001』pp.112-113</ref>。
アナウンサーの[[杉本清]]は「相当、強い馬には違いないのですが、走っても走っても、勝っても勝っても強いという印象を与えない、不思議な馬」であるとし、その理由として「"相手をねじ伏せる"というような競馬をするタイプではない」、「馬体から迫力を感じる馬ではない」という2点を挙げている。その上で「結果が示しているように、この馬はたしかに強いのです。レースぶりを見て感じるのは、"本当の芯の強さ"がある馬だということです。ねじ伏せる強さはないけれど、どんな展開にも対応できるし、気が付けば勝っているという、見たイメージとは裏腹の、そんな強さを持った馬だと思います」と評している<ref>杉本(2001)p.168</ref>。
着差をつけずに渋太く勝つというスタイルは、往年の五冠馬[[シンザン]]に擬せられ、有馬記念の優勝時には「平成のシンザン」という声もあった<ref name="yu0102-4">『優駿』2001年2月号、pp.10-13</ref>。ステイゴールドの管理調教師・[[池江泰郎]]はテイエムオペラオーを評して「勝負を知っている馬ですね。ゴールがどこにあるかわかっている感じがします。それを示すように接戦のレースが多い。ゴール前ちょっとでも、頭でもクビでもスッと抜け出すのが一番強い馬なんですよ。シンザンもそうでしたから」と述べ<ref name="yu0111">『優駿』2001年11月号、pp.10-11</ref>、ライターの江面弘也は「テイエムオペラオーのレースは地味だった。レコードも大差勝ちもいらない、ハナ差でも勝ちは勝ち、という『シンザンタイプ』の馬だった」としている<ref>『ニッポンの名馬 - プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』p.43</ref>。2000年のシーズンは傑出した成績を残しながら、同じ顔触れの2着馬との着差がなかったことでレーティング面では高い数値にならなかったが、選考の席上では「シンザンもおそらく高いレーティングがつく馬ではなかっただろう」と話題に上ったという<ref name="yu0102">『優駿』2001年2月号、pp.27-34</ref>。
=== レーティングによる評価 ===
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller; text-align:center; margin:10px"
! colspan="6" |2001年から過去5年間の年度最高レート(芝)
|-
!年
!馬名
!区分(m)
!値([[ポンド (質量)|pds]])
!出典
|-
|1997
|[[バブルガムフェロー]]
|L(2200-2799)
|121
|rowspan="5"|<ref name="yu0202-4" />
|-
|1998
|[[サイレンススズカ]]<br />[[タイキシャトル]]
|M(1400-1899)
|122
|-
|1999
|[[エルコンドルパサー]]
|L(2200-2799)
|134
|-
|2000
|'''テイエムオペラオー'''
|L(2200-2799)
|122
|-
|2001
|[[エイシンプレストン]]<br />[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]
|M(1400-1899)<br />L(2200-2799)
|123
|}
テイエムオペラオーのレーティングによる最高数値は、2000年と2001年のジャパンカップで記録したL(Long)コラム122となった。2000年においては年度の日本調教馬全体の最高数値となったが、過去の数値と比較した場合、フランス遠征のなかで日本調教馬として歴代最高数値を得た[[エルコンドルパサー]]の134、日本国内においても前年スペシャルウィークの123を下回っており、決して低くはないものの突出して高いものでもなかった。『優駿』は「GI5勝今季無敗のテイエムだけに、全体に評価が低いのではないか、と感じる方は少なくないように思う」とし、その選考過程を詳説した<ref name="yu0102" />。
まずジャパンカップにおけるレート決定にあたり、「基準馬」とされたのは安定性の高い能力をもつファンタスティックライトであった。日本のハンデキャッパーは当初、同馬がキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの2着で得ていた「124」の数値を基準として、その馬に勝利したこと、さらに「テイエムオペラオーが今季に残した着差以上のパフォーマンスをプラスαとして加味したい」という考えから、「125」のレートを提案していた。しかし他の各国ハンデキャッパーから「スローペースからの上がり勝負となったジャパンカップの展開で、後方から差し切ることができなかったファンタスティックライトがトップパフォーマンスを示したとは考えられない」と異論が上がり、マンノウォーステークスで得ていた120ポンドが基準値とされ、着差を2ポンド分として加えた122ポンドがテイエムオペラオーの数値とされた<ref name="yu0102" />。『優駿』は「テイエムオペラオーが残した実績は、空前にしておそらく絶後ともなり得るものである。多くの称賛をもって讃えられるべき歴史的名馬であるといえる。だがまた、競走能力を指数化したレーティングは積み重ねた記録とは別物であるということだ」と、この解説を結んだ<ref name="yu0102" />。
JRA審判部首席ハンデキャップ役の甲佐勇と古橋明は、当時まだ新しい指標であった国際的な「クラシフィケーション(レーティング)」と、かつて日本で評価指標となっていた「フリーハンデ」の違いを問われ、「クラシフィケーションは1レースごとの評価なんです。各国のハンデキャッパーがレースを見て、こっちは何[[ポンド (質量)|ポンド]]、あっちは何ポンドと決めていきます。<small>''(中略)''</small>一方、フリーハンデはタイトル数や通年の活躍ぶりを評価して付けていた部分がありました。シンザンやシンボリルドルフのように、連勝してGIを数多く勝つと高くなるわけです。テイエムオペラオーもフリーハンデならもっと高くなったはずです。でも1レースごとの評価だと、そうはいかない。クラシフィケーションでは、他の馬との着差がポンド差に反映されるんです。だから、いつも僅差で勝つテイエムオペラオーはなかなか高くならないんですよ」と解説し、また同時に「ファンタスティックライトを負かしたテイエムオペラオーの強さというのは、海外へ行っていなくても認識されていますし。ただアウェーに行って活躍してもらわないと、なかなかクラシフィケーションには反映されないのは事実ですね」とレート決定の内実を語っている<ref>『優駿』2001年11月号、pp.80-81</ref>。
=== 大衆的人気の低さ ===
{{Quotation|テイエムオペラオーは、勝っても勝っても人気が出なかった。成績でははるかに下のナリタトップロードなどの方がファンの声援を集めることも少なくなかった。デビューから引退までテイエムオペラオーの手綱を取りつづけた和田竜二は、この不条理にがまんがならず、あるトークショーの席で『どうしてぼくの馬には人気がないんですか』とファンに問いかけたこともあった。|阿部珠樹『優駿』2004年3月号「記憶に残る名馬たち - 年代別代表馬BEST10」<ref name="yu0403">『優駿』2004年3月号、pp.30-31</ref>}}
競走馬時代のテイエムオペラオーは、しばしば「人気がなかった」とされる。和田自身、テイエムオペラオーの人気(大衆的人気)の低さについては「日本人の[[判官贔屓|判官びいき]]っていうのを感じさせられましたね。きっと外国だったら、勝てば勝つほど人気が上がり、すごいアイドルホースになっていたでしょう。でも日本じゃ、勝つだけでは強い印象を与えられないんですね」との感想を述べている<ref name="doudou"/>。
[[河村清明]]は2000年のテイエムオペラオーの戦績を取り上げて「まさに非の打ち所のない活躍を見せた。1年を通じて、同馬の好調をキープした陣営の手腕は見事だったし、また接戦を必ずものにした勝負強さは稀有なものだったと評価できる」としながらも、「巷間言われるように、テイエムオペラオーには人気がなかった。本来であれば、『どこまで勝ち続けるのか』といった期待がファンに醸成されるはずなのに、そういった気配は感じられず」と続け、その理由として、テイエムオペラオーが連勝中の各競走がどれも似通った展開だったこと、代表的なライバルだったナリタトップロード、メイショウドトウの騎乗に「何の工夫もなく、歯がゆく映って仕方なかった」こと、さらに両馬とテイエムオペラオーの力関係が「展開ひとつで着順の変わる力関係であったのはおよそ間違いなく、''(中略)''テイエムオペラオーを含めた上位の馬たちは、本当に強いのかと、ファンは信じることができなかったのだ」と論じた<ref name="kawa">河村(2003)pp.326-327</ref>。河村はまた、2001年のテイエムオペラオーが新世代の馬たちに敗れ続けた事実をもって、「むろん加齢による能力の衰えは考えられる」としつつも、「オペラオーが絶対的存在でなかったのは間違いなく、ファンはそれを00年の時点で見抜いていたのだ。あの馬の人気のなさは、ファンの眼力の向上を如実に証明していたと私は信じている」と結んでいる<ref name="kawa" />。また[[吉田均]]も、テイエムオペラオーが勝ったレースの2着馬が「つねにメイショウドトウ、ほかでもナリタトップロードとラスカルスズカ」とバリエーションに乏しいことを取り上げ、「グラスワンダーとスペシャルウィークがいて2000年を勝ち続けていたら凄いと思うし、スター性もあったと思う。本当にスター性がないよね」と評した<ref name="Gallop2000">『臨時増刊号 Gallop2000』pp.11-17</ref>。
競馬評論家の[[井崎脩五郎]]はテイエムオペラオーの競走生活を総括し「ぼくが一番強いと思っているスペシャルウィーク世代にはオペラオーはかなわなかったと思うな。あの世代が根こそぎいなくなったし、海外の方が日本より景気がよくなって一流馬が日本に来なくなった時期とも重なるんだもの。ひとつ上は強いけど、ひとつ下はすごく弱いんだもの」と述べ、一年下の世代ではテイエムオペラオーを破ったアグネスデジタルだけが強かったとし、「テイエムオペラオーはいちばんいいとこで勝っている」とした<ref name="gallo01">『臨時増刊号 Gallop2001』p.11</ref>。それを受けて、キャスターの[[鈴木淑子]]が「シンボリルドルフを超える馬かというと『?マーク』がつくのは、めぐり合わせがよくて勝てていると思われているからですか」と問うと「みんなが納得しないのは、それがあるからだろうね」と述べ、同時にファンからの人気が乏しい理由もそこに関係するのではないかとした<ref name="gallo01" />。
[[柴田政人]]は人気に乏しい要因を「毛色にもよるんじゃないか」と推測し、これを受けた[[野平祐二]]は「テイエムオペラオーは栗毛でもちょっと色の濃い、栃かかった(栃栗毛に近い)色なんです。グッドルッキングホースというのは結構いるんですよ。それはそれなりに走るんですが、グッドホースになると違うんです。見た目は称賛されなくても競馬にいくと強い馬をそういうんです。テイエムオペラオーは、まさにグッドホースですよね」と称えつつも、「色(の影響)はある」とした<ref name="Gallop2000" />。
江面弘也は「勝ち方が地味だとか、名前が悪いとか、あるいは負かした相手が弱すぎるだとか、アンチオペラオーの言い分はさまざまだが、若いファンやマスコミが飛びつく血統や話題性がないのが最大の理由だと私は思っている。たとえば武豊が乗る有力厩舎のサンデーサイレンス産駒だったならば、ずいぶんと状況が違ったはずだ」としている<ref name="turf00-2">『優駿増刊号 TURF HERO 2000』pp.132</ref>。[[須田鷹雄]]は、テイエムオペラオーを支持するファンが「競馬場にはいるのかもしれないけれど、競馬マスコミとか、それを読むファンは支持していないのかもしれませんね。競馬メディアが増えてきて、ひねった見方を提示しなければいけないという考えが固定化し、浸透しすぎてしまった感じもありますから」との見解を示し、これを受けた[[柏木集保]]は「それはある意味真理でしょうね」と応じている<ref name="turf00">『優駿増刊号 TURF HERO 2000』pp.137-140</ref>。阿部珠樹は「血統はサンデーサイレンスとは無縁だった。自厩舎の若い騎手が最後まで手綱を取りつづけた。春も秋も、2000メートル以上のGIにはすべて出走した。しかも2シーズンつづけて。そして国内最強を謳われながら、海外遠征のそぶりも見せなかった。時代の傾向とことごとく反する中で、名馬としての地位を固めていった。それがテイエムオペラオーである」と評し、「アイドル的人気のなさ、反時代的孤立は、むしろ、この馬の勲章といえるのではないか」、「この馬の評価は、10年、20年経って高まるのではないか」とした<ref name="yu0403" />。
=== なぜ国外遠征をしなかったのか ===
[[ファイル:El Condor Pasa 19991128I1.jpg|サムネイル|エルコンドルパサー。スペシャルウィーク、グラスワンダーの同期馬であり、フランスでサンクルー大賞に勝利したほか、凱旋門賞2着などの成績を残した。]]
伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』の著者・木村浚太は、同書あとがきの冒頭で「私は常々、テイエムオペラオーに対する世間の評価の低さが不思議でなりませんでした」と書き出し、その「評価の低さ」を生んだ最大の理由を「"ひとり[[横綱]]"だったことと、海外遠征を断念(あるいは拒否)したことによる」とし、これがため「最後の最後まで『テイエムオペラオーは強い相手に勝っていない』と言われ続けてしまった」と論じている<ref name="kimu ato">木村(2002)pp.256-259</ref>。
1999年にフランスで活躍した[[エルコンドルパサー]]など、当時は日本調教馬が従来敗退を続けてきたヨーロッパで勝利を挙げる例が相次いでおり、テイエムオペラオーに対してもファンやマスメディアは遠征を希望する声をあげていた<ref name="kimu14" />。著名な競馬関係者にあっても、たとえば[[社台ファーム]]代表の[[吉田照哉]]は「テイエムオペラオーの実力は世界最高峰のレベルにある」と評価したうえで、「あの馬なら[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ]]なんて最適の馬場ですから、まず勝てると思うのですが。テイエムオペラオーの種牡馬としての価値を考えても、これ以上日本のレースを勝っても変わりませんが、キングジョージを勝てば世界的な評価が変わってくるはずです。日本の競馬を盛り上げるために国内で走らせるということですが、まずは内国産馬が海外でGIレースを勝って、日本の競馬レベルが本当に欧米と肩を並べたいうことをファンに示すことも、競馬を盛り上げるのに必要なことだと思うのですが」と遠征をしないことへの疑問を呈し<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 2000-2001』p.63</ref>、また野平祐二は「できることなら、"キングジョージ"、[[凱旋門賞]]、[[ブリーダーズカップ・ターフ]]のなかの、どれか一つでもいいから、ぜひ走らせてみてほしいと思います。それは、テイエムオペラオーなら当然勝負になるという考えがあるのはもちろん、海外へ遠征することによって、関係者がこれから国内で戦う限り感じざるを得ない大きなプレッシャーから解放されるのではないかという思いもあってのことなのです」と述べた<ref name="yu0101" />。
中には、「日本の競馬ファンのひとりとして、テイエムオペラオーの1勝をファンに貸していただきたいと、オーナーの竹園正繼氏に失礼を承知でお願いしたい」(江面弘也<ref name="turf00-2" />)、「人気の馬を持ったら公人になって、自分の馬ではなく日本の馬、ファンの馬というようなお考えで、ファンの期待に応えていただきたいとも思います」(鈴木淑子<ref name="Gallop2000" />)などと、はっきりと竹園に向けて遠征を促すメッセージを送る者もあったが、テイエムオペラオーが遠征に出なかったことは、竹園よりも調教師である岩元の意向が大きかった<ref name="kimu14" />。岩元には巷間にあった欧米の競馬を無条件に日本競馬よりも上位とする見方への反感があり、欧米の強豪と戦いたいならばジャパンカップがあり、そもそも同競走はそのために創設されたはずだという意識もあった<ref name="kimu14" />。また、2000年には欧州で[[口蹄疫]]が流行し、[[検疫]]が厳しくなっていた状況もあり、そうしたなかで岩元厩舎に遠征のノウハウもない以上、テイエムオペラオーほどの馬を最初のケースにするのはリスクが大きすぎるという判断があった<ref name="kimu16">木村(2002)pp.178-187</ref>。かつて岩元が心酔していたシンボリルドルフが、アメリカ遠征で怪我を負い引退に追い込まれたという出来事も頭にあったという<ref name="kimu16" />。竹園も基本的には岩元の考えに同意していたが、遠征を望む声が大きく高まれば行っても良いという程度の考えはあり<ref name="kimu14" />、実際に2001年の天皇賞(春)を勝った後には「宝塚記念を勝てば遠征も視野に」という見解を示していたが、敗れたことで幻に終わった。一方この天皇賞後のインタビューでも、岩元は「海外遠征ですが、私はあまり興味がありません」と話していた<ref name="yu0106-2" />。
なお、2000年から2001年にかけて欧米で継続的に騎乗していた[[武豊]]によれば、2001年春にステイゴールドがアラブ首長国連邦の[[ドバイシーマクラシック]](G2。当時)を制したあと、「ステイゴールドを何度も負かしている『ティーエムオペラ』という馬は強いのか」と、外国でもしばしば話題に上っていたという<ref name="yu0107" />。
=== 雨とテイエムオペラオー ===
テイエムオペラオーが出走する競走当日は、天気が崩れる例が目立った。テイエムオペラオーは重馬場巧者であり、原口政也は2000年の天皇賞(秋)における心境を語るなかで「オペラオーが走るときは、なぜか雨が降る。オペラオーにとって雨は喜ばしい。芝が重くなって時計がかかっても大丈夫だし、一発が怖い『切れる』馬は、脚が鈍る。天候さえもオペラオーの味方についてくれて、心強い」と述べている<ref name="meiba0001" />。一方、石田敏徳は「この馬が走るときは不思議に崩れることの多い天候を指して『最強馬ではなく最強運馬だ』などと憎まれ口を叩く者もいる」と紹介したうえで、「中距離の高速戦に対する適性を証明する舞台に、テイエムオペラオーが恵まれてこなかったことは、彼ら''<small>(注:テイエムオペラオー陣営)</small>''にとってこそ実は"不運"だったかもしれないとは書いておきたい」と取材記で述べている<ref name="yu0112-2" />。
=== 投票企画などの結果 ===
{| class="wikitable"
!年度!!企画者!!企画!!順位||出典
|-
|rowspan="2"|2000年||日本中央競馬会||20世紀の名馬大投票||第27位||<ref>『優駿』2000年10月号、p.29</ref>
|-
||優駿(日本中央競馬会)||プロの目で厳選した20世紀のベストホース100||選出||<ref name="名前なし-2"/>
|-
||2004年||rowspan="2"|優駿(日本中央競馬会)||年代別代表馬BEST10(2000年代)||第1位||<ref name="yu0403" />
|-
|rowspan="2"|2010年||未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち||第10位||<ref>『優駿』2010年8月号、p.30</ref>
|-
||[[AERA]]([[朝日新聞社]])||競馬のプロが選ぶニッポンの名馬ベスト10||第20位||<ref>『ニッポンの名馬 - プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』p.19 </ref>
|-
||2015年||rowspan="2"|優駿(日本中央競馬会)||未来に語り継ぎたい名馬BEST100||第11位||<ref>『優駿』2015年3月号、p.38</ref>
|-
||2021年||新世紀の名馬ベスト100||第8位||<ref name="yu2108" />
|}
上記のうち、識者投票の形であった「年代別代表馬BEST10」の企画では、5人の選者全員がテイエムオペラオーに1位票を投じた。その中で須田鷹雄は「2000年のレースぶりは『単に強いというだけでも、ここまで強ければそれだけで十分価値になる』とでもいうべきものだった。ただ、こういうタイプが何十年後にも強い印象を残しているかどうかは微妙<ref name="yu0403" />」と述べたが、2021年に行われ、テイエムオペラオーの全盛期からは外れる2001年以降に活躍した馬を対象とした「新世紀の名馬BEST100」の投票で8位にランクインし、三好達彦は「『世紀末覇王』の呼び名さえ聞こえてきたのは20世紀最後の年、2000年のことだった。それにもかかわらず、今回のランキングでベスト10に食い込んだところに、テイエムオペラオーが残した蹄跡の深さをあらためて感じ入った」と評した<ref name="yu2108" />。この企画の講評会では須田と若年ファン代表の[[津田麻莉奈]]が対談し、テイエムオペラオーの順位に触れて津田が「2000年のインパクトが相当だったということですね」と述べ、須田が「8戦8勝でGI5勝だもの」と応じている<ref>『優駿』2021年8月号、p.76</ref>。
== 各関係者について ==
テイエムオペラオー陣営は、馬主・竹園正繼と調教師・岩元市三の間の関係性、そして岩元の師である[[布施正]]を介した、当時すでに旧来的といわれた人間関係による結びつきを特徴とした。野平祐二は、牧場からの馬の購入ひとつをとっても「いまは古いつながりを持っていてもお構いなしに外国に行って高くていい馬を買ってきちゃう時代」、騎手起用については「乗り替わりのほうが日常茶飯事」、馬主と調教師の関係性では「高い馬を買ってくれるオーナーがいれば、どこへでもついて行って自分のところにいい馬を入れるような時代」と指摘し、そうした時代の傾向からことごとく反した関係性の中から生まれたテイエムオペラオーを「神の思し召し以外のなにものでもない」、「よくぞやった。よくぞ出てきたもんだ」と称賛した<ref name="Gallop2000" />。また石田敏徳は「人馬の巡り合わせとは本当に不思議なもので、もし岩元と竹園の邂逅がなければ、テイエムオペラオーは全く異なる馬生を歩んでいたに違いない。もっと完璧な王道を歩んでいただろうか。あるいは海外へ雄飛していただろうか。だがどんな想像を働かせてみても、岩元の"チーム"に所属するよりさらに魅力的なテイエムオペラオーを、私にはどうしてもイメージすることができないのだ」と述べた<ref name="meiba" />。
;竹園正繼と岩元市三
馬主の竹園正繼と調教師の岩元市三はいずれも[[鹿児島県]][[肝属郡]][[垂水町]](後の[[垂水市]])出身で、幼馴染であった<ref name="kimu20">木村(2002)pp.8-16</ref>。年齢では1つ、学年では2つ竹園の方が上で<ref name="yu0102-2" />、竹園は子供たちのグループのボス的存在で岩元は「配下」のような立ち位置にあったが<ref name="meiba" />、ともに母子家庭で互いの母親同士の仲も良く、竹園は仲間内でも岩元に対して特に親身で、「体の鍛錬」として相撲を取ったり海岸線をランニングしていたりしたという<ref name="kimu20" />。
岩元は中学校卒業後に垂水を離れて大阪の花屋に就職し、地元の仲間とは縁遠くなった<ref name="kimu20" />。のち店主に誘われて訪れた競馬場で騎手の姿に憧れ、鹿児島県出身騎手の山下一男が所属する[[布施正]]厩舎に入門。1974年に26歳という騎手としては遅い年齢でデビューした<ref name="kimu20" />。一方の竹園は高校卒業後に上京し、建築会社に就職<ref name="kimu20" />。上京後に趣味として競馬にのめりこみ、毎週のように競馬場へ通うようになったが、やがて事業者として独立を目指すため競馬を断ち、1976年に建築資材を扱う会社「テイエム技研」を設立した<ref name="kimu21">木村(2002)pp.17-22</ref>。1982年、岩元は騎乗馬[[バンブーアトラス]]で日本ダービーに優勝する。会社のテレビで見るともなくこの競走を観戦していた竹園は、勝利騎手インタビューで画面に大写しになった岩元の姿に非常に驚き、同時に「馬主として岩元に再会したい」と思い立つ<ref name="kimu21" />。そして1987年に馬主資格を取得すると、直後に赴いた[[小倉競馬場]]の検量室で両者は20数年ぶりに再会した。このとき岩元は竹園に「大きくなったなあ」と声を掛けたという<ref name="kimu21" />。その後、竹園は岩元を自身の所有馬の騎手として起用をはじめる。岩元の騎手として引退レースの騎乗馬も竹園の所有馬であった<ref name="kimu22">木村(2002)pp.23-25</ref>。そして岩元が騎手を引退し、調教師に転身してからは2人で馬産地を回るようになり、そこで見出されたのが後のテイエムオペラオーであった。
なお、竹園は自らテイエムオペラオーを選んだように相馬眼の確かさを謳われるようになるが、竹園に馬の見方を教えたのは布施であった<ref name="kimu22" />。テイエムオペラオーの競走馬時代には、同馬のほかにGI競走3勝の[[テイエムオーシャン]]がおり、2000年には11月26日のジャパンカップをオペラオー、12月3日の阪神3歳牝馬ステークスをオーシャンで連勝し、史上2例、個人馬主では初となる同一馬主による2週連続GI制覇を達成<ref name="0102-7" />。また、11月11日には[[京都ハイジャンプ]](J・GII)をテイエムダイオー、[[京王杯2歳ステークス|京王杯3歳ステークス]](GII)をテイエムサウスポーが制し、これも史上2例目の同一馬主による1日2重賞勝利を達成した<ref>『優駿』2001年1月号、p.144</ref>。同年の高額賞金獲得馬ランキングでは、全馬総合でテイエムオペラオー、3(2)歳部門でテイエムサウスポーが1位となった<ref>『優駿』2001年2月号、p.139</ref>。この時期の竹園所有馬の勢いは「テイエム旋風<ref name="yu0102-2" />」とも評された。
;和田竜二
全戦で手綱をとった[[和田竜二]]は1999年時点でデビュー3年目の若手騎手であった。同期生に[[福永祐一]]らがおり、和田も含めて[[競馬学校花の12期生]]ともいわれたが、馬の能力に対して和田は技量不足を指摘されることもあった。テイエムオペラオー引退の翌年に行われたインタビューでは、「あのクラスの馬に乗る騎手としては、経験も力量も自分には不足していたのかな、と思うことがあります。うわべは平静を装っていても、実際はついていくのに一杯一杯でしたからね」とその心境を吐露している<ref name="meiba" />。竹園は和田に対して「何回もビッシリと説教した」といい、また岩元について「物凄く真面目で努力家でもある岩元は、安心して物事を任せられる人物ですが、人柄がよすぎて、あまりキツいことを言えないところもあるんです。だからそのかわりに僕が言うことにした」と述べている<ref name="yu0008" />。なお、菊花賞後に竹園が和田の降板を求めた際に岩元は頑としてこれを容れなかったが、この出来事は岩元自身が騎手だった時代、敗戦後に馬主が「次のレースでは別の騎手を」と布施に迫ったとき、布施が「それでは、どうぞあの馬、今すぐ別の厩舎に持っていってください」と岩元を庇っていた<ref name="kimu20" />、その恩義を守らなければならないという意識も念頭にあった<ref name="kimu10" />。
テイエムオペラオーで勝ち続けていた最中の勝利騎手インタビューでは、「シャーッ」という雄叫びや<ref name="doudou" />、[[プロレスラー]]・[[アントニオ猪木]]を模した「1、2、3、ダー!」というパフォーマンスを行っていたことでも知られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/831166|title=オペラオー以来、17年ぶりのGI勝利。宝塚記念は和田竜二を大きくする。|publisher=Number Web|writer=島田明宏|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201027190216/https://number.bunshun.jp/articles/-/831166|archivedate=2020年10月27日|date=2018年6月25日|accessdate=2022年10月22日}}</ref>。ライターの[[山河拓也]]は投票企画でテイエムオペラオーに1位票を投じた際に「鞍上は『しゃあー』とか『ダー』とか叫んでいたが」と書いているが<ref name="yu0403" />、和田のこうした行動の背景には、「もっとテイエムオペラオーを評価して、人気を高めてほしい」という考えもあったという<ref name="doudou" />。
その後、和田は北海道で騎乗する機会に合わせてテイエムオペラオーと一度だけ牧場で対面したが、自身の中で「ラストランの有馬記念を勝利で締め括れなかった」という悔いも強くあり、「もう一度GIに勝って一人前の騎手になり、胸を張って会いに行きたい」との考えから、それ以降はテイエムオペラオーのもとを訪れることはなくなった<ref name="yu1808">『優駿』2018年8月号、pp.74-79</ref>。しかし以降の和田は勝利数やGII以下の重賞では一定の成績を残したものの、GI勝利に手が届かず、再び対面することは叶わないまま2018年5月にテイエムオペラオーは心臓まひで急死する。この時は和田の妻も「(GI勝ちの報告が)間に合わなかったね」と話したという<ref name="yu1808" />。翌週に和田は牧場を訪れ、テイエムオペラオーの祭壇に花を手向けると共に、「どうにか春のうちに大きいところを勝ちたい」と決意、そして春のグランプリ・[[宝塚記念]]を[[ミッキーロケット]]で制し、2001年の天皇賞(春)以来、17年ぶりのGI勝利を果たした<ref name="yu1808" />。競走後に和田は目を潤ませながら「テイエムオペラオーが後押ししてくれた」と語った<ref>『優駿』2018年8月号、p.66</ref>。
;原口政也
調教厩務員を務めた原口政也は、1999年4月に厩務員課程を修了し岩元厩舎に配属されたばかりで、引き継ぎで牝馬を担当していたものの、5月に入厩してきたテイエムオペラオーがデビュー前から担当する初めての馬であった<ref name="otsuka" />。高校卒業後は一時大学進学を目指したが何事も続かず、一念発起して厩務員を志し、育成牧場で4年の勤務を経て厩務員となっていた。大塚美奈による取材記では「トレセンに入れるだけでよかった」と何度も口にしたという<ref name="otsuka2" />。父親と弟も厩務員を務め、父は定年の65歳まで勤めあげたが、重賞勝利馬には縁がなかった<ref name="otsuka2">大塚(2002)pp.215-223</ref>。原口は「テイエムオペラオーは"ごほうび"の気がする。僕なりに闇が多かったから、光を当ててくれた気がする」と語っている<ref name="otsuka2" />。なお、後に原口は[[東京大賞典]]四連覇などの成績を挙げた[[オメガパフューム]]([[安田隆行]]厩舎を経て[[安田翔伍]]厩舎)も担当している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/keiba/photonews/photonews_nsInc_202204170000608-4.html|title=現役続行初戦オメガパフュームが貫禄勝ち 別定59キロをものともせず/アンタレスS|publisher=日刊スポーツ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221022054947/https://www.nikkansports.com/keiba/photonews/photonews_nsInc_202204170000608-4.html|archivedate=2022年10月22日|date=2022年4月27日|accessdate=2022年10月22日}}</ref>。
;杵臼牧場
生産者の杵臼牧場は、テイエムオペラオーが皐月賞に優勝した時点で繋養牝馬数18頭<ref name="yu9908" />という中小規模の生産牧場であった。公には1959年創業だが、[[アラブ種|アラブ馬]]を飼養していた畑作農家からの転業で、正確にいつ頃から競走馬生産を始めたかはっきりしないという<ref name="yu9908" />。布施と1962年から付き合いがあり、中央競馬へ行く馬についてはほとんどが布施と繋がりのある厩舎に入っていた。牧場生産の重賞初勝利馬でテイエムオペラオー以前の代表馬であった[[キングラナーク]]<ref name="yu9908" />は布施厩舎に所属し、岩元の騎手としての重賞初勝利馬でもあった<ref name="kimu20" />。場主の鎌田信一が「雲の上の存在<ref name="yu9908" />」と話したGI競走を、テイエムオペラオーで一挙に7つ獲得することとなった。
なお、同場所在の[[浦河町|浦河]]地区は近隣牧場の結束が強く、2000年のジャパンカップ出走時には牧場仲間が杵臼牧場を訪れて「夫妻そろって観戦に行くべきだ」と進言、そうしたいと考えながらも小牧場ゆえに2人も欠ければ手が足りなくなると渋る鎌田に、仲間らは「(不在のあいだ)自分たちが牧場を手伝うから」と申し出て、夫妻を東京競馬場へ送り出したという。鎌田の妻にとっては初めての競馬場におけるレース観戦であり、また当日は独立して札幌や大阪で働いていた子供たちも呼び寄せ、家族揃っての応援であった<ref name="kimu16" />。
== 血統 ==
=== 血統背景 ===
祖父[[サドラーズウェルズ]]から連なる「[[サドラーズウェルズ系]]」は、スタミナ色が濃く「日本競馬に不向き」な血統との評もあるが、父オペラハウスはテイエムオペラオー以外にもGI競走4勝を挙げた[[メイショウサムソン]]など数々の活躍馬を輩出した。また、血統評論家の[[吉沢譲治]]は特に母の父[[ブラッシンググルーム]]と長距離血統の相性の良さに着目し、「すなわちブラッシンググルームの血は、自身のスピード、鋭い決め手を伝える一方で、配合相手から父系、母系に関わらずスタミナを引き出した」と論じ、テイエムオペラオーの鋭い脚はブラッシンググルームからもたらされたものだとしている<ref name="meiba" />(両親配合の経緯については[[テイエムオペラオー#生い立ち|#生い立ち]]を参照のこと)。
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
|name = テイエムオペラオー
|f = *[[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]<br />Opera House<br />1988 [[鹿毛]]<br />[[イギリス]]
|ff = [[サドラーズウェルズ|Sadler's Wells]]<br />1981 鹿毛<br />[[アメリカ合衆国|アメリカ]]
|fm = Colorspin<br />1983 鹿毛<br />[[イギリス]]
|fff = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]
|ffm = [[フェアリーブリッジ|Fairy Bridge]]
|fmf = [[ハイトップ|High Top]]
|fmm = Reprocolor
|ffff = [[ニアークティック|Nearctic]]
|fffm = [[ナタルマ|Natalma]]
|ffmf = [[ボールドリーズン|Bold Reason]]
|ffmm = [[スペシャル (競走馬)|Special]]
|fmff = [[デリングドゥ|Derring-Do]]
|fmfm = Camenae
|fmmf = Jimmy Reppin
|fmmm = Blue Queen
|m = *ワンスウエド<br />Once Wed<br />1984 栗毛<br />[[アメリカ合衆国|アメリカ]]
|mf = [[ブラッシンググルーム|Blushing Groom]]<br />1974 栗毛<br />[[フランス]]
|mm = Noura<br />1978 [[黒鹿毛]]
|mff = [[レッドゴッド|Red God]]
|mfm = Runaway Bride
|mmf = Key to the Kingdom
|mmm = River Guide
|mfff = [[ナスルーラ|Nasrullah]]
|mffm = Spring Run
|mfmf = [[ワイルドリスク|Wild Risk]]
|mfmm = Aimee
|mmff = [[ボールドルーラー|Bold Ruler]]
|mmfm = Key Bridge
|mmmf = Drone
|mmmm = Blue Canoe
|ref1 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/pedigree/ JBISサーチ テイエムオペラオー 5代血統表]2017年8月26日閲覧。
|mlin = [[サドラーズウェルズ系]]
|ref2 = [http://db.netkeiba.com/horse/ped/1996100292/ netkeiba.com テイエムオペラオー 5代血統表]2017年8月26日閲覧。
|flin = [[4号族]]
|FN = 4-m
|ref3 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/pedigree/ JBISサーチ テイエムオペラオー 5代血統表]2017年8月26日閲覧。
|inbr = [[ネアルコ|Nearco]]5×5=6.25%、[[ナスルーラ|Nasrullah]]4・5=9.38%(母内)
|ref4 = [http://db.netkeiba.com/horse/ped/1996100292/ netkeiba.com テイエムオペラオー 5代血統表]2017年9月4日閲覧。
}}
=== 主な近親 ===
*3代母River Guideの子孫には、同馬を同じく3代母として持つGaviola([[ガーデンシティハンデキャップ|ガーデンシティBCH]])がいる。
*4代母Blue Canoeから広がる一族には、Blue Canoeを3代母として持つ[[コジーン|Cozzene]]([[ブリーダーズカップ・マイル]])、[[ブルーメンブラット]]([[マイルチャンピオンシップ]])、Colorful Vices(ダンススマートリーステークス)、ダンツダンサー([[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]])、ウエスタンウインド(本邦輸入種牡馬)などがいる。
*その他、近親には[[フォールアスペン|Fall Aspen]](メイトロンステークス)がおり、Fall Aspenの産駒や牝系から出ているNorthern Aspen(ゲイムリーハンデキャップ)、Hamas([[ジュライカップ]])、Fort Wood([[パリ大賞典]])、[[ティンバーカントリー]]([[プリークネスステークス]])、Colorado Dancer(ポモーヌ賞)、[[ドバイミレニアム|Dubai Millennium]]([[ドバイワールドカップ]])等も近親にあたる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
'''書籍'''
*杉本清『これが夢にみた栄光のゴールだ - 名実況でつづる永遠の名馬たち』(日本文芸社、2001年)ISBN 978-4537250503
*木村俊太『テイエムオペラオー - 孤高の王者』(廣済堂出版、2002年)ISBN 978-4331508893
*大塚美奈『馬と人、真実の物語』(アールズ出版、2002年)ISBN 978-4901226424
*河村清明『JRA ディープ・インサイド - 知られざる「競馬主催者」の素顔』(イースト・プレス、2003年)ISBN 978-4872573565
*『競馬名馬&名勝負年鑑 1999-2000』(宝島社、2000年)ISBN 978-4796694926
*『競馬名馬&名勝負年鑑 2000-2001』(宝島社、2001年)ISBN 978-4796621076
*『Gallop 2000 (週刊 Gallop 臨時増刊号) 』(産業経済新聞社、2000年)ASIN B00A15DAUQ
*『週刊Gallop臨時増刊号 JRA重賞年鑑2001』(産業経済新聞社、2000年)ASIN B00MEBBPIO
*『TURF HERO 2000(優駿2月号増刊)』(日本中央競馬会、2001年)
*『名馬物語 - The best selection (2) 』(エンターブレイン、2003年)ISBN 978-4757714977
*『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 978-4022744272
*『Number競馬ノンフィクション傑作選 名馬堂々。』(文藝春秋、2021年)ISBN 978-4160082571
*『優駿』(日本中央競馬会)各号
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20060108203449/http://www.horsenavi.com/html/homepage/image/stallion/0213770.pdf テイエムオペラオー スタリオンレビュー(日高軽種馬農協門別種馬場)]
* [https://web.archive.org/web/20060812082742/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1996100292/ コラム最強ヒストリー テイエムオペラオー 王者たるもの ―― 王道を問う]
* [https://web.archive.org/web/20160531115643/http://jra.jp/50th/html/50horse/26.html JRA50周年記念サイト 平成12年年度代表馬、顕彰馬テイエムオペラオー 飛び切りの安定感]
* [https://web.archive.org/web/20160505144059/http://jra.jp/50th/html/gjpro/20.html JRA50周年記念サイト 平成12年有馬記念 テイエムオペラオー]
* [http://www.nikkankeiba.com/jra50/26/26.html 日刊競馬で振り返る名馬 テイエムオペラオー(2000年・宝塚記念)]
* {{競走馬成績|netkeiba=1996100292|yahoo=1996100292|jbis=0000302080|racingpost=511937/t-m-opera-o}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000302080|テイエムオペラオー}}
* [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse27.html テイエムオペラオー:競馬の殿堂 JRA]
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[[Category:1996年生 (競走馬)|日ていえむおへらおお]]
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10,300 |
ガネーシャ
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ガネーシャ(गणेश, gaṇeśa)は、ヒンドゥー教の神の一柱。その名はサンスクリットで「群衆(ガナ)の主(イーシャ)」を意味する。同じ意味でガナパティ(गणपति, gaṇapati)とも呼ばれる。また現代ヒンディー語では短母音の/a/が落ち、同じデーヴァナーガリー綴りでもガネーシュ、ガンパティ(ガンパチ)などと発音される。インドでは現世利益をもたらす神とされ、非常に人気がある。「富の神様」として商人などから絶大な信仰を集めている。
太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつ。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、事業開始と商業の神・学問の神とされる。インドのマハラシュトラ州を中心にデカン高原一帯で多く信仰されている。ガネーシャの像の中には杖を持っているものもおり、この杖は「アンクーシャ」と呼ばれている。
ヴィナーヤカ(Vināyaka、無上)、ヴィグネーシュヴァラ(Vighneśvara、障害除去)、ガネーシャ(Gaṇeśa、群衆の長)、ガナパティ(Gaṇapati、群衆の主)との神名を持つ。元来は障害神であったのが、あらゆる障害を司る故に障害を除去する善神へと変化した。ヒンドゥー教でよくみられるように複数の神名をもつのは複数の神格が統合されたためと考えられる。
あらゆる障害を除くことから、新しい事業などを始めるにあたって信仰され、除災厄除・財運向上でも信仰を集めている。また智慧・学問の神でもあり、学生にも霊験豊かとされる。祈祷を始めとして、あらゆる開始にあたってまずガネーシャに祈りを捧げると良いとされる。特に「富の神様」としてインドを中心に人気が高く、インドの店先には必ずといってよいほどガネーシャ像が置かれ、偶像崇拝を禁止しているイスラム教徒の店にもみられるほどである。一般人も、祝い事にガネーシャのカードを送ったり、車のダッシュボードに置いたりする風景はよく見られる。
ヒンドゥー教の体系の中では、シヴァとパールヴァティーの間に生まれた長男とされる。しかし、これはシヴァ系の宗教が独立したガネーシャ系の宗教を取り込んだ際の解釈だと思われる。現在でもガネーシャはシヴァ系のヒンドゥー教の一部である。
象の頭を持つ理由には複数の神話があるが、もっとも有名なものは以下のものである。
パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだ。パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしている際に、シヴァが帰還した。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒し、ガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨てることになる。
パールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけるが、見つけることができなかった。そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させた。これが、ガネーシャが象の頭を持っている言われとされる。
他の説ではパールヴァティーとシヴァが夫婦でヴィシュヌに祈りを捧げてガネーシャを得、他の神々がそれを祝いに来たが、その内の一人・シャニは見た物を破壊する呪いをかけられていた為、常に下を向いていた。しかしパールヴァティーは彼に遠慮せずに息子を見るよう勧め、その結果ガネーシャの頭は破壊された。ヴィシュヌは悲しむパールヴァティーの為にガルダに乗って飛び立ち、川で寝ている象を見つけてその首をガネーシャの頭として取り付けた。
片方の牙が折れている理由には複数の神話があるが、もっとも有名なものは以下のものである。
ヴェーダ暦のバドラパーダ月の4日(新月から4日目)に生誕したとされるので、これに合わせてガネーシャの生誕祭ガネーシャ・チャトゥルティ/ヴィナーヤカ・チャトゥルティ(Ganesh Chaturthi/Vinayaka Chaturthi)が祝われる。10日間の祭りの間に障碍除去を祈念してガネーシャの像を祀り、最後にガネーシャの像を川や海に流すことで厄除を祈願する。
最も有名なマントラは、以下のものである。
マントラを唱える前には、手足を清潔にしてから着座し、数回の調息を行ってから実施する。108回、もしくは念珠の1周分もしくはそれ以上の周回分を唱える。ガネーシャのマントラは、あらゆる悪・障碍・悪霊を退け、財産・智慧・成功をもたらすとされる。
チベット仏教では、ガネーシャ(象頭財神)は大黒天(Mahākāla)によって調伏された姿でも描かれるが、観世音菩薩を本地とする護法神としても信仰される。
上座部仏教国のタイでも、ガネーシャは仏教徒に信仰されている。
天台宗・真言宗ではガネーシャを起源に持つ歓喜天(聖天)が天部の護法神として信仰される。
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ガネーシャは、ヒンドゥー教の神の一柱。その名はサンスクリットで「群衆(ガナ)の主(イーシャ)」を意味する。同じ意味でガナパティとも呼ばれる。また現代ヒンディー語では短母音の/a/が落ち、同じデーヴァナーガリー綴りでもガネーシュ、ガンパティ(ガンパチ)などと発音される。インドでは現世利益をもたらす神とされ、非常に人気がある。「富の神様」として商人などから絶大な信仰を集めている。 太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつ。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、事業開始と商業の神・学問の神とされる。インドのマハラシュトラ州を中心にデカン高原一帯で多く信仰されている。ガネーシャの像の中には杖を持っているものもおり、この杖は「アンクーシャ」と呼ばれている。
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[[ファイル:Kangiten.jpg|サムネイル|170ピクセル|日本でのガネーシャの表現『歓喜天』<br>18世紀後半〜19世紀前半の絵画]]
{{Hinduism}}
'''ガネーシャ'''({{翻字併記|sa|'''गणेश'''|gaṇeśa|N}})は、[[ヒンドゥー教]]の[[神]]の一柱。その名は[[サンスクリット]]で「群衆(ガナ)の主(イーシャ)」を意味する。同じ意味で'''ガナパティ'''({{翻字併記|sa|'''गणपति'''|gaṇapati|N}})とも呼ばれる。また現代[[ヒンディー語]]では短母音の/a/が落ち、同じ[[デーヴァナーガリー]]綴りでもガネーシュ、ガンパティ(ガンパチ)などと発音される。[[インド]]では[[現世利益]]をもたらす神とされ、非常に人気がある。「富の神様」として[[商人]]などから絶大な[[信仰]]を集めている<ref name="MU">学研『[[ムー (雑誌)|ムー]]』出口優 2003年月号P94</ref>。
太鼓腹の人間の身体に 片方の[[牙]]の折れた[[ゾウ|象]]の[[頭]]をもった[[神]]で、4本の[[腕]]をもつ。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、事業開始と[[商業]]の神・[[学問]]の神とされる。[[インド]]の[[マハラシュトラ州]]を中心に[[デカン高原]]一帯で多く信仰されている。ガネーシャの像の中には[[杖]]を持っているものもおり、この杖は「'''アンクーシャ'''」と呼ばれている。
== 概要 ==
=== 神名 ===
'''ヴィナーヤカ'''(Vināyaka、無上)、'''ヴィグネーシュヴァラ'''(Vighneśvara、障害除去)、'''ガネーシャ'''(Gaṇeśa、群衆の長)、'''ガナパティ'''(Gaṇapati、群衆の主)との神名を持つ。元来は障害神であったのが、あらゆる障害を司る故に障害を除去する善神へと変化した。ヒンドゥー教でよくみられるように複数の神名をもつのは複数の神格が統合されたためと考えられる。
=== 功徳 ===
あらゆる障害を除くことから、新しい事業などを始めるにあたって信仰され、[[除災厄除]]・[[財運向上]]でも信仰を集めている。また智慧・学問の神でもあり、学生にも霊験豊かとされる。祈祷を始めとして、あらゆる開始にあたってまずガネーシャに祈りを捧げると良いとされる。特に「富の神様」としてインドを中心に人気が高く、インドの店先には必ずといってよいほどガネーシャ像が置かれ、[[偶像崇拝]]を禁止している[[イスラム教徒]]の店にもみられるほどである。一般人も、[[祝い事]]にガネーシャのカードを送ったり、車の[[ダッシュボード (自動車)|ダッシュボード]]に置いたりする[[風景]]はよく見られる{{r|MU}}。
=== シヴァ系 ===
ヒンドゥー教の体系の中では、[[シヴァ]]と[[パールヴァティー]]の間に生まれた長男とされる。しかし、これはシヴァ系の宗教が独立したガネーシャ系の宗教を取り込んだ際の解釈だと思われる。現在でもガネーシャはシヴァ系のヒンドゥー教の一部である。
== 神話 ==
=== 象頭の由来 ===
象の頭を持つ理由には複数の神話があるが、もっとも有名なものは以下のものである。
パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて[[人形]]を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだ。パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしている際に、シヴァが帰還した。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒し、ガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨てることになる。
パールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけるが、見つけることができなかった。そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させた。これが、ガネーシャが象の頭を持っている言われとされる。
他の説ではパールヴァティーとシヴァが夫婦で[[ヴィシュヌ]]に祈りを捧げてガネーシャを得、他の神々がそれを祝いに来たが、その内の一人・[[シャニ]]は見た物を破壊する呪いをかけられていた為、常に下を向いていた。しかしパールヴァティーは彼に遠慮せずに息子を見るよう勧め、その結果ガネーシャの頭は破壊された。ヴィシュヌは悲しむパールヴァティーの為に[[ガルダ]]に乗って飛び立ち、川で寝ている象を見つけてその首をガネーシャの頭として取り付けた。
=== 片方の折れた牙の由来 ===
片方の牙が折れている理由には複数の神話があるが、もっとも有名なものは以下のものである。
* 「[[マハーバーラタ]]」の著者とされる[[ヴィヤーサ]]は文字を書くことが出来なかった。このため、[[ブラフマー]]がガネーシャをヴィヤーサのもとに遣わしマハーバーラタを口述筆記をさせた。このとき、ガネーシャは自ら右の牙を折り、その牙で執筆したとされる。
* ヴィシュヌの化身の1人であるパラシュラーマが、シヴァから与えられた斧で攻撃し、それを回避しては不敬であたるので、敢えて一本の牙で受け止めたために折れた。
* 籠で運ばれているときに振り落とされて頭から落ちて折れてしまった。
* 夜道で転倒した際にお腹の中の菓子([[モーダカ]])が飛び出て転げたのを月に嘲笑されたために、自らの牙を一本折ってそれを月に投げつけた。
== ガネーシャ・チャトゥルティ ==
ヴェーダ暦のバドラパーダ月の4日(新月から4日目)に生誕したとされるので、これに合わせてガネーシャの生誕祭[[ガネーシュ・フェスティバル|ガネーシャ・チャトゥルティ]]/ヴィナーヤカ・チャトゥルティ (Ganesh Chaturthi/Vinayaka Chaturthi) が祝われる。10日間の祭りの間に障碍除去を祈念してガネーシャの像を祀り、最後にガネーシャの像を川や海に流すことで厄除を祈願する。
== マントラ ==
最も有名な[[マントラ]]は、以下のものである。
* '''Oṃ Śrī Gaṇeśāya Namaḥ'''
* '''Oṃ Gaṃ Gaṇapataye Namaḥ'''
マントラを唱える前には、手足を清潔にしてから着座し、数回の調息を行ってから実施する。108回、もしくは念珠の1周分もしくはそれ以上の周回分を唱える。ガネーシャのマントラは、あらゆる悪・障碍・悪霊を退け、財産・智慧・成功をもたらすとされる。
== 仏教圏での信仰 ==
=== チベット仏教 ===
[[チベット仏教]]では、ガネーシャ(象頭財神)は[[大黒天]] (Mahākāla) によって調伏された姿でも描かれるが、[[観音菩薩|観世音菩薩]]を本地とする護法神としても信仰される。
=== 上座部仏教 ===
[[上座部仏教|上座部仏教国]]の[[タイ王国|タイ]]でも、ガネーシャは仏教徒に信仰されている。
=== 日本密教(台密・東密) ===
[[天台宗]]・[[真言宗]]ではガネーシャを起源に持つ[[歓喜天]](聖天)が天部の護法神として信仰される。
== ギャラリー ==
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ファイル:Ganesha Basohli miniature circa 1730 Dubost p73.jpg|ガネーシャの細密画(インド・1730年頃)
ファイル:13th century Ganesha statue cleaned and colour adjusted.jpg|ガネーシャの彫像(インド、カルナータカ州・13世紀)
ファイル:Ganesh (musée d'art asiatique de Berlin).jpg|ガネーシャの舞踏レリーフ(北ベンガル・11世紀)
ファイル:Ganapati1.jpg|ガネーシャと妻たち([[ラヴィ・ヴァルマ]]画)
ファイル:1 Hindu deity Ganesha on ceramic tile at Munnar Kerala India March 2014.jpg|タイル画
ファイル:Ganesha-aum.jpg|ガネーシャの宝石
ファイル:Vighnavarta20120901 183242.jpg|ガネーシャの置物
ファイル:Wat Saman Rattanaram (14494808566).jpg|ワット・サマーン・ラッタナーラームのピンクガネーシャ)
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</center>
== 脚注 ==
{{ウィキポータルリンク|神話伝承|[[ファイル:Ancient Greek Pegasus icon.png|none|34px]]}}
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ganesha}}
{{Wikiquotelang|en|Ganesha}}
* [[神の一覧]]
* [[ガジャースラ]]
* [[プネー]]の[[ガネーシュ・フェスティバル]]
* [[ガネーシャ (小惑星)]]
* [[ガネーシャの会]]
* [[夢をかなえるゾウ]]
{{Hinduism2}}
{{Authority control}}
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[[Category:インド神話の神]]
[[Category:ヒンドゥー教の神]]
[[Category:神話・伝説の象]]
[[Category:美術におけるゾウ]]
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平賀源内
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平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。
源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫または国棟、字は子彝。数多くの号を使い分け、画号の鳩渓、俳号の李山や、戯作者としては風来山人、浄瑠璃作者としては福内鬼外 の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内 などといった別名も使っていた。
讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、源内自身は信濃国佐久郡の信濃源氏大井氏流平賀氏の末裔と称したが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされた。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農した伝承がある。源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。
幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。
大坂、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に下って本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。
宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。
宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する。このとき「仕官お構い」(奉公構)となり、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。
宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。
宝暦13年(1763年)には『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。
明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。
安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。
安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52。
獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも詳細は不明。大正13年(1924年)、従五位を追贈された。
戒名は智見霊雄。墓所は浅草橋場(現東京都台東区橋場2-22-2)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある。友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。この墓の敷地は1931年(昭和6年)に松平頼寿により築地塀が整備され、1943年(昭和18年)に国の史跡に指定された。
また故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。
一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる両墓制)といわれているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する)。
他にドラマ愛の詩シリーズおよびTVアニメ版の『ズッコケ三人組』における『ズッコケ時間漂流記』(源内役:藤岡弘(ドラマ版)、松山鷹志(アニメ版))や、アニメ『落語天女おゆい』(源内役:てらそままさき)、同じくアニメ版『あんみつ姫』などの映像化作品がある。『それいけ!アンパンマン』ではからくりぐんないという発明家のキャラクターが登場する。
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"title": "平賀源内をモデルとした創作"
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平賀 源内は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。 源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫(くにとも)または国棟(くにむね)、字は子彝(しい)。数多くの号を使い分け、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)や、戯作者としては風来山人(ふうらいさんじん)、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうちきがい) の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんかぜにない) などといった別名も使っていた。
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{{告知|page=プロジェクト‐ノート:LGBT#歴史上の人物|date=2022年4月9日 (土) 06:06 (UTC)}}
[[ファイル:A Portrait of Kyūkei Hiraga cropped.jpg|thumb|250px|「平賀鳩渓肖像」
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{{small|木村黙老著『戯作者考補遺』(写本)より [http://www.mita.lib.keio.ac.jp/collection/rarebook/hiragagennai.html]。黙老は[[高松藩]]の家老で、源内の死から六十五年を経た[[弘化]]2年 (1845年) に源内と親交があった祖父や源内をよく知る古老の話などをもとにしてこの肖像を描いた。[[慶應義塾図書館]]所蔵。}}]]
'''平賀 源内'''(ひらが げんない、[[享保]]13年([[1728年]]) - [[安永]]8年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]([[1780年]][[1月24日]]))は、[[江戸時代]]中頃の人物。[[本草学者]]、[[地質学者]]、[[蘭学者]]、[[医者]]、[[殖産興業|殖産事業家]]、[[戯作者]]、[[作者 (曖昧さ回避)|浄瑠璃作者]]、[[俳人]]、[[画家|蘭画家]]、[[発明家]]。
'''源内'''は通称で、'''元内'''とも書いた。[[諱]]は'''{{Ruby|国倫|くにとも}}'''<ref name="oda2001p191">{{Harvnb|小田|2001|p=191}}</ref>または'''{{Ruby|国棟|くにむね}}'''、[[字]]は'''{{Ruby|子彝|しい}}'''。数多くの号を使い分け、[[号 (称号)|画号]]の'''{{Ruby|鳩渓|きゅうけい}}'''、[[俳号]]の'''{{Ruby|李山|りざん}}'''や、[[戯作者]]としては'''{{Ruby|風来山人|ふうらいさんじん}}'''<ref name="oda2001p191" />、浄瑠璃作者としては'''{{Ruby|福内鬼外|ふくうちきがい}}'''<ref name="oda2001p191" /> の[[ペンネーム|筆名]]を用い、殖産事業家としては'''{{Ruby|天竺浪人|てんじくろうにん}}'''、生活に窮して細工物を作り売りした頃には'''{{Ruby|貧家銭内|ひんかぜにない}}'''<ref>{{Citation | 和書 | ref = none | title = 結果が出る発想法 アイデアはいかにして生まれるのか | author = 逢沢明 | publisher = PHP研究所 | year = 2008 | isbn = 9784569697710 | page=29}}</ref> などといった別名も使っていた。
== 来歴 ==
[[File:Hiraga Gennai by Nakamaru Seijuro (Waseda University Library).jpg|thumb|平賀源内の肖像、[[中丸精十郎]](1841-1896)筆<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_a0256/index.html|title=文庫08 A0256 平賀源内肖像 / 中丸精 写|accessdate=2021-11-01|publisher=早稲田大学図書館|website=古典籍総合データベース|quote=著者/作者 中丸 精十郎, 1841-1896}}</ref>]]
[[ファイル:Elekiter replica.jpg|thumb|240px|right|平賀源内作のエレキテル(複製)[[国立科学博物館]]の展示]]
[[讃岐国]][[寒川郡 (香川県)|寒川郡]]志度浦<ref name="oda2001p188" />(現在の[[香川県]][[さぬき市]][[志度]])の白石家の三男として生まれる。父は[[白石茂左衛門]]<ref name="oda2001p188">{{Harvnb|小田|2001|p=188}}</ref>(良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐[[高松藩]]の[[足軽]]身分の家で、源内自身は[[信濃国]][[佐久郡]]の[[信濃源氏]][[大井氏]]流[[平賀氏]]の末裔と称したが、『[[甲陽軍鑑]]』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に[[平賀玄信]]の代に[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信虎]]による侵攻を受け、佐久郡[[海ノ口城]]において滅ぼされた。後に平賀氏は[[陸奥国|奥州]]の[[白石市|白石]]に移り[[伊達氏]]に仕え白石姓に改め、さらに[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]に従い四国へ下り、讃岐で[[帰農]]した[[伝承]]がある。源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。
幼少の頃には[[掛け軸]]に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で[[本草学]]を学び、[[儒教|儒学]]を学ぶ。また、[[俳諧]]グループに属して俳諧なども行う。寛延元年([[1748年]])に父の死により後役として藩の蔵番となる<ref name="oda2001p190">{{Harvnb|小田|2001|p=190}}</ref>。[[宝暦]]2年([[1752年]])頃に1年間[[長崎市|長崎]]へ遊学し、本草学と[[オランダ語]]、[[医学]]、[[油絵]]などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に[[婿養子]]を迎えさせて家督を放棄する。
[[大坂]]、[[京都]]で学び、さらに宝暦6年([[1756年]])には[[江戸]]に下って本草学者[[田村元雄]](藍水)に弟子入りして本草学を学び、[[漢学]]を習得するために[[林家 (儒学者)|林家]]にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。
宝暦11年([[1761年]])には[[伊豆国|伊豆]]で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府[[老中]]の[[田沼意次]]にも知られるようになる。
宝暦9年([[1759年]])には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する<ref name="oda2001p190" />。このとき「仕官お構い」([[奉公構]])となり<ref>さぬき市文化財保護協会志度支部 - [http://ew.sanuki.ne.jp/snkbunka/sido/gennai.html 平賀源内記念館と平賀源内旧邸] 2013年2月9日閲覧</ref>、以後、[[幕臣]]への登用を含め他家への仕官が不可能となる。
宝暦12年([[1762年]])には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の[[湯島]]にて開催する。江戸においては知名度も上がり、[[杉田玄白]]や[[中川淳庵]]らと交友する。
宝暦13年([[1763年]])には『{{Ruby|[[物類品隲]]|ぶつるいひんしつ}}』を刊行<ref name="oda2001p191" />。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、[[談義本]]の類を執筆する。
[[明和]]年間には産業起業的な活動も行った。明和3年([[1766年]])から[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]の[[秋元凉朝]]の依頼で[[奥秩父山塊|奥秩父]]の川越藩秩父大滝(現在の[[秩父市]]大滝)の[[中津川 (埼玉県)|中津川]]で鉱山開発を行い、[[石綿]]などを発見した(現在の[[秩父鉱山|ニッチツ秩父鉱山]])。[[秩父地方|秩父]]における炭焼、[[荒川 (関東)|荒川]]通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の[[中津峡 (埼玉県)|中津峡]]付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「[[源内居]]」として残っている。
[[安永]]2年([[1773年]])には[[出羽国|出羽]][[久保田藩|秋田藩]]の[[佐竹義敦]]に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士[[小田野直武]]に蘭画の技法を伝える。
安永5年([[1776年]])には長崎で手に入れた[[エレキテル]](静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年([[1779年]])夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を[[殺傷]]したため、11月21日に[[投獄]]され、12月18日に[[破傷風]]により獄死した。[[享年]]52。
獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の[[平秩東作]]ともされている。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷[[高松藩]](旧主である[[高松松平家]])の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも詳細は不明。大正13年(1924年)、[[従五位]]を追贈された<ref>{{Cite book|title=贈位諸賢伝|publisher=国友社|date=1927-07-30|page=365|editor-last=田尻<!--たじり-->|editor-first=佐<!--たすく-->|language=ja|NCID=BN09957819|chapter=平賀源内|volume=2|location=東京|doi=10.11501/1915586|id={{NDLJP|1915586}}|chapterurl=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915586/208}}</ref>。
== 墓所 ==
[[ファイル:Hirara Gennai grave in Shido.JPG|thumb|200px|平賀源内墓、さぬき市志度の自性院。]]
[[戒名]]は智見霊雄。墓所は浅草橋場(現東京都[[台東区]]橋場2-22-2)にあった[[総泉寺]]に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある。友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。この墓の敷地は1931年(昭和6年)に[[松平頼寿]]により築地塀が整備され、[[1943年]](昭和18年)に国の[[史跡]]に指定された<ref>{{kotobank|平賀源内墓}}</ref>。
{{quotation|平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)
:「''嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常'' 」
::(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
::(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか(非常の人云々は、前漢の[[司馬遷]][[『史記』]]「列伝」[[司馬相如]]列伝からの引用。)}}
また故郷のさぬき市志度の[[志度寺#塔頭寺院|自性院]](平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。
一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる[[両墓制]])といわれているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する)。
== 人物と業績 ==
* 天才、または異才の人と称される。[[鎖国]]を行っていた当時の日本で、蘭学者として[[油絵]]や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても[[戯作]]の開祖とされ、[[人形浄瑠璃]]などに多くの作品を残した。また[[源内焼]]などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
* [[男色]]家であったため、生涯にわたって妻帯せず、[[歌舞伎]]役者らを贔屓にして愛したという。わけても、[[瀬川菊之丞 (2代目)|二代目瀬川菊之丞]](瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる。
* 『[[解体新書]]』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『[[蘭学事始]]』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とある。
* 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置[[エレキテル]]の紹介、[[火浣布]]<ref name="oda2001p191" /> の開発がある。一説には[[竹とんぼ]]の発明者ともいわれ、これを史上初の[[プロペラ]]とする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。
* エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという<ref>{{Citation | 和書 | ref = none | title = 戦いの哲学勝利の条件 | author = 二宮隆雄 | publisher = PHP研究所 | year = 2008 | isbn = 9784569669915 | page = 294}}</ref>。
* 1765年に温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作<ref name="takata">{{Cite web|和書|author=高田誠二 |url=http://www.netsu.org/JSCTANetsuSokutei/pdfs/32/32-4-162.pdf |title=温度概念と温度計の歴史 |publisher= 日本熱測定学会 |accessdate=2019-11-22}}</ref>。現存しないが源内の参照したオランダの書物及びその原典のフランスの書物の記述からアルコール温度計だったとみられる<ref name="takata" />。この温度計には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており[[華氏]]を採用していた<ref name="takata" />。
* [[土用の丑の日]]に[[ウナギ]]を食べる風習は、源内が発祥との説がある<ref name="oda2001p191" />。この通説は土用の丑の日の由来としても平賀源内の業績としても最も知られたもののひとつだが、両者を結び付ける明確な根拠となる一次資料や著作は存在しない。また[[明和]]6年([[1769年]])には[[コマーシャルソング|CMソング]]とされる[[歯磨剤|歯磨き粉]]『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、[[安永]]4年([[1775年]])には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本における[[コピーライター]]のはしりとも評される。
* [[浄瑠璃]]作者としては福内鬼外の筆名で執筆<ref name="oda2001p191" />。[[時代物]]を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、[[世話物]]の要素が加わっていると評価される。狂歌で知られる[[大田南畝]]の狂詩狂文集『寝惚先生文集』に序文を寄せている。風来山人の筆名で<ref name="oda2001p191" />、強精薬の材料にする淫水調達のため若侍100人と御殿女中100人がいっせいに交わる話『長枕褥合戦』(ながまくら しとねかっせん)のような奇抜な好色本も書いている<ref>「[https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E9%95%B7%E6%9E%95%E8%A4%A5%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B-1382447 世界大百科事典内の《長枕褥合戦》の言及]」『[[世界大百科事典]]』[[平凡社]]、[[コトバンク]]。2023年4月5日閲覧。</ref>。[[衆道]]関連の著作として、水虎山人名義により [[1764年]]([[明和]]元年)に『菊の園』、[[安永]]4年([[1775年]])に『男色細見』の[[陰間茶屋]]案内書を著わした。
* [[鈴木春信]]と共に絵暦交換会を催し、[[浮世絵]]の隆盛に一役買った他、[[博覧会]]の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。
* 文章の「[[起承転結]]」を説明する際によく使われる「''京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す'' 」の作者との説がある。
== 作品 ==
=== 本草学及び工芸 ===
[[ファイル:Butsurui Hinshitsu.jpg|thumb|300px|right|『物類品隲』宝暦13年(1763年)刊[[国立科学博物館]]の展示]]
* 『物類品隲』 - 全六巻。宝暦13年7月刊行。
* 『番椒譜』 - 稿本。年代不明。
=== 戯作 ===
* 『根南志具佐』(ねなしぐさ) - 宝暦13年10月刊行。[[談義本]]。
* 『根無草後編』 - 明和6年(1769年)正月刊行。
* 『風流志道軒伝』 - 宝暦13年11月刊行。[[滑稽本]]。[[講釈師]]の[[深井志道軒]]を主人公としたもの。
* 『風来六部集』『風来六部集後編』 - [[狂文]]集。「放屁論」「痿陰隠逸伝」(なえまら いんいつでん)等を収める。
=== 義太夫浄瑠璃 ===
* 『[[神霊矢口渡]]』 - 明和7年正月、江戸外記座初演。
* 『源氏大草紙』 - 明和7年8月、江戸肥前座初演。
* 『弓勢智勇湊』 - 明和8年正月、江戸肥前座初演。吉田仲治補助。
* 『嫩榕葉相生源氏』 - 安永2年(1773年)4月、江戸肥前座初演。
* 『前太平記古跡鑑』 - 安永3年正月、江戸結城座初演。
* 『忠臣伊呂波実記』 - 安永4年7月、江戸肥前座初演。
* 『荒御霊新田新徳』 - 安永8年2月、江戸結城座初演。[[森島中良|森羅万象]]、浪花の二一天作を補助とす。
* 『霊験宮戸川』 - 安永9年3月、江戸肥前座初演。源内没後の上演。
* 『実生源氏金王桜』 - 未完作。[[寛政]]11年(1799年)正月、江戸肥前座で上演。
=== 絵画 ===
* 「黒奴を伴う赤服蘭人図」
* 「西洋婦人図」([[神戸市立博物館]])
== 史料・研究 ==
; 史料
* 『源内実記』
* 平賀源内先生顕彰会編『平賀源内全集』上・下(名著刊行会、1970年)
* 『風来山人集』(『日本古典文学大系』55 岩波書店、1961年)
; 研究
* 『讃岐偉人平賀源内翁』
* [[森銑三]]『平賀源内研究』
* [[城福勇]]『平賀源内』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1971年)
* 城福勇『平賀源内の研究』(創元社、1976年)
* 松井年行『物類品騭の研究』美巧社、2019年。ISBN 978-4-86387-117-5
* [[芳賀徹]]『平賀源内』ちくま学芸文庫 ハ-59-1、2023年。ISBN 978-4-48051-201-7
== 関連施設・行事等 ==
[[ファイル:Hiraga Gennai seishi01s2040.jpg|thumb|200px|平賀源内[[生祠]]([[鞆町]])]]
* [[平賀源内記念館]]<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/article.aspx?id=20080301000102 平賀源内記念館]</ref><ref>{{kotobank|平賀源内記念館}}</ref>、平賀源内先生遺品館 - 香川県さぬき市志度
*: 発明品や著作物、杉田玄白と源内の書簡などが展示されている。また、平賀源内記念館が2009年3月22日にオープンし、平賀源内祭りの会場。場所はJR志度駅から徒歩5分。
* 平賀源内墓 - [[東京都]]台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地
*: 1943年、国の[[史跡]]に指定
*: 敷地内には、従僕であった福助の墓もある。
* 平賀源内先生の墓 - 香川県さぬき市志度 微雲窟 自性院
*: 同院は平賀家の菩提寺であり、墓は義弟である平賀権太夫の建立とされる。
*: 毎年12月には、法要がとり行われる。
* 平賀源内[[生祠]] - [[広島県]][[福山市]][[鞆の浦]] [[広島県指定文化財一覧|広島県指定史跡]]
* 源内賞
*: 平賀源内の偉業をたたえて発明工夫を振興する基金を、エレキテル尾崎財団が1994年に寄贈。この基金を基に、香川県さぬき市(旧志度町)とエレキテル尾崎財団とが、四国内の科学研究者を授賞対象とする源内賞、奨励賞を設定し、毎年3月に表彰。
* [[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]](2003年11月29日 - 2004年1月18日)、[[東北歴史博物館]](2004年2月14日 - 3月21日)、[[岡崎市美術博物館]](2004年4月3日 - 5月9日)、[[福岡市博物館]](2004年5月27日 - 7月4日)、[[香川県歴史博物館]](2004年7月17日 - 8月29日)に「平賀源内展」が開催された。エレキテル等の復元品も展示された。
== 平賀源内をモデルとした創作 ==
=== テレビ ===
* 『[[天下御免]]』([[1971年]]、[[日本放送協会|NHK]]、源内役:[[山口崇]])
*: 現代を[[江戸時代]]に置き換え、平賀源内を案内役として話を進め、風刺的な要素を含んでいた。杉田玄白役は[[坂本九]]。
* 『[[キカイダー01]]』第36話「四次元の怪 恐怖のタイム旅行」([[1973年]]、[[テレビ朝日|NET]]、[[石ノ森章太郎]]原作、源内役:[[野々浩介]])
*: 悪の組織シャドウが平賀源内の誘拐を画策してタイムトンネルで江戸時代に移り、01とビジンダーがこれを追って食い止める話がある。舞台は源内がエレキテルを復元した[[1776年]]頃である。
* 『[[鳴門秘帖]]』([[1977年]]、NHK、源内役:山口崇)
*: 吉川英治の原作のテレビドラマ化。劇中、ローソクを熱源に、和紙とコンニャクで作ったミニチュアの気球を源内が飛ばしているシーンがある。
* 『[[桃太郎侍]]』([[1981年]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] 源内役:[[犬塚弘]])
*: 第226話「エレキを食った鬼二匹」にゲストとして登場した。
* 『[[服部半蔵 影の軍団#影の軍団II|影の軍団II]]』([[1981年]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]] 源内役:[[山村聰]])
*: [[徳川家重]]の時代の末期、[[1760年]]頃が舞台。源内は主人公の伊賀忍者グループに科学面で協力する役どころだった。また、上記の『キカイダー01』と『影の軍団II』の両方で[[志穂美悦子]]が出演しており、作品で源内と関わっている。
* [[必殺シリーズ]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]])では時代的に合わないが、現代的な気球やグライダーを出す場合に安易に平賀源内を登場させる傾向がある。
** 『[[年忘れ必殺スペシャル 仕事人アヘン戦争へ行く 翔べ!熱気球よ香港へ|仕事人アヘン戦争へ行く]]』([[1983年]])では源内が獄中にいた([[アヘン戦争]]当時、日本で投獄されていた蘭学者では[[高野長英]]がいる。なお劇中で平賀は113歳という設定であった)。
** 『[[必殺仕切人]]』([[1984年]])第5話「もしも鳥人間大会で優勝したら」で源内が江戸時代の飛行コンテストで審査員をしている。
*: [[中条きよし]]扮する[[三味線屋の勇次]]は両方に登場しており、設定上は『アヘン戦争』が先で『仕切人』の方が後の話である。
* 『[[翔んでる!平賀源内]]』([[1989年]]、[[TBSテレビ|TBS]]、源内役:[[西田敏行]])
*: 同作の源内は、豊富な知識を駆使して江戸で起こった事件の謎を解決する探偵のような役回りの主人公である。
* 『[[びいどろで候〜長崎屋夢日記]]』([[1990年]]、NHK、源内役:山口崇)
*: 上述の『天下御免』の後日談。
* 『[[殿さま風来坊隠れ旅]]』([[1994年]]、[[テレビ朝日]]、源内役:[[火野正平]])
* 『[[大江戸捜査網#新春ワイド時代劇『大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!』|大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!]]』([[2015年]]、[[テレビ東京]]、源内役:[[小林稔侍]])
*: 上述した生存説に基づいた解釈で描かれ、[[松平定信]]によって失脚没落崩壊した田沼家の「隠された姫」である早苗のお目付け役として登場する。
* 『[[風雲児たち#テレビドラマ|風雲児たち〜蘭学革命篇〜]]』([[2018年]]、NHK総合、源内役:[[山本耕史]])
*: 後述の[[漫画]]作品『[[風雲児たち]]』([[みなもと太郎]])を原作に置くテレビドラマ作品。脚本は[[三谷幸喜]]。
* 『大江戸スチームパンク』([[2020年]]、[[テレビ大阪]]、源内役:[[六角精児]])
* 『[[大奥 (2023年のテレビドラマ)|大奥]]』([[2023年]]、NHK総合、源内役:[[鈴木杏]])
*: 後述の漫画作品『[[大奥]]』([[よしながふみ]])を原作に置くテレビドラマ作品。男女が逆転した世界を描いており、源内は男装の女性という設定。脚本は[[森下佳子]]。
* 『[[銀魂 (アニメ)|銀魂]]』([[2006年]]~、テレビ東京系列)
*: 後述の漫画作品『[[銀魂]]』([[空知英秋]])を原作としたアニメ作品。「江戸一番の発明家」を自称するカラクリ技師平賀源外として登場。
他にドラマ愛の詩シリーズおよびTVアニメ版の『[[ズッコケ三人組]]』における『ズッコケ時間漂流記』(源内役:[[藤岡弘、|藤岡弘]](ドラマ版)、[[松山鷹志]](アニメ版))や、アニメ『[[落語天女おゆい]]』(源内役:[[てらそままさき]])、同じくアニメ版『[[あんみつ姫]]』などの映像化作品がある。『それいけ!アンパンマン』では'''からくりぐんない'''という発明家のキャラクターが登場する。
=== 小説 ===
* [[桜田常久]]『平賀源内』(芥川賞受賞作。源内が杉田玄白の尽力でひそかに獄から脱出できたあとの後日談という構想である。)
* [[村上元三]]『平賀源内』
* [[吉川英治]]『[[鳴門秘帖]]』(源内が登場する)
* [[那須正幹]]『ズッコケ時間漂流記』
* [[久生十蘭]]『平賀源内捕物帳』
* [[山本昌代]]『源内先生船出祝』
* [[南條範夫]]『無頼武士道』
* [[広瀬正]]『異聞風来山人』
* [[赤松光夫]]『江戸の大山師 天才発明家・平賀源内』(著者らしい官能時代小説である)
* [[清水義範]]『源内万華鏡』
* [[大沼弘幸]]・[[わたなべぢゅんいち]]『大江戸乱学事始』
* [[筒井康隆]]『空飛ぶ表具屋』(世界初の有人飛行を行ったとされる浮田幸吉を後援する役割で、興味本位で軽挙妄動する現代のマスコミ文化人を重ね合わせて描かれている。)
* [[井沢元彦]]『銀魔伝 源内死闘の巻』
* [[夢枕獏]]『大江戸恐龍伝』
=== 漫画 ===
* [[石ノ森章太郎]]『[[平賀源内 解国新書]]』
*: 源内が田沼意次の一代記の著者として描かれている。
* [[上村一夫]]『春の嵐』
* [[みなもと太郎]]『[[風雲児たち]]』田沼時代編
*: 蘭学者たちのオピニオン・リーダーの一人として描かれており、自らに対して時代があまりにもついてこないことに苦悩する天才として描かれる。
* [[水木しげる]]『[[東西奇ッ怪紳士録]]』
*: ステレオタイプ的歴史観に基づいた形で奇人として取り上げられている。
* [[碧也ぴんく]]『鬼外カルテシリーズ』
*: 虚空を彷徨い、現代を生きる鬼外というキャラクターとして描かれている。「シリーズ其ノ14(最終章)」では鬼外(平賀源内)を主人公とした物語が展開する。
* [[星野之宣]]『鎖の国』
*: 科学者と戯作者の兄弟という形で源内二人説を描いている。
* [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』
*: 第八巻から登場。男装の女性として描かれている。
* [[長谷垣なるみ]]『利根川りりかの実験室』(原作:[[青柳碧人]])
*: 「NOTE 8. 命短し、夢見よ乙女」で登場。
* [[仲間りょう]]『[[磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ〜]]』
* 黒沢明世/[[横内謙介]]『奇想天外☆歌舞音曲劇 げんない』
*[[冬目景]]『[[黒鉄]] KUROGANE』
*: 主人公の迅鉄を[[サイボーグ]]にしたのが源内をモデルとした源吉という蘭学者。
* [[空知英秋]]『[[銀魂]]』
*: 「江戸一番の発明家」を自称するカラクリ技師平賀源外として登場。
=== ゲーム ===
* [[カプコン]]『[[えどたん]]』
* [[彩京]]『[[戦国エース]]』 - 彼をモチーフにした「平乃源内」というキャラクターが登場する。
* [[ビクター インタラクティブ ソフトウエア]]『[[大江戸ルネッサンス]]』 - 彼の発明により江戸を発展させる幕府運営ゲーム。
=== 演劇 ===
* [[井上ひさし]]作『[[表裏源内蛙合戦]]』
*: [[1970年]]に[[熊倉一雄]]演出、[[山田康雄]]主演で[[テアトル・エコー]]新装杮落しとして初演された。膨大な資料を駆使し言葉遊びを極めた音楽劇で、センセーショナルな評判を集め、[[戯曲]]がすぐに[[新潮社]]から出版されるという異例の展開となった。[[1992年]]にも[[安原義人]]主演で恵比寿に移転した同劇場の杮落としとして再演されている。[[2008年]]には作者が戯曲に改訂を施し、[[蜷川幸雄]]演出、[[上川隆也]]主演で[[Bunkamura]][[シアターコクーン]]他で上演された。
*作・作詞・演出/横内謙介、作曲/[[深沢桂子]]、振付/[[ラッキィ池田]]・[[彩木エリ]] 坊っちゃん劇場第8作『奇想天外☆歌舞音曲劇「げんない」』-主演:[[神敏将]]、[[宮川浩]](共に坊っちゃん劇場版)、[[三重野葵]](わらび座、全国公演版)。2013年4月13日から2014年3月16日まで、[[坊っちゃん劇場]]にて上演。
*ミュージカル『げんないー[[小田野直武|直武]]を育てた男』([[わらび座]])
=== ドラマCD ===
* 『源内妖変図譜』(源内役:[[関智一]])
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* [[中村幸彦]]校注 『風来山人集』〈『日本古典文学大系』55〉 岩波書店、1961年
* 平賀源内先生顕彰会編 『平賀源内全集』(全二巻) 名著刊行会、1970年
* {{Citation |和書| last = 小田 | first = 晋 | year = 2001 | title = 歴史の心理学 日本神話から現代まで | publisher = 日本教文社 | isbn = 4-531-06357-0}}
<!--* 埼玉新聞 「源内秩父を行く」(2009年)-->
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[土用の丑の日]]
* [[源内焼]] - 地元の焼き物・志度焼に、源内の指導を得て発展した焼き物の一群。
== 外部リンク ==
* [https://hiragagennai.com/index.html 平賀源内記念館]
**[https://hiragagennai.com/hiragagennai/ 平賀源内記念館 | 平賀源内の世界] - 平賀源内年譜ほか
* {{kotobank}}
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[[Category:平賀源内|*]]
[[Category:18世紀日本の植物学者]]
[[Category:18世紀日本の医師]]
[[Category:18世紀日本の画家]]
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[[Category:日本の本草学者]]
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[[Category:日本のLGBTの著作家]]
[[Category:日本のLGBTの科学者]]
[[Category:信濃平賀氏|けんない]]
[[Category:江戸時代の画家]]
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ガネーシュ・フェスティバル
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ガネーシュ・フェスティバルは、ヒンドゥー教の神 ガネーシュのお祭りで、インドのマハーラーシュトラ州を中心に、8月末または9月初めの「ガネーシュ・チャトゥルティー गणेश चतुर्थी」の日から(新月の日から4日目)満月までの計11日間行われる。 現地ではと呼ばれる。
マハーラーシュトラ州・プネー市のフェスティバルが大がかりで有名。 もともとは大きなフェスティバルではなかったが、独立運動に際して人々が集まるための方便としてフェスティバルが計画的に大きくされた。インド独立後も大きなフェスティバルとして続いている。
プネー市では、一年を通じて行われる祭りのなかで、ヒンドゥー教の新年を祝う光のフェスティバルディーワーリーと並ぶ大きな祭りである。
ガネーシュの寺院は小さい物を含めてほとんど全ての区画にある程、プネー市ではポピュラーな神であるが、更に困難を取り除き福をもたらす神であり、商売の神であるとされているので、多くの商店がスポンサーとなり大がかりな祭りを行う。
小さな寺院であっても、フェスティバルの時には大きな仮の寺院を作り、そこに神体のガネーシャの象を中心に飾る。回りには、非常に予算をかけた飾り付けが行われ、地域の財政力を示す。沢山の色の照明で飾り付けられたり、回りが沢山の生花で飾り付けられたり、神話にちなんだ飾り付けが行われる。
夜になると大音響で音楽がかけられる。この音楽はインド特有の音楽であるが、近年(2003年現在)は、トランス・ミュージックとして欧米や日本でもポピュラーになっているたぐいの音楽である。ガネーシュの像の前で男性達が踊り狂い女性はそれを遠巻きに見る。
地域の男性により大小の太鼓を中心にした音楽隊が構成され、やはり大音響で太鼓を叩きながら踊る。 フェスティバルの初日にはガネーシュの像を近くの大きな寺院につれて行き、目隠しをして自分の寺院に持ち帰る。個人でも、小さなガネーシュの像を買い求め目隠しをして自宅に持ち帰る。
目隠しをされたガネーシュの像は飾り付けをした山車の上に、王様の様ないでたちで座り、大きな太鼓を中心とした音楽隊が先導するなか、地域を練り歩きながら自分の寺院に帰る。先導隊は大音響の爆竹を大量に炸裂させながらガネーシュの先を浄化する。この爆竹は日本では違法として使用しない大きな物である。
フェスティバルの初日の夜になって、目隠しが取り除かれる。その後、毎晩の様に音楽や太鼓隊などのイベントが続く。花火があげられたり、ガネーシャの前に用意されたステージの上でショーが行われる。
最終日には、ガネーシュの像は川に持って行かれ、人々から取り除いた障害と共に川に流される。また、この時は再びガネーシャは飾り付けられた山車の上に座り、地域を練り歩き、人々はその前で踊り狂い、太鼓隊は最高の音で辺りを太鼓の音でいっぱいにする。川の近くになると多くの地域から集まって来た山車が列をなし、それぞれが大音響で太鼓を叩き、その姿は圧巻である。
なお、大きなガネーシュの像が川に流される事はなく、この場合、一緒に飾られていた小さな像や、大きな像に付けられていた飾り付けが外されて、川に流される。
ガネーシャを褒め讃える叫び声がある。「ガンバチ、バッパー」と一人が叫び、残りの大勢が「モーリヤー」と叫ぶ。ガンパチ(正確には「ガンパティ गणपति」)はガネーシュの呼び名である。
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ガネーシュ・フェスティバルは、ヒンドゥー教の神 ガネーシュのお祭りで、インドのマハーラーシュトラ州を中心に、8月末または9月初めの「ガネーシュ・チャトゥルティー गणेश चतुर्थी」の日から(新月の日から4日目)満月までの計11日間行われる。
現地ではと呼ばれる。 マハーラーシュトラ州・プネー市のフェスティバルが大がかりで有名。
もともとは大きなフェスティバルではなかったが、独立運動に際して人々が集まるための方便としてフェスティバルが計画的に大きくされた。インド独立後も大きなフェスティバルとして続いている。 プネー市では、一年を通じて行われる祭りのなかで、ヒンドゥー教の新年を祝う光のフェスティバルディーワーリーと並ぶ大きな祭りである。 ガネーシュの寺院は小さい物を含めてほとんど全ての区画にある程、プネー市ではポピュラーな神であるが、更に困難を取り除き福をもたらす神であり、商売の神であるとされているので、多くの商店がスポンサーとなり大がかりな祭りを行う。 小さな寺院であっても、フェスティバルの時には大きな仮の寺院を作り、そこに神体のガネーシャの象を中心に飾る。回りには、非常に予算をかけた飾り付けが行われ、地域の財政力を示す。沢山の色の照明で飾り付けられたり、回りが沢山の生花で飾り付けられたり、神話にちなんだ飾り付けが行われる。 夜になると大音響で音楽がかけられる。この音楽はインド特有の音楽であるが、近年(2003年現在)は、トランス・ミュージックとして欧米や日本でもポピュラーになっているたぐいの音楽である。ガネーシュの像の前で男性達が踊り狂い女性はそれを遠巻きに見る。 地域の男性により大小の太鼓を中心にした音楽隊が構成され、やはり大音響で太鼓を叩きながら踊る。
フェスティバルの初日にはガネーシュの像を近くの大きな寺院につれて行き、目隠しをして自分の寺院に持ち帰る。個人でも、小さなガネーシュの像を買い求め目隠しをして自宅に持ち帰る。 目隠しをされたガネーシュの像は飾り付けをした山車の上に、王様の様ないでたちで座り、大きな太鼓を中心とした音楽隊が先導するなか、地域を練り歩きながら自分の寺院に帰る。先導隊は大音響の爆竹を大量に炸裂させながらガネーシュの先を浄化する。この爆竹は日本では違法として使用しない大きな物である。 フェスティバルの初日の夜になって、目隠しが取り除かれる。その後、毎晩の様に音楽や太鼓隊などのイベントが続く。花火があげられたり、ガネーシャの前に用意されたステージの上でショーが行われる。 最終日には、ガネーシュの像は川に持って行かれ、人々から取り除いた障害と共に川に流される。また、この時は再びガネーシャは飾り付けられた山車の上に座り、地域を練り歩き、人々はその前で踊り狂い、太鼓隊は最高の音で辺りを太鼓の音でいっぱいにする。川の近くになると多くの地域から集まって来た山車が列をなし、それぞれが大音響で太鼓を叩き、その姿は圧巻である。 なお、大きなガネーシュの像が川に流される事はなく、この場合、一緒に飾られていた小さな像や、大きな像に付けられていた飾り付けが外されて、川に流される。 ガネーシャを褒め讃える叫び声がある。「ガンバチ、バッパー」と一人が叫び、残りの大勢が「モーリヤー」と叫ぶ。ガンパチはガネーシュの呼び名である。
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'''ガネーシュ・フェスティバル'''は、[[ヒンドゥー教]]の[[神]] [[ガネーシュ]]のお祭りで、[[インド]]の[[マハーラーシュトラ州]]を中心に、8月末または9月初めの「ガネーシュ・チャトゥルティー गणेश चतुर्थी」の日から(新月の日から4日目)[[満月]]までの計11日間行われる。
現地ではと呼ばれる。
[[マハーラーシュトラ州]]・[[プネー]]市のフェスティバルが大がかりで有名。
もともとは大きなフェスティバルではなかったが、独立運動に際して人々が集まるための方便としてフェスティバルが計画的に大きくされた。インド独立後も大きなフェスティバルとして続いている。
プネー市では、一年を通じて行われる祭りのなかで、ヒンドゥー教の新年を祝う光のフェスティバル[[ディーワーリー]]と並ぶ大きな祭りである。
ガネーシュの寺院は小さい物を含めてほとんど全ての区画にある程、プネー市ではポピュラーな神であるが、更に困難を取り除き福をもたらす神であり、商売の神であるとされているので、多くの商店がスポンサーとなり大がかりな祭りを行う。
小さな寺院であっても、フェスティバルの時には大きな仮の寺院を作り、そこに神体のガネーシャの象を中心に飾る。回りには、非常に予算をかけた飾り付けが行われ、地域の財政力を示す。沢山の色の照明で飾り付けられたり、回りが沢山の生花で飾り付けられたり、神話にちなんだ飾り付けが行われる。
夜になると大音響で音楽がかけられる。この音楽はインド特有の音楽であるが、近年(2003年現在)は、[[トランス・ミュージック]]として欧米や日本でもポピュラーになっているたぐいの音楽である。ガネーシュの像の前で男性達が踊り狂い女性はそれを遠巻きに見る。
地域の男性により大小の太鼓を中心にした音楽隊が構成され、やはり大音響で太鼓を叩きながら踊る。
フェスティバルの初日にはガネーシュの像を近くの大きな寺院につれて行き、目隠しをして自分の寺院に持ち帰る。個人でも、小さなガネーシュの像を買い求め目隠しをして自宅に持ち帰る。
目隠しをされたガネーシュの像は飾り付けをした山車の上に、王様の様ないでたちで座り、大きな太鼓を中心とした音楽隊が先導するなか、地域を練り歩きながら自分の寺院に帰る。先導隊は大音響の爆竹を大量に炸裂させながらガネーシュの先を浄化する。この爆竹は日本では違法として使用しない大きな物である。
フェスティバルの初日の夜になって、目隠しが取り除かれる。その後、毎晩の様に音楽や太鼓隊などのイベントが続く。花火があげられたり、ガネーシャの前に用意されたステージの上でショーが行われる。
最終日には、ガネーシュの像は川に持って行かれ、人々から取り除いた障害と共に川に流される。また、この時は再びガネーシャは飾り付けられた山車の上に座り、地域を練り歩き、人々はその前で踊り狂い、太鼓隊は最高の音で辺りを太鼓の音でいっぱいにする。川の近くになると多くの地域から集まって来た山車が列をなし、それぞれが大音響で太鼓を叩き、その姿は圧巻である。
なお、大きなガネーシュの像が川に流される事はなく、この場合、一緒に飾られていた小さな像や、大きな像に付けられていた飾り付けが外されて、川に流される。
ガネーシャを褒め讃える叫び声がある。「ガンバチ、バッパー」と一人が叫び、残りの大勢が「モーリヤー」と叫ぶ。ガンパチ(正確には「ガンパティ गणपति」)はガネーシュの呼び名である。
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ネオジム
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ネオジム(英: neodymium [ˌniː.ɵˈdɪmiəm]、独: Neodym [neoˈdyːm])は、原子番号60の金属元素。元素記号は Nd。希土類元素の一つで、ランタノイドにも属する。
ギリシャ語で「新しい」を意味する neos とジジミウムを合成した名称である。ジジミウムはプラセオジムとネオジムの混合物で、かつては1つの元素と考えられていた。ネオジムはプラセオジムとともに1885年にジジミウムから単離・発見され、「新しいジジミウム」を意味する名称が付された。
日本語の「ネオジム」はドイツ語の Neodym の字訳である。製品名などで「ネオジウム」「ネオジューム」の誤用もみられる。
銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は複六方最密充填構造(ABACスタッキング)、868°C - 1021°Cの間は体心立方格子で安定する。比重は7.0、融点は1,024 摂氏 (°C)、沸点は3,027 °C。安定な原子価は4f の電子配置をとる3価である。常温下の空気中では表面のみが酸化され、高温下では燃焼して淡赤紫色の酸化ネオジム(III) Nd2O3 となる。ハロゲン元素と反応してハロゲン化物 NdX3 を、熱水と徐々に反応して水素および水酸化物を、それぞれ生成する。酸に易溶で、3価の淡赤紫色の水和イオン Nd(aq) を生成する。
ランタノイドの中では比較的イオン半径が大きい。
単斜晶構造のリン酸塩であるモナズ石 (Ce,La,Nd,Th)PO4 に含有される。単体のネオジムは、無水塩化ネオジムを融解塩電解またはカルシウムやナトリウムで還元して得る。
カール・アウアー・フォン・ヴェルスバッハが、元来は一つの元素と考えられていた混合物であるジジミウム (didymium) から、プラセオジムと共に1885年に発見する。
化合物中の原子価は 4f の電子配置をとる3価が唯一安定なものである。4価を含む化合物が合成されたという報告もいくつかあるが、いずれも疑わしい。
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ネオジムは、原子番号60の金属元素。元素記号は Nd。希土類元素の一つで、ランタノイドにも属する。
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'''ネオジム'''({{lang-en-short|neodymium}} {{IPA-en|ˌniː.ɵˈdɪmiəm|}}、{{lang-de-short|Neodym}} {{IPA-de|neoˈdyːm|}})は、[[原子番号]]60の[[金属元素]]。[[元素記号]]は '''Nd'''。[[希土類元素]]の一つで、[[ランタノイド]]にも属する。
== 名称 ==
[[ギリシャ語]]で「新しい」を意味する neos と[[ジジミウム]]を合成<ref name="sakurai" />した名称である。ジジミウムは[[プラセオジム]]とネオジムの混合物で、かつては1つの元素と考えられていた。ネオジムはプラセオジムとともに1885年にジジミウムから単離・発見され、「新しいジジミウム」を意味する名称が付された。
日本語の「ネオジム」はドイツ語の ''Neodym'' の字訳である。製品名などで「ネオジウム」「ネオジューム」の誤用もみられる。
== 性質 ==
銀白色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は複六方最密充填構造(ABACスタッキング)、868℃ - 1021℃の間は体心立方格子で安定する。[[比重]]は7.0、[[融点]]は1,024 [[セルシウス度|摂氏]] (℃)、[[沸点]]は3,027 ℃。安定な[[原子価]]は4f<sup>3</sup> の[[電子配置]]をとる3価である。常温下の空気中では表面のみが酸化され、高温下では燃焼して淡赤紫色の[[酸化ネオジム(III)]] Nd<sub>2</sub>O<sub>3</sub> となる。[[ハロゲン元素]]と反応してハロゲン化物 NdX<sub>3</sub> を、熱水と徐々に反応して[[水素]]および[[水酸化物]]を、それぞれ生成する。[[酸]]に易溶で、3価の淡赤紫色の水和イオン Nd<sup>3+</sup>(aq) を生成する。
: <chem>2Nd + 6 H^+(aq) -> Nd^{3+}(aq) + 3 H2</chem>
: <chem>Nd^{3+}(aq){} + 3 \mathit{e}^-\ =\ Nd \ </chem> <math>E^\circ = -2.32 \mathrm{V})</math>
ランタノイドの中では比較的[[イオン半径]]が大きい。{{main|ランタノイド収縮}}
単斜晶構造のリン酸塩である[[モナズ石]] (Ce,La,Nd,Th)PO<sub>4</sub> に含有される。[[単体]]のネオジムは、無水塩化ネオジムを[[融解塩電解]]または[[カルシウム]]や[[ナトリウム]]で[[還元]]して得る。
== 用途 ==
; 磁石
: 強い[[磁力]]を有する[[永久磁石]]に用いられる。ネオジム、[[鉄]]、[[ホウ素]]の化合物である Nd{{sub|2}}Fe{{sub|14}}B は、高磁力の永久磁石である[[ネオジム磁石]]となり高性能の[[電動機|モーター]]や[[スピーカー]]など広く利用される。 金属ネオジムは主に非常に強力な永久磁石ネオジム鉄ホウ素磁石の製造に用いられ、特殊な高温合金とスパッタリングターゲットの製造にも用いられる。 <ref>{{Cite web | url=https://www.guidechem.com/encyclopedia/neodymium-dic15135.html | title=NEODYMIUM | accessdate=2023-06-30}}</ref>
:
; 光学材料
: [[ガラス]]に適量のネオジムの[[酸化物]]を添加して得られる、[[可視光]]のうち黄色系統の光を吸収して他色の光は透過させる特性から、Nd{{sub|2}}O{{sub|3}} が[[ガラスの着色]]剤として用いられる。
:
; その他
:* [[超伝導体]]の材料
:* [[YAGレーザー]]の添加物
:* [[シュウ酸]]塩ならびに[[プラセオジム]]の合金であるジジムは、防眩ガラス及び防塵ガラスならびに特殊合金の材料となる<ref>岩波書店 岩波科学百科 1020頁</ref>。
:* ({{sub|143}}Nd/{{sub|144}}Nd) の同位体比と[[ストロンチウム]] ({{sub|87}}Sr/{{sub|86}}Sr) の同位体比が[[放射年代測定]]に用いられる<ref>{{PDFlink|[http://www.ied.tsukuba.ac.jp/wordpress/wp-content/uploads/pdf_papers/terc_em02/terc_em02_09.pdf Sr-Nd 横尾頼子、同位体を用いた地圏環境研究] 筑波大学アイソトープ環境動態}}</ref>。
== 歴史 ==
[[カール・ヴェルスバッハ|カール・アウアー・フォン・ヴェルスバッハ]]が、元来は一つの元素と考えられていた混合物である'''[[ジジミウム]]''' (didymium) から、[[プラセオジム]]と共に[[1885年]]に発見<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 268|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>する。
== 化合物 ==
化合物中の原子価は 4f<sup>3</sup> の[[電子配置]]をとる3価が唯一安定なものである。4価を含む化合物が合成されたという報告もいくつかあるが、いずれも疑わしい<ref name=Cotton>FA コットン, G. ウィルキンソン著, 中原勝翻訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年</ref>。
* [[酸化ネオジム(III)]] (Nd<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)
* [[水酸化ネオジム(III)]] (Nd(OH)<sub>3</sub>)
* [[塩化ネオジム(III)]] (NdCl<sub>3</sub>)
* [[硫酸ネオジム(III)]] (Nd<sub>2</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>·8H<sub>2</sub>O)
== 同位体 ==
{{Main|ネオジムの同位体}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{Commons|Neodymium}}
* [[ネオジム磁石]]
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ICO (ゲーム)
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『ICO』(イコ)は、ソニー・コンピュータエンタテインメントにより開発・発売された日本のアクションアドベンチャーゲーム。2001年12月6日にPlayStation 2用ソフトとして発売され、後に「PlayStation 2 the Best」として廉価版が発売された。また、2011年9月22日にはPlayStation 3用のHDリマスター版が発売された。
角が生えたために生贄として謎の古城に閉じ込められた少年イコが、そこで出会った言葉の通じない少女ヨルダの手を取り、彼女を守りつつ共に古城から脱出する内容のアクションアドベンチャーゲーム。
キャッチコピーは「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」。この「手を繋ぐ」という動作は本作を特徴づけるゲームシステムとして組み込まれ、本作の基幹となるビジュアルイメージにもなっている。プレイヤーは必要に応じて「手を繋いでヒロインと共に先へ進む」状況と、「手を放して主人公を自由に行動させる」状況を切り替えながらゲームを進めていく。
ゲームの根本的な部分はパズル的な要素を含んだ仕掛けを解きながら道を切り開き先へ進んでいくという、従来のアクションアドベンチャーゲームの形式を踏襲するものであるが、本作の開発は「単なるビデオゲームではないものを作る」という発想から出発しており、従来のビデオゲームにおける約束事として定着していた諸要素、例えば勝ち負けを競う要素や、キャラクターの強さやヒットポイントなどを示す画面上のパラメーターやアイコン類の表示、その他数々のゲーム的な演出といったものが排除されている。
その一方で本作では、長大なムービーを用いて映画に似せるのではなく、かと言って膨大な作り込みによって大作感を出すのでもなく、あくまでプレイヤー自身がヒーローとなり、美しく作り込まれた世界の内側にいることを実感できるような方向での娯楽性が模索されており、ビデオゲームの双方向性を生かしつつの、目的に沿って絞り込んだ規模での世界の構築が行われている。ムービーに頼った演出ではなく、プレイヤーが操作可能な要素内でキャラクターの挙動やカメラアングルが徹底的に作り込まれていることは、従来の他作品ではあまり見られなかった本作独自の特徴である。
公式サイトによれば、その内容に好意的な感想を寄せたユーザーの間では、「安易に続編は作らないでほしい」という意見が多数を占めたとされる。後に同じ開発チームの手によるPS2ゲーム『ワンダと巨像』が発売され、そのエンディングは本作で描かれた世界との繋がりを示唆するものとなっているが、具体的な関連性がどのようなものであるかは受け手の想像に委ねる形となっている。
生まれつき角を持つ少年、イコは、村のならわしに従い、生贄として岸壁に囲まれた島にそびえ立つ無人の古城「霧の城」へと幽閉される。しかし偶然にも彼を閉じ込めていた棺のようなカプセルが壊れたことにより、自由に城の中を歩けるようになった彼は、城の北側にある塔の檻に閉じ込められていた言葉の通じない少女、ヨルダと出会う。
ヨルダは城内を跳梁跋扈する黒い影のような化け物たちに狙われており、彼女を放っては置けないと感じたイコは、彼女の手を引き、城の南側にある城門からの脱出を試みる。しかし、どうにか城門までたどり着いた彼らの前に、城の主を名乗ってヨルダを連れ戻そうとする化け物の女王が現れ、城門を閉ざしてしまう。イコとヨルダは城内へと引き返し、城の東西それぞれの端に位置する城門を開くための仕掛けを作動させることを試みる。
城内は迷路のように入り組み、あちこちが崩れ落ちていたり、封印や仕掛けのある扉や障害物で塞がれたりしており、自由に通行することができない。ヨルダは城の随所にある封じられた扉を開くことができる力を持っていたが、イコほどには身体能力が高くなく、彼女を連れ去ろうとする影の化け物から身を守る手段も持っていない。イコは城壁や鎖をよじ登り、足を踏み外せば命にかかわる足場を渡り歩き、影の化け物からヨルダを守って戦いながら、ヨルダでも通れる経路を確保しつつ、彼女を外の世界へと連れて行くために奮闘する。
冒険の末に城門を開くことに成功する彼らだが、しかし物語の終盤において再び女王に脱出を阻まれ、ふたりは離れ離れとなってしまう。イコは連れ去られたヨルダを追い、単身で女王と対決することになる。
フィールドやキャラクターには3DCGが用いられ、固定地点からの3人称視点で描かれる。物語の舞台となる城の各エリアは、ヒロインを連れてこなければ開くことができない扉によって区切られており、各エリアの仕掛けを解いたり、ヒロインを狙ってくる敵を倒したりしながら次のエリアへと進んでいく形式でゲームが進行する。画面上の主人公は、移動、ジャンプ、手に持った武器を振るう、ヒロインと手を繋ぐ(後述)、といった行動を能動的にとることができ、その他にも状況に応じて、物を動かしたり、壁や鎖に捕まったり飛び降りたり、といった幾つかのアクションが発生する。配置された仕掛けはパズル的なものとなっており、城にある物品を移動させたり、壊したり、装置を作動させたりしながら解くものとなっているが、解法はおおむね1つの仕掛けにつき1種類である。
本作では、多くのアクションゲームではヒットポイントとして表現されているシステムに代わるものを、AIによって操作されるヒロインが担うという設計がされており、このヒロインはゲームシステム上でも主人公にとって守るべき対象として設定されている。また前述のように次のエリアへと続く扉を開くための唯一の手段でもあり、更にはヒロインが一緒でなければセーブポイントでゲームデータを保存することもできない。このようにしてヒロインの手を引き、どのようにして城から脱出させるかというストーリー上の主題が、ゲームシステムにも取り入れられている。
本作ではレベル上げやアイテム収集といった要素は極力排されており、ゲーム中の画面には人物と背景以外に何も表示されず、メニュー画面でも設定の変更オプションが表示されるのみである。主人公は1種類の武器を持ち歩くことができ、一定の範囲内で爆弾や樽を抱えて持ち上げることもできるが、そうした所持品の変化は画面上のキャラクターが物品を手にして持ち運ぶという演出によって表現される。
本作では排除されたビデオゲーム的な要素に代わり、画面上のキャラクターの仕草や環境音といった表現に力が注がれ、それによってプレイヤーの達成感を得られるような試みが行われている。キャラクターのモーションは、鎖に捕まったり、飛び降りた際によろめいたり、泳いだりといった動作が見せ所を絞った形で作り込まれており、目を引く特徴のひとつとなっている。背景の描画は写実的で、光と暗闇の表現に力が注がれ、また風の流れや緊張感を知覚できる演出が行われている。既存のゲームのように劇伴曲を用いてプレイヤーを高揚させるような演出は避けられ、曲が流れるのはイベントや敵との遭遇時などといった要所に限定されており、通常は風の音や鳥の鳴き声、キャラクターの息遣いなどといった環境音のみが流れるという演出が用いられている。ゲーム中の台詞や文字には架空の言語が用いられており、主人公の台詞には字幕が表示されるのに対して、ヒロインの言葉は1周目ではその内容が明かされないものとなっている。
カメラアングルは主人公の位置に応じて自動的に切り替わる。舞台の広さや高さを表現するカメラワークの作り込みは本作の特徴のひとつであり、視認性よりも雰囲気作りを優先させた演出が行われている。
プレイヤーは「手を繋ぐ」操作に割り当てられたボタンを押し続けることで、主人公にヒロインの手を引かせて移動することができ、逆にボタンを離すことでヒロインをその場に待たせて主人公を単独で行動させることができる。ヒロインが主人公と離れている時には同じ操作でヒロインに呼びかけることができ、主人公の近くまで来るようにと指示したり、ヒロインが単独で乗り越えられない段差や飛び越えられない崖で手を差し伸べたりすることができる。
ヒロインは主人公と比べて移動できる経路が限られており、あまり高い所からは飛び降りることができず、壁や鎖に捕まったりよじ登ったりすることもできない。一方で主人公が単独で行動すれば行動範囲は大きく広がるものの、主人公がヒロインから一定時間離れていると、どこからともなく出現した敵がヒロインを連れ去りゲームオーバーとなってしまう。このためプレイヤーは、ヒロインから離れ過ぎない範囲で主人公を先行させて仕掛けを解き、ヒロインが移動できる経路を確保しながら、ヒロインを誘導し、手を引いて先に進んでいかなければならない。こうしたゲームシステムはプレイヤーに対し、ヒロインを守ろうとする主人公への感情移入を促すような内容にもなっている。
物語の終盤では、主人公がヒロインと引き裂かれる展開となり、主人公の身体能力を駆使しなければ進めない足場が連続するステージが登場する。このときヒロインに呼びかける操作を行うと、視点が移動して次に進むべき目標を指し示す。
物語の舞台となる城には随所に大きな高低差があり、主人公が一定以上の高所から落下して死亡するとゲームオーバーとなる。また、主人公にとって守るべき対象であるヒロインが敵に連れ去られてしまってもゲームオーバーとなる。
主人公は敵の攻撃によってダメージを受けるとしばらく立ち上がることができなくなり、基本的にはそのことで死亡することこそないものの、主人公が昏倒している間はヒロインが無防備になってしまう。ヒロインは接近してきた敵に組み付かれてしまうと、フィールド内の床に出現した「影の巣」まで連れて行かれ、その中に引き込まれてしまう。そのまま一定期間与えられている救出の機会を逃してしまうとゲームオーバーとなる。
敵に対しては、主人公が手にしている木の棒または剣を使って攻撃することが可能で、ボタンを連打すると3回までの連続攻撃が発生する。これによって敵を怯ませることができ、ある程度ダメージを与えれば倒すこともできる。ただし本作における戦闘はあくまで主人公の行く手を阻む障害を排除するための手段であり、戦闘で勝利しても経験値やアイテムのような恩恵を得ることはなく、一部の戦闘を除いては、可能な限り戦闘を避けてゲームを進めることもできる。
エリアの区切りとなる扉までヒロインを連れていくことができれば、扉から電撃が放たれ、周囲に残っていた敵は自動的に一掃される。
開発は日本国内で行われた。本作は当初、初代PlayStation(PS)用のソフトとして制作が進められたが、途中でPlayStation 2(PS2)用に作り直されたという開発経緯を持つ。本作のPS版が発売されることはなかったが、ゲームシステムはPS版の開発段階で既に確立されており、PS2の完成版と変わらないものであったという。
本作ではゲームデザインを優先させ、その内容にストーリーをすり合わせるという形で制作が進められた。例えば主人公の頭にある角は本作のストーリーにおいて重要な要素を占めており、後には本作と『ワンダと巨像』との繋がりを示唆する記号となるが、開発当初は単に視認性を向上させるための目印としてつけられたものであった。海に囲まれ霧で覆われた城という舞台もゲーム機の処理能力の不足を補うために設定されたもので、遠景を細部まで表示しなくとも雰囲気が出せる手法として用いられた。
日本では、年末商戦のさなかに発売されたためか一部のゲームファンが注目するにとどまり、その魅力が口コミで広がっていったものの、セールスにはそれほど反映されなかった。一方で日本国外では高い評価を受けることとなり、アメリカにおいてゲームのアカデミー賞とみなされている AIAS(The Academy of Interactive Arts and Sciences)の5th AIAS Achievement Awardsにおいて最多ノミネートとなる。
さらに、国際ゲーム制作者団体(The International Game Developers Association)のゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワードにおいても以下の6部門にノミネートされ、こちらも最多ノミネートとなる。
本作のプロデューサーである海道賢仁によれば、日本国外ではゲームシステムの革新性が評価されたが、日本国内では本作の独特の世界観や雰囲気作りが評価されたとされる。また、本作が持つ雰囲気や映像表現は、特に女性プレイヤーの間で話題になったといわれ、アンケートから得られたユーザーの男女比は男性6に対して女性4であったとされる。
また、洋泉社が発行した『アニソンマガジン』Vol.5のゲームソングレビュー集のなかで、ライターのナ月俊由季が本作の主題歌「ICO -You were there-」について、ケルト音楽のようなサウンドと澄み切った歌声が作品の安らかな世界観に合致していると指摘し、「感動とチクリと胸を刺す切なさが心地いい隠れた名曲」と批評した。
2021年12月にはPS2版の発売から20周年を迎え、雑誌『週刊ファミ通』では特集が組まれた。記事中の『ICO』に寄せられたコメントのうち、映画監督 ギレルモ・デル・トロのコメント内容はTwitterで公開された。
本作は、先にアメリカ合衆国で英語版が発売され、その後日本で発売されたという経緯を持つ。後発となる日本語版では、英語版になかった要素の追加や操作性の変更、敵の挙動の変更や一部マップの仕掛けの変更などといった、ゲーム性に関わる部分での変更も行われている。
こうした変更の一環として、日本語版ではクリアデータを用いて2周目を開始するとおまけ要素を楽しむことができる。具体的には1周目では伏せられていたヒロインの言葉の意味が日本語字幕によって明かされたり、敵の耐久力が変化したり、2人プレイに対応したりといった変化がある。2人プレイは2周目のゲームプレイ中のメニューから選択することができ、2Pコントローラー側からヒロインを操作することが可能となる。
2007年11月29日、PS2版のICOのソースコードの中にGNU GPL(LGPLではない)の下でライセンスされている「libarc」のライブラリが含まれていることが、有志のユーザーにより発見された。これが事実ならば、GPLのルールにより、このライブラリを使用したSCEはGPLであることの表示とソフト所有者へのICOの全ソースコードの公開をしなければならなかったが、SCEはこれを怠っていたことになる。2007年12月、SCEは「GPL違反疑惑そのものを認識していないため現在確認中」とコメントを発表したが、2008年2月にはICOの生産終了、廃盤を決定。現在は在庫限りとなり、PS2版の新品入手は極めて困難であり、後述のHDリマスター版発売までは中古価格も高騰していた。
2011年9月22日にはPlayStation 3(PS3)用ソフトとしてHDリマスター版が発売された。リマスター版では3次元映像の立体視に対応しているほか、グラフィックも1080pフルHDとなり高解像度化されている。ただし本作の場合、オリジナルであるPS2版の時点で、当時のハードでは表現できない部分まで作り込まれていたこともあり、映像のアップコンバートはあっても大きな変更はなく、基本的にはPS2版に忠実な作りとなっている。発売決定の発表は2010年9月の東京ゲームショウで行われた。
本作と世界設定を共有する『ワンダと巨像』のPS3用HDリマスター版も同時に発売されており、日本国外では2作品をひとつのBDにパッケージ、日本では個別の販売のほか『ICO/ワンダと巨像Limited Box』としてのセット販売も行われた。
2012年1月31日にはダウンロード販売版も発売された。
『ICO -霧の城-』のタイトルで、宮部みゆきによるノベライズ作品が発表されている。『週刊現代』(講談社)で2002年5月11・18日合併号から全50回に渡って連載され、2004年6月に単行本が出版された。
幾つもの文学賞の受賞歴を持つ小説家でありゲーム好きでもある宮部が、本作の体験版をプレイしてその内容を気に入り、予定していた別作品の執筆を取りやめて、雑誌の編集部を通して本作のスタッフに企画を持ちかけるという経緯で執筆が決まった。宮部が原作のある作品を発表するのは、このノベライズ作品が初である。
小説では原作ゲームとは異なる、独自の展開・設定がなされている。原作ゲームには構想として用意されていた裏設定もあったものの、原作のスタッフは小説化の際には自由に構想を膨らませて欲しいという意図から、そうした設定の詳細は宮部に伝えないことにし、同時に本作のファンがそれぞれ抱いている原作のイメージを大事にするように注文したという。
初版の単行本の表紙には、PS2ゲーム版のパッケージと同じ絵が用いられている。2008年には講談社ノベルスから新装版が出版され、表紙イラストを放電映像が担当した。2010年には講談社文庫から文庫版が出版され、表紙イラストを丹地陽子が担当した。
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"text": "本作では排除されたビデオゲーム的な要素に代わり、画面上のキャラクターの仕草や環境音といった表現に力が注がれ、それによってプレイヤーの達成感を得られるような試みが行われている。キャラクターのモーションは、鎖に捕まったり、飛び降りた際によろめいたり、泳いだりといった動作が見せ所を絞った形で作り込まれており、目を引く特徴のひとつとなっている。背景の描画は写実的で、光と暗闇の表現に力が注がれ、また風の流れや緊張感を知覚できる演出が行われている。既存のゲームのように劇伴曲を用いてプレイヤーを高揚させるような演出は避けられ、曲が流れるのはイベントや敵との遭遇時などといった要所に限定されており、通常は風の音や鳥の鳴き声、キャラクターの息遣いなどといった環境音のみが流れるという演出が用いられている。ゲーム中の台詞や文字には架空の言語が用いられており、主人公の台詞には字幕が表示されるのに対して、ヒロインの言葉は1周目ではその内容が明かされないものとなっている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "カメラアングルは主人公の位置に応じて自動的に切り替わる。舞台の広さや高さを表現するカメラワークの作り込みは本作の特徴のひとつであり、視認性よりも雰囲気作りを優先させた演出が行われている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "プレイヤーは「手を繋ぐ」操作に割り当てられたボタンを押し続けることで、主人公にヒロインの手を引かせて移動することができ、逆にボタンを離すことでヒロインをその場に待たせて主人公を単独で行動させることができる。ヒロインが主人公と離れている時には同じ操作でヒロインに呼びかけることができ、主人公の近くまで来るようにと指示したり、ヒロインが単独で乗り越えられない段差や飛び越えられない崖で手を差し伸べたりすることができる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ヒロインは主人公と比べて移動できる経路が限られており、あまり高い所からは飛び降りることができず、壁や鎖に捕まったりよじ登ったりすることもできない。一方で主人公が単独で行動すれば行動範囲は大きく広がるものの、主人公がヒロインから一定時間離れていると、どこからともなく出現した敵がヒロインを連れ去りゲームオーバーとなってしまう。このためプレイヤーは、ヒロインから離れ過ぎない範囲で主人公を先行させて仕掛けを解き、ヒロインが移動できる経路を確保しながら、ヒロインを誘導し、手を引いて先に進んでいかなければならない。こうしたゲームシステムはプレイヤーに対し、ヒロインを守ろうとする主人公への感情移入を促すような内容にもなっている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
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"tag": "p",
"text": "物語の終盤では、主人公がヒロインと引き裂かれる展開となり、主人公の身体能力を駆使しなければ進めない足場が連続するステージが登場する。このときヒロインに呼びかける操作を行うと、視点が移動して次に進むべき目標を指し示す。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "物語の舞台となる城には随所に大きな高低差があり、主人公が一定以上の高所から落下して死亡するとゲームオーバーとなる。また、主人公にとって守るべき対象であるヒロインが敵に連れ去られてしまってもゲームオーバーとなる。",
"title": "ゲームシステム"
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{
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"text": "主人公は敵の攻撃によってダメージを受けるとしばらく立ち上がることができなくなり、基本的にはそのことで死亡することこそないものの、主人公が昏倒している間はヒロインが無防備になってしまう。ヒロインは接近してきた敵に組み付かれてしまうと、フィールド内の床に出現した「影の巣」まで連れて行かれ、その中に引き込まれてしまう。そのまま一定期間与えられている救出の機会を逃してしまうとゲームオーバーとなる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
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"tag": "p",
"text": "敵に対しては、主人公が手にしている木の棒または剣を使って攻撃することが可能で、ボタンを連打すると3回までの連続攻撃が発生する。これによって敵を怯ませることができ、ある程度ダメージを与えれば倒すこともできる。ただし本作における戦闘はあくまで主人公の行く手を阻む障害を排除するための手段であり、戦闘で勝利しても経験値やアイテムのような恩恵を得ることはなく、一部の戦闘を除いては、可能な限り戦闘を避けてゲームを進めることもできる。",
"title": "ゲームシステム"
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{
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"text": "エリアの区切りとなる扉までヒロインを連れていくことができれば、扉から電撃が放たれ、周囲に残っていた敵は自動的に一掃される。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
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"tag": "p",
"text": "開発は日本国内で行われた。本作は当初、初代PlayStation(PS)用のソフトとして制作が進められたが、途中でPlayStation 2(PS2)用に作り直されたという開発経緯を持つ。本作のPS版が発売されることはなかったが、ゲームシステムはPS版の開発段階で既に確立されており、PS2の完成版と変わらないものであったという。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "本作ではゲームデザインを優先させ、その内容にストーリーをすり合わせるという形で制作が進められた。例えば主人公の頭にある角は本作のストーリーにおいて重要な要素を占めており、後には本作と『ワンダと巨像』との繋がりを示唆する記号となるが、開発当初は単に視認性を向上させるための目印としてつけられたものであった。海に囲まれ霧で覆われた城という舞台もゲーム機の処理能力の不足を補うために設定されたもので、遠景を細部まで表示しなくとも雰囲気が出せる手法として用いられた。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "日本では、年末商戦のさなかに発売されたためか一部のゲームファンが注目するにとどまり、その魅力が口コミで広がっていったものの、セールスにはそれほど反映されなかった。一方で日本国外では高い評価を受けることとなり、アメリカにおいてゲームのアカデミー賞とみなされている AIAS(The Academy of Interactive Arts and Sciences)の5th AIAS Achievement Awardsにおいて最多ノミネートとなる。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "さらに、国際ゲーム制作者団体(The International Game Developers Association)のゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワードにおいても以下の6部門にノミネートされ、こちらも最多ノミネートとなる。",
"title": "作品解説"
},
{
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"text": "本作のプロデューサーである海道賢仁によれば、日本国外ではゲームシステムの革新性が評価されたが、日本国内では本作の独特の世界観や雰囲気作りが評価されたとされる。また、本作が持つ雰囲気や映像表現は、特に女性プレイヤーの間で話題になったといわれ、アンケートから得られたユーザーの男女比は男性6に対して女性4であったとされる。",
"title": "作品解説"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、洋泉社が発行した『アニソンマガジン』Vol.5のゲームソングレビュー集のなかで、ライターのナ月俊由季が本作の主題歌「ICO -You were there-」について、ケルト音楽のようなサウンドと澄み切った歌声が作品の安らかな世界観に合致していると指摘し、「感動とチクリと胸を刺す切なさが心地いい隠れた名曲」と批評した。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "2021年12月にはPS2版の発売から20周年を迎え、雑誌『週刊ファミ通』では特集が組まれた。記事中の『ICO』に寄せられたコメントのうち、映画監督 ギレルモ・デル・トロのコメント内容はTwitterで公開された。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "本作は、先にアメリカ合衆国で英語版が発売され、その後日本で発売されたという経緯を持つ。後発となる日本語版では、英語版になかった要素の追加や操作性の変更、敵の挙動の変更や一部マップの仕掛けの変更などといった、ゲーム性に関わる部分での変更も行われている。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "こうした変更の一環として、日本語版ではクリアデータを用いて2周目を開始するとおまけ要素を楽しむことができる。具体的には1周目では伏せられていたヒロインの言葉の意味が日本語字幕によって明かされたり、敵の耐久力が変化したり、2人プレイに対応したりといった変化がある。2人プレイは2周目のゲームプレイ中のメニューから選択することができ、2Pコントローラー側からヒロインを操作することが可能となる。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2007年11月29日、PS2版のICOのソースコードの中にGNU GPL(LGPLではない)の下でライセンスされている「libarc」のライブラリが含まれていることが、有志のユーザーにより発見された。これが事実ならば、GPLのルールにより、このライブラリを使用したSCEはGPLであることの表示とソフト所有者へのICOの全ソースコードの公開をしなければならなかったが、SCEはこれを怠っていたことになる。2007年12月、SCEは「GPL違反疑惑そのものを認識していないため現在確認中」とコメントを発表したが、2008年2月にはICOの生産終了、廃盤を決定。現在は在庫限りとなり、PS2版の新品入手は極めて困難であり、後述のHDリマスター版発売までは中古価格も高騰していた。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2011年9月22日にはPlayStation 3(PS3)用ソフトとしてHDリマスター版が発売された。リマスター版では3次元映像の立体視に対応しているほか、グラフィックも1080pフルHDとなり高解像度化されている。ただし本作の場合、オリジナルであるPS2版の時点で、当時のハードでは表現できない部分まで作り込まれていたこともあり、映像のアップコンバートはあっても大きな変更はなく、基本的にはPS2版に忠実な作りとなっている。発売決定の発表は2010年9月の東京ゲームショウで行われた。",
"title": "作品解説"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "本作と世界設定を共有する『ワンダと巨像』のPS3用HDリマスター版も同時に発売されており、日本国外では2作品をひとつのBDにパッケージ、日本では個別の販売のほか『ICO/ワンダと巨像Limited Box』としてのセット販売も行われた。",
"title": "作品解説"
},
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"text": "2012年1月31日にはダウンロード販売版も発売された。",
"title": "作品解説"
},
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "『ICO -霧の城-』のタイトルで、宮部みゆきによるノベライズ作品が発表されている。『週刊現代』(講談社)で2002年5月11・18日合併号から全50回に渡って連載され、2004年6月に単行本が出版された。",
"title": "小説"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "幾つもの文学賞の受賞歴を持つ小説家でありゲーム好きでもある宮部が、本作の体験版をプレイしてその内容を気に入り、予定していた別作品の執筆を取りやめて、雑誌の編集部を通して本作のスタッフに企画を持ちかけるという経緯で執筆が決まった。宮部が原作のある作品を発表するのは、このノベライズ作品が初である。",
"title": "小説"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "小説では原作ゲームとは異なる、独自の展開・設定がなされている。原作ゲームには構想として用意されていた裏設定もあったものの、原作のスタッフは小説化の際には自由に構想を膨らませて欲しいという意図から、そうした設定の詳細は宮部に伝えないことにし、同時に本作のファンがそれぞれ抱いている原作のイメージを大事にするように注文したという。",
"title": "小説"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "初版の単行本の表紙には、PS2ゲーム版のパッケージと同じ絵が用いられている。2008年には講談社ノベルスから新装版が出版され、表紙イラストを放電映像が担当した。2010年には講談社文庫から文庫版が出版され、表紙イラストを丹地陽子が担当した。",
"title": "小説"
}
] |
『ICO』(イコ)は、ソニー・コンピュータエンタテインメントにより開発・発売された日本のアクションアドベンチャーゲーム。2001年12月6日にPlayStation 2用ソフトとして発売され、後に「PlayStation 2 the Best」として廉価版が発売された。また、2011年9月22日にはPlayStation 3用のHDリマスター版が発売された。
|
{{コンピュータゲーム
| Title = ICO
| Genre = アクションアドベンチャーゲーム
| Plat = [[PlayStation 2]]<br />[[PlayStation 3]]
| Dev = [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]
| Pub = ソニー・コンピュータエンタテインメント
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| producer = [[海道賢仁]]
| designer = 上田文人
| writer =
| programmer =
| artist =
| composer = [[大島ミチル]]
| Play = 1人<ref group="注釈">パッケージには明記されていないが、日本語版ではおまけ要素として、2周目のみ2人プレイに対応する。詳細は[[#英語版と日本語版|英語版と日本語版]]を参照。</ref>
| Media =
| Discless =
| Activation =
| Date = '''PlayStation 2'''<br />{{Flagicon|USA}}2001年9月26日<br />{{Flagicon|JPN}}2001年12月6日<br />アジア2002年1月13日<br />{{Flagicon|EUR}}2002年3月20日<br />{{Flagicon|Hong Kong}}2004年1月1日<br />'''PlayStation 3'''<br />{{Flagicon|JPN}}2011年9月22日<br />{{Flagicon|USA}}2011年9月27日<br />{{Flagicon|EUR}}2011年9月28日<br />{{Flagicon|AUS}}2011年9月29日
| UseBlock =
| Charge =
| Rating = {{Flagicon|JPN}}{{CERO-B}}<br />{{Flagicon|USA}}{{ESRB-T}}<br />{{Flagicon|AUS}}[[Office of Film and Literature Classification|OFLC]]:G<br />{{Flagicon|EUR}}[[Pan European Game Information|PEGI]]:7+
| ContentsIcon = 暴力
| Device =
| Spec =
| Engine =
| Arcade system =
| Sale = '''PlayStation 3'''<br />{{Flagicon|JPN}} 24,031本<ref>{{Cite book|和書|author=エンターブレイン グローバルマーケティング局 |authorlink=エンターブレイン |date=2013-07-11 |title=ファミ通ゲーム白書2013 補完データ編(分冊版) |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/301306000243/ |accessdate=2021-12-09}}</ref>
| ArcOnly =
| OnlineGame =
| etc =
}}
『'''ICO'''』(イコ)は、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]により開発・発売された日本の[[アクションアドベンチャーゲーム]]。[[2001年]][[12月6日]]に[[PlayStation 2]]用ソフトとして発売され、後に「PlayStation 2 the Best」として[[廉価版]]が発売された。また、2011年9月22日には[[PlayStation 3]]用のHDリマスター版が発売された。
== 概要 ==
角が生えたために生贄として謎の古城に閉じ込められた少年イコが、そこで出会った言葉の通じない少女ヨルダの手を取り、彼女を守りつつ共に古城から脱出する内容のアクションアドベンチャーゲーム。
[[キャッチコピー]]は「'''この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから'''」<ref name="official_intro">{{Cite web|和書|url=http://www.i-c-o.net/main/intro/page01.html |title=ゲーム紹介 |work=ICO 公式サイト |publisher=[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] |accessdate=2011-05-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110320100509/http://www.i-c-o.net/main/intro/page01.html |archivedate=2011-03-20}}</ref>。この「手を繋ぐ」という動作は本作を特徴づけるゲームシステムとして組み込まれ<ref name="gamewatch20011105">{{Cite web|和書|author=佐伯憲司 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20011105/scei.htm |title=SCEI、「ICO」完成披露パーティを開催 試遊台で「ICO」を堪能 |work=[[Impress Watch|Game Watch]] |publisher=[[インプレス]] |date=2001-11-05 |accessdate=2021-12-09}}</ref><ref name="gamewatch20011221">{{Cite web|和書|author=佐伯憲司 |date=2001-12-21 |title=PS2ゲームレビュー ほどよい制限と魅せ方のシンクロが美しいアクションアドベンチャー「ICO」 |work=[[Impress Watch|Game Watch]] |publisher=[[インプレス]] |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20011221/ico.htm |accessdate=2021-12-09}}</ref>、本作の基幹となるビジュアルイメージにもなっている<ref name="official_itv">{{Cite web|和書|date=2004-07-07 |url=http://www.i-c-o.net/main/new_main_itv.html |title=上田文人(ディレクター)×海道賢仁(プロデューサー)『ICO』を振り返る |work=ICO 公式サイト |publisher=ソニー・コンピュータエンタテインメント |accessdate=2011-05-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110717110019/http://www.i-c-o.net/main/new_main_itv.html |archivedate=2011-07-17}}</ref><ref name="wiredvision20060314">{{Cite web|和書|author=Chris Kohler |authorlink=:fr:Chris Kohler |url=http://wired.jp/wv/archives/2006/03/14/{{urlencode:『ico』と『ワンダと巨像』:上田文人氏にインタ}}/ |title=『ICO』と『ワンダと巨像』:上田文人氏にインタビュー |work=[[WIRED (雑誌)|WIRED.jp]] |publisher=[[コンデネット・ジェーピー]] |date=2006-03-14 |accessdate=2011-09-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160310015327/http://wired.jp/2006/03/14/%e3%80%8eico%e3%80%8f%e3%81%a8%e3%80%8e%e3%83%af%e3%83%b3%e3%83%80%e3%81%a8%e5%b7%a8%e5%83%8f%e3%80%8f%ef%bc%9a%e4%b8%8a%e7%94%b0%e6%96%87%e4%ba%ba%e6%b0%8f%e3%81%ab%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf/ |archivedate=2016-03-10}}{{Cite web|和書|author=Chris Kohler |authorlink=:fr:Chris Kohler |url=http://wiredvision.jp/archives/200603/2006031401.html |title=『ICO』と『ワンダと巨像』:上田文人氏にインタビュー |work=WIRED VISION |publisher=ワイアードビジョン |date=2006-03-14 |accessdate=2011-05-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080102072841/http://wiredvision.jp/archives/200603/2006031401.html |archivedate=2008-01-02}}</ref>。プレイヤーは必要に応じて「手を繋いでヒロインと共に先へ進む」状況と、「手を放して主人公を自由に行動させる」状況を切り替えながらゲームを進めていく。
ゲームの根本的な部分はパズル的な要素を含んだ仕掛けを解きながら道を切り開き先へ進んでいくという、従来のアクションアドベンチャーゲームの形式を踏襲するものであるが<ref name="gamewatch20011221" />、本作の開発は「'''単なるビデオゲームではないものを作る'''」という発想から出発しており、従来のビデオゲームにおける約束事として定着していた諸要素、例えば勝ち負けを競う要素や、キャラクターの強さや[[ヒットポイント]]などを示す画面上のパラメーターやアイコン類の表示、その他数々のゲーム的な演出といったものが排除されている<ref name="official_itv" /><ref name="wiredvision20060314" />。
その一方で本作では、長大な[[ムービー]]を用いて映画に似せるのではなく、かと言って膨大な作り込みによって大作感を出すのでもなく、あくまでプレイヤー自身がヒーローとなり、美しく作り込まれた世界の内側にいることを実感できるような方向での娯楽性が模索されており、ビデオゲームの双方向性を生かしつつの、目的に沿って絞り込んだ規模での世界の構築が行われている<ref name="official_intro" /><ref name="gamewatch20011221" /><ref name="official_itv" />。ムービーに頼った演出ではなく、プレイヤーが操作可能な要素内でキャラクターの挙動やカメラアングルが徹底的に作り込まれていることは、従来の他作品ではあまり見られなかった本作独自の特徴である<ref name="nlab20110905">{{Cite web|和書|author=蒼之スギウラ |url=https://nlab.itmedia.co.jp/gg/articles/1109/05/news031.html |title=「ICO」&「ワンダと巨像」ファンのための超ディープな裏話満載――「Great Scene Sharing」キャンペーンプレミアムイベント |work=ねとらぼ |publisher=[[ITmedia]] |date=2011-09-05 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。
公式サイトによれば、その内容に好意的な感想を寄せたユーザーの間では、「安易に続編は作らないでほしい」という意見が多数を占めたとされる<ref name="official_itv" />。後に同じ開発チームの手によるPS2ゲーム『[[ワンダと巨像]]』が発売され、そのエンディングは本作で描かれた世界との繋がりを示唆するものとなっているが<ref name="wiredvision20060314" />、具体的な関連性がどのようなものであるかは受け手の想像に委ねる形となっている<ref name="dengekips20051028">{{Cite journal|和書 |date=2005-10-28 |title=インタビュー『ワンダと巨像』 |journal=[[電撃PlayStation]] |publisher=[[メディアワークス]] |volume=328 |url=https://dengekionline.com/soft/recommend/wander/ |accessdate=2021-12-09}} 電撃プレイステーションVol.328で掲載されたインタビューの完全版。</ref>。
== ストーリー ==
生まれつき角を持つ少年、'''イコ'''は、村のならわしに従い、[[生贄]]として岸壁に囲まれた島にそびえ立つ無人の古城「霧の城」へと幽閉される<ref name="official_castle">{{Cite web|和書|url=http://www.i-c-o.net/castlemap/castle.html |title=お城紹介 |work=ICO 公式サイト |publisher=[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] |accessdate=2011-05-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110323000410/http://www.i-c-o.net/castlemap/castle.html |archivedate=2011-03-23}}</ref>。しかし偶然にも彼を閉じ込めていた棺のようなカプセルが壊れたことにより、自由に城の中を歩けるようになった彼は、城の北側にある塔<ref name="official_castle" />の檻に閉じ込められていた言葉の通じない少女、'''ヨルダ'''と出会う。
ヨルダは城内を跳梁跋扈する黒い影のような化け物たちに狙われており、彼女を放っては置けないと感じたイコは、彼女の手を引き、城の南側にある城門<ref name="official_castle" />からの脱出を試みる。しかし、どうにか城門までたどり着いた彼らの前に、城の主を名乗ってヨルダを連れ戻そうとする化け物の'''女王'''が現れ、城門を閉ざしてしまう。イコとヨルダは城内へと引き返し、城の東西それぞれの端に位置する城門<ref name="official_castle" />を開くための仕掛けを作動させることを試みる。
城内は迷路のように入り組み、あちこちが崩れ落ちていたり、封印や仕掛けのある扉や障害物で塞がれたりしており、自由に通行することができない。ヨルダは城の随所にある封じられた扉を開くことができる力を持っていたが、イコほどには身体能力が高くなく、彼女を連れ去ろうとする影の化け物から身を守る手段も持っていない。イコは城壁や鎖をよじ登り、足を踏み外せば命にかかわる足場を渡り歩き、影の化け物からヨルダを守って戦いながら、ヨルダでも通れる経路を確保しつつ、彼女を外の世界へと連れて行くために奮闘する。
冒険の末に城門を開くことに成功する彼らだが、しかし物語の終盤において再び女王に脱出を阻まれ、ふたりは離れ離れとなってしまう。イコは連れ去られたヨルダを追い、単身で女王と対決することになる。
== ゲームシステム ==
フィールドやキャラクターには3DCGが用いられ、固定地点からの3人称視点で描かれる。物語の舞台となる城の各エリアは、ヒロインを連れてこなければ開くことができない扉によって区切られており、各エリアの仕掛けを解いたり、ヒロインを狙ってくる敵を倒したりしながら次のエリアへと進んでいく形式でゲームが進行する。画面上の主人公は、移動、ジャンプ、手に持った武器を振るう、ヒロインと手を繋ぐ(後述)、といった行動を能動的にとることができ、その他にも状況に応じて、物を動かしたり、壁や鎖に捕まったり飛び降りたり、といった幾つかのアクションが発生する。配置された仕掛けはパズル的なものとなっており、城にある物品を移動させたり、壊したり、装置を作動させたりしながら解くものとなっているが、解法はおおむね1つの仕掛けにつき1種類である<ref name="gamewatch20011221" />。
本作では、多くのアクションゲームでは[[ヒットポイント]]として表現されているシステムに代わるものを、AIによって操作されるヒロインが担うという設計がされており<ref name="dengekips20051028" />、このヒロインはゲームシステム上でも主人公にとって守るべき対象として設定されている。また前述のように次のエリアへと続く扉を開くための唯一の手段でもあり、更にはヒロインが一緒でなければ[[セーブポイント (ゲーム)|セーブポイント]]でゲームデータを保存することもできない。このようにしてヒロインの手を引き、どのようにして城から脱出させるかというストーリー上の主題が、ゲームシステムにも取り入れられている<ref name="gamewatch20011221" />。
=== 演出 ===
本作ではレベル上げやアイテム収集といった要素は極力排されており、ゲーム中の画面には人物と背景以外に何も表示されず、メニュー画面でも設定の変更オプションが表示されるのみである。主人公は1種類の武器を持ち歩くことができ、一定の範囲内で爆弾や樽を抱えて持ち上げることもできるが、そうした所持品の変化は画面上のキャラクターが物品を手にして持ち運ぶという演出によって表現される。
本作では排除されたビデオゲーム的な要素に代わり、画面上のキャラクターの仕草や環境音といった表現に力が注がれ、それによってプレイヤーの達成感を得られるような試みが行われている<ref name="official_itv" /><ref name="wiredvision20060314" />。キャラクターのモーションは、鎖に捕まったり、飛び降りた際によろめいたり、泳いだりといった動作が見せ所を絞った形で作り込まれており、目を引く特徴のひとつとなっている<ref name="gamewatch20011221" /><ref>{{Cite web |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/ps2/ico/ |title=ICO |work=SOFTBANK GAMES |publisher=[[ソフトバンククリエイティブ|ソフトバンクパブリッシング]] |year=2001 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。背景の描画は写実的で<ref name="gamewatch20011221" />、光と暗闇の表現に力が注がれ<ref name="softbankgames20011105">{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0111/05/news10.html |title=この手は離さない……「ICO」完成披露パーティ |work=SOFTBANK GAMES |publisher=[[ソフトバンククリエイティブ|ソフトバンクパブリッシング]] |date=2001-11-05 |accessdate=2021-12-09}}</ref>、また風の流れや緊張感を知覚できる演出が行われている<ref name="softbankgames20011105" /><ref>{{Cite web|和書|author=中島薫 |date=2001-12-15 |url=http://allabout.co.jp/gm/gc/56118/ |title=ホームシアター+Playstation2の醍醐味 塔の中の姫君を助け出す ICO |work=[[All About]] |publisher=[[オールアバウト]] |accessdate=2011-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304202247/http://allabout.co.jp/gm/gc/56118/ |archivedate=2016-03-04}}</ref>。既存のゲームのように[[背景音楽|劇伴曲]]を用いてプレイヤーを高揚させるような演出は避けられ<ref name="official_itv" />、曲が流れるのはイベントや敵との遭遇時などといった要所に限定されており、通常は風の音や鳥の鳴き声、キャラクターの息遣いなどといった環境音のみが流れるという演出が用いられている<ref name="gamewatch20011105" /><ref name="dengekips20051028" />。ゲーム中の台詞や文字には架空の言語が用いられており、主人公の台詞には字幕が表示されるのに対して、ヒロインの言葉は1周目ではその内容が明かされないものとなっている<ref name="gamewatch20011221" />。
カメラアングルは主人公の位置に応じて自動的に切り替わる。舞台の広さや高さを表現するカメラワークの作り込みは本作の特徴のひとつであり、視認性よりも雰囲気作りを優先させた演出が行われている<ref name="nlab20110905" /><ref name="famitsu20110909">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201109/08049843.html |title=『ICO』&『ワンダと巨像』の裏話満載! ノーカットでお届けする上田文人氏&外山圭一郎氏トークセッション |work=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[エンターブレイン]] |date=2011-09-09 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。
=== 手を繋ぐ ===
プレイヤーは「手を繋ぐ」操作に割り当てられたボタンを押し続けることで{{#tag:ref|ただし、これは日本語版で新たに追加された仕様である<ref name="official_itv" />。英語版では一度押すだけでよく、また日本語版でもメニューから設定を変更すれば英語版と同様の操作にすることができる。|group="注釈"}}、主人公にヒロインの手を引かせて移動することができ、逆にボタンを離すことでヒロインをその場に待たせて主人公を単独で行動させることができる。ヒロインが主人公と離れている時には同じ操作でヒロインに呼びかけることができ、主人公の近くまで来るようにと指示したり、ヒロインが単独で乗り越えられない段差や飛び越えられない崖で手を差し伸べたりすることができる。
ヒロインは主人公と比べて移動できる経路が限られており、あまり高い所からは飛び降りることができず、壁や鎖に捕まったりよじ登ったりすることもできない。一方で主人公が単独で行動すれば行動範囲は大きく広がるものの、主人公がヒロインから一定時間離れていると、どこからともなく出現した敵がヒロインを連れ去りゲームオーバーとなってしまう<ref group="注釈">敵の出現は、ヒロインの悲鳴とBGMの変化によってプレイヤーに伝えられるため、急いで戻れば救出を試みることができるが、距離が離れ過ぎていれば戻っても間に合わずにゲームオーバーとなる可能性がある。</ref>。このためプレイヤーは、ヒロインから離れ過ぎない範囲で主人公を先行させて仕掛けを解き、ヒロインが移動できる経路を確保しながら、ヒロインを誘導し、手を引いて先に進んでいかなければならない。こうしたゲームシステムはプレイヤーに対し、ヒロインを守ろうとする主人公への感情移入を促すような内容にもなっている<ref name="gamewatch20011221" />。
物語の終盤では、主人公がヒロインと引き裂かれる展開となり、主人公の身体能力を駆使しなければ進めない足場が連続するステージが登場する<ref group="注釈">前述のように、本作ではヒロインが不在の間はゲームデータをセーブできないため、この後はエンディングまでセーブすることもできない。</ref>。このときヒロインに呼びかける操作を行うと、視点が移動して次に進むべき目標を指し示す。
=== 戦闘とゲームオーバー ===
物語の舞台となる城には随所に大きな高低差があり、主人公が一定以上の高所から落下して死亡するとゲームオーバーとなる。また、主人公にとって守るべき対象であるヒロインが敵に連れ去られてしまってもゲームオーバーとなる。
主人公は敵の攻撃によってダメージを受けるとしばらく立ち上がることができなくなり、基本的にはそのことで死亡することこそないものの{{#tag:ref|ただし、敵の攻撃で跳ね飛ばされて高所から突き落とされた場合はこの限りではないし、また[[ボスキャラクター|ラストボス]]の攻撃を受けると例外的にゲームオーバーとなる。|group="注釈"}}、主人公が昏倒している間はヒロインが無防備になってしまう。ヒロインは接近してきた敵に組み付かれてしまうと、フィールド内の床に出現した「影の巣」まで連れて行かれ、その中に引き込まれてしまう。そのまま一定期間与えられている救出の機会を逃してしまうとゲームオーバーとなる。
敵に対しては、主人公が手にしている木の棒または剣を使って攻撃することが可能で、ボタンを連打すると3回までの連続攻撃が発生する<ref name="gamewatch20011221" />。これによって敵を怯ませることができ、ある程度ダメージを与えれば倒すこともできる。ただし本作における戦闘はあくまで主人公の行く手を阻む障害を排除するための手段であり、戦闘で勝利しても[[経験値]]やアイテムのような恩恵を得ることはなく、一部の戦闘<ref group="注釈">具体的には、ラストボスとの戦いを含む物語終盤の戦闘は避けることができない。</ref>を除いては、可能な限り戦闘を避けてゲームを進めることもできる。
エリアの区切りとなる扉までヒロインを連れていくことができれば、扉から電撃が放たれ、周囲に残っていた敵は自動的に一掃される。
== 登場キャラクター ==
=== メインキャラクター ===
; イコ(Ico)
: [[声優|声]] - [[進藤一宏]]
: 本作の主人公。頭に一対の角を持つ小柄な少年。「角の生えた子供は13歳になると霧の城へ生贄に捧げられる」という掟に従い、霧の城へ生贄として連れて行かれ、生贄の間にある54個のカプセルの中のひとつに閉じ込められる。ところが、部屋に起こった振動により偶然にもカプセルから飛び出てしまう。
: 自由の身となって城の中を彷徨ううちに、檻に幽閉されていた少女・ヨルダを救出、彼女とともに城からの脱出を試みることになる。角の生えた少年は普通よりも身体が丈夫であるとされ{{Sfn|解説書(マニュアル)|p=11}}、ヨルダよりも広い範囲を行動することができる。
: ゲームのマニュアルでは、角は生まれた時から生えていると受け取れる説明がされているが{{Sfn|解説書(マニュアル)|p=4}}、小説版では一夜にして生えたという設定になっている。
; ヨルダ(Yorda)
: 声 - [[高橋理恵子]]
: 本作のヒロイン。霧の城の中で空中に吊り下げられた檻に閉じ込められていた少女。イコとは違う言葉を話す。イコによって檻から助け出され、彼と共に城からの脱出を試みることになる。
: 身長はイコよりもやや高い{{#tag:ref|主人公の少年がやや小柄で、ヒロインがそれよりも長身であることは、本作の基幹となるビジュアルイメージとして[[上田文人]]がこだわりを見せている部分でもある<ref name="nlab20110905" /><ref name="famitsu20110909" />。|group="注釈"}}。真っ白な肌に亜麻色の短い髪と目を持ち、黒い模様が入った白い膝丈の[[ワンピース]]のような服を着ている。その体はわずかに発光しているように見え、城のあちこちで影の魔物に襲われたり、城の至る所に設置されている偶像の扉を開く力を持っていたりと、謎の多い少女である。
: 日本語版では<ref name="official_itv" />、プレイヤーがゲームの進行に行き詰まった時、ヨルダが謎解きのヒントを思いつき、身振りで指し示してくれることもある。
=== サブキャラクター ===
; 女王(Queen)
: 声 - [[渡辺美佐 (声優)|渡辺美佐]]
: 霧の城に住まう[[女王]]。本作の[[最終ボス]]。影のような黒い[[ローブ]]状の衣装をまとっており、その身体は僅かに透け、髪や衣装は黒い煙のように揺らめいており、突然に姿を現したり消したりするなど人間離れした挙動を見せる。出没時には緑色の縁取りがある影を生じさせ、この影に触れた者を石にしてしまう。
: イコの言葉もヨルダの言葉も話すことができ、ヨルダのことを「たったひとりの愛娘」「魂の器」と呼んでいる。ヨルダを連れ戻して城の主の座を継がせようとしており、威圧的な態度でイコを城から立ち去らせようとする。
: エンディングクレジットでは“Queen”(女王)と表記されるが、ヨルダからは「あの人」などと呼ばれており<ref>日本語版の2周目で明かされるヨルダの台詞による。</ref>、名前で呼ばれる場面はない。PS3版では[[トロフィー (PlayStation)|トロフィー]]の獲得時に「女王」と表記される。
; 影(SmokeMan)
: 黒い煙のような体を持つ、正体不明の存在。基本的に人の形をしているが、その体格は様々で、壁を這うものや空を飛ぶものもいる。城の至る所に数多く出現し、地面に開いた「影の巣」と呼ばれる異空間の中から現れ{{Sfn|解説書(マニュアル)|pp=8-9,13}}、巣の中へとヨルダを引きずり込もうとする。攻撃を加えると煤のようなものを撒き散らし、倒すと消滅し、巣も黒い煙となって霧散してしまう。
: ゲーム中で名前を呼ばれる場面はないが、マニュアルの文章では「影」、エンディングクレジットでは“SmokeMan”(煙人間)と表記されている。
=== その他のキャラクター ===
; 神官
: オープニングに登場。イコを霧の城に連れて行き、カプセルに幽閉した3人の人物。1人は[[ローブ]]を、他の2人は騎士のような鎧兜を着ている。ゲーム本編で多くのことは語られないが、マニュアルによればこの3人の人物はいずれも「神官」とされており{{Sfn|解説書(マニュアル)|p=5}}、小説版にも同様の記述がある。
== 作品解説 ==
=== 開発 ===
開発は日本国内で行われた<ref name="nlab20110905" /><ref name="famitsu20110909" />。本作は当初、初代[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](PS)用のソフトとして制作が進められたが、途中でPlayStation 2(PS2)用に作り直されたという開発経緯を持つ<ref name="nlab20110905" /><ref name="famitsu20110909" />。本作のPS版が発売されることはなかったが、ゲームシステムはPS版の開発段階で既に確立されており、PS2の完成版と変わらないものであったという<ref name="famitsu20110909" />。
本作ではゲームデザインを優先させ、その内容にストーリーをすり合わせるという形で制作が進められた<ref name="wiredvision20060314" />。例えば主人公の頭にある角は本作のストーリーにおいて重要な要素を占めており、後には本作と『ワンダと巨像』との繋がりを示唆する記号となるが、開発当初は単に視認性を向上させるための目印としてつけられたものであった<ref name="wiredvision20060314" />。海に囲まれ霧で覆われた城という舞台もゲーム機の処理能力の不足を補うために設定されたもので、遠景を細部まで表示しなくとも雰囲気が出せる手法として用いられた<ref name="nlab20110905" /><ref name="famitsu20110909" />。
=== 評価 ===
日本では、年末商戦のさなかに発売されたためか一部のゲームファンが注目するにとどまり、その魅力が口コミで広がっていったものの<ref name="official_itv" />、セールスにはそれほど反映されなかった。一方で日本国外では高い評価を受けることとなり、アメリカにおいてゲームのアカデミー賞とみなされている AIAS(The Academy of Interactive Arts and Sciences)の5th AIAS Achievement Awardsにおいて最多ノミネートとなる。
<!-- (以下はPOVか? 最多ノミネー=No.1とはならないと思われる)
選考対象は2001年のアメリカで発売されたPCと家庭用(携帯含む)ゲーム全体であるところから事実上2001年No.1ソフトという評価を受ける。
-->
さらに、国際ゲーム制作者団体(The International Game Developers Association)の[[ゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワード]]においても以下の6部門にノミネートされ、こちらも最多ノミネートとなる。
* Game of the Year(ゲームオブザイヤー)
* Original Game Character of the Year(オリジナルゲームキャラクターオブザイヤー)
* Excellence in Game Design(ゲームデザイン賞)
* Excellence in Level Design(ステージデザイン賞)
* Excellence in Visual Arts(ビジュアルアート賞)
* Game Innovation Spotlights(イノベーティブゲーム賞)
本作のプロデューサーである海道賢仁によれば、日本国外ではゲームシステムの革新性が評価されたが、日本国内では本作の独特の世界観や雰囲気作りが評価されたとされる<ref name="official_itv" />。また、本作が持つ雰囲気や映像表現は、特に女性プレイヤーの間で話題になったといわれ<ref name="wiredvision20060314" />、アンケートから得られたユーザーの男女比は男性6に対して女性4であったとされる<ref name="official_itv" />。
また、[[洋泉社]]が発行した『アニソンマガジン』Vol.5のゲームソングレビュー集のなかで、ライターのナ月俊由季が本作の主題歌「ICO -You were there-」について、[[ケルト音楽]]のようなサウンドと澄み切った歌声が作品の安らかな世界観に合致していると指摘し、「感動とチクリと胸を刺す切なさが心地いい隠れた名曲」と批評した<ref>{{Cite journal|和書|author=ナ月俊由季|date=2008-07-10|title=究極の"ゲームソング"50 後編|journal=アニソンマガジン|volume=Vol.5|publisher=洋泉社|page=86}}</ref>。
2021年12月にはPS2版の発売から20周年を迎え、雑誌『週刊ファミ通』では特集が組まれた<ref>{{Cite web|和書|author=ウワーマン |url=https://www.famitsu.com/news/202112/06243009.html |title=PS2版『ICO』が発売20周年。少年と少女が手を繋いで冒険するシチュエーションに心打たれた傑作。切なげな雰囲気が漂う幻想的な風景が忘れられない【今日は何の日?】 |website=ファミ通.com |publisher=KADOKAWA Game Linkage |date=2021-12-06 |accessdate=2021-12-09}}</ref>{{Sfn|週刊ファミ通 2021年12月16日号|pp=10-49}}。記事中の『ICO』に寄せられたコメントのうち、映画監督 [[ギレルモ・デル・トロ]]のコメント内容は[[Twitter]]で公開された<ref>{{Cite tweet|user=genDESIGN_Inc |author=genDESIGN |authorlink=ジェンデザイン |number=1468807899204169728 |title=『ICO』発売20周年を記念して、ギレルモ・デル・トロ監督よりお祝いのコメントをいただきました! |date=2021-12-09 |accessdate=2021-12-09}}</ref>{{Sfn|週刊ファミ通 2021年12月16日号|p=40}}。
=== 英語版と日本語版 ===
本作は、先に[[アメリカ合衆国]]で英語版が発売され、その後日本で発売されたという経緯を持つ。後発となる日本語版では、英語版になかった要素の追加や操作性の変更、敵の挙動の変更や一部マップの仕掛けの変更などといった、ゲーム性に関わる部分での変更も行われている<ref name="official_itv" />。
こうした変更の一環として、日本語版ではクリアデータを用いて2周目を開始するとおまけ要素を楽しむことができる<ref name="official_itv" />。具体的には1周目では伏せられていたヒロインの言葉の意味が日本語字幕によって明かされたり、敵の耐久力が変化したり、2人プレイに対応したりといった変化がある。2人プレイは2周目のゲームプレイ中のメニューから選択することができ、2Pコントローラー側からヒロインを操作することが可能となる。
=== GPL違反と生産終了・廃盤 ===
2007年11月29日、PS2版のICOのソースコードの中に[[GNU General Public License|GNU GPL]]([[GNU Lesser General Public License|LGPL]]ではない)の下でライセンスされている「libarc」のライブラリが含まれていることが、有志のユーザーにより発見された<ref name="engadget20071106">{{Cite web|和書|author=Ittousai |url=https://japanese.engadget.com/jp-2007-11-29-ico-gpl.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201001140149/https://japanese.engadget.com/jp-2007-11-29-ico-gpl.html|archivedate=2020-10-01|deadlinkdate=2022-05-01|title=プレイステーション2ゲーム『ICO』にGPL違反発覚 |work=エンガジェット日本版 |publisher=Engadget 日本版 |date=2007-11-29 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。これが事実ならば、GPLのルールにより、このライブラリを使用したSCEはGPLであることの表示とソフト所有者へのICOの全ソースコードの公開をしなければならなかったが、SCEはこれを怠っていたことになる<ref name="engadget20071106" />。2007年12月、SCEは「GPL違反疑惑そのものを認識していないため現在確認中」とコメントを発表したが<ref name="engadget20071106" />、2008年2月にはICOの生産終了、廃盤を決定。現在は在庫限りとなり、PS2版の新品入手は極めて困難であり、後述のHDリマスター版発売までは中古価格も高騰していた。
=== PlayStation 3への移植 ===
2011年9月22日にはPlayStation 3(PS3)用ソフトとしてHDリマスター版が発売された<ref name="dengeki20110921">{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/elem/000/000/409/409504/ |title=『ICO』『ワンダと巨像』のPS3版が明日リリース!! リミテッドボックスも同時発売 |work=電撃オンライン |publisher=[[アスキー・メディアワークス]] |date=2011-09-21 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。リマスター版では[[3次元映像]]の立体視に対応しているほか、グラフィックも1080pフルHDとなり高解像度化されている<ref name="dengeki20110921" />。ただし本作の場合、オリジナルであるPS2版の時点で、当時のハードでは表現できない部分まで作り込まれていたこともあり、映像の[[映像のコンバート#アップコンバート|アップコンバート]]はあっても大きな変更はなく、基本的にはPS2版に忠実な作りとなっている<ref name="nlab20110905" /><ref name="famitsu20110909" />。発売決定の発表は2010年9月の[[東京ゲームショウ]]で行われた。
本作と世界設定を共有する<ref name="wiredvision20060314" /><ref name="dengekips20051028" />『[[ワンダと巨像]]』のPS3用HDリマスター版も同時に発売されており、日本国外では2作品をひとつのBDにパッケージ、日本では個別の販売のほか『ICO/ワンダと巨像Limited Box』としてのセット販売も行われた。
2012年1月31日にはダウンロード販売版も発売された<ref>{{Cite web|和書|date=2012-01-19 |url=https://mantan-web.jp/article/20120119dog00m200044000c.html |title=SCE :名作「ICO」「ワンダと巨像」のPS3ダウンロード版を発売 31日から |website=MANTANWEB(まんたんウェブ) |publisher=MANTAN |accessdate=2021-12-09}}</ref>。
== スタッフ ==
* [[ディレクター]]・[[ゲーム]][[デザイン]]・[[キャラクターデザイン]]・[[キャラクター]][[アニメーター]] - [[上田文人]]
* [[プロデューサー]] - [[海道賢仁]]
* [[音楽]][[作曲]] - [[大島ミチル]]、[[山崎耕一|Pentagon]]
* [[編曲]] - [[山崎耕一|Pentagon]]
== 主題歌 ==
; 「ICO -You were there-」
: [[作曲]]・[[編曲]] - [[大島ミチル]] / [[作詞]]・[[翻訳|対訳]] - [[Lynne Hobday]] / [[歌]] - Steven Geraghty<ref>{{IMDb title|2984525|Steven Geraghty}}. {{accessdate|2021-12-09}}</ref>
== 小説 ==
『ICO -霧の城-』のタイトルで、[[宮部みゆき]]による[[小説化|ノベライズ]]作品が発表されている。『[[週刊現代]]』([[講談社]])で2002年5月11・18日合併号から全50回に渡って連載され、2004年6月に単行本が出版された。
幾つもの文学賞の受賞歴を持つ小説家でありゲーム好きでもある宮部が、本作の体験版をプレイしてその内容を気に入り、予定していた別作品の執筆を取りやめて、雑誌の編集部を通して本作のスタッフに企画を持ちかけるという経緯で執筆が決まった<ref name="official_itv" />。宮部が原作のある作品を発表するのは、このノベライズ作品が初である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.i-c-o.net/news/ |title=『ICO』(イコ)小説版 連載開始 |work=ICO 公式サイト |publisher=[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] |accessdate=2011-05-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100117155339/http://www.i-c-o.net/news/ |archivedate=2010-01-17}}</ref>。
小説では原作ゲームとは異なる、独自の展開・設定がなされている。原作ゲームには構想として用意されていた裏設定もあったものの、原作のスタッフは小説化の際には自由に構想を膨らませて欲しいという意図から、そうした設定の詳細は宮部に伝えないことにし、同時に本作のファンがそれぞれ抱いている原作のイメージを大事にするように注文したという<ref name="official_itv" />。
初版の単行本の表紙には、PS2ゲーム版のパッケージと同じ絵が用いられている。2008年には[[講談社ノベルス]]から新装版が出版され、表紙イラストを[[放電映像]]が担当した。2010年には[[講談社文庫]]から文庫版が出版され、表紙イラストを[[丹地陽子]]が担当した。
* 『ICO -霧の城-』 2004年6月15日発行、{{ISBN2|978-4-06-212441-6}}
* 『ICO -霧の城-』 [[講談社ノベルス]]版、2008年6月19日発行、{{ISBN2|978-4-06-182558-1}}
* 『ICO -霧の城-』 [[講談社文庫]]版
** 上巻 2010年11月12日発行、{{ISBN2|978-4-06-276809-2}}
** 下巻 2010年11月12日発行、{{ISBN2|978-4-06-276810-8}}
== 関連商品 ==
* 書籍『ICO 公式ガイドブック』 [[ソフトバンク]]〈The PlayStation2 BOOKS〉、2002年2月。{{ISBN2|978-4-797-31882-1}}
* サウンドトラック『ICO 〜霧の中の旋律〜』 [[SMEビジュアルワークス]]、[https://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?cd=SVWC000007117 SVWC-7117] - 全16曲収録。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|30em|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考書籍 ==
* {{Cite book|和書|title=ICO 解説書(マニュアル) |edition=PS2 |publisher=ソニー・コンピュータエンタテインメント |date=2001-12-06 |id=SCPS11003 |ref={{Sfnref|解説書(マニュアル)}} }} - {{JAN|4948872110037|ean=1}}
* {{Cite journal|和書|title=《特集》ICO 20th “君は、そこにいた。” |date=2021-12-02 |publisher=KADOKAWA Game Linkage |journal=週刊ファミ通 |issue=2021年12月16日号 |id={{JAN|4910218831210|ean=1}} |pages=10-49 |ref={{Sfnref|週刊ファミ通 2021年12月16日号}} }}
== 関連項目 ==
* [[ワンダと巨像]] - ICOチームが製作
* [[人喰いの大鷲トリコ]] - デザイナー・上田文人が監督
== 外部リンク ==
* [http://www.i-c-o.net/ ICO] - プレイステーション2 日本版公式サイト
* [http://www.jp.playstation.com/scej/title/trico_portal/ 人喰いの大鷲トリコ・ワンダと巨像・ICO] - プレイステーション3版公式サイト
* [http://gamers.eurogamer.net/groups.php?group_id=121 Team ICO Gamers] - ICO & ワンダと巨像 ウェブサイト
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いこ}}
[[Category:ソニー・インタラクティブエンタテインメントのゲームソフト]]
[[Category:PlayStation 2用ソフト]]
[[Category:PlayStation 3用ソフト]]
[[Category:PlayStation Now対応ソフト]]
[[Category:2001年のコンピュータゲーム]]
[[Category:アクションアドベンチャーゲーム]]
[[Category:無人島を舞台としたコンピュータゲーム]]
[[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]]
[[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]]
[[Category:宮部みゆき]]
[[Category:日本の小説|いこ きりのしろ]]
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2003-06-22T12:45:51Z
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10,309 |
ランタノイド
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ランタノイド (英: lanthanoid) とは、原子番号57から71、すなわちランタンからルテチウムまでの15の元素の総称である。
「ランタン (lanthan)」+「-もどき (-oid)」という呼称からも分かるように、各々の性質がよく似ていることで知られる。
スカンジウム・イットリウムと共に希土類元素に分類される。周期表においてはアクチノイドとともに本体の表の下に脚注のような形で配置されるのが一般的である。
ランタノイドの呼称には、歴史的な事情により揺れがある。
ランタノイドは「ランタン (lanthan)」+「-もどき (-oid)」という造語のため、ランタン自身を含んだ呼称としては本来は不適切である。このため、「ランタノイド」はランタンを除くセリウムからルテチウムまでの元素の呼称とし、ランタンを含める場合は「ランタニド(英: lanthanide、ランタナイドとも)」と呼び分けられたことがあった。しかし、後に混乱されてランタンを除くものが「ランタニド」と呼ばれるなどしたため、区別は曖昧になっている。また、「ランタニド」の語尾である「-ide」は陰イオンと紛らわしいこともあり、「ランタノイド」が推奨されている。
また、ランタンとルテチウムは5d軌道に電子を持ち、かつ4f軌道が安定している(ランタンは4f電子なし、ルテチウムは4f電子が全て充填)ため、電子配置はむしろ典型的な3族元素に近く、性質も他のものとやや異なる(例えばランタンとルテチウムのイオンは共に無色である)。そのためこれらの一方または両方を除いて「ランタノイド」または「ランタニド」と呼ぶ場合もある。
IUPAC命名法ではランタンとルテチウムも含めて「ランタノイド」とされており、本項もそれに倣う。
ランタノイドは、4f軌道の電子が詰まり(占有され)始める元素のブロック(fブロック元素)で、セリウムから順に4f軌道に電子が1個ずつ詰まっていき、イッテルビウムで4f軌道が14個の電子に占有されて全て埋まる。この過程において最外殻である5d軌道と6s軌道の電子の詰まり方があまり変わらないため、ランタノイドの各元素は性質がよく似ており、このためランタノイドのほとんどは安定な原子価として3価をとる。ただし一部の化合物においては2価や4価でも準安定となる場合があり、特にセリウムは4価、ユウロピウムは2価をも安定してとる。
ランタノイドでは原子番号の増加とともに原子核の電荷が増加し、内側の4f軌道に同じだけの電子が詰まっていく。
有効核電荷の計算におけるもっとも単純なスレーター則からすれば4f軌道は最外殻の6s軌道より主量子数が2つ小さく、原子核の電荷の増加はf電子の増加で完璧に遮蔽されるように思えるかもしれない。しかし実際には6s軌道は貫入により4f軌道の内側にもかなり広がっており、この結果4f軌道による6s軌道に対する遮蔽は不完全となる(また、そもそもスレーター則は重原子に対しては誤差が大きい)。
このため、ランタノイドにおいても、原子番号の増加とともに原子半径がわずかずつ縮んでいくという傾向が見られる。イオンの場合も同様に、核電荷の増加に対し5sや5p軌道への遮蔽の増加が小さいため、イオンサイズも原子番号とともに少しずつ小さくなっていく。このように、ランタノイド元素のサイズが原子番号とともに小さくなっていく現象をランタノイド収縮と呼ぶ。
一般に他の典型元素や遷移元素でも族番号が大きくなるにつれ原子半径やイオン半径が減少するが、ランタノイド収縮が重要なのは周期表においてランタノイド以降の元素のサイズに大きな影響を与える点である。通常、同じ族の元素であれば周期が増す(周期表で下に行く)ほど原子半径は増大する。これは最外殻電子の主量子数が増加しより遠くの軌道となるためである。
しかし例えば第4族元素を見ると、第4周期のチタンから第5周期のジルコニウムでは原子半径もイオン半径も通常通り増加しているものの、ジルコニウムから第6周期のハフニウムへの変化では両半径ともやや減少という奇妙な振る舞いを見せる。これはハフニウムの直前にランタノイドが位置し、この部分で原子半径・イオン半径が大きく減少するランタノイド収縮による効果が、周期の増加(最外殻電子の主量子数の増加)による半径の増大の効果を相殺していることに由来する。
なお、類似の効果は遷移元素の存在によっても発生し、例えば第13族のアルミニウムからガリウム(直前に遷移元素が存在する)での半径の増加がやや抑制されている。
ランタノイドには4つ組効果(tetrad effect)が存在する。ランタノイドは、ランタンからルテチウムまでの15元素であり、これら15元素は全て3価のイオンになり得る。既述のように、3価のランタノイドイオンにはランタノイド収縮と呼ばれる、3価のランタンイオンが最も大きく、原子番号順に3価のイオン半径は小さくなり、3価のルテチウムイオンが最も小さいといった、狭義のランタノイド全体を通して当てはまる性質がある。この他に、3価のランタンイオンから3価のネオジムイオンまでの4つの元素の組、3価のプロメチウムイオンから3価のガドリニウムイオンまでの4つの元素の組、3価のガドリニウムイオンから3価のホルミウムイオンまでの4つの元素の組、3価のエルビウムイオンから3価のルテチウムイオンまでの4つの元素の組において、原子番号の増加に伴って、その性質が、これらの4元素ずつの周期で変化する部分が存在するし、これを4つ組効果と呼ぶ。これはランタノイドにおいては原子番号の増加に伴って4f軌道に電子が充填されることによって発生する周期的な変化である。なお、ガドリニウムだけは特別であり、4つ組の2つ目の周期の終点であると共に3つ目の周期の始点でもある。
ランタノイドのイオンは色を呈するものが多い。これも4f軌道(上の電子)の影響である。ランタノイドの化合物(例:CeCu2Si2、CeRu2Si2)の中には、フェルミエネルギー上の電子の有効質量が自由電子のものより2,3桁も大きい、重い電子系(Heavy fermion)と呼ばれる性質を持つものがある。
4f、5d、6sなどの外側の軌道は、相対論効果の影響も受ける(例:スピン軌道相互作用←d軌道やf軌道に対して)。
|
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"text": "ランタノイド (英: lanthanoid) とは、原子番号57から71、すなわちランタンからルテチウムまでの15の元素の総称である。",
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"text": "「ランタン (lanthan)」+「-もどき (-oid)」という呼称からも分かるように、各々の性質がよく似ていることで知られる。",
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"text": "スカンジウム・イットリウムと共に希土類元素に分類される。周期表においてはアクチノイドとともに本体の表の下に脚注のような形で配置されるのが一般的である。",
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"text": "ランタノイドの呼称には、歴史的な事情により揺れがある。",
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"text": "ランタノイドは「ランタン (lanthan)」+「-もどき (-oid)」という造語のため、ランタン自身を含んだ呼称としては本来は不適切である。このため、「ランタノイド」はランタンを除くセリウムからルテチウムまでの元素の呼称とし、ランタンを含める場合は「ランタニド(英: lanthanide、ランタナイドとも)」と呼び分けられたことがあった。しかし、後に混乱されてランタンを除くものが「ランタニド」と呼ばれるなどしたため、区別は曖昧になっている。また、「ランタニド」の語尾である「-ide」は陰イオンと紛らわしいこともあり、「ランタノイド」が推奨されている。",
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"text": "また、ランタンとルテチウムは5d軌道に電子を持ち、かつ4f軌道が安定している(ランタンは4f電子なし、ルテチウムは4f電子が全て充填)ため、電子配置はむしろ典型的な3族元素に近く、性質も他のものとやや異なる(例えばランタンとルテチウムのイオンは共に無色である)。そのためこれらの一方または両方を除いて「ランタノイド」または「ランタニド」と呼ぶ場合もある。",
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"text": "IUPAC命名法ではランタンとルテチウムも含めて「ランタノイド」とされており、本項もそれに倣う。",
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"text": "ランタノイドは、4f軌道の電子が詰まり(占有され)始める元素のブロック(fブロック元素)で、セリウムから順に4f軌道に電子が1個ずつ詰まっていき、イッテルビウムで4f軌道が14個の電子に占有されて全て埋まる。この過程において最外殻である5d軌道と6s軌道の電子の詰まり方があまり変わらないため、ランタノイドの各元素は性質がよく似ており、このためランタノイドのほとんどは安定な原子価として3価をとる。ただし一部の化合物においては2価や4価でも準安定となる場合があり、特にセリウムは4価、ユウロピウムは2価をも安定してとる。",
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"text": "ランタノイドでは原子番号の増加とともに原子核の電荷が増加し、内側の4f軌道に同じだけの電子が詰まっていく。",
"title": "ランタノイドの電子配置"
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"text": "有効核電荷の計算におけるもっとも単純なスレーター則からすれば4f軌道は最外殻の6s軌道より主量子数が2つ小さく、原子核の電荷の増加はf電子の増加で完璧に遮蔽されるように思えるかもしれない。しかし実際には6s軌道は貫入により4f軌道の内側にもかなり広がっており、この結果4f軌道による6s軌道に対する遮蔽は不完全となる(また、そもそもスレーター則は重原子に対しては誤差が大きい)。",
"title": "ランタノイド収縮"
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"text": "このため、ランタノイドにおいても、原子番号の増加とともに原子半径がわずかずつ縮んでいくという傾向が見られる。イオンの場合も同様に、核電荷の増加に対し5sや5p軌道への遮蔽の増加が小さいため、イオンサイズも原子番号とともに少しずつ小さくなっていく。このように、ランタノイド元素のサイズが原子番号とともに小さくなっていく現象をランタノイド収縮と呼ぶ。",
"title": "ランタノイド収縮"
},
{
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"text": "一般に他の典型元素や遷移元素でも族番号が大きくなるにつれ原子半径やイオン半径が減少するが、ランタノイド収縮が重要なのは周期表においてランタノイド以降の元素のサイズに大きな影響を与える点である。通常、同じ族の元素であれば周期が増す(周期表で下に行く)ほど原子半径は増大する。これは最外殻電子の主量子数が増加しより遠くの軌道となるためである。",
"title": "ランタノイド収縮"
},
{
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"text": "しかし例えば第4族元素を見ると、第4周期のチタンから第5周期のジルコニウムでは原子半径もイオン半径も通常通り増加しているものの、ジルコニウムから第6周期のハフニウムへの変化では両半径ともやや減少という奇妙な振る舞いを見せる。これはハフニウムの直前にランタノイドが位置し、この部分で原子半径・イオン半径が大きく減少するランタノイド収縮による効果が、周期の増加(最外殻電子の主量子数の増加)による半径の増大の効果を相殺していることに由来する。",
"title": "ランタノイド収縮"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "なお、類似の効果は遷移元素の存在によっても発生し、例えば第13族のアルミニウムからガリウム(直前に遷移元素が存在する)での半径の増加がやや抑制されている。",
"title": "ランタノイド収縮"
},
{
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"text": "ランタノイドには4つ組効果(tetrad effect)が存在する。ランタノイドは、ランタンからルテチウムまでの15元素であり、これら15元素は全て3価のイオンになり得る。既述のように、3価のランタノイドイオンにはランタノイド収縮と呼ばれる、3価のランタンイオンが最も大きく、原子番号順に3価のイオン半径は小さくなり、3価のルテチウムイオンが最も小さいといった、狭義のランタノイド全体を通して当てはまる性質がある。この他に、3価のランタンイオンから3価のネオジムイオンまでの4つの元素の組、3価のプロメチウムイオンから3価のガドリニウムイオンまでの4つの元素の組、3価のガドリニウムイオンから3価のホルミウムイオンまでの4つの元素の組、3価のエルビウムイオンから3価のルテチウムイオンまでの4つの元素の組において、原子番号の増加に伴って、その性質が、これらの4元素ずつの周期で変化する部分が存在するし、これを4つ組効果と呼ぶ。これはランタノイドにおいては原子番号の増加に伴って4f軌道に電子が充填されることによって発生する周期的な変化である。なお、ガドリニウムだけは特別であり、4つ組の2つ目の周期の終点であると共に3つ目の周期の始点でもある。",
"title": "4つ組効果"
},
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"text": "ランタノイドのイオンは色を呈するものが多い。これも4f軌道(上の電子)の影響である。ランタノイドの化合物(例:CeCu2Si2、CeRu2Si2)の中には、フェルミエネルギー上の電子の有効質量が自由電子のものより2,3桁も大きい、重い電子系(Heavy fermion)と呼ばれる性質を持つものがある。",
"title": "物性"
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"text": "4f、5d、6sなどの外側の軌道は、相対論効果の影響も受ける(例:スピン軌道相互作用←d軌道やf軌道に対して)。",
"title": "物性"
}
] |
ランタノイド とは、原子番号57から71、すなわちランタンからルテチウムまでの15の元素の総称である。 「ランタン (lanthan)」+「-もどき (-oid)」という呼称からも分かるように、各々の性質がよく似ていることで知られる。 スカンジウム・イットリウムと共に希土類元素に分類される。周期表においてはアクチノイドとともに本体の表の下に脚注のような形で配置されるのが一般的である。
|
{| class="wikitable" style="float:right;margin-left:10px;margin-bottom:20px;text-align:center;"
|-
!
! colspan="15" | [[第3族元素|3]]
|-
! [[第6周期元素|6]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|57}}<br />[[ランタン|La]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|58}}<br />[[セリウム|Ce]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|59}}<br />[[プラセオジム|Pr]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|60}}<br />[[ネオジム|Nd]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|{{Color|#d00|61}}}}<br />[[プロメチウム|Pm]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|62}}<br />[[サマリウム|Sm]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|63}}<br />[[ユウロピウム|Eu]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|64}}<br />[[ガドリニウム|Gd]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|65}}<br />[[テルビウム|Tb]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|66}}<br />[[ジスプロシウム|Dy]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|67}}<br />[[ホルミウム|Ho]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|68}}<br />[[エルビウム|Er]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|69}}<br />[[ツリウム|Tm]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|70}}<br />[[イッテルビウム|Yb]]
| style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|71}}<br />[[ルテチウム|Lu]]
|-
! [[第7周期元素|7]]
| colspan="15" style="background: #f9c;"| {{Smaller|89-103}}<br />[[アクチノイド]]
|}
[[Image:Lanthanoide.jpg|thumb|400px|ランタノイド元素のサンプル]]
'''ランタノイド''' ({{lang-en-short|lanthanoid}}) とは、[[原子番号]]57から71、すなわち[[ランタン]]から[[ルテチウム]]までの15の[[元素]]の総称である<ref name="shriver12">[[#shriver|Shriver & Atkins (2001)]], p.12。</ref>。
「ランタン (lanthan)」+「-もどき (-oid)」という呼称からも分かるように、各々の性質がよく似ていることで知られる。
[[スカンジウム]]・[[イットリウム]]と共に[[希土類元素]]に分類される。[[周期表]]においては[[アクチノイド]]とともに本体の表の下に脚注のような形で配置されるのが一般的である。
== 呼称 ==
ランタノイドの呼称には、歴史的な事情により揺れがある。
ランタノイドは「ランタン (lanthan)」+「-もどき (-oid)」という造語のため、ランタン自身を含んだ呼称としては本来は不適切である<ref name="shriver13">[[#shriver|Shriver & Atkins (2001)]], p.13。</ref>。このため、「ランタノイド」はランタンを除く[[セリウム]]からルテチウムまでの元素の呼称とし、ランタンを含める場合は「'''ランタニド'''({{lang-en-short|lanthanide}}、ランタナイドとも)」と呼び分けられたことがあった。しかし、後に混乱されてランタンを除くものが「ランタニド」と呼ばれるなどしたため、区別は曖昧になっている。また、「ランタニド」の語尾である「-ide」は[[陰イオン]]と紛らわしいこともあり、「ランタノイド」が推奨されている<ref name="shriver13" />。
また、ランタンとルテチウムは5d軌道に電子を持ち、かつ4f軌道が安定している(ランタンは4f電子なし、ルテチウムは4f電子が全て充填)ため、電子配置はむしろ典型的な3族元素に近く、性質も他のものとやや異なる(例えばランタンとルテチウムのイオンは共に無色である)。そのためこれらの一方または両方を除いて「ランタノイド」または「ランタニド」と呼ぶ場合もある。
[[IUPAC命名法]]ではランタンとルテチウムも含めて「ランタノイド」とされており、本項もそれに倣う。
== ランタノイドの電子配置 ==
{| class="wikitable" style="float:right;margin-left:10px;margin-bottom:20px;text-align:center;"
|+ ランタノイドの電子配置
|-
! [[電子軌道|軌道]] !! 1s-4d !! 4f !! 5s !! 5p !! 5d !! 6s
|-
| [[セシウム|Cs]]
| rowspan="19" |[[[キセノン|Xe]]]|| || colspan="2" rowspan="19" | [Xe] || || 1
|-
| [[バリウム|Ba]]
| || || 2
! 原子価
|-
! [[ランタン|La]]
|style="background:#ffc;"| ||style="background:#ccf;"| 1 || 2 || '''+3'''
|-
! [[セリウム|Ce]]
|style="background:#ffc;"| 1 ||style="background:#ccf;"| 1 || 2 || '''+3''','''+4'''
|-
! [[プラセオジム|Pr]]
|style="background:#ffc;"| 3 || || 2 || '''+3''',+4
|-
! [[ネオジム|Nd]]
|style="background:#ffc;"| 4 || || 2 || +2, '''+3''', +4
|-
! [[プロメチウム|Pm]]
|style="background:#ffc;"| 5 || || 2 || '''+3'''
|-
! [[サマリウム|Sm]]
|style="background:#ffc;"| 6 || || 2 || +2,'''+3'''
|-
! [[ユウロピウム|Eu]]
|style="background:#ffc;"| 7 || || 2 || '''+2''','''+3'''
|-
! [[ガドリニウム|Gd]]
|style="background:#ffc;"| 7 ||style="background:#ccf;"| 1 || 2 || '''+3'''
|-
! [[テルビウム|Tb]]
|style="background:#ffc;"| 9 || || 2 || '''+3''', +4
|-
! [[ジスプロシウム|Dy]]
|style="background:#ffc;"| 10 || || 2 || +2, '''+3''', +4
|-
! [[ホルミウム|Ho]]
|style="background:#ffc;"| 11 || || 2 || '''+3'''
|-
! [[エルビウム|Er]]
|style="background:#ffc;"| 12 || || 2 || '''+3'''
|-
! [[ツリウム|Tm]]
|style="background:#ffc;"| 13 || || 2 || +2, '''+3'''
|-
! [[イッテルビウム|Yb]]
|style="background:#ffc;"| 14 || || 2 || +2,'''+3'''
|-
! [[ルテチウム|Lu]]
|style="background:#ffc;"| 14 ||style="background:#ccf;"| 1 || 2 || '''+3'''
|-
| [[ハフニウム|Hf]]
| 14 || 2 || 2
|-
| [[タンタル|Ta]]
| 14 || 3 || 2
|}
ランタノイドは、4f軌道の[[電子]]が詰まり(占有され)始める[[元素のブロック]]([[fブロック元素]])で、セリウムから順に4f軌道に電子が1個ずつ詰まっていき、イッテルビウムで4f軌道が14個の電子に占有されて全て埋まる。この過程において最外殻である5d軌道と6s軌道の電子の詰まり方があまり変わらないため、ランタノイドの各元素は性質がよく似ており、このためランタノイドのほとんどは安定な[[原子価]]として3価をとる。ただし一部の化合物においては2価や4価でも[[準安定]]となる場合があり、特にセリウムは4価、ユウロピウムは2価をも安定してとる。
ランタノイドでは原子番号の増加とともに原子核の電荷が増加し、内側の4f軌道に同じだけの電子が詰まっていく。
== ランタノイド収縮 ==
{|class="wikitable"
|-
! 元素 !![[ランタン|La]]!![[セリウム|Ce]]!![[プラセオジム|Pr]]!![[ネオジム|Nd]]!![[プロメチウム|Pm]]!![[サマリウム|Sm]]!![[ユウロピウム|Eu]]!![[ガドリニウム|Gd]]!![[テルビウム|Tb]]!![[ジスプロシウム|Dy]]!![[ホルミウム|Ho]]!![[エルビウム|Er]]!![[ツリウム|Tm]]!![[イッテルビウム|Yb]]!![[ルテチウム|Lu]]
|-
| 電子軌道
| style="font-size:85%"| 5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>1</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>3</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>4</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>5</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>6</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>7</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>7</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>9</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>10</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>11</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>12</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>13</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>14</sup>6s<sup>2</sup>
| style="font-size:85%"| 4f<sup>14</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>
|-
| Ln<sup>3+</sup>最外殻電子軌道|| 4f<sup>0</sup> || 4f<sup>1</sup>|| 4f<sup>2</sup>|| 4f<sup>3</sup>|| 4f<sup>4</sup>|| 4f<sup>5</sup>|| 4f<sup>6</sup>|| 4f<sup>7</sup>||4f<sup>8</sup>|| 4f<sup>9</sup>|| 4f<sup>10</sup>|| 4f<sup>11</sup>|| 4f<sup>12</sup>|| 4f<sup>13</sup>||
4f<sup>14</sup>
|-
| Ln<sup>3+</sup>半径(pm)<ref>[[配位数]]为12和校正值。見:{{cite book|first=A. H.|last=Daane|coauthors=F. H. Spedding|title=The Rare Earths|publisher=John Wiley, New York|year=1961|chapter=13}}</ref> || 106.1 || 103.4 || 101.3|| 99.5|| (97.9)<ref name="est">估计值</ref> || 96.4|| 95.0|| 93.8|| 92.3|| 90.8|| 89.4|| 88.1|| 86.9|| 85.8|| 84.8
|-
| Ln原子半径(pm)<ref>六配位。見:{{cite journal|first=D. H.|last=Templeton|coauthors=C. H. Dauben|journal=J. Am. Chem. Soc.|volume=75|pages=5237|year=1954}}</ref> || 187.7 || 182.4 || 182.8 || 182.1 || (181.0)<ref name="est" /> || 180.2 || 204.2 || 180.2 || 178.2 || 177.3 || 176.6 || 175.7 || 174.6 || 194.0 || 173.4
|}
[[有効核電荷]]の計算におけるもっとも単純な[[スレーター則]]からすれば4f軌道は最外殻の6s軌道より主量子数が2つ小さく、原子核の電荷の増加はf電子の増加で完璧に遮蔽されるように思えるかもしれない。しかし実際には6s軌道は貫入により4f軌道の内側にもかなり広がっており、この結果4f軌道による6s軌道に対する遮蔽は不完全となる(また、そもそもスレーター則は重原子に対しては誤差が大きい)。
このため、ランタノイドにおいても、原子番号の増加に伴って[[原子半径]]が、わずかずつ縮んでいくという傾向が見られる。イオンの場合も同様に、核電荷の増加に対し5sや5p軌道への遮蔽の増加が小さいため、イオンサイズも原子番号とともに少しずつ小さくなっていく。このように、ランタノイド元素のサイズが原子番号とともに小さくなっていく現象を'''ランタノイド収縮'''と呼ぶ<ref name="shriver37">[[#shriver|Shriver & Atkins (2001)]], p.37。</ref>。
一般に他の[[典型元素]]や[[遷移元素]]でも族番号が大きくなるにつれ原子半径やイオン半径が減少するが、[[ランタノイド収縮]]が重要なのは周期表においてランタノイド以降の元素のサイズに大きな影響を与える点である。通常、同じ族の元素であれば周期が増す(周期表で下に行く)ほど原子半径は増大する。これは最外殻電子の主量子数が増加しより遠くの軌道となるためである。
しかし例えば第4族元素を見ると、第4周期の[[チタン]]から第5周期の[[ジルコニウム]]では原子半径もイオン半径も通常通り増加しているものの、ジルコニウムから第6周期の[[ハフニウム]]への変化では両半径ともやや減少という奇妙な振る舞いを見せる。これはハフニウムの直前にランタノイドが位置し、この部分で原子半径・イオン半径が大きく減少するランタノイド収縮による効果が、周期の増加(最外殻電子の主量子数の増加)による半径の増大の効果を相殺していることに由来する。
なお、類似の効果は遷移元素の存在によっても発生し、例えば第13族の[[アルミニウム]]から[[ガリウム]](直前に遷移元素が存在する)での半径の増加がやや抑制されている。
また、ランタノイドは互いに化学的性質が似ているために、ある化合物を形成しているランタノイドの元素を、別なランタノイドの元素に置換できる場合が多い。そして、陽子数の多いランタノイドの元素に置換できれば、その分だけランタノイド収縮でイオン半径が小さいので、その化合物にイオン半径が、一体どのように影響を与えているのかを、系統的に調査できる<ref>三木 貴博(監修)『よくわかる金属材料 ―性質から加工法まで金属の基本がわかる―』 p.150 技術評論社 2010年3月15日発行 ISBN 978-4-7741-4156-5</ref>。
== 4つ組効果 ==
ランタノイドには4つ組効果(tetrad effect)が存在する<ref>[https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1994GeCoA..58.2025M/abstract Rere earth element geochemistry and the "tetrad" effect]</ref>。ランタノイドは、ランタンからルテチウムまでの15元素であり、これら15元素は全て3価のイオンになり得る。既述のように、3価のランタノイドイオンにはランタノイド収縮と呼ばれる、3価のランタンイオンが最も大きく、原子番号順に3価のイオン半径は小さくなり、3価のルテチウムイオンが最も小さいといった、狭義のランタノイド全体を通して当てはまる性質がある。この他に、3価のランタンイオンから3価のネオジムイオンまでの4つの元素の組、3価のプロメチウムイオンから3価のガドリニウムイオンまでの4つの元素の組、3価のガドリニウムイオンから3価のホルミウムイオンまでの4つの元素の組、3価のエルビウムイオンから3価のルテチウムイオンまでの4つの元素の組において、原子番号の増加に伴って、その性質が、これらの4元素ずつの周期で変化する部分が存在するし、これを4つ組効果と呼ぶ<ref name="O_O_T_T_KJ_p1479">大木 道則、大沢 利昭、田中 元治、千原 秀昭 編集 『化学辞典』 p.1479 東京化学同人 1994年10月1日発行 ISBN 4-8079-0411-6</ref>。これはランタノイドにおいては原子番号の増加に伴って[[4f軌道]]に電子が充填されることによって発生する周期的な変化である<ref name="O_O_T_T_KJ_p1479">大木 道則、大沢 利昭、田中 元治、千原 秀昭 編集 『化学辞典』 p.1479 東京化学同人 1994年10月1日発行 ISBN 4-8079-0411-6</ref>。なお、ガドリニウムだけは特別であり、4つ組の2つ目の周期の終点であると共に3つ目の周期の始点でもある<ref name="O_O_T_T_KJ_p1479">大木 道則、大沢 利昭、田中 元治、千原 秀昭 編集 『化学辞典』 p.1479 東京化学同人 1994年10月1日発行 ISBN 4-8079-0411-6</ref>。
== 物性 ==
ランタノイドのイオンは色を呈するものが多い。これも4f軌道(上の電子)の影響である。ランタノイドの化合物(例:CeCu<SUB>2</SUB>Si<SUB>2</SUB>、CeRu<sub>2</sub>Si<sub>2</sub>)の中には、[[フェルミエネルギー]]上の電子の有効質量が[[自由電子]]のものより2,3桁も大きい、[[重い電子系]](Heavy fermion)と呼ばれる性質を持つものがある。
4f、5d、6sなどの外側の軌道は、[[相対論効果]]の影響も受ける(例:[[スピン軌道相互作用]]←d軌道やf軌道に対して)。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book | title=シュライバー無機化学(上) | publisher=[[東京化学同人]] | author=Shriver, D. F. and Atkins, P. W. | year=2001 | isbn=4-8079-0534-1 | 1=和書 | others=[[玉虫伶太]]・[[佐藤弦]]・[[垣花眞人]]訳|ref=shriver}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らんたのいと}}
[[Category:ランタノイド|*]]
[[Category:元素群]]
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10,310 |
第7族元素
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第7族元素(だいななぞくげんそ)は、周期表において第7族に属するマンガン・テクネチウム・レニウム・ボーリウムのこと。マンガン族元素と呼ばれることもある
最外殻のs軌道と、一つ内側のd軌道を占有する電子の和が7個になる。従って、最大の原子価は、7価である。通常は、2価、3価の場合が多い。
閉殻していないd軌道を持ち、遷移元素として取り扱われる。
第7族元素では、価電子および内殻電子の電子構造はds構造をとる。
第7族元素のマンガンは、その存在量も多い(地殻の0.085%)元素で、5種類存在する酸化物のうち、4種が天然に産出する。レニウムは、モリブデンの鉱石である輝水鉛鉱 MoS2 中に極く少量含まれ、モリブデン精製の煤煙や特定の銅鉱石の副産物中から得られる。テクネチウムは、全ての同位体が放射性であり、天然にはウランが自発核分裂して生じる Tc(半減期2.14×10年)が痕跡量が存在するだけである。そしてテクネチウムは、最初の人工元素として、モリブデンに重陽子を照射して製造された。
第7族元素は、錯体化合物を含めると、s電子およびd電子を全て与えた+7から-1価の状態まで取りうる。しかし、テクネチウムとレニウムは性質が似ているものの、マンガンはその性質はいささか異なる。テクネチウムとレニウムの単塩は、好んで酸化数 +4, +5, +7の状態を取るのに対して、マンガンの単塩は +2, +4,+6,+7の状態を取る。そして、Mn(+2)の自由エネルギーは著しく低く、マンガンはMn(+2)の状態が最も安定である。言い換えると、マンガンの多の酸化状態は不安定であることを示唆する。実際に、高次酸化状態のマンガンの化合物は酸化剤として有用であり、単体マンガンは還元剤として有用である。
マンガンは反応性の高い元素で、ハロゲン、酸素、硫黄、炭素、窒素、および多くの非金属と化合物を形成する。また、鉄の合金である鋼鉄には、何れもマンガンが含まれ、製鉄業においては、重要な添加元素である。テクネチウムとレニウムとは性質が似ており、酸化物、硫化物、ハロゲン化物を与える。テクネチウムの半減期の短い同位体は、医療用放射線減(主にトレーサー)として利用される。希少で高価なレニウムは、工業的に大量に利用されることはないが、実験室での脱水素触媒や、フィラメントの添加物や熱電対として利用される。そして、Tcは原子炉でのウランの核分裂生成物の6%を占める。すなわち、100MW級の原子炉では、毎日約2.5gのテクネチウムが生成している。したがって、今日では天然に存在する安定核種のレニウムよりも、放射性核種のテクネチウムの方が入手しやすい。
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第7族元素(だいななぞくげんそ)は、周期表において第7族に属するマンガン・テクネチウム・レニウム・ボーリウムのこと。マンガン族元素と呼ばれることもある 最外殻のs軌道と、一つ内側のd軌道を占有する電子の和が7個になる。従って、最大の原子価は、7価である。通常は、2価、3価の場合が多い。 閉殻していないd軌道を持ち、遷移元素として取り扱われる。
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{{脚注の不足|date=2022年12月}}
<div style="float:right;margin-left:10px;margin-bottom:20px;text-align:center;">
{| class="wikitable"
|- align="center"
| [[元素の族|'''族''']]
| [[第6族元素|←]] '''7''' [[第8族元素|→]]
|- align="center"
| [[元素の周期|'''周期''']]
|- align="center"
| [[第4周期元素|'''4''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|25}}<br />[[マンガン|Mn]]
|- align="center"
| [[第5周期元素|'''5''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|{{Color|red|43}}}}<br />[[テクネチウム|Tc]]
|- align="center"
| [[第6周期元素|'''6''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|75}}<br />[[レニウム|Re]]
|- align="center"
| [[第7周期元素|'''7''']]
| style="background-color: #ffc0c0;"| {{Small|{{Color|red|107}}}}<br />[[ボーリウム|Bh]]
|}
</div>
'''第7族元素'''(だいななぞくげんそ)は、[[周期表]]において第7族に属する[[マンガン]]・[[テクネチウム]]・[[レニウム]]・[[ボーリウム]]のこと。'''マンガン族元素'''と呼ばれることもある
最外殻の[[s軌道]]と、一つ内側の[[d軌道]]を占有する[[電子]]の和が7個になる。従って、最大の[[原子価]]は、7価である。通常は、2価、3価の場合が多い。
閉殻していないd軌道を持ち、[[遷移元素]]として取り扱われる。
== 性質 ==
第7族元素では、[[価電子]]および[[内殻電子]]の[[電子構造]]はd<sup>5</sup>s<sup>2</sup>構造をとる。
{| class="wikitable"
!!![[マンガン]]<br />'''<sub>25</sub>Mn'''!![[テクネチウム]]<br />'''<sub>43</sub>Tc'''!![[レニウム]]<br />'''<sub>75</sub>Re'''
|-
|[[電子配置]]||<nowiki>[Ar]</nowiki>3d<sup>5</sup>4s<sup>2</sup>||<nowiki>[Kr]</nowiki>4d<sup>5</sup>5s<sup>2</sup>||<nowiki>[Xe]</nowiki>4f<sup>14</sup>5d<sup>4</sup>6s<sup>2</sup>
|-
|第1イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||719.1||702||749
|-
|第2イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||1,509.1||1,472||
|-
|第3イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||3,248.4||2,850||
|-
|第4イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||4,940|| ||
|-
|第5イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||6,990|| ||
|-
|第6イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>||9,200|| ||
|-
|第7イオン化エネルギー<br />(kJ mol<sup>-1</sup>)||11,508|| ||
|-
|電子親和力<br />(電子ボルト)||0.666||0.746||0.815
|-
|電気陰性度<br />(Allred-Rochow)||1.60|| ||1.46
|-
|イオン半径<br />(pm; M<sup>4+</sup>)||67(6配位)||79(6配位)||
|-
|イオン半径<br />(pm; M<sup>7+</sup>)||39(4配位)|| ||52 (4配位)<br /> 67 (6配位)
|-
|金属結合半径<br />(pm)|| 112 || 135 || 137
|-
||融点<br />(K)|| 1,517 || 2,430 || 3,459
|-
|沸点<br />(K)|| 2,235 || 4,538 || 5,869
|-
|酸化還元電位 E<sup>0</sup> (V)||1.23(MO<sub>2</sub>/Mn<sup>2+</sup>)||0.272<br />(MO<sub>2</sub>/M)||0.22<br />(MO<sub>2</sub>/M)
|}
第7族元素のマンガンは、その存在量も多い([[地殻]]の0.085%)[[元素]]で、5種類存在する[[酸化物]]のうち、4種が天然に産出する。レニウムは、[[モリブデン]]の[[鉱石]]である[[輝水鉛鉱]] MoS<sub>2</sub> 中に極く少量含まれ、モリブデン精製の[[煤煙]]や特定の[[銅鉱石]]の副産物中から得られる。テクネチウムは、全ての[[同位体]]が[[放射性]]であり、天然には[[ウラン]]が[[自発核分裂]]して生じる <sup>99</sup>Tc([[半減期]]2.14×10<sup>5</sup>年)が[[痕跡量]]が存在するだけである。そしてテクネチウムは、最初の[[人工元素]]として、モリブデンに[[重陽子]]を照射して製造された。
第7族元素は、[[錯体]][[化合物]]を含めると、s電子およびd電子を全て与えた+7から-1価の状態まで取りうる。しかし、テクネチウムとレニウムは性質が似ているものの、マンガンはその性質はいささか異なる。テクネチウムとレニウムの[[単塩]]は、好んで[[酸化数]] +4, +5, +7の状態を取るのに対して、マンガンの単塩は +2, +4,+6,+7の状態を取る。そして、Mn(+2)の[[自由エネルギー]]は著しく低く、マンガンはMn(+2)の状態が最も安定である。言い換えると、マンガンの多の酸化状態は不安定であることを示唆する。実際に、高次酸化状態のマンガンの化合物は[[酸化剤]]として有用であり、単体マンガンは[[還元剤]]として有用である。
マンガンは反応性の高い元素で、[[ハロゲン]]、[[酸素]]、[[硫黄]]、[[炭素]]、[[窒素]]、および多くの[[非金属]]と化合物を形成する。また、[[鉄]]の[[合金]]である[[鋼鉄]]には、何れもマンガンが含まれ、[[製鉄業]]においては、重要な[[添加元素]]である。テクネチウムとレニウムとは性質が似ており、酸化物、[[硫化物]]、[[ハロゲン化物]]を与える。テクネチウムの半減期の短い同位体は、[[医療]]用[[放射線減]](主に[[放射性トレーサー|トレーサー]])として利用される。希少で高価なレニウムは、[[工業]]的に大量に利用されることはないが、[[実験室]]での[[脱水素]][[触媒]]や、[[フィラメント]]の添加物や[[熱電対]]として利用される。そして、<sup>99</sup>Tcは[[原子炉]]でのウランの[[核分裂生成物]]の6%を占める。すなわち、100MW級の原子炉では、毎日約2.5gのテクネチウムが生成している。したがって、今日では天然に存在する安定[[核種]]のレニウムよりも、放射性核種のテクネチウムの方が入手しやすい。
<!-- == 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}} -->
== 参考文献 == <!-- {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
* {{Cite book|和書
|author = [[日本化学会]]編
|editor =
|title = 化学便覧 基礎編 1・2
|edition = 改訂5版
|origyear =
|year = 2004
|publisher = [[丸善]]
|isbn = 4-621-07341-9
|oclc =
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}}
* {{Cite book|和書
|author = ヘスロップ
|coauthors = ジョーンズ
|translator = [[斎藤喜彦]]
|title = 無機化学 上
|origyear =
|year = 1977
|publisher = [[東京化学同人]]
|id = {{全国書誌番号|78003718}}
|isbn =
|oclc = 47510118
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}}
* {{Cite book|和書
|author = ヘスロップ
|coauthors = ジョーンズ
|translator = 斎藤喜彦
|title = 無機化学 下
|origyear =
|year = 1978
|publisher = 東京化学同人
|id = {{全国書誌番号|78007765}}
|isbn =
|oclc = 47510163
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}}
* {{Cite book|和書
|author = F.A.コットン
|coauthors = G.ウィルキンソン
|translator = [[中原勝儼]]
|title = 無機化学 上
|edition = 第4版
|origyear =
|year = 1987
|publisher = [[培風館]]
|isbn = 4-563-04192-0
|oclc =
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}}
* {{Cite book|和書
|author = F.A.コットン
|coauthors = G.ウィルキンソン
|translator = 中原勝儼
|title = 無機化学 下
|edition = 第4版
|origyear =
|year = 1988
|publisher = 培風館
|isbn = 4-563-04193-9
|oclc =
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}}
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|Group 7 element}} -->
* [[元素]]
<!-- == 外部リンク == {{Cite web}} -->
{{元素周期表}}
{{Chem-stub}}
{{デフォルトソート:たい07そくけんそ}}
[[Category:周期表の族|#07]]
|
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|
10,311 |
はいぱぁナイト
|
はいぱぁナイトは、1989年〜1996年にKBS京都で放送された、若者向け深夜ラジオ番組である。
1989年4月3日に『ミュージックステーション』の後番組として開始。毎週月 - 金の22:00 - 24:00に放送。
ただし、ナイター中継が伸びた場合は放送時間が短縮された。1996年3月に終了。後番組は『ハイヤングKYOTO (第二期)』。
それまでの全曜日京都本社からの生放送を改め、平日枠を東京・原宿スタジオからの生放送とする形で始まったのが当番組である。当初は声優あるいは音楽関係者をパーソナリティーに雇用する目的があったようである。
当時団塊ジュニア世代の子供の数に注目してリスナー参加型のコーナーに力を入れたり、頻繁に地元・京都などで握手会やバスツアー等を頻繁に行っていた。
なお、当番組開始当初は箱番組として『中村由真のマジカルYUMAランド』(1989年4月 - 1990年3月)、『工藤夕貴の必殺!おもしろ塾』(1989年4月から。1990年4月から『THE工藤夕貴ラジオとびます!とびます!!』に改題。1991年9月まで放送)が当番組中で放送されていた。
冨永みーなが担当する月曜以外は軒並み聴取率が低迷したため、頻繁にパーソナリティーが降板した。しかし、金曜担当となった日髙のり子の意図せぬ形での大ブレイクをはじめとして、他の曜日もこれに触発される形で各自の個性を多くのリスナーにアピールすることに成功するなど、一気に番組全体の人気が大爆発し、各曜日のパーソナリティー同士の交流も盛んになった。
この人気大爆発は「リスナーのプライベートの話」などを平気でパーソナリティーがぶっちゃけるなど、当時の1990年代のラジオ番組を模倣したことが功を奏したようである。
しかし、KBS京都がイトマン事件に端を発する経営危機に直面し、1994年9月に会社更生法の適用を申請、翌年4月に適用が決まった。
KBS京都が会社更生法申請に至ったのとほぼ同時期の1994年10月改編から、当番組中で3年ぶりの箱番組となる、ニッポン放送よりネットの「独占!!Jリーグエキスプレス」が放送開始された。また、それと同じくして当時火曜担当の杉原と近藤および金曜担当の日高によるダイヤルQ2サービスが開始された。
田原音彦が降板したあたりから、枠の打ち切りが真剣に討議されるようになった。バブル経済最盛期に始まった『はいぱぁ』は翌年春の改編でまず金曜枠が打ち切られ『青春ベジタブル』も終了し、更に1996年春改編をもって『ハイヤングKYOTO (第二期)』に取って代わられた。
|
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] |
はいぱぁナイトは、1989年〜1996年にKBS京都で放送された、若者向け深夜ラジオ番組である。 1989年4月3日に『ミュージックステーション』の後番組として開始。毎週月 - 金の22:00 - 24:00に放送。 ただし、ナイター中継が伸びた場合は放送時間が短縮された。1996年3月に終了。後番組は『ハイヤングKYOTO (第二期)』。
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{{Otheruses|かつて[[京都放送|KBS京都]]ラジオで放送された深夜番組|[[CBCラジオ]]で放送されていた深夜番組枠|ハイパーナイト}}
'''はいぱぁナイト'''は、[[1989年]]〜[[1996年]]に[[京都放送|KBS京都]]で放送された、若者向け[[深夜放送|深夜]][[ラジオ番組]]である。
[[1989年]][[4月3日]]に『[[ミュージックステーション (KBS京都ラジオ)|ミュージックステーション]]』の後番組として開始。毎週月 - 金<ref group="注釈">1995年春改編から月 - 木</ref>の22:00 - 24:00に放送。
ただし、ナイター中継が伸びた場合は放送時間が短縮された<ref group="注釈">1990年度までは試合終了まで放送のため、『はいぱぁナイト』の放送自体がなくなる場合もあった。1991年以降は最大22:30までとなり、最低1時間の枠は確保されるようになった。</ref>。[[1996年]]3月に終了。後番組は『[[ハイヤングKYOTO (第二期)]]』。
==概要==
===誕生までの経緯===
それまでの全曜日京都本社からの生放送を改め、平日枠を[[東京都|東京]]・[[原宿]]スタジオ<ref group="注釈">放送中にパーソナリティーから「マンションの一室がスタジオ」という発言があった</ref>からの生放送とする形で始まったのが当番組である。当初は声優あるいは音楽関係者をパーソナリティーに雇用する目的があったようである。
当時団塊ジュニア世代の子供の数に注目してリスナー参加型のコーナーに力を入れたり<ref group="注釈">生電話利用のコーナーが多かった</ref>、頻繁に地元・京都などで握手会や[[バスツアー]]等を頻繁に行っていた。
なお、当番組開始当初は[[箱番組]]として『[[中村由真のマジカルYUMAランド]]』(1989年4月 - 1990年3月)、『[[工藤夕貴の必殺!おもしろ塾]]』(1989年4月から。1990年4月から『[[THE工藤夕貴ラジオとびます!とびます!!]]』に改題。1991年9月まで放送)が当番組中で放送されていた<ref group="注釈">いずれもラジオ制作会社製作による番販番組。</ref>。
===人気大爆発へ===
[[冨永みーな]]が担当する月曜以外は軒並み聴取率が低迷したため、頻繁にパーソナリティーが降板した。しかし、金曜担当となった[[日髙のり子]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://archive.md/0SQ7w |title = 続いて『はいぱぁナイト』や『ハイヤングKYOTO』に出演いただいたレジェンド声優、日髙のり子さん|website = www.kbs-kyoto.co.jp |publisher = www.kbs-kyoto.co.jp|date = 2021-12-24|accessdate = 2023-01-15}}</ref>の意図せぬ形での大ブレイクをはじめとして、他の曜日もこれに触発される形で各自の個性を多くのリスナーにアピールすることに成功するなど、一気に番組全体の人気が大爆発し<ref group="注釈">休刊直前だった『[[ラジオパラダイス]]』誌の人気投票でも各曜日が急激に順位を上げた</ref>、各曜日のパーソナリティー同士の交流も盛んになった。
この人気大爆発は「リスナーのプライベートの話」などを平気でパーソナリティーがぶっちゃけるなど、当時の1990年代のラジオ番組を模倣したことが功を奏したようである<ref group="注釈">1990年代末まで、リスナーを呼び込んでイベントを開催することが[[ヘビーメタルシンジケート]]などですら行われていた。</ref>。
===番組終了へ===
しかし、KBS京都が[[イトマン事件]]に端を発する経営危機に直面し、[[1994年]]9月に[[会社更生法]]の適用を申請、翌年4月に適用が決まった。
KBS京都が会社更生法申請に至ったのとほぼ同時期の[[1994年]]10月改編から、当番組中で3年ぶりの箱番組となる、[[ニッポン放送]]よりネットの「[[独占!!Jリーグエキスプレス]]」が放送開始された。また、それと同じくして当時火曜担当の杉原と近藤および金曜担当の日高による[[ダイヤルQ2]]サービスが開始された<ref group="注釈">内容は曜日別で、さらに各曜日ごとに二つのチャンネルが提供されていた。これは「はいぱぁ」終了から程なくして終了となる</ref>。
田原音彦が降板したあたりから、枠の打ち切りが真剣に討議されるようになった。[[バブル経済]]最盛期に始まった『はいぱぁ』は翌年春の改編でまず金曜枠が打ち切られ『[[青春ベジタブル]]』も終了し、更に1996年春改編をもって『ハイヤングKYOTO (第二期)』に取って代わられた。
==担当パーソナリティ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;margin:0 auto; font-size:smaller"
|+ 「はいぱぁナイト」歴代のパーソナリティ
!colspan=2|期間!!style="width:16%"|月曜日!!style="width:16%"|火曜日!!style="width:16%"|水曜日!!style="width:16%"|木曜日!!style="width:16%"|金曜日
|-
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|真璃子
|rowspan=6|田原音彦
|斉藤満喜子
|池田政典
|-
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|沢田聖子
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|-
!1991.10!!1992.03
|シャインズ
|-
!1992.04!!1993.03
|坪倉唯子
|-
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!1994.04!!1994.09
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|-
!1994.10!!1995.03
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|-
!1995.04!!1995.09
|rowspan=2|日髙のり子
|rowspan=2 style='background:silver'|(放送終了)
|-
!1995.10!!1996.03
|ジャガー横田<br />バイソン木村
|}
===月曜日===
*[[冨永みーな]](〜1994.3.28)
*[[山寺宏一]](1994.4.4〜1995.3.27)
*[[日髙のり子]](1995.4.3〜1996.3.25)
:※日高は[[ハイヤングKYOTO (第二期)]]月曜へ引き続き移行。
===火曜日===
*[[真璃子]](〜1989.9)
*[[杉原徹]](1989.10.10〜1996.3.26)
<!---火曜アシスタントに関する補足お願いします--->
:※アシスタント:[[梶野秀樹]](?)、[[野咲たみこ]](?〜1994.6?)、[[彩裕季]](1994.6?〜1994.9)、[[近藤ナツコ]](1994.10〜1996.3・26)
:※杉原と近藤は[[ハイヤングKYOTO (第二期)]]水曜へ引き続き移行。
===水曜日===
*[[田原音彦]](〜1994.9)
:※アシスタント:[[城山美佳子]](当時・[[パンプキン (グループ)|パンプキン]])(〜1991.3)、[[相馬裕子]](1991.4〜1994.9)
*[[クローゼットフリーク]](※開始半年はてつと山田名義)(1994.10〜1995.9)
:[[やまだひさし]]がコンビ時代に担当。
*[[ジャガー横田]]・[[バイソン木村]](1995.10〜1996.3)
===木曜日===
*[[斉藤満喜子]](〜1989.9)
*[[沢田聖子]](【第一期】1989.10.12〜1991.9.26、【第二期】1993.4〜1996.3)
:※家庭の事情を理由に一旦降板するが、坪倉のスケジュールの都合による急遽降板により、復帰。
:第一期では、[[岡崎倫典]]、[[TARAKO]]などが週替わりでアシスタントパーソナリティを務めていた。
*[[SHINE'S|シャインズ]](1991.10〜1992.3)
*[[坪倉唯子]](1992.4〜1993.3)
:※アシスタント:[[新島弥生]](1992.4?〜1996.3)、[[浅野宮子]](1995.4〜1996.3)
===金曜日===
*[[池田政典]](〜1989.9.29)
*[[日髙のり子]](1989.10.13〜1995.3.27)
:※[[1995年]]3月一杯で金曜枠は廃止。その後、日高は月曜へ異動。
==関連項目==
*[[アロエビクスマン]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:はいはあないと}}
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放送局=[[京都放送|KBS京都]]|
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次番組=[[ハイヤングKYOTO (第二期)]](月曜〜土曜)<BR>1997年10月より月曜~金曜23:00〜25:00
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{{KBS京都の夜ワイド番組}}
{{山寺宏一}}
{{日髙のり子}}
[[Category:KBS京都のラジオ帯番組]]
[[Category:ローカルラジオ局のバラエティ番組]]
[[Category:アニラジ]]
[[Category:ラジオ放送枠|KBSきようと * 2200]]
[[Category:1989年のラジオ番組 (日本)]]
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10,312 |
ハイヤングKYOTO
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ハイヤングKYOTO(ハイヤングきょうと)は、KBS京都で放送された若者向け深夜ラジオ番組である。
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ハイヤングKYOTO(ハイヤングきょうと)は、KBS京都で放送された若者向け深夜ラジオ番組である。 ハイヤングKYOTO (第一期)、1981年4月(近畿放送時代)-1987年3月
ハイヤングKYOTO (第二期)、1996年4月-1999年9月
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'''ハイヤングKYOTO'''(ハイヤングきょうと)は、[[京都放送|KBS京都]]で放送された若者向け深夜[[ラジオ番組]]である。
* [[ハイヤングKYOTO (第一期)]]、[[1981年]]4月(近畿放送時代)-[[1987年]]3月
* [[ハイヤングKYOTO (第二期)]]、[[1996年]]4月-[[1999年]]9月
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10,313 |
アニラジ
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アニラジは、アニメ関連のラジオまたはインターネットラジオの番組のジャンル、および主にアニメで活躍する声優がパーソナリティを務めるラジオまたはインターネットラジオの番組。
アニメ・ゲーム等の作品や、出演する声優をメインに据えた番組が多いが、アナウンサーや、関連メディアの関係スタッフ、それらに詳しい各種タレントなどが出演するケースも多く、その内容は多種多様である。
現在この分野で最も力を入れている文化放送は、「アニメのA、ゲームのG」の頭文字から取った「A&G」と言うブランドを展開している。
そもそも、1960年代の声優が主に海外作品の吹き替えで活躍していた時期(第一次声優ブーム)から、JRN系深夜放送『パックインミュージック』にて、ブームの中心で活躍した野沢那智と白石冬美がナチチャコの愛称で人気を博すなど、日中帯のワイド番組を含め、声優がパーソナリティを務める番組は多く存在したが、アニメが前面に出されることはなかった。
そのような中、アニメを主題としたアニラジのはしりは、NRN系深夜放送『オールナイトニッポン』にて放送の『宇宙戦艦ヤマト』LP盤サウンドトラック発売を記念とした特別番組とされる。1977年12月2日放送、アニメの声優総出演にてオリジナルラジオドラマが4時間にわたって生放送された。翌日の新聞でも取り上げられ、以降、『銀河鉄道999』『幻魔大戦』などについても同様の企画の放送が行われている。
また、初めてラジオにてアニメで活躍する声優にスポットライトが当てられたのは1978年、NHKラジオ『ラジオSFコーナー』の特番で、これはNHK総合テレビで『未来少年コナン』が放映開始されたことによる宣伝として平日のある1週間、22:15 - 23:00に日替わり5人の声優が一人語りした。
こうして『宇宙戦艦ヤマト』をきっかけとする第二次アニメブームが加速するのに合わせて、ラジオ番組でもアニメを取り扱う企画が見られるようになった中、1979年10月から始まったラジオ大阪『アニメトピア』を皮切りに、文化放送『アニメNOW!』、東海ラジオ『週刊ラジオアニメック』など、1980年代前半頃に東名阪を中心にアニメなどの情報を総合的に扱う番組が編成される。しかしこれらは、『アニメトピア』がアニメから脱線した内容が好評となりブーム末期まで続いた他は短命に終わる。これらの番組を指す一般的な呼称も生まれなかった。
アニラジが安定して放送されるようになったのは第二次アニメブームが沈着した1980年代中頃。地方局を中心にローカル番組でアニメを扱う番組が放送され、そこから現在のアニラジが確立していく。この時期に開始した代表的な番組として、東海ラジオの当時ラジオたんぱにて学生DJとして『ヤロメロジュニア出発進行!』で人気を博した小森まなみと『週刊ラジオアニメック』にてレポーターを務めたミンキー・ヤスによる『mamiのRADIかるコミュニケーション』、南日本放送の采野吉洋アナウンサーによる『アニメでGo!Go!』、FM山口の水谷寛アナウンサーによる『ウキウキ放送局』、ラジオ関西の岩崎和夫アナウンサーによる『アニメ玉手箱』など。これらはアニメを趣味とする声優ではない男性パーソナリティ(特に、主に地方局など編成に自由度がある局のアナウンサーが多い)が出演している、20年以上続く長寿番組になっていることが共通している。
この他、『アニメトピア』でDJデビューした冨永みーながKBS京都『はいぱぁナイト』月曜日や文化放送『走れ!歌謡曲』土曜日など一般向け深夜ワイド番組で人気を博したことも特筆される。
1990年代に入ると第三次声優ブームが始まり、林原めぐみや國府田マリ子、椎名へきるらアイドル声優を前面に押し出した番組が増える。これらは従来からアニラジを放送していた局に加え、椎名へきるによるJFN系『G1 Grouper』をはじめとする一連の番組、多くの声優が起用されたMBSラジオ『オレたちやってま〜すシリーズ』など、FM局といったこれまでアニラジに積極的でなかった局でも放送された。
また1991年には、文化放送が「A&Gゾーン」の原点となった『ノン子とのび太のアニメスクランブル』を開始したのを皮切りにアニラジに再進出をかけ、テレビアニメからの続編『魔神英雄伝ワタル3』が、1993年には、ゲーム原作の『ツインビーPARADISE』が放送開始し、漫画やアニメーション、ゲームなどを原作としたメディアミックス展開の一つとして認知されはじめ、新ジャンルのラジオドラマ・ラジメーションが普及し始める。
このブームにより1995年に創刊された声優総合雑誌『声優グランプリ』の姉妹誌、『アニラジグランプリ』によってアニラジの呼称は定着したとされる。
2000年代からは、BSデジタルラジオやインターネット上など他のメディアでアニラジ番組が放送もしくは配信されることが多くなる。
2000年から放送が開始されたBSフジのBSデジタル音声放送「BSQR489」では夜20時以降の放送枠全てをアニラジに充て、地上波とのサイマル生放送や局独自の生放送番組が放送された。「BSQR489」はBSデジタル放送がテレビ放送を中心に普及を図っていくことが決まった事から2006年に放送終了するが、この流れはデジタルラジオ推進協会により2003年から試験放送されていたUNIQue the RADIO内のアニラジ番組を独立させるといった形で超!A&G+が開設され、地上デジタルラジオ試験放送終了後も、インターネット上でストリーミング配信を継続している。
この超!A&G+やラジオ関西「アニたまどっとコム」の公式ページでの番組配信といったラジオ局(放送事業者)を配信元とするのネット配信に加え、『ツインビーPARADISE』など1990年代のアニラジ人気の中核を担う多くの番組を提供したコナミが開設した日本最初のアニラジ専門局となるdb-FM、レコード会社・ランティスによるランティスウェブラジオやブシロードによるHiBiKi Radio Station、アニメイトTVといったアニメ系グッズショップによるもの、加えて元はフリーランスのディレクターであるやまけんが設立した音泉など、多くのアニラジオンデマンド専門インターネットラジオ放送局が開かれた。
更に近年は、BSQR、BBQRから始まる、超A&G+による簡易動画配信や、従来はラジオ(放送事業者)で放送されることが多かった声優出演によるアニメ宣伝番組のニコニコ生放送やAT-Xなどによる映像付き配信形態への移行、文化放送によるAG-ONや先述の『オレたちやってまーす』の流れを汲む『おしゃべりやってまーす』を配信するK'z Stationなどの有料コンテンツ、地上アナログテレビ放送が停波した後のVHF-Hiバンドの空き領域を利用して行われる携帯電話(スマートフォン)向け放送(マルチメディア放送)であるNOTTV(2016年6月末にサービス終了)や同じくVHF-Lowバンドでの放送であるi-dio(2020年3月末にサービス終了)での放送など、新たな番組配信の形態が模索されている。
これに伴い2000年代には地上波ラジオ以外でのアニラジ番組数が増加を続けているのに対して、地上波での放送はネットコンテンツとしての配信に切り替わる、もしくは放送が打ち切られる形で減少傾向にあり、2009年の秋季改編にて『mamiのRADIかるコミュニケーション』などの終了、2011年4月には『ノン子とのび太のアニメスクランブル』が同月からインターネット配信専業となった超!A&G+での配信のみへの切り替え、2016年秋には『林原めぐみのTokyo Boogie Night』と『堀江由衣の天使のたまご』のネット局が大幅に縮小され、2019年春には『上坂すみれの♡(はーと)をつければかわいかろう』の文化放送以外のネット局での放送が打ち切られており、特に東京圏以外で放送される地方のアニラジ番組は減少の一途を辿っている。
一方、ネットラジオ自体の歴史が浅い中、ラジオ大阪で放送された番組『美佳子のぱよぱよ』を前身とする『美佳子@ぱよぱよ』が2001年4月19日からインターネット配信を開始し、配信15周年を迎えるなど、インターネット配信アニラジの長寿番組も増えつつある。
また、スマートフォンや携帯端末の普及により、モバイル回線など無線アクセスと専用アプリを介してラジオをどこでも聴取出来る環境が構築されて行く(radikoにも存在する)。
他の特殊な例として有線放送にアニラジ専門のチャンネルが存在し、業界最大手のUSENがアニメ・声優専門のC26「a-FANFAM」をはじめ、そこから分離した男性声優専門のC-59「BUSHI.ST」、24時間アニメソングをかけ続けるC-54「アニソン」などを配信している。上述のi-dioでも24時間アニメソング専門チャンネル「アニソンHOLIC」が2017年11月からサービス終了の2020年3月末まで放送されていた。
2015年、音泉、HiBiKi Radio Station、文化放送、アニメイトTV(第2回よりラジオ大阪も加わる)がアニラジアワード実行委員会を結成し、アニラジを部門別に表彰する「アニラジアワード」が設立された。
これらは主に地上波による放送のものであり、放送番組以外にも、ネットラジオ進出により多く番組が配信できるようになったことに伴うジャンルの細分化や、映像配信によりテレビのバラエティ番組に近い放送番組になるなど多くの番組形態が生まれている。
東京・関西・東海の主要放送局は何らかの形でアニラジ番組を放送している。特に文化放送・ラジオ大阪・ラジオ関西・東海ラジオが長年アニラジに力を入れている放送局として挙げられ、東海ラジオを除く3局は各アニメ番組をブロック編成またはブランド化を行っている。ただし、ラテ欄ではゾーン名が出されることはない。
大都市圏での放送が活発になる一方で、それ以外の主要都市圏ではアニラジの放送本数が決して多いとは言えないのが現状である。地方の番組は主にキングレコード提供、以前は綜合放送など外部制作会社番組の番販によるもの、ナイターオフ向け番組(『ラジオアミューズメントパーク』・『A&G 超RADIO SHOW〜アニスパ!〜』)、アナウンサー等による30分の自社制作番組が主である。また近年はラジオ日本制作の番組を遅れネットするケースもある(『i☆Ris 芹澤優のせりざわーるど with you』)。
こういった地方局での放送が少ない事情、番組の性質上、夜間、特に深夜などに番組が放送される場合が多く、AM放送の電波特性上、夜間には放送エリア外での受信が可能なことから遠距離受信が一つの文化となっており、そういったリスナー向けのコーナー(『林原めぐみのHeartful Station』など)や、更にそういったリスナー向けのイベントの実施など、番組があらゆる意味で広がりをみせることが多かった。だが、インターネット、およびネットラジオが普及して以降は時に海外からの便りが来て話題に上るといったことはあるが、ネット環境さえあれば聴取が可能であることからそういった文化は廃れつつある。また、有料ながらも全国で各地のラジオ放送局(一部除く)を聴取できるradikoプレミアムサービスの開始とその普及に伴い、地域的な障壁は取り除かれている。
AM以外の地上波ラジオについて、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)では2000年12月頃からBSデジタル放送「BSラジオNIKKEI」放送開始に伴い、「デジタルボイスステーション」(DVS)という名称を使用していたなどかつてはアニラジ放送に積極的であったが、現在は毎週水曜放送の『Anime & Seiyu Music Night』と、不定期で檜川彰人アナウンサーによる『アニソンポッド』が放送されているのみである。
FMではTOKYO FM、NACK5、FM FUJIなどが放送しているほか、JAPAN FM LEAGUE(JFL)では2022年現在、全ての加盟局でアニラジ番組が週1回以上放送されている。JFNでも先述の椎名へきるによる番組や『トラブルチョコレート』など放送していたがそれらも一時期は途切れ、のちに、アニラジ色はかなり弱いが『坂本真綾 from everywhere.』、『椎名へきる みたいラジオ』があったが全て終了。MegaNetおよび一部の独立FM放送局などでも単発的に放送されるに留まっている。FM放送が音楽中心の番組構成であり、アニメなどを扱う番組には積極的になれなかったことが要因である。bayfmではかねてから山寺宏一(バズーカ山寺)や坂本真綾、森久保祥太郎、大原さやかがDJを務める番組が存在するが、こちらはアニラジとしてのカラーは持たされていない。その他、JFNの地方ローカル局で1、2番組オリジナルでアニラジ番組が製作している局がある。
一方、コミュニティFMでは、性質上プログラムがAMに近いトーク主体であったり、局の規模の都合コミュニティ局同士の番組ネットや有線放送の再送信が多いなどから、『アニメ関門文化学園』(COME ON! FM制作)といったコミュニティFM局制作有線経由のコミュニティFMネット番組や局独自のアニソンを中心としたプログラムが放送されている。
収録はアニメ業界が東京一極集中であるため、東京都区内あるいは近郊のスタジオであることが多く、地方局の現地にて制作される番組は局のアナウンサーによる番組、公開録音時などに限られる。
先述の通り、インターネットラジオとして配信されている番組も急激に増え、スポンサーの一部はインターネット配信に軸足を移し始めている。
制作側にとっては、放送枠買取の多額の資金を提供できるスポンサーの獲得や聴取に有利な放送時間枠の獲得にとらわれず、番組制作費とサーバ管理費だけと比較的低コストで番組配信が出来て、聴取者からの課金による有料配信で番組制作費の捻出をすることも可能である。全世界に向けて、決められた放送の「尺」にとらわれない融通の利く収録・配信が出来て、厳密な数の聴取者数が分かるほか、使用OS・IPアドレス・接続時間帯などから推定できる情報により聴取層を把握、マーケティングリサーチすることで番組制作に生かせることなどのメリットがある。また、音声に加えて映像も同じ枠組みで配信可能なため、地上波アナログラジオでは不可能な映像や静止画を付加して配信している例も少なくない。聴取者にとっても電波状況に左右されないクリアな音質で聴取出来るメリットもある。
オンデマンド方式の場合、聴取者にとっては、決められた放送時間にとらわれず、居住地に関係なく、自分の都合で番組が聴取出来る。ポッドキャスティングなどでは音声データの携帯音楽プレイヤーへの取り込みなどが地上波ラジオ番組を録音した場合に比べて容易になる。
インターネットラジオの聴取にはパソコン・一部の携帯電話及びネット環境が必要であり、地上波ラジオ番組に比べて、元からファンではないリスナー向けの宣伝効果では劣る。また、アクセスが集中した場合はサーバーや回線が混雑して聴取が困難となる。サイトによっては人気番組の更新後の混雑が慢性化しているところもある。
インターネットラジオ専用で制作されている番組が多いが、最近は番組によっては地上波ラジオ局で放送された番組をインターネット上でも配信している。その場合は、インターネットラジオでは時間の制約が緩いため、地上波でカットされた部分を追加出来る一方で、番組のスポンサーでは無いCMや著作権の都合上一部楽曲はカットされることがある。生放送番組の場合は、ストリーミング配信が可能なサイトとの同時配信(上記のとおり、収録現場の映像を一緒に流している場合もある)もある。また過去にはそれとは逆に1314 V-STATIONではネット配信した後、地上波放送すると言う番組も存在した。同じ媒体宣伝で、パーソナリティを変えて、地上波ラジオ局向けの番組とインターネットラジオ番組を別に制作する場合もある(『THE IDOLM@STER』の宣伝番組など)。
一方、従来のラジオ放送での主な収入であったスポンサー収入が得にくい面もあるため、番組の内容をデータ化し新録の番組と共にCD化して販売したり、スピンアウト企画のソフト類を発売したり、番組イベントの入場料およびグッズ販売を大きな収益源とする番組(制作会社)も多い。
コミュニティFM ◇=ネットアーカイブ配信あり
厳密にはアニラジではないが、多少なりとも関連性のある番組。
関連番組
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"text": "この超!A&G+やラジオ関西「アニたまどっとコム」の公式ページでの番組配信といったラジオ局(放送事業者)を配信元とするのネット配信に加え、『ツインビーPARADISE』など1990年代のアニラジ人気の中核を担う多くの番組を提供したコナミが開設した日本最初のアニラジ専門局となるdb-FM、レコード会社・ランティスによるランティスウェブラジオやブシロードによるHiBiKi Radio Station、アニメイトTVといったアニメ系グッズショップによるもの、加えて元はフリーランスのディレクターであるやまけんが設立した音泉など、多くのアニラジオンデマンド専門インターネットラジオ放送局が開かれた。",
"title": "歴史"
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"text": "更に近年は、BSQR、BBQRから始まる、超A&G+による簡易動画配信や、従来はラジオ(放送事業者)で放送されることが多かった声優出演によるアニメ宣伝番組のニコニコ生放送やAT-Xなどによる映像付き配信形態への移行、文化放送によるAG-ONや先述の『オレたちやってまーす』の流れを汲む『おしゃべりやってまーす』を配信するK'z Stationなどの有料コンテンツ、地上アナログテレビ放送が停波した後のVHF-Hiバンドの空き領域を利用して行われる携帯電話(スマートフォン)向け放送(マルチメディア放送)であるNOTTV(2016年6月末にサービス終了)や同じくVHF-Lowバンドでの放送であるi-dio(2020年3月末にサービス終了)での放送など、新たな番組配信の形態が模索されている。",
"title": "歴史"
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"text": "これに伴い2000年代には地上波ラジオ以外でのアニラジ番組数が増加を続けているのに対して、地上波での放送はネットコンテンツとしての配信に切り替わる、もしくは放送が打ち切られる形で減少傾向にあり、2009年の秋季改編にて『mamiのRADIかるコミュニケーション』などの終了、2011年4月には『ノン子とのび太のアニメスクランブル』が同月からインターネット配信専業となった超!A&G+での配信のみへの切り替え、2016年秋には『林原めぐみのTokyo Boogie Night』と『堀江由衣の天使のたまご』のネット局が大幅に縮小され、2019年春には『上坂すみれの♡(はーと)をつければかわいかろう』の文化放送以外のネット局での放送が打ち切られており、特に東京圏以外で放送される地方のアニラジ番組は減少の一途を辿っている。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、ネットラジオ自体の歴史が浅い中、ラジオ大阪で放送された番組『美佳子のぱよぱよ』を前身とする『美佳子@ぱよぱよ』が2001年4月19日からインターネット配信を開始し、配信15周年を迎えるなど、インターネット配信アニラジの長寿番組も増えつつある。",
"title": "歴史"
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"text": "また、スマートフォンや携帯端末の普及により、モバイル回線など無線アクセスと専用アプリを介してラジオをどこでも聴取出来る環境が構築されて行く(radikoにも存在する)。",
"title": "歴史"
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"text": "他の特殊な例として有線放送にアニラジ専門のチャンネルが存在し、業界最大手のUSENがアニメ・声優専門のC26「a-FANFAM」をはじめ、そこから分離した男性声優専門のC-59「BUSHI.ST」、24時間アニメソングをかけ続けるC-54「アニソン」などを配信している。上述のi-dioでも24時間アニメソング専門チャンネル「アニソンHOLIC」が2017年11月からサービス終了の2020年3月末まで放送されていた。",
"title": "歴史"
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"text": "2015年、音泉、HiBiKi Radio Station、文化放送、アニメイトTV(第2回よりラジオ大阪も加わる)がアニラジアワード実行委員会を結成し、アニラジを部門別に表彰する「アニラジアワード」が設立された。",
"title": "歴史"
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"text": "これらは主に地上波による放送のものであり、放送番組以外にも、ネットラジオ進出により多く番組が配信できるようになったことに伴うジャンルの細分化や、映像配信によりテレビのバラエティ番組に近い放送番組になるなど多くの番組形態が生まれている。",
"title": "番組形態"
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"text": "東京・関西・東海の主要放送局は何らかの形でアニラジ番組を放送している。特に文化放送・ラジオ大阪・ラジオ関西・東海ラジオが長年アニラジに力を入れている放送局として挙げられ、東海ラジオを除く3局は各アニメ番組をブロック編成またはブランド化を行っている。ただし、ラテ欄ではゾーン名が出されることはない。",
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"text": "大都市圏での放送が活発になる一方で、それ以外の主要都市圏ではアニラジの放送本数が決して多いとは言えないのが現状である。地方の番組は主にキングレコード提供、以前は綜合放送など外部制作会社番組の番販によるもの、ナイターオフ向け番組(『ラジオアミューズメントパーク』・『A&G 超RADIO SHOW〜アニスパ!〜』)、アナウンサー等による30分の自社制作番組が主である。また近年はラジオ日本制作の番組を遅れネットするケースもある(『i☆Ris 芹澤優のせりざわーるど with you』)。",
"title": "放送局"
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"text": "こういった地方局での放送が少ない事情、番組の性質上、夜間、特に深夜などに番組が放送される場合が多く、AM放送の電波特性上、夜間には放送エリア外での受信が可能なことから遠距離受信が一つの文化となっており、そういったリスナー向けのコーナー(『林原めぐみのHeartful Station』など)や、更にそういったリスナー向けのイベントの実施など、番組があらゆる意味で広がりをみせることが多かった。だが、インターネット、およびネットラジオが普及して以降は時に海外からの便りが来て話題に上るといったことはあるが、ネット環境さえあれば聴取が可能であることからそういった文化は廃れつつある。また、有料ながらも全国で各地のラジオ放送局(一部除く)を聴取できるradikoプレミアムサービスの開始とその普及に伴い、地域的な障壁は取り除かれている。",
"title": "放送局"
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"text": "AM以外の地上波ラジオについて、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)では2000年12月頃からBSデジタル放送「BSラジオNIKKEI」放送開始に伴い、「デジタルボイスステーション」(DVS)という名称を使用していたなどかつてはアニラジ放送に積極的であったが、現在は毎週水曜放送の『Anime & Seiyu Music Night』と、不定期で檜川彰人アナウンサーによる『アニソンポッド』が放送されているのみである。",
"title": "放送局"
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"text": "FMではTOKYO FM、NACK5、FM FUJIなどが放送しているほか、JAPAN FM LEAGUE(JFL)では2022年現在、全ての加盟局でアニラジ番組が週1回以上放送されている。JFNでも先述の椎名へきるによる番組や『トラブルチョコレート』など放送していたがそれらも一時期は途切れ、のちに、アニラジ色はかなり弱いが『坂本真綾 from everywhere.』、『椎名へきる みたいラジオ』があったが全て終了。MegaNetおよび一部の独立FM放送局などでも単発的に放送されるに留まっている。FM放送が音楽中心の番組構成であり、アニメなどを扱う番組には積極的になれなかったことが要因である。bayfmではかねてから山寺宏一(バズーカ山寺)や坂本真綾、森久保祥太郎、大原さやかがDJを務める番組が存在するが、こちらはアニラジとしてのカラーは持たされていない。その他、JFNの地方ローカル局で1、2番組オリジナルでアニラジ番組が製作している局がある。",
"title": "放送局"
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"text": "一方、コミュニティFMでは、性質上プログラムがAMに近いトーク主体であったり、局の規模の都合コミュニティ局同士の番組ネットや有線放送の再送信が多いなどから、『アニメ関門文化学園』(COME ON! FM制作)といったコミュニティFM局制作有線経由のコミュニティFMネット番組や局独自のアニソンを中心としたプログラムが放送されている。",
"title": "放送局"
},
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"text": "収録はアニメ業界が東京一極集中であるため、東京都区内あるいは近郊のスタジオであることが多く、地方局の現地にて制作される番組は局のアナウンサーによる番組、公開録音時などに限られる。",
"title": "放送局"
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"text": "先述の通り、インターネットラジオとして配信されている番組も急激に増え、スポンサーの一部はインターネット配信に軸足を移し始めている。",
"title": "インターネット配信"
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{
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"text": "制作側にとっては、放送枠買取の多額の資金を提供できるスポンサーの獲得や聴取に有利な放送時間枠の獲得にとらわれず、番組制作費とサーバ管理費だけと比較的低コストで番組配信が出来て、聴取者からの課金による有料配信で番組制作費の捻出をすることも可能である。全世界に向けて、決められた放送の「尺」にとらわれない融通の利く収録・配信が出来て、厳密な数の聴取者数が分かるほか、使用OS・IPアドレス・接続時間帯などから推定できる情報により聴取層を把握、マーケティングリサーチすることで番組制作に生かせることなどのメリットがある。また、音声に加えて映像も同じ枠組みで配信可能なため、地上波アナログラジオでは不可能な映像や静止画を付加して配信している例も少なくない。聴取者にとっても電波状況に左右されないクリアな音質で聴取出来るメリットもある。",
"title": "インターネット配信"
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"text": "オンデマンド方式の場合、聴取者にとっては、決められた放送時間にとらわれず、居住地に関係なく、自分の都合で番組が聴取出来る。ポッドキャスティングなどでは音声データの携帯音楽プレイヤーへの取り込みなどが地上波ラジオ番組を録音した場合に比べて容易になる。",
"title": "インターネット配信"
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"text": "インターネットラジオの聴取にはパソコン・一部の携帯電話及びネット環境が必要であり、地上波ラジオ番組に比べて、元からファンではないリスナー向けの宣伝効果では劣る。また、アクセスが集中した場合はサーバーや回線が混雑して聴取が困難となる。サイトによっては人気番組の更新後の混雑が慢性化しているところもある。",
"title": "インターネット配信"
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"text": "インターネットラジオ専用で制作されている番組が多いが、最近は番組によっては地上波ラジオ局で放送された番組をインターネット上でも配信している。その場合は、インターネットラジオでは時間の制約が緩いため、地上波でカットされた部分を追加出来る一方で、番組のスポンサーでは無いCMや著作権の都合上一部楽曲はカットされることがある。生放送番組の場合は、ストリーミング配信が可能なサイトとの同時配信(上記のとおり、収録現場の映像を一緒に流している場合もある)もある。また過去にはそれとは逆に1314 V-STATIONではネット配信した後、地上波放送すると言う番組も存在した。同じ媒体宣伝で、パーソナリティを変えて、地上波ラジオ局向けの番組とインターネットラジオ番組を別に制作する場合もある(『THE IDOLM@STER』の宣伝番組など)。",
"title": "インターネット配信"
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"text": "一方、従来のラジオ放送での主な収入であったスポンサー収入が得にくい面もあるため、番組の内容をデータ化し新録の番組と共にCD化して販売したり、スピンアウト企画のソフト類を発売したり、番組イベントの入場料およびグッズ販売を大きな収益源とする番組(制作会社)も多い。",
"title": "インターネット配信"
},
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"text": "コミュニティFM ◇=ネットアーカイブ配信あり",
"title": "主な番組"
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"text": "厳密にはアニラジではないが、多少なりとも関連性のある番組。",
"title": "主な番組"
},
{
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"tag": "p",
"text": "関連番組",
"title": "主な番組"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "厳密にはアニラジではないが、多少なりとも関連性のある番組。",
"title": "主な番組"
}
] |
アニラジは、アニメ関連のラジオまたはインターネットラジオの番組のジャンル、および主にアニメで活躍する声優がパーソナリティを務めるラジオまたはインターネットラジオの番組。
|
{{複数の問題
|出典の明記= 2013年5月23日 (木) 00:37 (UTC)
|独自研究= 2013年5月23日 (木) 00:37 (UTC)
|内容過剰= 2013年5月23日 (木) 00:37 (UTC)
|大言壮語= 2013年5月23日 (木) 00:37 (UTC)
|雑多な内容の箇条書き=2014年9月11日 (木) 10:00 (UTC)
}}
{{ウィキポータルリンク|ラジオ}}
'''アニラジ'''は、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]関連の[[ラジオ]]または[[インターネットラジオ]]の番組のジャンル、および主にアニメで活躍する[[声優]]がパーソナリティを務めるラジオまたはインターネットラジオの番組<ref name="daily">[https://www.daily.co.jp/gossip/2018/05/15/0011258573.shtml ラジオでアニメ 二十数年こだわる文化放送の狙い「A&G」] [[デイリースポーツ]] 2018年5月15日、同6月1日閲覧。</ref>。
== 概要 ==
[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[ゲーム]]等の作品や、出演する[[声優]]をメインに据えた番組が多いが、[[アナウンサー]]や、関連メディアの関係スタッフ、それらに詳しい各種[[タレント]]などが出演するケースも多く、その内容は多種多様である。
現在この分野で最も力を入れている[[文化放送]]は、「アニメのA、ゲームのG」の頭文字から取った「'''A&G'''」と言うブランドを展開している<ref name="daily"/>。
== 歴史 ==
=== 1980年代まで ===
そもそも、[[1960年代]]の声優が主に海外作品の[[吹き替え]]で活躍していた時期([[声優#第1次声優ブーム|第一次声優ブーム]])から、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN系]][[深夜放送]]『[[パックインミュージック]]』にて、ブームの中心で活躍した[[野沢那智]]と[[白石冬美]]が'''ナチチャコ'''の愛称で人気を博すなど、日中帯の[[ワイド番組]]を含め、声優が[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務める番組は多く存在したが、アニメが前面に出されることはなかった。
そのような中、アニメを主題としたアニラジのはしりは、[[全国ラジオネットワーク|NRN系]]深夜放送『[[オールナイトニッポン]]』にて放送の『[[宇宙戦艦ヤマト]]』LP盤サウンドトラック発売を記念とした特別番組とされる。1977年12月2日放送、アニメの声優総出演にてオリジナル[[ラジオドラマ]]が4時間にわたって生放送された。翌日の新聞でも取り上げられ、以降、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』『[[幻魔大戦]]』などについても同様の企画の放送が行われている<ref>{{Cite book|和書 |title=日本懐かしラジオ大全 |date=2021年11月5日 |publisher=タツミムック |page=33}}</ref>。
また、初めてラジオにてアニメで活躍する声優にスポットライトが当てられたのは[[1978年]]、[[NHKラジオ]]『ラジオSFコーナー』の[[特別番組|特番]]で、これは[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で{{要出典範囲|date=2013年5月|『[[未来少年コナン]]』が放映開始されたことによる宣伝として}}平日のある1週間、22:15 - 23:00に日替わり5人の声優が一人語りした。
こうして『宇宙戦艦ヤマト』をきっかけとする[[テレビアニメ|第二次アニメブーム]]が加速するのに合わせて、ラジオ番組でもアニメを取り扱う企画が見られるようになった中、[[1979年]]10月から始まった[[大阪放送|ラジオ大阪]]『[[アニメトピア]]』を皮切りに、[[文化放送]]『[[アニメNOW!]]』、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]『[[週刊ラジオアニメック]]』など、[[1980年代]]前半頃に[[三大都市圏|東名阪]]を中心にアニメなどの情報を総合的に扱う番組が編成される。しかしこれらは、『アニメトピア』がアニメから脱線した内容が好評となりブーム末期まで続いた他は短命に終わる。これらの番組を指す一般的な呼称も生まれなかった。
アニラジが安定して放送されるようになったのは第二次アニメブームが沈着した1980年代中頃。[[ローカル局|地方局]]を中心に[[ローカル番組]]でアニメを扱う番組が放送され、そこから現在のアニラジが確立していく。この時期に開始した代表的な番組として、東海ラジオの当時[[日経ラジオ社|ラジオたんぱ]]にて学生DJとして『[[ヤロメロジュニア出発進行!]]』で人気を博した[[小森まなみ]]と『週刊ラジオアニメック』にてレポーターを務めた[[ミンキー・ヤス]]による『[[mamiのRADIかるコミュニケーション]]』、[[南日本放送]]の[[采野吉洋]]アナウンサーによる『[[アニメでGo!Go!]]』、[[エフエム山口|FM山口]]の[[水谷寛]]アナウンサーによる『[[ウキウキ放送局]]』、[[ラジオ関西]]の[[岩崎和夫]]アナウンサーによる『[[アニメ玉手箱]]』など。これらはアニメを趣味とする声優ではない男性[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]](特に、主に地方局など編成に自由度がある局の[[アナウンサー]]が多い)が出演している、20年以上続く長寿番組になっていることが共通している。
この他、『アニメトピア』でDJデビューした[[冨永みーな]]が[[京都放送|KBS京都]]『[[はいぱぁナイト]]』月曜日や文化放送『[[日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲|走れ!歌謡曲]]』土曜日など一般向け深夜ワイド番組で人気を博したことも特筆される。
=== 1990年代 第三次声優ブーム ===
[[1990年代]]に入ると[[声優#第三次声優ブーム|第三次声優ブーム]]が始まり、[[林原めぐみ]]や[[國府田マリ子]]、[[椎名へきる]]ら[[声優#アイドル声優|アイドル声優]]を前面に押し出した番組が増える。これらは従来からアニラジを放送していた局に加え、[[椎名へきる]]による[[全国FM放送協議会|JFN系]]『[[G1 Grouper]]』をはじめとする一連の番組、多くの声優が起用された[[MBSラジオ]]『[[オレたちやってま〜す]]シリーズ』など、FM局といったこれまでアニラジに積極的でなかった局でも放送された。
また[[1991年]]には、文化放送が「[[文化放送A&Gゾーン|A&Gゾーン]]」の原点となった『[[ノン子とのび太のアニメスクランブル]]』を開始したのを皮切りにアニラジに再進出をかけ、テレビアニメからの続編『[[魔神英雄伝ワタル3]]』が、[[1993年]]には、ゲーム原作の『[[ツインビーPARADISE]]』が放送開始し、漫画やアニメーション、ゲームなどを原作としたメディアミックス展開の一つとして認知されはじめ、新ジャンルのラジオドラマ・ラジメーションが普及し始める。
このブームにより[[1995年]]に創刊された声優総合雑誌『[[声優グランプリ]]』の姉妹誌、『[[アニラジグランプリ]]』によってアニラジの呼称は定着したとされる<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://togetter.com/li/197875|title= おたっきぃ佐々木氏の語るアニラジ黎明期|work=|author=|publisher=Togetter|accessdate=2013-09-17}}</ref>。
=== 2000年代以降 地上波ラジオから他メディアへ ===
[[2000年代]]からは、BSデジタルラジオやインターネット上など他のメディアでアニラジ番組が放送もしくは配信されることが多くなる。
[[2000年]]から放送が開始された[[BSフジ]]の[[BSデジタル音声放送]]「[[BSQR489]]」では夜20時以降の放送枠全てをアニラジに充て、地上波とのサイマル生放送や局独自の生放送番組が放送された。「BSQR489」は[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BSデジタル放送]]がテレビ放送を中心に普及を図っていくことが決まった事から[[2006年]]に放送終了するが、この流れは[[デジタルラジオ推進協会]]により[[2003年]]から試験放送されていた[[UNIQue the RADIO]]内のアニラジ番組を独立させるといった形で[[超!A&G+]]が開設され、地上デジタルラジオ試験放送終了後も、インターネット上でストリーミング配信を継続している。
この超!A&G+やラジオ関西「[[アニたまどっとコム]]」の公式ページでの番組配信といったラジオ局(放送事業者)を配信元とするのネット配信に加え、『[[ツインビーPARADISE]]』など1990年代のアニラジ人気の中核を担う多くの番組を提供した[[コナミ]]が開設した日本最初のアニラジ専門局となる[[db-FM]]、レコード会社・[[ランティス]]による[[ランティスウェブラジオ]]や[[ブシロード]]による[[HiBiKi Radio Station]]、[[アニメイトTV]]といったアニメ系グッズショップによるもの、加えて元はフリーランスのディレクターである[[やまけん]]が設立した[[音泉]]など、多くのアニラジオンデマンド専門[[インターネットラジオ]]放送局が開かれた。
更に近年は、BSQR、BBQRから始まる、超A&G+による簡易動画配信や、従来はラジオ(放送事業者)で放送されることが多かった声優出演によるアニメ宣伝番組の[[ニコニコ生放送]]や[[アニメシアターX|AT-X]]などによる映像付き配信形態への移行、文化放送による[http://ondemand.joqr.co.jp/AG-ON/ AG-ON]や先述の『オレたちやってまーす』の流れを汲む『[[おしゃべりやってまーす]]』を配信する[[K'z Station]]などの有料コンテンツ、[[NTSC|地上アナログテレビ放送]]が停波した後の[[テレビ周波数チャンネル#移動受信用地上基幹放送|VHF-Hiバンド]]の空き領域を利用して行われる携帯電話([[スマートフォン]])向け放送([[マルチメディア放送]])である[[NOTTV]]([[2016年]]6月末にサービス終了)や同じくVHF-Lowバンドでの放送である[[i-dio]]([[2020年]]3月末にサービス終了)での放送など、新たな番組配信の形態が模索されている。
これに伴い[[2000年代]]には地上波ラジオ以外でのアニラジ番組数が増加を続けているのに対して、地上波での放送はネットコンテンツとしての配信に切り替わる、もしくは放送が打ち切られる形で減少傾向にあり、[[2009年]]の秋季[[改編]]にて『mamiのRADIかるコミュニケーション』などの終了、[[2011年]]4月には『ノン子とのび太のアニメスクランブル』が同月からインターネット配信専業となった超!A&G+での配信のみへの切り替え、[[2016年]]秋には『[[林原めぐみのTokyo Boogie Night]]』と『[[堀江由衣の天使のたまご]]』のネット局が大幅に縮小され、[[2019年]]春には『[[上坂すみれの♡(はーと)をつければかわいかろう]]』の文化放送以外のネット局での放送が打ち切られており、特に東京圏以外で放送される地方のアニラジ番組は減少の一途を辿っている。
一方、ネットラジオ自体の歴史が浅い中、ラジオ大阪で放送された番組『[[美佳子のぱよぱよ]]』を前身とする『[[美佳子@ぱよぱよ]]』が[[2001年]][[4月19日]]からインターネット配信を開始し、配信15周年を迎えるなど、インターネット配信アニラジの長寿番組も増えつつある。
また、[[スマートフォン]]や[[携帯端末]]の普及により、モバイル回線など無線アクセスと専用アプリを介してラジオをどこでも聴取出来る環境が構築されて行く([[radiko]]にも存在する)。
他の特殊な例として[[有線ラジオ放送|有線放送]]にアニラジ専門のチャンネルが存在し、業界最大手の[[USEN]]がアニメ・声優専門のC26「a-FANFAM」<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://music.usen.com/channel/c26/|title=a-FAN FAN/100%金月真美|work=|author=|publisher=[[USEN]]|accessdate=2013-09-17}}</ref>をはじめ、そこから分離した男性声優専門のC-59「BUSHI.ST」、24時間アニメソングをかけ続けるC-54「アニソン」などを配信している。上述のi-dioでも24時間アニメソング専門チャンネル「[[I-dio#アニソンHOLIC|アニソンHOLIC]]」が[[2017年]]11月からサービス終了の2020年3月末まで放送されていた。
2015年、音泉、HiBiKi Radio Station、文化放送、アニメイトTV(第2回よりラジオ大阪も加わる)がアニラジアワード実行委員会を結成し、アニラジを部門別に表彰する「[[アニラジアワード]]」が設立された。
== 番組形態 ==
これらは主に地上波による放送のものであり、放送番組以外にも、ネットラジオ進出により多く番組が配信できるようになったことに伴うジャンルの細分化や、映像配信によりテレビのバラエティ番組に近い放送番組になるなど多くの番組形態が生まれている。
* アニメ等に関する総合情報番組
** [[アニメ雑誌]]や[[レコード会社]]がスポンサーである『アニメトピア』『ピクチャーランドCLUB』など黎明期に見られた。
** 最近ではワイド番組に見られ、多くは週ごとに特集コーナーを設けられる。『[[A&G TRIBAL RADIO エジソン]]』『[[ミューコミVR]]』など。
* アニメやゲームなどとの[[メディアミックス]]による番組
** 1990年代以降に多く診られるアニメ、ゲームと[[タイアップ]]した情報番組、ラジオドラマを含む番組やキャラクターがDJを務める番組、近年はアニメ系ウェブコンテンツと連動した番組など。『[[もっと!ときめきメモリアル]]』『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜 初音島放送局]]他』『[[RADIOアニメロミックス]]』等多数。期間限定が基本。
** 『[[広井王子のマルチ天国]]』内で放送されたリスナー参加型ラジオドラマ『[[火星物語]]』、[[ニッポン放送]]が中心となって行った[[メディアミックス]]プロジェクトの『[[MAICO2010]]』、『[[トラブルチョコレート]]』などラジオドラマ発のメディアミックスも見られ、さらに近年は『[[神谷浩史・小野大輔のDearGirl〜Stories〜]]』などラジオドラマではない番組発のメディアミックスをする番組も増えている。
* アニメ・ゲーム・漫画・小説(おもにライトノベル)などを原作にした[[ラジオドラマ]]番組
** 黎明期から見られるが、特に90年代に多い声優のトークと抱き合わされているものを指す。『林原めぐみのTokyo Boogie Night』内で放送された『[[熱血電波倶楽部]]』など。
** 代表的なものでは『[[魔神英雄伝ワタル]]シリーズ』があり、[[日本テレビ系列]]のテレビアニメとして製作されたのは2作目までであり、3作目と4作目までは文化放送のラジオドラマであり、出演声優のトークとセットで放送された。5作目の『[[超魔神英雄伝ワタル]]』は[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]のテレビアニメとして製作されたが、同題番組の文化放送版はテレビアニメ版の放送終了直後に出演声優のトークのみを切り出す形で放送された。6作目は[[バンダイナムコピクチャーズ]]制作の[[Webアニメ]]として展開され、超!A&G+でも出演声優のトークが配信された。
** 現在、このスタイルの番組は減った一方、番組で新人声優や声優を志す学生を育てる企画として寸劇が演じられる機会が増えている。
* 声優・アニソンシンガーなどがパーソナリティを務める番組
** 『mamiのRADIかるコミュニケーション』『[[林原めぐみのHeartful Station]]』など。DJは1人であったり、2人以上、声優・アナウンサー・アニメ分野専門の司会者・構成作家がアシスタントに付くなど形態は様々である。近年は強力な[[スポンサー]]が付いている番組以外は地上波にて放送される機会が少なくなりがちで、ネットラジオにて放送される機会が増えた。
** 特に昨今のネットラジオへの進出で多く番組を放送出来るようになった現在は、声優の他に[[アニメソング|アニソン]]歌手や業界関係者による番組も放送される。『[[一生ポリケロ|ポリケロ]]シリーズ』『[[せいやん・YURIAの 美少女ゲームは嫌い]]』など。
* [[アニメソング]]や[[ゲームミュージック]]専門もしくはメインとする音楽番組
** 『アニメ玉手箱』→『[[青春ラジメニア]]』『[[A&Gリクエストアワー 阿澄佳奈のキミまち!]]』『[[今日は一日○○三昧]]』内『アニソン三昧シリーズ』とそのスピンオフに当たる『[[アニソン・アカデミー]]』などのように、基本的にリスナーからのリクエストを受け付けて曲をかける[[リクエスト番組]]形式が多く、『[[あにまにあ]]』や、かつて放送されていた『アニメでGo!Go!』など、地方局で放送される局アナウンサーによるアニラジもこの形式をとることが多い。
** その一方で『[[アニソンポッド]]』『Anime & Seiyu Music Night』『[[Till Dawn Music|ティルドーンアニメ]]』のようにリクエストを受け付けず一定のテーマなどに沿って曲をかける番組もある。一般の音楽番組でもアニメソング特集を組んで放送する場合があり、この場合もリクエストの可否で分かれる。
** 『[[SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン]]』→『[[A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン]]』→『[[A&Gメディアステーション FUN MORE TUNE]]』や『COUNTDOWN FRIDAY 飯田里穂のオールアニソンTOP20』のようにリクエスト数の集計やシングルチャートに基づいた[[カウントダウン番組]]の形式をとる場合も多い。
== 放送局 ==
[[東京]]・[[関西]]・[[東海]]の主要放送局は何らかの形でアニラジ番組を放送している。特に文化放送・ラジオ大阪・ラジオ関西・東海ラジオが長年アニラジに力を入れている[[放送局]]として挙げられ、東海ラジオを除く3局は各アニメ番組をブロック編成または[[ブランディング|ブランド化]]を行っている。ただし、[[番組表|ラテ欄]]ではゾーン名が出されることはない。
* 文化放送 - '''[[文化放送A&Gゾーン]]'''
* ラジオ大阪 - '''[[1314 V-STATION|1314(ワンスリーワンフォー) V-STATION]]'''
* ラジオ関西 - '''[[アニたまどっとコム]]'''
; その他の主要AM局の動向
* [[TBSラジオ]] - 「[[ファンタジーワールド]]」や「[[954 V-STATION]]」を設けるなど、かつて熱心だった時期もあったが、放送中の定期放送番組は『林原めぐみのTokyo Boogie Night』の1番組で、自社制作番組ではなく、[[キングレコード]]の単独制作による放送枠買い取り番組。自社制作は、TBSテレビ系深夜アニメとのメディアミックスの一環で制作される期間限定番組が単発的に放送される程度。
* [[ニッポン放送]] - かつては土曜夜に大型アニラジ番組を放送していた時期があるものの、2023年4月現在は純粋なアニラジ番組ではないが、「オタクアナウンサー」こと[[吉田尚記]]による『[[ミューコミVR]]』『吉田尚記のオタクガストロノミー』、『[[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃]]』関連番組の『鬼滅ラヂヲ』、月1回放送の『[[ラブライブ!シリーズのオールナイトニッポンGOLD]]』など限られた存在となっている。
* [[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]] - [[アール・エフ・ラジオ日本#「社会の木鐸」宣言|「社会の木鐸」宣言]]により全廃したという過去がある。「社会の木鐸」終焉後、『[[土曜の夜ですウハウハ大放送 アニメストリート]]』が放送されていた。
* [[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]] - 基本的にはネット受けが中心だが2023年現在ネットされている番組はない。自社制作は消極的で、近年では2018年4月期に放送の[[深夜ドラマ]]『[[声ガール!]]』と連動した『戸松遥のおとまつさまでした』に留まる。
* [[MBSラジオ]] - 過去に『[[オレたちやってまーす]]』シリーズなどを放送。
* [[CBCラジオ]] - 2023年4月現在は土曜深夜に自社制作で男性声優がメインの番組を中心に放送。
; 東名阪地区以外でアニラジを比較的多く放送しているAM局
* [[HBCラジオ]]
* [[STVラジオ]]
* [[東北放送|tbcラジオ]]
* [[ラジオ福島]] - 2016年春の改編で文化放送A&Gゾーン / 超!A&G+の番組を軸として、日曜21時から24時の時間に3時間編成している。
* [[栃木放送]]
* [[北陸放送|MROラジオ]]
* [[RSKラジオ]]
* [[KBCラジオ]]
: など。
; 全く放送していないAM局(2019年4月現在)
* [[青森放送|RABラジオ]]
* [[RKBラジオ]]
大都市圏での放送が活発になる一方で、それ以外の主要都市圏ではアニラジの放送本数が決して多いとは言えないのが現状である。地方の番組は主に[[KING AMUSEMENT CREATIVE|キングレコード]]提供、以前は[[綜合放送]]など外部制作会社番組の[[番組販売|番販]]によるもの、ナイターオフ向け番組(『[[ラジオアミューズメントパーク]]』・『[[A&G 超RADIO SHOW〜アニスパ!〜]]』)、[[アナウンサー]]等による30分の自社制作番組が主である。また近年は[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]制作の番組を遅れネットするケースもある(『[[i☆Ris 芹澤優のせりざわーるど with you]]』)。
こういった地方局での放送が少ない事情、番組の性質上、夜間、特に深夜などに番組が放送される場合が多く、[[中波放送|AM放送]]の電波特性上、夜間には放送エリア外での受信が可能なことから遠距離受信が一つの文化となっており、そういったリスナー向けのコーナー(『林原めぐみのHeartful Station』など)や、更にそういったリスナー向けのイベントの実施など、番組があらゆる意味で広がりをみせることが多かった。だが、インターネット、およびネットラジオが普及して以降は時に海外からの便りが来て話題に上るといったことはあるが、ネット環境さえあれば聴取が可能であることからそういった文化は廃れつつある。また、有料ながらも全国で各地のラジオ放送局(一部除く)を聴取できる[[radiko]]プレミアムサービスの開始とその普及に伴い、地域的な障壁は取り除かれている。
AM以外の地上波ラジオについて、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)では[[2000年]]12月頃からBSデジタル放送「[[ビー・エス・コミュニケーションズ|BSラジオNIKKEI]]」放送開始に伴い、「[[デジタルボイスステーション]]」(DVS)という名称を使用していたなどかつてはアニラジ放送に積極的であったが、現在は毎週水曜放送の『Anime & Seiyu Music Night』と、不定期で[[檜川彰人]]アナウンサーによる『アニソンポッド』が放送されているのみである。
FMではTOKYO FM、[[エフエムナックファイブ|NACK5]]、[[エフエム富士|FM FUJI]]などが放送しているほか、[[JAPAN FM LEAGUE]](JFL)では2022年現在、全ての加盟局でアニラジ番組が週1回以上放送されている。JFNでも先述の椎名へきるによる番組や『トラブルチョコレート』など放送していたがそれらも一時期は途切れ、のちに、アニラジ色はかなり弱いが『[[坂本真綾 from everywhere.]]』、『[[椎名へきる みたいラジオ]]』があったが全て終了。[[MegaNet]]および一部の独立FM放送局などでも単発的に放送されるに留まっている。[[ラジオ#ラジオ放送の種類|FM]]放送が音楽中心の番組構成であり、アニメなどを扱う番組には積極的になれなかったことが要因である。[[ベイエフエム|bayfm]]ではかねてから[[山寺宏一|山寺宏一(バズーカ山寺)]]や[[坂本真綾]]、[[森久保祥太郎]]、[[大原さやか]]がDJを務める番組が存在するが、こちらはアニラジとしてのカラーは持たされていない。その他、JFNの地方ローカル局で1、2番組オリジナルでアニラジ番組が製作している局がある。
一方、[[コミュニティ放送|コミュニティFM]]では、性質上プログラムがAMに近いトーク主体であったり、局の規模の都合コミュニティ局同士の番組ネットや有線放送の再送信が多いなどから、『[[アニメ関門文化学園]]』([[コミュニティエフエム下関|COME ON! FM]]制作)といったコミュニティFM局制作有線経由のコミュニティFMネット番組や局独自のアニソンを中心としたプログラムが放送されている。
[[収録]]はアニメ業界が[[東京一極集中]]であるため、東京都区内あるいは近郊のスタジオであることが多く、地方局の現地にて制作される番組は局の[[アナウンサー]]による番組、公開録音時などに限られる。
== インターネット配信 ==
先述の通り、インターネットラジオとして配信されている番組も急激に増え、[[スポンサー]]の一部はインターネット配信に軸足を移し始めている。
制作側にとっては、放送枠買取の多額の資金を提供できるスポンサーの獲得や聴取に有利な放送時間枠の獲得にとらわれず、番組制作費と[[サーバ]]管理費だけと比較的低コストで番組配信が出来て、聴取者からの課金による有料配信で番組制作費の捻出をすることも可能である。全世界に向けて、決められた放送の「尺」にとらわれない融通の利く収録・配信が出来て、厳密な数の聴取者数が分かるほか、使用[[オペレーティングシステム|OS]]・[[IPアドレス]]・接続時間帯などから推定できる情報により聴取層を把握、[[マーケティングリサーチ]]することで番組制作に生かせることなどのメリットがある。また、音声に加えて映像も同じ枠組みで配信可能なため、地上波アナログラジオでは不可能な映像や静止画を付加して配信している例も少なくない。聴取者にとっても電波状況に左右されないクリアな音質で聴取出来るメリットもある。
オンデマンド方式の場合、聴取者にとっては、決められた放送時間にとらわれず、居住地に関係なく、自分の都合で番組が聴取出来る。[[ポッドキャスティング]]などでは音声データの[[携帯音楽プレイヤー]]への取り込みなどが地上波ラジオ番組を録音した場合に比べて容易になる。
インターネットラジオの聴取には[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・一部の[[携帯電話]]及びネット環境が必要であり、地上波ラジオ番組に比べて、元からファンではないリスナー向けの宣伝効果では劣る。また、アクセスが集中した場合はサーバーや回線が混雑して聴取が困難となる。サイトによっては人気番組の更新後の混雑が慢性化しているところもある。
インターネットラジオ専用で制作されている番組が多いが、最近は番組によっては地上波ラジオ局で放送された番組をインターネット上でも配信している。その場合は、インターネットラジオでは時間の制約が緩いため、地上波でカットされた部分を追加出来る一方で、番組のスポンサーでは無い[[コマーシャルメッセージ|CM]]や[[著作権]]の都合上一部楽曲はカットされることがある。生放送番組の場合は、[[ストリーミング配信]]が可能なサイトとの同時配信(上記のとおり、収録現場の映像を一緒に流している場合もある)もある。また過去にはそれとは逆に1314 V-STATIONではネット配信した後、地上波放送すると言う番組も存在した。同じ媒体宣伝で、パーソナリティを変えて、地上波ラジオ局向けの番組とインターネットラジオ番組を別に制作する場合もある(『[[THE IDOLM@STER]]』の宣伝番組など)。
一方、従来のラジオ放送での主な収入であったスポンサー収入が得にくい面もあるため、番組の内容をデータ化し新録の番組と共にCD化して販売したり、スピンアウト企画のソフト類を発売したり、番組イベントの入場料およびグッズ販売を大きな収益源とする番組(制作会社)も多い。
; 主な配信サイト
: これらのサイトで配信されている番組に関しては各項目を参照。一部地上波番組を並行もしくは遅れて配信するサイトもある。
:{| class="wikitable"
|[[超!A&G+]]||[[Anium Radio Station]]||[[アニメイトタイムズ]]||[[HiBiKi Radio Station]]||[[音泉]]||[[ニコニコ動画]]
|}
; 過去の主なサイト
:{| class="wikitable"
|[[db-FM]](2007年9月にて終了)
|-
|[[AZステーション]](2008年6月配信終了)
|-
|[[Showgate RADIO]](2008年9月配信終了)
|-
|[[アニスタTV]](2009年3月配信終了)
|-
|[[スタチャインターネットラジオ]]
|-
|[[ランティスウェブラジオ]](2018年3月本配信終了、同4月アーカイブ配信終了)
|-
|[[BEAT☆Net Radio!]]
|-
|[[メディファクラジオ]]
|-
|[[超!放送局]]
|-
|[[キャララジオ]]
|-
|[[キャラアニ]]
|}
; 携帯電話専用サイト
: 電話音声による配信に加えて、ガラケーの普及と共に専用サイトを設置しての配信も多く行われたが、[[スマートフォン]]への移行によりほとんど消滅した。
== 主な番組 ==
* いずれの情報も2023年5月時点。
* 他局へのネット番組も含む(●印の番組。ただし、[[動画配信サービス]]([[YouTube]]、[[ニコニコ動画]]など)へのみ行っている番組は省略)。
* 一般的にアニラジ、アニメでも活躍する声優がDJを務める番組についても記す。
=== 現在 ===
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">[[キー局|基幹局]]</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
{| class="wikitable"
|[[TBSラジオ]]||●[[林原めぐみのTokyo Boogie Night]]
|-
|[[文化放送]]||''[[文化放送A&Gゾーン#番組一覧]]''を参照。
|-
|[[ニッポン放送]]('''制作局''')<br />[[北日本放送]]<br />[[山口放送]]||[[ミューコミVR]]
|-
|ニッポン放送||[[ラブライブ!シリーズのオールナイトニッポンGOLD]]<br />●おしえてメディアミックス!<br />●[[吉田尚記]]のオタクガストロノミー<br />●[[BanG Dream!]] presents Dreamer's Tunes<br />●ANIMEコンシェルジュ<br />●中川翔子 アニメサークル
|-
|[[エフエム東京|TOKYO FM]]('''制作局''')<br />[[エフエム愛媛|FM愛媛]]||●[[水樹奈々のMの世界]]
|-
|TOKYO FM||●[[鈴木敏夫のジブリ汗まみれ]]<br />[[羽多野渉]]と[[古賀葵]] コエ×コエ<br />ANISON EXPO supported by [[バンダイナムコグループ|Bandai Namco]] Music Live<br />What a Wonderful Radio!!
|-
|[[InterFM897|interfm]]||[[ぱんぱかカフぃR]]
|-
|[[大阪放送|ラジオ大阪]]||''[[1314 V-STATION#現在放送中の番組]]''を参照。
|-
|[[エフエム大阪|FM大阪]]('''制作局''')<br/>interfm{{Efn|FM大阪とinterfmの同時ネット。}}||マリーのヲたく
|-
|FM大阪||[[おふらじ!|おふらじ!EX]]
|-
|[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]||''[[東海ラジオ放送のアニメ・声優系の番組#放送中の番組]]''を参照。
|-
|[[CBCラジオ]]||[[白井悠介・寺島惇太 BOYS BAR [S]]]<br />[[中島ヨシキのフブラジ]]<br />[[梅原裕一郎 Saturday Machiavellism night]]
|-
|[[ZIP-FM]]||[[aniBuzz]]
|-
|[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]]||[[キャンパス寄席]](不定期放送)<br />[[アニメ・ステラー]]<br />[[梶裕貴のラジオ劇場]]
|-
|[[NHK-FM放送|NHK-FM]]||[[アニソン・アカデミー]]<br />ぶいあーる!〜VTuberの音楽Radio〜
|-
|[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]||[[アニソンポッド]](不定期放送)<br />アニ☆ジュエル<br />Anime & Seiyu Music Night
|}
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">[[ローカル局|地方局]]</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
{| class="wikitable"
|[[HBCラジオ]]||[[アニメロティック|アニメロティック 第2期]]
|-
|[[エフエム北海道|AIR-G']]||[[KOTOKOノコト]]<br />[[鈴木愛奈のring A radio]]<br />[[風越星名 V*V avenue]]
|-
|[[FM NORTH WAVE|NORTH WAVE]]||[[Anison-R 〜マンガ・アニメ研究部〜]]
|-
|[[IBC岩手放送|IBCラジオ]]||ラジオで、キミと大好きなアニメやまんがについて語ってみた。
|-
|[[山形放送|YBCラジオ]]||[[Re:にじぽり]]
|-
|[[東北放送|tbcラジオ]]<br />[[岐阜放送|ぎふチャン]]<br />東海ラジオ||●[[高橋直純Trouble Maker|高橋直純のトラ×ブルメーカー]]
|-
|[[エフエム山形|Rhythm Station]]||アニゲとーく
|-
|[[エフエム仙台|Date fm]]||GARDEN
|-
|[[栃木放送]]||[[チャラのOH!マイ・アニメ]]<br />●[[祥子のチョット・CHAT・CHAT]]
|-
|[[茨城放送|LuckyFM 茨城放送]]<br />山口放送||[[佐咲紗花]]の花咲キラジオ
|-
|LuckyFM 茨城放送||[[今夜はLucky Night|今夜はLucky Night〜りほなアニソンフライデー〜]]
|-
|[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]('''制作局''')<br />ぎふチャン<br />||[[i☆Ris 芹澤優のせりざわーるど with you]]
|-
|ラジオ日本||[[えのぐ]]白藤環の推してまいる!
|-
|[[エフエムナックファイブ|NACK5]]||Voice Actors RADIO R-5・81<br />[[THE WORKS (ラジオ番組)|THE WORKS]]<br />[[斉藤朱夏 しゅかラジ!]]<br />[[FANTASY RADIO]]
|-
|[[ベイエフエム|bayfm]]||●[[ビタミンM (ラジオ番組)|ビタミンM]]<br />[[NACHERRY]]のChat Time〜フタつぶ〜<br />[[降幡愛]]のBecause of you<br />[[SCREEN mode]] 勇-YOU-の“YOUmode”<br />Good Things<br />CrosSing You
|-
|[[横浜エフエム放送|FMヨコハマ]]||●D4DJフローラルトゥナイト<br/>[[ヰ世界情緒|ヰ世界]]らじおプラネット
|-
|[[エフエム富士|FM FUJI]]||[[ARCANA PROJECTの〜今からラジオで起きる奇跡〜]]<br />[[halca]]の「キミの隣」
|-
|[[信越放送|SBCラジオ]]||●[[徳井青空]]のPLUMディープランド
|-
|[[北陸放送|MROラジオ]]('''制作局''')<br />SBCラジオ<br />[[山梨放送|YBSラジオ]]<br />[[福井放送|FBCラジオ]]<br />[[新潟放送|BSNラジオ]]<br />[[北日本放送|KNBラジオ]]<br />[[四国放送]]<br />[[山陰放送|BSSラジオ]]<br />[[琉球放送|RBCiラジオ]]||[[あにまにあ]]
|-
|[[富山エフエム放送|FMとやま]]||●[[あにめdawn|あにめdawn!!!!]]{{Efn|AuDeeにてオフトークが配信されている。}}
|-
|[[静岡放送|SBSラジオ]]||[[TOROアニメーション総研]]
|-
|[[静岡エフエム放送|K-mix]]||D4DJ Music Box{{Efn|月曜に再放送、水曜は、本放送として放送している。}}<br />from [[Argonavis]] アルゴナビスラジオクルーズ supported by [[ヴァイスシュヴァルツ]]ブラウ
|-
|[[京都放送|KBS京都]]||●[[福山潤]] キョウトニイケズ
|-
|[[ラジオ関西]]||''[[アニたまどっとコム#放送番組一覧]]''を参照。
|-
|[[和歌山放送|wbs和歌山放送]]||[[痛快! アニメジオ]]
|-
|[[中国放送|RCCラジオ]]<br />[[栃木放送]]||●[[山口勝平]]のモンキーラジオ!
|-
|四国放送<br />[[西日本放送ラジオ|RNCラジオ]]||[[小玉晋平]]のきかなきゃソンソン、アニソン尊!!
|-
|[[四国放送]]||ヒノマルSUNSUNラジオ
|-
|RNCラジオ||ヲタラジ
|-
|[[高知放送]]||[[纐纈琴巴]]のサブホリ!
|-
|[[大分放送|OBSラジオ]]||[[アニマジン]]
|-
|[[熊本放送|RKKラジオ]]||熊本カルチャー・ポータル<br />[[Radioマンガ研究室]]
|-
|[[南海放送]]||[[たけやま3.5]] [[武田雛歩]]の嶺上開花!<br />[[井上音生]]のNEOラジ<br />●沼ぴぃ&[[青木美奈実|みなみ]]のアニメでハッピー
|-
|[[エフエム福岡|FM福岡]]||あにぺろ
|-
|[[CROSS FM]]||アニチュン
|-
|[[宮崎放送]]||〜2次元は酸素です〜 おしかつ
|-
|[[エフエム鹿児島|μFM]]||キラカヨ Saturday
|-
|[[ラジオ沖縄]]||タマアゲ。<br />アニメ魂のラジオ アニ魂
|-
|RBCiラジオ||2次元SWAMP
|-
|[[エフエム沖縄|FM沖縄]]||オキアニ!
|-
|[[ジャパンエフエムネットワーク (企業)|JFNC]]||●島津真太郎の週末ゲームCAMP<br />[[飯田里穂]]の推し活推進部!!{{Efn|ネット局はTOKYO FMのみ。}}
|}
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">[[コミュニティ放送|コミュニティFM]]</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
◇印はネットアーカイブ配信あり。
{| class="wikitable"
!都道府県!!制作局!!番組名
|-
|広島||[[FM東広島]]||アニソンスクエアガーデン
|-
|神奈川||[[海老名エフエム放送|FMカオン]]||◇アニっくま〜アニソン満載の120分!〜
|-
|||MUSIC BIRD加盟局||吉祥寺アンリミテッド<br />(全国放送Ver.)
|-
|岐阜||[[エフエムたじみ|FMPiPi]]||乙女部〜2nd season〜
|-
|沖縄||[[FMコザ|FMゴザ]]||◇サブカルってなんなの??
|-
|埼玉||[[CityFMさいたま|REDS WAVE]]||[[アニDX]]
|-
|||MUSIC BIRD加盟局||アニメ関門文化学園<br />(全国放送Ver.)
|-
|神奈川||[[かわさき市民放送|かわさきFM]]||アニメラジオ
|-
|京都||[[FMおとくに]]||アニトーーーク 〜アニソン今昔物語〜
|-
|神奈川||[[星槎湘南大磯キャンパス|湘南マジックウェイブ]]||私たちのエンタメ会合
|-
|北海道||[[エフエムなかそらち|FM G'Sky]]||アニラジ☆ルーレット
|-
|茨城||[[つくばコミュニティ放送|ラヂオつくば]]||Anime Music Station
|-
|北海道||[[とまこまいコミュニティ放送|FMとまこまい]]||アニソン部
|-
|埼玉||[[CityFMさいたま|REDS WAVE]]||アニドラファンタジー
|-
|千葉||[[アクティブレイン|SKYWAVE FM]]||IT正常運用 促進課
|-
|神奈川||[[横浜マリンエフエム|マリンFM]]||LOVETRADIO
|-
|山形||[[酒田エフエム放送|ハーバーRADIO]]||◇YeSU!ゲーム学園
|-
|東京||[[FMひがしくるめ|TOKYO854くるめラ]]||熱血!アニソン道場
|-
|静岡||[[富士コミュニティエフエム放送|Radio-f]]||2D♥
|-
|神奈川||[[星槎湘南大磯キャンパス|湘南マジックウェイブ]]||スーパーマニアオデッセイ
|-
|埼玉||[[エフエムこしがや|こしがやFM]]||はるかひとみのふるこねくとちゃんねる!
|-
|秋田||[[鹿角コミュニティFM|鹿角きりたんぽFM]]||アニソン店長
|-
|神奈川||[[鎌倉エフエム放送|鎌倉FM]]||カマアニNEXT
|-
|大阪||FMひめ||◇あにラジNEO
|-
|兵庫||[[さくらFM]]||◇さくらSOS隊〜声優★防災★バラエティー
|-
|||MUSIC BIRD加盟局||しゃべんジャーズ<br />(全国放送Ver.)
|-
|愛媛||[[宇和島ケーブルテレビ|FMがいや]]||ヒーロースター☆RADIO α
|-
|三重||[[CTY-FM]]||リョータと[ ひ ]〜ちゃんでアニラジつくろーぜ!
|-
|福島||[[すかがわFM|ウルトラFM]]||ゲーム・BGM夜話(本放送)
|-
|rowspan="2"|東京||[[エフエムむさしの|むさしのFM]]||[[しゃべんジャーズ]](本放送)
|-
|[[八王子エフエム|Tokyo Star Radio]]||ラジオドラマ!声優登竜門
|-
|広島||[[中国コミュニケーションネットワーク|FMちゅーピー]]||◇にかもとりかの【おれんじ☆かのん】
|-
|岩手||[[カシオペア市民情報ネットワーク|カシオペアFM]]||◇Anime-SSS
|-
|北海道||[[エフエムとよひら|FMアップル]]||◇とびだせ!こえたま!
|-
|愛知||[[知多メディアスネットワーク|メディアスFM]]||◇知多娘。ステーション
|-
|茨城||たかはぎFM||サブカルギャング
|-
|山口||[[コミュニティエフエム下関|COME ON! FM]]||[[アニメ関門文化学園]](本放送)
|-
|鳥取||[[DARAZコミュニティ放送|DARAZ FM]]||こーちけのアニダラ!
|-
|東京||[[調布エフエム放送|調布FM]]||ぶいらじ!!
|-
|埼玉||[[エフエムこしがや|こしがやFM]]||あにそん♪
|-
|福岡||[[北九州シティエフエム|FM KITAQ]]||◇サブカル☆キタQ
|-
|愛知||[[知多メディアスネットワーク|メディアスFM]]||[[ANIMAN]]
|-
|岐阜||[[エフエムたじみ|FM PiPi]]||乙女部 2nd season
|-
|三重||[[CTY-FM]]||リョータと[ひ]〜ちゃんでアニラジつくろーぜ!
|-
|兵庫||[[エフエム宝塚|FM宝塚]]||◇治虫くらぶ
|-
|rowspan="2"|京都||[[FMおとくに]]||アニソンとおくに
|-
|[[エフエム宇治放送|FMうじ]]||Saturday アニメShower
|-
|鹿児島||[[FMさつませんだい]]||タイムトラベルNG 〜NEW GENERATION〜
|-
|rowspan="4"|沖縄||[[FMとよみ]]||オタクは毎日ざんねん会
|-
|[[エフエムみやこ|FMみやこ]]||Anipec
|-
|[[エフエム那覇|FM NAHA]]||NICE NA OTAKU
|-
|[[FMぎのわん]]||eスポーツ沖縄presens やっしーの共同売店
|-
|群馬||[[沼田エフエム放送|FM OZE]]||J-POPセレクション あにそんSide
|-
|||MUSIC BIRD加盟局||ゲーム・BGM夜話<br />(全国放送Ver.)
|-
|静岡||[[エフエムみしま・かんなみ|VOICE CUE]]||Voice cue Animation Mix
|-
|東京||[[八王子エフエム|Tokyo Star Radio]]||声優たちによるクロストーク番組『りぶ★ラジ』
|-
|奈良||[[奈良シティエフエムコミュニケーションズ|ならどっとFM]]||コスプレイヤーが寺社・仏閣の歴史などについて語ってみた件
|-
|神奈川||[[FM小田原|FMおだわら]]||もとラジ!
|-
|北海道||[[BIPSC|FMドラマシティ]]||◇ジャンプ系女子を育てたい!
|-
|宮城||[[エフエムたいはく|FMたいはく]]||◇Vちゅーにんぐ!
|-
|東京||[[葛飾エフエム放送|かつしかFM]]||声優のたまごさんひよこさんこの指とまれ
|-
|北海道||[[コミュニティエフエムはまなす|FMはまなす]]||a-FAN FAN
|}
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">関連番組</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
厳密にはアニラジではないが、多少なりとも関連性のある番組。
{| class="wikitable"
|bayfm||[[A-LABO INDEX]]
|-
|[[FM802]]||[[802 Palette]]
|-
|[[STVラジオ]]||[[藤井孝太郎のログイン!よる☆PA]]
|-
|KRYラジオ||[[なりカル!]]
|-
|μFM||[[オプシアミスミ|OPSIA misumi]] presents キラカヨ Saturday!{{Efn|本来はバラエティ番組だが、パーソナリティの池田佳代の意向で、アニメ関係の話題を主に扱い、掛かる楽曲もアニメソングに固定されている。radikoにおける番組ジャンルも[アニラジ]に分類されている。アニメ以外の話題はオプシアミスミの広報コーナーのみ。}}
|}
</div></div>
=== 終了 ===
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">'''基幹局'''</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
{| class="wikitable"
|TBSラジオ||●アニメシティ<br />●[[ファンタジーワールド]]<br />[[センチメンタルナイト]]{{Efn|当初は『ファンタジーワールド』内の番組であり、『ファンタジーワールド』終了後は独立の番組として放送。}}<br />[[帰ってきたセンチメンタルナイト]]<br />[[Onlyセンチメンタルナイト2]]<br />●[[池澤春菜のみんなで、た〜る♥ 〜ラジオ・マリーのアトリエ〜]]<br />[[超時空要塞マクロス#ラジオ|ラジオマクロス みんなデ・カルチャー]]<br />[[魔術士オーフェン (ラジオ)|魔術士オーフェン]]<br />[[ラジオ・アニメどんぶり]]<br />[[坂本真綾 地図と手紙と恋のうた]]<br />ゲーム・ウォーカー・ネット<br />●[[ハライチ岩井勇気のアニニャン!]]<br />[[ブシロードpresents 相羽あいなの大こ〜かいRaDiO|相羽あいなの大こ〜かいRaDiO]]
|-
|文化放送||''[[文化放送A&Gゾーン#放送終了した主な番組]]''を参照。
|-
|ニッポン放送||●[[週刊ラジオアニメック|ラジオアニメック・決定!アニメ最前線]]<br />●[[犬山犬子のポケモンアワー]]<br />●[[OHA-OHA NIGHT]]<br />●[[岩男潤子と荘口彰久のスーパーアニメガヒットTOP10]]<br />[[東京キャラクターショーRADIO]]→[[有楽町アニメタウン]]<br />[[YAGアニメラボ]]<br />●アニメトライアルシアター<br />●[[サクラ大戦シリーズ#ラジオ|サクラ大戦・有楽町帝劇通信局]]<br />サクラ大戦お台場放送局<br />●[[吉田尚記がアニメで企んでる]]<br />新発見!アニめぐ<br />●[[スフィアのオールナイトニッポンR]]<br />●[[ミュ〜コミ+]]<br />●[[すとぷり]]のStop Listen!<br />●[[Netflix|ネトフリ]]アニメ presents 吉田尚記のFUKABOLIX
●[[鬼滅の刃 (アニメ)#ラジオ|鬼滅ラヂヲ]]<br />
|-
|TOKYO FM<br />FM大阪||[[高槻かなこのROYAL Night]]
|-
|TOKYO FM||SOUND OF LIFE<br />[[茅原実里 SANCTUARY]]<br />[[椎名へきる みたいラジオ]]<br />[[Delightful Days]]<br />Lantis EXPO<br />[[D4DJ]] presents アニソン・ブレイク!!!!
|-
|[[MBSラジオ]]||●[[交響詩篇エウレカセブン#ラジオ放送|エウレカセブン RADIO ray=out]]<br />[[なすなかにし ド深夜 生アニソン!]](不定期放送)<br />これがそうなのね仔猫ちゃん<br />謎なぞドリーミン<br />バナナ放送局ヤンラジグランプリ<br />グーチョキパーアニゲでポン<br />[[森久保祥太郎]]と[[福井裕佳梨]]のトテカンラジオ<br />[[ミッチの独言倶楽部]]<br />[[オレたちやってま〜す]]{{Efn|地上波放送終了後はインターネットラジオ『おしゃべりやってまーす』に移行。}}<br />[[Till Dawn Music]]{{Efn|水曜日は「ティルドーンアニメ」として、各種アニメソングを特集していた。}}
|-
|[[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]]||[[ピートム.Comic Jack]]<br />●[[夏子と千和のツンピリラヂヲ]]<br />[[吉田仁美のプリキュアラジオ キュアキュア♡プリティ]]<br />[[声ガール!|戸松遥のおとまつさまでした]]
|-
|ラジオ大阪||''[[1314 V-STATION#終了した番組]]''を参照。<br />●[[アニメトピア]]<br />●[[池澤春菜のぱちモンOSAKA]]<br />●[[増田俊樹]]・[[村上喜紀]]のオーシャンスピリット<br />ほか
|-
|FM大阪<br />FM福岡||●[[GRANRODEO]] RADIO ROCK☆SHOW
|-
|FM大阪||CLUB ANIMIRAGE<br />●[[カドカワ・サウンドシネマ]]<br />[[FMサウンドシネマ]]
|-
|東海ラジオ||''[[東海ラジオ放送のアニメ・声優系の番組#過去の番組]]''を参照。
|-
|CBCラジオ||[[アニメステーション]]<br />[[神谷明]] TALK!×3<br />神谷明・[[日髙のり子]] TALK!×3<br />[[河西健吾 天﨑滉平 天河一品]]<br />[[亜咲花]] Animetick Night
|-
|[[エフエム愛知|FM AICHI]]||[[神田朱未のわたしのすきなこと。]]
|-
|ZIP-FM||[[SCK (ラジオ番組)|SCK]]
|-
|[[Radio NEO]]||[[おたふねお。]]
|-
|NHKラジオ第1||[[渋谷アニメランド]]<br />[[今日は一日○○三昧|今日は一日アニソン三昧]]<br />[[パワーボイスA]]
|-
|NHK-FM||[[ゆうがたパラダイス]] [[三森すずこ]]のアニソンパラダイス
|-
|ラジオNIKKEI第1||ヘルシーメルシー☆<br />[[こだわりセットリスト|アニソンアトランダム]]
|-
|i-dio TS ONE||COUNTDOWN FRIDAY [[飯田里穂]]のオールアニソンTOP20
|}
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">地方局</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
{| class="wikitable"
|HBCラジオ||[[島みやえい子]] 気分はバニラ<br />[[ゆかりの今夜もゲームオーバー?]]<br />[[アニメロティック#アニメロティックNEO*|アニメロティックNEO*]]
|-
|STVラジオ||[[いがらしゆみこ]]のマンガDEナイト<br />[[島本和彦のマンガチックにいこう!]]<br />[[川田まみのアタックヤング]]<br />[[なまらぶ♡]]
|-
|AIR-G'||GRANRODEO RADIO ROCK SHOW<br />[[EIR⇔LINE]]<br />[[綾野ましろ]]のマシマシ!<br />[[fhána|ふぁな]]らじ〜拝啓、今回は北の国からラジオをするわけで〜<br />[[和島あみ]]のEZO DRIVE<br />[[ANI-ON!]]<br />[[SCREEN modeのStars Radio]]<br />[[綾野ましろ]]のSWEET GANG Hz<br />[[波よ聞いてくれ]] 〜Wave,Listen to me!〜
|-
|NORTH WAVE||[[フランチェスカ (ハートビット)#フランチェスカナイト|フランチェスカナイト]]
|-
|[[秋田放送|ABSラジオ]]||まにあっく倶楽部A's
|-
|YBCラジオ||[[オタク捜索 2次元ポリス]]
|-
|tbcラジオ<br />YBCラジオ||●[[小森まなみのPop'n!パジャマ]]
|-
|[[エフエム栃木|RADIO BERRY]]||[[BERRY ANISON TIMES!]]
|-
|ラジオ日本<br />ラジオ関西<br />ほか||[[林原めぐみのHeartful Station]]
|-
|ラジオ日本||[[美佳子の非難GO!GO!]]<br />ペアペア[[アニメージュ]]<br />パケdioアニラジチャンネル<br />G.L.S.歌姫たちのトライアングルスクランブル<br />●[[の〜みそこねこねラジオコンパイル]]<br />●[[瞳と光央の爆発ラジオ]]<br />●[[勇者指令ダグオン]]<br />●[[ウハウハ大放送 アニメストリート]]
|-
|NACK5||[[VIRTUAL ADVENTURE]] EAST<br />●[[高橋直純Trouble Maker]]<br />●[[VOICE CREW]]<br />[[Sphere 4 spring]]<br />[[Afterglow]]の夕焼けSTUDIO
|-
|bayfm||[[アニメ特撮グランプリ]]<br />[[バズザックファクトリー]]<br />bayfm Starting STYLE!!〜Countdown to Lantis matsuri〜<br />ホントのハナシ<br />[[Kalafina]]倶楽部<br />[[からかい上手の高木さん (アニメ)#ラジオ|からかい上手の高木さん 深夜のニヤキュンラジオ]]<br />bayb×3
|-
|FMヨコハマ||[[NIGHT ON THE PLANET]]<br />●サイバーミュージックファクトリー<br />●週刊FMアニメストリート
|-
|FM FUJI||●[[祥太郎・麻衣 CURE HOUSE]]<br />Voice T LAND<br />●[[へきる、淳司 NATURE]]<br />●Say!アニ電波局<br />[[茅原実里のミスサンシャイン]]<br />[[鹿乃]]のばんび〜のラジオ
|-
|[[新潟県民エフエム放送|FM PORT]]||[[α-LIFE]]<br />[[石田耀子]]あなたと星空の下で<br />[[純情のアフィリア]]おたく部
|-
|MROラジオ||●ツネだのアニソンリクエスト
|-
|SBSラジオ<br />ぎふチャン<br />([[バーディ企画]]制作)||[[Little Non]]のアキバラ!!
|-
|KBS京都||[[小森まなみ]]のミッドナイトパラダイス<br />[[B-univ]]・バーチャファクトリー<br />[[根谷美智子・愛のフューチャーランド]]<br />[[菅原祥子のももんがTIME]]→菅原祥子のももんがTIME”(ツーダッシュ)<br />[[岩男潤子のハッピーフライト]]<br />[[CLAMP]]の京都上ル下ル
|-
|ラジオ関西||''[[アニたまどっとコム#終了番組]]''を参照。<br />【参考】[[アニメ玉手箱]] ※『[[青春ラジメニア]]』の前身。<br />[[スターチャイルド]]ステーション
|-
|[[兵庫エフエム放送|Kiss FM KOBE]]||SAY YOU Channel Kiss Of Voice
|-
|[[エフエム山口]]||[[ウキウキ放送局]]シリーズ
|-
|[[高知放送|RKCラジオ]]||[[アニメ探偵団3]]
|-
|[[長崎放送|NBCラジオ]]||[[きかせられないラジオ]]
|-
|OBSラジオ||[[アニメマインド]]<br />ヲたラジ
|-
|RKKラジオ||[[アニソン50年史]]
|-
|[[宮崎放送|MRTラジオ]]||[[アニメランド]]{{Efn|地方局の独自制作アニラジとしては異例の長寿番組であった。}}<br />はぴあにっ{{Efn|放送終了後も番組のコンセプトの「リスナーは、はぴあに村の住人である事は変わらない」として、番組公式Twitterは非公開アカウントとして残存している。}}
|-
|[[南日本放送]]||[[アニメでGo!Go!]]
|-
|[[エフエム宮崎|JOY FM]]||アニメイトファンファン
|-
|ラジオ沖縄||私立アニマン学園 アニマンガー<br />今夜もAG↑AG!
|-
|JFNC||週刊アニメグランプリ<br />椎名へきるのFACE TWO FACE<br />[[椎名へきる PRECIOUS GARDEN]]<br />[[坂本真綾 from everywhere.]]<br />[[TOKYO No.1 カワイイラジオ]]<br />[[wktkの枠]]<br />[[声優NOTE]]
|-
|[[綜合放送]]<br />(地方局向け[[番組販売|番販番組]])||●[[水谷優子のアニメ探偵団II]]
|}
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">関連番組</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
厳密にはアニラジではないが、多少なりとも関連性のある番組。
{| class="wikitable"
|TBSラジオ||[[パックインミュージック]]([[野沢那智]]と[[白石冬美]]の金曜ほか)<br />[[〜ちょいモテおやじ養成番組〜ものほん]]<br />[[四番 なかやま]]<br />[[野沢雅子がよむこどもの詩 きのう・きょう・ずーっとあした]]
|-
|ニッポン放送||[[ミュ〜コミ]]<br />[[銀河に吠えろ!宇宙GメンTAKUYA]]<br />[[宇宙GメンEX]]
|-
|TOKYO FM||●[[ONE MORNING]](2021年3月までの間、[[鈴村健一]]がメインパーソナリティを務めた。鈴村が降板した2021年4月以降も番組は継続)
|-
|CBCラジオ||[[ハローこちらミッチ放送局]]<br />[[ナガオカ×スクランブル]](声優・アニソン歌手のゲスト出演や内包番組が行われた)<br />[[0時のつぶやき|0時のつぶやき第2部「古川愛李の水曜はアイリの晩」]]<br />[[古川愛李の木曜はアイリの晩]]
|-
|STVラジオ||[[藤井孝太郎のアタックヤング]]
|-
|HBCラジオ||サブカルキック
|-
|AIR-G'||[[AV Music Channel]](前半の「A-Channel」でアニメソングを取り扱った)<br />[[Dig link〜ディグリンク〜]]
|-
|{{Nowrap|NORTH WAVE}}||[[V/R_relation]]
|-
|[[青森放送|RABラジオ]]|||[[kira-kira☆]]ふたりでDASH(アニメをテーマにした企画「アニファン」を放送)
|-
|ABSラジオ||まにあっく倶楽部
|-
|ラジオ日本||[[松本梨香のヨコハマウィークエンド・スタイル!]]
|-
|bayfm||[[マジアサ!]]<br />[[JAM PUNCH!]]
|-
|FBCラジオ||夜のマンガハウス
|-
|KBS京都||[[M3もりもりマニア|M3〜森谷威夫のモリモリマニア]](声優がゲストに来ることが稀にあった)<br />[[はいぱぁナイト]]月曜・金曜(末期には金曜枠は廃止)
|-
|[[RSKラジオ]]||[[伊東歌詞太郎]]の僕だけのロックスター☆ラジオ
|-
|[[広島エフエム放送|広島FM]]||[[アニリク☆]]
|-
|南日本放送||[[ZIKU]]の[[Music Express]](22時台の内容はほぼアニソンで、『アニメでGo!Go!』の復活版(内容は一つのアニメ作品のアニソンを連続で流すだけだった)もあった)<br />[[土曜はおまかせ「うねうねWEEKEND」]](コーナーのうち、「お父さんのアニメソング」が該当する。『アニメでGo!Go!』から派生したもの)
|-
|NHKラジオ第1|||[[らじらー!|らじらー! サンデー]](「声優アーツ」コーナー、『パワーボイスA』に移行)
|}
</div></div>
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ドン上野]](ラジオプロデューサー)
== 外部リンク ==
* [https://yosino.sakura.ne.jp/radio/index.html 声優ラジオ紹介・ANIME station] - 声優系ラジオ番組 データ室(1997年以前のアニラジに関する情報サイト)
* [http://aniradi-info.net/ アニラジ情報館]
* [http://poyoko.anime.coocan.jp/index.html 全国アニラジ番組表]
* [https://www.aniradi.com/index.php アニラジ ネットワーク]
* [https://web.archive.org/web/20071111071601/http://www.kt.rim.or.jp/~pastelup/radio.html 声優ラジオ番組]
* [https://web.archive.org/web/19991105062553/http://www.jan.sakura.ne.jp/~rajima/index.html Aniraji Terminal]
* [https://web.archive.org/web/19971024205439/http://yahho.ita.tutkie.tut.ac.jp/Entertainment/VoiceActor/VoiRadi/ 声優関連ラジオ]
* [https://huurai0.hatenablog.com/entry/2016/02/18/225505/ アニラジの歴史を振り返ってみた(アナログ編:1979-2016 236番組)] - 輝きが向こう側へ!ブロマガ
* [https://huurai0.hatenablog.com/entry/2016/02/19/003747/ アニラジの歴史を振り返ってみた(デジタル編:1999-2016 197番組)] - 輝きが向こう側へ!ブロマガ
{{DEFAULTSORT:あにらし}}
[[Category:アニラジ|**]]
[[Category:おたく]]
[[Category:ラジオ番組のジャンル]]
|
2003-06-22T14:50:29Z
|
2023-12-31T04:11:07Z
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[
"Template:複数の問題",
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:要出典範囲",
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"Template:Cite web"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%82%B8
|
10,316 |
恩田駅
|
恩田駅(おんだえき)は、神奈川県横浜市青葉区あかね台(ホームは恩田町)にある、東急電鉄こどもの国線の駅である。駅番号はKD02。
こどもの国線は横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者となっており、当駅の施設も横浜高速鉄道が保有している。
もともと付近には1972年(昭和47年)に発足した長津田車両工場(当初は長津田工機事務所)への分岐が設けられていた。その後、こどもの国(児童厚生施設)への行楽客輸送路線であったこどもの国線を周辺地域の住宅地化に応じて通勤線へ改良した際に、唯一の中間駅として当駅が新設された。
島式ホーム1面2線を有する地上駅である。ホーム有効長は多客期に対応できるよう4両編成分あるが、こどもの国駅及び長津田駅とは異なり、5両編成分の長さは確保されていない。駅舎は通勤線化の際に新設され、自動券売機や自動改札機などが設置されている。
通常時は駅員無配置であり(長津田駅管理)、乗客の問い合わせはインターホンによる対応となる。また筆談用FAXの設備がある。改札内・外ともトイレは設置されていない。
改札階と2階通路(跨線橋)、および2階通路とホームを連絡する2基のエレベーターが設置されている。
隣接する東急電鉄長津田車両工場からつながる側線があり、同工場の作業用車両が待機することがある。
前後ともが単線になっている駅は東急では当駅しかない。
2021年度の1日平均乗降人員は739人である。運行を担当する東急電鉄全駅(世田谷線を除く)の中で最も少ない。ただし、定期利用乗降人員が計上されていないため実数を表していない(こどもの国線の定期券はすべて長津田駅 - こどもの国駅間利用の扱いとなるため、当駅を発着駅とする定期券は発売されていない)。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下記のとおり。
開業当時は駅前にtoksが存在した。toksの閉店後、2004年4月から2012年3月までドッグカフェ、サントラップが営業していた。2017年5月現在はコインパーキングとなっている。
|
[
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"text": "もともと付近には1972年(昭和47年)に発足した長津田車両工場(当初は長津田工機事務所)への分岐が設けられていた。その後、こどもの国(児童厚生施設)への行楽客輸送路線であったこどもの国線を周辺地域の住宅地化に応じて通勤線へ改良した際に、唯一の中間駅として当駅が新設された。",
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"text": "通常時は駅員無配置であり(長津田駅管理)、乗客の問い合わせはインターホンによる対応となる。また筆談用FAXの設備がある。改札内・外ともトイレは設置されていない。",
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"text": "隣接する東急電鉄長津田車両工場からつながる側線があり、同工場の作業用車両が待機することがある。",
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"text": "前後ともが単線になっている駅は東急では当駅しかない。",
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"text": "2021年度の1日平均乗降人員は739人である。運行を担当する東急電鉄全駅(世田谷線を除く)の中で最も少ない。ただし、定期利用乗降人員が計上されていないため実数を表していない(こどもの国線の定期券はすべて長津田駅 - こどもの国駅間利用の扱いとなるため、当駅を発着駅とする定期券は発売されていない)。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下記のとおり。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "開業当時は駅前にtoksが存在した。toksの閉店後、2004年4月から2012年3月までドッグカフェ、サントラップが営業していた。2017年5月現在はコインパーキングとなっている。",
"title": "駅周辺"
}
] |
恩田駅(おんだえき)は、神奈川県横浜市青葉区あかね台(ホームは恩田町)にある、東急電鉄こどもの国線の駅である。駅番号はKD02。 こどもの国線は横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者となっており、当駅の施設も横浜高速鉄道が保有している。
|
{{駅情報
|社色 = #ee0011
|文字色 =
|駅名 = 恩田駅
|画像 = Onda Sta.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎(2007年5月26日)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = おんだ
|ローマ字 = Onda
|副駅名 =
|前の駅 = KD01 [[長津田駅|長津田]]
|駅間A = 1.8
|駅間B = 1.6
|次の駅 = [[こどもの国駅 (神奈川県)|こどもの国]] KD03
|駅番号 = {{駅番号r|KD|02|#0068b7|3}}
|所属事業者 = [[東急電鉄]]
|所属路線 = {{color|#0068b7|■}}[[東急こどもの国線|こどもの国線]]
|キロ程 = 1.8
|起点駅 = 長津田
|所在地 = [[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]][[あかね台 (横浜市)|あかね台一丁目]]10番地
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 32 | 緯度秒 = 44.1 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 29 | 経度秒 = 31.6 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[2000年]]([[平成]]12年)[[3月29日]] <ref name="jtb189"/>
|乗降人員 = 739
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考 =[[無人駅]]<br/>[[施設]]は[[横浜高速鉄道]][[所有権|保有]]
}}
'''恩田駅'''(おんだえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]][[あかね台 (横浜市)|あかね台]](ホームは[[恩田町 (横浜市)|恩田町]])にある、[[東急電鉄]][[東急こどもの国線|こどもの国線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KD02'''。
こどもの国線は[[横浜高速鉄道]]が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]となっており、当駅の施設も横浜高速鉄道が保有している。
== 歴史 ==
もともと付近には[[1972年]]([[昭和]]47年)に発足した[[長津田車両工場]](当初は長津田工機事務所)への分岐が設けられていた。その後、[[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]](児童厚生施設)への行楽客輸送路線であったこどもの国線を周辺地域の住宅地化に応じて通勤線へ改良した際に、唯一の中間駅として当駅が新設された。
* [[2000年]]([[平成]]12年)[[3月29日]] - 開業<ref name="jtb189">[[#jtb|東急の駅]]、p.189。</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]である。ホーム[[有効長]]は多客期に対応できるよう4両編成分あるが、こどもの国駅及び長津田駅とは異なり、5両編成分の長さは確保されていない。駅舎は通勤線化の際に新設され、[[自動券売機]]や[[自動改札機]]などが設置されている。
通常時は[[無人駅|駅員無配置]]であり([[長津田駅]]管理)、乗客の問い合わせは[[インターホン]]による対応となる。また[[筆談]]用[[ファクシミリ|FAX]]の設備がある。改札内・外とも[[便所|トイレ]]は設置されていない。
改札階と2階通路([[跨線橋]])、および2階通路とホームを連絡する2基の[[エレベーター]]が設置されている。
隣接する東急電鉄[[長津田車両工場]]からつながる[[停車場#側線|側線]]があり、同工場の作業用車両が待機することがある。
前後ともが単線になっている駅は東急では当駅しかない。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!nowrap|方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Tokyu KD line symbol.svg|15px|KD]] こどもの国線
|style="text-align:center"|下り
|[[こどもの国駅 (神奈川県)|こどもの国]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202203_kd02_line2_onda2.pdf|title=こどもの国線標準時刻表 恩田駅 こどもの国方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2022/03/12}}</ref>
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[長津田駅|長津田]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202203_kd02_line2_onda.pdf|title=こどもの国線標準時刻表 恩田駅 長津田方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2022/03/12}}</ref>
|}
[[ファイル:Tokyu-railway-kodomonokuni-line-Onda-station-platform.jpg|thumb|left|ホーム(2008年8月)]]
{{-}}
== 利用状況 ==
[[2021年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''739人'''である<ref group="利用客数">[https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ 2021年度乗降人員] - 東急電鉄</ref>。運行を担当する東急電鉄全駅([[東急世田谷線|世田谷線]]を除く)の中で最も少ない。ただし、定期利用乗降人員が計上されていないため実数を表していない(こどもの国線の[[定期乗車券|定期券]]はすべて長津田駅 - こどもの国駅間利用の扱いとなるため、当駅を発着駅とする定期券は発売されていない)。
近年の1日平均'''乗降・乗車'''人員推移は下記のとおり。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="*">[http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/index2.html#3 横浜市統計ポータル] - 横浜市</ref>
!年度
!1日平均<br>乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br>乗車人員<ref group="*">[http://www.pref.kanagawa.jp/life/6/27/142/ 神奈川県県勢要覧]</ref>
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|
|350
|
|-
|2002年(平成14年)
|645
|356
|
|-
|2003年(平成15年)
|
|356
|
|-
|2004年(平成16年)
|654
|365
|
|-
|2005年(平成17年)
|674
|378
|
|-
|2006年(平成18年)
|711
|387
|
|-
|2007年(平成19年)
|799
|433
|
|-
|2008年(平成20年)
|848
|461
|
|-
|2009年(平成21年)
|846
|464
|
|-
|2010年(平成22年)
|905
|494
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2012">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年度]}} - 234ページ</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|894
|488
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2012" />
|-
|2012年(平成24年)
|917
|499
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}} - 236ページ</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|908
|494
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|880
|481
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|846
|467
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 246ページ</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|827
|461
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|843
|476
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|854
|479
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 令和元年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|827
|465
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|639
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|739
|
|
|}
== 駅周辺 ==
* 東急電鉄[[長津田車両工場]]
* [[徳恩寺]]
* 恩田の[[谷戸]]
** [[田|水田]]、小川([[恩田川#奈良川|奈良川]]など)、[[雑木林]]などがあり、市民有志による手入れ・保全活動が継続されている。
* [[横浜市立あかね台中学校]]
開業当時は駅前に[[toks]]が存在した。toksの閉店後、2004年4月から2012年3月までドッグカフェ、サントラップが営業していた。2017年5月現在は[[コインパーキング]]となっている。
=== 路線バス ===
* '''徳恩寺前'''
** [[横浜市営バス]]
*** [[横浜市営バス若葉台営業所#177系統|177]] [[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]経由 [[奈良北団地]]折返場行/[[田奈駅]]経由 [[十日市場駅 (神奈川県)|十日市場駅]]前行
** [[東急バス]]
*** [[東急バス青葉台営業所#恩田線|青56]] こどもの国経由 緑山循環/中恩田橋・松風台経由 [[青葉台駅]]行
: 以前は[[小田急バス]][[小田急バス町田営業所#廃止・移管路線|柿20]] [[町田バスセンター|町田ターミナル]]行/[[柿生駅]]南口行も停車していた(路線廃止)。
* '''あかね台''' - 駅から徒歩7分ほど
** 東急バス
*** [[東急バス青葉台営業所#恩田線|青55]] 中恩田橋・松風台経由 青葉台駅行
== 隣の駅 ==
; 東急電鉄
: [[File:Tokyu KD line symbol.svg|15px|KD]] こどもの国線
:: [[長津田駅]] (KD01) - '''恩田駅 (KD02)''' - [[こどもの国駅 (神奈川県)|こどもの国駅]] (KD03)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 出典 ==
;東急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
;東急電鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
;神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|26em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Onda Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=96|name=恩田}}
{{東急こどもの国線}}
{{DEFAULTSORT:おんた}}
[[Category:横浜市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 お|んた]]
[[Category:東急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:2000年開業の鉄道駅]]
[[Category:横浜市青葉区の交通|おんたえき]]
[[Category:横浜市青葉区の建築物|おんたえき]]
[[Category:多摩田園都市|駅おんた]]
|
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10,318 |
うろ覚え
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うろ覚え(うろおぼえ、疎覚え、空覚え)とは、ある事柄について、覚えている(もしくは理解している)内容が曖昧なこと。またそのような状態で発言すること。
日本国内では「うり覚え」など地域によって様々な呼び方がある。「烏鷺覚え」と書くこともある。「うる覚え」は誤り。
この言葉は、空洞を指す「うろ(空・虚・洞)」を語源とする。
また、「武功夜話」には「うろんおぼえ」という用法が出てきている。「うろん」とは「胡乱」を指しており、「あいまいな」あるいは「あやしげな」の意味である。このため、「うろんおぼえ」が音便化(省略)され「うろ覚え」となったという説もある。しかしながら、武功夜話が偽書であるとの指摘もあり、この説は一般化されるまでにはいたっていない。
ぼんやりとしか覚えていない状態や、ある事象に対する知識が曖昧で、その実態についての知識が欠落している状態を指す。特に当人が、表面的な幾つかの情報を持っているだけで、それを知っていると思い込んでいる場合などに発生する。
主として、無意識かそれに近い状態のときに偶然見聞きしたことを記憶していた場合と、記憶時は自発的な学習や興味のある対象に関わっており、意識して記憶したが、長い年月を経たため記憶が薄れているという場合である。
うろ覚えとその伝播の連鎖は時として無責任な噂や都市伝説を生む原因となる。
フロイトが『夢判断』において述べているごとく、記憶誤りはしばしば無意識の自己表現の結果であるのだから、うろ覚えについても、単なる錯誤としてではなく、なんらかの願望の反映として理解できるときがある。
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うろ覚え(うろおぼえ、疎覚え、空覚え)とは、ある事柄について、覚えている(もしくは理解している)内容が曖昧なこと。またそのような状態で発言すること。 日本国内では「うり覚え」など地域によって様々な呼び方がある。「烏鷺覚え」と書くこともある。「うる覚え」は誤り。
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{{出典の明記|date=2017年10月18日 (水) 15:29 (UTC)}}
'''うろ覚え'''(うろおぼえ、疎覚え、空覚え<ref>{{kotobank|うろ覚え・空覚え}}</ref>)とは、ある事柄について、覚えている内容や理解したはずの内容が曖昧なこと、またそのような状態で発言すること<ref name=":1">{{Cite web |title=「うる覚え」と「うろ覚え」はどちらが正しい? 意味や使い方紹介 |url=https://news.mynavi.jp/article/20210521-1871485/ |website=マイナビニュース |date=2021-05-21 |access-date=2023-12-29 |language=ja}}</ref>。
日本国内では方言で差もある。「[[烏鷺]]覚え」と書くこともある。特に「うる覚え」は[[茨城県]]の日本の一部地域における「うろ覚え」の[[方言]]である<ref name=":1" />。[[標準語]]など方言として用いない際には<ref name=":1" />、誤りとされる<ref>『大辞泉』小学館1995年p.269には「うろ-おぼえ【うろ覚え】確かでなく、ぼんやりと覚えていること。確かでない記憶。「―の漢字」」の記載があるが、デジタル大辞泉では「[補説]「うる覚え」は間違い。」との記載がある。</ref><ref>{{Cite web |title=最近「うる覚え」との表記も見られるが、「うろ覚え」の「うろ」とはどのような意味か。 |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000194878 |website=レファレンス協同データベース |access-date=2023-12-29 |language=ja |last=国立国会図書館}}</ref><ref name=":1" />。
== 語源 ==
この言葉は、空洞を指す「うろ(空・虚・洞)」を語源とする。
また、「[[武功夜話]]」には「うろんおぼえ」という用法が出てきている。「うろん」とは「[[:wikt:胡乱|胡乱]]」を指しており、「あいまいな」あるいは「あやしげな」の意味である。このため、「うろんおぼえ」が[[音便]]化(省略)され「うろ覚え」となったという説もある。しかしながら、武功夜話が[[偽書]]であるとの指摘もあり、この説は一般化されるまでにはいたっていない。
== 概要 ==
ぼんやりとしか覚えていない状態や、ある事象に対する知識が[[曖昧]]で、その実態についての知識が欠落している状態を指す。特に当人が、表面的な幾つかの[[情報]]を持っているだけで、それを知っていると思い込んでいる場合などに発生する。
主として、無意識かそれに近い状態のときに偶然見聞きしたことを記憶していた場合と、記憶時は自発的な学習や興味のある対象に関わっており、意識して記憶したが、長い年月を経たため記憶が薄れているという場合である。
うろ覚えとその伝播の連鎖は時として無責任な[[噂]]や[[都市伝説]]を生む原因となる。
[[ジークムント・フロイト|フロイト]]が『[[夢判断]]』において述べているごとく、記憶誤りはしばしば[[無意識]]の自己表現の結果であるのだから、うろ覚えについても、単なる錯誤としてではなく、なんらかの願望の反映として理解できるときがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
{{wiktionary|うろおぼえ}}
*[[記憶]]
**[[暗記]]
**[[記憶術]]
**[[試験]](テスト)
**[[記憶の干渉]]
*[[噂]]
**[[都市伝説]]
**[[迷信]]
**[[風評被害]]
*[[活字離れ]]
*[[福井県立図書館]] - サイト内に「覚え違いタイトル集」というページを公開している
{{デフォルトソート:うろおほえ}}
[[Category:記憶]]
[[Category:学習]]
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インド発祥の宗教
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世界人口に占めるインド発祥の宗教
インド発祥の宗教あるいはインド宗教(英語: Indian religions)は、古代インドの聖典であるヴェーダ群を起源とする宗教を指す。そのため伝統的にヴェーダの宗教 、ヴェーダ教(英: Vedic religions)という呼び方もされて来た。
バラモン教は、実質的にヴェーダに説かれる祭祀を行う人々の宗教を指す意味で使われることが多いので、ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)という言い換えはあまり用いられず、バラモン教の方が一般的である。
ヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法では、インドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが、一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。イギリス人は、このうち仏教以前に存在したバラモン中心の宗教をバラモン教(英: Brahmanism)、バラモン教のヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(ヴェーダ教)と呼んだ。
FrawleyとMalhotraは「ダルマの伝統(Dharmic traditions)」という言葉を用いて、インドの様々な宗教の類似点を指摘している。Frawleyによれば「すべてのインドの宗教は、ダルマと呼ばれている」という。そのためダルマの宗教(Dharmic religions)とも呼ばれる が、これにはいくつかの批判もある。
バラモン教は、司祭階級バラモン(brāhmaṇa)を特殊階級として、神に等しい存在として敬う。バラモンは、宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるとされ、生けにえなどの儀式を行うことができるのはバラモンだけだとされる。
1世紀から3世紀にかけて、仏教に押されたバラモン教が衰退した後、4世紀頃にバラモン教を中心にインドの各民族宗教が再構成されヒンドゥー教に発展する。この際、主神が、シヴァ、ヴィシュヌへと移り変わる。バラモン教やヴェーダにおいては、シヴァやヴィシュヌは脇役的な役目しかしていなかった。 シヴァは別名を1000も持ち、ヴィシュヌは10の化身を持つなど、民族宗教を取り込んだ形跡が見られる。
15世紀、イスラムにインドが支配された時代に、一般のヒンドゥー教徒はイスラムの支配にしたがったが、イスラムへの従属をよしとしない一派としてグル・ナーナクによりシク教が作られた。
紀元前5世紀頃に、北インドのほぼ同じ地域で、仏教やジャイナ教をはじめとした、アンチ・バラモンの新宗教がいくつか誕生するが現在まで続いているのはそのうちの仏教とジャイナ教だけである。
バラモンの権威に対峙する仏教は、バラモン教の基本のひとつであるカースト制度を否定した。すなわち司祭階級バラモン(ブラフミン)の優越性も否定した。しかし、ゴータマ・ブッダの死後において、バラモン自身が仏教の司祭として振舞うなど、バラモン教が仏教を取り込んで、バラモンの特殊な地位を再確保しようという政治的な動きもあった。
また、ゴータマ・ブッダは唯一神の存在を自分の宗教の一部としては認めなかった。ただしゴータマ・ブッダの死後、バラモン教の神が仏法守護神や眷属として取り込まれて行った。従って仏教はバラモン教に対峙して発展したが、民衆の間に広まっていくに連れ、バラモン教の神々を吸収して行ったのである。
もう一つのアンチ・バラモンであるジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、彼以前に23人のティールタンカラ(祖師)がおり、24祖とされた。ティールタンカラ自身はヴェーダの宗教の一部であったと思われる。マハーヴィーラが24人目のティールタンカラの生まれ変わりであると認定された後に、ジャイナはバラモン教から独立したとする説もある。また、マハーヴィーラとゴータマ・ブッダは、同時代、同地域に生きており、ジャイナ教の伝説ではゴータマ・ブッダ自身も24人目の最後のティールタンカラとなることを望んでいたと言われ、マハーヴィーラに負けたとされている。
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"title": "アンチ・バラモンの新宗教"
}
] |
インド発祥の宗教あるいはインド宗教は、古代インドの聖典であるヴェーダ群を起源とする宗教を指す。そのため伝統的にヴェーダの宗教 、ヴェーダ教(英: Vedic religions)という呼び方もされて来た。 バラモン教は、実質的にヴェーダに説かれる祭祀を行う人々の宗教を指す意味で使われることが多いので、ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)という言い換えはあまり用いられず、バラモン教の方が一般的である。 ヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法では、インドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが、一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。イギリス人は、このうち仏教以前に存在したバラモン中心の宗教をバラモン教、バラモン教のヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(ヴェーダ教)と呼んだ。 FrawleyとMalhotraは「ダルマの伝統」という言葉を用いて、インドの様々な宗教の類似点を指摘している。Frawleyによれば「すべてのインドの宗教は、ダルマと呼ばれている」という。そのためダルマの宗教とも呼ばれる が、これにはいくつかの批判もある。
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{{Otheruseslist|インド独自の伝統思想から起こり発展した宗教|現代インド共和国の宗教|インドの宗教|}}
[[File:Abraham Dharma.png|thumb|right|350px|[[アブラハムの宗教]](ピンク)と、インド発祥の宗教(黄色)分布]]
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{{Pie chart
| caption = [[世界人口]]に占めるインド発祥の宗教<ref>{{cite web|url=http://www.nepszamlalas.hu/eng/volumes/26/tables/load4_1_1.html |title=Központi Statisztikai Hivatal |publisher=Nepszamlalas.hu |access-date=2013-10-02}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.gordonconwell.edu/resources/documents/1IBMR2015.pdf |title=Christianity 2015: Religious Diversity and Personal Contact |date=January 2015 |accessdate=2015-05-29 |archive-url= https://web.archive.org/web/20170525141543/http://www.gordonconwell.edu/resources/documents/1IBMR2015.pdf |archive-date=25 May 2017|url-status=dead |website=gordonconwell.edu}}</ref><ref>{{cite web| url = https://www.worldatlas.com/articles/countries-with-the-largest-jain-populations.html| title = Countries With The Largest Jain Populations - WorldAtlas |accessdate=2020-01}}</ref>
| label1 = [[ヒンドゥー教]]
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'''インド発祥の宗教'''あるいは'''インド宗教'''({{lang-en|Indian religions}})は、古代[[インド]]の聖典である[[ヴェーダ]]群を起源とする[[宗教]]を指す。そのため伝統的に'''ヴェーダの宗教''' 、'''ヴェーダ教'''({{lang-en-short|Vedic religions}}<ref name="古宇田"/>)という呼び方もされて来た。
[[バラモン教]]は、実質的にヴェーダに説かれる祭祀を行う人々の宗教を指す意味で使われることが多いので、ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)という言い換えはあまり用いられず、バラモン教の方が一般的である<ref name="古宇田">[http://sanskrit.webcrow.jp/20021204.htm 古宇田亮修「ヒンドゥー教における身の処し方 -âšrama‐説を中心に-」] 大正大学綜合佛教研究所公開講座 2002年12月4日</ref>。
[[ヒンドゥー教]]と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法では、インドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、[[インドの歴史]]では先史文明の[[インダス文明]]まで遡るものであるが<ref name="川崎">川崎信定著 『インドの思想』 放送大学教育振興会、1997年</ref>、一般的には、[[アーリア人|アーリア民族]]のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す<ref name="川崎"/>。イギリス人は、このうち仏教以前に存在したバラモン中心の宗教をバラモン教({{lang-en-short|Brahmanism}})、バラモン教の[[ヴェーダ]]時代の宗教思想をヴェーダの宗教(ヴェーダ教)と呼んだ<ref name="川崎"/>。
FrawleyとMalhotraは「[[ダルマ (インド発祥の宗教)|ダルマ]]の伝統(Dharmic traditions)」という言葉を用いて、インドの様々な宗教の類似点を指摘している{{sfn|Frawley|1990|p=27}}{{sfn|Malhotra|2011}}。Frawleyによれば「すべてのインドの宗教は、ダルマと呼ばれている」という{{sfn|Frawley|1990|p=27}}。そのため'''ダルマの宗教'''(Dharmic religions)とも呼ばれる{{sfn|Frawley|1990|p=27}} が、これにはいくつかの批判もある。
== 歴史 ==
[[File:Mohenjo-daro_Priesterkönig.jpeg|thumb|170px|インダス文明の祭司像]]
{{main|インドの歴史|インダス文明|{{仮リンク|H墓地文化|en|Cemetery H culture}}|[[ヴェーダ期]]}}
{{Seealso|[[:en:Proto-Indo-European religion]]|[[:en:Proto-Indo-Iranian religion]]|[[:en:HistoricalVedic religion]]}}
{{節スタブ}}
== 一覧 ==
[[File:HinduSwastika.svg|thumb|150px|ヒンドゥー教の[[卍]]]]
* [[バラモン教]] - 4世紀頃に民間信仰を取り込んで[[ヒンドゥー教]]へ発展消滅。
* [[ヒンドゥー教]]
* [[仏教]] - 紀元前4世紀頃に根本分裂によって[[上座部]]と[[大衆部]]に分裂。その後インド国内では完全に消滅。現代において[[新仏教運動|アンチ・カースト活動により信仰が再興]]。
* [[ジャイナ教]] - 六師外道の一人である[[ヴァルダマーナ]]が創唱した宗教。現在もインド国内に多くの信徒を持つ。
* [[チャールヴァーカ]] - 六師外道の一人である[[アジタ・ケーサカンバリン]]が創唱した宗教。15世紀頃に消滅。
* [[アージーヴィカ教]] - 六師外道の一人である[[マッカリ・ゴーサーラ]]が創唱した宗教。13世紀以降にジャイナ教に吸収され消滅。
* [[シク教]] - [[グル・ナーナク]]によって16世紀に創唱された宗教。
* [[アイヤーヴァリ]] - {{仮リンク|アイヤ・ヴァイクンダル|en|Ayya_Vaikundar}}によって19世紀に創唱された宗教。南インドの[[タミル人]]を中心に多くの信者を持つ。
*[[タントリズム]] - [[ラージプート]]時代前期([[7世紀]]前後)に興隆した宗教的・思想的潮流。ヒンドゥー教や仏教に影響を及ぼした。
== バラモン教 ==
[[バラモン教]]は、司祭階級[[バラモン]]({{lang|sa|brāhmaṇa}})を特殊階級として、神に等しい存在として敬う。バラモンは、[[宇宙]]の根本原理ブラフマンと同一であるとされ、生けにえなどの儀式を行うことができるのはバラモンだけだとされる。
[[1世紀]]から[[3世紀]]にかけて、仏教に押されたバラモン教が衰退した後、4世紀頃にバラモン教を中心にインドの各民族宗教が再構成され[[ヒンドゥー教]]に発展する。この際、[[主神]]が、[[シヴァ]]、[[ヴィシュヌ]]へと移り変わる。バラモン教やヴェーダにおいては、シヴァやヴィシュヌは脇役的な役目しかしていなかった。
シヴァは別名を1000も持ち、ヴィシュヌは10の化身を持つなど、民族宗教を取り込んだ形跡が見られる。
[[15世紀]]、[[イスラム]]にインドが支配された時代に、一般のヒンドゥー教徒はイスラムの支配にしたがったが、イスラムへの従属をよしとしない一派として[[グル・ナナク|グル・ナーナク]]により[[シク教]]が作られた。
== アンチ・バラモンの新宗教 ==
{{Main|アースティカとナースティカ}}
[[紀元前5世紀]]頃に、[[北インド]]のほぼ同じ地域で、[[仏教]]や[[ジャイナ教]]をはじめとした、アンチ・バラモンの新宗教がいくつか誕生するが現在まで続いているのはそのうちの仏教とジャイナ教だけである。
バラモンの権威に対峙する仏教は、バラモン教の基本のひとつである[[カースト制度]]を否定した。すなわち司祭階級バラモン(ブラフミン)の優越性も否定した。しかし、ゴータマ・ブッダの死後において、バラモン自身が仏教の司祭として振舞うなど、バラモン教が仏教を取り込んで、バラモンの特殊な地位を再確保しようという政治的な動きもあった。
また、ゴータマ・ブッダは唯一神の存在を自分の宗教の一部としては認めなかった。ただし[[ゴータマ]]・ブッダの死後、バラモン教の神が仏法守護神や眷属として取り込まれて行った。従って仏教はバラモン教に対峙して発展したが、民衆の間に広まっていくに連れ、バラモン教の神々を吸収して行ったのである。
もう一つのアンチ・バラモンであるジャイナ教の開祖[[マハーヴィーラ]]は、彼以前に23人の[[ティールタンカラ]](祖師)がおり、24祖とされた。ティールタンカラ自身はヴェーダの宗教の一部であったと思われる。マハーヴィーラが24人目のティールタンカラの生まれ変わりであると認定された後に、ジャイナはバラモン教から独立したとする説もある。また、マハーヴィーラとゴータマ・ブッダは、同時代、同地域に生きており、ジャイナ教の伝説ではゴータマ・ブッダ自身も24人目の最後のティールタンカラとなることを望んでいたと言われ、マハーヴィーラに負けたとされている。
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{citation |last=Frawley |first=David |year=1990 |title=From the River of Heaven: Hindu and Vedic Knowledge for the Modern Age |place=Berkeley, California |publisher=Book Passage Press |isbn=1-878423-01-0}}
* {{citation |last=Malhotra |first=Rajiv |year=2011 |title=Being Different: An Indian Challenge to Western Universalism |publisher=HarperCollins Publishers India}}
== 関連項目 ==
* [[インド哲学]]
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バラモン教
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バラモン教(ばらもんきょう、英: Brahmanism)は、ヒンドゥー教の前身となった、ヴェーダを権威とする宗教を指す。ヴェーダの宗教(ヴェーダ教、英: Vedic religion)とほぼ同一の意味である。
バラモン教にインドの各種の民族宗教・民間信仰が加えられて、徐々に様々な人の手によって再構成されたのが現在のヒンドゥー教である。ただし、ヒンドゥー教という言葉には、バラモン教を含む考えもある。ヒンドゥー教は、広義ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。
イギリス人は、このうち仏教以前に存在したバラモン中心の宗教をバラモン教(Brahmanism、ブラフミンの宗教)、バラモン教のヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(ヴェーダ教)と呼んでいる。なお、ヒンドゥー教(英: Hinduism)という名前もヨーロッパ人によって付けられた名前である。
バラモンとは司祭階級のこと。正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読みから日本ではバラモンということが多い。バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。
最高神は一定しておらず、儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。
階級制度である四姓制を持つ。司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によりなる。また、これらのカーストに収まらない人々はそれ以下の階級パンチャマ(不可触賤民)とされた。カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。
神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。輪廻転生の思想によれば「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が六道〔1地獄道、2餓鬼道、3畜生道、4修羅道(闘争の世界)、5人間道、6天上道〕を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。これを六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとしと唱える。
バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではない。たとえばバラモン教に於いては、中心となる神はインドラ、ヴァルナ、アグニなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。
ヒンドゥー教でもヴェーダを聖典としているが、叙事詩(ギータ)『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』『プラーナ文献』などの神話が重要となっている。
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バラモン教は、ヒンドゥー教の前身となった、ヴェーダを権威とする宗教を指す。ヴェーダの宗教とほぼ同一の意味である。
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[[画像:Yajna1.jpg|サムネイル|320px|[[ヒンドゥー教]]の儀式の多くはバラモン教以来の伝統を継承している(南インド)]]
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[[画像:Indra,_Chief_of_the_Gods_LACMA_M.69.13.4_(1_of_5).jpg|サムネイル|インドラの像(ネパール、16世紀)]]
'''バラモン教'''(ばらもんきょう、{{lang-en-short|Brahmanism}})は、[[ヒンドゥー教]]の前身となった、[[ヴェーダ]]を権威とする宗教を指す{{refnest|name="世界大百科事典2nd_バラモン教"|[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99-116765#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 「バラモン教」 - 世界大百科事典 第2版]、平凡社。}}。'''[[ヴェーダの宗教]]'''(ヴェーダ教、{{lang-en-short|Vedic religion}})とほぼ同一の意味である{{refnest|name="世界大百科事典2nd_バラモン教"|[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99-116765#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 「バラモン教」 - 世界大百科事典 第2版]、平凡社。}}。
== 概要 ==
バラモン教にインドの各種の民族宗教・民間信仰が加えられて、徐々に様々な人の手によって再構成されたのが現在のヒンドゥー教である。ただし、ヒンドゥー教という言葉には、バラモン教を含む考えもある。ヒンドゥー教は、広義ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、[[インドの歴史]]では先史文明の[[インダス文明]]まで遡るものであるが<ref name="川崎">川崎信定著 『インドの思想』 放送大学教育振興会、1997年</ref>、[[アーリア人|アーリア民族]]のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す<ref name="川崎"/>。
イギリス人は、このうち仏教以前に存在したバラモン中心の宗教をバラモン教({{en|Brahmanism}}、ブラフミンの宗教)、バラモン教の[[ヴェーダ]]時代の宗教思想をヴェーダの宗教(ヴェーダ教)と呼んでいる<ref name="川崎"/>。なお、ヒンドゥー教({{lang-en-short|Hinduism}})という名前もヨーロッパ人によって付けられた名前である<ref>{{Cite web |url = https://www.britannica.com/topic/Hinduism|title = Hinduism|website = www.britannica.com|publisher = Britannica|date = |accessdate = 2020-11-30}}</ref>。
[[バラモン]]とは司祭階級のこと。正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読みから日本ではバラモンということが多い。バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理[[ブラフマン]]に近い存在とされ敬われる。
最高神は一定しておらず、儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。
階級制度である[[カースト|四姓制]]を持つ。司祭階級バラモンが最上位で、[[クシャトリヤ]](戦士・王族階級)、[[ヴァイシャ]](庶民階級)、[[シュードラ]](奴隷階級)によりなる。また、これらの[[カースト]]に収まらない人々はそれ以下の階級パンチャマ([[不可触民|不可触賤民]])とされた。[[カースト]]の移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。
== 教義 ==
神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの[[自然崇拝|自然神]]を[[崇拝]]し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為([[業]]・[[カルマ]])が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命([[輪廻]])が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す[[解脱]]の道を求める。輪廻転生の思想によれば「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が六道〔①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道(闘争の世界)、⑤人間道、⑥天上道〕を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。これを六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとし<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.christiantoday.co.jp/articles/23911/20170610/naniyue-kirisuto-95.htm|title = 何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとし|website = www.christiantoday.co.jp|publisher = www.christian today|date = |accessdate = 2020-11-30}}</ref>{{信頼性要検証|title=キリスト教の牧師のコラムであり、専門性、正確性に疑問がある。|date=2022年1月27日}}と唱える。
== 歴史 ==
{{see also|インドの歴史}}
*[[紀元前13世紀]]頃、[[アーリア人]]がインドに侵入し、先住民族である[[ドラヴィダ人]]を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
*[[紀元前10世紀]]頃、アーリア人とドラヴィダ人の[[混血]]が始まり、宗教の融合が始まる。
* [[紀元前7世紀]]から[[紀元前4世紀]]にかけて、バラモン教の教えを理論的に深めた[[ウパニシャッド]]哲学が形成される。
*[[紀元前5世紀]]頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている[[仏教]]や[[ジャイナ教]]もこの時期に成立した。
**新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。
*[[1世紀]]前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形で[[シヴァ]]神や[[ヴィシュヌ]]神の地位が高まっていく。
*1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
*[[4世紀]]になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展、継承された。
==ヒンドゥー教との差異==
バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではない。たとえばバラモン教に於いては、中心となる神は[[インドラ]]、[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]、[[アグニ]]などであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかった[[ヴィシュヌ]]や[[シヴァ]]が重要な神となった。
ヒンドゥー教でもヴェーダを聖典としているが、叙事詩(ギータ)『[[マハーバーラタ]]』『[[ラーマーヤナ]]』『[[プラーナ文献]]』などの神話が重要となっている。
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
{{ウィキポータルリンク|宗教|[[画像:P_religion_world.svg|none|34px]]}}
*[[ヴェーダ]]
*[[ヒンドゥー教]]
* [[ウパニシャッド]]
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インダス文明
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インダス文明(インダスぶんめい、英: Indus Valley Civilisation)は、インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。
これら各国の先史文明でもある(インドの歴史、パキスタンの歴史、アフガニスタンの歴史も参照)。
崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。
狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500 km、南北1800 kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。
そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。
メヘルガルI期(紀元前7000年 - 紀元前5500年)は、土器をともなわない新石器時代である。
メヘルガルII期(紀元前5500年 - 紀元前4800年)は、土器をともなう新石器時代である。メヘルガルIII期(紀元前4800年 - 紀元前3500年)は、銅器時代後期である。メヘルガルIV期(紀元前3500年 - 紀元前2600年)で集落が放棄された。
ハラッパーI期(紀元前3300年 - 紀元前2800年、ラーヴィー期には、パンジャーブ地方のラーヴィー川(英語版)河岸でハラッパー文化が、ラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が、それぞれ始まった。それに続くハラッパーII期(紀元前2800年 - 紀元前2600年)は、シンド地方でコト・ディジ文化が始まった。
狭義のインダス文明はこの統合期を指す。ハラッパーIIIA期(紀元前2600年 - 紀元前2450年)、ハラッパーIIIB期(紀元前2450年 - 紀元前2200年)、ハラッパーIIIC期(紀元前2200年 - 紀元前1900年)の三期に区分される。
インダス文明の衰退や滅亡については次のような諸説がある。
砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動があげられている。
大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。
しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、という説である。
衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、気候の変動を重視する説は見直されている。
しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。
インダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。
4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。
こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。
2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖(英語版)を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした。
また、遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。 これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする。
そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。
発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。
また、『リグ・ヴェーダ』などの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、層位関係を考えずに地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではなかった。
その他、虐殺跡とされた人骨には外傷の形跡がなく、アーリア人の侵入とインダス文明衰退の年代には相違があり、『リグ・ヴェーダ』の記述の史実性にも問題が指摘され、現在では否定されている。
この説では、インダス文明は南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人の祖先によりつくられたと推定されている。また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり先住民族であるドラヴィダ族を滅ぼしてヴァルナという身分制度を作り上げたという説がある。
これはインダス文明は核戦争により滅んだという説である。理由はいくつかある。 インダス文明の中心遺跡モヘンジョ=ダロは「死の丘」を意味している。ここで何かがあったと推測でき、遺跡の近くの人骨からは通常の約50倍の放射能が検出された。また、1945年にアメリカの核実験によってできた人工鉱物の「トリニタイト」が遺跡の近くで発見され、また、遺跡の建物などからは一瞬で超高温の炎を浴びた痕跡が発見されて、核爆発があった証拠であると主張されている。
ヴェーダ期(紀元前1700年 - 紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化(英語版)となった事を示す墓地が発見されている。この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教(紀元前1000年 - 紀元前500年)が形成されたと考えられている。
ヴェーダの宗教は、後のバラモン教やヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。この文化と同時期に栄えた赭色土器文化(英語版)は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。
文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、イギリス支配下の19世紀になってからのことである。
1826年に探検家のチャールズ・マッソン(英語版)がハラッパーにある周囲約5 kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「紀元前326年にアレクサンドロス3世(大王)を撃退したポルス王の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。
1831年にもアレクサンダー・バーンズが調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。
イギリスは既に18世紀にアジア協会を設立しており、インドに赴任していた元軍属のアレクサンダー・カニンガムが同協会の元でインドおよびパキスタンの考古学の基礎を築くことになる。
カニンガムは1853年・1856年に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した。カニンガムは1862年、インド考古局の発足に尽力し初代局長となるが、この頃から鉄道敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。
その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる。
都市の規模はメソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョダロとハラッパーが1 km四方を超える規模をもち、メソポタミアの小都市に匹敵する規模であった。都市には2種類あり、城塞と市街地が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、城塞と市街地が分離しているタイプ(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。主な遺跡は以下の4地域に集中している。
城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある場所に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。
インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない。
インダス文明の言語は原ドラヴィダ語に属すると推定されている。
信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの城塞には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状の施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。
一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、城塞の南区や市街地の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガム(英語版)と呼ばれる石製品が出土しない。
また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。
埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合は銅製の柄鏡も出土している。重要な点として、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。
インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のいずれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や土器の形や文様などにも現れている。宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。
排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。土器やビーズなどの主だった出土品に均質性が見られる。
インダス文明の都市は、信仰・宗教世界を運営・統括する人々の宗教的・政治的中枢ではなかったのではないかという説がある。
インダス文明は、夏作物、冬作物、夏と冬の混合作物の3地域に大きく分かれる。インダス川の流域は冬作物地域であり、氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の堰を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。夏作物地域では、モンスーンを利用した農耕を行っていた。
現在でも家畜として飼育されているコブウシは、インダス文明の土器の模様、印章、土偶などのモチーフにも多数使われている。コブウシよりは少ないがコブのないウシも描かれており、系統の異なるウシが飼育されていた可能性がある。
水運を広く利用し、装飾品などがメソポタミアまで輸出されて盛んな商業活動が行われていた。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行い、メソポタミアではインダス文明はメルッハ(英語版)と呼ばれていたと推定されている。メソポタミア地域やペルシア湾でも、インダス式印章が発見されている。
工芸品の交易ルートには原石の採掘、工芸品の生産、流通などに専業の集団が従事し、インダス文明の経済基盤の1つだったと考えられている。現在のカンバートのように各工程の職人や商人が全体を把握しなくても運営されるようになっており、王や神官のような行政による強力な統括がなくとも成立していたのではないかとも考えられている。
鉄は知られず、青銅器を使った。都市計画で知られるように建築技術に優れており、建築物には縦:横:厚みの比が4:2:1で統一された焼成煉瓦が広く使われている。服は染色された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。
装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造が有名である。腐食ビーズとも呼ばれる紅玉髄製ビーズに白色の文様を入れる技術を持っており、樽型ビーズはメソポタミアへの主要な輸出品の1つでもあった。その他に腕環、足環、ペンダントなどが見つかっている。高い加工技術を要する極小のマイクロビーズも作られており、絹の糸で連結させていた。これは中国での最古の絹の利用と同時期とされ、前2世紀以降のシルクロードより前にインダス文明で別個に絹の利用が発達していたとされる。工芸の素材としては、金属の他に貝、動物の骨や歯、テラコッタ、ファイアンス、瑪瑙、ラピスラズリ、ジャスパー、アマゾナイトなどが使われていた。動物の骨や歯は、ヤギ、ヒツジ、コブウシ、レイヨウの他に少数ながら象牙やサイの角も使われている。
都市遺跡からは、多くのインダス式印章が出土する。凍石製で、印面は3 - 4 cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である牛が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある。
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"text": "インダス文明(インダスぶんめい、英: Indus Valley Civilisation)は、インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。",
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"text": "これら各国の先史文明でもある(インドの歴史、パキスタンの歴史、アフガニスタンの歴史も参照)。",
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"text": "崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。",
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"text": "狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500 km、南北1800 kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。",
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"text": "そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。",
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"text": "メヘルガルI期(紀元前7000年 - 紀元前5500年)は、土器をともなわない新石器時代である。",
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"text": "メヘルガルII期(紀元前5500年 - 紀元前4800年)は、土器をともなう新石器時代である。メヘルガルIII期(紀元前4800年 - 紀元前3500年)は、銅器時代後期である。メヘルガルIV期(紀元前3500年 - 紀元前2600年)で集落が放棄された。",
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"text": "ハラッパーI期(紀元前3300年 - 紀元前2800年、ラーヴィー期には、パンジャーブ地方のラーヴィー川(英語版)河岸でハラッパー文化が、ラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が、それぞれ始まった。それに続くハラッパーII期(紀元前2800年 - 紀元前2600年)は、シンド地方でコト・ディジ文化が始まった。",
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"text": "狭義のインダス文明はこの統合期を指す。ハラッパーIIIA期(紀元前2600年 - 紀元前2450年)、ハラッパーIIIB期(紀元前2450年 - 紀元前2200年)、ハラッパーIIIC期(紀元前2200年 - 紀元前1900年)の三期に区分される。",
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"text": "インダス文明の衰退や滅亡については次のような諸説がある。",
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"text": "砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動があげられている。",
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"text": "大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。",
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"text": "しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、という説である。",
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"text": "衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、気候の変動を重視する説は見直されている。",
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"text": "しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。",
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"text": "インダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。",
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"text": "4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。",
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"text": "こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。",
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"text": "2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖(英語版)を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした。",
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},
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"text": "また、遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。 これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする。",
"title": "歴史"
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"text": "そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。",
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"text": "発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。",
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"text": "また、『リグ・ヴェーダ』などの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、層位関係を考えずに地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではなかった。",
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"text": "その他、虐殺跡とされた人骨には外傷の形跡がなく、アーリア人の侵入とインダス文明衰退の年代には相違があり、『リグ・ヴェーダ』の記述の史実性にも問題が指摘され、現在では否定されている。",
"title": "歴史"
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"text": "この説では、インダス文明は南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人の祖先によりつくられたと推定されている。また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり先住民族であるドラヴィダ族を滅ぼしてヴァルナという身分制度を作り上げたという説がある。",
"title": "歴史"
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"text": "これはインダス文明は核戦争により滅んだという説である。理由はいくつかある。 インダス文明の中心遺跡モヘンジョ=ダロは「死の丘」を意味している。ここで何かがあったと推測でき、遺跡の近くの人骨からは通常の約50倍の放射能が検出された。また、1945年にアメリカの核実験によってできた人工鉱物の「トリニタイト」が遺跡の近くで発見され、また、遺跡の建物などからは一瞬で超高温の炎を浴びた痕跡が発見されて、核爆発があった証拠であると主張されている。",
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"text": "ヴェーダ期(紀元前1700年 - 紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化(英語版)となった事を示す墓地が発見されている。この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教(紀元前1000年 - 紀元前500年)が形成されたと考えられている。",
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"text": "ヴェーダの宗教は、後のバラモン教やヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。この文化と同時期に栄えた赭色土器文化(英語版)は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。",
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"text": "文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、イギリス支配下の19世紀になってからのことである。",
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"text": "1826年に探検家のチャールズ・マッソン(英語版)がハラッパーにある周囲約5 kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「紀元前326年にアレクサンドロス3世(大王)を撃退したポルス王の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。",
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"text": "1831年にもアレクサンダー・バーンズが調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。",
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"text": "イギリスは既に18世紀にアジア協会を設立しており、インドに赴任していた元軍属のアレクサンダー・カニンガムが同協会の元でインドおよびパキスタンの考古学の基礎を築くことになる。",
"title": "歴史"
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"text": "カニンガムは1853年・1856年に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した。カニンガムは1862年、インド考古局の発足に尽力し初代局長となるが、この頃から鉄道敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。",
"title": "歴史"
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"text": "その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる。",
"title": "歴史"
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"text": "都市の規模はメソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョダロとハラッパーが1 km四方を超える規模をもち、メソポタミアの小都市に匹敵する規模であった。都市には2種類あり、城塞と市街地が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、城塞と市街地が分離しているタイプ(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。主な遺跡は以下の4地域に集中している。",
"title": "遺跡"
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"text": "城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある場所に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。",
"title": "遺跡"
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"text": "インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない。",
"title": "遺跡"
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"text": "インダス文明の言語は原ドラヴィダ語に属すると推定されている。",
"title": "言語"
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"text": "信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの城塞には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状の施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。",
"title": "宗教"
},
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"text": "一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、城塞の南区や市街地の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガム(英語版)と呼ばれる石製品が出土しない。",
"title": "宗教"
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"text": "また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。",
"title": "宗教"
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"text": "埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合は銅製の柄鏡も出土している。重要な点として、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。",
"title": "宗教"
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"text": "インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のいずれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や土器の形や文様などにも現れている。宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。",
"title": "行政"
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"text": "排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。土器やビーズなどの主だった出土品に均質性が見られる。",
"title": "行政"
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"text": "インダス文明の都市は、信仰・宗教世界を運営・統括する人々の宗教的・政治的中枢ではなかったのではないかという説がある。",
"title": "行政"
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"text": "インダス文明は、夏作物、冬作物、夏と冬の混合作物の3地域に大きく分かれる。インダス川の流域は冬作物地域であり、氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の堰を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。夏作物地域では、モンスーンを利用した農耕を行っていた。",
"title": "経済"
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{
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"text": "現在でも家畜として飼育されているコブウシは、インダス文明の土器の模様、印章、土偶などのモチーフにも多数使われている。コブウシよりは少ないがコブのないウシも描かれており、系統の異なるウシが飼育されていた可能性がある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "水運を広く利用し、装飾品などがメソポタミアまで輸出されて盛んな商業活動が行われていた。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行い、メソポタミアではインダス文明はメルッハ(英語版)と呼ばれていたと推定されている。メソポタミア地域やペルシア湾でも、インダス式印章が発見されている。",
"title": "経済"
},
{
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"text": "工芸品の交易ルートには原石の採掘、工芸品の生産、流通などに専業の集団が従事し、インダス文明の経済基盤の1つだったと考えられている。現在のカンバートのように各工程の職人や商人が全体を把握しなくても運営されるようになっており、王や神官のような行政による強力な統括がなくとも成立していたのではないかとも考えられている。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "鉄は知られず、青銅器を使った。都市計画で知られるように建築技術に優れており、建築物には縦:横:厚みの比が4:2:1で統一された焼成煉瓦が広く使われている。服は染色された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。",
"title": "文化"
},
{
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"text": "装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造が有名である。腐食ビーズとも呼ばれる紅玉髄製ビーズに白色の文様を入れる技術を持っており、樽型ビーズはメソポタミアへの主要な輸出品の1つでもあった。その他に腕環、足環、ペンダントなどが見つかっている。高い加工技術を要する極小のマイクロビーズも作られており、絹の糸で連結させていた。これは中国での最古の絹の利用と同時期とされ、前2世紀以降のシルクロードより前にインダス文明で別個に絹の利用が発達していたとされる。工芸の素材としては、金属の他に貝、動物の骨や歯、テラコッタ、ファイアンス、瑪瑙、ラピスラズリ、ジャスパー、アマゾナイトなどが使われていた。動物の骨や歯は、ヤギ、ヒツジ、コブウシ、レイヨウの他に少数ながら象牙やサイの角も使われている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "都市遺跡からは、多くのインダス式印章が出土する。凍石製で、印面は3 - 4 cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である牛が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある。",
"title": "文化"
}
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インダス文明は、インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。 これら各国の先史文明でもある(インドの歴史、パキスタンの歴史、アフガニスタンの歴史も参照)。 崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。 狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500 km、南北1800 kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。 そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。
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[[画像:Mohenjo-daro-2010.jpg|サムネイル|350px|[[モヘンジョダロ]]]]
[[画像:Ceremonial Vessel LACMA AC1997.93.1.jpg|サムネイル|儀式で使用された陶器<br>紀元前2600–2450年]]
'''インダス文明'''(インダスぶんめい、{{Lang-en-short|Indus Valley Civilisation}})は、[[インド]]・[[パキスタン]]・[[アフガニスタン]]の[[インダス川]]および並行して流れていたとされる[[ガッガル・ハークラー川]]周辺に栄えた文明である。
これら各国の先史文明でもある([[インドの歴史]]、[[パキスタンの歴史]]、[[アフガニスタンの歴史]]も参照)。
崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる{{Sfn|ダブルー|1978|pp=122-123}}。
狭義のインダス文明は、[[紀元前2600年]]から[[紀元前1800年]]の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500 [[キロメートル|km]]、南北1800 kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。
そのうち[[発掘調査]]が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている{{Sfn|長田編|2013|pp=4}}。
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|インダス文明の時代区分|en|Periodization of the Indus Valley Civilization}}}}
{{main|{{仮リンク|インダス文明遺跡のリスト|en|List_of_Indus_Valley_Civilization_sites}}}}
{{see also|ジャンムー・カシミール州|ギルギット・バルティスタン州|バローチスターン州|パンジャーブ|パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州 (インド)|ラージャスターン州|シンド州|グジャラート州|ハリヤーナー州|マハーラーシュトラ州}}
=== 初期食料生産期<!--Early Food Producing Era--> ===
{{main|メヘルガル}}
[[メヘルガル#メヘルガルI期|メヘルガルI期]]([[紀元前7000年]] - [[紀元前5500年]])は、[[土器]]をともなわない[[新石器時代]]である。
{{節スタブ}}
=== 領域形成期(紀元前5500年 - 紀元前2600年)<!--Regionalisation Era 5500-2600--> ===
[[画像:Indus Valley Civilization, Early Phase (3300-2600 BCE).png|サムネイル|300px|紀元前3300–2600年時点におけるインダス文明の推定範囲。]]
{{main|メヘルガル}}
[[メヘルガル#メヘルガルII期とIII期|メヘルガルII期]]([[紀元前5500年]] - [[紀元前4800年]])は、[[土器]]をともなう[[新石器時代]]である。[[メヘルガル#メヘルガルII期とIII期|メヘルガルIII期]]([[紀元前4800年]] - [[紀元前3500年]])は、[[銅器時代]]後期である。[[メヘルガル#メヘルガルVI期|メヘルガルⅣ期]]([[紀元前3500年]] - [[紀元前2600年]])で集落が放棄された。
{{main|カーリバンガン|ハラッパー|コト・ディジ}}
ハラッパーI期([[紀元前3300年]] - [[紀元前2800年]]、[[ラーヴィー期]]{{Refnest|group="†"|[[ラーヴィー期]]の名称は{{仮リンク|ラーヴィー川|en|Ravi River}}に由来する。}}には、[[パンジャーブ]]地方の{{仮リンク|ラーヴィー川|en|Ravi River}}河岸で[[ハラッパー|ハラッパー文化]]が、[[ラージャスターン]]地方の[[ガッガル・ハークラー川]]河岸で[[カーリバンガン|カーリバンガン文化]]が、それぞれ始まった。それに続くハラッパーII期([[紀元前2800年]] - [[紀元前2600年]])は、[[シンド]]地方で[[コト・ディジ|コト・ディジ文化]]が始まった。
{{節スタブ}}
=== 統合期(紀元前2600年 - 紀元前1900年)<!--Integration Era--> ===
[[画像:Indus_Valley_Civilization,_Mature_Phase_(2600-1900_BCE).png|サムネイル|300px|紀元前2600–1900年時点におけるインダス文明の推定範囲。]]
{{main|ハラッパー|モヘンジョダロ|ロータル|ドーラビーラ}}
狭義のインダス文明はこの統合期を指す。ハラッパーIIIA期([[紀元前2600年]] - [[紀元前2450年]])、ハラッパーIIIB期([[紀元前2450年]] - [[紀元前2200年]])、ハラッパーIIIC期([[紀元前2200年]] - [[紀元前1900年]])の三期に区分される。
{{節スタブ}}
=== 滅亡 ===
[[画像:Indo-Iranian origins.png|サムネイル|300px|BMACと他の文化との位置関係<br>[[バクトリア・マルギアナ複合]](BMAC)<br>[[アンドロノヴォ文化]](Andronovo)<br>{{仮リンク|Yaz文化|en|Yaz culture}}(Yaz)<br>{{仮リンク|ガンダーラ墓葬文化|en|Gandhara grave culture}}(Swat)<br>{{仮リンク|H墓地文化|en|Cemetery H culture}}(Cemetery H)]]
{{see also|インダス川#歴史}}
インダス文明の衰退や滅亡については次のような諸説がある。
;砂漠化説
:インダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。インダス文明が消えたのは、この[[砂漠化]]によるのではないかという説がある。
砂漠化の原因としては、[[紀元前2000年]]前後に起こった[[気候変動]]があげられている。
[[大西洋]]に広がる[[低気圧]]帯は、一時[[北アフリカ]]と同じ緯度まで南下し、さらに[[アラビア]]・[[ペルシア]]・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。
しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の[[季節風]]も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような[[乾燥地帯]]にしてしまった、という説である。
衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、気候の変動を重視する説は見直されている。
:インダス文明が[[森林]]を乱伐したために砂漠化が進行したという説もある。
しかし、乾燥化説については、[[ラクダ]]の骨や乾地性の[[カタツムリ]]が出土していること、[[綿]]の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、[[煉瓦]]を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早い[[タマリスク]]などの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。
;河流変化説
:紀元前2000年頃に地殻変動が起こり、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説。
インダス遺跡はインダス川旧河道の[[ガッガル・ハークラー川|ガッカル=ハークラー]]涸河床沿いに分布している。
;気候変動説
:気候変動によってインダス文明が衰退したとする説である。
4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬[[モンスーン]]が弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。
こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。
2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールの{{仮リンク|ララ湖|en|Rara Lake}}を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした{{Sfn|八木ほか|2013|p=第4章}}。
また、遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。
これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする{{Sfn|長田編|2013|p=終章}}。
:また、インダス文明期には、海面が現在よりも2 [[メートル|m]]ほど高かったという調査がある。これにより遺跡の分布を調べると、インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる{{Sfn|宮内, 奥野|2013|p=第3章}}。
そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。
;アーリア人侵入説
{{see also|アーリア人|アーリアン学説}}
:インダス文明滅亡の原因は古くから論争があり、[[第二次大戦後]]には{{仮リンク|モーティマー・ウィーラー|en|Mortimer Wheeler|label=M.ウィーラー}}による[[アーリア人]]侵略説をはじめとする外部からの侵略説が唱えられた。
発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。
また、『[[リグ・ヴェーダ]]』などの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、[[層位学的研究法|層位]]関係を考えずに地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではなかった。
その他、虐殺跡とされた人骨には外傷の形跡がなく、アーリア人の侵入とインダス文明衰退の年代には相違があり、『リグ・ヴェーダ』の記述の史実性にも問題が指摘され、現在では否定されている{{Sfn|長田編|2013|p=13}}。
:日本においても第2次世界大戦前にアーリアン学説を補強する学説が発表された。
この説では、インダス文明は[[南インド]]を中心に暮らしている[[ドラヴィダ人]]の祖先によりつくられたと推定されている{{Sfn|佐原|1943|pp=432-433}}。また、ドラヴィダ人は、[[紀元前13世紀]]に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり{{Sfn|神谷|2003|p=}}先住民族であるドラヴィダ族を滅ぼしてヴァルナという身分制度を作り上げたという説がある。
;核戦争説
{{see also|古代核戦争}}
これはインダス文明は核戦争により滅んだという説である。理由はいくつかある。
インダス文明の中心遺跡[[モヘンジョダロ|モヘンジョ=ダロ]]は「死の丘」を意味している。ここで何かがあったと推測でき、遺跡の近くの人骨からは通常の約50倍の放射能が検出された。また、1945年にアメリカの核実験によってできた人工鉱物の「トリニタイト」が遺跡の近くで発見され、また、遺跡の建物などからは一瞬で超高温の炎を浴びた痕跡が発見されて、核爆発があった証拠であると主張されている。
=== 滅亡後の地方化期(紀元前1900年 - 紀元前1300年)<!--Localisation Era--> ===
[[画像:Rigvedic geography.jpg|サムネイル|300px|[[ヴェーダ期]]の地理<br>{{仮リンク|ガンダーラ墓葬文化|en|Gandhara grave culture}}(Swat)<br>{{仮リンク|H墓地文化|en|Cemetery H culture}}(Cemetery H)]]
{{main|[[ヴェーダ期]]}}
ヴェーダ期(紀元前1700年 - 紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市が{{仮リンク|H墓地文化|en|Cemetery H culture}}となった事を示す墓地が発見されている。この墓地からは[[火葬]]の跡が発見されており、この文化から[[ヴェーダの宗教]]([[紀元前1000年]] - [[紀元前500年]])が形成されたと考えられている。
ヴェーダの宗教は、後の[[バラモン教]]や[[ヒンドゥー教]]([[:en:Shaivism]])の原型である。この文化と同時期に栄えた{{仮リンク|赭色土器文化|en|Ochre Coloured Pottery culture}}<!-- しゃしょくどきぶんか。黄土色土器文化とも -->は、[[ラージャスターン州|ラージャスターン]]から[[ヒンドスタン平野]]へ進出している。
=== 十王戦争から十六大国まで(紀元前12世紀 - 紀元前6世紀) ===
{{main|十王戦争|十六大国|キュロス2世#中央アジア征服|ガンダーラ|[[カンボージャ国|カンボージャ]]}}
{{節スタブ}}
=== 発見の経緯 ===
文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、[[イギリス帝国|イギリス支配下]]の19世紀になってからのことである。
[[1826年]]に探検家の{{仮リンク|チャールズ・マッソン|en|Charles Masson}}がハラッパーにある周囲約5 kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「[[紀元前326年]]に[[アレクサンドロス3世]](大王)を[[ヒュダスペス河畔の戦い|撃退]]した[[ポロス (古代インドの王)|ポルス王]]の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。
1831年にも[[アレクサンダー・バーンズ]]が調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。
イギリスは既に18世紀にアジア協会を設立しており、インドに赴任していた元軍属の[[アレキサンダー・カニンガム|アレクサンダー・カニンガム]]が同協会の元でインドおよびパキスタンの考古学の基礎を築くことになる。
カニンガムは[[1853年]]・[[1856年]]に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した{{Sfn|近藤|2000|pp=150-151}}。カニンガムは[[1862年]]、[[インド考古局]]の発足に尽力し初代局長となるが、この頃から[[インドの鉄道|鉄道]]敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。
その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる{{Sfn|近藤|2000|pp=152-153}}。
== 遺跡 ==
[[画像:IVC Map.png|サムネイル|300px|インダス文明諸都市の分布]]
[[画像:Dholavira1.JPG|サムネイル|200px|[[ドーラビーラ]]]]
[[画像:Dholavira_Layout.jpg|サムネイル|200px]]
{{main|{{仮リンク|インダス文明遺跡のリスト|en|List_of_Indus_Valley_Civilization_sites}}}}
都市の規模は[[メソポタミア]]のものよりも小さく、モヘンジョダロとハラッパーが1 km四方を超える規模をもち、メソポタミアの小都市に匹敵する規模であった。都市には2種類あり、城塞と市街地が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、城塞と市街地が分離しているタイプ(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。主な遺跡は以下の4地域に集中している。
# インダス川流域([[ハラッパー]] 分離型、76[[ヘクタール]]:周囲を含む全体推定値150ヘクタール、[[モヘンジョダロ]] 分離型、83ヘクタール:周囲を含む全体推定値125 - 200ヘクタール)
# ガッガル・パークラー川流域({{仮リンク|ラーキーガリー|en|Rakhigarhi}} 105ヘクタール:分離型、{{仮リンク|バナーワリー|en|Banawali}} 16ヘクタール:一体型、[[カーリバンガン]] 12.1ヘクタール:分離型)
# マクラーン地方({{仮リンク|ソトカー・コー|en|Sokhta Koh}} 1.5ヘクタール:分離型、{{仮リンク|ソトカーゲン・ドール|en|Sutkagan Dor}} 1.95ヘクタール:分離型)
# [[グジャラート]]地方(北西インド、どの都市も一体型。[[ロータル]] 7ヘクタール:沐浴室の列、基壇、[[ドーラビーラ]]52ヘクタール:居住地域部分のみ19ヘクタール、{{仮リンク|スールコータダー|en|Surkotada}} 0.72ヘクタール、{{仮リンク|クンターシー|en|Kuntasi}} 1.56ヘクタール:穀物貯蔵室、土器・銅の工房、{{仮リンク|バーバルコート|en|Babar Kot}} 2.7ヘクタール、{{仮リンク|ロジュディ|en|Rojdi}} 7ヘクタール:大型方形建物、{{仮リンク|カーンメール|en|Kanmer}} 1.25ヘクタール:大型方形建物)
城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある場所に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている{{Sfn|長田編|2013|p=405}}。
インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない{{Sfn|小磯|2006|pp=15-17}}。
== 言語 ==
インダス文明の言語は原[[ドラヴィダ語]]に属すると推定されている。
;文字
:[[インダス文字]]は現在でも解明されていない。統計的分析ができる長文や、[[ロゼッタ・ストーン]]のように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。一方で、インダス式紋章は文字ではないという説もあり、論争が続いている{{Sfn|児玉|2013|p=第9章}}。
;ドラヴィダ運動
:[[:en:Iravatham Mahadevan|Iravatham Mahadevan]]は、[[インダス文字]]の分析から[[ハラッパー語]]が[[ドラヴィダ語]]に由来するとするドラヴィダ語仮説を提唱しているが、[[:en:Shikaripura Ranganatha Rao|Shikaripura Ranganatha Rao]]はドラヴィダ語仮説に反対している。この対立の背景には{{仮リンク|自己崇拝運動|en|Self-Respect Movement|label=ドラヴィダ運動}}の政治的な側面からの影響もあった。
== 宗教 ==
{{main|w:Proto-Indo-Iranian religion}}
[[画像:Dancing Girl of Mohenjo-daro.jpg|サムネイル|180px|モヘンジョダロ出土の踊り子の塑像]]
信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの城塞には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状の施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた[[沐浴]]場と考えられている。
一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、城塞の南区や市街地の東側の[[遺丘]]の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられる[[テラコッタ]]女性像や{{仮リンク|リンガム|en|Lingam}}と呼ばれる石製品が出土しない。
また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。
=== 埋葬 ===
埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する[[土坑墓]]を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥[[伸展葬]]が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合は銅製の柄鏡も出土している。重要な点として、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。
== 行政 ==
インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のいずれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる[[度量衡]]の統一や土器の形や文様などにも現れている。宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。
[[排水溝]]設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。[[土器]]や[[ビーズ]]などの主だった出土品に均質性が見られる。
インダス文明の都市は、信仰・宗教世界を運営・統括する人々の宗教的・政治的中枢ではなかったのではないかという説がある{{Sfn|小磯|2006|p=21}}。
== 経済 ==
[[画像:Bos taurus indicus.jpg|サムネイル|250px|コブウシ]]
=== 農業 ===
インダス文明は、夏作物、冬作物、夏と冬の混合作物の3地域に大きく分かれる。インダス川の流域は冬作物地域であり、氾濫による肥沃な土壌を利用した[[氾濫農耕]]を行った{{Sfn|大田, 森|2013|p=第11章}}。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の堰を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。夏作物地域では、モンスーンを利用した農耕を行っていた{{Sfn|ウェーバー|2013|p=第7章}}。
=== 牧畜 ===
現在でも家畜として飼育されている[[コブウシ]]は、インダス文明の土器の模様、印章、[[土偶]]などのモチーフにも多数使われている。コブウシよりは少ないがコブのないウシも描かれており、系統の異なるウシが飼育されていた可能性がある{{Sfn|木村|2013|p=第8章}}。
=== 商業 ===
水運を広く利用し、装飾品などがメソポタミアまで輸出されて盛んな商業活動が行われていた。石製、銅製の各種の[[分銅]]や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行い、メソポタミアではインダス文明は{{仮リンク|メルッハ|en|Meluhha}}と呼ばれていたと推定されている。メソポタミア地域やペルシア湾でも、インダス式印章が発見されている。
工芸品の交易ルートには原石の採掘、工芸品の生産、流通などに専業の集団が従事し、インダス文明の経済基盤の1つだったと考えられている。現在のカンバートのように各工程の職人や商人が全体を把握しなくても運営されるようになっており、王や神官のような行政による強力な統括がなくとも成立していたのではないかとも考えられている{{Sfn|遠藤|2013|p=第6章}}。
== 文化 ==
=== 技術 ===
鉄は知られず、[[青銅器]]を使った。都市計画で知られるように建築技術に優れており、建築物には縦:横:厚みの比が4:2:1で統一された焼成[[煉瓦]]が広く使われている。服は[[染色]]された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。
=== 工芸 ===
[[画像:Amazonita1.jpeg|サムネイル|アマゾナイト]]
[[装身具]]、主として[[紅玉髄]]製ビーズの製造が有名である。腐食ビーズとも呼ばれる紅玉髄製ビーズに白色の文様を入れる技術を持っており、樽型ビーズはメソポタミアへの主要な輸出品の1つでもあった。その他に腕環、足環、ペンダントなどが見つかっている。高い加工技術を要する極小の[[マイクロビーズ]]も作られており、絹の糸で連結させていた。これは中国での最古の絹の利用と同時期とされ、前2世紀以降の[[シルクロード]]より前にインダス文明で別個に絹の利用が発達していたとされる。工芸の素材としては、金属の他に貝、動物の骨や歯、[[テラコッタ]]、[[ファイアンス]]、[[瑪瑙]]、[[ラピスラズリ]]、[[碧玉|ジャスパー]]、[[アマゾナイト]]などが使われていた。動物の骨や歯は、ヤギ、ヒツジ、コブウシ、レイヨウの他に少数ながら象牙やサイの角も使われている{{Sfn|遠藤|2013|p=第6章}}。
=== インダス式印章 ===
[[画像:IndusValleySeals.JPG|サムネイル|250px|インダス式印章]]
都市遺跡からは、多くのインダス式印章が出土する。[[凍石]]製で、印面は3 - 4 [[cm]]の方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である[[ウシ|牛]]が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「[[シヴァ]]神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある{{Sfn|遠藤|2013|p=第6章}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
{{Notelist|2|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3|}}
== 参考文献 ==
* [[上杉彰紀]]「[http://southasia.world.coocan.jp/uesugi_2008b.pdf インダス・プロジェクトによる インダス遺跡の発掘調査 - 南アジアへの招待]」総合地球環境学研究所インダス・プロジェクト年報、2007年。
* {{Citation| 和書
| author1 = スティーヴン・A・ウェーバー
| chapter = インダス文明の衰退と農耕の役割
| ref = {{sfnref|ウェーバー|2013}}
| publisher = [[京都大学学術出版会]]
| series =
| pages =
| title = インダス 南アジア基層世界を探る
| editor1 = [[長田俊樹]]
| year = 2013
| isbn = 9784876983001
| NCID = BB13946221
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* {{Cite journal|和書|author=[[宇野隆夫]] |url=http://id.nii.ac.jp/1368/00002514/ |title=インダス文明の都市と王権 |journal=王権と都市 |publisher=国際日本文化研究センター |volume=33 |pages=1-21 |year=2008 |ISSN=09152822 |doi=10.15055/00002514 }}。
* {{Citation| 和書
| first = 仁
| last = 遠藤
| author-link = 遠藤仁 (考古学者)
| chapter = 工芸品から見たインダス文明期の流通
| ref = {{sfnref|遠藤|2013}}
| publisher = 京都大学学術出版会
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[大田正次]]
| author2 = [[森直樹 (農学者)|森直樹]]
| chapter = インド冬作穀類の起源と変遷
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| publisher = 京都大学学術出版会
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| title = インダス 南アジア基層世界を探る
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* {{Citation|last=神谷|first=信明|year=2003|title=On verna system in India|pages=65-72|url=https://doi.org/10.24516/00000384|journal=岐阜市立女子短期大学研究紀要|volume=53|publisher=岐阜市立女子短期大学|quote=|naid=110004470877|ncid=AN10208264}}
* {{Citation| 和書
| author1 = [[木村李花子]]
| chapter = インダス文明の牧畜
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[小磯学]]
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| title = 南アジアの歴史 - 複合的社会の歴史と文化
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| editor2 = [[中村平治]]
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| author1 = [[児玉望]]
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| publisher = 京都大学学術出版会
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| title = インダス 南アジア基層世界を探る
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|title=NHKスペシャル四大文明・インダス
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|title=印度の原住民
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|periodical=史学
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|publisher=[[三田史学会]]
|naid=110007472334
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}}
** 人種の分類については当時であっても「今日ではリスリーの分類と所論とをそのまま採用することは出来なくなつたが」ともしている。
* {{Citation|和書
| author1 = ロベール・ダブルー
|year= 1978
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|pages= 120-129
|periodical= 世界最後の謎-失われた文明を求めて
|publisher= 日本[[リーダーズ・ダイジェスト]]
}}
* {{Citation| 和書
| first =
| last =
| author-link =
| chapter =
| ref = {{sfnref|長田編|2013}}
| publisher = 京都大学学術出版会
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| title = インダス 南アジア基層世界を探る
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| year = 2013
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* {{Citation| 和書
| first = 俊樹
| last = 長田
| author-link =
| chapter =
| ref =
| publisher = 京都大学学術出版会
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| pages =
| title = インダス文明の謎 古代文明神話を見直す
| year = 2013
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[宮内崇裕]]
| author2 = [[奥野淳一]]
| chapter = 海岸線環境の変化と湾岸都市の盛衰
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| author1 = [[八木浩司]]
| author2 = [[松岡裕美]]
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== 関連項目 ==
{{Colbegin}}
* [[エジプト文明]]
* [[メソポタミア|メソポタミア文明]]
* [[黄河文明]]
* [[メヘルガル]]
* [[新石器時代]]
* [[先史時代]]
{{Colend}}
== 外部リンク ==
{{commons category|Indus Valley Civilization}}
{{wikivoyage|Mohenjo-daro|モヘンジョダロ遺跡{{en icon}}}}
*[http://www.nationalmuseumindia.gov.in/ ニューデリー国立博物館]
{{古代文明}}
{{典拠管理}}
{{デフォルトソート:いんたすふんめい}}
[[Category:インダス文明|*]]
[[Category:インドの考古学]]
[[Category:先史アジア]]
|
2003-06-22T20:44:34Z
|
2023-08-28T01:18:24Z
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相振り飛車
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相振り飛車(あいふりびしゃ)は、将棋の戦法・戦型の一つで、二人の対局者が共に振り飛車にするもの。
両対局者が振り飛車党の場合に発生しやすいが、相居飛車のような展開になりやすいことから、居飛車党が振り飛車党相手に採用することもある。一方で振り飛車党の中でもこの戦形を避けて相手が振り飛車にした際に自分は居飛車を指す棋士も多い。
両対局者が互いに振り飛車にしないと発生しない戦型なので、定跡化が遅れており、未知の要素が大きいともいえる。
2000年以降の相振り飛車の特徴として、ひとつには▲7六歩△3四歩▲6六歩で△3三角という出だしが増えてくる。4手目△3三角では、以前は△3二飛が主流であった。この△3三角は向かい飛車にする狙いで、棋士の中には取り入れる者もいたという程度であったが、その後△3二飛と人気を二分するほどになるほど、後手のオープニングに変化が起こり始める。
他には棋士が指す相振り飛車における先手の一番人気は向かい飛車であるが、次には四間飛車であった。これは流行している現代将棋のひとつに角交換の将棋がある。一手損角換わりなど角交換型の将棋が見直され、さらに横歩取り8五飛戦法など、角交換から戦いが始まる戦法が大流行し、この影響から相振り飛車で先手が▲6六歩と角道を止めるのを見て、後手が飛車を振る戦術が用いられていく。こうすると先手だけ角道が止まっており、先手はどこかで▲6五歩と突きたいが、この歩を突くと相手からの角交換になりやすい。さらに角交換したとき、角打ちのスキがない形にしたいとし、中飛車や三間飛車に比べてそのスキが少ないのが向かい飛車と四間飛車ということとなる。角打ちに最も強いのが向かい飛車、次いで四間飛車となり、藤井猛によると三間飛車が一番角打ちに注意しなければいけない振り場所という。
こうした事情があるため、相振り飛車の人気は1990年代には向かい飛車と四間飛車に集中するが、どうせ飛車を振るなら相手玉に近いほど有利という考えもあり、一番人気が向かい飛車、次が四間飛車となっている。
また向かい飛車であれば先手の囲いの制限が可能な点もあり、たとえば後手ならば次に△2二飛から2四歩~2五歩とスムーズに飛車先を伸ばすことが可能である。したがって先手の囲いを矢倉に限定できることになる。一歩交換に乗じて矢倉に組み上げるのと、自らこれを構築するのでは、手間がまるで違ってくる。そして相手の囲いが先にわかるということは、攻撃形を構築しやすいということでもある。
このような理由から、4手目△3三角(+向かい飛車)の場合は、先手矢倉対後手美濃囲い、または相矢倉の対抗形になることが多くなる。
一方、相振り飛車の三間飛車は2010年代から角道を止めずかつ機動力を活かした攻め筋が発見され始め、お互いが角道を止めない三間飛車にする将棋も多くなっていった。
相三間飛車になれば、先手からみて4六歩や3八銀で美濃囲いを目指す、2八銀の金無双、7六飛と浮き飛車にする、2010年代後半から現れた3八玉などが指されている。
そして4六歩と突く形に対しては、2018年度の升田幸三賞の候補に挙がった阿部健治郎考案の阿部健流と呼ばれる構想がある。
先手の4六歩は4七金型にして3筋の交換を防ぎ、美濃囲いを目指す狙いがあるが、そこで後手から☖8八角成☗同銀☖2二銀といきなり角交換するのが、阿部健流の構想である。ここから例えば先手が7七銀とすると☖6五角で後手優勢になるので、☗4六歩と突いた先手はしばらく玉形を整備することになるが、その間に後手は金無双にして☖3三銀〜2二飛と攻撃陣を急ぐのが狙いの構想である。
形勢判断としてはこれからの将棋であるが、後手番ながら主導権が握りやすいのが魅力である。
相三間飛車で先手3八玉、後手7二玉とする組み方も試されているが、このメリットは金無双や美濃、矢倉そして穴熊などの含みを残していることである。
以下☖3六歩☗同歩☖同飛☗3七歩☖3四飛に☗7四歩と決戦に進んだ将棋がしばしば指されている。
類似の局面として、平成27年2月の順位戦C2組、☗門倉啓太vs☖宮本広志戦があるが、先手が☗7六飛と浮いてから☗7四歩と交換した関係で先後が入れ替わる。ここで後手が☖3六歩。
以下☗3六同歩に、☖8八角成☗同銀☖5五角☗7七角☖1九角成☗1一角成☖2九馬☗2一馬☖1九馬☗3八銀☖2五桂☗2九桂☖3四飛と進めた。以下☗3五香には☖1四飛から2二香などがある。
この後手が進めた☖3六歩(先手ならば☗7四歩)から角交換しての5五角は、相三間飛車では現れやすい決戦策である。
この他に、平成28年1月の朝日杯将棋オープン戦、▲藤井猛vs△戸辺誠戦で、後手の戸辺が3筋の歩交換から△3四飛と浮き飛車に構えると、先手の藤井は▲2二角成から▲4八金として、5六角の筋を見せて相手の右銀を使いづらくするとともに▲7四歩から5五角を見据える指し方をみせた。
▲7六歩△3四歩に▲6八飛とする先手角道オープン四間飛車に対して後手が△3五歩や2四歩として相振り飛車に誘導する指し方も2000年以降指されている。
2四歩は角交換になっても損がない手であり、早くの▲2八銀などならば、場合によっては後手は居飛車+銀冠にする含みもある。
3五歩ならば先手はここで▲2二角成△同銀▲8八銀とし、お互いが向かい飛車に振り直して戦う指し方が多くみられたが、平成27年8月の朝日杯オープン戦、▲室岡克彦vs△藤井猛戦のように居玉にしておいて相手からの速攻を牽制しつつ攻撃体制を進める指し方に誘導すると、先手の得が見出だしにくくなった。
3五歩に対する先手の他の指し方として、▲3八金もある。以下△3二飛とするならばそこで角交換から▲6五角を狙う手があるので、後手は△4四歩と角道を止めて三間飛車にすることになるが、先手も形を早くに決めてしまう嫌いもある。
▲7六歩△3四歩に▲6八飛もしくは▲7五歩に△1四歩も良く指されている。これは相振り飛車と居飛車を含みにする手で、相振り飛車はそのような駆け引きの末に現れることも多い。
相振り飛車では中飛車は少し分が悪いとされていた。これは相手の攻撃陣形が四間~向かい飛車であると、自陣が玉頭に来るのに対し、中飛車であると自分の攻撃陣形が相手の玉から遠いため、勝ちづらいとされてきたからである。ところが居飛車の構えで駒組を進め、相手が四間飛車や向い飛車に対して飛車を5筋に移動させる英春流や、中飛車左穴熊をはじめ、玉を左に囲う中飛車の戦い方の発見から、中飛車での相振り飛車も見直されてきた。左玉中飛車の相手は穏やかに美濃や穴熊に囲う指し方もあるが、左辺の囲いを十分に組ませないようにする駆け引きも様々に行われている。
平成31年4月の王将戦一次予選▲今泉健司vs△谷川浩司戦では、先手今泉が7九金からエルモ囲い、後手谷川も三間飛車3四飛型から△7四歩~7三銀、さらに玉を4二に移動させて飛車を地下鉄飛車から8筋に展開する含みをみせている。
平成25年1月の朝日杯オープン戦▲菅井竜也vs△丸山忠久戦では、後手向かい飛車から2四歩~2五歩に対し、先手は2八飛に振り直し、居飛車穴熊に組んで快勝する。
2010年代後半からはこの形を巡って早くに駆け引きが行われることも増えている。例えば、すぐに飛車を振らずに左銀を4三等に進めて様子をみて、先手の出方によって飛車を振るか、居飛車にするかを選ぶ作戦とするなどである。 平成31年2月の順位戦B2、▲北浜健介vs△田村康介戦では、先手は3八銀~4六歩で居飛車でも振り飛車でも対応しやすい形を目指し、後手は6二銀で居飛車を明示したかと思えば7四歩~7三銀~2二飛で相振り飛車に転じている。先手はそれをみてから玉を左ではなく4八から美濃に納めている。
振り飛車には、中飛車・四間飛車・三間飛車・向かい飛車の4つがあるため、相振り飛車の戦型は飛車を振る筋の組み合わせによって多様なものとなる。
相振り飛車において中飛車については、先手後手両者とも中央に飛車を振って中飛車にする相中飛車というのがあり、ほかの相振り飛車戦型と比較するとお互いが中央での勢力拮抗つまりイーブンという特殊な戦型であり、非常に独特の戦術とみなされる。これは相振り飛車ではできるだけ玉に近く迫っている向かい飛車や三間飛車に構えたほうが有利であるとみなされているためで、またお互いの飛車が中央で向かい合うので、中央からの仕掛けが成立することはないなど攻め口が少なく、千日手になりやすいこともあって、プロ棋戦では相中飛車の実戦例は数例みられる程度で非常に少なく、アマチュア将棋独特のものである。
もともと居飛車対振り飛車の対抗形において居飛車側が中央に飛車を移動させて振り飛車側の中央からの攻めに対処したり、反撃したりする指し方は以前からあった。そしてアマチュア棋戦では中飛車党同士であると、しばしば戦型は必然的に相中飛車という戦型になることもある。またインターネット対局などで一方が対中飛車に自信がない場合に、その場しのぎで相中飛車にする場合などもみられる。
プロ棋戦では非常にまれなため、杉本昌隆『これが決定版!相中飛車徹底ガイド』(2017年、マイナビ将棋BOOKS)にあるコラム(1)によると、同著を刊行するにあたって自身が主催する教室の生徒に対局をしてもらってデータや実績を集めている。これによれば、相中飛車戦では囲いは相美濃が圧倒的に多いとしている。杉本はプロ同士ならば持ち時間もあってバランスを重視することから金無双が多くなるとみている。同書では第1章~第3章は、相美濃の戦い、第4章では他の囲い方を扱っている。相手が囲いを後回しにして端歩を先に伸ばし、どのような囲いをするか分からない場合は、端歩よりも飛車先つまり相手玉頭の歩突きを優先して指すのが無難である。
杉本の著書では、基本的に端歩は突き越しにしている。また、基本図までの指し手順は先手初手を▲5六歩、後手の2手目を△3四歩としており、以下▲5八飛△5四歩に5手目に▲7六歩、6手目に△5二飛としている。
そして図で紹介した戦型を提示している。1-2図が主に先手が後手に角交換をさせる「相美濃▲7七角型」で、相中飛車基本図から、互いに美濃に囲い合い、端歩を詰め合って、▲7七角とする。基本図から△3三角など、後手が戦術としてマネ将棋を取り上げている。これは相中飛車の先後同型は一手早く指せる先手側が理屈の上で有利という感覚があるが、後手に実際に指されてみると意外に厄介であるためで、相中飛車のお互いが角道を開けている状態では先手側から▲6八銀と左銀を活用させるには、▲7七角とするか先手から交換するかであるが、△7七同角成▲同桂でやはり▲6八銀には△8八角がある。仮に先手は飛車を三間か向かい飛車などに振りなおすと、左銀が前線に加われない大駒だけの攻めとなっており、また後手から好機に中央から動かれることを念頭にして一手一手を慎重に指せば、対する後手は相手と同じ手を時間をかけずに追随するだけである。これは持ち時間が短い将棋であれば持ち時間に差が開き、焦る先手の疑問手を咎めるオウム指し戦略として知られる。
ただし続けた場合であってもこの戦型では▲4六銀に△6四銀では▲4五銀があるので△4四銀となって途中で真似が続かなくて、先手が▲6六角-▲7七桂(▲9四歩の端攻めをみている)の好形を得ることができるとしている。
また▲7七角型では基本図から後手に3つのパターンを紹介している。ひとつは△7七角成~△4二銀の場合。これには先手は▲8八飛が好手としている。他には基本図から△7七角成~△3三桂の場合で、先手は▲6六角の先着を念頭にする。▲6六角の位置は後手の9三の地点・敵陣の端をにらむ位置であり、端攻めを念頭にしている布陣。さらに基本図から△7七角成~△4四角と、後手が好所の角を先着する場合については先手は▲4六歩~▲4五歩から角を追って▲4六角を実現させるのを念頭にして進めることになる。
1-3図が主に先手から角交換する「角交換▲6八銀型」で、相中飛車基本図から互いに美濃に囲い合い、端歩を詰め合って▲2二角成~▲6八銀とする。自ら角交換することで手損になるが、左銀の差で先手は作戦勝ちを目指す指し方であり、先手は▲4六銀と活用できるが一歩で後手は△6四銀とはできずに△4四銀になること、つまり好所の△4四角が打てないことを作戦格子としている。杉本はこれについても後手の作戦パターンを3つ提示している。ひとつは基本図から▲6六角とする作戦で、互いに左の銀桂を活用して▲6六角の好位置に先着するのであるが、後手から先攻する手段と、先手のカウンターを紹介している。他には基本図から▲4六銀を後手が阻止作戦で、図から△4四角と先着して左銀を▲7七銀と上がらせようとしてくる手段。さらに基本図から先手の角成に後手△2二同銀ではなく△2二同飛として飛車を転換する指し方などを提示している。
1-4図は相中飛車基本図から、互いに美濃に囲い合い端歩を詰め合う他に▲7五歩△3五歩とお互いの三間筋を伸ばし、先手が▲7八飛とした戦術で、相中飛車から三間飛車に互いに三間に振り直す手段を紹介している。この戦型では中央の戦いは少ないため、飛車は機を見て振り直すのが前提となりまた端攻めには特に注意を配る必要もあり、この辺りは他の相振飛車戦と変わらないが、通常の相三間と違い、互いに5筋の歩を突いているので、歩交換から5四の横歩を取る筋が決め手になったり、逆に▲5四飛と横歩をすぐ取ると△7六角からの反撃があるなどカウンターを喰らったりすることがあるとしていることからの戦術で、5四の歩を取る狙いは▲5五角の筋が可能となることである。
これには5パターンの変化を紹介しており、変化図から中飛車からお互い相三間にした布陣から△3二飛▲7四歩△同歩で、以下▲同飛から▲5四飛の狙いがあり、互いに5筋を突いている美濃囲いであるのが通常の相三間と違うために生じる手段であるが、すぐには△7六角の筋での反撃が生じている。このため、変化図から△3二飛▲5八金左△5二金左としてから▲7四歩とすると、今後は△7六角の筋がない。また、変化図から▲8五歩・△2五歩型三間にする手段もあり、これは互いに8筋・2筋の歩を伸ばし、7筋・3筋の歩も伸ばしてから相三間にした場合で、▲7四飛から▲2四飛の展開を見込んでいる。この中飛車→相三間は、基本的に先手ペースになりやすいため、「相三間」ではなく、後手中飛車不動型・先手のみ三間から、後手が相三間にせず△5五歩と仕掛ける指し方、他に互いに端の突き越し、先手の9筋突き越しに対して、後手は1筋を突かず先に三間に振って先攻するつまり相三間ではなく、後手のみ三間にする指し方などを紹介している。
1-5図の向かい飛車転換型は、金無双や穴熊など相美濃以外の囲いの対抗で、これはプロ棋士なら仮に相中飛車を指すなら5筋、先手なら5七の地点が守られているので、飛を別筋に転回しやすいことから金無双を選択するということからである。
基本図は相金無双で、相向飛車に振り直すスタイルとなるが図の布陣では金無双の玉頭を突く▲3六歩として、相手からの銀交換を阻止しておく必要がある。他に紹介している布陣は、▲5六飛型は△3三角~△2二飛の作戦に対し、▲4六銀から▲5五歩△同歩▲同銀~▲5六飛で作戦勝ちの狙いがある。この他▲金無双vs△美濃、▲美濃(角交換~▲6八銀~▲4六銀~▲6六角を設置してスズメ刺し)vs△穴熊作戦が実現できる。また▲金無双vs△穴熊で、金無双は5七に金の利きがあるので、▲4六銀型にせずとも図5-1aのように低い陣形からのスズメ刺しが可能となるとしている。
中飛車での相振飛車、たとえば中飛車vs三間での中飛車左穴熊という作戦があるように、相中飛車でも左玉に構える手段もある。後手がこの作戦を行ってきた場合杉本は△4二玉を見たらすぐに角交換するのを勧めているが、これは後手の穴熊や左美濃を阻止する意味と、左銀の進出を素早く行うのと、駒の偏りを衝いての▲9六角(△9四角)の狙いがある。左玉では右銀が上がるため、後手なら△7四歩としてから△6二銀とするのが特有の手筋になる。単に△6二銀は▲8二角を喰らうためで、△7四歩~△6二銀としていれば、▲8二角には△7三角がある。
一方で角道を開けない指し方もある。角道が開いていないほうが、序盤から左銀を先手番なら6八から5七、後手番であると4二から5三と活用できるメリットがあるためで、相手がこうした指し方をしてきたの場合は1-6図のように▲6六角から▲7七桂の好形を組むのが一つの例としてある。また先手が角道を開けずに1-7図のように素早く左銀を4六までもっていき、△4四銀を決めさせておいてから▲7六歩から▲6六角~7七桂を築く手段もある。
角道を開けない指し方では他に、銀をすばやく繰り出す「見せ槍銀」で角を端角で活用し中央に利かせる戦術もある。1-8図のような後手布陣であると先手が▲5五歩から仕掛け、以下後手△同歩に▲同銀△5四歩には▲5三角成から▲5四銀~▲5三銀打~▲6三銀成があり、このように進むと後手が受けきるのは容易ではない。
なお、相中飛車の変則的な序盤として、7手目角交換~▲5五歩~▲6五角(1-9図)と7手目角交換~▲6五角(1-10図)以下△7二銀に▲5五歩などの「筋違い角」がある。どちらも正確に指せば無理筋であるが、されたほうは知識として知っておく必要がある。駒組として後手2手目に△3四歩と角道を開けていると先手がこれを狙ってくる場合もあるが、もし初手▲5六歩に2手目に△5四歩で角道不開であれば以下▲5八飛△5二飛▲7六歩で△6二玉としておくと、前述の策を食らうことはない。以下▲5五歩△同歩▲同角には△4二銀で▲5三歩(△同飛では▲7三角成から▲5三飛成)を警戒しておく必要がある。
▲6五角もしくは△4五角という狙いは相中飛車また相美濃特有の手筋で、美濃の玉頭を向かい飛車+棒銀に攻める時に6五角なら8三の地点に利き、決め手になりやすい。逆に△6五角もしくは▲4五角で、相手の向かい飛車の飛車先に効きが向かうので、▲7八金や△3二金を活用する必要がある。
1-11図のような美濃囲いで端を受けるのは、相振飛車ではほとんど得がないので、まずやってこないとされるが、やられた場合に咎め方を知らないと相手の主張を通してしまう。
▲9六歩に△9四歩の形の咎め方について、杉本はこれには▲6六歩と角道を止めてから▲7七角から▲9五歩~▲9八飛で咎める方法を解説している。この他に▲7七角△同角成(△4四歩ならば▲6六角から▲7七桂)▲同桂から▲8八銀~▲9七銀~▲8六銀~▲9五歩といった端棒銀が知られている。この順は後手番からの▲1六歩-△1四歩の攻略でも可能である。
囲いは金無双・美濃囲い・矢倉囲い・穴熊囲い等を用いることが多い。
図のように居飛車の出だしから相手が中飛車や四間飛車の場合に飛車を振って相振り飛車に陽動する指し方もある。もちろん三間飛車や向かい飛車であっても構わない。
相振り飛車の局面では図1-1から図1-3のように自陣から相手攻撃陣に働きかける策をとることがある。図1-1は守りの銀を繰り出し、相手の攻め駒の銀と変えていく指し方で、次に▲2六銀△同銀▲同歩から▲2七玉△3五銀▲2八玉といった策を狙っている。また図1-2から図1-3のように、局面によっては自陣を盛り上げて相手の攻撃態勢を緩和するといった指し方もある。この盛り上がり型と雲隠れ玉を応用したのが、図1-4から図1-6の例で、図1-4の角道を開けない棒銀策から▲3七桂-▲2七玉の珍形を経て図1-5のように飛車を振り、図1-6に構える指し方もある。後手も△7四歩▲同歩△同銀から盛り上がれば▲6八銀△7五歩▲6六歩で次に▲6七銀から▲7六歩で位を目標に戦うなどの展開になる。先手の陣の▲2五歩-2六銀-3七桂は上部に厚く、後手陣の四間飛車であると攻めの手がかりがつくりにくくなっている。また先手陣は飛車を振ってから局面をリードするには図1-5以降は▲7五歩を早く突くことで、上部に厚い矢倉に組まれるのを防ぐ必要がある。
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"text": "3五歩ならば先手はここで▲2二角成△同銀▲8八銀とし、お互いが向かい飛車に振り直して戦う指し方が多くみられたが、平成27年8月の朝日杯オープン戦、▲室岡克彦vs△藤井猛戦のように居玉にしておいて相手からの速攻を牽制しつつ攻撃体制を進める指し方に誘導すると、先手の得が見出だしにくくなった。",
"title": "概要"
},
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"text": "3五歩に対する先手の他の指し方として、▲3八金もある。以下△3二飛とするならばそこで角交換から▲6五角を狙う手があるので、後手は△4四歩と角道を止めて三間飛車にすることになるが、先手も形を早くに決めてしまう嫌いもある。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "▲7六歩△3四歩に▲6八飛もしくは▲7五歩に△1四歩も良く指されている。これは相振り飛車と居飛車を含みにする手で、相振り飛車はそのような駆け引きの末に現れることも多い。",
"title": "概要"
},
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"text": "相振り飛車では中飛車は少し分が悪いとされていた。これは相手の攻撃陣形が四間~向かい飛車であると、自陣が玉頭に来るのに対し、中飛車であると自分の攻撃陣形が相手の玉から遠いため、勝ちづらいとされてきたからである。ところが居飛車の構えで駒組を進め、相手が四間飛車や向い飛車に対して飛車を5筋に移動させる英春流や、中飛車左穴熊をはじめ、玉を左に囲う中飛車の戦い方の発見から、中飛車での相振り飛車も見直されてきた。左玉中飛車の相手は穏やかに美濃や穴熊に囲う指し方もあるが、左辺の囲いを十分に組ませないようにする駆け引きも様々に行われている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "平成31年4月の王将戦一次予選▲今泉健司vs△谷川浩司戦では、先手今泉が7九金からエルモ囲い、後手谷川も三間飛車3四飛型から△7四歩~7三銀、さらに玉を4二に移動させて飛車を地下鉄飛車から8筋に展開する含みをみせている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "平成25年1月の朝日杯オープン戦▲菅井竜也vs△丸山忠久戦では、後手向かい飛車から2四歩~2五歩に対し、先手は2八飛に振り直し、居飛車穴熊に組んで快勝する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2010年代後半からはこの形を巡って早くに駆け引きが行われることも増えている。例えば、すぐに飛車を振らずに左銀を4三等に進めて様子をみて、先手の出方によって飛車を振るか、居飛車にするかを選ぶ作戦とするなどである。 平成31年2月の順位戦B2、▲北浜健介vs△田村康介戦では、先手は3八銀~4六歩で居飛車でも振り飛車でも対応しやすい形を目指し、後手は6二銀で居飛車を明示したかと思えば7四歩~7三銀~2二飛で相振り飛車に転じている。先手はそれをみてから玉を左ではなく4八から美濃に納めている。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "振り飛車には、中飛車・四間飛車・三間飛車・向かい飛車の4つがあるため、相振り飛車の戦型は飛車を振る筋の組み合わせによって多様なものとなる。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "相振り飛車において中飛車については、先手後手両者とも中央に飛車を振って中飛車にする相中飛車というのがあり、ほかの相振り飛車戦型と比較するとお互いが中央での勢力拮抗つまりイーブンという特殊な戦型であり、非常に独特の戦術とみなされる。これは相振り飛車ではできるだけ玉に近く迫っている向かい飛車や三間飛車に構えたほうが有利であるとみなされているためで、またお互いの飛車が中央で向かい合うので、中央からの仕掛けが成立することはないなど攻め口が少なく、千日手になりやすいこともあって、プロ棋戦では相中飛車の実戦例は数例みられる程度で非常に少なく、アマチュア将棋独特のものである。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
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"tag": "p",
"text": "もともと居飛車対振り飛車の対抗形において居飛車側が中央に飛車を移動させて振り飛車側の中央からの攻めに対処したり、反撃したりする指し方は以前からあった。そしてアマチュア棋戦では中飛車党同士であると、しばしば戦型は必然的に相中飛車という戦型になることもある。またインターネット対局などで一方が対中飛車に自信がない場合に、その場しのぎで相中飛車にする場合などもみられる。",
"title": "相振り飛車の戦型"
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{
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"text": "プロ棋戦では非常にまれなため、杉本昌隆『これが決定版!相中飛車徹底ガイド』(2017年、マイナビ将棋BOOKS)にあるコラム(1)によると、同著を刊行するにあたって自身が主催する教室の生徒に対局をしてもらってデータや実績を集めている。これによれば、相中飛車戦では囲いは相美濃が圧倒的に多いとしている。杉本はプロ同士ならば持ち時間もあってバランスを重視することから金無双が多くなるとみている。同書では第1章~第3章は、相美濃の戦い、第4章では他の囲い方を扱っている。相手が囲いを後回しにして端歩を先に伸ばし、どのような囲いをするか分からない場合は、端歩よりも飛車先つまり相手玉頭の歩突きを優先して指すのが無難である。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
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"tag": "p",
"text": "杉本の著書では、基本的に端歩は突き越しにしている。また、基本図までの指し手順は先手初手を▲5六歩、後手の2手目を△3四歩としており、以下▲5八飛△5四歩に5手目に▲7六歩、6手目に△5二飛としている。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
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"tag": "p",
"text": "そして図で紹介した戦型を提示している。1-2図が主に先手が後手に角交換をさせる「相美濃▲7七角型」で、相中飛車基本図から、互いに美濃に囲い合い、端歩を詰め合って、▲7七角とする。基本図から△3三角など、後手が戦術としてマネ将棋を取り上げている。これは相中飛車の先後同型は一手早く指せる先手側が理屈の上で有利という感覚があるが、後手に実際に指されてみると意外に厄介であるためで、相中飛車のお互いが角道を開けている状態では先手側から▲6八銀と左銀を活用させるには、▲7七角とするか先手から交換するかであるが、△7七同角成▲同桂でやはり▲6八銀には△8八角がある。仮に先手は飛車を三間か向かい飛車などに振りなおすと、左銀が前線に加われない大駒だけの攻めとなっており、また後手から好機に中央から動かれることを念頭にして一手一手を慎重に指せば、対する後手は相手と同じ手を時間をかけずに追随するだけである。これは持ち時間が短い将棋であれば持ち時間に差が開き、焦る先手の疑問手を咎めるオウム指し戦略として知られる。",
"title": "相振り飛車の戦型"
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"text": "ただし続けた場合であってもこの戦型では▲4六銀に△6四銀では▲4五銀があるので△4四銀となって途中で真似が続かなくて、先手が▲6六角-▲7七桂(▲9四歩の端攻めをみている)の好形を得ることができるとしている。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また▲7七角型では基本図から後手に3つのパターンを紹介している。ひとつは△7七角成~△4二銀の場合。これには先手は▲8八飛が好手としている。他には基本図から△7七角成~△3三桂の場合で、先手は▲6六角の先着を念頭にする。▲6六角の位置は後手の9三の地点・敵陣の端をにらむ位置であり、端攻めを念頭にしている布陣。さらに基本図から△7七角成~△4四角と、後手が好所の角を先着する場合については先手は▲4六歩~▲4五歩から角を追って▲4六角を実現させるのを念頭にして進めることになる。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
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"text": "1-3図が主に先手から角交換する「角交換▲6八銀型」で、相中飛車基本図から互いに美濃に囲い合い、端歩を詰め合って▲2二角成~▲6八銀とする。自ら角交換することで手損になるが、左銀の差で先手は作戦勝ちを目指す指し方であり、先手は▲4六銀と活用できるが一歩で後手は△6四銀とはできずに△4四銀になること、つまり好所の△4四角が打てないことを作戦格子としている。杉本はこれについても後手の作戦パターンを3つ提示している。ひとつは基本図から▲6六角とする作戦で、互いに左の銀桂を活用して▲6六角の好位置に先着するのであるが、後手から先攻する手段と、先手のカウンターを紹介している。他には基本図から▲4六銀を後手が阻止作戦で、図から△4四角と先着して左銀を▲7七銀と上がらせようとしてくる手段。さらに基本図から先手の角成に後手△2二同銀ではなく△2二同飛として飛車を転換する指し方などを提示している。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
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"text": "1-4図は相中飛車基本図から、互いに美濃に囲い合い端歩を詰め合う他に▲7五歩△3五歩とお互いの三間筋を伸ばし、先手が▲7八飛とした戦術で、相中飛車から三間飛車に互いに三間に振り直す手段を紹介している。この戦型では中央の戦いは少ないため、飛車は機を見て振り直すのが前提となりまた端攻めには特に注意を配る必要もあり、この辺りは他の相振飛車戦と変わらないが、通常の相三間と違い、互いに5筋の歩を突いているので、歩交換から5四の横歩を取る筋が決め手になったり、逆に▲5四飛と横歩をすぐ取ると△7六角からの反撃があるなどカウンターを喰らったりすることがあるとしていることからの戦術で、5四の歩を取る狙いは▲5五角の筋が可能となることである。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "これには5パターンの変化を紹介しており、変化図から中飛車からお互い相三間にした布陣から△3二飛▲7四歩△同歩で、以下▲同飛から▲5四飛の狙いがあり、互いに5筋を突いている美濃囲いであるのが通常の相三間と違うために生じる手段であるが、すぐには△7六角の筋での反撃が生じている。このため、変化図から△3二飛▲5八金左△5二金左としてから▲7四歩とすると、今後は△7六角の筋がない。また、変化図から▲8五歩・△2五歩型三間にする手段もあり、これは互いに8筋・2筋の歩を伸ばし、7筋・3筋の歩も伸ばしてから相三間にした場合で、▲7四飛から▲2四飛の展開を見込んでいる。この中飛車→相三間は、基本的に先手ペースになりやすいため、「相三間」ではなく、後手中飛車不動型・先手のみ三間から、後手が相三間にせず△5五歩と仕掛ける指し方、他に互いに端の突き越し、先手の9筋突き越しに対して、後手は1筋を突かず先に三間に振って先攻するつまり相三間ではなく、後手のみ三間にする指し方などを紹介している。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1-5図の向かい飛車転換型は、金無双や穴熊など相美濃以外の囲いの対抗で、これはプロ棋士なら仮に相中飛車を指すなら5筋、先手なら5七の地点が守られているので、飛を別筋に転回しやすいことから金無双を選択するということからである。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "基本図は相金無双で、相向飛車に振り直すスタイルとなるが図の布陣では金無双の玉頭を突く▲3六歩として、相手からの銀交換を阻止しておく必要がある。他に紹介している布陣は、▲5六飛型は△3三角~△2二飛の作戦に対し、▲4六銀から▲5五歩△同歩▲同銀~▲5六飛で作戦勝ちの狙いがある。この他▲金無双vs△美濃、▲美濃(角交換~▲6八銀~▲4六銀~▲6六角を設置してスズメ刺し)vs△穴熊作戦が実現できる。また▲金無双vs△穴熊で、金無双は5七に金の利きがあるので、▲4六銀型にせずとも図5-1aのように低い陣形からのスズメ刺しが可能となるとしている。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "中飛車での相振飛車、たとえば中飛車vs三間での中飛車左穴熊という作戦があるように、相中飛車でも左玉に構える手段もある。後手がこの作戦を行ってきた場合杉本は△4二玉を見たらすぐに角交換するのを勧めているが、これは後手の穴熊や左美濃を阻止する意味と、左銀の進出を素早く行うのと、駒の偏りを衝いての▲9六角(△9四角)の狙いがある。左玉では右銀が上がるため、後手なら△7四歩としてから△6二銀とするのが特有の手筋になる。単に△6二銀は▲8二角を喰らうためで、△7四歩~△6二銀としていれば、▲8二角には△7三角がある。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一方で角道を開けない指し方もある。角道が開いていないほうが、序盤から左銀を先手番なら6八から5七、後手番であると4二から5三と活用できるメリットがあるためで、相手がこうした指し方をしてきたの場合は1-6図のように▲6六角から▲7七桂の好形を組むのが一つの例としてある。また先手が角道を開けずに1-7図のように素早く左銀を4六までもっていき、△4四銀を決めさせておいてから▲7六歩から▲6六角~7七桂を築く手段もある。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "角道を開けない指し方では他に、銀をすばやく繰り出す「見せ槍銀」で角を端角で活用し中央に利かせる戦術もある。1-8図のような後手布陣であると先手が▲5五歩から仕掛け、以下後手△同歩に▲同銀△5四歩には▲5三角成から▲5四銀~▲5三銀打~▲6三銀成があり、このように進むと後手が受けきるのは容易ではない。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、相中飛車の変則的な序盤として、7手目角交換~▲5五歩~▲6五角(1-9図)と7手目角交換~▲6五角(1-10図)以下△7二銀に▲5五歩などの「筋違い角」がある。どちらも正確に指せば無理筋であるが、されたほうは知識として知っておく必要がある。駒組として後手2手目に△3四歩と角道を開けていると先手がこれを狙ってくる場合もあるが、もし初手▲5六歩に2手目に△5四歩で角道不開であれば以下▲5八飛△5二飛▲7六歩で△6二玉としておくと、前述の策を食らうことはない。以下▲5五歩△同歩▲同角には△4二銀で▲5三歩(△同飛では▲7三角成から▲5三飛成)を警戒しておく必要がある。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "▲6五角もしくは△4五角という狙いは相中飛車また相美濃特有の手筋で、美濃の玉頭を向かい飛車+棒銀に攻める時に6五角なら8三の地点に利き、決め手になりやすい。逆に△6五角もしくは▲4五角で、相手の向かい飛車の飛車先に効きが向かうので、▲7八金や△3二金を活用する必要がある。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1-11図のような美濃囲いで端を受けるのは、相振飛車ではほとんど得がないので、まずやってこないとされるが、やられた場合に咎め方を知らないと相手の主張を通してしまう。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "▲9六歩に△9四歩の形の咎め方について、杉本はこれには▲6六歩と角道を止めてから▲7七角から▲9五歩~▲9八飛で咎める方法を解説している。この他に▲7七角△同角成(△4四歩ならば▲6六角から▲7七桂)▲同桂から▲8八銀~▲9七銀~▲8六銀~▲9五歩といった端棒銀が知られている。この順は後手番からの▲1六歩-△1四歩の攻略でも可能である。",
"title": "相振り飛車の戦型"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "囲いは金無双・美濃囲い・矢倉囲い・穴熊囲い等を用いることが多い。",
"title": "相振り飛車の囲い"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "図のように居飛車の出だしから相手が中飛車や四間飛車の場合に飛車を振って相振り飛車に陽動する指し方もある。もちろん三間飛車や向かい飛車であっても構わない。",
"title": "陽動相振り飛車"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "相振り飛車の局面では図1-1から図1-3のように自陣から相手攻撃陣に働きかける策をとることがある。図1-1は守りの銀を繰り出し、相手の攻め駒の銀と変えていく指し方で、次に▲2六銀△同銀▲同歩から▲2七玉△3五銀▲2八玉といった策を狙っている。また図1-2から図1-3のように、局面によっては自陣を盛り上げて相手の攻撃態勢を緩和するといった指し方もある。この盛り上がり型と雲隠れ玉を応用したのが、図1-4から図1-6の例で、図1-4の角道を開けない棒銀策から▲3七桂-▲2七玉の珍形を経て図1-5のように飛車を振り、図1-6に構える指し方もある。後手も△7四歩▲同歩△同銀から盛り上がれば▲6八銀△7五歩▲6六歩で次に▲6七銀から▲7六歩で位を目標に戦うなどの展開になる。先手の陣の▲2五歩-2六銀-3七桂は上部に厚く、後手陣の四間飛車であると攻めの手がかりがつくりにくくなっている。また先手陣は飛車を振ってから局面をリードするには図1-5以降は▲7五歩を早く突くことで、上部に厚い矢倉に組まれるのを防ぐ必要がある。",
"title": "陽動相振り飛車"
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"title": "陽動相振り飛車"
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] |
相振り飛車(あいふりびしゃ)は、将棋の戦法・戦型の一つで、二人の対局者が共に振り飛車にするもの。
|
{{Pathnav|将棋|将棋の戦法|振り飛車|frame=1}}
'''相振り飛車'''(あいふりびしゃ)は、[[将棋]]の[[将棋の戦法|戦法・戦型]]の一つで、二人の対局者が共に[[振り飛車]]にするもの。
== 概要 ==
{{shogi diagram|tright
|△三間飛車 持ち駒 なし
|lg|ng|sg|gg| |gg|sg|ng|lg
| | |kg| | | |rg|bg|
|pg|pg|pg|pg|pg|pg| |pg|pg
| | | | | | | | |
| | | | | | |pg| |
| | |ps|ps| | | | |
|ps|ps|bs|ss|ps|ps|ps|ps|ps
| |rsl| | | | | | |
|ls|ns| |gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲向かい飛車 持ち駒 なし<br />
相振り飛車の最序盤の例}}
両対局者が[[振り飛車#振り飛車党|振り飛車党]]の場合に発生しやすいが<ref name=":0">{{Harvnb|杉本|2015|p=|pp=}}</ref>、相居飛車のような展開になりやすいことから、[[居飛車#居飛車党|居飛車党]]が振り飛車党相手に採用することもある。一方で振り飛車党の中でもこの戦形を避けて相手が振り飛車にした際に自分は居飛車を指す棋士も多い。
両対局者が互いに振り飛車にしないと発生しない戦型なので、[[定跡]]化が遅れており、未知の要素が大きいともいえる<ref name=":0" />。
2000年以降の相振り飛車の特徴として、ひとつには▲7六歩△3四歩▲6六歩で△3三角という出だしが増えてくる。4手目△3三角では、以前は△3二飛が主流であった。この△3三角は向かい飛車にする狙いで、棋士の中には取り入れる者もいたという程度であったが、その後△3二飛と人気を二分するほどになるほど、後手のオープニングに変化が起こり始める。
他には棋士が指す相振り飛車における先手の一番人気は向かい飛車であるが、次には四間飛車であった。これは流行している現代将棋のひとつに角交換の将棋がある。一手損角換わりなど角交換型の将棋が見直され、さらに横歩取り8五飛戦法など、角交換から戦いが始まる戦法が大流行し、この影響から相振り飛車で先手が▲6六歩と角道を止めるのを見て、後手が飛車を振る戦術が用いられていく。こうすると先手だけ角道が止まっており、先手はどこかで▲6五歩と突きたいが、この歩を突くと相手からの角交換になりやすい。さらに角交換したとき、角打ちのスキがない形にしたいとし、中飛車や三間飛車に比べてそのスキが少ないのが向かい飛車と四間飛車ということとなる。角打ちに最も強いのが向かい飛車、次いで四間飛車となり、[[藤井猛]]によると三間飛車が一番角打ちに注意しなければいけない振り場所という。
こうした事情があるため、相振り飛車の人気は1990年代には向かい飛車と四間飛車に集中するが、どうせ飛車を振るなら相手玉に近いほど有利という考えもあり、一番人気が向かい飛車、次が四間飛車となっている。
また向かい飛車であれば先手の囲いの制限が可能な点もあり、たとえば後手ならば次に△2二飛から2四歩~2五歩とスムーズに飛車先を伸ばすことが可能である。したがって先手の囲いを矢倉に限定できることになる。一歩交換に乗じて矢倉に組み上げるのと、自らこれを構築するのでは、手間がまるで違ってくる。そして相手の囲いが先にわかるということは、攻撃形を構築しやすいということでもある。
このような理由から、4手目△3三角(+向かい飛車)の場合は、先手矢倉対後手美濃囲い、または相矢倉の対抗形になることが多くなる。
一方、相振り飛車の三間飛車は2010年代から角道を止めずかつ機動力を活かした攻め筋が発見され始め、お互いが角道を止めない三間飛車にする将棋も多くなっていった。
相三間飛車になれば、先手からみて4六歩や3八銀で美濃囲いを目指す、2八銀の金無双、7六飛と浮き飛車にする、2010年代後半から現れた3八玉などが指されている。
そして4六歩と突く形に対しては、2018年度の升田幸三賞の候補に挙がった[[阿部健治郎]]考案の阿部健流と呼ばれる構想がある。
先手の4六歩は4七金型にして3筋の交換を防ぎ、美濃囲いを目指す狙いがあるが、そこで後手から☖8八角成☗同銀☖2二銀といきなり角交換するのが、阿部健流の構想である。ここから例えば先手が7七銀とすると☖6五角で後手優勢になるので、☗4六歩と突いた先手はしばらく玉形を整備することになるが、その間に後手は金無双にして☖3三銀〜2二飛と攻撃陣を急ぐのが狙いの構想である。
形勢判断としてはこれからの将棋であるが、後手番ながら主導権が握りやすいのが魅力である。
相三間飛車で先手3八玉、後手7二玉とする組み方も試されているが、このメリットは金無双や美濃、矢倉そして穴熊などの含みを残していることである。
以下☖3六歩☗同歩☖同飛☗3七歩☖3四飛に☗7四歩と決戦に進んだ将棋がしばしば指されている。
類似の局面として、平成27年2月の順位戦C2組、☗[[門倉啓太]]vs☖[[宮本広志]]戦があるが、先手が☗7六飛と浮いてから☗7四歩と交換した関係で先後が入れ替わる。ここで後手が☖3六歩。
以下☗3六同歩に、☖8八角成☗同銀☖5五角☗7七角☖1九角成☗1一角成☖2九馬☗2一馬☖1九馬☗3八銀☖2五桂☗2九桂☖3四飛と進めた。以下☗3五香には☖1四飛から2二香などがある。
この後手が進めた☖3六歩(先手ならば☗7四歩)から角交換しての5五角は、相三間飛車では現れやすい決戦策である。
この他に、平成28年1月の朝日杯将棋オープン戦、▲藤井猛vs△[[戸辺誠]]戦で、後手の戸辺が3筋の歩交換から△3四飛と浮き飛車に構えると、先手の藤井は▲2二角成から▲4八金として、5六角の筋を見せて相手の右銀を使いづらくするとともに▲7四歩から5五角を見据える指し方をみせた。
▲7六歩△3四歩に▲6八飛とする先手角道オープン四間飛車に対して後手が△3五歩や2四歩として相振り飛車に誘導する指し方も2000年以降指されている。
2四歩は角交換になっても損がない手であり、早くの▲2八銀などならば、場合によっては後手は居飛車+銀冠にする含みもある。
3五歩ならば先手はここで▲2二角成△同銀▲8八銀とし、お互いが向かい飛車に振り直して戦う指し方が多くみられたが、平成27年8月の朝日杯オープン戦、▲[[室岡克彦]]vs△藤井猛戦のように居玉にしておいて相手からの速攻を牽制しつつ攻撃体制を進める指し方に誘導すると、先手の得が見出だしにくくなった。
3五歩に対する先手の他の指し方として、▲3八金もある。以下△3二飛とするならばそこで角交換から▲6五角を狙う手があるので、後手は△4四歩と角道を止めて三間飛車にすることになるが、先手も形を早くに決めてしまう嫌いもある。
▲7六歩△3四歩に▲6八飛もしくは▲7五歩に△1四歩も良く指されている。これは相振り飛車と居飛車を含みにする手で、相振り飛車はそのような駆け引きの末に現れることも多い。
相振り飛車では中飛車は少し分が悪いとされていた。これは相手の攻撃陣形が四間~向かい飛車であると、自陣が玉頭に来るのに対し、中飛車であると自分の攻撃陣形が相手の玉から遠いため、勝ちづらいとされてきたからである。ところが居飛車の構えで駒組を進め、相手が四間飛車や向い飛車に対して飛車を5筋に移動させる[[英春流]]や、[[中飛車左穴熊]]をはじめ、玉を左に囲う中飛車の戦い方の発見から、中飛車での相振り飛車も見直されてきた。左玉中飛車の相手は穏やかに美濃や穴熊に囲う指し方もあるが、左辺の囲いを十分に組ませないようにする駆け引きも様々に行われている。
平成31年4月の王将戦一次予選▲[[今泉健司]]vs△[[谷川浩司]]戦では、先手今泉が7九金からエルモ囲い、後手谷川も三間飛車3四飛型から△7四歩~7三銀、さらに玉を4二に移動させて飛車を[[地下鉄飛車]]から8筋に展開する含みをみせている。
平成25年1月の朝日杯オープン戦▲[[菅井竜也]]vs△[[丸山忠久]]戦では、後手向かい飛車から2四歩~2五歩に対し、先手は2八飛に振り直し、[[居飛車穴熊]]に組んで快勝する。
2010年代後半からはこの形を巡って早くに駆け引きが行われることも増えている。例えば、すぐに飛車を振らずに左銀を4三等に進めて様子をみて、先手の出方によって飛車を振るか、居飛車にするかを選ぶ作戦とするなどである。
平成31年2月の順位戦B2、▲[[北浜健介]]vs△[[田村康介]]戦では、先手は3八銀~4六歩で居飛車でも振り飛車でも対応しやすい形を目指し、後手は6二銀で居飛車を明示したかと思えば7四歩~7三銀~2二飛で相振り飛車に転じている。先手はそれをみてから玉を左ではなく4八から美濃に納めている。
==相振り飛車の戦型==
振り飛車には、[[中飛車]]・[[四間飛車]]・[[三間飛車]]・[[向かい飛車]]の4つがあるため、相振り飛車の戦型は飛車を振る筋の組み合わせによって多様なものとなる<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=佐藤康光九段、藤井猛九段、菅井竜也王位座談会「創造の原動力」(4)|url=https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=78069|website=将棋情報局|accessdate=2019-03-01|language=ja|publisher=|date=2017.09.08}}</ref>。
;[[四間飛車]]
:もっとも採用数が多い振り飛車である四間飛車も、相振り飛車でしばしばみられる。[[金無双]]主流時代には、使い勝手の悪さから相振り飛車では少数派であった。
:但し、[[矢倉囲い]]相手には相性が良いため、囲いを確認の上に振り直す例は少なくない。
;[[三間飛車]]
:後手側での採用例が多い、相振り飛車の代表格戦型の一つ。[[金無双]]主流時代には[[石田流]]に組むのが一般的であったが、[[矢倉囲い]]相手には相性が悪く<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=上からの攻めもバッチリ!相振り飛車での矢倉の組み方とは?|将棋コラム|url=https://www.shogi.or.jp/column/2018/03/post_333.html|website=日本将棋連盟|accessdate=2019-03-01|language=ja|publisher=|author=一瀬浩司|date=2018年03月21日}}</ref>、現在は引き飛車が主流となっている。
:なお、現在は[[穴熊囲い]]との組み合わせでの後手側の採用例が多い。
;[[向かい飛車]]
:先手側での採用例が多い、相振り飛車の代表格戦型の一つ。[[金無双]]主流時代には浮き飛車に組んでいたが、現在は引き飛車が主流となっている。
:バランスが良い戦型である<ref name=":0" />為に、後手側も向かい飛車で挑む例もあるが、[[矢倉囲い|矢倉戦法]]と同じく[[千日手]]に陥る危険性が高い欠点を抱えている。
;[[中飛車]]
:初期状態に[[玉将]]が居る5筋に振るシンプルなコンセプトの戦型。
:対抗型の戦法としては有力であるが、相振り飛車では分断された戦型に陥りやすいという欠点があるとされる。また、この点を意識して先手の中飛車に対して後手が相振りに持ち込む、という戦型もある。
:近年では、玉を左側に持っていく「[[中飛車左穴熊]]」という指し方もある<ref name=":3" />。
=== 相中飛車 ===
相振り飛車において中飛車については、先手後手両者とも中央に飛車を振って中飛車にする相中飛車というのがあり<ref>『相振り中飛車で攻めつぶす本』(鈴木大介,浅川書房,2010)</ref>、ほかの相振り飛車戦型と比較するとお互いが中央での勢力拮抗つまりイーブンという特殊な戦型であり、非常に独特の戦術とみなされる。これは相振り飛車ではできるだけ玉に近く迫っている向かい飛車や三間飛車に構えたほうが有利であるとみなされているためで、またお互いの飛車が中央で向かい合うので、中央からの仕掛けが成立することはないなど攻め口が少なく、[[千日手]]になりやすいこともあって、プロ棋戦では相中飛車の実戦例は数例みられる程度で<ref>{{Cite web|和書|title=漫画『5五の龍』に出てくる戦法採用? 羽生善治九段、相中飛車「見せ槍銀」で菅井竜也八段に勝利(松本博文) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20220731-00308160 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-08-01 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=羽生九段が意表の相中飛車を採用し、菅井八段を破る 第43回将棋日本シリーズ JTプロ公式戦 |url=https://news.mynavi.jp/article/20220801-2413198/ |website=マイナビニュース |date=2022-08-01 |access-date=2022-08-01 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=今泉健司五段(49)NHK杯史に残る大熱戦を制し里見香奈女流四冠(30)に勝利(松本博文) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20220730-00308010 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-08-01 |language=ja}}</ref>非常に少なく、アマチュア将棋独特のものである。
もともと居飛車対振り飛車の対抗形において居飛車側が中央に飛車を移動させて振り飛車側の中央からの攻めに対処したり、反撃したりする指し方は以前からあった。そしてアマチュア棋戦では中飛車党同士であると、しばしば戦型は必然的に相中飛車という戦型になることもある。またインターネット対局などで一方が対中飛車に自信がない場合に、その場しのぎで相中飛車にする場合などもみられる。
プロ棋戦では非常にまれなため、杉本昌隆『これが決定版!相中飛車徹底ガイド』(2017年、マイナビ将棋BOOKS)にあるコラム(1)によると、同著を刊行するにあたって自身が主催する教室の生徒に対局をしてもらってデータや実績を集めている<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=62|pp=|loc=}}</ref>。これによれば、相中飛車戦では囲いは相美濃が圧倒的に多いとしている。杉本はプロ同士ならば持ち時間もあってバランスを重視することから金無双が多くなるとみている。同書では第1章~第3章は、相美濃の戦い、第4章では他の囲い方を扱っている。相手が囲いを後回しにして端歩を先に伸ばし、どのような囲いをするか分からない場合は、端歩よりも飛車先つまり相手玉頭の歩突きを優先して指すのが無難である<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第5章・第2節}}</ref>。
杉本の著書では、基本的に端歩は突き越しにしている。また、基本図までの指し手順は先手初手を▲5六歩、後手の2手目を△3四歩としており、以下▲5八飛△5四歩に5手目に▲7六歩、6手目に△5二飛としている。
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|-
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{{shogi diagram|tright
|△後手 なし
|lg|ng|sg|gg|kg|gg|sg|ng|lg
| | | | |rgl| | |bg|
|pg|pg|pg|pg| |pg| |pg|pg
| | | | |pg| |pg| |
| | | | | | | | |
| | |ps| |ps| | | |
|ps|ps| |ps| |ps|ps|ps|ps
| |bs| | |rs| | | |
|ls|ns|ss|gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は△5二飛まで<br>1-1図 相中飛車の基本図}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 なし
|lg|ng| |gg| |gg|sg|ng|lg
| |kg|sg| |rg| | |bg|
|pg|pg|pg|pg| |pg| |pg|
| | | | |pg| |pg| |
|ps| | | | | | | |pg
| | |ps| |ps| | | |
| |ps|bsl|ps| |ps|ps|ps|ps
| | | | |rs| | |ks|
|ls|ns|ss|gs| |gs|ss|ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は▲7七角まで<br>1-2図 相中飛車▲7七角型基本図}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 角
|lg|ng| |gg| |gg| |ng|lg
| |kg|sg| |rg| | |sg|
|pg|pg|pg|pg| |pg| |pg|
| | | | |pg| |pg| |
|ps| | | | | | | |pg
| | |ps| |ps| | | |
| |ps| |ps| |ps|ps|ps|ps
| | | |ssl|rs| |ss|ks|
|ls|ns| |gs| |gs| |ns|ls
|▲先手 角<br/> 図は▲6八銀まで<br>1-3図 角交換▲6八銀型基本図}}
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|-
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{{shogi diagram|tright
|△後手 角
|lg|ng| |gg| |gg|sg|ng|lg
| |kg|sg| |rg| | |bg|
|pg|pg|pg|pg| |pg| |pg|
| | | | |pg| | | |
|ps| |ps| | | |pg| |pg
| | | | |ps| | | |
| |ps| |ps| |ps|ps|ps|ps
| |bs|rsl| | | |ss|ks|
|ls|ns|ss|gs| |gs| |ns|ls
|▲先手 角<br/> 図は▲7八飛まで<br>1-4図 相中飛車から三間変化型}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 歩
|lg|ng|sg| | |gg| |ng|lg
| | |kg|gg| | | | |
|pg|pg|pg|pg| |pg|bg| |
| | | | |pg|sg|pg|rg|
|ps| | | | | | | |pg
| |rs|ps| |ps|ss|psl| |
| | |bs|ps| |ps| |ps|ps
| | | | | | |ss|ks|
|ls|ns| |gs| |gs| |ns|ls
|▲先手 歩<br/> 図は▲3六歩まで<br>1-5a図 向飛車への変化型}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 角
|kg|ng| | | | | |ng|lg
|lg|sg|gg|gg|rg| | |sg|
|pg|pg|pg|pg| |pg| |pg|pg
| | | | |pg| |pg| |
|ps| | | | | | | |
| | |ps| |ps| | | |
|ls|ps|ns|ps| |ps|ps|ps|ps
|rs| | |ss| |gs|ks| |
| | | | |gsl| |ss|ns|ls
|▲先手 角<br/> 図は▲5九金まで<br>1-5b図 対穴熊に雀刺し型変化図}}
|}
そして図で紹介した戦型を提示している。1-2図が主に先手が後手に角交換をさせる「相美濃▲7七角型」で、相中飛車基本図から、互いに美濃に囲い合い、端歩を詰め合って、▲7七角とする<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第1章}}</ref>。基本図から△3三角など、後手が戦術として[[マネ将棋]]を取り上げている。これは相中飛車の先後同型は一手早く指せる先手側が理屈の上で有利という感覚があるが、後手に実際に指されてみると意外に厄介であるためで、相中飛車のお互いが角道を開けている状態では先手側から▲6八銀と左銀を活用させるには、▲7七角とするか先手から交換するかであるが、△7七同角成▲同桂でやはり▲6八銀には△8八角がある。仮に先手は飛車を三間か向かい飛車などに振りなおすと、左銀が前線に加われない大駒だけの攻めとなっており、また後手から好機に中央から動かれることを念頭にして一手一手を慎重に指せば、対する後手は相手と同じ手を時間をかけずに追随するだけである。これは持ち時間が短い将棋であれば持ち時間に差が開き、焦る先手の疑問手を咎めるオウム指し戦略として知られる。
ただし続けた場合であってもこの戦型では▲4六銀に△6四銀では▲4五銀があるので△4四銀となって途中で真似が続かなくて、先手が▲6六角-▲7七桂(▲9四歩の端攻めをみている)の好形を得ることができるとしている<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第1章・第1節}}</ref>。
また▲7七角型では基本図から後手に3つのパターンを紹介している。ひとつは△7七角成~△4二銀の場合<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第1章・第2節}}</ref>。これには先手は▲8八飛が好手としている。他には基本図から△7七角成~△3三桂の場合<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第1章・第3節}}</ref>で、先手は▲6六角の先着を念頭にする。▲6六角の位置は後手の9三の地点・敵陣の端をにらむ位置であり、端攻めを念頭にしている布陣。さらに基本図から△7七角成~△4四角と、後手が好所の角を先着する場合<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第1章・第4節}}</ref>については先手は▲4六歩~▲4五歩から角を追って▲4六角を実現させるのを念頭にして進めることになる。
1-3図が主に先手から角交換する「角交換▲6八銀型」で、相中飛車基本図から互いに美濃に囲い合い、端歩を詰め合って▲2二角成~▲6八銀とする<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第2章}}</ref>。自ら角交換することで手損になるが、左銀の差で先手は作戦勝ちを目指す指し方であり、先手は▲4六銀と活用できるが一歩で後手は△6四銀とはできずに△4四銀になること、つまり好所の△4四角が打てないことを作戦格子としている。杉本はこれについても後手の作戦パターンを3つ提示している。ひとつは基本図から▲6六角とする作戦で、互いに左の銀桂を活用して▲6六角の好位置に先着するのであるが、後手から先攻する手段と、先手のカウンターを紹介している<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第2章・第1節}}</ref>。他には基本図から▲4六銀を後手が阻止作戦で、図から△4四角と先着して左銀を▲7七銀と上がらせようとしてくる手段<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第2章・第2節}}</ref>。さらに基本図から先手の角成に後手△2二同銀ではなく△2二同飛として飛車を転換する指し方<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第2章・第3節}}</ref>などを提示している。
1-4図は相中飛車基本図から、互いに美濃に囲い合い端歩を詰め合う他に▲7五歩△3五歩とお互いの三間筋を伸ばし、先手が▲7八飛とした戦術で、相中飛車から三間飛車に互いに三間に振り直す手段を紹介している。この戦型では中央の戦いは少ないため、飛車は機を見て振り直すのが前提となりまた端攻めには特に注意を配る必要もあり、この辺りは他の相振飛車戦と変わらないが、通常の相三間と違い、互いに5筋の歩を突いているので、歩交換から5四の横歩を取る筋が決め手になったり、逆に▲5四飛と横歩をすぐ取ると△7六角からの反撃があるなどカウンターを喰らったりすることがあるとしていることからの戦術で、5四の歩を取る狙いは▲5五角の筋が可能となることである。
これには5パターンの変化を紹介しており、変化図から中飛車からお互い相三間にした布陣から△3二飛▲7四歩△同歩で、以下▲同飛から▲5四飛の狙いがあり、互いに5筋を突いている美濃囲いであるのが通常の相三間と違うために生じる手段であるが<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第3章・第1節}}</ref>、すぐには△7六角の筋での反撃が生じている。このため、変化図から△3二飛▲5八金左△5二金左としてから▲7四歩とすると、今後は△7六角の筋がない<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第3章・第2節}}</ref>。また、変化図から▲8五歩・△2五歩型三間にする手段もあり、これは互いに8筋・2筋の歩を伸ばし、7筋・3筋の歩も伸ばしてから相三間にした場合で<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第3章・第3節}}</ref>、▲7四飛から▲2四飛の展開を見込んでいる。この中飛車→相三間は、基本的に先手ペースになりやすいため、「相三間」ではなく、後手中飛車不動型・先手のみ三間から、後手が相三間にせず△5五歩と仕掛ける指し方<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第3章・第4節}}</ref>、他に互いに端の突き越し、先手の9筋突き越しに対して、後手は1筋を突かず先に三間に振って先攻するつまり相三間ではなく、後手のみ三間にする指し方<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第3章・第5節}}</ref>などを紹介している。
1-5図の向かい飛車転換型は、金無双や穴熊など相美濃以外の囲いの対抗で、これはプロ棋士なら仮に相中飛車を指すなら5筋、先手なら5七の地点が守られているので、飛を別筋に転回しやすいことから金無双を選択するということからである<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=143}}</ref>。
基本図は相金無双で、相向飛車に振り直すスタイルとなるが<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第4章・第1節}}</ref>図の布陣では金無双の玉頭を突く▲3六歩として、相手からの銀交換を阻止しておく必要がある。他に紹介している布陣は、▲5六飛型は△3三角~△2二飛の作戦に対し、▲4六銀から▲5五歩△同歩▲同銀~▲5六飛で作戦勝ちの狙いがある<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第4章・第2節}}</ref>。この他▲金無双vs△美濃<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第4章・第3節}}</ref>、▲美濃(角交換~▲6八銀~▲4六銀~▲6六角を設置してスズメ刺し)vs△穴熊<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第4章・第4節}}</ref>作戦が実現できる。また▲金無双vs△穴熊<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第4章・第5節}}</ref>で、金無双は5七に金の利きがあるので、▲4六銀型にせずとも図5-1aのように低い陣形からのスズメ刺しが可能となるとしている。
中飛車での相振飛車、たとえば中飛車vs三間での[[中飛車左穴熊]]という作戦があるように、相中飛車でも[[左玉]]に構える手段もある。後手がこの作戦を行ってきた場合杉本は△4二玉を見たらすぐに角交換するのを勧めているが、これは後手の穴熊や左美濃を阻止する意味と、左銀の進出を素早く行うのと、駒の偏りを衝いての▲9六角(△9四角)の狙いがある。左玉では右銀が上がるため、後手なら△7四歩としてから△6二銀とするのが特有の手筋になる。単に△6二銀は▲8二角を喰らうためで、△7四歩~△6二銀としていれば、▲8二角には△7三角がある。
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|-
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{{shogi diagram|tright
|△後手 なし
|lg|ng| |gg| |gg| |ng|lg
| |kg|sg| |rg| | |bg|
|pg|pg|pg|pg|sg|pg|pg|pg|
| | | | |pg| | | |
|ps| | | | | | | |pg
| | |ps|bs|ps| | | |
| |ps|nsl|ps| |ps|ps|ps|ps
| | | | |rs| |ss|ks|
|ls| |ss|gs| |gs| |ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は▲7七桂まで<br>1-6図 後手角道不開型図}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 なし
|lg|ng|sg|gg|kg|gg| |ng|lg
| | | | |rg| | |bg|
|pg|pg|pg|pg|sg|pg| |pg|pg
| | | | |pg| |pg| |
| | | | | | | | |
| | | | |ps|ssl| | |
|ps|ps|ps|ps| |ps|ps|ps|ps
| |bs| | |rs|ks| | |
|ls|ns| |gs| |gs|ss|ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は▲4六銀まで<br>1-7図 先手角道不開型図}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 なし
|lg|ng|sg|gg|kg| | |ng|lg
| | | | |rg| |gg|bg|
|pg|pg|pg|pg|sg|pg| |pg|pg
| | | | |pg| |pg| |
| | | | |psl| | | |
|ps| | | | |ss| | |
|bs|ps|ps|ps| |ps|ps|ps|ps
| | | | |rs| | | |
|ls|ns| |gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は▲5五歩まで<br>1-8図 見せ槍銀(端角)の基本図}}
|}
一方で角道を開けない指し方もある<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=16|pp=}}</ref>。角道が開いていないほうが、序盤から左銀を先手番なら6八から5七、後手番であると4二から5三と活用できるメリットがあるためで、相手がこうした指し方をしてきたの場合は1-6図のように▲6六角から▲7七桂の好形を組むのが一つの例としてある。また先手が角道を開けずに1-7図のように素早く左銀を4六までもっていき、△4四銀を決めさせておいてから▲7六歩から▲6六角~7七桂を築く手段もある。
角道を開けない指し方では他に、銀をすばやく繰り出す「見せ槍銀」<ref group="注">漫画『[[5五の龍]]』に出現する、相中飛車から銀2枚を[[カニカニ銀]]のように前線に繰り出す戦法。</ref>で角を端角で活用し中央に利かせる戦術もある。1-8図のような後手布陣であると先手が▲5五歩から仕掛け、以下後手△同歩に▲同銀△5四歩には▲5三角成から▲5四銀~▲5三銀打~▲6三銀成があり、このように進むと後手が受けきるのは容易ではない。
{|
|-
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{{shogi diagram|tright
|△後手 角歩
|lg|ng|sg|gg|kg|gg| |ng|lg
| | | | |rg| | |sg|
|pg|pg|pg|pg| |pg| |pg|pg
| | | | | | |pg| |
| | | |bsl|pg| | | |
| | |ps| | | | | |
|ps|ps| |ps| |ps|ps|ps|ps
| | | | |rs| | | |
|ls|ns|ss|gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は▲6五角まで<br>1-9図 7手目角交換▲6五角その1}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 角
|lg|ng|sg|gg|kg|gg| |ng|lg
| | | | |rg| | |sg|
|pg|pg|pg|pg| |pg| |pg|pg
| | | | |pg| |pg| |
| | | |bsl| | | | |
| | |ps| |ps| | | |
|ps|ps| |ps| |ps|ps|ps|ps
| | | | |rs| | | |
|ls|ns|ss|gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は▲6五角まで<br>1-10図 7手目角交換▲6五角その2}}
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{{shogi diagram|tright
|△後手 なし
|lg|ng| |gg| |gg|sg|ng|lg
| |kg|sg| |rg| | |bg|
| |pg|pg|pg| |pg| |pg|pg
|pg| | | |pg| |pg| |
| | | | | | | | |
|ps| |ps|psl|ps| | | |
| |ps| | | |ps|ps|ps|ps
| |bs| | |rs| |ss|ks|
|ls|ns|ss|gs| |gs| |ns|ls
|▲先手 なし<br/> 図は▲6六歩まで<br>1-11図 ▲9六歩-△9四歩型相中飛車}}
|}
なお、相中飛車の変則的な序盤として、7手目角交換~▲5五歩~▲6五角(1-9図)と7手目角交換~▲6五角(1-10図)以下△7二銀に▲5五歩<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第5章・第1節}}</ref>などの「筋違い角」がある。どちらも正確に指せば無理筋であるが、されたほうは知識として知っておく必要がある。駒組として後手2手目に△3四歩と角道を開けていると先手がこれを狙ってくる場合もあるが、もし初手▲5六歩に2手目に△5四歩で角道不開であれば以下▲5八飛△5二飛▲7六歩で△6二玉としておくと、前述の策を食らうことはない。以下▲5五歩△同歩▲同角には△4二銀で▲5三歩(△同飛では▲7三角成から▲5三飛成)を警戒しておく必要がある。
▲6五角もしくは△4五角という狙いは相中飛車また相美濃特有の手筋で、美濃の玉頭を向かい飛車+棒銀に攻める時に6五角なら8三の地点に利き、決め手になりやすい<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=81|pp=|loc=}}</ref>。逆に△6五角もしくは▲4五角で、相手の向かい飛車の飛車先に効きが向かうので<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p73|pp=|loc=}}</ref>、▲7八金や△3二金を活用する必要がある<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p52|pp=53|loc=}}</ref>。
1-11図のような美濃囲いで端を受けるのは、相振飛車ではほとんど得がないので、まずやってこないとされるが、やられた場合に咎め方を知らないと相手の主張を通してしまう。
▲9六歩に△9四歩の形の咎め方について、杉本はこれには▲6六歩と角道を止めてから▲7七角から▲9五歩~▲9八飛で咎める方法を解説している<ref>{{Harvnb|杉本|2017|p=|pp=|loc=第5章・第3節}}</ref>。この他に▲7七角△同角成(△4四歩ならば▲6六角から▲7七桂)▲同桂から▲8八銀~▲9七銀~▲8六銀~▲9五歩といった端[[棒銀]]が知られている。この順は後手番からの▲1六歩-△1四歩の攻略でも可能である。
==相振り飛車の囲い==
囲いは[[金無双]]・[[美濃囲い]]・[[矢倉囲い]]・[[穴熊囲い]]等を用いることが多い。
; [[金無双]]
: 以前は相振り飛車の代表的囲いとされてきた囲い<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=相振り飛車初心者にオススメの囲い「金無双」とは?|将棋コラム|url=https://www.shogi.or.jp/column/2018/03/post_348.html|website=日本将棋連盟|accessdate=2019-03-01|language=ja|publisher=|author=一瀬浩司|date=2018/03/29}}</ref>。[[銀将]]の位置が「壁銀(先手の場合2八、後手の場合8二と玉の逃げ道を塞ぐ形)」と呼ばれる悪形なので、昨今(2007年現在)は採用例が少なくなっている<ref name=":2" />。
; [[美濃囲い]]
: 通常の振り飛車の主流とされる囲い。四間飛車やヨコからの攻めに強いものの、端や玉頭が弱い<ref>{{Cite web|和書|title=玉よりも銀を先に動かした方がいい理由とは? 相振り飛車での美濃囲いの組み方|将棋コラム|url=https://www.shogi.or.jp/column/2018/02/post_320.html|website=日本将棋連盟|accessdate=2019-03-01|language=ja|publisher=|author=一瀬浩司|date=2018年02月16日}}</ref>ため、相振り飛車ではあまり指されていなかった。この点はよく金無双と比較される。
: しかし、後手三間飛車から先手矢倉に対する有力な仕掛けとして[[菅井竜也]]の再発見した菅井新手が流行すると<ref name=":3" />、菅井新手対策としてあえて美濃囲いに組んで速攻を見せる対局が増えた。
; [[矢倉囲い]](右矢倉)
: 居飛車の場合とは左右逆の右側に囲うため、右矢倉と呼ばれることもある。上部に手厚いため、相振り飛車では評価の高い囲いである<ref name=":1" />。
; [[穴熊囲い]]
: 手数が掛かる欠点があるものの、その硬さから昨今は採用例が増えてきた囲い。
== 陽動相振り飛車 ==
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 なし
|lg|ng|sg|gg| |gg|sg|ng|lg
| | | |kg| |rg| |bg|
|pg|pg|pg|pg|pg| | |pg|pg
| | | | | |pg|pg| |
| | | | | | | | |
| | |ps| | | | |ps|
|ps|ps| |ps|ps|ps|ps|ss|ps
| |bs|rsl| | | | | |
|ls|ns|ss|gs|ks|gs| |ns|ls
|▲持ち駒 なし<br />
陽動相振り飛車の例}}
図のように居飛車の出だしから相手が中飛車や四間飛車の場合に飛車を振って相振り飛車に陽動する指し方もある。もちろん三間飛車や向かい飛車であっても構わない。
=== 雲隠れ玉型 ===
相振り飛車の局面では図1-1から図1-3のように自陣から相手攻撃陣に働きかける策をとることがある。図1-1は守りの銀を繰り出し、相手の攻め駒の銀と変えていく指し方で、次に▲2六銀△同銀▲同歩から▲2七玉△3五銀▲2八玉といった策を狙っている。また図1-2から図1-3のように、局面によっては自陣を盛り上げて相手の攻撃態勢を緩和するといった指し方もある。この盛り上がり型と[[雲隠れ玉]]を応用したのが、図1-4から図1-6の例で、図1-4の角道を開けない棒銀策から▲3七桂-▲2七玉の珍形を経て図1-5のように飛車を振り、図1-6に構える指し方もある。後手も△7四歩▲同歩△同銀から盛り上がれば▲6八銀△7五歩▲6六歩で次に▲6七銀から▲7六歩で位を目標に戦うなどの展開になる。先手の陣の▲2五歩-2六銀-3七桂は上部に厚く、後手陣の四間飛車であると攻めの手がかりがつくりにくくなっている。また先手陣は飛車を振ってから局面をリードするには図1-5以降は▲7五歩を早く突くことで、上部に厚い矢倉に組まれるのを防ぐ必要がある。
{|
|-
|
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 歩
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| | |gg| |gg| |rg| |
|pg|pg|sg|pg|pg| | | |
| | |pg| |sg|pg| |bg|pg
| | | | | | |sg| |
| | |ps|ps|ss| | | |ps
|ps| |bs| |ps|ps|ps|ps|ssl
| |rs| | |gs|gs|ks| |
|ls|ns| | | | | |ns|ls
|▲持ち駒 歩<br />図は、▲1七銀まで<br>図1-1 相振り飛車の例}}
|
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 なし
|lg|ng|kg| | | | |ng|lg
| | |gg| |gg| | |rg|
| |pg|sg|pg|pg| | | |
|pg| |pg| |sg|pg|pg|bg|pg
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| | |ps|ps|ss|ps|ps|psl|ps
|ps| |bs| |ps|gs|ss| |
| |rs| | | | |ks| |
|ls|ns| | | |gs| |ns|ls
|▲持ち駒 なし<br />図は、▲2六歩まで<br>図1-2 相振り飛車の例}}
|
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 歩
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| | |gg| |gg| | |rg|
| |pg|sg|pg|pg| |bg| |
|pg| |pg| |sg|pg|pg| |pg
| |ps| | | | | |psl|
| | |ps|ps|ss|ps|ps|ss|ps
|ps| |bs| |ps|gs| | |
| |rs| | | | |ks| |
|ls|ns| | | |gs| |ns|ls
|▲持ち駒 なし<br />図は、▲2五歩まで<br>図1-3 相振り飛車の例}}
|}
{|
|-
|
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|△持ち駒 なし
|lg|ng|sg|gg|kg|gg| |ng|lg
| | | | | |rg| | |
|pg|pg|pg|pg|pg|sgl|bg|pg|pg
| | | | | |pg|pg| |
| | | | | | | |ps|
| | | | | | |ps|ss|
|ps|ps|ps|ps|ps|ps| | |ps
| |bs| | | | | |rs|
|ls|ns|ss|gs|ks|gs| |ns|ls
|▲持ち駒 なし<br />図は、△4三銀まで<br>図1-4 陽動相振り飛車の例}}
|
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 なし
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| |kg|sg| |gg|rg| | |
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| | | | | |pg|pg| |
| | | | | | | |ps|
| | |ps| | | |ps|ss|
|ps|ps| |ps|ps|ps|ns|ks|ps
| |bs|rsl| | | | | |
|ls|ns|ss|gs| |gs| | |ls
|▲持ち駒 なし<br />図は、▲7八飛まで<br>図1-5 陽動相振り飛車の例}}
|
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 なし
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| |kg|gg| | |rg| | |
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|pg|pg| |pg| |pg|pg| |pg
| | |ps| | | | |ps|
|ps| | | | |ps|ps|ss|ps
| |ps| |ps|ps|gs|ns|ks|
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|▲持ち駒 なし<br />図は、▲3八金まで<br>図1-6 陽動相振り飛車の例}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*[[塚田泰明]]監修、[[横田稔]]著『序盤戦! 囲いと攻めの形』、高橋書店、1997年<!--ISBN番号がわかる場合は記入をお願い致します。-->
* {{Cite book ja-jp | author = [[原田泰夫]] (監修)、荒木一郎 (プロデュース) | editor = [[森内俊之]]ら | year = 2004 | title = 日本将棋用語事典 | publisher = 東京堂出版 | isbn = 4-490-10660-2}}
* {{cite book|ja-jp|author=[[勝又清和]]|editor=|title=『最新戦法の話』|publisher=浅川書房|year=2007|isbn=978-4-86137-016-8}}
* {{Cite book|和書|author=杉本昌隆|author-link=杉本昌隆|title=必修!相振り戦の絶対手筋105|date=2015年4月30日|year=2015|accessdate=|publisher=マイナビ|isbn=978-4-8399-5548-9}}
* {{Cite book|和書|author=杉本昌隆|title=これが決定版!相中飛車徹底ガイド|year=2017|publisher=マイナビ}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[上野裕和]] | year = 2017 | title = 将棋・序盤完全ガイド 相振り飛車編 | publisher = マイナビ出版}}
==関連項目==
*[[将棋の戦法]]
*[[振り飛車]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/column/2018/03/post_348.html 金無双] 日本将棋連盟 - 将棋コラム
* [https://www.shogi.or.jp/column/2018/03/post_333.html 右矢倉] 日本将棋連盟 - 将棋コラム
* [https://www.shogi.or.jp/column/2018/03/post_327.html 相振り飛車穴熊] 日本将棋連盟 - 将棋コラム
{{将棋の戦法}}
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10,325 |
バラモン
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バラモン(梵: ब्राह्मण brāhmaṇa、婆羅門)とは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。ブラフミン(梵: brahmin)ともいう。
「バラモン」とはサンスクリットの「ブラーフマナ」(brāhmaṇa)が漢字に音写された婆羅門を片仮名書きしたものであり、正確なサンスクリット語形ではない。
ブラーフマナとは古代インド哲学で宇宙の根本原理を指すブラフマンから派生した形容詞転じて名詞。つまり「ブラフマンに属する(階級)」の意味である。
紀元前13世紀頃、インド・アーリア人が原住民族のドラヴィダ人を支配するためにヴァルナを作り出した。そして自らを最高位の司祭・僧侶階級に置き、ブラーフマナすなわちバラモンと称したのが始まりであると言われている。
こういった歴史的見解は、ヴァルナ(四種姓)の起源を神話上の宇宙論に求めるヒンドゥー教徒の考え方とは相容れないものであった。
『リグ・ヴェーダ』に収載された「プルシャ賛歌」によれば、神々が祭祀を行うにあたって原人プルシャを切り分けた時、口の部分がバラモンとなり、両腕がラージャニヤ(クシャトリヤ)となり、両腿がヴァイシャとなり、両足はシュードラとなった、という。
初期仏教の経典の一つ『法句経』(『ダンマパダ』)26:393では、著者(釈迦に擬せられる)は以下のように、出身階級による差別を明確に否定している。 同書の第26章「バラモン」全体では、執着を断ち切って安らぎの境地に達し、完成された人をバラモンと呼ぶことを繰り返し強調している。
螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
日本では、渡来したインド人の仏教僧全てを、出身のカーストにかかわらず婆羅門と呼んでいる。
12世紀後半以降イスラーム教徒が侵入し、13世紀にはデリー・スルターン朝、16世紀にはムガル帝国が成立したが、バラモンはそれらの支配のもとでヒンドゥー貴族や地方官吏などとなり、依然として高い地位にあった。
また、18世紀にデカン地方を中心に支配したマラーター王国の宰相をはじめとする支配層もバラモンで占められていた。
2011年の国勢調査によると、インドのバラモンの人口は6500万人であり、全人口の約5%を占める。
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バラモンとは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。ブラフミンともいう。
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{{Otheruses|インドの司祭階級|その他の用法|バラモン (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2015年11月14日 (土) 12:58 (UTC)}}
[[画像:2_Hindu_Brahmin_priests.jpg|サムネイル|290px|バラモン階級の人々(インド・カルナータカ州)]]
{{Infobox Hindu term
| title = バラモン
| en = Brahmin
| sa = ब्राह्मण
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|ja = 婆羅門
}}
'''バラモン'''({{lang-sa-short|'''ब्राह्मण'''}} {{transl|sa|brāhmaṇa}}、'''婆羅門''')とは、[[インド]]の[[カースト制度]]の頂点に位置する[[バラモン教]]や[[ヒンドゥー教]]の[[司祭]]階級の総称。'''ブラフミン'''({{lang-sa-short|brahmin}})ともいう。
== 名前の由来 ==
「バラモン」とは[[サンスクリット]]の「[[ブラーフマナ]]」({{transl|sa|brāhmaṇa}})が漢字に音写された婆羅門を片仮名書きしたものであり、正確なサンスクリット語形ではない。
ブラーフマナとは古代[[インド哲学]]で[[宇宙]]の根本原理を指す[[ブラフマン]]から派生した形容詞転じて名詞。つまり「ブラフマンに属する(階級)」の意味である。
== 神話的起源 ==
『[[リグ・ヴェーダ]]』に収載された「プルシャ賛歌」によれば、神々が[[祭祀]]を行うにあたって原人プルシャを切り分けた時、口の部分がバラモンとなり、両腕がラージャニヤ([[クシャトリヤ]])となり、両腿が[[ヴァイシャ]]となり、両足は[[シュードラ]]となった、という<ref>[[#辻1970|辻1970]]、320頁。</ref>。
== 歴史 ==
=== 起源 ===
[[紀元前13世紀]]頃、[[インド・アーリア人]]が[[先住民|原住民族]]の[[ドラヴィダ人]]を支配するために[[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ]]を作り出した。そして自らを最高位の司祭・僧侶階級に置き、ブラーフマナすなわちバラモンと称したのが始まりであると言われている。
こういった歴史的見解は、ヴァルナ(四種姓)の起源を[[インド神話|神話]]上の[[宇宙論]]に求めるヒンドゥー教徒の考え方とは相容れないものであった。
=== 中近代のバラモン ===
[[ファイル:Peshwa Baji Rao I riding horse.jpg|thumb|right|250px|[[バージー・ラーオ1世]]、彼はバラモンのマラーター王国宰相である。]]
[[ファイル:Rabindranath Tagore 1886.jpg|thumb|200px|right|西ベンガル州のバラモン、[[ラビンドラナート・タゴール]]の相貌。]]
[[12世紀]]後半以降イスラーム教徒が侵入し、13世紀には[[デリー・スルターン朝]]、[[16世紀]]には[[ムガル帝国]]が成立したが、バラモンはそれらの支配のもとでヒンドゥー貴族や地方官吏などとなり、依然として高い地位にあった。
また、[[18世紀]]にデカン地方を中心に支配した[[マラーター王国]]の宰相をはじめとする支配層もバラモンで占められていた。
=== 現代のバラモン ===
2011年の国勢調査によると、インドのバラモンの人口は6500万人であり、全人口の約5%を占める<ref>{{citation|url=http://www.brahminpedia.com/2015/10/brahmin-population-in-india-analysis.html|title=Brahmin population in India - an Analysis|date=2015-10-02|publisher=Brahmanipedia}}</ref><ref>{{citation|url=http://www.ethicalpost.in/statewise-brahmin-population-india/|title=State wise Brahmin Population in India|date=2017-12-19}}</ref>。
[[File:Brahmin population distribution.svg|thumb|none|alt=|各州におけるバラモンの割合。カースト国勢調査による<br />{{Legend|#550000|16–20%}}{{Legend|#800000|12–16%}}{{Legend|#D40000|9–12%}}{{Legend|#FF2A2A|4–8%}}{{Legend|#FF8080|1–4%}}{{Legend|#FFD5D5|0–1%}}]]
== 仏教での用例 ==
バラモン教が説く生まれによるカースト制を、釈迦は[[業]]に基づいた理論にて否定した<ref>{{Cite journal|和書|author=志賀浄邦 |date=2010 |title=インド仏教復興運動の軌跡とその現況 |naid=110007523445 |journal=京都産業大学世界問題研究所紀要 |volume=25 |pages=23-46}}</ref>。そのため仏教はヒンドゥー教異端派([[アースティカとナースティカ|ナースティカ]])であった。
{{Quote|
人は生まれによってバラモンとなるのではなく、生まれによって非バラモンとなるのではない。業によってバラモンとなるのであり、業によって非バラモンとなるのである。<ref>{{SLTP| [[スッタニパータ]] 653 }} </ref>
}}
[[初期仏教]]の経典の一つ『[[法句経]]』(『ダンマパダ』)26:393では、著者([[釈迦]]に擬せられる)は以下のように、出身階級による差別を明確に否定している。同書の第26章「バラモン」全体では、執着を断ち切って[[涅槃|安らぎ]]の境地に達し、完成された人をバラモンと呼ぶことを繰り返し強調している。
{{quote|
[[螺髪]]を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである<ref>[[#中村1978|中村1978]]、65頁より引用。</ref>。
}}
[[日本]]では、渡来した[[インド]]人の仏教僧全てを、出身のカーストにかかわらず婆羅門と呼んでいる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |others=[[辻直四郎]]訳 |title=[[リグ・ヴェーダ]]讃歌 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1970-05 |isbn=978-4-00-320601-0 |ref=辻1970 }}
* {{Cite book |和書 |others=[[中村元 (哲学者)|中村元]]訳 |date=1978-01 |title=ブッダの真理のことば - 感興のことば |series=[[岩波文庫]] 青302-1 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-333021-8 |ref=中村1978 |page=65 |url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/8/3330210.html }}
== 関連項目 ==
* [[ゴートラ]]
* [[ドヴィジャ]]
* [[リシ]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Brahmins}}
*山上證道「[http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~yamakami/hinduism.html インド理解のキーワード—ヒンドゥーイズム—]」([[京都産業大学]]『世界の窓』第11号)
{{Hinduism2}}
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アーリア人
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アーリア人(アーリアじん、英: Aryan, 独: Arier, サンスクリット語: आर्य, ペルシア語: آریا )は、民族系統の呼称。広義と狭義で対象が異なり、広義には中央アジアのステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループを指し、狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。
前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。
現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人、ペルシア人、タジク人、北部インドの諸民族などがあり、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。
この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。
アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアやイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという。
これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。
広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。
現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。 ただし、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。
尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後にオカルティズムやナチズムと結びつき、人種差別や優生学を生み出した。しかしナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では疑似科学だと見なされている。詳細はアーリアン学説の項を参照のこと。(インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々に関する今日の科学的見解に関しては、インド・ヨーロッパ祖語、en:Proto-Indo-Europeans、クルガン仮説を参照)。
本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。
本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。
英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の語源は、サンスクリット語の「アーリヤ (ārya)」とされる。古代イランのアヴェスター語にはairyaがあり、いずれも「高貴な」という意味で、アーリア人が自称した。また、インド・イラン祖語の*arya-か*aryo-に由来する。古代ギリシア人のストラボンやエラトステネスがトロス山脈から東はインダス川までをアリアナ地方 (Ariana)と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。ただし、古代ローマの大プリニウスによる博物誌 6巻23章においてはAriaという古代イランのペルシア王国の統治下にあった現代のアフガニスタンのヘラートに当たる地域と混同されている。
イスラム教以前のイランの宗教はマズダー教(及びその内の多数派であるゾロアスター教)である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれる。これに対して、インドの宗教はバラモン教であり、バラモン教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとして描写する局面を含有しつつも、リグ・ヴェーダ以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァであり、悪神はアスラと呼ばれる。
バラモン教は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。
狭義の意味におけるアーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%、パシュトゥーン人に51%、タジク人に44.7%みられる。 しかしアーリア人を広義の意味で捉えるならば、民族によってはハプログループR1b(Y染色体)が高頻度である。
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"text": "本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。",
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"text": "本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。",
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"text": "英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の語源は、サンスクリット語の「アーリヤ (ārya)」とされる。古代イランのアヴェスター語にはairyaがあり、いずれも「高貴な」という意味で、アーリア人が自称した。また、インド・イラン祖語の*arya-か*aryo-に由来する。古代ギリシア人のストラボンやエラトステネスがトロス山脈から東はインダス川までをアリアナ地方 (Ariana)と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。ただし、古代ローマの大プリニウスによる博物誌 6巻23章においてはAriaという古代イランのペルシア王国の統治下にあった現代のアフガニスタンのヘラートに当たる地域と混同されている。",
"title": "語源と名称の変化"
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"text": "イスラム教以前のイランの宗教はマズダー教(及びその内の多数派であるゾロアスター教)である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれる。これに対して、インドの宗教はバラモン教であり、バラモン教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとして描写する局面を含有しつつも、リグ・ヴェーダ以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァであり、悪神はアスラと呼ばれる。",
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"text": "バラモン教は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。",
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"text": "狭義の意味におけるアーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%、パシュトゥーン人に51%、タジク人に44.7%みられる。 しかしアーリア人を広義の意味で捉えるならば、民族によってはハプログループR1b(Y染色体)が高頻度である。",
"title": "遺伝子"
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] |
アーリア人は、民族系統の呼称。広義と狭義で対象が異なり、広義には中央アジアのステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループを指し、狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。
|
{{独自研究|date=2021年9月}}
{{redirect|アーリア|イタリアのコムーネ|アーリア (イタリア)}}
'''アーリア人'''(アーリアじん、{{lang-en-short|Aryan}}, {{lang-de-short|Arier}}, {{lang-sa|आर्य}}, {{lang-fa|آریا}} )は、[[民族]]系統の呼称。広義と狭義で対象が異なり、広義には[[中央アジア]]の[[ステップ (植生)|ステップ]]地帯を出自とし、南は[[インド亜大陸]]、西は[[中央ヨーロッパ]]、東は[[中国]]西部まで拡大したグループを指し、狭義には[[トゥーラーン]]を出自としたグループを指す。
==概要==
前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。その後は[[テュルク]]・[[モンゴル]]民族の勃興と[[中央アジア]]・[[北部インド]]・[[西アジア]] 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。
現存する近縁の民族としては'''[[パシュトゥーン人]]、[[ペルシア人]]、[[タジク人]]、[[インド・アーリア人|北部インドの諸民族]]'''などがあり<ref>青木健「アーリア人」216ページ</ref>、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。
この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、[[アーリアン学説]]ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、''インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族''全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、'''アーリア人種'''と呼ぶ事にする。
アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。このアーリア人種は元々[[インド]]に住んでいたが、[[中央アジア]]や[[イラン]]へ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという<ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2986641/?tool=pmcentrez Y-Chromosome distribution within the geo-linguistic landscape of northwestern Russia]</ref>。
これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。
* '''狭義のアーリア人'''(諸民族に分裂する以前)
** [[イラン系民族|イラン・アーリア人]]
* '''広義のアーリア人'''(現存の末裔民族も含む概念)
** [[インド・アーリア人]]
** 狭義のアーリア人
** [[ペルシア人]]
** [[パシュトゥーン人]]
** [[タジク人]]
** 北インド諸民族
* '''最広義のアーリア人'''(アーリアン学説におけるアーリア人種)
** [[インド・ヨーロッパ祖語]]を話していた民族と、その子孫
広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にも[[パールシー]]などのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーは[[サーサーン朝]]の[[ペルシア帝国]]滅亡後にインドに移ってきた[[ゾロアスター教]]を信奉する古代ペルシア人の子孫である。
現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。
ただし、「イラン」という国名自体[[ペルシア語]]で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の[[シャー|皇帝]]である[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]([[1979年]]に[[イラン革命]]による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。
尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後に[[オカルティズム]]や[[ナチズム]]と結びつき、[[人種差別]]や[[優生学]]を生み出した。しかしナチズムが想定していたような、[[ドイツ人|ドイツ国民]]こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では[[疑似科学]]だと見なされている。詳細は[[アーリアン学説]]の項を参照のこと。([[インド・ヨーロッパ祖語]]を話していた人々に関する今日の科学的見解に関しては、[[インド・ヨーロッパ祖語]]、[[:en:Proto-Indo-Europeans]]、[[クルガン仮説]]を参照)。
本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。
本項で取り扱う狭義のアーリア人は[[司祭]]が社会的に重要な地位であった。
[[自然現象]]を神々として崇拝する[[宗教]]を持っていた。
== 語源と名称の変化 ==
[[ファイル:Mappa di Eratostene.jpg|240px|right|thumb|19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図。[[ペルシア湾]]の右に ARIANA とある]]
英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の[[語源]]は、[[サンスクリット語]]の「アーリヤ (ārya)」とされる{{sfn|Fortson, IV|2011|p=209}}。古代イランの[[アヴェスター語]]には''airya''があり{{sfn|Mallory|Adams|1997|p=304}}、いずれも「高貴な」という意味で、アーリア人が自称した。また、[[インド・イラン語派|インド・イラン祖語]]の[[wiktionary:Appendix:Proto-Indo-Iranian/áryas-|*arya-]]か*aryo-に由来する{{sfn|Fortson, IV|2011|p=209}}<ref name="Szemerényi">[[Oswald Szemerényi|Szemerényi, Oswald]] (1977), "Studies in the Kinship Terminology of the Indo-European Languages", Acta Iranica III.16, Leiden: Brill pp 125–146</ref>。[[古代ギリシア]]人の[[ストラボン]]や[[エラトステネス]]が[[トロス山脈]]から東は[[インダス川]]までをアリアナ地方 ([[:en:Ariana|Ariana]])と記録しており、その頃には[[地中海]]東部地域でも既知の民族名だったと言える。ただし、[[古代ローマ]]の[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]による[[博物誌]] [https://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.02.0137%3Abook%3D6%3Achapter%3D23#note-link15 6巻23章]においては[[:en:Aria_(region)|Aria]]という古代イランの[[アケメネス朝|ペルシア王国]]の統治下にあった<ref name="WDL">{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/11738/ |title = The Empire and Expeditions of Alexander the Great |website = [[World Digital Library]] |date = 1833 |accessdate = 2013-07-26 }}</ref>現代の[[アフガニスタン]]の[[ヘラート]]に当たる地域と混同されている<ref name="W. Smith, 1870, 'Ariana'">{{cite dictionary|dictionary=Dictionary of Greek and Roman Geography|last=Smith|first=William|url=https://archive.org/stream/dictionaryofgree01smituoft#page/210/mode/1up |article=Ariana |publisher=Little, Brown, and Co. |location=Boston |date=1980 |accessdate=2013-05-10 |pages=210–211}}</ref>。
== 宗教 ==
[[イスラム教]]以前のイランの宗教は[[マズダー教]](及びその内の多数派であるゾロアスター教)である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神は[[ダエーワ]]と呼ばれる。これに対して、インドの宗教は[[バラモン教]]であり、バラモン教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとして描写する局面を含有しつつも、[[リグ・ヴェーダ]]以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァであり、悪神はアスラと呼ばれる<ref>辻直四郎(1967)『インド文明の曙 ヴェーダとウパニシャッド』38頁。要するとデーヴァ(ダエーワ)とアスラ(アフラ)はインドとイランで正反対の好対照をなしている。</ref>。
=== バラモン教 ===
[[バラモン教]]は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。
==== バラモン教が影響を与えた他の宗教 ====
* [[仏教]]は、バラモン教の習慣、言語習慣を用いて教えを説いた。
* [[ヒンドゥー教]]は、バラモン教を土台に、その他の宗教を取り込んで再構成されたものである。
* [[ジャイナ教]]は、仏教と同時期に[[ヴァルダマーナ]]によって提唱された教えで、より徹底した[[不殺生]]を説く。なお仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯がある。
* [[シク教]]は、ヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して構築されたもので、両者の教義を取り入れている。
<!--
あちこちで問題になっている「ミトラ教」記述につき、コメントアウト。
=== ミトラ教 ===
[[ミトラ教]]は、アーリア人の宗教の神の一柱ミトラを主神とした宗教である。
メソポタミア周辺に定住したアーリア人(イラン・アーリア人)の宗教が元になって、ミトラ教が作られた。マズダー教(ゾロアスター教)は、ミトラ教の一派が独立したものである。
ミトラ教は、[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[マニ教]]、[[イスラム教]]に直接またはマズダー教を経由して影響を与えている。仏教のマイトレーヤ(弥勒菩薩)は、ミトラ教からの影響である。
-->
==遺伝子==
狭義の意味におけるアーリア人は[[ハプログループR1a (Y染色体)]]が高頻度である。インド北部では48.9%<ref>Trivedi, R.; Singh, Anamika; Bindu, G. Hima; Banerjee, Jheelam; Tandon, Manuj; Gaikwad, Sonali; Rajkumar, Revathi; Sitalaximi, T; Ashma, Richa (2008). "High Resolution Phylogeographic Map of Y-Chromosomes Reveal the Genetic Signatures of Pleistocene Origin of Indian Populations" (PDF). In Reddy, B. Mohan. Trends in molecular anthropology. Delhi: Kamla-Raj Enterprises. pp. 393–414. ISBN 978-81-85264-47-9.</ref>、[[パシュトゥーン人]]に51%<ref>Haber, Marc; Platt, DE; Ashrafian Bonab, M; Youhanna, SC; Soria-Hernanz, DF; Martínez-Cruz, Begoña; Douaihy, Bouchra; Ghassibe-Sabbagh, Michella; Rafatpanah, Hoshang; Ghanbari, Mohsen; Whale, John; Balanovsky, Oleg; Wells, R. Spencer; Comas, David; Tyler-Smith, Chris; Zalloua, Pierre A. et al. (2012). "Afghanistan's Ethnic Groups Share a Y-Chromosomal Heritage Structured by Historical Events". PLoS ONE 7 (3): e34288. Bibcode:2012PLoSO...734288H. doi:10.1371/journal.pone.0034288. PMC 3314501. {{PMID|22470552}}. </ref>、[[タジク人]]に44.7%<ref>Wells, Spencer et al. 2001, The Eurasian Heartland: A continental perspective on Y-chromosome diversity</ref>みられる。
しかしアーリア人を広義の意味で捉えるならば、民族によってはハプログループR1b(Y染色体)が高頻度である。
== アーリア人と関連した出来事 ==
* インド
** [[紀元前2千年紀]]に、北西インド、[[パンジャーブ]]での牧畜が確認される{{sfn|Witzel|2001|p=83-84}}。[[インド・アーリア人]]となる。
* [[中央アジア]]
** [[イラン・アーリア人]]となる。
** 一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(Aryana、アーリア人の土地の意味)に興る。
** 中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後に[[スキタイ|スキタイ人]]が[[黒海]]から[[アゼルバイジャン]]までの範囲に栄える。
<!--アンドロノヴォ文化とアーリア人の関連は不明-->** [[紀元前2500年]]頃には、アーリア人種のものと思われる[[アンドロノヴォ文化]]や類似する様式が[[アラル海]]や[[キプチャク草原]]、南西の[[トルキスタン]]で見られる。東トルキスタンでは[[紀元前4000年]]頃より[[遊牧]]が始められていた。
** [[紀元前10世紀]]頃より、インド北西部から東の[[ガンジス川]]に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。
** [[紀元前5世紀]]頃になり、[[ヴェーダ]]が完成し、[[バラモン教]]の宗教的な形式が整えられる。
** [[紀元前5世紀]]に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族[[クシャトリヤ]]階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
** [[4世紀]]、新しい王{{誰|date=2020-9}}の支持を受け、バラモン教を発展・継承する[[ヒンドゥー教]]が作られる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 牧英雄「世界地名の語源」([[自由国民社]] 1980年)
* 蟻川明男「世界地名語源辞典」([[古今書院]])
* {{Cite book|和書 |author=青木健|authorlink=青木健 (宗教学者) |year=2009 |title=アーリア人 |publisher=[[講談社]]選書メチエ |isbn=978-4-06-258438-8 |ref=aoki2009}}
* [[後藤敏文]]「アーリヤ諸部族の侵入と南アジア基層世界」長田俊樹編 『インダス 南アジア基層世界を探る』 京都大学学術出版会、2013年。
* {{Citation | last1 =Mallory | first1 =J.P. | last2 =Adams | first2 =Douglas Q. | year =1997 | title =Encyclopedia of Indo-European Culture | publisher =Taylor and Francis}}
* {{Citation | last =Fortson, IV | first =Benjamin W. | year =2011 | title =Indo-European Language and Culture: An Introduction | publisher =John Wiley & Sons | isbn=978-1444359688}}
* {{Citation | last =Witzel | first =Michael | title =Autochthonous Aryans? The Evidence from Old Indian and Iranian Texts | journal =Electronic Journal of Vedic Studies |volume=7 |issue=3 |pages=1–115 |year=2001 | url =http://www.people.fas.harvard.edu/~witzel/EJVS-7-3.pdf |ref=harv}}
== 関連項目 ==
*[[コーカソイド]]
*[[インド・ヨーロッパ語族]]
*[[インド・アーリア人]]
*[[ペルシア人]]
*[[パールシー]]
*[[パシュトゥーン人]]
*[[タジク人]]
*[[アーリアン学説]]
*[[ゾロアスター教]]
*[[バラモン教]]
*[[名誉アーリア人]]
==外部リンク==
*[https://1000ya.isis.ne.jp/1421.html 『アーリア人』青木健]千夜千冊 連環篇
{{印欧語族}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ありあしん}}
[[Category:インド・ヨーロッパ語族]]
[[Category:ミトラ教]]
[[Category:語族別の民族]]
[[Category:中央ユーラシア史]]
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2003-06-23T03:55:54Z
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2023-11-29T19:50:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
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10,328 |
ワイン
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ワイン(仏: vin、英: wine、伊: vino、独: Wein)とは、主としてブドウの果汁を発酵させたアルコール飲料(酒)である。葡萄酒(ぶどうしゅ)とも。通常、単に「ワイン」と呼ばれる場合には、ブドウ以外の他の果実の果汁を主原料とする酒は含まない。日本の酒税法では「果実酒」に分類されている。また、日本語での「酒」と同じく、欧州語においてはアルコール飲料(特に果実酒)全体を指す場合もある。
ワインは日常的に飲まれるアルコール飲料でありながら、ギリシャ神話やローマ神話、キリスト教において重要な役割を果たす神聖な存在でもある。また、外観や香りや味わいを鑑賞する嗜好品としても高い地位を獲得しており、食文化を牽引する存在の一つとなっている。長期熟成に耐えうることから、近年ではコレクションや投資の対象としても大きな注目を集めている。
古くは紀元前の南コーカサスやメソポタミアに端を発し、その後はフランスやイタリアをはじめとするヨーロッパ周辺地域で広く生産から消費まで行われる時代が続いたが、現在ではさらに生産地域を広げ、そして世界中で愛飲されている。
ワインは世界で最も多くの地域で飲用されているアルコール飲料の一つである。ワインは主に以下の3種類に分類される。
ほかに発泡ワイン、オレンジワインなどの特殊な製法のものがある。ワインの風味を構成する味覚は、白ワインでは酸味・甘味であり、赤ではそれに渋みが加わる。加えて、香りが風味の重要な要素であり、これらのバランスが取れているワインが一般的に良いものとされる。
ワインの主成分は水、エタノール、各種の有機酸、糖、グリセリン、アミノ酸、核酸、タンニン、炭酸ガスなどである。各種の有機酸の中では酒石酸、リンゴ酸、クエン酸、乳酸、酢酸、コハク酸の6つがワインの風味に関して最も重要な要素と考えられている。また、貴腐ワインにはグルコン酸が多く含まれている。
魚介類との相性に関しては、従来はタンニンが関与していると信じられていたが、タンニンではなくフェノール化合物、カルボニル基を持つ物質、鉄が関与するとの報告がある。特に、鉄分の含有量は魚介類料理との相性に大きく影響を及ぼし、鉄分濃度に依存し1-オクテン-3-オン、(E,Z)-2,4-ヘプタジエナールなどの物資により生臭味が増強されてしまうとされている。なお、鉄の起源は、土壌、製造工程中の鉄製品、コラージ(澱引き)に依存している。
ワインは瓶に詰められた後でも熟成が進み、風味は変化を続ける。熟成期間はボルドーワインなどの一部のワインでは50年以上もの熟成に耐えるものもあるが、多くは1年から10年ほど、長いものでも20年から30年である。安価なワインでは熟成によって品質が向上することはあまりなく、むしろ早く飲まないと劣化してしまう。長い熟成に耐えるものを長熟、逆に早く飲むものは早飲みという。作られて間もないワイン(「若いワイン」と表現する)は、ブドウの生の味が強く、渋すぎたり、酸味がきつすぎたりするということもあるが、熟成が進むと角が取れてまろやかになる。また、年数が経てば総数が減るため希少価値により価格も高くなる傾向にある。ただし、熟成したワインがどれも同じように高くなるというわけではなく、生産年、地域、作り手の知名度などにより価格は大きく異なる。
ワインが食文化に根付いているヨーロッパでは日常的に飲まれることも多いが、近年では日本における日本酒と同様に、1人あたりの需要量は減少傾向にある。イスラム教においては飲酒が教義により禁止されているため(「ハラール」を参照)、イスラム教発祥地である現在の中東諸国では、ワインの生産は、イスラエル、世俗主義国家であるトルコ、比較的リベラルなイスラム教徒やキリスト教徒が住むレバノン、ヨルダン、パレスチナ、エジプトなどに限られる。日本を含むアジア諸国では、1人あたりの需要量は依然として少なく、需要の伸びは著しい。
日本では、冷やしてストレートで飲むものと言うイメージが強いが、ヨーロッパではホットワインは冬の定番の飲み物である。ホットワインもそうだが、香料やスパイスを入れたフレーバーワイン(スパイスワイン)もなじみ深い。特に中世ヨーロッパではストレートで飲めるワインは最高級品であり、滓を取ったり、香料やスパイスを加えたりして飲みやすくするのが通常であったため、歴史は古い。
ワインは極めて歴史の古い酒の一つであり、新石器時代に醸造が始まったとされる。様々な歴史的記念物、文献などからジョージアでは7000年から5000年前に醸造され、発祥地の一つとされる。近東のワイン造りの化学的痕跡としては、イランのザグロス山脈で見つかった紀元前5400 - 同5000年(約7000年前)のものが最古とされていたが、ジョージアで発掘された約8000年前の陶器の壺が科学分析により世界最古のワイン醸造の痕跡であると2017年に発表された。また、アルメニアでは約6000年前のものとされる世界最古のワイン醸造所跡が発見されており、その頃には既に高度な醸造技術が確立されていた。以後、醸造法が南方に伝播したことから、中東、特にメソポタミアを中心とする地域で広く愛飲されるようになる。ただし、メソポタミアはブドウの栽培に適した土地でなかったため、イラン高原では紀元前6000年頃から生産が始まっていたものの、メソポタミア(特に南部のシュメール)においては紀元前4000年頃になってようやく醸造できるようになったとされている。古代エジプトではビールが多く飲まれていたが、紀元前4000年代末期にはワインが製造されていた。ビザンツ帝国時代の地中海周辺では大規模なワイナリーも存在しており、商業的に流通していたと考えられている。
しかしながら、ワイン文化が西洋へ広まった要因はやはり、現在のレバノンが位置する地中海岸沿いを拠点としていたフェニキア人であり、そしてその地域こそがワイン生産の起源とも言える。フェニキア人の生産するワインはその後、古代ギリシアやローマ帝国時代にわたり上質なワインを表す「ビブライン」(フェニキアの町ビブロスから)という形容詞となり、その存在は続いた。『ホセアの予言書』(紀元前780年 - 725年)の中では、「ブドウの木のように栄えており、その香りはまるでレバノンのワインのようだ」と弟子たちにヤハウェのもとへ急いで伝えるようにと記されている。
フェニキア人は3つの点においてワインの世界に重要な意味をなしている。
ワインについて書かれた世界最古の文献は、紀元前2000年前後に作られたシュメール語の粘土板である。例えば、『ギルガメシュ叙事詩』(アッカド語版)には、メソポタミアで英雄視された王(ギルガメシュ)が大洪水に備えて箱船を造らせた際、船大工たちにワインを振る舞ったという場面がある。シュメールでは紀元前5000年頃に世界初となるビールの醸造技術が確立しており、紀元前3000年代初期に双方が古代エジプトへと伝わったとされる。古代エジプトでは大量生産されるビールが主流であったが、ブドウ栽培や醸造を描いた壁画が残されている。またシェデフ(英語版)と呼ばれる赤ワインのような飲料も存在した。
その後、フェニキア人により古代ギリシアへも伝わる。この頃は水割りにして飲まれ、原酒のまま飲む行為は野蛮とされた。これは当時の上流階級が、ギリシャ北方に住むスラブ系の祖先であるスキタイの原酒飲酒の習慣を忌み嫌っていたからだと言われている。現代ギリシャ語でワインをοίνος(「エノロジー(oenology、ワイン醸造学)」の語源)ではなく普通κρασί(混合)と呼ぶのはこの水割りの習慣の名残である。ワインはそこから地中海沿岸に伝えられ、古代ローマへと伝わり、ローマ帝国の拡大とともにガリアなどの内陸部にも水割り文化とともに伝わっていった。当時のワインは、ブドウ果汁が濃縮されかなりの糖分を残している一方、アルコール度数はそれほど高くなかった。今日の蒸留酒を飲むときに行うようなアルコール度数を抑えるための水割りではなく、過剰な甘さを抑えるための水割りであった。酒というよりはソフトドリンク、長期保存可能なブドウジュースといった感覚であった。ヨーロッパの水は硬水が多く大変飲みにくいものであったため、それを飲みやすくするためにワインは必要不可欠なものであり、その意味では水で割るというよりも、水に添加して飲みやすくするものであった。
ワイン製造の技術が格段の進歩を遂げたのはローマ時代においてとされ、この時代に現在の製法の基礎が確立した。それにより糖分がかなりアルコールに転化され、ワインをストレートで飲む「大酒飲み」が増えていった。
中世ヨーロッパでブドウ栽培とワイン醸造を主導したのはキリスト教の僧院であった。イエス・キリストがワインを指して自分の血と称したことから、ワインはキリスト教の聖餐式において重要な道具となった。ただしこの時代、ワインは儀礼として飲むものとされ、むやみに飲んで酩酊することは罪とされていた。中世後期にはワインは日常の飲み物として広まるようになっており、12世紀のイタリアで著された医学書『サレルノ養生訓』では、いいワインの選び方やワインと健康についての考察がなされている。また、ブルゴーニュワインが銘酒として有名となったのはこの頃からである。ルネサンスの時代以降、娯楽としての飲酒が発展する。17世紀後半、醸造や保存の技術、また瓶の製造技術が向上し、ワインの生産と流通が飛躍的に拡大した。
また、これらのワインとは全く異なるが、古代中国(※漢王朝 - 紀元前1000年初期)においても独自のワイン醸造技術が存在していたという。ただし、この系統は完全に廃れてしまい、現代中国で生産されるワインは西洋由来のものである。
広い意味でのワイン作りはブドウの栽培と醸造に二分できる。ワイン産地では、ワイン作りといえば醸造(英語ではwinemaking)を指し、醸造学は英語でエノロジー(oenology/enology)という。これに対し、ブドウ栽培(英語でgrapegrowing)の技術や学問はヴィティカルチャー(viticulture)と呼ばれる。海外の大学はブドウ栽培と醸造学の両コースを持つのが普通である。
ワインの生産主体はフランスのボルドー地域においては「シャトー」、ブルゴーニュ地域においては「ドメーヌ」と呼ばれることが多い。フランス語の「シャトー」は、元々は城館を表す言葉で、ボルドー地域においては転じてブドウ園や管理場、生産者のことをも指す。主なものではシャトー・ムートン・ロートシルト、シャトー・ラフィット・ロートシルト、シャトー・マルゴー、シャトー・ラトゥールなどがある。イタリアにおける「カステッロ」、ドイツの「シュロス」、スペインの「カスティーリョ」も同様である。「ドメーヌ」は、フランス語で「土地」を表す語である。カリフォルニアワインなどで「エステート」という語を使っているのもドメーヌと同義である。
どんなに醸造の技術が進歩しても、良いワインを作るためには良いブドウがなくてはならない。そのため、良質なブドウを収穫するための栽培技術方法は醸造技術以上に重要である。さらに、現代のワイン醸造では理想の味わいを生み出すために、醸造前あるいは醸造後に複数品種のブドウを組み合わせる手法が多く用いられている。したがって、ブドウ品種の選定とブレンド比は味の特徴を決定する大きな要因である。しかし、一方で品種の特徴を生かしたブレンドを行わない単一品種ワインも生産される。また、生育環境全体の栽培される畑の日当たりや局地的な気候などの要素を加え、それらを一括りにして「テロワール」と呼ぶ。実際には、品種、土壌、気候条件の違いを栽培技術や収穫時期の最適化で補うことで、広い地域で栽培が行われている。
その年のブドウの作柄のことをヴィンテージと呼ぶ。現在では転じてブドウを収穫した年のことをヴィンテージと呼び、その年の出来不出来によってワインの出来が変わる。そのために各国のワイン関連組織やワイン専門誌などによってヴィンテージチャートが発表される。ただし、現在では補糖や補酸、適切な酵母の選択などの醸造技術の進歩により、力のあるワイナリーであれば悪い年でもそれなりのワインができるようになり、味に関しては激しい差はない。その代わり、悪い出来のブドウでは長い熟成に耐えることが難しくなり、より早飲みになる。安価なワインでは品質を安定させるために複数の年のワインを混ぜた「ノン・ヴィンテージ」であることが多い。シャンパンはノン・ヴィンテージが一般的であり、産年表示された「ヴィンテージ・シャンパン」は、高級品に限られる。
世界的にはワインに使われるブドウの種はヨーロッパ種(学名:Vitis vinifera)が主流である。品種はサルタナ(トンプソン・シードレス)種などごく一部に生食用品種を使用するものもあるが、ほとんどはワイン専用品種である。日本では、巨峰、ナイアガラなどの生食用品種やヤマブドウも使われている。
一般にワイン専用品種は生食用品種よりも果実の粒が小さく、皮が厚く、甘みと酸味がより強い。代表的な品種としてリースリング、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなどがある。また、伝統的な品種だけでなく、品種改良によって耐寒性や耐病性を向上させたり、他産地との差別化を図ったりするための手法も行われている。
品種毎に適する土壌には違いがあるとされている。代表的な好土壌は、カリ白亜土、赤砂質粘土、黄土土壌、混砂粘土、泥灰岩土壌、石灰質土壌、粘陶土質土壌の水はけの良い土地が多く選ばれている。しかし、穀物栽培に適する腐植土壌の堆積平野や湿潤な土地、極度に乾燥した砂漠、塩分の多い土壌は良質なブドウの収穫は望めず不向きである。
ブドウは気候に対する適応能力が高いため、温帯を中心に栽培されている。良質なワインを醸造できる特性を兼ね備えた果実を収穫できる地域の多くは、緯度20度から40度の地域に存在しているが、ヨーロッパでは北緯50度の地域においても栽培が行われている。湿潤な気候区分では地中海性気候が適する。潅漑用水があればより乾燥したステップ気候地域でも栽培可能である。
高温多湿な地域ではべと病などが広がりやすいが、農薬の進化により栽培が可能となった。
2020年ごろから地球温暖化の影響により、ブルゴーニュなど栽培に適していた地域での栽培に影響が出ており、2050年代には最適地がさらに高緯度に変わるという予測もある。
冷涼な地域(畑)では収穫期を遅らせ糖度の上昇を待つ、あるいは温暖(畑)な地域では適度な酸が失われる前に早期の収穫を行うことで収穫されるブドウの品質向上を図っている。また品種改良や栽培法の工夫も行われている。
その年に雨が多く、日照量が少ないとブドウの生育が悪くなり、そこからできたワインは糖分と果実味に乏しく腐敗果の混入のおそれが増える。逆に日照が良すぎて生育が早過ぎると酸が欠けて糖分が強くなり過ぎ、酸味とのバランスが悪くなる。
伝統的な方法では、搾った果汁を樽や甕に入れ、自然酵母(野良酵母)によりアルコール発酵させたあと、滓(おり)引きを行い、樽で数か月から数年間熟成し瓶詰めされる。ルイ・パスツールによってワインの醸造が酵母によるものだと発見されて以来、微生物を混入させないような製法が開発されているが、基本的な方法はワイン発祥の頃と変わっていない。近代的な醸造方法では培養酵母を添加し、ステンレス製タンク内で発酵させる。熟成(マロラクティック発酵)の際も、特別に培養した乳酸菌を添加する。
ワインは、そのほぼ全工程で、なるべく空気、特に酸素との接触を断つ必要がある。これは多くの場合、空気とともに酢酸菌が侵入して酢酸醗酵が行われることで、酸味の強過ぎるワインになったり、ワインが腐敗状態となったりするのを防ぐためである。このためワインの製造工程のいくつかの段階では、酸化防止剤としても知られる二酸化硫黄(亜硫酸ガス, SO2)またはその塩の1種であるピロ亜硫酸カリウムが添加される。ただし、この二酸化硫黄には、確かに酸素の除去という効果もあるものの、その反応は遅い。しかも、二酸化硫黄は人体に有害な物質としても知られているため、これを添加をしない製法も存在する。このように酸化防止剤を添加しない場合は、醗酵させるタンク内の空気を窒素に置換することで、酸素との接触および雑菌の繁殖による腐敗を抑制する手法が多く用いられる。しかし、二酸化硫黄には酸化防止剤としての働きと雑菌の抑制および殺菌のほかにも、ブドウの果皮に含まれる酸化酵素の阻害、果汁中の色素の安定化、ワインで発生することのある過酸化水素の除去などの働きもあり、二酸化硫黄の添加を行うことでワインの品質をより簡単に安定させられるという利点がある。また、二酸化硫黄が含まれていても、少量であれば人体にほとんど問題はないとされていることから、簡単に品質を安定させる手段として、現在でも二酸化硫黄の添加が主流となっている。そして中には、フランスのワイン法のように、二酸化硫黄の添加を義務づけている地域も存在する。ただし、日本やヨーロッパ諸国、アメリカなどでは、製品中の二酸化硫黄の濃度が一定値を超えてはならないと規制されているため、使用には限度が存在する地域もある。なお、ワインへのこの他の酸化防止剤の使用は日本では認められていないが、南米などから気温が高い赤道を越えて船で輸送されるものは、多くの場合に保存料として認められているソルビン酸が添加される。
醸造するには、まずブドウを収穫しなければならない。ブドウの収穫は糖度が14 - 26度程度になったところで、鋏または機械で行う。収穫時期をいつにするかということもまたワインの味を決める重要な要素で、単純に糖度が高いだけでは酸とのバランスが悪い仕上がりになる。この際に病気の腐敗果や生育が悪いものは、必要以上に酸をもたらすため取り除く。この過程を選果という。
伝統的なワインの製造(発酵)方法は、ブドウの芯(果梗)を取り除き(除梗:じょこう)、実の皮を破る(破砕)。産地によっては、ワインにより強い渋みをつけるため果梗を混ぜる場合がある。スペイン、イタリアの農村では収穫期には伝統的に村人総出で、素足で体重をかけて搾汁する光景が見られる。最近のワイン工場ではステンレス製の除梗破砕機を使用し搾汁する。多くのワイン専用品種では収穫した果実重量の55 - 65%程度の果汁が得られ、大粒生食用品種の巨峰などでは80 - 85%程度の果汁を得る。
この次に赤ワインの場合は、果皮や果肉の混ざったままの状態で醗酵させる。白ワインの場合は、圧搾機にかけて果汁を搾り出した(搾汁)後、果汁のみを醗酵させる。ただし、一部の白ワインではスキンコンタクト法という「破砕した果実と果汁を1 - 24時間接触させたあとに搾汁する」方法も取られる。このように、白ワインは醗酵させる前に果皮や果肉は捨てられるのが一般的であるものの、種子についてはグレープシードオイル(葡萄種油、食用油)の原料として利用される。ロゼワインの場合は、概要の節で述べたように様々な製法があり、この工程はそれぞれの製法によって異なっている。
なお、ワインの渋みとなるタンニンは果梗や果皮あるいは種子に由来し、タンニンはエタノールによって溶出する。したがって、果汁のみを醗酵させる白ワインにはタンニンが少ない。
発酵させるにあたり、ブドウの果実には自然酵母(野生酵母)が取りついており、さらに、果汁中には酵母が利用可能なブドウ糖が含まれているため、果汁が外に出ることで自然にアルコール発酵が始まる。伝統的な製法では酵母には手を加えない自然発酵が主流であったが、現在では安定した発酵をさせるため、特別に培養した酵母を使用した酒母として添加し、それ以外の菌を作用させない方法がとられる。さらに、ブドウ産地が高温で酸に乏しいブドウとなる場合は、酸を多く生じる酵母を用いる。その後、場合によっては糖(果糖、ぶどう糖など)が添加される。この後、赤なら約20 - 30°C、白なら15 - 18°Cに保ち、数日から数十日かけた「主発酵」を経て、圧搾によって液体成分を搾り出す。目的の発酵度合い(糖の残り具合)になったところで、温度を下げ発酵を停止させることもある。発酵の際の温度が20°Cを越えると微香成分が失われるため、低温で長期間の発酵を行う場合もある。一緒に仕込んだ果皮や種が、アルコール発酵中に発生する二酸化炭素(炭酸ガス)により浮き上がり、好気的な微生物の作用を受けやすくなるため、ピジャージあるいは撹拌や循環により固形分が常に液体に浸った状態を維持する。
酵母による発酵の成果として十分に発酵した場合、糖度計による計測糖度の約2分の1の値のエタノールと二酸化炭素が生成される。目的の発酵度合いになったところで、液体と固形分を分離する。このとき、圧力をかけずに自然と流れ出た液体が「フリーランワイン」で、高級ワインの原料として使用される。一方、残った固形分を圧縮し搾った液体が「プレスワイン」である。「フリーラン」「プレス」は別々に二次発酵から瓶詰めを行うが、プレスワインはブレンド用のワイン原料として利用されるほか、一部ではフリーランと混合され、各々が特徴を持ったワインに仕上がる。
なお、酵母によるアルコール発酵で作り出せる酒のアルコール度数には限界が存在する。これは、エタノールがある一定濃度以上になってしまうと、酵母は自身の生産したエタノールにより死滅してしまうためである。この上限濃度は酵母の菌株によって異なっており、だいたい16 - 20%である。したがって、シャンパンのように瓶内二次発酵を行いたい場合は、この濃度に達していない必要がある。なお、酒精強化ワインの場合は、ここで高濃度のエタノール(蒸留酒)を添加することによって、酵母が死滅するようにエタノールの濃度を上げてしまうため、酵母によって消費されなかったブドウ糖などが多く残るために、一般的に甘口に仕上がる。
搾り出された液体はステンレスやコンクリート製のタンク、木製(主にフレンチオーク、一部ではアメリカンオークも使用される)の樽に貯蔵される。木製の樽を利用するとその香りなどがワインに影響し、それが良い効果を与えるとされている。一方、ステンレス製のタンクではワインへの影響がないため品質管理がやりやすくなるという利点があり、ステンレス製タンクを利用する生産者が増えている。熟成期間は数十日から数年と様々である。底にたまった滓(おり)は随時回収する。アルコール発酵で生じた二酸化炭素を大気中に発散させず、液中に封じ込めたものはスパークリングワインとなる。
酸味の強いワインでは樽での貯蔵中に乳酸菌が投入されてマロラクティック発酵(Malolactic Fermentation, MLF)が行われる。これを「熟成」とも呼ぶ。マロラクティック発酵は酸味の主成分であるリンゴ酸を乳酸と二酸化炭素へ分解する化学反応で、製品の酸度の減少と微量芳香成分の付与をする。MLF発酵が行われる温度は15 - 18°Cで、12°C以下では起こらない。多くの場合、MLF発酵が行われるのは冬期の寒冷期であることから、近代的な製法では乳酸菌スターターの添加と加温管理で行われる。さらに、ワインのpHは3.1 - 4.0の範囲になければならない。pH4.0を超えると失敗しやすくなる。ただし、最適なpHは使用される乳酸菌によって異なっている。また、マロラクティック発酵は赤ワインだけでなく白ワインでも行われる。
乳酸菌としては、 発酵の初期はホモ型(Lacobacillus paracasei , Lb. plantarum)、ヘテロ型(Leuconostoc mesenteroides)、発酵の後期になると Oenococcus oeni などが作用をもたらす。この乳酸菌が日本酒に作用すると腐造となる。
発酵が終わったワインは、酵母や酒石(酒石酸水素カリウム)などの澱が沈降するため、セラミックフィルター、遠心分離、濾過、静止などにより澱を分離する。また、熟成期間中のワインも澱が生じるため適宜澱引きを行う。発酵を停止させる方法は、静止のほか、冷却して酵母を沈殿させたり、50°C程度までの加熱を行い酵母を死滅させたりする方法が用いられる。なお、ここで取り除かれる酵母は、加工を行ったうえで健康食品として販売されることもある。また、蛋白質を除去して透明化させるため、卵白やベントナイトという粘土などを添加する方法はコラージ(collage)と呼ばれ、高級赤ワインでは広く行われている。
ワインを購入者が混ぜ合わせたり、カクテルの材料にしたりする以外に、製造工程の一環としてブレンドが行われることがある。フランスのシャンパーニュ地方におけるシャンパンづくりでは「アッサンブラージュ」と呼ばれる。購入者の希望に合わせてブレンドを受け付けるサービスもある。
貯蔵後はガラス瓶などの容器に詰め、コルクなどで栓をして出荷される。コルクには天然のコルクと、合成素材のみ、もしくは天然コルクと合成素材を組み合わせた合成コルクがある。合成コルクは主に安価なワインに使用される。汚染などが問題になるコルクの代りにスクリューキャップ(英: Screw cap)も用いられる。安いワインはバッグ・イン・ボックスと呼ばれる段ボール箱に入った特殊な薄い袋(容量は2リットルから4リットル程度)に詰めて売られることも多い。これは、輸送コストが安く、空気が入りにくいため開栓後ワインが酸化しにくいのが特長である。また、ペットボトルや紙パック、缶が容器として使用されることもある。
香りはワインの品質を決定づける重要な要素であり、原料のブドウと醸造の各々の段階で加わり複雑なアロマを形成する。
ヨーロッパ周辺地域においては歴史上古くからワイン造りが行われている。代表的な産地はフランス、イタリア、スペインなどであり、名だたる高級ワインを生産している。近代以降になってワイン造りが始まった地域は「ニューワールド」と呼ばれる。安定した気候や企業的経営を背景に、一般消費者でも手軽に買い求められるワインを生産している。近年ではニューワールドワインの品質向上も目覚しく、ヨーロッパの名醸ワインをしのぐ品質のワインも出てきている。
2007年ごろからは「ブランドにこだわらなければどこの国のものも同じ」とニューワールド物に流れる傾向が強まり、ワインが売れずに廃棄されたり、フランスでは一部の零細ワイナリーが廃業したりする事態になってきている。またフランスでは温暖化によりブドウが影響を受け、従来の味を保つのが難しい地域も出ている。
ワイン用ブドウの栽培適地は緯度が30°から50°とされているが、それを越えて広がってきた。ワイン産地の北半球における北進(南半球では南進)は地球温暖化における気温上昇が影響しているとみられる。リースリングワインは北欧ノルウェーで製造されるようになっているほか、北米大陸ではカナダ東部ノバスコシア州でスパークリングワインが生産されている。従来産地でもブドウが熟しやすくなり、シャンパンで知られるシャンパーニュ地方で非発泡のスティルワインの品質が向上するといった変化が起きている。
ルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ブルガリア、ロシア、ギリシア、ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコ、ウズベキスタン、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ地域、レバノン、キプロスなどでワイン生産が行われている。また、ほんのわずかではあるが、アイルランド南部の一部にもワイナリーが存在するという。新大陸では、生産量が多いチリ、アルゼンチンのほかに、ブラジル南部 (ブラジルワインの項参照)、ボリビア、ウルグアイなどでも比較的規模の大きいワイナリーが存在する。
日本におけるワイン生産は、江戸時代初期の豊前小倉藩(現在の北九州市など)に始まる。その後、鎖国政策の一環で途絶えたあと、再び明治時代になって新潟県岩の原などで作られるようになる。しかし国産ワインの需要も少なく、各地で細々と作られていただけであった。1980年代頃から本格的なワインに対する消費者の関心も高まり、また純国内栽培による優秀なワインも生産されるようになり、勝沼ワイン(山梨県)ほか国産ワインの知名度が浸透するにつれて、国際的にも評価されるようになってきた。2002年からは山梨県が主導して「国産のぶどうを100パーセント使用して作った日本産ワイン」を対象とするコンペティションも行われるようになり、純国産ワインの品質向上を競うようになってきている。
日本を除く先進国をはじめ、ほとんどのワイン生産国では法律でアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレが設けられ、原料となる葡萄を収穫した土地をワインの産地として表示することが義務づけられている。また、フランスやイタリアなどの国では、産地によって使用できる葡萄品種、収穫量、製造方法までが定められている場合がある。
かつて日本では、原料産地にかかわらず国内で醸造を行うことで「日本産」の表示が可能であった。このため輸入果汁から生産されたワインが日本産ワインとして少なからず流通してきた。しかし、一部自治体で独自の原産地呼称管理制度が始まり、長野県の「長野県原産地呼称管理制度」や、山梨県甲州市(勝沼地区)の「ワイン原産地認証条例」が実施された。
2018年10月30日以降、「日本ワイン」と表示できるのは、国産ブドウを使って国内で醸造されたワインに限られる。産地の地名を表示する場合は、その土地で採れたブドウを85%以上使う必要がある。
ワインは変化を受けやすい酒であり、保存の際には光、振動、温度、湿度などに気を使う必要がある。保存には「暗く」「振動がなく」「常に12 - 14°Cくらいの温度で」「適度な湿度がある」環境に「寝かせて」保存するのがよいとされる。光・振動はともにワインの変化を促進させる。温度については高温であると酸化が進み、逆に低温であると熟成が進まない。湿度が少ないとコルクが収縮して中に空気が入ってしまう。寝かせるのもコルクに適度な湿り気を与えるように、つまりスクリューキャップ(英: Screw cap)であれば関係ない。
これらの条件を一番容易に満たすのは地下である。フランスなどでは一般家庭でもワイン保存用の地下室が存在することがある。日本ではそのような地下室はまれであるが、専用のワインセラーがあれば問題はない。ワインセラーを持たない場合には一般的に押入れや冷蔵庫に保存されるが、押入れは夏場に非常な高温になり、また匂いが移ってしまうためよくなく、また冷蔵庫は「乾燥し」「振動が多く」「冷えすぎ」「食品の匂いが移る」のでよくないとされる。ただ熟成が進まないことを気にしなければ「1、2年ならセラー保存とあまり変わらない」とも言える。一般家庭では長期保存、特に夏を越しての保存は考えないほうがよい。ただしこれらの保存に関する要素は長期保存する場合の話であり、すぐに飲んでしまうならば直射日光や高温(25°C以上)などに長時間曝さない限りはあまり気にする必要はない。
また光や温度以上にワインを変化させてしまうのは空気である。そのため、いったんコルクを抜いてしまったワインは数日中に飲まないと劣化してしまう。どうしても余ってしまった場合はハーフボトルに移して食品用ラップフィルムなどで空気と遮断しておいたり、真空ポンプ式のワインストッパーを使用したりすれば1週間程度は保管できる。またワインによっては、抜栓後すぐでは味や香りが十分に発揮されず、空気に触れさせるために一定時間置いておくことが推奨される場合もある。
AOCボルドーのついたワインにもスクリューキャップ(ねじ栓)のものが出てきており、ペットボトル、紙容器、缶入りなど、そのまますぐに飲めるワインも多くなった。大半の高級ワインは今でもコルク栓で密封されており、これを抜くための道具が必要である。コルク抜き(コルクスクリュー)には、ワインを買うと粗品・景品として提供されるT字型のものから、1本数万円のもの(純金製の、100万円のソムリエナイフが発売されたこともある)まである。また方式も、主なものだけで10種類ほどあり、それぞれ長所と短所がある。家庭用には、ウィング式(つばさ型)が多く用いられている。プロのソムリエも使っているソムリエナイフは、素人でもコルクの中心から垂直に差し込むコツを覚えれば、あまり力をかけずに抜くことができる。
古いボルドーの赤ワインやポートワインは飲む直前に瓶からいったんデカンタに移し替える場合もある。この作業をデカンタージュと呼ぶ。デカンタージュを行う理由は、第一にワインの澱を分離すること、第二に飲む前に少し空気に曝した方が風味が引き立つとされることである。ブルゴーニュワインは澱が少ないために普通はデカンタージュをしない。デカンタージュは必要ないという考え方もあり、個人の好みによるところが大きい(デカンテーション参照)。
まず鑑賞するのは、ワインの外観である。清澄度や濁度、色調、粘度を観察することで、醸造方法や熟成度合い、また大まかな味わいを予想することができる。その次に香りを鑑賞する。ブドウのみから造られるワインであるが、そこから生まれる多彩な芳香成分は、ブドウ以外のあらゆる香りに例えられる。グラスを円を描くように回す「スワリング」は、ワインを空気に触れさせることで香りを引き立てる役割を果たすほか、壁面にワインを付着させることでグラスの中に香りを充満させるために行われる。最後に口に含むことで、酸味、甘み、渋み(タンニン)、苦み、果実味を感じ、そして飲みこんだ後に口から鼻へと伝わる戻り香、続く余韻を味わう。
なお、テーブルワインのような日常消費用に造られたワインでは、以上のような内容を気にすることなくさらりと飲まれることも多く、これもまたワインの正しい飲み方である。
ワインの開栓や保存、またワインをより楽しく、おいしく飲むための製品をワインアクセサリーと呼んでいる。ヨーロッパでは1000年以上のワイン文化があるだけに、様々なワインアクセサリーが製造・販売されており、中には実用よりも、見たり集めたりして楽しむものもある。近年、日本でもこれを専門にするショップも出てきている。
螺旋状に巻いた鋼鉄製の針金を差し込んで開けることから、コルクスクリューと呼ぶこともある。ワインを買うとおまけにくれるような、差し込んで引き抜くだけのT字型のものから、家庭用のウィング型、ダブルハンドル型、スクリュープル型、瓶とコルクの間にピンセット状の刃を差し込み、ねじりながら抜くもの、空気注入式などさまざまなタイプがある。しかし、現在では素人でもソムリエナイフを使う人が増えてきた。
ワインを飲むための食器としては、近年ではガラス製の無色透明のいわゆるワイングラスがよく使用される。ただし、その容量や形状は目的などに合わせて様々である。また、ガラス以外の素材で作られたものも存在する。なお、過去には鉛製のものが広く使用された時期もあった。鉛製のものはワインの中に含まれる有機酸との反応で鉛が溶け出すが、酢酸鉛は甘味が感じられることもあり、鉛製のもので飲むワインが好まれたことがあったことで知られている。ただし、この飲み方は鉛中毒を引き起こす。
ワインを恒温で保存しておくために作られたワイン専用の冷蔵庫。家庭用の数本用の小型のものから、大型の数十本入るものまである。温度・湿度の設定が可能、1機種で2種類の温度管理ができるものもある。英語ではワインクーラー(wine cooler)などと呼び、ワインセラーは通常ワイン貯蔵室のことを指す。
ワインセラーと同じように、ワインを寝かせて保存しておくための棚または箱状の家具。温度調節機能はなく、ただ置いておくだけのものである。欧米では、地下の貯蔵室用に、数百本から1000本以上を並べられる大型のラックが売られているが、日本ではまだあまり出回っていない。
デカンテーション(上記「デカンタージュ」参照)をするためのガラス製の容器で、ワインのボトルとほぼ同じ容量のものが多い。凸レンズに首が搗いたようないかにもそれらしい形のものから紡錘形、フラスコ型など様々な形のデキャンターがある。
飲み残したワインのボトルに被せておく栓。開栓時にコルクを割ってしまったときはもちろん、抜いたコルクを差し込んでおくだけでは無粋だという人も用いている。発泡性ワインの気が抜けないように作られた通称でシャンペンストッパーと呼ばれるものもある。また、主に手動の空気ポンプと専用の栓を用いて、ビン内の空気を空気ポンプで吸出し減圧してワインの酸化を遅らせたり、発泡性ワインでは逆に空気をポンプで入れ込み加圧することによって気の抜けを防いだりするワインストッパーも普及している。
ギリシャ神話におけるディオニュソス、ローマ神話におけるバックスが葡萄酒の神とされる。ディオニュソスは、近代においても、ニーチェの『悲劇の誕生』などにより、重要な概念となった。
キリスト教においては、キリストが主の晩餐と呼ばれる晩餐においてワインを使ったことから、正教会の聖体礼儀、カトリックのミサ、聖公会・プロテスタントの聖餐式においてワインが用いられる。正教会では赤ワインの使用を定めているが、西方教会では赤ワインと白ワインのいずれであるかを問わない教派が多い。
他方、教派・教会によっては、アルコール依存症を治療している信者や未成年信者への配慮や、アルコールの摂取を禁止する戒律などの理由から、ぶどうジュースや、煮沸してアルコールを飛ばしたワインを用いる場合もある。
古代においては、冬ごとに刈り込まれて春に芽吹き、秋には再び実をつけるブドウの樹は復活の象徴とみなされていた。
ワインが娯楽や趣味の対象として王侯貴族にも好まれるようになると、やがてワインの品質や管理に関しての専門的知識をもつ人材が求められるようになった。このような経緯から生まれた、ワイン専門の給仕人を「ソムリエ」と呼ぶ。
ワインはそれ単体で楽しまれるだけでなく、料理との相性も重要視されている。この「ワインと料理の組み合わせ」のことを「ペアリング」と呼ぶ。また、ワインと料理の組み合わせから生まれる相乗効果を「マリアージュ」と表現することもある。
ワインツーリズムとは、欧米では盛んな旅のスタイルの一つである。ワインの産地を回りながら、時には作り手との交流を交え、ワインの造られた郷土の料理やワインを楽しむ。欧米では日帰りや宿泊のプランが用意されており、国や現地の法人が積極的に取り組んでいる。日本でも山梨県で行われている。
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"tag": "p",
"text": "ワインの主成分は水、エタノール、各種の有機酸、糖、グリセリン、アミノ酸、核酸、タンニン、炭酸ガスなどである。各種の有機酸の中では酒石酸、リンゴ酸、クエン酸、乳酸、酢酸、コハク酸の6つがワインの風味に関して最も重要な要素と考えられている。また、貴腐ワインにはグルコン酸が多く含まれている。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "魚介類との相性に関しては、従来はタンニンが関与していると信じられていたが、タンニンではなくフェノール化合物、カルボニル基を持つ物質、鉄が関与するとの報告がある。特に、鉄分の含有量は魚介類料理との相性に大きく影響を及ぼし、鉄分濃度に依存し1-オクテン-3-オン、(E,Z)-2,4-ヘプタジエナールなどの物資により生臭味が増強されてしまうとされている。なお、鉄の起源は、土壌、製造工程中の鉄製品、コラージ(澱引き)に依存している。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ワインは瓶に詰められた後でも熟成が進み、風味は変化を続ける。熟成期間はボルドーワインなどの一部のワインでは50年以上もの熟成に耐えるものもあるが、多くは1年から10年ほど、長いものでも20年から30年である。安価なワインでは熟成によって品質が向上することはあまりなく、むしろ早く飲まないと劣化してしまう。長い熟成に耐えるものを長熟、逆に早く飲むものは早飲みという。作られて間もないワイン(「若いワイン」と表現する)は、ブドウの生の味が強く、渋すぎたり、酸味がきつすぎたりするということもあるが、熟成が進むと角が取れてまろやかになる。また、年数が経てば総数が減るため希少価値により価格も高くなる傾向にある。ただし、熟成したワインがどれも同じように高くなるというわけではなく、生産年、地域、作り手の知名度などにより価格は大きく異なる。",
"title": "種類"
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ワインが食文化に根付いているヨーロッパでは日常的に飲まれることも多いが、近年では日本における日本酒と同様に、1人あたりの需要量は減少傾向にある。イスラム教においては飲酒が教義により禁止されているため(「ハラール」を参照)、イスラム教発祥地である現在の中東諸国では、ワインの生産は、イスラエル、世俗主義国家であるトルコ、比較的リベラルなイスラム教徒やキリスト教徒が住むレバノン、ヨルダン、パレスチナ、エジプトなどに限られる。日本を含むアジア諸国では、1人あたりの需要量は依然として少なく、需要の伸びは著しい。",
"title": "種類"
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"tag": "p",
"text": "日本では、冷やしてストレートで飲むものと言うイメージが強いが、ヨーロッパではホットワインは冬の定番の飲み物である。ホットワインもそうだが、香料やスパイスを入れたフレーバーワイン(スパイスワイン)もなじみ深い。特に中世ヨーロッパではストレートで飲めるワインは最高級品であり、滓を取ったり、香料やスパイスを加えたりして飲みやすくするのが通常であったため、歴史は古い。",
"title": "種類"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "ワインは極めて歴史の古い酒の一つであり、新石器時代に醸造が始まったとされる。様々な歴史的記念物、文献などからジョージアでは7000年から5000年前に醸造され、発祥地の一つとされる。近東のワイン造りの化学的痕跡としては、イランのザグロス山脈で見つかった紀元前5400 - 同5000年(約7000年前)のものが最古とされていたが、ジョージアで発掘された約8000年前の陶器の壺が科学分析により世界最古のワイン醸造の痕跡であると2017年に発表された。また、アルメニアでは約6000年前のものとされる世界最古のワイン醸造所跡が発見されており、その頃には既に高度な醸造技術が確立されていた。以後、醸造法が南方に伝播したことから、中東、特にメソポタミアを中心とする地域で広く愛飲されるようになる。ただし、メソポタミアはブドウの栽培に適した土地でなかったため、イラン高原では紀元前6000年頃から生産が始まっていたものの、メソポタミア(特に南部のシュメール)においては紀元前4000年頃になってようやく醸造できるようになったとされている。古代エジプトではビールが多く飲まれていたが、紀元前4000年代末期にはワインが製造されていた。ビザンツ帝国時代の地中海周辺では大規模なワイナリーも存在しており、商業的に流通していたと考えられている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "しかしながら、ワイン文化が西洋へ広まった要因はやはり、現在のレバノンが位置する地中海岸沿いを拠点としていたフェニキア人であり、そしてその地域こそがワイン生産の起源とも言える。フェニキア人の生産するワインはその後、古代ギリシアやローマ帝国時代にわたり上質なワインを表す「ビブライン」(フェニキアの町ビブロスから)という形容詞となり、その存在は続いた。『ホセアの予言書』(紀元前780年 - 725年)の中では、「ブドウの木のように栄えており、その香りはまるでレバノンのワインのようだ」と弟子たちにヤハウェのもとへ急いで伝えるようにと記されている。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 13,
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"text": "フェニキア人は3つの点においてワインの世界に重要な意味をなしている。",
"title": "歴史"
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"text": "ワインについて書かれた世界最古の文献は、紀元前2000年前後に作られたシュメール語の粘土板である。例えば、『ギルガメシュ叙事詩』(アッカド語版)には、メソポタミアで英雄視された王(ギルガメシュ)が大洪水に備えて箱船を造らせた際、船大工たちにワインを振る舞ったという場面がある。シュメールでは紀元前5000年頃に世界初となるビールの醸造技術が確立しており、紀元前3000年代初期に双方が古代エジプトへと伝わったとされる。古代エジプトでは大量生産されるビールが主流であったが、ブドウ栽培や醸造を描いた壁画が残されている。またシェデフ(英語版)と呼ばれる赤ワインのような飲料も存在した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その後、フェニキア人により古代ギリシアへも伝わる。この頃は水割りにして飲まれ、原酒のまま飲む行為は野蛮とされた。これは当時の上流階級が、ギリシャ北方に住むスラブ系の祖先であるスキタイの原酒飲酒の習慣を忌み嫌っていたからだと言われている。現代ギリシャ語でワインをοίνος(「エノロジー(oenology、ワイン醸造学)」の語源)ではなく普通κρασί(混合)と呼ぶのはこの水割りの習慣の名残である。ワインはそこから地中海沿岸に伝えられ、古代ローマへと伝わり、ローマ帝国の拡大とともにガリアなどの内陸部にも水割り文化とともに伝わっていった。当時のワインは、ブドウ果汁が濃縮されかなりの糖分を残している一方、アルコール度数はそれほど高くなかった。今日の蒸留酒を飲むときに行うようなアルコール度数を抑えるための水割りではなく、過剰な甘さを抑えるための水割りであった。酒というよりはソフトドリンク、長期保存可能なブドウジュースといった感覚であった。ヨーロッパの水は硬水が多く大変飲みにくいものであったため、それを飲みやすくするためにワインは必要不可欠なものであり、その意味では水で割るというよりも、水に添加して飲みやすくするものであった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "ワイン製造の技術が格段の進歩を遂げたのはローマ時代においてとされ、この時代に現在の製法の基礎が確立した。それにより糖分がかなりアルコールに転化され、ワインをストレートで飲む「大酒飲み」が増えていった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "中世ヨーロッパでブドウ栽培とワイン醸造を主導したのはキリスト教の僧院であった。イエス・キリストがワインを指して自分の血と称したことから、ワインはキリスト教の聖餐式において重要な道具となった。ただしこの時代、ワインは儀礼として飲むものとされ、むやみに飲んで酩酊することは罪とされていた。中世後期にはワインは日常の飲み物として広まるようになっており、12世紀のイタリアで著された医学書『サレルノ養生訓』では、いいワインの選び方やワインと健康についての考察がなされている。また、ブルゴーニュワインが銘酒として有名となったのはこの頃からである。ルネサンスの時代以降、娯楽としての飲酒が発展する。17世紀後半、醸造や保存の技術、また瓶の製造技術が向上し、ワインの生産と流通が飛躍的に拡大した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また、これらのワインとは全く異なるが、古代中国(※漢王朝 - 紀元前1000年初期)においても独自のワイン醸造技術が存在していたという。ただし、この系統は完全に廃れてしまい、現代中国で生産されるワインは西洋由来のものである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "広い意味でのワイン作りはブドウの栽培と醸造に二分できる。ワイン産地では、ワイン作りといえば醸造(英語ではwinemaking)を指し、醸造学は英語でエノロジー(oenology/enology)という。これに対し、ブドウ栽培(英語でgrapegrowing)の技術や学問はヴィティカルチャー(viticulture)と呼ばれる。海外の大学はブドウ栽培と醸造学の両コースを持つのが普通である。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "ワインの生産主体はフランスのボルドー地域においては「シャトー」、ブルゴーニュ地域においては「ドメーヌ」と呼ばれることが多い。フランス語の「シャトー」は、元々は城館を表す言葉で、ボルドー地域においては転じてブドウ園や管理場、生産者のことをも指す。主なものではシャトー・ムートン・ロートシルト、シャトー・ラフィット・ロートシルト、シャトー・マルゴー、シャトー・ラトゥールなどがある。イタリアにおける「カステッロ」、ドイツの「シュロス」、スペインの「カスティーリョ」も同様である。「ドメーヌ」は、フランス語で「土地」を表す語である。カリフォルニアワインなどで「エステート」という語を使っているのもドメーヌと同義である。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "どんなに醸造の技術が進歩しても、良いワインを作るためには良いブドウがなくてはならない。そのため、良質なブドウを収穫するための栽培技術方法は醸造技術以上に重要である。さらに、現代のワイン醸造では理想の味わいを生み出すために、醸造前あるいは醸造後に複数品種のブドウを組み合わせる手法が多く用いられている。したがって、ブドウ品種の選定とブレンド比は味の特徴を決定する大きな要因である。しかし、一方で品種の特徴を生かしたブレンドを行わない単一品種ワインも生産される。また、生育環境全体の栽培される畑の日当たりや局地的な気候などの要素を加え、それらを一括りにして「テロワール」と呼ぶ。実際には、品種、土壌、気候条件の違いを栽培技術や収穫時期の最適化で補うことで、広い地域で栽培が行われている。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その年のブドウの作柄のことをヴィンテージと呼ぶ。現在では転じてブドウを収穫した年のことをヴィンテージと呼び、その年の出来不出来によってワインの出来が変わる。そのために各国のワイン関連組織やワイン専門誌などによってヴィンテージチャートが発表される。ただし、現在では補糖や補酸、適切な酵母の選択などの醸造技術の進歩により、力のあるワイナリーであれば悪い年でもそれなりのワインができるようになり、味に関しては激しい差はない。その代わり、悪い出来のブドウでは長い熟成に耐えることが難しくなり、より早飲みになる。安価なワインでは品質を安定させるために複数の年のワインを混ぜた「ノン・ヴィンテージ」であることが多い。シャンパンはノン・ヴィンテージが一般的であり、産年表示された「ヴィンテージ・シャンパン」は、高級品に限られる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "世界的にはワインに使われるブドウの種はヨーロッパ種(学名:Vitis vinifera)が主流である。品種はサルタナ(トンプソン・シードレス)種などごく一部に生食用品種を使用するものもあるが、ほとんどはワイン専用品種である。日本では、巨峰、ナイアガラなどの生食用品種やヤマブドウも使われている。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "一般にワイン専用品種は生食用品種よりも果実の粒が小さく、皮が厚く、甘みと酸味がより強い。代表的な品種としてリースリング、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなどがある。また、伝統的な品種だけでなく、品種改良によって耐寒性や耐病性を向上させたり、他産地との差別化を図ったりするための手法も行われている。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "品種毎に適する土壌には違いがあるとされている。代表的な好土壌は、カリ白亜土、赤砂質粘土、黄土土壌、混砂粘土、泥灰岩土壌、石灰質土壌、粘陶土質土壌の水はけの良い土地が多く選ばれている。しかし、穀物栽培に適する腐植土壌の堆積平野や湿潤な土地、極度に乾燥した砂漠、塩分の多い土壌は良質なブドウの収穫は望めず不向きである。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ブドウは気候に対する適応能力が高いため、温帯を中心に栽培されている。良質なワインを醸造できる特性を兼ね備えた果実を収穫できる地域の多くは、緯度20度から40度の地域に存在しているが、ヨーロッパでは北緯50度の地域においても栽培が行われている。湿潤な気候区分では地中海性気候が適する。潅漑用水があればより乾燥したステップ気候地域でも栽培可能である。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "高温多湿な地域ではべと病などが広がりやすいが、農薬の進化により栽培が可能となった。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2020年ごろから地球温暖化の影響により、ブルゴーニュなど栽培に適していた地域での栽培に影響が出ており、2050年代には最適地がさらに高緯度に変わるという予測もある。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "冷涼な地域(畑)では収穫期を遅らせ糖度の上昇を待つ、あるいは温暖(畑)な地域では適度な酸が失われる前に早期の収穫を行うことで収穫されるブドウの品質向上を図っている。また品種改良や栽培法の工夫も行われている。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その年に雨が多く、日照量が少ないとブドウの生育が悪くなり、そこからできたワインは糖分と果実味に乏しく腐敗果の混入のおそれが増える。逆に日照が良すぎて生育が早過ぎると酸が欠けて糖分が強くなり過ぎ、酸味とのバランスが悪くなる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "伝統的な方法では、搾った果汁を樽や甕に入れ、自然酵母(野良酵母)によりアルコール発酵させたあと、滓(おり)引きを行い、樽で数か月から数年間熟成し瓶詰めされる。ルイ・パスツールによってワインの醸造が酵母によるものだと発見されて以来、微生物を混入させないような製法が開発されているが、基本的な方法はワイン発祥の頃と変わっていない。近代的な醸造方法では培養酵母を添加し、ステンレス製タンク内で発酵させる。熟成(マロラクティック発酵)の際も、特別に培養した乳酸菌を添加する。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ワインは、そのほぼ全工程で、なるべく空気、特に酸素との接触を断つ必要がある。これは多くの場合、空気とともに酢酸菌が侵入して酢酸醗酵が行われることで、酸味の強過ぎるワインになったり、ワインが腐敗状態となったりするのを防ぐためである。このためワインの製造工程のいくつかの段階では、酸化防止剤としても知られる二酸化硫黄(亜硫酸ガス, SO2)またはその塩の1種であるピロ亜硫酸カリウムが添加される。ただし、この二酸化硫黄には、確かに酸素の除去という効果もあるものの、その反応は遅い。しかも、二酸化硫黄は人体に有害な物質としても知られているため、これを添加をしない製法も存在する。このように酸化防止剤を添加しない場合は、醗酵させるタンク内の空気を窒素に置換することで、酸素との接触および雑菌の繁殖による腐敗を抑制する手法が多く用いられる。しかし、二酸化硫黄には酸化防止剤としての働きと雑菌の抑制および殺菌のほかにも、ブドウの果皮に含まれる酸化酵素の阻害、果汁中の色素の安定化、ワインで発生することのある過酸化水素の除去などの働きもあり、二酸化硫黄の添加を行うことでワインの品質をより簡単に安定させられるという利点がある。また、二酸化硫黄が含まれていても、少量であれば人体にほとんど問題はないとされていることから、簡単に品質を安定させる手段として、現在でも二酸化硫黄の添加が主流となっている。そして中には、フランスのワイン法のように、二酸化硫黄の添加を義務づけている地域も存在する。ただし、日本やヨーロッパ諸国、アメリカなどでは、製品中の二酸化硫黄の濃度が一定値を超えてはならないと規制されているため、使用には限度が存在する地域もある。なお、ワインへのこの他の酸化防止剤の使用は日本では認められていないが、南米などから気温が高い赤道を越えて船で輸送されるものは、多くの場合に保存料として認められているソルビン酸が添加される。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "醸造するには、まずブドウを収穫しなければならない。ブドウの収穫は糖度が14 - 26度程度になったところで、鋏または機械で行う。収穫時期をいつにするかということもまたワインの味を決める重要な要素で、単純に糖度が高いだけでは酸とのバランスが悪い仕上がりになる。この際に病気の腐敗果や生育が悪いものは、必要以上に酸をもたらすため取り除く。この過程を選果という。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "伝統的なワインの製造(発酵)方法は、ブドウの芯(果梗)を取り除き(除梗:じょこう)、実の皮を破る(破砕)。産地によっては、ワインにより強い渋みをつけるため果梗を混ぜる場合がある。スペイン、イタリアの農村では収穫期には伝統的に村人総出で、素足で体重をかけて搾汁する光景が見られる。最近のワイン工場ではステンレス製の除梗破砕機を使用し搾汁する。多くのワイン専用品種では収穫した果実重量の55 - 65%程度の果汁が得られ、大粒生食用品種の巨峰などでは80 - 85%程度の果汁を得る。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この次に赤ワインの場合は、果皮や果肉の混ざったままの状態で醗酵させる。白ワインの場合は、圧搾機にかけて果汁を搾り出した(搾汁)後、果汁のみを醗酵させる。ただし、一部の白ワインではスキンコンタクト法という「破砕した果実と果汁を1 - 24時間接触させたあとに搾汁する」方法も取られる。このように、白ワインは醗酵させる前に果皮や果肉は捨てられるのが一般的であるものの、種子についてはグレープシードオイル(葡萄種油、食用油)の原料として利用される。ロゼワインの場合は、概要の節で述べたように様々な製法があり、この工程はそれぞれの製法によって異なっている。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお、ワインの渋みとなるタンニンは果梗や果皮あるいは種子に由来し、タンニンはエタノールによって溶出する。したがって、果汁のみを醗酵させる白ワインにはタンニンが少ない。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "発酵させるにあたり、ブドウの果実には自然酵母(野生酵母)が取りついており、さらに、果汁中には酵母が利用可能なブドウ糖が含まれているため、果汁が外に出ることで自然にアルコール発酵が始まる。伝統的な製法では酵母には手を加えない自然発酵が主流であったが、現在では安定した発酵をさせるため、特別に培養した酵母を使用した酒母として添加し、それ以外の菌を作用させない方法がとられる。さらに、ブドウ産地が高温で酸に乏しいブドウとなる場合は、酸を多く生じる酵母を用いる。その後、場合によっては糖(果糖、ぶどう糖など)が添加される。この後、赤なら約20 - 30°C、白なら15 - 18°Cに保ち、数日から数十日かけた「主発酵」を経て、圧搾によって液体成分を搾り出す。目的の発酵度合い(糖の残り具合)になったところで、温度を下げ発酵を停止させることもある。発酵の際の温度が20°Cを越えると微香成分が失われるため、低温で長期間の発酵を行う場合もある。一緒に仕込んだ果皮や種が、アルコール発酵中に発生する二酸化炭素(炭酸ガス)により浮き上がり、好気的な微生物の作用を受けやすくなるため、ピジャージあるいは撹拌や循環により固形分が常に液体に浸った状態を維持する。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "酵母による発酵の成果として十分に発酵した場合、糖度計による計測糖度の約2分の1の値のエタノールと二酸化炭素が生成される。目的の発酵度合いになったところで、液体と固形分を分離する。このとき、圧力をかけずに自然と流れ出た液体が「フリーランワイン」で、高級ワインの原料として使用される。一方、残った固形分を圧縮し搾った液体が「プレスワイン」である。「フリーラン」「プレス」は別々に二次発酵から瓶詰めを行うが、プレスワインはブレンド用のワイン原料として利用されるほか、一部ではフリーランと混合され、各々が特徴を持ったワインに仕上がる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、酵母によるアルコール発酵で作り出せる酒のアルコール度数には限界が存在する。これは、エタノールがある一定濃度以上になってしまうと、酵母は自身の生産したエタノールにより死滅してしまうためである。この上限濃度は酵母の菌株によって異なっており、だいたい16 - 20%である。したがって、シャンパンのように瓶内二次発酵を行いたい場合は、この濃度に達していない必要がある。なお、酒精強化ワインの場合は、ここで高濃度のエタノール(蒸留酒)を添加することによって、酵母が死滅するようにエタノールの濃度を上げてしまうため、酵母によって消費されなかったブドウ糖などが多く残るために、一般的に甘口に仕上がる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "搾り出された液体はステンレスやコンクリート製のタンク、木製(主にフレンチオーク、一部ではアメリカンオークも使用される)の樽に貯蔵される。木製の樽を利用するとその香りなどがワインに影響し、それが良い効果を与えるとされている。一方、ステンレス製のタンクではワインへの影響がないため品質管理がやりやすくなるという利点があり、ステンレス製タンクを利用する生産者が増えている。熟成期間は数十日から数年と様々である。底にたまった滓(おり)は随時回収する。アルコール発酵で生じた二酸化炭素を大気中に発散させず、液中に封じ込めたものはスパークリングワインとなる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "酸味の強いワインでは樽での貯蔵中に乳酸菌が投入されてマロラクティック発酵(Malolactic Fermentation, MLF)が行われる。これを「熟成」とも呼ぶ。マロラクティック発酵は酸味の主成分であるリンゴ酸を乳酸と二酸化炭素へ分解する化学反応で、製品の酸度の減少と微量芳香成分の付与をする。MLF発酵が行われる温度は15 - 18°Cで、12°C以下では起こらない。多くの場合、MLF発酵が行われるのは冬期の寒冷期であることから、近代的な製法では乳酸菌スターターの添加と加温管理で行われる。さらに、ワインのpHは3.1 - 4.0の範囲になければならない。pH4.0を超えると失敗しやすくなる。ただし、最適なpHは使用される乳酸菌によって異なっている。また、マロラクティック発酵は赤ワインだけでなく白ワインでも行われる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "乳酸菌としては、 発酵の初期はホモ型(Lacobacillus paracasei , Lb. plantarum)、ヘテロ型(Leuconostoc mesenteroides)、発酵の後期になると Oenococcus oeni などが作用をもたらす。この乳酸菌が日本酒に作用すると腐造となる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "発酵が終わったワインは、酵母や酒石(酒石酸水素カリウム)などの澱が沈降するため、セラミックフィルター、遠心分離、濾過、静止などにより澱を分離する。また、熟成期間中のワインも澱が生じるため適宜澱引きを行う。発酵を停止させる方法は、静止のほか、冷却して酵母を沈殿させたり、50°C程度までの加熱を行い酵母を死滅させたりする方法が用いられる。なお、ここで取り除かれる酵母は、加工を行ったうえで健康食品として販売されることもある。また、蛋白質を除去して透明化させるため、卵白やベントナイトという粘土などを添加する方法はコラージ(collage)と呼ばれ、高級赤ワインでは広く行われている。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ワインを購入者が混ぜ合わせたり、カクテルの材料にしたりする以外に、製造工程の一環としてブレンドが行われることがある。フランスのシャンパーニュ地方におけるシャンパンづくりでは「アッサンブラージュ」と呼ばれる。購入者の希望に合わせてブレンドを受け付けるサービスもある。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "貯蔵後はガラス瓶などの容器に詰め、コルクなどで栓をして出荷される。コルクには天然のコルクと、合成素材のみ、もしくは天然コルクと合成素材を組み合わせた合成コルクがある。合成コルクは主に安価なワインに使用される。汚染などが問題になるコルクの代りにスクリューキャップ(英: Screw cap)も用いられる。安いワインはバッグ・イン・ボックスと呼ばれる段ボール箱に入った特殊な薄い袋(容量は2リットルから4リットル程度)に詰めて売られることも多い。これは、輸送コストが安く、空気が入りにくいため開栓後ワインが酸化しにくいのが特長である。また、ペットボトルや紙パック、缶が容器として使用されることもある。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "香りはワインの品質を決定づける重要な要素であり、原料のブドウと醸造の各々の段階で加わり複雑なアロマを形成する。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ周辺地域においては歴史上古くからワイン造りが行われている。代表的な産地はフランス、イタリア、スペインなどであり、名だたる高級ワインを生産している。近代以降になってワイン造りが始まった地域は「ニューワールド」と呼ばれる。安定した気候や企業的経営を背景に、一般消費者でも手軽に買い求められるワインを生産している。近年ではニューワールドワインの品質向上も目覚しく、ヨーロッパの名醸ワインをしのぐ品質のワインも出てきている。",
"title": "産地"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2007年ごろからは「ブランドにこだわらなければどこの国のものも同じ」とニューワールド物に流れる傾向が強まり、ワインが売れずに廃棄されたり、フランスでは一部の零細ワイナリーが廃業したりする事態になってきている。またフランスでは温暖化によりブドウが影響を受け、従来の味を保つのが難しい地域も出ている。",
"title": "産地"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ワイン用ブドウの栽培適地は緯度が30°から50°とされているが、それを越えて広がってきた。ワイン産地の北半球における北進(南半球では南進)は地球温暖化における気温上昇が影響しているとみられる。リースリングワインは北欧ノルウェーで製造されるようになっているほか、北米大陸ではカナダ東部ノバスコシア州でスパークリングワインが生産されている。従来産地でもブドウが熟しやすくなり、シャンパンで知られるシャンパーニュ地方で非発泡のスティルワインの品質が向上するといった変化が起きている。",
"title": "産地"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ブルガリア、ロシア、ギリシア、ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコ、ウズベキスタン、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ地域、レバノン、キプロスなどでワイン生産が行われている。また、ほんのわずかではあるが、アイルランド南部の一部にもワイナリーが存在するという。新大陸では、生産量が多いチリ、アルゼンチンのほかに、ブラジル南部 (ブラジルワインの項参照)、ボリビア、ウルグアイなどでも比較的規模の大きいワイナリーが存在する。",
"title": "産地"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "日本におけるワイン生産は、江戸時代初期の豊前小倉藩(現在の北九州市など)に始まる。その後、鎖国政策の一環で途絶えたあと、再び明治時代になって新潟県岩の原などで作られるようになる。しかし国産ワインの需要も少なく、各地で細々と作られていただけであった。1980年代頃から本格的なワインに対する消費者の関心も高まり、また純国内栽培による優秀なワインも生産されるようになり、勝沼ワイン(山梨県)ほか国産ワインの知名度が浸透するにつれて、国際的にも評価されるようになってきた。2002年からは山梨県が主導して「国産のぶどうを100パーセント使用して作った日本産ワイン」を対象とするコンペティションも行われるようになり、純国産ワインの品質向上を競うようになってきている。",
"title": "産地"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "日本を除く先進国をはじめ、ほとんどのワイン生産国では法律でアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレが設けられ、原料となる葡萄を収穫した土地をワインの産地として表示することが義務づけられている。また、フランスやイタリアなどの国では、産地によって使用できる葡萄品種、収穫量、製造方法までが定められている場合がある。",
"title": "産地"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "かつて日本では、原料産地にかかわらず国内で醸造を行うことで「日本産」の表示が可能であった。このため輸入果汁から生産されたワインが日本産ワインとして少なからず流通してきた。しかし、一部自治体で独自の原産地呼称管理制度が始まり、長野県の「長野県原産地呼称管理制度」や、山梨県甲州市(勝沼地区)の「ワイン原産地認証条例」が実施された。",
"title": "産地"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2018年10月30日以降、「日本ワイン」と表示できるのは、国産ブドウを使って国内で醸造されたワインに限られる。産地の地名を表示する場合は、その土地で採れたブドウを85%以上使う必要がある。",
"title": "産地"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ワインは変化を受けやすい酒であり、保存の際には光、振動、温度、湿度などに気を使う必要がある。保存には「暗く」「振動がなく」「常に12 - 14°Cくらいの温度で」「適度な湿度がある」環境に「寝かせて」保存するのがよいとされる。光・振動はともにワインの変化を促進させる。温度については高温であると酸化が進み、逆に低温であると熟成が進まない。湿度が少ないとコルクが収縮して中に空気が入ってしまう。寝かせるのもコルクに適度な湿り気を与えるように、つまりスクリューキャップ(英: Screw cap)であれば関係ない。",
"title": "ワインの飲み方"
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"text": "これらの条件を一番容易に満たすのは地下である。フランスなどでは一般家庭でもワイン保存用の地下室が存在することがある。日本ではそのような地下室はまれであるが、専用のワインセラーがあれば問題はない。ワインセラーを持たない場合には一般的に押入れや冷蔵庫に保存されるが、押入れは夏場に非常な高温になり、また匂いが移ってしまうためよくなく、また冷蔵庫は「乾燥し」「振動が多く」「冷えすぎ」「食品の匂いが移る」のでよくないとされる。ただ熟成が進まないことを気にしなければ「1、2年ならセラー保存とあまり変わらない」とも言える。一般家庭では長期保存、特に夏を越しての保存は考えないほうがよい。ただしこれらの保存に関する要素は長期保存する場合の話であり、すぐに飲んでしまうならば直射日光や高温(25°C以上)などに長時間曝さない限りはあまり気にする必要はない。",
"title": "ワインの飲み方"
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{
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"tag": "p",
"text": "また光や温度以上にワインを変化させてしまうのは空気である。そのため、いったんコルクを抜いてしまったワインは数日中に飲まないと劣化してしまう。どうしても余ってしまった場合はハーフボトルに移して食品用ラップフィルムなどで空気と遮断しておいたり、真空ポンプ式のワインストッパーを使用したりすれば1週間程度は保管できる。またワインによっては、抜栓後すぐでは味や香りが十分に発揮されず、空気に触れさせるために一定時間置いておくことが推奨される場合もある。",
"title": "ワインの飲み方"
},
{
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"tag": "p",
"text": "AOCボルドーのついたワインにもスクリューキャップ(ねじ栓)のものが出てきており、ペットボトル、紙容器、缶入りなど、そのまますぐに飲めるワインも多くなった。大半の高級ワインは今でもコルク栓で密封されており、これを抜くための道具が必要である。コルク抜き(コルクスクリュー)には、ワインを買うと粗品・景品として提供されるT字型のものから、1本数万円のもの(純金製の、100万円のソムリエナイフが発売されたこともある)まである。また方式も、主なものだけで10種類ほどあり、それぞれ長所と短所がある。家庭用には、ウィング式(つばさ型)が多く用いられている。プロのソムリエも使っているソムリエナイフは、素人でもコルクの中心から垂直に差し込むコツを覚えれば、あまり力をかけずに抜くことができる。",
"title": "ワインの飲み方"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "古いボルドーの赤ワインやポートワインは飲む直前に瓶からいったんデカンタに移し替える場合もある。この作業をデカンタージュと呼ぶ。デカンタージュを行う理由は、第一にワインの澱を分離すること、第二に飲む前に少し空気に曝した方が風味が引き立つとされることである。ブルゴーニュワインは澱が少ないために普通はデカンタージュをしない。デカンタージュは必要ないという考え方もあり、個人の好みによるところが大きい(デカンテーション参照)。",
"title": "ワインの飲み方"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "まず鑑賞するのは、ワインの外観である。清澄度や濁度、色調、粘度を観察することで、醸造方法や熟成度合い、また大まかな味わいを予想することができる。その次に香りを鑑賞する。ブドウのみから造られるワインであるが、そこから生まれる多彩な芳香成分は、ブドウ以外のあらゆる香りに例えられる。グラスを円を描くように回す「スワリング」は、ワインを空気に触れさせることで香りを引き立てる役割を果たすほか、壁面にワインを付着させることでグラスの中に香りを充満させるために行われる。最後に口に含むことで、酸味、甘み、渋み(タンニン)、苦み、果実味を感じ、そして飲みこんだ後に口から鼻へと伝わる戻り香、続く余韻を味わう。",
"title": "ワインの飲み方"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "なお、テーブルワインのような日常消費用に造られたワインでは、以上のような内容を気にすることなくさらりと飲まれることも多く、これもまたワインの正しい飲み方である。",
"title": "ワインの飲み方"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ワインの開栓や保存、またワインをより楽しく、おいしく飲むための製品をワインアクセサリーと呼んでいる。ヨーロッパでは1000年以上のワイン文化があるだけに、様々なワインアクセサリーが製造・販売されており、中には実用よりも、見たり集めたりして楽しむものもある。近年、日本でもこれを専門にするショップも出てきている。",
"title": "ワインアクセサリー"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "螺旋状に巻いた鋼鉄製の針金を差し込んで開けることから、コルクスクリューと呼ぶこともある。ワインを買うとおまけにくれるような、差し込んで引き抜くだけのT字型のものから、家庭用のウィング型、ダブルハンドル型、スクリュープル型、瓶とコルクの間にピンセット状の刃を差し込み、ねじりながら抜くもの、空気注入式などさまざまなタイプがある。しかし、現在では素人でもソムリエナイフを使う人が増えてきた。",
"title": "ワインアクセサリー"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ワインを飲むための食器としては、近年ではガラス製の無色透明のいわゆるワイングラスがよく使用される。ただし、その容量や形状は目的などに合わせて様々である。また、ガラス以外の素材で作られたものも存在する。なお、過去には鉛製のものが広く使用された時期もあった。鉛製のものはワインの中に含まれる有機酸との反応で鉛が溶け出すが、酢酸鉛は甘味が感じられることもあり、鉛製のもので飲むワインが好まれたことがあったことで知られている。ただし、この飲み方は鉛中毒を引き起こす。",
"title": "ワインアクセサリー"
},
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ワインを恒温で保存しておくために作られたワイン専用の冷蔵庫。家庭用の数本用の小型のものから、大型の数十本入るものまである。温度・湿度の設定が可能、1機種で2種類の温度管理ができるものもある。英語ではワインクーラー(wine cooler)などと呼び、ワインセラーは通常ワイン貯蔵室のことを指す。",
"title": "ワインアクセサリー"
},
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"tag": "p",
"text": "ワインセラーと同じように、ワインを寝かせて保存しておくための棚または箱状の家具。温度調節機能はなく、ただ置いておくだけのものである。欧米では、地下の貯蔵室用に、数百本から1000本以上を並べられる大型のラックが売られているが、日本ではまだあまり出回っていない。",
"title": "ワインアクセサリー"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "デカンテーション(上記「デカンタージュ」参照)をするためのガラス製の容器で、ワインのボトルとほぼ同じ容量のものが多い。凸レンズに首が搗いたようないかにもそれらしい形のものから紡錘形、フラスコ型など様々な形のデキャンターがある。",
"title": "ワインアクセサリー"
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{
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"tag": "p",
"text": "飲み残したワインのボトルに被せておく栓。開栓時にコルクを割ってしまったときはもちろん、抜いたコルクを差し込んでおくだけでは無粋だという人も用いている。発泡性ワインの気が抜けないように作られた通称でシャンペンストッパーと呼ばれるものもある。また、主に手動の空気ポンプと専用の栓を用いて、ビン内の空気を空気ポンプで吸出し減圧してワインの酸化を遅らせたり、発泡性ワインでは逆に空気をポンプで入れ込み加圧することによって気の抜けを防いだりするワインストッパーも普及している。",
"title": "ワインアクセサリー"
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"tag": "p",
"text": "ギリシャ神話におけるディオニュソス、ローマ神話におけるバックスが葡萄酒の神とされる。ディオニュソスは、近代においても、ニーチェの『悲劇の誕生』などにより、重要な概念となった。",
"title": "ワイン文化"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "キリスト教においては、キリストが主の晩餐と呼ばれる晩餐においてワインを使ったことから、正教会の聖体礼儀、カトリックのミサ、聖公会・プロテスタントの聖餐式においてワインが用いられる。正教会では赤ワインの使用を定めているが、西方教会では赤ワインと白ワインのいずれであるかを問わない教派が多い。",
"title": "ワイン文化"
},
{
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"tag": "p",
"text": "他方、教派・教会によっては、アルコール依存症を治療している信者や未成年信者への配慮や、アルコールの摂取を禁止する戒律などの理由から、ぶどうジュースや、煮沸してアルコールを飛ばしたワインを用いる場合もある。",
"title": "ワイン文化"
},
{
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"text": "古代においては、冬ごとに刈り込まれて春に芽吹き、秋には再び実をつけるブドウの樹は復活の象徴とみなされていた。",
"title": "ワイン文化"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ワインが娯楽や趣味の対象として王侯貴族にも好まれるようになると、やがてワインの品質や管理に関しての専門的知識をもつ人材が求められるようになった。このような経緯から生まれた、ワイン専門の給仕人を「ソムリエ」と呼ぶ。",
"title": "ワイン文化"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ワインはそれ単体で楽しまれるだけでなく、料理との相性も重要視されている。この「ワインと料理の組み合わせ」のことを「ペアリング」と呼ぶ。また、ワインと料理の組み合わせから生まれる相乗効果を「マリアージュ」と表現することもある。",
"title": "ワイン文化"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ワインツーリズムとは、欧米では盛んな旅のスタイルの一つである。ワインの産地を回りながら、時には作り手との交流を交え、ワインの造られた郷土の料理やワインを楽しむ。欧米では日帰りや宿泊のプランが用意されており、国や現地の法人が積極的に取り組んでいる。日本でも山梨県で行われている。",
"title": "ワイン文化"
}
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ワインとは、主としてブドウの果汁を発酵させたアルコール飲料(酒)である。葡萄酒(ぶどうしゅ)とも。通常、単に「ワイン」と呼ばれる場合には、ブドウ以外の他の果実の果汁を主原料とする酒は含まない。日本の酒税法では「果実酒」に分類されている。また、日本語での「酒」と同じく、欧州語においてはアルコール飲料(特に果実酒)全体を指す場合もある。 ワインは日常的に飲まれるアルコール飲料でありながら、ギリシャ神話やローマ神話、キリスト教において重要な役割を果たす神聖な存在でもある。また、外観や香りや味わいを鑑賞する嗜好品としても高い地位を獲得しており、食文化を牽引する存在の一つとなっている。長期熟成に耐えうることから、近年ではコレクションや投資の対象としても大きな注目を集めている。 古くは紀元前の南コーカサスやメソポタミアに端を発し、その後はフランスやイタリアをはじめとするヨーロッパ周辺地域で広く生産から消費まで行われる時代が続いたが、現在ではさらに生産地域を広げ、そして世界中で愛飲されている。
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{{脚注の不足|date=2023-3}}
{{infobox 飲料
|name= Vin, Wine, Vino, Wein<br />ワイン
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}}
'''ワイン'''({{lang-fr-short|vin}}、{{lang-en-short|wine}}、{{lang-it-short|vino}}、{{lang-de-short|Wein}})とは、主として[[ブドウ]]の[[ジュース|果汁]]を[[発酵]]させた[[アルコール飲料]]([[酒]])である。'''葡萄酒'''(ぶどうしゅ)とも。通常、単に「ワイン」と呼ばれる場合には、ブドウ以外の他の[[果実]]の果汁を主原料とする酒は含まない。[[日本]]の[[酒税法]]では「[[果実酒]]」に分類されている。また、日本語での「酒」と同じく、欧州語においてはアルコール飲料(特に果実酒)全体を指す場合もある。
ワインは日常的に飲まれるアルコール飲料でありながら、[[ギリシャ神話]]や[[ローマ神話]]、[[キリスト教]]において重要な役割を果たす神聖な存在でもある。また、外観や香りや味わいを鑑賞する[[嗜好品]]としても高い地位を獲得しており、[[食文化]]を牽引する存在の一つとなっている。長期熟成に耐えうることから、近年では[[コレクション]]や[[投資]]の対象としても大きな注目を集めている。
古くは紀元前の[[南コーカサス]]や[[メソポタミア]]に端を発し、その後は[[フランス]]や[[イタリア]]をはじめとする[[ヨーロッパ]]周辺地域で広く生産から消費まで行われる時代が続いたが、現在ではさらに生産地域を広げ、そして世界中で愛飲されている。
== 種類 ==
[[File:Red and white wine in glass.jpg|thumb|right|200px|赤ワイン(左)、白ワイン(右)]]
{{栄養価 | name=スイートワイン<ref name=mext7>[[文部科学省]]『[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]』</ref>| kJ =556| water=75.2 g| protein=0.1 g| carbs=13.4 g| sodium_mg=5| potassium_mg=70| calcium_mg=5| magnesium_mg=5| phosphorus_mg=7| iron_mg=0.3| Manganese_mg=0.01| vitB6_mg=0.01| opt1n=[[アルコール]]| opt1v=11.1 g| note =(100 g: 96.4 mL、100 mL: 103.7 g)
アルコール: 14.5 容量 % | right=1 }}
ワインは世界で最も多くの地域で飲用されている[[アルコール飲料]]の一つである。ワインは主に以下の3種類に分類される。
; [[白ワイン]]
: 主に[[無色]]に近い[[色調]]から(時に緑色がかった)黄色みを帯びたワインを白ワインと呼ぶ。白ブドウなど主に色の薄い[[果皮]]のブドウを原料とし、発酵には果汁のみを使用する。[[酸味]]の強いものは、一般的に魚料理に合うとされる。白ワインは、料理と合わせる辛口からデザートワインにする極甘口まで甘さに幅がある。なお、[[フランス]]東部の[[ジュラ県|ジュラ]]地方には[[ヴァン・ジョーヌ]]({{lang-fr-short|Vin jaune}}、黄ワイン)という特殊な白ワインがある<ref>{{Cite book |和書 |author=佐藤正透 |year=2014 |title=暮らしのフランス語単語8000 |page=18 |publisher=語研}}</ref>。
; [[赤ワイン]]
: 透き通った赤や濃い紫、あるいは赤褐色のワインを赤ワインと呼ぶ。一般に白ワインよりも[[渋み]]の成分である[[タンニン]]を多く含み、長期保存が可能である。主として黒ブドウや赤ブドウを原料とし、果実を丸ごと[[#アルコール発酵|アルコール発酵]]させる。この発酵の過程で、果皮に含まれる[[色素]]やタンニンが抽出される。[[乳酸#乳酸菌|マロラクティック発酵]]により減酸が行われることも多い。濃厚な風味のものは一般的に肉料理に合うとされる。また冷やすと香りの成分が[[揮発]]しにくくなったり[[苦味]]が増したりするため、冷やさないのが普通である。一般的に赤ワインには辛口しかなく、コクとタンニンにより、ライトボディーからフルボディーといった分類がなされる。白ワインと違い、飲む人の体質とワインの銘柄との相性により激烈な[[頭痛]]を起こすことがある。その原因は[[チラミン]]や[[ヒスタミン]]の多さにあるとも言われているが、ヒスタミンの含有量は、他の[[発酵食品]]と比較して多くはない<ref>[http://www.tokyo-eiken.go.jp/assets/issue/journal/2004/pdf/55-2.pdf 発酵食品に含まれるアミン類]『東京都健康安全研究センター研究年報 2004年』(和文要旨)</ref>。また、[[フラボノイド]]類により喘息の重症化とは有意な逆の相関関係が示されている<ref>{{Cite journal|和書|author=田中敏郎 |author2=平野亨 |author3=比嘉慎二 |author4=有光潤介 |author5=河合麻理 |title=アレルギーとフラボノイド |date=2006 |publisher=日本補完代替医療学会 |journal=日本補完代替医療学会誌 |volume=3 |number=1 |naid=130000079399 |doi=10.1625/jcam.3.1 |pages=1-8 |ref=harv}}</ref>。
; [[ロゼワイン]]
: ロゼ(''rosé'')とは[[フランス語]]で「ピンク色」を意味し、時にピンク・ワインとも呼ばれる赤みを帯びた淡い色調のワインを指す。製法には、果皮の色の薄いブドウを赤ワインのように醸造する方法や、赤ワインと同じブドウを白ワインのように醸造する方法、赤と白の双方のブドウによる混醸、赤ワインの醸造途上で色の素である果皮を取り除く方法などがあり、味わいも様々である。中には赤ワインと白ワインを混合したものや白ワインに着色しただけの製品もある。
ほかに[[発泡ワイン]]、[[オレンジワイン]]などの特殊な製法のものがある。ワインの風味を構成する味覚は、白ワインでは酸味・甘味であり、赤ではそれに[[渋み]]が加わる。加えて、香りが風味の重要な要素であり、これらのバランスが取れているワインが一般的に良いものとされる。
ワインの主成分は[[水]]、[[エタノール]]、各種の[[有機酸]]、[[糖]]、[[グリセリン]]、[[アミノ酸]]、[[核酸]]、タンニン、[[炭酸ガス]]などである。各種の有機酸の中では[[酒石酸]]、[[リンゴ酸]]、[[クエン酸]]、[[乳酸]]、[[酢酸]]、[[コハク酸]]の6つがワインの風味に関して最も重要な要素と考えられている。また、貴腐ワインには[[グルコン酸]]が多く含まれている。
魚介類との相性に関しては、従来はタンニンが関与していると信じられていたが、タンニンではなく[[フェノール]]化合物、[[カルボニル基]]を持つ物質、[[鉄]]が関与するとの報告がある<ref name=jbrewsocjapan.105.139>田村隆幸「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan.105.139 ワイン中の鉄は,魚介類とワインの組み合わせにおける不快な生臭み発生の一因である]」『日本醸造協会誌』Vol.105 (2010) No.3 pp.139-147, {{DOI|10.6013/jbrewsocjapan.105.139}}</ref>。特に、鉄分の含有量は魚介類料理との相性に大きく影響を及ぼし、鉄分濃度に依存し[[1-オクテン-3-オン]]、(E,Z)-2,4-ヘプタジエナールなどの物資により生臭味が増強されてしまう<ref name=jbrewsocjapan.105.139 />とされている。なお、鉄の起源は、土壌、製造工程中の鉄製品、コラージ(澱引き)に依存している。
ワインは瓶に詰められた後でも熟成が進み、風味は変化を続ける。熟成期間は[[ボルドーワイン]]などの一部のワインでは50年以上もの熟成に耐えるものもあるが、多くは1年から10年ほど、長いものでも20年から30年である。安価なワインでは熟成によって品質が向上することはあまりなく、むしろ早く飲まないと劣化してしまう。長い熟成に耐えるものを長熟、逆に早く飲むものは早飲みという。作られて間もないワイン(「若いワイン」と表現する)は、ブドウの生の味が強く、渋すぎたり、酸味がきつすぎたりするということもあるが、熟成が進むと角が取れてまろやかになる。また、年数が経てば総数が減るため希少価値により価格も高くなる傾向にある。ただし、熟成したワインがどれも同じように高くなるというわけではなく、生産年、地域、作り手の知名度などにより価格は大きく異なる。
ワインが食文化に根付いている[[ヨーロッパ]]では日常的に飲まれることも多いが、{{いつ範囲|近年では|date=2020年8月}}日本における[[日本酒]]と同様に、1人あたりの需要量は減少傾向にある。[[イスラム教]]においては飲酒が教義により禁止されているため(「[[ハラール]]」を参照)、イスラム教発祥地である現在の[[中東|中東諸国]]では、ワインの生産は、[[イスラエル]]、[[世俗主義]]国家である[[トルコ]]、比較的[[リベラル]]な[[イスラム教徒]]や[[キリスト教徒]]が住む[[レバノン]]、[[ヨルダン]]、[[パレスチナ]]、[[エジプト]]などに限られる。日本を含むアジア諸国では、1人あたりの需要量は依然として少なく、需要の伸びは著しい{{efn|中国の2010年ワイン消費量の上昇予測は非常に高い数字になっている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2242245?pid=1709512 ワイン消費量の推移、主要国の現状と予測] [[フランス通信社|AFP]](2007年6月20日)2020年8月14日閲覧</ref>。}}。
日本では、冷やしてストレートで飲むものと言うイメージが強いが、ヨーロッパではホットワインは冬の定番の飲み物である。ホットワインもそうだが、香料やスパイスを入れたフレーバーワイン(スパイスワイン)もなじみ深い。特に[[中世#ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]ではストレートで飲めるワインは最高級品であり、滓を取ったり、香料やスパイスを加えたりして飲みやすくするのが通常であったため、歴史は古い。
== 歴史 ==
{{Main|ワインの歴史|:fr:Histoire de la vigne et du vin}}
[[File:Bacchanal with a Wine Vat MET dp1986.1159.R.jpg|200px|thumb|[[アンドレア・マンテーニャ]]作『ワインの大樽のあるバッカス祭』(1475年頃)]]
[[File:Johann Peter Hasenclever - Die Weinprobe.jpg|200px|thumb|[[ヨハン・ペーター・ハーゼンクレヴァー]]作『ワインの試飲会』(1843年)]]
ワインは極めて歴史の古い酒の一つであり、[[新石器時代]]に醸造が始まったとされる<ref>[http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/sake/column_04.html 石毛直道の発酵コラム 第4回「酒」]キリン食生活文化研究所</ref>。様々な歴史的記念物、文献などから[[ジョージア (国)|ジョージア]]では7000年から5000年前に醸造され、発祥地の一つとされる<ref>橘勝士「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.95.651 グルジアのワインと文化]」『日本醸造協会誌』Vol.95 (2000) No.9 p.651-657, {{DOI|10.6013/jbrewsocjapan1988.95.651}}</ref>。[[近東]]のワイン造りの[[化学]]的痕跡としては、[[イラン]]の[[ザグロス山脈]]で見つかった紀元前5400 - 同5000年(約7000年前)のものが最古とされていたが、ジョージアで発掘された約8000年前の[[陶器]]の[[壺]]が科学分析により世界最古のワイン醸造の痕跡であると2017年に発表された<ref>「[https://www.afpbb.com/articles/-/3150409 世界最古のワイン醸造痕跡見つかる ジョージア、8000年前]」AFP(2017年11月14日)2020年8月14日閲覧</ref>。また、[[アルメニア]]では約6000年前のものとされる世界最古のワイン醸造所跡が発見されており、その頃には既に高度な醸造技術が確立されていた<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-12158341 'Oldest known wine-making facility' found in Armenia] [[BBC]](11 January 2011)2020年8月14日閲覧</ref>。以後、醸造法が南方に伝播したことから、中東、特に[[メソポタミア]]を中心とする地域で広く愛飲されるようになる。ただし、メソポタミアはブドウの栽培に適した土地でなかったため、[[イラン高原]]では[[紀元前6000年]]頃から生産が始まっていたものの、メソポタミア(特に南部の[[シュメール]])においては[[紀元前4000年]]頃になってようやく醸造できるようになったとされている<ref>[http://www.penn.museum/sites/wine/winemesopotamia.html “The Origins and Ancient History of Wine”]</ref>。[[古代エジプト]]では[[エジプトのビール|ビール]]が多く飲まれていたが、紀元前4000年代末期にはワインが製造されていた<ref>[http://www.usatoday.com/tech/science/columnist/vergano/2006-05-29-tut-white-wine_x.htm White wine turns up in King Tutankhamen's tomb] [[USAトゥデイ|USA TODAY]]</ref>。[[ビザンツ帝国]]時代の地中海周辺では大規模な[[ワイナリー]]も存在しており、商業的に流通していたと考えられている<ref>{{Cite web|和書|title=イスラエル 1500年前に造られた巨大ワイナリーの遺跡発掘|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211013/k10013304561000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-10-13|last=日本放送協会}}</ref>。
しかしながら、ワイン文化が西洋へ広まった要因はやはり、現在のレバノンが位置する[[地中海]]岸沿いを拠点としていた[[フェニキア人]]であり、そしてその地域こそがワイン生産の起源とも言える<ref name="名前なし-1"> McGovern, Patrick E. 2003. Ancient wine: the search for the origins of viniculture. Princeton University Press</ref><ref>Karam, Michael (2005) "The Wines of Lebanon" Saqi Books - reference book on Lebanese wine</ref>。フェニキア人の生産するワインはその後、[[古代ギリシア]]や[[ローマ帝国]]時代にわたり上質なワインを表す「ビブライン」(フェニキアの町[[ビブロス]]から)という形容詞となり、その存在は続いた<ref>H. Johnson Vintage: The Story of Wine pgs 18-43, 61-86 & 106 Simon and Schuster 1989 ISBN 0-671-68702-6</ref>。『[[ホセア書|ホセアの予言書]]』(紀元前780年 - 725年)の中では、「ブドウの木のように栄えており、その香りはまるでレバノンのワインのようだ」と弟子たちに[[ヤハウェ]]のもとへ急いで伝えるようにと記されている<ref>引用:McGovern, Patrick E. 2003. op. cit., p. 202</ref>。
フェニキア人は3つの点においてワインの世界に重要な意味をなしている。
# 輸出:ビブロス(レバノンの町)のワインは[[エジプト古王国]](紀元前2686年 - 2134年)時代にエジプトへ、そして地中海沿岸の各地へも輸出されている。最初のワイン商人として、フェニキア人は[[松脂]]のシールを[[オリーブ・オイル]]でコーティングし、ワインを[[酸化]]から守っていたと言われている。これがおそらく[[ギリシャワイン]]の一種レツィーナの原点である<ref name="名前なし-2">H.Johnson Vintage: The Story of Wine pgs 18-43, 61-86 & 106 Simon and Schuster 1989 ISBN 0-671-68702-6</ref><ref name="名前なし-1"/>。
# ワイン文化とワイン生産の普及:実際にフェニキア人はブドウのために最高に恵まれた気候と地形によってヴィンヤード([[葡萄園]])を形成することさえも可能であった。このことはマーゴによって残されており、それは[[元老院 (ローマ)| ローマ元老院]]から[[ラテン語]]に訳され、その法令が発布されるほど重要視されていた<ref name="名前なし-2"/><ref>J. Robinson (ed) "The Oxford Companion to Wine" Third Edition pgs 141, 520 & 714 Oxford University Press 2006 ISBN 0-19-860990-6</ref>。
# ヴィティス・ヴィニフェーラの原種の普及:[[カリフォルニア大学デービス校|カリフォルニア大学デーヴィス校]]での研究によると、フランスの[[ムールヴェードル]]は紀元前500年頃に[[バルセロナ]]へフェニキア人が紹介したことから広まったとされている<ref name="カリフォルニア大学">Integrated Viticulture Online Database "Mourvedre" University of California-Davis,2009年12月17日閲覧</ref>。
ワインについて書かれた世界最古の文献は、[[紀元前2000年]]前後に作られた[[シュメール語]]の[[粘土板]]である<ref name="カリフォルニア大学"/>。例えば、『[[ギルガメシュ叙事詩]]』([[アッカド語]]版)には、メソポタミアで英雄視された王([[ギルガメシュ]])が[[大洪水]]に備えて[[箱船]]を造らせた際、船大工たちにワインを振る舞ったという場面がある。シュメールでは[[紀元前5000年]]頃に世界初となる[[ビール]]の醸造技術が確立しており、紀元前3000年代初期に双方が[[古代エジプト]]へと伝わったとされる<ref name="カリフォルニア大学"/>。古代エジプトでは[[エジプトのビール|大量生産されるビール]]が主流であったが、ブドウ栽培や醸造を描いた壁画が残されている<ref>{{Cite web|和書|title=ワインの歴史を教えてください。|url=https://www.suntory.co.jp/customer/faq/001847.html|website=サントリーお客様センター|accessdate=2021-10-13|language=ja}}</ref>。また{{仮リンク|シェデフ|en|Shedeh}}と呼ばれる赤ワインのような飲料も存在した。
その後、フェニキア人により古代ギリシアへも伝わる。この頃は水割りにして飲まれ、原酒のまま飲む行為は[[野蛮]]とされた。これは当時の上流階級が、ギリシャ北方に住む[[スラブ系]]の祖先である[[スキタイ]]の原酒飲酒の習慣を忌み嫌っていたからだと言われている。現代[[ギリシャ語]]でワインをοίνος(「エノロジー(oenology、ワイン醸造学)」の[[語源]])ではなく普通κρασί(混合)と呼ぶのはこの水割りの習慣の名残である。ワインはそこから地中海沿岸に伝えられ、[[古代ローマ]]へと伝わり、ローマ帝国の拡大とともに[[ガリア]]などの内陸部にも水割り文化とともに伝わっていった。当時のワインは、ブドウ果汁が濃縮されかなりの糖分を残している一方、[[アルコール度数]]はそれほど高くなかった。今日の[[蒸留酒]]を飲むときに行うようなアルコール度数を抑えるための水割りではなく、過剰な甘さを抑えるための水割りであった。酒というよりはソフトドリンク、長期保存可能なブドウジュースといった感覚であった。ヨーロッパの水は[[硬水]]が多く大変飲みにくいものであったため、それを飲みやすくするためにワインは必要不可欠なものであり、その意味では水で割るというよりも、水に添加して飲みやすくするものであった。
ワイン製造の技術が格段の進歩を遂げたのはローマ時代においてとされ、この時代に{{いつ範囲|現在の|date=2020年8月}}製法の基礎が確立した。それにより糖分がかなりアルコールに転化され、ワインをストレートで飲む「大酒飲み」が増えていった。
中世ヨーロッパでブドウ栽培とワイン醸造を主導したのは[[キリスト教]]の僧院であった。[[イエス・キリスト]]がワインを指して自分の血と称したことから、ワインはキリスト教の[[聖餐]]式において重要な道具となった。ただしこの時代、ワインは儀礼として飲むものとされ、むやみに飲んで酩酊することは罪とされていた。中世後期にはワインは日常の飲み物として広まるようになっており、12世紀の[[イタリア]]で著された医学書『[[サレルノ養生訓]]』では、いいワインの選び方やワインと健康についての考察がなされている。また、[[ブルゴーニュワイン]]が銘酒として有名となったのはこの頃からである<ref>Harold McGee 香西みどり訳『マギー キッチンサイエンス』(2008年、共立出版)p.699,713</ref>。[[ルネサンス]]の時代以降、娯楽としての飲酒が発展する。[[17世紀]]後半、醸造や保存の技術、また瓶の製造技術が向上し、ワインの生産と流通が飛躍的に拡大した。
また、これらのワインとは全く異なるが、古代[[中国]](※[[漢]]王朝 - [[紀元前1000年]]初期)においても独自のワイン醸造技術が存在していたという<ref>{{cite web |url=http://www.sytu.edu.cn/zhgjiu/u5-2.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008年6月25日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080828140517/http://www.sytu.edu.cn/zhgjiu/u5-2.htm |archivedate=2008年8月28日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。ただし、この系統は完全に廃れてしまい、現代中国で生産されるワインは[[西洋]]由来のものである。
== 製法 ==
{{Main article|[[ワイン醸造]]}}
[[File:Vineyards in front of the Chateau - Saumur, France - panoramio.jpg|thumb|right|200px|[[ロワール渓谷|ロワール]]地方[[ソミュール]]にあるシャトーとブドウ園]]
広い意味でのワイン作りはブドウの栽培と醸造に二分できる。ワイン産地では、ワイン作りといえば醸造(英語ではwinemaking)を指し、醸造学は英語でエノロジー(oenology/enology)という。これに対し、ブドウ栽培(英語でgrapegrowing)の技術や学問はヴィティカルチャー(viticulture)と呼ばれる。海外{{どこ|date=2020年6月}}の大学はブドウ栽培と醸造学の両コースを持つのが普通である{{要出典|date=2020年6月}}。
ワインの生産主体はフランスの[[ボルドー]]地域においては「[[シャトー]]」、[[ブルゴーニュ]]地域においては「ドメーヌ」と呼ばれることが多い。[[フランス語]]の「シャトー」は、元々は城館を表す言葉で、ボルドー地域においては転じてブドウ園や管理場、生産者のことをも指す。主なものでは[[シャトー・ムートン・ロートシルト]]、[[シャトー・ラフィット・ロートシルト]]、[[シャトー・マルゴー]]、[[シャトー・ラトゥール]]などがある。イタリアにおける「カステッロ」、[[ドイツ]]の「シュロス」、[[スペイン]]の「カスティーリョ」も同様である。「ドメーヌ」は、フランス語で「土地」を表す語である。[[カリフォルニアワイン]]などで「エステート」という語を使っているのもドメーヌと同義である。
=== ブドウ作り ===
[[ファイル:Grape gathering.jpg|thumb|150px|鋏による収穫]]
[[ファイル:Selbstfahrer ohne Selektion GV09 11.jpg|thumb|150px|自動収穫機による作業]]
どんなに醸造の技術が進歩しても、良いワインを作るためには良いブドウがなくてはならない。そのため、良質なブドウを収穫するための栽培技術方法は醸造技術以上に重要である。さらに、現代のワイン醸造では理想の味わいを生み出すために、醸造前あるいは醸造後に複数品種のブドウを組み合わせる手法が多く用いられている。したがって、ブドウ品種の選定とブレンド比は味の特徴を決定する大きな要因である。しかし、一方で品種の特徴を生かしたブレンドを行わない単一品種ワインも生産される。また、生育環境全体の栽培される畑の日当たりや局地的な気候などの要素を加え、それらを一括りにして「[[テロワール]]」と呼ぶ。実際には、品種、土壌、気候条件の違いを栽培技術や収穫時期の最適化で補うことで、広い地域で栽培が行われている。
その年のブドウの作柄のことを[[ヴィンテージ]]と呼ぶ。{{いつ範囲|現在では|date=2020年8月}}転じてブドウを収穫した年のことをヴィンテージと呼び、その年の出来不出来によってワインの出来が変わる。そのために各国のワイン関連組織やワイン専門誌などによってヴィンテージチャートが発表される。ただし、{{いつ範囲|現在では|date=2020年8月}}補糖や補酸、適切な[[酵母]]の選択などの醸造技術の進歩により、力のあるワイナリーであれば悪い年でもそれなりのワインができるようになり、味に関しては激しい差はない。その代わり、悪い出来のブドウでは長い熟成に耐えることが難しくなり、より早飲みになる。安価なワインでは品質を安定させるために複数の年のワインを混ぜた「ノン・ヴィンテージ」であることが多い。[[シャンパン]]はノン・ヴィンテージが一般的であり、産年表示された「ヴィンテージ・シャンパン」は、高級品に限られる。
==== 品種 ====
{{Seealso|ワイン用ブドウ品種の一覧}}
[[ファイル:Cabernet Sauvignon Gaillac.jpg|thumb|220px|right|カベルネ・ソーヴィニョン]]
世界的にはワインに使われるブドウの種は[[ヨーロッパブドウ|ヨーロッパ種]](学名:''[[w:Vitis vinifera|Vitis vinifera]]'')が主流である。品種はサルタナ(トンプソン・シードレス)種などごく一部に生食用[[品種]]を使用するものもあるが、ほとんどはワイン専用品種である。日本では、[[巨峰]]、[[ナイアガラ]]などの生食用品種や[[ヤマブドウ]]も使われている。
一般にワイン専用品種は生食用品種よりも果実の粒が小さく、皮が厚く、甘みと酸味がより強い。代表的な品種として[[リースリング]]、[[カベルネ・ソーヴィニヨン]]、[[メルロー]]などがある。また、伝統的な品種だけでなく、[[品種改良]]によって耐寒性や耐病性を向上<ref>[http://www.asevjpn.wine.yamanashi.ac.jp/JAJ/Vol/Vol-16-2005/1/3.pdf K. UEKI and G. OKAMOTO: A Comparative Study of Disease Tolerance of Vitis coignetiae and Several Grape Cultivars., 植木啓司、岡本五郎:ヤマブドウ樹と数品種の栽培ブドウ樹の耐病性比較] J. ASEV Jpn., 16, 3-8 (2005)</ref>させたり、他産地との差別化を図ったりするための手法も行われている。
==== 土壌 ====
品種毎に適する土壌には違いがあるとされている。代表的な好土壌は、カリ[[チョーク (岩石)|白亜]]土、赤砂質[[粘土]]、[[黄土]]土壌、混砂粘土、[[泥灰土|泥灰岩土壌]]、[[石灰]]質土壌、[[粘土|粘陶土]]質土壌の水はけの良い土地が多く選ばれている。しかし、穀物栽培に適する[[腐植土]]壌の[[堆積平野]]や湿潤な土地、極度に乾燥した[[砂漠]]、塩分の多い土壌は良質なブドウの収穫は望めず不向きである。
==== 気候 ====
ブドウは気候に対する適応能力が高いため、[[温帯]]を中心に栽培されている。良質なワインを醸造できる特性を兼ね備えた果実を収穫できる地域の多くは、[[緯度]]20度から40度の地域に存在しているが、ヨーロッパでは北緯50度の地域においても栽培が行われている<ref>中山正男「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.88.654 日本におけるワイン用原料ブドウ栽培]」『日本醸造協会誌』Vol.88 (1993) No.9 p.654-659, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1988.88.654}}</ref>。湿潤な気候区分では[[地中海性気候]]が適する。[[潅漑]]用水があればより乾燥した[[ステップ気候]]地域でも栽培可能である。
高温多湿な地域では[[べと病]]などが広がりやすいが、[[農薬]]の進化により栽培が可能となった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ワイン生産日本一の山梨が挑む世界市場 カギはAI活用の有機栽培技術 {{!}} NHK {{!}} WEB特集 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220816/k10013772831000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-08-23 |last=日本放送協会}}</ref>。
2020年ごろから[[地球温暖化]]の影響により、[[ブルゴーニュ]]など栽培に適していた地域での栽培に影響が出ており<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=よし、北海道を飲もう!~ワインの神に愛される北の大地|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211126/k10013360171000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-11-28|last=日本放送協会}}</ref>、2050年代には最適地がさらに高緯度に変わるという予測もある<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181213/k10011745261000.html?utm_int=news_contents_news-main_007 温暖化進むとワインの味は…? 味を予測しCOP24で試飲体験] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。
冷涼な地域([[畑]])では収穫期を遅らせ[[糖度]]の上昇を待つ、あるいは温暖(畑)な地域では適度な酸が失われる前に早期の収穫を行うことで収穫されるブドウの品質向上を図っている。また品種改良や栽培法の工夫も行われている<ref name=":0" />。
==== 天候 ====
その年に雨が多く、日照量が少ないとブドウの生育が悪くなり、そこからできたワインは糖分と果実味に乏しく腐敗果の混入のおそれが増える。逆に日照が良すぎて生育が早過ぎると酸が欠けて糖分が強くなり過ぎ、酸味とのバランスが悪くなる。
=== 醸造 ===
[[ファイル:Lightmatter wine barrels.jpg|thumb|right|220px|[[樽]]で熟成されているワイン]]
伝統的な方法では、搾った果汁を[[樽]]や[[甕]]に入れ、自然酵母(野良酵母)によりアルコール発酵させたあと、滓(おり)引きを行い、樽で数か月から数年間熟成し瓶詰めされる。[[ルイ・パスツール]]によってワインの醸造が酵母によるものだと発見されて以来、微生物を混入させないような製法が開発されているが、基本的な方法はワイン発祥の頃と変わっていない。近代的な醸造方法では培養酵母を添加し、[[ステンレス鋼|ステンレス]]製タンク内で発酵させる。熟成(マロラクティック発酵)の際も、特別に培養した[[乳酸菌]]を添加する。
==== 酸化防止剤の添加 ====
ワインは、そのほぼ全工程で、なるべく空気、特に[[酸素]]との接触を断つ必要がある。これは多くの場合、空気とともに[[酢酸菌]]<ref group="注釈">[[ワインビネガー]]を作る場合は、意図的に酢酸菌によって酢酸醗酵を行わせ、ワインに含まれる[[エタノール]]を酢酸へ変えさせている。</ref>が侵入して[[酢酸醗酵]]が行われることで、酸味の強過ぎるワインになったり、ワインが[[腐敗]]状態となったりするのを防ぐためである。このためワインの製造工程のいくつかの段階では、[[酸化防止剤]]としても知られる[[二酸化硫黄]](亜硫酸ガス, SO<sub>2</sub>)またはその[[塩 (化学)|塩]]の1種である[[ピロ亜硫酸カリウム]]が添加される。ただし、この二酸化硫黄には、確かに酸素の除去という効果もあるものの、その反応は遅い。しかも、二酸化硫黄は人体に有害な物質としても知られているため、これを添加をしない製法も存在する。このように酸化防止剤を添加しない場合は、醗酵させるタンク内の空気を[[窒素]]に置換することで、酸素との接触および[[雑菌]]の繁殖による腐敗を抑制する手法が多く用いられる。しかし、二酸化硫黄には酸化防止剤としての働きと雑菌の抑制および殺菌のほかにも、ブドウの果皮に含まれる[[酸化酵素]]の阻害、果汁中の色素の安定化、ワインで発生することのある[[過酸化水素]]の除去などの働きもあり、二酸化硫黄の添加を行うことでワインの品質をより簡単に安定させられるという利点がある。また、二酸化硫黄が含まれていても、少量であれば人体にほとんど問題はないとされていることから、簡単に品質を安定させる手段として、{{いつ範囲|現在でも|date=2020年8月}}二酸化硫黄の添加が主流となっている。そして中には、[[フランス]]のワイン法のように、二酸化硫黄の添加を義務づけている地域も存在する。ただし、日本やヨーロッパ諸国、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などでは、製品中の二酸化硫黄の濃度が一定値を超えてはならないと規制されているため、使用には限度が存在する地域もある。なお、ワインへのこの他の酸化防止剤の使用は日本では認められていないが、[[南米]]などから気温が高い[[赤道]]を越えて船で輸送されるものは、多くの場合に保存料として認められている[[ソルビン酸]]が添加される。
==== 収穫から搾汁 ====
[[ファイル:Must.jpg|right|150px|thumb|古典的搾汁方法]]
[[ファイル:Img1417_Vendanges.jpg|right|150px|thumb|果実の破砕、除梗、搾汁を同時に行う機械]]
{{main|ムスト}}
醸造するには、まずブドウを収穫しなければならない。ブドウの収穫は糖度が14 - 26度程度になったところで、[[鋏]]または機械で行う。収穫時期をいつにするかということもまたワインの味を決める重要な要素で、単純に糖度が高いだけでは酸とのバランスが悪い仕上がりになる。この際に病気の腐敗果や生育が悪いものは、必要以上に酸をもたらすため取り除く。この過程を選果という。
伝統的なワインの製造(発酵)方法は、ブドウの芯(果梗)を取り除き(除梗:じょこう)、実の皮を破る(破砕)。産地によっては、ワインにより強い渋みをつけるため果梗を混ぜる場合がある。スペイン、イタリアの農村では収穫期には伝統的に村人総出で、素足で体重をかけて搾汁する光景が見られる。{{いつ範囲|最近の|date=2020年8月}}ワイン工場ではステンレス製の除梗破砕機を使用し搾汁する。多くのワイン専用品種では収穫した果実重量の55 - 65%程度の果汁が得られ、大粒生食用品種の[[巨峰]]などでは80 - 85%程度の果汁を得る。
この次に赤ワインの場合は、果皮や果肉の混ざったままの状態で醗酵させる。白ワインの場合は、[[ワイン圧搾機|圧搾機]]にかけて果汁を搾り出した(搾汁)後、果汁のみを醗酵させる。ただし、一部の白ワインではスキンコンタクト法という「破砕した果実と果汁を1 - 24時間接触させたあとに搾汁する」方法も取られる。このように、白ワインは醗酵させる前に果皮や果肉は捨てられるのが一般的であるものの、種子についてはグレープシードオイル(葡萄種油、[[食用油]])の原料として利用される。ロゼワインの場合は、[[ワイン#概要|概要の節]]で述べたように様々な製法があり、この工程はそれぞれの製法によって異なっている。
なお、ワインの渋みとなるタンニンは果梗や果皮あるいは種子に由来し、タンニンは[[エタノール]]によって溶出する。したがって、果汁のみを醗酵させる白ワインにはタンニンが少ない。
==== 主発酵(一次発酵) ====
発酵させるにあたり、ブドウの果実には自然[[酵母]](野生酵母)が取りついており、さらに、果汁中には酵母が利用可能な[[ブドウ糖]]が含まれているため、果汁が外に出ることで自然に[[アルコール発酵]]が始まる。伝統的な製法では酵母には手を加えない自然発酵が主流であったが、{{いつ範囲|現在では|date=2020年8月}}安定した発酵をさせるため、特別に培養した酵母を使用した酒母として添加し、それ以外の菌を作用させない方法がとられる。さらに、ブドウ産地が高温で酸に乏しいブドウとなる場合は、酸を多く生じる酵母を用いる。その後、場合によっては糖([[フルクトース|果糖]]、[[グルコース|ぶどう糖]]など)が添加される。この後、赤なら約20 - 30[[セルシウス度|℃]]、白なら15 - 18℃に保ち、数日から数十日かけた「主発酵」を経て、圧搾によって液体成分を搾り出す。目的の発酵度合い(糖の残り具合)になったところで、温度を下げ発酵を停止させることもある。発酵の際の温度が20℃を越えると微香成分が失われるため、低温で長期間の発酵を行う場合もある。一緒に仕込んだ果皮や種が、アルコール発酵中に発生する[[二酸化炭素]](炭酸ガス)により浮き上がり、好気的な微生物の作用を受けやすくなるため、ピジャージあるいは撹拌や循環により固形分が常に液体に浸った状態を維持する。
酵母による発酵の成果として十分に発酵した場合、[[糖度計]]による計測糖度の約2分の1の値の[[エタノール]]と二酸化炭素が生成される。目的の発酵度合いになったところで、液体と固形分を分離する。このとき、圧力をかけずに自然と流れ出た液体が「フリーランワイン」で、高級ワインの原料として使用される。一方、残った固形分を圧縮し搾った液体が「プレスワイン」である。「フリーラン」「プレス」は別々に二次発酵から瓶詰めを行うが、プレスワインはブレンド用のワイン原料として利用されるほか、一部ではフリーランと混合され、各々が特徴を持ったワインに仕上がる。
なお、酵母によるアルコール発酵で作り出せる酒の[[アルコール度数]]には限界が存在する。これは、エタノールがある一定濃度以上になってしまうと、酵母は自身の生産したエタノールにより死滅してしまうためである。この上限濃度は酵母の菌株によって異なっており、だいたい16 - 20%である。したがって、シャンパンのように瓶内二次発酵を行いたい場合は、この濃度に達していない必要がある。なお、[[酒精強化ワイン]]の場合は、ここで高濃度のエタノール([[蒸留酒]])を添加することによって、酵母が死滅するようにエタノールの濃度を上げてしまうため、酵母によって消費されなかったブドウ糖などが多く残るために、一般的に甘口に仕上がる。
{{see also|アルコール発酵}}
==== 二次発酵とマロラクティック発酵 ====
搾り出された液体はステンレスや[[コンクリート]]製のタンク、木製(主にフレンチ[[オーク]]、一部ではアメリカンオークも使用される)の樽に貯蔵される。木製の樽を利用するとその香りなどがワインに影響し、それが良い効果を与えるとされている。一方、ステンレス製のタンクではワインへの影響がないため品質管理がやりやすくなるという利点があり、ステンレス製タンクを利用する生産者が増えている。熟成期間は数十日から数年と様々である。底にたまった[[滓]](おり)は随時回収する。アルコール発酵で生じた[[二酸化炭素]]を大気中に発散させず、液中に封じ込めたものはスパークリングワインとなる。
酸味の強いワインでは樽での貯蔵中に[[乳酸菌]]が投入されて[[マロラクティック発酵]](Malolactic Fermentation, MLF)が行われる<ref>原昌道「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.62.803 マロラクチック発酵について]」『日本釀造協會雜誌』Vol.62 (1967) No.8 p.803-808, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1915.62.803}}</ref>。これを「熟成」とも呼ぶ。マロラクティック発酵は酸味の主成分である[[リンゴ酸]]を[[乳酸]]と二酸化炭素へ分解する化学反応で、製品の酸度の減少と微量芳香成分の付与をする<ref>『応用微生物学 改訂版』、村尾澤夫・荒井基夫、[[培風館]]発行、1993、p113</ref><ref>[http://www.kizan.co.jp/monthly/0102.html ワイナリー便り-マロラクティック発酵-]</ref>。MLF発酵が行われる温度は15 - 18℃で、12℃以下では起こらない。多くの場合、MLF発酵が行われるのは冬期の寒冷期であることから、近代的な製法では乳酸菌スターターの添加と加温管理で行われる。さらに、ワインの[[水素イオン指数|pH]]は3.1 - 4.0の範囲になければならない。pH4.0を超えると失敗しやすくなる。ただし、最適なpHは使用される乳酸菌によって異なっている。また、マロラクティック発酵は赤ワインだけでなく白ワインでも行われる。
乳酸菌としては、 発酵の初期はホモ型(''Lacobacillus paracasei , Lb. plantarum'')、ヘテロ型(''Leuconostoc mesenteroides'')、発酵の後期になると'' Oenococcus oeni ''<ref>原昌道、水野昭博「赤ワインのマロラクチック発酵におけるL-, D-乳酸の生成」『Hakkokogaku Kaishi』59(1), 17-22, 1981-01-25, {{naid|110002778756}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kitasangyo.com/e-Academy/b_tips/back_number/BFD_22.pdf ワイン醸造の基礎 第3回 −マロラクティック発酵の話] きた産業}}</ref>などが作用をもたらす<ref>柳田藤寿, 篠原隆, 後藤昭二「[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010570756 品種別赤ワイン仕込経過中の乳酸菌の分布と分離同定]」『山梨大学醗酵研究所研究報告』32巻 pp.5-13, 1997年, [[山梨大学]]工学部附属発酵化学研究施設, {{naid|110000359820}}</ref>。この乳酸菌が[[日本酒]]に作用すると[[火落ち|腐造]]となる。
==== 澱引き(おりびき) ====
発酵が終わったワインは、酵母や酒石([[酒石酸水素カリウム]])などの澱が沈降するため、セラミックフィルター、[[遠心分離]]、[[濾過]]、静止などにより澱を分離する。また、熟成期間中のワインも澱が生じるため適宜澱引きを行う。発酵を停止させる方法は、静止のほか、冷却して酵母を沈殿させたり、50℃程度までの加熱を行い酵母を死滅させたりする方法が用いられる。なお、ここで取り除かれる酵母は、加工を行ったうえで健康食品として販売されることもある。また、[[蛋白質]]を除去して透明化させるため、[[卵白]]や[[ベントナイト]]という粘土などを添加する方法はコラージ(collage)と呼ばれ、高級赤ワインでは広く行われている。
==== ブレンド ====
ワインを購入者が混ぜ合わせたり、[[カクテル]]の材料にしたりする以外に、製造工程の一環としてブレンドが行われることがある。フランスの[[シャンパーニュ]]地方における[[シャンパン]]づくりでは「アッサンブラージュ」と呼ばれる。購入者の希望に合わせてブレンドを受け付けるサービスもある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36554400W8A011C1XQH000/ 「選んで作るマイワイン キッコーマン、原酒7種からブレンド」]『[[日経MJ]]』2018年10月19日(フード面)2018年10月27日閲覧</ref>。
==== 瓶詰め ====
{{seealso|ワインボトル}}
貯蔵後は[[ガラス]]瓶などの容器に詰め、[[コルク]]などで栓をして出荷される。コルクには天然のコルクと、合成素材のみ、もしくは天然コルクと合成素材を組み合わせた合成コルクがある。合成コルクは主に安価なワインに使用される。汚染などが問題になるコルクの代りに[[スクリューキャップ]]({{lang-en-short|[[w:Screw cap|Screw cap]]}})も用いられる。安いワインはバッグ・イン・ボックスと呼ばれる段ボール箱に入った特殊な薄い袋(容量は2リットルから4リットル程度)に詰めて売られることも多い。これは、輸送コストが安く、空気が入りにくいため開栓後ワインが酸化しにくいのが特長である。また、ペットボトルや紙パック、缶が容器として使用されることもある。
=== 特殊な醸造技術 ===
; 補糖と補酸
: ワインの醸造の過程では補糖が行われる場合がある。補糖の目的は、果汁の糖度の不足を補うことで発酵により生産される[[アルコール度数]]を高め腐敗を防ぐとともに、赤ワインでは溶出する色素を増加させ色を濃くすることにある。また、果汁の酸が少なくても腐敗することから、酸の不足を補うために補酸が行われる場合があるが、過剰な酸を含む場合は除酸も行われる。多くの国では、この2つの同時使用は認められておらず、またどちらかが法律で禁止されている場合もある。たとえば、フランスの[[ボルドーワイン]]と[[ブルゴーニュワイン]]では同時使用が禁止され、[[カリフォルニアワイン]]や[[オーストラリアワイン]]では補糖が禁止されている。
; 炭酸ガス浸漬法
: 果実味に富んだ鮮やかな色とタンニンの少ないワインの醸造に用いられる。炭酸ガス浸漬法は、果実を房のまま入れた容器を密閉し、炭酸ガスを充満させて行う特殊な発酵方法で、「マセラシオン・カルボニック」や「カーボニック・マセレーション」とも呼ばれる。葡萄は果粒中の酵素によりアルコール(1.5 - 2.5%)を生じ、数日後に搾汁し補糖をして酵母による発酵へと移る。短期間で作られ、毎年11月の第3木曜日が解禁となる「[[ボジョレー・ヌーヴォー]]」もこの製法で作られる。数十年といった長期保存には向かない。
{{main|ボジョレーワイン#製法}}
; 果汁再添加
: ワインの生産過程で、時に果汁再添加(果汁再配合)が行われることがある。これは発酵により失われた香りや甘味を補うためで、主としてアルコール度数の低い日常消費用の甘口ワインに用いられる。ドイツで多く見られる技法で、添加される果汁は多くの場合、搾汁した際に醸造用とは別に保存していたものを混合する。「ジュースリザーヴ」あるいは「ズュースレゼルヴ」ともいう。
=== 芳香成分 ===
香りはワインの品質を決定づける重要な要素であり、原料のブドウと醸造の各々の段階で加わり複雑なアロマを形成する<ref>{{Cite journal|和書|author=篠原隆 |title=ワイン発酵と微生物学研究について |url=https://doi.org/10.34429/00001593 |date=2002 |publisher=山梨大学工学部 |journal=山梨大學工學部研究報告 |volume=51 |issue=1 |naid=40006976921 |doi=10.34429/00001593 |pages=81-88 |ref=harv}}</ref>。
* 果実に由来:[[テルペノール]]類、[[フェノール]]類、[[ヘキゼナール]]
* 酵母によるアルコール発酵に由来:エチルアルコール、二次生産物として[[高級アルコール]]、[[エステル]]類、[[アルデヒド]]、[[脂肪酸]]、硫黄化合物
* マロラクティック発酵に由来:リンゴ酸分解物の乳酸、[[酢酸エチル]]、[[アセトイン]]、[[ジアセチル]]、酢酸等
* 残糖分に由来:[[カラメル]]化に由来するカラメル香
* 樽材に由来:[[バニリン]]、ケルカスラクトン
* 熟成:有機酸エチルエステル類
=== 特殊な製法のワイン ===
<!-- 製法の似たものがまとまるように並び順を変えました -->
; 発泡ワイン
: [[発泡ワイン]]ないしはスパークリングワインは、瓶内二次発酵などの製法により製造される発泡性のワインである。フランスの[[シャンパン]]、スペインの[[カバ (ワイン)|カバ]]、ドイツのゼクト、イタリアの[[ランブルスコ]]や[[スプマンテ]]などがある。
; 酒精強化ワイン
: [[酒精強化ワイン]]は、発酵の途中ないしは発酵が完了してから[[ブランデー]]などブドウを原料としたアルコールを添加したものであり、通常アルコール度数は15%以上になる。発酵の途中に酒精強化を行った場合はその時点で発酵が止まるため糖分の多く残った甘口のワインができあがる。発酵が完了してから酒精強化を行った場合は辛口となる。スペインの[[シェリー (ワイン)|シェリー]]、[[ポルトガル]]の[[ポートワイン]]や[[マデイラ・ワイン|マデイラ]]などが代表的。日本の酒税法では[[甘味果実酒]]にあたる。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enoteca.co.jp/article/archives/17170/|title=酒精強化ワインってどんなお酒?|accessdate=2021-01-13|publisher=ENOTECA}}</ref>
; 貴腐ワイン
: [[貴腐|貴腐ワイン]]は、[[ボトリティス菌]](ボトリティス・シネレア、''Botrytis cinerea'')というカビの一種(貴腐菌と呼ばれることもある)がついたブドウから作ったワインのことを指す。貴腐菌により果皮に無数の穴が開き、そこから余分な水分が蒸発して糖度が上がり、非常に甘いワインとなる。また菌による代謝を受けるため組成成分が変化し、貴腐香と呼ばれる独特の香りを持つ。食後酒やデザートワインとして珍重される。フランスの[[ソーテルヌ (ワイン)|ソーテルヌ]]や[[ハンガリー]]の[[トカイワイン|トカイ]]が特に有名である。[[オーストリア]]の「ノイジードラーゼー」や、ドイツの「ベーレンアウスレーゼ」「トロッケンベーレンアウスレーゼ」も貴腐ワインとなる。
; [[アイスワイン]]
: アイスワインは、樹上で凍ったブドウから生産されるワインである。水分は凍るが糖やその他の固体成分は凍らないため果汁が濃縮され、非常に甘いワインとなる。自然に濃縮された果汁を発酵させる点は貴腐ワインと同じだが、アイスワインはボトリティス菌の影響は受けていないため貴腐香は持たない。
: アイスワインの誕生はドイツの[[フランケン地方]]であった。ブドウ畑が予想していない寒波に襲われ、ブドウが凍ってしまった。諦めきれなかった農民たちは、凍ってしまったブドウでワインを造ったところ、とても糖度が高く美味しいワインとなっていた。この偶然からアイスワインが作られるようになった。当時は非常に貴重で高価だったため[[貴族]]の飲み物であった。
: アイスワインとして最も有名なものはドイツのアイスヴァイン([[:de:Eiswein|Eiswein]])である。[[カナダ]]や[[オーストリア]]でも造られている。世界最大のアイスワイン生産国は安定した寒さが得られるカナダであり、本家ドイツを上回る高い評価を受けている。また、[[ナイアガラ地域|ナイアガラ地方]]にはアイスワインの生産で世界最大のワイナリーが存在する。日本ではアイスワインを定義する法律がないために[[フルーツワイン]]をアイスワインと称して販売しても違法ではないが、カナダ、ドイツ、オーストリアにおいてはアイスワインと名乗るためには、原料、収穫方法、温度などの厳格な基準を満たす必要がある。ドイツでは、アイスヴァイン用ブドウでとれる果汁は一房からティースプーン1杯である。[[地球温暖化]]に伴いブドウが凍結しにくくなり、2019年ヴィンテージでは史上初めて収穫できなかった<ref>【ご当地Price】ドイツ「アイスワイン」4100円 温暖化で不作、希少価値さらに『日経MJ』2020年4月6日(アジア・グローバル面)</ref>。
; 氷結ワイン
: 氷結ワインは、[[冷蔵庫]]を用いて人工的にブドウを凍らせ、アイスワインと同様に水分を除いて濃縮された果汁を醸造するワインである。非常に甘い濃厚なワインとなる。
; [[ヴァン・ド・パイユ|麦わらワイン(干しぶどうワイン)]]
: 麦わらワインまたは干しぶどうワインとは、収穫後に麦の[[藁]]やそれで編んだ[[筵]]の上で乾燥させて糖度を高めた葡萄から作られるワインのことを指す。貴腐ワインやアイスワインと同様に濃厚な甘口ワインとなるが、特徴的な[[レーズン|干しぶどう]]、あるいは[[アンズ]]や[[紅茶]]を思わせる風味を持つ<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/108489?page=1 レーズンでワイン?アンズの香り漂う「麦わらワイン」]『[[週刊朝日]]』2015年10月23日号(2018年10月27日閲覧)。</ref>。麦わらワインは、フランスでは「[[ヴァン・ド・パイユ]]」、イタリアでは「パシート」、オーストリアでは「シュトローヴァイン」などと呼ばれている。ドイツでは1971年のワイン法改正でシュトローヴァインの製造が禁じられたが<ref name="KA">{{Cite news|title=Ein Wein, der nicht sein darf |url=https://www.ksta.de/redaktion/ein-wein-der-nicht-sein-darf-259083 |newspaper=[[ケルン市アンツァイガー|Kölner Stadt-Anzeiger]] |date=2005-2-28 |accessdate=2023-6-13 |language=ドイツ語}}</ref><ref name="Harpers">{{Cite web|url=https://harpers.co.uk/news/fullstory.php/aid/5357/Strohwein_returns_to_Mosel.html |title=Strohwein returns to Mosel |website=[[:en:Harpers Wine & Spirit|Harpers Wine & Spirit]] |date=2008-7-23 |language=英語 |accessdate=2023-6-13}}</ref>、ドイツのワイン醸造家が規制緩和を求める訴訟を起こし{{R|KA}}、2008年にシュトローヴァインの製造許可を勝ち取った{{R|Harpers}}。
; にごりワイン
: にごりワインとは、発酵途中の、甘さが残った[[もろみ]]を濾過をしない状態で瓶詰めしたもの。瓶中に残る果実繊維や酵母、[[酒石酸]]などによりアルコール感を低減させ、ワインが苦手でも美味しく楽しめる味わいが特徴である。特に秋の新酒の時期に楽しまれている。{{いつ範囲|最近では|date=2020年8月}}ブドウに限らず[[梅]]や[[ブルーベリー]]などブドウ以外のフルーツ原料を使うものも増えている。
; シュール・リー
: 白ワインで澱引きをせずに熟成させたもの。フランスの[[ロワール川]][[河口]]地域に古くから伝わる方法。日本では、5か月以上の接触を必要とし、かつ6月30日までに瓶詰めされたものと規定している<ref>http://www.winery.or.jp/ass/kizyun.pdf ワイン表示問題検討協議会『国産果実酒の表示に関する基準』日本ワイナリー協会</ref>。6月30日という期日は夏期の高温による品質劣化を防ぐために定められている。
; フレーバードワイン
: [[フレーバードワイン]]は、普通のワインにブドウ以外の果実、果汁、[[ハーブ|香草]]、[[薬草]]などを加え、香りをつけたものである。[[カクテル]]の[[マティーニ]]の材料としても使用される[[ベルモット]]や、[[サングリア]]などが知られる。
; ビオ・ワイン
: ビオ・ワインという場合、[[有機農法]]で育てられたブドウを原料とし、酸化防止剤を無添加、もしくは最小限の使用に抑えたビオロジック・ワインをさす。またその一部の[[バイオダイナミック農法]]で育てられたブドウを原料としたビオディナミ・ワインを指す場合もある。さらに野生酵母を用い、[[補糖]]や補酸を行わない、無濾過、無清澄、無着色などの様々な条件を満たして少量生産される。
: 需要の増加により、有機農法によるブドウ栽培面積も増加傾向にあり、2022年時点で世界の6.2%を占めている<ref name=":1" />。
== 産地 ==
{| class="wikitable" style="float:right; clear:right; text-align:right;"
|+'''国別のワイン生産量(2005年)'''<ref>[http://faostat.fao.org/site/567/DesktopDefault.aspx 生産統計(2005年)] [[国際連合食糧農業機関]] (FAO) 同年の世界総生産量は291万6000トンであった。</ref>
! 順位 !! 国<br /><small>(各国のワイン記事へ)</small> !! 生産量<br /><small>([[トン]])</small>
|-
| 1
| style="text-align:left;" | {{flagicon|FRA}} [[フランスワイン|フランス]]
| 5,329,449
|-
| 2
| style="text-align:left;" | {{flagicon|ITA}} [[イタリアワイン|イタリア]]
| 5,056,648
|-
| 3
| style="text-align:left;" | {{flagicon|ESP}} [[スペインワイン|スペイン]]
| 3,934,140
|-
| 4
| style="text-align:left;" | {{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国のワイン|アメリカ合衆国]]
| 2,232,000
|-
| 5
| style="text-align:left;" | {{flagicon|ARG}} [[アルゼンチンワイン|アルゼンチン]]
| 1,564,000
|-
| 6
| style="text-align:left;" | {{flagicon|CHN}} [[中国ワイン|中華人民共和国]]
| 1,300,000
|-
| 7
| style="text-align:left;" | {{flagicon|AUS}} [[オーストラリアワイン|オーストラリア]]
| 1,274,000
|-
| 8
| style="text-align:left;" | {{flagicon|RSA}} [[南アフリカワイン|南アフリカ共和国]]
| 1,157,895
|-
| 9
| style="text-align:left;" | {{flagicon|GER}} [[ドイツワイン|ドイツ]]
| 1,014,700
|-
| 10
| style="text-align:left;" | {{flagicon|CHI}} [[チリワイン|チリ]]
| 788,551
|-
| 11
| style="text-align:left;" | {{flagicon|POR}} [[ポルトガルワイン|ポルトガル]]
| 576,500
|-
| 12
| style="text-align:left;" | {{flagicon|ROU}} [[ルーマニアワイン|ルーマニア]]
| 575,000
|}
<!-- 生産と消費は節を分けた方がよい -->
ヨーロッパ周辺地域においては歴史上古くからワイン造りが行われている。代表的な産地はフランス、イタリア、スペインなどであり、名だたる高級ワインを生産している。近代以降になってワイン造りが始まった地域は「[[新世界|ニューワールド]]」と呼ばれる。安定した気候や企業的経営を背景に、一般消費者でも手軽に買い求められるワインを生産している。{{いつ範囲|近年では|date=2020年8月}}ニューワールドワインの品質向上も目覚しく、ヨーロッパの名醸ワインをしのぐ品質のワインも出てきている。
2007年ごろからは「ブランドにこだわらなければどこの国のものも同じ」とニューワールド物に流れる傾向が強まり、ワインが売れずに廃棄されたり、フランスでは一部の零細ワイナリーが廃業したりする事態になってきている<ref>NHK[[クローズアップ現代]][http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2483&ct=EU 第2483回「フランス ワイン危機」]{{リンク切れ|date=2020年8月}}[[日本放送協会|NHK]]</ref>。またフランスでは温暖化によりブドウが影響を受け、従来の味を保つのが難しい地域も出ている<ref name=":0" />。
[[ファイル:Wine consumption world map.png|thumb|right|350px|各国の1人あたり年間ワイン消費量]]
=== ヨーロッパ周辺地域 ===
; [[フランスワイン]]
: フランスでは、多かれ少なかれほぼ全土で様々なワインが生産されている。その最上のものは今なお世界の規範とされる。1935年にAOC法を制定し、国を挙げて品質の維持・向上に取り組んでいる。
; [[イタリアワイン]]
: イタリアでは、恵まれた気候のもと国土全域で多彩なワインが生産され、生産量・海外輸出量でフランスと毎年一位を争っている。[[ピエモンテ]]、[[ヴェネト]]、[[トスカーナ]]など[[北イタリア]]諸州の名醸地が特に知られる。{{いつ範囲|近年では|date=2020年8月}}、量から質への転換が図られている。
; [[ドイツワイン]]
: ドイツはその地理的要件から、ブドウの栽培が南部の地方に限られる。この地はブドウの生育できる北限とされ、主に西部の[[ライン川]]や[[モーゼル川]]の支流沿いでワインが生産されている。南部のバーデン・ヴュルテンブルク州からバイエルン州にかけて、さらに旧東ドイツの南部にも産地がある。ドイツワイン全体では白ワインが主流ながら、赤ワインも生産されている。冬季、時に[[クリスマス]]には[[シナモン]]など[[香辛料|スパイス]]を利かせた[[ホットワイン]]「[[グリューワイン]]」が飲まれる。
; [[ルクセンブルクワイン]]
: モーゼル川流域は古代ローマ時代からワイン生産が盛んな地域で、良質な辛口の白ワインを産出することで知られているが、[[ルクセンブルク]]は同川流域に位置する他国(ドイツやフランスなど)のワイン生産地とは異なっている。国内生産量は年に1万5,000キロリットルと小規模であるため、輸出されることは少なく希少性が高い(一般的に[[モーゼルワイン]]と言えばドイツ産が有名)。ブドウの主要品種は[[リースリング]]や[[ゲヴュルツトラミネール]]、[[ピノ・グリ]]などがある。
; [[イギリスワイン]]
: [[イギリス]]は[[ウィスキー]]や[[ビール]]の生産量がはるかに多いものの、[[ウェールズ]]地方では少量のワインが生産されている。また温暖化の影響により、[[イングランド]]全土でワインの生産が可能になり、特に[[発泡ワイン]]は[[連合王国|UK]]ワインとして広まり始めている。
; [[スペインワイン]]
: スペインはフランス、イタリアに次ぐワイン生産国である。北部の[[ラ・リオハ州 (スペイン)|ラ・リオハ地方]]および[[カタルーニャ州|カタルーニャ地方]]、中部の[[ラ・マンチャ地方]]、南部の[[アンダルシア州|アンダルシア地方]]が有名な産地である。
; [[ポルトガルワイン]]
: ポルトガルでは、北部の[[:en:Dão DOC|ダン地方]]、[[ヴィニョ・ヴェルデ]]地方および[[アルト・ドウロ・ワイン生産地域|アルト・ドウロ]]地方が有名な産地である。ポルトガル北部では独特の酒精強化ワインである[[ポートワイン]]が生産される。本土ではないが、[[大西洋]]上のポルトガル領[[マデイラ諸島]]においても独自の酒精強化ワイン([[マデイラ・ワイン]])が生産され、島の主要輸出品目となっている。
; [[オーストリアワイン]]
: オーストリアがドイツ語圏であることから、そのワインもドイツに似た甘味のあるものが主体と考えられがちであるが、実際には貴腐ワインやアイスワインといったごく一部を除き、ほとんどが辛口である。[[ヴァッハオ]]、[[クレムスタール]]、[[カンプタール]]を擁する[[ニーダーエステライヒ州|ニーダーエスタライヒ]]やノイジードラーゼー周辺とその南部の[[ブルゲンラント州|ブルゲンラント]]、さらに南の[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]といった地方が比較的有名である。1985年に発覚した「[[ジエチレングリコール]]混入事件」を機に、輸出市場は一度壊滅的打撃を受けたが、以来世界一とも評される厳密な規制が設けられたため、品質が急激に向上した。日本への輸出も{{いつから範囲|ここ数年|date=2020年8月}}大きく拡大している。栽培面積の3分の1を占める[[グリューナー・フェルトリナー]]種で名高いが、質的にはリースリングも重要。また、{{いつ範囲|最近では|date=2020年8月}}赤ワインの醸造水準の向上も目覚ましい。
; [[ハンガリーワイン]]
: ハンガリーは[[ブルゲンラント]]、[[ショプロン]]、[[ヴィッラーニ]]など有名な産地を抱えて有名で、中でも[[トカイ]]の[[トカイワイン]]は著名な貴腐ワインの一つに数えられ、世界的に有名である。
; [[モルドバワイン]]
: [[モルドバ]]は古くからブドウが自生していた地域の一つで、4000年から5000年前には既にブドウの収穫およびワインの製造が行われていた模様である。地理的かつ歴史的理由から、主に[[ロシア帝国]]ないしは[[ソヴィエト連邦]]において消費をされており、ソヴィエト連邦時代に市場に出回っていたワインのおよそ7割がモルドバ産だった。[[ソビエト連邦の崩壊]]に伴う独立後、少しずつ西側市場やヨーロッパ外の国々へ出回り始めている。土壌や趣向の違いから独特の風味を持っている。
; [[北アフリカ]]
: 古代よりローマ文明の影響下にあった[[エジプト]]では、ビールとともにワインは古くから作られてきた。また、近代において長くフランスの植民地であった[[モロッコ]]や[[アルジェリア]]、[[チュニジア]]などは飲酒を禁じるイスラム圏であるが、[[地中海性気候]]を利用してブドウを栽培し、ワインを生産している。
=== ニューワールド ===
[[ファイル:Lightmatter napa valley.jpg|thumb|right|300px|ナパ・バレーのワイナリー]]
; アメリカ合衆国
: (詳細は「[[アメリカ合衆国のワイン]]」参照)
: [[アメリカ合衆国]]は世界第4位のワイン生産国である。生産量の9割を[[カリフォルニア州]]が占める。[[サンフランシスコ]]を中心とする北部太平洋沿岸地域は、ヨーロッパの名醸地と似た気温で知名度の高い産地が多く、ナパ・バレー地域を中心として、[[シャルドネ (ブドウ)|シャルドネ]]、[[カベルネ・ソーヴィニヨン]]、[[ピノ・ノワール]]などの品種が栽培され、高級ワインを産出する。
; カナダ
: カナダでは主に[[オンタリオ州]]の[[ナイアガラ地域|ナイアガラ地方]]と[[ブリティッシュコロンビア州]]の[[オカナガン地方]]や[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]]周辺でワインが生産されている。品質管理のためにフランスやイタリアの原産地呼称管理制度を模して、[[ワイン卸商品質同盟]]([[VQA]])が導入されている。[[アイスワイン]]最大の生産国である。
; [[アルゼンチンワイン]]
: [[南米]][[アルゼンチン]]では上質なワインのほとんどが、[[メンドーサ州]]の高地で生産される。かつてはワインの国内消費量において世界有数であったが、一方で質はそれほど高いものとはいえなかった。他の飲料に押されて国内での消費が低調となり、それが生産者側の品質への関心を高めることとなった。また、ヨーロッパのブドウ畑の飽和状態から、不足を補おうと外資が参入したこともあって、国際競争力に耐える優良なワインが生産されるようになった。独特の強い香りを持つものが多く、固定ファンも増えている。
; [[チリワイン]]
: [[チリ]]は南米を代表するワイン生産国であり、19世紀に[[ヨーロッパブドウ]]のヴィニフェラ種([[w:Vitis vinifera|Vitis vinifera]])が持ち込まれたのが始まりと言われている。首都[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]の南で主にブドウが栽培されており、1995年に施行された生産地の法規制によって、マイポ、ラペル、マウレの3つの大きな地域に区分けされた。[[コンチャ・イ・トロ]]、サンタ・リタ、サン・ペドロ、サンタ・カロリーナの4つの特に大きな生産者が知られるほか、フランスのラフィットの[[ロスチャイルド家]]やスペインのミゲル・トーレスなどの海外資本もこの地に畑を有して醸造所を構えている。[[アルパカ]]のラベルで知られるサンタ・ヘレナやコノスルなど、安価でコストパフォーマンスの優れたワインを製造している企業もある。ボルドーで繁殖しなかったカルメネール種がよく育つ環境のため、これがチリワインの楽しみ方の一つとなっている。さらに日本とチリは[[自由貿易協定|FTA]]を結んでいるため、安価で流通している。
; 南アフリカ
: [[南アフリカ共和国]]では、新世界としては比較的古く17世紀の半ばからワインの生産が行われてきた。長く続いた[[アパルトヘイト]]の影響もあり、この国のワインが国外に出ることは少なかったが、この差別制度が撤廃されて以降、徐々にその名が知られつつある。気候の関係から、[[アフリカ大陸]]最南端に近い[[喜望峰]]周辺でブドウの栽培が行われている(詳しくは「[[南アフリカ共和国のワイン]]」参照)。
; オーストラリア
: オーストラリアは世界でも有数のワイン生産国であり、その多くを海外へ輸出している。ブドウ畑は多くが比較的冷涼な大陸南部の沿岸に位置し、降水量が少ないことから[[灌漑]]が普及している。[[南オーストラリア州]]でオーストラリア全体の半分が生産されるほか、[[ビクトリア州]]、[[ニュー・サウス・ウェールズ州]]、[[西オーストラリア州]]や[[タスマニア州]]もワインの重要な産地を多数有する。著名な産地としては、南オーストラリア州にあるオーストラリア最大の産地リヴァーランド、ほかにバロッサ・ヴァレー、クナワ、ビクトリア州のヤラ・バレーが挙げられる。最も代表的なブドウの品種はシラーズである。
; [[ニュージーランド]]
: 新興国の中で唯一寒冷な気候で昼夜の気温差が激しく、赤ワインよりも白ワインの生産量が多いのが特徴。一時はワインに水を加えたり砂糖を加えたりした粗悪品を生産していたが、政府主導でブドウ栽培規模を縮小することで品質を高め、ソーヴィニヨン・ブランの成功でニュージーランドワインの評価が世界的に高まった。その後、ピノ・ノワールの栽培にも成功し、ヴァラエタルワインを中心に全体のワイン品質が大きな成長を遂げている。また、ニュージーランドではスクリューキャップの導入が進んでおり、今後生産されるワインのほとんどがスクリューキャップを採用する{{独自研究範囲|と考えられる|date=2020年8月}}。
; 中国
: 『[[史記]]』によると、中国の葡萄の栽培とワインの製造は、[[漢]]の時代から既に始まっていた。しかし、現代で製造されているものと、全くルーツの違うものである。[[中華人民共和国|中国]]では[[山東省]]や[[雲南省]]の[[紅河ハニ族イ族自治州]][[弥勒市]]がワイン生産の中心である<ref>{{Cite web|和書|title=ロブションも認めた 世界水準の中国ワイン|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFK031930T01C21A0000000/|website=日本経済新聞|date=2021-10-31|accessdate=2021-11-01|language=ja}}</ref>。20世紀初め、ここに入ったフランス人[[宣教師]]が故郷に似た[[カルスト]]の地形にブドウの栽培を試み、成功させた。ベトナム統治時代のフランス([[フランス領インドシナ]])が、鉄道による中国との直結を機に、この温暖で安定した気候の地をブドウ栽培とワイン醸造の地とし、フランス本国より木樽と技術指導者を入れ本格的に生産を開始した。「ローズ・ハニー」という珍種はフランス本国では虫害で絶滅してしまった品種で、[[黒酢]]の醸造からヒントを得て甕による熟成を特徴とする。
=== 新緯度帯ワイン・熱帯ワイン ===
ワイン用ブドウの栽培適地は[[緯度]]が30°から50°とされているが、それを越えて広がってきた<ref>「新緯度帯」ワインに注目『[[読売新聞]]』2012年9月25日朝刊11面・高橋直彦記者</ref>。ワイン産地の[[北半球]]における北進([[南半球]]では南進)は[[地球温暖化]]における気温上昇が影響しているとみられる<ref name=":0" />。[[リースリング]]ワインは[[北欧]][[ノルウェー]]で製造されるようになっているほか、北米大陸では[[カナダ]]東部[[ノバスコシア州]]で[[スパークリングワイン]]が生産されている。従来産地でもブドウが熟しやすくなり、[[シャンパン]]で知られる[[シャンパーニュ地方]]で非発泡のスティルワインの品質が向上するといった変化が起きている<ref>ジャンシス・ロビンソン【ワインリポート】温暖化が生む「泡なしシャンパン」『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年7月11日19面</ref>。
* 新緯度帯ワイン - 英国首都[[ロンドン]]近郊([[イギリス王室|英王室]]の結婚式にスパークリングワインが出された)、[[オランダ]]、北欧
* 熱帯ワイン - [[タイ王国]]、[[インド]]、[[ベトナム]]
=== その他のワイン生産国 ===
[[ルーマニア]]、旧[[ユーゴスラビア]]諸国、[[ブルガリア]]、[[ロシア]]、[[ギリシア]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]、[[アゼルバイジャン]]、[[アルメニア]]、[[トルコ]]、[[ウズベキスタン]]、[[ヨルダン]]、[[イスラエル]]、[[パレスチナ]]地域、[[レバノン]]、[[キプロス]]などでワイン生産が行われている。また、ほんのわずかではあるが、[[アイルランド]]南部の一部にもワイナリーが存在するという。[[新大陸]]では、生産量が多いチリ、アルゼンチンのほかに、[[ブラジル]]南部 ([[ブラジルワイン]]の項参照)、[[ボリビア]]、[[ウルグアイ]]などでも比較的規模の大きいワイナリーが存在する。
=== 日本のワイン ===
{{main|日本のワイン}}
日本におけるワイン生産は、[[江戸時代]]初期の[[豊前国|豊前]][[小倉藩]](現在の[[北九州市]]など)に始まる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2017-01/ku-k011617.php|title=日本産ワインは400年前に作られていたことが明らかに|publisher=[[熊本大学]]|accessdate=2017年4月13日| }}</ref>。その後、[[鎖国]]政策の一環で途絶えたあと、再び[[明治]]時代になって[[川上善兵衛|新潟県岩の原]]などで作られるようになる。しかし国産ワインの需要も少なく、各地で細々と作られていただけであった。1980年代頃から本格的なワインに対する消費者の関心も高まり、また純国内栽培による優秀なワインも生産されるようになり、[[勝沼ワイン]]([[山梨県]])ほか国産ワインの知名度が浸透するにつれて、国際的にも評価されるようになってきた。2002年からは山梨県が主導して「国産のぶどうを100パーセント使用して作った日本産ワイン」を対象とするコンペティションも行われるようになり、純国産ワインの品質向上を競うようになってきている。
=== 原産地表示 ===
日本を除く先進国をはじめ、ほとんどのワイン生産国では法律で[[アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ]]が設けられ、原料となる葡萄を収穫した土地をワインの産地として表示することが義務づけられている。また、フランスやイタリアなどの国では、産地によって使用できる葡萄品種、収穫量、製造方法までが定められている場合がある。
かつて日本では、原料産地にかかわらず国内で醸造を行うことで「日本産」の表示が可能であった。このため輸入果汁から生産されたワインが日本産ワインとして少なからず流通してきた。しかし、一部自治体で独自の原産地呼称管理制度が始まり、[[長野県]]の「[[長野県原産地呼称管理制度]]」や、山梨県[[甲州市]]([[勝沼町|勝沼地区]])の「ワイン原産地認証条例」が実施された。
2018年10月30日以降、「日本ワイン」と表示できるのは、国産ブドウを使って国内で醸造されたワインに限られる。産地の地名を表示する場合は、その土地で採れたブドウを85%以上使う必要がある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36683860Z11C18A0L83000/ 日本ワイン表示厳格化「王国」山梨、思い交錯]『日本経済新聞』電子版(2018年10月19日)2018年10月27日閲覧</ref>。
== ワインの飲み方 ==
=== 保存 ===
[[File:Valençay Château de Valençay Innen Cave à Vins 2.jpg|200px|thumb|フランス・{{仮リンク|ヴァランセ城|en|Château de Valençay}}の地下にある歴史的なワインセラー]]
ワインは変化を受けやすい酒であり、保存の際には[[光]]、振動、[[温度]]、[[湿度]]などに気を使う必要がある。保存には「暗く」「振動がなく」「常に12 - 14℃くらいの温度で」「適度な湿度がある」環境に「寝かせて」保存するのがよいとされる。光・振動はともにワインの変化を促進させる。温度については高温であると酸化が進み、逆に低温であると熟成が進まない。湿度が少ないとコルクが収縮して中に空気が入ってしまう。寝かせるのもコルクに適度な湿り気を与えるように、つまり[[スクリューキャップ]]({{lang-en-short|[[w:Screw cap|Screw cap]]}})であれば関係ない。
これらの条件を一番容易に満たすのは地下である。フランスなどでは一般家庭でもワイン保存用の地下室が存在することがある。日本ではそのような地下室はまれであるが、専用の[[ワインセラー]]があれば問題はない。ワインセラーを持たない場合には一般的に[[押入れ]]や[[冷蔵庫]]に保存されるが、押入れは夏場に非常な高温になり、また匂いが移ってしまうためよくなく、また冷蔵庫は「乾燥し」「振動が多く」「冷えすぎ」「食品の匂いが移る」のでよくないとされる。ただ熟成が進まないことを気にしなければ「1、2年ならセラー保存とあまり変わらない」とも言える。<!--特に「振動」については、海外製ワインセラーよりも最近の国産冷蔵庫のほうが静かで少ないという声もある。--><!--振動は開け閉めが頻繁にあるからの話で、機械的な話ではないです。-->一般家庭では長期保存、特に夏を越しての保存は考えないほうがよい。ただしこれらの保存に関する要素は長期保存する場合の話であり、すぐに飲んでしまうならば直射日光や高温(25℃以上)などに長時間曝さない限りはあまり気にする必要はない。
また光や温度以上にワインを変化させてしまうのは空気である。そのため、いったんコルクを抜いてしまったワインは数日中に飲まないと劣化してしまう。どうしても余ってしまった場合はハーフボトルに移して[[食品用ラップフィルム]]などで空気と遮断しておいたり、真空ポンプ式のワインストッパーを使用したりすれば1週間程度は保管できる。またワインによっては、抜栓後すぐでは味や香りが十分に発揮されず、空気に触れさせるために一定時間置いておくことが推奨される場合もある。
=== 開栓 ===
[[アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ|AOC]]ボルドーのついたワインにもスクリューキャップ(ねじ栓)のものが出てきており、ペットボトル、紙容器、缶入りなど、そのまますぐに飲めるワインも多くなった。大半の高級ワインは今でもコルク栓で密封されており、これを抜くための道具が必要である。コルク抜き([[コルクスクリュー]])には、ワインを買うと粗品・景品として提供されるT字型のものから、1本数万円のもの(純金製の、100万円のソムリエナイフが発売されたこともある)まである。また方式も、主なものだけで10種類ほどあり、それぞれ長所と短所がある。家庭用には、ウィング式(つばさ型)が多く用いられている。プロの[[ソムリエ]]も使っている[[ソムリエナイフ]]は、素人でもコルクの中心から垂直に差し込むコツを覚えれば、あまり力をかけずに抜くことができる。
=== デカンタージュ ===
古いボルドーの赤ワインやポートワインは飲む直前に瓶からいったんデカンタに移し替える場合もある。この作業を[[デカンタージュ]]と呼ぶ。デカンタージュを行う理由は、第一にワインの澱を分離すること、第二に飲む前に少し空気に曝した方が風味が引き立つとされることである。ブルゴーニュワインは澱が少ないために普通はデカンタージュをしない。デカンタージュは必要ないという考え方もあり、個人の好みによるところが大きい([[デカンテーション]]参照)。
=== テイスティング ===
[[File:Philippe FAURE-BRAC, meilleur sommelier du monde et Philippe COLONNA, SAVIM.jpg|200px|thumb|ソムリエによるテイスティング]]
まず鑑賞するのは、ワインの外観である。清澄度や濁度、[[ワインの色|色調]]、粘度を観察することで、醸造方法や熟成度合い、また大まかな味わいを予想することができる。その次に香りを鑑賞する。ブドウのみから造られるワインであるが、そこから生まれる多彩な[[#芳香成分|芳香成分]]は、ブドウ以外のあらゆる香りに例えられる。グラスを円を描くように回す「スワリング」は、ワインを空気に触れさせることで香りを引き立てる役割を果たすほか、壁面にワインを付着させることでグラスの中に香りを充満させるために行われる。最後に口に含むことで、[[ワインの酸|酸味]]、[[ワインの糖|甘み]]、渋み(タンニン)、苦み、果実味を感じ、そして飲みこんだ後に口から鼻へと伝わる戻り香、続く余韻を味わう。
なお、[[テーブルワイン]]のような日常消費用に造られたワインでは、以上のような内容を気にすることなくさらりと飲まれることも多く、これもまたワインの正しい飲み方である。
== ワインアクセサリー ==
[[File:0007-sdj2010-PTK 2474 klein.jpg|thumb|right|200px|ワインショップ]]
ワインの開栓や保存、またワインをより楽しく、おいしく飲むための製品をワインアクセサリーと呼んでいる。ヨーロッパでは1000年以上のワイン文化があるだけに、様々なワインアクセサリーが製造・販売されており、中には実用よりも、見たり集めたりして楽しむものもある。{{いつ範囲|近年|date=2020年8月}}、日本でもこれを専門にするショップも出てきている。
=== コルク抜き ===
[[螺旋]]状に巻いた鋼鉄製の針金を差し込んで開けることから、[[コルクスクリュー]]と呼ぶこともある。ワインを買うとおまけにくれるような、差し込んで引き抜くだけのT字型のものから、家庭用のウィング型、ダブルハンドル型、スクリュープル型、瓶とコルクの間にピンセット状の刃を差し込み、ねじりながら抜くもの、空気注入式などさまざまなタイプがある。しかし、{{いつ範囲|現在では|date=2020年8月}}素人でも[[ソムリエナイフ]]を使う人が増えてきた。
=== ワイングラス ===
{{Main|ワイングラス}}
ワインを飲むための食器としては、{{いつ範囲|近年では|date=2020年8月}}[[ガラス]]製の無色透明のいわゆる[[ワイングラス]]がよく使用される。ただし、その容量や形状は目的などに合わせて様々である。また、ガラス以外の素材で作られたものも存在する。なお、過去には[[鉛]]製のものが広く使用された時期もあった。[[鉛]]製のものはワインの中に含まれる有機酸との反応で鉛が溶け出すが、[[酢酸鉛]]は甘味が感じられることもあり、鉛製のもので飲むワインが好まれたことがあったことで知られている。ただし、この飲み方は[[鉛中毒]]を引き起こす。
=== ワインセラー ===
ワインを恒温で保存しておくために作られたワイン専用の冷蔵庫。家庭用の数本用の小型のものから、大型の数十本入るものまである。温度・湿度の設定が可能、1機種で2種類の温度管理ができるものもある。英語ではワインクーラー(wine cooler)などと呼び、ワインセラーは通常ワイン貯蔵室のことを指す。
=== ワインラック ===
ワインセラーと同じように、ワインを寝かせて保存しておくための棚または箱状の家具。温度調節機能はなく、ただ置いておくだけのものである。欧米では、地下の貯蔵室用に、数百本から1000本以上を並べられる大型のラックが売られているが、日本ではまだあまり出回っていない。
=== デキャンター ===
[[デカンテーション]](上記「[[デカンタージュ]]」参照)をするためのガラス製の容器で、ワインのボトルとほぼ同じ容量のものが多い。凸レンズに首が搗いたようないかにもそれらしい形のものから[[紡錘]]形、[[フラスコ]]型など様々な形のデキャンターがある。{{seealso|デカンテーション}}
=== ワインストッパー ===
飲み残したワインのボトルに被せておく栓。開栓時にコルクを割ってしまったときはもちろん、抜いたコルクを差し込んでおくだけでは無粋だという人も用いている。発泡性ワインの気が抜けないように作られた通称でシャンペンストッパーと呼ばれるものもある。また、主に手動の空気ポンプと専用の栓を用いて、ビン内の空気を空気ポンプで吸出し減圧してワインの酸化を遅らせたり、発泡性ワインでは逆に空気をポンプで入れ込み加圧することによって気の抜けを防いだりするワインストッパーも普及している。
== ワイン文化 ==
=== 神話 ===
[[ギリシャ神話]]における[[ディオニュソス]]、[[ローマ神話]]における[[バックス (ローマ神話)|バックス]]が葡萄酒の神とされる。ディオニュソスは、近代においても、[[ニーチェ]]の『[[悲劇の誕生]]』などにより、重要な概念となった。
=== 宗教上の利用 ===
[[File:US Navy 100912-M-2275H-196 A command chaplain holds church services aboard USS Kearsarge.jpg|thumb|right|170px|[[聖杯]]にワインを注ぐ[[チャプレン]]]]
[[キリスト教]]においては、[[救世主イエス・キリスト|キリスト]]が[[主の晩餐]]と呼ばれる晩餐においてワインを使ったことから、[[正教会]]の[[聖体礼儀]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[ミサ]]、[[聖公会]]・[[プロテスタント]]の[[聖餐式]]においてワインが用いられる。正教会では赤ワインの使用を定めているが、[[西方教会]]では赤ワインと白ワインのいずれであるかを問わない教派が多い<ref>[http://yagitani.jpn.cx/kurihon/kurihon18.htm 教派いろいろ対照表] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100819115129/http://yagitani.jpn.cx/kurihon/kurihon18.htm |date=2010年8月19日 }}</ref>。
他方、[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]・教会によっては、[[アルコール依存症]]を治療している信者や未成年信者への配慮や、アルコールの摂取を禁止する戒律などの理由から、[[ぶどうジュース]]や、煮沸してアルコールを飛ばしたワインを用いる場合もある。
古代においては、冬ごとに刈り込まれて春に芽吹き、秋には再び実をつけるブドウの樹は復活の象徴とみなされていた<ref>『ワインの文化史』p.44</ref>。
=== ソムリエ ===
{{Main|ソムリエ}}
ワインが娯楽や趣味の対象として王侯貴族にも好まれるようになると、やがてワインの品質や管理に関しての専門的知識をもつ人材が求められるようになった。このような経緯から生まれた、ワイン専門の給仕人を「ソムリエ」と呼ぶ。
=== ペアリング ===
{{Main|ワインと食品のマッチング}}
ワインはそれ単体で楽しまれるだけでなく、料理との相性も重要視されている。この「ワインと料理の組み合わせ」のことを「ペアリング」と呼ぶ。また、ワインと料理の組み合わせから生まれる相乗効果を「マリアージュ」と表現することもある。
=== ワインツーリズム ===
ワインツーリズムとは、欧米では盛んな旅のスタイルの一つである。ワインの産地を回りながら、時には作り手との交流を交え、ワインの造られた郷土の料理やワインを楽しむ。欧米では日帰りや宿泊のプランが用意されており、国や現地の法人が積極的に取り組んでいる。日本でも山梨県で行われている<ref>[http://www.yamanashi-kankou.jp/special/special2.html ワインツーリズムとは??]富士の国やまなし観光ネット(2018年10月27日閲覧)</ref>。
:
{{seealso|[[:en:Enotourism]]}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2023-3}}
* ジルベール・ガリエ(著)、八木尚子(訳)『ワインの文化史』[[筑摩書房]]、2004年、ISBN 4-480-85776-1
* ヒュー・ジョンソン、ジャンシス・ロビンソン(共著)、有坂芙美子 他(訳)『地図で見る世界のワイン』産調出版、2002年、ISBN 4-88282-293-8
* ロジェ・ディオン(著)、福田育弘 他(訳)『フランスワイン文化史全書 ― ぶどう畑とワインの歴史』[[国書刊行会]]、2001年、ISBN 4-336-04257-8
* ロバート・パーカー(著)、貝塚泉 他(編集)『ロバート・パーカーが選ぶ[最新版]世界の極上ワイン』[[河出書房新社]]、2006年、ISBN 4-309-26922-2
* [[堀賢一]]『ワインの自由』[[集英社]]、1998年、ISBN 4-08-780286-8
* 堀賢一『ワインの個性』[[SBクリエイティブ|ソフトバンク クリエイティブ]]、2007年、ISBN 4-7973-3885-7
* ジャンシス・ロビンソン 『ジャンシス・ロビンソンの世界一ブリリアントなワイン講座〈上〉ワインの基礎知識』集英社文庫、1999年、ISBN 4-08-760367-9、同『〈下〉世界のワイン』[[集英社文庫]]、1999年、ISBN 4-08-760368-7
* ワイン学編集委員会(編集)『ワイン学』産業調査会、1991年、ISBN 4-88282-102-8 -「ブドウ栽培」「醸造」「味わい方」「サービスの仕方」までを網羅
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{wikiquote|ワイン}}
{{Commons&cat|Wine|Wine}}
{{Commonscat|Winebottles|ワインボトル}}
* {{仮リンク|国際ブドウ栽培・ワイン醸造機構|fr|Organisation internationale de la vigne et du vin|ru|Международная организация виноградарства и виноделия}} - ブドウ栽培とワイン製造の技術および科学的側面を取り扱う[[政府間組織]]。略称は'''OIV'''
* {{仮リンク|ワインメーカー|en|Winemaker}} - [[ワイン醸造]]に従事する存在あるいはその作業を生業とする[[業者]]を指す名称。 <br> 一般的にはワイナリーやワインの取扱企業に[[雇用]]されている人物が該当する
* [[ソムリエ]]
* [[テロワール]]
* [[ブランデー]]
* [[ポマース・ブランデー#マール|マール]]
* [[グラッパ]] - ワインの搾り粕を蒸留したイタリア産[[粕取]]ブランデー
* [[シードル]]
* [[ライスワイン]]
* [[フルーツワイン]] - 様々な[[果実]]類から製造されたワインで、[[果物]]・[[花]]および[[ハーブ]]から採取された[[フレーバー]]が添加されたものが存在する。
* [[スペインワイン]]
* [[チラミン]] - 赤ワインに含まれる[[血管浮腫]]物質。
* [[ムルスム]]([[:it:Mulsum|it]])
* [[ワイン娘]]
* {{仮リンク|ワイン醸造学|en|Oenology}}
* [[鉄系超伝導物質]] - 酒類で煮ると超伝導物質になる化合物があり、最も有効なのが赤ワインである。
* [[ジャグワイン]]({{lang-en-short|[[w:Jug wine|Jug wine]]}})
* [[ポリフェノール]]
== 外部リンク ==
* [https://www.winery.or.jp/ 日本ワイナリー協会]
* [https://www.pref.yamanashi.jp/yitc/wine.html 山梨県産業技術センターワイン技術部(ワインセンター)]
* {{Kotobank}}
{{ワイン|state=uncollapsed}}
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ドラヴィダ人
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ドラヴィダ人(ドラヴィダじん、Dravidian)は、ドラヴィダ語族の言語(タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語、トゥル語、トーダ語(英語版)、コータ語(英語版)などの言語)を母語として使用する民族の総称。
現在では主に、インド特に南インド四州すなわちタミル・ナードゥ州、ケーララ州、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州を中心として居住し、バングラデシュ、マレーシア、シンガポール、モルディブ、マダガスカル、セーシェルなどにも居住している。
インダス文明はドラヴィダ人によるものだとされている。これは同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字により記された言語が、マヤ文字で有名であるユーリ・クノロゾフらソ連の研究者によってドラヴィダ語族の言語である可能性が高いことが指摘されたからである。
これをきっかけにインダス文字の研究では、Iravatham Mahadevanがドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の言語)を提唱し、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対していた。これらの対立にはドラヴィダ運動(英語版)の政治的な側面からの影響もあった。
現在に至るまで多くの研究がなされているが、インダス文明の言語がドラヴィダ語に最も近かったことはほぼ確実である。
インダス文明では早い時期に農耕・牧畜を始めていたと考えられているが、アーリア人の移動が始まった後は、一部は南下し、一部は同化していった。
ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長い、ウェーブがかった髪などの特徴がある。
ドラヴィダ人のY染色体ハプログループは他のインドの民族同様、様々なタイプがみられ、民族の定義に用いられるドラヴィダ系言語がどの系統に由来するかは現段階において不明である。
インドのドラヴィダ人では多い順にH:32.9%、O:13.6%、L:11.6%、R1a:11.0%、J:10.5%となっている。
サンスクリット文学が入る前から存在した独自のサンガム文学・タミル文学(英語版)を保持し、ムルガン神信仰(後にスカンダや韋駄天に発展したといわれる)などの宗教や建築、音楽、道徳観、食生活などでも独自のものを持っている、という文化的な側面が挙げられる。 このような様々な側面が複雑に重なり合い繋がっているのが、ドラヴィダ人という概念である。また、タミル人という概念があり、主にタミル・ナードゥ州出身でタミル語を母語としその文化を担う人々を指すが、タミル(தமிழ்;Tamil)という語はドラヴィダ(திராவிட;サンスクリット語 द्रविड, द्रमिल, द्राविड;Dravida)という語と語源が関係している可能性が高い。このことから、タミル人をドラヴィダ人の代表、あるいはドラヴィダ人そのものと考える傾向が、タミル・ナードゥ州を中心に展開している政治運動であるドラヴィダ運動(英語版)などにおいて見られる。
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ドラヴィダ人(ドラヴィダじん、Dravidian)は、ドラヴィダ語族の言語(タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語、トゥル語、トーダ語、コータ語などの言語)を母語として使用する民族の総称。 現在では主に、インド特に南インド四州すなわちタミル・ナードゥ州、ケーララ州、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州を中心として居住し、バングラデシュ、マレーシア、シンガポール、モルディブ、マダガスカル、セーシェルなどにも居住している。
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{{出典の明記|date=2010年5月}}
[[ファイル:பாசம்.jpg|代替文=|サムネイル|270x270ピクセル]]
[[ファイル:Dravidian subgroups.png|代替文=|サムネイル|255x255ピクセル|ドラヴィダ語の話者の分布図<br />(2007年)]]
[[ファイル:சக்திகுமார் லெட்சுமணன்.jpg|サムネイル|186x186ピクセル]]
[[画像:MPP-Dra1.jpg|thumb|150px]]
'''ドラヴィダ人'''(ドラヴィダじん、Dravidian)は、[[ドラヴィダ語族]]の言語([[タミル語]]、[[テルグ語]]、[[カンナダ語]]、[[マラヤーラム語]]、[[トゥル語]]、{{仮リンク|トーダ語|en|Toda language}}、{{仮リンク|コータ語|en|Kota language (India)}}などの言語)を母語として使用する民族の総称。
現在では主に、[[インド]]特に[[南インド]]四州すなわち[[タミル・ナードゥ州]]、[[ケーララ州]]、[[アーンドラ・プラデーシュ州]]、[[カルナータカ州]]を中心として居住し、[[バングラデシュ]]、[[マレーシア]]、[[シンガポール]]、[[モルディブ]]、[[マダガスカル]]、[[セーシェル]]などにも居住している。
==起源==
[[インダス文明]]はドラヴィダ人によるものだとされている。これは同文明の遺跡から発見された未解読の[[インダス文字]]により記された言語が、[[マヤ文字]]で有名である[[ユーリ・クノロゾフ]]らソ連の研究者によって[[ドラヴィダ語族]]の言語である可能性が高いことが指摘されたからである。
これをきっかけにインダス文字の研究では、[[:en:Iravatham Mahadevan|Iravatham Mahadevan]]がドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドの[[ドラヴィダ語|ドラヴィダ]]系の言語)を提唱し、[[:en:Shikaripura Ranganatha Rao|Shikaripura Ranganatha Rao]]はドラヴィダ語仮説に反対していた。これらの対立には{{仮リンク|自己崇拝運動|en|Self-Respect Movement|label=ドラヴィダ運動}}の政治的な側面からの影響もあった。
現在に至るまで多くの研究がなされているが<ref>[http://wired.jp/wv/2009/04/24/未解読のインダス文字を、人工知能で解析/ 未解読のインダス文字を、人工知能で解析] (WIRED.jp)</ref>、インダス文明の言語がドラヴィダ語に最も近かったことはほぼ確実である。
インダス文明では早い時期に農耕・牧畜を始めていたと考えられているが、[[アーリア人]]の移動が始まった後は、一部は南下し、一部は同化していった。
==人類学的特徴==
ドラヴィダ人は[[アーリア人]]とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長い、ウェーブがかった髪などの特徴がある。
ドラヴィダ人の[[Y染色体ハプログループ]]は他のインドの民族同様、様々なタイプがみられ、民族の定義に用いられる[[ドラヴィダ語族|ドラヴィダ系言語]]がどの系統に[[父系言語仮説|由来]]するかは現段階において不明である。
インドのドラヴィダ人では多い順に[[ハプログループH (Y染色体)|H]]:32.9%、[[ハプログループO (Y染色体)|O]]:13.6%、[[ハプログループL (Y染色体)|L]]:11.6%、[[ハプログループR1a (Y染色体)|R1a]]:11.0%、[[ハプログループJ (Y染色体)|J]]:10.5%となっている<ref>Sengupta, S; Zhivotovsky, L; King, R; Mehdi, S; Edmonds, C; Chow, C; Lin, A; Mitra, M et al. (2006). "Polarity and Temporality of High-Resolution Y-Chromosome Distributions in India Identify Both Indigenous and Exogenous Expansions and Reveal Minor Genetic Influence of Central Asian Pastoralists". The American Journal of Human Genetics 78 (2): 202–21. {{doi|10.1086/499411}}. {{PMC|1380230}}. {{PMID|16400607}}.</ref>。
==文化==
{{仮リンク|サンスクリット文学|en|Sanskrit literature}}が入る前から存在した独自の[[サンガム文学]]・{{仮リンク|タミル文学|en|Tamil literature}}を保持し、[[ムルガン|ムルガン神]]信仰(後に[[スカンダ]]や[[韋駄天]]に発展したといわれる)などの宗教や建築、音楽、道徳観、食生活などでも独自のものを持っている、という文化的な側面が挙げられる。
このような様々な側面が複雑に重なり合い繋がっているのが、ドラヴィダ人という概念である。また、[[タミル人]]という概念があり、主に[[タミル・ナードゥ州]]出身で[[タミル語]]を母語としその文化を担う人々を指すが、タミル(தமிழ்;Tamil)という語はドラヴィダ(திராவிட;[[サンスクリット語]] द्रविड, द्रमिल, द्राविड;Dravida)という語と語源が関係している可能性が高い。このことから、タミル人をドラヴィダ人の代表、あるいはドラヴィダ人そのものと考える傾向が、[[タミル・ナードゥ州]]を中心に展開している政治運動である{{仮リンク|自己崇拝運動|en|Self-Respect Movement|label=ドラヴィダ運動}}などにおいて見られる。
==略史==
*[[紀元前53000年]]頃、アフリカ東岸から[[インド南西部]]に移住する。 さらに北、東へと広がって行く。
*[[紀元前2600年]]頃、[[インダス川]]流域(現在の[[パキスタン]])にインダス文明を形成する。複数の都市よりなる文明である。
*[[紀元前1800年]]頃から、[[紀元前1500年]]頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。気候の変化が理由だと言われる。
*[[紀元前1500年]]頃から、[[イラン高原]]からアーリア人のインド北西部への移住が始まる。
**北部支派:インド西部の[[オリッサ]]、[[ベンガル地方|ベンガル]]
**中部支派:インド中部の[[マディヤ・プラデーシュ]]
**南部支派:インド南部の[[デカン高原]]
*[[紀元前1300年]]頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、[[階級制度]]の[[カースト制]]を作り出し、アーリア人は司祭階級の[[バラモン|ブラフミン]](バラモン)と、王族・貴族の[[クシャトリヤ]]、一般市民の[[ヴァイシャ]]を独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級の[[シュードラ]]に封じ込められたとされていた。しかし近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が確認された。
*[[紀元前1000年]]頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始まる。アーリア人の認識は人種ではなく、言語や宗教によってなされるようになる。
*現在ドラヴィダ系の人々は[[インド]]全域に居住しているが、古くからの文化を保持する民族は[[南インド]]を中心に居住している。
*メソポタミアのシュメール文明との関連性も指摘されている。[[ドラヴィダ語]]と[[シュメール語]]に共通性が見られるといった議論がインドではなされており、ドラヴィダ人はメソポタミア地方から移住したとの説も存在している。
{{clear}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
{{commons category|Dravidian peoples}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とらういたしん}}
[[category:ドラヴィダ語族|*]]
[[Category:インダス文明]]
[[Category:インドの民族]]
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2003-06-23T06:49:45Z
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2023-12-21T15:06:07Z
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E4%BA%BA
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カースト
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カースト(英語: Caste)とは、ヒンドゥー教における身分制度・ヒエラルキー(ヴァルナとジャーティ、ヴァルナ・ジャーティ制)を指すポルトガル語・英語だが、インドでは、現在も「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼ぶ。本来はヒンドゥーの教えに基づく区分であるが、インドではヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいる。
紀元前13世紀頃に、インド亜大陸の先住民を征服したアーリア人諸部族に根付く原始信仰による神権政治の元、バラモン(祭司)・クシャトリヤ(武士)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(隷属民)の4つの身分の括りが取り決められヴァルナとして定着した。時代が下るにつれ、さらに世襲の職業に基づく現実の内婚集団であるジャーティへと細分化され、親の身分が子へと引き継がれていく。今生の者は、前世の業の報いによりその身分のもとに生まれ、生涯役目を全うすることによって来世の福が保証されるという、徹底した宿命観を篤く信仰している。
インドでは、1950年に制定されたインド憲法の17条により、不可触民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。またインド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、公式にスケジュールド・カースト(指定カースト)と呼ぶ。留保制度により、公共機関や施設が一定割合(平均15 - 18%)で優先的雇用機会を与えられ、学校入学や奨学金制度にも適用される。制度改善に取り組むものの、現在でもカーストはヒンドゥー社会に深く根付いている。
なお、インドの憲法が禁止しているのは、あくまでカーストを理由にした「差別行為」であり、カーストそのものは禁止対象ではない。このため、現在でもカーストは制度として、人々の間で受け継がれている。
カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源を持つ。
15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる。インドの植民地化については「イギリス領インド帝国」を参照。
植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる。
ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆる類の共通の出自を指し示しうるものと指摘している。
カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。
日本国内において、カースト制を、インド在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制が既にそれ自体としての意味を持ってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている。
カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ - varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。カーストとは、ヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる。
一方、アーリア文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある。
アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由は既にかなり研究されている。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1 - 2階層程度に分けたため、全体で3 - 4の階層を設定した。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。海外の著名な社会学者、人類学者や歴史家はカーストの人種起源を否定している。
大英帝国の植民地以前のインドは、伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていたが、イギリスの植民地支配によって、インド社会のカースト化が進行した。イギリス領インド帝国の権力はヴァルナの序列化の調停役を果たしたのであり、国勢調査報告者や地誌はジャーティの序列にしばしば言及し、また、司法は序列の証明となる慣行を登録して、随時、裁可を与えていた。このように、序列化を広く社会的に押し広げていく要因の一つには植民地支配があった。しかし、他方では、近代化とともにカースト制批判も強まって、1919年のインド統治法では不可触民にも議席が与えられた。イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を憲法で禁止する大きな要因となった。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アーリヤ・サマージやブラフモ・サマージなど、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動が生まれた。
アーリア人に征服されたドラヴィダ民族というアイデンティティーから「非バラモン運動」が正義党(南インド自由党)などによって展開した。1925年には非バラモン運動には限界があるとしてラーマスワーミ・ナーイッカルが先住民族であるドラヴィダ民族は自尊すべきであるという自尊運動をはじめ、カースト制を否定した。
こうした運動はキリスト教の影響下にてカースト差別撤廃を謳ったが、それが唯一の目的というわけでもなかったため、一過性に終わったが、今日のカーストの排除及び廃絶につながっていった。
都市部では、カーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧めたりする人々や運動もある。
農業は全てのジャーティに開かれており、したがって、様々なジャーティが様々な形で農業に参加する。種や会社では「カースト」関連の詳細を書類上、欄でさえなくなっていて、法律上も禁止されている。また1970年代以降の都市化、近代化、産業化の急速な進展は職業選択の自由の拡大をもたらし、近代的な工場は様々なジャーティによって担われる。 ここでは世襲的職業の継承というジャーティの機能の一つは、すでに成り立たなくなってきている。
カーストや指定部族を対象とした留保制度・「リザベーション・システム」は、インド憲法にも明確に規定され、インドの行政機関が指定したカーストと指定部族を対象として、教育機関への入学の優先枠が設けられている。国営企業職員の優先就職枠、議会の議席、公務員と、1950年では20%だったものが、93年には49.5%にまで引き上げられた。優遇の対象外の人は、これは逆差別だと反対している。
インド陸軍は、兵士をカーストや信仰する宗教、出身地域別に27以上の連隊として編成している。これは、それぞれの社会集団で団結させ、連隊間の競争意識を高める目的がある。
一方、民間ではタタ財閥やリライアンス財閥等が、インド・ダリット商工会議所 (DICCI) を支援している。
近代工業における職業選択の自由権は、特に情報技術(IT)産業においてめざましい。電気とパソコンさえあれば誰でもチャンスを得られるため、カーストを問わず門戸を開いている。1970年代には既にアメリカ・シリコンバレーにてインド人ソフトウェア技術者が活躍し、1980年代にはインド本土においてもアメリカ企業の下請け業を安価で引き受け始め、1990年代初頭には、インドが自由主義経済を解放したことにより、それは著しく飛躍を遂げた。
しかし、アメリカにて活躍するインド人IT技術者の間においては、現地にて従事するインド人労働者のおよそ3人に2人がカースト差別を受けていることが2018年、アメリカを拠点とするダリット組織「エクティラボ」の調査にて判明されている。また2020年には、ネットワーク機器大手シスコシステムズにて、上位カースト出身者2名の上司により下位カースト出身のエンジニアが昇進を阻まれたとの訴訟問題へと発展している。これを受けて大手テクノロジー企業Appleは、業界に先んじてカースト差別禁止を就業規則に明示した。またアメリカでは、教育機関においてもカリフォルニア州立大学イーストベイにてカースト差別が問題視されたことにより、同大学およびハーバード大学等複数教育機関が、カースト差別を禁止とした。さらに2023年3月には、カリフォルニア州においてカーストに基づく差別を禁止とする最初の州にするための法案「SB 403」が提出された。
インド本国においても、2000年代半ばに行われた、ベンガルール市にて従事するソフトウェア技術者へのヒアリング調査によると、調査対象者132人のうち、実に48%がバラモン出身者であり、再生族と呼ばれる上位カーストにあたるバラモン・クシャトリア・ヴァイシャを包括すると、その割合は71%に上ることが判明されている。また対象者の親の学歴は、父親の80%、母親の56%が大卒以上であり、技術者の36%がインド5大都市にあたるデリー、ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、ベンガルール出身とされ、29%がマイスールやプネーなど2級地の出身であり、農村出身者はわずか5%であることがわかった。
研究者の指摘では、技術者らが留保制度に強く反発しているという事実からIT産業内部にて出身カーストを問うことを嫌悪する風潮が根強く、正確なデータはほとんど掌握されていない。
しかし、インド人創業者による有名IT企業の多くが、バラモンなどのカースト上位創業者である実情もあり、「IT産業は等しく能力主義で、下剋上ができる」という世間のイメージ通りであるとは言い難い。
保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインド経済発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。
児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子供は、寺院売春を強制されていると国際連合人権委員会では報告されている。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は、下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。
子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が、下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半、インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。
インド憲法上、異カースト同士の結婚も認められているが、ヒンドゥー教徒の結婚は、同じカーストか、近いカースト内での結婚が好ましいとされ、見合い結婚が多い。逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとはいえ、現在も一部の大都市でしか見ることができない。
ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。ダヘーズとは花婿料(嫁の持参金)として、花婿側へ支払われる金銭を指すが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある。1961年にダヘーズは法律では禁止されているが、風習として残っている。
元々カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれた後にカーストは変えられないがために、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がるしかなく、現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きる以外に無い、とされる。
だがこれは、現代インド、特に南部にて下級カースト出身者の自殺者数の増加要因になっている。教育のある下級カースト出身者が自殺を選ぶ、というジレンマが発生しているわけだが、信教の自由や教育の充実も側面にあるため、インド人の思想の根幹にカーストを置くことができない、という事実を示唆しているとも言える。
カースト制の影響は、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会の根幹を形成しているが、現代インドではカーストの否定がインド社会の基礎になっている、というインドのヒンドゥー教徒から見た矛盾も発生している。自殺の問題についてインド政府の対応は、後手に回っているのが実情である。
改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし他の宗教から改宗した場合は、最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力により、ヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。
ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによって、カースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナークシプラム村で不可触民が、抗議の意味も含めてイスラム教に改宗した。また、ジャイナ教やシク教やゾロアスター教では、現実的な影響力や力により、その社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない富裕層に支持されている。
しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件も起こるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した。こうしたことを背景に、タミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラム教に改宗することを禁止する強制改宗禁止法を制定した。その後、2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)が、タミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された。
また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる。
なおインドでは、ヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいるので、ヒンドゥー教徒でない事が、必ずしもカースト否定を意味するわけではない。
ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている。
ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは現地の民族の生活と深く結びついている為に複雑であり、2015年のネパール大地震では、上位カーストの家や邸宅は真っ先に建て替えられ、下位カーストの家が後回しにされたという報告もある。
ネパールでは、1854年のムルキー・アイン法によってカースト制度が導入された。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある。
ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は、山岳地帯のマトワリといわれる。
ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている。
インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。
バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった。
中東のクルド人の一部で信じられているヤジディ教は、改宗を禁じ、輪廻転生を信じ、厳しいカースト制を持っている宗教である。ヤジディ教のルーツは、数千年前のインドに遡るとする見解がある。
2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった。
2002年の国際連合人種差別撤廃委員会における会合で、一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別』に関する特別報告を行い、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された。
2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している。
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"text": "近代工業における職業選択の自由権は、特に情報技術(IT)産業においてめざましい。電気とパソコンさえあれば誰でもチャンスを得られるため、カーストを問わず門戸を開いている。1970年代には既にアメリカ・シリコンバレーにてインド人ソフトウェア技術者が活躍し、1980年代にはインド本土においてもアメリカ企業の下請け業を安価で引き受け始め、1990年代初頭には、インドが自由主義経済を解放したことにより、それは著しく飛躍を遂げた。",
"title": "現代の状況"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "しかし、アメリカにて活躍するインド人IT技術者の間においては、現地にて従事するインド人労働者のおよそ3人に2人がカースト差別を受けていることが2018年、アメリカを拠点とするダリット組織「エクティラボ」の調査にて判明されている。また2020年には、ネットワーク機器大手シスコシステムズにて、上位カースト出身者2名の上司により下位カースト出身のエンジニアが昇進を阻まれたとの訴訟問題へと発展している。これを受けて大手テクノロジー企業Appleは、業界に先んじてカースト差別禁止を就業規則に明示した。またアメリカでは、教育機関においてもカリフォルニア州立大学イーストベイにてカースト差別が問題視されたことにより、同大学およびハーバード大学等複数教育機関が、カースト差別を禁止とした。さらに2023年3月には、カリフォルニア州においてカーストに基づく差別を禁止とする最初の州にするための法案「SB 403」が提出された。",
"title": "現代の状況"
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"text": "インド本国においても、2000年代半ばに行われた、ベンガルール市にて従事するソフトウェア技術者へのヒアリング調査によると、調査対象者132人のうち、実に48%がバラモン出身者であり、再生族と呼ばれる上位カーストにあたるバラモン・クシャトリア・ヴァイシャを包括すると、その割合は71%に上ることが判明されている。また対象者の親の学歴は、父親の80%、母親の56%が大卒以上であり、技術者の36%がインド5大都市にあたるデリー、ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、ベンガルール出身とされ、29%がマイスールやプネーなど2級地の出身であり、農村出身者はわずか5%であることがわかった。",
"title": "現代の状況"
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"text": "研究者の指摘では、技術者らが留保制度に強く反発しているという事実からIT産業内部にて出身カーストを問うことを嫌悪する風潮が根強く、正確なデータはほとんど掌握されていない。",
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"text": "しかし、インド人創業者による有名IT企業の多くが、バラモンなどのカースト上位創業者である実情もあり、「IT産業は等しく能力主義で、下剋上ができる」という世間のイメージ通りであるとは言い難い。",
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"text": "保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインド経済発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。",
"title": "現代の状況"
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"text": "児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子供は、寺院売春を強制されていると国際連合人権委員会では報告されている。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は、下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。",
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"text": "子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が、下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半、インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。",
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"text": "インド憲法上、異カースト同士の結婚も認められているが、ヒンドゥー教徒の結婚は、同じカーストか、近いカースト内での結婚が好ましいとされ、見合い結婚が多い。逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとはいえ、現在も一部の大都市でしか見ることができない。",
"title": "現代の状況"
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"text": "ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。ダヘーズとは花婿料(嫁の持参金)として、花婿側へ支払われる金銭を指すが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある。1961年にダヘーズは法律では禁止されているが、風習として残っている。",
"title": "現代の状況"
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{
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"text": "元々カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれた後にカーストは変えられないがために、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がるしかなく、現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きる以外に無い、とされる。",
"title": "現代の状況"
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{
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"text": "だがこれは、現代インド、特に南部にて下級カースト出身者の自殺者数の増加要因になっている。教育のある下級カースト出身者が自殺を選ぶ、というジレンマが発生しているわけだが、信教の自由や教育の充実も側面にあるため、インド人の思想の根幹にカーストを置くことができない、という事実を示唆しているとも言える。",
"title": "現代の状況"
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"text": "カースト制の影響は、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会の根幹を形成しているが、現代インドではカーストの否定がインド社会の基礎になっている、というインドのヒンドゥー教徒から見た矛盾も発生している。自殺の問題についてインド政府の対応は、後手に回っているのが実情である。",
"title": "現代の状況"
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{
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"text": "改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし他の宗教から改宗した場合は、最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力により、ヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。",
"title": "現代の状況"
},
{
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"text": "ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによって、カースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナークシプラム村で不可触民が、抗議の意味も含めてイスラム教に改宗した。また、ジャイナ教やシク教やゾロアスター教では、現実的な影響力や力により、その社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない富裕層に支持されている。",
"title": "現代の状況"
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{
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"tag": "p",
"text": "しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件も起こるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した。こうしたことを背景に、タミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラム教に改宗することを禁止する強制改宗禁止法を制定した。その後、2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)が、タミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された。",
"title": "現代の状況"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる。",
"title": "現代の状況"
},
{
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"text": "なおインドでは、ヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいるので、ヒンドゥー教徒でない事が、必ずしもカースト否定を意味するわけではない。",
"title": "現代の状況"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている。",
"title": "その他の世界のカースト"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは現地の民族の生活と深く結びついている為に複雑であり、2015年のネパール大地震では、上位カーストの家や邸宅は真っ先に建て替えられ、下位カーストの家が後回しにされたという報告もある。",
"title": "その他の世界のカースト"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "ネパールでは、1854年のムルキー・アイン法によってカースト制度が導入された。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある。",
"title": "その他の世界のカースト"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は、山岳地帯のマトワリといわれる。",
"title": "その他の世界のカースト"
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"text": "ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている。",
"title": "その他の世界のカースト"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。",
"title": "その他の世界のカースト"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった。",
"title": "その他の世界のカースト"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "中東のクルド人の一部で信じられているヤジディ教は、改宗を禁じ、輪廻転生を信じ、厳しいカースト制を持っている宗教である。ヤジディ教のルーツは、数千年前のインドに遡るとする見解がある。",
"title": "その他の世界のカースト"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった。",
"title": "国連人権委員会とカースト差別問題"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "2002年の国際連合人種差別撤廃委員会における会合で、一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別』に関する特別報告を行い、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された。",
"title": "国連人権委員会とカースト差別問題"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している。",
"title": "国連人権委員会とカースト差別問題"
}
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カースト(英語: Caste)とは、ヒンドゥー教における身分制度・ヒエラルキー(ヴァルナとジャーティ、ヴァルナ・ジャーティ制)を指すポルトガル語・英語だが、インドでは、現在も「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼ぶ。本来はヒンドゥーの教えに基づく区分であるが、インドではヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいる。 紀元前13世紀頃に、インド亜大陸の先住民を征服したアーリア人諸部族に根付く原始信仰による神権政治の元、バラモン(祭司)・クシャトリヤ(武士)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(隷属民)の4つの身分の括りが取り決められヴァルナとして定着した。時代が下るにつれ、さらに世襲の職業に基づく現実の内婚集団であるジャーティへと細分化され、親の身分が子へと引き継がれていく。今生の者は、前世の業の報いによりその身分のもとに生まれ、生涯役目を全うすることによって来世の福が保証されるという、徹底した宿命観を篤く信仰している。
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[[画像:Casta painting all.jpg|320px|thumb|スペイン植民地におけるカーストを描いた図。この語がインドのヴァルナとジャーティにも使われるようになった]]{{Discrimination sidebar}}{{Hinduism}}
'''カースト'''({{lang-en|Caste}}<ref group="注釈">[[19世紀]]までの英語綴りは cast であった。語源は、[[ポルトガル]]の[[航海]]者が[[インド]]で目にした社会慣行に対して与えたカスタ(Casta)である。</ref>)とは、[[ヒンドゥー教]]における[[身分制度]]・[[ヒエラルキー]]([[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ]]と[[ジャーティ]]、[[ヴァルナ・ジャーティ制]])を指す[[ポルトガル語]]・[[英語]]だが<ref name="fujii">藤井(2007)</ref>、[[インド]]では、現在も「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼ぶ<ref name="yamagami">{{Cite journal|和書|author=山上証道 |date=1995 |url=https://hdl.handle.net/10965/00007012 |title=世界問題研究所レクチャーシリーズ(10)インド理解のキーワード : ヒンドゥーイズム |journal=世界の窓 : 京都産業大学世界問題研究所所報 |ISSN=09125213 |publisher=京都産業大学世界問題研究所 |issue=11 |pages=108-125 |hdl=10965/00007012 |CRID=1520009409567375104}}</ref>。本来はヒンドゥーの教えに基づく区分であるが、インドではヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいる<ref name="kyoto-u_ac_sh48">{{Cite web|和書|title=インドのイスラーム教徒とカースト制度 |url=http://oldwww.zinbun.kyoto-u.ac.jp/shoho/sh48/kaki4.html |date=2001-3-31 |accessdate=2019-1-11 | publisher=[[京都大学]][[京都大学人文科学研究所|人文科学研究所]]所報『人文』第四八号 }}</ref><ref name="afpbb3122506">{{cite news |title=「名誉殺人」で15歳の娘の喉かき切り殺害、父親を逮捕 インド |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2017-3-23 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3122506 |accessdate=2019-1-11}}</ref>。
[[紀元前13世紀]]頃に、インド[[亜大陸]]の先住民を征服した[[アーリア人]]諸部族に根付く[[バラモン教|原始信仰]]による[[神権政治]]の元、[[バラモン]](祭司)・[[クシャトリヤ]](武士)・[[ヴァイシャ]](平民)・[[シュードラ]](隷属民)の4つの身分の括りが取り決められ[[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ]]として定着した。時代が下るにつれ、さらに世襲の職業に基づく現実の内婚集団である[[ジャーティ]]へと細分化され、親の身分が子へと引き継がれていく。今生の者は、[[前世]]の[[業]]の報いによりその身分のもとに生まれ、生涯役目を全うすることによって来世の福が保証されるという、徹底した宿命観を篤く信仰している<ref name="奈良部">{{Cite news|title=インドのカースト最下層、ヒンドゥー教捨てて仏教へ 日本から来た僧が後押し |newspaper=朝日新聞社 |url=https://globe.asahi.com/article/13714295 |accessdate=2023-05-29 |date=2020-09-11 |author=奈良部健}}</ref>。
== 法的規定 ==
インドでは、[[1950年]]に制定された[[インド憲法]]の17条により、[[不可触民]]を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。またインド憲法第341条により、[[大統領令]]で[[インドの地方行政区画#インドの28州と8つの連邦直轄領|州]]もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、公式にスケジュールド・カースト(指定カースト)と呼ぶ。留保制度により、公共機関や施設が一定割合(平均15 - 18%)で優先的雇用機会を与えられ、学校入学や奨学金制度にも適用される。制度改善に取り組むものの、現在でもカーストはヒンドゥー社会に深く根付いている<ref name="yamagami"/>。
なお、インドの憲法が禁止しているのは、あくまでカーストを理由にした「差別行為」であり、カーストそのものは禁止対象ではない。このため、現在でもカーストは制度として、人々の間で受け継がれている<ref>{{cite news |title=インドでは映画の世界においても「カースト」が存在する |newspaper=[[クーリエ・ジャポン]] |date=2020-8-20 |url=https://courrier.jp/columns/209602/ |accessdate=2020-8-22 | author=高倉嘉男}}</ref>。
== 「カースト」名称の形成 ==
=== 語源 ===
'''カースト'''という単語はもと[[ポルトガル語]]で「'''[[家系|血統]]'''」を表す語「カスタ」(''casta'') である。[[ラテン語]]の「カストゥス」(''castus'')(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源を持つ。
=== 植民地主義における呼称 ===
[[画像:Rajpoots.png|サムネイル|290px|第2階級クシャトリヤの子孫であるラージプート戦士集団(1876年)]]
[[15世紀]]に[[ポルトガル人]]がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ<ref name="yamagami"/>。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、[[植民地]]時代後期の特に[[20世紀]]において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる<ref name="sabhadra">サブハードラ・チャンナ「インドにおけるカースト・人種・植民地主義」『人種概念の普遍性を問う』[[人文書院]],2005所収)</ref>。インドの植民地化については「[[イギリス領インド帝国]]」を参照。
植民地の支配層の[[イギリス人]]は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした<ref name="sabhadra"/>。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している<ref name="sabhadra"/>。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた<ref name="sabhadra"/>。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している<ref name="sabhadra"/>。またこのような植民地主義によって、カーストは「[[人種]]」「[[人種差別]]」とも混同されていったといわれる<ref name="sabhadra"/>。
ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆる類の共通の出自を指し示しうるものと指摘している<ref name="sabhadra"/>。
カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、[[家系]]、血統、[[親族]]組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、[[宗教]]集団、[[宗派]]組織、[[派閥]]など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。
;ヴァルナ・ジャーティ制
日本国内において、カースト制を、インド在来の用語である[[ヴァルナ・ジャーティ制]]という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制が既にそれ自体としての意味を持ってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている<ref name="fujii" />。
== インドにおけるカースト:ヴァルナ ==
{{Anchors|ヴァルナ|四姓}}
=== ヒンドゥー社会の原理 ===
{{See|ヴァルナ (種姓)}}
[[画像:Yajna1.jpg|サムネイル|320px|ヒンドゥー教の儀式であるヤジナ。炎の中に供物が投げ入れられている(南インド)]]
[[画像:1_Hindu_Brahmin_priest_in_Bali_Indonesia.jpg|サムネイル|バラモン(インドネシア、バリ島)]]
カーストは一般に基本的な分類('''ヴァルナ''' - varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生<!--など未来の生-->で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。カーストとは、[[ヒンドゥー教]]の根本的世界観である[[輪廻転生]](サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる<ref name="yamagami"/>。
一方、[[アーリア人|アーリア]]文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある<ref>{{Cite journal|和書|author=谷口晉吉 |date=2013-07 |url=https://doi.org/10.15026/73472 |title=ベンガルにおける部族とカーストをめぐって |journal=東京外国語大学論集 |publisher=東京外国語大学 |volume=86 |pages=175-204 |doi=10.15026/73472 |hdl=10108/73472 |CRID=1390295658309924864 |ISSN=0493-4342}}</ref>。
; ヴァルナの枠組み
:; ブラフミン([[サンスクリット]]でブラーフマナ、音写して婆羅門〔[[バラモン]]〕)
:: 神聖な職に就けたり、儀式を行える。[[ブラフマン]]と同様の力を持つと言われる。「[[司祭]]」とも翻訳される。
:; [[クシャトリヤ]]
:: 王や貴族など武力や政治力を持つ。「[[王族]]」「[[戦士]]」とも翻訳される。
:; [[ヴァイシャ]]
:: 製造業などに就ける。「[[市民]]」とも翻訳される。
:; [[シュードラ]](スードラ)
:: 古代では、一般的に人が忌避する職業にしか就けなかったが、時代の変遷とともに中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは売買を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。「[[労働者]]」とも翻訳される。
; ヴァルナを持たない人びと{{Anchors|カースト以下の身分}}
::ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおり、'''アチュート'''という。「[[不可触民]](アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「[[指定カースト]]」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとして、インド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「'''ダリット'''」 (''Dalit'') と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年ではダリットの[[人権]]を求める動きが顕著となっている。
== 歴史 ==
=== 発祥 ===
{{See|ヴァルナ (種姓)}}
[[アーリア人]]がカースト制度の[[ヴァルナ (種姓)]]を作った理由は既にかなり研究されている。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1 - 2階層程度に分けたため、全体で3 - 4の階層を設定した<ref>NewGuinea Tapeworms and Jewish Grandmothers (By ROBERT S. DESOWITZ)</ref>。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。海外の著名な社会学者、人類学者や歴史家はカーストの人種起源を否定している<ref>http://www.hindu.com/2001/03/10/stories/05102523.htm</ref>。
=== 他宗教とのかかわり ===
; 仏教
: [[紀元前5世紀]]の[[仏教]]の開祖である[[釈迦|ゴータマ・シッダッタ]](釈迦)は、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことができたが、[[5世紀]]以後に勢力を失っていったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけていき、[[イスラム教]]の勃興などから[[13世紀]]にはインドから仏教がほぼ姿を消し<ref name="奈良部"/>、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。
: [[インドの仏教]]は、衰退していく過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の[[釈迦]]は[[ヴィシュヌ]]神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやってきた」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれていったと言われる。それは、彼らがヒンドゥーの庇護の下に生活をすることを避けられなかったためである。
:インド独立後の[[1956年]]より、[[インド仏教復興運動]]によって50万人の不可触民らが仏教へと改宗し、仏教徒はインドにおいて一定の社会的勢力として復活している<ref name="奈良部"/>。
; キリスト教
: [[イエズス会]]がインドで[[キリスト教]]を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。[[宣教師]]らは、それぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。
; イスラム教
: [[ムガル帝国]]における[[イスラム教]]の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し、自由になるのが目的でもあった。
=== 大英帝国の植民地支配時代 ===
[[イギリス帝国|大英帝国]]の植民地以前のインドは、伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていたが、[[イギリス]]の[[植民地]]支配によって、インド社会のカースト化が進行した。[[イギリス領インド帝国]]の権力はヴァルナの序列化の調停役を果たしたのであり、[[国勢調査]]報告者や[[地誌]]はジャーティの序列にしばしば言及し、また、[[司法]]は序列の証明となる慣行を登録して、随時、裁可を与えていた。このように、序列化を広く社会的に押し広げていく要因の一つには植民地支配があった<ref name="fujii" />。しかし、他方では、近代化とともにカースト制批判も強まって、[[1919年]]の[[インド統治法]]では不可触民にも議席が与えられた<ref>[http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/tanigawa/asia/p-culture/3/3-1.htm 「カースト制」谷川昌幸]</ref>。イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を[[インド憲法|憲法]]で禁止する大きな要因となった。
;カースト差別撤廃運動
[[19世紀]]後半から[[20世紀]]初頭にかけて、[[アーリヤ・サマージ]]や[[ブラフモ・サマージ]]など、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動が生まれた。
アーリア人に征服された[[ドラヴィダ人|ドラヴィダ民族]]という[[自己同一性|アイデンティティー]]から「[[非バラモン運動]]」が[[正義党]](南インド自由党)などによって展開した<ref name="sigamiwako">{{Cite journal|和書|author=志賀美和子 |date=2013-03 |url=https://hdl.handle.net/10519/5802 |title=〈3. ワーキングペーパー : 2012年度・第2回 国内シンポジウム論文〉セキュラリズムと「カースト問題」の変容 : タミル・ナードゥ州の場合 |journal=2012年度 研究報告書 |publisher=龍谷大学アジア仏教文化研究センター |pages=397 |hdl=10519/5802 |CRID=1050289631618329984}}</ref>。1925年には非バラモン運動には限界があるとして[[ラーマスワーミ・ナーイッカル]]が先住民族である[[ドラヴィダ人|ドラヴィダ民族]]は自尊すべきであるという[[自尊運動]]をはじめ、カースト制を否定した<ref name="sigamiwako"/>。
こうした運動はキリスト教の影響下にてカースト差別撤廃を謳ったが、それが唯一の目的というわけでもなかったため、一過性に終わったが、今日のカーストの排除及び廃絶につながっていった。
== 現代の状況 ==
[[都市]]部では、カーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、[[村落|農村]]部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は[[北インド]]よりも[[南インド]]で強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧めたりする人々や運動もある。{{要出典|date=2023年5月}}<!---出典は?---現代インド南部では[[教育]]のある下級カースト出身者が自殺するケースもある。--->
=== 職業とカースト ===
[[画像:Portrait_of_a_Kshatriya.jpg|サムネイル|武人階級クシャトリアの肖像画<br />(1835年)]]
[[File:Bagmati River, Pashupatinath, Nepal バグマティ川とパシュパティナート火葬場 5689.JPG|thumb|280px|right|[[火葬場]]で働くアンタッチャブルの少年([[2015年]]、[[ネパール]]・[[パシュパティナート]]にて)]]
[[画像:Sonars (goldsmith caste) at work, Cuttack - 1873 2.jpg|280px|right|thumb|庶民階級ヴァイシャ(1873年)]]
[[農業]]は全てのジャーティに開かれており、したがって、様々なジャーティが様々な形で農業に参加する。種や会社では「カースト」関連の詳細を書類上、欄でさえなくなっていて、法律上も禁止されている。また[[1970年代]]以降の[[都市化]]、[[近代化]]、産業化の急速な進展は[[職業選択の自由]]の拡大をもたらし、近代的な[[工場]]は様々なジャーティによって担われる。 ここでは[[世襲]]的職業の継承というジャーティの機能の一つは、すでに成り立たなくなってきている。
カーストや指定部族を対象とした留保制度・「リザベーション・システム」は、インド憲法にも明確に規定され、インドの行政機関が指定したカーストと指定部族を対象として、教育機関への入学の優先枠が設けられている。国営企業職員の優先就職枠、議会の議席、公務員と、1950年では20%だったものが、93年には49.5%にまで引き上げられた。優遇の対象外の人は、これは[[逆差別]]だと反対している。
[[インド陸軍]]は、兵士をカーストや信仰する宗教、出身地域別に27以上の[[連隊]]として編成している。これは、それぞれの社会集団で団結させ、連隊間の競争意識を高める目的がある<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14317798.html?iref=com_footer 【私は〇〇人】(7)軍の統合 支えるカースト別編成]『[[朝日新聞]]』朝刊2020年1月7日(国際面)2020年1月9日閲覧</ref>。
一方、民間では[[タタ・グループ|タタ財閥]]や[[リライアンス・グループ|リライアンス財閥]]等が、インド・ダリット商工会議所 (DICCI) を支援している。
====近代産業における新たな差別問題====
近代工業における職業選択の自由権は、特に[[情報技術|情報技術(IT)産業]]においてめざましい。[[電気]]と[[パソコン]]さえあれば誰でもチャンスを得られるため、カーストを問わず門戸を開いている<ref>{{Cite web|和書|title=世界のIT業界を支えるインド 脱カーストで成功を求める精神が起爆剤に(2ページ目) {{!}} D-Com(ディシジョン・コンパス) |url=https://project.nikkeibp.co.jp/decom/atcl/122200013/032300025/?P=2 |website=project.nikkeibp.co.jp |access-date=2022-10-20 |language=ja |last=D-Com(ディシジョン・コンパス)}}</ref>。1970年代には既に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[シリコンバレー]]にてインド人ソフトウェア技術者が活躍し、1980年代にはインド本土においてもアメリカ企業の下請け業を安価で引き受け始め、1990年代初頭には、インドが自由主義経済を解放したことにより、それは著しく飛躍を遂げた<ref name="池亀">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/470213?page=3 |title=インドのIT産業「カーストは無関係」の大誤解 |publisher =池亀彩 |date=2021-11-24 |accessdate=2023-05-16}}</ref>。
しかし、[[アメリカ]]にて活躍するインド人[[情報技術|IT]]技術者の間においては、現地にて従事するインド人労働者のおよそ3人に2人がカースト差別を受けていることが[[2018年]]、アメリカを拠点とするダリット組織「エクティラボ」の調査にて判明されている<ref name="カリフォルニア">{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20230417-california-ban-caste-based-discrimination/ |title=インドの「カースト差別」を明示的に禁止する法案がアメリカ・カリフォルニア州で提出される |publisher =株式会社OSA |date=2023-04-17 |accessdate=2023-05-16}}</ref>。また[[2020年]]には、ネットワーク機器大手[[シスコシステムズ]]にて、上位カースト出身者2名の上司により下位カースト出身のエンジニアが昇進を阻まれたとの訴訟問題へと発展している<ref>{{Cite news|title=焦点:カーストとシリコンバレー、IT企業が問われる差別対応 |newspaper=ロイター通信 |url=https://jp.reuters.com/article/tech-caste-idJPKBN2PN052 |accessdate=2023-05-16 |date=2022-08-17 |author=Paresh Dave}}</ref>。これを受けて大手テクノロジー企業[[Apple]]は、業界に先んじてカースト差別禁止を就業規則に明示した。またアメリカでは、教育機関においても[[カリフォルニア州立大学]]イーストベイにてカースト差別が問題視されたことにより、同大学および[[ハーバード大学]]等複数教育機関が、カースト差別を禁止とした。さらに[[2023年]]3月には、[[カリフォルニア州]]においてカーストに基づく差別を禁止とする最初の州にするための法案「SB 403」が提出された<ref name="カリフォルニア"/>。
インド本国においても、2000年代半ばに行われた、[[ベンガルール]]市にて従事するソフトウェア技術者へのヒアリング調査によると、調査対象者132人のうち、実に48%がバラモン出身者であり、再生族と呼ばれる上位カーストにあたるバラモン・クシャトリア・ヴァイシャを包括すると、その割合は71%に上ることが判明されている。また対象者の親の学歴は、父親の80%、母親の56%が大卒以上であり、技術者の36%がインド5大都市にあたる[[デリー]]、[[ムンバイ]]、[[コルカタ]]、[[チェンナイ]]、ベンガルール出身とされ、29%が[[マイスール]]や[[プネー]]など2級地の出身<ref group="注釈">現在においてはプネーも人口500万以上の1級都市に含まれる。</ref>であり、農村出身者はわずか5%であることがわかった<ref name="カリフォルニア"/>。
研究者の指摘では、技術者らが留保制度に強く反発しているという事実から<ref group="注釈">IT産業従事者の多くが留保制度によって、公務員職・高級官僚等の花形職までも低カーストに不当に奪われたという被害意識を持っていることが、その理由である。</ref>IT産業内部にて出身カーストを問うことを嫌悪する風潮が根強く、正確なデータはほとんど掌握されていない<ref name="池亀"/>。
しかし、インド人創業者による有名IT企業の多くが、バラモンなどのカースト上位創業者である実情もあり<ref name="池亀"/>、「IT産業は等しく能力主義で、下剋上ができる」という世間のイメージ通りであるとは言い難い。
=== 選挙とカースト ===
[[保守]]的な[[農村]]地帯である[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャブ州]]では、[[国会]]議員選挙に、大[[地主]]と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年の[[インド憲法]]施行による[[インド共和国|共和国]]成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインド経済発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。
=== 児童とカースト ===
[[児童労働]]問題や[[ストリートチルドレン]]問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子供は、寺院売春を強制されていると[[国際連合人権委員会]]では報告されている<ref name="hyuosaka"/>。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は、下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。
子供を[[売春]]や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が、下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半、インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。
=== 結婚とカースト ===
[[インド憲法]]上、異カースト同士の結婚も認められているが、ヒンドゥー教徒の結婚は、同じカーストか、近いカースト内での結婚が好ましいとされ、[[見合い]]結婚が多い。逆に、[[恋愛結婚]]・異カースト同士の結婚は増えつつあるとはいえ、現在も一部の大都市でしか見ることができない。
[[ダヘーズ]]などのヒンドゥー教の慣習も残っている。ダヘーズとは花婿料(嫁の持参金)として、花婿側へ支払われる金銭を指すが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある<ref name="nisimura">{{Cite journal|和書|author=西村祐子 |date=2005-03 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17618/ |title=インドにおける「ダウリ禍」考 : 婚姻法・財産権およびカースト内婚の視点から |journal=駒澤大学外国語部研究紀要 |ISSN=03899845 |publisher=駒澤大学 |volume=34 |issue=1 |pages=387-409 |naid=120006610629 |CRID=1050282813207730176}}</ref>。1961年にダヘーズは法律では禁止されているが、風習として残っている<ref name="nisimura"/>。
=== 自殺とカースト ===
元々カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれた後にカーストは変えられないがために、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がるしかなく、現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きる以外に無い、とされる。
だがこれは、現代インド、特に南部にて下級カースト出身者の[[自殺]]者数の増加要因になっている。教育のある下級カースト出身者が自殺を選ぶ、という[[ジレンマ]]が発生しているわけだが、[[信教の自由]]や教育の充実も側面にあるため、インド人の思想の根幹にカーストを置くことができない、という事実を示唆しているとも言える。
カースト制の影響は、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会の根幹を形成しているが、現代インドではカーストの否定がインド社会の基礎になっている、というインドのヒンドゥー教徒から見た矛盾も発生している。自殺の問題についてインド政府の対応は、後手に回っているのが実情である。{{要出典|date=2023年5月}}<!---出典は?--->
=== 改宗問題 ===
[[改宗]]して[[ヒンドゥー教徒]]になることは可能であり歓迎される。しかし他の宗教から改宗した場合は、最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力により、ヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。
ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによって、カースト制度から解放されることもあり、[[1981年]]に[[ミーナークシプラム]]村で[[不可触民]]が、抗議の意味も含めてイスラム教に改宗した<ref name="sigamiwako"/>。また、[[ジャイナ教]]や[[シク教]]や[[ゾロアスター教]]では、現実的な影響力や力により、その社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない富裕層に支持されている。
しかし近年、イスラムと[[ヒンドゥー・ナショナリズム]]の勢力争いが激化し、1993年には衝突や[[テロリズム|テロ]]事件も起こるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した<ref name="sigamiwako"/>。こうしたことを背景に、[[タミル・ナードゥ州]]でカースト制根絶を訴えてきた[[全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟]](AIADMK)は2002年、[[不可触民]]が[[キリスト教]]や[[イスラム教]]に改宗することを禁止する[[強制改宗禁止法]]を制定した<ref name="sigamiwako"/>。その後、[[2006年]]に[[ドラヴィダ進歩連盟]](DMK)が、タミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された<ref name="sigamiwako"/>。
また、[[新仏教運動|現代インドにおける仏教の復興]]は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。[[ヒンドゥー・ナショナリズム]]の限界が露呈していく一方で、[[ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル]]の支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「'''ダリット'''」(被差別者)という[[自己同一性|アイデンティティ]]が獲得されてもいる<ref name="sigamiwako"/>。
なおインドでは、ヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいるので、ヒンドゥー教徒でない事が、必ずしもカースト否定を意味するわけではない<ref name="kyoto-u_ac_sh48"/><ref name="afpbb3122506"/>。
== その他の世界のカースト ==
{{see also|[[:en:Caste]]}}
===ミャンマー===
[[画像:Buddhist_Karen_in_Yangon.JPG|サムネイル|260px|カレン族(ヤンゴン)]]
[[ミャンマー]]に住む[[カレン族]]は、[[タイ王国]]との国境地帯に居住する[[民族]]である。彼らは、[[キリスト教]][[宣教師]]やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(''low-caste people'')や汚れた民(''dirty-feeders'')として扱われたとしている<ref>{{cite web|title=Hobson-Jobson|author=Yule and Burnell|year=1903|page=163|url=http://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.0:1:413.hobson |accessdate=2013-01-20}}</ref>。
===ネパール===
[[File:Bagmati River, Pashupatinath, Nepal バグマティ川とパシュパティナート火葬場 5907.JPG|thumb|260px|right|[[ネパール]]・[[パシュパティナート]][[火葬場]]で働く[[隠亡]]の男性(隠亡はカーストではアンタッチャブルに分類される)]]
[[ネパール]]ではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派である[[パルバテ・ヒンドゥー]]の伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの[[少数民族]]の[[ネワール族|ネワール]]や[[マデシ]]もまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは現地の民族の生活と深く結びついている為に複雑であり、[[2015年]]の[[ネパール地震 (2015年)|ネパール大地震]]では、上位カーストの家や邸宅は真っ先に建て替えられ、下位カーストの家が後回しにされたという報告もある<ref group="注釈">かつて皮革製品の製造を担っていた立場であった「サルキ」や[[鍛冶]]の「[[カミ (カースト)|カミ]]」、[[縫製]]の「ダマイ」はカーストの中で最下層とされており、今もその存在を差別し時には侮辱・侮蔑する市民が見受けられる。</ref><ref>{{cite news |title=カースト制度最下層出身 日本で研修生活送る女性 |newspaper=『[[神戸新聞]]』 |date=2018-9-15|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201809/0011641960.shtml | accessdate=2018-9-15}}</ref>。
ネパールでは、[[1854年]]の[[ムルキー・アイン]]法によってカースト制度が導入された<ref name="yamamotoyuji">{{Cite journal|和書|author=山本勇次 |date=2008 |url=https://doi.org/10.14890/jasca.2008.0.29.0 |title=ネパールのカースト社会における観光産業と社会的弱者 |journal=日本文化人類学会研究大会発表要旨集 |ISSN=2189-7964 |publisher=日本文化人類学会 |volume=2008 |page=29 |doi=10.14890/jasca.2008.0.29.0 |CRID=1390282680688194304}}</ref>。上級カーストはインド・アーリア系の[[バフン]]、次に[[チェトリ]]、第三位に[[モンゴロイド]]系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある<ref name="yamamotoyuji"/>。
[[ネパール内戦]]を戦った[[ネパール共産党統一毛沢東主義派|ネパールのマオイスト]]の主力は、山岳地帯のマトワリといわれる<ref name="yamamotoyuji"/>。
ネパールのダリット「[[カミ (カースト)|カミ]]」は、寺院に入ることや共同の[[井戸]]から水を飲むことなどが禁止されている<ref>{{cite news |title=異カースト間の結婚に給付金、差別対策で ネパール |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2006-8-26|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2621140?pid=4358520 | accessdate=2013-5-20}}</ref>。
=== バリ島 ===
{{main|バリ・ヒンドゥー}}
[[画像:Majapahit Empire.svg|thumb|300px|マジャパヒト王国の領域]]
[[インドネシア]]では[[イスラム教]]が多数を占めるが、かつては[[クディリ王国]]や[[マジャパヒト王国]]など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐ[[バリ島]]などでは、[[仏教]]やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質した[[バリ・ヒンドゥー]]と共に、独特のカーストが伝えられている。
バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる[[不可触民]]に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、[[オランダ海上帝国|オランダ]]の植民地支配が始まり、[[租税|徴税]]のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.balitouryokou.com/sightseen/column/agama.html |title=バリ島の宗教バリ・ヒンドゥーを知ろう |publisher=バリ島旅行.com |accessdate=2013-05-19}}</ref>。
=== ヤジディ教 ===
[[中東]]の[[クルド人]]の一部で信じられている[[ヤズィーディー|ヤジディ教]]は、改宗を禁じ、[[輪廻転生]]を信じ、厳しいカースト制を持っている宗教である。ヤジディ教のルーツは、数千年前の[[インド]]に遡るとする見解がある<ref>{{cite news |title=イラク、聖地を追われるヤジディ教徒|newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date=2014-9-4 |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9678/?ST=m_news |accessdate=2016-06-13|author=Rania Abouzeid }}</ref>。
== 国連人権委員会とカースト差別問題 ==
[[2001年]]9月3日、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[ダーバン]]で開かれた[[国際連合|国連]]反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、[[日本]]の[[部落問題|被差別部落民]]、[[ナイジェリア]]のオス人・オル人、[[セネガル]]のグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった<ref name="hyuosaka">[http://www.hurights.or.jp/archives/durban-wcar/2010/04/post-6.html「二〇〇一年九月三日反人種主義・差別撤廃世界会議NGOフォーラム宣言」][[アジア・太平洋人権情報センター|ヒューライツ大阪資料館]]。</ref>。
[[2002年]]の[[国際連合人種差別撤廃委員会]]における会合で、一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、[[国際人権法]]にいわれるところの[[人種差別]]の一つであることが明記された。[[2007年]]には[[中央大学]]法科大学院の[[横田洋三]]と[[ソウル大学校|ソウル大学]]女性研究所の[[鄭鎮星]]が、[[国際連合人権委員会|国連人権擁護促進小委員会]]にて『職業と世系に基づく差別<ref>英語表記は''Discrimination based on work and descent''</ref>』に関する特別報告を行い、[[バングラデシュ]]、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された<ref>[http://imadr.net/wordpress/wp-content/uploads/2012/10/4bc589d0a9ef9d379f9dfe7cedc76d01.pdf 職業と世系に基づく差別問題に関する特別報告者最終報告書]</ref>。
2011年、[[国際連合児童基金|ユニセフ]]は差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している<ref>{{Cite web|date=2011-01-01|url=http://www.unicef.org/protection/discrimination.html|title=Discrimination|publisher=国際連合児童基金|accessdate=2011-12-01}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2023年11月|section=1}}
* {{cite book|和書|author=押川文子, アジア経済研究所 |title=インドの社会経済発展とカースト |publisher=アジア経済研究所 |year=1990 |series=研究双書 |ISBN=4258043915 |id={{全国書誌番号|90053857}} |url=https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Books/Jpn_Books/Sousho/391.html |ref=harv}}
*[https://web.archive.org/web/20160302225705/http://race.zinbun.kyoto-u.ac.jp/previous/321-330.pdf 「インドにおけるカースト・人種・植民地主義―社会通念と西洋科学の相互作用」]サブハードラ・チャンナ(工藤正子/門田健一訳)、[[京都大学]]「人種表象の日本型グローバル研究」
*山上證道「[http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~yamakami/hinduism.html インド理解のキーワード——ヒンドゥーイズム——]」[[京都産業大学]]『世界の窓』第11号,1995
*谷川昌幸「[https://web.archive.org/web/20010818094635/http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/tanigawa/asia/p-culture/3/3-1.htm カースト制度](2001年8月18日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])」2000,[[長崎大学]][[教育学部]]谷川研究室
* {{Cite journal|和書|author=Sukhadeo, Thorat |date=2004-12 |title=カースト、経済的排除・差別そして貧困:インドのダリット収奪 |journal=部落解放研究 : 部落解放・人権研究所紀要 |ISSN=02891387 |publisher=部落解放・人権研究所 |issue=161 |pages=43-69 |CRID=1521136279845287040 |url=https://blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0161-04.pdf |format=PDF |ref=harv}}
*藤井毅『インド社会とカースト』[[山川出版社]]<世界史リブレット>、2007.12、ISBN 4-634-34860-8
*[[田辺明生]]『カーストと平等性─インド社会の歴史人類学─』[[東京大学出版会]]、2010年
* 『[http://globalnewsview.org/archives/9295 人種差別報道:世界の現状とイメージのギャップの裏には]』.GNV.2019年3月
== 関連項目 ==
{{col-begin}}
{{col-3}}
* [[ジャーティ]]
* [[ヴァルナ・ジャーティ制]]
* [[ヒンドゥー教]]
* [[インドの仏教]]
* [[マハトマ・ガンディー]]
* [[サティー (ヒンドゥー教)]]
* [[ヒンドゥー・ナショナリズム]]
* [[ドラヴィダ人]]
* [[マヌ法典]]
{{col-3}}
* [[不可触民]]
* [[賤民]]
* [[被差別民]]
** [[穢多]]([[かわた]])
** [[非人]]
* [[部落問題]]
* [[階級社会]]
{{col-3}}
* [[アファーマティブ・アクション]]
* [[アパルトヘイト]]
* [[ヒエラルキー]]
* [[信教の自由]]
{{col-end}}
{{commonscat|Castes_in_India|インドにおけるカースト}}
{{Hinduism2}}
{{Authority control}}
{{Portal bar|アジア|ヒンドゥー教|民俗学}}
{{デフォルトソート:かあすと}}
[[Category:南アジアの身分制度|*かすと]]
[[Category:インドの文化]]
[[Category:インダス文明]]
[[Category:ヒンドゥー教]]
[[Category:ネパールのカースト]]
[[Category:カースト|*]]
[[Category:インドの人権]]
[[Category:ポルトガル語からの借用語]]
[[Category:ラテン語からの借用語]]
[[Category:日本の人権]]
[[Category:日本の貧困]]
[[Category:人権問題]]
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2003-06-23T07:00:02Z
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2023-11-08T09:45:12Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
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季節
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季節(きせつ、英: season、西: estación、仏: saison、 伊: stagione、独: Jahreszeit)は、特定の天候、昼夜の長短(日照時間)などによって示される、一年の中の時期(温帯では春・夏・秋・冬の4つ)で、太陽に対する地球の位置に起因するもの。暦などでは天文学的な指標によって季節を区分し、天気予報や地理学などにおいては気象条件によって区分することが多い。両者は互いに関係しあう。
温帯では年間の気温の変化による季節の変化が比較的明瞭で春・夏・秋・冬の4つ(四季)に分ける。熱帯もしくは赤道付近では年間の気温の変化は少なく雨量の変化が著しいため雨季と乾季に分けられる。寒帯や亜寒帯地球の公転により、見かけ上天球上における太陽の位置が変化する。太陽が黄道のどの位置にあるかで季節を分ける場合、西洋では春分点、夏至点、秋分点、冬至点を基準にする。春分から夏至までの間を春、夏至から秋分までの間を夏、秋分から冬至までを秋、冬至から春分までを冬とする。
地球の自転軸(地軸)が公転面に対して傾いているため、時期によって日照時間が変化する。東アジアでは、昼夜の長短を基準に季節を区分している。昼が長い時期が夏、夜が長い時期が冬である。この基準で季節を区分すると、春分を中心として立春から立夏までが春、夏至を中心として立夏から立秋までが夏、秋分を中心として立秋から立冬までが秋、冬至を中心として立冬から立春までが冬となる。また、これをさらに細かく分けた二十四節気や七十二候もある。この他、4月から9月までを暖候期、10月から3月までを寒候期とする場合もある。
前述の日照時間や太陽の高さの変化が主な原因となって、年間の気候の変化が生じる。
天候の推移や気温の高低などによって季節に分ける場合、日本では西から低気圧と高気圧が交互に通過し雨天と晴天を繰り返す「春」、梅雨前線が停滞して雨天が続く「梅雨季」、高温湿潤で晴天が続く「夏」、秋雨前線によって雨天が多い「秋霖季」、春と似て雨天と晴天が繰り返される「秋」、北西からの季節風によって寒気が流れ込む「冬」の六季に分けることが多い。
植物においては、開花季、満開季、発芽季、紅葉季、落葉季、結実季などに分けられる。また、動物においても、例えば渡り鳥について渡来季と去来季などの概念が用いられることがある。
日本の気象庁は、季節を表わす用語として、春は3〜5月、夏は6〜8月、秋は9〜11月、冬は12〜2月と公式に定めている。マスコミで報道される天気予報などでも、ほとんどの場合この気象庁の定義が用いられている。また、風習的あるいは便宜的にもそう定義されている感が強い。当然、実際の気温・湿度等の気候の変化とは、必ずしも一致しない場合もある。
日本の属する気候帯の性質上、連続可変的に寒暖が移り行き、気候の変化がヨーロッパ諸国のように「次の日に目が覚めたら(積雪し)冬になっていた」ということが無いため季節を四つに区切るのには無理がある。
夏至の時期は最も日照が長く、冬至は最も日照時間が短くなることから、太陽からの熱エネルギーの影響からもこの時期に最も暑く、あるいは寒くなりそうにも思うが、実際には地熱から影響を受けて、しばらくして大気の温度に影響が来るため、最暑期が立秋の頃や、最寒期が立春の頃にずれることになる。
このため、6月は梅雨入りまでは実質間的には春の終わり(晩春)であり、12月も上旬頃は実質、秋の終わり(晩秋)であることも多い。また冬から春・夏から秋への過渡期には「暑さ寒さも彼岸まで」と例えられるように、これも北日本と南日本ではかなり差もあり、年によって異なるが、3月の初頭は太平洋側や瀬戸内海側の平地でも降雪・凍結や冬日になる事もあるため、実質的には冬の終わりである。同じく9月の初頭は残暑があるため、同様に夏の終わりである事も多く、また真夏日や熱帯夜にもなる。
テレビ番組やラジオ番組、特に定番ドラマの改編では春期を4月から6月、夏期を7月から9月、秋期を10月から12月、冬期を1月から3月と分けているケースがほとんどである(学校や官公庁・企業などの年度や決算期でもこのように区分している場合が多い)。これは、新年度の4月からの一年間を4等分するための日本の人為的な区分であって、社会通念・天文学的・気候学的な季節区分とは無関係である。
一方、暦(二十四節気)の上では、春は立春(2月4日)以降、夏は立夏(5月7日)以降、秋は立秋(8月7日)以降、冬は立冬(11月7日)以降であり、冒頭の社会通念上の四季よりも1ヶ月ほど早い。気候的にも立春が寒さのピーク、立秋が暑さのピークの時期であり、一般的な社会通年とはズレている。そのためテレビの天気予報などでは、「暦の上では秋ですが、まだ暑いですね」「暦の上では春ですが、まだ寒いですね」といったコメントがなされる事がある。俳句の季語も暦の上の季節に基づいている。
2020年、気象庁は季節の変わり目として、昆虫や鳥などの動物の出現や行動を、都市化等でその観察自体が困難になったことを理由に取り止めた。
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季節は、特定の天候、昼夜の長短(日照時間)などによって示される、一年の中の時期(温帯では春・夏・秋・冬の4つ)で、太陽に対する地球の位置に起因するもの。暦などでは天文学的な指標によって季節を区分し、天気予報や地理学などにおいては気象条件によって区分することが多い。両者は互いに関係しあう。
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{{出典の明記|date=2018年12月}}
'''季節'''(きせつ、{{Lang-en-short|season}}、[[スペイン語|西]]: estación、{{Lang-fr-short|saison}}、 {{Lang-it-short|stagione}}、{{Lang-de-short|Jahreszeit}})は、特定の[[天候]]、[[昼]][[夜]]の長短([[日照時間]])などによって示される、一年の中の時期(温帯では[[春]]・[[夏]]・[[秋]]・[[冬]]の4つ)で、太陽に対する地球の位置に起因するもの<ref>[https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/season_1?q=Season]</ref>。[[暦]]などでは[[天文学]]的な指標によって季節を区分し、[[天気予報]]や[[地理学]]などにおいては気象条件によって区分することが多い。両者は互いに関係しあう。
== 概要 ==
[[温帯]]では年間の気温の変化による季節の変化が比較的明瞭で[[春]]・[[夏]]・[[秋]]・[[冬]]の4つ([[四季]])に分ける<ref name="jinbunchiri_p177">靑野寿郎・保柳睦美監修『人文地理事典』 p.177 1951年 古今書院</ref>。[[熱帯]]もしくは赤道付近では年間の気温の変化は少なく雨量の変化が著しいため[[雨季]]と[[乾季]]に分けられる<ref name="jinbunchiri_p177"/>。[[寒帯]]や[[亜寒帯]][[地球]]の[[公転]]により、見かけ上[[天球]]上における[[太陽]]の位置が変化する。太陽が[[黄道]]のどの位置にあるかで季節を分ける場合、[[西洋]]では[[春分点]]、夏至点、[[秋分点]]、冬至点を基準にする。[[春分]]から[[夏至]]までの間を春、夏至から[[秋分]]までの間を夏、秋分から[[冬至]]までを秋、冬至から春分までを冬とする。
地球の[[自転]]軸([[地軸]])が公転面に対して傾いているため、時期によって[[日照時間]]が変化する。[[東アジア]]では、昼夜の長短を基準に季節を区分している。昼が長い時期が夏、夜が長い時期が冬である。この基準で季節を区分すると、[[春分]]を中心として[[立春]]から[[立夏]]までが春、[[夏至]]を中心として[[立夏]]から[[立秋]]までが夏、[[秋分]]を中心として[[立秋]]から[[立冬]]までが秋、[[冬至]]を中心として[[立冬]]から[[立春]]までが冬となる。また、これをさらに細かく分けた[[二十四節気]]や[[七十二候]]もある。この他、4月から9月までを暖候期、10月から3月までを寒候期とする場合もある<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/toki.html 時に関する用語] 気象庁、2022/1/24閲覧</ref>。
== 季節と気候 ==
前述の[[日照時間]]や太陽の高さの変化が主な原因となって、年間の気候の変化が生じる。
天候の推移や気温の高低などによって季節に分ける場合、[[日本]]では西から低気圧と高気圧が交互に通過し雨天と晴天を繰り返す「春」、[[梅雨前線]]が停滞して雨天が続く「梅雨季」、高温湿潤で晴天が続く「夏」、[[秋雨前線]]によって雨天が多い「秋霖季」、春と似て雨天と晴天が繰り返される「秋」、北西からの季節風によって寒気が流れ込む「冬」の六季に分けることが多い。
== 季節と生物 ==
植物においては、開花季、満開季、発芽季、紅葉季、落葉季、結実季などに分けられる<ref name="jinbunchiri_p177"/>。また、動物においても、例えば[[渡り鳥]]について渡来季と去来季などの概念が用いられることがある<ref name="jinbunchiri_p177"/>。
== 日本の四季 ==
{{main|四季|二十四節気|日本の気候#季節}}
日本の気象庁は、季節を表わす用語として、春は3〜5月、夏は6〜8月、秋は9〜11月、冬は12〜2月と公式に定めている<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/toki.html 季節を表わす用語]」気象庁ホームページ2021年6月16日閲覧</ref>。マスコミで報道される天気予報などでも、ほとんどの場合この気象庁の定義が用いられている。また、[[風習]]的あるいは便宜的にもそう定義されている感が強い。当然、実際の気温・湿度等の気候の変化とは、必ずしも一致しない場合もある。
日本の属する[[気候帯]]の性質上、連続可変的に寒暖が移り行き、気候の変化が[[ヨーロッパ]]諸国のように「次の日に目が覚めたら(積雪し)冬になっていた」ということが無いため季節を四つに区切るのには無理がある。
夏至の時期は最も日照が長く、冬至は最も日照時間が短くなることから、太陽からの[[熱エネルギー]]の影響からもこの時期に最も暑く、あるいは寒くなりそうにも思うが、実際には地熱から影響を受けて、しばらくして大気の温度に影響が来るため、最暑期が立秋の頃や、最寒期が立春の頃にずれることになる。
このため、6月は梅雨入りまでは実質間的には春の終わり(晩春)であり、12月も上旬頃は実質、秋の終わり(晩秋)であることも多い。また冬から春・夏から秋への過渡期には「'''[[暑さ寒さも彼岸まで]]'''」と例えられるように、これも北日本と南日本ではかなり差もあり、[[年]]によって異なるが、3月の初頭は[[太平洋]]側や[[瀬戸内海]]側の平地でも[[降雪]]・[[路面凍結|凍結]]や[[冬日]]になる事もあるため、実質的には冬の終わりである。同じく9月の初頭は[[残暑]]があるため、同様に夏の終わりである事も多く、また[[真夏日]]や[[熱帯夜]]にもなる。
[[テレビ番組]]や[[ラジオ番組]]、特に定番ドラマの[[改編]]では春期を4月から6月、夏期を7月から9月、秋期を10月から12月、冬期を1月から3月と分けているケースがほとんどである(学校や官公庁・企業などの[[年度]]や[[決算]]期でもこのように区分している場合が多い)。これは、新年度の4月からの一年間を4等分するための日本の人為的な区分であって、社会通念・天文学的・気候学的な季節区分とは無関係である。
一方、[[暦]](二十四節気)の上では、春は[[立春]](2月4日)以降、夏は[[立夏]](5月7日)以降、秋は[[立秋]](8月7日)以降、冬は[[立冬]](11月7日)以降であり、冒頭の社会通念上の四季よりも1ヶ月ほど早い。気候的にも立春が寒さのピーク、立秋が暑さのピークの時期であり、一般的な社会通年とはズレている。そのためテレビの[[天気予報]]などでは、「暦の上では秋ですが、まだ暑いですね」「暦の上では春ですが、まだ寒いですね」といったコメントがなされる事がある。[[俳句]]の[[季語]]も暦の上の季節に基づいている。
2020年、気象庁は季節の変わり目として、昆虫や鳥などの動物の出現や行動を、都市化等でその観察自体が困難になったことを理由に取り止めた。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
{{Wiktionary|季節|時節}}
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{{Multimedia|季節の画像}}
* [[季語一覧]]
* [[ホーラー]] - ギリシャ神話で季節での女神
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梅雨
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梅雨(つゆ、ばいう)は、北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。
気候学的な季節変化を世界と比較したとき、東アジアでは春夏秋冬に梅雨を加えた五季、また日本に限るとさらに秋雨を加えた六季の変化がはっきりと表れる。
東アジアでは、春や秋は、温帯低気圧と移動性高気圧が交互に通過して周期的に天気が変化する。一方、盛夏期には亜熱帯高気圧(太平洋高気圧)の影響下に入って高温多湿な気団に覆われる。そして、春から盛夏の間と、盛夏から秋の間には、中国大陸東部から日本の東方沖に前線が停滞することで雨季となる。この中で、春から盛夏の間の雨季が梅雨、盛夏から秋の間の雨季が秋雨である。なお、梅雨は東アジア全体で明瞭である一方、秋雨は中国大陸方面では弱く日本列島方面で明瞭である。また、盛夏から秋の間の雨季の雨の内訳として、台風による雨も無視できないほど影響力を持っている。
梅雨の時期が始まることを梅雨入りや入梅(にゅうばい)といい、社会通念上・気象学上は春の終わりであるとともに夏の始まり(初夏)とされる。なお、日本の雑節の1つに入梅(6月11日頃)があり、暦の上ではこの日を入梅とするが、これは水を必要とする田植えの時期の目安とされている。また、梅雨が終わることを梅雨明けや出梅(しゅつばい)といい、これをもって本格的な夏(盛夏)の到来とすることが多い。ほとんどの地域では、気象当局が梅雨入りや梅雨明けの発表を行っている。
梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度である。また、梅雨期の降水量は九州では500mm程度で年間の約4分の1・関東や東海では300mm程度で年間の約5分の1ある。西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いが、東日本では逆に秋雨の方が多い(台風の寄与もある)。梅雨の時期や雨量は、年によって大きく変動する場合があり、例えば150mm程度しか雨が降らなかったり、梅雨明けが平年より2週間も遅れたりすることがある。そのような年は猛暑・少雨であったり冷夏・多雨であったりと、夏の天候が良くなく気象災害が起きやすい。
東アジアは中緯度に位置している。同緯度の中東などのように亜熱帯高気圧の影響下にあって乾燥した気候となってもおかしくないが、大陸東岸は夏季に海洋を覆う亜熱帯高気圧の辺縁部になるため雨が多い傾向にある。これは北アメリカ大陸東岸も同じだが、九州では年間降水量が約2,000mmとなるなど、熱帯収束帯の雨量にも劣らないほどの雨量がある。この豊富な雨量に対する梅雨や秋雨の寄与は大きい。梅雨が大きな雨量をもたらす要因として、インドから東南アジアへとつながる高温多湿なアジア・モンスーンの影響を受けている事が挙げられる。
時折、梅雨は「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」と解説されることがある。これは東日本では正しいが、西日本ではあまり正しくない。梅雨の雨の降り方にも地域差があるためである。特に西日本や華中(長江の中下流域付近)では、積乱雲が集まった雲クラスターと呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生して東に進み、激しい雨をもたらすという特徴がある。日本本土で梅雨期にあたる6-7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、九州や四国太平洋側では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っている。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなる。
漢字表記「梅雨」の語源としては、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説や、この時期は湿度が高くカビが生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説、この時期は「毎」日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。普段の倍、雨が降るから「倍雨」というのはこじつけ(民間語源)である。このほかに「梅霖(ばいりん)」、旧暦で5月頃であることに由来する「五月雨(さみだれ)」、麦の実る頃であることに由来する「麦雨(ばくう)」などの別名がある。
なお、「五月雨」の語が転じて、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことを「五月雨式」と言うようになった。また梅雨の晴れ間のことを「五月晴れ(さつきばれ)」というが、この言葉は最近では「ごがつばれ」とも読んで新暦5月初旬のよく晴れた天候を指すことの方が多い。気象庁では5月の晴れのことを「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間のことを「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶように取り決めている。五月雨の降る頃の夜の闇のことを「五月闇(さつきやみ)」という。
地方名には「ながし」(鹿児島県奄美群島)、「なーみっさ」(喜界島での別名)がある。沖縄では、梅雨が小満から芒種にかけての時期に当たるので「小満芒種(スーマンボースー、しょうまんぼうしゅ)」や「芒種雨(ボースーアミ、ぼうしゅあめ)」という別名がある。
中国では「梅雨(メイユー)」、台湾では「梅雨(メイユー)」や「芒種雨」、韓国では「장마(チャンマ)」(「長い雨」の意味と推定される)という。中国では、古くは「梅雨」と同音の「霉雨」という字が当てられており、現在も用いられることがある。「霉」はカビのことであり、日本の「黴雨」と同じ意味である。中国では、梅が熟して黄色くなる時期の雨という意味の「黄梅雨(ファンメイユー)」もよく用いられる。
梅雨の時期には、以下の4つの気団が東アジアに存在する。
春から夏に季節が移り変わる際、東アジアでは性質の違うこれらの気団がせめぎ合う。中国大陸方面と日本列島・朝鮮半島方面ではせめぎ合う気団が異なる。
性質が似ていることや、距離が離れていて干渉が少ないことなどから、北側の気団同士・南側の気団同士の間には、前線は形成されない。
北と南の気団が衝突した部分には東西数千kmに渡って梅雨前線(ばいうぜんせん)ができ、数か月に渡って少しずつ北上していく。この前線付近では雨が降り続くが、長雨の期間は各地域で1か月–2か月にもなる。これが梅雨である。
冬の間、シベリアから中国大陸にかけての広範囲を冷たく乾燥したシベリア気団が覆っている。シベリア気団はしばしば南下して寒波をもたらし、日本の日本海側に大雪を降らせるが、チベット高原では高い山脈が邪魔して気団がそれ以上南下できない。そのチベット高原の南側、インド-フィリピンにかけての上空を亜熱帯ジェット気流が流れる。
冬が終わり春が近づくにつれ、シベリア気団は勢力が弱くなり、次第に北上していく。代わって中国大陸には暖かく乾燥した揚子江気団ができ始め、勢力を強めていく。春になると、揚子江気団は東の日本列島や朝鮮半島などに移動性高気圧を放出し、これが偏西風に乗って東に進み、高気圧の間にできた低気圧とともに春の移り変わりやすい天候を作り出している。
春が終わりに差し掛かるにつれて、南シナ海付近にある熱帯モンスーン気団が勢力を増し北上してくる。すると、揚子江気団と熱帯モンスーン気団が衝突し始める。地上天気図でみると、揚子江気団からできた高気圧と熱帯モンスーン気団からできた高気圧が南シナ海上でせめぎあい、その間に前線ができていることがわかる。これが最初の梅雨前線である。
例年、華南や南西諸島南方沖付近では5月上旬頃に、梅雨前線のでき始めである雲の帯(専門的には準定常的な雲帯と呼ぶことがある)が発生する。
5月上旬には南西諸島も梅雨前線の影響を受け始める。5月中旬ごろになると、梅雨前線ははっきりと天気図上に現れるようになり、華南や南西諸島付近に停滞する。
一方、初夏に入った5月ごろ、亜熱帯ジェット気流も北上し、チベット高原に差し掛かる。ただし、チベット高原は上空を流れる亜熱帯ジェット気流よりもさらに標高が高いため、亜熱帯ジェット気流はチベット高原を境に北と南の2つの流れに分かれてしまう。
分かれた亜熱帯ジェット気流のうち、北側の分流は、樺太付近で寒帯ジェット気流と合流する。さらにこの気流は、カムチャツカ半島付近で南側の分流と合流する。この合流の影響で上空の大気が滞ると、下降気流が発生して、その下層のオホーツク海上に高気圧ができる。この高気圧をオホーツク海高気圧といい、この高気圧の母体となる冷たく湿った気団をオホーツク海気団という。
同じごろ、太平洋中部の洋上でも高気圧が勢力を増し、範囲を西に広げてくる。この高気圧は北太平洋を帯状に覆う太平洋高気圧の西端で小笠原高気圧ともいい、この母体となる暖かく湿った気団を小笠原気団という。
5月下旬から6月上旬ごろになると、九州や四国が梅雨前線の影響下に入り始める。このころから、梅雨前線の東部ではオホーツク海気団と小笠原気団のせめぎあいの色が濃くなってくる。一方、華北や朝鮮半島、東日本では、高気圧と低気圧が交互にやってくる春のような天気が続く。
北上を続ける梅雨前線は、6月中旬に入ると、中国では南嶺山脈付近に停滞、日本では本州付近にまで勢力を広げてくる。
次に梅雨前線は中国の江淮(長江流域・淮河流域)に北上する。6月下旬には華南や南西諸島が梅雨前線の勢力圏から抜ける。7月に入ると東北地方も梅雨入りし、北海道を除く日本の本土地域が本格的な長雨に突入する。また同じころ、朝鮮半島南部も長雨の時期に入る。
7月半ばを過ぎると、亜熱帯ジェット気流がチベット高原よりも北を流れるようになり、合流してオホーツク海気団が弱まってくる。一方で、太平洋高気圧が日本の南海上を覆い続けて晴天が続くようになり、日本本土や朝鮮半島も南から順に梅雨明けしてくる。
こうして北上してきた梅雨前線は最終的に、北京などの華北・中国東北部に達する。例年、この頃には前線の勢力も弱まっており、曇天続きになることはあるが前線が居座り続けるようなことはほとんどない。また、8月中旬・下旬を境にしてこれ以降の長雨はいわゆる秋雨であり、前線の名前も秋雨前線に変わるが、前線の南北の空気を構成する気団は同じである。ただし、秋雨は中国大陸方面ではほとんど見られない。西日本でも秋雨はあるものの雨量はそれほど多くない。一方、東日本、および北日本(北海道除く)では梅雨期の雨量よりもむしろ秋雨期の雨量の方が多いという傾向がある(ただし、秋雨期の雨量には台風によるまとまった雨も含まれる)。
性質の違う2つの空気(気団という)がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、前線が発生する。梅雨前線を構成する気団はいずれも勢力が拮抗しているため、ほぼ同じ地域を南北にゆっくりと移動する停滞前線となる。
梅雨前線の南側を構成する2つの気団はともに海洋を本拠地とする気団(海洋性気団)のため、海洋から大量の水蒸気を吸収して湿潤な空気を持っている。ただ、北側の気団と南側の気団とではお互いの温度差が小さいため、通常はほとんどが乱層雲の弱い雨雲で構成される。そのため、しとしととあまり強くない雨を長時間降らせる。
しかし、上空の寒気や乾燥した空気が流入したり、台風や地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入したりすると、前線の活動が活発化して、積乱雲をともなった強い雨雲となり、時に豪雨となる。
2つの高気圧がせめぎあい、勢力のバランスがほぼつり合っているとき、梅雨前線はほとんど動かない。しかし、2つの高気圧の勢力のバランスが崩れたときや、低気圧が近づいてきたり、前線付近に低気圧が発生したりしたときは一時的に温暖前線や寒冷前線となることもある。梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされる。
年によっては梅雨入りの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。実際1963年の四国地方・近畿地方は梅雨入りの時期が特定できなかった。これは、太平洋高気圧の勢力が強いために梅雨前線が四国地方、中国地方、近畿地方、北陸地方から北上して進みそのまま夏空に突入し、南の高気圧となって次第に南下していくパターンがほとんどである(小暑を境にして、小暑以降はそのまま梅雨明けになる)。東・西日本(特に四国地方・中国地方・近畿地方・北陸地方)ではこのパターンが数年に一回の割合で起こる。この場合でも、四国地方、中国地方、近畿地方、北陸地方では高温や晴天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、近畿地方における(本当の)夏は北陸地方よりも長いとされている。
年によっては梅雨明けの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。東北地方(特に青森・岩手・秋田の北東北3県)、関東甲信地方ではこのパターンが数年に一度の割合で起こる。これは、オホーツク海高気圧の勢力が強いために梅雨前線が東北地方から北上できずにそのまま秋に突入し、秋雨前線となって次第に南下していくパターン、または梅雨前線が本州から完全に消滅した場合であっても曇りや雨の日が多く、大気の状態が安定しない天候が続くパターンがほとんどである(立秋を境にして、立秋以降の長雨を秋雨とする)。この場合でも、北の北海道では低温や曇天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、東北地方における(本当の)夏は北海道よりも短いとされている。
梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つである。インドをはじめとした南アジアや東南アジアのモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因である。世界最多の年間降水量を有する地域(インドのチェラプンジ)を含むなど、この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれる。またこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアという。
アジア・モンスーンの影響範囲はさらに東にまで及んでおり、南シナ海を覆う熱帯モンスーン気団にも影響を与えている。具体的には、南西諸島や華南の梅雨の降雨の大部分が熱帯モンスーン気団によってもたらされるほか、太平洋高気圧の辺縁を時計回りに吹く気流が、この熱帯モンスーン気団の影響を受けた空気を日本・朝鮮半島付近まで運んできて雨を増強する。このような関連性を考えて、気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島・日本列島の大部分をモンスーン・アジアに含める。
また、梅雨前線付近の上空の大気をみると、冬の空気と春・秋の空気の境目となる寒帯前線、春・秋の空気と夏の空気の境目となる亜熱帯前線が接近して存在していて、梅雨は「季節の変わり目」の性質が強い。
日本では各地の地方気象台・気象庁が、数個の都府県をまとめた地域ごとに毎年梅雨入り・梅雨明けの発表をする(北海道を除く)。まず、梅雨入り・梅雨明けしたと思われるその日(休日の場合は、以降最初の平日)に「速報値」として発表が行われ、その発表に従って「梅雨入りしたとみられる」・「梅雨明けしたとみられる」と報道される。その後、5月から8月の天候経過を総合的に検討し、毎年9月に最終的な梅雨の時期を「確定値」として発表する。その際、速報値での梅雨入り・梅雨明けの期日の修正が行われたり、最終的に「特定せず」という表現になることもある。一般に、南の地域ほど梅雨の到来は早く、沖縄は5月中旬から6月下旬、東北・北陸では6月下旬から7月下旬頃となるのが平均的である。
梅雨入りや梅雨明けの発表は通常、次のようにして行われる。各気象台は主に、1週間後までの中期予報とそれまでの天候の推移から、晴れが比較的多い初夏から曇りや雨の多い梅雨へと変わる「境目」を推定して、それを梅雨入りの日として発表している。端的には、管轄地域で曇りや雨が今後数日以上続くと推定されるときにその初日を梅雨入りとする。梅雨明けの場合は逆に晴れが数日以上つづくときである。中期予報の根拠になるのは、誤差が比較的少ないジェット気流などの上空の大気の流れ(亜熱帯ジェット気流と梅雨前線の位置関係は対応がよい)の予想などである。ただ、この中期予報自体が外れると、発表通りにいかず晴れたりする。梅雨入りや梅雨明けの発表は、確定したことを発表するのではなく、気象庁によれば「予報的な要素を含んでいる」ので、外れる場合もある。
ただし、梅雨前線が停滞したまま立秋を過ぎると、梅雨明けの発表はされない。立秋の時期はちょうど、例年梅雨前線がもっとも北に達するころであり、これ以降はどちらかといえば秋雨の時期に入る。しかし、この場合でも翌年には通常通り「梅雨入り」を迎えるが、「梅雨明けがないまま一年を越して重畳的にまた梅雨入りとなる」わけではない。つまり、梅雨明けがない場合は「はっきりと夏の天気が現れないまま梅雨から秋雨へと移行する」と考える。
梅雨期間の終了発表のことを俗に梅雨明け宣言という。基本的に、梅雨前線の北上に伴って南から北へ順番に梅雨明けを迎えるが、必ずしもそのようにならない場合もある。前線が一部地域に残存してしまうような場合には、より北の地方の方が先に梅雨明けになる場合もある。過去に、先に梅雨入りした中国地方より後に梅雨入りした北陸地方が先に梅雨明けしたり、関東地方の梅雨明けが西日本より大幅に遅れたりした例がある。
梅雨の末期は太平洋高気圧の勢力が強くなって等圧線の間隔が込むことで高気圧のへりを回る「辺縁流」が強化され、暖湿流が入りやすくなるため豪雨となりやすい。逆に梅雨明け後から8月上旬くらいまでは「梅雨明け十日」といって天候が安定することが多く、猛暑に見舞われることもある。
梅雨の期間はどの地方でも40日から50日前後と大差はないが、期間中の降水量は大きく異なる。本土では西や南に行くほど多くなり、東北よりも関東・東海・近畿、関東・東海・近畿よりも九州北部、九州北部よりも九州南部の方が多い。一方南西諸島では、石垣島や那覇よりも名瀬の方が期間降水量は多く、総合的に日本付近の梅雨期の雨量は九州南部が最も多い。
ただし、梅雨前線が北上したまま小暑を過ぎると、梅雨入りの発表はされない。小暑の時期はちょうど、明確な区切り無く梅雨明けに移る。小暑以降の梅雨明けという。つまり、梅雨入りがない場合は「はっきりと梅雨の天気が現れないまま梅雨から夏空へと移行する」と考える。
実際の気象としては北海道にも道南を中心に梅雨前線がかかることはあるが、平均的な気象として、つまり気候学的には北海道に梅雨はないとされている。1970年(昭和45年)に気象庁は梅雨の定義を統一し過去の梅雨入り・明けも遡って決定したが、このとき、北海道については梅雨がはっきりしないことから梅雨入り・明けを定めないことになった。「蝦夷梅雨」の俗称が登場したのはこれ以降とされる。梅雨前線が北海道に到達する梅雨末期は勢力が衰え、北上する速度が速まることが背景にある。
北海道の中でも南西部太平洋側(渡島・胆振・日高)では本州の梅雨末期に大雨が降る事がある。また、北海道の広い範囲でこの時期は低温や日照不足が起こりやすいほか、釧路など東部で海霧の日数が多くなるのも、東北や関東・甲信越の梅雨と同じくオホーツク海高気圧の影響を受けている。特に、5月下旬から6月上旬を中心として見られる一時的な低温は、北海道ではリラ(ライラック)の花が咲く時期であることから俗に「リラ冷え」とも呼ぶ。また、このようにぐずついた肌寒い天気が、年によっては2週間程度、本州の梅雨と同じ時期に続くことがあり、「蝦夷梅雨」(えぞつゆ)と呼ばれることがある。
1990年代以降より、北海道では梅雨らしい天候が現れる年が次第に増加している。梅雨の特徴のひとつである日照の顕著な減少を指標とした研究では、本州以南で毎年みられるような「メリハリ」のある日照変化が札幌では1960年代 - 1980年代に約4年に1回だったが、1990年代以降は約2年に1回になり頻度が増している。レジームシフトに伴う気候変動で北海道でも梅雨が発生するようになるのではないかという議論はあるが、気候モデルの梅雨前線帯に対応する亜熱帯ジェットが現在より南に偏るとする予測はこれに反している。梅雨らしい天候は主にラニーニャの発生時にみられ、毎年ではない。頻度増加の原因にはPDO指数の負偏移などが指摘されている。
小笠原諸島が春から夏への遷移期にあたる5月には、気団同士の中心が離れているため前線が形成されず、雨が長続きしない。そして初夏を迎える6月頃より太平洋高気圧の圏内に入ってその後ずっと覆われるため、こちらも梅雨がない。
中国中部・南部でも梅雨がみられる。中国では各都市の気象台が、梅雨入りと梅雨明けの発表をしている。ある研究では、1971年 - 2000年の各都市の梅雨入り・梅雨明けの平均値で、長江下流域の梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日、淮河流域の梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日となっている。
目安として、華南では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わる。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに華東(長江中下流域)、6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となる。長雨はそれぞれ1か月ほど続く。
朝鮮半島では6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く。北にいくほど長雨ははっきりしないものになる。
梅雨入り前の5 - 6月ごろ、日本の南岸に前線が一時的に停滞し、数日間程度梅雨に似た天候がみられることがある。これを走り梅雨(はしりづゆ)、梅雨の走り(つゆのはしり)、あるいは迎え梅雨(むかえづゆ)と呼ぶ。
梅雨入り当初は比較的しとしととした雨が連続することが多い。梅雨の半ばには一旦天気が回復する期間が出現することがある。この期間のことを梅雨の中休み(つゆのなかやすみ)という。
梅雨の時期、特に、長雨の場合は、日照時間が短いため、気温の上下(最高気温と最低気温の差、日較差)が小さく、肌寒く感じることがある。この寒さや天候を梅雨寒(つゆざむ)または梅雨冷(つゆびえ)と呼ぶ。一方、梅雨期間中の晴れ間は梅雨晴れ(つゆばれ)または梅雨の晴れ間と呼ばれ、特に、気温が高く、湿度も高い。そのため、梅雨晴れの日は不快指数が高くなり過ごしにくく、熱中症が起こりやすい傾向にある。
梅雨末期には降雨量が多くなることが多く、ときとして集中豪雨になることがある。中国地方および九州の東シナ海側ではこれが顕著で、特に熊本県・宮崎県・鹿児島県の九州山地山沿いでは十数年に1回程度の割合で短期間に1000mm程度の大雨が降ることがある。逆に、関東や東北など東日本および徳島県南部・高知県と大分県佐伯市・宮崎県では梅雨の時期よりも台風と重なる秋雨の時期のほうが雨量が多い。
梅雨末期の雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼ぶ。また、梅雨の末期には雷をともなった雨が降ることが多く、これを送り梅雨(おくりづゆ)と呼ぶ。また、梅雨明けした後も、雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがある。これを帰り梅雨(かえりづゆ、返り梅雨とも書く)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼ぶ。これらの表現は近年ではあまり使われなくなってきている。
梅雨明けが遅れた年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にある。
梅雨は日本の季節の中でも高温と高湿が共に顕著な時期であり、カビや食中毒の原因となる細菌・ウイルスの繁殖が進みやすいことから、これらに注意が必要な季節とされている。
梅雨の期間中ほとんど雨が降らない場合がある。このような梅雨のことを空梅雨(からつゆ)という。空梅雨の場合、夏季に使用する水(特に稲作に必要な農業用水)が確保できなくなり、渇水を引き起こすことが多く、特に青森、岩手、秋田の北東北地方においては空梅雨になる確率がかなり高く、また、秋季〜冬季の降水量が少ない北部九州や瀬戸内地方などでは、空梅雨の後、台風などによるまとまった雨がない場合、渇水が1年以上続くこともある。
あまり強くない雨が長く続くような梅雨を陰性の梅雨、雨が降るときは短期間に大量に降り、降らないときはすっきりと晴れるような梅雨を陽性の梅雨と表現することもある。陰性の梅雨を女梅雨(おんなづゆ)、陽性の梅雨を男梅雨(おとこづゆ)とも呼ぶこともあり、俳句では季語として使われる場合がある。
傾向として、陰性の場合は、オホーツク海高気圧の勢力が強いことが多く、陽性の場合は、太平洋高気圧の勢力が強いことが多いが、偏西風の流路や、北極振動・南方振動(ENSO、エルニーニョ・ラニーニャ)なども関係している。
台風や熱帯低気圧は地上付近では周囲から空気を吸い上げる一方、上空数千m-1万mの対流圏上層では吸い上げた空気を湿らせて周囲に大量に放出している。そのため、梅雨前線の近くに台風や熱帯低気圧が接近または上陸すると、水蒸気をどんどん供給された梅雨前線が活発化して豪雨となる。また、梅雨前線が、勢力が弱まった台風や温帯低気圧とともに北上して一気に梅雨が明けることがある。
梅雨の時期の大雨や豪雨の事例をみていくと、気圧配置や気象状況にある程度のパターンがあるといわれている。日本海側で豪雨になりやすいのが日本海南部、あるいは朝鮮半島に停滞する梅雨前線付近を低気圧が東に進むパターンで、低気圧に向かって南西から湿った空気が流れ込み、その空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。
太平洋側で豪雨になりやすいのが、梅雨前線が長期的に停滞するパターンや、太平洋側付近に梅雨前線、西側に低気圧がそれぞれ停滞するパターンであり、南 - 南東から湿った空気が流れ込み、同じようにその空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。
このほか、梅雨前線沿いにクラウドクラスター(楕円形の雲群をつくる降水セルの一種)と呼ばれる積乱雲の親雲が東進すると、豪雨となりやすいことが知られている。上空の大気が乾燥している中国大陸や東シナ海で形成され、日本方面へやってくることが多い。
統計的にみて、赤道付近の太平洋中部-東部にかけて海水温が上昇・西部で低下するエルニーニョ現象が発生したときは、日本各地で梅雨入り・梅雨明け共に遅くなる傾向にあり、降水量は平年並み、日照時間は多めとなる傾向にある。また、同じく中部-東部で海水温が低下・西部で上昇するラニーニャ現象が発生したときは、沖縄で梅雨入りが遅めになるのを除き、日本の一部で梅雨入り・梅雨明けともに早くなる傾向にあり、降水量は一部を除き多め、日照時間はやや少なめとなる傾向にある。
日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは1955年ごろとされ、「お知らせ」として報道機関に連絡していた。気象情報として発表を始めたのは1986年になってからである。
梅雨の時期を発表することにより、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期としての「梅雨」を知らせることで防災意識を高める、多雨・高温多湿が長続きする「梅雨」の時期を知らせることで生活面・経済面での対策を容易にする、「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らせることで季節感を明確にする(春一番、木枯らし、初雪などの発表と同様の役割)といった効果が期待されている。
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"text": "梅雨(つゆ、ばいう)は、北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。",
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"text": "気候学的な季節変化を世界と比較したとき、東アジアでは春夏秋冬に梅雨を加えた五季、また日本に限るとさらに秋雨を加えた六季の変化がはっきりと表れる。",
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"text": "東アジアでは、春や秋は、温帯低気圧と移動性高気圧が交互に通過して周期的に天気が変化する。一方、盛夏期には亜熱帯高気圧(太平洋高気圧)の影響下に入って高温多湿な気団に覆われる。そして、春から盛夏の間と、盛夏から秋の間には、中国大陸東部から日本の東方沖に前線が停滞することで雨季となる。この中で、春から盛夏の間の雨季が梅雨、盛夏から秋の間の雨季が秋雨である。なお、梅雨は東アジア全体で明瞭である一方、秋雨は中国大陸方面では弱く日本列島方面で明瞭である。また、盛夏から秋の間の雨季の雨の内訳として、台風による雨も無視できないほど影響力を持っている。",
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"text": "梅雨の時期が始まることを梅雨入りや入梅(にゅうばい)といい、社会通念上・気象学上は春の終わりであるとともに夏の始まり(初夏)とされる。なお、日本の雑節の1つに入梅(6月11日頃)があり、暦の上ではこの日を入梅とするが、これは水を必要とする田植えの時期の目安とされている。また、梅雨が終わることを梅雨明けや出梅(しゅつばい)といい、これをもって本格的な夏(盛夏)の到来とすることが多い。ほとんどの地域では、気象当局が梅雨入りや梅雨明けの発表を行っている。",
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"text": "梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度である。また、梅雨期の降水量は九州では500mm程度で年間の約4分の1・関東や東海では300mm程度で年間の約5分の1ある。西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いが、東日本では逆に秋雨の方が多い(台風の寄与もある)。梅雨の時期や雨量は、年によって大きく変動する場合があり、例えば150mm程度しか雨が降らなかったり、梅雨明けが平年より2週間も遅れたりすることがある。そのような年は猛暑・少雨であったり冷夏・多雨であったりと、夏の天候が良くなく気象災害が起きやすい。",
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"text": "東アジアは中緯度に位置している。同緯度の中東などのように亜熱帯高気圧の影響下にあって乾燥した気候となってもおかしくないが、大陸東岸は夏季に海洋を覆う亜熱帯高気圧の辺縁部になるため雨が多い傾向にある。これは北アメリカ大陸東岸も同じだが、九州では年間降水量が約2,000mmとなるなど、熱帯収束帯の雨量にも劣らないほどの雨量がある。この豊富な雨量に対する梅雨や秋雨の寄与は大きい。梅雨が大きな雨量をもたらす要因として、インドから東南アジアへとつながる高温多湿なアジア・モンスーンの影響を受けている事が挙げられる。",
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"text": "時折、梅雨は「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」と解説されることがある。これは東日本では正しいが、西日本ではあまり正しくない。梅雨の雨の降り方にも地域差があるためである。特に西日本や華中(長江の中下流域付近)では、積乱雲が集まった雲クラスターと呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生して東に進み、激しい雨をもたらすという特徴がある。日本本土で梅雨期にあたる6-7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、九州や四国太平洋側では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っている。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなる。",
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"text": "漢字表記「梅雨」の語源としては、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説や、この時期は湿度が高くカビが生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説、この時期は「毎」日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。普段の倍、雨が降るから「倍雨」というのはこじつけ(民間語源)である。このほかに「梅霖(ばいりん)」、旧暦で5月頃であることに由来する「五月雨(さみだれ)」、麦の実る頃であることに由来する「麦雨(ばくう)」などの別名がある。",
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"text": "なお、「五月雨」の語が転じて、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことを「五月雨式」と言うようになった。また梅雨の晴れ間のことを「五月晴れ(さつきばれ)」というが、この言葉は最近では「ごがつばれ」とも読んで新暦5月初旬のよく晴れた天候を指すことの方が多い。気象庁では5月の晴れのことを「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間のことを「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶように取り決めている。五月雨の降る頃の夜の闇のことを「五月闇(さつきやみ)」という。",
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"text": "地方名には「ながし」(鹿児島県奄美群島)、「なーみっさ」(喜界島での別名)がある。沖縄では、梅雨が小満から芒種にかけての時期に当たるので「小満芒種(スーマンボースー、しょうまんぼうしゅ)」や「芒種雨(ボースーアミ、ぼうしゅあめ)」という別名がある。",
"title": "名称"
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"text": "中国では「梅雨(メイユー)」、台湾では「梅雨(メイユー)」や「芒種雨」、韓国では「장마(チャンマ)」(「長い雨」の意味と推定される)という。中国では、古くは「梅雨」と同音の「霉雨」という字が当てられており、現在も用いられることがある。「霉」はカビのことであり、日本の「黴雨」と同じ意味である。中国では、梅が熟して黄色くなる時期の雨という意味の「黄梅雨(ファンメイユー)」もよく用いられる。",
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"text": "梅雨の時期には、以下の4つの気団が東アジアに存在する。",
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"text": "春から夏に季節が移り変わる際、東アジアでは性質の違うこれらの気団がせめぎ合う。中国大陸方面と日本列島・朝鮮半島方面ではせめぎ合う気団が異なる。",
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"text": "性質が似ていることや、距離が離れていて干渉が少ないことなどから、北側の気団同士・南側の気団同士の間には、前線は形成されない。",
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"text": "北と南の気団が衝突した部分には東西数千kmに渡って梅雨前線(ばいうぜんせん)ができ、数か月に渡って少しずつ北上していく。この前線付近では雨が降り続くが、長雨の期間は各地域で1か月–2か月にもなる。これが梅雨である。",
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"text": "冬の間、シベリアから中国大陸にかけての広範囲を冷たく乾燥したシベリア気団が覆っている。シベリア気団はしばしば南下して寒波をもたらし、日本の日本海側に大雪を降らせるが、チベット高原では高い山脈が邪魔して気団がそれ以上南下できない。そのチベット高原の南側、インド-フィリピンにかけての上空を亜熱帯ジェット気流が流れる。",
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"text": "冬が終わり春が近づくにつれ、シベリア気団は勢力が弱くなり、次第に北上していく。代わって中国大陸には暖かく乾燥した揚子江気団ができ始め、勢力を強めていく。春になると、揚子江気団は東の日本列島や朝鮮半島などに移動性高気圧を放出し、これが偏西風に乗って東に進み、高気圧の間にできた低気圧とともに春の移り変わりやすい天候を作り出している。",
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"text": "春が終わりに差し掛かるにつれて、南シナ海付近にある熱帯モンスーン気団が勢力を増し北上してくる。すると、揚子江気団と熱帯モンスーン気団が衝突し始める。地上天気図でみると、揚子江気団からできた高気圧と熱帯モンスーン気団からできた高気圧が南シナ海上でせめぎあい、その間に前線ができていることがわかる。これが最初の梅雨前線である。",
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"text": "例年、華南や南西諸島南方沖付近では5月上旬頃に、梅雨前線のでき始めである雲の帯(専門的には準定常的な雲帯と呼ぶことがある)が発生する。",
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"text": "5月上旬には南西諸島も梅雨前線の影響を受け始める。5月中旬ごろになると、梅雨前線ははっきりと天気図上に現れるようになり、華南や南西諸島付近に停滞する。",
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"text": "一方、初夏に入った5月ごろ、亜熱帯ジェット気流も北上し、チベット高原に差し掛かる。ただし、チベット高原は上空を流れる亜熱帯ジェット気流よりもさらに標高が高いため、亜熱帯ジェット気流はチベット高原を境に北と南の2つの流れに分かれてしまう。",
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"text": "分かれた亜熱帯ジェット気流のうち、北側の分流は、樺太付近で寒帯ジェット気流と合流する。さらにこの気流は、カムチャツカ半島付近で南側の分流と合流する。この合流の影響で上空の大気が滞ると、下降気流が発生して、その下層のオホーツク海上に高気圧ができる。この高気圧をオホーツク海高気圧といい、この高気圧の母体となる冷たく湿った気団をオホーツク海気団という。",
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"text": "同じごろ、太平洋中部の洋上でも高気圧が勢力を増し、範囲を西に広げてくる。この高気圧は北太平洋を帯状に覆う太平洋高気圧の西端で小笠原高気圧ともいい、この母体となる暖かく湿った気団を小笠原気団という。",
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "5月下旬から6月上旬ごろになると、九州や四国が梅雨前線の影響下に入り始める。このころから、梅雨前線の東部ではオホーツク海気団と小笠原気団のせめぎあいの色が濃くなってくる。一方、華北や朝鮮半島、東日本では、高気圧と低気圧が交互にやってくる春のような天気が続く。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "北上を続ける梅雨前線は、6月中旬に入ると、中国では南嶺山脈付近に停滞、日本では本州付近にまで勢力を広げてくる。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "次に梅雨前線は中国の江淮(長江流域・淮河流域)に北上する。6月下旬には華南や南西諸島が梅雨前線の勢力圏から抜ける。7月に入ると東北地方も梅雨入りし、北海道を除く日本の本土地域が本格的な長雨に突入する。また同じころ、朝鮮半島南部も長雨の時期に入る。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "7月半ばを過ぎると、亜熱帯ジェット気流がチベット高原よりも北を流れるようになり、合流してオホーツク海気団が弱まってくる。一方で、太平洋高気圧が日本の南海上を覆い続けて晴天が続くようになり、日本本土や朝鮮半島も南から順に梅雨明けしてくる。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "こうして北上してきた梅雨前線は最終的に、北京などの華北・中国東北部に達する。例年、この頃には前線の勢力も弱まっており、曇天続きになることはあるが前線が居座り続けるようなことはほとんどない。また、8月中旬・下旬を境にしてこれ以降の長雨はいわゆる秋雨であり、前線の名前も秋雨前線に変わるが、前線の南北の空気を構成する気団は同じである。ただし、秋雨は中国大陸方面ではほとんど見られない。西日本でも秋雨はあるものの雨量はそれほど多くない。一方、東日本、および北日本(北海道除く)では梅雨期の雨量よりもむしろ秋雨期の雨量の方が多いという傾向がある(ただし、秋雨期の雨量には台風によるまとまった雨も含まれる)。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "性質の違う2つの空気(気団という)がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、前線が発生する。梅雨前線を構成する気団はいずれも勢力が拮抗しているため、ほぼ同じ地域を南北にゆっくりと移動する停滞前線となる。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "梅雨前線の南側を構成する2つの気団はともに海洋を本拠地とする気団(海洋性気団)のため、海洋から大量の水蒸気を吸収して湿潤な空気を持っている。ただ、北側の気団と南側の気団とではお互いの温度差が小さいため、通常はほとんどが乱層雲の弱い雨雲で構成される。そのため、しとしととあまり強くない雨を長時間降らせる。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "しかし、上空の寒気や乾燥した空気が流入したり、台風や地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入したりすると、前線の活動が活発化して、積乱雲をともなった強い雨雲となり、時に豪雨となる。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2つの高気圧がせめぎあい、勢力のバランスがほぼつり合っているとき、梅雨前線はほとんど動かない。しかし、2つの高気圧の勢力のバランスが崩れたときや、低気圧が近づいてきたり、前線付近に低気圧が発生したりしたときは一時的に温暖前線や寒冷前線となることもある。梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされる。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "年によっては梅雨入りの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。実際1963年の四国地方・近畿地方は梅雨入りの時期が特定できなかった。これは、太平洋高気圧の勢力が強いために梅雨前線が四国地方、中国地方、近畿地方、北陸地方から北上して進みそのまま夏空に突入し、南の高気圧となって次第に南下していくパターンがほとんどである(小暑を境にして、小暑以降はそのまま梅雨明けになる)。東・西日本(特に四国地方・中国地方・近畿地方・北陸地方)ではこのパターンが数年に一回の割合で起こる。この場合でも、四国地方、中国地方、近畿地方、北陸地方では高温や晴天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、近畿地方における(本当の)夏は北陸地方よりも長いとされている。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "年によっては梅雨明けの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。東北地方(特に青森・岩手・秋田の北東北3県)、関東甲信地方ではこのパターンが数年に一度の割合で起こる。これは、オホーツク海高気圧の勢力が強いために梅雨前線が東北地方から北上できずにそのまま秋に突入し、秋雨前線となって次第に南下していくパターン、または梅雨前線が本州から完全に消滅した場合であっても曇りや雨の日が多く、大気の状態が安定しない天候が続くパターンがほとんどである(立秋を境にして、立秋以降の長雨を秋雨とする)。この場合でも、北の北海道では低温や曇天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、東北地方における(本当の)夏は北海道よりも短いとされている。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つである。インドをはじめとした南アジアや東南アジアのモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因である。世界最多の年間降水量を有する地域(インドのチェラプンジ)を含むなど、この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれる。またこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアという。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "アジア・モンスーンの影響範囲はさらに東にまで及んでおり、南シナ海を覆う熱帯モンスーン気団にも影響を与えている。具体的には、南西諸島や華南の梅雨の降雨の大部分が熱帯モンスーン気団によってもたらされるほか、太平洋高気圧の辺縁を時計回りに吹く気流が、この熱帯モンスーン気団の影響を受けた空気を日本・朝鮮半島付近まで運んできて雨を増強する。このような関連性を考えて、気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島・日本列島の大部分をモンスーン・アジアに含める。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また、梅雨前線付近の上空の大気をみると、冬の空気と春・秋の空気の境目となる寒帯前線、春・秋の空気と夏の空気の境目となる亜熱帯前線が接近して存在していて、梅雨は「季節の変わり目」の性質が強い。",
"title": "メカニズムと経過"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本では各地の地方気象台・気象庁が、数個の都府県をまとめた地域ごとに毎年梅雨入り・梅雨明けの発表をする(北海道を除く)。まず、梅雨入り・梅雨明けしたと思われるその日(休日の場合は、以降最初の平日)に「速報値」として発表が行われ、その発表に従って「梅雨入りしたとみられる」・「梅雨明けしたとみられる」と報道される。その後、5月から8月の天候経過を総合的に検討し、毎年9月に最終的な梅雨の時期を「確定値」として発表する。その際、速報値での梅雨入り・梅雨明けの期日の修正が行われたり、最終的に「特定せず」という表現になることもある。一般に、南の地域ほど梅雨の到来は早く、沖縄は5月中旬から6月下旬、東北・北陸では6月下旬から7月下旬頃となるのが平均的である。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "梅雨入りや梅雨明けの発表は通常、次のようにして行われる。各気象台は主に、1週間後までの中期予報とそれまでの天候の推移から、晴れが比較的多い初夏から曇りや雨の多い梅雨へと変わる「境目」を推定して、それを梅雨入りの日として発表している。端的には、管轄地域で曇りや雨が今後数日以上続くと推定されるときにその初日を梅雨入りとする。梅雨明けの場合は逆に晴れが数日以上つづくときである。中期予報の根拠になるのは、誤差が比較的少ないジェット気流などの上空の大気の流れ(亜熱帯ジェット気流と梅雨前線の位置関係は対応がよい)の予想などである。ただ、この中期予報自体が外れると、発表通りにいかず晴れたりする。梅雨入りや梅雨明けの発表は、確定したことを発表するのではなく、気象庁によれば「予報的な要素を含んでいる」ので、外れる場合もある。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ただし、梅雨前線が停滞したまま立秋を過ぎると、梅雨明けの発表はされない。立秋の時期はちょうど、例年梅雨前線がもっとも北に達するころであり、これ以降はどちらかといえば秋雨の時期に入る。しかし、この場合でも翌年には通常通り「梅雨入り」を迎えるが、「梅雨明けがないまま一年を越して重畳的にまた梅雨入りとなる」わけではない。つまり、梅雨明けがない場合は「はっきりと夏の天気が現れないまま梅雨から秋雨へと移行する」と考える。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "梅雨期間の終了発表のことを俗に梅雨明け宣言という。基本的に、梅雨前線の北上に伴って南から北へ順番に梅雨明けを迎えるが、必ずしもそのようにならない場合もある。前線が一部地域に残存してしまうような場合には、より北の地方の方が先に梅雨明けになる場合もある。過去に、先に梅雨入りした中国地方より後に梅雨入りした北陸地方が先に梅雨明けしたり、関東地方の梅雨明けが西日本より大幅に遅れたりした例がある。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "梅雨の末期は太平洋高気圧の勢力が強くなって等圧線の間隔が込むことで高気圧のへりを回る「辺縁流」が強化され、暖湿流が入りやすくなるため豪雨となりやすい。逆に梅雨明け後から8月上旬くらいまでは「梅雨明け十日」といって天候が安定することが多く、猛暑に見舞われることもある。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "梅雨の期間はどの地方でも40日から50日前後と大差はないが、期間中の降水量は大きく異なる。本土では西や南に行くほど多くなり、東北よりも関東・東海・近畿、関東・東海・近畿よりも九州北部、九州北部よりも九州南部の方が多い。一方南西諸島では、石垣島や那覇よりも名瀬の方が期間降水量は多く、総合的に日本付近の梅雨期の雨量は九州南部が最も多い。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ただし、梅雨前線が北上したまま小暑を過ぎると、梅雨入りの発表はされない。小暑の時期はちょうど、明確な区切り無く梅雨明けに移る。小暑以降の梅雨明けという。つまり、梅雨入りがない場合は「はっきりと梅雨の天気が現れないまま梅雨から夏空へと移行する」と考える。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "実際の気象としては北海道にも道南を中心に梅雨前線がかかることはあるが、平均的な気象として、つまり気候学的には北海道に梅雨はないとされている。1970年(昭和45年)に気象庁は梅雨の定義を統一し過去の梅雨入り・明けも遡って決定したが、このとき、北海道については梅雨がはっきりしないことから梅雨入り・明けを定めないことになった。「蝦夷梅雨」の俗称が登場したのはこれ以降とされる。梅雨前線が北海道に到達する梅雨末期は勢力が衰え、北上する速度が速まることが背景にある。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "北海道の中でも南西部太平洋側(渡島・胆振・日高)では本州の梅雨末期に大雨が降る事がある。また、北海道の広い範囲でこの時期は低温や日照不足が起こりやすいほか、釧路など東部で海霧の日数が多くなるのも、東北や関東・甲信越の梅雨と同じくオホーツク海高気圧の影響を受けている。特に、5月下旬から6月上旬を中心として見られる一時的な低温は、北海道ではリラ(ライラック)の花が咲く時期であることから俗に「リラ冷え」とも呼ぶ。また、このようにぐずついた肌寒い天気が、年によっては2週間程度、本州の梅雨と同じ時期に続くことがあり、「蝦夷梅雨」(えぞつゆ)と呼ばれることがある。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降より、北海道では梅雨らしい天候が現れる年が次第に増加している。梅雨の特徴のひとつである日照の顕著な減少を指標とした研究では、本州以南で毎年みられるような「メリハリ」のある日照変化が札幌では1960年代 - 1980年代に約4年に1回だったが、1990年代以降は約2年に1回になり頻度が増している。レジームシフトに伴う気候変動で北海道でも梅雨が発生するようになるのではないかという議論はあるが、気候モデルの梅雨前線帯に対応する亜熱帯ジェットが現在より南に偏るとする予測はこれに反している。梅雨らしい天候は主にラニーニャの発生時にみられ、毎年ではない。頻度増加の原因にはPDO指数の負偏移などが指摘されている。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "小笠原諸島が春から夏への遷移期にあたる5月には、気団同士の中心が離れているため前線が形成されず、雨が長続きしない。そして初夏を迎える6月頃より太平洋高気圧の圏内に入ってその後ずっと覆われるため、こちらも梅雨がない。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "中国中部・南部でも梅雨がみられる。中国では各都市の気象台が、梅雨入りと梅雨明けの発表をしている。ある研究では、1971年 - 2000年の各都市の梅雨入り・梅雨明けの平均値で、長江下流域の梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日、淮河流域の梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日となっている。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "目安として、華南では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わる。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに華東(長江中下流域)、6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となる。長雨はそれぞれ1か月ほど続く。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "朝鮮半島では6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く。北にいくほど長雨ははっきりしないものになる。",
"title": "各地の梅雨"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "梅雨入り前の5 - 6月ごろ、日本の南岸に前線が一時的に停滞し、数日間程度梅雨に似た天候がみられることがある。これを走り梅雨(はしりづゆ)、梅雨の走り(つゆのはしり)、あるいは迎え梅雨(むかえづゆ)と呼ぶ。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "梅雨入り当初は比較的しとしととした雨が連続することが多い。梅雨の半ばには一旦天気が回復する期間が出現することがある。この期間のことを梅雨の中休み(つゆのなかやすみ)という。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "梅雨の時期、特に、長雨の場合は、日照時間が短いため、気温の上下(最高気温と最低気温の差、日較差)が小さく、肌寒く感じることがある。この寒さや天候を梅雨寒(つゆざむ)または梅雨冷(つゆびえ)と呼ぶ。一方、梅雨期間中の晴れ間は梅雨晴れ(つゆばれ)または梅雨の晴れ間と呼ばれ、特に、気温が高く、湿度も高い。そのため、梅雨晴れの日は不快指数が高くなり過ごしにくく、熱中症が起こりやすい傾向にある。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "梅雨末期には降雨量が多くなることが多く、ときとして集中豪雨になることがある。中国地方および九州の東シナ海側ではこれが顕著で、特に熊本県・宮崎県・鹿児島県の九州山地山沿いでは十数年に1回程度の割合で短期間に1000mm程度の大雨が降ることがある。逆に、関東や東北など東日本および徳島県南部・高知県と大分県佐伯市・宮崎県では梅雨の時期よりも台風と重なる秋雨の時期のほうが雨量が多い。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "梅雨末期の雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼ぶ。また、梅雨の末期には雷をともなった雨が降ることが多く、これを送り梅雨(おくりづゆ)と呼ぶ。また、梅雨明けした後も、雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがある。これを帰り梅雨(かえりづゆ、返り梅雨とも書く)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼ぶ。これらの表現は近年ではあまり使われなくなってきている。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "梅雨明けが遅れた年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にある。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "梅雨は日本の季節の中でも高温と高湿が共に顕著な時期であり、カビや食中毒の原因となる細菌・ウイルスの繁殖が進みやすいことから、これらに注意が必要な季節とされている。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "梅雨の期間中ほとんど雨が降らない場合がある。このような梅雨のことを空梅雨(からつゆ)という。空梅雨の場合、夏季に使用する水(特に稲作に必要な農業用水)が確保できなくなり、渇水を引き起こすことが多く、特に青森、岩手、秋田の北東北地方においては空梅雨になる確率がかなり高く、また、秋季〜冬季の降水量が少ない北部九州や瀬戸内地方などでは、空梅雨の後、台風などによるまとまった雨がない場合、渇水が1年以上続くこともある。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "あまり強くない雨が長く続くような梅雨を陰性の梅雨、雨が降るときは短期間に大量に降り、降らないときはすっきりと晴れるような梅雨を陽性の梅雨と表現することもある。陰性の梅雨を女梅雨(おんなづゆ)、陽性の梅雨を男梅雨(おとこづゆ)とも呼ぶこともあり、俳句では季語として使われる場合がある。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "傾向として、陰性の場合は、オホーツク海高気圧の勢力が強いことが多く、陽性の場合は、太平洋高気圧の勢力が強いことが多いが、偏西風の流路や、北極振動・南方振動(ENSO、エルニーニョ・ラニーニャ)なども関係している。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "台風や熱帯低気圧は地上付近では周囲から空気を吸い上げる一方、上空数千m-1万mの対流圏上層では吸い上げた空気を湿らせて周囲に大量に放出している。そのため、梅雨前線の近くに台風や熱帯低気圧が接近または上陸すると、水蒸気をどんどん供給された梅雨前線が活発化して豪雨となる。また、梅雨前線が、勢力が弱まった台風や温帯低気圧とともに北上して一気に梅雨が明けることがある。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "梅雨の時期の大雨や豪雨の事例をみていくと、気圧配置や気象状況にある程度のパターンがあるといわれている。日本海側で豪雨になりやすいのが日本海南部、あるいは朝鮮半島に停滞する梅雨前線付近を低気圧が東に進むパターンで、低気圧に向かって南西から湿った空気が流れ込み、その空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "太平洋側で豪雨になりやすいのが、梅雨前線が長期的に停滞するパターンや、太平洋側付近に梅雨前線、西側に低気圧がそれぞれ停滞するパターンであり、南 - 南東から湿った空気が流れ込み、同じようにその空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "このほか、梅雨前線沿いにクラウドクラスター(楕円形の雲群をつくる降水セルの一種)と呼ばれる積乱雲の親雲が東進すると、豪雨となりやすいことが知られている。上空の大気が乾燥している中国大陸や東シナ海で形成され、日本方面へやってくることが多い。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "統計的にみて、赤道付近の太平洋中部-東部にかけて海水温が上昇・西部で低下するエルニーニョ現象が発生したときは、日本各地で梅雨入り・梅雨明け共に遅くなる傾向にあり、降水量は平年並み、日照時間は多めとなる傾向にある。また、同じく中部-東部で海水温が低下・西部で上昇するラニーニャ現象が発生したときは、沖縄で梅雨入りが遅めになるのを除き、日本の一部で梅雨入り・梅雨明けともに早くなる傾向にあり、降水量は一部を除き多め、日照時間はやや少なめとなる傾向にある。",
"title": "梅雨の気象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは1955年ごろとされ、「お知らせ」として報道機関に連絡していた。気象情報として発表を始めたのは1986年になってからである。",
"title": "梅雨予想の目的"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "梅雨の時期を発表することにより、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期としての「梅雨」を知らせることで防災意識を高める、多雨・高温多湿が長続きする「梅雨」の時期を知らせることで生活面・経済面での対策を容易にする、「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らせることで季節感を明確にする(春一番、木枯らし、初雪などの発表と同様の役割)といった効果が期待されている。",
"title": "梅雨予想の目的"
}
] |
梅雨(つゆ、ばいう)は、北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。
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{{Redirect|梅雨前線|前線の種類|停滞前線}}
[[File:Plum rain in Shinjuku, Tokyo.jpg|thumb|250px|[[東京]]における梅雨の[[雨]](2009年6月)]]
'''梅雨'''(つゆ、ばいう)は、[[北海道]]と[[小笠原諸島]]を除く[[日本]]、[[朝鮮半島]]南部、[[中華人民共和国|中国]]の南部から[[長江]]流域にかけての沿海部、および[[台湾]]など、[[東アジア]]の広範囲においてみられる特有の[[気象|気象現象]]で、5月から7月にかけて来る[[曇り]]や[[雨]]の多い期間のこと。[[雨季]]の一種である<ref name="kwd-Kato">[[#kmd|キーワード 気象の事典]]、加藤内蔵進「梅雨」221-226頁</ref>。
== 東アジアの四季変化における梅雨 ==
気候学的な季節変化を世界と比較したとき、東アジアでは[[四季|春夏秋冬]]に梅雨を加えた五季、また[[日本]]に限るとさらに[[秋雨]]を加えた六季の変化がはっきりと表れる<ref name="kwd-Kato"/>。
東アジアでは、[[春]]や[[秋]]は、[[温帯低気圧]]と[[移動性高気圧]]が交互に通過して周期的に天気が変化する。一方、盛夏期には[[亜熱帯高気圧]]([[太平洋高気圧]])の影響下に入って高温多湿な気団に覆われる。そして、春から盛夏の間と、盛夏から秋の間には、中国大陸東部から日本の東方沖に前線が停滞することで雨季となる。この中で、春から盛夏の間の雨季が梅雨、盛夏から秋の間の雨季が秋雨である。なお、梅雨は東アジア全体で明瞭である一方、秋雨は中国大陸方面では弱く日本列島方面で明瞭である。また、盛夏から秋の間の雨季の雨の内訳として、[[台風]]による雨も無視できないほど影響力を持っている<ref name="kwd-Kato"/>。
梅雨の時期が始まることを'''梅雨入り'''や'''入梅'''(にゅうばい)といい、[[社会通念]]上・[[気象学]]上は[[春]]の終わりであるとともに[[夏]]の始まり(初夏)とされる。なお、日本の[[雑節]]の1つに[[入梅]](6月11日頃)があり、[[暦]]の上ではこの日を入梅とするが、これは水を必要とする[[田植え]]の時期の目安とされている。また、梅雨が終わることを'''梅雨明け'''や'''出梅'''(しゅつばい)といい、これをもって本格的な夏(盛夏)の到来とすることが多い。ほとんどの地域では、[[気象機関の一覧|気象当局]]が梅雨入りや梅雨明けの発表を行っている。
梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度である。また、梅雨期の降水量は[[九州]]では500mm程度で年間の約4分の1・[[関東地方|関東]]や[[東海地方|東海]]では300mm程度で年間の約5分の1ある。西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いが、東日本では逆に秋雨の方が多い(台風の寄与もある)。梅雨の時期や雨量は、年によって大きく変動する場合があり、例えば150mm程度しか雨が降らなかったり、梅雨明けが平年より2週間も遅れたりすることがある。そのような年は[[猛暑]]・[[少雨]]であったり[[冷夏]]・多雨であったりと、夏の天候が良くなく気象[[災害]]が起きやすい<ref name="kwd-Kato"/><ref name="jmalong"/><ref name="ydbaiu">[[#ydbaiu|Yahoo!百科事典『梅雨(ばいう)』 ]]</ref>。
東アジアは中緯度に位置している。同緯度の[[中東]]などのように[[亜熱帯高気圧]]の影響下にあって乾燥した気候となってもおかしくないが、大陸東岸は夏季に海洋を覆う亜熱帯高気圧の辺縁部になるため雨が多い傾向にある。これは[[北アメリカ大陸]]東岸も同じだが、九州では年間降水量が約2,000mmとなるなど、[[熱帯収束帯]]の雨量にも劣らないほどの雨量がある。この豊富な雨量に対する梅雨や秋雨の寄与は大きい。梅雨が大きな雨量をもたらす要因として、[[インド]]から[[東南アジア]]へとつながる高温多湿なアジア・[[モンスーン]]の影響を受けている事が挙げられる<ref name="kwd-Kato"/><ref>二宮、81-84頁</ref>。
時折、梅雨は「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」と解説されることがある。これは[[東日本]]では正しいが、[[西日本]]ではあまり正しくない。梅雨の雨の降り方にも地域差があるためである。特に西日本や[[華中]]([[長江]]の中下流域付近)では、積乱雲が集まった雲クラスターと呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生して東に進み、激しい雨をもたらすという特徴がある<ref name="kwd-Kato"/>。日本本土で梅雨期にあたる6-7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、[[九州]]や[[四国]][[南四国|太平洋側]]では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っている<ref>二宮洸三 『豪雨と降水システム』、121-122頁、東京堂出版、2001年 ISBN 4-490-20435-3</ref>。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなる<ref name="kwd-Kato"/>。
== 名称 ==
漢字表記「梅雨」の[[語源]]としては、この時期は[[ウメ|梅]]の実が熟す頃であることからという説や、この時期は湿度が高く[[カビ]]が生えやすいことから「'''黴雨'''(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説、この時期は「毎」日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。普段の倍、雨が降るから「倍雨」というのはこじつけ([[民間語源]])である。このほかに「'''梅霖'''(ばいりん)」、[[旧暦]]で[[5月 (旧暦)|5月]]頃であることに由来する「'''五月雨'''(さみだれ)」、[[麦]]の実る頃であることに由来する「'''麦雨'''(ばくう)」などの別名がある。
なお、「五月雨」の語が転じて、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことを「五月雨式」と言うようになった。また梅雨の晴れ間のことを「'''五月晴れ'''(さつきばれ)」というが、この言葉は最近では「ごがつばれ」とも読んで新暦5月初旬のよく晴れた天候を指すことの方が多い。[[気象庁]]では5月の晴れのことを「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間のことを「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶように取り決めている。五月雨の降る頃の夜の闇のことを「'''五月闇'''(さつきやみ)」という。
地方名には「ながし」([[鹿児島県]][[奄美群島]]<ref>甲東哲、先田光演 編、『分類沖永良部島民俗語彙集』、p258、2011年、鹿児島、南方新社、ISBN 978-4-86124-209-0</ref>)、「なーみっさ」([[喜界島]]での別名<ref>岩倉市郎、『喜界島方言集』p192、1941年、東京、中央公論社</ref>)がある。[[沖縄県|沖縄]]では、梅雨が[[小満]]から[[芒種]]にかけての時期に当たるので「'''小満芒種'''(スーマンボースー、しょうまんぼうしゅ)」や「'''芒種雨'''(ボースーアミ、ぼうしゅあめ)」という別名がある。
[[中国]]では「{{Lang|zh|梅雨}}('''メイユー''')」<ref name="kwd-Kato"/>、[[台湾]]では「{{Lang|zh|梅雨}}(メイユー)」や「芒種雨」、[[大韓民国|韓国]]では「{{Lang|ko|장마}}('''チャンマ''')」(「長い雨」の意味と推定される<ref>{{Cite web |title=내일 첫 장맛비…올 장마 짧지만 굵다 |url=https://news.kbs.co.kr/news/view.do?ncd=4228783 |website=KBS 뉴스 |access-date=2023-07-16 |language=ko |date=2019.06.25}}</ref>)という<ref name="kwd-Kato" />。中国では、古くは「{{Lang|zh|梅雨}}」と同音の「{{Lang|zh|霉雨}}」という字が当てられており、現在も用いられることがある。「{{Lang|zh|霉}}」は[[カビ]]のことであり、日本の「黴雨」と同じ意味である。中国では、梅が熟して[[黄色]]くなる時期の雨という意味の「{{Lang|zh|黄梅雨}}(ファンメイユー)」もよく用いられる<ref name="chugokugo">{{Cite web
|author=K.Iwata
|date=2005-06-25
|url=https://web.archive.org/web/20090305051237/http://www.geocities.jp/iwa_kaz/trap026meiyu.htm
|title=中国語の落とし穴026【出梅】
|work=中国語学習ノート
|archiveurl=https://megalodon.jp/2009-0816-0036-18/www.geocities.jp/iwa_kaz/trap026meiyu.htm
|archivedate=2009-08-16
|accessdate=2009-06-11
}}</ref>。
== メカニズムと経過 ==
=== 気団 ===
[[File:East asian baiu-front and air masses.png|thumb|right|450px|梅雨前線の北上の様子。梅雨をもたらす4気団の位置および梅雨期間中の勢力変化も示した。]]
梅雨の時期には、以下の4つの[[気団]]が東アジアに存在する。
* {{Legend2|#C99|[[揚子江気団]]}}
: 中国北部・[[モンゴル国|モンゴル]]から[[満州]]にかけての地域に存在。暖かく乾燥した大陸性の気団。移動性高気圧によって構成される。
* {{Legend2|LightSteelBlue|[[オホーツク海気団]]}}
: [[オホーツク海]]に存在。冷たく湿った海洋性の気団。
* {{Legend2|#F99|[[熱帯モンスーン気団]]}}
: [[インドシナ半島]]・[[南シナ海]]から[[南西諸島]]近海にかけての地域に存在。暖かく非常に湿った海洋性の気団。[[インド洋]]の海洋性気団の影響を強く受けている。
* {{Legend2|#FC9|[[小笠原気団]]}}
: [[太平洋|北太平洋]]西部に存在。高温・多湿で海洋性の気団。
[[春]]から夏に季節が移り変わる際、東アジアでは性質の違うこれらの気団がせめぎ合う。中国大陸方面と日本列島・朝鮮半島方面ではせめぎ合う気団が異なる。
* [[中国大陸]]方面:北の{{Color|#C99|■}}'''揚子江気団'''と南の{{Color|#F99|■}}'''熱帯モンスーン気団'''が接近し、主に両者の湿度の差によって停滞前線が形成される<ref group="注" name="解説1">梅雨前線のもととなる[[対流]]([[雲]])は、大気の[[相当温位]]θeの減率が大きいほど強くなる。大気の[[温度]]や[[湿度]]が高いほどθeは大きいので、乾と湿、あるいは寒と暖の性質を持つ気団の衝突によって大気のθe減率が大きくなることで、前線の雲が発生しやすくなる。</ref>。
* [[日本列島]]・[[朝鮮半島]]方面:北の{{Color|LightSteelBlue|■}}'''オホーツク海気団'''と南の{{Color|#FC9|■}}'''小笠原気団'''が接近し、主に両者の温度の差により、停滞前線が形成される<ref group="注" name="解説1"/>。
性質が似ていることや、距離が離れていて干渉が少ないことなどから、北側の気団同士・南側の気団同士の間には、前線は形成されない。
北と南の気団が衝突した部分には東西数千kmに渡って'''梅雨前線'''(ばいうぜんせん)ができ、数か月に渡って少しずつ北上していく。この前線付近では雨が降り続くが、長雨の期間は各地域で1か月–2か月にもなる。これが梅雨である。
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller; margin-left:0.5em"
|style="width:160px; vertical-align:top; line-height:120%"|[[Image:Terra MODIS Stationary front cloud over Japan_4.jpg|160px]]<br />華南に停滞する梅雨前線の雲(画像上部。2008年5月22日、PD NASA)||style="width:160px; vertical-align:top; line-height:120%"|[[Image:Terra MODIS Stationary front cloud over Japan.jpg|160px]]<br />本州に停滞する梅雨前線の雲(画像中央。下の濃緑の部分は九州から紀伊半島。2006年7月16日、PD NASA)||style="width:160px; vertical-align:top; line-height:120%"|[[Image:Terra MODIS Stationary front cloud over Japan_2.jpg|160px]]<br />華中から朝鮮半島にかけて停滞する梅雨前線の雲(画像中央付近。2008年7月22日、PD NASA)
|}
=== 梅雨前線の最初 ===
冬の間、シベリアから中国大陸にかけての広範囲を冷たく乾燥した[[シベリア気団]]が覆っている。シベリア気団はしばしば南下して寒波をもたらし、日本の[[裏日本|日本海側]]に大雪を降らせるが、[[チベット高原]]では高い山脈が邪魔して気団がそれ以上南下できない。そのチベット高原の南側、インド-フィリピンにかけての上空を[[亜熱帯ジェット気流]]が流れる。
冬が終わり春が近づくにつれ、シベリア気団は勢力が弱くなり、次第に北上していく。代わって中国大陸には暖かく乾燥した揚子江気団ができ始め、勢力を強めていく。春になると、揚子江気団は東の日本列島や朝鮮半島などに[[移動性高気圧]]を放出し、これが[[偏西風]]に乗って東に進み、高気圧の間にできた[[低気圧]]とともに春の移り変わりやすい天候を作り出している。
春が終わりに差し掛かるにつれて、[[南シナ海]]付近にある熱帯モンスーン気団が勢力を増し北上してくる。すると、揚子江気団と熱帯モンスーン気団が衝突し始める。[[地上天気図]]でみると、揚子江気団からできた高気圧と熱帯モンスーン気団からできた高気圧が南シナ海上でせめぎあい、その間に前線ができていることがわかる。これが最初の梅雨前線である。
例年、華南や南西諸島南方沖付近では5月上旬頃に、梅雨前線のでき始めである雲の帯(専門的には準定常的な雲帯と呼ぶことがある)が発生する。
=== 明瞭になる梅雨前線 ===
[[File:2022年6月21日15時の日本の天気図.png|thumb|梅雨の天気図(2022年6月21日15時)]]
5月上旬には南西諸島も梅雨前線の影響を受け始める。5月中旬ごろになると、梅雨前線ははっきりと天気図上に現れるようになり、華南や南西諸島付近に停滞する。
一方、初夏に入った5月ごろ、亜熱帯ジェット気流も北上し、チベット高原に差し掛かる。ただし、チベット高原は上空を流れる亜熱帯ジェット気流よりもさらに標高が高いため、亜熱帯ジェット気流はチベット高原を境に北と南の2つの流れに分かれてしまう。
分かれた亜熱帯ジェット気流のうち、北側の分流は、[[樺太]]付近で[[寒帯ジェット気流]]と合流する。さらにこの気流は、[[カムチャツカ半島]]付近で南側の分流と合流する。この合流の影響で上空の大気が滞ると、下降気流が発生して、その下層のオホーツク海上に高気圧ができる。この高気圧を[[オホーツク海高気圧]]といい、この高気圧の母体となる冷たく湿った気団を[[オホーツク海気団]]という。
同じごろ、太平洋中部の洋上でも高気圧が勢力を増し、範囲を西に広げてくる。この高気圧は北太平洋を帯状に覆う[[太平洋高気圧]]の西端で小笠原高気圧ともいい、この母体となる暖かく湿った気団を[[小笠原気団]]という。
5月下旬から6月上旬ごろになると、九州や四国が梅雨前線の影響下に入り始める。このころから、梅雨前線の東部ではオホーツク海気団と小笠原気団のせめぎあいの色が濃くなってくる。一方、華北や朝鮮半島、東日本では、高気圧と低気圧が交互にやってくる春のような天気が続く。
=== 北上する梅雨前線 ===
北上を続ける梅雨前線は、6月中旬に入ると、中国では[[南嶺山脈]]付近に停滞、日本では本州付近にまで勢力を広げてくる。
次に梅雨前線は中国の[[江淮]]([[長江]]流域・[[淮河]]流域)に北上する。6月下旬には華南や南西諸島が梅雨前線の勢力圏から抜ける。7月に入ると東北地方も梅雨入りし、北海道を除く日本の本土地域が本格的な長雨に突入する。また同じころ、朝鮮半島南部も長雨の時期に入る。
7月半ばを過ぎると、亜熱帯ジェット気流が[[チベット高原]]よりも北を流れるようになり、合流してオホーツク海気団が弱まってくる。一方で、太平洋高気圧が日本の南海上を覆い続けて晴天が続くようになり、日本本土や朝鮮半島も南から順に梅雨明けしてくる。
こうして北上してきた梅雨前線は最終的に、北京などの華北・中国東北部に達する。例年、この頃には前線の勢力も弱まっており、曇天続きになることはあるが前線が居座り続けるようなことはほとんどない。また、8月中旬・下旬を境にしてこれ以降の長雨はいわゆる[[秋雨]]であり、前線の名前も秋雨前線に変わるが、前線の南北の空気を構成する気団は同じである<ref name="chugokugo"/>。ただし、秋雨は中国大陸方面ではほとんど見られない。西日本でも秋雨はあるものの雨量はそれほど多くない。一方、東日本、および北日本(北海道除く)では梅雨期の雨量よりもむしろ秋雨期の雨量の方が多いという傾向がある(ただし、秋雨期の雨量には[[台風]]によるまとまった雨も含まれる)。
=== 梅雨前線の性質 ===
性質の違う2つの空気([[気団]]という)がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、前線が発生する。梅雨前線を構成する気団はいずれも勢力が拮抗しているため、ほぼ同じ地域を南北にゆっくりと移動する[[停滞前線]]となる。
梅雨前線の南側を構成する2つの気団はともに海洋を本拠地とする気団(海洋性気団)のため、海洋から大量の水蒸気を吸収して湿潤な空気を持っている。ただ、北側の気団と南側の気団とではお互いの温度差が小さいため、通常はほとんどが[[乱層雲]]の弱い雨雲で構成される。そのため、しとしととあまり強くない雨を長時間降らせる。
しかし、上空の寒気や乾燥した空気が流入したり、台風や地表付近に暖かく湿った空気([[暖湿流]])が流入したりすると、前線の活動が活発化して、[[積乱雲]]をともなった強い雨雲となり、時に豪雨となる。
2つの高気圧がせめぎあい、勢力のバランスがほぼつり合っているとき、梅雨前線はほとんど動かない。しかし、2つの高気圧の勢力のバランスが崩れたときや、[[低気圧]]が近づいてきたり、前線付近に低気圧が発生したりしたときは一時的に温暖前線や寒冷前線となることもある。梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされる。
=== 梅雨入りの特定なしの年 ===
年によっては梅雨入りの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。実際[[1963年]]の[[四国地方]]・[[近畿地方]]は梅雨入りの時期が特定できなかった。これは、太平洋高気圧の勢力が強いために梅雨前線が四国地方、[[中国地方]]、近畿地方、[[北陸地方]]から北上して進みそのまま夏空に突入し、南の高気圧となって次第に南下していくパターンがほとんどである([[小暑]]を境にして、小暑以降はそのまま梅雨明けになる)。東・西日本(特に四国地方・中国地方・近畿地方・北陸地方)ではこのパターンが数年に一回の割合で起こる。この場合でも、四国地方、中国地方、近畿地方、北陸地方では高温や晴天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、近畿地方における(本当の)夏は北陸地方よりも長いとされている。
=== 梅雨明けの特定なしの年 ===
年によっては梅雨明けの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある<ref group="注">2004年に立秋の2日以降になってもまだ梅雨が明けない場合は梅雨明けを発表(特定)しないことを定めた。また8月31日の時点で梅雨明けしない場合は梅雨明けなしとなる(扱いは梅雨明け特定なしと同じ)。ちなみに、梅雨明け特定なしは何度があるが、梅雨明けなしは現時点では唯一、1993年だけである。1993年の記録的長雨では、沖縄と北海道以外での梅雨が、8月も梅雨となり(8月の梅雨は度々発生する[[青森県|青森]]・[[岩手県|岩手]]・[[秋田県|秋田]]の[[北東北]]3県を除き観測史上では極めて稀である)、2ヶ月半以上にわたって梅雨が続いた状態であったため、梅雨明け時期は特定しなかった。</ref>[https://tenkijuku.com/qa_baiu_2.html]。[[東北地方]](特に青森・岩手・秋田の北東北3県)、[[広域関東圏#関東地方に隣接する各県の状況|関東甲信地方]]ではこのパターンが数年に一度の割合で起こる。これは、オホーツク海高気圧の勢力が強いために梅雨前線が東北地方から北上できずにそのまま秋に突入し、[[秋雨]]前線となって次第に南下していくパターン、または梅雨前線が本州から完全に消滅した場合であっても曇りや雨の日が多く、大気の状態が安定しない天候が続くパターンがほとんどである([[立秋]]を境にして、立秋以降の長雨を秋雨とする)。この場合でも、北の北海道では低温や曇天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、東北地方における(本当の)夏は北海道よりも短いとされている。
=== アジアモンスーンと梅雨 ===
梅雨前線は、気象学的には[[モンスーン]]をもたらす前線(モンスーン前線)の1つである。[[インド]]をはじめとした[[南アジア]]や[[東南アジア]]のモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因である。世界最多の年間降水量を有する地域(インドの[[チェラプンジ]])を含むなど、この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、広範囲で連動して発生していることから、総称して'''アジア・モンスーン'''と呼ばれる。またこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアという。
アジア・モンスーンの影響範囲はさらに東にまで及んでおり、[[南シナ海]]を覆う熱帯モンスーン気団にも影響を与えている。具体的には、南西諸島や華南の梅雨の降雨の大部分が熱帯モンスーン気団によってもたらされるほか、太平洋高気圧の辺縁を時計回りに吹く気流が、この熱帯モンスーン気団の影響を受けた空気を日本・朝鮮半島付近まで運んできて雨を増強する。このような関連性を考えて、気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島・日本列島の大部分をモンスーン・アジアに含める。
また、梅雨前線付近の上空の大気をみると、冬の空気と春・秋の空気の境目となる[[寒帯前線]]、春・秋の空気と夏の空気の境目となる[[亜熱帯前線]]が接近して存在していて、梅雨は「季節の変わり目」の性質が強い。
== 各地の梅雨 ==
=== 日本 ===
==== 沖縄〜東北 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center; float:right; margin-left:0.5em"
|colspan="7" style="background-color:#ccccff; text-align:center"|梅雨の平均期間・平均降水量<ref name="jmalong">{{Cite press release
| 和書
| title = 夏(6〜8月)の天候
| publisher = [[気象庁]]
| date = 2021-09-01
| format = PDF
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/stat/tenko2021jja_besshi.pdf
| accessdate = 2021-09-02
}}</ref>
|-
!地域!!梅雨入り!!梅雨明け!!日数!!代表地点
|-
|沖縄地方||5月10日ごろ||6月21日ごろ||43日||[[那覇市]]
|-
|奄美地方||5月12日ごろ||6月29日ごろ||49日||[[奄美市]]
|-
|九州南部||5月30日ごろ||7月15日ごろ||48日||[[鹿児島市]]
|-
|九州北部||6月{{0}}4日ごろ||7月19日ごろ||46日||[[福岡市]]
|-
|四国地方||6月{{0}}5日ごろ||7月17日ごろ||43日||[[高松市]]
|-
|中国地方||6月{{0}}6日ごろ||7月19日ごろ||rowspan="3"|44日||[[広島市]]
|-
|近畿地方||6月{{0}}6日ごろ||7月19日ごろ||[[大阪市]]
|-
|東海地方||6月{{0}}6日ごろ||7月19日ごろ||[[名古屋市]]
|-
|関東・甲信地方||6月{{0}}7日ごろ||7月19日ごろ||rowspan="3"|43日||[[千代田区]]
|-
|北陸地方||6月11日ごろ||7月23日ごろ||[[新潟市]]
|-
|東北地方南部||6月12日ごろ||7月24日ごろ||[[仙台市]]
|-
|東北地方北部||6月15日ごろ||7月28日ごろ||44日||[[青森市]]
|-
|colspan="7" style="text-align:left"|山口県は九州北部に属する。
|}
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0; font-size:smaller; width:35.5em; float:right">
<div class="NavHead" style="background-color:#ccccff">各地域の極値<ref>{{Cite web|和書
|url=https://www.data.jma.go.jp/cpd/baiu/index.html
|title=昭和26年(1951年)以降の梅雨入りと梅雨明け(確定値)
|work=気象統計情報
|publisher=気象庁
|accessdate=2022-09-02
}}</ref>
</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left">
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin-left:0.5em; white-space:nowrap"
!rowspan="2"|地域!!colspan="2"|梅雨入り!!colspan="2"|梅雨明け!!colspan="2"|降水量の平年比
|-
!最早日!!最遅日!!最早日!!最遅日!!最少!!最多
|-
|沖縄地方||4月20日||6月{{0}}4日||6月{{0}}8日||7月10日||style="text-align:right"|34%||style="text-align:right"|188%
|-
|奄美地方||4月25日||5月27日||6月10日||7月20日||style="text-align:right"|32%||style="text-align:right"|185%
|-
|九州南部||5月{{0}}1日||6月21日||6月24日||''8月{{0}}8日''||style="text-align:right"|33%||style="text-align:right"|182%
|-
|九州北部||5月11日||6月26日||7月{{0}}1日||''8月{{0}}4日''||style="text-align:right"|31%||style="text-align:right"|192%
|-
|四国地方||''5月12日''||6月26日||7月{{0}}1日||''8月{{0}}2日''||style="text-align:right"|56%||style="text-align:right"|187%
|-
|中国地方||5月{{0}}8日||6月26日||7月{{0}}3日||''8月{{0}}3日''||style="text-align:right"|38%||style="text-align:right"|195%
|-
|近畿地方||''5月22日''||6月27日||7月{{0}}3日||''8月{{0}}3日''||style="text-align:right"|40%||style="text-align:right"|184%
|-
|東海地方||5月{{0}}4日||6月28日||6月22日||''8月{{0}}3日''||style="text-align:right"|50%||style="text-align:right"|193%
|-
|関東・甲信地方||5月{{0}}6日||6月22日||6月29日||''8月{{0}}4日''||style="text-align:right"|50%||style="text-align:right"|174%
|-
|北陸地方||''5月22日''||6月28日||7月{{0}}2日||''8月14日''||style="text-align:right"|36%||style="text-align:right"|176%
|-
|東北地方南部||6月{{0}}1日||6月30日||7月{{0}}5日||''8月{{0}}9日''||style="text-align:right"|41%||style="text-align:right"|153%
|-
|東北地方北部||6月{{0}}2日||7月{{0}}3日||7月{{0}}8日||''8月14日''||style="text-align:right"|30%||style="text-align:right"|169%
|-
|colspan="8" style="text-align:left"|日付の''斜め文字''は、「特定せず」となった年があるため参考値である。
|}
</div></div>
日本では各地の[[地方気象台]]・[[気象庁]]が、数個の都府県をまとめた地域ごとに毎年梅雨入り・梅雨明けの発表をする(北海道を除く)。まず、梅雨入り・梅雨明けしたと思われるその日(休日の場合は、以降最初の[[平日]])に「'''速報値'''」として発表が行われ、その発表に従って「梅雨入りしたとみられる」・「梅雨明けしたとみられる」と報道される。その後、5月から8月の天候経過を総合的に検討し、毎年9月に最終的な梅雨の時期を「'''確定値'''」として発表する。その際、速報値での梅雨入り・梅雨明けの期日の修正が行われたり、最終的に「特定せず」という表現になることもある。一般に、南の地域ほど梅雨の到来は早く、沖縄は5月中旬から6月下旬、東北・北陸では6月下旬から7月下旬頃となるのが平均的である。
梅雨入りや梅雨明けの発表は通常、次のようにして行われる。各気象台は主に、1週間後までの中期予報とそれまでの天候の推移から、晴れが比較的多い初夏から曇りや雨の多い梅雨へと変わる「境目」を推定して、それを梅雨入りの日として発表している。端的には、管轄地域で曇りや雨が今後数日以上続くと推定されるときにその初日を梅雨入りとする。梅雨明けの場合は逆に晴れが数日以上つづくときである。中期予報の根拠になるのは、誤差が比較的少ないジェット気流などの上空の大気の流れ([[亜熱帯ジェット気流]]と梅雨前線の位置関係は対応がよい)の予想などである。ただ、この中期予報自体が外れると、発表通りにいかず晴れたりする。梅雨入りや梅雨明けの発表は、確定したことを発表するのではなく、気象庁によれば「予報的な要素を含んでいる」ので、外れる場合もある。
ただし、梅雨前線が停滞したまま[[立秋]]を過ぎると、梅雨明けの発表はされない。立秋の時期はちょうど、例年梅雨前線がもっとも北に達するころであり、これ以降はどちらかといえば秋雨の時期に入る。しかし、この場合でも翌年には通常通り「梅雨入り」を迎えるが、「梅雨明けがないまま一年を越して重畳的にまた梅雨入りとなる」わけではない。つまり、梅雨明けがない場合は「はっきりと夏の天気が現れないまま梅雨から秋雨へと移行する」と考える。
梅雨期間の終了発表のことを俗に'''梅雨明け宣言'''という。基本的に、梅雨前線の北上に伴って南から北へ順番に梅雨明けを迎えるが、必ずしもそのようにならない場合もある。前線が一部地域に残存してしまうような場合には、より北の地方の方が先に梅雨明けになる場合もある。過去に、先に梅雨入りした[[中国地方]]より後に梅雨入りした[[北陸地方]]が先に梅雨明けしたり、[[関東地方]]の梅雨明けが[[西日本]]より大幅に遅れたりした例がある。
梅雨の末期は[[太平洋高気圧]]の勢力が強くなって等圧線の間隔が込むことで高気圧のへりを回る「辺縁流」が強化され、[[暖湿流]]が入りやすくなるため豪雨となりやすい<ref name="fhb-1-3-2">[[#fhb|『気象予報士ハンドブック』、2008年]]、§1-3-2</ref>。逆に梅雨明け後から8月上旬くらいまでは「'''梅雨明け十日'''」といって天候が安定することが多く、[[猛暑]]に見舞われることもある。
梅雨の期間はどの地方でも40日から50日前後と大差はないが、期間中の降水量は大きく異なる。本土では西や南に行くほど多くなり、東北よりも関東・東海・近畿、関東・東海・近畿よりも九州北部、九州北部よりも九州南部の方が多い。一方南西諸島では、石垣島や那覇よりも名瀬の方が期間降水量は多く、総合的に日本付近の梅雨期の雨量は九州南部が最も多い<ref name="fhb-1-3-2">[[#fhb|『気象予報士ハンドブック』、2008年]]、§1-3-2</ref>。
ただし、梅雨前線が北上したまま[[小暑]]を過ぎると、梅雨入りの発表はされない。小暑の時期はちょうど、明確な区切り無く梅雨明けに移る。小暑以降の梅雨明けという。つまり、梅雨入りがない場合は「はっきりと梅雨の天気が現れないまま梅雨から夏空へと移行する」と考える。
==== 北海道 ====
実際の気象としては[[北海道]]にも[[道南]]を中心に梅雨前線がかかることはあるが、平均的な気象として、つまり気候学的には北海道に梅雨はないとされている<ref name="fhb-1-3-5">[[#fhb|『気象予報士ハンドブック』、2008年]]、§1-3-5</ref>。[[1970年]](昭和45年)に気象庁は梅雨の定義を統一し過去の梅雨入り・明けも遡って決定したが、このとき、北海道については梅雨がはっきりしないことから梅雨入り・明けを定めないことになった。「蝦夷梅雨」の俗称が登場したのはこれ以降とされる<ref name="藤川">{{Cite journal|author=藤川典久|url=http://www.metsoc-hokkaido.jp/saihyo/pdf/saihyo64/64_17_fujikawa.pdf|title=北海道に梅雨のない時代は終わったのか?|journal=[http://www.metsoc-hokkaido.jp/saihyo/saihyo_64.html 細氷]|issue=64|pp=34-35|publisher=日本気象学会北海道支部|date=2018}}</ref>。梅雨前線が北海道に到達する梅雨末期は勢力が衰え、北上する速度が速まることが背景にある。
北海道の中でも南西部太平洋側([[渡島総合振興局|渡島]]・[[胆振総合振興局|胆振]]・[[日高振興局|日高]])では本州の梅雨末期に大雨が降る事がある。また、北海道の広い範囲でこの時期は低温や日照不足が起こりやすいほか、[[釧路市|釧路]]など東部で[[海霧]]の日数が多くなるのも、東北や関東・[[甲信越]]の梅雨と同じくオホーツク海高気圧の影響を受けている<ref name="fhb-1-3-5"/>。特に、5月下旬から6月上旬を中心として見られる一時的な低温は、北海道ではリラ([[ライラック]])の花が咲く時期であることから俗に「'''リラ冷え'''」とも呼ぶ<ref group="注">なお、「リラ冷え」は1970年代から知られるようになった言葉で、俳人の榛谷美枝子が初めて俳句に用いたものを、[[辻井達一]]が著書で紹介、それがさらに[[渡辺淳一]]によって引用され小説『リラ冷えの街』となり、テレビドラマ化もされたことが契機となって広まったと伝えられている。</ref><ref>「[https://web.archive.org/web/20140714174948/http://mainichi.jp/feature/news/20130531ddlk01040212000c.html 榛谷美枝子さん:季語「リラ冷え」の俳人、1月に96歳で永眠、香る花に託した思い /北海道]」毎日新聞、2013年5月31日北海道版</ref><ref>豊島秀雄「ことば(放送用語) > 放送現場の疑問・視聴者の疑問 > [https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/029.html 北海道の「リラ冷え」、本州の「花冷え」と同じ?]」、NHK放送文化研究所、1999年5月1日付</ref>。また、このようにぐずついた肌寒い天気が、年によっては2週間程度、本州の梅雨と同じ時期に続くことがあり、「'''[[蝦夷]]梅雨'''」(えぞつゆ)と呼ばれることがある<ref name="hokkaido-np-2014-6-16">{{Cite news | url = http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/545685.html | title = えぞ梅雨? 北海道内で雨や曇り続く 札幌は11日連続の降水 | newspaper = [[北海道新聞]] | publisher = 北海道新聞社 | date = 2014-6-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714160247/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/545685.html|archivedate=2014-07-14}}</ref>。
[[1990年代]]以降より、北海道では梅雨らしい天候が現れる年が次第に増加している。梅雨の特徴のひとつである日照の顕著な減少を指標とした研究では、本州以南で毎年みられるような「メリハリ」のある日照変化が札幌では1960年代 - 1980年代に約4年に1回だったが、1990年代以降は約2年に1回になり頻度が増している。[[レジームシフト]]に伴う気候変動で北海道でも梅雨が発生するようになるのではないかという議論はあるが、気候モデルの梅雨前線帯に対応する亜熱帯ジェットが現在より南に偏るとする予測はこれに反している。梅雨らしい天候は主に[[ラニーニャ]]の発生時にみられ、毎年ではない。頻度増加の原因には[[太平洋十年規模振動|PDO]]指数の負偏移などが指摘されている<ref name="藤川" />。
==== 小笠原諸島 ====
[[小笠原諸島]]が春から夏への遷移期にあたる5月には、気団同士の中心が離れているため前線が形成されず、雨が長続きしない。そして初夏を迎える6月頃より太平洋高気圧の圏内に入ってその後ずっと覆われるため、こちらも梅雨がない<ref>{{Cite web|和書
|author=森田正光
|authorlink=森田正光
|date=1999-08-30
|url=http://www.tbs.co.jp/morita/qa_ame/faq_990830.html
|title=小笠原に梅雨はある?
|work=森田さんのお天気ですかァ?
|publisher=[[TBSテレビ]]
|archiveurl=https://megalodon.jp/2009-0816-0037-43/www.tbs.co.jp/morita/qa_ame/faq_990830.html
|archivedate=2009-08-16
|accessdate=2009-08-16
}}</ref>。
=== 中国 ===
中国中部・南部でも梅雨がみられる。中国では各都市の気象台が、梅雨入りと梅雨明けの発表をしている。ある研究では、1971年 - 2000年の各都市の梅雨入り・梅雨明けの平均値で、長江下流域の梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日、淮河流域の梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日となっている<ref name="chugokugo"/>。
目安として、華南では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わる。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに華東(長江中下流域)、6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となる。長雨はそれぞれ1か月ほど続く。
=== 朝鮮半島 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center; float:right; margin-left:0.5em"
| colspan="6" style="background-color:#ccccff; text-align:center"|韓国各地方の梅雨の平均期間・平均降水量<ref>{{Cite press release
| 和書
| title = 장마의 시작과 끝(평년값)(梅雨の開始と終了 平年値)
| publisher = [[大韓民国気象庁]]
| date = 2009-05-26
| format = html
| url = https://data.kma.go.kr/climate/rainySeason/selectRainySeasonList.do?pgmNo=120
| accessdate = 2021-03-05
}}</ref>
|-
!地域!!梅雨入り!!梅雨明け!!日数!!期間降水量
|-
|中部地方||6月23 - 24日||7月23 - 24日||rowspan="2"|32日||238 - 398 mm
|-
|南部地方||6月22 - 23日||7月22 - 23日||199 - 443 mm
|-
|済州道||6月19日||7月20 - 21日||33日||328 - 449 mm
|}
朝鮮半島では6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く。北にいくほど長雨ははっきりしないものになる<ref>{{Cite web|和書
|author=幡野泉
|authorlink=幡野泉
|date=2006-05-30
|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/58476/
|title=韓国にも「梅雨」はあるの?
|work=季節から学ぶ韓国語
|publisher=[[All About]]
|archiveurl=https://megalodon.jp/2009-0816-0043-07/allabout.co.jp/study/korean/closeup/CU20060516B/
|archivedate=2009-08-16
|accessdate=2009-06-11
}}</ref>。
== 梅雨の気象の特徴 ==
[[Image:ClimateKagoshimaJapan.png|thumb|right|250px|九州南部に位置する[[鹿児島市]]の雨温図。梅雨にあたる6・7月の雨量が突出して多い。また、同時に、気温の上下幅がやや縮小していることが分かる]]
[[Image:ClimateSapporoJapan.png|thumb|right|250px|梅雨がないとされる、北海道に位置する[[札幌市]]の雨温図。梅雨がないため6・7月の雨量は少なく、秋雨に当たる8・9月の雨量が多い。]]
梅雨入り前の5 - 6月ごろ、日本の南岸に前線が一時的に停滞し、数日間程度梅雨に似た天候がみられることがある<ref name="lme1">[[#lme|最新気象の事典]] p.429.朝倉正「走り梅雨」</ref>。これを'''走り梅雨'''(はしりづゆ)<ref name="lme1"/>、'''梅雨の走り'''(つゆのはしり)、あるいは'''迎え梅雨'''(むかえづゆ)と呼ぶ。
梅雨入り当初は比較的しとしととした雨が連続することが多い。梅雨の半ばには一旦天気が回復する期間が出現することがある。この期間のことを'''梅雨の中休み'''(つゆのなかやすみ)という。
梅雨の時期、特に、長雨の場合は、日照時間が短いため、気温の上下(最高気温と最低気温の差、日較差)が小さく、肌寒く感じることがある。この寒さや天候を'''梅雨寒'''(つゆざむ)または'''梅雨冷'''(つゆびえ)と呼ぶ。一方、梅雨期間中の晴れ間は'''梅雨晴れ'''(つゆばれ)または梅雨の晴れ間と呼ばれ、特に、気温が高く、湿度も高い。そのため、梅雨晴れの日は[[不快指数]]が高くなり過ごしにくく、[[熱中症]]が起こりやすい傾向にある。
梅雨末期には降雨量が多くなることが多く、ときとして[[集中豪雨]]になることがある。中国地方および九州の東シナ海側ではこれが顕著で、特に[[熊本県]]・[[宮崎県]]・[[鹿児島県]]の[[九州山地]]山沿いでは十数年に1回程度の割合で短期間に1000mm程度の大雨が降ることがある。逆に、関東や東北など東日本および徳島県南部・高知県と大分県佐伯市・宮崎県では梅雨の時期よりも台風と重なる[[秋雨]]の時期のほうが雨量が多い。
梅雨末期の雨を'''荒梅雨'''(あらづゆ)あるいは'''暴れ梅雨'''(あばれづゆ)とも呼ぶ。また、梅雨の末期には雷をともなった雨が降ることが多く、これを'''送り梅雨'''(おくりづゆ)と呼ぶ<ref name="lme2">[[#lme|最新気象の事典]] p.46.平塚和夫「送り梅雨」</ref>。また、梅雨明けした後も、雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがある。これを'''帰り梅雨'''(かえりづゆ、返り梅雨とも書く)または'''戻り梅雨'''(もどりづゆ)と呼ぶ<ref name="lme2"/>。これらの表現は近年ではあまり使われなくなってきている。
梅雨明けが遅れた年は[[冷夏]]となる場合も多く、[[冷害]]が発生しやすい傾向にある。
梅雨は日本の季節の中でも高温と高湿が共に顕著な時期であり、[[カビ]]や[[食中毒]]の原因となる[[細菌]]・[[ウイルス]]の繁殖が進みやすいことから、これらに注意が必要な季節とされている<ref name="ydbaiu"/>。
=== 空梅雨 ===
梅雨の期間中ほとんど雨が降らない場合がある。このような梅雨のことを'''空梅雨'''(からつゆ)という。空梅雨の場合、夏季に使用する水(特に[[稲作]]に必要な[[農業用水]])が確保できなくなり、渇水を引き起こすことが多く、特に[[青森県|青森]]、[[岩手県|岩手]]、[[秋田県|秋田]]の[[北東北]]地方においては空梅雨になる確率がかなり高く、また、秋季〜冬季の降水量が少ない[[北部九州]]や[[瀬戸内地方]]などでは、空梅雨の後、台風などによるまとまった雨がない場合、渇水が1年以上続くこともある。
=== 陰性・陽性 ===
あまり強くない雨が長く続くような梅雨を'''陰性の梅雨'''、雨が降るときは短期間に大量に降り、降らないときはすっきりと晴れるような梅雨を'''陽性の梅雨'''と表現することもある。陰性の梅雨を'''女梅雨'''(おんなづゆ)、陽性の梅雨を'''男梅雨'''(おとこづゆ)とも呼ぶこともあり、俳句では[[季語]]として使われる場合がある。
傾向として、陰性の場合は、[[オホーツク海高気圧]]の勢力が強いことが多く、陽性の場合は、[[太平洋高気圧]]の勢力が強いことが多いが、[[偏西風]]の流路や、[[北極振動]]・[[南方振動]](ENSO、[[エルニーニョ]]・[[ラニーニャ]])なども関係している。
=== 台風との関連 ===
[[台風]]や[[熱帯低気圧]]は地上付近では周囲から空気を吸い上げる一方、上空数千m-1万mの[[対流圏]]上層では吸い上げた空気を湿らせて周囲に大量に放出している。そのため、梅雨前線の近くに台風や熱帯低気圧が接近または上陸すると、水蒸気をどんどん供給された梅雨前線が活発化して豪雨となる。また、梅雨前線が、勢力が弱まった台風や温帯低気圧とともに北上して一気に梅雨が明けることがある。
=== 梅雨の豪雨パターン ===
梅雨の時期の大雨や豪雨の事例をみていくと、気圧配置や気象状況にある程度のパターンがあるといわれている。[[日本海側]]で豪雨になりやすいのが[[日本海]]南部、あるいは[[朝鮮半島]]に停滞する梅雨前線付近を[[低気圧]]が東に進むパターンで、低気圧に向かって[[南西]]から湿った空気が流れ込み、その空気が[[山脈]]にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。
[[太平洋側]]で豪雨になりやすいのが、梅雨前線が長期的に停滞するパターンや、太平洋側付近に梅雨前線、西側に低気圧がそれぞれ停滞するパターンであり、[[南]] - [[南東]]から湿った空気が流れ込み、同じようにその空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。
このほか、梅雨前線沿いに[[クラウドクラスター]](楕円形の雲群をつくる[[降水セル]]の一種)と呼ばれる積乱雲の親雲が東進すると、豪雨となりやすいことが知られている。上空の大気が乾燥している中国大陸や東シナ海で形成され、日本方面へやってくることが多い。
=== 海洋変動との関連 ===
統計的にみて、赤道付近の太平洋中部-東部にかけて海水温が上昇・西部で低下する[[エルニーニョ]]現象が発生したときは、日本各地で梅雨入り・梅雨明け共に遅くなる傾向にあり、降水量は平年並み、日照時間は多めとなる傾向にある<ref>{{Cite web|和書
|url=https://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/db/elnino/learning/tenkou/nihon1.html
|title=エルニーニョ現象に伴う日本の天候の特徴
|work=エルニーニョ/ラニーニャ現象に関するデータ
|publisher=気象庁
|accessdate=2007-06-29
}}</ref>。また、同じく中部-東部で海水温が低下・西部で上昇するラニーニャ現象が発生したときは、沖縄で梅雨入りが遅めになるのを除き、日本の一部で梅雨入り・梅雨明けともに早くなる傾向にあり、降水量は一部を除き多め、日照時間はやや少なめとなる傾向にある<ref>{{Cite web|和書
|url=https://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/db/elnino/learning/tenkou/nihon2.html
|title=ラニーニャ現象に伴う日本の天候の特徴
|work=エルニーニョ/ラニーニャ現象に関するデータ
|publisher=気象庁
|accessdate=2007-06-29
}}</ref>。
=== 梅雨前線によってもたらされた災害 ===
==== 日本 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!災害名!!期日!!被災地域
|-
|[[阪神大水害]]||[[1938年]][[7月3日]] - [[7月5日|5日]]||[[神戸市]]
|-
|[[昭和28年西日本水害]]||[[1953年]][[6月25日]] - [[6月29日|29日]]||[[北部九州|九州地方北部]]
|-
|[[南紀豪雨]]||1953年[[7月16日]] - [[7月25日|25日]]||[[和歌山県]]
|-
|[[諫早豪雨]]||[[1957年]]7月25日 - [[7月28日|28日]]||[[長崎県]]、[[佐賀県]]、[[熊本県]]
|-
|[[昭和36年梅雨前線豪雨]]||[[1961年]][[6月24日]] - 7月5日||[[東海地方|東海]]、[[北陸地方|北陸]]、[[信越地方|信越]]、[[近畿地方]]、[[九州]]、[[中国地方]]の一部
|-
|[[昭和39年7月山陰北陸豪雨]]||[[1964年]][[7月17日]] - [[7月20日|20日]]||[[山陰地方]]、[[石川県]]、[[富山県]]
|-
|[[昭和42年7月豪雨]]||[[1967年]][[7月8日]] – [[7月9日|9日]]||長崎県、[[瀬戸内海]]沿岸
|-
|[[昭和47年7月豪雨]]||[[1972年]]7月3日 - [[7月15日|15日]]||[[北海道]]と[[東北地方|東北]]、[[四国|四国地方]]の一部を除く全国
|-
|[[昭和49年台風第8号|七夕豪雨]]||1974年[[7月7日]] - 8日||東海地方、瀬戸内海沿岸
|-
|[[長崎大水害|昭和57年7月豪雨(長崎大水害)]]||[[1982年]][[7月23日]] - 25日||長崎県、熊本県、[[山口県]]、佐賀県、[[大分県]]
|-
|[[昭和58年7月豪雨]]||[[1983年]][[7月20日]] - [[7月29日|29日]]||[[島根県]]、東北、北陸地方
|-
|[[7.11水害]]||[[1995年]][[7月11日]] - [[7月12日|12日]]||[[新潟県]]、[[長野県]]、[[富山県]]
|-
|[[6.29豪雨災害]]||[[1999年]][[6月23日]] - 7月3日||[[福岡市]]中心部で浸水、[[広島県]]で土砂災害
|-
| rowspan="2" |[[平成15年7月豪雨]]||[[2003年]]7月8日 - [[7月17日|17日]]||九州地方、山陰地方、北陸地方
|-
|2003年7月下旬||九州地方、熊本県[[水俣市]]で[[水俣土石流|土石流]]
|-
|[[平成16年7月新潟・福島豪雨]]||[[2004年]][[7月12日]] - [[7月14日|14日]]||[[新潟県]]、[[福島県]]
|-
|[[平成16年7月福井豪雨]]||2004年7月17日 - [[7月18日|18日]]||[[福井県]]、[[岐阜県]]
|-
|[[平成18年7月豪雨]]||[[2006年]]7月15日 - [[7月24日|24日]]||九州地方、山陰地方、北陸地方、[[長野県]]
|-
|[[平成21年7月中国・九州北部豪雨]]||[[2009年]]7月19日 - [[7月26日|26日]]||九州地方北部、[[中国地方]]西部
|-
|[[平成23年7月新潟・福島豪雨]]||[[2011年]][[7月26日]] - [[7月30日|30日]]||[[新潟県]]、[[福島県]]
|-
|[[平成24年梅雨前線豪雨]]||[[2012年]]7月3日、12日、13日||[[大分県]]、[[福岡県]]、[[熊本県]]
|-
|[[平成24年7月九州北部豪雨]]||2012年7月11日 - [[7月14日|14日]]||九州地方北部(熊本県、大分県、福岡県)
|-
|[[平成29年7月九州北部豪雨]]||[[2017年]][[6月30日]] - [[7月10日]]||九州地方北部(福岡県、大分県)
|-
|[[平成30年7月豪雨]]||[[2018年]][[7月5日]] - [[7月7日|7日]]||九州地方、中国地方、四国地方、近畿地方、北海道地方など
|-
|[[令和2年7月豪雨]]||[[2020年]][[7月4日]] - ||九州地方、中国地方、四国地方、近畿地方など
|}
==== 梅雨の気象記録 ====
* 最大1時間降水量
** 153{{0|.0}}mm - [[長崎県]][[琴海町|長浦岳]](1982年7月23日、日本の全観測点の観測史上2位)
** 150{{0|.0}}mm - [[熊本県]][[甲佐町|甲佐]](2016年6月21日)
** 129.5mm - [[福岡県]][[朝倉市|朝倉]](2017年7月5日)
** 129{{0|.0}}mm - [[静岡県]][[土肥町|土肥]](2003年[[7月4日]])
** 127.5mm - [[長崎県]][[長崎市|長崎]](1982年7月23日)
** 127{{0|.0}}mm - [[鹿児島県]][[枕崎市|枕崎]](2000年[[6月25日]])
* 最大年間降水量
** 8670{{0|.0}}mm - [[宮崎県]][[えびの市|えびの]]([[1993年]]、日本の全観測点の観測史上1位) - この年は、5月17日に梅雨入り、平年であれば7月中旬ないし下旬に梅雨明けとなるところ、8月に入っても梅雨が続いたどころか、盆を過ぎた8月31日になってもまだ梅雨が明けなかったため、梅雨明けは「特定せず」となり、梅雨期間中の5月に122mm、6月に2,242mm、7月に2,299mm、8月に1,717mmの雨が降った(梅雨入りから8月末までに平年の年間降水量を超える雨が降った。平年の年間降水量は4,582.2mm)。8月にも梅雨の時期が続いた年は観測史上極めてわずかである。
== 梅雨予想の目的 ==
日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは[[1955年]]ごろとされ、「お知らせ」として報道機関に連絡していた<ref name="asahi">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/special/june2005/TKY200506130497.html|title=梅雨って何?(3) どう生かす 「梅雨」への高い関心|newspaper=asahi.com|date=2005-06-13|accessdate=2017-06-07|publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書
|author=浅野芳
|authorlink=浅野芳
|title=お天気おじさんうちあけ話
|origdate=1981-07
|publisher=家の光協会
|id={{ASIN|B000J7XODO}}
|pages=p. 123
}}</ref>。気象情報として発表を始めたのは[[1986年]]になってからである<ref name="asahi"/>。
梅雨の時期を発表することにより、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期としての「梅雨」を知らせることで防災意識を高める<ref name="asahi"/>、多雨・高温多湿が長続きする「梅雨」の時期を知らせることで生活面・経済面での対策を容易にする、「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らせることで季節感を明確にする([[春一番]]、[[木枯らし]]、[[初雪]]などの発表と同様の役割)といった効果が期待されている。
== 梅雨に関連する文化 ==
=== 植物 ===
* [[ツユクサ]](梅雨草)
* [[タチアオイ|ツユアオイ]](梅雨葵)
* [[アジサイ]] - 梅雨の時期に咲く代表的な花。梅雨を表現する際に出てくることが多い。
=== 楽曲 ===
* 雨(作詞:[[北原白秋]]、作曲:[[弘田龍太郎]])
* 雨ふり(作詞:北原白秋、作曲:[[中山晋平]])
* [[雨降りお月さん]](作詞:[[野口雨情]]、作曲:中山晋平)
* 雨降り熊の子
* [[てるてる坊主]](作詞:[[浅原六朗]]、作曲:中山晋平)
* かたつむり(唱歌)
* 五月雨(作詞・作曲・歌:[[大瀧詠一]])
=== 俳句 ===
* 五月雨を 集めて早し 最上川([[松尾芭蕉]])
* 五月雨や 大河を前に 家二軒([[与謝蕪村]])
== 類似の気象現象 ==
; 菜種梅雨
[[File:2023年3月23日6時の日本の天気図.png|thumb|菜種梅雨の天気図]]
: おもに3月後半から4月前半頃の連日降りつづく寒々とした降雨を、[[アブラナ|菜の花]]が咲く頃に降るため「菜種梅雨(なたねづゆ)」という<ref name="lme3">[[#lme|最新気象の事典]] p.389.平塚和夫「菜種梅雨」</ref><ref name="kbk1">{{Cite web|和書|title=菜種梅雨(なたねづゆ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E8%8F%9C%E7%A8%AE%E6%A2%85%E9%9B%A8-155681|website=コトバンク|accessdate=2020-05-31|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、デジタル大辞泉、とっさの日本語便利帳、大辞林 第三版、日本大百科全書(ニッポニカ)、精選版|last=日本国語大辞典、世界大百科事典内言及}}</ref>。梅雨のように何日も降り続いたり、集中豪雨をみたりすることは少ないが、やはり、曇りや雨の日が多く、すっきりしない天気が何日も続くことが多い。
: また、「'''春の長雨'''」や「'''春霖'''(しゅんりん)」、「'''催花雨'''(さいかう)」とも言う<ref name="lme3" /><ref name="nb1">{{Cite web|和書|title=「春の長雨」と「菜種梅雨」、同じ意味? {{!}} ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 {{!}} NHK放送文化研究所|url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/051.html|website=www.nhk.or.jp|accessdate=2020-05-31}}</ref>。「催花雨」は、[[桜]]をはじめいろいろな花を催す(咲かせる)雨という意味である<ref name="lme3" /><ref name="nb1" />。「春雨(はるさめ)」も、この頃の雨を指して言う場合が多く、[[月形半平太]]の名台詞「春雨じゃ、濡(ぬ)れてゆこう」も、草木の芽を張らせ花を咲かせる柔らかい春の雨だからこそ、粋(いき)に聞こえる<ref name="nb1" />。
: なお、[[日本放送協会|NHK]]で「菜種梅雨」を言うときには、必ず説明を付けるようにしている<ref name="nb1" />。
: [[冬]]の間、本州付近を支配していた大陸[[高気圧]]の張り出しや、移動性高気圧の通り道が北に偏り、一方で、その北方高気圧の張り出しの南縁辺に沿って、冷湿な北東気流([[やませ]])が吹いたり、本州南岸沿いに前線が停滞しやすくなるために生じる<ref name="kbk1" />。そのときには南岸に小低気圧が頻繁に発生しやすくなるのもまた特色である。そのため、西 - 東日本太平洋沿岸部にかけていう場合が多く、北日本にはこの現象はみられない。近年は、[[暖冬]]傾向および、[[温暖化]]の影響もあり、菜種梅雨が冬に繰り上がるきらいがあり、気候の変動が懸念される面もある。
: また、菜種梅雨は梅雨のようにずっと続くということはなく、期間は一日中あるいは数日程度のことがほとんどである。
: 例としては、[[1990年]]2月は月の後半を中心に曇雨天続きで、東京での同・月間日照時間は僅か81時間しかならず、大暖冬を象徴するかのようだった。また、[[1985年]]には3月は月全体を通して関東以西の太平洋側地方では冷たい雨の連続で、東京では同年月での[[快晴]]日数は0(梅雨期である6、7月を除いては初のワースト記録)、[[日本気象協会]]発行の天気図日記では「暗い3月」と評される程であった。その他、[[1986年]]、[[1988年]]、[[1991年]]、[[1992年]]、[[1995年]]、[[1999年]]と3月が比較的長いこと曇雨天が持続した影響で、月間日照時間は北日本を除いてかなり少なかったため、[[20世紀]]末にかけての3月は、「菜の花の上にお日様無し」、「行楽受難・鬼門の月」、「花見には 傘など雨具が 必需品」、「卒業式、終業式、離任式はいつも雨」などと不名誉なレッテルが貼られたこともあった。その他、[[2002年]]、[[2006年]]には2月おわりから3月初めにかけて、南岸前線が停滞したり、朝晩中心に雨の降りやすいすっきりしない空が続いて、お天気キャスターの一部では「菜種梅雨の走り?」と評されたりもした。
; 走り梅雨
: おもに5月下旬から梅雨の先駆けのように雨が降り続く状態をいう<ref name="lme1" /><ref name="lme4">[[#lme|最新気象の事典]] p.28.平塚和夫「卯の花くたし」</ref>。ちょうど、その時期が[[ウツギ|卯の花]]が咲く頃にあたり、卯の花を腐らせるような雨ということから、「'''卯の花腐し'''(うのはなくたし)」<ref name="lme4" />と呼ぶことがある。「たけのこ梅雨」<ref name="lme4" />の名もある。[[沖縄県|沖縄]]など南西諸島の梅雨期にあり、南西諸島付近にある[[梅雨前線]]が一時的に本州南岸沿いに北上したときに多くみられる。また、[[オホーツク海高気圧]]が5月前半に出現した場合に[[北東気流]]の影響を受けやすくなるため、関東以北の太平洋側で低温と曇雨天が長続きすることがある。その他、[[メイストーム]]など、日本海や北日本方面を通過する発達した[[低気圧]]の後面に伸びる[[寒冷前線]]が本州を通過して、太平洋側に達した後、南海上の優勢な[[高気圧]]の北側に沿って、そのまま[[停滞前線]]と化して、太平洋側、おもに東日本太平洋沿岸部でしばらくぐずつき天気が続くケースもそのたぐいである。
; 秋雨
: おもに9月から10月上旬頃(地域によって時期に差がある)の長雨の時期をいう。大陸からの高気圧の張り出しが強まり、前線が南下して雨となる<ref name="lme5">[[#lme|最新気象の事典]] p.226.朝倉正「秋霖」</ref>。「'''秋霖'''(しゅうりん)」<ref name="lme5" />、「'''[[ススキ|薄]]'''(すすき)'''梅雨'''」などとも呼ぶ。
: {{Main|秋雨}}
; 山茶花梅雨
: おもに11月下旬から12月上旬にかけての、連続した降雨を「山茶花(さざんか)梅雨」という。[[サザンカ|山茶花]]が咲く頃に降るためこの名前がある。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 児玉安正、山田広幸「アジアの梅雨・世界の梅雨」、『天気』54巻6号、[[日本気象学会]]、7 - 10頁、2007年6月 {{NAID|110006317416}}
* {{Anchors|lme}}『最新気象の事典』、東京堂出版、1993年 ISBN 4-490-10328-X
* {{Anchors|kmd}}新田尚、伊藤朋之、木村龍治、住明正、安成哲三(編) 『キーワード 気象の事典』、朝倉書店、2002年 ISBN 4-254-16115-8
* {{Anchors|fhb}}日本気象予報士会(編) 『気象予報士ハンドブック』、オーム社、2008年 ISBN 978-4-274-20635-1
* {{Anchors|ydbaiu}}「[https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A2%85%E9%9B%A8%EF%BC%88%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%86%EF%BC%89/ 梅雨(ばいう)]」、Yahoo!百科事典(日本大百科全書)、小学館、2013年9月1日閲覧{{リンク切れ|date=2014年6月}}
== 関連項目 ==
{{Wikinews|Category:梅雨|梅雨}}
{{Wiktionary|梅雨}}
{{Wikiquote|五月雨}}
* [[つゆ]]
* [[入梅]]
* [[秋雨]]
== 外部リンク ==
* [https://www.data.jma.go.jp/cpd/baiu/ 気象庁|過去の梅雨入りと梅雨明け]
* {{Kotobank}}
{{デフォルトソート:つゆ}}
[[Category:雨]]
[[Category:春]]
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シーボーギウム
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シーボーギウム(Seaborgium)は、元素記号Sg、原子番号106の化学元素である。アメリカ合衆国の核化学者グレン・シーボーグに因んで名付けられた。合成元素であり、研究室内で作られるが、天然には存在しない。放射性を持ち、最も安定な既知の同位体であるシーボーギウム269の半減期は約14分である。
周期表上では、dブロック元素である。第7周期元素、第6族元素であり、化学実験により、第6族元素のタングステンのホモログとして振る舞うことが確認されている。シーボーギウムの化学的性質は部分的に確認されており、第6族元素の他の元素の化学的性質から予測されるものと一致している。
1974年、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究室で、いくつかの原子が合成された。発見と命名の優先権は、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究者の間で議論となったが、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は1997年にこの元素の公式名称をシーボーギウムとすることを決定した。存命人物の名前から命名された元素は、118番元素のオガネソンとこの元素だけである。
重い原子核は、2つの異なる原子核の核融合反応により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、クーロンの法則により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、強い相互作用がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、加速器で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)。核融合が起こる場合、複合核と呼ばれる一時的な融合状態が励起状態となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る。この事象は、最初の衝突の約10秒後に起こる。
粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され、表面障壁型半導体検出器に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される。移送には約10秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される。
原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子(陽子と中性子)が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない。そのため、重元素の原子核は、このような反発によるアルファ崩壊や自発核分裂のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない。
重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる。
1970年にローレンス・リバモア国立研究所のアルバート・ギオルソが104番元素(ラザホージウム)と105番元素(ドブニウム)の発見を主張した後、106番元素の発見を目指して、カリホルニウム249原子核に酸素18を照射する実験が行われた。9.1 MeVのアルファ崩壊が何度か報告され、これは現在では106番元素に由来するものと考えられているが、当時は確定しなかった。1972年、重イオン線形加速器のアップグレードが行われ、これによりチームは実験を繰り返すことができなくなり、またシャットダウン中はデータ分析が行われなくなってしまった。1974年にこの実験が繰り返され、バークレーのチームは、彼らの新しいデータが1971年のデータと一致していることに気付いた。従って、データをより注意深く分析していれば、106番元素は1971年に発見されていたはずである。
2つのグループがこの元素の発見を主張した。106番元素発見の明確な証拠が1974年にユーリイ・オガネシアンの率いるロシアのドゥブナ合同原子核研究所のチームから初めて報告された。このチームは、鉛208及び鉛207原子核を標的として加速したクロム54イオンを照射して合成を行った。半減期が4-10ミリ秒の自発核分裂が合計で51回観測された。チームは、核子移行反応に由来するものを除外した後、この反応の主原因は106番元素の同位体の自発核分裂である可能性が最も高いと結論付けた。この同位体は、当初シーボーギウム259と提案されたが、後にシーボーギウム260と訂正された。
この年の数か月後、カリフォルニア大学バークレー校のグレン・シーボーグ、キャロル・アロンソ、アルバート・ギオルソ、またローレンス・リバモア国立研究所のケネス・ヒューレットを含むチームは、この5年前に104番元素を合成したのと似た装置を用いてカリホルニウム249を標的に酸素18イオンを照射し、半減期0.9±0.2秒のシーボーギウム263mと思われる原子核に由来する、少なくとも70回のアルファ崩壊を観測した。娘核のラザホージウム259と孫娘核のノーベリウム255は、以前に合成されており、ここで観測された性質は、既知の性質と良く一致していた。観測された反応の反応断面積は0.3ナノバーンで、やはり理論的予測と良く一致していた。これらの結果は、このアルファ崩壊がシーボーギウム263mに由来するものであるという確からしさを高めた。
105番元素までの発見の場合とは異なり、発見を主張するどちらのチームも新元素への命名の提案を公表しなかったため、新元素命名にかかる論争は一時的に回避されたが、1992年まで続いた。IUPAC/IUPAP超フェルミウム元素作業部会(TWG)は、101番元素から112番元素の発見に関する主張に結論を出すために組織された。106番元素については、ソ連によるSg発見の主張は証拠が不十分である一方、アメリカによるSgの発見の主張は、既知の娘核に基づいており、信頼できると判断された。その結果、TWGは、1993年の報告書の中で、バークレーのチームを公式な発見者として認定した。
シーボーグはかつて、104番元素、105番元素の公式な発見者としてバークレーが認定された場合、106番元素に対しては、ドゥブナのチームに敬意を表して、ドゥブナのチームが104番元素に対して命名を提案していた、ソビエト連邦の核研究を率いたイーゴリ・クルチャトフの名前に因むクルチャトビウム(記号:Kt)という名前を提案すると、TWGに対して言及していた。しかし、TWGの報告の公表後に、バークレーのチームが特に104番元素に関するTWGの決定に激しい異議を唱えたことから両チームの関係が悪化したこともあり、この案は候補から除外された。そのため、正式な発見者として認められた後で、バークレーのチームは本格的に命名の検討を開始した。
シーボーグの息子であるエリックは、命名の経緯について以下のように述懐している。
シーボーギウムという名前とSgという記号は、1994年3月に開催された第207回アメリカ化学会総会で、発見者の1人であるケネス・ヒューレットにより発表された。しかし、IUPACは1994年8月に、存命人物からの元素の命名を禁止することを決定した。当時、シーボーグは存命であったため、IUPACは翌9月、104番元素から109番元素の発見を主張する3つの研究所(3つ目はドイツの重イオン研究所)から提案された名前をこの6つの新元素に割り当てる案を勧告した。104番元素に対するバークレーからの提案である「ラザホージウム」という名前は106番元素に割り当てられ、シーボーギウムという命名は、元素名としては一旦完全に削除された。
この決定は、新元素の発見者が命名権を有するという伝統を無視し、存命人物を元素名の由来とすることを遡及的に禁止するもので、世界的な抗議の嵐が巻き起こった。アメリカ化学会は、104番元素から109番元素に対するアメリカとドイツの他の全ての命名提案とともに、106番元素に対するシーボーギウムという命名を支持し、IUPACの勧告を無視して、学会誌でこれらの命名を承認した。当初、IUPACは自己弁護し、アメリカ人委員は「新元素の発見者は、発見した元素に対して命名を提案する権利を持つが、決定する権利はない。そしてもちろん、私たちはその権利を全く侵害していない」と記した。しかし、シーボーグは次のように答えた。
IUPACは世論の圧力に屈して、1995年8月にシーボーギウムの名前を復活させる代わりに、もう1つを除いた他の全てのアメリカの提案を撤回するという妥協案を提示したが、反応はより悪かった。最終的にIUPACは、これらの妥協案を撤回し、1997年8月に最終的な新勧告を出した。この中で、106番元素のシーボーギウムを含む104番元素から109番元素についてのアメリカとドイツの提案をほぼ認定し、ただし、105番元素だけは例外的に、超アクチノイド元素合成の実験手順に対するドゥブナのチームの貢献に敬意を表して、ドブニウムと名付けた。この元素名のリストは、最終的にはアメリカ化学会にも承認され、アメリカ化学会は次のように記した。
シーボーグは、この命名に対して、以下のようにコメントした。
シーボーグはこの1年半後の1999年2月25日に86歳で死去した。
シーボーギウムのような超重元素は、加速器の中で、より軽い元素を衝突させ、核融合反応を起こさせることにより合成する。シーボーギウムの同位体の大部分はこの方法で直接合成できるが、より重い同位体のいくつかは原子番号のより大きい元素の崩壊生成物としてのみ生成する。
エネルギーに応じて、超重元素を生成する核融合反応は、熱核融合と常温核融合の2種類に分けられる。熱核融合では、非常に軽く高エネルギーの粒子が非常に重い標的(アクチノイド)に向かって加速され、高励起エネルギー(~40-50 MeV)の複合核が形成し、これが核分裂するか、3-5個の中性子を放出する。常温核融合では、合成された融合核は比較的低い励起エネルギー(~10-20 MeV)で、生成した核が核融合反応を起こす可能性は低い。融合した核が基底状態まで冷えると、1つか2つの中性子の放出のみが起こり、より中性子に富んだ生成物ができる。後者は、室温で核融合が達成されることとは、異なる概念である。
シーボーギウムは、安定同位体や天然に存在する同位体を持たない。いくつかの放射性同位体が、2つの原子の融合やより重い元素の崩壊により、研究室内で作られている。原子量258-269と271の13種類の同位体が報告されており、そのうち、原子量261、263、265の3つは準安定状態を持つことが知られている。電子捕獲によりドブニウム261となるシーボーギウム261を唯一の例外として、これら全ての崩壊は、アルファ崩壊か自発核分裂によるものである。
より重い同位体ほど半減期が長い傾向があり、既知の最も重いSg、Sg、Sgの3つは、数分の半減期を持つ。この領域内のいくつかの他の同位体は、これに匹敵するかより長い半減期を持つと予測される。さらに、Sg、Sg、Sgの3つは、数秒の半減期を持つ。残りの全ての同位体の半減期は、わずか92マイクロ秒の半減期を持つSgを除き、数ミリ秒である。
陽子に富む同位体であるSg-Sgは、常温核融合により直接合成され、これより重い同位体は、アクチノイド標的への照射による熱核融合で直接合成できるSg、Sg、SgSgを除き全て、より重い元素であるハッシウム、ダームスタチウム、フレロビウムからアルファ崩壊を繰り返すことにより生成する。12の同位体の半減期は、Sgの92マイクロ秒からSgの14分までの範囲にある。
シーボーギウムやその化合物の性質はほとんど測定されていない。これは、合成が非常に限られておりまた高価であることや非常に早く崩壊することが原因である。いくつかの化学的性質は測定されているが、金属シーボーギウムの性質は未知のままであり、予測値のみが利用可能である。
標準状態では固体であり、より軽い同族体のタングステンと同様に、結晶構造は体心立方格子になると予測される。初期には、密度が35.0 g/cmと非常に大きくなると予測されたが、2011年と2013年には、いくらか小さい値である23-24 g/cmと計算された。
シーボーギウムは、6dブロックの4番目の遷移元素である。周期表上ではクロム、モリブデン、タングステンの下に位置し、最も重い第6族元素である。第6族の全ての元素は、様々なオキソアニオンを形成する。+6の酸化状態を取りやすいが、これはクロムの場合は高い酸化状態であり、第6族の下の方の元素ほど安定する。実際に、タングステンは最後の5d遷移金属で、4つ全ての5d電子が金属結合に関与している。同様に、シーボーギウムは気相及び水溶液の両方で+6の酸化状態が最も安定であり、実験的に知られている唯一の酸化状態である。+5と+4の酸化状態は安定性が低く、クロムでは最も一般的な+3の状態は、シーボーギウムでは最も安定性が低い。
6d軌道と7s軌道のエネルギーが近いことから7s軌道が相対論的に安定化する一方、6d軌道が相対論的に不安定化するため、このように最も高い酸化状態が安定になる現象は、6dブロックの初期の元素で起こる。この現象は第6周期で大きくなるため、シーボーギウムは7s電子の前に6d電子を失うと予測されている(Sg, [Rn]5f6d7s; Sg, [Rn]5f6d7s; Sg, [Rn]5f6d7s; Sg, [Rn]5f6d; Sg, [Rn]5f)。7s軌道が大きく不安定化するため、SgはWよりも不安定であり、Sgに非常に容易に酸化される。6配位のSgのイオン半径は65 pm、原子半径は128 pmと予測される。それにも関わらず、最も高い酸化状態の安定性はLr > Rf > Db > Sgの順に低下すると予測される。酸性水溶液中のシーボーギウムイオンの標準還元電位は、以下のように予測されている。
シーボーギウムは非常に揮発性の高い六フッ化物(SgF)の他に、 適度な揮発性を持つ六塩化物(SgCl)、五塩化物(SgCl)、酸塩化物(SgOCl及びSgOCl)を形成する。SgOClはシーボーギウムの酸塩化物の中では最も安定であると推測され、第6族元素の酸塩化物の中では最も揮発性が低い(MoOCl > WOCl > SgOCl)。SgClやSgOClは、MoClやMoOClと同様に、高温では不安定で、シーボーギウム(V)に分解すると予測される。SgOClでは、Sg-Cl結合長は似ているものの、HOMO/LUMOのエネルギーギャップがずっと大きいため、この分解は起こらない。
モリブデンとタングステンは互いに非常に似ているが、より小さなクロムとはかなり違いがある。シーボーギウムは、タングステンとモリブデンの化学的性質に非常によく似ていると予想され、さらに多種多様なオキソアニオンを形成する。その中で最も単純なものはシーボーグ酸塩SgOである。これはSg(H2O)6の急速加水分解により形成されるが、シーボーギウムが大きいため、モリブデンやタングステンと比べて形成は容易ではない。フッ化水素酸中では、低濃度ではタングステンと比べて加水分解されにくいが、高濃度では加水分解されやすく、SgO3FやSgOF5等の錯体も形成する。フッ化水素酸中で、錯体の形成は加水分解と競合する。
シーボーギウムの化学実験は、一度に1つの原子を生成する必要があること、半減期の短さ、またその結果、厳しい実験条件が必要になることから、容易ではなかった。Sg及びその異性体のSgは放射化学の実験を行いやすい。これらは、Cm(Ne,5n)の反応により生成する。
シーボーギウムの化学実験は、1995-1996年に初めて行われた。シーボーギウム原子はCm(Ne,4n)Sgの反応により合成され、加熱されてO2/HCl混合物と反応させられた。生じた酸塩化物の吸着特性が測定され、モリブデンやタングステンの化合物と比較された。この結果は、シーボーギウムが他の第6族元素と似た揮発性の酸塩化物を形成することを示しており、第6族の酸塩化物の揮発性が減少する傾向が確かめられた。
2001年、ある研究チームは、H2環境下でシーボーギウムを酸素と反応させ、気相化学の研究を続けた。酸塩化物を形成するのと似た方法で、実験の結果は、より軽い同族体や擬同族体のウランでよく知られているように、シーボーギウムの水酸化酸化物が形成された。
シーボーギウムの水溶液の化学については、多くの予測が確認されている。1997-1998年に行われた実験では、シーボーギウムは、HNO3/HF溶液を用いて、恐らくSgO2ではなく、中性のSgO2F2または陰イオン錯体[SgO2F3]として陽イオン交換樹脂から溶出した。対照的に、0.1 Mの硝酸では、モリブデンやタングステンの場合とは異なり、シーボーギウムは溶出せず、モリブデンやタングステンの加水分解が中性の[MO2(OH)2)]に進むのに対し、[Sg(H2O)6]の加水分解が陽イオン錯体[Sg(OH)4(H2O)]または[Sg(OH)3(H2O)H2]まで進むことを示唆している。
+6以外で知られているシーボーギウムの唯一の酸化状態は、0である。各々ヘキサカルボニルクロム、ヘキサカルボニルモリブデン、ヘキサカルボニルタングステンを形成する同族体と同様に、ヘキサカルボニルシーボーギウム(Sg(CO)6)が形成されることが2014年に示された。モリブデン及びタングステンのホモログと同様に、ヘキサカルボニルシーボーギウムは揮発性であり、二酸化ケイ素と容易に反応する。
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"text": "1970年にローレンス・リバモア国立研究所のアルバート・ギオルソが104番元素(ラザホージウム)と105番元素(ドブニウム)の発見を主張した後、106番元素の発見を目指して、カリホルニウム249原子核に酸素18を照射する実験が行われた。9.1 MeVのアルファ崩壊が何度か報告され、これは現在では106番元素に由来するものと考えられているが、当時は確定しなかった。1972年、重イオン線形加速器のアップグレードが行われ、これによりチームは実験を繰り返すことができなくなり、またシャットダウン中はデータ分析が行われなくなってしまった。1974年にこの実験が繰り返され、バークレーのチームは、彼らの新しいデータが1971年のデータと一致していることに気付いた。従って、データをより注意深く分析していれば、106番元素は1971年に発見されていたはずである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2つのグループがこの元素の発見を主張した。106番元素発見の明確な証拠が1974年にユーリイ・オガネシアンの率いるロシアのドゥブナ合同原子核研究所のチームから初めて報告された。このチームは、鉛208及び鉛207原子核を標的として加速したクロム54イオンを照射して合成を行った。半減期が4-10ミリ秒の自発核分裂が合計で51回観測された。チームは、核子移行反応に由来するものを除外した後、この反応の主原因は106番元素の同位体の自発核分裂である可能性が最も高いと結論付けた。この同位体は、当初シーボーギウム259と提案されたが、後にシーボーギウム260と訂正された。",
"title": "歴史"
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"text": "この年の数か月後、カリフォルニア大学バークレー校のグレン・シーボーグ、キャロル・アロンソ、アルバート・ギオルソ、またローレンス・リバモア国立研究所のケネス・ヒューレットを含むチームは、この5年前に104番元素を合成したのと似た装置を用いてカリホルニウム249を標的に酸素18イオンを照射し、半減期0.9±0.2秒のシーボーギウム263mと思われる原子核に由来する、少なくとも70回のアルファ崩壊を観測した。娘核のラザホージウム259と孫娘核のノーベリウム255は、以前に合成されており、ここで観測された性質は、既知の性質と良く一致していた。観測された反応の反応断面積は0.3ナノバーンで、やはり理論的予測と良く一致していた。これらの結果は、このアルファ崩壊がシーボーギウム263mに由来するものであるという確からしさを高めた。",
"title": "歴史"
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"text": "105番元素までの発見の場合とは異なり、発見を主張するどちらのチームも新元素への命名の提案を公表しなかったため、新元素命名にかかる論争は一時的に回避されたが、1992年まで続いた。IUPAC/IUPAP超フェルミウム元素作業部会(TWG)は、101番元素から112番元素の発見に関する主張に結論を出すために組織された。106番元素については、ソ連によるSg発見の主張は証拠が不十分である一方、アメリカによるSgの発見の主張は、既知の娘核に基づいており、信頼できると判断された。その結果、TWGは、1993年の報告書の中で、バークレーのチームを公式な発見者として認定した。",
"title": "歴史"
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"text": "シーボーグはかつて、104番元素、105番元素の公式な発見者としてバークレーが認定された場合、106番元素に対しては、ドゥブナのチームに敬意を表して、ドゥブナのチームが104番元素に対して命名を提案していた、ソビエト連邦の核研究を率いたイーゴリ・クルチャトフの名前に因むクルチャトビウム(記号:Kt)という名前を提案すると、TWGに対して言及していた。しかし、TWGの報告の公表後に、バークレーのチームが特に104番元素に関するTWGの決定に激しい異議を唱えたことから両チームの関係が悪化したこともあり、この案は候補から除外された。そのため、正式な発見者として認められた後で、バークレーのチームは本格的に命名の検討を開始した。",
"title": "歴史"
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"text": "シーボーグの息子であるエリックは、命名の経緯について以下のように述懐している。",
"title": "歴史"
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"text": "シーボーギウムという名前とSgという記号は、1994年3月に開催された第207回アメリカ化学会総会で、発見者の1人であるケネス・ヒューレットにより発表された。しかし、IUPACは1994年8月に、存命人物からの元素の命名を禁止することを決定した。当時、シーボーグは存命であったため、IUPACは翌9月、104番元素から109番元素の発見を主張する3つの研究所(3つ目はドイツの重イオン研究所)から提案された名前をこの6つの新元素に割り当てる案を勧告した。104番元素に対するバークレーからの提案である「ラザホージウム」という名前は106番元素に割り当てられ、シーボーギウムという命名は、元素名としては一旦完全に削除された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "この決定は、新元素の発見者が命名権を有するという伝統を無視し、存命人物を元素名の由来とすることを遡及的に禁止するもので、世界的な抗議の嵐が巻き起こった。アメリカ化学会は、104番元素から109番元素に対するアメリカとドイツの他の全ての命名提案とともに、106番元素に対するシーボーギウムという命名を支持し、IUPACの勧告を無視して、学会誌でこれらの命名を承認した。当初、IUPACは自己弁護し、アメリカ人委員は「新元素の発見者は、発見した元素に対して命名を提案する権利を持つが、決定する権利はない。そしてもちろん、私たちはその権利を全く侵害していない」と記した。しかし、シーボーグは次のように答えた。",
"title": "歴史"
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"text": "IUPACは世論の圧力に屈して、1995年8月にシーボーギウムの名前を復活させる代わりに、もう1つを除いた他の全てのアメリカの提案を撤回するという妥協案を提示したが、反応はより悪かった。最終的にIUPACは、これらの妥協案を撤回し、1997年8月に最終的な新勧告を出した。この中で、106番元素のシーボーギウムを含む104番元素から109番元素についてのアメリカとドイツの提案をほぼ認定し、ただし、105番元素だけは例外的に、超アクチノイド元素合成の実験手順に対するドゥブナのチームの貢献に敬意を表して、ドブニウムと名付けた。この元素名のリストは、最終的にはアメリカ化学会にも承認され、アメリカ化学会は次のように記した。",
"title": "歴史"
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"text": "シーボーグは、この命名に対して、以下のようにコメントした。",
"title": "歴史"
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"text": "シーボーグはこの1年半後の1999年2月25日に86歳で死去した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "シーボーギウムのような超重元素は、加速器の中で、より軽い元素を衝突させ、核融合反応を起こさせることにより合成する。シーボーギウムの同位体の大部分はこの方法で直接合成できるが、より重い同位体のいくつかは原子番号のより大きい元素の崩壊生成物としてのみ生成する。",
"title": "同位体"
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{
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"text": "エネルギーに応じて、超重元素を生成する核融合反応は、熱核融合と常温核融合の2種類に分けられる。熱核融合では、非常に軽く高エネルギーの粒子が非常に重い標的(アクチノイド)に向かって加速され、高励起エネルギー(~40-50 MeV)の複合核が形成し、これが核分裂するか、3-5個の中性子を放出する。常温核融合では、合成された融合核は比較的低い励起エネルギー(~10-20 MeV)で、生成した核が核融合反応を起こす可能性は低い。融合した核が基底状態まで冷えると、1つか2つの中性子の放出のみが起こり、より中性子に富んだ生成物ができる。後者は、室温で核融合が達成されることとは、異なる概念である。",
"title": "同位体"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "シーボーギウムは、安定同位体や天然に存在する同位体を持たない。いくつかの放射性同位体が、2つの原子の融合やより重い元素の崩壊により、研究室内で作られている。原子量258-269と271の13種類の同位体が報告されており、そのうち、原子量261、263、265の3つは準安定状態を持つことが知られている。電子捕獲によりドブニウム261となるシーボーギウム261を唯一の例外として、これら全ての崩壊は、アルファ崩壊か自発核分裂によるものである。",
"title": "同位体"
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{
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"tag": "p",
"text": "より重い同位体ほど半減期が長い傾向があり、既知の最も重いSg、Sg、Sgの3つは、数分の半減期を持つ。この領域内のいくつかの他の同位体は、これに匹敵するかより長い半減期を持つと予測される。さらに、Sg、Sg、Sgの3つは、数秒の半減期を持つ。残りの全ての同位体の半減期は、わずか92マイクロ秒の半減期を持つSgを除き、数ミリ秒である。",
"title": "同位体"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "陽子に富む同位体であるSg-Sgは、常温核融合により直接合成され、これより重い同位体は、アクチノイド標的への照射による熱核融合で直接合成できるSg、Sg、SgSgを除き全て、より重い元素であるハッシウム、ダームスタチウム、フレロビウムからアルファ崩壊を繰り返すことにより生成する。12の同位体の半減期は、Sgの92マイクロ秒からSgの14分までの範囲にある。",
"title": "同位体"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "シーボーギウムやその化合物の性質はほとんど測定されていない。これは、合成が非常に限られておりまた高価であることや非常に早く崩壊することが原因である。いくつかの化学的性質は測定されているが、金属シーボーギウムの性質は未知のままであり、予測値のみが利用可能である。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "標準状態では固体であり、より軽い同族体のタングステンと同様に、結晶構造は体心立方格子になると予測される。初期には、密度が35.0 g/cmと非常に大きくなると予測されたが、2011年と2013年には、いくらか小さい値である23-24 g/cmと計算された。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "シーボーギウムは、6dブロックの4番目の遷移元素である。周期表上ではクロム、モリブデン、タングステンの下に位置し、最も重い第6族元素である。第6族の全ての元素は、様々なオキソアニオンを形成する。+6の酸化状態を取りやすいが、これはクロムの場合は高い酸化状態であり、第6族の下の方の元素ほど安定する。実際に、タングステンは最後の5d遷移金属で、4つ全ての5d電子が金属結合に関与している。同様に、シーボーギウムは気相及び水溶液の両方で+6の酸化状態が最も安定であり、実験的に知られている唯一の酸化状態である。+5と+4の酸化状態は安定性が低く、クロムでは最も一般的な+3の状態は、シーボーギウムでは最も安定性が低い。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "6d軌道と7s軌道のエネルギーが近いことから7s軌道が相対論的に安定化する一方、6d軌道が相対論的に不安定化するため、このように最も高い酸化状態が安定になる現象は、6dブロックの初期の元素で起こる。この現象は第6周期で大きくなるため、シーボーギウムは7s電子の前に6d電子を失うと予測されている(Sg, [Rn]5f6d7s; Sg, [Rn]5f6d7s; Sg, [Rn]5f6d7s; Sg, [Rn]5f6d; Sg, [Rn]5f)。7s軌道が大きく不安定化するため、SgはWよりも不安定であり、Sgに非常に容易に酸化される。6配位のSgのイオン半径は65 pm、原子半径は128 pmと予測される。それにも関わらず、最も高い酸化状態の安定性はLr > Rf > Db > Sgの順に低下すると予測される。酸性水溶液中のシーボーギウムイオンの標準還元電位は、以下のように予測されている。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "シーボーギウムは非常に揮発性の高い六フッ化物(SgF)の他に、 適度な揮発性を持つ六塩化物(SgCl)、五塩化物(SgCl)、酸塩化物(SgOCl及びSgOCl)を形成する。SgOClはシーボーギウムの酸塩化物の中では最も安定であると推測され、第6族元素の酸塩化物の中では最も揮発性が低い(MoOCl > WOCl > SgOCl)。SgClやSgOClは、MoClやMoOClと同様に、高温では不安定で、シーボーギウム(V)に分解すると予測される。SgOClでは、Sg-Cl結合長は似ているものの、HOMO/LUMOのエネルギーギャップがずっと大きいため、この分解は起こらない。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "モリブデンとタングステンは互いに非常に似ているが、より小さなクロムとはかなり違いがある。シーボーギウムは、タングステンとモリブデンの化学的性質に非常によく似ていると予想され、さらに多種多様なオキソアニオンを形成する。その中で最も単純なものはシーボーグ酸塩SgOである。これはSg(H2O)6の急速加水分解により形成されるが、シーボーギウムが大きいため、モリブデンやタングステンと比べて形成は容易ではない。フッ化水素酸中では、低濃度ではタングステンと比べて加水分解されにくいが、高濃度では加水分解されやすく、SgO3FやSgOF5等の錯体も形成する。フッ化水素酸中で、錯体の形成は加水分解と競合する。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "シーボーギウムの化学実験は、一度に1つの原子を生成する必要があること、半減期の短さ、またその結果、厳しい実験条件が必要になることから、容易ではなかった。Sg及びその異性体のSgは放射化学の実験を行いやすい。これらは、Cm(Ne,5n)の反応により生成する。",
"title": "シーボーギウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "シーボーギウムの化学実験は、1995-1996年に初めて行われた。シーボーギウム原子はCm(Ne,4n)Sgの反応により合成され、加熱されてO2/HCl混合物と反応させられた。生じた酸塩化物の吸着特性が測定され、モリブデンやタングステンの化合物と比較された。この結果は、シーボーギウムが他の第6族元素と似た揮発性の酸塩化物を形成することを示しており、第6族の酸塩化物の揮発性が減少する傾向が確かめられた。",
"title": "シーボーギウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2001年、ある研究チームは、H2環境下でシーボーギウムを酸素と反応させ、気相化学の研究を続けた。酸塩化物を形成するのと似た方法で、実験の結果は、より軽い同族体や擬同族体のウランでよく知られているように、シーボーギウムの水酸化酸化物が形成された。",
"title": "シーボーギウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "シーボーギウムの水溶液の化学については、多くの予測が確認されている。1997-1998年に行われた実験では、シーボーギウムは、HNO3/HF溶液を用いて、恐らくSgO2ではなく、中性のSgO2F2または陰イオン錯体[SgO2F3]として陽イオン交換樹脂から溶出した。対照的に、0.1 Mの硝酸では、モリブデンやタングステンの場合とは異なり、シーボーギウムは溶出せず、モリブデンやタングステンの加水分解が中性の[MO2(OH)2)]に進むのに対し、[Sg(H2O)6]の加水分解が陽イオン錯体[Sg(OH)4(H2O)]または[Sg(OH)3(H2O)H2]まで進むことを示唆している。",
"title": "シーボーギウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "+6以外で知られているシーボーギウムの唯一の酸化状態は、0である。各々ヘキサカルボニルクロム、ヘキサカルボニルモリブデン、ヘキサカルボニルタングステンを形成する同族体と同様に、ヘキサカルボニルシーボーギウム(Sg(CO)6)が形成されることが2014年に示された。モリブデン及びタングステンのホモログと同様に、ヘキサカルボニルシーボーギウムは揮発性であり、二酸化ケイ素と容易に反応する。",
"title": "シーボーギウムに関する実験"
}
] |
シーボーギウム(Seaborgium)は、元素記号Sg、原子番号106の化学元素である。アメリカ合衆国の核化学者グレン・シーボーグに因んで名付けられた。合成元素であり、研究室内で作られるが、天然には存在しない。放射性を持ち、最も安定な既知の同位体であるシーボーギウム269の半減期は約14分である。 周期表上では、dブロック元素である。第7周期元素、第6族元素であり、化学実験により、第6族元素のタングステンのホモログとして振る舞うことが確認されている。シーボーギウムの化学的性質は部分的に確認されており、第6族元素の他の元素の化学的性質から予測されるものと一致している。 1974年、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究室で、いくつかの原子が合成された。発見と命名の優先権は、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究者の間で議論となったが、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は1997年にこの元素の公式名称をシーボーギウムとすることを決定した。存命人物の名前から命名された元素は、118番元素のオガネソンとこの元素だけである。
|
{{要改訳|date=2023年1月}}
{{Elementbox
|name=seaborgium
|japanese name=シーボーギウム
|pronounce={{IPAc-en|seaborgium.ogg|s|iː|ˈ|b|ɔr|ɡ|i|əm}} {{respell|see|BOR|gee-əm}}
|number=106
|symbol=Sg
|left=[[ドブニウム]]
|right=[[ボーリウム]]
|above=[[タングステン|W]]
|below=[[ウンペントヘキシウム|Uph]]
|series=遷移金属
|group=6
|period=7
|block=d
|appearance=不明
|atomic mass=[271]
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 5f<sup>14</sup> 6d<sup>4</sup> 7s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 32, 12, 2(推定)
|phase=固体
|phase comment=推定
|density gpcm3nrt=35 (推定)
|crystal structure=
|oxidation states=6
|atomic radius calculated=
|covalent radius=143
|CAS number=54038-81-2
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム258|258]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-3 s|2.9 ms]]
| dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム259|259]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-1 s|0.48 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=9.62, 9.36, 9.03 | pn=[[ラザホージウム255|255]] | ps=[[ラザホージウム|Rf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[シーボーギウム260|260]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-3 s|3.6 ms]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (26%) | de1=9.81, 9.77, 9.72 | pn1=[[ラザホージウム256|256]] | ps1=[[ラザホージウム|Rf]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] (74%) | de2= | pn2= | ps2=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム261m|261m]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-6 s|9 µs]]
| dm=[[内部転換|IC]] | de= | pn=[[シーボーギウム261g|261g]] | ps=Sg}}
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[シーボーギウム261g|261g]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-1 s|0.18 s]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (98.1%) | de1=9.62, 9.55, 9.47, 9.42, 9.37 | pn1=[[ラザホージウム257|257]] | ps1=[[ラザホージウム|Rf]]
| dm2=[[電子捕獲|ε]] (1.3%) | de2= | pn2=[[ドブニウム261|261]] | ps2=[[ドブニウム|Db]]
| dm3=[[自発核分裂|SF]] (0.6%) |de3= |pn3= |ps3=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム262|262]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-2 s|15 ms]]
| dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[シーボーギウム263m|263m]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-1 s|0.9 s]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (87%) | de1=9.25 | pn1=[[ラザホージウム259|259]] | ps1=[[ラザホージウム|Rf]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] (13%) | de2= | pn2= | ps2=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム263g|263g]] | sym=Sg
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| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=9.06 | pn=[[ラザホージウム259|259]] | ps=[[ラザホージウム|Rf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム264|264]] | sym=Sg
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| dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム265a|265a]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E0 s|8.9 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.90, 8.84, 8.76 | pn=[[ラザホージウム261|261]] | ps=[[ラザホージウム|Rf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム265b|265b]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|16.2 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.70 | pn=[[ラザホージウム261g|261g]] | ps=[[ラザホージウム|Rf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム266|266]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-1 s|0.36 s]]
| dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[シーボーギウム269|269]] | sym=Sg
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| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.56 | pn=[[ラザホージウム265|265]] | ps=[[ラザホージウム|Rf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[シーボーギウム271|271]] | sym=Sg
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E2 s|1.9 min]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (67%) | de1=8.54 | pn1=[[ラザホージウム267|267]] | ps1=[[ラザホージウム|Rf]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] (33%) | de2= | pn2= | ps2=}}
|isotopes comment=
}}
'''シーボーギウム'''(Seaborgium)は、[[元素記号]]Sg、[[原子番号]]106の化学[[元素]]である。[[アメリカ合衆国]]の[[核化学]]者[[グレン・シーボーグ]]に因んで名付けられた。[[合成元素]]であり、研究室内で作られるが、天然には存在しない。[[放射性]]を持ち、最も安定な既知の[[同位体]]である[[シーボーギウム269]]の[[半減期]]は約14分である<ref name="PuCa2017">{{cite journal |last1=Utyonkov |first1=V. K. |last2=Brewer |first2=N. T. |first3=Yu. Ts. |last3=Oganessian |first4=K. P. |last4=Rykaczewski |first5=F. Sh. |last5=Abdullin |first6=S. N. |last6=Dimitriev |first7=R. K. |last7=Grzywacz |first8=M. G. |last8=Itkis |first9=K. |last9=Miernik |first10=A. N. |last10=Polyakov |first11=J. B. |last11=Roberto |first12=R. N. |last12=Sagaidak |first13=I. V. |last13=Shirokovsky |first14=M. V. |last14=Shumeiko |first15=Yu. S. |last15=Tsyganov |first16=A. A. |last16=Voinov |first17=V. G. |last17=Subbotin |first18=A. M. |last18=Sukhov |first19=A. V. |last19=Karpov |first20=A. G. |last20=Popeko |first21=A. V. |last21=Sabel'nikov |first22=A. I. |last22=Svirikhin |first23=G. K. |last23=Vostokin |first24=J. H. |last24=Hamilton |first25=N. D. |last25=Kovrinzhykh |first26=L. |last26=Schlattauer |first27=M. A. |last27=Stoyer |first28=Z. |last28=Gan |first29=W. X. |last29=Huang |first30=L. |last30=Ma |date=30 January 2018 |title=Neutron-deficient superheavy nuclei obtained in the <sup>240</sup>Pu+<sup>48</sup>Ca reaction |journal=Physical Review C |volume=97 |issue=14320 |page=014320 |doi=10.1103/PhysRevC.97.014320|bibcode=2018PhRvC..97a4320U|url=https://www.researchgate.net/publication/322812255}}</ref>。
[[周期表]]上では、[[dブロック元素]]である。[[第7周期元素]]、[[第6族元素]]であり、化学実験により、第6族元素の[[タングステン]]の[[ホモログ]]として振る舞うことが確認されている。シーボーギウムの化学的性質は部分的に確認されており、第6族元素の他の元素の化学的性質から予測されるものと一致している。
1974年、[[ソビエト連邦]]とアメリカ合衆国の研究室で、いくつかの原子が合成された。発見と命名の優先権は、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究者の間で議論となったが、[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)は1997年にこの元素の公式名称をシーボーギウムとすることを決定した。存命人物の名前から命名された元素は、118番元素の[[オガネソン]]とこの元素だけである{{efn|原子番号99番と100番の元素に提案された[[アインスタイニウム]]と[[フェルミウム]]という名前は、各々当時存命の[[アルベルト・アインシュタイン]]と[[エンリコ・フェルミ]]の名前に因む命名であるが、両者が死去するまで公式の名前ではなかった{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|pp=187-189}}。}}。
==導入==
[[ファイル:Deuterium-tritium fusion.svg|upright=1.00|alt=A graphic depiction of a nuclear fusion reaction|thumb|left|核融合反応の図示。2つの原子核が1つに融合し、1つの中性子を放出する。]]
重い{{efn|核物理学では、原子番号の大きい元素は、「重い」元素と呼ばれる。原子番号82の鉛は、重い元素の一例である。「超重元素」という用語は、通常、原子番号103番以降の元素を指す(ただし、原子番号100<ref>{{Cite web|url=https://www.chemistryworld.com/news/explainer-superheavy-elements/1010345.article|title=Explainer: superheavy elements|last=Kramer|first=K.|date=2016|website=Chemistry World|accessdate=2020-03-15}}</ref>以降とするものや112以降<ref>{{Cite web|archive-url=https://web.archive.org/web/20150911081623/https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|url=https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|title=Discovery of Elements 113 and 115|publisher=Lawrence Livermore National Laboratory|archive-date=2015-09-11|accessdate=2020-03-15}}</ref>とするもの等、いくつかの定義がある。[[超アクチノイド元素]]と同義の言葉として使われることもある<ref>{{cite encyclopedia|last1=Eliav|first1=E.|title=Electronic Structure of the Transactinide Atoms|date=2018|encyclopedia=Encyclopedia of Inorganic and Bioinorganic Chemistry|pages=1-16|editor-last=Scott|editor-first=R. A.|publisher=John Wiley & Sons|doi=10.1002/9781119951438.eibc2632|isbn=978-1-119-95143-8|last2=Kaldor|first2=U.|last3=Borschevsky|first3=A.|s2cid=127060181 }}</ref>)。ある元素における「重い同位体」や「重い核」という言葉は、各々、質量の大きい同位体、質量の大きい核を指す。}}[[原子核]]は、2つの異なる原子核{{Efn|2009年、[[ユーリイ・オガネシアン]]率いるドゥブナ合同原子核研究所のチームは、対称の<sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe反応におけるハッシウム合成の試みの結果について公表した。彼らはこの反応で単原子を観測できず、反応断面積の上限を2.5 pbとした<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Dmitriev|first2=S. N.|last3=Yeremin|first3=A. V.|last4=Aksenov|first4=N. V.|last5=Bozhikov|first5=G. A.|last6=Chepigin|first6=V. I.|last7=Chelnokov|first7=M. L.|last8=Lebedev|first8=V. Ya.|last9=Malyshev|first9=O. N.|last10=Petrushkin|first10=O. V.|last11=Shishkin|first11=S. V.|display-authors=3|date=2009|title=Attempt to produce the isotopes of element 108 in the fusion reaction <sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe |journal=Physical Review C|volume=79|issue=2|pages=024608|doi=10.1103/PhysRevC.79.024608|issn=0556-2813}}</ref>。対照的に、ハッシウムの発見に繋がった反応である<sup>208</sup>Pb + <sup>58</sup>Feの反応断面積は、発見者らにより19<sup>+19</sup><sub>-11</sub>と推定された<ref name="84Mu01">{{cite journal|last1=Munzenberg|first1=G.|last2=Armbruster|first2=P.|last3=Folger|first3=H.|last4=Hesberger|first4=F. P.|last5=Hofmann|first5=S.|last6=Keller|first6=J.|last7=Poppensieker|first7=K.|last8=Reisdorf|first8=W.|last9=Schmidt|first9=K.-H.|display-authors=3|date=1984|title=The identification of element 108|url=http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|url-status=dead|journal=Zeitschrift fur Physik A|volume=317|issue=2|pages=235-236|bibcode=1984ZPhyA.317..235M|doi=10.1007/BF01421260|archive-url=https://web.archive.org/web/20150607124040/http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|archive-date=7 June 2015|accessdate=20 October 2012|first10=H.-J.|last10=Schott|first11=M. E.|last11=Leino|first12=R.|last12=Hingmann|s2cid=123288075 }}</ref>。}}の[[核融合反応]]により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる<ref name="Bloomberg">{{Cite web |last=Subramanian |first=S. |date=2019 |title=Making New Elements Doesn't Pay. Just Ask This Berkeley Scientist |url=https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-url=https://archive.today/20201114183428/https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-date=November 14, 2020 |url-status=live |accessdate=2020-01-18 |website=Bloomberg Businessweek}}</ref>。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、[[クーロンの法則]]により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、[[強い相互作用]]がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、[[加速器]]で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10<sup>-20</sup>秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)<ref name="n+1">{{Cite web|url=https://nplus1.ru/material/2019/03/25/120-element|title=Сверхтяжелые шаги в неизвестное|last=Ivanov|first=D.|date=2019|website=nplus1.ru|language=ru|trans-title=Superheavy steps into the unknown|accessdate=2020-02-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://theconversation.com/something-new-and-superheavy-at-the-periodic-table-26286|title=Something new and superheavy at the periodic table|last=Hinde|first=D.|date=2014|website=The Conversation|accessdate=2020-01-30}}</ref>。核融合が起こる場合、[[複合核]]と呼ばれる一時的な融合状態が[[励起状態]]となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る{{Efn|励起エネルギーが大きくなるほど、より多くの中性子が放出される。励起エネルギーが、各々の中性子を残りの核子に結び付けるエネルギーより低い場合、中性子は放出されない。その代わり、複合核は[[ガンマ線]]を放出して脱励起する<ref name=CzechNuclear/>。}}。この事象は、最初の衝突の約10<sup>-16</sup>秒後に起こる<ref name="CzechNuclear">{{cite web|url=http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20190303183952/http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|url-status=dead|archive-date=2019-03-03|title=Neutron Sources for ADS|last=Krasa|first=A.|date=2010|publisher=Czech Technical University in Prague|pages=4-8|s2cid=28796927 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>{{efn|共同作業部会による定義では、その核が10<sup>-14</sup>秒にわたり崩壊しない場合にのみ、発見として認定される。この値は、原子核が外側の電子を獲得して化学的性質を示すのにかかる時間の推定値として選択された<ref>{{Cite journal|last=Wapstra|first=A. H.|date=1991|title=Criteria that must be satisfied for the discovery of a new chemical element to be recognized|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1991/pdf/6306x0879.pdf|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=63|issue=6|page=883|doi=10.1351/pac199163060879|s2cid=95737691 |issn=1365-3075|accessdate=2020-08-28}}</ref>。また、一般的に考えられる複合核の寿命の上限値を示すものでもある<ref name=BerkeleyNoSF/>。}}。
粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる<ref name="SHEhowvideo">{{Cite web|url=https://www.scientificamerican.com/article/how-to-make-superheavy-elements-and-finish-the-periodic-table-video/|title=How to Make Superheavy Elements and Finish the Periodic Table [Video]|author=Chemistry World|date=2016|website=Scientific American|accessdate=2020-01-27}}</ref>。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され{{Efn|この分離は、生成した原子核が未反応の粒子線の原子核よりも、標的の上をよりゆっくり通り過ぎることに基づく。セパレーター内には、特定の粒子速度で移動する粒子への影響が相殺される電磁場がある{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=334}}。このような分離は、[[飛行時間型質量分析計]]や反跳エネルギー測定でも用いられ、この2つを組み合わせて、原子核の質量を推定することが可能となる{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=335}}。}}、表面障壁型[[半導体検出器]]に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される<ref name="SHEhowvideo" />。移送には約10<sup>-6</sup>秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある{{sfn|Zagrebaev|Karpov|Greiner|2013|page=3}}。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される<ref name="SHEhowvideo" />。
原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く<!--セミコロンでセンテンスが切れていることを見落としている。as 以下は独立した別のセンテンスとして読まなければならない。元の訳文は意味の上でも因果関係が転倒した大きな誤訳-->、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子([[陽子]]と[[中性子]])が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない{{sfn|Beiser|2003|p=432}}。そのため、重元素の原子核は、このような反発による[[アルファ崩壊]]や[[自発核分裂]]{{efn|全ての崩壊モードが静電反発を原因とするのではなく、例えば、[[ベータ崩壊]]の原因は[[弱い相互作用]]である{{sfn|Beiser|2003|p=439}}。}}のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており<!--元の訳文の「重元素の原子核は理論的には予測されており」は、原子核の何が予測されているのか明確ではない。原子核の存在が予測されているかのように読める。センテンス全体の構造を捉えていない誤訳--><ref>{{Cite journal|last1=Staszczak|first1=A.|last2=Baran|first2=A.|last3=Nazarewicz|first3=W.|date=2013|title=Spontaneous fission modes and lifetimes of superheavy elements in the nuclear density functional theory|journal=Physical Review C|volume=87|issue=2|pages=024320-1|doi=10.1103/physrevc.87.024320|arxiv=1208.1215|bibcode=2013PhRvC..87b4320S|s2cid=118134429 |issn=0556-2813}}</ref>、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた{{sfn|Audi|Kondev|Wang|Huang|2017|pp=030001-128-030001-138}}。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる{{efn|原子核の質量は直接測定されず、ほかの原子核の値から計算され、このような方法を間接的と呼ぶ。直接測定も可能であるが、もっとも重い原子核については<!--訳抜け-->ほとんどの場合可能ではない<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Rykaczewski|first2=K. P.|date=2015|title=A beachhead on the island of stability|journal=Physics Today|volume=68|issue=8|pages=32-38|doi=10.1063/PT.3.2880|bibcode=2015PhT....68h..32O|osti=1337838|s2cid=119531411 |issn=0031-9228|url=https://www.osti.gov/biblio/1337838}}</ref>。超重元素の質量の直接測定は、2018年に[[ローレンス・バークレー国立研究所]]により初めて報告された<ref>{{Cite journal|last=Grant |first=A.|date=2018|title=Weighing the heaviest elements|journal=Physics Today|doi=10.1063/PT.6.1.20181113a|s2cid=239775403 }}</ref>。}}。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない{{efn|自発核分裂は、ドゥブナ合同原子核研究所を率いていた[[ゲオルギー・フリョロフ]]により発見され<ref name=Distillations>{{Cite journal|last=Robinson|first=A. E.|url=https://www.sciencehistory.org/distillations/the-transfermium-wars-scientific-brawling-and-name-calling-during-the-cold-war|title=The Transfermium Wars: Scientific Brawling and Name-Calling during the Cold War|date=2019|journal=Distillations|accessdate=2020-02-22}}</ref>、この研究所の得意分野となった<ref name="coldfusion77">{{Cite web|url=http://n-t.ru/ri/ps/pb106.htm|title=Популярная библиотека химических элементов. Сиборгий (экавольфрам)|trans-title=Popular library of chemical elements. Seaborgium (eka-tungsten)|language=ru|website=n-t.ru|accessdate=2020-01-07}} Reprinted from {{cite book|author=<!--none-->|date=1977|title=Популярная библиотека химических элементов. Серебро - Нильсборий и далее|chapter=Экавольфрам|trans-title=Popular library of chemical elements. Silver through nielsbohrium and beyond|trans-chapter=Eka-tungsten|language=ru|publisher=Nauka}}</ref>。対照的に、ローレンス・バークレー国立研究所の科学者は、自発核分裂から得られる情報は新元素の合成を裏付けるのに不十分であると信じていた。これは、複合核が中性子だけを放出し、陽子やアルファ粒子のような荷電粒子を放出しないことを立証するのは困難なためである<ref name=BerkeleyNoSF>{{Cite journal|last1=Hyde|first1=E. K.|last2=Hoffman|first2=D. C.|last3=Keller|first3=O. L.|date=1987|title=A History and Analysis of the Discovery of Elements 104 and 105|journal=Radiochimica Acta|volume=42|issue=2|doi=10.1524/ract.1987.42.2.57|issn=2193-3405|pages=67-68|s2cid=99193729 |url=http://www.escholarship.org/uc/item/05x8w9h7}}</ref>。そのため彼らは、連続的なアルファ崩壊により、新しい同位体を既知の同位体と結び付ける方法を好んだ<ref name=Distillations/>。}}。
重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる{{Efn|例えば、1957年にスウェーデンの[[ノーベル物理学研究所]]は、102番元素を誤同定した<ref name=RSC>{{Cite web|url=https://www.rsc.org/periodic-table/element/102/nobelium|title=Nobelium - Element information, properties and uses {{!}} Periodic Table|publisher=Royal Society of Chemistry|accessdate=2020-03-01}}</ref>。これ以前にこの元素の合成に関する決定的な主張はなく、発見者により、[[ノーベリウム]]と命名されたが、後に、この同定は誤りであったことが分かった{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。翌年、ローレンス・バークレー国立研究所は、ノーベル物理学研究所による結果は再現性がなく、代わりに彼ら自身がこの元素を合成したと発表したが、この主張も後に誤りであったことが判明した{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。ドゥブナ合同原子核研究所は、彼らこそがこの元素を最初に合成したと主張し、ジョリオチウムと命名したが{{sfn|Kragh|2018|p=40}}、この名前も認定されなかった(ドゥブナ合同原子核研究所は、のちに、102番元素の命名は「性急」であったと述べた)<ref name="1993 responses">{{Cite journal|year=1993|title=Responses on the report 'Discovery of the Transfermium elements' followed by reply to the responses by Transfermium Working Group|url=https://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|url-status=live|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|issue=8|pages=1815-1824|doi=10.1351/pac199365081815|archive-url=https://web.archive.org/web/20131125223512/http://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|archive-date=25 November 2013|accessdate=7 September 2016|last1=Ghiorso|first1=A.|last2=Seaborg|first2=G. T.|last3=Oganessian|first3=Yu. Ts.|last4=Zvara|first4=I|last5=Armbruster|first5=P|last6=Hessberger|first6=F. P|last7=Hofmann|first7=S|last8=Leino|first8=M|last9=Munzenberg|first9=G|last10=Reisdorf|first10=W|last11=Schmidt|first11=K.-H|s2cid=95069384 |display-authors=3}}</ref>。「ノーベリウム」という名前は、広く使われていたため、変更されなかった<ref name=IUPAC97>{{Cite journal|doi=10.1351/pac199769122471|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1997)|date=1997|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=69|pages=2471-2474|issue=12|author=Commission on Nomenclature of Inorganic Chemistry|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1997/pdf/6912x2471.pdf}}</ref>。}}。
==歴史==
1970年に[[ローレンス・リバモア国立研究所]]の[[アルバート・ギオルソ]]が104番元素([[ラザホージウム]])と105番元素([[ドブニウム]])の発見を主張した後、106番元素の発見を目指して、[[カリホルニウム249]]原子核に[[酸素18]]を照射する実験が行われた<ref name="Transuraniumppl" />。9.1 MeVの[[アルファ崩壊]]が何度か報告され、これは現在では106番元素に由来するものと考えられているが、当時は確定しなかった。1972年、[[重イオン線形加速器]]のアップグレードが行われ、これによりチームは実験を繰り返すことができなくなり、またシャットダウン中はデータ分析が行われなくなってしまった<ref name="Transuraniumppl">{{cite book|last1=Hoffman|first1=D.C |last2=Ghiorso|first2=A.|last3=Seaborg|first3=G.T.|title=The Transuranium People: The Inside Story |publisher=Imperial College Press|date=2000|isbn=978-1-86094-087-3|pages=300-327}}</ref>。1974年にこの実験が繰り返され、バークレーのチームは、彼らの新しいデータが1971年のデータと一致していることに気付いた。従って、データをより注意深く分析していれば、106番元素は1971年に発見されていたはずである<ref name="Transuraniumppl" />。
2つのグループがこの元素の発見を主張した。106番元素発見の明確な証拠が1974年にユーリイ・オガネシアンの率いる[[ロシア]]の[[ドゥブナ合同原子核研究所]]のチームから初めて報告された。このチームは、[[鉛208]]及び[[鉛207]]原子核を標的として加速した[[クロム54]]イオンを照射して合成を行った。半減期が4-10ミリ秒の[[自発核分裂]]が合計で51回観測された。チームは、[[核子移行反応]]に由来するものを除外した後、この反応の主原因は106番元素の同位体の自発核分裂である可能性が最も高いと結論付けた。この同位体は、当初シーボーギウム259と提案されたが、後に[[シーボーギウム260]]と訂正された<ref name="93TWG">{{Cite journal
|doi=10.1351/pac199365081757
|title=Discovery of the transfermium elements. Part II: Introduction to discovery profiles. Part III: Discovery profiles of the transfermium elements
|year=1993
|journal=Pure and Applied Chemistry
|volume=65
|pages=1757
|last1=Barber |first1=R. C.
|last2=Greenwood|first2=N. N.
|last3=Hrynkiewicz|first3=A. Z.
|last4=Jeannin|first4=Y. P.
|last5=Lefort|first5=M.
|last6=Sakai|first6=M.
|last7=Ulehla|first7=I.
|last8=Wapstra|first8=A. P.
|last9=Wilkinson|first9=D. H.
|issue=8|s2cid=195819585
}}</ref>。
:{{su|p=208|b=82|a=r}}Pb + {{su|p=54|b=24}}Cr → {{su|p=260|b=106}}Sg + 2 {{su|p=1|b=0}}n
:{{su|p=207|b=82|a=r}}Pb + {{su|p=54|b=24}}Cr → {{su|p=260|b=106}}Sg + {{su|p=1|b=0}}n
この年の数か月後、[[カリフォルニア大学バークレー校]]のグレン・シーボーグ、[[キャロル・アロンソ]]、[[アルバート・ギオルソ]]、またローレンス・リバモア国立研究所の[[ケネス・ヒューレット]]を含むチームは、この5年前に104番元素を合成したのと似た装置を用いてカリホルニウム249を標的に酸素18イオンを照射し、半減期0.9±0.2秒の[[シーボーギウム263m]]と思われる原子核に由来する、少なくとも70回のアルファ崩壊を観測した<ref>{{cite journal|first1=A. |last1=Ghiorso |first2=J. M. |last2=Nitschke |first3=J. R. |last3=Alonso |first4=C. T. |last4=Alonso |first5=M. |last5=Nurmia |first6=G. T. |last6=Seaborg |first7=E. K. |last7=Hulet |first8=R. W. |last8=Lougheed |journal=Physical Review Letters |title=Element 106 |volume=33 |issue=25 |page=1490 |date=December 1974 |doi=10.1103/PhysRevLett.33.1490 |bibcode=1974PhRvL..33.1490G }}</ref>。娘核の[[ラザホージウム259]]と孫娘核の[[ノーベリウム255]]は、以前に合成されており、ここで観測された性質は、既知の性質と良く一致していた。観測された反応の[[反応断面積]]は0.3[[バーン(単位)|ナノバーン]]で、やはり理論的予測と良く一致していた。これらの結果は、このアルファ崩壊がシーボーギウム263mに由来するものであるという確からしさを高めた<ref name="93TWG" />。
:{{su|p=249|b=98|a=r}}Cf + {{su|p=18|b=8}}O → {{su|p=263m|b=106}}Sg + 4 {{su|p=1|b=0}}n → {{su|p=259|b=104}}Rf + α → {{su|p=255|b=102}}No + α
105番元素までの発見の場合とは異なり、発見を主張するどちらのチームも新元素への命名の提案を公表しなかったため、新元素命名にかかる論争は一時的に回避されたが、1992年まで続いた。IUPAC/IUPAP超フェルミウム元素作業部会(TWG)は、101番元素から112番元素の発見に関する主張に結論を出すために組織された。106番元素については、ソ連による<sup>260</sup>Sg発見の主張は証拠が不十分である一方、アメリカによる<sup>263</sup>Sgの発見の主張は、既知の娘核に基づいており、信頼できると判断された。その結果、TWGは、1993年の報告書の中で、バークレーのチームを公式な発見者として認定した<ref name="93TWG" />。
[[ファイル:Seaborg in lab - restoration.jpg|thumb|upright=1.0|106番元素は、合成元素発見のパイオニアであるグレン・シーボーグに因んで名づけられた。]]
[[ファイル:Chemist Glenn Seaborg (14678590682).jpg|thumb|right|周期表上の自身の名前に因む元素を指さすシーボーグ]]
シーボーグはかつて、104番元素、105番元素の公式な発見者としてバークレーが認定された場合、106番元素に対しては、ドゥブナのチームに敬意を表して、ドゥブナのチームが104番元素に対して命名を提案していた、ソビエト連邦の核研究を率いた[[イーゴリ・クルチャトフ]]の名前に因むクルチャトビウム(記号:Kt)という名前を提案すると、TWGに対して言及していた。しかし、TWGの報告の公表後に、バークレーのチームが特に104番元素に関するTWGの決定に激しい異議を唱えたことから両チームの関係が悪化したこともあり、この案は候補から除外された<ref name="transuranium">Hoffman, D.C., Ghiorso, A., Seaborg, G. T. The Transuranium People: The Inside Story, (2000), 369-399</ref>。そのため、正式な発見者として認められた後で、バークレーのチームは本格的に命名の検討を開始した。
{{quotation|...私たちは発見者として認められ、新元素の命名権を得た。ギオルソのグループの8人のメンバーは、[[アイザック・ニュートン]]、[[トマス・エジソン]]、[[レオナルド・ダ・ビンチ]]、[[フェルディナンド・マゼラン]]、[[ユリシーズ]]、[[ジョージ・ワシントン]]、そして(長い間この分野の中心地でも先進地でもなかったが)チームのメンバーの出身地である[[フィンランド]]等に因む広範な命名案を提案した。ある日、アル(ギオルソ)が私のオフィスを訪ねてきて、「シーボーギウム」という命名についてどう思うかと尋ねた。私は床に崩れ落ちた<ref name="vanderkrogt">{{cite web|url=http://elements.vanderkrogt.net/element.php?sym=sg |title=106 Seaborgium |publisher=Elements.vanderkrogt.net |accessdate=12 September 2008}}</ref>。|author=グレン・シーボーグ}}
シーボーグの息子であるエリックは、命名の経緯について以下のように述懐している<ref name="EricSeaborg" />。
{{quotation|発見に関わった8名の科学者が非常に良い命名のアイデアを持っていたため、ギオルソは、ある夜、あるアイデアを思いついて目を覚ますまで、合意に達することを絶望的に感じていた。彼は、7人のメンバーが同意するまで、メンバー1人1人を説得した。その後、彼は、50年来の友人であり同僚に対して「106番元素をシーボーギウムと命名することについて、7票が入った。同意してもらえますか?」と語った。私の父は驚きで言葉を失い、母と相談した後、その案に同意した<ref name="EricSeaborg">{{cite journal|first = Seaborg|last = Eric|date = 2003 |title = Seaborgium|journal = Chemical and Engineering News|url = http://pubs.acs.org/cen/80th/seaborgium.html|volume = 81|issue = 36}}</ref>。|author=エリック・シーボーグ}}
シーボーギウムという名前とSgという記号は、1994年3月に開催された第207回[[アメリカ化学会]]総会で、発見者の1人であるケネス・ヒューレットにより発表された<ref name="vanderkrogt" />。しかし、IUPACは1994年8月に、存命人物からの元素の命名を禁止することを決定した。当時、シーボーグは存命であったため、IUPACは翌9月、104番元素から109番元素の発見を主張する3つの研究所(3つ目は[[ドイツ]]の[[重イオン研究所]])から提案された名前をこの6つの新元素に割り当てる案を勧告した。104番元素に対するバークレーからの提案である「ラザホージウム」という名前は106番元素に割り当てられ、シーボーギウムという命名は、元素名としては一旦完全に削除された<ref name="transuranium" />。
<div style="float:center; margin:0; font-size:85%;">
{|class="wikitable"
|+ 101-112番元素の命名案と現在の名前(TWG報告書に掲載のもの)<ref name="transuranium" />
|-
! 原子番号 !! 系統名 !! アメリカ !! ロシア !! ドイツ !! Compromise 92 !! IUPAC 94 !! ACS 94 !! IUPAC 95 !! IUPAC 97 !! 現在
|-
| 101 || ウンニルウニウム || メンデレビウム || {{sdash}} || {{sdash}} || メンデレビウム || メンデレビウム || メンデレビウム || メンデレビウム || メンデレビウム || メンデレビウム
|-
| 102 || ウンニルビウム || ノーベリウム || ジョリオチウム || {{sdash}} || ジョリオチウム || ノーベリウム || ノーベリウム || フレロビウム || ノーベリウム || ノーベリウム
|-
| 103 || ウンニルトリウム || ローレンシウム || ラザホージウム || {{sdash}} || ローレンシウム || ローレンシウム || ローレンシウム || ローレンシウム || ローレンシウム || ローレンシウム
|-
| 104 || ウンニルクアジウム || ラザホージウム || クルチャトビウム || {{sdash}} || マイトネリウム || ドブニウム || ラザホージウム || ドブニウム || ラザホージウム || ラザホージウム
|-
| 105 || ウンニルペンチウム || ハーニウム || ニールスボーリウム || {{sdash}} || クルチャトビウム || ジョリオチウム || ハーニウム || ジョリオチウム || ドブニウム || ドブニウム
|-
| 106 || ウンニルヘキシウム || シーボーギウム || {{sdash}} || {{sdash}} || ラザホージウム || ラザホージウム || シーボーギウム || シーボーギウム || シーボーギウム || シーボーギウム
|-
| 107 || ウンニルセプチウム || {{sdash}} || {{sdash}} || ニールスボーリウム || ニールスボーリウム || ボーリウム || ニールスボーリウム || ニールスボーリウム || ボーリウム || ボーリウム
|-
| 108 || ウンニルオクチウム || {{sdash}} || {{sdash}} || ハッシウム || ハッシウム || ハーニウム || ハッシウム || ハッシウム || ハッシウム || ハッシウム
|-
| 109 || ウンニルエンニウム || {{sdash}} || {{sdash}} || マイトネリウム || ハーニウム || マイトネリウム || マイトネリウム || マイトネリウム || マイトネリウム || マイトネリウム
|-
| 110 || ウンウンニリウム || ハーニウム || ベクレリウム || ダームスタチウム || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || ダームスタチウム
|-
| 111 || ウンウンウニウム || {{sdash}} || {{sdash}} || レントゲニウム || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || レントゲニウム
|-
| 112 || ウンウンビウム || {{sdash}} || {{sdash}} || コペルニシウム || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || {{sdash}} || コペルニシウム
|}
</div>
この決定は、新元素の発見者が命名権を有するという伝統を無視し、存命人物を元素名の由来とすることを遡及的に禁止するもので、世界的な抗議の嵐が巻き起こった。アメリカ化学会は、104番元素から109番元素に対するアメリカとドイツの他の全ての命名提案とともに、106番元素に対するシーボーギウムという命名を支持し、IUPACの勧告を無視して、学会誌でこれらの命名を承認した<ref name="transuranium" />。当初、IUPACは自己弁護し、アメリカ人委員は「新元素の発見者は、発見した元素に対して命名を提案する権利を持つが、決定する権利はない。そしてもちろん、私たちはその権利を全く侵害していない」と記した。しかし、シーボーグは次のように答えた。
{{quotation|これは、疑いなく認定された新元素の発見者が、その元素の命名権を否定された歴史上初めての事例だ<ref name="vanderkrogt" />。|author=グレン・シーボーグ}}
IUPACは世論の圧力に屈して、1995年8月にシーボーギウムの名前を復活させる代わりに、もう1つを除いた他の全てのアメリカの提案を撤回するという妥協案を提示したが、反応はより悪かった。最終的にIUPACは、これらの妥協案を撤回し、1997年8月に最終的な新勧告を出した。この中で、106番元素のシーボーギウムを含む104番元素から109番元素についてのアメリカとドイツの提案をほぼ認定し、ただし、105番元素だけは例外的に、超アクチノイド元素合成の実験手順に対するドゥブナのチームの貢献に敬意を表して、ドブニウムと名付けた。この元素名のリストは、最終的にはアメリカ化学会にも承認され、アメリカ化学会は次のように記した<ref name="transuranium" />。
{{quotation|国際的的な調和を考慮し、委員会は気が進まないながらも、論文等で長年使用されてきた、アメリカが提案した「ハーニウム」という名前に代わって、「ドブニウム」という元素名を受け入れた。また、106番元素に対する「シーボーギウム」という名前が、今や国際的に承認された元素名となったことを歓迎する<ref name="transuranium" />。|author=アメリカ化学会}}
シーボーグは、この命名に対して、以下のようにコメントした。
{{quotation|言うまでもないことであるが、タングステンの下に位置する106番元素を「シーボーギウム」と呼ぶことを提案したアメリカの化学者を、私は誇りに思う。将来、化学者が[[塩化シーボーグ]]、[[硝酸シーボーグ]]、またもしかすると[[シーボーグ化ナトリウム]]等の化合物に言及する日を楽しみにしている。これは私にとって、[[ノーベル賞]]受賞以上の最高の栄誉であると思う{{efn|シーボーグは、実際に1951年に[[エドウィン・マクミラン]]とともに「最初の[[超ウラン元素]]の発見」の功績により[[ノーベル物理学賞]]を受賞していた<ref name="Nobel Prize">{{cite web |title=The Nobel Prize in Chemistry 1951 |url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1951/index.html |publisher=Nobel Foundation |accessdate=August 26, 2012}}</ref>。}}。将来化学を学ぶ者は、周期表について学ぶ際に、なぜこの元素は私の名前に因んでいるのか疑問に思い、私の研究について、より学ぶことになるだろう<ref name="vanderkrogt" />。|author=グレン・シーボーグ}}
シーボーグはこの1年半後の1999年2月25日に86歳で死去した<ref name="vanderkrogt" />。
==同位体==
{{main|シーボーギウムの同位体}}
シーボーギウムのような[[超重元素]]は、加速器の中で、より軽い元素を衝突させ、核融合反応を起こさせることにより合成する。シーボーギウムの同位体の大部分はこの方法で直接合成できるが、より重い同位体のいくつかは原子番号のより大きい元素の[[崩壊生成物]]としてのみ生成する<ref name="fusion">{{cite journal |last1=Barber |first1=Robert C. |last2=Gaggeler |first2=Heinz W. |last3=Karol |first3=Paul J. |last4=Nakahara |first4=Hiromichi |last5=Vardaci |first5=Emanuele |last6=Vogt |first6=Erich |title=Discovery of the element with atomic number 112 (IUPAC Technical Report) |journal=Pure and Applied Chemistry |volume=81 |issue=7 |page=1331 |year=2009 |doi=10.1351/PAC-REP-08-03-05|doi-access=free }}</ref>。
エネルギーに応じて、超重元素を生成する核融合反応は、[[熱核融合]]と[[常温核融合]]の2種類に分けられる。熱核融合では、非常に軽く高エネルギーの粒子が非常に重い標的([[アクチノイド]])に向かって加速され、高励起エネルギー(~40-50 MeV)の複合核が形成し、これが[[核分裂]]するか、3-5個の[[中性子]]を放出する<ref name="fusion" />。常温核融合では、合成された融合核は比較的低い励起エネルギー(~10-20 MeV)で、生成した核が核融合反応を起こす可能性は低い。融合した核が[[基底状態]]まで冷えると、1つか2つの中性子の放出のみが起こり、より中性子に富んだ生成物ができる。後者は、室温で核融合が達成されることとは、異なる概念である<ref>{{cite journal |doi=10.1016/0022-0728(89)80006-3 |title=Electrochemically induced nuclear fusion of deuterium |year=1989 |last1=Fleischmann |first1=Martin |last2=Pons |first2=Stanley |journal=Journal of Electroanalytical Chemistry and Interfacial Electrochemistry |volume=261 |issue=2 |pages=301-308}}</ref>。
シーボーギウムは、[[安定同位体]]や天然に存在する同位体を持たない。いくつかの[[放射性同位体]]が、2つの原子の融合やより重い元素の崩壊により、研究室内で作られている。原子量258-269と271の13種類の同位体が報告されており、そのうち、原子量261、263、265の3つは[[準安定状態]]を持つことが知られている。[[電子捕獲]]により[[ドブニウム261]]となる[[シーボーギウム261]]を唯一の例外として、これら全ての崩壊は、アルファ崩壊か自発核分裂によるものである<ref name="nuclidetable" />。
より重い同位体ほど半減期が長い傾向があり、既知の最も重い<sup>267</sup>Sg、<sup>269</sup>Sg、<sup>271</sup>Sgの3つは、数分の半減期を持つ。この領域内のいくつかの他の同位体は、これに匹敵するかより長い半減期を持つと予測される。さらに、<sup>263</sup>Sg、<sup>265</sup>Sg、<sup>265m</sup>Sgの3つは、数秒の半減期を持つ。残りの全ての同位体の半減期は、わずか92マイクロ秒の半減期を持つ<sup>261m</sup>Sgを除き、数ミリ秒である<ref name="nuclidetable" />。
[[陽子]]に富む同位体である<sup>258</sup>Sg-<sup>261</sup>Sgは、常温核融合により直接合成され、これより重い同位体は、アクチノイド標的への照射による熱核融合で直接合成できる<sup>263m</sup>Sg、<sup>264</sup>Sg、<sup>265</sup>Sg<sup>265m</sup>Sgを除き全て、より重い元素である[[ハッシウム]]、[[ダームスタチウム]]、[[フレロビウム]]からアルファ崩壊を繰り返すことにより生成する。12の同位体の半減期は、<sup>261m</sup>Sgの92マイクロ秒から<sup>269</sup>Sgの14分までの範囲にある<ref name="PuCa2017" /><ref name="nuclidetable" />。
==予測される性質==
シーボーギウムやその化合物の性質はほとんど測定されていない。これは、合成が非常に限られておりまた高価であること<ref name="Bloomberg" />や非常に早く崩壊することが原因である。いくつかの化学的性質は測定されているが、金属シーボーギウムの性質は未知のままであり、予測値のみが利用可能である。
===物理学的性質===
[[標準状態]]では固体であり、より軽い同族体のタングステンと同様に、[[結晶構造]]は[[体心立方格子]]になると予測される<ref name="bcc">{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.84.113104|title=First-principles calculation of the structural stability of 6d transition metals|year=2011|last1=Östlin|first1=A.|last2=Vitos|first2=L.|journal=Physical Review B|volume=84|issue=11|page=113104|bibcode=2011PhRvB..84k3104O }}</ref>。初期には、密度が35.0 g/cm<sup>3</sup>と非常に大きくなると予測されたが<ref name="Haire">{{cite book| title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements| editor1-last=Morss|editor2-first=Norman M.| editor2-last=Edelstein| editor3-last=Fuger|editor3-first=Jean| last1=Hoffman|first1=Darleane C. |last2=Lee |first2=Diana M. |last3=Pershina |first3=Valeria |chapter=Transactinides and the future elements| publisher= [[Springer Science+Business Media]]| year=2006| isbn=1-4020-3555-1| location=Dordrecht, The Netherlands| edition=3rd| ref=CITEREFHaire2006}}</ref>、2011年と2013年には、いくらか小さい値である23-24 g/cm<sup>3</sup>と計算された<ref name="density">{{cite journal |last1=Gyanchandani |first1=Jyoti |last2=Sikka |first2=S. K. |title=Physical properties of the 6 d -series elements from density functional theory: Close similarity to lighter transition metals |journal=Physical Review B |date=10 May 2011 |volume=83 |issue=17 |pages=172101 |doi=10.1103/PhysRevB.83.172101 |bibcode=2011PhRvB..83q2101G }}</ref><ref name="kratz" />。
===化学的性質===
シーボーギウムは、6dブロックの4番目の[[遷移元素]]である。周期表上では[[クロム]]、[[モリブデン]]、タングステンの下に位置し、最も重い第6族元素である。第6族の全ての元素は、様々な[[オキソアニオン]]を形成する。+6の[[酸化状態]]を取りやすいが、これはクロムの場合は高い酸化状態であり、第6族の下の方の元素ほど安定する。実際に、タングステンは最後の5d遷移金属で、4つ全ての5d電子が[[金属結合]]に関与している<ref name="Greenwood">{{Greenwood&Earnshaw2nd|pages=1002-39}}</ref>。同様に、シーボーギウムは気相及び水溶液の両方で+6の酸化状態が最も安定であり、実験的に知られている唯一の酸化状態である。+5と+4の酸化状態は安定性が低く、クロムでは最も一般的な+3の状態は、シーボーギウムでは最も安定性が低い<ref name="Haire" />。
6d軌道と7s軌道のエネルギーが近いことから7s軌道が相対論的に安定化する一方、6d軌道が相対論的に不安定化するため、このように最も高い酸化状態が安定になる現象は、6dブロックの初期の元素で起こる。この現象は第6周期で大きくなるため、シーボーギウムは7s電子の前に6d電子を失うと予測されている(Sg, [Rn]5f<sup>14</sup>6d<sup>4</sup>7s<sup>2</sup>; Sg<sup>+</sup>, [Rn]5f<sup>14</sup>6d<sup>3</sup>7s<sup>2</sup>; Sg<sup>2+</sup>, [Rn]5f<sup>14</sup>6d<sup>3</sup>7s<sup>1</sup>; Sg<sup>4+</sup>, [Rn]5f<sup>14</sup>6d<sup>2</sup>; Sg<sup>6+</sup>, [Rn]5f<sup>14</sup>)。7s軌道が大きく不安定化するため、Sg<sup>IV</sup>はW<sup>IV</sup>よりも不安定であり、Sg<sup>VI</sup>に非常に容易に酸化される。6配位のSg<sup>6+</sup>の[[イオン半径]]は65 pm、[[原子半径]]は128 pmと予測される。それにも関わらず、最も高い酸化状態の安定性はLr<sup>III</sup> > Rf<sup>IV</sup> > Db<sup>V</sup> > Sg<sup>VI</sup>の順に低下すると予測される。酸性水溶液中のシーボーギウムイオンの[[酸化還元電位|標準還元電位]]は、以下のように予測されている<ref name="Haire" />。
:{|
|-
| 2 SgO<sub>3</sub> + 2 H<sup>+</sup> + 2 e<sup>-</sup> || {{eqm}} Sg<sub>2</sub>O<sub>5</sub> + H<sub>2</sub>O || E<sup>0</sup> = -0.046 V
|-
| Sg<sub>2</sub>O<sub>5</sub> + 2 H<sup>+</sup> + 2 e<sup>-</sup> || {{eqm}} 2 SgO<sub>2</sub> + H<sub>2</sub>O || E<sup>0</sup> = +0.11 V
|-
| SgO<sub>2</sub> + 4 H<sup>+</sup> + e<sup>-</sup> || {{eqm}} Sg<sup>3+</sup> + 2 H<sub>2</sub>O || E<sup>0</sup> = -1.34 V
|-
| Sg<sup>3+</sup> + e<sup>-</sup> || {{eqm}} Sg<sup>2+</sup> || E<sup>0</sup> = -0.11 V
|-
| Sg<sup>3+</sup> + 3 e<sup>-</sup> || {{eqm}} Sg || E<sup>0</sup> = +0.27 V
|}
シーボーギウムは非常に揮発性の高い六フッ化物(SgF<sup>6</sup>)の他に、
適度な揮発性を持つ六塩化物(SgCl<sup>6</sup>)、五塩化物(SgCl<sup>5</sup>)、[[酸塩化物]](SgO<sup>2</sup>Cl<sup>2</sup>及びSgOCl<sup>4</sup>)を形成する。SgO<sup>2</sup>Cl<sup>2</sup>はシーボーギウムの酸塩化物の中では最も安定であると推測され、第6族元素の酸塩化物の中では最も揮発性が低い(MoO<sup>2</sup>Cl<sup>2</sup> > WO<sup>2</sup>Cl<sup>2</sup> > SgO<sup>2</sup>Cl<sup>2</sup>)。SgCl<sup>6</sup>やSgOCl<sup>4</sup>は、MoCl<sup>6</sup>やMoOCl<sup>4</sup>と同様に、高温では不安定で、シーボーギウム(V)に分解すると予測される。SgO<sup>2</sup>Cl<sup>2</sup>では、Sg-Cl結合長は似ているものの、[[HOMO/LUMO]]の[[エネルギーギャップ]]がずっと大きいため、この分解は起こらない。
モリブデンとタングステンは互いに非常に似ているが、より小さなクロムとはかなり違いがある。シーボーギウムは、タングステンとモリブデンの化学的性質に非常によく似ていると予想され、さらに多種多様なオキソアニオンを形成する。その中で最も単純なものはシーボーグ酸塩SgO<sup>2-</sup>である。これはSg(H<sub>2</sub>O)<sub>6</sub><sup>+6</sup>の急速加水分解により形成されるが、シーボーギウムが大きいため、モリブデンやタングステンと比べて形成は容易ではない。[[フッ化水素酸]]中では、低濃度ではタングステンと比べて[[加水分解]]されにくいが、高濃度では加水分解されやすく、SgO<sub>3</sub>F<sup>-</sup>やSgOF<sub>5</sub><sup>-</sup>等の[[錯体]]も形成する。フッ化水素酸中で、錯体の形成は加水分解と競合する<ref name="Haire" />。
==シーボーギウムに関する実験==
シーボーギウムの化学実験は、一度に1つの原子を生成する必要があること、半減期の短さ、またその結果、厳しい実験条件が必要になることから、容易ではなかった<ref name="carbonyl">{{Cite journal | doi = 10.1126/science.1255720| pmid = 25237098| title = Synthesis and detection of a seaborgium carbonyl complex| journal = Science| volume = 345| issue = 6203| pages = 1491-3| year = 2014| last1 = Even | first1 = J.| last2 = Yakushev | first2 = A.| last3 = Dullmann | first3 = C. E.| last4 = Haba | first4 = H.| last5 = Asai | first5 = M.| last6 = Sato | first6 = T. K.| last7 = Brand | first7 = H.| last8 = Di Nitto | first8 = A.| last9 = Eichler | first9 = R.| last10 = Fan | first10 = F. L.| last11 = Hartmann | first11 = W.| last12 = Huang | first12 = M.| last13 = Jager | first13 = E.| last14 = Kaji | first14 = D.| last15 = Kanaya | first15 = J.| last16 = Kaneya | first16 = Y.| last17 = Khuyagbaatar | first17 = J.| last18 = Kindler | first18 = B.| last19 = Kratz | first19 = J. V.| last20 = Krier | first20 = J.| last21 = Kudou | first21 = Y.| last22 = Kurz | first22 = N.| last23 = Lommel | first23 = B.| last24 = Miyashita | first24 = S.| last25 = Morimoto | first25 = K.| last26 = Morita | first26 = K.| last27 = Murakami | first27 = M.| last28 = Nagame | first28 = Y.| last29 = Nitsche | first29 = H.| last30 = Ooe | first30 = K.| display-authors = 29| bibcode = 2014Sci...345.1491E| s2cid = 206558746}} {{subscription required}}</ref>。<sup>265</sup>Sg及びその異性体の<sup>265m</sup>Sgは放射化学の実験を行いやすい。これらは、<sup>248</sup>Cm(<sup>22</sup>Ne,5n)の反応により生成する<ref name="Moody">{{cite book |chapter=Synthesis of Superheavy Elements |last1=Moody |first1=Ken |editor1-first=Matthias |editor1-last=Schadel |editor2-first=Dawn |editor2-last=Shaughnessy |title=The Chemistry of Superheavy Elements |publisher=Springer Science & Business Media |edition=2nd |pages=24-8 |isbn=9783642374661|date=2013-11-30 }}</ref>。
シーボーギウムの化学実験は、1995-1996年に初めて行われた。シーボーギウム原子は<sup>248</sup>Cm(<sup>22</sup>Ne,4n)<sup>266</sup>Sgの反応により合成され、加熱されてO<sub>2</sub>/HCl混合物と反応させられた。生じた酸塩化物の吸着特性が測定され、モリブデンやタングステンの化合物と比較された。この結果は、シーボーギウムが他の第6族元素と似た揮発性の酸塩化物を形成することを示しており、第6族の酸塩化物の揮発性が減少する傾向が確かめられた。
:Sg + {{chem|O|2}} + 2 HCl → {{chem|SgO|2|Cl|2}} + {{chem|H|2}}
2001年、ある研究チームは、H<sub>2</sub>環境下でシーボーギウムを[[酸素]]と反応させ、気相化学の研究を続けた。酸塩化物を形成するのと似た方法で、実験の結果は、より軽い同族体や[[擬同族体]]の[[ウラン]]でよく知られているように、シーボーギウムの[[水酸化酸化物]]が形成された<ref>{{cite journal
|url=http://www-w2k.gsi.de/kernchemie/images/pdf_Artikel/Radiochim_Acta_89_737_2001.pdf
|title=Physico-chemical characterization of seaborgium as oxide hydroxide
|journal=Radiochim. Acta
|volume=89
|pages=737-741
|date=2001
|doi=10.1524/ract.2001.89.11-12.737
|display-authors=8
|last1=Huebener
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|last8=Piguet
|first8=D.
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|s2cid=98583998
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|archive-date=2014-10-25
}}</ref>。
:2 Sg + 3 {{chem|O|2}} → 2 {{chem|SgO|3}}
:{{chem|SgO|3}} + {{chem|H|2|O}} → {{chem|SgO|2|(OH)|2}}
シーボーギウムの水溶液の化学については、多くの予測が確認されている。1997-1998年に行われた実験では、シーボーギウムは、[[硝酸|HNO<sub>3</sub>]]/[[フッ化水素|HF]]溶液を用いて、恐らくSgO<sub>2</sub><sup>-4</sup>ではなく、中性のSgO<sub>2</sub>F<sub>2</sub>または陰イオン錯体[SgO<sub>2</sub>F<sub>3</sub>]<sup>-</sup>として陽[[イオン交換樹脂]]から溶出した。対照的に、0.1 Mの硝酸では、モリブデンやタングステンの場合とは異なり、シーボーギウムは溶出せず、モリブデンやタングステンの加水分解が中性の[MO<sub>2</sub>(OH)<sub>2</sub>)]に進むのに対し、[Sg(H<sub>2</sub>O)<sub>6</sub>]<sup>6+</sup>の加水分解が陽イオン錯体[Sg(OH)<sub>4</sub>(H<sub>2</sub>O)]<sup>2+</sup>または[Sg(OH)<sub>3</sub>(H<sub>2</sub>O)H<sub>2</sub>]<sup>+</sup>まで進むことを示唆している<ref name="Haire" />。
+6以外で知られているシーボーギウムの唯一の酸化状態は、0である。各々[[ヘキサカルボニルクロム]]、[[ヘキサカルボニルモリブデン]]、[[ヘキサカルボニルタングステン]]を形成する同族体と同様に、ヘキサカルボニルシーボーギウム(Sg(CO)<sub>6</sub>)が形成されることが2014年に示された。モリブデン及びタングステンのホモログと同様に、ヘキサカルボニルシーボーギウムは揮発性であり、[[二酸化ケイ素]]と容易に反応する<ref name="carbonyl" />。
==脚注==
{{notelist}}
==出典==
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="nuclidetable">{{cite web |url=http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=107&n=163 |title=Interactive Chart of Nuclides |publisher=Brookhaven National Laboratory |author=Sonzogni, Alejandro |location=National Nuclear Data Center |access-date=2008-06-06 |archive-date=2018-06-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180612141714/http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=107&n=163 |url-status=dead }}</ref>
<ref name="kratz">{{cite journal |doi = 10.1351/pac200375010103 |url =https://www.degruyter.com/downloadpdf/j/pac.2003.75.issue-1/pac200375010103/pac200375010103.pdf |title = Critical evaluation of the chemical properties of the transactinide elements (IUPAC Technical Report) |date = 2003 |last1 = Kratz |first1 = J. V. |journal = Pure and Applied Chemistry |volume = 75 |issue = 1 |page = 103|s2cid =5172663 }}</ref>
}}
==関連文献==
* {{cite journal |title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties |doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001 |last1=Audi |first1=G. |last2=Kondev |first2=F. G. |last3=Wang |first3=M. |last4=Huang |first4=W. J. |last5=Naimi |first5=S. |display-authors=3 |journal=Chinese Physics C |volume=41 |issue=3 <!--Citation bot deny-->|pages=030001 |year=2017
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A }}<!--for consistency and specific pages, do not replace with {{NUBASE2016}}-->
* {{cite book|last=Beiser|first=A.|title=Concepts of modern physics|date=2003|publisher=McGraw-Hill|isbn=978-0-07-244848-1|edition=6th|oclc=48965418}}
* {{cite book |last1=Hoffman |first1=D. C. |last2=Ghiorso |first2=A. |last3=Seaborg |first3=G. T. |title=The Transuranium People: The Inside Story |year=2000 |publisher=World Scientific |isbn=978-1-78-326244-1 |ref=CITEREFHoffman2000}}
* {{cite book |last=Kragh |first=H. |date=2018 |title=From Transuranic to Superheavy Elements: A Story of Dispute and Creation |publisher=Springer Science+Business Media |isbn=978-3-319-75813-8 }}
* {{cite journal|last1=Zagrebaev|first1=V.|last2=Karpov|first2=A.|last3=Greiner|first3=W.|date=2013|title=Future of superheavy element research: Which nuclei could be synthesized within the next few years?|journal=Journal of Physics: Conference Series|volume=420|issue=1|pages=012001|doi=10.1088/1742-6596/420/1/012001|arxiv=1207.5700|bibcode=2013JPhCS.420a2001Z|s2cid=55434734|issn=1742-6588}}
==外部リンク==
{{Commons|Seaborgium}}
* [http://www.rsc.org/periodic-table/podcast Chemistry in its element podcast] (MP3) from the Royal Society of Chemistry's Chemistry World: [http://www.rsc.org/periodic-table/element/106/seaborgium#podcast Seaborgium]
* [http://www.periodicvideos.com/videos/106.htm Seaborgium] at ''The Periodic Table of Videos'' (University of Nottingham)
* [http://www.webelements.com/webelements/elements/text/Sg/index.html WebElements.com - Seaborgium]
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10,338 |
ホルミウム
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ホルミウム (英: holmium [ˈhoʊlmiəm]) は原子番号67の元素。元素記号は Ho。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。
ペール・テオドール・クレーベが名付けた。ストックホルムのラテン名 holmia にちなむ。
銀白色の金属で、常温、常圧での安定構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は8.80、融点は1461 °C、沸点は2600 °C(融点、沸点とも異なる実験値あり)。
空気中で表面が酸化され、高温下で全体が燃えて酸化物になる。水にゆっくりと溶ける。酸に易溶。ハロゲンと反応する。安定な原子価は3価。希土類金属で最大の磁気モーメントを持つ。
希少で高価なこともあり、あまり利用されていないが、YAGレーザーの添加物として利用される。
1878年に、マーク・ドラフォンテーヌとジャック・ソレのスイス人グループが、1879年にスウェーデン人のペール・テオドール・クレーベが各々独立に発見した。
1911年に、完全な単体として得られた。
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ホルミウム は原子番号67の元素。元素記号は Ho。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。
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|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=163 | sym=Ho
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}}
'''ホルミウム''' ({{lang-en-short|holmium}} {{IPA-en|ˈhoʊlmiəm|}}) は[[原子番号]]67の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Ho'''。[[希土類元素]]の一つ([[ランタノイド]]にも属す)。
== 名称 ==
[[ペール・テオドール・クレーベ]]が名付けた。[[ストックホルム]]のラテン名 holmia にちなむ。
== 性質 ==
銀白色の[[金属]]で、常温、常圧での安定構造は[[六方最密充填構造]] (HCP)。[[比重]]は8.80、[[融点]]は1461 {{℃}}、[[沸点]]は2600 {{℃}}(融点、沸点とも異なる実験値あり)。
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== 用途 ==
希少で高価なこともあり、あまり利用されていないが、[[YAGレーザー]]の添加物として利用される<ref>{{Cite web|和書|title=ホルミウムレーザー|国際親善総合病院|url=https://shinzen.jp/department/urology/holep.php?lang=jp|website=国際親善総合病院|accessdate=2021-10-29|last=国際親善総合病院}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1878年]]に、[[マーク・ドラフォンテーヌ]]と[[ジャック・ソレ]]のスイス人グループが、[[1879年]]にスウェーデン人の[[ペール・テオドール・クレーベ]]が各々独立に発見した。
[[1911年]]に、完全な単体として得られた。
== 同位体 ==
{{see|ホルミウムの同位体}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{元素周期表}}
{{ホルミウムの化合物}}
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[[Category:ランタノイド]]
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10,339 |
フェルミウム
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フェルミウム(英: fermium [ˈfɜrmiəm])は、元素記号Fm、原子番号100の人工放射性元素である。アクチノイドの1つである。フェルミウムはより軽い元素への中性子照射で生成する最も重い元素であり、そのためマクロ量で生成しうる最後の元素である。しかし、純粋な金属としてのフェルミウムはまだ生成されていない。19個の同位体が知られており、その中でフェルミウム257が100.5日と最長の半減期を持つ。
フェルミウムは、1952年の最初の水素爆発の塵の中から発見された。化学的性質はアクチノイド後半の元素に典型的なもので、原子価は+3が優占的だが、+2も取り得る。半減期が短く生成量が少ないため、現在は基礎科学研究用途以外ではほとんど用いられていない。他の人工放射性元素が全てそうであるように、フェルミウムの同位体は全て放射性であり、高い毒性を持つと考えられている。
原子核物理学のパイオニアの1人でノーベル物理学賞受賞者のエンリコ・フェルミに因んで名付けられた。
フェルミウムは、1952年11月1日に行われた最初の成功した水素爆弾実験アイビー作戦(アイビー・マイク)で発生した放射性降下物の中から発見された。当初の塵の分析では、ウラン238が6個の中性子を吸収し、その後2回ベータ崩壊した時にのみ生成しうるプルトニウムの新しい同位体であるプルトニウム244が検出された。当時は、重い原子核が中性子を吸収するのは珍しい過程だと考えられていたが、プルトニウム244の検出により、さらに多くの中性子がウラン原子核に吸収される可能性が表れ、新しい元素の発見につながった。
元素99(アインスタイニウム)は、爆発の雲の中を漂っていたろ紙の中からすぐに発見された(プルトニウム244の検出と同じサンプリング手法)。これは、1952年12月にカリフォルニア大学バークレー校のアルバート・ギオルソらによって発見された。彼らが発見したのは、ウラン238が中性子を15個吸収し、その後7回ベータ崩壊してできる、半減期20.5日のアインスタイニウム253であった。
さらに、ウラン238がこれ以上(恐らくは16個か17個)の中性子を吸収することもあると考えられた。
元素100(フェルミウム)は、元素99よりも1桁少ない収率になると予測されたため、その発見には、さらに多くの材料が必要であった。そのため、ローレンス・バークレー国立研究所の調査団は、船で汚染されたサンゴを回収し、分析した。水素爆弾実験から約2ヶ月後、高エネルギーのアルファ粒子(7.1MeV)を放出する半減期がほぼ1日の新しい成分が分離された。その短い半減期から、このような同位体が生じるのはアインスタイニウムがベータ崩壊した時のみであるため、新しい元素100だと考えられ、実際にすぐにフェルミウム255(半減期20.07時間)と確認された。
この新しい元素の発見と新しい中性子捕獲のデータは、冷戦の緊張の下、アメリカ軍の要請を受けて1955年まで明らかにされなかった。アイビー・マイクの研究成果が公表されたのは、1955年になってからだった。
NUBASE2003には、原子量242から260までの19個のフェルミウムの同位体が掲載されている。その中で、フェルミウム257は100.5日という最も長い半減期を持つ。フェルミウム253は3日の半減期を持ち、フェルミウム251、252、254、255、256の半減期は、それぞれ5.3時間、25.4時間、3.2時間、20.1時間、2.6時間である。また、残りの同位体の半減期は、全て30分からミリ秒以下である。フェルミウム257が中性子を捕獲して生成するフェルミウム258は、370ミリ秒で自発的核分裂を起こす。フェルミウム259と260もどちらも不安定で、それぞれ1.5秒、4ミリ秒で自発的核分裂を起こす。これは、核爆発中以外では、中性子捕獲が質量数257以上の原子核を作れないことを意味する。フェルミウム257はアルファ崩壊しカリホルニウム253になるため、フェルミウムは中性子捕獲過程で生成する最後の元素でもある。
フェルミウムは、核施設において、より軽いアクチノイドの原子核に中性子を衝突させることで製造される。フェルミウム257は、中性子捕獲によって得られる最も重い原子核であり、ナノグラム程度の量しか製造できない。主要な製造元は、85MWの出力を持ちキュリウム以上(Z > 96)の原子核を作る専門施設であるオークリッジ国立研究所の高中性子束同位体生産炉(英語版)である。この炉の通常の稼働では、数十gのキュリウムが放射線照射を受けて0.1gの桁のカリホルニウム、mgの桁のバークリウムとアインスタイニウム、ピコグラムの桁のフェルミウムが生産される。しかし、特定の条件の実験では、ナノグラムやマイクログラムの桁のフェルミウムが生産される場合もある。20から200キロトンの熱核爆発で得られるフェルミウムはミリグラムの桁だと考えられているが、これは莫大な量の塵の中に混ざっており、例えば、1969年7月16日の「ハッチ」実験では、10kgの塵の中から40pgのフェルミウム257が回収された。
製造後のフェルミウムは他のアクチノイドとランタノイドから分離する必要があるが、これは、通常は、α-ヒドロキシイソブチル酸アンモニウムに溶解させ、Dowex 50やTEVA等の陽イオン交換樹脂を用いたイオン交換クロマトグラフィーを用いて行われる。小さな陽イオンは、α-ヒドロキシイソブチル酸アンモニウム陰イオンと結合してより安定な複合体を作り、そのためカラムから溶出しやすくなる。高速分画結晶法が用いられる場合もある。
フェルミウムの最も安定な同位体は、半減期が100.5日のフェルミウム257であるが、アインスタイニウム255の崩壊生成物として容易に分離できることから、最も研究されている同位体は、半減期20.07時間のフェルミウム255である。
10メガトン級のアイビー・マイクの塵の分析は、長期のプロジェクトの一環として行われ、その目的の一つは高エネルギーの核爆発における超ウラン元素の生成の効率に関する研究であった。核爆発は最も強力な中性子源であり、ミリ秒の間にcm当たり10個の中性子密度を作る。これと比較して、高中性子束同位体生産炉での中性子密度は、ミリ秒の間にcm当たり10個である。いくつかの同位体は、米国本国に運ぶまでの間に崩壊してしまうため、研究所はエニウェトク環礁で塵の予備分析を行った。研究所は、実験後できるだけ早く、ろ紙を備えた飛行機で環礁の周りを飛び、サンプルを回収した。この分析で、フェルミウムよりも重い元素が発見されることが期待されたが、1954年から1956年にこの環礁で行われた何度かのメガトン級の核爆発後の分析でも発見されなかった。
フェルミウムは全ての同位体の半減期が短いため、地球形成以来、生成したフェルミウムは全て崩壊している。天然の地殻に存在するウランやトリウムからのフェルミウムを生成するには中性子捕獲が多数回必要なため、非常に珍しいと考えられる。そのため、地球上のほとんどのフェルミウムは実験室や高エネルギーの原子炉、核実験でできたものであり、生成してから数年間のみしか検出されない。アインスタイニウムとフェルミウムはオクロの天然原子炉でも生成されていたが、現在は停止している。
フェルミウムの化学的性質は、溶液状態で研究されたのみであり、固体状態は作られていない。通常の状態では、フェルミウムは溶液中に三価の陽イオンFmとして存在し、水和数は16.9、酸解離定数は1.6×10(pKa=3.8)である。三価のフェルミウムイオンは、酸素のような硬いドナーとともに広範な有機リガンドに結合し、これらの錯体は他のアクチノイドの錯体よりも安定である。また、塩化物や硝酸塩と陰イオン錯体 も作り、やはりこれらもアインスタイニウムやカリフォルニウムの錯体よりも安定であるようである。後半のアクチノイドの錯体の結合は、イオン性が強いと考えられている。フェルミウムの有効核電荷が高いため、フェルミウムイオンは他のアクチノイドイオンよりも小さいと考えられ、そのためフェルミウムは 、より短く強い金属-リガンド結合を作る。
三価のフェルミウムは、例えば塩化サマリウム(英語版)等で共沈させることで、かなり容易に二価のフェルミウムに還元される。電極電位は、イッテルビウム(III)/(II)対と同程度で、基準電極に対して約-1.15 Vと推定され、これは理論的な計算とも合致する。Fm/Fm対の電極電位は、ポーラログラフィー測定によると-2.37Vである。
フェルミウムに触れる者はほとんどいないが、国際放射線防護委員会は、2つの同位体について年間曝露限界を定めている。フェルミウム253に対しては、摂取限界10ベクレル、吸入限界10ベクレル、フェルミウム257に対しては、摂取限界10ベクレル、吸入限界4000ベクレルである。
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"text": "フェルミウムは、1952年11月1日に行われた最初の成功した水素爆弾実験アイビー作戦(アイビー・マイク)で発生した放射性降下物の中から発見された。当初の塵の分析では、ウラン238が6個の中性子を吸収し、その後2回ベータ崩壊した時にのみ生成しうるプルトニウムの新しい同位体であるプルトニウム244が検出された。当時は、重い原子核が中性子を吸収するのは珍しい過程だと考えられていたが、プルトニウム244の検出により、さらに多くの中性子がウラン原子核に吸収される可能性が表れ、新しい元素の発見につながった。",
"title": "発見"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "元素99(アインスタイニウム)は、爆発の雲の中を漂っていたろ紙の中からすぐに発見された(プルトニウム244の検出と同じサンプリング手法)。これは、1952年12月にカリフォルニア大学バークレー校のアルバート・ギオルソらによって発見された。彼らが発見したのは、ウラン238が中性子を15個吸収し、その後7回ベータ崩壊してできる、半減期20.5日のアインスタイニウム253であった。",
"title": "発見"
},
{
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"tag": "p",
"text": "さらに、ウラン238がこれ以上(恐らくは16個か17個)の中性子を吸収することもあると考えられた。",
"title": "発見"
},
{
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"tag": "p",
"text": "元素100(フェルミウム)は、元素99よりも1桁少ない収率になると予測されたため、その発見には、さらに多くの材料が必要であった。そのため、ローレンス・バークレー国立研究所の調査団は、船で汚染されたサンゴを回収し、分析した。水素爆弾実験から約2ヶ月後、高エネルギーのアルファ粒子(7.1MeV)を放出する半減期がほぼ1日の新しい成分が分離された。その短い半減期から、このような同位体が生じるのはアインスタイニウムがベータ崩壊した時のみであるため、新しい元素100だと考えられ、実際にすぐにフェルミウム255(半減期20.07時間)と確認された。",
"title": "発見"
},
{
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"text": "この新しい元素の発見と新しい中性子捕獲のデータは、冷戦の緊張の下、アメリカ軍の要請を受けて1955年まで明らかにされなかった。アイビー・マイクの研究成果が公表されたのは、1955年になってからだった。",
"title": "発見"
},
{
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"tag": "p",
"text": "NUBASE2003には、原子量242から260までの19個のフェルミウムの同位体が掲載されている。その中で、フェルミウム257は100.5日という最も長い半減期を持つ。フェルミウム253は3日の半減期を持ち、フェルミウム251、252、254、255、256の半減期は、それぞれ5.3時間、25.4時間、3.2時間、20.1時間、2.6時間である。また、残りの同位体の半減期は、全て30分からミリ秒以下である。フェルミウム257が中性子を捕獲して生成するフェルミウム258は、370ミリ秒で自発的核分裂を起こす。フェルミウム259と260もどちらも不安定で、それぞれ1.5秒、4ミリ秒で自発的核分裂を起こす。これは、核爆発中以外では、中性子捕獲が質量数257以上の原子核を作れないことを意味する。フェルミウム257はアルファ崩壊しカリホルニウム253になるため、フェルミウムは中性子捕獲過程で生成する最後の元素でもある。",
"title": "同位体"
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{
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"tag": "p",
"text": "フェルミウムは、核施設において、より軽いアクチノイドの原子核に中性子を衝突させることで製造される。フェルミウム257は、中性子捕獲によって得られる最も重い原子核であり、ナノグラム程度の量しか製造できない。主要な製造元は、85MWの出力を持ちキュリウム以上(Z > 96)の原子核を作る専門施設であるオークリッジ国立研究所の高中性子束同位体生産炉(英語版)である。この炉の通常の稼働では、数十gのキュリウムが放射線照射を受けて0.1gの桁のカリホルニウム、mgの桁のバークリウムとアインスタイニウム、ピコグラムの桁のフェルミウムが生産される。しかし、特定の条件の実験では、ナノグラムやマイクログラムの桁のフェルミウムが生産される場合もある。20から200キロトンの熱核爆発で得られるフェルミウムはミリグラムの桁だと考えられているが、これは莫大な量の塵の中に混ざっており、例えば、1969年7月16日の「ハッチ」実験では、10kgの塵の中から40pgのフェルミウム257が回収された。",
"title": "製造"
},
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"paragraph_id": 10,
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"text": "製造後のフェルミウムは他のアクチノイドとランタノイドから分離する必要があるが、これは、通常は、α-ヒドロキシイソブチル酸アンモニウムに溶解させ、Dowex 50やTEVA等の陽イオン交換樹脂を用いたイオン交換クロマトグラフィーを用いて行われる。小さな陽イオンは、α-ヒドロキシイソブチル酸アンモニウム陰イオンと結合してより安定な複合体を作り、そのためカラムから溶出しやすくなる。高速分画結晶法が用いられる場合もある。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "フェルミウムの最も安定な同位体は、半減期が100.5日のフェルミウム257であるが、アインスタイニウム255の崩壊生成物として容易に分離できることから、最も研究されている同位体は、半減期20.07時間のフェルミウム255である。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "10メガトン級のアイビー・マイクの塵の分析は、長期のプロジェクトの一環として行われ、その目的の一つは高エネルギーの核爆発における超ウラン元素の生成の効率に関する研究であった。核爆発は最も強力な中性子源であり、ミリ秒の間にcm当たり10個の中性子密度を作る。これと比較して、高中性子束同位体生産炉での中性子密度は、ミリ秒の間にcm当たり10個である。いくつかの同位体は、米国本国に運ぶまでの間に崩壊してしまうため、研究所はエニウェトク環礁で塵の予備分析を行った。研究所は、実験後できるだけ早く、ろ紙を備えた飛行機で環礁の周りを飛び、サンプルを回収した。この分析で、フェルミウムよりも重い元素が発見されることが期待されたが、1954年から1956年にこの環礁で行われた何度かのメガトン級の核爆発後の分析でも発見されなかった。",
"title": "核爆発における合成"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "フェルミウムは全ての同位体の半減期が短いため、地球形成以来、生成したフェルミウムは全て崩壊している。天然の地殻に存在するウランやトリウムからのフェルミウムを生成するには中性子捕獲が多数回必要なため、非常に珍しいと考えられる。そのため、地球上のほとんどのフェルミウムは実験室や高エネルギーの原子炉、核実験でできたものであり、生成してから数年間のみしか検出されない。アインスタイニウムとフェルミウムはオクロの天然原子炉でも生成されていたが、現在は停止している。",
"title": "天然での生成"
},
{
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"tag": "p",
"text": "フェルミウムの化学的性質は、溶液状態で研究されたのみであり、固体状態は作られていない。通常の状態では、フェルミウムは溶液中に三価の陽イオンFmとして存在し、水和数は16.9、酸解離定数は1.6×10(pKa=3.8)である。三価のフェルミウムイオンは、酸素のような硬いドナーとともに広範な有機リガンドに結合し、これらの錯体は他のアクチノイドの錯体よりも安定である。また、塩化物や硝酸塩と陰イオン錯体 も作り、やはりこれらもアインスタイニウムやカリフォルニウムの錯体よりも安定であるようである。後半のアクチノイドの錯体の結合は、イオン性が強いと考えられている。フェルミウムの有効核電荷が高いため、フェルミウムイオンは他のアクチノイドイオンよりも小さいと考えられ、そのためフェルミウムは 、より短く強い金属-リガンド結合を作る。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "三価のフェルミウムは、例えば塩化サマリウム(英語版)等で共沈させることで、かなり容易に二価のフェルミウムに還元される。電極電位は、イッテルビウム(III)/(II)対と同程度で、基準電極に対して約-1.15 Vと推定され、これは理論的な計算とも合致する。Fm/Fm対の電極電位は、ポーラログラフィー測定によると-2.37Vである。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "フェルミウムに触れる者はほとんどいないが、国際放射線防護委員会は、2つの同位体について年間曝露限界を定めている。フェルミウム253に対しては、摂取限界10ベクレル、吸入限界10ベクレル、フェルミウム257に対しては、摂取限界10ベクレル、吸入限界4000ベクレルである。",
"title": "毒性"
}
] |
フェルミウム(英: fermium )は、元素記号Fm、原子番号100の人工放射性元素である。アクチノイドの1つである。フェルミウムはより軽い元素への中性子照射で生成する最も重い元素であり、そのためマクロ量で生成しうる最後の元素である。しかし、純粋な金属としてのフェルミウムはまだ生成されていない。19個の同位体が知られており、その中でフェルミウム257が100.5日と最長の半減期を持つ。 フェルミウムは、1952年の最初の水素爆発の塵の中から発見された。化学的性質はアクチノイド後半の元素に典型的なもので、原子価は+3が優占的だが、+2も取り得る。半減期が短く生成量が少ないため、現在は基礎科学研究用途以外ではほとんど用いられていない。他の人工放射性元素が全てそうであるように、フェルミウムの同位体は全て放射性であり、高い毒性を持つと考えられている。
|
{{Elementbox
|name=fermium
|japanese name=フェルミウム
|pronounce={{IPAc-en|icon|ˈ|f|ɜr|m|i|əm}}<br />{{respell|FER|mee-əm}}
|number=100
|symbol=Fm
|left=[[アインスタイニウム]]
|right=[[メンデレビウム]]
|above=[[エルビウム|Er]]
|below=[[ウンペントニリウム|Upn]]
|series=アクチノイド
|group=n/a
|period=7
|block=f
|appearance=不明
|atomic mass=[257]
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 5f<sup>12</sup> 7s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 30, 8, 2
|phase=固体
|melting point K=1800
|melting point C=1527
|melting point F=2781
|oxidation states=2, '''3'''
|electronegativity=1.3
|number of ionization energies=1
|1st ionization energy=627
|CAS number=7440-72-4
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[フェルミウム252|252]] | sym=Fm
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E4 s|25.39 h]]
| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=- | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=7.153 | pn2=[[カリホルニウム248|248]] | ps2=[[カリホルニウム|Cf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[フェルミウム253|253]] | sym=Fm
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|3 d]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=0.333 | pn1=[[アインスタイニウム253|253]] | ps1=[[アインスタイニウム|Es]]
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=7.197 | pn2=[[カリホルニウム249|249]] | ps2=[[カリホルニウム|Cf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[フェルミウム255|255]] | sym=Fm
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E4 s|20.07 h]]
| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=- | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=7.241 | pn2=[[カリホルニウム251|251]] | ps2=[[カリホルニウム|Cf]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[フェルミウム257|257]] | sym=Fm
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|100.5 d]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] | de1=6.864 | pn1=[[カリホルニウム253|253]] | ps1=[[カリホルニウム|Cf]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] | de2=- | pn2= | ps2=-}}
|isotopes comment=
|covalent radius=167}}
'''フェルミウム'''({{lang-en-short|fermium}} {{IPA-en|ˈfɜrmiəm|}})は、[[元素記号]]'''Fm'''、[[原子番号]]100の[[人工放射性元素]]である。[[アクチノイド]]の1つである。フェルミウムはより軽い元素への[[中性子]]照射で生成する最も重い元素であり、そのためマクロ量で生成しうる最後の元素である。しかし、純粋な[[金属]]としてのフェルミウムはまだ生成されていない<ref name="Silva"/><ref>{{cite journal|last1 = Choppin|first1 = G. R.|last2 = Harvey|first2 = B. G.|last3 = Thompson|first3 = S. G.|year = 1956|title = A new eluant for the separation of the actinide elements|journal = J. Inorg. Nucl. Chem.|volume = 2|issue = 1|pages = 66–68|doi = 10.1016/0022-1902(56)80105-X}}</ref>。19個の[[同位体]]が知られており、その中で[[フェルミウム257]]が100.5日と最長の[[半減期]]を持つ。
フェルミウムは、1952年の最初の[[水素爆発]]の塵の中から発見された。化学的性質はアクチノイド後半の元素に典型的なもので、[[原子価]]は+3が優占的だが、+2も取り得る。半減期が短く生成量が少ないため、現在は基礎科学研究用途以外ではほとんど用いられていない。他の人工放射性元素が全てそうであるように、[[フェルミウムの同位体]]は全て放射性であり、高い毒性を持つと考えられている。
== 名称 ==
[[原子核物理学]]のパイオニアの1人で[[ノーベル物理学賞]]受賞者の[[エンリコ・フェルミ]]に因んで名付けられた。
== 発見 ==
[[ファイル:Ivy Mike - mushroom cloud.jpg|thumb|left|フェルミウムは、"アイビー・マイク"のフォールアウトの中から最初に見つかった。]]
[[ファイル:Enrico Fermi 1943-49.jpg|thumb|left|元素名の由来となったエンリコ・フェルミ]]
フェルミウムは、1952年11月1日に行われた最初の成功した水素爆弾実験[[アイビー作戦]](アイビー・マイク)で発生した[[放射性降下物]]の中から発見された<ref name="lanl">{{cite web|url=http://periodic.lanl.gov/elements/99.html|title=Einsteinium|accessdate=2007-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071026052909/http://periodic.lanl.gov/elements/99.html|archivedate=2007年10月26日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="nrc">[http://www.nrc-cnrc.gc.ca/eng/education/elements/el/fm.html Fermium – National Research Council Canada]. Retrieved 2 December 2007</ref><ref name="Ghiorso"/>。当初の塵の分析では、[[ウラン238]]が6個の中性子を吸収し、その後2回[[ベータ崩壊]]した時にのみ生成しうる[[プルトニウム]]の新しい同位体である[[プルトニウム244]]が検出された。当時は、重い原子核が中性子を吸収するのは珍しい過程だと考えられていたが、プルトニウム244の検出により、さらに多くの中性子がウラン原子核に吸収される可能性が表れ、新しい元素の発見につながった<ref name="Ghiorso">{{cite journal|first = Albert|last = Ghiorso|year = 2003 |title = Einsteinium and Fermium|journal = Chemical and Engineering News|url = http://pubs.acs.org/cen/80th/einsteiniumfermium.html|volume = 81|issue = 36}}</ref>。
元素99([[アインスタイニウム]])は、爆発の雲の中を漂っていたろ紙の中からすぐに発見された(プルトニウム244の検出と同じサンプリング手法)<ref name="Ghiorso"/>。これは、1952年12月に[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[アルバート・ギオルソ]]らによって発見された<ref name="lanl"/><ref name="nrc"/><ref name="Ghiorso"/>。彼らが発見したのは、ウラン238が中性子を15個吸収し、その後7回ベータ崩壊してできる、半減期20.5日のアインスタイニウム253であった。
:<small><math>\mathrm{^{238}_{\ 92}U\ \xrightarrow {+\ 15 n, 7 \beta^-} \ ^{253}_{\ 99}Es}</math></small>
さらに、ウラン238がこれ以上(恐らくは16個か17個)の中性子を吸収することもあると考えられた。
元素100(フェルミウム)は、元素99よりも1桁少ない収率になると予測されたため、その発見には、さらに多くの材料が必要であった。そのため、[[ローレンス・バークレー国立研究所]]の調査団は、船で汚染されたサンゴを回収し、分析した。水素爆弾実験から約2ヶ月後、高エネルギーの[[アルファ粒子]](7.1MeV)を放出する半減期がほぼ1日の新しい成分が分離された。その短い半減期から、このような同位体が生じるのはアインスタイニウムがベータ崩壊した時のみであるため、新しい元素100だと考えられ、実際にすぐにフェルミウム255(半減期20.07時間)と確認された<ref name="Ghiorso"/>。
この新しい元素の発見と新しい[[中性子捕獲]]のデータは、[[冷戦]]の緊張の下、[[アメリカ軍]]の要請を受けて1955年まで明らかにされなかった<ref name="Ghiorso"/><ref name = "PhysRev.99.1048" >{{cite journal
| last1 = Ghiorso
| first1 = A.
| last2 = Thompson
| first2 = S.
| last3 = Higgins
| first3 = G.
| last4 = Seaborg
| first4 = G.
| last5 = Studier
| first5 = M.
| last6 = Fields
| first6 = P.
| last7 = Fried
| first7 = S.
| last8 = Diamond
| first8 = H.
| last9 = Mech
| first9 = J.
| title = New Elements Einsteinium and Fermium, Atomic Numbers 99 and 100
| journal = Phys. Rev.
| volume = 99
| issue = 3
| doi = 10.1103/PhysRev.99.1048
| pages = 1048–1049
| year = 1955|bibcode = 1955PhRv...99.1048G }}</ref><ref>Fields, P. R.; Studier, M. H.; Diamond, H.; Mech, J. F.; Inghram, M. G. Pyle, G. L.; Stevens, C. M.; Fried, S.; Manning, W. M. (Argonne National Laboratory, Lemont, Illinois); Ghiorso, A.; Thompson, S. G.; Higgins, G. H.; Seaborg, G. T. (University of California, Berkeley, California): "Transplutonium Elements in Thermonuclear Test Debris", in: {{cite journal|last1=Fields|first1=P.|last2=Studier|first2=M.|last3=Diamond|first3=H.|last4=Mech|first4=J.|last5=Inghram|first5=M.|last6=Pyle|first6=G.|last7=Stevens|first7=C.|last8=Fried|first8=S.|last9=Manning|first9=W.|title=Transplutonium Elements in Thermonuclear Test Debris|journal=Physical Review|volume=102|pages=180|year=1956|doi=10.1103/PhysRev.102.180|bibcode = 1956PhRv..102..180F }}</ref>。アイビー・マイクの研究成果が公表されたのは、1955年になってからだった<ref name = "PhysRev.99.1048"/>。
==同位体==
{{Main|フェルミウムの同位体}}
[[ファイル:Decay of Fermium-257.PNG|thumb|center|750px|フェルミウム257の崩壊過程]]
N<small>UBASE</small>2003には<ref name="NUBASE">Audi, G.; Bersillon, O.; Blachot, J.; Wapstra, A. H. (2003), "The NUBASE evaluation of nuclear and decay properties", ''Nucl. Phys.'' A '''729''': 3–128, Bibcode 2003NuPhA.729....3A, doi:10.1016/j.nuclphysa.2003.11.001</ref>、原子量242から260までの19個のフェルミウムの同位体が掲載されている。その中で、フェルミウム257は100.5日という最も長い半減期を持つ。フェルミウム253は3日の半減期を持ち、フェルミウム251、252、254、255、256の半減期は、それぞれ5.3時間、25.4時間、3.2時間、20.1時間、2.6時間である。また、残りの同位体の半減期は、全て30分からミリ秒以下である<ref name="NUBASE"/>。フェルミウム257が中性子を捕獲して生成するフェルミウム258は、370ミリ秒で[[自発的核分裂]]を起こす。フェルミウム259と260もどちらも不安定で、それぞれ1.5秒、4ミリ秒で自発的核分裂を起こす<ref name="NUBASE"/>。これは、核爆発中以外では、中性子捕獲が質量数257以上の原子核を作れないことを意味する。フェルミウム257はアルファ崩壊し[[カリホルニウム]]253になるため、フェルミウムは中性子捕獲過程で生成する最後の元素でもある<ref name="Silva">{{cite journal|last = Silva|first = Robert J.|contribution = Fermium, Mendelevium, Nobelium, and Lawrencium|title = The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements|editor1-first = Lester R.|editor1-last = Morss|editor2-first = Norman M.|editor2-last = Edelstein|editor3-first = Jean|editor3-last = Fuger|edition = 3rd|year = 2006|volume = 3|publisher = Springer|location = Dordrecht|pages = 1621–1651|url = http://radchem.nevada.edu/classes/rdch710/files/Fm%20to%20Lr.pdf |format=PDF| doi = 10.1007/1-4020-3598-5_13}}</ref><ref name="G&E">{{Greenwood&Earnshaw1st|page=1262}}</ref>。
==製造==
[[ファイル:Elutionskurven Fm Es Cf Bk Cm Am.png|thumb|Fm(100), Es(99), Cf, Bk, Cm, Amのクロマトグラフィによる分画]]
フェルミウムは、核施設において、より軽いアクチノイドの原子核に中性子を衝突させることで製造される。フェルミウム257は、中性子捕獲によって得られる最も重い原子核であり、ナノグラム程度の量しか製造できない<ref>{{cite journal|last1=Luig |first1=Heribert|last2=Keller|first2=Cornelius|last3=Wolf|first3=Walter|last4=Shani |first4=Jashovam
|last5=Miska|first5=Horst|last6=Zyball |first6=Alfred |last7=Gerve|first7=Andreas|last8=Balaban|first8=Alexandru T.|last9=Kellerer|first9=Albrecht M.|title=Radionuclides|year=2000|doi=10.1002/14356007.a22_499}}</ref>。主要な製造元は、85MWの出力を持ち[[キュリウム]]以上(Z > 96)の原子核を作る専門施設である[[オークリッジ国立研究所]]の{{ill2|高中性子束同位体生産炉|en|High Flux Isotope Reactor}}である<ref>{{cite web|title = High Flux Isotope Reactor|url = http://neutrons.ornl.gov/facilities/HFIR/|publisher = Oak Ridge National Laboratory|accessdate = 2010-09-23}}</ref>。この炉の通常の稼働では、数十gのキュリウムが放射線照射を受けて0.1gの桁の[[カリホルニウム]]、mgの桁の[[バークリウム]]とアインスタイニウム、ピコグラムの桁のフェルミウムが生産される<ref>{{cite journal|first1 = C. E.|last1 = Porter|first2 = F. D., Jr.|last2 = Riley|first3 = R. D.|last3 = Vandergrift|first4 = L. K.|last4 = Felker|title = Fermium Purification Using Teva Resin Extraction Chromatography|journal = Sep. Sci. Technol.|volume = 32|issue = 1-4|year = 1997|pages = 83-92|doi = 10.1080/01496399708003188}}</ref>。しかし、特定の条件の実験では、ナノグラム<ref>{{cite journal|first1 = M.|last1 = Sewtz|first2 = H.|last2 = Backe|first3 = A.|last3 = Dretzke|first4 = G.|last4 = Kube|first5 = W.|last5 = Lauth|first6 = P.|last6 = Schwamb|first7 = K.|last7 = Eberhardt|first8 = C.|last8 = Gruning|first9 = P.|last9 = Thorle|title = First Observation of Atomic Levels for the Element Fermium (''Z'' = 100)|journal = Phys. Rev. Lett.|volume = 90|issue = 16|page = 163002|year = 2003|doi = 10.1103/PhysRevLett.90.163002|bibcode=2003PhRvL..90p3002S}}</ref>やマイクログラム<ref name="G&E"/>の桁のフェルミウムが生産される場合もある。20から200キロトンの熱核爆発で得られるフェルミウムはミリグラムの桁だと考えられているが、これは莫大な量の塵の中に混ざっており、例えば、1969年7月16日の「ハッチ」実験では、10kgの塵の中から40pgのフェルミウム257が回収された<ref>{{cite journal|last1 = Hoff|first1 = R. W.|last2 = Hulet|first2 = E. K.|year = 1970|title = Engineering with Nuclear Explosives|volume = 2|pages = 1283-1294}}</ref>。
製造後のフェルミウムは他のアクチノイドと[[ランタノイド]]から分離する必要があるが、これは、通常は、α-ヒドロキシ[[イソブチル酸アンモニウム]]に溶解させ、Dowex 50やT<small>EVA</small>等の陽イオン交換樹脂を用いた[[イオン交換クロマトグラフィー]]を用いて行われる<ref name="Silva"/><ref>{{cite journal|last1 = Choppin|first1 = G. R.|last2 = Harvey|first2 = B. G.|last3 = Thompson|first3 = S. G.|year = 1956|title = A new eluant for the separation of the actinide elements|journal = J. Inorg. Nucl. Chem.|volume = 2|issue = 1|pages = 66-68|doi = 10.1016/0022-1902(56)80105-X}}</ref>。小さな陽イオンは、α-ヒドロキシイソブチル酸アンモニウム陰イオンと結合してより安定な複合体を作り、そのためカラムから溶出しやすくなる<ref name="Silva"/>。高速分画結晶法が用いられる場合もある<ref name="Silva"/><ref>{{cite journal|last1 = Mikheev|first1 = N. B.|last2 = Kamenskaya|first2 = A. N.|last3 = Konovalova|first3 = N. A.|last4 = Rumer|first4 = I. A.|last5 = Kulyukhin|first5 = S. A.|title = High-speed method for the separation of fermium from actinides and lanthanides|year =1983|journal = Radiokhimiya|volume = 25|issue = 2|pages = 158-161}}</ref>。
フェルミウムの最も安定な同位体は、半減期が100.5日のフェルミウム257であるが、アインスタイニウム255の崩壊生成物として容易に分離できることから、最も研究されている同位体は、半減期20.07時間のフェルミウム255である<ref name="Silva"/>。
==核爆発における合成==
10メガトン級のアイビー・マイクの塵の分析は、長期のプロジェクトの一環として行われ、その目的の一つは高エネルギーの核爆発における超ウラン元素の生成の効率に関する研究であった。核爆発は最も強力な中性子源であり、ミリ秒の間にcm<sup>2</sup>当たり10<sup>23</sup>個の中性子密度を作る。これと比較して、高中性子束同位体生産炉での中性子密度は、ミリ秒の間にcm<sup>2</sup>当たり10<sup>12</sup>個である。いくつかの同位体は、米国本国に運ぶまでの間に崩壊してしまうため、研究所は[[エニウェトク環礁]]で塵の予備分析を行った。研究所は、実験後できるだけ早く、ろ紙を備えた飛行機で環礁の周りを飛び、サンプルを回収した。この分析で、フェルミウムよりも重い元素が発見されることが期待されたが、1954年から1956年にこの環礁で行われた何度かのメガトン級の核爆発後の分析でも発見されなかった<ref name=s39>Seaborg, p. 39</ref>。
[[ファイル:ActinideExplosionSynthesis.png|thumb|300px|left|米国による核実験HutchとCyclamenによって生成した超ウラン元素の量の推定<ref name=s40>Seaborg, p. 40</ref>。]]
==天然での生成==
フェルミウムは全ての同位体の半減期が短いため、地球形成以来、生成したフェルミウムは全て崩壊している。天然の地殻に存在するウランや[[トリウム]]からのフェルミウムを生成するには中性子捕獲が多数回必要なため、非常に珍しいと考えられる。そのため、地球上のほとんどのフェルミウムは実験室や高エネルギーの原子炉、核実験でできたものであり、生成してから数年間のみしか検出されない。アインスタイニウムとフェルミウムは[[オクロの天然原子炉]]でも生成されていたが、現在は停止している<ref name="emsley">{{cite book|last=Emsley|first=John|title=Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements|edition=New|year=2011|publisher=Oxford University Press|location=New York, NY|isbn=978-0-19-960563-7}}</ref>。
==化学的性質==
フェルミウムの化学的性質は、溶液状態で研究されたのみであり、固体状態は作られていない。通常の状態では、フェルミウムは溶液中に三価の陽イオンFm<sup>3+</sup>として存在し、[[水和数]]は16.9、[[酸解離定数]]は1.6×10<sup>-4</sup>(pKa=3.8)である<ref>{{cite journal|last1 = Lundqvist|first1 = Robert|last2 = Hulet|first2 = E. K.|last3 = Baisden|first3 = T. A.|year = 1981|last4 = Nasakkala|first4 = Elina|last5 = Wahlberg|first5 = Olof|title = Electromigration Method in Tracer Studies of Complex Chemistry. II. Hydrated Radii and Hydration Numbers of Trivalent Actinides|journal = Acta Chem. Scand., Ser. A|volume = 35|pages = 653-661|doi = 10.3891/acta.chem.scand.35a-0653}}</ref><ref>{{cite journal|last1 = Hussonnois|first1 = H.|last2 = Hubert|first2 = S.|last3 = Aubin|first3 = L.|last4 = Guillaumont|first4 = R.|last5 = Boussieres|first5 = G.|year = 1972|journal = Radiochem. Radioanal. Lett.|volume = 10|pages = 231-238}}</ref>。三価のフェルミウムイオンは、酸素のような硬いドナーとともに広範な有機リガンドに結合し、これらの錯体は他のアクチノイドの錯体よりも安定である<ref name="Silva"/>。また、[[塩化物]]や[[硝酸塩]]と陰イオン錯体
も作り、やはりこれらもアインスタイニウムやカリフォルニウムの錯体よりも安定であるようである<ref>{{cite journal|last1 = Thompson|first1 = S. G.|last2 = Harvey|first2 = B. G.|last3 = Choppin|first3 = G. R.|last4 = Seaborg|first4 = G. T.|year = 1954|title = Chemical Properties of Elements 99 and 100|journal = J. Am. Chem. Soc.|volume = 76|issue = 24|pages = 6229-6236|doi = 10.1021/ja01653a004}}</ref>。後半のアクチノイドの錯体の結合は、イオン性が強いと考えられている。フェルミウムの[[有効核電荷]]が高いため、フェルミウムイオンは他のアクチノイドイオンよりも小さいと考えられ、そのためフェルミウムは
、より短く強い金属-リガンド結合を作る<ref name="Silva"/>。
三価のフェルミウムは、例えば{{ill2|塩化サマリウム|en|Samarium chloride}}等で共沈させることで<ref>{{cite journal|last1 = Mikheev|first1 = N. B.|last2 = Spitsyn|first2 = V. I.|last3 = Kamenskaya|first3 = A. N.|last4 = Gvozdec|first4 = B. A.|last5 = Druin|first5 = V. A.|last6 = Rumer|first6 = I. A.|last7 = Dyachkova|first7 = R. A.|last8 = Rozenkevitch|first8 = N. A.|last9 = Auerman|first9 = L. N.|year = 1972|title = Reduction of fermium to divalent state in chloride aqueous ethanolic solutions|journal = Inorg. Nucl. Chem. Lett.|volume = 8|issue = 11|pages = 929-936|doi = 10.1016/0020-1650(72)80202-2}}</ref><ref>{{cite journal|last1 = Hulet|first1 = E. K.|last2 = Lougheed|first2 = R. W.|last3 = Baisden|first3 = P. A.|last4 = Landrum|first4 = J. H.|last5 = Wild|first5 = J. F.|last6 = Lundqvist|first6 = R. F.|year = 1979|title = Non-observance of monovalent Md|journal = J. Inorg. Nucl. Chem.|volume = 41|issue = 12|pages = 1743-1747|doi = 10.1016/0022-1902(79)80116-5}}</ref>、かなり容易に二価のフェルミウムに還元される<ref>{{cite journal|last = Maly|first = Jaromir|year = 1967|title = The amalgamation behaviour of heavy elements 1. Observation of anomalous preference in formation of amalgams of californium, einsteinium, and fermium|journal = Inorg. Nucl. Chem. Lett.|volume = 3|issue = 9|pages = 373-381|doi = 10.1016/0020-1650(67)80046-1}}</ref>。電極電位は、[[イッテルビウム]](III)/(II)対と同程度で、[[基準電極]]に対して約-1.15 Vと推定され<ref>{{cite journal|last1 = Mikheev|first1 = N. B.|last2 = Spitsyn|first2 = V. I.|last3 = Kamenskaya|first3 = A. N.|last4 = Konovalova|first4 = N. A.|last5 = Rumer|first5 = I. A.|last6 = Auerman|first6 = L. N.|last7 = Podorozhnyi|first7 = A. M.|year = 1977|title = Determination of oxidation potential of the pair Fm<sup>2+</sup>/Fm<sup>3+</sup>|journal = Inorg. Nucl. Chem. Lett.|volume = 13|issue = 12|pages = 651-656|doi = 10.1016/0020-1650(77)80074-3}}</ref>、これは理論的な計算とも合致する。Fm<sup>2+</sup>/Fm<sup>0</sup>対の電極電位は、[[ポーラログラフィー]]測定によると-2.37Vである<ref>{{cite journal|last1 = Samhoun|first1 = K.|last2 = David|first2 = F.|last3 = Hahn|first3 = R. L.|last4 = O'Kelley|first4 = G. D.|last5 = Tarrant|first5 = J. R.|last6 = Hobart|first6 = D. E.|year = 1979|title = Electrochemical study of mendelevium in aqueous solution: No evidence for monovalent ions|journal = J. Inorg. Nucl. Chem.| volume = 41|issue = 12|pages = 1749-1754|doi = 10.1016/0022-1902(79)80117-7}}</ref>。
==毒性==
フェルミウムに触れる者はほとんどいないが、[[国際放射線防護委員会]]は、2つの同位体について年間曝露限界を定めている。フェルミウム253に対しては、摂取限界10<sup>7</sup>ベクレル、吸入限界10<sup>5</sup>ベクレル、フェルミウム257に対しては、摂取限界10<sup>5</sup>ベクレル、吸入限界4000ベクレルである<ref>{{cite book|last1=Koch|first1=Lothar|title=Transuranium Elements, in Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry|publisher=Wiley|year=2000|doi=10.1002/14356007.a27_167}}</ref>。
==出典==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{Commons|Fermium}}
{{元素周期表}}
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{{DEFAULTSORT:ふえるみうむ}}
[[Category:フェルミウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アクチノイド]]
[[Category:第7周期元素]]
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2003-06-23T11:37:46Z
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10,343 |
マハーカーラ
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マハーカーラ(サンスクリット語: महाकाल, Mahākāla)は、ヒンドゥー、仏教とシーク教に共通の神である。ヒンドゥー教で、シヴァの別名のひとつとされる。配偶者はヒンドゥー教の女神マハーカーリ(en)とされシャクティ派で最も顕著に現れる。また密教仏教、特にチベット仏教(Citipati)ではどの宗派でも守り手として示され、日本の真言宗では護法善神という。
マハーカーラは日本で大黒天として広まり、あるいは北京語と広東語(大黑天DàhēitiānもしくはDaaih'hāktīn)、朝鮮語(대흑천)でもそれぞれ大黒天を指す。シーク教のマーヤーを司る存在がマハーカーラである。
マハーカーラMahākālaはサンスクリットのbahuvrihi複合語 で「mahā 偉大な」(梵:महत्)「kāla 時間/死」(梵:काल)から転じて「時を超越した者」や死を意味する。
チベット名は「偉大な黒い人」(チベット文字:ནག་པོ་ཆེན་པོ། Nagpo Chenpo)を意味する。チベット人は守護者という意味の言葉(チベット文字:མགོན་པོ། Gönpo)も用いる。
Sakti samgamaタントラによると妻のマハーカーリは非常に恐ろしい存在に嫁ぎ、夫マハーカーラは腕が4本で3つ目、1千万の破壊の黒炎の輝きを放ち8ヵ所の火葬場に囲まれて暮らす。身を飾る8つの頭蓋骨、5体の骸を椅子代わりに腰を下ろし、手に三つ又の鑓 (やり) に太鼓、長刀に鎌を携える。全身に火葬場の灰が降りかかり、その周囲を取り囲むハゲタカとジャッカルが大きな声で吠え立てるという。隣にいる妻のカーリーとともに時間の流れを象徴している。マハーカーラとカーリー(マハーカーリー)は両神ともブラフマンの究極の破壊力を表し、いかなる規則や規制にも縛られることはない。時間と空間さえも自分自身の中へと溶かしこむ力を持ち、宇宙が溶け去ったあとも「空」として存在しつづける。カルパの終焉に当たり宇宙を解散させるのは、この両神に任されている。あるいはまた、たとえ他の神々のデヴァ(Deva)やトリムルティス(Trimurti)には実現できなくても、強大な悪とデーモンを全て滅する責任を負う。
マハーカーラとカーリーは「カラ」すなわち「時間」の擬人化された存在であり、何にも拘束されない「時間」は慈悲を示さず、何もあるいは誰をも待つことはない。それゆえに男であれ女であれ、子供でも動物でも、世界あるいは宇宙全体を容赦なく滅し尽くす。オリッサ州とジャールカンド州、ならびにドゥアール地方(英語版)の一部(いわゆるベンガル地方北部)では、野生の象をマハーカーラとして崇拝する。
マハーカーラは通常、色が黒い。黒はすべての色を吸収して溶かし込むように、すべてを包含する包括的な性質を備えるマハーカーラは、すべての名前と形を溶かし込むと言われる。また黒とは色が完全に欠如した状態とも言え、この場合もマハーカーラの本質を究極または絶対の現実として表す。梵語でこの原則をあらゆる質と形を超えた「ニルグナ」nirgunaと呼び、すべてを包含し、かつ絶対の存在というどちらの解釈も引き受ける。
大乗仏教、チベット仏教のすべての宗派で護法善神マハーカーラに帰依する。描かれた姿はいくつものパターンがあって、それぞれに本質と側面が明らかに異なる。またさまざまな存在が異なる場合ごとに発散したものと見なされ、聖観音 (Avalokiteśvara、ワイリー方式:spyan ras gzigs)あるいはカクラサバラ(Cakrasaṃvara ワイリー方式:’khor lo bde mchog)である。マハーカーラの王冠にはほぼ必ず5個の頭蓋骨が飾られ、5つの煩悩(kleśās 負の苦痛)が五智如来に化生するさまを象徴する。
マハーカーラの顕現と描写では腕の本数の違いが最も目立ち、他の詳細も実にさまざまである。たとえば事例によって体が白い、頭が複数ある、性器のない姿(中性、または去勢者)、何かを踏みつけた立ち姿だが足元の物体の数は一定ではなく、手に持つ道具もさまざまなら、武器の代わりに装飾品などを備えることもある。
シャンパ・カギュ派(英語版)の祖師Khyungpo Naljorに発するNyingshukに広がり、サキャ、ニンマ、ゲルク派—すべての派に加え、さまざまなカギュ派の系譜に伝播した。テルマ系統は六腕のマハーカーラのさまざまな形態を伝える。ニンスクはシャンパから派生しながらシャンパの主流派ではなく—直立ではなく踊る姿であり、非常に高度なマハーカーラの修練である。
白い六腕のマハーカーラ (梵: Ṣadbhūjasītamahākāla ; ワイリー方式:mgon po yid bzhin nor bu)はモンゴルのゲルク派で人気。
チベット仏教ではさまざまな四腕のマハーカーラ(梵: Chaturbhūjamahākāla、ワイリー方式:mgon po phyag bzhi pa) はカルマ・カギュ派(en 噶瑪噶舉)、Drikung Kagyu派(直貢噶舉)とドゥクパ系列(en)の主要な守護者である。ニンマ派には四腕のマハーカーラ像も見られDzogchen (梵: Mahasandhi )の教えでは主な守護者は青多羅菩薩(Ekajati)である。
二本の腕を持つ「黒衣のマハーカーラ」(ワイリー方式:mgon po ber nag chen)はカルマ・カギュ派つまり魔術師のマント māntrikaをまとった者たちの守護者で、画像はニンマ派のテルマに由来し第2代カルマパ・ラマ(en)の時代、カルマ・カギュ派が取り入れるとしばしば配偶者ランジュン・ギャルモとともに描かれた。第一の守護者として扱われることが多いものの、実際には特にカルマパ固有の守護者である。四腕のマハーカーラは事実上の主要な守護者、六本腕(ワイリー方式:mgon po phyag drug pa) もカギュ派では一般にダルマパラである。
「マハーカーラ、テントの主」Pañjaranātha Mahakala は文殊菩薩の顕現でありサキャ派の守護者である。
ヒンドゥー教では、マハーカーラは別称マハーカーラバイラヴァとカーラバイラヴァでも知られ、インドやネパールでは多くの寺院が、たとえばカーリダーサが複数回言及するウッジャインの寺院はマハーカーラバイラヴァのみに捧げられている。マハーカーラの礼拝所となる主要な寺院はウジャインである。シヴァの主な従者の一人(梵: gaṇa )の名前もマハーカーラであるため、初期のヒンズー教寺院では表の参拝口の外にこの従者がシヴァの乗馬ナンディとともに留め置かれていた。
代表執筆者の姓のABC順。
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"title": "語源"
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"text": "Sakti samgamaタントラによると妻のマハーカーリは非常に恐ろしい存在に嫁ぎ、夫マハーカーラは腕が4本で3つ目、1千万の破壊の黒炎の輝きを放ち8ヵ所の火葬場に囲まれて暮らす。身を飾る8つの頭蓋骨、5体の骸を椅子代わりに腰を下ろし、手に三つ又の鑓 (やり) に太鼓、長刀に鎌を携える。全身に火葬場の灰が降りかかり、その周囲を取り囲むハゲタカとジャッカルが大きな声で吠え立てるという。隣にいる妻のカーリーとともに時間の流れを象徴している。マハーカーラとカーリー(マハーカーリー)は両神ともブラフマンの究極の破壊力を表し、いかなる規則や規制にも縛られることはない。時間と空間さえも自分自身の中へと溶かしこむ力を持ち、宇宙が溶け去ったあとも「空」として存在しつづける。カルパの終焉に当たり宇宙を解散させるのは、この両神に任されている。あるいはまた、たとえ他の神々のデヴァ(Deva)やトリムルティス(Trimurti)には実現できなくても、強大な悪とデーモンを全て滅する責任を負う。",
"title": "さまざまな姿"
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"text": "マハーカーラとカーリーは「カラ」すなわち「時間」の擬人化された存在であり、何にも拘束されない「時間」は慈悲を示さず、何もあるいは誰をも待つことはない。それゆえに男であれ女であれ、子供でも動物でも、世界あるいは宇宙全体を容赦なく滅し尽くす。オリッサ州とジャールカンド州、ならびにドゥアール地方(英語版)の一部(いわゆるベンガル地方北部)では、野生の象をマハーカーラとして崇拝する。",
"title": "さまざまな姿"
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"text": "マハーカーラは通常、色が黒い。黒はすべての色を吸収して溶かし込むように、すべてを包含する包括的な性質を備えるマハーカーラは、すべての名前と形を溶かし込むと言われる。また黒とは色が完全に欠如した状態とも言え、この場合もマハーカーラの本質を究極または絶対の現実として表す。梵語でこの原則をあらゆる質と形を超えた「ニルグナ」nirgunaと呼び、すべてを包含し、かつ絶対の存在というどちらの解釈も引き受ける。",
"title": "さまざまな姿"
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"text": "大乗仏教、チベット仏教のすべての宗派で護法善神マハーカーラに帰依する。描かれた姿はいくつものパターンがあって、それぞれに本質と側面が明らかに異なる。またさまざまな存在が異なる場合ごとに発散したものと見なされ、聖観音 (Avalokiteśvara、ワイリー方式:spyan ras gzigs)あるいはカクラサバラ(Cakrasaṃvara ワイリー方式:’khor lo bde mchog)である。マハーカーラの王冠にはほぼ必ず5個の頭蓋骨が飾られ、5つの煩悩(kleśās 負の苦痛)が五智如来に化生するさまを象徴する。",
"title": "さまざまな姿"
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"text": "マハーカーラの顕現と描写では腕の本数の違いが最も目立ち、他の詳細も実にさまざまである。たとえば事例によって体が白い、頭が複数ある、性器のない姿(中性、または去勢者)、何かを踏みつけた立ち姿だが足元の物体の数は一定ではなく、手に持つ道具もさまざまなら、武器の代わりに装飾品などを備えることもある。",
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"text": "シャンパ・カギュ派(英語版)の祖師Khyungpo Naljorに発するNyingshukに広がり、サキャ、ニンマ、ゲルク派—すべての派に加え、さまざまなカギュ派の系譜に伝播した。テルマ系統は六腕のマハーカーラのさまざまな形態を伝える。ニンスクはシャンパから派生しながらシャンパの主流派ではなく—直立ではなく踊る姿であり、非常に高度なマハーカーラの修練である。",
"title": "密教における諸形態"
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"text": "白い六腕のマハーカーラ (梵: Ṣadbhūjasītamahākāla ; ワイリー方式:mgon po yid bzhin nor bu)はモンゴルのゲルク派で人気。",
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"title": "密教における諸形態"
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"text": "二本の腕を持つ「黒衣のマハーカーラ」(ワイリー方式:mgon po ber nag chen)はカルマ・カギュ派つまり魔術師のマント māntrikaをまとった者たちの守護者で、画像はニンマ派のテルマに由来し第2代カルマパ・ラマ(en)の時代、カルマ・カギュ派が取り入れるとしばしば配偶者ランジュン・ギャルモとともに描かれた。第一の守護者として扱われることが多いものの、実際には特にカルマパ固有の守護者である。四腕のマハーカーラは事実上の主要な守護者、六本腕(ワイリー方式:mgon po phyag drug pa) もカギュ派では一般にダルマパラである。",
"title": "密教における諸形態"
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"text": "「マハーカーラ、テントの主」Pañjaranātha Mahakala は文殊菩薩の顕現でありサキャ派の守護者である。",
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"text": "ヒンドゥー教では、マハーカーラは別称マハーカーラバイラヴァとカーラバイラヴァでも知られ、インドやネパールでは多くの寺院が、たとえばカーリダーサが複数回言及するウッジャインの寺院はマハーカーラバイラヴァのみに捧げられている。マハーカーラの礼拝所となる主要な寺院はウジャインである。シヴァの主な従者の一人(梵: gaṇa )の名前もマハーカーラであるため、初期のヒンズー教寺院では表の参拝口の外にこの従者がシヴァの乗馬ナンディとともに留め置かれていた。",
"title": "マハーカーラ・バイラヴァ"
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マハーカーラは、ヒンドゥー、仏教とシーク教に共通の神である。ヒンドゥー教で、シヴァの別名のひとつとされる。配偶者はヒンドゥー教の女神マハーカーリ(en)とされシャクティ派で最も顕著に現れる。また密教仏教、特にチベット仏教(Citipati)ではどの宗派でも守り手として示され、日本の真言宗では護法善神という。 マハーカーラは日本で大黒天として広まり、あるいは北京語と広東語(大黑天DàhēitiānもしくはDaaih'hāktīn)、朝鮮語(대흑천)でもそれぞれ大黒天を指す。シーク教のマーヤーを司る存在がマハーカーラである。
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{{Otheruseslist|仏教の守護神|モンゴルで発見された恐竜|マハーカーラ (恐竜)}}
{{出典の明記|date=2019年10月}}
{{Infobox deity
|type=ヒンドゥー
|image=Mahakala and Companions LACMA M.77.19.11.jpg
|caption=マハーカーラと眷属 (けんぞく)
|name=マハーカーラ(バイラヴァ)
|Devanagari=महाकाल|Sanskrit_transliteration=Mahākāla
|affiliation=[[シヴァ]]
|deity_of=時間、[[マーヤー]]、創造と破壊、力
|abode=[[火葬場]] (解釈により異なる)
|consort=[[カーリー]]、マハーカーリー([[:en:Mahakali|en]])
|mantra=|weapon=長刀カーンダ ([[:en:Khanda (sword)|en]])<br />[[トリシューラ]] (三又鑓)<br />[[槌]] (日本の解釈)|festivals=|mount=
}}
[[画像:Nageshwar_Mahadev,_Shiva_Temple,_Gujarat_-_India_(3409893152).jpg|サムネイル|シヴァ神像]]
'''マハーカーラ'''({{翻字併記|sa|महाकाल|Mahākāla|n}})は、[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]、[[仏教]]と[[シク教|シーク教]]に共通の神である。[[ヒンドゥー教]]で、[[シヴァ]]の別名のひとつとされる。配偶者はヒンドゥー教の[[カーリー|女神マハーカーリ]]とされ[[シャクティ派]]で最も顕著に現れる<ref name="Mahakala and Tantra">{{Cite web|url=http://www.shivashakti.com/mahakala.htm|title=Mahakala the husband of Kali|accessdate=7 July 2016}}</ref>{{sfn|Bhattacharya Saxena, Oxford Reference|2011}}{{Efn|会員登録もしくはイギリスの公立図書館の会員証 UK public library membership が必要{{sfn| Johnson, Oxford Reference |2009}}。}}。また[[密教|密教仏教]]、特に[[チベット仏教]]([[:en:Citipati (Buddhism)|Citipati]])ではどの宗派でも守り手として示され、日本の[[真言宗]]では[[護法善神]]という。
マハーカーラは日本で[[大黒天]]として広まり、あるいは[[北京語]]と[[広東語]](大黑天''Dàhēitiān''もしくは''Daaih'hāktīn'')、朝鮮語(대흑천)でもそれぞれ大黒天を指す。[[シク教|シーク教]]の[[マーヤー]]を司る存在がマハーカーラである。
== 語源 ==
マハーカーラ{{IAST|Mahākāla}}は[[サンスクリット]]の[[所有複合語|bahuvrihi複合語]] で「''{{IAST|mahā}}'' 偉大な」(梵:महत्)「''{{IAST|kāla}}'' 時間/死」(梵:काल)から転じて「時を超越した者」や死を意味する<ref>Mookerjee, Ajit (1988). ''Kali: The Feminine Force.'' New York: Destiny</ref>。
チベット名は「偉大な黒い人」({{Bo|t=ནག་པོ་ཆེན་པོ།}} Nagpo Chenpo)を意味する。チベット人は守護者という意味の言葉({{Bo|t=མགོན་པོ།}} Gönpo)も用いる。
<!--英語版を訂正する。
[[File:Basalt Mahalaka from Orissa.JPG|thumb|Two-armed Mahakala, Eastern India, circa 1100.]]
<ref>[https://web.archive.org/web/20140407033606/http://www.banglalive.com/Feature/FeatureDetail/6580/pother-debota-the-deity-stays-not-in-the-temple-church-or-gurdwara-he-stays-everywhere-you-may-meet-him-anywhere-around-you 'Pother Debota' - the deity stays not in the temple,church or gurdwara. He stays everywhere, you may meet him anywhere, around you]. Monday, 7th April, 2014, in Bengali.</ref>
-->
== さまざまな姿 ==
[[ファイル:Basalt_Mahalaka_from_Orissa.JPG|サムネイル| 二腕のマハーカーラ (1100年頃、インド東部) ]]
''Sakti samgama''タントラ<ref>{{Cite book|title=Sakti-samgama-tantra (Sundari khanda).|url=https://www.worldcat.org/title/sakti-samgama-tantra-sundari-khanda/oclc/963823476&referer=brief_results|publisher=s.n.|date=0000 uuuu|location=Prayag|oclc=963823476|language=サンスクリット}}</ref>によると妻のマハーカーリは非常に恐ろしい存在に嫁ぎ、夫マハーカーラは腕が4本で3つ目、1千万の破壊の黒炎の輝きを放ち8ヵ所の火葬場に囲まれて暮らす。身を飾る8つの頭蓋骨、5体の骸を椅子代わりに腰を下ろし、手に三つ又の鑓 (やり) に太鼓、長刀に鎌を携える。全身に火葬場の灰が降りかかり、その周囲を取り囲むハゲタカとジャッカルが大きな声で吠え立てるという。隣にいる妻のカーリーとともに時間の流れを象徴している。マハーカーラとカーリー(マハーカーリー)は両神とも[[ブラフマン]]の究極の破壊力を表し、いかなる規則や規制にも縛られることはない。時間と空間さえも自分自身の中へと溶かしこむ力を持ち、宇宙が溶け去ったあとも「空」として存在しつづける。カルパの終焉に当たり宇宙を解散させるのは、この両神に任されている。あるいはまた、たとえ他の神々の[[デーヴァ|デヴァ]]([[:en:Deva|Deva]])や[[三神一体|トリムルティス]]([[:en:Trimurti|Trimurti]])には実現できなくても、強大な悪とデーモンを全て滅する責任を負う。
マハーカーラとカーリーは「''カラ」''すなわち「''時間''」の擬人化された存在であり、何にも拘束されない「''時間''」は慈悲を示さず、何もあるいは誰をも待つことはない。それゆえに男であれ女であれ、子供でも動物でも、世界あるいは宇宙全体を容赦なく滅し尽くす<ref name="Mahakala and Tantra"/><ref name="Snyder">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=hoI4dvN_f0kC&pg=PA76|title=Time, Being, and Soul in the Oldest Sanskrit Sources|publisher=Global Academic Publishing|last=Snyder|first= William H.|year=2001|pages=|isbn=9781586840723}}</ref>。[[オリッサ州]]と[[ジャールカンド州]]、ならびに{{仮リンク|ドゥアール地方|en|Dooars}}の一部(いわゆる[[ベンガル地方]]北部)では、野生の象をマハーカーラとして崇拝する<ref>{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20140407033606/http://www.banglalive.com/Feature/FeatureDetail/6580/pother-debota-the-deity-stays-not-in-the-temple-church-or-gurdwara-he-stays-everywhere-you-may-meet-him-anywhere-around-you|title= 'Pother Debota' |quote= 「- 神は寺院にも教会にもグルドワラにもとどまってはいません。いたるところにとどまり、身の周りのどこで会うかわかりません。」|accessdate=2014-04-07|language=ベンガリ語}}</ref><ref>{{Cite book|title=Gynocentric Thealogy of Tantric Hinduism: A Meditation Upon the Devi|publisher=Oxford University Press|year=2011}} {{ODNBsub}}</ref><ref>{{Cite book|title=A Dictionary of Hinduism|publisher=Oxford University Press|year=2009|isbn=9780198610250}} {{ODNBsub}}</ref>。
マハーカーラは通常、色が黒い。黒はすべての色を吸収して溶かし込むように、すべてを包含する包括的な性質を備えるマハーカーラは、すべての名前と形を溶かし込むと言われる。また黒とは色が完全に欠如した状態とも言え、この場合もマハーカーラの本質を究極または絶対の現実として表す。梵語でこの原則をあらゆる質と形を超えた「ニルグナ」[[:en:Nirguna_Brahman|nirguna]]と呼び、すべてを包含し、かつ絶対の存在というどちらの解釈も引き受ける{{sfn|Bowker, Oxford Reference|2000}}。
[[大乗仏教]]、[[チベット仏教|チベット仏教の]]すべての宗派で[[護法善神]]マハーカーラに帰依する{{Sfn|Watt|2019}}。描かれた姿はいくつものパターンがあって、それぞれに本質と側面が明らかに異なる。またさまざまな存在が異なる場合ごとに発散したものと見なされ、[[聖観音]] ([[聖観音|Avalokiteśvara]]、{{bo|w=spyan ras gzigs}})あるいはカクラサバラ(Cakrasaṃvara {{bo|w=’khor lo bde mchog}})である。マハーカーラの王冠にはほぼ必ず5個の頭蓋骨が飾られ、5つの[[煩悩]](kleśās 負の苦痛)が[[五智如来]]に化生するさまを象徴する。
マハーカーラの顕現と描写では腕の本数の違いが最も目立ち、他の詳細も実にさまざまである。たとえば事例によって体が白い、頭が複数ある、性器のない姿(中性、または去勢者)、何かを踏みつけた立ち姿だが足元の物体の数は一定ではなく、手に持つ道具もさまざまなら、武器の代わりに装飾品などを備えることもある。
== 密教における諸形態 ==
{{仮リンク|シャンパ・カギュ派|en|Shangpa Kagyu}}の祖師Khyungpo Naljorに発するNyingshukに広がり、[[サキャ派|サキャ]]、[[ニンマ派|ニンマ]]、[[ゲルク派]]—すべての派に加え、さまざまなカギュ派の系譜に伝播した。[[テルマ (宗教)|テルマ]]系統は六腕のマハーカーラのさまざまな形態を伝える。ニンスクはシャンパから派生しながらシャンパの主流派ではなく—直立ではなく踊る姿であり、非常に高度なマハーカーラの修練である。
''白い六腕のマハーカーラ'' (梵: ''Ṣadbhūjasītamahākāla'' ; {{bo|w=mgon po yid bzhin nor bu}})は[[モンゴル系民族|モンゴル]]のゲルク派で人気。 <gallery widths="200" heights="200">
ファイル:Mahakala, 12th century, Rubin Museum of Art.jpg|alt=12世紀の大乗仏教のマハーカーラ像|マハーカーラ(12世紀、ルービン美術館収蔵)
ファイル:Likir-Gompa-03.jpg|alt=インド仏教の6本腕のマハーカーラ像(ラダック)|腕が6本のインドのマハーカーラ([[ラダック]]、リキルゴンパ収蔵)
ファイル:6-armiger Mahakala.jpg|alt=チベット仏教の6本腕のマハーカーラ像|6本腕の黒いマハーカーラ(チベット)
</gallery>
=== 四本腕のマハーカーラ ===
チベット仏教ではさまざまな四腕のマハーカーラ(梵: ''Chaturbhūjamahākāla''、{{bo|w=mgon po phyag bzhi pa}}) はカルマ・カギュ派([[:en:Karma Kagyu|en]] 噶瑪噶舉)、[[:en:Drikung Kagyu|Drikung Kagyu]]派(直貢噶舉)とドゥクパ系列([[:en:Drukpa_Lineage|en]])の主要な守護者である。[[ニンマ派]]には四腕のマハーカーラ像も見られ[[ゾクチェン|Dzogchen]] (梵: ''Mahasandhi'' )の教えでは主な守護者は[[多羅菩薩|青多羅菩薩]]([[:en:Ekajati|Ekajati]])である。
=== 二腕のマハーカーラ ===
二本の腕を持つ「黒衣のマハーカーラ」({{Bo|w=mgon po ber nag chen}})はカルマ・カギュ派つまり魔術師のマント ''māntrika''をまとった者たちの守護者で、画像はニンマ派のテルマに由来し第2代カルマパ・ラマ([[:en:Karma Pakshi, 2nd Karmapa Lama.|en]])の時代、カルマ・カギュ派が取り入れるとしばしば配偶者ランジュン・ギャルモとともに描かれた。第一の守護者として扱われることが多いものの、実際には特に[[カルマパ]]固有の守護者である。四腕のマハーカーラは事実上の主要な守護者、六本腕({{Bo|w=mgon po phyag drug pa}}) もカギュ派では一般にダルマパラである。
「マハーカーラ、テントの主」Pañjaranātha Mahakala は[[文殊菩薩]]の顕現でありサキャ派の守護者である。 <gallery widths="200" heights="200">
ファイル:Six arm mahakala.jpg|六腕のマハーカーラのルーパ
ファイル:Mahakala Bernakchen.jpg|黒衣のマハーカーラ
ファイル:Mahākāla - AMNH - DSC06235.JPG|アメリカ自然史博物館のアジアコレクションに出展(アメリカ、ニューヨーク市マンハッタン)。
ファイル:Tibet, mahakala, guardiano della dottrina sotto l'aspetto gur-gyi mgon-go, 1292.JPG|マハーカーラ彫刻(チベット)
ファイル:Mahakala, Protector of the Tent.jpg|1500年頃のマハーカーラ「テントの保護者」、中央チベット。
ファイル:Mahakala Bernagchen.jpg|ネパールのマハーカーラ像。カルマパスの保護者で二腕のBernagchen(黒衣をまとうマハーカーラ)。
</gallery>
=== その他の形態 ===
<gallery widths="200" heights="200">
ファイル:Mahakala in the Form of a Brahman - Google Art Project.jpg|ブラフマンの姿をしたマハーカーラ
ファイル:Brooklyn Museum - Mahakala (m Gon-po).jpg|赤いマハーカーラ{{sfn|山内|2007|pages=461-458}}
</gallery>
== マハーカーラ・バイラヴァ ==
{{main|[[:w:en:Bhairava|バイラヴァ(英語版)]]}}
ヒンドゥー教では、マハーカーラは別称マハーカーラバイラヴァとカーラバイラヴァでも知られ、インドやネパールでは多くの寺院が、たとえば[[カーリダーサ]]が複数回言及する[[ウッジャイン]]の寺院はマハーカーラバイラヴァのみに捧げられている。マハーカーラの礼拝所となる主要な寺院は[[ウッジャイン|ウジャイン]]で''ある。''シヴァの主な従者の一人(梵: ''gaṇa'' )の名前もマハーカーラであるため、初期の[[ヒンドゥー教|ヒンズー教]]寺院では表の参拝口の外にこの従者がシヴァの乗馬[[ナンディン|ナンディ]]とともに留め置かれていた。
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==Mahakala in Japan==
{{main|Daikokuten}}
[[File:Daikoku.jpg|thumb|upright|Japanese Daikokuten]]
Mahakala (known as ''Daikokuten'' 大黑天) enjoys an exalted position as a household deity in [[Japan]], as he is one of the [[Seven Lucky Gods]] in Japanese folklore.
The Japanese also use the symbol of Mahakala as a monogram. The traditional pilgrims climbing the holy [[Mount Ontake]] wear [[tenugui]] on white Japanese scarves with the Sanskrit seed syllable of Mahakala.
In Japan, this deity is variously considered to be the god of wealth or of the household, particularly the kitchen. He is recognised by his wide face, smile, and a flat black hat, in stark contrast to the fierce imagery portrayed in Tibetan Buddhist art. He is often portrayed holding a golden [[mallet]], otherwise known as a magic money mallet, and is seen seated on bales of [[rice]], with [[mouse|mice]] nearby (mice signify plentiful food).
== 日本のマハーカーラ ==
{{main|大黒天}}
[[ファイル:Daikoku.jpg|サムネイル| 日本の大黒天 ]]
マハーカーラは「大黒天」と呼ばれて日本の民間伝承の[[七福神]]に数えられ、日本の家庭で信奉される神として高貴な地位を享受する。
日本人はまた、マハーカーラの象徴を[[家紋]]などのシンボルに使用し、神聖な[[御嶽山|御岳]]山の伝統的な巡礼が着用する[[手拭|手ぬぐい]]には、マハーカーラを表す[[梵字]]の1文字が白地に染め抜かれている。
この神は日本ではさまざまな解釈を与えられ、富の神または家、特に台所の神と考えられる。チベット仏教美術の描く激しさとはまったく対照的に大きな顔に満面の笑みをたたえ、平らな黒い帽子で見分けられる。しばしば小槌を握った姿に描かれ、デザインにはその「打ち出の小槌」と俵の上に座った姿、そばにたたずむネズミを盛り込む例が多い(ネズミは豊富な食糧すなわち富を連想させる)。
-->
== 参考文献 ==
<!-- こちらの一覧は本文の出典のみ。 -->
=== 英語文献 ===
*{{cite book|last=Johnson|first=W. J|chapter=A Dictionary of Hinduism|title=[[:en:Oxford Reference|Oxford Reference]]|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|location=Oxford|year=2009|ISBN=9780198610250}} {{ODNBsub}}
*{{cite book|last=Bhattacharya Saxena|first=Neela|chapter=Gynocentric Thealogy of Tantric Hinduism: A Meditation Upon the Devi|title=[[:en:Oxford Reference|Oxford Reference]]|publisher=[[オックスフォード大学出版局 |Oxford University Press]]|location=Oxford|year=2011|doi=10.1093/oxfordhb/9780199273881.003|ref={{sfnref|Bhattacharya Saxena, Oxford Reference|2011}}}}
*{{Cite book|last=Bowker|first=John|chapter=The Concise Oxford Dictionary of World Religions|title=[[:en:Oxford Reference]]|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|location=Oxford|year=2000|doi=10.1093/acref/9780192800947.001.0001|ref={{sfnref|Bowker, Oxford Reference|2000}}}}{{ODNBsub}}
*{{Cite web |url=https://www.himalayanart.org/search/set.cfm?setID=173 |title=Buddhist Protector: Mahakala Main Page |access-date=2022-05-09 |publisher=[[ヒマラヤン・アート・リソーシズ]] |author=Jeff Watt |date=2019-12 |ref={{SfnRef|Watt|2019}}}}
=== 日本語文献 ===
*{{cite journal|和書|author=山内丈士|naid=110006548156|doi=10.4259/ibk.56.1_461 |title=赤マハーカーラ成就法についての一考察|journal=印度學佛教學研究|volume=56|number=1|issn=0019-4344|publisher=[[日本印度学仏教学会]]|year=2007|ref={{sfnref|山内|2007}} |pages=461-458}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
代表執筆者の姓のABC順。
<!-- 一般に関連分野の資料はこちら。本文の出典ではないもの。 -->
* Gimm, Martin. ''Zum mongolischen Mahākāla-Kult und zum Beginn der Qing-Dynastie—die Inschrift Shisheng beiji von 1638'' (2000/01)
* Ladrang Kalsang (author), Pema Thinley (trans.) ''The Guardian Deities of Tibet.'' Delhi: 1996 reprinted 2003, Winsome Books India, {{ISBN2|81-88043-04-4}}
* Lewis, Todd. [http://www. scribd. com/doc/13280877/Popular-Buddhist-Texts-From-Nepal-Narratives-and-Rituals-of-Newar-Buddhism ''Popular Buddhist Texts From Nepal Narratives and Rituals of Newar Buddhism'']. NY: SUNY Publication, 2000.
* Linrothe, Rob (1999) ''Ruthless Compassion: Wrathful Deities in Early Indo-Tibetan Esoteric Buddhist Art'' London: Serindia Publications. {{ISBN2|0-906026-51-2}}
* Matsushita, Emi. ''Iconography of Mahākāla.''The Ohio State University, 2001. [http://rave.ohiolink.edu/etdc/view?acc_num=osu1141933891 修士論文全文のリンク]。
* 宮林昭彦教授古稀記念論文集刊行会; 小澤憲珠『[https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000096-I010320742-00?lat=&lng= 仏教思想の受容と展開 : 宮林昭彦教授古稀記念論文集]』(第1巻・第2巻)、山喜房佛書林、2004年。{{ISBN2|479630147X}}、{{ncid|BA66548219}}。
* Nebesky-Wojkowitz, De , Rene. (1956) ''Oracles and Demons of Tibet''. Oxford University Press. Reprint Delhi: Books Faith, 1996. {{ISBN2|81-7303-039-1}}. Reprint Delhi: Paljor Publications, 2002. {{ISBN2|81-86230-12-2}}.
* 大羽恵美「[https://ci.nii.ac.jp/naid/40015135971/ マハーカーラの図像に関する一考察]」『北陸宗教文化』第18巻、北陸宗教文化学会、2006年3月、35-55頁。{{issn|0915-4078}}。
*佐久間留理子「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110009933473/10.20716/rsjars.88.Suppl_341 仏教とヒンドゥー教との共生 : マハーカーラ信仰の調査報告](第八部会)」『宗教研究』第88巻、{{issn|0387-3293}}、日本宗教学会〈特集=第73回学術大会紀要〉、2015年。341-342頁。
* Sperling, Elliot. ''rTsa mi lo-ts-ba Sangs-rgyas grags-pa and the Tangut Background to Early Mongol-Tibetan Relations'', “Tibetan Studies: Proceedings of the 6th Seminar of the International Association for Tibetan Studies“, Fagernes, 1992. vol. 2, Oslo: The Institute for Comparative Research in Human Culture, 1994, pp. 801–824
* Stablein, William. ''The Mahakalatantra: A Theory of Ritural Blessings and Tantric Medicine''. Ph.D. Dissertation, Columbia University, 1976.
* Stablein, William. ''Healing Image: The Great Black One'' Berkeley-Hong Kong: SLG Books, 1991. {{ISBN2|0-943389-06-2}}.
* {{Cite journal|author=大羽恵美|date=2008-06-01|title=インド・チベットにおける忿怒尊像の形成と展開|url=https://hdl.handle.net/2297/10962|journal=金沢大学大学院人間社会環境研究科博士論文要旨|pages=47-53}}
== 関連項目 ==
* [[シヴァ]]
* [[大黒天]]
* [[仏の一覧]]
* [[:en:Kīla (Buddhism)|Vajrakila]] 法具の黄金刀、Kīlaともいう。
== 外部リンク ==
{{sisterlinks|d=Q922824|n=no|b=no|v=no|voy=no|m=no|mw=no|s=no|wikt=no|species=no|q=no}}
* [http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/qa/jinja_saijin/ 七福神は日本の神様ですか] - 東京都神社庁
*[http://www.himalayanart.org/pages/mahakala/index.html マハーカーラの図像学概論]{{En icon}} - HimalayanArt.org
**[http://www.himalayanart.org/search/set.cfm?setID=173 仏教の守護者:マハーカーラ (さまざまな顕現)]{{En icon}} - HimalayanArt.org
*[http://www.khandro.net/deity_Mahakala.htm Khandro.net: マハーカーラ]{{En icon}}
*[http://traditionalartofnepal.com/shop/deities/thangka-white-mahakala/ マハーカーラのタンカ絵画] - 六腕の白いマハーカーラの顕現]{{En icon}}
{{Normdaten}}
{{Hinduism2}}
{{DEFAULTSORT:まはから}}
[[Category:護法神]]
[[Category:タントラ (仏教)]]
[[Category:農耕神]]
[[Category:破壊神]]
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日本語版で該当しなかったカテゴリ。
[[Category:Fortune gods]]
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[[Category:Time and fate gods]]
[[Category:Creator gods]]
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2003-06-23T16:28:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A9
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大黒天
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大黒天(だいこくてん、梵: Mahākāla、[マハーカーラ]、音写:摩訶迦羅など)とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたもの。七福神の一柱。
ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒、闇黒)を意味するので偉大なる暗黒(闇黒)の神『大黒天』と名づく。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。
シヴァ神のマハーカーラがそのまま密教に取り入れられたため、初期の大黒天はシヴァと同様に四本の手に三叉戟、棒、輪、索をそれぞれ持った像として描かれた。さらには、ブラフマーとヴィシュヌをも吸収していき、ヒンドゥー教の三神一体(ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ)に対応した三面六臂の憤怒相の大黒天(マハーカーラ)も登場した。
後期密教を継承したチベット仏教では、大黒天(マハーカーラ)の像容は多彩であり、一面二臂・一面四臂・一面六臂・三面二臂・三面四臂・三面六臂などがある。(シヴァに由来しながらも)シヴァとその妻パールヴァティー、もしくはガネーシャを踏みつけてヒンドゥー教を降伏させて仏教を勝利させる護法尊としての姿が主流となった。チベット・モンゴル・ネパールでは貿易商から財の神としての信仰を集め、チベットでは福の神としての民間信仰も生まれた。
日本には密教の伝来とともに伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、特に中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた。密教を通じて伝来したことから初期には主に真言宗や天台宗で信仰された。インドでも厨房・食堂の神ともされていたが、日本においては最澄が毘沙門天・弁才天と合体した三面大黒を比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったのが始まりという。後に大国主神と習合した。室町時代になると日蓮宗においても盛んに信仰された。「大黒さん」として親しまれている。
本来の像容は、一面二臂、青黒(しょうこく)か黒色で忿怒(いかり)の相で表現される。『大黒天神法(嘉祥寺神愷記)』には、烏帽子・袴姿で右手の拳を腰に当てて、左手で大きな袋を左肩に背負う厨房神・財神として描かれている。この袋の中身は七宝が入っているとされる。
ほとんどが一面だが、上述のように毘沙門天・弁才天と合体した三面六臂の大黒天も作られた。
以上のような憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような柔和相で作られるようになるが、まれに観世音寺(福岡県)にある大黒天立像のように憤怒相の像も見られる。
日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。
袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話(大国主の神話#根の国訪問を参照)から、鼠が大黒天の使いであるとされる。
春日大社には平安時代に出雲大社から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があり、かつて伊豆山神社(伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていた(現在では熱海の古屋旅館に存在する)。
日本一大きいえびす、大黒の石像は舞子六神社にあり商売繁盛の神社とされている。
大黒と恵比寿は各々七福神の一柱であるが、寿老人と福禄寿が二柱で一組で信仰される事と同様に、一組で信仰されることが多い。神楽などでも恵比寿舞と大黒舞が夙(つと)に知られ、このことは大黒が五穀豊穣の農業の神である面と恵比寿が大漁追福の漁業の神である面に起因すると考えられている。また商業においても農産物や水産物は主力であったことから商売の神としても信仰されるようになっていった。
寺院
神社
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大黒天とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたもの。七福神の一柱。
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{{出典の明記|date=2018-06}}
[[画像:Mahakala-Dharmapala.jpg|サムネイル|大黒天(マハーカーラ)]]
'''大黒天'''(だいこくてん、{{lang-sa-short|Mahākāla}}{{refnest|name="nipponica"}}、{{fontsize|77%|[マハーカーラ]}}、音写:摩訶迦羅など)とは、[[ヒンドゥー教]]の[[シヴァ]]神の異名であり、これが仏教に取り入れられたもの{{refnest|name="nipponica"|前田式子・佐々木勝、[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9-91125#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「大黒天」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。[[七福神]]の一柱{{refnest|name="nipponica"}}。
== 概要 ==
[[ヒンドゥー教]]の[[シヴァ]]神の化身である[[マハーカーラ]]は、インド[[密教]]に取り入れられた。“マハー”とは'''大'''(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは'''時'''あるいは'''黒'''(暗黒、闇黒)を意味するので偉大なる暗黒(闇黒)の神『大黒天』と名づく。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした[[護法善神]]である。
== インド密教・チベット仏教 ==
[[File:6-armiger Mahakala.jpg|thumb|250px|チベット密教における憤怒相の大黒天(マハーカーラ)]]
シヴァ神のマハーカーラがそのまま[[密教]]に取り入れられたため、初期の大黒天はシヴァと同様に四本の手に三叉戟、棒、輪、索をそれぞれ持った像として描かれた。さらには、[[ブラフマー]]とヴィシュヌをも吸収していき、ヒンドゥー教の[[三神一体]](ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ)に対応した三面六臂の憤怒相の大黒天(マハーカーラ)も登場した。
後期密教を継承した[[チベット仏教]]では、大黒天(マハーカーラ)の像容は多彩であり、一面二臂・一面四臂・一面六臂・三面二臂・三面四臂・三面六臂などがある。(シヴァに由来しながらも)シヴァとその妻[[パールヴァティー]]、もしくは[[ガネーシャ]]を踏みつけてヒンドゥー教を降伏させて仏教を勝利させる護法尊としての姿が主流となった。チベット・モンゴル・ネパールでは貿易商から財の神としての信仰を集め、チベットでは福の神としての民間信仰も生まれた。
== 日本の仏教・密教 ==
=== 歴史 ===
日本には密教の伝来とともに伝わり、[[天部]]と言われる[[仏教]]の守護神達の一人で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、特に中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた。密教を通じて伝来したことから初期には主に[[真言宗]]や[[天台宗]]で信仰された。インドでも厨房・食堂の神ともされていたが、日本においては最澄が[[毘沙門天]]・[[弁才天]]と合体した三面大黒を[[比叡山]][[延暦寺]]の台所の守護神として祀ったのが始まりという。後に[[大国主神]]と習合した。室町時代になると[[日蓮宗]]においても盛んに信仰された。「'''大黒さん'''」として親しまれている。
=== 偉容 ===
本来の像容は、一面二臂、青黒(しょうこく)か黒色で忿怒(いかり)の相で表現される。『大黒天神法(嘉祥寺神愷記)』には、烏帽子・袴姿で右手の拳を腰に当てて、左手で大きな袋を左肩に背負う厨房神・財神として描かれている<ref group="注釈">吾體作五尺。若三尺若二尺五寸亦得通免之。膚色悉作黒色。頭令冠烏帽子悉黒色也。令著袴驅褰不垂。令著狩衣。裙短袖細。右手作拳令收右腰。左手令持大袋。從背令懸肩上其袋之色爲鼠毛色。其垂下裎餘臀上。如是作畢。居大衆食屋禮供者。堂屋房舍必自然之榮。聚集涌出。</ref>。この袋の中身は[[七宝]]<ref group="注釈">七宝(しちほう、しっぽう)とは、七種の宝のこと。七種(ななくさ)の宝、七珍ともいう。仏教の経典である『[[無量寿経]]』では、金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)の7種。同じく仏教の経典である『[[法華経]]』では、金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰(まいかい)の七種。</ref>が入っているとされる。
*[[胎蔵生]][[曼荼羅]]での大黒天は、シヴァとその聖なる白牛[[ナンディン]](白い水牛が中国や日本で認識されずに、山羊や兎の姿で誤描写)を降伏させている立像で身の丈は通常は五尺である。
ほとんどが一面だが、上述のように毘沙門天・弁才天と合体した三面六臂の大黒天も作られた。
以上のような憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような柔和相で作られるようになるが、まれに[[観世音寺]]([[福岡県]])にある大黒天立像のように憤怒相の像も見られる。
=== 真言 ===
* おん まかきやらや そわか<ref>[[正木晃]]『密教の聖なる呪文』ビイング・ネット・プレス、2019年、p189</ref>
==神仏習合・神道==
[[画像:土蔵に描かれた大黒天.jpg|thumbnail|150px|[[土蔵]]に描かれた大黒天]]
[[画像:Daikoku8727.jpg|right|150px|thumb|[[神田明神]]の大黒天像]]
[[画像:kindaikokuten.jpg|150px|thumb|(千葉県市川市大野町 [[本光寺 (市川市)|本光寺]])の金大黒天]]
[[画像:Bank of Japan silver convertible one yen banknote 1885.jpg|thumb|150px|right|日本銀行兌換銀券一円券(旧一円券)]]
[[File:2018-07-14 Floods of Mabi, Kurashiki City 大黒天物産、倉敷市真備 平成30年7月豪雨被害 DSCF3723.jpg|thumb|200px|right|社名に大黒天を冠した[[大黒天物産]]は社屋に大黒天を配している(中国RMC、岡山県総社市)。]]
日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから[[神道]]の[[神]]である[[大国主]]と混同され、[[習合]]して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、[[七福神]]の一柱の'''大黒様'''として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り[[福袋]]と[[うちでのこづち|打出の小槌]]を持った微笑の長者形で表される。
袋を背負っているのは、大国主が[[日本神話]]で最初に登場する[[因幡の白兎]]の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主が[[スサノオ]]の計略によって焼き殺されそうになった時に[[ネズミ|鼠]]が助けたという説話([[大国主の神話#根の国訪問]]を参照)から、鼠が大黒天の[[神使|使い]]であるとされる。
[[春日大社]]には平安時代に[[出雲大社]]から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があり、かつて[[伊豆山神社]](伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていた(現在では熱海の古屋旅館に存在する)。
=== 大黒と恵比寿 ===
日本一大きいえびす、大黒の石像は[[舞子六神社]]にあり商売繁盛の神社とされている。
大黒と[[えびす|恵比寿]]は各々[[七福神]]の一柱であるが、寿老人と福禄寿が二柱で一組で信仰される事と同様に、一組で信仰されることが多い。神楽などでも恵比寿舞と大黒舞が夙(つと)に知られ、このことは大黒が五穀豊穣の農業の神である面と恵比寿が大漁追福の漁業の神である面に起因すると考えられている。また商業においても農産物や水産物は主力であったことから商売の神としても信仰されるようになっていった。
== 大黒天を祀る主な社寺 ==
寺院
* [[大黒寺 (羽曳野市)|大黒寺]](大阪府羽曳野市) - 日本最初大黒天出現霊場
* [[大黒寺 (京都市伏見区)|大黒寺]](京都市伏見区)
* [[大円寺 (目黒区)]](東京都) - [[元祖山手七福神]]
* [[浅草寺]](東京都台東区) - 米びつ大黒/[[浅草名所七福神]]
* [[寛永寺]][[護国院 (台東区)|護国院]](東京都台東区) - [[谷中七福神]]
* [[法明寺 (豊島区)#鬼子母神堂|鬼子母神]](東京都豊島区) - 大黒堂/[[雑司が谷七福神]]<ref>[http://www.kanko-toshima.jp/Guide/Attention/attention05.html 豊島区観光協会 雑司が谷七福神巡り]</ref>
* [[本光寺 (市川市)|本光寺]]([[千葉県]][[市川市]]) - 金大黒天
* [[宝積寺]](大黒天宝寺)(京都府乙訓郡大山崎町) - 大山崎大黒天/京都六大黒天
* [[妙円寺 (京都市)|妙円寺]](京都府京都市) - 松ヶ崎大黒天/[[都七福神]]
* [[圓徳院]](京都府京都市) - 三面大黒天
* [[四天王寺]](大阪府大阪市) - 三面大黒天
* [[安楽寺 (蒲郡市)|安楽寺]](愛知県蒲郡市) - [[三河七福神]]
* [[普門寺 (豊橋市)|普門寺]](愛知県豊橋市) - [[吉田七福神]]
* [[福海寺]](兵庫県神戸市) - 柳原大黒天/摂津国・諸山 - [[兵庫七福神]]
* [[最上稲荷]](岡山市北区) - 三面大黒尊天
* [[喬正院]](愛知県美浜町) - 神将三面大黒天
* 長谷寺
* [[大観密寺]](宮城県仙台市泉区) - 油掛大黒天
* [[三澤寺 (伊那市)|三澤寺]](長野県伊那市) - 豊穣大黒天
神社
* 日本一大きいえびす、大黒の石像は[[舞子六神社]](兵庫県神戸市)
* [[神田明神]](東京都千代田区)
* [[大前神社]](栃木県真岡市)
* [[敷津松之宮|敷津松之宮大国主神社]](大阪府大阪市) - 日之出大国/[[浪華七福神]]
* [[春日大社]]摂社夫婦大國社(奈良県奈良市) - 夫婦大黒天像(6年に1度御前立開帳)
* [[油掛大黒天]](岡山県岡山市)
* 一之宮都農神社(宮崎県都農町)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Daikokuten}}
* [[シヴァ]]、[[マハーカーラ]]
* [[大国主]]
* [[七福神]]
* [[天部]]
* [[大自在天]]
* [[大黒流]] - [[福岡県]][[福岡市]]のかつての町人町である[[博多]]の一地区の名称
* [[大黒天物産]] - 社名やロゴに大黒天を使用。
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[[Category:大黒天|*]]
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[[Category:七福神]]
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10,346 |
ユビキタスコンピューティング
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ユビキタスコンピューティング(ubiquitous computing)は、コンピュータがいたる所に存在(遍在)し、いつでもどこでも使える状態をあらわす概念である。
ユビキタスコンピューティングは、パロアルト研究所のマーク・ワイザーによるサイエンティフィック・アメリカンの記事"The Computer for the 21st Century"で、コンピューターが「環境にすっかり溶け込み消えてしまう」というあり方を示す用語として使われた。
なお、後に(2002年)石井裕は「辞書的な意味が転じて、日本のメディアでは『いつでも・どこでも』ネットアクセスできる多様性に富んだモバイル・コンピューティングという意味で使われているように見え」「ユビキタスの文脈は今ひどく混迷している」と評している(ただし、ヒューマンインタフェース学会の学会誌への寄稿という文脈においてそのように書いたものであり、ヒューマンインタフェース研究という文脈がある)。
また、「あらゆる場所であらゆるモノがネットワークにつながる」ことはユビキタスネットワークと呼ばれるようになった。ユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワークが広まった当初はおもに、移動体通信や無線などにより携帯電話や携帯情報端末(PDA)などの持ち運び可能な機器をコンピュータネットワークと接続することが想定された。
坂村健はTRONプロジェクトにおいて、1980年代後半、そのグランドデザインとしてHFDS(Highly Functionally Distributed System、超機能分散システム)というものを提唱した。時間的にはこちらが「ユビキタスコンピューティング」に先行しているが、ユビキタスコンピューティングの語が広まった後は(坂村自身が広めていた、という面もあるが)、それを指してユビキタスと言うことも多い(というより、専らユビキタスと言っている)。
坂村は、携帯電話などにとどまらずあらゆるモノにコンピュータが組み込まれ、コンピュータ同士が協調動作することに力点を置いた。それにより、人間はコンピュータの存在を意識することなく、高い利便性を得られる。具体的には、以下のような例が挙げられている。
モノのインターネット(IoT)の概念はユビキタスと同じであり、TRONが元祖であることを坂村健は主張している。
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ユビキタスコンピューティングは、コンピュータがいたる所に存在(遍在)し、いつでもどこでも使える状態をあらわす概念である。
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'''ユビキタスコンピューティング'''('''ubiquitous computing''')は、[[コンピュータ]]がいたる所に存在(遍在)し、いつでもどこでも使える状態をあらわす概念である。
== マーク・ワイザーの提唱 ==
ユビキタスコンピューティングは、[[パロアルト研究所]]の[[マーク・ワイザー]]による[[サイエンティフィック・アメリカン]]の記事[http://www.ubiq.com/hypertext/weiser/SciAmDraft3.html "The Computer for the 21st Century"]で、コンピューターが「環境にすっかり溶け込み消えてしまう」という<!--[[ユーザーインターフェイス]]の--><!-- ← コレって、次の段落にある、ヒューマンインタフェース学会の学会誌への寄稿をまず読んだことによる偏った観点からでは?-->あり方を示す用語として使われた。
なお、後に(2002年)[[石井裕 (コンピューター研究者)|石井裕]]は「辞書的な意味が転じて、日本のメディアでは『いつでも・どこでも』ネットアクセスできる多様性に富んだモバイル・コンピューティングという意味で使われているように見え」「ユビキタスの文脈は今ひどく混迷している」と評している<ref>[http://www.ht.sfc.keio.ac.jp/~kaz/21st_century/UbiCompHI.pdf 石井裕「特別寄稿 ユビキタスの混迷の未来」]</ref>(ただし、ヒューマンインタフェース学会の学会誌への寄稿という文脈においてそのように書いたものであり、ヒューマンインタフェース研究という文脈がある)。
また、「あらゆる場所であらゆるモノがネットワークにつながる」ことは[[ユビキタスネットワーク]]と呼ばれるようになった。ユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワークが広まった当初はおもに、[[移動体通信]]や[[無線]]などにより[[携帯電話]]や[[携帯情報端末]](PDA)などの持ち運び可能な機器を[[コンピュータネットワーク]]と接続することが想定された。
== 坂村健の提唱 ==
[[坂村健]]は[[TRONプロジェクト]]において、1980年代後半、そのグランドデザインとしてHFDS(Highly Functionally Distributed System、超機能分散システム)というものを提唱した。時間的にはこちらが「ユビキタスコンピューティング」に先行しているが、ユビキタスコンピューティングの語が広まった後は(坂村自身が広めていた、という面もあるが)、それを指してユビキタスと言うことも多い(というより、専らユビキタスと言っている)。
坂村は、携帯電話などにとどまらずあらゆるモノにコンピュータが組み込まれ、コンピュータ同士が協調動作することに力点を置いた。それにより、人間はコンピュータの存在を意識することなく、高い利便性を得られる。具体的には、以下のような例が挙げられている。
* 薬ビン自体にコンピュータを内蔵させ、併用すると著しい副作用のある薬を一緒に飲もうとすると、薬ビンから携帯電話に電話がかかってきて警告を発してくれる
* ゴミになるモノにコンピュータを取り付けておき、焼却炉と交信を行い処理方法を決定する
* 衣服にコンピュータを取り付け、体温を測定することで、空調を調節する
* 電脳住宅。ユビキタス社会につながる実証実験がなされた<!--
これらは、一般の携帯デバイスのように、人間の道具として従属(他律動作)するものではなく、自律動作をする一種の[[ロボット]]であるとも言える。自律動作の側面を強調する場合や、高度な自律動作に関して、'''ユビキタスロボット'''という用語も使われる。
--><!--
↑この蛇足っぽい記述は「坂村健の提唱」とは無関係なはずです。「ユビキタス・ロボット」という語を使っているのは大場光太郎先生のようですが……
-->
=== ユビキタスとIoT ===
[[モノのインターネット]](IoT)の概念はユビキタスと同じであり、TRONが元祖であることを坂村健は主張している。<ref>[http://type.jp/et/log/article/tron_iot どこでもコンピュータの時代」まであと10年、技術者はどう生きるべきか?坂村健教授に聞く]</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 坂村 健著『ユビキタス・コンピュータ革命』株式会社角川書店、2002年6月、ISBN 4-04-704088-6
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2023年11月|section=1}}
* [[ユビキタス]]
** [[ユビキタスネットワーク]]
** [[ユビキタス・コミュニケータ]]
** [[u-Japan]]
** [[ユビキタス特区]]
* [[モバイル]]
** [[携帯機器]]
** [[日本の携帯電話]]
** [[スマートフォン]]
***[[歩きスマホ]]
* 関連キーワード
** [[TRONプロジェクト|TRON]]
** [[拡張現実]]
** [[RFID]]・[[ICタグ]]
** [[センサネットワーク]]
** [[ウェアラブルコンピュータ]]
** [[人体通信]]
** [[スマートハウス]]
** [[スマートグリッド]]
** [[クロスボー]]
** [[タンジブルユーザインタフェース]]
** [[IT断食]]
* 関連人物
** [[坂村健]]([[東京大学]])
** [[舘暲]](東京大学)
** [[徳田英幸]]([[慶應義塾大学]])
* 関連企業
** [[野村総合研究所]]
** [[富士通]]
** [[富士通ゼネラル]]
** [[BIPROGY]]
** [[イー・モバイル]]
** [[日立製作所]]
** [[日本電気]](NEC)
== 外部リンク ==
* [http://www.ubiq.com/hypertext/weiser/UbiHome.html Xerox PARCのMark Weiserのホームページ]
* [http://www.sakamura-lab.org/ 坂村研究室のホームページ]
=== 学会等 ===
* [http://percom.org/ PerCom]
* [http://ubicomp.org/ Ubicomp]
* [http://www.computer.org/portal/site/pervasive/ IEEE Pervasive Computing]
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[[Category:ユビキタスコンピューティング|*]]
[[Category:コンピューティング]]
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廃藩置県
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廃藩置県(はいはんちけん、旧字体: 廢藩置縣)は、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す(#その他の異動を参照)。
300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。
なお本項では、廃藩置県によって設置された「県」の地理的規模を合理化するために、約4カ月後と5年後との2回にわたって実施された系統的な府県統合についても述べる。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古の政変は、事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、新政府内部の中央集権化を進めようとする勢力にとっては各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。
明治2年6月17日(1869年7月25日) 274大名から版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状はほとんど江戸時代と同様であった。版籍奉還の時点で、一気に郡県制と統一国家を目指す勢力も新政府内にあったが政争に敗れた。
一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを「府藩県三治制」という。なお「藩」という呼称は江戸時代からあったが、制度上で呼称されたのはこの時期が初めてであり、江戸幕府下では正式な制度として「藩」という呼称はなされなかった。したがって、公式に「藩」という制度が存在したのは、明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけともいえる。
新政府直轄の府と県は合わせて全国の4分の1程度に過ぎず、また一揆などによって収税は困難を極めたため、新政府は当初から財源確保に苦しんだ。
当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また軍隊は各藩から派遣された藩兵で構成されており、統率性を欠いた。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。戊辰戦争の結果、諸藩の債務は平均で年間収入の3倍程度に達していた。財政事情が悪化したため、また統一国家を目指すために、自ら政府に廃藩を願い出る藩も出ていた(鳥取藩主池田慶徳、名古屋藩主徳川慶勝、熊本藩主細川護久、盛岡藩主南部利恭など)。
明治3年12月19日(1871年2月8日)、大蔵大輔・大隈重信が「全国一致之政体」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。
薩摩藩、長州藩においては膨れ上がった軍事費が深刻な問題となっており、これに土佐藩を加えた三藩から新政府直属の親兵を差し出すことで問題を回避するとともに、中央集権化が図られた。
なお、寺社もまた藩と同様に農民に年貢を課す領地を持っていたが、廃藩置県に先立つ明治4年1月5日の上知令により境内を除いて国に没収された。
明治元年11月(1868年12月)、紀州藩第14代藩主・徳川茂承より藩政改革の全権を委任された津田出は、陸奥宗光に会い、郡県制度(版籍奉還・廃藩置県)、徴兵令の構想を伝える。
明治2年7月(1869年8月)、陸奥宗光は廃藩置県の意見書を提出するが、採用されず下野し、津田出らとともに紀州藩の藩政改革に参画する。紀州藩の藩政改革は、郡県制の実施、無益高(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施、カール・ケッペンらの指導によりプロシア式の洋式軍隊を創設し、四民皆兵の徴兵制度を整え、満20歳以上の男子には徴兵検査を受けさせた。また、藩主の下に執政を1人置き藩全体を統轄させた。執政の下に参政公議人を置き、執政の補佐や藩と中央政府との連絡を行った。また政治府と公用局、軍務局、会計局、刑法局、民政局の5局、教育を掌る所として学習館(後の和歌山大学)を設置した。それに加え、藩主の家計事務一切を藩政から分離する「藩治職制」を新設し、設置した。最低生活を保障する給与である無役高で禄高を10分の1に減額されたが、それぞれの官職についた者については文武役料が追加され、人材抜擢が行われた。この際、無役高のみの者に対しては、城下以外への移住、副業や内職のために農工商業を営むことが許され、紀州藩での封建制度は崩壊した。なお、長州藩の鳥尾小弥太は、この改革に戊営副都督次席として参与している。この改革を西郷従道、西郷隆盛の代理で村田新八、山田顕義が見学した。この改革が、日本の近代国家建設のモデルケースとなり、明治4年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の徴兵令に影響を与えた。
主に軍事面と財政面において中央集権体制を進める廃藩置県の必要性は次第に政府内で支持を増やしていた。一方で薩摩藩の島津久光などの近代化と中央集権化に反対する勢力も存在感を維持し、これらに対して大久保利通や木戸孝允などの新政府実力者は漸進的な姿勢をとらざるを得なかった。特に圧倒的な軍事力を抱える薩摩藩の動向は、大きな懸念材料となっており、薩摩藩出身の実力者たちは慎重な姿勢を見せていた。この現状に中間官僚たちは危機感を強めた。
7月4日(8月19日)、兵制の統一を求めていた山口藩出身の兵部少輔山縣有朋の下に居合わせた同藩出身の鳥尾小弥太と野村靖が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。
翌日2人は、大蔵省を切り回し財政問題に悩む井上馨を味方に引き入れ、7月6日(8月21日)に、井上は木戸を、山縣は西郷隆盛を説得した。西郷は戊辰戦争後の薩摩藩における膨大な数の士卒の扶助に苦慮し、藩体制の限界を感じていた。薩摩藩で大きな支持を集める西郷の同意を得て、中央集権化を密かに目指していた大久保や木戸も賛成した。当初廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、7月9日(8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長の要人が木戸邸で案を作成した。その後に、公家、土佐藩、佐賀藩出身の実力者である三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得た。
予想される抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な親兵をもって鎮圧することが計画された。
明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。
明治四年七月󠄁十四日
10時に鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大及び、高知藩知事・山内豊範の代理を務める板垣を召し出し、廃藩の詔勅 を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・池田慶徳、徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。旧藩主家の収入には、旧藩の収入の一割があてられ、旧藩士への家禄支給の義務および藩の債務から解放された。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統合された(第1次府県統合)。その後12月に、この府県の列順(序列)が布告されている。最初に東京・京都・大阪の3府の順、次に神奈川・兵庫・長崎・新潟の4県が定められた。これは明治政府が開港地を重要視していたためである。
その後、県の数は明治5年(1872年)3府69県、明治6年(1873年)3府60県、明治8年(1875年)3府59県、明治9年(1876年)3府35県(第2次府県統合)と合併が進んだ。しかし、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため、次は(明治14年(1881年)に堺県が大阪府に合併したことを除いて)分割が進められ、明治22年(1889年)には3府42県(廃藩置県の対象外だった北海道と沖縄県を除く)となって最終的に落ち着いた。
統合によってできた府県境は、令制国のものと重なる部分も多い。また、石高で30〜60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。
また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するため、その県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年(1873年)までには大半の同県人県令は廃止されている)、鹿児島県令の大山綱良のように数年に渡って県令を務めて一種の独立政権のような行動をする者もいた。
一方、その中で山口県(旧長州藩)だけは逆にかつての「宿敵」である旧幕臣出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとした。なお、この制限は文官任用制度が確立した明治18年(1885年)頃まで続いた。
廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」と言えるものであった。
だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、同年11月12日(12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。
廃藩置県が急速に行われた最も重大な理由は軍制の統一および財政の健全化であった。このうち軍制については、藩の軍事組織を解体し、徴兵令によって軍を再編成することによって統一が図られた。財政面では、廃藩置県直後の新政府の歳出のうち、37%が華士族への秩禄であった。その大部分を占める士族に関しては徴兵令によって家禄の根拠を失わせ、さらに秩禄処分によって華士族の秩禄を完全に廃止することで財政の改善が図られた。
士族の大部分が近代統一国家の建設を支持していたこと、旧藩主階級を身分的かつ経済的に厚遇し東京に移住させて藩士たちと切り離したことで、改革への抵抗は抑えられた。版籍奉還の直後に旧藩主である知藩事の家禄は旧藩全体収入の10分の1とされ、かつ華族とされていた。また、版籍奉還により、旧藩主が藩知事の任命権を自発的に天皇に奉還していたことも、論理的に藩主の抵抗を難しくしていた。
廃藩置県により、旧藩の債務および家禄は全て新政府の責任となった。
既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじてしのいでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが、黒船来航以来の政治的緊張と戊辰戦争への出兵によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出て実際に解体される藩が狭山藩、大溝藩、鞠山藩、吉井藩、盛岡藩、長岡藩、福本藩、高須藩など続出する状況であった。また、幕末維新期には多くの藩で貨幣の贋造が行われ、外交問題に発展していた。
これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった。
藩札の合計は3909万円、(藩札を除く)藩債の合計は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達していた。
新政府は藩債を3種類に分割した。すなわち、
というものであった。
藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。藩債のうち外交問題になりえる外債は、元利償却分を除いて全て現金で償還された。藩以外の旗本・御家人などの個人債務は償還対象外とされた。朝敵となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いて全て無効とされた。また、維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた。
その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り1921年に償還を完了した。
藩債の大半は天保以前からの大名貸しが繰り延べられて来たものであり、ことごとく無効とされた。例えば有名な薩摩藩の調所広郷による「無利子250年分割払い」は35年間の支払いを以って無効とされた。
一般に江戸時代の金利は高く、例えば薩摩藩の250年分割以前の平均金利は16%に達していた。貸し手の商人達から見れば大名貸は元金返済の見込みは薄い一種の不良債権であったが、名目上は資産として認められ、金利収入は大きく、社会的な地位ともなりえたが、この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。幕臣相手の債権を所有していた札差は瓦解した。
江戸よりも幕府による制約が少ない大坂に資金調達先が求められていた為に大名貸の商人が江戸より多くいた大坂は経済的に大打撃を受ける事となった。また、日本経済の中心であった大坂は中心的地位から転落する要因となった。ただし、大坂商人の苦境には、幕末以来の銀の価値低下により、銀本位制に傾いていた大坂における銀資産の価値低下も影響している。
一方で、旧藩主やその家臣は全ての債務を免責された上、中には廃藩直前に藩札を増刷し債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。
明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施された当初、府県名は都市名(府県庁所在地)を付けたものであるが特に旧幕府・旗本領や旧中小藩を引き継いだ県では府県庁所在地周辺よりも多くの飛地を遠隔地に持つ所が少なくない。以下の地方区分は、府県庁所在地によるものである。太字は廃藩置県以前から存在した府県。
明治4年10月28日(1871年12月10日)から11月22日(1872年1月2日)に行われた第1次府県統合によって、各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編された。
以下、9月に先行して実施された統合を除いて、法令全書所収の太政官布告により明治4年(1871年)末の段階の府県とそのエリアを示す(布告日は旧暦)。ただし太政官布告に記載されたエリアと実際のエリアには若干の異同があり、飛地領の管轄に対する指示も日付が前後している部分がある。また合併の期日も、資料によってはこれと異なるものもある。
廃藩置県から第1次府県統合までの約4箇月の間にも、一部で統合が進められている。
明治4年10月28日(1871年12月10日)布告。
明治4年11月2日(1871年12月13日)布告。
明治4年11月2日(1871年12月13日)布告。
明治4年11月14日(1871年12月25日)布告。すでに県の設置を終えている群馬県を除く。
明治4年11月14日(1871年12月25日)布告。
明治4年11月15日(1871年12月26日)布告。
明治4年11月15日(1871年12月26日)布告。
明治4年11月15日(1871年12月26日)布告。
明治4年11月20日(1871年12月31日)布告。
明治4年11月20日(1871年12月31日)布告。
明治4年11月22日(1872年1月2日)布告。
明治4年12月27日(1872年2月14日)付の太政官布告による府県の配列は、以下の通りである。
以下の節ではカッコ内が新しい県の名称を示す。
都市名で命名されていた旧藩名から郡名等への改称。第1次府県統合当初から統合前の県名(旧藩名)を継承しなかった例と併せて、賞罰的県名説の論拠となっている。改称の経緯が明らかになっているいくつかの事例では、「人心一新」などを求める県側から太政官への上申に基づく処置である。
改称が移転に先行していたり、移転予定が実現しなかったりした例もある。なお、第1次府県統合の約2箇月前に合併した弘前県における県庁移転も、便宜的にここへ記載する。
愛媛県のみ石鉄県の県庁を継承(編入と同時に改称したと考えることも可能)、他は新たな県庁へ移転。
すべて明治9年(1876年)。この統合で発足した県の中には、後に分立した例も多いほか(次節参照)、現在でも地域間対立や地理的要件の不一致などの問題を孕む地域も少なくない。
徳島藩、越前藩、鳥取藩、佐賀藩、高松藩など、他県に編入された旧藩の領地での独立運動による分立、また大阪府と奈良県、石川県と富山県など道路建設と水害対策のいずれに予算を優先的に配分するかをめぐっての対立による分立が多い。
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"text": "翌日2人は、大蔵省を切り回し財政問題に悩む井上馨を味方に引き入れ、7月6日(8月21日)に、井上は木戸を、山縣は西郷隆盛を説得した。西郷は戊辰戦争後の薩摩藩における膨大な数の士卒の扶助に苦慮し、藩体制の限界を感じていた。薩摩藩で大きな支持を集める西郷の同意を得て、中央集権化を密かに目指していた大久保や木戸も賛成した。当初廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、7月9日(8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長の要人が木戸邸で案を作成した。その後に、公家、土佐藩、佐賀藩出身の実力者である三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得た。",
"title": "実行前夜"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "予想される抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な親兵をもって鎮圧することが計画された。",
"title": "実行前夜"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。",
"title": "実行"
},
{
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"tag": "p",
"text": "明治四年七月󠄁十四日",
"title": "実行"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "10時に鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大及び、高知藩知事・山内豊範の代理を務める板垣を召し出し、廃藩の詔勅 を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・池田慶徳、徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。",
"title": "実行"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。旧藩主家の収入には、旧藩の収入の一割があてられ、旧藩士への家禄支給の義務および藩の債務から解放された。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。",
"title": "実行"
},
{
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"tag": "p",
"text": "当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統合された(第1次府県統合)。その後12月に、この府県の列順(序列)が布告されている。最初に東京・京都・大阪の3府の順、次に神奈川・兵庫・長崎・新潟の4県が定められた。これは明治政府が開港地を重要視していたためである。",
"title": "実行"
},
{
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"tag": "p",
"text": "その後、県の数は明治5年(1872年)3府69県、明治6年(1873年)3府60県、明治8年(1875年)3府59県、明治9年(1876年)3府35県(第2次府県統合)と合併が進んだ。しかし、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため、次は(明治14年(1881年)に堺県が大阪府に合併したことを除いて)分割が進められ、明治22年(1889年)には3府42県(廃藩置県の対象外だった北海道と沖縄県を除く)となって最終的に落ち着いた。",
"title": "実行"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "統合によってできた府県境は、令制国のものと重なる部分も多い。また、石高で30〜60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。",
"title": "実行"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するため、その県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年(1873年)までには大半の同県人県令は廃止されている)、鹿児島県令の大山綱良のように数年に渡って県令を務めて一種の独立政権のような行動をする者もいた。",
"title": "実行"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一方、その中で山口県(旧長州藩)だけは逆にかつての「宿敵」である旧幕臣出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとした。なお、この制限は文官任用制度が確立した明治18年(1885年)頃まで続いた。",
"title": "実行"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」と言えるものであった。",
"title": "続く改革"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、同年11月12日(12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。",
"title": "続く改革"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "廃藩置県が急速に行われた最も重大な理由は軍制の統一および財政の健全化であった。このうち軍制については、藩の軍事組織を解体し、徴兵令によって軍を再編成することによって統一が図られた。財政面では、廃藩置県直後の新政府の歳出のうち、37%が華士族への秩禄であった。その大部分を占める士族に関しては徴兵令によって家禄の根拠を失わせ、さらに秩禄処分によって華士族の秩禄を完全に廃止することで財政の改善が図られた。",
"title": "続く改革"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "士族の大部分が近代統一国家の建設を支持していたこと、旧藩主階級を身分的かつ経済的に厚遇し東京に移住させて藩士たちと切り離したことで、改革への抵抗は抑えられた。版籍奉還の直後に旧藩主である知藩事の家禄は旧藩全体収入の10分の1とされ、かつ華族とされていた。また、版籍奉還により、旧藩主が藩知事の任命権を自発的に天皇に奉還していたことも、論理的に藩主の抵抗を難しくしていた。",
"title": "続く改革"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "廃藩置県により、旧藩の債務および家禄は全て新政府の責任となった。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじてしのいでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが、黒船来航以来の政治的緊張と戊辰戦争への出兵によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出て実際に解体される藩が狭山藩、大溝藩、鞠山藩、吉井藩、盛岡藩、長岡藩、福本藩、高須藩など続出する状況であった。また、幕末維新期には多くの藩で貨幣の贋造が行われ、外交問題に発展していた。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "藩札の合計は3909万円、(藩札を除く)藩債の合計は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達していた。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "新政府は藩債を3種類に分割した。すなわち、",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "というものであった。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。藩債のうち外交問題になりえる外債は、元利償却分を除いて全て現金で償還された。藩以外の旗本・御家人などの個人債務は償還対象外とされた。朝敵となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いて全て無効とされた。また、維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り1921年に償還を完了した。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "藩債の大半は天保以前からの大名貸しが繰り延べられて来たものであり、ことごとく無効とされた。例えば有名な薩摩藩の調所広郷による「無利子250年分割払い」は35年間の支払いを以って無効とされた。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "一般に江戸時代の金利は高く、例えば薩摩藩の250年分割以前の平均金利は16%に達していた。貸し手の商人達から見れば大名貸は元金返済の見込みは薄い一種の不良債権であったが、名目上は資産として認められ、金利収入は大きく、社会的な地位ともなりえたが、この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。幕臣相手の債権を所有していた札差は瓦解した。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "江戸よりも幕府による制約が少ない大坂に資金調達先が求められていた為に大名貸の商人が江戸より多くいた大坂は経済的に大打撃を受ける事となった。また、日本経済の中心であった大坂は中心的地位から転落する要因となった。ただし、大坂商人の苦境には、幕末以来の銀の価値低下により、銀本位制に傾いていた大坂における銀資産の価値低下も影響している。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一方で、旧藩主やその家臣は全ての債務を免責された上、中には廃藩直前に藩札を増刷し債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。",
"title": "旧藩債務の問題"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施された当初、府県名は都市名(府県庁所在地)を付けたものであるが特に旧幕府・旗本領や旧中小藩を引き継いだ県では府県庁所在地周辺よりも多くの飛地を遠隔地に持つ所が少なくない。以下の地方区分は、府県庁所在地によるものである。太字は廃藩置県以前から存在した府県。",
"title": "廃藩置県当初に設置された県"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "明治4年10月28日(1871年12月10日)から11月22日(1872年1月2日)に行われた第1次府県統合によって、各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編された。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "以下、9月に先行して実施された統合を除いて、法令全書所収の太政官布告により明治4年(1871年)末の段階の府県とそのエリアを示す(布告日は旧暦)。ただし太政官布告に記載されたエリアと実際のエリアには若干の異同があり、飛地領の管轄に対する指示も日付が前後している部分がある。また合併の期日も、資料によってはこれと異なるものもある。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "廃藩置県から第1次府県統合までの約4箇月の間にも、一部で統合が進められている。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "明治4年10月28日(1871年12月10日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月2日(1871年12月13日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月2日(1871年12月13日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月14日(1871年12月25日)布告。すでに県の設置を終えている群馬県を除く。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月14日(1871年12月25日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月15日(1871年12月26日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月15日(1871年12月26日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月15日(1871年12月26日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月20日(1871年12月31日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月20日(1871年12月31日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "明治4年11月22日(1872年1月2日)布告。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "明治4年12月27日(1872年2月14日)付の太政官布告による府県の配列は、以下の通りである。",
"title": "第1次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "以下の節ではカッコ内が新しい県の名称を示す。",
"title": "第1次府県統合から第2次府県統合までの異動"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "都市名で命名されていた旧藩名から郡名等への改称。第1次府県統合当初から統合前の県名(旧藩名)を継承しなかった例と併せて、賞罰的県名説の論拠となっている。改称の経緯が明らかになっているいくつかの事例では、「人心一新」などを求める県側から太政官への上申に基づく処置である。",
"title": "第1次府県統合から第2次府県統合までの異動"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "改称が移転に先行していたり、移転予定が実現しなかったりした例もある。なお、第1次府県統合の約2箇月前に合併した弘前県における県庁移転も、便宜的にここへ記載する。",
"title": "第1次府県統合から第2次府県統合までの異動"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "愛媛県のみ石鉄県の県庁を継承(編入と同時に改称したと考えることも可能)、他は新たな県庁へ移転。",
"title": "第1次府県統合から第2次府県統合までの異動"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "すべて明治9年(1876年)。この統合で発足した県の中には、後に分立した例も多いほか(次節参照)、現在でも地域間対立や地理的要件の不一致などの問題を孕む地域も少なくない。",
"title": "第2次府県統合"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "徳島藩、越前藩、鳥取藩、佐賀藩、高松藩など、他県に編入された旧藩の領地での独立運動による分立、また大阪府と奈良県、石川県と富山県など道路建設と水害対策のいずれに予算を優先的に配分するかをめぐっての対立による分立が多い。",
"title": "第2次府県統合以降の異動"
}
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廃藩置県は、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す(#その他の異動を参照)。 300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。 なお本項では、廃藩置県によって設置された「県」の地理的規模を合理化するために、約4カ月後と5年後との2回にわたって実施された系統的な府県統合についても述べる。
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[[ファイル:Modern Japan prefectures map in 1872.jpg|thumb|1872年(明治4年12月)の地方行政区画(冨山房『大日本読史地図』)]]
'''廃藩置県'''(はいはんちけん、{{旧字体|'''廢藩置縣'''}})は、[[明治維新]]期の[[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])に、明治政府がそれまでの[[藩]]を廃止して地方統治を中央管下の[[府 (行政区画)#日本|府]]と[[県#日本の県|県]]に一元化した[[行政改革]]である。ただし、[[沖縄県]]の近代史においては、[[琉球処分]]の一環として明治12年([[1879年]])に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す<ref>{{Cite web|和書|title=廃藩置県|url=http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch4/syobun_6.html#:~:text=1879%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB12%EF%BC%89%E5%B9%B43,%E3%81%AB%E5%BC%95%E3%81%8D%E6%B8%A1%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82|website=琉球文化アーカイブ|publisher=[[沖縄県立総合教育センター]]|accessdate=2022-5-14}}</ref>([[#その他の異動]]を参照)。
300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の[[版籍奉還]]によって[[知藩事]]とされていた[[大名]]には藩収入の一割が約束され、[[東京]]居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は[[国]]が直接支払い義務を負い、のちに[[秩禄処分]]により削減・廃止された。また、藩の[[債務]]は国が引き継いだ。
なお本項では、廃藩置県によって設置された「[[県#日本の県|県]]」の地理的規模を合理化するために、約4カ月後と5年後との2回にわたって実施された系統的な府県統合についても述べる。
{{main2|各藩の[[武装解除]]の過程については「[[鎮台]]」を}}
== 背景 ==
[[慶応]]3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]][[1月3日]])に勃発した[[王政復古 (日本)|王政復古]]の政変は、事実上の中央政府が[[江戸幕府]]から[[朝廷 (日本)|朝廷]]へ移っただけに過ぎず、新政府内部の[[中央集権]]化を進めようとする勢力にとっては各地に未だ残る大名領([[藩]])の存在をどうするかが問題であった。
明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]]) 274大名から[[版籍奉還]]が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、各大名は[[知藩事]](藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは[[幕藩体制]]の廃止の一歩となったものの現状はほとんど[[江戸時代]]と同様であった。版籍奉還の時点で、一気に[[郡県制]]と統一国家を目指す勢力も新政府内にあったが政争に敗れた<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p47</ref>。
一方、旧[[天領]]や[[旗本]]支配地等は政府直轄地として[[府]]と[[県]]が置かれ中央政府から[[都道府県知事|知事]](知府事・知県事)が派遣された。これを「[[府藩県三治制]]」という。なお「藩」という呼称は江戸時代からあったが、制度上で呼称されたのはこの時期が初めてであり、江戸幕府下では正式な制度として「藩」という呼称はなされなかった。したがって、公式に「藩」という制度が存在したのは、明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけともいえる。
新政府直轄の府と県は合わせて全国の4分の1程度に過ぎず<ref name="松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p152">松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p152</ref>、また一揆などによって収税は困難を極めたため<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p65</ref>、新政府は当初から[[財源]]確保に苦しんだ。
当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また軍隊は各藩から派遣された藩兵で構成されており、統率性を欠いた。そして各藩と[[薩長]]新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。[[戊辰戦争]]の結果、諸藩の債務は平均で年間収入の3倍程度に達していた<ref>勝田政治、「廃藩置県」、講談社選書メチエ、p86</ref>。財政事情が悪化したため、また統一国家を目指すために、自ら政府に廃藩を願い出る藩も出ていた([[鳥取藩]]主[[池田慶徳]]、[[尾張藩|名古屋藩]]主[[徳川慶勝]]、[[熊本藩]]主[[細川護久]]、[[盛岡藩]]主[[南部利恭]]など)<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p143</ref>。
明治3年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]](1871年[[2月8日]])、[[大蔵省|大蔵大輔]]・[[大隈重信]]が「''全国一致之政体''」の施行を求める建議を[[太政官]]に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。
薩摩藩、長州藩においては膨れ上がった[[軍事費]]が深刻な問題となっており、これに土佐藩を加えた三藩から新政府直属の[[親兵]]を差し出すことで問題を回避するとともに、中央集権化が図られた<ref>勝田政治、「廃藩置県」、講談社選書メチエ、p133</ref>。
なお、寺社もまた藩と同様に農民に年貢を課す領地を持っていたが、廃藩置県に先立つ明治4年1月5日の[[上知令#明治政府による上知令|上知令]]により境内を除いて国に没収された。
== 紀州藩(和歌山藩)の藩政改革 ==
明治元年11月(1868年12月)、[[紀州藩]]第14代藩主・[[徳川茂承]]より藩政改革の全権を委任された[[津田出]]は、[[陸奥宗光]]に会い、郡県制度(版籍奉還・廃藩置県)、[[徴兵令]]の構想を伝える。
明治2年7月(1869年8月)、[[陸奥宗光]]は廃藩置県の意見書を提出するが、採用されず下野し、[[津田出]]らとともに紀州藩の藩政改革に参画する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/000200/nagomi/web/nagomi05/conversation/ |publisher=和歌山県知事室広報課 |website=和(nagomi) |title=【知事対談】明治を支えた歴史を語る。-紀州人のDNA- |accessdate=2019-3-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/tuda.html |publisher=和歌山文化情報アーカイブ事業 |website=和歌山県ふるさとアーカイブ |title=紀の国の先人たち 政治家 津田 出 |accessdate=2019-3-29}}</ref><ref>木村時夫、「[https://hdl.handle.net/2065/10122 明治初年における和歌山藩の兵制改革について]」『早稻田人文自然科學研究』 1969年 4巻 p.1-60, {{hdl|2065/10122}}, 早稲田大学社会科学部学会</ref>。紀州藩の藩政改革は、郡県制の実施、無益高(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施、[[カール・ケッペン]]らの指導により[[プロシア]]式の洋式軍隊を創設し、[[四民皆兵]]の徴兵制度を整え、満20歳以上の男子には徴兵検査を受けさせた。また、藩主の下に執政を1人置き藩全体を統轄させた。執政の下に参政公議人を置き、執政の補佐や藩と中央政府との連絡を行った。また[[政治府]]と[[公用局]]、[[軍務局]]、[[会計局]]、[[刑法局]]、[[民政局]]の5局、教育を掌る所として学習館(後の[[和歌山大学]])を設置した。それに加え、藩主の家計事務一切を藩政から分離する「藩治職制」を新設し、設置した。最低生活を保障する給与である無役高で禄高を10分の1に減額されたが、それぞれの官職についた者については文武役料が追加され、人材抜擢が行われた。この際、無役高のみの者に対しては、城下以外への移住、副業や内職のために農工商業を営むことが許され、[[紀州藩]]での封建制度は崩壊した。なお、[[長州藩]]の[[鳥尾小弥太]]は、この改革に戊営副都督次席として参与している。この改革を[[西郷従道]]、[[西郷隆盛]]の代理で[[村田新八]]、[[山田顕義]]が見学した。この改革が、日本の近代国家建設のモデルケースとなり、明治4年(1871年)の廃藩置県、明治6年([[1873年]])の徴兵令に影響を与えた。
== 実行前夜 ==
主に軍事面と財政面において中央集権体制を進める廃藩置県の必要性は次第に政府内で支持を増やしていた。一方で[[薩摩藩]]の[[島津久光]]などの近代化と中央集権化に反対する勢力も存在感を維持し、これらに対して[[大久保利通]]や[[木戸孝允]]などの新政府実力者は漸進的な姿勢をとらざるを得なかった。特に圧倒的な軍事力を抱える薩摩藩の動向は、大きな懸念材料となっており、薩摩藩出身の実力者たちは慎重な姿勢を見せていた。この現状に中間官僚たちは危機感を強めた<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p150</ref>。
[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]([[8月19日]])、兵制の統一を求めていた山口藩出身の兵部少輔[[山縣有朋]]の下に居合わせた同藩出身の[[鳥尾小弥太]]と[[野村靖]]が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p151</ref>。
翌日2人は、[[大蔵省]]を切り回し財政問題に悩む[[井上馨]]を味方に引き入れ<ref name="松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p152"/>、[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]([[8月21日]])に、井上は木戸を<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p153</ref>、山縣は[[西郷隆盛]]を説得した<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p155</ref>。西郷は[[戊辰戦争]]後の薩摩藩における膨大な数の士卒の扶助に苦慮し、藩体制の限界を感じていた<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p154</ref>。薩摩藩で大きな支持を集める西郷の同意を得て、中央集権化を密かに目指していた大久保や木戸も賛成した。当初廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]([[8月24日]])、西郷隆盛、大久保、[[西郷従道]]、[[大山厳]]、木戸、井上、山縣の7名の[[薩長]]の要人が木戸邸で案を作成した。その後に、公家、[[土佐藩]]、[[佐賀藩]]出身の実力者である[[三条実美]]・[[岩倉具視]]・[[板垣退助]]・[[大隈重信]]らの賛成を得た。
予想される抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な[[親兵]]をもって鎮圧することが計画された<ref>勝田政治、「廃藩置県」、講談社選書メチエ、p157</ref>。
== 実行 ==
{{Wikisource|廢藩置縣ノ詔書|廃藩置県ノ詔書}}
[[File:Magokoro10-1-4.jpg|thumb|border|200px|廃藩置県]]
明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。
{{Quotation|{{kyujitai|朕󠄂惟フニ更󠄁始ノ時ニ際シ內以テ億兆ヲ保安シ外以テ萬國ト對峙セント欲セハ宜ク名實相副ヒ政令一ニ歸セシムヘシ朕󠄂囊ニ諸󠄀藩版籍奉還󠄁ノ議ヲ聽納󠄁シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ數百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其實擧ラサル者󠄁アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ萬國ト對峙スルヲ得ンヤ朕󠄂深ク之ヲ慨󠄁ス仍テ今更󠄁ニ藩ヲ廢シ縣ト爲ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無實ノ弊󠄁ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕󠄂カ意󠄁ヲ體セヨ<p>明治四年七月󠄁十四日}}}}
10時に[[鹿児島藩]][[知藩事|知事]]・[[島津忠義]]、[[山口藩]]知事・[[毛利元徳]]、[[佐賀藩]]知事・[[鍋島直大]]及び、[[高知藩]]知事・[[山内豊範]]の代理を務める板垣を召し出し、廃藩の[[詔勅]]<ref>中村定吉 編、「廢藩置縣ノ詔」『明治詔勅輯』、p18、1893年、中村定吉。[{{NDLDC|759506/18}}]</ref> を読み上げた。ついで[[名古屋藩]]知事・[[徳川慶勝]]、[[熊本藩]]知事・[[細川護久]]、[[鳥取藩]]知事・[[池田慶徳]]、[[徳島藩]]知事・[[蜂須賀茂韶]]に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、[[東京]]への移住が命じられた。旧藩主家の収入には、旧藩の収入の一割があてられ、旧藩士への家禄支給の義務および藩の債務から解放された。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から[[県令]]が派遣された。なお同日、各藩の[[藩札]]は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の[[都道府県]]よりも細かく分かれており、3府302県あった。また[[飛地]]が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統合された([[#第1次府県統合|第1次府県統合]])。その後12月に、この府県の列順(序列)が布告されている。最初に東京・京都・大阪の3府の順、次に神奈川・兵庫・長崎・新潟の4県が定められた。これは明治政府が開港地を重要視していたためである<ref>[[勝田政治]] 『廃藩置県 <small>近代国家誕生の舞台裏</small>』 [[角川ソフィア文庫]] [I-123-1] ISBN 978-4044092153、10-11p</ref>。
その後、県の数は明治5年([[1872年]])3府69県、明治6年([[1873年]])3府60県、明治8年([[1875年]])3府59県、明治9年([[1876年]])3府35県([[#第2次府県統合|第2次府県統合]])と合併が進んだ。しかし、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため、次は(明治14年([[1881年]])に堺県が大阪府に合併したことを除いて)分割が進められ、明治22年([[1889年]])には3府42県(廃藩置県の対象外だった[[北海道]]と[[沖縄県]]を除く)となって最終的に落ち着いた。
統合によってできた府県境は、[[令制国]]のものと重なる部分も多い。また、[[石高]]で30〜60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。
また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するため、その県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年(1873年)までには大半の同県人県令は廃止されている)、[[鹿児島県|鹿児島]]県令の[[大山綱良]]のように数年に渡って県令を務めて一種の独立政権のような行動をする者もいた。
一方、その中で山口県(旧[[長州藩]])だけは逆にかつての「宿敵」である旧[[幕臣]]出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における[[藩閥|長州閥]]の発言力を確固たるものとした。なお、この制限は[[文官]]任用制度が確立した明治18年([[1885年]])頃まで続いた。
; 同県人の知事起用
* 明治5年(1872年)まで:[[静岡県]]、[[鳥取県]]、[[岡山県]]、[[徳島県]]、[[佐賀県]]
* 明治6年(1873年)まで:[[熊本県]]
* 明治8年(1875年)まで:[[京都府]]
* 明治9年(1876年)まで:[[高知県]]
* 明治10年([[1877年]])まで:[[鹿児島県]]
== 続く改革 ==
廃藩置県は[[平安時代]]後期以来続いてきた特定の[[領主]]がその[[領地]]・[[所領]]を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「'''明治維新における最大の改革'''」と言えるものであった。
だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、同年11月12日(12月23日)から明治6年([[1873年]])9月13日まで[[岩倉使節団]]の外遊中に明治政府を率いた[[留守政府]]に託された。留守政府の元で[[徴兵令]](海陸警備ノ制)・[[学制]](教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・[[地租改正]](理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。
廃藩置県が急速に行われた最も重大な理由は軍制の統一および財政の健全化であった。このうち軍制については、藩の軍事組織を解体し、徴兵令によって軍を再編成することによって統一が図られた。財政面では、廃藩置県直後の新政府の歳出のうち、37%が華士族への秩禄であった<ref>落合弘樹、「秩禄処分」、中公新書、p74</ref>。その大部分を占める士族に関しては徴兵令によって家禄の根拠を失わせ、さらに[[秩禄処分]]によって華士族の秩禄を完全に廃止することで財政の改善が図られた。
士族の大部分が近代統一国家の建設を支持していたこと、旧藩主階級を身分的かつ経済的に厚遇し東京に移住させて藩士たちと切り離したことで、改革への抵抗は抑えられた。[[版籍奉還]]の直後に旧藩主である知藩事の家禄は旧藩全体収入の10分の1とされ、かつ華族とされていた。また、版籍奉還により、旧藩主が藩知事の任命権を自発的に天皇に奉還していたことも、論理的に藩主の抵抗を難しくしていた<ref>勝田政治、「廃藩置県」、講談社選書メチエ、p165</ref>。
== 旧藩債務の問題 ==
廃藩置県により、旧藩の債務および家禄は全て新政府の責任となった。
既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、[[大坂]]などの有力商人からいわゆる「[[大名貸]]」を受けたり領民から[[御用金]]を徴収するなどして辛うじてしのいでいた。各藩とも[[藩政改革]]を推進してその打開を図ったが、[[黒船]]来航以来の政治的緊張と[[戊辰戦争]]への出兵によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら[[領土]]の返上を申し出て実際に解体される藩が[[狭山藩]]、[[大溝藩]]、[[鞠山藩]]、[[吉井藩]]、[[盛岡藩]]、[[越後長岡藩|長岡藩]]、[[福本藩]]、[[高須藩]]など続出する状況であった<ref>松尾正人、「廃藩置県」、中公新書、p82</ref>。また、幕末維新期には多くの藩で[[貨幣]]の[[贋造]]が行われ、外交問題に発展していた<ref>落合弘樹、「秩禄処分」、中公新書、p55</ref>。
これに加えて、各藩が出していた[[藩札]]の回収・処理を行って全国一律の[[貨幣制度]]を実現する必要性もあった<ref group="注釈">藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の[[債務]]扱いとなる。</ref>。
藩札の合計は3909万円、(藩札を除く)藩債の合計は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達していた<ref>富田俊基、「国債の歴史」、東洋経済新報社、p211</ref>。
新政府は藩債を3種類に分割した。すなわち、
# 明治元年(1868年)以後の債務については[[公債]]を交付しその[[元金]]を3年間据え置いた上で年4%の[[利子|利息]]を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する('''新公債''')
# [[弘化]]年間([[1844年]]〜[[1847年]])以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する('''旧公債''')
# そして天保年間以前の債務については[[江戸幕府]]が天保14年([[1843年]])に[[棄捐令]](無利子年賦返済令)を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(事実上の[[徳政令]])
というものであった。
藩札は、廃藩時の[[時価]]によって政府の[[紙幣]]と交換された。藩債のうち外交問題になりえる[[外債]]は、元利償却分を除いて全て現金で償還された。藩以外の[[旗本]]・[[御家人]]などの個人債務は償還対象外とされた。[[朝敵]]となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いて全て無効とされた。また、維新後に新立あるいは再立が認められた[[朝敵]]藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた<ref>落合弘樹、「秩禄処分」、中公新書、p71</ref>。
その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった('''藩債処分''')。新公債は、[[西南戦争]]の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り1921年に償還を完了した<ref>富田俊基、「国債の歴史」、東洋経済新報社、p212</ref>。
藩債の大半は[[天保]]以前からの大名貸しが繰り延べられて来たものであり、ことごとく無効とされた。例えば有名な薩摩藩の[[調所広郷]]による「無利子250年分割払い」は35年間の支払いを以って無効とされた。
一般に江戸時代の金利は高く、例えば薩摩藩の250年分割以前の平均金利は16%に達していた。貸し手の商人達から見れば大名貸は元金返済の見込みは薄い一種の[[不良債権]]であったが、名目上は[[資産]]として認められ、金利収入は大きく、社会的な地位ともなりえたが、この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。幕臣相手の債権を所有していた[[札差]]は瓦解した。
江戸よりも幕府による制約が少ない大坂に資金調達先が求められていた為に大名貸の[[商人]]が江戸より多くいた大坂は経済的に大打撃を受ける事となった。また、日本経済の中心であった大坂は中心的地位から転落する要因となった。ただし、[[大坂商人]]の苦境には、幕末以来の[[銀]]の価値低下により、[[銀本位制]]に傾いていた大坂における銀資産の価値低下も影響している。
一方で、旧藩主やその家臣は全ての債務を免責された上、中には廃藩直前に藩札を増刷し債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。
== 廃藩置県当初に設置された県 ==
明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施された当初、府県名は[[都市]]名(府県庁所在地)を付けたものであるが特に旧幕府・旗本領や旧中小藩を引き継いだ県では府県庁所在地周辺よりも多くの[[飛地]]を遠隔地に持つ所が少なくない。以下の地方区分は、府県庁所在地によるものである。'''太字'''は廃藩置県以前から存在した府県。
=== 北海道地方 ===
* [[渡島国]] : [[館県]]
=== 東北地方 ===
* [[陸奥国 (1869-)|陸奥国]] : [[弘前県]]、[[黒石県]]、[[斗南県]]、[[七戸県]]、[[盛岡藩#八戸藩|八戸県]]
* [[陸中国]] : '''[[盛岡県]]'''、[[一関県]]、'''[[江刺県]]'''、'''[[胆沢県]]'''
* [[陸前国]] : [[仙台県]]、'''[[登米県]]'''
* [[磐城国]] : '''[[角田県]]'''、[[中村県]]、[[磐城平県]]、[[湯長谷県]]、[[泉県]]、[[三春県]]、[[棚倉県]]、'''[[白河県 (日本)|白河県]]'''
* [[岩代国]] : [[二本松県]]、'''[[福島県]]'''、'''[[若松県]]'''
* [[羽後国]] : [[秋田県]]、[[岩崎県]]、[[本荘県]]、[[亀田県]]、[[矢島県]]、[[松嶺県]]
* [[羽前国]] : [[大泉県]]、[[新庄県]]、[[天童県]]、'''[[山形県]]'''、[[上山県]]、[[米沢県]]
=== 関東地方(首都圏のうち甲斐除く) ===
* [[常陸国]] : [[松岡県]]、[[水戸県]]、[[宍戸県]]、[[笠間県]]、[[下館県]]、[[下妻県]]、[[麻生県]]、[[石岡県]]、[[土浦県]]、[[志筑県]]、[[牛久県]]、'''[[若森県]]'''、[[松川県]]、[[龍崎県]]
* [[下総国]] : [[多古県]]、[[小見川県]]、[[高岡県]]、[[結城県]]、[[古河県]]、[[関宿県]]、[[佐倉県]]、[[生実県]]、'''[[葛飾県]]'''、[[曾我野県]]
* [[上総国]] : [[菊間県]]、[[鶴牧県]]、[[鶴舞県]]、[[桜井県]]、[[久留里県]]、[[飯野県]]、[[小久保県]]、[[佐貫県]]、[[松尾県]]、[[一宮県]]、[[大多喜県]]、'''[[宮谷県]]'''
* [[安房国]] : [[長尾県]]、[[花房県]]、[[館山県]]、[[加知山県]]
* [[下野国]] : [[宇都宮県]]、[[大田原県]]、[[黒羽県]]、[[烏山県 (日本)|烏山県]]、[[茂木県]]、[[壬生県]]、[[吹上県]]、[[佐野県]]、[[足利県]]、'''[[日光県]]'''
* [[上野国]] : [[館林県]]、[[七日市県]]、[[小幡県]]、[[安中県]]、[[沼田県]]、[[前橋県]]、[[高崎県]]、[[伊勢崎県]]、'''[[岩鼻県]]'''
* [[武蔵国]] : [[川越県]]、[[忍県]]、[[岩槻県]]、'''[[浦和県]]'''、'''[[小菅県]]'''、'''[[東京府]]'''、'''[[品川県]]'''、'''[[神奈川県]]'''、[[六浦県]]
* [[相模国]] : [[小田原県]]、[[荻野山中県]]
=== 北信越・東海地方 ===
* [[佐渡国]] : '''[[佐渡県]]'''
* [[越後国]] : [[村上県]]、[[三日市県]]、[[黒川県]]、[[新発田県]]、[[村松県]]、[[峰岡県]]、'''[[新潟県]]'''、'''[[柏崎県]]'''、[[与板県]]、[[椎谷県]]、[[高田県]]、[[清崎県]]
* [[越中国]] : [[富山県]]
* [[加賀国]]・[[能登国]] : [[金沢県]]、[[大聖寺県]]
* [[越前国]] : [[丸岡県]]、[[福井県]]、[[勝山県]]、[[大野県]]、'''[[本保県]]'''、[[鯖江県]]
* [[若狭国]] : [[小浜藩|小浜県]]
* [[甲斐国]] : '''[[甲府県]]'''
* [[信濃国]] : [[岩村田県]]、[[小諸県]]、[[上田県]]、[[松代県]]、[[須坂県]]、[[飯山県]]、'''[[長野県]]'''、'''[[伊那県]]'''、[[高島県]]、[[高遠県]]、[[飯田県]]、[[松本県]]
* [[飛騨国]] : '''[[高山県]]'''
* [[美濃国]] : [[野村県]]、[[大垣県]]、[[高富県]]、[[郡上県]]、[[岩村県]]、[[苗木県]]、[[加納県]]、[[今尾県]]、'''[[笠松県]]'''
* [[伊豆国]] : '''[[韮山県]]'''
* [[駿河国]] : [[静岡県]]
* [[遠江国]] : [[堀江県]]
* [[三河国]] : [[田原県]]、[[豊橋県]]、[[半原県]]、[[西大平県]]、[[岡崎県]]、[[挙母県]]、[[西尾県]]、[[西端県]]、[[刈谷県]]、[[重原県]]
* [[尾張国]] : [[名古屋県]]、[[犬山県]]
=== 近畿地方(関西地方) ===
* [[近江国]] : [[宮川県]]、[[彦根県]]、[[山上県]]、[[朝日山県]]、[[西大路県]]、[[水口県]]、[[膳所県]]、'''[[大津県]]'''
* [[山城国]] : '''[[京都府]]'''、[[淀県]]
* [[丹波国]] : [[亀岡県]]、[[園部県]]、[[綾部県]]、[[山家県]]、[[福知山県]]、[[篠山県]]、[[柏原県]]
* [[丹後国]] : [[舞鶴県]]、[[宮津県]]、[[峰山県]]、'''[[久美浜県]]'''
* [[但馬国]] : '''[[生野県]]'''、[[出石県]]、[[豊岡県]]、[[村岡県]]
* [[河内国]] : [[丹南県]]
* [[和泉国]] : '''[[堺県]]'''、[[伯太県]]、[[岸和田県]]、[[吉見県]]
* [[摂津国]] : [[高槻県]]、[[麻田県]]、'''[[大阪府]]'''、'''[[兵庫県]]'''、[[尼崎県]]、[[三田県]]
* [[播磨国]] : [[姫路県]]、[[明石県]]、[[小野県]]、[[三草県]]、[[龍野県]]、[[林田県]]、[[赤穂県]]、[[安志県]]、[[山崎県]]、[[三日月県]]
* [[大和国]] : [[柳生県]]、[[郡山県]]、[[小泉県]]、[[柳本県]]、[[芝村県]]、[[田原本県]]、[[高取県]]、[[櫛羅県]]、'''[[奈良県]]'''、'''[[五條県]]'''
* [[紀伊国]] : [[和歌山県]]、[[田辺県]]、[[新宮県]]
* [[伊勢国]] : [[長島藩|長島県]]、[[桑名県]]、[[菰野県]]、[[亀山県]]、[[神戸県]]、[[津県]]、[[久居県]]、'''[[度会県]]'''
* [[志摩国]] : [[鳥羽県]]
=== 中国地方 ===
* [[因幡国]]・[[伯耆国]] : [[鳥取県]]
* [[出雲国]] : [[松江県]]、[[母里県]]、[[広瀬県]]
* [[石見国]]・[[隠岐国]] : '''[[浜田県]]'''
* [[美作国]] : [[津山県]]、[[鶴田県]]、[[真島県]]
* [[備前国]] : [[岡山県]]
* [[備中国]] : '''[[倉敷県]]'''、[[鴨方県]]、[[生坂県]]、[[庭瀬県]]、[[足守県]]、[[浅尾県]]、[[岡田県]]、[[高梁県]]、[[成羽県]]、[[新見県]]
* [[備後国]] : [[備後福山藩|福山県]]
* [[安芸国]] : [[広島県]]
* [[周防国]] : [[山口県]]、[[岩国県]]
* [[長門国]] : [[清末県]]、[[豊浦県]]
=== 四国地方 ===
* [[阿波国]]・[[淡路国]] : [[徳島県]]
* [[讃岐国]] : [[高松県]]、'''[[丸亀県]]'''
* [[伊予国]] : [[西条県]]、[[小松県]]、[[今治県]]、[[松山県]]、[[新谷県]]、[[大洲県]]、[[吉田県]]、[[宇和島県]]
* [[土佐国]] : [[高知県]]
=== 九州地方 ===
* [[筑前国]] : [[福岡県]]、[[秋月県]]
* [[筑後国]] : [[久留米県]]、[[柳川県]]、[[三池県]]
* [[肥前国]]・[[壱岐国]] : [[唐津県]]、[[鹿島県]]、[[小城県]]、[[蓮池県]]、[[佐賀県]]、[[平戸県]]、[[福江県]]、[[大村県]]、[[島原県]]、'''[[長崎県]]'''
* [[対馬国]] : [[厳原県]]
* [[肥後国]] : [[人吉県]]、[[熊本県]]、
* [[豊前国]] : [[豊津県]]、[[千束県]]、[[中津県]]
* [[豊後国]] : [[日出県]]、[[府内県]]、[[佐伯県]]、[[臼杵県]]、[[岡県]]、[[森県]]、'''[[日田県]]'''、[[杵築県]]
* [[日向国]] : [[延岡県]]、[[高鍋県]]、[[佐土原県]]、[[飫肥県]]
* [[薩摩国]] ・ [[大隅国]] : [[鹿児島県]]
== 第1次府県統合 ==
明治4年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]])から[[11月22日 (旧暦)|11月22日]](1872年[[1月2日]])に行われた第1次府県統合によって、各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編された。
以下、9月に先行して実施された統合を除いて、[[法令全書]]所収の[[太政官布告]]により明治4年(1871年)末の段階の府県とそのエリアを示す(布告日は旧暦)。ただし太政官布告に記載されたエリアと実際のエリアには若干の異同があり、[[飛地]]領の管轄に対する指示も日付が前後している部分がある。また合併の期日も、資料によってはこれと異なるものもある。
=== 先行する統合 ===
廃藩置県から第1次府県統合までの約4箇月の間にも、一部で統合が進められている。
* 明治4年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]](1871年[[10月17日]])[[佐賀県]](第1次)と[[厳原県]]を統合して県庁を移転し[[伊万里県]]に。
** 第1次府県統合では周辺の4県も統合する形で新たな伊万里県になっている。
* 明治4年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]](1871年[[10月18日]])[[館県]]・弘前県・[[黒石県]]・[[斗南県]]・[[七戸県]]・[[八戸県]]を[[弘前県]]に統合。
** 明治4年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]](1871年[[11月5日]])に県庁を移転して[[青森県]]に改称、第1次府県統合はこれを追認する形になっている。
=== 群馬県 ===
明治4年10月28日(1871年12月10日)布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第559</ref>。
* '''[[群馬県]]''' - [[上野国]]のうち[[利根郡]]・[[吾妻郡]]・[[勢多郡]]・[[群馬郡]]・[[碓氷郡]]・[[那波郡]]・[[甘楽郡]]・[[佐位郡]]・[[片岡郡]]・[[多胡郡]]・[[緑野郡]]
** 佐野県(勢多郡・緑野郡)、岩槻県(那波郡・勢多郡)、松嶺県、泉県、淀県(それぞれ勢多郡)の各飛地領が群馬県に編入。また、上野国各藩の飛地領を当分の間は群馬県が管轄。
=== 姫路県・豊岡県 ===
明治4年11月2日(1871年[[12月13日]])布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第565</ref>。
* '''[[豊岡県]]''' - [[丹後国]]一円、[[但馬国]]一円、丹波国のうち[[多紀郡]]・[[氷上郡]]・[[天田郡]]
* '''[[姫路県]]''' - [[播磨国]]一円
=== 北海・東北地方 ===
明治4年11月2日(1871年12月13日)布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第566</ref>。
* '''[[青森県]]''' - [[陸奥国 (1869-)|陸奥国]]一円、松前([[渡島国]]のうち[[福島郡]]・[[津軽郡 (北海道)|津軽郡]]・[[檜山郡]]・[[爾志郡]])
** [[松前藩#館藩|松前4郡]](福島・津軽・檜山・爾志)は明治5年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]](1872年[[10月7日]])に[[開拓使]]へ移管
* '''[[盛岡県]]''' - [[陸中国]]のうち[[閉伊郡]]・[[和賀郡]]・[[稗貫郡]]・[[紫波郡]]・[[岩手郡]]・[[九戸郡]]
* '''[[一関県]]''' - [[陸前国]]のうち[[本吉郡]]・[[登米郡]]・[[栗原郡]]・[[玉造郡]]・[[気仙郡]]、陸中国のうち[[胆沢郡]]・[[江刺郡]]・[[磐井郡]]
* '''[[仙台県]]''' - [[磐城国]]のうち[[宇多郡]](一部)・[[亘理郡]]・[[伊具郡]]・苅田郡([[刈田郡]])、陸前国のうち[[牡鹿郡]]・[[桃生郡]]・[[遠田郡]]・[[志田郡]]・賀美郡([[加美郡]])・[[黒川郡]]・[[宮城郡]]・[[名取郡]]・[[柴田郡]]
* '''[[平県]]''' - 磐城国のうち[[宇多郡]](一部)・[[行方郡 (福島県)|行方郡]]・[[標葉郡]]・[[田村郡]]・[[磐城郡]]・[[石川郡]]・[[白川郡]]・[[磐前郡]]
* '''[[二本松県]]''' - 磐城国のうち[[白河郡]]、[[岩代国]]のうち[[信夫郡]]・[[安達郡]]・[[安積郡]]・[[岩瀬郡]]・[[伊達郡]]
* '''[[若松県]]''' - 岩代国のうち[[会津郡]]・[[耶麻郡]]・[[大沼郡]]・[[河沼郡]]
** 実際には[[越後国]]蒲原郡のうち旧会津藩領の区域(後の[[東蒲原郡]])も管轄した。
* '''[[秋田県]]''' - [[陸中国]]のうち[[鹿角郡]]、[[羽後国]]のうち[[平鹿郡]]・[[雄勝郡]]・[[仙北郡]]・[[由利郡]]・川辺郡([[河辺郡]])・[[秋田郡]]・[[山本郡]]
* '''[[酒田県]]''' - [[羽前国]]のうち[[田川郡 (羽前国)|田川郡]]、羽後国のうち[[飽海郡]]
* '''[[山形県]]''' - 羽前国のうち[[村山郡]]・[[置賜郡]](一部)・[[最上郡]]
* '''[[置賜県]]''' - 羽前国のうち[[置賜郡]](一部)
=== 関東地方・伊豆 ===
明治4年11月14日(1871年[[12月25日]])布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第594</ref>。すでに県の設置を終えている群馬県を除く。
* '''[[茨城県]]''' - [[常陸国]]のうち[[多賀郡]]・[[久慈郡]]・那賀郡([[那珂郡]])・[[茨城郡]]・[[真壁郡]]
** 元下館県管轄の河内国古市郡・石川郡の飛地領も当面の間は管轄。
** 豊岡県(元峰山県)管轄の常陸国真壁郡、淀県管轄の常陸国真壁郡の飛地領を編入。
* '''[[新治県]]''' - 常陸国のうち[[新治郡]]・[[筑波郡]]・[[河内郡 (茨城県)|河内郡]]・[[信太郡]]・[[行方郡 (茨城県)|行方郡]]・[[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]、[[下総国]]のうち[[香取郡]]・[[匝瑳郡]]・[[海上郡]]
** 群馬県(元前橋県)管轄の常陸国河内郡・筑波郡、同(元安中県)管轄の下総国香取郡・海上郡、同(元高崎県)管轄の下総国海上郡、額田県(元西端県)管轄の下総国香取郡・匝瑳郡、淀県管轄の下総国香取郡、津県管轄の下総国香取郡の飛地領を編入。
* '''[[印旛県]]''' - 下総国のうち[[結城郡]]・[[猿島郡]]・[[葛飾郡]]・[[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]・[[岡田郡]]・[[豊田郡 (茨城県)|豊田郡]]・[[千葉郡]]・[[埴生郡]]・[[印旛郡]]
** 元古河県管轄の美作国久米南条郡、摂津国島下郡・兎原郡・西成郡・住吉郡の飛地領も当面の間は管轄。
** 豊岡県(元峰山県)管轄の下総国猿島郡、淀県管轄の下総国相馬郡・印旛郡・埴生郡の飛地領を編入。
* '''[[木更津県]]''' - [[安房国]]一円、[[上総国]]一円
** 元鶴牧県管轄の丹波国船井郡、元加知山県管轄の越前国敦賀郡の飛地領も当面の間は管轄。
** 額田県(元西端県)管轄の上総国[[武射郡]]、同(元豊橋県)管轄の同[[望陀郡]]、吉見県管轄の上総国望陀郡の飛地領を編入。
* '''[[宇都宮県]]''' - [[下野国]]のうち[[芳賀郡]]・[[塩谷郡]]・[[那須郡]]・[[河内郡]]
** 秋田県管轄の下野国河内郡の飛地領を編入。
* '''[[栃木県]]''' - 下野国のうち[[足利郡]]・簗田郡([[梁田郡]])・[[寒川郡 (栃木県)|寒川郡]]・[[安蘇郡]]・[[都賀郡]]、[[上野国]]のうち[[邑楽郡]]・[[新田郡]]・[[山田郡 (群馬県)|山田郡]]
** 元館林県管轄の河内国八上郡・丹南郡・丹北郡、元壬生県管轄の大和国葛下郡、元佐野県管轄の近江国滋賀郡、元吹上県管轄の伊勢国三重郡・河曲郡・多芸郡の飛地領も当面の間は管轄。
** 群馬県(元前橋県)管轄の上野国邑楽郡・新田郡・山田郡、同下野国安蘇郡・足利郡、同(元岩鼻県)管轄の上野国新田郡・山田郡、秋田県管轄の下野国都賀郡、額田県(元西端県)管轄の上野国邑楽郡・新田郡、同下野国安蘇郡、同(元半原県)管轄の上野国新田郡、彦根県管轄の下野国安蘇郡、高富県管轄の下野国足利郡、丹南県管轄の下野国足利郡の飛地領を編入。
* '''[[入間県]]''' - [[武蔵国]]のうち[[横見郡]]・[[入間郡]]・[[秩父郡]]・[[男衾郡]]・[[大里郡]]・[[榛沢郡]]・[[賀美郡]]・[[幡羅郡]]・[[比企郡]]・[[新座郡]]・[[那珂郡 (埼玉県)|那賀郡]]・[[児玉郡]]・[[高麗郡]]・[[多摩郡]](一部)
** 太政官布告では多摩郡を入間県と東京府に分けて管轄するものとしているが、東多摩郡(後の豊多摩郡の一部)が東京府の管轄となり、残りの区域(後の西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡)は翌年に入間県から[[神奈川県]]の管轄となった。
** 元川越県管轄の近江国甲賀郡・蒲生郡・野洲郡・高島郡の飛地領も当面の間は管轄。
** 群馬県(元前橋県)管轄の武蔵国入間郡・高麗郡・秩父郡・大里郡・比企郡・榛沢郡・那賀郡・児玉郡・多摩郡、同(元岩鼻県)管轄の同賀美郡・秩父郡・幡羅郡・榛沢郡・那賀郡・児玉郡、同(元高崎県)管轄の同新座郡、額田県(元西端県)管轄の武蔵国多摩郡、同(元半原県)管轄の同榛沢郡の飛地領を編入。
* '''[[埼玉県]]''' - 武蔵国のうち[[埼玉郡]]・[[葛飾郡]](一部)・[[足立郡]](一部)
** 元忍県管轄の伊勢国員弁郡・朝明郡・三重郡の飛地領も当面の間は管轄。
** 群馬県(元前橋県)管轄の武蔵国埼玉郡、泉県管轄の武蔵国埼玉郡の飛地領を編入。
* '''[[東京府]]''' - 武蔵国のうち[[荏原郡]]・[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]・多摩郡(一部)・足立郡(一部)・葛飾郡(一部)
** 東京府 - 彦根県管轄の武蔵国荏原郡・多摩郡の飛地領を編入。
* '''[[神奈川県]]''' - [[相模国]]のうち[[三浦郡]]・[[鎌倉郡]]、武蔵国のうち[[橘樹郡]]・[[久良岐郡]]・[[都筑郡]]
* '''[[足柄県]]''' - 相模国のうち[[足柄上郡]]・[[足柄下郡]]・[[高座郡]]・[[愛甲郡]]・[[淘綾郡]]・[[津久井郡]]、[[伊豆国]]一円
** 太政官布告では高座郡を足柄県管轄としているが、実際には[[神奈川県]]の管轄とされた。
** 額田県(元西端県)管轄の伊豆国[[田方郡]]・[[賀茂郡|加茂郡]]、同(元西大平県)管轄の相模国高座郡の飛地領を編入。
=== 九州地方 ===
明治4年11月14日(1871年12月25日)布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第595</ref>。
* '''[[小倉県]]''' - [[豊前国]]一円
* '''[[大分県]]''' - [[豊後国]]一円
* '''[[福岡県]]''' - [[筑前国]]一円
* '''[[三潴県]]''' - [[筑後国]]一円
* '''[[伊万里県]]''' - [[肥前国]]のうち[[松浦郡]](一部)・[[藤津郡]]・[[杵島郡]]・[[佐賀郡]]・神崎郡([[神埼郡]])・[[三根郡]]・[[養父郡 (佐賀県)|養父郡]]・[[基肄郡]]、[[対馬国]]一円
* '''[[長崎県]]''' - 肥前国のうち[[彼杵郡]]・[[高来郡]]・[[松浦郡]](一部)、[[壱岐国]]一円
* '''[[熊本県]]''' - [[肥後国]]のうち[[玉名郡]]・[[山鹿郡]]・[[菊池郡]]・[[山本郡 (熊本県)|山本郡]]・[[阿蘇郡]]・託摩郡([[託麻郡]])・[[飽田郡]]・[[合志郡]]・[[上益城郡]]
* '''[[八代県]]''' - 肥後国のうち[[下益城郡]]・[[宇土郡]]・[[球磨郡]]・[[葦北郡]]・[[八代郡]]・[[天草郡]]
* '''[[美々津県]]''' - [[日向国]]のうち[[那珂郡 (日向国)|那珂郡]](一部)・[[宮崎郡]](一部)・[[諸県郡]](一部)・[[児湯郡]]・[[臼杵郡]]
* '''[[都城県]]''' - 日向国のうち那珂郡(一部)・宮崎郡(一部)・諸県郡(一部)、[[大隅国]]のうち[[菱刈郡]]・[[桑原郡]]・[[姶良郡]]・[[囎唹郡]]・[[肝属郡]]・[[大隅郡]]
* '''[[鹿児島県]]''' - 大隅国のうち[[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]]・[[馭謨郡]]、[[薩摩国]]一円、ほか[[琉球王国|琉球国]]
=== 四国地方 ===
明治4年11月15日(1871年[[12月26日]])布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第600</ref>。
* '''[[名東県]]''' - [[阿波国]]一円、[[淡路国]]一円(ただし、[[津名郡]]は5日後に兵庫県に編入された)
* '''[[香川県]]''' - [[讃岐国]]一円
* '''[[松山県]]''' - [[伊予国]]のうち[[宇摩郡]]・[[野間郡]]・[[新居郡]]・[[周布郡]]・[[桑村郡]]・[[越智郡]]・[[風早郡]]・[[和気郡]]・[[久米郡 (愛媛県)|久米郡]]・[[温泉郡]]・[[伊予郡]]
* '''[[宇和島県]]''' - 伊予国のうち[[宇和郡]]・[[喜多郡]]・[[浮穴郡]]
* '''[[高知県]]''' - [[土佐国]]一円
=== 中国地方 ===
明治4年11月15日(1871年12月26日)布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第601</ref>。
* '''[[鳥取県]]''' - [[因幡国]]一円、[[伯耆国]]一円
* '''[[島根県]]''' - [[出雲国]]一円、[[隠岐国]]一円
* '''[[浜田県]]''' - [[石見国]]一円
* '''[[北条県]]''' - [[美作国]]一円
** 元津山県管轄の讃岐国小豆島の飛地領も当面の間は管轄。
* '''[[岡山県]]''' - [[備前国]]一円
* '''[[深津県]]''' - [[備中国]]一円、[[備後国]]のうち[[沼隈郡]]・[[深津郡]]・[[安那郡]]・[[品治郡]]・[[芦田郡|蘆田郡]]・[[神石郡]]
** 元岡田県管轄の摂津国豊島郡、同河内国高安郡、同美濃国池田郡、元浅尾県管轄の河内国大県郡、同摂津国八部郡の飛地領も当面の間は管轄。
* '''[[広島県]]''' - [[安芸国]]一円、備後国のうち[[御調郡]]・[[世羅郡]]・[[三谿郡]]・[[三上郡]]・[[奴可郡]]・甲怒郡([[甲奴郡]])・[[三次郡]]・[[恵蘇郡]]
* '''[[山口県]]''' - [[周防国]]一円、[[長門国]]一円
=== 東海地方東部 ===
明治4年11月15日(1871年12月26日)布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第602</ref>。
* '''[[静岡県]]''' - [[駿河国]]一円
* '''[[浜松県]]''' - [[遠江国]]一円
* '''[[額田県]]''' - [[三河国]]一円、尾張国のうち知多郡
** 元挙母県管轄の美作国久米北条郡、元西大平県管轄の相摸国高座郡、元西端県管轄の上総国武射郡、同下総国匝瑳郡・香取郡、同伊豆国田方郡・加茂郡、同上野国新田郡・邑楽郡、同下野国安蘇郡、同武蔵国多摩郡、元西尾県管轄の越前国丹生郡・南条郡・阪井郡、同安房国平郡、元半原県管轄の武蔵国榛沢郡、同摂津国豊島郡・川辺郡・能勢郡・有馬郡、同上野国新田郡、同丹波国何鹿郡、元豊橋県管轄の近江国浅井郡・伊香郡・高島郡、同上総国望陀郡の飛地領も当面の間は管轄。
=== 北陸・甲信越地方 ===
明治4年11月20日(1871年[[12月31日]])布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第608</ref>。
* '''[[相川県]]''' - [[佐渡国]]一円
* '''[[新潟県]]''' - [[越後国]]のうち[[蒲原郡]]・[[岩船郡]]
* '''[[柏崎県]]''' - 越後国のうち[[頸城郡]]・[[古志郡]]・[[魚沼郡]]・苅羽郡([[刈羽郡]])・[[三島郡 (新潟県)|三島郡]]
* '''[[新川県]]''' - [[越中国]]のうち[[礪波郡]]・[[新川郡]]・[[婦負郡]]
* '''[[七尾県]]''' - [[能登国]]一円、越中国のうち[[射水郡]]
* '''[[金沢県]]''' - [[加賀国]]一円
* '''[[福井県]]''' - [[越前国]]のうち[[足羽郡]]・[[吉田郡]]・[[丹生郡]]・阪井郡([[坂井郡]])・[[大野郡 (福井県)|大野郡]]
* '''[[敦賀県]]''' - [[若狭国]]一円、越前国のうち[[今立郡]]・[[南条郡]]・[[敦賀郡]]
* '''[[山梨県]]''' - [[甲斐国]]一円
* '''[[長野県]]''' - [[信濃国]]のうち[[埴科郡]]・[[高井郡]]・[[水内郡]]・[[佐久郡]]・更科郡([[更級郡]])・[[小県郡]]
* '''[[筑摩県]]''' - [[飛騨国]]一円、信濃国のうち[[筑摩郡]]・[[伊那郡]]・[[諏訪郡]]・[[安曇郡]]
=== 大阪府・兵庫県 ===
明治4年11月20日(1871年[[12月31日]])布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第609</ref>。
* '''[[大阪府]]''' - [[摂津国]]のうち[[島上郡]]・[[島下郡]]・[[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]・[[能勢郡]]・[[西成郡]]・[[東成郡]]・[[住吉郡]]
** 元高槻県管轄の丹波国桑田郡の飛地領も当面の間は管轄。
* '''[[兵庫県]]''' - 摂津国のうち[[八部郡]]・兎原郡([[菟原郡]])・[[武庫郡]]・[[川辺郡]]・[[有馬郡]]
** 元兵庫県管轄の淡路国津名郡の飛地領も当面の間は管轄とされたが、実際には正式に管轄。
=== 東海地方西部、近畿地方(大阪・兵庫除く) ===
明治4年11月22日(1872年1月2日)布告<ref>「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第614</ref>。
* '''[[和歌山県]]''' - [[紀伊国]]のうち[[伊都郡]]・[[那賀郡 (和歌山県)|那賀郡]]・[[海部郡 (和歌山県)|海部郡]]・[[有田郡]]・[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]・[[牟婁郡]](一部)
* '''[[長浜県]]''' - [[近江国]]のうち[[神崎郡 (滋賀県)|神崎郡]]・[[愛知郡 (滋賀県)|愛知郡]]・[[犬上郡]]・[[坂田郡]]・[[浅井郡]]・[[伊香郡]]
* '''[[大津県]]''' - 近江国のうち[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]・[[滋賀郡]]・栗田郡([[栗太郡]])・[[野洲郡]]・[[甲賀郡]]・[[蒲生郡]]
* '''[[京都府]]''' - [[山城国]]一円、[[丹波国]]のうち[[船井郡]]・[[何鹿郡]]・[[桑田郡]]
* '''[[堺県]]''' - [[河内国]]一円、[[和泉国]]一円
* '''[[奈良県]]''' - [[大和国]]一円
* '''[[安濃津県]]''' - [[伊賀国]]一円、[[伊勢国]]のうち[[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]・[[鈴鹿郡]]・[[河曲郡]]・[[三重郡]]・[[桑名郡]]・[[員弁郡]]・[[朝明郡]]
* '''[[渡会県]]'''(度会県) - [[志摩国]]一円、伊勢国のうち[[多気郡]]・[[度会郡]]・[[飯野郡]]・[[飯高郡]]・[[一志郡]]、[[紀伊国]]のうち牟婁郡(一部)
* '''[[名古屋県]]''' - [[尾張国]]のうち[[春日井郡]]・[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]・[[葉栗郡]]・[[海東郡]]・[[海西郡 (愛知県)|海西郡]]・[[丹羽郡]]・[[中島郡 (愛知県)|中島郡]]
** 元名古屋県管轄の信濃国伊那郡の飛地領も当面の間は管轄。
* '''[[岐阜県]]''' - [[美濃国]]一円
** 元郡上県管轄の越前国南条郡・丹生郡・大野郡の飛地領も当面の間は管轄。
=== 府県の配列 ===
明治4年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]](1872年[[2月14日]])付の太政官布告による府県の配列は、以下の通りである。
* 1 - 7(三大都市、開港地):東京府、京都府、大阪府、神奈川県、兵庫県、長崎県、新潟県
* 8 - 17(関東地方):埼玉県、入間県、足柄県、木更津県、印旛県、新治県、茨城県、群馬県、橡木(栃木)県、宇都宮県
* 18 - 21(近畿地方):奈良県、堺県、安濃津県、度会県
* 22 - 31(東海・甲信地方):名古屋県、額田県、浜松県、静岡県、山梨県、大津県、長浜県、岐阜県、筑摩県、長野県
* 32 - 42(東北地方):仙台県、福島県、磐前県、若松県、一関県、盛岡県、青森県、山形県、置賜県、酒田県、秋田県
* 43 - 49(北陸地方):敦賀県、福井県、金沢県、七尾県、新川県、柏崎県、相川県
* 50 - 53 (山陰地方):豊岡県、鳥取県、島根県、浜田県
* 54 - 59 (山陽地方):飾磨県、北条県、岡山県、深津県、広島県、山口県
* 60 - 65 (和歌山・四国地方):和歌山県、名東県、香川県、松山県、宇和島県、高知県
* 66 - 75 (九州地方):福岡県、三潴県、小倉県、大分県、伊万里県、熊本県、八代県、都城県、美々津県、鹿児島県
== 第1次府県統合から第2次府県統合までの異動 ==
以下の節ではカッコ内が新しい県の名称を示す。
=== 県庁移転を伴わない改称 ===
都市名で命名されていた旧藩名から郡名等への改称。第1次府県統合当初から統合前の県名(旧藩名)を継承しなかった例と併せて、[[賞罰的県名説]]の論拠となっている。改称の経緯が明らかになっているいくつかの事例では、「人心一新」などを求める県側から太政官への上申に基づく処置である。
* 明治4年(1871年)
** [[11月9日 (旧暦)|11月9日]]([[12月20日]]) - 姫路県([[飾磨県]])
** [[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1872年]][[1月9日]]) - 平県([[磐前県]])
** [[12月20日 (旧暦)|12月20日]](1872年[[2月8日]]) - 福井県([[足羽県]])
* 明治5年(1872年)
** [[1月8日 (旧暦)|1月8日]]([[2月16日]]) - 仙台県([[宮城県]])、盛岡県([[岩手県]])
** [[1月19日 (旧暦)|1月19日]]([[2月27日]]) - 大津県([[滋賀県]])
** [[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[3月17日]]) - 松山県([[石鉄県]])
** [[4月2日 (旧暦)|4月2日]]([[5月8日]]) - 名古屋県([[愛知県]])
** [[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[7月19日]]) - 熊本県(白川県)※明治8年再改称
** [[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[7月28日]]) - 宇和島県([[神山県]])
* 明治8年([[1875年]])
** [[12月10日]] - 白川県(熊本県)
=== 県庁移転を伴う改称 ===
改称が移転に先行していたり、移転予定が実現しなかったりした例もある。なお、第1次府県統合の約2箇月前に合併した弘前県における県庁移転も、便宜的にここへ記載する。
* 明治4年(1871年)
** [[9月23日 (旧暦)|9月23日]]([[11月5日]]) - 弘前県([[青森県]])
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]]([[12月25日]]) - 二本松県([[福島県]])
** [[12月13日 (旧暦)|12月13日]](1872年[[1月22日]]) - 一関県(水沢県)※明治8年再改称
* 明治5年(1872年)
** [[2月2日 (旧暦)|2月2日]]([[3月10日]]) - 金沢県([[石川県]])
** [[2月27日 (旧暦)|2月27日]]([[4月4日]]) - 長浜県([[犬上県]])
** [[3月17日 (旧暦)|3月17日]]([[4月24日]]) - 安濃津県([[三重県]])
** [[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[7月4日]]) - 伊万里県([[佐賀県]])
** [[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[7月10日]]) - 深津県([[小田県]])
* 明治8年([[1875年]])
** [[8月31日]] - 酒田県([[鶴岡県]])
** [[11月22日]] - 水沢県([[磐井県]])
=== 統合 ===
愛媛県のみ石鉄県の県庁を継承(編入と同時に改称したと考えることも可能)、他は新たな県庁へ移転。
* 明治6年(1873年)
** 1月15日 - 美々津県・都城県([[宮崎県]])
** 2月20日 - 石鉄県・神山県([[愛媛県]])
** 6月15日 - 印旛県・木更津県([[千葉県]])、群馬県・入間県([[熊谷県]])
=== 編入 ===
* 明治5年(1872年)
** [[9月28日 (旧暦)|9月28日]]([[10月30日]]) - 犬上県(滋賀県)
** [[11月27日 (旧暦)|11月27日]]([[12月27日]]) - 額田県(愛知県)
* 明治6年([[1873年]])
** [[1月14日]] - 足羽県(敦賀県)
** [[1月15日]] - 八代県(白川県)
** [[2月20日]] - 香川県(名東県)※明治8年(1875年)再分立
** [[6月10日]] - 柏崎県(新潟県)
** [[6月15日]] - 宇都宮県(栃木県)
* 明治8年(1875年)[[12月20日]] - 小田県(岡山県)
=== 分割編入 ===
* 明治5年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]](1872年[[10月29日]]) - 七尾県のうち能登国(石川県)、越中国(新川県)
* 明治8年(1875年)[[5月7日]] - 新治県のうち下総国(千葉県)、常陸国(茨城県)
=== 分立 ===
* 明治5年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]](1872年[[10月16日]]) - 鹿児島県のうち[[琉球諸島]]([[琉球藩]])※[[琉球処分]]
* 明治8年(1875年)[[9月5日]] - 名東県のうち讃岐国([[香川県]])※明治6年に編入されていた
=== 境界変更 ===
* 明治4年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]](1872年[[1月26日]]) - 島根県のうち隠岐国(鳥取県)
* 明治5年(1872年)
** [[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[6月20日]]) - 都城県のうち大隅国菱刈郡・姶良郡および桑原郡栗野郷・横川郷(鹿児島県)、美々津県のうち日向国諸県郡須木郷・野尻郷および小林郷のうち東方村(都城県)
** [[8月17日 (旧暦)|8月17日]]([[9月19日]]) - 佐賀県のうち対馬国(長崎県)
** [[9月20日 (旧暦)|9月20日]]([[10月22日]]) - 青森県のうち渡島国(開拓使)
* 明治6年(1873年)1月15日 - 都城県のうち大隅国(鹿児島県)
* 明治8年(1875年)5月7日 - 千葉県のうち下総国結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡および相馬郡・葛飾郡の各一部<ref group="注釈">後の[[北相馬郡]]・[[西葛飾郡]]。</ref>(茨城県)
== 第2次府県統合 ==
すべて明治9年([[1876年]])。この統合で発足した県の中には、後に分立した例も多いほか(次節参照)、現在でも地域間対立や地理的要件の不一致などの問題を孕む地域も少なくない。
=== 編入 ===
* [[4月18日]] - 相川県(新潟県)、新川県(石川県)、度会県(三重県)、奈良県(堺県)、浜田県(島根県)、北条県(岡山県)、小倉県(福岡県)、佐賀県(三潴県)
* 8月21日 - 若松県(福島県)、置賜県・鶴岡県(山形県)、熊谷県(埼玉県)、浜松県(静岡県)、飾磨県(兵庫県)、鳥取県(島根県)、香川県(愛媛県)、名東県(高知県)、宮崎県(鹿児島県)
=== 分割編入 ===
* 4月18日
** 磐井県のうち陸中国(岩手県)、陸前国(宮城県)
** 足柄県のうち相模国(神奈川県)、伊豆国(静岡県)
* 8月21日
** 磐前県のうち磐城国刈田郡・伊具郡・亘理郡(宮城県)、残部(福島県)
** 筑摩県のうち信濃国(長野県)、飛騨国(岐阜県)
** 敦賀県のうち若狭国および越前国敦賀郡(滋賀県)、残部(石川県)
** 豊岡県のうち丹後国および丹波国天田郡(京都府)、但馬国および丹波国氷上郡・多紀郡(兵庫県)
** 三潴県のうち筑後国(福岡県)、肥前国(長崎県)
=== 分立 ===
* [[8月21日]] - 熊谷県のうち上野国(群馬県)
=== 境界変更 ===
* 4月18日 - 宮城県のうち磐城国(磐前県)、岡山県のうち備後国(広島県)
* [[5月24日]] - 三潴県のうち肥前国杵島郡および松浦郡の一部<ref group="注釈" name="matsuura" />(長崎県)
* [[5月25日]] - 青森県のうち陸奥国二戸郡、宮城県のうち陸前国気仙郡(岩手県)
* [[6月21日]] - 三潴県のうち肥前国藤津郡(長崎県)
* 8月21日 - 栃木県のうち上野国(群馬県)、千葉県のうち下総国葛飾郡の一部<ref group="注釈">後の[[中葛飾郡]]。</ref>(埼玉県)、名東県のうち淡路国(兵庫県)、福岡県のうち豊前国下毛郡・中津郡(大分県)
== 第2次府県統合以降の異動 ==
[[徳島藩]]、[[越前藩]]、[[鳥取藩]]、[[佐賀藩]]、[[高松藩]]など、他県に編入された旧藩の領地での独立運動による分立、また[[大阪府]]と[[奈良県]]、[[石川県]]と[[富山県]]など道路建設と水害対策のいずれに予算を優先的に配分するかをめぐっての対立による分立が多い。
=== 編入 ===
* 明治14年(1881年)2月7日 - 堺県(大阪府)
=== 分立 ===
* 明治13年([[1880年]])[[3月2日]] - 高知県のうち阿波国(徳島県)
* 明治14年([[1881年]])
** [[2月7日]] - 石川県のうち越前国(福井県)
** [[9月12日]] - 島根県のうち因幡国・伯耆国(鳥取県)
* 明治16年([[1883年]])[[5月9日]] - 石川県のうち越中国(富山県)、長崎県のうち肥前国藤津郡・杵島郡・佐賀郡・神埼郡・三根郡・養父郡・基肄郡および松浦郡の一部<ref group="注釈" name="matsuura">後の[[東松浦郡]]・[[西松浦郡]]。</ref>(佐賀県)、鹿児島県のうち日向国<ref group="注釈">一部([[南諸県郡]])が鹿児島県に残る</ref>(宮崎県)
* 明治20年([[1887年]])[[11月4日]] - 大阪府のうち大和国(奈良県)※大和国は明治14年に堺県から編入
* 明治21年([[1888年]])[[12月3日]] - 愛媛県のうち讃岐国(香川県)
=== 境界変更 ===
* 明治11年([[1878年]])[[1月11日]] - 静岡県のうち[[伊豆諸島]](東京府)
* 明治14年(1881年)2月7日 - 滋賀県のうち若狭国・越前国(福井県)
* 明治20年(1887年)[[5月25日]] - 福島県のうち越後国[[東蒲原郡]](新潟県)
* 明治26年([[1893年]])[[4月1日]] - 神奈川県のうち武蔵国[[南多摩郡]]・[[北多摩郡]]・[[西多摩郡]](東京府)
=== その他の異動 ===
* 明治12年([[1879年]])[[3月27日]]<ref>{{Cite web|和書|title=1879年3月27日「沖縄県」の設置|url=https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4631|publisher=[[沖縄県公文書館]]|website=あの日の沖縄|accessdate=2022-5-14}}</ref> - 琉球藩を廃止して[[沖縄県]]を設置。なお、太政官布告は同年4月4日付けで出されている<ref>「法令全書」明治12年 太政官布告第14号</ref>。
* 明治15年(1882年)[[2月8日]] - 開拓使を廃止して[[三県一局時代|札幌県・函館県・根室県]]を設置
* 明治19年([[1886年]])[[1月26日]] - 札幌県・函館県・根室県を廃止して[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]を設置
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献・関連書籍 ==
* [[勝田政治]] 『廃藩置県 近代国家誕生の舞台裏』( [[角川ソフィア文庫]]、2014年 )ISBN 978-4044092153
* 松尾正人『廃藩置県―近代統一国家への苦悶―』(中央公論社、1986年) ISBN 978-4121008053
* 丹羽邦男『地租改正法の起源―開明官僚の形成』(ミネルヴァ書房、[[1995年]]) ISBN 4623025101
* 福地惇『明治新政権の権力構造』(吉川弘文館、[[1996年]]) ISBN 4642036628
* 石井孝『明治維新と自由民権』(有隣堂、[[1993年]]) ISBN 4896601157
== 関連項目 ==
{{Wikisource|藩ヲ廢シ縣ヲ置ク|藩ヲ廃シ県ヲ置ク}}
* [[明治維新]]
* [[王政復古 (日本)]]
* [[版籍奉還]]
*[[令制国]]
* [[府藩県三治制]]
* [[府県制]]
*[[府県廃置法律案]]
* [[郡制]]
* [[都道府県]]
** [[知事]]
* [[道州制]]
* [[地方自治]]
== 外部リンク ==
* [http://mujina.sakura.ne.jp/history/00/pref/index.html 都道府県の変遷]
{{江戸時代の藩}}
{{府藩県三治制}}
{{日本の廃止された府県}}
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[[Category:明治維新]]
[[Category:明治時代の政治]]
[[Category:日本の地方自治の歴史]]
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KNOPPIX
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KNOPPIX(クノーピクス、ノピックス)とは、CD-ROMまたはDVD-ROMから起動することが可能なDebianベースのLinuxディストリビューション。
ドイツのKlaus KnopperがDebianパッケージを元に開発しているものが原型となる。一枚のCD/DVD/USBメモリなどのリムーバブルメディアから起動できるLive CDとして利用することを基本としていることが特徴。
当初はCD版のみの提供だったが、収録希望のアプリケーションの数が増えるに伴いCD-ROMの容量では不足するため、正式な同時リリース決定の前に二度ほどDVDイメージの頒布も行われている。Version 4.0で開発者のKlaus KnopperがDVD-ROM版とCD-ROM版をほぼ同時に提供することを決定した。CD-ROM版を"light"(軽量版)、DVD-ROM版を"maxi"(大容量版)と位置付け、DVD版では更に多くのアプリケーションが標準で利用可能となっている。4.0版(DVD版)は2005年6月22日にLinuxTagで配布された。Version 7.2でCD-ROM版の提供を終了し、DVD-ROM版に一本化された。
Live CDとしての利用が前提であるため、ハードディスクにOSをインストールする必要がなく、初期状態ではハードディスクに変更を加えずにLinuxを稼働させ、さまざまなコマンドやアプリケーションを使うことができる。 これらの特性から、ハードディスクに障害が発生している場合に仮のシステムとして起動させ、ハードディスクの診断や他のメディアなどへのデータをサルベージするなどの作業にも使用可能である。
また、パソコンに接続されたハードウエアを数多くサポートし自動的に認識する能力に優れていることも特徴の1つで、例えばユーザーはビデオ・カードの種類などを指定する必要がなく、直ちにGUIを利用可能となる。ネットワークについてもDHCP環境にあれば、LANにつながっているだけで自動的に接続設定がおこなう。ネットワークに繋がれば、必要なファイルなどはhttp, ftpなどで保存できるためハードディスクなどがなくても困らない。
基本的に1CD/1DVDブータブルオペレーティングシステムであるが、LibreOfficeなどのアプリケーションソフトが付属している。CD/DVDから起動するため、標準では書き込み(データの変更)を行うことができるユーザのホーム・ディレクトリなどがRAMディスク上に置かれており、パソコンの再起動やシャットダウンで保存したデータは消えてしまう。
しかし、それらをフロッピーディスク、可搬式のハードディスク、USBメモリなどに保存することもできる。そのため国外の旅行先でも、CD-ROMから起動できるパソコンを借りることによって、自国語環境の元で簡単な仕事を行うこともできる。
データの書き換えができないCD/DVDに起動に必要な要素がすべて格納されているため、起動中にどのような状態になっても再起動すれば元に戻る、という特徴がある。この特徴を生かし、不特定多数がパソコンを共有する公共の場に置かれるキオスク端末や、学校教育などでの使用が考えられている。
また、最近OSで流行している3Dデスクトップの搭載に対応するため、5.1から、3Dデスクトップ環境Beryl、5.3.1からはその後継のCompiz Fusionが搭載された。
CDやDVDから起動できることが、最大の特徴であるKNOPPIXだが、バージョンごとに新たな技術的試みが取り込まれていることも、KNOPPIXの特徴となっている。
KNOPPIX3.8.1からは、UnionFSというファイルシステムが採用されており、本来書き込むことができないはずのCD-ROMに対し、仮想的にファイルを書き込むことができるようになった。 これにより、一時的にではあるが、それまで不可能だったパッケージの追加などがおこなえるようになった。
KNOPPIX5.1からは安定性向上のため、unionfsに替わり、aufs(another unionfs)が採用されている。
KNOPPIXには各種エミュレーション用ソフトウエア(エミュレータ)が搭載されており、最もエミュレータが利用しやすいOSのひとつとなっている。QEMUはKNOPPIX上、もしくはWindows上でKNOPPIXを起動でき、Cooperative LinuxをWindowsにインストールすることで、Windows上の一ウインドウとしてKNOPPIXが動作する。Xenと組み合わせた版であるXenoppixでは、KNOPPIX上でPlan 9やNetBSDが利用できる。
KNOPPIXはCD/DVDから起動させるのが一般的であるが、多彩な起動方法が選択できることも特徴のひとつで、CD/DVDに格納されたイメージをハードディスクにインストールしてしまい、通常のLinuxディストリビューションの様にハードディスクから起動することも可能である。
KNOPPIX5.1以降には、KNOPPIXをUSBフラッシュメモリから起動させるためのスクリプトmkbootdevが追加されており、1GBのUSBフラッシュメモリを使用すればCD版のすべての機能を利用することができるようになっている。 また、公式対応以前にも、USBフラッシュメモリ起動の試みは、USB-KNOPPIXなど、各所でおこなわれていた。
そのほかコンパクトフラッシュからの起動や、サーバを用意して、ネットワークからのPXEブート、またHTTPポートを使用して必要なイメージをネットワークから取得して起動する方法も選択できるようになっている(HTTP-FUSE-KNOPPIX)。
かつて日本国内では独立行政法人産業技術総合研究所によって、日本語化をはじめとする日本の国情にあわせたローカライゼーションや、様々な機能を追加したものが本家とは別途に開発、配布されていたが、現在ではそのプロジェクトは解散している。
なお2020年現在の時点で、本家のKNOPPIXには日本語のロケールも追加されているので日本語での利用も一応可能になっているが、初期状態ではドイツ語版か英語版であることや、日本語入力用IMEなどの積極的なサポートが無いことなどにより追加設定の手間が必要である。
日本語版ではInstall2WinというWindowsパソコンにKNOPPIXをインストールしてマルチブート環境を構築することによってハードディスクからKNOPPIXが起動できるようにする機能が搭載されている。ただしこの機能は、上述のインストール機能よりインストールされるOSの操作は、LiveCDのOSに近い。だが、上述の機能ではKNOPPIXではなく、Debianがインストールされる。
また、日本語版では教育ソフトを収録した、KNOPPIX EduやKNOPPIX/Mathが開発されている(注:2020年の時点でKNOPPIX/MATHの開発は終了してMathLibreへと移行している)。
バージョン6からLCAT(Live CD Acceleration Tool kit)と呼ばれる機能が追加された。 これは、Live CDから起動する際に読み込まれるデータの配置を最適化することによりCDのピックアップの移動を抑えて起動時間を短縮する機能であるが、機能単体のプロジェクトも存在する。 産業技術総合研究所による日本語版の開発、並びに頒布は既に終了しており、7.0.2が最終版となっている。プロジェクトの閉鎖に伴い2015年4月に公式サイトは閉鎖された。
KNOPPIXの派生品一覧に掲載。
※すべて侵入テスト用かつ開発停止。
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KNOPPIX(クノーピクス、ノピックス)とは、CD-ROMまたはDVD-ROMから起動することが可能なDebianベースのLinuxディストリビューション。
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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2020年12月29日 (火) 06:07 (UTC)
| 特筆性 = 2020年12月29日 (火) 06:07 (UTC)
| 一次資料 = 2020年12月29日 (火) 06:07 (UTC)
}}{{Infobox_OS
|name = KNOPPIX
|logo = [[File:Knoppix logo.svg|100px]]
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|caption = KNOPPIX 8.1のデスクトップ画面 標準では[[LXDE]]を利用する
|website = {{URL|https://www.knopper.net/knoppix/index-en.html|KNOPPIX}}
|developer = Klaus Knopper
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'''KNOPPIX'''(クノーピクス<ref>日本語版を配布していた産業技術総合研究所による表記。</ref>、ノピックス)とは、[[CD-ROM]]または[[DVD-ROM]]から起動することが可能な[[Debian]]ベースの[[Linuxディストリビューション]]。
== 概要 ==
[[ドイツ]]のKlaus KnopperがDebianパッケージを元に開発しているものが原型となる。一枚のCD/DVD/USBメモリなどのリムーバブルメディアから起動できる[[Live CD]]として利用することを基本としていることが特徴。
当初はCD版のみの提供だったが、収録希望のアプリケーションの数が増えるに伴いCD-ROMの容量では不足するため、正式な同時リリース決定の前に二度ほどDVDイメージの頒布も行われている。Version 4.0で開発者のKlaus KnopperがDVD-ROM版とCD-ROM版をほぼ同時に提供することを決定した。CD-ROM版を"light"(軽量版)、DVD-ROM版を"maxi"(大容量版)と位置付け、DVD版では更に多くのアプリケーションが標準で利用可能となっている。4.0版(DVD版)は[[2005年]][[6月22日]]にLinuxTagで配布された。Version 7.2でCD-ROM版の提供を終了し、DVD-ROM版に一本化された。
Live CDとしての利用が前提であるため、[[ハードディスク]]にOSを[[インストール]]する必要がなく、初期状態ではハードディスクに変更を加えずに[[Linux]]を稼働させ、さまざまなコマンドやアプリケーションを使うことができる。
これらの特性から、ハードディスクに障害が発生している場合に仮のシステムとして起動させ、ハードディスクの診断や他のメディアなどへのデータをサルベージするなどの作業にも使用可能である。
また、パソコンに接続されたハードウエアを数多くサポートし自動的に認識する能力に優れていることも特徴の1つで、例えばユーザーはビデオ・カードの種類などを指定する必要がなく、直ちにGUIを利用可能となる。ネットワークについても[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]環境にあれば、[[Local Area Network|LAN]]につながっているだけで自動的に接続設定がおこなう。ネットワークに繋がれば、必要なファイルなどは[[http]], [[ftp]]などで保存できるためハードディスクなどがなくても困らない。
基本的に1CD/1DVD[[ブート|ブータブル]][[オペレーティングシステム]]であるが、[[LibreOffice]]などの[[アプリケーションソフト]]が付属している。CD/DVDから起動するため、標準では書き込み([[データ]]の変更)を行うことができるユーザのホーム・[[ディレクトリ]]などが[[RAMディスク]]上に置かれており、パソコンの[[再起動]]や[[シャットダウン]]で保存したデータは消えてしまう。
しかし、それらを[[フロッピーディスク]]、可搬式の[[ハードディスク]]、[[USBメモリ]]などに保存することもできる。そのため国外の旅行先でも、CD-ROMから起動できるパソコンを借りることによって、自国語環境の元で簡単な仕事を行うこともできる。
データの書き換えができないCD/DVDに起動に必要な要素がすべて格納されているため、起動中にどのような状態になっても再起動すれば元に戻る、という特徴がある。この特徴を生かし、不特定多数がパソコンを共有する公共の場に置かれる[[キオスク端末]]や、学校教育などでの使用が考えられている。
また、最近OSで流行している[[3Dデスクトップ]]の搭載に対応するため、5.1から、3Dデスクトップ環境[[Beryl]]、5.3.1からはその後継の[[Compiz Fusion]]が搭載された。
== KNOPPIXの特徴 ==
CDやDVDから起動できることが、最大の特徴であるKNOPPIXだが、バージョンごとに新たな技術的試みが取り込まれていることも、KNOPPIXの特徴となっている。
=== UnionFS / aufs===
KNOPPIX3.8.1からは、[[UnionFS]]というファイルシステムが採用されており、本来書き込むことができないはずのCD-ROMに対し、仮想的にファイルを書き込むことができるようになった。
これにより、一時的にではあるが、それまで不可能だったパッケージの追加などがおこなえるようになった。
<!--また、継続的なホームでは、それまでユーザのホームしか保存できなかったものが、UnionFSの機能により、システム領域も保存することができるようになった。--><!-- 継続的なホームディレクトリの説明がまだなのでコメントアウト -->
KNOPPIX5.1からは安定性向上のため、unionfsに替わり、[[aufs]](another unionfs)が採用されている。
=== 各種エミュレータの搭載 ===
KNOPPIXには各種エミュレーション用ソフトウエア([[エミュレータ]])が搭載されており、最もエミュレータが利用しやすいOSのひとつとなっている。[[QEMU]]はKNOPPIX上、もしくは[[Microsoft Windows|Windows]]上でKNOPPIXを起動でき、[[Cooperative Linux]]をWindowsにインストールすることで、Windows上の一ウインドウとしてKNOPPIXが動作する。[[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]]と組み合わせた版であるXenoppixでは、KNOPPIX上で[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]や[[NetBSD]]が利用できる。
=== CD/DVD以外からの起動 ===
KNOPPIXはCD/DVDから起動させるのが一般的であるが、多彩な起動方法が選択できることも特徴のひとつで、CD/DVDに格納されたイメージをハードディスクにインストールしてしまい、通常のLinuxディストリビューションの様にハードディスクから起動することも可能である。
KNOPPIX5.1以降には、KNOPPIXをUSBフラッシュメモリから起動させるためのスクリプトmkbootdevが追加されており、1GBのUSBフラッシュメモリを使用すればCD版のすべての機能を利用することができるようになっている。
また、公式対応以前にも、USBフラッシュメモリ起動の試みは、[[USB-KNOPPIX]]など、各所でおこなわれていた。
そのほか[[コンパクトフラッシュ]]からの起動や、サーバを用意して、ネットワークからのPXEブート、またHTTPポートを使用して必要なイメージをネットワークから取得して起動する方法も選択できるようになっている(HTTP-FUSE-KNOPPIX)。
== バージョン ==
[[File:KNOPPIX booting.png|thumb|250px|The classic Knoppix start-up process]]
[[File:Knoppix 7.2 640x480.png|thumb|250px|KNOPPIX 7.2 with [[LXDE]]|right]]
<!--VERSION INFO FROM http://distrowatch.com/table.php?distribution=knoppix-->
{| class="wikitable sortable" align=reft style="margin-top:0px; margin-left:8px;"
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== 日本語版 ==
かつて日本国内では[[独立行政法人]][[産業技術総合研究所]]によって、日本語化をはじめとする日本の国情にあわせたローカライゼーションや、様々な機能を追加したものが本家とは別途に開発、配布されていたが、現在ではそのプロジェクトは解散している。
なお2020年現在の時点で、本家のKNOPPIXには日本語のロケールも追加されているので日本語での利用も一応可能になっているが、初期状態ではドイツ語版か英語版であることや、日本語入力用IMEなどの積極的なサポートが無いことなどにより追加設定の手間が必要である。
=== 産業技術総合研究所版の独自機能 ===
日本語版ではInstall2WinというWindowsパソコンにKNOPPIXをインストールして[[マルチブート]]環境を構築することによってハードディスクからKNOPPIXが起動できるようにする機能が搭載されている。ただしこの機能は、上述の[[#CD/DVD以外からの起動|インストール機能]]よりインストールされるOSの操作は、LiveCDのOSに近い。だが、上述の機能ではKNOPPIXではなく、Debianがインストールされる。
また、日本語版では[[教育ソフト]]を収録した、KNOPPIX Eduや[[MathLibre|KNOPPIX/Math]]が開発されている(注:2020年の時点でKNOPPIX/MATHの開発は終了して[[MathLibre]]へと移行している)。
バージョン6から[[LCAT]](Live CD Acceleration Tool kit)と呼ばれる機能が追加された。
これは、[[Live CD]]から起動する際に読み込まれるデータの配置を最適化することによりCDのピックアップの移動を抑えて起動時間を短縮する機能であるが、機能単体のプロジェクトも存在する<ref>[https://osdn.jp/projects/lcat/ LCAT(Live CD Acceleration Tool kit)]</ref>。
産業技術総合研究所による日本語版の開発、並びに頒布は既に終了しており、7.0.2が最終版となっている。プロジェクトの閉鎖に伴い2015年4月に公式サイトは閉鎖された<ref>[http://www.risec.aist.go.jp/project/knoppix/ KNOPPIX 日本語版](リンク切れ)</ref>。
== 派生版 ==
[[File:KnoppixFamilyTree1210.svg|thumb|KNOPPIX 系統樹]]
[[:en:List of Linux distributions#Knoppix-based|KNOPPIXの派生品一覧]]に掲載。
{| class="wikitable"
|-
! 配布版 !! 説明
|-
| [[Damn Small Linux]]
| 名刺大の[[コンパクトディスク|CD]]やUSB pendrive向けの軽量なKNOPPIX[[Live CD]]。開発停止。
|}
=== その他の派生版 ===
※すべて[[ペネトレーションテスト|侵入テスト]]用かつ開発停止。
* Whoppix - ver.2系まで。BackTrackの前身。
* Auditor Security Collection - BackTrackの前身。
* [[BackTrack]] - ver.3まで
=== 日本発の派生版 ===
* Xenoppix - KNOPPIXに[[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]]を搭載したディストリビューション。
* [[Regret (Linuxディストリビューション)|Regret]] - KNOPPIX派生のディストリビューション。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline|Knoppix}}
* {{Official website}} {{En icon}}
* [http://www.mathlibre.org/index-ja.html MathLibre Project の公式ウェブサイト] ※ KNOPPIX/MATH の後継プロジェクト
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px|ウィキポータル FLOSS]]}}
{{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}}
{{Portal|オペレーティングシステム}}
*[[Linuxディストリビューションの比較]]
*[[Linuxライブディストリビューションの比較]]
*[[1CD Linux]]
*[[Puppy Linux]]
{{Linux-distro}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:KNOPPIX}}
[[Category:Debian派生ディストリビューション]]
[[Category:LiveCD]]
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2021-02-24T10:50:00Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/KNOPPIX
|
10,353 |
サザエさん旅あるき
|
『サザエさん旅あるき』(サザエさんたびあるき)は、『サザエさん』の作者、長谷川町子のエッセイ漫画。
箱根や萩などの国内旅行から、ヨーロッパ、アメリカやハワイなど、まだ海外旅行が盛んでなかった1960年代から1980年代前半における。日本における作者の「旅」に関する思い出や昔のエピソードが描かれている。
長谷川町子にとって遺作となった漫画作品である。1987年4月から半年間、朝日新聞日曜版に連載後、1987年に姉妹社から刊行され、のち2001年に朝日新聞社文庫に収められた。
本作を原作とするテレビドラマ『サザエさん旅あるき 漫画家一家母娘3人の珍道中!』が、1988年4月5日にテレビ朝日系列『火曜スーパーワイド』で放送された。
ドラマはオムニバス形式で、前半は「鹿児島食べあるきの巻」、後半は「ハワイ結婚ツアーの巻」となっている。
なおテレビ朝日で長谷川作品が放送されたのは、1959年3月2日 - 同年5月28日放送の『エプロンおばさん』(望月優子主演版。当時ネットの毎日放送制作)以来実に28年半振りで、「テレビ朝日制作」は現在のところ唯一。
アニメ『サザエさん』(フジテレビ系列)にて、2020年2月2日に放送時間を一時間に拡大した特別番組『サザエさん 長谷川町子先生生誕100周年スペシャル』の中で放送された。戸田恵子は同じくアニメ『サザエさん』のサザエさん生誕65周年記念作品「サザエさんうちあけ話」(2010年12月26日放送)でも作者を演じており2回目の出演となる。
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『サザエさん旅あるき』(サザエさんたびあるき)は、『サザエさん』の作者、長谷川町子のエッセイ漫画。
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{{Infobox animanga/Header
| タイトル = サザエさん旅あるき
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{{Infobox animanga/Manga
| タイトル =
| 作者 = [[長谷川町子]]
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{{Infobox animanga/TVAnime
|原作 = 長谷川町子
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{{Infobox animanga/Footer
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『'''サザエさん旅あるき'''』(サザエさんたびあるき)は、『[[サザエさん]]』の作者、[[長谷川町子]]の[[エッセイ]][[漫画]]。
==概要==
[[箱根]]や[[萩]]などの国内旅行から、[[ヨーロッパ]]、[[アメリカ]]や[[ハワイ]]など、まだ[[海外旅行]]が盛んでなかった[[1960年代]]から[[1980年代]]前半における。[[日本]]における作者の「旅」に関する思い出や昔のエピソードが描かれている。
長谷川町子にとって遺作となった漫画作品である。[[1987年]][[4月]]から半年間、[[朝日新聞]]日曜版に連載後、[[1987年]]に[[姉妹社]]から刊行され、のち[[2001年]]に朝日新聞社文庫に収められた。
=== 登場人物 ===
作者をはじめ、当該漫画に登場。
==== 主要人物(長谷川家) ====
作者によるノンフィクション旅行漫画なので、長谷川家の人々がメインとなる。
===== 長谷川町子(はせがわ まちこ) =====
作者・主人公。一人旅する場合もあれば、家族など同伴の場合もある。貞子や[[長谷川毬子|毬子]]と衝突して家出したことがあったが、何らかの拍子ですぐ実家へ戻ってきている。四姉妹で妹は洋子という。
===== 長谷川貞子(はせがわ さだこ) =====
作者の母。作者にねだって、母娘旅行に連れて行ってもらっている。終戦直後、(すでに引っ越していた東京から)彼女の友人がいる[[北九州市|北九州]][[門司]]へ列車を乗り継いで食料調達に訪問したことが有ったが、「私一人で遠い買い出し旅はするもんじゃないわ。」と漏らしていた。
===== 長谷川毬子(はせがわ まりこ) =====
作者の長姉。貞子に次いで、姉妹で旅行する事も有った。だが、旅行中よく衝突する事も有った。ちなみに次姉・実恵子がいたが病気で夭折している。
===== 長谷川勇吉(はせがわ ゆうきち) =====
作者の父。1934(昭和9)年に早世しているため「旅あるき」ではほとんど出番がないが、回想シーンで登場する。
===== 猫 =====
名前不明。作者、貞子と仲良し。
==== 国内 ====
萩、山中温泉、四国、熊本など。
===== 萩のタクシー運転手 =====
作者を誘って[[萩市|萩]]旅行をした貞子が現地で親しくなった男性。帰りがけ、孫が捕まえた蛍を彼からもらった貞子は、「蛍を持ち帰るか、外へ放つか。」で作者ともめた。
===== 萩の旅館女将 =====
長谷川母娘が宿泊したのは、老舗旅館で天皇陛下([[昭和天皇]])が宿泊した部屋に投宿。そのため、内湯は使えず、大浴場を使用。ここでも貞子は彼女と話に夢中となった。
===== 加賀山中の芸者 =====
[[山中温泉]]に投宿中、正調山中節を聞きたいと、仲居に頼んで呼んでもらった。その後、彼女のレコードを土産に持たされた。
===== 土佐犬 =====
作者が[[高知市|高知]]の旅館に投宿中、「[[土佐犬]]が視たい」というので…(少なくともスタッフはそう思ったので)わざわざ土佐犬を彼女に店に連れて行った。
===== ヨーロッパ人兄妹 =====
勇吉含めた長谷川家で[[熊本県|熊本]]旅行をした折、知り合った二人。お菓子と絵本をトレードした。
===== コウジ =====
作者の幼馴染で1歳年下。母親同士が仲良しである。
===== 松前洋一(まつまえ よういち) =====
コウジのおじさん。作者、コウジと一緒に富士登山をして、二人のおもり役を買って出た。その後も彼だけ、毎年富士登山をしている。あだ名はエゾ[[蠣崎氏|松前家]]出身ということで「殿様」。
==== 外国 ====
カイロ、フランス、リスボン、ニュージーランド、スコットランド、他。
===== K氏 =====
作者がカイロで一緒にツアー旅行した男性。アラバスター石のたばこセットを土産にしようとしたが、首からつるして持ち帰ったので、首を痛めた。
===== 眼鏡洋服、裸眼着物女性二人。 =====
作者がとあるヨーロッパの国のツアーで出会った二人。他人同士だが意気投合して同宿したが、すぐ決裂した。
===== ワシントンDCのリス =====
毬子と二人で訪問中、リスが車道で引かれそうになったのを心配したが…車の人々は、リスが頬っぺたにあるものを食べて車道を去るのを見届けてから走り出した。他に袋のナッツをめがけて食べに来たリスを二匹みかけた。
===== フランスのタクシー運転手 =====
貞子はこの老齢運転手に一目ぼれをした。
===== ポルトガル・リスボンのアメリカ人爺さんツアー客 =====
作者が着物姿でシアターレストランのディナーショーへ食べに来たところ、着物姿のせいでスタッフに舞台に上げられ、ショーの片棒を担ぐ羽目になった。それを見ていた彼に褒められた。
===== NZ牧場の犬 =====
優秀な牧羊犬である。
===== 夏子 =====
英国・スコットランドで作者に同伴したガイド。メアリー・スチュアートの城にあるいわくつきの部屋が視たいというので、工事中であったが…城の案内人が工事スタッフに頼んで見せてもらった。インバネスに向かうタクシーの運転手を(作者が勤務中と違うので気づかなかったが)彼女は覚えていた。
===== パキスタン人家族 =====
アメリカ・フィラデルフィアからロサンゼルスへ旅立つ作者と毬子は、日本料理のお弁当を購入して食堂の折り畳み椅子を借りて空港で食べようとして、呼び止めた家族。実は「もう席を立つので、ここに座っていいよ」とのことで、感謝。その後切り上げたため、貞子に動物人形を買い忘れたが…作者はかつてスイスで購入したぬいぐるみを渡して、済ませた。
===== イラン・イスファハンの売り子坊や =====
バザールでじゅうたんを販売。興味あった作者を売り場へ上げて、一緒にカーペットを売らせた。
===== シダの洞窟ツアーのおばあさん =====
同伴客が水に落ちたので、適当な英語でスタッフに助けを求めた。
===== 日系移民2世のガイド =====
作者、毬子が依頼したガイド。
===== NZ・マオリ族の長 =====
マオリ族ショーに参加した作者、毬子が出会った人。このツアーでは一人主賓が選ばれる事に成るのだが、立候補した社長ではなく、着物姿の毬子を指名した。毬子はそのせいで、犬山モンキーセンターでもサルたちに注目された。
==== その他 ====
「人生もたま旅である」として、彼女が旅先以外を「旅あるき」と称して出くわした人々。
===== 市丸ねえさん =====
要が有って[[東京]]・[[赤坂]]の料亭に来店した作者が日にち違いで帰ろうとしたところ、勘違いで仲居に案内された幇間。そのまま、別の客と勘違いされて酒肴が次々と運び込まれた。
===== 医者 =====
作者が診察してもらおうと来院した病院で観察された医者たち。座薬と封筒で困惑。
===== 貞子の知人おじいさん =====
長谷川家を訪問して妻の訃報を知らせるも、貞子は「おくさんによろしく」と云ってしまい、作者と毬子は「いよいよ痴呆になったわね」と思った。知り合いの大企業会長は秘書の名前を忘れぬために自分の机に彼女の名前を書いた紙を入れて、それをあんちょこにした。
===== 長谷川家のお手伝いさん4人 =====
[[山口県|山口]]の学校を出て、行儀見習いと称して長谷川家に来ていた女性たち。作者相手に水着ファッションショーをやることになり、作者はそれにつきあった。そのうちの一人、ユミちゃんは最近ヒステリーが悩みであると作者に相談する。その後、三人の子供ができたという。
===== 大叔父 =====
長谷川家を含めた親族ではケチで有名だったのだが、作者を指名して「うちに泊まらないか」と[[香椎]](近所に住んでいる)と云ってきた。貞子の命令で彼の家へ行く事に成り、香椎へ。その彼が作者との距離を縮めようとお菓子をくれたので、仲良くなった。
===== わんぱくゲスト2人組 =====
長谷川家を訪問した少年二人。作者、毬子を誘い遊園地のお化け屋敷へ。毬子は機械仕掛けのお化けにビビり、生幽霊(アルバイトの学生)に助けを求めた。
===== M =====
作者の出身である、[[福岡市立春吉小学校]]の同級生で、同窓会の幹事。「町子ちゃんのいる東京でやりたい」という彼に、「あなたの心臓が心配、Kさんは胃の手術後だし…心配」と断ろうとしたが、強行された。案の定、彼は心臓で入院したので、作者は彼の妻に怒られた(その後、無事に退院)。
===== [[田河水泡|田川水泡]](たがわ すいほう) =====
作者の(漫画家)師匠。父の俳画を彼に見せたことが有った。
== テレビドラマ ==
{{基礎情報 テレビ番組
|番組名=サザエさんスペシャル<br />サザエさん旅あるき<br />漫画家一家母娘3人の珍道中!
|ジャンル=[[テレビドラマ]]
|放送期間=[[1988年]][[4月5日]]
|放送時間=火曜20:00 - 21:48
|放送分=108
|放送回数=1
|放送枠=[[火曜スーパーワイド]]
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[テレビ朝日]]、[[国際放映]]
|原作=[[長谷川町子]](『サザエさん旅あるき』)
|脚本=[[松木ひろし]]
|監督=[[小林俊一]]
|出演者=[[竹下景子]]<br />[[木内みどり]]<br />[[加藤治子]]
}}
本作を原作とする[[テレビドラマ]]『'''サザエさん旅あるき 漫画家一家母娘3人の珍道中!'''』が、[[1988年]][[4月5日]]に[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]『[[火曜スーパーワイド]]』で放送された。
ドラマは[[オムニバス]]形式で、前半は「[[鹿児島県|鹿児島]]食べあるきの巻」、後半は「[[ハワイ州|ハワイ]]結婚ツアーの巻」となっている。
なおテレビ朝日で長谷川作品が放送されたのは、[[1959年]][[3月2日]] - 同年[[5月28日]]放送の『[[エプロンおばさん]]』([[望月優子]]主演版。当時ネットの[[MBSテレビ|毎日放送]]制作)以来実に28年半振りで<ref>なお[[在阪準キー局]]の[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]は、[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|腸捻転]]時代の[[1965年]][[11月19日]] - [[1967年]][[9月29日]]放送の『[[サザエさん]]』([[江利チエミ]]主演版。TBS制作以来20年半振り。</ref>、「テレビ朝日制作」は現在のところ唯一。
=== 出演者 ===
*長谷部町子(主人公):[[竹下景子]]
*珠子(町子の姉):[[木内みどり]]
*サダヨ(町子と珠子の母):[[加藤治子]]
*仙三:[[若山富三郎]]
*福田エミ:[[岩崎良美]]
*浅井孝明:[[岡野進一郎]]
*[[立枝歩]]
=== スタッフ ===
*原作:[[長谷川町子]]
*脚本:[[松木ひろし]]
*監督:[[小林俊一]]
*音楽:[[丸谷晴彦]]
*制作:テレビ朝日、[[国際放映]]
=== 出典 ===
*[[テレビドラマデータベース]]
== テレビアニメ ==
アニメ『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』([[フジテレビ系列]])にて、2020年2月2日に放送時間を一時間に拡大した特別番組『サザエさん 長谷川町子先生生誕100周年スペシャル』の中で放送された。戸田恵子は同じくアニメ『サザエさん』のサザエさん生誕65周年記念作品「[[サザエさんうちあけ話]]」(2010年12月26日放送)でも作者を演じており2回目の出演となる。
=== 声の出演 ===
* 町子:[[戸田恵子]]
* 町子の母:[[谷育子]]
* 町子の姉:[[川崎恵理子]]
== 脚注 ==
<references />
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{{DEFAULTSORT:ささえさんたひあるき}}
[[Category:サザエさん]]
[[Category:長谷川町子の漫画作品]]
[[Category:漫画作品 さ|さえさんたひあるき]]
[[Category:1987年の漫画]]
[[Category:エッセイコミック]]
[[Category:旅行を題材とした漫画作品]]
[[Category:朝日新聞に連載された漫画]]
[[Category:テレビ朝日のスペシャルドラマ]]
[[Category:1988年のテレビドラマ]]
[[Category:長谷川町子原作のテレビドラマ]]
[[Category:旅行を題材としたテレビドラマ]]
[[Category:漫画を題材としたテレビドラマ]]
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京王八王子駅
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京王八王子駅(けいおうはちおうじえき)は、東京都八王子市明神町三丁目にある、京王電鉄京王線の駅で、同線の終着駅。京王西管区所属。駅番号はKO34。通称「京八(けいはち)」。JR八王子駅との混同を避けるため、駅名に「京王」を冠する。
当駅はJR八王子駅から北東に約400メートル(徒歩で5分ほど)離れた場所に位置する。JR八王子駅との乗り換え案内は通常行われないが、定期券での連絡運輸があるほか、京王電鉄の路線図では接続路線としてJR線の記載がある。
地下駅で、地上部分は駅ビルの京王八王子ショッピングセンターとなっている。
なお、かつてはJR八王子駅前(北口の京王プラザホテル八王子がある場所)まで乗り入れる計画が存在したが実現しなかった(後述)。
1925年(大正14年)3月24日に玉南電気鉄道の終点の東八王子駅として、八王子市明神町の甲州街道沿いに開業した。駅名は国鉄(省線)八王子駅の東側にあったことに由来する。翌1926年(昭和元年)12月27日に玉南電気鉄道が京王電気軌道に合併されたことにより京王電気軌道の駅となり、新宿追分駅(当時)への直通運転が開始された。
東八王子駅時代、八王子市内を走っていた路面電車の武蔵中央電気鉄道線が現存していた頃は、駅前の甲州街道上の停留場から高尾山方面へ乗り換えて行くことができた。終着の高尾橋停留場は高尾登山電鉄ケーブルカーの清滝駅から数分のところにあった。
1927年(昭和2年)12月13日に京王御陵線の軌道特免許が下りる。京王御陵線建設の際には2つのルート案があり、一つは当時の東八王子駅(現・京王八王子駅)を高架化した上で八王子市街地北部と同市横川町付近を経由し、多摩御陵付近へ京王線を延伸する「北回り案」、もう一つは北野駅から分岐して片倉町を経由し、国鉄中央本線と甲州街道を高架でオーバークロスして多摩御陵付近へ至る「南回り案」であった。
八王子市街中心部を経由する北回り案に対しては、八王子市議会が「市街地が鉄道路線で分断される」との理由で反対した。京王はこれに対し「中心市街地の活性化にもなる」と主張したが、市議会は京王の主張を受け入れず、東八王子駅の廃止を要求した上、中央本線の交差部から北東に向かい大和田橋付近から浅川沿いに西進するという対案を主張した。このため京王御陵線は北野駅を起点に片倉駅(現・京王片倉駅)経由で多摩御陵前駅へ至る南回り案で建設された。
京王電気軌道は戦時統合により、1944年(昭和19年)5月31日に東京急行電鉄(大東急)に併合され、東八王子駅も東急京王線の駅となった。翌1945年(昭和20年)8月2日の八王子空襲では駅舎を焼失した。大東急の戦後復興計画の最重点項目の一つに国鉄八王子駅への乗り入れが挙げられ、同駅北口の東側に駅用地が確保された。1948年(昭和23年)に東急から京王が分離独立した後も駅用地は京王が保有していた。
1963年(昭和38年)12月11日には八王子市の都市計画に従い、北野寄りに200メートル移転を余儀なくされている。この際に駅名を京王八王子駅に改称した。
1986年(昭和61年)4月、「京王線長編成化工事」の一環として8両編成の地上ホームを10両編成対応とするため、駅の地下化工事が開始された。
1989年(平成元年)4月2日には京王八王子駅が地下化され、同年12月20日には駅前に京王八王子高速バスターミナルも整備された(2007年4月1日廃止)。また駅地下化に伴い地上部分に駅ビルが建設され、1994年(平成6年)9月15日に「KEIO21」として開業、1999年3月27日に現在の京王八王子ショッピングセンターに改称された。なおこのショッピングセンター開業の際には、1960年代から1970年代にかけての八王子駅周辺への百貨店進出のときほどの激しい反対運動はなかったものの、地元商店会などの要望により取り扱い品目を限定せざるを得なかった。
JR八王子駅北口の駅用地は、暫定的に1992年(平成4年)まで京王帝都電鉄バス八王子営業所として使用していたが、最終的に乗り入れ計画が断念されたため、同年3月25日にバス営業所を現在地の長沼町へ移転、駅用地に京王プラザホテル八王子を建設して1994年(平成6年)9月9日に開業した。
当駅の地下化後は、八王子市議会は主張を一転し、当駅から甲州街道の地下に京王線を延伸して商店街衰退の著しい横山町・八日町の活性化につなげてほしいという意見を出してきたが、京王側は採算が取れないとして難色を示した。これは地下化後の当駅が中間駅構造ではなく、北方を向いた頭端駅構造となったため、延伸には駅構造の大幅な改造を伴い工事に多大なコストがかかることも理由となる。
島式ホーム1面2線を有する地下駅であり、ターミナル駅特有の頭端式構造が採られている。線路は構内で途切れており過走余裕もないため、列車到着時は京王線新宿駅同様にゆっくりと入線する。
ホームは地下2階にあり、車止め正面に2か所ある改札口のうちの西口がある。中央口および駅事務室は地下1階にある。トイレ(だれでもトイレ併設)は中央口改札内と西口改札外にある。
京王電鉄の他の駅と同様、反転フラップ式発車標が長い間使われてきたが、2005年夏頃にLED式発車標に更新された。なお中央改札口の発車標は一時的に液晶ディスプレイによる発車案内が行われていたが、LED式発車標の設置完了後に撤去された。
西口にはエレベーターが地下化当初から設置されているが、中央口改札にも2013年に整備されている。
2011年11月16日からは、地元八王子市出身のロックバンド・FUNKY MONKEY BABYSの楽曲をオルゴールアレンジしたものが接近メロディとして使用されている。1番線が「ヒーロー」、2番線が「あとひとつ」である。但し京王ライナー入線時は京王ライナー専用接近メロディが鳴動する。
2021年度の1日平均乗降人員は43,203人で、京王電鉄の八王子市内の駅では南大沢駅に次ぐ第2位である。
近年の1日平均乗降人員及び乗車人員の推移は下表の通りである。
国道20号(甲州街道)に近く、朝夕は都立南多摩中等教育学校の生徒の利用が目立つ。以前は22時以降は利用できなかったが、2006年6月頃より初電から終電まで利用可能になった。
路線バスは、京王電鉄バス、京王バス、西東京バスにより運行されている。なお、路線詳細は各事業者の営業所記事などを参照。
2007年3月31日まで高速バス・空港連絡バスは、駅西口出口付近にあった京王八王子高速バスターミナルから発着していた。
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京王八王子駅(けいおうはちおうじえき)は、東京都八王子市明神町三丁目にある、京王電鉄京王線の駅で、同線の終着駅。京王西管区所属。駅番号はKO34。通称「京八(けいはち)」。JR八王子駅との混同を避けるため、駅名に「京王」を冠する。
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{{駅情報
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|文字色 = white
|駅名 = 京王八王子駅
|画像 = Keio-Hachioji station central.jpg
|pxl = 200px
|画像説明 = 中央口と駅ビル(2007年6月17日)
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|35|39|28.3|N|139|20|35.3|E}}|title=京王八王子駅|coord2={{coord|35|39|20|N|139|20|20|E}}|title2=八王子駅|marker-color=dd0077|marker-color2=008000}}左下は乗換駅の八王子駅
|よみがな = けいおうはちおうじ
|ローマ字 = Keiō-hachiōji
|隣の駅 =
|前の駅 = KO33 [[北野駅 (東京都)|北野]]
|駅間A = 1.8
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|電報略号 =
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王線]]
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|駅構造 = [[地下駅]]
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|乗換 = [[八王子駅]]<br />[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
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{|{{Railway line header}}
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'''京王八王子駅'''(けいおうはちおうじえき)は、[[東京都]][[八王子市]][[明神町 (八王子市)|明神町]]三丁目にある、[[京王電鉄]][[京王線]]の[[鉄道駅|駅]]で、同線の[[終着駅]]。京王西管区所属。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO34'''。通称「'''京八(けいはち)'''」。JR八王子駅との混同を避けるため、駅名に「京王」を冠する。
== 概要 ==
{{see also|八王子駅|京王八王子ショッピングセンター}}
当駅は[[東日本旅客鉄道|JR]][[八王子駅]]から北東に約400メートル(徒歩で5分ほど)離れた場所に位置する。JR八王子駅との乗り換え案内は通常行われないが、[[定期乗車券|定期券]]での[[連絡運輸]]があるほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200408015123/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-04-08|accessdate=2020-04-08|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>、京王電鉄の路線図では接続路線としてJR線の記載がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/train/map/index.html |title=路線図|京王グループ |publisher=[[京王電鉄]] |accessdate=2019-03-03}}</ref>。
[[地下駅]]で、地上部分は[[駅ビル]]の[[京王八王子ショッピングセンター]]となっている。
なお、かつてはJR八王子駅前(北口の[[京王プラザホテル八王子]]がある場所)まで乗り入れる計画が存在したが実現しなかった(後述)。
== 歴史 ==
{{see also|京王電鉄#京王電気軌道・玉南電気鉄道|京王御陵線}}
[[1925年]]([[大正]]14年)3月24日に[[京王電鉄#京王電気軌道・玉南電気鉄道|玉南電気鉄道]]の終点の'''東八王子駅'''として、八王子市明神町の[[甲州街道]]沿いに開業した。駅名は[[日本国有鉄道|国鉄]]([[省線]])'''八王子'''駅の'''東'''側にあったことに由来する。翌[[1926年]](昭和元年)[[12月27日]]に玉南電気鉄道が京王電気軌道に合併されたことにより京王電気軌道の駅となり、[[京王線の新宿駅付近の廃駅#京王新宿駅|新宿追分駅]](当時)への直通運転が開始された。
東八王子駅時代、八王子市内を走っていた[[路面電車]]の[[武蔵中央電気鉄道]]線が現存していた頃は、駅前の甲州街道上の[[停車場|停留場]]から高尾山方面へ乗り換えて行くことができた。終着の高尾橋停留場は[[高尾登山電鉄]]ケーブルカーの[[清滝駅]]から数分のところにあった。
[[1927年]](昭和2年)[[12月13日]]に[[京王御陵線]]の軌道特免許が下りる。京王御陵線建設の際には2つのルート案があり、一つは当時の東八王子駅(現・京王八王子駅)を[[高架駅|高架化]]した上で八王子市街地北部と同市横川町付近を経由し、多摩御陵付近へ京王線を延伸する「北回り案」、もう一つは[[北野駅 (東京都)|北野駅]]から分岐して[[片倉町]]を経由し、国鉄[[中央本線]]と甲州街道を[[高架]]で[[立体交差|オーバークロス]]して多摩御陵付近へ至る「南回り案」であった。
八王子市街中心部を経由する北回り案に対しては、[[八王子市議会]]が「市街地が鉄道路線で分断される」との理由で反対した。京王はこれに対し「中心市街地の活性化にもなる」と主張したが、市議会は京王の主張を受け入れず、東八王子駅の廃止を要求した上、中央本線の交差部から北東に向かい大和田橋付近から[[浅川 (東京都)|浅川]]沿いに西進するという対案を主張した。このため京王御陵線は北野駅を起点に片倉駅(現・[[京王片倉駅]])経由で[[多摩御陵前駅]]へ至る南回り案で建設された<ref>『京王帝都電鉄25年史』による。</ref>。
{{main|京王御陵線#北回り案と南回り案}}
京王電気軌道は[[戦時統合]]により、[[1944年]](昭和19年)[[5月31日]]に[[東京急行電鉄]]([[大東急]])に併合され、東八王子駅も東急京王線の駅となった。翌[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月2日]]の[[八王子空襲]]では駅舎を焼失した。大東急の戦後復興計画の最重点項目の一つに国鉄八王子駅への乗り入れが挙げられ、同駅北口の東側に駅用地が確保された。[[1948年]](昭和23年)に東急から京王が分離独立した後も駅用地は京王が保有していた<ref>『東京急行電鉄50年史』による。</ref>。
[[1963年]](昭和38年)[[12月11日]]には八王子市の[[都市計画]]に従い、[[北野駅 (東京都)|北野]]寄りに200メートル移転を余儀なくされている。この際に駅名を'''京王八王子駅'''に改称した。
[[1986年]](昭和61年)4月、「京王線長編成化工事」の一環として8両編成の地上ホームを10両編成対応とするため、駅の地下化工事が開始された<ref>{{Cite web|和書|title=3 特定都市鉄道整備事業の推進|京王グループ |url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/history/history_04_02_03.html |website=www.keio.co.jp |accessdate=2022-03-17}}</ref>。
[[1989年]]([[平成]]元年)[[4月2日]]には京王八王子駅が地下化され<ref name="2016keioguidebook">{{Cite web|和書|date=2016-03-31 |url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2016/2016_p100_p115.pdf |title=2016年京王ハンドブック:データ集「年表」 |format=PDF |publisher=京王グループ |accessdate=2017-04-21}}</ref>、同年[[12月20日]]には駅前に[[京王八王子高速バスターミナル]]も整備された<ref name=keio50th>[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/history/history_04_03_01.html 京王電鉄50年史 第3部 第3章「バス事業の生き残りをかけて」1「乗りやすいバスづくり」京王グループ公式サイト]</ref>([[2007年]][[4月1日]]廃止)。また駅地下化に伴い地上部分に[[駅ビル]]が建設され、[[1994年]](平成6年)[[9月15日]]に「[[京王八王子ショッピングセンター|KEIO21]]」として開業、[[1999年]][[3月27日]]に現在の[[京王八王子ショッピングセンター]]に改称された。なおこの[[ショッピングセンター]]開業の際には、[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけての八王子駅周辺への[[百貨店]]進出のときほどの激しい反対運動はなかったものの、地元[[商店街|商店会]]などの要望により取り扱い品目を限定せざるを得なかった<ref name=":1">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.4157/grj.78.661 |title=都市整備事業の実施をめぐる都市内の政治権力構造 八王子市における旧中心商店街の活性化 |journal=地理学評論 |volume=78 |issue=11 |pages=661-687 |accessdate=2020-03-27|publisher=日本地理学会 |date=|year=2005|author=高野誠二 |doi=10.4157/grj.78.661}}</ref>。
JR八王子駅北口の駅用地は、暫定的に[[1992年]](平成4年)まで[[京王電鉄バス八王子営業所|京王帝都電鉄バス八王子営業所]]として使用していたが、最終的に乗り入れ計画が断念されたため、同年[[3月25日]]にバス営業所を現在地の[[長沼町 (八王子市)|長沼町]]へ移転<ref name="busmaga24">{{Cite book|和書|last=|first=|author=|authorlink=|coauthors=|translator=|year=2007-07-27|title=[[バスマガジン]] 24号 バス会社潜入レポート 京王電鉄バスグループ|publisher=[[講談社ビーシー|三推社]]・[[講談社]]|page=|id=|isbn=978-4-06-366253-5|quote=}}</ref>、駅用地に[[京王プラザホテル|京王プラザホテル八王子]]を建設して[[1994年]](平成6年)9月9日に開業した。
当駅の地下化後は、八王子市議会は主張を一転し、当駅から甲州街道の地下に京王線を延伸して[[シャッター通り|商店街衰退]]の著しい横山町・八日町の活性化につなげてほしいという意見を出してきたが<ref>「八王子市議会会議録 平成8年 第1回定例会(第2日目)」などによる。</ref>、京王側は採算が取れないとして難色を示した<ref name=":1" />。これは地下化後の当駅が中間駅構造ではなく、北方を向いた[[頭端式ホーム|頭端駅構造]]となったため、延伸には駅構造の大幅な改造を伴い工事に多大なコストがかかることも理由となる。
=== 年表 ===
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[3月24日]] - 玉南電気鉄道の'''東八王子駅'''として開業。甲州街道沿いの明神町に設置。
* [[1926年]](大正15年)[[12月1日]] - 合併により京王電気軌道の駅となる<ref name="RP893_10">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄広報部|title=総説:京王電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=10|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1944年]]([[昭和]]19年)[[5月31日]] - [[陸上交通事業調整法]]による戦時合併により[[東京急行電鉄]]([[大東急]])の駅となる<ref name="RP893_10" />。
* [[1945年]](昭和20年)[[8月2日]] - [[八王子空襲]]により焼失。
* [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 東急からの分離独立により京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の駅となる<ref name="RP893_10" />。
* [[1963年]](昭和38年)[[12月11日]] - 八王子市の[[都市計画]]に従い、[[北野駅 (東京都)|北野]]寄りに200メートル移転し、'''京王八王子駅'''に改称。
* [[1970年]](昭和45年)[[6月3日]] - 北野駅 - 当駅間が[[複線]]化され、京王線全線の複線化が完成する。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** [[4月2日]] - 地下化<ref name="2016keioguidebook" />。これにより京王線全線での急行系列車の20m車10両編成対応が完了。
** [[12月20日]] - 駅前に[[京王八王子高速バスターミナル]]が開業<ref name="keio50th" />。
* [[1991年]](平成3年)[[9月17日]] - 路線バス発着用の京王八王子バスターミナルが完成<ref>{{Cite news |title=京王八王子バスターミナル 17日から使用 京王帝都 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-09-14 |page=1 }}</ref>。
* [[1992年]](平成4年)[[3月25日]] - JR八王子駅への乗り入れ計画断念により、八王子駅北口の駅用地にあった京王帝都バス八王子営業所が移転<ref name="busmaga24" />。
* [[1994年]](平成6年)
** [[9月9日]] - 八王子駅北口に確保していた駅用地に[[京王プラザホテル八王子]]が開業。
** [[9月15日]] - 駅ビル「[[京王八王子ショッピングセンター|KEIO21]]」(現・京王八王子ショッピングセンター)が開業。
* [[1999年]](平成11年)[[3月27日]] - 駅ビルがリニューアルオープン、[[京王八王子ショッピングセンター]]に改称。
* [[2005年]](平成17年)夏 - [[発車標]]が従来の[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式]]から[[LED]]式に変更される。
* [[2007年]](平成19年)[[4月1日]] - 京王八王子高速バスターミナル廃止。
* [[2011年]](平成23年)[[11月16日]] - [[FUNKY MONKEY BABYS]]の楽曲「[[ヒーロー/明日へ|ヒーロー]]」「[[あとひとつ]]」を[[発車メロディ|接近メロディ]]として使用開始<ref name="pr20111117">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/nr111116v01/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111126212020/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/nr111116v01/index.html|language=日本語|title=11月16日から、ファンモンの人気ナンバーが京王八王子駅の列車接近メロディーに!|publisher=京王電鉄|date=2011-11-17|accessdate=2020-12-08|archivedate=2011-11-26}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[2月22日]] - [[ダイヤ改正]]により「[[京王ライナー]]」が新設され、下り列車の終着駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014150927/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(木)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜京王ライナーの運行開始や、平日朝間時間帯の速達性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2018-01-24|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-10-14}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)2月22日 - ダイヤ改正により、当駅始発の上り「京王ライナー」が新設される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014155008/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(金)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜朝間時間帯上り「京王ライナー」の運行開始や、平日朝間時間帯の利便性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2019-01-22|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-10-14}}</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)
** [[3月11日]] - 当駅発着の快速が休止。
** [[4月15日]] - 定期券売り場が営業を終了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/announce2021/20220315_teikikenhatsubaimadoguchi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220315121511/https://www.keio.co.jp/news/update/announce/announce2021/20220315_teikikenhatsubaimadoguchi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=定期券発売窓口営業終了・営業時間の変更について|publisher=京王電鉄|date=2022-03-15|accessdate=2022-03-15|archivedate=2022-03-15}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]であり、[[ターミナル駅]]特有の[[頭端式ホーム|頭端式構造]]が採られている。[[線路 (鉄道)|線路]]は構内で途切れており過走余裕もないため、列車到着時は京王線[[新宿駅]]同様にゆっくりと入線する。
ホームは地下2階にあり、車止め正面に2か所ある[[改札|改札口]]のうちの西口がある。中央口および駅事務室は地下1階にある。[[便所|トイレ]](だれでもトイレ併設)は中央口改札内と西口改札外にある。
京王電鉄の他の駅と同様、[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式]][[発車標]]が長い間使われてきたが、[[2005年]]夏頃に[[発光ダイオード|LED]]式発車標に更新された。なお中央改札口の発車標は一時的に[[液晶ディスプレイ]]による発車案内が行われていたが、LED式発車標の設置完了後に撤去された。
西口には[[エレベーター]]が地下化当初から設置されているが、中央口改札にも[[2013年]]に整備されている。
2011年11月16日からは、地元八王子市出身の[[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]・[[FUNKY MONKEY BABYS]]の楽曲を[[オルゴール]][[編曲|アレンジ]]したものが[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]]として使用されている。1番線が「[[ヒーロー/明日へ|ヒーロー]]」、2番線が「[[あとひとつ]]」である<ref name="pr20111117"/>。但し[[京王ライナー]]入線時は京王ライナー専用接近メロディが鳴動する。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
! 1・2
|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線||[[府中駅 (東京都)|府中]]・[[明大前駅|明大前]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{smaller|都営}}新宿線]]方面
|}
* 一部の列車を除き、次の北野駅で[[京王高尾線|高尾線]]からの列車に接続する。日中時間帯は特急は高尾線からの各駅停車と、各駅停車は高尾線からの特急と接続するダイヤである。
* 平日朝1本のみ当駅始発の都営新宿線[[本八幡駅|本八幡]]行が設定されている。なお、都営新宿線から当駅に乗り入れる列車の設定はない。
* 10両編成1本の[[夜間滞泊]]が設定されており、京王八王子行きの[[終電|最終列車]]が到着後に留置され、翌朝の特急京王線新宿行き始発に使用される。
{{Gallery
|align=center
|width=160
|height=120
|File:Keio-Hachioji Station 2019.jpg|西口入口(2019年8月撮影)
|File:KO Hachioji Sta West Ticket gates 2.jpg|西口改札外側(2022年10月撮影)
|File:KO Hachioji Sta West Ticket gates 1.jpg|西口改札内側(2022年10月撮影)
|File:Keio-Hachioji Station 2019e.jpg|中央口改札外側(2019年8月撮影)
|File:Keio-Hachioji Station 2019c.jpg|1番線ホーム(2019年8月撮影)
|File:Keio-Hachioji Station 2019d.jpg|2番線ホーム(2019年8月撮影)
}}
== 利用状況 ==
[[2021年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''43,203人'''で<ref name="keio-toukei">[https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html/ 京王グループ 1日の駅別乗降人員]</ref>、京王電鉄の八王子市内の駅では[[南大沢駅]]に次ぐ第2位である。
近年の1日平均'''乗降'''人員及び'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/002/006/tokehachihkakunen/index.html 統計八王子] - 八王子市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1948年(昭和23年)
|<ref group="注">京王帝都電鉄発足年度</ref>3,800||
|
|-
|1955年(昭和30年)
|4,542||
|
|-
|1960年(昭和35年)
|8,212||
|
|-
|1965年(昭和40年)
|20,175||
|
|-
|1970年(昭和45年)
|29,579||
|
|-
|1975年(昭和50年)
|38,581||
|
|-
|1980年(昭和55年)
|55,297||
|
|-
|1985年(昭和60年)
|64,253||
|
|-
|1987年(昭和62年)
|<ref group="注">当駅の乗降人員最高値年度</ref>67,378||
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|63,369||32,151
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| ||32,735
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| ||31,871
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| ||31,342
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| ||31,364
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|61,137||31,066
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| ||30,638
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|58,901||29,984
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|59,464||30,490
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|59,151||30,090
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|57,426||29,140
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|57,605||29,203
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|57,532||29,186
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|58,563||29,675
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|58,941||29,885
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|59,676||30,375
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|59,365||30,290
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|59,745||30,005
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|59,766||29,975
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|58,983||29,515
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|58,366||29,159
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|57,428||28,590
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|57,645||28,726
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|58,578||29,153
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|57,675||28,693
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|59,083||29,317
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|58,782||29,164
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|59,375||29,444
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|59,486||29,501
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|58,124||28,760
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|39,358||19,493
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|43,203||
|
|}
== 駅周辺 ==
=== 中央口 ===
* [[京王八王子ショッピングセンター]](京王八王子駅ビル)
** [[京王アートマン]](京王八王子店)
** [[タワーレコード]](八王子店)
** [[GOVリテイリング|GU]](京王八王子店)
** [[島村楽器|シマムラミュージック]](八王子店)
** [[文教堂]] / [[ゲオ]] / アニメガ(京王八王子店)
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[八王子駅]]
**[[セレオ八王子]]北館(旧:[[JR東京西駅ビル開発|八王子ナウ]])
** [[セレオ八王子]]南館([[アンカーストア|キーテナント]]は[[ビックカメラ]]八王子店)
* [[京王プラザホテル|京王プラザホテル八王子]](旧:[[京王電鉄バス八王子営業所|京王帝都バス八王子営業所]])
* [[京王不動産|京王八王子明神町ビル]]([[日本ヒューレット・パッカード]]八王子事業所)
* [[イシン・ホテルズ・グループ|ザ・ビー 八王子]]
* [[八王子オクトーレ]]
** 八王子市学園都市センター
** [[八王子駅前郵便局]]
*** [[ゆうちょ銀行]]八王子店
*** [[かんぽ生命保険|かんぽ生命]]八王子支店
* [[ヨドバシカメラ]]八王子店
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]八王子駅前店(旧:[[長崎屋]]八王子店)
* [[ダイエー]][[グルメシティ]]京王八王子店
* [[商工組合中央金庫]]八王子支店
* 仁和会総合病院
* [[東京都立多摩産業交流センター]](東京たま未来メッセ)
** 八王子市[[保健所]]
** 東京都八王子合同庁舎
* 八王子市[[生涯学習]]センター(クリエイトホール)
** [[八王子市役所#南大沢・八王子駅南口総合事務所|八王子市役所駅前事務所]]
** 八王子市生涯学習センター[[図書館]]
* [[八王子市こども科学館]]([[コニカミノルタ]]サイエンスドーム)
=== 西口 ===
[[国道20号]](甲州街道)に近く、朝夕は都立南多摩中等教育学校の生徒の利用が目立つ。以前は22時以降は利用できなかったが、2006年6月頃より[[始発列車|初電]]から[[終電]]まで利用可能になった。
* [[東京都立南多摩中等教育学校]]
* 八王子明神町[[郵便局]]
* [[国道20号]]([[甲州街道]])
* [[日産レンタカー]]八王子店(旧:[[京王八王子高速バスターミナル]])
=== バス路線 ===
{{Vertical images list
|幅 = 200px
|1 = Keio-Hachioji station Bus Terminal.JPG
|2 = 京王八王子バスターミナル
|3 = Keio-Hachioji-BT.JPG
|4 = 京王八王子駅バスターミナル乗り場
}}
路線バスは、[[京王電鉄バス八王子営業所|京王電鉄バス]]、[[京王バス高尾営業所|京王バス]]、[[西東京バス]]により運行されている。なお、路線詳細は各事業者の営業所記事などを参照。
;京王八王子駅
* 1番乗り場(特記以外の事業者は[[京王バス高尾営業所|京王バス]])
** 長81:城山手行([[西東京バス]])
** 八04:[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]南口・[[東京医科大学八王子医療センター|医療センター]]経由館ヶ丘団地行
** 八06:高尾駅南口・駐在所前経由館ヶ丘団地行(夜間1本のみ)
** 八南01:[[八王子駅]]南口行(土休日朝1本のみ)([[京王電鉄バス八王子営業所|京王電鉄バス]])
** 山01:[[高尾山口駅]]行
* 2番乗り場(西東京バス)
** 陣01:宝生寺団地行
** 陣02:宝生寺団地経由[[西東京バス恩方営業所|恩方営業所]]・恩方ターミナル行
** 陣04:恩方ターミナル行
** 陣05:大久保行
** 元八03:日吉町経由高尾駅北口・高尾駅南口行
** 元八04:[[八王子市役所|市役所]]入口経由高尾駅南口行(平日朝のみ)
** 市12:横川町住宅行
** 市街地循環:三崎町・いちょうホール北・明神町経由 [[八王子駅]]行
* 3番乗り場(西東京バス)
** 秋01:神社前経由楢原町行
** 秋02:川口小学校行
** 秋03:上川霊園行
** 秋04:楢原町・川口小学校・今熊経由[[武蔵五日市駅]]行
** 工01:[[工学院大学]]西経由楢原町行
** 秋61:雨間経由秋川駅行
** 秋62:[[イオンモール日の出]]行(土休日のみ)
* 4番乗り場(西東京バス)
** 急行:純心学園行(平日・土曜朝のみ)
** ひ01:ひよどり山トンネル・純心学園経由戸吹行
** ひ02:ひよどり山トンネル経由[[創価大学]]正門・[[東京富士美術館]]行
** ひ04:ひよどり山トンネル経由創価大学循環
** ひ06:[[拝島駅]]行
** ひ07:ひよどり山トンネル・[[東京サマーランド]]経由[[秋川駅]]行
** ひ08:戸吹スポーツ公園入口行
** 16号04:みつい台・創価大正門東京富士美術館・純心学園経由戸吹行(夜間のみ)
** 16号06:馬場谷戸経由創価大学循環
** 16号11:みつい台行
** 左01:左入経由純心学園行
** 左03:左入経由戸吹行
** 暁21:中野団地行
** い11:いちょうホール前経由みつい台行(1日1本のみ)
** バ01:バイパス大谷・石川経由宇津木台行
* (5番乗り場は降車専用)
* 6番乗り場(京王電鉄バス・西東京バス)
** 八王子駅北口行
* 7番乗り場(京王電鉄バス)
** 豊56:[[豊田駅]]北口行
** 日50:日野台経由[[日野駅 (東京都)|日野駅]]行
** 八58:八王子工業団地経由日野駅行(平日夕のみ)
** 八59:八王子工業団地行(平日朝夕のみ)
* 8番乗り場(西東京バス)
** 大02:北八王子駅入口・東海大学八王子病院・石川経由宇津木台行
** 大03:[[東海大学医学部付属八王子病院|東海大学八王子病院]]行
** 大11:[[小宮駅]]入口経由日野駅行
* 10番乗り場
** [[東京国際空港|羽田空港]]行(西東京バス・[[東京空港交通]])
** [[成田国際空港|成田空港]]行(西東京バス・東京空港交通・[[リムジン・パッセンジャーサービス]])
** [[高崎駅]]東口・[[渋川駅]]・[[伊香保温泉]]・[[中之条駅]]入口・[[四万温泉]]行(西東京バス・[[関越交通]])
** あべの橋行「ツィンクル号」(西東京バス・[[近鉄バス]])
** [[加賀温泉駅]]行([[金沢駅]]前・[[小松駅]]前経由)(西東京バス・[[松本電鉄バス#東京支社(旧アルピコ交通東京)|アルピコ交通]])
* 八王子ファーストスクエア南側付近(京王電鉄バス)
** 八王子車庫行
** 八王子駅北口行
[[2007年]][[3月31日]]まで[[高速バス]]・[[リムジンバス|空港連絡バス]]は、駅西口出口付近にあった[[京王八王子高速バスターミナル]]から発着していた。
== 隣の駅 ==
;京王電鉄
:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線
:*{{Color|#dd0077|□}}「[[京王ライナー]]」発着駅
::{{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行・{{Color|olive|■}}区間急行(上りのみ、東府中までは各駅に停車)・{{Color|gray|■}}各駅停車
:::[[北野駅 (東京都)|北野駅]] (KO33) - '''京王八王子駅 (KO34)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 出典 ==
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[八王子駅]]
* [[京王八王子ショッピングセンター]]
* [[京王八王子高速バスターミナル]] - 2007年廃止
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Keio-Hachioji Station}}
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko34_keio-hachioji/ 京王電鉄 京王八王子駅]
{{京王線}}
{{DEFAULTSORT:けいおうはちおうし}}
[[Category:京王八王子駅|*]]
[[Category:八王子市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|いおうはちおうし]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1925年開業の鉄道駅]]
|
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名古屋章
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名古屋 章(なごや あきら、1930年〈昭和5年〉12月8日 - 2003年〈平成15年〉6月24日)は、日本の俳優、声優、ナレーター。本名同じ。
東京府東京市麹町区(現、東京都千代田区)九段出身。身長170cm、体重78kg。旧制九段中学校卒業。
NHK東京放送劇団、文学座、劇団雲を経て、1975年(昭和50年)以降はフリー。1950年代から半世紀にわたり、数多くの舞台、映画、ドラマ、ラジオに出演、ナレーターとしても活躍した。
幼少期、姓の「名古屋」が珍しいものであったことや、父の氏名が(名古屋)愉快のため級友からからかわれていた。
1949年(昭和24年)に旧制中学を卒業すると、東京放送劇団(NHK)養成所に3期生として入所。同期には後に声優として活躍する勝田久、高橋和枝らがいた。
1952年(昭和27年)にはラジオドラマ『ぼたもち』に主演し、同年の芸術祭賞を獲得。このほか、ラジオドラマには『一丁目一番地』などに出演した。
1959年(昭和34年)に文学座へ入団。1963年(昭和38年)に劇団雲の創立に参加、1975年(昭和50年)の劇団雲の解散以後はフリーで活動し、地人会、こまつ座などの舞台にも出演した演劇人でもあった。1971年(昭和46年)には『釘』で第6回紀伊国屋演劇賞個人賞を、1983年(昭和58年)に『雨』で芸術祭演劇部門大賞を受賞している。
ラジオドラマ時代は美声を生かして二枚目を担当し、数多の女性ファンを獲得した。映画ではクセのある敵役や悪役を演じ、テレビドラマでは刑事役や大映テレビ制作の作品に常連出演するなど、名脇役ぶりで親しまれた。特撮では『帰ってきたウルトラマン(以下、帰マン)』のナレーターや、『ウルトラマンタロウ』の朝日奈勇太郎隊長役が代表作である。
1991年(平成3年)から2003年(平成15年)まで、藤村有弘(1982年死去)から引継ぐ形で『ひょっこりひょうたん島』の2代目ドン・ガバチョ役を務めた。
2003年(平成15年)6月24日午前8時35分、肺炎のため死去。72歳没。同年3月には脳腫瘍で手術を受けリハビリをしながらも、9月まで仕事のスケジュールが入っており、現役の俳優として迎えた死だった。亡くなる13日前に収録したNHK教育テレビの番組『ピタゴラスイッチ』の百科おじさん役が遺作となった。6月28日には通夜が行われ、翌6月29日に告別式を行い、落合斎場にて荼毘に付された。死去時の追悼番組として放送されたのは、ホテルの料理長を演じたテレビドラマ『HOTEL』である。2006年(平成18年)発売のDVD版『ウルトラマンタロウ』Vol.12の特典映像にも現存するインタビュー映像が追悼収録された。戒名は精進院輝誉章山居士。墓所は小平霊園。
生前の趣味は、鉄道模型、絵画、ゴルフだった。また、プロ野球は巨人ファンであった。
名古屋の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
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名古屋 章は、日本の俳優、声優、ナレーター。本名同じ。 東京府東京市麹町区(現、東京都千代田区)九段出身。身長170cm、体重78kg。旧制九段中学校卒業。 NHK東京放送劇団、文学座、劇団雲を経て、1975年(昭和50年)以降はフリー。1950年代から半世紀にわたり、数多くの舞台、映画、ドラマ、ラジオに出演、ナレーターとしても活躍した。
|
{{出典の明記|date=2012年4月|ソートキー=人2003年没}}
{{ActorActress
| 芸名 = 名古屋 章
| ふりがな = なごや あきら
| 画像ファイル = Akira Nagoya.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像コメント = <small>[[マガジンハウス|平凡出版]]『週刊平凡』第9巻第25号(1967)より</small>
| 本名 = 名古屋 章
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[麹町区]]<br />(現:[[東京都]][[千代田区]][[九段]])
| 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[新宿区]][[河田町]]
| 身長 = 170 [[センチメートル|cm]]
| 血液型 = [[ABO式血液型|AB型]]
| 生年 = 1930
| 生月 = 12
| 生日 = 8
| 没年 = 2003
| 没月 = 6
| 没日 = 24
| 職業 = [[俳優]]、[[声優]]
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]、アフレコ、ナレーション
| 活動期間 = [[1949年]] - [[2003年]]
| 活動内容 = 1949年:NHK[[東京放送劇団]]養成所入所<br />[[1952年]]:[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭賞]]受賞<br />[[1959年]]:[[文学座]]入団<br />1963年:[[劇団雲]]に移籍<br />1975年:[[フリーランス]]に
| 配偶者 = 名古屋千鶴子(妻)
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''テレビドラマ'''<br />『[[柔道一直線]]』<br />『[[刑事くん]]』<br />『[[帰ってきたウルトラマン]]』<br>『[[ウルトラマンタロウ]]』<br />『[[スクール☆ウォーズ]]』<br />『[[HOTEL (テレビドラマ)|HOTEL]]』<hr />'''映画'''<br />『[[男の紋章]]』<br />『[[日本沈没#映画|日本沈没]]』<br />『[[麻雀放浪記]]』<br />『[[マルタイの女]]』<hr />'''アテレコ'''<br />『[[ひょっこりひょうたん島]]』<br />『[[トイ・ストーリー]]』
| 備考 =
}}
'''名古屋 章'''(なごや あきら、[[1930年]]〈昭和5年〉[[12月8日]] - [[2003年]]〈平成15年〉[[6月24日]])は、[[日本]]の[[俳優]]、[[声優]]、[[ナレーター]]。本名同じ{{R|profile1}}。
[[東京府]][[東京市]][[麹町区]](現、[[東京都]][[千代田区]])[[九段]]出身<ref name=":0">{{Cite web|和書|author= |title=荻窪法人会会報 NO.164 |url=http://www.ogikubohojinkai.jp/assets/k164.pdf |publisher=公益財団法人 荻窪法人会 |accessdate=2022-12-20}}</ref>。身長170cm、体重78kg{{R|profile1}}。[[東京都立九段高等学校|旧制九段中学校]]卒業<ref name=":0" />。
NHK[[東京放送劇団]]、[[文学座]]、[[劇団雲]]を経て、[[1975年]](昭和50年)以降は[[フリーランス|フリー]]<ref name=":0" />。[[1950年代]]から半世紀にわたり、数多くの[[舞台]]、[[映画]]、[[テレビドラマ|ドラマ]]、[[ラジオ]]に出演、[[ナレーター]]としても活躍した。
== 来歴・人物 ==
幼少期、姓の「名古屋」が珍しいものであったことや、父の氏名が(名古屋)愉快<ref>{{Cite book |和書 |year=1975 |title=日本タレント名鑑 |volume=昭和50年度版 |publisher= VIPタイムス社 |pages={{要ページ番号|date=2019年2月}} |id={{全国書誌番号|75049269}} }}</ref>のため級友からからかわれていた。
[[1949年]](昭和24年)に[[旧制中学]]を卒業すると、[[東京放送劇団]]([[日本放送協会|NHK]])養成所に3期生として入所<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=名古屋章 生涯一役者を貫いた名脇役、死去 {{!}} 時事用語事典 |url=https://imidas.jp/hotkeyperson/detail/P-00-107-03-07.html |website=情報・知識&オピニオン imidas |access-date=2022-12-20 |publisher=[[集英社]]}}</ref>。同期には後に声優として活躍する[[勝田久]]、[[高橋和枝]]らがいた。
[[1952年]](昭和27年)には[[ラジオドラマ]]『ぼたもち』に主演し、同年の[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭賞]]を獲得<ref name=":1" />。このほか、[[ラジオドラマ]]には『一丁目一番地』などに出演した。
[[1959年]](昭和34年)に[[文学座]]へ入団<ref name=":1" />。[[1963年]](昭和38年)に[[劇団雲]]の創立に参加<ref name=":1" />、[[1975年]](昭和50年)の劇団雲の解散以後はフリーで活動し、[[地人会]]、[[こまつ座]]などの舞台にも出演した演劇人でもあった。[[1971年]](昭和46年)には『釘』で第6回[[紀伊国屋演劇賞]]個人賞を、[[1983年]](昭和58年)に『雨』で芸術祭演劇部門大賞を受賞している<ref name=":1" />。
ラジオドラマ時代は美声を生かして二枚目を担当し、数多の女性ファンを獲得した<ref>{{Cite book |和書 |author=能村庸一 |authorlink=能村庸一 |year=1999 |title=実録テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998 |publisher=[[東京新聞]]出版局 |pages=20-21 |isbn=4-8083-0654-9}}</ref>{{efn|ラジオドラマには晩年まで出演していた。}}。映画ではクセのある敵役や悪役を演じ、テレビドラマでは刑事役や[[大映テレビ]]制作の作品に常連出演するなど、名脇役ぶりで親しまれた。特撮では『[[帰ってきたウルトラマン]](以下、帰マン)』のナレーターや、『[[ウルトラマンタロウ]]』の朝日奈勇太郎隊長役が代表作である<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=名古屋章|NHK人物録 |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009070090_00000&og= |website=NHK人物録 {{!}} NHKアーカイブス |access-date=2022-12-20 |language=ja |last=NHK}}</ref>{{efn|第51話の予告から第53話(最終話)まではナレーションを務めた[[瑳川哲朗]]が急病で事実上降板したため、ナレーターも務めた。}}。
[[1991年]](平成3年)から[[2003年]](平成15年)まで、[[藤村有弘]]([[1982年]]死去)から引継ぐ形で『[[ひょっこりひょうたん島]]』の2代目[[ドン・ガバチョ]]役を務めた<ref name=":1" /><ref name=":2" />。
[[2003年]](平成15年)[[6月24日]]午前8時35分、[[肺炎]]のため死去<ref>{{Cite news |title=軽妙で人情味あふれる演技 名古屋さん死去|newspaper=[[読売新聞]]朝刊 |date=2003-6-25 |page=39}}</ref><ref>{{Cite news |title=多彩な名脇役、名古屋章さん急死 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2003-06-24 |url=https://web.archive.org/web/20030806051859/https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2003/pe-030624-1.html|accessdate=2020-09-09}}</ref>。{{没年齢|1930|12|8|2003|6|24}}。同年3月には[[脳腫瘍]]で手術を受けリハビリをしながらも、9月まで仕事のスケジュールが入っており、現役の[[俳優]]として迎えた死だった。亡くなる[[6月11日|13日前]]に収録した[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の番組『[[ピタゴラスイッチ]]』の百科おじさん役が遺作となった。[[6月28日]]には通夜が行われ、翌[[6月29日]]に告別式を行い、[[落合斎場]]にて[[火葬#日本における火葬 |荼毘]]に付された。死去時の追悼番組として放送されたのは、ホテルの料理長を演じた[[テレビドラマ]]『[[HOTEL (テレビドラマ)|HOTEL]]』である。[[2006年]](平成18年)発売のDVD版『ウルトラマンタロウ』Vol.12の特典映像にも現存するインタビュー映像が追悼収録された{{efn|2003年に発売されたDVD版『帰マン』第13巻の特典映像「店頭デモ映像」を再収録したものである。名古屋は同作品の「店頭デモ映像」のナレーターも担当した。}}。[[戒名]]は'''精進院輝誉章山居士'''。墓所は[[小平霊園]]。
生前の趣味は、[[鉄道模型]]、[[絵画]]、[[ゴルフ]]だった。また、プロ野球は[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンであった。
== 後任 ==
名古屋の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
=== 俳優 ===
* [[田山涼成]](1作のみ)、[[秋野大作]](『[[終着駅シリーズ]]』: 坂本課長役)
* [[平泉成]](『[[暴れん坊将軍|CR暴れん坊将軍]]』:有馬彦右衛門役)
=== 声優 ===
* [[栗田貫一]](『[[ひょっこりひょうたん島]]』〈プレマップ版〉、『[[ざわざわ森のがんこちゃん]]スペシャルショー 「[[プリンプリン物語|プリンプリン]]と大ぼうけん」』:ドン・ガバチョ役)
* [[辻萬長]](『[[トイ・ストーリーシリーズ]]』:Mr.ポテトヘッド役)
* [[川久保潔]](『[[ピタゴラスイッチ]]』:百科おじさん役〈2代目〉)
* [[車だん吉]](『ピタゴラスイッチ』:百科おじさん役〈3代目〉)
* [[辻親八]](『[[シャーロック・ホームズの冒険 (テレビドラマ)|シャーロック・ホームズの冒険]]』: ペインズ警部役〈フレディ・ジョーンズ〉)※DVD追加収録部分
== 出演 ==
=== テレビドラマ ===
* [[まりおねっと 玉藻前]](1953年、[[日本放送協会|NHK]]){{efn|声の出演。}}
* 三人のたび役者と代官様(1953年、NHK)
* シルエット 杜子春(1954年、NHK) - 語り手
* マルコと釘(1956年、NHK)
* 夢見る沼(1957年、NHK)
* お好み日曜座(NHK)
** 閣下(1958年)
** 華やかな夜景(1958年)
* テレビ劇場(NHK)
** 夜の仲間(1959年)
** 鈴が通る(1959年)
** 紅衣の女(1959年)
** 今昔隅田川(1959年)
** 私は判らない(1960年)
** 風と青春(1961年)
** ともしび(1962年)
* [[ナショナル劇場#作品リスト|松本清張シリーズ]]・[[松本清張原作のテレビドラマ一覧#1960年代|黒い断層]]第6・7話「[[恐喝者#1960年版|恐喝者]]」(1960年、[[TBSテレビ|KR]])
* ヤシカ ゴールデン劇場「脱走」(1960年、[[日本テレビ放送網|NTV]])
* スリラー劇場 夜のプリズム 第101話 「欠員製造業」(1960年、NTV)
* 日立劇場([[TBSテレビ|TBS]])
** 秀頼走路(1961年)
** 山鳩(1961年)
* [[藪の中]](1961年、NTV)
* 天狗女房(1961年、NTV)
* [[東芝土曜劇場]] 第114話「人狩り」(1961年、[[フジテレビジョン|CX]])
* NHK劇場(NHK)
** おさの宿(1961年)※事実上の初主演作
** 装いの町(1967年)
** 夫と妻の対話(1969年)
* 指名手配 ([[テレビ朝日|NET]])<!-- 両出演作とも、テレビドラマデータベースとは話数が違うようですが、どちらが正しいのでしょう? -->
** 第76・77話「浮気」(1961年)
** 第123・124話「足跡」(1962年)
* [[シャープ火曜劇場]](CX)
** 第5話「今ひとたびの」(1961年)
** 第15話「雲ながるる果てに」(1961年) - 飛行長
** 第46話「勝負師」(1962年)
** 第55話「朝餉の歌」(1962年) - 富田次郎
* おんなの季節(1961年、CX)
* 文芸劇場(NHK)
** 少年期(1962年)
** 萩すすき(1962年)
** 火山湖(1962年)
* おかあさん第2シリーズ(TBS)
** 第193話「月のおばちゃま」(1963年)
** 第231話「終りのない道」(1964年)
** 第270話「もずがかれ木で」(1965年)
** 第332話「お百度まいり」(1966年)
** 第355話「母の切り抜き」(1966年)
* [[男嫌い (1963年のテレビドラマ)|男嫌い]] 第38話(1964年、日本テレビ)
* [[四重奏 (テレビドラマ)|四重奏]](1964年、日本テレビ)
* [[シオノギテレビ劇場]]「山本富士子アワー・芳兵衛物語」(1964年、CX)
* [[一千万人の劇場]] 志士流行い(1964年、CX)
* [[大河ドラマ]](NHK)
** [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](1965年)
** [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](1969年) - 柿崎弥三郎
** [[樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った]](1970年) - 政右衛門
** [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]](1973年) - 可児権蔵
** [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]](1977年) - 三浦長兵衛
** [[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]](1993年) - [[藤原登任]]
** [[八代将軍吉宗]](1995年) - [[土屋政直]]
* [[日産スター劇場]](NTV)
** 鍵を拝借(1965年)
** 土曜日こんにちは(1965年)
** 未亡人と四人の紳士(1965年)
** 出口はどこだい!(1965年)
** おゝ結婚よ!(1965年)
** 奥様浮気をどうぞ(1967年)
** おばさんは子供嫌い(1967年)
** 立ち入り禁止・恋と恋(1969年)
* 怪盗ねずみ小僧(1965年、TBS)
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場]](TBS)
** 「女と質屋」(1965年)
** 「好きと嫌いはどれほどちがう」(1969年)
* [[東京警備指令 ザ・ガードマン|ザ・ガードマン]]([[大映テレビ|大映テレビ室]] / TBS)
** 第29話「赤い罠」(1965年)
** 第43話「顔の消えた男」(1966年)
** 第78話「宝を抱いて地獄へ行け」(1966年) - 北刑事{{efn|以降、同役でセミレギュラー出演。}}
** 第80話「罠には罠を」(1966年)
** 第86話「悪者たちは死んだ」(1966年){{efn|name="NO"}}
** 第87話「檻の中の女」(1966年)
** 第90話「女は魔物」(1966年)
** 第97話「大雪原の銃口」(1967年)
** 第103話「真赤な裏切り」(1967年)
** 第108話「ガードマン本部奇襲作戦」(1967年)
** 第115話「死を占う少女」(1967年)
** 第116話「勝利なき挑戦」(1967年)
** 第132話「二億円の賭け」(1967年)
** 第139話「偽ガードマン登場」(1967年)
** 第143話「マッチ売りの少女は大晦日に死ぬ」(1967年)
** 第155話「絶望の36時間」(1968年)
** 第168話「白い手の恐怖」(1968年)
** 第238話「女がライバルを殺す方法」(1969年)
** 第281話「団地奥さんヌードの悲劇」(1970年)
** 第288話「女子高校生スキャンダル殺人」(1970年)
** 第294話「ハレンチ奥さんの完全犯罪」(1970年){{efn|name="NO"}}
** 第301話「ヌードモデル高校生殺人事件」(1971年)
** 第304話「ハレンチ夫婦の幽霊殺人」(1971年)
** 第345話「まあ恥ずかしい! スターの告白」(1971年)
* [[青春とはなんだ]](1965年 - 1966年、NTV)
* ああ! 夫婦 第1シリーズ(TBS)
** 第3話「統計的夫婦論」(1965年)
** 第12話「あなた、それから?」(1966年)
* [[黄色い風土#テレビドラマ|黄色い風土]](1965年 - 1966年、NET / 東映テレビプロダクション)
* 大岡政談 池田大助捕物帳 第49話(1966年、NHK)
* 男と女のいるかぎり オレのでない生命(1966年、NTV)
* テレビ指定席「[[幻の女#1966年版|都会の顔-ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」より]]」(1966年、NHK)
* 停年退職(1966年、NHK)
* 怒濤日本史([[毎日放送|MBS]])
** 第2話「大化改新」(1966年) - [[蘇我倉山田石川麻呂]]
** 第12話「江戸城總攻」(1966年) - [[西郷隆盛|西郷吉之助]]
** 第13話「将軍江戸を去る」(1966年) - 西郷吉之助
* [[ナショナル劇場]] 「[[戦国太平記 真田幸村]]」(1966年 - 1967年、TBS)
* 嫌い! 好き!!(1966年 - 1967年、NTV・[[東宝]])
* [[これが青春だ]](1966年 - 1967年、NTV・東宝)
* [[渥美清の泣いてたまるか|泣いてたまるか]](1967年、TBS) - 生物教師
* 剣(NTV、[[C.A.L.]])
** 第17話「珍説天保水滸伝」(1967年) - 富吉
** 第38話「喧嘩安兵衛」(1968年) - 練三郎
* [[とぼけた奴ら]](1967年 - 1968年、NET / 東映テレビプロダクション)
* [[でっかい青春]](1968年 - 1969年、NTV)- 立石大五郎
* テレビ文学館(MBS)
** [[赤西蠣太]](1968年) ※ 主演
** ぢいさんばあさん(1968年)
** [[坊つちやん (テレビドラマ)#1968年版|坊っちゃん]](1968年) - 山嵐
* 仇討ち 第7話「うんぷてんぷ」(1968年、TBS・[[東京映画]])
* [[柔道一直線#テレビドラマ版|柔道一直線]](1969年 - 1971年、TBS / 東映)- 鶴田先生
* [[五人の野武士]] 第20話「夕姫をめぐる男たち」(1969年、NTV / [[三船プロダクション|三船プロ]])
* [[フジ三太郎]] 第27話「頑張れ 張り切れ ゴマするな!」(1969年、TBS / [[国際放映]])
* [[無用ノ介]] 第4話「無用ノ介・将棋・無用ノ介」(1969年、NTV) - 矢吉
* [[炎の青春]](1969年、NTV・東宝)
* [[銀河テレビ小説|銀河ドラマ]] 「速歩自源流」(1969年、NHK)
* 待ってますワ(1969年、TBS)
* [[青空にとび出せ!]] 第26話「さよならピンキー!」(1969年、TBS / 国際放映)
* [[鬼平犯科帳 (松本幸四郎)|鬼平犯科帳(松本幸四郎)]] 第1シリーズ 第50話「かまいたち」(1970年、NET / 東宝) - 天命堂
* [[大坂城の女]](1970年、[[関西テレビ放送|KTV]]) - [[服部正成|服部半蔵]]
* 夫よ男よ強くなれ 第20話「私が探してみせるわ!!」(1970年、NET)
* [[五番目の刑事]] 第24話「白い花びらブルース」(1970年、NET / [[東映]]) - 貞吉
* ドラマ特集「いつかあなたのように」(1970年、NHK)
* [[日本怪談劇場]]([[テレビ東京|12ch]])
** 第2話「牡丹灯籠 鬼火の巻」(1970年)
** 第3話「牡丹灯籠 蛍火の巻」(1970年)
* ファミリー劇場 「[[乱れ雲#1970年版|乱れ雲]]」(1970年、NTV・東宝)
* [[おさな妻#連続テレビドラマ版|おさな妻]](1970年 - 1971年、12ch / [[C.A.L]]) - 吉沢和郎
* [[おれは男だ!]] 第11話「明日に向かってつっ走れ!」(1971年、日本テレビ・[[松竹]])
* [[おにぎり母さん]](1971年、CX)
* [[ウルトラシリーズ]](TBS)
** [[帰ってきたウルトラマン]](1971年 - 1972年) - ナレーター
** [[ウルトラマンタロウ]](1973年 - 1974年) - 朝日奈勇太郎隊長 / 第51話からのナレーター
* [[ブラザー劇場]](TBS)
** [[刑事くん]](1971年 - 1976年) - 時村重蔵
** [[それ行け!カッチン]](1975年 - 1976年) - 谷川準司
** [[パパは独身]](1976年 - 1977年、TBS) - 松田大作
* からすなぜ泣くの (1971年、NHK) - ナレーター
* [[ママはライバル]](1972年、TBS) - 渋沢学園長
* [[シークレット部隊]] 第26話「住宅ローン殺人事件」(1972年、TBS・[[大映テレビ]])
* [[飛び出せ!青春]](1972年 - 1973年、NTV) - 名和半次郎(ラーメン屋店主)
* [[アイちゃんが行く!]] 第18話「鳥羽のめぐり会い」(1972年、CX) - 三田村光夫
* [[恐怖劇場アンバランス]] 第2話「死を予告する女」(1973年、CX / 円谷プロ) - 西田
* [[どっこい大作]] 第3話「成せば成る?!」(1973年、NET) - 大垣
* [[非情のライセンス]](NET / 東映)
** 第1シリーズ 第1話「兇悪の門」(1973年) - 看守部長
** 第2シリーズ 第19話「兇悪の十字架」(1975年) - 保護司・中村
* [[ポーラテレビ小説]](TBS)
** 「薩摩おごじょ」(1973年) - 桐野利秋
** 「からっ風と涙」(1979年) - 間庭善七
* [[子連れ狼 (萬屋錦之介版)|子連れ狼]]([[ユニオン映画]] / NTV)
** 第1部 第4話「一石橋」(1973年) - 加賀見織部
** 第1部 第10話「六道無辺」(1973年) - 岩根小角
** 第2部 第7話「狼来たりなば」(1974年) - 大庄屋清兵衛
* [[火曜日の女シリーズ]]「ガラス細工の家」(1973年、NTV / ユニオン映画)
* [[われら青春!]](1974年、NTV) - 名和半次郎
* [[水もれ甲介]](1974年 - 1975年、NTV) - 酒井忠助
* [[夜明けの刑事]] 第1話「女の悲鳴」(1974年、大映テレビ / TBS) - 白井弁護士
* [[破れ傘刀舟悪人狩り|破れ傘刀舟 悪人狩り]] 第8話「三途の川の子守唄」(1974年、NET) - 西海屋惣右衛門
* [[銀河テレビ小説]](NHK)
** [[江分利満氏の優雅な生活]](1975年) - 柳原
** [[となりの芝生]](1976年) - 殿村
** 下町探偵局(1984年) - 北尾
* [[あんたがたどこさ (テレビドラマ)|あんたがたどこさ]] 第2シリーズ(1975年、TBS)
* [[前略おふくろ様]](1975年、NTV) - 中川
* [[俺たちの旅]](1975年 - 1976年、NTV) - 坂田大五郎
* [[夫婦旅日記 さらば浪人]] 第4話「恋しのぶ宿」(1976年、CX) - 小室青岳
* [[俺たちの朝]](1976年 - 1977年、NTV) - ジーンズショップの大家
* [[赤い衝撃]](1976年 - 1977年、TBS) - 水谷警部
* [[おおヒバリ!]](1977年 - 1978年、TBS) - 田貫仁三郎
* [[コメットさん]](第2期・TBS)
** 第25話「エジプト-日本 愛の絆」(1978年)
** 第67話「ある晴れた日パパ帰る」(1979年)
* [[気まぐれ本格派]] 28話「居候、三杯目には?」(1978年、NTV)- たけ(清水一寛の船乗り仲間)
* [[ゆうひが丘の総理大臣#テレビドラマ|ゆうひが丘の総理大臣]](1978年 - 1979年、NTV) - 大坂先生
* [[破れ新九郎]] 第6話「地獄の白州は快刀乱麻!」(1978年、ANB) - 加屋正太郎
* [[土曜ワイド劇場]](ANB)
** [[聞かなかった場所#1979年版|松本清張の聞かなかった場所]](1979年)
** [[死んだ馬#1981年版|松本清張の死んだ馬 殺人設計図]](1981年) - 所轄刑事
** [[結婚って何さ#1986年版|結婚って何さ殺人事件]](1986年)
** [[眠りの森#テレビドラマ|眠りの森の美女殺人事件]](1993年) - 高倉捜査本部長
** [[西村京太郎トラベルミステリー|西村京太郎トラベルミステリー 特急おおぞら殺人事件]](1994年) - 高木刑事
** [[終着駅シリーズ]](1996年 - 2004年) - [[終着駅シリーズ#坂本|坂本刑事課長]]
** [[法医 歯科学の女]]2(1997年) - 日高政男
** [[おばはん刑事!流石姫子]]4 襲われた婚約者(2000年) - 遠山正
** [[変装婦警の事件簿]]3(2002年) - 青山登志男
* [[ポーラテレビ小説]]「からっ風と涙」(1979年、TBS) - 間庭善七
* [[太陽にほえろ!]] 第361話「殺人鬼」(1979年、NTV) - 長沼源三
* [[桃太郎侍#高橋英樹主演(日本テレビ)版|桃太郎侍]](1979年、NTV / 東映)
** 第145話「鯛より旨い鰯の人情」- 長谷川小兵衛
* [[鉄道公安官 (テレビドラマ)|鉄道公安官]] 第19話「大混戦・ニセ公安官現れる」(1979年、ANB) - 旭町署刑事
* [[あさひが丘の大統領]](1979年 - 1980年、NTV) - 横井兵衛
* [[熱中時代]] 教師編第2シリーズ 第28話「熱中先生と三千万円の宝くじ」(1981年、ユニオン映画 / NTV) - 高梨
* [[思えば遠くへ来たもんだ]](1981年、[[ドリマックス・テレビジョン|木下プロダクション]] / TBS) - 本間得治
* [[秘密のデカちゃん]](1981年、大映テレビ / TBS) - 旭日奈大造
* [[秋なのにバラ色]](1981年、[[松竹芸能]] / [[毎日放送|MBS]]) - 岡部達也
* [[火曜サスペンス劇場]](NTV)
** [[脊梁 (松本清張)#テレビドラマ|松本清張の脊梁]](1982年10月12日、松竹)
** 妻の生き甲斐(1986年2月25日)
** [[夜光の階段#1986年版|松本清張スペシャル・夜光の階段]](1986年4月1日、松竹) - 桜田事務官
** [[弁護士・高林鮎子|女弁護士・高林鮎子]] 4 信州飯田線・殺意の天竜峡(1988年8月30日、東映)
** [[けものみち (松本清張)#1991年版|松本清張作家活動40周年記念・けものみち]](1991年12月24日、総合プロデュース) - 秦野繁武
** 女弁護士・高林鮎子14 浜名湖汽水域(1994年3月1日、東映)
** [[浅見光彦ミステリー]]8 琵琶湖周航殺人歌(1990年7月3日、近代映画協会) - 横沢刑事
** [[地方記者・立花陽介]]7 但馬城崎通信局(1996年3月19日、[[オセロット (企業)|オセロット]]) - 高田俊介
** 地方記者・立花陽介19 箱根小田原通信局(2002年9月24日、オセロット) - 刑事・五代敏男
* [[だんなさまは18歳]](1982年、大映テレビ / TBS) - 大川修造
* [[はらぺこ同志]](1982年、TBS)
* [[婦警さんは魔女]](1983年、大映テレビ / TBS) - 辰巳勇造
* [[高校聖夫婦]](1983年、大映テレビ / TBS) - 上条隼雄
* [[不良少女と呼ばれて]](1983年、大映テレビ / TBS) - 丹波園長
* [[さらば女ともだち]] (1983年 ANB) - 真田
* [[ザ・サスペンス]] 処女が見た(1984年4月14日、大映テレビ / TBS) - 行徳竜三
* [[スクール☆ウォーズ]](1984年 - 1985年、大映テレビ / TBS) - 岩佐邦靖校長
* [[ドラマ人間模様]]「[[國語元年]]」(1985年、NHK) - 築館弥平
* [[乳姉妹 (テレビドラマ)|乳姉妹]](1985年、大映テレビ / TBS) - 若山牧師
* [[裸の大将放浪記|裸の大将]] 第16話「キヨシのおむすび縁むすび」(1985年、KTV / [[東阪企画]]) - 旅籠の主人
* [[花嫁衣裳は誰が着る]](1986年、大映テレビ / CX) - 相良源造
* [[このこ誰の子?]](1986年 - 1987年、大映テレビ / CX) -織田和夫
* [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ#1986年|夏樹静子サスペンス]]「二度とできない」(1986年、KTV / 東海映画社)
* [[江戸を斬る (里見浩太朗)#江戸を斬るVII|江戸を斬るVII]] 第4話「偽りの自首」(1987年、TBS / C.A.L) - 留造
* 今朝の秋(1987年、NHK)
* [[ザ・スクールコップ]](1988年、大映テレビ / CX)
* [[キツイ奴ら]] (1989年、TBS)
* [[名奉行 遠山の金さん]] 第2シリーズ(1989年、東映 / ANB) - 蒲生武太夫
* [[子連れ狼 (高橋英樹版)|子連れ狼 冥府魔道の刺客人 母恋し大五郎絶唱!]](1989年、ANB / 東映) - ナレーター
* [[HOTEL (テレビドラマ)|HOTEL]](1991年 - 1997年、TBS) - 中島五郎
* [[八百八町夢日記]] 第2シリーズ(1991年 - 1992年、NTV / ユニオン映画) - 五郎八
* [[戦国最後の勝利者!徳川家康]](1992年、東映 / ANB) - ナレーター
* [[怪談 KWAIDAN]] 「耳なし芳一」(1992年、CX) - 和尚
* [[夏の嵐!]](1992年) - 中野源吉
* [[腕におぼえあり]]2(1992年、NHK) - 井上菊之進
* [[怪談 KWAIDAN II]] 「ろくろ首」(1993年、CX) - 木樵
* [[金曜エンタテイメント]]
** [[収容所から来た遺書#テレビドラマ|収容所(ラーゲリ)から来た遺書]](1993年8月13日、フジテレビ)
* [[鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍-]](1993年、NTV) - 髭親父万蔵
* [[ご存知!旗本退屈男|旗本退屈男]](1994年、東映 / ANB) - 紀伊国屋文左衛門
* [[江戸の用心棒 (1994年のテレビドラマ)|江戸の用心棒II]](1995年 - 1996年、NTV / ユニオン映画) - 生駒屋幸兵衛
* [[月曜ドラマスペシャル]](TBS)
**[[十津川警部シリーズ(渡瀬恒彦)|十津川警部シリーズ(渡瀬恒彦)伊豆海岸殺人ルート]](1995年)安藤看守
** [[浅見光彦シリーズ (TBSのテレビドラマ)|浅見光彦シリーズ6 小樽殺人事件]](1996年)
** [[古谷一行の金田一耕助シリーズ#名探偵・金田一耕助シリーズ(1983年 - 2005年)|金田一耕助の傑作推理 女王蜂]]
** [[古谷一行の金田一耕助シリーズ#名探偵・金田一耕助シリーズ(1983年 - 2005年)|金田一耕助の傑作推理 獄門島]](1997年) - 了然和尚
* [[暴れん坊将軍のエピソード一覧#暴れん坊将軍(通称:IX)|暴れん坊将軍IX]] 第16話 - [[暴れん坊将軍のエピソード一覧#暴れん坊将軍 最終回スペシャル(暴れん坊将軍スペシャル2003)|最終回スペシャル]](1999年 - 2003年、ANB) - [[有馬氏倫|有馬彦右衛門]] ※病気で途中降板した[[高島忠夫]]の後任。
* [[家政婦は見た!]](1997年) - 木曽仲三
* [[新幹線'97恋物語|新幹線97恋物語]] (1997年、TBS) - 車掌長の父
* [[炎の奉行 大岡越前守]](1997年、[[テレビ東京|TX]]) - 小川千舟
* [[影武者徳川家康#テレビドラマ(1998年・テレビ朝日版)|影武者徳川家康]](1998年、ANB / 東映) - [[本多正信]]
* [[女と愛とミステリー]]修善寺温泉殺人事件(2002年、TX) - 川村茂雄
=== 配信ドラマ ===
* 1+1(2002年、Web配信ドラマ)
* [[Break Out! (配信ドラマ)|Break Out!]](2004年、Toshiba Web Street) - 霧島譲(写真・声)
=== 映画 ===
* [[ノンちゃん雲に乗る]](1955年、[[新東宝]])
* [[松川事件 (映画)|松川事件]](1961年、松川事件劇映画製作委員会)
* [[放浪記 (戯曲)#上演記録|放浪記]](1962年<!--9月27日-->、東宝) - 刑事
* [[秋津温泉]](1962年、[[松竹]]) - 島村
* [[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]](1963年<!--3月1日-->、東宝) - 山本刑事
* [[下町の太陽]](1963年<!--4月18日-->、松竹)
* [[男の紋章シリーズ]]
** [[男の紋章]](1963年<!--7月14日-->、[[日活]])
** 続・男の紋章(1963年<!--11月10日-->、日活)
* [[太陽は呼んでいる]](1963年<!--9月29日-->、東宝)
* [[鉄火場破り]] (1964年、日活)
* [[男嫌い (1964年の映画)|男嫌い]] (1964年、東宝)
*[[夕陽の丘]](1964年<!--4月29日-->、日活) - 串田
*[[われ一粒の麦なれど]](1964年<!--8月18日-->、東宝)
*[[甘い汗]](1964年<!--9月19日-->、東宝) - 梅子の弟・治郎
* [[拳銃野郎]](1965年<!--2月13日-->、日活) - 洋次
* [[血と砂 (1965年の映画)|血と砂]](1965年<!--9月18日-->、東宝) - 根津憲兵曹長
* [[泣かせるぜ]](1965年<!--10月1日-->、日活) - 兵頭四郎
* [[クレージーの怪盗ジバコ]](1967年、[[東宝]]) - ナレーター
*[[喜劇 駅前百年]](1967年、東宝) - 平井営業部長
* [[関東も広うござんす]] (1968年、日活)
* [[日本一の裏切り男]](1968年<!--11月2日-->、東宝) - 田熊
* [[おんな (森進一の曲)|夜の歌謡シリーズ おんな]](1969年<!--11月20日-->、東映) - 杉江正敏
*[[初めての旅]](1971年<!--1月9日-->、東宝) - 銭湯の男
* [[喜劇 女は男のふるさとヨ]](1971年<!--5月19日-->、松竹) - 星子の兄
* [[昭和ひとけた社長対ふたけた社員 月月火水木金金]](1971年<!--10月30日-->、東宝) - 高橋
* [[黄金バットがやってくる|紙芝居昭和史 黄金バットがやって来る]](1972年<!--5月13日-->、東宝) - 税務署員
*[[ポルノの帝王 失神トルコ風呂]](1972年<!--6月9日-->、東映) - 白木
* [[人間革命#映画|人間革命]](1973年<!--9月8日-->、東宝)
* [[日本沈没#映画|日本沈没]](1973年<!--12月29日-->、東宝) - D1公安係{{R|全史537}}
*[[グアム島珍道中]](1973年<!--12月29日-->、東宝) - 塩野
*[[神田川 (曲)|神田川]](1974年<!--4月6日-->、東宝) - 古本屋の親爺
* [[喜劇 だましの仁義]](1974年、東宝) - 赤沢部長
*[[三婆]](1974年、東宝) - 三上
*[[青葉繁れる]](1974年<!--9月21日-->、東宝) - 稔の父
*[[あいつと私]](1976年<!--4月24日-->、東宝) - 高野教授
*[[人間革命|続・人間革命]](1976年<!--6月19日-->、東宝)
*[[春琴抄 (1976年の映画)|春琴抄]](1976年<!--12月25日-->、東宝) - 善助
*[[ミスター・ミセス・ミス・ロンリー]](1980年<!--12月20日-->、ATG) - 花森咲夫
* [[駅 STATION]](1981年<!--11月7日-->、東宝) - 高田
* [[道頓堀川 (映画)|道頓堀川]](1982年、松竹)
* [[疑惑 (松本清張)#映画|疑惑]](1982年<!--9月18日-->、松竹) - 岩崎専務
* [[この子の七つのお祝いに]](1982年<!--10月9日公開-->、松竹・[[角川春樹事務所]]) - 古屋源七
* [[夏服のイヴ]](1984年、東宝)
* [[麻雀放浪記#映画(1984年版)映画(1985年版)麻雀放浪記]](1984年<!--10月10日-->、角川春樹事務所・[[東映]])
*[[テラ戦士ΨBOY]](1985年、東映) - 財界の男
*[[子象物語 地上に降りた天使]](1986年、東宝)
* 青春かけおち篇(1987年<!--2月7日-->、松竹)
* [[いとしのエリー (漫画)|いとしのエリー]](1987年<!--4月11日-->、東宝) - 北村満寿男
* [[快盗ルビイ]](1988年<!--11月12日-->、東宝)
* [[釣りバカ日誌]](1988年、松竹)
* [[豪姫 (映画)|豪姫]](1992年<!--4月11日-->、松竹) - 鳥居
* [[マルタイの女]](1997年<!--9月27日-->、東宝) - 波多野管理官
* [[極道の妻たち|極道の妻たち 決着]](1998年<!--1月17日-->、東映)
* [[ラブ・レター (小説)#1998年・日本|ラブ・レター]](1998年<!--5月23日-->、松竹)
* [[真夜中まで]](2001年<!--8月4日-->、[[東北新社]])
* 世界の終わりという名の雑貨店(2001年<!--11月17日-->、松竹)
* [[Break Out! (配信ドラマ)|Break Out!]](2005年<!--1月22日-->、[[カエルカフェ|KAERUCAFE]]) - 霧島譲(写真・声)※遺作
=== 舞台 ===
* [[アントニーとクレオパトラ]](1968年、[[劇団雲]])
* 『[[榎本武揚 (小説)#戯曲化|榎本武揚]]』(1967年、劇団雲) - 殺し
* きらめく星座(1985年・1987年、[[こまつ座]])
* 雨(1987年、こまつ座)
* 父の詫び状(1993年・1995年)
* 恋風〜昭和ブキウギ物語(1993年・1996年、[[東宝]])
* 真夏の夜の夢
* 黄金の国
* 憎いあんちくしょう(2002年) - 長兵衛(おろくの父親)
=== 吹き替え ===
====洋画・海外ドラマ ====
* [[西部二人組]](1972年 - 1973年、NHK、オープニングナレーション)
* [[ロックフォードの事件メモ]](1975年 - 1980年、テレビ朝日、[[ジェームズ・ガーナー]])
* 西部無法伝(ジェームズ・ガーナー)
* [[おかしなおかしな大泥棒]] テレビ朝日([[ウォーレン・オーツ]])
* [[ブリンクス (映画)|ブリンクス]]([[ピーター・フォーク]])※テレビ朝日版
* [[あきれたあきれた大作戦]]([[アラン・アーキン]])
* ふたりの天使(アラン・アーキン)
* ネオン輝く日々([[ギグ・ヤング]])
* [[ドライビング Miss デイジー]]([[モーガン・フリーマン]])
* [[シャーロック・ホームズの冒険]](ペインズ警部)
*[[偉大なるアンバーソン家の人々]] (ジョージ<ティム・ホールト>) ※NHK版
*[[タイムトンネル]]
**「秘密兵器A-13」(ビラキ<[[ネヘマイア・パーソフ|ネヘミア・パーソフ]]>)
*[[ルート66 (テレビドラマ)|ルート66]]
**「汚れた手」 ([[リー・マーヴィン|リー・マービン]])
*未亡人 (記者<[[アルベルト・リオネッロ]]>)
*[[天山回廊 ザ・シルクロード|天山回廊/ザ・シルクロード]] (アネッタの父)
*[[トワイライト・ゾーン (1959年)|ミステリーゾーン]] シーズン2 第1話「キング・ナイン号帰還せず」 (ジェームス・エイブリー)
==== 海外アニメ ====
* [[ラムヂーちゃん]](オオカミ〈Mildew〉)※テレビアニメ
* トイ・ストーリーシリーズ([[Mr.ポテトヘッド]])※初代
** [[トイ・ストーリー]]
** [[トイ・ストーリー2]]
=== テレビアニメ ===
* [[ジャングル大帝]] (1965年) - パンジャ
* [[まんが世界昔ばなし]](1976年)※[[宮城まり子]]と二人で全配役を演じた
* [[小松左京アニメ劇場]](1989年)
* [[ちっちゃな雪使いシュガー]] (2001年) - ナレーター
=== 劇場アニメ ===
* [[千夜一夜物語]](1969年)
* [[空飛ぶゆうれい船]](1969年) - 嵐山<ref>{{Mediaarts-db|C409635|空飛ぶゆうれい船}}</ref>
* [[もののけ姫]](1997年) - 牛飼い<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20110615001655/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20110701/index.html| title = もののけ姫| work = [[金曜ロードSHOW!]] |publisher=日本テレビ | accessdate = 2016-06-18}}</ref>
=== OVA ===
* [[地底人 (漫画)|いしいひさいちのナンダカンダ劇場1 これが噂の地底人 とにかく上が悪いんや!!]](1989年)
=== 人形劇 ===
* [[真田十勇士 (NHK人形劇)|真田十勇士]](1975年 - 1977年、[[日本放送協会|NHK]])- [[真田昌幸]]、[[真田十勇士#霧隠才蔵|霧隠才蔵]]、[[真田十勇士#筧十蔵|筧十蔵]]
* [[ひょっこりひょうたん島]](1991年 - 2003年、NHK) - ドン・ガバチョ〈2代目〉
=== CD ===
* 名古屋章+[[石立鉄男]] FEATURING DJ takawo「1+1」- [[カエルカフェ]]製作。2人のドラマでの声をサンプリングしたCD
* 寺山修司ラジオ・[[ドラマCD]]「鳥籠になった男」「大礼服」-「鳥籠になった男」([[CBCラジオ|CBC]]、1965年11月放送)で「探偵7」を演じている。
=== CM ===
* [[中外製薬]]・ローゼリー内服液(1979年)
* [[ハウス食品]]・カレーの日(1980年) - ナレーション
* [[アロエ製薬]]・間宮アロエ軟膏
* [[三菱自動車工業|三菱自動車]]・[[三菱・ミニカ|ミニカ]]([[1987年]])
* [[日本マクドナルド]](2000年) - Mr.ポテトヘッド
=== その他 ===
* [[朝の歳時記]]([[CBCラジオ|中部日本放送]])
* [[しあわせ見つけた]]([[TBSラジオ]])
* [[ディズニー・オン・アイス]] - Mr.ポテトヘッド
* [[東京ディズニーランドで終了したステージショーの一覧#トイ・ストーリー・ファン・パーティ|トイ・ストーリー・ファン・パーティ]]([[東京ディズニーランド]]) - Mr.ポテトヘッド
* [[オールナイトフジ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!]](フジテレビ)
* [[ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!]](フジテレビ)
* [[ピタゴラスイッチ]]([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]) - 百科おじさん〈初代〉
* [[晴れるヤ夢街道!浪花雪之丞一座]](1997年 - 2003年3月 [[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]) - 浪花雪之丞(座長)
* [[日露戦争]]と乃木将軍 - ナレーター
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<ref name="全史537">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=537|loc=「主要特撮作品配役リスト」}}</ref>
<ref name="profile1">{{Cite book|和書|year=2003|title=日本タレント名鑑2003|page=276|publisher=VIPタイムズ社|isbn=978-4990124212}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}}
== 関連人物 ==
* [[肥後克広]]([[ダチョウ倶楽部]])- 持ちネタに名古屋のものまね「な、な、な、なんだ、おい…」があり、本人とバラエティ番組で共演したこともあった。2003年に名古屋が逝去した後はものまねを封印している。
== 外部リンク ==
* {{jmdb name|0356930}}
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ドン・ジョヴァンニ
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『ドン・ジョヴァンニ』(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni(罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ), K.527)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1787年に作曲したオペラ・ブッファ(あるいはドラマ・ジョコーソ)である。
初演は、作曲を依頼したプラハのエステート劇場(スタヴォフスケー劇場)で同年10月29日にモーツァルト自身の指揮で行われた。また、ウィーンでの初演は1788年5月7日であった。
『フィガロの結婚』はウィーンではそれほど評判にならなかったが、プラハでは大ヒットし、作曲家が招かれることになった。モーツァルトは街行く人々が鼻歌にフィガロの一節を歌うのに接して大いに感激し、父親への手紙にその評判を書き送っている。その結果、翌シーズンのために新しい作品を依頼された結果できたのがこの作品である。
初演に先立ち、書き掛けの原稿を持ってプラハにやってきたモーツァルトは、友人のドゥシェク夫妻の別荘に滞在して最終仕上げを急いだが、前夜になっても序曲だけは未完成であった。彼は眠気を押さえるために妻コンスタンツェの話を聞いたり飲み物を作ってもらったりしながらほぼ徹夜で総譜を書き上げ、ようやく朝には写譜屋に草稿を渡せたのだという。
台本は『フィガロ』に引き続きロレンツォ・ダ・ポンテによった。ドン・ジョヴァンニはスペインの伝説の放蕩者ドン・ファンの物語の主人公である。もっとも古い作品はティルソ・デ・モリーナ(1630年)といわれるが、ダ・ポンテはオペラ化するにあたり、同時代のベルターティの先行作『ドン・ジョヴァンニまたは石の客』(1787年)やモリエールの『ドン・ジュアン』(1665年)を参考にしたものと思われる。特に、ドンナ・エルヴィーラはモリエールの創作と思われ、この作品からの影響は明らかである。
モーツァルトは、この作品を「ドラマ・ジョコーソ」と呼んだ。ドラマが正調の悲劇を表すのに対しジョコーソは喜劇的の意味であり、作曲者がこの作品に悲喜劇両方の要素を込めたと解釈する研究者もいる一方、単に喜劇の意味であるとする解釈もある。このような議論が生ずる理由の一つは、第2幕の最後に置かれたドン・ジョヴァンニの地獄落ちに至る場面の強烈な音楽や、執拗に彼を追いかけるエルヴィーラの行動と彼女に与えられた音楽に、通常のオペラ・ブッファらしからぬ悲劇性を感じ取ることができるからであろう。
ウィーンでの初演にあたり、当地の聴衆の好みや歌手の希望に応じて一部改訂して上演したが、今日ではプラハ版を元にした上で、ウィーン版で追加されたナンバーのいくつかを追加して上演することが多い。
日本初演は1948年12月14日、東京・帝国劇場における藤原歌劇団の公演、藤原義江、宮本良平、石津憲一、木下保ほかのソロ、マンフレート・グルリット指揮東宝交響楽団によって実現した。
演奏時間は第1幕90分、第2幕80分で、合計約2時間50分
序曲はわずか一晩で書かれたが(1~2日かかったという説もある)、円熟した曲に仕上がっており、演奏会で独立して演奏されることもしばしばである。騎士長の亡霊の場面の序と軽快なアレグロからなるソナタ形式。なお、この序曲ははっきりした終結部を持たず、そのままオペラの導入曲につながるので、モーツァルト自身が、演奏会用の華々しい終結部を別に作曲している。
幕が開く。時間は明け方。場面はセビーリャ市内、騎士長の邸宅の前で、従者レポレッロはこんな主人に仕える仕事はいやだとぼやいている。ドン・ジョヴァンニは騎士長の娘であるドンナ・アンナの部屋に忍び込んだが、彼女に騒がれ逃げようとした。そこへ騎士長が登場し、ジョヴァンニに斬りかかるが逆に殺される。アンナは悲嘆に暮れ、許嫁のオッターヴィオに復讐を果たしてほしいと求める。
騎士長宅から逃れたジョヴァンニがレポレッロを見つけたところで、昔棄てた女のドンナ・エルヴィーラに見つかってしまう。しかしジョヴァンニはその場をレポレッロに任せて去る。残されたレポレッロはエルヴィーラに「旦那に泣かされたのはあんただけじゃないよ。イタリアでは640人、ドイツでは231人、しかしここスペインでは何と1003人だ。」と有名な「恋人のカタログの歌」を歌って慰めたつもりになっている。あきれてエルヴィーラは去る。
場面が変わり、マゼットとツェルリーナの新郎新婦が村の若者とともに登場し、結婚の喜びを歌っているところにジョヴァンニが現れる。早速、新婦ツェルリーナに目をつけた彼は、彼女と二人きりになろうとして、皆を自宅に招待して喜ばせる。彼がツェルリーナを自らエスコートしようとするので、マゼットは拒むが、ツェルリーナ自身が大丈夫だと言い、ジョヴァンニが剣をちらつかせるので、マゼットは「わかりましたよ旦那」としぶしぶ引き、ツェルリーナに皮肉を言って去る。思わぬ展開に半べその彼女を早速ジョヴァンニが口説く「お手をどうぞ」のデュオ。ツェルリーナはあっけなく彼に手を取られて屋敷に向かおうとするが、そこに再び現れたエルヴィーラが、ジョヴァンニの本性を警告して彼女をジョヴァンニから逃す。
「今日はついてないな」とぼやくジョヴァンニの前に、騎士長の仇への復讐を誓っているオッターヴィオとアンナが登場する。しかしアンナは今朝忍び込んで父親を殺した者が目の前のジョヴァンニだとは気づいていない。ジョヴァンニは適当にごまかしてその場を去るが、彼の別れ際のひとことを聞いて、アンナはジョヴァンニが今朝の男だったと気づく。オッターヴィオはまだ半信半疑である。ここで許嫁のアンナを慰めるアリアを歌うが、これはウィーン初演のための追加ナンバーである。
場面は変わってジョヴァンニの屋敷。彼は招待客に酒や料理を振る舞い、「皆で元気に酒を飲め、おれはその間にカタログの名前を増やすのだ」という「シャンパンの歌」を豪快に歌う。
再びマゼットとツェルリーナが登場。マゼットは新婦ツェルリーナが軽薄で浮気者だと怒っている。しかし新婦は「ぶってよ私のマゼット」と下手に出て機嫌を取るので、単純なマゼットはすぐに機嫌を直す。
そこにエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオが、ジョヴァンニの罪を暴くため、仮面をつけてやってきて、祝宴に紛れ込む。みんなでダンスをしているとジョヴァンニはツェルリーナを別室に連れて行く。襲われて悲鳴をあげる彼女。それをきっかけに3人は仮面を脱ぎ捨て、ジョヴァンニを告発する。彼は、レポレッロを、ツェルリーナを襲った犯人に仕立ててごまかそうとするが、もはや誰もだまされない。ジョヴァンニは窮地に陥るが、大混乱の内に隙をみてレポレッロととも逃げ出し、第1の幕が降りる。
夕方。レポレッロが主人にぼやいている。「もうこんな仕事はいやだ、お暇をもらいたい」というのだが、最終的には金で慰留されてしまう。さて今夜のジョヴァンニはエルヴィーラの女中を狙っており、女中に近づくためにレポレッロと衣服を取り替える。ちょうどその時、エルヴィーラが家の窓辺に現れたので、ジョヴァンニはレポレッロをエルヴィーラの家の前に立たせて自分のふりをさせ、自分は隠れた所から、いかにも反省したような嘘をつく。エルヴィーラは、ジョヴァンニが自分への愛を取り戻してくれたものと信じきって、ジョヴァンニに扮したレポレッロに連れ出される。一方、レポレッロに扮したジョヴァンニは、エルヴィーラの部屋の窓の下で、女中のためにセレナードを歌う(「窓辺に出でよ」)。
そこにマゼットが村の若い衆とともに登場する。皆、棍棒や銃を持ち、これからジョヴァンニを殺すのだという。これを聞いたジョヴァンニは、レポレッロの振りをして皆をあちこちに分散させ、自分とマゼットだけになると、剣の峰でマゼットを打ち据えて去る。
痛がるマゼットのもとにツェルリーナがやってきて、「そんな痛みはこの私が治してあげるわ」といって慰め、マゼットの手をとって自分の胸に当てる。すっかりその気になって痛みも忘れた新郎と、いそいそとその場を去る。
一方、エルヴィーラと思わぬデートをする羽目になったレポレッロは、何とかごまかして彼女から離れようとするものの、運悪くアンナとオッターヴィオに出くわしてしまう。逃げようとすると、マゼットとツェルリーナにも鉢合わせしまう。彼がジョヴァンニだと思っている4人は彼を殺そうとするが、エルヴィーラが現れてジョヴァンニのために命乞いをする。4人は、ジョヴァンニを恨んでいたはずのエルヴィーラが彼の命乞いをすることに驚くが、ジョヴァンニ(実はレポレッロ)のことを許そうとはしない。命の危険を感じたレポレッロはついに正体を白状し、一同は呆れる。レポレッロは平謝りしつつ隙をみて逃げ出す。
オッターヴィオは恋人のアンナを慰めるアリアを歌うが、ウィーン初演版ではこれはカットされた(代わりが第1のアリア)。続いてウィーン版の追加ナンバーで、ツェルリーナがレポレッロを捕らえてひどい目に合わせる二重唱と、エルヴィーラのアリア(ジョヴァンニの裏切りへの恨みと、彼を忘れられない自分の本心との矛盾に心を乱す内容)があるが、前者は通常省略される。
真夜中の2時、墓場でレポレッロと落ち合ったジョヴァンニに対し、騎士長の石像が突如口を利く。恐れおののくレポレッロと対照的に、ジョヴァンニは戯れに石像を晩餐に招待すると言い出し、石像はそれを承諾する。
オッターヴィオはアンナに結婚を迫るが、アンナは父親が亡くなったすぐ後なので今は適当な時期ではないという。オッターヴィオは非礼を詫びるが、これはアンナにオッターヴィオの真実の愛と誠実さを確信させアンナのアリアへとつながる。
ジョヴァンニは早速屋敷で食事の支度を始める。楽士が流行の音楽を演奏している。ビセンテ・マルティーン・イ・ソレルの『椿事("Una cosa rara")』やジュゼッペ・サルティの『2人が争えば3人目が得をする(鳶に油揚・漁夫の利、"Fra i due litiganti il terzo gode")』といった他の作曲家のオペラの一節に続いて、モーツァルト自身の『フィガロの結婚』中のアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」が演奏されると、レポレッロが「これは有名なやつだ」とコメントして観客を笑わせる。前年ヒットしたこの作品に託した、作曲者からプラハの聴衆へのサービスである。
晩餐が始まり、ジョヴァンニは旺盛な食欲を示してレポレッロに呆れられる(この部分はイ・ソレルの上記の曲の一部からの引用)。つまみ食いしたレポレッロをジョヴァンニがからかっているところにエルヴィーラが登場し、生き方を変えるべきだと忠告する。ジョヴァンニがまともに相手をしないので、エルヴィラは諦めて去ろうとするが、玄関で突然悲鳴を上げて別の出口から逃げ去る。何事かと見に行ったレポレッロもやはり悲鳴を上げて戻ってくる。約束どおりに騎士長の石像がやってきたのである。石像はジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。ジョヴァンニは恐怖におののきながらも頑なにこれを拒否する。押し問答の後、「もう時間切れだ」といって石像が姿を消すと地獄の戸が開き、ジョヴァンニは地獄へ引きずり込まれる。
そこへエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオにマゼットとツェルリーナが登場する。レポレッロの説明を聞き、一同は彼が地獄に落ちたことを知る。以下プラハ版では、アンナは亡き父親のためにもう1年は喪に服したいといい、オッターヴィオも同意する。エルヴィーラは愛するジョヴァンニのために修道院で余生を送るという。マゼットとツェルリーナは家にもどってようやく落ち着いて新婚生活を始めようとする。レポレッロはもっといい主人を見つけようという(ウィーン版ではこれらの部分がカットされている)。一同、悪漢のなれの果てはこのようになると歌い、幕が下りる。
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"text": "場面は変わってジョヴァンニの屋敷。彼は招待客に酒や料理を振る舞い、「皆で元気に酒を飲め、おれはその間にカタログの名前を増やすのだ」という「シャンパンの歌」を豪快に歌う。",
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"text": "再びマゼットとツェルリーナが登場。マゼットは新婦ツェルリーナが軽薄で浮気者だと怒っている。しかし新婦は「ぶってよ私のマゼット」と下手に出て機嫌を取るので、単純なマゼットはすぐに機嫌を直す。",
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"text": "そこにエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオが、ジョヴァンニの罪を暴くため、仮面をつけてやってきて、祝宴に紛れ込む。みんなでダンスをしているとジョヴァンニはツェルリーナを別室に連れて行く。襲われて悲鳴をあげる彼女。それをきっかけに3人は仮面を脱ぎ捨て、ジョヴァンニを告発する。彼は、レポレッロを、ツェルリーナを襲った犯人に仕立ててごまかそうとするが、もはや誰もだまされない。ジョヴァンニは窮地に陥るが、大混乱の内に隙をみてレポレッロととも逃げ出し、第1の幕が降りる。",
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"text": "夕方。レポレッロが主人にぼやいている。「もうこんな仕事はいやだ、お暇をもらいたい」というのだが、最終的には金で慰留されてしまう。さて今夜のジョヴァンニはエルヴィーラの女中を狙っており、女中に近づくためにレポレッロと衣服を取り替える。ちょうどその時、エルヴィーラが家の窓辺に現れたので、ジョヴァンニはレポレッロをエルヴィーラの家の前に立たせて自分のふりをさせ、自分は隠れた所から、いかにも反省したような嘘をつく。エルヴィーラは、ジョヴァンニが自分への愛を取り戻してくれたものと信じきって、ジョヴァンニに扮したレポレッロに連れ出される。一方、レポレッロに扮したジョヴァンニは、エルヴィーラの部屋の窓の下で、女中のためにセレナードを歌う(「窓辺に出でよ」)。",
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"text": "そこにマゼットが村の若い衆とともに登場する。皆、棍棒や銃を持ち、これからジョヴァンニを殺すのだという。これを聞いたジョヴァンニは、レポレッロの振りをして皆をあちこちに分散させ、自分とマゼットだけになると、剣の峰でマゼットを打ち据えて去る。",
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"text": "痛がるマゼットのもとにツェルリーナがやってきて、「そんな痛みはこの私が治してあげるわ」といって慰め、マゼットの手をとって自分の胸に当てる。すっかりその気になって痛みも忘れた新郎と、いそいそとその場を去る。",
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"text": "一方、エルヴィーラと思わぬデートをする羽目になったレポレッロは、何とかごまかして彼女から離れようとするものの、運悪くアンナとオッターヴィオに出くわしてしまう。逃げようとすると、マゼットとツェルリーナにも鉢合わせしまう。彼がジョヴァンニだと思っている4人は彼を殺そうとするが、エルヴィーラが現れてジョヴァンニのために命乞いをする。4人は、ジョヴァンニを恨んでいたはずのエルヴィーラが彼の命乞いをすることに驚くが、ジョヴァンニ(実はレポレッロ)のことを許そうとはしない。命の危険を感じたレポレッロはついに正体を白状し、一同は呆れる。レポレッロは平謝りしつつ隙をみて逃げ出す。",
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"text": "オッターヴィオは恋人のアンナを慰めるアリアを歌うが、ウィーン初演版ではこれはカットされた(代わりが第1のアリア)。続いてウィーン版の追加ナンバーで、ツェルリーナがレポレッロを捕らえてひどい目に合わせる二重唱と、エルヴィーラのアリア(ジョヴァンニの裏切りへの恨みと、彼を忘れられない自分の本心との矛盾に心を乱す内容)があるが、前者は通常省略される。",
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"text": "真夜中の2時、墓場でレポレッロと落ち合ったジョヴァンニに対し、騎士長の石像が突如口を利く。恐れおののくレポレッロと対照的に、ジョヴァンニは戯れに石像を晩餐に招待すると言い出し、石像はそれを承諾する。",
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"text": "オッターヴィオはアンナに結婚を迫るが、アンナは父親が亡くなったすぐ後なので今は適当な時期ではないという。オッターヴィオは非礼を詫びるが、これはアンナにオッターヴィオの真実の愛と誠実さを確信させアンナのアリアへとつながる。",
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"text": "ジョヴァンニは早速屋敷で食事の支度を始める。楽士が流行の音楽を演奏している。ビセンテ・マルティーン・イ・ソレルの『椿事(\"Una cosa rara\")』やジュゼッペ・サルティの『2人が争えば3人目が得をする(鳶に油揚・漁夫の利、\"Fra i due litiganti il terzo gode\")』といった他の作曲家のオペラの一節に続いて、モーツァルト自身の『フィガロの結婚』中のアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」が演奏されると、レポレッロが「これは有名なやつだ」とコメントして観客を笑わせる。前年ヒットしたこの作品に託した、作曲者からプラハの聴衆へのサービスである。",
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"text": "晩餐が始まり、ジョヴァンニは旺盛な食欲を示してレポレッロに呆れられる(この部分はイ・ソレルの上記の曲の一部からの引用)。つまみ食いしたレポレッロをジョヴァンニがからかっているところにエルヴィーラが登場し、生き方を変えるべきだと忠告する。ジョヴァンニがまともに相手をしないので、エルヴィラは諦めて去ろうとするが、玄関で突然悲鳴を上げて別の出口から逃げ去る。何事かと見に行ったレポレッロもやはり悲鳴を上げて戻ってくる。約束どおりに騎士長の石像がやってきたのである。石像はジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。ジョヴァンニは恐怖におののきながらも頑なにこれを拒否する。押し問答の後、「もう時間切れだ」といって石像が姿を消すと地獄の戸が開き、ジョヴァンニは地獄へ引きずり込まれる。",
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"text": "そこへエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオにマゼットとツェルリーナが登場する。レポレッロの説明を聞き、一同は彼が地獄に落ちたことを知る。以下プラハ版では、アンナは亡き父親のためにもう1年は喪に服したいといい、オッターヴィオも同意する。エルヴィーラは愛するジョヴァンニのために修道院で余生を送るという。マゼットとツェルリーナは家にもどってようやく落ち着いて新婚生活を始めようとする。レポレッロはもっといい主人を見つけようという(ウィーン版ではこれらの部分がカットされている)。一同、悪漢のなれの果てはこのようになると歌い、幕が下りる。",
"title": "あらすじ"
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『ドン・ジョヴァンニ』は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1787年に作曲したオペラ・ブッファ(あるいはドラマ・ジョコーソ)である。
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{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:16 (UTC)}}
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|topic=試聴
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|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8 ドン・ジョヴァンニ(全曲)]<br />[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]・[[ウィーン国立歌劇場]]合唱団、当該指揮者の公式YouTubeチャンネル。<br />出演:{{仮リンク|サミュエル・レイミー|en|Samuel Ramey}}(ジョヴァンニ) / {{仮リンク|フェルッチョ・フルラネット|en|Ferruccio Furlanetto}}(レポレロ) / [[アンナ・トモワ=シントウ]](ドンナ・アンナ) / {{仮リンク|パータ・ブルチュラーゼ|en|Paata Burchuladze}}(騎士長) / [[キャスリーン・バトル]](ツェルリーナ)他
|video2=主要曲・主要場面のインデックス<br />
[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=1m4s 序曲]<br />[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=29m13s カタログの歌]・[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=43m26s 「お手をどうぞ」]<br />[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=58m15s 「もうお分かりですね」]・[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=1h8m51s シャンパンの歌]<br />[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=1h11m52s 「ぶってよマゼット」]・[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=1h29m23s メヌエット]<br />[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=1h48m36s 「窓辺に出でよ」]・[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=1h57m5s 薬屋の歌]<br />[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=2h26m42s 「その笑いも今夜限り」]・[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=2h28m57s 「騎士長様の石像様」]<br />[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=2h46m12s 「この曲はあまりにも有名だ」]<br />[https://www.youtube.com/watch?v=jFPqTCR0_F8&t=2h51m6s 「ドン・ジョヴァンニ、晩餐に招かれたので参った」]}}
{{Portal box|クラシック音楽|舞台芸術}}
『'''ドン・ジョヴァンニ'''』(''Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni''(罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ), K.527)は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]が[[1787年]]に作曲した[[オペラ・ブッファ]](あるいは[[ドラマ・ジョコーソ]])である。
==概要==
[[File:Bertramka Mozart Museum.JPG|thumb|right|300px|邸宅[[ベルトラムカ]]。ここで『ドン・ジョヴァンニ』を書き上げた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.czechtourism.com/jp/c/prague-bertramka/ |title=プラハの邸宅ベルトラムカ |work=Czech Republic Land of Stories |publisher=CzechTourism |accessdate=2017-03-08}}</ref>]]
初演は、作曲を依頼した[[プラハ]]のエステート劇場(スタヴォフスケー劇場)で同年10月29日にモーツァルト自身の指揮で行われた。また、[[ウィーン]]での初演は[[1788年]][[5月7日]]であった。
『[[フィガロの結婚]]』はウィーンではそれほど評判にならなかったが、プラハでは大ヒットし、作曲家が招かれることになった。モーツァルトは街行く人々が鼻歌にフィガロの一節を歌うのに接して大いに感激し、父親への手紙にその評判を書き送っている。その結果、翌シーズンのために新しい作品を依頼された結果できたのがこの作品である。
初演に先立ち、書き掛けの原稿を持ってプラハにやってきたモーツァルトは、友人の[[フランティシェク・クサヴェル・デュシェック|ドゥシェク]]夫妻の別荘に滞在して最終仕上げを急いだが、前夜になっても序曲だけは未完成であった。彼は眠気を押さえるために妻[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ]]の話を聞いたり飲み物を作ってもらったりしながらほぼ徹夜で総譜を書き上げ、ようやく朝には写譜屋に草稿を渡せたのだという。
台本は『フィガロ』に引き続き[[ロレンツォ・ダ・ポンテ]]によった。ドン・ジョヴァンニはスペインの伝説の放蕩者[[ドン・ファン]]の物語の主人公である。もっとも古い作品は[[ティルソ・デ・モリーナ]]([[1630年]])といわれるが、ダ・ポンテはオペラ化するにあたり、同時代のベルターティの先行作『ドン・ジョヴァンニまたは石の客』([[1787年]])や[[モリエール]]の『[[ドン・ジュアン (戯曲)|ドン・ジュアン]]』([[1665年]])を参考にしたものと思われる。特に、ドンナ・エルヴィーラはモリエールの創作と思われ、この作品からの影響は明らかである。
モーツァルトは、この作品を「ドラマ・ジョコーソ」と呼んだ。ドラマが正調の悲劇を表すのに対しジョコーソは喜劇的の意味であり、作曲者がこの作品に悲喜劇両方の要素を込めたと解釈する研究者もいる一方、単に喜劇の意味であるとする解釈もある。このような議論が生ずる理由の一つは、第2幕の最後に置かれたドン・ジョヴァンニの地獄落ちに至る場面の強烈な音楽や、執拗に彼を追いかけるエルヴィーラの行動と彼女に与えられた音楽に、通常のオペラ・ブッファらしからぬ悲劇性を感じ取ることができるからであろう。
ウィーンでの初演にあたり、当地の聴衆の好みや歌手の希望に応じて一部改訂して上演したが、今日ではプラハ版を元にした上で、ウィーン版で追加されたナンバーのいくつかを追加して上演することが多い。
日本初演は[[1948年]][[12月14日]]、東京・[[帝国劇場]]における[[藤原歌劇団]]の公演、[[藤原義江]]、[[宮本良平]]、[[石津憲一]]、[[木下保]]ほかのソロ、[[マンフレート・グルリット]]指揮[[東宝交響楽団]]によって実現した<ref>[http://opera.tosei-showa-music.ac.jp/search/Record/PROD-01202 公演情報] - [[昭和音楽大学]]オペラ研究所 オペラ情報センター</ref>。
演奏時間は第1幕90分、第2幕80分で、合計約2時間50分
==登場人物==
; [[ドン・ファン|ドン・ジョヴァンニ]] Don Giovanni([[バリトン]])
: 女たらしの貴族。従者のレポレッロの記録によると、各国でおよそ2000人、うちスペインですでに1003人の女性と関係を持ったという。老若、身分、容姿を問わぬ、自称「愛の運び手」。剣の腕もたち、騎士団長と決闘して勝つほど。
; レポレッロ Leporello([[バス (声域)|バス]])
: ジョヴァンニの従者。ドン・ジョヴァンニにはついていけないと思っているが、金や脅しでずるずるついていってしまっている。ドン・ジョヴァンニから見ても美人の妻を持つ妻帯者だが、ドン・ジョヴァンニの「おこぼれ」にあずかり楽しむこともあるようだ。ドン・ジョヴァンニとそっくりという設定(2人が入れ替わるシーンがあるため)。
; ドンナ・アンナ Donna Anna([[ソプラノ]])
: 騎士長の娘でオッターヴィオの許嫁。ドン・ジョヴァンニに夜這いをかけられ、抵抗したところに駆けつけた父親を殺される。
; 騎士団管区長 Il Commendatore(バス)
: アンナの父。娘を救おうとしてジョヴァンニに殺されるが、石像として彼に悔い改めるよう迫る。
; ドン・オッターヴィオ Don Ottavio([[テノール]])
: アンナの許婚。復讐は忘れて結婚するようドンナ・アンナを説得しようとするが、果たせない。
; ドンナ・エルヴィーラ Donna Elvira(ソプラノ)
: かつてジョヴァンニに誘惑され、婚約するもその後捨てられた[[ブルゴス]]の女性。始終ジョヴァンニを追い回し、彼を改心させようと試みる。元は身分ある女性だったようで、ドンナ・アンナたちも圧倒されるほど気品に溢れている。ドン・ジョヴァンニが食指を動かすほど美しい召使を連れている。
; ツェルリーナ Zerlina(イタリア語の発音ではヅェルリーナ)(ソプラノ)
: 村娘でマゼットの新婦。田舎娘に似合わずコケティッシュでしたたかな娘。結婚式の最中にドン・ジョヴァンニに口説かれ、その気になる。
; マゼット Masetto(バス)
: 農夫。ツェルリーナの新郎。嫉妬深く、ツェルリーナの浮気な行動にやきもきするが、結局のところ、尻に敷かれている。村の若者のリーダー的存在。
==楽器編成==
*[[フルート]]2、[[オーボエ]]2、[[クラリネット]]2、[[ファゴット]]2、[[ホルン]]2、[[トランペット]]2、[[トロンボーン]]3、[[ティンパニ]]、[[マンドリン]]、[[弦楽合奏]]
*[[レチタティーヴォ]]で[[チェンバロ]]と[[チェロ]]
*第1幕フィナーレで舞台上に
**オーケストラ1:オーボエ2、ホルン2、チェロを欠いた弦楽
**オーケストラ2:[[ヴァイオリン]](複数)、[[コントラバス]]
**オーケストラ3:ヴァイオリン(複数)、コントラバス
*第2幕フィナーレで舞台上にオーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、チェロ
==あらすじ==
[[File:Moz D G ouv.jpg|thumb|right|300px|序曲の冒頭部分([[総譜]])]]
序曲はわずか一晩で書かれたが(1~2日かかったという説もある)、円熟した曲に仕上がっており、演奏会で独立して演奏されることもしばしばである。騎士長の亡霊の場面の序と軽快なアレグロからなる[[ソナタ形式]]。なお、この序曲ははっきりした終結部を持たず、そのままオペラの導入曲につながるので、モーツァルト自身が、演奏会用の華々しい終結部を別に作曲している。
===第1幕===
幕が開く。時間は明け方。場面は[[セビーリャ]]市内、騎士長の邸宅の前で、従者レポレッロはこんな主人に仕える仕事はいやだとぼやいている。ドン・ジョヴァンニは騎士長の娘であるドンナ・アンナの部屋に忍び込んだが、彼女に騒がれ逃げようとした。そこへ騎士長が登場し、ジョヴァンニに斬りかかるが逆に殺される。アンナは悲嘆に暮れ、許嫁のオッターヴィオに復讐を果たしてほしいと求める。
騎士長宅から逃れたジョヴァンニがレポレッロを見つけたところで、昔棄てた女のドンナ・エルヴィーラに見つかってしまう。しかしジョヴァンニはその場をレポレッロに任せて去る。残されたレポレッロはエルヴィーラに「旦那に泣かされたのはあんただけじゃないよ。イタリアでは640人、ドイツでは231人、しかしここスペインでは何と1003人だ。」と有名な「恋人のカタログの歌」を歌って慰めたつもりになっている。あきれてエルヴィーラは去る。
場面が変わり、マゼットとツェルリーナの新郎新婦が村の若者とともに登場し、結婚の喜びを歌っているところにジョヴァンニが現れる。早速、新婦ツェルリーナに目をつけた彼は、彼女と二人きりになろうとして、皆を自宅に招待して喜ばせる。彼がツェルリーナを自らエスコートしようとするので、マゼットは拒むが、ツェルリーナ自身が大丈夫だと言い、ジョヴァンニが剣をちらつかせるので、マゼットは「わかりましたよ旦那」としぶしぶ引き、ツェルリーナに皮肉を言って去る。思わぬ展開に半べその彼女を早速ジョヴァンニが口説く「お手をどうぞ」のデュオ。ツェルリーナはあっけなく彼に手を取られて屋敷に向かおうとするが、そこに再び現れたエルヴィーラが、ジョヴァンニの本性を警告して彼女をジョヴァンニから逃す。
「今日はついてないな」とぼやくジョヴァンニの前に、騎士長の仇への復讐を誓っているオッターヴィオとアンナが登場する。しかしアンナは今朝忍び込んで父親を殺した者が目の前のジョヴァンニだとは気づいていない。ジョヴァンニは適当にごまかしてその場を去るが、彼の別れ際のひとことを聞いて、アンナはジョヴァンニが今朝の男だったと気づく。オッターヴィオはまだ半信半疑である。ここで許嫁のアンナを慰めるアリアを歌うが、これはウィーン初演のための追加ナンバーである。
場面は変わってジョヴァンニの屋敷。彼は招待客に酒や料理を振る舞い、「皆で元気に酒を飲め、おれはその間にカタログの名前を増やすのだ」という「シャンパンの歌」を豪快に歌う。
{{試聴
|header = 第1幕からツェルリーナのアリア
|type = music
|filename = Mozart-Don Giovanni-Adelina Patti-Batti, batti o bel Masetto-(1905).ogg
|title = 「ぶって、叩いて、マゼット」
|description = [[アデリーナ・パッティ]](S)…1905年録音
}}
再びマゼットとツェルリーナが登場。マゼットは新婦ツェルリーナが軽薄で浮気者だと怒っている。しかし新婦は「ぶってよ私のマゼット」と下手に出て機嫌を取るので、単純なマゼットはすぐに機嫌を直す。
そこにエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオが、ジョヴァンニの罪を暴くため、仮面をつけてやってきて、祝宴に紛れ込む。みんなでダンスをしているとジョヴァンニはツェルリーナを別室に連れて行く。襲われて悲鳴をあげる彼女。それをきっかけに3人は仮面を脱ぎ捨て、ジョヴァンニを告発する。彼は、レポレッロを、ツェルリーナを襲った犯人に仕立ててごまかそうとするが、もはや誰もだまされない。ジョヴァンニは窮地に陥るが、大混乱の内に隙をみてレポレッロととも逃げ出し、第1の幕が降りる。
===第2幕===
夕方。レポレッロが主人にぼやいている。「もうこんな仕事はいやだ、お暇をもらいたい」というのだが、最終的には金で慰留されてしまう。さて今夜のジョヴァンニはエルヴィーラの女中を狙っており、女中に近づくためにレポレッロと衣服を取り替える。ちょうどその時、エルヴィーラが家の窓辺に現れたので、ジョヴァンニはレポレッロをエルヴィーラの家の前に立たせて自分のふりをさせ、自分は隠れた所から、いかにも反省したような嘘をつく。エルヴィーラは、ジョヴァンニが自分への愛を取り戻してくれたものと信じきって、ジョヴァンニに扮したレポレッロに連れ出される。一方、レポレッロに扮したジョヴァンニは、エルヴィーラの部屋の窓の下で、女中のためにセレナードを歌う(「窓辺に出でよ」)。
そこにマゼットが村の若い衆とともに登場する。皆、棍棒や銃を持ち、これからジョヴァンニを殺すのだという。これを聞いたジョヴァンニは、レポレッロの振りをして皆をあちこちに分散させ、自分とマゼットだけになると、剣の峰でマゼットを打ち据えて去る。
痛がるマゼットのもとにツェルリーナがやってきて、「そんな痛みはこの私が治してあげるわ」といって慰め、マゼットの手をとって自分の胸に当てる。すっかりその気になって痛みも忘れた新郎と、いそいそとその場を去る。
一方、エルヴィーラと思わぬデートをする羽目になったレポレッロは、何とかごまかして彼女から離れようとするものの、運悪くアンナとオッターヴィオに出くわしてしまう。逃げようとすると、マゼットとツェルリーナにも鉢合わせしまう。彼がジョヴァンニだと思っている4人は彼を殺そうとするが、エルヴィーラが現れてジョヴァンニのために命乞いをする。4人は、ジョヴァンニを恨んでいたはずのエルヴィーラが彼の命乞いをすることに驚くが、ジョヴァンニ(実はレポレッロ)のことを許そうとはしない。命の危険を感じたレポレッロはついに正体を白状し、一同は呆れる。レポレッロは平謝りしつつ隙をみて逃げ出す。
オッターヴィオは恋人のアンナを慰めるアリアを歌うが、ウィーン初演版ではこれはカットされた(代わりが第1のアリア)。続いてウィーン版の追加ナンバーで、ツェルリーナがレポレッロを捕らえてひどい目に合わせる二重唱と、エルヴィーラのアリア(ジョヴァンニの裏切りへの恨みと、彼を忘れられない自分の本心との矛盾に心を乱す内容)があるが、前者は通常省略される。
真夜中の2時、墓場でレポレッロと落ち合ったジョヴァンニに対し、騎士長の石像が突如口を利く。恐れおののくレポレッロと対照的に、ジョヴァンニは戯れに石像を晩餐に招待すると言い出し、石像はそれを承諾する。
オッターヴィオはアンナに結婚を迫るが、アンナは父親が亡くなったすぐ後なので今は適当な時期ではないという。オッターヴィオは非礼を詫びるが、これはアンナにオッターヴィオの真実の愛と誠実さを確信させアンナのアリアへとつながる。
{{External media|topic=晩餐の場面で引用されている楽曲
|audio1= [[ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル|ソレル]]作曲"Una Cosa Rara"より'''[https://www.youtube.com/watch?v=oCK9SSgouYw "O Quanto Un Si Bel Giubilo"]''' - {{仮リンク|ラ・カペラ・レイアル・デ・カタルーニャ|en|Le Concert des Nations}}(合唱)と[[ジョルディ・サヴァール]]指揮{{仮リンク|ル・コンセール・デ・ナシオン|en|Le Concert des Nations}}の演奏、[[The Orchard|The Orchard Enterprises]]提供のYouTubeアートトラック。
|audio2= [[ジュゼッペ・サルティ|サルティ]]作曲"Fra i due litiganti il terzo gode"より'''[https://www.youtube.com/watch?v=lWx5WUmnJ-8 "Come un agnello"]''' - ロベルト・スカルトリーティ(Roberto Scaltriti、バリトン)と[[クリストフ・ルセ]]指揮[[レ・タラン・リリク]]の演奏、[[ユニバーサル ミュージック グループ|Universal Music Group]]提供のYouTubeアートトラック。
|audio3= [[モーツァルト]]作曲『[[フィガロの結婚]]』より'''[https://www.youtube.com/watch?v=8r4RIcUQuKE 『もう飛ぶまいぞこの蝶々』]''' - [[ヘルマン・プライ]](バリトン)と[[カール・ベーム]]指揮[[ベルリン・ドイツ・オペラ|ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団]]、Universal Music Group提供のYouTubeアートトラック。
}}
ジョヴァンニは早速屋敷で食事の支度を始める。楽士が流行の音楽を演奏している。[[ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル]]の『椿事("[[:w:Una cosa rara|Una cosa rara]]")』や[[ジュゼッペ・サルティ]]の『2人が争えば3人目が得をする(鳶に油揚・漁夫の利、"[[:w:Fra i due litiganti il terzo gode|Fra i due litiganti il terzo gode]]")』といった他の作曲家のオペラの一節に続いて、モーツァルト自身の『[[フィガロの結婚]]』中のアリア「[[もう飛ぶまいぞこの蝶々]]」が演奏されると、レポレッロが「これは有名なやつだ」とコメントして観客を笑わせる。前年ヒットしたこの作品に託した、作曲者からプラハの聴衆へのサービスである。
晩餐が始まり、ジョヴァンニは旺盛な食欲を示してレポレッロに呆れられる(この部分はイ・ソレルの上記の曲の一部からの引用)。つまみ食いしたレポレッロをジョヴァンニがからかっているところにエルヴィーラが登場し、生き方を変えるべきだと忠告する。ジョヴァンニがまともに相手をしないので、エルヴィラは諦めて去ろうとするが、玄関で突然悲鳴を上げて別の出口から逃げ去る。何事かと見に行ったレポレッロもやはり悲鳴を上げて戻ってくる。約束どおりに騎士長の石像がやってきたのである。石像はジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。ジョヴァンニは恐怖におののきながらも頑なにこれを拒否する。押し問答の後、「もう時間切れだ」といって石像が姿を消すと地獄の戸が開き、ジョヴァンニは地獄へ引きずり込まれる。
そこへエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオにマゼットとツェルリーナが登場する。レポレッロの説明を聞き、一同は彼が地獄に落ちたことを知る。以下プラハ版では、アンナは亡き父親のためにもう1年は喪に服したいといい、オッターヴィオも同意する。エルヴィーラは愛するジョヴァンニのために修道院で余生を送るという。マゼットとツェルリーナは家にもどってようやく落ち着いて新婚生活を始めようとする。レポレッロはもっといい主人を見つけようという(ウィーン版ではこれらの部分がカットされている)。一同、悪漢のなれの果てはこのようになると歌い、幕が下りる。
== ドン・ジョヴァンニの楽曲による作品 ==
*[[ドン・ジョヴァンニの回想]] (S.418) - [[フランツ・リスト]]が[[1841年]]に発表した[[ピアノ]]独奏用の[[パラフレーズ]]。技巧的な難度が高いことで知られる。自編による2台連弾用に編曲したものも存在。連弾も難曲中の難曲として知られ、独奏よりもさらに華麗な曲になっている。
*[[ラ・チ・ダレム変奏曲]] - [[フレデリック・ショパン]]が[[1827年]]に作曲したピアノと管弦楽のための変奏曲。[[1829年]]のショパンの[[ウィーン]]デビューで初演されて好評を博し、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]との親交のきっかけとなった。
*「ラ・チ・ダレム」の主題による12の変奏曲 ハ長調 WoO 28 - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]が1795年頃作曲したオーボエ2本・イングリッシュホルンのための変奏曲。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*[[大田黒元雄]]『歌劇大事典』[[音楽之友社]]、1962年。ISBN 978-4276001558。
== 関連項目 ==
*[[コジ・ファン・トゥッテ]]
*『[[魔笛]]』
*[[エツィオ・ピンツァ]] - [[イタリア]]出身の[[バス (声域)|バス]]歌手。第一次、第二次両大戦間においてドン・ジョヴァンニ役で人気を博した。
*[[チェーザレ・シエピ]] - イタリア出身のバス歌手。1950年代・60年代における理想的なドン・ジョヴァンニ歌手とされた。
*[[福山庸治]] - 1991年に「モーツァルト没後200年御免連載」と題し、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を舞台を日本、時代を[[江戸時代]]に移し、登場人物の性別を変更する等して[[サイエンス・フィクション|SF]]風にコミカライズした。
*[[セーレン・キェルケゴール]] - 「ドン・ジョヴァンニ」に注目し、著書『[[あれか、これか]]』において多くを割いて言及している。
*『[[シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム]]』 - 中盤、ホームズが「爆弾がある」と推理してパリのオペラ座に突入した時、そこで上演されていた。フィナーレの地獄堕ちの場面と、オペラ座ではない別の場所で爆破事件が起きる様子が、交互に映し出されている。
== 外部リンク ==
*{{IMSLP2|work=Don_Giovanni,_K.527_%28Mozart,_Wolfgang_Amadeus%29 |cname= Don Giovanni, K.527}}
*[http://www.classicistranieri.com/wolfgang-amadeus-mozart-don-giovanni-high-definition-audio-quality-bezdin-ensemble-dir-adina-spire.html Adina Spire - Bezdin Ensemble] AAC-OGG High Quality Recording
{{モーツァルトのオペラ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とんしようあんに}}
[[Category:ドン・ジョヴァンニ| ]]
[[Category:モーツァルトのオペラ]]
[[Category:1780年代のオペラ]]
[[Category:イタリア語のオペラ]]
[[Category:ロレンツォ・ダ・ポンテ台本のオペラ]]
[[Category:スペインを舞台とした作品]]
[[Category:1787年の音楽]]
[[Category:ドン・ファン]]
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10,360 |
アクチニウム
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アクチニウム(英: actinium [ækˈtɪniəm])は、原子番号89の元素。元素記号は Ac。アクチノイド元素の一つ。
ギリシア語の「放射線」を意味する aktis が語源。
アクチノイド系列の最初の元素。したがって、5f軌道には電子がなく、6d軌道に1個、7s軌道に2個の電子が詰まっている。銀白色の金属で、安定な構造は立方晶系。アクチニウムのアルファ線はとても強力で(ラジウムの150倍の放射能を持つ)、暗所では青白く光る。比重は10.07、融点は1050 °C、沸点は3200 °C。湿った空気中では酸化被膜を形成する。化合物中の原子価は唯一+3価が安定で、化学的性質はランタンに似る。Ac の電子配置は5fである。Acはイオン半径が大きいため、酸化物および水酸化物はランタンより塩基性が強い。ランタンより錯塩を作りやすい傾向がある。アクチニウム原子の基底状態はD3/2、イオンの基底状態はSと表される。アクチニウムの7s電子については、相対論的効果による電子質量の増加のため、その7s軌道は収縮している。一方、5fと6d電子は、7s電子による核引力遮蔽の影響でその5f, 6d軌道が膨張している。したがって、これら3つの軌道はランタノイドと比べても非常にエネルギー準位が近い。このことはアクチニウムに限らず、アクチノイドについて言えることである。
アクチノイドの強い放射能により、実験等に利用する際は、グローブボックス内での使用が求められる。また、ラットを使った実験では、骨や肝臓にアクチノイドが蓄積されることが報告されている。
天然に存在するのは、アクチニウム227(半減期は21.7年)とアクチニウム228(半減期は6.13時間)。アクチニウム227はアクチニウム系列の過程で生成される。アクチニウム227はアクチニウムの同位体の中で最も長い半減期を持つ。またアクチニウム228はトリウム系列の過程で生成されるため、主にトリウム鉱石中に極微量含まれる。
アクチニウム系列:ウラン235(α崩壊)→ トリウム231(β崩壊)→ プロトアクチニウム231(α崩壊)→ アクチニウム227(α崩壊)→ フランシウム223 →(続く)アクチニウム227は、β崩壊してトリウム227にもなる。
1899年、アンドレ=ルイ・ドビエルヌ (A.Debierne) が、ピッチブレンドからウランを分離した際の残留物中から発見した(ピッチブレンド1トン中にアクチニウム227が0.15 mg含まれる)。1902年にギーゼル (F.Geesel) がドビエルヌとは独立に発見した新元素もアクチニウムであることが判明した。
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アクチニウムは、原子番号89の元素。元素記号は Ac。アクチノイド元素の一つ。
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{{Expand English|Actinium|date=2023-11}}
{{元素
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|pronounce=[http://www.sci.niihama-nct.ac.jp/PeriodicTable/fig/90/90-1.jpg]
|number=89
|symbol=Ac
|left=[[ラジウム]]
|right=[[トリウム]]
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|series=アクチノイド
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|group=n/a
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|altblock=d
|series color=
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|appearance=青く光る銀白色<ref>{{cite web |url=http://pubs.acs.org/cen/80th/actinium.html |title=C&EN: It's Elemental: The Periodic Table - Actinium |author=Greg Wall |date=8 September 2003 |work=C&EN: It's Elemental: The Periodic Table |publisher=Chemical and Engineering News |accessdate=2 June 2011}}</ref>
|image name=Actinium sample (31481701837).png
|image size=200px
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|image name 2 comment=
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|atomic mass 2=
|atomic mass comment=
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|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 18, 9, 2
|color=
|phase=固体
|phase comment=
|density gplstp=
|density gpcm3nrt=10.07
|melting point K=(circa) 1323
|melting point C=1050
|melting point F=1922
|boiling point K=3471
|boiling point C=3198
|boiling point F=5788
|triple point K=
|triple point kPa=
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|critical point MPa=
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|vapor pressure 10=
|vapor pressure 100=
|vapor pressure 1 k=
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|vapor pressure comment=
|crystal structure=face-centered cubic
|japanese crystal structure=[[面心立方]]
|oxidation states=+3([[強塩基性酸化物]])
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|atomic radius=
|covalent radius=[[1 E-10 m|215]]
|Van der Waals radius=
|magnetic ordering=no data
|electrical resistivity=
|electrical resistivity at 0=
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|thermal expansion at 25=
|speed of sound=
|speed of sound rod at 20=
|speed of sound rod at r.t.=
|Young's modulus=
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|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=225 | sym=Ac
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|10 d]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=5.935 | pn=221 | ps=[[フランシウム|Fr]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=226 | sym=Ac
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|29.37 h]]
| dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de1=1.117 | pn1=226 | ps1=[[トリウム|Th]]
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{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=227 | sym=Ac
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| dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de1=0.045 | pn1=227 | ps1=[[トリウム|Th]]
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=5.042 | pn2=223 | ps2=[[フランシウム|Fr]]}}
|isotopes comment=
}}
[[ファイル:Actinium.svg|thumb|アクチニウム]]
[[ファイル:Electron shell 089 actinium.png|thumb|アクチニウムの原子電子配置図。]]
'''アクチニウム'''({{lang-en-short|actinium}} {{IPA-en|ækˈtɪniəm|}})は、[[原子番号]]89の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Ac'''。[[アクチノイド元素]]の一つ。
== 名称 ==
[[ギリシア語]]の「放射線」を意味する aktis が語源<ref name="sakurai" />。
== 性質 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}}
アクチノイド系列の最初の元素。したがって、5f軌道には[[電子]]がなく、6d軌道に1個、7s軌道に2個の電子が詰まっている。銀白色の[[金属]]で、安定な構造は[[立方晶系]]。アクチニウムのアルファ線はとても強力で([[ラジウム]]の150倍の[[放射能]]を持つ)、暗所では青白く光る。比重は10.07、[[融点]]は1050 {{℃}}、[[沸点]]は3200 {{℃}}。湿った空気中では酸化被膜を形成する。化合物中の[[原子価]]は唯一+3価が安定で、化学的性質は[[ランタン]]に似る。Ac<sup>3+</sup> の電子配置は5f<sup>0</sup>である。Ac<sup>3+</sup>は[[イオン半径]]が大きいため、酸化物および[[水酸化物]]はランタンより塩基性が強い。ランタンより錯塩を作りやすい傾向がある。アクチニウム原子の基底状態は<sup>2</sup>D3/2、イオンの基底状態は<sup>1</sup>Sと表される。アクチニウムの7s電子については、相対論的効果による電子質量の増加のため、その7s軌道は収縮している。一方、5fと6d電子は、7s電子による核引力遮蔽の影響でその5f, 6d軌道が膨張している。したがって、これら3つの軌道はランタノイドと比べても非常にエネルギー準位が近い。このことはアクチニウムに限らず、アクチノイドについて言えることである。
== 危険性 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}}
アクチノイドの強い放射能により、実験等に利用する際は、グローブボックス内での使用が求められる。また、ラットを使った実験では、骨や肝臓にアクチノイドが蓄積されることが報告されている。
== 用途 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}}
; 地球循環 : アクチニウム227の半減期(21.77年)を利用して、海水の垂直方向への混合の過程をモデリングすることが試みられている。アクチノイドの酸化物をベリリウムで処理したものは、効率の良い中性子発生源となる。
; 医療(研究途上) : アクチニウム225の出すアルファ線はガン細胞を破壊する。この性質を利用し、大阪大学医学部放射線統合医学講座では、{{sup|225}}Ac-FAPI-04 を用いた難治性膵臓がん治療の研究が進められている<ref>[http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/tracer/about/research/nuclear_02.html α線核種アクチニウム用いた膵臓癌治療(Ac-FAPI-04)] 大阪大学医学部放射線統合医学講座</ref>。
== 同位体 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}}
{{main|アクチニウムの同位体}}
天然に存在するのは、アクチニウム227(半減期は21.7年)とアクチニウム228(半減期は6.13時間)。アクチニウム227は[[アクチニウム系列]]の過程で生成される。アクチニウム227はアクチニウムの同位体の中で最も長い半減期を持つ。またアクチニウム228は[[トリウム系列]]の過程で生成されるため、主にトリウム鉱石中に極微量含まれる。
アクチニウム系列:[[ウラン235]](α崩壊)→ [[トリウム231]](β崩壊)→ [[プロトアクチニウム231]](α崩壊)→ [[アクチニウム227]](α崩壊)→ [[フランシウム223]] →(続く)アクチニウム227は、β崩壊して[[トリウム227]]にもなる。
== 歴史 ==
[[1899年]]、[[アンドレ=ルイ・ドビエルヌ]] (A.Debierne) が、[[ピッチブレンド]]からウランを分離した際の残留物中から発見した<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 360|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>(ピッチブレンド1トン中にアクチニウム227が0.15 mg含まれる)。[[1902年]]にギーゼル (F.Geesel) がドビエルヌとは独立に発見した新元素もアクチニウムであることが判明した<ref name="sakurai" />。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
{{Commons|Actinium}}
{{元素周期表}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あくちにうむ}}
[[Category:アクチニウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アクチノイド]]
[[Category:第7周期元素]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0
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10,361 |
乱雑位相近似
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乱雑位相近似(らんざついそうきんじ、英語: Random Phase Approximation, RPA)とは、元々デヴィッド・ボームとデヴィッド・パインズ(英語版)によって展開された多体系における基底状態の量子揺らぎ及び励起振動状態(フォノン)を記述するための近似手法。線形応答理論における摂動論的な近似法の一つである。
粒子系(電子ガスなど)が高密度の場合は、乱雑位相近似が妥当な近似であることが分かっている。
同等な近似手法が、多方面(例:GW近似)で利用、応用されている。
N粒子系(N電子系)における密度演算子は次のように与えられる。
ここで位置座標ベクトル r → i {\displaystyle {\vec {r}}_{i}} が無秩序であれば、逆格子ベクトルと位置座標ベクトルとの積、 q → ⋅ r → i {\displaystyle {\vec {q}}\cdot {\vec {r}}_{i}} も無秩序(乱雑)なので、 ρ ( q → ≠ 0 ) {\displaystyle \rho ({\vec {q}}\neq 0)} からの寄与が ρ ( q → = 0 ) {\displaystyle \rho ({\vec {q}}=0)} よりずっと小さいとして無視できる。これを乱雑位相近似(RPA)という。
q → ≠ 0 {\displaystyle {\vec {q}}\neq 0} においては、 q → ⋅ r → i {\displaystyle {\vec {q}}\cdot {\vec {r}}_{i}} が乱雑なことにより各項の位相も乱雑となり、和の各成分が相殺し合って全体としての寄与が無視できるほど小さくなることによる。勿論、この近似が適用できない場合も多々ある。
RPAは1952年と1953年にボームとパインズによって初めて導入された。それまで何十年もの間、電子間のミクロな量子力学的相互作用の効果を物質の理論に取り入れようとする試みがあった。ボームとパインズのRPAは、弱く遮蔽されたクーロン相互作用を説明し、電子系における電子の動的な線形応答を記述するために用いられる。
RPAでは、電子は全電位V(r)(つまり外部摂動ポテンシャル Vext(r) と遮蔽ポテンシャル Vsc(r) の和)にのみ応答すると仮定される。外部摂動ポテンシャルは単一の周波数 ω で振動すると仮定されるので、このモデルに自己無撞着場(SCF)法を適用すると動的誘電関数 εRPA(k, ω)が得られる。
誘電関数への全電位の寄与は平均化される仮定するため、波数ベクトル k における電位のみが寄与する。これが乱雑位相近似が意味するものである。結果として生じる誘電関数はリンドハード誘電関数とも呼ばれ、電子ガスの多くの性質(プラズモンなど)を正確に予測している。
RPAは自由度を過大に評価していると50年代後半に批判され、その正当化には理論物理学者の多くの労力が費やされた。マレー・ゲルマンとキース・ブルックナーは、高密度の電子ガスのファインマンダイアグラムにおける最低次のチェーンの和からRPAが導かれることを示した。
これらの結果の一貫性はRPAの正当化には重要であり、50年代後半と60年代の理論物理学は大きく発展した。
まず第0近似としてハートリー-フォック近似を考える。ハートリー-フォック近似で得られた基底状態には量子揺らぎ効果は含まれてはいない。 そこで、量子揺らぎ効果を含んだ量子状態が一体演算子 F ^ {\displaystyle {\hat {F}}} を用いて次のように与えられると仮定する。
そして、次にこのように与えられた状態を用いて計算されるハミルトニアンの期待値を λ {\displaystyle \lambda } に関してテイラー展開すると 次のようになる。
[ F ^ , H ] {\displaystyle [{\hat {F}},H]} の期待値がゼロになるように求めるのがハートリー-フォック近似であるので右辺第2項はゼロとなる。 従って、
と表されることがわかる。ここで A {\displaystyle A} と B {\displaystyle B} は二重交換関係 [ X , Y , Z ] = 1 2 [ X , [ Y , Z ] ] + 1 2 [ [ X , Y ] , Z ] {\displaystyle [X,Y,Z]={\frac {1}{2}}[X,[Y,Z]]+{\frac {1}{2}}[[X,Y],Z]} を用いて
と定義されている。乱雑位相近似は、これまでの計算で現れた行列 ( A B B ∗ A ∗ ) {\displaystyle {\begin{pmatrix}A&B\\B^{*}&A^{*}\end{pmatrix}}} を対角化するための固有値方程式を考え、その固有値と固有ベクトルを求めること、という言い方ができる。固有値及び固有ベクトルを求める方程式はRPA方程式と呼ばれ、次のような形で与えられる。
ここで ( X ν Y ν ) {\displaystyle {\begin{pmatrix}X^{\nu }\\Y^{\nu }\end{pmatrix}}} は固有ベクトルであり、 ħ ω ν {\displaystyle \hbar \omega _{\nu }} は固有値であり励起状態を表す。
また、RPA方程式から得られる固有値が正の値をとる時、ハートレーフォック基底状態はエネルギーの極小値であることから 系のエネルギーは安定であることがわかる。しかし、固有値のなかに一つでも負の値のものが含まれる場合、 もはや安定ではなく異なる基底状態(真空)が存在する可能性、つまり相転移の可能性を示唆している。
固有ベクトルと固有値の存在は量子状態 | ν ⟩ {\displaystyle |\nu \rangle } が、状態 | m i ⟩ = a m † a i | H F ⟩ {\displaystyle |mi\rangle =a_{m}^{\dagger }a_{i}|HF\rangle } の線形結合を用いて、
と表せることを示している。この時、量子状態 | ν ⟩ {\displaystyle |\nu \rangle } はその異なるもの同士は直交する、すなわち ⟨ ν | ν ′ ⟩ = δ ν ν ′ {\displaystyle \langle \nu |\nu '\rangle =\delta _{\nu \nu '}} と仮定する。
更に | m i ⟩ = a m † a i | H F ⟩ {\displaystyle |mi\rangle =a_{m}^{\dagger }a_{i}|HF\rangle } の線形結合で定義される状態 | ν ⟩ {\displaystyle |\nu \rangle } の最もエネルギーの低い状態(基底状態) | Φ R P A ⟩ {\displaystyle |\Phi _{RPA}\rangle } を O ν | Φ R P A ⟩ = 0 {\displaystyle O_{\nu }|\Phi _{RPA}\rangle =0} と定義する。
以上の条件のもとで上述のRPA固有値方程式は
と等価である。
ボソン系のRPA真空 | R P A ⟩ {\displaystyle \left|\mathbf {RPA} \right\rangle } は、相関のないボソン真空 | M F T ⟩ {\displaystyle \left|\mathbf {MFT} \right\rangle } と元々のボソン励起 a i † {\displaystyle \mathbf {a} _{i}^{\dagger }} で表すことができる。
ここでZは | Z | ≤ 1 {\displaystyle |Z|\leq 1} を満たす対称行列である。
この正規化は次のように計算される。
ここで Z i j = ( X t ) i k z k X j k {\displaystyle Z_{ij}=(X^{\mathrm {t} })_{i}^{k}z_{k}X_{j}^{k}} は Z i j {\displaystyle Z_{ij}} の特異値分解である。
元々の励起と新たな励起の結合は、次のように与えられる。
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"text": "RPAでは、電子は全電位V(r)(つまり外部摂動ポテンシャル Vext(r) と遮蔽ポテンシャル Vsc(r) の和)にのみ応答すると仮定される。外部摂動ポテンシャルは単一の周波数 ω で振動すると仮定されるので、このモデルに自己無撞着場(SCF)法を適用すると動的誘電関数 εRPA(k, ω)が得られる。",
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"text": "誘電関数への全電位の寄与は平均化される仮定するため、波数ベクトル k における電位のみが寄与する。これが乱雑位相近似が意味するものである。結果として生じる誘電関数はリンドハード誘電関数とも呼ばれ、電子ガスの多くの性質(プラズモンなど)を正確に予測している。",
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"text": "RPAは自由度を過大に評価していると50年代後半に批判され、その正当化には理論物理学者の多くの労力が費やされた。マレー・ゲルマンとキース・ブルックナーは、高密度の電子ガスのファインマンダイアグラムにおける最低次のチェーンの和からRPAが導かれることを示した。",
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"text": "これらの結果の一貫性はRPAの正当化には重要であり、50年代後半と60年代の理論物理学は大きく発展した。",
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"text": "まず第0近似としてハートリー-フォック近似を考える。ハートリー-フォック近似で得られた基底状態には量子揺らぎ効果は含まれてはいない。 そこで、量子揺らぎ効果を含んだ量子状態が一体演算子 F ^ {\\displaystyle {\\hat {F}}} を用いて次のように与えられると仮定する。",
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"text": "そして、次にこのように与えられた状態を用いて計算されるハミルトニアンの期待値を λ {\\displaystyle \\lambda } に関してテイラー展開すると 次のようになる。",
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"text": "[ F ^ , H ] {\\displaystyle [{\\hat {F}},H]} の期待値がゼロになるように求めるのがハートリー-フォック近似であるので右辺第2項はゼロとなる。 従って、",
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"text": "と表されることがわかる。ここで A {\\displaystyle A} と B {\\displaystyle B} は二重交換関係 [ X , Y , Z ] = 1 2 [ X , [ Y , Z ] ] + 1 2 [ [ X , Y ] , Z ] {\\displaystyle [X,Y,Z]={\\frac {1}{2}}[X,[Y,Z]]+{\\frac {1}{2}}[[X,Y],Z]} を用いて",
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"text": "と定義されている。乱雑位相近似は、これまでの計算で現れた行列 ( A B B ∗ A ∗ ) {\\displaystyle {\\begin{pmatrix}A&B\\\\B^{*}&A^{*}\\end{pmatrix}}} を対角化するための固有値方程式を考え、その固有値と固有ベクトルを求めること、という言い方ができる。固有値及び固有ベクトルを求める方程式はRPA方程式と呼ばれ、次のような形で与えられる。",
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"text": "ここで ( X ν Y ν ) {\\displaystyle {\\begin{pmatrix}X^{\\nu }\\\\Y^{\\nu }\\end{pmatrix}}} は固有ベクトルであり、 ħ ω ν {\\displaystyle \\hbar \\omega _{\\nu }} は固有値であり励起状態を表す。",
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"text": "また、RPA方程式から得られる固有値が正の値をとる時、ハートレーフォック基底状態はエネルギーの極小値であることから 系のエネルギーは安定であることがわかる。しかし、固有値のなかに一つでも負の値のものが含まれる場合、 もはや安定ではなく異なる基底状態(真空)が存在する可能性、つまり相転移の可能性を示唆している。",
"title": "RPA方程式"
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"text": "固有ベクトルと固有値の存在は量子状態 | ν ⟩ {\\displaystyle |\\nu \\rangle } が、状態 | m i ⟩ = a m † a i | H F ⟩ {\\displaystyle |mi\\rangle =a_{m}^{\\dagger }a_{i}|HF\\rangle } の線形結合を用いて、",
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"text": "と表せることを示している。この時、量子状態 | ν ⟩ {\\displaystyle |\\nu \\rangle } はその異なるもの同士は直交する、すなわち ⟨ ν | ν ′ ⟩ = δ ν ν ′ {\\displaystyle \\langle \\nu |\\nu '\\rangle =\\delta _{\\nu \\nu '}} と仮定する。",
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"text": "更に | m i ⟩ = a m † a i | H F ⟩ {\\displaystyle |mi\\rangle =a_{m}^{\\dagger }a_{i}|HF\\rangle } の線形結合で定義される状態 | ν ⟩ {\\displaystyle |\\nu \\rangle } の最もエネルギーの低い状態(基底状態) | Φ R P A ⟩ {\\displaystyle |\\Phi _{RPA}\\rangle } を O ν | Φ R P A ⟩ = 0 {\\displaystyle O_{\\nu }|\\Phi _{RPA}\\rangle =0} と定義する。",
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"text": "ボソン系のRPA真空 | R P A ⟩ {\\displaystyle \\left|\\mathbf {RPA} \\right\\rangle } は、相関のないボソン真空 | M F T ⟩ {\\displaystyle \\left|\\mathbf {MFT} \\right\\rangle } と元々のボソン励起 a i † {\\displaystyle \\mathbf {a} _{i}^{\\dagger }} で表すことができる。",
"title": "応用: 相互作用するボース粒子系のRPA基底状態"
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"text": "ここでZは | Z | ≤ 1 {\\displaystyle |Z|\\leq 1} を満たす対称行列である。",
"title": "応用: 相互作用するボース粒子系のRPA基底状態"
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"text": "この正規化は次のように計算される。",
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"text": "ここで Z i j = ( X t ) i k z k X j k {\\displaystyle Z_{ij}=(X^{\\mathrm {t} })_{i}^{k}z_{k}X_{j}^{k}} は Z i j {\\displaystyle Z_{ij}} の特異値分解である。",
"title": "応用: 相互作用するボース粒子系のRPA基底状態"
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"text": "元々の励起と新たな励起の結合は、次のように与えられる。",
"title": "応用: 相互作用するボース粒子系のRPA基底状態"
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] |
乱雑位相近似とは、元々デヴィッド・ボームとデヴィッド・パインズによって展開された多体系における基底状態の量子揺らぎ及び励起振動状態(フォノン)を記述するための近似手法。線形応答理論における摂動論的な近似法の一つである。 粒子系(電子ガスなど)が高密度の場合は、乱雑位相近似が妥当な近似であることが分かっている。 同等な近似手法が、多方面で利用、応用されている。
|
[[File:Random phase approximation ring diagrams.png|thumb|400px|ファインマンダイアグラムにおいて、乱雑位相近似(RPA)はリングダイアグラムの和として表される。上の太い線は相互作用するGreen関数、細い線は相互作用のないGreen関数、破線は2体の相互作用を表す。]]
'''乱雑位相近似'''(らんざついそうきんじ、{{lang-en|Random Phase Approximation}}, '''RPA''')とは、元々[[デヴィッド・ボーム]]と{{仮リンク|デヴィッド・パインズ|en|David Pines}}によって展開された[[多体問題 (量子論)|多体系]]における基底状態の[[量子揺らぎ]]及び励起振動状態([[フォノン]])を記述するための近似手法。[[線形応答理論]]における[[摂動論]]的な近似法の一つである。
粒子系([[電子ガス]]など)が高密度の場合は、乱雑位相近似が妥当な近似であることが分かっている。
同等な近似手法が、多方面(例:[[GW近似]])で利用、応用されている。
== 第一量子化でのRPA ==
N粒子系(N電子系)における[[密度演算子]]は次のように与えられる。
:<math>\rho(\vec{q})=\sum_{i=1}^{N} \exp(i\vec{q}\cdot\vec{r}_i)</math>
ここで位置座標ベクトル<math>\vec{r}_i</math>が無秩序であれば、逆格子ベクトルと位置座標ベクトルとの積、<math>\vec{q}\cdot\vec{r}_i</math>も無秩序([[乱雑]])なので、<math>\rho(\vec{q} \neq 0)</math>からの寄与が<math>\rho(\vec{q} = 0)</math>よりずっと小さいとして無視できる。これを乱雑位相近似(RPA)という。
<math>\vec{q} \neq 0</math>においては、<math>\vec{q}\cdot\vec{r}_i</math>が乱雑なことにより各項の位相も乱雑となり、和の各成分が相殺し合って全体としての寄与が無視できるほど小さくなることによる。勿論、この近似が適用できない場合も多々ある。
== 概要 ==
RPAは1952年と1953年にボームとパインズによって初めて導入された<ref>D. Bohm and D. Pines: ''A Collective Description of Electron Interactions. I. Magnetic Interactions'', Phys. Rev. '''82''', 625–634 (1951) ([http://prola.aps.org/abstract/PR/v82/i5/p625_1 abstract])</ref><ref>D. Pines and D. Bohm: ''A Collective Description of Electron Interactions: II. Collective vs Individual Particle Aspects of the Interactions'', Phys. Rev. '''85''', 338–353 (1952) ([http://prola.aps.org/abstract/PR/v85/i2/p338_1 abstract])</ref><ref>D. Bohm and D. Pines: ''A Collective Description of Electron Interactions: III. Coulomb Interactions in a Degenerate Electron Gas'', Phys. Rev. '''92''', 609–625 (1953) ([http://prola.aps.org/abstract/PR/v92/i3/p609_1 abstract])</ref>。それまで何十年もの間、電子間のミクロな量子力学的相互作用の効果を物質の理論に取り入れようとする試みがあった。ボームとパインズのRPAは、弱く遮蔽された[[クーロン相互作用]]を説明し、電子系における電子の動的な線形応答を記述するために用いられる。
RPAでは、電子は全電位''V''('''r''')(つまり外部[[摂動]]ポテンシャル ''V''<sub>ext</sub>('''''r''''') と遮蔽ポテンシャル ''V''<sub>sc</sub>('''''r''''') の和)にのみ応答すると仮定される。外部摂動ポテンシャルは単一の周波数 ''ω'' で振動すると仮定されるので、このモデルに[[自己無撞着場]](SCF)法<ref>H. Ehrenreich and M. H. Cohen, [https://doi.org/10.1103/PhysRev.115.786 Phys. Rev. '''115''', 786 (1959)]</ref>を適用すると動的誘電関数 ''ε''<sub>RPA</sub>('''''k''''', ''ω'')が得られる。
誘電関数への全電位の寄与は平均化される仮定するため、波数ベクトル '''''k''''' における電位のみが寄与する。これが乱雑位相近似が意味するものである。結果として生じる誘電関数は[[リンドハード理論|リンドハード誘電関数]]とも呼ばれ<ref>J. Lindhard, K. Dan. Vidensk. Selsk. Mat. Fys. Medd. '''28''', 8 (1954)</ref><ref>N. W. Ashcroft and N. D. Mermin, ''Solid State Physics'' (Thomson Learning, Toronto, 1976)</ref>、電子ガスの多くの性質([[プラズモン]]など)を正確に予測している<ref>G. D. Mahan, ''Many-Particle Physics'', 2nd ed. (Plenum Press, New York, 1990)</ref>。
RPAは自由度を過大に評価していると50年代後半に批判され、その正当化には理論物理学者の多くの労力が費やされた。[[マレー・ゲルマン]]と[[キース・ブルックナー]]は、高密度の電子ガスのファインマンダイアグラムにおける最低次のチェーンの和からRPAが導かれることを示した<ref>M. Gell-Mann, K.A. Brueckner, ''Correlation energy of an electron gas at high density'', Phys. Rev. '''106''', 364 (1957)</ref>。
これらの結果の一貫性はRPAの正当化には重要であり、50年代後半と60年代の理論物理学は大きく発展した。
== RPA方程式 ==
まず第0近似として[[ハートリー-フォック]]近似を考える。ハートリー-フォック近似で得られた基底状態には量子揺らぎ効果は含まれてはいない。
そこで、量子揺らぎ効果を含んだ量子状態が一体演算子<math>\hat{F}</math>を用いて次のように与えられると仮定する。
:<math>|\Psi\rangle=e^{i\lambda\hat{F}}|\Phi _{\mathrm{HF}}\rangle</math>
そして、次にこのように与えられた状態を用いて計算されるハミルトニアンの期待値を<math>\lambda</math>に関してテイラー展開すると
次のようになる。
:<math>
\langle\Psi|\hat{H}|\Psi\rangle
=
\langle\Phi _{\mathrm{HF}}|\hat{H}-i\lambda[\hat{F},\hat{H}]+\frac{\lambda^2}{2}[\hat{F},[\hat{H},\hat{F}]]+\dotsb|\Phi _{\mathrm{HF}}\rangle
</math>
<math>[\hat{F},H]</math>の期待値がゼロになるように求めるのがハートリー-フォック近似であるので右辺第2項はゼロとなる。
従って、
:<math>
\begin{align}
\langle\Psi|\hat{H}|\Psi\rangle
&=
\langle\Phi _{\mathrm{HF}}|\hat{H}|\Phi _{\mathrm{HF}}\rangle+\frac{\lambda^2}{2}\langle\Phi _{\mathrm{HF}}|[\hat{F},[\hat{H},\hat{F}]]|\Phi _{\mathrm{HF}}\rangle+\dotsb \\
&=
E _{\mathrm{HF}}
+
\frac{\lambda^2}{2}
\sum_{minj}
\begin{pmatrix}f^*_{mi} & -f_{im}\end{pmatrix}
\begin{pmatrix}
A & B \\ B^* & A^*
\end{pmatrix}_{minj}
\begin{pmatrix}f_{nj} \\ -f^*_{jn}\end{pmatrix}
+\dotsb
\end{align}
</math>
と表されることがわかる。ここで<math>A</math>と<math>B</math>は二重交換関係<math>[X,Y,Z]=\frac{1}{2}[X,[Y,Z]]+\frac{1}{2}[[X,Y],Z]</math>を用いて
:<math>A_{minj}=\langle\Phi _{\mathrm{HF}}|[a_i^\dagger a_m,\hat{H},a_n^\dagger a_j]|\Phi _{\mathrm{HF}}\rangle</math>
:<math>B_{minj}=-\langle\Phi _{\mathrm{HF}}|[a_i^\dagger a_m,\hat{H},a_j^\dagger a_n]|\Phi _{\mathrm{HF}}\rangle</math>
と定義されている。乱雑位相近似は、'''これまでの計算で現れた行列'''
<math>
\begin{pmatrix}
A & B \\ B^* & A^*
\end{pmatrix}
</math>
'''を対角化するための固有値方程式を考え、その固有値と固有ベクトルを求めること'''、という言い方ができる。固有値及び固有ベクトルを求める方程式は'''RPA方程式'''と呼ばれ、次のような形で与えられる。
:<math>
\begin{pmatrix}
A & B \\ B^* & A^*
\end{pmatrix}
\begin{pmatrix}
X^\nu \\ Y^\nu
\end{pmatrix}
=
\hbar\omega_\nu
\begin{pmatrix}
1 & 0 \\ 0 & -1
\end{pmatrix}
\begin{pmatrix}
X^\nu \\ Y^\nu
\end{pmatrix}
</math>
ここで
<math>
\begin{pmatrix}
X^\nu \\ Y^\nu
\end{pmatrix}
</math>
は固有ベクトルであり、<math>\hbar\omega_\nu</math>は固有値であり励起状態を表す。
また、RPA方程式から得られる固有値が正の値をとる時、ハートレーフォック基底状態はエネルギーの極小値であることから
系のエネルギーは安定であることがわかる。しかし、固有値のなかに一つでも負の値のものが含まれる場合、
もはや安定ではなく異なる基底状態(真空)が存在する可能性、つまり[[相転移]]の可能性を示唆している。
固有ベクトルと固有値の存在は量子状態<math>|\nu\rangle</math>が、状態
<math>|mi\rangle=a^\dagger_m a_i|HF\rangle</math>の線形結合を用いて、
:<math>
|\nu\rangle (=O^\dagger_\nu |\Phi_{RPA}\rangle)
= \sum_{mi}(X_{mi}^\nu |mi\rangle-Y_{mi}^\nu |im\rangle)
</math>
と表せることを示している。この時、量子状態<math>|\nu\rangle</math>はその異なるもの同士は直交する、すなわち<math>\langle\nu|\nu'\rangle=\delta_{\nu\nu'}</math>と仮定する。
更に<math>|mi\rangle=a^\dagger_m a_i|HF\rangle</math>の線形結合で定義される状態<math>|\nu\rangle</math>
の最もエネルギーの低い状態(基底状態)<math>|\Phi_{RPA}\rangle</math>を
<math>O_\nu |\Phi_{RPA}\rangle = 0</math>
と定義する。
以上の条件のもとで上述のRPA固有値方程式は
:<math>
\langle \Phi_{RPA} |[O_{\nu'},[H,O^\dagger_\nu]]|\Phi_{RPA} \rangle= \hbar\omega_\nu\delta_{\nu\nu'}
</math>
と等価である。
==応用: 相互作用するボース粒子系のRPA基底状態 ==
ボソン系のRPA真空<math>\left|\mathbf{RPA}\right\rangle</math>は、相関のないボソン真空<math>\left|\mathbf{MFT}\right\rangle</math>と元々のボソン励起<math>\mathbf{a}_{i}^{\dagger}</math>で表すことができる。
:<math>\left|\mathrm{RPA}\right\rangle=\mathcal{N}\mathbf{e}^{Z_{ij}\mathbf{a}_{i}^{\dagger}\mathbf{a}_{j}^{\dagger}/2}\left|\mathrm{MFT}\right\rangle</math>
:<math>\mathcal{N}= \frac{\left\langle \mathrm{MFT}\right|\left.\mathrm{RPA}\right\rangle}{\left\langle \mathrm{MFT}\right|\left.\mathrm{MFT}\right\rangle}</math>
ここで''Z''は<math>|Z|\leq 1</math>を満たす対称行列である。
この正規化は次のように計算される。
:<math>\langle
\mathrm{RPA}|\mathrm{RPA}\rangle=
\mathcal{N}^2 \langle \mathrm{MFT}|
\mathbf{e}^{z_{i}(\tilde{\mathbf{q}}_{i})^2/2}
\mathbf{e}^{z_{j}(\tilde{\mathbf{q}}^{\dagger}_{j})^2/2}
| \mathrm{MFT}\rangle=1
</math>
ここで<math>Z_{ij}=(X^{\mathrm{t}})_{i}^{k} z_{k} X^{k}_{j}</math>
は<math>Z_{ij}</math>の[[特異値分解]]である。
:<math>\tilde{\mathbf{q}}^{i}=(X^{\dagger})^{i}_{j}\mathbf{a}^{j}</math>
:<math>\begin{align}
\mathcal{N}^{-2}&=
\sum_{m_{i}}\sum_{n_{j}} \frac{(z_{i}/2)^{m_{i}}(z_{j}/2)^{n_{j}}}{m!n!}
\langle \mathrm{MFT}|
\prod_{i\,j}
(\tilde{\mathbf{q}}_{i})^{2 m_{i}}
(\tilde{\mathbf{q}}^{\dagger}_{j})^{2 n_{j}}
| \mathrm{MFT}\rangle \\
&=\prod_{i}
\sum_{m_{i}} (z_{i}/2)^{2 m_{i}} \frac{(2 m_{i})!}{m_{i}!^2} \\
&=\prod_{i}\sum_{m_{i}} (z_{i})^{2 m_{i}} {1/2 \choose m_{i}}=\sqrt{\det(1-|Z|^2)}
\end{align}
</math>
元々の励起と新たな励起の結合は、次のように与えられる。
:<math>\tilde{\mathbf{a}}_{i}=\left(\frac{1}{\sqrt{1-Z^2}}\right)_{ij}\mathbf{a}_{j}+
\left(\frac{1}{\sqrt{1-Z^2}}Z\right)_{ij}\mathbf{a}^{\dagger}_{j}</math>.
==関連記事==
*[[物理学]]
*[[物性物理学]]
*[[原子核物理学]]
== 参考文献 ==
<references />
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[[Category:計算物理学]]
[[Category:量子化学]]
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マイトネリウム
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マイトネリウム(Meitnerium)は、元素記号Mt、原子番号109の元素である。放射性が非常に高い人工元素で、最も安定な同位体であるマイトネリウム278の半減期は4.5秒である。ただし、存在が未確定のマイトネリウム282は、67秒というより長い半減期を持つ可能性がある。1982年にドイツ・ダルムシュタットの重イオン研究所(GSI)で初めて合成され、リーゼ・マイトナーの名前に因んで命名された。
周期表上では、dブロック元素である。また第7周期元素、第9族元素であるが、同じく第9族であるイリジウムの同族元素として振る舞うことを確認する化学実験は未だ行われていない。計算では、同族でより軽いコバルト、ロジウム、イリジウムと似た性質を持つとされる。
重い原子核は、2つの異なる原子核の核融合反応により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、クーロンの法則により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、強い相互作用がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、加速器で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)。核融合が起こる場合、複合核と呼ばれる一時的な融合状態が励起状態となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る。この事象は、最初の衝突の約10秒後に起こる
粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され、表面障壁型半導体検出器に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される。移送には約10秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される。
原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子(陽子と中性子)が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない。そのため、重元素の原子核は、このような反発によるアルファ崩壊や自発核分裂のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない。
重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる。
1982年8月29日にペーター・アルムブルスターとゴットフリート・ミュンツェンベルクが率いる重イオン研究所のドイツの研究チームによって初めて合成された。チームは、ビスマス209の標的に鉄58の加速した原子核を照射し、マイトネリウム266の1つの原子核を検出した。
3年後、当時ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所(JINR)において確認された。
ドミトリ・メンデレーエフによる未命名・未発見元素の命名規則により、109番元素は、エカイリジウムとして知られていた。1979年、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は勧告を出し、それにより109番元素は発見が確定し正式に命名されるまでの間、ウンウンエンニウム(記号:Une)と呼ばれることになった。この名前は、化学の授業からより上級の教科書まで、あらゆるレベルの化学コミュニティで広く使われているが、この分野の多くの科学者からはほぼ無視されており、「元素109」と呼ばれたり、E109、(109)または単に109という記号で表される。
原子番号104番から109番の元素は、w:Transfermium Warsと呼ばれる命名を巡る議論の中にあったが、マイトネリウムについては、唯一の提案であり、議論にはならなかった。この名前はオットー・ハーンとともにプロトアクチニウムを発見し、核分裂の発見者の1人でもあるオーストリアの物理学者リーゼ・マイトナーの名前に因んで、1992年9月に重イオン研究所のチームが提案したものである。国際純正・応用化学連合は、1994年にこの名前を勧告し、1997年に正式に認定した。この元素は、実在の女性の名前に因む唯一の元素である(キュリウムは、ピエール・キュリーとマリー・キュリーの2人の名前に因んだものである)。
マイトネリウムは安定な同位体や天然に生成する同位体を持たない。いくつかの放射性同位体が、より軽い原子核の融合かより重い原子核の崩壊により、研究室内で合成されている。原子量が266、268、270、274-278(268と270は未確定の準安定状態)の8個の同位体が報告されている。原子量282の9つ目の同位体は存在が未確定である。これらの崩壊の大部分はアルファ崩壊によるものであるが、自発核分裂するものもいくつかある。
全てのマイトネリウム同位体は非常に不安定で放射性が高い。一般的に、より重い同位体であるほどより安定性が高い。最も安定な既知の同位体は、既知の最も重い同位体でもあるMtであり、半減期は4.5秒である。未確定のDsはより重く、67秒とより長い半減期を持つと推測される。MtとMtの半減期は各々0.45秒と0.44秒である。残り5つの同位体の半減期は、1-20ミリ秒の間である。
Tsの最終崩壊生成物として2012年に初めて合成されたMtは、半減期5ミリ秒で自発核分裂するのが観測された。予備的なデータ分析により、この核分裂が、Hsに由来する可能性があることが考えられた。この原子核もやはり数ミリ秒の半減期を持ち、崩壊系列のどこかの段階で、未検出の電子捕獲に続いて生成される可能性があるためである。後に、DsとRgの崩壊エネルギー及びMtの半減期の短さから、この可能性は非常に低いと判断されたが、未だ確実ではない。それにも関わらず、Mt及びHsの半減期が短い核分裂は、N = 168-170 の超重原子核の不安定領域を強く示唆している。この領域の存在は、N = 162 の変形閉殻とN = 184 の球形閉殻の間の核分裂障壁(英語版)の高さの減少が特徴で、理論モデルと合致している。
核特性を除き、マイトネリウム及びその化合物の性質は測定されていない。これは、合成が非常に限られており、また高価なことと、非常に速く崩壊するためである。金属マイトネリウムの性質は、予測値のみが利用可能である。
マイトネリウムは、6dブロックの7番目の遷移元素である。イオン化ポテンシャルや原子半径、イオン半径の計算は、より軽いホモログであるイリジウムと類似しており、そのため、マイトネリウムの基本的な性質は第9族のコバルト、ロジウム、イリジウムと類似していることが示唆される。貴金属であると予測されている。
マイトネリウムの化学的性質の予測は、最近あまり関心を持たれていない。標準電極電位は、Mt / Mt対に対して0.8 Vと予測される。より軽い第9族元素の最も安定な酸化状態に基づき、マイトネリウムの最も安定な酸化状態は+6、+3と+1であり、水溶液中では+3の状態が最も安定であると予測される。対照的に、ロジウムやイリジウムの最大酸化状態は+6で、最も安定な状態はイリジウムで+4及び+3、ロジウムで+3である。[IrO4]中にのみ存在するイリジウムの+9の酸化状態は、[IrO4]ほど安定ではないものの、九フッ化物(MtF9)や陽イオン[MtO4]の形で、同族元素であるマイトネリウムでも存在しうると考えられる。マイトネリウムの四ハロゲン化物もイリジウムのものと類似した安定性を持つと予測され、そのため、安定な+4の参加状態を持つと考えられる。さらに、ボーリウム(原子番号107)からダームスタチウム(原子番号100)までの元素の最大の酸化状態は、水溶液ではなく気相で安定すると予測される。
標準状態では固体で、イリジウムと同様に面心立方格子に結晶化すると考えられる。実測された中で最も密度が高いオスミウムの22.61 g/cmに対し、密度が約27-28 g/cmと非常に重い金属である。これは、既知の118個の元素の中で最も大きい値である。また、常磁性であると予測されている。
共有結合半径はイリジウムよりも6-10 pm大きいと予測されており、原子半径は約128 pmと予測される。
マイトネリウムは、化学的性質が調査されていない、周期表上で最初の元素である。同位体の半減期が短く、小規模での実験が可能な揮発性化合物の数が限られているため、化学的性質はまだはっきりとは分かっていない。十分な揮発性を持つ可能性がある数少ないマイトネリウムの化合物には、60°C以上で揮発性を持つ 六フッ化イリジウム(IrF6)のアナログである六フッ化マイトネリウム(MtF6)がある。また、揮発性を持つ八フッ化物(MtF8)も存在できる可能性がある。超アクチノイド元素の化学研究のためには、半減期が1秒以上、1週間に1原子以上の合成速度で、少なくとも4原子以上の合成が必要となる。最も安定なMtの半減期は4.5秒であり、化学研究を行うのに十分な長さを持つが、統計的に有意な結果が得られるよう、実験を数週間から数か月続けるために、合成速度を上げる必要がある。重い元素の収量は軽い元素よりも少ないと予測されるため、気相及び溶液内の化学実験を自動化されたシステムで行うためには、ダームスタチウム同位体の分離と検出を連続して行うことが必要である。このために、ボーリウムやハッシウムの合成で使われた分離技術を再利用することができる。しかし、コペルニシウムからリバモリウムまでのより重い元素と比べて、マイトネリウムの実験化学に対する関心は高くない。
ローレンス・バークレー国立研究所は、2002-2003年にかけて、不安定核領域の魔法数である162個の中性子を持ち、化学実験を行うのに有望なMtの合成を試みた。その半減期は数秒と予測され、化学実験を行うのに十分な長さであった。しかし、Mtは検出されず、この同位体は現在でも知られていない。
超アクチノイド元素の化学的性質を決定する実験では、その元素の化合物を、より軽い同族元素と比較する必要がある。例えば、ハッシウムの化学的性質では、酸化ハッシウム(VIII)とこのアナログとなるオスミウム化合物の酸化オスミウム(VIII)を比較する。マイトネリウムの化学的性質決定の前段階として、重イオン研究所は、ロジウム化合物である酸化ロジウム(III)と塩化ロジウム(III)の昇華を試みた。しかし、酸化物では1000°Cまで、塩化物では780°Cまで、目で見える量の昇華は起こらず、炭素エアロゾル粒子ができるだけだった。超重元素の化学的性質を調べるのに現在用いている方法は500°Cを超えると作動しないため、この温度は、マイトネリウムに用いるには高すぎる温度だった。
2014年にシーボーギウムのヘキサカルボニル化に成功すると、第7族元素から第9族元素の安定した遷移金属を用いた研究が行われ、カルボニルの形成を用いて、ラザホージウムからマイトネリウムまでの6d遷移金属の化学的性質をさらに調べることができることが示唆された。それにも関わらず、各々TsとMcの崩壊連鎖で生成される可能性のあるMtとMtは、化学研究を行うのに十分な長寿命ではあるものの、半減期が短く合成が難しいという課題のため、マイトネリウムの化学的性質を調べるのは難しい。テネシンは標的として希少で半減期の短いバークリウムを必要とすることから、Mtの方がより適していると考えられる。Nhの崩壊鎖の中でみられる同位体Mtも、十分な長さの半減期を持つと考えられるが、直接合成の方法と崩壊特性のより正確な測定が必要である。
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"text": "マイトネリウム(Meitnerium)は、元素記号Mt、原子番号109の元素である。放射性が非常に高い人工元素で、最も安定な同位体であるマイトネリウム278の半減期は4.5秒である。ただし、存在が未確定のマイトネリウム282は、67秒というより長い半減期を持つ可能性がある。1982年にドイツ・ダルムシュタットの重イオン研究所(GSI)で初めて合成され、リーゼ・マイトナーの名前に因んで命名された。",
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"text": "周期表上では、dブロック元素である。また第7周期元素、第9族元素であるが、同じく第9族であるイリジウムの同族元素として振る舞うことを確認する化学実験は未だ行われていない。計算では、同族でより軽いコバルト、ロジウム、イリジウムと似た性質を持つとされる。",
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"text": "重い原子核は、2つの異なる原子核の核融合反応により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、クーロンの法則により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、強い相互作用がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、加速器で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)。核融合が起こる場合、複合核と呼ばれる一時的な融合状態が励起状態となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る。この事象は、最初の衝突の約10秒後に起こる",
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"text": "粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され、表面障壁型半導体検出器に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される。移送には約10秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される。",
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"text": "原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子(陽子と中性子)が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない。そのため、重元素の原子核は、このような反発によるアルファ崩壊や自発核分裂のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない。",
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"text": "重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる。",
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"text": "1982年8月29日にペーター・アルムブルスターとゴットフリート・ミュンツェンベルクが率いる重イオン研究所のドイツの研究チームによって初めて合成された。チームは、ビスマス209の標的に鉄58の加速した原子核を照射し、マイトネリウム266の1つの原子核を検出した。",
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"text": "3年後、当時ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所(JINR)において確認された。",
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"text": "ドミトリ・メンデレーエフによる未命名・未発見元素の命名規則により、109番元素は、エカイリジウムとして知られていた。1979年、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は勧告を出し、それにより109番元素は発見が確定し正式に命名されるまでの間、ウンウンエンニウム(記号:Une)と呼ばれることになった。この名前は、化学の授業からより上級の教科書まで、あらゆるレベルの化学コミュニティで広く使われているが、この分野の多くの科学者からはほぼ無視されており、「元素109」と呼ばれたり、E109、(109)または単に109という記号で表される。",
"title": "歴史"
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"text": "原子番号104番から109番の元素は、w:Transfermium Warsと呼ばれる命名を巡る議論の中にあったが、マイトネリウムについては、唯一の提案であり、議論にはならなかった。この名前はオットー・ハーンとともにプロトアクチニウムを発見し、核分裂の発見者の1人でもあるオーストリアの物理学者リーゼ・マイトナーの名前に因んで、1992年9月に重イオン研究所のチームが提案したものである。国際純正・応用化学連合は、1994年にこの名前を勧告し、1997年に正式に認定した。この元素は、実在の女性の名前に因む唯一の元素である(キュリウムは、ピエール・キュリーとマリー・キュリーの2人の名前に因んだものである)。",
"title": "歴史"
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"text": "マイトネリウムは安定な同位体や天然に生成する同位体を持たない。いくつかの放射性同位体が、より軽い原子核の融合かより重い原子核の崩壊により、研究室内で合成されている。原子量が266、268、270、274-278(268と270は未確定の準安定状態)の8個の同位体が報告されている。原子量282の9つ目の同位体は存在が未確定である。これらの崩壊の大部分はアルファ崩壊によるものであるが、自発核分裂するものもいくつかある。",
"title": "同位体"
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"text": "全てのマイトネリウム同位体は非常に不安定で放射性が高い。一般的に、より重い同位体であるほどより安定性が高い。最も安定な既知の同位体は、既知の最も重い同位体でもあるMtであり、半減期は4.5秒である。未確定のDsはより重く、67秒とより長い半減期を持つと推測される。MtとMtの半減期は各々0.45秒と0.44秒である。残り5つの同位体の半減期は、1-20ミリ秒の間である。",
"title": "同位体"
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"text": "Tsの最終崩壊生成物として2012年に初めて合成されたMtは、半減期5ミリ秒で自発核分裂するのが観測された。予備的なデータ分析により、この核分裂が、Hsに由来する可能性があることが考えられた。この原子核もやはり数ミリ秒の半減期を持ち、崩壊系列のどこかの段階で、未検出の電子捕獲に続いて生成される可能性があるためである。後に、DsとRgの崩壊エネルギー及びMtの半減期の短さから、この可能性は非常に低いと判断されたが、未だ確実ではない。それにも関わらず、Mt及びHsの半減期が短い核分裂は、N = 168-170 の超重原子核の不安定領域を強く示唆している。この領域の存在は、N = 162 の変形閉殻とN = 184 の球形閉殻の間の核分裂障壁(英語版)の高さの減少が特徴で、理論モデルと合致している。",
"title": "同位体"
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{
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"text": "核特性を除き、マイトネリウム及びその化合物の性質は測定されていない。これは、合成が非常に限られており、また高価なことと、非常に速く崩壊するためである。金属マイトネリウムの性質は、予測値のみが利用可能である。",
"title": "予測される性質"
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"text": "マイトネリウムは、6dブロックの7番目の遷移元素である。イオン化ポテンシャルや原子半径、イオン半径の計算は、より軽いホモログであるイリジウムと類似しており、そのため、マイトネリウムの基本的な性質は第9族のコバルト、ロジウム、イリジウムと類似していることが示唆される。貴金属であると予測されている。",
"title": "予測される性質"
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"text": "マイトネリウムの化学的性質の予測は、最近あまり関心を持たれていない。標準電極電位は、Mt / Mt対に対して0.8 Vと予測される。より軽い第9族元素の最も安定な酸化状態に基づき、マイトネリウムの最も安定な酸化状態は+6、+3と+1であり、水溶液中では+3の状態が最も安定であると予測される。対照的に、ロジウムやイリジウムの最大酸化状態は+6で、最も安定な状態はイリジウムで+4及び+3、ロジウムで+3である。[IrO4]中にのみ存在するイリジウムの+9の酸化状態は、[IrO4]ほど安定ではないものの、九フッ化物(MtF9)や陽イオン[MtO4]の形で、同族元素であるマイトネリウムでも存在しうると考えられる。マイトネリウムの四ハロゲン化物もイリジウムのものと類似した安定性を持つと予測され、そのため、安定な+4の参加状態を持つと考えられる。さらに、ボーリウム(原子番号107)からダームスタチウム(原子番号100)までの元素の最大の酸化状態は、水溶液ではなく気相で安定すると予測される。",
"title": "予測される性質"
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{
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"text": "標準状態では固体で、イリジウムと同様に面心立方格子に結晶化すると考えられる。実測された中で最も密度が高いオスミウムの22.61 g/cmに対し、密度が約27-28 g/cmと非常に重い金属である。これは、既知の118個の元素の中で最も大きい値である。また、常磁性であると予測されている。",
"title": "予測される性質"
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"text": "共有結合半径はイリジウムよりも6-10 pm大きいと予測されており、原子半径は約128 pmと予測される。",
"title": "予測される性質"
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"text": "マイトネリウムは、化学的性質が調査されていない、周期表上で最初の元素である。同位体の半減期が短く、小規模での実験が可能な揮発性化合物の数が限られているため、化学的性質はまだはっきりとは分かっていない。十分な揮発性を持つ可能性がある数少ないマイトネリウムの化合物には、60°C以上で揮発性を持つ 六フッ化イリジウム(IrF6)のアナログである六フッ化マイトネリウム(MtF6)がある。また、揮発性を持つ八フッ化物(MtF8)も存在できる可能性がある。超アクチノイド元素の化学研究のためには、半減期が1秒以上、1週間に1原子以上の合成速度で、少なくとも4原子以上の合成が必要となる。最も安定なMtの半減期は4.5秒であり、化学研究を行うのに十分な長さを持つが、統計的に有意な結果が得られるよう、実験を数週間から数か月続けるために、合成速度を上げる必要がある。重い元素の収量は軽い元素よりも少ないと予測されるため、気相及び溶液内の化学実験を自動化されたシステムで行うためには、ダームスタチウム同位体の分離と検出を連続して行うことが必要である。このために、ボーリウムやハッシウムの合成で使われた分離技術を再利用することができる。しかし、コペルニシウムからリバモリウムまでのより重い元素と比べて、マイトネリウムの実験化学に対する関心は高くない。",
"title": "マイトネリウムに関する実験"
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{
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"text": "ローレンス・バークレー国立研究所は、2002-2003年にかけて、不安定核領域の魔法数である162個の中性子を持ち、化学実験を行うのに有望なMtの合成を試みた。その半減期は数秒と予測され、化学実験を行うのに十分な長さであった。しかし、Mtは検出されず、この同位体は現在でも知られていない。",
"title": "マイトネリウムに関する実験"
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"text": "超アクチノイド元素の化学的性質を決定する実験では、その元素の化合物を、より軽い同族元素と比較する必要がある。例えば、ハッシウムの化学的性質では、酸化ハッシウム(VIII)とこのアナログとなるオスミウム化合物の酸化オスミウム(VIII)を比較する。マイトネリウムの化学的性質決定の前段階として、重イオン研究所は、ロジウム化合物である酸化ロジウム(III)と塩化ロジウム(III)の昇華を試みた。しかし、酸化物では1000°Cまで、塩化物では780°Cまで、目で見える量の昇華は起こらず、炭素エアロゾル粒子ができるだけだった。超重元素の化学的性質を調べるのに現在用いている方法は500°Cを超えると作動しないため、この温度は、マイトネリウムに用いるには高すぎる温度だった。",
"title": "マイトネリウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "2014年にシーボーギウムのヘキサカルボニル化に成功すると、第7族元素から第9族元素の安定した遷移金属を用いた研究が行われ、カルボニルの形成を用いて、ラザホージウムからマイトネリウムまでの6d遷移金属の化学的性質をさらに調べることができることが示唆された。それにも関わらず、各々TsとMcの崩壊連鎖で生成される可能性のあるMtとMtは、化学研究を行うのに十分な長寿命ではあるものの、半減期が短く合成が難しいという課題のため、マイトネリウムの化学的性質を調べるのは難しい。テネシンは標的として希少で半減期の短いバークリウムを必要とすることから、Mtの方がより適していると考えられる。Nhの崩壊鎖の中でみられる同位体Mtも、十分な長さの半減期を持つと考えられるが、直接合成の方法と崩壊特性のより正確な測定が必要である。",
"title": "マイトネリウムに関する実験"
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] |
マイトネリウム(Meitnerium)は、元素記号Mt、原子番号109の元素である。放射性が非常に高い人工元素で、最も安定な同位体であるマイトネリウム278の半減期は4.5秒である。ただし、存在が未確定のマイトネリウム282は、67秒というより長い半減期を持つ可能性がある。1982年にドイツ・ダルムシュタットの重イオン研究所(GSI)で初めて合成され、リーゼ・マイトナーの名前に因んで命名された。 周期表上では、dブロック元素である。また第7周期元素、第9族元素であるが、同じく第9族であるイリジウムの同族元素として振る舞うことを確認する化学実験は未だ行われていない。計算では、同族でより軽いコバルト、ロジウム、イリジウムと似た性質を持つとされる。
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{{要改訳|date=2023年1月}}
{{Elementbox
|name=meitnerium
|japanese name=マイトネリウム
|pronounce={{IPAc-en|m|aɪ|t|ˈ|n|ɪər|i|əm}} {{respell|myet|NEER|ee-əm}}<br />{{IPAc-en|m|aɪ|t|ˈ|n|ɜr|i|əm}} {{respell|myet|NUR|ee-əm}}
|number=109
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|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 7s<sup>2</sup> 5f<sup>14</sup> 6d<sup>7</sup><ref>{{Cite journal|doi=10.1140/epja/i2008-10584-7|title=Dirac-Hartree-Fock studies of X-ray transitions in meitnerium|year=2008|author=Thierfelder, C.|journal=The European Physical Journal A|volume=36|pages=227|last2=Schwerdtfeger|first2=P.|last3=Heßberger|first3=F. P.|last4=Hofmann|first4=S.}}</ref>
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'''マイトネリウム'''(Meitnerium)は、[[元素記号]]Mt、[[原子番号]]109の[[元素]]である。[[放射性]]が非常に高い[[人工元素]]で、最も安定な[[同位体]]である[[マイトネリウム278]]の[[半減期]]は4.5秒である。ただし、存在が未確定の[[マイトネリウム282]]は、67秒というより長い半減期を持つ可能性がある。1982年に[[ドイツ]]・[[ダルムシュタット]]の[[重イオン研究所]](GSI)で初めて合成され、[[リーゼ・マイトナー]]の名前に因んで命名された。
[[周期表]]上では、[[dブロック元素]]である。また[[第7周期元素]]、[[第9族元素]]であるが、同じく第9族である[[イリジウム]]の同族元素として振る舞うことを確認する化学実験は未だ行われていない。計算では、同族でより軽い[[コバルト]]、[[ロジウム]]、イリジウムと似た性質を持つとされる。
==導入==
[[ファイル:Deuterium-tritium fusion.svg|upright=1.00|alt=A graphic depiction of a nuclear fusion reaction|thumb|left|核融合反応の図示。2つの原子核が1つに融合し、1つの中性子を放出する。]]
重い{{efn|核物理学では、原子番号の大きい元素は、「重い」元素と呼ばれる。原子番号82の鉛は、重い元素の一例である。「超重元素」という用語は、通常、原子番号103番以降の元素を指す(ただし、原子番号100<ref>{{Cite web|url=https://www.chemistryworld.com/news/explainer-superheavy-elements/1010345.article|title=Explainer: superheavy elements|last=Kramer|first=K.|date=2016|website=Chemistry World|accessdate=2020-03-15}}</ref>以降とするものや112以降<ref>{{Cite web|archive-url=https://web.archive.org/web/20150911081623/https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|url=https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|title=Discovery of Elements 113 and 115|publisher=Lawrence Livermore National Laboratory|archive-date=2015-09-11|accessdate=2020-03-15}}</ref>とするもの等、いくつかの定義がある。[[超アクチノイド元素]]と同義の言葉として使われることもある<ref>{{cite encyclopedia|last1=Eliav|first1=E.|title=Electronic Structure of the Transactinide Atoms|date=2018|encyclopedia=Encyclopedia of Inorganic and Bioinorganic Chemistry|pages=1-16|editor-last=Scott|editor-first=R. A.|publisher=John Wiley & Sons|doi=10.1002/9781119951438.eibc2632|isbn=978-1-119-95143-8|last2=Kaldor|first2=U.|last3=Borschevsky|first3=A.|s2cid=127060181 }}</ref>)。ある元素における「重い同位体」や「重い核」という言葉は、各々、質量の大きい同位体、質量の大きい核を指す。}}[[原子核]]は、2つの異なる原子核{{Efn|2009年、[[ユーリイ・オガネシアン]]率いるドゥブナ合同原子核研究所のチームは、対称の<sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe反応におるハッシウム合成の試みの結果について公表した。彼らはこの反応で単原子を観測できず、反応断面積の上限を2.5 [[バーン (単位)|pb]]とした<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Dmitriev|first2=S. N.|last3=Yeremin|first3=A. V.|last4=Aksenov|first4=N. V.|last5=Bozhikov|first5=G. A.|last6=Chepigin|first6=V. I.|last7=Chelnokov|first7=M. L.|last8=Lebedev|first8=V. Ya.|last9=Malyshev|first9=O. N.|last10=Petrushkin|first10=O. V.|last11=Shishkin|first11=S. V.|display-authors=3|date=2009|title=Attempt to produce the isotopes of element 108 in the fusion reaction <sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe |journal=Physical Review C|volume=79|issue=2|pages=024608|doi=10.1103/PhysRevC.79.024608|issn=0556-2813}}</ref>。対称的に、ハッシウムの発見に繋がった反応である<sup>208</sup>Pb + <sup>58</sup>Feの反応断面積は、発見者らにより19<sup>+19</sup><sub>-11</sub>pbと推定された<ref name="84Mu01">{{cite journal|last1=Munzenberg|first1=G.|last2=Armbruster|first2=P.|last3=Folger|first3=H.|last4=Hesberger|first4=F. P.|last5=Hofmann|first5=S.|last6=Keller|first6=J.|last7=Poppensieker|first7=K.|last8=Reisdorf|first8=W.|last9=Schmidt|first9=K.-H.|display-authors=3|date=1984|title=The identification of element 108|url=http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|url-status=dead|journal=Zeitschrift fur Physik A|volume=317|issue=2|pages=235-236|bibcode=1984ZPhyA.317..235M|doi=10.1007/BF01421260|archive-url=https://web.archive.org/web/20150607124040/http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|archive-date=7 June 2015|accessdate=20 October 2012|first10=H.-J.|last10=Schott|first11=M. E.|last11=Leino|first12=R.|last12=Hingmann|s2cid=123288075 }}</ref>。}}の[[核融合反応]]により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる<ref name="Bloomberg">{{Cite web |last=Subramanian |first=S. |date=2019 |title=Making New Elements Doesn't Pay. Just Ask This Berkeley Scientist |url=https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-url=https://archive.today/20201114183428/https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-date=November 14, 2020 |url-status=live |accessdate=2020-01-18 |website=Bloomberg Businessweek}}</ref>。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、[[クーロンの法則]]により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、[[強い相互作用]]がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、[[加速器]]で加速する必要がある。<ref name="n+1">{{Cite web|url=https://nplus1.ru/material/2019/03/25/120-element|title=Сверхтяжелые шаги в неизвестное|last=Ivanov|first=D.|date=2019|website=N+1|language=ru|trans-title=Superheavy steps into the unknown|access-date=2020-02-02}}</ref>ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10<sup>-20</sup>秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)<ref name="n+1" /><ref>{{Cite web|url=http://theconversation.com/something-new-and-superheavy-at-the-periodic-table-26286|title=Something new and superheavy at the periodic table|last=Hinde|first=D.|date=2014|website=The Conversation|accessdate=2020-01-30}}</ref>。核融合が起こる場合、[[原子核反応#複合核モデルによる解釈|複合核]]と呼ばれる一時的な融合状態が[[励起状態]]となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る{{Efn|励起エネルギーが大きくなるほど、より多くの中性子が放出される。励起エネルギーが、各々の中性子を残りの核子に結び付けるエネルギーより低い場合、中性子は放出されない。その代わり、複合核は[[ガンマ線]]を放出して脱励起する<ref name=CzechNuclear/>。}}。この事象は、最初の衝突の約10<sup>-16</sup>秒後に起こる<ref name="CzechNuclear">{{cite web|url=http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20190303183952/http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|url-status=dead|archive-date=2019-03-03|title=Neutron Sources for ADS|last=Krasa|first=A.|date=2010|publisher=Czech Technical University in Prague|pages=4-8|s2cid=28796927 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>{{efn|{{仮リンク|IUPAC/IUPAP共同作業部会|en|IUPAC/IUPAP Joint Working Party}}による定義では、その核が10<sup>-14</sup>秒にわたり崩壊しない場合にのみ、発見として認定される。この値は、原子核が外側の電子を獲得して化学的性質を示すのにかかる時間の推定値として選択された<ref>{{Cite journal|last=Wapstra|first=A. H.|date=1991|title=Criteria that must be satisfied for the discovery of a new chemical element to be recognized|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1991/pdf/6306x0879.pdf|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=63|issue=6|page=883|doi=10.1351/pac199163060879|s2cid=95737691 |issn=1365-3075|accessdate=2020-08-28}}</ref>。また、一般的に考えられる複合核の寿命の上限値を示すものでもある<ref name=BerkeleyNoSF/>。}}
粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる<ref name="SHEhowvideo">{{Cite web|url=https://www.scientificamerican.com/article/how-to-make-superheavy-elements-and-finish-the-periodic-table-video/|title=How to Make Superheavy Elements and Finish the Periodic Table [Video]|author=Chemistry World|date=2016|website=Scientific American|accessdate=2020-01-27}}</ref>。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され{{Efn|この分離は、生成した原子核が未反応の粒子線の原子核よりも、標的の上をよりゆっくり通り過ぎることに基づく。セパレーター内には、特定の粒子速度で移動する粒子への影響が相殺される電磁場がある{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=334}}。このような分離は、[[飛行時間型質量分析計]]や反跳エネルギー測定でも用いられ、この2つを組み合わせて、原子核の質量を推定することが可能となる{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=335}}。}}、表面障壁型[[半導体検出器]]に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される<ref name="SHEhowvideo" />。移送には約10<sup>-6</sup>秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある{{sfn|Zagrebaev|Karpov|Greiner|2013|page=3}}。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される<ref name="SHEhowvideo" />。
原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかしそれが及ぶ範囲は非常に短く<!--セミコロンでセンテンスが切れていることを見落としている。as 以下は独立した別のセンテンスとして読まなければならない。元の訳文は意味の上でも因果関係が転倒した大きな誤訳-->、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子([[陽子]]と[[中性子]])が強い相互作用から受ける影響は小さくなっていく。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これは範囲の制約がない{{sfn|Beiser|2003|p=432}}。そのため、重元素の原子核は、このような反発による[[アルファ崩壊]]や[[自発核分裂]]{{efn|全ての崩壊モードが静電反発を原因とするのではなく、例えば、[[ベータ崩壊]]の原因は[[弱い相互作用]]である{{sfn|Beiser|2003|p=439}}。}}のようなモードが主要な崩壊過程になると理論的に予測されており<!--元の訳文の「重元素の原子核は理論的には予測されており」は、原子核の何が予測されているのか明確ではない。原子核の存在が予測されているかのように読める。センテンス全体の構造を捉えていない誤訳--><ref>{{Cite journal|last1=Staszczak|first1=A.|last2=Baran|first2=A.|last3=Nazarewicz|first3=W.|date=2013|title=Spontaneous fission modes and lifetimes of superheavy elements in the nuclear density functional theory|journal=Physical Review C|volume=87|issue=2|pages=024320-1|doi=10.1103/physrevc.87.024320|arxiv=1208.1215|bibcode=2013PhRvC..87b4320S|s2cid=118134429 |issn=0556-2813}}</ref>、これまで実際の観測もそれを裏付けてきた{{sfn|Audi|Kondev|Wang|Huang|2017|pp=030001-128-030001-138}}。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成されると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる{{efn|原子核の質量は直接測定されず、ほかの原子核の値から計算され、このような方法を間接的と呼ぶ。直接測定も可能であるが、もっとも重い原子核については<!--訳抜け-->ほとんどの場合可能ではない<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Rykaczewski|first2=K. P.|date=2015|title=A beachhead on the island of stability|journal=Physics Today|volume=68|issue=8|pages=32-38|doi=10.1063/PT.3.2880|bibcode=2015PhT....68h..32O|osti=1337838|s2cid=119531411 |issn=0031-9228|url=https://www.osti.gov/biblio/1337838}}</ref>。超重元素の質量の直接測定は、2018年に[[ローレンス・バークレー国立研究所]]により初めて報告された<ref>{{Cite journal|last=Grant |first=A.|date=2018|title=Weighing the heaviest elements|journal=Physics Today|doi=10.1063/PT.6.1.20181113a|s2cid=239775403 }}</ref>。}}。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない{{efn|自発核分裂は、ドゥブナ合同原子核研究所を率いていた[[ゲオルギー・フリョロフ]]により発見され<ref name=Distillations>{{Cite journal|last=Robinson|first=A. E.|url=https://www.sciencehistory.org/distillations/the-transfermium-wars-scientific-brawling-and-name-calling-during-the-cold-war|title=The Transfermium Wars: Scientific Brawling and Name-Calling during the Cold War|date=2019|journal=Distillations|accessdate=2020-02-22}}</ref>、この研究所の得意分野となった<ref name="coldfusion77">{{Cite web|url=http://n-t.ru/ri/ps/pb106.htm|title=Популярная библиотека химических элементов. Сиборгий (экавольфрам)|trans-title=Popular library of chemical elements. Seaborgium (eka-tungsten)|language=ru|website=n-t.ru|accessdate=2020-01-07}} Reprinted from {{cite book|author=<!--none-->|date=1977|title=Популярная библиотека химических элементов. Серебро - Нильсборий и далее|chapter=Экавольфрам|trans-title=Popular library of chemical elements. Silver through nielsbohrium and beyond|trans-chapter=Eka-tungsten|language=ru|publisher=Nauka}}</ref>。対称的に、ローレンス・バークレー国立研究所の科学者は、自発核分裂から得られる情報は新元素の合成を裏付けるのに不十分であると信じていた。これは、複合核が中性子だけを放出し、陽子やアルファ粒子のような荷電粒子を放出しないことを立証するのは困難なためである<ref name=BerkeleyNoSF>{{Cite journal|last1=Hyde|first1=E. K.|last2=Hoffman|first2=D. C.|last3=Keller|first3=O. L.|date=1987|title=A History and Analysis of the Discovery of Elements 104 and 105|journal=Radiochimica Acta|volume=42|issue=2|doi=10.1524/ract.1987.42.2.57|issn=2193-3405|pages=67-68|s2cid=99193729 |url=http://www.escholarship.org/uc/item/05x8w9h7}}</ref>。そのため彼らは、連続的なアルファ崩壊により、新しい同位体を既知の同位体と結び付ける方法を好んだ<ref name=Distillations/>。}}。
重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる{{Efn|例えば、1957年にスウェーデンのノーベル物理学研究所は、102番元素を誤同定した<ref name=RSC>{{Cite web|url=https://www.rsc.org/periodic-table/element/102/nobelium|title=Nobelium - Element information, properties and uses {{!}} Periodic Table|publisher=Royal Society of Chemistry|accessdate=2020-03-01}}</ref>。これ以前にこの元素の合成に関する決定的な主張はなく、発見者により、[[ノーベリウム]]と命名されたが、後に、この同定は誤りであったことが分かった{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。翌年、ローレンス・バークレー国立研究所は、ノーベル物理学研究所による結果は再現性がなく、代わりに彼ら自身がこの元素を合成したと発表したが、この主張も後に誤りであったことが判明した{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。ドゥブナ合同原子核研究所は、彼らこそがこの元素を最初に合成したと主張し、ジョリオチウムと命名したが{{sfn|Kragh|2018|p=40}}、この名前も認定されなかった(ドゥブナ合同原子核研究所は、のちに、102番元素の命名は「性急」であったと述べた)<ref name="1993 responses">{{Cite journal|year=1993|title=Responses on the report 'Discovery of the Transfermium elements' followed by reply to the responses by Transfermium Working Group|url=https://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|url-status=live|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|issue=8|pages=1815-1824|doi=10.1351/pac199365081815|archive-url=https://web.archive.org/web/20131125223512/http://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|archive-date=25 November 2013|accessdate=7 September 2016|last1=Ghiorso|first1=A.|last2=Seaborg|first2=G. T.|last3=Oganessian|first3=Yu. Ts.|last4=Zvara|first4=I|last5=Armbruster|first5=P|last6=Hessberger|first6=F. P|last7=Hofmann|first7=S|last8=Leino|first8=M|last9=Munzenberg|first9=G|last10=Reisdorf|first10=W|last11=Schmidt|first11=K.-H|s2cid=95069384 |display-authors=3}}</ref>。「ノーベリウム」という名前は、広く使われていたため、変更されなかった<ref name=IUPAC97>{{Cite journal|doi=10.1351/pac199769122471|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1997)|date=1997|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=69|pages=2471-2474|issue=12|author=Commission on Nomenclature of Inorganic Chemistry|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1997/pdf/6912x2471.pdf}}</ref>。}}。
==歴史==
[[ファイル:Lise Meitner (1878-1968), lecturing at Catholic University, Washington, D.C., 1946.jpg|thumb|left|upright|核分裂の発見者の1人であるリーゼ・マイトナーの名前に因んで命名された。]]
===発見===
1982年8月29日に[[ペーター・アルムブルスター]]と[[ゴットフリート・ミュンツェンベルク]]が率いる重イオン研究所のドイツの研究チームによって初めて合成された<ref name="82Mu01">{{cite journal|title=Observation of one correlated α-decay in the reaction <sup>58</sup>Fe on <sup>209</sup>Bi→<sup>267</sup>109|doi=10.1007/BF01420157|year=1982|journal=Zeitschrift fur Physik A|volume=309|issue=1|pages=89|last1=Munzenberg|first1=G.|last2=Armbruster|first2=P.|last3=Hesberger|first3=F. P.|last4=Hofmann|first4=S.|last5=Poppensieker|first5=K.|last6=Reisdorf|first6=W.|last7=Schneider|first7=J. H. R.|last8=Schneider|first8=W. F. W.|last9=Schmidt|first9=K.-H.|first10=C.-C.|last10=Sahm|first11=D.|last11=Vermeulen|bibcode = 1982ZPhyA.309...89M|s2cid=120062541}}</ref>。チームは、[[ビスマス209]]の標的に[[鉄58]]の加速した[[原子核]]を照射し、[[マイトネリウム266]]の1つの原子核を検出した<ref name="93TWG">{{Cite journal|doi=10.1351/pac199365081757|title=Discovery of the transfermium elements. Part II: Introduction to discovery profiles. Part III: Discovery profiles of the transfermium elements|year=1993|author=Barber, R. C.|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|pages=1757|last2=Greenwood|first2=N. N.|last3=Hrynkiewicz|first3=A. Z.|last4=Jeannin|first4=Y. P.|last5=Lefort|first5=M.|last6=Sakai|first6=M.|last7=Ulehla|first7=I.|last8=Wapstra|first8=A. P.|last9=Wilkinson|first9=D. H.
|issue=8|s2cid=195819585}} (Note: for Part I see Pure Appl. Chem., Vol. 63, No. 6, pp. 879-886, 1991)</ref>。
:<sup>209</sup><sub>83</sub>Bi + <sup>58</sup><sub>26</sub>Fe → <sup>266</sup><sub>109</sub>Mt + <sup>1</sup><sub>0</sub>n
3年後、当時[[ソビエト連邦]]の[[ドゥブナ合同原子核研究所]](JINR)において確認された<ref name="93TWG" />。
===命名===
[[ドミトリ・メンデレーエフ]]による未命名・未発見元素の命名規則により、109番元素は、エカイリジウムとして知られていた。1979年、[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)は勧告を出し、それにより109番元素は発見が確定し正式に命名されるまでの間、ウンニルエンニウム(記号:Une)と呼ばれることになった<ref name="iupac">{{cite journal|author=Chatt, J.|journal=Pure and Applied Chemistry|date=1979|volume=51|pages=381-384|title=Recommendations for the naming of elements of atomic numbers greater than 100|doi=10.1351/pac197951020381|issue=2}}</ref>。この名前は、化学の授業からより上級の教科書まで、あらゆるレベルの化学コミュニティで広く使われているが、この分野の多くの科学者からはほぼ無視されており、「元素109」と呼ばれたり、E109、(109)または単に109という記号で表される<ref name=Haire>{{cite book| title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements| editor1-last=Morss|editor2-first=Norman M.| editor2-last=Edelstein| editor3-last=Fuger|editor3-first=Jean| last1=Hoffman|first1=Darleane C. |last2=Lee |first2=Diana M. |last3=Pershina |first3=Valeria |chapter=Transactinides and the future elements| publisher= [[Springer Science+Business Media]]| year=2006| isbn=978-1-4020-3555-5| location=Dordrecht, The Netherlands| edition=3rd| ref=CITEREFHaire2006}}</ref>。
原子番号104番から109番の元素は、[[:w:Transfermium Wars]]と呼ばれる命名を巡る議論の中にあったが、マイトネリウムについては、唯一の提案であり、議論にはならなかった<ref name="IUPAC94" /><ref name="IUPAC97" />。この名前は[[オットー・ハーン]]とともに[[プロトアクチニウム]]を発見し、[[核分裂]]の発見者の1人でもある<ref name="nuclidetable">{{cite web|url=http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=109&n=169|title=Interactive Chart of Nuclides|publisher=Brookhaven National Laboratory|author=Sonzogni, Alejandro|location=National Nuclear Data Center|accessdate=2008-06-06|archive-date=March 7, 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180307082344/http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=109&n=169|url-status=dead}}</ref>オーストリアの物理学者リーゼ・マイトナーの名前に因んで、1992年9月に重イオン研究所のチームが提案したものである<ref>{{Cite journal
| doi = 10.1080/02841860050216016
| last1 = Bentzen | first1 = S. M.
| title = Lise Meitner and Niels Bohr-a historical note
| journal = Acta Oncologica
| volume = 39
| issue = 8
| pages = 1002-1003
| year = 2000
| pmid = 11206992
| doi-access = free
}}</ref><ref>{{Cite journal
| doi = 10.1001/jama.245.20.2021
| last1 = Kyle | first1 = R. A.
| last2 = Shampo | first2 = M. A.
| title = Lise Meitner
| journal = JAMA: The Journal of the American Medical Association
| volume = 245
| issue = 20
| pages = 2021
| year = 1981
| pmid = 7014939
}}</ref><ref>{{Cite journal
| last1 = Frisch | first1 = O. R.
| title = Distinguished Nuclear Pioneer-1973. Lise Meitner
| journal = Journal of Nuclear Medicine
| volume = 14
| issue = 6
| pages = 365-371
| year = 1973
| pmid = 4573793
}}</ref><ref name="DoiX">{{cite journal|doi=10.1595/147106708X297486|title=The Periodic Table and the Platinum Group Metals|date=2008|last1=Griffith|first1=W. P.|journal=Platinum Metals Review|volume=52|issue=2|pages=114-119|doi-access=free}}</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1021/cen-v081n036.p186|title=Meitnerium|date=2003|last1=Rife|first1=Patricia|journal=Chemical & Engineering News|volume=81|issue=36|pages=186}}</ref>。[[国際純正・応用化学連合]]は、1994年にこの名前を勧告し、1997年に正式に認定した。この元素は、実在の女性の名前に因む唯一の元素である([[キュリウム]]は、[[ピエール・キュリー]]と[[マリー・キュリー]]の2人の名前に因んだものである)。
==同位体==
{{main|マイトネリウムの同位体}}
マイトネリウムは安定な同位体や天然に生成する同位体を持たない。いくつかの[[放射性同位体]]が、より軽い原子核の融合かより重い原子核の崩壊により、研究室内で合成されている。原子量が266、268、270、274-278(268と270は未確定の[[準安定状態]])の8個の同位体が報告されている。原子量282の9つ目の同位体は存在が未確定である。これらの崩壊の大部分は[[アルファ崩壊]]によるものであるが、[[自発核分裂]]するものもいくつかある。
===安定性と半減期===
全てのマイトネリウム同位体は非常に不安定で放射性が高い。一般的に、より重い同位体であるほどより安定性が高い。最も安定な既知の同位体は、既知の最も重い同位体でもある<sup>278</sup>Mtであり、半減期は4.5秒である。未確定の<sup>282</sup>Dsはより重く、67秒とより長い半減期を持つと推測される。<sup>276</sup>Mtと<sup>274</sup>Mtの半減期は各々0.45秒と0.44秒である。残り5つの同位体の半減期は、1-20ミリ秒の間である<ref name="nuclidetable" />。
<sup>293</sup>Tsの最終崩壊生成物として2012年に初めて合成された<sup>277</sup>Mtは、半減期5ミリ秒で自発核分裂するのが観測された。予備的なデータ分析により、この核分裂が、<sup>277</sup>Hsに由来する可能性があることが考えられた。この原子核もやはり数ミリ秒の半減期を持ち、崩壊系列のどこかの段階で、未検出の[[電子捕獲]]に続いて生成される可能性があるためである<ref name="2012e117">{{Cite journal | last1 = Oganessian | first1 = Yuri Ts. | last2 = Abdullin | first2 = F. Sh. | last3 = Alexander | first3 = C. | last4 = Binder | first4 = J. | last5 = Boll | first5 = R. A. | last6 = Dmitriev | first6 = S. N. | last7 = Ezold | first7 = J. | last8 = Felker | first8 = K. | last9 = Gostic | first9 = J. M. | title = Experimental studies of the <sup>249</sup>Bk + <sup>48</sup>Ca reaction including decay properties and excitation function for isotopes of element 117, and discovery of the new isotope <sup>277</sup>Mt | doi = 10.1103/PhysRevC.87.054621 | journal = Physical Review C | publisher = American Physical Society | volume = 87 <!--| issue = 5 -->| pages = 054621 | number = 54621 | date = 2013-05-30 | bibcode = 2013PhRvC..87e4621O | display-authors = 9| doi-access = free }}</ref><ref name="2019e117">{{cite journal |last1=Khuyagbaatar |first1=J. |last2=Yakushev |first2=A. |last3=Dullmann |first3=Ch.E. |last4=Ackermann |first4=D. |last5=Andersson |first5=L.-L. |last6=Asai |first6=M. |last7=Block |first7=M. |last8=Boll |first8=R.A. |last9=Brand |first9=H. |display-authors= 9 |date=2019 |title=Fusion reaction <sup>48</sup>Ca+<sup>249</sup>Bk leading to formation of the element Ts (''Z'' = 117) |journal=Physical Review C |volume=99 |issue=5 |pages=054306-1-054306-16 |url=https://jyx.jyu.fi/bitstream/handle/123456789/63921/1/khuyagbaatarym.pdf |doi=10.1103/PhysRevC.99.054306|bibcode=2019PhRvC..99e4306K |doi-access=free }}</ref>。後に、<sup>281</sup>Dsと<sup>281</sup>Rgの崩壊エネルギー及び<sup>277</sup>Mtの半減期の短さから、この可能性は非常に低いと判断されたが、未だ確実ではない<ref name="2019e117" />。それにも関わらず、<sup>277</sup>Mt及び<sup>277</sup>Hsの半減期が短い核分裂は、N = 168-170 の超重原子核の不安定領域を強く示唆している。この領域の存在は、N = 162 の変形[[殻模型|閉殻]]とN = 184 の球形閉殻の間の{{仮リンク|核分裂障壁|en|Fission_barrier}}の高さの減少が特徴で、理論モデルと合致している<ref name="2012e117" />。
==予測される性質==
核特性を除き、マイトネリウム及びその化合物の性質は測定されていない。これは、合成が非常に限られており、また高価なことと、非常に速く崩壊するためである。金属マイトネリウムの性質は、予測値のみが利用可能である。
===化学的性質===
マイトネリウムは、6dブロックの7番目の[[遷移元素]]である<ref name="DoiX" />。[[イオン化ポテンシャル]]や[[原子半径]]、[[イオン半径]]の計算は、より軽いホモログであるイリジウムと類似しており、そのため、マイトネリウムの基本的な性質は第9族のコバルト、ロジウム、イリジウムと類似していることが示唆される。[[貴金属]]であると予測されている<ref name="Haire" />。
マイトネリウムの化学的性質の予測は、最近あまり関心を持たれていない。[[標準電極電位]]は、Mt<sup>3+</sup> / Mt対に対して0.8 Vと予測される。より軽い第9族元素の最も安定な[[酸化状態]]に基づき、マイトネリウムの最も安定な酸化状態は+6、+3と+1であり、水溶液中では+3の状態が最も安定であると予測される。対照的に、ロジウムやイリジウムの最大酸化状態は+6で、最も安定な状態はイリジウムで+4及び+3、ロジウムで+3である<ref name="Haire" />。[IrO<sub>4</sub>]<sup>+</sup>中にのみ存在するイリジウムの+9の酸化状態は、[IrO<sub>4</sub>]<sup>+</sup>ほど安定ではないものの<ref name="MtX4">{{cite journal|doi=10.1023/B:RUCO.0000026006.39497.82|title=Halides of Tetravalent Transactinides (Rf, Db, Sg, Bh, Hs, Mt, 110th Element): Physicochemical Properties|year=2004|last1=Ionova|first1=G. V.|last2=Ionova|first2=I. S.|last3=Mikhalko|first3=V. K.|last4=Gerasimova|first4=G. A.|last5=Kostrubov|first5=Yu. N.|last6=Suraeva|first6=N. I.|journal=Russian Journal of Coordination Chemistry|volume=30|issue=5|pages=352|s2cid=96127012}}</ref>、九フッ化物(MtF<sub>9</sub>)や陽イオン[MtO<sub>4</sub>]<sup>+</sup>の形で、同族元素であるマイトネリウムでも存在しうると考えられる。マイトネリウムの四ハロゲン化物もイリジウムのものと類似した安定性を持つと予測され、そのため、安定な+4の参加状態を持つと考えられる<ref name="MtX4" />。さらに、[[ボーリウム]](原子番号107)から[[ダームスタチウム]](原子番号100)までの元素の最大の酸化状態は、水溶液ではなく気相で安定すると予測される<ref name="Haire" />。
===物理学的性質===
標準状態では固体で、イリジウムと同様に面心立方格子に結晶化すると考えられる<ref name="bcc" />。実測された中で最も密度が高い[[オスミウム]]の22.61 g/cm<sup>3</sup>に対し、密度が約27-28 g/cm<sup>3</sup>と非常に重い金属である。これは、既知の118個の元素の中で最も大きい値である<ref name=density>{{cite journal |last1=Gyanchandani |first1=Jyoti |last2=Sikka |first2=S. K. |title=Physical properties of the 6 d -series elements from density functional theory: Close similarity to lighter transition metals |journal=Physical Review B |date=10 May 2011 |volume=83 |issue=17 |pages=172101 |doi=10.1103/PhysRevB.83.172101 |bibcode=2011PhRvB..83q2101G }}</ref><ref name=kratz>{{cite book |last1=Kratz |last2=Lieser |title=Nuclear and Radiochemistry: Fundamentals and Applications |date=2013 |page=631 |edition=3rd}}</ref>。また、[[常磁性]]であると予測されている<ref name="paramagnetic">{{cite journal|doi=10.1016/j.adt.2009.06.001|title=Hartree–Fock–Roothaan energies and expectation values for the neutral atoms He to Uuo: The B-spline expansion method|year=2009|last1=Saito|first1=Shiro L.|journal=Atomic Data and Nuclear Data Tables|volume=95|issue=6|pages=836–870|bibcode=2009ADNDT..95..836S }}</ref>。
[[共有結合半径]]はイリジウムよりも6-10 pm大きいと予測されており<ref>{{cite journal|doi=10.1002/chem.200901472|pmid=19856342|title=Molecular Double-Bond Covalent Radii for Elements Li-E112|date=2009|last1=Pyykko |first1=Pekka|last2=Atsumi|first2=Michiko|journal=Chemistry: A European Journal|volume=15|issue=46|pages=12770-9}}</ref>、原子半径は約128 pmと予測される。
==マイトネリウムに関する実験==
マイトネリウムは、化学的性質が調査されていない、周期表上で最初の元素である。同位体の半減期が短く<ref name="Haire" />、小規模での実験が可能な揮発性化合物の数が限られているため、化学的性質はまだはっきりとは分かっていない<ref name="Dullmann">{{cite journal |last1=Dullmann |first1=Christoph E. |date=2012 |title=Superheavy elements at GSI: a broad research program with element 114 in the focus of physics and chemistry |journal=Radiochimica Acta |volume=100 |issue=2 |pages=67-74 |doi=10.1524/ract.2011.1842 |s2cid=100778491 }}</ref><ref name="Mt-chemistry" />。十分な揮発性を持つ可能性がある数少ないマイトネリウムの化合物には、60℃以上で揮発性を持つ
[[六フッ化イリジウム]](IrF<sub>6</sub>)のアナログである[[六フッ化マイトネリウム]](MtF<sub>6</sub>)がある<ref name="DoiX" />。また、揮発性を持つ八フッ化物(MtF<sub>8</sub>)も存在できる可能性がある<ref name="Haire" />。[[超アクチノイド元素]]の化学研究のためには、半減期が1秒以上、1週間に1原子以上の合成速度で、少なくとも4原子以上の合成が必要となる<ref name="DoiX" />。最も安定な<sup>278</sup>Mtの半減期は4.5秒であり、化学研究を行うのに十分な長さを持つが、統計的に有意な結果が得られるよう、実験を数週間から数か月続けるために、合成速度を上げる必要がある。重い元素の収量は軽い元素よりも少ないと予測されるため、気相及び溶液内の化学実験を自動化されたシステムで行うためには、ダームスタチウム同位体の分離と検出を連続して行うことが必要である。このために、[[ボーリウム]]や[[ハッシウム]]の合成で使われた分離技術を再利用することができる。しかし、[[コペルニシウム]]から[[リバモリウム]]までのより重い元素と比べて、マイトネリウムの実験化学に対する関心は高くない<ref name="Haire" /><ref name="Dullmann" /><ref name="Eichler">{{cite journal |last=Eichler |first=Robert |date=2013 |title=First foot prints of chemistry on the shore of the Island of Superheavy Elements |journal=Journal of Physics: Conference Series |publisher=IOP Science |volume=420 |issue=1 |pages=012003 |doi=10.1088/1742-6596/420/1/012003 |arxiv=1212.4292 |bibcode=2013JPhCS.420a2003E |s2cid=55653705 }}</ref>。
ローレンス・バークレー国立研究所は、2002-2003年にかけて、[[不安定核]]領域の[[魔法数]]である162個の中性子を持ち、化学実験を行うのに有望な<sup>271</sup>Mtの合成を試みた。その半減期は数秒と予測され、化学実験を行うのに十分な長さであった<ref name="Haire" /><ref>{{cite journal |last1=Smola?czuk |first1=R. |date=1997 |journal=Phys. Rev. C |volume=56 |pages=812-24|doi=10.1103/PhysRevC.56.812 |title=Properties of the hypothetical spherical superheavy nuclei |issue=2|bibcode = 1997PhRvC..56..812S }}</ref><ref name="EvenInSitu" />。しかし、<sup>271</sup>Mtは検出されず<ref name="GSI2003">Zielinski P. M. et al. (2003). [http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2003/files/2.pdf "The search for <sup>271</sup>Mt via the reaction <sup>238</sup>U + <sup>37</sup>Cl"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120206214022/http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2003/files/2.pdf |date=2012-02-06 }}, ''GSI Annual report''. Retrieved on 2008-03-01</ref>、この同位体は現在でも知られていない<ref name="nuclidetable" />。
超アクチノイド元素の化学的性質を決定する実験では、その元素の化合物を、より軽い同族元素と比較する必要がある<ref name="Haire" />。例えば、[[ハッシウム]]の化学的性質では、[[酸化ハッシウム(VIII)]]とこのアナログとなる[[オスミウム]]化合物の[[酸化オスミウム(VIII)]]を比較する<ref>{{cite web |url=http://lch.web.psi.ch/files/anrep01/B-03heavies.pdf |title=Chemical investigation of hassium (Hs, Z=108) |author=Dullmann, Ch. E for a Univ. Bern - PSI - GSI - JINR - LBNL - Univ. Mainz - FZR - IMP - collaboration |accessdate=15 October 2012 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20140202092852/http://lch.web.psi.ch/files/anrep01/B-03heavies.pdf |archive-date=2 February 2014 }}</ref>。マイトネリウムの化学的性質決定の前段階として、重イオン研究所は、[[ロジウム]]化合物である[[酸化ロジウム(III)]]と[[塩化ロジウム(III)]]の[[昇華 (化学)|昇華]]を試みた。しかし、酸化物では1000℃まで、塩化物では780℃まで、目で見える量の昇華は起こらず、[[炭素]][[エアロゾル]]粒子ができるだけだった。超重元素の化学的性質を調べるのに現在用いている方法は500℃を超えると作動しないため<ref name="Mt-chemistry">{{cite web |url=http://lch.web.psi.ch/files/anrep01/B-06heavies.pdf |title=Thermatographic investigation of Rh and <sup>107</sup>Rh with different carrier gases |author=Haenssler, F. L. |author2=Dullmann, Ch. E. |author3=Gaggeler, H. W. |author4=Eichler, B |accessdate=15 October 2012 }}{{dead link|date=July 2017 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>、この温度は、マイトネリウムに用いるには高すぎる温度だった。
2014年にシーボーギウムのヘキサカルボニル化に成功すると<ref name="carbonyl">{{Cite journal | doi = 10.1126/science.1255720| pmid = 25237098| title = Synthesis and detection of a seaborgium carbonyl complex| journal = Science| volume = 345| issue = 6203| pages = 1491-3| year = 2014| last1 = Even | first1 = J.| last2 = Yakushev | first2 = A.| last3 = Dullmann | first3 = C. E.| last4 = Haba | first4 = H.| last5 = Asai | first5 = M.| last6 = Sato | first6 = T. K.| last7 = Brand | first7 = H.| last8 = Di Nitto | first8 = A.| last9 = Eichler | first9 = R.| last10 = Fan | first10 = F. L.| last11 = Hartmann | first11 = W.| last12 = Huang | first12 = M.| last13 = Jager | first13 = E.| last14 = Kaji | first14 = D.| last15 = Kanaya | first15 = J.| last16 = Kaneya | first16 = Y.| last17 = Khuyagbaatar | first17 = J.| last18 = Kindler | first18 = B.| last19 = Kratz | first19 = J. V.| last20 = Krier | first20 = J.| last21 = Kudou | first21 = Y.| last22 = Kurz | first22 = N.| last23 = Lommel | first23 = B.| last24 = Miyashita | first24 = S.| last25 = Morimoto | first25 = K.| last26 = Morita | first26 = K.| last27 = Murakami | first27 = M.| last28 = Nagame | first28 = Y.| last29 = Nitsche | first29 = H.| last30 = Ooe | first30 = K.| display-authors = 29| bibcode = 2014Sci...345.1491E| s2cid = 206558746}} {{subscription required}}</ref>、[[第7族元素]]から[[第9族元素]]の安定した遷移金属を用いた研究が行われ、[[カルボニル]]の形成を用いて、[[ラザホージウム]]からマイトネリウムまでの6d遷移金属の化学的性質をさらに調べることができることが示唆された<ref>{{cite journal |last=Loveland |first=Walter |date=19 September 2014 |title=Superheavy carbonyls |journal=Science |volume=345 |issue=6203 |pages=1451-2 |doi= 10.1126/science.1259349|pmid=25237088 |bibcode=2014Sci...345.1451L |s2cid=35139846 }}</ref><ref>{{cite conference |url=http://www.epj-conferences.org/articles/epjconf/pdf/2016/26/epjconf-NS160-07008.pdf |title=Chemistry aided nuclear physics studies |last1=Even |first1=Julia |date=2016 |conference=Nobel Symposium NS160 - Chemistry and Physics of Heavy and Superheavy Elements |doi=10.1051/epjconf/201613107008|doi-access=free }}</ref>。それにも関わらず、各々<sup>294</sup>Tsと<sup>288</sup>Mcの崩壊連鎖で生成される可能性のある<sup>278</sup>Mtと<sup>276</sup>Mtは、化学研究を行うのに十分な長寿命ではあるものの、半減期が短く合成が難しいという課題のため、マイトネリウムの化学的性質を調べるのは難しい。[[テネシン]]は標的として希少で半減期の短い[[バークリウム]]を必要とすることから、<sup>276</sup>Mtの方がより適していると考えられる<ref name="Moody">{{cite book |chapter=Synthesis of Superheavy Elements |last1=Moody |first1=Ken |editor1-first=Matthias |editor1-last=Schadel |editor2-first=Dawn |editor2-last=Shaughnessy |title=The Chemistry of Superheavy Elements |publisher=Springer Science & Business Media |edition=2nd |pages=24-8 |isbn=9783642374661|date=November 30, 2013 }}</ref>。<sup>278</sup>Nhの崩壊鎖の中でみられる同位体<sup>270</sup>Mtも、十分な長さの半減期を持つと考えられるが、直接合成の方法と崩壊特性のより正確な測定が必要である<ref name="EvenInSitu">{{cite journal |last=Even |first=J. |display-authors=et al. <!--49 co-authors omitted--> |date=2015 |title=In situ synthesis of volatile carbonyl complexes with short-lived nuclides |journal=Journal of Radioanalytical and Nuclear Chemistry |volume=303 |issue=3 |pages=2457-2466 |doi=10.1007/s10967-014-3793-7 |s2cid=94969336 |url=https://www.researchgate.net/publication/273831463}}</ref>。
==脚注==
{{Notelist}}
==出典==
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="IUPAC94">{{cite journal|doi=10.1351/pac199466122419|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1994)|date=1994|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=66|issue=12|pages=2419–2421}}</ref>
}}
==関連文献==
* {{cite journal |title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties |doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001 |last1=Audi |first1=G. |last2=Kondev |first2=F. G. |last3=Wang |first3=M. |last4=Huang |first4=W. J. |last5=Naimi |first5=S. |display-authors=3 |journal=Chinese Physics C |volume=41 |issue=3 <!--Citation bot deny-->|pages=030001 |year=2017
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A }}<!--for consistency and specific pages, do not replace with {{NUBASE2016}}-->
* {{cite book|last=Beiser|first=A.|title=Concepts of modern physics|date=2003|publisher=McGraw-Hill|isbn=978-0-07-244848-1|edition=6th|oclc=48965418}}
* {{cite book |last1=Hoffman |first1=D. C. |last2=Ghiorso |first2=A. |last3=Seaborg |first3=G. T. |title=The Transuranium People: The Inside Story |year=2000 |publisher=World Scientific |isbn=978-1-78-326244-1}}
* {{cite book |last=Kragh |first=H. |date=2018 |title=From Transuranic to Superheavy Elements: A Story of Dispute and Creation |publisher=Springer Science+Business Media |isbn=978-3-319-75813-8 }}
* {{cite journal|last1=Zagrebaev|first1=V.|last2=Karpov|first2=A.|last3=Greiner|first3=W.|date=2013|title=Future of superheavy element research: Which nuclei could be synthesized within the next few years?|journal=Journal of Physics: Conference Series|volume=420|issue=1|pages=012001|doi=10.1088/1742-6596/420/1/012001|arxiv=1207.5700|bibcode=2013JPhCS.420a2001Z|s2cid=55434734|issn=1742-6588}}
==外部リンク==
* {{Commons category-inline}}
* [http://www.periodicvideos.com/videos/109.htm Meitnerium] at ''The Periodic Table of Videos'' (University of Nottingham)
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帝王賞
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帝王賞(ていおうしょう)は、特別区競馬組合が大井競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(ダートグレード競走、JpnI)である。農林水産大臣より寄贈賞の提供を受けており、正式名称は「農林水産大臣賞典 帝王賞(のうりんすいさんだいじんしょうてん ていおうしょう)」と表記される。
副賞は、農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、日本中央競馬会理事長賞、地方競馬全国協会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、東京都馬主会理事長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞(2022年)。
ダートの実力馬が全国から集い、上半期のダート競馬を締めくくるチャンピオン決定戦。中央との交流戦となった1986年から2023年まで、中央競馬所属馬25勝(同着優勝が1度)、地方競馬所属馬14勝となっている。
第1回は大井競馬場のダート2800mで行われ、距離は1986年から2000mに変更された。1986年4月には「中央競馬招待競走」に指定され、日本中央競馬会(JRA)所属馬が出走可能になったほか、1995年には東京盃・東京大賞典とともに中央・地方全国指定交流競走となった。1989年に札幌競馬場で創設されたブリーダーズゴールドカップ(ホッカイドウ競馬)とともに、中央競馬と地方競馬の全国交流競走としては長い歴史を持つ。
地方競馬所属馬は、下表の競走のいずれかで2着以内の成績を収めた馬に優先出走権が与えられる。なお、かしわ記念で地方競馬他地区所属馬が優先出走権を得た場合は南関東所属馬の出走枠が減らされ、他地区所属馬の出走枠が増やされる。
2022年の賞金額は、1着8000万円、2着2800万円、3着1600万円、4着800万円、5着400万円、着外手当25万円。
なお、国際セリ名簿基準書では1着から5着までの着内賞金の和を「purse(賞金総額)」と紹介している。
大井競馬場のダートコース、外回り2000mを使用。
スタート地点は外回りコースと内回りコースの合流点手前で、右回りに1周する。スタートから第1コーナーまで長い直線が続き、第4コーナーを回ってからゴールまでの直線も長く、距離2000mはダート競馬のチャンピオンディスタンスとされている。
すべて大井競馬場ダートコースで施行。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
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] |
帝王賞(ていおうしょう)は、特別区競馬組合が大井競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(ダートグレード競走、JpnI)である。農林水産大臣より寄贈賞の提供を受けており、正式名称は「農林水産大臣賞典 帝王賞」と表記される。 副賞は、農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、日本中央競馬会理事長賞、地方競馬全国協会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、東京都馬主会理事長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞(2022年)。
|
{{競馬の競走
|馬場 = ダート
|競走名 = 帝王賞<br />Teio Sho<ref name="ICSBook"/>
|画像 = [[File:第46回帝王賞ゴール.jpg|285px]]
|画像説明 = 第46回帝王賞<br />優勝馬:[[メイショウハリオ]] 鞍上:[[浜中俊]]
|開催国 = {{Flagicon|JPN}}[[日本の競馬|日本]]
|主催者 = [[特別区競馬組合]]([[南関東公営競馬|南関東公営]])
|開催地 = [[大井競馬場]]
|年次 = 2022
|格付け = JpnI
|1着賞金 = 8000万円
|賞金総額 =
|距離 = 2000[[メートル|m]]
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド]]系4歳以上(指定交流)}}
|負担重量 = 定量(57[[キログラム|kg]]、[[牝馬]]55kg、南半球産4歳1kg減)
|創設 = 1978年4月27日
|出典 = <ref name="bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2022/06/kettei_r04_06.pdf|title=令和4年度第6回大井競馬競走番組表(決定)|website=東京シティ競馬:TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2022-06-27}}</ref>
}}
'''帝王賞'''(ていおうしょう)は、[[特別区競馬組合]]が[[大井競馬場]]で施行する[[地方競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[ダートグレード競走]]、[[G1 (競馬)|JpnI]])である。[[農林水産大臣]]より寄贈賞の提供を受けており、正式名称は「'''[[農林水産大臣賞典]] 帝王賞'''(のうりんすいさんだいじんしょうてん ていおうしょう)」と表記される。
副賞は、農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、[[日本中央競馬会]]理事長賞、[[地方競馬全国協会]]理事長賞、[[日本馬主協会連合会]]長奨励賞、東京都馬主会理事長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞(2022年)<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.nagoyakeiba.com/info/race/file/10a878170313e44174fdca31b6653dc1a106894a.pdf|title=大井競馬出走馬一覧表令和4年度第6回大井競馬第3日6月29日(水)|website=名古屋けいばオフィシャルサイト|accessdate=2022-06-27}}</ref>。
== 概要 ==
ダートの実力馬が全国から集い、上半期のダート競馬を締めくくるチャンピオン決定戦<ref name="TCK2021" />。中央との交流戦となった1986年から2023年まで、中央競馬所属馬25勝(同着優勝が1度)、地方競馬所属馬14勝となっている<ref name="alacarte" />。
第1回は大井競馬場のダート2800mで行われ、距離は1986年から2000mに変更された。1986年4月には「中央競馬招待競走」に指定され、[[日本中央競馬会]](JRA)所属馬が出走可能になった<ref name="history_80" />ほか、1995年には[[東京盃]]・[[東京大賞典]]とともに中央・地方全国指定交流競走となった<ref name="history_90" />。1989年に[[札幌競馬場]]で創設された[[ブリーダーズゴールドカップ]]([[ホッカイドウ競馬]])とともに、中央競馬と地方競馬の全国交流競走としては長い歴史を持つ。
=== 競走条件(2022年) ===
;出走資格
:[[サラブレッド]]系4歳以上。フルゲート16頭(中央競馬所属馬の出走枠は7頭)。
;負担重量
:定量(57kg、[[牝馬]]55kg、南半球産4歳1kg減<ref name="bangumi"/>)
==== 優先出走権 ====
地方競馬所属馬は、下表の競走のいずれかで2着以内の成績を収めた馬に優先出走権が与えられる<ref name="bangumi"/>。なお、かしわ記念で地方競馬他地区所属馬が優先出走権を得た場合は南関東所属馬の出走枠が減らされ、他地区所属馬の出走枠が増やされる。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!競走!!格!!競馬場!!距離!!備考
|-
|[[かしわ記念]]||JpnI||[[船橋競馬場]]||ダート1600m||
|-
|[[大井記念]]||SI||大井競馬場||ダート2000m||2013年までダート2600mで施行<br>2018年より格が「SI」に変更
|}
=== 賞金 ===
2022年の賞金額は、1着8000万円、2着2800万円、3着1600万円、4着800万円、5着400万円<ref name="bangumi"/>、着外手当25万円<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2022/03/keiba_bangumi_2022.pdf#page=29 |title=令和4年度大井競馬番組 |publisher=特別区競馬組合 |page=27 |accessdate=2022-06-27}}</ref>。
なお、[[国際セリ名簿基準書]]では1着から5着までの着内賞金の和を「purse(賞金総額)」と紹介している<ref name="ICSBook"/>。
=== コース ===
大井競馬場のダートコース、外回り2000mを使用<ref name="TCK2021" />。
スタート地点は外回りコースと内回りコースの合流点手前で、右回りに1周する。スタートから第1コーナーまで長い直線が続き<ref name="TCK2021" />、第4コーナーを回ってからゴールまでの直線も長く、距離2000mはダート競馬のチャンピオンディスタンスとされている<ref name="TCK2021" />。
== 歴史 ==
=== 年表 ===
* 1978年 - 5歳以上の馬による重賞競走として創設。
* 1986年 - 中央競馬招待競走に指定、JRA所属馬が出走可能になる<ref name="history_80" />。
* 1992年 - [[ナリタハヤブサ]]、ラシアンゴールドの1着同着。
* 1994年 - 本年以降、[[ナイター競走]](トゥインクルレース)で施行。
* 1995年
** 中央・地方全国指定交流競走に指定<ref name="history_90" />。
** 南関東グレード制施行により南関東G1に格付け。
** 1着賞金が7000万円に増額。
* 1996年
** 施行時期を4月から6月に変更。
** 当日の入場者数が77818人を記録し、大井競馬場の入場者レコードとなる。
* 1997年
** [[ダートグレード競走]]として、統一GIに格付け。
** 1着賞金が7100万円に増額。
* 1999年 - 売得金額が15億7686万8500円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。
* 2001年
** 馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件を「4歳以上」に変更。
** 1着賞金が8000万円に増額。
* 2005年 - 1着賞金が7000万円に減額。
* 2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更。なお、南関東グレードは併記しないことになった。
* 2009年 - 中央競馬所属馬の出走枠が5頭から6頭に、南関東所属馬の出走枠が8頭から7頭にそれぞれ変更。
* 2011年 - 1着賞金が6000万円に減額。
* 2016年
** 中央競馬所属馬の出走枠が1頭増えて7頭となる<ref>{{Cite news|url=https://race.sanspo.com/keiba/news/20151206/etc15120609270001-n1.html|title=地方競馬の交流重賞で中央馬の出走枠が拡大|newspaper=サンケイスポーツ|date=2015-12-06|accessdate=2016-06-27}}</ref>。
** 売得金額が17億1108万1700円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も22636人を記録。
* 2017年 - 売得金額が19億671万3300円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も22875人を記録。
* 2018年 - 売得金額が19億1350万円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も23885人を記録。
* 2019年 - 売得金額が25億1913万5600円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も29584人を記録。
* 2020年
** [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の流行により[[無観客試合#競馬|無観客開催]]。
** 売得金額が29億2995万8400円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。
* 2021年
** 1着賞金が7000万円に増額。
** 売得金額が42億9702万5800円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。
* 2022年 - 1着賞金が8000万円に増額<ref>[https://www.nankankeiba.com/grace_list/2022.do 重賞競走日程 2022年4月~2023年3月] - 南関東4競馬場公式ウェブサイト、2022年3月4日閲覧</ref>。
* 2023年 - 売得金額が44億881万600円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も17744人を記録。
== 歴代優勝馬 ==
すべて大井競馬場ダートコースで施行。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||style="white-space:nowrap"|1978年4月27日||2800m||ローズジヤツク||牡5||[[大井競馬場|大井]]||2:59.1||阪本泰之||荒居貴美夫||阪本栄
|-
|style="text-align:center"|第2回||1979年4月23日||2800m||ハツマモル||牡4||大井||2:58.2||style="white-space:nowrap"|福永二三雄||朝倉文四郎||山岡初太郎
|-
|style="text-align:center"|第3回||1980年4月10日||2800m||[[カツアール]]||牡4||大井||3:00.6||[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]||秋谷元次||栗林英雄
|-
|style="text-align:center"|第4回||1981年4月28日||2800m||[[アズマキング]]||牡4||大井||2:57.1||岡部盛雄||岡部猛||(有)上山ビル
|-
|style="text-align:center"|第5回||1982年4月19日||2800m||コーナンルビー||牝4||大井||2:57.8||[[堀千亜樹]]||遠間波満行||越路玄太
|-
|style="text-align:center"|第6回||1983年4月18日||2800m||トラストホーク||牡5||大井||3:02.1||高橋三郎||武智一夫||菅波滿
|-
|style="text-align:center"|第7回||1984年4月11日||2800m||[[スズユウ]]||牡6||大井||3:01.5||石川綱夫||朝倉文四郎||鈴木榮治
|-
|style="text-align:center"|第8回||1985年4月18日||2800m||[[ロツキータイガー]]||牡4||[[船橋競馬場|船橋]]||3:00.2||[[桑島孝春]]||泉孝||児玉孝
|-
|style="text-align:center"|第9回||1986年4月9日||2000m||トムカウント||牡7||船橋||2:05.9||[[石崎隆之]]||江川秀三||藤田松己
|-
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|第10回||1987年4月8日||2000m||[[テツノカチドキ]]||牡7||大井||2:07.5||[[佐々木竹見]]||大山末治||(株)勝俣工務店
|-
|style="text-align:center"|第11回||1988年4月13日||2000m||[[チヤンピオンスター]]||牡4||大井||2:07.0||桑島孝春||秋谷元次||坪野谷純子
|-
|style="text-align:center"|第12回||1989年4月12日||2000m||[[フエートノーザン]]||牡6||[[笠松競馬場|笠松]]||2:07.3||[[安藤勝己]]||吉田秋好||高橋義和
|-
|style="text-align:center"|第13回||1990年4月11日||2000m||オサイチブレベスト||牡6||[[日本中央競馬会|JRA]]||2:07.6||[[丸山勝秀]]||土門一美||野出長一
|-
|style="text-align:center"|第14回||1991年4月3日||2000m||チヤンピオンスター||牡7||大井||2:05.2||高橋三郎||飯野貞次||坪野谷純子
|-
|style="text-align:center" rowspan="2"|第15回||rowspan="2"|1992年4月15日||rowspan="2"|2000m||[[ナリタハヤブサ]]||牡5||JRA||rowspan="2"|2:06.6<br />(同着)||[[横山典弘]]||[[中尾謙太郎]]||[[山路秀則]]
|-
|ラシアンゴールド||牡4||JRA||[[蛯名正義]]||[[大久保洋吉]]||大原詔宏
|-
|style="text-align:center"|第16回||1993年4月12日||2000m||[[ハシルショウグン]]||牡5||大井||2:05.5||[[的場文男]]||[[赤間清松]]||渡辺典六
|-
|style="text-align:center"|第17回||1994年4月11日||2000m||スタビライザー||牡6||JRA||2:04.7||[[柴田善臣]]||高橋英夫||(株)ホースマン
|-
|style="text-align:center"|第18回||1995年4月13日||2000m||[[ライブリマウント]]||牡4||JRA||2:03.7||[[石橋守]]||[[柴田不二男]]||加藤哲郎 他2名
|-
|style="text-align:center"|第19回||1996年6月19日||2000m||[[ホクトベガ]]||牝6||JRA||2:04.2||横山典弘||[[中野隆良]]||金森森商事(株)
|-
|style="text-align:center"|第20回||1997年6月24日||2000m||[[コンサートボーイ]]||牡5||大井||2:04.9||的場文男||栗田繁||森杉茂
|-
|style="text-align:center"|第21回||1998年6月24日||2000m||[[アブクマポーロ]]||牡6||船橋||2:03.5||石崎隆之||[[出川克己]]||鑓水秋則
|-
|style="text-align:center"|第22回||1999年6月24日||2000m||[[メイセイオペラ]]||牡5||[[水沢競馬場|水沢]]||2:04.0||[[菅原勲]]||[[佐々木修一]]||(有)明正商事
|-
|style="text-align:center"|第23回||2000年6月22日||2000m||[[ファストフレンド]]||牝6||JRA||2:05.6||蛯名正義||[[高市圭二]]||竹﨑大晃
|-
|style="text-align:center"|第24回||2001年6月26日||2000m||[[マキバスナイパー]]||牡6||船橋||2:04.4||[[ケント・デザーモ|K.デザーモ]]||[[岡林光浩]]||新田知也
|-
|style="text-align:center"|第25回||2002年6月18日||2000m||[[カネツフルーヴ]]||牡5||JRA||2:03.7||[[松永幹夫]]||[[山本正司]]||(株)ローレルレーシング
|-
|style="text-align:center"|第26回||2003年6月25日||2000m||[[ネームヴァリュー]]||牝5||船橋||2:04.6||[[佐藤隆 (競馬)|佐藤隆]]||[[川島正行]]||(有)飛野牧場
|-
|style="text-align:center"|第27回||2004年6月30日||2000m||[[アドマイヤドン]]||牡5||JRA||2:04.0||安藤勝己||[[松田博資]]||[[近藤利一]]
|-
|style="text-align:center"|第28回||2005年6月29日||2000m||[[タイムパラドックス (競走馬)|タイムパラドックス]]||牡7||JRA||2:03.5||[[武豊]]||松田博資||(有)[[社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center"|第29回||2006年6月28日||2000m||[[アジュディミツオー]]||牡5||船橋||2:02.1||[[内田博幸]]||川島正行||織戸眞男
|-
|style="text-align:center"|第30回||2007年6月27日||2000m||[[ボンネビルレコード]]||牡5||JRA||2:04.3||的場文男||[[堀井雅広]]||塩田清
|-
|style="text-align:center"|第31回||2008年6月25日||2000m||[[フリオーソ (2004年生)|フリオーソ]]||牡4||船橋||2:04.7||[[戸崎圭太]]||川島正行||[[ダーレー・ジャパン|ダーレー・ジャパン・ファーム]](有)
|-
|style="text-align:center"|第32回||2009年6月24日||2000m||[[ヴァーミリアン]]||牡7||JRA||2:03.6||武豊||[[石坂正]]||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第33回||2010年6月30日||2000m||フリオーソ||牡6||船橋||2:03.4||戸崎圭太||川島正行||ダーレー・ジャパン・ファーム(有)
|-
|style="text-align:center"|第34回||2011年6月29日||2000m||[[スマートファルコン]]||牡6||JRA||2:01.1||武豊||[[小崎憲]]||大川徹
|-
|style="text-align:center"|第35回||2012年6月27日||2000m||[[ゴルトブリッツ]]||牡5||JRA||2:03.0||[[川田将雅]]||[[吉田直弘]]||(有)[[キャロットファーム]]
|-
|style="text-align:center"|第36回||2013年6月26日||2000m||[[ホッコータルマエ]]||牡4||JRA||2:03.0||[[幸英明]]||[[西浦勝一]]||[[矢部幸一]]
|-
|style="text-align:center"|第37回||2014年6月25日||2000m||[[ワンダーアキュート]]||牡8||JRA||2:03.5||武豊||[[佐藤正雄]]||山本信行
|-
|style="text-align:center"|第38回||2015年6月24日||2000m||ホッコータルマエ||牡6||JRA||2:02.7||幸英明||西浦勝一||[[矢部道晃]]
|-
|style="text-align:center"|第39回||2016年6月29日||2000m||[[コパノリッキー]]||牡6||JRA||2:03.5||武豊||[[村山明 (競馬)|村山明]]||[[小林祥晃]]
|-
|style="text-align:center"|第40回||2017年6月28日||2000m||[[ケイティブレイブ]]||牡4||JRA||2:04.4||[[福永祐一]]||[[目野哲也]]||瀧本和義
|-
|style="text-align:center"|第41回||2018年6月27日||2000m||[[ゴールドドリーム]]||牡5||JRA||2:04.2||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[平田修]]||[[吉田勝己]]
|-
|style="text-align:center"|第42回||2019年6月26日||2000m||[[オメガパフューム]]||牡4||JRA||2:04.4||[[ダミアン・レーン|D.レーン]]||[[安田翔伍]]||原禮子
|-
|style="text-align:center"|第43回||2020年6月24日||2000m||[[クリソベリル (競走馬)|クリソベリル]]||牡4||JRA||2:05.3||川田将雅||[[音無秀孝]]||(有)キャロットファーム
|-
|style="text-align:center"|第44回||2021年6月30日||2000m||[[テーオーケインズ]]||牡4||JRA||2:02.7||[[松山弘平]]||[[高柳大輔]]||[[小笹公也]]
|-
|style="text-align:center"|第45回||2022年6月29日||2000m||[[メイショウハリオ]]||牡5||JRA||2:03.3||[[浜中俊]]||[[岡田稲男]]||[[松本好雄]]
|-
|style="text-align:center"|第46回||2023年6月28日||2000m||メイショウハリオ||牡6||JRA||2:01.9||浜中俊||岡田稲男||松本好雄
|}
== 帝王賞の記録 ==
* 最多優勝馬 - 2勝
** チャンピオンスター(第11回・第14回)、フリオーソ(第31回・第33回)、ホッコータルマエ(第36回・第38回)、メイショウハリオ(第45回・第46回)
* 最多優勝騎手 - 5勝
** 武豊(第28回・第32回・第34回・第37回・第39回)
* 最多勝調教師 - 4勝
** 川島正行(第26回・第29回・第31回・第33回)
* 最多勝利種牡馬 - 4勝
** [[ゴールドアリュール]](第34回・第39回・第41回・第43回)
:※第46回終了時点<ref name="alacarte" />
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
-->
=== 出典 ===
{{Reflist |refs=
<!--概要-->
* <ref name="ICSBook">{{Cite web |format=PDF |url=http://www.tjcis.com/pdf/icsc14/ICSC-partI_Japan.pdf |title=International Cataloguing Standards Book 2014 (Japan) |accessdate=2014-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200923214931/http://www.tjcis.com/pdf/icsc14/ICSC-partI_Japan.pdf |archivedate=2020-09-23 |deadlinkdate=2021-06-30}}</ref>
* <ref name="TCK2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/grade_race/2021-06-30/ |title=第44回 帝王賞(JpnI) |website=東京シティ競馬 |accessdate=2021-06-30}}</ref>
* <ref name="alacarte">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.tokyocitykeiba.com/data/wp-content/uploads/sites/5/2022/06/30daefcf64f1928d8e53501e3803eb1f.pdf |title=帝王賞(JpnI)アラカルト(過去全 44 回の分析) |website=東京シティ競馬 |accessdate=2022-06-27}}</ref>
* <ref name="history_80">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyocitykeiba.com/guide/history/ |title=TCKヒストリー(80's 日本初 トゥインクルレース開催へ) |website=東京シティ競馬 |accessdate=2015-04-04}}</ref>
* <ref name="history_90">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyocitykeiba.com/guide/history/ |title=TCKヒストリー(90's 新しい競馬の幕開け) |website=東京シティ競馬 |accessdate=2015-04-04}}</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* [https://www.nankankeiba.com/win_uma/13.do 帝王賞競走優勝馬] - 南関東4競馬公式サイト
== 関連項目 ==
{{Wikinews|第37回帝王賞はワンダーアキュートが制覇、武豊騎手は101回目のG1勝利|date=2014年6月28日}}
* [[かしわ記念]]
* [[東海ステークス]] - 2012年まで中央競馬における本競走の前哨戦として位置付けられていた競走。
* [[平安ステークス]] - 2013年から中央競馬における本競走の前哨戦として位置付けられている競走。東海ステークスとの施行時期交換によるもの。
* [[大井記念]] - 1996年から本競走の前哨戦として位置付けられている南関東重賞競走。
* [[STARHORSE2]] - セガ(後の[[セガ・インタラクティブ]])のメダル競馬ゲーム。FOURTH AMBITIONより地方競馬初として当レースが導入されている(『[[STARHORSE3]] Season II』より、大井開催の他2つのGI・JpnIが、『STARHORSE3 Season V』よりJpnII[[東京盃]]が導入されている)。
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyocitykeiba.com/race/grade_race/2023-06-28/ TCK公式サイト「レースと日程」から](2023年版)
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住宅
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住宅(じゅうたく、英語: house, あるいはresidence)は、人の居住を用途とする建築物。「住居」とも言う。
住宅にはさまざまな機能が存在するが、最も重要なものは外部の危険から居住者を守る機能である。この危険は雨や風、寒さや暑さなどといった日常的なものから、台風などの突発的な自然災害に至るまで多岐にわたる。これと同様に、居住者が快適に生活を営むことのできる機能も重要である。居住者は住宅内部において睡眠を取り、食事をし、家庭を持っている場合は育児や団欒、介護などの家庭生活を行い、また趣味や休息などを含む日常生活の大きな部分を住宅内において過ごす。家族が暮らしている場合、住居には食事や団欒、来客対応といった家族・他者との生活部分と、勉強や休養、就寝といった純粋に私的な部分の2つの役割が存在し、前者は居間などで、後者はおのおのの個室で主に行われる。
住宅は人の生活の拠点であり、居住者は住宅内部で長い時間を過ごすため、住宅の質は人の健康に大きな影響を与える。住宅建設の際、日照や採光、通風などを考慮し、湿度や空気のよどみなどを避けることが健康的な生活につながる。建材などに含まれる化学物質など、住居における何らかの要因で体調不良を起こすシックハウス症候群と呼ばれる病気も存在する。階段や段差といった障害で転倒するなど、住宅内での事故も多く、この対策として住居内の段差を減らしたり、動線を改良し通路を広げ手すりをつけるなどして移動しやすい住居にし、浴槽を低いものにして浴室の床を滑りにくくするなど、障害を減らし高齢者でも安全に暮らせるバリアフリー住宅の建設も増加傾向にある。
住宅の形状はその土地の気候条件、およびそれに応じてその土地で取れる材料によって規定されるものである。だが、現地の文化によっても大きく左右される。男性と女性の居住空間を分離する文化のある民族は珍しくなく、基本的に一室しかない遊牧民の移動式住居においても、男女の生活スペースが定められていたり、男女間に幕などによって物理的に仕切りを作る場合がある。また、住居の構造はしばしば宇宙観や宗教論と結びつけられることがあり、風水のように周辺の環境とも関連付けて考えられることがある。
遙かな古代には人類は採集のために移動生活を行っていて、ごく初期には洞窟など居住に適した地形を見つけ暮らしており、やがてキャンプ地で手に入るものを寄せ集めて風雨をしのぐための仮の建築物をつくるようになった。これが住宅の起こりである。この時期は移動して生きていたので住居はテントや掘立小屋程度のものだった。
やがて定住を行うようになるとともに、固定的な、容易に移動できない住居をつくるようになった。
人類は定住するに当たり、まずはその近辺に豊富にある材料を寄せ集めて住宅を作った。このため世界各地でその風土ごとの様々な材料の住宅が存在するようになった。なお、こうして近隣で豊富に取れる材料を使って住宅を建設することは近代にいたるまで一般的であった。土や粘土は主要な建築材料のひとつであり、中東などの乾燥地においては、泥を型に入れ乾かすことで簡単につくれ断熱性に優れる日干し煉瓦(en:Mudbrick)が古代より主要な建築材料となっていた。一方高温多湿な熱帯やモンスーン地帯においては、軽量で風通しがよく雨に強い木材を使用することが一般的だった。高温湿潤地域においては、竹も主要な建築材料だった。湿地帯においては外装材に葦が多用された。石材も、どの文明でも使用された。特殊な建材としては、北極圏のイヌイットは冬季の住居に氷のブロックを用い、イグルーを建造していた。コンクリートも、古代エジプト、古代ローマの時代から、建築材料のひとつとして使われていた。特に古代ローマ帝国の技術者たちが使うローマン・コンクリートは優れており石材と組み合わせて使用された。
一方、移動の多い遊牧民などは住居として動物の毛皮や皮革などを使ったテントを設営した。
また地上に家屋を構えるのではなく、乾燥地においては地面を掘り下げたり地下に穴を掘って住居を建設することも近代にいたるまで行われていた。黄土高原における窰洞やカッパドキア・カイマクルの地下都市、チュニジアの旧マトマタなどがよく知られた例である。
住宅建設の技術が進むにつれて、その形状もその場所の環境に合うように変化を遂げていった。寒冷な地域においては炉(en:hearth)や囲炉裏などといった暖を取るための設備が重視され、多湿地域においては湿気を避けるためにしばしば建物は高床建物となった。また乾燥地域では降雨に対応する必要がないため屋根は平らなものとなる一方、多雨地域では雨を流すよう屋根に角度がつけられていることがほとんどである。他者の襲撃が絶えなかった地域においては住居は防御力を重視して建造され、西アフリカの環状住居や中国南部の土楼のようにいくつもの住居をつないだ小要塞を建造したり、またニューギニア島の一部民族のように樹上住居を建設した民族も存在する。こうしたさまざまな素材・様式の住居は居住者の行動を規定し、生活様式に大きな影響を与えた。
産業革命以降、都市への急速な人口集中によってさまざまな「住宅問題」が発生するようになった。都市中心部には低賃金労働者が集中してスラムなど不良住宅地区が生まれ、それを嫌ったブルジョワジーたちは郊外に自宅を構え、都心部のオフィスへと通勤するようになった。こうして19世紀には職住分離が一般化し、通勤需要をまかなうための公共交通機関の発達もはじまって、都心と郊外による都市圏が成立した。一方、労働者層の住宅問題は深刻化し、いくつかの対策が検討されるようになった。こうした対策の一つとして、1898年にはエベネザー・ハワードが明日-真の改革にいたる平和な道によって自然と共存し自立した都市近郊の小都市論、いわゆる田園都市構想を提唱した。また衛生面における住宅改善の必要性は、ル・コルビュジエらに影響を与えた。
都市への人口集中は地価の高騰をもたらし、大都市圏では一戸建ての率が目立って減少し、住宅は集合化・高層化の道をたどった。また住宅が都市のはるか遠方にまで連なるようになり、通勤時間の増大を招くこととなった。貧困のため満足な設備のない住居に居住する人口は現代においても非常に多く、特に途上国では大規模な不法居住地区にスラムが広がっている都市も多い。
19世紀後半に鋼鉄材で強化されたコンクリートすなわち鉄筋コンクリートの技術が開発され、同世紀末にその特許を取得する人なども現れ、これも利用されるようになっていった。
その他、さまざまな分類がある。
間取りとは住宅の部屋の配置のこと。英語ではプラン(plan)と言う。
たとえば台所、居間、寝室、トイレ、浴室などが相対的にどういう位置関係に配置されているか、また東西南北の位置の違いによる日照条件の差なども考慮して相対的にどの方角に配置されているかということ。
また「間取り」でその配置を決定することも言い、その場合は「平面計画」や "平面図の作成 " とほぼ同義になる。
家庭用の家庭菜園も含め、住宅の庭は、最も一般的な庭の形態であり、「前庭」や「後庭」など住居の側にあり、前庭はフォーマルかつ半公共の場である可能性もあるため、条約や現地の法律の制約を受ける。通常屋外空間のヤードは住宅の庭を上に設けることができる屋根庭園、吹き抜けや中庭、バルコニー、windowboxesまたは上のパティオなどがある。住宅用庭園は、ほとんどの場合個人用に設計されているため、一般的に人間規模で設計されているが、素晴らしい家や広い敷地の庭は、公共の公園よりも大規模な場合もある。
住宅用庭園は、ある特定種類の植物を展示するための特殊な庭園であっても、またはロッカリーであってもまたは水の特徴などの特殊な特徴を備えていても、かまわないがそれらはまたハーブや野菜栽培にも使用されているため、持続可能性においては重要な要素である。
裏庭は本邸が周囲の庭園を2つに分けると発生している。これは特にイギリスの都市や町の高密度住宅で起こり、20世紀のイギリス郊外の典型的な半戸建て住宅には道路に面してアクセスできる正面庭園があり、そのような場合の裏庭はより隔離され、アクセスは一般的に住居を経由するか、側方を通る道で行われる。各国のフロントガーデンは半公共のスペースであるため、条約や法律の制約を受けているが、裏庭はよりプライベートでカジュアルなものであり、そのためより多くの目的に使用される。
機能的には、以下の用途に使用できる。
また、給排水(上水道・下水道)、電気関連(電力量計、配電盤、ブレーカー、屋内配線、コンセント類)、ガス関連(ガスメーター、屋内ガス管 等々)の設備もある。
住宅の建設は、まず建設用の宅地の入手からはじまる。用地を確保したら、建築主は業者に住宅の建設を依頼する。
業者が建築主となって建築する場合と、個人が建築主となって建築する場合がある。特に集合住宅や建売住宅(たてうりじゅうたく)の場合は、業者が建築する。
個人が住宅を建てる場合、ハウスメーカーや工務店といった建築業者に直接依頼するほか、建築設計事務所に依頼して自らの希望を強く反映させることもできる。工事に取りかかる前には状況に応じて地質調査を行い、必要のある場合は適宜改良工事を実施して建設できる状態にする。
完成した住宅は、時間の経過や使用状況によって劣化が進んでいくため、適切なメンテナンスは不可欠である。また、家族のライフサイクルによって居住者の要求は変化するため、それに応じた増改築やリフォームが行われる場合もある。
住宅の寿命は国によって異なり、2000年代においては、ヨーロッパやアメリカにおいては80年以上の国が多い。対して日本では立て直しのサイクルが早いため、平均寿命は30年となっている。
一方、転職や転勤、進学などによる転居はめずらしくない。不要となった住宅は解体されるか、需要のある場合は中古住宅市場において売却される。中古住宅はアメリカなどいくつかの国では盛んに売買されるものの、日本では新築住宅に比べ非常に流通が少なく、売買は低調なものとなっている。
日本では既存住宅の流通市場がうまく形成されておらず、空家(あきや)問題発生の原因となっている。空家問題は国家レベルの大問題となっており、日本政府は既存住宅の流通促進に取り組んでいる。2010年ころから2020年ころにかけて、日本でも中古住宅市場が成長した。
住宅自体を移築することはほとんどないが、わずかな距離の移動の場合、住宅自体を曳いて移動させる曳家が行われることがある。また古民家など古く価値のある建築の場合は、解体した上で移築がなされる場合もある。
住宅はまったく無制限に建設できるわけではなく、多くの国家において建築基準や建設できる地域が指定されており、日本においても建築基準法において基本的な建築基準が決められている。また都市計画法によって都市計画区域内の市街化区域において13の用途地域が定められていて、このうち第一種低層住居専用地域、第二種低層住居専用地域、第一種中高層住居専用地域、第二種中高層住居専用地域、第一種住居地域、第二種住居地域、準住居地域、田園住居地域の8つが主に住居用途として指定された地域であるが、それ以外の地域でも工業専用地域を除くすべての用途地域で住宅を建設することはできる。ただし良好な住宅環境を守るため、住居用途地域においては住居以外の建物に一定の用途制限が課されている。日本の用途制限は、諸外国に比べ厳しくないとされている。
生活の基本要素を指す「衣食住」という言葉が存在するように、住宅は人間の生活にとって不可欠なものである。しかし住宅はこの三要素の中でも飛び抜けて高額なものであり、十分な質の住宅を確保できない人々は世界中に数多く存在する。定まった住居を持つことができず路上生活や野宿を余儀なくされる人々はホームレスと呼ばれ、社会の最貧困層となっている。また、野宿とまでは行かなくとも、やはり住居を持てず簡易宿泊所などに泊まらざるを得ない人々も存在する。すべての人間が適切な住居に居住することができるという権利は居住の権利と呼ばれ、社会権に属する。1948年に国際連合総会で採択された世界人権宣言では、25条1項においてこの権利が規定されている。地主に対して家賃の値下げ、住環境の整備を訴えたり、行政機関に対して公営住宅の拡充を求める社会運動を借家人運動と呼ぶ。
適切な住宅の供給は社会福祉において重要な論点の一つであり、各国政府は公営住宅の建設をはじめとするさまざまな住宅政策を実施している。日本では第二次世界大戦後、地方公共団体が低所得者層に供給する公営住宅、日本住宅公団が中所得者に集合住宅や分譲住宅を開発して提供する公団住宅、そして中所得者層に低利の融資を行い住宅建設を促進する住宅金融公庫が設立され、20世紀末に縮小・廃止されるまで住宅の安定供給に大きな役割を果たしてきた。また福利厚生の一環として、社員に社宅や寮を提供している会社も多い。ただし、多くの国において主に住宅を建設しているのは民間である。住宅地を開発し、住宅を建設して販売する産業は住宅産業と総称される。住宅関連の産業としては、大規模な宅地造成やマンション建設を行うデベロッパーをはじめ、主に戸建て住宅の建設を行うハウスメーカーや工務店といった住宅建設企業、完成した住居の売買や賃貸を行う不動産業、さらには住宅設計や住宅設備など、その分野は多岐にわたる。
住宅の所有形態は自己が所有し居住する持ち家と、他人が所有する住宅を借りて居住する賃貸住宅の2つが存在する。日本の持ち家率は2018年時点で61.2%にのぼる。諸外国の持ち家率は国によって異なるものの、先進国ではおおむね2000年代前半で5割から7割程度のところが多い。また、多くの国で賃貸住宅に比べ持ち家のほうが平均面積は広い。
住宅は必需品である上に高額な商品であるため、住宅産業が経済に占める割合は大きく、その経済波及効果も大きなものである。しかし、特に都市部においては旺盛な需要に対し供給が十分でないことが多く、さらに投機的資金が流入しやすいこともあって、住宅用の土地および住宅価格の高騰がしばしば問題となる。たとえば日本では、1970年代から1980年代末のバブル経済期にかけて地価が暴騰し、住宅の建設にも悪影響を及ぼした。こうした住宅バブルは世界的にしばしば発生しており、なかでも2007年にアメリカでサブプライム・ローンが不良債権化して起きたサブプライム住宅ローン危機は翌年のリーマン・ショックへとつながり、世界金融危機 (2007年-2010年)を引き起こして世界経済に大打撃を与えた。一方で、日本では過疎化や高齢化、土地登記の煩雑さなどから2010年代に入り空き家の数が急増し、社会問題となっている。
日本の国土交通省(旧建設省所管)の市街地のまちづくり活性事業において、住宅対策事業はつぎの施策を行っている。市街地住宅の供給施策(住宅局住宅建設課市街地住宅整備室所管)は、以下のものがある。
ほか、住宅市街地開発事業では、新住宅市街地開発事業、住宅街区整備事業がある。
日本の厚生労働省の定義では、同一住居・同一生計の集まりのことを世帯と呼ぶ。世帯と家族とは異なる概念であり、同じ家族に属していても単身赴任や進学などで別居している場合は別世帯扱いとなる。
日本の国勢調査では、完全に区画された建物の一部で、一つの世帯が独立して家庭生活を営む事が出来るように建築又は改造されたものを住宅としている。「住宅ではないもの」としては、会社や学校の寮・寄宿舎、病院・療養所、ホテル、下宿屋、旅館・宿泊所、臨時応急的に建てられた建物などが挙げられる。国勢調査では、学校の寮・寄宿舎、病院・療養所、社会施設、自衛隊営舎、矯正施設などは「施設」として扱われる。
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"text": "住宅はまったく無制限に建設できるわけではなく、多くの国家において建築基準や建設できる地域が指定されており、日本においても建築基準法において基本的な建築基準が決められている。また都市計画法によって都市計画区域内の市街化区域において13の用途地域が定められていて、このうち第一種低層住居専用地域、第二種低層住居専用地域、第一種中高層住居専用地域、第二種中高層住居専用地域、第一種住居地域、第二種住居地域、準住居地域、田園住居地域の8つが主に住居用途として指定された地域であるが、それ以外の地域でも工業専用地域を除くすべての用途地域で住宅を建設することはできる。ただし良好な住宅環境を守るため、住居用途地域においては住居以外の建物に一定の用途制限が課されている。日本の用途制限は、諸外国に比べ厳しくないとされている。",
"title": "建設と管理"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "生活の基本要素を指す「衣食住」という言葉が存在するように、住宅は人間の生活にとって不可欠なものである。しかし住宅はこの三要素の中でも飛び抜けて高額なものであり、十分な質の住宅を確保できない人々は世界中に数多く存在する。定まった住居を持つことができず路上生活や野宿を余儀なくされる人々はホームレスと呼ばれ、社会の最貧困層となっている。また、野宿とまでは行かなくとも、やはり住居を持てず簡易宿泊所などに泊まらざるを得ない人々も存在する。すべての人間が適切な住居に居住することができるという権利は居住の権利と呼ばれ、社会権に属する。1948年に国際連合総会で採択された世界人権宣言では、25条1項においてこの権利が規定されている。地主に対して家賃の値下げ、住環境の整備を訴えたり、行政機関に対して公営住宅の拡充を求める社会運動を借家人運動と呼ぶ。",
"title": "住宅問題と住宅政策"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "適切な住宅の供給は社会福祉において重要な論点の一つであり、各国政府は公営住宅の建設をはじめとするさまざまな住宅政策を実施している。日本では第二次世界大戦後、地方公共団体が低所得者層に供給する公営住宅、日本住宅公団が中所得者に集合住宅や分譲住宅を開発して提供する公団住宅、そして中所得者層に低利の融資を行い住宅建設を促進する住宅金融公庫が設立され、20世紀末に縮小・廃止されるまで住宅の安定供給に大きな役割を果たしてきた。また福利厚生の一環として、社員に社宅や寮を提供している会社も多い。ただし、多くの国において主に住宅を建設しているのは民間である。住宅地を開発し、住宅を建設して販売する産業は住宅産業と総称される。住宅関連の産業としては、大規模な宅地造成やマンション建設を行うデベロッパーをはじめ、主に戸建て住宅の建設を行うハウスメーカーや工務店といった住宅建設企業、完成した住居の売買や賃貸を行う不動産業、さらには住宅設計や住宅設備など、その分野は多岐にわたる。",
"title": "住宅問題と住宅政策"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "住宅の所有形態は自己が所有し居住する持ち家と、他人が所有する住宅を借りて居住する賃貸住宅の2つが存在する。日本の持ち家率は2018年時点で61.2%にのぼる。諸外国の持ち家率は国によって異なるものの、先進国ではおおむね2000年代前半で5割から7割程度のところが多い。また、多くの国で賃貸住宅に比べ持ち家のほうが平均面積は広い。",
"title": "住宅問題と住宅政策"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "住宅は必需品である上に高額な商品であるため、住宅産業が経済に占める割合は大きく、その経済波及効果も大きなものである。しかし、特に都市部においては旺盛な需要に対し供給が十分でないことが多く、さらに投機的資金が流入しやすいこともあって、住宅用の土地および住宅価格の高騰がしばしば問題となる。たとえば日本では、1970年代から1980年代末のバブル経済期にかけて地価が暴騰し、住宅の建設にも悪影響を及ぼした。こうした住宅バブルは世界的にしばしば発生しており、なかでも2007年にアメリカでサブプライム・ローンが不良債権化して起きたサブプライム住宅ローン危機は翌年のリーマン・ショックへとつながり、世界金融危機 (2007年-2010年)を引き起こして世界経済に大打撃を与えた。一方で、日本では過疎化や高齢化、土地登記の煩雑さなどから2010年代に入り空き家の数が急増し、社会問題となっている。",
"title": "住宅問題と住宅政策"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "日本の国土交通省(旧建設省所管)の市街地のまちづくり活性事業において、住宅対策事業はつぎの施策を行っている。市街地住宅の供給施策(住宅局住宅建設課市街地住宅整備室所管)は、以下のものがある。",
"title": "住宅問題と住宅政策"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ほか、住宅市街地開発事業では、新住宅市街地開発事業、住宅街区整備事業がある。",
"title": "住宅問題と住宅政策"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "日本の厚生労働省の定義では、同一住居・同一生計の集まりのことを世帯と呼ぶ。世帯と家族とは異なる概念であり、同じ家族に属していても単身赴任や進学などで別居している場合は別世帯扱いとなる。",
"title": "他"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "日本の国勢調査では、完全に区画された建物の一部で、一つの世帯が独立して家庭生活を営む事が出来るように建築又は改造されたものを住宅としている。「住宅ではないもの」としては、会社や学校の寮・寄宿舎、病院・療養所、ホテル、下宿屋、旅館・宿泊所、臨時応急的に建てられた建物などが挙げられる。国勢調査では、学校の寮・寄宿舎、病院・療養所、社会施設、自衛隊営舎、矯正施設などは「施設」として扱われる。",
"title": "他"
}
] |
住宅は、人の居住を用途とする建築物。「住居」とも言う。
|
{{Otheruses|世界の住宅全般|日本の住宅|日本の住宅}}
[[File:建売住宅 (4355308311).jpg|thumb|right|300px|[[日本の住宅]](建売り住宅)]]
[[File:Park Road, Street - geograph.org.uk - 2740388.jpg|thumb|right|300px|[[イギリスの住宅]](テラス形式)]]
[[File:View from Manhattan Bridge 3 pano.jpg|thumb|right|300px|[[マンハッタン]]の[[集合住宅]]]]
'''住宅'''(じゅうたく、{{Lang-en|house, あるいはresidence}})は、人の[[居住]]を用途とする[[建築物]]。「'''住居'''」とも言う。<!--生活範囲となる[[環境]]を含める場合もある{{要出典|date=2023年3月}}。-->
== 概説 ==
=== 機能 ===
住宅にはさまざまな[[機能]]が存在するが、最も重要なものは外部の危険から居住者を守る機能である。この危険は[[雨]]や[[風]]、寒さや暑さなどといった日常的なものから、台風などの突発的な[[自然災害]]に至るまで多岐にわたる。これと同様に、居住者が快適に[[生活]]を営むことのできる機能も重要である。居住者は住宅内部において[[睡眠]]を取り、[[食事]]をし、家庭を持っている場合は[[育児]]や団欒、[[介護]]などの家庭生活を行い、また[[趣味]]や休息などを含む日常生活の大きな部分を住宅内において過ごす<ref>「住居学」p74 後藤久・沖田富美子編著 朝倉書店 2003年6月1日初版第1刷</ref>。[[家族]]が暮らしている場合、住居には食事や団欒、来客対応といった家族・他者との生活部分と、勉強や休養、就寝といった純粋に私的な部分の2つの役割が存在し、前者は[[居間]]などで、後者はおのおのの[[個室]]で主に行われる<ref>「図解住居学Ⅰ 住まいと生活」p12-13 図解住居学編集委員会編 彰国社 1999年12月10日第1版発行</ref>。
=== 居住者への影響 ===
住宅は人の生活の拠点であり、居住者は住宅内部で長い時間を過ごすため、住宅の質は人の[[健康]]に大きな影響を与える。住宅建設の際、日照や採光、通風などを考慮し、湿度や空気のよどみなどを避けることが健康的な生活につながる<ref>「居住福祉」p66-67 早川和男 岩波新書 1997年10月20日第1刷発行</ref>。[[建築材料|建材]]などに含まれる[[化学物質]]など、住居における何らかの要因で体調不良を起こす[[シックハウス症候群]]と呼ばれる病気も存在する<ref>「図解住居学4 住まいと社会」p100-101 図解住居学編集委員会編 彰国社 2005年11月10日第1版発行</ref>。階段や段差といった障害で転倒するなど、住宅内での事故も多く<ref>「居住福祉」p61-63 早川和男 岩波新書 1997年10月20日第1刷発行</ref>、この対策として住居内の段差を減らしたり、[[動線]]を改良し通路を広げ手すりをつけるなどして移動しやすい住居にし、浴槽を低いものにして浴室の床を滑りにくくするなど、障害を減らし高齢者でも安全に暮らせる[[バリアフリー]]住宅の建設も増加傾向にある<ref>「知の最先端」p292-296 VALIS DEUX編著 日本実業出版社 1998年2月28日初版発行</ref>。
=== 住居を規定するもの ===
住宅の形状はその土地の[[気候]]条件、およびそれに応じてその土地で取れる材料によって規定されるものである。だが、現地の文化によっても大きく左右される。男性と女性の居住空間を分離する文化のある民族は珍しくなく、基本的に一室しかない遊牧民の移動式住居においても、男女の生活スペースが定められていたり、男女間に[[幕]]などによって物理的に仕切りを作る場合がある<ref name="名前なし-1">「文化人類学キーワード」p82-83 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。また、住居の構造はしばしば[[宇宙観]]や[[宗教論]]と結びつけられることがあり、[[風水]]のように周辺の環境とも関連付けて考えられることがある<ref name="名前なし-1"/>。
== 歴史 ==
=== 採集生活の住居 ===
[[ファイル:Jielbeaumadier asnapio tente paleolithique vda 2010.jpg|thumb|200px|[[旧石器時代]]、移動生活の住居の再現]]
遙かな[[古代]]には[[人類]]は[[採集]]のために移動生活を行っていて、ごく初期には[[洞窟]]など居住に適した地形を見つけ暮らしており<ref name="jinruinorekishi">「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p61 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>、やがて[[キャンプ|キャンプ地]]で手に入るものを寄せ集めて風雨をしのぐための仮の建築物をつくるようになった<ref name="jinruinorekishi" />。これが住宅の起こりである。この時期は移動して生きていたので住居は[[テント]]や[[掘っ建て小屋|掘立小屋]]程度のものだった。
やがて[[定住]]を行うようになるとともに、固定的な、容易に移動できない住居をつくるようになった。
=== 住居の材料 ===
人類は定住するに当たり、まずはその近辺に豊富にある材料を寄せ集めて住宅を作った<ref name="sekai_kyojuu_bunka">「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p8 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>。このため世界各地でその風土ごとの様々な材料の住宅が存在するようになった<ref name="sekai_kyojuu_bunka" />。なお、こうして近隣で豊富に取れる材料を使って住宅を建設することは近代にいたるまで一般的であった<ref name="sekai_kyojuu_bunka" />。[[土]]や[[粘土]]は主要な[[建築材料]]のひとつであり<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p24 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>、[[中東]]などの[[乾燥帯|乾燥地]]においては、泥を型に入れ乾かすことで簡単につくれ断熱性に優れる[[日干し煉瓦]]([[:en:Mudbrick]])が古代より主要な建築材料となっていた。一方高温多湿な[[熱帯]]や[[モンスーン]]地帯においては、軽量で風通しがよく雨に強い[[木材]]を使用することが一般的だった。高温湿潤地域においては、[[竹]]も主要な建築材料だった<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p34 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>。[[湿地帯]]においては外装材に[[葦]]が多用された<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p36 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>。[[石材]]も、どの文明でも使用された。特殊な建材としては、[[北極圏]]の[[イヌイット]]は冬季の住居に[[氷]]のブロックを用い、[[イグルー]]を建造していた<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p122-123 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>。[[コンクリート]]も、古代エジプト、古代ローマの時代から、建築材料のひとつとして使われていた。特に古代ローマ帝国の技術者たちが使う[[ローマン・コンクリート]]は優れており石材と組み合わせて使用された。
一方、移動の多い[[遊牧民]]などは住居として動物の[[毛皮]]や[[皮革]]などを使った[[テント]]を設営した。
また地上に家屋を構えるのではなく、乾燥地においては地面を掘り下げたり地下に穴を掘って住居を建設することも近代にいたるまで行われていた。[[黄土高原]]における[[窰洞]]や[[カッパドキア]]・[[カイマクル]]の地下都市<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p63 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>、[[チュニジア]]の旧[[マトマタ]]などがよく知られた例である。
=== 変化・深化 ===
住宅建設の技術が進むにつれて、その形状もその場所の[[環境]]に合うように変化を遂げていった。寒冷な地域においては[[炉]]<!--ウィキペディアの【炉】の記事は、なぜか工業炉のことばかり書いてあり、ここからリンクするのはやや不適切。ここで言う「炉」は英語のhearthを翻訳したもの。-->([[:en:hearth]])や[[囲炉裏]]などといった暖を取るための設備が重視され、多湿地域においては湿気を避けるためにしばしば建物は[[高床建物]]となった。また乾燥地域では降雨に対応する必要がないため屋根は平らなものとなる一方、多雨地域では雨を流すよう屋根に角度がつけられていることがほとんどである<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p62-63 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。他者の襲撃が絶えなかった地域においては住居は防御力を重視して建造され、西アフリカの環状住居<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p110-111 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>や中国南部の土楼<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p92-93 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>のようにいくつもの住居をつないだ小[[要塞]]を建造したり、また[[ニューギニア島]]の一部民族のように樹上住居を建設した民族も存在する<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p160-161 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>。こうしたさまざまな素材・様式の住居は居住者の行動を規定し、[[生活様式]]に大きな影響を与えた。
=== 産業革命以降 ===
[[産業革命]]以降、都市への急速な人口集中によってさまざまな「住宅問題」が発生するようになった。都市中心部には低賃金[[労働者]]が集中して[[スラム]]など不良住宅地区が生まれ、それを嫌った[[ブルジョワジー]]たちは[[郊外]]に自宅を構え、都心部のオフィスへと[[通勤]]するようになった。こうして19世紀には[[職住分離]]が一般化し、通勤需要をまかなうための[[公共交通機関]]の発達もはじまって、都心と郊外による[[都市圏]]が成立した<ref>「住まいと仕事の地理学」p62-63 中澤高志 旬報社 2019年3月20日書版第1刷発行</ref>。一方、労働者層の住宅問題は深刻化し、いくつかの対策が検討されるようになった。こうした対策の一つとして、1898年には[[エベネザー・ハワード]]が[[明日の田園都市|明日-真の改革にいたる平和な道]]によって自然と共存し自立した都市近郊の小都市論、いわゆる[[田園都市]]構想を提唱した<ref>「日用品の文化誌」p5 柏木博 岩波書店 1999年6月21日第1刷</ref>。また[[衛生]]面における住宅改善の必要性は、[[ル・コルビュジエ]]らに影響を与えた<ref>「日用品の文化誌」p6-7 柏木博 岩波書店 1999年6月21日第1刷</ref>。
都市への人口集中は[[地価]]の高騰をもたらし、大都市圏では一戸建ての率が目立って減少し、住宅は[[集合住宅|集合]]化・高層化の道をたどった。また住宅が都市のはるか遠方にまで連なるようになり、通勤時間の増大を招くこととなった<ref>「新版 データで読む家族問題」p76-77 湯沢雍彦・宮本みち子 NHKブックス 2008年11月30日第1刷発行</ref>。貧困のため満足な設備のない住居に居住する人口は現代においても非常に多く、特に途上国では大規模な[[スコッター|不法居住地区]]にスラムが広がっている都市も多い<ref>「ビジュアル版 世界の居住文化百科 さまざまな民族の伝統的住まい」p172-173 ジョン・メイ著 藤井明日本語版監修 本間健太郎訳 柊風舎 2013年6月20日第1刷</ref>。
[[19世紀]]後半に[[鋼鉄]]材で強化されたコンクリートすなわち[[鉄筋コンクリート]]の技術が開発され、同世紀末にその特許を取得する人なども現れ<ref>[https://www.nachi.org/history-of-concrete.htm]</ref>、これも利用されるようになっていった。
== 住宅の分類 ==
* 一戸建て/ 集合住宅
** {{Anchors|一軒建|一軒建て|一戸建て|一戸建}}一戸建て - 独立した一棟(ひとむね)を一家族が使用するように建てられた家<ref>精選版 日本国語大辞典【一戸建て】</ref>。「戸建て(こだて)」「一軒建て」とも。
** [[集合住宅]] - 日本では集合住宅は建て方により[[長屋]]と共同住宅とに分けられる。長屋は一棟の建物を水平に分割し各戸ごとに出入り口を設けたもので、各戸が庭を持つ[[テラスハウス]]や、その住宅群が共用領域を持つ[[タウンハウス]]なども含まれる<ref name="名前なし-2">「図解住居学Ⅰ 住まいと生活」p122 図解住居学編集委員会編 彰国社 1999年12月10日第1版発行</ref>。共同住宅は多数の世帯の住居を積層化させたものである<ref name="名前なし-2"/>。共同住宅には[[アパート]]、[[マンション]]、[[団地]]などが含まれる。
* 構造形式による分類
** [[木構造 (建築)|木造]]住宅
*** [[木造軸組構法]](日本では、"在来"工法などと呼ばれる<ref name="名前なし-rKKT-1">「図解 知識ゼロからの林業入門」p120 関岡東生監修 家の光協会 2016年11月1日第1版発行</ref>)
*** [[木造枠組壁構法]]([[2×4]]工法<ref name="名前なし-rKKT-1"/>)
*** 木骨造([[ラーメン (骨組)|木造ラーメン構法]])
** 石造り住宅({{Lang-en-short|stone house}})
** [[プレハブ住宅]]
** [[鉄骨造]]住宅
*** [[スチールハウス]]工法
*** [[軽量鉄骨]]造
*** 重量鉄骨造
** [[鉄筋コンクリート造]]住宅
*所有権による分類
::持ち家 / [[借家]]
* 居住する世帯の数による分類
::単世帯住宅 / 二世帯住宅 / 三世帯住宅 ...
* [[不動産流通業|不動産販売]]による分類
** [[中古]]住宅
*** 中古集合住宅(「中古[[マンション]]」「中古[[アパルトマン]]」など。中古住宅の[[リノベーション]]はしばしば行われる。)
*** 中古一戸建
** [[新築]]住宅
*** 建売住宅(たてうり- ) - 土地と家屋(住居)がセットになった状態で販売されるもの。新築マンションと同様に[[建築確認]]申請を済ませた段階でなければ、[[宅建業法]]により売出やその広告を出すことができないため、家屋の[[間取り]]・デザインはデベロッパーが決定したものに固定される。
*** 注文住宅 - 施工主(家主)が[[設計事務所]]・[[大工]]や[[ハウスメーカー]]に依頼し、既に用意してある土地に家屋を建築させるもの。[[プレハブ住宅]]のようにある程度レイアウトが決まっているものが主流であるが、[[オーダーメイド]]のため間取りや外観・構造の設計が自由に決められる。
*** [[建築条件付土地取引|建築条件付土地]] - 売買契約締結後、一定期間内に売主が指定した[[ハウスメーカー]]で住宅の着工が行えることを条件に売り出される[[土地]]([[分譲地]])。ハウスメーカーは指定されない場合もある。条件に反した場合は売買契約が解消される。都市部では築年数が相当経過した戸建(古家)が条件付土地として売り出されることもあるが、一般的に買い主負担で古家を取り壊して更地にした上で着工しなければならない。
* 「大・小」「広・狭」による分類
** [[狭小住宅]]
** [[豪邸]]
* [[トレーラーハウス]] - [[キャンピングカー]]
* 輸入住宅
* [[ムードンの工業化住宅]]
その他、さまざまな分類がある。
<ref>
詳細は[[日本の住宅]]のほうを参照のこと。
{{Col|
* シニア向け分譲マンション
* [[高齢者専用賃貸住宅]]
* [[高齢者向け優良賃貸住宅]]
* [[バリアフリー]]住宅
* モビリティーハウス
* [[長期優良住宅]]
* [[気候風土適応住宅]]{{Cite web|和書
| url = https://www.mlit.go.jp/common/001126016.pdf
| title = 所管行政庁が地域の気候及び風土に応じた住宅であることにより外皮基準に適合させることが困難であると認める際の判断について(技術的助言)
| publisher = [[国土交通省]]
| date = 2016-3-31
| accessdate = 2021-7-25
}}{{Cite web|和書
| url = https://www.mlit.go.jp/report/press/house04_hh_000997.html
| title = 「気候風土適応型プロジェクト2021」の提案募集を開始します! ~令和3年度サステナブル建築物等先導事業(気候風土適応型)の第1回提案募集~
| publisher = [[国土交通省]]
| accessdate = 2021-9-9
}}
* [[スケルトン・インフィル住宅]]
* [[改良住宅]]
* [[仮設住宅]]
* [[炭鉱住宅]]
* [[賃貸住宅]]
* [[文化住宅]]
|
* [[米軍住宅]]
* [[電脳住宅]]
* [[同和住宅]]
* [[雇用促進住宅]]
* [[東雲住宅]]
* [[家庭の電化]] - [[オール電化住宅]]
* [[環境共生住宅]]
* [[高層住宅]]/[[マンション管理業協会]]
* [[埼玉県民共済住宅]]
* [[省エネルギー住宅]]
* [[トヨタ夢の住宅PAPI]]
}}
</ref>
;日本の古来の住居・住宅の諸分類
{{Main|日本の住宅}}
== 住宅の間取り ==
{{Main|間取り}}
[[File:EWE V1 D020 House plan with two of the most important rooms.png|thumb|240px|間取り図]]
[[間取り]]とは住宅の部屋の配置のこと<ref name="Nihondaihyakka_madori">日本大百科全書【間取り】</ref>。英語ではプラン(plan)と言う。
たとえば[[台所]]、[[居間]]、[[寝室]]、[[トイレ]]、[[浴室]]などが相対的にどういう位置関係に配置されているか、また東西南北の位置の違いによる[[日照]]条件の差なども考慮して相対的にどの方角に配置されているかということ。
また「間取り」でその配置を決定することも言い、その場合は「平面計画」や "平面図の作成 " とほぼ同義になる<ref name="Nihondaihyakka_madori" />。
;関連項目
* [[廊下]] / [[玄関]] / [[子ども部屋]] / [[パントリー]] / [[ウォークイン・クローゼット]] / [[押入れ]] / [[和室]] / [[書斎]] / [[ポーチ]] / [[屋根裏部屋]] /[[地下室]]
== 住宅用庭園 ==
{{main|住宅庭園}}
家庭用の[[家庭菜園]]も含め、住宅の庭は、最も一般的な庭の形態であり、「前庭」や「後庭」など住居の側にあり、前庭はフォーマルかつ半公共の場である可能性もあるため、条約や現地の法律の制約を受ける。通常屋外空間の[[庭|ヤード]]は住宅の庭を上に設けることができる[[屋上庭園|屋根]]庭園、[[アトリウム|吹き抜け]]や[[中庭]]、[[バルコニー]]、[[ウィンドウボックス|windowboxes]]または上の[[中庭|パティオ]]などがある。住宅用庭園は、ほとんどの場合個人用に設計されているため、一般的に人間規模で設計されているが、素晴らしい家や広い敷地の庭は、公共の公園よりも大規模な場合もある。
住宅用庭園は、ある特定種類の植物を展示するための特殊な庭園であっても、またはロッカリーであってもまたは水の特徴などの特殊な特徴を備えていても、かまわないがそれらはまた[[ハーブ]]や[[野菜]]栽培にも使用されているため、[[持続可能性]]においては重要な要素である。
=== 裏庭 ===
裏庭は本邸が周囲の庭園を2つに分けると発生している。これは特にイギリスの都市や町の高密度住宅で起こり、20世紀のイギリス郊外の典型的な半戸建て住宅には道路に面してアクセスできる正面庭園があり、そのような場合の裏庭はより隔離され、アクセスは一般的に住居を経由するか、側方を通る道で行われる。各国のフロントガーデンは半公共のスペースであるため、条約や法律の制約を受けているが、裏庭はよりプライベートでカジュアルなものであり<ref>{{Cite book|quote=The back garden is usually more private and casual|title=Feng Shui in the Garden|page=47|last=Richard Webster|url=https://books.google.com/books?id=nM_dmNdgCWMC|isbn=1-56718-793-5|publisher=Llewellyn Worldwide}}</ref>、そのためより多くの目的に使用される。
機能的には、以下の用途に使用できる。
* [[家庭菜園]](食物(となる植物)を育てる<ref name="EarthEndures">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=LTDpl_bgh8wC|title=The Earth Only Endures: On Reconnecting With Nature and Our Place in It|last=Jules N. Pretty|isbn=1-84407-432-3|publisher=Earthscan|pages=36}}</ref>)
* [[園芸]] / [[温室]] / [[堆肥|堆肥ヒープ]]づくり
* 趣味の場所 - 小屋 / [[工房]] / [[車庫|ガレージ]]
* 見られたくない衣類を乾かす場所
* くつろぎの場 / [[日光浴]]をする場
* 子供のための安全な遊び場 / パーティーの場所
* 第二次世界大戦の[[防空壕|アンダーソンシェルター]]のような[[防空壕]]の場所<ref name="PoH">{{Citation|pages=176–199|chapter=Gardens and External Space|title=The Place of Home: English domestic environments, 1914-2000|last=Alison Ravetz, Richard Turkington|publisher=Taylor & Francis|year=1995|isbn=978-0-419-17980-1}}</ref>
== 構成要素 ==
{{要出典|section=1|date=2023年3月}}
;基礎、屋根など
* [[基礎]](下部工)
* [[屋根]]
* [[外壁]]
* [[外装]]
;屋内
* [[床]]
* [[内壁]]
* [[天井]]
* [[窓]]
* [[インテリア]]類や道具類など
** [[調理器具]] / [[照明]] / [[家具]] /[[収納家具]] / [[寝具]] / [[家電機器|家電製品]] 等々
;外回り
* [[庭]]
* [[テラス]]
* [[外構]]・[[エクステリア]]
**[[門]] / [[アプローチ (曖昧さ回避)|アプローチ]] / [[柵]] / [[塀]] / [[駐車場]] / [[カーポート]] 等々
また、給排水([[上水道]]・[[下水道]])、電気関連([[電力量計]]、[[配電盤]]、[[ブレーカー]]、屋内配線、[[コンセント]]類)、ガス関連([[ガスメーター]]、屋内ガス管 等々)の設備もある。
== 各国の住宅 ==
:[[:Category:各国の住宅]]を参照。
;各国の住宅の外観
<gallery class="center" mode="packed" heights="110px">
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Lesotho_Slide_Show_(294).JPG|[[アフリカ]]の伝統的な環状の壁の住宅([[:en:African round hut]]、[[:en:Rondavel]])
Faza in Kenya's Coast Province.JPEG|[[ケニア]]海岸部・ファザの伝統的民家
House (May 30, 2020).jpg|[[エチオピア]]・[[アジスアベバ]]の20世紀スタイルの住宅
Bhutanese Farmhouse Soe Yaksa.jpg|[[ブータン]]の[[農家]]の住宅
Cambo 169.jpg|[[カンボジア]]の[[高床建物]]の住宅
La cabaña de Alpina.jpg|[[コロンビア]]の伝統的様式の住宅
Banaue Philippines Batad-Rice-Terraces-03.jpg|[[フィリピン]]・[[バナウェ]]にある伝統的な村の家屋
Kamena kuca u Pokreveniku.jpg|セルビアの伝統的な石造りの住宅
Brgule 006.jpg|[[セルビア]]・ブルグルの家
Varassaari5.JPG|[[フィンランド]]、[[ユヴァスキュラ]]に20世紀初頭に立てられた現地では伝統的スタイルの住宅
Gokayama Suganuma 五箇山菅沼地区 PA101516.jpg|[[五箇山]]・菅沼地区の[[合掌造り]]
দোতলা টিনের ঘর, ঢাকা.jpg|[[バングラデシュ]]の伝統的スタイルのブリキ屋根の住宅
Xaniyê Gundê Dîlan.JPG|[[クルド人]]の伝統的な石造りの住宅
NorthYorkHouse2.JPG|[[カナダ]]・[[オンタリオ州]]の住宅
Muurschildering Loevenhoutsedijk- Hoogstraat 90, Utrecht.jpg|オランダ・[[ユトレヒト]]にある[[壁画]]の描かれた家
Back_of_Iford_Manor,_from_Peto_Garden_-_geograph.org.uk_-_1009631.jpg|[[:en:Iford Manor]]の裏庭は[[ハロルド・ピートゥ|Harold Peto]]による設計。
Gentrification with an old and a new home side by side in Old East Dallas.jpg|オーソドックな住宅(左)と[[鉄筋コンクリート造]]住宅(右)の対比([[ダラス]])
El Gouna Turtle House R01.jpg|ドイツの建築家が有機的なデザインで設計した[[:en:Cultural depictions of turtles|The Turtle House]]
Grachtenstad De Laak.jpg|[[オランダ]]・[[アメルスフォールト]]にある[[省エネ]]住宅
</gallery>
== 建設と管理 ==
住宅の建設は、まず建設用の宅地の入手からはじまる。用地を確保したら、建築主は業者に住宅の建設を依頼する。
業者が建築主となって建築する場合と、個人が建築主となって建築する場合がある。特に集合住宅や建売住宅(たてうりじゅうたく)の場合は、業者が建築する。
個人が住宅を建てる場合、[[ハウスメーカー]]や[[工務店]]といった建築業者に直接依頼するほか、建築設計事務所に依頼して自らの希望を強く反映させることもできる<ref>「図解雑学 建築のしくみ」p166-169 齊藤祐子 ナツメ社 2008年3月10日発行</ref>。工事に取りかかる前には状況に応じて[[地質調査]]を行い<ref>「図解雑学 建築のしくみ」p82-83 齊藤祐子 ナツメ社 2008年3月10日発行</ref>、必要のある場合は適宜改良工事を実施して建設できる状態にする。
完成した住宅は、時間の経過や使用状況によって劣化が進んでいくため、適切なメンテナンスは不可欠である。また、家族のライフサイクルによって居住者の要求は変化するため、それに応じた増改築や[[リフォーム]]が行われる場合もある<ref>「図解雑学 建築のしくみ」p210-213 齊藤祐子 ナツメ社 2008年3月10日発行</ref>。
住宅の寿命は国によって異なり、2000年代においては、ヨーロッパやアメリカにおいては80年以上の国が多い。対して日本では立て直しのサイクルが早いため、平均寿命は30年となっている<ref>「図解雑学 建築のしくみ」p214 齊藤祐子 ナツメ社 2008年3月10日発行</ref>。
=== 住宅の流通 ===
一方、[[転職]]や[[転勤]]、[[進学]]などによる[[転居]]はめずらしくない。不要となった住宅は[[解体]]されるか、需要のある場合は中古住宅市場において売却される。中古住宅はアメリカなどいくつかの国では盛んに売買されるものの、日本では新築住宅に比べ非常に流通が少なく、売買は低調なものとなっている<ref>「図解住居学6 住まいの管理」p24-25 図解住居学編集委員会編 彰国社 2003年12月10日第1版発行</ref>。
日本では既存住宅の流通市場がうまく形成されておらず、空家(あきや)問題発生の原因となっている<ref>[https://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/hyouka/content/001313273.pdf]</ref>。空家問題は国家レベルの大問題となっており、日本政府は既存住宅の流通促進に取り組んでいる。2010年ころから2020年ころにかけて、日本でも中古住宅市場が成長した<ref>公益財団法人東日本不動産流通機構「首都圏不動産流通市場の動向」のグラフを参照のこと。[https://magazine.aruhi-corp.co.jp/0000-5608/ 『売却希望者には追い風?! 中古住宅の成約率が高まり、希望価格で売却しやすい「売り手市場」に』]</ref>。
住宅自体を移築することはほとんどないが、わずかな距離の移動の場合、住宅自体を曳いて移動させる[[曳家]]が行われることがある<ref>http://www.nihon-hikiya.or.jp/hikiya.html 「曳家って何?」一般社団法人日本曳家協会 2021年5月8日閲覧</ref>。また古民家など古く価値のある建築の場合は、解体した上で移築がなされる場合もある<ref>https://www.sankei.com/article/20210501-NWQ4ZFPR4ZKFHBV7FY6T7PIGYM/ 「青森で進む古民家の再利用 空き家対策と脱炭素、循環型社会の形成に一役」産経新聞 2021.5.1 2021年5月8日閲覧</ref>。
=== 住宅建設に関する法規 ===
住宅はまったく無制限に建設できるわけではなく、多くの国家において建築基準や建設できる地域が指定されており、日本においても[[建築基準法]]において基本的な建築基準が決められている。また[[都市計画法]]によって[[都市計画区域]]内の市街化区域において13の[[用途地域]]が定められていて、このうち[[第一種低層住居専用地域]]、[[第二種低層住居専用地域]]、[[第一種中高層住居専用地域]]、[[第二種中高層住居専用地域]]、[[第一種住居地域]]、[[第二種住居地域]]、[[準住居地域]]、[[田園住居地域]]の8つが主に住居用途として指定された地域であるが、それ以外の地域でも[[工業専用地域]]を除くすべての用途地域で住宅を建設することはできる<ref>https://suumo.jp/article/oyakudachi/oyaku/sumai_nyumon/other/youtochiiki/ 「用途地域とは? 用途地域の一覧で土地や家を探すときやライフスタイルにあった地域の選び方を知ろう」SUUMO 2021年5月9日閲覧</ref>。ただし良好な住宅環境を守るため、住居用途地域においては住居以外の建物に一定の用途制限が課されている。日本の用途制限は、諸外国に比べ厳しくないとされている<ref>「居住福祉」p138-142 早川和男 岩波新書 1997年10月20日第1刷発行</ref>。
== 住宅問題と住宅政策 ==
生活の基本要素を指す「[[衣食住]]」という言葉が存在するように、住宅は人間の生活にとって不可欠なものである<ref>「居住福祉」p3 早川和男 岩波新書 1997年10月20日第1刷発行</ref>。しかし住宅はこの三要素の中でも飛び抜けて高額なものであり、十分な質の住宅を確保できない人々は世界中に数多く存在する。定まった住居を持つことができず[[路上生活]]や野宿を余儀なくされる人々は[[ホームレス]]と呼ばれ、社会の最貧困層となっている<ref>「図解住居学4 住まいと社会」p16 図解住居学編集委員会編 彰国社 2005年11月10日第1版発行</ref>。また、野宿とまでは行かなくとも、やはり住居を持てず[[簡易宿泊所]]などに泊まらざるを得ない人々も存在する<ref>「居住の貧困」p35-39 本間義人 岩波書店 2009年11月20日第1刷発行</ref>。すべての人間が適切な住居に居住することができるという[[権利]]は[[居住の権利]]と呼ばれ、[[社会権]]に属する。1948年に[[国際連合総会]]で採択された[[世界人権宣言]]では、25条1項においてこの権利が規定されている<ref>https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/document/bill_of_rights/universal_declaration/ 「世界人権宣言テキスト」国連広報センター 2021年4月15日閲覧</ref>。地主に対して家賃の値下げ、住環境の整備を訴えたり、行政機関に対して公営住宅の拡充を求める[[社会運動]]を[[借家人運動]]と呼ぶ。
適切な住宅の供給は[[社会福祉]]において重要な論点の一つであり、各国政府は[[公営住宅]]の建設をはじめとするさまざまな[[住宅政策]]を実施している。日本では[[第二次世界大戦]]後、地方公共団体が低所得者層に供給する公営住宅、[[日本住宅公団]]が中所得者に集合住宅や分譲住宅を開発して提供する[[公団住宅]]、そして中所得者層に低利の融資を行い住宅建設を促進する[[住宅金融公庫]]が設立され、20世紀末に縮小・廃止されるまで住宅の安定供給に大きな役割を果たしてきた<ref>「図解住居学4 住まいと社会」p56-57 図解住居学編集委員会編 彰国社 2005年11月10日第1版発行</ref>。また福利厚生の一環として、社員に[[社宅]]や寮を提供している会社も多い。ただし、多くの国において主に住宅を建設しているのは民間である。住宅地を開発し、住宅を建設して販売する産業は[[住宅産業]]と総称される。住宅関連の産業としては、大規模な[[宅地]][[造成]]やマンション建設を行う[[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]をはじめ、主に戸建て住宅の建設を行う[[ハウスメーカー]]や[[工務店]]といった住宅建設企業、完成した住居の売買や賃貸を行う[[不動産業]]、さらには住宅設計や住宅設備など、その分野は多岐にわたる。
住宅の所有形態は自己が所有し居住する持ち家と、他人が所有する住宅を借りて居住する[[賃貸住宅]]の2つが存在する。日本の持ち家率は2018年時点で61.2%にのぼる<ref>https://www.stat.go.jp/info/today/152.html 「都道府県別でみる住宅状況 ~住宅及び世帯に関する基本集計(確報値)より~」日本国総務省統計局 令和元年12月20日 2021年5月9日閲覧</ref>。諸外国の持ち家率は国によって異なるものの、先進国ではおおむね2000年代前半で5割から7割程度のところが多い。また、多くの国で賃貸住宅に比べ持ち家のほうが平均面積は広い<ref>「居住の貧困」p72 本間義人 岩波書店 2009年11月20日第1刷発行</ref>。
住宅は必需品である上に高額な商品であるため、住宅産業が経済に占める割合は大きく、その経済波及効果も大きなものである。しかし、特に都市部においては旺盛な需要に対し供給が十分でないことが多く、さらに投機的資金が流入しやすいこともあって、住宅用の土地および住宅価格の高騰がしばしば問題となる。たとえば日本では、1970年代から1980年代末の[[バブル経済]]期にかけて地価が暴騰し、住宅の建設にも悪影響を及ぼした<ref>「図解住居学4 住まいと社会」p18-19 図解住居学編集委員会編 彰国社 2005年11月10日第1版発行</ref>。こうした住宅バブルは世界的にしばしば発生しており、なかでも2007年にアメリカで[[サブプライム・ローン]]が[[不良債権]]化して起きた[[サブプライム住宅ローン危機]]は翌年の[[リーマン・ショック]]へとつながり、[[世界金融危機 (2007年-2010年)]]を引き起こして世界経済に大打撃を与えた<ref>https://toyokeizai.net/articles/-/2353 「《よく分かる世界金融危機》サブプライム危機はどのように世界に拡大したのか」東洋経済オンライン 2008/11/17 2021年5月9日閲覧
</ref>。一方で、日本では過疎化や高齢化、土地登記の煩雑さなどから2010年代に入り[[空き家]]の数が急増し、社会問題となっている<ref>https://web.archive.org/web/20201031235508/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/201030/mca2010301540018-n1.htm 「神戸市、来年度から全ての空き家に税制優遇を廃止へ」SankeiBiz 2020.10.30 2021年5月6日閲覧</ref>。
=== 住宅対策事業 ===
{{出典の明記|date=2023年3月|section=1}}
日本の国土交通省(旧建設省所管)の市街地のまちづくり活性事業において、住宅対策事業はつぎの施策を行っている。市街地住宅の供給施策(住宅局住宅建設課市街地住宅整備室所管)は、以下のものがある。
* 市街地住宅密集地区再生事業
* 特定住宅市街地総合整備促進事業
* 都市居住更新事業
* 都市住宅整備事業
* 優良住宅地段階整備誘導計画制度:三大都市近郊鉄道周辺で公共施設整備に併せ住宅建設、地区施設整備の誘導
* 大都市地域住宅供給促進計画策定事業
ほか、住宅市街地開発事業では、[[新住宅市街地開発事業]]、[[住宅街区整備事業]]がある。
== 著名な住宅 ==
=== 歴史的住宅 ===
==== 日本 ====
* [[箱木家住宅]](室町時代~江戸時代 兵庫県神戸市北区) - 「箱木[[千年家]]」と呼ばれる日本最古の住宅。国の[[重要文化財]]。
* [[古井家住宅]](室町時代後期 兵庫県姫路市) - 国の重要文化財。上記箱木家と並ぶ日本最古級の民家。
* [[栗山家住宅]](1607年 奈良県五條市) - 国の重要文化財。建築年代が判明するものとしては日本最古の民家。
* [[今西家住宅]](1650年 奈良県橿原市) - 国の重要文化財。「八ツ棟造」として著名な民家。
* [[グラバー園#旧グラバー住宅|旧グラバー住宅]](1863年 長崎県長崎市) - 日本最古の[[洋風建築]]の住宅。国の重要文化財。
==== ドイツ ====
* [[フッガーライ]](1514年 - 1521年 ドイツ・アウクスブルク) - 最初期の計画的集合住宅。
==== アメリカ合衆国 ====
* [[モンティチェロ]](1769年 - 1809年 アメリカ合衆国バージニア州シャーロッツビル)
=== モダニズム建築 ===
==== 集合住宅 ====
* [[ベルリンのモダニズム集合住宅群]](1913年~ ドイツ・ベルリン) - [[ブルーノ・タウト]]他
* [[同潤会アパート]](1926年~) - [[同潤会]]
* [[ユニテ・ダビタシオン#マルセイユのユニテ・ダビタシオン|マルセイユのユニテ・ダビタシオン]](1952年 フランス・マルセイユ) - [[ル・コルビュジエ]]
* [[プルーイット・アイゴー]](1956年 アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス) - [[ミノル・ヤマサキ]]
* [[晴海団地#晴海団地高層アパート|晴海高層アパート]](1958年 東京都中央区晴海) - [[前川國男]]
* [[中銀カプセルタワービル]](1972年 東京都中央区銀座) - [[黒川紀章]]
==== 個人住宅 ====
* ロビー邸(1910年 アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ) - [[フランク・ロイド・ライト]]
* [[旧山邑家住宅]] (1924年 兵庫県芦屋市) - [[フランク・ロイド・ライト]]設計。国の重要文化財。
* [[トゥーゲントハット邸]](1930年 チェコスロバキア・ブルノ) - ミース・ファン・デル・ローエ
* [[サヴォア邸]](1931年 フランス・ポワシー) - ル・コルビュジエ
* [[落水荘]](カウフマン邸)(1935年 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ郊外) - フランク・ロイド・ライト
* [[マラパルテ邸]](1937年~ イタリア・カプリ島)
* ファンズワース邸(1951年 アメリカ合衆国イリノイ州ブラノ) - ミース・ファン・デル・ローエ
* [[住吉の長屋]](1979年 大阪府大阪市住吉区) - [[安藤忠雄]]
== 他 ==
=== 住宅と世帯の関係 ===
日本の[[厚生労働省]]の定義では、同一住居・同一生計の集まりのことを[[世帯]]と呼ぶ<ref>[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa03/yougo.html 「平成15年 国民生活基礎調査の概況 用語の説明」日本国厚生労働省大臣官房統計情報部 2021年4月15日閲覧]</ref>。世帯と[[家族]]とは異なる概念であり<ref>「文化人類学キーワード」p138 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>、同じ家族に属していても[[単身赴任]]や進学などで別居している場合は別世帯扱いとなる。
=== 住宅と住宅でないものの線引き ===
日本の[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]では、完全に区画された建物の一部で、一つの世帯が独立して家庭生活を営む事が出来るように建築又は改造されたものを住宅としている。「住宅ではないもの」としては、会社や学校の[[寮]]・[[寄宿舎]]、[[病院]]・[[療養所]]、[[ホテル]]、[[下宿屋]]、[[旅館]]・宿泊所、臨時応急的に建てられた建物などが挙げられる<ref>[https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/users-g/word3.html 「住宅・居住地に関する用語」(平成22年国勢調査 ユーザーズガイド)日本国総務省統計局 2021年5月6日閲覧]</ref>。国勢調査では、学校の寮・寄宿舎、病院・療養所、社会施設、自衛隊[[営舎]]、[[矯正施設]]などは「[[施設]]」として扱われる。
*日本の国勢調査での建て方(建っている状態)の分類
:日本の国政調査では、住宅の建て方が「一戸建」「長屋」「共同住宅」および「その他」に分類されている。「その他」は、工場や事務所などの一部に住宅がある場合や住宅以外の建物の場合を指す。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
<!-- {{Wikidata property}}
{{ウィキポータルリンク|Gardens}} 機能していない? -->
* [[住宅地]]
* [[家屋]]
* [[建築行為]](新築・増築・改築・移転(曳家))
* [[居住]]
* [[住宅展示場]]
* [[高齢者住宅]]
* [[スマートホーム]]
* [[欠陥住宅]]
* [[NIMBY]](忌避施設、迷惑施設) - 「我が家の裏庭には必要ない」という英語の頭文字から取られた語(空港、軍事施設、ごみ処理場などの必要施設建設反対運動で使用される)
* [[コーポラティブハウス]]
* [[コレクティブハウス]]
== 外部リンク ==
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* {{Kotobank}}
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[[Category:住宅|*]]
[[Category:造園]]
[[Category:建築計画]]
[[Category:不動産]]
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東トルキスタン
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東トルキスタン(ひがしトルキスタン)は、中央アジアのテュルク化(英語版)とともに生まれた歴史的な地域名称であり「テュルク人の土地」を意味するペルシャ語表現に由来するトルキスタンの東部地域にあたり、主として現在の新疆ウイグル自治区一帯を指す歴史・地理的な概念。面積は、1,828,418平方キロメートル。中国領トルキスタンとも称される。
19世紀後半、ロシア帝国がカザフ草原からコーカンド・ハン国に侵攻し、1867年にタシュケントにトルキスタン総督府を設置し、東は天山山脈西部とパミール高原、西はカスピ海東岸、南はイラン・アフガニスタン国境まで支配領域を拡大し、ロシア領トルキスタン (西トルキスタン) が成立すると、清朝の新疆(中国語版)は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンと呼ばれるようになった。
中華民国は1912年からこの地を新疆省とし、中華人民共和国は国共内戦の延長で1949年にチベットや新疆に人民解放軍を侵攻させ、力で少数民族地区を併合し共産党統治内に組み込み、1955年に新疆ウイグル自治区を成立させた。
カザフ、キルギス、タジク、アフガンの各共和国、パキスタン、インド、カシミール、チベット、モンゴル、中国本土に接している。
東トルキスタンにはアルタイ山脈、天山山脈、クンルン山脈といった標高の高い山脈があり、中心部と東部は砂漠に覆われ、タクラマカン砂漠の面積は約500,000平方キロメートルである。
タリム川、イリ川、イルティシュ川、マナス川、ウルングル川、カラシャフル川などの主要河川、二つの大きな湖、サイラム湖とボグダ湖がある。
歴史的に重要な都市に、カシュガル、ホータン、ヤルカンド、アクス、クチャ、ウシュトゥルファンがあり、アルトゥシャフル(英語版)と呼ばれる。
東トルキスタンの住民の約45%はウイグル族が占めているが、他にも漢族、カザフ族、回族、モンゴル族、満族など多くの民族が居住している。
特に、中華人民共和国成立以後は漢族の流入が著しい。北西部には漢族と回族が多く、南西部にウイグル族が多い。
東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していた。
タリム盆地の辺りには古くは疏勒、亀茲、焉耆、高昌、楼蘭などの都市国家が交易により栄えたが、しばしば遊牧国家の月氏や匈奴などの影響下に入った。
前漢の武帝の時代に匈奴が衰えると次は前漢に服属し、以後は北方の遊牧国家(突厥など)と東方の諸帝国(唐など)の勢力争いの狭間で何度か宗主が入れ替わった。
タリム盆地の都市国家群は7世紀ぐらいまでは存続し、以後は数百年かけて徐々に衰退していった。
一方、タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にあるジュンガル盆地には、古来より遊牧民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていた。
しかし、突厥の支配時代にテュルク系民族集団の鉄勒の中からウイグル(回鶻)が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼした。この時期のウイグルは、タリム盆地、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、ウイグル可汗国と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、安史の乱等ではしばしば唐を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めた。
ウイグル可汗国は840年に崩壊する。これによって、モンゴル高原より逃亡したウイグル人は天山山脈北麓に天山ウイグル王国を建国し、同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地にカラ・ハン朝を興した。
この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイスラム教に改宗すると、イスラム化が進んだ。
カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝は金に敗れて西遷してきた遼の皇族耶律大石率いる契丹族によって12世紀に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝はカラ・キタイ又は西遼などと呼ばれている。
カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、西トルキスタンに割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れたセルジューク朝の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。この結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった。
13世紀に入ると、モンゴル高原を統一したチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が強大化し始めた。この頃になるとカラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、天山ウイグル王国はいち早くモンゴルに服属し、その駙馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。
この判断は結果的に正しいものとなり、間もなく中央アジアの全域がモンゴルの勢力下に入ることとなる。
その後、モンゴル帝国は極東から東ヨーロッパに到る大帝国を建設したが、モンゴル帝国支配下の東トルキスタンを大きく分けると、天山ウイグル王国の領域のほか、チンギス・ハンの第三子オゴデイ系の領地(オゴデイ・ハン国)と第二子チャガタイ系の領地(チャガタイ・ハン国)に別れていた。やがてモンゴル帝国は王族間対立などによって徐々に解体へと向かうこととなるが、オゴデイの孫カイドゥは、モンゴル帝国の宗主たる元のクビライに公然と反旗を翻し、帝国の解体に大きな影響を与えた。
その後、モグーリスタン(東トルキスタン)は長らくモンゴル系領主の支配を受けた。
16世紀にウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立したが、この支配者もチャガタイ系であった。ヤルカンド・ハン国は、17世紀に北方からやってきたオイラト族のジュンガル部(四オイラトの後継国家)に滅ぼされた。
さらに、18世紀なかば1757年9月にアマルサナー(モンゴル語版)が敗れ、ジュンガルは清により征服され、その支配下に入った。
清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)などと呼ばれた。
19世紀の後期、西トルキスタンのフェルガナ盆地を支配していたコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。
しかし、間もなく清は欽差大臣の左宗棠を派遣して再征服に成功した。
この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清はヤクブ・ベクの乱をきっかけにロシア帝国との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、1884年に清朝内地並の行政制度がしかれることとなった (新疆省)。
辛亥革命によって清が滅亡した際、東トルキスタンはイリ地方の軍事政権(哥老会、広福)、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力(袁大化、楊増新)の新疆省がイリ地方を取り込んだ。
この結果、藩部のうち、民族政権が維持されていたチベットとモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言(チベット・モンゴル相互承認条約)したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、中華民国への合流を表明することとなった。
ただし、中華民国中央が軍閥による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国(楊増新、金樹仁、盛世才)のような状態であった。
1944年 - 1946年の東トルキスタン共和国をはじめ幾度かウイグル人主体の独立政権が試みられた。
1949年、国共内戦を制して中華人民共和国を建国した中国共産党は、新疆の接収を行うために鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。
毛沢東はイリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。
しかし、8月27日、北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ、アブドゥルキリム・アバソフ、イスハクベグ・モノノフ(英語版)、羅志(英語版)、デレリカン・スグルバヨフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。
9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち、共産党政府への服属を表明した。
12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された(新疆侵攻)。
ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族やシベ族、回族で構成された東トルキスタン共和国軍(英語版)を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍 (帰化軍)を率いていた。
1950年、伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した (伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。
この地域の中華人民共和国による併合後、民族名称はウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
1955年には新疆ウイグル自治区が設置されたが、実際の政治・政策は北京の中国共産党政府の影響下にある。
中国は、1964年から1996年までロプノルに建設した実験場で延べ46回、総爆発出力約20メガトンの核爆発を行った。
1964年10月16日、最初の実験で30メートルの高さで20キロトンの核分裂爆弾を地表爆発させ、1967年6月17日に最初の熱核爆弾 (2メガトン) の実験を行った。
中国政府はこれまで46回におよぶ核実験を行ったと公式発表しているが、実際は、小規模の実験も含め、同地における核実験は50回以上に及ぶと推定されている。
放射能汚染による健康被害や農作物への影響が指摘されている。
高田純は広島大学原爆放射線医科学研究所時代に、元広島市長平岡敬の率いる「ヒロシマセミパラチンスクプロジェクト」に参加し、星正弘の指導の元で調査訪問時に得たデータから、2002年8月以降の調査で、推定で、中国が東トルキスタンで実施した核実験によって、同自治区のウイグル人を中心に19万人が急死し、急性放射線障害など健康被害者は129万人にのぼり、そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上に達するとの結果が出たと述べた。
また高田は、被害はシルクロード周辺を訪れた日本人観光客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要であると述べている。
高田は調査に当たり、1996年までの中国の46回の同地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データや人口密度などを基礎データとした。
高田によれば、楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では、高エネルギーのガンマ線やベータ線、アルファ線などを放射する「核の砂」が大量に発生、東京都の136倍に相当する広範囲に及んだという。
また、中国の核実験は核防護策がずさんで、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広島原爆被害の4倍を超える被害者を出しているとして、「人道的にもこれほどひどい例はない。中国政府の情報の隠蔽も加え国家犯罪にほかならない」と批判した。
ウルムチの病院の腫瘍専門外科勤務だったウイグル人医師アニワル・トフティは、「調査すると、ウイグル人の悪性腫瘍発生率は、中国の他の地域の漢人と比べ、35%も高かった。
漢人でも、新疆ウイグル自治区に30年以上住んでいる人は、発生率がウイグル人と同程度に高かった。」と述べ、「実験のモルモットにされたウイグル人の生命、土地、資源が犠牲となってきた」と訴えた。
中国政府は『核汚染はない』と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の援助支援団体も入れない。原爆症患者が30年以上も放置されたままなのだ」として、中国政府の対応を批判している。核実験場は最も近い居住エリアから10キロしか離れていなかったとも指摘されている。
中国による同地区核実験についてはイギリスBBCが1998年8月に隠し撮りによるドキュメンタリー「死のシルクロード」(27分)を報道し、この作品は世界83カ国で放映されローリー・ペック賞を受賞している。
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"text": "東トルキスタン(ひがしトルキスタン)は、中央アジアのテュルク化(英語版)とともに生まれた歴史的な地域名称であり「テュルク人の土地」を意味するペルシャ語表現に由来するトルキスタンの東部地域にあたり、主として現在の新疆ウイグル自治区一帯を指す歴史・地理的な概念。面積は、1,828,418平方キロメートル。中国領トルキスタンとも称される。",
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"text": "19世紀後半、ロシア帝国がカザフ草原からコーカンド・ハン国に侵攻し、1867年にタシュケントにトルキスタン総督府を設置し、東は天山山脈西部とパミール高原、西はカスピ海東岸、南はイラン・アフガニスタン国境まで支配領域を拡大し、ロシア領トルキスタン (西トルキスタン) が成立すると、清朝の新疆(中国語版)は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンと呼ばれるようになった。",
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"text": "中華民国は1912年からこの地を新疆省とし、中華人民共和国は国共内戦の延長で1949年にチベットや新疆に人民解放軍を侵攻させ、力で少数民族地区を併合し共産党統治内に組み込み、1955年に新疆ウイグル自治区を成立させた。",
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"text": "カザフ、キルギス、タジク、アフガンの各共和国、パキスタン、インド、カシミール、チベット、モンゴル、中国本土に接している。",
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"text": "東トルキスタンにはアルタイ山脈、天山山脈、クンルン山脈といった標高の高い山脈があり、中心部と東部は砂漠に覆われ、タクラマカン砂漠の面積は約500,000平方キロメートルである。",
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"text": "タリム川、イリ川、イルティシュ川、マナス川、ウルングル川、カラシャフル川などの主要河川、二つの大きな湖、サイラム湖とボグダ湖がある。",
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"text": "歴史的に重要な都市に、カシュガル、ホータン、ヤルカンド、アクス、クチャ、ウシュトゥルファンがあり、アルトゥシャフル(英語版)と呼ばれる。",
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"text": "東トルキスタンの住民の約45%はウイグル族が占めているが、他にも漢族、カザフ族、回族、モンゴル族、満族など多くの民族が居住している。",
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"text": "特に、中華人民共和国成立以後は漢族の流入が著しい。北西部には漢族と回族が多く、南西部にウイグル族が多い。",
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"text": "東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していた。",
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"text": "タリム盆地の辺りには古くは疏勒、亀茲、焉耆、高昌、楼蘭などの都市国家が交易により栄えたが、しばしば遊牧国家の月氏や匈奴などの影響下に入った。",
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"text": "前漢の武帝の時代に匈奴が衰えると次は前漢に服属し、以後は北方の遊牧国家(突厥など)と東方の諸帝国(唐など)の勢力争いの狭間で何度か宗主が入れ替わった。",
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"text": "一方、タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にあるジュンガル盆地には、古来より遊牧民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていた。",
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"text": "しかし、突厥の支配時代にテュルク系民族集団の鉄勒の中からウイグル(回鶻)が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼした。この時期のウイグルは、タリム盆地、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、ウイグル可汗国と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、安史の乱等ではしばしば唐を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めた。",
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"text": "ウイグル可汗国は840年に崩壊する。これによって、モンゴル高原より逃亡したウイグル人は天山山脈北麓に天山ウイグル王国を建国し、同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地にカラ・ハン朝を興した。",
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"text": "この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイスラム教に改宗すると、イスラム化が進んだ。",
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"text": "カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝は金に敗れて西遷してきた遼の皇族耶律大石率いる契丹族によって12世紀に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝はカラ・キタイ又は西遼などと呼ばれている。",
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"text": "カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、西トルキスタンに割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れたセルジューク朝の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。この結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった。",
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"text": "13世紀に入ると、モンゴル高原を統一したチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が強大化し始めた。この頃になるとカラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、天山ウイグル王国はいち早くモンゴルに服属し、その駙馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。",
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"text": "この結果、藩部のうち、民族政権が維持されていたチベットとモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言(チベット・モンゴル相互承認条約)したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、中華民国への合流を表明することとなった。",
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"text": "ただし、中華民国中央が軍閥による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国(楊増新、金樹仁、盛世才)のような状態であった。",
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"text": "1944年 - 1946年の東トルキスタン共和国をはじめ幾度かウイグル人主体の独立政権が試みられた。",
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"text": "毛沢東はイリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。",
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"text": "しかし、8月27日、北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ、アブドゥルキリム・アバソフ、イスハクベグ・モノノフ(英語版)、羅志(英語版)、デレリカン・スグルバヨフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。",
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"text": "1964年10月16日、最初の実験で30メートルの高さで20キロトンの核分裂爆弾を地表爆発させ、1967年6月17日に最初の熱核爆弾 (2メガトン) の実験を行った。",
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"text": "中国政府はこれまで46回におよぶ核実験を行ったと公式発表しているが、実際は、小規模の実験も含め、同地における核実験は50回以上に及ぶと推定されている。",
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"text": "放射能汚染による健康被害や農作物への影響が指摘されている。",
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"text": "高田純は広島大学原爆放射線医科学研究所時代に、元広島市長平岡敬の率いる「ヒロシマセミパラチンスクプロジェクト」に参加し、星正弘の指導の元で調査訪問時に得たデータから、2002年8月以降の調査で、推定で、中国が東トルキスタンで実施した核実験によって、同自治区のウイグル人を中心に19万人が急死し、急性放射線障害など健康被害者は129万人にのぼり、そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上に達するとの結果が出たと述べた。",
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"text": "また高田は、被害はシルクロード周辺を訪れた日本人観光客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要であると述べている。",
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"text": "高田は調査に当たり、1996年までの中国の46回の同地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データや人口密度などを基礎データとした。",
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"text": "漢人でも、新疆ウイグル自治区に30年以上住んでいる人は、発生率がウイグル人と同程度に高かった。」と述べ、「実験のモルモットにされたウイグル人の生命、土地、資源が犠牲となってきた」と訴えた。",
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"text": "中国政府は『核汚染はない』と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の援助支援団体も入れない。原爆症患者が30年以上も放置されたままなのだ」として、中国政府の対応を批判している。核実験場は最も近い居住エリアから10キロしか離れていなかったとも指摘されている。",
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"text": "中国による同地区核実験についてはイギリスBBCが1998年8月に隠し撮りによるドキュメンタリー「死のシルクロード」(27分)を報道し、この作品は世界83カ国で放映されローリー・ペック賞を受賞している。",
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東トルキスタン(ひがしトルキスタン)は、中央アジアのテュルク化とともに生まれた歴史的な地域名称であり「テュルク人の土地」を意味するペルシャ語表現に由来するトルキスタンの東部地域にあたり、主として現在の新疆ウイグル自治区一帯を指す歴史・地理的な概念。面積は、1,828,418平方キロメートル。中国領トルキスタンとも称される。 19世紀後半、ロシア帝国がカザフ草原からコーカンド・ハン国に侵攻し、1867年にタシュケントにトルキスタン総督府を設置し、東は天山山脈西部とパミール高原、西はカスピ海東岸、南はイラン・アフガニスタン国境まで支配領域を拡大し、ロシア領トルキスタン (西トルキスタン) が成立すると、清朝の新疆は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンと呼ばれるようになった。 中華民国は1912年からこの地を新疆省とし、中華人民共和国は国共内戦の延長で1949年にチベットや新疆に人民解放軍を侵攻させ、力で少数民族地区を併合し共産党統治内に組み込み、1955年に新疆ウイグル自治区を成立させた。 カザフ、キルギス、タジク、アフガンの各共和国、パキスタン、インド、カシミール、チベット、モンゴル、中国本土に接している。
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{{脚注の不足|date=2020年1月}}
{{Otheruseslist|トルキスタン東部の地域概念|短期間存在した共和国|東トルキスタン共和国|東トルキスタン共和国の復活を目指して活動している組織|東トルキスタン共和国亡命政府|中華人民共和国の行政区分|新疆ウイグル自治区}}
{{Chinese
|title=東トルキスタン
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{{Annotated image |float=right|image=Cnt asia cia1.jpg|image-width=600 | image-top = -30
|width=400 |height=340 |caption=トルキスタンに含まれる国家・地域を囲った地図。区切られたうち右部分が東トルキスタン}}
'''東トルキスタン'''(ひがしトルキスタン)は、[[中央アジア]]の{{仮リンク|テュルク化|en|Turkification}}とともに生まれた歴史的な地域名称であり「[[テュルク人]]の土地」を意味する[[ペルシャ語]]表現に由来する<ref name="小松2005-388">[[小松久男]]「トルキスタン」小松久男+[[梅村坦]]+[[宇山智彦]]+[[帯谷知可]]+[[堀川徹]]編『中央ユーラシアを知る事典』2005年4月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12636-7、388頁。</ref>[[トルキスタン]]の東部地域にあたり、主として現在の[[新疆ウイグル自治区]]一帯を指す歴史・地理的な概念<ref>「東トルキスタン」小松久男+梅村坦+宇山智彦+帯谷知可+堀川徹編『中央ユーラシアを知る事典』[[平凡社]]、2005年4月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12636-7、440頁。</ref>。面積は、1,828,418平方キロメートル<ref name="Tasagil">{{Cite web |author=Ahmet Taşağıl |date= |url= https://islamansiklopedisi.org.tr/turkistan |title=TÜRKİSTAN |publisher=[[:tr:TDV İslâm Ansiklopedisi|Türkiye Diyanet Vakfı İslâm Ansiklopedisi]] |accessdate=2020-01-15}}</ref>{{refnest|group="注釈"| 新疆ウイグル自治区の面積は、1,664,897平方キロメートル。}}。'''中国領トルキスタン'''<ref>{{kotobank|1=トルキスタン|2=世界大百科事典 第2版}}</ref><ref>{{仮リンク|ハンス・ヴァン・デ・ヴェン|en|Hans van de Ven}} ([[潘亮]]訳)「中国軍事史の文脈から見る日中戦争」[[波多野澄雄]]・[[戸部良一]]編『日中戦争の国際共同研究 2 日中戦争の軍事的展開』[[慶応義塾大学出版会]]、2006年4月27日 初版第1刷発行、ISBN 4-7667-1277-X、433頁。</ref>とも称される。
19世紀後半、[[ロシア帝国]]が[[カザフ草原]]から[[コーカンド・ハン国]]に侵攻し、1867年に[[タシュケント]]に[[トルキスタン総督府]]を設置し、東は[[天山山脈]]西部と[[パミール高原]]、西は[[カスピ海]]東岸、南は[[イラン]]・[[アフガニスタン]]国境まで支配領域を拡大し、ロシア領トルキスタン ([[中央アジア#西トルキスタン|西トルキスタン]]{{refnest|group="注釈"|西トルキスタンには[[トルクメニスタン]]・[[ウズベキスタン]]・[[キルギス]]・[[カザフスタン]]・[[タジキスタン]] (タジキスタンの主要言語である[[タジク語]]は[[テュルク諸語]]ではなく[[ペルシア語]]などとともに[[イラン語派]]の西方方言群を形成する言語)が含まれる。}}) が成立すると、[[清朝]]の{{仮リンク|新疆省 (清)|zh|新疆省 (清)|label=新疆}}は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンと呼ばれるようになった<ref name="小松2005-388"/>。
[[中華民国]]は1912年からこの地を[[新疆省]]とし、[[中華人民共和国]]は[[国共内戦]]の延長で1949年に[[チベット]]や新疆に[[人民解放軍]]を[[新疆侵攻|侵攻]]させ、力で少数民族地区を併合し共産党統治内に組み込み<ref>[[茅原郁生]]『中国人民解放軍:「習近平軍事改革」の実像と限界〈PHP新書 1155〉』[[PHP研究所]]、二〇一八年九月二十八日 第一版第一刷発行、ISBN 978-4-569-84131-1、42頁。</ref>、1955年に[[新疆ウイグル自治区]]を成立させた。
[[カザフスタン|カザフ]]、[[キルギス]]、[[タジキスタン|タジク]]、アフガンの各共和国、[[パキスタン]]、[[インド]]、[[カシミール]]、[[チベット]]、[[モンゴル]]、[[中国本土]]に接している<ref name="Tasagil"/>。
== 地理 ==
{{seealso|新疆ウイグル自治区#地理}}
東トルキスタンには[[アルタイ山脈]]、[[天山山脈]]、[[クンルン山脈]]といった標高の高い山脈があり、中心部と東部は砂漠に覆われ、[[タクラマカン砂漠]]の面積は約500,000平方キロメートルである<ref name="Tasagil"/>。
[[タリム川]]、[[イリ川]]、[[イルティシュ川]]、[[マナス川 (新疆ウイグル自治区)|マナス川]]、[[ウルングル川]]、カラシャフル川などの主要河川、二つの大きな湖、[[サリム湖|サイラム湖]]と[[天池 (天山)|ボグダ湖]]がある<ref name="Tasagil"/>。
{{西域地図|align=left|width=550}}
歴史的に重要な都市に、[[カシュガル]]、[[ホータン]]、[[ヤルカンド]]、[[アクス市|アクス]]、[[クチャ県|クチャ]]、[[ウシュトゥルファン県|ウシュトゥルファン]]があり、{{仮リンク|アルトゥシャフル|en|Altishahr}}と呼ばれる<ref name="Tasagil"/>。
東トルキスタンの住民の約45%は[[ウイグル族]]が占めているが、他にも漢族、[[カザフ族]]、[[回族]]、[[モンゴル族]]、[[満族]]など多くの民族が居住している。
特に、中華人民共和国成立以後は漢族の流入が著しい。北西部には漢族と回族が多く、南西部にウイグル族が多い。
{{-}}
== 歴史 ==
[[File:Xiyu_City-States_of_Tarim_basin_(BC1C).jpg|thumb|[[タリム盆地]]の都市(1[[紀元前]])]]
[[File:Seidenstrasse_GMT_Ausschnitt_Zentralasien.jpg|thumb|[[シルクロード]]と東トルキスタン]]
[[File:Battle_at_Kor-p'ing.jpg|thumb|[[ジャハーンギール・ホージャ]]との中国の戦い(1828年)]]
{{multiple image
| footer = 第一東トルキスタン共和国(1933年)、[[カシュガル市]]周辺。 第二東トルキスタン共和国 (1944〜1949年)、[[グルジャ市]]周辺。
| width = 150
| image1 = First ETR in China.svg
| alt1 = 第一東トルキスタン共和国
| image2 = Second ETR in China.svg
| alt2 = 第二東トルキスタン共和国
}}
=== 近代以前 ===
{{seealso|ウイグル人#歴史|新疆省}}
東トルキスタンには、古くは[[インド・ヨーロッパ語族]]の言葉を話す人(いわゆる[[アーリア人]])が居住していた。
=== 都市国家と月氏と匈奴 ===
[[タリム盆地]]の辺りには古くは[[疏勒]]、[[亀茲]]、[[焉耆]]、[[高昌]]、[[楼蘭]]などの[[都市国家]]が[[交易]]により栄えたが、しばしば[[遊牧国家]]の[[月氏]]や[[匈奴]]などの影響下に入った。
=== 前漢と突厥と唐 ===
[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の時代に匈奴が衰えると次は前漢に服属し、以後は北方の遊牧国家([[突厥]]など)と東方の諸帝国([[唐]]など)の勢力争いの狭間で何度か宗主が入れ替わった。
タリム盆地の都市国家群は7世紀ぐらいまでは存続し、以後は数百年かけて徐々に衰退していった。
=== ウイグル可汗国 ===
一方、タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にある[[ジュンガル盆地]]には、古来より遊牧民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていた。
しかし、突厥の支配時代にテュルク系民族集団の[[鉄勒]]の中からウイグル([[回鶻]])が台頭し、[[8世紀]]には突厥を滅ぼした。この時期のウイグルは、タリム盆地、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、[[回鶻|ウイグル可汗国]]と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、[[安史の乱]]等ではしばしば唐を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めた。
=== 天山ウイグル王国とカラ・ハン朝 ===
ウイグル可汗国は[[840年]]に崩壊する。これによって、モンゴル高原より逃亡したウイグル人は[[天山山脈]]北麓に[[天山ウイグル王国]]を建国し、同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地に[[カラ・ハン朝]]を興した。
この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝が[[イスラム教]]に改宗すると、イスラム化が進んだ。
=== カラ・キタイ ===
カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝は[[金 (王朝)|金]]に敗れて西遷してきた[[遼]]の皇族[[耶律大石]]率いる[[契丹]]族によって[[12世紀]]に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝は[[カラ・キタイ]]又は[[西遼]]などと呼ばれている。
カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、[[西トルキスタン]]に割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れた[[セルジューク朝]]の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。この結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった。
=== モンゴル帝国 ===
[[13世紀]]に入ると、モンゴル高原を統一した[[チンギス・ハン]]率いる[[モンゴル帝国]]が強大化し始めた。この頃になるとカラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、天山ウイグル王国はいち早くモンゴルに服属し、その駙馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。
この判断は結果的に正しいものとなり、間もなく中央アジアの全域がモンゴルの勢力下に入ることとなる。
その後、モンゴル帝国は極東から東ヨーロッパに到る大帝国を建設したが、モンゴル帝国支配下の東トルキスタンを大きく分けると、天山ウイグル王国の領域のほか、チンギス・ハンの第三子[[オゴデイ]]系の領地([[オゴデイ・ハン国]])と第二子[[チャガタイ]]系の領地([[チャガタイ・ハン国]])に別れていた。やがてモンゴル帝国は王族間対立などによって徐々に解体へと向かうこととなるが、オゴデイの孫[[カイドゥ]]は、モンゴル帝国の宗主たる[[元 (王朝)|元]]の[[クビライ]]に公然と反旗を翻し、帝国の解体に大きな影響を与えた。
その後、[[モグーリスタン]](東トルキスタン)は長らくモンゴル系領主の支配を受けた。
16世紀にウイグル人国家である[[ヤルカンド・ハン国]]が成立したが、この支配者もチャガタイ系であった。ヤルカンド・ハン国は、[[17世紀]]に北方からやってきた[[オイラト]]族の[[ジュンガル]]部([[ドルベン|四オイラト]]の後継国家)に滅ぼされた。
=== 清朝 ===
{{seealso|ジュンガル|[[:en:Zunghar Khanate]]|{{仮リンク|ジョーン・モドの戦い|ru|Битва на Тэрэлже (1696)}}|[[十全武功]]|[[清・ジュンガル戦争]]}}
さらに、[[18世紀]]なかば[[1757年]]9月に{{仮リンク|アマルサナー|mn|Амарсанаа}}が敗れ、ジュンガルは[[清]]により征服され、その支配下に入った。
清朝の支配では、[[イリ将軍]]統治下の[[回部]]として、[[藩部]]の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)などと呼ばれた。
==== ヤクブ・ベクの乱 ====
{{seealso|ヤクブ・ベクの乱}}
[[19世紀]]の後期、西トルキスタンの[[フェルガナ盆地]]を支配していた[[コーカンド・ハン国]]の軍人[[ヤクブ・ベク]]の手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。
しかし、間もなく清は[[欽差大臣]]の[[左宗棠]]を派遣して再征服に成功した。
この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清は[[ヤクブ・ベクの乱]]をきっかけに[[ロシア帝国]]との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、[[1884年]]に清朝内地並の行政制度がしかれることとなった ([[新疆省]])。
=== 中華民国・新疆省 ===
{{seealso|新疆省}}
[[辛亥革命]]によって清が滅亡した際、東トルキスタンはイリ地方の軍事政権([[袍哥会|哥老会]]、[[広福]])、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力([[袁大化]]、[[楊増新]])の新疆省がイリ地方を取り込んだ。
この結果、[[藩部]]のうち、民族政権が維持されていた[[チベット]]と[[モンゴル]]は手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言([[チベット・モンゴル相互承認条約]])したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、[[中華民国]]への合流を表明することとなった。
ただし、中華民国中央が[[軍閥]]による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国([[楊増新]]、[[金樹仁]]、[[盛世才]])のような状態であった。
=== 東トルキスタン共和国 ===
{{seealso|東トルキスタン共和国}}
[[1944年]] - [[1946年]]の[[東トルキスタン共和国]]をはじめ幾度かウイグル人主体の独立政権が試みられた。
=== 中華人民共和国 ===
{{seealso|新疆ウイグル自治区#歴史}}
[[1949年]]、[[国共内戦]]を制して中華人民共和国を建国した[[中国共産党]]は、新疆の接収を行うために[[鄧力群]]を派遣し、イリ政府との交渉を行った。
[[毛沢東]]はイリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を[[北京市|北京]]の[[中国人民政治協商会議|政治協商会議]]に招いた。
しかし、[[8月27日]]、[[北京市|北京]]に向かった3地域の11人のリーダー達、[[アフメトジャン・カスィミ]]、[[アブドゥルキリム・アバソフ]]、{{仮リンク|イスハクベグ・モノノフ|en|Ishaq Beg Munonov}}、{{仮リンク|羅志|en|Luo Zhi}}、[[デレリカン・スグルバヨフ]]らイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内[[アルマトイ]]で消息を絶った。首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部の[[セイプディン・エズィズィ]]が陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。
[[9月26日]]には[[ブルハン・シャヒディ]]ら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち、共産党政府への服属を表明した。
12月までに[[中国人民解放軍]]が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された<ref>[[濱田正美]]「第7章 革命と民族 2 東トルキスタン」小松久男編『新版世界各国史 4 中央アジア史』山川出版社、2000年10月30日 1版1刷 発行、ISBN 4-634-41340-X、378~381頁。</ref>([[新疆侵攻]])。
[[ウイグル族]]とソ連領[[中央アジア]]出身者、[[モンゴル族]]や[[シベ族]]、[[回族]]で構成された{{仮リンク|東トルキスタン共和国軍|en|Ili National Army}}を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族の[[ユルバース・カーン]]は白系ロシア人と中国人ムスリムの軍 (帰化軍)を率いていた。
[[1950年]]、[[アラトゥルク県|伊吾]]で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した ([[伊吾の戦い]])。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。
この地域の[[中華人民共和国]]による併合後、民族名称はウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
[[1955年]]には[[新疆ウイグル自治区]]が設置されたが、実際の政治・政策は北京の中国共産党政府の影響下にある。
==== 中国による核実験 ====
{{独自研究|section=1|date=2015年11月}}
{{Main|中国の核実験}}
中国は、1964年から1996年まで[[ロプノル]]に建設した実験場で延べ46回、総爆発出力約20メガトンの核爆発を行った<ref name="高田2008-viii">[[高田純 (物理学者)|高田純]]『中国の核実験 シルクロードで発生した地表核爆発被害 ●高田純の放射線防護学入門シリーズ●』医療科学社、2008年7月14日 第一版 第1刷 発行、ISBN 978-4-86003-390-3、viii頁。</ref>。
1964年10月16日、最初の実験で30メートルの高さで20キロトンの[[核分裂爆弾]]を地表爆発させ、1967年6月17日に最初の[[熱核爆弾]] (2メガトン) の実験を行った<ref name="高田2008-viii"/>。
中国政府はこれまで46回におよぶ[[核実験]]を行ったと公式発表しているが、実際は、小規模の実験も含め、同地における核実験は50回以上に及ぶと推定されている。
放射能汚染による健康被害や農作物への影響が指摘されている。
[[高田純 (物理学者)|高田純]]は広島大学原爆放射線医科学研究所時代に、元広島市長[[平岡敬]]の率いる「ヒロシマセミパラチンスクプロジェクト」に参加し、星正弘の指導の元で調査訪問時に得たデータから、2002年8月以降の調査で、推定で、中国が東トルキスタンで実施した核実験によって、同自治区のウイグル人を中心に19万人が急死し、急性[[放射線障害]]など健康被害者は129万人にのぼり、そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上に達するとの結果が出たと述べた<ref>高田純『中国の核実験』 ISBN 978-4-86003-390-3{{要ページ番号|date=2012年7月}}</ref><ref>2009.4.30産経新聞 [https://megalodon.jp/2009-0627-2126-56/www.iza.ne.jp/news/newsarticle/248827/ 中国核実験で19万人急死、被害は129万人に 札幌医科大教授が推計]</ref>。
また高田は、被害は[[シルクロード]]周辺を訪れた日本人[[観光客]]27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要であると述べている<ref name="名前なし-1">「中国共産党が放置するシルクロード核ハザードの恐怖」『正論』2009年6月号所収。2009.4.30産経新聞 [https://megalodon.jp/2009-0627-2126-56/www.iza.ne.jp/news/newsarticle/248827/]</ref>。
高田は調査に当たり、1996年までの中国の46回の同地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データや人口密度などを基礎データとした。
高田によれば、楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では、高エネルギーの[[ガンマ線]]や[[ベータ線]]、[[アルファ線]]などを放射する「核の砂」が大量に発生、東京都の136倍に相当する広範囲に及んだという。
また、中国の核実験は核防護策がずさんで、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広島原爆被害の4倍を超える被害者を出しているとして、「人道的にもこれほどひどい例はない。中国政府の情報の隠蔽も加え国家犯罪にほかならない」と批判した<ref name="名前なし-1"/>。
ウルムチの病院の腫瘍専門外科勤務だったウイグル人医師アニワル・トフティは、「調査すると、ウイグル人の悪性腫瘍発生率は、中国の他の地域の漢人と比べ、35%も高かった。
漢人でも、新疆ウイグル自治区に30年以上住んでいる人は、発生率がウイグル人と同程度に高かった。」と述べ、「実験のモルモットにされたウイグル人の生命、土地、資源が犠牲となってきた」<ref name="sankei20080811">{{Cite web|和書|author= |date= 2008-08-10 |url=https://www.uyghurcongress.org/jp/「中国核実験の被害を知って」 ウイグル人医師 |title=中国核実験の被害を知って」 ウイグル人医師 (産経新聞)|publisher=[[世界ウイグル会議]] |accessdate=2020-01-21}}、[https://megalodon.jp/2008-0811-1933-39/sankei.jp.msn.com/politics/policy/080811/plc0808111717011-n2.htm 中国核実験46回 ウイグル人医師が惨状訴え]</ref>と訴えた。
中国政府は『核汚染はない』と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の援助支援団体も入れない。原爆症患者が30年以上も放置されたままなのだ」として、中国政府の対応を批判している<ref>『諸君』2007年2月号「シルクロードに散布された死の灰」</ref>。{{要出典範囲|date=2020年1月20日 (月) 12:19 (UTC)|核実験場は最も近い居住エリアから10キロしか離れていなかったとも指摘されている}}。
中国による同地区核実験についてはイギリス[[BBC]]が1998年8月に隠し撮りによるドキュメンタリー「死のシルクロード」(27分)を報道し、この作品は世界83カ国で放映され[[ローリー・ペック賞]]を受賞している<ref>[https://yoshiko-sakurai.jp/2009/04/02 「『中国核実験』の惨状」] [[櫻井よしこ]] 『[[週刊新潮]]』 2009年4月2日号 日本ルネッサンス 拡大版 第356回</ref>。
==== 中国からの独立運動 ====
{{main|東トルキスタン独立運動}}
== 遺跡 ==
* [[楼蘭]](キロレン)
* [[ロプノール|ロップヌル]]([[ロプノール]])湖
* [[カラ・ホジャ]]遺跡(高昌故城、[[トゥルファン]])
* [[ベゼクリク石窟寺院]](トゥルファン)
* [[ニヤ遺跡]]([[ホータン地区]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[マー・ワラー・アンナフル]]、[[ソグディアナ]]
* [[東トルキスタン亡命政府]]
* [[ロプノール]]
* [[2009年ウイグル騒乱]]
* [[ウイグル料理]]
* [[日本と東トルキスタンの関係]]
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=今谷明|authorlink=今谷明|year=2000|month=7|title=中国の火薬庫 新疆ウイグル自治区の近代史|publisher=集英社|isbn=4-08-781188-3}}
* {{Cite book|和書|author=入谷萌苺|authorlink=入谷萌苺|year=1997|month=1|title=幻の「東突厥斯坦共和国」を行く|publisher=東方出版|isbn=4-88591-515-5}}
* {{Cite book|和書|author=王柯|authorlink=王柯|year=1995|month=12|title=東トルキスタン共和国研究 中国のイスラムと民族問題|publisher=東京大学出版会|isbn=4-13-026113-4}}
* {{Cite book|和書|author=落合信彦|authorlink=落合信彦|year=1998|month=12|title=もうひとつのシルクロード 中国大分裂の地雷原|publisher=小学館|isbn=4-09-389450-7}}
* {{Cite book|和書|author=テンジン|authorlink=テンジン|coauthors=[[イリハム・マハムティ]]/[[ダシ・ドノロブ]]/[[林建良]]|year=2009|month=3|title=中国の狙いは民族絶滅 チベット・ウイグル・モンゴル・台湾、自由への戦い|publisher=まどか出版|isbn=978-4-944235-45-2}}
* {{Cite book|和書|author=水谷尚子|authorlink=水谷尚子|year=2007|month=10|title=中国を追われたウイグル人 亡命者が語る政治弾圧|publisher=文藝春秋|series=文春新書|isbn=978-4-16-660599-6}}
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ヒッタイト
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ヒッタイト(/ˈhɪtaɪts/)(英語: Hittites[ˈhɪtaɪts]、古代ギリシア語: Χετταίοι、ラテン語: Hetthaei)は、紀元前1600年頃にアナトリアの北中部に位置するハットゥシャを中心とした帝国を樹立する上で重要な役割を果たしたアナトリア人である。この帝国は、アナトリアの大部分だけでなく、レバント北部と上部メソポタミアの一部を含む領域を領有していたシュッピルリウマ1世の下で紀元前14世紀半ばにその絶頂に達した。
紀元前15世紀から紀元前13世紀の間に、慣習的にヒッタイト帝国と呼ばれるハットゥシャの帝国は、近東の支配のためにエジプト新王国、中アッシリア帝国やミタンニ帝国と競合するようになった。中アッシリア帝国が最終的に優勢な勢力として現れ、ヒッタイト帝国の多くを併合したが、残りの部分はこの地域へのフリュギア人の新参者によって略奪された。紀元前1180年以降、青銅器時代後期の崩壊時に、ヒッタイト人はいくつかの独立したシロ・ヒッタイト国家に分裂し、そのうちのいくつかは新アッシリア王国に屈服する前に紀元前8世紀まで存続した。
ヒッタイト語はインド・ヨーロッパ語族のアナトリア語派の言語のうちの一つで、密接に関連しているルーアン語とともに、歴史的に記録されている最古のインド・ヨーロッパ語であり、その話者によってnešili「ネサの言語」と呼ばれている。ヒッタイト人は自分たちの国をハットゥシャ王国(アッカド語ではハッティ)と呼んでいたが、これは紀元前2千年紀の初めまでこの地域に住んでいたハッティ人に由来する。しかしハッティ人の言語であるハッティ語は、ヒッタイト語とは無関係の言語である。慣習的な「ヒッタイト人」という名称は、19世紀の考古学が最初に彼らが聖書のヒッタイト人であると識別したことによるものである。
ヒッタイト文明の歴史は、彼らの王国の地域で発見された楔形文字のテキストから主に知られており、アッシリア、バビロニア、エジプト、中東の様々な史書で発見された外交と商業の文通から、その解読はまた、インド・ヨーロッパ研究の歴史の中で重要なイベントであった。
鉄の製錬の発展は、かつて青銅器時代後期のアナトリアのヒッタイト人に起因するとされ、その成功は、当時の鉄の加工を独占していたという利点に大きく依存していた。しかし、このような「ヒッタイトの独占」という見方は、現在では学者の間でも批判されており、もはや学問的なコンセンサスとはなっていない。後期青銅器時代/初期鉄器時代の一部として、青銅器時代後期の崩壊により、この地域では鉄工技術が比較的継続的にゆっくりと普及してきた。青銅器時代のアナトリアの鉄器はいくつかあるが、その数はエジプトなどで発見された鉄器に匹敵するものであり、武器となるものはごく少数である。ヒッタイト人は溶かした鉄ではなく、隕石を使っていた。ヒッタイト軍は戦車(チャリオット)の使用に成功した。
古代には、民族的なヒッタイト王朝は、現在のシリア、レバノン、イスラエルの周りに散らばった小さな王国で生き残った。統一された連続性を欠いていたため、その子孫は散らばっていき、最終的にはバント、トルコ、メソポタミアの近代的な民族に統合された。
1920年代、トルコ建国に伴い、ヒッタイト人への関心が高まり、ハレット・チャンベルやタフシン・オズギュチなどのトルコ人考古学者の注目を集めた。この間、ヒッタイト学という新しい分野は、国営のエティバンク(「ヒッタイト銀行」)や、ヒッタイト人の首都から西に200キロ離れたアンカラにあるアナトリア文明博物館の設立にも影響を与え、世界で最も包括的なヒッタイト人の美術品や遺物の展示を行っている。
ハッティ (英: Hatti) の英語名で、旧約聖書の ヘテ人(英語版)(英: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者アーチボルド・セイスが命名した。
なお、この聖書の「ヘト人」はカナン人の一派として何度か名前が出てくるが、『エズラ記』9章1節のユダ王国の指導者たちがバビロン捕囚から戻っていた時、氏族長たちの報告で周辺の異民族の名前として出てくるのを最後に名前が上がらなくなり、少なくとも西暦1世紀後半の頃にはユダヤ人たちから「名前以外不明の滅んだ民族」という認識をされていた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節など)。
ヒッタイト人 (Hittites) は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。
近年、カマン・カレホユック(英語版)遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。
紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ(英語版)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立した。
紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国が成立した。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぎ、70年間ほど記録が少ない時代が続いた。
紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国が成立した。
紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突(カデシュの戦い)。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっており、その文化にもフルリ文化が色彩強まった。
紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。
ヒッタイト新王国が滅びたあと、遺民は南東アナトリアに移動し、紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(英語版)(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)とされる。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。
文献を参考に作成。双方の記述で異なる場合は、各王の記事と矛盾しないものを採用した。
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"text": "ヒッタイト(/ˈhɪtaɪts/)(英語: Hittites[ˈhɪtaɪts]、古代ギリシア語: Χετταίοι、ラテン語: Hetthaei)は、紀元前1600年頃にアナトリアの北中部に位置するハットゥシャを中心とした帝国を樹立する上で重要な役割を果たしたアナトリア人である。この帝国は、アナトリアの大部分だけでなく、レバント北部と上部メソポタミアの一部を含む領域を領有していたシュッピルリウマ1世の下で紀元前14世紀半ばにその絶頂に達した。",
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"text": "紀元前15世紀から紀元前13世紀の間に、慣習的にヒッタイト帝国と呼ばれるハットゥシャの帝国は、近東の支配のためにエジプト新王国、中アッシリア帝国やミタンニ帝国と競合するようになった。中アッシリア帝国が最終的に優勢な勢力として現れ、ヒッタイト帝国の多くを併合したが、残りの部分はこの地域へのフリュギア人の新参者によって略奪された。紀元前1180年以降、青銅器時代後期の崩壊時に、ヒッタイト人はいくつかの独立したシロ・ヒッタイト国家に分裂し、そのうちのいくつかは新アッシリア王国に屈服する前に紀元前8世紀まで存続した。",
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"text": "ヒッタイト語はインド・ヨーロッパ語族のアナトリア語派の言語のうちの一つで、密接に関連しているルーアン語とともに、歴史的に記録されている最古のインド・ヨーロッパ語であり、その話者によってnešili「ネサの言語」と呼ばれている。ヒッタイト人は自分たちの国をハットゥシャ王国(アッカド語ではハッティ)と呼んでいたが、これは紀元前2千年紀の初めまでこの地域に住んでいたハッティ人に由来する。しかしハッティ人の言語であるハッティ語は、ヒッタイト語とは無関係の言語である。慣習的な「ヒッタイト人」という名称は、19世紀の考古学が最初に彼らが聖書のヒッタイト人であると識別したことによるものである。",
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"text": "ヒッタイト文明の歴史は、彼らの王国の地域で発見された楔形文字のテキストから主に知られており、アッシリア、バビロニア、エジプト、中東の様々な史書で発見された外交と商業の文通から、その解読はまた、インド・ヨーロッパ研究の歴史の中で重要なイベントであった。",
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"text": "鉄の製錬の発展は、かつて青銅器時代後期のアナトリアのヒッタイト人に起因するとされ、その成功は、当時の鉄の加工を独占していたという利点に大きく依存していた。しかし、このような「ヒッタイトの独占」という見方は、現在では学者の間でも批判されており、もはや学問的なコンセンサスとはなっていない。後期青銅器時代/初期鉄器時代の一部として、青銅器時代後期の崩壊により、この地域では鉄工技術が比較的継続的にゆっくりと普及してきた。青銅器時代のアナトリアの鉄器はいくつかあるが、その数はエジプトなどで発見された鉄器に匹敵するものであり、武器となるものはごく少数である。ヒッタイト人は溶かした鉄ではなく、隕石を使っていた。ヒッタイト軍は戦車(チャリオット)の使用に成功した。",
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"text": "古代には、民族的なヒッタイト王朝は、現在のシリア、レバノン、イスラエルの周りに散らばった小さな王国で生き残った。統一された連続性を欠いていたため、その子孫は散らばっていき、最終的にはバント、トルコ、メソポタミアの近代的な民族に統合された。",
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"text": "1920年代、トルコ建国に伴い、ヒッタイト人への関心が高まり、ハレット・チャンベルやタフシン・オズギュチなどのトルコ人考古学者の注目を集めた。この間、ヒッタイト学という新しい分野は、国営のエティバンク(「ヒッタイト銀行」)や、ヒッタイト人の首都から西に200キロ離れたアンカラにあるアナトリア文明博物館の設立にも影響を与え、世界で最も包括的なヒッタイト人の美術品や遺物の展示を行っている。",
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"text": "ハッティ (英: Hatti) の英語名で、旧約聖書の ヘテ人(英語版)(英: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者アーチボルド・セイスが命名した。",
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"text": "なお、この聖書の「ヘト人」はカナン人の一派として何度か名前が出てくるが、『エズラ記』9章1節のユダ王国の指導者たちがバビロン捕囚から戻っていた時、氏族長たちの報告で周辺の異民族の名前として出てくるのを最後に名前が上がらなくなり、少なくとも西暦1世紀後半の頃にはユダヤ人たちから「名前以外不明の滅んだ民族」という認識をされていた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節など)。",
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"text": "ヒッタイト人 (Hittites) は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。",
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"text": "近年、カマン・カレホユック(英語版)遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。",
"title": "歴史"
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"text": "紀元前1680年頃、クズルウルマック(\"赤い河\"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ(英語版)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立した。",
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"text": "紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国が成立した。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぎ、70年間ほど記録が少ない時代が続いた。",
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"text": "紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突(カデシュの戦い)。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっており、その文化にもフルリ文化が色彩強まった。",
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"text": "紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。",
"title": "歴史"
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"text": "ヒッタイト新王国が滅びたあと、遺民は南東アナトリアに移動し、紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(英語版)(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)とされる。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。",
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"text": "文献を参考に作成。双方の記述で異なる場合は、各王の記事と矛盾しないものを採用した。",
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ヒッタイト(/ˈhɪtaɪts/)は、紀元前1600年頃にアナトリアの北中部に位置するハットゥシャを中心とした帝国を樹立する上で重要な役割を果たしたアナトリア人である。この帝国は、アナトリアの大部分だけでなく、レバント北部と上部メソポタミアの一部を含む領域を領有していたシュッピルリウマ1世の下で紀元前14世紀半ばにその絶頂に達した。
|
{{出典の明記|date=2010年3月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = ヒッタイト
|日本語国名 = ヒッタイト王国
|公式国名 = Ḫa-at-tu-ša / {{cuneiform|hit|𒄩𒀜𒌅𒊭}}
|建国時期 = [[紀元前16世紀]]
|亡国時期 = [[紀元前1180年]]
|先代1 =
|先旗1 =
|次代1 = シロ・ヒッタイト国家
|次旗1 =
|次代2 = フリギア
|次旗2 =
|次代3 = リュディア
|次旗3 =
|次代4 = メディア王国
|次旗4 =
|次代5 = アケメネス朝
|次旗5 = Standard of Cyrus the Great.svg
|国旗画像 =
|国旗リンク =
|国旗説明 =
|国旗幅 =
|国旗縁 =
|国章画像 =
|国章リンク =
|国章説明 =
|国章幅 =
|標語 =
|国歌名 =
|国歌 =
|国歌追記 =
|位置画像 = Map Hittite rule en.svg
|位置画像説明 = ヒッタイト帝国の最大の範囲の地図。紀元前1350年から1300年の間にヒッタイト帝国が支配していた領域を緑の線で示している。
|公用語 = [[ヒッタイト語]]、[[ルウィ語]]、[[パラー語]]、[[フルリ語]]、[[アッカド語]]、その他[[アナトリア語派]]
|首都 = {{仮リンク|クッシャラ|en|Kussara}}<br>[[ハットゥシャ]]
|元首等肩書 =
|元首等年代始1 = [[紀元前1586年]]
|元首等年代終1 = [[紀元前1556年]]
|元首等氏名1 = [[ハットゥシリ1世]]
|元首等年代始2 = [[紀元前1321年]]
|元首等年代終2 = [[紀元前1295年]]
|元首等氏名2 = [[ムルシリ2世]]
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
|首相等氏名1 =
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|変遷1 = [[ラバルナ1世]]による建国
|変遷年月日1 = [[紀元前16世紀]]
|変遷2 = ヒッタイト中興と新王国時代の幕開け
|変遷年月日2 = トゥドハリヤ1世
|変遷3 = 周辺海洋民族による包囲と滅亡
|変遷年月日3 = [[紀元前1180年]]
|通貨 =
|時間帯 =
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|注記 =
}}
'''ヒッタイト'''(/ˈhɪtaɪts/)({{lang-en|Hittites}}{{IPAc-en|ˈ|h|ɪ|t|aɪ|t|s}}、{{Lang-grc|Χετταίοι}}、{{lang-la|Hetthaei}})は、紀元前1600年頃に[[アナトリア半島|アナトリア]]の北中部に位置する[[ハットゥシャ]]を中心とした帝国を樹立する上で重要な役割を果たしたアナトリア人である。この帝国は、アナトリアの大部分だけでなく、[[レバント]]北部と[[ジャズィーラ|上部メソポタミア]]の一部を含む領域を領有していた[[シュッピルリウマ1世]]の下で紀元前14世紀半ばにその絶頂に達した。
== 概要 ==
[[紀元前15世紀]]から[[紀元前13世紀]]の間に、慣習的にヒッタイト帝国と呼ばれるハットゥシャの帝国は、[[近東]]の支配のために[[エジプト新王国]]、中[[アッシリア]]帝国や[[ミタンニ]]帝国と競合するようになった。中アッシリア帝国が最終的に優勢な勢力として現れ、ヒッタイト帝国の多くを併合したが、残りの部分はこの地域への[[フリュギア]]人の新参者によって略奪された。[[紀元前12世紀|紀元前1180年]]以降、[[前1200年のカタストロフ|青銅器時代後期の崩壊時]]に、ヒッタイト人はいくつかの独立したシロ・ヒッタイト国家に分裂し、そのうちのいくつかは[[新アッシリア王国]]に屈服する前に[[紀元前8世紀]]まで存続した。
[[ヒッタイト語]]は[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[アナトリア語派]]の言語のうちの一つで、密接に関連している[[ルウィ語|ルーアン語]]とともに、歴史的に記録されている最古のインド・ヨーロッパ語であり<ref>{{Cite web|url=http://www.leidenuniv.nl/en/researcharchive/index.php3-c=178.htm|title=2006-05-02 Hittite|date=7 July 2004|accessdate=19 December 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170203061604/http://www.leidenuniv.nl/en/researcharchive/index.php3-c=178.htm|archivedate=3 February 2017}}</ref>、その話者によってnešili「ネサの言語」と呼ばれている。ヒッタイト人は自分たちの国をハットゥシャ王国(アッカド語ではハッティ)と呼んでいたが、これは紀元前2千年紀の初めまでこの地域に住んでいた[[ハッティ人]]に由来する。しかしハッティ人の言語である[[ハッティ語]]は、ヒッタイト語とは無関係の言語である<ref>Ardzinba, Vladislav. (1974): Some Notes on the Typological Affinity Between Hattian and Northwest Caucasian (Abkhazo-Adygian) Languages. In: "Internationale Tagung der Keilschriftforscher der sozialistischen Länder", Budapest, 23.-25. April 1974. Zusammenfassung der Vorträge (Assyriologica 1), p. 10-15.</ref>。慣習的な「ヒッタイト人」という名称は、19世紀の考古学が最初に彼らが聖書のヒッタイト人であると識別したことによるものである。 [[File:Lion Gate, Hattusa 01.jpg|thumb|270px|[[ハットゥシャ]](現[[トルコ共和国]]、[[ボアズカレ]])のライオンの門]]
ヒッタイト文明の歴史は、彼らの王国の地域で発見された[[楔形文字]]のテキストから主に知られており、[[アッシリア]]、[[バビロニア]]、[[エジプト]]、[[中東]]の様々な史書で発見された外交と商業の文通から、その解読はまた、インド・ヨーロッパ研究の歴史の中で重要なイベントであった。
鉄の[[製錬]]の発展は、かつて青銅器時代後期のアナトリアのヒッタイト人に起因するとされ、その成功は、当時の鉄の加工を独占していたという利点に大きく依存していた。しかし、このような「ヒッタイトの独占」という見方は、現在では学者の間でも批判されており、もはや学問的なコンセンサスとはなっていない<ref>Muhly, James D. 'Metalworking/Mining in the Levant' in Near Eastern Archaeology ed. Suzanne Richard(2003), pp. 174–183</ref>。後期青銅器時代/初期鉄器時代の一部として、青銅器時代後期の崩壊により、この地域では鉄工技術が比較的継続的にゆっくりと普及してきた。青銅器時代のアナトリアの鉄器はいくつかあるが、その数はエジプトなどで発見された鉄器に匹敵するものであり、武器となるものはごく少数である<ref>Waldbaum, Jane C. From Bronze to Iron. Göteburg: Paul Astöms Förlag (1978): 56–58.</ref>。ヒッタイト人は溶かした鉄ではなく、[[隕石]]を使っていた<ref>'Irons of the Bronze Age'(2017), Albert Jambon.</ref>。ヒッタイト軍は戦車([[チャリオット]])の使用に成功した<ref name="britishmuseum">{{Cite web|title=Hittites|url=https://www.britishmuseum.org/explore/cultures/middle_east/hittites.aspx|website=[[British Museum]]|publisher=Trustees of the British Museum|accessdate=7 November 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141107205200/http://www.britishmuseum.org/explore/cultures/middle_east/hittites.aspx|archivedate=7 November 2014}}</ref>。
古代には、民族的なヒッタイト王朝は、現在の[[シリア]]、[[レバノン]]、[[イスラエル]]の周りに散らばった小さな王国で生き残った。統一された連続性を欠いていたため、その子孫は散らばっていき、最終的には[[レバント|バント]]、トルコ、[[メソポタミア]]の[[中東の民族の一覧|近代的な民族]]に統合された<ref>Ancient History Encyclopedia. "Sea Peoples." September 2009. [https://www.ancient.eu/Sea_Peoples/ Sea Peoples] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180618203237/https://www.ancient.eu/Sea_Peoples/|date=18 June 2018}}</ref>。
1920年代、トルコ建国に伴い、ヒッタイト人への関心が高まり、[[ハレット・チャンベル]]や[[タフシン・オズギュチ]]などのトルコ人考古学者の注目を集めた。この間、ヒッタイト学という新しい分野は、国営のエティバンク(「ヒッタイト銀行」)<ref name="Erimtan">Erimtan, Can. (2008). [https://www.jstor.org/stable/20455417 Hittites, Ottomans and Turks: Ağaoğlu Ahmed Bey and the Kemalist Construction of Turkish Nationhood in Anatolia] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180922104515/https://www.jstor.org/stable/20455417|date=22 September 2018}}, Anatolian Studies, 58, 141–171</ref>や、ヒッタイト人の首都から西に200キロ離れた[[アンカラ]]にある[[アナトリア文明博物館]]の設立にも影響を与え、世界で最も包括的なヒッタイト人の美術品や遺物の展示を行っている。
== 名称 ==
'''[[ハッティ]]''' ({{lang-en-short|Hatti}}) の英語名で、[[旧約聖書]]の {{仮リンク|ヘテ人 (聖書)|en|Biblical Hittites|label=ヘテ人}}({{lang-en-short|Hitti}}、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人の[[アッシリア学|アッシリア学者]][[アーチボルド・セイス]]が命名した。
なお、この聖書の「ヘト人」はカナン人の一派として何度か名前が出てくるが、『[[エズラ記]]』9章1節のユダ王国の指導者たちがバビロン捕囚から戻っていた時、氏族長たちの報告で周辺の異民族の名前として出てくるのを最後に名前が上がらなくなり、少なくとも西暦1世紀後半の頃にはユダヤ人たちから「名前以外不明の滅んだ民族」という認識をされていた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節<ref>フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌1』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08531-9、P64。</ref>など)。
== 歴史 ==
{{Main|ヒッタイトの歴史|[[ハッティ人]]}}
ヒッタイト人 ({{lang|en|Hittites}}) は、[[クルガン仮説]]による[[黒海]]を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されている[[アナトリア仮説]]によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。
近年、{{仮リンク|カマン・カレホユック|en|Kaman-Kalehöyük}}遺跡([[トルコ|トルコ共和国]][[クルシェヒル県]][[クルシェヒル]])にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の[[紀元前18世紀]]頃([[アッシリア]]商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。
=== ヒッタイト古王国 ===
[[紀元前17世紀|紀元前1680年]]頃、[[クズルウルマク川|クズルウルマック]]("赤い河"の意)周辺に'''ヒッタイト古王国'''を建国し、後に[[メソポタミア]]などを征服した。なお、ヒッタイト王の[[称号]]は、[[ラバルナ]]であるが、これは古王国の初代王である[[ラバルナ1世]]、また、ラバルナの名を継承した[[ハットゥシリ1世]]の個人名に由来し、後にヒッタイトの[[君主号]]として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号は[[タワナアンナ]]であるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。
[[紀元前16世紀|紀元前1595年]]頃、[[ムルシリ1世]]率いるヒッタイト古王国が、{{仮リンク|サムス・ディタナ|en|Samsu-Ditana}}率いる[[バビロン第1王朝|古バビロニア]]を滅ぼし、[[メソポタミア]]に[[バビロニア#カッシート人の王朝|カッシート王朝]]が成立した。
=== ヒッタイト中王国 ===
[[紀元前15世紀|紀元前1500年]]頃、'''ヒッタイト中王国'''が成立した。[[タフルワイリ]]や[[アルワムナ]]による王位簒奪が相次ぎ、70年間ほど記録が少ない時代が続いた。
=== ヒッタイト新王国 ===
[[Image:Hittite Chariot.jpg|thumb|250px|エジプトの壁画に表現されたヒッタイト軍の[[チャリオット|戦車]]]]
紀元前1430年頃、'''ヒッタイト新王国'''が成立した。
紀元前1330年頃、[[シュッピルリウマ1世]]は[[ミタンニ]]を制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。
[[紀元前13世紀|紀元前1285年]]頃、[[古代エジプト]]と[[シリア]]の[[カデシュ]]で衝突([[カデシュの戦い]])。[[ラムセス2世]]のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共に[[ルクソール神殿|ルクソール]]などの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの[[チャリオット|戦車]]で[[ラムセス2世]]と戦うヒッタイト軍([[ムワタリ2世]]の軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の[[平和条約|講和条約]]が結ばれた。[[ハットゥシリ3世]]の王妃[[プドゥヘパ]](英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強く[[フルリ人]]の宗教の影響を受けていることが分かっており、その文化にもフルリ文化が色彩強まった。
紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「[[海の民]]」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった([[前1200年のカタストロフ]])。
=== 滅亡後 ===
{{Seealso|フリギア|リュディア|メディア王国|アケメネス朝}}
ヒッタイト新王国が滅びたあと、遺民は南東アナトリアに移動し、[[紀元前8世紀]]頃まで{{仮リンク|シロ・ヒッタイト国家群|en|Syro–Hittite states}}(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した([[紀元前12世紀|紀元前1180年]]-[[紀元前700年]]頃)とされる。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度[[フルリ人]]と同化していたと考えられている。
== 歴代君主 ==
=== 古王国以前の支配者 ===
*{{仮リンク|パンバ|en|Pamba (king)}}(紀元前22世紀初頭)
*[[ピトハナ]](紀元前18世紀)
*{{仮リンク|ピユシュティ|en|Piyusti}}(紀元前17世紀)
*[[アニッタ]](紀元前17世紀)
*{{仮リンク|トゥドハリヤ|en|Tudhaliya}}(紀元前17世紀)
*{{仮リンク|PU-シャルマ|en|PU-Sarruma}}(紀元前1600年)
=== 古王国 ===
*[[ラバルナ1世]](紀元前1600年頃?)
*[[ハットゥシリ1世]](前1586年頃 - 前1556年頃)
*[[ムルシリ1世]](前1556年頃 – 前1526年頃)
*[[ハンティリ1世]](前1526年頃 – 前1496年頃)
*[[ツィダンタ1世]](前1496年頃 - 前1486年頃)
*[[アンムナ]](前1486年頃 - 前1466年頃)
*[[フッツィヤ1世]](前1466年頃 - 前1461年頃)
*[[テリピヌ]](前1460年頃)
=== 中王国 ===
*[[タフルワイリ]]
*[[アルワムナ]]
*[[ハンティリ2世]]
*[[ツィダンタ2世]]
*[[フッツィヤ2世]]
*[[ムワタリ1世]]
=== 新王国 ===
*[[トゥドハリヤ1世]](前1390年頃?)
*(以下の4代の王は、血縁関係や在位年代が不明)
**[[アルヌワンダ1世]]
**[[トゥドハリヤ2世]]
**[[トゥドハリヤ2世#.E3.83.8F.E3.83.83.E3.83.88.E3.82.A5.E3.82.B7.E3.83.AA2.E4.B8.96.EF.BC.9F|ハットゥシリ2世]]
**[[トゥドハリヤ3世]](前1360年 - 前1344年)
*[[シュッピルリウマ1世]](紀元前1344年 - 紀元前1322年)
*[[アルヌワンダ2世]](紀元前1322年 - 紀元前1321年)
*[[ムルシリ2世]](紀元前1321年 - 紀元前1295年)
*[[ムワタリ2世]](紀元前1295年 - 紀元前1272年)
*[[ムルシリ3世]](紀元前1272年 - 紀元前1267年)
*[[ハットゥシリ3世]](紀元前1267年 - 紀元前1237年)
*[[トゥドハリヤ4世]](紀元前1237年 - 紀元前1209年)
**[[クルンタ]](?)
*[[アルヌワンダ3世]](紀元前1209年 - 紀元前1207年)
*[[シュッピルリウマ2世]](紀元前1207年 - 紀元前1178年)
== 后妃 ==
{{main|タワナアンナ}}
== 系図 ==
文献<ref>下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p.145, 146</ref><ref>ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界歴代王朝王名総覧』 東洋書林、1993年、p.60, 61</ref>を参考に作成。双方の記述で異なる場合は、各王の記事と矛盾しないものを採用した。
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== 遺跡 ==
[[Image:Hattusa.temple1.jpg|thumb|350px|right|ハットゥシャ遺跡]]
*[[ボアズキョイ]]の[[ハットゥシャ|ハットゥシャ遺跡]]
**[[ヤズルカヤ]]の神殿
*{{仮リンク|アラジャホユック|en|Alaca Höyük}}の[[スフィンクス門]]
*{{仮リンク|カマン・カレホユック|en|Kaman-Kalehöyük}}遺跡
*:日本の財団法人[[中近東文化センター]]が30年にわたり発掘調査を続けている。
== 関連作品 ==
=== 映像作品 ===
* ドキュメンタリー『失われた世界の謎』シリーズ 第27回『ヒッタイト帝国の謎』([[ヒストリーチャンネル]])
=== 漫画 ===
* [[天は赤い河のほとり]]
* [[王家の紋章]]
* [[T・Pぼん]]
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hittite Empire}}
* [[エジプト新王国]]
* [[前1200年のカタストロフ]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{古代イスラエルの町}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひつたいと}}
[[Category:ヒッタイト|*]]
[[Category:ヒッタイト帝国|*]]
[[Category:古代アナトリア]]
[[Category:中東の民族]]
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落ち物パズル
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落ち物パズル(おちものパズル、英: falling block puzzle)は、コンピュータゲームの一種で、画面の中でブロックがあたかも重力で落ちるように動く(すばやく画面下方に移動する)という原則によって成り立っているものである。アクションパズルに分類される。落ち物ゲーム、落ちゲーとも。
というもの。
落ちてくるブロックピースの形や個数、ブロック消滅の条件などは各ゲームによって大きく異なる。
さらには「落下してくるブロック」ではなくフィールド内の矢印やカーソル、キャラクターなどを操作し、これらを利用することでブロックを間接的に操作、消していくタイプのゲームも一般的には落ち物パズルとして認識されている。これらの落下ブロックに限定されないタイプのブロック増加方法についても、さまざまな物がある。
なお、フィールド内にブロックが積み上がっている状態からブロックを並べ替えて消していくタイプはマッチ3ゲームと呼ばれる。
初期の作品は単独プレイを基本としており、二人同時の場合も一画面内で二人が別々のフィールドを操作するだけで、対戦要素は含まれていなかった。その後、任天堂が1989年に発売したゲームボーイ版『テトリス』において、自分のフィールドで消したブロックに応じて相手フィールドの妨害を行える対戦パズルという概念が確立し、以降の作品ではほぼ標準の形態となっている。なおこのテトリスでの対戦要素は横井軍平の発案である。
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落ち物パズルは、コンピュータゲームの一種で、画面の中でブロックがあたかも重力で落ちるように動く(すばやく画面下方に移動する)という原則によって成り立っているものである。アクションパズルに分類される。落ち物ゲーム、落ちゲーとも。
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[[File:Typical Tetris Game.svg|thumb|一例「[[テトリス]]」]]
'''落ち物パズル'''(おちものパズル、{{Lang-en-short|falling block puzzle}})は、[[コンピュータゲーム]]の一種で、画面の中でブロックがあたかも重力で落ちるように動く(すばやく画面下方に移動する)という原則によって成り立っているものである。[[アクションパズル]]に分類される。'''落ち物ゲーム'''、'''落ちゲー'''とも。
== 基本的なルール ==
* 格子状ブロックを敷き詰めること
* フィールド上方からブロックピースが落下してくる(多くの場合ブロックピースは数種類のパターンからランダムに選定される)
* プレーヤーはブロックピースを回転、左右に移動することができる
* ブロックピースは、フィールドの最下段か他のブロックの上に落下するとそこでブロックとして固定される
* 一行が全てブロックで埋められたときや、同じ色のブロックが特定の数集まったときなど、ある条件を満たすと当該部分のブロックが消滅し、得点となる
* ブロックがフィールドの最上段(あるいはボーダーライン)まで積みあがるとゲームオーバーになる
というもの。
落ちてくるブロックピースの形や個数、ブロック消滅の条件などは各ゲームによって大きく異なる。
さらには「落下してくるブロック」ではなくフィールド内の矢印やカーソル、キャラクターなどを操作し、これらを利用することでブロックを間接的に操作、消していくタイプのゲームも一般的には落ち物パズルとして認識されている。これらの落下ブロックに限定されないタイプのブロック増加方法についても、さまざまな物がある。
なお、フィールド内にブロックが積み上がっている状態からブロックを並べ替えて消していくタイプは[[マッチ3ゲーム]]と呼ばれる。
初期の作品は単独プレイを基本としており、二人同時の場合も一画面内で二人が別々のフィールドを操作するだけで、対戦要素は含まれていなかった。その後、[[任天堂]]が[[1989年]]に発売した[[ゲームボーイ]]版『[[テトリス (ゲームボーイ)|テトリス]]』において、自分のフィールドで消したブロックに応じて相手フィールドの妨害を行える対戦パズルという概念が確立し、以降の作品ではほぼ標準の形態となっている。なおこのテトリスでの対戦要素は[[横井軍平]]の発案である。
== 主なゲーム ==
{{See also|パズルコンピュータゲームの一覧#落ち物パズル}}
=== ブロックを直接操作する典型的な落ち物パズル ===
*[[テトリス]](1984年 - ) - テトリミノ。横一列ぶんが埋まると消える。浮いたブロックはそのまま。
*nlith(1987年 - ) - nオミノ(n=1~5)。横一列分が埋まると消える。浮いたブロックはそのまま。積んだブロック上には、「無記の虫」<ref group="注釈">マニュアル中のコラムによれば『「無記」とは、仏教用語でそのものの善悪によらない、物の本質を指します。例えば、先端を薄くした金属の塊は、そのもの自体は「無記」でありますが、善用されれば「メス」になり、悪用されれば「ドス」になります(森政弘「非まじめのすすめ」より)。』</ref>が這ってくる。虫を潰す、綺麗でない操作や置き方をするなどすると溜まるevil pointというパラメータがあり、それが溜まるとキー操作が阻害される。
*[[コラムス]](1990年 - ) - 3個一組。縦・横・斜めの一列に同色が3個揃うと消える。「連鎖」という概念を生む。浮いたブロックは下に落ちる。
*[[Dr.マリオ]](1990年 - ) - 2個一組。縦・横の一列に同色が4個揃うと消える。浮いたブロックの処理が独特。
*[[ぷよぷよシリーズ]](1991年 - ) - 2個一組。縦・横に同色が4個揃うと消える。浮いたブロックは下に落ちる。
*[[ヘクシオン]](1992年 - ) - 4個一組。[[六角形]](ヘクス)を使ったテトリスのようなルール。
*[[対戦ぱずるだま]](1994年 - ) - 2個一組。縦・横に同色が3個揃うと消える。浮いたブロックは下に落ちる。
*くるりんPA!(1995年 - ) - 導火線と爆弾を繋いで火で点火して消していくパズルゲーム。
*[[スーパーパズルファイターIIX]](1996年 - ) - 2個一組。同色の通常ブロックを何個繋げても消えないが、縦・横に破壊用のブロックを繋げるとまとめて消える。浮いたブロックは下に落ちる。
*新型くるりんPA!(1996年 - ) - 導火線と爆弾を繋いで火で点火して消していくパズルゲーム。連鎖を作ることも可能。
*[[ルミネス]](2004年 - ) - 4個一組。同色のブロックで正方形を作ると消える。タイムラインが通過する前に追加(同時消し)可能。浮いたブロックは下に落ちる。
*[[たころん|しゃるうぃ〜☆たころん]](2007年 - ) - タコを消していくパズルゲーム。
*[[クラックス]]
*[[ハットリス]]
*[[コズモギャング・ザ・パズル]]
*[[エメラルディア]]
*[[めざせ!戦球王|戦球]] - 球体を使ったぷよぷよ型のゲーム
*[[テトリスプラス]] - テトリスのルールを応用したゲームで、博士や助手を一番下へ導く
*[[クレオパトラフォーチュン]]
*[[落雀]] - 麻雀牌が落ちてくる。縦または横に面子(刻子または順子)を作ると積んだ牌が消え、4組揃ったらリーチとなる。
*[[ばくばくアニマル]] - 動物のブロックが好物のブロックを食べることでブロックが消えていく。ライオン→肉、ウサギ→人参と食べられるブロックは決まっている
*[[もうぢや]] - お金の両替をゲームに採用。
*パズル番長
*[[ボンブリス]] - テトリスの派生系。ブロックの個数はレベルにより不定。横一列に揃った中に爆弾があると、それを起点に縦横の一定範囲のブロックが消える。爆破範囲に他の爆弾があると誘爆し、さらに多くのブロックを消すことができる。
*[[ボンバーマン ぱにっくボンバー]]
*{{仮リンク|でろ〜んでろでろ|en|Tecmo Stackers}}(1995年、[[テクモ]])<ref group="注釈" name="playkuso">『ぷよぷよ』が大ヒットした影響で、1990年代の落ち物パズルゲームには「可愛くて意味不明」なタイトルが付けられることが多かった。このゲームもその一例である。
: [http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『プレイステーションクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2018年。ISBN 9784865118346 p90</ref>
*[[へべれけ (ゲーム)|へべれけのぽぷーん]]
*[[へべれけ (ゲーム)|ポポイっとへべれけ]]
*[[ぐっすんおよよ]](1993年 - ) - ブロックを積み上げ、キャラクターをゴールまで導く。
*バルーンブラザーズ
*[[ジョイジョイキッド]](1990年 - ) - 落ちてくるブロックを積んで消して行き、飛行船をフィールド上まで脱出させる。
*ブロックアウト(1989年 - ) -
*[[ソルダム (ゲーム)|ソルダム]](1992年 - ) - 4個一組。横一列分が埋まると消える。[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]の要素を取り入れている。
=== ブロックを間接的に操作する落ち物パズル ===
*[[マジカルドロップ]]
*[[パネルでポン]]
*[[ヨッシーのクッキー]]
*[[ヨッシーのたまご]] - [[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]](もしくは[[ルイージ (ゲームキャラクター)|ルイージ]])が持っている土台を操作する。
*[[ワリオの森]]
*[[メテオス]]
*[[魚ポコ]]、[[虫姫たま]]
*[[マネーアイドルエクスチェンジャー]]
*[[ランドメーカー]]
*[[クォース]]
*[[メガパネル]] - [[15パズル]]のルールを応用している。
*[[対戦とっかえだま]]
*[[パズルボブル]]
*[[ミスタードリラー]]
*[[アクアラッシュ]]
*[[美少女戦士セーラームーン (ゲーム)#美少女戦士セーラームーンS こんどはパズルでおしおきよ!|美少女戦士セーラームーンS こんどはパズルでおしおきよ!]] - [[さめがめ]]に落ち物パズルの要素を追加している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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ジーメンス (曖昧さ回避)
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ジーメンス、シーメンス
ドイツ語圏の名字。ドイツ語発音: [ˈziːməns]、南部ドイツ語発音: [ˈsiːməns]、英語発音: [ˈsiːmənz]。
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ジーメンス、シーメンス
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'''ジーメンス'''、'''シーメンス'''
== Siemens ==
[[ドイツ語]]圏の[[名字]]。{{IPA-de|ˈziːməns}}、<small>南部</small>{{IPA-de|ˈsiːməns}}、{{IPA-en|ˈsiːmənz}}。
* [[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]] - [[ドイツ]]の[[発明家]]、事業家。
** [[ジーメンス]] - 上記人物にちなむ[[国際単位系]]の[[SI組立単位]]のひとつで、[[電気伝導率]]を表す単位。[[電気抵抗]]の逆数として定義される。
** [[ジーメンス水銀単位]] - 上記人物にちなむ、かつて使われた[[電気抵抗]]の単位。
** [[シーメンス]] - 上記人物が設立した電気機器、通信機器会社。
== その他 ==
* [[G★MENS]](ジーメンス) - 1992年から2002年まで活動した日本のお笑いコンビ。
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MXレコード
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MX(Mail eXchange)レコードは、DNSで定義される情報の1つである。電子メールの配送先を決定する時に使われる。 複数のレコードを定義できる。優先度を設定でき、優先度の高い配送先が障害になった場合、代替して処理を行うサーバを指定できる。
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{{出典の明記|date=2014年10月14日 (火) 05:55 (UTC)}}
'''MX(Mail eXchange)レコード'''は、[[Domain Name System|DNS]]で定義される情報の1つである。[[電子メール]]の配送先を決定する時に使われる。
複数のレコードを定義できる。優先度を設定でき、優先度の高い配送先が障害になった場合、代替して処理を行うサーバを指定できる。
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== 関連項目 ==
* [[Domain Name System]](DNS) - [[DNSサーバー]]
* [[DNSレコードタイプの一覧]]
[[Category:電子メール]]
[[Category:DNSレコードタイプ]]
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10,391 |
アーリアン学説
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アーリアン学説(アーリアンがくせつ)、アーリア人種論 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。
アーリアン学説は、インド滞在中のイギリスの法学者・言語学者ウィリアム・ジョーンズの諸言語の比較研究を端緒とする。彼は1786年にイギリス植民地下のインドのカルカッタに高等法院判事として赴任し、サンスクリット語の研究を手掛けた。サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それがギリシア語やラテン語をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した。ジョーンズはこの事実から、それらの言語のほか、ゴート語、ケルト語、ペルシャ語などインドやヨーロッパの諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた。後に考古学者のトーマス・ヤングが同学説を支持し、インドやヨーロッパの諸語は共通する起源をもつ言語の集合であるとして、「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」と名付けた。この時点では、あくまでこの研究は言語学の「言語類似性」の問題で、「人種」や「民族」に関連する議論ではなかった。
この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった。ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。ミュラーは、インドに侵入したサンスクリット語を話す人々を、彼らが自身を「アーリア」と呼んでいたという理由で、「アーリア人」と呼ぶべきであるとした。インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。ミュラーは、アーリア人はインドから北西に移住していき、その過程で様々な文明や宗教を生み出したと主張した。
19世紀には、「アーリア人」は、上記のような想定された祖民族という趣から進んで、「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。通常、「アーリアン学説」と呼ばれるのはこの時代の理論である。ミュラーは晩年、自身の学説が根拠に乏しいことを認めているが、「諸文明の祖」であるアーリア人という魅力的なイメージは、多くの研究者や思想家によって広まっていった。ナチズムを研究する浜崎一敏は、「アーリア人種」 とは、「もともと言語学の概念であったものを生物学的人種論領域に移し替えて捏造した言葉」であると述べている。
宗教学者の大田俊寛は、拡大されたアーリアン学説の典型的な例として、フランスの作家アルテュール・ド・ゴビノーをあげている。彼はアーリア人種の優越性を説いた人種論の祖として知られる。『人種不平等論』(1853-55年)で、人類を黒色人種・黄色人種・白色人種に大きく分け、黒色人種は知能が低く動物的で、黄色人種は無感動で功利的、白色人種は高い知性と名誉心を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべて彼らが作ったと主張した。
この理論はイギリスとドイツで特に盛んに主張されたが、その背景は大きく異なっている。イギリスの場合はインドの植民地支配において、「イギリス人によるインド人支配」を正当化するために利用された。フランシス・ゴルトンが1969年に出版した『遺伝的天才(英語版)』という論文が優生学思想の端緒となった。インドはイスラム教徒により支配される前はヒンドゥー教徒が支配しており、ヒンドゥー教徒の支配階級はアーリア人またはアーリア人との混血を起源としていたためで、イギリス人は支配階級のヒンドゥー教徒とイギリス人が同じ民族であると主張する事で、自己を支配者として正当化しようとしたのである。
ドイツでは、作曲家ワーグナーなどが、アーリアン学説を肯定した上でドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張する事で、近代になって形成されたに過ぎない自民族の権威付けに用いた。ゴビノーのアーリア人種至上主義は、ヒューストン・ステュアート・チェンバレン(ワーグナーの娘エヴァの婿)の『十九世紀の基礎(英語版)』(1899年)に継承され、そこでは理論はさらに先鋭化され、アーリア人種の中でもゲルマン人こそ最も優秀な民族であると主張された。『十九世紀の基礎』はドイツでベストセラーになり、彼の理論は後にナチズムのイデオロギーを支える重要な柱となった。20世紀初頭のドイツ人は、「アーリア人種」という神話を「民衆思想の一部」となったといわれるほど広く受け入れ、「金髪、高貴で勇敢、勤勉で誠実、健康で強靭」というアーリア人種のイメージは彼らの理想像となり、アーリア人種論はヒトラーの思想形成にも影響を及ぼした。ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族であり、ドイツ的な「精神」が「アーリア人種」の証とみなされた。アーリア人種はドイツ民族と同義語になり、人種主義はドイツ・ナショナリズムを統合するものになっていった。
また、ミュラーの理論をはじめとするアーリアン学説に大きな影響を受けた神秘思想家の ヘレナ・P・ブラヴァツキーは、自身が創始した近代神智学において、アーリアン学説を宇宙的進化論を描く壮大な世界観に取り入れ、現代の人類は、大西洋にあったアトランティス大陸の「第四根源人種」から進化した「第五根幹人種」という段階にあり、その人種はアーリア人種であるとした。
神智学では、やがてアーリア人を超える新しい人類が誕生するとされており、アーリア人種中心史観や優越論の傾向はあっても、アーリア人種至上主義ではなかったが、オーストリアやドイツで神智学とアーリア=ゲルマン人種至上主義が広まると、両者が結びついて「アリオゾフィ(アーリアの叡智)」という、アーリア人種至上主義を神智学の世界観で再解釈した思想が生まれた。この思想はグイド・フォン・リストやランツ・フォン・リーベンフェルスらによって提唱され、アーリア人こそが神人であると主張された。アリオゾフィ(ドイツ語版)はもともとイェルク・ランツ・フォン・リーベンフェルスが1915年に使い始めた造語で、ランツは自らの教説を「神聖動物学」とも「アリオ=キリスト教」とも呼んだ。一方、グイド・フォン・リストは自分の教義を「アルマニスムス」と呼んでいた。アリオゾフィの歴史やナチスにまつわる現代のオカルト神話について研究した秘教史家ニコラス・グドリック=クラークは、アリオゾフィを広くアーリア人至上主義的なオカルト人種論を指す言葉として用い、ランツとリストの両名をアリオゾフィストの括りに入れている。20世紀初頭に始まったアリオゾフィの思想運動は、ドイツやオーストリアで徐々に勢力を拡大した。
大田は、この思想運動がナチズムの源流の一つを形成することになったと述べている。この運動において、アーリア=ゲルマン人種の純粋性と至高性を追求する結社が広く興り、同時に劣等人種とされる対象がユダヤ人に集約されていき、ユダヤ人による「陰謀論」が語られるようになっていった。アリオゾフィの宗教結社としてよく知られるものに、ナチスと直接影響関係にあるトゥーレ協会がある。
ヒトラーは『我が闘争』で、人種は大まかに三段階に分けられ、最上位がアーリア人種で、中でも雑種化していない純粋民族であるゲルマン民族が最も上等であるとした。アーリア人種、ゲルマン民族は唯一文化を創造する能力を持つとし、「文化創造者」と呼んだ。ユダヤ人をこの対極にあるとして「文化破壊者」とした。ヒトラーは、ゲルマン民族を純粋民族として保ち、存続させるために国家が存在すると考えた。ナチスドイツは、数世紀の歴史を持つ反ユダヤ主義(ユダヤ人はイエス・キリストの殺人者)が人種主義と結びついた「反セム主義」を元に政治的経済的イデオロギーを形成し、「アーリア・北方人種」に対するユダヤ資本主義の脅威という強迫観念となった。ユダヤ人を経済活動から排除する「脱ユダヤ化」と共に、ユダヤ人資産のドイツ人への移譲とその活用を目指す「アーリア化」が行われた。ナチス政権下でユダヤ人や左翼のジャーナリストは粛清され、さらにジャーナリストを国家資格とし、資格規定で非アーリア人が排除された。政治学者の石井貫太郎は、ヒトラーが著書『我が闘争』で述べた生存圏(レーベンスラウム)思想と、ゲルマン民族を中心とするアーリア人種優越論に基づいて、世界大戦とユダヤ人虐殺が遂行されたと述べている。『我が闘争』で語られた、アーリア人種以外の諸民族を奴隷化し、ドイツ人がその上で王侯貴族のような生活を送るというヒトラーの夢が叶うことはなかった。
ナチスドイツはユダヤ人絶滅のために強制収容所を作ったが、これと対極的に、アーリア人増殖のためにレーベンスボルンという収容所を設けた。ここではドイツの未婚女性の出産が奨励・保護され、同時に優良民族の身体的特徴を示す子供たちが占領地から拉致されて集められ、教育が行われた。また、あまり知られていないが、ハインリヒ・ヒムラーなどのナチスの高官の一部はアーリア人がアトランティス人の末裔だと本気で信じており、それを証明するために世界各地で調査を行った。
多くのナチス党員は、インド人をアーリア人であると考えたため、大勢のインドのヒンドゥー教徒がナチスドイツを支持した。シーク教徒を含む多くのインド人がナチスドイツで軍役に服し、優秀な兵士はナチスドイツ親衛隊の一員として働いた。
ドイツと同盟関係にあったハンガリー人と日本人は、しばしば「名誉アーリア人」と呼ばれた。因みにナチスの御用学者であったハンス・ギュンターの『北方人種』によれば日本人もアーリア人であり、遥かなる太古においてはドイツ人と日本人は同族だったとされているが、これは現在、当時の日独同盟政策との整合性を持たせるためのこじつけであると考えられている。
トルコ・ナショナリズムの一潮流トゥラン主義や汎トルコ主義を標榜した右翼知識人ジェヴァト・ル・ファト・アティルハン(トルコ語版)は、1934年にナチス・ドイツの反ユダヤ主義者ユリウス・シュトライヒャーに招かれてミュンヘンを訪れ、ナチスの人種論や反ユダヤ主義を流布するプロパガンダ手法などを学んだ。翌年帰国してイスタンブールで、トルコで初めて自らを明確に「反ユダヤ的」と形容した「国民革命」を創刊。人種論に基づく汎トルコ主義を唱えたヒュセイン・ニハル・アトスズ(トルコ語版)のような汎トルコ主義知識人たちが寄稿する論壇となった。同時にフランスのゴビノーやその思想を受け継いだイギリスのチェンバレンらの論説、20世紀初頭のヨーロッパで広まっていた反ユダヤ主義に関する文章や論考が頻繁に掲載され、「純血」「純粋な種」「純粋トルコ人」といった人種概念がトルコに持ち込まれた。
神智学協会の創始者ヘンリー・スティール・オルコットと共にスリランカの仏教の復興を図ったアナガーリカ・ダルマパーラは、アーリアン学説を19世紀のスリランカに流布した。現在多くのシンハラ人たちが、自らをスリランカに最初に住み着いた「ライオンの子孫ウィジャヤ王子」の末裔で、仏教を信奉し守る使命を持つ民族であり、アーリア人種であると信じている。スリランカ研究者の間では、この3つを結びつけて今日のシンハラ人の民族的アイデンティティを形成したのはダルマパーラだとされている。アーリア人種の概念は、長年にわたるスリランカの民族紛争に影響を与えた。
しかし、近年になって言語学を初めとする各分野から科学的な反証が行われ、アーリアン学説自体がその信憑性を大きく失いつつある。明確にアーリアン学説を疑似科学であると厳しく批判する学者が大勢を占めた今日では、ほとんど棄却された仮説と言える。
現在、「アーリア人」はインドに移住してきたインド・アーリア人、イランに移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多い。インド・イラン語をかつて話していた、また話している諸民族はしばしばアーリア人と呼ばれる。言語学・音声学研究者の神山孝夫は、この呼び名を「印欧人」全体の意味で用いるのは誤りであり、民族社会主義者が1930年代と40年代にユダヤ人に対して非ユダヤ人を敵対させるために用いたものであるから、なおのこと利用すべきではないと述べている。
どのようにアーリアン学説が作り出され、隆盛し、ヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか、またその前史がいかようなものであったのか、全容は長らくつかめないでいた。ユダヤ系ロシア人のレオン・ポリアコフ(英語版)が、1971年に多くのエビデンスを伴う『アーリア神話 ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉』を著し、この問題の研究に大きな方向性を与えた。編集者の松岡正剛は、この研究は1966年にサセックス大学のコロンバス・センターで、ノーマン・コーン主導で開始された「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究の恩恵を多く受けたもので、本書はその討議と研究成果の最大の結実だったと述べている。
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"text": "アーリアン学説(アーリアンがくせつ)、アーリア人種論 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。",
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"text": "アーリアン学説は、インド滞在中のイギリスの法学者・言語学者ウィリアム・ジョーンズの諸言語の比較研究を端緒とする。彼は1786年にイギリス植民地下のインドのカルカッタに高等法院判事として赴任し、サンスクリット語の研究を手掛けた。サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それがギリシア語やラテン語をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した。ジョーンズはこの事実から、それらの言語のほか、ゴート語、ケルト語、ペルシャ語などインドやヨーロッパの諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた。後に考古学者のトーマス・ヤングが同学説を支持し、インドやヨーロッパの諸語は共通する起源をもつ言語の集合であるとして、「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」と名付けた。この時点では、あくまでこの研究は言語学の「言語類似性」の問題で、「人種」や「民族」に関連する議論ではなかった。",
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"text": "この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった。ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。ミュラーは、インドに侵入したサンスクリット語を話す人々を、彼らが自身を「アーリア」と呼んでいたという理由で、「アーリア人」と呼ぶべきであるとした。インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。ミュラーは、アーリア人はインドから北西に移住していき、その過程で様々な文明や宗教を生み出したと主張した。",
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"text": "19世紀には、「アーリア人」は、上記のような想定された祖民族という趣から進んで、「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。通常、「アーリアン学説」と呼ばれるのはこの時代の理論である。ミュラーは晩年、自身の学説が根拠に乏しいことを認めているが、「諸文明の祖」であるアーリア人という魅力的なイメージは、多くの研究者や思想家によって広まっていった。ナチズムを研究する浜崎一敏は、「アーリア人種」 とは、「もともと言語学の概念であったものを生物学的人種論領域に移し替えて捏造した言葉」であると述べている。",
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"text": "宗教学者の大田俊寛は、拡大されたアーリアン学説の典型的な例として、フランスの作家アルテュール・ド・ゴビノーをあげている。彼はアーリア人種の優越性を説いた人種論の祖として知られる。『人種不平等論』(1853-55年)で、人類を黒色人種・黄色人種・白色人種に大きく分け、黒色人種は知能が低く動物的で、黄色人種は無感動で功利的、白色人種は高い知性と名誉心を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべて彼らが作ったと主張した。",
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"title": "ナチズムへの影響"
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"text": "どのようにアーリアン学説が作り出され、隆盛し、ヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか、またその前史がいかようなものであったのか、全容は長らくつかめないでいた。ユダヤ系ロシア人のレオン・ポリアコフ(英語版)が、1971年に多くのエビデンスを伴う『アーリア神話 ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉』を著し、この問題の研究に大きな方向性を与えた。編集者の松岡正剛は、この研究は1966年にサセックス大学のコロンバス・センターで、ノーマン・コーン主導で開始された「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究の恩恵を多く受けたもので、本書はその討議と研究成果の最大の結実だったと述べている。",
"title": "アーリアン学説の研究史"
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アーリアン学説(アーリアンがくせつ)、アーリア人種論 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。
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'''アーリアン学説'''(アーリアンがくせつ)、'''アーリア人種論''' は、[[インド・ヨーロッパ語族]]の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先[[アーリア人]]から発生したものとする学説。この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。この拡大解釈された意味でのアーリア人を'''アーリア人種'''(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。学説としての根拠に乏しく、'''アーリア神話'''とも呼ばれる。
==インド・ヨーロッパ語族の発見==
アーリアン学説は、[[インド]]滞在中のイギリスの法学者・言語学者[[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]の諸言語の比較研究を端緒とする{{sfn|大田|2013|p=80}}。彼は[[1786年]]にイギリス植民地下のインドのカルカッタに高等法院判事として赴任し、[[サンスクリット|サンスクリット語]]の研究を手掛けた{{sfn|大田|2013|p=80}}。サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それが[[ギリシア語]]や[[ラテン語]]をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した{{sfn|大田|2013|p=80}}。ジョーンズはこの事実から、それらの言語のほか、[[ゴート語]]、[[ケルト語]]、ペルシャ語などインドや[[ヨーロッパ]]の諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた{{sfn|大田|2013|p=80}}。後に考古学者の[[トーマス・ヤング]]が同学説を支持し、インドや[[ヨーロッパ]]の諸語は共通する起源をもつ言語の集合であるとして、「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」と名付けた。この時点では、あくまでこの研究は言語学の「言語類似性」の問題で、「[[人種]]」や「[[民族]]」に関連する議論ではなかった。
==アーリア人種仮説へ==
[[ファイル:Max Muller.jpg|thumb|right|100px|フリードリヒ・マックス・ミュラー]]
この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった{{sfn|大田|2013|p=80}}。[[ヒンドゥー教]]の聖典『[[リグ・ヴェーダ]]』を翻訳した[[ドイツ人]]の[[フリードリヒ・マックス・ミュラー|マックス・ミュラー]]が、この潮流に大きな役割を果たした{{sfn|大田|2013|p=80}}。ミュラーは、インドに侵入したサンスクリット語を話す人々<ref>「アーリア人侵入説」は高校の教科書にも掲載されてきたが、学術的には、考古学や形質人類学による成果は「アーリア人の大規模侵入はなかった」とみる見解に傾いており、再考が促されている。また、近年の[[ヒンドゥー・ナショナリズム]]の台頭の中で、彼らが納得する歴史として、反「アーリア人侵入説」である「アーリア人インド起源説」がインド国内で注目を集めている。({{Cite journal |和書|author = 長田俊樹 |authorlink =長田俊樹 |title = 研究展望 はたしてアーリヤ人の侵入はあったのか?ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭のなかで--言語学・考古学・インド文献学 |date =2001-03 |publisher =国際日本文化研究センター |journal =日本研究|volume = |issue =23 |naid =120005681654 |pages =179-226 }})</ref>を、彼らが自身を「アーリア<ref>アーリヤ(ārya आर्य)は、[[サンスクリット|サンスクリット語]]で「高貴な」を意味する。</ref>」と呼んでいたという理由で、「アーリア人」と呼ぶべきであるとした{{sfn|大田|2013|p=81}}。インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。ミュラーは、アーリア人はインドから北西に移住していき、その過程で様々な文明や宗教を生み出したと主張した{{sfn|大田|2013|p=81}}。
[[19世紀]]には、「[[アーリア人]]」は、上記のような想定された祖民族という趣から進んで、「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、[[ペルシャ]]、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。通常、「アーリアン学説」と呼ばれるのはこの時代の理論である。ミュラーは晩年、自身の学説が根拠に乏しいことを認めているが、「諸文明の祖」であるアーリア人という魅力的なイメージは、多くの研究者や思想家によって広まっていった{{sfn|大田|2013|p=81}}。ナチズムを研究する[[浜崎一敏]]は、「アーリア人種」 とは、「もともと言語学の概念であったものを生物学的人種論領域に移し替えて捏造した言葉」であると述べている{{sfn|浜崎|2002}}。
[[Image:Gobineau a.png|left|100px|thumb|アルテュール・ド・ゴビノー(1864年)]]
宗教学者の[[大田俊寛]]は、拡大されたアーリアン学説の典型的な例として、フランスの作家[[アルテュール・ド・ゴビノー]]をあげている。彼はアーリア人種の優越性を説いた人種論の祖として知られる{{sfn|柿崎|2006}}。『人種不平等論』(1853-55年)で、人類を黒色人種・黄色人種・白色人種に大きく分け、黒色人種は知能が低く動物的で、黄色人種は無感動で功利的、白色人種は高い知性と名誉心を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべて彼らが作ったと主張した{{sfn|大田|2013|p=81}}。
この理論は[[イギリス]]と[[ドイツ]]で特に盛んに主張されたが、その背景は大きく異なっている。イギリスの場合はインドの[[植民地支配]]において、「[[イギリス人]]による[[インド人]]支配」を正当化するために利用された。[[フランシス・ゴルトン]]が1869年に出版した『{{仮リンク|遺伝的天才|en|Hereditary Genius|preserve=1}}』という論文が[[優生学]]思想の端緒となった。インドは[[イスラム教徒]]により支配される前は[[ヒンドゥー教徒]]が支配しており、ヒンドゥー教徒の支配階級はアーリア人またはアーリア人との[[混血]]を起源としていたためで、イギリス人は支配階級のヒンドゥー教徒とイギリス人が同じ民族であると主張する事で、自己を支配者として正当化しようとしたのである。
ドイツでは、作曲家[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]などが、アーリアン学説を肯定した上でドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張する事で、近代になって形成されたに過ぎない自民族の権威付けに用いた。ゴビノーのアーリア人種至上主義は、[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]](ワーグナーの娘エヴァの婿{{sfn|浜崎|2002}})の『{{仮リンク|十九世紀の基礎|en|The Foundations of the Nineteenth Century}}』(1899年)に継承され、そこでは理論はさらに先鋭化され、アーリア人種の中でもゲルマン人こそ最も優秀な民族であると主張された{{sfn|大田|2013|p=81}}。『十九世紀の基礎』はドイツでベストセラーになり{{sfn|浜崎|2002}}、彼の理論は後に[[ナチズム]]のイデオロギーを支える重要な柱となった{{sfn|大田|2013|p=81}}。20世紀初頭のドイツ人は、「アーリア人種」という神話を「民衆思想の一部」となったといわれるほど広く受け入れ、「金髪、高貴で勇敢、勤勉で誠実、健康で強靭」というアーリア人種のイメージは彼らの理想像となり、アーリア人種論はヒトラーの思想形成にも影響を及ぼした<ref name=yasuda/>。ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族であり、ドイツ的な「精神」が「アーリア人種」の証とみなされた<ref name=yasuda/>。アーリア人種はドイツ民族と同義語になり、人種主義はドイツ・ナショナリズムを統合するものになっていった<ref name=yasuda>{{Cite web|和書|author=安田圭佑|date=2005 |url=http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/yasuda(05-2-2) |title=受け継がれるナチズム~人種主義・国家主義~ |publisher= 京都産業大学 河野勝彦 ヨーロッパ文化演習Ⅱ|accessdate=2016-03-12}}</ref>。
==アーリア人種至上主義への展開==
[[File:Blavatsky.006.jpg|thumb|left|100px|[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー|ブラヴァツキー]]、1889年]]
また、ミュラーの理論をはじめとするアーリアン学説に大きな影響を受けた神秘思想家の [[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]は、自身が創始した近代[[神智学]]において、アーリアン学説を宇宙的進化論を描く壮大な世界観に取り入れ{{sfn|大田|2013|p=82}}、現代の人類は、大西洋にあった[[アトランティス大陸]]の「第四根源人種」から進化した「第五根幹人種」という段階にあり、その人種はアーリア人種であるとした{{sfn|大田|2013|p=42}}。
神智学では、やがてアーリア人を超える新しい人類が誕生するとされており、アーリア人種中心史観や優越論の傾向はあっても、アーリア人種至上主義ではなかったが、オーストリアやドイツで神智学とアーリア=ゲルマン人種至上主義が広まると、両者が結びついて「アリオゾフィ(アーリアの叡智)」という、アーリア人種至上主義を神智学の世界観で再解釈した思想が生まれた{{sfn|大田|2013|p=83}}。この思想は[[グイド・フォン・リスト]]や[[ランツ・フォン・リーベンフェルス]]らによって提唱され、アーリア人こそが神人であると主張された{{sfn|大田|2013|p=83}}。{{仮リンク|アリオゾフィ|de|Ariosophie}}はもともとイェルク・ランツ・フォン・リーベンフェルスが1915年に使い始めた造語で、ランツは自らの教説を「神聖動物学」とも「アリオ=キリスト教」とも呼んだ。一方、[[グイド・フォン・リスト]]は自分の教義を「アルマニスムス」と呼んでいた。アリオゾフィの歴史やナチスにまつわる現代のオカルト神話について研究した秘教史家ニコラス・グドリック=クラークは、アリオゾフィを広くアーリア人至上主義的なオカルト人種論を指す言葉として用い、ランツとリストの両名をアリオゾフィストの括りに入れている<ref>{{Cite book|last=Goodrick-Clarke |first=Nicholas |year=1992 |origyear=1985 |title=The Occult Roots of Nazism: Secret Aryan Cults and Their Influence on Nazi Ideology |publisher=New York University Press |location=New York, NY |page=227}}</ref>。20世紀初頭に始まったアリオゾフィの思想運動は、ドイツやオーストリアで徐々に勢力を拡大した{{sfn|大田|2013|p=93}}。
大田は、この思想運動がナチズムの源流の一つを形成することになったと述べている{{sfn|大田|2013|p=93}}。この運動において、アーリア=ゲルマン人種の純粋性と至高性を追求する結社が広く興り、同時に劣等人種とされる対象がユダヤ人に集約されていき、ユダヤ人による「陰謀論」が語られるようになっていった{{sfn|大田|2013|p=94}}。アリオゾフィの宗教結社としてよく知られるものに、ナチスと直接影響関係にある[[トゥーレ協会]]がある{{sfn|大田|2013|p=94}}。
==ナチズムへの影響==
ヒトラーは『[[我が闘争]]』で、人種は大まかに三段階に分けられ、最上位がアーリア人種で、中でも雑種化していない純粋民族であるゲルマン民族が最も上等であるとした{{sfn|浜崎|2002}}。アーリア人種、ゲルマン民族は唯一文化を創造する能力を持つとし、「文化創造者」と呼んだ{{sfn|浜崎|2002}}。ユダヤ人をこの対極にあるとして「文化破壊者」とした{{sfn|浜崎|2002}}。ヒトラーは、ゲルマン民族を純粋民族として保ち、存続させるために国家が存在すると考えた{{sfn|浜崎|2002}}。ナチスドイツは、数世紀の歴史を持つ[[反ユダヤ主義]](ユダヤ人はイエス・キリストの殺人者)が人種主義と結びついた「反セム主義」を元に政治的経済的イデオロギーを形成し、「アーリア・北方人種」に対するユダヤ資本主義の脅威という強迫観念となった{{sfn|リヒタ|2003}}。ユダヤ人を経済活動から排除する「脱ユダヤ化」と共に、ユダヤ人資産のドイツ人への移譲とその活用を目指す「[[アーリア化]]」が行われた{{sfn|山本|2002}}。ナチス政権下でユダヤ人や左翼のジャーナリストは粛清され、さらにジャーナリストを国家資格とし、資格規定で非アーリア人が排除された{{sfn|田野|1999}}。政治学者の[[石井貫太郎]]は、ヒトラーが著書『我が闘争』で述べた[[生存圏]](レーベンスラウム)思想と、ゲルマン民族を中心とするアーリア人種優越論に基づいて、世界大戦とユダヤ人虐殺が遂行されたと述べている{{sfn|石井|2006}}。『我が闘争』で語られた、アーリア人種以外の諸民族を奴隷化し、ドイツ人がその上で王侯貴族のような生活を送るというヒトラーの夢が叶うことはなかった{{sfn|石井|2006}}。
ナチスドイツはユダヤ人絶滅のために強制収容所を作ったが、これと対極的に、アーリア人増殖のために[[レーベンスボルン]]という収容所を設けた<ref name=oota2>{{Cite web|和書|author=大田俊寛|date=2010.08.24|url=http://gnosticthinking.nobody.jp/twitter100824.html |title=ナチスの「生命の泉」 |publisher=宗教学探求:大田俊寛の研究室|accessdate=2016-03-12}}</ref>。ここではドイツの未婚女性の出産が奨励・保護され、同時に優良民族の身体的特徴を示す子供たちが占領地から拉致されて集められ、教育が行われた<ref name=oota2/>。また、あまり知られていないが、[[ハインリヒ・ヒムラー]]などのナチスの高官の一部はアーリア人が[[アトランティス]]人の末裔だと本気で信じており、それを証明するために世界各地で調査を行った{{sfn|吉田|2004}}。
多くのナチス党員は、インド人をアーリア人であると考えたため、大勢のインドのヒンドゥー教徒がナチスドイツを支持した。[[シーク教]]徒を含む多くのインド人がナチスドイツで軍役に服し、優秀な兵士はナチスドイツ親衛隊の一員として働いた。<ref>{{Cite web|和書|author=PALASH R. GHOSH 翻訳:神吉ナイト真由|date=2012-8-9 |url=http://jp.ibtimes.com/articles/320708 |title=米シーク教寺院銃乱射:犯人が知らなかったインドとナチスの関係 |publisher= International Business Times|accessdate=2016-03-12}}</ref>
==アーリア人種説の拡大==
ドイツと同盟関係にあった[[ハンガリー人]]と日本人は、しばしば「[[名誉アーリア人]]」と呼ばれた{{sfn|神山|1998}}。因みにナチスの御用学者であった[[ハンス・ギュンター]]の『北方人種』によれば[[日本人]]もアーリア人であり、遥かなる太古においてはドイツ人と日本人は同族だったとされているが、これは現在、当時の[[枢軸国|日独同盟]]政策との整合性を持たせるためのこじつけであると考えられている<ref>当時の日本の学会では、「[[アイヌ人]]コーカソイド説」と「アイヌ人[[縄文人]]説」があった。ハンス・ギュンターはその両説をあわせて、「アイヌ人は[[アーリア人]]であり、日本人はアイヌ人(縄文人)の子孫である。だから日本人はアーリア人である」としたのである。現在ではアイヌ人縄文人説が有力であり、[[コーカソイド]]説は否定されている。もちろんコーカソイド説の全盛期においても、この説は縄文人説とは矛盾するものであり、片方が正しければ片方が間違っているという性質のものであり、その両説を併せた「日本人=アーリア人」説は、荒唐無稽以外の何ものでもない。</ref>。
トルコ・ナショナリズムの一潮流[[トゥラン主義]]や[[汎テュルク主義|汎トルコ主義]]を標榜した右翼知識人{{仮リンク|ジェヴァト・ル・ファト・アティルハン|tr|Cevat Rıfat Atilhan}}は、1934年にナチス・ドイツの反ユダヤ主義者[[ユリウス・シュトライヒャー]]に招かれてミュンヘンを訪れ、ナチスの人種論や反ユダヤ主義を流布するプロパガンダ手法などを学んだ{{sfn|柿崎|2006}}。翌年帰国して[[イスタンブール]]で、トルコで初めて自らを明確に「反ユダヤ的」と形容した「国民革命」を創刊{{sfn|柿崎|2006}}。人種論に基づく汎トルコ主義を唱えた{{仮リンク|ヒュセイン・ニハル・アトスズ|tr|Nihal Atsız}}のような汎トルコ主義知識人たちが寄稿する論壇となった{{sfn|柿崎|2006}}。同時にフランスのゴビノーやその思想を受け継いだイギリスのチェンバレンらの論説、20世紀初頭のヨーロッパで広まっていた反ユダヤ主義に関する文章や論考が頻繁に掲載され、「純血」「純粋な種」「純粋トルコ人」といった人種概念がトルコに持ち込まれた{{sfn|柿崎|2006}}。
[[神智学協会]]の創始者[[ヘンリー・スティール・オルコット]]と共に[[スリランカ]]の仏教の復興を図った[[アナガーリカ・ダルマパーラ]]は、アーリアン学説を19世紀のスリランカに流布した{{sfn|大岩|1992}}。現在多くのシンハラ人たちが、自らをスリランカに最初に住み着いた「ライオンの子孫[[ウィジャヤ]]王子」の末裔で、仏教を信奉し守る使命を持つ民族であり、アーリア人種であると信じている{{sfn|大岩|1992}}。スリランカ研究者の間では、この3つを結びつけて今日のシンハラ人の民族的アイデンティティを形成したのはダルマパーラだとされている{{sfn|大岩|1992}}。アーリア人種の概念は、長年にわたるスリランカの民族紛争に影響を与えた{{sfn|大岩|1992}}。
==科学的な批判==
しかし、近年になって言語学を初めとする各分野から科学的な反証が行われ、アーリアン学説自体がその信憑性を大きく失いつつある。明確にアーリアン学説を[[疑似科学]]であると厳しく批判する学者が大勢を占めた今日では、ほとんど棄却された仮説と言える。
現在、「アーリア人」はインドに移住してきたインド・アーリア人、[[イラン]]に移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多い。インド・イラン語をかつて話していた、また話している諸民族はしばしばアーリア人と呼ばれる。言語学・音声学研究者の[[神山孝夫]]は、この呼び名を「印欧人」全体の意味で用いるのは誤りであり、民族社会主義者が1930年代と40年代にユダヤ人に対して非ユダヤ人を敵対させるために用いたものであるから、なおのこと利用すべきではないと述べている{{sfn|神山|1998}}。
==アーリアン学説の研究史==
どのようにアーリアン学説が作り出され、隆盛し、ヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか、またその前史がいかようなものであったのか、全容は長らくつかめないでいた。ユダヤ系ロシア人の{{仮リンク|レオン・ポリアコフ|en|Léon Poliakov}}が、1971年に多くのエビデンスを伴う『アーリア神話 ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉』を著し、この問題の研究に大きな方向性を与えた。編集者の[[松岡正剛]]は、この研究は1966年に[[サセックス大学]]のコロンバス・センターで、[[ノーマン・コーン]]主導で開始された「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究の恩恵を多く受けたもので、本書はその討議と研究成果の最大の結実だったと述べている。<ref>{{Cite web|和書|author=松岡正剛|date=2011-7-11|url=http://1000ya.isis.ne.jp/1422.html |title=レオン・ポリアコフ アーリア神話 ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉 |publisher= 松岡正剛の千夜千冊 |accessdate=2016-03-12}}</ref>
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=大田俊寛 |title=現代オカルトの根源 - 霊性進化論の光と闇 |series=ちくま新書 |publisher=筑摩書房 |year=2013 |isbn=978-4-480-06725-8 |ref ={{SfnRef|大田|2013}} }}
*{{Cite journal |和書|author = 柿崎正樹|authorlink = 柿崎正樹 |title = 「トルコ国民」概念とユダヤ教徒 : トルコの反ユダヤ主義を中心に |date =2006-03|publisher =神田外語大学|journal =異文化コミュニケーション研究|volume = |issue =18 |naid =110006344406 |pages =113-143 |ref ={{SfnRef|柿崎|2006}} }}
*{{Cite journal |和書|author = 石井貫太郎|authorlink = 石井貫太郎 |title = ヒトラーの政治哲学 |url=http://id.nii.ac.jp/1514/00000909/ |date =2006|publisher =目白大学|journal =目白大学人文学研究|volume = |issue =3 |naid =110007000945 |pages =33-45 |ref ={{SfnRef|柿崎|2006}} }}
*{{Cite journal |和書|author = 吉田和比古 |authorlink =吉田和比古 |title = ドイツ社会文化論としてのビデオ・アーカイブズ(6) : 2000年:戦争の新たな世紀 |url=https://hdl.handle.net/10191/2236 |date =2004-09-30 |publisher =新潟大学 |journal =法政理論|volume = |issue =37(1) |naid =110004470477 |pages =36-101 |ref ={{SfnRef|吉田|2004}} }}
*{{Cite journal |和書|author = ウヴェ・リヒタ|authorlink = ウヴェ・リヒタ|title = アウシュヴィッツ以後のドイツ人とユダヤ人の関係、および戦後西ドイツ社会でユダヤ人が果たした役割 |url=http://id.nii.ac.jp/1318/00001150/ |date =2003-09-31 |publisher =岩手県立大学 |journal =総合政策|volume =87 |issue =4(2) |naid =110004682626 |pages =255-261 |ref ={{SfnRef|リヒタ|2003}} }}
*{{Cite journal |和書|author = 山本達夫|authorlink =山本達夫 |title = 第三帝国のユダヤ人政策 : 『アーリア化』をめぐって|date = 2002-03 |publisher =東亜大学 |journal =総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要|volume =87 |issue =2(1) |naid =110006389905 |pages =36-101 |ref ={{SfnRef|山本|2002}} }}
*{{Cite journal |和書|author = 浜崎一敏|authorlink =浜崎一敏 |title = ナチズムの文芸政策について : 長崎大学平和講座講義試論 |url=https://hdl.handle.net/10069/5805 |date = 2002-03-27 |publisher =長崎大学 |journal =長崎大学教育学部紀要. 人文科学|volume =87 |issue =64|naid =110000035948 |pages =15-28 |ref ={{SfnRef|浜崎|2002}} }}
*{{Cite journal |和書|author = 神山孝夫|authorlink =神山孝夫 |title = アンドレ・マルチネ著, 『ステップから大洋へ-印欧語と「印欧人」-』 : その3:第V章(言語編)|date = 1998-09-30 |publisher =大阪外国語大学 |journal =大阪外国語大学論集|volume = |issue =19|naid =110004668538 |pages =33-80 |ref ={{SfnRef|山本|2002}} }}
*{{Cite journal |和書|author = 田野大輔|authorlink =田野大輔 |title =<論文>メディアの帝国 : ナチズムの文化政策と政治美学 |url=https://hdl.handle.net/2433/192581 |date = 1999-12-25 |publisher =京都大学 |journal =京都社会学年報 : KJS|volume = |issue =7 |naid =110000483194 |pages =63-80 |ref ={{SfnRef|田野|1999}} }}
* {{仮リンク|モーリス・オランデール|fr|Maurice Olender}}『エデンの園の言語 アーリア人とセム人 摂理のカップル』 [[浜崎設夫]]訳 叢書ウニベルシタス・[[法政大学出版局]] 1995年、[[反ユダヤ主義]]の根源的批判
* {{Cite journal |和書|author = 大岩碩|authorlink =大岩碩 |title = シンハラ人の民族的アイデンティティーの形成と民族紛争 : スリランカの民族問題覚書 |date =1992-03-20 |publisher =金城学院大学 |journal =金城学院大学論集 社会科学編|volume = |issue =34 |naid =110000411170 |pages =105-165 |ref ={{SfnRef|大岩|1992}} }}
== 関連項目 ==
* [[優生学]]、[[人種差別]]、[[民族差別]]、{{仮リンク|支配民族|en|Master race}}、{{仮リンク|ナチズムと人種|en|Nazism and race}}
* [[ノアの方舟]]、[[アブラハムの宗教]]
{{DEFAULTSORT:あありあんかくせつ}}
[[Category:白人優越主義]]
[[Category:ナチス・ドイツのプロパガンダ]]
[[Category:ナチス用語]]
[[Category:疑似科学]]
[[Category:エスノセントリズム]]
[[Category:起源神話]]
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セリウム
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セリウム(英: cerium [ˈsɪəriəm])は、原子番号58の元素で、元素記号は Ce。銀白色で軟らかく延性に富む金属で、空気中で容易に酸化される。セリウムは、希土類元素としては最も豊富に地殻中に存在しており、その濃度は、質量パーセント濃度で0.046%である。さまざまな鉱物中で見つかり、最も重要なのはモナザイトとバストネサイトである。セリウムの商業的な用途は多岐に渡り、触媒、排出物を還元するための燃料への添加剤、ガラス、エナメルの着色剤などがある。酸化物はガラス研磨剤、スクリーンの蛍光体、蛍光灯などで重要な成分である。
セリウムの名は準惑星ケレスに因んでいる。
同じ年に別個に発見されたため、第一発見者を巡って国家間の論争を招いた最初の元素となった。
1803年、スウェーデンのイェンス・ベルセリウス (J. J. Berzelius) とウィルヘルム・ヒージンガー (W. Hisinger) が、スウェーデンのバストネス鉱山でイットリウム鉱石の探索中に未知の酸化物を見いだし、そのころ発見された準惑星(発見当時は惑星とされていた)セレスにちなんでセリア (ceria) と命名された。同年、ドイツのマルティン・ハインリヒ・クラプロート (M. H. Klaproth) も同じ鉱山で新元素を探索した結果、新元素を発見し、その性状から黄色い土という意味でテールオクロイト (terre ochroite) と命名された。その後、学会で、名称としてセリウムが採用された。
灰色がかかった銀白色の金属で、常温・常圧での安定結晶構造は、面心立方格子構造(FCC、β型)だが730 °C以上で体心立方格子構造 (BCC) となり、低温では六方最密充填構造(HCP、α型)、更に-150 °C以下で再び面心立方格子構造が安定となる。比重は6.77、融点は804 °C、沸点は3,470 °Cで、融点と沸点の開きが大きいのが特徴。
空気中で酸化されやすく、次第に酸化セリウム(IV) (CeO2) となるほか、加熱すると160 °Cで発火する。水にはゆっくりと溶け(熱水と反応)、酸(無機酸)には易溶。アンモニアにも溶ける。原子価は+3、+4(ランタノイドで唯一4価が安定なのが特徴)。
モナズ石(モナザイト)やセル石(セライト)に含まれる。最も存在量の多い希土類元素だが、資源としては90%以上を中国が産出している。
金属セリウムは空気中でゆっくりと変色し、150 °Cで速やかに燃焼し酸化セリウム(IV)が生成する。
セリウムは非常に電気的陽性で、冷水とおだやかに、熱水とは速やかに反応して、水酸化セリウム(III)が生成する。
金属セリウムは全てのハロゲンと反応する。
セリウムは希硫酸に速やかに溶け、無色の Ce(III) イオンの溶液ができる。このイオンは [ Ce ( OH 2 ) 9 ] 3 + {\displaystyle {\ce {[Ce(OH2)9]^{3+}}}} のような錯体として存在する
セリウム(IV)塩は赤橙色か黄色である。一方、セリウム(III)塩はふつうは白色か無色である。両者とも紫外線を非常に吸収する。セリウム(III)は無色のガラスを作るのに使われ、ほぼ完全に紫外線を吸収する。鋭敏な定性的な検査により、セリウムは希土類の混合物から容易に検出できる。アンモニアと過ハロゲン酸をランタノイドの水溶液に加えると、セリウムが存在すれば特徴的な暗褐色に染まる。
セリウムの取りうる酸化数は+2、+3、+4の三つある。+2の状態は珍しく、CeH2、CeI2、CeS などで見られる。最も有名な化合物は酸化セリウム(IV) (CeO2) で、jeweller's rougeとして使われる。滴定で使われる二つの有名な酸化剤は硫酸セリウムアンモニウム(IV) (NH4)2Ce(SO4)3) と硝酸セリウムアンモニウム(IV) (NH4)2Ce(NO3)6)(別名:CAN)である。セリウムは塩化物もつくり、塩化セリウム(III) CeCl3 は有機化学でカルボニル化合物の反応に使われる。他の化合物は以下のとおり。
酸化物が研磨剤として用いられるほか、ガラス添加剤、製鋼原料、触媒としても使用される。化学反応における酸化剤としての用途は、使用量こそ少ないが非常に重要である。
レアアースであり資源としては、中国、旧ソ連、アメリカ、西オーストラリア、インドの埋蔵量が多く、日本でも少量産出する。鉱物としてはバストネサイト (Ce,La)(CO3)F、モナザイト (Ce, La, Nd, Th)PO4 が主体であり、それぞれ酸化セリウムとして50%弱と最も多く含まれている。産出量は約90%を、中国内陸部で磁鉄鉱副産物の複雑鉱石から精製されるものが占めており、次いでアメリカ、旧ソ連、インドとなっている。中間製品の輸出国としては他にフランス、台湾もあげられる。
セリウムは使用量の少なさにもかかわらず、他のレアアースと共に多く副産するため、その在庫量がネオジムやジスプロシウム等の生産を圧迫し、コスト的に不利なアメリカ等のレアアース産業を打撃した。しかし近年、アルミニウム材の耐熱性改善にセリウムとの合金が有望との見込みが示されており、レアアース生産におけるセリウム過剰構造の改善にも大きな効果を持ちうるとも期待されている。
汎用研磨剤としては、アメリカ産バストネサイトをそのまま酸化・粉砕し、粒度分級したものが用いられている。
そのほか、焙焼したバストネサイトを塩酸浸出し他の希土類と分離したもの、モナザイトを苛性によるアルカリ製錬(リン酸鉱物であるため)する雰囲気で利用が遅れた。水酸化物を塩酸抽出したものから酸化セリウムなどの化合物が製造され、各種用途に用いる。溶融電解や金属カルシウム還元により、金属セリウムが得られる。
フェロセリウムは主にアメリカで生産され、鉄鋼添加剤用途に輸入されている。
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"text": "1803年、スウェーデンのイェンス・ベルセリウス (J. J. Berzelius) とウィルヘルム・ヒージンガー (W. Hisinger) が、スウェーデンのバストネス鉱山でイットリウム鉱石の探索中に未知の酸化物を見いだし、そのころ発見された準惑星(発見当時は惑星とされていた)セレスにちなんでセリア (ceria) と命名された。同年、ドイツのマルティン・ハインリヒ・クラプロート (M. H. Klaproth) も同じ鉱山で新元素を探索した結果、新元素を発見し、その性状から黄色い土という意味でテールオクロイト (terre ochroite) と命名された。その後、学会で、名称としてセリウムが採用された。",
"title": "歴史"
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"text": "灰色がかかった銀白色の金属で、常温・常圧での安定結晶構造は、面心立方格子構造(FCC、β型)だが730 °C以上で体心立方格子構造 (BCC) となり、低温では六方最密充填構造(HCP、α型)、更に-150 °C以下で再び面心立方格子構造が安定となる。比重は6.77、融点は804 °C、沸点は3,470 °Cで、融点と沸点の開きが大きいのが特徴。",
"title": "特徴"
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"text": "空気中で酸化されやすく、次第に酸化セリウム(IV) (CeO2) となるほか、加熱すると160 °Cで発火する。水にはゆっくりと溶け(熱水と反応)、酸(無機酸)には易溶。アンモニアにも溶ける。原子価は+3、+4(ランタノイドで唯一4価が安定なのが特徴)。",
"title": "特徴"
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"text": "モナズ石(モナザイト)やセル石(セライト)に含まれる。最も存在量の多い希土類元素だが、資源としては90%以上を中国が産出している。",
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"text": "金属セリウムは空気中でゆっくりと変色し、150 °Cで速やかに燃焼し酸化セリウム(IV)が生成する。",
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"text": "セリウムは非常に電気的陽性で、冷水とおだやかに、熱水とは速やかに反応して、水酸化セリウム(III)が生成する。",
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"text": "金属セリウムは全てのハロゲンと反応する。",
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"text": "セリウムは希硫酸に速やかに溶け、無色の Ce(III) イオンの溶液ができる。このイオンは [ Ce ( OH 2 ) 9 ] 3 + {\\displaystyle {\\ce {[Ce(OH2)9]^{3+}}}} のような錯体として存在する",
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"text": "セリウム(IV)塩は赤橙色か黄色である。一方、セリウム(III)塩はふつうは白色か無色である。両者とも紫外線を非常に吸収する。セリウム(III)は無色のガラスを作るのに使われ、ほぼ完全に紫外線を吸収する。鋭敏な定性的な検査により、セリウムは希土類の混合物から容易に検出できる。アンモニアと過ハロゲン酸をランタノイドの水溶液に加えると、セリウムが存在すれば特徴的な暗褐色に染まる。",
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"text": "セリウムの取りうる酸化数は+2、+3、+4の三つある。+2の状態は珍しく、CeH2、CeI2、CeS などで見られる。最も有名な化合物は酸化セリウム(IV) (CeO2) で、jeweller's rougeとして使われる。滴定で使われる二つの有名な酸化剤は硫酸セリウムアンモニウム(IV) (NH4)2Ce(SO4)3) と硝酸セリウムアンモニウム(IV) (NH4)2Ce(NO3)6)(別名:CAN)である。セリウムは塩化物もつくり、塩化セリウム(III) CeCl3 は有機化学でカルボニル化合物の反応に使われる。他の化合物は以下のとおり。",
"title": "化合物"
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"text": "酸化物が研磨剤として用いられるほか、ガラス添加剤、製鋼原料、触媒としても使用される。化学反応における酸化剤としての用途は、使用量こそ少ないが非常に重要である。",
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"text": "レアアースであり資源としては、中国、旧ソ連、アメリカ、西オーストラリア、インドの埋蔵量が多く、日本でも少量産出する。鉱物としてはバストネサイト (Ce,La)(CO3)F、モナザイト (Ce, La, Nd, Th)PO4 が主体であり、それぞれ酸化セリウムとして50%弱と最も多く含まれている。産出量は約90%を、中国内陸部で磁鉄鉱副産物の複雑鉱石から精製されるものが占めており、次いでアメリカ、旧ソ連、インドとなっている。中間製品の輸出国としては他にフランス、台湾もあげられる。",
"title": "産出"
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"text": "セリウムは使用量の少なさにもかかわらず、他のレアアースと共に多く副産するため、その在庫量がネオジムやジスプロシウム等の生産を圧迫し、コスト的に不利なアメリカ等のレアアース産業を打撃した。しかし近年、アルミニウム材の耐熱性改善にセリウムとの合金が有望との見込みが示されており、レアアース生産におけるセリウム過剰構造の改善にも大きな効果を持ちうるとも期待されている。",
"title": "産出"
},
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"text": "汎用研磨剤としては、アメリカ産バストネサイトをそのまま酸化・粉砕し、粒度分級したものが用いられている。",
"title": "製造"
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"text": "そのほか、焙焼したバストネサイトを塩酸浸出し他の希土類と分離したもの、モナザイトを苛性によるアルカリ製錬(リン酸鉱物であるため)する雰囲気で利用が遅れた。水酸化物を塩酸抽出したものから酸化セリウムなどの化合物が製造され、各種用途に用いる。溶融電解や金属カルシウム還元により、金属セリウムが得られる。",
"title": "製造"
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"tag": "p",
"text": "フェロセリウムは主にアメリカで生産され、鉄鋼添加剤用途に輸入されている。",
"title": "製造"
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] |
セリウムは、原子番号58の元素で、元素記号は Ce。銀白色で軟らかく延性に富む金属で、空気中で容易に酸化される。セリウムは、希土類元素としては最も豊富に地殻中に存在しており、その濃度は、質量パーセント濃度で0.046%である。さまざまな鉱物中で見つかり、最も重要なのはモナザイトとバストネサイトである。セリウムの商業的な用途は多岐に渡り、触媒、排出物を還元するための燃料への添加剤、ガラス、エナメルの着色剤などがある。酸化物はガラス研磨剤、スクリーンの蛍光体、蛍光灯などで重要な成分である。
|
{{Elementbox
|name=cerium
|japanese name=セリウム
|number=58
|symbol=Ce
|left=[[ランタン]]
|right=[[プラセオジム]]
|above=-
|below=[[トリウム|Th]]
|series=ランタノイド
|group=3
|period=6
|block=f
|image name=Cerium2.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=140.116
|electron configuration=[[[キセノン|Xe]]] 4f<sup>1</sup> 5d<sup>1</sup> 6s<sup>2</sup><ref>[https://www.nist.gov/pml/ground-levels-and-ionization-energies-neutral-atoms Ground levels and ionization energies for the neutral atoms], NIST</ref>
|electrons per shell=2, 8, 18, 19, 9, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=6.770
|density gpcm3mp=6.55
|melting point K=1068
|melting point C=795
|melting point F=1463
|boiling point K=3716
|boiling point C=3443
|boiling point F=6229
|heat fusion=5.46
|heat vaporization=398
|heat capacity=26.94
|vapor pressure 1=1992
|vapor pressure 10=2194
|vapor pressure 100=2442
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|vapor pressure 10 k=3159
|vapor pressure 100 k=3705
|vapor pressure comment=
|crystal structure=cubic
|japanese crystal structure=[[立方晶系]]
|oxidation states='''4''', '''3''', 2<br />(弱[[塩基性酸化物]])
|electronegativity=1.12
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy=534.4
|2nd ionization energy=1050
|3rd ionization energy=1949
|atomic radius=181.8
|covalent radius=204 ± 9
|magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name="magnet">[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pd |date=2004年3月24日 }}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref>
|electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (β, poly) 828 n
|thermal conductivity=11.3
|thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (γ, poly) 6.3
|speed of sound rod at 20=2100
|Young's modulus=(γ) 33.6
|Shear modulus=(γ) 13.5
|Bulk modulus=(γ) 21.5
|Poisson ratio=(γ) 0.24
|Mohs hardness=2.5
|Vickers hardness=270
|Brinell hardness=412
|CAS number=7440-45-1
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=134 | sym=Ce
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=3.16 [[日|d]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.500 | pn=134 | ps=[[ランタン|La]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=136 | sym=Ce
| na=0.185% | hl= > 3.8×10<sup>16</sup> [[年|y]]
| dm=[[二重ベータ崩壊|β<sup>+</sup>β<sup>+</sup>]] | de=2.419 | pn=136 | ps=[[バリウム|Ba]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=138 | sym=Ce
| na=0.251% | hl= > 1.5×10<sup>14</sup> [[年|y]]
| dm=[[二重ベータ崩壊|β<sup>+</sup>β<sup>+</sup>]] | de=0.694 | pn=138 | ps=[[バリウム|Ba]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=139 | sym=Ce
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=137.640 [[日|d]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.278 | pn=139 | ps=[[ランタン|La]]}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=140 | sym=Ce | na=88.450% | n=82}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=141 | sym=Ce
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=32.501 [[日|d]]
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=142 | sym=Ce
| na=11.114% | hl= > 5 × 10<sup>16</sup> [[年|y]]
| dm=[[二重ベータ崩壊|β<sup>-</sup>β<sup>-</sup>]] | de=1.417 | pn=142 | ps=[[ネオジム|Nd]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=144 | sym=Ce
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=284.893 [[日|d]]
| dm=[[β崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.319 | pn=144 | ps=[[プラセオジム|Pr]]}}
|isotopes comment=
}}
'''セリウム'''({{lang-en-short|cerium}} {{IPA-en|ˈsɪəriəm|}})は、[[原子番号]]58の[[元素]]で、元素記号は '''Ce'''。銀白色で軟らかく延性に富む金属で、空気中で容易に酸化される。セリウムは、[[希土類元素]]としては最も豊富に[[地殻]]中に存在しており、その濃度は、質量パーセント濃度で0.046%である。さまざまな鉱物中で見つかり、最も重要なのは[[モナザイト]]と[[バストネサイト]]である。セリウムの商業的な用途は多岐に渡り、触媒、[[大気汚染|排出物]]を還元するための燃料への添加剤、ガラス、エナメルの着色剤などがある。[[酸化物]]はガラス研磨剤、スクリーンの蛍光体、蛍光灯などで重要な成分である。
== 名称 ==
セリウムの名は[[準惑星]][[ケレス (準惑星)|ケレス]]に因んでいる。
== 歴史 ==
同じ年に別個に発見されたため、第一発見者を巡って国家間の論争を招いた最初の元素となった<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 261~262|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。
1803年、[[スウェーデン]]の[[イェンス・ベルセリウス]] (J. J. Berzelius) と[[ウィルヘルム・ヒージンガー]] (W. Hisinger) が、スウェーデンのバストネス鉱山で[[イットリウム]]鉱石の探索中に未知の酸化物を見いだし、そのころ発見された準惑星(発見当時は惑星とされていた)[[ケレス (準惑星)|セレス]]にちなんでセリア (ceria) と命名された<ref name="sakurai" />。同年、[[ドイツ]]の[[マルティン・ハインリヒ・クラプロート]] (M. H. Klaproth) も同じ鉱山で新元素を探索した結果、新元素を発見し、その性状から黄色い土という意味でテールオクロイト (terre ochroite) と命名された。その後、学会で、名称としてセリウムが採用された。
== 特徴 ==
灰色がかかった銀白色の[[金属]]で、常温・常圧での安定[[結晶構造]]は、[[面心立方格子]]構造(FCC、β型)だが730 {{℃}}以上で[[体心立方格子]]構造 (BCC) となり、低温では[[六方最密充填]]構造(HCP、α型)、更に-150 {{℃}}以下で再び面心立方格子構造が安定となる。[[比重]]は6.77、[[融点]]は804 {{℃}}、[[沸点]]は3,470 {{℃}}で、融点と沸点の開きが大きいのが特徴。
空気中で酸化されやすく、次第に[[酸化セリウム(IV)]] (CeO<sub>2</sub>) となるほか、加熱すると160 {{℃}}で発火する。水にはゆっくりと溶け(熱水と反応)、[[酸]](無機酸)には易溶。[[アンモニア]]にも溶ける。原子価は+3、+4(ランタノイドで唯一4価が安定なのが特徴)。
[[モナズ石]](モナザイト)やセル石(セライト)に含まれる。最も存在量の多い希土類元素だが、資源としては90%以上を[[中国]]が産出している。
== 化学的性質 ==
金属セリウムは空気中でゆっくりと変色し、150 {{℃}}で速やかに燃焼し[[酸化セリウム(IV)]]が生成する。
: <chem>Ce + O2 -> CeO2</chem>
セリウムは非常に電気的陽性で、冷水とおだやかに、熱水とは速やかに反応して、[[水酸化セリウム(III)]]が生成する。
: <chem>2Ce (s) + 6H2O (l) -> 2Ce(OH)3 (aq) + 3H2 (g)</chem>
金属セリウムは全てのハロゲンと反応する。
: <chem>2Ce (s) + 3F2 (g) -> 2CeF3 (s)</chem> [白色]
: <chem>2Ce (s) + 3Cl2 (g) -> 2CeCl3 (s)</chem> [白色]
: <chem>2Ce (s) + 3Br2 (g) -> 2CeBr3 (s)</chem> [白色]
: <chem>2Ce (s) + 3I2 (g) -> 2CeI3 (s)</chem> [黄色]
セリウムは希[[硫酸]]に速やかに溶け、無色の Ce(III) イオンの溶液ができる。このイオンは <chem>[Ce(OH2)9]^{3+}</chem> のような錯体として存在する<ref>{{cite web | url = http://www.webelements.com/cerium/chemistry.html | title = Chemical reactions of Cerium | publisher = Webelements | accessdate = 2009-06-06}}</ref>
: <chem>2Ce(s) + 3H2SO4(aq) -> 2Ce^{3+}(aq) + 3SO4^{2-}(aq) + 3H2(g)</chem>
== 化合物 ==
[[File:Cer(IV)-sulfat.JPG|200px|left|thumb|硫酸セリウム(IV)]]
セリウム(IV)塩は赤橙色か黄色である。一方、セリウム(III)塩はふつうは白色か無色である。両者とも紫外線を非常に吸収する。セリウム(III)は無色のガラスを作るのに使われ、ほぼ完全に紫外線を吸収する。鋭敏な定性的な検査により、セリウムは希土類の混合物から容易に検出できる。[[アンモニア]]と[[過ハロゲン酸]]をランタノイドの水溶液に加えると、セリウムが存在すれば特徴的な暗褐色に染まる。
セリウムの取りうる[[酸化数]]は+2、+3、+4の三つある。+2の状態は珍しく、CeH<sub>2</sub>、CeI<sub>2</sub>、CeS などで見られる<ref name="patnaik">{{cite book | last = Patnaik | first = Pradyot | year = 2003 | title = Handbook of Inorganic Chemical Compounds | publisher = McGraw-Hill | pages = 199–200| isbn = 0070494398 | url = https://books.google.co.jp/books?id=Xqj-TTzkvTEC&pg=PA200&redir_esc=y&hl=ja | accessdate = 2009-06-06}}</ref>。最も有名な化合物は酸化セリウム(IV) (CeO<sub>2</sub>) で、[[酸化鉄#用途|jeweller's rouge]]として使われる。[[滴定]]で使われる二つの有名な[[酸化剤]]は[[硫酸セリウムアンモニウム(IV)]] (NH<sub>4</sub>)<sub>2</sub>Ce(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>) と[[硝酸セリウムアンモニウム(IV)]] (NH<sub>4</sub>)<sub>2</sub>Ce(NO<sub>3</sub>)<sub>6</sub>)(別名:CAN)である。セリウムは[[塩化物]]もつくり、[[塩化セリウム(III)]] CeCl<sub>3</sub> は有機化学で[[カルボニル基|カルボニル化合物]]の反応に使われる。他の化合物は以下のとおり。
* CeAl<sub>3</sub>
* CeCu<sub>6</sub>
* CeCu<sub>2</sub>Si<sub>2</sub>
* CeRu<sub>2</sub>Si<sub>2</sub>
* [[酸化セリウム(III)]] (Ce<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)
* [[酸化セリウム(IV)]] (CeO<sub>2</sub>)
* 塩化セリウム(III)七水和物 (CeCl<sub>3</sub>・7H<sub>2</sub>O)
* フッ化セリウム(III) (CeF<sub>3</sub>)
* 硫酸セリウム(III)八水和物 (Ce<sub>2</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>・8H<sub>2</sub>O)
* 硫酸セリウム(IV)四水和物 (Ce(SO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>・4H<sub>2</sub>O)
* 硝酸セリウム(III)アンモニウム四水和物、ペンタニトラトセリウム(III)酸アンモニウム ((NH<sub>4</sub>)<sub>2</sub>[Ce(NO<sub>3</sub>)<sub>5</sub>]・4H<sub>2</sub>O)
* [[硝酸セリウムアンモニウム|硝酸セリウム(IV)アンモニウム]]、ヘキサニトラトセリウム(IV)酸アンモニウム ((NH<sub>4</sub>)<sub>2</sub>[Ce(NO<sub>3</sub>)<sub>6</sub>])
* 硝酸セリウム(III)六水和物 (Ce(NO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>・6H<sub>2</sub>O)
* 水酸化セリウム(IV)n水和物 (Ce(OH)<sub>4</sub>・nH<sub>2</sub>O)
* 炭酸セリウム(III)八水和物 (Ce<sub>2</sub>(CO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>・8H<sub>2</sub>O)
* 過塩素酸セリウム(III)八水和物 (Ce(ClO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>・8H<sub>2</sub>O)
* 臭化セリウム(III)六水和物 (CeBr<sub>3</sub>・6H<sub>2</sub>O)
* 六ホウ化セリウム (CeB<sub>6</sub>)
* 二ケイ化セリウム (CeSi<sub>2</sub>)
* 硫化セリウム(III) (Ce<sub>2</sub>S<sub>3</sub>)
* ヨウ化セリウム(III)九水和物 (CeI<sub>3</sub>・9H<sub>2</sub>O)
* シュウ酸セリウム(III)九水和物 (Ce<sub>2</sub>(C<sub>2</sub>O<sub>4</sub>)<sub>3</sub>•9H<sub>2</sub>O)
* 酢酸セリウム(III)一水和物 (Ce(CH<sub>3</sub>COO)<sub>3</sub>・H<sub>2</sub>O)
== 同位体 ==
{{main|セリウムの同位体}}
== 用途 ==
酸化物が[[研磨剤]]として用いられるほか、ガラス添加剤、製鋼原料、触媒としても使用される。化学反応における酸化剤としての用途は、使用量こそ少ないが非常に重要である。
; [[ガラス]]研磨剤:1960年代から鉱物(バストネサイト)酸化物が用いられ、[[光学]][[レンズ]][[研磨]]に欠かせないものとなった。単に[[硬度]]が高いだけでなく、酸化セリウムや[[フッ素]]がガラスと化学反応を起こす、[[化学機械研磨]] (CMP) が生じることが特長で、[[液晶パネル]]や[[水晶]]・[[石英]]など[[ケイ酸]]系の[[宝石]]研磨に利用される。
; [[電子部品]]研磨剤:他の希土類を抽出除去した高純度酸化セリウムが[[フォトマスク]]、[[ハードディスク]]などのガラス基板、多層化[[集積回路]]の[[層間絶縁膜]]平滑化に用いられている。
;[[発火石]]:ライター用の発火石としてセリウムと鉄の合金([[フェロセリウム]])が使われている([[発火合金]])。摩擦により火花を発生する。
; [[紫外線]]吸収剤:酸化セリウムは[[屈折率]]が大きく紫外線をよく吸収・遮蔽するため、[[サングラス]]など紫外線遮断(UVカット)ガラスや[[化粧品]]に用いられる。
; [[蛍光体]]:青い[[蛍光]]を発することから、[[ブラウン管]]に利用されてきた。1997年、[[YAG]]にセリウムを添加した黄色蛍光体を青色[[発光ダイオード]]の補色とすることで、白色LED灯が初めて商品化された。また、[[蓄光]]材料としても用いられる。[[フッ素]]との化合物のフッ化セリウム (CeF<sub>3</sub>) は[[放射線]]検出の為の[[シンチレータ]]材料として使用される。
; [[顔料]]:酸化セリウムが黄色系顔料の成分として使用されるほか、ガラスに添加して淡い黄色に発色させる着色剤、酸化雰囲気にして鉄分による着色を打ち消す脱色剤として利用される。
; [[造影剤]]:X線CT(コンピュータ断層撮影法)による微小血管造影装置の陽極に用いる<ref>[https://doi.org/10.11281/shinzo.44.1372 セリウムを陽極に用いた微小血管造影法] 心臓 Vol.44 (2012) No.11 p.1372-1377</ref>。
<!--
; [[ミッシュメタル]]:[[1906年]]、[[オーストリア]]の化学者、[[カール・ヴェルスバッハ]] (Carl Auer von Welsbach) が、フェロセリウムが[[火打石|発火合金]]([[ライター]]の石)として有効であることを発見。現在では、[[ニッケル・水素蓄電池]]の負極([[水素吸蔵合金]])としても利用されている。
-->
; [[希土類元素|希土類]][[磁石]]:[[金属間化合物]]の CeCo<sub>5</sub> が磁性材料として利用される。
; 鉄鋼添加剤:フェロセリウムとして[[ステンレス鋼]]などの硫黄や酸素原子による還元作用を、酸化作用で抑制する。
; [[合金]]添加剤:腐食防止用インヒビターとして、航空機用・高強度[[アルミニウム合金]]に添加されるほか、[[マグネシウム合金]]にも3-4%添加される。
; [[るつぼ]]:硫化セリウムによる機能性、耐熱るつぼ製品の製造。
; [[溶接]]電極棒:交流アーク用にセリウム入り[[タングステン]]電極棒(通称セリタン)が重用されている。
; [[触媒]]:酸化物の酸素貯蔵能が高いことから、自動車排ガス用[[三元触媒]]に、[[触媒化学|助触媒]]として添加されている。
; [[センサー]]:抵抗型気中[[酸素]]濃度センサとして[[排ガス]]中の酸素濃度を測定し、[[エンジン]]の燃焼効率改善のため[[空燃比]]制御に使用される。
; [[固体電解質]]:サマリアドープトセリア (SDC) やガドリニアドープトセリア (GDC) は[[酸素]]イオン伝導体として固体酸化物[[燃料電池]] (SOFC) に用いられる。
; [[ガス灯]]:硝酸セリウムが、発光体である[[ガスマントル]]製造に使用された。これが工業的利用の最初の例である。その後も発光材料として利用されている。
; [[医薬品]]:シュウ酸セリウムが、鎮静・鎮吐作用を持つとして医薬品に使用される。また、抗血液凝固作用があり、血栓防止などに有用とする研究がある。
; [[酸化剤]]:4価のセリウムイオンは3価になるとき、強い[[酸化]]性を示す。このことから、[[硝酸セリウムアンモニウム]]が[[有機合成化学]]や[[ウエットエッチング]]に利用されている。また、有機セリウム求核試薬やヒ素吸着剤にも利用される。
; [[超伝導]]物質、強磁性物質:セリウムの化合物には[[重い電子系]](ヘビーフェルミオン)として注目されているものがある。→CeIrIn<sub>5</sub>。CeCu<sub>2</sub>Si<sub>2</sub>(超伝導体でもある)。CeRu<sub>2</sub>Si<sub>2</sub> や CeCu<sub>6</sub> は、[[近藤効果]]により極低温まで[[磁気秩序]]を示さない。
== 産出 ==
[[レアアース]]であり[[資源]]としては、[[中国]]、[[旧ソ連]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[西オーストラリア]]、[[インド]]の埋蔵量が多く、日本でも少量産出する。鉱物としてはバストネサイト (Ce,La)(CO<sub>3</sub>)F、モナザイト (Ce, La, Nd, Th)PO<sub>4</sub> が主体であり、それぞれ酸化セリウムとして50%弱と最も多く含まれている。産出量は約90%を、中国内陸部で[[磁鉄鉱]]副産物の複雑鉱石から精製されるものが占めており、次いでアメリカ、旧ソ連、インドとなっている。中間製品の輸出国としては他に[[フランス]]、[[台湾]]もあげられる。
セリウムは使用量の少なさにもかかわらず、他のレアアースと共に多く副産するため、その在庫量が[[ネオジム]]や[[ジスプロシウム]]等の生産を圧迫し、コスト的に不利なアメリカ等のレアアース産業を打撃した。しかし近年、[[アルミニウム]]材の耐熱性改善にセリウムとの合金が有望との見込みが示されており、レアアース生産におけるセリウム過剰構造の改善にも大きな効果を持ちうるとも期待されている<ref>[https://engineer.fabcross.jp/archeive/160701_alloy.html 300℃を超える耐熱性のアルミニウム・セリウム合金――アメリカのレアアース生産を加速させる可能性も]</ref>。
== 製造 ==
汎用研磨剤としては、アメリカ産バストネサイトをそのまま酸化・粉砕し、粒度分級したものが用いられている。
そのほか、[[焙焼]]したバストネサイトを[[塩酸]]浸出し他の希土類と分離したもの、モナザイトを苛性によるアルカリ[[製錬]](リン酸鉱物であるため)する雰囲気で利用が遅れた。[[水酸化物]]を塩酸抽出したものから酸化セリウムなどの化合物が製造され、各種用途に用いる。溶融電解や金属カルシウム還元により、金属セリウムが得られる。
フェロセリウムは主にアメリカで生産され、鉄鋼添加剤用途に輸入されている。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
| wikt = セリウム
| q = no
| n = no
| v = no
}}
*[[プルトニウム]] - 科学的挙動がセリウムと似ているため、セリウムが類似物質として用いられる
{{元素周期表}}
{{セリウムの化合物}}
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市立戦隊ダイテンジン
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『市立戦隊ダイテンジン』(しりつせんたいダイテンジン)は、六道神士による成人向けギャグ漫画。「カイザーペンギン」誌(辰巳出版)において、1994年から1995年まで連載された。全9話。英語表記は『 Municipal Forces DAITENZIN 』。
1999年、作者が同じ『エクセル・サーガ』がテレビアニメ化された際、エクセル・サーガの設定を踏襲した形で同アニメに登場した。エクセル・サーガは本作を叩き台にして描かれた作品であるため、原作漫画にもダイテンジンのキャラに良く似た人々が登場する。ただし作者は設定の流用は認めるが、あくまで"別の作品"であることを強調しており、作品世界としての繋がりは薄い。
掲載誌の廃刊などもあり長らく単行本化はされなかったが、1997年から作者個人の同人誌で作品はまとめられ、2001年に大都社から『市立戦隊ダイテンジン 六道神士初期作品集』として刊行された。全1巻。
蒲腐博士の下に集う5人の若者は、戦闘スーツに身を包み「市立戦隊ダイテンジン」として日々正義のヒーローとして活躍する......わけではなく、悪の限りを尽くす。ダイテンジンの主な活動は、市民を思想犯の容疑者として拉致監禁したり、その容疑者を秘密基地で尋問と称し色々したり、気分で街を破壊したり、大天号という名の単車に6人乗りしたり......。本作はダイテンジンのメンバーや周囲の人間が巻き起こす成人向けスラップスティックコメディである。
本作中に出てくる地名は全て福岡市内となっている。また本作の掲載された雑誌は成年向けであったが、作者曰く「ヴィジュアル面で期待されていなかった」ため、エッチシーンを描くことに重きを置いていなかった。そのため性的な描写は徐々に減り、第7話以降は最終話まで1話16ページのうち、エッチシーンは1ページ分あるかないかにまでになった。
アニメ版「エクセル・サーガ」第18話のサブタイトルが「市立戦隊ダイテンジン」である。この回は「たぶん史上初、同人誌を元ネタとした一本(前回の次回ナレーションより)」であるが、あくまでも元ネタである。この回では、市街安全保障局のメンバーが、蒲腐博士によってダイテンスーツを強制的に着させられ、なかば脅迫的に「市立戦隊ダイテンジン」にさせられる。悪を最低10個討たなければ、スーツが脱げないためメンバーは、どんな些細な悪をも倒すために市街で破壊活動を繰り広げてゆくが...。
このほか、市街安全保障局のメンバーがテンジンスーツを着て登場するのは、第22話「侵略、おふくろ様」(宇宙からの侵略者から市街を守るためにテンジンスーツを着るが、話には絡まずスタコラサッサと逃亡した)と第24話「君のためなら死ねる」、第25「やりにげ」がある。特に第24話では4人+2体という本来の設定ではあり得ない構成で大天号(ミニスクーター)6人乗りの再現を果たした(原作内では5人+1人(拉致)で6人乗り)。
アニメ版での配役と色は以下の通り。詳しい登場人物の解説はエクセル・サーガ本項を参照。
1997年の夏・冬コミックマーケットの2回に分けて、2冊の同人誌として頒布された。頒布元は、同人サークル「六道館」。
大都社より「Daito Comics」として刊行されている。作者のデビュー作「ダブルインテンション」など4話も同時収録されている。
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『市立戦隊ダイテンジン』(しりつせんたいダイテンジン)は、六道神士による成人向けギャグ漫画。「カイザーペンギン」誌(辰巳出版)において、1994年から1995年まで連載された。全9話。英語表記は『 Municipal Forces DAITENZIN 』。 1999年、作者が同じ『エクセル・サーガ』がテレビアニメ化された際、エクセル・サーガの設定を踏襲した形で同アニメに登場した。エクセル・サーガは本作を叩き台にして描かれた作品であるため、原作漫画にもダイテンジンのキャラに良く似た人々が登場する。ただし作者は設定の流用は認めるが、あくまで"別の作品"であることを強調しており、作品世界としての繋がりは薄い。 掲載誌の廃刊などもあり長らく単行本化はされなかったが、1997年から作者個人の同人誌で作品はまとめられ、2001年に大都社から『市立戦隊ダイテンジン 六道神士初期作品集』として刊行された。全1巻。
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『'''市立戦隊ダイテンジン'''』(しりつせんたいダイテンジン)は、[[六道神士]]による成人向け[[ギャグ漫画]]。「[[カイザーペンギン]]」誌([[辰巳出版]])において、[[1994年]]から1995年まで連載された。全9話。英語表記は『 ''Municipal Forces DAITENZIN'' 』。
1999年、作者が同じ『[[エクセル・サーガ]]』がテレビアニメ化された際、エクセル・サーガの設定を踏襲した形で同アニメに登場した。エクセル・サーガは本作を叩き台にして描かれた作品であるため、原作漫画にもダイテンジンのキャラに良く似た人々が登場する。ただし作者は設定の流用は認めるが、あくまで"別の作品"であることを強調しており、作品世界としての繋がりは薄い。
掲載誌の廃刊などもあり長らく単行本化はされなかったが、1997年から作者個人の[[同人誌]]で作品はまとめられ、2001年に[[大都社]]から『市立戦隊ダイテンジン 六道神士初期作品集』として刊行された。全1巻。
== 概要 ==
蒲腐博士の下に集う5人の若者は、戦闘スーツに身を包み「市立戦隊ダイテンジン」として日々正義のヒーローとして活躍する……わけではなく、悪の限りを尽くす。ダイテンジンの主な活動は、市民を思想犯の容疑者として拉致監禁したり、その容疑者を秘密基地で尋問と称し色々したり、気分で街を破壊したり、大天号という名の単車に6人乗りしたり……。本作はダイテンジンのメンバーや周囲の人間が巻き起こす成人向けスラップスティックコメディである。
本作中に出てくる地名は全て[[福岡市]]内となっている。また本作の掲載された雑誌は成年向けであったが、作者曰く「ヴィジュアル面で期待されていなかった」ため、[[エッチ]]シーンを描くことに重きを置いていなかった。そのため性的な描写は徐々に減り、第7話以降は最終話まで1話16ページのうち、エッチシーンは1ページ分あるかないかにまでになった。
== 主な登場人物 ==
<!--同人版をお持ちの方、表紙にカラーで載っていれば、色に関しての補記願います-->
; ダイテンコア(赤)
: ツンツンしたザンギリ頭の青年で、市立戦隊ダイテンジンリーダー。テンションが高くバカ。イムズに手を出して返り討ちにあったり、レディスに容赦なく突っ込まれたりと、扱いは軽い。早漏。容姿や性格は『エクセル・サーガ』の岩田紀國に受け継がれている。
; ダイテンイムズ(黒)
: ロン毛でツリ目の青年。惚れっぽくプライドが高いが、幸薄い。コアよりケンカは強いが、先に手を出される側なので勝っても余計なケガは負う。容姿や性格は入院ネタと共に『エクセル・サーガ』の渡辺通に受け継がれている。
; ダイテンアイガン(黄)
: 眼鏡をかけた太った青年。ダイテンジンの中では常識的で、いつも落ち着いており、行動的ではない。そのため成人向け漫画としての本分は果たしていない。第1話の二言以外、吹き出しを出さずに喋る。容姿や性格は独特な喋り方と共に『エクセル・サーガ』の住吉大丸に受け継がれている。
; ダイテンソラリア(緑)
: 見た目は子供のようなポニーテールの少年。外見やノリの明るさとは裏腹に、性格は鬼畜かつ外道で嗜虐志向がある。巨根。一応今泉という苗字がある。作者曰くエロマンガ用キャラとしてデザインされたため、『エクセル・サーガ』で該当するキャラはいない。ただしその明るい性格などは、六本松二式に受け継がれているとも言える。またソラリアの名は別の形で受け継がれている。
; ダイテンレディス(桃?)
: 金髪ロングのダイテンジンでは紅一点の女性。当初は第2話で濃厚なエッチシーンを披露するものの、大した特徴はないキャラだった。しかし中盤から冷静なツッコミキャラになってゆき、また一切性的な言動もなくなる。作者曰く特徴が無いので『エクセル・サーガ』で該当するキャラはいない。ただし後半の性格の傾向や5人の中での立ち位置などは、松屋美咲に受け継がれているとも言える。
; 蒲腐博士(かばぷはかせ)
: 横に広い髪と立派なヒゲが特徴的なダイテンジンの親玉。ダイテンジンのために怪しげな装備やメカを開発している。ダイテンジン絡みで苦情の電話が来ると、沢山並んだ市街破壊用のスイッチを満足気に押して対象を消す。最終的には強引なやり口を市議に弾劾され、破壊の限りを尽くす。キャラ全般が『エクセル・サーガ』の同名キャラに受け継がれている。
; イルパラッツォ
: 耽美でクールな外見の反面、ノリがよくややおバカなダイテンジンの対立組織の首領。部下のエクセルが暴走すると、天井のヒモを引いてエクセルを奈落に落とす。容姿や立ち位置は『エクセル・サーガ』の同名キャラに受け継がれているが、本作ではかなりギャグ寄りの性格をしている。
; エクセル
: やたらハイテンションでかなりおバカなイルパラッツォの部下。秘密基地内で暴走しては奈落に落とされる。毒や刃物でダイテンジンの暗殺を企むが、返り討ちにあってイムズに公衆の面前で辱められたり、国家権力に屈したりして失敗する。キャラ全般が『エクセル・サーガ』の同名キャラに受け継がれているが、本作では輪をかけてテンションが高い。
; ソラリアの後輩
: 宗教勧誘を装った[[美人局]]の女性。ソラリアの方が一枚も二枚も上手だったため企みは失敗したが、このキャラの容姿などは『エクセル・サーガ』のハイアットに受け継がれている。
== アニメ版エクセルサーガにおけるダイテンジン ==
アニメ版「エクセル・サーガ」第18話のサブタイトルが「市立戦隊ダイテンジン」である。この回は「たぶん史上初、同人誌を元ネタとした一本(前回の次回ナレーションより)」であるが、あくまでも元ネタである。この回では、市街安全保障局のメンバーが、蒲腐博士によってダイテンスーツを強制的に着させられ、なかば脅迫的に「市立戦隊ダイテンジン」にさせられる。悪を最低10個討たなければ、スーツが脱げないためメンバーは、どんな些細な悪をも倒すために市街で破壊活動を繰り広げてゆくが…。
このほか、市街安全保障局のメンバーがテンジンスーツを着て登場するのは、第22話「侵略、おふくろ様」(宇宙からの侵略者から市街を守るためにテンジンスーツを着るが、話には絡まずスタコラサッサと逃亡した)と第24話「君のためなら死ねる」、第25「やりにげ」がある。特に第24話では4人+2体という本来の設定ではあり得ない構成で大天号(ミニスクーター)6人乗りの再現を果たした(原作内では5人+1人(拉致)で6人乗り)。
アニメ版での配役と色は以下の通り。詳しい登場人物の解説はエクセル・サーガ本項を参照。
* 岩田 - コア - 赤
* 渡辺 - イムズ(アニメ本編では『イ'''ズム'''』と呼称) - 青
* 住吉 - アイガン - 黄
* 松屋 - レディス - 緑
* 六本松一式 - ソラリアその1 - 紫
* 六本松二式 - ソラリアその2 - 桃
== 同人誌 ==
1997年の夏・冬コミックマーケットの2回に分けて、2冊の同人誌として頒布された。頒布元は、同人サークル「六道館」。<!--各発行日は中古同人誌オンラインショップ「駿河屋」を参考にした-->
* 私立戦隊ダイテンジン(上)コンディション・ブラック(1997年8月15日発行)
* 市立戦隊ダイテンジン(下)市街地における爆破とその効用(1997年12月28日発行)
== 単行本 ==
[[大都社]]より「Daito Comics」として刊行されている。作者のデビュー作「ダブルインテンション」など4話も同時収録されている。
* 市立戦隊ダイテンジン 六道神士初期作品集(2001年4月20日発行)ISBN 4-88653-718-9
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author=寺西社主 他
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|title=別冊宝島358 私をコミケにつれてって!
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}}<!--同人誌版(上)についてほんの少しだけ記載がある-->
== 関連項目 ==
* [[エクセル・サーガ]]
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アクチノイド
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アクチノイド(英: Actinoid)とは、原子番号89から103まで、すなわちアクチニウムからローレンシウムまでの15の元素の総称である。
アクチニド(英: actinide、アクチナイドとも)と呼ぶこともあり、またランタノイドと同様に、最初と最後に当たるアクチニウムとローレンシウムの一方または両方をアクチノイドの範囲から除いて呼ぶこともある。IUPAC命名法ではアクチニウムとローレンシウムも含めて「アクチノイド」としている。
アクチノイドのうち、ウランは存在量が突出しており、プルトニウムは核燃料などとしての用途が確立されていることから、特に区別してメジャーアクチノイド (Major actinide) またはメジャーアクチニドと呼ぶ。
アクチノイドに属する超ウラン元素のうちプルトニウムを除いたものをマイナーアクチノイド (Minor actinide) もしくはマイナーアクチニドと呼ぶ。一般にはマイナーアクチノイドに分類されるのはネプツニウム、アメリシウム、キュリウム、バークリウム、カリホルニウム、アインスタイニウム、フェルミウムであるとされている。この中で使用済み核燃料に含まれる重要な同位体はネプツニウム237, アメリシウム241, アメリシウム243, キュリウム242から248とカリホルニウム249から252である。これらは強い放射能を持つ長寿命核種であり、300年から2万年に渡って使用済み核燃料から発生する強い放射線と熱の原因となる ため、放射性廃棄物処理を考える上で大きな問題となる。 また、マイナーアクチノイドは核実験による放射性降下物にも含まれる。
アメリシウムはアルファ線源およびガンマ線源として工業的に利用されており、例えばさまざまな煙検知器に利用されている。アメリシウムはプルトニウム239やプルトニウム240の中性子捕獲により生成したプルトニウム241がベータ崩壊して生成する。一般に、中性子のエネルギーが高くなるほど核分裂反応断面積と中性子捕獲断面積の比は核分裂が起きやすくなる方向に傾く。このため、MOX燃料を沸騰水型軽水炉や加圧水型軽水炉のような熱中性子炉で燃焼させると高速炉よりも大量のアメリシウムが生成する。したがって、原子炉級プルトニウム(英語版)にはアメリシウムも大量に含まれており、核兵器の生産には適さない。プルトニウム中のアメリシウム含有量の測定は、未知のプルトニウム試料の由来やアメリシウムを化学的に分離してからの経過時間を知る手段としても利用される。
全て放射性元素。トリウム、ウラン、プルトニウム以外のアクチノイド元素は、仮に可視できる量に人間が素手で触れた場合、早期に命に危険が及ぶほど放射能が強い。半減期が数年〜数十年のアクチニウム、アインスタイニウムなどは強力な放射線によって、ごく僅かな量であっても明確に目視できる強さの光を自然に放つ。
トリウムとウランには半減期が数億年以上の長命な同位体が存在するためにまとまった量が天然に存在するが、他の元素は天然には全くないか、ごく僅かしか存在せず、ほとんどが人工的に作られたものである。特にウランより重いネプツニウム以降の元素のことを超ウラン元素といい、ほぼ自然界には存在しない。このため物理的、化学的性質の詳細はとりわけ不明な部分が多い。
アクチノイドは、5f軌道の電子が詰まり(占有され)始める元素のシリーズで、4f軌道が詰まり始めるランタノイドと化学的性質が類似する。ただし電子の詰まり方はランタノイドとはやや異なり、アメリシウムより軽い方の元素では6d軌道にも電子が入り込む。そのため、ランタノイド及びアメリシウムより重いアクチノイドでは典型的な原子価が3価であるのに対して、アメリシウムより軽い方では3-6価の原子価を取る。またローレンシウムで5f軌道を充填した次の電子は、ルテチウムと異なり6d軌道ではなく7p軌道に入る。この理由はよくわかっていない。
ランタノイド収縮と同様に、アクチノイドも内側の5f軌道が先に詰まっていくため、原子番号が大きくなるほど原子半径、イオン半径が短くなる(アクチノイド収縮)。
アクチノイドの化合物の中には、フェルミエネルギー上の電子の有効質量が自由電子のものより2、3桁も大きい、重い電子系(Heavy fermion)と呼ばれる性質を持つものがある。
5f、6d、7sなどの外側の軌道は、相対論効果の影響も受ける(例:スピン軌道相互作用←d軌道やf軌道に対して)。
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"text": "全て放射性元素。トリウム、ウラン、プルトニウム以外のアクチノイド元素は、仮に可視できる量に人間が素手で触れた場合、早期に命に危険が及ぶほど放射能が強い。半減期が数年〜数十年のアクチニウム、アインスタイニウムなどは強力な放射線によって、ごく僅かな量であっても明確に目視できる強さの光を自然に放つ。",
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"text": "アクチノイドは、5f軌道の電子が詰まり(占有され)始める元素のシリーズで、4f軌道が詰まり始めるランタノイドと化学的性質が類似する。ただし電子の詰まり方はランタノイドとはやや異なり、アメリシウムより軽い方の元素では6d軌道にも電子が入り込む。そのため、ランタノイド及びアメリシウムより重いアクチノイドでは典型的な原子価が3価であるのに対して、アメリシウムより軽い方では3-6価の原子価を取る。またローレンシウムで5f軌道を充填した次の電子は、ルテチウムと異なり6d軌道ではなく7p軌道に入る。この理由はよくわかっていない。",
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アクチノイドとは、原子番号89から103まで、すなわちアクチニウムからローレンシウムまでの15の元素の総称である。
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{{出典の明記|date=2016年1月6日 (水) 13:43 (UTC)}}
{| class="wikitable" style="float:right;margin-left:10px;margin-bottom:20px;text-align:center;"
|-
!
! colspan="15" | [[第3族元素|3]]
|-
! [[第6周期元素|6]]
| colspan="15" style="background: #ffbfff;"| {{Smaller|57-71}}<br />[[ランタノイド]]
|-
! [[第7周期元素|7]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|89}}}}<br />[[アクチニウム|Ac]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|90}}<br />[[トリウム|Th]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|91}}}}<br />[[プロトアクチニウム|Pa]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|92}}<br />[[ウラン|U]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|93}}}}<br />[[ネプツニウム|Np]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|94}}}}<br />[[プルトニウム|Pu]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|95}}}}<br />[[アメリシウム|Am]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|96}}}}<br />[[キュリウム|Cm]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|97}}}}<br />[[バークリウム|Bk]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|98}}}}<br />[[カリホルニウム|Cf]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|99}}}}<br />[[アインスタイニウム|Es]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|100}}}}<br />[[フェルミウム|Fm]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|101}}}}<br />[[メンデレビウム|Md]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|102}}}}<br />[[ノーベリウム|No]]
| style="background: #f9c;"| {{Smaller|{{Color|#a00|103}}}}<br />[[ローレンシウム|Lr]]
|}
'''アクチノイド'''({{lang-en-short|Actinoid}})とは、[[原子番号]]89から103まで、すなわち[[アクチニウム]]から[[ローレンシウム]]までの15の[[元素]]の総称である<ref name="Gray" >{{cite book|author=Theodore Gray|title=The Elements: A Visual Exploration of Every Known Atom in the Universe|year=2009|publisher=Black Dog & Leventhal Publishers|location=New York|isbn=978-1-57912-814-2|page=240}}</ref><ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/4354/actinoid-element Actinide element], Encyclopædia Britannica on-line</ref><ref>Although "actinoid" (rather than "actinide") means "actinium-like" and therefore should exclude actinium, that element is usually included in the series.</ref><ref>{{cite book|author=Neil G. Connelly|title=Nomenclature of Inorganic Chemistry|publisher=[[王立化学会|Royal Society of Chemistry]]|location=London|year=2005|url=https://books.google.com/books?id=w1Kf1CakyZIC&pg=PA52|page=52|chapter=Elements|isbn=0-85404-438-8|display-authors=etal}}</ref>。
==命名==
'''アクチニド'''({{lang-en-short|actinide}}、アクチナイドとも)と呼ぶこともあり、また[[ランタノイド]]と同様に、最初と最後に当たるアクチニウムとローレンシウムの一方または両方をアクチノイドの範囲から除いて呼ぶこともある。[[IUPAC命名法]]ではアクチニウムとローレンシウムも含めて「アクチノイド」としている。
== メジャーアクチノイド ==
アクチノイドのうち、[[ウラン]]は存在量が突出しており、[[プルトニウム]]は[[核燃料]]などとしての用途が確立されていることから、特に区別してメジャーアクチノイド (Major actinide) またはメジャーアクチニドと呼ぶ。
== マイナーアクチノイド ==
アクチノイドに属する[[超ウラン元素]]のうち[[プルトニウム]]を除いたものをマイナーアクチノイド (Minor actinide) もしくはマイナーアクチニドと呼ぶ。一般にはマイナーアクチノイドに分類されるのは[[ネプツニウム]]、[[アメリシウム]]、[[キュリウム]]、[[バークリウム]]、[[カリホルニウム]]、[[アインスタイニウム]]、[[フェルミウム]]であるとされている<ref>{{cite book|last=Moyer|first=Bruce A.|title=Ion Exchange and Solvent Extraction: A Series of Advances, Volume 19|year=2009|publisher=CRC Press|isbn=9781420059700|pages=120|url=https://books.google.co.jp/books?id=NTgjUaLZiDsC&pg=PA120&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false}}</ref>。この中で[[使用済み核燃料]]に含まれる重要な同位体は[[ネプツニウム237]], [[アメリシウム241]], [[アメリシウム243]], [[キュリウムの同位体|キュリウム242から248]]と[[カリホルニウムの同位体|カリホルニウム249から252]]である。これらは強い放射能を持つ長寿命核種であり、300年から2万年に渡って使用済み核燃料から発生する強い放射線と熱の原因となる<ref>{{cite book|last=Stacey|first=Weston M.|title=Nuclear Reactor Physics|year=2007|publisher=John Wiley & Sons|isbn=9783527406791|pages=240|url=https://books.google.co.jp/books?id=y1UgcgVSXSkC&pg=PA240&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false}}</ref> ため、放射性廃棄物処理を考える上で大きな問題となる。
また、マイナーアクチノイドは[[核実験]]による[[放射性降下物]]にも含まれる。
[[Image:Sasahara.svg|thumb|375px|軽水炉における<sup>238</sup>Puから<sup>244</sup>Cmの核種変換のフロー<ref>{{cite journal|url=https://doi.org/10.1080/18811248.2004.9715507 |doi=10.1080/18811248.2004.9715507 |title=Neutron and Gamma Ray Source Evaluation of LWR High Burn-up UO2 and MOX Spent Fuels|journal=Journal of Nuclear Science and Technology|volume=41|issue=4|pages=448–456|date=April 2004|author=Sasahara, Akihiro|last2=Matsumura|first2=Tetsuo|last3=Nicolaou|first3=Giorgos|last4=Papaioannou|first4=Dimitri}}</ref>。<br>核分裂を起こす確率は100%から図中の数値を引いたものになる。<br>核種変換の割合は核種により大きく異なっている。<br>また、<sup>245</sup>Cm–<sup>248</sup>Cm は長寿命核種のため崩壊は無視している。]]
アメリシウムは[[アルファ粒子|アルファ線源]]および[[ガンマ線|ガンマ線源]]として工業的に利用されており、例えばさまざまな煙検知器に利用されている。アメリシウムはプルトニウム239やプルトニウム240の中性子捕獲により生成したプルトニウム241がベータ崩壊して生成する<ref>{{cite book|last=Raj|first=Gurdeep|title=Advanced Inorganic Chemistry Vol-1, 31st ed.|year=2008|publisher=Krishna Prakashan Media|isbn=9788187224037|pages=356|url=https://books.google.co.jp/books?id=0uwDTrxyaB8C&pg=PA356&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。一般に、中性子のエネルギーが高くなるほど核分裂反応断面積と中性子捕獲断面積の比は核分裂が起きやすくなる方向に傾く。このため、[[MOX燃料]]を[[沸騰水型軽水炉]]や[[加圧水型軽水炉]]のような[[熱中性子炉]]で燃焼させると[[高速炉]]よりも大量のアメリシウムが生成する<ref>{{cite journal|last=Berthou|first=V.|title=Transmutation characteristics in thermal and fast neutron spectra: application to americium|journal=Journal of Nuclear Materials|year=2003|volume=320|pages=156–162|doi=10.1016/S0022-3115(03)00183-1|url=http://nucleonica.com/TC/TC0406/relevant_papers/Transmutation_characteristics.pdf|display-authors=etal}}</ref>。したがって、{{仮リンク|原子炉級プルトニウム|en|reactor-grade plutonium}}にはアメリシウムも大量に含まれており、[[核兵器]]の生産には適さない。プルトニウム中のアメリシウム含有量の測定は、未知のプルトニウム試料の由来やアメリシウムを化学的に分離してからの経過時間を知る手段としても利用される。
{| class="wikitable sortable" style="text-align:right"
|+[[軽水炉]]の[[使用済み核燃料]]([[燃焼度]] 55 GWd<sub>th</sub>/T)中の[[超ウラン元素]] と平均中性子吸収率 <ref>{{cite book|url=https://hdl.handle.net/1721.1/17027|title=Nuclear fuel cycles for mid-century development|pages=104|author=Etienne Parent|publisher=MIT|year=2003}}</ref>
|-
!核種!!存在比!!D<sub>[[軽水炉|LWR]]</sub>!!D<sub>[[高速炉|fast]]</sub>!!D<sub>superthermal</sub>
|-
|Np-237||0.0539||1.12||-0.59||-0.46
|-
|Pu-238||0.0364||0.17||-1.36||-0.13
|-
|Pu-239||0.451||-0.67||-1.46||-1.07
|-
|Pu-240||0.206||0.44||-0.96||0.14
|-
|Pu-241||0.121||-0.56||-1.24||-0.86
|-
|Pu-242||0.0813||1.76||-0.44||1.12
|-
|Am-241||0.0242||1.12||-0.62||-0.54
|-
|Am-242m||0.000088||0.15||-1.36||-1.53
|-
|Am-243||0.0179||0.82||-0.60||0.21
|-
|Cm-243||0.00011||-1.90||-2.13||-1.63
|-
|Cm-244||0.00765||-0.15||-1.39||-0.48
|-
|Cm-245||0.000638||-1.48||-2.51||-1.37
|-
|colspan="2"|合計||-0.03||-1.16||-0.51
|-
|+ 負の吸収率は中性子源であることを示す。
|}
== 性質 ==
全て[[放射性元素]]。[[トリウム]]、[[ウラン]]、[[プルトニウム]]以外のアクチノイド元素は、仮に可視できる量に人間が素手で触れた場合、早期に命に危険が及ぶほど[[放射能]]が強い<ref>「世界で一番美しい元素図鑑」205頁、セオドア・グレイ著</ref>。半減期が数年〜数十年の[[アクチニウム]]、[[アインスタイニウム]]などは強力な放射線によって、ごく僅かな量であっても明確に目視できる強さの光を自然に放つ。
トリウムとウランには半減期が数億年以上の長命な[[同位体]]が存在するためにまとまった量が天然に存在するが、他の元素は天然には全くないか、ごく僅かしか存在せず、ほとんどが人工的に作られたものである。特にウランより重い[[ネプツニウム]]以降の元素のことを'''[[超ウラン元素]]'''といい、ほぼ自然界には存在しない。このため物理的、化学的性質の詳細はとりわけ不明な部分が多い。
{| class="wikitable" style="float:right;margin-left:10px;margin-bottom:20px;text-align:center;"
|+ アクチノイドの電子配置
|-
! [[電子軌道|軌道]] !! 1s-5d !! 5f !! 6s !! 6p !! 6d !! 7s !! 7p
|-
| [[フランシウム|Fr]]
| rowspan="18" | [[[ラドン|Rn]]] || || colspan="2" rowspan="18" | [Rn] || || 1 ||
|-
| [[ラジウム|Ra]]
| || ||rowspan="17" |2 ||
|-
! [[アクチニウム|Ac]]
|style="background:#ffc;"| ||style="background:#ccf;"| 1 ||
|-
! [[トリウム|Th]]
|style="background:#ffc;"| ||style="background:#ccf;"| 2 ||
|-
! [[プロトアクチニウム|Pa]]
|style="background:#ffc;"| 2 ||style="background:#ccf;"| 1 ||
|-
! [[ウラン|U]]
|style="background:#ffc;"| 3 ||style="background:#ccf;"| 1 ||
|-
! [[ネプツニウム|Np]]
|style="background:#ffc;"| 4 ||style="background:#ccf;"| 1 ||
|-
! [[プルトニウム|Pu]]
|style="background:#ffc;"| 6 || ||
|-
! [[アメリシウム|Am]]
|style="background:#ffc;"| 7 || ||
|-
! [[キュリウム|Cm]]
|style="background:#ffc;"| 7 ||style="background:#ccf;"| 1 ||
|-
! [[バークリウム|Bk]]
|style="background:#ffc;"| 9 || ||
|-
! [[カリホルニウム|Cf]]
|style="background:#ffc;"| 10 || ||
|-
! [[アインスタイニウム|Es]]
|style="background:#ffc;"| 11 || ||
|-
! [[フェルミウム|Fm]]
|style="background:#ffc;"| 12 || ||
|-
! [[メンデレビウム|Md]]
|style="background:#ffc;"| 13 || ||
|-
! [[ノーベリウム|No]]
|style="background:#ffc;"| 14 || ||
|-
! [[ローレンシウム|Lr]]
|style="background:#ffc;"| 14 || || style="background:#cfc;"| 1
|-
| [[ラザホージウム|Rf]]
| 14 || 2 ||
|}
アクチノイドは、5f軌道の[[電子]]が詰まり(占有され)始める元素のシリーズで、4f軌道が詰まり始める[[ランタノイド]]と化学的性質が類似する。ただし電子の詰まり方はランタノイドとはやや異なり、[[アメリシウム]]より軽い方の元素では6d軌道にも電子が入り込む。そのため、ランタノイド及びアメリシウムより重いアクチノイドでは典型的な[[原子価]]が3価であるのに対して、アメリシウムより軽い方では3-6価の原子価を取る。またローレンシウムで5f軌道を充填した次の電子は、[[ルテチウム]]と異なり6d軌道ではなく7p軌道に入る。この理由はよくわかっていない。
ランタノイド収縮と同様に、アクチノイドも内側の5f軌道が先に詰まっていくため、原子番号が大きくなるほど[[原子半径]]、[[イオン半径]]が短くなる('''アクチノイド収縮''')。
アクチノイドの化合物の中には、フェルミエネルギー上の電子の有効質量が[[自由電子]]のものより2、3桁も大きい、[[重い電子系]](Heavy fermion)と呼ばれる性質を持つものがある。
5f、6d、7sなどの外側の軌道は、[[相対論効果]]の影響も受ける(例:[[スピン軌道相互作用]]←d軌道やf軌道に対して)。
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== 脚注 ==
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<references />
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[[Category:アクチノイド|*]]
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2023-03-07T05:47:19Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%89
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10,398 |
ハッシウム
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ハッシウム(英: hassium)は、原子番号108の元素。元素記号は Hs。超ウラン元素、超重元素である。安定同位体は存在しない。
1992年、IUPACとIUPAPによる合同作業部会の報告書によって認定されると、所在地であるドイツヘッセン州のラテン語名、ハッシア (hassia) にちなんでハッシウムが提案された。
本来なら発見者提案が優先されるはずだが、1994年に発表されたIUPACの超フェルミウム元素に関する報告書では、オットー・ハーンにちなんでハーニウム (hahnium, Hn) となっていた。
これはアメリカ化学会が105番元素名として提案し、アメリカでは既に使用されていた名前だったが、105番元素の命名権はドゥブナ合同原子核研究所が得ていた。ドイツ化学会・ドイツ物理学会の抵抗と長い議論が続き、系統名のウンニルオクチウム(英: unniloctium, Uno)の使用が続いた。
1997年、IUPACとIUPAPは改めて報告書を出し、正式にハッシウムと命名された。
1984年、重イオン研究所の線形加速器UNILACによるペーター・アルムブルスターとゴットフリート・ミュンツェンベルクらの鉛に鉄イオンを照射する実験によって合成に成功した。
2002年、スイスベルン大学でわずか7原子から酸化物、次いでオキソ酸塩を合成する実験が行われ、化学的性質のいくつかが測定された。
原子の巨視的-微視的 (MM) 理論では原子番号108番 (Z=108) は陽子単独の魔法数と考えられ、中性子の魔法数 (N=162) を併せ持つ二重魔法数のハッシウム270は長い半減期をもつ可能性が指摘されていた。
2001年5月、ベルン大学とパウル・シェラー研究所ほかの国際研究チームが、キュリウム248とマグネシウム26からの合成に成功したが、推測された半減期は2〜7秒と、特に長寿命とは言えなかった。
一方、N が170を超えると再び安定傾向が強まる理論研究から、中性子魔法数 (N=184) を持つハッシウム292を安定の島中心とする考えもある。
第8族元素の遷移金属であり、性質はオスミウムに類似している。周期表の位置からエカオスミウム (eka-osmium) と呼ばれることもあった。2002年の合成実験成功により、現在確認されている化合物に含まれる最も原子番号の大きい元素となった。
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ハッシウムは、原子番号108の元素。元素記号は Hs。超ウラン元素、超重元素である。安定同位体は存在しない。
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{{Expand English|Hassium|date=2023-11}}
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ハッシウム275|275]] | sym=Hs
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ハッシウム277b|277b]] | sym=Hs ?
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=~[[1 E2 s|11 min]]<ref name="277bHs">{{cite journal|url=http://www.springerlink.com/content/f80mt423204570p8/fulltext.pdf|doi=10.1134/1.1320137|title=Synthesis of superheavy nuclei in 48Ca+244Pu interactions|year=2000|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Utyonkov|first2=V. K.|last3=Lobanov|first3=Yu. V.|last4=Abdullin|first4=F. Sh.|last5=Polyakov|first5=A. N.|last6=Shirokovsky|first6=I. V.|last7=Tsyganov|first7=Yu. S.|last8=Gulbekian|first8=G. G.|last9=Bogomolov|first9=S. L.|journal=Physics of Atomic Nuclei|volume=63|issue=10|pages=1679–1687}}</ref>
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'''ハッシウム'''({{lang-en-short|hassium}})は、[[原子番号]]108の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Hs'''。[[超ウラン元素]]、[[超アクチノイド元素|超重元素]]である。安定[[同位体]]は存在しない。
== 名称 ==
1992年、[[IUPAC]]と[[IUPAP]]による合同作業部会の報告書によって認定されると、所在地であるドイツ[[ヘッセン州]]の[[ラテン語]]名、ハッシア (hassia) にちなんでハッシウムが提案された<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 423|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。
本来なら発見者提案が優先されるはずだが、[[1994年]]に発表されたIUPACの超フェルミウム元素に関する報告書<ref>[http://iupac.org/publications/pac/66/12/2419/ NAMES AND SYMBOLS OF TRANSFERMIUM ELEMENTS] IUPAC</ref>では、[[オットー・ハーン]]にちなんでハーニウム (hahnium, Hn) となっていた。
これは[[アメリカ化学会]]が[[ドブニウム|105番元素]]名として提案し、アメリカでは既に使用されていた名前だったが、105番元素の命名権は[[ドゥブナ合同原子核研究所]]が得ていた。[[ドイツ化学会]]・[[ドイツ物理学会]]の抵抗と長い議論が続き、[[元素の系統名|系統名]]の'''ウンニルオクチウム'''({{lang-en-short|unniloctium}}, '''Uno''')の使用が続いた。
[[1997年]]、IUPACとIUPAPは改めて報告書を出し<ref>[http://iupac.org/publications/pac/69/12/2471/ NAMES AND SYMBOLS OF TRANSFERMIUM ELEMENTS] IUPAC</ref>、正式にハッシウムと命名された。
== 歴史 ==
[[1984年]]、[[重イオン研究所]]の[[線形加速器]]UNILACによる[[ペーター・アルムブルスター]]と[[ゴットフリート・ミュンツェンベルク]]らの[[鉛]]に[[鉄]]イオンを照射する実験<ref>[http://www.gsi.de/annrep2001/files/156.pdf Chemical investigation of hassium (Hs, Z=108)] 重イオン研究所</ref>によって合成に成功した。
: <chem>^{208}Pb + ^{58}Fe -> ^{265}Hs + 1n</chem>
[[2002年]]、[[スイス]]ベルン大学でわずか7原子から酸化物、次いでオキソ酸塩を合成する実験<ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12192405 Chemical investigation of hassium (element 108)] アメリカ国立生物工学情報センター</ref>が行われ、化学的性質のいくつかが測定された。
: <chem>^{269}Hs + 2O2 -> {}^{269}HsO4</chem>
: <chem>HsO4 + 2NaOH -> Na2[HsO4(OH)2]</chem>
== 性質 ==
原子の巨視的-微視的 (MM) 理論では原子番号108番 (Z=108) は陽子単独の[[魔法数]]と考えられ、中性子の魔法数 (N=162) を併せ持つ二重魔法数の[[ハッシウム270]]は長い半減期をもつ可能性が指摘されていた。
2001年5月、ベルン大学と[[パウル・シェラー]]研究所ほかの国際研究チームが、[[キュリウム248]]と[[マグネシウム26]]からの合成に成功<ref>[http://www.kernchemie.uni-mainz.de/downloads/jb2001/a7.pdf DECAY PROPERTIES OF <sup>269</sup>Hs AND EVIDENCE FOR THE NEW NUCLIDE <sup>270</sup>Hs] 重イオン研究所</ref>したが、推測された半減期は2〜7秒と、特に長寿命とは言えなかった。
一方、N が170を超えると再び安定傾向が強まる理論研究<ref>[http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2006/PAPERS/NUSTAR-SHE-06.pdf Doubly magic 270Hs] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120303012501/http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2006/PAPERS/NUSTAR-SHE-06.pdf |date=2012年3月3日 }} 重イオン研究所</ref>から、中性子魔法数 (N=184) を持つ[[ハッシウム292]]を[[安定の島]]中心とする考え<ref>[[:File:Island-of-Stability.png|Island-of-Stability]] Wikimedia Commons</ref>もある。
== 化合物 ==
[[第8族元素]]の遷移金属であり、性質は[[オスミウム]]に類似している。周期表の位置からエカオスミウム (eka-osmium) と呼ばれることもあった。2002年の合成実験成功により、現在確認されている化合物に含まれる最も原子番号の大きい元素となった。
* 四酸化ハッシウム (HsO<sub>4</sub>) 性質は[[四酸化オスミウム]]に類似し、揮発性がある<ref>Düllmann, E. ''et al''. Chemical investigation of hassium (element 108). ''Nature'' '''418''', 859−862 (2002) [http://www.nature.com/nature/journal/v418/n6900/abs/nature00980.html] [http://www.nature.com/nature/journal/v418/n6900/full/nature00980.html#a1]</ref>
* ハッシウム酸ナトリウム (Na<sub>2</sub>[HsO<sub>4</sub>(OH)<sub>2</sub>]) 上記の四酸化ハッシウムに[[水酸化ナトリウム]]を作用させて合成された<ref>A. von Zweidorf et al. "Final result of the CALLISTO-experiment: Formation of sodium hassate(VIII)" GSI Scientific Report 2003. {{Cite web|和書|url=http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2003/files/172.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008年1月30日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080528125643/http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2003/files/172.pdf |archivedate=2008年5月28日 |deadlinkdate=2017年9月 }} (PDF)</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Hassium}}
* [http://www.org-chem.org/yuuki/SMS/113-2.html 有機化学美術館](四酸化ハッシウムに関する記述あり)
{{元素周期表}}
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[[Category:ハッシウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:遷移金属]]
[[Category:第8族元素]]
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10,399 |
生産計画
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生産計画(せいさんけいかく、英: overall production plannning)とは、
生産計画は、期間の長さの観点からは、3つにわけられる。 期間生産計画(大日程計画)、月度生産計画(中日程計画、月別生産計画、手配計画)、日程計画(小日程計画、確定計画)。ただし、()内はそれぞれの別名を表している。
生産計画を、製品の種類の観点から分類すると、2種類に分類することができる。
生産計画の策定の最も単純なケースとして、例えばある工場が、次のような諸要素を考慮しつつ、もっとも望ましい製品の生産スケジュールを模索する場合が挙げられる。
生産計画を通じて具体的に達成すべき目的としては、次のようなものが想定されていることが多い。
計画の際には、非常に基本的なケースであれば、線型計画問題に帰着することができる。
現在、業務はコンピュータ化が進められ、それらのシステムをスケジューリングシステム、生産スケジューラという。主なものとして以下のものがある。
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生産計画とは、 (広義)生産管理におけるすべての計画のことで、在庫計画、日程計画、生産能力計画などを内包する。各種の計画とともに、経営計画の一部となる。
(狭義)生産数量と生産時期に関する計画のこと。計画期間内に、どの製品をどれだけ生産するかを決定する。 生産計画は、期間の長さの観点からは、3つにわけられる。
期間生産計画(大日程計画)、月度生産計画(中日程計画、月別生産計画、手配計画)、日程計画(小日程計画、確定計画)。ただし、()内はそれぞれの別名を表している。 生産計画を、製品の種類の観点から分類すると、2種類に分類することができる。 シングルプロダクト問題:
プロダクトミックス問題: 生産計画の策定の最も単純なケースとして、例えばある工場が、次のような諸要素を考慮しつつ、もっとも望ましい製品の生産スケジュールを模索する場合が挙げられる。 部品調達など生産にかかるコストと所要時間
予想される需要
買い取り先への輸送コスト 生産計画を通じて具体的に達成すべき目的としては、次のようなものが想定されていることが多い。 コストの削減
利益率の最大化
納期など取引先や顧客のニーズへの対応 計画の際には、非常に基本的なケースであれば、線型計画問題に帰着することができる。
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'''生産計画'''(せいさんけいかく、{{lang-en-short|overall production plannning}})とは、
#(広義)[[生産管理]]におけるすべての計画のことで、在庫計画、日程計画、生産能力計画などを内包する。各種の計画とともに、[[経営計画]]の一部となる。
#(狭義)生産数量と生産時期に関する計画のこと。計画期間内に、どの製品をどれだけ生産するかを決定する。
生産計画は、期間の長さの観点からは、3つにわけられる。
[[期間生産計画]](大日程計画)、[[月度生産計画]](中日程計画、月別生産計画、手配計画)、[[日程計画]](小日程計画、確定計画)。ただし、()内はそれぞれの別名を表している。
:期間生産計画における生産計画は、広義の生産計画であり、経営計画の期間にあわせたある期間における生産活動を計画したもの。半年から1年に関する生産活動の方向づけがおこなわれる。
:月度生産計画は、狭義の生産計画である。月度といっているが、必ずしも、月ごとに計画しなければならないものではなく、1~3ヶ月間の生産品種・数量が明確にされる。四半期計画、旬間計画、週間計画の形をとってもよい。
:日程計画も、狭義の生産計画であるが、月度生産計画よりも、さらに踏みこんだところまで決定する。具体的には、どの職場で、いつ開始して、いつ完了するかなどを決定するのである。
生産計画を、製品の種類の観点から分類すると、2種類に分類することができる。
*シングルプロダクト問題:
*プロダクトミックス問題:
生産計画の策定の最も単純なケースとして、例えばある工場が、次のような諸要素を考慮しつつ、もっとも望ましい製品の生産スケジュールを模索する場合が挙げられる。
*部品調達など生産にかかるコストと所要時間
*予想される需要
*買い取り先への輸送コスト
生産計画を通じて具体的に達成すべき目的としては、次のようなものが想定されていることが多い。
*コストの削減
*利益率の最大化
*納期など取引先や顧客のニーズへの対応
計画の際には、非常に基本的なケースであれば、[[線型計画問題]]に帰着することができる。
== 関連項目 ==
* [[製造に関する記事一覧]]
== システム例 ==
現在、業務はコンピュータ化が進められ、それらのシステムをスケジューリングシステム、生産スケジューラという。主なものとして以下のものがある。
*[[Asprova]] http://www.asprova.jp/
*[[FLEXSCHE]] http://www.flexsche.com/
*[[PlanWizard]] http://www.wizard-system.com/
*Joyscheduler http://www.jte.co.jp
*[[FLEXIS]] http://www.flexis.jp/
*[[DIRECTOR6]] http://director.cimtops.co.jp/
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10,400 |
絶対値
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数学における実数 x の絶対値(ぜったいち、英: absolute value)または母数(ぼすう、英: modulus)|x| は、その符号を無視して得られる非負の値を言う。つまり正数 x に対して |x| = x および負数 x に対して |x| = −x(このとき −x は正)であり、また |0| = 0 である。例えば 3 の絶対値は 3 であり −3 の絶対値も 3 である。数の絶対値はその数の零からの距離と見なすことができる。
実数の絶対値を一般化する概念は、数学において広範で多様な設定のもとで生じてくる。例えば、絶対値は複素数、四元数、順序環、体などに対しても定義することができる。様々な数学的あるいは物理学的な文脈における大きさ(英語版) (magnitude) や距離およびノルムなどの概念は、絶対値と緊密な関係にある。
1806年にジャン゠ロベール・アルガン(英語版)が導入した用語 module は、フランス語で「測る単位」を意味する言葉で、特に複素数の絶対値を表すためのものであった。それは対応するラテン語の modulus として1866年に英語にも借用翻訳されている。absolute value が本項に言う意味で用いられたのは、少なくとも1806年にフランス語でおよび1857年に英語で見られる。両側を縦棒で括る記法 |x| はカール・ヴァイアシュトラスが1841年に導入した。絶対値を表すほかの名称には numerical value(数値)や magnitude(大きさ)などが挙げられる。プログラム言語や計算機ソフトでは x の絶対値を abs(x) のような函数記法で表すことが一般に行われる。
縦棒で括る記法は他の数学的文脈でもいくつも用いられる(例えば、集合を縦棒で括ればその集合の濃度を表し、行列に用いれば行列式を表す)。したがって、縦棒が絶対値を表すためのものか判断するには、その引数が絶対値の概念が定義される代数的対象(例えば、実数や複素数や四元数などのノルム多元体)かどうかに注意が払われなければならない。絶対値とよく似て非なる概念に縦棒記法が使われる例として、R のベクトルに対するユークリッドノルムおよび上限ノルムなどが挙げられるが、これらについては二重縦棒と下付き添字を用いた記法(それぞれ ‖ • ‖2 および ‖ • ‖∞)を用いるのがより一般的で紛れも少ない。
実数 x の絶対値は「実数から符号を取り除いたもの」:
として、あるいは「0 からの距離」:
として与えられる。実数に対してこれら二つの条件は互いに同値である。
基本的な性質として、任意の実数 a, b について
などが成立する。
これは距離函数が満たす性質と対応する(後述)。
また、
などの性質が成り立つ。
実数の絶対値に関して、
は、絶対値を含む不等式を扱うのに有用である。
例えば、|x - 3| ≤ 9 ⇔ −9 ≤ x − 3 ≤ 9 ⇔ −6 ≤ x ≤ 12 などとできる。
実数の絶対値が定める非負実数値函数 R ∋ x ↦ |x| ∈ R+ は至る所連続で、x = 0 を除き至る所微分可能である。また、区間 (−∞,0] 上で単調減少であり、区間 [0,+∞) で単調増加である。各実数とその反数の絶対値は同じ値であるから、絶対値函数は偶函数であり、それゆえ逆函数を持たない。この実絶対値函数は区分線型凸函数である。また、冪等である。
x ≠ 0 における導函数
は sign(x)(あるいは本質的にヘヴィサイドの階段関数)であり、定義可能な範囲 R ∖ {0} における連続函数であるが、x = 0 における値をどのように定めるとしても R 全体で連続な函数へ延長することは出来ない。
また絶対値函数は任意区間で可積分であり、その原始函数が
で与えられることも右辺を微分することにより直ちに確かめられる。
絶対値の基本性質、非負性・非退化性・偶性・劣加法性は、二数の絶対差を考えることにより、ノルム(絶対値ノルム)として距離函数が満たす性質と対応しており、x, y, z を任意の実数として
と書いても同値である。即ち d(x,y) = |x − y| と置けば d は絶対距離と呼ばれる距離函数になる。
任意の順序環 R に対して、0 を R の加法単位元、"−a" は a の加法逆元とすれば、実数の場合とまったく同じく
として絶対値が定義される。
複素数 z = a + ib に対して、その絶対値は
で与えられる非負実数値である。b = 0 とすることにより、z が実数値を取るときには実数の絶対値に一致することが確かめられる。
z をガウス平面上の点として解釈すれば、|z| とは原点から z までの距離である。複素数を扱う際に、その数を絶対値と偏角とによって表す極形式の考え方は有益である。
複素数 z とその複素共軛 z に対して | z | = | z ̄ | {\textstyle |z|=|{\bar {z}}|} が成り立つ。また、 | z | 2 = z z ̄ {\textstyle |z|^{2}=z{\bar {z}}} は z が引き起こすガウス平面上の一次変換の母数(モジュラス)である。これを | z | = z z ̄ {\textstyle |z|={\sqrt {z{\bar {z}}}}} と書けば、これは実数の絶対値を | x | = x 2 {\textstyle |x|={\sqrt {x^{2}}}} と定める定義の対応版と見ることができる(実際、実数 x を虚部が 0 の複素数 z ≔ x + 0⋅i と見れば、z = x = z したがって zz = xx = x である)。同様のことはより一般のノルム多元体(あるいはさらに一般の合成代数)において考えることができる。
絶対値の概念を拡張したものとしてノルムがある。(実または複素数体)K 上のベクトル空間 V に属するベクトル v のノルムあるいは大きさ (magnitude) または長さ (length) ‖ v ‖ は、以下の性質
を満たす。従って、ノルムは距離 d(x, y) = ‖ x − y ‖ を誘導する。上記の実数に対する絶対値、複素数に対する絶対値はどちらもノルムの条件を満たす。絶対値の誘導する距離はノルムの誘導する距離である。
リース空間と呼ばれる順序線型空間(英語版)のベクトル v に対しては、|v| = v ∨ (−v) で絶対値が定義される。例えば集合 X 上の実数値(あるいはより一般に全順序群に値をとる)函数全体の成す集合は、f, g に対して (f ∨ g)(x) ≔ max{f(x), g(x)}, (f ∧ g)(x) ≔ min{f(x), g(x)} と置くことによりリース空間となり、各 f に対して
が f の絶対値を与える。f ≔ ±f ∨ 0 と置けば、絶対値は |f| = f + f と書ける。
有理数体上の p-進絶対値など、体の賦値も絶対値の一般化である。賦値には加法賦値と乗法賦値があり、乗法賦値(特に指数賦値)のことをしばしば絶対値あるいはモジュラスと呼称する。賦値体はその賦値の定める距離位相に関して位相体を成す。
複素数体 C の部分体がアルキメデス的な乗法賦値を持つならば、それは本項で述べたような通常の絶対値に(同値の差を除いて)一致する。代数体上のアルキメデス的な乗法付値 | x | v {\displaystyle |x|_{v}} は、C への埋め込み σ をうまくとれば、 | σ ( x ) | {\displaystyle |\sigma (x)|} (ここで | ⋅ | {\displaystyle |\cdot |} は通常の絶対値)と同値となる。一方、代数体上の非アルキメデス的な乗法付値は、有理数体上のp進付値に(同値の差を除いて)一致する。代数体上の乗法付値の同値類のうち、有理数体上で通常の絶対値あるいは正規p進付値と一致するものを標準的な絶対値 (standard absolute value)という。
v が代数体 K 上の標準的な絶対値であるとき、この絶対値による K の完備化を K v {\displaystyle K_{v}} とあらわす。また、この絶対値を有理数体上に制限したものによる、有理数体の完備化を Q v {\displaystyle \mathbb {Q} _{v}} とあらわす。このとき K v {\displaystyle K_{v}} は Q v {\displaystyle \mathbb {Q} _{v}} の拡大体となっており、その拡大次数 n v = [ K v : Q v ] {\displaystyle n_{v}=[K_{v}:\mathbb {Q} _{v}]} を v の局所次数 (local degree) と呼ぶ。このとき、
を正規化された絶対値 (normalized absolute value) という。 v がアルキメデス的な絶対値であれば、 K の埋め込み σ をうまくとり、
とあらわせる。また、このとき σ が実埋め込みならば n v = 1 {\displaystyle n_{v}=1} で、複素埋め込みならば n v = 2 {\displaystyle n_{v}=2} が成り立つ。v が非アルキメデス的な絶対値で、 v の有理数体への制限が p-進付値に一致しているとき、 p の上にある K 上の素イデアル π をうまくとれば、 ‖ ⋅ ‖ v {\displaystyle \lVert \cdot \rVert _{v}} は正規 π-進付値に一致する。すなわち
が成り立つ(この正規化された絶対値 ‖ ⋅ ‖ v {\displaystyle \lVert \cdot \rVert _{v}} を | ⋅ | v {\displaystyle |\cdot |_{v}} と書いている文献も存在する。)。
v がすべての標準的な絶対値を走るとき、 積公式
が成り立つ。
非アルキメデス的な乗法付値は一階の加法的な賦値と対応がとれ、これらはしばしば同一のものとして扱われる。加法的賦値体あるいは順序体においてその賦値環は、その体における正の数全体の集合を本質的に特徴付けるものである。有限体 Fq (q = p) において標準的な賦値(モジュラス)は p-進絶対値の冪
である。これを適当なハール測度による立方体の体積と理解することもある。
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "例えば、|x - 3| ≤ 9 ⇔ −9 ≤ x − 3 ≤ 9 ⇔ −6 ≤ x ≤ 12 などとできる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "実数の絶対値が定める非負実数値函数 R ∋ x ↦ |x| ∈ R+ は至る所連続で、x = 0 を除き至る所微分可能である。また、区間 (−∞,0] 上で単調減少であり、区間 [0,+∞) で単調増加である。各実数とその反数の絶対値は同じ値であるから、絶対値函数は偶函数であり、それゆえ逆函数を持たない。この実絶対値函数は区分線型凸函数である。また、冪等である。",
"title": "絶対値函数"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "x ≠ 0 における導函数",
"title": "絶対値函数"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "は sign(x)(あるいは本質的にヘヴィサイドの階段関数)であり、定義可能な範囲 R ∖ {0} における連続函数であるが、x = 0 における値をどのように定めるとしても R 全体で連続な函数へ延長することは出来ない。",
"title": "絶対値函数"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また絶対値函数は任意区間で可積分であり、その原始函数が",
"title": "絶対値函数"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "で与えられることも右辺を微分することにより直ちに確かめられる。",
"title": "絶対値函数"
},
{
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"tag": "p",
"text": "絶対値の基本性質、非負性・非退化性・偶性・劣加法性は、二数の絶対差を考えることにより、ノルム(絶対値ノルム)として距離函数が満たす性質と対応しており、x, y, z を任意の実数として",
"title": "絶対値が誘導する距離"
},
{
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"tag": "p",
"text": "と書いても同値である。即ち d(x,y) = |x − y| と置けば d は絶対距離と呼ばれる距離函数になる。",
"title": "絶対値が誘導する距離"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "任意の順序環 R に対して、0 を R の加法単位元、\"−a\" は a の加法逆元とすれば、実数の場合とまったく同じく",
"title": "その他の絶対値"
},
{
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"tag": "p",
"text": "として絶対値が定義される。",
"title": "その他の絶対値"
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{
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"tag": "p",
"text": "複素数 z = a + ib に対して、その絶対値は",
"title": "その他の絶対値"
},
{
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"tag": "p",
"text": "で与えられる非負実数値である。b = 0 とすることにより、z が実数値を取るときには実数の絶対値に一致することが確かめられる。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "z をガウス平面上の点として解釈すれば、|z| とは原点から z までの距離である。複素数を扱う際に、その数を絶対値と偏角とによって表す極形式の考え方は有益である。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "複素数 z とその複素共軛 z に対して | z | = | z ̄ | {\\textstyle |z|=|{\\bar {z}}|} が成り立つ。また、 | z | 2 = z z ̄ {\\textstyle |z|^{2}=z{\\bar {z}}} は z が引き起こすガウス平面上の一次変換の母数(モジュラス)である。これを | z | = z z ̄ {\\textstyle |z|={\\sqrt {z{\\bar {z}}}}} と書けば、これは実数の絶対値を | x | = x 2 {\\textstyle |x|={\\sqrt {x^{2}}}} と定める定義の対応版と見ることができる(実際、実数 x を虚部が 0 の複素数 z ≔ x + 0⋅i と見れば、z = x = z したがって zz = xx = x である)。同様のことはより一般のノルム多元体(あるいはさらに一般の合成代数)において考えることができる。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "絶対値の概念を拡張したものとしてノルムがある。(実または複素数体)K 上のベクトル空間 V に属するベクトル v のノルムあるいは大きさ (magnitude) または長さ (length) ‖ v ‖ は、以下の性質",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "を満たす。従って、ノルムは距離 d(x, y) = ‖ x − y ‖ を誘導する。上記の実数に対する絶対値、複素数に対する絶対値はどちらもノルムの条件を満たす。絶対値の誘導する距離はノルムの誘導する距離である。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "リース空間と呼ばれる順序線型空間(英語版)のベクトル v に対しては、|v| = v ∨ (−v) で絶対値が定義される。例えば集合 X 上の実数値(あるいはより一般に全順序群に値をとる)函数全体の成す集合は、f, g に対して (f ∨ g)(x) ≔ max{f(x), g(x)}, (f ∧ g)(x) ≔ min{f(x), g(x)} と置くことによりリース空間となり、各 f に対して",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "が f の絶対値を与える。f ≔ ±f ∨ 0 と置けば、絶対値は |f| = f + f と書ける。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "有理数体上の p-進絶対値など、体の賦値も絶対値の一般化である。賦値には加法賦値と乗法賦値があり、乗法賦値(特に指数賦値)のことをしばしば絶対値あるいはモジュラスと呼称する。賦値体はその賦値の定める距離位相に関して位相体を成す。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "複素数体 C の部分体がアルキメデス的な乗法賦値を持つならば、それは本項で述べたような通常の絶対値に(同値の差を除いて)一致する。代数体上のアルキメデス的な乗法付値 | x | v {\\displaystyle |x|_{v}} は、C への埋め込み σ をうまくとれば、 | σ ( x ) | {\\displaystyle |\\sigma (x)|} (ここで | ⋅ | {\\displaystyle |\\cdot |} は通常の絶対値)と同値となる。一方、代数体上の非アルキメデス的な乗法付値は、有理数体上のp進付値に(同値の差を除いて)一致する。代数体上の乗法付値の同値類のうち、有理数体上で通常の絶対値あるいは正規p進付値と一致するものを標準的な絶対値 (standard absolute value)という。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "v が代数体 K 上の標準的な絶対値であるとき、この絶対値による K の完備化を K v {\\displaystyle K_{v}} とあらわす。また、この絶対値を有理数体上に制限したものによる、有理数体の完備化を Q v {\\displaystyle \\mathbb {Q} _{v}} とあらわす。このとき K v {\\displaystyle K_{v}} は Q v {\\displaystyle \\mathbb {Q} _{v}} の拡大体となっており、その拡大次数 n v = [ K v : Q v ] {\\displaystyle n_{v}=[K_{v}:\\mathbb {Q} _{v}]} を v の局所次数 (local degree) と呼ぶ。このとき、",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "を正規化された絶対値 (normalized absolute value) という。 v がアルキメデス的な絶対値であれば、 K の埋め込み σ をうまくとり、",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "とあらわせる。また、このとき σ が実埋め込みならば n v = 1 {\\displaystyle n_{v}=1} で、複素埋め込みならば n v = 2 {\\displaystyle n_{v}=2} が成り立つ。v が非アルキメデス的な絶対値で、 v の有理数体への制限が p-進付値に一致しているとき、 p の上にある K 上の素イデアル π をうまくとれば、 ‖ ⋅ ‖ v {\\displaystyle \\lVert \\cdot \\rVert _{v}} は正規 π-進付値に一致する。すなわち",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ(この正規化された絶対値 ‖ ⋅ ‖ v {\\displaystyle \\lVert \\cdot \\rVert _{v}} を | ⋅ | v {\\displaystyle |\\cdot |_{v}} と書いている文献も存在する。)。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "v がすべての標準的な絶対値を走るとき、 積公式",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "非アルキメデス的な乗法付値は一階の加法的な賦値と対応がとれ、これらはしばしば同一のものとして扱われる。加法的賦値体あるいは順序体においてその賦値環は、その体における正の数全体の集合を本質的に特徴付けるものである。有限体 Fq (q = p) において標準的な賦値(モジュラス)は p-進絶対値の冪",
"title": "その他の絶対値"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "である。これを適当なハール測度による立方体の体積と理解することもある。",
"title": "その他の絶対値"
}
] |
数学における実数 x の絶対値または母数|x| は、その符号を無視して得られる非負の値を言う。つまり正数 x に対して |x| = x および負数 x に対して |x| = −xであり、また |0| = 0 である。例えば 3 の絶対値は 3 であり −3 の絶対値も 3 である。数の絶対値はその数の零からの距離と見なすことができる。 実数の絶対値を一般化する概念は、数学において広範で多様な設定のもとで生じてくる。例えば、絶対値は複素数、四元数、順序環、体などに対しても定義することができる。様々な数学的あるいは物理学的な文脈における大きさ (magnitude) や距離およびノルムなどの概念は、絶対値と緊密な関係にある。
|
{{Otheruses|主に[[実数]]の絶対値|その他の場合の詳細|[[#その他の絶対値]]の各リンク先}}
[[file:Khoang cach tren duong thang thuc.png|thumb|数の絶対値は零からの距離と考えられる]]
[[数学]]における[[実数]] {{mvar|x}} の'''絶対値'''(ぜったいち、{{lang-en-short|''absolute value''}})または'''母数'''(ぼすう、{{lang-en-short|''modulus''}}){{math|{{abs|''x''}}}} は、その[[符号 (数学)|符号]]を無視して得られる[[非負]]の値を言う。つまり[[正数]] {{mvar|x}} に対して {{math|1={{abs|''x''}} = ''x''}} および[[負数]] {{mvar|x}} に対して {{math|1={{abs|''x''}} = [[加法逆元|−''x'']]}}(このとき {{math|−''x''}} は正)であり、また {{math|1={{abs|0}} = 0}} である。例えば {{math|3}} の絶対値は {{math|3}} であり {{math|−3}} の絶対値も {{math|3}} である。数の絶対値はその数の零からの[[距離函数|距離]]と見なすことができる。
実数の絶対値を一般化する概念は、数学において広範で多様な設定のもとで生じてくる。例えば、絶対値は[[複素数]]、[[四元数]]、[[順序環]]、[[可換体|体]]などに対しても定義することができる。様々な数学的あるいは物理学的な文脈における{{ill2|大きさ (数学)|en|magnitude (mathematics)|label=大きさ}} (magnitude) や[[距離函数|距離]]および[[ノルム]]などの概念は、絶対値と緊密な関係にある。
== 用語と記法 ==
1806年に{{ill2|ジャン゠ロベール・アルガン|en|Jean-Robert Argand}}が導入した用語 {{fr|''module''}} は、フランス語で「測る単位」を意味する言葉で、特に複素数の絶対値を表すためのものであった<ref name="oed">[[Oxford English Dictionary]], Draft Revision, June 2008{{要ページ番号|date=2019年6月}}</ref><ref>Nahin, [http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Mathematicians/Argand.html O'Connor and Robertson], and [http://functions.wolfram.com/ComplexComponents/Abs/35/ functions.Wolfram.com.]; for the French sense, see [[Dictionnaire de la langue française (Littré)|Littré]], 1877</ref>。それは対応するラテン語の {{la|''modulus''}} として1866年に英語にも借用翻訳されている{{R|oed}}。{{en|''absolute value''}} が本項に言う意味で用いられたのは、少なくとも1806年にフランス語で<ref>[[Lazare Nicolas Marguerite Carnot|Lazare Nicolas M. Carnot]], {{google books |title= Mémoire sur la relation qui existe entre les distances respectives de cinq point quelconques pris dans l'espace |id=YyIOAAAAQAAJ|pg=PA105|page=105}}。</ref>および1857年に英語で<ref>James Mill Peirce, {{google books|title= A Text-book of Analytic Geometry|id=RJALAAAAYAAJ|pg=PA42|page=42}}</ref>{{efn|オックスフォード英語辞典第2版の最も古い引用は1907年から。もちろん ''relative value''(相対値)と対照を成す語としても ''absolute value''(絶対値)は使われる}}見られる。両側を[[縦棒]]で括る記法 {{math|{{abs|''x''}}}} は[[カール・ヴァイアシュトラス]]が1841年に導入した<ref>{{citation|first=Nicholas J. |last=Higham |title= Handbook of writing for the mathematical sciences|publisher= SIAM. |isbn=0-89871-420-6}}</ref>{{rp|25}}。絶対値を表すほかの名称には ''numerical value''{{R|oed}}(数値)や ''magnitude''{{R|oed}}(大きさ)などが挙げられる。プログラム言語や計算機ソフトでは {{mvar|x}} の絶対値を {{math|abs(''x'')}} のような函数記法で表すことが一般に行われる。
縦棒で括る記法は他の数学的文脈でもいくつも用いられる(例えば、集合を縦棒で括ればその集合の[[濃度 (数学)|濃度]]を表し、[[行列 (数学)|行列]]に用いれば[[行列式]]を表す)。したがって、縦棒が絶対値を表すためのものか判断するには、その引数が絶対値の概念が定義される代数的対象(例えば、実数や複素数や四元数などの[[ノルム多元体]])かどうかに注意が払われなければならない。絶対値とよく似て非なる概念に縦棒記法が使われる例として、{{math|'''R'''<sup>''n''</sup>}} のベクトルに対する[[ユークリッドノルム]]<ref>{{Cite book|title=Calculus on Manifolds|last=Spivak|first=Michael|publisher=Westview|year=1965|isbn=0805390219|location=Boulder, CO}}</ref>{{rp|1}}および[[上限ノルム]]<ref>{{Cite book|title=Analysis on Manifolds|last=Munkres|first=James|publisher=Westview|year=1991|isbn=0201510359|location=Boulder, CO}}</ref>{{rp|4}}などが挙げられるが、これらについては二重縦棒と下付き添字を用いた記法(それぞれ {{math|{{norm|•}}{{sub|2}}}} および {{math|{{norm|•}}{{sub|∞}}}})を用いるのがより一般的で紛れも少ない。
== 定義 ==
{{anchors|実数の絶対値}}
実数 {{mvar|x}} の'''絶対値'''は「実数から[[符号 (数学)|符号]]を取り除いたもの」: <math display="block">|x|:=\max\{x,-x\} = \begin{cases}
x & (x\ge 0)\\
-x & (x < 0)
\end{cases}</math> として{{sfn|Mendelson|2008|p= {{google books quote|id=A8hAm38zsCMC|pg=PA2|2}}}}、あるいは「0 からの距離」{{efn|例えば[[実数直線]]を[[ユークリッド平面|{{mvar|xy}}-平面]]の {{mvar|x}}-軸と看做せば、任意の実数 {{mvar|x}} は点 {{math|(''x'', 0)}} で表され、{{math|0}} は原点 {{math|(0, 0)}} に対応する。平面上の任意の点 {{math|(''x'', ''y'')}} と原点との[[ユークリッド距離]]は {{math|1={{sqrt|(''x'' − 0){{exp|2}} + (''y'' − 0){{exp|2}}}} = {{sqrt|''x''{{exp|2}} + ''y''{{exp|2}}}}}} で与えられるから、{{mvar|x}} と {{math|0}} との距離はちょうど {{math|{{sqrt|''x''{{exp|2}}}} に等しい。}}}}: <math display="block">|x|:=\sqrt{x^2}</math>
として<ref>{{Cite book| last= Stewart |first= James B. | title=Calculus: concepts and contexts | year=2001 | publisher=Brooks/Cole | location=Australia | isbn=0-534-37718-1}}</ref>{{rp|A5}}与えられる。実数に対してこれら二つの条件は互いに同値である。
== 性質 ==
基本的な性質として、任意の実数 {{math|''a'', ''b''}} について
* 非負性: {{math|{{abs|''a''}} ≥ 0.}}
* [[非退化性]]: {{math|1=''a'' = 0}} のとき、且つそのときに限って、{{math|1={{abs|''a''}} = 0.}}
* [[偶函数|偶性]]: {{math|1={{abs|−''a''}} = {{abs|''a''}}.}}
* [[劣加法的函数|劣加法性]]: {{math|{{abs|''a'' + ''b''}} ≤ {{abs|''a''}} + {{abs|''b''}}.}}
などが成立する。
これは[[距離函数]]が満たす性質と対応する(後述)。
また、
* [[冪等性]]: {{math|{{abs| {{abs|''a''}} }} {{=}} {{abs|''a''}}. }}
* [[乗法的写像|乗法性]]: {{math|1={{abs|''ab''}} = {{abs|''a''}}⋅{{abs|''b''}}.}}
などの性質が成り立つ。
実数の絶対値に関して、
:<math>|a| \le b \iff -b \le a \le b</math>
:<math>|a| \ge b \iff a \le -b \lor b \le a</math>
は、絶対値を含む[[不等式]]を扱うのに有用である。
例えば、{{math|{{abs|''x'' - 3}} ≤ 9 ⇔ −9 ≤ ''x'' − 3 ≤ 9 ⇔ −6 ≤ ''x'' ≤ 12}} などとできる。
== 絶対値函数 ==
[[File:Absolute value.svg|thumb|絶対値函数のグラフ]]
[[Image:Absolute value composition.svg|256px|thumb|[[三次函数]]と絶対値函数の異なる順番での[[写像の合成|合成]]]]
実数の絶対値が定める非負実数値函数 {{math|'''R''' ∋ ''x'' {{mapsto}} {{abs|''x''}} ∈ '''R'''{{sub|+}}}} は至る所[[連続函数|連続]]で、{{math|1=''x'' = 0}} を除き至る所[[微分可能関数|微分可能]]{{efn|ただし、この微分可能性は複素微分可能を意味しない。つまり、複素変数の絶対値函数は[[コーシー–リーマンの方程式]]を満たさない{{R|MathWorld}}。}}である。また、区間 {{open-closed|−∞,0}} 上で[[単調写像|単調減少]]であり、区間 {{closed-open|0,+∞}} で単調増加である。各実数とその[[反数]]の絶対値は同じ値であるから、絶対値函数は[[偶函数]]であり、それゆえ[[逆函数]]を持たない。この実絶対値函数は[[区分線型関数|区分線型]][[凸函数]]である。また、[[冪等]]である。
* [[符号函数]] {{math|sign(''x'')}} を用いれば、{{math|1={{abs|''x''}} = ''x'' sign(''x'')}} と書ける。また {{math|1=''x'' = {{abs|''x''}} sign(''x'')}} であり、{{math|''x'' ≠ 0}} のとき {{math|1=sign(''x'') = ''x''/{{abs|''x''}} = {{abs|''x''}}/''x''}} が成り立つ。
{{math|''x'' ≠ 0}} における導函数
: <math>d|x|/dx = \begin{cases} 1 & (x>0)\\ -1 & (x<0)\end{cases}</math>
は {{math|sign(''x'')}}(あるいは本質的に[[ヘヴィサイドの階段関数]]<ref name="MathWorld">{{MathWorld|urlname=AbsoluteValue|title=Absolute Value}}</ref>{{sfn|Bartle|Sherbert|2011|p=163}})であり、定義可能な範囲 {{math|'''R''' {{setminus}} {{mset|0}}}} における連続函数であるが、{{math|1=''x'' = 0}} における値をどのように定めるとしても {{mathbf|R}} 全体で連続な函数へ延長することは出来ない。
* {{math|1=''x'' = 0}} における {{math|{{abs|''x''}}}} の[[劣微分|劣微分係数]]は、区間 {{closed-closed|−1,1}} である<ref>{{citation|first=Peter |last=Wriggers |editor-first= Panagiotis |editor-last= Panatiotopoulos |title= New Developments in Contact Problems |year= 1999 |isbn=3-211-83154-1}}</ref>{{rp|{{google books quote|id=tiBtC4GmuKcC|pg=PA31|31–32}}}}。
* {{math|{{abs|''x''}}}} の {{mvar|x}} に関する二階導函数は {{math|1=''x'' = 0}} を除く至る所存在して零に等しい({{math|1=''x'' = 0}} では存在しない)。しかし[[シュヴァルツ超函数|超函数微分]]の意味での二階導函数は[[ディラックデルタ]]の二倍に等しい。
また絶対値函数は任意区間で可積分であり、その原始函数が
: <math>\int |x|\,dx = \frac{1}{2}x|x| + C = \frac{1}{2} x^2 \sgn x + C</math>
で与えられることも右辺を微分することにより直ちに確かめられる。
== 絶対値が誘導する距離 ==
{{seealso|ノルム}}
絶対値の基本性質、非負性・非退化性・偶性・劣加法性は、二数の[[絶対差]]を考えることにより、[[ノルム]]('''絶対値ノルム''')として[[距離函数]]が満たす性質と対応しており、{{math|''x'', ''y'', ''z''}} を任意の実数として
* 非負性: {{math|{{abs|''x'' − ''y''}} ≥ 0,}}
* 不可識別者同一性: {{math|1={{abs|''x'' − ''y''}} = 0 ⇔ ''x'' = ''y'',}}
* 対称性: {{math|1={{abs|''x'' − ''y''}} = {{abs|''y'' − ''x''}},}}
* 三角不等式: {{math|{{abs|''x'' − ''y''}} ≤ {{abs|''x'' − ''z''}} + {{abs|''z'' − ''y''}}}}
と書いても同値である{{efn|この公理系は極小ではない。実際、非負性は他の三つから出る: {{math|1=0 = ''d''(''a'', ''a'') ≤ ''d''(''a'', ''b'') + ''d''(''b'', ''a'') = 2''d''(''a'', ''b'')}}.}}。即ち {{math|''d''(''x'',''y'') {{=}} {{abs|''x'' − ''y''}} }}と置けば {{mvar|d}} は'''絶対距離'''と呼ばれる距離函数になる。
== その他の絶対値 ==
=== 順序環における絶対値 ===
任意の[[順序環]] {{mvar|R}} に対して、{{math|0}} を {{mvar|R}} の[[加法単位元]]、"{{math|−''a''}}" は {{mvar|a}} の[[加法逆元]]とすれば、実数の場合とまったく同じく
:<math>|a|:=\begin{cases}a & (a\ge 0)\\-a & (a < 0)\end{cases}</math>
として絶対値が定義される。
{{seealso|[[全順序群]]}}
=== 複素数の絶対値 ===
{{main|複素数の絶対値}}
[[File:ComplexPlane.png|thumb|原点からの距離 {{mvar|r}} が絶対値を表す]]
[[複素数]] {{math|1=''z'' = ''a'' + ''ib''}} に対して、その絶対値は
: <math> |z| = \sqrt{a^2+b^2} </math>
で与えられる非負実数値である。{{math|1=''b'' = 0}} とすることにより、{{mvar|z}} が実数値を取るときには実数の絶対値に一致することが確かめられる。
{{mvar|z}} を[[ガウス平面]]上の点として解釈すれば、{{math|{{abs|''z''}}}} とは[[原点 (数学)|原点]]から {{mvar|z}} までの距離である。複素数を扱う際に、その数を絶対値と[[偏角 (複素数)|偏角]]とによって表す[[極座標|極形式]]の考え方は有益である。
複素数 {{mvar|z}} とその複素共軛 {{overline|{{mvar|z}}}} に対して <math display="inline">|z| = |\bar{z}|</math>
が成り立つ。また、<math display="inline">|z|^2 = z\bar{z}</math> は {{mvar|z}} が引き起こすガウス平面上の一次変換の[[ハール測度|母数]](モジュラス)である。これを <math display="inline">|z| = \sqrt{z\bar{z}}</math> と書けば、これは実数の絶対値を <math display="inline">|x| = \sqrt{x^2}</math> と定める定義の対応版と見ることができる(実際、実数 {{mvar|x}} を虚部が {{math|0}} の複素数 {{math|''z'' {{coloneqq}} ''x'' + 0⋅''i''}} と見れば、{{math|1={{overline|''z''}} = ''x'' = ''z''}} したがって {{math|1=''z{{overline|z}}'' = ''xx'' = ''x''{{exp|2}}}} である)。同様のことはより一般の[[ノルム多元体]](あるいはさらに一般の[[合成代数]])において考えることができる。
=== ベクトルのノルム ===
{{main|ノルム|ノルム空間}}
絶対値の概念を拡張したものとして[[ノルム]]がある。(実または複素数体){{math|'''K'''}} 上のベクトル空間 {{mvar|V}} に属するベクトル {{mvar|v}} のノルムあるいは大きさ (magnitude) または長さ (length) {{math|{{norm|''v''}}}} は、以下の性質
* 非負性: {{math|{{norm|''v''}} ≥ 0}}
* 非退化性: {{math|''v'' {{=}} 0 ⇔ {{norm|''v''}} {{=}} 0}}
* [[斉次函数|正斉次性]]: {{math|{{norm|''av''}} {{=}} {{abs|''a''}}⋅{{norm|''v''}}}} ({{math|''a'' ∈ '''K'''}})
* [[劣加法的函数|劣加法性]]: {{math|{{norm|''v'' + ''w''}} ≤ {{norm|''v''}} + {{norm|''w''}}}}
を満たす。従って、ノルムは距離 {{math|''d''(''x'', ''y'') {{=}} {{norm|''x'' − ''y''}}}} を誘導する。上記の実数に対する絶対値、複素数に対する絶対値はどちらもノルムの条件を満たす。絶対値の誘導する距離はノルムの誘導する距離である。
=== リース空間における絶対値 ===
{{main|リース空間|{{仮リンク|実数値函数の正部分と負部分|en|Positive and negative parts}}}}
[[リース空間]]と呼ばれる{{仮リンク|順序線型空間|en|ordered vector space}}のベクトル {{mvar|v}} に対しては、{{math|{{abs|''v''}} {{=}} ''v'' ∨ (−''v'') }}で絶対値が定義される。例えば集合 {{mvar|X}} 上の実数値(あるいはより一般に[[全順序群]]に値をとる)函数全体の成す集合は、{{mvar|f}}, {{mvar|g}} に対して {{math|(''f'' ∨ ''g'')(''x'') {{coloneqq}} max{''f''(''x''), ''g''(''x'')}, (''f'' ∧ ''g'')(''x'') {{coloneqq}} min{''f''(''x''), ''g''(''x'')} }}と置くことによりリース空間となり、各 {{mvar|f}} に対して
: {{math|{{abs|''f''}}(''x'') {{coloneqq}} max{{mset|±''f''(''x'')}}}}
が {{mvar|f}} の絶対値を与える。{{math|''f''<sup>±</sup> {{coloneqq}} ±''f'' ∨ 0}} と置けば、絶対値は {{math|{{abs|''f''}} {{=}} ''f''<sup>+</sup> + ''f''<sup>−</sup> }}と書ける。
=== 体の賦値 ===
{{main|賦値|{{ill2|絶対賦値|en|Absolute value (algebra)}}}}
有理数体上の [[p進付値|''p''-進絶対値]]など、体の[[賦値]]も絶対値の一般化である。賦値には'''加法賦値'''と'''乗法賦値'''があり、乗法賦値(特に指数賦値)のことをしばしば'''絶対値'''あるいはモジュラスと呼称する。[[賦値体]]はその賦値の定める距離位相に関して[[位相体]]を成す。
複素数体 {{mathbf|ℂ}} の部分体がアルキメデス的な乗法賦値を持つならば、それは本項で述べたような通常の絶対値に(同値の差を除いて)一致する。代数体上のアルキメデス的な乗法付値 <math>|x|_v</math> は、{{mathbf|ℂ}} への埋め込み {{mvar|σ}} をうまくとれば、 <math>|\sigma(x)|</math> (ここで <math>|\cdot|</math> は通常の絶対値)と同値となる。一方、代数体上の非アルキメデス的な乗法付値は、有理数体上のp進付値に(同値の差を除いて)一致する。代数体上の乗法付値の同値類のうち、有理数体上で通常の絶対値あるいは正規p進付値と一致するものを'''標準的な絶対値''' (standard absolute value)という{{sfn|Hindry|Silverman|2000|p=171}}。
''v'' が代数体 ''K'' 上の標準的な絶対値であるとき、この絶対値による ''K'' の完備化を <math>K_v</math> とあらわす。また、この絶対値を有理数体上に制限したものによる、有理数体の完備化を <math>\mathbb{Q}_v</math> とあらわす。このとき <math>K_v</math> は <math>\mathbb{Q}_v</math> の拡大体となっており、その拡大次数 <math>n_v=[K_v: \mathbb{Q}_v]</math> を ''v'' の'''局所次数''' (local degree) と呼ぶ。このとき、
:<math>\lVert x\rVert _v=|x|_v^{n_v}</math>
を'''正規化された絶対値''' (normalized absolute value) という。 ''v'' がアルキメデス的な絶対値であれば、 ''K'' の埋め込み σ をうまくとり、
:<math>\lVert x\rVert _v=|\sigma(x)|^{n_v}</math>
とあらわせる。また、このとき σ が実埋め込みならば <math>n_v=1</math> で、複素埋め込みならば <math>n_v=2</math> が成り立つ。''v'' が非アルキメデス的な絶対値で、 ''v'' の有理数体への制限が ''p''-進付値に一致しているとき、 ''p'' の上にある ''K'' 上の素イデアル π をうまくとれば、<math>\lVert \cdot\rVert _v</math> は正規 π-進付値に一致する。すなわち
:<math>\lVert x\rVert _v=|x|_\pi</math>
が成り立つ(この正規化された絶対値 <math>\lVert \cdot\rVert _v</math> を <math>|\cdot|_v</math> と書いている文献も存在する<ref>たとえば {{Citation
| author1 = Yann Bugeaud
| author2 = Kálmán Győry
| title = Bounds for the solutions of unit equations
| journal = Acta Arithmetica
| volume = 74
| year = 1996
| pages = 67--80
| MR = MR1367579
| url = http://pldml.icm.edu.pl/pldml/element/bwmeta1.element.bwnjournal-article-aav74i1p67bwm
}}</ref>。)。
''v'' がすべての標準的な絶対値を走るとき、 '''[[積公式]]'''
:<math>\prod_v \lVert x\rVert _v=\prod_v |x|_v^{n_v}=1</math>
が成り立つ。
非アルキメデス的な乗法付値は一階の加法的な賦値と対応がとれ、これらはしばしば同一のものとして扱われる。加法的賦値体あるいは順序体においてその賦値環は、その体における正の数全体の集合を本質的に特徴付けるものである。[[有限体]] {{math|'''F'''{{sub|''q''}}}} ({{math|1=''q'' = ''p''<sup>''f''</sup>}}) において標準的な賦値(モジュラス)は {{mvar|p}}-進絶対値の冪
:<math>|x|_q := q^{-v_p(x)} =|x|_p^f</math>
である。これを適当な[[ハール測度]]による立方体の体積と理解することもある。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{citation|last1=Bartle|last2= Sherbert|title= Introduction to real analysis |edition=4th |publisher= John Wiley & Sons |year= 2011 |isbn=978-0-471-43331-6 |ref= harv}}
* {{citation|last=Mendelson |first= Elliott |title= Schaum's Outline of Beginning Calculus |publisher= McGraw-Hill Professional |year= 2008 |isbn= 978-0-07-148754-2 |ref= harv}}
* {{Cite book
| author1 = Hindry | first1=Mark | authorlink1=Marc Hindry
| author2 = Silverman | first2=Joseph H. | authorlink2=Joseph H. Silverman
| year = 2000
| title = Diophantine Geometry
| series = Graduate Texts in Mathematics
| volume = 201
| publisher = Springer-Verlag
| isbn =
| url = http://www.springer.com/br/book/9780387989754
| doi = 10.1007/978-1-4612-1210-2
| ref = harv
}}
== 関連項目 ==
* [[擬絶対値]]: 乗法性が劣乗法性に緩まる
* [[絶対平方]] (absolute square) / [[自乗ノルム]] (square norm) / [[二次形式]](計量二次形式): スカラーに対する斉次性は落ちる
* {{ill2|大きさ (数学)|en|Magnitude (mathematics)}}
* [[合成代数]]: 乗法的な自乗ノルムを持つ
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|urlname=AbsoluteValue|title=Absolute Value}}
* {{nlab|urlname=absolute+value|title=absolute value}}
* {{PlanetMath|urlname=AbsoluteValue|title=absolute value}}
* {{SpringerEOM|urlname=Absolute_value|title=Absolute value}}
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[[Category:ノルム]]
[[Category:数学に関する記事]]
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宝塚記念
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宝塚記念(たからづかきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
競走名の「宝塚」は宝塚市を指す。阪神競馬場の所在地で、兵庫県の南東部に位置する。
正賞は宝塚市長賞、日本馬主協会連合会会長賞、ブリーダーズカップ・チャレンジ賞。
有馬記念と同様に、ファン投票で出走馬を決め、こちらは上半期の締めくくりを飾る競走として関西地区の競馬を華やかに盛り上げようとの趣旨で企画され、1960年に創設された。「上半期の実力ナンバー1決定戦」として位置づけられている。
2011年からブリーダーズカップ・チャレンジの対象競走に指定され、優勝馬には当該年のブリーダーズカップ・ターフへの優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与される。また2019年から当競走の優勝馬には当該年のコックスプレートへの優先出走権が付与されることになった。
以前のファンファーレは他のGI競走(関西地区)と同様のものだったが、1999年より一般公募で選ばれた専用の曲に変更された。
世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準書におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2016年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている。
また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、宝塚記念は「Long(2101m - 2700m)」に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2016年の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、宝塚記念は全体の15位にランキングされた。このランキングで日本の競走は宝塚記念を含め12競走がランクインしているが、日本の競走では有馬記念(13位)に次ぐ評価で、「Long(2101m - 2700m)」のカテゴリーからランクインした外国の競走との比較では、ドバイシーマクラシック(9位)に次ぐ評価となっている。
以下の内容は、2023年現在のもの。
出走馬の選定方法は以下のとおり。
2023年の本賞金は1着2億2000万円で、以下2着8800万円、3着5500万円、4着3300万円、5着2200万円。
阪神競馬場の前身である鳴尾競馬場(阪神競馬倶楽部)は、1907(明治40)年に関西で初めての本格的な競馬場として建設された。当時、日本各地にはさまざまな競馬倶楽部が設立され、それぞれ独自に競馬を営み、レースを開催していた。この時代の鳴尾競馬場を代表する競走が帝室御賞典や各内国産馬連合競走だった。これに「阪神4歳牝馬競走」(1931・昭和6年創設)、阪神記念(1934・昭和9年創設)、「阪神記念アラブ系抽選馬競走」(1935・昭和10年創設)が加わり、鳴尾競馬場の「阪神競馬」は馬券の売上高で日本一二を争う人気を博していた(1930年から1932年まで全国2位、1933年全国3位、1934年全国1位、1935年全国2位、1936年全国1位など)。
1936(昭和11)年に全国各地の11の競馬倶楽部が統合されて日本競馬会になると、各地で合わせて年に10回行なわれていた帝室御賞典は、年2回に統合されて大いに格式が引き上げられることになった。これにより、新たな「帝室御賞典」は、春に鳴尾競馬場(阪神)、秋に東京競馬場で行われることになった。1937(昭和12)年秋に東京競馬場で新たな帝室御賞典(現在の天皇賞はこれを正式な「第1回天皇賞」としている。)が行なわれ、翌1938(昭和13)年春には鳴尾競馬場で帝室御賞典が行なわれた。この1938(昭和13)年の暮れには鳴尾競馬場で阪神優駿牝馬競走(後の「優駿牝馬(オークス)」に相当)が創設され、4歳馬5大競走の一つも行われるようになり、鳴尾競馬場は名実ともに日本を代表する競馬場となった。
ところが、1943(昭和18)年に、鳴尾競馬場は日本海軍が接収することになった。もともと鳴尾競馬場の隣接地には、かつての阪神競馬倶楽部の母体となった別の競馬場があったのだが、そこを海軍が買収して川西航空機の工場を置き、軍用機の開発をしていた。その工場で開発・研究中の新型戦闘機紫電改の試験飛行のため、工場の隣にあった鳴尾競馬場の敷地を飛行場に転用することになったのである。1943(昭和18)年2月にはガダルカナル島が陥落するなど戦争の情勢は逼迫していて、鳴尾競馬場は代替用地が確定しないまま海軍に接収され、1943(昭和18)年の春の開催を最後に幕を閉じた。阪神で行なわれていた帝室御賞典(天皇賞)はこれ以降京都競馬場で行なわれることになり、その後も改修による一時的な阪神での開催はあったものの、戻ってこなかった。
新しい阪神競馬場の用地はひとまず目処が立ち、1周2500メートルとなる「東洋一」の新競馬場の構想が進んだ。しかし戦局は悪化の一途をたどり、競馬場建設どころではなくなってきた。そのまま終戦を迎えると、こんどは新競馬場用地として確保していた土地が米軍に接収され、進駐軍のゴルフ場になってしまった。
経営母体の日本競馬会では国庫納付金を滞納するほど経営が悪化していて、新たな用地を買い付ける資力もなく、結局、空襲で破壊された川西航空機の工場跡地を整備して「仮設競馬場」として再出発することになった。こうして1949(昭和24)年にようやく阪神競馬場として再開にこぎつけた。この時に阪神3歳ステークスが創設、翌年に桜花賞が移設され、その後もチャレンジカップ(1950年創設)、鳴尾記念(1951年創設)、神戸新聞杯(1953年創設)、阪神大賞典(1953年創設)と重賞競走が拡充された。
しかしながら、再開された競馬場は奮わなかった。終戦から5年経った1951(昭和26)年になっても、破壊された工場の残骸が競馬場の中央に散乱して醜い状態だった。観戦スタンドは木造の仮設のもので、用地確保にも問題があり、競走馬の調教用地に当て込んでいた土地が権利争いになって、競馬場には厩舎が併設できなかった。馬場そのものも地盤が弱く、雨が降ると水たまりができるような有様で、こうした理由で客足も伸びず、馬券の売上は目標の30%にも届かなかった。
1954(昭和29)年に日本中央競馬会が発足した。元農林大臣の有馬頼寧が日本中央競馬会の理事となり、「有馬特例法」と通称される法律を通し、競馬の収益を競馬場施設の改修に充当できるようにすると、各地の競馬場の復興が実現した。阪神競馬場でも競馬場の底地と施設が日本中央競馬会に買収され、新しい観戦スタンドが建設されて1959(昭和34)年10月に落成している。このほか障害専用走路、診療所、監視塔、事務所棟、子どもの遊技場などが次々と整備された。阪神競馬場のシンボルでもあるセントウル像は翌1960(昭和35)年に設置された。
有馬頼寧が1956(昭和31)年に中山競馬場に中山グランプリ(後の有馬記念)を創設した。これは、出走馬をファン投票で決めるという全く新しいタイプの競走で、大いに人気を博した。阪神競馬場では、新スタンドが落成した翌春(1960(昭和35)年)の開催から、「有馬記念の関西版」として「人気投票」による競走を創設することになった。これが第1回宝塚記念である。
第1回宝塚記念は1800メートルで行なわれ、ファン投票による選出馬10頭と推薦委員会による選出馬10頭の合計20頭が選ばれた。しかし実際に出走したのはそのうち9頭だけだった。優勝したホマレーヒロはファン投票4位の選出馬だった。
初年度は1800メートルで行なわれたが、翌1961(昭和36)年の第2回宝塚記念からは2000メートルになった。さらに1966(昭和41)年には2200メートルに延長されている。
出走馬は当初は「4歳以上」(現在の馬齢表記では「3歳以上」に相当)と定められていた。「春競馬」に位置づけられているとはいえ、春競馬の最後に開催されるため、開催日は6月末から7月上旬になっていた。これが1968年から1ヶ月前倒しされることになり、5月末から6月初旬の開催になった。これに伴って出走条件は「5歳以上」と変更になり、古馬限定戦となった。負担重量については「別定」と称していたが、実際には5歳55kg、6歳56kg、7歳以上55kg、牝馬は2kg減量となっていて、事実上の「定量」戦であるうえに、この値は「馬齢」重量とも一致している。これは敢えてそのようにしているものである。「定量」や「馬齢」としてしまうと、宝塚記念の開催時期を移動するたびに負担重量が変動してしまうが、「別定」としておけば開催時期を春や夏に移動しても、競走での負担重量そのものは変わらず維持できるように意図されたものだった。
1987(昭和62)年からは再び「4歳馬」(現在の3歳に相当)の出走が可能になり、開催時期も繰り下げられて日本ダービー・オークスなどで活躍した「4歳馬」のエントリーが容易になるように変更されている。1996(平成8)年から1999(平成11)年は7月開催だったが、2000(平成12)年からは6月下旬の開催となり、「春の中距離実力日本一」決定戦と位置づけられるようになった。
2017(平成29)年には天皇賞(春)、同年にG1に昇格した大阪杯とともに同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金の制度が創設された。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
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"text": "2017(平成29)年には天皇賞(春)、同年にG1に昇格した大阪杯とともに同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金の制度が創設された。",
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"title": "歴代優勝馬"
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"text": "馬齢は2000年(平成12年)以前も現行表記にそろえている。",
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] |
宝塚記念(たからづかきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「宝塚」は宝塚市を指す。阪神競馬場の所在地で、兵庫県の南東部に位置する。 正賞は宝塚市長賞、日本馬主協会連合会会長賞、ブリーダーズカップ・チャレンジ賞。
|
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = 宝塚記念<br />Takarazuka Kinen<ref name="ICSC" />
|画像 = [[File:Equinox Takarazuka Kinen 2023(IMG1).jpg|300px]]
|画像説明 = 第64回宝塚記念<br>優勝馬:[[イクイノックス]](鞍上:[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]])
|開催国 = {{JPN}}
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|競馬場 = [[阪神競馬場]]
|第1回施行日 =
|創設 = 1960年6月26日
|年次 = 2023
|距離 = 2200m
|格付け = [[G1 (競馬)|GI]]
|1着賞金 = 2億2000万円
|賞金総額 =
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド|サラ]]系3歳以上(国際)(指定)}}
|負担重量 = 定量(3歳53kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減)
|出典 = <ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin3" />
}}
'''宝塚記念'''(たからづかきねん)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[阪神競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[G1 (競馬)|GI]])である。
競走名の「宝塚」は[[宝塚市]]を指す。阪神競馬場の所在地で、[[兵庫県]]の南東部に位置する<ref name="特別レース名解説" /><ref name="JRA注目" />。
正賞は宝塚市長賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞、[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]賞<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin3" />。
== 概要 ==
[[File:Mikki Rocket Takarazuka kinen 2017(IMG1).jpg|thumb|270px|2018年宝塚記念<br>左:[[ミッキーロケット]](優勝馬 鞍上:[[和田竜二]])<br>右:[[ワーザー]]([[香港]]代表 鞍上:[[ヒュー・ボウマン]])]]
[[File:Lys gracieux(JPN) IMG 1664-2 20190623.jpg|thumb|270px|第60回宝塚記念<br>優勝馬:[[リスグラシュー]](鞍上:[[ダミアン・レーン|D.レーン]])]]
[[File:Chrono Genesis Takarazuka Kinen 2021(IMG1).jpg|thumb|270px|第62回宝塚記念<br>優勝馬:[[クロノジェネシス]](鞍上:[[クリストフ・ルメール]])]]
[[ファイル:Titleholder_Takarazuka_Kinen_2022(IMG1).jpg|thumb|275px|第63回宝塚記念<br>優勝馬:[[タイトルホルダー]](鞍上:[[横山和生]])]]
[[有馬記念]]と同様に、ファン投票で出走馬を決め、こちらは上半期の締めくくりを飾る競走として関西地区の競馬を華やかに盛り上げようとの趣旨で企画され、1960年に創設された<ref name="JRA注目" />。「上半期の実力ナンバー1決定戦」として位置づけられている<ref name="JRA注目" />。
2011年から[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]の対象競走に指定され、優勝馬には当該年の[[ブリーダーズカップ・ターフ]]への優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与される<ref name="JRANEWS" /><ref group="註">ただしブリーダーズカップへの種牡馬登録と産駒登録は必要。</ref>。また2019年から当競走の優勝馬には当該年の[[コックスプレート]]への優先出走権が付与されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201906/060402.html|title=宝塚記念(GⅠ)優勝馬に対するコックスプレート(G1)への優先出走権付与について|accessdate=2019-06-04|date=2019-06-04|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191026111416/https://jra.jp/news/201906/060402.html|archivedate=2019-10-26}}</ref>。
以前の[[ファンファーレ (競馬)|ファンファーレ]]は他のGI競走(関西地区)と同様のものだったが、1999年より一般公募で選ばれた<ref name="history" />専用の曲に変更された<ref group="註">中央競馬で専用のファンファーレが演奏される競走は、他に[[名鉄杯]]([[ステークス方式|特別競走]])がある。</ref>{{Refnest|group="註"|2014年に宝塚市制60周年とJRA創立60周年が重なることから、これを記念して「宝塚市制60周年記念」「宝塚歌劇100周年花のみち特別」<ref>{{Cite news|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201406/0007013426.shtml |title=歌劇100周年で特別レース 阪神競馬場にスター登場へ |work=神戸新聞NEXT|date=2014-06-01|accessdate=2015-06-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140603153301/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201406/0007013426.shtml|archivedate=2014-06-03}}</ref>が開催され、陸上自衛隊第3音楽隊によるファンファーレの生演奏が行われたが、2015年は宝塚記念の開催日に「花のみちステークス」、宝塚記念(本馬場入場で使用される「ザ・チャンピオン」を含む)、「リボン賞」の3競走で陸上自衛隊第3音楽隊によるファンファーレの生演奏が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201503hanshin/index.html |title=全頭本命、春のグランプリ。【第3回阪神競馬開催日イベント】|publisher=JRA|accessdate=2015-06-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150602221753/https://jra.jp/news/201503hanshin/index.html|archivedate=2015-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/keiba_ana_west/status/615032541351817216 |title=中央競馬実況中継 ラジオNIKKEI第2のツイート|accessdate=2015-06-28}}</ref>。}}。
=== 国際的評価 ===
世界の競馬開催国は[[国際セリ名簿基準書]]におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2016年時点で日本は[[平地競走]]が最上位のパートI、[[障害競走]]はパートIVにランク付けされている<ref name="ICSC" />。
また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着している[[距離 (競馬)#SMILE 区分|SMILE区分]]によると、宝塚記念は「Long(2101m - 2700m)」に分類される。[[国際競馬統括機関連盟]](IFHA)が公表した2016年の年間レースレーティング<ref group="註">年間レースレーティングは、個々のレースにおける上位4頭のレーティングを年度末のランキング会議で決定した数値に置き換え算出した平均値。なお、牝馬限定競走以外のレースで、対象馬が牝馬の場合はアローワンスが加算される(日本の場合+4ポンド)。</ref>の平均値に基づく「[[世界のトップ100GIレース]]」によると、宝塚記念は全体の15位にランキングされた。このランキングで日本の競走は宝塚記念を含め12競走がランクインしているが、日本の競走では[[有馬記念]](13位)に次ぐ評価で、「Long(2101m - 2700m)」のカテゴリーからランクインした外国の競走との比較では、[[ドバイシーマクラシック]](9位)に次ぐ評価となっている<ref name="JRA_TOP100GI" /><ref name="TOP100GI" />。
=== 出走資格 ===
以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin3" />のもの。
* [[サラブレッド|サラ系]]3歳以上(出走可能頭数:18頭)
** JRA所属馬(ファン投票選出馬・JRA選出馬)
** 地方所属馬
** 外国調教馬(最大8頭まで、優先出走)
出走馬の選定方法は以下のとおり。
* 特別登録を行った馬の中からファン投票上位10頭が優先出走できる<ref group="註">第10位までで出走の意思がない馬がいた場合、11位以下の馬が繰り上げで出走できる権利がある。</ref>。
* 上記以外の馬(外国所属競走馬を除く)は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる(地方所属馬も同様)。
=== 負担重量 ===
* 定量(3歳53kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減)<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin3" /><ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />
* 負担重量の変遷<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />
** 第1回 - 第3回、第9回 - 第12回、第27回:馬齢重量
** 第4回 - 第8回:別定重量
** 第13回 - 第22回:4歳55kg、5歳56kg、6歳以上55kg(牝馬2kg減)
** 第23回 - 第26回:4歳56kg、5歳57kg、6歳以上56kg(牝馬2kg減)
** 第28回 - 第36回:3歳53kg、4歳56kg、5歳57kg、6歳以上56kg(牝馬2kg減)
** 第37回:3歳54kg、4歳以上58kg(牝馬2kg減)
***※2000年以前は馬齢表記が異なるため、上の第13回から第37回にある「4歳」は、当時の表記で「5歳」である。
=== 賞金 ===
2023年の本賞金は1着2億2000万円で、以下2着8800万円、3着5500万円、4着3300万円、5着2200万円<ref name="jusyo_kansai" />。
== 歴史 ==
=== 旧阪神競馬場の隆盛 ===
[[阪神競馬場]]の前身である[[鳴尾競馬場]]([[阪神競馬倶楽部]])は、1907(明治40)年に関西で初めての本格的な競馬場として建設された。当時、日本各地にはさまざまな[[競馬倶楽部]]が設立され、それぞれ独自に競馬を営み、レースを開催していた。この時代の鳴尾競馬場を代表する競走が[[帝室御賞典]]や[[優勝内国産馬連合競走#関西連合|各内国産馬連合競走]]だった。これに「阪神4歳牝馬競走」(1931・昭和6年創設)、[[阪神記念]](1934・昭和9年創設)、「阪神記念アラブ系抽選馬競走」(1935・昭和10年創設)が加わり、鳴尾競馬場の「阪神競馬」は馬券の売上高で日本一二を争う人気を博していた(1930年から1932年まで全国2位、1933年全国3位、1934年全国1位、1935年全国2位、1936年全国1位など)<ref name="三十年史53"/><ref name="あゆみ48"/><ref name="あゆみ88"/>。
1936(昭和11)年に全国各地の11の競馬倶楽部が統合されて[[日本競馬会]]になると、各地で合わせて年に10回行なわれていた帝室御賞典は、年2回に統合されて大いに格式が引き上げられることになった。これにより、新たな「帝室御賞典」は、春に鳴尾競馬場(阪神)、秋に東京競馬場で行われることになった。1937(昭和12)年秋に東京競馬場で新たな帝室御賞典(現在の[[天皇賞]]はこれを正式な「第1回天皇賞」としている。)が行なわれ、翌1938(昭和13)年春には鳴尾競馬場で帝室御賞典が行なわれた。この1938(昭和13)年の暮れには鳴尾競馬場で[[優駿牝馬|阪神優駿牝馬競走]](後の「優駿牝馬(オークス)」に相当)が創設され、4歳馬<ref group="註">現在の馬齢表記方法では「3歳」</ref>5大競走の一つも行われるようになり、鳴尾競馬場は名実ともに日本を代表する競馬場となった<ref name="三十年史53"/><ref name="あゆみ121"/><ref name="競馬史V-290"/><ref name="競馬史V-416"/>。
=== 旧阪神競馬場の突然の休止 ===
ところが、1943(昭和18)年に、鳴尾競馬場は[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が接収することになった。もともと鳴尾競馬場の隣接地には、かつての阪神競馬倶楽部の母体となった別の競馬場があったのだが、そこを海軍が買収して[[川西航空機]]の工場を置き、軍用機の開発をしていた。その工場で開発・研究中の新型戦闘機[[紫電改]]の試験飛行のため、工場の隣にあった鳴尾競馬場の敷地を飛行場に転用することになったのである。1943(昭和18)年2月には[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島が陥落]]するなど戦争の情勢は逼迫していて、鳴尾競馬場は代替用地が確定しないまま海軍に接収され、1943(昭和18)年の春の開催を最後に幕を閉じた。阪神で行なわれていた帝室御賞典(天皇賞)はこれ以降[[京都競馬場]]で行なわれることになり、その後も改修による一時的な阪神での開催はあったものの、戻ってこなかった<ref name="あゆみ128"/><ref name="あゆみ150"/><ref name="50年史38"/><ref name="50年史32"/>。
新しい阪神競馬場の用地はひとまず目処が立ち、1周2500メートルとなる「東洋一<ref name="50年史32"/>」の新競馬場の構想が進んだ。しかし戦局は悪化の一途をたどり、競馬場建設どころではなくなってきた。そのまま終戦を迎えると、こんどは新競馬場用地として確保していた土地が米軍に接収され、進駐軍のゴルフ場になってしまった<ref name="50年史38"/><ref name="あゆみ128"/><ref name="あゆみ150"/><ref name="50年史32"/>。
=== 再開された阪神競馬場の不振 ===
経営母体の[[日本競馬会]]では国庫納付金を滞納するほど経営が悪化していて、新たな用地を買い付ける資力もなく、結局、空襲で破壊された[[川西航空機]]の工場跡地を整備して「仮設競馬場」として再出発することになった。こうして1949(昭和24)年にようやく[[阪神競馬場]]として再開にこぎつけた。この時に[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]が創設、翌年に[[桜花賞]]が移設され、その後も[[チャレンジカップ (中央競馬)|チャレンジカップ]](1950年創設)、[[鳴尾記念]](1951年創設)、[[神戸新聞杯]](1953年創設)、[[阪神大賞典]](1953年創設)と重賞競走が拡充された<ref name="あゆみ178"/><ref name="あゆみ205"/><ref name="50年史38"/><ref name="50年史45"/>。
しかしながら、再開された競馬場は奮わなかった。終戦から5年経った1951(昭和26)年になっても、破壊された工場の残骸が競馬場の中央に散乱して醜い状態だった。観戦スタンドは木造の仮設のもので、用地確保にも問題があり、競走馬の調教用地に当て込んでいた土地が権利争いになって、競馬場には厩舎が併設できなかった。馬場そのものも地盤が弱く、雨が降ると水たまりができるような有様で、こうした理由で客足も伸びず、馬券の売上は目標の30%にも届かなかった<ref name="あゆみ178"/><ref name="50年史44"/>。
=== 競馬場の再興と宝塚記念の創設 ===
1954(昭和29)年に[[日本中央競馬会]]が発足した。元農林大臣の[[有馬頼寧]]が日本中央競馬会の理事となり、「有馬特例法」と通称される<ref group="註">正式名は「日本中央競馬会の国庫納付金等の臨時特例に関する法律」</ref>法律を通し、競馬の収益を競馬場施設の改修に充当できるようにすると、各地の競馬場の復興が実現した。阪神競馬場でも競馬場の底地と施設が日本中央競馬会に買収され、新しい観戦スタンドが建設されて1959(昭和34)年10月に落成している。このほか障害専用走路、診療所、監視塔、事務所棟、子どもの遊技場などが次々と整備された。阪神競馬場のシンボルでもあるセントウル像は翌1960(昭和35)年に設置された<ref name="あゆみ178"/><ref name="百科65"/><ref name="50年史44"/>。
有馬頼寧が1956(昭和31)年に[[中山競馬場]]に中山グランプリ(後の[[有馬記念]])を創設した。これは、出走馬をファン投票で決めるという全く新しいタイプの競走で、大いに人気を博した。阪神競馬場では、新スタンドが落成した翌春(1960(昭和35)年)の開催から、「有馬記念の関西版<ref name="百科88"/>」として「人気投票」による競走を創設することになった。これが'''第1回宝塚記念'''である<ref name="50年史45"/><ref name="あゆみ205"/><ref name="百科81"/><ref name="百科86"/>。
第1回宝塚記念は1800メートルで行なわれ、ファン投票による選出馬10頭と推薦委員会による選出馬10頭の合計20頭が選ばれた。しかし実際に出走したのはそのうち9頭だけだった。優勝した[[ホマレーヒロ]]はファン投票4位の選出馬だった<ref name="50年史16"/><ref name="あゆみ205"/>。
=== 創設後の変遷 ===
初年度は1800メートルで行なわれたが、翌1961(昭和36)年の第2回宝塚記念からは2000メートルになった。さらに1966(昭和41)年には2200メートルに延長されている<ref name="50年史16"/>。
出走馬は当初は「4歳以上」(現在の馬齢表記では「3歳以上」に相当)と定められていた。「春競馬」に位置づけられているとはいえ、春競馬の最後に開催されるため、開催日は6月末から7月上旬になっていた。これが1968年から1ヶ月前倒しされることになり、5月末から6月初旬の開催になった。これに伴って出走条件は「5歳以上」と変更になり、古馬限定戦となった。負担重量については「別定」と称していたが、実際には5歳55kg、6歳56kg、7歳以上55kg、牝馬は2kg減量となっていて、事実上の「定量」戦であるうえに、この値は「馬齢」重量とも一致している。これは敢えてそのようにしているものである。「定量」や「馬齢」としてしまうと、宝塚記念の開催時期を移動するたびに負担重量が変動してしまうが、「別定」としておけば開催時期を春や夏に移動しても、競走での負担重量そのものは変わらず維持できるように意図されたものだった<ref name="50年史16"/><ref name="あゆみ88"/>。
1987(昭和62)年からは再び「4歳馬」(現在の3歳に相当)の出走が可能になり、開催時期も繰り下げられて[[東京優駿|日本ダービー]]・[[優駿牝馬|オークス]]などで活躍した「4歳馬」のエントリーが容易になるように変更されている。1996(平成8)年から1999(平成11)年は7月開催だったが、2000(平成12)年からは6月下旬の開催となり、「春の中距離実力日本一」決定戦と位置づけられるようになった<ref name="50年史16"/>。
2017(平成29)年には[[天皇賞(春)]]、同年にG1に昇格した[[大阪杯]]とともに同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金の制度が創設された<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201611/111601.html |title=2017年度競馬番組等について |publisher=日本中央競馬会 |date=2016-11-16|accessdate=2016-11-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161116180119/https://jra.jp/news/201611/111601.html|archivedate=2016-11-16}}</ref>。
=== 年表 ===
* 1960年 - 4歳以上の馬による重賞競走「宝塚記念」を創設。阪神競馬場・芝1800mで施行<ref name="JRA注目" />。
* 1966年 - 京都競馬場の芝外回り2200mで施行。これ以降、施行距離が芝2200mで定着。
* 1968年 - 出走資格を「5歳以上」に変更。
* 1976年 - 全国発売を開始。また厩務員労働組合の争議のため日程変更が行われ、京都競馬場での施行となった。
* 1980年 - 京都競馬場がスタンド改築工事のため、この年のみ[[中京競馬場]]で施行。
* 1984年 - [[グレード制]]導入、GI<ref group="註">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付け。
* 1987年 - 出走資格を「4歳以上」に変更。
* 1993年 - 「[[徳仁|皇太子殿下]]御成婚[[慶祝競走|奉祝]]」の副称を付けて施行<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
* 1995年
** 「震災復興支援競走」の副称を付けて施行(1996年まで)<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
** [[指定交流競走]]となり、地方所属馬も出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
* 1997年 - [[国際競走]]に指定、外国調教馬が5頭まで出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
* 1999年 - この年から専用ファンファーレに変更。
* 2001年
** [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「3歳以上」に変更。
** 国際GIに指定。
* 2004年 - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称を付けて施行<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
* 2011年 - 「[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]」指定競走となる。
* 2014年 - 「日本中央競馬会創立60周年記念」の副称をつけて施行<ref name="result2014" />。
* 2020年 - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]感染拡大防止のため「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<ref name="jranews052801" />。
* 2024年 ー 阪神競馬場リフレッシュ工事に伴う開催日割の変更のため京都競馬場で施行予定<ref>[https://www.jra.go.jp/news/202310/101602.html 2024年度開催日割および重賞競走]日本中央競馬会、2023年10月16日配信・閲覧</ref>。
== 歴代優勝馬 ==
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||1960年6月26日||阪神||1800m||[[ホマレーヒロ]]||牡4||1:49.6||[[近藤武夫]]||[[武輔彦]]||仁木清七
|-
|style="text-align:center"|第2回||1961年7月2日||阪神||2000m||[[シーザー (競走馬)|シーザー]]||牡4||2:04.6||[[伊藤修司]]||[[伊藤勝吉]]||伊藤由五郎
|-
|style="text-align:center"|第3回||1962年7月1日||阪神||2000m||[[コダマ (競走馬)|コダマ]]||牡5||2:03.4||[[栗田勝]]||[[武田文吾]]||伊藤由五郎
|-
|style="text-align:center"|第4回||1963年6月30日||阪神||2000m||[[リユウフオーレル]]||牡4||2:02.1||[[宮本悳]]||[[橋本正晴]]||三好笑子
|-
|style="text-align:center"|第5回||1964年7月5日||阪神||2000m||[[ヒカルポーラ]]||牡5||2:03.3||[[高橋成忠]]||[[佐藤勇 (競馬)|佐藤勇]]||坪田喜之助
|-
|style="text-align:center"|第6回||1965年6月27日||阪神||2000m||[[シンザン]]||牡4||2:06.3||栗田勝||武田文吾||[[橋元幸吉]]
|-
|style="text-align:center"|第7回||1966年6月26日||京都||2200m||[[エイトクラウン]]||牝4||2:15.0||[[内藤繁春]]||[[田中康三]]||山口昇
|-
|style="text-align:center"|第8回||1967年7月2日||阪神||2200m||[[タイヨウ]]||牡4||2:19.4||内藤繁春||武田文吾||内藤博司
|-
|style="text-align:center"|第9回||1968年5月26日||阪神||2200m||[[ヒカルタカイ]]||牡4||2:14.7||[[野平祐二]]||[[藤本冨良]]||長山善健
|-
|style="text-align:center"|'''[[第10回宝塚記念|第10回]]'''||1969年6月1日||京都||2200m||[[ダテホーライ]]||牡4||2:16.1||[[宇田明彦]]||[[星川泉士]]||[[伊達牧場]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第11回宝塚記念|第11回]]'''||1970年5月31日||阪神||2200m||[[スピードシンボリ]]||牡7||2:13.3||野平祐二||[[野平省三]]||[[和田共弘]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第12回宝塚記念|第12回]]'''||1971年5月30日||阪神||2200m||[[メジロムサシ]]||牡4||2:17.3||[[横山富雄]]||[[大久保末吉]]||[[メジロ商事]](株)
|-
|style="text-align:center"|'''[[第13回宝塚記念|第13回]]'''||1972年6月4日||阪神||2200m||[[ショウフウミドリ]]||牡6||2:19.9||[[松本善登]]||武田文吾||松本市三郎
|-
|style="text-align:center"|'''[[第14回宝塚記念|第14回]]'''||1973年6月3日||阪神||2200m||[[ハマノパレード]]||牡4||2:12.7||[[田島良保]]||坂口正二||(株)ホースタジマ
|-
|style="text-align:center"|'''[[第15回宝塚記念|第15回]]'''||1974年6月2日||京都||2200m||[[ハイセイコー]]||牡4||2:12.9||[[増沢末夫]]||[[鈴木勝太郎]]||ホースマンクラブ
|-
|style="text-align:center"|'''[[第16回宝塚記念|第16回]]'''||1975年6月1日||阪神||2200m||[[ナオキ]]||牡6||2:16.7||[[佐々木昭次]]||田中康三||桜山ホース(株)
|-
|style="text-align:center"|'''[[第17回宝塚記念|第17回]]'''||1976年6月6日||京都||2200m||[[フジノパーシア]]||牡5||2:17.5||[[大崎昭一]]||[[柴田寛]]||真田繁次
|-
|style="text-align:center"|'''[[第18回宝塚記念|第18回]]'''||1977年6月5日||阪神||2200m||[[トウショウボーイ]]||牡4||2:13.0||[[武邦彦]]||[[保田隆芳]]||[[トウショウ産業]](株)
|-
|style="text-align:center"|'''[[第19回宝塚記念|第19回]]'''||1978年6月4日||阪神||2200m||[[エリモジョージ]]||牡6||2:14.2||[[福永洋一]]||[[大久保正陽]]||[[山本慎一 (実業家)|山本慎一]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第20回宝塚記念|第20回]]'''||1979年6月3日||阪神||2200m||[[サクラショウリ]]||牡4||2:12.4||[[小島太]]||久保田彦之||(株)[[さくらコマース]]
|-
|style="text-align:center"|第21回||1980年6月1日||中京||2400m||[[テルテンリュウ]]||牡4||2:31.9||[[西浦勝一]]||[[土門健司]]||伊藤繁子
|-
|style="text-align:center"|第22回||1981年6月7日||阪神||2200m||[[カツアール]]||牡5||2:14.1||[[樋口弘]]||[[柳田次男]]||[[栗林英雄]]
|-
|style="text-align:center"|第23回||1982年6月6日||阪神||2200m||[[モンテプリンス]]||牡5||2:12.6||[[吉永正人]]||[[松山吉三郎]]||毛利喜八
|-
|style="text-align:center"|第24回||1983年6月5日||阪神||2200m||[[ハギノカムイオー]]||牡4||2:12.1||[[上野清章|伊藤清章]]||伊藤修司||[[日隈広吉]]
|-
|style="text-align:center"|第25回||1984年6月3日||阪神||2200m||[[カツラギエース]]||牡4||2:12.4||西浦勝一||[[土門一美]]||野出一三
|-
|style="text-align:center"|第26回||1985年6月2日||阪神||2200m||[[スズカコバン]]||牡5||2:15.9||[[村本善之]]||[[小林稔 (競馬)|小林稔]]||[[永井永一]]
|-
|style="text-align:center"|第27回||1986年6月1日||阪神||2200m||[[パーシャンボーイ]]||牡4||2:14.4||[[柴田政人]]||[[高松邦男]]||[[伊達秀和]]
|-
|style="text-align:center"|第28回||1987年6月14日||阪神||2200m||[[スズパレード]]||牡6||2:12.3||[[蛯沢誠治]]||[[富田六郎]]||[[小紫芳夫]]
|-
|style="text-align:center"|第29回||1988年6月12日||阪神||2200m||[[タマモクロス]]||牡4||2:13.2||[[南井克巳]]||[[小原伊佐美]]||タマモ(株)
|-
|style="text-align:center"|第30回||1989年6月11日||阪神||2200m||[[イナリワン]]||牡5||2:14.0||[[武豊]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]||[[保手浜弘規]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第31回宝塚記念|第31回]]'''||1990年6月10日||阪神||2200m||[[オサイチジョージ]]||牡4||2:14.0||[[丸山勝秀]]||土門一美||野出長一
|-
|style="text-align:center"|第32回||1991年6月9日||京都||2200m||[[メジロライアン]]||牡4 ||2:13.6||[[横山典弘]]||[[奥平真治]]||(有)[[メジロ牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第33回||1992年6月14日||阪神||2200m||[[メジロパーマー]]||牡5||2:18.6||[[山田泰誠]]||大久保正陽||(有)メジロ牧場
|-
|style="text-align:center"|第34回||1993年6月13日||阪神||2200m||[[メジロマックイーン]]||牡6||2:17.7||武豊||[[池江泰郎]]||メジロ商事(株)
|-
|style="text-align:center"|第35回||1994年6月12日||阪神||2200m||[[ビワハヤヒデ]]||牡4||2:11.2||[[岡部幸雄]]||[[浜田光正]]||(有)[[ビワ (馬主)|ビワ]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第36回宝塚記念|第36回]]'''||1995年6月4日||京都||2200m||[[ダンツシアトル]]||牡5||2:10.2||村本善之||[[山内研二]]||[[山元哲二]]
|-
|style="text-align:center"|第37回||1996年7月7日||阪神||2200m||[[マヤノトップガン]]||牡4||2:12.0||[[田原成貴]]||[[坂口正大]]||[[田所祐]]
|-
|style="text-align:center"|第38回||1997年7月6日||阪神||2200m||[[マーベラスサンデー]]||牡5||2:11.9||武豊||[[大沢真]]||笹原貞生
|-
|style="text-align:center"|第39回||1998年7月12日||阪神||2200m||[[サイレンススズカ]]||牡4||2:11.9||南井克巳||[[橋田満]]||[[永井啓弐]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第40回宝塚記念|第40回]]'''||1999年7月11日||阪神||2200m||[[グラスワンダー]]||牡4||2:12.1||[[的場均]]||[[尾形充弘]]||[[半沢 (馬主)|半沢]](有)
|-
|style="text-align:center"|第41回||2000年6月25日||阪神||2200m||[[テイエムオペラオー]]||牡4||2:13.8||[[和田竜二]]||[[岩元市三]]||[[竹園正繼]]
|-
|style="text-align:center"|第42回||2001年6月24日||阪神||2200m||[[メイショウドトウ]]||牡5||2:11.7||[[安田康彦]]||[[安田伊佐夫]]||[[松本好雄]]
|-
|style="text-align:center"|第43回||2002年6月23日||阪神||2200m||[[ダンツフレーム]]||牡4||2:12.9||[[藤田伸二]]||山内研二||山元哲二
|-
|style="text-align:center"|第44回||2003年6月29日||阪神||2200m||[[ヒシミラクル]]||牡4||2:12.0||[[角田晃一]]||[[佐山優]]||[[阿部雅一郎]]
|-
|style="text-align:center"|第45回||2004年6月27日||阪神||2200m||[[タップダンスシチー]]||牡7||2:11.1||[[佐藤哲三 (競馬)|佐藤哲三]]||[[佐々木晶三]]||(株)[[友駿ホースクラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第46回||2005年6月26日||阪神||2200m||[[スイープトウショウ]]||牝4||2:11.5||[[池添謙一]]||[[鶴留明雄]]||トウショウ産業(株)
|-
|style="text-align:center"|第47回||2006年6月25日||京都||2200m||[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]||牡4||2:13.0||武豊||池江泰郎||[[金子真人ホールディングス]](株)
|-
|style="text-align:center"|'''[[第48回宝塚記念|第48回]]'''||2007年6月24日||阪神||2200m||[[アドマイヤムーン]]||牡4||2:12.4||[[岩田康誠]]||[[松田博資]]||[[近藤利一]]
|-
|style="text-align:center"|第49回||2008年6月29日||阪神||2200m||[[エイシンデピュティ]]||牡6||2:15.3||[[内田博幸]]||[[野元昭]]||[[平井豊光]]
|-
|style="text-align:center"|第50回||2009年6月28日||阪神||2200m||[[ドリームジャーニー]]||牡5||2:11.3||池添謙一||[[池江泰寿]]||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第51回||2010年6月27日||阪神||2200m||[[ナカヤマフェスタ]]||牡4||2:13.0||[[柴田善臣]]||[[二ノ宮敬宇]]||[[和泉信一]]
|-
|style="text-align:center"|第52回||2011年6月26日||阪神||2200m||[[アーネストリー]]||牡6||2:10.1||佐藤哲三||佐々木晶三||[[前田幸治]]
|-
|style="text-align:center"|第53回||2012年6月24日||阪神||2200m||[[オルフェーヴル]]||牡4||2:10.9||池添謙一||池江泰寿||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第54回||2013年6月23日||阪神||2200m||[[ゴールドシップ]]||牡4||2:13.2||内田博幸||[[須貝尚介]]||[[小林英一 (実業家)|小林英一]]
|-
|style="text-align:center"|[[第55回宝塚記念|'''第55回''']]||2014年6月29日||阪神||2200m||ゴールドシップ||牡5||2:13.9||横山典弘||須貝尚介||小林英一
|-
|style="text-align:center"|第56回||2015年6月28日||阪神||2200m||[[ラブリーデイ]]||牡5||2:14.4||[[川田将雅]]||池江泰寿||金子真人ホールディングス(株)
|-
|style="text-align:center"|第57回||2016年6月26日||阪神||2200m||[[マリアライト (競走馬)|マリアライト]]||牝5||2:12.8||[[蛯名正義]]||[[久保田貴士]]||(有)[[キャロットファーム]]
|-
|style="text-align:center"|第58回||2017年6月25日||阪神||2200m||[[サトノクラウン]]||牡5||2:11.4||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[堀宣行]]||[[里見治]]
|-
|style="text-align:center"|第59回||2018年6月24日||阪神||2200m||[[ミッキーロケット]]||牡5||2:11.6||和田竜二||[[音無秀孝]]||[[野田みづき]]
|-
|style="text-align:center"|[[第60回宝塚記念|'''第60回''']]||2019年6月23日||阪神||2200m||[[リスグラシュー]]||牝5||2:10.8||[[ダミアン・レーン|D.レーン]]||[[矢作芳人]]||(有)キャロットファーム
|-
|style="text-align:center"|第61回||2020年6月28日||阪神||2200m||[[クロノジェネシス]]||牝4||2:13.5||[[北村友一]]||[[斉藤崇史]]||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|[[第62回宝塚記念|'''第62回''']]||2021年6月27日||阪神||2200m||クロノジェネシス||牝5||2:10.9||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||斉藤崇史||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|[[第63回宝塚記念|'''第63回''']]||2022年6月26日||阪神||2200m||[[タイトルホルダー]]||牡4||2:09.7||[[横山和生]]||[[栗田徹]]||[[山田弘 (馬主)|山田弘]]
|-
|style="text-align:center"|[[第64回宝塚記念|'''第64回''']]||2023年6月25日||阪神||2200m||[[イクイノックス]]||牡4||2:11.2||C.ルメール||[[木村哲也 (競馬)|木村哲也]]||(有)[[シルクレーシング]]
|}
== 宝塚記念の記録 ==
* レースレコード - 2:09.7(第63回優勝馬 タイトルホルダー)なお、このタイムは阪神競馬場芝2200m3歳以上のコースレコードでもある。
** 優勝タイム最遅記録 - 2:19.9(第13回優勝馬 ショウフウミドリ)<ref>グレード制導入後は2:18.6(第33回優勝馬 メジロパーマー)</ref>
* 最年長優勝馬 - 7歳
**スピードシンボリ(第11回) 、タップダンスシチー(第45回)
* 最多優勝馬 - 2勝
**ゴールドシップ(第54回・第55回) 、クロノジェネシス(第61回・第62回)
* 最多優勝騎手 - 4勝
** 武豊(第30回・第34回・第38回・第47回)<ref>連覇としては内藤繁春(第7回・第8回)が記録</ref>
* 最多優勝調教師 - 4勝
** 武田文吾(第3回・第6回・第8回・第13回)<ref>連覇としては須貝尚介(第54回・第55回)・斉藤崇史(第61回・第62回)が記録</ref>
* 最多優勝馬主 - 4勝
**(有)サンデーレーシング(第50回・第53回・第61回・第62回)
* 最多勝利種牡馬 - 5勝
** [[ステイゴールド (競走馬)|ステイゴールド]](第50回・第51回・第53回・第54回・第55回)
== 外国調教馬の成績 ==
{{Main|海外調教馬による日本への遠征#宝塚記念}}
== 歴代ファン投票1位馬 ==
{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
馬齢は2000年(平成12年)以前も現行表記にそろえている。
{| class="wikitable sortable" style="text-align:center"
!回数!!開催年!!馬名!!性齢!!票数!!着順
|-
|style="text-align:center"|第1回||1960年||[[コダマ (競走馬)|コダマ]]||牡3||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第2回||1961年||[[シーザー (競走馬)|シーザー]]||牡4||||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第3回||1962年||コダマ||牡5||||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第4回||1963年||[[リユウフオーレル]]||牡4||||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第5回||1964年||リユウフオーレル||牡5||||style="background-color:#D0A46D"|3着
|-
|style="text-align:center"|第6回||1965年||[[シンザン]]||牡4||||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第7回||1966年||[[キーストン]]||牡4||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第8回||1967年||[[ニホンピローエース]]||牡4||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第9回||1968年||[[リュウファーロス]]||牡5||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第10回||1969年||[[アサカオー]]||牡4||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第11回||1970年||[[リキエイカン]]||牡4||||5着
|-
|style="text-align:center"|第12回||1971年||[[ダテテンリュウ]]||牡4||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第13回||1972年||[[アカネテンリュウ]]||牡6||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第14回||1973年||[[タイテエム]]||牡4||||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第15回||1974年||[[タケホープ]]||牡4||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第16回||1975年||[[キタノカチドキ]]||牡4||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第17回||1976年||[[ロングホーク]]||牡4||||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第18回||1977年||[[テンポイント]]||牡4||||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第19回||1978年||[[グリーングラス]]||牡5||||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第20回||1979年||[[サクラショウリ]]||牡4||||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第21回||1980年||[[シービークロス]]||牡5||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第22回||1981年||[[カツラノハイセイコ]]||牡5||||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第23回||1982年||[[モンテプリンス]]||牡5||||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第24回||1983年||[[アンバーシャダイ]]||牡6||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第25回||1984年||[[ミスターシービー]]||牡4||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第26回||1985年||[[シンボリルドルフ]]||牡4||||取消
|-
|style="text-align:center"|第27回||1986年||[[スダホーク]]||牡4||||5着
|-
|style="text-align:center"|第28回||1987年||[[ミホシンザン]]||牡5||||不出走
|-
|style="text-align:center"|第29回||1988年||[[タマモクロス]]||牡4||||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第30回||1989年||[[ヤエノムテキ]]||牡4||119,765票||7着
|-
|style="text-align:center"|第31回||1990年||[[オグリキャップ]]||牡5||152,016票||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第32回||1991年||[[メジロマックイーン]]||牡4||136,325票||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第33回||1992年||メジロマックイーン||牡5||135,300票||不出走
|-
|style="text-align:center"|第34回||1993年||メジロマックイーン||牡6||139,693票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第35回||1994年||[[ビワハヤヒデ]]||牡4||148,768票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第36回||1995年||[[ライスシャワー]]||牡6||105,799票||競走中止
|-
|style="text-align:center"|第37回||1996年||[[ナリタブライアン]]||牡5||140,970票||不出走
|-
|style="text-align:center"|第38回||1997年||[[マーベラスサンデー]]||牡5||style="text-align:right"|97,617票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第39回||1998年||[[エアグルーヴ]]||牝5||133,223票||style="background-color:#D0A46D"|3着
|-
|style="text-align:center"|第40回||1999年||[[スペシャルウィーク]]||牡4||136,079票||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第41回||2000年||[[テイエムオペラオー]]||牡4||style="text-align:right"|87,936票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第42回||2001年||テイエムオペラオー||牡5||style="text-align:right"|89,384票||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第43回||2002年||[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]||牡4||style="text-align:right"|72,159票||不出走
|-
|style="text-align:center"|第44回||2003年||[[シンボリクリスエス]]||牡4||style="text-align:right"|59,817票||5着
|-
|style="text-align:center"|第45回<ref>{{Cite web |title=宝塚記念ファン投票の集計結果について |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-124883.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2004-06-10}}</ref>||2004年||[[リンカーン (競走馬)|リンカーン]]||牡4||style="text-align:right"|60,865票||style="background-color:#D0A46D"|3着
|-
|style="text-align:center"|第46回<ref>{{Cite web |title=宝塚記念、ゼンノロブロイが最多得票 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=9195 |website=netkeiba.com |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2005-06-09}}</ref>||2005年||[[ゼンノロブロイ]]||牡5||style="text-align:right"|67,667票||style="background-color:#D0A46D"|3着
|-
|style="text-align:center"|第47回<ref>{{Cite web |title=宝塚記念ファン投票最終発表、1位はディープインパクト |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=14080 |website=netkeiba.com |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2006-06-08}}</ref>||2006年||[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]||牡4||style="text-align:right"|89,864票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第48回<ref>{{Cite web |title=宝塚記念ファン投票最終結果、メイショウサムソンが1位 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=20921 |website=netkeiba.com |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2007-06-07}}</ref>||2007年||[[メイショウサムソン]]||牡4||style="text-align:right"|76,932票||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第49回<ref>{{Cite web |title=【宝塚記念(29日・阪神)】~ファン投票最終発表 1位はウオッカ、2位はメイショウサムソン|競馬実況web|競馬|ラジオNIKKEI |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-151056.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2008-06-12}}</ref>||2008年||[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]||牝4||style="text-align:right"|75,594票||不出走
|-
|style="text-align:center"|第50回<ref>{{Cite web |title=【宝塚記念】ファン投票最終結果~ウオッカ堂々1位 |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-168812.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2009-06-11}}</ref>||2009年||ウオッカ||牝5||style="text-align:right"|139,507票||不出走
|-
|style="text-align:center"|第51回<ref>{{Cite web |title=【宝塚記念】(27日・阪神)ファン投票最終結果~1位はブエナビスタ、2位はドリームジャーニー |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-185488.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2010-06-10}}</ref>||2010年||[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]||牝4||style="text-align:right"|92,024票||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第52回<ref>{{Cite web |title=【宝塚記念】~ファン投票最終結果発表、今年もブエナ1位 |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-203360.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2011-06-09}}</ref>||2011年||ブエナビスタ||牝5||style="text-align:right"|97,429票||style="background-color:silver"|2着
|-
|style="text-align:center"|第53回<ref>{{Cite web |title=【宝塚記念】~ファン投票最終結果、オルフェーヴル断然の1位 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=64941 |website=netkeiba.com |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2012-06-07}}</ref>||2012年||[[オルフェーヴル]]||牡4||style="text-align:right"|72,253票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第54回<ref>{{Cite web |title=【宝塚記念】~ファン投票最終結果発表、オルフェーヴルが1位 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=76112 |website=netkeiba.com |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2013-06-06}}</ref>||2013年||オルフェーヴル||牡5||style="text-align:right"|70,519票|||不出走
|-
|style="text-align:center"|第55回<ref>{{Cite web |title=【宝塚記念】~ファン投票最終結果発表、ゴールドシップが1位 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=87864 |website=netkeiba.com |access-date=2023-12-18 |language=ja |date=2014-06-12}}</ref>||2014年||[[ゴールドシップ]]||牡5||style="text-align:right"|51,366票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第56回<ref>[http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=99103 【宝塚記念】~ファン投票最終結果発表、今年もゴールドシップが1位]netkeiba.com、2018年6月8日閲覧</ref>||2015年||ゴールドシップ||牡6||style="text-align:right"|66,123票||15着
|-
|style="text-align:center"|第57回<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK40420_Z00C16A6000000/ キタサンブラックが1位 競馬の宝塚記念ファン投票]日本経済新聞、2018年6月8日閲覧</ref>||2016年||[[キタサンブラック]]||牡4||style="text-align:right"|82,121票||style="background-color:#D0A46D"|3着
|-
|style="text-align:center"|第58回<ref>[http://race.sanspo.com/keiba/news/20170608/ope17060816120020-n1.html 【宝塚記念】ファン投票最終結果発表]サンケイスポーツ、2018年6月8日閲覧{{リンク切れ|date=2023年12月|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170608092123/http://race.sanspo.com/keiba/news/20170608/ope17060816120020-n1.html}}</ref>||2017年||キタサンブラック||牡5||style="text-align:right"|101,621票||9着
|-
|style="text-align:center"|第59回<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201806/060703.html|title=宝塚記念ファン投票 最終結果発表!|accessdate=2018-06-08|date=2018-06-07|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180615225025/https://jra.jp/news/201806/060703.html|archivedate=2018-06-15}}</ref>||2018年||[[サトノダイヤモンド]]||牡5||style="text-align:right"|63,599票||6着
|-
|style="text-align:center"|第60回<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201906/060603.html|title=宝塚記念ファン投票 最終結果発表!|accessdate=2019-06-06|date=2019-06-06|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190609213633/https://jra.jp/news/201906/060603.html|archivedate=2019-06-09}}</ref>||2019年||[[アーモンドアイ]]||牝4||style="text-align:right"|78,778票||不出走
|-
|style="text-align:center"|第61回<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202006/061102.html|title=宝塚記念ファン投票 最終結果発表!|accessdate=2020-06-12|date=2020-06-11|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200616055110/https://jra.jp/news/202006/061102.html|archivedate=2020-06-16}}</ref>||2020年||アーモンドアイ||牝5||style="text-align:right"|111,842票||不出走
|-
|style="text-align:center"|第62回<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jra.go.jp/news/202106/061003.html |title=宝塚記念ファン投票 最終結果発表! |accessdate=2021-06-10 |date=2021-06-10 |publisher=日本中央競馬会 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230405104430/https://www.jra.go.jp/news/202106/061003.html |archive-date=2023-04-05 |url-status=dead |deadlinkdate=2023-12-18}}</ref>||2021年||[[クロノジェネシス]]||牝5||style="text-align:right"|137,448票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第63回<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jra.go.jp/news/202206/060903.html |title=宝塚記念ファン投票 最終結果発表! |accessdate=2022-06-09 |date=2022-06-09 |publisher=日本中央競馬会 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230406093842/https://www.jra.go.jp/news/202206/060903.html |archive-date=2023-04-06}}</ref>||2022年||[[タイトルホルダー]]||牡4||style="text-align:right"|191,394票||style="background-color:gold"|優勝
|-
|style="text-align:center"|第64回<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jra.go.jp/news/202306/060804.html |title=宝塚記念ファン投票 最終結果発表! |accessdate=2023-06-08 |date=2023-06-08 |publisher=日本中央競馬会 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231103033510/https://www.jra.go.jp/news/202306/060804.html |archive-date=2023-11-03}}</ref>||2023年||[[イクイノックス]]||牡4||style="text-align:right"|216,379票||style="background-color:gold"|優勝
|}
== 関連項目 ==
* [[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]] - 芝11f211yで施行されるヨーロッパの上半期最強馬決定戦(G1)
* [[サンクルー大賞]] - 芝2400mで施行されるフランスの上半期最強馬決定戦(G1)
* [[ベルリン大賞]] - 芝2400mで施行されるドイツの上半期最強馬決定戦(G1)
* [[ミラノ大賞典]] - 芝2000mで施行されるイタリアの上半期最強馬決定戦(G2)
* [[香港チャンピオンズ&チャターカップ]] - 芝2400mで施行される香港の上半期最強馬決定戦(G1)
* [[阪神記念]] - 宝塚杯の前身で[[1955年]]と[[1956年]]の2年間に芝2400mで施行されたハンデキャップの重賞競走
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="註"/>
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="中央競馬全重賞競走成績集">[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]</ref>
<ref name="jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kansai.pdf#page=20 |title=重賞競走一覧(レース別・関西)|page=20|year=2023|publisher=[[日本中央競馬会]]|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="TOP100GI">{{PDFLink|[http://www.horseracingintfed.com/resources/LWBRR/Top-100-G1-Races-by-Yearly-Rating_2016.pdf THE WORLD'S TOP 100 G1 RACES for 3yo's and upwards]}} - 日本中央競馬会、2015年3月7日閲覧</ref>
<ref name="bangumi_2023hanshin3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/hanshin3.pdf |title=令和4年第3回阪神競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0309.pdf#page=3 |title=2023年度第3回阪神競馬特別レース名解説|page=3|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="JRANEWS">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/201102/022101.html |title=宝塚記念(GI)優勝馬に「ブリーダーズカップターフ(G1)」優先出走権等が付与|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110222194356/http://www.jra.go.jp/news/201102/022101.html |archivedate=2011年2月22日|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年5月12日}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2021/0627_1/race.html |title=歴史・コース:宝塚記念 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年6月14日}}</ref>
<ref name="JRA_TOP100GI">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201701/012503.html|title=世界のトップ100GIレースがIFHAから発表!|date=2017-01-25|accessdate=2017-05-07|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170507025801/https://jra.jp/news/201701/012503.html|archivedate=2017-05-07}}</ref>
<ref name="history">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/topics/video/vg_history/page05.html|title=JRAヒストリー(2003 - 1994)|accessdate=2015-06-20|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150630060700/https://jra.jp/topics/video/vg_history/page05.html|archivedate=2015-06-30}}</ref>
<ref name="ICSC">{{Cite web|format=PDF|url=http://www.tjcis.com/pdf/icsc23/2023_EntireBook.pdf#page=90 |title=INTERNATIONAL GRADING AND RACE PLANNING ADVISORY COMMITTEE "INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2023"|publisher=The Jockey Club Information Systems, Inc.|page=90|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="result2014">[[#JRA年度別全成績2014|2014年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="jranews052801">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202005/052801.html |title=6月の中央競馬の開催等について|publisher=日本中央競馬会|date=2020-05-28|accessdate=2020-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200617074836/https://jra.jp/news/202005/052801.html|archivedate=2020-06-17}}</ref>
<ref name="百科65">『競馬百科』p65</ref>
<ref name="百科81">『競馬百科』p81</ref>
<ref name="百科86">『競馬百科』p86</ref>
<ref name="百科88">『競馬百科』p88</ref>
<ref name="三十年史53">『阪神競馬倶楽部三十年沿革史』p53-58</ref>
<ref name="あゆみ48">『阪神競馬場のあゆみ』p48-81</ref>
<ref name="あゆみ88">『阪神競馬場のあゆみ』p88-92「売上げ日本一を目指して」</ref>
<ref name="あゆみ121">『阪神競馬場のあゆみ』p121-128「四歳馬五大クラシック競走の創設」</ref>
<ref name="あゆみ128">『阪神競馬場のあゆみ』p128-149「阪神競馬場の移転」</ref>
<ref name="あゆみ150">『阪神競馬場のあゆみ』p150-177「戦後競馬の再開と阪神競馬場の苦悩」</ref>
<ref name="あゆみ178">『阪神競馬場のあゆみ』p178-198</ref>
<ref name="あゆみ205">『阪神競馬場のあゆみ』p205-208「重賞競走の充実」</ref>
<ref name="50年史16">『阪神競馬場50年史』p16「宝塚記念」</ref>
<ref name="50年史32">『阪神競馬場50年史』p32-35</ref>
<ref name="50年史38">『阪神競馬場50年史』p38-42</ref>
<ref name="50年史44">『阪神競馬場50年史』p44-45</ref>
<ref name="50年史45">『阪神競馬場50年史』p45-46「相次ぐ重賞競走の創設」</ref>
<ref name="競馬史V-290">『日本競馬史』巻5,p290-319</ref>
<ref name="競馬史V-416">『日本競馬史』巻5,p416-425</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞競走成績集 【GI編】|publisher=日本中央競馬会 |year=2006 |pages=839-929|chapter=宝塚記念|ref=中央競馬全重賞競走成績集}}
** 1960年-2005年
* JRA年度別全成績
** (2023年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2023年6月28日}}(索引番号:15095)
** (2022年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-3hanshin4.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2022年6月27日}}(索引番号:17047)
** (2021年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-3hanshin4.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2021年6月28日}}(索引番号:17047)
** (2020年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2020年7月1日}}(索引番号:15095)
** (2019年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2020年6月18日}}(索引番号:16095)
** (2018年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2020年6月18日}}(索引番号:16095)
** (2017年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2017年6月26日}}(索引番号:16095)
** (2016年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2016年6月27日}}(索引番号:16095)
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** (2014年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2014/2014-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2016年06月27日|ref=JRA年度別全成績2014}}(索引番号:16095)
** (2013年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2013/2013-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2020年06月18日|ref=JRA年度別全成績2013}}(索引番号:16095)
** (2012年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2012/2012-3hanshin8.pdf#page=6 |title=第3回 阪神競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2020年06月18日|ref=JRA年度別全成績2012}}(索引番号:15095)
** (2011年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2011/2011-4hanshin4.pdf#page=6 |title=第4回 阪神競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=6|accessdate=2020年06月18日|ref=JRA年度別全成績2011}}(索引番号:18047)
** (2010年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-3hanshin4.pdf#page=10 |title=第3回 阪神競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=10|accessdate=2020年06月18日|ref=JRA年度別全成績2010}}(索引番号:17046)
** (2009年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-3hanshin4.pdf#page=10 |title=第3回 阪神競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=10|accessdate=2020年06月18日|ref=JRA年度別全成績2009}}(索引番号:18046)
** (2008年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2008/2008-3hanshin4.pdf#page=10 |title=第3回 阪神競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|page=10|accessdate=2020年06月18日|ref=JRA年度別全成績2008}}(索引番号:17046)
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** (2002年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/3-han.pdf#page=58 |title=第3回 阪神競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |format=PDF|pages=1770-1771|accessdate=2020年06月18日|ref=JRA年度別全成績2002}}(索引番号:16047)
* netkeiba.comより(最終閲覧日:2022年7月4日)
** {{Netkeiba-raceresult|1962|09030608}}、{{Netkeiba-raceresult|1965|09040809}}、
** {{Netkeiba-raceresult|1975|09030408}}、{{Netkeiba-raceresult|1976|08040609}}、{{Netkeiba-raceresult|1977|09030609}}、{{Netkeiba-raceresult|1978|09030609}}、{{Netkeiba-raceresult|1979|09030609}}、{{Netkeiba-raceresult|1980|07020609}}
** {{Netkeiba-raceresult|1981|09030809}}、{{Netkeiba-raceresult|1982|09030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1983|09030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1984|09030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1985|09030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1986|09030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1987|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1988|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1989|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1990|09040810}}、
** {{Netkeiba-raceresult|1991|08050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|09050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|09030810}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|09030411}}、
** {{Netkeiba-raceresult|2001|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|09030410}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|09030410}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|09030410}}、
** {{Netkeiba-raceresult|2011|09040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|09030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|09030811}}
** {{Netkeiba-raceresult|2021|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|09030411}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|09030811}}
* JBISサーチより(最終閲覧日:2020年7月1日)
** {{JBIS-raceresult|2016|0626|109|11}}、{{JBIS-raceresult|2017|0625|109|11}}、{{JBIS-raceresult|2018|0624|109|11}}、{{JBIS-raceresult|2019|0623|109|11}}、{{JBIS-raceresult|2020|0628|109|11}}
* 『日本の競馬 総合ハンドブック2013』 58頁 発行:一般社団法人中央競馬振興会(1960年〜2012年、馬主名義除く)
====参考文献====
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*『競馬百科』日本中央競馬会・編,みんと・刊,1976
*『阪神競馬場のあゆみ』,阪神競馬場のあゆみ編集委員会,[[日本中央競馬会]] [[阪神競馬場]],1991
*『阪神競馬倶楽部三十年沿革史』(阪神競馬場50年史別冊),[[日本中央競馬会]] [[阪神競馬場]],1999
*『阪神競馬場50年史』,[[日本中央競馬会]] [[阪神競馬場]],1999
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中小企業診断士
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中小企業診断士(ちゅうしょうきぎょうしんだんし)とは、中小企業診断士の登録等及び試験に関する規則(平成12年通商産業省令第192号)に基づき登録された者を指す。この省令の根拠となる中小企業支援法(昭和38年法律第147号)では「中小企業の経営診断の業務に従事する者」とされる。 英名はRegistered Management Consultantである。
「中小企業支援法」に基づく国家資格、もしくは国家登録資格である。近年は資格認定試験ではなく、登録養成機関の認定履修方式による登録資格者が増加傾向にある(登録養成機関による認定者も1次試験は通過している必要がある)。
根拠法である「中小企業支援法」には、業務独占資格(資格がなければ業務を行ってはならない)とする規定はないが、「中小企業支援事業の実施に関する基準を定める省令」において経営の診断又は経営に関する助言を行うものとして中小企業診断士を指定しており、政府および地方自治体が行う経営診断業務を行うものを登録する制度という位置づけになっている。また、中小企業指導法時代はあくまでも公的な診断業務を担うものという位置づけのみであったが、中小企業支援法として改正されたあとは、位置づけに変化が見られ、一定以上の能力を持つ民間コンサルタントを認定する制度という意味合いが強くなっている。
一方、法律上は名称独占資格(資格がなければ名称を使用してはならない)とする規定もないが、一般的には名称独占資格に準じる扱いを受ける場合が多い 。これは法律上の規定がなくても国家登録資格である以上、経済産業省への登録を完了すれば、中小企業診断士の資格名称が担保されることからくるものと思われる。中小企業庁のウェブサイト内でも「中小企業診断士の登録を消除されたものは同資格を名乗ったり、名刺や履歴書に記載することができなくなる」という趣旨の記述がある。
野村総合研究所は、オックスフォード大学の研究者との共同研究として2015年に発表した「コンピュータ技術による人工知能やロボットへの職業代替確率」において、代替可能性が低い100種の職業の1つに選定している。
前述のように経済産業省令で中小企業支援事業における経営診断又は助言を担うものとして規定されていることもあり、中小企業基盤整備機構、商工会議所、都道府県等の中小企業に対する専門家派遣や経営相談、及びそれら中小企業支援機関のプロジェクトマネージャーの募集などには中小企業診断士が条件となっている場合がある。また、これら公的機関からの受注が仕事の柱になっている中小企業診断士も存在する。また、産業廃棄物処理業診断(産業廃棄物処理業者の許可申請に必要となる財務診断)における経理的基礎を有さないと判断する際の診断書の作成は、環境省の通達により中小企業診断士が行うことがほとんどであると考えられる。
位置づけとしては、国や地方自治体、商工会議所の実施する中小企業への経営支援を担う専門家としての側面と民間のコンサルタントとしての2つの側面を持つが、公的な仕事を中心とする診断士と民間業務を中心とする診断士に二極化する傾向があり、公的業務の割合が高い診断士4割程度、民間業務の割合が高い診断士が5割程度、両者半々等が1割程度となっている。
なお、社団法人中小企業診断協会が2005年9月に行った調査によると、中小企業診断士の業務内容の日数は、「経営指導」が27.5%、「講演・教育訓練業務」が21.94%、「診断業務」が19.69%、「調査・研究業務」が12.84%、「執筆業務」が11.56%となっている。
コンサルティング等の各種業務は中小企業診断士でなくとも行うことができる。しかし、診断士登録者には、国や都道府県等が設置する中小企業支援機関に専門家として登録の上で前述の公的な経営支援業務に加われること、経営コンサルタントとしての信用力が向上すること、中小企業診断士のネットワークを活用できることなどのメリットが存在する。
中小企業診断士として独立している者の割合は27.6%(2005年12月時点)、登録者のうちの7割以上は独立開業を行わず、企業内にとどまる「企業内診断士」となっており、弁護士、税理士、不動産鑑定士などの他の士業と比較して独立開業する者の割合が低いのが現状である。また、定年退職まで企業内で勤務し、退職後に独立する「年金診断士」と呼ばれる者もいる。
これらの理由としては、中小企業診断士の試験内容が経営やマーケティング全般におよび、ビジネスパーソンとしての資質向上に直結するため、自己啓発を目的とした登録者が多いこと、また業務の性質上、独立に際しては、相応の実践的スキルが必要になることなどが考えられる。前述した中小企業診断協会の調査でも、中小企業診断士の登録をした動機のトップは「経営全般の勉強等自己啓発、スキルアップを図ることができるから」となっている。また、「企業内診断士」が独立開業を行わない(独立開業を予定していない)理由として経済的不安とともに現在の能力不足が上位に入っている。これらに続く理由として現在の職場に満足していることや、現在に比べて年収が低下することがあげられている。これは、中小企業診断士登録者は大企業勤務者も多く、独立した場合に年収が下がるケースが多いことも原因の一つである。
また実務上、税務相談・法律相談を受けることが多いが「企業内診断士」は銀行・信用金庫などの組織に所属する者が多いため、法律上のリスクがある場合は所属組織の顧問士業者に業務を委託することができるが、「独立開業者」の場合、実務上他の士業者の法律を侵さずに活動するためには、各士業者との連携をできる関係を構築する必要がある。
前述の中小企業診断協会が行った調査によると、コンサルタント業務の稼働日数が100日以上の独立診断士の年収のボリュームゾーンは「501万円から800万円以内」(対象者の19.6%)となっている。なお、「3,001万円以上」を除いた平均は739.3万円である(コンサルティング関連業務のみの年収で他士業兼業者の書類作成・提出代行業務等は含まれない)。
中小企業診断士として登録を受けるには、以下のいずれかの登録要件を満たす必要がある。
登録の有効期間は5年間であり、以下の更新要件をいずれも満たした上で登録の更新が必要となる。
なお、更新要件を満たすことができない場合には、登録の休止を行い、15年以内に一定の要件を満たすことにより再登録が可能である。 (休止期間中であっても業務再開申請可能期間中(15年間)であれば、中小企業診断士としての経営診断の業務を休止している旨を伝えることを条件に、中小企業診断士を名乗ることができる)
中小企業診断士試験は、中小企業支援法第12条の規定に基づき国(経済産業省)が実施する国家試験であり、試験事務は指定試験機関である一般社団法人中小企業診断協会が実施している。
試験は第1次試験と第2次試験に分かれ、1次試験は全国10地区(札幌・仙台・東京・名古屋・金沢・大阪・広島・四国・福岡・那覇)、2次試験は金沢・四国・那覇を除く7つの地区の会場で実施される。那覇が1次試験の会場として追加されたのは2012年からである。金沢・四国は「試験的」に2023年から追加され、四国は2023年は松山だが2024年は高松となる予定で、以後両都市で交互に開催するとしている。
中小試験診断士試験に合格するまでに必要な勉強時間は、約800時間 - 1,000時間とされている。
中小企業診断士となるのに必要な学識を判定するもので、多肢選択式で実施されている。平成18年度からは以下の科目編成となり、科目合格制が導入されている。科目合格の有効期間は3年間である。
1日目
(生産管理・生産技術・店舗運営・ロジスティックス含む)
2日目
第1次試験の一部の科目については、特定の国家試験の合格者に対する免除措置があり、申請によって一部科目の免除を受けることができる。免除科目と対象となる国家資格を以下に記す。
中小企業診断士第1次試験では、平成17年度から正解肢と配点が公表されるようになった。正解肢と配点の発表は、一般社団法人中小企業診断協会のサイト上で試験の翌日もしくは翌々日に行われる(試験実施が土日で、月曜日の午後にアップされる)。
正解肢の公表による試験制度の改善効果としては次のような例がある。平成17年度試験では、「企業経営理論」で問題が成り立っていない、「没問」の存在が明らかとなった。この訂正は、出題の前提となっている社会保険制度の仕組みの認識自体が根本的に誤っており、正解肢発表の時点で同時に没問発表が行われた。 平成18年度試験では「運営管理」で正解肢が2つ存在するという訂正を行った。これは、受験機関であるLEC東京リーガルマインドが抗議を行ったことによって、後日訂正されたものである。
2023年度の第1次試験では、那覇会場が台風6号の接近に伴い、試験を中止することが実施前日の8月4日に中小企業診断協会から発表された。同会場で受験予定だった受験者に対する扱いは決まり次第別途発表するとしていた。2001年に現行の試験制度になって以来、試験の実施中止は初めて。報道によると、那覇会場での受験予定者は約250人だった。受験生の間からは、救済措置を求める意見がSNSなどに寄せられ、オンライン署名活動も起こされたと報じられた。所管となる経済産業大臣の西村康稔は8月6日に自身のX(旧Twitter)アカウントで、「再試験が実施できるよう、試験を運営する中小企業診断協会に検討を指示しました」と記載した。これに対して協会は、8月6日の時点でNHKの取材に「再試験については、問題の作成などに時間と労力がかかり実施するのは困難です。中小企業庁とも協議のうえ近く対応を決めたい」というコメントを寄せていたが、8月8日に「経済産業省の指示により、那覇地区の受験申込者の皆様に対して再試験が実施できるよう 、検討しているところです」という告知をウェブサイト上に発表した。8月12日に経済産業省はウェブサイトで、那覇会場の第1次試験受験者については今年中に再試験を実施すること、それに先だって10月29日に実施される第2次筆記試験の受験資格を特例措置として関係省令を改正した上で与えることを発表した。同月18日に経済産業省は省令改正に関するパブリックコメントを開始し、これを受けて中小企業診断協会は、省令改正後の9月6日に該当者に対して第2次試験の案内を発送することと、第1次試験の再試験は「年内目途に開催できるよう準備を進めて」いることをウェブサイト上で発表した。9月6日に、中小企業診断協会は那覇地区の第1次試験受験申込者に対して、12月23日と24日に再試験を実施すること、それに先だって実施される第2次試験の受験資格を該当者に与えることを正式に発表した。再試験を希望しない受験者に対しては期間を限定して受験料返還の手続きを実施すること、再試験を受験しなくても過去の科目合格有効期間は延長しないこと、那覇地区の第1次再試験合格者の第2次試験受験資格は今年の第2次試験受験に関係なく来年度までであることも併せて発表された。再試験については他地区との公平性を確保するため、得点調整を必要に応じて行うとしている。なお、第2次試験については従来同様那覇地区では実施されない。
第1次試験合格者を対象に、中小企業診断士となるのに必要な応用能力を判定するものであり、筆記試験(事例に関する記述試験)及び口述試験(筆記試験合格者に対する面接試験)の方法で実施される。筆記試験の内容は「紙上診断」であり、第1次試験で試された基礎知識を実務で生かせるか否かが問われる。
筆記試験の受験資格を有するのは前年度と当年度の第1次試験合格者である。すなわち、第1次試験合格から1年余りのうちに第2次試験を合格しなければ、再び第1次試験の受験が必要になる。なお、令和元年度から3年度までの第1次試験合格者のうち、新型コロナウイルス感染症の罹患もしくはその疑いにより第2次試験を受験できなかったことが確認できる場合には、申請により1年の受験期間延長が認められている。
平成12年度以前の制度で第1次試験に合格している者(平成13年度以降に第2次試験を受験した者を除く。また、平成13年度以降の第1次試験に合格し、第2次試験を受験した場合も除く。)については、1回に限り第2次試験の受験または中小企業大学校の養成課程もしくは国に登録された登録養成課程の受講が可能。
なお、第2次試験(筆記試験)は4つの事例問題で構成され、その表題および対象は以下のとおりである。
平成21年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨 平成22年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨 平成23年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨 平成24年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨 平成25年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨 平成26年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨
※1事例ごとに500字~800字の論述式で、計4事例出題される。事例IV(財務・会計)のみ計算問題+論述式。
令和5年度の受験者数と試験合格者は、再試験を実施する那覇地区を含まない実績(申込者数については不明)。
令和5年度の申込者数25,986人は過去最高である。
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中小企業診断士(ちゅうしょうきぎょうしんだんし)とは、中小企業診断士の登録等及び試験に関する規則(平成12年通商産業省令第192号)に基づき登録された者を指す。この省令の根拠となる中小企業支援法(昭和38年法律第147号)では「中小企業の経営診断の業務に従事する者」とされる。
英名はRegistered Management Consultantである。
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{{Law}}
{{複数の問題
|出典の明記=2020年1月18日 (土) 01:42 (UTC)
|独自研究=2020年1月18日 (土) 01:42 (UTC)}}
{{資格
| 名称 = 中小企業診断士
| 英名 = Registered Management Consultant
| 英項名 = Registered Management Consultant
| 略称 =
| 実施国 = {{JPN}}
| 分野 = 経営・労務
| 資格種類 = [[国家資格]]
| 試験形式 = 筆記、養成
| 認定団体 = [[中小企業庁]]
| 後援 =
| 認定開始年月日 =
| 認定終了年月日 =
| 等級・称号 = 中小企業診断士
| 根拠法令 = [[中小企業支援法]]
| 公式サイト = [https://www.chusho.meti.go.jp/shindanshi/ 中小企業庁]
| 特記事項 =
}}
'''中小企業診断士'''(ちゅうしょうきぎょうしんだんし)とは、[[中小企業診断士の登録等及び試験に関する規則]](平成12年通商産業省令第192号)に基づき登録された者を指す。この[[省令]]の根拠となる[[中小企業支援法]](昭和38年法律第147号)では「[[中小企業]]の[[経営]]診断の業務に従事する者」とされる。<!-- 所謂本物の[[経営コンサルタント]]資格である。-->
英名はRegistered Management Consultantである。
== 概要 ==
「中小企業支援法」に基づく[[国家資格]]<ref>{{PDFlink|[http://www.j-smeca.jp/contents/002_c_shindanshiseido/001_what_shindanshi.html 中小企業診断協会 中小企業診断士って何]}}</ref>、もしくは国家登録資格<ref group="注">国が直接、または特別の[[法律]]により設立した民間法人([[特別民間法人]])に委託して試験認定する資格ではなく、登録資格と呼称される。</ref>である。近年は資格認定[[試験]]ではなく、登録養成機関の認定[[履修]]方式による登録資格者が増加傾向にある(登録養成機関による認定者も1次試験は通過している必要がある)<ref group="注">費用的に高額になるため、すでに頭打ちとも言える。</ref>。
根拠法である「中小企業支援法」には、[[業務独占資格]](資格がなければ業務を行ってはならない)とする規定はないが、「中小企業支援事業の実施に関する基準を定める省令」において[[経営]]の診断又は経営に関する助言を行うものとして中小企業診断士を指定しており<ref>{{Cite web|和書|title=中小企業支援事業の実施に関する基準を定める省令|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=338M50000400123|publisher=e-Gov|accessdate=2020-1-18}}</ref>、政府および地方自治体が行う経営診断業務を行うものを登録する制度という位置づけになっている。また、中小企業指導法時代はあくまでも公的な診断業務を担うものという位置づけのみであったが、中小企業支援法として改正されたあとは、位置づけに変化が見られ、一定以上の能力を持つ民間[[コンサルタント]]を認定する制度という意味合いが強くなっている<ref>[http://www.j-smeca.jp/contents/002_c_shindanshiseido/001_what_shindanshi.html 中小企業診断協会 中小企業診断士って何]</ref>。<br />
一方、法律上は[[名称独占資格]](資格がなければ名称を使用してはならない)とする規定もないが、一般的には名称独占資格に準じる扱いを受ける場合が多い<ref group="注">独立行政法人中小企業基盤整備機構のウェブサイト(J-Net21)では名称独占という記述が見られる。[http://j-net21.smrj.go.jp/know/s_hiroba/consul.html]</ref>
。これは法律上の規定がなくても国家登録資格である以上、経済産業省への登録を完了すれば、中小企業診断士の資格名称が担保されることからくるものと思われる。中小企業庁のウェブサイト内でも「中小企業診断士の登録を消除されたものは同資格を名乗ったり、[[名刺]]や[[履歴書]]に記載することができなくなる」という趣旨の記述がある<ref>{{PDFlink|[http://www.chusho.meti.go.jp/shindanshi/download/120705ShindanshiFAQ.pdf 中小企業診断士制度のQ&A集]}}</ref>。
[[野村総合研究所]]は、[[オックスフォード大学]]の研究者との共同研究として2015年に発表した「コンピュータ技術による人工知能やロボットへの職業代替確率」において、代替可能性が低い100種の職業の1つに選定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/news/newsrelease/cc/2015/151202_1.pdf|title=日本の労働人口の 49%が人工知能やロボット等で代替可能に|date=2015-12-02|access-date=2022-11-04 |publisher=野村総合研究所 |page=5|format=PDF}}</ref>。
== 業務等 ==
=== 業務概要 ===
前述のように経済産業省令で中小企業支援事業における経営診断又は助言を担うものとして規定されていることもあり、[[中小企業基盤整備機構]]、[[商工会議所]]、都道府県等の[[中小企業]]に対する専門家派遣や経営相談、及びそれら中小企業支援機関のプロジェクトマネージャーの募集などには中小企業診断士が条件となっている場合がある。また、これら公的機関からの受注が仕事の柱になっている中小企業診断士も存在する。また、産業廃棄物処理業診断(産業廃棄物処理業者の許可申請に必要となる財務診断)における経理的基礎を有さないと判断する際の診断書の作成は、環境省の通達により中小企業診断士が行うことがほとんどであると考えられる。
位置づけとしては、国や地方自治体、商工会議所の実施する中小企業への経営支援を担う専門家としての側面と民間のコンサルタントとしての2つの側面を持つが、公的な仕事を中心とする診断士と民間業務を中心とする診断士に二極化する傾向があり、公的業務の割合が高い診断士4割程度、民間業務の割合が高い診断士が5割程度、両者半々等が1割程度となっている<ref> [http://j-net21.smrj.go.jp/know/s_hiroba/data2011/p04.html#q15 データでみる中小企業診断士] - 2011年1月の社団法人中小企業診断協会アンケート調査結果</ref>。
なお、[[社団法人]][[中小企業診断協会]]が2005年9月に行った調査によると、中小企業診断士の業務内容の日数は、「経営指導」が27.5%、「講演・教育訓練業務」が21.94%、「診断業務」が19.69%、「調査・研究業務」が12.84%、「執筆業務」が11.56%となっている。
[[コンサルティング]]等の各種業務は中小企業診断士でなくとも行うことができる。しかし、診断士登録者には、国や都道府県等が設置する中小企業支援機関に専門家として登録の上で前述の公的な経営支援業務に加われること、[[経営コンサルタント]]としての信用力が向上すること、中小企業診断士のネットワークを活用できることなどのメリットが存在する。
=== 独立開業者の割合 ===
中小企業診断士として独立している者の割合は27.6%(2005年12月時点)、登録者のうちの7割以上は独立開業を行わず、企業内にとどまる「企業内診断士」となっており、弁護士、税理士、不動産鑑定士などの他の[[士業]]と比較して[[独立開業]]する者の割合が低いのが現状である。また、定年退職まで企業内で勤務し、退職後に独立する「年金診断士」と呼ばれる者もいる。
これらの理由としては、中小企業診断士の試験内容が[[経営]]や[[マーケティング]]全般におよび、[[ビジネスパーソン]]としての資質向上に直結するため、自己啓発を目的とした登録者が多いこと、また業務の性質上、独立に際しては、相応の実践的スキルが必要になることなどが考えられる。前述した中小企業診断協会の調査でも、中小企業診断士の登録をした動機のトップは「経営全般の勉強等自己啓発、スキルアップを図ることができるから」となっている。また、「企業内診断士」が独立開業を行わない(独立開業を予定していない)理由として経済的不安とともに現在の能力不足が上位に入っている。<br />これらに続く理由として現在の職場に満足していることや、現在に比べて年収が低下することがあげられている。これは、中小企業診断士登録者は大企業勤務者も多く、独立した場合に年収が下がるケースが多いことも原因の一つである。
また実務上、税務相談・法律相談を受けることが多いが「企業内診断士」は銀行・信用金庫などの組織に所属する者が多いため、法律上のリスクがある場合は所属組織の顧問士業者に業務を委託することができるが、「独立開業者」の場合、実務上他の士業者の法律を侵さずに活動するためには、各士業者との連携をできる関係を構築する必要がある。
=== 収入 ===
前述の[[中小企業診断協会]]が行った調査によると、コンサルタント業務の稼働日数が100日以上の独立診断士の年収の[[ボリュームゾーン]]は「501万円から800万円以内」(対象者の19.6%)となっている。なお、「3,001万円以上」を除いた平均は739.3万円である(コンサルティング関連業務のみの年収で他士業兼業者の書類作成・提出代行業務等は含まれない)。
== 沿革 ==
*1952年(昭和27年) - [[通商産業省]]により'''中小企業診断員登録制度'''が創設される。
*1963年(昭和38年) - [[中小企業指導法]](現行の[[中小企業支援法]])が制定され、国や都道府県が行う中小企業指導事業に協力する者として中小企業診断員の位置付けを法定化(第6条)。ただし、法律上はあくまでも[[通商産業大臣]]が登録を行うことのみを定めており、具体的な内容は「中小企業指導事業の実施に関する基準を定める[[省令]](指導法基準省令)」(昭和38年通商産業省令第123号)第4条に、試験についてはさらに[[通商産業省]]告示で定める登録規則に根拠を置いていた。
*1969年(昭和44年) - 中小企業診断員を'''中小企業診断士'''に改称。
*1986年(昭和61年) - 従来、商業と工鉱業の二つであった登録部門に「情報」を追加。
*2000年(平成12年) - [[中小企業指導法]]の大幅改正(このとき、表題を「[[中小企業支援法]]」に変更)により、以下のとおり大きな制度改革を実施。
**中小企業診断士の位置付けを「国や都道府県が行う中小企業指導事業に協力する者」から「[[中小企業]]の経営診断の業務に従事する者」に変更
**登録の根拠条文の独立化(第11条)
**試験の根拠規定の創設(第12条)
**あわせて、指導法基準省令の大幅改正(現行表題は、「中小企業支援事業の実施に関する基準を定める省令(支援法基準省令)」)と、新たな試験について「中小企業診断士の登録等及び試験に関する規則(登録等規則)」(平成12年[[通商産業省]]令第192号)を制定。登録部門の区分はなくなり、一本化された。
**第1次試験を選択式(マークシート)とし、第2次試験を筆記試験(事例問題)及び口述試験として、第3次試験(実習)を試験合格後の実務補習に移行
*2001年(平成13年) - 制度改正後初の中小企業診断士試験を実施。
*2005年(平成17年) - 新試験制度5年経過にあわせて見直しを実施するため支援法基準省令及び登録等規則の改正が行われた。
**第1次試験に科目合格制(3年間有効)、一部科目の第2次試験への移行及び合格基準の弾力化措置を導入
**従来[[中小企業大学校]]のみに設置されていた中小企業診断士養成課程を民間の登録養成機関にも開放するとともに、養成課程受講資格に第1次試験合格を必須化(いわゆる「第1次試験の共通一次化」)
**更新要件のうち実務の従事要件の強化及び登録休止・再登録制度を導入
*2006年(平成18年) - 見直し後初の中小企業診断士試験を実施。
== 登録要件 ==
中小企業診断士として登録を受けるには、以下のいずれかの登録要件を満たす必要がある。
*中小企業診断士第2次試験に合格した後3年以内に、実務従事要件を満たすか、登録実務補習機関における実務補習(15日間)を受講し修了すること。
**2015年7月現在の登録実務補習機関は、[[一般社団法人]][[中小企業診断協会]]である。
*中小企業診断士第1次試験に合格した年度及びその翌年度に、[[独立行政法人]][[中小企業基盤整備機構]][[中小企業大学校]]又は登録養成機関が開講する中小企業診断士養成課程の受講を開始し、修了すること。
**[[中小企業大学校]]における平成22年度の養成課程の開講は、東京校(東京都東大和市)に限られる。平成19年度に関西校(兵庫県福崎町)においても開講する予定であったが、未だ調整中(延期見込)。
**2019年1月現在の登録養成機関は、以下の通り。
***[[法政大学]][[大学院]]イノベーション・マネジメント研究科(東京都千代田区)
***[[公益財団法人]][[日本生産性本部]](東京都渋谷区)
***[[株式会社]][[日本マンパワー]](東京都千代田区)
***[[名古屋商科大学]][[大学院]]マネジメント研究科(愛知県名古屋市・東京都千代田区・大阪府大阪市)
***[[一般社団法人]][[中部産業連盟]](愛知県名古屋市)
***[[東海学園大学]][[大学院]]経営学研究科(愛知県みよし市・名古屋市)
***[[東洋大学]][[大学院]]経営学研究科(東京都文京区。平成22年4月から開講)
***[[千葉商科大学]][[大学院]]商学・経済学・政策情報学研究科合同コース(千葉県市川市。平成22年3月から開講)
***[[兵庫県立大学]][[大学院]]経営研究科(神戸市西区。平成22年3月から開講)
***[[城西国際大学]][[大学院]]経営情報学研究科(東京都千代田区。平成23年3月から開講)
***[[日本工業大学]][[大学院]]技術経営研究科(東京都千代田区)
***[[大阪経済大学]]中小企業診断士養成課(大阪府中央区。平成31年2月から開講<ref>[https://www.osaka-ue.ac.jp/life/chushoukigyoushindanshi/ 大阪で初となる中小企業診断士の登録養成機関を設置し、仕事を続けながら学べる1年制の登録養成課程を2019年2月に開講します]</ref>)
***[[札幌商工会議所]](北海道札幌市)
=== 更新要件 ===
登録の有効期間は5年間であり、以下の更新要件をいずれも満たした上で登録の更新が必要となる。
*新しい知識の補充に関する要件(5年間で5回。理論政策更新研修、論文審査等による。)
*実務の従事要件(5年間で30日以上。)
なお、更新要件を満たすことができない場合には、登録の休止を行い、15年以内に一定の要件を満たすことにより再登録が可能である。
(休止期間中であっても業務再開申請可能期間中(15年間)であれば、中小企業診断士としての経営診断の業務を休止している旨を伝えることを条件に、中小企業診断士を名乗ることができる)
== 試験 ==
中小企業診断士試験は、[[中小企業支援法]]第12条の規定に基づき国([[経済産業省]])が実施する[[国家試験]]であり、試験事務は指定試験機関である[[一般社団法人]][[中小企業診断協会]]が実施している。
試験は第1次試験と第2次試験に分かれ、1次試験は全国10地区(札幌・仙台・東京・名古屋・金沢・大阪・広島・四国・福岡・那覇)<ref name="smeca230315">[https://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_r05_shiken/R05_1ji_shiken_about.html 令和5年度中小企業診断士第1次試験について(試験案内の概要)] - 中小企業診断協会(2023年3月15日)2023年8月6日閲覧。</ref>、2次試験は金沢・四国・那覇を除く7つの地区の会場で実施される。那覇が1次試験の会場として追加されたのは2012年からである。金沢・四国は「試験的」に2023年から追加され、四国は2023年は[[松山市|松山]]だが2024年は[[高松市|高松]]となる予定で、以後両都市で交互に開催するとしている<ref name="smeca230315"/>。
中小試験診断士試験に合格するまでに必要な勉強時間は、約800時間 - 1,000時間とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsuku.jp/sikaku/?p=8432 |title=中小企業診断士に合格できる勉強時間とは?勉強方法についても解説! |access-date=2022-11-04 |publisher=株式会社オンラインスクール}}</ref>。
=== 第1次試験 ===
中小企業診断士となるのに必要な学識を判定するもので、多肢選択式で実施されている。平成18年度からは以下の科目編成となり、科目合格制が導入されている。科目合格の有効期間は3年間である。
'''1日目'''
*[[経済学]]・[[経済政策]]:60分
*[[財務#企業における財務|財務]]・[[会計学|会計]]:60分
*[[経営学|企業経営理論]]:90分
*運営管理(オペレーション・マネジメント):90分
([[生産管理]]・[[生産技術]]・店舗運営・[[ロジスティクス|ロジスティックス]]含む)
'''2日目'''
*[[企業法務|経営法務]]:60分
*[[経営情報システム]]:60分
*中小企業経営・中小企業政策:90分
==== 科目免除 ====
第1次試験の一部の科目については、特定の[[国家試験]]の合格者に対する免除措置があり、申請によって一部科目の免除を受けることができる。免除科目と対象となる[[国家資格]]を以下に記す。
;経済学・経済政策
*[[公認会計士試験]]の論文試験において[[経済学]]を選択して合格した者
*[[不動産鑑定士]]または不動産鑑定士補の資格を有する者
*[[経済学博士]]の称号を有する者
*[[大学]]等の[[経済学]]の[[教授]]・[[准教授]]・[[助教授]]を通算3年以上務めた者
;財務・会計
*[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]または会計士補の資格を有する者
*[[税理士]]資格を有する者
;経営法務
*[[弁護士]]資格を有する者
;経営情報システム
*[[技術士情報工学部門]]の資格を有する者
*[[情報処理技術者試験]]のうち、一部の区分([[ITストラテジスト試験]]、[[プロジェクトマネージャ試験]]、[[システムアーキテクト試験]]、[[システム監査技術者試験]]、[[応用情報技術者試験]]のうちのいずれか)の合格者。
**ITストラテジスト試験の前身である[[システムアナリスト試験]]でも代用可能。ただし、[[上級システムアドミニストレータ試験]](上級シスアド)は対象外。
**システムアーキテクト試験は[[アプリケーションエンジニア試験]]および[[特種情報処理技術者試験]]でも代用可能。ただし[[プロダクションエンジニア試験]]での代用はできない。
**[[情報処理システム監査技術者試験]]の合格者も、システム監査技術者試験の合格者と同等の扱いとする。
**応用情報技術者試験の前身である[[ソフトウェア開発技術者試験]]および[[第一種情報処理技術者試験]]の合格者も、応用情報の合格者と同等の扱いとする。ただし、第一種情報処理技術者認定試験は対象外とする。
**[[ネットワークスペシャリスト試験]]、[[データベーススペシャリスト試験]]、[[エンベデッドシステムスペシャリスト試験]]、[[情報セキュリティスペシャリスト試験]]、[[ITサービスマネージャ試験]]、[[基本情報技術者試験]]、[[初級システムアドミニストレータ試験]](初級シスアド)、[[情報セキュリティアドミニストレータ試験]](情報セキュアド)、[[情報セキュリティマネジメント試験]]、[[ITパスポート試験]]は科目免除の対象外である。これは前身に相当する区分も同様である(例:第二種情報処理技術者試験は基本情報技術者試験と同等の試験として扱う。)。
***情報セキュリティスペシャリスト試験の後継資格である[[情報処理安全確保支援士]](登録情報セキュリティスペシャリスト)も、科目免除の対象外である。
==== 第1次試験に関する正解・配点の公表等 ====
中小企業診断士第1次試験では、平成17年度から正解肢と配点が公表されるようになった。正解肢と配点の発表は、[[一般社団法人]][[中小企業診断協会]]のサイト上で試験の翌日もしくは翌々日に行われる(試験実施が土日で、月曜日の午後にアップされる)。
正解肢の公表による試験制度の改善効果としては次のような例がある。平成17年度試験では、「企業経営理論」で問題が成り立っていない、「没問」の存在が明らかとなった。この訂正は、出題の前提となっている社会保険制度の仕組みの認識自体が根本的に誤っており、正解肢発表の時点で同時に没問発表が行われた。
平成18年度試験では「運営管理」で正解肢が2つ存在するという訂正を行った。これは、受験機関であるLEC東京リーガルマインドが抗議を行ったことによって、後日訂正されたものである。
==== 台風による第1次試験中止 ====
2023年度の第1次試験では、那覇会場が[[令和5年台風第6号|台風6号]]の接近に伴い、試験を中止することが実施前日の8月4日に中小企業診断協会から発表された<ref name="smeca230804">[https://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_r05_shiken/R05_1ji_shiken_naha.html#:~:text=%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%95%E6%97%A5(%E5%9C%9F%E6%9B%9C%E6%97%A5,%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E7%94%B3%E3%81%97%E8%A8%B3%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%80%82 【重要なお知らせ】那覇地区における令和5年度中小企業診断士第1次試験の受験者の皆さまへ] - 中小企業診断協会(2023年8月4日)2023年8月6日閲覧。</ref>。同会場で受験予定だった受験者に対する扱いは決まり次第別途発表するとしていた<ref name="smeca230804"/>。2001年に現行の試験制度になって以来、試験の実施中止は初めて<ref name="nhk">{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230806/k10014155201000.html|title=中小企業診断士1次試験 那覇の会場 台風で中止に 救済求める声|newspaper=[[NHK沖縄放送局]]|date=2023-08-06|accessdate=2023-08-07}}</ref>。報道によると、那覇会場での受験予定者は約250人だった<ref name="ot">{{Cite news|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1200507|title=資格試験中止に落胆 中小企業診断士 那覇地区の250人|newspaper=[[沖縄タイムス]]|date=2023-08-07|accessdate=2023-08-07}}</ref>。受験生の間からは、救済措置を求める意見がSNSなどに寄せられ、オンライン署名活動も起こされたと報じられた<ref name="nhk"/><ref name="ot"/><ref>{{Cite news|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1760969.html|title=「あまりにひどい」年1度の試験が沖縄だけ取りやめ 中小企業診断士 受験者ら落胆の声、ネット署名も 台風6号|newspaper=[[琉球新報]]|date=2023-08-06|accessdate=2023-08-07}}</ref>。所管となる[[経済産業大臣]]の[[西村康稔]]は8月6日に自身のX(旧Twitter)アカウントで、「再試験が実施できるよう、試験を運営する中小企業診断協会に検討を指示しました」と記載した<ref name="nhk"/><ref name="ot"/><ref>{{Cite tweet|author=西村康稔 |user=nishy03 |number=1687841465714835456 |title=2023年8月6日のツイート |date=2023-08-06 |accessdate=2023-08-06}}</ref>。これに対して協会は、8月6日の時点でNHKの取材に「再試験については、問題の作成などに時間と労力がかかり実施するのは困難です。中小企業庁とも協議のうえ近く対応を決めたい」というコメントを寄せていたが<ref name="nhk"/>、8月8日に「経済産業省の指示により、那覇地区の受験申込者の皆様に対して再試験が実施できるよう 、検討しているところです」という告知をウェブサイト上に発表した<ref>[https://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_r05_shiken/R05_1ji_shiken_naha2.html 【重要なお知らせ】那覇地区における令和5年度中小企業診断士第1次試験の受験申込者の皆様へ] - 中小企業診断協会(2023年8月8日)2023年8月18日閲覧。</ref>。8月12日に経済産業省はウェブサイトで、那覇会場の第1次試験受験者については今年中に再試験を実施すること、それに先だって10月29日に実施される第2次筆記試験の受験資格を特例措置として関係省令を改正した上で与えることを発表した<ref>[https://www.meti.go.jp/press/2023/08/20230812003/20230812003.html 中小企業診断士試験の再試験の実施について] - 経済産業省(2023年8月12日)2023年8月21日閲覧。</ref>。同月18日に経済産業省は省令改正に関する[[パブリックコメント]]を開始し、これを受けて中小企業診断協会は、省令改正後の9月6日に該当者に対して第2次試験の案内を発送することと、第1次試験の再試験は「年内目途に開催できるよう準備を進めて」いることをウェブサイト上で発表した<ref>[https://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_r05_shiken/R05_1ji_shiken_naha3.html 8月18日【重要なお知らせ】那覇地区における令和5年度中小企業診断士第1次試験の受験申込者の皆様へ] - 中小企業診断協会(2023年8月18日)2023年8月29日閲覧。</ref>。9月6日に、中小企業診断協会は那覇地区の第1次試験受験申込者に対して、12月23日と24日に再試験を実施すること、それに先だって実施される第2次試験の受験資格を該当者に与えることを正式に発表した<ref name="jsmca230906">{{PDFlink|[https://www.j-smeca.jp/attach/test/r05/naha-oshirase.pdf 令和5年度中小企業診断士第1次試験を那覇地区で受験申込をされた皆様へ]}} - 中小企業診断協会(2023年9月6日)2023年9月10日閲覧。</ref>。再試験を希望しない受験者に対しては期間を限定して受験料返還の手続きを実施すること、再試験を受験しなくても過去の科目合格有効期間は延長しないこと、那覇地区の第1次再試験合格者の第2次試験受験資格は今年の第2次試験受験に関係なく来年度までであることも併せて発表された<ref name="jsmca230906"/>。再試験については他地区との公平性を確保するため、得点調整を必要に応じて行うとしている<ref name="jsmca230906"/>。なお、第2次試験については従来同様那覇地区では実施されない<ref name="jsmeca230825">[https://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_r05_shiken/R05_2ji_shiken_about.html 令和5年度中小企業診断士第2次試験について] - 中小企業診断協会(2023年8月25日)2023年9月10日閲覧。</ref>。
=== 第2次試験 ===
第1次試験合格者を対象に、中小企業診断士となるのに必要な応用能力を判定するものであり、'''筆記試験'''(事例に関する記述試験)及び'''口述試験'''(筆記試験合格者に対する面接試験)の方法で実施される。筆記試験の内容は「紙上診断」であり、第1次試験で試された基礎知識を実務で生かせるか否かが問われる。
筆記試験の受験資格を有するのは前年度と当年度の第1次試験合格者である。すなわち、第1次試験合格から1年余りのうちに第2次試験を合格しなければ、再び第1次試験の受験が必要になる。なお、令和元年度から3年度までの第1次試験合格者のうち、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の罹患もしくはその疑いにより第2次試験を受験できなかったことが確認できる場合には、申請により1年の受験期間延長が認められている<ref>[https://www.chusho.meti.go.jp/shindanshi/2020/200821shindanshi.html 令和2年度の中小企業診断士第2次試験の実施について] - 中小企業庁(2020年8月21日)2023年9月10日閲覧。</ref><ref name="jsmeca230825"/>。
平成12年度以前の制度で第1次試験に合格している者(平成13年度以降に第2次試験を受験した者を除く。また、平成13年度以降の第1次試験に合格し、第2次試験を受験した場合も除く。)については、1回に限り第2次試験の受験または[[中小企業大学校]]の養成課程もしくは国に登録された登録養成課程の受講が可能。
なお、第2次試験(筆記試験)は4つの事例問題で構成され、その表題および対象は以下のとおりである。
*中小企業の診断及び助言に関する実務の事例 I (組織(人事を含む)):80分
*中小企業の診断及び助言に関する実務の事例 II (マーケティング・流通):80分
*中小企業の診断及び助言に関する実務の事例 III (生産・技術):80分
*中小企業の診断及び助言に関する実務の事例 IV (財務・会計):80分
'''[http://www.j-smeca.jp/contents/007_c_shiken/010_c_h21_shiken/H21_2ji_shushi.html 平成21年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨]'''
'''[http://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_h22_shiken/H22_2ji_shushi.html 平成22年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨]'''
'''[http://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_h23_shiken/H23_2ji_shushi.html 平成23年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨]'''
'''[http://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_h24_shiken/H24_2ji_shushi.html 平成24年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨]'''
'''[http://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_h25_shiken/H25_2ji_shushi.html 平成25年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨]'''
'''[http://www.j-smeca.jp/contents/010_c_/010_c_h26_shiken/H26_2ji_shushi.html 平成26年度第2次試験(筆記試験)出題の趣旨]'''
※1事例ごとに500字~800字の論述式で、計4事例出題される。事例IV(財務・会計)のみ計算問題+論述式。
=== 過去の試験合格率の推移 ===
==== 第1次試験 ====
令和5年度の受験者数と試験合格者は、再試験を実施する那覇地区を含まない実績(申込者数については不明)。
{|class="wikitable" border="1"
!年度!!申込者数(人)!!受験者数(人)!!試験合格者(人)!!試験合格率(%)
|-
|平成13年度
|align="right"|10,025
|align="right"|8,837
|align="right"|4,529
|align="right"|51.3
|-
|平成14年度
|align="right"|12,447
|align="right"|10,572
|align="right"|3,355
|align="right"|31.7
|-
|平成15年度
|align="right"|14,692
|align="right"|12,449
|align="right"|2,021
|align="right"|16.2
|-
|平成16年度
|align="right"|15,131
|align="right"|12,554
|align="right"|1,970
|align="right"|15.7
|-
|平成17年度
|align="right"|13,476
|align="right"|11,000
|align="right"|2,445
|align="right"|22.2
|-
|平成18年度
|align="right"|16,595
|align="right"|12,542
|align="right"|2,791
|align="right"|22.3
|-
|平成19年度
|align="right"|16,845
|align="right"|12,776
|align="right"|2,418
|align="right"|18.9
|-
|平成20年度
|align="right"|17,934
|align="right"|13,564
|align="right"|3,173
|align="right"|23.4
|-
|平成21年度
|align="right"|20,054
|align="right"|15,056
|align="right"|3,629
|align="right"|24.1
|-
|平成22年度
|align="right"|21,309
|align="right"|15,922
|align="right"|2,533
|align="right"|15.9
|-
|平成23年度
|align="right"|21,145
|align="right"|15,803
|align="right"|2,590
|align="right"|16.4
|-
|平成24年度
|align="right"|20,210
|align="right"|14,981
|align="right"|3,519
|align="right"|23.5
|-
|平成25年度
|align="right"|20,005
|align="right"|14,252
|align="right"|3,094
|align="right"|21.7
|-
|平成26年度
|align="right"|19,538
|align="right"|13,805
|align="right"|3,207
|align="right"|23.2
|-
|平成27年度
|align="right"|18,361
|align="right"|13,186
|align="right"|3,426
|align="right"|26.0
|-
|平成28年度
|align="right"|19,444
|align="right"|13,605
|align="right"|2,404
|align="right"|17.7
|-
|平成29年度
|align="right"|20,118
|align="right"|14,343
|align="right"|3,106
|align="right"|21.7
|-
|平成30年度
|align="right"|20,116
|align="right"|13,773
|align="right"|3,236
|align="right"|23.5
|-
|令和元年度
|align="right"|21,163
|align="right"|14,691
|align="right"|4,444
|align="right"|30.2
|-
|令和2年度
|align="right"|20,169
|align="right"|11,785
|align="right"|5,005
|align="right"|42.5
|-
|令和3年度
|align="right"|24,495
|align="right"|16,057
|align="right"|5,839
|align="right"|36.4
|-
|令和4年度
|align="right"|24,778
|align="right"|17,345
|align="right"|5,019
|align="right"|28.9
|-
|令和5年度
|align="right"|25,986
|align="right"|18,621
|align="right"|5,521
|align="right"|29.6
|-
|colspan="5"|注 試験合格者に科目合格者は含まれない。また、平成18年度以降の受験者数は欠席科目がない受験者である。
|}
令和5年度の申込者数25,986人は過去最高である。
==== 第2次試験 ====
{|class="wikitable" border="1"
!年度!!申込者数(人)!!受験者数(人)!!筆記合格者(人)!!試験合格者(人)!!試験合格率(%)
|-
|平成13年度
|align="right"|5,976
|align="right"|5,872
|align="right"|628
|align="right"|627
|align="right"|10.7
|-
|平成14年度
|align="right"|6,549
|align="right"|6,394
|align="right"|651
|align="right"|638
|align="right"|10.0
|-
|平成15年度
|align="right"|4,281
|align="right"|4,186
|align="right"|714
|align="right"|707
|align="right"|16.9
|-
|平成16年度
|align="right"|3,237
|align="right"|3,189
|align="right"|648
|align="right"|646
|align="right"|20.3
|-
|平成17年度
|align="right"|3,646
|align="right"|3,589
|align="right"|704
|align="right"|702
|align="right"|19.6
|-
|平成18年度
|align="right"|4,131
|align="right"|4,014
|align="right"|806
|align="right"|805
|align="right"|20.1
|-
|平成19年度
|align="right"|4,060
|align="right"|3,947
|align="right"|800
|align="right"|799
|align="right"|20.2
|-
|平成20年度
|align="right"|4,543
|align="right"|4,412
|align="right"|877
|align="right"|875
|align="right"|19.8
|-
|平成21年度
|align="right"|5,489
|align="right"|5,331
|align="right"|955
|align="right"|951
|align="right"|17.8
|-
|平成22年度
|align="right"|4,896
|align="right"|4,736
|align="right"|927
|align="right"|925
|align="right"|19.5
|-
|平成23年度
|align="right"|4,142
|align="right"|4,003
|align="right"|794
|align="right"|790
|align="right"|19.7
|-
|平成24年度
|align="right"|5,032
|align="right"|4,878
|align="right"|1,220
|align="right"|1,220
|align="right"|25.0
|-
|平成25年度
|align="right"|5,078
|align="right"|4,907
|align="right"|915
|align="right"|910
|align="right"|18.5
|-
|平成26年度
|align="right"|5,058
|align="right"|4,885
|align="right"|1,190
|align="right"|1,185
|align="right"|24.3
|-
|平成27年度
|align="right"|5,130
|align="right"|4,941
|align="right"|944
|align="right"|944
|align="right"|19.1
|-
|平成28年度
|align="right"|4,539
|align="right"|4,394
|align="right"|842
|align="right"|842
|align="right"|19.2
|-
|平成29年度
|align="right"|4,453
|align="right"|4,279
|align="right"|830
|align="right"|828
|align="right"|19.4
|-
|平成30年度
|align="right"|4,978
|align="right"|4,812
|align="right"|906
|align="right"|905
|align="right"|18.8
|-
|令和元年度
|align="right"|6,161
|align="right"|5,954
|align="right"|1,091
|align="right"|1,088
|align="right"|18.3
|-
|令和2年度
|align="right"|7,082
|align="right"|6,388
|align="right"|1,175
|align="right"|1,174
|align="right"|18.4
|-
|令和3年度
|align="right"|9,190
|align="right"|8,757
|align="right"|1,605
|align="right"|1,600
|align="right"|18.3
|-
|令和4年度
|align="right"|9,110
|align="right"|8,712
|align="right"|1,632
|align="right"|1,625
|align="right"|18.7
|-
|colspan="6"|注 平成18年度以降の受験者数は欠席科目がない者(有効数)。
|}
== 特典 ==
*2019年(平成31年)度より、以下のいずれかの条件を満たす者は、[[技術士経営工学部門|技術士試験(経営工学部門)]]の第一次試験専門科目の受験が免除される<ref>[https://www.engineer.or.jp/c_topics/005/005699.html 平成31年度技術士試験の試験方法の改正についてのQ&A|公益社団法人 日本技術士会]</ref>。
**中小企業診断士登録者
**中小企業診断士の養成課程又は登録養成課程を修了した者。有効期間は当該修了日から3年以内。
**中小企業診断士試験の[[#第2次試験|第二次試験]]に合格した者。有効期間は当該合格日から3年以内。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[日本の法律・会計に関する資格一覧]]
*[[日本の情報に関する資格一覧]]
*[[日本中小企業学会]]
== 外部リンク ==
*[https://www.j-smeca.jp/ 一般社団法人中小企業診断協会]
*[https://www.chusho.meti.go.jp/shindanshi/ 中小企業診断士関連情報] - 中小企業庁
*[https://www.smrj.go.jp/ 独立行政法人中小企業基盤整備機構]
{{経済産業省所管の資格・試験}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうしようききようしんたんし}}
[[Category:日本の国家資格 (法律・会計)]]
[[Category:日本の中小企業]]
[[Category:日本の経営コンサルタント|+]]
[[Category:企業支援]]
[[Category:中小企業診断士|*]]
[[Category:ITマネジメント関連資格]]
[[Category:ビジネススキル関連資格]]
|
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|
10,404 |
ノルム
|
解析学において、ノルム (英: norm, 独: Norm) は、平面あるいは空間における幾何学的ベクトルの "長さ" の概念の一般化であり、ベクトル空間に対して「距離」を与えるための数学の道具である。ノルムの定義されたベクトル空間を線型ノルム空間または単にノルム空間という。
K を実数体 R または複素数体 C(あるいは絶対値を備えた任意の位相体)とし、K 上のベクトル空間 V を考える。このとき任意の a ∈ K と任意の u, v ∈ V に対して、
を満たす関数 ‖ • ‖: V → R; x ↦ ‖ x ‖ を V のノルムと呼ぶ。ベクトル空間 V と V 上のノルム ‖ • ‖ との組 (V, ‖ • ‖) を、ノルム ‖ • ‖ を備えたベクトル空間あるいは簡単にノルム付きの線型空間、ノルム空間などと呼び、紛れのおそれの無い場合はノルムを省略して単に V で表す。なお、‖ v ‖ ≥ 0(正定値性)を定義の内に含めることが多いが、この性質は以下のように定理として導くことができる。左から順に、独立性、劣加法性、斉次性を用いている。
∀ v ∈ V , 0 = ‖ o ‖ = ‖ ( 1 2 − 1 2 ) v ‖ ≤ ‖ 1 2 v ‖ + ‖ − 1 2 v ‖ = | 1 2 | ‖ v ‖ + | − 1 2 | ‖ v ‖ = ‖ v ‖ . {\displaystyle \forall v\in V,0=\lVert o\rVert =\left\Vert \left({\frac {1}{2}}-{\frac {1}{2}}\right)v\right\Vert \leq \left\Vert {\frac {1}{2}}v\right\Vert +\left\Vert -{\frac {1}{2}}v\right\Vert =\left\vert {\frac {1}{2}}\right\vert \lVert v\rVert +\left\vert -{\frac {1}{2}}\right\vert \lVert v\rVert =\lVert v\rVert .}
ノルムの定義から独立性を除いたものを満足する函数 p: V → R を半ノルム (semi-norm) と呼ぶ。
成分が実数あるいは複素数であるベクトル x = (x1, x2, ..., xn) を考える。今 |•| を実数あるいは複素数の絶対値とすると、
などはノルムの条件を満たす。 一般に 1 ≤ p < ∞ に対して
を p次平均ノルムまたは p-ノルムと呼ぶ。この呼称を用いるならば、ユークリッドノルムは 2-ノルムである。また最大値ノルムはこの p-ノルムの p → ∞ としたときの自然な極限であると見なされるので、∞ノルム(無限大ノルム)とも呼ばれる。
また特に次元が n = 1 のときを考えれば、任意の 1 ≤ p < ∞ について
であり、絶対値 |•| 自身が実数あるいは複素数の1次元ベクトルにおけるノルムの例になっている。
なお、p が 1 未満に対しては、p-ノルムを定義しない。
数列(可算無限次元のベクトル)x = (xn)n=1,2,... に対しても、p-ノルムあるいは l-ノルム(lp-ノルム)
や、上限ノルム、∞-ノルム、l-ノルム(l∞-ノルム)
などが定義される。また、関数を連続的な添字をもつ非可算無限次元のベクトルと見なせば、和を積分に置き換えて、高々可算な場合と同様に p-ノルムなどを考えることができる。集合 X 上で定義される関数 f(x) に対して p-ノルム(L-ノルム)は
が定義される。また ∞-ノルム(L-ノルム)が
によって定義される。ただし、ルベーグ積分を扱っている文脈では
とする方が自然である。ess sup は本質的上限と呼ばれる値である(測度零の集合における例外を除いて上界となる値の下限)。関数解析学などでは、有界線型作用素(連続な線型写像)の作用素ノルム (operator norm) と呼ばれるノルム
も重要である。
二つのノルム空間 (X, ‖•‖X), (Y, ‖•‖Y) が与えられたとき、直積空間 X × Y には
でノルムが定まる。
ノルム空間 (Z, ‖•‖Z) が与えられたとき、ベクトル空間 W と単射な線型作用素 f: W → Z に対して
は W のノルムとなる。
ベクトル空間 V が半ノルム p を持つとき、部分空間 V := {v ∈ V | p(v) = 0} による商空間 V := V/V は、π: V → V を自然な射影として
となるようなノルムを備える。
ノルム空間 V のノルム p = ‖•‖ に対し、2変数の実数値関数 dp : V × V → R を
で定めて、dp をノルム ‖•‖ の定めるまたは誘導する距離という。dp が V の距離函数を定めることはノルムの定義から直ちに分かる。距離空間 (V, dp) の位相をノルム ‖•‖ の定めるまたは誘導する位相という。
空間 X にノルムが与えられたとき、ノルムが 1 である元の全体をしばしば単位球面 (unit sphere) または二次元の場合は特に単位円 (unit circle) と呼ぶ。ノルムの定める位相とはノルムに関する開単位球面の和に表される集合を開集合とするような位相のことである。
ノルム空間 V における線型演算はノルムが V に誘導する位相に関して連続であり、ノルム空間 V は位相線型空間を成す。位相線型空間 (V, T) に対し、V に適当なノルム p が存在して p から誘導される位相 Tp がもとの位相 T に等しいとき、位相線型空間 V はノルム付け可能またはノルム化可能 (normable) であるという。
空間 X の与えられた二つのノルム‖•‖, ‖•‖′ に対し、これらノルムがそれぞれ定める X の位相が相等しいとき、これらのノルムは互いに同値であるという。これは適当な定数 C1, C2 > 0 で
となるようなものが取れることと同値である。
V が有限次元ノルム空間ならば、V 上のノルムの同値類は唯一つである。
|
[
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"text": "解析学において、ノルム (英: norm, 独: Norm) は、平面あるいは空間における幾何学的ベクトルの \"長さ\" の概念の一般化であり、ベクトル空間に対して「距離」を与えるための数学の道具である。ノルムの定義されたベクトル空間を線型ノルム空間または単にノルム空間という。",
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"text": "K を実数体 R または複素数体 C(あるいは絶対値を備えた任意の位相体)とし、K 上のベクトル空間 V を考える。このとき任意の a ∈ K と任意の u, v ∈ V に対して、",
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"text": "を満たす関数 ‖ • ‖: V → R; x ↦ ‖ x ‖ を V のノルムと呼ぶ。ベクトル空間 V と V 上のノルム ‖ • ‖ との組 (V, ‖ • ‖) を、ノルム ‖ • ‖ を備えたベクトル空間あるいは簡単にノルム付きの線型空間、ノルム空間などと呼び、紛れのおそれの無い場合はノルムを省略して単に V で表す。なお、‖ v ‖ ≥ 0(正定値性)を定義の内に含めることが多いが、この性質は以下のように定理として導くことができる。左から順に、独立性、劣加法性、斉次性を用いている。",
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"text": "∀ v ∈ V , 0 = ‖ o ‖ = ‖ ( 1 2 − 1 2 ) v ‖ ≤ ‖ 1 2 v ‖ + ‖ − 1 2 v ‖ = | 1 2 | ‖ v ‖ + | − 1 2 | ‖ v ‖ = ‖ v ‖ . {\\displaystyle \\forall v\\in V,0=\\lVert o\\rVert =\\left\\Vert \\left({\\frac {1}{2}}-{\\frac {1}{2}}\\right)v\\right\\Vert \\leq \\left\\Vert {\\frac {1}{2}}v\\right\\Vert +\\left\\Vert -{\\frac {1}{2}}v\\right\\Vert =\\left\\vert {\\frac {1}{2}}\\right\\vert \\lVert v\\rVert +\\left\\vert -{\\frac {1}{2}}\\right\\vert \\lVert v\\rVert =\\lVert v\\rVert .}",
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"text": "とする方が自然である。ess sup は本質的上限と呼ばれる値である(測度零の集合における例外を除いて上界となる値の下限)。関数解析学などでは、有界線型作用素(連続な線型写像)の作用素ノルム (operator norm) と呼ばれるノルム",
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"text": "も重要である。",
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"text": "でノルムが定まる。",
"title": "種々のノルム"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ノルム空間 (Z, ‖•‖Z) が与えられたとき、ベクトル空間 W と単射な線型作用素 f: W → Z に対して",
"title": "種々のノルム"
},
{
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"text": "は W のノルムとなる。",
"title": "種々のノルム"
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"text": "ベクトル空間 V が半ノルム p を持つとき、部分空間 V := {v ∈ V | p(v) = 0} による商空間 V := V/V は、π: V → V を自然な射影として",
"title": "種々のノルム"
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"text": "となるようなノルムを備える。",
"title": "種々のノルム"
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"text": "ノルム空間 V のノルム p = ‖•‖ に対し、2変数の実数値関数 dp : V × V → R を",
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"text": "で定めて、dp をノルム ‖•‖ の定めるまたは誘導する距離という。dp が V の距離函数を定めることはノルムの定義から直ちに分かる。距離空間 (V, dp) の位相をノルム ‖•‖ の定めるまたは誘導する位相という。",
"title": "性質"
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"text": "空間 X にノルムが与えられたとき、ノルムが 1 である元の全体をしばしば単位球面 (unit sphere) または二次元の場合は特に単位円 (unit circle) と呼ぶ。ノルムの定める位相とはノルムに関する開単位球面の和に表される集合を開集合とするような位相のことである。",
"title": "性質"
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"text": "ノルム空間 V における線型演算はノルムが V に誘導する位相に関して連続であり、ノルム空間 V は位相線型空間を成す。位相線型空間 (V, T) に対し、V に適当なノルム p が存在して p から誘導される位相 Tp がもとの位相 T に等しいとき、位相線型空間 V はノルム付け可能またはノルム化可能 (normable) であるという。",
"title": "性質"
},
{
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"text": "空間 X の与えられた二つのノルム‖•‖, ‖•‖′ に対し、これらノルムがそれぞれ定める X の位相が相等しいとき、これらのノルムは互いに同値であるという。これは適当な定数 C1, C2 > 0 で",
"title": "性質"
},
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"text": "となるようなものが取れることと同値である。",
"title": "性質"
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"text": "V が有限次元ノルム空間ならば、V 上のノルムの同値類は唯一つである。",
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] |
解析学において、ノルム は、平面あるいは空間における幾何学的ベクトルの "長さ" の概念の一般化であり、ベクトル空間に対して「距離」を与えるための数学の道具である。ノルムの定義されたベクトル空間を線型ノルム空間または単にノルム空間という。
|
{{Dablink|この項目では、線型代数学と解析学について説明しています。体論については「[[ノルム (体論)]]」を、イデアルについては「{{仮リンク|イデアルのノルム|en|Ideal norm}}」を、群論については「{{仮リンク|ノルム (群論)|en|Norm (group)}}」を、記述集合論におけるノルムについては「{{仮リンク|prewellordering|en|prewellordering}}」をご覧ください。}}
{{出典の明記|date=2016年3月}}
[[解析学]]において、'''ノルム''' ({{lang-en-short|norm}}<ref>「標準」「水準」「ノルマ」といった一般名詞。語源はラテン語で「(大工の)物差し」の意味。形容詞normal。</ref>, {{lang-de-short|Norm}}) は、[[平面]]あるいは[[空間]]における[[空間ベクトル|幾何学的ベクトル]]の "長さ" の概念の一般化であり、[[ベクトル空間]]に対して「距離」を与えるための[[数学]]の道具である。ノルムの定義されたベクトル空間を[[ノルム線型空間|線型ノルム空間]]または単に'''ノルム空間'''という。
: ものによっては[[絶対値]]や[[付値|賦値]](附値、付値)と呼ばれることもある。また、体の拡大における[[ノルム (体論)|ノルム]]や、多元環に対する[[被約ノルム]]と本質的に同じものである。
== 定義 ==
{{mvar|K}} を実数体 {{mathbf|R}} または複素数体 {{mathbf|C}}(あるいは絶対値を備えた任意の[[位相体]])とし、{{mvar|K}} 上のベクトル空間 {{mvar|V}} を考える。このとき任意の {{math2|''a'' ∈ ''K''}} と任意の {{math2|'''''u''''', '''''v''''' ∈ ''V''}} に対して、
# [[線型独立|独立性]]:{{math2|1={{norm|'''''v'''''}} = 0 ⇔ '''''v''' = '''''o'''''}}
# [[斉次函数|斉次性]]:{{math2|1={{norm|{{mvar|a}}'''''v'''''}} = {{abs|''a''}}{{norm|'''''v'''''}}}}
# [[劣加法性]]:{{math2|1={{norm|'''''u''''' + '''''v'''''}} ≤ {{norm|'''''u'''''}} + {{norm|'''''v'''''}}}}(三角不等式)
を満たす[[関数 (数学)|関数]] {{math2|{{norm|•}}: ''V'' → '''R'''; '''''x''''' ↦ {{norm|'''''x'''''}}}} を {{mvar|V}} の'''ノルム'''と呼ぶ。ベクトル空間 {{mvar|V}} と {{mvar|V}} 上のノルム {{math|{{norm|•}}}} との組 {{math2|(''V'', {{norm|•}})}} を、ノルム {{math|{{norm|•}}}} を備えたベクトル空間あるいは簡単にノルム付きの線型空間、'''[[ノルム線型空間|ノルム空間]]'''などと呼び、紛れのおそれの無い場合はノルムを省略して単に {{mvar|V}} で表す。なお、{{math2|{{norm|'''''v'''''}} ≥ 0}}(正定値性)を定義の内に含めることが多いが、この性質は以下のように定理として導くことができる。左から順に、独立性、劣加法性、斉次性を用いている。
<blockquote>
<math>\forall v \in V, 0 = \lVert o \rVert = \left\Vert \left( \frac{1}{2} -\frac{1}{2} \right)v \right\Vert \leq \left \Vert \frac{1}{2}v \right \Vert + \left \Vert -\frac{1}{2}v \right \Vert = \left \vert \frac{1}{2} \right \vert \lVert v \rVert + \left \vert -\frac{1}{2} \right \vert \lVert v \rVert = \lVert v \rVert.</math>
</blockquote>
: ノルムのとる値の集合としては {{mathbf|R}} を、同様の条件を議論しうるもう少し一般の[[順序体]]や[[順序群]]に取り替えることもある。離散賦値などは有理整数環 {{mathbf|Z}} の加法群(に同型なアーベル群)を値群とするようなノルムである。
ノルムの定義から独立性を除いたものを満足する函数 {{math2|''p'': ''V'' → '''R'''}} を'''半ノルム''' {{lang|en|(semi-norm)}} と呼ぶ。
== 種々のノルム ==
=== 有限次元ベクトルのノルム ===
成分が実数あるいは複素数であるベクトル {{math2|1='''''x''''' = (''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}'')}} を考える。今 {{math|{{abs|•}}}} を実数あるいは複素数の[[絶対値]]とすると、
;ユークリッドノルム
:<math>\| \boldsymbol{x} \|_2 := \sqrt{|x_1|^2 + \cdots + |x_n|^2}</math>
; 最大値ノルム(あるいは無限大ノルム、一様ノルムとも呼ばれる)
:<math>\| \boldsymbol{x} \|_\infty := \max \left\{ |x_1|, \dots ,|x_n| \right\}</math>
などはノルムの条件を満たす。
一般に {{math2|1 ≤ ''p'' < ∞}} に対して
:<math>\| \boldsymbol{x} \|_p
:= \left( \textstyle\sum\limits_{i=1}^n |x_i|^p \right)^{1/p}
= \sqrt[p]{|x_1|^p + \cdots + |x_n|^p}</math>
を {{mvar|p}}'''次平均ノルム'''または ''p''-'''ノルム'''と呼ぶ。この呼称を用いるならば、ユークリッドノルムは 2-'''ノルム'''である。また最大値ノルムはこの ''p''-ノルムの {{math2|''p'' → ∞}} としたときの自然な[[極限]]であると見なされるので、∞'''ノルム'''('''無限大ノルム''')とも呼ばれる。
また特に次元が {{math2|1=''n'' = 1}} のときを考えれば、任意の {{math2|1 ≤ ''p'' < ∞}} について
:<math>\|x\|_p = |x|</math>
であり、絶対値 {{math|{{abs|•}}}} 自身が実数あるいは複素数の1次元ベクトルにおけるノルムの例になっている。
なお、{{mvar|p}} が 1 未満に対しては、''p''-'''ノルム'''を定義しない。
{{See also|Lp空間}}
=== 無限次元ベクトル空間のノルム ===
[[数列]]([[可算無限集合|可算無限]]次元のベクトル){{math2|1='''''x''''' = (''x{{sub|n}}''){{sub|''n''{{=}}1,2,…}}}} に対しても、{{Visible anchor|{{mvar|p}}-'''ノルム'''}}あるいは ''l{{sup|p}}''-'''ノルム'''(''l{{sub|p}}''-'''ノルム''')
:<math>\|\boldsymbol{x}\|_p := \left( \textstyle\sum\limits_{n=1}^\infty |x_i|^p \right)^{1/p}</math>
や、{{Visible anchor|上限ノルム}}、{{Visible anchor|∞-'''ノルム'''}}、''l''{{sup|∞}}-'''ノルム'''(''l''{{sub|∞}}-'''ノルム''')
:<math>\|\boldsymbol{x}\|_\infty := \sup_{n\in\mathbb{N}} \{|x_n|\}</math>
などが定義される。また、[[関数 (数学)|関数]]を連続的な[[媒介変数|添字]]をもつ非可算無限次元のベクトルと見なせば、和を[[積分]]に置き換えて、[[高々 (数学)|高々]]可算な場合と同様に ''p''-ノルムなどを考えることができる。集合 ''X'' 上で定義される関数 ''f''(''x'') に対して ''p''-'''ノルム'''(''L{{sup|p}}''-'''ノルム''')は
:<math>\|f\|_{p,X} := \left( \int_X |f(x)|^p\,\mathrm dx \right)^{1/p}</math>
が定義される。また ∞-'''ノルム'''(''L''{{sup|∞}}-'''ノルム''')が
:<math>\| f \|_{\infty,X} := \sup_{x\in X} |f(x)|</math>
によって定義される。ただし、[[ルベーグ積分]]を扱っている文脈では
:<math>\|f\|_{\infty,X} := \mathop{\mathrm{ess\,sup}}\limits_{x\in X}|f(x)| = \inf\{\alpha : |f(x)| \leq \alpha \mbox{ a.e.}\,x\}</math>
とする方が自然である。ess sup は'''[[本質的上限]]'''と呼ばれる値である(測度零の集合における例外を除いて上界となる値の下限)。[[関数解析学]]などでは、有界線型作用素([[連続 (数学)|連続]]な[[線型写像]])の'''[[作用素ノルム]]''' (''operator norm'') と呼ばれるノルム
:<math>\|f\| = \sup_{x\in X \setminus \{0\}} \frac{\|f(x)\|}{\|x\|}</math>
も重要である。
=== ノルムの構成 ===
二つのノルム空間 (''X'', ‖•‖<sub>''X''</sub>), (''Y'', ‖•‖<sub>''Y''</sub>) が与えられたとき、直積空間 ''X'' × ''Y'' には
: <math>\|(x,y)\| := \sqrt{\|x\|_X^2 + \|y\|_Y^2} \quad(x\in X,\,y\in Y)</math>
でノルムが定まる。
ノルム空間 (''Z'', ‖•‖<sub>''Z''</sub>) が与えられたとき、ベクトル空間 ''W'' と単射な線型作用素 ''f'': ''W'' → ''Z'' に対して
: <math>\|w\| := \|f(w)\|_Z \quad (w\in W)</math>
は ''W'' のノルムとなる。
ベクトル空間 ''V'' が半ノルム ''p'' を持つとき、部分空間 ''V''<sup>⊥</sup> := {''v'' ∈ ''V'' | ''p''(''v'') = 0} による商空間 ''V''<sup>∼</sup> := ''V''/''V''<sup>⊥</sup> は、π: ''V'' → ''V''<sup>∼</sup> を自然な射影として
: <math>\|\pi(v)\| := p(v) (v\in V)</math>
となるようなノルムを備える。
== 性質 ==
[[file:Vector_norms.svg|thumb|right|平面 '''R'''<sup>2</sup> 上の異なるノルムに関する単位円の様子]]
=== 幾何学的性質 ===
ノルム空間 {{mvar|V}} のノルム {{math2|1=''p'' = ‖•‖}} に対し、2変数の実数値関数 {{math2|''d{{sub|p}}'' : ''V'' × ''V'' → '''R'''}} を
:<math>d_p(x,y) = \lVert x-y\rVert</math>
で定めて、{{mvar|d{{sub|p}}}} をノルム ‖•‖ の定めるまたは'''誘導する距離'''という。{{mvar|d{{sub|p}}}} が {{mvar|V}} の[[距離函数]]を定めることはノルムの定義から直ちに分かる。距離空間 (''V'', ''d{{sub|p}}'') の位相をノルム ‖•‖ の定めるまたは'''誘導する位相'''という。
空間 {{mvar|X}} にノルムが与えられたとき、ノルムが 1 である元の全体をしばしば'''単位球面''' {{lang|en|(unit sphere)}} または二次元の場合は特に'''単位円''' {{lang|en|(unit circle)}} と呼ぶ。ノルムの定める位相とはノルムに関する開単位球面の和に表される集合を開集合とするような位相のことである。
ノルム空間 {{mvar|V}} における線型演算はノルムが {{mvar|V}} に誘導する位相に関して連続であり、ノルム空間 {{mvar|V}} は[[位相線型空間]]を成す。位相線型空間 {{math2|(''V'', '''T''')}} に対し、{{mvar|V}} に適当なノルム {{mvar|p}} が存在して {{mvar|p}} から誘導される位相 '''T'''{{sub|''p''}} がもとの位相 {{mathbf|T}} に等しいとき、位相線型空間 '''V''' は'''ノルム付け可能'''または'''[[ノルム化可能]]''' {{lang|en|(normable)}} であるという。
=== ノルムの同値性 ===
空間 ''X'' の与えられた二つのノルム‖•‖, ‖•‖′ に対し、これらノルムがそれぞれ定める ''X'' の位相が相等しいとき、これらのノルムは互いに同値であるという。これは適当な定数 ''C''<sub>1</sub>, ''C''<sub>2</sub> > 0 で
: <math>C_1\|x\| \le \|x\|' \le C_2\|x\|</math>
となるようなものが取れることと同値である。
''V'' が有限次元ノルム空間ならば、''V'' 上のノルムの同値類は唯一つである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[跡 (線型代数学)|トレース]]
* [[行列ノルム]]
* {{ill2|F-ノルム|en|F-norm}}: 斉次性を落としたもの
* [[G-ノルム]]: アーベル群のノルム
* {{ill2|擬ノルム|de|pseudonorm}}: 斉次性を劣斉次性に緩めたもの
* [[双柱#数学における用途]] - [[wikt:‖|‖]]
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|urlname=Norm|title=Norm}}
* {{SpringerEOM|urlname=Norm|title=Norm|author=Gorin, E.A.}}
* {{nlab|urlname=norm|title=norm}}
{{Functional Analysis}}
{{DEFAULTSORT:のるむ}}
[[Category:線型代数学]]
[[Category:関数解析学]]
[[Category:ノルム|*]]
[[Category:ベクトル]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-06-25T15:22:31Z
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2023-12-25T08:08:21Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%A0
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10,405 |
モナー
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モナーは、匿名掲示板2ちゃんねるなどの電子掲示板でよく用いられる、アスキーアート(AA)によるキャラクターの一種である。
モナーの誕生は現在、2ちゃんねるの「てすと」という題名のスレッドからだと考えられている(archive.orgによるログ)。
2ちゃんねる以外で使われることもある。
漫画やアニメに登場することもある。例えばガモウひろしの『バカバカしいの!』最終話や、タツノコプロ制作の『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて』第1話などが挙げられる。
ぬいぐるみなどキャラクター商品も流通している。
吾妻ひでおはコアマガジン『2ちゃんねるぷらす』に「虚空のモナー」を連載していた。同作は2011年に河出書房新社から出版された『文藝別冊 吾妻ひでお 美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』に収録されている。
2014年には、Monacoinが派生している。
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モナーは、匿名掲示板2ちゃんねるなどの電子掲示板でよく用いられる、アスキーアート(AA)によるキャラクターの一種である。
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{{Otheruses||アメリカの女優|イザベラ・モナー}}
{{複数の問題|出典の明記=2011年10月|独自研究=2011年10月}}
{{AA}}
[[Image:Mona01.svg|right|thumb|モナー ]]
'''モナー'''は、[[匿名掲示板]][[2ちゃんねる]]などの[[電子掲示板]]でよく用いられる、[[アスキーアート]](AA)による[[キャラクター]]の一種である<ref>{{Cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊|date=2005-10-01|title=「のまネコ」商標登録出願中止へ 別キャラクターに「酷似」指摘受け|page=38}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref><ref>{{Cite news|newspaper=AERA|date=2005-10-17|title=のまネコ騒動の勝者は? エイベックスvs2ちゃんねる|page=70}} - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧</ref>。
== 概要 ==
=== AAによる表現 ===
<pre style="font-family:'IPAMonaPGothic','IPA モナー Pゴシック','Monapo','Mona','MS Pgothic','MS Pゴシック';font-size:16px;line-height:18px;">
・前面
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____
│ │ │
(__)___)
・背面
∧_∧
( )
( O )
│ │ │
(___(__)</pre>
==== 初代モナー ====
<pre style="font-family:'IPAMonaPGothic','IPA モナー Pゴシック','Monapo','Mona','MS Pgothic','MS Pゴシック';font-size:16px;line-height:18px;">
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
| おまえらも |
∩_∩ | .|
(´ー`) < 暇な奴ら .|
( ) | .|
| | | | だなぁ |
(___)__) \_____/</pre>
==== モナーの進化 ====
<pre style="font-family:'IPAMonaPGothic','IPA モナー Pゴシック','Monapo','Mona','MS Pgothic','MS Pゴシック';font-size:16px;line-height:18px;">
∩_∩
(´ー`)
( )
| | |
(___)__)
↓
∩_∩
( ´∀`)
( )
| │ │
(__)_)
↓
∧_∧
( ´∀`)
( )
│ │ │
(__)_)</pre>
== 発生 ==
モナーの誕生は現在、2ちゃんねるの「てすと」という題名のスレッドからだと考えられている([https://web.archive.org/web/20000707014811/http://www.2ch.net/test/readall.cgi?bbs=kitchen&key=946877995 archive.orgによるログ])。
== 2ちゃんねる以外 ==
2ちゃんねる以外で使われることもある。
漫画やアニメに登場することもある。例えば[[ガモウひろし]]の『[[バカバカしいの!]]』最終話や、[[タツノコプロ]]制作の『[[ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて]]』第1話などが挙げられる。
ぬいぐるみなどキャラクター商品も流通している<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0512/16/news033_2.html ひろゆき氏が語る「電車男」「のまネコ」そして今、注目のネタ (2/3)]、ITmedia NEWS、2005年12月16日14時23分 公開。</ref>。
[[吾妻ひでお]]は[[コアマガジン]]『2ちゃんねるぷらす』に「虚空のモナー」を連載していた。同作は[[2011年]]に[[河出書房新社]]から出版された『文藝別冊 吾妻ひでお 美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』に収録されている。
[[2014年]]には、[[Monacoin]]が派生している。
== 著作権・商標問題 ==
* [[2002年]]に株式会社[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]が独断でギコ猫に対し商標登録を出願しようとした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/0206/03/njbt_04.html |title=「ギコ猫」、タカラが商標登録を出願 |publisher=ITmedia |date=2002-06-03 |accessdate=2019-03-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/0206/03/njbt_05.html |title=タカラ、「ギコ猫」商標出願を取り下げ 「ユーザーにお詫びしたい」 |publisher=ITmedia |date=2002-06-03 |accessdate=2019-03-28}}</ref>。
* [[2005年]][[9月1日]]、[[のまネコ問題]]発生<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0509/09/news088.html|title=「のまネコ」は「モナー」? ネットで騒動に|publisher=ITmedia|accessdate=2019-03-28}}</ref>。
== モナーを題材にした楽曲 ==
; 「モナーらぶ」(作詞・作曲:小谷隆 歌:[[西村博之|ひろゆき]]&[[山本一郎 (実業家)|切込隊長]])
* [[2001年]]3月発表。『2ちゃんねる公式ガイド2002』の付録CD-ROMの音声トラックに収録。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アスキーアート]]
* [[2ちゃんねる用語]]
* [[AA (2ちゃんねるカテゴリ)]]
* [[モナーフォント]]
* [[Mona]]
* [[ぬるぽ]]
* [[のまネコ問題]]
* [[Monacoin]]
{{アスキーアート}}
{{デフォルトソート:もなあ}}
[[Category:アスキーアート作品]]
[[Category:インターネット・ミーム]]
[[en:2channel Shift JIS art#Monā]]
|
2003-06-25T16:33:41Z
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2023-11-07T12:50:30Z
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[
"Template:AA",
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"Template:Cite web",
"Template:アスキーアート",
"Template:Otheruses",
"Template:複数の問題"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%BC
|
10,406 |
ドミトリ・メンデレーエフ
|
ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ(ロシア語: Дми́трий Ива́нович Менделе́ев, ラテン文字転写: Dmitrij Ivanovich Mendelejev; 発音、1834年1月27日(グレゴリオ暦2月8日)- 1907年1月20日(グレゴリオ暦2月2日))は、ロシアの化学者である。元素周期表を作成し、それまでに発見されていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現れることを確認した。この周期性に基づき、当時発見されていなかった数々の元素の存在を予言した。101番元素メンデレビウムは彼の名を由来にした元素である。
メンデレーエフは西シベリアのトボリスクに母マリア・ドミトリーヴナ・メンデレーエヴァ(旧姓コルニレヴァ)と父イヴァン・パヴロヴィッチ・メンデレーエフの14人の子供の末っ子として生まれた。14歳、当時中学校の校長をしていた父を亡くした。1849年に貧しい家族とともにサンクトペテルブルクに移り住み、1850年には高等師範学校へと進学した。卒業後の1855年に黒海近くのクリミア半島のシンフェローポリにある中等学校(ギムナジウム)の博物学の教師として赴任した。しかし、クリミア戦争中で講義はなく、すぐにオデッサのリシュリュー・リセ(より程度の高い中等学校)に転任になった。翌1856年に修士論文の審査のため再びサンクトペテルブルクへと戻った。1859年から1861年の間気体の密度についてハイデルベルクで研究を行う。1861年再びロシアに戻った。1862年4月、Feozva Nikitchna Lascheva と結婚した。1864年にはサンクトペテルブルクの高等技術専門学校で化学の教授となった。さらに1865年4月にサンクトペテルブルク大学の技術化学の員外教授に任じられ、12月には正教授に進んだ。1867年10月に技術化学から一般化学の講座に転じた。
1865年にジョン・ニューランズが「オクターブの法則」(8番目ごとに似た性質の元素が配置される。)を発表した。メンデレーエフも同様の考えを持っており、1869年の3月6日にロシア化学学会で「Соотношение свойств с атомным весом элементов(元素の性質と原子量の関係)」と題した発表をして『ЖРФХО』誌に掲載され、同年ドイツ語で「Die periodische Gesetzmässigkeit der Elemente」と題し『Z. Chem.』誌に、1872年には『Ann. Chem. Pharm.』誌に掲載された。そこで、元素の周期性について以下のことを指摘した。
周期表の考えは発表当初は疑いの目で見るものも多かった。「それなら、今度はA, B, C, ...の順に並べてはどうだ」という者もいたという。しかし、メンデレーエフが周期表に空欄を作って予言したとおりの場所に、1875年にガリウム、1879年にスカンジウム、1886年にゲルマニウムと次々と新元素が発見されたことから正確さが確かめられ、高く評価されるようになった。なお、メンデレーエフが周期表を発表した数ヵ月後にドイツのロータル・マイヤーが事実上同一の表を発表しており、周期表はメンデレーエフとマイヤーの共同成果であると考える者もいるが、未発見の元素の予測の質がよかったため、メンデレーエフ単独の功績とみなされている。
1890年、サンクトペテルブルク大学の学生の奨学金増額要求を文部大臣イワン・デリャーノフに取り次ぎ、拒否されるとそれに抗議して同大学を辞職した。
辞職した後、海軍省の依頼で無煙火薬を研究し1891年までにピロコロジオンを発明した。
1892年、王立協会外国人会員選出。同年、メンデレーエフは度量衡局の所長となった。メンデレーエフは死去するまで度量衡局の局長を務めた。
メンデレーエフの研究は、1906年のノーベル化学賞にノミネートされるも、たった一票の差でアンリ・モアッサンに敗れる。翌年に死去。
1869年の2月17日、元素の原子量とその化学的特性との関係について考えていたメンデレーエフは、そのまま眠りに落ちてしまった。居眠りの最中、彼は夢の中で、すべての元素が原子量の順に並んだ表を見た。目を覚ました彼は即座にその表を紙に書いた。彼はこの表から、元素を原子量の順に並べると化学的特性が周期的に繰り返されるという発想を思い付いた。
当局に追われるイワン・セチェノフを一時期、自身の研究所に雇い入れて庇護した。
ドミトリ・メンデレーエフの息子ヴラジーミルは海軍少尉として1891年から1892年にかけて長崎に数回寄港し、日本人ヒデシマ・タカとのあいだに娘フジをもうけた。その後、ドミトリ・メンデレーエフはヒデシマに養育費を送った。
娘のリュボーフィは、詩人のアレクサンドル・ブロークと結婚する。ブロークの死後は共産党政権の支配がおよんでいなかった南ロシアに逃亡した。メンデレーエフ家のアパルトマンは1919年からブロークの友人で画家のユーリイ・アンネンコフが借りて住んでいた。
度量衡局長となったメンデレーエフが、ウォッカの製造技術の標準化に携わり、「ウォッカはアルコールを40%含む」と規定されるきっかけを作ったとする話が伝わっている。実際には、度量衡局でそのような規定を定めた事実はない。また、ウォッカに関する規定は1843年には設けられており、当時9歳のメンデレーエフが関わる余地はなかった。
メンデレーエフの友人であったアレクサンドル・ブートレロフは当時流行していた心霊術実験を信じ込んでいた。メンデレーエフは1875年にロシア物理化学会にあてて、心霊現象究明委員会の設置を要求し、心霊術のからくりをあばく仕事に乗り出している。
メンデレーエフの功績を顕彰するため、様々なものの名前に彼の名が残されている。例えば1955年、101番元素は彼の名にちなみ「メンデレビウム」と命名された。その他、月のクレーターの名称、タタールスタン共和国の都市メンデレーエフスク、モスクワ地下鉄9号線の駅(メンデレーエフスカヤ駅、「メンデレーエフの駅」という意味)、国後島の空港(メンデレーエフ空港)などがある。メンデレーエフスカヤ駅の装飾は分子模型をかたどったユニークなものである。
2016年2月8日には、メンデレーエフの生誕182年を記念して、Googleのロゴマークが彼にちなんだものにされた。
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"text": "ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ(ロシア語: Дми́трий Ива́нович Менделе́ев, ラテン文字転写: Dmitrij Ivanovich Mendelejev; 発音、1834年1月27日(グレゴリオ暦2月8日)- 1907年1月20日(グレゴリオ暦2月2日))は、ロシアの化学者である。元素周期表を作成し、それまでに発見されていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現れることを確認した。この周期性に基づき、当時発見されていなかった数々の元素の存在を予言した。101番元素メンデレビウムは彼の名を由来にした元素である。",
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ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフは、ロシアの化学者である。元素周期表を作成し、それまでに発見されていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現れることを確認した。この周期性に基づき、当時発見されていなかった数々の元素の存在を予言した。101番元素メンデレビウムは彼の名を由来にした元素である。
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{{Infobox scientist
|name = ドミトリ・イヴァノヴィチ・メンデレーエフ<br />Дмитрий Иванович Менделеев
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|caption = ドミトリ・メンデレーエフ(1897年)
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[[Image:Medeleeff by repin.jpg|thumb|right|220px|[[イリヤ・レーピン]]によるドミトリ・メンデレーエフの肖像画。]]
'''ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ'''({{翻字併記|ru|'''Дми́трий Ива́нович Менделе́ев'''|Dmitrij Ivanovich Mendelejev}};{{Audio|ru-Dmitri_Mendeleev.ogg|発音}}、[[1834年]][[1月27日]]([[グレゴリオ暦]][[2月8日]])- [[1907年]][[1月20日]](グレゴリオ暦[[2月2日]]))は、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[化学者]]である。[[周期表|元素周期表]]を作成し、それまでに発見されていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現れることを確認した。この周期性に基づき、当時発見されていなかった数々の元素の存在を予言した。101番元素[[メンデレビウム]]は彼の名を由来にした元素である。
== 経歴 ==
メンデレーエフは西[[シベリア]]の[[トボリスク]]に母マリア・ドミトリーヴナ・メンデレーエヴァ(旧姓コルニレヴァ)と父イヴァン・パヴロヴィッチ・メンデレーエフの14人の子供の末っ子として生まれた。14歳、当時中学校の校長をしていた父を亡くした。[[1849年]]に貧しい家族とともに[[サンクトペテルブルク]]に移り住み、[[1850年]]には高等師範学校へと進学した。卒業後の[[1855年]]に[[黒海]]近くの[[クリミア半島]]の[[シンフェロポリ|シンフェローポリ]]にある中等学校(ギムナジウム)の博物学の教師として赴任した。しかし、[[クリミア戦争]]中で講義はなく、すぐに[[オデッサ]]のリシュリュー・リセ(より程度の高い中等学校)に転任になった。翌[[1856年]]に修士論文の審査のため再びサンクトペテルブルクへと戻った。[[1859年]]から[[1861年]]の間[[気体]]の[[密度]]について[[ハイデルベルク]]で研究を行う。[[1861年]]再びロシアに戻った。[[1862年]]4月、Feozva Nikitchna Lascheva と結婚した。1864年にはサンクトペテルブルクの高等技術専門学校で化学の教授となった。さらに1865年4月に[[サンクトペテルブルク大学]]の技術化学の員外教授に任じられ、12月には正教授に進んだ。[[1867年]]10月に技術化学から一般化学の講座に転じた。
[[1865年]]に[[ジョン・ニューランズ]]が「オクターブの法則」(8番目ごとに似た性質の元素が配置される。)を発表した。メンデレーエフも同様の考えを持っており、[[1869年]]の[[3月6日]]にロシア化学学会で「''Соотношение свойств с атомным весом элементов''(元素の性質と原子量の関係)」と題した発表をして『[[Журнал Русского физико-химического общества|ЖРФХО]]』誌に掲載され、同年ドイツ語で「''Die periodische Gesetzmässigkeit der Elemente''」と題し『[[Zeitschrift für Chemie|Z. Chem.]]』誌に、1872年には『[[Annalen der Chemie und Pharmacie|Ann. Chem. Pharm.]]』誌に掲載された。そこで、元素の周期性について以下のことを指摘した。
[[Image:Mendelejevs_periodiska_system_1871.png|thumb|right|250px|1871年の周期表。当時未発見のガリウムやゲルマニウムなどの位置は"―"印となっている。]]
[[Image:Mendeleev Table 5th II.jpg|thumb|right|250px|メンデレーエフの最初の英語版の周期表。(1891年のロシア語の第5版をベースにしている。)]]
[[Image:Mendeleyev gold Barry Kent.JPG|thumb|right|250px|メンデレーエフメダル]]
# [[元素]]は[[原子量]]の順に並べると明らかにその性質ごとの周期性を表す。
# 科学的特性の類似する元素はほぼ同じ原子量であるか(例:[[白金]]、[[イリジウム]]、[[オスミウム]])、原子量が規則的に増加するか(例:[[カリウム]]、[[ルビジウム]]、[[セシウム]])である。
# 元素グループ内での原子量順に並べた元素の配列はいわゆる[[原子価]]だけでなく、ある範囲まで、独特の化学的特性と一致する。
# 広範囲に存在している元素の原子量は小さい。
# 分子の大きさが化合物の性質を決定するように、原子量の大きさが元素の性質を決定する。
# 未知の元素の発見が期待される。たとえば、共に原子量が65から75の間であり、化学的特性が[[アルミニウム]]に類似する元素および[[ケイ素]]に類似する元素が存在するであろう(後年、該当する[[ガリウム]]、[[ゲルマニウム]]が発見される)。
# 元素の原子量は原子番号順で前後する元素の原子量に関する知識により修正できることがある。たとえば、[[テルル]]の原子量は123から126の間にあり、128にはなりえない。
# 元素の特徴的な特性はその原子量から予言できる。
周期表の考えは発表当初は疑いの目で見るものも多かった。「それなら、今度はA, B, C, …の順に並べてはどうだ」という者もいたという。しかし、メンデレーエフが周期表に空欄を作って予言したとおりの場所に、[[1875年]]にガリウム、[[1879年]]に[[スカンジウム]]、[[1886年]]にゲルマニウムと次々と新元素が発見されたことから正確さが確かめられ、高く評価されるようになった<ref>{{Cite |和書|title=科学の世紀を開いた人々(上)|page=102|editor=[[竹内均]]|publisher=ニュートンプレス| date=1999-04-10|edition=初}}</ref>。なお、メンデレーエフが周期表を発表した数ヵ月後に[[ドイツ]]の[[ロータル・マイヤー]]が事実上同一の表を発表しており<ref>「現代化学史 原子・分子の化学の発展」p82 [[廣田襄]] 京都大学学術出版会 2013年10月5日初版第1刷</ref>、周期表はメンデレーエフとマイヤーの共同成果であると考える者もいるが、未発見の元素の予測の質がよかったため、メンデレーエフ単独の功績とみなされている。
[[1890年]]、サンクトペテルブルク大学の学生の奨学金増額要求を文部大臣[[イワン・デリャーノフ]]に取り次ぎ、拒否されるとそれに抗議して同大学を辞職した。
辞職した後、海軍省の依頼で[[無煙火薬]]を研究し[[1891年]]までに[[:en:Pyrocollodion|ピロコロジオン]]を発明した<ref>[[梶雅範]]「メンデレーエフ 元素の周期律の発見者」[[東洋書店]], 2007年6月20日, p.44</ref>。
[[1892年]]、[[王立協会]]外国人会員選出。同年、メンデレーエフは[http://www.vniim.ru/ 度量衡局]の所長となった。メンデレーエフは死去するまで度量衡局の局長を務めた<ref>「新版 ロシアを知る事典」p.745 [[平凡社]] 2004年1月21日発行</ref>。
メンデレーエフの研究は、[[1906年]]の[[ノーベル化学賞]]にノミネートされるも、たった一票の差で[[アンリ・モアッサン]]に敗れる<ref>「現代化学史 原子・分子の化学の発展」p88 廣田襄 京都大学学術出版会 2013年10月5日初版第1刷</ref>。翌年に死去。
== 逸話 ==
[[1869年]]の[[2月17日]]、元素の原子量とその化学的特性との関係について考えていたメンデレーエフは、そのまま眠りに落ちてしまった。居眠りの最中、彼は夢の中で、すべての元素が原子量の順に並んだ表を見た。目を覚ました彼は即座にその表を紙に書いた。彼はこの表から、元素を原子量の順に並べると化学的特性が周期的に繰り返されるという発想を思い付いた<ref>Paul Strathern. ''Mendeleyev's Dream : The Quest for the Elements'' 2001. Thomas Dunne Books</ref><ref>Paolo Mazzarello. ''What dreams may come?'' 2000. Nature 408, pp. 523</ref>。
当局に追われる[[イワン・セチェノフ]]を一時期、自身の研究所に雇い入れて庇護した<ref>[[イワン・セチェノフ]]著『思考の要素』[[明治図書出版]]、1964年</ref>。
ドミトリ・メンデレーエフの息子ヴラジーミルは海軍少尉として[[1891年]]から[[1892年]]にかけて[[長崎市|長崎]]に数回寄港し、[[日本人]]ヒデシマ・タカとのあいだに娘フジをもうけた<ref>梶雅範「メンデレーエフ 元素の周期律の発見者」東洋書店, 2007年6月20日 pp.57-60</ref>。その後、ドミトリ・メンデレーエフはヒデシマに養育費を送った<ref>梶雅範「メンデレーエフ 元素の周期律の発見者」東洋書店, 2007年6月20日 p.60</ref>。
娘のリュボーフィは、詩人の[[アレクサンドル・ブローク]]と結婚する。ブロークの死後は共産党政権の支配がおよんでいなかった南ロシアに逃亡した。メンデレーエフ家のアパルトマンは1919年からブロークの友人で画家の[[ユーリイ・アンネンコフ]]が借りて住んでいた<ref>{{Cite book|和書|author=J・アンネンコフ|year=1971|title=同時代人の肖像 上|publisher=[[現代思潮社]]|pages=pp.123-131}}</ref>。
=== ウォッカに関する口承 ===
度量衡局長となったメンデレーエフが、[[ウォッカ]]の製造技術の標準化に携わり、「ウォッカは[[アルコール]]を40%含む」と規定されるきっかけを作ったとする話が伝わっている<ref>[[沼野充義]]、[[沼野恭子]]『ロシア』p.96(世界の食文化19, [[農山漁村文化協会]], 2006年3月)</ref>。実際には、度量衡局でそのような規定を定めた事実はない<ref name=Evseev2011>{{cite web|last=Evseev|first=Anton|title=Dmitry Mendeleev and 40 degrees of Russian vodka|work=Science|publisher=English [[Pravda.ru|Pravda.Ru]]|location=Moscow|date=2011-11-21|url=http://english.pravda.ru/science/mysteries/21-11-2011/119683-dmitry_mendeleev_vodka-0/|accessdate=2014-07-06}}</ref>。また、ウォッカに関する規定は[[1843年]]には設けられており、当時9歳のメンデレーエフが関わる余地はなかった<ref name=Evseev2011/>。
=== 心霊術への懐疑的態度 ===
メンデレーエフの友人であった[[アレクサンドル・ブートレロフ]]は当時流行していた心霊術実験を信じ込んでいた。メンデレーエフは[[1875年]]にロシア物理化学会にあてて、心霊現象究明委員会の設置を要求し、心霊術のからくりをあばく仕事に乗り出している<ref>ピザルジェブスキー著『メンデレエフ』[[共立出版]]、1956年、pp.204-220</ref>。
== その他 ==
メンデレーエフの功績を顕彰するため、様々なものの名前に彼の名が残されている。例えば[[1955年]]、101番元素は彼の名にちなみ「[[メンデレビウム]]」と命名された。その他、月のクレーターの名称、[[タタールスタン共和国]]の都市[[メンデレーエフスク]]、[[モスクワ地下鉄]][[セルプホーフスコ=チミリャーゼフスカヤ線|9号線]]の駅([[メンデレーエフスカヤ駅]]、「メンデレーエフの駅」という意味)、[[国後島]]の空港([[メンデレーエフ空港]])などがある。メンデレーエフスカヤ駅の装飾は分子模型をかたどったユニークなものである。
[[2016年]]2月8日には、メンデレーエフの生誕182年を記念して、[[Google Doodle|Googleのロゴマーク]]が彼にちなんだものにされた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[化学元素発見の年表]]
* [[メンデレーエフ空港]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Дмитрий Иванович Менделеев}}
* Gordin, M. D. "D. I. Mendeleev: Reflecting on His Death in 1907" ''Angew. Chem., Int. Ed.'', '''2007'''. DOI: [https://doi.org/10.1002/anie.200601976 10.1002/anie.200601976]<!-- 死後100周年を記念したエッセイです。本記事はこのエッセイの出版よりも以前に書かれたものです。-->
* {{Kotobank|メンデレーエフ}}
{{周期表 (ナビゲーション)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:めんてれええふ とみとり}}
[[Category:ドミトリ・メンデレーエフ|*]]
[[Category:19世紀ロシアの物理学者]]
[[Category:ロシアの化学者]]
[[Category:ロシアの理神論者]]
[[Category:コプリ・メダル受賞者]]
[[Category:デミドフ賞受賞者]]
[[Category:王立協会外国人会員]]
[[Category:米国科学アカデミー外国人会員]]
[[Category:プロイセン科学アカデミー会員]]
[[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]]
[[Category:ベルギー王立アカデミー会員]]
[[Category:サンクトペテルブルク大学の教員]]
[[Category:トボリスク県出身の人物]]
[[Category:トボリスク出身の人物]]
[[Category:1834年生]]
[[Category:1907年没]]
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2003-06-25T16:43:25Z
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10,408 |
フラクタル
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フラクタル(仏: fractale, 英: fractal)は、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念である。ラテン語の fractus から。図形の部分と全体が自己相似(再帰)になっているものなどをいう。なお、マンデルブロが導入する以前から以下で述べるような性質を持つ形状などはよく考えられてきたものであり、また、そういった図形の一つである高木曲線は幾何ではなく解析学上の興味によるものである。
フラクタルの特徴は直感的には理解できるものの、数学的に厳密に定義するのは非常に難しい。マンデルブロはフラクタルを「ハウスドルフ次元が位相次元を厳密に上回るような集合」と定義した。完全に自己相似なフラクタルにおいては、ハウスドルフ次元はミンコフスキー次元(英語版)と等しくなる。
フラクタルを定義する際の問題には次のようなものがある。
フラクタルの具体的な例としては、海岸線の形などが挙げられる。一般的な図形は複雑に入り組んだ形状をしていても、拡大するに従ってその細部は変化が少なくなり、滑らかな形状になっていく。これに対して海岸線は、どれだけ拡大しても同じように複雑に入り組んだ形状が現れる。
そして海岸線の長さを測ろうとする場合、より小さい物差しで測れば測るほど大きな物差しでは無視されていた微細な凹凸が測定されるようになり、その測定値は長くなっていく。したがって、このような図形の長さは無限大であると考えられる。これは、実際問題としては分子の大きさ程度よりも小さい物差しを用いることは不可能だが、理論的な極限としては測定値が無限大になるということである。つまり、無限の精度を要求されれば測り終えることはないということである(海岸線のパラドックス)。
この様な図形を評価するために導入されたのが、整数以外の値にもなるフラクタル次元である。フラクタル次元は数学的に定義された図形などでは厳密な値が算出できることもあるが、前述の海岸線などの場合はフラクタル次元自体が測定値になる。つまり、比較的滑らかな海岸線ではフラクタル次元は線の次元である1に近い値となり、リアス式海岸などの複雑な海岸線ではそれよりは大きな値となり、その値により図形の複雑さが分かる。なお、実際の海岸線のフラクタル次元は1.1 – 1.4程度である。
海岸線の形、山の形、枝分かれした樹木の形などの3次元空間内に存在するもののフラクタル次元は0以上3以下の値になるが、数学的には更に高次の次元を持つものも考えられる。この様な図形の殆どは分数の次元を持ったフラクタルな図形と呼ばれるが、実際には分数になるというよりは無理数になる。また、中には整数の次元を持つものもある。例えばマンデルブロ集合の周は、曲線でありながら2次元である。
始まりは、イギリスの気象学者ルイス・フライ・リチャードソンの国境線に関する検討である。国境を接するスペインとポルトガルは、国境線の長さとしてそれぞれ 987 km と 1214 km と別の値を主張していた。リチャードソンは、国境線の長さは用いる地図の縮尺によって変化し、縮尺と国境線の長さがそれぞれ対数を取ると直線状に相関することを発見した。このような特徴をフラクタルと名付けて一般化したのがマンデルブロである。
また、次節で挙げられている例のうち、高木曲線などいくつかは、概念がまとめられてフラクタルという名がつくより以前に示されたものである。
フラクタルの研究者高安秀樹によると、マンデルブロは株価チャートを見ていてフラクタルの着想を得たという。
近似的なフラクタルな図形は、自然界のあらゆる場面で出現されるとされ、自然科学の新たなアプローチ手法となった。逆に、コンピュータグラフィックスにおける地形や植生などの自然物形状の自動生成のアルゴリズムとして用いられることも多い。
また、自然界で多くみられる一見不規則な変動(カオス)をグラフにプロットするとそのグラフはフラクタルな性質を示すことが知られ、カオスアトラクターと呼ばれる。
その他、自然界の現象においては、結晶成長パターンもフラクタルの性質を示すものとして知られている。
株価の動向など社会的な現象もフラクタルな性質を持っている。
当然、厳密には無限大(∞)を含むため自然界でフラクタルは成立しえず、近似である。
血管の分岐構造や腸の内壁などはフラクタル構造であるが、それにはいくつかの理由があると考えられている。
例えば血管の配置を考えたとき、生物において体積は有限であり貴重なリソースであると言えるので、血管が占有する体積は可能な限り小さいことが望ましい。一方、ガス交換等に使える血管表面積は可能な限り大きく取れる方が良い。この場合、有限の体積の中に無限の表面積を包含できるフラクタル構造は非常に合理的かつ効率的である。さらに、このような構造を生成するために必要な設計情報も、比較的単純な手続きの再帰的な適用で済まされるので、遺伝情報に占める割合もごく少量で済むものと考えられる。
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"text": "フラクタルの研究者高安秀樹によると、マンデルブロは株価チャートを見ていてフラクタルの着想を得たという。",
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フラクタルは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念である。ラテン語の fractus から。図形の部分と全体が自己相似(再帰)になっているものなどをいう。なお、マンデルブロが導入する以前から以下で述べるような性質を持つ形状などはよく考えられてきたものであり、また、そういった図形の一つである高木曲線は幾何ではなく解析学上の興味によるものである。
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{{Otheruses|[[幾何学]]の概念|[[テレビアニメ]]|フラクタル (テレビアニメ)|[[榊原ゆい]]のアルバム|Fractal|日本の持株会社|FRACTALE}}
[[File:Mandelbrot 20210411 007.png|thumb|250px|フラクタルの例([[マンデルブロ集合]])]]
'''フラクタル'''({{Lang-fr-short|fractale}}, {{lang-en-short|fractal}})は、[[フランス]]の[[数学者]][[ブノワ・マンデルブロ]]が導入した[[幾何学]]の概念である。[[ラテン語]]の fractus から。図形の部分と全体が[[自己相似]]([[再帰]])になっているものなどをいう。なお、マンデルブロが導入する以前から以下で述べるような性質を持つ形状などはよく考えられてきたものであり、また、そういった図形の一つである[[高木曲線]]は幾何ではなく解析学上の興味によるものである。
== 定義 ==
[[File:Von Koch curve.gif|thumb|200px|[[コッホ雪片]]の作成<!--To create a [[Koch snowflake]], one begins with an equilateral triangle and then replaces the middle third of every line segment with a pair of line segments that form an equilateral "bump." One then performs the same replacement on every line segment of the resulting shape, ad infinitum. With every [[iteration]], the perimeter of this shape increases by one third of the previous length. The Koch snowflake is the result of an infinite number of these iterations, and has an infinite length, while its area remains [[Wiktionary:finite|finite]]. For this reason, the Koch snowflake and similar constructions were sometimes called "monster curves." This is NOT merely a matter of "approaching infinity but never reaching it". The actual length of the boundary of the union is infinite. [[User:Michael Hardy]] -->]]
フラクタルの特徴は直感的には理解できるものの、数学的に厳密に定義するのは非常に難しい。マンデルブロはフラクタルを「[[ハウスドルフ次元]]が[[ルベーグ被覆次元|位相次元]]を厳密に上回るような集合」と定義した。完全に自己相似なフラクタルにおいては、ハウスドルフ次元は{{仮リンク|ミンコフスキー次元|en|Minkowski–Bouligand dimension}}と等しくなる。
フラクタルを定義する際の問題には次のようなものがある。
* 「不規則すぎること」に正確な意味が存在しない。
* 「[[次元 (数学)|次元]]」の定義が唯一でない。
* 物体が自己相似である方法がいくつも存在する。
* 全てのフラクタルが[[再帰的定義|再帰的に定義される]]とは限らない。
== 概要 ==
{| style="float:right; width:120px; font-size:80%; margin-left:2em;"
|-
|[[File:Mandelbrot-similar-x1.jpg|none|The whole Mandelbrot set]]
|-
|[[File:Mandelbrot-similar-x6.jpg|none|Mandelbrot zoomed 6x]]
|-
|[[File:Mandelbrot-similar-x100.jpg|none|Mandelbrot Zoomed 100x]]
|-
|[[File:Mandelbrot-similar-x2000.jpg|none|Mandelbrot Zoomed 2000x]]
|-
|マンデルブロ集合の2000倍拡大
|}
[[File:animated construction of Sierpinski Triangle.gif|thumb|left|200px|[[シェルピンスキーのギャスケット]]の構造のアニメーション(無限のうち9回まで)]]
フラクタルの具体的な例としては、海岸線の形などが挙げられる。一般的な図形は複雑に入り組んだ形状をしていても、拡大するに従ってその細部は変化が少なくなり、滑らかな形状になっていく。これに対して海岸線は、どれだけ拡大しても同じように複雑に入り組んだ形状が現れる。
そして海岸線の長さを測ろうとする場合、より小さい物差しで測れば測るほど大きな物差しでは無視されていた微細な凹凸が測定されるようになり、その測定値は長くなっていく。したがって、このような図形の長さは[[無限|無限大]]であると考えられる。これは、実際問題としては[[分子]]の大きさ程度よりも小さい物差しを用いることは不可能だが、理論的な[[極限]]としては測定値が無限大になるということである。つまり、無限の精度を要求されれば測り終えることはないということである([[海岸線のパラドックス]])。
この様な図形を評価するために導入されたのが、[[整数]]以外の値にもなる[[フラクタル次元]]である。フラクタル次元は数学的に定義された図形などでは厳密な値が算出できることもあるが、前述の海岸線などの場合はフラクタル次元自体が測定値になる。つまり、比較的滑らかな海岸線ではフラクタル次元は線の次元である1に近い値となり、[[リアス式海岸]]などの複雑な海岸線ではそれよりは大きな値となり、その値により図形の複雑さが分かる。なお、実際の海岸線のフラクタル次元は1.1 – 1.4程度である。
海岸線の形、山の形、枝分かれした樹木の形などの3次元空間内に存在するもののフラクタル次元は0以上3以下の値になるが、数学的には更に高次の次元を持つものも考えられる。この様な図形の殆どは[[分数]]の次元を持ったフラクタルな図形と呼ばれるが、実際には分数になるというよりは[[無理数]]になる。また、中には整数の次元を持つものもある。例えば[[マンデルブロ集合]]の周は、曲線でありながら2次元である。
== フラクタル研究の歴史 ==
始まりは、[[イギリス]]の気象学者[[ルイス・フライ・リチャードソン]]の国境線に関する検討である。国境を接する[[スペイン]]と[[ポルトガル]]は、国境線の長さとしてそれぞれ 987 km と 1214 km と別の値を主張していた。リチャードソンは、国境線の長さは用いる地図の縮尺によって変化し、縮尺と国境線の長さがそれぞれ[[対数]]を取ると直線状に相関することを発見した。このような特徴をフラクタルと名付けて一般化したのがマンデルブロである。
また、次節で挙げられている例のうち、[[高木曲線]]などいくつかは、概念がまとめられてフラクタルという名がつくより以前に示されたものである。
フラクタルの研究者[[高安秀樹]]によると、マンデルブロは[[罫線表|株価チャート]]を見ていてフラクタルの着想を得たという。
== フラクタルの例 ==
[[File:Julia set (highres 01).jpg|thumb|160px|ジュリア集合]]
[[File:Chou Romanesco.jpg|thumb|160px|ロマネスコ・ブロッコリーのフラクタル形状]]
近似的なフラクタルな図形は、自然界のあらゆる場面で出現されるとされ、[[自然科学]]の新たなアプローチ手法となった。逆に、[[コンピュータグラフィックス]]における地形や[[植生]]などの自然物形状の自動生成の[[アルゴリズム]]として用いられることも多い。
また、自然界で多くみられる一見不規則な変動([[カオス理論|カオス]])をグラフにプロットするとそのグラフはフラクタルな性質を示すことが知られ、カオスアトラクターと呼ばれる。
その他、自然界の現象においては、結晶成長パターンもフラクタルの性質を示すものとして知られている。
[[株価]]の動向など社会的な現象もフラクタルな性質を持っている。
当然、厳密には無限大(∞)を含むため自然界でフラクタルは成立しえず、近似である。
* [[カントール集合]]
* [[シェルピンスキーのギャスケット]]
* [[コッホ曲線]]
* [[ペアノ曲線]]
* [[高木曲線]]
* [[ヒルベルト曲線]]
* [[マンデルブロ集合]]
* [[ジュリア集合]]
* [[メンガーのスポンジ]]
* [[ロマネスコ|ロマネスコ・ブロッコリー]] - 明確なフラクタル図形をした野菜。
* [[バーニングシップ・フラクタル]]
* [[リアプノフ・フラクタル]]
* [[バーンズリーのシダ]]
== 生物とフラクタル ==
{{出典の明記|date=2021年4月|section=1}}
[[血管]]の分岐構造や[[腸]]の内壁などはフラクタル構造であるが、それにはいくつかの理由があると考えられている。
例えば血管の配置を考えたとき、生物において体積は有限であり貴重なリソースであると言えるので、血管が占有する体積は可能な限り小さいことが望ましい。一方、[[ガス交換]]等に使える血管表面積は可能な限り大きく取れる方が良い。この場合、有限の体積の中に無限の表面積を包含できるフラクタル構造は非常に合理的かつ効率的である{{sfn|井庭崇|福原義久|1998| p=43}}。さらに、このような構造を生成するために必要な設計情報も、比較的単純な手続きの再帰的な適用で済まされるので、[[遺伝情報]]に占める割合もごく少量で済むものと考えられる{{sfn|野田ユウキ|2019| p=69}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =K・ファルコナー|others =大鑄史男・小和田正訳|title = フラクタル幾何学の技法|year = 2002|publisher = [[シュプリンガー・フェアラーク東京]]|isbn = 4-431-70993-2|page = }}
* {{Cite book|和書|author = Kenneth Falconer|others =服部久美子・村井浄信訳|title = フラクタル幾何学|year = 2006|series = 新しい解析学の流れ|publisher = [[共立出版]]|isbn = 4-320-01801-X|page = }}
* {{Cite book|和書|author = B・マンデルブロ|authorlink = ブノワ・マンデルブロ|others = [[広中平祐]]監訳|title = フラクタル幾何学|year = 1985|publisher = [[日経サイエンス]]|isbn = 4-532-06254-3|page = }}
* {{Cite book|和書|author = B・マンデルブロ|others = 広中平祐監訳|title = フラクタル幾何学|year = 2011|publisher = [[筑摩書房]]|series = [[ちくま学芸文庫]]|isbn = 978-4-480-09356-1|volume = 上|page = }}
* {{Cite book|和書|author = B・マンデルブロ|others = 広中平祐監訳|title = フラクタル幾何学|year = 2011|publisher = 筑摩書房|series = ちくま学芸文庫|isbn = 978-4-480-09357-8|volume = 下|page = }}
* {{Cite book|和書
|author = 渕上季代絵
|others =
|title = フラクタルCGコレクション
|year = 1987
|date = 1987-10-25
|publisher = [[株式会社]][[サイエンス社]]
|series =
|isbn = 4-7819-0489-0
|volume =
|page = }}
* {{Cite book|和書 |author1=井庭崇 |author2=福原義久 |year=1998 |title=複雑系入門 |page=43 |publisher=[[NTT出版]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=KmcvJj8PNMkC&pg=PA43#v=onepage&q&f=false |isbn=9784871885607 | ref = harv }}
* {{Cite book|和書 |author1=野田ユウキ |year=2019 |title=図説シンギュラリティの科学と哲学 |page=69 |publisher=[[秀和システム]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=zzWGDwAAQBAJ&pg=PA69#v=onepage&q&f=false |isbn=9784798054629 | ref = harv }}
* 保井政恵, 松下貢『[https://cir.nii.ac.jp/crid/1390001206204741120 寒天媒質上での樹枝状結晶成長のパターン変化]』, 日本物理学会 年会講演予稿集, 1991年, 46.3 (0), 412-
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Fractals}}
{{columns-list|3|
* [[フラクタル幾何]]
* [[フラクタルアート]] - [[フラクタル地形]]
* [[フラクタル圧縮]]
* [[アトラクター]]
* [[グモウスキー・ミラの写像]]
* [[オルバースのパラドックス]]
* [[コルモゴロフ複雑性]]
* {{仮リンク|ボックス次元|en|Minkowski–Bouligand dimension}}
* [[数学的な美]]
* [[中心地理論]]
* [[空隙性]]
* [[反復関数系]]
* [[非線形科学]]
* [[複雑系]]
* [[創発]]
}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Fractals}}
{{Math-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふらくたる}}
[[Category:フラクタル|*]]
[[Category:コンピュータグラフィックス]]
[[Category:研究の計算分野]]
[[Category:カオス理論]]
[[Category:ブノワ・マンデルブロ]]
[[Category:数学に関する記事]]
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[[Category:英語の語句]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%AB
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マンデルブロ集合
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数学、特に複素力学系に於けるマンデルブロ集合(マンデルブロしゅうごう、英: Mandelbrot set )は、 充填ジュリア集合に対する指標として提唱された集合である。数学者ブノワ・マンデルブロの名に因む。
次の漸化式
で定義される複素数列 {zn}n∈N∪{0} が n → ∞ の極限で無限大に発散しないという条件を満たす複素数 c 全体が作る集合がマンデルブロ集合である。
複素数 c を複素平面上の点として(あるいは同じことだが c = a + ib と表して c を xy-平面上の点 (a, b) として)表すと、この平面上でマンデルブロ集合はフラクタル図形として表される。右に示した 4 つの図は複素平面上でのマンデルブロ集合である。右下が全体像、他の 3 つの図は各部の拡大像である。図中の黒い部分がマンデルブロ集合に相当し、周囲の色は発散する速さを表している。
複素平面上においてマンデルブロ集合の大半の面積を占めるのは、原点を含むカージオイドに無数の円が外接し、その円にさらに無数の小さい円が外接することを無限に繰り返してできるフラクタル図形である。さらに、周囲を拡大すると、このフラクタル図形に類似した「飛び地」のような図形(図左上など)が無数に見られる。また、これらの図形を包含する、発散の遅い領域もやはりフラクタルの特徴を有しており、螺旋・相似等の多様な図形要素を構成する(#拡大イメージ参照)。マンデルブロ集合全体は、「飛び地」を含め、連結であることが証明されている。
マンデルブロ集合の周を拡大すると繰り返し現れる「飛び地」はマンデルブロ集合全体に良く似ているものの、互いに異なっている。つまりマンデルブロ集合の周は自己相似ではないフラクタルの一種であり、その相似次元は平面内の曲線としては最大の2次元である。このことはマンデルブロの予想と呼ばれ未解決問題の一つだったが、宍倉光広によって肯定的に証明された。
なお、上式で z0 を 0 以外の複素数にした場合、マンデルブロ集合の周が変形し、ジュリア集合に似たフラクタル状の曲線が現れる。
マンデルブロ集合を複素数を使わずに書き直すには、zn を点 (xn, yn) に、c を点 (a, b) にそれぞれ置き代えて、
とすればよい。
マンデルブロ集合を高解像度で描画しようとするほど、膨大な計算時間を必要とするようになっていくことから、コンピュータのベンチマークテストとして利用されることがある。また、描き出される図形の幾何学的な美しさから鑑賞を目的として美麗な描画を行うプログラムもある。
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"text": "なお、上式で z0 を 0 以外の複素数にした場合、マンデルブロ集合の周が変形し、ジュリア集合に似たフラクタル状の曲線が現れる。",
"title": "定義"
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"text": "マンデルブロ集合を複素数を使わずに書き直すには、zn を点 (xn, yn) に、c を点 (a, b) にそれぞれ置き代えて、",
"title": "定義"
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"text": "とすればよい。",
"title": "定義"
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"text": "マンデルブロ集合を高解像度で描画しようとするほど、膨大な計算時間を必要とするようになっていくことから、コンピュータのベンチマークテストとして利用されることがある。また、描き出される図形の幾何学的な美しさから鑑賞を目的として美麗な描画を行うプログラムもある。",
"title": "フリー・フラクタル発生プログラム"
}
] |
数学、特に複素力学系に於けるマンデルブロ集合は、 充填ジュリア集合に対する指標として提唱された集合である。数学者ブノワ・マンデルブロの名に因む。
|
{{出典の明記|date=2015年3月}}
{{正確性|date=2015年3月}}
[[ファイル:Mandel zoom 00 mandelbrot set.jpg|right|322px|thumb|マンデルブロ集合]]
[[数学]]、特に[[複素力学系]]に於ける'''マンデルブロ集合'''(マンデルブロしゅうごう、{{Lang-en-short|''Mandelbrot set''}} )は、 [[充填ジュリア集合]]に対する指標として提唱された[[集合]]である。[[数学者]][[ブノワ・マンデルブロ]]の名に因む。
== 定義 ==
[[ファイル:Mandelbrot sets by FractScope.jpg|right|270px|thumb|左上:場所 a の拡大図,右上:場所 b の拡大図,左下:場所 c の拡大図,右下:全体図]]
次の[[漸化式]]
:<math>
\begin{cases}
z_{n+1} = z_n^2 + c \\
z_0 = 0
\end{cases}
</math>
で定義される[[複素数|複素]][[数列]] {''z''<sub>''n''</sub>}<sub>''n''∈'''N∪{0}'''</sub> が ''n'' → ∞ の[[極限]]で[[無限|無限大]]に[[極限#数列の極限|発散]]しないという条件を満たす複素数 ''c'' 全体が作る集合がマンデルブロ集合である<ref>{{Cite web|和書|title=マンデルブロ集合とは|url=https://azisava.sakura.ne.jp/mandelbrot/definition.html|website=マンデルブロ集合の不思議な世界|accessdate=2020-07-27|language=ja}}</ref>。
複素数 ''c'' を[[複素平面]]上の点として(あるいは同じことだが ''c'' = ''a'' + ''ib'' と表して ''c'' を ''xy''-平面上の点 (''a'', ''b'') として)表すと、この平面上でマンデルブロ集合は[[フラクタル幾何|フラクタル図形]]として表される。右に示した 4 つの図は複素平面上でのマンデルブロ集合である。右下が全体像、他の 3 つの図は各部の拡大像である。図中の黒い部分がマンデルブロ集合に相当し、周囲の色は発散する速さを表している。
複素平面上においてマンデルブロ集合の大半の面積を占めるのは、原点を含む[[カージオイド]]に無数の円が外接し、その円にさらに無数の小さい円が外接することを無限に繰り返してできるフラクタル図形である。さらに、周囲を拡大すると、このフラクタル図形に類似した「飛び地」のような図形(図左上など)が無数に見られる。また、これらの図形を包含する、発散の遅い領域もやはり[[フラクタル]]の特徴を有しており、螺旋・相似等の多様な図形要素を構成する([[#拡大イメージ]]参照)。マンデルブロ集合全体は、「飛び地」を含め、[[連結空間|連結]]であることが証明されている。
マンデルブロ集合の周を拡大すると繰り返し現れる「飛び地」はマンデルブロ集合全体に良く似ているものの、互いに異なっている。つまりマンデルブロ集合の周は''自己相似ではないフラクタル''の一種であり、その[[相似次元]]は''平面内の曲線としては最大の2次元''である。{{要出典範囲|このことはマンデルブロの予想と呼ばれ未解決問題の一つ|date=2023年12月}}だったが、{{要検証範囲|[[宍倉光広]]によって肯定的に証明|date=2023年12月}}された。
なお、上式で ''z''<sub>0</sub> を 0 以外の複素数にした場合、マンデルブロ集合の周が変形し、[[ジュリア集合]]に似たフラクタル状の曲線が現れる。
マンデルブロ集合を複素数を使わずに書き直すには、''z''<sub>''n''</sub> を点 (''x''<sub>''n''</sub>, ''y''<sub>''n''</sub>) に、''c'' を点 (''a'', ''b'') にそれぞれ置き代えて、
:<math>
\begin{cases}
x_{n+1} = x_n^2 - y_n^2 + a \\
y_{n+1} = 2x_n y_n + b
\end{cases}
</math>
とすればよい。
== 拡大イメージ ==
{| border=0
|-
|[[画像:mandel zoom 00 mandelbrot set.jpg|140px]]<br />全体図
|[[画像:mandel zoom 01 head and shoulder.jpg|140px]]<br />拡大 1
|[[画像:mandel zoom 02 seehorse valley.jpg|140px]]<br />拡大 2
|[[画像:mandel zoom 03 seehorse.jpg|140px]]<br />拡大 3
|[[画像:mandel zoom 04 seehorse tail.jpg|140px]]<br />拡大 4
|-
|[[画像:mandel zoom 05 tail part.jpg|140px]]<br />拡大 5
|[[画像:mandel zoom 06 double hook.jpg|140px]]<br />拡大 6
|[[画像:mandel zoom 07 satellite.jpg|140px]]<br />拡大 7
|[[画像:mandel zoom 08 satellite antenna.jpg|140px]]<br />拡大 8
|[[画像:mandel zoom 09 satellite head and shoulder.jpg|140px]]<br />拡大 9
|-
|[[画像:mandel zoom 10 satellite seehorse valley.jpg|140px]]<br />拡大 10
|[[画像:mandel zoom 11 satellite double spiral.jpg|140px]]<br />拡大 11
|[[画像:mandel zoom 12 satellite spirally wheel with julia islands.jpg|140px]]<br />拡大 12
|[[画像:mandel zoom 13 satellite seehorse tail with julia island.jpg|140px]]<br />拡大 13
|[[画像:mandel zoom 14 satellite julia island.jpg|140px]]<br />拡大 14
|}
== フリー・フラクタル発生プログラム ==
マンデルブロ集合を高解像度で描画しようとするほど、膨大な計算時間を必要とするようになっていくことから、コンピュータの[[ベンチマーク|ベンチマークテスト]]として利用されることがある。また、描き出される図形の幾何学的な美しさから鑑賞を目的として美麗な描画を行うプログラムもある。
* [http://mandelbrotset.sellit.pl/ "Mandelbrot set - online generator"]
* [https://web.archive.org/web/20090206141840/http://spanky.triumf.ca/www/fractint/fractint.html Fractint] (ほとんどのプラットフォームをサポート)
* [http://skyscraper.fortunecity.com/terabyte/966 Makin' Magic Fractals]
* [http://www.chaospro.de ChaosPro] - for Microsoft Windows
* [https://github.com/xaos-project/XaoS Xaos] - リアルタイム発生プログラム - Windows, Mac, Linux, etc.
* [http://www.bridge1.com/amseq.html Amseq] - マンデルブロ集合(フラクタル)アニメーションを描き出す Mac OS X 用スクリーンセーバー
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mandelbrot sets}}
* [[複素力学系]]
* [[充填ジュリア集合]]
* [[フラクタル]]
* [[ブノワ・マンデルブロ]]
{{Fractals}}
{{デフォルトソート:まんてるふろしゆうこう}}
[[Category:フラクタル]]
[[Category:複素力学系]]
[[Category:ブノワ・マンデルブロ]]
[[Category:数学のエポニム]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2003-06-25T17:53:04Z
|
2023-12-03T20:26:57Z
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[
"Template:正確性",
"Template:Lang-en-short",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:Fractals",
"Template:出典の明記"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AD%E9%9B%86%E5%90%88
|
10,410 |
複素共役
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数学において、複素共役(複素共軛、ふくそきょうやく、英: complex conjugate)とは、複素数の虚部を反数にした複素数をとる操作(写像)のことである。複素数 z の共役複素数を記号で z で表す
複素数 z = a + bi(a, b は実数、i は虚数単位)の共役複素数 z は
である。極形式表示した複素数 z = r(cos θ + i sin θ)(r ≥ 0, θ は実数)の共役複素数 z は、偏角を反数にした複素数である:
複素数の共役をとる複素関数 ・ : C → C ; z ↦ z は環同型である。すなわち次が成り立つ。
複素共役は実数を変えない:
逆に、C 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、恒等写像か複素共役変換に限られる。
複素共役変換は、C の全ての点で複素微分不可能である。
複素共役変換を R 上の線型変換と見ると、その表現行列は
代数方程式について、
すなわち
が成り立つ(1746年、ダランベール)。このことは、複素共役変換は環準同型であることから容易に示せる。
複素数 z = a + bi(a, b は実数、i は虚数単位)の複素共役とは、
を取る操作のことである。この写像を複素共役変換という。
複素共役変換は環同型写像である。すなわち、複素共役変換 ・ : C → C ; z ↦ z に対して、次が成り立つ。
さらに、複素共役は実数を保つ:
逆に、C 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、恒等写像か複素共役変換に限られる。
(証明)
z, w を複素数とする。以下の性質が成り立つ。
上記の3つの性質は、複素共役を特徴付けるため、重要である。
複素共役を用いると、複素数の実部・虚部、絶対値・偏角を表すことができる。
実係数多項式 f(x) が虚数根 α をもつならば、α の共役複素数 α も f(x) の根である。すなわち、実数係数多項式 f(x) について
が成り立つ(1746年、ダランベール)。このことは複素共役が環準同型であることから分かる。
複素共役変換 ・ : C → C ; z ↦ z は、C の全ての点で複素微分不可能である。
実軸の開集合上で実数値をとる実解析的関数について、その解析接続は、共役複素数に対して共役複素数を与える。たとえば複素解析において
が成り立つ。
複素線形空間 C の標準内積 <・|・> : C × C → R≥0 は次の式で定義される:
|
[
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"title": "性質"
}
] |
数学において、複素共役とは、複素数の虚部を反数にした複素数をとる操作(写像)のことである。複素数 z の共役複素数を記号で z で表す 複素数 z = a + biの共役複素数 z は である。極形式表示した複素数 z = r(cos θ + i sin θ)の共役複素数 z は、偏角を反数にした複素数である: 複素数の共役をとる複素関数 ・ : C → C ; z ↦ z は環同型である。すなわち次が成り立つ。 z + w = z + w
zw = z w 複素共役は実数を変えない: z が実数 ⇔ z = z 逆に、C 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、恒等写像か複素共役変換に限られる。 複素共役変換は、C の全ての点で複素微分不可能である。 複素共役変換を R 上の線型変換と見ると、その表現行列は 代数方程式について、 すなわち が成り立つ(1746年、ダランベール)。このことは、複素共役変換は環準同型であることから容易に示せる。
|
[[画像:Complex conjugate picture.svg|thumb|複素数 {{mvar|z}} の複素共役 {{math|{{overline|''z''}}}} を取る操作は、[[複素数平面]]では実軸[[線対称|対称]]変換に当たる。]]
[[数学]]において、'''複素共役'''('''複素共軛'''、ふくそきょうやく、{{lang-en-short|complex conjugate}})とは、[[複素数]]の虚部を[[反数]]にした複素数をとる操作([[写像]])のことである。複素数 {{mvar|z}} の'''共役複素数'''を記号で {{math|{{overline|''z''}}}} で表す<ref group="注釈">複素共役を表すのには上線がよく使われる。上付きの[[アスタリスク]] ({{math|''z''{{sup|*}}}}) なども使われるが、行列の[[随伴行列]]などとの混乱を避けるためにあまり使われない{{要出典|date=2023年9月}}。</ref>
複素数 {{math2|''z'' {{=}} ''a'' + ''bi''}}({{math2|''a'', ''b''}} は[[実数]]、{{mvar|i}} は[[虚数単位]])の共役複素数 {{overline|''z''}} は
:<math>\overline{z} = a - b\, i</math>
である。極形式表示した複素数 {{math|''z'' {{=}} ''r''(cos ''θ'' + ''i'' sin ''θ'')}}({{math2|''r'' ≥ 0}}, {{mvar|θ}} は実数)の共役複素数 {{overline|''z''}} は、[[複素数の偏角|偏角]]を反数にした複素数である:
:<math>\overline{z} =r \{ \cos (- \theta ) +i \sin (- \theta ) \}</math>
複素数の共役をとる複素関数 {{math2|{{overline|・}} : '''C''' → '''C''' ; ''z'' ↦ {{overline|''z''}}}} は[[環準同型|環同型]]である。すなわち次が成り立つ。
* {{math|1={{overline|''z'' + ''w''}} = {{overline|''z''}} + {{overline|''w''}}}}
* {{math|1={{overline|''zw''}} = {{overline|''z''}} {{overline|''w''}}}}
複素共役は[[実数]]を変えない:
* {{mvar|z}} が実数 ⇔ {{math|1={{overline|''z''}} = ''z''}}
逆に、{{mathbf|C}} 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、[[恒等写像]]か複素共役変換に限られる<ref name="memo_takahashi" /><ref name="hatori" />。
複素共役変換は、{{mathbf|C}} の全ての点で[[複素微分]]不可能である。
複素共役変換を {{mathbf|R}} 上の[[線型写像|線型変換]]と見ると、その[[線型写像#行列表現|表現行列]]は
:<math>\begin{bmatrix}
1 &0 \\
0 &-1
\end{bmatrix}</math>
[[代数方程式]]について、
:「実係数[[多項式]] {{math|''P''(''x'')}} が虚数[[多項式の根|根]] {{mvar|α}} をもつならば、{{mvar|α}} の共役複素数 {{math|{{overline|''α''}}}} も {{math|''P''(''x'')}} の虚数根である」
すなわち
:実係数多項式 {{math|''P''(''x'')}} について、{{math2|1=''P''(''α'') = 0 ⇔ ''P''({{overline|''α''}}) = 0}}
が成り立つ([[1746年]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]])。このことは、複素共役変換は環準同型であることから容易に示せる。
== 定義と特徴づけ ==
複素数 {{math|''z'' {{=}} ''a'' + ''bi''}}({{math2|''a'', ''b''}} は[[実数]]、{{mvar|i}} は[[虚数単位]])の複素共役とは、
:<math>\overline{z} = a - b\, i</math>
を取る操作のことである。この[[写像]]を'''複素共役変換'''という。
複素共役変換は'''[[環準同型|環同型]]写像である'''。すなわち、複素共役変換 {{math2|{{overline|・}} : '''C''' → '''C''' ; ''z'' ↦ {{overline|''z''}}}} に対して、次が成り立つ。
* {{math2|{{overline|・}}}} は[[全単射]]
* {{math|1={{overline|''z'' + ''w''}} = {{overline|''z''}} + {{overline|''w''}}}}
* {{math|1={{overline|''zw''}} = {{overline|''z''}} {{overline|''w''}}}}
さらに、複素共役は実数を保つ:
* {{mvar|z}} が実数 {{math2|1=⇔ {{overline|''z''}} = ''z''}}
逆に、{{mathbf|C}} 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、[[恒等写像]]か複素共役変換に限られる<ref name="memo_takahashi">{{Cite book|和書 |author=高橋礼司|authorlink=高橋礼司 |title=複素解析 |publisher=[[東京大学出版会]] |date=1990-01-01 |isbn=978-4130621069 |page=5 |chapter=第1章「複素数」}}の[http://www2.accsnet.ne.jp/~kamey/others/tk1/chap1/sec2/01.html 読書メモ]</ref><ref name="hatori">{{Cite journal|和書|author=羽鳥理 |date=2000-04 |url=https://hdl.handle.net/2433/63807 |title=Ring homomorphisms on commutative Banach algebras(1)〔和文〕 |journal=数理解析研究所講究録 |ISSN=1880-2818 |publisher=京都大学数理解析研究所 |volume=1137 |pages=1-8 |hdl=2433/63807 |CRID=1050282677151329152}}</ref>。
{{See also|自己同型}}
(証明)
:{{math2|''σ'' : '''C''' → '''C'''}} は環準同型写像で、
::実数 {{mvar|r}} に対して {{math|''σ''(''r'') {{=}} ''r''}}
:を満たすとする。
::{{math|1=(''σ''(''i'')){{sup|2}} = ''σ''(''i''{{sup|2}}) = ''σ''(−1) = −1}}
::{{math|1=(''σ''(''i'') + ''i'')(''σ''(''i'') − ''i'') = 0}}
::{{math|1=∴ ''σ''(''i'') = ±''i''}}
:ゆえに、複素数 {{math|''z'' {{=}} ''x'' + ''yi''}}({{math2|''x'', ''y''}} は実数)に対して、
::{{math|1=''σ''(''z'') = ''σ''(''x'' + ''yi'') = ''σ''(''x'') + ''σ''(''y'')''σ''(''i'') = ''x'' + ''y σ''(''i'') = ''x'' ± ''yi''}}
:{{math|''σ''(''x'' + ''yi'') {{=}} ''x'' + ''yi''}} のとき、{{mvar|σ}} は恒等写像。
:{{math|''σ''(''x'' + ''yi'') {{=}} ''x'' − ''yi''}} のとき、{{mvar|σ}} は複素共役変換である。(証明終)
== 性質 ==
=== 計算法則 ===
{{math2|''z'', ''w''}} を複素数とする。以下の性質が成り立つ。
* <math>z</math> が実数 ⇔ <math>\overline{z} = z</math>
** <math>z</math> が純虚数 ⇔ <math>\overline{z} = -z \neq 0</math>
* <math>\overline{z+w} = \overline{z} + \overline{w}</math>
** <math>\overline{z-w} = \overline{z} - \overline{w}</math>
* <math>\overline{zw} = \overline{z} \cdot \overline{w}</math>
** <math>\overline{\left(\frac{z}{w}\right)} = \frac{\overline{z}}{\overline{w}} \ (w \ne 0)</math>
** <math>\overline{z^n} = ( \overline{z} )^n</math>({{mvar|n}} は整数)
上記の3つの性質は、複素共役を特徴付けるため、重要である。
* <math>\overline{\overline{z}} = z</math>([[対合]])
* <math>|z| = |\overline{z}|</math>
* <math>z\overline{z} = |z|^2</math>
* <math>z + \overline{z} = 2 \,\operatorname{Re} z</math>
* <math>z - \overline{z} = 2 i \,\operatorname{Im} z</math>
* <math>\frac{1}{z} = \frac{\overline{z}}{|z|^2} \ (z \ne 0)</math>
** [[逆数]]は、絶対値と共役で表せる。
=== 複素数の種々の値 ===
複素共役を用いると、複素数の実部・虚部、絶対値・偏角を表すことができる。
*<math>\operatorname{Re} z = \frac{z+\overline{z}}{2}</math>
*<math>\operatorname{Im} z = \frac{z-\overline{z}}{2i}</math>
*<math>\left| z \right| = \sqrt{z\overline{z}}</math>
*<math>e^{i\arg z} = \sqrt{\frac{z}{\overline{z}}}</math>
=== 代数方程式 ===
実係数多項式 {{math|''f''(''x'')}} が虚数[[多項式の根|根]] {{mvar|α}} をもつならば、{{mvar|α}} の共役複素数 {{math|{{overline|''α''}}}} も {{math|''f''(''x'')}} の根である。すなわち、実数係数多項式 {{math|''f''(''x'')}} について
:<math>f( \alpha ) = 0 \iff f(\overline{\alpha}) = 0</math>
が成り立つ([[1746年]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]])。このことは複素共役が環準同型であることから分かる。
=== 複素解析 ===
複素共役変換 {{math2|{{overline|・}} : '''C''' → '''C''' ; ''z'' ↦ {{overline|''z''}}}} は、{{mathbf|C}} の全ての点で[[複素微分]]不可能である。
実軸の開集合上で実数値をとる実解析的関数について、その[[解析接続]]は、共役複素数に対して共役複素数を与える。たとえば複素解析において
:<math>\exp(\overline{z}) = \overline{\exp(z)}</math>
:<math>\log(\overline{z}) = \overline{\log(z)}</math>(ただし実軸のある領域上で実数値をとる分枝の、複素共役について対称的な領域への拡張について)
が成り立つ。
=== 複素数空間 ===
[[複素数空間|複素線形空間]] {{math|'''C'''{{sup|''n''}}}} の標準[[内積]] {{math2|<・{{!}}・> : '''C'''{{sup|''n''}} × '''C'''{{sup|''n''}} → '''R'''{{sub|≥0}}}}
は次の式で定義される:
:<math>\boldsymbol{x} = (x_1, \cdots , x_n), \boldsymbol{y} = (y_1, \cdots , y_n) \in \mathbb{C}^n</math> に対して、
:<math>\langle \boldsymbol{x}, \boldsymbol{y} \rangle := \textstyle \sum\limits_{i=1}^n x_i \overline{y_i}</math>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=黒須康之介|date=1959-04|title=複素数|series=新数学シリーズ 16|publisher=[[培風館]]|isbn=978-4-563-00316-6|ref={{Harvid|黒須|1959}}}}
* {{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|date=1965-11-25|title=代数学講義|edition=改訂新版|chapter=第1章 複素数|publisher=[[共立出版]]|isbn=978-4-320-01000-0|ref={{Harvid|高木|1965}}}}
* {{Cite book|和書|author=高木貞治|date=1996-12-10|title=復刻版 近世数学史談・数学雑談|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-01551-7|ref={{Harvid|高木|1996}}}}
* {{Cite book|和書|author=高橋正明|date=2000-10-21|title=複素数|edition=改訂版|series=[[モノグラフ]] 9|publisher=[[科学新興新社]]|isbn=978-4-89428-166-0|ref={{Harvid|高橋|2000}}}}
* {{Cite book|和書|author=西山清二|date=2018-03|title=教科書だけでは足りない大学入試攻略複素数平面|series=河合塾シリーズ|publisher=[[河合出版]]|isbn=978-4-7772-1496-9|ref={{Harvid|西山|2018}}}}
== 関連項目 ==
{{div col}}
* [[共役]]
* [[複素数]]
* [[複素平面]]
* [[虚数]]
{{div col end}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|共役複素数}}
* {{高校数学の美しい物語|671|共役複素数の覚えておくべき性質}}
* {{MathWorld|ComplexConjugate|Complex Conjugates}}
* {{MathWorld|ImaginaryNumber|Imaginary Numbers}}
{{複素数}}
{{DEFAULTSORT:ふくそきようやく}}
[[Category:複素数|きようやく]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-06-25T18:09:28Z
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2023-12-21T09:02:11Z
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Subsets and Splits
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