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ブール代数
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ブール代数(ブールだいすう、英: boolean algebra)またはブール束(ブールそく、英: boolean lattice)とは、ジョージ・ブールが19世紀中頃に考案した代数系の一つである。ブール代数の研究は束の理論が築かれるひとつの契機ともなった。ブール論理の演算はブール代数の一例であり、現実の応用例としては、組み合わせ回路(論理回路)はブール代数の式で表現できる。
ブール代数(ブール束)とは束論における可補分配束(complemented distributive lattice)のことである。
集合 L と L 上の二項演算 ∨(結び(join)と呼ぶ),∧(交わり(meet)と呼ぶ)の組 ⟨ L; ∨, ∧ ⟩ が以下を満たすとき分配束(distributive lattice)と呼ぶ。
さらに L の特別な元 0, 1 と単項演算 ¬ について、以下が成り立つとき組 ⟨ L; ∨, ∧, ¬, 0, 1 ⟩ を可補分配束(ブール束)と呼ぶ。
典型的な例は、台集合として特別な2つの元 0, 1 のみの2点集合 {0, 1} からなるものであり、コンピュータの動作原理の理論としても知られている。 この代数の上では排他的論理和 (xor) や否定論理積(nand)など応用上重要な演算子が ∧、 ∨、 ¬ の組み合わせで記述される(∧ または ∨ も ¬ と残りの1つの組み合わせで記述される。)。
任意の元 x に対して 積の冪等則x = x を満たす単位的環 B をブール環(boolean ring)という。 このとき単位的環の公理から
さらに
が導かれ、それらと冪等則により
を得る。つまり(乗法が)冪等的かつ単位的な環は加法に関して全ての元の位数が高々2であるような可換環となる。したがって
とおけば B はブール代数となる。 また B がブール代数のとき
とおけば B はブール環となる。 この対応はブール代数とブール環の間の自然な一対一対応を定めるので、しばしばこの2つは同一視される。 。
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ブール代数またはブール束とは、ジョージ・ブールが19世紀中頃に考案した代数系の一つである。ブール代数の研究は束の理論が築かれるひとつの契機ともなった。ブール論理の演算はブール代数の一例であり、現実の応用例としては、組み合わせ回路(論理回路)はブール代数の式で表現できる。
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{{参照方法|date=2015年12月13日 (日) 09:21 (UTC)}}
[[File:Hasse diagram of powerset of 3.svg|right|250px]]
'''ブール代数'''(ブールだいすう、{{lang-en-short|boolean algebra}})または'''ブール束'''(ブールそく、{{lang-en-short|boolean lattice}})とは、[[ジョージ・ブール]]が19世紀中頃に考案した[[普遍代数|代数系]]の一つである。ブール代数の研究は[[束 (束論)|束]]の理論が築かれるひとつの契機ともなった。[[ブール論理]]の演算はブール代数の一例であり、現実の応用例としては、組み合わせ回路([[論理回路#組み合わせ回路|論理回路]])はブール代数の式で表現できる。
== 定義 ==
'''ブール代数'''('''ブール束''')とは[[束 (束論)|束論]]における[[可補束|可補]]分配束(complemented distributive lattice)のことである。
[[集合]] ''L'' と ''L'' 上の[[二項演算]] ∨(結び(join)と呼ぶ),∧(交わり(meet)と呼ぶ)の組 ⟨ L; ∨, ∧ ⟩ が以下を満たすとき'''分配束'''(distributive lattice)と呼ぶ。
* [[交換法則|交換則]]:''x'' ∧ ''y'' = ''y'' ∧ ''x'' 、''x'' ∨ ''y'' = ''y'' ∨ ''x''
* [[結合法則|結合則]]:(''x'' ∧ ''y'')∧ ''z'' = ''x'' ∧(''y'' ∧ ''z'') 、(''x'' ∨ ''y'')∨ ''z'' = ''x'' ∨(''y'' ∨ ''z'')
* [[吸収法則|吸収則]]<ref name="冪等則の扱い" group="注釈" />:(''x'' ∧ ''y'')∨ ''x'' =''x'' 、(''x'' ∨ ''y'')∧ ''x'' = ''x''
* [[分配法則|分配則]]:(''x'' ∨ ''y'')∧ ''z'' = (''x'' ∧ ''z'')∨(''y'' ∧ ''z'') 、(''x'' ∧ ''y'')∨ ''z'' = (''x'' ∨ ''z'')∧(''y'' ∨ ''z'')
さらに ''L'' の特別な元 0, 1 と単項演算 ¬ について、以下が成り立つとき組 ⟨ L; ∨, ∧, ¬, 0, 1 ⟩ を'''可補分配束'''('''ブール束''')と呼ぶ。
* 補元則: ''x'' ∨ ¬''x'' = 1, ''x'' ∧ ¬ ''x'' = 0。
典型的な例は、[[台集合]]として特別な2つの元 0, 1 のみの2点集合 {0, 1} からなるものであり、コンピュータの動作原理の理論としても知られている。
この代数の上では[[排他的論理和]] (xor) や[[否定論理積]](nand)など応用上重要な演算子が ∧、 ∨、 ¬ の組み合わせで記述される(∧ または ∨ も ¬ と残りの1つの組み合わせで記述される。)。
== ブール環 ==
任意の元 ''x'' に対して 積の[[冪等]]則''x''<sup>2</sup> = ''x'' を満たす[[単位的環]] ''B'' を'''ブール環'''(boolean ring)という。
このとき単位的環の公理から
:{{math|−''x''{{=}}(−1)''x''{{=}}''x''(−1)}}
さらに
:{{math|(−''x'')(−''y''){{=}}''xy''}}
が導かれ、それらと冪等則により
:<math> x + x = 0, \qquad xy = yx </math>
を得る<ref name="2x=0と可換律の導き方" group="注釈" />。つまり(乗法が)冪等的かつ単位的な環は加法に関して全ての元の位数が高々2であるような[[可換環]]となる。したがって
:<math> x \wedge y = xy, \qquad x \vee y = x + y + xy, \qquad \neg x = 1 + x </math>
とおけば ''B'' はブール代数となる。
また ''B'' がブール代数のとき
:<math> xy= x \wedge y , \qquad x+y = (x \wedge \neg y) \vee (\neg x \wedge y)</math>
と<ref name="ブール論理との対応" group="注釈" />おけば ''B'' はブール環となる。
この対応はブール代数とブール環の間の自然な一対一対応を定めるので、しばしばこの2つは同一視される。
{{sfn|Davey|Priestley|2002|loc=Exercise 4.27|p={{google books quote|id=vVVTxeuiyvQC|page=109|109}}}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈">
<ref name="冪等則の扱い" group="注釈"> ''x'' ∧
''x'' {{=}} ''x''、''x'' ∨ ''x'' {{=}} ''x'' と書かれる冪等則を要求する場合もあるが、これは吸収則により導かれる定理である。それでも明示するのは、{{math| ∧ 、∨ }}のそれぞれのみに注目した[[半束]]においてはこれが特徴的な公理だからである。
</ref>
<ref name="2x=0と可換律の導き方" group="注釈">具体的には[[加法群]]の性質も用いて
:{{math| ''x'' {{=}} ''x''{{sup|2}} {{=}} (− x) {{sup|2}} {{=}} − ''x''}}から
:{{math| ''x'' + ''x'' {{=}}''0''}}を得、これにより
:{{math| ''0'' {{=}} (''x'' − ''y'') − (''x'' − ''y'') {{sup|2}} {{=}} ''xy'' + ''yx'' }}から
:{{math| ''xy'' {{=}} − ''yx''}}を導くことで
:{{math| ''xy'' − ''yx'' {{=}} ''xy'' + ''xy'' {{=}} ''0''}}であると判り
:{{math| ''xy'' {{=}} ''yx''}}を得る。
</ref>
<ref name="ブール論理との対応" group="注釈">
2元からなるブール束から2元からなるブール環を構成するなら、この定義は積を[[論理積]]の真理値、和を[[排他的論理和]]の真理値と定める事と同値。また、位数2の非[[零環]]は(一意でありかつ)明らかに、上記の対応により[[ブール論理]]の[[真理値]]と同値となるようなブール環でもある(対応するのはあくまでも真理値であることに注意)。
</ref>
</references>
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書| author=[[レイモンド・スマリヤン]] | others=川辺治之 訳 | title=スマリヤン先生のブール代数入門 嘘つきパズル・パラドックス・論理の花咲く庭園 | date=2008-08 | isbn=978-4-320-01869-3 | publisher=共立出版 | ref={{Harvid|スマリヤン|2008}} }}
* {{cite book|和書| author1=ガーレット・バーコフ | author2= [[ソーンダース・マックレーン|ソンダース・マクレーン]] | others=奥川光太郎・辻吉雄 共訳 | title=現代代数学概論 | edition=改訂第3版 | year=1967 | publisher=白水社 | ref={{Harvid|バーコフ|マクレーン|1967}} }}
* {{Cite book | 和書 | author=前田 周一郎 | title=束論と量子論理 | year=2015-08 | publisher=森北出版 | eddition=POD版 | isbn=978-4-627-05399-1 | ref={{Harvid|前田|2015}} }} - 1980年に槙書店から出版され、2015年に森北出版から復刊された。
* {{citation | title=Lattice Theory | first=Garrett | last=Birkhoff | year=1979 | edition=3rd Revised | publisher=American Mathematical Society | isbn=978-0-8218-1025-5 }}
* {{citation
|last1 = Davey
|first1 = B. A.
|last2 = Priestley
|first2 = H. A.
|year = 2002
|title = Introduction to lattices and order
|edition = 2nd
|url = {{google books|vVVTxeuiyvQC|plainurl=yes}}
|publisher = Cambridge University Press
|isbn = 978-0-521-78451-1
|mr = 1902334
|zbl = 1002.06001
}}
**{{Cite journal |和書|author=本田あおい |title=書評 「Introduction to Lattices and Order」 |date=2007-04 |publisher=日本知能情報ファジィ学会 |journal=知能と情報 |volume=19 |issue=2 |pages=148 |url=http://macaron.ces.kyutech.ac.jp/honda/publication/files/2007BookReview.pdf | format=PDF |ref={{Harvid|本田|2007}} }}
* {{citation | title=Universal Algebra | year=2008 | first=George | last=Grätzer | edition=2nd | publisher=Springer | isbn=978-0-387-77486-2 | url={{Google books|8lNkXPJas4wC|plainurl=yes}} }}
* {{citation | title=Lectures on Boolean Algebras | year=2012 | first=Paul R. | last=Halmos | author-link=ポール・ハルモス | series=Undergraduate Texts in Mathematics | publisher=Springer-Verlag | isbn=978-0-387-90094-0 | url={{Google books|_JPfBwAAQBAJ|plainurl=yes}} }}
== 関連項目 ==
{{div col|cols=2}}
*[[集合の代数学]]
*[[数理論理学]]
*[[ストーンの表現定理]]
*[[束 (束論)|束論]]
*[[環 (数学)]]
*[[デジタル回路]]
*[[ブール関数]]
*[[ブール論理]]
*[[ラダー・ロジック]]
*[[論理回路]]
{{div col end}}
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|ブール代数|2=[[西村敏男]]}}
*{{Kotobank|ブール束}}
*{{MathWorld|title=Boolean Algebra|urlname=BooleanAlgebra}}
*{{SEP|boolalg-math|The Mathematics of Boolean Algebra}}
*{{SpringerEOM | title=Boolean algebra | id=Boolean_algebra}}
{{Mathematical logic}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふうるたいすう}}
[[Category:数理論理学]]
[[Category:ブール代数|*]]
[[Category:ジョージ・ブール]]
[[Category:数学のエポニム]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2003-06-14T11:57:29Z
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2023-08-05T03:56:37Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BB%A3%E6%95%B0
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10,021 |
NP困難
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NP困難(エヌピーこんなん、英: NP-hard)とは計算量理論において、問題が「NPに属する任意の問題と比べて、少なくとも同等以上に難しい」ことである。正確にいうと、ある問題 H がNP困難であるとは、「NPに属する任意の問題 L が H へ帰着可能である」と定義される。この「帰着」の定義として何を用いるかにより微妙に定義が異なることになるが、例えば多項式時間多対一帰着や多項式時間チューリング帰着を用いる。もしもあるNP困難問題を解ける多項式時間の機械が存在すれば、それを利用すればNPに属する任意の問題を多項式時間で解くことができる。
NP完全問題とは、NP困難であり、かつNPに属する問題である。これとは異なり、ある問題がNP困難であってもNPに属するとは限らない。NPは決定問題のクラスなのでNP完全もまた決定問題に限られるが、定義に用いる帰着の種類によってはNP困難には決定問題、探索問題(en)、組合せ最適化問題など様々な問題が属しうる。
上に挙げた定義から、問題 H がNP困難であるときには次のことが言える(以下は定義ではなく主張)。
NP困難な組合せ最適化問題は、一般に最適解を求めるアルゴリズムが計算完了までに指数関数時間を必要とするなどして、非常に困難であると考えられているため、近似アルゴリズムが多数考案されている。また、数理的に解く従来からのアプローチの他に、ディープラーニングの応用なども盛んに行われている。量子コンピュータでは最適解をリアルタイムで求める方法も試みられている。
もし、いずれかのNP困難な問題を多項式時間で解くアルゴリズムが存在したなら、NPの全ての問題について多項式時間で解けることになり、P = NP が成り立つ。ところが、P=NPが成立しても「任意のNP困難な問題が多項式時間で解ける」とは言えない。この関係を右上のベン図に示す。
NPに関連するクラスの名称はまぎらわしい。「NP困難」はクラス名に「NP」と付くのに、全てがNPというわけではない。しかし現状では定着した名称なので、いまさら変わりそうにない。とはいえ、NPを中心に置いた上でそれなりに体系があるのも事実である。
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"text": "NP困難(エヌピーこんなん、英: NP-hard)とは計算量理論において、問題が「NPに属する任意の問題と比べて、少なくとも同等以上に難しい」ことである。正確にいうと、ある問題 H がNP困難であるとは、「NPに属する任意の問題 L が H へ帰着可能である」と定義される。この「帰着」の定義として何を用いるかにより微妙に定義が異なることになるが、例えば多項式時間多対一帰着や多項式時間チューリング帰着を用いる。もしもあるNP困難問題を解ける多項式時間の機械が存在すれば、それを利用すればNPに属する任意の問題を多項式時間で解くことができる。",
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"text": "上に挙げた定義から、問題 H がNP困難であるときには次のことが言える(以下は定義ではなく主張)。",
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"text": "NP困難な組合せ最適化問題は、一般に最適解を求めるアルゴリズムが計算完了までに指数関数時間を必要とするなどして、非常に困難であると考えられているため、近似アルゴリズムが多数考案されている。また、数理的に解く従来からのアプローチの他に、ディープラーニングの応用なども盛んに行われている。量子コンピュータでは最適解をリアルタイムで求める方法も試みられている。",
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"text": "もし、いずれかのNP困難な問題を多項式時間で解くアルゴリズムが存在したなら、NPの全ての問題について多項式時間で解けることになり、P = NP が成り立つ。ところが、P=NPが成立しても「任意のNP困難な問題が多項式時間で解ける」とは言えない。この関係を右上のベン図に示す。",
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"text": "NPに関連するクラスの名称はまぎらわしい。「NP困難」はクラス名に「NP」と付くのに、全てがNPというわけではない。しかし現状では定着した名称なので、いまさら変わりそうにない。とはいえ、NPを中心に置いた上でそれなりに体系があるのも事実である。",
"title": "NP関連クラスの命名規約"
}
] |
NP困難とは計算量理論において、問題が「NPに属する任意の問題と比べて、少なくとも同等以上に難しい」ことである。正確にいうと、ある問題 H がNP困難であるとは、「NPに属する任意の問題 L が H へ帰着可能である」と定義される。この「帰着」の定義として何を用いるかにより微妙に定義が異なることになるが、例えば多項式時間多対一帰着や多項式時間チューリング帰着を用いる。もしもあるNP困難問題を解ける多項式時間の機械が存在すれば、それを利用すればNPに属する任意の問題を多項式時間で解くことができる。 NP完全問題とは、NP困難であり、かつNPに属する問題である。これとは異なり、ある問題がNP困難であってもNPに属するとは限らない。NPは決定問題のクラスなのでNP完全もまた決定問題に限られるが、定義に用いる帰着の種類によってはNP困難には決定問題、探索問題(en)、組合せ最適化問題など様々な問題が属しうる。 上に挙げた定義から、問題 H がNP困難であるときには次のことが言える(以下は定義ではなく主張)。 すべてのNP完全問題は H に還元して多項式時間で解ける。またNPに属する全ての問題も H に還元できる。
もし最適化問題 H の特殊例としてNP完全な決定問題 L を考えられるなら、H はNP困難である。 NP困難な組合せ最適化問題は、一般に最適解を求めるアルゴリズムが計算完了までに指数関数時間を必要とするなどして、非常に困難であると考えられているため、近似アルゴリズムが多数考案されている。また、数理的に解く従来からのアプローチの他に、ディープラーニングの応用なども盛んに行われている。量子コンピュータでは最適解をリアルタイムで求める方法も試みられている。
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[[ファイル:P_np_np-complete_np-hard.svg|thumb|300px|right| [[P (計算量理論)|P]]、[[NP]]、[[NP完全問題|NP完全]]、'''NP困難'''の相関を表す[[ベン図]]]]
'''NP困難'''(エヌピーこんなん、{{lang-en-short|NP-hard}})とは[[計算量理論]]において、問題が「[[NP]]に属する任意の問題と比べて、少なくとも同等以上に難しい」ことである<ref>{{cite book
|author=B.コルテ
|title=組合せ最適化 第2版 (理論とアルゴリズム)
|publisher=丸善
|isbn=978-4621062029
|year=2012
}}</ref>。正確にいうと、ある問題 ''H'' がNP困難であるとは、「[[NP]]に属する任意の問題 ''L'' が ''H'' へ帰着可能である」と定義される。この「帰着」の定義として何を用いるかにより微妙に定義が異なることになるが、例えば[[多項式時間帰着|多項式時間多対一帰着]]や[[多項式時間帰着|多項式時間チューリング帰着]]を用いる。もしもあるNP困難問題を解ける多項式時間の[[機械]]が存在すれば、それを利用すればNPに属する任意の問題を多項式時間で解くことができる。
NP完全問題とは、NP困難であり、かつNPに属する問題である。これとは異なり、ある問題がNP困難であってもNPに属するとは限らない。[[NP]]は[[決定問題]]のクラスなのでNP完全もまた決定問題に限られるが、定義に用いる帰着の種類によってはNP困難には決定問題、[[探索問題]]([[:en:Search problem|en]])、[[組合せ最適化]]問題など様々な問題が属しうる。
上に挙げた定義から、問題 ''H'' がNP困難であるときには次のことが言える(以下は定義ではなく主張)。
* すべてのNP完全問題は ''H'' に還元して多項式時間で解ける。またNPに属する全ての問題も ''H'' に還元できる。
* もし最適化問題 ''H'' の特殊例としてNP完全な決定問題 ''L'' を考えられるなら、''H'' はNP困難である。
NP困難な[[組合せ最適化]]問題は、一般に最適解を求める[[アルゴリズム]]が計算完了までに[[指数関数時間]]を必要とするなどして、非常に困難であると考えられているため、[[近似アルゴリズム]]が多数考案されている。また、数理的に解く従来からのアプローチの他に、[[ディープラーニング]]の応用なども盛んに行われている。[[量子コンピュータ]]では最適解をリアルタイムで求める方法も試みられている。
== P≠NP予想との関係 ==
もし、いずれかのNP困難な問題を[[多項式時間]]で解くアルゴリズムが存在したなら、NPの全ての問題について多項式時間で解けることになり、P = NP が成り立つ。ところが、P=NPが成立しても「'''任意の'''NP困難な問題が多項式時間で解ける」とは言えない。この関係を右上の[[ベン図]]に示す。
== NP困難な問題の例 ==
===決定問題===
*[[停止問題]] - NP困難だがNPではない決定問題。なぜなら、停止問題は決定不可能という問題クラスに属しており、決定不可能はNPより困難で、かつ決定不可能とNPは互いに素だからである。具体的に示すには、NP困難であることは、例えば[[充足可能性問題]]を停止問題に容易に還元できることから言える(充足できる解を見付けたら停止し、そうでない場合は無限ループするような[[チューリングマシン]]の停止問題を考えればよい)。NPでないことは、NPに属する問題は全て有限の手続きで決定可能だが、停止問題は一般には決定不可能であることによる。ただし、NP困難でありかつNP完全でない問題の全てが決定不可能というわけではない。例えば[[TQBF問題]]([[:en:True quantified Boolean formula|en]])は[[PSPACE]]で決定可能だが、多分NPではない。
*[[ハミルトン閉路問題]] - 巡回セールスマン問題の特殊ケース。NP困難かつNP完全な決定問題。
*[[部分和問題]] - ナップサック問題の特殊ケース。NP困難かつNP完全な決定問題。
===組合せ最適化問題===
*[[巡回セールスマン問題]]
*[[ナップサック問題]]
*[[最小頂点被覆問題]]
*[[最大独立集合問題]]
*[[最大クリーク問題]]
*[[分数和計画問題]]
*最小シュタイナー問題
== NP関連クラスの命名規約 ==
NPに関連するクラスの名称はまぎらわしい。「NP困難」はクラス名に「NP」と付くのに、全てが[[NP]]というわけではない。しかし現状では定着した名称なので、いまさら変わりそうにない。とはいえ、NPを中心に置いた上でそれなりに体系があるのも事実である。
;NP完全
:NPの'''中では'''「完全」な問題を意味する。つまりNPの'''中では'''最も解くのが難しい。
;NP困難
:「少なくとも」NPと同等以上に難しい問題(ただし、NP'''に属する'''とは限らない)。
;NP-easy
:「たかだか」NPと同等以下しか難しくない問題(ただし、NP'''に属する'''とは限らない)。
;NP-equivalent
:NPと同等に難しい問題(ただし、NP'''に属する'''とは限らない)。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
*[[P≠NP予想]]
*[[NP完全問題]]
*[[多項式時間変換]] - 多対一還元やチューリング還元に計算時間の制限を付加したもの。
*[[チューリング還元]] - 計算時間を多項式時間に制限する場合は、それを示すために前に「多項式時間~」と付けるか、または Cook還元と呼ぶ。
*[[多対一還元]] - 計算時間を多項式時間に制限する場合は、それを示すために前に「多項式時間~」と付けるか、または Karp還元と呼ぶ。単に「多項式変換」と書けば通常 Karp還元を指す。
{{複雑性クラス}}
{{DEFAULTSORT:えぬひいこんなん}}
[[Category:計算複雑性理論]]
[[Category:数学に関する記事|NPえぬひいこんなん]]
[[he:NP (מחלקת סיבוכיות)#NP-קושי ובעיות NP-שלמות]]
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2021-06-01T16:46:07Z
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希土類元素
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希土類元素(きどるいげんそ、英: rare-earth elements・REE)またはレアアースは、31鉱種あるレアメタルの中の1鉱種で、スカンジウム 21Sc、イットリウム 39Yの2元素と、ランタン 57La からルテチウム 71Lu までの15元素(ランタノイド)の計17元素の総称である(元素記号の左下は原子番号)。周期表の位置では、第3族のうちアクチノイドを除く第4周期から第6周期までの元素を包含する。なお、希土類・希土と略しており、かつて稀土類・稀土とも書き、それらは英語名の直訳であり、比較的希な鉱物から得られた酸化物から分離されたことに由来している。
希土類元素は化学的性質が互いによく似ている。性質を若干異にするスカンジウムおよび天然に存在しないプロメチウム以外の元素は、ゼノタイムやイオン吸着鉱などの同じ鉱石中に相伴って産出し、単体として分離することが難しい。そのため、混合物であるミッシュメタルとして利用されることも多い。
「希」の名がつくものの、金や銀などの貴金属に比べて地殻に存在する割合は高く、特にセリウム 58Ceは銅に匹敵するほどの量が存在する。しかし、単独の元素を分離精製することが難しく、流通価格が貴金属並みに高価となることがある。この意味で2012年現在でも希少(英: rare)な元素であり、レアメタルに分類される。ただし、アメリカ地質調査所によれば、レアアースの世界の埋蔵量はおよそ9900万トンであり、全世界の年間消費量約15万トンから比較すれば、資源の枯渇はあまり危惧されていない。
温泉にも微量のレアアースが含まれているものがある。強酸性の玉川温泉からはジスプロシウムやユーロピウムなど14種類のレアアースが含まれていることが確認されている。
スカンジウムを除く、イットリウム及び希土類元素を主成分とする希土類鉱物は、同形鉱物に共通の根幹名(ルートネーム、root name)とハイフンで繋いで括弧内に最卓越(predominant)した希土類元素の元素記号を配する命名規約(レビンソン則、Levinson rule)に基づき命名される。ただし、日本語では最卓越した元素を冒頭に持ってくるのが一般的である。ガドリン石を例に挙げると、セリウムが卓越した"gadolinite-(Ce)"とイットリウムが卓越した"gadolinite-(Y)"は、それぞれ「セリウムガドリン石」、「イットリウムガドリン石」と表記される。
希土類元素のうちスカンジウムとイットリウム以外の 15元素はランタノイドである。ランタノイドの中で、Gdよりも原子量が小さい元素 (La-Eu) を軽希土類元素(英: light rare-earth element、LREE)、重い元素 (Gd-Lu) を重希土類元素(英: heavy rare-earth element、HREE)と呼ぶ。また、中間のものを中希土類と呼ぶこともある。
元素ごとに分離されたものを分離希土、分離されていないものを混合希土(ミッシュメタル)と呼ぶ。
希土類元素を含む材料は、以下の2つに分けて考えられる。
レアアースは蓄電池や発光ダイオード、磁石などのエレクトロニクス製品の性能向上に必要不可欠な材料である。希土類元素、特にランタノイドは電子配置が通常の元素とは異なるために物理的に特異な性質を示す。水素吸蔵合金、二次電池原料、光学ガラス、強力な希土類磁石、蛍光体、研磨材などの材料となる。マグネシウム合金に微量添加することで機械的特性を向上する。
レアアースの地上の産地は偏在しているが、2009年時点では、コストの問題から埋蔵量における割合が3割の中国(内モンゴル)が世界の産出量(推定12.4万トン/年)の97%以上を占め独占的な地位を確保していた。その後は中国以外からの調達が進んでいる(詳細後述)。
2013年3月、海洋研究開発機構と東京大学の研究チームは南鳥島沖の水深5800mの海底の堆積物を分析したところ、高濃度でレアアースが含まれる堆積物(レアアース泥)を発見。日本のマンガン鉱床に花崗岩を上回る割合で希土類元素が含有されていることが判明した。また、火力発電所などの集塵機で回収される石炭や石油の灰にも含まれているため、今後の利用促進が予測される。また、海底のマンガン団塊やコバルトクラスト、熱水鉱床などの海洋資源も供給源として検討されている。米国ではカリフォルニアの鉱床で希土類元素採掘が再開される見込みがある。
2018年4月、早稲田大学の高谷雄太郎講師と東京大学の加藤泰浩教授らの研究チームは、日本の最東端にある南鳥島(東京都)周辺の海底下にあるレアアース(希土類)の資源量が世界の消費量の数百年分に相当する1600万トン超に達することを明らかにした。 研究チームは、南鳥島の南方にある約2500平方キロメートルの海域で海底のサンプルを25か所で採集し、レアアースの濃度を分析した。その結果、ハイブリッド車などの強力な磁石に使うジスプロシウムは世界需要の730年分、レーザーなどに使うイットリウムは780年分に相当した。 研究チームはまたレアアースを効率的に回収する技術も確立した。レアアースを高い濃度で含む生物の歯や骨を構成するリン酸カルシウムに着目。遠心力を使って分離したところ、濃度は2.6倍に高められた。これは中国の陸上にある鉱床の20倍に相当する濃度となる。
ジスプロシウム (Dy) やテルビウム (Tb) の重希土類は、中国南部のイオン吸着型鉱床と呼ばれる特殊な風化鉱床でしか生産されていなかった。今後、需要が増加すると見られるハイブリッドカーや電気自動車用の高出力モーターの磁石にジスプロシウム (Dy) とテルビウム (Tb) を添加することで保磁力が高まるため、重希土類の不足が懸念されていた。しかし2012年11月にカザフスタンの重希土類の精製施設が開所したことで、初の中国以外の重希土類生産場となった。
中国の鄧小平は1992年の南巡講話で「中東には石油があるが、中国にはレアアースがある。中国はレアアースで優位性を発揮できるだろう」(中東有石油、中国有稀土、一定把我国稀土的優勢発揮出来)と述べ、レアアースの戦略的価値を重視する路線を決定づけた。当時世界のレアアース埋蔵量の85%が中国に存在したとされる。1980年代から「中国希土類化学の父」と呼ばれる徐光憲の貢献や政府の863計画によって希土類の研究開発が推し進められ、上流工程から下流工程まで担う中国はレアアース関連で他国をあわせた数の2倍もの特許を取得した。貴重な外貨獲得源として希土類鉱山の採掘にも力を注ぎ、希土類市場は供給過剰に伴う価格下落によってコスト面で採算が釣り合わなくなった中国以外の国の希土類鉱山は次々と閉山し、特にテルビウムやジスプロシウムなどの重希土類の生産は、中国一国に限られることになった。これにより、2000年代後半のレアアースの産出量の95%以上は中国のバヤンオボー鉱床とイオン吸着型鉱床により偏在するようになり、政治的リスクを負うようになっていた。2010年代に入るころには中国は産地としてだけでなく、その加工技術でも優位に立つことで世界の9割も供給する独占的な地位を手に入れることになった。いわば、中東諸国が世界のほとんどの原油を保有しているだけでなく精製する市場もほぼ独占したようなことに近いとも評された。
ここまで生産が中国に集中する事になった原因の1つは、その生産コストの低さもある。これは単純に賃金水準が安いということもあるが、レアアース鉱の特性上、中国以外では管理コストが高騰してしまうという事情がある。レアアースには放射能物質のトリウムが含まれているため、その取扱や後処理に多額のコストがかかるのである。この点中国は、労働者の保護や後処理を他国ほど厳密に行わないため、低コストで生産することができる。
中国政府は、2006年に国土資源部が希土類を対象とした資源保護計画を発表し、2010年7月に商務部が輸出枠大幅削減方針を発表するなど、レアアースの資源保護政策に転換した。これは、先進各国が自国の埋蔵量を温存したまま、中国のレアアースを安く買っていることの中国側の対応と見られている。これに伴い希土類の価格が急激に上昇した。たとえば、ジスプロシウムの価格は2005年には1 kgあたり50ドル(USドル)程度であったが、2010年初頭には1 kgあたり160ドル、2010年6月末時点で400ドルに高騰した。
民生用から軍事用の製品にまでレアアースは幅広く利用され、レアアースを中国に頼るチャイナリスクは、2010年9月に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件後に、資源ナショナリズムに基づいて中国政府がレアアースの日本への通関を意図的に遅滞させる事で、レアアースの事実上の対日禁輸措置に踏み切ったことで顕在化した。これを契機に、特にレアアースの工業的寄与が大きい日本では、レアアースの対中依存に対する危機感が高まり、官民を挙げて「元素戦略」と銘打った対応が図られている。例えば政府系機関や民間企業は、レアアースを使用しないか削減してもレアアースを使用する製品と同等の性能が発揮できる製品の開発や 、レアアースのリサイクル技術の開発を加速させ、レアアースの備蓄を増進し 、必要なレアアースについては中国以外からの分散調達を加速させた。この結果、2012年上半期には早くも日本の対中レアアース依存度が50%以下となり、中国のレアアースの輸出量と輸出価格が急落した。 価格はピーク時の5分の1に下がった。日本はインドの漂砂、ベトナム北部のカーボナタイト、カザフスタンのウラン鉱床残渣、オーストラリアのカーボナタイトなど代替地の権益の確保を始めた。またEEZ内の海底鉱物資源の探査も加速しており、2012年6月28日に東京大学のグループが南鳥島付近の海底5600mで日本で消費する約230年分に相当するジスプロシウムがあると推定されると発表したこと、今後は掘削技術を提供している三井海洋開発と共同で深海底からの泥の回収技術の開発を目指すことを発表した。 また、アメリカとの協同調査ではインド洋の海底に高濃度のレアアースを含む泥が発見され、陸地では偏在しているものが海底では広範に存在する可能性が示唆されたが、高深度のものは商業採掘が困難であるという問題もあった。
しかし、財務省貿易統計によると、HSコード2805.30と28.46をレアアースとした場合、2014年の通年ベースで日本はレアアースの輸入の6割を中国に依存している。代替供給先を確保できたのは主に軽希土類であり、希少価値の高い重希土類は中国南部に広く分布するイオン吸着型鉱床と呼ばれる風化花崗岩に依存している。 重希土類(イットリウム、ジスプロシウムなど)は、2013年の時点の三菱UFJリサーチ&コンサルティングの推計によると商業生産の95%以上を中国が行っており、当然輸入も中国に依存している。また軽希土類の採掘する鉱山から主に出てくるのは使用量の激減したセリウムであり、採算を維持するためには同時に採掘するネオジムやランタンの価格を上げるか採掘量全体を削減する必要がある。また、日本企業は中国に工場を置くことで対中輸入を減らしていた。
2015年に日米欧からの提訴を受けて世界貿易機関(WTO)が協定違反と断じたことにより、中国はレアアースとタングステンとモリブデンに賦課している「輸出税」と「輸出数量制限」を廃止した。
2016年2月にアメリカの政府監査院(GAO)はアメリカ国内のレアアースのサプライチェーン再構築に15年を要するとしており、中国を除くレアアース鉱床は全てレアアース関連の特許を保有する中国で加工しているために中国が禁輸すればほぼ全てのコンピュータ、スマートフォン、自動車、航空機などのラインやNATOの兵器システムに影響を与えるとされる。2015年にレアアースのアメリカ最大手モリコープ(英語版)が破綻しており、中国に超される1980年代まで世界最大のレアアース生産量を誇っていたアメリカ唯一のレアアース鉱山マウンテンパス鉱山(英語版)は2017年に米投資ファンドと中国の盛和資源による米中企業連合に買収されている。
2018年からの米中貿易戦争では、同年7月にアメリカが関税リストの草案に中国のレアアースを盛り込んで注目されたが、同年9月の関税発動の際には対象から外した。同年8月に成立した2019年度国防権限法(英語版)で米国防総省が中国、北朝鮮、イラン、ロシアといったアメリカと対立する国からレアアースを購入することを禁止し、同年10月には米国防総省は米国の軍需産業が中国のレアアースに依存しているチャイナリスクに警鐘を鳴らした。2019年5月に米中の貿易摩擦の激化で中国からのほぼ全輸入品が関税対象にリストアップされた際も中国は世界の7割から9割を生産して米国が8割超も中国からの輸入に依存していることから外され、これに対して中国の国家発展改革委員会が米軍需産業を標的にしたレアアースの輸出規制を示唆したことを受け、戦闘機やミサイルなどの軍用品まで使われているレアアースの対中依存を国内生産で軽減すべきとして米国防総省は連邦政府に資金拠出を要請し、米軍はマンハッタン計画以来のレアアース生産への投資を計画することとなり、2020年9月30日にトランプ米国大統領はレアアースの対中依存を見直すよう命じる大統領令に署名した。また、トランプ大統領はデンマークからのグリーンランドの購入に意欲を示していた。背景には世界最大のレアアースの未開発鉱床があるとされるグリーンランドの権益をめぐる米中の対立があるとされた。
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希土類元素またはレアアースは、31鉱種あるレアメタルの中の1鉱種で、スカンジウム 21Sc、イットリウム 39Yの2元素と、ランタン 57La からルテチウム 71Lu までの15元素(ランタノイド)の計17元素の総称である(元素記号の左下は原子番号)。周期表の位置では、第3族のうちアクチノイドを除く第4周期から第6周期までの元素を包含する。なお、希土類・希土と略しており、かつて稀土類・稀土とも書き、それらは英語名の直訳であり、比較的希な鉱物から得られた酸化物から分離されたことに由来している。
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{{Redirect|レアアース|生命史上の仮説|レアアース仮説}}
{{Dablink|「'''レア・アース'''」はこの項目へ[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されています。アメリカ合衆国のロックバンドについては「{{仮リンク|レア・アース (バンド)|en|Rare Earth (band)}}」をご覧ください。}}
{|class="wikitable" align="right" style="text-align:center; line-height:1.4em; margin:0px 0px 3px 7px;"
|-style="background-color: white;"
|21||Sc||[[スカンジウム]]||
|-style="background-color: white;"
|39||Y||[[イットリウム]]||
|-style="background-color: mistyrose;"
|57||La||[[ランタン]]||rowspan="15" style="line-height:1.15em"|[[ランタノイド|ラ<br />ン<br />タ<br />ノ<br />イ<br />ド]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|58||Ce||[[セリウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|59||Pr||[[プラセオジム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|60||Nd||[[ネオジム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|61||Pm||[[プロメチウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|62||Sm||[[サマリウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|63||Eu||[[ユウロピウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|64||Gd||[[ガドリニウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|65||Tb||[[テルビウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|66||Dy||[[ジスプロシウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|67||Ho||[[ホルミウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|68||Er||[[エルビウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|69||Tm||[[ツリウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|70||Yb||[[イッテルビウム]]
|-style="background-color: mistyrose;"
|71||Lu||[[ルテチウム]]
|}
'''希土類元素'''(きどるいげんそ、{{Lang-en-short|rare-earth elements・REE}})または'''レアアース'''は、31鉱種ある[[レアメタル]]の中の1鉱種で<ref>[http://www.jogmec.go.jp/library/metal_003.html レアアースの通説 正と誤] JOGMEC</ref>、[[スカンジウム]] {{sub|21}}Sc、[[イットリウム]] {{sub|39}}Yの2[[元素]]と、[[ランタン]] {{sub|57}}La から[[ルテチウム]] {{sub|71}}Lu までの15元素([[ランタノイド]])の計'''17元素の総称'''である(元素記号の左下は[[原子番号]])。[[周期表]]の位置では、[[第3族元素|第3族]]のうち[[アクチノイド]]を除く[[第4周期元素|第4周期]]から[[第6周期元素|第6周期]]までの元素を包含する。なお、'''希土類'''・'''希土'''と略しており、かつて'''稀土類'''・'''稀土'''とも書き、それらは英語名の直訳であり、比較的希な鉱物から得られた[[酸化物]]から分離されたことに由来している。
== 概要 ==
希土類元素は化学的性質が互いによく似ている。性質を若干異にするスカンジウムおよび天然に存在しないプロメチウム以外の元素は、[[ゼノタイム]]やイオン吸着鉱などの同じ[[鉱石]]中に相伴って産出し、単体として分離することが難しい。そのため、混合物である[[ミッシュメタル]]として利用されることも多い。
「希」の名がつくものの、金や銀などの[[貴金属]]に比べて[[地殻]]に存在する割合は高く、特に[[セリウム]] {{sub|58}}Ceは銅に匹敵するほどの量が存在する<ref name="a137">[[#グレイ(2010)|グレイ(2010):137]]</ref>。しかし、単独の元素を分離精製することが難しく、流通価格が[[貴金属]]並みに高価となることがある。この意味で2012年現在でも希少({{lang-en-short|rare}})な元素<ref name="日経エレクトロニクス2007/8/27"/>であり、[[レアメタル]]に分類される。ただし、[[アメリカ地質調査所]]によれば、レアアースの世界の埋蔵量はおよそ9900万[[トン]]であり、全世界の年間消費量約15万トンから比較すれば、資源の枯渇はあまり危惧されていない。
温泉にも微量のレアアースが含まれているものがある。強酸性の[[玉川温泉 (秋田県)|玉川温泉]]からは[[ジスプロシウム]]や[[ユーロピウム]]など14種類のレアアースが含まれていることが確認されている<ref>[https://web.archive.org/web/20110724035036/http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110722-OYT1T00143.htm 温泉からレアアース採取、秋田大グループが成功] 読売新聞</ref>。
スカンジウムを除く、イットリウム及び希土類元素を主成分とする希土類鉱物は、同形鉱物に共通の根幹名(ルートネーム、root name)と[[ハイフン]]で繋いで括弧内に最卓越(predominant)した希土類元素の元素記号を配する命名規約(レビンソン則、Levinson rule)に基づき命名される<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/gkk/43/1/43_131202/_article/-char/ja/ 希土類鉱物の結晶化学に関する研究]</ref>。ただし、[[日本語]]では最卓越した元素を冒頭に持ってくるのが一般的である。[[ガドリン石]]を例に挙げると、[[セリウム]]が卓越した"gadolinite-(Ce)"と[[イットリウム]]が卓越した"gadolinite-(Y)"は、それぞれ「セリウムガドリン石」、「イットリウムガドリン石」と表記される。
== 分類 ==
希土類元素のうちスカンジウムとイットリウム以外の 15元素は[[ランタノイド]]である。ランタノイドの中で、Gdよりも原子量が小さい元素 (La-Eu) を'''軽希土類元素'''({{lang-en-short|light rare-earth element}}、{{lang|en|LREE}})、重い元素 (Gd-Lu) を'''重希土類元素'''({{lang-en-short|heavy rare-earth element}}、{{lang|en|HREE}})と呼ぶ<ref>[http://mric.jogmec.go.jp/public/kouenkai/2015-08/20150828_04.pdf レアアースの最新動向 平成27年8月28日] 石油天然ガス・金属鉱物資源機構 金属資源情報</ref>。また、中間のものを'''中希土類'''と呼ぶこともある。
元素ごとに分離されたものを分離希土、分離されていないものを混合希土([[ミッシュメタル]])と呼ぶ。
== 用途 ==
希土類元素を含む材料は、以下の2つに分けて考えられる。
* 4f電子に基づく物性を利用している材料
::発光材料、磁性体など
* イオン半径や電荷など希土類独特の化学的性質を用いる材料
::触媒、固体電解質、酸化物高温超伝導体、水素吸蔵合金、発光材料の母結晶など
レアアースは[[蓄電池]]や[[発光ダイオード]]、[[磁石]]などのエレクトロニクス製品の性能向上に必要不可欠な材料である。希土類元素、特にランタノイドは電子配置が通常の元素とは異なるために物理的に特異な性質を示す。[[水素吸蔵合金]]、[[二次電池]]原料、[[光学ガラス]]、強力な[[希土類磁石]]、[[蛍光体]]、[[研磨材]]などの材料となる。[[マグネシウム合金]]に微量添加することで機械的特性を向上する。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+ レアアースの種類と用途例<ref name = "日経エレクトロニクス2007/8/27">日経エレクトロニクス 2007年8月27日号「レア・アース」</ref>
!用途
!21<br />[[スカンジウム|Sc]]
!39<br />[[イットリウム|Y]]
!57<br />[[ランタン|La]]
!58<br />[[セリウム|Ce]]
!59<br />[[プラセオジム|Pr]]
!60<br />[[ネオジム|Nd]]
!61<br />[[プロメチウム|Pm]]
!62<br />[[サマリウム|Sm]]
!63<br />[[ユウロピウム|Eu]]
!64<br />[[ガドリニウム|Gd]]
!65<br />[[テルビウム|Tb]]
!66<br />[[ジスプロシウム|Dy]]
!67<br />[[ホルミウム|Ho]]
!68<br />[[エルビウム|Er]]
!69<br />[[ツリウム|Tm]]
!70<br />[[イッテルビウム|Yb]]
! 備考
|-
|[[磁石]]・[[磁性体]]材料||||||||||||◎||||◎||||○||○||○||||||||||不対電子を持つもの
|-
|[[光ディスク]]||||||||||||||||||||○||○||○||||||||||
|-
|[[光磁気ディスク]]||||||||||||||||||||||○||||||||||||
|-
|[[蛍光体]]||||○||||○||||||||||○||||○||||||||||||Eu:赤, Tb:緑, Y:赤
|-
|[[レーザー]]||||○||||||○||○||||||||||||||○||○||○||○||
|-
|[[光増幅器|光ファイバ増幅器]]||||||||||||||||||||||||||||○||○||||
|-
|[[コンデンサ]]||||○||○||||||○||||||||||||||||||||||
|-
|[[水素吸蔵合金]]||||||○||||||||||||||||||||||||||||
|-
|[[超伝導]]材料||||○||||||||○||||||||○||||||||||||||高温超電導
|-
|[[光学ガラス]]||||○||○||||||||||||||||||||||||||||高屈折率、低分散
|}
=== 具体的用途 ===
* 超強力磁石の磁性体(モーター、バイブレータ、マイク、スピーカーなど)
** [[ネオジム磁石]]、[[ネオジムボンド磁石]]:ネオジム、ジスプロシウム(添加剤)
** [[サマリウムコバルト磁石]]:サマリウム
** [[プラセオジム磁石]]:プラセオジム
* ガラス基板研磨剤(ディスプレイ、HDDなど)
** 酸化セリウム系研磨材:セリウム
* 蛍光体(照明、ディスプレイなど)
** ブラウン管、蛍光灯、水銀灯、CCFL、プラズマディスプレイ:イットリウム、テルビウム、ユウロピウム、ランタン、セリウム、ガドリニウム
** [[メタルハライドランプ]]
*** ScI3-NaI-Hg-Xe封入:スカンジウム<ref>[http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2003/04/58_04pdf/f05.pdf 水銀フリー自動車前照灯用 HID ランプ - 東芝]</ref>
** LED
*** [[イットリウム・アルミニウム・ガーネット|YAG]]蛍光体:イットリウム、セリウム(付活剤)<ref name="ceramic-archive-led"/>
*** シリケート系蛍光体:ユウロピウム(付活剤)<ref name="ceramic-archive-led">[http://www.ceramic.or.jp/museum/contents/pdf/life03.pdf セラミックスアーカイブズ LED照明 (1996年〜現在)]</ref>
* [[光ディスク]](書き換え可能タイプ)の記録層([[DVD]]、[[コンパクトディスク|CD]]、[[Blu-ray Disc]])
* [[光磁気ディスク]]の磁性層([[光磁気ディスク|MO]]、[[ミニディスク|MD]])
** テルビウム-鉄-コバルト合金:テルビウム
* [[プリンター]]の印字ヘッド
** 鉄-ジスプロシウム-テルビウム合金:ジスプロシウム、テルビウム
* 石油精製触媒、自動車用排気ガス浄化触媒:セリウム
* レーザー([[チタンサファイアレーザー]]など)
** YAGレーザ、YVO<sub>4</sub>レーザー、YLFレーザー:イットリウム、ネオジム(ドープ材)
* [[原子力産業]](制御棒、核燃料添加剤など):ハフニウム、ガドリニウム
* [[発火合金]](ライターの火打ち石など)
** [[アウアー合金]]:セリウム、ランタン、ネオジム、プラセオジムなど
* 光学ガラス(望遠鏡、顕微鏡、カメラ、プリズムなど):ランタン、ガドリニウム
* [[ニッケル・水素充電池]]:ミッシュメタル
* [[スカンジウムアルミ合金]]: スカンジウム
=== 削減・リサイクル技術 ===
* 添加剤の拡散最適化による削減
* 酸化セリウム系研磨剤の再利用
* 蛍光灯などに使われた蛍光粉の回収<ref>[http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/73663_16236352_misc.pdf 全国初!使用済み蛍光管からレアアースを回収・再資源化] 福岡県 2011年9月6日</ref>
* エアコンや洗濯機、ハイブリッド車などからのレアアース磁石回収<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120826/wec12082622350004-n1.htm レアアース回収急げ 中国生産減 各社は家電廃棄物から“採掘”] MSN産経west 2012年8月26日</ref><ref name="hv-nikkei">[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD100BE_Q2A910C1TJ1000/ 三菱マテ、ハイブリッド車からレアアース回収] 日本経済新聞 2012年9月10日</ref>
* ハイブリッド車の[[ニッケル・水素充電池]]からのミッシュメタル回収<ref name="hv-nikkei"/>
* 永久磁石を用いないモーターの使用 (スイッチト[[リラクタンスモータ]])
== 産地 ==
=== 産地 ===
[[File:Rareearth_production.svg|thumb|400px|世界のレアアース産出量 1950年 - 2000年<br />([[アメリカ合衆国内務省]][[アメリカ地質調査所|地質調査所]]のデータより作成)]]
{{更新|date=2019年6月}}
レアアースの地上の産地は偏在しているが、[[2009年]]時点では、コストの問題から埋蔵量における割合が3割の[[中華人民共和国|中国]]([[内モンゴル]])が世界の産出量(推定12.4万トン/年)の97[[パーセント|%]]以上を占め独占的な地位を確保していた<ref name="WV">[https://news.livedoor.com/article/detail/4318182/ 中国、レアアースの輸出禁止を検討] WIRED VISION 2009年08月27日11時19分閲覧</ref><ref>{{cite news|title=中国のレアアース対日禁輸 「在庫増」「代替」 産業界は冷静|newspaper=サンケイビズ|date=2010-09-25|url=http://www.sankeibiz.jp/business/news/100925/bsc1009250503003-n1.htm|accessdate=2011-02-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111213073429/http://www.sankeibiz.jp/business/news/100925/bsc1009250503003-n1.htm|archivedate=2011年12月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。その後は中国以外からの調達が進んでいる(詳細後述)。
* [[カザフスタン]] 住友商事および東芝がそれぞれ採掘を目指していたが、2017年現在採掘実績なし。住商は合弁を解消し撤退している<ref>{{Cite web|url=https://prd-wret.s3.us-west-2.amazonaws.com/assets/palladium/production/atoms/files/myb1-2017-raree.pdf|title=U.S. GEOLOGICAL SURVEY MINERALS YEARBOOK|accessdate=2021年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=MIRU - カザトムプロム ウラン生産増、レアアース生産もあきらめず・・ |url=https://www.iru-miru.com/article_detail.php?id=3218|website=www.iru-miru.com|accessdate=2021-09-16}}</ref>。
* [[インド]]([[豊田通商]]) Indian RE 2013年から日本へ輸出。
* [[ベトナム]] Dong Pao([[豊田通商]]、[[双日]])2013年から日本へ輸出。
* [[オーストラリア]] Duddo 2013年から日本へ輸出。
* [[オーストラリア]]([[双日]]) Mount Weld 2013年から日本へ輸出。
* [[オーストラリア]] Nolan's Bore 2014年生産開始。
* [[オーストラリア]]オリンピックダム
* [[オーストラリア]]Eneabba
* [[南アフリカ共和国]] Steenkampskraal 2012年生産開始。
* [[アメリカ合衆国]] Mountain Pass 2012年生産開始。
* [[カナダ]] [[ノースウェスト準州]]トーア・レーク (Thor Lake) 2014年生産開始。
* [[カナダ]] [[サスカチュワン州]]ホイダス・レーク (Hoidas Lake) 2014年生産開始。
* [[アメリカ合衆国]] マウンテンパス
* [[グリーンランド]] Kvanefjeld 2014年生産開始。
* [[オーストラリア]] Nolan's Bore 2014年生産開始。
* [[ロシア]] [[ムルマンスク州]]ロヴォゼロ鉱床<ref>{{PDFlink|[http://mric.jogmec.go.jp/public/current/pdf/13_35.pdf 「ロシアのレアメタル・レアアース戦略について」]}} 平成25年6月20日 独立行政法人 [[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]]モスクワ事務所 大木雅文</ref>
2013年3月、[[海洋研究開発機構]]と[[東京大学]]の研究チームは[[南鳥島]]沖の水深5800mの海底の堆積物を分析したところ、高濃度でレアアースが含まれる堆積物(レアアース泥)を発見<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2935099 日本近海に高濃度レアアースを発見、南鳥島沖] AFP</ref>。日本の[[マンガン]]鉱床に[[花崗岩]]を上回る割合で希土類元素が含有されていることが判明した。また、[[火力発電所]]などの集塵機で回収される[[石炭]]や[[石油]]の[[灰]]にも含まれているため、今後の利用促進が予測される。また、海底の[[マンガン団塊]]や[[コバルトクラスト]]、[[熱水鉱床]]などの[[海洋資源]]も供給源として検討されている。米国では[[カリフォルニア]]の鉱床で希土類元素採掘が再開される見込みがある<ref name="WV" />。
2018年4月、[[早稲田大学]]の高谷雄太郎講師と[[東京大学]]の加藤泰浩教授らの研究チームは、日本の最東端にある[[南鳥島]](東京都)周辺の海底下にあるレアアース(希土類)の資源量が世界の消費量の数百年分に相当する1600万トン超に達することを明らかにした<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29216170Q8A410C1EA2000/ 南鳥島のレアアース、世界需要の数百年分]</ref>。
研究チームは、南鳥島の南方にある約2500平方キロメートルの海域で海底のサンプルを25か所で採集し、レアアースの濃度を分析した。その結果、ハイブリッド車などの強力な磁石に使うジスプロシウムは世界需要の730年分、レーザーなどに使うイットリウムは780年分に相当した。
研究チームはまたレアアースを効率的に回収する技術も確立した。レアアースを高い濃度で含む生物の歯や骨を構成するリン酸カルシウムに着目。遠心力を使って分離したところ、濃度は2.6倍に高められた。これは中国の陸上にある鉱床の20倍に相当する濃度となる。
[[ジスプロシウム]] (Dy) や[[テルビウム]] (Tb) の重希土類は、中国南部の[[イオン吸着型鉱床]]と呼ばれる特殊な[[風化鉱床]]でしか生産されていなかった<ref>産業技術総合研究所 レアメタルタスクフォース編 『レアメタル技術開発で供給不安に備える』 工業調査会、2007年、65-88頁。</ref><ref>足立 吟也 監修 『希土類の材料技術ハンドブック 基礎技術・合成・デバイス製作・評価から資源まで』 NTS、2008年、ISBN 978-4-86043-194-5。</ref>。今後、需要が増加すると見られる[[ハイブリッドカー]]や[[電気自動車]]用の高出力[[電動機|モーター]]の磁石に[[ジスプロシウム]] (Dy) と[[テルビウム]] (Tb) を添加することで保磁力が高まるため、重希土類の不足が懸念されていた。しかし2012年11月にカザフスタンの重希土類の精製施設が開所したことで、初の中国以外の重希土類生産場となった。
=== 中国依存の問題 ===
{{See also|{{仮リンク|レアアース貿易摩擦|en|Rare Earths Trade Dispute}}}}
中国の[[鄧小平]]は[[1992年]]の[[南巡講話]]で「'''中東には石油があるが、中国にはレアアースがある。中国はレアアースで優位性を発揮できるだろう'''」(中東有石油、中国有稀土、一定把我国稀土的優勢発揮出来)と述べ<ref>{{Cite web|和書|date= 2016-03-31|url= https://www.sankei.com/life/news/160331/lif1603310002-n1.html|title= 鄧小平の戦略・中国レアアース開発で荒れ果てた山に無数の酸溶液の池 住民は歯が抜け…陸上破壊進み海洋進出か|publisher= [[産経デジタル|産経ニュース]]|accessdate=2019-05-19}}</ref><ref>Dian L. Chu (Nov 11, 2010). "Seventeen Metals: 'The Middle East has oil, China has rare earth'". Business Insider.</ref>、レアアースの戦略的価値を重視する路線を決定づけた。当時世界のレアアース埋蔵量の85%が中国に存在したとされる<ref>{{Cite web|和書|date= 2020-10-01|url= https://web.archive.org/web/20201018073653/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020100100642|title= レアアース「脱中国」へ大統領令 輸入制限も視野―米|publisher= [[時事通信]]|accessdate=2020-10-13}}</ref>。[[1980年代]]から「中国希土類化学の父」と呼ばれる[[徐光憲]]の貢献や政府の[[863計画]]によって希土類の研究開発が推し進められ<ref>Goldman, Joanne Abel (April 2014). "The U.S. Rare Earth Industry: Its Growth and Decline". Journal of Policy History. 26 (2): 139–166. doi:10.1017/s0898030614000013. ISSN 0898-0306.</ref>、上流工程から下流工程まで担う中国はレアアース関連で他国をあわせた数の2倍もの特許を取得した<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-07-24|url= https://gigazine.net/news/20190724-china-dominating-rare-earth-industry/|title= 中国のレアアース特許申請数は中国以外を合わせた2倍、レアアース関連技術がはるかに進んでいると専門家が警鐘を鳴らす|publisher= [[GIGAZINE]]|accessdate=2019-08-14}}</ref>。貴重な外貨獲得源として希土類鉱山の採掘にも力を注ぎ、希土類市場は供給過剰に伴う価格下落によってコスト面で採算が釣り合わなくなった中国以外の国の希土類鉱山は次々と閉山し、特にテルビウムやジスプロシウムなどの重希土類の生産は、中国一国に限られることになった。これにより、2000年代後半のレアアースの産出量の95%以上は中国の[[バヤンオボー鉱区|バヤンオボー鉱床]]とイオン吸着型鉱床により偏在するようになり、[[カントリーリスク|政治的リスク]]を負うようになっていた。[[2010年代]]に入るころには中国は産地としてだけでなく、その加工技術でも優位に立つことで世界の9割も供給する独占的な地位を手に入れることになった<ref>経済産業省2011年版不公正貿易報告書244~254頁掲載</ref><ref name=nikkei2019>{{Cite web|和書|date= 2019-06-18|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46191220X10C19A6TCR000/|title= レアアース禁輸 中国のジレンマ|publisher= [[エコノミスト]]|accessdate=2021-04-19}}</ref>。いわば、中東諸国が世界のほとんどの原油を保有しているだけでなく精製する市場もほぼ独占したようなことに近いとも評された<ref name=nikkei2019/>。
ここまで生産が中国に集中する事になった原因の1つは、その生産コストの低さもある。これは単純に賃金水準が安いということもあるが、レアアース鉱の特性上、中国以外では管理コストが高騰してしまうという事情がある。レアアースには放射能物質の[[トリウム]]が含まれているため、その取扱や後処理に多額のコストがかかるのである。この点中国は、労働者の保護や後処理を他国ほど厳密に行わない<ref>『トコトンやさしいレアアースの本』128ページのコラム「中国の環境問題」にて筆者の体験談として、見学したレアアース工場にて研究者の手が白く[[被曝]]していた、当時のレアアース工場としては当たり前だったようだ、と書いている。放射能物質の処理もずさんで、普通はドラム缶に詰めて地下に埋めるところをテーリングポンド(尾鉱貯蔵池)にそのまま保管するのが当たり前、と書いている。中には鉱山に直接ぶっかけてリーチング(湿式[[冶金]])し、レアアース濃縮物を得る鉱山もあると書いている。『トコトンやさしいレアアースの本 (今日からモノ知りシリーズ)』日刊工業新聞社 2012年8月21日出版。ISBN 978-4526069284 西川 有司 (著), 藤田 豊久 (著), 亀井 敬史 (著), 中村 繁夫 (著), 金田 博彰 (著), 美濃輪 武久 (著), 藤田 和男 (監修)</ref>ため、低コストで生産することができる。
[[中華人民共和国の政治|中国政府]]は、[[2006年]]に国土資源部が希土類を対象とした資源保護計画を発表し、[[2010年]]7月に商務部が輸出枠大幅削減方針を発表するなど、レアアースの資源保護政策に転換した<ref>『[http://eco.nikkeibp.co.jp/article/column/20101201/105402/?P=1 レアアースに手を焼く中国]』日経エコ・ジャパン 2010年12月3日 2010年12月9日閲覧。</ref>。これは、先進各国が自国の埋蔵量を温存したまま、中国のレアアースを安く買っていることの中国側の対応と見られている。これに伴い希土類の価格が急激に上昇した。たとえば、ジスプロシウムの価格は[[2005年]]には1 kgあたり50[[アメリカ合衆国ドル|ドル(USドル)]]程度であったが、2010年初頭には1 kgあたり160ドル、2010年6月末時点で400ドルに高騰した<ref>『[http://eco.nikkeibp.co.jp/article/column/20100803/104455/ EV用モーターにかかる中国という暗雲]』日経エコ・ジャパン 2010年8月5日 2010年12月9日閲覧。</ref>。
[[民生用]]から軍事用の製品にまでレアアースは幅広く利用され<ref>[https://www.recordchina.co.jp/b193704-s0-c70-d0000.html 米軍は中国のレアアースに頼り過ぎ、米メディアが警告] [[Record China]] 2017年12月17日閲覧。</ref><ref>加藤泰浩「太平洋のレアアース泥が日本を救う」23頁 PHP研究所、2012年</ref><ref>{{cite news |title=5 Military Technologies Reliant on Rare Earth Elements |newspaper=Listosaur |date=2015-03-15 |url=https://listosaur.com/science-a-technology/5-military-technologies-reliant-on-rare-earth-elements/ |accessdate=2018-03-27}}</ref>、レアアースを中国に頼る[[チャイナリスク]]は、[[2010年]]9月に発生した[[尖閣諸島中国漁船衝突事件]]後に、[[資源ナショナリズム]]に基づいて中国政府がレアアースの日本への通関を意図的に遅滞させる事で、レアアースの事実上の対日禁輸措置に踏み切ったことで顕在化した。これを契機に、特にレアアースの工業的寄与が大きい日本では、レアアースの対中依存に対する危機感が高まり、官民を挙げて「[[元素戦略]]」と銘打った対応が図られている。例えば政府系機関や民間企業は、レアアースを使用しないか削減してもレアアースを使用する製品と同等の性能が発揮できる製品の開発や<ref>「元素戦略プロジェクト」 文部科学省実施事業-[http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/19/03/07022608.htm オンライン情報例] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110323052355/http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/19/03/07022608.htm |date=2011年3月23日 }}、2010年12月9日閲覧。</ref>
<ref>[https://www.jst.go.jp/keytech/event/20090127/pdf/keizaisangyosho.pdf 経済産業省の「希少金属代替材料開発プロジェクト」について] 経済産業省実施事業 2010年12月9日閲覧。</ref><ref name="代替技術">大西孝弘『[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20101111/217047/ レアアース、代替技術は有望]』日経ビジネス 2010年11月15日 2010年12月9日閲覧。</ref>、レアアースのリサイクル技術の開発を加速させ、レアアースの備蓄を増進し<ref name="誰も知らない">『[http://eco.nikkeibp.co.jp/article/report/20101112/105248/ 誰も知らないレアアースの現実]』日経エコ・ジャパン 2010年11月15日 2010年12月9日閲覧。</ref>
、必要なレアアースについては中国以外からの分散調達を加速させた。この結果、[[2012年]]上半期には早くも日本の対中レアアース依存度が50%以下となり、中国のレアアースの輸出量と輸出価格が急落した<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20121004k0000m020049000c.html レアアース:中国規制せず…日本の調達先分散で効果薄れ] 毎日新聞 2012年10月3日</ref>。
価格はピーク時の5分の1に下がった<ref>ピーク時は危機時の20分の1</ref>。日本は[[インド]]の[[漂砂]]、[[ベトナム]]北部の[[カーボナタイト]]、[[カザフスタン]]の[[ウラン]][[鉱床]][[残渣]]、[[オーストラリア]]のカーボナタイトなど代替地の権益の確保を始めた<ref>2013年秋に双日がオーストラリアから出荷開始、豊田通商がインドで2014年度中に生産予定。住友商事のカザフスタンから輸入する計画は未出荷。</ref>。また[[EEZ]]内の海底鉱物資源の探査も加速しており、2012年[[6月28日]]に東京大学のグループが[[南鳥島]]付近の海底5600mで日本で消費する約230年分に相当するジスプロシウムがあると推定されると発表したこと、今後は掘削技術を提供している[[三井海洋開発]]と共同で[[深海平原|深海底]]からの泥の回収技術の開発を目指すことを発表した<ref>{{cite news |title=南鳥島近海にレアアース-東大・三井海洋開発、国産化にらみ技術開発 |newspaper=日刊工業新聞 |date=2012-07-02 |url=http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0720120702eaad.html?news-t0702 |accessdate=2012-09-04}}</ref>。
また、アメリカとの協同調査では[[インド洋]]の[[海底]]に高濃度のレアアースを含む泥が発見され、陸地では偏在しているものが海底では広範に存在する可能性が示唆されたが、高深度のものは商業採掘が困難であるという問題もあった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG2001O_Q3A520C1TJM000/ 東大、レアアース含む泥を発見 インド洋東部で] - [[日本経済新聞]] 2013/5/20 23:04版</ref>。
しかし、財務省貿易統計によると、HSコード2805.30と28.46をレアアースとした場合、2014年の通年ベースで日本はレアアースの輸入の6割を中国に依存している。代替供給先を確保できたのは主に軽希土類であり、希少価値の高い重希土類は中国南部に広く分布するイオン吸着型鉱床と呼ばれる[[風化]][[花崗岩]]に依存している。
重希土類(イットリウム、ジスプロシウムなど)は、2013年の時点の三菱UFJリサーチ&コンサルティングの推計によると商業生産の95%以上を中国が行っており<ref>[http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/shigen_nenryo/kougyo/pdf/002_03_00.pdf#page=7 希土類(レアアース)産業が直面した問題とその対応] - 経済産業省 総合資源エネルギー調査会</ref>、当然輸入も中国に依存している。また軽希土類の採掘する鉱山から主に出てくるのは使用量の激減したセリウムであり、採算を維持するためには同時に採掘するネオジムやランタンの価格を上げるか採掘量全体を削減する必要がある。また、日本企業は中国に工場を置くことで対中輸入を減らしていた<ref>{{cite news |title=レアアースが占う世界 米中分断経済に備えを |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2019-09-22 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50068090Q9A920C1TJC000/ |accessdate=2019-09-26}}</ref>。
[[2015年]]に日米欧からの提訴を受けて[[世界貿易機関]](WTO)が協定違反と断じたことにより、中国はレアアースと[[タングステン]]と[[モリブデン]]に賦課している「輸出税」と「輸出数量制限」を廃止した<ref>{{cite news |title=中国のレアアース等原材料3品目に関する輸出税が廃止されます |newspaper=[[経済産業省]] |date=2015-05-01 |url=http://www.meti.go.jp/press/2015/05/20150501001/20150501001.html |accessdate=2018-03-24}}</ref>。
[[2016年]]2月にアメリカの政府監査院(GAO)はアメリカ国内のレアアースの[[サプライチェーン]]再構築に15年を要するとしており、中国を除くレアアース鉱床は全てレアアース関連の特許を保有する中国で加工しているために中国が禁輸すればほぼ全ての[[コンピュータ]]、[[スマートフォン]]、自動車、[[航空機]]などのラインや[[NATO]]の[[兵器]]システムに影響を与えるとされる<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-03-26|url= https://www.recordchina.co.jp/b697901-s0-c20-d0054.html|title= 中国が世界のレアアース・サプライチェーンを主導する―米誌|publisher= [[Record China]]|accessdate=2019-05-14}}</ref>。2015年にレアアースのアメリカ最大手{{仮リンク|モリコープ|en|Molycorp}}が破綻しており、中国に超される1980年代まで世界最大のレアアース生産量を誇っていたアメリカ唯一のレアアース鉱山{{仮リンク|マウンテンパス鉱山|en|Mountain Pass rare earth mine}}は[[2017年]]に米投資ファンドと中国の盛和資源による米中企業連合に買収されている<ref>{{cite news|last1=Brickley|first1=Peg|title=Mountain Pass Mine Approved for Sale to JHL, QVT, Shenghe|url=https://www.wsj.com/articles/mountain-pass-mine-approved-for-sale-to-jhl-qvt-shenghe-1498255593/|publisher=Wall Street Journal|date=June 23, 2017|accessdate=}}</ref>。
[[2018年]]からの[[米中貿易戦争]]では、同年7月にアメリカが関税リストの草案に中国のレアアースを盛り込んで注目されたが、同年9月の関税発動の際には対象から外した<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-09-20|url= https://japanese.joins.com/article/366/245366.html|title= 米国はレアアース、中国は原油…貿易戦争の直前に除いた理由は?|publisher= [[中央日報]]|accessdate=2018-09-23}}</ref>。同年8月に成立した{{仮リンク|2019年度国防権限法|en|National Defense Authorization Act for Fiscal Year 2019}}で米国防総省が中国、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[イラン]]、ロシアといったアメリカと対立する国からレアアースを購入することを禁止し<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-05-25|url= https://jp.reuters.com/article/rare-earths-column-idJPKCN1SU0E3|title=コラム:中国は「レアアース銃」の引き金を引くか|publisher= [[ロイター]]|accessdate=2019-05-26}}</ref>、同年10月には[[アメリカ合衆国国防総省|米国防総省]]は米国の軍需産業が中国のレアアースに依存しているチャイナリスクに警鐘を鳴らした<ref>{{Cite web |date= 2018-10-05|url= https://www.reuters.com/article/us-usa-military-china/pentagon-sees-china-as-growing-risk-to-u-s-defense-industry-idUSKCN1ME2SN|title=Pentagon sees China as 'growing risk' to U.S. defense industry|publisher= [[ロイター]]|accessdate=2019-04-21}}</ref>。[[2019年]]5月に米中の[[貿易摩擦]]の激化で中国からのほぼ全輸入品が関税対象にリストアップされた際も中国は世界の7割から9割を生産して米国が8割超も中国からの輸入に依存していることから外され<ref name=nikkei2019/><ref>{{Cite web|和書|date= 2019-05-29|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3227425|title= 中国、レアアースの対米輸出制限を示唆 貿易戦争に新たな一撃|publisher= [[AFPBB]]|accessdate=2019-05-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= 2019-05-14|url= https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-05-14/PRH8206JIJUO01|title= 中国のレアアース支配浮き彫りに-トランプ政権が対中関税で除外|publisher= [[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|accessdate=2019-05-14}}</ref>、これに対して中国の[[中華人民共和国国家発展改革委員会|国家発展改革委員会]]が米軍需産業を標的にしたレアアースの輸出規制を示唆したことを受け<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45398270Y9A520C1000000/ |title= 中国、レアアース利用に言及 関税交渉で米けん制 |newspaper= [[日本経済新聞]]|date=2019-05-28|accessdate=2019-06-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://jp.reuters.com/article/china-us-rare-earth-idJPKCN1TI0SB |title= 中国、レアアース政策の策定急ぐ 「米軍事企業向け規制」と環球時報 |newspaper= [[ロイター]]|date=2019-06-17|accessdate=2019-06-26}}</ref>、[[戦闘機]]や[[ミサイル]]などの軍用品まで使われているレアアースの対中依存を国内生産で軽減すべきとして米国防総省は[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]に資金拠出を要請し<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-05-30|url= https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-05-30/PSAJ3J6TTDSG01|title= 米軍の戦闘機やミサイルが貿易戦争の矢面に-中国のレアアース依存で|publisher= [[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|accessdate=2019-05-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= 2019-05-30|url= https://jp.reuters.com/article/china-usa-rareearth-pentagon-idJPKCN1SZ2N3|title= 米国防総省、レアアースの中国依存軽減へ連邦政府に資金要請|publisher= [[ロイター]]|accessdate=2019-05-31}}</ref>、米軍は[[マンハッタン計画]]以来のレアアース生産への投資を計画することとなり<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-12-14|url= https://jp.reuters.com/article/exclusive-rare-earth-us-military-idJPKBN1YH01X|title= 焦点:米軍、兵器開発用のレアアース自給へ 中国依存を警戒|publisher= [[ロイター]]|accessdate=2019-12-15}}</ref>、[[2020年]]9月30日に[[ドナルド・トランプ|トランプ米国大統領]]はレアアースの対中依存を見直すよう命じる大統領令に署名した<ref>{{Cite web|和書|date= 2020-10-01|url= https://web.archive.org/web/20201018073653/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020100100642|title= レアアース「脱中国」へ大統領令 輸入制限も視野―米|publisher= [[時事通信]]|accessdate=2020-10-13}}</ref>。また、トランプ大統領は[[デンマーク]]からの[[グリーンランド]]の購入に意欲を示していた。背景には世界最大のレアアースの未開発鉱床があるとされるグリーンランドの権益をめぐる米中の対立があるとされた<ref>{{Cite web|和書|date= 2021-04-08|url= https://jp.wsj.com/articles/chinas-greenland-ambitions-run-into-local-politics-u-s-influence-11617852262|title= 中国の野望、グリーンランド・レアアース権益の行方|publisher= [[WSJ]]|accessdate=2021-04-19}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=セオドア・グレイ |translator=武井摩利 |others=若林文高(監修) |chapter= |title=世界で一番美しい元素図鑑 |series= |date=2010-10-22 |publisher=[[創元社]] |isbn=978-4-422-42004-2 |pages= |url=|ref=グレイ(2010)}}
== 関連項目 ==
* [[保護貿易]]
* [[資源ナショナリズム]]
* [[レアメタル]]
* [[バヤン鉱区|白雲鉱区]] - 世界最大の希土類元素鉱床・バイヤンオボ鉱床がある、[[中華人民共和国|中国]][[内蒙古自治区]][[包頭市]]の[[市轄区]]。
* [[キドカラー]] - [[日立製作所]]が製造・販売していたカラーテレビの商標・愛称。輝度を上げるためにブラウン管内部の蛍光体材料に希土類が用いられたことから「輝度」と「希土」をかけて「キドカラー」と名付けられた。
* [[日本希土類学会]]
* [[キリンジ]] - アルバム『Buoyency』に収録されている曲「都市鉱山」の歌詞でタンタル、イッテルビウムなどの鉱物名がそのまま羅列されている。
* [[エイジアンレアアース社事件]]
* [[コール オブ デューティ ブラックオプス2]] - レアアースを巡って米中が対立する世界を舞台にしたゲーム
* [[ハウス・オブ・カード 野望の階段]] - レアアースを巡る米中の貿易摩擦も題材になってるドラマ
== 外部リンク ==
*[http://www.kidorui.org/ 日本希土類学会]
*[http://www.jsnm.or.jp/ 社団法人新金属協会]
*[http://unit.aist.go.jp/georesenv/result/green-report/report07/p75.pdf レアアース資源を供給する鉱床タイプ]
*[http://xn--ccka3e4j2c.net/ レアアース.net]{{リンク切れ|date=2012年10月}}
*[http://www.nbr.org/research/activity.aspx?id=137 Rare Earth Elements, Asia's Energy Security, and Sino-Japanese Relations], Interview with Yufan Hao, University of Macau, and Jane Nakano, CSIS (5/12/11)
*{{cite news|url=http://www.nytimes.com/2010/10/05/business/global/05recycle.html|title=Japan Recycles Rare Earth Minerals From Used Electronics|last=Tabuchi|first=Hiroko|date=2010-10-05|work=The New York Times}}
*{{cite web|url=http://pcworld.co.nz/pcworld/pcw.nsf/news/common-gadgets-may-be-affected-by-shortage-of-rare-earths|title=Common gadgets may be affected by shortage of rare earths|last=Kan|first=Michael|date=2010-10-07|publisher=New Zealand PC World Magazine|accessdate=2010-10-06}}
*{{cite news|url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703440004575549061903720950.html?mod=googlenews_wsj|title=Japan's Rare-Earth Jolt|last=Auslin|first=Michael|date=2010-10-13|publisher=Wall Street Journal|accessdate=2010-10-13}}
*{{cite web|url=http://www.technologyreview.com/energy/26538/?p1=Headlines|title=China's Rare-Earth Monopoly|last=Aston|first=Adam|date=2010-10-15|publisher=Technology Review (MIT)|accessdate=2010-10-17}}
*{{cite web|url=http://fmso.leavenworth.army.mil/documents/rareearth.pdf|title=China's Rare Earth Elements Industry: What Can the West Learn?|last=Hurst|first=Cindy|date=March 2010|publisher=Institute for the Analysis of Global Security (IAGS)|accessdate=2010-10-18}}
*{{cite web|url=http://www.ipmd.net/news/001111.html|title=Rare earth industry develops outside of China|date=2011-02-08|work=ipmd.net|accessdate=2011-02-14}}
*[http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-13777439 Rare earths mining: China's 21st Century gold rush], BBC News June 2010 infographic examining China's role in the rare earths market.
*[http://mric.jogmec.go.jp/kouenkai_index/2011/briefing_110908_5.pdf 独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構 希土類金属等回収技術研究開発 平成23年度(第6回)金属資源関連成果発表会]
*{{Wayback|url=http://www18.ocn.ne.jp/~nnaf/122d.htm |title=エィジアン・レアアース(ARE)社事件のその後 |date=20150119144243}} ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.122
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匁
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匁(もんめ)(記号:mom)には、以下の二つの用法がある。
「匁」は日本固有の、かつ日本独特の民間の質量単位の呼称であり、「匁」の文字は一般的には日本独自の国字とされるが異論(後述)もある。中国では匁に相当する単位は「銭」である。
江戸時代では両の1/10に相当する分量単位であったが、1891年(明治24年)の度量衡法により貫の1/1000の分量単位と規定され、メートル法に準じて正確に3.75 gとされた。現行の計量法でもこの換算値が維持されているが、単位名称「もんめ」は「真珠の質量の計量」にのみ限定して使用することができ、それ以外の商取引における使用は禁止されている。
日本でも明治時代以前は銭(戔、せん)と呼ばれ、中国語圏では現在も銭(中国語: 錢/钱 拼音: qián チエン)と呼ぶ。また、いくつかの国ではまた別の呼び名をする。それらの単位についてもあわせて解説する。
10匁・10銭は両(りょう)に、160匁・160銭(例外あり)は斤(きん)に、1000匁は貫(かん)に等しい。
中国と韓国での単位名は「銭」であり、日本でも近代以前は銭と呼んでいたが、古くからの用例もあり大内家壁書の文明16年(1484年)の条項に「匁」の名が現れた。大内家壁書には、「金銀両目御定法之事」の項目に「こがねしろがねの両目の事は、京都の大法として、いづれも、一両四文半銭にて、弐両九文目たる処に、こがねをば、一両五匁にうりかう事、そのいはれなし。」と記されている。
上記は文明16年(1484年)に室町幕府により金一両が公定された当時の文書であり、この金一両4.5匁は京目と称した。鎌倉時代後期頃より金一両は4.5匁、銀一両は4.3匁とする慣行が生まれ、銀1両=4.3匁とする秤量銀貨の単位が用いられるようになったが、江戸時代まで分銅の表記は「戔」であった。江戸時代の「匁」の用法は専ら銀目によるものが多い。1765年に鋳造された五匁銀に「文字銀五匁」と、通貨単位として初めて「匁」の文字が貨幣に入った。
1871年の新貨条例では日本量目の比較表では「戔」とされており、貨幣略図并品位量目表に「匁」の名が現れる。1891年の度量衡法で法的にメートル法を基準とした「匁」が登場した。日本においても正規の名称は明治初期まで「銭」であった。
読み「もんめ」は、一文銭の質量であることから「文目」(もんめ)と呼んだことに由来する。「目」は、「秤の目」の意味から転じた、質量を意味する接尾辞で、「目方」と同じ意味である。「匁」の文字は「文」と「メ」を組み合わせたものであるとする説があり、また「銭」の異字である「泉」の草書体に由来するともされる。
漢字「匁」は本来「銭」の異体字として中国で使用されていた字で日本の国字ではないとする見解もあるが、字書類に載っていない上に日本で「もんめ」の漢字として本来の銭を圧倒して使われたために、しばしば国字の例としてあげられる。
匁は真珠の質量の単位として商取引上、国際的に使われているので、日本の計量法において、「真珠の質量の計量」にのみ使用することが認められている法定計量単位である。これは真珠が日本の特産品であったことによるものである。この場合の単位名は平仮名表記の「もんめ」であり、漢字表記の「匁」ではない。その単位記号は"mom"と定められている。「もんめ」は英語などでは"momme"と綴られている。なお、国際単位系においては、「もんめ」の単位は認められていない。
英語では mace(メイス)と呼び、これはマレー語の mas からオランダ語の maes を経由した借用語である。マレー語の mas はさらに、サンスクリットの māṣa(マーシャ)に由来し、これはインドのベンガル地方の質量の単位マーシャ māsha(≒0.972 g)の語源でもある。
香港英語では広東語由来のtsin、シンガポール英語では閩南語由来のcheeとも言う。
江戸時代の銀目において20匁以上のとき、10匁単位(10匁の整数倍)の場合には、匁の代わりに「目」(め)と呼ぶことがある。例えば30匁は三十目、300匁は三百目とも呼ぶ。ただし、10匁単位でない場合はこの表現はせず、たとえば、27匁を27目のようには言わない。また、この「x十目」中の「十目」あるいは「百目」は10匁・100匁に等しい独立の単位ではなくあくまで10匁・100匁の別の表現なので、たとえば232匁を二百目三十二匁などとは言わない。
1⁄10銭は分(ふん)、1⁄100銭は厘(りん)、1⁄1000銭は毛(もう)となる(1⁄10匁等についても同様)。この場合、割の用法と同じであり、基本単位「両」を十割として0.1割を1分、0.01割を1厘とするため、見かけ上は両の1⁄100が1分、1⁄1000が1厘となる。匁は1割に相当し、両の補助単位である。「分」を「ぶ」と読まず「ふん」と読むのは、金貨の通貨単位である一分(ぶ)との混同を避けるためである。これは質量の単位であるがゆえの例外であり、これに対したとえば1⁄10寸の「分」は「ぶ」と読む。
唐代の開元通宝10枚の質量が24銖すなわち1両に相当したことから、1枚あたりの質量を「銭」と呼ぶようになった。それ以来現在にいたるまで、10銭 = 1両の関係が保たれている。
ただし、開元通宝のような鋳造銭は規定の質量があるとはいえ、鋳造による大小あり一様でないため貨幣そのものが分銅代わりになったわけではない。
現在の定義(市制)では1銭=5 gである。
質量単位としての「銭」が日本に伝わり、日本では「文目」の意から「もんめ」とも呼ぶようになった。「匁」は主に金銀の量目の単位として使われ、江戸時代の丁銀・小玉銀は「匁」を単位とする目方通用の秤量貨幣であり、丁銀の方は五百目包の形態として使用された。この様な秤量銀貨の掛目(実測値)が通貨単位として使用され、商品の値段は必ず銀目で建てられた。1609年(慶長14年)に金1両=銀50目(匁)、1700年(元禄13年)に金1両=銀60目とする御定相場が公布されたが、実態は市場経済による変動相場であった。
1665年(寛文5年)に度量衡の「衡」が統一され、両替商で用いられる分銅は後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。この分銅は「両」を基本単位としており一両から三十両(または五十両)があり、その補助単位「匁」に相当する小分銅の単位表記は「戔」である。秤量銀貨の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことを指し、43匁は「銀一枚」と称し献上銀・被下銀は丁銀に小玉銀を掛け足して「枚包」とするのが江戸時代以前からの習慣であった。また小判の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から銀の単位は「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、掛目が伍両(5両)の丁銀は銀50匁(銀50目)と表した。
「銀一匁」の価値は丁銀の銀品位によって異なり、例えば目まぐるしい改鋳が行われた宝永年間以降、数種の銀が混用された正徳・享保年間では商品相場に銀の種別の相場が併記されることもあった。例えば、享保3年11月頃(1718年)、肥後米1石に付
日本において金貨の貨幣単位として認識されている「両」は「両目(量目、りょうめ)」というように本来質量の基本単位であり、金一両は量目1両分の金が基準にあったが、度重なる改鋳により時代の変遷とともに金一両は1両分の金から乖離して次第に名目化が進行し、イギリスのポンドも同様に貨幣単位と質量単位が乖離していったのであったが、「匁」については慶長から安政に至るまで江戸時代を通して銀貨の掛目として維持され独立した貨幣単位としての名目化はなかったとの見方もある。一方で、「銀一匁」は銀そのものの含有量一匁ではなく、それも改鋳による品位低下の度に名目化の度合いを高めたとする見方もある。すなわち「匁」は銀の重量でなく、「貨幣の単位」であったというべきである。
銀札は本来銀の預り証であり、引替え用銀準備の下、つまり額面と等価の丁銀への兌換を前提に発行される名目であったが、実際には災害など藩の財政逼迫の度に多発されることが多く、正銀の額面としての銀の掛目と藩札の額面との間に乖離が生じるのが普通であった。宝永4年10月(1707年)に幕府は一旦、銀札発行を禁じ、流通している銀札を50日以内にすべて正銀(丁銀・小玉銀)に引き替えるよう命じたが、例えば紀伊田辺においては銀札一貫目は正銀二百匁に替えると布告される始末であった(『田辺旧事記』)。
また、特に江戸代後半はしばしば丁銀が払底し、代わりに匁銭勘定が行われるなどの名目化もあった。さらに、南鐐二朱銀など計数銀貨が台頭し始めた文政3年(1820年)には「四十三匁銀」と「五十目銀」と呼ばれる名目貨幣鋳造が提言されたこともあった。これらは「五匁銀」とは異なり額面通りの量目は無く、出目獲得を目的とした額面としての「匁」の名目化を狙ったものであったが実現には至らなかった。これ以降「匁」は、あたかも質量単位であり貨幣単位として名目化することは無かったかのような印象を後世に与えるようになったと思われる。また、丹波福知山藩でも幕末に30匁の1/9程度の量目12.3 g(3.3匁)の「銀三拾匁」、およびさらにその半量の「銀拾五匁」を試鋳している。幕末に徳島藩は阿州通寳「拾匁銀札」や「壹匁銅札」の銅貨、土佐藩は土佐官券「十匁」などの銅貨を試鋳しているが、何れも貨幣の量目(質量)とは無関係である。
慶應4年/明治元年5月9日(1868年6月28日)の布告により、貨幣単位としての銀目は使用が停止され(銀目廃止令)、直前に銀相場は暴落しこの日の大坂における仕舞相場である金1両=銀219匁4分9厘は銀目廃止時の銀手形を金手形に直す場合の標準両替相場となった。これを以て江戸時代の金銀相場は終結した。正貨である丁銀・小玉銀(五匁銀も含む)については、慶長銀1貫目は金89両、政字銀は1貫目は金12両3分3朱に換算されて引換えられ、その他の品位の銀も含有量に応じて引換え価格が提示された(明治元年十月十日太政官達)。銀目廃止の直前に、銀目手形所持者の多くが廃止に伴い銀目手形が無効になると誤解し正貨との交換を求めて両替商に殺到する取り付け騒ぎとなったため、大多数の両替商が支払不能となり閉店に追い込まれ、江戸時代に高度に発達した信用組織は壊滅的打撃を被った。正貨である丁銀・小玉銀の両・分・朱単位の貨幣による引換えは明治7年(1874年)9月に終了し、その後は丁銀・小玉銀は貨幣としての機能を失い、新貨(円・銭・厘)による交換は認められず、地金として取り扱われた。
この当時の目方の単位としての1匁は、分銅や定位貨幣を実測して推定すると、現在のメートル法を基準とした3.75 gよりやや小さく、近世を通じた平均値で3.736 gであり、江戸時代終盤にやや増加して3.75 gを超えた。狩谷棭斎は、「清の人が持ってくる分銅を日本のものと計り比べても厘毫の違いも無い。」また明、宋元、唐の衡(1銭=3.73 g)から変化していないと述べている。貨幣の量目から、後藤家の分銅も中国の分銅を原器として模倣したものと推定され、江戸時代の1匁は3.73 gと見積られる。
銀目以外の「匁」の用法として、金座において金銀地金などの量目を表す場合に用い、金貨の品位は44匁の純金に銀を加えて全体の量目を76匁7分とした場合の品位(44/76.7 = 573.7/1000)は「七十六匁七分位」と表現された。また、各地金山・銀山からの産出量や運上高なども「貫」や「匁」で表される。これに対し、鉄や鉛などの卑金属、銅山から産出される銅地金の重量は「斤」の単位が用いられた。
秋田封銀や秋田銀判、盛岡銀判など、幕末期の地方貨幣の「匁」表示の銀貨は正味の量目を表し、秤量銀貨の銀目を意味するものではなく、一分銀や一朱銀の量目に合わせて二分や一両などの通用価値を定めたものである。
明治に入り、銭は圓(円)の1⁄100の補助貨幣の単位として使用することとなったため、明治4年(1871年)の新貨条例では質量の単位には戔(匁)が単位換算表や貨幣の量目表に現れ(ただし、第二次大戦前までは銭も併用されていた)、1戔(1匁)=約3.756521 g(86.4/23 g)と定められた。その後、単位換算の便宜を図るため、1891年(明治24年)の度量衡法により、1貫 = 正確に15⁄4 kg、すなわち3.75 kgと定められ、匁は貫の1⁄1000と規定されたので、正確に 1匁 = 3.75 g となった。貨幣の量目に「匁」が公式に採用されたのは明治30年(1897年)の貨幣法からであり、「匁」単位は昭和8年(1933年)にメートル法表記に変更されるまで用いられた。
日本の計量法における扱いは、匁#もんめ(日本の計量法上の名称)のとおりである。なお、匁の1000倍である「貫」( = 正確に3.75 kg)は、非法定計量単位であり、「真珠の質量の計量」の場合であっても商取引における使用が禁じられている。
量目が匁表記となった貨幣法では、大正5年(1916年)の貨幣法改正において補助貨幣である1銭青銅貨の量目が「一匁」と規定され(大正5年2月24日法律第8号)、大正9年(1920年)の改正では10銭白銅貨の量目が「一匁」と規定された(大正9年7月27日法律第5号)。現在の日本の五円硬貨の質量は政令(昭和24年8月1日政令第290号・昭和34年6月1日政令第209号)で3.75 gと規定され、ちょうど1匁に相当する。
明治期以降に、従来の匁(または戔)の質量の値はメートル法によるグラムに関係づけられたが、その経緯は次の通りである。
大韓帝国時代の1902年に伝統的な単位とメートル法との対応が規定されたが、1909年には日本式の度量衡法が定められ、このときに日本の「匁・貫」ももたらされた。ただし匁の読みは朝鮮語で銭を意味する「ドン(돈)」であった。したがって1ドンは3.75 gにあたる。
1964年に度量衡はメートル法に統一されたが、貴金属や漢方薬の計量において慣用的に使われている。
香港では、1884年の香港法例第22条で2⁄15オンス(約3.779936 g)と定められた。現在はメートル法へ換算して丸めた3.77994 gとされ、漢方薬の処方などで使われている。
一方、貴金属取引には金衡錢 (mace troy) が使われていて3.7429 gとされている(「金衡」とはトロイオンスなどの「トロイ」の訳語だが、金衡錢自体はトロイオンスとは関係ない)。
マカオも香港と同様である。
東南アジアのいくつかの国では、銭に当たる単位が現地語の単位名称で呼ばれている。名前は違うが、いずれも、両に当たる単位の1⁄10である。
シンガポールでは、チー (chee) = 1⁄10タヒル (tahil) ≒ 3.78 gで、香港の銭とほぼ同じである。
マレーシアも、シンガポールと同様である。
インドネシアでは、チー (ci) = 1⁄10テール ≒ 3.86 gである。
フィリピンでは、マース (mas) = 1⁄10テール ≒ 3.622 gである。
一部は概数。
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"text": "匁(もんめ)(記号:mom)には、以下の二つの用法がある。",
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"text": "「匁」は日本固有の、かつ日本独特の民間の質量単位の呼称であり、「匁」の文字は一般的には日本独自の国字とされるが異論(後述)もある。中国では匁に相当する単位は「銭」である。",
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"text": "江戸時代では両の1/10に相当する分量単位であったが、1891年(明治24年)の度量衡法により貫の1/1000の分量単位と規定され、メートル法に準じて正確に3.75 gとされた。現行の計量法でもこの換算値が維持されているが、単位名称「もんめ」は「真珠の質量の計量」にのみ限定して使用することができ、それ以外の商取引における使用は禁止されている。",
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"text": "日本でも明治時代以前は銭(戔、せん)と呼ばれ、中国語圏では現在も銭(中国語: 錢/钱 拼音: qián チエン)と呼ぶ。また、いくつかの国ではまた別の呼び名をする。それらの単位についてもあわせて解説する。",
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"text": "10匁・10銭は両(りょう)に、160匁・160銭(例外あり)は斤(きん)に、1000匁は貫(かん)に等しい。",
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"text": "中国と韓国での単位名は「銭」であり、日本でも近代以前は銭と呼んでいたが、古くからの用例もあり大内家壁書の文明16年(1484年)の条項に「匁」の名が現れた。大内家壁書には、「金銀両目御定法之事」の項目に「こがねしろがねの両目の事は、京都の大法として、いづれも、一両四文半銭にて、弐両九文目たる処に、こがねをば、一両五匁にうりかう事、そのいはれなし。」と記されている。",
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"text": "上記は文明16年(1484年)に室町幕府により金一両が公定された当時の文書であり、この金一両4.5匁は京目と称した。鎌倉時代後期頃より金一両は4.5匁、銀一両は4.3匁とする慣行が生まれ、銀1両=4.3匁とする秤量銀貨の単位が用いられるようになったが、江戸時代まで分銅の表記は「戔」であった。江戸時代の「匁」の用法は専ら銀目によるものが多い。1765年に鋳造された五匁銀に「文字銀五匁」と、通貨単位として初めて「匁」の文字が貨幣に入った。",
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"text": "1871年の新貨条例では日本量目の比較表では「戔」とされており、貨幣略図并品位量目表に「匁」の名が現れる。1891年の度量衡法で法的にメートル法を基準とした「匁」が登場した。日本においても正規の名称は明治初期まで「銭」であった。",
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"text": "読み「もんめ」は、一文銭の質量であることから「文目」(もんめ)と呼んだことに由来する。「目」は、「秤の目」の意味から転じた、質量を意味する接尾辞で、「目方」と同じ意味である。「匁」の文字は「文」と「メ」を組み合わせたものであるとする説があり、また「銭」の異字である「泉」の草書体に由来するともされる。",
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"text": "漢字「匁」は本来「銭」の異体字として中国で使用されていた字で日本の国字ではないとする見解もあるが、字書類に載っていない上に日本で「もんめ」の漢字として本来の銭を圧倒して使われたために、しばしば国字の例としてあげられる。",
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"text": "匁は真珠の質量の単位として商取引上、国際的に使われているので、日本の計量法において、「真珠の質量の計量」にのみ使用することが認められている法定計量単位である。これは真珠が日本の特産品であったことによるものである。この場合の単位名は平仮名表記の「もんめ」であり、漢字表記の「匁」ではない。その単位記号は\"mom\"と定められている。「もんめ」は英語などでは\"momme\"と綴られている。なお、国際単位系においては、「もんめ」の単位は認められていない。",
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"text": "英語では mace(メイス)と呼び、これはマレー語の mas からオランダ語の maes を経由した借用語である。マレー語の mas はさらに、サンスクリットの māṣa(マーシャ)に由来し、これはインドのベンガル地方の質量の単位マーシャ māsha(≒0.972 g)の語源でもある。",
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"text": "香港英語では広東語由来のtsin、シンガポール英語では閩南語由来のcheeとも言う。",
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"text": "江戸時代の銀目において20匁以上のとき、10匁単位(10匁の整数倍)の場合には、匁の代わりに「目」(め)と呼ぶことがある。例えば30匁は三十目、300匁は三百目とも呼ぶ。ただし、10匁単位でない場合はこの表現はせず、たとえば、27匁を27目のようには言わない。また、この「x十目」中の「十目」あるいは「百目」は10匁・100匁に等しい独立の単位ではなくあくまで10匁・100匁の別の表現なので、たとえば232匁を二百目三十二匁などとは言わない。",
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"text": "1⁄10銭は分(ふん)、1⁄100銭は厘(りん)、1⁄1000銭は毛(もう)となる(1⁄10匁等についても同様)。この場合、割の用法と同じであり、基本単位「両」を十割として0.1割を1分、0.01割を1厘とするため、見かけ上は両の1⁄100が1分、1⁄1000が1厘となる。匁は1割に相当し、両の補助単位である。「分」を「ぶ」と読まず「ふん」と読むのは、金貨の通貨単位である一分(ぶ)との混同を避けるためである。これは質量の単位であるがゆえの例外であり、これに対したとえば1⁄10寸の「分」は「ぶ」と読む。",
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"text": "唐代の開元通宝10枚の質量が24銖すなわち1両に相当したことから、1枚あたりの質量を「銭」と呼ぶようになった。それ以来現在にいたるまで、10銭 = 1両の関係が保たれている。",
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"text": "ただし、開元通宝のような鋳造銭は規定の質量があるとはいえ、鋳造による大小あり一様でないため貨幣そのものが分銅代わりになったわけではない。",
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"text": "大韓帝国時代の1902年に伝統的な単位とメートル法との対応が規定されたが、1909年には日本式の度量衡法が定められ、このときに日本の「匁・貫」ももたらされた。ただし匁の読みは朝鮮語で銭を意味する「ドン(돈)」であった。したがって1ドンは3.75 gにあたる。",
"title": "朝鮮"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1964年に度量衡はメートル法に統一されたが、貴金属や漢方薬の計量において慣用的に使われている。",
"title": "朝鮮"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "香港では、1884年の香港法例第22条で2⁄15オンス(約3.779936 g)と定められた。現在はメートル法へ換算して丸めた3.77994 gとされ、漢方薬の処方などで使われている。",
"title": "香港・マカオ(銭)"
},
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"text": "一方、貴金属取引には金衡錢 (mace troy) が使われていて3.7429 gとされている(「金衡」とはトロイオンスなどの「トロイ」の訳語だが、金衡錢自体はトロイオンスとは関係ない)。",
"title": "香港・マカオ(銭)"
},
{
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"text": "マカオも香港と同様である。",
"title": "香港・マカオ(銭)"
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"text": "東南アジアのいくつかの国では、銭に当たる単位が現地語の単位名称で呼ばれている。名前は違うが、いずれも、両に当たる単位の1⁄10である。",
"title": "東南アジア"
},
{
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"text": "シンガポールでは、チー (chee) = 1⁄10タヒル (tahil) ≒ 3.78 gで、香港の銭とほぼ同じである。",
"title": "東南アジア"
},
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"text": "マレーシアも、シンガポールと同様である。",
"title": "東南アジア"
},
{
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"text": "インドネシアでは、チー (ci) = 1⁄10テール ≒ 3.86 gである。",
"title": "東南アジア"
},
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"text": "フィリピンでは、マース (mas) = 1⁄10テール ≒ 3.622 gである。",
"title": "東南アジア"
},
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"tag": "p",
"text": "一部は概数。",
"title": "換算一覧"
}
] |
匁(もんめ)には、以下の二つの用法がある。 日本の尺貫法における質量の単位である(明治時代以降)。明治以降、1 匁 は正確に 3.75 g である。
江戸時代の銀目すなわち銀の通貨単位である(江戸時代以前、主に江戸時代)。江戸時代以前も匁は両の分量単位としての量目の単位に違いなかったが、当時の文書に現れる「匁」は、多くの場合貨幣単位としての匁であった。 「匁」は日本固有の、かつ日本独特の民間の質量単位の呼称であり、「匁」の文字は一般的には日本独自の国字とされるが異論(後述)もある。中国では匁に相当する単位は「銭」である。
|
{{単位
|名称=匁、もんめ(真珠の質量の計量における計量単位の名称)
|読み=もんめ
|英字=momme
|記号=mom ([[計量法#法定計量単位|法定計量単位]]としての記号)
|度量衡=[[尺貫法]](真珠の質量の計量においては[[計量法#法定計量単位|法定計量単位]])
|物理量=[[質量]]
|定義={{分数|1000}}[[貫]]([[度量衡法]]の表現。{{分数|10}}[[両]]に等しい)
|SI=正確に3.75 [[グラム|g]]
|由来=[[銭貨]]の質量
|画像=[[Image:GoEnDamaScan.jpg|200px|五円硬貨]]<br/>五円硬貨。重さ1匁
|語源=一文銭の目方=文目
}}
{{単位
|名称=銭
|読み=せん
|英字=mace
|記号=
|度量衡=[[尺貫法]]
|物理量=[[質量]]
|定義={{分数|10}}[[両]]
|SI=5 g([[市制 (単位系)|市制]])<br/>3.77994 g([[香港]] 他)<br/>3.7301 [[グラム|g]](旧制)
|由来=[[開元通宝]]の質量
|画像=[[ファイル:KaiyuanTongbao.png|200px|開元通宝]]
|語源=銭(= [[銅貨]])
}}
{{中華圏の事物
|タイトル=銭
|画像種別=
|画像=
|画像の説明=
|英文=mace, tsin, chee
|簡体字=钱
|繁体字=錢
|ピン音=qián
|通用 =
|注音符号=
|ラテン字=
|広東語=chìhn
|上海語=
|台湾語=
|カタカナ=チエン
}}
[[画像:Goto-hundo.jpg|thumb|right|290px|[[江戸時代]]に[[両替商]]で用いられた後藤分銅<br>貳拾両(200匁:749.07 g), 拾両(100匁:374.62 g)]]
'''匁'''(もんめ)(記号:mom)には、以下の二つの用法がある<ref>[[#Kojien1998|『広辞苑』「匁」p2209.]]</ref><ref name="KoKanwajiten1984">[[#KoKanwajiten1984|『廣漢和辞典 上巻』「勹部-匁(1410)」,p416.]]</ref>。
# [[日本]]の[[尺貫法]]における[[質量]]の[[単位]]である([[明治]]時代以降)<ref name="Kokushi1992-920重量">[[#Kokushi1992|『国史大辞典』「匁(重量単位)」, p920.]]</ref>。明治以降、1 匁 は正確に 3.75 g である。
# [[江戸時代]]の[[銀目]]すなわち[[丁銀|銀]]の通貨単位である(江戸時代以前、主に江戸時代)<ref name="Kokushi1992-920銀目">[[#Kokushi1992|『国史大辞典』「匁(銀貨の単位)」, p920.]]</ref><ref name="Kokushi1984-697">[[#Kokushi1984|『国史大辞典』2巻「銀目」, p697.]]</ref>。江戸時代以前も匁は両の分量単位としての量目の単位に違いなかったが、当時の文書に現れる「匁」は、多くの場合貨幣単位としての匁であった。
「匁」は日本固有の、かつ日本独特の民間の質量単位の呼称であり<ref name="Kokushi1992-920重量" /><ref name="Koizumi1974-345">[[#Koizumi1974|小泉(1974), p345.]]</ref>、「匁」の文字は一般的には日本独自の[[国字]]とされるが<ref name="KoKanwajiten1984" />異論(後述)もある。[[中国]]では匁に相当する単位は「銭」である<ref name="Kokushi1992-920重量" /><ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p220-222, 345.]]</ref>。
== 概要 ==
江戸時代では[[両]]の1/10に相当する分量単位であったが、1891年([[明治]]24年)の[[度量衡法]]により[[貫]]の1/1000の分量単位と規定され、メートル法に準じて正確に3.75 [[グラム|g]]とされた。現行の[[計量法]]でもこの換算値が維持されている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82 計量単位令別表第6] 項番4、「真珠の質量の計量、もんめ、キログラムの〇・〇〇三七五倍」</ref>が、単位名称「もんめ」は「[[真珠]]の質量の計量」にのみ限定して使用することができ、それ以外の商取引における使用は禁止されている。
日本でも明治時代以前は'''銭'''(戔、せん)と呼ばれ、[[中国語]]圏では現在も'''銭'''({{lang-zh|錢/钱}} {{ピン音|qián}} チエン)と呼ぶ。また、いくつかの国ではまた別の呼び名をする。それらの単位についてもあわせて解説する。
10匁・10銭は[[両]](りょう)に、160匁・160銭(例外あり)は[[斤]](きん)に、1000匁は[[貫]](かん)に等しい。
== 名称 ==
=== 銭と匁 ===
中国と韓国での単位名は「銭」であり、日本でも近代以前は銭と呼んでいたが、古くからの用例もあり[[大内家壁書]]の[[文明 (日本)|文明]]16年(1484年)の条項に「匁」の名が現れた<ref name="hanano">花野韶「[http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/monmereki001.htm 貨幣から見た匁の変遷]」2008年</ref>。大内家壁書には、「金銀両目御定法之事」の項目に「こがねしろがねの両目の事は、京都の大法として、いづれも、一両四文半銭にて、弐両九文目たる処に、こがねをば、一両五匁にうりかう事、そのいはれなし。」と記されている<ref>{{Cite web|和書|author= |title=大内家壁書 13/32コマ |url=http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-107801 |format= |work= |publisher=[[国文学研究資料館]] |date= |accessdate=2018-02-12}}</ref>。
[[画像:Bunzi-gin5monme.jpg|thumb|right|200px|五匁銀。[[元文丁銀|文字銀]]と同品位で量目は5匁(約18.7 g)あった。]]
上記は文明16年(1484年)に[[室町幕府]]により金一両が公定された当時の文書であり、この金一両4.5匁は京目と称した<ref name="名前なし-1">[[#Mikami1996|三上(1996), p29-30.]]</ref>。[[鎌倉時代]]後期頃より金一両は4.5匁、銀一両は4.3匁とする慣行が生まれ<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p78.]]</ref>、銀1両=4.3匁とする[[秤量銀貨]]の単位が用いられるようになったが<ref name="Kokushi1992-920銀目" />、[[江戸時代]]まで[[分銅]]の表記は「戔」であった。江戸時代の「匁」の用法は専ら銀目によるものが多い<ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p200-202.]]</ref><ref name="Kusama1815">[[#Kusama1815|草間(1815).]]</ref>。1765年に鋳造された[[五匁銀]]に「[[元文丁銀|文字銀]]五匁」と、通貨単位として初めて「匁」の文字が[[貨幣]]に入った<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p213-215.]]</ref><ref name="Sakurai1996">桜井信哉(1996)、「[[doi:10.20624/sehs.62.4_486|江戸時代における貨幣単位と重量単位 : 大黒作右衛門の「匁」の名目化=貨幣単位化意図を事例に]]」『社会経済史学』 1996年 62巻 4号 p.486-511,568, {{doi|10.20624/sehs.62.4_486}}。</ref><ref group="注釈">江戸時代初期鋳造と考えられている加賀花降銀は量目100匁だが、「百目」と表記されている。『日本貨幣収集事典』p81.</ref>。
1871年の[[新貨条例]]では日本量目の比較表では「戔」とされており、貨幣略図并品位量目表に「匁」の名が現れる<ref name="Zaiseishi1939-11">[[#Zaiseishi1939|明治大正財政史(1939), p11-12, 138-146.]]</ref>。1891年の度量衡法で法的に[[メートル法]]を基準とした「匁」が登場した<ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p358-359.]]</ref>。日本においても正規の名称は明治初期まで「銭」であった<ref name="Kokushi1992-920重量" />。
読み「もんめ」は、一[[文 (通貨単位)|文]]銭の質量であることから「文目」(もんめ)と呼んだことに由来する。「目」は、「[[秤]]の目」の意味から転じた、質量を意味する[[接尾辞]]で、「目方」と同じ意味である。「匁」の文字は「文」と「メ」を組み合わせたものであるとする説があり<ref name="KoKanwajiten1984" />、また「銭」の異字である「泉」の[[草書体]]に由来するともされる<ref name="Kokushi1992-920重量" /><ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p220, p345.]]</ref>。
漢字「匁」は本来「銭」の異体字<!-- 異体字(錢の古字)は「泉」 -->として中国で使用されていた字で日本の[[国字]]ではないとする見解もあるが<ref>[[#Sasahara2007|笹原(2007), p91.]]</ref>、字書類に載っていない上に日本で「もんめ」の漢字として本来の銭を圧倒して使われたために、しばしば国字の例としてあげられる。
=== もんめ(日本の計量法上の名称)===
匁は[[真珠]]の質量の単位として商取引上、国際的に使われているので、日本の[[計量法]]において、「真珠の質量の計量」にのみ使用することが認められている[[法定計量単位]]である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82 計量単位令別表第6] 項番4、「真珠の質量の計量、もんめ」</ref>。これは真珠が日本の特産品であったことによるものである。この場合の単位名は平仮名表記の「'''もんめ'''」であり、漢字表記の「匁」ではない。その単位記号は"mom"と定められている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#93 計量単位規則別表第4] 真珠の質量の計量、もんめ、mom</ref>。「もんめ」は英語などでは"momme"と綴られている。なお、[[国際単位系]]においては、「もんめ」の単位は認められていない。
=== 英語名 ===
英語では {{en|mace}}(メイス)と呼び、これは[[マレー語]]の {{lang|my|mas}} から[[オランダ語]]の {{nl|maes}} を経由した[[借用語]]である<ref>[https://www.oed.com/dictionary/mace_n3?tab=factsheet#38460728 mace NOUN3] OED Oxford English Dictionary, mace is of multiple origins. Either (i) a borrowing from Dutch. Or (ii) a borrowing from Malay., Etymons: Dutch maes; Malay mas.</ref>。マレー語の {{lang|my|mas}} はさらに、[[サンスクリット]]の {{lang|sa|māṣa}}(マーシャ)に由来し、これは[[インド]]の[[ベンガル地方]]の質量の単位[[マーシャ]] {{en|māsha}}(≒0.972 g)の語源でもある{{要出典|date=2023年8月}}。
[[香港英語]]では[[広東語]]由来の{{en|tsin}}<ref name="hk_law">{{cite web|title = Weights and Measures Ordinance |work = The Law of Hong Kong | url = http://www.legislation.gov.hk/blis_ind.nsf/e1bf50c09a33d3dc482564840019d2f4/4ed2ff0cf02f2fd9c82564760077af3c?OpenDocument | accessdate=2012-01-28}}</ref>、[[シンガポール英語]]では[[閩南語]]由来の{{en|chee}}<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=urNJAAAAIAAJ&pg=PA152&lpg=PA152&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=&f=false "Weights and Measures"] in ''The Miners' Pocket-book''.</ref>とも言う。
=== 桁の表現 ===
江戸時代の銀目において20匁以上のとき、10匁単位(10匁の[[整数]]倍)の場合には、匁の代わりに「目」(め)と呼ぶことがある<ref name="hanano" />。例えば30匁は三十目、300匁は三百目とも呼ぶ<ref name="Kokushi1992-920銀目" />。ただし、10匁単位でない場合はこの表現はせず、たとえば、27匁を27目のようには言わない。また、この「x十目」中の「十目」あるいは「百目」は10匁・100匁に等しい独立の単位ではなくあくまで10匁・100匁の別の表現なので、たとえば232匁を二百目三十二匁などとは言わない。
{{分数|10}}銭は[[分 (数)|分]](ふん)、{{分数|100}}銭は[[厘]](りん)、{{分数|1000}}銭は[[毛 (数)|毛]](もう)となる({{分数|10}}匁等についても同様)<ref name="Koizumi1974-345" />。この場合、[[割]]の用法と同じであり、基本単位「両」を十割として0.1割を1分、0.01割を1厘とするため、見かけ上は両の{{分数|100}}が1分、{{分数|1000}}が1厘となる。匁は1割に相当し、両の補助単位である。<!--ただし、分・厘・毛は単位ではなく[[小数]]の[[位取り記数法|桁]]の名であり、これらの表現の単位はあくまで匁である。したがって、たとえば「百二十五厘(125厘)」ではなく「一匁二分五厘(1匁2分5厘)」という。-->「分」を「ぶ」と読まず「ふん」と読むのは、[[小判|金貨]]の通貨単位である[[一分金|一分]](ぶ)との混同を避けるためである<ref group="注釈">銀貨の「分」との混同を避けるため、金一分を「一歩」と書いて区別する場合もある([[#Kusama1815|草間(1815).]])</ref>。これは質量の単位であるがゆえの例外であり、これに対したとえば{{分数|10}}[[寸]]の「分」は「ぶ」と読む<ref group="注釈">長さの基本単位は「尺」でありこれを十割として同様に0.1割が1分である。寸は尺の補助単位で1割に相当する</ref>。
== 中国(銭) ==
[[唐]]代の[[開元通宝]]10枚の質量が24銖すなわち1[[両]]に相当したことから、1枚あたりの質量を「銭」と呼ぶようになった<ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p220-222.]]</ref>。それ以来現在にいたるまで、10銭 = 1両の関係が保たれている。
ただし、開元通宝のような[[銭貨|鋳造銭]]は規定の質量があるとはいえ、鋳造による大小あり一様でないため貨幣そのものが分銅代わりになったわけではない<ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p255-256.]]</ref>。
現在の定義([[市制 (単位系)|市制]])では1銭=5 gである。
== 江戸時代の銀目 ==
{{Infobox Currency
| currency_name_in_local =
| image_1 = [[Image:Keichogin 1monme.png|120px]]
| iso_code =
| using_countries = {{JPN}}・[[江戸時代]]
| subunit_ratio_1 = 1/10
| subunit_name_1 = 分(ふん)
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| subunit_name_2 = 厘
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| no_plural =
| used_coins = [[丁銀]], [[豆板銀|小玉銀]]
| frequently_used_coins =
| rarely_used_coins =
| used_banknotes = [[藩札|銀札]], [[匁銭|銭匁札]]
| frequently_used_banknotes =
| rarely_used_banknotes =
| issuing_authority =
| mint = [[銀座 (歴史)|銀座]]
}}
[[File:1monme-gin&zeni.jpg|thumb|right|250px|概ね「銀一匁」相当の[[慶長丁銀|慶長豆板銀]](右: 3.768 g)および、ほぼ一戔(匁)の[[寛永通宝|寛永通寳]](左: 3.740 g)。古寛永、文銭、耳白銭などは一戔を基準に造られたが、実際には鋳造に伴う大小があり3.0 gを切るものから4.5 gを超えるものまである。]]
[[File:Fukuyama-han hansatu1730.JPG|right|120px|thumb|銀一匁札。[[備後福山藩]](享保15年)。]]
=== 秤量貨幣単位としての匁 ===
質量単位としての「銭」が日本に伝わり、日本では「文目」の意から「もんめ」とも呼ぶようになった。「匁」は主に金銀の量目の単位として使われ、[[江戸時代]]の[[丁銀]]・[[豆板銀|小玉銀]]は「匁」を単位とする目方通用の[[秤量貨幣]]であり、丁銀の方は[[包金銀|五百目包]]の形態として使用された<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p124.]]</ref>。この様な[[秤量銀貨]]の掛目(実測値)が通貨単位として使用され、商品の値段は必ず銀目で建てられた<ref name="Kokushi1984-697" />。1609年([[慶長]]14年)に[[小判|金]]1[[両]]=[[丁銀|銀]]50目(匁)、1700年([[元禄]]13年)に金1両=銀60目とする[[御定相場]]が公布されたが、実態は[[市場経済]]による変動相場であった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p123-124.]]</ref>。
1665年([[寛文]]5年)に度量衡の「衡」が統一され、[[両替商]]で用いられる[[分銅]]は[[後藤四郎兵衛]]家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p119.]]</ref>。この分銅は「両」を基本単位としており一両から三十両(または五十両)があり、その補助単位「匁」に相当する小分銅の単位表記は「戔」である。秤量銀貨の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことを指し<ref name="名前なし-1"/>、43匁は「銀一枚」と称し献上銀・被下銀は丁銀に小玉銀を掛け足して「枚包」とするのが江戸時代以前からの習慣であった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p125.]]</ref>。また小判の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から銀の単位は「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、掛目が伍両(5両)の[[丁銀]]は銀50匁(銀50目)と表した。
「銀一匁」の価値は丁銀の銀品位によって異なり、例えば目まぐるしい[[貨幣改鋳|改鋳]]が行われた[[宝永]]年間以降、数種の銀が混用された[[正徳 (日本)|正徳]]・[[享保]]年間では商品相場に銀の種別の相場が併記されることもあった<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p169-173.]]</ref>。例えば、享保3年11月頃(1718年)、[[肥後国|肥後]][[米]]1[[石 (単位)|石]]に付<ref>[[#Kusama1815|草間(1815), p822.]]</ref>
* [[慶長丁銀|慶長銀]]・[[享保丁銀|新銀]]にては、米1石 代33匁
* [[元禄丁銀|元禄銀]]にては、同 代41匁2分5厘
* [[宝永二ツ宝丁銀|宝永銀]]にては、同 代52匁8分
* [[宝永永字丁銀|永中銀]]にては、同 代66匁
* [[宝永三ツ宝丁銀|三ツ宝銀]]にては、同 代82匁5分
* [[宝永四ツ宝丁銀|四ツ宝銀]]にては、同 代133匁〔[[ママ_(引用)|ママ]]〕
=== 匁の名目化 ===
日本において金貨の貨幣単位として認識されている「両」は「両目(量目、りょうめ)」というように本来質量の基本単位であり、金一両は量目1両分の金が基準にあったが、度重なる改鋳により時代の変遷とともに金一両は1両分の金から乖離して次第に名目化が進行し、[[イギリス]]の[[スターリング・ポンド|ポンド]]も同様に貨幣単位と質量単位が乖離していったのであったが<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p30.]]</ref>、「匁」については[[慶長]]から[[安政]]に至るまで江戸時代を通して銀貨の掛目<ref group="注釈">天秤による質量の実測値。両替屋の天秤は主に丁銀・小玉銀の質量を計る目的のものである。</ref>として維持され独立した貨幣単位としての名目化はなかったとの見方もある<ref name="Sakurai1996" />。一方で、「銀一匁」は銀そのものの含有量一匁ではなく、それも改鋳による品位低下の度に名目化の度合いを高めたとする見方もある<ref name="Kokushi1992-920銀目" />。すなわち「匁」は銀の重量でなく、「貨幣の単位」であったというべきである<ref name="Kokushi1992-920銀目" />。
[[藩札|銀札]]は本来銀の預り証であり、引替え用銀準備の下、つまり額面と等価の丁銀への[[兌換券|兌換]]を前提に発行される名目であったが、実際には災害など藩の財政逼迫の度に多発されることが多く、正銀の額面としての銀の掛目と藩札の額面との間に乖離が生じるのが普通であった。[[宝永]]4年10月(1707年)に幕府は一旦、銀札発行を禁じ、流通している銀札を50日以内にすべて正銀(丁銀・小玉銀)に引き替えるよう命じたが、例えば[[紀伊田辺藩|紀伊田辺]]においては銀札一貫目は正銀二百匁に替えると布告される始末であった(『田辺旧事記』)<ref>[[#Earthquake Research Institute (1983b)|『新収 日本地震史料 第三巻 別巻』, p316.]]</ref>。
また、特に江戸代後半はしばしば丁銀が払底し、代わりに[[匁銭]]勘定が行われるなどの名目化もあった<ref>{{Cite journal|和書|author=鹿野嘉昭 |date=2009-07 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012474 |title=銭匁勘定と銭遣い : 江戸期幣制の特色を再検討する |journal=經濟學論叢 |ISSN=0387-3021 |publisher=同志社大學經濟學會 |volume=61 |issue=1 |pages=19-60 |doi=10.14988/pa.2017.0000012474 |naid=110008613809 |CRID=1390572174867023872}}</ref>。さらに、[[南鐐二朱銀]]など計数銀貨が台頭し始めた[[文政]]3年(1820年)には「四十三匁銀」と「五十目銀」と呼ばれる名目貨幣鋳造が提言されたこともあった。これらは「五匁銀」とは異なり額面通りの量目は無く、[[シニョリッジ|出目]]獲得を目的とした額面としての「匁」の名目化を狙ったものであったが実現には至らなかった。これ以降「匁」は、あたかも質量単位であり貨幣単位として名目化することは無かったかのような印象を後世に与えるようになったと思われる<ref name="Sakurai1996" />。また、[[丹波国|丹波]][[福知山藩]]でも幕末に30匁の1/9程度の量目12.3 g(3.3匁)の「銀三拾匁」、およびさらにその半量の「銀拾五匁」を[[試鋳貨幣|試鋳]]している<ref>東京大学経済学部, [https://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/_old/kokahei/kokahei-j.html 経済学研究科所蔵の古貨幣コレクション]</ref>。幕末に[[徳島藩]]は阿州通寳「拾匁銀札」や「壹匁銅札」の銅貨、[[土佐藩]]は土佐官券「十匁」などの銅貨を試鋳しているが、何れも貨幣の量目(質量)とは無関係である<ref name=Ishihara2003-170>[[#Ishihara2003|石原(2003), p170-187.]]</ref>。
=== 銀目廃止 ===
慶應4年/明治元年5月9日(1868年6月28日)の布告により、貨幣単位としての銀目は使用が停止され([[銀目廃止令]])<ref name="Kokushi1992-920銀目" /><ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p464-465.]]</ref><ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p159.]]</ref>、直前に銀相場は暴落しこの日の大坂における仕舞相場である金1両=銀219匁4分9厘<ref group="注釈">『新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇』は「二百"九十"匁四分九厘」と記しているなど誤植による異同がある。</ref>は銀目廃止時の銀手形を金手形に直す場合の標準両替相場となった。これを以て江戸時代の金銀相場は終結した<ref name="Kokushi1984-697" /><ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p260-261.]]</ref>。正貨である丁銀・小玉銀(五匁銀も含む)については、慶長銀1貫目は金89両、[[安政丁銀|政字銀]]は1貫目は金12両3分3朱に換算されて引換えられ、その他の品位の銀も含有量に応じて引換え価格が提示された(明治元年十月十日太政官達)<ref>[[#Zaiseishi1905|明治財政史(1905), p317-319.]]</ref>。銀目廃止の直前に、銀目手形所持者の多くが廃止に伴い銀目手形が無効になると誤解し正貨との交換を求めて[[両替商]]に殺到する[[取り付け騒ぎ]]となったため、大多数の両替商が支払不能となり閉店に追い込まれ、江戸時代に高度に発達した信用組織は壊滅的打撃を被った<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p154-155.]]</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=鹿野嘉昭 |title=いわゆる銀目廃止について (岩橋勝教授記念号) |journal=松山大学論集 |ISSN=0916-3298 |publisher=松山大学総合研究所 |year=2012 |month=oct |volume=24 |issue=4-2 |pages=221-246 |naid=110009632143 |url=https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/records/1719 |crid=1050001338457913088}}</ref>。正貨である丁銀・小玉銀の両・分・朱単位の貨幣による引換えは明治7年(1874年)9月に終了し、その後は丁銀・小玉銀は貨幣としての機能を失い、新貨(円・銭・厘)による交換は認められず、地金として取り扱われた。
=== 江戸時代の匁 ===
[[画像:Morioka8monme.jpg|thumb|right|240px|盛岡八匁銀判。幕末の地方貨幣であり、量目は正味8匁(約30 g)ある。銀八匁ではなく、[[一朱銀]]16枚の量目に合わせて金一両として通用させる試みであったが、[[一分銀]]4枚の量目には足らなかったため、実際には一両で通用したかは不明である。]]
この当時の目方の単位としての1匁は、分銅や定位貨幣を実測して推定すると、現在のメートル法を基準とした3.75 gよりやや小さく、近世を通じた平均値で3.736 gであり、江戸時代終盤にやや増加して3.75 gを超えた{{sfn|Iwata1979}}。[[狩谷棭斎]]は、「[[清]]の人が持ってくる分銅を日本のものと計り比べても[[厘]][[毛 (数)|毫]]の違いも無い。」また[[明]]、[[宋 (王朝)|宋]][[元 (王朝)|元]]、[[唐]]の衡(1銭=3.73 g)から変化していないと述べている<ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p355-356.]]</ref>。貨幣の量目から、後藤家の分銅も中国の分銅を原器として模倣したものと推定され、江戸時代の1匁は3.73 gと見積られる<ref name="hanano" />。
銀目以外の「匁」の用法として、[[金座]]において金銀地金などの量目を表す場合に用い<ref>[[#Nishiwaki2001|西脇(2001).]]</ref>、金貨の品位は44匁の純金に銀を加えて全体の量目を76匁7分とした場合の品位(44/76.7 = 573.7/1000)は「七十六匁七分位」と表現された<ref name="Taya">{{Cite journal|和書|author=田谷博吉 |title=江戸時代貨幣表の再検討 |journal=社会経済史学 |ISSN=0038-0113 |publisher=社会経済史学会 |year=1973 |month=10 |volume=39 |issue=3 |pages=261-279 |naid=110001215475 |doi=10.20624/sehs.39.3_261 |url=https://doi.org/10.20624/sehs.39.3_261}} p.23-24 より</ref><ref>青山(1982), p89.</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p66-68.]]</ref>。また、各地金山・銀山からの産出量や[[運上]]高なども「貫」や「匁」で表される。これに対し、鉄や鉛などの卑金属、銅山から産出される銅地金の重量は「斤」の単位が用いられた<ref>[[#Kobata1999|小葉田(1999), p84-87.]]</ref>。
[[秋田封銀]]や[[秋田銀判]]、[[盛岡銀判]]など、幕末期の[[地方貨幣]]の「匁」表示の銀貨は正味の量目を表し、秤量銀貨の銀目を意味するものではなく、[[一分銀]]や[[一朱銀]]の量目に合わせて二分や一両などの通用価値を定めたものである<ref name=Ishihara2003-170 />。
== 日本(銭・匁) ==
明治に入り、[[銭]]は[[円 (通貨)|圓(円)]]の{{分数|100}}の[[補助貨幣]]の単位として使用することとなったため、明治4年(1871年)の[[新貨条例]]では質量の単位には戔(匁)が単位換算表や貨幣の量目表に現れ(ただし、第二次大戦前までは銭も併用されていた)、1戔(1匁)=約{{val|3.756521|u=g}}(86.4/23 g)と定められた<ref name="Zaiseishi1939-11" />。その後、単位換算の便宜を図るため、1891年(明治24年)の[[度量衡法]]により、1貫 = 正確に{{分数|15|4}} [[キログラム|kg]]、すなわち3.75 kgと定められ、匁は貫の{{分数|1000}}と規定されたので、正確に 1匁 = 3.75 g となった。貨幣の量目に「匁」が公式に採用されたのは明治30年(1897年)の[[貨幣法]]からであり、「匁」単位は昭和8年(1933年)にメートル法表記に変更されるまで用いられた<ref name="Hisamitsu1976-201">[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p201-207.]]</ref>。
日本の[[計量法]]における扱いは、[[匁#もんめ(日本の計量法上の名称)]]のとおりである。なお、匁の1000倍である「[[貫]]」( = 正確に3.75 kg)は、非[[計量法#法定計量単位|法定計量単位]]であり、「[[真珠]]の質量の計量」の場合であっても商取引における使用が禁じられている。
量目が匁表記となった貨幣法では、大正5年(1916年)の貨幣法改正において[[日本の補助貨幣|補助貨幣]]である1銭青銅貨の量目が「一匁」と規定され(大正5年2月24日法律第8号)、大正9年(1920年)の改正では10銭白銅貨の量目が「一匁」と規定された(大正9年7月27日法律第5号)<ref name="Hisamitsu1976-201" />。現在の日本の[[五円硬貨]]の質量は[[政令]](昭和24年8月1日政令第290号・昭和34年6月1日政令第209号)で3.75 gと規定され、ちょうど1匁に相当する。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff"
|-
! colspan="2"| 法令で量目が一匁と規定された補助貨幣
|-
|| [[Image:1sen-T5.jpg|200px]]<br />大正5年改正1銭青銅貨幣
|| [[Image:10sen-T9.jpg|200px]]<br />大正9年改正10銭白銅貨幣
|}
=== 匁の質量の変遷 ===
明治期以降に、従来の匁(または戔<ref group="注釈">明治4年5月10日(1871年6月27日)太政官布告第267では、「銭」の異体字である「戔」を用いている。</ref>)の質量の値はメートル法によるグラムに関係づけられたが、その経緯は次の通りである。
* 明治4年5月10日(1871年6月27日)太政官布告第267:[[新貨条例]]中、1戔={{val|3.756574|u=g}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951 明治四年法令全書] 明治4年5月10日 太政官布告第267(新貨條例)、コマ番号151/514、p.229、日本量目、一戔、三七五六.五七四ミリガラム 三.七五六五七四ガラム
</ref>。 この値は、法規分類大全第1編 政体門 制度雑款3 貨幣紙幣附貨幣1 に載せられている<ref>[[#Koizumi1961|小泉(1961), p.50]]</ref>。
* 明治4年9月13日(1871年10月26日)太政官布告第462:1戔={{val|3.756521|u=g}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951 明治四年法令全書] 明治4年9月13日 太政官布告第462号、コマ番号210/514、p.346、「違算ノ廉及ヒ衍文モ有之ニ付左ノ通更正相加ヘ候事」、日本量目ガラム「ゲレイン」比較表ノ内 ガラム、三七五六五七四 → (最後の2桁が)二一 と訂正されている。</ref> 上記の明治4年5月10日太政官布告第267中の値が訂正された<ref>[[#Koizumi1961|小泉(1961), pp.50-51]]</ref>。
* 明治24年(1891年)3月8日法律第3号公布、明治26年(1993年)1月1日施行 [[度量衡法]] 1匁={{val|3.75000|u=g}} <ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787984 法令全書.明治24年] 法律 p.2 コマ番号9/609 「第二條 度量衡ノ原器ハ(中略)分銅トス(中略)分銅ノ質量四分ノ十五ヲ貫トス」、p.6 コマ番号11/609 「第五條 匁 三.七五000グラム」、国立国会図書館デジタルコレクション</ref><ref>[[#Koizumi1961|小泉(1961), pp.65-66]]</ref>
== 朝鮮 ==
[[大韓帝国]]時代の1902年に伝統的な単位とメートル法との対応が規定されたが、1909年には日本式の度量衡法が定められ、このときに日本の「匁・貫」ももたらされた。ただし匁の読みは朝鮮語で銭を意味する「ドン({{ko|돈}})」であった。したがって1ドンは3.75 gにあたる。
1964年に度量衡はメートル法に統一されたが、貴金属や漢方薬の計量において慣用的に使われている。
== 香港・マカオ(銭) ==
[[香港]]では、1884年の[[香港法例]]第22条で{{分数|2|15}}[[オンス]](約{{val|3.779936|u=g}})と定められた。現在は[[メートル法]]へ換算して丸めた{{val|3.77994|u=g}}とされ<ref name="hongkong">[http://www.legislation.gov.hk/blis_ind.nsf/CurAllChinDoc/99EF44042E59B61B482564AF000FABFB?OpenDocument 度量衡令 付表]</ref>、[[漢方薬]]の処方などで使われている。
一方、[[貴金属]]取引には金衡錢 ({{en|mace troy}}) が使われていて3.7429 gとされている<ref name="hongkong"/>(「金衡」とはトロイオンスなどの「トロイ」の訳語だが、金衡錢自体はトロイオンスとは関係ない)。
[[マカオ]]も香港と同様である。
== 東南アジア ==
東南アジアのいくつかの国では、銭に当たる単位が現地語の単位名称で呼ばれている。名前は違うが、いずれも、両に当たる単位の{{分数|10}}である。
[[シンガポール]]では、チー ({{lang|ms|chee}}) = {{分数|10}}タヒル ({{lang|ms|tahil}}) ≒ 3.78 gで{{sfn|単位の辞典}}<ref>[http://agcvldb4.agc.gov.sg/non_version/cgi-bin/cgi_retrieve.pl?actno=1976-REVED-349&doctitle=WEIGHTS%20AND%20MEASURES%20ACT%0A&date=latest&method=part&sl=1&segid=888373245-001666 WEIGHTS AND MEASURES ACT (CHAPTER 349) THIRD SCHEDULE Section 40 CUSTOMARY WEIGHTS]</ref>、香港の銭とほぼ同じである。
[[マレーシア]]も、シンガポールと同様である。
[[インドネシア]]では、チー ({{lang|id|ci}}) = {{分数|10}}テール ≒ 3.86 gである{{sfn|単位の辞典}}。
[[フィリピン]]では、マース ({{es|mas}}) = {{分数|10}}テール ≒ 3.622 gである{{sfn|単位の辞典}}。
== 換算一覧 ==
一部は概数。
{| class="wikitable"
! 単位 !! グラム !! 両 !! 斤 !! その他 !! 国・地域
|-
| 銭([[市制 (単位系)|市制]]) || 5 g || {{分数|10}}両 || {{分数|100}}斤 || || {{CHN}}
|-
| rowspan="2" | チー ({{lang|id|ci}}) || 3.86 g || {{分数|10}}テール || || || {{IDN}}
|-
| 3.78 g || {{分数|10}}タヒル || {{分数|160}}カティ || rowspan="2" | {{分数|2|15}}オンス || {{SIN}}<br/>{{MYS}}
|-
| 銭 ({{en|tsin}}) || 3.77994 g || rowspan="4" | {{分数|10}}両 || rowspan="4" | {{分数|160}}斤 || {{HKG}}<br/>{{MAC}}
|-
| 戔(匁) || 3.75652 g || rowspan="2" | {{分数|1000}}貫 || 日本 (1871)
|-
| 匁 || rowspan="2" | 3.75 g || {{JPN}} (1891-)
|-
| 銭([[台制]]) || || {{TWN}}
|-
| 金衡銭 || 3.7429 g || {{分数|10}}金衡両 || || || {{HKG}}
|-
| 銭(旧制) || 3.7301 g || rowspan="2" | {{分数|10}}両 || rowspan="2" | {{分数|160}}斤 || || 中国(–1929)
|-
| 戔(匁) || 3.73 g || {{分数|1000}}貫 || 日本 (江戸時代)
|-
| マース ({{es|mas}}) || 3.622 g || {{分数|10}}テール || || || {{PHI}}
|-
| 銭([[市制 (単位系)|市制]]) || 3.125 g || {{分数|10}}両 || {{分数|160}}斤 || || 中国(1929–59)
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典を列挙して下さい。) -->
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin= B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=石原幸一郎 |title=日本貨幣収集事典 |edition= |series= |volume= |publisher=原点社 |date=2003 |isbn= |ref=Ishihara2003}}
* {{Cite journal|和書|author=岩田重雄 |title=近世における質量標準の変化 |journal=計量史研究 |publisher=日本計量史学会 |year=1979 |volume=1 |issue=1 |pages=5-9 |naid=110002345649 |id={{NDLJP|10631741}} |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10631741 |ref={{harvid|Iwata1979}}}}
* {{Cite book|和書|author=草間直方 |title=三貨図彙 |edition= |series= |volume= |publisher= |date=1815 |isbn= |ref=Kusama1815}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳 |title=貨幣と鉱山 |edition= |series= |volume= |publisher=[[思文閣出版]] |date=1999 |isbn= 978-4-7842-1004-6 |ref=Kobata1999}}
* {{Cite book|和書|author=小泉袈裟勝|authorlink=小泉袈裟勝 |title=度量衡の歴史 |publisher= コロナ社 |date=1961-05-30 |isbn= |ref=Koizumi1961}}
* {{Cite book|和書|author=小泉袈裟勝 |title=歴史の中の単位 |publisher= 総合科学出版 |date=1974 |isbn= |ref=Koizumi1974}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author=西脇康 校訂・補編 |title=対読 吾職秘鑑 -小判師坂倉九郎次の秘録- |publisher=書信館出版 |date=2001 |isbn= 4-901553-03-8 |ref=Nishiwaki2001}}
* {{Cite book|和書|author=笹原宏之|authorlink=笹原宏之 |title=国字の位相と展開 |publisher=[[三省堂]] |date=2007 |isbn= 978-4-385-36263-2 |ref=Sasahara2007}}
* {{Cite book|和書|author1=瀧澤武雄|authorlink1=滝沢武雄|author2=西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn= 4-490-20353-5 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|editor=二村隆夫 監修 |title=丸善 単位の辞典 |edition= |series= |volume= |publisher=[[丸善雄松堂|丸善]] |date=2002 |ref={{harvid|単位の辞典}}}}
* {{Cite book|和書|editor=国史大辞典編集委員会 |title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]4巻 |edition= |series= |volume= |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1984 |ref=Kokushi1984}}
* {{Cite book|和書|editor=国史大辞典編集委員会 |title=国史大辞典13巻 |edition= |series= |volume= |publisher=吉川弘文館 |date=1992 |ref=Kokushi1992}}
* {{Cite book|和書|editor=明治財政史編纂会 |title=明治財政史(第11巻)通貨 |edition= |series= |volume= |publisher=明治財政史発行所 |date=1905 |isbn= |ref=Zaiseishi1905}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993256 近代デジタルライブラリー]
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省編纂室 |title=明治大正財政史(第13巻)通貨・預金部資金 |edition= |series= |volume= |publisher=大蔵省 |date=1939 |isbn= |ref=Zaiseishi1939}}
* {{Cite book|和書|editor=新村出|editor-link=新村出 |title=[[広辞苑]] 第5版 |edition= |series= |volume= |publisher=[[岩波書店]] |date=1998 |ref=Kojien1998}}
* {{Cite book|和書|editor=諸橋轍次・鎌田正・米山寅太郎 |title=廣漢和辞典 上巻 |edition= |series= |volume= |publisher=[[大修館書店]] |date=1984 |ref=KoKanwajiten1984}}
* {{Cite book|和書|editor=江戸本両替仲間編、三井高維校註 |title=校註 両替年代記 原編 |edition= |series= |volume= |publisher=岩波書店 |date=1932 |ref=RyogaeNendaiki-0}}
* {{Cite book|和書|editor=三井高維 |title=新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇 |edition= |series= |volume= |publisher=岩波書店 |date=1933 |ref=RyogaeNendaiki-2}}
* {{Cite book|和書|editor=東京大学地震研究所 |title=新収 日本地震史料 第三巻 別巻 宝永四年十月四日 |publisher=日本電気協会 |date=1983 |isbn= |ref=Earthquake Research Institute (1983b)}}
== 外部リンク ==
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E5%8C%81%E3%81%AE%E9%87%8D%E3%81%95%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ 匁(質量)単位換算表]
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
* [[単位の換算一覧]]
* [[はないちもんめ]] -- 「花一匁」の意味
* [[匁銭]]
{{質量の単位}}
{{尺貫法の単位}}
{{江戸時代の貨幣}}
{{DEFAULTSORT:もんめ}}
[[Category:尺貫法]]
[[Category:質量の単位]]
[[Category:真珠]]
[[Category:和製漢字]]
[[Category:通貨単位]]
[[Category:流通していない通貨]]
|
2003-06-14T16:00:19Z
|
2023-12-14T14:28:27Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%81
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10,029 |
渡辺祥智
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渡辺 祥智(わたなべ よしとも、1976年6月25日 - )は、日本の女性漫画家。新潟県出身。かに座。血液型はB型。
ジャンルは主にファンタジーを得意とし、丸ペンなどによる繊細な画風や、愛らしい絵が特徴。代表作は、『銀の勇者』、『その向こうの向こう側』など。
以下、掲載・発売時期が古いものから順に、下に行くほど最新作。
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渡辺 祥智は、日本の女性漫画家。新潟県出身。かに座。血液型はB型。 ジャンルは主にファンタジーを得意とし、丸ペンなどによる繊細な画風や、愛らしい絵が特徴。代表作は、『銀の勇者』、『その向こうの向こう側』など。
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{{Infobox 漫画家
|名前 = 渡辺 祥智
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|脚注 =
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|生年 = {{生年月日と年齢|1976|6|25}}
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|受賞 = ・1994年 第29回LMS賞トップ賞<br />・1996年 第10回LMG賞ゴールドデビュー賞
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|公式サイト =
}}
'''渡辺 祥智'''(わたなべ よしとも、[[1976年]][[6月25日]] - )は、[[日本]]の女性[[漫画家]]。[[新潟県]]出身<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://www.hakusensha.co.jp/artist/profile.php?artistname=%93n%95%D3%8F%CB%92q&artistname2=%82%ED%82%BD%82%C8%82%D7%82%E6%82%B5%82%C6%82%E0&keyword=%82%ED&home=%90V%8A%83%8C%A7&birthday=6%8C%8E25%93%FA&bloodtype=%82a%8C%5E&debut=1996%94N%81u%83%89%83%89DX%81v1%8C%8E10%93%FA%8D%86%81w%82%AF%82%CF%82%AF%82%CF%81x|title=白泉社 作家データベース 渡辺祥智|publisher=白泉社 |accessdate=2017-12-01}}</ref>。[[巨蟹宮|かに座]]。[[ABO式血液型|血液型]]はB型<ref name="profile"/>。
ジャンルは主に[[ファンタジー]]を得意とし、[[丸ペン]]などによる繊細な画風や、愛らしい絵が特徴。代表作は、『[[銀の勇者]]』、『[[その向こうの向こう側]]』など。
== 略歴 ==
* 1994年 - 「MORPHEUS」(『[[LaLa DX]]』([[白泉社]])7月号掲載)で第29回LMSトップ賞を受賞。
* 1996年 - 「けぱけぱ」(『LaLa DX』1月号掲載)で第10回LMGゴールドデビュー賞を受賞しデビュー。
* 1997年 - 『[[LaLa]]』(白泉社)8月号に「[[銀の勇者]]」を掲載。翌年『LaLa』2月号より連載開始。
* 2000年 - 『LaLa』10月号より「[[funfun工房]]」を連載開始。
* 2003年 - 『LaLa』3月号より「[[坂本係]]」を連載開始。「坂本係」連載終了後は白泉社を離れ、『[[月刊コミックブレイド]]』([[マッグガーデン]])2003年9月号より「[[その向こうの向こう側]]」を連載開始。
* 2007年 - 『[[コミックブレイドZEBEL]]』(マッグガーデン)vol.1より「[[からっと!]]」を連載開始。
* 2008年 - 『[[コミックブレイドBROWNIE]]』(マッグガーデン)創刊号に「[[docca]]」を掲載<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/11905|title=男の子も。女の子も。コミックブレイド BROWNIE創刊|publisher=コミックナタリー|date=2008-12-10|accessdate=2016-10-02}}</ref>。
* 2013年 - 『[[月刊コミックアヴァルス]]』(マッグガーデン)4月号より「ひゃくイチ」を連載開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/86720|title=渡辺祥智の新連載は、御曹司が友達100人目指すコメディ|publisher=コミックナタリー|date=2013-03-15|accessdate=2016-10-02}}</ref>。
* 2014年 - 『月刊コミックアヴァルス』7月号より「ヒナ★ドーリィこれくしょん」を連載開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/118829|title=鈴木有布子、音大生と男子中学生描く新連載「ひとふれ」|publisher=コミックナタリー|date=2014-06-13|accessdate=2016-10-02}}</ref>
* 2014年 - 『花丸漫画』(白泉社)vol.3より「メロディアス!」を連載開始。
* 2016年 - 『花丸漫画』vol.8より「魔法使いの騎士」を連載開始。
== 人物 ==
* 漫画家になろうと思ったことは実は一度もなく、「[[小説]]に[[挿絵]]を描く人になりたい」と思っていた時、どうすればなれるものか分からず、とりあえず漫画なら漫画雑誌に投稿できる、ということで、その時姉がたまたま買っていた雑誌が『LaLa』だったため、試しに描いて送ってみたところ、それが編集者の目に留まり、漫画家デビューへのきっかけになったと語る<ref name="manganomori1">『[[まんがの森]]』vol.93より本人談</ref>。
* 小学生の頃は[[ファッションデザイナー]]か洋服屋が夢だった<ref name="gin1">『銀の勇者』コミックスより本人談</ref>。
* 「子供」と「老人」を描くのが得意で、「青年」などを描くのは苦手という<ref name="gin1" />。彩色には[[ホルベイン工業|HOLBEIN]]の赤・青・黄・茶、[[ドクターマーチン]]、[[水彩絵の具]]、[[コピック]]を使用。他に[[お茶]]や[[マニキュア]]など使えそうだと思った物は使うという<ref name="manganomori1" />。
* 兄と姉がいる<ref name="manganomori1" />。
* [[コンピュータゲーム|ゲーム]]が好き。自身の作風のせいで「[[ロールプレイングゲーム|RPG]]好き」だと思われがちだが、実際はRPGは面倒臭くて滅多にやらない。好きなゲームはアクション、シューティング、パズル系。中でも「感動して泣いた」と語るほどの一番のお気に入りが『[[風のクロノア]]』<ref name="gin1" />。
* 『[[アンジェリーク]]』のプレイレポートを描く際、RPGがあまり好きでないにも関わらず、ストーリーの先が気になり、睡眠もろくに取らず一気にエンディングまで行ってしまい、その後コントローラーを握ったまま気を失った<ref>アンジェリーク プレイレポート本文より</ref>。
* 鳥が好きで昔[[インコ]]を飼っていた。古くは『プチ』という名のインコ<ref name="gin1" />。2001年頃は真っ白な♂の[[オカメインコ]](名前は『[[アベル (曖昧さ回避)|アベル]]』)を飼っていた<ref>[http://www.hakusensha.co.jp/comicate/comi_no55/okiniiri/watanabe.html コミケイト No.55 渡辺センセーのお気に入り]より本人談</ref>。また、[[猫]]好きでもあり<ref name="comicate56">[http://www.hakusensha.co.jp/comicate/comi_no56/lala25/sk09.html コミケイト No.56 LaLa25周年 渡辺祥智]より本人談</ref>、猫も飼っていた。[[鳥類|鳥]]や[[天使]]など、とにかく「羽根モノ」が大好きらしく<ref name="gin1" />、そのため彼女の作品には「羽根」や「猫」をモチーフにしたものが多く見られる。
* 風変わりでエキセントリックな男性に惹かれる傾向にあるらしく、自身の作品キャラの中では「けぱけぱ様」(奇抜でマイペースな神様)、「カイト」(銀の勇者・ビートの兄)がお気に入り<ref name="gin1" />。
* 好きなアニメ・漫画作品は、『[[みかん・絵日記]]』<ref name="comicate56" />、『[[魔動王グランゾート]]』、『[[ぼのぼの]]』、『[[ときめきトゥナイト]]』、『[[キャプテン翼]]』、『[[スラムダンク]]』など<ref name="manganomori1" />。
* 小説はかなり読むらしく、高校の頃は小説ばかり読んでいた。[[宮澤賢治]]、[[星新一]]、[[コバルト文庫]]、[[角川スニーカー文庫]]などを読んでいた。[[辞典]]を眺めるのも好きだったという。他に[[江國香織]]の『ぼくの小鳥ちゃん』など<ref name="manganomori1" />。
== 作品リスト ==
以下、掲載・発売時期が古いものから順に、下に行くほど最新作。
=== コミックス ===
* 『[[銀の勇者]]』[[白泉社]]〈[[花とゆめコミックス]]〉1998年 - 2000年、全5巻
* 『[[funfun工房]](ファンファン・ファクトリー)』白泉社〈花とゆめコミックス〉2001年 - 2003年、全4巻
* 『[[その向こうの向こう側]]』[[マッグガーデン]]〈ブレイドコミックス〉2004年 - 2008年、全6巻
* 『[[からっと!]]』マッグガーデン〈ブレイドコミックス〉2007年 - 2010年、全2巻
* 「猫と魔女が集う場所」マッグガーデン、2008年、『[[猫あんそろじー]]』に収録
* 『[[docca]]』マッグガーデン〈アヴァルスコミックス〉2010年 - 2012年、全3巻
* 『ひゃくイチ』マッグガーデン〈アヴァルスコミックス〉2014年、全2巻
* 『ヒナ★ドーリィこれくしょん』マッグガーデン〈アヴァルスコミックス〉2014年、全1巻
* 『オオカミ天使(エンジェル)の華麗な矛盾』マッグガーデン〈uvuコミックス〉2015年、全1巻
* 『[[坂本係]]』白泉社〈花丸コミックス・プレミアム〉2015年、全1巻
* 『魔法使いの騎士』白泉社〈花丸コミックス・プレミアム〉2017年 - 、既刊2巻(2018年8月現在)
=== 読み切り作品 ===
* けぱけぱ
* カムカリゾート計画
* 秘密色の毛並み
* お犬騒動
* 東西通信管理局 ~DEAR MY MOTHER~
* ホーリー・クラウン
* メディスン・ホイール(1・2)
=== コミックス未収録作品 ===
* MORPHEUS(「LaLaDX」1994年7月号)
* [[アンジェリーク]] プレイレポート(「月刊LaLa」1999年3月号)
* [[アンジェリーク 天空の鎮魂歌]] プレイレポート(「月刊LaLa」1999年4月号)
* funfunマジカル絵本(「月刊LaLa」2002年3月号付録。フルカラー)
=== CD ===
* ドラマCD 銀の勇者 ※廃盤、または絶版
* その向こうの向こう側 第2巻 初回限定版特典 オリジナルドラマCD
* その向こうの向こう側 イメージボーカルトラックス
* ドラマCD からっと! (「月刊コミックブレイドアヴァルス」誌上通販限定品)
=== DVD ===
* [[月刊コミックブレイド#デジタルコミックブレイド|デジタルコミックブレイド]](『その向こうの向こう側』のショート・アニメーション収録)
=== 画集 ===
* KIRARA 渡辺祥智画集(マッグガーデン、2005年)
=== その他 ===
* [[東北電力]]「エコアイス」の[[マスコットキャラクター]]『[[アイスちゃん]]』
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references/></div>
== 外部リンク ==
* [http://www.mag-garden.co.jp/comic-blade/avarus/top.html 月刊コミックブレイドアヴァルス avarus OFFICIAL WEB SITE]
* [http://comich.net/cr/wa/watanabe_yoshitomo.html コミックホームズ 渡辺祥智(白泉社 作品データベース)]
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10,030 |
フクシマハルカ
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フクシマ ハルカ(4月12日 - )は、日本の漫画家。岡山県真庭市(旧真庭郡落合町)出身。
作陽短期大学卒業後、漫画専門学校に進む。 1999年(平成11年)、「さくらんぼ☆キッス」(なかよし増刊なつやすみランド、講談社)で活動を開始し、『おとなにナッツ』、『チェリージュース』などを執筆。2007年(平成19年)、ドイツ最大のアニメイベント「AnimagiC」でサイン会を開く。影響を受けた漫画として『うる星やつら』(高橋留美子)を挙げる。
東日本大震災被災者支援のチャリティ同人誌「pray for Japan」に描き下ろし漫画を執筆した。
2013年11月より、吉備川上ふれあい漫画美術館にて原画展を開催する。
リンクのある作品はそれを参照。
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フクシマ ハルカは、日本の漫画家。岡山県真庭市(旧真庭郡落合町)出身。
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{{JIS2004}}
'''フクシマ ハルカ'''([[4月12日]]<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/fukusima.html|title=プロフィール|work=デジなか-まんが家情報|publisher=講談社|accessdate=2010-02-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120531163419/http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/fukusima.html|archivedate=2012年5月31日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[岡山県]][[真庭市]](旧真庭郡落合町)出身<ref name=takahashicity20131021 />。
== 来歴 ==
[[作陽短期大学]]卒業後、漫画専門学校に進む<ref name=takahashicity20131021 />。
[[1999年]](平成11年)、「さくらんぼ☆キッス」(なかよし増刊なつやすみランド、[[講談社]])で活動を開始し、『[[おとなにナッツ]]』、『[[チェリージュース]]』などを執筆<ref name="profile" />。[[2007年]](平成19年)、[[ドイツ]]最大のアニメイベント「AnimagiC」でサイン会を開く。影響を受けた漫画として『[[うる星やつら]]』([[高橋留美子]])を挙げる<ref name="profile" />。
[[東日本大震災]]被災者支援のチャリティ同人誌[[東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」|「pray for Japan」]]に描き下ろし漫画を執筆した。
2013年11月より、[[吉備川上ふれあい漫画美術館]]にて原画展を開催する<ref name=takahashicity20131021>{{Cite web|和書|url=http://www.city.takahashi.okayama.jp/site/manga/fukushima.html |title=フクシマハルカ~初恋少年少女原画展~ |publisher=[[高梁市]]役所 |date=2013-10-21|accessdate=2013-11-30}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013113010161699/ |title=少女漫画の世界触れて 高梁でフクシマさん原画展 |publisher=[[山陽新聞社]] |date=2013-11-30|accessdate=2013-11-30}}</ref>。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
* [[おとなにナッツ]](『[[なかよし]]』2000年6月号 - 2002年1月号)
** [[おとなにナッツ#おとなにナッツ2|おとなにナッツー]](『[[なかよしラブリー]]』2008年秋の号 - 2009年春の号)
* [[ビビってむーちょ|ビビってむーちょ{{JIS2004フォント|♥}}]](『なかよし』2002年2月号 - 9月号)
* [[アイがなくちゃね!]](『なかよし』2003年2月号 - 7月号)
* [[けだものだもの]] (『なかよしラブリー』2003年秋の号 - 2007年夏の号)
* [[チェリージュース]](『なかよし』2004年7月号 - 2006年2月号)
* [[オレンジ・プラネット]](『なかよし』2006年3月号 - 2007年12月号)
* [[AAA (漫画)|AAA]](『なかよし』2008年2月号 - 2009年4月号)
* [[ちよこれいと]](『なかよし』2009年7月号 - 2010年6月号)
* 1年5組いきものがかり(『なかよしラブリー』2009年秋の号 - 2011年秋の号、『なかよし』2012年1月号 - 2013年2月号)
* [[キミノネイロ]](『なかよし』2010年9月号 - 2011年12月号)
* 初恋少年少女(『なかよし』2013年6月号 - 2015年1月号) - 3ヶ月に1度掲載<ref>最終話のみ連続掲載。</ref>。
* 彼は今、恋をしている。(『[[デザート (雑誌)|デザート]]』2013年9月号 - 2014年9月号) - 不定期掲載。
* 伯爵さまは甘い夜がお好き(『なかよし』2015年2月号 - 2016年1月号)
* [[都会のトム&ソーヤ]](原作:[[はやみねかおる]]、『[[少年マガジンエッジ]]』2016年1月号 - 2017年4月号) - 同名小説のコミカライズ。
* 好きしか言わない(『[[ベツコミ]]』2016年7月号 - 2017年3月号)
* [[桜井芽衣の作り方]](『ベツコミ』2017年7月号 - 2018年9月号)
* 未成年ごっこ(『&フラワー』2019年増刊春号 - 2021年33号) - 不定期掲載。
* 神様が私を推してくるんですが…(『[[ベツコミ#関連誌|ベツフラ]]』2020年9号<ref>{{Twitter status2|1=betsucomieditor|2=1265457304834465792|4=
ベツコミ編集部 2020年5月27日のツイート|5=2020-05-27}}</ref> - 2021年14号<ref name="betsucomieditor2">{{Twitter status2|1=betsucomieditor|2=1425296478621159428|4=ベツコミ編集部 2021年8月11日のツイート|5=2021-08-13}}</ref>)
* 微炭酸なぼくら(『[[Palcy]]』2020年6月26日{{R|kodansha}} - 2021年)
* 今宵恋してひとしずく(『ベツフラ』2021年20号 - 2022年2号)
* 南くんのネコはじめました。(『ベツコミ』2022年4月号<ref>{{Cite web|和書|date=2022-03-11 |url=https://natalie.mu/comic/news/469156 |title=フクシマハルカの新シリーズ&坂道ミチ子の高校デビュー新連載がベツコミで開幕|work=コミックナタリー |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|株式会社ナターシャ]] |accessdate=2022-04-13}}</ref> - 2023年4月号<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-03-13|title =CONTENTS|journal =ベツコミ|volume=2023年4月号|publisher = 小学館|asin = B0BWSD6GTW}}目次より。</ref>、『ベツフラ』2022年6号<ref>{{Twitter status2|1=betsucomieditor|2=1514051600972906496|4=ベツコミ編集部 2022年4月13日のツイート|5=2022-04-13}}</ref><ref>{{Twitter status2|1=harukafukushima|2=1514095938574651396|4=フクシマハルカ 2022年4月13日のツイート|5=2022-04-15}}</ref> - 2023年2号)
* 30歳になったら結婚しよって言ったよな(『ベツフラ』2023年11号<ref>{{Twitter status2|1=betsucomieditor|2=1673870202717749248|4=ベツコミ編集部 2023年6月28日のツイート|5=2023-06-29}}</ref> - '''連載中''')
=== 読切 ===
* さくらんぼ☆キッス(『[[なかよし#増刊号|なかよし増刊 なつやすみランド]]』1999年)
* フォーチュン☆ケーキ(『なかよし増刊 ふゆやすみランド』2000年)
* しあわせさがして(『なかよし』2001年4月号)
* あたしだってキレイになりたい!(『なかよし』2002年3月号)
* 秘密だカンナ!(『なかよし』2002年10月号)
* きみはボクを好きになる!(『なかよし増刊 はるやすみランド』2003年4月号増刊)
* 少年人魚(『[[Chu♥Girl]]』2005年)
* CCC(『なかよし』2007年9月号)
* C-(シーマイナス)(単行本書き下ろし(AAAの最終回のその後))
* モーソー・キス(『ベツコミ』2013年3月号)
* 彼は今、恋をしている。(『デザート』2013年9月号)
* 星が降る(『ベツコミ』2013年11月号)
* 春休み神宮司君と(『ベツコミ』2014年4月号)
* キミを泣かせたい(『ベツコミ』2014年8月号)
* 朝まで2人(『ベツコミ』 2014年10月号)
* ハッカドロップ(『ベツコミ』2015年1月号)
* ココロコロコロコイゴコロ(『ベツコミ』2015年7月号)
* 水曜日、5時間目(『ベツコミ』2016年4月号 付録小冊子「恋、はじめちゃってもいいですか?」)
* 会いたくて 会いたくて 六条の御息所バージョン(『ハツキス』2016年9月号「[[あさきゆめみし]]」のトリビュート企画)
* 茜子さんの妄想は止められない(『&フラワー』2017年26号)
* はじめてなら何がいい?(『ベツコミ』2018年12月号)
* あたしの好きな藤本くん(『デラックスベツコミ』2018年12月号)
* いけないカノジョは真面目に恋がしたい(『ベツコミ』2019年2月号)
* キミじゃないキミが好き(『デラックスベツコミ』2019年2月号)
* 近距離センチメンタル(『デラックスベツコミ』2019年4月号)
* 王子様スイッチ(『デラックスベツコミ』2019年6月号)
* 放課後のボーイフレンド(『デラックスベツコミ』2019年8月号)
* [広島]家に帰るまでが初恋です。(『ベツコミ』2019年9月号)
* 僕と彼女と結婚と(『デラックスベツコミ』2019年10月号)
* [[さくら (西加奈子の小説) |さくら]](原作:[[西加奈子]]、『ベツコミ』2020年11月号 別冊付録)
* 南くんのネコはじめました。(『ベツコミ』2022年4月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/469156|title=フクシマハルカの新シリーズ&坂道ミチ子の高校デビュー新連載がベツコミで開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-11|accessdate=2022-03-11}}</ref>)
== 書誌情報 ==
リンクのある作品はそれを参照。
=== 講談社コミックスなかよし ===
* [[おとなにナッツ]](2001年 - 2002年刊、全4巻)
** 第1巻併録「フォーチュン☆ケーキ」、第4巻併録「さくらんぼ☆キッス」
* [[ビビってむーちょ|ビビってむーちょ{{JIS2004フォント|♥}}]](2002年 - 2003年刊、全2巻)
** 第2巻併録「秘密だカンナ!」「きみはボクを好きになる!」「あたしだってキレイになりたい!」
* [[アイがなくちゃね!]](2003年刊、全1巻)
* [[けだものだもの]](2004年 - 2007年、全3巻)
** 第1巻併録「しあわせさがして」、第2巻併録「少年人魚」
* [[チェリージュース]](2004年 - 2006年刊、全4巻)
* [[オレンジ・プラネット]](2006年 - 2007年刊、全5巻)
* [[AAA (漫画)|AAA]](2008年 - 2009年刊、全4巻)
** 第3巻併録「CCC」、第4巻併録「C-(シーマイナス)」
* [[おとなにナッツ|おとなにナッツー]](2009年刊、全1巻)
* [[ちよこれいと]](2009年 - 2010年刊、全3巻)
* 1年5組いきものがかり(2010年 - 2013年刊、全6巻)
*# 2010年6月4日発売、{{ISBN2|978-4-06-364271-1}}
*# 2011年4月28日発売、{{ISBN2|978-4-06-364307-7}}
*# 2012年3月6日発売、{{ISBN2|978-4-06-364342-8}}
*# 2012年7月6日発売、{{ISBN2|978-4-06-364356-5}}
*# 2012年11月6日発売、{{ISBN2|978-4-06-364366-4}}
*# 2013年3月6日発売、{{ISBN2|978-4-06-364376-3}}
* [[キミノネイロ]](2010年 - 2011年刊、全4巻)
* 初恋少年少女(2014年刊、全2巻)
*# 2014年3月13日発売、{{ISBN2|978-4-06-364418-0}}
*# 2014年12月26日発売、{{ISBN2|978-4-06-364453-1}}
* 伯爵さまは甘い夜がお好き(2015年 - 2016年刊、全3巻)
*# 2015年5月13日発売、{{ISBN2|978-4-06-364469-2}}
*# 2015年10月13日発売、{{ISBN2|978-4-06-364484-5}}
*# 2016年2月12日発売、{{ISBN2|978-4-06-391501-3}}
=== 講談社コミックスデザート ===
* 彼は今、恋をしている。(2014年9月12日発売、{{ISBN2|978-4-06-365786-9}}、全1巻)
=== マガジンエッジKC ===
* [[都会のトム&ソーヤ]](原作:[[はやみねかおる]]、2016年 - 2017年刊、全3巻)
=== KCデラックス ===
* 微炭酸なぼくら(2020年 - 2021年刊、全2巻)
*# 2020年12月11日発売<ref name="kodansha">{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000347723|title=『微炭酸なぼくら(1)』(フクシマ ハルカ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2021-09-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521826-6}}
*# 2021年9月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000355299|title=『微炭酸なぼくら(2)』(フクシマ ハルカ)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2021-09-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-524864-5}}
=== ベツコミフラワーコミックス ===
* キミを泣かせたい(2014年12月26日発売、ISBN 978-4-09-136413-5)
** 併録「春休み神宮司君と」、「モーソー・キス」、「星が降る」、「朝まで2人」
* 好きしか言わない(2016年 - 2017年刊、全2巻)
*# 2016年11月25日発売、{{ISBN2|978-4-09-138698-4}}
*# 2017年4月26日発売、{{ISBN2|978-4-09-139119-3}}
* [[桜井芽衣の作り方]](2017年 - 2018年、全3巻)
* [[さくら (西加奈子の小説) |さくら]](原作:[[西加奈子]]、2020年10月26日発売、{{ISBN2|978-4-09-871149-9}})
=== ベツコミフラワーコミックスα ===
* 未成年ごっこ(2020年 - 刊行中、既刊1巻)
*# 2020年6月26日発売、{{ISBN2|978-4-09-870887-1}}
=== アンソロジー ===
* 恋は、けだもの。(2009年8月10日発売、[[講談社コミックス|KC]]デラックス、{{ISBN2|978-4-06-375770-5}})
** 「アイドルだよ!けだものだもの」収録。
* 初恋楽園(2015年7月24日発売、[[フラワーコミックス]]、{{ISBN2|978-4-09-137746-3}}
** 「朝まで二人。」収録。
== 脚注 ==
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アムステルダム
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アムステルダム(オランダ語: Amsterdam, 発音: [ˌʔɑmstərˈdɑm] ( 音声ファイル))は、オランダの首都。北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)であり、オランダ最大の都市である。人口921,402人(2022年)、都市圏人口は2,480,394人にのぼる。商業や観光が盛んなヨーロッパ屈指の世界都市である。地名は「アムステル川のダム(堤防)」の意(「ダム広場」の項を参照)。
憲法に規定されたオランダの首都だが、国会、中央官庁、王宮、各国の大使館など首都機能のほとんどはデン・ハーグにある。
元々は小さな漁村だったが、13世紀にアムステル川の河口にダムを築き、町が築かれた。16世紀には海運貿易の港町として、ヨーロッパ屈指の都市へと発展した。現在のアムステルダムは、アムステルダム中央駅を中心に市内に網の目状に広がる運河や、その運河に沿って並ぶ無総督時代の豪商の邸宅、自転車、飾り窓の女性たち、アンネ・フランクの家などで広く知られる。
アムステルダムは昔、海だった所を干拓によって陸地化した土地に建設されたため、内陸部の都市より歴史が浅い。干拓が始まったのは11世紀頃と推定されているが、当初は農業や泥炭採掘が目的で居住者は少なかった。13世紀後半になると交易の拠点となり、地名が文献に現れ始め、街は急速に発展した。
アムステルダムは13世紀に漁村として築かれた。伝説によれば、犬を連れて小さな船に乗った二人の猟師が、アムステル川の川岸に上陸して築いたということになっている。アムステル川をせき止めた(アムステルのダム:Dam in de Amstel)というのが街の名前の由来。1287年12月14日、北海からの高波がゾイデル海に流れ込み、聖ルチア祭の洪水と呼ばれる大水害を引き起こした。これによってゾイデル海は大きく拡大するとともに、北海へと開口することになり、ゾイデル海の一番奥にあるアムステルダムが海陸の接点として注目されることとなった。1300年(または1301年)に自由都市となり、14世紀にはハンザ同盟との貿易により発展した。やがて15世紀にはハンザ同盟をしのいでバルト海交易の中心地となっていった。
16世紀には当時ネーデルラント17州を支配していたスペイン王フェリペ2世やその後継者に対する反乱が起こり、八十年戦争へ発展した。この間、アムステルダムは独立派に組していた。1585年8月に南ネーデルラントのアントウェルペンがスペインのパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降伏すると、アントウェルペンの新教徒商人がアムステルダムへと続々と移住し、アムステルダムはそれまでのバルト海交易のみならず、それまでアントウェルペンが支配していた地中海交易や新大陸、アジアからの交易をも手に入れ、これによってアムステルダムは世界商業・金融の中心地となっていった。独立を獲得したオランダ共和国はその宗教的に寛容であった。スペインやポルトガルからはユダヤ人がレコンキスタから逃れてきたし、アントウェルペンからは豪商が進出してきた。ユダヤ人はこのアムステルダムとアントウェルペンでダイヤモンドの加工を営んだ。フランスからはユグノーが安住の地を求めてやって来た。フランドルからの豊かで洗練された移住者はオランダ語の基礎を作り、オランダの商業的発展の礎を築いた。1609年にヴェネツィア流のアムステルダム銀行ができた。
17世紀はアムステルダムの黄金の時代と考えられている。17世紀初頭、アムステルダムは世界で最も裕福な都市であった。アムステルダムの港は浅かったものの広く、交易の結節点ならびに商業の中心地としての魅力はその欠点を補って余りあった。1595年、アムステルダムの商人はコルネリス・ハウトマンの船団をアジアへと派遣し、船団はジャワ島から東方の物産を積んで帰国した。これによって東方貿易ブームが起きるが、あまりにも過当競争となったために、1602年に東方貿易の独占権を持ったオランダ東インド会社が設立された。アムステルダムの港を発する商船は、北アメリカ大陸やアフリカ大陸を始め、現在のインドネシアやブラジルまで含めた広大なネットワークを築いていた。アムステルダムの貿易商はオランダ東インド会社(VOC)やオランダ西インド会社(WIC)の主要な地位を占めていた。これらの特許会社は後世のオランダ植民地を形成する海外権益の基礎となった。具体的には中南米のプランテーションで生産された砂糖が送られてきた。
アムステルダムは欧州で最も重要な交易市場であったが、世界を牽引する金融中心地でもあった。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所であった。チューリップ・バブルでは先物取引などが行われていた。ヘーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河といった運河が同心円状に建設され、アムステルダムの運河網が形を整えていったのもこの時代である。
オランダはこの時代世界でもっとも出版の自由や言論の自由、思想の自由が保障されている国であり、宗教的にも寛容であったため、ヨーロッパ各国から文化人が亡命し、オランダ、特に最大都市であるアムステルダムに居を構えた。アムステルダムにはこの当時400軒の出版業者が軒を連ね、ルネ・デカルトなどもアムステルダムに落ち着いている。こうして、アムステルダムは文化の中心となっていった。
アムステルダムの人口は1500年には1万人を少し超えるくらいであったが、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には10万5,000人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している(2005年1月1日現在の人口は74万2,951人)。
18世紀から19世紀前半にかけては、アムステルダムの繁栄にも陰りが見えた。イギリスやフランスとの相次ぐ戦争はアムステルダムの富を搾取した。ナポレオン戦争の頃がどん底であった。しかし、1815年にオランダ連合王国が建国された頃から徐々に復興し始めた。
19世紀終わり頃は、2度目の黄金時代と呼ばれることもある。アムステルダム国立美術館、アムステルダム中央駅、コンセルトヘボウが建てられた。同じ頃、産業革命がこの地に到達した。アムステルダム・ライン運河が開通し、アムステルダムからライン川へ直行ルートが開かれた。北海運河も開通し、北海への最短ルートを提供した。この2つのプロジェクトの完成は、欧州内陸部と外部との通商を活発にした。
第一次世界大戦の少し前には市域が拡大し、新市街が拡張された。第一次大戦ではオランダは中立国であったが、アムステルダムは食糧不足と(暖房用の)燃料不足に苦しんだ。物不足から市民の暴動が起き、何人かが犠牲となった。
第二次世界大戦では、1940年5月10日にナチス・ドイツがオランダに電撃侵攻を開始。侵攻開始3日後の5月13日、政府は首都機能をロンドンへ移転、さらに翌5月14日には降伏してドイツに占領された。
ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の友党的存在のオランダ国家社会主義運動(オランダ・ナチス)による文民政権をアムステルダムに発足させ、占領政策に協力させた。戦争の最後の1か月間は通信手段が全て奪われ、食料と燃料の供給も絶たれた。多くの住民が食料を得るため農村に向かった。犬や猫、砂糖大根までもが生きるために食料とされた。アムステルダム市内のほとんどの樹木は切り倒され燃料とされた。また収容所送りになったユダヤ人が住んでいたアパートは取り壊され、木材は燃料とされた。
第二次世界大戦後、アムステルダムは復興し、再び欧州の主要都市となった。
アムステルダムは北ホラント州に属し、フレヴォラント州やユトレヒト州と接している。市名の由来となったアムステル川は市の中心部で多くの運河に分割されて、最終的にはその運河群が中心部北側にあるアイ湾に注ぎ込む。アムステルダムの平均海抜は2mである。周辺の土地のほとんどは大規模な干拓地で形成されており、そのため周囲は非常に平坦である。町の南西部には広大な人造林であるアムステルダムセ・ボス公園がある。また、アムステルダムは長い北海運河によって北海と接続されている。
アムステルダムは都市化が進んでおり、周辺地域をあわせたアムステルダム都市圏を形成している。市の面積は219.4kmであり、平均して1kmあたり2275軒の家と4457人の住民が居住している。公園や自然保護区は、アムステルダム市の面積の12%を占めている。
アムステルダムの中心部の町並みは、アイ湾に面したアムステルダム中央駅を基点として放射状に広がっている。町の中心はダム広場であり、中央駅とはダム通りで結ばれている。ダム広場に面して、王宮が建っている。この王宮は1648年にアムステルダム市庁舎として建設され、ナポレオン戦争でルイ・ナポレオンが王宮として用いるまでは市庁舎として使用されていた。現在ではオランダの王家はハーグに住んでおり、この王宮は迎賓館として使用されることもあるが、普段は一般に公開されている。現在のアムステルダム市庁舎は中央駅から真南、ダム広場からは南東に位置するワーテルロー広場に面している。レンブラントの家もこの付近に位置する。
中央駅を基点として、運河も放射状に張り巡らされている。このアムステルダムの運河は世界遺産にも登録されている。運河沿いの建物は流通に便利だったため、間口の広さに応じて税金がかけられた。このため、運河沿いに現在も残る家並みは間口がどこも狭く、その代わり奥に非常に長く伸ばして作られている。この運河沿いの建物は現在も保存され、運河には観光用ボートや水上バスが走り、アムステルダム観光の目玉の一つとなっている。王宮から真西に行った運河沿いにはアンネ・フランクの家がある。
放射状の運河の最も外郭に位置するのがシンゲル運河である。この運河は、1480年から1585年にかけてはアムステルダムの外堀にあたっていた。王宮の南西、シンゲル運河にほど近いライッツェ広場には市立劇場があり、交通の拠点ともなっている。またライッツェ広場周辺にはバーやレストランも集まっている。
シンゲル運河の南側にはアムステルダム国立美術館があり、そこから南西に広がるムセーウム広場(英語読み: ミュージアム広場)にはゴッホ美術館、アムステルダム市立近代美術館、そして世界有数のコンサートホールであるコンセルトヘボウがあり、多くの観光客が集まる。コンセルトヘボウにはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団が本拠を置いている。
市の南西部は高級住宅街となっており、フォンデル公園などがある。ムセーウム広場から西へと伸びるP.C.ホーフト通りには高級ブランド店が立ち並ぶ。市の南部にはオランダ近代建築の父といわれるヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘがアムステルダム南部市域拡張計画においてプランニングし建設した地区が現在も残っている。
アイ湾に面したZeeburgやWestpoortは港湾地区であり、アムステルダム港の中心部をなしている。
アムステルダムの気候は北海から吹き付ける西風に強く影響を受け、ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。降霜は、おもに内陸のヨーロッパ大陸側から吹きつける東風や北東風の時に発生する。アムステルダムは三方を水に囲まれ、さらにヒートアイランド現象のため、25km南東のヒルフェルスムで気温が-12°Cをしばしば下回る時でも、冬の夜でもめったに気温が-5°Cを下回ることはない。夏季は適度に温暖で、暑くなることはまれである。最も暑くなる7月の平均気温は18.1°Cで、30度を越えることは1年に平均して2.5日しかない。アムステルダムの最高気温記録は36.4°C、最低気温記録は-19.7°Cである。降雨日数は平均して年間187日であるが、年間平均降水量は814.3mmにすぎない。これは、降雨のほとんどが小雨や霧雨の形をとることによる。10月から4月までの冬季は、曇天で湿度の高い日々が続く。
市役所本庁は、中央区 (Centrum) のワーテルロー広場に置かれている。本庁舎建物は歌劇場と一体となっており、Stopera (Stadhuis+Opera) と呼ばれている。
アムステルダム市は8の行政区 (Stadsdelen) に分割されており、西港区 (Westpoort) を除いて各区には区役所を置いている。
アムステルダム港など管轄している西港区は、港湾・産業地区で住民が少ないため、区役所を置かず市役所本庁が直接業務を執行している。また、中央区役所 (Stadsdeel Centrum) は市役所本庁舎建物内にある。
2010年まで15の行政区が存在し、次の通りであった:
Centrum(中央区), Amsterdam-Noord(北区), Oud-Zuid(旧市街南区), De Baarsjes, Bos en Lommer, Geuzenveld/Slotermeer, Oost/Watergraafsmeer, Osdorp, Oud-West(旧市街西区), Slotervaart, Westerpark(西公園), Westpoort(西港区), Zeeburg, Zuideramstel, Amsterdam Zuidoost(南東区)。
2010年には、アムステルダムの人口中オランダ人が占める割合は50.1%にすぎず、アムステルダムの総人口の34.9%、18歳未満の人口の52.6%がヨーロッパ以外からの移民であった。ヨーロッパ以外からの移民の内訳としては、モロッコからの移民が最も多く、次いで旧オランダ領であったスリナムからの移民がほぼ同数居り、ともに人口の9%を占める。次いでトルコからの移民が5.3%、オランダ領アンティルおよびアルバからの移民が1.5%をしめ、残りが10.1%である。
宗教的にはキリスト教徒が17%(2000年)で最も多いが、キリスト教徒はカトリックとプロテスタントでほぼ二分されている。ついで大きな宗教グループはイスラム教徒であり、人口の14%(2000年)を占める。イスラム教徒のほとんどはスンニ派が占めている。
2019年、アメリカのシンクタンクが発表したグローバル都市指標では世界20位の都市と評価された。特に報道自由性の項目では首位であった。
ヨーロッパ有数の金融都市アムステルダムには、ユーロネクスト・アムステルダム(旧名称:アムステルダム証券取引所)、オランダ銀行などがおかれ、オランダの多くの大企業がここに本社を置く。2020年にイギリスのシンクタンクZ/Yenグループが発表した調査によると、世界27位の金融センターと評価されている。日系企業としてはルノー=日産アライアンスの拠点、みずほ銀行 、西日本鉄道 、ホテルオークラ、などがある。
アンネ・フランクの家など観光資源が豊富であり、観光客を含む市内の宿泊数は2006年の年間800万泊から2016年の1400万泊へと拡大傾向にある。一方で、合法的なマリファナを楽しめるカフェや興味本位で飾り窓などを訪れるなど、地元が歓迎しない観光客も増えており問題となっている。アムステルダム市には、合法的な飾り窓が集中するワレン地区(いわゆる赤線)があるが、飾り窓の労働者からは観光客が多すぎて商売にならないとの声もあがっていること、また、性産業従事者が観光の目玉として扱われているという懸念を受け、市側は旅行会社が実施している見物ツアーを2020年1月以降は中止することとしている。
市内には、1632年に創立された公立のアムステルダム大学と、1880年に創立されたキリスト教系のアムステルダム自由大学がある。どちらも学生数2万人を超える大規模な大学である。
アムステルダム自由大学のキャンパスはアムステルダム南駅近くにまとまっているが、アムステルダム大学のキャンパスはアムステルダム市内各所に分散して存在している。例えば経済学部はメトロWeesperplein駅近くにあり、法学部は中央区のスパイ近くの旧市街にある。
アムステルダム職業大学、アムステルダム芸術職業大学、ヘーリット・リートフェルトアカデミーなどの職業大学(HBO)がある。
この町は自転車に乗る人が多く、車道と歩道の間に自転車専用路が設けられている。中央駅付近には巨大な駐輪場があり、絵葉書などにも自転車をあしらったものがある。
市の南西に接する形でアムステルダム・スキポール空港がある。アムステルダム中央駅やアムステルダム南駅などからは鉄道で10〜20分程度で結ばれている。アムステルダム南駅やアムステルフェーンビネンホフからはバスが10分に1本程度運行されている。
市の外縁には環状高速道路 (Ring, A10) が一周し、そこから以下の放射状路線が分岐している。
旧市街中心部の道幅は狭く自動車の乗り入れも困難なため、トラムや自転車が主要交通手段である。運河沿いや路地など細い道を除き自転車専用レーンが設けられ、信号は自動車や歩行者とは別に自転車専用信号が設置されていることが多い。なお、自転車も道路右側を走ることが義務付けられており、自転車専用レーンであっても逆行は許されない。
アムステルダムは世界で最も自転車の走行しやすい都市のひとつとして知られており、わずかな料金で使用できる駐輪場や自転車スタンドが町のあちらこちらに設置され、自転車文化が発達している。2006年にはアムステルダムには465000台の自転車があった。一方で盗難も多く、2005年には54,000台の自転車がアムステルダムで盗まれた。平坦な地形や自動車の運転しにくさなどから、アムステルダムでは自転車はすべての社会階層の人々によって利用されており、小さなアムステルダムで自転車道の総延長は400kmにものぼる。
市街地外周を環状にオランダ鉄道の路線が設けられており、市街地北端のアムステルダム中央駅からはオランダ全土への長距離列車だけでなく、ベルギー、フランス、ドイツなどへの高速鉄道や、オーストリア、ポーランド、ロシアなどへの国際列車も発着している。なお、一部の列車は中央駅を経由せずアムステルダム南駅などに停車するものもある。
市街地中心部の鉄道網は市営交通会社(GVB)により運行されているトラムや、市街地と郊外を結んでいるメトロなどがある。トラムはヨーロッパの中でも大きな路面電車網である。また、メトロ路線には地下駅が少ないため「アムステルダム地下鉄」という訳語はあまり使われないが、2018年7月22日に運行開始した北南線 (Noord/Zuidlijn) の開業によって地下駅の数が少し増えた。トラムやメトロの一部の路線は隣のアムステルフェーンやアウデル・アムステル、ディーメンまで延伸している。
バスは主に郊外や近郊都市との間で運行されており、中央駅、マルニクス通り、アムステル駅の各バスターミナルからGVB, Connexxion, Arrivaなどが運行している。また、ユーロラインズなどの国際バスはアムステル駅バスターミナルから発着している。
アムステルダム港は外航船が通航できる北海運河によって北海と結ばれている。市街地中心部を網の目状に張り巡らされている運河は、各所の閘門を経由してアムステル運河や北海運河と接続されている。また、主要な運河を横切る道路や鉄道路線の橋は、跳ね橋のような可動橋となっている。運河は観光用のクルーズ船が運航されている他、市街地中心部と市北部の間のアイ湾を横断するフェリーのみは無料で運航されている。
アムステルダム市内には市街地中心にあるフォンデル公園をはじめ、スローテル公園、レンブラント公園、ベアトリクス公園、アムステル公園など多くの公園がある。また、隣のアムステルフェーン市との間には935haの広大なアムステルダムセ・ボスが存在している。
アムステルダムで最も人気のスポーツはサッカーであり、プロサッカーリーグのエールディヴィジに所属するAFCアヤックス(AFC Ajax)は、世界的にも非常に有名なクラブとして知られる。クラブは1900年に創設されており、ホームスタジアムは収容人員55,865人(2022年現在)のヨハン・クライフ・アレナ(Johan Cruijff ArenA)である。
AFCアヤックスはエールディヴィジ史上最多の36回の優勝を飾っており、KNVBカップでも史上最多の20回の優勝を果たしている。UEFAチャンピオンズリーグにおいても、オランダのクラブ最多となる4度の優勝を成し遂げている。1965年にリヌス・ミケルス監督によって具現化された戦術、トータルフットボールは余りにも有名である。また、元オランダ代表であるヨハン・クライフも、アムステルダムの東部にあるベトンドルプ(オランダ語版)の出身である。
アムステルダムは以下の都市と姉妹都市関係を結んでいる。
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムの人口は1500年には1万人を少し超えるくらいであったが、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には10万5,000人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している(2005年1月1日現在の人口は74万2,951人)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "18世紀から19世紀前半にかけては、アムステルダムの繁栄にも陰りが見えた。イギリスやフランスとの相次ぐ戦争はアムステルダムの富を搾取した。ナポレオン戦争の頃がどん底であった。しかし、1815年にオランダ連合王国が建国された頃から徐々に復興し始めた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "19世紀終わり頃は、2度目の黄金時代と呼ばれることもある。アムステルダム国立美術館、アムステルダム中央駅、コンセルトヘボウが建てられた。同じ頃、産業革命がこの地に到達した。アムステルダム・ライン運河が開通し、アムステルダムからライン川へ直行ルートが開かれた。北海運河も開通し、北海への最短ルートを提供した。この2つのプロジェクトの完成は、欧州内陸部と外部との通商を活発にした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦の少し前には市域が拡大し、新市街が拡張された。第一次大戦ではオランダは中立国であったが、アムステルダムは食糧不足と(暖房用の)燃料不足に苦しんだ。物不足から市民の暴動が起き、何人かが犠牲となった。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦では、1940年5月10日にナチス・ドイツがオランダに電撃侵攻を開始。侵攻開始3日後の5月13日、政府は首都機能をロンドンへ移転、さらに翌5月14日には降伏してドイツに占領された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の友党的存在のオランダ国家社会主義運動(オランダ・ナチス)による文民政権をアムステルダムに発足させ、占領政策に協力させた。戦争の最後の1か月間は通信手段が全て奪われ、食料と燃料の供給も絶たれた。多くの住民が食料を得るため農村に向かった。犬や猫、砂糖大根までもが生きるために食料とされた。アムステルダム市内のほとんどの樹木は切り倒され燃料とされた。また収容所送りになったユダヤ人が住んでいたアパートは取り壊され、木材は燃料とされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後、アムステルダムは復興し、再び欧州の主要都市となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムは北ホラント州に属し、フレヴォラント州やユトレヒト州と接している。市名の由来となったアムステル川は市の中心部で多くの運河に分割されて、最終的にはその運河群が中心部北側にあるアイ湾に注ぎ込む。アムステルダムの平均海抜は2mである。周辺の土地のほとんどは大規模な干拓地で形成されており、そのため周囲は非常に平坦である。町の南西部には広大な人造林であるアムステルダムセ・ボス公園がある。また、アムステルダムは長い北海運河によって北海と接続されている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムは都市化が進んでおり、周辺地域をあわせたアムステルダム都市圏を形成している。市の面積は219.4kmであり、平均して1kmあたり2275軒の家と4457人の住民が居住している。公園や自然保護区は、アムステルダム市の面積の12%を占めている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムの中心部の町並みは、アイ湾に面したアムステルダム中央駅を基点として放射状に広がっている。町の中心はダム広場であり、中央駅とはダム通りで結ばれている。ダム広場に面して、王宮が建っている。この王宮は1648年にアムステルダム市庁舎として建設され、ナポレオン戦争でルイ・ナポレオンが王宮として用いるまでは市庁舎として使用されていた。現在ではオランダの王家はハーグに住んでおり、この王宮は迎賓館として使用されることもあるが、普段は一般に公開されている。現在のアムステルダム市庁舎は中央駅から真南、ダム広場からは南東に位置するワーテルロー広場に面している。レンブラントの家もこの付近に位置する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "中央駅を基点として、運河も放射状に張り巡らされている。このアムステルダムの運河は世界遺産にも登録されている。運河沿いの建物は流通に便利だったため、間口の広さに応じて税金がかけられた。このため、運河沿いに現在も残る家並みは間口がどこも狭く、その代わり奥に非常に長く伸ばして作られている。この運河沿いの建物は現在も保存され、運河には観光用ボートや水上バスが走り、アムステルダム観光の目玉の一つとなっている。王宮から真西に行った運河沿いにはアンネ・フランクの家がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "放射状の運河の最も外郭に位置するのがシンゲル運河である。この運河は、1480年から1585年にかけてはアムステルダムの外堀にあたっていた。王宮の南西、シンゲル運河にほど近いライッツェ広場には市立劇場があり、交通の拠点ともなっている。またライッツェ広場周辺にはバーやレストランも集まっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "シンゲル運河の南側にはアムステルダム国立美術館があり、そこから南西に広がるムセーウム広場(英語読み: ミュージアム広場)にはゴッホ美術館、アムステルダム市立近代美術館、そして世界有数のコンサートホールであるコンセルトヘボウがあり、多くの観光客が集まる。コンセルトヘボウにはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団が本拠を置いている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "市の南西部は高級住宅街となっており、フォンデル公園などがある。ムセーウム広場から西へと伸びるP.C.ホーフト通りには高級ブランド店が立ち並ぶ。市の南部にはオランダ近代建築の父といわれるヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘがアムステルダム南部市域拡張計画においてプランニングし建設した地区が現在も残っている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "アイ湾に面したZeeburgやWestpoortは港湾地区であり、アムステルダム港の中心部をなしている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムの気候は北海から吹き付ける西風に強く影響を受け、ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。降霜は、おもに内陸のヨーロッパ大陸側から吹きつける東風や北東風の時に発生する。アムステルダムは三方を水に囲まれ、さらにヒートアイランド現象のため、25km南東のヒルフェルスムで気温が-12°Cをしばしば下回る時でも、冬の夜でもめったに気温が-5°Cを下回ることはない。夏季は適度に温暖で、暑くなることはまれである。最も暑くなる7月の平均気温は18.1°Cで、30度を越えることは1年に平均して2.5日しかない。アムステルダムの最高気温記録は36.4°C、最低気温記録は-19.7°Cである。降雨日数は平均して年間187日であるが、年間平均降水量は814.3mmにすぎない。これは、降雨のほとんどが小雨や霧雨の形をとることによる。10月から4月までの冬季は、曇天で湿度の高い日々が続く。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "市役所本庁は、中央区 (Centrum) のワーテルロー広場に置かれている。本庁舎建物は歌劇場と一体となっており、Stopera (Stadhuis+Opera) と呼ばれている。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "アムステルダム市は8の行政区 (Stadsdelen) に分割されており、西港区 (Westpoort) を除いて各区には区役所を置いている。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "アムステルダム港など管轄している西港区は、港湾・産業地区で住民が少ないため、区役所を置かず市役所本庁が直接業務を執行している。また、中央区役所 (Stadsdeel Centrum) は市役所本庁舎建物内にある。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2010年まで15の行政区が存在し、次の通りであった:",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "Centrum(中央区), Amsterdam-Noord(北区), Oud-Zuid(旧市街南区), De Baarsjes, Bos en Lommer, Geuzenveld/Slotermeer, Oost/Watergraafsmeer, Osdorp, Oud-West(旧市街西区), Slotervaart, Westerpark(西公園), Westpoort(西港区), Zeeburg, Zuideramstel, Amsterdam Zuidoost(南東区)。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "2010年には、アムステルダムの人口中オランダ人が占める割合は50.1%にすぎず、アムステルダムの総人口の34.9%、18歳未満の人口の52.6%がヨーロッパ以外からの移民であった。ヨーロッパ以外からの移民の内訳としては、モロッコからの移民が最も多く、次いで旧オランダ領であったスリナムからの移民がほぼ同数居り、ともに人口の9%を占める。次いでトルコからの移民が5.3%、オランダ領アンティルおよびアルバからの移民が1.5%をしめ、残りが10.1%である。",
"title": "住民"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "宗教的にはキリスト教徒が17%(2000年)で最も多いが、キリスト教徒はカトリックとプロテスタントでほぼ二分されている。ついで大きな宗教グループはイスラム教徒であり、人口の14%(2000年)を占める。イスラム教徒のほとんどはスンニ派が占めている。",
"title": "住民"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2019年、アメリカのシンクタンクが発表したグローバル都市指標では世界20位の都市と評価された。特に報道自由性の項目では首位であった。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ有数の金融都市アムステルダムには、ユーロネクスト・アムステルダム(旧名称:アムステルダム証券取引所)、オランダ銀行などがおかれ、オランダの多くの大企業がここに本社を置く。2020年にイギリスのシンクタンクZ/Yenグループが発表した調査によると、世界27位の金融センターと評価されている。日系企業としてはルノー=日産アライアンスの拠点、みずほ銀行 、西日本鉄道 、ホテルオークラ、などがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アンネ・フランクの家など観光資源が豊富であり、観光客を含む市内の宿泊数は2006年の年間800万泊から2016年の1400万泊へと拡大傾向にある。一方で、合法的なマリファナを楽しめるカフェや興味本位で飾り窓などを訪れるなど、地元が歓迎しない観光客も増えており問題となっている。アムステルダム市には、合法的な飾り窓が集中するワレン地区(いわゆる赤線)があるが、飾り窓の労働者からは観光客が多すぎて商売にならないとの声もあがっていること、また、性産業従事者が観光の目玉として扱われているという懸念を受け、市側は旅行会社が実施している見物ツアーを2020年1月以降は中止することとしている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "市内には、1632年に創立された公立のアムステルダム大学と、1880年に創立されたキリスト教系のアムステルダム自由大学がある。どちらも学生数2万人を超える大規模な大学である。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アムステルダム自由大学のキャンパスはアムステルダム南駅近くにまとまっているが、アムステルダム大学のキャンパスはアムステルダム市内各所に分散して存在している。例えば経済学部はメトロWeesperplein駅近くにあり、法学部は中央区のスパイ近くの旧市街にある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "アムステルダム職業大学、アムステルダム芸術職業大学、ヘーリット・リートフェルトアカデミーなどの職業大学(HBO)がある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この町は自転車に乗る人が多く、車道と歩道の間に自転車専用路が設けられている。中央駅付近には巨大な駐輪場があり、絵葉書などにも自転車をあしらったものがある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "市の南西に接する形でアムステルダム・スキポール空港がある。アムステルダム中央駅やアムステルダム南駅などからは鉄道で10〜20分程度で結ばれている。アムステルダム南駅やアムステルフェーンビネンホフからはバスが10分に1本程度運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "市の外縁には環状高速道路 (Ring, A10) が一周し、そこから以下の放射状路線が分岐している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "旧市街中心部の道幅は狭く自動車の乗り入れも困難なため、トラムや自転車が主要交通手段である。運河沿いや路地など細い道を除き自転車専用レーンが設けられ、信号は自動車や歩行者とは別に自転車専用信号が設置されていることが多い。なお、自転車も道路右側を走ることが義務付けられており、自転車専用レーンであっても逆行は許されない。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムは世界で最も自転車の走行しやすい都市のひとつとして知られており、わずかな料金で使用できる駐輪場や自転車スタンドが町のあちらこちらに設置され、自転車文化が発達している。2006年にはアムステルダムには465000台の自転車があった。一方で盗難も多く、2005年には54,000台の自転車がアムステルダムで盗まれた。平坦な地形や自動車の運転しにくさなどから、アムステルダムでは自転車はすべての社会階層の人々によって利用されており、小さなアムステルダムで自転車道の総延長は400kmにものぼる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "市街地外周を環状にオランダ鉄道の路線が設けられており、市街地北端のアムステルダム中央駅からはオランダ全土への長距離列車だけでなく、ベルギー、フランス、ドイツなどへの高速鉄道や、オーストリア、ポーランド、ロシアなどへの国際列車も発着している。なお、一部の列車は中央駅を経由せずアムステルダム南駅などに停車するものもある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "市街地中心部の鉄道網は市営交通会社(GVB)により運行されているトラムや、市街地と郊外を結んでいるメトロなどがある。トラムはヨーロッパの中でも大きな路面電車網である。また、メトロ路線には地下駅が少ないため「アムステルダム地下鉄」という訳語はあまり使われないが、2018年7月22日に運行開始した北南線 (Noord/Zuidlijn) の開業によって地下駅の数が少し増えた。トラムやメトロの一部の路線は隣のアムステルフェーンやアウデル・アムステル、ディーメンまで延伸している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "バスは主に郊外や近郊都市との間で運行されており、中央駅、マルニクス通り、アムステル駅の各バスターミナルからGVB, Connexxion, Arrivaなどが運行している。また、ユーロラインズなどの国際バスはアムステル駅バスターミナルから発着している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "アムステルダム港は外航船が通航できる北海運河によって北海と結ばれている。市街地中心部を網の目状に張り巡らされている運河は、各所の閘門を経由してアムステル運河や北海運河と接続されている。また、主要な運河を横切る道路や鉄道路線の橋は、跳ね橋のような可動橋となっている。運河は観光用のクルーズ船が運航されている他、市街地中心部と市北部の間のアイ湾を横断するフェリーのみは無料で運航されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アムステルダム市内には市街地中心にあるフォンデル公園をはじめ、スローテル公園、レンブラント公園、ベアトリクス公園、アムステル公園など多くの公園がある。また、隣のアムステルフェーン市との間には935haの広大なアムステルダムセ・ボスが存在している。",
"title": "公園"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムで最も人気のスポーツはサッカーであり、プロサッカーリーグのエールディヴィジに所属するAFCアヤックス(AFC Ajax)は、世界的にも非常に有名なクラブとして知られる。クラブは1900年に創設されており、ホームスタジアムは収容人員55,865人(2022年現在)のヨハン・クライフ・アレナ(Johan Cruijff ArenA)である。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "AFCアヤックスはエールディヴィジ史上最多の36回の優勝を飾っており、KNVBカップでも史上最多の20回の優勝を果たしている。UEFAチャンピオンズリーグにおいても、オランダのクラブ最多となる4度の優勝を成し遂げている。1965年にリヌス・ミケルス監督によって具現化された戦術、トータルフットボールは余りにも有名である。また、元オランダ代表であるヨハン・クライフも、アムステルダムの東部にあるベトンドルプ(オランダ語版)の出身である。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "アムステルダムは以下の都市と姉妹都市関係を結んでいる。",
"title": "姉妹都市・提携都市"
}
] |
アムステルダムは、オランダの首都。北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)であり、オランダ最大の都市である。人口921,402人(2022年)、都市圏人口は2,480,394人にのぼる。商業や観光が盛んなヨーロッパ屈指の世界都市である。地名は「アムステル川のダム(堤防)」の意(「ダム広場」の項を参照)。 憲法に規定されたオランダの首都だが、国会、中央官庁、王宮、各国の大使館など首都機能のほとんどはデン・ハーグにある。 元々は小さな漁村だったが、13世紀にアムステル川の河口にダムを築き、町が築かれた。16世紀には海運貿易の港町として、ヨーロッパ屈指の都市へと発展した。現在のアムステルダムは、アムステルダム中央駅を中心に市内に網の目状に広がる運河や、その運河に沿って並ぶ無総督時代の豪商の邸宅、自転車、飾り窓の女性たち、アンネ・フランクの家などで広く知られる。
|
{{otheruses|オランダ王国の首都|その他|アムステルダム (曖昧さ回避)}}
{{Infobox Settlement
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| area_total_km2 = 219<ref>{{cite web
|title=Kerncijfers voor Amsterdam en de stadsdelen
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'''アムステルダム'''({{Lang-nl|Amsterdam}}, {{IPA-nl|ˌʔɑmstərˈdɑm|pron|Nl-Amsterdam.ogg}})は、[[オランダ]]の[[首都]]。[[北ホラント州]]の[[基礎自治体]]([[ヘメーンテ]])であり、オランダ最大の都市である。人口921,402人(2022年)、都市圏人口は2,480,394人にのぼる。[[商業]]や[[観光]]が盛んな[[ヨーロッパ]]屈指の[[世界都市]]である<ref>[http://www.joneslanglasalle.co.jp/japan/ja-jp/Documents/New%20Release/20171023-JLL-DecodingCityPerformance.pdf JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表] JLL 2017年10月25日閲覧。</ref>。地名は「アムステル川のダム(堤防)」の意(「[[ダム広場]]」の項を参照)。
[[憲法]]に規定されたオランダの首都だが、国会、中央官庁、王宮、各国の大使館など[[首都機能]]のほとんどは[[デン・ハーグ]]にある<ref group="注釈">アムステルダムにも[[Royal Palace of Amsterdam|王宮]]([[:en:Royal_Palace_of_Amsterdam|英語版]])はあるが、国王は常住していない。</ref>。
元々は小さな漁村だったが、[[13世紀]]に[[アムステル川]]の河口にダムを築き、町が築かれた。[[16世紀]]には海運貿易の港町として、[[ヨーロッパ]]屈指の都市へと発展した。現在のアムステルダムは、[[アムステルダム中央駅]]を中心に市内に網の目状に広がる[[運河]]や、その運河に沿って並ぶ[[無総督時代]]の豪商の邸宅、自転車、[[飾り窓]]の女性たち、[[アンネ・フランク]]の家などで広く知られる。
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|アムステルダムの歴史|en|History of Amsterdam}}}}
アムステルダムは昔、海だった所を[[干拓]]によって陸地化した土地に建設されたため、内陸部の都市より歴史が浅い。干拓が始まったのは11世紀頃と推定されているが、当初は農業や[[泥炭]]採掘が目的で居住者は少なかった。13世紀後半になると交易の拠点となり、地名が文献に現れ始め、街は急速に発展した。
=== 建設 ===
[[File:Okerk2.jpg|thumb|left|1306年献堂の[[:en:Oude Kerk (Amsterdam)|旧教会]] (Oude Kerk)]]
アムステルダムは13世紀に漁村として築かれた。伝説によれば、犬を連れて小さな船に乗った二人の猟師が、[[アムステル川]]の川岸に上陸して築いたということになっている。アムステル川をせき止めた(アムステルの[[ダム]]:Dam in de Amstel)というのが街の名前の由来。[[1287年]][[12月14日]]、[[北海]]からの高波が[[ゾイデル海]]に流れ込み、聖ルチア祭の洪水と呼ばれる大水害を引き起こした。これによってゾイデル海は大きく拡大するとともに、北海へと開口することになり、ゾイデル海の一番奥にあるアムステルダムが海陸の接点として注目されることとなった。[[1300年]](または[[1301年]])に[[自由都市]]となり、[[14世紀]]には[[ハンザ同盟]]との貿易により発展した。やがて15世紀にはハンザ同盟をしのいで[[バルト海]]交易の中心地となっていった。
=== 独立 ===
[[ファイル:View of Amsterdam.JPG|thumb|1538年当時のアムステルダム]]
[[16世紀]]には当時[[ネーデルラント17州]]を支配していた[[スペイン]]王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]やその後継者に対する反乱が起こり、[[八十年戦争]]へ発展した。この間、アムステルダムは独立派に組していた。[[1585年]]8月に[[南ネーデルラント]]の[[アントウェルペン]]がスペインのパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]に降伏すると、アントウェルペンの新教徒商人がアムステルダムへと続々と移住し、アムステルダムはそれまでのバルト海交易のみならず、それまでアントウェルペンが支配していた[[地中海]]交易や[[新大陸]]、[[アジア]]からの交易をも手に入れ、これによってアムステルダムは世界商業・金融の中心地となっていった。独立を獲得した[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]はその宗教的に寛容であった。スペインや[[ポルトガル王国|ポルトガル]]からは[[ユダヤ人]]が[[レコンキスタ]]から逃れてきたし、[[アントウェルペン]]からは豪商が進出してきた。ユダヤ人はこのアムステルダムとアントウェルペンで[[ダイヤモンド]]の加工を営んだ。[[フランス王国|フランス]]からは[[ユグノー]]が安住の地を求めてやって来た。[[フランドル]]からの豊かで洗練された移住者は[[オランダ語]]の基礎を作り、オランダの商業的発展の礎を築いた。1609年に[[ヴェネツィア]]流の[[アムステルダム銀行]]ができた。
=== 黄金時代 ===
[[17世紀]]はアムステルダムの黄金の時代と考えられている。17世紀初頭、アムステルダムは世界で最も裕福な都市であった。アムステルダムの港は浅かったものの広く、交易の結節点ならびに商業の中心地としての魅力はその欠点を補って余りあった<ref>「ニシンが築いた国オランダ 海の技術史を読む」p149-150 田口一夫 成山堂書店 平成14年1月18日初版発行</ref>。[[1595年]]、アムステルダムの商人はコルネリス・ハウトマンの船団をアジアへと派遣し、船団は[[ジャワ島]]から東方の物産を積んで帰国した。これによって東方貿易ブームが起きるが、あまりにも過当競争となったために、[[1602年]]に東方貿易の独占権を持ったオランダ東インド会社が設立された<ref>「オランダ史」p62-63 モーリス・ブロール著 西村六郎訳 白水社 1994年3月30日第1刷</ref>。アムステルダムの港を発する[[商船]]は、[[北アメリカ大陸]]や[[アフリカ大陸]]を始め、現在の[[インドネシア]]や[[ブラジル]]まで含めた広大なネットワークを築いていた。アムステルダムの貿易商は[[オランダ東インド会社]](VOC)や[[オランダ西インド会社]](WIC)の主要な地位を占めていた。これらの特許会社は後世のオランダ[[植民地]]を形成する海外権益の基礎となった。具体的には中南米のプランテーションで生産された[[砂糖#歴史|砂糖]]が送られてきた。
アムステルダムは欧州で最も重要な交易市場であったが、世界を牽引する金融中心地でもあった。アムステルダム[[証券取引所]]は世界初の常設取引所であった。[[チューリップ・バブル]]では[[先物取引]]などが行われていた。ヘーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河といった運河が同心円状に建設され、[[アムステルダムの運河]]網が形を整えていったのもこの時代である。
オランダはこの時代世界でもっとも出版の自由や[[言論の自由]]、思想の自由が保障されている国であり、宗教的にも寛容であったため、ヨーロッパ各国から文化人が亡命し、オランダ、特に最大都市であるアムステルダムに居を構えた。アムステルダムにはこの当時400軒の出版業者が軒を連ね、[[ルネ・デカルト]]などもアムステルダムに落ち着いている<ref>「オランダを知るための60章」pp79-80 長坂寿久 明石書店 2007年4月30日初版第1刷</ref>。こうして、アムステルダムは文化の中心となっていった。
アムステルダムの[[人口]]は[[1500年]]には1万人を少し超えるくらいであったが、[[1570年]]には3万人、[[1600年]]には6万人、[[1622年]]には10万5,000人、[[1700年]]には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、[[第二次世界大戦]]前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している(2005年1月1日現在の人口は74万2,951人)。
=== 無総督時代 ===
{{main|無総督時代}}
=== 18世紀以降 ===
[[File:Amsterdam-Bowyer-1814.jpg|thumb|left|1814年当時の[[ダム広場]]及び[[:en:Royal Palace of Amsterdam|王宮]]]]
[[18世紀]]から[[19世紀]]前半にかけては、アムステルダムの繁栄にも陰りが見えた。イギリスやフランスとの相次ぐ戦争はアムステルダムの富を搾取した。[[ナポレオン戦争]]の頃がどん底であった。しかし、[[1815年]]に[[ネーデルラント連合王国|オランダ連合王国]]が建国された頃から徐々に復興し始めた。
[[19世紀]]終わり頃は、2度目の黄金時代と呼ばれることもある。[[アムステルダム国立美術館]]、アムステルダム中央駅、[[コンセルトヘボウ]]が建てられた。同じ頃、[[産業革命]]がこの地に到達した。[[アムステルダム・ライン運河]]が開通し、アムステルダムから[[ライン川]]へ直行ルートが開かれた。[[北海運河]]も開通し、[[北海]]への最短ルートを提供した。この2つのプロジェクトの完成は、欧州内陸部と外部との通商を活発にした。
[[第一次世界大戦]]の少し前には市域が拡大し、新市街が拡張された。第一次大戦ではオランダは[[中立国]]であったが、アムステルダムは食糧不足と(暖房用の)燃料不足に苦しんだ。物不足から市民の暴動が起き、何人かが犠牲となった。
[[第二次世界大戦]]では、[[1940年]][[5月10日]]に[[ナチス・ドイツ]]がオランダに電撃侵攻を開始。侵攻開始3日後の5月13日、政府は首都機能をロンドンへ移転<ref>オランダ政府、ロンドンへ移転(『東京朝日新聞』昭和15年5月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368</ref>、さらに翌5月14日には降伏してドイツに占領された<ref>ロッテルダム陥落、オランダ軍降伏(『東京朝日新聞』昭和15年5月16日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368</ref>。
ドイツは[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)の友党的存在の[[オランダ国家社会主義運動]](オランダ・ナチス)による[[文民]]政権をアムステルダムに発足させ、占領政策に協力させた。戦争の最後の1か月間は通信手段が全て奪われ、食料と燃料の供給も絶たれた。多くの住民が食料を得るため農村に向かった。犬や猫、[[砂糖大根]]までもが生きるために食料とされた。アムステルダム市内のほとんどの樹木は切り倒され燃料とされた。また収容所送りになったユダヤ人が住んでいたアパートは取り壊され、木材は燃料とされた。
第二次世界大戦後、アムステルダムは復興し、再び欧州の主要都市となった。
== 地理 ==
[[File:Amsterdam-topografie.jpg|thumb|アムステルダムの地勢図]]
アムステルダムは[[北ホラント州]]に属し、[[フレヴォラント州]]や[[ユトレヒト州]]と接している。市名の由来となった[[アムステル川]]は市の中心部で多くの運河に分割されて、最終的にはその運河群が中心部北側にあるアイ湾に注ぎ込む。アムステルダムの平均海抜は2mである<ref name="elevation">{{cite web |url=http://www.ahn.nl/ |title=Actueel Hoogtestand Nederland |language=Dutch |accessdate=2008-05-18}}</ref>。周辺の土地のほとんどは大規模な干拓地で形成されており、そのため周囲は非常に平坦である。町の南西部には広大な人造林である[[アムステルダムセ・ボス]]公園がある。また、アムステルダムは長い北海運河によって北海と接続されている。
アムステルダムは都市化が進んでおり、周辺地域をあわせたアムステルダム都市圏を形成している。市の面積は219.4km<sup>2</sup>であり、平均して1km<sup>2</sup>あたり2275軒の家と4457人の住民が居住している<ref name="density">{{cite web |url=http://www.os.amsterdam.nl/pdf/2007_jaarboek_hoofdstuk_01.pdf |title=Kerncijfers Amsterdam 2007 |language=Dutch |format=PDF |accessdate=2008-05-18 }}</ref>。公園や自然保護区は、アムステルダム市の面積の12%を占めている<ref name="12percent"> {{cite web |url=http://www.os.amsterdam.nl/feitenencijfers/24112/ |title=Openbare ruimte en groen: Inleiding |language=Dutch |accessdate=2008-05-18 }}</ref>。
=== 市内の地理 ===
[[ファイル:Amsterdam airphoto.jpg|thumb|市内に張り巡らされた[[アムステルダムの運河|運河]]]]
アムステルダムの中心部の町並みは、[[アイ湾]]に面した[[アムステルダム中央駅]]を基点として放射状に広がっている。町の中心は[[ダム広場]]であり、中央駅とはダム通りで結ばれている。ダム広場に面して、王宮が建っている。この王宮は[[1648年]]にアムステルダム市庁舎として建設され、ナポレオン戦争で[[ルイ・ナポレオン]]が王宮として用いるまでは市庁舎として使用されていた。現在ではオランダの王家は[[ハーグ]]に住んでおり、この王宮は迎賓館として使用されることもあるが、普段は一般に公開されている。現在のアムステルダム市庁舎は中央駅から真南、ダム広場からは南東に位置する[[ワーテルロー広場 (アムステルダム)|ワーテルロー広場]]に面している。[[レンブラントの家]]もこの付近に位置する。
中央駅を基点として、運河も放射状に張り巡らされている。この[[アムステルダムの運河]]は[[世界遺産]]にも登録されている。運河沿いの建物は流通に便利だったため、間口の広さに応じて税金がかけられた。このため、運河沿いに現在も残る家並みは間口がどこも狭く、その代わり奥に非常に長く伸ばして作られている<ref>「ビジュアルシリーズ世界再発見4 イギリス・中央ヨーロッパ」p58
ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷発行</ref>。この運河沿いの建物は現在も保存され、運河には観光用ボートや水上バスが走り、アムステルダム観光の目玉の一つとなっている。王宮から真西に行った運河沿いには[[アンネ・フランクの家]]がある。
放射状の運河の最も外郭に位置するのがシンゲル運河である。この運河は、[[1480年]]から1585年にかけてはアムステルダムの外堀にあたっていた。王宮の南西、シンゲル運河にほど近いライッツェ広場には市立劇場があり、交通の拠点ともなっている。またライッツェ広場周辺にはバーやレストランも集まっている。
シンゲル運河の南側には[[アムステルダム国立美術館]]があり、そこから南西に広がるムセーウム広場(英語読み: ミュージアム広場)には[[ゴッホ美術館]]、アムステルダム市立近代美術館、そして世界有数の[[コンサートホール]]である[[コンセルトヘボウ]]があり、多くの観光客が集まる。コンセルトヘボウには[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団]]が本拠を置いている。
市の南西部は高級住宅街となっており、[[フォンデル公園]]などがある。ムセーウム広場から西へと伸びるP.C.ホーフト通りには高級ブランド店が立ち並ぶ。市の南部にはオランダ近代建築の父といわれる[[ヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘ]]がアムステルダム南部市域拡張計画においてプランニングし建設した地区が現在も残っている。
アイ湾に面したZeeburgやWestpoortは港湾地区であり、アムステルダム港の中心部をなしている。<!--
〜建築部門〜
アムステルダムの建築は地盤に大きく影響を受けた。
13世紀頃最初の教会は軟弱な地盤に重たい壁を支えるのが不可能だったので堅固な基礎を造る必要があった。その方法は壁時自体の厚さより少し広い溝が掘られた。その下にハンノキの幹が敷かれた。
14世紀には改良され木の柱をレンガ積み台の上に据えた。
14世紀から16世紀のかけての教会、礼拝堂、そして少数のレンガ造住宅の基礎は杭打ち基礎のルイを獲得した。しかし杭の長さは5~7mで最初の砂の層へ達していなかった。
15世紀には、市当局は杭打ちに関する厳しい条例を明示した。しかし、16世紀初頭、市当局は30、35、38、40フートの杭打ち機を賃貸しをすることを認可した。
1700年頃、建築業者は公式のアムステルダム杭基礎と称される新しいタイプの基礎を開発した。その方法は支持力は多かっれ少なかれ経験則に基づかれ算出され、一対の杭の上にケプス「横架梁」が置かれた。その上に背の高い助材が、それより薄い板がその両側に置かれた。この助材には壁が横ずれるのを防ぐ意味がある。
第二次世界大戦頃にはコンクリート製の杭が使用される。
こうしてアムステルダムの街の構造に杭は欠かせないものとなった。
今までは木製の杭が主流だったが、第二次世界大戦以降ではコンクリート製の杭が使われようになる。
杭が腐らずに、より大きな過重を支えることができるためこれを以降杭は長くなり、建物は高くなっていった。参考文献 "アムステルダムの物語 杭の上の街" "水都アムステルダム-受け継がれるブルーゴールドの精神"-->
=== 気候 ===
アムステルダムの気候は[[北海]]から吹き付ける西風に強く影響を受け、[[ケッペンの気候区分]]では[[西岸海洋性気候]](Cfb)に属する。降霜は、おもに内陸のヨーロッパ大陸側から吹きつける東風や北東風の時に発生する。アムステルダムは三方を水に囲まれ、さらに[[ヒートアイランド現象]]のため、25km南東の[[ヒルフェルスム]]で気温が-12℃をしばしば下回る時でも、冬の夜でもめったに気温が-5℃を下回ることはない。夏季は適度に温暖で、暑くなることはまれである。最も暑くなる7月の平均気温は18.1℃で、30度を越えることは1年に平均して2.5日しかない。アムステルダムの最高気温記録は36.4℃、最低気温記録は-19.7℃である。降雨日数は平均して年間187日であるが、年間平均降水量は814.3mmにすぎない。これは、降雨のほとんどが小雨や霧雨の形をとることによる。10月から4月までの冬季は、曇天で湿度の高い日々が続く。
{{Weather box
|location=アムステルダム (1991年–2020年)
|metric first=Yes
|single line=Yes
|Jan high C=6.2
|Feb high C=6.9
|Mar high C=10.3
|Apr high C=14.3
|May high C=17.9
|Jun high C=20.6
|Jul high C=22.6
|Aug high C=22.5
|Sep high C=19.2
|Oct high C=14.7
|Nov high C=10.1
|Dec high C=6.9
|year high C=14.4
|Jan mean C=3.9
|Feb mean C=4.1
|Mar mean C=6.5
|Apr mean C=9.8
|May mean C=13.3
|Jun mean C=16.0
|Jul mean C=18.1
|Aug mean C=18.0
|Sep mean C=15.1
|Oct mean C=11.3
|Nov mean C=7.4
|Dec mean C=4.6
|year mean C=10.7
|Jan low C=1.5
|Feb low C=1.5
|Mar low C=3.3
|Apr low C=5.7
|May low C=9.1
|Jun low C=12.0
|Jul low C=14.0
|Aug low C=14.0
|Sep low C=11.5
|Oct low C=8.3
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|Dec low C=2.3
|year low C=7.3
|Jan precipitation mm=71.0
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|date=2022年7月
|Jan record high C=14.0|Feb record high C=18.6|Mar record high C=24.1|Apr record high C=28.0|May record high C=31.5|Jun record high C=33.2|Jul record high C=36.4|Aug record high C=34.5|Sep record high C=32.8|Oct record high C=25.6|Nov record high C=18.9|Dec record high C=15.5|Jan record low C=-16.3|Feb record low C=-19.7|Mar record low C=-16.7|Apr record low C=-4.7|May record low C=-1.1|Jun record low C=1.7|Jul record low C=5.0|Aug record low C=2.0|Sep record low C=-3.4|Nov record low C=-8.1|Dec record low C=-14.8|Oct record low C=-3.4}}
== 行政 ==
[[ファイル:Map - JA - Amsterdam - Stadsdelen 2010.svg|thumb|300px|アムステルダムの行政区(2010年以降)]]
=== 市役所 ===
市役所本庁は、中央区 (Centrum) の[[ウォータールー広場 (アムステルダム)|ワーテルロー広場]]に置かれている。本庁舎建物は歌劇場と一体となっており、[[:en:Stopera|Stopera]] ('''St'''adhuis+'''Opera''') と呼ばれている。
=== 区制 ===
アムステルダム市は8の行政区 (Stadsdelen) に分割されており、西港区 (Westpoort) を除いて各区には区役所を置いている。
* '''中央区 '''''Centrum''
** Binnenstad, Grachtengordel, Plantage, Westelijke Eilanden, Oostelijke Eilandenを含む
* '''北区 '''''Noord''
** Tuindorp Oostzaan, Kadoelen, Oostzanerwerf, Buiksloot, Buikslotermeer, Nieuwendam, Landelijk Noordを含む
* '''南東区 '''''Zuidoost''
** Venserpolder, Bijlmer, Gaasperdam, Bullewijk, Driemondを含む
* '''西区''' ''West''
** Spaarndammerbuurt, Staatsliedenbuurt, Frederik Hendrikbuurt, Kinkerbuurt, Overtoom辺り, Admiralenbuurt, Hoofdweg辺り, Mercatorplein, Landlust, Bos en Lommer, Sloterdijkを含む
* '''新西区 '''''Nieuw-West''
** Slotermeer, Geuzenveld, Slotervaart, Overtoomse Veld, Nieuw Sloten, Osdorp, De Aker, Sloten, Oud-Osdorpを含む
* '''南区 '''''Zuid''
** De Pijp, Museumkwartier, Willemspark, Schinkelbuurt, Hoofddorppleinbuurt, Stadionbuurt, Apollobuurt, Rivierenbuurt, Prinses Irenebuurt, Zuidas, Buitenveldertを含む
* '''東区 '''''Oost''
** Weesperzijde辺り, Oosterparkbuurt, Dapperbuurt, Transvaalbuurt, Watergraafsmeer, Indische Buurt, Oostelijk Havengebied, Zeeburgereiland, IJburgを含む
* '''西港区 '''''Westpoort''
** Westelijk Havengebied, Bedrijvengebied Sloterdijkを含む
アムステルダム港など管轄している西港区は、港湾・産業地区で住民が少ないため、区役所を置かず市役所本庁が直接業務を執行している。また、中央区役所 (Stadsdeel Centrum) は市役所本庁舎建物内にある。
==== 2010年までの状態 ====
2010年まで15の行政区が存在し、次の通りであった:
Centrum(中央区), Amsterdam-Noord(北区), Oud-Zuid(旧市街南区), De Baarsjes, Bos en Lommer, Geuzenveld/Slotermeer, Oost/Watergraafsmeer, Osdorp, Oud-West(旧市街西区), Slotervaart, Westerpark(西公園), Westpoort(西港区), Zeeburg, Zuideramstel, Amsterdam Zuidoost(南東区)。
== 住民 ==
{| class="wikitable floatright" style="font-size:smaller; text-align:right;"
|+ 住民構成(2010年)
|-
! scope="col" | 国籍
! scope="col" | 人口
! scope="col" | %
|-
! scope="row" | オランダ人
| 385,009 || 50.1
|-
! scope="row" | ヨーロッパ人
| 114,553 || 14.9
|-
! scope="row" | 非ヨーロッパ人
| 268,211 || 34.9
|-
! scope="row" | ''スリナム''
| ''68,881'' || ''9.0''
|-
! scope="row" | ''モロッコ''
| ''69,439'' || ''9.0''
|-
! scope="row" | ''トルコ''
| ''40,370'' || ''5.3''
|-
! scope="row" | ''オランダ領アンティルおよびアルバ''
| ''11,689'' || ''1.5''
|-
! scope="row" | ''その他''
| ''77,832'' || ''10.1''
|}
2010年には、アムステルダムの人口中オランダ人が占める割合は50.1%にすぎず、アムステルダムの総人口の34.9%、18歳未満の人口の52.6%がヨーロッパ以外からの移民であった。ヨーロッパ以外からの移民の内訳としては、[[モロッコ]]からの移民が最も多く、次いで旧オランダ領であった[[スリナム]]からの移民がほぼ同数居り、ともに人口の9%を占める。次いで[[トルコ]]からの移民が5.3%、[[オランダ領アンティル]]および[[アルバ]]からの移民が1.5%をしめ、残りが10.1%である<ref>{{cite web|url=http://www.os.amsterdam.nl/pdf/2010_jaarboek_hoofdstuk_01.pdf |title=Amsterdam in cijfers 2010 |format=PDF |accessdate=2012-04-25}}</ref>。
宗教的には[[キリスト教徒]]が17%(2000年)で最も多いが、キリスト教徒は[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]でほぼ二分されている。ついで大きな宗教グループは[[イスラム教徒]]であり、人口の14%(2000年)を占める。イスラム教徒のほとんどは[[スンニ派]]が占めている<ref name="religion">{{cite web |url=http://www.os.amsterdam.nl/pdf/2006_ob_religie_5.pdf |title=Religie Amsterdam |language=Dutch |accessdate=2008-05-22 |format=PDF| archiveurl= https://web.archive.org/web/20080528004546/http://www.os.amsterdam.nl/pdf/2006_ob_religie_5.pdf| archivedate= 2008-05-28 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.os.amsterdam.nl/pdf/2001_factsheets_5.pdf |title=Bureau of Onderzoek en Statistiek: 'Geloven in Amsterdam' |format=PDF |accessdate=2012-04-25}}</ref>。
{{-}}
== 経済 ==
2019年、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[シンクタンク]]が発表したグローバル都市指標では世界20位の都市と評価された<ref name=":0">{{Cite web|title=Read @Kearney: A question of talent: how human capital will determine the next global leaders|url=http://www.kearney.com/global-cities/2019|website=www.kearney.com|accessdate=2020-07-14|language=en-US}}</ref>。特に報道自由性の項目では首位であった<ref name=":0" />。
[[File:ZuidasAmsterdamtheNetherlands.jpg|thumb|オランダの多国籍企業の多くが本社を置く[[:en:Zuidas|Zuidas]]]]
ヨーロッパ有数の金融都市アムステルダムには、[[ユーロネクスト・アムステルダム]](旧名称:[[アムステルダム証券取引所]])、[[オランダ銀行]]などがおかれ、オランダの多くの大企業がここに本社を置く。2020年にイギリスのシンクタンクZ/Yenグループが発表した調査によると、世界27位の[[金融センター]]と評価されている<ref>{{Cite web|title=GFCI 27 Rank - Long Finance|url=https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/gfci-27-explore-data/gfci-27-rank/|website=www.longfinance.net|accessdate=2020-07-14}}</ref>。日系企業としては[[ルノー=日産アライアンス]]の拠点、[[みずほ銀行]] 、[[西日本鉄道]] 、[[ホテルオークラ]]、<ref>[https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p170303.pdf 帝国データバンク 2020年3月12日閲覧 </ref>などがある。
===観光===
[[アンネ・フランク]]の家など観光資源が豊富であり、観光客を含む市内の宿泊数は2006年の年間800万泊から2016年の1400万泊へと拡大傾向にある。一方で、合法的な[[マリファナ]]を楽しめるカフェや興味本位で[[飾り窓]]などを訪れるなど、地元が歓迎しない観光客も増えており問題となっている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018年1月12日|url= https://www.travelvoice.jp/20180112-102383|title=オーバーツーリズムとは? 観光客の増え過ぎ問題、アムステルダムは規制強化へ |publisher=トラベルボイス |accessdate=2018-11-03}}</ref>。アムステルダム市には、合法的な飾り窓が集中するワレン地区(いわゆる[[赤線]])があるが、飾り窓の労働者からは観光客が多すぎて商売にならないとの声もあがっていること<ref>{{Cite web|和書|date= 2018年11月3日|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3195954 |title= アムステルダム市、赤線地区外での売春許可を検討 観光客対策で|publisher= AFP|accessdate=2018-11-03}}</ref>、また、性産業従事者が観光の目玉として扱われているという懸念を受け、市側は旅行会社が実施している見物ツアーを2020年1月以降は中止することとしている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-05-24 |url=https://www.cnn.co.jp/travel/35137443.html |title=「観光はよそへ行って」 アムステルダム、押し寄せる観光客に寛容も限界? |publisher= CNN|accessdate=2019-05-24}}</ref>。
== 教育 ==
[[ファイル:University of Amsterdam 235 2094.jpg|thumb|right|[[アムステルダム大学]]]]
=== 大学 ===
市内には、1632年に創立された公立の[[アムステルダム大学]]と、1880年に創立されたキリスト教系の[[アムステルダム自由大学]]がある。どちらも学生数2万人を超える大規模な大学である。
アムステルダム自由大学のキャンパスは[[アムステルダム南駅]]近くにまとまっているが、アムステルダム大学のキャンパスはアムステルダム市内各所に分散して存在している。例えば経済学部はメトロWeesperplein駅近くにあり、法学部は中央区のスパイ近くの旧市街にある。
=== 高等職業教育機関 ===
[[:en:Hogeschool van Amsterdam|アムステルダム職業大学]]、[[:en:Amsterdamse Hogeschool voor de Kunsten|アムステルダム芸術職業大学]]、ヘーリット・リートフェルトアカデミーなどの[[職業大学]](HBO)がある。
== 観光 ==
{{Main|[[:en:Amsterdam Tourist Attractions]]}}
=== 美術館・博物館など ===
[[ファイル:Van Gogh Museum, Kurokawa wing.jpg|thumb|[[ゴッホ美術館]]]]
[[File:KeizersgrachtLeliegracht.jpg|thumb|市内の[[アムステルダムの運河|運河]]を巡る観光船]]
* [[アムステルダム国立美術館]]
* [[ゴッホ美術館]]
* [[アンネ・フランクの家]]
* [[レンブラントの家]]
* [[オランダ東インド会社]]跡
* [[ハイネケン]]・エクスピリエンス (ビール博物館)
=== 著名な建築物 ===
* 王宮 - [[1648年]]に市庁舎として建てられ、ナポレオン戦争中の[[1810年]]に[[ホラント王国]]の王宮とされた。
* 新教会
* 旧教会
* [[アムステルダム中央駅]]
* [[ムント塔]]
* [[計量所 (アムステルダム)|計量所]]
=== その他 ===
* [[運河]]
* [[飾り窓]]
* [[コーヒーショップ (オランダ)|コーヒーショップ]]
* [[ダム広場]]
* [[レンブラント広場]]
* [[ウォータールー広場 (アムステルダム)|ワーテルロー広場]]
== 交通 ==
この町は[[自転車]]に乗る人が多く、車道と歩道の間に自転車専用路が設けられている。中央駅付近には巨大な駐輪場があり、絵葉書などにも自転車をあしらったものがある。
=== 空港 ===
[[File:Schiphol-plaza-ns.jpg|thumb|[[アムステルダム・スキポール空港]]]]
市の南西に接する形で[[アムステルダム・スキポール空港]]がある。[[アムステルダム中央駅]]や[[アムステルダム南駅]]などからは鉄道で10〜20分程度で結ばれている。アムステルダム南駅や[[アムステルフェーン]]ビネンホフからはバスが10分に1本程度運行されている。
=== 道路 ===
市の外縁には環状高速道路 ([[:nl:Rijksweg 10|Ring, A10]]) が一周し、そこから以下の放射状路線が分岐している。
* [[:nl:Rijksweg 1|A1]] (E231, [[:en:European route E30|E30]]) : [[アメルスフォールト]]、[[アペルドールン]]、[[ドイツ]]の[[ハノーファー]]方面へ
* [[:nl:Rijksweg 2|A2]] (E35, [[:en:European route E25|E25]]) : [[ユトレヒト]]、[[アイントホーフェン]]、[[マーストリヒト]]、[[ベルギー]]の[[リェージュ]]方面へ
* [[:nl:Rijksweg 4|A4]] ([[:en:European route E19|E19]]) : [[アムステルダム・スキポール空港]]、[[デン・ハーグ]]、[[ユトレヒト]]、[[ベルギー]]の[[アントウェルペン]]方面へ
* [[:nl:Rijksweg 8|A8]] : [[ザーンスタット]]方面
旧市街中心部の道幅は狭く自動車の乗り入れも困難なため、[[トラム (アムステルダム)|トラム]]や[[自転車]]が主要交通手段である。運河沿いや路地など細い道を除き自転車専用レーンが設けられ、信号は自動車や歩行者とは別に自転車専用信号が設置されていることが多い。なお、自転車も道路右側を走ることが義務付けられており、自転車専用レーンであっても逆行は許されない。
アムステルダムは世界で最も自転車の走行しやすい都市のひとつとして知られており、わずかな料金で使用できる駐輪場や自転車スタンドが町のあちらこちらに設置され、自転車文化が発達している。2006年にはアムステルダムには465000台の自転車があった<ref>{{cite web |last=Research and Statistics Division |title=Introduction |work=Traffic and Infrastructure |language=Dutch |publisher=City of Amsterdam |url=http://www.os.amsterdam.nl/feitenencijfers/24106/ |accessdate=2008-10-04}}</ref>。一方で盗難も多く、2005年には54,000台の自転車がアムステルダムで盗まれた<ref>{{cite web |last=Research and Statistics Division |title=Core Numbers in Graphics: Fewer Bicycle Thefts |work=Safety and Nuissance |language= Dutch |publisher=City of Amsterdam |url=http://stadstat.osamsterdam.nl/programakkoord.pl?onderwerp=ov&cache_version=6 |accessdate=2008-10-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080822155119/http://stadstat.osamsterdam.nl/programakkoord.pl?onderwerp=ov&cache_version=6 |archivedate=2008-08-22}}</ref>。平坦な地形や自動車の運転しにくさなどから、アムステルダムでは自転車はすべての社会階層の人々によって利用されており、小さなアムステルダムで自転車道の総延長は400kmにものぼる<ref>{{cite web |title=Cycling in Amsterdam |publisher=amsterdamtips.com |url=http://www.amsterdamtips.com/tips/cycling-in-amsterdam.php |accessdate=2010-08-11| archiveurl= https://web.archive.org/web/20100917063831/http://amsterdamtips.com/tips/cycling-in-amsterdam.php| archivedate= 2010-09-17 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>。
=== 鉄道 ===
[[ファイル:Tram25 Damrak 2011.JPG|thumb|[[トラム (アムステルダム)|トラム]]及び[[アムステルダム中央駅]]]]
市街地外周を環状に[[オランダ鉄道]]の路線が設けられており、市街地北端の[[アムステルダム中央駅]]からはオランダ全土への長距離列車だけでなく、[[ベルギー]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]などへの[[高速鉄道]]や、[[オーストリア]]、[[ポーランド]]、[[ロシア]]などへの[[国際列車]]も発着している。なお、一部の列車は中央駅を経由せず[[アムステルダム南駅]]などに停車するものもある。
{{main|オランダ鉄道|オランダ高速鉄道}}
市街地中心部の鉄道網は[[アムステルダム市営交通会社|市営交通会社(GVB)]]により運行されている[[トラム (アムステルダム)|トラム]]や、市街地と郊外を結んでいる[[メトロ (アムステルダム)|メトロ]]などがある。トラムはヨーロッパの中でも大きな路面電車網である。また、メトロ路線には地下駅が少ないため「アムステルダム地下鉄」という訳語はあまり使われないが、2018年7月22日に運行開始した北南線 (Noord/Zuidlijn) の開業によって地下駅の数が少し増えた。トラムやメトロの一部の路線は隣の[[アムステルフェーン]]や[[アウデル・アムステル]]、[[ディーメン]]まで延伸している。
{{main|メトロ (アムステルダム)|トラム (アムステルダム)}}
=== バス ===
[[バス (交通機関)|バス]]は主に郊外や近郊都市との間で運行されており、[[アムステルダム中央駅|中央駅]]、マルニクス通り、[[アムステル駅]]の各バスターミナルから[[アムステルダム市営交通会社|GVB]], Connexxion, Arrivaなどが運行している。また、[[ユーロラインズ]]などの[[国際バス]]はアムステル駅バスターミナルから発着している。
=== 水運 ===
{{see also|アムステルダムの運河}}
アムステルダム港は外航船が通航できる[[北海運河]]によって[[北海]]と結ばれている。市街地中心部を網の目状に張り巡らされている運河は、各所の閘門を経由してアムステル運河や北海運河と接続されている。また、主要な運河を横切る道路や鉄道路線の橋は、跳ね橋のような可動橋となっている。運河は観光用のクルーズ船が運航されている他、市街地中心部と市北部の間のアイ湾を横断するフェリーのみは無料で運航されている。
== 公園 ==
アムステルダム市内には市街地中心にある[[フォンデル公園]]をはじめ、スローテル公園、レンブラント公園、ベアトリクス公園、アムステル公園など多くの公園がある。また、隣の[[アムステルフェーン]]市との間には935haの広大な[[アムステルダム・ヴォス公園|アムステルダムセ・ボス]]が存在している。
== スポーツ ==
=== サッカー ===
{{Main|アヤックス・アムステルダム|ヨハン・クライフ}}
アムステルダムで最も人気の[[スポーツ]]は[[サッカー]]であり、プロサッカーリーグの[[エールディヴィジ]]に所属する'''[[アヤックス・アムステルダム|AFCアヤックス]]'''(''AFC Ajax'')は、世界的にも非常に有名なクラブとして知られる。クラブは[[1900年]]に創設されており、ホームスタジアムは収容人員55,865人([[2022年]]現在)の[[ヨハン・クライフ・アレナ]](''Johan Cruijff ArenA'')である。
AFCアヤックスは[[エールディヴィジ]]史上最多の36回の優勝を飾っており、[[KNVBカップ]]でも史上最多の20回の優勝を果たしている。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]においても、オランダのクラブ最多となる4度の優勝を成し遂げている。[[1965年]]に[[リヌス・ミケルス]]監督によって具現化された戦術、'''[[トータルフットボール]]'''は余りにも有名である。また、元[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]である[[ヨハン・クライフ]]も、アムステルダムの東部にある{{仮リンク|ベトンドルプ|nl|Betondorp}}の出身である。
=== 野球・ソフトボール ===
オランダは[[野球]]・[[ソフトボール]]において[[イタリア]]と共に[[ヨーロッパ]]における強豪国として知られている。アムステルダムを拠点とする[[アムステルダム・パイレーツ]]はオランダを代表する野球チームの1つである。
== 姉妹都市・提携都市 ==
アムステルダムは以下の都市と姉妹都市関係を結んでいる<ref name="nrc.nl">{{cite web |url=http://vorige.nrc.nl/international/Features/article2321785.ece/Amsterdam_redefines_town-twinning_as_aid |title=nrc.nl – International – Features – Amsterdam redefines town twinning as aid |last=nrc handelsblad |work=vorige.nrc.nl |year=2011 [last update] |accessdate=2011-07-02}}</ref>。
{{colbegin|2}}
* {{flagicon|GRE}} [[アテネ]]、[[ギリシャ]]
* {{flagicon|COL}} [[ボゴタ]]、[[コロンビア]]
* {{flagicon|GBR}} [[マンチェスター]]、[[イギリス]]
* {{flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]、[[トルコ]]<ref name="Istanbul1">{{cite web|url=http://www.greatistanbul.com/sister_cities.htm|title=Sister Cities of Istanbul|accessdate=2009-07-01| archiveurl= https://web.archive.org/web/20090527130230/http://www.greatistanbul.com/sister_cities.htm| archivedate= 2009-05-27 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref><ref name="Istanbul2">{{cite news|url=http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=94185|publisher=Radikal|language=Turkish|date=2009-07-01|quote=49 sister cities in 2003|title=İstanbul'a 49 kardeş|last=Erdem|first=Selim Efe|accessdate=2009-07-22}}</ref>
* {{flagicon|BRA}} [[レシフェ]]、[[ブラジル]](2009年)
* {{flagicon|BRA}} [[ブラジリア]]、[[ブラジル]]
* {{flagicon|NIC}} [[マナグア]]、[[ニカラグア]](1984年)
* {{flagicon|CAN}} [[モントリオール]]、[[カナダ]]
* {{flagicon|CUR}} [[ウィレムスタット]]、[[キュラソー島]](2009年)
* {{flagicon|CHN}} [[北京]]、[[中華人民共和国]]<ref name="Beijing">{{cite web|url=http://www.ebeijing.gov.cn/Sister_Cities/Sister_City/|title=Sister Cities|publisher=Beijing Municipal Government|accessdate=2009-06-23}}</ref>
* {{flagicon|ALG}} [[アルジェ]]、[[アルジェリア]]
* {{flagicon|CYP}} [[ニコシア]]、[[キプロス]]
* {{flagicon|RUS}} [[モスクワ]]、[[ロシア]]
* {{flagicon|LAT}} [[リガ]]、[[ラトビア]]
* {{flagicon|BIH}} [[サラエボ]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]
* {{flagicon|UKR}} [[キエフ]]、[[ウクライナ]]
{{colend}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 関連項目 ==
* [[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団]] - アムステルダムを本拠地とする、オランダを代表する[[オーケストラ]]
* [[カナビス・カップ]]
* [[アムステルダム・バロック管弦楽団]]
* [[欧州文化首都]]
* [[ボス・エン・ロマー市場]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Amsterdam|Amsterdam}}
; 公式
* [https://www.amsterdam.nl/ アムステルダム市公式サイト] {{nl icon}}
; その他
* [https://www.excelman.com/ja/galerie/europe/%e3%82%aa%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%80/%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%ab%e3%83%80%e3%83%a0%ef%bc%9a%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%87%e3%82%a3%e3%83%8d%e3%83%bc%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%81%ae%e3%83%ad%e3%82%b1%e7%8f%be%e5%a0%b4%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%ae%e5%86%99%e7%9c%9f.html オランダ,アムステルダム:報道撮影取材のロケ現場からの写真]
* {{Kotobank}}
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[[Category:アムステルダム|*]]
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10,033 |
種村有菜
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種村 有菜(たねむら ありな、1978年3月12日 - )は、日本の漫画家。本名同じ。愛知県一宮市出身。血液型はA型。
デビューからカラーイラストは全てアナログ作業で行い、着色には透明水彩絵の具やカラーインク・コピックの両方を使用していたが、2016年頃からはアナログと並行し、CLIP STUDIO PAINT等を使用して、一部のイラストの着彩、また原稿をデジタル環境で制作している。
キャラクターでは、『紳士同盟†』の“小牧”や“春日”、『神風怪盗ジャンヌ』の“名古屋”など、種村の出身地である愛知県の地名を名前及び苗字にすることが多い。苗字に関しては『神風怪盗ジャンヌ』は漢字3文字、『紳士同盟†』では必ず“宮”が入っており、『時空異邦人KYOKO』では一部を除いたストレンジャーの苗字に色の名前が入っているという特徴がある。
自身のルーツは「風の谷のナウシカ」とのこと。水沢めぐみ、谷川史子、楠桂、貞本義行の作品や、『ときめきトゥナイト』、『星の瞳のシルエット』などを好きな漫画としてあげている。
同人音楽家として、2010年の冬コミにて、「目黒帝国」というサークル名で、作詞と歌唱(ボーカル)を担当したデビュー15周年記念同人CD『純愛天使』を販売(2011年1月にアニメイトでも販売された)。その後もサークル活動を行っている。
同人作家としても活動しており、東日本大震災の被災者を支援する為に、他の漫画家有志と共同で東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」で執筆する。提案者のこげどんぼ*とともに表紙絵も担当した。
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種村 有菜は、日本の漫画家。本名同じ。愛知県一宮市出身。血液型はA型。
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{{存命人物の出典明記|date=2009年2月1日 (日) 06:58 (UTC)}}
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'''種村 有菜'''(たねむら ありな、[[1978年]][[3月12日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。本名同じ。[[愛知県]][[一宮市]]出身<ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110818/CK2011081802000106.html?ref=rank 「故郷に錦」漫画原画展 一宮出身・種村有菜さん](2011年8月18日、[[中日新聞]])</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、190頁</ref>。
== 来歴 ==
* [[1996年]]、[[集英社]]の『[[RIBONオリジナル|りぼんオリジナル]]』6月号にて掲載された、「[[かんしゃく玉のゆううつ#2番目の恋のかたち|2番目の恋のかたち]]」でデビュー。
* [[1997年]]、デビューから第3作目の「[[かんしゃく玉のゆううつ#かんしゃく玉のゆううつ|かんしゃく玉のゆううつ]]」で『[[りぼん]]』本誌初掲載を果たすと、同年『りぼん』6月号から『[[イ・オ・ン]]』で初連載。
* [[1998年]]、『[[神風怪盗ジャンヌ]]』を連載。同作は累計発行部数500万部を突破する大ヒットとなり、テレビアニメ化もされ、自身の代表作となった。
* [[2002年]]、『[[満月をさがして]]』を連載。『神風怪盗ジャンヌ』同様にテレビアニメ化される。
* [[2004年]]、『[[紳士同盟†]]』を連載。約4年間に渡る連載となり、種村にとって最長連載作品となった。
* [[2008年]]5月30日からの1年間、[[インターネットラジオ]]サイトの[[S-ラジ]]にて、自身が[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務めるインターネットラジオ番組・「種村有菜のラジオDEシャキン★」が放送される。
* [[2009年]]、『[[桜姫華伝]]』を連載。同作コミックス第11巻内において、全50話で完結させることを発表。
* [[2011年]]、『りぼん』との専属契約が終了<ref>[https://web.archive.org/web/20120520103459/http://rikukai.arina.lolipop.jp/?eid=1073375 有菜日記] 2011年11月10日閲覧</ref>。同年、同社の『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』にて『[[風男塾物語]]』を連載。
* [[2012年]]、前年の契約終了のことから、『りぼん』12月号を以って『りぼん』から離籍。
== 作風と影響 ==
デビューからカラーイラストは全てアナログ作業で行い、着色には透明水彩絵の具やカラーインク・コピックの両方を使用していたが、2016年頃からはアナログと並行し、[[CLIP STUDIO PAINT]]等を使用して、一部のイラストの着彩、また原稿をデジタル環境で制作している。
キャラクターでは、『紳士同盟†』の“小牧”や“春日”、『神風怪盗ジャンヌ』の“名古屋”など、種村の出身地である愛知県の地名を名前及び苗字にすることが多い。苗字に関しては『神風怪盗ジャンヌ』は漢字3文字、『紳士同盟†』では必ず“宮”が入っており、『時空異邦人KYOKO』では一部を除いたストレンジャーの苗字に色の名前が入っているという特徴がある。
自身のルーツは「[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]」とのこと<ref name="BL">{{Cite web|和書|url=https://booklive.jp/feature/index/id/wagakoma18|author=[[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]|title=田中圭一×『31☆アイドリーム』種村有菜先生インタビュー|date=2015-11-27|accessdate=2016-08-06|publisher=[[BookLive]]}}</ref>。[[水沢めぐみ]]、[[谷川史子]]、[[楠桂]]、[[貞本義行]]の作品や、『[[ときめきトゥナイト]]』、『[[星の瞳のシルエット]]』などを好きな漫画としてあげている<ref name="BL"/>。
== 交友・人物 ==
* [[ハロー!プロジェクト]]の「[[Berryz工房]]」や「[[モーニング娘。]]」が大好きであり、ライブにも通っている。
* ラジオDJ[[小森まなみ]]のファンとしても有名で、小森や[[myco]](『満月をさがして』の神山満月役)、[[桑島法子]](『神風怪盗ジャンヌ』の日下部まろん役)のラジオ番組に時々ゲストで出演することも。また、2011年よりmycoとアニメソングを唄ったりするライブイベント「満月禁猟区」を度々開催している。
* 芸能人の友人も多く、[[中川翔子]]、[[椿姫彩菜]]、[[日向めぐみ|megrock]]などとの交友が深い。特に中川とは『りぼん』誌上で対談をしたり、プライベートで遊びに行ったことをお互いのブログで紹介している。また中川の著書に種村が2人の出会いを描いたショートストーリーを寄稿している。「[[中野風女シスターズ]]」の[[喜屋武ちあき]]も友人であり、メンバーに種村作品のファンがいたこともあって、彼女達とも仲良くなり、ライブにも通うようになった。なお、風男塾の推しメンは赤園虎次郎<ref>「風男塾物語」収録のスペシャル対談Vol.1より</ref>。
* 基本的にメディアへの積極的な顔出しはしていないが、自身や中川のブログで素顔を伺うことが出来る。逆にラジオなど声の出演には積極的で、自身のネットラジオの他に歌(『満月をさがして』オリジナルアルバムにて主人公・フルムーンの歌を歌唱)・『りぼん』本誌の付録CD-ROMに収録された『満月をさがして』のタイピングゲームで台詞を読み上げる・声優(アニメ『神風怪盗ジャンヌ』『満月をさがして』看護士役、『紳士同盟†』ドラマCD・まおら役)としても出演したことがある。
== 同人活動 ==
同人音楽家として、2010年の[[コミックマーケット|冬コミ]]にて、「目黒帝国」というサークル名で、作詞と歌唱(ボーカル)を担当したデビュー15周年記念同人CD『純愛天使』を販売(2011年1月に[[アニメイト]]でも販売された)。その後もサークル活動を行っている。
同人作家としても活動しており、[[東日本大震災]]の被災者を支援する為に、他の漫画家有志と共同で[[東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」]]で執筆する<ref>[https://web.archive.org/web/20120512113023/http://koge.kokage.cc/earthquake/ 東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」]</ref>。提案者の[[こげどんぼ*]]とともに表紙絵も担当した。
== 作品一覧 ==
=== 連載 ===
* [[イ・オ・ン]](『りぼん』1997年6月号 - 同年11月号)
* [[神風怪盗ジャンヌ]](『りぼん』1998年2月号 - 2000年7月号)
* [[時空異邦人KYOKO]](『りぼん』2000年9月号 - 2001年9月号)
* [[満月をさがして]](『りぼん』2002年1月号 - 2004年6月号)
* [[紳士同盟†|紳士同盟†]](『りぼん』2004年9月号 - 2008年7月号)
* [[絶対覚醒天使ミストレス☆フォーチュン|絶対覚醒天使ミストレス☆フォーチュン]](『りぼん』2008年7月号 - 同年9月号)
* [[桜姫華伝]](『りぼん』2009年1月号 - 2013年1月号)
* [[風男塾物語]](『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』2011年16号 - 同年23号)
* [[猫と私の金曜日]](『マーガレット』2013年5号 - 2015年24号)
* [[31☆アイドリーム|31☆アイドリーム]](『[[MELODY (雑誌)|メロディ]]』2013年6月号 - '''連載中''')
* 悪魔にChic×Hack<small>(シックハック)</small><ref>{{Cite web|和書|url=http://margaret.shueisha.co.jp/story/akumani.html |title=作品紹介『悪魔にChic×Hack』|work=集英社 マーガレット公式サイト |accessdate=2016-10-08}}</ref>(『マーガレット』2016年8号<ref name="natalie">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/180444 |title=種村有菜の新連載は悪魔の姫と人間の恋描く「悪魔にChic×Hack」|date=2016-03-20 |work=コミックナタリー |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|株式会社ナターシャ]] |accessdate=2016-03-21}}</ref> - 2016年21号<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/204378 |title=Sっ気のある一途な男子への恋描くマーガレット新連載、「ハイキュー!!」特集も|date=2016-10-05 |work=コミックナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |accessdate=2016-10-08}}</ref>)
* [[アイドリッシュセブン]]シリーズ ※作画担当、原作は[[バンダイナムコグループ|バンダイナムコオンライン]]、小説原作は[[都志見文太]]
** アイドリッシュセブン TRIGGER -before The Radiant Glory-(『[[LaLaDX]]』2016年3月号 - 同年7月号)
** アイドリッシュセブン MEZZO”-紫青の霹靂-(『LaLaDX』2016年11月号 - 2017年1月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/pp/idolish7_4|title=「アイドリッシュセブン」コミカライズ特集 種村有菜インタビュー |work=コミックナタリー |publisher= |accessdate=2016-10-22}}</ref>)
** アイドリッシュセブン 流星に祈る(『LaLaDX』2017年3月号 - 同年5月号)
** アイドリッシュセブン クーラーとパンツ(『LaLaDX』2017年7月号 - 同年9月号)
** アイドリッシュセブン グッドモーニング、ラフター!/朝の寮にいる(『LaLaDX』2017年11月号)
** アイドリッシュセブン Re:member(『LaLaDX』2018年1月号 - '''連載中''')
=== 他誌連載 ===
* 瞬間ライル(『[[コミックZERO-SUM]]』2015年12月号 - 2018年6月号)※原作担当、作画は[[喜久田ゆい]]
==== エッセイ ====
* 有菜の種(『[[Cobalt (雑誌)|Cobalt]]』2008年9月号 - 2016年5月号<ref>同号で雑誌が休刊。終了告知はない。</ref>、『集英社Webマガジンコバルト』2016年6月17日 - )
==== クイズコーナー ====
* なんでもクイズ学園(『りぼん』1997年1月号 - 12月号)
=== 読み切り ===
* [[かんしゃく玉のゆううつ#2番目の恋のかたち|2番目の恋のかたち]](1996年『りぼんオリジナル』6月号)
* [[かんしゃく玉のゆううつ#雨の午後はロマンスのヒロイン|雨の午後はロマンスのヒロイン]](1996年『りぼんオリジナル』10月号)
* [[かんしゃく玉のゆううつ#かんしゃく玉のゆううつ|かんしゃく玉のゆううつ]](1997年『りぼん』2月号)
* [[かんしゃく玉のゆううつ#この恋はNONフィクション|この恋はNONフィクション]](1997年『りぼんびっくり大増刊号』早春号)
* [[満月をさがして#吟遊名華|吟遊名華]](2001年『りぼん』11月号)
* [[紳士同盟†#少女イブ☆林檎じかけの24時|少女イブ☆林檎じかけの24時]](2007年『りぼん春の超びっくり大増刊号』3月号)
* [[紳士同盟†#海の地球儀・夜想曲|海の地球儀・夜想曲]](2007年『りぼんスペシャル』10月号)
* [[桜姫華伝#白薔薇学園ヴァンパイア・ローズ|白薔薇学園ヴァンパイア・ローズ]](2009年『りぼんファンタジー増刊号』)
* [[桜姫華伝#天使の金貨 メイプルローズ|天使の金貨 メイプルローズ]](2010年『りぼんスペシャル』春の大増刊号)
=== CDアルバム ===
* '''種村有菜15周年記念テーマソング集「純愛天使」'''<ref>{{Cite web|和書|date=2010-12-22 15:30|url=https://news.nicovideo.jp/watch/nw16951|title=有菜っちが全曲歌う!種村有菜作品テーマソングCD発売|work=|author=|publisher=[[ニコニコニュース]]|accessdate=2013-03-26}}</ref> (2010年12月29日にコミックマーケット79より先行発売)
* '''種村有菜 オリジナル・テーマソング・アルバム「Princess Tiara」'''<ref>{{Cite web|和書|date=2013-02-27|url=https://news.mynavi.jp/article/20130227-a141/|title=歌うマンガ家・種村有菜の作品テーマソングCDが3月発売|work=|author=|publisher=[[マイナビニュース]]|accessdate=2013-03-26}}</ref> (トレジャーオブミュージック、2013年3月13日発売) YZFE-10005
=== ゲーム ===
* [[アイドリッシュセブン]] キャラクター原案<ref>{{Cite web|和書|date=2015-06-10|url=https://natalie.mu/music/news/150082|title=男子アイドル育成ゲーム「アイドリッシュセブン」始動、音楽はkz|work=|author=|publisher=音楽ナタリー|accessdate=2015-06-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://idolish7.com/|title=アイドリッシュセブン|work=|author=|publisher=|accessdate=2015-06-10}}</ref>
* Alice Closet(2018年10月10日 - 2022年8月31日) キャラクター原案<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bs-log.com/20181010_1317342/|title=【新作】種村有菜氏キャラクター原案、“花人形”着せ替えゲーム『Alice Closet』が始動!|publisher=ビーズログ.com|accessdate=2019-11-26|date=2018-10-10}}</ref>
=== 書籍 ===
==== 挿絵・表紙絵 ====
* 小説 [[アイドリッシュセブン]](白泉社)表紙、挿絵
** 小説 アイドリッシュセブン 流星に祈る(著:都志見文太)
** 小説 アイドリッシュセブン アイナナ学園(著:[[佐々木禎子 (小説家)|佐々木禎子]])
** 小説 アイドリッシュセブン Re:member(著:都志見文太)
* 秘密の姫君はじゃじゃ馬につき 全2巻(著:かわせ秋、KADOKAWA)表紙・挿絵
* [[怪盗紳士リュパン]](著:[[モーリス・ルブラン]]、訳/[[石川湧]]、東京創元社)[[創元推理文庫]]60周年フェア期間限定表紙<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/comic/gallery/news/320453/1110095 |title=東京創元社の文庫フェアにマンガ家10名、お気に入り作品のカバー描き下ろす(画像ギャラリー 5/10)|publisher=コミックナタリー|accessdate=2022-12-20|date=2019-02-18}}</ref>
==== アンソロジー・ゲスト寄稿 ====
* 別冊コバルト文庫(『[[Cobalt (雑誌)|Cobalt]]』2011年9月号付録)(集英社)有菜の種 出張版(「[[マリア様がみてる]]」を語るエッセイマンガ<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/comic/news/54075 |title=種村有菜描く「マリア様がみてる」などコバルトにアンソロ|publisher=コミックナタリー|accessdate=2022-12-20|date=2011-08-01}}</ref>)
* 別冊コバルト文庫おかわりっ(『Cobalt』2012年9月号付録)(集英社)有菜の種 番外編(ミステリー体験)
* 別冊コバルト文庫3杯目っ!(『Cobalt』2013年9月号付録)(集英社)有菜の種 出張版(シンガポール旅行記)
* [[ピノコ]]トリビュート アッチョンブリケ![[手塚治虫]]「[[ブラック・ジャック]]」40周年アニバーサリー!(秋田書店)漫画
* 漫画家の猫([[一迅社]])飼い猫の写真集
* 漫画家ごはん日誌 たらふく([[祥伝社]])食エッセイ漫画
* コミックス [[アイドリッシュセブン]](著:山田のこし、白泉社)四コマ漫画
* 刀剣乱舞学園 [[刀剣乱舞|刀剣乱舞-ONLINE-]]アンソロジーコミック(白泉社)イラスト、漫画
* [[桃組プラス戦記]]イラスト集「八彩」(KADOKAWA/角川書店)イラスト
* [[KIRIMIちゃん.]]ぎじんかマジカルプレミアムBOOK★(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)イラスト
* [[囚われのパルマ]] 公式アンソロジー ハルト編(一迅社)漫画
=== アニメ ===
* [[少年メイド]] 第4話エンドカード
* [[荒川アンダー ザ ブリッジ]]×ブリッジ 第12話エンドカード
* [[私の百合はお仕事です!]] 第7話エンドカード
=== その他 ===
* [[ノージーのひらめき工房]] 「わたしのかき方」コーナー げんきな顔(2018年6月16日放送)
* [[資生堂]] - [[TSUBAKI]]「働くワタシの髪事情」(ウェブCM、2019年9月2日配信開始)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/345537|title=種村有菜・萩尾望都が資生堂TSUBAKIとコラボ、萩尾「WEBCMの作品は初めて」|publisher=コミックナタリー|accessdate=2019-11-26|date=2019-09-02}}</ref>
* テレビアニメ「[[魔術士オーフェン (アニメ)|魔術士オーフェンはぐれ旅]]」(応援イラスト、2020年1月22日<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20200122dog00m200018000c.html|title=魔術士オーフェン:「神風怪盗ジャンヌ」の種村有菜がオーフェン描く 草河遊也も 応援イラスト公開|newspaper=MANTANWEB|publisher=MANTAN|date=2020-01-22|accessdate=2023-05-17}}</ref>
* [[Too]] - [[コピック]]チャオ スタートセット(イメージイラスト、2020年10月1日発売)<ref>{{Cite web|和書|url=https://copic.jp/news/20201001/|title=コピックチャオ スタートセット発売のお知らせ|date=2020-10-01|accessdate=2020-10-14}}</ref>
* 泡沫のくゆり メインキャラクター・猿(キャラクターイラスト、2021年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/457968|title=岡宮来夢×江口拓也×西山宏太朗「泡沫のくゆり」プロジェクト始動、種村有菜が参加|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-16|accessdate=2021-12-16}}</ref>)
* Disney Frozen 2: The Manga (2021年2月9日発売<ref>{{Cite web |title=VIZ: Read a Free Preview of Disney Frozen 2 |url=https://www.viz.com/read/manga/frozen-2/product/6589 |website=www.viz.com |access-date=2022-06-25 |language=en-US}}</ref>) 作画担当。<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/arinacchi/status/1360897647326863362 |url=https://twitter.com/arinacchi/status/1360897647326863362 |website=Twitter |access-date=2022-06-25 |language=ja}}</ref>[[アナと雪の女王2]]のコミカライズ。未邦訳。
== 刊行作品 ==
* イ・オ・ン(全1巻・文庫版全1巻)
* かんしゃく玉のゆううつ(全1巻)
* 神風怪盗ジャンヌ(全7巻・完全版全6巻・文庫版全5巻)
* 時空異邦人KYOKO(全3巻・文庫版全2巻)
* 満月をさがして(全7巻・文庫版全4巻)
* 紳士同盟†(全11巻・文庫版全7巻)
* 絶対覚醒天使ミストレス☆フォーチュン(全1巻)
* 桜姫華伝(全12巻)
* 有菜の種(全1巻)
* 風男塾物語(全1巻)
* 種村有菜 恋愛物語集(文庫版) - 『吟遊名華』から『天使の金貨 メイプルローズ』までを集めた短編集。
* 猫と私の金曜日(全11巻)
* 31☆アイドリーム(既刊6巻)
* 瞬間ライル(全4巻)
* アイドリッシュセブン TRIGGER -before The Radiant Glory-(全1巻)
* 悪魔にChic×Hack(全2巻)
* 有菜の種〜日常編〜(全1巻)
* アイドリッシュセブン 流星に祈る(全2巻)
* Disney Frozen 2: The Manga (全1巻)-未邦訳
=== イラスト集ほか ===
{|class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;"
|-
!本!!発売日!!タイトル!!出版社!!ISBN
|-
|1||2000年6月30日||'''神風怪盗ジャンヌ <small>種村有菜イラスト集</small>'''||rowspan="4"|集英社||{{ISBNT|4-08-855097-8}}
|-
|2||2004年4月15日||'''種村有菜COLLECTION <small>満月をさがして</small>'''||{{ISBNT|4-08-855106-0}}
|-
|3||2008年6月13日||'''紳士同盟† <small>種村有菜イラスト集</small>'''||{{ISBNT|978-4-08-782172-7}}
|-
|4||2009年4月24日||'''PAINTりぼん art of 種村有菜'''||{{ISBNT|978-4-08-908102-0}}
|-
|5||2019年9月13日||'''イラストメイキングブック 種村有菜'''||[[復刊ドットコム]]||{{ISBNT|978-4-8354-5696-6}}
|-
|}
== アシスタント ==
* [[喜久田ゆい|浅野伽々]](現:[[喜久田ゆい]]、[[白泉社]]の『[[花とゆめ]]』でデビュー<ref name=kj1>『神風怪盗ジャンヌ』第1巻、巻末「出撃!!聖☆アシスタンツ」より</ref>)
* [[水瀬藍]]([[小学館]]の『[[Sho-Comi]]』でデビュー<ref name=kj1/>)
* [[川瀬夏菜]](白泉社の『[[LaLa]]』でデビュー<ref>『神風怪盗ジャンヌ』第5巻柱、「すぺしゃるさんくす。」より</ref>)
* 加月るか(『りぼん』でデビュー<ref name=kj1/>)
* [[華夜|あさの華夜]](現:[[華夜]]、『Sho-Comi』でデビュー<ref>『満月をさがして』第3巻柱、「すぺしゃるさんくす☆」より</ref>)
* 雛乃さおり
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[日本の漫画家一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://tanemuraarina.com/ 種村有菜オフィシャルサイト]
* {{Amebaブログ|arina-tanemura|種村有菜オフィシャルブログ「苺*いちえ」}}(2012年4月6日〜2016年3月13日)
* {{Twitter|arinacchi|種村有菜}}
* [https://web.archive.org/web/20121223021336/http://rikukai.arina.lolipop.jp/ 有菜日記]{{リンク切れ|date=2018年4月}} - 作者本人によるブログ。実は1997年に始めたブログ。本人談。(2005年5月26日〜2012年3月23日)
* [https://web.archive.org/web/20160426161033/http://ribon.shueisha.co.jp/data/sensei/tanemura_sensei.html りぼんわくわくステーション 種村有菜先生のデータ][https://archive.fo/K1sGu]{{リンク切れ|date=2018年4月}}
{{種村有菜}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たねむら ありな}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:同人作家]]
[[Category:同人音楽の作詞家]]
[[Category:同人ボーカル]]
[[Category:愛知県出身の人物]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:1978年生]]
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10,034 |
前川涼
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前川 涼(まえかわ りょう、1978年12月21日 - )は日本の漫画家。
福岡県北九州市出身・在住。血液型はA型。身長153cm。
高校卒業後、『りぼんオリジナル』(集英社)1997年6月号に読み切り「恋は大騒ぎ」を発表し、デビュー。
当初はストーリー漫画家だったが、『りぼんオリジナル』でのクイズコーナー「みんなでクイズ アニマル横町」が人気となり、 その登場キャラクターをもとにしたギャグショート「アニマル横町」が少女漫画雑誌『りぼん』(集英社)にて連載開始。コミックスは既刊22巻(2022年現在)で現在も連載中であり、第51回(平成17年度)小学館漫画賞児童向け部門を受賞するほか、アニメ化するほどの人気作品となった。
好きな食べ物は、ごはん・麺類・トマト・茸・ネギ・牛タン。
好きな歌手はCHAGE and ASKA。
姉が1人おり、年子。ペットとして、ミニチュアダックスフントの「成(なる)」(♀)と、チワワの「小豆(こまめ)」(♀)を飼っている。
プライベートでは槙ようこ・種村有菜・福米ともみらとの親交が深い。また、『ちゃお』(小学館)の看板作家で同じ福岡県出身の篠塚ひろむとも仲が良い。
三国志好きで『アニマル横町』の中にはたびたび三国志ネタが登場している。好きな武将は曹魏の猛将、夏侯惇。
GBA版ゲーム、『アニマル横町 どき☆どき進級試験!の巻』には、「前川先生」という彼女をモチーフにしたキャラが登場している。
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前川 涼は日本の漫画家。 福岡県北九州市出身・在住。血液型はA型。身長153cm。
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}}
'''前川 涼'''(まえかわ りょう、{{要出典範囲|[[1978年]]|date=2022年11月}}[[12月21日]]<ref>[http://ribon.shueisha.co.jp/profile/index.html りぼんまんが家プロフ帳] - 集英社(2022年11月10日閲覧)</ref> - )は[[日本]]の[[漫画家]]。
[[福岡県]][[北九州市]]出身・在住。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]。身長153cm。
== 概要 ==
高校卒業後、『[[RIBONオリジナル|りぼんオリジナル]]』([[集英社]])[[1997年]]6月号に読み切り「恋は大騒ぎ」を発表し、デビュー。
当初はストーリー漫画家だったが、『りぼんオリジナル』でのクイズコーナー「みんなでクイズ アニマル横町」が人気となり、
その登場キャラクターをもとにしたギャグショート「[[アニマル横町]]」が[[少女漫画]]雑誌『[[りぼん]]』([[集英社]])にて連載開始。コミックスは既刊22巻([[2022年]]現在)で現在も連載中であり、第51回(平成17年度)[[小学館漫画賞]]児童向け部門を受賞するほか、アニメ化するほどの人気作品となった。
== 人物 ==
好きな食べ物は、ごはん・麺類・[[トマト]]・[[キノコ|茸]]・[[ネギ]]・[[牛タン]]。
好きな歌手は[[CHAGE and ASKA]]。
姉が1人おり、年子。ペットとして、[[ダックスフント|ミニチュアダックスフント]]の「成(なる)」(♀)と、[[チワワ]]の「小豆(こまめ)」(♀)を飼っている。
プライベートでは[[槙ようこ]]・[[種村有菜]]・[[福米ともみ]]らとの親交が深い。また、『[[ちゃお]]』([[小学館]])の看板作家で同じ福岡県出身の[[篠塚ひろむ]]とも仲が良い。
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GBA版ゲーム、『アニマル横町 どき☆どき進級試験!の巻』には、「前川先生」という彼女をモチーフにしたキャラが登場している。
== 作品リスト ==
* [[アニマル横町]](『りぼん』にて連載中、第51回(平成17年度)小学館漫画賞・児童向け部門受賞、[[アニメ化]])
* 恋は大騒ぎ(デビュー作)
* ラブリー
* ぼくらの物語
* どきどき
* 青春いいじゃないか。
=== 単行本未収録作品 ===
* アニマル横町 アニ横こわい話〜どき☆どき恐怖のみぞ知る…の巻〜(『りぼん』2021年7月号別冊ふろく『怖いりぼん』)
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[福岡県出身の人物一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://okomae.pinoko.jp/ out*Life] - 本人のページ(停止中)
* {{twitter|okomae}}
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10,035 |
アルカリ
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アルカリ(蘭: alkali)とは一般に、水に溶解して塩基性(水素イオン指数 (pH) が7より大きい)を示し、酸と中和する物質の総称。
典型的なものにはアルカリ金属またはアルカリ土類金属の水酸化物(塩)があり、これらに限定してアルカリと呼ぶことが多い。これらは水に溶解すると水酸化物イオンを生じ、アレニウスの定義による酸と塩基の「塩基」に相当する。一方でアルカリをより広い「塩基」の意味で用いることもある。
アラビア語: القلي al-qily, القالي al-qālī に由来し、元来は植物の灰を意味する。ジャービル・イブン=ハイヤーンの命名による(カリウムも同語源)。これらを水に溶かした際に示す性質(例えば鹸化など)がアルカリという概念の始まりである。なお植物灰の主成分は炭酸カリウム、炭酸ナトリウムなどであり、アルカリ性を示すが狭義のアルカリではない(下記参照)。
ブレンステッドとローリーによる酸と塩基の定義以後、一般には、アルカリ金属およびアルカリ土類金属の水酸化物(塩)など、水に溶解すると水酸化物イオンを生じる物質を限定してアルカリと呼び、これらはアレニウスの定義による塩基に相当する。他にテトラアルキルアンモニウムの水酸化物などもこのアルカリに当たり、化学式は一般に M(OH)n(M は陽イオン M となり、n は1以上の整数である)と表される。またこれらの水溶液をアルカリと呼ぶこともある。特に、塩基解離定数がほぼ pKb < 0(Kb > 1)で、水酸化物イオンを定量的に生成するものを強アルカリまたは強塩基と呼ぶ。
水溶液に関しては、pH 7 より大きい塩基性のことをアルカリ性ともいう。農学では土壌に関して、おおむね pH 7.3 以上の場合をアルカリ性という。
また水に溶かした場合に弱塩基性を示すアンモニアやアミン、あるいはアルカリ金属の炭酸塩や燐酸塩などをアルカリに含めることもある。これらはそれ自体が水酸化物イオンを生じるわけではなく、その意味ではアルカリではないが、水分子からプロトンを奪うため結果的に水酸化物イオンを生じる。これらはブレンステッド・ローリーの定義による塩基に含まれる。
このほか、アルカリをブレンステッド・ローリーの定義による塩基の同義語として広く用いることもあるが、上記の性質を示さない塩基が多い。例えばアルカロイド(アルカリに由来する名前)や核酸の構成成分である塩基は、強酸とは塩を形成するが、水溶液で塩基性を示さない。
さらに、アルカリ金属・アルカリ土類金属の酸化物は水に入れると反応し水酸化物つまりアルカリを形成する。これら自体は基本的にはアルカリではないが、アルカリと呼ぶこともある。
岩石学では組成として酸化ナトリウム・酸化カリウムを多く含む火成岩を、アルカリ岩と分類する。
アルカリは、中濃度(濃度 10 mM 以上)の水溶液では pH 10 以上となる。高濃度水溶液は腐食性があり、また脂肪を鹸化し、タンパク質を変性させさらに加水分解する。アルカリ水溶液は触れるとヌルヌルした感触(石鹸に類する)があるが、これは皮膚の脂肪の鹸化などによる。低濃度では一般に苦味を呈する。一般には水に溶解するが、アルカリ土類金属水酸化物(水酸化カルシウムなど)には溶解度の低いものもあり、これらはアルカリ金属水酸化物ほど強いアルカリとはならない。
日本において「アルカリ」という言葉の使用が文献上確認できる最古の例は、江戸時代後期の『厚生新編』(1811 - 1840年)という蘭学書である。より詳しくは、alkali の語が「亜爾加里塩」と音訳された。『厚生新編』は大槻玄沢ら当時の蘭学者が Dictionnaire œconomique というフランス語の百科事典を、そのオランダ語訳版から重訳したものである。フランス語の alcali や英語の alkali などは、直接的には中世ラテン語の alcali に由来する語彙である。中世後期のヨーロッパ・キリスト教圏は、中東・北アフリカやイベリア半島などのイスラーム教圏から、多くのアラビア語で記述された錬金術関連文献をラテン語に翻訳した。中世ラテン語の alcali という語は、アラビア語の al-qiliy というものの音訳である。
al-qiliy のうち、al- はアラビア語の定冠詞である。qiliyは、qilā, qilw あるいは shabb al-‘usfur, shabb al-asākifa とも呼ばれ、ヤークートやファフルッディーン・ラーズィーによるとこれは衣料の洗濯に使えるものであり、イブン・バイタールやイブン・クタイバなどの本草学や医術に詳しい学者によれば、これはレプラなどの皮膚病や切り傷、サソリの毒に効くものであるとされる。マスウーディーによると、これを砂と酸化マグネシウムに混ぜて溶かしたものがガラスの主原料であるという。
この qiliy は、アルカリ性植物を焼いた残りの灰から生成する鉀塩(炭酸カリウム)やソーダ灰(炭酸カルシウム)を指す言葉と考えられている。qiliy の語はさらに、そうした草木灰そのものや、そのあく汁をも指す言葉としても混同して使用されるようになった。なお、中世イスラーム圏の科学においては、炭酸カリウムと炭酸カルシウムとの区別はついていない。
qiliy をとるのによく使われる草は、rimt͟h という Haloxylon 属の草や、ḥamḍ という Chenopodium 属の草であった。アブー・ハニーファ・ディーナワリーは、もっとも良質な qiliy を得られる草は「染屋のキリー」と呼ばれる草(Seidlitzia rosmarinus)であると記している。ヨルダンのアンマンあたりの砂漠に生える「染屋のキリー」は、非常に古い時代からここに住む人々に利用されており、10世紀の医者タミーミー(英語版)によると、「染屋のキリー」から製造したアンマンの洗剤は、パレスチナやエジプトなどへの輸出品であった。
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"text": "典型的なものにはアルカリ金属またはアルカリ土類金属の水酸化物(塩)があり、これらに限定してアルカリと呼ぶことが多い。これらは水に溶解すると水酸化物イオンを生じ、アレニウスの定義による酸と塩基の「塩基」に相当する。一方でアルカリをより広い「塩基」の意味で用いることもある。",
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"text": "アラビア語: القلي al-qily, القالي al-qālī に由来し、元来は植物の灰を意味する。ジャービル・イブン=ハイヤーンの命名による(カリウムも同語源)。これらを水に溶かした際に示す性質(例えば鹸化など)がアルカリという概念の始まりである。なお植物灰の主成分は炭酸カリウム、炭酸ナトリウムなどであり、アルカリ性を示すが狭義のアルカリではない(下記参照)。",
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"text": "ブレンステッドとローリーによる酸と塩基の定義以後、一般には、アルカリ金属およびアルカリ土類金属の水酸化物(塩)など、水に溶解すると水酸化物イオンを生じる物質を限定してアルカリと呼び、これらはアレニウスの定義による塩基に相当する。他にテトラアルキルアンモニウムの水酸化物などもこのアルカリに当たり、化学式は一般に M(OH)n(M は陽イオン M となり、n は1以上の整数である)と表される。またこれらの水溶液をアルカリと呼ぶこともある。特に、塩基解離定数がほぼ pKb < 0(Kb > 1)で、水酸化物イオンを定量的に生成するものを強アルカリまたは強塩基と呼ぶ。",
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"text": "水溶液に関しては、pH 7 より大きい塩基性のことをアルカリ性ともいう。農学では土壌に関して、おおむね pH 7.3 以上の場合をアルカリ性という。",
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"text": "また水に溶かした場合に弱塩基性を示すアンモニアやアミン、あるいはアルカリ金属の炭酸塩や燐酸塩などをアルカリに含めることもある。これらはそれ自体が水酸化物イオンを生じるわけではなく、その意味ではアルカリではないが、水分子からプロトンを奪うため結果的に水酸化物イオンを生じる。これらはブレンステッド・ローリーの定義による塩基に含まれる。",
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"text": "このほか、アルカリをブレンステッド・ローリーの定義による塩基の同義語として広く用いることもあるが、上記の性質を示さない塩基が多い。例えばアルカロイド(アルカリに由来する名前)や核酸の構成成分である塩基は、強酸とは塩を形成するが、水溶液で塩基性を示さない。",
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"text": "さらに、アルカリ金属・アルカリ土類金属の酸化物は水に入れると反応し水酸化物つまりアルカリを形成する。これら自体は基本的にはアルカリではないが、アルカリと呼ぶこともある。",
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"text": "岩石学では組成として酸化ナトリウム・酸化カリウムを多く含む火成岩を、アルカリ岩と分類する。",
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"text": "アルカリは、中濃度(濃度 10 mM 以上)の水溶液では pH 10 以上となる。高濃度水溶液は腐食性があり、また脂肪を鹸化し、タンパク質を変性させさらに加水分解する。アルカリ水溶液は触れるとヌルヌルした感触(石鹸に類する)があるが、これは皮膚の脂肪の鹸化などによる。低濃度では一般に苦味を呈する。一般には水に溶解するが、アルカリ土類金属水酸化物(水酸化カルシウムなど)には溶解度の低いものもあり、これらはアルカリ金属水酸化物ほど強いアルカリとはならない。",
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"text": "日本において「アルカリ」という言葉の使用が文献上確認できる最古の例は、江戸時代後期の『厚生新編』(1811 - 1840年)という蘭学書である。より詳しくは、alkali の語が「亜爾加里塩」と音訳された。『厚生新編』は大槻玄沢ら当時の蘭学者が Dictionnaire œconomique というフランス語の百科事典を、そのオランダ語訳版から重訳したものである。フランス語の alcali や英語の alkali などは、直接的には中世ラテン語の alcali に由来する語彙である。中世後期のヨーロッパ・キリスト教圏は、中東・北アフリカやイベリア半島などのイスラーム教圏から、多くのアラビア語で記述された錬金術関連文献をラテン語に翻訳した。中世ラテン語の alcali という語は、アラビア語の al-qiliy というものの音訳である。",
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"text": "al-qiliy のうち、al- はアラビア語の定冠詞である。qiliyは、qilā, qilw あるいは shabb al-‘usfur, shabb al-asākifa とも呼ばれ、ヤークートやファフルッディーン・ラーズィーによるとこれは衣料の洗濯に使えるものであり、イブン・バイタールやイブン・クタイバなどの本草学や医術に詳しい学者によれば、これはレプラなどの皮膚病や切り傷、サソリの毒に効くものであるとされる。マスウーディーによると、これを砂と酸化マグネシウムに混ぜて溶かしたものがガラスの主原料であるという。",
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"text": "この qiliy は、アルカリ性植物を焼いた残りの灰から生成する鉀塩(炭酸カリウム)やソーダ灰(炭酸カルシウム)を指す言葉と考えられている。qiliy の語はさらに、そうした草木灰そのものや、そのあく汁をも指す言葉としても混同して使用されるようになった。なお、中世イスラーム圏の科学においては、炭酸カリウムと炭酸カルシウムとの区別はついていない。",
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"text": "qiliy をとるのによく使われる草は、rimt͟h という Haloxylon 属の草や、ḥamḍ という Chenopodium 属の草であった。アブー・ハニーファ・ディーナワリーは、もっとも良質な qiliy を得られる草は「染屋のキリー」と呼ばれる草(Seidlitzia rosmarinus)であると記している。ヨルダンのアンマンあたりの砂漠に生える「染屋のキリー」は、非常に古い時代からここに住む人々に利用されており、10世紀の医者タミーミー(英語版)によると、「染屋のキリー」から製造したアンマンの洗剤は、パレスチナやエジプトなどへの輸出品であった。",
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アルカリとは一般に、水に溶解して塩基性を示し、酸と中和する物質の総称。 典型的なものにはアルカリ金属またはアルカリ土類金属の水酸化物(塩)があり、これらに限定してアルカリと呼ぶことが多い。これらは水に溶解すると水酸化物イオンを生じ、アレニウスの定義による酸と塩基の「塩基」に相当する。一方でアルカリをより広い「塩基」の意味で用いることもある。
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{{otheruses||NATOコードネーム|AA-1|プロボクサー|ブルーノ・アルカリ}}
{{複数の問題
| 参照方法 = 2017年1月
| 単一の出典 = 2017年1月
}}
'''アルカリ'''({{lang-nl-short|alkali}})とは一般に、[[水]]に[[溶解]]して[[塩基性]]([[水素イオン指数]] (pH) が7より大きい)を示し、[[酸]]と[[中和]]する物質の総称。
典型的なものには[[アルカリ金属]]または[[アルカリ土類金属]]の[[水酸化物]]([[塩]])があり、これらに限定してアルカリと呼ぶことが多い。これらは水に溶解すると[[水酸化物イオン]]を生じ、[[アレニウス]]の定義による[[酸と塩基]]の「塩基」に相当する。一方でアルカリをより広い「[[塩基]]」の意味で用いることもある。
== 語源 ==
{{lang-ar|القلي}} ''al-qily'', {{lang|ar|القالي}} ''al-qālī'' に由来し、元来は植物の[[灰]]を意味する。[[ジャービル・イブン=ハイヤーン]]の命名による([[カリウム]]も同語源)。これらを水に溶かした際に示す性質(例えば[[鹸化]]など)がアルカリという概念の始まりである。なお植物灰の主成分は[[炭酸カリウム]]、[[炭酸ナトリウム]]などであり、アルカリ性を示すが狭義のアルカリではない(下記参照)。
== 定義 ==
[[ブレンステッド]]と[[マーチン・ローリー|ローリー]]による[[酸と塩基]]の定義以後、一般には、アルカリ金属およびアルカリ土類金属の水酸化物(塩)など、水に溶解すると水酸化物イオンを生じる物質を限定してアルカリと呼び、これらはアレニウスの定義による塩基に相当する。他にテトラアルキル[[アンモニウム]]の水酸化物などもこのアルカリに当たり、化学式は一般に M(OH)<sub>n</sub>(M は[[陽イオン]] M<sup>''n''+</sup> となり、''n'' は1以上の整数である)と表される。またこれらの水溶液をアルカリと呼ぶこともある。特に、[[塩基解離定数]]がほぼ p''K''<sub>b</sub> < 0(K<sub>b</sub> > 1)で、水酸化物イオンを定量的に生成するものを強アルカリまたは[[強塩基]]と呼ぶ。
水溶液に関しては、pH 7 より大きい塩基性のことをアルカリ性ともいう。[[農学]]では[[土壌]]に関して、おおむね pH 7.3 以上の場合をアルカリ性という。
また水に溶かした場合に弱塩基性を示す[[アンモニア]]や[[アミン]]、あるいはアルカリ金属の[[炭酸塩]]や[[燐酸塩]]などをアルカリに含めることもある。これらはそれ自体が水酸化物イオンを生じるわけではなく、その意味ではアルカリではないが、水分子から[[水素イオン|プロトン]]を奪うため結果的に水酸化物イオンを生じる。これらはブレンステッド・ローリーの定義による塩基に含まれる。
このほか、アルカリをブレンステッド・ローリーの定義による塩基の同義語として広く用いることもあるが、上記の性質を示さない塩基が多い。例えば[[アルカロイド]](アルカリに由来する名前)や[[核酸]]の構成成分である塩基は、[[強酸]]とは[[塩]]を形成するが、水溶液で塩基性を示さない。
さらに、アルカリ金属・アルカリ土類金属の[[酸化物]]は水に入れると反応し水酸化物つまりアルカリを形成する。これら自体は基本的にはアルカリではないが、アルカリと呼ぶこともある。
[[岩石学]]では組成として[[酸化ナトリウム]]・[[酸化カリウム]]を多く含む[[火成岩]]を、[[アルカリ岩]]と分類する。
== 性質 ==
アルカリは、中濃度(濃度 10 m[[モル濃度|M]] 以上)の水溶液では pH 10 以上となる。高濃度水溶液は腐食性があり、また[[脂肪]]を[[鹸化]]し、[[タンパク質]]を[[変性]]させさらに[[加水分解]]する。アルカリ水溶液は触れるとヌルヌルした感触(石鹸に類する)があるが、これは皮膚の脂肪の鹸化などによる。低濃度では一般に[[苦味]]を呈する。一般には水に溶解するが、アルカリ土類金属水酸化物([[水酸化カルシウム]]など)には溶解度の低いものもあり、これらはアルカリ金属水酸化物ほど強いアルカリとはならない。
== 語源 ==
[[File:Bush of Seidlitzia rosmarinus in Qatar.jpg|thumb|''[[:en:Seidlitzia rosmarinus|Seidlitzia rosmarinus]]'']]
日本において「アルカリ」という言葉の使用が文献上確認できる最古の例は、江戸時代後期の『[[厚生新編]]』(1811 - 1840年)という[[蘭学|蘭学書]]である<ref name="葵文庫">{{Cite web|和書|url=https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/aoi/3_genealogy/aj_8.htm |title=葵文庫に見る辞典・辞書の系譜「厚生新編」 70巻 68冊 (31,32 欠)|accessdate=2020-04-07}}</ref><ref name="徐2016">{{cite journal|journal=或問-WAKUMON |volume=29 |date=2016-06 |pages=83-93 |title=『厚生新編』にみる蘭学音訳語とその漢字選択 |last=徐 |first=克偉 |url=http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-29/07_xu01.pdf |accessdate=2020-04-07}}</ref>。より詳しくは、{{lang|en|alkali}} の語が「亜爾加里塩」と音訳された{{r|徐2016}}。『厚生新編』は[[大槻玄沢]]ら当時の蘭学者が ''[[ノエル・ショメル|{{lang|fr|Dictionnaire œconomique}}]]'' というフランス語の百科事典を、そのオランダ語訳版から重訳したものである{{r|葵文庫|徐2016}}。フランス語の {{lang|fr|alcali}} や英語の {{lang|en|alkali}} などは、直接的には中世ラテン語の {{lang|la|alcali}} に由来する語彙である<ref name="CNRTL-alcali">{{CNRTL|alcali}}</ref>。[[12世紀ルネサンス|中世後期]]のヨーロッパ・キリスト教圏は、中東・北アフリカやイベリア半島などのイスラーム教圏から、多くのアラビア語で記述された錬金術関連文献をラテン語に翻訳した。中世ラテン語の {{lang|la|alcali}} という語は、アラビア語の {{transl|ar|al-qiliy}} というものの音訳である{{r|CNRTL-alcali}}。
{{transl|ar|al-qiliy}} のうち、{{transl|ar|al-}} はアラビア語の定冠詞である。{{transl|ar|qiliy}}は、{{transl|ar|qilā}}, {{transl|ar|qilw}}{{efn|{{rtl-lang|ar|قلى}}; 読み方は Ullmann に依拠する{{r|EI2-AL-ḲILY}}<ref name="Ullmann 2016">{{cite book|url={{Google books|4N_VDAAAQBAJ|page=PA314|plainurl=1}}|title=Aufsätze zur arabischen Rezeption der griechischen Medizin und Naturwissenschaft |series=Scientia Graeco-Arabica vol. 15 |first=Manfred |last=Ullmann |editor=Rüdiger Arnzen |publisher=Walter de Gruyter GmbH & Co KG |year=2016 |ISBN=9781614518457|page=314}}</ref>。{{transl|ar|qaliy}} と読む文献もある。}} あるいは {{transl|ar|shabb al-‘usfur}}, {{transl|ar|shabb al-asākifa}} とも呼ばれ<ref name="EI2-AL-ḲILY">{{EI2|volume=5|title=AL-ḲILY|first=M. |last=Ullmann}}</ref>{{r|Ullmann 2016}}、[[ヤークート・アル=ハマウィー|ヤークート]]や[[ファフルッディーン・ラーズィー]]によるとこれは衣料の洗濯に使えるものであり、[[イブン・バイタール]]や[[イブン・クタイバ]]などの本草学や医術に詳しい学者によれば、これは[[レプラ]]などの皮膚病や切り傷、[[サソリ]]の毒に効くものであるとされる{{r|EI2-AL-ḲILY}}{{r|Ullmann 2016}}。[[マスウーディー]]によると、これを砂と[[酸化マグネシウム]]に混ぜて溶かしたものが[[ガラス]]の主原料であるという{{r|EI2-AL-ḲILY}}{{r|Ullmann 2016}}。
この {{transl|ar|qiliy}} は、アルカリ性植物を焼いた残りの灰から生成する鉀塩([[炭酸カリウム]])やソーダ灰([[炭酸カルシウム]])を指す言葉と考えられている{{r|EI2-AL-ḲILY}}。{{transl|ar|qiliy}} の語はさらに、そうした草木灰そのものや、そのあく汁をも指す言葉としても混同して使用されるようになった{{r|EI2-AL-ḲILY}}。なお、中世イスラーム圏の科学においては、炭酸カリウムと炭酸カルシウムとの区別はついていない{{r|EI2-AL-ḲILY}}。
{{transl|ar|qiliy}} をとるのによく使われる草は、{{transl|ar|rimt͟h}} という ''[[:en:Haloxylon|Haloxylon]]'' 属の草や、{{transl|ar|ḥamḍ}} という ''[[:en:Chenopodium|Chenopodium]]'' 属の草であった{{r|EI2-AL-ḲILY}}。[[アブー・ハニーファ・ディーナワリー]]は、もっとも良質な {{transl|ar|qiliy}} を得られる草は「染屋のキリー」と呼ばれる草(''[[:en:Seidlitzia rosmarinus|Seidlitzia rosmarinus]]'')であると記している{{r|EI2-AL-ḲILY}}。ヨルダンのアンマンあたりの砂漠に生える「染屋のキリー」は、非常に古い時代からここに住む人々に利用されており、10世紀の医者{{ill2|ムハンマド・ブン・アフマド・ブン・サイード・タミーミー|en|Al-Tamimi, the physician|label=タミーミー}}によると、「染屋のキリー」から製造したアンマンの洗剤は、パレスチナやエジプトなどへの輸出品であった<ref>Amar, Zohar & Serri, Yaron, ''The Land of Israel and Syria as Described by Al-Tamimi'' (Jerusalem Physician of the 10th Century), Bar-Ilan University: Ramat-Gan, 2004, pp. 61–66; 111–113 ISBN 965-226-252-8 (Hebrew)</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参照文献 ==
*『理化学辞典』 第5版、[[岩波書店]]。
{{Normdaten}}
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[[Category:酸塩基化学]]
[[Category:溶液化学]]
[[Category:ジャービル・ブン・ハイヤーン]]
[[Category:アラビア語の語句]]
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2003-06-15T00:39:53Z
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10,036 |
半減期
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半減期(はんげんき、half-life)とは、ある放射性同位体が、放射性崩壊によってその内の半分が別の核種に変化するまでにかかる時間のこと。半衰期とも言う。
放射能を持つ元素(放射性同位体)の原子核はいずれ放射性崩壊をして他の元素に変化していくが、その崩壊は一定時間の間に一定の確率で起こる。はじめの原子数が N 個であるとき、その半分 N/2 個が放射性崩壊するまでの時間をその放射性同位体の半減期 (half-life) と呼ぶ。または、ある放射性同位体の放射能 (activity) を A とするとき、それが時間経過によって半分 A/2 になるまでの時間を言う(同値性については後述)。
半減期は放射性同位体(核種)の安定度を示す値でもあり、半減期が長ければ安定であり、逆に半減期が短ければ短いほど不安定な核種ということになる。
放射性同位体の放射性崩壊は自然に発生するもので、放射性同位体ごとに定まる確率(崩壊定数)のみによって左右されるものである。すなわち、崩壊までの期間はその物質の置かれている古典物理学的・化学的環境(熱・電磁場・化学反応など)には一切依存しない。もともと原子力は放射性物質の半減期を短くすれば、放射性物質の崩壊エネルギーをより短期間に取り出せるだろうということで半減期を短くする研究が行われたが古典物理学的な手法によるものはことごとく失敗した。
人工的に原子核の崩壊を起こすには加速器などを用いなくてはならない。また、人工的に原子核の崩壊を起こして、半減期よりも早く放射性核子を減らす手法としては核変換技術と呼ばれる技術が研究されている。
なお、一つの放射性核種を対象として、その放射性核種がいつ崩壊するかを決定論的に予想することも出来ない。
ある特定の放射性同位体の個数、放射能の時間変化は以下のように計算される。統計学的には、核崩壊する確率は指数分布を用いて表すことができる。ただし、以下は一次反応のみであり、娘核種も放射能を持ち時間変化により親・娘量核種の総放射能を求めるといった場合を考慮していない。その場合は連立微分方程式を立てて解かねばならない。なお、これらの半減期の長さによって任意の時間が経過したときの放射能の強さは放射平衡によって論じられる。
放射性同位体の時間経過にともなう原子数の変化は微分方程式として記述することができる。放射性同位体の種類によって固有の崩壊定数を持つが、いま原子数の時間的変化をもとめたい放射性同位体の崩壊定数を λ とする。なお、t=0 のときのその放射性同位体の原子数を N0 とする。
時刻 t における原子数を N(t) は微分方程式
に従う。この解は初期条件 N(0) = N0 から、
となる。これが、崩壊定数 λ をもつ放射性同位体の時間経過にともなう原子数の変化を表す式である。
崩壊定数 λ から半減期を求める計算式を導出する。
いま、崩壊定数 λ を持つ放射性同位体の半減期を t1/2 とする。t=0 のときその放射性同位体は前節同様 N(0) = N0 個あるとし、半減期 t1/2 の定義から、
が成り立つ。 N ( t 1 / 2 ) = N 0 exp ( − λ t 1 / 2 ) {\displaystyle N(t_{1/2})=N_{0}\exp(-\lambda t_{1/2})} から、
である。
放射崩壊において半減期と崩壊定数は核種に固有な値をとるので、半減期または崩壊定数の測定・推定値から核種を推定できる。また、物質の流出入が閉じた系(化石、火成岩など)では放射能の減衰度合いと半減期から逆算して年代測定に用いられる。
ある放射性同位体が単位時間あたりに崩壊する個数をその放射性同位体の放射能 (activity) と呼ぶ。放射能の単位はベクレル(記号:Bq)である。放射能を A(t) は以下のように定義される。
前節のように原子数の時間変化の式を考慮すれば、
と表すこともできる。式からわかるように、放射能は放射性同位体の原子数に比例する。このことから、半減期を放射能が半減するまでにかかる時間と定義しても同値であることがわかる。
崩壊定数が不明な放射性同位体が存在すれば、単純に放射能の減衰を測定し、その結果から半分になる時間を計算すれば半減期(さらには崩壊定数)を求めることができる。なお、半減期を基に 1/2 だけではなく 1/4、1/8 になる時間も算出できる。
元素にもよるが、放射性物質を体内に取り込んだ場合、時間が経つにつれ放射性物質は代謝によって体外に排出されてゆく。そこで、体内にある放射性物質の量が代謝により半分にまで減少するときの時間を生物学的半減期 (biological half-life) と言う。
生物学的半減期は物理学的半減期とはメカニズムとして全く別のものであるため、代謝によって放射性同位体が排出されるとともに放射性同位体の放射性崩壊を起こすことによっても体内の放射性物質の量は減少してゆく。この生物学的代謝と放射性崩壊による減少を合算して、実際に体内の放射性物質の量が半分になるまでの時間を実効半減期 (effective half-life) と呼ぶ。実効半減期 Te は、その逆数が生物学的半減期 Tb の逆数と物理的半減期 Tp の逆数との和となることから求める。 つまり、実効半減期 Te、物理学的半減期 Tp及び生物学的半減期 Tb は、
を満たす。
崩壊定数 λ の放射性物質が、単位時間あたりにQずつ増える系を考えれば、微分方程式
d N ( t ) d t = Q − λ N ( t ) {\displaystyle {\frac {dN(t)}{dt}}=Q-\lambda {N(t)}}
で与えられる。 この解は、
N ( t ) = Q λ ( 1 − e − λ t ) {\displaystyle N(t)={\frac {Q}{\lambda }}(1-e^{-\lambda {t}})}
である。 この式は単位時間あたりにQ摂取し(単位時間あたりの一定量増加)、壊変による減衰を無視し、生物学的半減期による減衰(崩壊定数は生物学的半減期のものを用いる)を考えれば一定量の放射性物質を毎日摂取し続けた場合の体内濃度が計算できることは明らかであろう。
放射性崩壊において、崩壊する元の核種を親核種 (parent nuclide) と呼び、崩壊によって生成された核種を娘核種 (daughter nuclide) と呼ぶ。核種が放射線を出さない安定した核種であるとは限らない。ウラニウム、プルトニウム、トリウムなどの核種は、崩壊しても安定同位体とはならず、崩壊系列を成す。
娘核種も放射能を持つとき、放射性物質の放射能の減衰は単純な時間的な指数関数的減少とは異なり、親核種と娘核種に関する連立微分方程式を立てなくてはならない。一般に、娘核種の半減期が親核種の半減期よりも長い場合、時間とともに親核種が崩壊してゆくため、娘核種のみが残ることになる。また逆に、娘核種の半減期が親核種よりも短い場合、放射性平衡 (radioactive equilibrium) と呼ばれる平衡状態が成立する。放射性平衡が成り立つときは単純な結果を得ることができる。
たとえば放射性物質Aが崩壊してB、Bも放射性物質であり、これが崩壊してCになりこれは安定核であったとすれば、それらの任意の時刻tにおける量は連立微分方程式
によって表される。これを逐次崩壊という。容易に拡張されるように、プルトニウムなどの3つ以上の崩壊系列をなす核種ではn番目の放射能の量は
で与えられることが推測できるが、ここではおもに三段階の崩壊の場合についてのみ述べる。ここでAのみがあった状態で初期条件 t = 0 を与えれば明らかに、Aの量がそのまま初期値であり、2番目以降はゼロであることは明らかである。Aの初期値をN0とおけばそれぞれの任意の時刻の放射能は
で与えられる。ここで、Aは単調減少であり、B、C等は最初は増加するものの平衡に達すると減少へと転ずる。AよりBの崩壊定数が大きい(λA < λB)とき、十分大きな時間 t が経過すれば
すなわちBのほうが早く減少するため、 N B / N A ≪ 1 {\displaystyle N_{\mathrm {B} }/N_{\mathrm {A} }\ll 1} として
のように近似できるわけであるが、これこそが過度平衡である。さらに、Aの半減期が圧倒的に長く、λA ≪ λB といった状態では適当な時間が経過するならば
と崩壊率が等しくなる。存在比は上記式より
がただちに得られる。これを永年平衡または永続平衡という。
ある放射性物質が一定の確率で、n個の別の核種(より正確には別の崩壊モードで崩壊することである)にそれぞれ崩壊する場合、全崩壊定数 λ(分岐を問わずに崩壊する確率)はi番目に崩壊する崩壊定数を λi とすれば、
という関係が成り立つ。崩壊定数は半減期の逆数であるため
という関係が成立する。つまり、同じ核種が異なる半減期 ti や崩壊モードで複数の娘核種・状態に壊変する現象では上記式に代入することによって
のような関係が得られる。ここで1/Tは全半減期である。これが崩壊定数の総和と同値であることは明らかであろう。また平均寿命については崩壊定数と逆数であるため、(どのような崩壊かを問わずに)崩壊する場合の平均寿命についてはその各々の平均寿命の逆数の総和が、前者について成立するということである。つまり
であり、
という関係が成立するという意味である。
これを仮に全崩壊定数と名付け、ここで全崩壊定数を λ とおいたとき、各々の事象 λ1、λ2、... に崩壊する確率はそれぞれ λ1/λ、λ2/λ、... によって与えられ、これを分岐比と呼ぶ。
ここでは主要な放射性同位体の物理的半減期、生物学的半減期の一覧などを載せておく。各数値の出典はに従ったが、半減期の有効数字は簡単のため1 - 2ケタとした。また、崩壊定数の時間の単位はすべて半減期に準ずる。崩壊定数は物理的半減期のものである。また体内から9割排出される期間とは、生物学的半減期から計算し、初期値から一切放射性物質を摂取せず、かつ壊変により減少することを無視したものである。詳細は参考文献や外部リンクにあるデータベースなども参照のこと。
参考:完全な二足歩行が可能な原人が誕生したのは約200万年前
地球が誕生したのは約46億年前
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"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "放射性同位体の放射性崩壊は自然に発生するもので、放射性同位体ごとに定まる確率(崩壊定数)のみによって左右されるものである。すなわち、崩壊までの期間はその物質の置かれている古典物理学的・化学的環境(熱・電磁場・化学反応など)には一切依存しない。もともと原子力は放射性物質の半減期を短くすれば、放射性物質の崩壊エネルギーをより短期間に取り出せるだろうということで半減期を短くする研究が行われたが古典物理学的な手法によるものはことごとく失敗した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "人工的に原子核の崩壊を起こすには加速器などを用いなくてはならない。また、人工的に原子核の崩壊を起こして、半減期よりも早く放射性核子を減らす手法としては核変換技術と呼ばれる技術が研究されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "なお、一つの放射性核種を対象として、その放射性核種がいつ崩壊するかを決定論的に予想することも出来ない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ある特定の放射性同位体の個数、放射能の時間変化は以下のように計算される。統計学的には、核崩壊する確率は指数分布を用いて表すことができる。ただし、以下は一次反応のみであり、娘核種も放射能を持ち時間変化により親・娘量核種の総放射能を求めるといった場合を考慮していない。その場合は連立微分方程式を立てて解かねばならない。なお、これらの半減期の長さによって任意の時間が経過したときの放射能の強さは放射平衡によって論じられる。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "放射性同位体の時間経過にともなう原子数の変化は微分方程式として記述することができる。放射性同位体の種類によって固有の崩壊定数を持つが、いま原子数の時間的変化をもとめたい放射性同位体の崩壊定数を λ とする。なお、t=0 のときのその放射性同位体の原子数を N0 とする。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "時刻 t における原子数を N(t) は微分方程式",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "に従う。この解は初期条件 N(0) = N0 から、",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "となる。これが、崩壊定数 λ をもつ放射性同位体の時間経過にともなう原子数の変化を表す式である。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "崩壊定数 λ から半減期を求める計算式を導出する。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "いま、崩壊定数 λ を持つ放射性同位体の半減期を t1/2 とする。t=0 のときその放射性同位体は前節同様 N(0) = N0 個あるとし、半減期 t1/2 の定義から、",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "が成り立つ。 N ( t 1 / 2 ) = N 0 exp ( − λ t 1 / 2 ) {\\displaystyle N(t_{1/2})=N_{0}\\exp(-\\lambda t_{1/2})} から、",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "放射崩壊において半減期と崩壊定数は核種に固有な値をとるので、半減期または崩壊定数の測定・推定値から核種を推定できる。また、物質の流出入が閉じた系(化石、火成岩など)では放射能の減衰度合いと半減期から逆算して年代測定に用いられる。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ある放射性同位体が単位時間あたりに崩壊する個数をその放射性同位体の放射能 (activity) と呼ぶ。放射能の単位はベクレル(記号:Bq)である。放射能を A(t) は以下のように定義される。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "前節のように原子数の時間変化の式を考慮すれば、",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "と表すこともできる。式からわかるように、放射能は放射性同位体の原子数に比例する。このことから、半減期を放射能が半減するまでにかかる時間と定義しても同値であることがわかる。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "崩壊定数が不明な放射性同位体が存在すれば、単純に放射能の減衰を測定し、その結果から半分になる時間を計算すれば半減期(さらには崩壊定数)を求めることができる。なお、半減期を基に 1/2 だけではなく 1/4、1/8 になる時間も算出できる。",
"title": "半減期 (half-life) の計算法"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "元素にもよるが、放射性物質を体内に取り込んだ場合、時間が経つにつれ放射性物質は代謝によって体外に排出されてゆく。そこで、体内にある放射性物質の量が代謝により半分にまで減少するときの時間を生物学的半減期 (biological half-life) と言う。",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
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"tag": "p",
"text": "生物学的半減期は物理学的半減期とはメカニズムとして全く別のものであるため、代謝によって放射性同位体が排出されるとともに放射性同位体の放射性崩壊を起こすことによっても体内の放射性物質の量は減少してゆく。この生物学的代謝と放射性崩壊による減少を合算して、実際に体内の放射性物質の量が半分になるまでの時間を実効半減期 (effective half-life) と呼ぶ。実効半減期 Te は、その逆数が生物学的半減期 Tb の逆数と物理的半減期 Tp の逆数との和となることから求める。 つまり、実効半減期 Te、物理学的半減期 Tp及び生物学的半減期 Tb は、",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
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"tag": "p",
"text": "を満たす。",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
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"tag": "p",
"text": "崩壊定数 λ の放射性物質が、単位時間あたりにQずつ増える系を考えれば、微分方程式",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "d N ( t ) d t = Q − λ N ( t ) {\\displaystyle {\\frac {dN(t)}{dt}}=Q-\\lambda {N(t)}}",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。 この解は、",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "N ( t ) = Q λ ( 1 − e − λ t ) {\\displaystyle N(t)={\\frac {Q}{\\lambda }}(1-e^{-\\lambda {t}})}",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "である。 この式は単位時間あたりにQ摂取し(単位時間あたりの一定量増加)、壊変による減衰を無視し、生物学的半減期による減衰(崩壊定数は生物学的半減期のものを用いる)を考えれば一定量の放射性物質を毎日摂取し続けた場合の体内濃度が計算できることは明らかであろう。",
"title": "生物学的半減期と実効半減期"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "放射性崩壊において、崩壊する元の核種を親核種 (parent nuclide) と呼び、崩壊によって生成された核種を娘核種 (daughter nuclide) と呼ぶ。核種が放射線を出さない安定した核種であるとは限らない。ウラニウム、プルトニウム、トリウムなどの核種は、崩壊しても安定同位体とはならず、崩壊系列を成す。",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "娘核種も放射能を持つとき、放射性物質の放射能の減衰は単純な時間的な指数関数的減少とは異なり、親核種と娘核種に関する連立微分方程式を立てなくてはならない。一般に、娘核種の半減期が親核種の半減期よりも長い場合、時間とともに親核種が崩壊してゆくため、娘核種のみが残ることになる。また逆に、娘核種の半減期が親核種よりも短い場合、放射性平衡 (radioactive equilibrium) と呼ばれる平衡状態が成立する。放射性平衡が成り立つときは単純な結果を得ることができる。",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "たとえば放射性物質Aが崩壊してB、Bも放射性物質であり、これが崩壊してCになりこれは安定核であったとすれば、それらの任意の時刻tにおける量は連立微分方程式",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "によって表される。これを逐次崩壊という。容易に拡張されるように、プルトニウムなどの3つ以上の崩壊系列をなす核種ではn番目の放射能の量は",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "で与えられることが推測できるが、ここではおもに三段階の崩壊の場合についてのみ述べる。ここでAのみがあった状態で初期条件 t = 0 を与えれば明らかに、Aの量がそのまま初期値であり、2番目以降はゼロであることは明らかである。Aの初期値をN0とおけばそれぞれの任意の時刻の放射能は",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。ここで、Aは単調減少であり、B、C等は最初は増加するものの平衡に達すると減少へと転ずる。AよりBの崩壊定数が大きい(λA < λB)とき、十分大きな時間 t が経過すれば",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "すなわちBのほうが早く減少するため、 N B / N A ≪ 1 {\\displaystyle N_{\\mathrm {B} }/N_{\\mathrm {A} }\\ll 1} として",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "のように近似できるわけであるが、これこそが過度平衡である。さらに、Aの半減期が圧倒的に長く、λA ≪ λB といった状態では適当な時間が経過するならば",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "と崩壊率が等しくなる。存在比は上記式より",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "がただちに得られる。これを永年平衡または永続平衡という。",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ある放射性物質が一定の確率で、n個の別の核種(より正確には別の崩壊モードで崩壊することである)にそれぞれ崩壊する場合、全崩壊定数 λ(分岐を問わずに崩壊する確率)はi番目に崩壊する崩壊定数を λi とすれば、",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "という関係が成り立つ。崩壊定数は半減期の逆数であるため",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "という関係が成立する。つまり、同じ核種が異なる半減期 ti や崩壊モードで複数の娘核種・状態に壊変する現象では上記式に代入することによって",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "のような関係が得られる。ここで1/Tは全半減期である。これが崩壊定数の総和と同値であることは明らかであろう。また平均寿命については崩壊定数と逆数であるため、(どのような崩壊かを問わずに)崩壊する場合の平均寿命についてはその各々の平均寿命の逆数の総和が、前者について成立するということである。つまり",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "であり、",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "という関係が成立するという意味である。",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "これを仮に全崩壊定数と名付け、ここで全崩壊定数を λ とおいたとき、各々の事象 λ1、λ2、... に崩壊する確率はそれぞれ λ1/λ、λ2/λ、... によって与えられ、これを分岐比と呼ぶ。",
"title": "崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium)"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ここでは主要な放射性同位体の物理的半減期、生物学的半減期の一覧などを載せておく。各数値の出典はに従ったが、半減期の有効数字は簡単のため1 - 2ケタとした。また、崩壊定数の時間の単位はすべて半減期に準ずる。崩壊定数は物理的半減期のものである。また体内から9割排出される期間とは、生物学的半減期から計算し、初期値から一切放射性物質を摂取せず、かつ壊変により減少することを無視したものである。詳細は参考文献や外部リンクにあるデータベースなども参照のこと。",
"title": "いろいろな物質の半減期の一覧"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "参考:完全な二足歩行が可能な原人が誕生したのは約200万年前",
"title": "いろいろな物質の半減期の一覧"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "地球が誕生したのは約46億年前",
"title": "いろいろな物質の半減期の一覧"
}
] |
半減期(はんげんき、half-life)とは、ある放射性同位体が、放射性崩壊によってその内の半分が別の核種に変化するまでにかかる時間のこと。半衰期とも言う。
|
{{Otheruses|物理学上の半減期|薬学上の半減期|半減期 (薬学)}}
{{for|経済の分野における半衰期|半衰退期}}
[[File:Halflife-sim.gif|thumb|right|放射性元素が減少していく様子のシミュレーション結果。上の数値は半減期の何倍の時間が経過したかを示す。左図では最初に1ブロックあたり4個、右図では1ブロックあたり400個の原子が含まれる]]
'''半減期'''(はんげんき、''half-life'')とは、ある[[放射性同位体]]が、[[放射性崩壊]]によってその内の半分が別の[[核種]]に変化するまでにかかる時間のこと{{efn|素粒子物理学においては、半減期ではなく[[平均寿命#素粒子・放射性同位体の平均寿命|平均寿命]]を用いることが一般的である。平均寿命は[[自然対数の底]]の逆数、すなわち約0.368...にまで減少する時間のことであり、半減期の<math>\frac{1}{ln(2)} \simeq 1.443</math>倍に相当する。}}。'''半衰期'''とも言う。
== 概要 ==
[[放射能]]を持つ元素([[放射性同位体]]{{efn|原子番号が同じで質量数の異なる元素を同位体(isotope、アイソトープ)という。さらに、放射線を放出して原子核が放射性崩壊する性質(放射能)をもつ同位元素は放射性同位体(radioisotope、ラジオアイソトープ)と呼ばれる。}})の原子核はいずれ[[放射性崩壊]]をして他の元素に変化していくが、その崩壊は一定時間の間に一定の確率で起こる。はじめの原子数が ''N'' 個であるとき、その半分 ''N''/2 個が放射性崩壊するまでの時間をその放射性同位体の'''半減期''' (half-life) と呼ぶ。または、ある放射性同位体の放射能 (activity) を ''A'' とするとき、それが時間経過によって半分 ''A''/2 になるまでの時間を言う(同値性については後述){{efn|崩壊する量は放射性物質の量に比例する。例えば10万[[ベクレル]]の放射性物質があった場合には、半減期が経過すれば5万ベクレル減少するが、100 Bqの放射性物質であれば、半減期が経過しても50 Bqしか減らない。
半減期が経過するごとに、初期量の1/2,1/4,1/8・・・と指数関数的に放射性物質が減少していく。ただし、半減期は統計的な量であり、個々の原子の崩壊を予測することはできない。原子数がゼロに近づけば、大数の法則が成立せず確率ゆらぎも大きくなるため半減期による計算の精度も落ちる(上の図のシミュレーションも参考)。ただ、実用上放射性物質がほとんどなくなるまでの時間は、検出下限値に減少する時間として、計算が可能である。}}。
半減期は放射性同位体([[核種]])の安定度を示す値でもあり、半減期が長ければ安定であり、逆に半減期が短ければ短いほど不安定な[[核種]]ということになる{{efn|[[中性子]]、[[中間子]]などの素粒子も、[[放射性核種]]と同じように一定の半減期でより安定な素粒子に変わっていく。}}。
放射性同位体の放射性崩壊は自然に発生するもので、放射性同位体ごとに定まる確率([[崩壊定数]])のみによって左右されるものである{{efn|放射性崩壊は指数過程によって記述されるため無記憶過程であり、崩壊していく速度は物質の出入りがゼロであれば一定である。}}。すなわち、崩壊までの期間はその物質の置かれている古典物理学的・化学的環境([[熱]]・[[電磁場]]・[[化学反応]]など)には一切依存しない{{efn|これは理論的には、原子核の[[質量欠損|結合エネルギー]]が数千万[[電子ボルト|eV]]と原子の[[結合エネルギー]]に比して極めて大きいため、原子核外部の物理現象では内部変化が起こらないためである<ref>{{cite book | 和書 | author=ランダウ、アヒエゼール、リフシッツ(共著)| editor=小野周・豊田博慈(訳) | title=物理学ー力学から物性論までー | publisher=岩波書店 | year=1969 | page=108 | ISBN=4-00-005911-4 }}</ref>。}}。もともと[[原子力]]は放射性物質の半減期を短くすれば、放射性物質の崩壊エネルギーをより短期間に取り出せるだろうということで半減期を短くする研究が行われたが古典物理学的な手法によるものはことごとく失敗した{{efn|例えば[[アーネスト・ラザフォード|ラザフォード]]は[[ラジウム]]に対して、
* 2500度、1000気圧の環境に置く
* [[絶対零度]]近くの極低温、超高温の環境に置く
* 2000気圧に達する圧力をかける
* 8万3000ガウスの磁場をかける
* [[重力加速度|地球引力]]の1000倍の[[遠心力]]をかける
などの古典物理学的実験を行ったが、ラジウムの半減期は一切変化しなかった<ref>{{cite book | 和書 | author=K・ホフマン | editor=山崎正勝・小長谷大介・栗原岳史(訳) | title=オットー・ハーン―科学者の義務と責任とは― | publisher=シュプリンガー・ジャパン | year=2006 | pages=32-33 | ISBN=4-431-71217-8 }}</ref>。ただし、これは崩壊の速度を変化させることが原理的に絶対不可能という意味ではない。これらの作用が原子核の放射性崩壊に影響を及ぼしていないという結論が重要である<ref>{{cite book | 和書 | author=E.シュポルスキー | editor=玉木英彦他(訳) | title=原子物理学III | publisher=東京図書株式会社 | series=物理学選書 | pages=180,181 | ISBN=978-4-489-01103-0 }}</ref>。}}。
人工的に原子核の[[放射性崩壊|崩壊]]を起こすには加速器などを用いなくてはならない<ref>{{citation | title=加速器,融合反応 | author=熊谷 寛夫 | year=1959 | url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110002070470 }}</ref>。また、人工的に原子核の崩壊を起こして、半減期よりも早く放射性核子を減らす手法としては[[核変換技術]]と呼ばれる技術が研究されている。
{{see also | 加速器 | 核変換 }}
なお、一つの[[放射性核種]]を対象として、その[[放射性核種]]がいつ崩壊するかを決定論的に予想することも出来ない{{efn|この一つ一つの崩壊する時間間隔の確率は指数分布に従い、単位時間あたりの崩壊は[[ポアソン分布]]になる。これはガイガーカウンターなどを用いて放射線を計測すると、単位時間あたり計測値がポアソン分布になり、放射線を計測すると音が鳴る機種であれば、その音の間隔が[[指数分布]]となる所以である。また指数分布の無記憶性により、ガイガーカウンターである期間放射線を計測しなくても、それから時間tが経過するまでに計数する期待値は変わらない。このように確率現象である放射性物質の崩壊であっても、十分大きな量の放射性同位体や素粒子などが崩壊する際に、いわゆる大数の法則として定式化されたものが半減期である。}}。
=== 半減期の利用 ===
{{details | 放射性炭素年代測定 }}
== 半減期 (half-life) の計算法 ==
ある特定の放射性同位体の個数、放射能の時間変化は以下のように計算される。統計学的には、核崩壊する確率は[[指数分布]]を用いて表すことができる。ただし、以下は一次反応のみであり、娘核種も放射能を持ち時間変化により親・娘量核種の総放射能を求めるといった場合を考慮していない。その場合は連立微分方程式を立てて解かねばならない。なお、これらの半減期の長さによって任意の時間が経過したときの放射能の強さは[[放射平衡]]によって論じられる。
=== 放射性同位体の原子数の時間的変化 ===
放射性同位体の時間経過にともなう原子数の変化は微分方程式として記述することができる。放射性同位体の種類によって固有の崩壊定数を持つが、いま原子数の時間的変化をもとめたい放射性同位体の崩壊定数を ''λ'' とする。なお、''t''=0 のときのその放射性同位体の原子数を ''N''<sub>0</sub> とする。
時刻 ''t'' における原子数 ''N''(''t'') は微分方程式
:<math>\frac{\mathrm{d}N}{\mathrm{d}t} = -\lambda N(t)</math>
に従う。この解は初期条件 ''N''(0) = ''N''<sub>0</sub> から、
:<math>N(t) =N_0e^{-\lambda t}</math>
となる。これが、崩壊定数 ''λ'' をもつ放射性同位体の時間経過にともなう原子数の変化を表す式である。
=== 半減期 (half-life) ===
[[Image:Plot-exponential-decay.svg|thumb|400px|はじめに1ベクレルあった放射性物質がどれだけの速さで減衰するのか表したグラフ。放射能(単位はベクレルなど)も指数関数的に減衰する。[[崩壊定数]]は半減期に反比例するため、崩壊定数が大きい(=半減期が短い)ほど早く減衰していることがわかるだろう。グラフで上の線ほど崩壊定数が小さいため減衰していないが一番下では凄まじい速さで減衰しているのがわかる。ここでy軸が放射能(単位:ベクレル)、x軸は時間の単位を秒ととった場合半減期は有効数字3桁で上から17.3秒、3.47秒、0.693秒、0.139秒、0.0277秒である。]]
崩壊定数 ''λ'' から半減期を求める計算式を導出する。
いま、崩壊定数 ''λ'' を持つ放射性同位体の半減期を ''t''<sub>1/2</sub> とする。''t''=0 のときその放射性同位体は前節同様 ''N''(0) = ''N''<sub>0</sub> 個あるとし、半減期 ''t''<sub>1/2</sub> の定義から、
:<math>N(t_{1/2}) = N_0 / 2</math>
が成り立つ。<math>N(t_{1/2}) = N_0 \exp(-\lambda t_{1/2})</math> から、
:<math>t_{1/2} = \ln (2) / \lambda \approx 0.693 / \lambda</math>
である{{efn|1=半減期 ''t''<sub>1/2</sub> は ''t''<sub>1/2</sub> = ln(2)/''λ'' で計算することができるが、同様に ''n'' 分の 1 になる期間 t<sub>1/''n''</sub> は
:''t''<sub>1/''n''</sub> = ln(''n'')/''λ''
で計算することができる。放射能の数値の桁が一桁小さくなる期間を算出するにあたって
:''t''<sub>1/10</sub> = ln(10)/''λ''
は重要である。例えばプルトニウム239の場合24000×3.3≒80000と約8万年でようやく一桁減少するということである。二桁減少するまでの期間は8万年の二倍の16万年、三桁であれば24万年と暗算で何桁減るのに何年かかるということが簡単に求めることができる。<br />
なお、''t''<sub>1/10</sub> 半減期から算出できる。半減期 ''t''<sub>1/2</sub> は ln(2) であることから ln(10) = ''a''×ln(2) となる係数 ''a'' は
:''a'' = ln(10)/ln(2) ≒ 2.3/0.693 ≒ 3.3
と半減期を約3.3倍すれば10分の1になる時間 ''t''<sub>1/10</sub> の近似値が得られることがわかる。
}}。
放射崩壊において半減期と[[崩壊定数]]は核種に固有な値をとるので、半減期または崩壊定数の測定・推定値から核種を推定できる。また、物質の流出入が閉じた系(化石、火成岩など)では放射能の減衰度合いと半減期から逆算して年代測定に用いられる。
=== 放射能 (activity) ===
ある放射性同位体が単位時間あたりに崩壊する個数をその放射性同位体の'''放射能''' (activity) と呼ぶ。放射能の単位は[[ベクレル]](記号:Bq)である。放射能を ''A''(''t'') は以下のように定義される。
:<math>A(t) = \left| \frac{dN}{dt} \right|</math>
前節のように原子数の時間変化の式を考慮すれば、
:<math>A(t) = \lambda N(t) = \lambda N(0) \mathrm{e}^{-\lambda t}</math>
と表すこともできる。式からわかるように、放射能は放射性同位体の原子数に比例する。このことから、半減期を放射能が半減するまでにかかる時間と定義しても同値であることがわかる。
崩壊定数が不明な放射性同位体が存在すれば、単純に放射能の減衰を測定し、その結果から半分になる時間を計算すれば半減期(さらには崩壊定数)を求めることができる。なお、半減期を基に 1/2 だけではなく 1/4、1/8 になる時間も算出できる<ref group="注釈">
;半減期と残留放射能計算早見表
:半減期 ''t''<sub>1/2</sub> をもつ放射性同位体は半減期が経過するごとにその放射能は半分となる。例えば、半減期の3倍の時間が経過すれば放射能は 2<sup>3</sup>分の1(8分の1)となる。
:次の表は半減期の1 – 5倍(整数値)が経過した時点での残留放射能を求めるための簡易表である。
:例えば初期値が{{val|10000|u=Bq}}で、半減期の5倍経過したときの放射能は
::3.125/100 × {{val|10000|u=Bq}} = 312.5 Bq
:と計算できる。すなわち、5''t''<sub>1/2</sub> だけ経過すれば {{val|10000|u=Bq}} は 312.5 Bq まで減少することがわかる。
{| class="wikitable"
|-
! 経過した時間(半減期の倍数) !! 残っている割合 !! 百分率での表示
|-
| 0 || 1/1 || 100 %
|-
| 1 || 1/2 || 50 %
|-
| 2 || 1/4 || 25 %
|-
| 3 || 1/8 || 12.5 %
|-
| 4 || 1/16 || 6.25 %
|-
| 5 || 1/32 || 3.125 %
|-
| ... || ... || ...
|-
| ''n'' || 2<sup>−''n''</sup> || 100/(2<sup>''n''</sup>)%
|}
</ref>。
== 生物学的半減期と実効半減期 ==
元素にもよるが、放射性物質を体内に取り込んだ場合、時間が経つにつれ放射性物質は代謝によって体外に排出されてゆく。そこで、体内にある放射性物質の量が代謝により半分にまで減少するときの時間を'''生物学的半減期''' (biological half-life) と言う。
生物学的半減期は物理学的半減期とはメカニズムとして全く別のものであるため、代謝によって放射性同位体が排出されるとともに放射性同位体の放射性崩壊を起こすことによっても体内の放射性物質の量は減少してゆく。この生物学的代謝と放射性崩壊による減少を合算して、実際に体内の放射性物質の量が半分になるまでの時間を'''実効半減期''' (effective half-life) と呼ぶ。実効半減期 ''T''<sub>e</sub> は、その逆数が生物学的半減期 ''T''<sub>b</sub> の逆数と物理的半減期 ''T''<sub>p</sub> の逆数との和となることから求める<ref>福田覚 『放射線技師のための物理学三訂版』 東洋書店、1991年、170頁。ISBN 4-88595-309-X</ref>。
つまり、実効半減期 ''T''<sub>e</sub>、物理学的半減期 ''T''<sub>p</sub>及び生物学的半減期 ''T''<sub>b</sub> は、
:<math>\frac{1}{T_{\mathrm{e}}} = \frac{1}{T_{\mathrm{p}}} + \frac{1}{T_{\mathrm{b}}}</math>
を満たす{{efn|ここで生物学的半減期が物理的半減期に比べて十分長い場合(ヨウ素131の場合物理的半減期8日に対して生物学的半減期が138日であるため、このケースになる)、体内で壊変によって壊れるほうが多いのでほとんど排出されずに体内で崩壊し、被曝の影響が大きくなる。一方で、逆に生物学的半減期に対して物理的半減期が長い場合(これは生物学的半減期が70日程度のセシウムのケースである)、体内で壊変するよりも体外に排出される割合のほうが多くなる。あくまでこれは1度限り摂取した場合であって、継続的に摂取した場合は、1日あたりの摂取量が同じであるとすれば摂取量と排出量が平衡に達する程度までは濃縮する危険性がある。<br />
この度合いは生物学的半減期が長いほど影響が大きい。このことから生物学的半減期が長い核種は短い核種よりも1日あたりの排出量が少ないため、ほとんど体外に排出されずに体内にたまっていき、したがって前者とくらべ多く濃縮されるため、なるべく摂取を避ける事が望ましい。また排出を促す薬には、生物学的半減期を短くする効果があると解釈できる。}}。
=== 体内濃度の時間変化の数理 ===
崩壊定数 ''λ'' の放射性物質が、単位時間あたりに''Q''ずつ増える系を考えれば、微分方程式
{{Indent|<math>\frac{dN(t)}{dt}=Q-\lambda{N(t)}</math>}}
で与えられる<ref>永江知文・永宮正治 『原子核物理学』 裳華房、2000年、43から44頁の例題4.1を参考。ISBN 4-7853-2094-X。</ref>。
この解は、
{{Indent|<math>N(t)=\frac{Q}{\lambda}(1-e^{-\lambda{t}})</math>}}
である<ref group="注釈">(導出)
両辺に e<sup>''λt''</sup> を掛ければ
{{Indent|<math>e^{\lambda{t}}\frac{dN(t)}{dt}+\lambda{N(t)e^{\lambda{t}}}=Qe^{\lambda{t}}</math>}}
であるが、合成微分律により
{{Indent|<math>\frac{d}{dt}(N(t)e^{\lambda{t}})=Qe^{\lambda{t}}</math>}}
となる。これを積分すれば
{{Indent|<math>N(t)e^{\lambda{t}}=\frac{Q}{\lambda}e^{\lambda{t}}+C</math>}}
となる。''N'' について解いて
{{Indent|<math>N(t)=\frac{Q}{\lambda}e^{(\lambda{t}-\lambda{t})}+Ce^{-\lambda{t}}=\frac{Q}{\lambda}+Ce^{-\lambda{t}}</math>}}
ここで初期条件 ''t'' = 0 を考えれば、明らかに ''N'' = 0 であるから、初期値問題について解けば積分定数 ''C'' は
{{Indent|<math>N(0)=0=\frac{Q}{\lambda}+Ce^{-\lambda\times{0}}</math>}}
{{Indent|<math>\therefore{C=-\frac{Q}{\lambda}}</math>}}
と定まる。つまり
{{Indent|<math>N(t)=\frac{Q}{\lambda}(1-e^{-\lambda{t}})</math>}}
である。</ref>。
この式は単位時間あたりに''Q''摂取し(単位時間あたりの一定量増加)、壊変による減衰を無視し、生物学的半減期による減衰(崩壊定数は生物学的半減期のものを用いる)を考えれば一定量の放射性物質を毎日摂取し続けた場合の体内濃度が計算できることは明らかであろう<ref group="注釈">
;具体例
例えばセシウムの生物学的半減期を70日とすれば崩壊定数を日の単位で求めれば
{{Indent|<math>\lambda=\frac{\ln(2)}{70}\ \text{d}^{-1} \approx{0.01}\ \text{d}^{-1}</math>}}
であり、1日あたり100 Bq摂取したとすれば
{{Indent|<math>\frac{100}{0.01}(1-e^{-0.01\ \text{d}^{-1}\ {t}})\approx10000(1-e^{-0.01\ \text{d}^{-1}\ {t}})</math>}}
で時刻''t''の体内濃度が得られる。ここで 0 < ''λ'' < 1 であるから、
{{Indent|<math>\lim_{t\rightarrow{\infty}}\frac{Q}{\lambda}(1-e^{-\lambda{t}})=\frac{Q}{\lambda}</math>}}
である。これは体内濃度に上限がある事を示しており、セシウムの場合で計算すれば
{{Indent|<math>\frac{Q}{0.01}=100Q</math>}}
であり、1日あたり摂取量 ''Q'' の100倍に濃縮する。例えば100 Bq摂取し続ければ{{val|10000|u=Bq}}、500 Bqで{{val|50000|u=Bq}}体内に濃縮するわけである。</ref>。
== 崩壊系列 (decay series) と放射平衡 (radioactive equilibrium) ==
[[Image:Decay scheme U235.png|thumb|right|ウラン235とその娘核種であるアクチニウム崩壊系列の図。ここで安定同位体である鉛207になるまでさまざまな核種を経由して崩壊していく]]
[[放射性崩壊]]において、崩壊する元の核種を'''親核種''' (parent nuclide) と呼び、崩壊によって生成された核種を'''娘核種''' (daughter nuclide) と呼ぶ。核種が放射線を出さない安定した核種であるとは限らない。ウラニウム、プルトニウム、トリウムなどの核種は、崩壊しても安定同位体とはならず、[[崩壊系列]]を成す。
=== 逐次崩壊の数理 ===
[[Image:Radioactivity equilibrium 2pics.PNG|thumb|200px|right|'''過渡平衡'''(上)と'''永続平衡'''(下)<br />1.過渡平衡の親核種 2.過渡平衡の娘核種 3.永続平衡の親核種 4.永続平衡の娘核種]]
娘核種も放射能を持つとき、[[放射性物質]]の放射能の減衰は単純な時間的な指数関数的減少とは異なり、親核種と娘核種に関する連立微分方程式を立てなくてはならない。一般に、娘核種の半減期が親核種の半減期よりも長い場合、時間とともに親核種が崩壊してゆくため、娘核種のみが残ることになる。また逆に、娘核種の半減期が親核種よりも短い場合、'''放射性平衡''' (radioactive equilibrium) と呼ばれる平衡状態が成立する<ref>[[#草間(1995)|草間(1995)]]</ref>。放射性平衡が成り立つときは単純な結果を得ることができる。
たとえば放射性物質Aが崩壊してB、Bも放射性物質であり、これが崩壊してCになりこれは安定核であったとすれば、それらの任意の時刻''t''における量は連立微分方程式
:<math>\begin{align}
\frac{dN_\mathrm{A}}{dt} &= -\lambda_\mathrm{A} N_\mathrm{A} \\
\frac{dN_\mathrm{B}}{dt} &= \lambda_\mathrm{A} N_\mathrm{A} - \lambda_\mathrm{B} N_\mathrm{B} \\
\frac{dN_\mathrm{C}}{dt} &= \lambda_\mathrm{B} N_\mathrm{B} - \lambda_\mathrm{C} N_\mathrm{C}
\end{align}</math>
によって表される<ref>真田順平 『[http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320001633 原子核・放射線の基礎]』 共立出版〈共立全書163〉、1966年、29 - 30頁。ISBN 4-320-00163-X</ref>。これを逐次崩壊という<ref>Graham Woam著、堤正義訳 『[http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320034525 ケンブリッジ物理公式ハンドブック]』、共立出版、2007年、101頁。ISBN 978-4-320-03452-5</ref>。容易に拡張されるように、プルトニウムなどの3つ以上の崩壊系列をなす核種では''n''番目の放射能の量は
:<math>\frac{dN_{n}}{dt}=\lambda_{n-1}{N_{n-1}}-\lambda_{n}{N_{n}}</math>
で与えられることが推測できるが、ここではおもに三段階の崩壊の場合についてのみ述べる。ここでAのみがあった状態で初期条件 ''t'' = 0 を与えれば明らかに、Aの量がそのまま初期値であり、2番目以降はゼロであることは明らかである。Aの初期値を''N''<sub>0</sub>とおけばそれぞれの任意の時刻の放射能は
:<math>\begin{align}
N_\mathrm{A}(t) &= N_{0} e^{-\lambda_\mathrm{A}t} \\
N_\mathrm{B}(t) &= N_{0} \lambda_\mathrm{A} \frac{e^{-\lambda_\mathrm{A}t} - e^{-\lambda_\mathrm{B}t}}{\lambda_\mathrm{B} - \lambda_\mathrm{A}} \\
N_\mathrm{C}(t) &= N_{0} \lambda_\mathrm{A} \lambda_\mathrm{B} \left(
\frac{e^{-\lambda_\mathrm{A}t}}{(\lambda_\mathrm{B} - \lambda_\mathrm{A}) (\lambda_\mathrm{C} - \lambda_\mathrm{A})}
- \frac{e^{-\lambda_\mathrm{B}t}}{(\lambda_\mathrm{B} - \lambda_\mathrm{A}) (\lambda_\mathrm{C} - \lambda_\mathrm{B})}
+ \frac{e^{-\lambda_\mathrm{C}t}}{(\lambda_\mathrm{A} - \lambda_\mathrm{C}) (\lambda_\mathrm{B} - \lambda_\mathrm{C})}
\right)
\end{align}</math>
で与えられる。ここで、Aは単調減少であり、B、C等は最初は増加するものの平衡に達すると減少へと転ずる。AよりBの[[崩壊定数]]が大きい(''λ''<sub>A</sub> < ''λ''<sub>B</sub>)とき、十分大きな時間 ''t'' が経過すれば
:<math>\exp({-\lambda_\mathrm{A}t}) \gg \exp({-\lambda_\mathrm{B}t})</math>
すなわちBのほうが早く減少するため、<math>N_\mathrm{B} / N_\mathrm{A} \ll 1</math>として
:<math>N_\mathrm{B} \approx \frac{N_{0}\lambda_\mathrm{A}}{\lambda_\mathrm{B}-\lambda_\mathrm{A}}e^{-\lambda_\mathrm{A}t}</math>
のように近似できるわけであるが、これこそが過度平衡である。さらに、Aの半減期が圧倒的に長く、λ<sub>A</sub> ≪ λ<sub>B</sub> といった状態では適当な時間が経過するならば
:<math>\lambda_\mathrm{A} N_\mathrm{A} = \lambda_\mathrm{B} N_\mathrm{B} = \lambda_\mathrm{C} N_\mathrm{C} = \dotsb</math>
と崩壊率が等しくなる。存在比は上記式より
:<math>N_\mathrm{A}:N_\mathrm{B}:N_\mathrm{C}:\dotsb = 1/\lambda_\mathrm{A}:1/\lambda_\mathrm{B}:1/\lambda_\mathrm{C}:\dotsb = T_\mathrm{A}:T_\mathrm{B}:T_\mathrm{C}:\dotsb</math>
がただちに得られる。これを永年平衡<ref>真田順平 『[http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320001633 原子核・放射線の基礎]』 共立出版〈共立全書163〉、1966年、30頁。ISBN 4-320-00163-X</ref>または永続平衡という。
==== 崩壊が分岐する場合について ====
ある放射性物質が一定の確率で、''n''個の別の核種(より正確には別の崩壊モードで崩壊することである)にそれぞれ崩壊する場合、全崩壊定数 ''λ''(分岐を問わずに崩壊する確率)は''i''番目に崩壊する崩壊定数を ''λ<sub>i</sub>'' とすれば、
:<math>\lambda=\sum_{i=1}^{n}\lambda_{i}=\lambda_{1}+\lambda_{2}+\dotsb+\lambda_{n}</math>
という関係が成り立つ<ref>岩波理化学辞典第五版、[[1998年]]、ISBN 4-00-080090-6、項目「崩壊定数」より。</ref>。崩壊定数は半減期の逆数であるため
:<math>\frac{\ln(2)}{T_{1/2}}=\lambda</math>
という関係が成立する。つまり、同じ核種が異なる半減期 ''t<sub>i</sub>'' や[[崩壊モード]]で複数の娘核種・状態に壊変する現象では上記式に代入することによって
:<math>\frac{1}{T}=\ln(2)\sum_{i=1}^{n}\frac{1}{t_{i}}=\ln(2)\left(\frac{1}{t_{1}}+\frac{1}{t_{2}}+\dotsb+\frac{1}{t_{n}}\right)</math>
のような関係が得られる。ここで1/''T''は全半減期である。これが崩壊定数の総和と同値であることは明らかであろう。また平均寿命については崩壊定数と逆数であるため、(どのような崩壊かを問わずに)崩壊する場合の平均寿命についてはその各々の平均寿命の逆数の総和が、前者について成立するということである。つまり
:<math>\frac{1}{\tau}=\sum_{i=1}^{n}\frac{1}{\tau_{i}}=\frac{1}{\tau_{1}}+\frac{1}{\tau_{2}}+\dotsb+\frac{1}{\tau_{n}}</math>
であり、
:<math>\sum_{i=1}^{n}\frac{1}{\tau_{i}}=\sum_{i=1}^{n}\lambda_{i}</math>
という関係が成立するという意味である。
これを仮に全崩壊定数と名付け、ここで全崩壊定数を ''λ'' とおいたとき、各々の事象 ''λ''<sub>1</sub>、''λ''<sub>2</sub>、... に崩壊する確率はそれぞれ ''λ''<sub>1</sub>/''λ''、''λ''<sub>2</sub>/''λ''、... によって与えられ、これを分岐比と呼ぶ<ref>{{Cite book |year=2009 |title=物理学事典
|page=86 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-257642-0 }}</ref>。
== いろいろな物質の半減期の一覧 ==
ここでは主要な放射性同位体の[[物理的半減期]]、生物学的半減期の一覧などを載せておく。各数値の出典は[http://www.wolframalpha.com/]に従ったが、半減期の[[有効数字]]は簡単のため1 - 2ケタとした。また、崩壊定数の時間の単位はすべて半減期に準ずる。崩壊定数は物理的半減期のものである。また体内から9割排出される期間とは、生物学的半減期から計算し、初期値から一切放射性物質を摂取せず、かつ壊変により減少することを無視したものである。詳細は参考文献や外部リンクにあるデータベースなども参照のこと。
{|class="wikitable"
|-
!核種名!!核種名<br />(元素記号)!![[物理的半減期]]!!崩壊定数!!物理的に<br />10分の1に<br />なる期間!!生物学的半減期!!体内から9割が<br />排出される期間<br />(崩壊は考慮しない)!![[有効半減期]]
|-
|[[トリチウム]]||<sup>3</sup>H, T||12.3年||0.056||41年||12日||40日||12日
|-
|[[塩素の同位体|塩素38]]||<sup>38</sup>Cl||37分||0.01873||2時間3.6分||N/A||N/A||N/A
|-
|[[コバルトの同位体|コバルト58]]||<sup>58</sup>Co||70.86日||0.00978||235.26日||N/A||N/A||N/A
|-
|[[コバルト60]]||<sup>60</sup>Co||5.275年||0.1314||17.51年||10日||33.2日||9.9日
|-
|[[ヒ素の同位体|ヒ素74]]||<sup>74</sup>As||17.77日||0.039||59日||N/A||N/A||N/A
|-
|[[ストロンチウム90]]||<sup>90</sup>Sr||29年||0.0239||96年||49年||163年||18年
|-
|[[イットリウムの同位体|イットリウム91]]||<sup>91</sup>Y||58.5日||0.0118||194.22日||N/A||N/A||N/A
|-
|[[モリブデンの同位体|モリブデン99]]||<sup>99</sup>Mo||66時間||0.0105||219.12時間||N/A||N/A||N/A
|-
|[[テクネチウムの同位体|テクネチウム99m]]||<sup>99m</sup>Tc||6時間||0.1155||19.92時間||N/A||N/A||N/A
|-
|[[テルルの同位体|テルル132]]||<sup>132</sup>Te||77時間||0.009||255.64時間||N/A||N/A||N/A
|-
|[[ヨウ素131]]||<sup>131</sup>I||8日||0.0866||26.5日||138日||458日||7.6日
|-
|[[ヨウ素の同位体|ヨウ素132]]||<sup>132</sup>I||2時間17分||0.005||7時間38.16分||N/A||N/A||N/A
|-
|[[ヨウ素の同位体|ヨウ素133]]||<sup>133</sup>I||20.8時間||0.0333||69.056時間||N/A||N/A||N/A
|-
|[[ヨウ素の同位体|ヨウ素134]]||<sup>134</sup>I||53分||0.013075||2時間2.84分||N/A||N/A||N/A
|-
|[[セシウム134]]||<sup>134</sup>Cs||2年||0.346||6.63年||70日||232日||64日
|-
|[[セシウムの同位体|セシウム136]]||<sup>136</sup>Cs||13日||0.0533||43.16日||N/A||N/A||N/A
|-
|[[セシウム137]]||<sup>137</sup>Cs||30年||0.0231||100年||70日||232日||70日
|-
|[[セリウムの同位体|セリウム144]]||<sup>144</sup>Ce||285日||0.00243||946.2日||N/A||N/A||N/A
|-
|[[バリウムの同位体|バリウム140]]||<sup>140</sup>Ba||12.75日||0.0543||42.33日||65日||215.8日||11日
|-
|[[ランタンの同位体|ランタン140]]||<sup>140</sup>La||40.3時間||0.0172||133.8時間||N/A||N/A||N/A
|-
|[[ラドン222]]||<sup>222</sup>Rn||92時間||0.00753||305.44時間||N/A||N/A||N/A
|-
|[[ラジウム226]]||<sup>226</sup>Ra||1600年||0.000433||5312年||44年||146.08年||43年
|-
|[[ウラン235]]||<sup>235</sup>U||7億年||0.00000000099||23億年||15日||50日||15日
|-
|[[ウラン238]]||<sup>238</sup>U||45億年||0.000000000154||150億年||15日||50日||15日
|-
|[[プルトニウム238]]||<sup>238</sup>Pu||87.8年||0.00789||291.5年||N/A||N/A||N/A
|-
|[[プルトニウム239]]||<sup>239</sup>Pu||24000年||0.0000289||80000年||200年||663年||198年
|-
|[[プルトニウム240]]||<sup>240</sup>Pu||6561年||0.000105||21783年||N/A||N/A||N/A
|-
|[[プルトニウム241]]||<sup>241</sup>Pu||14.3年||0.0485||47.5年||N/A||N/A||N/A
|}
参考:完全な二足歩行が可能な原人が誕生したのは約200万年前
[[地球]]が誕生したのは約46億年前
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=長倉三郎ほか編集|year=1998|month=2|title=理化学辞典|publisher=岩波書店|isbn=4-00-080090-6|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/08/6/0800900.html}}
* {{Cite book |和書|author=日本アイソトープ協会|authorlink=日本アイソトープ協会|year=2011 |title=アイソトープ手帳 |publisher=[[丸善]] |isbn=978-4-890-73211-1}}
* {{Cite book|和書|author=真貝寿明|year=2010|title=徹底攻略常微分方程式|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/kenpon/bookDetail/9784320019348|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-01934-8|page=46}}
* {{cite book | 和書 | title=放射線健康科学 | author1=草間 朋子|author2=甲斐 倫明|author3=伴 信彦|authorlink3=伴信彦 | publisher=杏林書院 | year=1995 | ref=草間(1995) }}
== 関連項目 ==
{{Wikidata property |1=P2114}}
{{Columns-list|3|
* [[放射能]]
* [[半減期順の放射性同位体の一覧]]
* [[ベクレル]]
* [[比放射能]]
* [[平均寿命#素粒子・放射性同位体の平均寿命]]
* [[崩壊定数]]
* [[放射年代測定]]
* [[放射平衡]]
* [[崩壊系列]]
* [[指数関数的減衰]]
* [[指数関数]]
* [[対数関数]]
* [[倍加時間]]
}}
== 外部リンク ==
* [http://nucleardata.nuclear.lu.se/toi/ The Lund/LBNL Nuclear Data Search]{{en icon}}半減期などの放射性物質の詳細なデータが調べられるサイト。
* [http://www.wolframalpha.com/ Wolfram|Alpha] - 核種名を英語(または元素記号)で入力すると半減期など簡単な性質を出力してくれる。
{{放射線}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんけんき}}
[[Category:素粒子物理学]]
[[Category:原子力]]
|
2003-06-15T00:41:55Z
|
2023-10-18T05:35:39Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%B8%9B%E6%9C%9F
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10,038 |
PC-9800シリーズ
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PC-9800シリーズは、日本電気(以下NEC)が1982年(昭和57年)から2003年(平成15年)9月30日の受注終了まで、日本市場向けに販売した独自アーキテクチャのパーソナルコンピュータ(パソコン)の製品群である。同社の代表的な製品であり、98(キューハチ/キュッパチ)、PC-98、NEC98など略称されることもある。
NECが1982年(昭和57年)10月に発売した16ビットパソコン「PC-9801」を初代機とするパソコン製品群である。従来NECが発売した8ビットパソコンのPC-8000シリーズとPC-8800シリーズの資産を継承し、高速化のために16ビットマイクロプロセッサを採用した。初代「PC-9801」は、社団法人情報処理学会2008年度(第1回)「情報処理技術遺産」に認定され、2016年(平成28年)9月6日に国立科学博物館の重要科学技術史資料第00221号として、日本で最も普及した16ビットパソコンであることを評価され、登録された。
各社専用にカスタマイズされたマイクロソフトのMicrosoft BASICをベースにした時代の終盤から、MS-DOS時代を経てMicrosoft Windowsの普及期まで約15年間、NECのパソコンの主力商品として製造販売が続けられた。全盛期の1987年(昭和62年)に、日本国内の16ビットパソコン小売店頭販売数で市場の90%を占有する。
PC-9800シリーズは多種多様な機種が展開された。1985年(昭和60年)からワープロやCAD用途を意識して性能を高めたPC-98XAなどの高級機種を発売し、1990年(平成2年)に32ビット外部バス(NESAバス)を搭載するHyper98(PC-H98シリーズ)へ派生した。東芝のJ-3100シリーズやセイコーエプソンのEPSON PCシリーズと小型パソコンの開発を競い、1989年(平成元年)に「ノートパソコン」の名称を広めた98NOTE (PC-9801N) を発売する。1990年代に費用対効果で優れるPC/AT互換機の台頭により、従来路線を踏襲するPC-9800シリーズの本流は製品計画を見直す。1993年(平成5年)に、従来のPC-9801型番の機種は、おもにWindowsの利用を想定した高性能機の98MATE(PC-9821シリーズ)と、おもにMS-DOSの利用を想定して低価格を追求した98FELLOW(PC-9801シリーズ)に一新する。
以後PC-9800シリーズは、ハードウェアに業界標準規格を組み込んでPC/AT互換機と類似点が多くなるが、既存の周辺機器やソフトウェアと互換性を維持するため独自のハードウェア仕様も備えた。1995年(平成7年)にWindows 95が登場してパソコンが一般市場で普及すると、PC-9800シリーズの独自アーキテクチャは利点よりも費用面の不利が拡大する。1997年(平成9年)にNECは、PC/AT互換機をベースとするPC98-NXシリーズを発表して主力を移行し、2003年(平成15年)9月30日にPC-9800シリーズの受注を終了した。
NECは通信機器メーカーとして創業したが、事業は日本電信電話公社に大きく依存していた。民需や輸出を拡大するため、1950年代にコンピュータや半導体の開発を始め、1976年に日本IBM、富士通、日立製作所に次ぐ、日本で4番目に高いメインフレームの売上高を記録した。
NECは消費者市場での存在感がなく、その子会社として家電製品を展開していた新日本電気も消費者市場で成功しているとは言い難かった。メインフレームやミニコンピュータを開発してきたNECの情報処理グループは、マイクロプロセッサを性能や信頼性が劣っているためコンピュータに適していないと見なしており、興味を示さなかった。しかし、電子デバイス販売事業部マイクロコンピュータ販売部がマイクロプロセッサ評価用キットのTK-80を発売すると、ターゲットに想定していなかった一般のコンピュータマニアや好事家に売れていった。TK-80の開発者、後藤富雄は1977年(昭和52年)にサンフランシスコで開催されたウェストコースト・コンピュータ・フェアでパソコン市場の立ち上がりを目の当たりにした。後藤とその部長、渡邊和也はパソコンを開発することを決意した。電子デバイス販売事業部には電子部品店の小さな販売網しかなかったため、新日本電気が持つ家電ルートを使ってパソコンを販売することにした。
NECの電子デバイス販売事業部は1979年(昭和54年)にPC-8001を発売し、1981年(昭和56年)には日本のパソコン市場の40%のシェアを獲得した。当時のNEC副社長、大内淳義は次のように述べた。
1981年(昭和56年)4月、NECはパソコンの開発を新日本電気とNECの情報処理グループ、電子デバイスグループ、の3つのグループに展開することを決定した。新日本電気は8ビットパソコンのPC-6000シリーズを、情報処理グループは16ビットのビジネス向けパソコンを、電子デバイスグループはPC-8000シリーズやPC-8800シリーズなどその他の分野のパソコンを担当することになった。
情報処理小型システム事業部では、浜田俊三がプロジェクトの指揮を執り、小澤昇が製品計画を担当した。当初、開発チームは新しいパソコンを1973年(昭和48年)のNEAC システム100に由来するオフィスコンピュータの小型版として計画としていた。渡邊和也は、新しいパソコンはMicrosoft BASICを備え、以前のパソコン向けの周辺機器との互換性を維持し、拡張スロットの仕様を公開しなければならないと助言した。1981年9月、浜田は元請けのアスキーの西和彦にN88-BASICを8086プロセッサ用に書き直すよう依頼した。西は米国の開発会社所属のビル・ゲイツと相談したいと返答した。3か月後、マイクロソフトはGW-BASIC(英語版)の開発に忙しいとして、西は浜田の申し入れを断った。西は「マイクロソフトはBASICをより構造化された内部コードで同じ機能を持つものに書き直しており、それは16ビットバージョンのGW-BASICとして発売される。日本語版のGW-BASICを選択した場合、我々はBASICをより早く提供できるだろう。」と述べた。浜田は「以前述べたとおり、旧来のものと互換性があるBASICが欲しい。」と返答した。両者は合意することができなかった。
渡邊が提案する計画の先行きが不透明になったため、浜田はオフィスコンピュータの小型版を開発するか、渡邊の提案通りにパソコンを開発するか、2つの計画で迷っていた。浜田と渡邊はPC-8001やPC-8801のアプリケーションを収集して調査しているうちに、消費者市場はこれらのパソコンと互換性のある16ビット機を望んでいることに気付いた。浜田は異なる市場向けに両方の計画を採用することにした。1982年(昭和57年)4月、オフィスコンピュータの小型版はNEC独自開発の16ビットマイクロプロセッサμCOM-1600を搭載したNEC システム20 モデル15としてリリースされた。この機種は従来のオフィスコンピュータの新モデルとして発表され、特段注目されることはなかった。
1982年(昭和57年)2月、ソフトウェア開発チームはN88-BASICのリバースエンジニアリングとN88-BASIC(86)の設計を開始した。その作業は翌月に完了し、開発チームはPC-9801(コードネームはN10プロジェクト)の開発を開始した。PC-9801のプロトタイプは1982年(昭和57年)7月の終わりに完成した。N88-BASIC(86)のコードは新規に書かれていたが、西はバイトコードがマイクロソフトのものと一致すると指摘した。当時、バイトコードに著作権法を適用できるかどうかは不明確だった。西は浜田に対して、NECはBASICのライセンス料に相当するマイクロソフト製品を購入し、N88-BASIC(86)にはマイクロソフトとNECの双方の名前を著作権表示に入れることを要求した。浜田はこれを受け入れた。
開発チームはサードパーティーの開発者が市場の拡大に非常に重要と考え、発売前から独立系ソフトハウスに50台から100台のプロトタイプと技術情報を無償で提供した。
三菱電機はNECに先行して1982年(昭和57年)1月に16ビットパソコンのMULTI 16を発売したが、その実体は豊富なソフトウェアを自社で揃えてシステムとして売り込むというオフィスコンピュータの性格を残しており、成功しなかった。
1981年(昭和56年)に情報処理グループの端末機事業部も「パーソナルターミナル」としてN5200というパソコンシリーズを発売した。これは8086プロセッサとμPD7220ディスプレイコントローラを搭載しており、アーキテクチャも'PC-9800シリーズと類似していたが、オペレーティングシステムは独自開発のPTOSを採用している。NECはN5200をインテリジェント端末あるいはワークステーションとして発表し、市販パソコンのPC-9800シリーズとはターゲットが異なっていた。この複合端末機市場に対して富士通は1981年にFACOM 9450を発売し、日本IBMは1983年にマルチステーション5550を発売した。
1982年(昭和57年)10月、PC-9800シリーズ(以下、PC-98)の初代機『PC-9801』は16ビットCPUのNEC μPD8086(Intel 8086互換)を5MHzで駆動し、128KBのRAM(最大640KBまで拡張可能)を搭載、PC-8000シリーズやPC-8800シリーズとのハードウェア・ソフトウェアの上位互換性と298,000円という低価格を売り物にして発売された。グラフィック画面解像度は640ドット×400ドット8色。また、当時としては先進的なグラフィック描画機能を持つ自社製のGDC(Graphic Display Controller μPD7220)を2個搭載している。ディスプレイなどPC-8800シリーズの周辺装置はPC-9801にそのまま流用でき、N88-BASIC用に開発されたソフトウェアは少しの修正でPC-9801に対応させることができた。これにより、従来のPC-8000シリーズやPC-8800シリーズのビジネスユーザーを取り込むことに成功した。一方、新規ユーザーは高価な8インチFDD(Floppy Disk Drives)を別途購入する必要があり、ディスプレイやプリンターも合わせると、システムセット価格としては100万円近くになった。また、基本構成では数字と英文字、半角片仮名しか表示できなかったため、日本語ワープロソフトなどを使用するには別売の漢字ROMボードPC-9801-01を増設する必要があった。
ビジネス分野を中心に漢字ROMやFDDを標準搭載したPC-9801を要望する声があったことに加え、高品質な漢字フォントで印刷できるプリンターが求められた。当初、PC-9801にはOEMで調達されたPC-8800シリーズ用のプリンターや自社開発のNK-3618が用意されたが、どちらも16ドットフォントに相当するゴシック体で印字するものであった。書類や本での使用頻度が高い明朝体となると、24ドットフォントを印字できる24ピンプリンターが求められた。NECはNK-3618の開発を契機に、プリンターを開発した「端末装置事業部」を「プリンタ事業部」に改め、1983年(昭和58年)5月に24ドットフォントが収録された漢字ROMを搭載する24ピンプリンター『PC-PR201』を発売した。これは当時50万円台であった24ピンプリンターを30万円以下という低価格で発売したことで好評を得た。
1983年(昭和58年)10月発売のPC-9801Fは、CPUに5MHzと8MHzから選択駆動が可能な8086-2を搭載し、2台の5インチ2DD (640KB) FDDとJIS第一水準漢字ROMを標準装備して398,000円 (2ドライブ機) で発売された。この機種は価格性能比が良好で、企業や技術者に好評を博した。5インチ2DDフォーマットは本機から新たにサポートされた。当時、5インチ2HD (1MB) FDDはまだ信頼性が低く、8インチ2D (1MB) FDDは高価だったため、日本語の業務用アプリケーションに必要最小限の容量である5インチ2DD (640KB) が採用される運びとなった。
PC-9801Fと同時に、電子デバイスグループが開発したPC-100も発表された。こちらはワープロや表計算ソフトを同梱(バンドル)し、同年に発売されたApple Lisaのようなコンセプトを持っていた。PC-100はマウスや縦横切り替え利用が可能なディスプレイといった先進的な機能を備えて注目を集めたが、従来機のソフトウェアや周辺機器と互換性がなく、ビットマップ処理によるグラフィックを採用したことで文字の表示速度が遅くなったことが影響して売れなかった。さらに、PC-100のマーケティングは情報処理グループのPC-9800と競合したことでパソコン販売店を混乱させることになった。1983年(昭和58年)12月、大内はパソコン事業を8ビット家庭用パソコンを扱う日本電気ホームエレクトロニクス(1983年(昭和58年)6月に新日本電気から社名変更)と、16ビットパソコンを扱う日本電気の情報処理グループの、2つの部門に統合することを決めた。日本電気の電子デバイスグループはパソコン事業を日本電気ホームエレクトロニクスへ移管することになった。
富士通は1984年(昭和59年)2月に5インチ2HD (1MB) FDDを搭載したFM-11BSを発売し、同年12月には同じく5インチ2HD FDDを搭載したFM-16βを発売した。これに対抗して、NECは1984年(昭和59年)11月に5インチ2HD FDDを搭載したPC-9801Mを発売。このドライブは2DDフロッピーディスクを読むことができず、従来機との互換性が劣っていたため市場では成功しなかった。一方、FM-16βはオペレーティングシステムにMS-DOSではなく既に下火になりつつあったCP/M-86を同梱(バンドル)し、さらにコンピュータ部門ではなく電子デバイス部門が開発・営業を手がけたことが失敗の一因になった。富士通は1985年半ばにこの方針を転換したが、既に手遅れであった。別の意見では、富士通はFM-11にビジネスソフトパッケージを同梱(バンドル)したことで、ユーザーがサードパーティーのソフトウェアを購入することを思いとどまらせ、富士通は自身の市場を拡大することに失敗したと考えられた。
1985年(昭和60年)5月に発売されたPC-98XAは、高級ワープロやCAD用途への需要に応えるべく、高解像度のテキスト・グラフィック画面と高速な80286プロセッサを搭載していた。また、同時に発売されたPC-9801U2は3.5インチFDDを搭載した最初の省スペースモデルとなった。しかし、両者とも従来のソフトウェアと互換性が乏しかったため不評であった。それぞれの後継機、PC-98XLおよびPC-9801UV2は、本流のPC-9801シリーズと高い互換性を保っていたため市場に受け入れられ、需要の幅を拡大することに成功した。
1985年(昭和60年)7月に発売されたPC-9801VMはCPUに8086上位互換の高速なV30を採用し、グラフィックはオプションで4096色中16色表示に対応した。またPC-98XAに続いて2HD/2DDの両タイプのフロッピーディスクに対応した。このモデルは1年間で21万台を販売するベストセラーとなり、以後のPC-98の基本仕様となった。
1983年(昭和58年)から1987年(昭和62年)にかけて、NECはソフトハウスに対してMS-DOS 2.11のサブセットをソフトウェアへ同梱(バンドル)することを無償で認めていた。アスキーやマイクロソフトはMS-DOSの普及を促すためにこれを認めていた。ユーザーの立場では、MS-DOS対応ソフトとは別にMS-DOSを購入する手間が省けるという利点があった。浜田はNECがアスキーにこれに相当するMS-DOSのライセンス使用料を支払ったかどうか明らかにしていないが、この戦略がソフトハウスの囲い込みに功を奏した。当初のPC-98は「PC-8800シリーズ上位互換の高速なBASICマシン」で、PC-98の能力を十分に引き出したソフトは少なかったが、早期からサードパーティーに対してソフトウェアの開発を促進したことで、1984年(昭和59年)3月時点で約700本のソフトウェアパッケージがPC-98に対応した。1987年(昭和62年)3月、NECはPC-9800シリーズの出荷台数が100万台を超え、約5,000本のソフトウェアパッケージが対応していると発表した。当時の東京リサーチ調べによると、16ビットパソコンの店頭販売数におけるPC-98のシェアは90%を超えた。NECが日本のパソコン市場を独占できた理由について、1985年(昭和60年)に孫正義は次のように分析した。
また、NECは既存製品との互換性と資産の継承に注意を払っていた。PC-9801VMはCPUクロック周波数を8MHzと10MHzで選択できるほか、V30の命令サイクルが8086と異なることから、オプションで8086を搭載した拡張カードも提供していた。V30はインテルのx86系CPUには実装されていない独自の命令が存在した。NECはソフトウェア開発者に対してそのような命令を使用しないよう説明していたが、一部のソフトウェアは使用していた。それらのソフトウェアが動かなくなることを懸念し、1986年(昭和61年)発売のPC-9801VXは80286とV30が電源投入時の設定により排他的に動作するよう設計された。1988年(昭和63年)発売のPC-9801RAは80386とV30を搭載して同様に対応していた。1990年(平成2年)発売のPC-9801DXよりV30は省略された。
NECはテレビCMや新聞での広告、見本市での宣伝などに多大な費用をかけた。NEC全体の広告宣伝費は1970年代中期まで10億円台で推移していたが、その後は増加し続け、1985年(昭和60年)には250億円を上回った。
東芝は1983年(昭和58年)からラップトップパソコンの開発に取り組んでいた。1985年(昭和58年)にヨーロッパで発売されたT1100やその後継機は成功を収め、1986年(昭和59年)春から欧米諸国で発売されたT3100はバイト誌から「キング・オブ・ラップトップ」と賞賛された。1986年(昭和59年)10月にはT3100を日本市場向けに改良したJ-3100を発売し、特に狭いオフィスが多い日本では企業を中心に好評を得た。T3100が発売されるまで、NECはラップトップ型パソコンを時期尚早と見るなど開発に本腰を入れていなかった。このため、NECはT3100の開発を察知して慌ててラップトップ型パソコンのPC-98LTを開発した。PC-98LTはJ-3100と同月に発売されたものの、従来機との互換性が乏しく、既存のPC-98用ソフトが動作しなかったため、十分な成功を収めるには至らなかった。小型化を実現するにはGDCなどの周辺チップを集約したチップセットを開発する必要があったが、3年前からラップトップパソコンの開発に本格的に取り組んでいた東芝にはすぐに追随することができなかった。
1987年(昭和62年)3月、セイコーエプソンは最初のPC-98互換パソコン(以下、98互換機)となるPC-286シリーズを発表した。NECはこの98互換機を調査し、使用されているBIOSがNECの著作権を侵害しているとして訴訟を起こした。1987年(昭和62年)4月、セイコーエプソンはPC-286 Model 1から4までの4機種の発売を中止し、別の開発チームによりクリーンルーム設計で開発されたBIOSを採用するPC-286 Model 0を発売した。このモデルはROM BASIC(本体ROMに収録されたN88-BASIC(86))が内蔵されておらず、NECはこれを「PC-98との互換性に乏しい」と結論付けた。当時はROM BASICの需要が依然多く、1990年(平成2年)時点でもNECが発行していたソフトカタログのうち約40%がROM BASICに依存していた。同年11月、セイコーエプソンは裁判の継続が市場に悪いイメージを抱かれると考え、NECに和解金(金額は非公表)を支払い、告訴の対象になった4機種は今後も発売しないという内容で和解した。著作権侵害の有無については決着が付かないままとなった。
PC-286 Model 0はCPUに10MHz駆動の80286を使用し、同じCPUを8MHzで駆動していたNECの主力機PC-9801VXよりも25%速かった。1987年(昭和62年)6月、NECはCPUクロック周波数を10MHzに引き上げたPC-9801VX01/21/41をリリースした。NECは自社のオペレーティングシステム(ディスクバージョンのN88-BASIC(86)やMS-DOS)に、NEC製以外のマシンで起動しないようにするBIOS署名チェックを追加した。これは通称「EPSONチェック」とも呼ばれた。1987年(昭和62年)9月、セイコーエプソンはPC-286VとPC-286U、および、BASICインタープリタを追加するための『BASICサポートROM』をリリースした。また、EPSONチェックを解除するためのパッチプログラム『ソフトウェア・インストレーション・プログラム (SIP)』をバンドルした。新機種はリーズナブルな価格と互換性の良さが評価され、好評を博した。セイコーエプソンの98互換機は1988年(昭和63年)に20万台の売上を記録し、日本のパソコン市場に新たな勢力が誕生することになった。
1987年(昭和62年)11月、セイコーエプソンはNECに先行してPC-98と完全な互換性を持つラップトップパソコンPC-286Lを発表した。ラップトップ型の需要はもはや無視できる規模ではなく、PC-98最大手のディーラーである大塚商会もPC-286Lで初めて98互換機を販売リストに加えた。1988年(昭和63年)3月、NECはデスクトップ型PC-9801との完全互換を実現したラップトップ型パソコンPC-9801LV21を発売した。完全互換性と小型化の両立には新規に開発された3種類のチップセットが重要な役割を果たし、これらはPC-9801RAなどの主力デスクトップ機にも使用された。しかし、青液晶を採用したPC-9801LV21は視認性が悪く、バックライト付き白黒液晶を採用したPC-286Lに技術面でも後塵を拝することになった。視認性の問題はJ-3100同様の橙色プラズマディスプレイを採用したPC-9801LS(1988年(昭和63年)11月)と、バックライト付き白黒液晶を搭載したPC-9801LV22(1989年(平成元年)1月)で解決された。
1989年(平成元年)7月、東芝は軽量でバッテリー駆動可能な真のラップトップパソコンJ-3100SSに「みんなこれを、目指してきた」「ブックコンピュータ」というキャッチコピーと「DynaBook」というブランドを添え、宣伝に鈴木亜久里を起用して発売し、これは1年間で17万台を販売する大ヒットとなった。この登場に危機感を覚えたNECは、同年11月、同様のコンセプトを持つPC-9801Nに「ノートパソコン」というキャッチコピーと「98NOTE」というブランドを付け、宣伝に大江千里を起用して発売した。DynaBookの出だしは順調だったが、1990年には98NOTEの累計販売数がDynaBookを上回った。
1987年(昭和62年)、対抗規格としてマイクロソフトと日本の家電メーカーを中心に構成された標準化団体がAX(Architecture eXtended)を提唱した。AXは特殊なビデオチップセット(Japanese Enhanced Graphics Adapter (JEGA) ) と日本語キーボード、それに対応するソフトウェアの組み合わせによって、PC/AT互換機で日本語を表示できるようにした。しかし、価格が割高かつ対応するソフトウェアが少なかったことから、日本のパソコン市場に存在感を示すことはできなかった。
1980年代初頭、16ビットパソコンは高価でもっぱらビジネス用途として開発・販売されたため、家庭ユーザーは16ビット機よりも8ビット機を選択した。1980年代半ばまでに、日本の家庭用コンピュータ市場はNECのPC-88、富士通のFM-7、シャープのX1、マイクロソフトとアスキーのMSX陣営が占めていた。この時代、PC-98で最も人気のあるゲームジャンルは、比較的速いクロック速度と広いメモリ空間を有効に利用していたシミュレーションゲームであった。『大戦略』と『三國志』は特に人気があり、PC-98をパソコンゲームのプラットフォームとして確立した。
日本のパソコンゲームのプラットフォームは、1980年代の終わりから1990年代にかけてゆっくりと、PC-88からPC-98へ移行した。1990年代には、『ブランディッシュ』や『ダンジョンマスター』などのように、多くのコンピュータRPGがPC-98用に開発されたか他のプラットフォームから移植された。ディスプレイ解像度とディスク容量が大きいほどグラフィックの表現は向上する余地があるものの、PC-98でのアニメーションの表示は時間がかかるため、困難であった。この制約の結果、1980年代のテキストを主流とするアドベンチャーゲームの復活としてアダルトゲームやビジュアルノベルが登場し、『同級生』や『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』などが人気を博した。PC-98が衰退した後、多くの日本のパソコンゲーム開発者は、パソコン販売店で流通していたアダルトゲームを除いてプラットフォームを家庭用ゲーム機に移した。
1990年(平成2年)、日本IBMはVGAを搭載したPC/AT互換機で日本語テキストを表示できるようにするオペレーティングシステム『DOS/V』を発表した。日本の他のパソコンメーカーは日本IBMとマイクロソフトが共同で設立したPCオープン・アーキテクチャー推進協議会 (OADG) に加入した。1991年(平成3年)には日本語版のWindows 3.0が登場し、MS-DOSからWindowsへ、ソフトウェア環境の移行が始まった。1992年10月、コンパックは128,000円のDOS/Vパソコンを発売した。この価格は当時のPC-98最安モデルの半値で、他の日本のパソコンメーカーはこの直後に次々と値下げを発表した。この価格戦争はNECが主導していた日本のパソコン市場を揺るがす出来事として印象づけられ、マスコミに「コンパックショック」と呼ばれた。1993年(平成3年)に入ると東芝や富士通がDOS/Vパソコンを発売し、セイコーエプソンはDOS/Vパソコンを販売するためにエプソンダイレクトを設立した。
PC-98の主力デスクトップモデルは1988年(昭和63年)発売のPC-9801RA以来、SCSI (Small Computer System Interface) インターフェイスを内蔵したPC-9801RA21(1989年(平成元年))、DMA (Direct Memory Access) コントローラを高速化したPC-9801DA(1991年(平成3年))、486を搭載してファイルスロットを装備したPC-9801FA(1992年(平成4年))と、徐々に機能や性能を向上しながらもコンセプトは従来機を踏襲してきた。同時期にアメリカではWindows 3.0の普及とパソコンの低価格化が進んでおり、日本にもDOS/Vの登場とともにその波が押し寄せていた。PC-9801FAはコストの問題からCPUに16MHz駆動の486SXを搭載していたが、これに対してユーザーから「640×400ドットの画面はWindowsには狭い。16MHzでは快適に使えない。」との批判が集中した。1992年5月、セイコーエプソンは486SX 25MHzのCPUと1120×750ドットの高解像度表示機能を搭載したPC-486GRを、PC-9801FAと同じ価格で発売してヒットした。NECもこの状況から販売戦略を見直し、1992年7月より新製品の検討が始まった。
1992年(平成2年)10月末、NECはWindows 3.0を標準搭載したPC-9821(愛称は98MULTI)を発表した。1993年(平成3年)1月より、PC-98の主力デスクトップ機は3つのラインに拡張された。CD-ROMドライブなどホビー向けに必要な機能を一式含んでいる「98MULTi」に加え、Windowsの利用に適した性能を持つ「98MATE」、MS-DOSの利用を主目的とした低価格の「98FELLOW」が発売された。PC-98は対応する日本語アプリケーションが多く、依然日本のユーザーには人気があった。
1993年(平成3年)から1995年(平成5年)にかけて、NECは業界標準規格を採用しつつ製造コストの削減を図った。PC-98は72ピンSIMM、3.5インチ1.44MBフロッピーディスク、IDEドライブ、640×480ピクセルのDOS画面モード、2D GUIアクセラレーションGPU、Windows Sound System(英語版)、PCI、PCMCIAに対応していった。また、一部のマザーボードの製造をECSやGVCなどの台湾系企業に委託した。
PC-98の販売数そのものは順調に増大していたが、PC/AT互換機の販売はこれを上回る勢いで拡大し、PC-98は次第にシェアを落としていった。これは、パーソナルコンピュータとWindowsの爆発的な普及により、従来とのハードウェア・ソフトウェア互換性を必要とするユーザーが相対的に少数派となったためである。この時点ではPC-98もWindows機であることには変わりなく、実績のあるブランドだったことからそれなりの知名度もあり、トップシェアを争うだけの勢力は維持していた。1997年(平成9年)時点での日本国内シェアは3割とも5割弱とも言われる。しかし、CPU・チップセット・ビデオチップ・拡張バスなど、PCを構成する各種の要素技術が急激に高度化し、それらのほとんどがPC/AT互換アーキテクチャを前提としていたことから、PC-98に採用する上でさまざまな困難に直面することとなった。Windows 95の移植においては、NECはアメリカのマイクロソフト本社に技術者を約20人常駐させてPC-98版の開発を進めていた。Windows 3.1および95の時代にはFMRシリーズ / FM TOWNSなど他社独自アーキテクチャ機も存在していたのに対し、Windows 98の時代にはPC-98以外はほぼPC/AT互換アーキテクチャに収斂したため、NECにはWindowsや各種ドライバの移植コストが重くのしかかることとなった。このようにして、独自アーキテクチャの維持に次第に限界が見えてきた。
1997年(平成9年)10月、NECはPC/AT互換機といえるPC97ハードウェアデザインガイド準拠マシンのPC98-NXシリーズを発表し、一般市場におけるPC-98は事実上その使命を終えた。
PC-98の最後の機種は、2000年(平成12年)に登場したCeleronベースのPC-9821Ra43(クロック周波数433MHz、1998年の440FXチップセットベースのマザーボード設計を使用)だった。2003年(平成15年)、NECはPC-98の受注中止を発表した。2004年(平成16年)3月の出荷終了までに1830万台のPC-98が出荷された。PC-98をサポートする最後のWindowsはWindows 2000であった。
1997年(平成9年)にNECの主力パソコンはPC98-NXシリーズに移ったものの、多くの制御機器等ではPC-98が依然使用されており、これらの資産をPC/AT互換機等に移行するにはユーザー側に莫大な出費(コスト増)を強いるため、CバスやMS-DOSなどの資産を継承する必要に迫られた(建設用の計算ソフトなどでも、開発経費節減のためPC-98と抱き合わせ販売されていた)。このため、その後も一部機種を継続販売していたが、2003年(平成15年)9月30日をもって受注終了、2010年(平成22年)10月末にサポート終了となった。最終モデルは「PC-9821Ra43」「PC-9821Nr300」。FC-9800シリーズも2004年1月に販売終了、2010年(平成22年)1月に保守が終了した。最終モデルは「FC-9821Ka model 1/2」。
PC-98の受注終了後は、前述の通りサードパーティによるPC-98互換機(ロムウィン社98BASEシリーズ、エルミック・ウェスコム社(後の図研エルミック社)iNHERITORシリーズなど)の製造・販売が長く続けられたが、後者は2006年(平成18年)末のインテルによる486系プロセッサの製造終了に伴い、2007年(平成19年)9月28日に受注終了、2008年(平成20年)9月30日に出荷を終了した。その後もPC/AT互換機を用いてPCIカードを実装、Cバス拡張BOXを接続してエミュレートする「iNHERITOR II」、PC一体型の互換システム「iNHERITOR II-A」が販売されていたが、2016年(平成28年)7月に生産を終了している。
また、Cバスインタフェースのボードを利用できるコントローラ付きバックプレーンや、同コントローラやPC/FC-9801シリーズで稼動するボードコンピュータも販売されていた。
FreeBSDでは、2011年(平成23年)2月にリリースされた8.2-RELEASEまでPC-98に対応していたが、9.0-RELEASE以降、PC-98用のFreeBSDはリリースされていない。
工場の生産ラインや鉄道などのインフラ管理の分野では、様々な制御対象機器との互換性や枯れた技術の安定性を考えると容易に最新式のコンピューターに入れ替える事は出来ず、前述の事情もあって2020年(令和2年)現在でも現場でPC-98が使用されているケースは多く、オークションサイトには数千件の出品があったり、専門の修理業者が存在するほどである。
1982年(昭和57年)発売の初代機「PC-9801」はCPUに16ビットのNEC製μPD8086(Intel 8086互換)5MHz、割り込みコントローラに8259Aのカスケード接続、DMAコントローラに8237を使用するなど、インテルの8086ファミリ互換チップを採用しているため、構成がIBM PCと似ている。ただし、外部バスとして8ビット幅のXTバス(XT bus architecture)を搭載したIBM PCと異なり、筐体を開けずに抜き差し出来る16ビット幅の拡張スロット(通称、Cバス)を採用している。幅広く事務用途や工業組込用途に適合するよう、ハードウェア面ではPC-8000/8800シリーズに似たシステム構成を取り、従来のPC-8000/8800シリーズユーザーが移行しやすいよう工夫されている。内部は8086向けにハードウェアを最適化し、CUI向けに性能を特化させた16ビットパソコンである。PC-9801では、μPD8086がマキシマムモードで構成され、バスコントローラとしてμPB8288が採用されている。
同時期に米国で爆発的に普及したIBM PCを取り上げると、IBM PCがCPUとして採用した8088は内部的には汎用レジスタ長が16ビット、リニアにアクセスできるメモリの最大容量を決定するアドレスバスは20ビット長(=1Mバイト)であるが、供給安定性の観点から8ビットCPU用の周辺チップがそのまま利用できるように、外部バス幅は8ビットとなっている。対して、PC-9801は当初から8088の上位機種である8086をCPUとして採用、外部バス幅は16ビットとなっており、バスクロックは10MHz、最大転送速度は毎秒1MBでIBM PC(モデル5150)よりも大幅に高速な転送能力を備えている点が優れていた。これはグラフィックの性能を左右すると考えられ、IBMマルチステーション5550ではCPUに8088ではなく8086が採用された。
なお、PC-98では、その後の機能拡張でも互換性維持を大前提としてメモリやI/Oへアドレスを割り付けていった。その結果、VRAMのように割り当てられたアドレスが不連続になるものがあったほか、初代機からの部品数削減の名残で一部のI/Oアドレスが一見無意味にデコードされていない、またユーザー用に予約されている箇所が極端に少ない、という状態になってしまった。
ノーマルモードではPC/AT互換機同様、CPUの持つメモリ空間1Mバイトのうち、VRAMやBIOS ROM等の予約領域を除くと、ユーザーが利用可能なメイン・メモリ空間は最大でも640Kバイトで区切られてしまうメモリマップとなっている。この時代にはそれが問題となることはなかったが、ソフトウェアが肥大化したMS-DOSの全盛期には、日本語入力システムなどのデバイスドライバを常駐させた後の少ないフリーエリアのやりくり、特に起動時に500Kバイトから600Kバイト程度のフリーエリアを必要とするアプリケーションのための領域確保にEMSやXMSといった知識が必要になり、ユーザーは苦労することになった。ハイレゾモードではVRAMの割り当て方法がこれと異なり、最大768Kバイトのメイン・メモリ空間を確保できる。
PC-98XA以降ではサポートされる物理アドレスが従来の20ビットから24ビットに拡張された80286の搭載に伴い、4ビット分のアドレス線を未定義の信号線に割り当ててCバスを24ビットアドレス対応に拡張する仕様変更が行われている。なお、この機能についても従来の拡張ボードとの互換性維持に対する配慮が行われており、ボード挿入時に拡張ボード右奥に搭載されたバーが本体側スロット右上に追加搭載されたスイッチを押し下げ、本体に24ビットアドレス対応であることを通知した場合にのみ有効となる。
1990年(平成2年)に発売されたHyper98(PC-H98シリーズ)は32ビット外部バスのNew Extend Standard Architecture(NESA)を搭載。1993年(平成5年)発売の98MATEはVESA ローカルバス(VLバス)のようにCPUのメモリバスに直結した独自仕様の「32ビットローカルバス」を搭載する。これは短期間のうちにPeripheral Component Interconnect(PCI)に置き換えられ、以後はPCIスロットと16ビット幅の拡張スロットが共存することになった。
PC-98は日本語の文字を高速に表示するために漢字ROMとテキストVRAMを搭載している(ただし初代機とPC-9801Eでは漢字ROMは別売)。また、当時の水準としては高精細かつ高速なグラフィック処理のために、自社製の汎用グラフィックコントローラGDC(Graphic Display Controller μPD7220)を2個、テキスト用(マスタ動作・CRT同期信号を生成)とグラフィック用(スレーブ動作)にそれぞれ使用する。テキストVRAMとは別にグラフィックVRAMも備えており、グラフィック画面の解像度は640ドット×400ドット8色(RGBを各1ビットで表現して組み合わせた8色固定パレット、デジタルRGBと呼ばれた)を始めとするPC-8800シリーズ上位互換の画面モードとすることで、BASICレベルで互換性を確保している。テキストVRAMに文字コードを書き込むだけで画面上に文字を表示でき、またグラフィックVRAMの画面と切り替えたり重ねたりすることができる。また、テキスト用GDCに付随してテキスト表示の滑らかなスクロールを実現する回路を搭載し、テキスト画面・グラフィック画面ともに、ハードウェアによる1ライン単位の縦スクロールおよび16ドット単位の横スクロールを可能にしている。
2つのVRAM(テキスト画面とグラフィック画面)を使い分けることで、ワープロやエディタなど文字系のソフトウェアを使う場合は、他の機種よりも有利だった。初期のワープロソフトでは、高速に表示できるテキスト画面で文章を入力し、精巧に表示できるグラフィック画面で印刷イメージを確認するものがほとんどだった。テキスト画面にはPC-8000シリーズと同様のキャラクタグラフィックモードも実装され、PC-8000シリーズ/PC-8800シリーズと部分的ながら互換性を保つよう考慮されている。しかし、後年にWindowsが登場した際に、テキストVRAMは複数のMS-DOSアプリケーションを同一のグラフィック画面上に表示することを難しくした。
GDCは直線・円弧などグラフィック図形の描画機能、縦横方向へのスクロール機能を持つ。GDCの機能は直線の描画には使用されたが、円弧の描画には使用されていなかった。μPD7220にはVRAMをCPUのメモリアドレス空間から分離して配置するための機能が用意されているが、PC-98ではCPUのメモリアドレス上にVRAMが配置され、CPUからもVRAMに直接アクセスできるようになっている。これにより、VRAM上でのグラフィック図形の移動はGDCを使うよりもCPUでブロック転送を行った方が高速に処理することができる。
PC-9801Fでは初代PC-9801の2倍のグラフィックVRAMを搭載し、640×400ドット8色表示において、画面をちらつかせることなくグラフィックを描画するダブルバッファリングを可能にしている。
PC-98XAは、ワープロやCADを快適に使いたいという需要に応えるべく、表示解像度1120×750ドット、16色、24ドットフォントによる高精細表示を可能にしている。この際、VRAMのアドレスやBIOSなどアーキテクチャが変わったため、従来のソフトウェアがそのままでは動かなかった。後継のPC-98XLでは、PC-98XAと互換性があるアーキテクチャをハイレゾモード、本流のPC-9801シリーズと互換性があるアーキテクチャをノーマルモードとして、2つのアーキテクチャをスイッチで切り替えることができる。この系統は32ビット拡張バス (NESAバス) を搭載したHyper98(PC-H98シリーズ)へ引き継がれたが、1993年の98MATEとウィンドウアクセラレータボードの登場でその優位性は薄れた。
PC-9801VMではグラフィック機能が大きく強化され、従来機でのデジタルRGB出力による8色表示から、アナログRGB出力による4096色中16色同時発色表示に改良されている(一部モデルではオプション)。この表現力を生かすため、VRAM各プレーン同時書き込み制御に対応したグラフィック処理プロセッサGRCG(Graphic Charger)が追加されている。
PC-9801VXは新たにGRCG上位互換のEGC(Enhanced Graphic Charger)と呼ばれる、VRAM各プレーン同時制御を読み出しにも対応させて高速化を実現した新グラフィック処理プロセッサを搭載している。また、グラフィック用VRAMにはデュアルポートRAMを採用し、CPUからの書き込みとCRTCからの読み込みが同時にできるようになったため、VRAMへのアクセス速度が向上している。
当時のソフトウェアは性能を引き出すためにハードウェアに依存して設計されており、特にグラフィックの仕様を維持することは互換性を維持する上で絶対であった。PC-98の本流ではPC-9801VM以来、既存ソフトウェアの互換性と資産継承を優先したためグラフィックの仕様は固定されていたが、1992年(平成4年)発売のPC-9821ではVGA解像度に相当する独自仕様の640×480ドット256色表示グラフィックモードが追加された。また、1993年(平成5年)からはWindowsやOS/2での利用に最適化された汎用のグラフィックチップ及びその機能が「ウィンドウアクセラレータ」と称して、オンボードだけでなく拡張ボードとしても提供された。
PC-98のフロッピーディスクは、PC-8800シリーズから継承した5インチ2D(両面倍密度)のインテリジェントタイプのものを除き、内蔵DMAコントローラを使用することで、CPUの動作と並列してファイル操作が出来た。
PC-9801VMでFDDまわりの仕様がほぼ確立し、従来の1MB FDDインターフェースをベースにした2HD/2DD自動切替ドライブが以降の機種に標準搭載されるようになる。このときPC-98では8インチ2Dとのフォーマットの互換性が維持され、3.5インチでも1.25MB (1232KiB) のフォーマットが標準となった。このためPC-98では後年の機種で3モードFDDに対応するまでの間、すなわち日本国内シェアを独占した全盛期の機種の多くが、世界標準である1.44MBフォーマットの3.5インチFDを読み書きできないという互換性の問題を生じることになった。詳しくはフロッピーディスクの項目を参照。
PC-98のソフトウェアは容量の都合上プログラムディスクとデータディスクの2枚に分けた上で運用される場合が多く、また、日本語の業務アプリケーションを実用的なレベルで動かすには1.25MBの容量が必要であった。例えば、一太郎のプログラムディスクはMS-DOSの実行環境とメインプログラム、日本語入力システム (ATOK) とその辞書ファイルがちょうど1.25MBのフロッピーディスクに収まった。1980年代の時点でパソコンにとってHDDは高価なオプション機能であり、多くのマシンは2台のFDDのみ搭載していた。
「98FELLOW」「98MATE」シリーズから、内蔵3.5インチFDDは、従来のPC-98のフォーマットに加え、PC/AT互換機で使われている1.44MBフォーマットにも対応するようになった。それ以前の機種や外付けFDDの場合、DOS上であれば1.44MBに対応させた外付けFDD製品も存在するが、この場合は独自のDOSドライバを使う方式のため、Windows 95等では1.44MBに対応しないという問題があった。DOSとWindowsの両方に対応した方法としては、SCSI接続のスーパーディスクドライブを使う方法がある。
ハードディスクドライブ (HDD) 用インターフェイスには当初、SASIまたはST-506を使用しており、拡張ボードではPC-9801-27として提供された。1987年(昭和62年)にCD-ROMドライブのみをサポートするSCSIインターフェイスボードが発売され、1988年(昭和63年)にはNEC製SCSI HDDに対応したPC-9801-55 SCSIインターフェイスボード(通称、55ボード)が発売され、その後の一部の機種ではこのボードに相当するSCSIインターフェイスが内蔵された。55ボードやサードパーティーが発売したSCSIインターフェイスボードは、それぞれ自社が販売するHDDしかサポートしなかったことに加え、品質の悪いケーブルが出回っていたため、相性問題を引き起こしてユーザーを混乱させた。この問題はPC-9801-92 SCSIインタフェースボード(1993年(平成5年)7月出荷)が登場する頃になってようやく終息する目処が立った。
IDEは98NOTEでは早期から内部的に使われていたが、デスクトップ型では98MATEから使われている。IDEはBIOSレベルではSASIと同等のものとして動作するため、IDEが使われる前に発売されたオペレーティングシステムでもSASIと同様に扱うことができる。
PC-9801のキー配列はPC-8801を基本としつつ、PC-8801ではシフトキーと5個のファンクションキーの組み合わせで10個の機能を呼び出していたところを、PC-9801では初めから10個のファンクションキーを配置している。また、漢字変換用に「XFER」キーが新設され、カーソルキーは移動方向に対応した配置になった。内部的にはμPD8048(Intel 8048相当)などのマイコンを内蔵したシリアル接続タイプで、ハードウェア的には直接読み取ることはできないが、BASICプログラムの移植性を考慮して、BASIC上からはPC-8800シリーズと同様にI/O命令でキースキャンコードを読み出せるよう部分的にエミュレーションされている。
PC-9801Fではキーボードの接続コードと端子が細くなった一方、本体側の端子は背面へ移動したためコードが長くなった。また、ステップスカルプチャ構造となり、使用感が改善された。
PC-98XAではvf・1からvf・5まで5個の機能キーを追加し、Homeキーが4つのカーソルキーの中央に移動した。
PC-9801RAからは新たに開発されたキーボード内部制御用のASICが搭載され、同時に発表されたOS/2のタスク切り替えに対応するため、CapsLockおよびカナロックがソフトウェアによるロックになった。オルタネイト式スイッチによる機械的なロックは廃止され、キーボード上のLEDにロック状態が表示されるようになった。
98MATEや98FELLOWでは製造コスト削減により、キーボードはそれまでのメカニカルスイッチからメンブレンスイッチの安価な物(下記PC-9801-106相当)に変更され、キータッチは反発感のある物になった。さらにWindows 95が開発されて以降は、Windowsキーとアプリケーションキーが追加された(下記PC-9801-119相当)。
98MATEや98FELLOWが発売された頃から、別売りの純正キーボードとして、本体付属のものとの同等品2種に加え、PC/AT互換機と同配列の106キーボードや、特定のNEC製ソフトウェアに対応した専用キーボードも発売されていた。
初期のPC-9801は音程固定のブザーのみを内蔵していた。PC-9801U2以降はIBM PCのように8253 プログラマブルインターバルタイマ(英語版)を制御することでビープ音の音程を変えられるようになった。また、オプションでPC-8801mkIISR相当のサウンド機能(ヤマハ製FM音源チップのOPN、2個のアタリ仕様ジョイスティックポート、N88-BASIC(86)にサウンド命令を追加するBIOS ROM)を搭載した拡張ボードPC-9801-26 サウンドボードなどが発売された。PC-9801型番の3.5インチFDD搭載モデルは、多くのモデルでは家庭用を意識して、5インチモデルよりも小型の筐体で、標準でPC-9801-26K相当のモノラルFM音源を搭載した。このサウンド機能はPC-98対応ゲームソフトをプレイする上で、BGMや効果音を鳴らすために必須であった。
このサウンド機能は1992年(平成4年)発売のPC-9821と1993年(平成5年)発売の98MATEで大幅に強化され、OPN上位互換のOPNAとCD音質のステレオPCM音源が内蔵された。このサウンド機能は98FELLOWや従来機ユーザー向けにPC-9801-86 サウンドボードとして発売され、PC-9801-26Kの上位互換として多くのゲームソフトが対応した。
PC-8800シリーズ互換のPC-98DO+はPC-8801MAと同等のOPNAを標準搭載し、またOPNAのADPCM用のメモリも搭載している。PC-98GSやPC-9801-73/86/118音源ボード、またそれら相当の音源内蔵機では、OPNA用ADPCMのメモリを搭載せず、OPNAとは別に搭載されたPCM音源を代わりに使用する仕様になっている。それ以外の機種でOPNAのADPCMを使う場合は、サードパーティーのメーカーが発売したOPNA音源ボードのスピークボード(または互換品)を搭載するか、または本体や音源ボードに搭載されるOPNAにメモリを増設・接続する改造をしなければならない。
PC-98はNEC自社開発のN88-BASIC(86)を読み出し専用のROMに記録した状態で搭載し、同社の8ビットパソコン、PC-8800シリーズと言語レベルで高い互換性を持つ。また、当時としては強力な日本語処理機能を持ち、さらにNEC自身が積極的にソフトウェア開発の支援を行なったため、多数のPC-98専用アプリケーションが登場した。1992年(平成4年)9月の時点で、PC-98に対応する約16,000本のソフトウェアのうち、60%がCADを含む業務用アプリケーション、10%がオペレーティングシステムや開発ツール、10%が教育用ソフトウェア、残りの10%はグラフィック、ネットワーク、ワープロ、ゲームを含むその他で構成されていた。
1985年(昭和60年)から発売されている一太郎はPC-98のキラーソフトと見なされ、1991年(平成3年)までにシリーズ累計100万本が販売された。また、1986年(昭和61年)にLotus 1-2-3の日本語版がPC-98へ最初に移植され、1991年(平成3年)までに累計50万本が販売された。
また、非常に多彩なバージョンのOSが移植されていた。詳細は以下のとおり。
ホビーユースにおいても多数のゲームソフトが発売され、日本独自のパソコンゲーム文化の形成に大きく影響した。
これらの圧倒的なソフトウェア資産を背景に、日本国内市場においては、一時期はほぼ寡占状態に近く使われていた。
N88-BASIC、MS-DOSなどには、NEC純正の日本語入力システムが付属していた。時代が下るにつれてかな漢字変換能力が向上し、それにつれて名称がNECDIC(単文節変換)、NECREN(連文節変換)、NECAI(AI変換)などと変わっていった。
また、サードパーティーの日本語入力システムも、主にワープロソフトに付属する形で普及した。代表的なものにATOK、VJE-β、松茸、WXシリーズなどがある。その日本語入力システム固有の操作性に慣れ親しんだ結果、バージョンアップした上で使い続ける固定客も生み出した。
PC-98のソフトウェアエミュレータが各種存在し、一部企業から提供されていた時期もあるが、現在は主に私的プロジェクトにより展開されている。高度な再現には、条件よって利用者自らが所有権を持つ実機から取得したBIOSが必要となることがある。以下に、ソフトウェアと動作環境・代表的な事例を示す。
NECのPC-98でなく、互換機であるEPSON PCシリーズを再現するエミュレータもあり、事実上、PC-98のエミュレータとして使用されている。
本流のPC-98とは異なるアーキテクチャを持つPC-98DO/XA/XL/RL/LT/HAを再現するエミュレータもある。
前述のように、PC-98のソフトウェア資産は圧倒的であり、NEC自身が投入したものも含め、別アーキテクチャのコンピュータは苦戦を強いられた。
セイコーエプソンは98互換機である「EPSON PCシリーズ」を開発。その後、NECは自社開発のDISK-BASICやMS-DOSに自社製ハードウェアであるか確認する処理を付け加えるなどした(通称:EPSONチェック)が、セイコーエプソンではそれを解除するパッチ(SIP)を供給し、サードパーティー機器の互換性検証を行い情報提供したり、PC-98より高性能低価格の機種をラインナップするなどの展開を行い、ユーザーの支持を集めシェアを伸ばしていった。
エプソン以外にも、トムキャットコンピュータとプロサイドがPC/ATとPC-9800のデュアル互換機を販売したり、シャープのMZ-2861がソフトウェアエミュレーションによりPC-9800シリーズ用のソフトを動作させるなどの試みもあったが、定着には至らなかった。日経パソコン誌はその原因として、「互換機」というイメージの悪さではなく、ターゲットを明確にして魅力ある製品を企画できなかったことと、販売力が弱かったことを指摘した。
産業用コンピュータとしては組み込み用を中心とする機種が存在し、ワコム(現ロムウィン)社98BASEシリーズやエルミック・ウェスコム社iNHERITORシリーズなどが発売された。これらはNECによるPC-9821シリーズやFC-9800/9821シリーズを含むPC-9800シリーズ全体の打ち切り後も生産が続けられたため、既存ハード・ソフトウェア資産の継承が必要な工場・鉄道用信号機器向けなどを中心に一定の生産実績を残している。
PC-9801互換のボード・コンピュータとして、ワコムエンジニアリングから BP486L が発売されていた。CPUは486 DX2 40MHz, SX2 40MHz, SX 20MHz の3種類、メモリは1M/4M/8M、MS-DOS はROM で搭載された。また、BP386Lは386SX 20MHzを採用し、搭載メモリ1MBであった。
前項の如く、互換機の販売には否定的であったNECであるが、周辺機器や拡張カード、特に純正品互換周辺機器の開発、販売には協力的で、非常に多くの製品が多くのメーカーから販売されていた。
1988年(昭和63年)にNECが発売したPC-9801-55(無印)/L/U SCSIインタフェースボード(その相当品を内蔵する機種を含む、以下55ボード)は、最大40MBのHDDを2台までしかサポートしなかったPC-9801-27 SASIインタフェースボードに代わる、大容量HDDへの対応を視野に入れたものであった。しかし、米国国家規格協会 (ANSIS:American National Standards Institute) が策定した初期のSCSI規格には曖昧な点が多く、メーカーで自由に使えるコマンドやパラメータが存在したため、同じSCSI準拠の機器でもメーカーが異なると互換性を保証できない状況にあった。ANSIはコマンド仕様の共通化を図って共通コマンドセット (CCS) を提唱していたが、55ボード登場時点ではSCSIとCCSを統合したSCSI-2の策定を進めている最中にあった。また、55ボードやPC-98のパーティション管理が特殊な仕様を抱えており、サードパーティーメーカー各社の対応が分かれたため、SCSIボードと異なるメーカーのHDDを接続した場合に容量を誤認したり、容量が正しくてもフォーマットに互換性が無くデータを読めない・起動できないなどの不具合が生じた。このため、当時のPC-98においてSCSI HDDはSCSIボードと同じメーカーから購入することが通例となっていた。
PC-98はC(シリンダ数)/ H(ヘッド数)/ S(トラックあたりのセクタ数)といったパラメータでHDDを管理している。55ボードはSCSI規格のMode SenseコマンドでHDDからパラメータを取得しているが、NEC純正オプションの増設用HDDに使われた当時のNEC製HDDは、代替セクタを含まないセクタ数(有効セクタ数)を返すようになっているのに対し、CCSでは代替セクタを含む値を返すよう具体的な仕様が策定され、他社製HDDはこれに追従している。この違いから、SCSIボードやHDDの組み合わせによっては容量を誤認することがある。後にサードパーティーから発売されたSCSIボードでは、Read CapacityコマンドとMode Senseコマンドで得られた値から有効セクタ数を算出することで、どちらのHDDでも55ボードと同じパラメータになるよう互換性を保っている。
55ボードは接続されているHDDが自社製のものであるか否かを判定するため、SCSIベンダIDの先頭3文字の「NEC」という文字列を参照するチェックを行い、該当しないHDDが接続されていた場合は別の処理を行う、特に、ハングアップして起動しないという動作を主に指す。後者の対策のため、NECはサードパーティーがNECのベンダ名を返してもよいことを公式に認めていた。サードパーティーメーカー各社はこのチェックを回避するため、自社製のより高性能、高機能なSCSIボードとHDDをセットで販売するか、あるいはSCSIベンダIDを「NECITSU」などに変更して販売していた。NECチェックの存在は先述の非互換性による不具合を防止するためと考えられているが、一部からはNEC製品を独占的に販売するためではないかという厳しい声も聞かれた。
パーティション管理の方法が互換性問題をさらに複雑にした。PC-98はHDDのパーティションをシリンダ単位で1MBずつ区切る。1MBの区切りがシリンダの途中になった場合、そのシリンダの残りの部分は使わず、次のシリンダを起点に1MBを区切る。そのため、シリンダの大きさによっては1MBの区切り毎に未使用領域が存在することになり、HDDのパラメータによっては総容量の20%程度が無駄になる場合がある。サードパーティー製のSCSIボードには、ヘッド数やトラックあたりセクタ数を最適な値に変換してパラメータを返すことで、無駄になる容量を減らす工夫をしたものが登場した。しかし、この変換に用いる値がメーカーやボード毎に違うので、あるSCSIボードでフォーマットしたHDDは他のSCSIボードでは読めず、再フォーマットしないと使用できない場合がある。
後年になってC/H/S(または最大容量)のパラメータを手動入力もしくは既存のフォーマット状態からそれらを自動認識できる「マルチベンダ」と呼ばれる方式のSCSIボードがサードパーティーの主流となったことで互換性が取れるようになっていった。 NEC自身もサードパーティーの動向を調査した上で、1993年に55ボードの後継となるPC-9801-92 SCSIインタフェースボードを発売した。これは、NECチェックに該当するHDDは55ボード互換で動作し、該当しないHDDはパラメータを最適化(ヘッド数8、トラックあたりセクタ数32)して返すようになっている。ボード間でパラメータが違うことによるフォーマットの非互換性は解消していないが、NECがこの方式でパラメータを定めたことによりサードパーティーにパラメータの統一と互換性問題解消への指針を示した形になった。
PC-9800シリーズのCPUのクロック周波数は、機種によって5/10MHz系のもの(5MHz、10MHzなど)と8MHz系のもの(8MHz、16MHz)が存在し、この系統によってRS-232Cの通信速度の設定が異なっていた。どちらでも仕様上サポートされているのは9600bpsまでであり、これを超える速度を設定しようとすると、5/10MHz系では19200bps、38400bpsという一般的な速度になるのに対して、8MHz系では20800bps、41600bpsという半端な速度になってしまっていた。
モデムが高速化して、パソコンとの間の通信速度が9600bps以上になると、5/10MHz系の機種では問題なく通信速度の設定ができるのに対して、8MHz系の機種ではモデムが対応している一般的な速度に設定できないため低速通信を強いられる、という問題が表面化した。この問題に対処するため、サードパーティから高速対応のRS-232C拡張ボードが発売された。また、国産のモデムでは、8MHz系で設定可能な半端な速度に対応するものが増えた。
PC-9821シリーズでは通信系統のクロック供給が5/10MHz系に統一された上で、最初期の機種を除いてOSからの設定が115200bpsまでに強化されている。また、互換機のEPSON PCではCPUのクロックとは別に通信系統には5/10MHz系のクロックが供給されている。
あるジャーナリストはNECが日本に「パソコン王国」を築き上げることができた要因を次のように説明した。
日本IBMがIBM PCの代わりにマルチステーション5550を販売したように、欧米市場のパソコンはディスプレイ解像度やメモリの制約から漢字表示に対応できなかったため、DOS/Vとより高速なパソコンが登場するまで日本のパソコン市場に参入することができなかった。VZ Editorの開発者である兵藤嘉彦は「PC-98には漢字メモリとノンインターレースモニタの2つの利点があり、どちらもユーザーに快適な日本語環境を提供した。」と回顧した。大塚商会の大里堅常務(1989年時点)は「花王など先進ユーザーは当時8000でOA化を始めていたが、ビジネスに使うには速度や漢字処理に問題があった。そこに出た9800は完成度も高かったので、流通もユーザーもすぐに移行した。」と証言した。
NECの浜田はPC-98が成功した最大の理由として、ソフトハウスから協力を得ることができたためと考えた。浜田は「パソコンのサードパーティー(ソフトハウス)は、たしかにPC-8001、8801で、ある程度育っていた。ただし、それは組織的に育てられたものではない。自然発生的に生まれて、それをハードメーカーが放任的に傍観してきた。ところが、PC-9801の段階になって初めて、その考え方を180度近く変えたわけです。ソフトハウスを私どもが意識的に育てようという姿勢を強力に打ち出した。」と回顧した。
あるコンピュータコンサルタントは、IBMがNECの戦略に影響を与えたと指摘した。1982年(昭和57年)より、NECには4つのパソコンシリーズがあり、IBMのメインフレーム事業のように幅広い価格帯をカバーしていた。しかし、NECのパソコンは互いに互換性が乏しかったため、ユーザーやソフトウェア開発者から批判された。1983年にパソコンのラインナップが整理された後、NECはPC-98を展開していき、その機種の数は競合メーカーを上回った。また、IBMがIBM PCに対して行ったことと同じように、NECはサードパーティの開発者を支援した。PC-98の基本的なハードウェアもIBM PCに似ていたものの、互換性はなかった。彼は、NECが独自開発のメインフレームに誇りを持っていたため、IBM互換パソコンのリリースを避けたと推測した。
ある大学助教授は「ユーザーは最も遊戯性のあるPCを選んだ」という題のエッセイを記述した。彼はPC-98を普通の16ビットパソコンであると感じたが、それは遊戯性を否定しなかったため多くのゲームが存在したと考えた。富士通は16ビットパソコンをゲームプラットフォームとして考えず、IBM JXはゲームの重要性が低いとみて扱ったため、魅力が失われた。彼はパソコンの本当の価値は売り手ではなく顧客が見つけるべきものと結論付けた。
月刊アスキーのライターは、日本語入力システムと日本のテレビゲーム業界がPC-98時代に著しく成長したと述べた。PC-98には漢字ROMがあったため、日本語アプリケーションと日本語入力システムが開発され、互いに影響を与えた。PC-98用にパソコンゲームを開発していた会社は、ゲーム事業をファミリーコンピュータに移して展開した。彼は当時のほとんどのプログラマーがPC-98でプログラミングを学んでいたと信じた。
1980年代後期、競合企業はNECが市場を独占していることに対して批判した。日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会が開いた互換機問題についての公開討論会にて、ソードの創業者である椎名堯慶は「日本のパソコン・マーケットは特定一社の独占的シェアのために窒息している。自由度がない。だから値段もアメリカの3倍から4倍もしている。アメリカ並みの国際価格を実現するためにも、互換機時代が絶対に必要だ。」と述べた。あるソフトハウスは「日本には優秀なエンジニアが少ししかいないのに、互換性のないマシンが増えるほど、開発リソースは分散されます。」と不満を挙げた。
IBM PCやApple IIとは対照的にNECがPC-98の新モデルを毎年リリースしていたように、日本のパソコンの寿命は短かった。PC-9801VX01/21/41のBASICインタープリタがEGCチップセットに対応した時、重いグラフィック処理を行うソフトウェアの多くはC言語で開発されていたため、それを使用しなかった。あるソフトウェア開発者は「特別なもの (EGC) を使用することはトレンドに反します。新しいマシンが頻繁に出てくる場合は、それを使いたくありません。」と述べた。
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"text": "PC-9800シリーズは、日本電気(以下NEC)が1982年(昭和57年)から2003年(平成15年)9月30日の受注終了まで、日本市場向けに販売した独自アーキテクチャのパーソナルコンピュータ(パソコン)の製品群である。同社の代表的な製品であり、98(キューハチ/キュッパチ)、PC-98、NEC98など略称されることもある。",
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"text": "NECが1982年(昭和57年)10月に発売した16ビットパソコン「PC-9801」を初代機とするパソコン製品群である。従来NECが発売した8ビットパソコンのPC-8000シリーズとPC-8800シリーズの資産を継承し、高速化のために16ビットマイクロプロセッサを採用した。初代「PC-9801」は、社団法人情報処理学会2008年度(第1回)「情報処理技術遺産」に認定され、2016年(平成28年)9月6日に国立科学博物館の重要科学技術史資料第00221号として、日本で最も普及した16ビットパソコンであることを評価され、登録された。",
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"tag": "p",
"text": "PC-9800シリーズは多種多様な機種が展開された。1985年(昭和60年)からワープロやCAD用途を意識して性能を高めたPC-98XAなどの高級機種を発売し、1990年(平成2年)に32ビット外部バス(NESAバス)を搭載するHyper98(PC-H98シリーズ)へ派生した。東芝のJ-3100シリーズやセイコーエプソンのEPSON PCシリーズと小型パソコンの開発を競い、1989年(平成元年)に「ノートパソコン」の名称を広めた98NOTE (PC-9801N) を発売する。1990年代に費用対効果で優れるPC/AT互換機の台頭により、従来路線を踏襲するPC-9800シリーズの本流は製品計画を見直す。1993年(平成5年)に、従来のPC-9801型番の機種は、おもにWindowsの利用を想定した高性能機の98MATE(PC-9821シリーズ)と、おもにMS-DOSの利用を想定して低価格を追求した98FELLOW(PC-9801シリーズ)に一新する。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "以後PC-9800シリーズは、ハードウェアに業界標準規格を組み込んでPC/AT互換機と類似点が多くなるが、既存の周辺機器やソフトウェアと互換性を維持するため独自のハードウェア仕様も備えた。1995年(平成7年)にWindows 95が登場してパソコンが一般市場で普及すると、PC-9800シリーズの独自アーキテクチャは利点よりも費用面の不利が拡大する。1997年(平成9年)にNECは、PC/AT互換機をベースとするPC98-NXシリーズを発表して主力を移行し、2003年(平成15年)9月30日にPC-9800シリーズの受注を終了した。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "NECは通信機器メーカーとして創業したが、事業は日本電信電話公社に大きく依存していた。民需や輸出を拡大するため、1950年代にコンピュータや半導体の開発を始め、1976年に日本IBM、富士通、日立製作所に次ぐ、日本で4番目に高いメインフレームの売上高を記録した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "NECは消費者市場での存在感がなく、その子会社として家電製品を展開していた新日本電気も消費者市場で成功しているとは言い難かった。メインフレームやミニコンピュータを開発してきたNECの情報処理グループは、マイクロプロセッサを性能や信頼性が劣っているためコンピュータに適していないと見なしており、興味を示さなかった。しかし、電子デバイス販売事業部マイクロコンピュータ販売部がマイクロプロセッサ評価用キットのTK-80を発売すると、ターゲットに想定していなかった一般のコンピュータマニアや好事家に売れていった。TK-80の開発者、後藤富雄は1977年(昭和52年)にサンフランシスコで開催されたウェストコースト・コンピュータ・フェアでパソコン市場の立ち上がりを目の当たりにした。後藤とその部長、渡邊和也はパソコンを開発することを決意した。電子デバイス販売事業部には電子部品店の小さな販売網しかなかったため、新日本電気が持つ家電ルートを使ってパソコンを販売することにした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "NECの電子デバイス販売事業部は1979年(昭和54年)にPC-8001を発売し、1981年(昭和56年)には日本のパソコン市場の40%のシェアを獲得した。当時のNEC副社長、大内淳義は次のように述べた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1981年(昭和56年)4月、NECはパソコンの開発を新日本電気とNECの情報処理グループ、電子デバイスグループ、の3つのグループに展開することを決定した。新日本電気は8ビットパソコンのPC-6000シリーズを、情報処理グループは16ビットのビジネス向けパソコンを、電子デバイスグループはPC-8000シリーズやPC-8800シリーズなどその他の分野のパソコンを担当することになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "情報処理小型システム事業部では、浜田俊三がプロジェクトの指揮を執り、小澤昇が製品計画を担当した。当初、開発チームは新しいパソコンを1973年(昭和48年)のNEAC システム100に由来するオフィスコンピュータの小型版として計画としていた。渡邊和也は、新しいパソコンはMicrosoft BASICを備え、以前のパソコン向けの周辺機器との互換性を維持し、拡張スロットの仕様を公開しなければならないと助言した。1981年9月、浜田は元請けのアスキーの西和彦にN88-BASICを8086プロセッサ用に書き直すよう依頼した。西は米国の開発会社所属のビル・ゲイツと相談したいと返答した。3か月後、マイクロソフトはGW-BASIC(英語版)の開発に忙しいとして、西は浜田の申し入れを断った。西は「マイクロソフトはBASICをより構造化された内部コードで同じ機能を持つものに書き直しており、それは16ビットバージョンのGW-BASICとして発売される。日本語版のGW-BASICを選択した場合、我々はBASICをより早く提供できるだろう。」と述べた。浜田は「以前述べたとおり、旧来のものと互換性があるBASICが欲しい。」と返答した。両者は合意することができなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "渡邊が提案する計画の先行きが不透明になったため、浜田はオフィスコンピュータの小型版を開発するか、渡邊の提案通りにパソコンを開発するか、2つの計画で迷っていた。浜田と渡邊はPC-8001やPC-8801のアプリケーションを収集して調査しているうちに、消費者市場はこれらのパソコンと互換性のある16ビット機を望んでいることに気付いた。浜田は異なる市場向けに両方の計画を採用することにした。1982年(昭和57年)4月、オフィスコンピュータの小型版はNEC独自開発の16ビットマイクロプロセッサμCOM-1600を搭載したNEC システム20 モデル15としてリリースされた。この機種は従来のオフィスコンピュータの新モデルとして発表され、特段注目されることはなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1982年(昭和57年)2月、ソフトウェア開発チームはN88-BASICのリバースエンジニアリングとN88-BASIC(86)の設計を開始した。その作業は翌月に完了し、開発チームはPC-9801(コードネームはN10プロジェクト)の開発を開始した。PC-9801のプロトタイプは1982年(昭和57年)7月の終わりに完成した。N88-BASIC(86)のコードは新規に書かれていたが、西はバイトコードがマイクロソフトのものと一致すると指摘した。当時、バイトコードに著作権法を適用できるかどうかは不明確だった。西は浜田に対して、NECはBASICのライセンス料に相当するマイクロソフト製品を購入し、N88-BASIC(86)にはマイクロソフトとNECの双方の名前を著作権表示に入れることを要求した。浜田はこれを受け入れた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "開発チームはサードパーティーの開発者が市場の拡大に非常に重要と考え、発売前から独立系ソフトハウスに50台から100台のプロトタイプと技術情報を無償で提供した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "三菱電機はNECに先行して1982年(昭和57年)1月に16ビットパソコンのMULTI 16を発売したが、その実体は豊富なソフトウェアを自社で揃えてシステムとして売り込むというオフィスコンピュータの性格を残しており、成功しなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1981年(昭和56年)に情報処理グループの端末機事業部も「パーソナルターミナル」としてN5200というパソコンシリーズを発売した。これは8086プロセッサとμPD7220ディスプレイコントローラを搭載しており、アーキテクチャも'PC-9800シリーズと類似していたが、オペレーティングシステムは独自開発のPTOSを採用している。NECはN5200をインテリジェント端末あるいはワークステーションとして発表し、市販パソコンのPC-9800シリーズとはターゲットが異なっていた。この複合端末機市場に対して富士通は1981年にFACOM 9450を発売し、日本IBMは1983年にマルチステーション5550を発売した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1982年(昭和57年)10月、PC-9800シリーズ(以下、PC-98)の初代機『PC-9801』は16ビットCPUのNEC μPD8086(Intel 8086互換)を5MHzで駆動し、128KBのRAM(最大640KBまで拡張可能)を搭載、PC-8000シリーズやPC-8800シリーズとのハードウェア・ソフトウェアの上位互換性と298,000円という低価格を売り物にして発売された。グラフィック画面解像度は640ドット×400ドット8色。また、当時としては先進的なグラフィック描画機能を持つ自社製のGDC(Graphic Display Controller μPD7220)を2個搭載している。ディスプレイなどPC-8800シリーズの周辺装置はPC-9801にそのまま流用でき、N88-BASIC用に開発されたソフトウェアは少しの修正でPC-9801に対応させることができた。これにより、従来のPC-8000シリーズやPC-8800シリーズのビジネスユーザーを取り込むことに成功した。一方、新規ユーザーは高価な8インチFDD(Floppy Disk Drives)を別途購入する必要があり、ディスプレイやプリンターも合わせると、システムセット価格としては100万円近くになった。また、基本構成では数字と英文字、半角片仮名しか表示できなかったため、日本語ワープロソフトなどを使用するには別売の漢字ROMボードPC-9801-01を増設する必要があった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ビジネス分野を中心に漢字ROMやFDDを標準搭載したPC-9801を要望する声があったことに加え、高品質な漢字フォントで印刷できるプリンターが求められた。当初、PC-9801にはOEMで調達されたPC-8800シリーズ用のプリンターや自社開発のNK-3618が用意されたが、どちらも16ドットフォントに相当するゴシック体で印字するものであった。書類や本での使用頻度が高い明朝体となると、24ドットフォントを印字できる24ピンプリンターが求められた。NECはNK-3618の開発を契機に、プリンターを開発した「端末装置事業部」を「プリンタ事業部」に改め、1983年(昭和58年)5月に24ドットフォントが収録された漢字ROMを搭載する24ピンプリンター『PC-PR201』を発売した。これは当時50万円台であった24ピンプリンターを30万円以下という低価格で発売したことで好評を得た。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1983年(昭和58年)10月発売のPC-9801Fは、CPUに5MHzと8MHzから選択駆動が可能な8086-2を搭載し、2台の5インチ2DD (640KB) FDDとJIS第一水準漢字ROMを標準装備して398,000円 (2ドライブ機) で発売された。この機種は価格性能比が良好で、企業や技術者に好評を博した。5インチ2DDフォーマットは本機から新たにサポートされた。当時、5インチ2HD (1MB) FDDはまだ信頼性が低く、8インチ2D (1MB) FDDは高価だったため、日本語の業務用アプリケーションに必要最小限の容量である5インチ2DD (640KB) が採用される運びとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "PC-9801Fと同時に、電子デバイスグループが開発したPC-100も発表された。こちらはワープロや表計算ソフトを同梱(バンドル)し、同年に発売されたApple Lisaのようなコンセプトを持っていた。PC-100はマウスや縦横切り替え利用が可能なディスプレイといった先進的な機能を備えて注目を集めたが、従来機のソフトウェアや周辺機器と互換性がなく、ビットマップ処理によるグラフィックを採用したことで文字の表示速度が遅くなったことが影響して売れなかった。さらに、PC-100のマーケティングは情報処理グループのPC-9800と競合したことでパソコン販売店を混乱させることになった。1983年(昭和58年)12月、大内はパソコン事業を8ビット家庭用パソコンを扱う日本電気ホームエレクトロニクス(1983年(昭和58年)6月に新日本電気から社名変更)と、16ビットパソコンを扱う日本電気の情報処理グループの、2つの部門に統合することを決めた。日本電気の電子デバイスグループはパソコン事業を日本電気ホームエレクトロニクスへ移管することになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "富士通は1984年(昭和59年)2月に5インチ2HD (1MB) FDDを搭載したFM-11BSを発売し、同年12月には同じく5インチ2HD FDDを搭載したFM-16βを発売した。これに対抗して、NECは1984年(昭和59年)11月に5インチ2HD FDDを搭載したPC-9801Mを発売。このドライブは2DDフロッピーディスクを読むことができず、従来機との互換性が劣っていたため市場では成功しなかった。一方、FM-16βはオペレーティングシステムにMS-DOSではなく既に下火になりつつあったCP/M-86を同梱(バンドル)し、さらにコンピュータ部門ではなく電子デバイス部門が開発・営業を手がけたことが失敗の一因になった。富士通は1985年半ばにこの方針を転換したが、既に手遅れであった。別の意見では、富士通はFM-11にビジネスソフトパッケージを同梱(バンドル)したことで、ユーザーがサードパーティーのソフトウェアを購入することを思いとどまらせ、富士通は自身の市場を拡大することに失敗したと考えられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1985年(昭和60年)5月に発売されたPC-98XAは、高級ワープロやCAD用途への需要に応えるべく、高解像度のテキスト・グラフィック画面と高速な80286プロセッサを搭載していた。また、同時に発売されたPC-9801U2は3.5インチFDDを搭載した最初の省スペースモデルとなった。しかし、両者とも従来のソフトウェアと互換性が乏しかったため不評であった。それぞれの後継機、PC-98XLおよびPC-9801UV2は、本流のPC-9801シリーズと高い互換性を保っていたため市場に受け入れられ、需要の幅を拡大することに成功した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1985年(昭和60年)7月に発売されたPC-9801VMはCPUに8086上位互換の高速なV30を採用し、グラフィックはオプションで4096色中16色表示に対応した。またPC-98XAに続いて2HD/2DDの両タイプのフロッピーディスクに対応した。このモデルは1年間で21万台を販売するベストセラーとなり、以後のPC-98の基本仕様となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1983年(昭和58年)から1987年(昭和62年)にかけて、NECはソフトハウスに対してMS-DOS 2.11のサブセットをソフトウェアへ同梱(バンドル)することを無償で認めていた。アスキーやマイクロソフトはMS-DOSの普及を促すためにこれを認めていた。ユーザーの立場では、MS-DOS対応ソフトとは別にMS-DOSを購入する手間が省けるという利点があった。浜田はNECがアスキーにこれに相当するMS-DOSのライセンス使用料を支払ったかどうか明らかにしていないが、この戦略がソフトハウスの囲い込みに功を奏した。当初のPC-98は「PC-8800シリーズ上位互換の高速なBASICマシン」で、PC-98の能力を十分に引き出したソフトは少なかったが、早期からサードパーティーに対してソフトウェアの開発を促進したことで、1984年(昭和59年)3月時点で約700本のソフトウェアパッケージがPC-98に対応した。1987年(昭和62年)3月、NECはPC-9800シリーズの出荷台数が100万台を超え、約5,000本のソフトウェアパッケージが対応していると発表した。当時の東京リサーチ調べによると、16ビットパソコンの店頭販売数におけるPC-98のシェアは90%を超えた。NECが日本のパソコン市場を独占できた理由について、1985年(昭和60年)に孫正義は次のように分析した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、NECは既存製品との互換性と資産の継承に注意を払っていた。PC-9801VMはCPUクロック周波数を8MHzと10MHzで選択できるほか、V30の命令サイクルが8086と異なることから、オプションで8086を搭載した拡張カードも提供していた。V30はインテルのx86系CPUには実装されていない独自の命令が存在した。NECはソフトウェア開発者に対してそのような命令を使用しないよう説明していたが、一部のソフトウェアは使用していた。それらのソフトウェアが動かなくなることを懸念し、1986年(昭和61年)発売のPC-9801VXは80286とV30が電源投入時の設定により排他的に動作するよう設計された。1988年(昭和63年)発売のPC-9801RAは80386とV30を搭載して同様に対応していた。1990年(平成2年)発売のPC-9801DXよりV30は省略された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "NECはテレビCMや新聞での広告、見本市での宣伝などに多大な費用をかけた。NEC全体の広告宣伝費は1970年代中期まで10億円台で推移していたが、その後は増加し続け、1985年(昭和60年)には250億円を上回った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "東芝は1983年(昭和58年)からラップトップパソコンの開発に取り組んでいた。1985年(昭和58年)にヨーロッパで発売されたT1100やその後継機は成功を収め、1986年(昭和59年)春から欧米諸国で発売されたT3100はバイト誌から「キング・オブ・ラップトップ」と賞賛された。1986年(昭和59年)10月にはT3100を日本市場向けに改良したJ-3100を発売し、特に狭いオフィスが多い日本では企業を中心に好評を得た。T3100が発売されるまで、NECはラップトップ型パソコンを時期尚早と見るなど開発に本腰を入れていなかった。このため、NECはT3100の開発を察知して慌ててラップトップ型パソコンのPC-98LTを開発した。PC-98LTはJ-3100と同月に発売されたものの、従来機との互換性が乏しく、既存のPC-98用ソフトが動作しなかったため、十分な成功を収めるには至らなかった。小型化を実現するにはGDCなどの周辺チップを集約したチップセットを開発する必要があったが、3年前からラップトップパソコンの開発に本格的に取り組んでいた東芝にはすぐに追随することができなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1987年(昭和62年)3月、セイコーエプソンは最初のPC-98互換パソコン(以下、98互換機)となるPC-286シリーズを発表した。NECはこの98互換機を調査し、使用されているBIOSがNECの著作権を侵害しているとして訴訟を起こした。1987年(昭和62年)4月、セイコーエプソンはPC-286 Model 1から4までの4機種の発売を中止し、別の開発チームによりクリーンルーム設計で開発されたBIOSを採用するPC-286 Model 0を発売した。このモデルはROM BASIC(本体ROMに収録されたN88-BASIC(86))が内蔵されておらず、NECはこれを「PC-98との互換性に乏しい」と結論付けた。当時はROM BASICの需要が依然多く、1990年(平成2年)時点でもNECが発行していたソフトカタログのうち約40%がROM BASICに依存していた。同年11月、セイコーエプソンは裁判の継続が市場に悪いイメージを抱かれると考え、NECに和解金(金額は非公表)を支払い、告訴の対象になった4機種は今後も発売しないという内容で和解した。著作権侵害の有無については決着が付かないままとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "PC-286 Model 0はCPUに10MHz駆動の80286を使用し、同じCPUを8MHzで駆動していたNECの主力機PC-9801VXよりも25%速かった。1987年(昭和62年)6月、NECはCPUクロック周波数を10MHzに引き上げたPC-9801VX01/21/41をリリースした。NECは自社のオペレーティングシステム(ディスクバージョンのN88-BASIC(86)やMS-DOS)に、NEC製以外のマシンで起動しないようにするBIOS署名チェックを追加した。これは通称「EPSONチェック」とも呼ばれた。1987年(昭和62年)9月、セイコーエプソンはPC-286VとPC-286U、および、BASICインタープリタを追加するための『BASICサポートROM』をリリースした。また、EPSONチェックを解除するためのパッチプログラム『ソフトウェア・インストレーション・プログラム (SIP)』をバンドルした。新機種はリーズナブルな価格と互換性の良さが評価され、好評を博した。セイコーエプソンの98互換機は1988年(昭和63年)に20万台の売上を記録し、日本のパソコン市場に新たな勢力が誕生することになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1987年(昭和62年)11月、セイコーエプソンはNECに先行してPC-98と完全な互換性を持つラップトップパソコンPC-286Lを発表した。ラップトップ型の需要はもはや無視できる規模ではなく、PC-98最大手のディーラーである大塚商会もPC-286Lで初めて98互換機を販売リストに加えた。1988年(昭和63年)3月、NECはデスクトップ型PC-9801との完全互換を実現したラップトップ型パソコンPC-9801LV21を発売した。完全互換性と小型化の両立には新規に開発された3種類のチップセットが重要な役割を果たし、これらはPC-9801RAなどの主力デスクトップ機にも使用された。しかし、青液晶を採用したPC-9801LV21は視認性が悪く、バックライト付き白黒液晶を採用したPC-286Lに技術面でも後塵を拝することになった。視認性の問題はJ-3100同様の橙色プラズマディスプレイを採用したPC-9801LS(1988年(昭和63年)11月)と、バックライト付き白黒液晶を搭載したPC-9801LV22(1989年(平成元年)1月)で解決された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1989年(平成元年)7月、東芝は軽量でバッテリー駆動可能な真のラップトップパソコンJ-3100SSに「みんなこれを、目指してきた」「ブックコンピュータ」というキャッチコピーと「DynaBook」というブランドを添え、宣伝に鈴木亜久里を起用して発売し、これは1年間で17万台を販売する大ヒットとなった。この登場に危機感を覚えたNECは、同年11月、同様のコンセプトを持つPC-9801Nに「ノートパソコン」というキャッチコピーと「98NOTE」というブランドを付け、宣伝に大江千里を起用して発売した。DynaBookの出だしは順調だったが、1990年には98NOTEの累計販売数がDynaBookを上回った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1987年(昭和62年)、対抗規格としてマイクロソフトと日本の家電メーカーを中心に構成された標準化団体がAX(Architecture eXtended)を提唱した。AXは特殊なビデオチップセット(Japanese Enhanced Graphics Adapter (JEGA) ) と日本語キーボード、それに対応するソフトウェアの組み合わせによって、PC/AT互換機で日本語を表示できるようにした。しかし、価格が割高かつ対応するソフトウェアが少なかったことから、日本のパソコン市場に存在感を示すことはできなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1980年代初頭、16ビットパソコンは高価でもっぱらビジネス用途として開発・販売されたため、家庭ユーザーは16ビット機よりも8ビット機を選択した。1980年代半ばまでに、日本の家庭用コンピュータ市場はNECのPC-88、富士通のFM-7、シャープのX1、マイクロソフトとアスキーのMSX陣営が占めていた。この時代、PC-98で最も人気のあるゲームジャンルは、比較的速いクロック速度と広いメモリ空間を有効に利用していたシミュレーションゲームであった。『大戦略』と『三國志』は特に人気があり、PC-98をパソコンゲームのプラットフォームとして確立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日本のパソコンゲームのプラットフォームは、1980年代の終わりから1990年代にかけてゆっくりと、PC-88からPC-98へ移行した。1990年代には、『ブランディッシュ』や『ダンジョンマスター』などのように、多くのコンピュータRPGがPC-98用に開発されたか他のプラットフォームから移植された。ディスプレイ解像度とディスク容量が大きいほどグラフィックの表現は向上する余地があるものの、PC-98でのアニメーションの表示は時間がかかるため、困難であった。この制約の結果、1980年代のテキストを主流とするアドベンチャーゲームの復活としてアダルトゲームやビジュアルノベルが登場し、『同級生』や『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』などが人気を博した。PC-98が衰退した後、多くの日本のパソコンゲーム開発者は、パソコン販売店で流通していたアダルトゲームを除いてプラットフォームを家庭用ゲーム機に移した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)、日本IBMはVGAを搭載したPC/AT互換機で日本語テキストを表示できるようにするオペレーティングシステム『DOS/V』を発表した。日本の他のパソコンメーカーは日本IBMとマイクロソフトが共同で設立したPCオープン・アーキテクチャー推進協議会 (OADG) に加入した。1991年(平成3年)には日本語版のWindows 3.0が登場し、MS-DOSからWindowsへ、ソフトウェア環境の移行が始まった。1992年10月、コンパックは128,000円のDOS/Vパソコンを発売した。この価格は当時のPC-98最安モデルの半値で、他の日本のパソコンメーカーはこの直後に次々と値下げを発表した。この価格戦争はNECが主導していた日本のパソコン市場を揺るがす出来事として印象づけられ、マスコミに「コンパックショック」と呼ばれた。1993年(平成3年)に入ると東芝や富士通がDOS/Vパソコンを発売し、セイコーエプソンはDOS/Vパソコンを販売するためにエプソンダイレクトを設立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "PC-98の主力デスクトップモデルは1988年(昭和63年)発売のPC-9801RA以来、SCSI (Small Computer System Interface) インターフェイスを内蔵したPC-9801RA21(1989年(平成元年))、DMA (Direct Memory Access) コントローラを高速化したPC-9801DA(1991年(平成3年))、486を搭載してファイルスロットを装備したPC-9801FA(1992年(平成4年))と、徐々に機能や性能を向上しながらもコンセプトは従来機を踏襲してきた。同時期にアメリカではWindows 3.0の普及とパソコンの低価格化が進んでおり、日本にもDOS/Vの登場とともにその波が押し寄せていた。PC-9801FAはコストの問題からCPUに16MHz駆動の486SXを搭載していたが、これに対してユーザーから「640×400ドットの画面はWindowsには狭い。16MHzでは快適に使えない。」との批判が集中した。1992年5月、セイコーエプソンは486SX 25MHzのCPUと1120×750ドットの高解像度表示機能を搭載したPC-486GRを、PC-9801FAと同じ価格で発売してヒットした。NECもこの状況から販売戦略を見直し、1992年7月より新製品の検討が始まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成2年)10月末、NECはWindows 3.0を標準搭載したPC-9821(愛称は98MULTI)を発表した。1993年(平成3年)1月より、PC-98の主力デスクトップ機は3つのラインに拡張された。CD-ROMドライブなどホビー向けに必要な機能を一式含んでいる「98MULTi」に加え、Windowsの利用に適した性能を持つ「98MATE」、MS-DOSの利用を主目的とした低価格の「98FELLOW」が発売された。PC-98は対応する日本語アプリケーションが多く、依然日本のユーザーには人気があった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1993年(平成3年)から1995年(平成5年)にかけて、NECは業界標準規格を採用しつつ製造コストの削減を図った。PC-98は72ピンSIMM、3.5インチ1.44MBフロッピーディスク、IDEドライブ、640×480ピクセルのDOS画面モード、2D GUIアクセラレーションGPU、Windows Sound System(英語版)、PCI、PCMCIAに対応していった。また、一部のマザーボードの製造をECSやGVCなどの台湾系企業に委託した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "PC-98の販売数そのものは順調に増大していたが、PC/AT互換機の販売はこれを上回る勢いで拡大し、PC-98は次第にシェアを落としていった。これは、パーソナルコンピュータとWindowsの爆発的な普及により、従来とのハードウェア・ソフトウェア互換性を必要とするユーザーが相対的に少数派となったためである。この時点ではPC-98もWindows機であることには変わりなく、実績のあるブランドだったことからそれなりの知名度もあり、トップシェアを争うだけの勢力は維持していた。1997年(平成9年)時点での日本国内シェアは3割とも5割弱とも言われる。しかし、CPU・チップセット・ビデオチップ・拡張バスなど、PCを構成する各種の要素技術が急激に高度化し、それらのほとんどがPC/AT互換アーキテクチャを前提としていたことから、PC-98に採用する上でさまざまな困難に直面することとなった。Windows 95の移植においては、NECはアメリカのマイクロソフト本社に技術者を約20人常駐させてPC-98版の開発を進めていた。Windows 3.1および95の時代にはFMRシリーズ / FM TOWNSなど他社独自アーキテクチャ機も存在していたのに対し、Windows 98の時代にはPC-98以外はほぼPC/AT互換アーキテクチャに収斂したため、NECにはWindowsや各種ドライバの移植コストが重くのしかかることとなった。このようにして、独自アーキテクチャの維持に次第に限界が見えてきた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1997年(平成9年)10月、NECはPC/AT互換機といえるPC97ハードウェアデザインガイド準拠マシンのPC98-NXシリーズを発表し、一般市場におけるPC-98は事実上その使命を終えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "PC-98の最後の機種は、2000年(平成12年)に登場したCeleronベースのPC-9821Ra43(クロック周波数433MHz、1998年の440FXチップセットベースのマザーボード設計を使用)だった。2003年(平成15年)、NECはPC-98の受注中止を発表した。2004年(平成16年)3月の出荷終了までに1830万台のPC-98が出荷された。PC-98をサポートする最後のWindowsはWindows 2000であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1997年(平成9年)にNECの主力パソコンはPC98-NXシリーズに移ったものの、多くの制御機器等ではPC-98が依然使用されており、これらの資産をPC/AT互換機等に移行するにはユーザー側に莫大な出費(コスト増)を強いるため、CバスやMS-DOSなどの資産を継承する必要に迫られた(建設用の計算ソフトなどでも、開発経費節減のためPC-98と抱き合わせ販売されていた)。このため、その後も一部機種を継続販売していたが、2003年(平成15年)9月30日をもって受注終了、2010年(平成22年)10月末にサポート終了となった。最終モデルは「PC-9821Ra43」「PC-9821Nr300」。FC-9800シリーズも2004年1月に販売終了、2010年(平成22年)1月に保守が終了した。最終モデルは「FC-9821Ka model 1/2」。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "PC-98の受注終了後は、前述の通りサードパーティによるPC-98互換機(ロムウィン社98BASEシリーズ、エルミック・ウェスコム社(後の図研エルミック社)iNHERITORシリーズなど)の製造・販売が長く続けられたが、後者は2006年(平成18年)末のインテルによる486系プロセッサの製造終了に伴い、2007年(平成19年)9月28日に受注終了、2008年(平成20年)9月30日に出荷を終了した。その後もPC/AT互換機を用いてPCIカードを実装、Cバス拡張BOXを接続してエミュレートする「iNHERITOR II」、PC一体型の互換システム「iNHERITOR II-A」が販売されていたが、2016年(平成28年)7月に生産を終了している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、Cバスインタフェースのボードを利用できるコントローラ付きバックプレーンや、同コントローラやPC/FC-9801シリーズで稼動するボードコンピュータも販売されていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "FreeBSDでは、2011年(平成23年)2月にリリースされた8.2-RELEASEまでPC-98に対応していたが、9.0-RELEASE以降、PC-98用のFreeBSDはリリースされていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "工場の生産ラインや鉄道などのインフラ管理の分野では、様々な制御対象機器との互換性や枯れた技術の安定性を考えると容易に最新式のコンピューターに入れ替える事は出来ず、前述の事情もあって2020年(令和2年)現在でも現場でPC-98が使用されているケースは多く、オークションサイトには数千件の出品があったり、専門の修理業者が存在するほどである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1982年(昭和57年)発売の初代機「PC-9801」はCPUに16ビットのNEC製μPD8086(Intel 8086互換)5MHz、割り込みコントローラに8259Aのカスケード接続、DMAコントローラに8237を使用するなど、インテルの8086ファミリ互換チップを採用しているため、構成がIBM PCと似ている。ただし、外部バスとして8ビット幅のXTバス(XT bus architecture)を搭載したIBM PCと異なり、筐体を開けずに抜き差し出来る16ビット幅の拡張スロット(通称、Cバス)を採用している。幅広く事務用途や工業組込用途に適合するよう、ハードウェア面ではPC-8000/8800シリーズに似たシステム構成を取り、従来のPC-8000/8800シリーズユーザーが移行しやすいよう工夫されている。内部は8086向けにハードウェアを最適化し、CUI向けに性能を特化させた16ビットパソコンである。PC-9801では、μPD8086がマキシマムモードで構成され、バスコントローラとしてμPB8288が採用されている。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "同時期に米国で爆発的に普及したIBM PCを取り上げると、IBM PCがCPUとして採用した8088は内部的には汎用レジスタ長が16ビット、リニアにアクセスできるメモリの最大容量を決定するアドレスバスは20ビット長(=1Mバイト)であるが、供給安定性の観点から8ビットCPU用の周辺チップがそのまま利用できるように、外部バス幅は8ビットとなっている。対して、PC-9801は当初から8088の上位機種である8086をCPUとして採用、外部バス幅は16ビットとなっており、バスクロックは10MHz、最大転送速度は毎秒1MBでIBM PC(モデル5150)よりも大幅に高速な転送能力を備えている点が優れていた。これはグラフィックの性能を左右すると考えられ、IBMマルチステーション5550ではCPUに8088ではなく8086が採用された。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "なお、PC-98では、その後の機能拡張でも互換性維持を大前提としてメモリやI/Oへアドレスを割り付けていった。その結果、VRAMのように割り当てられたアドレスが不連続になるものがあったほか、初代機からの部品数削減の名残で一部のI/Oアドレスが一見無意味にデコードされていない、またユーザー用に予約されている箇所が極端に少ない、という状態になってしまった。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ノーマルモードではPC/AT互換機同様、CPUの持つメモリ空間1Mバイトのうち、VRAMやBIOS ROM等の予約領域を除くと、ユーザーが利用可能なメイン・メモリ空間は最大でも640Kバイトで区切られてしまうメモリマップとなっている。この時代にはそれが問題となることはなかったが、ソフトウェアが肥大化したMS-DOSの全盛期には、日本語入力システムなどのデバイスドライバを常駐させた後の少ないフリーエリアのやりくり、特に起動時に500Kバイトから600Kバイト程度のフリーエリアを必要とするアプリケーションのための領域確保にEMSやXMSといった知識が必要になり、ユーザーは苦労することになった。ハイレゾモードではVRAMの割り当て方法がこれと異なり、最大768Kバイトのメイン・メモリ空間を確保できる。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "PC-98XA以降ではサポートされる物理アドレスが従来の20ビットから24ビットに拡張された80286の搭載に伴い、4ビット分のアドレス線を未定義の信号線に割り当ててCバスを24ビットアドレス対応に拡張する仕様変更が行われている。なお、この機能についても従来の拡張ボードとの互換性維持に対する配慮が行われており、ボード挿入時に拡張ボード右奥に搭載されたバーが本体側スロット右上に追加搭載されたスイッチを押し下げ、本体に24ビットアドレス対応であることを通知した場合にのみ有効となる。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)に発売されたHyper98(PC-H98シリーズ)は32ビット外部バスのNew Extend Standard Architecture(NESA)を搭載。1993年(平成5年)発売の98MATEはVESA ローカルバス(VLバス)のようにCPUのメモリバスに直結した独自仕様の「32ビットローカルバス」を搭載する。これは短期間のうちにPeripheral Component Interconnect(PCI)に置き換えられ、以後はPCIスロットと16ビット幅の拡張スロットが共存することになった。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "PC-98は日本語の文字を高速に表示するために漢字ROMとテキストVRAMを搭載している(ただし初代機とPC-9801Eでは漢字ROMは別売)。また、当時の水準としては高精細かつ高速なグラフィック処理のために、自社製の汎用グラフィックコントローラGDC(Graphic Display Controller μPD7220)を2個、テキスト用(マスタ動作・CRT同期信号を生成)とグラフィック用(スレーブ動作)にそれぞれ使用する。テキストVRAMとは別にグラフィックVRAMも備えており、グラフィック画面の解像度は640ドット×400ドット8色(RGBを各1ビットで表現して組み合わせた8色固定パレット、デジタルRGBと呼ばれた)を始めとするPC-8800シリーズ上位互換の画面モードとすることで、BASICレベルで互換性を確保している。テキストVRAMに文字コードを書き込むだけで画面上に文字を表示でき、またグラフィックVRAMの画面と切り替えたり重ねたりすることができる。また、テキスト用GDCに付随してテキスト表示の滑らかなスクロールを実現する回路を搭載し、テキスト画面・グラフィック画面ともに、ハードウェアによる1ライン単位の縦スクロールおよび16ドット単位の横スクロールを可能にしている。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2つのVRAM(テキスト画面とグラフィック画面)を使い分けることで、ワープロやエディタなど文字系のソフトウェアを使う場合は、他の機種よりも有利だった。初期のワープロソフトでは、高速に表示できるテキスト画面で文章を入力し、精巧に表示できるグラフィック画面で印刷イメージを確認するものがほとんどだった。テキスト画面にはPC-8000シリーズと同様のキャラクタグラフィックモードも実装され、PC-8000シリーズ/PC-8800シリーズと部分的ながら互換性を保つよう考慮されている。しかし、後年にWindowsが登場した際に、テキストVRAMは複数のMS-DOSアプリケーションを同一のグラフィック画面上に表示することを難しくした。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "GDCは直線・円弧などグラフィック図形の描画機能、縦横方向へのスクロール機能を持つ。GDCの機能は直線の描画には使用されたが、円弧の描画には使用されていなかった。μPD7220にはVRAMをCPUのメモリアドレス空間から分離して配置するための機能が用意されているが、PC-98ではCPUのメモリアドレス上にVRAMが配置され、CPUからもVRAMに直接アクセスできるようになっている。これにより、VRAM上でのグラフィック図形の移動はGDCを使うよりもCPUでブロック転送を行った方が高速に処理することができる。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "PC-9801Fでは初代PC-9801の2倍のグラフィックVRAMを搭載し、640×400ドット8色表示において、画面をちらつかせることなくグラフィックを描画するダブルバッファリングを可能にしている。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "PC-98XAは、ワープロやCADを快適に使いたいという需要に応えるべく、表示解像度1120×750ドット、16色、24ドットフォントによる高精細表示を可能にしている。この際、VRAMのアドレスやBIOSなどアーキテクチャが変わったため、従来のソフトウェアがそのままでは動かなかった。後継のPC-98XLでは、PC-98XAと互換性があるアーキテクチャをハイレゾモード、本流のPC-9801シリーズと互換性があるアーキテクチャをノーマルモードとして、2つのアーキテクチャをスイッチで切り替えることができる。この系統は32ビット拡張バス (NESAバス) を搭載したHyper98(PC-H98シリーズ)へ引き継がれたが、1993年の98MATEとウィンドウアクセラレータボードの登場でその優位性は薄れた。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "PC-9801VMではグラフィック機能が大きく強化され、従来機でのデジタルRGB出力による8色表示から、アナログRGB出力による4096色中16色同時発色表示に改良されている(一部モデルではオプション)。この表現力を生かすため、VRAM各プレーン同時書き込み制御に対応したグラフィック処理プロセッサGRCG(Graphic Charger)が追加されている。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "PC-9801VXは新たにGRCG上位互換のEGC(Enhanced Graphic Charger)と呼ばれる、VRAM各プレーン同時制御を読み出しにも対応させて高速化を実現した新グラフィック処理プロセッサを搭載している。また、グラフィック用VRAMにはデュアルポートRAMを採用し、CPUからの書き込みとCRTCからの読み込みが同時にできるようになったため、VRAMへのアクセス速度が向上している。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "当時のソフトウェアは性能を引き出すためにハードウェアに依存して設計されており、特にグラフィックの仕様を維持することは互換性を維持する上で絶対であった。PC-98の本流ではPC-9801VM以来、既存ソフトウェアの互換性と資産継承を優先したためグラフィックの仕様は固定されていたが、1992年(平成4年)発売のPC-9821ではVGA解像度に相当する独自仕様の640×480ドット256色表示グラフィックモードが追加された。また、1993年(平成5年)からはWindowsやOS/2での利用に最適化された汎用のグラフィックチップ及びその機能が「ウィンドウアクセラレータ」と称して、オンボードだけでなく拡張ボードとしても提供された。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "PC-98のフロッピーディスクは、PC-8800シリーズから継承した5インチ2D(両面倍密度)のインテリジェントタイプのものを除き、内蔵DMAコントローラを使用することで、CPUの動作と並列してファイル操作が出来た。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "PC-9801VMでFDDまわりの仕様がほぼ確立し、従来の1MB FDDインターフェースをベースにした2HD/2DD自動切替ドライブが以降の機種に標準搭載されるようになる。このときPC-98では8インチ2Dとのフォーマットの互換性が維持され、3.5インチでも1.25MB (1232KiB) のフォーマットが標準となった。このためPC-98では後年の機種で3モードFDDに対応するまでの間、すなわち日本国内シェアを独占した全盛期の機種の多くが、世界標準である1.44MBフォーマットの3.5インチFDを読み書きできないという互換性の問題を生じることになった。詳しくはフロッピーディスクの項目を参照。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "PC-98のソフトウェアは容量の都合上プログラムディスクとデータディスクの2枚に分けた上で運用される場合が多く、また、日本語の業務アプリケーションを実用的なレベルで動かすには1.25MBの容量が必要であった。例えば、一太郎のプログラムディスクはMS-DOSの実行環境とメインプログラム、日本語入力システム (ATOK) とその辞書ファイルがちょうど1.25MBのフロッピーディスクに収まった。1980年代の時点でパソコンにとってHDDは高価なオプション機能であり、多くのマシンは2台のFDDのみ搭載していた。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "「98FELLOW」「98MATE」シリーズから、内蔵3.5インチFDDは、従来のPC-98のフォーマットに加え、PC/AT互換機で使われている1.44MBフォーマットにも対応するようになった。それ以前の機種や外付けFDDの場合、DOS上であれば1.44MBに対応させた外付けFDD製品も存在するが、この場合は独自のDOSドライバを使う方式のため、Windows 95等では1.44MBに対応しないという問題があった。DOSとWindowsの両方に対応した方法としては、SCSI接続のスーパーディスクドライブを使う方法がある。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ハードディスクドライブ (HDD) 用インターフェイスには当初、SASIまたはST-506を使用しており、拡張ボードではPC-9801-27として提供された。1987年(昭和62年)にCD-ROMドライブのみをサポートするSCSIインターフェイスボードが発売され、1988年(昭和63年)にはNEC製SCSI HDDに対応したPC-9801-55 SCSIインターフェイスボード(通称、55ボード)が発売され、その後の一部の機種ではこのボードに相当するSCSIインターフェイスが内蔵された。55ボードやサードパーティーが発売したSCSIインターフェイスボードは、それぞれ自社が販売するHDDしかサポートしなかったことに加え、品質の悪いケーブルが出回っていたため、相性問題を引き起こしてユーザーを混乱させた。この問題はPC-9801-92 SCSIインタフェースボード(1993年(平成5年)7月出荷)が登場する頃になってようやく終息する目処が立った。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "IDEは98NOTEでは早期から内部的に使われていたが、デスクトップ型では98MATEから使われている。IDEはBIOSレベルではSASIと同等のものとして動作するため、IDEが使われる前に発売されたオペレーティングシステムでもSASIと同様に扱うことができる。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "PC-9801のキー配列はPC-8801を基本としつつ、PC-8801ではシフトキーと5個のファンクションキーの組み合わせで10個の機能を呼び出していたところを、PC-9801では初めから10個のファンクションキーを配置している。また、漢字変換用に「XFER」キーが新設され、カーソルキーは移動方向に対応した配置になった。内部的にはμPD8048(Intel 8048相当)などのマイコンを内蔵したシリアル接続タイプで、ハードウェア的には直接読み取ることはできないが、BASICプログラムの移植性を考慮して、BASIC上からはPC-8800シリーズと同様にI/O命令でキースキャンコードを読み出せるよう部分的にエミュレーションされている。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "PC-9801Fではキーボードの接続コードと端子が細くなった一方、本体側の端子は背面へ移動したためコードが長くなった。また、ステップスカルプチャ構造となり、使用感が改善された。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "PC-98XAではvf・1からvf・5まで5個の機能キーを追加し、Homeキーが4つのカーソルキーの中央に移動した。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "PC-9801RAからは新たに開発されたキーボード内部制御用のASICが搭載され、同時に発表されたOS/2のタスク切り替えに対応するため、CapsLockおよびカナロックがソフトウェアによるロックになった。オルタネイト式スイッチによる機械的なロックは廃止され、キーボード上のLEDにロック状態が表示されるようになった。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "98MATEや98FELLOWでは製造コスト削減により、キーボードはそれまでのメカニカルスイッチからメンブレンスイッチの安価な物(下記PC-9801-106相当)に変更され、キータッチは反発感のある物になった。さらにWindows 95が開発されて以降は、Windowsキーとアプリケーションキーが追加された(下記PC-9801-119相当)。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "98MATEや98FELLOWが発売された頃から、別売りの純正キーボードとして、本体付属のものとの同等品2種に加え、PC/AT互換機と同配列の106キーボードや、特定のNEC製ソフトウェアに対応した専用キーボードも発売されていた。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "初期のPC-9801は音程固定のブザーのみを内蔵していた。PC-9801U2以降はIBM PCのように8253 プログラマブルインターバルタイマ(英語版)を制御することでビープ音の音程を変えられるようになった。また、オプションでPC-8801mkIISR相当のサウンド機能(ヤマハ製FM音源チップのOPN、2個のアタリ仕様ジョイスティックポート、N88-BASIC(86)にサウンド命令を追加するBIOS ROM)を搭載した拡張ボードPC-9801-26 サウンドボードなどが発売された。PC-9801型番の3.5インチFDD搭載モデルは、多くのモデルでは家庭用を意識して、5インチモデルよりも小型の筐体で、標準でPC-9801-26K相当のモノラルFM音源を搭載した。このサウンド機能はPC-98対応ゲームソフトをプレイする上で、BGMや効果音を鳴らすために必須であった。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "このサウンド機能は1992年(平成4年)発売のPC-9821と1993年(平成5年)発売の98MATEで大幅に強化され、OPN上位互換のOPNAとCD音質のステレオPCM音源が内蔵された。このサウンド機能は98FELLOWや従来機ユーザー向けにPC-9801-86 サウンドボードとして発売され、PC-9801-26Kの上位互換として多くのゲームソフトが対応した。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "PC-8800シリーズ互換のPC-98DO+はPC-8801MAと同等のOPNAを標準搭載し、またOPNAのADPCM用のメモリも搭載している。PC-98GSやPC-9801-73/86/118音源ボード、またそれら相当の音源内蔵機では、OPNA用ADPCMのメモリを搭載せず、OPNAとは別に搭載されたPCM音源を代わりに使用する仕様になっている。それ以外の機種でOPNAのADPCMを使う場合は、サードパーティーのメーカーが発売したOPNA音源ボードのスピークボード(または互換品)を搭載するか、または本体や音源ボードに搭載されるOPNAにメモリを増設・接続する改造をしなければならない。",
"title": "ハードウェアの特徴"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "PC-98はNEC自社開発のN88-BASIC(86)を読み出し専用のROMに記録した状態で搭載し、同社の8ビットパソコン、PC-8800シリーズと言語レベルで高い互換性を持つ。また、当時としては強力な日本語処理機能を持ち、さらにNEC自身が積極的にソフトウェア開発の支援を行なったため、多数のPC-98専用アプリケーションが登場した。1992年(平成4年)9月の時点で、PC-98に対応する約16,000本のソフトウェアのうち、60%がCADを含む業務用アプリケーション、10%がオペレーティングシステムや開発ツール、10%が教育用ソフトウェア、残りの10%はグラフィック、ネットワーク、ワープロ、ゲームを含むその他で構成されていた。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1985年(昭和60年)から発売されている一太郎はPC-98のキラーソフトと見なされ、1991年(平成3年)までにシリーズ累計100万本が販売された。また、1986年(昭和61年)にLotus 1-2-3の日本語版がPC-98へ最初に移植され、1991年(平成3年)までに累計50万本が販売された。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "また、非常に多彩なバージョンのOSが移植されていた。詳細は以下のとおり。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "ホビーユースにおいても多数のゲームソフトが発売され、日本独自のパソコンゲーム文化の形成に大きく影響した。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "これらの圧倒的なソフトウェア資産を背景に、日本国内市場においては、一時期はほぼ寡占状態に近く使われていた。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "N88-BASIC、MS-DOSなどには、NEC純正の日本語入力システムが付属していた。時代が下るにつれてかな漢字変換能力が向上し、それにつれて名称がNECDIC(単文節変換)、NECREN(連文節変換)、NECAI(AI変換)などと変わっていった。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "また、サードパーティーの日本語入力システムも、主にワープロソフトに付属する形で普及した。代表的なものにATOK、VJE-β、松茸、WXシリーズなどがある。その日本語入力システム固有の操作性に慣れ親しんだ結果、バージョンアップした上で使い続ける固定客も生み出した。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "PC-98のソフトウェアエミュレータが各種存在し、一部企業から提供されていた時期もあるが、現在は主に私的プロジェクトにより展開されている。高度な再現には、条件よって利用者自らが所有権を持つ実機から取得したBIOSが必要となることがある。以下に、ソフトウェアと動作環境・代表的な事例を示す。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "NECのPC-98でなく、互換機であるEPSON PCシリーズを再現するエミュレータもあり、事実上、PC-98のエミュレータとして使用されている。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "本流のPC-98とは異なるアーキテクチャを持つPC-98DO/XA/XL/RL/LT/HAを再現するエミュレータもある。",
"title": "ソフトウェア資産"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "前述のように、PC-98のソフトウェア資産は圧倒的であり、NEC自身が投入したものも含め、別アーキテクチャのコンピュータは苦戦を強いられた。",
"title": "98互換機の登場"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "セイコーエプソンは98互換機である「EPSON PCシリーズ」を開発。その後、NECは自社開発のDISK-BASICやMS-DOSに自社製ハードウェアであるか確認する処理を付け加えるなどした(通称:EPSONチェック)が、セイコーエプソンではそれを解除するパッチ(SIP)を供給し、サードパーティー機器の互換性検証を行い情報提供したり、PC-98より高性能低価格の機種をラインナップするなどの展開を行い、ユーザーの支持を集めシェアを伸ばしていった。",
"title": "98互換機の登場"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "エプソン以外にも、トムキャットコンピュータとプロサイドがPC/ATとPC-9800のデュアル互換機を販売したり、シャープのMZ-2861がソフトウェアエミュレーションによりPC-9800シリーズ用のソフトを動作させるなどの試みもあったが、定着には至らなかった。日経パソコン誌はその原因として、「互換機」というイメージの悪さではなく、ターゲットを明確にして魅力ある製品を企画できなかったことと、販売力が弱かったことを指摘した。",
"title": "98互換機の登場"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "産業用コンピュータとしては組み込み用を中心とする機種が存在し、ワコム(現ロムウィン)社98BASEシリーズやエルミック・ウェスコム社iNHERITORシリーズなどが発売された。これらはNECによるPC-9821シリーズやFC-9800/9821シリーズを含むPC-9800シリーズ全体の打ち切り後も生産が続けられたため、既存ハード・ソフトウェア資産の継承が必要な工場・鉄道用信号機器向けなどを中心に一定の生産実績を残している。",
"title": "98互換機の登場"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "PC-9801互換のボード・コンピュータとして、ワコムエンジニアリングから BP486L が発売されていた。CPUは486 DX2 40MHz, SX2 40MHz, SX 20MHz の3種類、メモリは1M/4M/8M、MS-DOS はROM で搭載された。また、BP386Lは386SX 20MHzを採用し、搭載メモリ1MBであった。",
"title": "98互換機の登場"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "前項の如く、互換機の販売には否定的であったNECであるが、周辺機器や拡張カード、特に純正品互換周辺機器の開発、販売には協力的で、非常に多くの製品が多くのメーカーから販売されていた。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1988年(昭和63年)にNECが発売したPC-9801-55(無印)/L/U SCSIインタフェースボード(その相当品を内蔵する機種を含む、以下55ボード)は、最大40MBのHDDを2台までしかサポートしなかったPC-9801-27 SASIインタフェースボードに代わる、大容量HDDへの対応を視野に入れたものであった。しかし、米国国家規格協会 (ANSIS:American National Standards Institute) が策定した初期のSCSI規格には曖昧な点が多く、メーカーで自由に使えるコマンドやパラメータが存在したため、同じSCSI準拠の機器でもメーカーが異なると互換性を保証できない状況にあった。ANSIはコマンド仕様の共通化を図って共通コマンドセット (CCS) を提唱していたが、55ボード登場時点ではSCSIとCCSを統合したSCSI-2の策定を進めている最中にあった。また、55ボードやPC-98のパーティション管理が特殊な仕様を抱えており、サードパーティーメーカー各社の対応が分かれたため、SCSIボードと異なるメーカーのHDDを接続した場合に容量を誤認したり、容量が正しくてもフォーマットに互換性が無くデータを読めない・起動できないなどの不具合が生じた。このため、当時のPC-98においてSCSI HDDはSCSIボードと同じメーカーから購入することが通例となっていた。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "PC-98はC(シリンダ数)/ H(ヘッド数)/ S(トラックあたりのセクタ数)といったパラメータでHDDを管理している。55ボードはSCSI規格のMode SenseコマンドでHDDからパラメータを取得しているが、NEC純正オプションの増設用HDDに使われた当時のNEC製HDDは、代替セクタを含まないセクタ数(有効セクタ数)を返すようになっているのに対し、CCSでは代替セクタを含む値を返すよう具体的な仕様が策定され、他社製HDDはこれに追従している。この違いから、SCSIボードやHDDの組み合わせによっては容量を誤認することがある。後にサードパーティーから発売されたSCSIボードでは、Read CapacityコマンドとMode Senseコマンドで得られた値から有効セクタ数を算出することで、どちらのHDDでも55ボードと同じパラメータになるよう互換性を保っている。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "55ボードは接続されているHDDが自社製のものであるか否かを判定するため、SCSIベンダIDの先頭3文字の「NEC」という文字列を参照するチェックを行い、該当しないHDDが接続されていた場合は別の処理を行う、特に、ハングアップして起動しないという動作を主に指す。後者の対策のため、NECはサードパーティーがNECのベンダ名を返してもよいことを公式に認めていた。サードパーティーメーカー各社はこのチェックを回避するため、自社製のより高性能、高機能なSCSIボードとHDDをセットで販売するか、あるいはSCSIベンダIDを「NECITSU」などに変更して販売していた。NECチェックの存在は先述の非互換性による不具合を防止するためと考えられているが、一部からはNEC製品を独占的に販売するためではないかという厳しい声も聞かれた。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "パーティション管理の方法が互換性問題をさらに複雑にした。PC-98はHDDのパーティションをシリンダ単位で1MBずつ区切る。1MBの区切りがシリンダの途中になった場合、そのシリンダの残りの部分は使わず、次のシリンダを起点に1MBを区切る。そのため、シリンダの大きさによっては1MBの区切り毎に未使用領域が存在することになり、HDDのパラメータによっては総容量の20%程度が無駄になる場合がある。サードパーティー製のSCSIボードには、ヘッド数やトラックあたりセクタ数を最適な値に変換してパラメータを返すことで、無駄になる容量を減らす工夫をしたものが登場した。しかし、この変換に用いる値がメーカーやボード毎に違うので、あるSCSIボードでフォーマットしたHDDは他のSCSIボードでは読めず、再フォーマットしないと使用できない場合がある。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "後年になってC/H/S(または最大容量)のパラメータを手動入力もしくは既存のフォーマット状態からそれらを自動認識できる「マルチベンダ」と呼ばれる方式のSCSIボードがサードパーティーの主流となったことで互換性が取れるようになっていった。 NEC自身もサードパーティーの動向を調査した上で、1993年に55ボードの後継となるPC-9801-92 SCSIインタフェースボードを発売した。これは、NECチェックに該当するHDDは55ボード互換で動作し、該当しないHDDはパラメータを最適化(ヘッド数8、トラックあたりセクタ数32)して返すようになっている。ボード間でパラメータが違うことによるフォーマットの非互換性は解消していないが、NECがこの方式でパラメータを定めたことによりサードパーティーにパラメータの統一と互換性問題解消への指針を示した形になった。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "PC-9800シリーズのCPUのクロック周波数は、機種によって5/10MHz系のもの(5MHz、10MHzなど)と8MHz系のもの(8MHz、16MHz)が存在し、この系統によってRS-232Cの通信速度の設定が異なっていた。どちらでも仕様上サポートされているのは9600bpsまでであり、これを超える速度を設定しようとすると、5/10MHz系では19200bps、38400bpsという一般的な速度になるのに対して、8MHz系では20800bps、41600bpsという半端な速度になってしまっていた。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "モデムが高速化して、パソコンとの間の通信速度が9600bps以上になると、5/10MHz系の機種では問題なく通信速度の設定ができるのに対して、8MHz系の機種ではモデムが対応している一般的な速度に設定できないため低速通信を強いられる、という問題が表面化した。この問題に対処するため、サードパーティから高速対応のRS-232C拡張ボードが発売された。また、国産のモデムでは、8MHz系で設定可能な半端な速度に対応するものが増えた。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "PC-9821シリーズでは通信系統のクロック供給が5/10MHz系に統一された上で、最初期の機種を除いてOSからの設定が115200bpsまでに強化されている。また、互換機のEPSON PCではCPUのクロックとは別に通信系統には5/10MHz系のクロックが供給されている。",
"title": "サードパーティー機器"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "あるジャーナリストはNECが日本に「パソコン王国」を築き上げることができた要因を次のように説明した。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "日本IBMがIBM PCの代わりにマルチステーション5550を販売したように、欧米市場のパソコンはディスプレイ解像度やメモリの制約から漢字表示に対応できなかったため、DOS/Vとより高速なパソコンが登場するまで日本のパソコン市場に参入することができなかった。VZ Editorの開発者である兵藤嘉彦は「PC-98には漢字メモリとノンインターレースモニタの2つの利点があり、どちらもユーザーに快適な日本語環境を提供した。」と回顧した。大塚商会の大里堅常務(1989年時点)は「花王など先進ユーザーは当時8000でOA化を始めていたが、ビジネスに使うには速度や漢字処理に問題があった。そこに出た9800は完成度も高かったので、流通もユーザーもすぐに移行した。」と証言した。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "NECの浜田はPC-98が成功した最大の理由として、ソフトハウスから協力を得ることができたためと考えた。浜田は「パソコンのサードパーティー(ソフトハウス)は、たしかにPC-8001、8801で、ある程度育っていた。ただし、それは組織的に育てられたものではない。自然発生的に生まれて、それをハードメーカーが放任的に傍観してきた。ところが、PC-9801の段階になって初めて、その考え方を180度近く変えたわけです。ソフトハウスを私どもが意識的に育てようという姿勢を強力に打ち出した。」と回顧した。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "あるコンピュータコンサルタントは、IBMがNECの戦略に影響を与えたと指摘した。1982年(昭和57年)より、NECには4つのパソコンシリーズがあり、IBMのメインフレーム事業のように幅広い価格帯をカバーしていた。しかし、NECのパソコンは互いに互換性が乏しかったため、ユーザーやソフトウェア開発者から批判された。1983年にパソコンのラインナップが整理された後、NECはPC-98を展開していき、その機種の数は競合メーカーを上回った。また、IBMがIBM PCに対して行ったことと同じように、NECはサードパーティの開発者を支援した。PC-98の基本的なハードウェアもIBM PCに似ていたものの、互換性はなかった。彼は、NECが独自開発のメインフレームに誇りを持っていたため、IBM互換パソコンのリリースを避けたと推測した。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "ある大学助教授は「ユーザーは最も遊戯性のあるPCを選んだ」という題のエッセイを記述した。彼はPC-98を普通の16ビットパソコンであると感じたが、それは遊戯性を否定しなかったため多くのゲームが存在したと考えた。富士通は16ビットパソコンをゲームプラットフォームとして考えず、IBM JXはゲームの重要性が低いとみて扱ったため、魅力が失われた。彼はパソコンの本当の価値は売り手ではなく顧客が見つけるべきものと結論付けた。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "月刊アスキーのライターは、日本語入力システムと日本のテレビゲーム業界がPC-98時代に著しく成長したと述べた。PC-98には漢字ROMがあったため、日本語アプリケーションと日本語入力システムが開発され、互いに影響を与えた。PC-98用にパソコンゲームを開発していた会社は、ゲーム事業をファミリーコンピュータに移して展開した。彼は当時のほとんどのプログラマーがPC-98でプログラミングを学んでいたと信じた。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1980年代後期、競合企業はNECが市場を独占していることに対して批判した。日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会が開いた互換機問題についての公開討論会にて、ソードの創業者である椎名堯慶は「日本のパソコン・マーケットは特定一社の独占的シェアのために窒息している。自由度がない。だから値段もアメリカの3倍から4倍もしている。アメリカ並みの国際価格を実現するためにも、互換機時代が絶対に必要だ。」と述べた。あるソフトハウスは「日本には優秀なエンジニアが少ししかいないのに、互換性のないマシンが増えるほど、開発リソースは分散されます。」と不満を挙げた。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "IBM PCやApple IIとは対照的にNECがPC-98の新モデルを毎年リリースしていたように、日本のパソコンの寿命は短かった。PC-9801VX01/21/41のBASICインタープリタがEGCチップセットに対応した時、重いグラフィック処理を行うソフトウェアの多くはC言語で開発されていたため、それを使用しなかった。あるソフトウェア開発者は「特別なもの (EGC) を使用することはトレンドに反します。新しいマシンが頻繁に出てくる場合は、それを使いたくありません。」と述べた。",
"title": "評価"
}
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PC-9800シリーズは、日本電気(以下NEC)が1982年(昭和57年)から2003年(平成15年)9月30日の受注終了まで、日本市場向けに販売した独自アーキテクチャのパーソナルコンピュータ(パソコン)の製品群である。同社の代表的な製品であり、98(キューハチ/キュッパチ)、PC-98、NEC98など略称されることもある。
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{{Infobox information appliance
| logo = PC9800 logo 1982.svg
| image = [[File:PC-9801-1st-001.jpg|250px]]
| caption = 初代PC-9801と8インチフロッピーディスクドライブ PC-9881
| Type = [[パーソナルコンピューター]]
| Released = {{Start date and age|1982|10}} (PC-9801)
| Discontinued = {{End date and age|2003|09|30}}<ref name="pc98_discontinued_nec">{{Cite web|和書|url=http://support.express.nec.co.jp/care/pctechinfo/pc9800.html|title=PC-9800シリーズ受注終了のお知らせ|publisher=日本電気株式会社|date =August 7, 2003|accessdate =June 7, 2016}}</ref>
| OS = [[CP/M-86]], [[MS-DOS]], [[OS/2]], [[Windows]]
| CPU = [[Intel 8086|8086]] 5MHz (PC-9801)
| Memory = [[Random Access Memory|RAM]] 128KB (PC-9801)
| predecessor = [[PC-8800シリーズ]]
| successor = [[PC98-NXシリーズ]]
|units shipped=1830万台<ref name="ozawa_2004" />}}
[[File:NEC PC-9801VX ITF beep sound.ogg|thumb|代表的な起動音]]
'''PC-9800シリーズ'''は、[[日本電気]](以下NEC<ref>現在は[[NECパーソナルコンピュータ]]に分社</ref>)が[[1982年]]([[昭和]]57年)から[[2003年]]([[平成]]15年)9月30日の受注終了まで、日本市場向けに販売{{Refnest|group="注"|最終出荷は[[2004年]](平成16年)3月まで<ref>{{Cite web|和書|url=https://senior-next.com/my-history/98fellow/part4/|title=伝説のパソコン:98FELLOW物語(4)ー国民機を支えたPC98開発&生産組織|publisher=シニア・ネクスト|date=2019-05-14|accessdate=2022-10-11}}</ref>。}}した独自[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]の[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)の製品群である。同社の代表的な製品であり、'''98'''(キューハチ/キュッパチ)、PC-98、NEC98など略称されることもある<ref>{{Cite web|和書|title=用語解説辞典【キューハチ】|url=https://www.nttpc.co.jp/yougo/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%81.html|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20150628144244/https://www.nttpc.co.jp/yougo/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%81.html|archive-date=2015-06-28|access-date=2019-03-24|publisher=[[NTTPCコミュニケーションズ]]}}</ref>。
== 概要 ==
NECが1982年(昭和57年)10月に発売した16[[ビット]]パソコン「'''PC-9801'''」を初代機とするパソコン製品群である。従来NECが発売した[[8ビットパソコン]]の[[PC-8000シリーズ]]と[[PC-8800シリーズ]]の資産を継承し、高速化のために[[マイクロプロセッサ#16ビットマイクロプロセッサ|16ビットマイクロプロセッサ]]を採用した。初代「PC-9801」は、[[社団法人]][[情報処理学会]]2008年度(第1回)「[[情報処理技術遺産]]」に認定され<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2009/0302/ipsj.htm 情報処理学会、「情報処理技術遺産」の認定式を開催]、PC Watch、2009年3月2日</ref><ref>[http://museum.ipsj.or.jp/heritage/2008.html 情報処理技術遺産 2008年度]、情報処理学会 コンピュータ博物館</ref>、2016年(平成28年)9月6日に[[国立科学博物館]]の[[重要科学技術史資料]]<ref group="注">未来技術遺産と俗称される。</ref>第00221号として、日本で最も普及した16ビットパソコンであることを評価され、登録された<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/material/index.html 重要科学技術史資料一覧]</ref><ref>[http://www.necp.co.jp/press/ja/1609/0601.html PC-9801などが「重要科学技術史資料(未来技術遺産)」に登録]</ref>。
各社専用に[[カスタマイズ]]された[[マイクロソフト]]の[[Microsoft BASIC]]をベースにした時代の終盤から、[[MS-DOS]]時代を経て[[Microsoft Windows]]の普及期まで約15年間<ref group="注">初代「PC-9801」発売の1982年(昭和57年)から、後継アーキテクチャとなる[[PC98-NXシリーズ]]発売の1997年(平成9年)頃まで</ref>、NECのパソコンの主力商品として製造販売が続けられた。全盛期の1987年(昭和62年)に、日本国内の16ビットパソコン小売店頭販売数で市場の90%を占有<ref name="kimura">{{Cite web|和書|author=[[木村登志男]]|date=2010-02-16|url=http://www.hosei.ac.jp/fujimi/riim/img/img_res/WPNo.82_kimura.pdf|title=セイコーエプソン・国内市場エプソンブランド完成品躍進の端緒|format=PDF|work=WORKING PAPER SERIES No.82|pages=ビジネスケース 資料 No.3|publisher=[[法政大学]]イノベーション・マネジメント研究センター|accessdate=2010年6月27日 }}</ref><ref name="it20030807">[https://www.itmedia.co.jp/news/0308/07/njbt_03.html NEC「PC-9800シリーズ」ついに受注打ち切り] - [[ITmedia]] 2003年8月7日</ref>する。
PC-9800シリーズは多種多様な機種が展開された。1985年(昭和60年)から[[ワードプロセッサ|ワープロ]]や[[CAD]]用途を意識して性能を高めたPC-98XAなどの高級機種を発売し、1990年(平成2年)に32ビット外部バス([[New Extend Standard Architecture|NESA]]バス)を搭載する'''Hyper98'''([[PC-H98シリーズ]])へ派生した。[[東芝]]の[[J-3100シリーズ]]や[[セイコーエプソン]]の[[EPSON PCシリーズ]]と小型パソコンの開発を競い、1989年(平成元年)に「ノートパソコン」の名称を広めた'''[[98NOTE]]''' (PC-9801N) を発売<ref>{{Cite web|和書|title=日本発の世界標準「ノートPC」の24年史|【Tech総研】|url=https://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001253|website=リクナビNEXT|accessdate=2021-03-12|last=大河原|first=克行|date=2008-01-24}}</ref>する。1990年代に費用対効果で優れる[[PC/AT互換機]]の台頭により、従来路線を踏襲するPC-9800シリーズの本流は製品計画を見直す。1993年(平成5年)に、従来のPC-9801型番の機種は、おもにWindowsの利用を想定した高性能機の'''98MATE'''([[PC-9821シリーズ]])と、おもにMS-DOSの利用を想定して低価格を追求した'''98FELLOW'''([[PC-9801シリーズ]])に一新する。
以後PC-9800シリーズは、[[ハードウェア]]に業界標準規格を組み込んでPC/AT互換機と類似点が多くなるが、既存の周辺機器やソフトウェアと互換性を維持するため独自のハードウェア仕様も備えた。1995年(平成7年)に[[Windows 95]]が登場してパソコンが一般市場で普及すると、PC-9800シリーズの独自アーキテクチャは利点よりも費用面の不利が拡大する<ref name="news_pc98nx" />。1997年(平成9年)にNECは、PC/AT互換機をベースとするPC98-NXシリーズを発表して主力を移行し、2003年(平成15年)9月30日にPC-9800シリーズの受注を終了した。
== 歴史 ==
=== 16ビットパソコンの開発へ ===
NECは通信機器メーカーとして創業したが、事業は[[日本電信電話公社]]に大きく依存していた。民需や輸出を拡大するため、1950年代にコンピュータや半導体の開発を始め、1976年に[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]、[[富士通]]、[[日立製作所]]に次ぐ、日本で4番目に高い[[メインフレーム]]の売上高を記録した<ref>{{Cite journal|url=https://hdl.handle.net/10291/19556|title=コンピュータ企業における国際化と国際競争力(1950年代~1990年代まで) -IBMと富士通のメインフレーム事業を中心に-|last=高橋|first=清美|date=2018|journal=明治大学 博士論文|publisher=[[明治大学]]|page=91|issue=32682乙第537号|naid=500001075138|access-date=2019-06-23}}</ref>。
NECは消費者市場での存在感がなく、その子会社として家電製品を展開していた[[日本電気ホームエレクトロニクス|新日本電気]]も消費者市場で成功しているとは言い難かった。メインフレームや[[ミニコンピュータ]]を開発してきたNECの情報処理グループは、[[マイクロプロセッサ]]を性能や信頼性が劣っているためコンピュータに適していないと見なしており、興味を示さなかった。しかし、電子デバイス販売事業部マイクロコンピュータ販売部がマイクロプロセッサ評価用キットの[[TK-80]]を発売すると、ターゲットに想定していなかった一般のコンピュータマニアや好事家に売れていった。TK-80の開発者、後藤富雄は1977年(昭和52年)に[[サンフランシスコ]]で開催された[[ウェストコースト・コンピュータ・フェア]]でパソコン市場の立ち上がりを目の当たりにした。後藤とその部長、[[渡辺和也 (コンピュータ技術者)|渡邊和也]]はパソコンを開発することを決意した。電子デバイス販売事業部には電子部品店の小さな販売網しかなかったため、新日本電気が持つ家電ルートを使ってパソコンを販売することにした<ref name="tomita_1995">{{Cite web|和書|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/000055/card365.html|title=パソコン創世記|last=富田|first=倫生|publisher=ボイジャー|year=1995|access-date=2021-03-12}}</ref><ref name="watanabe_2004">『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説』pp. 98–103、「秋葉原ビットイン誕生秘話 : 渡邊和也氏インタビュー」</ref>。
NECの電子デバイス販売事業部は1979年(昭和54年)に[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]を発売し、1981年(昭和56年)には日本のパソコン市場の40%のシェアを獲得した<ref>{{Cite book|和書|title=パソコン大図鑑 最新・人気パソコン目的別全カタログ|publisher=[[講談社]]|year=1981|isbn=4-06-141673-1|pages=30-31}}</ref>。当時のNEC副社長、[[大内淳義]]は次のように述べた<ref name="NEC_2001_654">『日本電気株式会社百年史』 p.654</ref>。
:「たしかにパソコンの育ての親として、電子デバイス部門の貢献は否定できぬ事実である。しかし、パソコンがコンピュータであるのならば、日本電気内ではこれまでどおり情報処理部門が扱うべきであるということになろう。またパソコンが家電であるならば、家電を扱う新日本電気の申し出も拒否することはできない。」
1981年(昭和56年)4月、NECはパソコンの開発を新日本電気とNECの情報処理グループ、電子デバイスグループ、の3つのグループに展開することを決定した。新日本電気は[[8ビットパソコン]]の[[PC-6000シリーズ]]を、情報処理グループは16ビットのビジネス向けパソコンを、電子デバイスグループは[[PC-8000シリーズ]]や[[PC-8800シリーズ]]などその他の分野のパソコンを担当することになった<ref name="NEC_2001_654" />。
=== N10プロジェクト ===
情報処理小型システム事業部では、浜田俊三がプロジェクトの指揮を執り、小澤昇が製品計画を担当した。当初、開発チームは新しいパソコンを1973年(昭和48年)の[[NEAC]] システム100に由来する[[オフィスコンピュータ]]の小型版として計画としていた。渡邊和也は、新しいパソコンはMicrosoft BASICを備え、以前のパソコン向けの周辺機器との互換性を維持し、拡張スロットの仕様を公開しなければならないと助言した。1981年9月、浜田は元請けの[[アスキー (企業)|アスキー]]の[[西和彦]]に[[N88-BASIC]]を[[Intel 8086|8086]]プロセッサ用に書き直すよう依頼した。西は米国の開発会社所属の[[ビル・ゲイツ]]と相談したいと返答した。3か月後、[[マイクロソフト]]は{{仮リンク|GW-BASIC|en|GW-BASIC}}の開発に忙しいとして、西は浜田の申し入れを断った。西は「マイクロソフトはBASICをより構造化された内部コードで同じ機能を持つものに書き直しており、それは16ビットバージョンのGW-BASICとして発売される。日本語版のGW-BASICを選択した場合、我々はBASICをより早く提供できるだろう。」と述べた。浜田は「以前述べたとおり、旧来のものと互換性があるBASICが欲しい。」と返答した。両者は合意することができなかった<ref name="tomita_1995" />。
渡邊が提案する計画の先行きが不透明になったため、浜田はオフィスコンピュータの小型版を開発するか、渡邊の提案通りにパソコンを開発するか、2つの計画で迷っていた。浜田と渡邊はPC-8001やPC-8801のアプリケーションを収集して調査しているうちに、消費者市場はこれらのパソコンと互換性のある16ビット機を望んでいることに気付いた。浜田は異なる市場向けに両方の計画を採用することにした。1982年(昭和57年)4月、オフィスコンピュータの小型版はNEC独自開発の16ビットマイクロプロセッサ[[ΜCOMシリーズ|μCOM-1600]]を搭載したNEC システム20 モデル15としてリリースされた。この機種は従来のオフィスコンピュータの新モデルとして発表され、特段注目されることはなかった<ref name="tomita_1995" />。
1982年(昭和57年)2月、ソフトウェア開発チームはN88-BASICの[[リバースエンジニアリング]]とN88-BASIC(86)の設計を開始した。その作業は翌月に完了し、開発チームはPC-9801(コードネームはN10プロジェクト)の開発を開始した。PC-9801のプロトタイプは1982年(昭和57年)7月の終わりに完成した。N88-BASIC(86)のコードは新規に書かれていたが、西は[[バイトコード]]がマイクロソフトのものと一致すると指摘した。当時、バイトコードに[[著作権法]]を適用できるかどうかは不明確だった。西は浜田に対して、NECはBASICのライセンス料に相当するマイクロソフト製品を購入し、N88-BASIC(86)にはマイクロソフトとNECの双方の名前を著作権表示に入れることを要求した。浜田はこれを受け入れた<ref name="tomita_1995" />。
開発チームは[[サードパーティー]]の開発者が市場の拡大に非常に重要と考え、発売前から独立系ソフトハウスに50台から100台のプロトタイプと技術情報を無償で提供した<ref name="tomita_1995" />。
[[三菱電機]]はNECに先行して1982年(昭和57年)1月に16ビットパソコンの[[MULTI 16シリーズ|MULTI 16]]を発売したが、その実体は豊富なソフトウェアを自社で揃えてシステムとして売り込むというオフィスコンピュータの性格を残しており、成功しなかった<ref name="tomita_1995" /><ref name="Hattori_1989">{{Cite journal|和書|last=服部|first=雅幸|date=1989-05-01|title=PC-9800はどこへ行く 第2部 緩やかに進化したベストセラー機|journal=日経パソコン|pages=180–190|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。
1981年(昭和56年)に情報処理グループの端末機事業部も「パーソナルターミナル」として[[N5200]]というパソコンシリーズを発売した。これは8086プロセッサと[[μPD7220]]ディスプレイコントローラを搭載しており、アーキテクチャも'''PC-9800シリーズ''と類似していたが、[[オペレーティングシステム]]は独自開発のPTOSを採用している。NECはN5200をインテリジェント端末あるいは[[ワークステーション]]として発表し、市販パソコンのPC-9800シリーズとはターゲットが異なっていた<ref name="ozawa_2004" />。この複合端末機市場に対して富士通は1981年に[[FACOM 9450]]を発売し、日本IBMは1983年に[[マルチステーション5550]]を発売した。
=== PC-9801の登場とシェア拡大 ===
{{Main|PC-9801シリーズ}}
[[File:NEC_PC-9801F_Motherboard_with_V30.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:NEC_PC-9801F_Motherboard_with_V30.jpg|サムネイル|PC-9801Fのマザーボード]]
1982年(昭和57年)10月、PC-9800シリーズ(以下、PC-98)の初代機『PC-9801』は16ビットCPUのNEC μPD8086([[Intel 8086]]互換)を5MHzで駆動し、128KBのRAM(最大640KBまで拡張可能)を搭載、PC-8000シリーズやPC-8800シリーズとのハードウェア・ソフトウェアの上位互換性と298,000円という低価格を売り物にして発売された<ref name="Kaminaga_1988" />。グラフィック[[画面解像度]]は640ドット×400ドット8色。また、当時としては先進的なグラフィック描画機能を持つ自社製のGDC(Graphic Display Controller [[μPD7220]])を2個搭載している。ディスプレイなどPC-8800シリーズの周辺装置はPC-9801にそのまま流用でき、N88-BASIC用に開発されたソフトウェアは少しの修正でPC-9801に対応させることができた。これにより、従来のPC-8000シリーズやPC-8800シリーズのビジネスユーザーを取り込むことに成功した。一方、新規ユーザーは高価な8インチ[[FDD]](Floppy Disk Drives)を別途購入する必要があり、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]や[[プリンター]]も合わせると、システムセット価格としては100万円近くになった。また、基本構成では数字と英文字、半角片仮名しか表示できなかったため、日本語[[ワープロソフト]]などを使用するには別売の[[漢字ROM]]ボードPC-9801-01を増設する必要があった{{Sfn|浅野|1983|p=51}}。
ビジネス分野を中心に漢字ROMやFDDを標準搭載したPC-9801を要望する声があったことに加え、高品質な漢字[[フォント]]で印刷できるプリンターが求められた<ref name="tomita_1995" />。当初、PC-9801には[[OEM]]で調達されたPC-8800シリーズ用のプリンターや自社開発のNK-3618が用意されたが、どちらも16ドットフォントに相当するゴシック体で印字するものであった。書類や本での使用頻度が高い明朝体となると、24ドットフォントを印字できる24ピンプリンターが求められた。NECはNK-3618の開発を契機に、プリンターを開発した「端末装置事業部」を「プリンタ事業部」に改め、1983年(昭和58年)5月に24ドットフォントが収録された漢字ROMを搭載する24ピンプリンター『PC-PR201』を発売した。これは当時50万円台であった24ピンプリンターを30万円以下という低価格で発売したことで好評を得た<ref name="Kaminaga_1988">神永 裕人『100万人の謎を解く ザ・PCの系譜』pp. 94–105、「NECのハード開発戦略 ユーザーをとらえた「互換性と継承性の追求」優先の製品開発」</ref>。
1983年(昭和58年)10月発売のPC-9801Fは、CPUに5MHzと8MHzから選択駆動が可能な8086-2を搭載し、2台の5インチ2DD (640KB) FDDと[[JIS第一水準漢字]]ROMを標準装備して398,000円 (2ドライブ機) で発売された。この機種は価格性能比が良好で、企業や技術者に好評を博した<ref name="Kaminaga_1988" />。5インチ2DDフォーマットは本機から新たにサポートされた。当時、5インチ2HD (1MB) FDDはまだ信頼性が低く、8インチ2D (1MB) FDDは高価だったため、日本語の業務用アプリケーションに必要最小限の容量である5インチ2DD (640KB) が採用される運びとなった<ref name="loadtest_9801f">{{Cite journal|和書|year=1984|title=LOAD TEST: PC-9801F / E|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=8|issue=3|pages=174–190|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。
PC-9801Fと同時に、電子デバイスグループが開発した[[PC-100]]も発表された。こちらはワープロや表計算ソフトを同梱(バンドル)し、同年に発売された[[Lisa (コンピュータ)|Apple Lisa]]のようなコンセプトを持っていた。PC-100は[[マウス (コンピュータ)|マウス]]や縦横切り替え利用が可能なディスプレイといった先進的な機能を備えて注目を集めたが、従来機のソフトウェアや周辺機器と互換性がなく、[[ビットマップ画像|ビットマップ]]処理によるグラフィックを採用したことで文字の表示速度が遅くなったことが影響して売れなかった。さらに、PC-100のマーケティングは情報処理グループのPC-9800と競合したことでパソコン販売店を混乱させることになった。1983年(昭和58年)12月、大内はパソコン事業を8ビット家庭用パソコンを扱う日本電気ホームエレクトロニクス(1983年(昭和58年)6月に新日本電気から社名変更)と、16ビットパソコンを扱う日本電気の情報処理グループの、2つの部門に統合することを決めた。日本電気の電子デバイスグループはパソコン事業を日本電気ホームエレクトロニクスへ移管することになった<ref name="NEC_2001_654" /><ref name="Tanaka_1988">田中 繁廣『100万人の謎を解く ザ・PCの系譜』pp. 76–89、「ドキュメント・NECのPC戦略―市場制覇への道を切り拓いた戦士達 その決断と挑戦の歴史」</ref>。
富士通は1984年(昭和59年)2月に5インチ2HD (1MB) FDDを搭載した[[FM-11|FM-11BS]]を発売し、同年12月には同じく5インチ2HD FDDを搭載した[[FM-16β]]を発売した。これに対抗して、NECは1984年(昭和59年)11月に5インチ2HD FDDを搭載したPC-9801Mを発売。このドライブは2DDフロッピーディスクを読むことができず、従来機との互換性が劣っていたため市場では成功しなかった。一方、FM-16βはオペレーティングシステムにMS-DOSではなく既に下火になりつつあった[[CP/M-86]]を同梱(バンドル)し、さらにコンピュータ部門ではなく電子デバイス部門が開発・営業を手がけたことが失敗の一因になった。富士通は1985年半ばにこの方針を転換したが、既に手遅れであった<ref name="kobayashi_1988">小林 紀興『100万人の謎を解く ザ・PCの系譜』pp. 58–59、「NECがパソコン王国になった理由」</ref>。別の意見では、富士通はFM-11にビジネスソフトパッケージを同梱(バンドル)したことで、ユーザーがサードパーティーのソフトウェアを購入することを思いとどまらせ、富士通は自身の市場を拡大することに失敗したと考えられた<ref name="uchida_1988">内田 保廣『100万人の謎を解く ザ・PCの系譜』pp. 128–129、「一番"遊戯性"の高いPCをユーザーは選択した」</ref>。
1985年(昭和60年)5月に発売されたPC-98XAは、高級ワープロや[[CAD]]用途への需要に応えるべく、高解像度のテキスト・グラフィック画面と高速な[[Intel 80286|80286]]プロセッサを搭載していた<ref name="ozawa_2004" />。また、同時に発売されたPC-9801U2は3.5インチFDDを搭載した最初の省スペースモデルとなった。しかし、両者とも従来のソフトウェアと互換性が乏しかったため不評であった。それぞれの後継機、PC-98XLおよびPC-9801UV2は、本流のPC-9801シリーズと高い互換性を保っていたため市場に受け入れられ、需要の幅を拡大することに成功した<ref name="Hattori_1989" />。
[[File:NEC_PC-9801VM_Front.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:NEC_PC-9801VM_Front.jpg|サムネイル|PC-9801VM (1985年)]]
1985年(昭和60年)7月に発売されたPC-9801VMはCPUに8086上位互換の高速な[[NEC Vシリーズ|V30]]を採用し、グラフィックはオプションで4096色中16色表示に対応した。またPC-98XAに続いて2HD/2DDの両タイプのフロッピーディスクに対応した<ref name="ascii_9801vm_rep">{{Cite journal|和書|year=1985|title=PC-9801VM/VF徹底研究|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=9|issue=9|pages=249-256|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]}}</ref>。このモデルは1年間で21万台を販売するベストセラーとなり<ref>「日電ビジネス用パソコン好調―単一モデル1年で21万台出荷。」『日経産業新聞』 1986年8月18日、7面。</ref>、以後のPC-98の基本仕様となった。
1983年(昭和58年)から1987年(昭和62年)にかけて、NECはソフトハウスに対してMS-DOS 2.11のサブセットをソフトウェアへ同梱(バンドル)することを無償で認めていた。アスキーやマイクロソフトはMS-DOSの普及を促すためにこれを認めていた<ref name="Hattori_19910121">{{Cite journal|和書|last=服部|first=雅幸|date=1991-01-21|title=トピック・レポート ソフト:機能不足が表面化,老兵「MS-DOS2.11」|journal=日経パソコン|volume=136|pages=178–182|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。ユーザーの立場では、MS-DOS対応ソフトとは別にMS-DOSを購入する手間が省けるという利点があった<ref name="lotus_123r2j">{{Cite news|url=https://books.google.com/books?id=by8EAAAAMBAJ&q=infoworld%20lotus%20japan&pg=PA9|title=Lotus Perseveres to Unveil Japanese Version of 1-2-3|author=Edward Warner|date=1986-09-08|access-date=2016-05-02|publisher=InfoWorld|language=en|pages=9}}</ref>。浜田はNECがアスキーにこれに相当するMS-DOSのライセンス使用料を支払ったかどうか明らかにしていないが、この戦略がソフトハウスの囲い込みに功を奏した。当初のPC-98は「PC-8800シリーズ上位互換の高速なBASICマシン」で、PC-98の能力を十分に引き出したソフトは少なかったが、早期からサードパーティーに対してソフトウェアの開発を促進したことで、1984年(昭和59年)3月時点で約700本のソフトウェアパッケージがPC-98に対応した<ref name="kobayashi_1997">{{Cite book|和書|title=インテル・マイクロソフト ウィンテル神話の嘘 世界支配の陰謀と死角|date=1997-09-30|publisher=[[光文社]]|last=小林|first=紀興|isbn=4-334-00599-3|pages=116-121|chapter=試作機を公開し、ソフトハウスを味方にして勝ったNEC}}</ref>。1987年(昭和62年)3月、NECはPC-9800シリーズの出荷台数が100万台を超え、約5,000本のソフトウェアパッケージが対応していると発表した。当時の東京リサーチ調べによると、16ビットパソコンの店頭販売数におけるPC-98のシェアは90%を超えた<ref name="kimura" />。NECが日本のパソコン市場を独占できた理由について、1985年(昭和60年)に[[孫正義]]は次のように分析した<ref name="kobayashi_1997" />。
{{multiple image|align=right|image1=Usage share of personal computers at home in Japan as of 1989.png|width1=200|alt1=|caption1=509人の日本人ビジネスマンが回答した、1989年時点の家庭におけるパソコンシェア|image2=Usage share of personal computers in Japanese companies as of 1989.png|width2=200|alt2=|caption2=1989年時点の日本企業937社で使用されていた36,165台のパソコンシェア<ref name="NikkeiPC_19890410">{{Cite journal|和書|last1=松岡|first1=資明|last2=中川|first2=貴雄|last3=礒田|first3=温之|last4=西村|first4=裕|date=1989-04-10|title=調査:パソコン・シェア 企業はPS/55、家庭はPC-9800|journal=日経パソコン|publisher=[[日経BP]]|pages=280–281|issn=0287-9506}}</ref>}}
:「パソコンでのシェア格差はますます広がっている。スタートはNECだけが先行したわけではないのに、なぜこんなに格差がついてしまったのか。早くからハードやOSを積極的に公開し、ソフトや周辺機器を自由につくらせたことが成功したといえる。ライバルメーカーも同じマイクロソフトのベーシックを使いながら公開しなかった。この姿勢の差が今日のシェアの差になって表れている。」
また、NECは既存製品との互換性と資産の継承に注意を払っていた。PC-9801VMはCPUクロック周波数を8MHzと10MHzで選択できるほか、V30の命令サイクルが8086と異なることから、オプションで8086を搭載した拡張カードも提供していた<ref name="ascii_9801vm_rep" />。V30はインテルの[[x86]]系CPUには実装されていない独自の命令が存在した。NECはソフトウェア開発者に対してそのような命令を使用しないよう説明していたが、一部のソフトウェアは使用していた。それらのソフトウェアが動かなくなることを懸念し、1986年(昭和61年)発売のPC-9801VXは80286とV30が電源投入時の設定により排他的に動作するよう設計された<ref name="ozawa_2004" />。[[1988年]](昭和63年)発売のPC-9801RAは[[80386]]とV30を搭載して同様に対応していた。1990年(平成2年)発売のPC-9801DXよりV30は省略された。
NECはテレビCMや新聞での広告、見本市での宣伝などに多大な費用をかけた。NEC全体の広告宣伝費は1970年代中期まで10億円台で推移していたが、その後は増加し続け、1985年(昭和60年)には250億円を上回った<ref name="matsuo_1988">松尾 博志『100万人の謎を解く ザ・PCの系譜』pp. 130–137、「パソコン産業"互換機元年" 真の「ユーザー利益」は、「企業利益」追求の互換機ビジネスから」</ref>。
=== 小型機や互換機との開発競争 ===
[[File:NEC_PC-9801LS.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:NEC_PC-9801LS.jpg|サムネイル|180x180ピクセル|PC-9801LS (1988年(昭和63年))]]
[[東芝]]は1983年(昭和58年)から[[ラップトップパソコン]]の開発に取り組んでいた。1985年(昭和58年)にヨーロッパで発売された[[T1100]]やその後継機は成功を収め、1986年(昭和59年)春から欧米諸国で発売された[[T3100]]は[[バイト (雑誌)|バイト]]誌から「キング・オブ・ラップトップ」と賞賛された。1986年(昭和59年)10月にはT3100を日本市場向けに改良した[[J-3100シリーズ|J-3100]]を発売し、特に狭いオフィスが多い日本では企業を中心に好評を得た<ref>{{Cite book|和書|title=東芝の奇襲で日本電気が受けた深傷|date=1990-04-25|publisher=[[光文社]]|last=小林|first=紀興|isbn=4-334-01250-7|page=168}}</ref>。T3100が発売されるまで、NECはラップトップ型パソコンを時期尚早と見るなど開発に本腰を入れていなかった。このため、NECはT3100の開発を察知して慌ててラップトップ型パソコンのPC-98LTを開発した。PC-98LTはJ-3100と同月に発売されたものの、従来機との互換性が乏しく、既存のPC-98用ソフトが動作しなかったため、十分な成功を収めるには至らなかった。小型化を実現するにはGDCなどの周辺チップを集約したチップセットを開発する必要があったが、3年前からラップトップパソコンの開発に本格的に取り組んでいた東芝にはすぐに追随することができなかった<ref>{{Cite book|和書|last=関口|first=和一|title=パソコン革命の旗手たち|year=2000|publisher=日本経済新聞社|ISBN=4-532-16331-5|pages=210-212|chapter=8. 挑戦者たち : 東芝ショック}}</ref>。
1987年(昭和62年)3月、[[セイコーエプソン]]は最初のPC-98互換パソコン(以下、98互換機)となる[[EPSON PCシリーズ|PC-286シリーズ]]を発表した。NECはこの98互換機を調査し、使用されている[[Basic Input/Output System|BIOS]]がNECの著作権を侵害しているとして訴訟を起こした。1987年(昭和62年)4月、セイコーエプソンはPC-286 Model 1から4までの4機種の発売を中止し、別の開発チームにより[[クリーンルーム設計]]で開発されたBIOSを採用するPC-286 Model 0を発売した。このモデルは[[ROM-BASIC|ROM BASIC]](本体[[Read only memory|ROM]]に収録された[[N88-BASIC|N88-BASIC(86)]])が内蔵されておらず、NECはこれを「PC-98との互換性に乏しい」と結論付けた。当時はROM BASICの需要が依然多く、1990年(平成2年)時点でもNECが発行していたソフトカタログのうち約40%がROM BASICに依存していた<ref name="Hattori_19910121" />。同年11月、セイコーエプソンは裁判の継続が市場に悪いイメージを抱かれると考え、NECに和解金(金額は非公表)を支払い、告訴の対象になった4機種は今後も発売しないという内容で和解した。著作権侵害の有無については決着が付かないままとなった<ref name="matsuo_1988" />。
PC-286 Model 0はCPUに10MHz駆動の80286を使用し、同じCPUを8MHzで駆動していたNECの主力機PC-9801VXよりも25%速かった。1987年(昭和62年)6月、NECはCPUクロック周波数を10MHzに引き上げたPC-9801VX01/21/41をリリースした。NECは自社のオペレーティングシステム([[DISK-BASIC|ディスクバージョンのN88-BASIC(86)]]やMS-DOS)に、NEC製以外のマシンで起動しないようにするBIOS署名チェックを追加した。これは通称「EPSONチェック」とも呼ばれた。1987年(昭和62年)9月、セイコーエプソンはPC-286VとPC-286U、および、BASICインタープリタを追加するための『BASICサポートROM』をリリースした。また、EPSONチェックを解除するためのパッチプログラム『ソフトウェア・インストレーション・プログラム (SIP)』をバンドルした。新機種はリーズナブルな価格と互換性の良さが評価され、好評を博した<ref name="matsuo_1988" />。セイコーエプソンの98互換機は1988年(昭和63年)に20万台の売上を記録し、日本のパソコン市場に新たな勢力が誕生することになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.zdnet.com/article/20357346/6/|title=業界タイムマシン19XX--Trip11:セイコーエプソン vs. NEC PC-98互換機騒動|last=大河原|first=克行|date=2007-09-28|website=[[ZDNet]] Japan|access-date=2019-03-30}}</ref>。
1987年(昭和62年)11月、セイコーエプソンはNECに先行してPC-98と完全な互換性を持つラップトップパソコンPC-286Lを発表した。ラップトップ型の需要はもはや無視できる規模ではなく、PC-98最大手のディーラーである[[大塚商会]]もPC-286Lで初めて98互換機を販売リストに加えた<ref name="Hattori_1989" />。1988年(昭和63年)3月、NECはデスクトップ型PC-9801との完全互換を実現したラップトップ型パソコンPC-9801LV21を発売した。完全互換性と小型化の両立には新規に開発された3種類のチップセットが重要な役割を果たし、これらはPC-9801RAなどの主力デスクトップ機にも使用された<ref name="ASCII_198809">{{Cite journal|和書|year=1988|title=PRODUCT SHOWCASE : 低価格386マシン&ソフトも一新 PC-9801RAシリーズ|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=12|issue=9|pages=189-193|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。しかし、青液晶を採用したPC-9801LV21は視認性が悪く、バックライト付き白黒液晶を採用したPC-286Lに技術面でも後塵を拝することになった。視認性の問題は[[J-3100シリーズ|J-3100]]同様の橙色[[プラズマディスプレイ]]を採用したPC-9801LS(1988年(昭和63年)11月)と、バックライト付き白黒液晶を搭載したPC-9801LV22(1989年(平成元年)1月)で解決された<ref name="Hattori_1989" />。
1989年(平成元年)7月、東芝は軽量でバッテリー駆動可能な真のラップトップパソコンJ-3100SSに「みんなこれを、目指してきた」「ブックコンピュータ」というキャッチコピーと「[[Dynabook (企業)|DynaBook]]」というブランドを添え、宣伝に[[鈴木亜久里]]を起用して発売し、これは1年間で17万台を販売する大ヒットとなった。この登場に危機感を覚えたNECは、同年11月、同様のコンセプトを持つPC-9801Nに「ノートパソコン」というキャッチコピーと「[[98NOTE]]」というブランドを付け、宣伝に[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]を起用して発売した。DynaBookの出だしは順調だったが、1990年には98NOTEの累計販売数がDynaBookを上回った<ref name="Nikkei_19930315">{{Cite journal|和書|date=1993-03-15|title=特集 : 追う98、追われる98|journal=日経パソコン|pages=130–145|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。
1987年(昭和62年)、対抗規格としてマイクロソフトと日本の家電メーカーを中心に構成された標準化団体が[[AX]]('''A'''rchitecture e'''X'''tended)を提唱した。AXは特殊なビデオチップセット([[Japanese Enhanced Graphics Adapter]] (JEGA) ) と日本語キーボード、それに対応するソフトウェアの組み合わせによって、PC/AT互換機で日本語を表示できるようにした。しかし、価格が割高かつ対応するソフトウェアが少なかったことから、日本のパソコン市場に存在感を示すことはできなかった。
=== 日本のパソコンゲーム文化への影響 ===
[[File:Japanese_PC_Shipments_by_bit_designs_1983-1993.svg|thumb|1993年までのビット別PC本体の日本国内出荷台数<ref>{{Cite book|和書|title=パソコン白書94-95|author=日本電子工業振興協会|authorlink=日本電子工業振興協会|publisher=コンピュータ・エージ社|year=1995|isbn=4875661479|page=31}}</ref>]]
1980年代初頭、16ビットパソコンは高価でもっぱらビジネス用途として開発・販売されたため、家庭ユーザーは16ビット機よりも8ビット機を選択した。1980年代半ばまでに、日本の家庭用コンピュータ市場はNECの[[PC-8800シリーズ|PC-88]]、富士通の[[FM-7]]、シャープの[[X1 (コンピュータ)|X1]]、マイクロソフトとアスキーの[[MSX]]陣営が占めていた。この時代、PC-98で最も人気のあるゲームジャンルは、比較的速いクロック速度と広いメモリ空間を有効に利用していた[[シミュレーションゲーム]]であった。『[[大戦略シリーズ|大戦略]]』と『[[三國志シリーズ|三國志]]』は特に人気があり、PC-98を[[パソコンゲーム]]のプラットフォームとして確立した<ref name="uchida_1988" />。
日本のパソコンゲームのプラットフォームは、1980年代の終わりから1990年代にかけてゆっくりと、PC-88からPC-98へ移行した。1990年代には、『[[ブランディッシュ]]』や『[[ダンジョンマスター]]』などのように、多くの[[コンピュータRPG]]がPC-98用に開発されたか他のプラットフォームから移植された。ディスプレイ解像度とディスク容量が大きいほどグラフィックの表現は向上する余地があるものの、PC-98でのアニメーションの表示は時間がかかるため、困難であった。この制約の結果、1980年代のテキストを主流とする[[アドベンチャーゲーム]]の復活として[[アダルトゲーム]]や[[ビジュアルノベル]]が登場し、『[[同級生 (ゲーム)|同級生]]』や『[[この世の果てで恋を唄う少女YU-NO]]』などが人気を博した。PC-98が衰退した後、多くの日本のパソコンゲーム開発者は、パソコン販売店で流通していたアダルトゲームを除いてプラットフォームを[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]に移した<ref>阿部 広樹『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説』pp. 121–125、「PC-9801 魂の名作ゲームの旅」</ref>。
=== DOS/V勢力との競争とWindows時代 ===
{{Main|PC-9821シリーズ}}
[[File:NEC_PC-9821Ap_5-inch_FDD_model.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:NEC_PC-9821Ap_5-inch_FDD_model.jpg|サムネイル|PC-9821Ap (1993年(平成3年))]]
1990年(平成2年)、日本IBMは[[Video Graphics Array|VGA]]を搭載した[[PC/AT互換機]]で日本語テキストを表示できるようにするオペレーティングシステム『[[DOS/V]]』を発表した。日本の他のパソコンメーカーは日本IBMとマイクロソフトが共同で設立した[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会]] (OADG) に加入した。1991年(平成3年)には日本語版の[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]が登場し、MS-DOSからWindowsへ、ソフトウェア環境の移行が始まった。1992年10月、[[コンパック]]は128,000円のDOS/Vパソコンを発売した。この価格は当時のPC-98最安モデルの半値で、他の日本のパソコンメーカーはこの直後に次々と値下げを発表した。この価格戦争はNECが主導していた日本のパソコン市場を揺るがす出来事として印象づけられ、マスコミに「コンパックショック」と呼ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://kakakumag.com/pc-smartphone/?id=13511|title=激動の平成デジタルガジェット史 第2回:平成4~6年(1992~1994年)|last=鎌田|first=剛|date=2019-01-10|website=価格.comマガジン|publisher=[[価格コム]]|access-date=2019-03-18}}</ref>。1993年(平成3年)に入ると東芝や富士通がDOS/Vパソコンを発売し、セイコーエプソンはDOS/Vパソコンを販売するために[[エプソンダイレクト]]を設立した。
PC-98の主力デスクトップモデルは1988年(昭和63年)発売のPC-9801RA以来、SCSI ([[Small Computer System Interface]]) インターフェイスを内蔵したPC-9801RA21(1989年(平成元年))、DMA ([[Direct Memory Access]]) コントローラを高速化したPC-9801DA(1991年(平成3年))、[[Intel486|486]]を搭載してファイルスロットを装備したPC-9801FA(1992年(平成4年))と、徐々に機能や性能を向上しながらもコンセプトは従来機を踏襲してきた。同時期にアメリカでは[[Windows 3.0]]の普及とパソコンの低価格化が進んでおり、日本にもDOS/Vの登場とともにその波が押し寄せていた。PC-9801FAはコストの問題からCPUに16MHz駆動の486SXを搭載していたが、これに対してユーザーから「640×400ドットの画面はWindowsには狭い。16MHzでは快適に使えない。」との批判が集中した。1992年5月、セイコーエプソンは486SX 25MHzのCPUと1120×750ドットの高解像度表示機能を搭載したPC-486GRを、PC-9801FAと同じ価格で発売してヒットした。NECもこの状況から販売戦略を見直し、1992年7月より新製品の検討が始まった<ref name="Nikkei_19930315" />。
[[File:Readers_interested_PC_by_machines_in_Japan_1993.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Readers_interested_PC_by_machines_in_Japan_1993.png|サムネイル|次に買いたいパソコン(日経パソコン1993年5月調べ)<ref name="nikkeipc_19930621">{{Cite journal|和書|date=1993-06-21|title=パソコンユーザー実態調査 第1部 個人編 他機種を引き離すPC-98|journal=日経パソコン|pages=132–137|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>]]
1992年(平成2年)10月末、NECはWindows 3.0を標準搭載した[[PC-9821シリーズ|PC-9821]](愛称は98MULTI)を発表した。1993年(平成3年)1月より、PC-98の主力デスクトップ機は3つのラインに拡張された。[[CD-ROMドライブ]]などホビー向けに必要な機能を一式含んでいる「98MULTi」に加え、Windowsの利用に適した性能を持つ「98MATE」、MS-DOSの利用を主目的とした低価格の「98FELLOW」が発売された。PC-98は対応する日本語アプリケーションが多く、依然日本のユーザーには人気があった<ref name="nikkeipc_19930621" />。
1993年(平成3年)から1995年(平成5年)にかけて、NECは業界標準規格を採用しつつ製造コストの削減を図った。PC-98は72ピン[[SIMM]]、3.5インチ1.44MBフロッピーディスク、[[Advanced Technology Attachment|IDE]]ドライブ、640×480ピクセルのDOS画面モード、2D GUIアクセラレーション[[Graphics Processing Unit|GPU]]、{{仮リンク|Windows Sound System|en|Windows Sound System}}、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]、[[PCカード|PCMCIA]]に対応していった<ref name="news_pc98nx">{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970926/98NOW5.HTM|title=小高輝真の「いまどきの98」 : PC-9800からPC98-NXへ|last=小高|first=輝真|date=1997-09-26|website=Impress PC Watch|access-date=2019-03-16}}</ref>。また、一部のマザーボードの製造を[[エリートグループコンピューター・システムズ|ECS]]やGVCなどの台湾系企業に委託した<ref>{{Cite journal|和書|last=木瀬|first=裕次|date=1995-03-13|title=第2特集 : 浸透する台湾パソコン(前編)|journal=日経パソコン|pages=182–187|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。[[ファイル:PC98 and domestic PC shipments in Japan 1990-1998.svg|サムネイル|PC-98と日本国内PC本体出荷台数(1990年から1998年。1997年以降はPC98-NXを含む)]]PC-98の販売数そのものは順調に増大していたが、PC/AT互換機の販売はこれを上回る勢いで拡大し、PC-98は次第にシェアを落としていった。これは、パーソナルコンピュータとWindowsの爆発的な普及により、従来とのハードウェア・ソフトウェア互換性を必要とするユーザーが相対的に少数派となったためである<ref group="注">1991年に電通リサーチが行ったアンケート調査によると、パソコンの選択基準で最も重視されたのが「互換性」であった。</ref><ref name="NPC_19920203">{{Cite journal|和書|date=1992-02-03|title=NPCレポート なぜ広がらない98互換機ビジネス 「幻の98互換機」があった|journal=日経パソコン|pages=110-115|publisher=[[日経BP]]}}</ref>。この時点ではPC-98もWindows機であることには変わりなく、実績のあるブランドだったことからそれなりの知名度もあり、トップシェアを争うだけの勢力は維持していた。1997年(平成9年)時点での日本国内シェアは3割とも5割弱とも言われる<ref>SOFTBANK BOOKS、PC-98パワーアップ道場、ISBN 9784797305777 p.248</ref>。しかし、CPU・チップセット・ビデオチップ・拡張バスなど、PCを構成する各種の要素技術が急激に高度化し、それらのほとんどがPC/AT互換アーキテクチャを前提としていたことから、PC-98に採用する上でさまざまな困難に直面することとなった。[[Windows 95]]の移植においては、NECはアメリカのマイクロソフト本社に技術者を約20人常駐させてPC-98版の開発を進めていた<ref>{{Cite journal|和書|last=本間|first=健司|date=1996-02-12|title=NECはWin 95で98らしさをだせたか―ほとんどなくなった98とDOS/Vの違い|journal=日経パソコン|pages=160–164|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。Windows 3.1および95の時代には[[FMRシリーズ]] / [[FM TOWNS]]など他社独自アーキテクチャ機も存在していたのに対し、Windows 98の時代にはPC-98以外はほぼPC/AT互換アーキテクチャに収斂したため、NECにはWindowsや各種ドライバの移植コストが重くのしかかることとなった。このようにして、独自アーキテクチャの維持に次第に限界が見えてきた。
1997年(平成9年)10月、NECはPC/AT互換機といえる<ref group="注">ただしNECは当初そのようには呼んでいなかった。その後、プリンタ等一部NEC製の周辺機器のカタログで「PC-98NXシリーズを含むPC/AT互換機」という表現が見られた。なお、DOS/Vの動作は保証していない(FC98-NXの一部機種でPC DOS 2000の動作を保証しているのみである)。</ref>PC97ハードウェアデザインガイド準拠マシンの[[PC98-NXシリーズ]]を発表し<ref name="news_pc98nx" />、一般市場におけるPC-98は事実上その使命を終えた。
PC-98の最後の機種は、2000年(平成12年)に登場した[[Intel Celeron|Celeron]]ベースのPC-9821Ra43(クロック周波数433MHz、1998年の440FXチップセットベースのマザーボード設計を使用)だった。2003年(平成15年)、NECはPC-98の受注中止を発表した。2004年(平成16年)3月の出荷終了までに1830万台のPC-98が出荷された<ref name="ozawa_2004" />。PC-98をサポートする最後のWindowsは[[Windows 2000]]であった。
=== PC-9800シリーズの終焉 ===
{{Main|PC-9821シリーズ}}
1997年(平成9年)にNECの主力パソコンはPC98-NXシリーズに移ったものの、多くの制御機器等ではPC-98が依然使用されており、これらの資産をPC/AT互換機等に移行するにはユーザー側に莫大な出費(コスト増)を強いるため、CバスやMS-DOSなどの資産を継承する必要に迫られた(建設用の計算ソフトなどでも、開発経費節減のためPC-98と抱き合わせ販売されていた)。このため、その後も一部機種を継続販売していたが、[[2003年]](平成15年)[[9月30日]]をもって受注終了、2010年(平成22年)10月末にサポート終了となった。最終モデルは「PC-9821Ra43」「PC-9821Nr300」。FC-9800シリーズも2004年1月に販売終了、2010年(平成22年)1月に保守が終了した。最終モデルは「FC-9821Ka model 1/2」。
PC-98の受注終了後は、前述の通りサードパーティによるPC-98互換機(ロムウィン社98BASEシリーズ<ref>[https://web.archive.org/web/20051023205725/http://www.rom-win.co.jp/hp2005_3/products/BP98/98Base/98base.htm 98Baseシリーズ(アーカイブ)]</ref>、エルミック・ウェスコム社(後の図研エルミック社)iNHERITORシリーズ<ref>[https://web.archive.org/web/20110809141510/http://www.elwsc.co.jp/japanese/products/inheritor.html iNHERITOR(インヘリター)](2011年8月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>など)の製造・販売が長く続けられたが、後者は2006年(平成18年)末のインテルによる486系プロセッサの製造終了に伴い、2007年(平成19年)9月28日に受注終了、2008年(平成20年)9月30日に出荷を終了した。その後もPC/AT互換機を用いてPCIカードを実装、Cバス拡張BOXを接続してエミュレートする「iNHERITOR II」、PC一体型の互換システム「iNHERITOR II-A」が販売されていたが、2016年(平成28年)7月に生産を終了している<ref>[https://web.archive.org/web/20170706055047/http://www.elwsc.co.jp:80/page.jsp?id=3529 iNHERITOR II、iNHERITOR II-A](2017年7月6日時点のアーカイブ)</ref>。
また、Cバスインタフェースのボードを利用できるコントローラ付き[[バックプレーン]]<ref>[https://web.archive.org/web/20081201053452/http://www.interface.co.jp/fas/explain_hybrid.asp ハイブリッドバスコントローラ](2008年12月1日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])、株式会社インタフェース</ref>や、同コントローラやPC/FC-9801シリーズで稼動するボードコンピュータ<ref>[<!-- http://www.interface.co.jp/classic/classic_prdc.asp?name=AZI-1191 -->https://archive.is/lL45 98ボードコンピュータ(386) AZI-1191](2012年9月4日時点の[[archive.is|アーカイブ]])、株式会社インタフェース</ref>も販売されていた。
[[FreeBSD]]では、2011年(平成23年)2月にリリースされた8.2-RELEASEまでPC-98に対応していたが、9.0-RELEASE以降、PC-98用のFreeBSDはリリースされていない<ref>[https://www.freebsd.org/releases/9.0R/announce.html FreeBSD 9.0-RELEASE Announcement]</ref>。
工場の[[ライン生産方式|生産ライン]]や鉄道などのインフラ管理の分野では、様々な制御対象機器との互換性や枯れた技術の安定性を考えると容易に最新式のコンピューターに入れ替える事は出来ず、前述の事情もあって2020年(令和2年)現在でも現場でPC-98が使用されているケースは多く、[[インターネットオークション|オークションサイト]]には数千件の出品があったり、専門の修理業者が存在するほどである<ref>{{Cite web|和書|title=名機PC-98いまだ現役 在庫1000台専門店に迫る|url=https://www.asahi.com/articles/ASN7F5K3SN7DUEHF118.html|website=朝日新聞|accessdate=2020-07-14|publisher=|date=2020-07-14}}</ref>。
== ハードウェアの特徴 ==
=== バス ===
[[File:PC-9801DX_expansion_slot.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:PC-9801DX_expansion_slot.jpg|サムネイル|拡張スロット(Cバス)]]
[[File:Buffalo_EMJ-4000_EMS_RAM_board.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Buffalo_EMJ-4000_EMS_RAM_board.jpg|サムネイル|Cバス用4MBメモリボード]]
1982年(昭和57年)発売の初代機「PC-9801」はCPUに16ビットのNEC製μPD8086(Intel 8086互換)5MHz、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]コントローラに8259Aのカスケード接続、[[Direct Memory Access|DMA]]コントローラに8237を使用するなど、インテルの8086ファミリ互換チップを採用しているため、構成が[[IBM PC]]と似ている<ref>{{Cite journal ja-jp|author=元麻生春男|year=1998年|title=国産銘機列伝 : 達人コラム「PC-9801はPC/XTだった!?」|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=22|issue=8|page=381|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|ISSN=03865428}}</ref>。ただし、外部[[バス (コンピュータ)|バス]]として8ビット幅の[[XTバス]](XT bus architecture)を搭載したIBM PCと異なり、筐体を開けずに抜き差し出来る16ビット幅の拡張スロット(通称、[[Cバス]])を採用している。幅広く事務用途や工業組込用途に適合するよう、ハードウェア面ではPC-8000/8800シリーズに似たシステム構成を取り、従来のPC-8000/8800シリーズユーザーが移行しやすいよう工夫されている。内部は8086向けにハードウェアを最適化し、[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]向けに性能を特化させた16ビットパソコンである。PC-9801では、μPD8086がマキシマムモードで構成され、バスコントローラとしてμPB8288<ref>{{cite web |url=http://knowing-tech.com/wp-content/uploads/data/5/8288.pdf |accessdate=2023-03-01 |title=μPB8288 CPU SYSTEM BUS CONTROLLER}}</ref>が採用されている{{Sfn|浅野|1983|p=20}}。
同時期に米国で爆発的に普及した<ref>{{cite web|url=http://lowendmac.com/2006/origin-of-the-ibm-pc/|title=Origin of the IBM PC|accessdate=2016-10-31|author=Hormby, Tom|date=2006-08-12|publisher=Low End Mac}}</ref>IBM PCを取り上げると、IBM PCがCPUとして採用した[[Intel 8088|8088]]は内部的には汎用レジスタ長が16ビット、リニアにアクセスできるメモリの最大容量を決定するアドレスバスは20ビット長(=1Mバイト)であるが、供給安定性の観点から8ビットCPU用の周辺チップがそのまま利用できるように、外部バス幅は8ビットとなっている<ref name="tomita_1995" />。対して、PC-9801は当初から8088の上位機種である8086をCPUとして採用、外部バス幅は16ビットとなっており、バスクロックは10MHz、最大転送速度は毎秒1MBでIBM PC(モデル5150)よりも大幅に高速な転送能力を備えている点が優れていた<ref>『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説』pp. 10–16、「PC-9801の誕生で私たちが関わったこと : 古川 享」</ref>。これはグラフィックの性能を左右すると考えられ、IBMマルチステーション5550ではCPUに8088ではなく8086が採用された<ref>{{Cite book|和書|title=日本IBMのパソコン新戦略|date=1991-12-18|publisher=[[日本工業新聞社]]|isbn=4-8191-0856-5|pages=95-111|last=戸塚|first=正康}}</ref>。
なお、PC-98では、その後の機能拡張でも互換性維持を大前提としてメモリやI/Oへアドレスを割り付けていった。その結果、VRAMのように割り当てられたアドレスが不連続になるものがあったほか、初代機からの部品数削減の名残で一部のI/Oアドレスが一見無意味にデコードされていない、またユーザー用に予約されている箇所が極端に少ない、という状態になってしまった{{要出典|date=2021年3月}}。
ノーマルモードではPC/AT互換機同様、CPUの持つメモリ空間1Mバイトのうち、VRAMやBIOS ROM等の予約領域を除くと、ユーザーが利用可能なメイン・メモリ空間は最大でも640Kバイトで区切られてしまうメモリマップとなっている。この時代にはそれが問題となることはなかったが、ソフトウェアが肥大化したMS-DOSの全盛期には、[[日本語入力システム]]などの[[デバイスドライバ]]を常駐させた後の少ないフリーエリアのやりくり、特に起動時に500Kバイトから600Kバイト程度のフリーエリアを必要とするアプリケーションのための領域確保に[[Expanded Memory Specification|EMS]]や[[Expanded Memory Specification|XMS]]といった知識が必要になり、ユーザーは苦労することになった。ハイレゾモードではVRAMの割り当て方法がこれと異なり、最大768Kバイトのメイン・メモリ空間を確保できる。
PC-98XA以降ではサポートされる物理アドレスが従来の20ビットから24ビットに拡張された80286の搭載に伴い、4ビット分のアドレス線を未定義の信号線に割り当ててCバスを24ビットアドレス対応に拡張する仕様変更が行われている。なお、この機能についても従来の拡張ボードとの互換性維持に対する配慮が行われており、ボード挿入時に拡張ボード右奥に搭載されたバーが本体側スロット右上に追加搭載されたスイッチを押し下げ、本体に24ビットアドレス対応であることを通知した場合にのみ有効となる<ref>『改訂版 PC-9800シリーズ テクニカルデータブック HARDWARE編』pp. 273-342、「第3部 外部インターフェイス仕様 第1章 拡張用スロットバス」</ref>。
1990年(平成2年)に発売されたHyper98([[PC-H98シリーズ]])は32ビット外部バスの[[New Extend Standard Architecture]](NESA)を搭載。1993年(平成5年)発売の98MATEは[[VESA ローカルバス]](VLバス)のようにCPUのメモリバスに直結した独自仕様の「32ビットローカルバス」を搭載する<ref name="OhPC_19932">{{Cite journal|和書|date=1993-09-15|title=特別企画 : 98とともに歩く、これからの10年|journal=[[Oh!PC]]|volume=12|issue=8|pages=64–164|publisher=[[ソフトバンク]]|issn=0910-7606}}</ref>。これは短期間のうちに[[Peripheral Component Interconnect]](PCI)に置き換えられ、以後はPCIスロットと16ビット幅の拡張スロットが共存することになった。
=== グラフィック ===
[[ファイル:UPD7220A on PC-9801F.jpg|サムネイル|PC-9801F上の[[μPD7220]]]]
[[File:N88-BASIC(86)_color_text_with_graphics.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:N88-BASIC(86)_color_text_with_graphics.png|サムネイル|8色テキストと16色グラフィックを重ねて表示した例(VMモデル以降の4096色中16色表示を使用)]]
PC-98は日本語の文字を高速に表示するために[[漢字ROM]]とテキスト[[VRAM]]を搭載している(ただし初代機とPC-9801Eでは漢字ROMは別売)。また、当時の水準としては高精細かつ高速なグラフィック処理のために、自社製の汎用グラフィックコントローラGDC(Graphic Display Controller [[μPD7220]])を2個、テキスト用(マスタ動作・CRT同期信号を生成)とグラフィック用(スレーブ動作)にそれぞれ使用する<ref name="loadtest_9801">『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説』pp. 169-173、「復刊 - 月刊アスキー1983年4月号 LOAD TEST PC-9801」</ref>。テキスト[[VRAM]]とは別にグラフィックVRAMも備えており、グラフィック画面の解像度は640ドット×400ドット8色(RGBを各1ビットで表現して組み合わせた8色固定パレット、デジタルRGBと呼ばれた)を始めとするPC-8800シリーズ上位互換の画面モードとすることで、BASICレベルで互換性を確保している。テキストVRAMに文字コードを書き込むだけで画面上に文字を表示でき、またグラフィックVRAMの画面と切り替えたり重ねたりすることができる。また、テキスト用GDCに付随してテキスト表示の滑らかなスクロールを実現する回路を搭載し、テキスト画面・グラフィック画面ともに、ハードウェアによる1ライン単位の縦スクロールおよび16ドット単位の横スクロールを可能にしている<ref name="loadtest_9801" />。
2つのVRAM(テキスト画面とグラフィック画面)を使い分けることで、ワープロやエディタなど文字系のソフトウェアを使う場合は、他の機種よりも有利だった。{{要追加記述範囲|初期のワープロソフトでは|date=2016年10月}}、高速に表示できるテキスト画面で文章を入力し、精巧に表示できるグラフィック画面で印刷イメージを確認するものがほとんどだった。テキスト画面にはPC-8000シリーズと同様のキャラクタグラフィックモードも実装され、PC-8000シリーズ/PC-8800シリーズと部分的ながら互換性を保つよう考慮されている<ref name="Kodaka_1998">{{Cite journal ja-jp|author=小高輝真|year=1998年|title=国産銘機列伝 : 達人インタビュー「情報公開が98をあそこまで持ち上げた」|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=22|issue=7|page=403|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|ISSN=0386-5428}}</ref>。しかし、後年にWindowsが登場した際に、テキストVRAMは複数のMS-DOSアプリケーションを同一のグラフィック画面上に表示することを難しくした<ref>{{Cite book|和書|title=日本IBMのパソコン新戦略|date=1991-12-18|publisher=[[日本工業新聞社]]|pages=71-72|last=戸塚|first=正康|isbn=4-8191-0856-5|chapter=扉と窓の違い}}</ref>。
GDCは直線・円弧などグラフィック図形の描画機能、縦横方向へのスクロール機能を持つ。GDCの機能は直線の描画には使用されたが、円弧の描画には使用されていなかった<ref>{{Cite book ja-jp|title=PC-9801・E/F/Mグラフィクス解析マニュアル|year=1984年|publisher=秀和システムトレーディング株式会社|page=207|chapter=第5章 応用プログラム集}}</ref>。μPD7220にはVRAMをCPUのメモリアドレス空間から分離して配置するための機能が用意されているが、PC-98ではCPUのメモリアドレス上にVRAMが配置され、CPUからもVRAMに直接アクセスできるようになっている。これにより、VRAM上でのグラフィック図形の移動はGDCを使うよりもCPUでブロック転送を行った方が高速に処理することができる<ref name="loadtest_9801" />。
PC-9801Fでは初代PC-9801の2倍のグラフィックVRAMを搭載し、640×400ドット8色表示において、画面をちらつかせることなくグラフィックを描画するダブルバッファリングを可能にしている。
PC-98XAは、ワープロやCADを快適に使いたいという需要に応えるべく、表示解像度1120×750ドット、16色、24ドットフォントによる高精細表示を可能にしている。この際、VRAMのアドレスやBIOSなどアーキテクチャが変わったため、従来のソフトウェアがそのままでは動かなかった。後継のPC-98XLでは、PC-98XAと互換性があるアーキテクチャをハイレゾモード、本流のPC-9801シリーズと互換性があるアーキテクチャをノーマルモードとして、2つのアーキテクチャをスイッチで切り替えることができる。この系統は32ビット拡張バス (NESAバス) を搭載したHyper98(PC-H98シリーズ)へ引き継がれたが、1993年の98MATEとウィンドウアクセラレータボードの登場でその優位性は薄れた<ref name="OhPC_19933">{{Cite journal|和書|date=1993-09-15|title=特別企画 : 98とともに歩く、これからの10年|journal=[[Oh!PC]]|volume=12|issue=8|pages=64–164|publisher=[[ソフトバンク]]|issn=0910-7606}}</ref>。
PC-9801VMではグラフィック機能が大きく強化され、従来機でのデジタルRGB出力による8色表示から、アナログRGB出力による4096色中16色同時発色表示に改良されている(一部モデルではオプション)。この表現力を生かすため、VRAM各プレーン同時書き込み制御に対応したグラフィック処理プロセッサGRCG(Graphic Charger)が追加されている<ref name="techbook_crt">『改訂版 PC-9800シリーズ テクニカルデータブック HARDWARE編』pp. 157-202、「第2部 ハードウェア 第7章 CRTディスプレイ」</ref>。
PC-9801VXは新たにGRCG上位互換のEGC(Enhanced Graphic Charger)と呼ばれる、VRAM各プレーン同時制御を読み出しにも対応させて高速化を実現した新グラフィック処理プロセッサを搭載している<ref name="techbook_crt" />。また、グラフィック用VRAMには[[デュアルポートRAM]]を採用し、CPUからの書き込みと[[CRTC (LSI)|CRTC]]からの読み込みが同時にできるようになったため、VRAMへのアクセス速度が向上している<ref name="ascii_9801vx">{{Cite journal|和書|year=1986|title=新機種緊急レポート : PC-9801VX|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=10|issue=12|pages=130–133|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。
当時のソフトウェアは性能を引き出すためにハードウェアに依存して設計されており、特にグラフィックの仕様を維持することは互換性を維持する上で絶対であった<ref name="ozawa_2004">『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説』pp. 114-120、「PC-9800シリーズの生みの親が語る「日本標準機」の誕生秘話 : NEC 小澤昇インタビュー」</ref>。PC-98の本流ではPC-9801VM以来、既存ソフトウェアの互換性と資産継承を優先したためグラフィックの仕様は固定されていたが、1992年(平成4年)発売のPC-9821ではVGA解像度に相当する独自仕様の640×480ドット256色表示グラフィックモードが追加された。また、1993年(平成5年)からはWindowsや[[OS/2]]での利用に最適化された汎用のグラフィックチップ及びその機能が「ウィンドウアクセラレータ」と称して、オンボードだけでなく拡張ボードとしても提供された<ref name="news_pc98nx" />。
=== 補助記憶装置 ===
PC-98のフロッピーディスクは、PC-8800シリーズから継承した5インチ2D(両面倍密度)のインテリジェントタイプのものを除き、内蔵DMAコントローラを使用することで、CPUの動作と並列してファイル操作が出来た。
PC-9801VMでFDDまわりの仕様がほぼ確立し、従来の1MB<ref group="注">ここで言う1MBとは、5インチや3.5インチFDにおける2HDを指す。これらは約1.2MBほどのフォーマット容量を持つが、これをNECは1MBと表現していた。</ref> FDDインターフェースをベースにした2HD/2DD自動切替ドライブが以降の機種に標準搭載されるようになる。このときPC-98では8インチ2Dとのフォーマットの互換性が維持され、3.5インチでも1.25MB (1232KiB) のフォーマットが標準となった。このためPC-98では後年の機種で3モードFDDに対応するまでの間、すなわち日本国内シェアを独占した全盛期の機種の多くが、世界標準である1.44MBフォーマットの3.5インチFDを読み書きできないという互換性の問題を生じることになった。詳しくは[[フロッピーディスク]]の項目を参照。
PC-98のソフトウェアは容量の都合上プログラムディスクとデータディスクの2枚に分けた上で運用される場合が多く、また、日本語の業務アプリケーションを実用的なレベルで動かすには1.25MBの容量が必要であった。例えば、一太郎のプログラムディスクはMS-DOSの実行環境とメインプログラム、日本語入力システム (ATOK) とその辞書ファイルがちょうど1.25MBのフロッピーディスクに収まった<ref name="ichitaro_hist">『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説』pp. 87–92、「「一太郎」が知っているPC-9801シリーズの軌跡」</ref>。1980年代の時点でパソコンにとってHDDは高価なオプション機能であり、多くのマシンは2台のFDDのみ搭載していた。
「98FELLOW」「98MATE」シリーズから、内蔵3.5インチFDDは{{Refnest|group="注"|MATE Aシリーズの場合は5インチFDD内蔵モデルであっても、ファイルスロットに3.5インチ3モードFDDを内蔵することで、1.44MBのFDを読み書きできる<ref name="softbank-p35">SOFT BANK BOOKS PC-98パワーアップ道場 (1998)、pp35-36。</ref>。}}、従来のPC-98のフォーマットに加え、PC/AT互換機で使われている1.44MBフォーマットにも対応するようになった。それ以前の機種や外付けFDDの場合、DOS上であれば1.44MBに対応させた外付けFDD製品も存在するが、この場合は独自のDOSドライバを使う方式のため、Windows 95等では1.44MBに対応しないという問題があった<ref name="softbank-p35" />。DOSとWindowsの両方に対応した方法としては、SCSI接続の[[スーパーディスク]]ドライブを使う方法がある<ref>SOFT BANK BOOKS PC-98パワーアップ道場 (1998)、p106</ref>。
[[ハードディスクドライブ]] (HDD) 用インターフェイスには当初、SASIまたは[[ST-506]]を使用しており、拡張ボードではPC-9801-27として提供された。1987年(昭和62年)にCD-ROMドライブのみをサポートする[[Small Computer System Interface|SCSI]]インターフェイスボードが発売され、1988年(昭和63年)にはNEC製SCSI HDDに対応したPC-9801-55 SCSIインターフェイスボード(通称、55ボード)が発売され、その後の一部の機種ではこのボードに相当するSCSIインターフェイスが内蔵された。55ボードやサードパーティーが発売したSCSIインターフェイスボードは、それぞれ自社が販売するHDDしかサポートしなかったことに加え、品質の悪いケーブルが出回っていたため、相性問題を引き起こしてユーザーを混乱させた。この問題はPC-9801-92 SCSIインタフェースボード(1993年(平成5年)7月出荷)が登場する頃になってようやく終息する目処が立った<ref name="NikkeiByte_SCSI" />。
[[Advanced Technology Attachment|IDE]]は98NOTEでは早期から内部的に使われていたが、デスクトップ型では98MATEから使われている<ref name="news_pc98nx" />。IDEはBIOSレベルではSASIと同等のものとして動作するため、IDEが使われる前に発売されたオペレーティングシステムでもSASIと同様に扱うことができる<ref name="OhPC_19934">{{Cite journal|和書|date=1993-09-15|title=特別企画 : 98とともに歩く、これからの10年|journal=[[Oh!PC]]|volume=12|issue=8|pages=64–164|publisher=[[ソフトバンク]]|issn=0910-7606}}</ref>。
=== キーボード ===
[[File:NEC_PC-9800_series_keyboard.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:NEC_PC-9800_series_keyboard.jpg|サムネイル|PC-98の典型的なキー配列]]
PC-9801のキー配列はPC-8801を基本としつつ、PC-8801では[[シフトキー]]と5個の[[ファンクションキー]]の組み合わせで10個の機能を呼び出していたところを、PC-9801では初めから10個のファンクションキーを配置している。また、[[言語入力キー|漢字変換]]用に「XFER」キーが新設され、カーソルキーは移動方向に対応した配置になった<ref name="loadtest_9801" />。内部的にはμPD8048([[Intel 8048]]相当)などのマイコンを内蔵したシリアル接続タイプで<ref>『改訂版 PC-9800シリーズ テクニカルデータブック HARDWARE編』pp. 139-155、「第2部 ハードウェア 第6章 キーボード」</ref>、ハードウェア的には直接読み取ることはできないが、BASICプログラムの移植性を考慮して、BASIC上からはPC-8800シリーズと同様にI/O命令でキースキャンコードを読み出せるよう部分的にエミュレーションされている<ref>{{Cite book ja-jp|title=N88-日本語BASIC(86)(Ver6.2) ユーザーズマニュアル N:PC-9801-BU06|year=1991年|publisher=日本電気|pages=347-348|chapter=付録D キーセンス}}</ref>。
PC-9801Fではキーボードの接続コードと端子が細くなった一方、本体側の端子は背面へ移動したためコードが長くなった。また、ステップスカルプチャ構造となり、使用感が改善された<ref name="loadtest_9801f" />。
PC-98XAではvf・1からvf・5まで5個の機能キーを追加し、Homeキーが4つのカーソルキーの中央に移動した<ref name="ascii_9801u">{{Cite journal|和書|year=1985|title=使用レポート : PC-98XA&PC-9801U2|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=9|issue=7|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。
PC-9801RAからは新たに開発されたキーボード内部制御用のASICが搭載され<ref>『日本電気株式会社百年史』 p.777</ref>、同時に発表されたOS/2のタスク切り替えに対応するため、[[CapsLockキー|CapsLock]]およびカナロックがソフトウェアによるロックになった。オルタネイト式スイッチによる機械的なロックは廃止され、キーボード上のLEDにロック状態が表示されるようになった<ref name="ascii_9801u" />。
98MATEや98FELLOWでは製造コスト削減により、キーボードはそれまでのメカニカルスイッチからメンブレンスイッチの安価な物(下記PC-9801-106相当)に変更され、キータッチは反発感のある物になった<ref name="ascii_199304">{{Cite journal|和書|year=1993|title=新製品テスト|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=17|issue=4|pages=218–248|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。さらにWindows 95が開発されて以降は、Windowsキーとアプリケーションキーが追加された(下記PC-9801-119相当)。
98MATEや98FELLOWが発売された頃から、別売りの純正キーボードとして、本体付属のものとの同等品2種に加え、PC/AT互換機と同配列の106キーボードや、特定のNEC製ソフトウェアに対応した専用キーボードも発売されていた。
*PC-9801-98: 楽々キーボード(矢印キーが中央にあるなど、通常と異なるキー配置)
*PC-9801-106: 98標準キーボード(Windowsキー、アプリケーションキーなし)
*PC-9801-114: PC-PTOSキーボード([[N5200]]シリーズ準拠。PC-PTOSインストールモデルと同等)
*PC-9801-115: [[文豪]]DPキーボード(文豪DP-OFFICEインストールモデルと同等)
*PC-9801-116: 106キーボード(PC/AT互換機準拠、アプリケーションキーなし)
*PC-9801-119: 98標準キーボード(95)(Windowsキー、アプリケーションキーあり)
=== サウンド ===
[[File:NEC_PC-9801-26K_sound_board.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:NEC_PC-9801-26K_sound_board.jpg|サムネイル|PC-9801-26K サウンドボード]]
初期のPC-9801は音程固定のブザーのみを内蔵していた。PC-9801U2以降はIBM PCのように{{仮リンク|Intel 8253|en|Intel 8253|label=8253 プログラマブルインターバルタイマ}}を制御することで[[ビープ音]]の音程を変えられるようになった。また、オプションでPC-8801mkIISR相当のサウンド機能([[ヤマハ]]製[[FM音源]]チップの[[YM2203|OPN]]、2個の[[アタリ仕様ジョイスティック]]ポート、N88-BASIC(86)にサウンド命令を追加するBIOS ROM)を搭載した拡張ボードPC-9801-26 サウンドボードなどが発売された。PC-9801型番の3.5インチFDD搭載モデルは、多くのモデルでは家庭用を意識して<ref>{{Cite book|和書|last=関口|first=和一|title=パソコン革命の旗手たち|year=2000|publisher=日本経済新聞社|ISBN=4-532-16331-5|pages=169-173|chapter=6. 小さな頭脳 : 3.5インチフロッピーディスク}}</ref>、5インチモデルよりも小型の筐体で、標準でPC-9801-26K相当のモノラルFM音源を搭載した。このサウンド機能はPC-98対応ゲームソフトをプレイする上で、BGMや効果音を鳴らすために必須であった<ref name="ascii_2007_soundcards">『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説 第2弾』pp. 166–167、「PC-9801めくるめく音源ボードの世界」</ref>。
このサウンド機能は1992年(平成4年)発売のPC-9821と1993年(平成5年)発売の98MATEで大幅に強化され、OPN上位互換の[[YM2608|OPNA]]とCD音質のステレオPCM音源が内蔵された。このサウンド機能は98FELLOWや従来機ユーザー向けにPC-9801-86 サウンドボードとして発売され、PC-9801-26Kの上位互換として多くのゲームソフトが対応した<ref name="ascii_2007_soundcards" />。
PC-8800シリーズ互換のPC-98DO+はPC-8801MAと同等のOPNAを標準搭載し、またOPNAのADPCM用のメモリも搭載している。PC-98GSやPC-9801-73/86/118音源ボード、またそれら相当の音源内蔵機では、OPNA用ADPCMのメモリを搭載せず、OPNAとは別に搭載されたPCM音源を代わりに使用する仕様になっている。それ以外の機種でOPNAのADPCMを使う場合は、サードパーティーのメーカーが発売したOPNA音源ボードのスピークボード(または互換品)を搭載するか、または本体や音源ボードに搭載されるOPNAにメモリを増設・接続する改造をしなければならない。
== ソフトウェア資産 ==
[[ファイル:Ichitaro 3.jpg|サムネイル|[[一太郎]] Ver.3(1987年(昭和62年))
]]
PC-98はNEC自社開発の[[N88-BASIC|N88-BASIC(86)]]を読み出し専用のROMに記録した状態で搭載し、同社の8ビットパソコン、PC-8800シリーズと言語レベルで高い互換性を持つ。また、当時としては強力な日本語処理機能を持ち、さらにNEC自身が積極的にソフトウェア開発の支援を行なったため、多数のPC-98専用アプリケーションが登場した<ref name="Kodaka_1998" />。1992年(平成4年)9月の時点で、PC-98に対応する約16,000本のソフトウェアのうち、60%がCADを含む業務用アプリケーション、10%がオペレーティングシステムや開発ツール、10%が教育用ソフトウェア、残りの10%はグラフィック、ネットワーク、ワープロ、ゲームを含むその他で構成されていた<ref name="nikkeipc_19930621" />。
1985年(昭和60年)から発売されている[[一太郎]]はPC-98の[[キラーソフト]]と見なされ、1991年(平成3年)までにシリーズ累計100万本が販売された<ref name="ichitaro_hist" /><ref>{{Cite journal|和書|year=1992|title=一太郎累計出荷本数|journal=マイコン|volume=16|issue=2|pages=159|publisher=電波新聞社|issn=0387-9593}}</ref>。また、1986年(昭和61年)に[[Lotus 1-2-3]]の日本語版がPC-98へ最初に移植され<ref name="lotus_123r2j" />、1991年(平成3年)までに累計50万本が販売された<ref>{{Cite news|title=ロータス、「1-2-3」強化版を発売。|date=1991-07-06|work=[[日経産業新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|page=5}}</ref>。
[[ファイル:NEC MS-DOS 3.3C.jpg|サムネイル|[[MS-DOS]] 3.3C(1990年(平成3年))]]
また、非常に多彩なバージョンのOSが移植されていた。詳細は以下のとおり。
* NEC自身により、[[MS-DOS]]、[[CP/M-86]]、[[OS/2|OS/2 1.x/2.11/Warp V3/Warp Connect/Warp 4]]、[[Microsoft Windows 1.0|Windows 1.x]]/[[Microsoft Windows 2.0|2.x]]/[[Microsoft Windows 3.x|3.x]]、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]/[[Microsoft Windows 98|98/98SE]]、[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]/[[Microsoft Windows 2000|2000]]、[[XENIX|PC-UX]]
* サードパーティーにより、[[UNIX System V|UNIX SVR4]]
* ユーザーコミュニティにより、[[386BSD]]、[[FreeBSD]]、[[NetBSD]]、[[Linux]]、[[FreeDOS]]がそれぞれ移植された。
ホビーユースにおいても多数のゲームソフトが発売され、日本独自の[[パソコンゲーム]]文化の形成に大きく影響した。
これらの圧倒的なソフトウェア資産を背景に、日本国内市場においては、一時期はほぼ寡占状態に近く使われていた。
N88-BASIC、MS-DOSなどには、NEC純正の日本語入力システムが付属していた。時代が下るにつれて[[かな漢字変換]]能力が向上し、それにつれて名称がNECDIC(単文節変換)、NECREN(連文節変換)、NECAI(AI変換)などと変わっていった。
また、サードパーティーの日本語入力システムも、主にワープロソフトに付属する形で普及した。代表的なものに[[ATOK]]、[[VJE|VJE-β]]、[[松 (ワープロ)|松茸]]、[[WX シリーズ|WXシリーズ]]などがある。その日本語入力システム固有の操作性に慣れ親しんだ結果、バージョンアップした上で使い続ける固定客も生み出した。
=== ソフトウェアエミュレータ ===
PC-98のソフトウェア[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]が各種存在し、一部企業から提供されていた時期もあるが、現在は主に私的プロジェクトにより展開されている。高度な再現には、条件よって利用者自らが所有権を持つ実機から取得したBIOSが必要となることがある。以下に、ソフトウェアと動作環境・代表的な事例を示す。
* Neko Project II(np2) - Windows(x86,x64),[[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]],[[Macintosh]]([[PowerPC]],[[Intel Mac]])
* DOSBox-X
* PC-9801エミュレータソフトウェア - 1987年発売・[[シャープ]]「[[MZ-2861]]」添付ソフトウェア
* T98-NEXT - Windows(x86) - 開発停止
* PC98E - [[DOS/V]]- 開発停止
* エプソンプラットフォーム・エミュレータ 98/V - DOS/V
** [[EPSON PCシリーズ]](PC-98互換機)を発売していた[[セイコーエプソン]]が[[PC/AT互換機]]に参入する際、PC-98のソフト資産をPC/AT互換機で活用するためのサポートソフトとして1995年(平成7年)に発売したソフトウェアである。ソフト単体で9,800円、エミュレートの際に画像処理を高速に行うための「98/Vアクセラレータ」を29,800円で発売していた<ref>[http://www.computernews.com/scripts/bcn/vb_Bridge3.dll?VBPROG=ShowWeeklyArticle&NON=1&ImgTag=&Title=%83%5A%83%43%83%52%81%5B%83%47%83%76%83%5C%83%93%81%40%39%38%2F%56%83%4C%83%62%83%67%94%AD%94%84&File=F:%5Cinetpub%5Cwwwroot%5Cbcn%5CWeekly%5CBCNarchive1%5C19950116011228132258.htm セイコーエプソン98/Vキット発売]{{リンク切れ|date=2013年4月17日}}、BCN This Week 1995年1月16日 vol.581</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20000115124445/http://www.epson.co.jp/epson/news/1996/0521_2.htm DOS/Vパソコン上で98用DOSアプリケーションソフトの動作を可能にするプラットフォーム・エミュレータ「98/V」Windows95に対応した新バージョン(Ver2.10)を新発売]、EPSON公式サイト、1996年5月21日(2000年1月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
* Virtual98 - Windows(x86)- 開発停止
** PC/AT、PC-9801デュアル互換機・[[TOMCAT PC-3/X]]を発売していたトムキャットコンピュータも1991年(平成3年)に仮想98システム「Virtual-98」というエミュレータを開発・販売した<ref>[http://www.tomcat.jp/profile.htm トムキャットコンピュータ 会社案内]</ref>。
NECのPC-98でなく、互換機であるEPSON PCシリーズを再現するエミュレータもあり、事実上、PC-98のエミュレータとして使用されている。
* ANEX86 -Windows(x86)- 開発停止
** [[シェアウェア]]のANEX86は、EPSONのPC-286のエミュレータである。
本流のPC-98とは異なるアーキテクチャを持つPC-98DO/XA/XL/RL/LT/HAを再現するエミュレータもある。
* ePC-98DO, ePC-98XA/XL/RL, ePC-98LT, eHANDY98 - Windows(x86)
== 98互換機の登場 ==
{{see|EPSON PCシリーズ}}
前述のように、PC-98のソフトウェア資産は圧倒的であり、NEC自身が投入したものも含め、別アーキテクチャのコンピュータは苦戦を強いられた。
[[セイコーエプソン]]は98互換機である「[[EPSON PCシリーズ]]」を開発。その後、NECは自社開発の[[DISK-BASIC]]やMS-DOSに自社製ハードウェアであるか確認する処理を付け加えるなどした(通称:EPSONチェック)が、セイコーエプソンではそれを解除するパッチ(SIP)を供給{{Refnest|group="注"|一般的にソフトウェアの改竄が違法行為とされるのは、あくまで複製を行う場合の話である。SIPは既にインストール済みのプログラム(運用ディスクやHDD)を書き換えるものであって、複製を行うものではないため、著作権上は問題が無いと考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mc-law.jp/kigyohomu/19023/|title=【模倣の善/悪|自由市場の競争|PC-9800vsEPSON互換機・SOTECvsiMac】|publisher=みずほ中央法律事務所|date=2014-12-30|accessdate=2021-03-03}}</ref>。}}し、サードパーティー機器の互換性検証を行い情報提供したり、PC-98より高性能低価格の機種をラインナップするなどの展開を行い、ユーザーの支持を集め[[市場占有率|シェア]]を伸ばしていった<ref name="kimura"/>。
エプソン以外にも、[[トムキャットコンピュータ]]と[[プロサイド]]が[[TOMCAT PC-3/X|PC/ATとPC-9800のデュアル互換機]]を販売したり、[[シャープ]]の[[MZ-2861]]がソフトウェアエミュレーションによりPC-9800シリーズ用のソフトを動作させるなどの試みもあったが、定着には至らなかった。日経パソコン誌はその原因として、「互換機」というイメージの悪さではなく、ターゲットを明確にして魅力ある製品を企画できなかったことと、販売力が弱かったことを指摘した<ref name="NPC_19920203" />。
産業用コンピュータとしては組み込み用を中心とする機種が存在し、ワコム(現ロムウィン)社98BASEシリーズやエルミック・ウェスコム社iNHERITORシリーズなどが発売された。これらはNECによるPC-9821シリーズやFC-9800/9821シリーズを含むPC-9800シリーズ全体の打ち切り後も生産が続けられたため、既存ハード・ソフトウェア資産の継承が必要な工場・[[信号保安|鉄道用信号機器]]向けなどを中心に一定の生産実績を残している{{要出典|date=2021年2月}}。
PC-9801互換のボード・コンピュータとして、ワコムエンジニアリングから BP486L が発売されていた。CPUは486 DX2 40MHz, SX2 40MHz, SX 20MHz の3種類、メモリは1M/4M/8M、MS-DOS はROM で搭載された{{Sfn |インターフェース1月 |1995 |p=231}}。また、BP386Lは386SX 20MHzを採用し、搭載メモリ1MBであった{{Sfn |インターフェース1月 |1995 |p=42}}。
== サードパーティー機器 ==
前項の如く、互換機の販売には否定的であったNECであるが、周辺機器や拡張カード、特に純正品互換周辺機器の開発、販売には協力的で、非常に多くの製品が多くのメーカーから販売されていた。
=== 55ボード問題 ===
[[ファイル:NEC PC-9801-55U SCSI Board.jpg|サムネイル|PC-9801-55U [[Small Computer System Interface|SCSI]]インタフェースボード]]
1988年(昭和63年)にNECが発売したPC-9801-55(無印)/L/U SCSIインタフェースボード(その相当品を内蔵する機種を含む、以下55ボード)は、最大40MBのHDDを2台までしかサポートしなかったPC-9801-27 SASIインタフェースボードに代わる、大容量HDDへの対応を視野に入れたものであった。しかし、[[米国国家規格協会]] (ANSI:American National Standards Institute) が策定した初期の[[Small Computer System Interface|SCSI]]規格には曖昧な点が多く、メーカーで自由に使えるコマンドやパラメータが存在したため、同じSCSI準拠の機器でもメーカーが異なると互換性を保証できない状況にあった。ANSIはコマンド仕様の共通化を図って共通コマンドセット (CCS) を提唱していたが、55ボード登場時点ではSCSIとCCSを統合したSCSI-2の策定を進めている最中にあった。また、55ボードやPC-98の[[パーティション]]管理が特殊な仕様を抱えており、サードパーティーメーカー各社の対応が分かれたため、SCSIボードと異なるメーカーのHDDを接続した場合に容量を誤認したり、容量が正しくてもフォーマットに互換性が無くデータを読めない・起動できないなどの不具合が生じた。このため、当時のPC-98においてSCSI HDDはSCSIボードと同じメーカーから購入することが通例となっていた<ref name="NikkeiByte_SCSI">{{Cite journal|和書|journal=日経バイト|year=1993|publisher=[[日経BP]]|last=松原|first=敦|pages=104-129|issn=0289-6508|volume=118|title=特集 SCSI、IDEのディスク増設再点検:第1部 SCSI 98用HDも領域の再確保で別ベンダのボードにつながる}}</ref>。
PC-98はC(シリンダ数)/ H(ヘッド数)/ S(トラックあたりのセクタ数)といったパラメータでHDDを管理している。55ボードはSCSI規格のMode SenseコマンドでHDDからパラメータを取得しているが、NEC純正オプションの増設用HDDに使われた当時のNEC製HDDは、代替セクタを含まないセクタ数(有効セクタ数)を返すようになっているのに対し、CCSでは代替セクタを含む値を返すよう具体的な仕様が策定され、他社製HDDはこれに追従している。この違いから、SCSIボードやHDDの組み合わせによっては容量を誤認することがある。後にサードパーティーから発売されたSCSIボードでは、Read CapacityコマンドとMode Senseコマンドで得られた値から有効セクタ数を算出することで、どちらのHDDでも55ボードと同じパラメータになるよう互換性を保っている<ref name="NikkeiByte_SCSI" />。
55ボードは接続されているHDDが自社製のものであるか否かを判定するため、SCSIベンダIDの先頭3文字の「NEC」という文字列を参照するチェックを行い、該当しないHDDが接続されていた場合は別の処理を行う、特に、ハングアップして起動しないという動作を主に指す。後者の対策のため、NECはサードパーティーがNECのベンダ名を返してもよいことを公式に認めていた<ref name="softbank-55" />。サードパーティーメーカー各社はこのチェックを回避するため、自社製のより高性能、高機能なSCSIボードとHDDをセットで販売するか、あるいはSCSIベンダIDを「NECITSU」などに変更して販売していた。NECチェックの存在は先述の非互換性による不具合を防止するためと考えられているが、一部からはNEC製品を独占的に販売するためではないかという厳しい声も聞かれた<ref name="softbank-55">SOFT BANK BOOKS PC-98パワーアップ道場 (1998)、pp103-104。</ref>。
パーティション管理の方法が互換性問題をさらに複雑にした。PC-98はHDDのパーティションをシリンダ単位で1MBずつ区切る。1MBの区切りがシリンダの途中になった場合、そのシリンダの残りの部分は使わず、次のシリンダを起点に1MBを区切る。そのため、シリンダの大きさによっては1MBの区切り毎に未使用領域が存在することになり、HDDのパラメータによっては総容量の20%程度が無駄になる場合がある。サードパーティー製のSCSIボードには、ヘッド数やトラックあたりセクタ数を最適な値に変換してパラメータを返すことで、無駄になる容量を減らす工夫をしたものが登場した。しかし、この変換に用いる値がメーカーやボード毎に違うので、あるSCSIボードでフォーマットしたHDDは他のSCSIボードでは読めず、再フォーマットしないと使用できない場合がある<ref name="NikkeiByte_SCSI" />。
後年になってC/H/S(または最大容量)のパラメータを手動入力もしくは既存のフォーマット状態からそれらを自動認識できる「マルチベンダ」と呼ばれる方式のSCSIボードがサードパーティーの主流となったことで互換性が取れるようになっていった<ref>加藤泰志 「日本電気のSCSIボード」『[[トランジスタ技術]]』通巻373(1995年10月号)、p283。</ref>。 NEC自身もサードパーティーの動向を調査した上で、1993年に55ボードの後継となるPC-9801-92 SCSIインタフェースボードを発売した。これは、NECチェックに該当するHDDは55ボード互換で動作し、該当しないHDDはパラメータを最適化(ヘッド数8、トラックあたりセクタ数32)して返すようになっている。ボード間でパラメータが違うことによるフォーマットの非互換性は解消していないが、NECがこの方式でパラメータを定めたことによりサードパーティーにパラメータの統一と互換性問題解消への指針を示した形になった<ref name="NikkeiByte_SCSI" />。
=== モデムとの通信速度 ===
{{出典の明記| date = 2016年10月| section = 1}}
PC-9800シリーズのCPUの[[クロック]]周波数は、機種によって5/10MHz系のもの(5MHz、10MHzなど<ref group="注">12MHzや、20MHz(一部の機種を除く)、それ以上の機種ではCPUクロックがシステムクロックと分離しており(したがってクロックアップ改造の敷居が低いことでも知られる)、それらの機種のシステムクロックは5/10MHz系になっている。</ref>)と8MHz系のもの(8MHz、16MHz)が存在し、この系統によって[[RS-232|RS-232C]]の通信速度の設定が異なっていた。どちらでも仕様上サポートされているのは9600bpsまでであり、これを超える速度を設定しようとすると、5/10MHz系では19200bps、38400bpsという一般的な速度になるのに対して、8MHz系では20800bps、41600bpsという半端な速度になってしまっていた<ref group="注">ただし、キーボードに関しては5/10MHz系も8MHz系も共通して19200bpsであり、どちらか一方のみに対応するキーボードは存在しない。</ref>。
[[モデム]]が高速化して、パソコンとの間の通信速度が9600bps以上になると、5/10MHz系の機種では問題なく通信速度の設定ができるのに対して、8MHz系の機種ではモデムが対応している一般的な速度に設定できないため低速通信を強いられる、という問題が表面化した。この問題に対処するため、サードパーティから高速対応のRS-232C拡張ボードが発売された<ref group="注">PC-9800シリーズのRS-232CはPC-9821Anまで[[FIFO]]バッファが搭載されておらず、高速通信ではとりこぼしの恐れが大きかったため、5/10MHz系の機種であってもこのようなボードは有用であり、草の根BBSなどで重宝された。</ref>。また、国産のモデムでは、8MHz系で設定可能な半端な速度に対応するものが増えた。
PC-9821シリーズでは通信系統のクロック供給が5/10MHz系に統一された上で、最初期の機種を除いてOSからの設定が115200bpsまでに強化されている。また、互換機のEPSON PCではCPUのクロックとは別に通信系統には5/10MHz系のクロックが供給されている。
== 評価 ==
=== マーケティング ===
あるジャーナリストはNECが日本に「パソコン王国」を築き上げることができた要因を次のように説明した<ref name="kobayashi_1988" />。
* ビジネスパソコンに対する新しい需要に迅速に対応した。
* 多くの[[サードパーティー]]開発者を引きつけ、ソフトウェアの開発と配布を独占することに成功した。
* オペレーティングシステムにマイクロソフトのMS-DOSを採用した。
日本IBMがIBM PCの代わりにマルチステーション5550を販売したように、欧米市場のパソコンはディスプレイ解像度やメモリの制約から漢字表示に対応できなかったため<ref>{{cite journal|last=Freiberger|first=Paul|date=1982-11-08|title=West tries to meet East: Chinese characters on HP 3000|url=https://books.google.com/books?id=EjAEAAAAMBAJ&lpg=PA22&pg=PA22|journal=InfoWorld|volume=4|issue=44|page=22|access-date=2020-10-19|language=en}}</ref>、DOS/Vとより高速なパソコンが登場するまで日本のパソコン市場に参入することができなかった。[[VZ Editor]]の開発者である兵藤嘉彦は「PC-98には漢字メモリとノン[[インターレース]]モニタの2つの利点があり、どちらもユーザーに快適な日本語環境を提供した。」と回顧した<ref name="ascii_2004_memory">『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説』pp. 17-21、「PC業界キーパーソンが語る 思い出のPC-9801」</ref>。大塚商会の大里堅常務(1989年時点)は「[[花王]]など先進ユーザーは当時8000で[[オフィス・オートメーション|OA]]化を始めていたが、ビジネスに使うには速度や漢字処理に問題があった。そこに出た9800は完成度も高かったので、流通もユーザーもすぐに移行した。」と証言した<ref name="Hattori_1989" />。
NECの浜田はPC-98が成功した最大の理由として、ソフトハウスから協力を得ることができたためと考えた。浜田は「パソコンのサードパーティー(ソフトハウス)は、たしかにPC-8001、8801で、ある程度育っていた。ただし、それは組織的に育てられたものではない。自然発生的に生まれて、それをハードメーカーが放任的に傍観してきた。ところが、PC-9801の段階になって初めて、その考え方を180度近く変えたわけです。ソフトハウスを私どもが意識的に育てようという姿勢を強力に打ち出した。」と回顧した<ref name="Tanaka_1988" />。
あるコンピュータコンサルタントは、IBMがNECの戦略に影響を与えたと指摘した。1982年(昭和57年)より、NECには4つのパソコンシリーズがあり、IBMのメインフレーム事業のように幅広い価格帯をカバーしていた。しかし、NECのパソコンは互いに互換性が乏しかったため、ユーザーやソフトウェア開発者から批判された。1983年にパソコンのラインナップが整理された後、NECはPC-98を展開していき、その機種の数は競合メーカーを上回った。また、IBMがIBM PCに対して行ったことと同じように、NECはサードパーティの開発者を支援した。PC-98の基本的なハードウェアもIBM PCに似ていたものの、互換性はなかった。彼は、NECが独自開発のメインフレームに誇りを持っていたため、IBM互換パソコンのリリースを避けたと推測した<ref name="kou_1988">広 一蘭『100万人の謎を解く ザ・PCの系譜』pp. 124–127、「IBM大型機の影響が見えるNECのパソコン開発戦略」</ref>。
ある大学助教授は「ユーザーは最も遊戯性のあるPCを選んだ」という題のエッセイを記述した。彼はPC-98を普通の16ビットパソコンであると感じたが、それは遊戯性を否定しなかったため多くのゲームが存在したと考えた。富士通は16ビットパソコンをゲームプラットフォームとして考えず、[[IBM JX]]はゲームの重要性が低いとみて扱ったため、魅力が失われた。彼はパソコンの本当の価値は売り手ではなく顧客が見つけるべきものと結論付けた<ref name="uchida_1988" />。
=== 後世への影響 ===
[[月刊アスキー]]のライターは、[[日本語入力システム]]と日本の[[テレビゲーム]]業界がPC-98時代に著しく成長したと述べた。PC-98には漢字ROMがあったため、日本語アプリケーションと日本語入力システムが開発され、互いに影響を与えた。PC-98用に[[パソコンゲーム]]を開発していた会社は、ゲーム事業を[[ファミリーコンピュータ]]に移して展開した。彼は当時のほとんどのプログラマーがPC-98で[[プログラミング]]を学んでいたと信じた<ref name="ascii_2004_memory" />。
=== 批判 ===
1980年代後期、競合企業はNECが市場を独占していることに対して批判した。[[コンピュータソフトウェア協会|日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会]]が開いた互換機問題についての公開討論会にて、[[ソード (企業)|ソード]]の創業者である椎名堯慶は「日本のパソコン・マーケットは特定一社の独占的シェアのために窒息している。自由度がない。だから値段もアメリカの3倍から4倍もしている。アメリカ並みの国際価格を実現するためにも、互換機時代が絶対に必要だ。」と述べた。あるソフトハウスは「日本には優秀なエンジニアが少ししかいないのに、互換性のないマシンが増えるほど、開発リソースは分散されます。」と不満を挙げた<ref name="matsuo_1988" />。
IBM PCや[[Apple II]]とは対照的にNECがPC-98の新モデルを毎年リリースしていたように、日本のパソコンの寿命は短かった。PC-9801VX01/21/41のBASICインタープリタがEGCチップセットに対応した時、重いグラフィック処理を行うソフトウェアの多くは[[C言語]]で開発されていたため、それを使用しなかった。あるソフトウェア開発者は「特別なもの (EGC) を使用することはトレンドに反します。新しいマシンが頻繁に出てくる場合は、それを使いたくありません。」と述べた<ref>{{Cite journal|和書|last=堀川|first=明美|date=1987-08-10|title=ハード最前線:日本電気PC-9800VX01/21/41/41WN 互換機巻き返しは高速化マシンで|journal=日経パソコン|pages=77–81|publisher=[[日経マグロウヒル]]|issn=0287-9506}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|3}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp|author=川村 清|title=PC-9801解析マニュアル[第0巻]|year=1983年6月30日|publisher=秀和システムトレーディング株式会社|}}
* {{Cite book ja-jp|author=浅野泰之、壁谷正洋、金磯善博、桑野雅彦|title=PC-9801システム解析(下)|year=1983年12月1日|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|isbn = 4-87148-715-6|ref={{Sfnref|浅野|1983}}}}
* {{Cite book|和書|title=100万人の謎を解く ザ・PCの系譜|publisher=コンピュータ・ニュース社|year=1988|isbn=4-8061-0316-0|editor-last=コンピュータ・ニュース社}}
* {{Cite book ja-jp|author=アスキーテクライト(編)|title=改訂版 PC-9800シリーズ テクニカルデータブック HARDWARE編|year=1993年10月25日|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|ISBN=4-7561-0456-8}}
* {{Cite book ja-jp |title = NECパーソナルコンピュータ PCシリーズ 総合プロダクトガイド 1995-Autumn |publisher = 発行:日本電気 / 発売:新紀元社 |year = 1995年10月10日 |isbn = 4-88317-046-2}}
* {{Cite book|和書|author=日本電気社史編纂室|title=日本電気株式会社百年史|date=2001-12-25|year=|publisher=日本電気}}
* {{Cite book ja-jp |title = 月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説 |publisher = アスキー(現[[アスキー・メディアワークス]]) |year = 2004年4月1日 |isbn = 4-7561-4419-5}}
* {{Cite book ja-jp |title = 月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説 第2弾 |publisher = アスキー(現アスキー・メディアワークス) |year = 2007年4月9日 |isbn = 978-4-7561-4883-4}}
* {{Cite book ja-jp |editor = SE編集部 |title = 僕らのパソコン30年史 - ニッポン パソコンクロニクル |year = 2010年5月28日 |publisher = 翔永社 |isbn = 978-4-7981-2189-5}}
* {{Cite book|和書
| title= インターフェース
| year=1995
| date=1995-1-1
| publisher=[[CQ株式会社]]|isbn =
| ref={{Sfnref |インターフェース1月号 |1995}} }}
== 関連項目 ==
* [[PC-9821シリーズ]]
* [[:Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]]
* [[バザールでござーる]] - PC-98後期に展開した情報市ブランド。
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}}
* [http://www.pc-9800.net/ With 98](個人のサイト。NEC本家のシリーズに加え、EPSON互換機や各種PC-98用ハードウェアが掲載)
* [http://pc88pc98.web.fc2.com/ PC-8800シリーズ PC-9800シリーズ 博物館]
* [http://hp.vector.co.jp/authors/VA011804/pc9801.htm PC博物館 PC-9801]
* [http://121ware.com/navigate/learn/pcmuseum/index.html パソコン博物館] - NECパーソナル商品総合サイト
* [http://www.webtech.co.jp/company/doc/undocumented_mem/ UNDOCUMENTED 9801/9821 Vol.2 - メモリ・I/Oポート編] - [[ウェブテクノロジ]]
* シリーズモデルナンバー一覧 [https://web.archive.org/web/20141210034057/http://www.geocities.jp/retro_zzz/machines/nec/9801/mdl98cpu.html 本体] ・ [https://web.archive.org/web/20141210034545/http://www.geocities.jp/retro_zzz/machines/nec/9801/mdl98others.html 周辺機器] - Retro Computer People サイト アーカイブ
{{NECのパソコン}}
[[Category:日本電気のパーソナルコンピュータ]]
[[Category:重要科学技術史資料]]
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聖武天皇
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聖武天皇(しょうむてんのう、旧字体: 聖󠄁武天皇、701年9月18日〈大宝元年8月12日〉 - 756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)は、日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉)。
諱は首(おびと)であるが、これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在する。尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
大宝元年、文武天皇の第一皇子として生まれる。慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母・宮子も心的障害に陥ったため、その後は長らく会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。慶雲4年7月17日(707年8月18日)、父方の祖母・元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に伯母(文武天皇の姉)・元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
ただし、当時の認識において天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例として捉えられ、その権力基盤は決して安定したものではなかった。このため、即位と同時に当時9名いた議政官全員の昇叙(位階の昇格)もしくは益封(封戸の増加)を行い、その18日後には六人部王・長田王・葛木王以下諸王10名と大伴宿奈麻呂・多治比広成・日下部老以下諸臣44名の昇叙を行っており、以降天皇即位時の臨時の昇叙が慣習として定着する。即位時の臨時の昇叙自体は天武天皇の先例に基づくものとされているが、天武天皇の即位自体が壬申の乱による皇統の変更という異常な状況下で実施されたことに留意する必要がある。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれかの縁者である。
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約5年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられていて彷徨五年と呼ばれている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急逝した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会った。同時期に、長く病気を患っていた母・宮子と死別する。天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。天平宝字2年(758年)8月9日、「勝宝感神聖武皇帝」と諡され、後には聖武天皇と呼ばれるようになった。
聖武の七七忌(なななぬか、いわゆる四十九日)に際し、光明皇后は東大寺盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その一部は正倉院に伝存している。なお、明治40年(1907年)から明治41年(1908年)の東大寺大仏殿改修の際に、須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち金銀装大刀2口が、奉献後まもない天平宝字3年(759年)12月に正倉院から持ち出され、奉献品の目録である東大寺献物帳(国家珍宝帳)に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが平成22年(2010年)にエックス線調査で判明した。
この2口の大刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。遺跡名は「法蓮北畑古墳」。
なお、光明皇后は佐保山東陵に埋葬されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
飯沼賢司は聖武天皇およびそれ以降の仏教政策について以下のように解説した。
聖武天皇の治世の前期、行基を中心とする集団が弾圧されたが、当時の朝廷は仏教は天皇やその周辺の支配層のためのものだという考え方があり、その政策の基調を作ったのが天皇の外祖父で光明皇后の実父でもある藤原不比等であった。ところが、聖武天皇は次第に行基や知識の活動に関心を抱き始め、河内の知識寺訪問や行基との対面を得て、紫香楽宮での大仏造立を決意した。しかし、行基集団や知識の力を借りて民衆を巻き込んだ大仏造立を進める天皇と、国分寺や国分尼寺建立政策などを通じて父・不比等の路線を継承した皇后の間に、次第に仏教観を巡る対立が生まれ、最終的に国分寺の総本山である奈良の東大寺で大仏が造立された(飯沼は、光明皇后の念頭にあったのは唐の則天武后が国家主導で造立した奉先寺の大仏であったとする)。天皇と皇后の仏教観の対立は、行基亡き後に僧綱の中心にあった行信の配流事件や朝廷の政治的対立にも影響を与え、やがて皇后の甥にあたる藤原仲麻呂が政権を取ったことで皇后側の優位に終わったかと思われた。だが、天皇と皇后の娘であった孝謙天皇(後に称徳天皇)は両親の死後に弓削道鏡の補佐を受けて父・聖武の路線を継ぐことを明確にし、窮地に立った仲麻呂は藤原仲麻呂の乱で滅亡する。そして、優れた仏教者・菩薩であれば、身分を越えて国王になれるという国家観に辿り着いた称徳天皇は、道鏡を皇位につけるべく宇佐八幡宮神託事件を引き起こしてしまう。その後、桓武天皇が平安遷都による仏教勢力の影響力排除や最澄・空海の庇護、一連の対立に関わった八幡神の神仏習合の推進(八幡大菩薩の誕生)を行うことで、聖武天皇の鎮魂と共に事態の収拾にあたったとする。
奈良国立博物館新館の入り口には聖武天皇筆「雑集」から集字した題字が掲げられている。
2012年(平成24年)9月、宮内庁は1873年(明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。聖武天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では6月4日、グレゴリオ暦では6月8日となるが、約140年間にわたり1日前の6月7日に祭祀を行っていたことになる。後嵯峨天皇も同様に計算違いで1日命日が異なっていたという。
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"text": "なお、光明皇后は佐保山東陵に埋葬されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。",
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"text": "2012年(平成24年)9月、宮内庁は1873年(明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。聖武天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では6月4日、グレゴリオ暦では6月8日となるが、約140年間にわたり1日前の6月7日に祭祀を行っていたことになる。後嵯峨天皇も同様に計算違いで1日命日が異なっていたという。",
"title": "備考"
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] |
聖武天皇は、日本の第45代天皇。 諱は首(おびと)であるが、これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在する。尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
|
{{基礎情報 天皇
| 名 = 聖武天皇
| 代数= 第45
| 画像= Emperor_Shomu.jpg
| 画像幅= 250
| 説明= 『聖武天皇像』<br/>[[鎌倉時代]]・作者不詳
| 在位= [[724年]][[3月3日]] - [[749年]][[8月19日]]
| 和暦在位期間= [[神亀]]元年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]] - 天平感宝元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]
| 時代= [[奈良時代]]
| 年号= [[神亀]]<br/>[[天平]]<br/>[[天平感宝]]
| 漢風諡号=勝宝感神聖武皇帝<br/>(聖武天皇)
| 和風諡号=天璽国押開豊桜彦天皇
| 首都= [[平城京]]
| 皇居= [[難波宮]] [[平城宮]]
| 諱 = 首(おびと)
| 幼称=
| 別名= 沙弥勝満
| 印 =
| 生年= [[701年]][[9月18日]]
| 生地=
| 没年= [[756年]][[6月4日]](54歳没)
| 没地=
| 陵墓= 佐保山南陵
| 先代= [[元正天皇]]
| 次代= [[孝謙天皇]]
| 子 = [[孝謙天皇]]<br/>[[基王]]<br/>[[安積親王]]<br/>[[井上内親王]]<br/>[[不破内親王]]
| 皇后= [[光明皇后|藤原光明子]]
| 夫人= [[藤原南夫人]]<br/>[[藤原北夫人]]<br/>[[橘古那可智]]<br/>[[県犬養広刀自]]
| 父親= [[文武天皇]]
| 母親= [[藤原宮子]]
}}
'''聖武天皇'''(しょうむてんのう、{{旧字体|'''聖󠄁武天皇'''}}、[[701年]][[9月18日]]〈[[大宝 (日本)|大宝]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]〉 - [[756年]][[6月4日]]〈[[天平勝宝]]8年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]〉)は、[[日本]]の第45代[[天皇]](在位:[[724年]][[3月3日]]〈[[神亀]]元年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]〉- [[749年]][[8月19日]]〈天平勝宝元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]〉)。
[[諱]]は'''首'''(おびと)であるが、これは[[伊勢大鹿首]]が[[養育]]したことに由来するとする説が存在する<ref>{{Cite journal|和書|author=告井幸男 |year=2014 |url=https://hdl.handle.net/11173/1496 |title=名代について |journal=史窓 |ISSN=0386-8931 |publisher=京都女子大学史学会 |volume=071 |pages=1-21 |hdl=11173/1496 |naid=120005407781}}</ref>。[[尊号]]([[諡|諡号]])を'''天璽国押開豊桜彦天皇'''、'''勝宝感神聖武皇帝'''、'''沙弥勝満'''とも言う。[[文武天皇]]の第一[[皇子]]。母は[[藤原不比等]]の娘・[[藤原宮子|宮子]]。
== 略歴 ==
大宝元年、文武天皇の第一皇子として生まれる。[[慶雲]]4年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]([[707年]][[7月18日]])に7歳で父と死別、母・宮子も心的障害に陥ったため、その後は長らく会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは[[年齢|齢]]37のときであった。[[慶雲]]4年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]](707年[[8月18日]])、父方の祖母・[[元明天皇]]([[天智天皇]]皇女)が中継ぎの天皇として即位した。[[和銅]]7年6月25日([[714年]]8月9日)には首皇子の[[元服]]が行われて同日正式に[[立太子]]されるも、病弱であったこと、[[皇親]]勢力と[[外戚]]である[[藤原氏]]との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌[[霊亀]]元年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]([[715年]][[10月3日]])に伯母(文武天皇の姉)・[[元正天皇]]が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった{{Efn|ただし、『続日本紀』に皇太子の元服した年月日(和銅7年6月庚辰条)と聖武天皇が和銅7年6月に立太子をした記事(即位前紀)があっても立太子の正式な年月日を記した本文記事はなく(立太子と元服が同時というのは両記事の合成に過ぎない)、和銅7年に首皇子(聖武天皇)が立太子された事実は確認できず、実際には元正天皇の即位後、首皇子が朝政に参画したり、東宮職員の整備が進んだりした[[養老]]4年([[720年]])前後に立太子されたとする説もある<ref>本間満「首皇子の元服立太子について」初出(『昭和薬科大学紀要』35号、2001年)・所収:本間『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年) ISBN 978-4-639-02294-7</ref>。}}。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
ただし、当時の認識において天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例として捉えられ、その権力基盤は決して安定したものではなかった{{Efn|[[河内祥輔]]はその弱点を克服するために自分の母親と同じ藤原氏出身の后妃に皇子に皇位を継がせることで自己の皇位継承を正当化しようと計画したとする説と採り、基王立太子・長屋王の変・光明子の立后・阿倍内親王の立太子など通説では"藤原氏の陰謀"とされる事件についても聖武天皇の積極的関与・主導していた可能性を指摘している<ref>河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P71-95)初版は1986年</ref>。}}。このため、即位と同時に当時9名いた議政官全員の昇叙(位階の昇格)もしくは益封(封戸の増加)を行い<ref group="注釈">[[新田部親王]]は[[一品親王]]に進められ、長屋王・[[巨勢邑治]]・[[大伴旅人]]・[[藤原武智麻呂]]・[[藤原房前]]・[[阿倍広庭]]は1階昇進した。[[舎人親王]]は既に一品親王・知太政官事で既に最高の地位に達し、正三位大納言の[[多治比池守]]を昇叙させると官位相当から外れるために昇叙ではなく益封が行われた。なお、『続日本紀』には参議正四位上の阿倍広庭に関して昇叙も益封も記載されていないが、即位の5か月後には広庭が既に従三位へと昇叙していることが確認できるため、『続日本紀』の記載漏れとみられる(虎尾達哉)。</ref>、その18日後には[[六人部王]]・[[長田王 (摂津大夫)|長田王]]・[[橘諸兄|葛木王]]以下諸王10名と[[大伴宿奈麻呂]]・[[多治比広成]]・[[日下部老]]以下諸臣44名の昇叙を行っており、以降天皇即位時の臨時の昇叙が慣習として定着する。即位時の臨時の昇叙自体は天武天皇の先例に基づくものとされているが、天武天皇の即位自体が[[壬申の乱]]による皇統の変更という異常な状況下で実施されたことに留意する必要がある<ref>虎尾達哉「律令制下天皇即位時の特別昇叙について」『律令政治と官人社会』(塙書房、2021年)P145-194.</ref>。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する[[長屋王]]が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の[[光明皇后|光明子]](父:[[藤原不比等]]、母:[[県犬養三千代]])の[[立后]]を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため[[皇族]]しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが[[神亀]]6年([[729年]])に[[長屋王の変]]が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された<ref group="注釈">これより前の皇后は原則的に神または天皇の血筋であるが、厳密には若干の例外もある。</ref>。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である[[藤原四兄弟]]が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の[[後宮]]には他に4人の[[夫人]]が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれかの縁者である。
[[天平]]9年([[737年]])に[[天平の疫病大流行|天然痘の大流行]]が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である[[鈴鹿王]]を[[太政大臣|知太政官事]]に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年([[740年]])には[[藤原広嗣の乱]]が起こっている。乱の最中に、突然関東([[伊勢国]]、[[美濃国]])への[[行幸]]を始め、平城京に戻らないまま[[恭仁京]]へ遷都を行う。その後、約5年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から京に戻る)の経過は、『[[続日本紀]]』で多くが触れられていて[[彷徨五年]]と呼ばれている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や[[天平地震|大地震]]<ref>松浦茂樹「聖武天皇と国土経営」(『水利科学』358号、2017年)p55</ref>など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病([[天然痘]])が多発したため、聖武天皇は[[仏教]]に深く帰依し、天平13年([[741年]])には[[国分寺]]建立の[[詔]]を、天平15年([[743年]])には[[東大寺盧舎那仏像]]の造立の詔を出している。これに加えて度々[[遷都]]を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には[[平城京]]に復帰した{{Efn|天平16年2月には[[恭仁京]]から[[難波京]]への遷都の詔が出されているが、当時天皇は[[紫香楽宮]]に滞在していた。この詔の発令は元正上皇によるものとも言われており、たび重なる遷都は宮廷の一時的分裂を招いたとする見方もある。なお、翌年1月に聖武天皇は紫香楽宮を都としている<ref>筧敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年)P251-267.</ref>。}}。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は[[橘諸兄]](光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに[[墾田永年私財法]]を制定した。しかし、これによって[[律令制]]の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年[[閏]]1月13日([[744年]][[3月7日]])には[[安積親王]]が[[脚気]]のため急逝した。これは[[藤原仲麻呂]]による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日){{Efn|天平21年4月14日(749年5月4日)に陸奥国からの黄金献上を理由に[[天平感宝]]と改元されたが、わずか3か月後の7月2日(同8月19日)に新天皇の即位を理由に再度の改元が実施されている。}}、娘・阿倍内親王([[孝謙天皇]])に[[譲位]]した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で[[出家]]してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる{{Efn|公式の退位日は7月2日であるが、その以前の1月14日に[[行基]]を師として出家した(『[[扶桑略記]]』)とされ、また閏5月20日に作成された[[東大寺]]への勅施入願文には「太上天皇沙弥勝満」の署名(『続日本紀』)があり、このときには聖武天皇自身は既に退位・出家していた可能性がある。河内祥輔は可能性の1つとして、[[践祚]]と即位が分離する初例を[[桓武天皇]]とする通説よりも前に遡り、聖武天皇の譲位と孝謙天皇の践祚が行われた後に出家したとするならば、矛盾は解消されると指摘する<ref>河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P96・101)初版は1986年</ref>。}})。譲位して[[太上天皇]]となった初の男性天皇となる。
天平勝宝4年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[752年]][[5月30日]])、[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]の[[開眼法要]]を行う。天平勝宝6年([[754年]])には[[唐]]僧・[[鑑真]]が来日し、皇后や天皇とともに会った。同時期に、長く病気を患っていた母・宮子と死別する。天平勝宝8年(756年)に[[天武天皇]]の2世王・[[道祖王]]を皇太子にする遺言を残して[[崩御]]した。宝算56。[[戒名]]は、勝満。[[天平宝字]]2年([[758年]])[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]、「'''勝宝感神聖武皇帝'''」と諡され、後には'''聖武天皇'''と呼ばれるようになった。
[[File:Emperor Shomu Calligraphy.JPG|thumb|250px|雑集]]
聖武の七七忌(なななぬか、いわゆる[[中陰法要|四十九日]])に際し、[[光明皇后]]は[[東大寺]]盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その一部は[[正倉院]]に伝存している。なお、[[明治]]40年([[1907年]])から明治41年([[1908年]])の東大寺大仏殿改修の際に、須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち金銀装大刀2口が、奉献後まもない天平宝字3年(759年)12月に正倉院から持ち出され、奉献品の目録である[[東大寺献物帳]](国家珍宝帳)に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが平成22年(2010年)にエックス線調査で判明した<ref>[http://www.gangoji.or.jp/kenkyusho/jap/mokujitopics/mokujitopics.html 【東大寺・(財)元興寺文化財研究所 合同発表】国宝東大寺金堂鎮壇具 金銀荘大刀二振の宝剣字象嵌銘および、銀荘大刀一振の七星文象嵌の発見について]</ref>。
この2口の大刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。
== 系譜 ==
{{ahnentafel top|聖武天皇の系譜|width=100%}}
{{ahnentafel-compact5
|style=font-size: 90%; line-height: 110%;
|border=1
|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
|boxstyle_1=background-color: #fcc;
|boxstyle_2=background-color: #fb9;
|boxstyle_3=background-color: #ffc;
|boxstyle_4=background-color: #bfc;
|boxstyle_5=background-color: #9fe;
|1= 1. 第45代 聖武天皇
|2= 2. [[文武天皇|第42代 文武天皇]]
|3= 3. [[藤原宮子]]
|4= 4. [[草壁皇子]]
|5= 5. [[元明天皇|第43代 元明天皇]]
|6= 6. [[藤原不比等]]
|7= 7. [[賀茂比売]]
|8= 8. [[天武天皇|第40代 天武天皇]]
|9= 9. [[持統天皇|第41代 持統天皇]]
|10= 10. [[天智天皇|第38代 天智天皇]](=18)
|11= 11. [[姪娘|蘇我姪娘]]
|12= 12. [[藤原鎌足]]
|13= 13. [[車持与志古娘]]
|14= 14. 賀茂小黒麻呂
|16= 16. [[舒明天皇|第34代 舒明天皇]](=20)
|17= 17. [[斉明天皇|第35代 皇極天皇・<br />第37代 斉明天皇]](=21)
|18= 18. [[天智天皇|第38代 天智天皇]](=10)
|19= 19. [[遠智娘|蘇我遠智娘]]
|20= 20. [[舒明天皇|第34代 舒明天皇]](=16)
|21= 21. [[斉明天皇|第35代 皇極天皇・<br />第37代 斉明天皇]](=17)
|22= 22. [[蘇我倉山田石川麻呂]]
|24= 24. [[中臣御食子]]
|25= 25. 大伴智仙娘
}}</center>
{{ahnentafel bottom}}
=== 系図 ===
{{皇室白鳳奈良}}
== 后妃・皇子女 ==
* [[皇后]]:[[光明皇后]](701年 - 760年) - [[藤原不比等]]女(母は[[県犬養三千代]])、母・宮子の異母妹
** 皇女:阿倍内親王([[孝謙天皇|孝謙・称徳天皇]]。718年 - 770年) - 史上唯一の女性皇太子
** 第一皇子:[[基王]](727年 - 728年) - 聖武天皇皇太子
* 夫人:[[県犬養広刀自]](? - 762年) - [[県犬養唐]]女、県犬養三千代のはとこの孫
** 皇女:[[井上内親王]](717年? - 775年) - [[光仁天皇]]皇后
*** 孫:[[酒人内親王]](754年 - 829年) - [[桓武天皇]]妃
*** 孫:[[他戸親王]](761年? - 775年) - 光仁天皇皇太子
** 皇女:[[不破内親王]](723年? - 795年?) - [[塩焼王]](氷上塩焼)妃
*** 孫:[[氷上志計志麻呂]]・[[氷上川継]]
** 第二皇子:[[安積親王]](728年 - 744年)
* 夫人:[[藤原南夫人|南殿]](? - 748年) - [[藤原武智麻呂]]女、藤原不比等の孫
* 夫人:[[橘古那可智]](? - 759年) - [[橘佐為]]女、県犬養三千代の孫
* 夫人:[[藤原北夫人|北殿]](? - 760年) - [[藤原房前]]女(母は[[牟漏女王]])、藤原不比等の孫、県犬養三千代の孫
== 在位中の元号 ==
* [[神亀]] 724年2月4日(3月3日) - 729年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[9月6日]])
* [[天平]] 729年8月5日(9月6日) - 749年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]([[5月8日]])
* [[天平感宝]] 749年4月14日(5月8日) - 7月2日(8月19日)
== 陵・霊廟 ==
[[File:The tomb of Emperor Shōmu.jpg|thumb|180px|佐保山南陵]]
[[ファイル:聖武天皇2979.jpg|thumb|180px|聖武天皇勅願所の碑、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝えられる[[宝積寺]](京都府乙訓郡大山崎町)にある]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[奈良県]][[奈良市]]法蓮町にある'''佐保山南陵'''(さほやまのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。遺跡名は「法蓮北畑古墳」。
なお、光明皇后は佐保山東陵に埋葬されている。また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
== 備考 ==
=== 仏教政策について ===
[[飯沼賢司]]は聖武天皇およびそれ以降の仏教政策について以下のように解説した。
聖武天皇の治世の前期、[[行基]]を中心とする集団が弾圧されたが、当時の朝廷は仏教は天皇やその周辺の支配層のためのものだという考え方があり、その政策の基調を作ったのが天皇の外祖父で光明皇后の実父でもある[[藤原不比等]]であった。ところが、聖武天皇は次第に行基や[[知識 (仏教)|知識]]の活動に関心を抱き始め、河内の知識寺訪問や行基との対面を得て、紫香楽宮での大仏造立を決意した。しかし、行基集団や知識の力を借りて民衆を巻き込んだ大仏造立を進める天皇と、国分寺や国分尼寺建立政策などを通じて父・不比等の路線を継承した皇后の間に、次第に仏教観を巡る対立が生まれ、最終的に国分寺の総本山である奈良の東大寺で大仏が造立された(飯沼は、光明皇后の念頭にあったのは[[唐]]の[[武則天|則天武后]]が国家主導で造立した[[奉先寺]]の大仏であったとする)。天皇と皇后の仏教観の対立は、行基亡き後に僧綱の中心にあった[[行信]]の配流事件や朝廷の政治的対立にも影響を与え、やがて皇后の甥にあたる[[藤原仲麻呂]]が政権を取ったことで皇后側の優位に終わったかと思われた。だが、天皇と皇后の娘であった孝謙天皇(後に称徳天皇)は両親の死後に[[道鏡|弓削道鏡]]の補佐を受けて父・聖武の路線を継ぐことを明確にし、窮地に立った仲麻呂は藤原仲麻呂の乱で滅亡する。そして、優れた仏教者・菩薩であれば、身分を越えて国王になれるという国家観に辿り着いた称徳天皇は、道鏡を皇位につけるべく[[宇佐八幡宮神託事件]]を引き起こしてしまう。その後、[[桓武天皇]]が[[平安遷都]]による仏教勢力の影響力排除や[[最澄]]・[[空海]]の庇護、一連の対立に関わった[[八幡神]]の[[神仏習合]]の推進(八幡大菩薩の誕生)を行うことで、聖武天皇の鎮魂と共に事態の収拾にあたったとする<ref>飯沼賢司「信仰の広がり」(館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P158-172</ref>。
=== 奈良国立博物館 ===
[[File:Nara National Museum by Emperor Shomu.jpg|thumb|300px|奈良国立博物館題字]]
[[奈良国立博物館]]新館の入り口には聖武天皇筆「雑集」から集字した題字が掲げられている<ref >[https://www.narahaku.go.jp/guide/03.html 施設案内 - 東新館・西新館『奈良奈良国立博物館公式サイト』]</ref>。
=== 命日の西暦換算 ===
[[2012年]]([[平成]]24年)9月、[[宮内庁]]は[[1873年]]([[明治5年]])の[[改暦]]の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。聖武天皇の崩御日の旧暦は[[ユリウス暦]]では6月4日、[[グレゴリオ暦]]では[[6月8日]]となるが、約140年間にわたり1日前の[[6月7日]]に祭祀を行っていたことになる。[[後嵯峨天皇]]も同様に計算違いで1日命日が異なっていたという。<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2600B_W2A920C1CR0000/ 聖武天皇の命日、1日間違えた 宮内庁、日本経済新聞、2012年9月26日]</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『聖武天皇御伝』 東大寺編・発行、1956年。
=== 伝記 ===
* [[森本公誠]]『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』[[講談社]]、2010年
* [[中西進]]『著作集25 天智伝/聖武天皇』四季社、2010年→『聖武天皇』 [[中公文庫]]、2011年
* [[吉川真司]]『聖武天皇と仏都平城京 天皇の歴史02』講談社、2011年/[[講談社学術文庫]]、2018年
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Emperor Shomu}}
* [[安禄山]]
* [[日本の書家一覧]]
* [[宸翰]]
* [[聖武天皇社]](聖武天皇が伊勢行幸関係の三重県四日市市内の松原村の神社)
== 外部リンク ==
* {{蔵書印データベース|id=CSDB_45415|name=松宮内印|accessdate=2021-05-02}}
* {{Kotobank}}
{{歴代天皇一覧}}
{{Normdaten}}
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五街道
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五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。
1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、政治支配力を強めるために、道路制度の改革と整備に乗り出し、朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、道幅を広げて宿場を整備し、一里塚を設けるなどの街道の整備を着々と進め、砂利や砂を敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなどが行われた。
五街道として定められたのは、徳川幕府(江戸幕府)2代将軍の秀忠の代になってからのことで、1604年(慶長9年)に日本橋を五街道の起点として定め、幕府安泰のために江戸を防衛することを目的として、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった。秀忠は、政治的・軍事的に重要な五街道を幕府直轄とし、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いに並木を植えることを命じた。街道は、東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備された。1659年(万治2年)以降は新たに設置された道中奉行の管轄に置かれた。五街道の正式名称が定められたのは1716年(享保元年)である。
南北に架けられた日本橋からは南へ、東海道と甲州街道が重複し、現在の警視庁前桜田門交差点から分かれた。日本橋から北へは、奥州街道・日光街道、中山道が重複して伸びて、浅草橋で奥州・日光街道と中山道とに分かれた。奥州街道と日光街道の分岐点はさらに遠く北にあり、宇都宮で分かれた。五街道の第一宿場である品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿は日本橋から2里(約8 km)以内の所にあり、「江戸四宿(えどしじゅく)」とよばれ江戸の玄関口となった。
江戸時代の東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道を合わせた五街道の総延長は、幕末期の五街道の実態調査資料である『宿村大概帳』の集計から379里27町31間(1493.5キロメートル)あったとされる。
東海道をはじめとする五街道のすべてには、適当な間隔に宿場を置いて、各宿場に人足と荷駄用の馬(伝馬)を一定数常備し、幕府公用の役人の荷物運搬にあたらせた。各宿場には、幕府から幕府公用のための人馬提供を命じられたが、その見返りとして宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊や荷物逓送で生計を立てることが許された。各街道の交通量に従って宿場に常備する人馬の数が定められており、例えば東海道では一宿場につき人足100人と馬100疋、中山道では人足50人・馬50疋、甲州街道では人足25人・馬25疋というように異なった。これら人馬常備の負担は大きく、宿場関係者や沿道地元民を苦しめ、宿場の維持に苦労した。江戸時代後期の道中奉行である石川忠房は、文政5年(1822年)に地元民から再三嘆願されていた中山道・安中宿の人馬提供数の負担を半減させる宿駅制度の改革を行うなど、それまでの宿駅制度について改革を実行されたりもしたが、時代の推移とともに一般人の旅行者が増えるに従って、幕府御用の交通量も増えていったことから、これに対応する助郷制度が作られるなど沿線住民の負担は増える一方であった。結局、幕府御用の輸送を沿線住民がすべて負担するというこれら幕府の特権制度について、幕府が抜本的な改革を行うことがなかったため解消されることはなく、幕藩体制が消滅して明治時代に入るまでの間続いた。そのため、多大な負担が課せられた宿駅制度が幕府崩壊の一因でもあるともいわれている。
五街道のなかでも、江戸幕府が最も重要視したのは東海道で、「入鉄砲出女」とよばれる交通政策がとられ、とりわけ関所における取り締まりが厳しかった。入鉄砲とは、江戸に武器が入ってくることの取り締まりを指し、出女とは、参勤交代制度のために、人質として江戸に住まわせた諸大名の妻子らが、江戸から脱出させないために監視することを指す。
五街道は、それに付属する脇街道とともに参勤交代などの公用のために幕府によって整備された道であったが、参勤交代によって宿場をはじめとする街道筋に大きな経済効果をもたらし、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用されるようになり、ますます栄えていった。
慶長9年(1604年)の布令には、徳川幕府2代将軍秀忠により諸国に道路をつくるべきとあり、関東・奥州や木曽路を含めてその広さを5間、一里塚は5間四方と『当代記』には記されている。その他の資料にも道幅は5間と記されているものが多くあるが、並木敷きを含むかについては街道を建設する上での疑問があり、江戸時代中期の寛政元年(1789年)に並木敷きを両側9尺以上確保した上で道幅は2間以上あればよいとの回答文書が出されている。
五街道の実態については、江戸時代末期に発行された『宿村大概帳』という現代の道路台帳に匹敵する資料に詳しく残されており、標準的な道幅はおおよそ3間から4間(5.4 - 7.2メートル)、江戸に近いところでは5間(9メートル)というところが多い。また、駿府城や浜松城の付近には道幅6 - 8間(10.8 - 14.4メートル)というところもみられ、箱根峠、宇津ノ谷峠、鈴鹿峠などの山間部では道幅2間(3.6メートル)とされている。坂道の勾配については、山道以外のところで最大10 - 13パーセント、箱根峠で最大30 - 35パーセント程度あったとの調査結果が出されている。
路面構造は、馬車が発展しなかった江戸時代において徒歩を基準としており、徳川幕府3代将軍家光の時代にあたる慶安元年(1648年)、江戸市街の「道路築方並びに浚方」に道路の補修方法について出された布令には、道路の悪いところに浅草砂に海砂を混ぜた上質砂で敷きならして中高に築き、道路の溝が停滞しないように浚うことと指示されている。このほか、運送が盛んだった伏見 - 京都間や大津 - 京都間の街道では牛車用の車道と人馬道を歩車分離の考え方で区分し、2条の輪道に花崗岩の厚板の車石を敷き並べ、牛道には砂利を敷きならした。江戸時代後期にあたる文久3年(1863年)の14代将軍家茂上洛の際には、箱根の山道を改修して丸石で舗装したという記録が残されており、現在の箱根の旧街道にも往時の石畳がよく残されている。
幕末期に来日したイギリス駐日公使オールコックは、東海道を指して道路の整備状況について、道幅が広く平坦で、十分に砕石で突き固められていて、両側の並木により通行者を日差しから守り、ヨーロッパの最も立派な道と比肩する大変高い価値のあるものと評価している。
五街道を総括管理していたのは道中奉行で、日常的な管理組織の基準はあきらかではないが、原則的に道中奉行が街道の維持管理の執行を沿道の宿村に割り当てて、その執行責任を負わせた。交通量によっては沿道地区村で間に合わない場合があり、沿道に直接接しない周辺の村々にも割り当てが及び、その割り当てられたそれぞれの区間を掃除丁場(そうじちょうば)といった。村々から掃除丁場までの距離は、大半は1里未満であったが、最も遠いところでは5里というところも見られ、5里以上離れた村への割り当ては見られていない。こうした村々への割り当ては助郷制度にも見られ、割り当てられた村は重複していたと推察されている。ただし、峠越えなどの山中では形式上は沿道村負担としながらも、実質的に藩主負担としていたり、沿道の実情に合わせて配慮がなされていたとみられている。
また、並木の管理は沿道の宿村には任されず、その土地の管理区分に従って幕府直轄地では代官が、私領地では大名が責任を負った。
五街道では並木が植えられており、樹種は植えられている場所の標高によって異なり、平地では松が大部分を占め、杉・竹・落葉樹などがそれに続くが、標高が高くなるに従って杉と竹が割合を多く占めた。植えられ方については道の左右片側だけの場合や、両側に揃っていた場合などまちまちで、場所によっては並木が存在していなかったところもあったと見られている。設置した当初の目的を示す史料は見つかっておらず、はじめは通行者の便宜のために植えられたものと考えられている。しかし、時代の経過とともに設置の目的も変化しており、街道設置からおよそ160年後にあたる江戸時代中期の宝暦12年(1762年)の布達「東海道筋並木之儀」では、並木とその周辺の田畑との間に定杭を立てるように指示が出されていて、並木が街道の幅を確保するための手段となっていることを伺わせている。
日光街道杉並木は別な目的で植えられた例であり、松平正綱が主君家康の菩提を弔うために、自費で20年以上の歳月をかけて植え続けたものである。
現在では並木のほとんどは昭和時代に入って国道の拡幅工事などで伐採されてしまい、当時の街道の状態を残している場所、とりわけ並木がある街道で往時の面影を残すものは少ないが、日光杉並木や草加松原などは当時の状況を視覚的によく残す貴重な歴史的遺産となっており、「日本の道100選」にも選定されている。
江戸幕府が上記五路をもって五街道としていた旨は、明治新政府が編纂した古事類苑地部道路の概説にもあり、これには以下の趣旨が書かれている。
実際には、江戸幕府が作成した伝馬宿拝借銭覚という書で日光道中と奥州道中を一つに合わせて佐倉街道をその書内で挙げていたり、また驛肝録も同様に佐倉街道を挙げながらもそれを水戸道中と称したりと、常に一貫した用い方がなされていた訳でもない。
なお、千住宿から派生して途中まで道中奉行の管轄下にあった水戸街道(水戸道中)を五街道に加えるという考え方も存在し、『地方凡例録』では途中宇都宮宿まで日光街道と重複する奥州街道を除いて水戸街道を加えている。また、文化8年(1811年)には江戸幕府が五街道に加えて水戸街道及びその脇街道であった佐倉街道(成田街道)を七街道としてその発着地の確認が行われている。ただし、道中奉行支配の地域は水戸街道は松戸宿まで、佐倉街道は八幡宿までと街道全体から見ても短い区間に限定されており、水戸・佐倉両街道は日光・奥州両街道の脇街道と位置づけられるのが通説である。 「五街道」とは東海道など5幹線およびそれに付属する街道も含んでおり、5つの幹線を「五街道」と呼んでいたというよりは、道中奉行の管轄する街道の道筋を網羅した道筋の総称が「五街道」だったとの意見もある。
江戸時代に整備された五街道は、明治維新により幕藩体制が崩壊した後も新政府によって国道の経路に指定されて、その道筋は現在の一般国道にも受け継がれている。東海道は国道1号に、中山道は国道17号・国道18号・国道142号・国道20号・国道19号・国道21号・国道8号の7本の路線に、日光街道は国道4号と国道119号に、奥州街道は国道4号に、甲州街道は国道20号にそれぞれ機能している。当時の松並木や一里塚の大部分は失われたが、随所には当時の宿場や並木、一里塚が残されており、往時の面影を見ることができる。
五街道から分岐する主要街道のことを脇街道(脇往還)とよぶ。五街道の付属街道として万治2年(1659年)に道中奉行の管轄にあった。五街道に付属していた街道は「佐屋路・美濃路・例幣使街道・壬生通・水戸佐倉道・本坂通などのほか日光法成道」があった。
五街道の枝道、また古街道として脇往還が設置され、勘定奉行の管轄に置かれた。
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五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。
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[[file:坂東地方の牧場と街道.jpg|thumb|江戸から延びる五街道と他の街道]]
'''五街道'''(ごかいどう)は、[[江戸時代]]の[[江戸]]・[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]を起点に伸びる[[東海道]]、[[中山道]]、[[日光街道]]、[[奥州街道]]、[[甲州街道]]の五つを指した陸上幹線道である。[[1601年]]([[慶長]]6年)に[[徳川家康]]が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の代になって基幹[[街道]]に定められた。
== 五街道(ごかいどう) ==
[[File:Gokaido Edo Five Routes Map.png|thumb|五街道の地図]]
1601年(慶長6年)、[[関ヶ原の戦い]]で覇権を握った徳川家康は、政治支配力を強めるために、道路制度の改革と整備に乗り出し、[[朱印状]]によって各宿場に[[伝馬]]の常備を義務付け、道幅を広げて宿場を整備し、[[一里塚]]を設けるなどの街道の整備を着々と進め、砂利や砂を敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなどが行われた{{sfn|浅井建爾|2001|p=94}}。
五街道として定められたのは、徳川幕府([[江戸幕府]])2代将軍の[[徳川秀忠|秀忠]]の代になってからのことで、[[1604年]](慶長9年)に[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]を五街道の起点として定め{{sfn|浅井建爾|2001|p=114}}、幕府安泰のために江戸を防衛することを目的として、街道の要所に[[関所]]を置いて通行人を取り締まった{{sfn|浅井建爾|2001|p=94}}。秀忠は、政治的・軍事的に重要な五街道を幕府直轄とし、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いに並木を植えることを命じた{{sfn|浅井建爾|2015|p=114}}。街道は、東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備された。[[1659年]]([[万治]]2年)以降は新たに設置された[[道中奉行]]の管轄に置かれた。五街道の正式名称が定められたのは[[1716年]]([[享保]]元年)である{{要出典|date=2017年12月}}。
南北に架けられた日本橋からは南へ、東海道と甲州街道が重複し、現在の警視庁前桜田門交差点から分かれた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=143}}。日本橋から北へは、奥州街道・日光街道、中山道が重複して伸びて、浅草橋で奥州・日光街道と中山道とに分かれた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=143}}。奥州街道と日光街道の分岐点はさらに遠く北にあり、[[宇都宮宿|宇都宮]]で分かれた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=143}}。五街道の第一宿場である[[品川宿]]・[[内藤新宿]]・[[板橋宿]]・[[千住宿]]は日本橋から2里(約8 km)以内の所にあり、「[[江戸四宿]](えどしじゅく)」とよばれ江戸の玄関口となった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=144}}。
;[[東海道]]([[東海道五十三次]])
:[[1624年]]([[寛永]]元年)完成。江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、京都・三条大橋までの五十三次(約500 km)。江戸幕府のある江戸から帝の座す京都までの始点から終点までの五十五地点を結ぶ道。延長部にあたる[[京街道 (大坂街道)]]の4宿も加えて、五十七次ともいう{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。
;[[日光街道]](日光道中)
:[[1636年]]([[寛永]]13年)頃完成。日本橋から、千住、宇都宮、今市を経て、日光までの二十一次{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。
;[[奥州街道]](奥州道中)
:[[1646年]]([[正保]]3年)完成。日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より[[陸奥国|陸奥]]・白河までの二十七次{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。日本橋から宇都宮までの17宿は日光街道と重複する。[[五稜郭|函館]]に至る延長部あり。
;[[中山道]]([[中山道六十九次]])
:[[1694年]]([[元禄]]7年)完成。 中仙道とも表記する。江戸幕府のある日本橋から高崎、下諏訪、[[木曽路]]の妻籠を経て、草津までの六十七次。草津、大津の2宿を加えて帝の座す京都までの六十九次ともいう{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。
;[[甲州街道]](甲州道中)
:[[1772年]]([[明和]]9年)完成。日本橋から、内藤新宿、八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する四十三次{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。
江戸時代の東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道を合わせた五街道の総延長は、幕末期の五街道の実態調査資料である『宿村大概帳』の集計から379[[里 (尺貫法)|里]]27[[町]]31[[間]](1493.5[[キロメートル]])あったとされる{{sfn|武部健一|2015|p=41}}。
=== 宿駅制度 ===
[[File:Narai-juku 6-Jun-2020.jpg|thumb|中山道・[[奈良井宿]](長野県塩尻市)]]
東海道をはじめとする五街道のすべてには、適当な間隔に[[宿場]]を置いて、各宿場に[[人足]]と荷駄用の馬([[伝馬]])を一定数常備し、幕府公用の役人の荷物運搬にあたらせた。各宿場には、幕府から幕府公用のための人馬提供を命じられたが、その見返りとして宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊や荷物逓送で生計を立てることが許された{{sfn|武部健一|2015|p=108}}。各街道の交通量に従って宿場に常備する人馬の数が定められており、例えば東海道では一宿場につき人足100人と馬100疋、中山道では人足50人・馬50疋、甲州街道では人足25人・馬25疋というように異なった{{sfn|武部健一|2015|p=108}}。これら人馬常備の負担は大きく、宿場関係者や沿道地元民を苦しめ、宿場の維持に苦労した{{sfn|武部健一|2015|p=108}}。江戸時代後期の道中奉行である[[石川忠房]]は、[[文政]]5年([[1822年]])に地元民から再三嘆願されていた中山道・[[安中宿]]の人馬提供数の負担を半減させる宿駅制度の改革を行うなど、それまでの宿駅制度について改革を実行されたりもしたが、時代の推移とともに一般人の旅行者が増えるに従って、幕府御用の交通量も増えていったことから、これに対応する[[助郷]]制度が作られるなど沿線住民の負担は増える一方であった{{sfn|武部健一|2015|p=109}}。結局、幕府御用の輸送を沿線住民がすべて負担するというこれら幕府の特権制度について、幕府が抜本的な改革を行うことがなかったため解消されることはなく、幕藩体制が消滅して明治時代に入るまでの間続いた{{sfn|武部健一|2015|p=109}}。そのため、多大な負担が課せられた宿駅制度が幕府崩壊の一因でもあるともいわれている{{sfn|武部健一|2015|p=109}}。
=== 幕府の取り締まりと街道の発展 ===
五街道のなかでも、江戸幕府が最も重要視したのは東海道で、「[[入鉄砲出女]]」とよばれる交通政策がとられ、とりわけ関所における取り締まりが厳しかった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。入鉄砲とは、江戸に武器が入ってくることの取り締まりを指し、出女とは、[[参勤交代]]制度のために、人質として江戸に住まわせた諸大名の妻子らが、江戸から脱出させないために監視することを指す{{sfn|浅井建爾|2001|p=95}}。
五街道は、それに付属する脇街道とともに参勤交代などの公用のために幕府によって整備された道であったが、参勤交代によって宿場をはじめとする街道筋に大きな経済効果をもたらし、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用されるようになり、ますます栄えていった{{sfn|浅井建爾|2001|p=95}}。
=== 街道の規格・構造 ===
[[File:Tokaido1825.jpg|thumb|[[幕末]]における東海道の松並木]]
慶長9年(1604年)の布令には、徳川幕府2代将軍[[徳川秀忠|秀忠]]により諸国に道路をつくるべきとあり、関東・奥州や[[木曽路]]を含めてその広さを5間、[[一里塚]]は5間四方と『[[当代記]]』には記されている{{sfn|武部健一|2015|p=126}}。その他の資料にも道幅は5[[間]]と記されているものが多くあるが、[[並木#植物|並木]]敷きを含むかについては街道を建設する上での疑問があり、江戸時代中期の[[寛政]]元年([[1789年]])に並木敷きを両側9尺以上確保した上で道幅は2間以上あればよいとの回答文書が出されている{{sfn|武部健一|2015|p=127}}。
五街道の実態については、江戸時代末期に発行された『宿村大概帳』という現代の道路台帳に匹敵する資料に詳しく残されており、標準的な道幅はおおよそ3間から4間(5.4 - 7.2[[メートル]])、江戸に近いところでは5間(9メートル)というところが多い{{sfn|武部健一|2015|pp=127–128}}。また、[[駿府城]]や[[浜松城]]の付近には道幅6 - 8間(10.8 - 14.4メートル)というところもみられ、[[箱根峠]]、[[宇津ノ谷峠]]、[[鈴鹿峠]]などの山間部では道幅2間(3.6メートル)とされている{{sfn|武部健一|2015|p=128}}。坂道の勾配については、山道以外のところで最大10 - 13[[パーセント]]、箱根峠で最大30 - 35パーセント程度あったとの調査結果が出されている{{sfn|武部健一|2015|p=128}}。
[[File:Old Tokaido -04.jpg|thumb|150px|箱根旧街道の石畳]]
路面構造は、馬車が発展しなかった江戸時代において徒歩を基準としており、徳川幕府3代将軍[[徳川家光|家光]]の時代にあたる[[慶安]]元年([[1648年]])、江戸市街の「道路築方並びに浚方」に道路の補修方法について出された布令には、道路の悪いところに浅草砂に海砂を混ぜた上質砂で敷きならして中高に築き、道路の溝が停滞しないように浚うことと指示されている{{sfn|武部健一|2015|pp=128–129}}。このほか、運送が盛んだった伏見 - 京都間や大津 - 京都間の街道では牛車用の車道と人馬道を歩車分離の考え方で区分し、2条の輪道に花崗岩の厚板の車石を敷き並べ、牛道には砂利を敷きならした{{sfn|武部健一|2015|pp=129–130}}。江戸時代後期にあたる[[文久]]3年([[1863年]])の14代将軍[[徳川家茂|家茂]]上洛の際には、箱根の山道を改修して丸石で舗装したという記録が残されており、現在の箱根の旧街道にも往時の石畳がよく残されている{{sfn|武部健一|2015|p=130}}。
幕末期に来日したイギリス駐日公使[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]は、東海道を指して道路の整備状況について、道幅が広く平坦で、十分に砕石で突き固められていて、両側の並木により通行者を日差しから守り、ヨーロッパの最も立派な道と比肩する大変高い価値のあるものと評価している{{sfn|武部健一|2015|pp=130–131}}。
=== 維持管理 ===
五街道を総括管理していたのは[[道中奉行]]で、日常的な管理組織の基準はあきらかではないが、原則的に道中奉行が街道の維持管理の執行を沿道の宿村に割り当てて、その執行責任を負わせた{{sfn|武部健一|2015|p=131}}。交通量によっては沿道地区村で間に合わない場合があり、沿道に直接接しない周辺の村々にも割り当てが及び、その割り当てられたそれぞれの区間を掃除丁場(そうじちょうば)といった{{sfn|武部健一|2015|p=131}}。村々から掃除丁場までの距離は、大半は1里未満であったが、最も遠いところでは5里というところも見られ、5里以上離れた村への割り当ては見られていない{{sfn|武部健一|2015|p=131}}。こうした村々への割り当ては[[助郷]]制度にも見られ、割り当てられた村は重複していたと推察されている{{sfn|武部健一|2015|p=131}}。ただし、峠越えなどの山中では形式上は沿道村負担としながらも、実質的に藩主負担としていたり、沿道の実情に合わせて配慮がなされていたとみられている{{sfn|武部健一|2015|p=132}}。
また、並木の管理は沿道の宿村には任されず、その土地の管理区分に従って幕府直轄地では代官が、私領地では大名が責任を負った{{sfn|武部健一|2015|p=139}}。
=== 街道並木 ===
[[画像:suginamiki2.jpg|thumb|150px|[[日光杉並木]](栃木県日光市)]]
五街道では並木が植えられており、樹種は植えられている場所の標高によって異なり、平地では松が大部分を占め、杉・竹・落葉樹などがそれに続くが、標高が高くなるに従って杉と竹が割合を多く占めた{{sfn|武部健一|2015|p=139}}。植えられ方については道の左右片側だけの場合や、両側に揃っていた場合などまちまちで、場所によっては並木が存在していなかったところもあったと見られている{{efn|東海道の神奈川県下における『宿村大概帳』の記載に基づく統計的な調査では、全体として43.5パーセントに並木が存在していたと見られている{{sfn|武部健一|2015|p=139}}。}}。設置した当初の目的を示す史料は見つかっておらず、はじめは通行者の便宜のために植えられたものと考えられている{{sfn|武部健一|2015|pp=139–140}}。しかし、時代の経過とともに設置の目的も変化しており、街道設置からおよそ160年後にあたる江戸時代中期の[[宝暦]]12年([[1762年]])の布達「東海道筋並木之儀」では、並木とその周辺の田畑との間に定杭を立てるように指示が出されていて、並木が街道の幅を確保するための手段となっていることを伺わせている{{sfn|武部健一|2015|pp=139–140}}。
[[日光杉並木|日光街道杉並木]]は別な目的で植えられた例であり、[[松平正綱]]が主君家康の菩提を弔うために、自費で20年以上の歳月をかけて植え続けたものである{{sfn|武部健一|2015|p=140}}。
現在では並木のほとんどは[[昭和時代]]に入って[[国道]]の拡幅工事などで伐採されてしまい、当時の街道の状態を残している場所、とりわけ並木がある街道で往時の面影を残すものは少ないが、[[日光杉並木]]や[[草加松原]]などは当時の状況を視覚的によく残す貴重な歴史的遺産となっており{{sfn|武部健一|2015|p=141}}、「[[日本の道100選]]」にも選定されている。
=== その他の五街道の解釈と定義 ===
江戸幕府が上記五路をもって五街道としていた旨は、[[明治新政府]]が編纂した[[古事類苑]]地部道路の概説にもあり、これには以下の趣旨が書かれている。
* 徳川幕府は、[[江戸]]を起点とする東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中を五街道と称したこと
* 五街道のほか、水戸佐倉街道、伊勢路、中国路等を本海道と称したこと
* その他の支路を脇往還と称すること
実際には、江戸幕府が作成した伝馬宿拝借銭覚という書で日光道中と奥州道中を一つに合わせて[[佐倉街道]]をその書内で挙げていたり、また驛肝録も同様に佐倉街道を挙げながらもそれを水戸道中と称したりと、常に一貫した用い方がなされていた訳でもない<ref>徳川禁令考五十二拝借銭による。</ref>。
なお、[[千住宿]]から派生して途中まで道中奉行の管轄下にあった[[水戸街道]](水戸道中)を五街道に加えるという考え方も存在し、『[[地方凡例録]]』では途中[[宇都宮宿]]まで日光街道と重複する奥州街道を除いて水戸街道を加えている。また、[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])には江戸幕府が五街道に加えて水戸街道及びその脇街道であった[[成田街道|佐倉街道]](成田街道)を'''七街道'''としてその発着地の確認が行われている。ただし、道中奉行支配の地域は水戸街道は[[松戸宿]]まで、佐倉街道は[[八幡宿 (下総国)|八幡宿]]までと街道全体から見ても短い区間に限定されており、水戸・佐倉両街道は日光・奥州両街道の脇街道と位置づけられるのが通説である<ref>深井甚三「五街道」(『歴史学事典 14 <small>ものとわざ</small>』(弘文堂、2006年) ISBN 978-4-335-21044-0 P192-193)</ref>。<br>
「五街道」とは東海道など5幹線およびそれに付属する街道も含んでおり、5つの幹線を「五街道」と呼んでいたというよりは、道中奉行の管轄する街道の道筋を網羅した道筋の総称が「五街道」だったとの意見もある<ref>{{Harvtxt|渡辺|2000|pp=29-30}}</ref>。
{| class="wikitable"
|+ 五街道の路線別延長、宿場間距離<ref>武部(1985)、4頁。</ref>
! 街 道 名 !! 起 点 !! 終 点 !! 距離(km) !! 宿駅数 !! 宿駅間平均距離(km) !! 区間数
|-
! 東海道
| 江戸日本橋
| 大阪
| 575
| 58
| 9.7
| 59
|-
! 中山道
| 江戸日本橋
| 草津
| 530
| 67
| 7.8
| 68
|-
! 日光道中
| 江戸日本橋
| 日光
| 150
| 21
| 6.8
| 22
|-
! 奥州道中
| 宇都宮
| 白河
| {{0}}84
| {{0}}9
| 8.4
| 10
|-
! 甲州道中
| 江戸日本橋
| 下諏訪
| 214
| 22
| 9.3
| 23
|- style="border-top: 2px solid gray"
! colspan="3" | 計
| 1553
| 177
| 8.5
| 182
|}
=== 現在に受け継がれる五街道 ===
[[File:R20 otsuki sasago.JPG|thumb|現在でも通称「甲州街道」とよばれる[[国道20号]](山梨県大月市)]]
江戸時代に整備された五街道は、明治維新により幕藩体制が崩壊した後も新政府によって国道の経路に指定されて、その道筋は現在の一般国道にも受け継がれている。東海道は[[国道1号]]に、中山道は[[国道17号]]・[[国道18号]]・[[国道142号]]・[[国道20号]]・[[国道19号]]・[[国道21号]]・[[国道8号]]の7本の路線に、日光街道は[[国道4号]]と[[国道119号]]に、奥州街道は国道4号に、甲州街道は[[国道20号]]にそれぞれ機能している{{sfn|浅井建爾|2015|p=115}}。当時の松並木や一里塚の大部分は失われたが、随所には当時の宿場や並木、一里塚が残されており、往時の面影を見ることができる{{sfn|浅井建爾|2015|p=115}}。
== 五街道以外の主要街道 ==
{{see also|脇往還}}
五街道から分岐する主要街道のことを脇街道(脇往還)とよぶ{{sfn|浅井建爾|2015|p=114}}。五街道の付属街道として[[万治]]2年([[1659年]])に[[道中奉行]]の管轄にあった<ref>豊田・児玉(1970)105頁。</ref>。五街道に付属していた街道は「[[佐屋路]]・[[美濃路]]・[[日光例幣使街道|例幣使街道]]・[[壬生通]]・[[佐倉街道#水戸佐倉道|水戸佐倉道]]・[[本坂通]]などのほか[[日光御成道|日光法成道]]」があった<ref>豊田・児玉(1970)107頁。</ref>。
* [[佐屋街道|佐屋路]]:東海道宮宿(熱田宿)から桑名宿に至る街道。東海道の七里の渡しを迂回し、宮宿から、佐屋路の佐屋宿までの陸路、佐屋宿から木曽川の三里の渡しを経て東海道桑名宿に至る。
* [[美濃路]]:東海道[[宮宿]]([[熱田区|熱田]])から中山道[[垂井宿]]に至る街道。東海道の[[鈴鹿峠]]・[[七里の渡し]]、中山道の[[太田の渡し]]等の難所を迂回できた。
* [[日光例幣使街道]]:中山道[[倉賀野宿|倉賀野]]から日光へ至る街道。
*[[壬生通り|壬生通]]:日光街道[[小山宿]](の北の喜沢追分)から壬生宿・鹿沼宿を経由して日光街道今市宿へ至る道。日光西街道。
*[[水戸街道]]:日光街道・奥州街道の脇街道。江戸から仙台まで太平洋岸をたどる街道を総称して「浜街道」といい、[[徳川御三家]]のひとつが置かれていた[[水戸市|水戸]]までを「水戸街道」と称する。
*佐倉道:中央より佐渡に通じる陸海路。古代の駅路は北陸道で小路。海路は越前敦賀津より渡船し,越中亘理湊 (わたりみなと) を経て佐渡にいたる。近世には脇街道として,中山道より分岐する北国,三国の両街道,日光・奥州道中より分岐する会津街道などがあった。 (→北国街道 , 三国街道 )
*[[本坂通]]:東海道[[見附宿]]と[[御油宿]]を結ぶ[[街道]]である。[[浜名湖]]の北側、本坂峠を経由して道程約60キロメートル。中世以降、本坂峠を経由したことから本坂越、本坂道、本坂街道などと呼ばれた。 幕末頃から[[姫街道 (東海道)|姫街道]]の呼称が見られている。
*[[日光御成道]]:将軍が[[日光東照宮]]参詣の為に利用した街道。本郷追分で中山道から分かれ、岩淵宿や[[岩槻区|岩槻]]を経由して[[幸手市|幸手]]で日光街道と合流する。「日光御成街道」、「岩槻街道」とも呼ばれる。
五街道の枝道、また古街道として[[脇往還]]が設置され、[[勘定奉行]]の管轄に置かれた。
*[[伊勢参宮街道]]:日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道。伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道と呼ばれる。
*[[伊勢路 (熊野古道)|伊勢路]]:伊勢国・伊勢神宮から熊野三山へ通じる参詣道で、熊野古道のひとつ。『東海道中膝栗毛』にも登場する。古くからの交通路で「伊勢へ七度、熊野へ三度」と呼ばれる信仰の路であった。
*[[中原街道]]:江戸から平塚間をほぼ直線につなぐ脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。東海道は大名行列が通る為、その煩わしさを嫌う庶民が利用した。
*[[川越街道]]:中山道の脇街道。板橋宿より川越城に至る。現在の川越街道は1941年(昭和16年)に新道として整備されたもので、宿場のあった川越街道は旧川越街道などと称され、区間によっては平行している。
**[[川越児玉往還]]:川越街道を往還として呼ぶ場合、川越街道と川越城下から上州[[藤岡市|藤岡]]へ至る「[[児玉街道]]」を総称して川越児玉往還と指定された。児玉街道は川越街道の延長路に当たるため、便宜的に両者を総称して川越街道と呼称することもある。
*[[鎌倉街道]]:鎌倉に直通できるように作られた軍事道路。上道・中道・下道があった。
*[[矢倉沢往還|大山街道]]:神奈川県大山参りへの街道。
*[[北陸道]]:北国街道から[[加賀国]][[金沢市|金沢]]、[[近江国]][[木之本町|木之本]]を経て中山道に至る。
*[[北国街道_(信越)|北国街道]]:中山道[[追分宿]]から分かれ、[[善光寺]]を経て[[越後国]][[高田市|高田]]へ至る街道。
*[[三国街道]]:中山道[[高崎宿]]から分かれ、[[越後国]][[寺泊町|寺泊]]へ至り、[[佐渡国]]へ渡る街道。現在は[[国道17号]]が通る。
*[[京街道 (大坂街道)]]:東海道終点の京(三条大橋)から大坂へ向かう街道。
*[[大和の古道]]:大和地方を貫通する飛鳥・奈良時代の街道。
*[[高野街道]]:京、大坂から高野山への参詣道。
*[[西国街道]]:京から大坂を経由せずに下関へ向かう街道。[[江戸時代]]における[[山陽道]]の呼称で、公称中国道。幕府の道中奉行が管轄した五街道に次ぐ重要な道であった。
*[[奥州街道]](延長部):道中奉行直轄の[[白河市|白河]]以南の延長部にあたり、最終的に[[函館市|函館]]まで至る主要街道。主に奥州街道の名称が多く使われ、そのほかに[[陸羽街道]]・江戸海道・松前道・外が浜道など様々に呼称する場合がある。
*[[羽州街道]]:中桑折宿から小坂峠・金山峠を越えて山形、秋田から青森へ至る街道。
*[[会津西街道]]:日光街道の[[今市宿]]から[[会津]]の[[若松城|若松城下]]へ至る街道。下野街道とも呼称され、会津や[[出羽国]]・[[越後国]]の藩が、参勤交代時に使用した重要な街道である。
*[[米沢街道]]:若松城下から[[米沢城|米沢城下]]へ向かう街道。会津街道とも呼ばれていた。
*[[山陰街道|山陰道]]:京から丹波を経て山陰地方へ向かう街道。
*[[金毘羅街道]]:[[金刀比羅宮]]への参詣道。
*[[讃岐街道]]:[[讃岐国]]に至る街道。
*[[土佐街道]]:[[土佐国]]に至る街道。
*[[日光脇往還]]:[[甲州街道]][[八王子市|八王子]]から[[日光市|日光]]へ向かう日光街道の脇往還。
*[[秩父往還]]:中山道[[熊谷宿]]から[[秩父市|秩父大宮]]を経て甲州[[甲府市|甲府]]へ至る街道。
*[[長崎街道]]:山陽道につながる[[小倉北区|豊前小倉]]から[[長崎市|長崎]]へ到る街道。
*[[薩摩街道]]:長崎街道より分岐し、山家宿から[[鹿児島城]]に至る街道
*[[飯田街道]]:徳川家康によって作られた、尾張名古屋から信州飯田に至る街道。
*[[東金御成街道]]:将軍が鷹狩をする為に[[土井利勝]]によって造成された街道。[[船橋市|船橋]]から[[上総国]][[東金市|東金]]へ至る。初代[[徳川家康|家康]]から三代[[徳川家光|家光]]までが下向した。
*佐渡路:
*塩の道:海岸から山中へ海産物を運ぶために使用された道の総称。特に[[中部地方]]の[[塩の道 (日本)|塩の道]]が有名。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* 武部健一「招待論文 日本幹線道路網の史的変遷と特質」『土木学会論文集』第359集Ⅳ-3、土木学会、1985年、1-16頁。
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* 豊田武、児玉幸多編『体系日本史叢書』24、交通史、山川出版、1970年。
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
* 渡辺和敏 『東海道の宿場と交通』2、静岡新聞社〈東海道双書〉、2000年。ISBN 4-7838-1071-0。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Five Routes of the Edo period}}
* [[街道てくてく旅]]
* [[街道をゆく]]
* [[宿場]]
* [[関所]]
* [[徒歩旅行]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* [http://home.b05.itscom.net/kaidou/index.html 五街道の旅ホームページ]
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:こかいとう}}
[[Category:街道]]
[[Category:江戸時代の経済]]
[[Category:江戸時代の交通]]
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アンリ・ポアンカレ
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ジュール=アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré、フランス語: [ɑ̃ʁi pwɛ̃kaʁe] ( 音声ファイル)、1854年4月29日 - 1912年7月17日)は、フランスの数学者、理論物理学者、科学哲学者。数学、数理物理学、天体力学などの分野で重要な基本原理を確立し、多大な功績を残した。フランス第三共和政大統領・レイモン・ポアンカレは従兄弟。ナンシー生まれ。
位相幾何学の分野では、トポロジー概念の発見や、ポアンカレ予想など、重要な活躍をしている。また、フックス関数(現在で言うところのモジュラー形式)と非ユークリッド幾何学との結びつきについての数学的な発見をした際に、その過程の詳しい叙述を残して、その後の数学研究の心理学的側面の研究にも影響を与えた。
その他、ヒルベルトの形式主義に対する批判をして、初期の直観主義の立場を表明した。電子計算機がない時代にカオス的挙動について言及した点でも特筆され、後に「バタフライ効果」と呼ばれる予測不能性などが著書の中で触れられている。
広い範囲で生産的な活動をしたが、その論文には多くの不正確な部分がある。数学者のジャン・ガストン・ダルブーはポアンカレの学位論文を読んで、その曖昧さを指摘している。何よりも直感を信じるポアンカレの立場は「数学者とは不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである」という彼の言葉が示す通りであった。
1854年4月29日、ムルト=エ=モゼルのナンシーにあるシテドゥカーレ地区で、地元の名士の家に生まれた。父のレオン・ポアンカレ(1828年 - 1892年)は、医学者、ナンシー大学教授であった。アンリの妹のアラインは心霊主義哲学者のエミール・ブートルーと結婚した。1913年から1920年までフランス大統領を務め、アンリと同じくアカデミー・フランセーズ会員に選出されたレイモン・ポアンカレは従兄弟である。
幼少期は重度のジフテリアで、母親のユージニー・ラウノワ(1830–1897)から特別な指導を受けた。
1862年、アンリはナンシーのリセに入学した。このリセは、現在、同じくナンシーにあるアンリ・ポアンカレ大学とともに、彼の名誉を讃え、リセ・アンリ・ポアンカレに改名された。
リセで11年間過ごし、この間、全科目でトップクラスの成績を修め、特に作文に優れていた。数学教師はアンリを「数学の怪物」と評し、全国のリセのトップ生徒の間で行われるコンクール・ジェネラル(Concours Général)で優勝した。彼の最も苦手な科目は音楽と体育であり、彼は「たかだか平均的」と評されたが、視力の低下や放心の傾向が原因である可能性が高い。1870年の普仏戦争では、父親と共に救急隊で奉仕した。1871年、リセを卒業。
1873年、首席級でエコール・ポリテクニークに入学し、1875年に卒業した。同校では、シャルル・エルミートの下で数学を学び、優秀な成績を残し続け、1874年に最初の論文(Démonstration nouvelle des propriétés de l'indicatrice d'une surface)を出版した。
1875年11月から1878年6月まで高等鉱業学校(エコール・デ・ミンヌ)で学び、鉱業工学のシラバスに加えて数学の研究を続け、1879年3月に学位を取得した。
同校卒業後は、フランス北東部のヴズール地域の検査官として鉱山技師団 (フランス)(フランス語版)に加わった。1879年8月、マグニーの鉱山災害の担当現場で18人の鉱山労働者が亡くなった際は、徹底的かつ人道的な手法によって事故の公式調査を行った。
また、ポアンカレはエルミートの下で数学の理学博士号を取得する準備をしていた。博士論文は微分方程式に関するもので「Sur les propriétés des fonctions définies par les équations aux différences partielles」と題された。ポアンカレは、微分方程式の特性を研究する新しい方法を考案し、微分方程式の積分の決定という問題に直面しただけでなく、それらの一般的な幾何学的特性を研究した最初の人物でもあった。ポアンカレは、微分方程式が太陽系内で自由運動している複数の物体の振る舞いをモデル化するために使用できることを発見した。1879年、パリ大学を卒業。
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ジュール=アンリ・ポアンカレは、フランスの数学者、理論物理学者、科学哲学者。数学、数理物理学、天体力学などの分野で重要な基本原理を確立し、多大な功績を残した。フランス第三共和政大統領・レイモン・ポアンカレは従兄弟。ナンシー生まれ。
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{{ 出典の明記|date=2012年5月 }}
{{Infobox_Scientist
| name = アンリ・ポアンカレ<br >Henri Poincaré
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| caption = <!--ポアンカレ(『晩年の思想』(1913年)の口絵より)-->
| birth_date = [[1854年]][[4月29日]]
| birth_place = {{FRA1852}}・[[ロレーヌ地域圏]][[ナンシー]]
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'''ジュール=アンリ・ポアンカレ'''({{fr|Jules-Henri Poincaré}}、{{IPA-fr|ɑ̃ʁi pwɛ̃kaʁe|lang|Fr-Henri Poincaré.ogg}}、[[1854年]][[4月29日]] - [[1912年]][[7月17日]])は、[[フランス]]の[[数学者]]、[[理論物理学者]]、[[科学哲学|科学哲学者]]。[[数学]]、[[数理物理学]]、[[天体力学]]などの分野で重要な基本原理を確立し、多大な功績を残した。[[フランス第三共和政]][[共和国大統領 (フランス)|大統領]]・[[レイモン・ポアンカレ]]は[[いとこ|従兄弟]]。[[ナンシー]]生まれ。
== 概要 ==
===業績===
[[File:Curie and Poincare 1911 Solvay.jpg|thumb|240px|[[マリ・キュリー|キュリー夫人]]と共に(第1回[[ソルベー会議]]・1911年)]]
[[位相幾何学]]の分野では、[[トポロジー]]概念の発見や、[[ポアンカレ予想]]など、重要な活躍をしている。また、[[ラザルス・フックス|フックス]]関数(現在で言うところの[[モジュラー形式]])と[[非ユークリッド幾何学]]との結びつきについての数学的な発見をした際に、その過程の詳しい叙述を残して、その後の数学研究の[[心理学]]的側面の研究にも影響を与えた。
その他、[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]の[[形式主義 (数学)|形式主義]]に対する批判をして、初期の[[直観主義 (数学の哲学)|直観主義]]の立場を表明した。[[電子計算機]]がない時代に[[カオス理論|カオス]]的挙動について言及した点でも特筆され、後に「[[バタフライ効果]]」と呼ばれる予測不能性などが[[著書]]の中で触れられている。
===批判===
広い範囲で生産的な活動をしたが、その[[論文]]には多くの不正確な部分がある。[[数学者]]の[[ジャン・ガストン・ダルブー]]はポアンカレの[[学位論文]]を読んで、その曖昧さを指摘している。何よりも直感を信じるポアンカレの立場は「数学者とは不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである」という彼の言葉が示す通りであった。
== 生涯 ==
[[1854年]][[4月29日]]、[[ムルト=エ=モゼル県|ムルト=エ=モゼル]]の[[ナンシー]]にあるシテドゥカーレ地区で、地元の名士の家に生まれた。父のレオン・ポアンカレ(1828年 - 1892年)は、医学者、[[ロレーヌ大学|ナンシー大学]]教授であった。アンリの妹のアラインは[[フランス・スピリチュアリスム|心霊主義]]哲学者の[[エミール・ブートルー]]と結婚した。1913年から1920年までフランス大統領を務め、アンリと同じく[[アカデミー・フランセーズ]]会員に選出された[[レイモン・ポアンカレ]]は従兄弟である。
=== 教育 ===
幼少期は重度の[[ジフテリア]]で、母親のユージニー・ラウノワ(1830–1897)から特別な指導を受けた。
1862年、アンリはナンシーの[[リセ]]に入学した。このリセは、現在、同じくナンシーにあるアンリ・ポアンカレ大学とともに、彼の名誉を讃え、リセ・アンリ・ポアンカレに改名された。
リセで11年間過ごし、この間、全科目でトップクラスの成績を修め、特に作文に優れていた。数学教師はアンリを「数学の怪物」と評し、全国のリセのトップ生徒の間で行われるコンクール・ジェネラル(Concours Général)で優勝した。彼の最も苦手な科目は音楽と体育であり、彼は「たかだか平均的」と評されたが、視力の低下や放心の傾向が原因である可能性が高い。1870年の[[普仏戦争]]では、父親と共に救急隊で奉仕した。1871年、リセを卒業。
1873年、首席級で[[ポリテクニック|エコール・ポリテクニーク]]に入学し、1875年に卒業した。同校では、[[シャルル・エルミート]]の下で数学を学び、優秀な成績を残し続け、1874年に最初の論文(Démonstration nouvelle des propriétés de l'indicatrice d'une surface)を出版した。
1875年11月から1878年6月まで[[パリ国立高等鉱業学校|高等鉱業学校]](エコール・デ・ミンヌ)で学び、鉱業工学の[[シラバス]]に加えて数学の研究を続け、1879年3月に学位を取得した。
同校卒業後は、フランス北東部の[[ヴズール]]地域の検査官として{{仮リンク|鉱山技師団 (フランス)|fr|Corps des mines)}}に加わった。1879年8月、マグニーの鉱山災害の担当現場で18人の鉱山労働者が亡くなった際は、徹底的かつ人道的な手法によって事故の公式調査を行った。
また、ポアンカレはエルミートの下で数学の[[博士(理学)|理学博士号]]を取得する準備をしていた。博士論文は[[微分方程式]]に関するもので「Sur les propriétés des fonctions définies par les équations aux différences partielles」と題された。ポアンカレは、微分方程式の特性を研究する新しい方法を考案し、微分方程式の積分の決定という問題に直面しただけでなく、それらの一般的な幾何学的特性を研究した最初の人物でもあった。ポアンカレは、微分方程式が太陽系内で自由運動している複数の物体の振る舞いをモデル化するために使用できることを発見した。1879年、[[パリ大学]]を卒業。
== 受賞 ==
*[[王立協会外国人会員]] (1894年)
*オスカル賞(1889年)
*[[王立天文学会ゴールドメダル]](1900年)
*[[ボーヤイ賞]](1905年)
*[[マテウチ・メダル]](1905年)
*[[ブルース・メダル]](1911年)
== 主要著作 ==
*『[[常微分方程式]]――[[天体力学]]の新しい方法』 - ''Les méthodes nouvelles de la mécanique céleste'' (1893)
*『科学と仮説』 - ''La Science et l'hypothèse'' (1902)
*『科学の価値』 - ''La Valeur de la Science'' (1905)
*『科学と方法』 - ''Science et méthode'' (1908)
*『科学者と詩人』 - ''Savants et écrivains'' (1910)
*『晩年の思想』 - ''Dernières pensées'' (1913)
=== 日本語訳 ===
*{{Cite book|和書|others=[[福原満洲雄]]・[[浦太郎]] 訳・解説|year=1970|month=7|title=常微分方程式 天体力学の新しい方法|series=現代数学の系譜6|publisher=共立出版|isbn=4-320-01159-7|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320011595|ref=ポアンカレ1970b}}
*{{Cite book|和書|others=[[林鶴一]] 訳|date=1909-12-08|title=科学と臆説|publisher=大倉書店|id={{近代デジタルライブラリー|825790}}|ref=ポアンカレ1909}}
**{{Cite book|和書|others=村上正己 訳述|date=1926-03-27|title=科学と臆説|series=社会哲学新学説大系|volume=第14巻|publisher=新潮社|id={{近代デジタルライブラリー|982186}}|ref=ポアンカレ1926a}}
**{{Cite book|和書|others=[[河野伊三郎]] 訳|date=1938-02|title=科学と仮説|edition=|series=岩波文庫 1616-1618|publisher=岩波書店|id={{近代デジタルライブラリー|1238220}}|ref=ポアンカレ1938}}
**{{Cite book|和書|others=河野伊三郎 訳|date=1959-01|title=科学と仮説|edition=改版|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339021-0|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b270801.html|id={{近代デジタルライブラリー|2421886}}|ref=ポアンカレ1959}}
**{{Cite book|和書|year=1950|others=河野伊三郎 訳|title=ポアンカレ思想集|chapter=科学と仮説 第1|publisher=創元社|id={{近代デジタルライブラリー|1155144}}|ref=ポアンカレ1950b}}
**{{Cite book|和書|others=[[伊藤邦武]] 訳|date=2021-12|title=科学と仮説|edition=新訳|series=[[岩波文庫]]|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784003390290|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b595686.html|ref=ポアンカレ2021}}
**{{Cite book|和書|others=[[南條郁子]] 訳|date=2022-01|title=科学と仮説|series=[[ちくま学芸文庫]]|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=9784480510914|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480510914|id=|ref=ポアンカレ2022}}
*{{Cite book|和書|others=[[田邊元]] 訳|date=1916-06-25|title=科學の價値|publisher=岩波書店|id={{近代デジタルライブラリー|955170}}|ref=ポアンカレ1916}}
**{{Cite book|和書|others=田邊元 訳|year=1927|title=科學の價値|series=岩波文庫 69-70|publisher=岩波書店|ref=ポアンカレ1927b}}
**{{Cite book|和書|others=田辺元 訳|origdate=1937-07-25|year=2005|month=10|title=科学の価値|series=名著/古典籍文庫|edition=岩波文庫復刻版|publisher=一穂社|isbn=4-86181-115-5|url=|ref=ポアンカレ2005}}[[#ポアンカレ1927b|岩波書店1927年刊(第3刷)]]を原本とした[[オンデマンド印刷|オンデマンド版]]。
**{{Cite book|和書|others=田邊元 訳|date=2006-12-26|title=科學の價値|series=岩波文庫創刊書目復刻|publisher=岩波書店|isbn=4-00-355022-6|url=|ref=ポアンカレ2006}}
**{{Cite book|和書|others=[[矢野健太郎 (数学者)|矢野健太郎]] 訳|year=1951|title=科学の価値|series=創元科学叢書 第45|publisher=創元社|id={{近代デジタルライブラリー|1370445}}|ref=ポアンカレ1951}}
**{{Cite book|和書|others=[[吉田洋一]] 訳|year=1977|month=5|title=科学の価値|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339023-7|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b246987.html|ref=ポアンカレ1977}}
*{{Cite book|和書|others=山本修 訳|date=1925-12-18|title=科学と方法|series=フラマリオン社自然科学叢書 第4輯|publisher=叢文閣|id={{近代デジタルライブラリー|978912}}|ref=ポアンカレ1925a}}
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**{{Cite book|和書|others=吉田洋一 訳|year=1953|month=10|title=改訳 科学と方法|edition=|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339022-9|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b246986.html|id={{近代デジタルライブラリー|1372362}}|ref=ポアンカレ1953}}
*{{Cite book|和書|others=[[平林初之輔]] 訳|date=1928-06-10|title=科学者と詩人|series=岩波文庫 290-291|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339025-3|url=|id={{近代デジタルライブラリー|1226943}}|ref=ポアンカレ1928}}
**{{Cite book|和書|others=平林初之輔 訳|date=1946-06-15|title=科学者と詩人|series=岩波文庫 290-291|edition=第12刷(新装復刊2003年)|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339025-3|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b246989.html|id={{近代デジタルライブラリー|1062991}}|ref=ポアンカレ1946}}
**『科学者と詩人』平林初之輔訳、「科学図書館叢書」オンデマンド版 (ペーパーバック) 、2017年12月
*{{Cite book|和書|others=岡谷辰治 訳|date=1925-03-10|title=輓近の思想|series=フラマリオン社自然科学叢書 第2輯|publisher=叢文閣|id={{近代デジタルライブラリー|978910}}|ref=ポアンカレ1925b}}
**{{Cite book|和書|others=河野伊三郎 訳|origdate=1939-10|date=2003-02|title=晩年の思想|series=岩波文庫|edition=第5刷(新装復刊)|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339024-5|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b246988.html|id={{近代デジタルライブラリー|1904268}}|ref=ポアンカレ2003}}
*{{Cite book|和書|others=齋藤利弥 訳|date=1996-12-10|title=ポアンカレ トポロジー|series=数学史叢書|publisher=朝倉書店|isbn=4-254-11458-3|url=http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11458-4/|ref=ポアンカレ1996}}
;以下は部分収録
*{{Cite book|和書|editor=サイエンティフィック・アメリカン|others=[[遠山啓]]・[[小沢健一]] 訳|year=1970|title=現代数学の世界 3 数学とはどんな学問か|chapter=数学的創造|publisher=講談社|ref=ポアンカレ1970c}}
**{{Cite book|和書|editor=サイエンティフィック・アメリカン|others=遠山啓・小沢健一 訳|year=1974|title=現代数学の世界 3 数学とはどんな学問か|chapter=数学的創造|edition=選書判|series=ブルーバックス 233|publisher=講談社|ref=ポアンカレ1974}}
*{{Cite book|和書|others=矢野健太郎 訳|year=1960|title=世界大思想全集 [第2期] 第35 (社会・宗教・科学思想篇 第35)|chapter=科学の価値(抄)|publisher=河出書房新社|id={{近代デジタルライブラリー|2935144}}|ref=ポアンカレ1960}}
*{{Cite book|和書|others=[[静間良次]] 訳、[[湯川秀樹]]・井上健 責任編集|date=1970-06|title=現代の科学 Ⅱ|series=[[世界の名著]] 66|chapter=科学と仮説|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|ref=ポアンカレ1970a}}
**{{Cite book|和書|others=静間良次 訳、湯川秀樹・井上健 責任編集|date=1978-11|title=現代の科学 II|edition=普及版|series=中公バックス 世界の名著 80|chapter=科学と仮説|publisher=中央公論社|isbn=978-4-12-400690-2|url=|ref=ポアンカレ1978}}
*{{Cite book|和書|others=若林千鶴子 訳|editor=ブルースター・ギースリン|year=1975|title=三十八人の天才たち その創造過程|chapter=数字における創造|publisher=新樹社|ref=ポアンカレ1975}}
*{{Cite book|和書|others=[[寺田寅彦]] 訳|origyear=1951|year=1986|month=4|title=寺田寅彦全集 文学篇 第9巻|chapter=事実の選択・偶然|publisher=岩波書店|isbn=4-00-090989-4|ref=ポアンカレー1986}}
*{{Cite book|和書|author=Henri Poincare ほか著|others=[[東郷雄二]] 編著|year=1991|month=4|title=科学フランス語への招待|publisher=朝日出版社|isbn=4-255-30601-X|ref=ポアンカレ1991}}
*{{Cite book|和書|others=吉田洋一 訳、[[森毅]] ほか編集委員|date=2012-02|title=ちくま哲学の森 6 (驚くこころ)|chapter=数学上の発見|series=[[ちくま文庫]]|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-42866-0|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480428660/|ref=ポアンカレ2012}}
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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*[[上半平面]]
*[[多体問題]]
*[[特殊相対性理論]]
*[[非ユークリッド幾何学]]
*[[ポアンカレ写像]]
*[[ポアンカレ双対]]
*[[ポアンカレ予想]]
*[[ポアンカレ・ベンディクソンの定理]]
*[[ポアンカレ・ホップの定理]]
*[[ポアンカレ=バーコフの定理]](最終幾何定理)
*[[ポアンカレの回帰定理]]
*[[ポアンカレの定理]](第一積分の不存在定理)
*[[ポアンカレ (小惑星)]]
}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Henri Poincaré}}
{{Wikisourcelang|en|Henri Poincaré}}
{{Wikisourcelang|fr|Henri Poincaré}}
*[[井関清志]]{{Cite web|和書|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%EF%BC%88Jules%20Henri%20Poincar%26%23x00E9%3B%EF%BC%89// |title=ポアンカレ - Yahoo!百科事典 |publisher=[[小学館]] |accessdate=2013-06-25 |archiveurl=https://archive.is/JlaOb#selection-217.0-223.1 |archivedate=2013-06-25 |deadlinkdate= 2013年12月 }}
*{{Kotobank|ポアンカレ|2=デジタル大辞泉}}
*{{Gutenberg author|id=Henri_Poincaré}}
*{{MathGenealogy|id=34227}}
*{{MacTutor|id=Poincare|title=Henri Poincaré}}
{{アカデミー・フランセーズ|24|15|1908|1912|シュリ・プリュドム|アルフレッド・カピュ|ほあんかれ あんり}}
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IBM Db2
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IBM Db2 (あいびーえむ でぃーびーつー)は、1983年よりIBMが開発・販売するデータベース管理システムの1つであり、および当製品を中心としたデータ管理ソフトウェア群のブランド名。
旧称はIBM DB2、IBM Database 2など。DB2は関係データベースだが、2001年以降はオブジェクトデータベース機能やXMLデータベース機能なども持つ。DB2ファミリーは、IBMのソフトウェアブランドの1つであるIBM Information Management Softwareを構成する。データベース言語であるSQLを初めて採用した関係データベース管理システムと言われている。
稼働プラットフォームにより以下製品がある。
Db2はIBMの関係データベース用のミドルウェアである。1981年にメインフレームのDOS/VSEおよびVM/CMS用のSQL/DSが登場し、1983年のMVS用がDB2と名付けられ、1990年代にUNIX版やWindows版などが追加され、更にオブジェクト管理データベースを兼ねたORDBMSとなった。IBMは関係データベースの概念を世界で初めて提唱したが、製品の出荷はオラクルが先となった。特徴としては、大規模なデータベースを支える信頼性とスケーラビリティ、コストベースの照会最適化、メインフレーム用からパーソナルコンピュータ用までのマルチプラットフォーム対応などが挙げられる。
なお、IBMのデータベース関連のソフトウェアブランド名も従来は「DB2」で、多数の製品群でDB2ファミリーを形成した。しかし2001年のIBMによるInformix買収後は、ソフトウェアブランド名は徐々に「Information Management Software」に変更され、DB2ファミリーやInformixファミリーはその中の製品群となった。
DB2 (Database2) との名称は、1983年にメインフレーム用のRDBMSとして発表された際に、従来の階層型データモデルのデータベース管理システム(DBMS; IMS、DL/Iなど)との対比で与えられた。バージョン7、8ではDB2ユニバーサルデータベース (DB2 UDB) と称したが、バージョン9ではUDBの名称は消えた。
2017年6月、「Db2」にリブランドした。
プラットフォームのアーキテクチャに応じて、以下の製品構成に大別される(実際の製品名では、これらにバージョンやエディションを組み合わせる)。
Db2は長い歴史をもつソフトウェアである。一部の人々は、Db2がデータベース言語SQLを初めて採用した関係データベース管理システム (RDBMS) の製品だと考えている。
1980年にIBMはSystem/38(現在の System i)というコンピュータシステムをリリースした。System/38 では、そのシステムの中核部分に、RDBMSの機能を統合していた。1981年にIBM はSQL/DSというRDBMS製品をリリースし、1983年にはDB2 (Database2) をリリースした。SQL/DSとDB2は、IBMのメインフレームで動くRDBMSであった。IBMがRDBMを製品化する以前には、IBMで 1970年代に研究目的で開発されたRDBMSであるSystem Rがあった。SQL/DSとDB2は、IBMに勤めていたエドガー・F・コッド博士が 1969年に論文で発表した関係データベースの理論 (関係モデル) と、System Rが基礎となっている。
System Rは、IBMのサンノゼ研究所で 1970年代に行われた、関係モデルをソフトウェアとして実装するプロジェクトであった。System R で、コッドは関係データベースを扱う言語を必要とした。コッドはこのためにデータベース言語を設計し、Alphaという名前をつけた。IBMはこのとき、コッドが考案した関係データベースの理論に秘められた可能性を、軽視していた。そのためIBMは、関係データベースを実装するためのプログラマのチームをコッドに預けたが、このプログラマたちはもともとコッドの管理下にいた人々ではなかった。このプログラマたちは、関係モデルのいくつかの重要な構成要素を曲解してしまった。こうした混乱はあったものの、System Rプロジェクトは成功し、RDBMSが実用化できることが示された。
System Rの成果の一つが、データベース言語SEQUELである(コッドのAlphaとは別の言語)。SEQUELは、"Structured English QUEry Language" を略した呼称である。しかしSEQUELという名称は、当時すでに別の会社が登録商標としていた。そのためIBMは、"Structured Query Language" の短い呼称として、頭文字をとってSQLという名称に変え、現在に至っている。
データベースの歴史においては、Informixが自社の関係データベース管理システムInformixのエンジンをオブジェクト関係データベース管理システムのエンジンに改良したときのことが特筆される (Informix Universal Server) 。Informixは、Informixのデータベースエンジンの改良を、Illustraを買収して Illustraのユニバーサルサーバの技術を導入することによって、行った。Informixの動きをみて、オラクルとIBMも追随した。両社は、それぞれのデータベースエンジンを改良し、オブジェクト指向関係データベース管理システムの機能を、拡張機能として実装した。このとき、IBMはDB2を「DB2ユニバーサルデータベース」(DB2 UDB) という名称にしている。2001年に、IBMはInformixを買収した。その後、IBMはInformixの技術をDB2の製品群に導入している。現在 DB2 は、技術的にはオブジェクト関係データベース管理システム (ORDBMS) として位置づけられる。
長い間、DB2はIBMの汎用コンピュータ(System/370やSystem/390、AS/400など)のプラットフォームの上でしか動かなかった。先述したように、IBMのコンピュータSystem/38(後のAS/400、現在のSystem i)では、そのシステムの中核部分に、RDBMSの機能を統合していた。このRDBMSの機能には当初は名前がつけられていなかったが、1994年にDB2/400と名付けられた。DB2/400はDB2ソフトウェア群の一つと位置づけられている。DB2/400は、現在ではDB2 for IBM iという名称で呼ばれることが多い。
1990年代にIBMはDB2を他のプラットフォームに移植し、DB2はUNIX、Windowsサーバ、Linux(Linux on IBM System zも含む)、各社の携帯情報端末 (PDA) でも動くようになった。DB2の実装の細部は、一部、IBM DL/IとIBM IMSという階層型データベースが基になっている。IBMが近年開発した汎用コンピュータSystem zのOSである、z/VSEやz/VMで動作するDB2のバージョンも、利用することができるようになっている。少し前のDB2のバージョンは、OS/2向けにも提供されていた。
主なバージョンのリリース年月 (GA, General Available) は以下である 。以下の他に、DB2 Server for VSE and VMと、DB2 for i(IBM iの機能として提供)が存在する。
DB2ユニバーサルデータベース (Db2 UDB) は、いくつかのライセンス形態(エディション)で提供されている。汎用コンピュータにおける、データベース機能のない「エディション」では、ユーザは、自分たちが必要としないデータベース機能のために、金銭を支払う必要がない。他のエディションとして、ワークグループ、ワークグループアンリミテッド、エンタープライズサーバの、各エディションが提供されている。ハイエンドのエディションは、「DB2 UDB データウェアハウスエンタープライズエディション」(DWE) である。このエディション (DWE) は、オンライントランザクション処理 (OLTP) とビジネスインテリジェンス (BI) の複合したワークロードを、対象としたものであり、ビジネスインテリジェンスの機能を実装している。 DWEでは、いくつかのビジネスインテリジェンスの機能(データウェアハウス、ETL、データマイニング、OLAP拡張、インライン分析)が提供される。
z/OS向けのDB2 (DB2 for System z) は、z/OSプラットフォームに固有のライセンス形態で、利用することができる。z/OSは、IBMのメインフレームSystem/390の後継機種であるSystem zのOSである。DB2 UDBのバージョン8 以降、IBMはz/OS上でDB2を利用できるようにしている。DB2 for System zは、z/OS以外のプラットフォームのDB2との関係が、より密接になっている(それまでは、例えばデータベース言語SQLの文法が異なるなど、大きな違いがいくつかあった)。DB2 for System zは、いくつかの高度な機能を備えている。その中でも特筆すべき機能は、マルチレベルセキュリティ (MLS)、非常に大きな容量のテーブル、ハードウェアの機能を利用したデータ圧縮である。このような高度な機能は、z/OSが提供する優れた環境と、ユーザからの要望によって、実現された。DB2 for System z は、その第一級のオンライントランザクション処理 (OLTP) 性能と処理能力によって、人々に認知されていた。しかし現在DB2 for System zは、マテリアライズ照会表 (MQT) の導入など、ビジネスインテリジェンスの機能も備えつつある。オラクルのCEOのラリー・エリソンは、2003年10月に、並列シスプレックスを用いたDB2 UDB for z/OS(現在の DB2 for System z)に言及して、Oracle Databaseと競い合う唯一のデータベースであり尊敬と称賛に値する、と論評したことが、広く報道された。
DB2はオラクルのOracle Database、SAPのSAP HANAと激しいトップシェア争いをしている。DB2の主要な市場はメインフレーム、オフィスコンピュータの領域であったが、1990年代以降は、UNIX、パーソナルコンピュータ (PC) 向けのDB2もシェアを伸ばしている。2004年5月3日、IBMのデータベース開発と販売を統括するジャネット・パーナ (Janet Perna) は、IBMの主要な競争相手は、高度なトランザクション処理においてはOracle Databaseであり、意思決定支援システム (データウェアハウスなど) においてはNCRのTeradataであると、見解を述べている。また、2010年にSAPよりインメモリーデータベースSAP HANAがリリースされてからは従来基幹系システムや情報系システムにDB2やOracle Databaseを採用していた企業がSAP HANAに移行する事例も相次いで出てきており、2016年現在、大企業向けのデータベース管理システム市場はDB2、Oracle Database、SAP HANAの3大製品が占める構図になっている。
中小規模のデータベースにおいても、DB2は有力な存在であるが、多くの競争相手が存在している。Oracleは大規模データベースと同様に、中小規模のデータベースにおいても、DB2と激しく争っている。Oracle Databaseの他、商用ではマイクロソフトの Microsoft SQL ServerやSAP Sybase Adaptive Server Enterprise 、オープンソースではPostgreSQLやMySQLなどが有力な存在である。
z/OS向けのDB2 (DB2 for System z) は、z/OSプラットフォームにおいて非常に強く、正面から競合する相手はほとんど存在しないといってよいであろう。z/OSプラットフォームにおいては、Oracleがz/OSの顧客にLinux on IBM System z向けのOracleを採用するようはたらきかけている。ただしOracleを採用するケースでも顧客がDB2を捨てるわけではないようである。またCAが、同社のDatacomという関係データベースのz/OS向けのバージョンで、DB2に挑戦している。Datacomを採用するケースでもDatacomの顧客は多くの場合DB2を手放すわけではない。
メインフレームでは、DB2 for System z以外には、日本のメインフレーマー各社が自社開発したRDBMSが提供されている。
IBMおよびDB2は、トランザクション処理性能評議会 (TPC) のウェブサイトで公表されているTPC-C (OLTP) とTPC-H (データウェアハウス) のベンチマークにおいて、業界の首位もしくは首位に近い性能を示す常連である。
DB2は、Oracle Databaseと同じく、データベースを管理するためのユーザインタフェース (UI) として、コマンドラインユーザインタフェース (CUI) とグラフィカルユーザインタフェース (GUI) の両方を提供している。DB2のコマンドラインインタフェースを使う場合は、DB2に関してのある程度の知識が必要であるが、管理作業のスクリプト化や自動化が簡単にできる。DB2のGUIは、豊富なウィザードを使うことができ、まだDB2に習熟していない人にとって使いやすい。DB2のGUIは、マルチプラットフォームのJavaのアプリケーションソフトウェアである。
DB2では、非常に多くのプログラミング言語やプラットフォームに対応したアプリケーションプログラミングインタフェース (API) を、利用することができる。主要なものでは、Java、.NET FrameworkのCLI (CLR)、Ruby、Python、Perl、PHP、C++、C、REXX、PL/I、RPG、COBOL、FORTRAN などがある。DB2ではまた、EclipseとVisual Studioの統合開発環境 (IDE) に対しても、DB2を利用したソフトウェア開発を支援する機能を、統合的に使えるようにしている。
ジャネット・パーナ (Janet Perna) は、IBMソフトウェアグループのインフォメーション・マネジメント事業部で、部長 (General Manager) を務めていた。パーナは2005年7月にIBMを退職した。パーナの後は、アンブシュ・ゴヤール (Ambuj Goyal) がその地位を引き継いだ。
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IBM Db2 は、1983年よりIBMが開発・販売するデータベース管理システムの1つであり、および当製品を中心としたデータ管理ソフトウェア群のブランド名。 旧称はIBM DB2、IBM Database 2など。DB2は関係データベースだが、2001年以降はオブジェクトデータベース機能やXMLデータベース機能なども持つ。DB2ファミリーは、IBMのソフトウェアブランドの1つであるIBM Information Management Softwareを構成する。データベース言語であるSQLを初めて採用した関係データベース管理システムと言われている。 稼働プラットフォームにより以下製品がある。 Db2 (Linux、UnixおよびWindows用。LUWとも略される。)
Db2 for z/OS (z/OS用)
DB2 Server for VSE&VM (z/VSE及びz/VM用)
DB2 Server for i
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{{出典の明記|date=2017年11月}}
{{Infobox software
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'''IBM Db2''' (あいびーえむ でぃーびーつー)は、1983年より[[IBM]]が開発・販売する[[データベース管理システム]]の1つであり、および当製品を中心としたデータ管理ソフトウェア群のブランド名。
旧称は'''IBM DB2'''、'''IBM Database 2'''など。DB2は[[関係データベース管理システム|関係データベース]]だが、2001年以降は[[オブジェクトデータベース]]機能や[[XMLデータベース]]機能なども持つ。DB2ファミリーは、IBMのソフトウェアブランドの1つである[[IBM Information Management Software]]を構成する。[[データベース言語]]である[[SQL]]を初めて採用した関係データベース管理システムと言われている。
稼働プラットフォームにより以下製品がある。
* '''Db2''' ([[Linux]]、[[Unix]]および[[Microsoft Windows|Windows]]用。LUWとも略される。)
* '''Db2 for z/OS''' ([[z/OS]]用)
* '''DB2 Server for VSE&VM''' ([[VSE|z/VSE]]及び[[z/VM]]用)
* '''DB2 Server for i''' ([[IBM i]]用。IBM iのコンポーネント。)
== 概要 ==
Db2はIBMの関係データベース用の[[ミドルウェア]]である。1981年に[[メインフレーム]]の[[DOS/VSE]]および[[z/VM|VM/CMS]]用の'''[[SQL/DS]]'''が登場し、1983年の[[Multiple Virtual Storage|MVS]]用が'''DB2'''と名付けられ、1990年代に[[UNIX]]版や[[Microsoft Windows|Windows]]版などが追加され、更にオブジェクト管理データベースを兼ねた[[オブジェクト関係データベース管理システム|ORDBMS]]となった。IBMは関係データベースの概念を世界で初めて提唱したが、製品の出荷は[[オラクル (企業)|オラクル]]が先となった。特徴としては、大規模なデータベースを支える信頼性とスケーラビリティ、コストベースの[[クエリ最適化|照会最適化]]、メインフレーム用から[[パーソナルコンピュータ]]用までの[[クロスプラットフォーム|マルチプラットフォーム]]対応などが挙げられる。
なお、IBMのデータベース関連のソフトウェアブランド名も従来は「DB2」で、多数の製品群でDB2ファミリーを形成した。しかし[[2001年]]のIBMによる[[Informix]]買収後は、ソフトウェアブランド名は徐々に「Information Management Software」に変更され、DB2ファミリーや[[IBM Informix|Informixファミリー]]はその中の製品群となった。
== 名称 ==
DB2 (Database2) との名称は、1983年にメインフレーム用のRDBMSとして発表された際に、従来の[[階層型データモデル]]の[[データベース管理システム]](DBMS; [[IMS]]、[[DL/I]]など)との対比で与えられた。バージョン7、8ではDB2ユニバーサルデータベース (DB2 UDB) と称したが、バージョン9ではUDBの名称は消えた。
2017年6月、「Db2」にリブランドした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.publickey1.jp/blog/17/ibmdb2db2db2_developer_community_editionmacos.html|title=IBM、DB2を「Db2」にリブランド。開発者向け「Db2 Developer Community Edition」も無償公開。MacOS版も用意|date=2017-06-26|accessdate=2016-07-25|publisher=Publickey}}</ref>。
== 製品構成 ==
{{更新|section=1|date=2017年7月}}
[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]に応じて、以下の製品構成に大別される(実際の製品名では、これらにバージョンやエディションを組み合わせる)。
;DB2 for z/OS
:[[z/OS]]用。DB2ファミリーの元祖。[[クラスタリング]]はDISK共有モデル。
;DB2 Server for VSE and VM
:[[z/VSE|VSE]], [[z/VM|VM]]用。従来の「[[SQL/DS]] for VSE and VM」を改名したもの。
;DB2 for i
:[[OS/400|IBM i]]用。内部的にはH/W([[AS/400]]、iSeries、[[System i]]、[[Power Systems]] i Edition)標準の、H/WのRDBMS機能を使用している。単独製品ではなく、IBM i の標準機能として提供されている。
;DB2 for Linux, UNIX and Windows (DB2 for LUW)
:[[Linux]], [[AIX]], [[HP-UX]], [[Solaris]], [[Microsoft Windows|Windows]]用。従来の「DB2 for [[マルチプラットフォーム|Multiplatform]]」。ソフトウェアでRDBMS機能を実現している。オプションの[[クラスタリング]]はシェアードナッシングモデルだった。ただし2009年10月にAIXの特定のモデルのみDB2 pureScaleを用意しておりこちらはメインフレーム版のDB2およびOracleRACと同じDISK共有モデルを採用している。
== 歴史 ==
Db2は長い歴史をもつソフトウェアである。一部の人々は、Db2が[[データベース言語]][[SQL]]を初めて採用した関係データベース管理システム (RDBMS) の製品だと考えている。
[[1980年]]にIBMは[[System/38]](現在の [[System i]])というコンピュータシステムをリリースした。<!-- IBMは1978年に、System/38を翌1979年からリリースすると発表した。実際は予定が遅れて1980年にSystem/38がリリースされた。-->System/38 では、そのシステムの中核部分に、RDBMSの機能を統合していた。[[1981年]]にIBM は[[SQL/DS]]というRDBMS製品をリリースし、[[1983年]]にはDB2 (Database2) をリリースした。SQL/DSとDB2は、IBMの[[メインフレーム]]で動くRDBMSであった。IBMがRDBMを製品化する以前には、IBMで [[1970年代]]に研究目的で開発されたRDBMSである[[System R]]があった。SQL/DSとDB2は、IBMに勤めていた[[エドガー・F・コッド]]博士が [[1969年]]に論文で発表した[[関係データベース]]の理論 ([[関係モデル]]) と、System Rが基礎となっている。
System Rは、IBMのサンノゼ研究所で 1970年代に行われた、[[関係モデル]]をソフトウェアとして[[実装]]するプロジェクトであった。System R で、コッドは関係データベースを扱う言語を必要とした。コッドはこのために[[データベース言語]]を設計し、Alphaという名前をつけた。IBMはこのとき、コッドが考案した関係データベースの理論に秘められた可能性を、軽視していた。そのためIBMは、関係データベースを実装するための[[プログラマ]]のチームをコッドに預けたが、このプログラマたちはもともとコッドの管理下にいた人々ではなかった。このプログラマたちは、関係モデルのいくつかの重要な構成要素を曲解してしまった。こうした混乱はあったものの、System Rプロジェクトは成功し、RDBMSが実用化できることが示された。
System Rの成果の一つが、[[データベース言語]]SEQUELである(コッドのAlphaとは別の言語)。SEQUELは、"Structured English QUEry Language" を略した呼称である。しかしSEQUELという名称は、当時すでに別の会社が[[商標|登録商標]]としていた。そのためIBMは、"Structured Query Language" の短い呼称として、頭文字をとって[[SQL]]という名称に変え、現在に至っている。
[[データベース]]の歴史においては、[[Informix]]が自社の関係データベース管理システム[[Informix Dynamic Server|Informix]]のエンジンを[[オブジェクト関係データベース管理システム]]の[[エンジン]]に改良したときのことが特筆される ([[Informix Dynamic Server|Informix Universal Server]]) 。Informixは、Informixのデータベースエンジンの改良を、[[Illustra]]を買収して Illustraのユニバーサルサーバの技術を導入することによって、行った。Informixの動きをみて、[[オラクル (企業)|オラクル]]とIBMも追随した。両社は、それぞれのデータベースエンジンを改良し、[[オブジェクト指向]]関係データベース管理システムの機能を、拡張機能として実装した。このとき、IBMはDB2を「DB2ユニバーサルデータベース」(DB2 UDB) という名称にしている。2001年に、IBMはInformixを買収した。その後、IBMはInformixの技術をDB2の製品群に導入している。現在 DB2 は、技術的には[[オブジェクト関係データベース管理システム]] (ORDBMS) として位置づけられる。
長い間、DB2はIBMの[[メインフレーム|汎用コンピュータ]]([[System/370]]や[[System/390]]、[[AS/400]]など)のプラットフォームの上でしか動かなかった。先述したように、IBMのコンピュータ[[System/38]](後の[[System i|AS/400]]、現在の[[System i]])では、そのシステムの中核部分に、RDBMSの機能を統合していた<!--(正確に言うと、Microcodeを含むH/WレベルでRDBMSエンジンを実装している)-->。このRDBMSの機能には当初は名前がつけられていなかったが、[[1994年]]にDB2/400と名付けられた。DB2/400はDB2ソフトウェア群の一つと位置づけられている。DB2/400は、現在ではDB2 for [[IBM i]]という名称で呼ばれることが多い。
1990年代にIBMはDB2を他のプラットフォームに移植し、DB2は[[UNIX]]、[[Microsoft Windows|Windows]][[サーバ]]、[[Linux]](Linux on IBM [[System z]]も含む)、各社の[[携帯情報端末]] (PDA) でも動くようになった。DB2の実装の細部は、一部、IBM [[DL/I]]と[[IMS|IBM IMS]]という[[階層型データベース]]が基になっている。<!-- DL/IとIMSは、最初は[[階層型データベース]]として開発され、後に改良されて[[ネットワーク型データベース]] ([[CODASYL]]データベース) となっている。-->IBMが近年開発した汎用コンピュータ[[System z]]のOSである、z/VSEやz/VMで動作するDB2のバージョンも、利用することができるようになっている。少し前のDB2のバージョンは、[[OS/2]]向けにも提供されていた。
=== 年表 ===
主なバージョンのリリース年月 (GA, General Available) は以下である <ref>[http://www-06.ibm.com/jp/ibm/mugendai/no116/pdf/116m.pdf コンピュータの歴史 - 日本IBM]</ref> <ref>[http://www-01.ibm.com/software/support/lifecycle/ IBM Software Support Lifecycle]</ref>。以下の他に、DB2 Server for VSE and VMと、DB2 for i(IBM iの機能として提供)が存在する。
* メインフレーム版
** 1983年 DB2 (MVS版)リリース
** 1986年 DB2 R2 (MVS版)リリース
** 1997年6月 DB2 for OS/390 V5.1 リリース
** 1998年6月 DB2 for OS/390 V6.1 リリース
** 2001年3月 DB2 for OS/390 and z/OS V7.1 リリース
** 2004年3月 DB2 for z/OS V8.1 リリース
** 2008年2月 DB2 for z/OS V9.1 リリース
** 2010年10月 DB2 for z/OS V10 リリース
** 2013年10月 DB2 for z/OS V11 リリース<ref>{{Cite web|和書|title=IBM DB2 11 for z/OS: データと分析用のデータベース |url=https://www.ibm.com/common/ssi/rep_ca/8/760/JAJPJP13-0468/index.html |website=www.ibm.com |date=2013-10-01 |access-date=2022-07-15 |language=ja-JP}}</ref>
** 2016年10月 DB2 for z/OS V12 リリース<ref>{{Cite web|和書|title=IBM DB2 12 for z/OS は、業界をリードする IBM のメインフレーム・データ・サーバーがお客様のビジネスに提供する価値を拡張します |url=https://www.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/6/760/JAJPJP16-0486/index.html |website=www.ibm.com |date=2016-10-04 |access-date=2022-07-15 |language=ja-JP}}</ref>
** 2022年5月 Db2 for z/OS V13 リリース<ref>{{Cite web|和書|title=IBM Db2 13 for z/OS 最先端の AI イノベーションと機能拡張をもたらし、ハイブリッドクラウドとデジタルの世界におけるエンタープライズ・コンピューティングの基盤として強化されます |url=https://www.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/3/760/JAJPJP22-0003/index.html |website=www.ibm.com |date=2022-04-05 |access-date=2022-07-15 |language=ja-JP}}</ref>
* マルチプラットフォーム版
** 1993年 DB2 (AIX版) リリース
** 1994年 DB2 (Solaris、HP-UX版) リリース
** 1995年 DB2 (Windows版) リリース
** 1999年 DB2 (Linux版) リリース
** 2001年6月 DB2 Universal Database V7.2 リリース
** 2002年12月 DB2 Universal Database V8.1 リリース
** 2004年10月 DB2 Universal Database V8.2 リリース
** 2006年9月 DB2 V9.1(開発コード名:Viper)リリース
** 2007年12月 DB2 V9.5(開発コード名:Viper2)リリース
** 2009年6月 DB2 V9.7(開発コード名:Cobra)リリース
** 2012年4月 DB2 V10.1 リリース
** 2013年4月 DB2 V10.5 リリース<ref name="DB2 10.5 LUW">[http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/5/760/JAJPJP13-0245/index.html&lang=ja&request_locale=ja IBM DB2 10.5 for Linux, UNIX and Windows、IBM InfoSphere BigInsights V2.1、および IBM InfoSphere Streams V3.1]</ref>
** 2016年6月 DB2 V11.1 リリース
** 2019年6月 DB2 V11.5 リリース<ref name="DB2 11.5 LUW">[https://www-01.ibm.com/common/ssi/cgi-bin/ssialias?infotype=an&subtype=ca&appname=gpateam&supplier=760&letternum=JAJPJP19-0260 IBM Db2 V11.5 は、データ管理を自動化し、データの移動・変換作業を軽減し、AI 向けデータ・ワークロードをサポートするための機能拡張を提供します]</ref>
== エディション ==
DB2ユニバーサルデータベース (Db2 UDB) は、いくつかの[[ライセンス]]形態(エディション)で提供されている。汎用コンピュータにおける、[[データベース]]機能のない「エディション」では、ユーザは、自分たちが必要としないデータベース機能のために、金銭を支払う必要がない。他のエディションとして、ワークグループ、ワークグループアンリミテッド、エンタープライズサーバの、各エディションが提供されている。[[ハイエンド]]のエディションは、「DB2 UDB データウェアハウスエンタープライズエディション」(DWE) である。このエディション (DWE) は、[[オンライントランザクション処理]] (OLTP) と[[ビジネスインテリジェンス]] (BI) の複合したワークロードを、対象としたものであり、ビジネスインテリジェンスの機能を実装している。
DWEでは、いくつかのビジネスインテリジェンスの機能([[データウェアハウス]]、[[Extract/Transform/Load|ETL]]、[[データマイニング]]、[[OLAP]]拡張、インライン分析)が提供される。
[[z/OS]]向けのDB2 (DB2 for System z) は、z/OSプラットフォームに固有のライセンス形態で、利用することができる。z/OSは、[[IBM]]の[[メインフレーム]][[System/390]]の後継機種である[[System z]]のOSである。DB2 UDBのバージョン8 以降、IBMはz/OS上でDB2を利用できるようにしている。DB2 for System zは、z/OS以外のプラットフォームのDB2との関係が、より密接になっている(それまでは、例えばデータベース言語[[SQL]]の文法が異なるなど、大きな違いがいくつかあった)。DB2 for System zは、いくつかの高度な機能を備えている。その中でも特筆すべき機能は、マルチレベルセキュリティ (MLS)、非常に大きな容量のテーブル、[[ハードウェア]]の機能を利用した[[データ圧縮]]である。このような高度な機能は、z/OSが提供する優れた環境と、ユーザからの要望によって、実現された。DB2 for System z は、その第一級の[[オンライントランザクション処理]] (OLTP) 性能と処理能力によって、人々に認知されていた。しかし現在DB2 for System zは、マテリアライズ照会表 (MQT) の導入など、[[ビジネスインテリジェンス]]の機能も備えつつある。[[オラクル (企業)|オラクル]]のCEOの[[ラリー・エリソン]]は、2003年10月に、[[並列シスプレックス]]を用いたDB2 UDB for z/OS(現在の DB2 for System z)に言及して、[[Oracle Database]]と競い合う唯一のデータベースであり尊敬と称賛に値する、と論評したことが、広く報道された。<!-- [http://www.eweek.com/print_article2/0,1217,a=111046,00.asp] (リンク切れ) -->
== 競争相手 ==
DB2はオラクルの[[Oracle Database]]、[[SAP (企業)|SAP]]の[[SAP HANA]]と激しいトップシェア争いをしている。DB2の主要な市場は[[メインフレーム]]、[[オフィスコンピュータ]]の領域であったが、1990年代以降は、[[UNIX]]、[[パーソナルコンピュータ]] (PC) 向けのDB2もシェアを伸ばしている。2004年5月3日、[[IBM]]のデータベース開発と販売を統括するジャネット・パーナ (Janet Perna) は、IBMの主要な競争相手は、高度な[[トランザクション]]処理においてはOracle Databaseであり、意思決定支援システム ([[データウェアハウス]]など) においては[[NCR (企業)|NCR]]の[[Teradata]]であると、見解を述べている。また、2010年にSAPより[[インメモリデータベース|インメモリーデータベース]][[SAP HANA]]がリリースされてからは従来基幹系システムや情報系システムにDB2やOracle Databaseを採用していた企業がSAP HANAに移行する事例も相次いで出てきており、2016年現在、大企業向けのデータベース管理システム市場はDB2、Oracle Database、SAP HANAの3大製品が占める構図になっている。
中小規模のデータベースにおいても、DB2は有力な存在であるが、多くの競争相手が存在している。Oracleは大規模データベースと同様に、中小規模のデータベースにおいても、DB2と激しく争っている。Oracle Databaseの他、商用では[[マイクロソフト]]の [[Microsoft SQL Server]]や[[Adaptive Server Enterprise|SAP Sybase Adaptive Server Enterprise]] 、[[オープンソース]]では[[PostgreSQL]]や[[MySQL]]などが有力な存在である。
[[z/OS]]向けのDB2 (DB2 for System z) は、z/OS[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]において非常に強く、正面から競合する相手はほとんど存在しないといってよいであろう。z/OSプラットフォームにおいては、Oracleがz/OSの顧客に[[Linux]] on IBM [[System z]]向けのOracleを採用するようはたらきかけている。ただしOracleを採用するケースでも顧客がDB2を捨てるわけではないようである。また[[CA (企業)|CA]]が、同社のDatacomという関係データベースのz/OS向けのバージョンで、DB2に挑戦している。Datacomを採用するケースでもDatacomの顧客は多くの場合DB2を手放すわけではない。
メインフレームでは、DB2 for System z以外には、日本のメインフレーマー各社が自社開発したRDBMSが提供されている。
IBMおよびDB2は、[[トランザクション処理性能評議会]] (TPC) のウェブサイトで公表されているTPC-C ([[オンライントランザクション処理|OLTP]]) とTPC-H ([[データウェアハウス]]) の[[ベンチマーク]]において、業界の首位もしくは首位に近い性能を示す常連である。
== RDBMSとしての特徴 ==
; コストベースオプティマイザー
: クエリー最適化については、当初よりコストベースのオプティマイザーが実装されており、様々な実行計画から最適なプランをDB2が自動的に選択する。
; 読み取り一貫性
: 読み取り一貫性はロックにより実現される。ロックは必要に応じて自動的に行われるが、アプリケーションやデータベース構成パラメーターの設計が不適切な場合には、ロック・エスカレーションにより想定以上のロックが取得されたり、場合によってはデッドロックが発生するケースもある。ただし、その他の方式としてよくみられるMVCCに比較すると、更新前のデータを退避する必要が無いため、ストレージコストが少ないというメリットも存在する。
; 移植性
: 元々SQLがIBMから始まっているということもあって、SQL-92といった国際標準へ準拠度は高めである。また、v9.7よりOracle Databaseとの互換性強化のため、PL/SQLがサポートされた。
== その他 ==
DB2は、[[Oracle Database]]と同じく、[[データベース]]を管理するための[[ユーザインタフェース]] (UI) として、[[キャラクタユーザインタフェース|コマンドラインユーザインタフェース]] (CUI) と[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) の両方を提供している。DB2のコマンドラインインタフェースを使う場合は、DB2に関してのある程度の知識が必要であるが、管理作業の[[スクリプト言語|スクリプト]]化や自動化が簡単にできる。DB2のGUIは、豊富な[[ウィザード (ソフトウェア)|ウィザード]]を使うことができ、まだDB2に習熟していない人にとって使いやすい。DB2のGUIは、マルチ[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]の[[Java]]の[[アプリケーションソフトウェア]]である。
DB2では、非常に多くの[[プログラミング言語]]やプラットフォームに対応した[[アプリケーションプログラミングインタフェース]] (API) を、利用することができる。主要なものでは、[[Java]]、[[.NET Framework]]の[[共通言語基盤|CLI]] ([[Common Language Runtime|CLR]])、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]、[[Python]]、[[Perl]]、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]、[[C++]]、[[C言語|C]]、[[REXX]]、[[PL/I]]、[[RPG (プログラム言語)|RPG]]、[[COBOL]]、[[FORTRAN]] などがある。DB2ではまた、[[Eclipse (統合開発環境)|Eclipse]]と[[Microsoft Visual Studio|Visual Studio]]の[[統合開発環境]] (IDE) に対しても、DB2を利用した[[ソフトウェア開発]]を支援する機能を、統合的に使えるようにしている。
ジャネット・パーナ (Janet Perna) は、[[IBM]]ソフトウェアグループのインフォメーション・マネジメント事業部で、部長 (General Manager) を務めていた。パーナは2005年7月にIBMを退職した。パーナの後は、アンブシュ・ゴヤール (Ambuj Goyal) がその地位を引き継いだ。
== 参照 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[関係データベース管理システム]]
* [[IBM]]
* [[System R]] - DB2の元ともなったRDBMS
* [[SQL/DS]] - [[z/VSE|VSE]]や[[z/VM|VM]]で稼働するDB2の兄弟分
* [[IMS]] - IMS/TM(IMS/DC)とDB2の組み合わせが可能
* [[Informix]] - IBMによる買収後はDB2との技術共有が進められている
== 外部リンク ==
* [https://www.ibm.com/jp-ja/products/db2-database IBM DB2- 日本IBM]
* [https://www.ibm.com/jp-ja/products IBM 製品一覧]
* [https://www.ibm.com/jp-ja/products/software IBM ソフトウェア]
* [https://www.ibm.com/jp-ja/products/trials IBM 無料評価版]
* [http://www.ibm.com/software/data/ IBM DB2 product family web page]
** [https://www.ibm.com/jp-ja/products/db2-database/ DB2 Express-C] - DB2の無料版
* [http://www.ibm.com/jp/software/data/developer/ IBM DB2 Developer Domain - Japan]
* [http://www.ibm.com/developerworks/db2 IBM DB2 resources for developers]
* [http://blogs.ittoolbox.com/database/technology An Expert's Guide to DB2]
* [http://www.research.ibm.com/people/a/ambuj/ Ambuj Goyal's IBM Research home page]
* [https://db2usa.blogspot.com/ Blog about DB2 for z/OS]
* [http://db2usa2.free.fr/eliendb2.htm/ DB2usa - Links to DB2 for z/OS documents available on the web]
{{IBM}}
[[Category:データベース管理システム]]
[[Category:IBMのソフトウェア]]
[[Category:1983年のソフトウェア]]
|
2003-06-15T04:41:25Z
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2023-09-27T03:36:32Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/IBM_Db2
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10,046 |
巡回セールスマン問題
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巡回セールスマン問題(じゅんかいセールスマンもんだい、英: traveling salesman problem、TSP)は、都市の集合と各2都市間の移動コスト(たとえば距離)が与えられたとき、全ての都市をちょうど一度ずつ巡り出発地に戻る巡回路のうちで総移動コストが最小のものを求める(セールスマンが所定の複数の都市を1回だけ巡回する場合の最短経路を求める)組合せ最適化問題である。
問題例の大きさは、都市の数で表される。この問題は、計算複雑性理論においてNP困難と呼ばれる問題のクラスに属する。すなわち、問題例の大きさに関する決定性の多項式時間アルゴリズムが見つかりそうにない、計算量的に困難な問題である。なお、この問題の特殊ケースとして考えられるハミルトン閉路問題は、NP困難であると共にNP完全と呼ばれるクラスにも属するので、扱いが異なる。
都市間の移動コストが三角不等式を満たす、すなわち移動コストを距離と呼べる部分問題(あるいは制約つき問題)も、NP困難である。都市を平面上の点、都市間の距離を平面上のユークリッド距離とする部分問題は最も直感的で理解しやすいが、これも NP困難である。この部分問題は平面TSPなどと呼ばれ、実用上の応用も多く、またベンチマークの問題例としても距離関数の定義が自明なため頻繁に現れる。 都市の間の移動コストを 1 または 2 に制限しても、この問題は NP困難である。ハミルトン閉路問題は、移動コストを 1 または無限大に制限した TSP とみなすことができる。
一方で制約のない巡回セールスマン問題の直接の応用事例は無いと言ってもよい。逆に実際の応用事例では、より複雑な定義で配送計画や表面実装ロボットの動作計画などに適用される。
全ての経路を計算することで最適解を得る手法は時間計算量は O ( n ! ) {\displaystyle O(n!)} であり、都市数の増加に対して時間計算量が急速に増加するため、都市数が20以上になると現実的でない。 比較的効率的なアルゴリズムとしては時間計算量と空間計算量が共に O ( n 2 2 n ) {\displaystyle O(n^{2}2^{n})} である動的計画法を用いたヘルドカープのアルゴリズム(英語版)が存在する。
NP困難な問題は、任意の大きさの任意の問題例に対しての多項式時間アルゴリズムが存在しないと考えられているが、巡回セールスマン問題の場合、約2000都市以内の比較的小さい問題例に対して、あるいは問題例によっては解が得られないことがあってもよいのであれば、線形計画法と論理木を組み合わせた分枝限定法や、線形計画法と巡回群を組み合わせた切除平面法により、パーソナルコンピュータでおよそ1日以内で厳密解を得られることが多い。
厳密に最適解を求めることを放棄して計算時間を短くする方法は、リン・カーニハン・アルゴリズムなどの局所探索アルゴリズム、焼きなまし法、ホップフィールドネットワークあるいはボルツマン機械などのヒューリスティックアルゴリズムと、出力される解のコストと最適解のコストとの差をなんらかの形で保証する多項式時間近似アルゴリズムの二つに大別できる。
より複雑な定義の問題をあつかう解法としては、欧州では前述した分枝限定法、切除平面法、(前者2つをミックスした)分枝カット法といった厳密解法を用いることが多く、アメリカ合衆国では遺伝的アルゴリズム、タブー探索といった厳密に最適な解を保証しないヒューリスティックアルゴリズムを用いることが多い。
三角不等式が成り立つ TSP については多項式時間近似アルゴリズムが数多く存在する。 たとえば近似アルゴリズムが2(最悪でも出力が最適解の長さの2倍以内である)のアルゴリズム(最近追加法他)や近似度 1.5 のアルゴリズム(クリストフィードのアルゴリズム)が知られている。 近年、平面TSP には、近似率を任意に 1 に近づけることができるアルゴリズム、多項式時間近似戦略 PTAS が Arora によって与えられた。 ハミルトン閉路問題の多項式時間の厳密解が多項式時間で求められない(ハミルトン閉路問題はNP完全なのでP≠NPと同じ)なら三角不等式を満たさないTSPは近似率を保証する多項式時間のアルゴリズムはない。
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"text": "巡回セールスマン問題(じゅんかいセールスマンもんだい、英: traveling salesman problem、TSP)は、都市の集合と各2都市間の移動コスト(たとえば距離)が与えられたとき、全ての都市をちょうど一度ずつ巡り出発地に戻る巡回路のうちで総移動コストが最小のものを求める(セールスマンが所定の複数の都市を1回だけ巡回する場合の最短経路を求める)組合せ最適化問題である。",
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"text": "問題例の大きさは、都市の数で表される。この問題は、計算複雑性理論においてNP困難と呼ばれる問題のクラスに属する。すなわち、問題例の大きさに関する決定性の多項式時間アルゴリズムが見つかりそうにない、計算量的に困難な問題である。なお、この問題の特殊ケースとして考えられるハミルトン閉路問題は、NP困難であると共にNP完全と呼ばれるクラスにも属するので、扱いが異なる。",
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"text": "都市間の移動コストが三角不等式を満たす、すなわち移動コストを距離と呼べる部分問題(あるいは制約つき問題)も、NP困難である。都市を平面上の点、都市間の距離を平面上のユークリッド距離とする部分問題は最も直感的で理解しやすいが、これも NP困難である。この部分問題は平面TSPなどと呼ばれ、実用上の応用も多く、またベンチマークの問題例としても距離関数の定義が自明なため頻繁に現れる。 都市の間の移動コストを 1 または 2 に制限しても、この問題は NP困難である。ハミルトン閉路問題は、移動コストを 1 または無限大に制限した TSP とみなすことができる。",
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巡回セールスマン問題は、都市の集合と各2都市間の移動コスト(たとえば距離)が与えられたとき、全ての都市をちょうど一度ずつ巡り出発地に戻る巡回路のうちで総移動コストが最小のものを求める(セールスマンが所定の複数の都市を1回だけ巡回する場合の最短経路を求める)組合せ最適化問題である。
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[[ファイル:Branchbound.gif|thumb|400px|巡回セールスマン問題を総当たりで解く場合のイメージ。左側で一つずつ探していき、より効率のいいルートが見つかった場合、右側のグラフが更新される。]]
'''巡回セールスマン問題'''(じゅんかいセールスマンもんだい、{{lang-en-short|traveling salesman problem}}、'''TSP''')は、都市の集合と各2都市間の移動コスト(たとえば距離)が与えられたとき、全ての都市をちょうど一度ずつ巡り出発地に戻る巡回路のうちで総移動コストが最小のものを求める([[営業職|セールスマン]]が所定の複数の都市を1回だけ巡回する場合の最短経路を求める)[[組合せ最適化]]問題である。
== 詳細 ==
問題例の大きさは、都市の数で表される。この問題は、[[計算複雑性理論]]において[[NP困難]]と呼ばれる問題のクラスに属する。すなわち、問題例の大きさに関する決定性の[[多項式時間]]アルゴリズムが見つかりそうにない、計算量的に困難な問題である。なお、この問題の特殊ケースとして考えられる[[ハミルトン閉路問題]]は、[[NP困難]]であると共に[[NP完全問題|NP完全]]と呼ばれるクラスにも属するので、扱いが異なる。
都市間の移動コストが[[三角不等式]]を満たす、すなわち移動コストを距離と呼べる部分問題(あるいは制約つき問題)も、NP困難である。都市を平面上の点、都市間の距離を平面上の[[ユークリッド距離]]とする部分問題は最も直感的で理解しやすいが、これも NP困難である。この部分問題は平面TSPなどと呼ばれ、実用上の応用も多く、またベンチマークの問題例としても距離関数の定義が自明なため頻繁に現れる。
都市の間の移動コストを 1 または 2 に制限しても、この問題は NP困難である。[[ハミルトン閉路問題]]は、移動コストを 1 または無限大に制限した TSP とみなすことができる。
一方で制約のない巡回セールスマン問題の直接の応用事例は無いと言ってもよい。逆に実際の応用事例では、より複雑な定義で配送計画や表面実装ロボットの動作計画などに適用される。
== 解法 ==
全ての経路を計算することで最適解を得る手法は時間計算量は<math>O(n!)</math>であり、都市数の増加に対して時間計算量が急速に増加するため、都市数が20以上になると現実的でない。
比較的効率的なアルゴリズムとしては時間計算量と空間計算量が共に<math>O(n^2 2^n)</math>である[[動的計画法]]を用いた{{仮リンク|ヘルドカープのアルゴリズム|en|Held–Karp algorithm}}が存在する。
NP困難な問題は、任意の大きさの任意の問題例に対しての多項式時間アルゴリズムが存在しないと考えられているが、巡回セールスマン問題の場合、約2000都市以内の比較的小さい問題例に対して、あるいは問題例によっては解が得られないことがあってもよいのであれば、[[線形計画法]]と[[論理木]]を組み合わせた[[分枝限定法]]や、線形計画法と[[巡回群]]を組み合わせた[[切除平面法]]により、パーソナルコンピュータでおよそ1日以内で厳密解を得られることが多い。
厳密に最適解を求めることを放棄して計算時間を短くする方法は、リン・カーニハン・アルゴリズムなどの[[局所探索法|局所探索アルゴリズム]]、[[焼きなまし法]]、ホップフィールドネットワークあるいはボルツマン機械などの[[ヒューリスティック]]アルゴリズムと、出力される解のコストと最適解のコストとの差をなんらかの形で保証する多項式時間近似アルゴリズムの二つに大別できる。
より複雑な定義の問題をあつかう解法としては、[[ヨーロッパ|欧州]]では前述した分枝限定法、切除平面法、(前者2つをミックスした)[[分枝カット法]]といった厳密解法を用いることが多く、[[アメリカ合衆国]]では[[遺伝的アルゴリズム]]、[[タブーサーチ|タブー探索]]といった厳密に最適な解を保証しないヒューリスティックアルゴリズムを用いることが多い。
[[三角不等式]]が成り立つ TSP については多項式時間近似アルゴリズムが数多く存在する。
たとえば[[近似度|近似アルゴリズム]]が2(最悪でも出力が最適解の長さの2倍以内である)の[[アルゴリズム]]([[最近追加法]]他)や近似度 1.5 のアルゴリズム([[クリストフィードのアルゴリズム]])が知られている。
近年、平面TSP には、近似率を任意に 1 に近づけることができるアルゴリズム、多項式時間近似戦略 PTAS が Arora によって与えられた。
ハミルトン閉路問題の多項式時間の厳密解が多項式時間で求められない(ハミルトン閉路問題はNP完全なのでP≠NPと同じ)なら三角不等式を満たさないTSPは近似率を保証する多項式時間のアルゴリズムはない。
== 関連項目 ==
* [[ハミルトン閉路問題]]
* [[中国人郵便配達問題]] - すべての辺(頂点ではなく)を少なくとも1回ずつ通る巡回路でコスト最小のものを求める。こちらは[[多項式時間]]で解けることが知られている。
* [[DNAコンピュータ]]
* [[粘菌コンピュータ]]
* [[最近傍法]]
* [[P≠NP予想]]
* [[配車配送計画ソフト]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Traveling salesman problem}}
* {{高校数学の美しい物語|1130|巡回セールスマン問題の意味と2近似アルゴリズム}}
* [http://elib.zib.de/pub/Packages/mp-testdata/tsp/tsplib/tsplib.html TSPLIB] - TSPのベンチマーク問題集その1
* [https://www.math.uwaterloo.ca/tsp/ Traveling Salesman Problem] - TSPのベンチマーク問題集その2 (World TSP,National TSPs, VLSI)
* [http://www.adaptivebox.net/research/bookmark/tspcodes_link.html TSPのソースコードへのリンク集]
{{Computer-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆんかいせえるすまんもんたい}}
[[Category:巡回セールスマン問題|*]]
[[Category:グラフアルゴリズム]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:組合せ最適化]]
[[Category:数学の問題]]
[[Category:アルゴリズム]]
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10,047 |
ハミルトン閉路問題
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ハミルトン閉路問題(ハミルトンへいろもんだい)とは、与えられたグラフについて、全ての頂点を一度だけ通る閉路が存在するかどうか調べる問題である。名称はこの問題を最初に研究した数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンの名に因む。
与えられたグラフが有向グラフ(グラフ理論参照)の場合は有向ハミルトン閉路問題、無向グラフ(通常のグラフ)の場合は無向ハミルトン閉路問題と呼ばれる。
この問題はどちらも、NP完全問題であることが知られている。また、無向ハミルトン閉路問題は巡回セールスマン問題の特殊ケースでもある。
始点と終点が一致するという閉路の条件を取り去ると、ハミルトン路問題になる。
ハミルトン閉路問題は NP完全問題の頂点被覆問題が有向ハミルトン閉路問題に多項式時間変換可能であることが証明され、さらに有向ハミルトン閉路問題は無向ハミルトン閉路問題に多項式変換可能であることが証明できることで、NP完全問題であると証明された。
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ハミルトン閉路問題(ハミルトンへいろもんだい)とは、与えられたグラフについて、全ての頂点を一度だけ通る閉路が存在するかどうか調べる問題である。名称はこの問題を最初に研究した数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンの名に因む。
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'''ハミルトン閉路問題'''(ハミルトンへいろもんだい)とは、与えられた[[グラフ理論|グラフ]]について、全ての[[頂点]]を一度だけ通る[[閉路]]が存在するかどうか調べる問題である。名称はこの問題を最初に研究した数学者[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]の名に因む。
== 概要 ==
与えられたグラフが有向グラフ([[グラフ理論]]参照)の場合は'''有向ハミルトン閉路問題'''、無向グラフ(通常のグラフ)の場合は'''無向ハミルトン閉路問題'''と呼ばれる。
この問題はどちらも、[[NP完全問題]]であることが知られている。また、無向ハミルトン閉路問題は[[巡回セールスマン問題]]の特殊ケースでもある。
始点と終点が一致するという閉路の条件を取り去ると、[[ハミルトン路]]問題になる。
== NP完全性の証明 ==
ハミルトン閉路問題は NP完全問題の[[頂点被覆問題]]が有向ハミルトン閉路問題に[[多項式時間変換]]可能であることが証明され、さらに有向ハミルトン閉路問題は無向ハミルトン閉路問題に多項式変換可能であることが証明できることで、NP完全問題であると証明された。
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10,048 |
ジネディーヌ・ジダン
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ジネディーヌ・ヤジッド・ジダン(仏: Zinedine Yazid Zidane 発音例、カビル語:Zinəddin Lyazid Zidan、阿: زين الدين يزيد زيدان、1972年6月23日 - )は、フランスの元サッカー選手、現サッカー指導者。元フランス代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。愛称:ジズー(Zizou)。
サッカー史上最高の選手の1人とみなされている。選手としては、1989年から2006年まで攻撃的ミッドフィールダーとして司令塔の役割だった。FIFA最優秀選手賞、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、所属チームではワールドカップ、欧州選手権、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて獲得した。UEFAゴールデンジュビリーポールでは、フランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフらを抑えて1位に選ばれた。FIFA100選にも名を連ねている。
監督としてもレアル・マドリードの助監督やBチームの監督を務めた後にトップチームの監督に就任。2016年1月4日トップチームに就任すると、1年目でクラブをチャンピオンズリーグ制覇に導いた。2017年には、史上初めてとなるチャンピオンズリーグ連覇を達成し、選手、監督双方でオンズドール、FIFA最優秀賞を受賞した初めての人物となった。レアル・マドリードへ史上初となるチャンピオンズリーグ3連覇など数々のタイトルをもたらし、2018年5月31日に自ら辞任した。しかし成績不振のチームを立て直すため、再び2019年3月11日トップチームの監督に就任し、2020-21シーズン終了まで指揮を取った。
アルジェリアの少数民族カビール人(→ベルベル人)の両親の元に生まれたため、フランスでは「北アフリカ移民の星」としての象徴的な人気もある。
兄5人と姉1人と、ジダンの7人兄姉弟の末っ子としてフランスマルセイユで生まれた。両親は、アルジェリア独立戦争が起きる少し前の1953年にフランス領アルジェリアからパリに移住してきた少数民族ベルベル人で、一家は1968年から港町マルセイユ北部の北アフリカ移民が集まって住む一角で暮らし始め、やがて1972年にジダンが生まれた。
父のイスマイルは倉庫番とデパートの夜間警備員で、母のマリカは主婦だった。一家が居住していたカステラン地区という場所は、失業率が高く、犯罪発生率も高い区域だったが、一家の暮らしは快適な方だった。ジダンが5歳の頃に兄や近所の子どもたちと家の近くにあった800平米「おおよそバスケットコート2面分の広さ」ほどの広場でサッカーを始めた。これがジダンとサッカーの出会いだった。兄たちのうち、三兄のノルディーヌは自身と同じくらいサッカーの素質があったという。
オリンピック・マルセイユのファンであり、特にブラジュ・スリシュコヴィッチ(英語版)、エンツォ・フランチェスコリやジャン=ピエール・パパンがお気に入りだった。子供時代は父親の影響で柔道もしており、11歳の時に茶帯だった。
9歳で地元クラブのASフォレスタに加入すると、すぐにその才能を認められチームキャプテンに抜擢された。10歳の時には隣の地域にあるUSサン=タンリというASフォレスタよりも格上のチームの一員となった。
1983年に、SOセプテーム・レ・ヴァロンに加入した。しばしばプロヴァンス地方の選抜チームでもプレーしたが、多くの出場機会には恵まれなかった。14歳の時に参加したエクス=アン=プロヴァンスでの3日間のトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトであるジャン・ヴァローの目に止まった。再びヴァローが見に来た試合、ジダンは他選手の欠場によってリベロのポジションに入り、決していいプレーを見せることはできなかったものの、ヴァローはカンヌでのトレーニングをジダンに提案した。マルセイユを離れてカンヌでホームステイをする提案にジダンの父親は反対したが、貧しかった一家では受けられない教育を受けさせることができると考えた母親はこれに賛同し、ジダンはマルセイユを離れることになった。
家族の元を離れてカンヌのユースに加入し、1988年にトップチームとプロ契約した。しかし1988-89シーズンのカンヌに当時16歳のジダンを出場させる余裕はなく、経験豊富な選手を重宝した。残留を確保し、リーグ戦残り2試合で迎えたFCナント戦で初招集を受け、試合時間残り12分のところで初出場を果たした。ジダンはゴールポストに直撃するシュートを放ち、資質の片鱗を見せた。翌シーズン、ジダンはリザーブチームと共に4部リーグでプレーするよう命じられた。
3年目の第3節AJオセール戦で先発出場したが、ジダンはパスミスによって観客からブーイングを受けるなどし、0-3で敗戦した。その後4試合先発から外された後にFCナント戦で復帰。1990年9月23日、地元クラブでありサポーターもしていたオリンピック・マルセイユとの試合でも活躍を見せ、この試合をきっかけにジダンは輝きを取り戻した。オセールとの2試合目では3-0で勝利して雪辱を果たし、11月24日から3月23日まで14連勝した。1991年2月10日のナント戦でプロ初得点を挙げ、それに対する特別ボーナスとして会長からルノー・クリオをプレゼントされた。3月24日のオリンピック・マルセイユ戦では試合にこそ敗れたものの、フランス・フットボールから「ディビジョン1で最も才能に恵まれた選手」と評された。1991-92シーズンは、UEFAカップでの躓きがきっかけでチームは勢いを失い、リーグの前半戦終了時で17位と低迷。パリで兵役に参加していたジダンの疲労も深刻であったが、それでも試合によっては輝きを放った。
シーズン終了後、350万フラン+4選手でFCジロンダン・ボルドーへ移籍。
移籍初シーズンは、左の守備的MFとしてプレー。35試合に出場して10得点を挙げ、UEFAカップ出場権を得た。1994年にはリーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれた。1995年、ブラックバーン・ローヴァーズFCの監督をしていたケニー・ダルグリッシュがジダンとクリストフ・デュガリーの獲得に興味を示すも、会長は「ティム・シャーウッドがいるのに何故ジダンを欲しがるのか?」と語り、獲得することはなかった。1996年にはインタートトカップを勝ち上がり出場したUEFAカップで決勝まで進出。4回戦レアル・ベティス戦での35メートルのシュートや3-0で勝利を収めた準々決勝ACミラン戦2nd legなど好調なプレーを披露。決勝では敗れたものの、ユヴェントスの首脳陣をして「ミシェル・プラティニの後継者をみつけた」と言わしめた。
1996年7月に移籍金3500万フランでユヴェントスへ移籍。「海兵隊長」のニックネームで呼ばれるフィジカルコーチのジャンピエロ・ヴェントローネのフィジカルトレーニングとメディカルスタッフのケアによって強靭な肉体を手に入れた。加入当初は厳しいトレーニングで疲れ、何度か吐きそうになったという。コッパ・イタリア2回戦のフィデーリス・アンドリア戦で公式戦デビュー、9月8日のレジアナ戦でセリエAデビューした。第3節のペルージャ戦ではレッドカードで退場処分となるなど、当初は本来の実力を発輝出来ずにいた。このことから多くの批判を受けたものの、当時監督だったマルチェロ・リッピはジダンを起用し続けた。リッピはジダンの最も適したポジションを試行錯誤し、当初のセントラルMFから2トップの下の攻撃的なポジションに置いた。そのことから徐々にチームに順応し、10月20日のインテル戦で移籍後初得点を挙げた。この試合をきっかけにユヴェントスのファンから認められ始めた。試合前にチームメイトのラファエレ・アメトラーノ(英語版)から「今日、お前はゴールを決めて俺達を勝たせる」と言われていたジダンは、得点を決めた後ベンチのアメトラーノを指さして駆け寄り抱擁を交わした。このシーズン、ユヴェントスはセリエA、インターコンチネンタルカップ優勝を飾り、ジダンはキャリア初のメジャータイトルを獲得した。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝のアヤックス戦、第2戦で1ゴール2アシストの活躍を見せたが、決勝でボルシア・ドルトムントに敗れた。このシーズンは公式戦44試合で7得点を記録した。
その後、ユヴェントスには5シーズン在籍し、デルピッポと称されたアレッサンドロ・デル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップを操るトップ下の位置でプレー。2度のリーグ優勝に貢献したほか、UEFAチャンピオンズリーグにも1996-97、1997-98シーズンと2年連続で決勝進出を果たした。しかし、ジダンが移籍する前の1995-96シーズンでユヴェントスはUEFAチャンピオンズリーグを優勝しており、レキップ紙はジダンを不吉の象徴として黒猫と呼んだ。
1997-98シーズン、公式戦44試合で11得点を挙げ、確たるプレーを見せて地位を確立、リーグ優勝も果たした。1999-2000シーズン、ジダンは好調を維持し、クラブも第26節終了時点で17勝8分1敗の成績でシーズンのほとんどで1位をキープ。しかし最終8試合で4敗を喫し、最終節のペルージャ戦でも0-1で敗戦。2位のSSラツィオが勝利したため、勝ち点1差で優勝を逃した。ジダンは「私たちは1年間こつこつとつらい仕事をしてきたが、最終節ですべてを失った。こんなことならもっと早く負けていればよかった」と無念さを滲ませた。翌シーズン、カルロ・アンチェロッティは3ボランチを置くフランス代表に近いフォーメーションを敷き、同郷のダビド・トレゼゲも加入した。ユヴェントスは上々のスタートであったが、2000年10月25日、UEFAチャンピオンズリーグのハンブルガーSV戦でジダンはヨヘン・キーンツのファウルに対して頭突きの報復行為を行ったことによって5試合の出場停止処分を受けた。この試合ではエドガー・ダーヴィッツもレッドカードを受けて9人での戦いを強いられ、1-3で敗北した。その翌日のガゼッタ・デロ・スポルトでは「ジダンとダーヴィッツがユーヴェを沈ませた」との見出しで批判された。2週間後のパナシナイコスFC戦でもユヴェントスは負け、UEFAチャンピオンズリーグを予選敗退した。また、より開放的でテクニカルなスペインリーグでのプレーを望んだことやスペイン人の夫人が母国で暮らすためにイタリアを離れたがっていたことなどから、クラブに何度も移籍を訴えた。ユヴェントスのオーナーであったジャンニ・アニェッリは、「問題はジダンじゃなくて奥方にある。私には彼女をどうすることもできない」と語っていた。
2000年8月23日、モナコで行われた欧州サッカー連盟のレセプションで偶然レアル・マドリード会長のフロレンティーノ・ペレスが同じテーブルとなった。その際にペレスは「レアル・マドリードに来たいか?」と英語で書いた紙ナプキンをジダンに見せて問い、ジダンはそれに「イエス」となぐり書きして答えた。2001年7月、当時史上最高額となる9000万ユーロの移籍金でレアル・マドリードに移籍。
ジダンはユヴェントス時代と同じ背番号21番を望んでいたが、サンティアゴ・ソラーリがすでに使用していたことやペレスが大きな背番号をつけることを好まなかったこともあり前年に引退したキャプテンであるマヌエル・サンチスの5番を継いだ。当時のクラブと代表双方でキャプテンを務めていたフェルナンド・イエロやツートップを組んでいたラウル・ゴンサレスとフェルナンド・モリエンテス、また超攻撃的左サイドバックのロベルト・カルロスや自身と同じくバロンドール受賞経験者のルイス・フィーゴら豪華なタレントを擁し、銀河系軍団と称されたチームの攻撃陣の中心として活躍した。また、当時のレアル・マドリードの補強、チーム作りの方針は「ジダネス&パボネス」(ジダンなどのスター選手とフランシスコ・パボンなどのカンテラ選手の共存)と呼ばれた。
加入当初は親しい友人に「こんなことなら引退してしまいたい」とこぼしたほどマスコミからのプレッシャーに追い詰められ、スペインでの生活への順応にも苦戦していたが徐々にチームに馴染み、特に2001-02シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦、バイエル・レバークーゼン戦での決勝点となったボレーシュートは、CNNなどのメディアでサッカー史上最も素晴らしいゴールの一つと評価され、「永遠に伝説として語られることになるゴール」(レキップ)、「ジダンは神に祝福されている」(フランス・フットボール)と賞賛された。1対1の同点で迎えた前半44分、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。このゴールが決勝点となり、ジダンはキャリア初のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。
2002-03シーズンは自身と同じくバロンドール受賞経験者のロナウドが加入し、リーガ・エスパニョーラ、UEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップ制覇の3冠を達成。2003年は自身3度目となるFIFA最優秀選手賞を受賞した。
2003-04シーズンは2試合合計4-2でRCDマヨルカを下しスーペルコパ・デ・エスパーニャを手にしたが、それがレアル・マドリードにおいてジダンの最後のタイトルとなった。
ジダンの最終シーズン、セビージャFCを相手にキャリア初のハットトリックを達成した。2005-06シーズンの途中に、2006 FIFAワールドカップでの引退を発表。2006年5月7日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの最終戦となるビジャレアルCF戦前に行われた引退式では8万人を超えるファンが集まり、クラブもその日のために「Zidane 2001-2006」と刺繍されたユニフォームを用意した。その試合ではデビッド・ベッカムのクロスから得点も決めた。試合終了1分前にフアン・ラモン・ロペス・カロはジダンを交代させ、花道を提供した。その後、スタンド下の通路でフアン・ロマン・リケルメと抱擁し、ユニフォーム交換を行った。ジダンの最終シーズンは、リーグ28試合でチームトップであるロナウドに次ぐ9得点、デビッド・ベッカムと並んでチームトップタイの10アシストを記録した。ワールドカップ後に現役を引退した。
1988年、スペインのマラガで行われたU-16欧州選手権で、初めてフランス代表としてプレーした。しかし、フランスは予選落ちしてしまい、ジダン自身も良い結果を残すことができなかった。その後も様々なカテゴリでフランス代表に選ばれた。
1994年8月17日、チェコ戦でA代表デビュー。ユーリ・ジョルカエフの負傷によって追加招集されたジダンは、2点ビハインドの状態でコランタン・マルタンに代わり後半18分から出場。途中出場ながら2得点を挙げ、この試合をきっかけに代表に定着した。UEFA EURO '96予選、ジダンは最初の2試合に途中出場したが、2試合とも引き分けに終わり、その後の数試合は出場機会を与えられなかった。1995年4月26日のスロバキア戦で再び招集されると、「キャリアの中で最も重要な試合になる」と語ったこの試合で正ポジションを得たジダンは、フランスの4得点のうち2得点に絡んだ。10月11日にブカレストでのルーマニア戦では、ジダンのハーフボレーでのゴールなどで3-1とホームで5年間無敗を誇ったルーマニアを破った。最終戦サッカーイスラエル代表戦でも2-0で勝利し、UEFA EURO '96出場権を得た。これらの活躍によってジダンは代表での地位を磐石のものとした。
1996年のEURO1996直前、ジダンは運転中に事故を起こした。大会までに怪我は回復したもののコンディションは悪かったが、中心選手の一人として臨み、全試合に出場、チームはベスト4に進んだが、チェコにPKの末に敗れた。自身は「ずっと痛みを抱えながらプレーしており、準決勝では出場を自ら辞退しようとした」と語っている。
1998年、1月28日にスタッド・ド・フランスのこけら落としとなるスペイン戦ではその日唯一の得点を挙げた。同年地元フランスで開催されたワールドカップに出場。グループステージ初戦南アフリカ戦は勝利を収めたが、ジダンは2戦目サウジアラビア戦で相手キャプテンのフアド・アミンを踏みつけ、一発退場となってしまう。ジダンを欠いたフランス代表であったがグループリーグ最終戦でデンマークを2-1で下し、3戦全勝でグループリーグ突破。その後もフランス代表は勝ち進み、決勝戦でジダンはヘディングで2得点をあげるなどの活躍をし、フランスの初優勝に大きく貢献した。その後、優勝のお祝いの際にエッフェル塔にジダンの顔が掲げられた。この活躍で名を上げたジダンは、この年のバロンドール、FIFA最優秀選手賞を受賞。W杯で優勝した22人のメンバー、監督はレジオンドヌール勲章のシュヴァリエ(Chevalier、騎士)の階級を与えられた。UEFA EURO 2000でも優勝し、大会最優秀選手、そして2度目のFIFA最優秀選手賞を受賞した。
前回王者として臨んだ2002年、FIFAワールドカップ・日韓大会では大会直前の韓国との親善試合で左太もも肉離れを起こし、さらにその試合で受けたタックルによって膝も痛めてしまった。その影響でワールドカップ本戦には包帯を巻いて強行出場したデンマーク戦1試合の出場にとどまり、フランス代表も2敗1分の成績でグループリーグで敗退した。
2004年に行われたEURO2004初戦のイングランド戦では、1点をリードされて迎えた後半90分にジダンのフリーキックから同点にすると、その2分後にティエリ・アンリの得たPKをジダンが決めて劇的な逆転勝利を果たした。しかしその後のフランスは精彩を欠き、ジダンは大会3得点を挙げるも、代表はベスト8で敗退。大会終了後の8月、自身のホームページでのインタビューにて、有望な若手選手に道を譲るために代表引退を発表した。
2005年、フランスがFIFAワールドカップ・ドイツ大会予選敗退の危機に陥るとレイモン・ドメネク監督やキャプテンのパトリック・ヴィエラの説得を受け、ジダンを代表デビューさせたジャケが公式の場で引退を悔やみ、更にはジャック・シラク大統領やスポーツ大臣のジャン=フランソワ・ラムールが代表復帰のために尽力すると言った。そうした後押しの中でクロード・マケレレ、リリアン・テュラムと共にフランス代表に復帰することをオフィシャルサイトで表明。携帯電話会社のオレンジグループは、代表復帰発表の翌日に、フランスの新聞各紙に「Tu nous as tellement manque!(あなたがいなくてどれだけ寂しかったか!)」という広告と共にジダンのインタビューが有料で聞くことができる電話番号を掲載。レキップ紙は「彼が戻ってくる!」と見出しを掲げ、国家的な大事件として扱われた。復帰発表の2週間後に行われたフランス世論研究所の調査では、73%の人がワールドカップ本大会に出場できると答えた。復帰後初戦のコートジボワール戦では3-0での勝利に貢献。アンリは「神が帰ってきた」とコメントした。ヴィエラからキャプテンマークを譲り受け、予選敗退危機にあったフランスを本大会出場へ導いた。
大会後の引退を公言して臨んだ本大会では、グループリーグ序盤では低調だったものの、試合を重ねるごとに復調し、フランスも決勝戦まで進出した。準々決勝ブラジル戦ではアンリの決勝ゴールをアシストし、この試合のMVPに選ばれた。これまでジダンのアシストからアンリがゴールを決める場面は、共に出場したフランス代表55試合で1つもなく、メディアからの批判を受けていたが、これが初めてにして唯一のアシストとなった。試合後、ペレはジダンについて「魔法使いだった」と賞賛した。準決勝はリカルド・カルヴァーリョがアンリを倒したことによって得たPKを決め、その得点が決勝点となってポルトガル代表を下した。これによりポルトガル代表の19連勝及び前回大会でブラジル代表を率いていたルイス・フェリペ・スコラーリのワールドカップ12試合負けなしの記録をストップさせた。試合後は、レアル・マドリード時代のチームメイトであり共にキャプテンを務めていたルイス・フィーゴとユニフォーム交換を行った。
決勝のイタリア戦ではジャンルイジ・ブッフォンに対してパネンカと呼ばれるチップキックでPKを決め、キャリア最後となる得点で先制点を挙げた。延長戦後半、マルコ・マテラッツィから何事か挑発された際に頭突きを食らわせ、一発退場となって、現役最後の試合を終えた。試合はPK戦になりフランス代表は負けて準優勝に終わったが、大会中の活躍が評価されMVPを受賞した。また、試合後にはジャック・シラク大統領もコメントを残した。
この2006年ワールドカップ後の一連の騒動では、マテラッツィがジダンの人種や家族を侮辱した発言をしたという疑惑が上がり、ジダンの人種問題が取り上げられた。
ワールドカップ通算12試合5得点、欧州選手権通算13試合5得点。ワールドカップ決勝通算3得点はヴァヴァ、ペレ、ジェフ・ハーストと並び史上最多タイ、また2大会に渡る決勝戦でのゴールはヴァヴァ、ペレ、パウル・ブライトナーに続き史上4人目。
ワールドカップ決勝での頭突きにより、国際サッカー連盟から7500スイス・フラン(約70万円)の罰金と3日間の社会奉仕活動の処分を科せられた。2006年11月に、同年ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスに招かれるとともに、両親の出身地であるアルジェリアの大統領であるアブデルアジズ・ブーテフリカの元を訪ねた。ブーテフリカからは、公式に面会の場を設けられた。
引退後はフランスのテレビ放送局Canal+で解説者を務めていたが、2009年6月1日、自身を呼び寄せたフロレンティーノ・ペレスが再びレアル・マドリードの会長となったことを受け、クラブアドバイザーに就任した。その後、ジョゼ・モウリーニョにチームの近くにいることを要請され、それを快諾。UEFAチャンピオンズリーググループリーグのアヤックス戦よりチームに同行することとなった。2011年5月、モウリーニョとの対立からクラブのゼネラルディレクターを務めていたホルヘ・バルダーノが解任され、レアル・マドリードはゼネラルディレクター職を廃止。それまでスポーツディレクターの職に就いていたホセ・アンヘル・サンチェスがクラブの強化部門における最高責任者を務めることとなった。その後任として、ジダンはスポーツディレクターに就任した。
2009年、1998年に拝受したレジオンドヌール勲章のシュヴァリエの階級からオフィシエ(Officier、将校)に昇格した。UEFA EURO 2016誘致の際には、ニコラ・サルコジ大統領と共にフランスのプレゼンテーションを行った。また、2022年のFIFAワールドカップでは、カタールの招致アンバサダーとして招致活動を行った。2011年2月、サッカー選手としてはペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアーに次いで4人目となるローレウス世界スポーツ賞の生涯功労賞を受賞した。
2012-13シーズンにはスポーツディレクターの職をフェルナンド・イエロに譲り、レアル・マドリードの下部組織に重点を置いた活動を行った。2013年にUEFA公認の指導者ライセンスを取得し、レアル・マドリードにてかつての恩師であったカルロ・アンチェロッティのアシスタントコーチとして2013-14シーズンよりレアル・マドリードのトップチームの副監督に就任した。
2014年7月、レアル・マドリード・カスティージャの助監督に就任した。ジダンはスペインリーグの2部B以上のチームを率いるために必要なレベル3のコーチライセンスを取得していなかったため、名目上はサンティアゴ・デニア・サンチェス監督を補助する助監督という立場であったが、実質的に監督としての振る舞いをしていたことが問題視された。2014年10月27日、正しい指導ライセンスを所有していないとして、スペイン・サッカー協会から3か月間の活動停止処分を受けた。その後レアル・マドリードの上訴がスポーツ仲裁裁判所に受け入れられ、スペインサッカー連盟も処分を撤回した。
2015年にUEFAプロライセンスを獲得した。
2016年1月に、解任されたラファエル・ベニテスの後任としてレアル・マドリードの監督に就任。初陣となった9日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦ではギャレス・ベイルのハットトリックを含む5-0で勝利した。レアルの監督となって初となるUEFAチャンピオンズリーグの試合ではクリスティアーノ・ロナウドやヘセ・ロドリゲスのゴールでASローマに2-0で勝利した。4月2日にカンプ・ノウで行われたエル・クラシコでは2-1で勝利した。5月28日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2015-16 決勝では、アトレティコ・マドリードをPK戦の末に下し、優勝を達成した。この優勝で、史上7人目となる選手・監督の両方でUEFAチャンピオンズリーグ(旧チャンピオンズカップも含む)優勝を達成した人物となった。
2016年11月2日のUEFAチャンピオンズリーグ、レギア・ワルシャワ戦で監督として100試合を達成した。クラウディオ・ラニエリ(レスター・シティFC)、フェルナンド・サントス(ポルトガル代表)とともにFIFAより年間最優秀監督の最終候補に選出された。リーガ15節のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦での勝利により連続無敗記録を35試合とし、クラブ記録を樹立した。その後も無敗記録を40試合に伸ばしてFCバルセロナが保持していたスペイン記録を更新した。2016-2017シーズンは、過密日程も考慮してローテーションを敷いて選手の体調管理に気を配り、欠場を嫌うことで有名なエースのFWロナウドですら例外なく休養を与えた。その結果、大事なシーズン終盤戦でもチームは息切れすることなく、リーグ戦を逃げ切り、2011-12シーズン以来、5年ぶりのプリメーラ・ディビシオン優勝に導いた。その勢いのまま史上初の二連覇を目指すUEFAチャンピオンズリーグでも勝ち進み、決勝戦の相手は奇しくもジダンの古巣ユヴェントスFCであったが、4-1で勝利し、UEFAチャンピオンズリーグ改称後初の二連覇という快挙を成し遂げた。またレアル・マドリードは1957-58シーズン以来、59年ぶりの二冠達成であった。同年、オンズドール年間最優秀監督賞、FIFA最優秀監督賞を受賞した。
2017-18シーズンは国内ではスーペルコパ・デ・エスパーニャを制したが、コパ・デル・レイでは準々決勝で敗退し、リーグ戦では3位であった。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは3年連続で決勝に勝ち進みリヴァプールFCを下して優勝した。これにより、チームが持つ大会最多優勝回数を更新し、大会初の3連覇を成し遂げた。このシーズンをもって監督を退任した。
2018-19シーズンは、成績不振により解任されたサンティアゴ・ソラーリの後任としてフロレンティーノ・ペレス会長から復帰の電話を2度に分けて貰い、2度目にしてOKサインを出したことによりレアル・マドリード監督への復帰が決まった。翌2019-20シーズンはフェデリコ・バルベルデの台頭などもあり好調を維持、アトレティコ・マドリードとの試合を制し監督として10個目のタイトルであるスーペルコパを獲得した。公式戦187試合での10タイトル目というハイペースであり、監督としてレアル・マドリード最多獲得タイトルの記録を持つミゲル・ムニョスが10個のタイトルを獲得するのに8年の期間を要したのに対し、ジダンは3年10ヶ月での達成となった。FCバルセロナを勝ち点差2で追う展開でCOVID-19によりリーガが中断するも、再開後には10連勝を記録するなど好調を見せて逆転優勝を果たし、リーガ最優秀監督に贈られるミゲル・ムニョス賞を初受賞した。しかし、2020-21シーズンは無冠に終わり、同シーズン終了後の2021年5月27日に辞任したことが発表された。
2023年シーズンからアルピーヌF1チームのブランド・アンバサダーに就任。モータースポーツ及び自動車産業における機会均等を推進するプログラム「RAC(H)ER」ならびに、若手技術者の発掘と支援を目指す「コンクール・イクセレンス・メカニック」のスポンサーを務める。
攻撃的なミッドフィールダーであり、味方の選手に的確なパスを出すなどの攻撃の中心的な役割を果たすとともに、チャンスと見ると自らもシュートを決める得点力を兼ね備えた。高いボディーバランスと複数のアクションを組み合わせる能力を持ち、非常に正確なボールタッチ、パス、シュート、コントロール、ドリブルなどのプレーはバレエの優雅さに例えられる。
当時、イタリアではアリゴ・サッキのゾーンプレスが浸透してトップ下のポジションは絶滅の危機を迎え、ロベルト・バッジョやアレッサンドロ・デル・ピエロらファンタジスタが激しいプレッシャーを受けるミッドフィールダーからセカンドトップにポジションを変更していた。しかし、鮮やかなテクニックを持ちながら185センチの強靭な体躯を持つジダンは相手のプレッシングを受けてもボールをキープして時間を作り出し、また守備時にはセントラルハーフとして戦うこともできたためトップ下のポジションでユヴェントスFCの中心に君臨した。プレスをしても奪えないジダンに対してプレスを強めれば強めるほど裏に大きなスペースが広がり、結果としてフリーとなった周囲の選手にプレスを受けながら繋いで相手を崩していく。
1998年のFIFAワールドカップ決勝や2002年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝など印象的なゴールも多いが、ユヴェントスFC時代の監督であるカルロ・アンチェロッティは「私は練習でジダンを見て、大きなインパクトを受けた。スペクタクルだったね。しかし、彼はもっとやれたはずだ。より多くのゴールを記録していてもおかしくなかった」と指摘している。
試合に関しては気性の激しさで知られ、2006 FIFAワールドカップグループリーグの第二戦の韓国戦ではチームが同点ゴールを決められ、本人もイエローカードを受けて累積警告によって次戦の出場停止が決まり、同点のままロスタイムにトレゼゲと交代させられると、ロッカールームのドアを蹴って壊したこともある。(なお、その扉は「ジダンに壊された扉」としてスタジアムに保存されている)。
一方で、普段の性格は寡黙で内気と言われる。引退後に競技テニスをしたいと言っていた頃、ホテルに宿泊した際に、アンドレ・アガシとたまたま隣の部屋になった事があったが、内気さゆえに会いに行けなかったというエピソードや、2010年にフランス代表の一日コーチを引き受けて1998 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2000のビデオを観賞してスピーチを行った際に、ガエル・クリシーに「自分のビデオを見せながら照れていた」と明かされるといったエピソードがある。
ジダンとは対照的におしゃべりで気さくなクリストフ・デュガリーとは親友である。
2003年からはダノンネーションズカップの公式アンバサダーを務めるなど多くのチャリティーイベントに参加し、慈善活動にも熱心である。
マルセイユ出身のジダンはオリンピック・マルセイユのファンだが、父親がフランスに移住して初めて生活した場所であり、スタッド・ド・フランスもあるパリ郊外のサン=ドニには第2の故郷と語るほど愛着を感じている。
フランス語以外に両親の母語であるベルベル語も話せる。また夫人がスペイン系であり、スペイン語も習得している。イタリアで5年間生活をしていたことから、イタリア語も理解出来る。
17歳(ASカンヌ時代)の時に出会ったスペイン系フランス人のヴェロニック・フェルナンデスと1994年5月24日に結婚した。
兄弟のうち、ファリドとノルディーヌは、マルセイユ北部でジネディーヌの肖像権や放映権の管理会社を経営している。2019年7月13日、ファリドは癌により死去している。享年54歳。
4人の男子の子供がおり、長男のエンツォの名は地元オリンピック・マルセイユに所属し、幼少時からのアイドルであったエンツォ・フランチェスコリに因んでいる。4人ともジネディーヌと同じサッカー選手の道を進み、エンツォと次男のルカ、三男テオはプロサッカー選手となっている。四男・エリアスもレアル・マドリードの下部組織に所属しており、フランスの年代別代表にも選ばれている。またレアル・マドリードの公式サイトの選手紹介では伝説的選手であった父親のプレッシャーを受けないようにするためか、母方のフェルナンデス姓で登録されている。
※2023-2024シーズン時点の所属先
叔父のジャメル・ジダンもベルギーリーグのKRCヘンクなどで活躍した元サッカー選手でアルジェリア代表だった。
1990年代後半から2000年代前半にかけて「世界最高のサッカー選手」と称えられた。
極限まで狭められた中盤のスペースを卓越したボールコントロールで生き抜いた最後のボールプレイヤーとも呼ばれている。
現役時代にマルチェロ・リッピやビセンテ・デル・ボスケの下で指導を受け、引退後もジョゼ・モウリーニョやカルロ・アンチェロッティといった名監督を近い位置で見てきたこともあり、幅広い戦術オプションを有している。また、必要最低限の言葉を用いて選手たちをモチベートすることでロッカールームをうまくコントロールし、起用する選手のローテーションも積極的に行う。
デル・ボスケは「柔軟さにくわえ、思い切りもある」と評価し、デル・ボスケのアシスタントを長年務めたトニ・グランデはデル・ボスケとの特に人間的な部分での共通点を指摘し、「あれほどの選手だったのに、監督になってからもエゴを出さずに、発言も態度も常に柔らかい。冷静で、好戦的な発言をすることもない。」とし、銀河系軍団時代のレアル・マドリードで広報部長をしていたホアキン・マロートもUEFAチャンピオンズリーグで優勝する監督の共通点として「好戦的でないこと。監督として自分を押し出しすぎないこと。人としてまっすぐであること。」の3つを挙げ、ジダンの人となりがチームを率いることにも活かされていると語った。アンチェロッティは、常に学び続け、最新の情報を取り入れ、自身で経験を積んでおり偉大な指導者であると評価した。
監督としても現役時代と変わらない勝負強さを持ち、監督として戦ったタイトルが掛かった決勝戦全てで勝利を収めている(2020年2月現在)。その勝負強さは本人も認めている。
フランスサッカー連盟は2000年8月16日に行われたFIFA選抜戦を国際Aマッチとして認めている。
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"text": "ジネディーヌ・ヤジッド・ジダン(仏: Zinedine Yazid Zidane 発音例、カビル語:Zinəddin Lyazid Zidan、阿: زين الدين يزيد زيدان、1972年6月23日 - )は、フランスの元サッカー選手、現サッカー指導者。元フランス代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。愛称:ジズー(Zizou)。",
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"text": "サッカー史上最高の選手の1人とみなされている。選手としては、1989年から2006年まで攻撃的ミッドフィールダーとして司令塔の役割だった。FIFA最優秀選手賞、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、所属チームではワールドカップ、欧州選手権、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて獲得した。UEFAゴールデンジュビリーポールでは、フランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフらを抑えて1位に選ばれた。FIFA100選にも名を連ねている。",
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"text": "監督としてもレアル・マドリードの助監督やBチームの監督を務めた後にトップチームの監督に就任。2016年1月4日トップチームに就任すると、1年目でクラブをチャンピオンズリーグ制覇に導いた。2017年には、史上初めてとなるチャンピオンズリーグ連覇を達成し、選手、監督双方でオンズドール、FIFA最優秀賞を受賞した初めての人物となった。レアル・マドリードへ史上初となるチャンピオンズリーグ3連覇など数々のタイトルをもたらし、2018年5月31日に自ら辞任した。しかし成績不振のチームを立て直すため、再び2019年3月11日トップチームの監督に就任し、2020-21シーズン終了まで指揮を取った。",
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"text": "アルジェリアの少数民族カビール人(→ベルベル人)の両親の元に生まれたため、フランスでは「北アフリカ移民の星」としての象徴的な人気もある。",
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"text": "兄5人と姉1人と、ジダンの7人兄姉弟の末っ子としてフランスマルセイユで生まれた。両親は、アルジェリア独立戦争が起きる少し前の1953年にフランス領アルジェリアからパリに移住してきた少数民族ベルベル人で、一家は1968年から港町マルセイユ北部の北アフリカ移民が集まって住む一角で暮らし始め、やがて1972年にジダンが生まれた。",
"title": "誕生から幼少期"
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"text": "父のイスマイルは倉庫番とデパートの夜間警備員で、母のマリカは主婦だった。一家が居住していたカステラン地区という場所は、失業率が高く、犯罪発生率も高い区域だったが、一家の暮らしは快適な方だった。ジダンが5歳の頃に兄や近所の子どもたちと家の近くにあった800平米「おおよそバスケットコート2面分の広さ」ほどの広場でサッカーを始めた。これがジダンとサッカーの出会いだった。兄たちのうち、三兄のノルディーヌは自身と同じくらいサッカーの素質があったという。",
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"text": "オリンピック・マルセイユのファンであり、特にブラジュ・スリシュコヴィッチ(英語版)、エンツォ・フランチェスコリやジャン=ピエール・パパンがお気に入りだった。子供時代は父親の影響で柔道もしており、11歳の時に茶帯だった。",
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"text": "9歳で地元クラブのASフォレスタに加入すると、すぐにその才能を認められチームキャプテンに抜擢された。10歳の時には隣の地域にあるUSサン=タンリというASフォレスタよりも格上のチームの一員となった。",
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"text": "1983年に、SOセプテーム・レ・ヴァロンに加入した。しばしばプロヴァンス地方の選抜チームでもプレーしたが、多くの出場機会には恵まれなかった。14歳の時に参加したエクス=アン=プロヴァンスでの3日間のトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトであるジャン・ヴァローの目に止まった。再びヴァローが見に来た試合、ジダンは他選手の欠場によってリベロのポジションに入り、決していいプレーを見せることはできなかったものの、ヴァローはカンヌでのトレーニングをジダンに提案した。マルセイユを離れてカンヌでホームステイをする提案にジダンの父親は反対したが、貧しかった一家では受けられない教育を受けさせることができると考えた母親はこれに賛同し、ジダンはマルセイユを離れることになった。",
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"text": "家族の元を離れてカンヌのユースに加入し、1988年にトップチームとプロ契約した。しかし1988-89シーズンのカンヌに当時16歳のジダンを出場させる余裕はなく、経験豊富な選手を重宝した。残留を確保し、リーグ戦残り2試合で迎えたFCナント戦で初招集を受け、試合時間残り12分のところで初出場を果たした。ジダンはゴールポストに直撃するシュートを放ち、資質の片鱗を見せた。翌シーズン、ジダンはリザーブチームと共に4部リーグでプレーするよう命じられた。",
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"text": "3年目の第3節AJオセール戦で先発出場したが、ジダンはパスミスによって観客からブーイングを受けるなどし、0-3で敗戦した。その後4試合先発から外された後にFCナント戦で復帰。1990年9月23日、地元クラブでありサポーターもしていたオリンピック・マルセイユとの試合でも活躍を見せ、この試合をきっかけにジダンは輝きを取り戻した。オセールとの2試合目では3-0で勝利して雪辱を果たし、11月24日から3月23日まで14連勝した。1991年2月10日のナント戦でプロ初得点を挙げ、それに対する特別ボーナスとして会長からルノー・クリオをプレゼントされた。3月24日のオリンピック・マルセイユ戦では試合にこそ敗れたものの、フランス・フットボールから「ディビジョン1で最も才能に恵まれた選手」と評された。1991-92シーズンは、UEFAカップでの躓きがきっかけでチームは勢いを失い、リーグの前半戦終了時で17位と低迷。パリで兵役に参加していたジダンの疲労も深刻であったが、それでも試合によっては輝きを放った。",
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"text": "シーズン終了後、350万フラン+4選手でFCジロンダン・ボルドーへ移籍。",
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"text": "移籍初シーズンは、左の守備的MFとしてプレー。35試合に出場して10得点を挙げ、UEFAカップ出場権を得た。1994年にはリーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれた。1995年、ブラックバーン・ローヴァーズFCの監督をしていたケニー・ダルグリッシュがジダンとクリストフ・デュガリーの獲得に興味を示すも、会長は「ティム・シャーウッドがいるのに何故ジダンを欲しがるのか?」と語り、獲得することはなかった。1996年にはインタートトカップを勝ち上がり出場したUEFAカップで決勝まで進出。4回戦レアル・ベティス戦での35メートルのシュートや3-0で勝利を収めた準々決勝ACミラン戦2nd legなど好調なプレーを披露。決勝では敗れたものの、ユヴェントスの首脳陣をして「ミシェル・プラティニの後継者をみつけた」と言わしめた。",
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"text": "1996年7月に移籍金3500万フランでユヴェントスへ移籍。「海兵隊長」のニックネームで呼ばれるフィジカルコーチのジャンピエロ・ヴェントローネのフィジカルトレーニングとメディカルスタッフのケアによって強靭な肉体を手に入れた。加入当初は厳しいトレーニングで疲れ、何度か吐きそうになったという。コッパ・イタリア2回戦のフィデーリス・アンドリア戦で公式戦デビュー、9月8日のレジアナ戦でセリエAデビューした。第3節のペルージャ戦ではレッドカードで退場処分となるなど、当初は本来の実力を発輝出来ずにいた。このことから多くの批判を受けたものの、当時監督だったマルチェロ・リッピはジダンを起用し続けた。リッピはジダンの最も適したポジションを試行錯誤し、当初のセントラルMFから2トップの下の攻撃的なポジションに置いた。そのことから徐々にチームに順応し、10月20日のインテル戦で移籍後初得点を挙げた。この試合をきっかけにユヴェントスのファンから認められ始めた。試合前にチームメイトのラファエレ・アメトラーノ(英語版)から「今日、お前はゴールを決めて俺達を勝たせる」と言われていたジダンは、得点を決めた後ベンチのアメトラーノを指さして駆け寄り抱擁を交わした。このシーズン、ユヴェントスはセリエA、インターコンチネンタルカップ優勝を飾り、ジダンはキャリア初のメジャータイトルを獲得した。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝のアヤックス戦、第2戦で1ゴール2アシストの活躍を見せたが、決勝でボルシア・ドルトムントに敗れた。このシーズンは公式戦44試合で7得点を記録した。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "その後、ユヴェントスには5シーズン在籍し、デルピッポと称されたアレッサンドロ・デル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップを操るトップ下の位置でプレー。2度のリーグ優勝に貢献したほか、UEFAチャンピオンズリーグにも1996-97、1997-98シーズンと2年連続で決勝進出を果たした。しかし、ジダンが移籍する前の1995-96シーズンでユヴェントスはUEFAチャンピオンズリーグを優勝しており、レキップ紙はジダンを不吉の象徴として黒猫と呼んだ。",
"title": "選手経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "1997-98シーズン、公式戦44試合で11得点を挙げ、確たるプレーを見せて地位を確立、リーグ優勝も果たした。1999-2000シーズン、ジダンは好調を維持し、クラブも第26節終了時点で17勝8分1敗の成績でシーズンのほとんどで1位をキープ。しかし最終8試合で4敗を喫し、最終節のペルージャ戦でも0-1で敗戦。2位のSSラツィオが勝利したため、勝ち点1差で優勝を逃した。ジダンは「私たちは1年間こつこつとつらい仕事をしてきたが、最終節ですべてを失った。こんなことならもっと早く負けていればよかった」と無念さを滲ませた。翌シーズン、カルロ・アンチェロッティは3ボランチを置くフランス代表に近いフォーメーションを敷き、同郷のダビド・トレゼゲも加入した。ユヴェントスは上々のスタートであったが、2000年10月25日、UEFAチャンピオンズリーグのハンブルガーSV戦でジダンはヨヘン・キーンツのファウルに対して頭突きの報復行為を行ったことによって5試合の出場停止処分を受けた。この試合ではエドガー・ダーヴィッツもレッドカードを受けて9人での戦いを強いられ、1-3で敗北した。その翌日のガゼッタ・デロ・スポルトでは「ジダンとダーヴィッツがユーヴェを沈ませた」との見出しで批判された。2週間後のパナシナイコスFC戦でもユヴェントスは負け、UEFAチャンピオンズリーグを予選敗退した。また、より開放的でテクニカルなスペインリーグでのプレーを望んだことやスペイン人の夫人が母国で暮らすためにイタリアを離れたがっていたことなどから、クラブに何度も移籍を訴えた。ユヴェントスのオーナーであったジャンニ・アニェッリは、「問題はジダンじゃなくて奥方にある。私には彼女をどうすることもできない」と語っていた。",
"title": "選手経歴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2000年8月23日、モナコで行われた欧州サッカー連盟のレセプションで偶然レアル・マドリード会長のフロレンティーノ・ペレスが同じテーブルとなった。その際にペレスは「レアル・マドリードに来たいか?」と英語で書いた紙ナプキンをジダンに見せて問い、ジダンはそれに「イエス」となぐり書きして答えた。2001年7月、当時史上最高額となる9000万ユーロの移籍金でレアル・マドリードに移籍。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ジダンはユヴェントス時代と同じ背番号21番を望んでいたが、サンティアゴ・ソラーリがすでに使用していたことやペレスが大きな背番号をつけることを好まなかったこともあり前年に引退したキャプテンであるマヌエル・サンチスの5番を継いだ。当時のクラブと代表双方でキャプテンを務めていたフェルナンド・イエロやツートップを組んでいたラウル・ゴンサレスとフェルナンド・モリエンテス、また超攻撃的左サイドバックのロベルト・カルロスや自身と同じくバロンドール受賞経験者のルイス・フィーゴら豪華なタレントを擁し、銀河系軍団と称されたチームの攻撃陣の中心として活躍した。また、当時のレアル・マドリードの補強、チーム作りの方針は「ジダネス&パボネス」(ジダンなどのスター選手とフランシスコ・パボンなどのカンテラ選手の共存)と呼ばれた。",
"title": "選手経歴"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "加入当初は親しい友人に「こんなことなら引退してしまいたい」とこぼしたほどマスコミからのプレッシャーに追い詰められ、スペインでの生活への順応にも苦戦していたが徐々にチームに馴染み、特に2001-02シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦、バイエル・レバークーゼン戦での決勝点となったボレーシュートは、CNNなどのメディアでサッカー史上最も素晴らしいゴールの一つと評価され、「永遠に伝説として語られることになるゴール」(レキップ)、「ジダンは神に祝福されている」(フランス・フットボール)と賞賛された。1対1の同点で迎えた前半44分、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。このゴールが決勝点となり、ジダンはキャリア初のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。",
"title": "選手経歴"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "2002-03シーズンは自身と同じくバロンドール受賞経験者のロナウドが加入し、リーガ・エスパニョーラ、UEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップ制覇の3冠を達成。2003年は自身3度目となるFIFA最優秀選手賞を受賞した。",
"title": "選手経歴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2003-04シーズンは2試合合計4-2でRCDマヨルカを下しスーペルコパ・デ・エスパーニャを手にしたが、それがレアル・マドリードにおいてジダンの最後のタイトルとなった。",
"title": "選手経歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ジダンの最終シーズン、セビージャFCを相手にキャリア初のハットトリックを達成した。2005-06シーズンの途中に、2006 FIFAワールドカップでの引退を発表。2006年5月7日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの最終戦となるビジャレアルCF戦前に行われた引退式では8万人を超えるファンが集まり、クラブもその日のために「Zidane 2001-2006」と刺繍されたユニフォームを用意した。その試合ではデビッド・ベッカムのクロスから得点も決めた。試合終了1分前にフアン・ラモン・ロペス・カロはジダンを交代させ、花道を提供した。その後、スタンド下の通路でフアン・ロマン・リケルメと抱擁し、ユニフォーム交換を行った。ジダンの最終シーズンは、リーグ28試合でチームトップであるロナウドに次ぐ9得点、デビッド・ベッカムと並んでチームトップタイの10アシストを記録した。ワールドカップ後に現役を引退した。",
"title": "選手経歴"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "1988年、スペインのマラガで行われたU-16欧州選手権で、初めてフランス代表としてプレーした。しかし、フランスは予選落ちしてしまい、ジダン自身も良い結果を残すことができなかった。その後も様々なカテゴリでフランス代表に選ばれた。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "1994年8月17日、チェコ戦でA代表デビュー。ユーリ・ジョルカエフの負傷によって追加招集されたジダンは、2点ビハインドの状態でコランタン・マルタンに代わり後半18分から出場。途中出場ながら2得点を挙げ、この試合をきっかけに代表に定着した。UEFA EURO '96予選、ジダンは最初の2試合に途中出場したが、2試合とも引き分けに終わり、その後の数試合は出場機会を与えられなかった。1995年4月26日のスロバキア戦で再び招集されると、「キャリアの中で最も重要な試合になる」と語ったこの試合で正ポジションを得たジダンは、フランスの4得点のうち2得点に絡んだ。10月11日にブカレストでのルーマニア戦では、ジダンのハーフボレーでのゴールなどで3-1とホームで5年間無敗を誇ったルーマニアを破った。最終戦サッカーイスラエル代表戦でも2-0で勝利し、UEFA EURO '96出場権を得た。これらの活躍によってジダンは代表での地位を磐石のものとした。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1996年のEURO1996直前、ジダンは運転中に事故を起こした。大会までに怪我は回復したもののコンディションは悪かったが、中心選手の一人として臨み、全試合に出場、チームはベスト4に進んだが、チェコにPKの末に敗れた。自身は「ずっと痛みを抱えながらプレーしており、準決勝では出場を自ら辞退しようとした」と語っている。",
"title": "選手経歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1998年、1月28日にスタッド・ド・フランスのこけら落としとなるスペイン戦ではその日唯一の得点を挙げた。同年地元フランスで開催されたワールドカップに出場。グループステージ初戦南アフリカ戦は勝利を収めたが、ジダンは2戦目サウジアラビア戦で相手キャプテンのフアド・アミンを踏みつけ、一発退場となってしまう。ジダンを欠いたフランス代表であったがグループリーグ最終戦でデンマークを2-1で下し、3戦全勝でグループリーグ突破。その後もフランス代表は勝ち進み、決勝戦でジダンはヘディングで2得点をあげるなどの活躍をし、フランスの初優勝に大きく貢献した。その後、優勝のお祝いの際にエッフェル塔にジダンの顔が掲げられた。この活躍で名を上げたジダンは、この年のバロンドール、FIFA最優秀選手賞を受賞。W杯で優勝した22人のメンバー、監督はレジオンドヌール勲章のシュヴァリエ(Chevalier、騎士)の階級を与えられた。UEFA EURO 2000でも優勝し、大会最優秀選手、そして2度目のFIFA最優秀選手賞を受賞した。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "前回王者として臨んだ2002年、FIFAワールドカップ・日韓大会では大会直前の韓国との親善試合で左太もも肉離れを起こし、さらにその試合で受けたタックルによって膝も痛めてしまった。その影響でワールドカップ本戦には包帯を巻いて強行出場したデンマーク戦1試合の出場にとどまり、フランス代表も2敗1分の成績でグループリーグで敗退した。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2004年に行われたEURO2004初戦のイングランド戦では、1点をリードされて迎えた後半90分にジダンのフリーキックから同点にすると、その2分後にティエリ・アンリの得たPKをジダンが決めて劇的な逆転勝利を果たした。しかしその後のフランスは精彩を欠き、ジダンは大会3得点を挙げるも、代表はベスト8で敗退。大会終了後の8月、自身のホームページでのインタビューにて、有望な若手選手に道を譲るために代表引退を発表した。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2005年、フランスがFIFAワールドカップ・ドイツ大会予選敗退の危機に陥るとレイモン・ドメネク監督やキャプテンのパトリック・ヴィエラの説得を受け、ジダンを代表デビューさせたジャケが公式の場で引退を悔やみ、更にはジャック・シラク大統領やスポーツ大臣のジャン=フランソワ・ラムールが代表復帰のために尽力すると言った。そうした後押しの中でクロード・マケレレ、リリアン・テュラムと共にフランス代表に復帰することをオフィシャルサイトで表明。携帯電話会社のオレンジグループは、代表復帰発表の翌日に、フランスの新聞各紙に「Tu nous as tellement manque!(あなたがいなくてどれだけ寂しかったか!)」という広告と共にジダンのインタビューが有料で聞くことができる電話番号を掲載。レキップ紙は「彼が戻ってくる!」と見出しを掲げ、国家的な大事件として扱われた。復帰発表の2週間後に行われたフランス世論研究所の調査では、73%の人がワールドカップ本大会に出場できると答えた。復帰後初戦のコートジボワール戦では3-0での勝利に貢献。アンリは「神が帰ってきた」とコメントした。ヴィエラからキャプテンマークを譲り受け、予選敗退危機にあったフランスを本大会出場へ導いた。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "大会後の引退を公言して臨んだ本大会では、グループリーグ序盤では低調だったものの、試合を重ねるごとに復調し、フランスも決勝戦まで進出した。準々決勝ブラジル戦ではアンリの決勝ゴールをアシストし、この試合のMVPに選ばれた。これまでジダンのアシストからアンリがゴールを決める場面は、共に出場したフランス代表55試合で1つもなく、メディアからの批判を受けていたが、これが初めてにして唯一のアシストとなった。試合後、ペレはジダンについて「魔法使いだった」と賞賛した。準決勝はリカルド・カルヴァーリョがアンリを倒したことによって得たPKを決め、その得点が決勝点となってポルトガル代表を下した。これによりポルトガル代表の19連勝及び前回大会でブラジル代表を率いていたルイス・フェリペ・スコラーリのワールドカップ12試合負けなしの記録をストップさせた。試合後は、レアル・マドリード時代のチームメイトであり共にキャプテンを務めていたルイス・フィーゴとユニフォーム交換を行った。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "決勝のイタリア戦ではジャンルイジ・ブッフォンに対してパネンカと呼ばれるチップキックでPKを決め、キャリア最後となる得点で先制点を挙げた。延長戦後半、マルコ・マテラッツィから何事か挑発された際に頭突きを食らわせ、一発退場となって、現役最後の試合を終えた。試合はPK戦になりフランス代表は負けて準優勝に終わったが、大会中の活躍が評価されMVPを受賞した。また、試合後にはジャック・シラク大統領もコメントを残した。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この2006年ワールドカップ後の一連の騒動では、マテラッツィがジダンの人種や家族を侮辱した発言をしたという疑惑が上がり、ジダンの人種問題が取り上げられた。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "ワールドカップ通算12試合5得点、欧州選手権通算13試合5得点。ワールドカップ決勝通算3得点はヴァヴァ、ペレ、ジェフ・ハーストと並び史上最多タイ、また2大会に渡る決勝戦でのゴールはヴァヴァ、ペレ、パウル・ブライトナーに続き史上4人目。",
"title": "選手経歴"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ワールドカップ決勝での頭突きにより、国際サッカー連盟から7500スイス・フラン(約70万円)の罰金と3日間の社会奉仕活動の処分を科せられた。2006年11月に、同年ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスに招かれるとともに、両親の出身地であるアルジェリアの大統領であるアブデルアジズ・ブーテフリカの元を訪ねた。ブーテフリカからは、公式に面会の場を設けられた。",
"title": "現役引退後"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "引退後はフランスのテレビ放送局Canal+で解説者を務めていたが、2009年6月1日、自身を呼び寄せたフロレンティーノ・ペレスが再びレアル・マドリードの会長となったことを受け、クラブアドバイザーに就任した。その後、ジョゼ・モウリーニョにチームの近くにいることを要請され、それを快諾。UEFAチャンピオンズリーググループリーグのアヤックス戦よりチームに同行することとなった。2011年5月、モウリーニョとの対立からクラブのゼネラルディレクターを務めていたホルヘ・バルダーノが解任され、レアル・マドリードはゼネラルディレクター職を廃止。それまでスポーツディレクターの職に就いていたホセ・アンヘル・サンチェスがクラブの強化部門における最高責任者を務めることとなった。その後任として、ジダンはスポーツディレクターに就任した。",
"title": "現役引退後"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2009年、1998年に拝受したレジオンドヌール勲章のシュヴァリエの階級からオフィシエ(Officier、将校)に昇格した。UEFA EURO 2016誘致の際には、ニコラ・サルコジ大統領と共にフランスのプレゼンテーションを行った。また、2022年のFIFAワールドカップでは、カタールの招致アンバサダーとして招致活動を行った。2011年2月、サッカー選手としてはペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアーに次いで4人目となるローレウス世界スポーツ賞の生涯功労賞を受賞した。",
"title": "現役引退後"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2012-13シーズンにはスポーツディレクターの職をフェルナンド・イエロに譲り、レアル・マドリードの下部組織に重点を置いた活動を行った。2013年にUEFA公認の指導者ライセンスを取得し、レアル・マドリードにてかつての恩師であったカルロ・アンチェロッティのアシスタントコーチとして2013-14シーズンよりレアル・マドリードのトップチームの副監督に就任した。",
"title": "現役引退後"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2014年7月、レアル・マドリード・カスティージャの助監督に就任した。ジダンはスペインリーグの2部B以上のチームを率いるために必要なレベル3のコーチライセンスを取得していなかったため、名目上はサンティアゴ・デニア・サンチェス監督を補助する助監督という立場であったが、実質的に監督としての振る舞いをしていたことが問題視された。2014年10月27日、正しい指導ライセンスを所有していないとして、スペイン・サッカー協会から3か月間の活動停止処分を受けた。その後レアル・マドリードの上訴がスポーツ仲裁裁判所に受け入れられ、スペインサッカー連盟も処分を撤回した。",
"title": "現役引退後"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2015年にUEFAプロライセンスを獲得した。",
"title": "現役引退後"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2016年1月に、解任されたラファエル・ベニテスの後任としてレアル・マドリードの監督に就任。初陣となった9日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦ではギャレス・ベイルのハットトリックを含む5-0で勝利した。レアルの監督となって初となるUEFAチャンピオンズリーグの試合ではクリスティアーノ・ロナウドやヘセ・ロドリゲスのゴールでASローマに2-0で勝利した。4月2日にカンプ・ノウで行われたエル・クラシコでは2-1で勝利した。5月28日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2015-16 決勝では、アトレティコ・マドリードをPK戦の末に下し、優勝を達成した。この優勝で、史上7人目となる選手・監督の両方でUEFAチャンピオンズリーグ(旧チャンピオンズカップも含む)優勝を達成した人物となった。",
"title": "現役引退後"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2016年11月2日のUEFAチャンピオンズリーグ、レギア・ワルシャワ戦で監督として100試合を達成した。クラウディオ・ラニエリ(レスター・シティFC)、フェルナンド・サントス(ポルトガル代表)とともにFIFAより年間最優秀監督の最終候補に選出された。リーガ15節のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦での勝利により連続無敗記録を35試合とし、クラブ記録を樹立した。その後も無敗記録を40試合に伸ばしてFCバルセロナが保持していたスペイン記録を更新した。2016-2017シーズンは、過密日程も考慮してローテーションを敷いて選手の体調管理に気を配り、欠場を嫌うことで有名なエースのFWロナウドですら例外なく休養を与えた。その結果、大事なシーズン終盤戦でもチームは息切れすることなく、リーグ戦を逃げ切り、2011-12シーズン以来、5年ぶりのプリメーラ・ディビシオン優勝に導いた。その勢いのまま史上初の二連覇を目指すUEFAチャンピオンズリーグでも勝ち進み、決勝戦の相手は奇しくもジダンの古巣ユヴェントスFCであったが、4-1で勝利し、UEFAチャンピオンズリーグ改称後初の二連覇という快挙を成し遂げた。またレアル・マドリードは1957-58シーズン以来、59年ぶりの二冠達成であった。同年、オンズドール年間最優秀監督賞、FIFA最優秀監督賞を受賞した。",
"title": "現役引退後"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "2017-18シーズンは国内ではスーペルコパ・デ・エスパーニャを制したが、コパ・デル・レイでは準々決勝で敗退し、リーグ戦では3位であった。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは3年連続で決勝に勝ち進みリヴァプールFCを下して優勝した。これにより、チームが持つ大会最多優勝回数を更新し、大会初の3連覇を成し遂げた。このシーズンをもって監督を退任した。",
"title": "現役引退後"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2018-19シーズンは、成績不振により解任されたサンティアゴ・ソラーリの後任としてフロレンティーノ・ペレス会長から復帰の電話を2度に分けて貰い、2度目にしてOKサインを出したことによりレアル・マドリード監督への復帰が決まった。翌2019-20シーズンはフェデリコ・バルベルデの台頭などもあり好調を維持、アトレティコ・マドリードとの試合を制し監督として10個目のタイトルであるスーペルコパを獲得した。公式戦187試合での10タイトル目というハイペースであり、監督としてレアル・マドリード最多獲得タイトルの記録を持つミゲル・ムニョスが10個のタイトルを獲得するのに8年の期間を要したのに対し、ジダンは3年10ヶ月での達成となった。FCバルセロナを勝ち点差2で追う展開でCOVID-19によりリーガが中断するも、再開後には10連勝を記録するなど好調を見せて逆転優勝を果たし、リーガ最優秀監督に贈られるミゲル・ムニョス賞を初受賞した。しかし、2020-21シーズンは無冠に終わり、同シーズン終了後の2021年5月27日に辞任したことが発表された。",
"title": "現役引退後"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2023年シーズンからアルピーヌF1チームのブランド・アンバサダーに就任。モータースポーツ及び自動車産業における機会均等を推進するプログラム「RAC(H)ER」ならびに、若手技術者の発掘と支援を目指す「コンクール・イクセレンス・メカニック」のスポンサーを務める。",
"title": "現役引退後"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "攻撃的なミッドフィールダーであり、味方の選手に的確なパスを出すなどの攻撃の中心的な役割を果たすとともに、チャンスと見ると自らもシュートを決める得点力を兼ね備えた。高いボディーバランスと複数のアクションを組み合わせる能力を持ち、非常に正確なボールタッチ、パス、シュート、コントロール、ドリブルなどのプレーはバレエの優雅さに例えられる。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "当時、イタリアではアリゴ・サッキのゾーンプレスが浸透してトップ下のポジションは絶滅の危機を迎え、ロベルト・バッジョやアレッサンドロ・デル・ピエロらファンタジスタが激しいプレッシャーを受けるミッドフィールダーからセカンドトップにポジションを変更していた。しかし、鮮やかなテクニックを持ちながら185センチの強靭な体躯を持つジダンは相手のプレッシングを受けてもボールをキープして時間を作り出し、また守備時にはセントラルハーフとして戦うこともできたためトップ下のポジションでユヴェントスFCの中心に君臨した。プレスをしても奪えないジダンに対してプレスを強めれば強めるほど裏に大きなスペースが広がり、結果としてフリーとなった周囲の選手にプレスを受けながら繋いで相手を崩していく。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "1998年のFIFAワールドカップ決勝や2002年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝など印象的なゴールも多いが、ユヴェントスFC時代の監督であるカルロ・アンチェロッティは「私は練習でジダンを見て、大きなインパクトを受けた。スペクタクルだったね。しかし、彼はもっとやれたはずだ。より多くのゴールを記録していてもおかしくなかった」と指摘している。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "試合に関しては気性の激しさで知られ、2006 FIFAワールドカップグループリーグの第二戦の韓国戦ではチームが同点ゴールを決められ、本人もイエローカードを受けて累積警告によって次戦の出場停止が決まり、同点のままロスタイムにトレゼゲと交代させられると、ロッカールームのドアを蹴って壊したこともある。(なお、その扉は「ジダンに壊された扉」としてスタジアムに保存されている)。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "一方で、普段の性格は寡黙で内気と言われる。引退後に競技テニスをしたいと言っていた頃、ホテルに宿泊した際に、アンドレ・アガシとたまたま隣の部屋になった事があったが、内気さゆえに会いに行けなかったというエピソードや、2010年にフランス代表の一日コーチを引き受けて1998 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2000のビデオを観賞してスピーチを行った際に、ガエル・クリシーに「自分のビデオを見せながら照れていた」と明かされるといったエピソードがある。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "ジダンとは対照的におしゃべりで気さくなクリストフ・デュガリーとは親友である。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "2003年からはダノンネーションズカップの公式アンバサダーを務めるなど多くのチャリティーイベントに参加し、慈善活動にも熱心である。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "マルセイユ出身のジダンはオリンピック・マルセイユのファンだが、父親がフランスに移住して初めて生活した場所であり、スタッド・ド・フランスもあるパリ郊外のサン=ドニには第2の故郷と語るほど愛着を感じている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "フランス語以外に両親の母語であるベルベル語も話せる。また夫人がスペイン系であり、スペイン語も習得している。イタリアで5年間生活をしていたことから、イタリア語も理解出来る。",
"title": "人物"
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"text": "17歳(ASカンヌ時代)の時に出会ったスペイン系フランス人のヴェロニック・フェルナンデスと1994年5月24日に結婚した。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "兄弟のうち、ファリドとノルディーヌは、マルセイユ北部でジネディーヌの肖像権や放映権の管理会社を経営している。2019年7月13日、ファリドは癌により死去している。享年54歳。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "4人の男子の子供がおり、長男のエンツォの名は地元オリンピック・マルセイユに所属し、幼少時からのアイドルであったエンツォ・フランチェスコリに因んでいる。4人ともジネディーヌと同じサッカー選手の道を進み、エンツォと次男のルカ、三男テオはプロサッカー選手となっている。四男・エリアスもレアル・マドリードの下部組織に所属しており、フランスの年代別代表にも選ばれている。またレアル・マドリードの公式サイトの選手紹介では伝説的選手であった父親のプレッシャーを受けないようにするためか、母方のフェルナンデス姓で登録されている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "※2023-2024シーズン時点の所属先",
"title": "人物"
},
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"text": "叔父のジャメル・ジダンもベルギーリーグのKRCヘンクなどで活躍した元サッカー選手でアルジェリア代表だった。",
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"text": "1990年代後半から2000年代前半にかけて「世界最高のサッカー選手」と称えられた。",
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"text": "極限まで狭められた中盤のスペースを卓越したボールコントロールで生き抜いた最後のボールプレイヤーとも呼ばれている。",
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"text": "現役時代にマルチェロ・リッピやビセンテ・デル・ボスケの下で指導を受け、引退後もジョゼ・モウリーニョやカルロ・アンチェロッティといった名監督を近い位置で見てきたこともあり、幅広い戦術オプションを有している。また、必要最低限の言葉を用いて選手たちをモチベートすることでロッカールームをうまくコントロールし、起用する選手のローテーションも積極的に行う。",
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"text": "デル・ボスケは「柔軟さにくわえ、思い切りもある」と評価し、デル・ボスケのアシスタントを長年務めたトニ・グランデはデル・ボスケとの特に人間的な部分での共通点を指摘し、「あれほどの選手だったのに、監督になってからもエゴを出さずに、発言も態度も常に柔らかい。冷静で、好戦的な発言をすることもない。」とし、銀河系軍団時代のレアル・マドリードで広報部長をしていたホアキン・マロートもUEFAチャンピオンズリーグで優勝する監督の共通点として「好戦的でないこと。監督として自分を押し出しすぎないこと。人としてまっすぐであること。」の3つを挙げ、ジダンの人となりがチームを率いることにも活かされていると語った。アンチェロッティは、常に学び続け、最新の情報を取り入れ、自身で経験を積んでおり偉大な指導者であると評価した。",
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"text": "フランスサッカー連盟は2000年8月16日に行われたFIFA選抜戦を国際Aマッチとして認めている。",
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ジネディーヌ・ヤジッド・ジダンは、フランスの元サッカー選手、現サッカー指導者。元フランス代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。愛称:ジズー(Zizou)。 サッカー史上最高の選手の1人とみなされている。選手としては、1989年から2006年まで攻撃的ミッドフィールダーとして司令塔の役割だった。FIFA最優秀選手賞、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、所属チームではワールドカップ、欧州選手権、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて獲得した。UEFAゴールデンジュビリーポールでは、フランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフらを抑えて1位に選ばれた。FIFA100選にも名を連ねている。 監督としてもレアル・マドリードの助監督やBチームの監督を務めた後にトップチームの監督に就任。2016年1月4日トップチームに就任すると、1年目でクラブをチャンピオンズリーグ制覇に導いた。2017年には、史上初めてとなるチャンピオンズリーグ連覇を達成し、選手、監督双方でオンズドール、FIFA最優秀賞を受賞した初めての人物となった。レアル・マドリードへ史上初となるチャンピオンズリーグ3連覇など数々のタイトルをもたらし、2018年5月31日に自ら辞任した。しかし成績不振のチームを立て直すため、再び2019年3月11日トップチームの監督に就任し、2020-21シーズン終了まで指揮を取った。 アルジェリアの少数民族カビール人(→ベルベル人)の両親の元に生まれたため、フランスでは「北アフリカ移民の星」としての象徴的な人気もある。
|
{{サッカー選手
|名前 = ジネディーヌ・ジダン
|画像 = Zinedine Zidane by Tasnim 03.jpg
|画像サイズ = 250px
|画像の説明 = [[2017年]]のジダン
|本名 = ジネディーヌ・ヤジッド・ジダン<br />Zinedine Yazid Zidane
|愛称 =ジズー(''Zizou'')
|カタカナ表記 =
|アルファベット表記 = Zinedine Zidane
|原語名 =
|原語表記 =
|国 = {{FRA}} <br />{{ALG}}
|誕生日 = {{生年月日と年齢|1972|6|23}}
|出身地 = [[マルセイユ]]
|身長 = 185 [[センチメートル|cm]]
|体重 = 80 [[キログラム|kg]]
|利き足 = 右足
|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]
|ユースクラブ1={{Flagicon|FRA}} USサン=タンリ
|ユースクラブ2={{Flagicon|FRA}} SOセプテーム・レ・ヴァロン
|ユースクラブ3={{flagicon|FRA}} [[ASカンヌ|カンヌ]]
|ユース年1=1982-1983|ユース年2=1983-1986|ユース年3=1986-1988
|クラブ1={{flagicon|FRA}} [[ASカンヌ|カンヌ]]
|クラブ2={{flagicon|FRA}} [[FCジロンダン・ボルドー|ボルドー]]
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|クラブ4={{flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]
|年1=1988-1992|年2=1992-1996|年3=1996-2001|年4=2001-2006
|出場1=61 |得点1=6 |出場2=139 |得点2=28 |出場3=151 |得点3=24 |出場4=155 |得点4=37
|通算出場=506 |通算得点=95
|クラブ成績更新日=
|代表1={{fbu|17|FRA|name=フランス U-17}}
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|代表4={{FRAf}}
|代表年1=1988-1989
|代表年2=1989-1990
|代表年3=1990-1994
|代表年4=1994-2006<ref name="rsssf">{{Cite news|title=Zinedine Zidane - Century of International Appearances|publisher=The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/zidane-intl.html|language=英語}}</ref>
|代表出場1=4 |代表得点1=1
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|監督年1=2013-2014
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|監督年4=2019-2021
|監督チーム1={{flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]アシスタント
|監督チーム2={{flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード・カスティージャ]]
|監督チーム3={{flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]
|監督チーム4={{flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]
}}
'''ジネディーヌ・ヤジッド・ジダン'''({{lang-fr-short|Zinedine Yazid Zidane}}<small> [http://ja.forvo.com/word/zinedine_zidane#fr 発音例]</small>、[[カビル語]]:Zinəddin Lyazid Zidan、{{lang-ar-short|زين الدين يزيد زيدان}}、[[1972年]][[6月23日]] - )は、[[フランス]]の元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]、現サッカー指導者。元[[サッカーフランス代表|フランス代表]]。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー]]。[[愛称]]:'''ジズー'''(''Zizou'')<ref>{{Cite web|publisher=guardian|url=http://www.guardian.co.uk/football/2000/jul/02/euro2000.sport2|title=Zizou top|accessdate=2016-04-20}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=expertfootball.com|url=http://expertfootball.com/players/zidane/|title=Zinedine Zidane|accessdate=2016-04-20}}</ref>。
サッカー史上最高の選手の1人とみなされている。選手としては、[[1989年]]から[[2006年]]まで[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|攻撃的ミッドフィールダー]]として[[司令塔 (スポーツ)#サッカーにおける司令塔|司令塔]]の役割だった。[[FIFA最優秀選手賞]]、[[バロンドール]]、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、所属チームでは[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]、[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]、[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ]]、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ]]、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]などの主要タイトルをすべて獲得した。[[UEFAゴールデンジュビリーポール]]では、[[フランツ・ベッケンバウアー]]や[[ヨハン・クライフ]]らを抑えて1位に選ばれた<ref>{{cite news|url=http://www.uefa.com/newsfiles/171606.pdf|title=Zinedine Zidane voted top player by fans|publisher=uefa.com|date=2004年4月22日}}</ref>。[[FIFA 100|FIFA100]]選にも名を連ねている。
監督としてもレアル・マドリードの助監督や[[レアル・マドリード・カスティージャ|Bチーム]]の監督を務めた後にトップチームの監督に就任。[[2016年]][[1月4日]]トップチームに就任すると、1年目でクラブをチャンピオンズリーグ制覇に導いた。[[2017年]]には、史上初めてとなるチャンピオンズリーグ連覇を達成し、選手、監督双方で[[オンズドール]]、[[2017年のザ・ベスト・FIFAフットボールアウォーズ|FIFA最優秀賞]]を受賞した初めての人物となった。[[レアル・マドリード]]へ史上初となるチャンピオンズリーグ3連覇など数々のタイトルをもたらし、[[2018年]][[5月31日]]に自ら辞任した。しかし成績不振のチームを立て直すため、再び[[2019年]][[3月11日]]トップチームの監督に就任し、2020-21シーズン終了まで指揮を取った。
アルジェリアの少数民族[[カビール人]](→[[ベルベル人]])の両親の元に生まれたため、フランスでは「北アフリカ移民の星」としての象徴的な人気もある<ref>{{Cite web|和書|publisher=goo.ne.jp|date=2006年7月13日|url=http://news.goo.ne.jp/article/gooeditor/world/gooeditor-20061107-01.html|title=ジダンの涙 - 大野元裕コラム |accessdate=2010年5月19日 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=朝日新聞出版|date=2006年7月28日|url=http://publications.asahi.com/syukan/briefing/796.shtml|title=フランスW杯決勝敗北。ジダンの悲劇。多民族同化統合の夢も終わった |accessdate=2010年5月19日 }}</ref>。
== 誕生から幼少期 ==
兄5人と姉1人と、ジダンの7人兄姉弟の末っ子としてフランスマルセイユで生まれた。両親は、[[アルジェリア独立戦争]]が起きる少し前の1953年に[[フランス領アルジェリア]]から[[パリ]]に移住してきた少数民族[[ベルベル人]]で、一家は1968年から港町[[マルセイユ]]北部の北アフリカ移民が集まって住む一角で暮らし始め、やがて1972年にジダンが生まれた。
父のイスマイルは倉庫番とデパートの夜間警備員で、母のマリカは主婦だった。一家が居住していたカステラン地区という場所は、失業率が高く、犯罪発生率も高い区域だったが、一家の暮らしは快適な方だった。ジダンが5歳の頃に兄や近所の子どもたちと家の近くにあった800平米「おおよそバスケットコート2面分の広さ」ほどの広場でサッカーを始めた。これがジダンとサッカーの出会いだった。兄たちのうち、三兄のノルディーヌは自身と同じくらいサッカーの素質があったという<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 31頁</ref>。
[[オリンピック・マルセイユ]]のファンであり、特に{{仮リンク|ブラジュ・スリシュコヴィッチ|en|Blaž Slišković}}、[[エンツォ・フランチェスコリ]]や[[ジャン=ピエール・パパン]]がお気に入りだった<ref>{{cite news|url=http://www.klix.ba/sport/nogomet/zidane-sliskovic-mi-je-bio-idol-uzivao-sam-gledati-ga/110702058|title=Zidane: Slišković mi je bio idol, uživao sam gledati ga|publisher=klix sport|date=2011年7月2日}}</ref>。子供時代は父親の影響で[[柔道]]もしており<ref name="livedoor" />、11歳の時に[[茶帯]]だった<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 255-256頁</ref>。
== 選手経歴 ==
=== クラブ ===
==== プロ入り前 ====
9歳で地元クラブのASフォレスタに加入すると、すぐにその才能を認められチームキャプテンに抜擢された。10歳の時には隣の地域にあるUSサン=タンリというASフォレスタよりも格上のチームの一員となった。
1983年に、SOセプテーム・レ・ヴァロンに加入した。しばしば[[プロヴァンス]]地方の選抜チームでもプレーしたが、多くの出場機会には恵まれなかった<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 34-36頁</ref>。14歳の時に参加した[[エクス=アン=プロヴァンス]]での3日間のトレーニングキャンプで、[[ASカンヌ]]のスカウトであるジャン・ヴァローの目に止まった。再びヴァローが見に来た試合、ジダンは他選手の欠場によってリベロのポジションに入り、決していいプレーを見せることはできなかったものの、ヴァローはカンヌでのトレーニングをジダンに提案した<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 39頁</ref>。マルセイユを離れてカンヌでホームステイをする提案にジダンの父親は反対したが、貧しかった一家では受けられない教育を受けさせることができると考えた母親はこれに賛同し、ジダンはマルセイユを離れることになった<ref name="nikkan">{{cite news|url=http://germany2006.nikkansports.com/paper/p-sc-tp3-20060712-0008.html|title=ジダン頭突きの真相は母入院が関係か|publisher=nikkannsports.com|date=2006年7月21日}}</ref>。
==== カンヌ ====
家族の元を離れてカンヌのユースに加入し、1988年にトップチームとプロ契約した。しかし1988-89シーズンのカンヌに当時16歳のジダンを出場させる余裕はなく、経験豊富な選手を重宝した。残留を確保し、リーグ戦残り2試合で迎えた[[FCナント]]戦で初招集を受け、試合時間残り12分のところで初出場を果たした。ジダンはゴールポストに直撃するシュートを放ち、資質の片鱗を見せた<ref name="livedoor">{{cite news|url=http://news.livedoor.com/article/detail/1893893/|title=英雄ジダンの6つのキーポイント|publisher=livedoor.com|date=2006年4月26日}}</ref><ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 52-53頁</ref>。翌シーズン、ジダンはリザーブチームと共に4部リーグでプレーするよう命じられた<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 55頁</ref>。
3年目の第3節[[AJオセール]]戦で先発出場したが、ジダンはパスミスによって観客からブーイングを受けるなどし、0-3で敗戦した。その後4試合先発から外された後にFCナント戦で復帰。1990年9月23日、地元クラブでありサポーターもしていたオリンピック・マルセイユとの試合でも活躍を見せ、この試合をきっかけにジダンは輝きを取り戻した。オセールとの2試合目では3-0で勝利して雪辱を果たし、11月24日から3月23日まで14連勝した。1991年2月10日のナント戦でプロ初得点を挙げ、それに対する特別ボーナスとして会長から[[ルノー・クリオ]]をプレゼントされた。3月24日のオリンピック・マルセイユ戦では試合にこそ敗れたものの、[[フランス・フットボール]]から「ディビジョン1で最も才能に恵まれた選手」と評された<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 57-59頁</ref>。1991-92シーズンは、[[UEFAカップ]]での躓きがきっかけでチームは勢いを失い、リーグの前半戦終了時で17位と低迷。[[パリ]]で[[徴兵制度|兵役]]に参加していたジダンの疲労も深刻であったが、それでも試合によっては輝きを放った。
==== ボルドー ====
シーズン終了後、350万フラン+4選手で[[FCジロンダン・ボルドー]]へ移籍<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 63頁</ref>。
移籍初シーズンは、左の守備的MFとしてプレー。35試合に出場して10得点を挙げ、UEFAカップ出場権を得た。1994年には[[リーグ・アン]]の最優秀若手選手に選ばれた。1995年、[[ブラックバーン・ローヴァーズFC]]の監督をしていた[[ケニー・ダルグリッシュ]]がジダンと[[クリストフ・デュガリー]]の獲得に興味を示すも、会長は「[[ティム・シャーウッド]]がいるのに何故ジダンを欲しがるのか?」と語り、獲得することはなかった<ref>{{cite news|url=http://www.blackburn.vitalfootball.co.uk/article.asp?a=47576|title=The Ones That Got Away...Zidane|publisher=VitalFootball.co.uk}}</ref>。1996年には[[インタートトカップ]]を勝ち上がり出場した[[UEFAカップ]]で決勝まで進出。4回戦[[レアル・ベティス]]戦での35メートルのシュートや3-0で勝利を収めた準々決勝[[ACミラン]]戦2nd legなど好調なプレーを披露。決勝では敗れたものの、[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]の首脳陣をして「[[ミシェル・プラティニ]]の後継者をみつけた」と言わしめた<ref name="livedoor" />。
==== ユヴェントス ====
1996年7月に移籍金3500万フランでユヴェントスへ移籍。「海兵隊長」のニックネームで呼ばれるフィジカルコーチのジャンピエロ・ヴェントローネのフィジカルトレーニングとメディカルスタッフのケアによって強靭な肉体を手に入れた<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 147頁</ref>。加入当初は厳しいトレーニングで疲れ、何度か吐きそうになったという<ref name=goal>{{cite web|url=https://www.goal.com/it/notizie/zinedine-zidane-dal-calcio-di-strada-a-fuoriclasse-mondiale/blt5430d114332d9b14|title=Zinedine Zidane, dal calcio di strada a fuoriclasse mondiale|website=GOAL|date=2023-1-23|accessdate=2023-8-30}}</ref>。[[コッパ・イタリア]]2回戦の[[フィデーリス・アンドリア]]戦で公式戦デビュー、9月8日のレジアナ戦でセリエAデビューした<ref name=goal/>。第3節の[[ペルージャ・カルチョ|ペルージャ]]戦ではレッドカードで退場処分となるなど、当初は本来の実力を発輝出来ずにいた<ref name=goal/>。このことから多くの批判を受けたものの、当時監督だった[[マルチェロ・リッピ]]はジダンを起用し続けた<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/4737340/ リッピは後に、マラドーナに次ぐ過去20年で最高の選手はジダンと発言している。]</ref><ref>{{cite news|url=https://news.livedoor.com/article/detail/4564158/|title=ジダンがジエゴにエール 「私もイタリアでは苦しんだ」|publisher=livedoor.com|date=2010年1月22日}}</ref>。リッピはジダンの最も適したポジションを試行錯誤し、当初のセントラルMFから2トップの下の攻撃的なポジションに置いた。そのことから徐々にチームに順応し、10月20日の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]戦で移籍後初得点を挙げた<ref name=goal/>。この試合をきっかけにユヴェントスのファンから認められ始めた。試合前にチームメイトの{{仮リンク|ラファエレ・アメトラーノ|en|Raffaele Ametrano}}から「今日、お前はゴールを決めて俺達を勝たせる」と言われていたジダンは、得点を決めた後ベンチのアメトラーノを指さして駆け寄り抱擁を交わした<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 148-149頁</ref>。このシーズン、ユヴェントスは[[セリエA (サッカー)|セリエA]]、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]優勝を飾り、ジダンはキャリア初のメジャータイトルを獲得した。しかし、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では準決勝の[[AFCアヤックス|アヤックス]]戦、第2戦で1ゴール2アシストの活躍を見せたが、決勝で[[ボルシア・ドルトムント]]に敗れた<ref name=goal/>。このシーズンは公式戦44試合で7得点を記録した<ref name=goal/>。
その後、ユヴェントスには5シーズン在籍し、デルピッポと称された[[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]と[[フィリッポ・インザーギ]]の2トップを操るトップ下の位置でプレー。2度のリーグ優勝に貢献したほか、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]にも1996-97、1997-98シーズンと2年連続で決勝進出を果たした。しかし、ジダンが移籍する前の1995-96シーズンでユヴェントスは[[UEFAチャンピオンズリーグ 1995-96|UEFAチャンピオンズリーグ]]を優勝しており、[[レキップ]]紙はジダンを不吉の象徴として[[黒猫]]と呼んだ<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 154頁</ref>。
1997-98シーズン、公式戦44試合で11得点を挙げ、確たるプレーを見せて地位を確立、リーグ優勝も果たした<ref name=goal/>。1999-2000シーズン、ジダンは好調を維持し、クラブも第26節終了時点で17勝8分1敗の成績でシーズンのほとんどで1位をキープ。しかし最終8試合で4敗を喫し、最終節の[[ペルージャ・カルチョ|ペルージャ]]戦でも0-1で敗戦。2位の[[SSラツィオ]]が勝利したため、勝ち点1差で優勝を逃した。ジダンは「私たちは1年間こつこつとつらい仕事をしてきたが、最終節ですべてを失った。こんなことならもっと早く負けていればよかった」と無念さを滲ませた<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 104頁</ref>。翌シーズン、[[カルロ・アンチェロッティ]]は3ボランチを置く[[サッカーフランス代表|フランス代表]]に近いフォーメーションを敷き、同郷の[[ダビド・トレゼゲ]]も加入した。ユヴェントスは上々のスタートであったが、2000年10月25日、UEFAチャンピオンズリーグの[[ハンブルガーSV]]戦でジダンはヨヘン・キーンツのファウルに対して頭突きの報復行為を行ったことによって5試合の出場停止処分を受けた。この試合では[[エドガー・ダーヴィッツ]]もレッドカードを受けて9人での戦いを強いられ、1-3で敗北した。その翌日の[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]では「ジダンとダーヴィッツがユーヴェを沈ませた」との見出しで批判された。2週間後の[[パナシナイコスFC]]戦でもユヴェントスは負け、UEFAチャンピオンズリーグを予選敗退した。また、より開放的でテクニカルな[[プリメーラ・ディビシオン|スペインリーグ]]でのプレーを望んだことやスペイン人の夫人が母国で暮らすためにイタリアを離れたがっていたことなどから、クラブに何度も移籍を訴えた。ユヴェントスのオーナーであった[[ジャンニ・アニェッリ]]は、「問題はジダンじゃなくて奥方にある。私には彼女をどうすることもできない」と語っていた<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 44頁</ref>。
==== レアル・マドリード ====
2000年8月23日、[[モナコ]]で行われた[[欧州サッカー連盟]]のレセプションで偶然[[レアル・マドリード]]会長の[[フロレンティーノ・ペレス]]が同じテーブルとなった。その際にペレスは「レアル・マドリードに来たいか?」と英語で書いた紙ナプキンをジダンに見せて問い、ジダンはそれに「イエス」となぐり書きして答えた<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 116頁</ref>。2001年7月、当時史上最高額となる9000万ユーロの移籍金でレアル・マドリードに移籍<ref name="livedoor" />。
[[ファイル:Zinedine zidane 2005.jpg|thumb|right|250px|レアル・マドリードでのジダン([[2005年]])]]
ジダンはユヴェントス時代と同じ背番号21番を望んでいたが、[[サンティアゴ・ソラーリ]]がすでに使用していたことやペレスが大きな背番号をつけることを好まなかったこともあり<ref>{{Cite web|和書| publisher = YAHOO!JAPANニュース| date = 2023年11月15日| title = ジダン氏が語る「背番号5」着用の理由 “大きな番号を嫌う”あの人物の発案だった| url = https://news.yahoo.co.jp/articles/cb7463348392e7cc3c3067e5a0abb75bc0ded15b| accessdate = 2023年11月20日}}</ref>前年に引退したキャプテンである[[マヌエル・サンチス・オンティジュエロ|マヌエル・サンチス]]の5番を継いだ<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 46頁</ref>。当時のクラブと[[サッカースペイン代表|代表]]双方でキャプテンを務めていた[[フェルナンド・イエロ]]やツートップを組んでいた[[ラウル・ゴンサレス]]と[[フェルナンド・モリエンテス]]、また超攻撃的左サイドバックの[[ロベルト・カルロス・ダ・シウバ|ロベルト・カルロス]]や自身と同じくバロンドール受賞経験者の[[ルイス・フィーゴ]]ら豪華なタレントを擁し、[[銀河系軍団]]と称されたチームの攻撃陣の中心として活躍した<ref>{{cite news|url=http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/soccer100113_2_1.html|title=ワールドサッカーキング 10.01.21(No.134)掲載|publisher=OCNスポーツ|date=2010年1月21日}}</ref>。また、当時のレアル・マドリードの補強、チーム作りの方針は「ジダネス&パボネス」(ジダンなどのスター選手と[[フランシスコ・パボン]]などの[[カンテラ]]選手の共存)と呼ばれた。
加入当初は親しい友人に「こんなことなら引退してしまいたい」とこぼしたほどマスコミからのプレッシャーに追い詰められ、スペインでの生活への順応にも苦戦していたが徐々にチームに馴染み、特に2001-02シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦、[[バイエル・レバークーゼン]]戦での決勝点となったボレーシュートは、[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]などのメディアでサッカー史上最も素晴らしいゴールの一つと評価され<ref>{{Cite web|publisher=cnn.com|date=2009年3月12日|url=https://edition.cnn.com/2009/SPORT/football/03/02/first.xi.best.goals/index.html|title=Football First XI: Best goals ever |accessdate=2010年5月30日 }}</ref>、「永遠に伝説として語られることになるゴール」(レキップ)、「ジダンは神に祝福されている」(フランス・フットボール)と賞賛された<ref>{{cite news|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/zidane/zidane_05.html|title=「ジダンこそカギを握る男」|publisher=スポーツナビ}}</ref>。1対1の同点で迎えた前半44分、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。このゴールが決勝点となり、ジダンはキャリア初のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた<ref>{{cite news|url=http://www.goal.com/jp/news/175/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0/2010/03/09/1824356/%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%80%86%E8%BB%A2%E7%AA%81%E7%A0%B4%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%B3%E6%B0%8F|title=マドリーの逆転突破を信じるジダン氏|publisher=Goal.com|date=2010年3月9日}}</ref>。
2002-03シーズンは自身と同じくバロンドール受賞経験者の[[ロナウド]]が加入し、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]、[[UEFAスーパーカップ]]、インターコンチネンタルカップ制覇の3冠を達成。2003年は自身3度目となる[[FIFA最優秀選手賞]]を受賞した。
{{Quotation|彼はボールを支配し、スペクタクルに動き、両足にシルクの手袋をつけているかのようにプレーする。 彼を観るためにスタジアムに足を運ぶ価値がある、私が今まで見た中で最高の選手の一人だ。|[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]}}
2003-04シーズンは2試合合計4-2で[[RCDマジョルカ|RCDマヨルカ]]を下し[[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]]を手にしたが、それがレアル・マドリードにおいてジダンの最後のタイトルとなった。
ジダンの最終シーズン、[[セビージャFC]]を相手にキャリア初のハットトリックを達成した<ref>{{cite news|url=http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=385478.html|title=ジダンが初のハットトリック|publisher=uefa.com|date=2006年1月16日}}</ref>。2005-06シーズンの途中に、[[2006 FIFAワールドカップ]]での引退を発表。2006年5月7日、[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ]]での最終戦となる[[ビジャレアルCF]]戦前に行われた引退式では8万人を超えるファンが集まり、クラブもその日のために「Zidane 2001-2006」と刺繍されたユニフォームを用意した。その試合では[[デビッド・ベッカム]]のクロスから得点も決めた。試合終了1分前に[[フアン・ラモン・ロペス・カロ]]はジダンを交代させ、花道を提供した。その後、スタンド下の通路で[[フアン・ロマン・リケルメ]]と抱擁し、ユニフォーム交換を行った<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 38頁</ref>。ジダンの最終シーズンは、リーグ28試合でチームトップであるロナウドに次ぐ9得点、[[デビッド・ベッカム]]と並んでチームトップタイの10アシストを記録した<ref>{{Cite web|publisher=ESPN|url=http://www.espnfc.com/club/real-madrid/86/squad?season=2005|title="Real Madrid Squad Stats (Spanish Primera División) – 2005–06"|language=英語 |accessdate=2014年10月28日 }}</ref>。ワールドカップ後に現役を引退した。
=== フランス代表 ===
1988年、[[スペイン]]の[[マラガ]]で行われたU-16[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]で、初めて[[サッカーフランス代表|フランス代表]]としてプレーした。しかし、フランスは予選落ちしてしまい、ジダン自身も良い結果を残すことができなかった<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 45頁</ref>。その後も様々なカテゴリでフランス代表に選ばれた。
[[ファイル:Maillot Zidane.jpg|thumb|right|170px|ジダンのフランス代表ユニフォーム]]
1994年8月17日、[[サッカーチェコ代表|チェコ]]戦でA代表デビュー。[[ユーリ・ジョルカエフ]]の負傷によって追加招集されたジダンは、2点ビハインドの状態で[[コランタン・マルタン]]に代わり後半18分から出場。途中出場ながら2得点を挙げ<ref>{{Cite web|publisher=footballdatabase.com|url=http://www.footballdatabase.com/index.php?page=player&Id=11&b=true&pn=Zinedine_Yazid_Zidane|title=Zinedine Zidane's career timeline and detailed statistics|language=英語 |accessdate=2010年5月19日 }}</ref>、この試合をきっかけに代表に定着した。[[UEFA EURO '96予選]]、ジダンは最初の2試合に途中出場したが、2試合とも引き分けに終わり、その後の数試合は出場機会を与えられなかった。1995年4月26日の[[サッカースロバキア代表|スロバキア]]戦で再び招集されると、「キャリアの中で最も重要な試合になる」と語ったこの試合で正ポジションを得たジダンは、フランスの4得点のうち2得点に絡んだ<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 165-166頁</ref>。10月11日に[[ブカレスト]]での[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦では、ジダンのハーフボレーでのゴールなどで3-1とホームで5年間無敗を誇ったルーマニアを破った。最終戦[[サッカーイスラエル代表]]戦でも2-0で勝利し、[[UEFA EURO '96]]出場権を得た。これらの活躍によってジダンは代表での地位を磐石のものとした<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 167-168頁</ref>。
1996年の[[UEFA EURO '96|EURO1996]]直前、ジダンは運転中に事故を起こした<ref name=se/>。大会までに怪我は回復したもののコンディションは悪かったが、中心選手の一人として臨み、全試合に出場、チームはベスト4に進んだが、[[サッカーチェコ代表|チェコ]]にPKの末に敗れた<ref name=se>{{cite web|url=http://www.soccer-europe.com/Biographies/Zidane.html|title=ZIDANE|website=SOCCEREUROPE|accessdate=2023-6-30}}</ref>。自身は「ずっと痛みを抱えながらプレーしており、準決勝では出場を自ら辞退しようとした」と語っている<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 143頁</ref>。
1998年、1月28日に[[スタッド・ド・フランス]]のこけら落としとなる[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦ではその日唯一の得点を挙げた。同年地元フランスで開催された[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]に出場。グループステージ初戦[[サッカー南アフリカ共和国代表|南アフリカ]]戦は勝利を収めたが、ジダンは2戦目[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア]]戦で相手キャプテンのフアド・アミンを踏みつけ、一発退場となってしまう<ref>{{cite news|url=http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=1013/results/matches/match=8745/report.html|title=France - Saudi Arabia|publisher=FIFA.com|date=1998年6月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131022071519/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D1013/results/matches/match%3D8745/report.html|archivedate=2013年10月22日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。ジダンを欠いたフランス代表であったがグループリーグ最終戦で[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]を2-1で下し、3戦全勝でグループリーグ突破。その後もフランス代表は勝ち進み、決勝戦でジダンはヘディングで2得点をあげるなどの活躍をし、フランスの初優勝に大きく貢献した。その後、優勝のお祝いの際に[[エッフェル塔]]にジダンの顔が掲げられた<ref name="sportsnavi">{{cite news|date=2010年9月4日|title=ジダン「今はW杯のことだけに集中している」|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/06germany/column/200605/at00009156.html|publisher=スポーツナビ}}</ref>。この活躍で名を上げたジダンは、この年のバロンドール、[[FIFA最優秀選手賞]]を受賞。W杯で優勝した22人のメンバー、監督は[[レジオンドヌール勲章]]のシュヴァリエ(''Chevalier''、騎士)の階級を与えられた<ref>{{cite news|url=http://sportsillustrated.cnn.com/soccer/world/news/1998/09/01/france_legionhonor/|title=France honors World Cup winners|publisher=CNN/SI|date=1998年9月1日}}</ref>。[[UEFA EURO 2000]]でも優勝し、大会最優秀選手、そして2度目のFIFA最優秀選手賞を受賞した。
前回王者として臨んだ2002年、[[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・日韓大会]]では大会直前の[[サッカー大韓民国代表|韓国]]との親善試合で左太もも肉離れを起こし、さらにその試合で受けたタックルによって膝も痛めてしまった<ref>{{cite news|url=http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/soccer100113_2_2.html|title=「レ・ブルーへの想い」|publisher=ocnスポーツ|date=}}</ref>。その影響でワールドカップ本戦には包帯を巻いて強行出場したデンマーク戦1試合の出場にとどまり、フランス代表も2敗1分の成績でグループリーグで敗退した<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/wcup2006/news/20060608iew5.htm|title=仏にジダンの悪夢再び、FWシセ骨折で出場絶望|publisher=Yomiuri Online|date=2006年6月8日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060618180323/http://www.yomiuri.co.jp/wcup2006/news/20060608iew5.htm|archivedate=2006年6月18日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
2004年に行われた[[UEFA EURO 2004|EURO2004]]初戦の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦では、1点をリードされて迎えた後半90分にジダンのフリーキックから同点にすると、その2分後に[[ティエリ・アンリ]]の得たPKをジダンが決めて劇的な逆転勝利を果たした。しかしその後のフランスは精彩を欠き、ジダンは大会3得点を挙げるも、代表はベスト8で敗退。大会終了後の8月、自身の[[ホームページ]]でのインタビューにて、有望な若手選手に道を譲るために代表引退を発表した<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 236頁</ref>。
[[ファイル:Zinedine zidane wcf 2006-edit.jpg|thumb|right|150px|2006W杯決勝]]
2005年、フランスが[[2006 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・ドイツ大会]]予選敗退の危機に陥ると[[レイモン・ドメネク]]監督やキャプテンの[[パトリック・ヴィエラ]]の説得を受け、ジダンを代表デビューさせたジャケが公式の場で引退を悔やみ、更には[[ジャック・シラク]][[フランスの大統領|大統領]]やスポーツ[[大臣]]のジャン=フランソワ・ラムールが代表復帰のために尽力すると言った。そうした後押しの中で[[クロード・マケレレ]]、[[リリアン・テュラム]]と共にフランス代表に復帰することをオフィシャルサイトで表明<ref>{{cite news|url=http://www.lequipe.fr/Football/20050803_170859Dev.html|title=Zidane et Makélélé reviennent|language=フランス語|publisher=lequipe|date=2005年8月3日}}</ref><ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 246頁</ref>。携帯電話会社のオレンジグループは、代表復帰発表の翌日に、フランスの新聞各紙に「Tu nous as tellement manque!(あなたがいなくてどれだけ寂しかったか!)」という広告と共にジダンのインタビューが有料で聞くことができる電話番号を掲載<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 97頁</ref>。[[レキップ]]紙は「彼が戻ってくる!」と見出しを掲げ、国家的な大事件として扱われた<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 238頁</ref>。復帰発表の2週間後に行われたフランス世論研究所の調査では、73%の人がワールドカップ本大会に出場できると答えた。復帰後初戦の[[サッカーコートジボワール代表|コートジボワール]]戦では3-0での勝利に貢献。アンリは「神が帰ってきた」とコメントした<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 99-100頁</ref>。ヴィエラからキャプテンマークを譲り受け、予選敗退危機にあったフランスを本大会出場へ導いた。
大会後の引退を公言して臨んだ本大会では、グループリーグ序盤では低調だったものの、試合を重ねるごとに復調し、フランスも決勝戦まで進出した。準々決勝[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦ではアンリの決勝ゴールを[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]し、この試合のMVPに選ばれた。これまでジダンのアシストからアンリがゴールを決める場面は、共に出場したフランス代表55試合で1つもなく、メディアからの批判を受けていたが<ref>{{cite news|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/06germany/column/200606/at00009323.html|title=アンリとジダン 共存しつつあるふたりのスター|publisher=Yahooスポーツナビ|date=2006年6月6日}}</ref>、これが初めてにして唯一のアシストとなった。試合後、[[ペレ]]はジダンについて「魔法使いだった」と賞賛した。準決勝は[[リカルド・カルヴァーリョ]]がアンリを倒したことによって得たPKを決め、その得点が決勝点となって[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]を下した。これによりポルトガル代表の19連勝及び前回大会でブラジル代表を率いていた[[ルイス・フェリペ・スコラーリ]]のワールドカップ12試合負けなしの記録をストップさせた<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 76頁</ref>。試合後は、レアル・マドリード時代のチームメイトであり共にキャプテンを務めていた[[ルイス・フィーゴ]]とユニフォーム交換を行った。
[[2006 FIFAワールドカップ・決勝|決勝]]の[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦では[[ジャンルイジ・ブッフォン]]に対して[[パネンカ (ペナルティーキック)|パネンカ]]と呼ばれるチップキックでPKを決め、キャリア最後となる得点で先制点を挙げた。延長戦後半、[[マルコ・マテラッツィ]]から何事か挑発された際に頭突きを食らわせ、一発退場となって、現役最後の試合を終えた。試合はPK戦になりフランス代表は負けて準優勝に終わったが、大会中の活躍が評価され[[アディダスゴールデンボール賞|MVP]]を受賞した。また、試合後にはジャック・シラク大統領もコメントを残した。
{{Quotation|昨夜の試合ではたくさんの才能とプロフェッショナリズムを見せてくれた。私はあなたが悲しみ失望していることを知っているが、私があなたに伝えたいのは、全国民があなたを非常に誇りに思っているということだ。勝利した時だけでなく、難しい時もあなたの卓越したクオリティと素晴らしい闘志によってこの国に名誉を与えてくれた。|ジャック・シラク<ref>{{cite news|url=https://www.theguardian.com/football/blog/2014/mar/11/world-cup-moments-zinedine-zidane-head-butt|title=World Cup stunning moments: Zinedine Zidane's head-butt|publisher=The guardian|date=2014年3月11日}}</ref>}}
この2006年ワールドカップ後の一連の騒動では、マテラッツィがジダンの人種や家族を侮辱した発言をしたという疑惑が上がり、ジダンの人種問題が取り上げられた<ref>{{cite news|url=http://news.livedoor.com/article/detail/2209431/|title=ジダン選手とフランスの人種問題|publisher=livedoor.com|date=2006年7月17日}}</ref><ref>{{cite news|url=https://worldcup2018.yomiuri.co.jp/news/710/|title=ワールドカップ狂騒曲(1)ジダン頭突き/マラドーナ空気銃乱射|publisher=読売新聞|date=2018年7月12日}}</ref>。
{{Main|ジダン頭突き事件}}
ワールドカップ通算12試合5得点、欧州選手権通算13試合5得点。ワールドカップ決勝通算3得点は[[エジバウド・イジディオ・ネト|ヴァヴァ]]、ペレ、[[ジェフ・ハースト]]と並び史上最多タイ、また2大会に渡る決勝戦でのゴールはヴァヴァ、ペレ、[[パウル・ブライトナー]]に続き史上4人目。
== 現役引退後 ==
ワールドカップ決勝での頭突きにより、[[国際サッカー連盟]]から7500[[スイス・フラン]](約70万円)の罰金と3日間の社会奉仕活動の処分を科せられた<ref>[http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/06germany/headlines/20060721/20060721-00000004-kyodo_sp-spo.html 実際は罰金と3試合の出場停止処分であったが、ジダンはすでに引退したため社会奉仕活動へと変更された。]</ref>。2006年11月に、同年[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[ムハマド・ユヌス]]に招かれるとともに、両親の出身地であるアルジェリアの[[大統領]]である[[アブデルアジズ・ブーテフリカ]]の元を訪ねた。ブーテフリカからは、公式に面会の場を設けられた。
[[ファイル:Zidane in Poznan.jpg|thumb|left|185px|ダノンネーションズカップに出席したジダン([[2008年]])]]
引退後はフランスのテレビ放送局[[Canal+]]で解説者を務めていたが、2009年6月1日、自身を呼び寄せた[[フロレンティーノ・ペレス]]が再びレアル・マドリードの会長となったことを受け、クラブアドバイザーに就任した<ref>{{cite news|url=http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/soccer090707_2_1.html|title=ジネディーヌ・ジダン|publisher=OCNスポーツ|date=2009年7月7日}}</ref>。その後、[[ジョゼ・モウリーニョ]]にチームの近くにいることを要請され<ref>{{cite news|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-17606920101011|title=サッカー=モウリーニョ監督、ジダン氏に協力求める|publisher=ロイター|date=2010年10月11日}}</ref>、それを快諾。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11|UEFAチャンピオンズリーグ]]グループリーグの[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]戦よりチームに同行することとなった<ref>{{cite news|url=http://www.realmadrid.jp/news/2010/11/news_13586.html|title=ジダン「大きな意欲を持って臨む」|publisher=realmadrid.jp|date=2010年11月22日}}</ref>。2011年5月、モウリーニョとの対立からクラブのゼネラルディレクターを務めていた[[ホルヘ・バルダーノ]]が解任され、レアル・マドリードはゼネラルディレクター職を廃止。それまでスポーツディレクターの職に就いていたホセ・アンヘル・サンチェスがクラブの強化部門における最高責任者を務めることとなった<ref>{{cite news|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/1011/headlines/20110526-00000012-spnavi-socc.html|title=レアル・マドリーのペレス会長、バルダーノGDの解任を発表|publisher=スポーツナビ|date=2011年5月26日}}</ref>。その後任として、ジダンはスポーツディレクターに就任した<ref>{{cite news|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/1011/headlines/20110527-00000008-spnavi-socc.html|title=レアル・マドリー、ジダン氏がスポーツディレクターに就任へ|publisher=スポーツナビ|date=2011年5月27日}}</ref>。
2009年、1998年に拝受したレジオンドヌール勲章のシュヴァリエの階級からオフィシエ(''Officier''、将校)に昇格した。[[UEFA EURO 2016]]誘致の際には、[[ニコラ・サルコジ]]大統領と共にフランスのプレゼンテーションを行った<ref>{{cite news|url=http://footballweekly.jp/archives/1376581.html|title=EURO2016開催地はフランスに決定|date=2010-5-28|newspaper=Football Weekly|accessdate=2021-8-12}}</ref>。また、[[2022 FIFAワールドカップ|2022年のFIFAワールドカップ]]では、[[カタール]]の招致アンバサダーとして招致活動を行った<ref>{{cite news|url=http://www.asahi.com/sports/fb/TKY201012030104.html|title=中東初 W杯カタール決定、ジダン氏も喜び|publisher=asahi.com|date=2010年12月3日}}</ref>。2011年2月、サッカー選手としてはペレ、[[ヨハン・クライフ]]、[[フランツ・ベッケンバウアー]]に次いで4人目となる[[ローレウス世界スポーツ賞]]の生涯功労賞を受賞した<ref>{{cite news|url=https://news.livedoor.com/article/detail/5328496/|title=ジダン「生涯功労賞」受賞 ペレ、クライフ、ベッケンバウアーに次ぎ4人目|date=2011-2-8|newspaper=livedoorニュース|agency=欧州通信|accessdate=2021-8-12}}</ref>。
2012-13シーズンにはスポーツディレクターの職を[[フェルナンド・イエロ]]に譲り、レアル・マドリードの下部組織に重点を置いた活動を行った<ref>{{cite news|url=https://www.daily.co.jp/soccer/2012/09/29/0005414616.shtml|title=ジダン氏、モウ監督との不仲説を否定|publisher=デイリースポーツ|date=2012年9月29日}}</ref>。2013年に[[欧州サッカー連盟|UEFA]]公認の指導者ライセンスを取得し<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/07/08/kiji/K20130708006178740.html|title=最終試験に合格!ジダン氏 UEFA指導者ライセンスを取得|date=2013-7-8|newspaper=スポーツニッポン|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160622160136/http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/07/08/kiji/K20130708006178740.html|archivedate=2016-6-22}}</ref>、レアル・マドリードにてかつての恩師であった[[カルロ・アンチェロッティ]]のアシスタントコーチとして2013-14シーズンよりレアル・マドリードのトップチームの副監督に就任した<ref>{{cite news|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20130629/119688.html|title=アンチェロッティ新監督、会見でジダン氏を右腕に指名|publisher=soccer king|date=2013年6月29日}}</ref>。
2014年7月、[[レアル・マドリード・カスティージャ]]の助監督に就任した<ref>[http://www.realmadrid.com/ja/news/2014/06/zidane-to-manage-castilla-in-the-2014/2015-season ジダンが2014−15シーズン、カスティージャを指揮] realmadrid.com 2014年6月25日</ref>。ジダンは[[プリメーラ・ディビシオン|スペインリーグ]]の[[セグンダ・ディビシオンB|2部B]]以上のチームを率いるために必要なレベル3のコーチライセンスを取得していなかったため、名目上は[[サンティアゴ・デニア・サンチェス]]監督を補助する助監督という立場であったが、実質的に監督としての振る舞いをしていたことが問題視された<ref>{{Cite news|title=「実質監督」のジダン氏、3カ月の停止処分も|newspaper=Goal.com|date=2014-10-11|url=https://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2014/10/11/5174491/実質監督のジダン氏3カ月の停止処分も|accessdate=2021-8-12}}</ref>。2014年10月27日、正しい指導ライセンスを所有していないとして、スペイン・サッカー協会から3か月間の活動停止処分を受けた<ref>{{Cite news|title=ジダン氏、3カ月活動停止=指導ライセンス不備で-スペイン・サッカー|newspaper=時事通信|date=2014-10-28|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201410/2014102800123&g=spo|accessdate=2021-8-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141028100229/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201410/2014102800123&g=spo|archivedate=2014-10-28}}</ref>。その後レアル・マドリードの上訴が[[スポーツ仲裁裁判所]]に受け入れられ、[[スペインサッカー連盟]]も処分を撤回した。
2015年にUEFAプロライセンスを獲得した<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20150509/310679.html ジダン監督が正式誕生へ…欧州最高位のUEFAプロライセンス取得] soccer king 2015年5月9日</ref>。
=== レアル・マドリード監督 ===
[[ファイル:Ramos y Zidane con la Undécima Copa de Europa.jpg|250px|thumb|right|[[セルヒオ・ラモス]]と[[ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ|ビッグイヤー]]を掲げるジダン([[2016年]])]]
2016年1月に、解任された[[ラファエル・ベニテス]]の後任として[[レアル・マドリード]]の監督に就任。初陣となった9日の[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]戦では[[ギャレス・ベイル]]のハットトリックを含む5-0で勝利した<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキング| date = 2016年1月10日| title = ジダン監督の新生レアル、5発大勝で初陣飾る…ベイルがハットの大活躍| url = http://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20160110/389395.html| accessdate = 2016年1月10日}}</ref>。レアルの監督となって初となる[[UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16|UEFAチャンピオンズリーグ]]の試合では[[クリスティアーノ・ロナウド]]や[[ヘセ・ロドリゲス]]のゴールで[[ASローマ]]に2-0で勝利した<ref>{{Cite web|和書| publisher = Goal.com| date = 2016年2月18日| title = レアル・マドリー、ジダン監督体制初となるCLで白星 C・ロナウド&ヘセのゴールでローマに先勝| url = http://www.goal.com/jp/match/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E-vs-%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC/2176171/report| accessdate = 2016年5月20日}}</ref>。4月2日にカンプ・ノウで行われたエル・クラシコでは2-1で勝利した<ref>{{Cite web|和書| publisher = Goal.com| date = 2016年4月3日| title = クラシコ勝利のジダン、「チームメート、監督のために戦ってくれるチームは素晴らしい」| url = http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2016/04/03/21962952/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%B3%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E6%88%A6%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AF%E7%B4%A0%E6%99%B4%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84| accessdate = 2016年4月29日}}</ref>。5月28日に行われた[[UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16 決勝]]では、[[アトレティコ・マドリード]]をPK戦の末に下し、優勝を達成した。この優勝で、史上7人目となる選手・監督の両方でUEFAチャンピオンズリーグ(旧チャンピオンズカップも含む)優勝を達成した人物となった<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキング| date = 2016年5月29日| title = 選手・指揮官両方でのCL制覇…ジダン監督、史上7人目の快挙達成| url = http://www.soccer-king.jp/news/world/cl/20160529/448825.html| accessdate = 2016年5月29日}}</ref>。
2016年11月2日の[[UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17|UEFAチャンピオンズリーグ]]、[[レギア・ワルシャワ]]戦で監督として100試合を達成した<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキング| date = 2016年11月2日| title = ジダン、指揮官としての100戦目へ トップチームではわずか2敗、驚異の戦績は?| url = http://www.soccer-king.jp/news/world/cl/20161102/510720.html| accessdate = 2016年11月3日}}</ref>。[[クラウディオ・ラニエリ]]([[レスター・シティFC]])、[[フェルナンド・サントス (ポルトガルのサッカー選手)|フェルナンド・サントス]]([[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]])とともにFIFAより年間最優秀監督の最終候補に選出された<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキン| date = 2016年12月3日| title = FIFA男子最優秀監督賞の最終候補が発表 ラニエリ、ジダン、サントスの3名| url = https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20161203/522854.html| accessdate = 2017年1月3日}}</ref>。リーガ15節の[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]戦での勝利により連続無敗記録を35試合とし、クラブ記録を樹立した<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキング| date = 2016年12月11日| title = レアルのジダン監督、公式戦無敗記録更新に満足「選手へ感謝したい」| url = https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20161211/525950.html| accessdate = 2017年1月3日}}</ref>。その後も無敗記録を40試合に伸ばして[[FCバルセロナ]]が保持していたスペイン記録を更新した<ref>{{Cite news|title=レアル、17年リーグ戦初戦ゴールラッシュで5-0完勝! 昨季バルサ樹立の連続不敗記録「39」に並ぶ|newspaper=Football ZONE|date=2017-1-7|page=1|url=https://www.football-zone.net/archives/50062|accessdate=2021-8-12}}</ref><ref>{{Cite news|title=レアルの無敗記録が40で途絶える…セビージャ、終盤の2ゴールで逆転勝利|newspaper=サッカーキング|date=2017-1-16|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20170116/541929.html|accessdate=2021-8-12}}</ref>。2016-2017シーズンは、過密日程も考慮してローテーションを敷いて選手の体調管理に気を配り、欠場を嫌うことで有名なエースのFW[[クリスティアーノ・ロナウド|ロナウド]]ですら例外なく休養を与えた<ref>{{Cite web|和書| publisher = FOOTBALL ZONE| date = 2017年5月17日| title = 「ジダンのローテーションは芸術的」 二冠に近づくレアル監督の手腕をスペイン紙が称賛| url = http://www.football-zone.net/archives/61183| accessdate = 2017年6月6日}}</ref><ref>{{Cite web|和書| publisher = FOOTBALL ZONE| date = 2017年6月5日| title = ジダン監督、就任512日目で名将の領域に到達 スペイン紙も手腕称賛「完璧なローテーション」| url = http://www.football-zone.net/archives/62989| accessdate = 2017年6月6日}}</ref>。その結果、大事なシーズン終盤戦でもチームは息切れすることなく、リーグ戦を逃げ切り、[[リーガ・エスパニョーラ2011-2012|2011-12シーズン]]以来、5年ぶりの[[プリメーラ・ディビシオン]]優勝に導いた。その勢いのまま史上初の二連覇を目指すUEFAチャンピオンズリーグでも勝ち進み、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17 決勝|決勝戦]]の相手は奇しくもジダンの古巣[[ユヴェントスFC]]であったが、4-1で勝利し、UEFAチャンピオンズリーグ改称後初の二連覇という快挙を成し遂げた。またレアル・マドリードは1957-58シーズン以来、59年ぶりの二冠達成であった<ref>{{Cite web|和書| publisher = FOOTBALL ZONE| date = 2017年6月4日| title = レアルがCL史上初の連覇で12度目の欧州制覇! ユーベに4-1完勝、59年ぶりにリーガとの二冠達成| url = http://www.football-zone.net/archives/62905| accessdate = 2017年6月6日}}</ref>。同年、[[オンズドール]]年間最優秀監督賞、[[2017年のザ・ベスト・FIFAフットボールアウォーズ|FIFA最優秀監督賞]]を受賞した。
2017-18シーズンは国内では[[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]]を制したが<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキング| date = 2017年8月17日| title = レアル、早くも今季2冠!…圧倒のクラシコ連勝で5年ぶりのスーペルコパ制覇| url = https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20170817/628274.html| accessdate = 2018年3月3日}}</ref>、コパ・デル・レイでは準々決勝で敗退し<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキング| date = 2018年2月18日| title = 「とても消耗する。レアルにおいては特にね」…ジダン監督が“激務”に言及| url = https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20180218/717077.html| accessdate = 2018年3月3日}}</ref>、リーグ戦では3位であった。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは3年連続で[[UEFAチャンピオンズリーグ 2017-18 決勝|決勝]]に勝ち進み[[リヴァプールFC]]を下して優勝した。これにより、チームが持つ大会最多優勝回数を更新し、大会初の3連覇を成し遂げた<ref>{{Cite web|和書| publisher = サッカーキング| date = 2018年5月27日| title = レアルが史上初のCL3連覇!…ベイルのオーバーヘッド&無回転弾でリヴァプール破る| url = https://www.soccer-king.jp/news/world/cl/20180527/764839.html| accessdate = 2018年5月31日}}</ref>。このシーズンをもって監督を退任した<ref>{{Cite web|和書| publisher = フットボールチャンネル| date = 2018年5月31日| title = レアル、ジダン監督が電撃退任「勝ち続けるためには変化が必要」| url = https://www.footballchannel.jp/2018/05/31/post272201/| accessdate = 2018年5月31日}}</ref>。
2018-19シーズンは、成績不振により解任された[[サンティアゴ・ソラーリ]]の後任として[[フロレンティーノ・ペレス]]会長から復帰の電話を2度に分けて貰い、2度目にしてOKサインを出したことによりレアル・マドリード監督への復帰が決まった。翌2019-20シーズンは[[フェデリコ・バルベルデ]]の台頭などもあり好調を維持<ref>{{Cite web|和書| publisher = 日刊スポーツ| date = 2019年12月4日| title = ジダン監督がポグバ獲得をクラブに再要請 地元紙| url = https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/201912040000676.html| accessdate = 2020年2月13日}}</ref>、アトレティコ・マドリードとの試合を制し監督として10個目のタイトルであるスーペルコパを獲得した。公式戦187試合での10タイトル目というハイペースであり、監督としてレアル・マドリード最多獲得タイトルの記録を持つ[[ミゲル・ムニョス]]が10個のタイトルを獲得するのに8年の期間を要したのに対し、ジダンは3年10ヶ月での達成となった<ref>{{Cite news|title=19試合こなせば1タイトル!? 指揮官としても天才だったジダンのペースが凄い|newspaper=theWORLD|date=2020-1-14|url=https://www.theworldmagazine.jp/20200114/01world/spain/268395|accessdate=2021-8-12}}</ref>。FCバルセロナを勝ち点差2で追う展開で[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]によりリーガが中断するも、再開後には10連勝を記録するなど好調を見せて逆転優勝を果たし<ref>{{Cite web|和書| publisher = YAHOO!JAPANニュース| date = 2020年7月17日| title = レアル・マドリードが3季ぶりV 10連勝で最多更新34度目| url = https://news.yahoo.co.jp/articles/8725b999d267b7d7ca2e3d4324b6c96847a6ae78| accessdate = 2020年8月8日}}</ref>、リーガ最優秀監督に贈られる[[ミゲル・ムニョス賞]]を初受賞した<ref>{{Cite web|和書| publisher = 日刊スポーツ| date = 2020年7月20日| title = 最多得点賞はメッシ、ジダンら監督賞 マルカ紙表彰| url = https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202007200001022.html| accessdate = 2020年8月8日}}</ref>。しかし、2020-21シーズンは無冠に終わり、同シーズン終了後の2021年5月27日に辞任したことが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.realmadrid.com/ja/news/2021/05/27/official-announcement-zinedine-zidane|title=公式声明:ジネディーヌ・ジダン監督について|publisher=レアル・マドリード|accessdate=2021年5月27日|date=2021年5月27日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202105270001015.html|title=レアル・マドリードがジダン監督辞任を正式発表、後任候補1番人気はラウル|publisher=日刊スポーツ|date=2021-05-27|accessdate=2021-05-28}}</ref>。
=== F1 ===
2023年シーズンから[[アルピーヌF1|アルピーヌF1チーム]]のブランド・アンバサダーに就任。モータースポーツ及び自動車産業における機会均等を推進するプログラム「RAC(H)ER」[https://sportsbull.jp/p/1334771/]ならびに、若手技術者の発掘と支援を目指す「コンクール・イクセレンス・メカニック」のスポンサーを務める<ref>{{Cite web|和書| publisher = motorsport.com| date = 2023年2月17日| title = アルピーヌ、元サッカーフランス代表ジダンの起用をサプライズ発表! ブランドアンバサダーとして機会均等を支援 | url = https://jp.motorsport.com/f1/news/zidane-join-alpine-f1/10433201/| accessdate = 2023年11月20日}}</ref>。
== 人物 ==
=== 選手としての特徴 ===
攻撃的なミッドフィールダーであり、味方の選手に的確なパスを出すなどの攻撃の中心的な役割を果たすとともに、チャンスと見ると自らもシュートを決める得点力を兼ね備えた<ref>田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、107ページ、{{ISBN2|4-591-09115-5}}</ref>。高いボディーバランスと複数のアクションを組み合わせる能力を持ち、非常に正確なボールタッチ、パス、シュート、コントロール、ドリブルなどのプレーは[[バレエ]]の優雅さに例えられる<ref>{{Cite web|和書| publisher = NumberWeb| date = 2004年2月26日| title = ジダンはベッカムの2倍の価値がある。| url = https://number.bunshun.jp/articles/-/13531| accessdate = 2020年2月13日}}</ref>。
当時、[[セリエA (サッカー)|イタリア]]では[[アリゴ・サッキ]]の[[ゾーンプレス]]が浸透してトップ下のポジションは絶滅の危機を迎え、[[ロベルト・バッジョ]]や[[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]ら[[ファンタジスタ]]が激しいプレッシャーを受ける[[ミッドフィールダー]]から[[フォワード (サッカー)|セカンドトップ]]にポジションを変更していた。しかし、鮮やかなテクニックを持ちながら185センチの強靭な体躯を持つジダンは相手のプレッシングを受けてもボールをキープして時間を作り出し、また守備時にはセントラルハーフとして戦うこともできたためトップ下のポジションで[[ユヴェントスFC]]の中心に君臨した<ref>{{Cite news |title=フランス黄金期の象徴ジダン 絶滅危機の“トップ下”で輝いた完全無欠の司令塔 |newspaper=FOOTBALL ZONE |author= |url=https://www.football-zone.net/archives/83310 |accessdate=2019年9月}}</ref>。プレスをしても奪えないジダンに対してプレスを強めれば強めるほど裏に大きなスペースが広がり、結果としてフリーとなった周囲の選手にプレスを受けながら繋いで相手を崩していく<ref>{{Cite news |title=ジダンがプレス戦術全盛の現代に蘇っても最高の名手たり得る理由 |newspaper=footballista |author= |url=https://www.footballista.jp/special/46365 |accessdate=2020年8月8日}}</ref>。
1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ]]決勝や2002年の[[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02|UEFAチャンピオンズリーグ]]決勝など印象的なゴールも多いが<ref>{{Cite news|title=絶対に奪えない。伝説の名手ジネディーヌ・ジダン、驚異のドリブルスキル集|newspaper=フットボールチャンネル|date=2020-7-8|url=https://www.footballchannel.jp/2020/07/08/post380002/|accessdate=2021-8-12}}</ref>、ユヴェントスFC時代の監督である[[カルロ・アンチェロッティ]]は「私は練習でジダンを見て、大きなインパクトを受けた。スペクタクルだったね。しかし、彼はもっとやれたはずだ。より多くのゴールを記録していてもおかしくなかった」と指摘している<ref>{{Cite web|和書
| publisher = Goal.com
| date = 2016年11月9日
| title = アンチェロッティ、選手時代のジダンの“弱点”を明かす...得点力不足を指摘
| url = https://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2016/11/09/29334182/アンチェロッティ選手時代のジダンの弱点を明かす得点力不足を指摘
| accessdate = 2020年8月8日
}}</ref>。
=== 人となり ===
[[ファイル:Zinedine Zidane 2008.jpg|thumb|right|210px|ダノンネーションズカップでスタジアムを訪れたジダン([[2008年]])]]
試合に関しては気性の激しさで知られ、[[2006 FIFAワールドカップ#グループ G|2006 FIFAワールドカップグループリーグ]]の第二戦の韓国戦ではチームが同点ゴールを決められ、本人もイエローカードを受けて累積警告によって次戦の出場停止が決まり、同点のままロスタイムに[[ダヴィド・トレゼゲ|トレゼゲ]]と交代させられると、ロッカールームのドアを蹴って壊したこともある。(なお、その扉は「ジダンに壊された扉」として[[ツェントラールシュタディオン|スタジアム]]に保存されている<ref>{{cite news|url=https://news.livedoor.com/article/detail/4803043/|title=W杯エピソード:ジダンが韓国戦で控え室のドアを破壊した理由|publisher=livedoor.com|date=2010年6月2日}}</ref>)。
一方で、普段の性格は寡黙で内気と言われる<ref name="sportsnavi01">{{cite news|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/zidane/zidane_01.html|title=「多民族統合の象徴」としてのフランス代表――そしてジダン|publisher=スポーツナビ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222114241/http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/zidane/zidane_01.html|archivedate=2014年2月22日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。引退後に競技[[テニス]]をしたいと言っていた頃、ホテルに宿泊した際に、[[アンドレ・アガシ]]とたまたま隣の部屋になった事があったが、内気さゆえに会いに行けなかったというエピソードや<ref>{{Cite web
|publisher=bbc.co.uk|url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/specials/html/greats/zidane.stm|title=ZINEDINE ZIDANE:Did you know? |accessdate=2010年5月30日 }}</ref>、2010年に[[サッカーフランス代表|フランス代表]]の一日コーチを引き受けて[[1998 FIFAワールドカップ]]、[[UEFA EURO 2000]]のビデオを観賞してスピーチを行った際に、[[ガエル・クリシー]]に「自分のビデオを見せながら照れていた」と明かされる<ref>{{Cite web|和書
|publisher=livedoor.com|url=https://news.livedoor.com/article/detail/4984690/|title=フランス代表、ユーロ予選突入直前の“ジダン効果”に沸く |accessdate=2010年9月4日 }}</ref>といったエピソードがある。
ジダンとは対照的におしゃべりで気さくな[[クリストフ・デュガリー]]とは親友である<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 78頁</ref>。
2003年からは[[ダノンネーションズカップ]]の公式[[アンバサダー]]を務めるなど多くのチャリティーイベントに参加し、慈善活動にも熱心である。
[[マルセイユ]]出身のジダンは[[オリンピック・マルセイユ]]のファンだが<ref>{{Cite news|title=ジダン氏、ベッカムのPSG入りの噂に「私は祝えないな。なぜなら…」|newspaper=サッカーキング|date=2011-10-21|url=http://www.soccer-king.jp/news/europe/article/201110211555_psg_zidane_beckham.html|accessdate=2021-8-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120101175057/http://www.soccer-king.jp/news/europe/article/201110211555_psg_zidane_beckham.html|archivedate=2012-1-1}}</ref>、父親がフランスに移住して初めて生活した場所であり、[[スタッド・ド・フランス]]もあるパリ郊外の[[サン=ドニ]]には第2の故郷と語るほど愛着を感じている<ref>{{cite news|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/zidane/zidane_03.html|title=フランス代表の新たな聖地「スタッド・ド・フランス」|publisher=スポーツナビ}}</ref>。
フランス語以外に両親の母語であるベルベル語も話せる。また夫人がスペイン系であり、スペイン語も習得している<ref>{{cite news|url=https://news.livedoor.com/article/detail/4617618/|title=「スペイン系の妻を」ジダンが後輩ベンゼマに珍アドバイス?|publisher=livedoor.com|date=2010年2月22日}}</ref>。イタリアで5年間生活をしていたことから、イタリア語も理解出来る<ref name="nikkan" />。
=== 家族 ===
17歳([[ASカンヌ]]時代)の時に出会ったスペイン系フランス人のヴェロニック・フェルナンデスと1994年5月24日に結婚した。
兄弟のうち、ファリドとノルディーヌは、[[マルセイユ]]北部でジネディーヌの[[肖像権]]や[[放映権]]の管理会社を経営している<ref>[[#ブランシェ、ビュルネ|ブランシェ、ビュルネ]] 274頁</ref>。2019年7月13日、ファリドは癌により死去している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3235086|title=ジダン監督の兄弟が死去、レアルの合宿を離脱|publisher=AFPBB News|date=2019-07-14|accessdate=2021-05-31}}</ref>。享年54歳。
4人の男子の子供がおり、長男の[[エンツォ・フェルナンデス|エンツォ]]の名は地元[[オリンピック・マルセイユ]]に所属し、幼少時からのアイドルであった[[エンツォ・フランチェスコリ]]に因んでいる<ref group="注">同選手とトヨタカップで対戦した際に、ユニフォーム交換を実現させた [http://www.fifa.com/classicfootball/stories/doyouremember/news/newsid=1034121.html (FIFA公式サイトより、2010年6月11日閲覧)]</ref>。4人ともジネディーヌと同じサッカー選手の道を進み、エンツォと次男の[[ルカ・ジダン|ルカ]]、三男[[テオ・ジダン|テオ]]はプロサッカー選手となっている。四男・エリアスもレアル・マドリードの下部組織に所属しており、フランスの年代別代表にも選ばれている。またレアル・マドリードの公式サイトの選手紹介では伝説的選手であった父親のプレッシャーを受けないようにするためか、母方のフェルナンデス姓で登録されている。
※2023-2024シーズン時点の所属先
*長男 - [[エンツォ・フェルナンデス|エンツォ・ジダン]]([[1995年]][[3月24日]] - )ポジション:ミッドフィールダー {{Flagicon|ESP}} [[CFフエンラブラダ]]所属。
*次男 - [[ルカ・ジダン]]([[1998年]][[5月13日]] - ) ポジション:ゴールキーパー {{Flagicon|ESP}} [[ SDエイバル]]所属。
*三男 - [[テオ・ジダン]]([[2002年]][[5月18日]] - ) ポジション:ミッドフィールダー {{Flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード・カスティージャ]]所属。
*四男 - [[エリアス・ジダン]]([[2005年]][[12月26日]] - )ポジション:ディフェンダー {{Flagicon|ESP}} レアル・マドリードフベニールA(U-18)所属。
叔父の[[ジャメル・ジダン]]も[[ジュピラー・プロ・リーグ|ベルギーリーグ]]の[[KRCヘンク]]などで活躍した元サッカー選手で[[サッカーアルジェリア代表|アルジェリア代表]]だった。
== 評価 ==
=== 選手としての評価 ===
[[ファイル:Football against poverty 2014 - Zidane (4).jpg|thumb|right|170px|チャリティーマッチに出場したジダン]]
[[1990年代]]後半から[[2000年代]]前半にかけて「世界最高のサッカー選手」と称えられた<ref>{{Cite journal|和書|year=2010|month=4|title=W杯、それは私の人生のすべてだった|journal=Sportiva|issue=6月号|publisher=集英社}}</ref>。
* ジダンと[[1980年代]]に活躍した[[ミシェル・プラティニ]]は、フランスの2大スター選手とされる<ref name="サッカーキング">{{Cite web|和書|publisher=サッカーキング|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/fra/20130324/100800.html?view=more |title=国歌を歌わないベンゼマに非難…過去にはプラティニやジダンも |accessdate=2014年10月15日 }}</ref>。そのプラティニからは「コントロールやパスなど、基本的な技術に関してジダンは王だ。ボールを受け、コントロールすることにおいて誰も彼と同じことはできないだろう」と言われている<ref>{{Cite news |title=Brazil's Fans Lament Demise of the Beautiful Game |newspaper=NYタイムズ |author=JERE LONGMAN |url=http://www.nytimes.com/2006/07/03/sports/soccer/03brazil.html |accessdate=2016年4月}}</ref>。
* [[ケビン・キーガン]]は、「誰もこんな選手は見たことがないと思うだろう。[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]は名選手だった。クライフも名選手だった。彼らは他と違っていた。だが似てはいた。ジダンはかけ離れている。ジダンのボールさばきは、まるで彼が通り抜けていく道を買っているようだ。彼を非常に特別にしているのは彼のヴィジョンだ」<ref>{{Cite news |title=Zidane has the measure of true greatness |newspaper=デイリー・テレグラフ |author=Patrick Barclay |url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/international/4769833/Zidane-has-the-measure-of-true-greatness.html |accessdate=2016年4月}}</ref>と語った。
* [[ズラタン・イブラヒモビッチ]]は、「ジダンは抜きん出ている。ジダンがピッチに入ると、他の10人の選手の動きまでが突然に良くなる。彼は他の星から来たようだ。魔法だ。」<ref>{{Cite news |title=“Messi plays as if he’s on PlayStation, Zidane made other players look good” – Ibrahimovic |newspaper=デイリー・ポスト |author=Ifreke Inyang |url=http://dailypost.ng/2012/12/19/messi-plays-hes-playstation-zidane-made-players-look-good-ibrahimovic/ |accessdate=2016年4月}}</ref>と語った。
* [[カルロス・アルベルト・パレイラ|パレイラ]]からは怪物と呼ばれ、[[フランツ・ベッケンバウアー]]は「史上最高のプレイヤーの一人、本当に素晴らしい選手」とした<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/world_cup_2006/teams/france/5147908.stm |title=Zidane's lasting legacy |publisher=BBC SPORT |date=2006年7月5日}}</ref>。
* [[アルフレッド・ディ・ステファノ]]はジダンを「真の天才」と賞賛し、「少なくとも40歳まではプレーをしてほしい」と語った<ref>[[#カイオーリ|カイオーリ]] 15頁</ref>。
<!--(リンク切れで出典無効状態です 2016/04)
[[ルイ・ヴィトン]]の広告で共演した際、[[ペレ]]はジダンについて「もしジダンのような選手がサポートについてくれていたら2倍のスコアを叩き出したかもしれない」と語り、[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]は
「もう少し小柄であれば史上最高の選手だった」と語った<ref>{{Cite web|publisher=Louis Vuitton|url=http://www.louisvuittonjourneys.com/legends/|title=legends |accessdate=2011年6月9日 }}</ref>。
-->
* [[レアル・マドリード]]で共にプレーした[[ロベルト・カルロス]]は、2010年のレキップ紙のインタビューで「今まで見てきた中で一番の選手」と話した<ref>{{Cite web|publisher=L'equipe|url=http://www.lequipe.fr/Football/breves2010/20101023_111013_roberto-carlos-zizou-etait-a-part.html|title=Roberto Carlos : «Zizou était à part» |accessdate=2011年6月9日 }}</ref>。
* [[デビッド・ベッカム|ベッカム]]は「史上最高の選手」と語った<ref>{{Cite web |publisher=soccernews.com |url=http://www.soccernews.com/zidane-is-the-best-player-ever-says-beckham/4033/ |title=Zidane is the best player ever, says Beckham |accessdate=2011年6月9日 }}</ref>。
* [[FCバルセロナ]]などで対戦した[[シャビ・エルナンデス]]は2010年のインタビューで、[[エル・クラシコ]]において最も苦労した選手に挙げて「1990年代から2000年代前半にかけてのベストプレイヤー」と語った<ref>{{Cite web|publisher=total Barca|url=http://www.totalbarca.com/2010/news/xavi-winning-el-clasico-is-like-an-orgasm/|title=Xavi: “Winning el Clasico is like having an orgasm”|accessdate=2011年6月9日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110221072826/http://www.totalbarca.com/2010/news/xavi-winning-el-clasico-is-like-an-orgasm/|archivedate=2011年2月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
* [[ロナウジーニョ]]は「歴代最高の選手で、自分のなかでのアイドルの1人」とし、ベストプレイヤーに名前を挙げた<ref>{{Cite web|和書|publisher=livedoor.com |url=https://news.livedoor.com/article/detail/3059771/ |title=ロナウジーニョが選ぶトップ10プレイヤーは |accessdate=2011年6月9日 }}</ref>。
* [[リオネル・メッシ]]は「自分から試合後のユニフォーム交換をお願いしたのは1人だけ、それはジダンだ」と証言している<ref>{{Cite web|和書|publisher=ゲキサカ |url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?214910-214910-fl |title=メッシ「これまでユニフォーム交換を自ら頼んだ相手は一人だけ」 |accessdate=2017年4月29日 }}</ref>。
* イタリアの[[マルチェロ・リッピ]]は、「私たちがこの20年間で見てきた中で、最も才能ある選手だ。」とした。
* [[ティエリ・アンリ]]は、2005年にジダンが代表復帰を発表したとき、「ジダンが国際代表チームに戻ってくると知って、フランスの誰もが神の存在に気づいた。神が帰ってくる。これに尽きる。」と言った。
極限まで狭められた中盤のスペースを卓越したボールコントロールで生き抜いた最後のボールプレイヤーとも呼ばれている<ref>{{Cite book |和書 |author=大塚一樹 |title=世界の戦術・理論がわかる!最新サッカー用語大事典 |publisher=[[マイナビ]] |year=2014 |page=65 |ISBN=978-4-8399-5374-4}}</ref>。
=== 指導者としての評価 ===
[[ファイル:Zinedine Zidane 2018.jpg|thumb|right|150px|レアル・マドリードを率いるジダン([[2018年]])]]
現役時代に[[マルチェロ・リッピ]]や[[ビセンテ・デル・ボスケ]]の下で指導を受け、引退後も[[ジョゼ・モウリーニョ]]や[[カルロ・アンチェロッティ]]といった名監督を近い位置で見てきたこともあり、幅広い戦術オプションを有している<ref>{{Cite web|和書|publisher=Goal.com|url=http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2017/04/07/34390632/なぜジダン監督は多彩な戦術を繰り出せるのか背景にある経験と参謀コラム |title=なぜジダン監督は多彩な戦術を繰り出せるのか |accessdate=2017年4月7日}}</ref>。また、必要最低限の言葉を用いて選手たちをモチベートすることでロッカールームをうまくコントロールし<ref>{{Cite web|和書|publisher=スポーツナビ|url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201609160005-spnavi |title=ジダンの監督としての“見えざる手腕” 遠ざかっているリーガ優勝へ好発進 |accessdate=2016年9月18日}}</ref>、起用する選手のローテーションも積極的に行う<ref>{{Cite web|和書|publisher=サッカーキング|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/cl/20170220/553892.html |title=ジダン監督が積極的な選手起用…2試合で24選手中19選手が試合に出場 |accessdate=2017年2月20日}}</ref>。
デル・ボスケは「柔軟さにくわえ、思い切りもある」と評価し、デル・ボスケのアシスタントを長年務めたトニ・グランデはデル・ボスケとの特に人間的な部分での共通点を指摘し、「あれほどの選手だったのに、監督になってからもエゴを出さずに、発言も態度も常に柔らかい。冷静で、好戦的な発言をすることもない。」とし、[[銀河系軍団]]時代のレアル・マドリードで広報部長をしていたホアキン・マロートも[[UEFAチャンピオンズリーグ]]で優勝する監督の共通点として「好戦的でないこと。監督として自分を押し出しすぎないこと。人としてまっすぐであること。」の3つを挙げ、ジダンの人となりがチームを率いることにも活かされていると語った<ref>{{Cite web|和書|publisher=Number Web|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/827434?page=2 |title=監督・ジダンのサッカーとは何か。恩師デルボスケたちに聞いてみた。 |accessdate=2017年2月14日}}</ref>。アンチェロッティは、常に学び続け、最新の情報を取り入れ、自身で経験を積んでおり偉大な指導者であると評価した<ref>{{Cite web|和書|publisher=UEFA.com|url=http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=2451447.html |title=アンチェロッティ監督、ジダン監督について語る |accessdate=2017年4月6日}}</ref>。
監督としても現役時代と変わらない勝負強さを持ち、監督として戦ったタイトルが掛かった決勝戦全てで勝利を収めている([[2020年]]2月現在)<ref>{{Cite news|title=絶対に失敗しない指揮官 約3年で“10個目”のタイトルにリーチの白い巨人|newspaper=theWORLD|date=2020-1-12|url=https://www.theworldmagazine.jp/20200112/01world/spain/268274|accessdate=2021-8-12}}</ref>。その勝負強さは本人も認めている<ref>{{Cite web|和書
| publisher = NumberWeb
| date = 2017年1月23日
| title = ジダン、監督という仕事を語る。「忍耐強く、人の話を聞くことを」
| url = https://number.bunshun.jp/articles/-/827305
| accessdate = 2020年2月13日
}}</ref>。
== エピソード ==
* ジダンの得意技「[[マルセイユ・ルーレット|ルーレット]]」とは、ドリブルの途中、両足の裏でボールを転がしながら一回転をし、プレスに来た相手選手を躱す技である。彼が考案した技ではないが、トッププレーヤーでこの技を試合中に頻発させるのは彼以外にいないので、ジダンの代名詞ともなっている<ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20091031-561572.html|title=ジダン氏「マルセイユ・ルーレット」披露|publisher=日刊スポーツ|date=2009年10月31日}}</ref>。日本においては、ジダンの出身地がマルセイユであることから「[[マルセイユ・ルーレット]]」とも呼ばれ、少年サッカーのための指導材料としても使われている<ref>{{Cite web|和書
|publisher=学研|url=http://kids.gakken.co.jp/sports/soccer/dribble/movi_dribble_17.html|title=ジダンのルーレット |accessdate=2010年5月19日 }}</ref>。
* 世界的な人気、知名度から、[[アディダス]]、[[フランステレコム]]、[[アウディ]]、[[ボルヴィック]]、[[ディオール|クリスチャン・ディオール]]など多くの企業と広告契約を結び、日本でも2002年に[[日清食品]]のCMへ、2003年と2009年に[[ACジャパン]]<ref group="注">2003年当時の団体名は公共広告機構</ref> のCMに出演している。また、2005年の[[ビジャレアルCF]]戦におけるジダンを捉えたフランスの[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]『[[ジダン 神が愛した男]]』が制作され、[[第59回カンヌ国際映画祭]]で招待上映された。
* [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]時代に禁止薬物[[エリスロポエチン]](EPO)摂取の[[ドーピング]]疑惑をかけられ、ジダンの頭を悩ませた。ユヴェントスの医師の裁判中、血液学者は[[アントニオ・コンテ]]、[[アレッシオ・タッキナルディ]]のEPO使用痕跡の可否を行なったが、ジダンには「特別なことは何もなかった。大きな変化も認められなかった」とし、引退後に放送された[[フランス3]]での検証番組でミシェル・オードラン教授も同様の内容を語った。
* [[アフリカ系フランス人|アルジェリア系フランス人]]であるジダンは代表戦前の国歌斉唱を行わなかった。フランス国歌である[[ラ・マルセイエーズ]]は[[フランス革命]]時に制作された[[軍歌]]であり、その中の「穢れた血」というフレーズは人種差別を連想されるという声が挙がっている。同様に[[ミシェル・プラティニ]](イタリア系)や[[パトリック・ヴィエラ]]([[セネガル]]出身)、[[クリスティアン・カランブー]]([[ニューカレドニア]]出身)らも国歌を歌わなかった<ref name="サッカーキング"/><ref>{{Cite news|title=ジダンが仏国歌を歌わずドイツの先生が国歌の1番歌わぬ理由|newspaper=女性セブン|date=2014-7-4|url=https://www.news-postseven.com/archives/20140704_264089.html?DETAIL|accessdate=2021-8-12}}</ref>。
* 自身がプラティニの後継者と言われたように、ジダン2世またはジダンの後継者と称される選手も数多く存在する。フランス国内では[[ヨアン・グルキュフ]]<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/enta/sports/soccer/10fwc/spotlight/news/20100611org00m050999000c.html|title=「ジダン後継」期待熱く/グルキュフ=23歳・フランスMF|publisher=毎日jp|date=2010年6月11日|archiveurl=https://archive.is/20120715030554/http://mainichi.jp/sports/soccer/|archivedate=2012年7月15日|deadurldate=2017年9月}}</ref> や[[サミル・ナスリ]]<ref>{{cite news|url=http://news.livedoor.com/article/detail/3085827/|title=フランス代表の新星(1):ナスリ「ジダンと比べないで」|publisher=livedoor.com|date=2007年3月22日}}</ref>、[[ムラド・メグニ]]らがそう呼ばれるほか、[[アレックス・ファーガソン]]は[[カリム・ベンゼマ]]について「身体の使い方がジダンを思わせる」と語った<ref>{{cite news|url=http://news.livedoor.com/article/detail/4029595/|title=サッカー=マンU・ファーガソン監督、ジダン2世は「グルキュフよりベンゼマ」|publisher=livedoor.com|date=2009年2月23日}}</ref>。また、現役時代に所属した[[レアル・マドリード]]においても、[[ホセ・マヌエル・フラド]]は[[カンテラ]]時代に「カンテラのジダン」と呼ばれていた。[[メスト・エジル]]がレアル・マドリードに移籍した時には「ドイツのジダン」と紹介され<ref>[http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=815628&cc=4716 Ozil flattered by 'German Zidane' label] soccernet.espn.go.com、2010年8月19日</ref>、同じく[[ヌリ・シャヒン]]は「左利きのジダン」と呼ばれた<ref>{{cite news |title=マドリー、シャヒン本人と合意か |newspaper=Goal.com |date=2011-05-02 |url=http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/02/2467793/マドリーシャヒン本人と合意か |accessdate=2011-05-10}}</ref>。長男[[エンツォ・フェルナンデス|エンツォ]]も父親と同様攻撃的MFとしてプレーし、レアル・マドリードの下部組織で10番を背負っていた。将来[[サッカーフランス代表|フランス]]、[[サッカースペイン代表|スペイン]]どちらの代表を選ぶかが両国で大きな関心を集めるなど、名実ともにジダン2世として注目を集めた<ref>{{cite news |title=西仏両国が注視する、将来渇望のジダン2世。〜代表はスペインか、フランスか?〜 |newspaper=Number.com |date=2010-10-09 |url=http://number.bunshun.jp/articles/-/52106 |accessdate=2012-07-21}}</ref><ref>{{cite news |title=U-17スペイン代表、ジダン長男を招集へ |newspaper=Goal.com |date=2010-09-22 |url=http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2010/09/22/2131117/u17スペイン代表ジダン長男を招集へ |accessdate=2012-07-21}}</ref>。
== 個人成績 ==
=== クラブでの成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
|-
!rowspan="2"|クラブ
!rowspan="2"|シーズン
!colspan="3"|リーグ<ref name="yahoo">[http://uk.eurosport.yahoo.com/football/zinedine-zidane.html Zinedine Zidane Football Profile]- Yahoo! Eurosport UK</ref>
!colspan="2"|カップ<ref name="yahoo"/>
!colspan="2"|[[欧州サッカー連盟|国際大会]]{{smallsup|*}}<ref name="yahoo"/>
!colspan="2"|その他{{smallsup|*}}<ref name="yahoo"/>
!colspan="2"|通算
|-
!ディビジョン
!出場
!得点
!出場
!得点
!出場
!得点
!出場
!得点
!出場
!得点
|-
|rowspan="5"|[[ASカンヌ|カンヌ]]||1988-89||rowspan="4"|[[リーグ・アン]]||2 || 0 || 0 || 0 || colspan="2"| — || colspan="2"| — || 2 || 0
|-
|1989-90||0 || 0 || 0 || 0 || colspan="2"| — || colspan="2"| — || 0 || 0
|-
|1990-91||28 || 1 || 3 || 0 || colspan="2"| — || colspan="2"| — || 31 || 1
|-
|1991-92||31 || 5 || 3 || 0 || 4 || 0 || colspan="2"| — || 38 || 5
|-
! colspan="2" | 通算 !! 61 !! 6 !! 6 !! 0 !! 4 !! 0 !! 0 !! 0 !! 71 !! 6
|-
|rowspan="5"|[[FCジロンダン・ボルドー|ボルドー]]||1992-93||rowspan="4"|リーグ・アン||35 || 10 || 4 || 1 || colspan="2"| — || colspan="2"| — || 39 || 11
|-
|1993-94||34 || 6 || 3 || 0 || 6 || 2 || colspan="2"| — || 43 || 8
|-
|1994-95||37 || 6 || 5 || 1 || 4 || 1 || colspan="2"| — || 46 || 8
|-
|1995-96||33 || 6 || 3 || 0 || 15 || 6 || colspan="2"| — || 51 || 12
|-
! colspan="2" | 通算 !! 139 !! 28 !! 15 !! 2 !! 25 !! 9 !! 0 !! 0 !! 179 !! 39
|-
|rowspan="6"|[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]||1996-97||rowspan="5"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||29 || 5 || 2 || 0 || 10 || 2 || 3 || 0 || 44 || 7
|-
|1997-98||32 || 7 || 5 || 1 || 11 || 3 || 1 || 0 || 49 || 11
|-
|1998-99||25 || 2 || 5 || 0 || 10 || 0 || 1 || 0 || 41 || 2
|-
|1999-00||32 || 4 || 3 || 1 || 6 || 0 || colspan="2"| — || 41 || 5
|-
|2000-01||33 || 6 || 2 || 0 || 4 || 0 || colspan="2"| — || 39 || 6
|-
! colspan="2" | 通算 !! 151 !! 24 !! 17 !! 2 !! 41 !! 5 !! 5 !! 0 !! 214 !! 31
|-
|rowspan="6"|[[レアル・マドリード]]||2001-02||rowspan="5"|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||31 || 7 || 9 || 2 || 9 || 3 || 2 || 0 || 51 || 12
|-
|2002-03||33 || 9 || 1 || 0 || 14 || 3 || 2 || 0 || 50 || 12
|-
|2003-04||33 || 6 || 7 || 1 || 10 || 3 || 2 || 0 || 52 || 10
|-
|2004-05||29 || 6 || 1 || 0 || 10 || 0 || colspan="2"| — || 40 || 6
|-
|2005-06||29 || 9 || 5 || 0 || 4 || 0 || colspan="2"| — || 38 || 9
|-
! colspan="2" | 通算 !! 155 !! 37 !! 23 !! 3 !! 47 !! 9 !! 6 !! 0 !! 230 !! 49
|-
!rowspan="3"|通算
!colspan="2"|フランス||200||34||21||2||29||9||0||0||250||45
|-
!colspan="2"|イタリア||151||24||17||2||41||5||5||5||214||31
|-
!colspan="2"|スペイン||155||37||23||3||47||9||6||0||230||49
|-
!colspan="3"|合計!!506!!95!!61!!7!!117!!23!!11!!0||695||125
|}
=== 代表での成績 ===
[[ファイル:WM06 Portugal-France Penalty.jpg|thumb|right|220px|2006年W杯ポルトガル戦でPKを蹴るジダン]]
:出典<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
|-
!rowspan="2"|年!!colspan="2"|親善試合!!colspan="2"|ヨーロッパ!! colspan="2"|ワールドカップ!! colspan="2"|期間通算
|-
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点
|-
|1994||1||2||1||0||colspan="2"|-||2||2
|-
|1995||1||0||5||2||colspan="2"|-||6||2
|-
|1996||7||1||5||0||colspan="2"|-||12||1
|-
|1997||8||1||colspan="2"|-||colspan="2"|-||8||1
|-
|1998||7||3||3||0||5||2||15||5
|-
|1999||3||0||3||1||colspan="2"|-||6||1
|-
|2000||8<sup>註1</sup>||2||5||2||colspan="2"|-||13||4
|-
|2001||8||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||8||2
|-
|2002||5||1||3||0||1||0||9||1
|-
|2003||3||0||4||3||colspan="2"|-||7||3
|-
|2004||3||1||4||3||colspan="2"|-||7||4
|-
|2005||1||1||4||1||colspan="2"|-||5||2
|-
|2006||4||0||colspan="2"|-||6||3||10||3
|-
!合計!!59!!14!!37!!12!!12!!5!!108!!31
|}
<sup>註1</sup> [[フランスサッカー連盟]]は2000年8月16日に行われた[[国際サッカー連盟|FIFA選抜]]戦を国際Aマッチとして認めている<ref name="rsssf"/>。
=== 代表でのゴール ===
:出典<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable collapsible collapsed" style="text-align:center;"
! # !! 日付 !! 対戦場所 !! 対戦チーム !! スコア !! 結果 !! 大会
|-
| 1. || rowspan="2" | 1994年8月17日 || rowspan="2" | スタッド・シャバン・デルマ, [[ボルドー]], [[フランス]] || rowspan="2" | {{fb|CZE}} || '''1'''-2 || rowspan="2" | 2-2 || rowspan="2" | 親善試合
|-
| 2. ||'''2'''-2
|-
| 3. || 1995年9月6日 || スタッド・ドゥ・アベー・デシャン, [[オセール]], [[フランス]] || {{fb|AZE}} || '''7'''-0 || 10-0 || rowspan="2" | [[UEFA EURO '96予選|UEFA EURO 1996・予選]]
|-
| 4. || 1995年10月11日 || ゲンチェア・スタジアム, [[ブカレスト]], [[ルーマニア]] || {{fb|ROM}} || 1-'''3''' || 1-3
|-
| 5. || 1996年2月21日 || スタッド・デ・コスティエール, [[ニーム (フランス)|ニーム]], [[フランス]] || {{fb|GRE}} || '''3'''-1 || 3-1 || 親善試合
|-
| 6. || 1997年6月11日 || [[パルク・デ・プランス]], [[パリ]], [[フランス]] || {{fb|ITA}} || '''1'''-0 || 2-2 || トゥルニー・ド・フランス
|-
| 7. || 1998年1月28日 || [[スタッド・ド・フランス]], [[サン=ドニ]], [[フランス]] || {{fb|ESP}} || '''1'''-0 || 1-0 || rowspan="2" | 親善試合
|-
| 8. || 1998年2月25日 || [[ベロドローム]], [[マルセイユ]], [[フランス]] || {{fb|NOR}} || '''2'''-1 || 3-3
|-
| 9. || 1998年5月27日 || スタッド・モハメド5世スタジアム, [[カサブランカ]], [[モロッコ]] || {{fb|BEL}} || 0-'''1''' || 0-1 || [[ハサン2世トロフィー]]1998
|-
| 10. || rowspan="2" | 1998年7月12日 || rowspan="2" | [[スタッド・ド・フランス]], [[サン=ドニ]], [[フランス]] || rowspan="2" | {{fb|BRA}} || '''1'''-0 || rowspan="2" | 3-0 || rowspan="2" | [[1998 FIFAワールドカップ・決勝]]
|-
| 11. ||'''2'''-0
|-
| 12. || 1999年9月8日 || [[ラズダン・スタジアム]], [[エレバン]], [[アルメリア]] || {{fb|ARM}} || 1-'''2''' || 2-3 || [[UEFA EURO 2000予選|UEFA EURO 2000・予選]]
|-
| 13. || 2000年2月23日 || [[スタッド・ド・フランス]], [[サン=ドニ]], [[フランス]] || {{fb|POL}} || '''1'''-0 || 1-0 || 親善試合
|-
| 14. || 2000年6月4日 || スタッド・モハメド5世スタジアム, [[カサブランカ]], [[モロッコ]] || {{fb|JPN}} || 1-'''1''' || 2-2 || ハサン2世トロフィー2000
|-
| 15. || 2000年6月25日 || [[ヤン・ブレイデルスタディオン]], [[ブルッヘ]], [[ベルギー]] || {{fb|ESP}} || 0-'''1''' || 1-2 || [[UEFA EURO 2000]]・準々決勝
|-
| 16. || 2000年6月28日 || [[ボードゥアン国王競技場]], [[ブリュッセル首都圏地域|ブリュッセル]], [[ベルギー]] || {{fb|POR}} || 1-'''2''' || 1-2 || UEFA EURO 2000・準決勝
|-
| 17. || 2001年2月27日 || rowspan="3" | [[スタッド・ド・フランス]], [[サン=ドニ]], [[フランス]] || {{fb|GER}} || '''1'''-0 || 1-0 || rowspan="3" | 親善試合
|-
| 18. || 2001年3月24日 ||{{fb|JPN}} || '''1'''-0 || 5-0
|-
| 19. || 2002年3月27日 ||{{fb|SCO}} || '''1'''-0 || 5-0
|-
| 20. || rowspan="2" | 2003年3月29日 || rowspan="2" | [[スタッド・フェリックス・ボラール]], [[ランス (パ=ド=カレー県)|ランス]], [[フランス]] || rowspan="2" | {{fb|MLT}} || '''4'''-0 || rowspan="2" | 6-0 || rowspan="3" | [[UEFA EURO 2004予選|UEFA EURO 2004・予選]]
|-
| 21. ||'''6'''-0
|-
| 22. || 2003年4月2日 || [[スタディオ・レンツォ・バルベラ]], [[パレルモ]], [[イタリア]] || {{fb|ISR}} || 0-'''2''' || 1-2
|-
| 23. || 2004年6月6日 || [[スタッド・ド・フランス]], [[サン=ドニ]], [[フランス]] || {{fb|UKR}} || '''1'''-0 || 1-0 || 親善試合
|-
| 24. || rowspan="2" | 2004年6月13日 || rowspan="2" | [[エスタディオ・ダ・ルス]], [[リスボン]], [[ポルトガル]] || rowspan="2" | {{fb|ENG}} || '''1'''-1 || rowspan="2" | 2-1 || rowspan="3" | [[UEFA EURO 2004]]・グループステージ
|-
| 25. ||'''2'''-1
|-
| 26. || 2004年6月21日 || エスタディオ・シダーデ・デ・コインブラ, [[コインブラ]], [[ポルトガル]] || {{fb|CHE}} || 0-'''1''' || 1-3
|-
| 27. ||2005年8月17日 || [[スタッド・ドゥ・ラ・モッソン]], [[モンペリエ]], [[フランス]] || {{fb|CIV}} || '''2'''-0 || 3-0 || 親善試合
|-
| 28. || 2005年10月12日 || [[スタッド・ド・フランス]], [[サン=ドニ]], [[フランス]] || {{fb|CYP}} || '''1'''-0 || 4-0 || [[2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選]]
|-
| 29. || 2006年6月27日 || [[ニーダーザクセンシュタディオン]], [[ハノーファー]], [[ドイツ]] || {{fb|ESP}} || 1-'''3''' || 1-3 || [[2006 FIFAワールドカップ]]決勝T, 1回戦
|-
| 30. || 2006年7月5日 || [[アリアンツ・アレーナ]], [[ミュンヘン]], [[ドイツ]] || {{fb|POR}} || 0-'''1''' || 0-1 || 2006 FIFAワールドカップ準決勝
|-
| 31. || 2006年7月9日 || [[オリンピック・スタジアム]], [[ベルリン]], [[ドイツ]] || {{fb|ITA}} || 0-'''1''' || 1-1 || [[2006 FIFAワールドカップ・決勝]]
|}
== 監督成績 ==
{{updated|2021年5月22日}}
{| class="wikitable" style="text-align: center"
|-
!rowspan="2"|クラブ
!rowspan="2"|就任
!rowspan="2"|退任
!colspan="8"|記録
|-
!width=40|試
!width=40|勝
!width=40|分
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== タイトル ==
=== 選手時代 ===
; [[FCジロンダン・ボルドー]]
* [[UEFAインタートトカップ]]:1995
; [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]]:1996-97, 1997-98
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:1997
* [[UEFAスーパーカップ]]:1996
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]:1996
* [[UEFAインタートトカップ]]:1999
; [[レアル・マドリード]]
* [[プリメーラ・ディビシオン]]:2002-03
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]]:2001, 2003
* [[UEFAチャンピオンズリーグ]]: [[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02|2001-02]]
* [[UEFAスーパーカップ]]:2002
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]:2002
; [[サッカーフランス代表|フランス代表]]
* [[FIFAワールドカップ]]:[[1998 FIFAワールドカップ|1998]]
* [[UEFA欧州選手権]]:[[UEFA EURO 2000|2000]]
===指導者時代===
; [[レアル・マドリード]]
* [[プリメーラ・ディビシオン]]:[[リーガ・エスパニョーラ2016-2017|2016-17]], [[リーガ・エスパニョーラ2019-2020|2019-20]]
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]]:2017, 2019
* [[UEFAチャンピオンズリーグ]]:[[UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16|2015-16]], [[UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17|2016-17]], [[UEFAチャンピオンズリーグ 2017-18|2017-18]]
* [[UEFAスーパーカップ]]:2016, 2017
* [[FIFAクラブワールドカップ]]:2016, 2017
=== 個人 ===
;選手時代
* [[トロフェ・UNFP・デュ・フットボール|リーグ・アン年間最優秀若手選手]]:1994
* リーグ・アン年間最優秀選手:1996
* セリエA最優秀外国人選手:1996-97, 2000-01
* [[UEFAクラブ・フットボール・アワード|UEFA年間最優秀MF賞]]:1997-98
* [[ワールドサッカー (雑誌)#世界最優秀選手賞|世界年間最優秀選手]]([[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌]]): 1998
* フランス最優秀選手([[フランス・フットボール]]誌): 1998, 2002
* [[ヨーロピアン・スポーツ・メディア|ESMベストイレブン]]:1998, 2002, 2003, 2004
* [[FIFAワールドカップ]]ベストイレブン [[1998 FIFAワールドカップ|1998]], [[2006 FIFAワールドカップ|2006]]
* [[FIFAワールドカップ]]最優秀選手賞:2006
* [[FIFA最優秀選手賞]]:1998, 2000, 2003
* [[バロンドール]]:1998
* [[オンズドール]]:1998, 2000, 2001
* [[UEFA欧州選手権]]ベストイレブン:[[UEFA EURO 2000|2000]], [[UEFA EURO 2004|2004]]
* [[UEFA欧州選手権]]大会最優秀選手:[[UEFA EURO 2000|2000]]
* [[オスカル・デル・カルチョ|セリエA最優秀選手]]:2000-01
* [[UEFA年間最優秀選手]]:2001-02
* [[UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー]]:2001, 2002, 2003
* [[ドン・バロン・アワード|リーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手]]:2002
* [[国際プロサッカー選手会|FIFPro]]ワールドイレブン:2005, 2006
* FIFAワールドカップ最優秀選手:2006
* [[国際サッカー歴史統計連盟|IFFHS World's Best Playmaker]]:2006
;指導者時代
* [[オンズドール]]年間最優秀監督賞:2017, 2018, 2021
* [[FIFA最優秀選手賞|FIFA最優秀監督賞]]:[[2017年のザ・ベスト・FIFAフットボールアウォーズ|2017]]
* [[ワールドサッカー (雑誌)#世界最優秀監督賞|ワールドサッカー選定世界最優秀監督賞]]:2017
* [[国際サッカー歴史統計連盟|IFFHS世界クラブ最優秀監督]]:2017, 2018
* [[ミゲル・ムニョス賞]]:2019-20
;その他
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|20世紀の偉大なサッカー選手100人]](ワールドサッカー誌)28位:1999
* [[FIFA 100]]:2004
* 過去50年間欧州最優秀選手([[UEFAゴールデンジュビリーポール]]): 2004
* [[トロフェ・UNFP・デュ・フットボール#その他の賞|UNFP名誉トロフィー]]:2007
* [[ゴールデンフット賞]](all time legend):2008
* [[マルカ (新聞)|マルカ・レジェンダ]]:2008
* [[レジオンドヌール勲章]] シュヴァリエ / オフィシエ:1998 / 2009
* [[ローレウス世界スポーツ賞]]生涯功労賞:2011
* [[トロフェ・UNFP・デュ・フットボール#その他の賞|UNFP 20年間最優秀チーム]]:2011
* [[バロンドール・ドリームチーム]] セカンドチーム:2020
== 参考文献 ==
<!-- zidane01 -->* {{Cite book|和書|author=バティスト・ブランシェ,チボー・フレ=ビュルネ著、陣野俊史,相田淑子訳|year=2007|title=ジダン|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4-560-04979-2 |ref=ブランシェ、ビュルネ}}
<!-- zidane02 -->* {{Cite book|和書|author=ルーカ・カイオーリ著、片野道郎訳|year=2006|title=ジダン Ten Minutes To Glory|publisher=ゴマブックス|isbn=4-7771-0539-3 |ref=カイオーリ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Zinedine Zidane}}
{{Wikinews|ジダン選手の処罰決まる_ワールドカップ決勝戦の頭突き事件}}
* [https://web.archive.org/web/20040929094357/http://www.zidane.fr/ オフィシャルサイト]
* [https://web.archive.org/web/20130119064015/http://fr.fifa.com/classicfootball/winners/code=1013/player=163331/interview.html FIFA.com]
* {{Instagram|zidane}}
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10,049 |
ダシャ・メドヴァヤ
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ダリア・メドバ (属。 1990年10月23日、ヘルソン、ソビエト連邦)-ウクライナの歌手、女優、テレビのプレゼンター、モデル、作曲家、ソングライター。
ダリアメドバは、1990年10月23日にヘルソンで生まれました。 子供の頃から、歌手の母親は音楽への愛情を吹き込み、娘をピアノとボーカルの音楽学校に通しました。 ダリアは学校を卒業した後、キエフに来て、キエフ州立多様性芸術大学に入学し、1年間勉強しました。 ヘルソンに戻って、彼女は音楽を勉強し続け、合唱学部の音楽学校に入学した. 彼女は、チェルボーナルタ、黒海ゲーム、クリシュタレビノートなどのさまざまな音楽フェスティバルに参加しました。
学校を卒業した後、彼女はキエフに引っ越しました、彼女はウクライナのショービジネスの中心であり、プロジェクトのバッキングボーカリストになりましたニキティンゆりオルガ・ゴルバチョワ「北極」。彼女はバンドと一緒に100以上のコンサートに参加し、大きなステージでの演奏経験を積みました。 2008年の初めに、ダリアのバンド初のミュージックビデオが撮影されました。— «本当に本当に»。同年秋、「お願い」の動画が撮影された。. 2009年7月、バンドはメンズ誌のウクライナ版の表紙に登場しました«Playboy».同じ年、2009年に、バンドはアルバム「ホワイトスター」をリリースしました。これには、グループのレパートリーにある11曲すべてが含まれています。.2009年10月、バンドは叙情的な作曲のためのビデオを撮影しました-「なぜ?」.11月18日、国立宮殿のステージ«国立芸術宮殿「ウクライナ」»北極圏が第5回ゴールデンシャルマンカ国際音楽賞授賞式に参加 .
2010年に彼女はチームを去った。 「アークティック」が音楽プロデューサーからの提案を検討した後、その時までに彼女は独自のオリジナル曲を手に入れ、ソロのキャリアを始めることが決まった。 .
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ダリア・メドバ (属。 1990年10月23日、ヘルソン、ソビエト連邦)-ウクライナの歌手、女優、テレビのプレゼンター、モデル、作曲家、ソングライター。
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'''ダリア・メドバ''' (属。 1990年10月23日、[[ヘルソン]]、[[ソビエト連邦]])-ウクライナの歌手、女優、テレビのプレゼンター、モデル、作曲家、ソングライター。
==伝記==
=== 1990-2008:小児期および青年期===
ダリアメドバは、1990年10月23日にヘルソンで生まれました。 子供の頃から、歌手の母親は音楽への愛情を吹き込み、娘をピアノとボーカルの音楽学校に通しました。 ダリアは学校を卒業した後、キエフに来て、キエフ州立多様性芸術大学に入学し、1年間勉強しました。 ヘルソンに戻って、彼女は音楽を勉強し続け、合唱学部の音楽学校に入学した<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=e4blORCREHU|title=Даша Медовая в программе "Джунгли шоу-бизнеса"|accessdate=2020-05-27}}</ref>. 彼女は、チェルボーナルタ、黒海ゲーム、クリシュタレビノートなどのさまざまな音楽フェスティバルに参加しました<ref name="nashe_interview">{{cite web|url=http://www.nashe.ua/Dasha-Medovaya.html|title=Даша Медовая Биография|accessdate=2020-05-27}}</ref>。
=== 2008—2010:北極===
学校を卒業した後、彼女は[[キエフ]]に引っ越しました、彼女はウクライナのショービジネスの中心であり、プロジェクトのバッキングボーカリストになりましたニキティンゆりオルガ・ゴルバチョワ「北極」<ref name="1gb_interview">{{Cite web|url=http://dr.1gb.ua/portfolio/celebrities/dasha-medovaya|title=Даша Медовая|publisher=Дарья Рыбалка - официальный сайт фотографа|accessdate=2020-05-27}}</ref>。彼女はバンドと一緒に100以上のコンサートに参加し、大きなステージでの演奏経験を積みました。 2008年の初めに、ダリアのバンド初のミュージックビデオが撮影されました。— «本当に本当に»<ref>{{Cite web|url=http://e-motion.tochka.net/26957-arktika-snyala/#!|title=«Арктика» сняла новый клип «Очень-очень»|accessdate=2008-02-21|publisher=Tochka.net}}</ref>。同年秋、「お願い」の動画が撮影された。<ref>{{Cite web|url=http://starlife.com.ua/posts/1332.html|title=Ольга Горбачёва познакомилась с Алексеем Мочановым в ванной|last=Дмитрий Павленко|accessdate=2008-09-03|publisher=Starlife}}</ref>. 2009年7月、バンドはメンズ誌のウクライナ版の表紙に登場しました«<nowiki/>[[Playboy]]<nowiki/>»<ref>{{Cite web|url=http://starlife.com.ua/posts/2281.html|title=Голая «Арктика» поёт в «Playboy»|last=Дмитрий Павленко|accessdate=2009-07-03|publisher=Starlife}}</ref><ref name="tsn_interview">{{Cite web|url=http://ru.tsn.ua/glamur/svitska-hronika/arktika-pokorila-playboy-golymi-telami.html|title="Арктика" покорила Playboy голыми телами|accessdate=2009-06-30|publisher=[[ТСН (телепередача)|ТСН]]}}</ref>.同じ年、2009年に、バンドはアルバム「ホワイトスター」をリリースしました。これには、グループのレパートリーにある11曲すべてが含まれています。<ref>{{Cite web|url=https://music.yandex.ru/album/1012215/track/9552152|title=Альбом - Белая звезда|publisher=[[Яндекс.Музыка]]||accessdate=2020-05-25}}</ref>.2009年10月、バンドは叙情的な作曲のためのビデオを撮影しました-「なぜ?」<ref>{{Cite web|url=http://e-motion.tochka.net/ua/47762-gorbacheva-posvyatila/|title=Горбачёва посвятила песню Никитину|accessdate=2009-10-26|publisher=Tochka.net}}</ref>.11月18日、国立宮殿のステージ«<nowiki/>国立芸術宮殿「ウクライナ」<nowiki/>»北極圏が第5回ゴールデンシャルマンカ国際音楽賞授賞式に参加<ref>{{Cite web|url=http://e-motion.tochka.net/ua/48063-tina-karol-i/|title=Тина Кароль и Анастасия Приходько поборются за золото|accessdate=2009-11-15|publisher=Tochka.net}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://glamurchik.tochka.net/120227-sharmanka/|title=Лучшие наряды премии «Золотая шарманка»|accessdate=2009-11-19|publisher=Tochka.net}}</ref> .
2010年に彼女はチームを去った。 「アークティック」が音楽プロデューサーからの提案を検討した後、その時までに彼女は独自のオリジナル曲を手に入れ、ソロのキャリアを始めることが決まった。<ref name="1gb_interview"/> .
== ディスコグラフィー ==
=== 北極グループのアルバム ===
* Белая звезда
=== グループのシングル「北極」===
* Май
* Нечего терять
* Малыш
* Всё понятно
* Очень-очень
* Влюбляйся
* Почему?
* Юра
* Не вместе
* Пожалуйста
* Белая звезда
=== Nu Virgosシングルの人 ===
* Не ведая преград
* Жива
* Магия
=== シングルソロ ===
* Infinity
* Бесконечность
* Цунами-нежность
* Наркотик
* Narcotic
* Заковано море
* По венам
* Don’t Want To Be Alone
* Карусель
* Признание
* Медовая
* До утра
* Відлітаю
* Сп’яніла
* Ёсихидэ Суга
* Худший премьер-министр всех времен
* Синдзо Абэ
* Современный Гитлер
* Путин худший
* Прекратить войну
==参考文献==
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:めとうあや たしや}}
[[Category:ウクライナの歌手]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:1990年生]]
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|
10,050 |
メジャーリーグベースボール
|
メジャーリーグベースボール(英語: Major League Baseball、英語発音: /méɪdʒɚ líːg béɪsb`ɔːl/; 略称: MLB)は、アメリカ合衆国、及びカナダ所在の合計30球団により編成される、世界で最高峰のプロ野球リーグであり、北米4大プロスポーツリーグの1つである。厳密には、1903年に発足したナショナルリーグとアメリカンリーグの2つのリーグの共同事業機構で、両リーグの統一的運営をしている。日本では「メジャーリーグ」「大リーグ」とも呼ばれる。「大リーグ」の呼称は、メジャーリーグの別名「ビッグリーグ (Big League)」の訳語である。
メジャーリーグベースボール(以下、MLB)は、ナショナルリーグとアメリカンリーグの2リーグ(各々15球団)からなり、アメリカ合衆国に本拠地を置く29球団(アメリカン・リーグ14、ナショナル・リーグ15)とカナダに本拠地を置く1球団(アメリカン・リーグ所在)の全30球団から構成されている。各チームはリーグごとに東地区、中地区、西地区に所属する。アメリカ合衆国外からは過去にモントリオール・エクスポスとトロント・ブルージェイズの、共にカナダの2チームが参加していたが、2005年にエクスポスがワシントンD.C.に本拠を移転(同時にワシントン・ナショナルズに球団名変更)したため、米国外チームは2022年現在ブルージェイズの1チームのみである。
試合形式は、レギュラーシーズンとポストシーズンで構成され、最終的に各リーグの優勝チームがワールドシリーズと呼ばれる優勝決定戦を行いワールドチャンピオンを決定する。レギュラーシーズンは4月初旬から9月下旬にかけて各チームが162試合を行い地区優勝とワイルドカード入りを争う。10月初旬からポストシーズンがトーナメント形式で行われる。トーナメントでは各段階ごとにワイルドカードシリーズ、ディビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズ、ワールドシリーズと冠される。
1850年代後半、ニューヨークスタイルの「ベースボール」は南北戦争を期にアメリカ北東部を中心に各地に普及し、野球の最初のアマチュアリーグとなる全米野球選手協会(NABBP)が生まれた。NABBPは12年間続き、最も拡大した1867年には400以上のチームがメンバーとなっていた。1860年代前半には選手の中に報酬をもらって野球をする、いわゆるプロ選手が登場しはじめていたとされる。プロ選手に関する正式な規定は1868年に制定され、翌1869年に結成されたシンシナティ・レッドストッキングスは、プロ選手だけで構成された初めてのプロチームとなり、地方各都市を巡業してその名を馳せた。レッドストッキングスの成功をうけ、あとを追うようにプロチームが各都市に次々に誕生したが、次第にプロ選手とアマチュア選手の間で内部分裂がおき、全米野球選手協会はアマチュア組織とプロ組織に分割することとなった。こうして、1871年には最初のプロ野球リーグ、全米プロ野球選手協会(ナショナル・アソシエーション、NA)が創設されたが、リーグ運営は5年で破綻してしまった。この時、現在に残るチーム、シカゴ・ホワイトストッキングス(のちのシカゴ・カブス)とボストン・レッドストッキングス(後のアトランタ・ブレーブス)が誕生している。
翌1876年、現在まで続くナショナルリーグ (NL) が発足。このリーグが最初のメジャーリーグとされる。1876年4月22日フィラデルフィアにあるジェファーソン・ストリート・グラウンズで最初の試合が行われた。ナショナルリーグは所属選手の契約を強制し高額報酬によるライバルリーグへの流出を防ぎ、これまでは頻繁に起きた優勝を逃したチームの消化試合の中止をなくし全てのスケジュールを予定通り行うなど、ナショナル・アソシエーションの欠点を改善していった。契約に「リーグ間の移籍禁止条項」を設けたことで初期には選手との対立もあったが結果的にこれが功を奏し、ライバルリーグはユニオン・アソシエーション(UA、1884年)、プレイヤーズ・リーグ(PL、1890年)といずれも短命に終わった。最も成功したアメリカン・アソシエーション(AA、1882年 – 1891年)とは1884年から1890年にかけてナショナルリーグとリーグ優勝チーム同士の対戦(現在のワールドシリーズ)が行われた。
解体した2つのリーグにいたチームは1892年にナショナルリーグに統合されたが、12球団あったナショナルリーグは1900年から8球団へ統合・削減し、ボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンD.C.から球団がなくなる。一方でウエスタンリーグというマイナーリーグが1900年にアメリカンリーグ (AL) へと改称し、ルイビルを除くナショナルリーグの球団削減でメジャー球団がなくなった都市へ進出。翌1901年にアメリカンリーグは自らを「メジャーリーグ」と宣言したが、ナショナルリーグがそれに反発、シカゴのレランドホテルで他のマイナーリーグも交えた会議が行われた。この会議でアメリカンリーグはメジャーリーグとして容認され、数多く存在するマイナーリーグを総括する新しいナショナル・アソシエーションが設立された。ナショナル・アソシエーションはマイナーリーグベースボール (MiLB) として今日まで続いている。1902年、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ、ナショナル・アソシエーションはそれぞれの独立経営と、共同経営を併せ持つ新しい協定に調印した。この合意は、のちにブランチ・リッキーにより洗練され、整備されていった今日のマイナーリーグの基礎となる分類システムも確立した。この翌年から両リーグ勝者によるワールドシリーズが行われることになる。
後に短命となったマイナーリーグのいくつかは正式にメジャーリーグとみなされ、その統計と記録は現在の2つのメジャーリーグのものに含まれている。1969年に、アメリカプロ野球100周年を機にMLB機構の指定により『野球記録特別委員会』が設置され、そこで過去消滅したリーグを含め以下の6つのリーグを「メジャーリーグ」として認める、という決定がなされた。
それ以外の野球リーグでプロとして活動した経歴を持つ選手の記録については、現在この裁定に基づき、どこからどこまでをメジャーリーグ記録とするかといった分類が行われている。ただしこの裁定には一部研究者が異論を唱えており、ナショナル・アソシエーション(1871年 - 1875年)、アフリカ系アメリカ人(黒人)中心に運営された「ニグロリーグ」のうち、特に運営基盤が確立されていた1920年 - 1948年の期間、現在のアメリカンリーグの前身でマイナーリーグであった「ウェスタンリーグ」がアメリカンリーグと改称しナショナル・リーグの傘下であった1900年のアメリカンリーグなどもメジャーリーグとして扱うべきなどの意見がある。2020年12月17日、MLB機構は、「ニグロリーグ」に含まれる下記の7つのリーグの記録についてメジャーリーグの地位を与えると発表した。
1900年から1919年までの期間は、一般に「デッドボール時代」と呼ばれる。この時代の試合は得点が低い傾向があり、ウォルター・ジョンソン、サイ・ヤング、クリスティ・マシューソン、モーデカイ・ブラウン、グローバー・アレクサンダーなどの投手たちが試合を支配した。その要因はいくつかあるが、ひとつには、この時代に使われていた「デッドボール(飛ばないボール)」と呼ばれた、とても緩みやすく投げるほどに糸がほつれ飛距離が出なくなるボールに原因があった。それに加え、オーナーは3ドル(現在の価値で40ドル程)の新しいボールを購入することを嫌っていたため、ファウルボールもまれだったその当時、ファンはホームランボールでさえ投げ返さなければいけなかった。ボールは柔らかくなるまで、時には革がめくれ上がるまで試合で使い回された。そのため噛みタバコのヤニや、草、泥などで常に汚れていた。
また、極一部の選手ではあったがボールを噛んで傷をつけたり、故意に汚すなどして投球に変化を加えるスピットボールを操る投手もいた。これは1921年にスピットボールの使用が禁止されるまで続いた。さらに、シカゴ・カブスのウエスト・サイド・パークやボストン・レッドソックスのハンティントン・アベニュー・グラウンズに代表される、センターが現在の球場より200フィート (61 m)ほども広い球場があり、そのためホームランはまれで、単打、犠打、盗塁、ヒットエンドランなどの「スモールボール」が当時の戦略の要となっていた。内野安打をかせぐためにボルチモアチョップなどの戦法が編み出された。ボルチモアチョップは、ボールをあえて前に飛ばそうとせず地面にたたきつけ、打球にグラブが届かないほど高く跳ねている間に一塁を駆け抜けるというものだった。
20世紀初頭、ファウルストライクルールが採用された。これによって試合時間が大幅に短縮されたが、これまでのような大量得点試合が減り、試合で1点をとるのがより困難になった。19世紀のルールでは、ファウルボールはストライクとしてカウントされなかったため、打者は、ストライクがカウントされないまま投手に球数を投げさせることが出来たため、打者にとっては大きな利点であった。1901年からナショナルリーグが先にファウルストライクルールを採用し、1903年からアメリカンリーグでも採用された。しかしこのルールによって大量得点試合が減るということがファンの間では不満となっていた。
追い打ちをかけるように1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、開催こそ継続されたものの選手の出征が相次ぎ、1918年にはレギュラーシーズンが短縮された。1919年、シカゴ・ホワイトソックスとシンシナティ・レッズで行われたワールドシリーズにおいて、メジャー史上最悪の不祥事であるブラックソックス事件が起き、メジャーリーグは社会的信用を失うことになってしまった。ホワイトソックスの選手だった、ジョー・ジャクソン、エディ・シーコット、レフティ・ウィリアムズ、チック・ガンディル、フレッド・マクマリン、スウィード・リスバーグ、ハッピー・フェルシュ、バック・ウィーバーは賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴された。この8名の選手はメジャーリーグから永久追放処分となった。
1910年代に下落した野球の人気は1920年におきた悲劇と、一人の選手の登場によって回復していった。1920年8月16日クリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマンがバッターボックスで頭部に投球を受け、数時間後に死亡した。チャップマンは、試合中に死亡した唯一のMLB選手となった。この悲劇は、当時の選手がヘルメットをかぶっていなかったことにも原因があるが、結果的には「デッドボール時代」を終わらせる手助けとなった。それまでは試合後半になると、ボールが軟らかくなり不規則な動きを見せ、汚れ見えづらくなっていたが、ボールが汚れるたびに取り替えるというルールが生まれたからである。ボールを取り換えることにより飛距離が飛躍的に伸びる結果になった。この頃から「ライブボール時代」が始まった。
同年、ボストン・レッドソックスよりニューヨーク・ヤンキースにベーブ・ルースが移籍。これまで投手として活躍していたルースであったが、前年に当時のMLB記録となった29本塁打を記録。ヤンキースでは打者に専念すると、不可能と思われていた自身の本塁打記録を大幅に更新する54本を放ち、翌1921年には59本と3年連続で本塁打記録を塗り替えた。ルースを擁するヤンキースは、1921年に初のリーグ優勝を、1923年にはワールドシリーズ初優勝を果たす。1927年、ルースは本塁打記録を60本に更新、さらにルー・ゲーリッグの台頭などで強力打線となったヤンキースは、1930年代の終わりまでに、11度のワールドシリーズに出場し、8度の優勝を果たすこととなる。この時代には1試合当たりの得点も上昇。この打撃戦をファンは支持し観客動員は増加した。
1929年頃始まった大恐慌の影響を受けて、野球の人気は再び下降を始めた。1932年までに、利益を上げたMLBチームは2チームだけだった。野球のチケット価格には10%の娯楽税が課せられ、観客動員は減少した。オーナーは契約選手を25人から23人に減らし、最優秀選手でさえも賃金を引き下げた。チームは生き残りをかけて、ナイターゲームの実施、ラジオでのライブ中継、女性の無料入場などの改革を行ったが、大恐慌の前には歯が立たなかった。
追い打ちをかけるかのように1939年、第二次世界大戦が開戦。MLBでもチームに所属している選手500人以上が出兵を余儀なくされ、深刻なプロ野球選手不足を引き起こした。彼らの多くは、出兵している軍人を楽しませるサービス野球チームでプレーした。この時期のMLBチームは、兵役対象外の青少年、年長の選手で構成されていることになった。中には精神的、道徳的に不適格だった者もいた。その一方、肉体的にハンディキャップをおった選手にも機会をあたえることになった。片腕がなかった外野手のピート・グレイのような選手も、メジャーリーグに進出することができた。しかし、黒人がMLBのロースターに含まれることはなかった。黒人選手は、戦争で人手不足であっても、MLBの出場は認められず、依然としてニグロリーグでしかプレーできなかった。はじめて黒人がMLBに登場するのは、1947年のジャッキー・ロビンソンである。
戦時中の灯火管制により、野外照明を暗くしなければならなかったため、ナイターでの試合が困難になった。1942年、国内では開催中止論も広まりつつあったが、1月14日に、初代コミッショナーであるケネソー・マウンテン・ランディスは、フランクリン・ルーズベルト大統領宛てに手紙を送り、新たなメジャーリーグシーズンの開始と戦時中の野球の継続を嘆願した。大統領の返信には「野球を続けるのが最善であると正直に思っている。失業者は少なく、誰もがこれまで以上に長時間厳しい労働を強いられることになるだろう。ということは、今まで以上に全国民がリクリエーションの機会を持つべきだ。」と書かれていた。この手紙は「グリーンライトレター(青信号の手紙)」と呼ばれアメリカ野球殿堂博物館に保管されている。
こうしてルーズベルト大統領の承認を得て、戦時中も試合は継続された。スタン・ミュージアル、テッド・ウィリアムズ、ジョー・ディマジオなどのスターたちのキャリアは中断されたが、チームは引き続きMLBでプレーすることになった。しかし、各球団とも選手の出征が相次いだことによる深刻な選手不足は変わらず、1945年のMLBオールスターゲームは中止となった。
1880年代にはメジャーリーグにも黒人選手が存在したが、選手、リーグの激しい反発により、短期間で姿を消す事となった。それ以降、黒人選手との契約を禁止する規則は存在しなかったものの、1940年代半ばまで黒人選手はメジャーリーグでプレイできなかった。ただし同じ有色人種でも、肌の黒くないヒスパニック系やネイティヴアメリカンの選手はプレイできた。
1945年、ブルックリン・ドジャースの社長兼ゼネラルマネジャーであるブランチ・リッキーは、プロの野球リーグに黒人野球選手を本格的に入団させようと動き出した。彼はニグロリーグの有望選手のリストの中からジャッキー・ロビンソンを選んだ。リッキーはロビンソンに、彼自身に向けられる差別に「やり返さない勇気を持つ」事を求め、月額600ドルの契約を結ぶ事に同意した。ロビンソンは、ドジャースのファームクラブであるモントリオール・ロイヤルズに1946年シーズンから参加、1880年代から続くインターナショナルリーグにおいて57年ぶりの黒人野球選手となった。
翌年、ドジャースはロビンソンをメジャーリーグに呼び寄せた。1947年4月15日、ロビンソンはエベッツ・フィールドで14,000人以上の黒人を含む26,623人の観衆の中メジャーリーグデビューを果たした。黒人野球のファンは、それまでのニグロリーグのチームの観戦を放棄し、ドジャースの試合を見るためにブルックリンに殺到した。ロビンソンの売り出しには、新聞や白人メジャーリーグの選手の大多数が反対であった。監督のレオ・ドローチャーはチームに「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと、ヤンキースのストライプが好きでも構わない。自分はこのチームの監督だ。チームに必要な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいるならトレードで出て行くことになるだろう。」と語った。
対戦相手のフィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告。それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。ロビンソンは何人かの選手から励ましを受け、チームメイトのピー・ウィー・リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景に観客の誹謗中傷は徐々に減っていった。ロビンソンはどんなときも常に紳士的に振る舞い、シーズン終了時にはチームメイトや報道陣から受け入れられるようになった。ロビンソンは、この年から制定された最優秀新人選手賞を受賞した。
3か月も経たないうちに、ラリー・ドビーがクリーブランド・インディアンスと契約し、アメリカンリーグも黒人選手を受け入れると、翌年、他の多くの黒人選手がメジャーリーグに入った。サッチェル・ペイジはインディアンスと契約し、ドジャースはスター捕手だったロイ・キャンパネラとドン・ニューカムを追加した。ドン・ニューカムは後にサイ・ヤング賞を受賞した。
1952年、MLBは女性選手との契約締結を禁止した。その禁止条項は1992年に解除されたが、その後も女性選手との契約は現在まで存在しない。
1901年から1953年までの間、2つのメジャーリーグは8チームのリーグで構成されていた。16チームはアメリカ北東部と中西部の10都市に集中していた。ニューヨークに3チーム、ボストン、シカゴ、フィラデルフィア、セントルイスには各2チーム存在していた。当時はセントルイスが最南端と最西端だった。最も距離の遠いボストンからセントルイスへの距離は、鉄道で約24時間の距離であった。
1953年、低迷していたボストン・ブレーブスが本拠地をミルウォーキーへ移転し、観客動員が28万人から182万人へ増加。以後、本拠地の移転が起きることに。1954年、セントルイス・ブラウンズはボルチモアに移転。1955年、フィラデルフィア・アスレチックスはカンザスシティへ移転した。
野球専門家の間で、「この頃の初期拡大期に最も影響力があったオーナー」と考えられているブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは、1958年シーズンの前に、彼はブルックリン・ドジャースを西海岸にあるロサンゼルスに移した。オマリーがTIME誌の表紙になるほどの大事件だった。全米一の熱狂度と評されていたニューヨークのファンから「世界三大悪人はヒトラー、スターリン、そしてオマリー」と非難された。さらにオマリーは、ライバルのニューヨーク・ジャイアンツにサンフランシスコへの移転を持ちかけた。ジャイアンツは1950年代に入り成績、観客動員ともに落ち込み、本拠地ポロ・グラウンズの老朽化もあり、球団幹部はニューヨークからの脱出を考えていた時だった。ドジャースが単独で西に移動した場合、最も近いチームでもセントルイス・カーディナルズの1,600マイル(2,575 km)もあった。1球団より2球団で移転した方が、西海岸の遠征が訪問チームにとって経済的だろうとの目的だった。オマリーはジョージ・クリストファー・サンフランシスコ市長をニューヨークに招き、ジャイアンツのオーナーであるホーナス・ストーンハムと面会させた。ストーンハムはミネソタ州に移転することを検討していたが、1957年末に西海岸に移転することを決めた。この会合は、コミッショナーのフォード・フリックの要望を無視して行われた。結果的に2チームの動きは、フランチャイズとMLBの両方にとって大成功だった。ドジャースは1試合で78,672人の観客を動員し、MLBにおける1試合での最多動員記録を叩きだした。一方、3チームのうち2チームを失ったニューヨークでは球団を取り戻す機運が高まり、リーグ拡大の契機となった。
1961年、ワシントン・セネターズがミネアポリスに移りミネソタ・ツインズとなった。同年、ロサンゼルス・エンゼルスと移転したセネターズの代わりに新しく作られたワシントン・セネターズの2チームがアメリカンリーグに加盟。続けて翌1962年、ナショナルリーグにはヒューストン・コルト45’sとニューヨーク・メッツが加盟。コルト45’s(4年目からアストロズに改称)は、1899年にルイビル・カーネルズがなくなって以来初めての南部を本拠地とするチームとなった。メッツは、大都市ニューヨークに復活したチームとして多大な期待を受けたが、最初のシーズンで40勝120敗と大敗し、無駄なチームを作ってしまったとファンを落胆させた。その後も最下位が定位置と成りつつあったが、創立8年目の1969年、突如100勝62敗の好成績でリーグ初優勝。そのままワールドシリーズも制してしまった。結果的にメッツは1960年前半に加入した4チームでワールドシリーズタイトルを獲得した最初のチームになった。
1966年、MLBはミルウォーキー・ブレーブスがアトランタに移り「ディープ・サウス」に進出。1968年、カンザスシティ・アスレチックスはさらに西のオークランドに移転した。1969年、両リーグはそれぞれ2チームの拡張フランチャイズを迎え入れた。アメリカンリーグは、シアトル・パイロッツ(シアトルで悲惨な1シーズンをおくった後にミルウォーキーに移転)とカンザスシティ・ロイヤルズを加えた。ナショナルリーグは、サンディエゴ・パドレスと、初のアメリカ国外のカナダフランチャイズとなった、モントリオール・エクスポズを加えた。これによって、両リーグ12チームと巨大化したため、この年から東西2地区制に移行した。2地区に分かれたことで優勝チームが2チームとなったためワールドシリーズの前哨戦としてリーグチャンピオンシップシリーズが始まった。
1972年、ワシントン・セネターズはアーリントンに移り、テキサス・レンジャーズになった。1977年、アメリカンリーグが再び拡大、シアトル・マリナーズとカナダ第2のチーム、トロント・ブルージェイズが加わった。その後、しばらく新しいチームは追加されず、1990年代までチームの移転もなかった。1993年、ナショナルリーグはマイアミのフロリダ・マーリンズ、デンバーのコロラド・ロッキーズを加えた。翌1994年、東中西3地区制に移行した。1998年、ナショナルリーグは西地区にフェニックスのアリゾナ・ダイヤモンドバックス、アメリカンリーグは東地区にフロリダ・タンパのタンパベイ・デビルレイズが加わった。タイガースがアメリカンリーグ東部地区から中部地区に、リーグのバランスをとるため、ブルワーズがアメリカンリーグ中地区からナショナルリーグ中地区に移動。リーグ間の移動が初めて行われた。
2001年のシーズン後、オーナー会議が開かれリーグの縮小、いくつかのチームの廃止が検討され、多くのオーナーによって縮小に賛成票が投じられた。その中でモントリオール・エクスポズとミネソタ・ツインズが廃止に最も近い2チームであった。しかし、ツインズが2002年シーズンのプレーを要求した裁判所命令を受け、MLBの縮小計画は中止された。MLBのオーナーは、少なくとも2006年までリーグの縮小をしないことに同意した。エクスポズは、深刻な財政難で球団経営が行き詰まり、30年以上なかった本拠地の移転が行われ、2005年にワシントン・ナショナルズとなった。結果、セネタースがテキサスに移転して以来33年間不在だったチームをアメリカの首都に戻すことになった。一方モントリオールはフェデラルリーグを除き、1901年以来MLBの本拠地があった都市で現在チームを運営していない唯一の都市となっている。
2013年、インターリーグの開催時期が見直され、試合のスケジュールの関係でチーム数のバランスが悪かった地区の整理が行われた。ヒューストン・アストロズがナショナルリーグ中地区からアメリカンリーグ西地区に移動。前述のブルワーズ以来2例目となるリーグ間の移動となった。これで全地区5チームずつの均等配置となった。
2018年7月17日、MLB機構のロブ・マンフレッドがテレビ番組内にて、32球団に拡張する意向を示した。 候補地としてラスベガスやポートランド、シャーロットやナッシュビル、モントリオールとバンクーバーの6都市を挙げた。その上、メキシコについても「長い目で見ればあり得る」と語った。
1960年代後半、一旦は打者有利の時代になった野球は再び投手有利の時代になっていた。この時期の1試合あたりの得点は過去最低だった1900年後半の水準まで落ち込んだ。ボストン・レッドソックスのカール・ヤストレムスキーは、1968年にメジャーリーグの歴史の中で最も低い.301の打率でアメリカンリーグの首位打者となった。デトロイト・タイガースのデニー・マクレインは31勝を記録し、1934年のディジー・ディーン以来、1シーズン30勝した唯一の投手となった。セントルイス・カージナルスの投手ボブ・ギブソンは、わずか防御率1.12を達成することで同様の偉業を達成した。リーグ全体でも投手全体の平均防御率が1919年以来の2点代となり、アメリカンリーグの平均打率にいたっては.230とMLB至上最低を記録した。
1968年12月、MLBのプレールール委員会は投打の均衡を保つため1969年のシーズンから、従来の肩から膝までのストライクゾーンを肩から脇の下まで引き下げ、投手のマウンドの高さを15インチ(38.1センチメートル)から10インチ(25.4センチメートル)に下げることを決めた。
1973年、ナショナルリーグよりもはるかに低い出場率で苦しんでいたアメリカンリーグは、打者の負担を減らし得点倍増を目指し、指名打者(DH)制を導入した。2022年のシーズンからはナショナルリーグでも指名打者制が採用される予定である。
1960年代から1970年代にかけて、老朽化した野球場の立て替えとリーグ拡大によりできた新球団の新球場の建設ラッシュが起こった。この頃の流行は多目的球場とドーム球場だった。
野球人気が拡大する中NFLも急速に発展しており、野球とアメリカンフットボール両方のプロチームを持つ都市の多くは、野球のみを目的とした施設ではなく、両方ができる施設を建設したほうが経済的だったことから、1953年に開場したミルウォーキー・カウンティ・スタジアムを皮切りに多目的球場が多く建設された。多目的球場は野球とフットボールの両方を収容する必要があり楕円形のデザインをしていたため、古いスタジアムよりも相対的にいびつな野球場の形になってしまった。いびつで広いグラウンドは普通の広さの外野であれば本塁打になるはずの打球がただの外野フライになったり、ファールがフライアウトになったりという現象がたびたび起こった。このような特徴はプロ野球の本質を変え、本塁打や打撃力よりも防御率の高さが目立つ結果となった。
1965年、世界初の全天候型屋根付き球場アストロドームが開場。球場に屋根を付ける発想は、アストロズの本拠地ヒューストンが夏は高温多湿で雨が多く蚊の大量発生にも悩まされる、そんな気候に左右されない快適な環境をとの発想からだった。開場当初は屋外球場と同じ環境でプレーできるように透明のアクリル屋根であったが、光が選手の目に入りプレーに支障をきたすことから、すぐに太陽光を通さないパネルに替えられた。この際、球場内の芝が光を遮られたことで枯れてしまう問題が起きた。それを解消するため世界初の繊維による人工芝「アストロターフ」が開発された。アストロターフは維持コストが安く天然芝からの転換も容易なことから多くの野球場で採用された。人工芝は打球が早くなる特徴があり、今までより盗塁とスピードが重要視されるようになった。人工芝の表面はボールがより速く移動し、より高く跳ねたので、三遊間や一二塁間の「穴」を通しやすくなり盗塁もしやすくなった。チームは投手を中心にした構成に転換していった。投手の球速を保つため中継ぎがより重要視されるようになった。そのため先発投手は試合を完投する必要はなくなった。先発投手は6から7イニングを投げて中継ぎにつなぐだけで十分だった。この頃は盗塁の増加に反比例して本塁打数は減少した。本塁打はウィリー・メイズが1965年に52本を打った後、50本を超えたのは1990年までジョージ・フォスターが1977年に到達したのみだった。
1980年代、多くの球場で採用された人工芝であったが、下地がコンクリートやアスファルトで固く選手の足腰に負担がかかるという声があがるようになる。1989年、世界初の開閉式屋根付き球場のスカイドームが開場すると、屋根付きでありながら天然芝の生育が可能となる。1992年、天然芝のオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズが開場すると、レトロ回帰の新古典式野球専用球場が主流となっていき、徐々に人工芝の球場は減少していった。
1994年、サラリーキャップ制度導入を巡って経営者側と選手会側が対立し、シーズン最中の8月から翌1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが発生。ストライキは232日間にわたり、1994年のワールドシリーズも中止された。選手会との協議の結果サラリーキャップ制度の導入は見送られたが、選手の報酬総額が相対的に高い球団に対する課徴金制度(ぜいたく税)が導入された。このストライキで一時大規模なファン離れが生じる結果となってしまった。
1995年、ドジャースに野茂英雄が入団。マイナー契約(40人枠外での契約)であったが5月にMLBへ昇格し、デビューすると13勝と活躍し新人王を獲得した。この日本人の活躍は国外の市場を開拓する契機となり、のちに多くの海外出身選手がメジャーデビューした。1997年、MLB以外のプロスポーツリーグでは積極的に行われてきたインターリーグを導入。これまでサブウェイ・シリーズのニューヨーク・ヤンキース対ニューヨーク・メッツに代表される同都市にあるチーム同士の対戦はワールドシリーズでしかかなわなかったため、好カードがレギュラーシーズンで見られるとあってファンには好評価であった。
1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサによるシーズン最多本塁打記録争いなどで盛り上がり、観客数もスト前の水準に回復した。1990年代後半から2000年代前半に本塁打量産ブームが起き、2001年にはバリー・ボンズが73本塁打を放ち、現在のシーズン本塁打記録を樹立した。しかし2007年12月13日に発表されたミッチェル報告書と呼ばれる報告書では89人の実名が挙げられ、その中にはバリー・ボンズ、アレックス・ロドリゲス、マニー・ラミレス、マーク・マグワイア、ラファエル・パルメイロ、ジェイソン・ジアンビ、ホセ・カンセコら多くのMLBを代表する強打者がアナボリックステロイドを使用していたことが後に判明した。
強打者が増えてくる中、投手は打者のパワーに対抗するため、様々な球種を開発する必要があった。ジャイロボールのような新しい球種は、力のバランスを守備側に戻すことができた。1950年代から1960年代のスライダーや1970年代から1990年代のスプリットフィンガーファストボールなどの球種で野球の試合が変わった。1990年代にはチェンジアップが復活し、トレバー・ホフマン、グレッグ・マダックス、ジェイミー・モイヤー、トム・グラビン、ヨハン・サンタナ、ペドロ・マルティネス、ティム・リンスカムなどの投手によって巧みに投げられた。近年、リンスカム、ジョナサン・サンチェス、ウバルド・ヒメネスなどの投手はスプリットの握りでチェンジアップを投げる、「スプリット・チェンジ」を投げるようになった。
2008年にビデオ判定が導入され、2014年からはその範囲が拡大されチャレンジ方式が採用された。
ギャラップ調査によれば「一番見るのが好きなスポーツ」は1960年代半ばにアメフトが野球に代わってトップに立った。以後その差は開くばかりで、2017年の調査ではアメフトが37%、野球は9%と4倍以上の差になっており、MLB人気がマイナー化したことがうかがえる。
WS:ワールドシリーズ優勝回数、LS:リーグ優勝回数、DS:地区優勝回数、WC:ワイルドカード回数
現在、MLBに所属する30チームはアメリカ合衆国の17の州とコロンビア特別区、カナダの1州に本拠地を置いている。ナショナルリーグ、アメリカンリーグともに15チームが所属。さらに各リーグに所属するチームは地図上で東中西の3つの地区に分割される。
各地区はすべて5チームずつで構成される。30チームに増加した当初より、各地区5チームごとの同数に分ける案も出されていたが、2012年まではインターリーグが現在のNPBにおけるセ・パ交流戦と同様に、特定の期間(MLBでは5月から7月の間)のみの集中開催だったため、各リーグ15チームの奇数になった場合試合を組めないチームが必ず1チームでき、年間の試合スケジュールを組むのが困難だったため、当初はアメリカンリーグ(中地区)の1チーム(ミルウォーキー・ブルワーズ)をナショナルリーグ(中地区)に配置しアメリカンリーグを14(東5・中5・西4)チーム、ナショナルリーグを16(東5・中6・西5)チームとしていた。その後、2013年からインターリーグを年間通じて行う方式に改正し、アメリカン・ナショナル両リーグ内の試合を組めない1チーム同士で常に試合が行われることによりこの問題は解消され、同年にナショナルリーグ(中地区)の1チーム(ヒューストン・アストロズ)がアメリカンリーグ(西地区)に配置され、各地区が5チームずつに分けられた。
シーズンが始まる前の2月中旬から3月下旬にかけて日本の春季キャンプにあたるスプリングトレーニングが行われる。このキャンプが行われる時期はまだ気温が低く雪が降るなどの地域があるため、暖かい地域のアリゾナ州とフロリダ州にあるマイナーリーグの本拠地がキャンプ地に選ばれている。アリゾナ州をキャンプ地にするチームでカクタスリーグ(Cactus League サボテンのこと)、フロリダ州をキャンプ地にするチームでグレープフルーツリーグ(Grapefruit League)が形成され、公式戦と同じような形式でオープン戦が行われるが、この間の記録は公式記録とはならない。
スプリングトレーニング開始時点で各チームの26人ロースター(MLB登録枠)は確定しておらず、40人ロースター(MLB登録拡大枠)の選手と、ロースター外の招待選手と呼ばれるベテランのFA選手や傘下マイナー球団所属の有望選手の中から、レギュラーシーズン開始までに開幕のロースター枠をめぐってふるい分けが行われる。レギュラーシーズンよりもベンチ入り選手数が多いため、チームを2分割し同じ日に違うチームと対戦するスプリットスクワッドなどの方式が採られる場合もある。
4月上旬から9月下旬にかけ、1チームあたり162試合のレギュラーシーズンが行われる。
162試合の内訳は、2023年から導入されるフォーマットでは以下のとおり。
これにより、1シーズンに全チームと少なくとも3試合は対戦することとなる。
1960年までの試合数は、リーグ各チーム総当たり(22回戦×7チーム)の154試合であった。アメリカンリーグは1961年から、ナショナルリーグは翌1962年から現在の162試合(18回戦×9チーム)になり、1969年に始まった2地区制時代は12球団時は同地区5チーム×18試合=90試合、他地区6チーム×12試合=72試合の計162試合であったが、アメリカンリーグは1977年から、ナショナルリーグも1993年には14球団に増えたことから、同地区6チーム×13試合=78試合、他地区7チーム×12試合=84試合の合計162試合になった。その後、1994年に3地区制となった上、地区によって所属チーム数が違っていたためばらつきがあるが、同地区と60試合程度、同リーグの他2地区と各45試合程度、その他インターリーグが数試合の合計162試合になった。両リーグ15チームずつとなった2013年以降は同地区4チーム×19試合=76試合、他地区10チーム×6または7試合=66試合、インターリーグ20試合の合計162試合である。2022年までのフォーマットでは、同地区4チームと計76試合(各19試合)、同リーグの他2地区10チームと計66試合(6チームと各7試合、4チームと各6試合)、インターリーグ20試合の対戦となっていた。インターリーグの内訳は「地理的なライバル」と4試合、ある地区1チームと4試合、その地区の残り4チームと3試合となる。ただし、同地区対決となる場合は1チームと6試合、2チームと4試合、2チームと3試合となり、この場合「地理的なライバル」は考慮されていなかった。
2012年以前のインターリーグは、例年5月中旬から6月中旬の間に数試合行い、その後一旦同リーグ内のカードに戻った後、6月上旬から7月中旬の間で再び数試合行うという日程となっており、合計18試合程度行われていた。
自チームの本拠地球場と相手チームの本拠地球場でほぼ均等に試合が組まれるが、インターリーグの対戦によっては、どちらか一方の本拠地球場で全3試合を開催するケースが多い。ただし、各チーム1シーズンのホームゲームとアウェイゲームの数が均等になるように、開催球場のバランス調整が行われている。
両リーグとも予告先発制度を採用している。先発投手は試合ごとではなく対戦カードごとにまとめて予告される。なお、全試合指名打者制(DH)が採用される(ナショナルリーグでは2021年以前は2020年を除き採用されていなかった)。試合は引き分けなしの時間無制限で行う。降雨などで「タイゲーム」となった場合はサスペンデッドが宣告され、この場合は次の日以降に中断した時点から再開し決着が付くまで試合が行われる。その場合の試合は、移動日や1日にその日予定されていた試合と順延になった試合の2試合行うダブルヘッダーなどで消化される。大乱闘などで試合続行不可能になったり、そもそも相手チームが到着せず、試合ができない場合などは、フォーフィッテッドゲーム(forfeited game、没収試合)となることがある。ただし2020年以降は特別ルールとして延長10回から走者を二塁に置いた状況で攻撃を開始するタイブレーク制を採用する。
怪我や疾病のために試合出場が困難と診断された選手は負傷者リスト(IL)に登録されてアクティブ・ロースターから外れ、所定日数が経過するまでは復帰できない。他にも、忌引や育休などの目的でロースターを一時離脱できる制度がある。その間は傘下マイナーリーグなどから代替選手を補充することができる。
レギュラーシーズン中、40人ロースター内の選手のトレードは7月31日まで可能となっている。そのため、特にトレード期限日直前には主力選手が絡む駆け込みトレードが多く成立する。
9月1日になると、アクティブ・ロースター(ベンチ入りし、試合出場も可能な人数)の枠が26人から28人へ拡大される。なお2019年までは最大40人に拡大されていた(通称「セプテンバー・コールアップ」。コールアップ (call up) は「(チームに)選抜される」の意)。このルールにより、9月以降は傘下マイナーチームに待機していた選手が複数名MLBのベンチに加わることとなり、幅広い選手起用が可能になる。この時期にメジャーデビューを果たす若手選手も多く見られる。ただし、ポストシーズンには26人ロースターの選手のみ出場可能であり、また8月31日時点で当該チームの40人ロースターに登録されていなかった選手は原則、ポストシーズンのロースターには登録できない。
MLBでは新古典派球場ブームにより、天候に左右されないドーム球場は減る傾向にあるため、雨による中止が多く見られる。ただ、レギュラーシーズンの試合日程が過密であり、20から30連戦という日程が少なくないため、数時間にも及ぶ試合中断を挟んだ上でも試合を成立させることは珍しくない。これに加え、国内でも時差が3時間あり、気候にも大きな差がある広大なアメリカ本土・カナダを縦横に移動するために、各球団が移動用の専用機を有し、深夜早朝を問わず航空会社のダイヤに左右されず最も都合の良い時間に移動することが可能ではあるものの、肉体的な負担はとても大きい。1シーズンの総移動距離は約73,000キロにも達し、これは地球1.8周分に相当する。たとえ主軸のレギュラー野手であっても疲労回復のため定期的に先発から外すことが多く、162試合全てに出場する選手は毎年リーグに数えるほどしかいない。
前記のような延長時間無制限や過密日程、投手枠の制限もあるため、大差がつき敗戦が決定的となった試合や、延長戦途中で投手を使い果たした場合などに、日本プロ野球ではまず見られない「野手がリリーフ投手として登板」という場面が発生することがあり、例えば2015年にはイチローを含め、延べ27人の野手がリリーフ登板している。
各チームが基本的に162試合全てを消化するルールだが、162試合すべてが必ず行われるとは限らない。ポストシーズン進出可否が完全に決定し、且つ地区順位も確定しているチーム同士による(雨天中止などによって順延されたゲームの)再試合は、仮に選手やチームの何らかのタイトル・記録にかかわる場合であっても基本的に行わないこととなっている。
7月にはオールスターゲームが行われる。当初はオールスター選手の祭典的な位置づけであったが、2003年から2016年までは勝ったリーグにワールドシリーズでの本拠地開催優先権であるホームアドバンテージが与えられることとなったため、引き分け試合がなくなり以前より本気の試合展開になった。
10月に入るとポストシーズンゲームが行われる。
2022年からは、各リーグとも162試合の成績を元に各地区の勝率1位の3チームとワイルドカード3チームを加えた6チームずつによるトーナメント戦を行う。
2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、両者の1試合の「ワイルドカードゲーム」の勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。
2011年までは、ワイルドカードは1チームのみであった。
2022年より導入された「ワイルドカードシリーズ」は、ディビジョンシリーズへの出場権をかけて4チームにより行われる。地区優勝チームは成績順にシード1,2,3となる。そのうちシード3のみがワイルドカードシリーズに参加し、シード1,2は免除される。ワイルドカードとなった3チームは成績順にシード4,5,6と呼ばれる。シード3と6が、シード4と5がそれぞれシード上位の本拠地で最大3試合を行い、先に2勝したチームがディビジョンシリーズに進出する。
2012年から2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、成績上位のチームの本拠地で行われる1試合のワイルドカードゲームのみの勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。
ディビジョンシリーズ(地区シリーズ)は、前述の「ワイルドカードシリーズ」を勝ち抜いたチームのうちシード4あるいは5にあたるチームとリーグ勝率1位のチーム、そしてシード3あるいは6にあたるチームとリーグ勝率2位のチームの組み合わせで試合を行う。最大5試合が行われ、一方が3勝すればシリーズは終了し、そのチームがリーグチャンピオンシップシリーズに進出する。
2021年までは、ワイルドカードチームと勝率1位のチーム、そして勝率2位と3位のチームの組み合わせであった。さらに2011年までは、最高勝率チームとワイルドカードのチームが同地区の場合、ワイルドカードとリーグ勝率2位のチーム、勝率1位チームと勝率3位チームの組み合わせで行っていた(ワイルドカードから見れば、対戦相手は必ず別の地区の地区勝率1位の2チームのうち勝率の高いほうとなる)。
1981年はストライキにより前後期制をとり、前期優勝チームと後期優勝チームによる地区優勝決定シリーズが行われた。
リーグチャンピオンシップシリーズ(リーグ優勝決定シリーズ)は、ディビジョンシリーズを勝ち上がった(1969年 - 1993年は東西それぞれの地区優勝を果たした)各リーグの2チームの対戦となる。試合は7戦4勝制(1969年 - 1984年は5戦3勝制)で行われ、4勝(1969年 - 1984年は3勝)したチームが出た時点でシリーズは終了し、リーグ優勝となりワールドシリーズ出場権を獲得する。
地区制度導入以前は1位に2球団が並んだ場合、アメリカンリーグは1試合制、ナショナルリーグは3試合制のプレーオフを実施していた。
ワールドシリーズはアメリカンリーグ、ナショナルリーグの優勝チームが対戦する。7戦4勝制で行われ、4勝したチームがワールドシリーズチャンピオンとなる。例外として、1903年と1919年から1921年の4回は9戦5勝制で行われた。
現在、ワールドシリーズチャンピオンになった経験があるチームは30チーム中24チームで、残りの6チームは一度もワールドシリーズチャンピオンの栄冠を獲得していない。なかでもシアトル・マリナーズはリーグ優勝もかなっていない。これまでの最多出場チームはニューヨーク・ヤンキースの40回でありヤンキースは1960年以前から存在するナショナルリーグの8球団を全部ワールドシリーズで倒している。ヤンキースの優勝回数27回も30チーム中で最多である。
ドラフトは、戦力の均衡を目的に1965年から導入された。毎年6月または7月に開催され、学生および独立リーグの選手を対象に、ウェーバー方式で1チームあたり数十名の新人選手が指名される。指名選手とはマイナー契約(40人ロースター外での契約)しか締結できないため、ほぼ全ての選手はマイナーリーグで数年間の育成を経たのち、有望選手がMLB昇格を果たしていく。
またシーズンオフの12月(ウィンターミーティング最終日)には、40人ロースター外で且つMLB傘下に一定年数以上在籍している他チームの現役選手を指名し獲得できるルール・ファイブ・ドラフト(ルール 5 ドラフト)が開催される。この制度は選手の飼い殺しを防ぐ目的で行われる。
マイナーリーグベースボール(Minor League Baseball, MiLB)は、独立採算制で運営されている北アメリカのプロ野球リーグのうち、MLBの傘下に入る協定を結んでいるリーグを指す。MiLB所属チームは、最上位のAAA級を筆頭に5階級のクラスに分かれ、各クラス内でリーグを組み、公式戦を実施している。MLB所属チームは、各クラスのMiLB所属チームを直営するか、または各地域の既存の独立資本チームと選手育成契約 (PDL) を結んで選手およびコーチを派遣することで、自らの下部組織としている。
MiLBは、各フランチャイズでの野球振興のほか、MLBチームがドラフト・インターナショナルFA・FAで獲得した選手、故障したMLB所属選手、MiLBチームが独自に獲得した選手たちの育成・調整目的の場となり、これらの選手をMLBに供給する役割も担っている。
1920年にブラックソックス事件が発覚し、野球人気が低迷した。人気を回復するため中長期的な展望、戦略、迅速な意思決定をする必要に迫られた各オーナーたちが話し合い、中立的な意思決定機関として1920年にコミッショナー制度が導入された。そして、連邦地裁判事だったケネソー・マウンテン・ランディスが初代コミッショナーに就任。制度導入以後はしばらくコミッショナーと両リーグ会長の三頭体制をとっていたが、1999年を最後に両リーグ会長職は廃止されている。
MLBは経営においてはカルテルであり、これについてはアメリカの法令において特別な例外規定により独占禁止法の適用を免れている。このためチームの総数の制限、収益の組織的分配、本来なら個人の自由な経済活動を制限するドラフト制度などを合法的に行える。特にドラフト制度と収益の分配は各チームの実力を均一化させ試合内容を充実することで、観客動員数およびテレビの視聴率を上げている。一方で日本のプロ野球は経営自体はたいてい赤字でチームのオーナー企業の宣伝が経済活動の基盤である。このため強いチーム(のオーナー企業)がわざわざ弱いチーム(のオーナー企業)に便宜を図って実力の均衡を図ることにメリットが存在しない。野球チームの経営はオーナー企業の広報活動の二次的なものに過ぎないからである。MLBでのそれぞれのチームはたいてい独立組織で黒字であり、逆に複数の企業がそのチームの威光の宣伝効果を求めてスポンサーになるという構造になっている。またMLBのチーム数は大都市のステータスとしてプロ野球チームの招致を希望するアメリカの都市の数より少なめに設置されている。これによりアメリカのプロ野球チームはさまざまな経済的優遇措置を招致都市から引き出すことができる。そのもっとも重要なものは、チームが使用するスタジアムを地元の自治体の予算で建設し無料で使用できることで、これだけで毎年で数百万ドル(数億円)にあたる補助金となっている。日本のプロ野球チームが二軍を維持するのがやっとなのに、アメリカのプロ野球チームが五軍まで維持できるのは経営そのものにこのような構造的違いがあるからである。
MLBの2006年の観客動員数は前年比1.5%増の7,604万3,902人と3年連続で増加し過去最高を記録している。30チーム中24チームが200万人を超え、8チームが300万人を超えており、年々入場券の平均価格が上がっているにも拘らず観客動員数は増加傾向である。現在までの年間観客動員数最多チームはニューヨーク・ヤンキースで420万518人、最少チームはフロリダ・マーリンズで116万5,120人、全チームの平均は253万4797人となっている。また、2006年のマイナーリーグベースボールの観客動員数は4,171万357人で、MLBと合わせた観客動員数は1億1,775万4,259人となっている。入場券の売り上げだけで巨額なものとなっており、放送権収入、商標権収入、スポンサー収入、グッズ収入なども含めたMLB全体の総収入は1995年に約13億8,499万ドル、1996年に約17億7,517万ドル、1999年に約27億8,687万ドル、2005年に約47億3,300万ドルなどと年々増加し、2006年には約52億ドル(約6,130億円)に達した。これは、NFLの約60億ドルに次ぐ額となっている。
その後も放映権の高騰などMLBの総収入は増加を続け、2014年には90億ドル、2018年には103億ドルを記録するなど増加の一途をたどっている。
また、チームの資産価値も年々上昇しており、アメリカの経済誌フォーブスが2014年4月に発表したMLB各チームの平均資産価値は8億1,000万ドルとなっている。1位はニューヨーク・ヤンキースの25億ドルであり、2014年8月時点ではNFLのダラス・カウボーイズとニューイングランド・ペイトリオッツに次いでアメリカのプロスポーツチームとして3番目の規模である。 MLB30位(最下位)のタンパベイ・デビルレイズは4億8500万ドルの価値と算定されている。また、2014年の統計ではMLBの30チーム中19チームが黒字である。赤字のチームにヤンキースやドジャースもあるが、後述の課徴金制度のためヤンキースなどの収入の多いチームは多額の課徴金を支払っており、これが赤字の原因の一つとなっている。さらに、各チームの収入にヤンキースはYESネットワークによる収入、カブスはWGNによる収入が含まれていないなど実際には各チームの収入はもっと多いとされている。また、チームの収益が選手年俸の伸びより速く増加しているため、全体の営業利益は2004年の1億3,200万ドルから2005年には3億6,000万ドルにまで増加している。選手の平均年俸も年々増加し、2001年に初めて200万ドルを超え、2006年の平均年俸は269万9,292ドルとなっている。また、2008年の全30チームの年俸合計額は28億7,935万7,538ドルで過去最高を更新している。さらに8年後の2016年には年俸合計額が40億ドルを突破し、平均年俸も過去最高の447万ドルを記録するなどこちらも年々増加し続けている。
近年、メジャーリーグベースボールではバリー・ボンズやマーク・マグワイアの本塁打量産、ホセ・カンセコの暴露本 『禁断の肉体改造』出版による薬物使用の告白、かつて活躍した選手の急死などでドーピング疑惑が注目されている。以前から薬物使用に甘いと言われてきたが、近年は毎年抜き打ち検査が実施されている。2005年からは薬物検査に関する規定を導入し、その内容は違反1回目で10日間、2回目で30日間、3回目で60日間、4回目で1年間の出場停止、5回目でコミッショナーが裁定を下すというものであった。しかし、導入当初は罰金を支払えば試合に出ることができるという逃げ道も設けていたことを、合衆国下院の政府改革委員会から追及された。さらに、これでも未だに他のスポーツに比べて制裁が甘いという批判があり、2006年から違反1回目で50試合、2回目で100試合の出場停止処分、3回目で永久追放という更に厳しい新規定を導入した。だが、この永久追放に関しても救済措置が設けられている。
2007年12月13日にMLBの薬物使用実態調査「ミッチェル報告書」が公表され、現役、引退問わず89名の選手の名前が記載されている。バリー・ボンズ、ロジャー・クレメンス、アンディ・ペティット、ミゲル・テハダ、エリック・ガニエなど大物現役選手や、アレックス・カブレラ、ジェフ・ウィリアムスら日本のプロ野球に在籍経験のある選手も含まれている。
1972年以来、労働契約が満了するたびに、選手のストライキが5度、所有者のロックアウトが3度発生している。いずれも収益に関する問題だった。1981年には50日間に及ぶストライキの影響により、前後期のスプリットシーズン制で開催されている。1994年から1995年にかけてのストライキはサラリーキャップ制度の導入に反発したもので期間も232日と過去最長に及び、1994年のワールドシリーズも中止になった。またこの他に2002年にもストライキの計画があったが、寸前で交渉が妥結した。2013年時点では1994年から1995年にかけてのストライキを最後にストライキは一度も行われていない。
2014年(2015年1月)までコミッショナーを務めていたバド・セリグは、かつて収益や観客動員の少ないミルウォーキー・ブルワーズのオーナーを長年務め、チームの経営難に苦慮した経験を持っていたため、コミッショナーに就任して以来戦力均衡策の導入に積極的だった。インターリーグ(交流戦)、プレーオフでのワイルドカード、年俸総額が一定の額を超えたチームに課徴金(Luxury Tax、ぜいたく税)を課す課徴金制度などを導入した。また、サラリーキャップ制や収益の完全分配などを導入することも検討されている。1965年に導入されていた完全ウェーバー制ドラフトなどもあり、2001年以降ワールドシリーズの優勝チームが毎年入れ替わっている。ただし、所属選手の年俸総額を比較すれば各チームの戦力差に大きな開きが明らかであり、制度を充実させても、補強に積極的なチームとそうでないチームがあるとされている。
MLBの収益分配制度は2つある。1つ目はBase Planと呼ばれるもので、各チームの純収入(総収入から球場経費を除いた額)に20 %課税し、各チームから集められた課税金の4分の3が全チームに均等に分配され、4分の1が全チームの平均収入を下回るチームに下回る額に比例して按分分配するという内容(スプリット・プール方式)である。前述した1994年のストライキを受けて1996年に導入され、その後、2002年8月に締結された労使協定で、税率が34 %で課税額の全てを全チームに均等分配する内容(ストレート・プール方式)に改められた。2つ目はCentral Fund Componentと呼ばれるもので、収入の高いチームに課税して、一定の規則のもと収入の低いチームに再分配するという内容(スプリット・プール方式)。
この制度の目的は、収入の低いチームにより多くの分配金を分配することで収支を改善し、戦力均衡を促すことにあった。ところが、チームがポストシーズンに進出できなくなると球団側は有力選手を放出し、チーム全体の年俸総額を下げて多額の分配金を受け取ることを画策するようになり、結果的に戦力の均衡は達成できなかった。
そのため、2002年8月に締結された労使協定において、球団側が選手に支払う年俸総額が一定額を超えた場合、超過分に課徴金を課す「課徴金制度」(Luxury Tax、ぜいたく税)が導入された。4年間に一定額を超えた回数に応じて税率を引き上げていく内容となっており、2003年は40人枠の年俸総額が1億1,700万ドルを超えたチームは超過額の17.5 %を課税された。以降、2004年は1億2,050万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %、2005年は1億2,800万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %・3回目40 %、2006年は1億3,650万ドルで1回目0 %・2回目40 %・3回目40 %・4回目40 %課税されることとなっており、年俸の高騰を抑制し戦力の均衡を図った(ポスティングシステムによる入札金に、課徴金制度は適用されない)。その結果、2001年以降ワールドシリーズの優勝チームが毎年入れ替わるなど、一定の成果を上げている。
また、2006年10月24日に締結された新労使協定では、Base Planにおける税率が34 %から31 %に変更され、またCentral Fund Componentでは、Base Planで再分配される全額の41.066 %分の額が、Base Planで支払う側のチームから受け取る側のチームにBase Planとは別に再分配されるよう変更された。支払う側のチームの負担額は、各チームの収入が全チームの平均収入の超過分に応じて、Base Planの41.066 %分の額が按分徴収され、その徴収額は受け取る側のチームにスプリット・プール方式で再分配される。それと同時に、チームの収入の定義を「過去3年間の平均値(変動制)」から「2005 - 2006年の実績値と2007 - 2008年の売上げ予測の平均値(固定制)」に変更された。
チーム収入の定義が変動制から固定制に変更されたことにより、各チームの収入増減が分配額に影響しないようになった。この結果、全チームの限界税率は31 %で統一され、安易な有力選手の放出が抑制されるため戦力が均衡しやすくなっている。
課徴金制度の年俸総額の一定額や、選手の最低年俸は、労使協定によりある程度のスパンをもって決められる。
なお、日本のメディアにおいて「ぜいたく税制度によって徴収された課徴金は年俸総額の低いチームに配分される」と報道されることがあるが、これは上述のCentral Fund Componentと混同した誤りであり、課徴金は収益分配の対象ではない。 徴収されたぜいたく税は、最初の250万ドルが内部留保され、それを超えた額については、75 %が選手の福利厚生財源として、残りの25 %が“業界成長基金”(IGF:Industry Growth Fund)の財源として用いられることになる。IGFは1996年の労使協定において、アメリカやカナダをはじめとする全世界で野球を普及させる目的で設置されたものである。
MLBのテレビ放映権は、全国放送に限りMLB機構が管轄し、ローカル放送は各チームがFOXスポーツネット(FSN)に代表されるRegional Sports Network(RSN、ローカルスポーツ専門チャンネル)や地元放送局などと直接契約を結んでいる。 ただし、WGNや2007年9月までのTBSのようなスーパーステーション(地上波ローカル局とサイマル放送を行っている全米向けケーブルテレビ向け放送局)と契約しているチーム(WGNはシカゴ・カブスとシカゴ・ホワイトソックス、TBSはアトランタ・ブレーブス)の試合は結果的に全米で視聴可能となるため、放送局はチームに支払う放映権料とは別に機構に対していわゆる「スーパーステーション税」を支払う必要がある。
チームの本拠地が大都市であれば収入が大きくなり、小都市だと収入が少なくなるため、レギュラーシーズン・ポストシーズン全試合の放映権を管轄しているNFLとは違い、チームによって放映権料収入は大きく異なる。1984年、ボストン・レッドソックスがNew England Sports Network(NESN)を設立したのを皮切りに、ニューヨーク・ヤンキース(Yankees Entertainment and Sports Network(YES))、ニューヨーク・メッツ(SportsNet New York(SNY))など、チーム自らがローカルチャンネルを設立する例もある。これは別会社に入るお金までは課税されないためであり、その別会社がチームに支払う放映権料を低く抑えれば、リーグからの課税額も少なくなるだけにそのメリットは大きい。
なお、このように番組がスポーツ専用チャンネルに特化している米国では、その契約からも、テレビ中継は試合の途中で終わることはない。
また、アメリカでは元々商法行為に対する規制が厳しく、機構側の一括管理による独占・寡占契約はなされてこなかった。しかし、1961年の法律制定により解禁され、NFLがCBSと独占契約を結んだ(1960年に発足したAFL(アメリカン・フットボール・リーグ、1970年にNFLと合併)がABCと5年間の長期契約を結び、NFLを脅かす存在になったことが一因)ことを皮切りに、アメリカのプロスポーツ界では機構側が放映権を一括して複数年にわたる大型契約を結ぶようになった。その機構側が契約した放映権料はコミッショナー事務局のプール分を除いた額が30球団で均等に分配される。
従来、全国放送はESPN(レギュラーシーズン。2005年までの6年間8億5,100万ドル)とFOX(ポストシーズンなど。2006年までの6年間25億ドル)の2社が契約していた。
ESPNとは2005年9月、2006年から8年間23億6,800万ドルの新契約にこぎつけたものの、FOXはMLBの視聴率低下によって広告収入が放映権料を下回ったとして値下げを主張、交渉は難航していた。ESPNは主にレギュラーシーズンの平日および日曜夜の試合を中継する。
2006年7月11日、FOXおよびTBSとの間に契約が成立した。放映権料は2007年からの7年間で2社合計で約30億ドル(FOX18億ドル・TBS5億ドルという報道もある。両社の契約内容は右記のとおり。
なお、2006年3月13日に、ヨーロッパのテレビ局「North American Sports Network」(NASN、2007年にESPNの傘下入り)が、2006年から5年間MLBの試合を放映する契約を結んだ。オープン戦からワールドシリーズまでの年間275試合が、イギリス、アイルランド、ドイツ、スイス、オランダなどのヨーロッパ7ヶ国で放送される。
日本向け放映権は電通が2004年から6年間2億7500万ドルで契約。テレビ放送では、日本放送協会(NHK)・TBSテレビ(TBS)・フジテレビジョンで放送している。2008年まではスカパーJSAT(スカパー!、スカパー!e2)、モバHO!でも放送していた。
NHK・TBS・フジテレビは日本人選手が出場する予定の試合やオールスターゲーム・ポストシーズンを中心に生中継など行っている。当初は地上波では上記3局で月ごとのローテーションを決めていたが、その後週単位のローテーションに変更された。大抵系列BSでの中継であり、特にNHK BSでの中継本数が多く、BSデジタル放送受信世帯数を押し上げる要因のひとつにもなっている。注目カードは地上波で中継される場合もある。2006年のワールドシリーズはフジテレビでダイジェストとして放送された。また、メジャーリーグ開幕戦を日本の東京ドームにて開催する場合は日本テレビが中継を担当している(年度によってはフジテレビで中継する場合もある)。
スカパー!ではスカチャン(旧パーフェクト・チョイス)にて500試合から600試合の生中継に加えて再放送を行っていた。スカパー!e2では、スカチャン(旧スカチャン!)にて毎日1・2試合程度生中継を行っていた。2006-2007年はJ sports Plus(現J SPORTS 4)でも中継を行っていた(2007年は月曜夜に1試合録画中継)。
2007年4月、モバイル放送(モバHO!)がモバイル放送権を獲得、同年5月より「チャンネルONE」(映像協力・スカパー!)で原則毎日1試合放送していた。また、同年7月より2008年9月まで「モバイル.n」(映像協力・NHK)で月2試合程度放送していた。
2009年、電通は2015年までの契約延長に合意した。新しい契約では、NHK、TBS、フジテレビに加えて、テレビ朝日、テレビ東京、J SPORTSでも放送されることになった。一方で民放キー局のうち、日本テレビだけは放映権料の高騰を理由として、2009年から放映権を獲得しておらず、試合映像の配信も2022年シーズンまで受けていなかった。前述のMLB公式戦を日本で行う場合は例外として、MLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている。
J SPORTSについては、CS放送の独占放映権に加えて、BS放送(2011年10月よりJ SPORTS 1・2を放送開始、2012年3月よりJ SPORTS 3・4を放送開始)の放映権(非独占)も獲得、同年6月より放送を開始している。
ラジオ放送では、ニッポン放送が1996年頃より独占放送権を持ち、「メジャーリーグ中継」を通常番組を休止して中継したり、通常番組内で日本人選手登板部分のみの中継を行っている。
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"text": "メジャーリーグベースボール(英語: Major League Baseball、英語発音: /méɪdʒɚ líːg béɪsb`ɔːl/; 略称: MLB)は、アメリカ合衆国、及びカナダ所在の合計30球団により編成される、世界で最高峰のプロ野球リーグであり、北米4大プロスポーツリーグの1つである。厳密には、1903年に発足したナショナルリーグとアメリカンリーグの2つのリーグの共同事業機構で、両リーグの統一的運営をしている。日本では「メジャーリーグ」「大リーグ」とも呼ばれる。「大リーグ」の呼称は、メジャーリーグの別名「ビッグリーグ (Big League)」の訳語である。",
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"text": "メジャーリーグベースボール(以下、MLB)は、ナショナルリーグとアメリカンリーグの2リーグ(各々15球団)からなり、アメリカ合衆国に本拠地を置く29球団(アメリカン・リーグ14、ナショナル・リーグ15)とカナダに本拠地を置く1球団(アメリカン・リーグ所在)の全30球団から構成されている。各チームはリーグごとに東地区、中地区、西地区に所属する。アメリカ合衆国外からは過去にモントリオール・エクスポスとトロント・ブルージェイズの、共にカナダの2チームが参加していたが、2005年にエクスポスがワシントンD.C.に本拠を移転(同時にワシントン・ナショナルズに球団名変更)したため、米国外チームは2022年現在ブルージェイズの1チームのみである。",
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"text": "1850年代後半、ニューヨークスタイルの「ベースボール」は南北戦争を期にアメリカ北東部を中心に各地に普及し、野球の最初のアマチュアリーグとなる全米野球選手協会(NABBP)が生まれた。NABBPは12年間続き、最も拡大した1867年には400以上のチームがメンバーとなっていた。1860年代前半には選手の中に報酬をもらって野球をする、いわゆるプロ選手が登場しはじめていたとされる。プロ選手に関する正式な規定は1868年に制定され、翌1869年に結成されたシンシナティ・レッドストッキングスは、プロ選手だけで構成された初めてのプロチームとなり、地方各都市を巡業してその名を馳せた。レッドストッキングスの成功をうけ、あとを追うようにプロチームが各都市に次々に誕生したが、次第にプロ選手とアマチュア選手の間で内部分裂がおき、全米野球選手協会はアマチュア組織とプロ組織に分割することとなった。こうして、1871年には最初のプロ野球リーグ、全米プロ野球選手協会(ナショナル・アソシエーション、NA)が創設されたが、リーグ運営は5年で破綻してしまった。この時、現在に残るチーム、シカゴ・ホワイトストッキングス(のちのシカゴ・カブス)とボストン・レッドストッキングス(後のアトランタ・ブレーブス)が誕生している。",
"title": "歴史"
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"text": "翌1876年、現在まで続くナショナルリーグ (NL) が発足。このリーグが最初のメジャーリーグとされる。1876年4月22日フィラデルフィアにあるジェファーソン・ストリート・グラウンズで最初の試合が行われた。ナショナルリーグは所属選手の契約を強制し高額報酬によるライバルリーグへの流出を防ぎ、これまでは頻繁に起きた優勝を逃したチームの消化試合の中止をなくし全てのスケジュールを予定通り行うなど、ナショナル・アソシエーションの欠点を改善していった。契約に「リーグ間の移籍禁止条項」を設けたことで初期には選手との対立もあったが結果的にこれが功を奏し、ライバルリーグはユニオン・アソシエーション(UA、1884年)、プレイヤーズ・リーグ(PL、1890年)といずれも短命に終わった。最も成功したアメリカン・アソシエーション(AA、1882年 – 1891年)とは1884年から1890年にかけてナショナルリーグとリーグ優勝チーム同士の対戦(現在のワールドシリーズ)が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "解体した2つのリーグにいたチームは1892年にナショナルリーグに統合されたが、12球団あったナショナルリーグは1900年から8球団へ統合・削減し、ボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンD.C.から球団がなくなる。一方でウエスタンリーグというマイナーリーグが1900年にアメリカンリーグ (AL) へと改称し、ルイビルを除くナショナルリーグの球団削減でメジャー球団がなくなった都市へ進出。翌1901年にアメリカンリーグは自らを「メジャーリーグ」と宣言したが、ナショナルリーグがそれに反発、シカゴのレランドホテルで他のマイナーリーグも交えた会議が行われた。この会議でアメリカンリーグはメジャーリーグとして容認され、数多く存在するマイナーリーグを総括する新しいナショナル・アソシエーションが設立された。ナショナル・アソシエーションはマイナーリーグベースボール (MiLB) として今日まで続いている。1902年、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ、ナショナル・アソシエーションはそれぞれの独立経営と、共同経営を併せ持つ新しい協定に調印した。この合意は、のちにブランチ・リッキーにより洗練され、整備されていった今日のマイナーリーグの基礎となる分類システムも確立した。この翌年から両リーグ勝者によるワールドシリーズが行われることになる。",
"title": "歴史"
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"text": "後に短命となったマイナーリーグのいくつかは正式にメジャーリーグとみなされ、その統計と記録は現在の2つのメジャーリーグのものに含まれている。1969年に、アメリカプロ野球100周年を機にMLB機構の指定により『野球記録特別委員会』が設置され、そこで過去消滅したリーグを含め以下の6つのリーグを「メジャーリーグ」として認める、という決定がなされた。",
"title": "歴史"
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"text": "それ以外の野球リーグでプロとして活動した経歴を持つ選手の記録については、現在この裁定に基づき、どこからどこまでをメジャーリーグ記録とするかといった分類が行われている。ただしこの裁定には一部研究者が異論を唱えており、ナショナル・アソシエーション(1871年 - 1875年)、アフリカ系アメリカ人(黒人)中心に運営された「ニグロリーグ」のうち、特に運営基盤が確立されていた1920年 - 1948年の期間、現在のアメリカンリーグの前身でマイナーリーグであった「ウェスタンリーグ」がアメリカンリーグと改称しナショナル・リーグの傘下であった1900年のアメリカンリーグなどもメジャーリーグとして扱うべきなどの意見がある。2020年12月17日、MLB機構は、「ニグロリーグ」に含まれる下記の7つのリーグの記録についてメジャーリーグの地位を与えると発表した。",
"title": "歴史"
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"text": "1900年から1919年までの期間は、一般に「デッドボール時代」と呼ばれる。この時代の試合は得点が低い傾向があり、ウォルター・ジョンソン、サイ・ヤング、クリスティ・マシューソン、モーデカイ・ブラウン、グローバー・アレクサンダーなどの投手たちが試合を支配した。その要因はいくつかあるが、ひとつには、この時代に使われていた「デッドボール(飛ばないボール)」と呼ばれた、とても緩みやすく投げるほどに糸がほつれ飛距離が出なくなるボールに原因があった。それに加え、オーナーは3ドル(現在の価値で40ドル程)の新しいボールを購入することを嫌っていたため、ファウルボールもまれだったその当時、ファンはホームランボールでさえ投げ返さなければいけなかった。ボールは柔らかくなるまで、時には革がめくれ上がるまで試合で使い回された。そのため噛みタバコのヤニや、草、泥などで常に汚れていた。",
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"text": "また、極一部の選手ではあったがボールを噛んで傷をつけたり、故意に汚すなどして投球に変化を加えるスピットボールを操る投手もいた。これは1921年にスピットボールの使用が禁止されるまで続いた。さらに、シカゴ・カブスのウエスト・サイド・パークやボストン・レッドソックスのハンティントン・アベニュー・グラウンズに代表される、センターが現在の球場より200フィート (61 m)ほども広い球場があり、そのためホームランはまれで、単打、犠打、盗塁、ヒットエンドランなどの「スモールボール」が当時の戦略の要となっていた。内野安打をかせぐためにボルチモアチョップなどの戦法が編み出された。ボルチモアチョップは、ボールをあえて前に飛ばそうとせず地面にたたきつけ、打球にグラブが届かないほど高く跳ねている間に一塁を駆け抜けるというものだった。",
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"text": "20世紀初頭、ファウルストライクルールが採用された。これによって試合時間が大幅に短縮されたが、これまでのような大量得点試合が減り、試合で1点をとるのがより困難になった。19世紀のルールでは、ファウルボールはストライクとしてカウントされなかったため、打者は、ストライクがカウントされないまま投手に球数を投げさせることが出来たため、打者にとっては大きな利点であった。1901年からナショナルリーグが先にファウルストライクルールを採用し、1903年からアメリカンリーグでも採用された。しかしこのルールによって大量得点試合が減るということがファンの間では不満となっていた。",
"title": "歴史"
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"text": "追い打ちをかけるように1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、開催こそ継続されたものの選手の出征が相次ぎ、1918年にはレギュラーシーズンが短縮された。1919年、シカゴ・ホワイトソックスとシンシナティ・レッズで行われたワールドシリーズにおいて、メジャー史上最悪の不祥事であるブラックソックス事件が起き、メジャーリーグは社会的信用を失うことになってしまった。ホワイトソックスの選手だった、ジョー・ジャクソン、エディ・シーコット、レフティ・ウィリアムズ、チック・ガンディル、フレッド・マクマリン、スウィード・リスバーグ、ハッピー・フェルシュ、バック・ウィーバーは賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴された。この8名の選手はメジャーリーグから永久追放処分となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "1910年代に下落した野球の人気は1920年におきた悲劇と、一人の選手の登場によって回復していった。1920年8月16日クリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマンがバッターボックスで頭部に投球を受け、数時間後に死亡した。チャップマンは、試合中に死亡した唯一のMLB選手となった。この悲劇は、当時の選手がヘルメットをかぶっていなかったことにも原因があるが、結果的には「デッドボール時代」を終わらせる手助けとなった。それまでは試合後半になると、ボールが軟らかくなり不規則な動きを見せ、汚れ見えづらくなっていたが、ボールが汚れるたびに取り替えるというルールが生まれたからである。ボールを取り換えることにより飛距離が飛躍的に伸びる結果になった。この頃から「ライブボール時代」が始まった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "同年、ボストン・レッドソックスよりニューヨーク・ヤンキースにベーブ・ルースが移籍。これまで投手として活躍していたルースであったが、前年に当時のMLB記録となった29本塁打を記録。ヤンキースでは打者に専念すると、不可能と思われていた自身の本塁打記録を大幅に更新する54本を放ち、翌1921年には59本と3年連続で本塁打記録を塗り替えた。ルースを擁するヤンキースは、1921年に初のリーグ優勝を、1923年にはワールドシリーズ初優勝を果たす。1927年、ルースは本塁打記録を60本に更新、さらにルー・ゲーリッグの台頭などで強力打線となったヤンキースは、1930年代の終わりまでに、11度のワールドシリーズに出場し、8度の優勝を果たすこととなる。この時代には1試合当たりの得点も上昇。この打撃戦をファンは支持し観客動員は増加した。",
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"text": "1929年頃始まった大恐慌の影響を受けて、野球の人気は再び下降を始めた。1932年までに、利益を上げたMLBチームは2チームだけだった。野球のチケット価格には10%の娯楽税が課せられ、観客動員は減少した。オーナーは契約選手を25人から23人に減らし、最優秀選手でさえも賃金を引き下げた。チームは生き残りをかけて、ナイターゲームの実施、ラジオでのライブ中継、女性の無料入場などの改革を行ったが、大恐慌の前には歯が立たなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "追い打ちをかけるかのように1939年、第二次世界大戦が開戦。MLBでもチームに所属している選手500人以上が出兵を余儀なくされ、深刻なプロ野球選手不足を引き起こした。彼らの多くは、出兵している軍人を楽しませるサービス野球チームでプレーした。この時期のMLBチームは、兵役対象外の青少年、年長の選手で構成されていることになった。中には精神的、道徳的に不適格だった者もいた。その一方、肉体的にハンディキャップをおった選手にも機会をあたえることになった。片腕がなかった外野手のピート・グレイのような選手も、メジャーリーグに進出することができた。しかし、黒人がMLBのロースターに含まれることはなかった。黒人選手は、戦争で人手不足であっても、MLBの出場は認められず、依然としてニグロリーグでしかプレーできなかった。はじめて黒人がMLBに登場するのは、1947年のジャッキー・ロビンソンである。",
"title": "歴史"
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"text": "戦時中の灯火管制により、野外照明を暗くしなければならなかったため、ナイターでの試合が困難になった。1942年、国内では開催中止論も広まりつつあったが、1月14日に、初代コミッショナーであるケネソー・マウンテン・ランディスは、フランクリン・ルーズベルト大統領宛てに手紙を送り、新たなメジャーリーグシーズンの開始と戦時中の野球の継続を嘆願した。大統領の返信には「野球を続けるのが最善であると正直に思っている。失業者は少なく、誰もがこれまで以上に長時間厳しい労働を強いられることになるだろう。ということは、今まで以上に全国民がリクリエーションの機会を持つべきだ。」と書かれていた。この手紙は「グリーンライトレター(青信号の手紙)」と呼ばれアメリカ野球殿堂博物館に保管されている。",
"title": "歴史"
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"text": "こうしてルーズベルト大統領の承認を得て、戦時中も試合は継続された。スタン・ミュージアル、テッド・ウィリアムズ、ジョー・ディマジオなどのスターたちのキャリアは中断されたが、チームは引き続きMLBでプレーすることになった。しかし、各球団とも選手の出征が相次いだことによる深刻な選手不足は変わらず、1945年のMLBオールスターゲームは中止となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1880年代にはメジャーリーグにも黒人選手が存在したが、選手、リーグの激しい反発により、短期間で姿を消す事となった。それ以降、黒人選手との契約を禁止する規則は存在しなかったものの、1940年代半ばまで黒人選手はメジャーリーグでプレイできなかった。ただし同じ有色人種でも、肌の黒くないヒスパニック系やネイティヴアメリカンの選手はプレイできた。",
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"paragraph_id": 19,
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"text": "1945年、ブルックリン・ドジャースの社長兼ゼネラルマネジャーであるブランチ・リッキーは、プロの野球リーグに黒人野球選手を本格的に入団させようと動き出した。彼はニグロリーグの有望選手のリストの中からジャッキー・ロビンソンを選んだ。リッキーはロビンソンに、彼自身に向けられる差別に「やり返さない勇気を持つ」事を求め、月額600ドルの契約を結ぶ事に同意した。ロビンソンは、ドジャースのファームクラブであるモントリオール・ロイヤルズに1946年シーズンから参加、1880年代から続くインターナショナルリーグにおいて57年ぶりの黒人野球選手となった。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "翌年、ドジャースはロビンソンをメジャーリーグに呼び寄せた。1947年4月15日、ロビンソンはエベッツ・フィールドで14,000人以上の黒人を含む26,623人の観衆の中メジャーリーグデビューを果たした。黒人野球のファンは、それまでのニグロリーグのチームの観戦を放棄し、ドジャースの試合を見るためにブルックリンに殺到した。ロビンソンの売り出しには、新聞や白人メジャーリーグの選手の大多数が反対であった。監督のレオ・ドローチャーはチームに「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと、ヤンキースのストライプが好きでも構わない。自分はこのチームの監督だ。チームに必要な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいるならトレードで出て行くことになるだろう。」と語った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "対戦相手のフィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告。それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。ロビンソンは何人かの選手から励ましを受け、チームメイトのピー・ウィー・リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景に観客の誹謗中傷は徐々に減っていった。ロビンソンはどんなときも常に紳士的に振る舞い、シーズン終了時にはチームメイトや報道陣から受け入れられるようになった。ロビンソンは、この年から制定された最優秀新人選手賞を受賞した。",
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"text": "3か月も経たないうちに、ラリー・ドビーがクリーブランド・インディアンスと契約し、アメリカンリーグも黒人選手を受け入れると、翌年、他の多くの黒人選手がメジャーリーグに入った。サッチェル・ペイジはインディアンスと契約し、ドジャースはスター捕手だったロイ・キャンパネラとドン・ニューカムを追加した。ドン・ニューカムは後にサイ・ヤング賞を受賞した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1952年、MLBは女性選手との契約締結を禁止した。その禁止条項は1992年に解除されたが、その後も女性選手との契約は現在まで存在しない。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "1901年から1953年までの間、2つのメジャーリーグは8チームのリーグで構成されていた。16チームはアメリカ北東部と中西部の10都市に集中していた。ニューヨークに3チーム、ボストン、シカゴ、フィラデルフィア、セントルイスには各2チーム存在していた。当時はセントルイスが最南端と最西端だった。最も距離の遠いボストンからセントルイスへの距離は、鉄道で約24時間の距離であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1953年、低迷していたボストン・ブレーブスが本拠地をミルウォーキーへ移転し、観客動員が28万人から182万人へ増加。以後、本拠地の移転が起きることに。1954年、セントルイス・ブラウンズはボルチモアに移転。1955年、フィラデルフィア・アスレチックスはカンザスシティへ移転した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "野球専門家の間で、「この頃の初期拡大期に最も影響力があったオーナー」と考えられているブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは、1958年シーズンの前に、彼はブルックリン・ドジャースを西海岸にあるロサンゼルスに移した。オマリーがTIME誌の表紙になるほどの大事件だった。全米一の熱狂度と評されていたニューヨークのファンから「世界三大悪人はヒトラー、スターリン、そしてオマリー」と非難された。さらにオマリーは、ライバルのニューヨーク・ジャイアンツにサンフランシスコへの移転を持ちかけた。ジャイアンツは1950年代に入り成績、観客動員ともに落ち込み、本拠地ポロ・グラウンズの老朽化もあり、球団幹部はニューヨークからの脱出を考えていた時だった。ドジャースが単独で西に移動した場合、最も近いチームでもセントルイス・カーディナルズの1,600マイル(2,575 km)もあった。1球団より2球団で移転した方が、西海岸の遠征が訪問チームにとって経済的だろうとの目的だった。オマリーはジョージ・クリストファー・サンフランシスコ市長をニューヨークに招き、ジャイアンツのオーナーであるホーナス・ストーンハムと面会させた。ストーンハムはミネソタ州に移転することを検討していたが、1957年末に西海岸に移転することを決めた。この会合は、コミッショナーのフォード・フリックの要望を無視して行われた。結果的に2チームの動きは、フランチャイズとMLBの両方にとって大成功だった。ドジャースは1試合で78,672人の観客を動員し、MLBにおける1試合での最多動員記録を叩きだした。一方、3チームのうち2チームを失ったニューヨークでは球団を取り戻す機運が高まり、リーグ拡大の契機となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1961年、ワシントン・セネターズがミネアポリスに移りミネソタ・ツインズとなった。同年、ロサンゼルス・エンゼルスと移転したセネターズの代わりに新しく作られたワシントン・セネターズの2チームがアメリカンリーグに加盟。続けて翌1962年、ナショナルリーグにはヒューストン・コルト45’sとニューヨーク・メッツが加盟。コルト45’s(4年目からアストロズに改称)は、1899年にルイビル・カーネルズがなくなって以来初めての南部を本拠地とするチームとなった。メッツは、大都市ニューヨークに復活したチームとして多大な期待を受けたが、最初のシーズンで40勝120敗と大敗し、無駄なチームを作ってしまったとファンを落胆させた。その後も最下位が定位置と成りつつあったが、創立8年目の1969年、突如100勝62敗の好成績でリーグ初優勝。そのままワールドシリーズも制してしまった。結果的にメッツは1960年前半に加入した4チームでワールドシリーズタイトルを獲得した最初のチームになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "1966年、MLBはミルウォーキー・ブレーブスがアトランタに移り「ディープ・サウス」に進出。1968年、カンザスシティ・アスレチックスはさらに西のオークランドに移転した。1969年、両リーグはそれぞれ2チームの拡張フランチャイズを迎え入れた。アメリカンリーグは、シアトル・パイロッツ(シアトルで悲惨な1シーズンをおくった後にミルウォーキーに移転)とカンザスシティ・ロイヤルズを加えた。ナショナルリーグは、サンディエゴ・パドレスと、初のアメリカ国外のカナダフランチャイズとなった、モントリオール・エクスポズを加えた。これによって、両リーグ12チームと巨大化したため、この年から東西2地区制に移行した。2地区に分かれたことで優勝チームが2チームとなったためワールドシリーズの前哨戦としてリーグチャンピオンシップシリーズが始まった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1972年、ワシントン・セネターズはアーリントンに移り、テキサス・レンジャーズになった。1977年、アメリカンリーグが再び拡大、シアトル・マリナーズとカナダ第2のチーム、トロント・ブルージェイズが加わった。その後、しばらく新しいチームは追加されず、1990年代までチームの移転もなかった。1993年、ナショナルリーグはマイアミのフロリダ・マーリンズ、デンバーのコロラド・ロッキーズを加えた。翌1994年、東中西3地区制に移行した。1998年、ナショナルリーグは西地区にフェニックスのアリゾナ・ダイヤモンドバックス、アメリカンリーグは東地区にフロリダ・タンパのタンパベイ・デビルレイズが加わった。タイガースがアメリカンリーグ東部地区から中部地区に、リーグのバランスをとるため、ブルワーズがアメリカンリーグ中地区からナショナルリーグ中地区に移動。リーグ間の移動が初めて行われた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "2001年のシーズン後、オーナー会議が開かれリーグの縮小、いくつかのチームの廃止が検討され、多くのオーナーによって縮小に賛成票が投じられた。その中でモントリオール・エクスポズとミネソタ・ツインズが廃止に最も近い2チームであった。しかし、ツインズが2002年シーズンのプレーを要求した裁判所命令を受け、MLBの縮小計画は中止された。MLBのオーナーは、少なくとも2006年までリーグの縮小をしないことに同意した。エクスポズは、深刻な財政難で球団経営が行き詰まり、30年以上なかった本拠地の移転が行われ、2005年にワシントン・ナショナルズとなった。結果、セネタースがテキサスに移転して以来33年間不在だったチームをアメリカの首都に戻すことになった。一方モントリオールはフェデラルリーグを除き、1901年以来MLBの本拠地があった都市で現在チームを運営していない唯一の都市となっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2013年、インターリーグの開催時期が見直され、試合のスケジュールの関係でチーム数のバランスが悪かった地区の整理が行われた。ヒューストン・アストロズがナショナルリーグ中地区からアメリカンリーグ西地区に移動。前述のブルワーズ以来2例目となるリーグ間の移動となった。これで全地区5チームずつの均等配置となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2018年7月17日、MLB機構のロブ・マンフレッドがテレビ番組内にて、32球団に拡張する意向を示した。 候補地としてラスベガスやポートランド、シャーロットやナッシュビル、モントリオールとバンクーバーの6都市を挙げた。その上、メキシコについても「長い目で見ればあり得る」と語った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1960年代後半、一旦は打者有利の時代になった野球は再び投手有利の時代になっていた。この時期の1試合あたりの得点は過去最低だった1900年後半の水準まで落ち込んだ。ボストン・レッドソックスのカール・ヤストレムスキーは、1968年にメジャーリーグの歴史の中で最も低い.301の打率でアメリカンリーグの首位打者となった。デトロイト・タイガースのデニー・マクレインは31勝を記録し、1934年のディジー・ディーン以来、1シーズン30勝した唯一の投手となった。セントルイス・カージナルスの投手ボブ・ギブソンは、わずか防御率1.12を達成することで同様の偉業を達成した。リーグ全体でも投手全体の平均防御率が1919年以来の2点代となり、アメリカンリーグの平均打率にいたっては.230とMLB至上最低を記録した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1968年12月、MLBのプレールール委員会は投打の均衡を保つため1969年のシーズンから、従来の肩から膝までのストライクゾーンを肩から脇の下まで引き下げ、投手のマウンドの高さを15インチ(38.1センチメートル)から10インチ(25.4センチメートル)に下げることを決めた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1973年、ナショナルリーグよりもはるかに低い出場率で苦しんでいたアメリカンリーグは、打者の負担を減らし得点倍増を目指し、指名打者(DH)制を導入した。2022年のシーズンからはナショナルリーグでも指名打者制が採用される予定である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1960年代から1970年代にかけて、老朽化した野球場の立て替えとリーグ拡大によりできた新球団の新球場の建設ラッシュが起こった。この頃の流行は多目的球場とドーム球場だった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "野球人気が拡大する中NFLも急速に発展しており、野球とアメリカンフットボール両方のプロチームを持つ都市の多くは、野球のみを目的とした施設ではなく、両方ができる施設を建設したほうが経済的だったことから、1953年に開場したミルウォーキー・カウンティ・スタジアムを皮切りに多目的球場が多く建設された。多目的球場は野球とフットボールの両方を収容する必要があり楕円形のデザインをしていたため、古いスタジアムよりも相対的にいびつな野球場の形になってしまった。いびつで広いグラウンドは普通の広さの外野であれば本塁打になるはずの打球がただの外野フライになったり、ファールがフライアウトになったりという現象がたびたび起こった。このような特徴はプロ野球の本質を変え、本塁打や打撃力よりも防御率の高さが目立つ結果となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1965年、世界初の全天候型屋根付き球場アストロドームが開場。球場に屋根を付ける発想は、アストロズの本拠地ヒューストンが夏は高温多湿で雨が多く蚊の大量発生にも悩まされる、そんな気候に左右されない快適な環境をとの発想からだった。開場当初は屋外球場と同じ環境でプレーできるように透明のアクリル屋根であったが、光が選手の目に入りプレーに支障をきたすことから、すぐに太陽光を通さないパネルに替えられた。この際、球場内の芝が光を遮られたことで枯れてしまう問題が起きた。それを解消するため世界初の繊維による人工芝「アストロターフ」が開発された。アストロターフは維持コストが安く天然芝からの転換も容易なことから多くの野球場で採用された。人工芝は打球が早くなる特徴があり、今までより盗塁とスピードが重要視されるようになった。人工芝の表面はボールがより速く移動し、より高く跳ねたので、三遊間や一二塁間の「穴」を通しやすくなり盗塁もしやすくなった。チームは投手を中心にした構成に転換していった。投手の球速を保つため中継ぎがより重要視されるようになった。そのため先発投手は試合を完投する必要はなくなった。先発投手は6から7イニングを投げて中継ぎにつなぐだけで十分だった。この頃は盗塁の増加に反比例して本塁打数は減少した。本塁打はウィリー・メイズが1965年に52本を打った後、50本を超えたのは1990年までジョージ・フォスターが1977年に到達したのみだった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1980年代、多くの球場で採用された人工芝であったが、下地がコンクリートやアスファルトで固く選手の足腰に負担がかかるという声があがるようになる。1989年、世界初の開閉式屋根付き球場のスカイドームが開場すると、屋根付きでありながら天然芝の生育が可能となる。1992年、天然芝のオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズが開場すると、レトロ回帰の新古典式野球専用球場が主流となっていき、徐々に人工芝の球場は減少していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1994年、サラリーキャップ制度導入を巡って経営者側と選手会側が対立し、シーズン最中の8月から翌1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが発生。ストライキは232日間にわたり、1994年のワールドシリーズも中止された。選手会との協議の結果サラリーキャップ制度の導入は見送られたが、選手の報酬総額が相対的に高い球団に対する課徴金制度(ぜいたく税)が導入された。このストライキで一時大規模なファン離れが生じる結果となってしまった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1995年、ドジャースに野茂英雄が入団。マイナー契約(40人枠外での契約)であったが5月にMLBへ昇格し、デビューすると13勝と活躍し新人王を獲得した。この日本人の活躍は国外の市場を開拓する契機となり、のちに多くの海外出身選手がメジャーデビューした。1997年、MLB以外のプロスポーツリーグでは積極的に行われてきたインターリーグを導入。これまでサブウェイ・シリーズのニューヨーク・ヤンキース対ニューヨーク・メッツに代表される同都市にあるチーム同士の対戦はワールドシリーズでしかかなわなかったため、好カードがレギュラーシーズンで見られるとあってファンには好評価であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサによるシーズン最多本塁打記録争いなどで盛り上がり、観客数もスト前の水準に回復した。1990年代後半から2000年代前半に本塁打量産ブームが起き、2001年にはバリー・ボンズが73本塁打を放ち、現在のシーズン本塁打記録を樹立した。しかし2007年12月13日に発表されたミッチェル報告書と呼ばれる報告書では89人の実名が挙げられ、その中にはバリー・ボンズ、アレックス・ロドリゲス、マニー・ラミレス、マーク・マグワイア、ラファエル・パルメイロ、ジェイソン・ジアンビ、ホセ・カンセコら多くのMLBを代表する強打者がアナボリックステロイドを使用していたことが後に判明した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "強打者が増えてくる中、投手は打者のパワーに対抗するため、様々な球種を開発する必要があった。ジャイロボールのような新しい球種は、力のバランスを守備側に戻すことができた。1950年代から1960年代のスライダーや1970年代から1990年代のスプリットフィンガーファストボールなどの球種で野球の試合が変わった。1990年代にはチェンジアップが復活し、トレバー・ホフマン、グレッグ・マダックス、ジェイミー・モイヤー、トム・グラビン、ヨハン・サンタナ、ペドロ・マルティネス、ティム・リンスカムなどの投手によって巧みに投げられた。近年、リンスカム、ジョナサン・サンチェス、ウバルド・ヒメネスなどの投手はスプリットの握りでチェンジアップを投げる、「スプリット・チェンジ」を投げるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2008年にビデオ判定が導入され、2014年からはその範囲が拡大されチャレンジ方式が採用された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ギャラップ調査によれば「一番見るのが好きなスポーツ」は1960年代半ばにアメフトが野球に代わってトップに立った。以後その差は開くばかりで、2017年の調査ではアメフトが37%、野球は9%と4倍以上の差になっており、MLB人気がマイナー化したことがうかがえる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "WS:ワールドシリーズ優勝回数、LS:リーグ優勝回数、DS:地区優勝回数、WC:ワイルドカード回数",
"title": "所属チーム(アメリカンリーグ・ナショナルリーグ)"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "現在、MLBに所属する30チームはアメリカ合衆国の17の州とコロンビア特別区、カナダの1州に本拠地を置いている。ナショナルリーグ、アメリカンリーグともに15チームが所属。さらに各リーグに所属するチームは地図上で東中西の3つの地区に分割される。",
"title": "所属チーム(アメリカンリーグ・ナショナルリーグ)"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "各地区はすべて5チームずつで構成される。30チームに増加した当初より、各地区5チームごとの同数に分ける案も出されていたが、2012年まではインターリーグが現在のNPBにおけるセ・パ交流戦と同様に、特定の期間(MLBでは5月から7月の間)のみの集中開催だったため、各リーグ15チームの奇数になった場合試合を組めないチームが必ず1チームでき、年間の試合スケジュールを組むのが困難だったため、当初はアメリカンリーグ(中地区)の1チーム(ミルウォーキー・ブルワーズ)をナショナルリーグ(中地区)に配置しアメリカンリーグを14(東5・中5・西4)チーム、ナショナルリーグを16(東5・中6・西5)チームとしていた。その後、2013年からインターリーグを年間通じて行う方式に改正し、アメリカン・ナショナル両リーグ内の試合を組めない1チーム同士で常に試合が行われることによりこの問題は解消され、同年にナショナルリーグ(中地区)の1チーム(ヒューストン・アストロズ)がアメリカンリーグ(西地区)に配置され、各地区が5チームずつに分けられた。",
"title": "所属チーム(アメリカンリーグ・ナショナルリーグ)"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "シーズンが始まる前の2月中旬から3月下旬にかけて日本の春季キャンプにあたるスプリングトレーニングが行われる。このキャンプが行われる時期はまだ気温が低く雪が降るなどの地域があるため、暖かい地域のアリゾナ州とフロリダ州にあるマイナーリーグの本拠地がキャンプ地に選ばれている。アリゾナ州をキャンプ地にするチームでカクタスリーグ(Cactus League サボテンのこと)、フロリダ州をキャンプ地にするチームでグレープフルーツリーグ(Grapefruit League)が形成され、公式戦と同じような形式でオープン戦が行われるが、この間の記録は公式記録とはならない。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "スプリングトレーニング開始時点で各チームの26人ロースター(MLB登録枠)は確定しておらず、40人ロースター(MLB登録拡大枠)の選手と、ロースター外の招待選手と呼ばれるベテランのFA選手や傘下マイナー球団所属の有望選手の中から、レギュラーシーズン開始までに開幕のロースター枠をめぐってふるい分けが行われる。レギュラーシーズンよりもベンチ入り選手数が多いため、チームを2分割し同じ日に違うチームと対戦するスプリットスクワッドなどの方式が採られる場合もある。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "4月上旬から9月下旬にかけ、1チームあたり162試合のレギュラーシーズンが行われる。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "162試合の内訳は、2023年から導入されるフォーマットでは以下のとおり。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "これにより、1シーズンに全チームと少なくとも3試合は対戦することとなる。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1960年までの試合数は、リーグ各チーム総当たり(22回戦×7チーム)の154試合であった。アメリカンリーグは1961年から、ナショナルリーグは翌1962年から現在の162試合(18回戦×9チーム)になり、1969年に始まった2地区制時代は12球団時は同地区5チーム×18試合=90試合、他地区6チーム×12試合=72試合の計162試合であったが、アメリカンリーグは1977年から、ナショナルリーグも1993年には14球団に増えたことから、同地区6チーム×13試合=78試合、他地区7チーム×12試合=84試合の合計162試合になった。その後、1994年に3地区制となった上、地区によって所属チーム数が違っていたためばらつきがあるが、同地区と60試合程度、同リーグの他2地区と各45試合程度、その他インターリーグが数試合の合計162試合になった。両リーグ15チームずつとなった2013年以降は同地区4チーム×19試合=76試合、他地区10チーム×6または7試合=66試合、インターリーグ20試合の合計162試合である。2022年までのフォーマットでは、同地区4チームと計76試合(各19試合)、同リーグの他2地区10チームと計66試合(6チームと各7試合、4チームと各6試合)、インターリーグ20試合の対戦となっていた。インターリーグの内訳は「地理的なライバル」と4試合、ある地区1チームと4試合、その地区の残り4チームと3試合となる。ただし、同地区対決となる場合は1チームと6試合、2チームと4試合、2チームと3試合となり、この場合「地理的なライバル」は考慮されていなかった。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2012年以前のインターリーグは、例年5月中旬から6月中旬の間に数試合行い、その後一旦同リーグ内のカードに戻った後、6月上旬から7月中旬の間で再び数試合行うという日程となっており、合計18試合程度行われていた。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "自チームの本拠地球場と相手チームの本拠地球場でほぼ均等に試合が組まれるが、インターリーグの対戦によっては、どちらか一方の本拠地球場で全3試合を開催するケースが多い。ただし、各チーム1シーズンのホームゲームとアウェイゲームの数が均等になるように、開催球場のバランス調整が行われている。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "両リーグとも予告先発制度を採用している。先発投手は試合ごとではなく対戦カードごとにまとめて予告される。なお、全試合指名打者制(DH)が採用される(ナショナルリーグでは2021年以前は2020年を除き採用されていなかった)。試合は引き分けなしの時間無制限で行う。降雨などで「タイゲーム」となった場合はサスペンデッドが宣告され、この場合は次の日以降に中断した時点から再開し決着が付くまで試合が行われる。その場合の試合は、移動日や1日にその日予定されていた試合と順延になった試合の2試合行うダブルヘッダーなどで消化される。大乱闘などで試合続行不可能になったり、そもそも相手チームが到着せず、試合ができない場合などは、フォーフィッテッドゲーム(forfeited game、没収試合)となることがある。ただし2020年以降は特別ルールとして延長10回から走者を二塁に置いた状況で攻撃を開始するタイブレーク制を採用する。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "怪我や疾病のために試合出場が困難と診断された選手は負傷者リスト(IL)に登録されてアクティブ・ロースターから外れ、所定日数が経過するまでは復帰できない。他にも、忌引や育休などの目的でロースターを一時離脱できる制度がある。その間は傘下マイナーリーグなどから代替選手を補充することができる。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "レギュラーシーズン中、40人ロースター内の選手のトレードは7月31日まで可能となっている。そのため、特にトレード期限日直前には主力選手が絡む駆け込みトレードが多く成立する。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "9月1日になると、アクティブ・ロースター(ベンチ入りし、試合出場も可能な人数)の枠が26人から28人へ拡大される。なお2019年までは最大40人に拡大されていた(通称「セプテンバー・コールアップ」。コールアップ (call up) は「(チームに)選抜される」の意)。このルールにより、9月以降は傘下マイナーチームに待機していた選手が複数名MLBのベンチに加わることとなり、幅広い選手起用が可能になる。この時期にメジャーデビューを果たす若手選手も多く見られる。ただし、ポストシーズンには26人ロースターの選手のみ出場可能であり、また8月31日時点で当該チームの40人ロースターに登録されていなかった選手は原則、ポストシーズンのロースターには登録できない。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "MLBでは新古典派球場ブームにより、天候に左右されないドーム球場は減る傾向にあるため、雨による中止が多く見られる。ただ、レギュラーシーズンの試合日程が過密であり、20から30連戦という日程が少なくないため、数時間にも及ぶ試合中断を挟んだ上でも試合を成立させることは珍しくない。これに加え、国内でも時差が3時間あり、気候にも大きな差がある広大なアメリカ本土・カナダを縦横に移動するために、各球団が移動用の専用機を有し、深夜早朝を問わず航空会社のダイヤに左右されず最も都合の良い時間に移動することが可能ではあるものの、肉体的な負担はとても大きい。1シーズンの総移動距離は約73,000キロにも達し、これは地球1.8周分に相当する。たとえ主軸のレギュラー野手であっても疲労回復のため定期的に先発から外すことが多く、162試合全てに出場する選手は毎年リーグに数えるほどしかいない。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "前記のような延長時間無制限や過密日程、投手枠の制限もあるため、大差がつき敗戦が決定的となった試合や、延長戦途中で投手を使い果たした場合などに、日本プロ野球ではまず見られない「野手がリリーフ投手として登板」という場面が発生することがあり、例えば2015年にはイチローを含め、延べ27人の野手がリリーフ登板している。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "各チームが基本的に162試合全てを消化するルールだが、162試合すべてが必ず行われるとは限らない。ポストシーズン進出可否が完全に決定し、且つ地区順位も確定しているチーム同士による(雨天中止などによって順延されたゲームの)再試合は、仮に選手やチームの何らかのタイトル・記録にかかわる場合であっても基本的に行わないこととなっている。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "7月にはオールスターゲームが行われる。当初はオールスター選手の祭典的な位置づけであったが、2003年から2016年までは勝ったリーグにワールドシリーズでの本拠地開催優先権であるホームアドバンテージが与えられることとなったため、引き分け試合がなくなり以前より本気の試合展開になった。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "10月に入るとポストシーズンゲームが行われる。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2022年からは、各リーグとも162試合の成績を元に各地区の勝率1位の3チームとワイルドカード3チームを加えた6チームずつによるトーナメント戦を行う。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、両者の1試合の「ワイルドカードゲーム」の勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2011年までは、ワイルドカードは1チームのみであった。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2022年より導入された「ワイルドカードシリーズ」は、ディビジョンシリーズへの出場権をかけて4チームにより行われる。地区優勝チームは成績順にシード1,2,3となる。そのうちシード3のみがワイルドカードシリーズに参加し、シード1,2は免除される。ワイルドカードとなった3チームは成績順にシード4,5,6と呼ばれる。シード3と6が、シード4と5がそれぞれシード上位の本拠地で最大3試合を行い、先に2勝したチームがディビジョンシリーズに進出する。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2012年から2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、成績上位のチームの本拠地で行われる1試合のワイルドカードゲームのみの勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ディビジョンシリーズ(地区シリーズ)は、前述の「ワイルドカードシリーズ」を勝ち抜いたチームのうちシード4あるいは5にあたるチームとリーグ勝率1位のチーム、そしてシード3あるいは6にあたるチームとリーグ勝率2位のチームの組み合わせで試合を行う。最大5試合が行われ、一方が3勝すればシリーズは終了し、そのチームがリーグチャンピオンシップシリーズに進出する。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2021年までは、ワイルドカードチームと勝率1位のチーム、そして勝率2位と3位のチームの組み合わせであった。さらに2011年までは、最高勝率チームとワイルドカードのチームが同地区の場合、ワイルドカードとリーグ勝率2位のチーム、勝率1位チームと勝率3位チームの組み合わせで行っていた(ワイルドカードから見れば、対戦相手は必ず別の地区の地区勝率1位の2チームのうち勝率の高いほうとなる)。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1981年はストライキにより前後期制をとり、前期優勝チームと後期優勝チームによる地区優勝決定シリーズが行われた。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "リーグチャンピオンシップシリーズ(リーグ優勝決定シリーズ)は、ディビジョンシリーズを勝ち上がった(1969年 - 1993年は東西それぞれの地区優勝を果たした)各リーグの2チームの対戦となる。試合は7戦4勝制(1969年 - 1984年は5戦3勝制)で行われ、4勝(1969年 - 1984年は3勝)したチームが出た時点でシリーズは終了し、リーグ優勝となりワールドシリーズ出場権を獲得する。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "地区制度導入以前は1位に2球団が並んだ場合、アメリカンリーグは1試合制、ナショナルリーグは3試合制のプレーオフを実施していた。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ワールドシリーズはアメリカンリーグ、ナショナルリーグの優勝チームが対戦する。7戦4勝制で行われ、4勝したチームがワールドシリーズチャンピオンとなる。例外として、1903年と1919年から1921年の4回は9戦5勝制で行われた。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "現在、ワールドシリーズチャンピオンになった経験があるチームは30チーム中24チームで、残りの6チームは一度もワールドシリーズチャンピオンの栄冠を獲得していない。なかでもシアトル・マリナーズはリーグ優勝もかなっていない。これまでの最多出場チームはニューヨーク・ヤンキースの40回でありヤンキースは1960年以前から存在するナショナルリーグの8球団を全部ワールドシリーズで倒している。ヤンキースの優勝回数27回も30チーム中で最多である。",
"title": "年間スケジュールと試合システム"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ドラフトは、戦力の均衡を目的に1965年から導入された。毎年6月または7月に開催され、学生および独立リーグの選手を対象に、ウェーバー方式で1チームあたり数十名の新人選手が指名される。指名選手とはマイナー契約(40人ロースター外での契約)しか締結できないため、ほぼ全ての選手はマイナーリーグで数年間の育成を経たのち、有望選手がMLB昇格を果たしていく。",
"title": "ドラフトとマイナーリーグ"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "またシーズンオフの12月(ウィンターミーティング最終日)には、40人ロースター外で且つMLB傘下に一定年数以上在籍している他チームの現役選手を指名し獲得できるルール・ファイブ・ドラフト(ルール 5 ドラフト)が開催される。この制度は選手の飼い殺しを防ぐ目的で行われる。",
"title": "ドラフトとマイナーリーグ"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "マイナーリーグベースボール(Minor League Baseball, MiLB)は、独立採算制で運営されている北アメリカのプロ野球リーグのうち、MLBの傘下に入る協定を結んでいるリーグを指す。MiLB所属チームは、最上位のAAA級を筆頭に5階級のクラスに分かれ、各クラス内でリーグを組み、公式戦を実施している。MLB所属チームは、各クラスのMiLB所属チームを直営するか、または各地域の既存の独立資本チームと選手育成契約 (PDL) を結んで選手およびコーチを派遣することで、自らの下部組織としている。",
"title": "ドラフトとマイナーリーグ"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "MiLBは、各フランチャイズでの野球振興のほか、MLBチームがドラフト・インターナショナルFA・FAで獲得した選手、故障したMLB所属選手、MiLBチームが独自に獲得した選手たちの育成・調整目的の場となり、これらの選手をMLBに供給する役割も担っている。",
"title": "ドラフトとマイナーリーグ"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1920年にブラックソックス事件が発覚し、野球人気が低迷した。人気を回復するため中長期的な展望、戦略、迅速な意思決定をする必要に迫られた各オーナーたちが話し合い、中立的な意思決定機関として1920年にコミッショナー制度が導入された。そして、連邦地裁判事だったケネソー・マウンテン・ランディスが初代コミッショナーに就任。制度導入以後はしばらくコミッショナーと両リーグ会長の三頭体制をとっていたが、1999年を最後に両リーグ会長職は廃止されている。",
"title": "コミッショナー制度"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "MLBは経営においてはカルテルであり、これについてはアメリカの法令において特別な例外規定により独占禁止法の適用を免れている。このためチームの総数の制限、収益の組織的分配、本来なら個人の自由な経済活動を制限するドラフト制度などを合法的に行える。特にドラフト制度と収益の分配は各チームの実力を均一化させ試合内容を充実することで、観客動員数およびテレビの視聴率を上げている。一方で日本のプロ野球は経営自体はたいてい赤字でチームのオーナー企業の宣伝が経済活動の基盤である。このため強いチーム(のオーナー企業)がわざわざ弱いチーム(のオーナー企業)に便宜を図って実力の均衡を図ることにメリットが存在しない。野球チームの経営はオーナー企業の広報活動の二次的なものに過ぎないからである。MLBでのそれぞれのチームはたいてい独立組織で黒字であり、逆に複数の企業がそのチームの威光の宣伝効果を求めてスポンサーになるという構造になっている。またMLBのチーム数は大都市のステータスとしてプロ野球チームの招致を希望するアメリカの都市の数より少なめに設置されている。これによりアメリカのプロ野球チームはさまざまな経済的優遇措置を招致都市から引き出すことができる。そのもっとも重要なものは、チームが使用するスタジアムを地元の自治体の予算で建設し無料で使用できることで、これだけで毎年で数百万ドル(数億円)にあたる補助金となっている。日本のプロ野球チームが二軍を維持するのがやっとなのに、アメリカのプロ野球チームが五軍まで維持できるのは経営そのものにこのような構造的違いがあるからである。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "MLBの2006年の観客動員数は前年比1.5%増の7,604万3,902人と3年連続で増加し過去最高を記録している。30チーム中24チームが200万人を超え、8チームが300万人を超えており、年々入場券の平均価格が上がっているにも拘らず観客動員数は増加傾向である。現在までの年間観客動員数最多チームはニューヨーク・ヤンキースで420万518人、最少チームはフロリダ・マーリンズで116万5,120人、全チームの平均は253万4797人となっている。また、2006年のマイナーリーグベースボールの観客動員数は4,171万357人で、MLBと合わせた観客動員数は1億1,775万4,259人となっている。入場券の売り上げだけで巨額なものとなっており、放送権収入、商標権収入、スポンサー収入、グッズ収入なども含めたMLB全体の総収入は1995年に約13億8,499万ドル、1996年に約17億7,517万ドル、1999年に約27億8,687万ドル、2005年に約47億3,300万ドルなどと年々増加し、2006年には約52億ドル(約6,130億円)に達した。これは、NFLの約60億ドルに次ぐ額となっている。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "その後も放映権の高騰などMLBの総収入は増加を続け、2014年には90億ドル、2018年には103億ドルを記録するなど増加の一途をたどっている。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また、チームの資産価値も年々上昇しており、アメリカの経済誌フォーブスが2014年4月に発表したMLB各チームの平均資産価値は8億1,000万ドルとなっている。1位はニューヨーク・ヤンキースの25億ドルであり、2014年8月時点ではNFLのダラス・カウボーイズとニューイングランド・ペイトリオッツに次いでアメリカのプロスポーツチームとして3番目の規模である。 MLB30位(最下位)のタンパベイ・デビルレイズは4億8500万ドルの価値と算定されている。また、2014年の統計ではMLBの30チーム中19チームが黒字である。赤字のチームにヤンキースやドジャースもあるが、後述の課徴金制度のためヤンキースなどの収入の多いチームは多額の課徴金を支払っており、これが赤字の原因の一つとなっている。さらに、各チームの収入にヤンキースはYESネットワークによる収入、カブスはWGNによる収入が含まれていないなど実際には各チームの収入はもっと多いとされている。また、チームの収益が選手年俸の伸びより速く増加しているため、全体の営業利益は2004年の1億3,200万ドルから2005年には3億6,000万ドルにまで増加している。選手の平均年俸も年々増加し、2001年に初めて200万ドルを超え、2006年の平均年俸は269万9,292ドルとなっている。また、2008年の全30チームの年俸合計額は28億7,935万7,538ドルで過去最高を更新している。さらに8年後の2016年には年俸合計額が40億ドルを突破し、平均年俸も過去最高の447万ドルを記録するなどこちらも年々増加し続けている。",
"title": "経営"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "近年、メジャーリーグベースボールではバリー・ボンズやマーク・マグワイアの本塁打量産、ホセ・カンセコの暴露本 『禁断の肉体改造』出版による薬物使用の告白、かつて活躍した選手の急死などでドーピング疑惑が注目されている。以前から薬物使用に甘いと言われてきたが、近年は毎年抜き打ち検査が実施されている。2005年からは薬物検査に関する規定を導入し、その内容は違反1回目で10日間、2回目で30日間、3回目で60日間、4回目で1年間の出場停止、5回目でコミッショナーが裁定を下すというものであった。しかし、導入当初は罰金を支払えば試合に出ることができるという逃げ道も設けていたことを、合衆国下院の政府改革委員会から追及された。さらに、これでも未だに他のスポーツに比べて制裁が甘いという批判があり、2006年から違反1回目で50試合、2回目で100試合の出場停止処分、3回目で永久追放という更に厳しい新規定を導入した。だが、この永久追放に関しても救済措置が設けられている。",
"title": "MLBにおこる問題とその対処"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2007年12月13日にMLBの薬物使用実態調査「ミッチェル報告書」が公表され、現役、引退問わず89名の選手の名前が記載されている。バリー・ボンズ、ロジャー・クレメンス、アンディ・ペティット、ミゲル・テハダ、エリック・ガニエなど大物現役選手や、アレックス・カブレラ、ジェフ・ウィリアムスら日本のプロ野球に在籍経験のある選手も含まれている。",
"title": "MLBにおこる問題とその対処"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1972年以来、労働契約が満了するたびに、選手のストライキが5度、所有者のロックアウトが3度発生している。いずれも収益に関する問題だった。1981年には50日間に及ぶストライキの影響により、前後期のスプリットシーズン制で開催されている。1994年から1995年にかけてのストライキはサラリーキャップ制度の導入に反発したもので期間も232日と過去最長に及び、1994年のワールドシリーズも中止になった。またこの他に2002年にもストライキの計画があったが、寸前で交渉が妥結した。2013年時点では1994年から1995年にかけてのストライキを最後にストライキは一度も行われていない。",
"title": "MLBにおこる問題とその対処"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "2014年(2015年1月)までコミッショナーを務めていたバド・セリグは、かつて収益や観客動員の少ないミルウォーキー・ブルワーズのオーナーを長年務め、チームの経営難に苦慮した経験を持っていたため、コミッショナーに就任して以来戦力均衡策の導入に積極的だった。インターリーグ(交流戦)、プレーオフでのワイルドカード、年俸総額が一定の額を超えたチームに課徴金(Luxury Tax、ぜいたく税)を課す課徴金制度などを導入した。また、サラリーキャップ制や収益の完全分配などを導入することも検討されている。1965年に導入されていた完全ウェーバー制ドラフトなどもあり、2001年以降ワールドシリーズの優勝チームが毎年入れ替わっている。ただし、所属選手の年俸総額を比較すれば各チームの戦力差に大きな開きが明らかであり、制度を充実させても、補強に積極的なチームとそうでないチームがあるとされている。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "MLBの収益分配制度は2つある。1つ目はBase Planと呼ばれるもので、各チームの純収入(総収入から球場経費を除いた額)に20 %課税し、各チームから集められた課税金の4分の3が全チームに均等に分配され、4分の1が全チームの平均収入を下回るチームに下回る額に比例して按分分配するという内容(スプリット・プール方式)である。前述した1994年のストライキを受けて1996年に導入され、その後、2002年8月に締結された労使協定で、税率が34 %で課税額の全てを全チームに均等分配する内容(ストレート・プール方式)に改められた。2つ目はCentral Fund Componentと呼ばれるもので、収入の高いチームに課税して、一定の規則のもと収入の低いチームに再分配するという内容(スプリット・プール方式)。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "この制度の目的は、収入の低いチームにより多くの分配金を分配することで収支を改善し、戦力均衡を促すことにあった。ところが、チームがポストシーズンに進出できなくなると球団側は有力選手を放出し、チーム全体の年俸総額を下げて多額の分配金を受け取ることを画策するようになり、結果的に戦力の均衡は達成できなかった。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "そのため、2002年8月に締結された労使協定において、球団側が選手に支払う年俸総額が一定額を超えた場合、超過分に課徴金を課す「課徴金制度」(Luxury Tax、ぜいたく税)が導入された。4年間に一定額を超えた回数に応じて税率を引き上げていく内容となっており、2003年は40人枠の年俸総額が1億1,700万ドルを超えたチームは超過額の17.5 %を課税された。以降、2004年は1億2,050万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %、2005年は1億2,800万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %・3回目40 %、2006年は1億3,650万ドルで1回目0 %・2回目40 %・3回目40 %・4回目40 %課税されることとなっており、年俸の高騰を抑制し戦力の均衡を図った(ポスティングシステムによる入札金に、課徴金制度は適用されない)。その結果、2001年以降ワールドシリーズの優勝チームが毎年入れ替わるなど、一定の成果を上げている。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "また、2006年10月24日に締結された新労使協定では、Base Planにおける税率が34 %から31 %に変更され、またCentral Fund Componentでは、Base Planで再分配される全額の41.066 %分の額が、Base Planで支払う側のチームから受け取る側のチームにBase Planとは別に再分配されるよう変更された。支払う側のチームの負担額は、各チームの収入が全チームの平均収入の超過分に応じて、Base Planの41.066 %分の額が按分徴収され、その徴収額は受け取る側のチームにスプリット・プール方式で再分配される。それと同時に、チームの収入の定義を「過去3年間の平均値(変動制)」から「2005 - 2006年の実績値と2007 - 2008年の売上げ予測の平均値(固定制)」に変更された。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "チーム収入の定義が変動制から固定制に変更されたことにより、各チームの収入増減が分配額に影響しないようになった。この結果、全チームの限界税率は31 %で統一され、安易な有力選手の放出が抑制されるため戦力が均衡しやすくなっている。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "課徴金制度の年俸総額の一定額や、選手の最低年俸は、労使協定によりある程度のスパンをもって決められる。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "なお、日本のメディアにおいて「ぜいたく税制度によって徴収された課徴金は年俸総額の低いチームに配分される」と報道されることがあるが、これは上述のCentral Fund Componentと混同した誤りであり、課徴金は収益分配の対象ではない。 徴収されたぜいたく税は、最初の250万ドルが内部留保され、それを超えた額については、75 %が選手の福利厚生財源として、残りの25 %が“業界成長基金”(IGF:Industry Growth Fund)の財源として用いられることになる。IGFは1996年の労使協定において、アメリカやカナダをはじめとする全世界で野球を普及させる目的で設置されたものである。",
"title": "戦力均衡策"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "MLBのテレビ放映権は、全国放送に限りMLB機構が管轄し、ローカル放送は各チームがFOXスポーツネット(FSN)に代表されるRegional Sports Network(RSN、ローカルスポーツ専門チャンネル)や地元放送局などと直接契約を結んでいる。 ただし、WGNや2007年9月までのTBSのようなスーパーステーション(地上波ローカル局とサイマル放送を行っている全米向けケーブルテレビ向け放送局)と契約しているチーム(WGNはシカゴ・カブスとシカゴ・ホワイトソックス、TBSはアトランタ・ブレーブス)の試合は結果的に全米で視聴可能となるため、放送局はチームに支払う放映権料とは別に機構に対していわゆる「スーパーステーション税」を支払う必要がある。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "チームの本拠地が大都市であれば収入が大きくなり、小都市だと収入が少なくなるため、レギュラーシーズン・ポストシーズン全試合の放映権を管轄しているNFLとは違い、チームによって放映権料収入は大きく異なる。1984年、ボストン・レッドソックスがNew England Sports Network(NESN)を設立したのを皮切りに、ニューヨーク・ヤンキース(Yankees Entertainment and Sports Network(YES))、ニューヨーク・メッツ(SportsNet New York(SNY))など、チーム自らがローカルチャンネルを設立する例もある。これは別会社に入るお金までは課税されないためであり、その別会社がチームに支払う放映権料を低く抑えれば、リーグからの課税額も少なくなるだけにそのメリットは大きい。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "なお、このように番組がスポーツ専用チャンネルに特化している米国では、その契約からも、テレビ中継は試合の途中で終わることはない。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "また、アメリカでは元々商法行為に対する規制が厳しく、機構側の一括管理による独占・寡占契約はなされてこなかった。しかし、1961年の法律制定により解禁され、NFLがCBSと独占契約を結んだ(1960年に発足したAFL(アメリカン・フットボール・リーグ、1970年にNFLと合併)がABCと5年間の長期契約を結び、NFLを脅かす存在になったことが一因)ことを皮切りに、アメリカのプロスポーツ界では機構側が放映権を一括して複数年にわたる大型契約を結ぶようになった。その機構側が契約した放映権料はコミッショナー事務局のプール分を除いた額が30球団で均等に分配される。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "従来、全国放送はESPN(レギュラーシーズン。2005年までの6年間8億5,100万ドル)とFOX(ポストシーズンなど。2006年までの6年間25億ドル)の2社が契約していた。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "ESPNとは2005年9月、2006年から8年間23億6,800万ドルの新契約にこぎつけたものの、FOXはMLBの視聴率低下によって広告収入が放映権料を下回ったとして値下げを主張、交渉は難航していた。ESPNは主にレギュラーシーズンの平日および日曜夜の試合を中継する。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2006年7月11日、FOXおよびTBSとの間に契約が成立した。放映権料は2007年からの7年間で2社合計で約30億ドル(FOX18億ドル・TBS5億ドルという報道もある。両社の契約内容は右記のとおり。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "なお、2006年3月13日に、ヨーロッパのテレビ局「North American Sports Network」(NASN、2007年にESPNの傘下入り)が、2006年から5年間MLBの試合を放映する契約を結んだ。オープン戦からワールドシリーズまでの年間275試合が、イギリス、アイルランド、ドイツ、スイス、オランダなどのヨーロッパ7ヶ国で放送される。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "日本向け放映権は電通が2004年から6年間2億7500万ドルで契約。テレビ放送では、日本放送協会(NHK)・TBSテレビ(TBS)・フジテレビジョンで放送している。2008年まではスカパーJSAT(スカパー!、スカパー!e2)、モバHO!でも放送していた。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "NHK・TBS・フジテレビは日本人選手が出場する予定の試合やオールスターゲーム・ポストシーズンを中心に生中継など行っている。当初は地上波では上記3局で月ごとのローテーションを決めていたが、その後週単位のローテーションに変更された。大抵系列BSでの中継であり、特にNHK BSでの中継本数が多く、BSデジタル放送受信世帯数を押し上げる要因のひとつにもなっている。注目カードは地上波で中継される場合もある。2006年のワールドシリーズはフジテレビでダイジェストとして放送された。また、メジャーリーグ開幕戦を日本の東京ドームにて開催する場合は日本テレビが中継を担当している(年度によってはフジテレビで中継する場合もある)。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "スカパー!ではスカチャン(旧パーフェクト・チョイス)にて500試合から600試合の生中継に加えて再放送を行っていた。スカパー!e2では、スカチャン(旧スカチャン!)にて毎日1・2試合程度生中継を行っていた。2006-2007年はJ sports Plus(現J SPORTS 4)でも中継を行っていた(2007年は月曜夜に1試合録画中継)。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "2007年4月、モバイル放送(モバHO!)がモバイル放送権を獲得、同年5月より「チャンネルONE」(映像協力・スカパー!)で原則毎日1試合放送していた。また、同年7月より2008年9月まで「モバイル.n」(映像協力・NHK)で月2試合程度放送していた。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "2009年、電通は2015年までの契約延長に合意した。新しい契約では、NHK、TBS、フジテレビに加えて、テレビ朝日、テレビ東京、J SPORTSでも放送されることになった。一方で民放キー局のうち、日本テレビだけは放映権料の高騰を理由として、2009年から放映権を獲得しておらず、試合映像の配信も2022年シーズンまで受けていなかった。前述のMLB公式戦を日本で行う場合は例外として、MLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "J SPORTSについては、CS放送の独占放映権に加えて、BS放送(2011年10月よりJ SPORTS 1・2を放送開始、2012年3月よりJ SPORTS 3・4を放送開始)の放映権(非独占)も獲得、同年6月より放送を開始している。",
"title": "テレビ放映権"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ラジオ放送では、ニッポン放送が1996年頃より独占放送権を持ち、「メジャーリーグ中継」を通常番組を休止して中継したり、通常番組内で日本人選手登板部分のみの中継を行っている。",
"title": "テレビ放映権"
}
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メジャーリーグベースボールは、アメリカ合衆国、及びカナダ所在の合計30球団により編成される、世界で最高峰のプロ野球リーグであり、北米4大プロスポーツリーグの1つである。厳密には、1903年に発足したナショナルリーグとアメリカンリーグの2つのリーグの共同事業機構で、両リーグの統一的運営をしている。日本では「メジャーリーグ」「大リーグ」とも呼ばれる。「大リーグ」の呼称は、メジャーリーグの別名「ビッグリーグ」の訳語である。 メジャーリーグベースボール(以下、MLB)は、ナショナルリーグとアメリカンリーグの2リーグ(各々15球団)からなり、アメリカ合衆国に本拠地を置く29球団(アメリカン・リーグ14、ナショナル・リーグ15)とカナダに本拠地を置く1球団(アメリカン・リーグ所在)の全30球団から構成されている。各チームはリーグごとに東地区、中地区、西地区に所属する。アメリカ合衆国外からは過去にモントリオール・エクスポスとトロント・ブルージェイズの、共にカナダの2チームが参加していたが、2005年にエクスポスがワシントンD.C.に本拠を移転(同時にワシントン・ナショナルズに球団名変更)したため、米国外チームは2022年現在ブルージェイズの1チームのみである。 試合形式は、レギュラーシーズンとポストシーズンで構成され、最終的に各リーグの優勝チームがワールドシリーズと呼ばれる優勝決定戦を行いワールドチャンピオンを決定する。レギュラーシーズンは4月初旬から9月下旬にかけて各チームが162試合を行い地区優勝とワイルドカード入りを争う。10月初旬からポストシーズンがトーナメント形式で行われる。トーナメントでは各段階ごとにワイルドカードシリーズ、ディビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズ、ワールドシリーズと冠される。
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{{Redirect|メジャーリーグ}}
{{スポーツリーグ
|title = メジャーリーグベースボール<br />Major League Baseball
|current_season = 2023年のメジャーリーグベースボール
|画像 =
|種類 = 野球
|founded = {{Start date and age|1903}}
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|代表者= [[ロブ・マンフレッド]]
|チーム=30
|国 = {{USA}}<br />{{CAN}}
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|tv = {{USA}}<br>[[ESPN]]、[[FOXスポーツ|Fox/FS1]]、[[TBS (アメリカのテレビジョン放送)|TBS]]、[[MLBネットワーク|MLB Network]]、[[YouTube]] (ライブストリーミング) <br>{{CAN}}<br>Sportsnet、RDS、TVA Sports、[[The Sports Network|TSN]]、[[MLBネットワーク|MLB Network]]<br>{{JPN}}<br>[[NHK]]、[[J SPORTS]]、[[AbemaTV|ABEMA]]、[[SPOTV NOW]]
|サイト= [https://www.mlb.com/ MLB.com]
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{{Portal|野球}}
'''メジャーリーグベースボール'''({{lang-en|Major League Baseball}}、英語発音: {{ipa|méɪdʒɚ líːg béɪsb`ɔːl}}; 略称: '''MLB''')は、[[アメリカ合衆国]]、及び[[カナダ]]所在の合計30球団により編成される、[[北アメリカ|世界]]で最高峰の[[プロ野球]]リーグであり、[[北米4大プロスポーツリーグ]]の1つである<ref group="注">残りの3つはアメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケー。</ref>。厳密には、{{by|1903年}}に発足した[[ナショナルリーグ]]と[[アメリカンリーグ]]の2つのリーグの共同事業機構で、両リーグの統一的運営をしている。[[日本]]では「'''メジャーリーグ'''」「'''大リーグ'''」とも呼ばれる。「大リーグ」の呼称は、メジャーリーグの別名「ビッグリーグ ({{lang|en|Big League}})」の訳語である。
メジャーリーグベースボール(以下、MLB)は、ナショナルリーグとアメリカンリーグの2リーグ(各々15球団)からなり、アメリカ合衆国に本拠地を置く29球団(アメリカン・リーグ14、ナショナル・リーグ15)とカナダに本拠地を置く1球団(アメリカン・リーグ所在)の全30球団から構成されている。各チームはリーグごとに東地区、中地区、西地区に所属する。アメリカ合衆国外からは過去に[[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポス]]と[[トロント・ブルージェイズ]]の、共にカナダの2チームが参加していたが、{{by|2005年}}にエクスポスが[[ワシントンD.C.]]に本拠を移転(同時にワシントン・ナショナルズに球団名変更)したため、米国外チームは2022年現在ブルージェイズの1チームのみである。
試合形式は、レギュラーシーズンと[[プレーオフ|ポストシーズン]]で構成され、最終的に各リーグの優勝チームが[[ワールドシリーズ]]と呼ばれる優勝決定戦を行いワールドチャンピオンを決定する。レギュラーシーズンは4月初旬から9月下旬にかけて各チームが162試合を行い地区優勝とワイルドカード入りを争う。10月初旬からポストシーズンがトーナメント形式で行われる。トーナメントでは各段階ごとに[[ワイルドカードシリーズ]]、[[ディビジョンシリーズ]]、[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]、ワールドシリーズと冠される。
== 歴史 ==
{{see also|野球の歴史}}
=== 「メジャーリーグ」の誕生 ===
1850年代後半、[[ニューヨーク]]スタイルの「ベースボール」は[[南北戦争]]を期に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]北東部を中心に各地に普及し、野球の最初のアマチュアリーグとなる[[全米野球選手協会]](NABBP)が生まれた。NABBPは12年間続き、最も拡大した1867年には400以上のチームがメンバーとなっていた。1860年代前半には選手の中に報酬をもらって野球をする、いわゆるプロ選手が登場しはじめていたとされる。プロ選手に関する正式な規定は1868年に制定され、翌1869年に結成された[[シンシナティ・レッドストッキングス]]は、プロ選手だけで構成された初めてのプロチームとなり、地方各都市を巡業してその名を馳せた<ref>[http://www.1869reds.com/history/ History: Legend of the Cincinnati Red Stockings]. 1869 Cincinnati Red Stockings Vintage Base Ball Team (2007). Retrieved October 15, 2010.</ref>。レッドストッキングスの成功をうけ、あとを追うようにプロチームが各都市に次々に誕生したが、次第にプロ選手とアマチュア選手の間で内部分裂がおき、全米野球選手協会はアマチュア組織とプロ組織に分割することとなった。こうして、1871年には最初のプロ野球リーグ、[[全米プロ野球選手協会]](ナショナル・アソシエーション、NA)が創設されたが<ref name="base ball">{{Cite web2 |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/404475/National-Association-of-Professional-Base-Ball-Players |title=National Association of Professional Base Ball Players |accessdate=2008-09-10 |website=britannica.com}}</ref>、リーグ運営は5年で破綻してしまった<ref name="Rader">{{Cite book| last=Rader |first=Benjamin |title=Baseball: A History of America's Game |year=2008 |publisher=University of Illinois Press |isbn=0-252-07550-1 |page=29 |url=https://books.google.com/?id=6jplRWwEmVIC&pg=PA27&lpg=PA27&dq=nabbp+baseball#v=onepage}}</ref>。この時、現在に残るチーム、シカゴ・ホワイトストッキングス(のちの[[シカゴ・カブス]])とボストン・レッドストッキングス(後の[[アトランタ・ブレーブス]])が誕生している<ref name="Spatz">{{Cite book|last=Spatz|first=Lyle|title=Historical Dictionary of Baseball|year=2012|publisher=Scarecrow Press|isbn=0-8108-7954-9|page=236|url=https://books.google.com/?id=ViiCha8LoBgC&pg=PA236&dq=cubs+braves+napbbp#v=onepage}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=日本雑学研究会|year=2005|title=大雑学6ザ・メジャーリーグ|publisher=[[毎日新聞|毎日新聞社]]|isbn=4-620-72096-8|pages=27 - 28頁}}</ref>。
[[File:1896 Baltimore Orioles.jpg|thumb|right|19世紀の[[ボルチモア・オリオールズ (19世紀)|ボルチモア・オリオールズ]](ナショナルリーグ、1896年)]]
翌{{mlby|1876|d=y}}、現在まで続く[[ナショナルリーグ]] (NL) が発足。このリーグが最初のメジャーリーグとされる。1876年4月22日[[フィラデルフィア]]にある[[ジェファーソン・ストリート・グラウンズ]]で最初の試合が行われた。ナショナルリーグは所属選手の契約を強制し高額報酬によるライバルリーグへの流出を防ぎ、これまでは頻繁に起きた優勝を逃したチームの消化試合の中止をなくし全てのスケジュールを予定通り行うなど、ナショナル・アソシエーションの欠点を改善していった<ref name="noble">{{Cite web2 |first=Marty| last=Noble |title=MLB carries on strong, 200,000 games later: Look what they started on a ballfield in Philadelphia in 187 6|date=2011-09-23 |publisher=MLB.com |url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20110922&content_id=25060814&vkey=news_mlb&c_id=mlb&partnerId=ed-5337375-55428157 |accessdate=2011-09-30 |quote=[B]aseball is about to celebrate its 200,000th game — [in the division series on] Saturday [October 1, 2011] ...}}</ref><ref>[http://www.retrosheet.org/boxesetc/1876/04221876.htm Events of Saturday, April 22, 1876]. Retrosheet. Retrieved September 30, 2011.</ref>。契約に「リーグ間の移籍禁止条項」を設けたことで初期には選手との対立もあったが結果的にこれが功を奏し、ライバルリーグは[[ユニオン・アソシエーション]](UA、{{mlby|1884|d=y}})、[[プレイヤーズ・リーグ]](PL、{{mlby|1890|d=y}})といずれも短命に終わった。最も成功した[[アメリカン・アソシエーション (19世紀)|アメリカン・アソシエーション]](AA、{{mlby|1882|d=y}} – {{mlby|1891|d=y}})とは{{mlby|1884|d=y}}から{{mlby|1890|d=y}}にかけてナショナルリーグとリーグ優勝チーム同士の対戦(現在の[[ワールドシリーズ]])が行われた。
解体した2つのリーグにいたチームは{{mlby|1892|d=y}}にナショナルリーグに統合されたが、12球団あったナショナルリーグは{{mlby|1900|d=y}}から8球団へ統合・削減し、[[ボルチモア]]、[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]、[[ルイビル (ケンタッキー州)|ルイビル]]、[[ワシントンD.C.]]から球団がなくなる。一方でウエスタンリーグというマイナーリーグが1900年に[[アメリカンリーグ]] (AL) へと改称し、ルイビルを除くナショナルリーグの球団削減でメジャー球団がなくなった都市へ進出。翌{{mlby|1901|d=y}}にアメリカンリーグは自らを「メジャーリーグ」と宣言したが、ナショナルリーグがそれに反発、シカゴのレランドホテルで他のマイナーリーグも交えた会議が行われた。この会議でアメリカンリーグはメジャーリーグとして容認され、数多く存在するマイナーリーグを総括する新しいナショナル・アソシエーションが設立された。ナショナル・アソシエーションは[[マイナーリーグベースボール]] (MiLB) として今日まで続いている<ref name="hotel">{{Cite web2 |url=http://www.milb.com/milb/history/ |title=Minor League Baseball History |accessdate=2008-09-10 |publisher=MiLB.com}}</ref>。{{mlby|1902|d=y}}、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ、ナショナル・アソシエーションはそれぞれの独立経営と、共同経営を併せ持つ新しい協定に調印した。この合意は、のちに[[ブランチ・リッキー]]により洗練され、整備されていった今日のマイナーリーグの基礎となる分類システムも確立した。この翌年から両リーグ勝者による[[ワールドシリーズ]]が行われることになる<ref>日本雑学研究会、31頁</ref><ref name="nabpl">{{Cite web2 |url=http://roadsidephotos.sabr.org/baseball/1903NatAgree.htm |title=1903 National Agreement |accessdate=2008-09-10 |publisher=Society for American Baseball Research}}</ref>。
後に短命となったマイナーリーグのいくつかは正式にメジャーリーグとみなされ、その統計と記録は現在の2つのメジャーリーグのものに含まれている。{{mlby|1969|d=y}}に、アメリカプロ野球100周年を機にMLB機構の指定により『野球記録特別委員会』が設置され、そこで過去消滅したリーグを含め以下の6つのリーグを「メジャーリーグ」として認める、という決定がなされた。
* [[ナショナルリーグ]](1876年 - 現在)
* [[アメリカンリーグ]](1901年 - 現在)
* [[アメリカン・アソシエーション (19世紀)|アメリカン・アソシエーション]](1882年 - 1891年)<ref>{{Cite web2 |url=http://www.baseball-reference.com/bullpen/American_Association_(19th_Century) |title=American Association (19th Century) |publisher=Baseball-Reference.com |accessdate=2013-10-14}}</ref>
* [[ユニオン・アソシエーション]](1884年)<ref>{{Cite web2 |url=http://www.baseball-reference.com/leagues/UA/1884.shtml |title=1884 Union Association |publisher=Baseball-Reference.com |accessdate=2017-01-25}}</ref>
* [[プレイヤーズ・リーグ]](1890年)<ref>{{Cite web2 |url=http://www.baseball-reference.com/leagues/PL/1890.shtml|title=1890 Players' League |publisher=Baseball-Reference.com |accessdate=2013-10-14}}</ref>
* [[フェデラル・リーグ]](1913年から3年のうち運営基盤が確立していた1914年・1915年の2年間)<ref>{{Cite web2 |url=http://www.baseball-reference.com/leagues/FL/1914.shtml |title=1914 Federal League |publisher=Baseball-Reference.com |accessdate=2013-10-14}}</ref><ref>{{Cite web2 |url=http://www.baseball-reference.com/leagues/FL/1915.shtml |title=1915 Federal League |publisher=Baseball-Reference.com |accessdate=2013-10-14}}</ref>
それ以外の野球リーグでプロとして活動した経歴を持つ選手の記録については、現在この裁定に基づき、どこからどこまでをメジャーリーグ記録とするかといった分類が行われている。ただしこの裁定には一部研究者が異論を唱えており、[[全米プロ野球選手協会|ナショナル・アソシエーション]](1871年 - 1875年)<ref group="注">ナショナル・アソシエーションについては、{{by|1951年}}に発刊された公式のベースボール・エンサイクロペディアで「メジャーリーグ」として扱われていたが、この年の裁定により除外された経緯がある。</ref>、[[アフリカ系アメリカ人]](黒人)中心に運営された「[[ニグロリーグ]]」のうち、特に運営基盤が確立されていた{{by|1920年}} - {{by|1948年}}の期間<ref group="注">アフリカ系アメリカ人による野球リーグ機構はこの期間複数存在し、「ニグロリーグ」はそれらの総称である。詳細は[[ニグロリーグ]]の項目を参照。</ref>、現在のアメリカンリーグの前身でマイナーリーグであった「[[ウェスタンリーグ (オリジナル)|ウェスタンリーグ]]」がアメリカンリーグと改称しナショナル・リーグの傘下であった{{by|1900年}}のアメリカンリーグなどもメジャーリーグとして扱うべきなどの意見がある。2020年12月17日、MLB機構は、「ニグロリーグ」に含まれる下記の7つのリーグの記録についてメジャーリーグの地位を与えると発表した<ref>{{Cite web2 |url=https://full-count.jp/2020/12/17/post1004376/ |title=ニグロリーグの成績をMLB公式記録に認定 約3400人が新たにメジャーリーガーに |website=FullCount |date=2020-12-17 |accessdate=2021-01-01}}</ref><ref>{{Cite web2 |url=https://nordot.app/712176238561886208?c=581736863522489441 |title=ニグロリーグがメジャーリーグ公式記録に認定 様々な問題も |website=MLB.jp |date=2020-12-17 |accessdate=2021-01-01}}</ref><ref>{{Cite web2 |url=https://www.mlb.com/news/how-negro-leagues-stats-may-change-baseball-leaderboards |title=How Negro Leaguers may alter leaderboards |website=MLB.com |author=Mike Petriello |date=2020-12-18 |accessdate=2021-08-01}}</ref>。
* {{仮リンク|ニグロナショナルリーグ (第1期)|en|Negro National League (1920–1931)}} (1920年 - 1931年)
* {{仮リンク|イースタンカラードリーグ|en|Eastern Colored League}}(1923年 - 1928年)
* {{仮リンク|アメリカンニグロリーグ|en|American Negro League}}(1929年)
* {{仮リンク|イーストウエストリーグ|en|American Negro League}}(1932年)
* {{仮リンク|ニグロサザンリーグ|en|Negro Southern League (1920–1936)}}(1932年シーズンのみ)
* {{仮リンク|ニグロナショナルリーグ (第2期)|en|Negro National League (1933–1948)}}(1933年 - 1948年)
* {{仮リンク|ニグロアメリカンリーグ|en|Negro American League}}(1937年 - 1948年シーズンのみ)
=== デッドボール時代 ===
[[ファイル:T205 Cy Young.jpg|thumb|upright|[[サイ・ヤング]] (1911年の[[ベースボールカード]])]]
{{Main|デッドボール時代|ブラックソックス事件}}
{{mlby|1900|d=y}}から{{mlby|1919|d=y}}までの期間は、一般に「[[デッドボール時代]]」と呼ばれる。この時代の試合は得点が低い傾向があり、[[ウォルター・ジョンソン]]、[[サイ・ヤング]]、[[クリスティ・マシューソン]]、[[モーデカイ・ブラウン]]、[[ピート・アレクサンダー|グローバー・アレクサンダー]]などの投手たちが試合を支配した。その要因はいくつかあるが、ひとつには、この時代に使われていた「デッドボール(飛ばないボール)」と呼ばれた、とても緩みやすく投げるほどに糸がほつれ飛距離が出なくなるボールに原因があった<ref name="McNeil">{{cite book|last=McNeil|first=William|title=The Evolution of Pitching in Major League Baseball|year=2006|publisher=McFarland|isbn=0-7864-2468-0|page=60|url=https://books.google.com/?id=6ODvYhwnhn0C&pg=PA60&dq=deadball+era+yarn#v=onepage}}</ref>。それに加え、オーナーは3ドル(現在の価値で40ドル程)の新しいボールを購入することを嫌っていたため、ファウルボールもまれだったその当時、ファンはホームランボールでさえ投げ返さなければいけなかった。ボールは柔らかくなるまで、時には革がめくれ上がるまで試合で使い回された。そのため[[噛みタバコ]]のヤニや、草、泥などで常に汚れていた<ref name="Keating">{{cite news |last=Keating |first=Peter |title=The game that Ruth built |url=http://www.boston.com/news/globe/ideas/articles/2006/05/07/the_game_that_ruth_built/ |publisher=Boston.com |accessdate=November 24, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110918184533/http://www.boston.com/news/globe/ideas/articles/2006/05/07/the_game_that_ruth_built/ |archivedate=2011年9月18日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
また、極一部の選手ではあったがボールを噛んで傷をつけたり、故意に汚すなどして投球に変化を加える[[スピットボール]]を操る投手もいた。これは{{mlby|1921|d=y}}にスピットボールの使用が禁止されるまで続いた。さらに、[[シカゴ・カブス]]の[[ウエスト・サイド・パーク]]や[[ボストン・レッドソックス]]の[[ハンティントン・アベニュー・グラウンズ]]に代表される、センターが現在の球場より{{convert|200|ft|m|0}}ほども広い球場があり、そのためホームランはまれで、[[単打]]、[[犠打]]、[[盗塁]]、[[ヒットエンドラン]]などの「[[スモールボール]]」が当時の戦略の要となっていた<ref>Daniel Okrent, Harris Lewine, David Nemec (2000) "The Ultimate Baseball Book", Houghton Mifflin Books, ISBN 0-618-05668-8 [https://books.google.com/books?id=mAbGN_1cmhcC&pg=PA33&dq=%22inside+baseball%22&sig=z_sYnAJ_Xovf2TTNN0l_cD_EZB0#PPA33,M1 , p. 33].</ref>。[[内野安打]]をかせぐために[[ボルチモアチョップ]]などの戦法が編み出された<ref>Burt Solomon (2000) "Where They Ain't: The Fabled Life And Untimely Death Of The Original Baltimore Orioles", Simon and Schuster, ISBN 0-684-85917-3 [http://www.baseballlibrary.com/baseballlibrary/excerpts/where_they_aint.stm Excerpt].</ref>。ボルチモアチョップは、ボールをあえて前に飛ばそうとせず地面にたたきつけ、打球にグラブが届かないほど高く跳ねている間に一塁を駆け抜けるというものだった<ref name="Lieb">{{cite book|last=Lieb|first=Fred|title=The Baltimore Orioles: The History of a Colorful Team in Baltimore and St. Louis|year=1955|publisher=SIU Press|isbn=0-8093-8972-X|page=46|url=https://books.google.com/?id=BahcUaZZebYC&pg=PA46&dq=%22baltimore+chop%22#v=onepage}}</ref>。
20世紀初頭、ファウルストライクルールが採用された。これによって試合時間が大幅に短縮されたが、これまでのような大量得点試合が減り、試合で1点をとるのがより困難になった。19世紀のルールでは、ファウルボールはストライクとしてカウントされなかったため、打者は、[[ストライク (野球)|ストライク]]がカウントされないまま投手に球数を投げさせることが出来たため、打者にとっては大きな利点であった。1901年からナショナルリーグが先にファウルストライクルールを採用し、{{mlby|1903|d=y}}からアメリカンリーグでも採用された。しかしこのルールによって大量得点試合が減るということがファンの間では不満となっていた<ref>[http://www.baseball-reference.com/bullpen/Foul_strike_rule Foul strike rule]. Baseball-Reference.com.</ref>。
追い打ちをかけるように{{mlby|1917|d=y}}、アメリカが[[第一次世界大戦]]に参戦すると、開催こそ継続されたものの選手の出征が相次ぎ、{{mlby|1918|d=y}}にはレギュラーシーズンが短縮された。{{mlby|1919|d=y}}、[[シカゴ・ホワイトソックス]]と[[シンシナティ・レッズ]]で行われたワールドシリーズにおいて、メジャー史上最悪の不祥事である[[ブラックソックス事件]]が起き、メジャーリーグは社会的信用を失うことになってしまった<ref>{{Cite book|和書|author=藤澤文洋|authorlink=藤澤文洋|year=2003|title=メジャーリーグ・スーパースター名鑑|publisher=[[研究社]]|pages=216 - 218頁|isbn=4-327-37689-2}}</ref>。ホワイトソックスの選手だった、[[ジョー・ジャクソン (野球)|ジョー・ジャクソン]]、[[エディ・シーコット]]、[[レフティ・ウィリアムズ]]、[[:en:Chick Gandil|チック・ガンディル]]、[[:en:Fred McMullin|フレッド・マクマリン]]、[[:en:Swede Risberg|スウィード・リスバーグ]]、[[:en:Happy Felsch|ハッピー・フェルシュ]]、[[:en:Buck Weaver|バック・ウィーバー]]は賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴された<ref>{{cite web|url=http://www.chicagohs.org/history/blacksox/blk3.html|title=History Files – Chicago Black Sox: The Fix|publisher=Chicago History Museum|accessdate=October 26, 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029184407/http://www.chicagohs.org/history/blacksox/blk3.html|archivedate=2013年10月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。この8名の選手はメジャーリーグから[[永久追放]]処分となった<ref>{{cite web|url=http://www.chicagohs.org/history/blacksox.html|title=History Files – Chicago Black Sox|publisher=Chicago History Museum|accessdate=October 26, 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140815042229/http://www.chicagohs.org/history/blacksox.html|archivedate=2014年8月15日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
=== ベーブ・ルースの登場 ===
{{Main|ライブボール時代}}
[[File:Babe Ruth by Paul Thompson, 1920.jpg|thumb|right|ベーブ・ルース (1920年)]]
1910年代に下落した野球の人気は{{mlby|1920|d=y}}におきた悲劇と、一人の選手の登場によって回復していった。1920年8月16日[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]の[[レイ・チャップマン]]がバッターボックスで頭部に投球を受け、数時間後に死亡した。チャップマンは、試合中に死亡した唯一のMLB選手となった。この悲劇は、当時の選手がヘルメットをかぶっていなかったことにも原因があるが、結果的には「デッドボール時代」を終わらせる手助けとなった。それまでは試合後半になると、ボールが軟らかくなり不規則な動きを見せ、汚れ見えづらくなっていたが、ボールが汚れるたびに取り替えるというルールが生まれたからである。ボールを取り換えることにより飛距離が飛躍的に伸びる結果になった。この頃から「[[ライブボール時代]]」が始まった。
同年、[[ボストン・レッドソックス]]より[[ニューヨーク・ヤンキース]]に[[ベーブ・ルース]]が移籍。これまで投手として活躍していたルースであったが、前年に当時のMLB記録となった29本塁打を記録。ヤンキースでは打者に専念すると、不可能と思われていた自身の本塁打記録を大幅に更新する54本を放ち、翌{{mlby|1921|d=y}}には59本と3年連続で本塁打記録を塗り替えた<ref name="Swat">{{cite book|last=McNeil|first=William|title=The King of Swat: An Analysis of Baseball's Home Run Hitters from the Major, Minor, Negro, and Japanese Leagues|year=1997|publisher=McFarland|isbn=0-7864-0362-4|page=32|url=https://books.google.com/?id=inW5x6SDgkYC&pg=PA32&lpg=PA32&dq=babe+ruth+ned+williamson#v=onepage}}</ref><ref name="homerun">{{Cite web|url=http://www.baseball-reference.com/leaders/HR_progress.shtml|title=Progressive Leaders & Records for Home Runs|work=Baseball-Reference.com|language=英語 |accessdate=2009年4月10日 }}</ref>。ルースを擁するヤンキースは、1921年に初のリーグ優勝を、{{mlby|1923|d=y}}にはワールドシリーズ初優勝を果たす<ref name="Plaque">{{cite web|title=Indians uncover lost Chapman plaque|url=http://sports.espn.go.com/mlb/news/story?id=2818187|publisher=ESPN.com|accessdate=October 31, 2013}}</ref>。{{mlby|1927|d=y}}、ルースは本塁打記録を60本に更新、さらに[[ルー・ゲーリッグ]]の台頭などで強力打線となったヤンキースは、1930年代の終わりまでに、11度のワールドシリーズに出場し、8度の優勝を果たすこととなる<ref name="BR">{{cite web|title=New York Yankees: Team History and Encyclopedia|url=http://www.baseball-reference.com/teams/NYY/|publisher=Baseball-Reference.com|accessdate=October 31, 2013}}</ref>。この時代には1試合当たりの得点も上昇。この打撃戦をファンは支持し観客動員は増加した<ref>日本雑学研究会、35頁</ref>。
=== 世界恐慌と第二次世界大戦 ===
{{mlby|1929|d=y}}頃始まった[[世界恐慌|大恐慌]]の影響を受けて、野球の人気は再び下降を始めた。{{mlby|1932|d=y}}までに、利益を上げたMLBチームは2チームだけだった。野球のチケット価格には10%の娯楽税が課せられ、観客動員は減少した。オーナーは契約選手を25人から23人に減らし、最優秀選手でさえも賃金を引き下げた。チームは生き残りをかけて、[[ナイター|ナイターゲーム]]の実施、ラジオでのライブ中継、女性の無料入場などの改革を行ったが、大恐慌の前には歯が立たなかった<ref name="Belson">{{cite news|last=Belson|first=Ken|title=Apples for a Nickel, and Plenty of Empty Seats|url=http://www.nytimes.com/2009/01/07/sports/baseball/07depression.html?pagewanted=all&_r=0|accessdate=October 31, 2013|newspaper=The New York Times|date=January 6, 2009}}</ref>。
追い打ちをかけるかのように{{mlby|1939|d=y}}、[[第二次世界大戦]]が開戦。MLBでもチームに所属している選手500人以上が出兵を余儀なくされ、深刻なプロ野球選手不足を引き起こした。彼らの多くは、出兵している軍人を楽しませるサービス野球チームでプレーした。この時期のMLBチームは、兵役対象外の青少年、年長の選手で構成されていることになった。中には精神的、道徳的に不適格だった者もいた。その一方、肉体的にハンディキャップをおった選手にも機会をあたえることになった。片腕がなかった外野手の[[ピート・グレイ]]のような選手も、メジャーリーグに進出することができた。しかし、黒人がMLBのロースターに含まれることはなかった<ref name="War">{{cite book|last=Anton|first=Todd and Bill Nowlin (eds.)|title=When Baseball Went to War|year=2008|publisher=Triumph Books|isbn=1-60078-126-8|pages=7–9|url=https://books.google.com/?id=pYovAQAAQBAJ&printsec=frontcover&dq=baseball+world+war+II#v=onepage}}</ref>。黒人選手は、戦争で人手不足であっても、MLBの出場は認められず、依然として[[ニグロリーグ]]でしかプレーできなかった<ref name="Martin">{{cite book|last=Martin|first=Alfred|title=The Negro Leagues in New Jersey: A History|year=2008|publisher=McFarland|isbn=0-7864-5192-0|pages=104–105|url=https://books.google.com/?id=FV0uF_RwC00C&pg=PA104&dq=negro+leagues+world+war+II#v=onepage}}</ref>。はじめて黒人がMLBに登場するのは、1947年の[[ジャッキー・ロビンソン]]である。
戦時中の[[灯火管制]]により、野外照明を暗くしなければならなかったため、ナイターでの試合が困難になった<ref name="Martin" />。{{mlby|1942|d=y}}、国内では開催中止論も広まりつつあったが、1月14日に、初代[[MLBコミッショナー|コミッショナー]]である[[ケネソー・マウンテン・ランディス]]は、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領宛てに手紙を送り、新たなメジャーリーグシーズンの開始と戦時中の野球の継続を嘆願した。大統領の返信には「野球を続けるのが最善であると正直に思っている。失業者は少なく、誰もがこれまで以上に長時間厳しい労働を強いられることになるだろう。ということは、今まで以上に全国民がリクリエーションの機会を持つべきだ。」と書かれていた。この手紙は「グリーンライトレター(青信号の手紙)」と呼ばれ[[アメリカ野球殿堂]]博物館に保管されている<ref>Roosevelt, Franklin. "Green Light Letter". January 15, 1942.</ref>。
こうしてルーズベルト大統領の承認を得て、戦時中も試合は継続された。[[スタン・ミュージアル]]、[[テッド・ウィリアムズ]]、[[ジョー・ディマジオ]]などのスターたちのキャリアは中断されたが、チームは引き続きMLBでプレーすることになった<ref name="Weintraub">{{cite web|last=Weintraub|first=Robert|title=Three Reichs, You're Out|url=http://www.slate.com/articles/sports/sports_nut/2013/04/baseball_in_world_war_ii_the_amazing_story_of_the_u_s_military_s_integrated.html|publisher=Slate.com|accessdate=November 24, 2013}}</ref>。しかし、各球団とも選手の出征が相次いだことによる深刻な選手不足は変わらず、[[1945年のMLBオールスターゲーム]]は中止となった。
=== 「カラーライン」の打破 ===
{{Main|ニグロリーグ}}
[[File:Jackie Robinson, Brooklyn Dodgers, 1954.jpg|thumb|right|ジャッキー・ロビンソン (1954年)]]
1880年代にはメジャーリーグにも黒人選手が存在したが、選手、リーグの激しい反発により、短期間で姿を消す事となった。それ以降、黒人選手との契約を禁止する規則は存在しなかったものの、1940年代半ばまで黒人選手はメジャーリーグでプレイできなかった。ただし同じ有色人種でも、肌の黒くないヒスパニック系やネイティヴアメリカンの選手はプレイできた<ref>出野哲也、[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]] 「メジャーリーグ100の基礎知識」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2003年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2003年、雑誌15509-5、88頁。</ref>。
{{mlby|1945|d=y}}、[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]の社長兼[[ゼネラルマネジャー]]である[[ブランチ・リッキー]]は、プロの野球リーグに黒人野球選手を本格的に入団させようと動き出した。彼は[[ニグロリーグ]]の有望選手のリストの中から[[ジャッキー・ロビンソン]]を選んだ。リッキーはロビンソンに、彼自身に向けられる差別に「やり返さない勇気を持つ」事を求め、月額600ドルの契約を結ぶ事に同意した。ロビンソンは、ドジャースのファームクラブである[[:en:Montreal Royals|モントリオール・ロイヤルズ]]に{{mlby|1946|d=y}}シーズンから参加、1880年代から続く[[インターナショナルリーグ]]において57年ぶりの黒人野球選手となった<ref>{{cite web |url=http://www.jackierobinson.org/about/jackie.php |title=The Jackie Robinson Foundation |publisher=Jackie Robinson Foundation |accessdate=July 4, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130628015406/http://www.jackierobinson.org/about/jackie.php |archivedate=2013年6月28日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
翌年、ドジャースはロビンソンをメジャーリーグに呼び寄せた。{{mlby|1947|d=y}}4月15日、ロビンソンは[[エベッツ・フィールド]]で14,000人以上の黒人を含む26,623人の観衆の中メジャーリーグデビューを果たした。黒人野球のファンは、それまでのニグロリーグのチームの観戦を放棄し、ドジャースの試合を見るためにブルックリンに殺到した。ロビンソンの売り出しには、新聞や白人メジャーリーグの選手の大多数が反対であった。監督の[[レオ・ドローチャー]]はチームに「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと、ヤンキースのストライプが好きでも構わない。自分はこのチームの監督だ。チームに必要な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいるならトレードで出て行くことになるだろう。」と語った<ref>{{cite web|author= |url=http://sabr.org/bioproj/person/35d925c7 |title=Leo Durocher |publisher=Society for American Baseball Research |accessdate=July 4, 2013}}</ref>。
対戦相手の[[フィラデルフィア・フィリーズ]]はドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告。それに対し、[[ハッピー・チャンドラー]]コミッショナーはドジャースを支持し、[[フォード・フリック]]ナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。ロビンソンは何人かの選手から励ましを受け、チームメイトの[[ピー・ウィー・リース]]はチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景に観客の誹謗中傷は徐々に減っていった。ロビンソンはどんなときも常に紳士的に振る舞い、シーズン終了時にはチームメイトや報道陣から受け入れられるようになった<ref name="Newman">{{cite web |url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20070412&content_id=1895445&vkey=perspectives&fext=.jsp&c_id=mlb |title=1947: A time for change |accessdate=September 12, 2009 |last=Newman |first=Mark |date=April 13, 2007 |publisher=MLB.com }}</ref>。ロビンソンは、この年から制定された[[最優秀新人選手賞 (MLB)|最優秀新人選手賞]]を受賞した<ref name="ROY">''Rookie of the Year Awards & Rolaids Relief Award Winners''. Baseball-Reference.com. Retrieved November 24, 2013.</ref>。
3か月も経たないうちに、[[ラリー・ドビー]]が[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]と契約し、アメリカンリーグも黒人選手を受け入れると<ref name="Doby">''Doby was AL's first African-American player''. ESPN Classic. June 26, 2003. Retrieved November 24, 2013.</ref>、翌年、他の多くの黒人選手がメジャーリーグに入った。[[サッチェル・ペイジ]]はインディアンスと契約し、ドジャースはスター捕手だった[[ロイ・キャンパネラ]]と[[ドン・ニューカム]]を追加した。[[ドン・ニューカム]]は後に[[サイ・ヤング賞]]を受賞した<ref name="Finkelman">{{cite book|last=Finkelman|first=Paul (ed.)|title=Encyclopedia of African American History, 1896 to the Present: From the Age of Segregation to the Twenty-First Century, Volume 1|year=2008|publisher=Oxford University Press|isbn=0-19-516779-1|page=145|url=https://books.google.com/?id=6gbQHxb_P0QC&pg=PA145&dq=dodgers+black+players#v=onepage}}</ref>。
=== 女性選手との契約の禁止 ===
{{mlby|1952|d=y}}、MLBは女性選手との契約締結を禁止した。その禁止条項は{{mlby|1992|d=y}}に解除されたが、その後も女性選手との契約は現在まで存在しない<ref>{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/848071-are-women-the-next-demographic-to-integrate-into-major-league-baseball|title=Are Women the Next Demographic to Integrate into Major League Baseball?|accessdate=September 13, 2011}}</ref>。
=== 編成と拡張 ===
[[File:Dodger Stadium.jpg|thumb|[[ドジャー・スタジアム]] (2007年)]]
[[ファイル:Angelstadiummarch2019.jpg|thumb|[[エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム]](2019年)]]
1901年から{{mlby|1953|d=y}}までの間、2つのメジャーリーグは8チームのリーグで構成されていた。16チームは[[アメリカ合衆国北東部|アメリカ北東部]]と[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]の10都市に集中していた。[[ニューヨーク]]に3チーム、[[ボストン]]、[[シカゴ]]、[[フィラデルフィア]]、[[セントルイス]]には各2チーム存在していた。当時はセントルイスが最南端と最西端だった。最も距離の遠いボストンからセントルイスへの距離は、鉄道で約24時間の距離であった。
{{mlby|1953|d=y}}、低迷していた[[アトランタ・ブレーブス|ボストン・ブレーブス]]が本拠地を[[ミルウォーキー]]へ移転し、観客動員が28万人から182万人へ増加。以後、本拠地の移転が起きることに。{{mlby|1954|d=y}}、[[ボルチモア・オリオールズ|セントルイス・ブラウンズ]]は[[ボルチモア]]に移転。{{mlby|1955|d=y}}、[[オークランド・アスレチックス|フィラデルフィア・アスレチックス]]は[[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]へ移転した。
野球専門家の間で、「この頃の初期拡大期に最も影響力があったオーナー」と考えられている[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]のオーナー、[[ウォルター・オマリー]]は<ref>{{cite web|url=http://web.baseballhalloffame.org/news/article.jsp?ymd=20071203&content_id=5714&vkey=hof_pr|title=Veterans elect five into Hall of Fame: Two managers, three executives comprise Class of 2008|accessdate=January 19, 2008|publisher=National Baseball Hall of Fame and Museum|date=December 3, 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071204185637/http://web.baseballhalloffame.org/news/article.jsp?ymd=20071203&content_id=5714&vkey=hof_pr|archivedate=2007年12月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、{{mlby|1958|d=y}}シーズンの前に、彼はブルックリン・ドジャースを西海岸にある[[ロサンゼルス]]に移した<ref name="FYOL" />。オマリーが[[タイム (雑誌)|TIME]]誌の表紙になるほどの大事件だった<ref>{{cite news|url=http://www.time.com/time/covers/0,16641,19580428,00.html|title=Walter O'Malley|accessdate=April 28, 2008|date=April 28, 1958|work=Time}}</ref>。全米一の熱狂度と評されていたニューヨークのファンから「世界三大悪人は[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、そしてオマリー」と非難された<ref name="sul200705"/>。さらにオマリーは、ライバルの[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]]に[[サンフランシスコ]]への移転を持ちかけた。ジャイアンツは1950年代に入り成績、観客動員ともに落ち込み、本拠地[[ポロ・グラウンズ]]の老朽化もあり、球団幹部はニューヨークからの脱出を考えていた時だった。ドジャースが単独で西に移動した場合、最も近いチームでもセントルイス・カーディナルズの1,600マイル(2,575 km)もあった<ref>{{cite web|url=http://www.aatimetable.com/aa.pdf|format=PDF|title=Worldwide Timetable|publisher=American Airlines|accessdate=November 24, 2007|date=November 1, 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070312174659/http://www.aatimetable.com/aa.pdf|archivedate=2007年3月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://welcome.warnercnr.colostate.edu/class_info/nr502/lg1/map_projections/latitude_longitude.html|title=Identifying Locations|publisher=colostate.edu|accessdate=November 24, 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080208115342/http://welcome.warnercnr.colostate.edu/class_info/nr502/lg1/map_projections/latitude_longitude.html|archivedate=2008年2月8日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。1球団より2球団で移転した方が、西海岸の遠征が訪問チームにとって経済的だろうとの目的だった<ref name="WiW">{{cite news|title=Walter in Wonderland|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,868429,00.html|work=Time|date=April 28, 1958|accessdate=April 28, 2008 }}</ref>。オマリーは[[:en:George Christopher|ジョージ・クリストファー]]・サンフランシスコ市長をニューヨークに招き、ジャイアンツのオーナーである[[:en:Horace Stoneham|ホーナス・ストーンハム]]と面会させた。ストーンハムは[[ミネソタ州]]に移転することを検討していたが、{{mlby|1957|d=y}}末に西海岸に移転することを決めた。この会合は、コミッショナーの[[フォード・フリック]]の要望を無視して行われた<ref>{{cite news|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,809519,00.html|title=Scoreboard|accessdate=April 30, 2008|date=May 20, 1957|publisher=Time, Inc.|work=Time}}</ref>。結果的に2チームの動きは、フランチャイズとMLBの両方にとって大成功だった。ドジャースは1試合で78,672人の観客を動員し、MLBにおける1試合での最多動員記録を叩きだした<ref name="FYOL">{{cite book|title=After many a summer: the passing of the Giants and Dodgers and a golden age in New York baseball|first=Robert|last=Murphy|year=2009|location=New York|publisher=Sterling|isbn=978-1-4027-6068-6}}</ref>。一方、3チームのうち2チームを失ったニューヨークでは球団を取り戻す機運が高まり、リーグ拡大の契機となった<ref name="sul200705">出野哲也 「歴史が動いた日-1958年4月15日 ドジャースとジャイアンツ西海岸移転後初の公式戦」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2007年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2007年、雑誌15509-5、90 - 92頁。</ref>。
{| class="wikitable" style="float:left; text-align:center; font-size:small; margin-right:2em"
|+ リーグのチーム数増加の推移
! rowspan="2"|年度
! colspan="3"| [[アメリカンリーグ]](AL)
! colspan="3"| [[ナショナルリーグ]](NL)
! rowspan="2"|チーム<br />総数
|-
!東!!中!!西!!東!!中!!西
|-
|{{mlby|1901|d=y}}||colspan="3"|8||colspan="3"|8||16
|-
|{{mlby|1961|d=y}}||colspan="3"|10||colspan="3"|8||18
|-
|{{mlby|1962|d=y}}||colspan="3"|10||colspan="3"|10||20
|-
|{{mlby|1969|d=y}}||6||-||6||6||-||6||24
|-
|{{mlby|1977|d=y}}||7||-||7||6||-||6||26
|-
|{{mlby|1993|d=y}}||7||-||7||7||-||7||28
|-
|{{mlby|1994|d=y}}||5||5||4||5||5||4||28
|-
|{{mlby|1998|d=y}}||5||5||4||5||6||5||30
|-
|{{mlby|2013|d=y}}||5||5||5||5||5||5||30
|}
{{mlby|1961|d=y}}、[[ミネソタ・ツインズ|ワシントン・セネターズ]]が[[ミネアポリス]]に移りミネソタ・ツインズとなった。同年、[[ロサンゼルス・エンゼルス]]と移転したセネターズの代わりに新しく作られた[[テキサス・レンジャーズ|ワシントン・セネターズ]]の2チームがアメリカンリーグに加盟。続けて翌{{mlby|1962|d=y}}、ナショナルリーグには[[ヒューストン・アストロズ|ヒューストン・コルト45’s]]と[[ニューヨーク・メッツ]]が加盟。コルト45’s(4年目からアストロズに改称)は、1899年に[[ルイビル・カーネルズ]]がなくなって以来初めての[[アメリカ合衆国南部|南部]]を本拠地とするチームとなった。メッツは、大都市ニューヨークに復活したチームとして多大な期待を受けたが、最初のシーズンで40勝120敗と大敗し、無駄なチームを作ってしまったとファンを落胆させた。その後も最下位が定位置と成りつつあったが、創立8年目の{{mlby|1969|d=y}}、突如100勝62敗の好成績でリーグ初優勝。そのままワールドシリーズも制してしまった。結果的にメッツは1960年前半に加入した4チームでワールドシリーズタイトルを獲得した最初のチームになった。
{{mlby|1966|d=y}}、MLBは[[アトランタ・ブレーブス|ミルウォーキー・ブレーブス]]が[[アトランタ]]に移り「[[ディープ・サウス]]」に進出。{{mlby|1968|d=y}}、[[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]]はさらに西の[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]に移転した。{{mlby|1969|d=y}}、両リーグはそれぞれ2チームの拡張フランチャイズを迎え入れた。アメリカンリーグは、[[ミルウォーキー・ブルワーズ|シアトル・パイロッツ]]([[シアトル]]で悲惨な1シーズンをおくった後にミルウォーキーに移転)と[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]を加えた。ナショナルリーグは、[[サンディエゴ・パドレス]]と、初のアメリカ国外の[[カナダ]]フランチャイズとなった、[[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポズ]]を加えた。これによって、両リーグ12チームと巨大化したため、この年から東西2地区制に移行した。2地区に分かれたことで優勝チームが2チームとなったためワールドシリーズの前哨戦として[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]が始まった。
{{mlby|1972|d=y}}、[[テキサス・レンジャーズ|ワシントン・セネターズ]]は[[アーリントン (テキサス州)|アーリントン]]に移り、テキサス・レンジャーズになった。{{mlby|1977|d=y}}、アメリカンリーグが再び拡大、[[シアトル・マリナーズ]]とカナダ第2のチーム、[[トロント・ブルージェイズ]]が加わった。その後、しばらく新しいチームは追加されず、1990年代までチームの移転もなかった。{{mlby|1993|d=y}}、ナショナルリーグは[[マイアミ]]の[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]、[[デンバー]]の[[コロラド・ロッキーズ]]を加えた。翌{{mlby|1994|d=y}}、東中西3地区制に移行した。{{mlby|1998|d=y}}、ナショナルリーグは西地区に[[フェニックス]]の[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]、アメリカンリーグは東地区に[[フロリダ]]・[[タンパ]]の[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]が加わった。タイガースがアメリカンリーグ東部地区から中部地区に、リーグのバランスをとるため、ブルワーズがアメリカンリーグ中地区からナショナルリーグ中地区に移動。リーグ間の移動が初めて行われた。
{{mlby|2001|d=y}}のシーズン後、オーナー会議が開かれリーグの縮小、いくつかのチームの廃止が検討され、多くのオーナーによって縮小に賛成票が投じられた。その中でモントリオール・エクスポズとミネソタ・ツインズが廃止に最も近い2チームであった。しかし、ツインズが{{mlby|2002|d=y}}シーズンのプレーを要求した裁判所命令を受け、MLBの縮小計画は中止された。MLBのオーナーは、少なくとも2006年までリーグの縮小をしないことに同意した<ref name="Plans">{{cite web|title=Plans involving Angels and A's never seriously considered|url=http://a.espncdn.com/mlb/news/2003/0311/1522058.html|publisher=[[ESPN.com]]|accessdate=November 24, 2013}}</ref>。エクスポズは、深刻な財政難で球団経営が行き詰まり、30年以上なかった本拠地の移転が行われ、{{mlby|2005|d=y}}にワシントン・ナショナルズとなった。結果、セネタースがテキサスに移転して以来33年間不在だったチームをアメリカの首都に戻すことになった。一方[[モントリオール]]は[[フェデラルリーグ]]を除き、1901年以来MLBの本拠地があった都市で現在チームを運営していない唯一の都市となっている。
{{mlby|2013|d=y}}、[[インターリーグ]]の開催時期が見直され、試合のスケジュールの関係でチーム数のバランスが悪かった地区の整理が行われた。ヒューストン・アストロズがナショナルリーグ中地区からアメリカンリーグ西地区に移動。前述のブルワーズ以来2例目となるリーグ間の移動となった。これで全地区5チームずつの均等配置となった。
2018年7月17日、MLB機構の[[ロブ・マンフレッド]]がテレビ番組内にて、'''32球団'''に拡張する意向を示した。 候補地として[[ラスベガス]]や[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]、[[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット]]や[[ナッシュビル]]、[[モントリオール]]と[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]の6都市を挙げた。その上、[[メキシコ]]についても「長い目で見ればあり得る」と語った<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/20/kiji/20180720s00001007189000c.html 大リーグ球団拡張 コミッショナーがラスベガスなど6都市をリストアップ] スポーツニッポン、2018年7月21日閲覧</ref>。
=== 投高打低とルールの改定 ===
[[File:MLB runs.png|thumb|1試合当たりの得点の変化|300px]]
1960年代後半、一旦は打者有利の時代になった野球は再び投手有利の時代になっていた。この時期の1試合あたりの得点は過去最低だった1900年後半の水準まで落ち込んだ<ref name="yearofthepitcher">"[http://sportsillustrated.cnn.com/baseball/mlb/news/1998/08/04/1968_pitchers/ 1968 – The Year of the Pitcher]" ''Sports Illustrated'', August 4, 1998. {{wayback|url=http://sportsillustrated.cnn.com/baseball/mlb/news/1998/08/04/1968_pitchers/ |date=20130521002248 }}</ref>。[[ボストン・レッドソックス]]の[[カール・ヤストレムスキー]]は、{{mlby|1968|d=y}}にメジャーリーグの歴史の中で最も低い.301の打率でアメリカンリーグの[[首位打者]]となった<ref name="yaz">{{cite web|url=http://www.baseball-almanac.com/hitting/hibavg3.shtml|title=Year by Year Leaders for Batting Average|accessdate=September 8, 2008|publisher=baseball-almanac.com}}</ref>。[[デトロイト・タイガース]]の[[デニー・マクレイン]]は31勝を記録し、{{mlby|1934|d=y}}の[[ディジー・ディーン]]以来、1シーズン30勝した唯一の投手となった<ref name="denny">{{cite web |url=http://info.detnews.com/redesign/history/story/historytemplate.cfm?id=162 |title=When Denny McLain stood baseball on its ear |accessdate=September 8, 2008 |author=Bailey, Mary |year=2000 |work=The Detroit News |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090113182959/http://info.detnews.com/redesign/history/story/historytemplate.cfm?id=162 |archivedate=2009年1月13日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。[[セントルイス・カージナルス]]の投手[[ボブ・ギブソン]]は、わずか[[防御率]]1.12を達成することで同様の偉業を達成した<ref name="gibson">{{cite web|url=http://www.baseball-reference.com/g/gibsobo01.shtml|title=Bob Gibson Statistics|accessdate=September 8, 2008|publisher=baseball-reference.com}}</ref>。リーグ全体でも投手全体の平均防御率が1919年以来の2点代となり<ref>{{cite web|url=http://www.baseball-reference.com/leagues/AL/pitch.shtml|title=American League Pitching Encyclopedia|accessdate=2017/2/3|publisher=baseball-reference.com}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.baseball-reference.com/leagues/NL/pitch.shtml|title=National League Pitching Encyclopediaistics|accessdate=2017/2/3|publisher=baseball-reference.com}}</ref>、アメリカンリーグの平均打率にいたっては.230とMLB至上最低を記録した<ref>{{cite web|url=http://www.baseball-reference.com/leagues/AL/bat.shtml|title=American League Batting Encyclopedia|accessdate=2017/2/3|publisher=baseball-reference.com}}</ref>。
1968年12月、MLBのプレールール委員会は投打の均衡を保つため{{mlby|1969|d=y}}のシーズンから、従来の肩から膝までのストライクゾーンを肩から脇の下まで引き下げ、投手のマウンドの高さを15インチ(38.1センチメートル)から10インチ(25.4センチメートル)に下げることを決めた<ref name="mound">{{cite news |url=http://vault.sportsillustrated.cnn.com/vault/article/magazine/MAG1082211/index.htm |title=From Mountain To Molehill |accessdate=March 9, 2009 |author=William Leggett |work=[[Sports Illustrated]] |date=March 24, 1969 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120826001422/http://vault.sportsillustrated.cnn.com/vault/article/magazine/MAG1082211/index.htm |archivedate=2012年8月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
{{mlby|1973|d=y}}、ナショナルリーグよりもはるかに低い出場率で苦しんでいたアメリカンリーグは、打者の負担を減らし得点倍増を目指し、[[指名打者]](DH)制を導入した<ref name="dh">{{cite web|url=http://static.espn.go.com/mlb/s/2003/0327/1530427.html|title=Blomberg first permanent pinch-hitter|accessdate=September 8, 2008|author=Merron, Jeff|year=2003|publisher=[[ESPN.com]]}}</ref>。2022年のシーズンからはナショナルリーグでも指名打者制が採用される予定である。
=== 球場建築ラッシュと人工芝の流行 ===
[[File:Reliant Astrodome.jpg|thumb|世界初の[[ドーム球場]]アストロドーム]]
{{Main|ドーム球場|野球場#人工芝}}
1960年代から1970年代にかけて、老朽化した野球場の立て替えとリーグ拡大によりできた新球団の新球場の建設ラッシュが起こった。この頃の流行は多目的球場とドーム球場だった。
野球人気が拡大する中[[NFL]]も急速に発展しており、野球と[[アメリカンフットボール]]両方のプロチームを持つ都市の多くは、野球のみを目的とした施設ではなく、両方ができる施設を建設したほうが経済的だったことから、{{mlby|1953|d=y}}に開場した[[ミルウォーキー・カウンティ・スタジアム]]を皮切りに多目的球場が多く建設された<ref>{{cite news|url=http://bleacherreport.com/articles/260764-timeline-artificial-turf-in-major-league-baseball|title=Timeline: Artificial turf in Major League Baseball|work=Bleacher Report|date=September 24, 2009|accessdate=October 13, 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131024070428/http://bleacherreport.com/articles/260764-timeline-artificial-turf-in-major-league-baseball|archivedate=2013年10月24日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。多目的球場は野球とフットボールの両方を収容する必要があり楕円形のデザインをしていたため、古いスタジアムよりも相対的にいびつな野球場の形になってしまった。いびつで広いグラウンドは普通の広さの外野であれば本塁打になるはずの打球がただの外野フライになったり、ファールがフライアウトになったりという現象がたびたび起こった。このような特徴はプロ野球の本質を変え、本塁打や打撃力よりも防御率の高さが目立つ結果となった。
{{mlby|1965|d=y}}、世界初の全天候型屋根付き球場[[アストロドーム]]が開場。球場に屋根を付ける発想は、アストロズの本拠地[[ヒューストン]]が夏は高温多湿で雨が多く蚊の大量発生にも悩まされる、そんな気候に左右されない快適な環境をとの発想からだった。開場当初は屋外球場と同じ環境でプレーできるように透明のアクリル屋根であったが、光が選手の目に入りプレーに支障をきたすことから、すぐに太陽光を通さないパネルに替えられた。この際、球場内の芝が光を遮られたことで枯れてしまう問題が起きた。それを解消するため世界初の繊維による[[人工芝]]「アストロターフ」が開発された。アストロターフは維持コストが安く天然芝からの転換も容易なことから多くの野球場で採用された。人工芝は打球が早くなる特徴があり、今までより盗塁とスピードが重要視されるようになった。人工芝の表面はボールがより速く移動し、より高く跳ねたので、三遊間や一二塁間の「穴」を通しやすくなり盗塁もしやすくなった。チームは投手を中心にした構成に転換していった。投手の球速を保つため[[中継ぎ]]がより重要視されるようになった。そのため[[先発投手]]は試合を[[完投]]する必要はなくなった。先発投手は6から7イニングを投げて中継ぎにつなぐだけで十分だった。この頃は盗塁の増加に反比例して本塁打数は減少した。本塁打は[[ウィリー・メイズ]]が1965年に52本を打った後、50本を超えたのは1990年まで[[ジョージ・フォスター]]が1977年に到達したのみだった。
1980年代、多くの球場で採用された人工芝であったが、下地がコンクリートやアスファルトで固く選手の足腰に負担がかかるという声があがるようになる。{{mlby|1989|d=y}}、世界初の開閉式屋根付き球場の[[ロジャーズ・センター|スカイドーム]]が開場すると、屋根付きでありながら天然芝の生育が可能となる<ref group="注">ただしスカイドームはグラウンドは引き続き[[人工芝]]であった。屋根付きでの天然芝球場は{{mlby|1998|d=y}}開場の[[チェイス・フィールド|バンクワン・ボールパーク]]が最初となる。</ref>。{{mlby|1992|d=y}}、天然芝の[[オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ]]が開場すると、[[レトロ]]回帰の新古典式野球専用球場が主流となっていき、徐々に人工芝の球場は減少していった。
=== 現代野球と薬物問題 ===
{{Main2|詳細は「[[メジャーリーグベースボール#戦力均衡策|戦力均衡策]]」の項および「[[メジャーリーグベースボールのドーピング問題|MLBのドーピング問題]]」を}}
{{mlby|1994|d=y}}、[[サラリーキャップ]]制度導入を巡って経営者側と[[メジャーリーグベースボール選手会|選手会]]側が対立し、シーズン最中の8月から翌1995年4月にかけて[[1994年から1995年のMLBストライキ|MLB史上最長のストライキ]]が発生。ストライキは232日間にわたり、[[1994年のワールドシリーズ]]も中止された。[[メジャーリーグベースボール選手会|選手会]]との協議の結果サラリーキャップ制度の導入は見送られたが、選手の報酬総額が相対的に高い球団に対する課徴金制度(ぜいたく税)が導入された。このストライキで一時大規模なファン離れが生じる結果となってしまった。
{{mlby|1995|d=y}}、ドジャースに[[野茂英雄]]が入団。マイナー契約(40人枠外での契約)であったが5月にMLBへ昇格し、デビューすると13勝と活躍し新人王を獲得した。この日本人の活躍は国外の市場を開拓する契機となり、のちに多くの海外出身選手がメジャーデビューした。{{mlby|1997|d=y}}、MLB以外の[[北米4大プロスポーツリーグ|プロスポーツリーグ]]では積極的に行われてきた[[インターリーグ]]を導入。これまで[[サブウェイ・シリーズ]]のニューヨーク・ヤンキース対ニューヨーク・メッツに代表される同都市にあるチーム同士の対戦はワールドシリーズでしかかなわなかったため、好カードがレギュラーシーズンで見られるとあってファンには好評価であった。
{{mlby|1998|d=y}}の[[マーク・マグワイア]]と[[サミー・ソーサ]]による[[1998年のMLBシーズン最多本塁打記録対決|シーズン最多本塁打記録争い]]などで盛り上がり、観客数もスト前の水準に回復した。1990年代後半から2000年代前半に本塁打量産ブームが起き、{{mlby|2001|d=y}}には[[バリー・ボンズ]]が73本塁打を放ち、現在のシーズン本塁打記録を樹立した。しかし{{mlby|2007|d=y}}12月13日に発表された[[ミッチェル報告書]]と呼ばれる報告書では89人の実名が挙げられ、その中にはバリー・ボンズ、[[アレックス・ロドリゲス]]、[[マニー・ラミレス]]、マーク・マグワイア、[[ラファエル・パルメイロ]]、[[ジェイソン・ジアンビ]]、[[ホセ・カンセコ]]ら多くのMLBを代表する強打者が[[アナボリックステロイド]]を使用していたことが後に判明した。
強打者が増えてくる中、投手は打者のパワーに対抗するため、様々な球種を開発する必要があった。[[ジャイロボール]]<ref name="gyroball">{{cite web|url=https://sports.yahoo.com/mlb/news?slug=jp-gyro031306&prov=yhoo&type=lgns|title=Searching for baseball's Bigfoot|accessdate=September 6, 2008|author=Jeff Passan|year=2006|publisher=Yahoo! Sports}}</ref>のような新しい球種は、力のバランスを守備側に戻すことができた。1950年代から1960年代の[[スライダー (球種)|スライダー]]や1970年代から1990年代の[[フォークボール#スプリットフィンガード・ファストボール|スプリットフィンガーファストボール]]などの球種で野球の試合が変わった。1990年代には[[チェンジアップ]]が復活し、[[トレバー・ホフマン]]、[[グレッグ・マダックス]]、[[ジェイミー・モイヤー]]、[[トム・グラビン]]、[[ヨハン・サンタナ]]、[[ペドロ・マルティネス]]、[[ティム・リンスカム]]などの投手によって巧みに投げられた。近年、リンスカム、[[ジョナサン・サンチェス]]、[[ウバルド・ヒメネス]]などの投手はスプリットの握りでチェンジアップを投げる、「スプリット・チェンジ」を投げるようになった<ref name="maddux">{{cite news|url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m0FIH/is_n5_v65/ai_n18606862|title=What makes Greg Maddux so good and can we teach it?|accessdate=September 9, 2008|author=Mazzoni, Wayne|year=1995|publisher=findarticles.com}}{{dead link|date=January 2016}}</ref><ref name="glavine">{{cite web|url=http://www.hardballtimes.com/main/article/anatomy-of-a-player-tom-glavine/|title=Anatomy of a player: Tom Glavine|accessdate=September 9, 2008|author=Kalk, Josh|year=2007|publisher=hardballtimes.com}}</ref><ref name="santana">{{cite news|url=http://www.nytimes.com/2008/03/03/sports/baseball/03santana.html?_r=1&ex=1205211600&en=32bc22a3d855ca04&ei=5070&emc=eta1&oref=slogin|title=Santana's Changeup: Hitters Never See It Coming|accessdate=September 9, 2008|author=Curry, Jack|work=The New York Times|date=March 3, 2008}}</ref><ref name="Shaikin">{{cite news|last=Shaikin|first=Bill|title=Anaheim Sues the Angels|url=http://articles.latimes.com/2005/jan/06/sports/sp-angels6|accessdate=June 28, 2013|work=Los Angeles Times|date=January 6, 2005}}</ref>。
{{mlby|2008|d=y}}に[[野球のビデオ判定|ビデオ判定]]が導入され、{{mlby|2014|d=y}}からはその範囲が拡大されチャレンジ方式が採用された<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20130817-1174575.html MLB誤審89%減へ 来季ビデオ判定拡大]</ref><ref>[http://www.tsp21.com/sports/mlb/news2014/0116.html メジャーリーグ大改革ビデオ判定を大幅拡大]</ref><ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20140327/mlb14032712350013-n1.html 大リーグ、10億円かけビデオ判定センター始動へ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140822141931/http://www.sanspo.com/baseball/news/20140327/mlb14032712350013-n1.html |date=2014年8月22日 }}</ref>。
[[ギャラップ (企業)|ギャラップ調査]]によれば「一番見るのが好きなスポーツ」は1960年代半ばにアメフトが野球に代わってトップに立った。以後その差は開くばかりで、2017年の調査ではアメフトが37%、野球は9%と4倍以上の差になっており<ref>[https://thedigestweb.com/baseball/detail/id=72090?open=on 「世界的にはマイナースポーツ」「アメリカでの人気は低下」...某女性タレントの発言から考える野球の“真の世界的人気”<SLUGGER>(1/3ページ)] THE DIGEST 2023.09.08 (2023年10月6日閲覧)</ref>、MLB人気がマイナー化したことがうかがえる。
== 所属チーム(アメリカンリーグ・ナショナルリーグ) ==
'''WS''':ワールドシリーズ優勝回数、'''LS''':リーグ優勝回数、'''DS''':地区優勝回数、'''WC''':ワイルドカード回数
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small"
! A<br />N
! 地 区
! チーム
!
! 創<br />設
! 加<br />盟
! 改<br />名
! 本拠地
!W<br />S
!L<br />S
!D<br />S
!W<br />C
|-
! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
|- style="vertical-align:top;"
| rowspan="15" style="background-color: #845; text-align: center;" nowrap |'''[[アメリカンリーグ|<span style="color: #FFF;">A<span style="font-size:80%">L</span></span>]]'''<br /><br />
| rowspan="5" style="background-color: #eaecf0; text-align: right" |{{None|1}}'''[[アメリカンリーグ東地区|東]]'''
| [[ボルチモア・オリオールズ|ボルチモア・'''オリオールズ''']]<br />'''''Baltimore Orioles (BAL)'''''
| style="background-color: #000; center; border-color:#F83 #F83 #F83 #F83;" |{{None|オリオールズ}}'''<span style="color: #F83;">O<span style="font-size:85%">'s</span></span>'''
| 1894
| {{mlby|1901}}
| 1954
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Maryland}} [[メリーランド州]][[ボルチモア]]<br />[[オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ|オリオールパーク・アット・カムデンヤーズ]]
| style="text-align:center;" |3
| style="text-align:center;" |7
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |3
|- style="vertical-align:top;"
| [[ボストン・レッドソックス|ボストン・'''レッドソックス''']]<br />'''''Boston Red Sox (BOS)'''''
| style="background-color: #0D2B56; text-align: center;" |{{None|レッドソックス}}{{縁取り|B|文字色=#BD3039|縁取り色=#FFF}}
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1901}}
| 1908
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Massachusetts}} [[マサチューセッツ州]][[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン]]<br />[[フェンウェイ・パーク]]
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |14
| style="text-align:center;" |10
| style="text-align:center;" |8
|- style="vertical-align:top;"
| [[ニューヨーク・ヤンキース|ニューヨーク・'''ヤンキース''']]<br />'''''New York Yankees (NYY)'''''
| style="background-color: #132448; text-align: center;" |{{None|ヤンキース}}'''<span style="color: #FFF;">NY</span>'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1901}}
| 1913
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|New York}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]・[[ブロンクス区|ブロンクス]]<br />[[ヤンキー・スタジアム]]
| style="text-align:center;" |'''27'''
| style="text-align:center;" |'''40'''
| style="text-align:center;" |20
| style="text-align:center;" |'''9'''
|- style="vertical-align:top;"
| [[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・'''レイズ''']]<br />'''''Tampa Bay Rays (TB)'''''
| style="background-color: #092C5C; text-align: center;" |{{None|レイズ}}'''<span style="color: #FFF;">T<sub>B</sub></span>'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1998}}
| 2008
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Florida}} [[フロリダ州]][[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]]<br />[[トロピカーナ・フィールド]]
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |4
| style="text-align:center;" |4
|- style="vertical-align:top;"
| [[トロント・ブルージェイズ|トロント・'''ブルージェイズ''']]<br />'''''Toronto Blue Jays (TOR)'''''
| style="background-color: #134A8E; text-align: center; border-color:#FFF #FFF #FFF #FFF;" |{{None|ブルージェイズ}}
| colspan="3" style="text-align:center;" | {{mlby|1977}}
| {{flagicon|CAN}}{{Flagicon|Ontario}} [[オンタリオ州]][[トロント]]<br />[[ロジャーズ・センター]]
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |6
| style="text-align:center;" |3
|- style="vertical-align:top;"
| rowspan="5" style="background-color: #f8f9fa; text-align: center;" |{{None|2}}'''[[アメリカンリーグ中地区|中]]'''
| [[シカゴ・ホワイトソックス|シカゴ・'''ホワイトソックス''']]<br />'''''Chicago White Sox (CWS)'''''
| style="background-color: #000; text-align: center;" |<span style="font-size:85%">{{None|ホワイトソックス}}{{font color|white|<sup>S</sup>o<sub>x</sub>}}</span>
| 1894
| {{mlby|1901}}
| 1904
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Illinois}} [[イリノイ州]][[シカゴ]]<br />[[ギャランティード・レート・フィールド]]
| style="text-align:center;" |3
| style="text-align:center;" |6
| style="text-align:center;" |6
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| [[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・'''ガーディアンズ''']]<br />'''''Cleveland Guardians (CLE)'''''
| style="background-color: #002B5C; text-align: center; border-color:#E31937 #E31937 #E31937 #E31937;" |{{None|ガーディアンズ}}{{縁取り|C|文字色=#E31937|縁取り色=#FFF}}
| 1894
| {{mlby|1901}}
| 2022
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Ohio}} [[オハイオ州]][[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]<br />[[プログレッシブ・フィールド]]
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |6
| style="text-align:center;" |11
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| [[デトロイト・タイガース|デトロイト・'''タイガース''']]<br />'''''Detroit Tigers (DET)'''''
| style="background-color: #0C2C56; text-align: center;" |{{None|タイガース}}'''<span style="color: #FFF;">D</span>'''
| 1894
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1901}}
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Michigan}} [[ミシガン州]][[デトロイト (ミシガン州)|デトロイト]]<br />[[コメリカ・パーク]]
| style="text-align:center;" |4
| style="text-align:center;" |11
| style="text-align:center;" |7
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| [[カンザスシティ・ロイヤルズ|カンザスシティ・'''ロイヤルズ''']]<br />'''''Kansas City Royals (KC)'''''
| style="background-color: #004687; text-align: center;" |{{None|ロイヤルズ}}'''<span style="color: #FFF;">K<sub>C</sub></span>'''
| colspan="3" style="text-align:center;" | {{mlby|1969}}
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Missouri}} [[ミズーリ州]][[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]<br />[[カウフマン・スタジアム]]
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |4
| style="text-align:center;" |7
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| [[ミネソタ・ツインズ|ミネソタ・'''ツインズ''']]<br />'''''Minnesota Twins (MIN)'''''
| style="background-color: #002B5C; text-align: center;" |{{None|ツインズ}}{{縁取り|T|文字色=#FFF|縁取り色=#C09A5B}}{{縁取り|C|文字色=#D31145|縁取り色=#C09A5B}}
| 1894
| {{mlby|1901}}
| 1961
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Minnesota}} [[ミネソタ州]][[ミネアポリス (ミネソタ州)|ミネアポリス]]<br />[[ターゲット・フィールド]]
| style="text-align:center;" |3
| style="text-align:center;" |6
| style="text-align:center;" |12
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| rowspan="5" style="background-color:#FDFDFD; text-align: left;" |{{None|3}}'''[[アメリカンリーグ西地区|西]]'''
| [[ヒューストン・アストロズ|ヒューストン・'''アストロズ''']]<br />'''''Houston Astros (HOU)'''''
| style="background-color: #002D62; text-align: center;" |{{None|アストロズ}}'''{{縁取り|H|文字色=#FFF|縁取り色=#EB6E1F}}'''
| {{mlby|1962}}
| {{mlby|2013}}
| 1965
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Texas}} [[テキサス州]][[ヒューストン]]<br />[[ミニッツメイド・パーク]]
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |5
| style="text-align:center;" |11
| style="text-align:center;" |4
|- style="vertical-align:top;"
| [[ロサンゼルス・エンゼルス|ロサンゼルス・'''エンゼルス''']]<br />'''''Los Angeles Angels (LAA)'''''
| style="background-color: #BA0021; text-align: center; border-color:#003263 #003263 #003263 #003263;" |{{None|エンゼルス}}{{縁取り|A|文字色=#BA0021|縁取り色=#FFF}}
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1961}}
| 2016
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|California}} [[カリフォルニア州]][[アナハイム]]<br />[[エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム]]
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| [[オークランド・アスレチックス|オークランド・'''アスレチックス''']]<br />'''''Oakland Athletics (OAK)'''''
| style="background-color: #003831; text-align: center; border-color:#EFB21E #EFB21E #EFB21E #EFB21E;" |{{None|アスレチックス}}'''<span style="color: #FFF;">A<span style="font-size:85%">'s</span></span>'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1901}}
| 1968
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|California}} [[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]<br />[[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |15
| style="text-align:center;" |17
| style="text-align:center;" |4
|- style="vertical-align:top;"
| [[シアトル・マリナーズ|シアトル・'''マリナーズ''']]<br />'''''Seattle Mariners (SEA)'''''
| style="background-color: #0C2C56; text-align: center; border-color:#0CC #0CC #0CC 0CC;" |{{None|マリナーズ}}'''{{縁取り|S|文字色=#FFF|縁取り色=#0CC}}'''
| colspan="3" style="text-align:center;" | {{mlby|1977}}
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Washington}} [[ワシントン州]][[シアトル]]<br />[[T-モバイル・パーク]]
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |3
| style="text-align:center;" |2
|- style="vertical-align:top;"
| [[テキサス・レンジャーズ|テキサス・'''レンジャーズ''']]<br />'''''Texas Rangers (TEX)'''''
| style="background-color: #003278; text-align: center;" |{{None|レンジャーズ}}'''{{縁取り|T|文字色=#FFF|縁取り色=#C0111F}}'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1961}}
| 1972
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Texas}} [[テキサス州]][[アーリントン (テキサス州)|アーリントン]]<br />[[グローブライフ・フィールド]]
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |7
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| rowspan="15" style="background-color: #588; text-align: center;" nowrap |'''[[ナショナルリーグ|<span style="color: #FFF;">N<span style="font-size:80%">L</span></span>]]'''<br /><br />
| rowspan="5" style="background-color:#eaecf0; text-align: right;" |{{None|1}}'''[[ナショナルリーグ東地区|東]]'''
| [[アトランタ・ブレーブス|アトランタ・'''ブレーブス''']]<br />'''''Atlanta Braves (ATL)'''''
| style="background-color: #13274F; text-align: center; border-color:#CF1141 #CF1141 #CF1141 #CF1141;" |{{None|ブレーブス}}'''<span style="color: #FFF;">A</span>'''
| 1871
| {{mlby|1876}}
| 1966
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Georgia (U.S. state)}} [[ジョージア州]][[:en:Cumberland, Georgia|カンバーランド]]<br />[[トゥルーイスト・パーク]]
| style="text-align:center;" |4
| style="text-align:center;" |18
| style="text-align:center;" |'''22'''
| style="text-align:center;" |2
|- style="vertical-align:top;"
| [[マイアミ・マーリンズ|マイアミ・'''マーリンズ''']]<br />'''''Miami Marlins (MIA)'''''
| style="background-color: #000; text-align: center;" |{{None|マーリンズ}}'''{{縁取り|M|文字色=#000|縁取り色=#00BBFF}}'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1993}}
| 2012
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Florida}} [[フロリダ州]][[マイアミ]]<br />[[ローンデポ・パーク]]
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |3
|- style="vertical-align:top;"
| [[ニューヨーク・メッツ|ニューヨーク・'''メッツ''']]<br />'''''New York Mets (NYM)'''''
| style="background-color: #002D72; text-align: center;" |{{None|メッツ}}'''<span style="color: #FF5910;">NY</span>'''
| colspan="3" style="text-align:center;" | {{mlby|1962}}
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|New York}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]・[[クイーンズ]]<br />[[シティ・フィールド]]
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |5
| style="text-align:center;" |6
| style="text-align:center;" |4
|- style="vertical-align:top;"
| [[フィラデルフィア・フィリーズ|フィラデルフィア・'''フィリーズ''']]<br />'''''Philadelphia Phillies (PHI)'''''
| style="background-color: #E81828; text-align: center;" |{{None|フィリーズ}}'''<span style="color: #FFF;">P</span>'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | 1883
| 1890
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Pennsylvania}} [[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]<br />[[シチズンズ・バンク・パーク]]
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |8
| style="text-align:center;" |11
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| nowrap | [[ワシントン・ナショナルズ|ワシントン・'''ナショナルズ''']]<br />'''''Washington Nationals (WSH)'''''
| style="background-color: #B20710; text-align: center;" |{{None|ナショナルズ}}'''{{縁取り|W|文字色=#FFF|縁取り色=#14225A}}'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | {{mlby|1969}}
| 2005
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Washington, D.C.}} [[ワシントンD.C.]]<br />[[ナショナルズ・パーク]]
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |5
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| rowspan="5" style="background-color: #f8f9fa; text-align: center;" |{{None|2}}'''[[ナショナルリーグ中地区|中]]'''
| [[シカゴ・カブス|シカゴ・'''カブス''']]<br />'''''Chicago Cubs (CHC)'''''
| style="background-color: #0E3386; text-align: center;" |{{None|カブス}}{{縁取り|C|文字色=#D12325|縁取り色=#FFF}}
| 1871
| 1876
| 1902
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Illinois}} [[イリノイ州]][[シカゴ]]<br />[[リグレー・フィールド]]
| style="text-align:center;" |3
| style="text-align:center;" |17
| style="text-align:center;" |8
| style="text-align:center;" |2
|- style="vertical-align:top;"
| [[シンシナティ・レッズ|シンシナティ・'''レッズ''']]<br />'''''Cincinnati Reds (CIN)'''''
| style="background-color: #C6011F; text-align: center;" |{{None|レッズ}}'''{{縁取り|C|文字色=#FFF|縁取り色=#000}}'''
| 1882
| 1890
| 1959
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Ohio}} [[オハイオ州]][[シンシナティ]]<br />[[グレート・アメリカン・ボール・パーク]]
| style="text-align:center;" |5
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |10
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| [[ミルウォーキー・ブルワーズ|ミルウォーキー・'''ブルワーズ''']]<br />'''''Milwaukee Brewers (MIL)'''''
| style="background-color: #12284B; text-align: center; border-color:#FFC52F #FFC52F #FFC52F #FFC52F;" |{{None|ブルワーズ}}{{縁取り|mb|文字色=#12284B|縁取り色=#FFC52F}}
| {{mlby|1969}}
| {{mlby|1998}}
| 1970
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Wisconsin}} [[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]<br />[[アメリカンファミリー・フィールド]]
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |4
| style="text-align:center;" |3
|- style="vertical-align:top;"
| [[ピッツバーグ・パイレーツ|ピッツバーグ・'''パイレーツ''']]<br />'''''Pittsburgh Pirates (PIT)'''''
| style="background-color: #000; text-align: center;" |{{None|パイレーツ}}'''<span style="color: #FDB827;">P</span>'''
| 1882
| 1887
| 1891
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Pennsylvania}} [[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]<br />[[PNCパーク]]
| style="text-align:center;" |5
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |3
|- style="vertical-align:top;"
| [[セントルイス・カージナルス|セントルイス・'''カージナルス''']]<br />'''''St. Louis Cardinals (STL)'''''
| style="background-color: #C41E3A; text-align: center;" nowrap |{{None|カージナルス}}<span style="font-size:90%">{{縁取り|S|文字色=#FFF|縁取り色=#000066}}</span><span style="font-size:80%">{{縁取り|T|文字色=#FFF|縁取り色=#000066}}</span><span style="font-size:90%">{{縁取り|L|文字色=#FFF|縁取り色=#000066}}</span>
| 1882
| 1892
| 1900
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Missouri}} [[ミズーリ州]][[セントルイス]]<br />[[ブッシュ・スタジアム]]
| style="text-align:center;" |11
| style="text-align:center;" |19
| style="text-align:center;" |15
| style="text-align:center;" |5
|- style="vertical-align:top;"
| rowspan="5" style="background-color:#FDFDFD; text-align: left;" |{{None|3}}'''[[ナショナルリーグ西地区|西]]'''
| nowrap | [[アリゾナ・ダイヤモンドバックス|アリゾナ・'''ダイヤモンドバックス''']]<br />'''''Arizona Diamondbacks (AZ)'''''
| style="background-color: #A71930; text-align: center; border-color:#000 #000 #000 #000;" |{{None|ダイヤモンドバックス}}'''{{縁取り|A|文字色=#A71930|縁取り色=#000}}'''
| colspan="3" style="text-align:center;" | {{mlby|1998}}
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Arizona}} [[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]<br />[[チェイス・フィールド]]
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |5
| style="text-align:center;" |1
|- style="vertical-align:top;"
| [[コロラド・ロッキーズ|コロラド・'''ロッキーズ''']]<br />'''''Colorado Rockies (COL)'''''
| style="background-color: #000; text-align: center;" |{{None|ロッキーズ}}{{縁取り|C<sub>R</sub>|文字色=#96C|縁取り色=#FFF}}
| colspan="3" style="text-align:center;" | {{mlby|1993}}
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|Colorado}} [[コロラド州]][[デンバー (コロラド州)|デンバー]]<br />[[クアーズ・フィールド]]
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |1
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |5
|- style="vertical-align:top;"
| [[ロサンゼルス・ドジャース|ロサンゼルス・'''ドジャース''']]<br />'''''Los Angeles Dodgers (LAD)'''''
| style="background-color: #005A9C; text-align: center;" |{{None|ドジャース}}'''<span style="color: #FFF;">L<sub>A</sub></span>'''
| 1883
| 1890
| 1958
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|California}} [[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]<br />[[ドジャー・スタジアム]]
| style="text-align:center;" |7
| style="text-align:center;" |24
| style="text-align:center;" |20
| style="text-align:center;" |3
|- style="vertical-align:top;"
| [[サンディエゴ・パドレス|サンディエゴ・'''パドレス''']]<br />'''''San Diego Padres (SD)'''''
| style="background-color: #2F241D; text-align: center;" |{{None|パドレス}}'''<span style="color: #FFC425;">S<sub>D</sub></span>'''
| colspan="3" style="text-align:center;" | {{mlby|1969}}
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|California}} [[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]<br />[[ペトコ・パーク]]
| style="text-align:center;" |0
| style="text-align:center;" |2
| style="text-align:center;" |5
| style="text-align:center;" |2
|- style="vertical-align:top;"
| [[サンフランシスコ・ジャイアンツ|サンフランシスコ・'''ジャイアンツ''']]<br />'''''San Francisco Giants (SF)'''''
| style="background-color: #000; text-align: center;" |{{None|ジャイアンツ}}'''<span style="color: #FD5A1E;">SF</span>'''
| colspan="2" style="text-align:center;" | 1883
| 1958
| {{flagicon|USA}}{{Flagicon|California}} [[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]<br />[[オラクル・パーク]]
| style="text-align:center;" |8
| style="text-align:center;" |23
| style="text-align:center;" |9
| style="text-align:center;" |3
|}
=== リーグの構成と変遷 ===
{{See also|en:Timeline of Major League Baseball}}
{{MLB Labelled Map|float=right}}
現在、MLBに所属する30チームは[[アメリカ合衆国]]の17の州と[[ワシントンD.C.|コロンビア特別区]]、[[カナダ]]の1州に本拠地を置いている。ナショナルリーグ、アメリカンリーグともに15チームが所属。さらに各リーグに所属するチームは地図上で東中西の3つの地区に分割される。
各地区はすべて5チームずつで構成される。30チームに増加した当初より、各地区5チームごとの同数に分ける案も出されていたが、2012年まではインターリーグが現在の[[日本プロ野球|NPB]]における[[セ・パ交流戦]]と同様に、特定の期間(MLBでは5月から7月の間)のみの集中開催だったため、各リーグ15チームの奇数になった場合試合を組めないチームが必ず1チームでき、年間の試合スケジュールを組むのが困難だったため、当初はアメリカンリーグ(中地区)の1チーム(ミルウォーキー・ブルワーズ)をナショナルリーグ(中地区)に配置しアメリカンリーグを14(東5・中5・西4)チーム、ナショナルリーグを16(東5・中6・西5)チームとしていた。その後、2013年からインターリーグを年間通じて行う方式に改正し、アメリカン・ナショナル両リーグ内の試合を組めない1チーム同士で常に試合が行われることによりこの問題は解消され、同年にナショナルリーグ(中地区)の1チーム(ヒューストン・アストロズ)がアメリカンリーグ(西地区)に配置され、各地区が5チームずつに分けられた。
== 年間スケジュールと試合システム ==
=== スプリングトレーニング ===
{{Main|スプリングトレーニング}}
[[File:Spring training.jpg|thumb|left|250px|スプリングトレーニングの試合風景]]
シーズンが始まる前の2月中旬から3月下旬にかけて日本の[[キャンプ (日本プロ野球)|春季キャンプ]]にあたるスプリングトレーニングが行われる。このキャンプが行われる時期はまだ気温が低く雪が降るなどの地域があるため、暖かい地域の[[アリゾナ州]]と[[フロリダ州]]にある[[マイナーリーグベースボール|マイナーリーグ]]の本拠地がキャンプ地に選ばれている。アリゾナ州をキャンプ地にするチームで'''カクタスリーグ'''(''Cactus League'' サボテンのこと)、フロリダ州をキャンプ地にするチームで'''グレープフルーツリーグ'''(''Grapefruit League'')が形成され、公式戦と同じような形式で[[オープン戦]]が行われるが、この間の記録は公式記録とはならない。
スプリングトレーニング開始時点で各チームの'''[[ロースター (MLB)|26人ロースター]]'''(MLB登録枠)は確定しておらず、'''40人ロースター'''(MLB登録拡大枠)の選手と、ロースター外の'''招待選手'''と呼ばれるベテランの[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA]]選手や傘下マイナー球団所属の有望選手の中から、レギュラーシーズン開始までに開幕のロースター枠をめぐってふるい分けが行われる。レギュラーシーズンよりもベンチ入り選手数が多いため、チームを2分割し同じ日に違うチームと対戦する'''スプリットスクワッド'''などの方式が採られる場合もある。
=== レギュラーシーズン ===
[[ファイル:MLB game.JPG|thumb|250px|メジャーリーグの試合風景]]
4月上旬から9月下旬にかけ、1チームあたり162試合のレギュラーシーズンが行われる。
162試合の内訳は、2023年から導入されるフォーマットでは以下のとおり。
* 同地区4チームと各13試合:計52試合
* 同リーグ・他地区(10チーム)のうち、4チームと各7試合、6チームと各6試合:計64試合
* [[インターリーグ]]:計46試合
** 各チームに定められた「地理的なライバル」(natural rival)<ref group="注">[[ニューヨーク・ヤンキース]]なら[[ニューヨーク・メッツ]]、[[ロサンゼルス・ドジャース]]なら[[ロサンゼルス・エンゼルス]]といったように別リーグ同地区で地理的に近いチームとなっている。ただしリーグ構成の関係上[[シアトル・マリナーズ]]と[[サンディエゴ・パドレス]]のような組み合わせもある。</ref>と4試合
** それ以外の14球団とは各3試合
これにより、1シーズンに全チームと少なくとも3試合は対戦することとなる。
1960年までの試合数は、リーグ各チーム総当たり(22回戦×7チーム)の154試合であった。アメリカンリーグは[[1961年]]から、ナショナルリーグは翌[[1962年]]から現在の162試合(18回戦×9チーム)になり、1969年に始まった2地区制時代は12球団時は同地区5チーム×18試合=90試合、他地区6チーム×12試合=72試合の計162試合であったが、アメリカンリーグは[[1977年]]から、ナショナルリーグも[[1993年]]には14球団に増えたことから、同地区6チーム×13試合=78試合、他地区7チーム×12試合=84試合の合計162試合になった。その後、1994年に3地区制となった上、地区によって所属チーム数が違っていたためばらつきがあるが、同地区と60試合程度、同リーグの他2地区と各45試合程度、その他インターリーグが数試合の合計162試合になった。両リーグ15チームずつとなった2013年以降は同地区4チーム×19試合=76試合、他地区10チーム×6または7試合=66試合、インターリーグ20試合の合計162試合である<ref>{{Cite web|url=http://m.mlb.com/news/article/38287660 |title=MLB releases 2013 schedule with new wrinkles|author=Mark Newman|publisher=MLB.com|language=英語|date=2012年9月12日|accessdate=2016年9月27日}}</ref>。2022年までのフォーマットでは、同地区4チームと計76試合(各19試合)、同リーグの他2地区10チームと計66試合(6チームと各7試合、4チームと各6試合)、インターリーグ20試合の対戦となっていた。インターリーグの内訳は「地理的なライバル」と4試合、ある地区1チームと4試合、その地区の残り4チームと3試合となる。ただし、同地区対決となる場合は1チームと6試合、2チームと4試合、2チームと3試合となり、この場合「地理的なライバル」は考慮されていなかった。
2012年以前の[[インターリーグ]]は、例年5月中旬から6月中旬の間に数試合行い、その後一旦同リーグ内のカードに戻った後、6月上旬から7月中旬の間で再び数試合行うという日程となっており、合計18試合程度行われていた。
自チームの本拠地球場と相手チームの本拠地球場でほぼ均等に試合が組まれるが、インターリーグの対戦によっては、どちらか一方の本拠地球場で全3試合を開催するケースが多い。ただし、各チーム1シーズンのホームゲームとアウェイゲームの数が均等になるように、開催球場のバランス調整が行われている。
両リーグとも[[予告先発]]制度を採用している。先発投手は試合ごとではなく対戦カードごとにまとめて予告される。なお、全試合[[指名打者|指名打者制]](DH)が採用される(ナショナルリーグでは2021年以前は2020年を除き採用されていなかった)。試合は引き分けなしの時間無制限で行う。降雨などで「タイゲーム」となった場合は[[サスペンデッドゲーム|サスペンデッド]]が宣告され、この場合は次の日以降に中断した時点から再開し決着が付くまで試合が行われる。その場合の試合は、移動日や1日にその日予定されていた試合と順延になった試合の2試合行う[[ダブルヘッダー]]などで消化される。大乱闘などで試合続行不可能になったり、そもそも相手チームが到着せず、試合ができない場合などは、'''フォーフィッテッドゲーム'''(forfeited game、[[没収試合]])となることがある。ただし{{by|2020年}}以降は特別ルールとして延長10回から走者を二塁に置いた状況で攻撃を開始する[[タイブレーク]]制を採用する。
怪我や疾病のために試合出場が困難と診断された選手は[[故障者リスト|負傷者リスト]](IL)に登録されて[[ロースター (MLB)|アクティブ・ロースター]]から外れ、所定日数が経過するまでは復帰できない。他にも、[[忌引]]や[[育児休業|育休]]などの目的でロースターを一時離脱できる制度がある。その間は傘下マイナーリーグなどから代替選手を補充することができる。{{Main|故障者リスト|ロースター (MLB)}}
レギュラーシーズン中、40人ロースター内の選手の[[トレード]]は7月31日まで可能となっている。そのため、特にトレード期限日直前には主力選手が絡む駆け込みトレードが多く成立する。{{Main|トレード#メジャーリーグ}}
9月1日になると、[[ロースター (MLB)|アクティブ・ロースター]](ベンチ入りし、試合出場も可能な人数)の枠が26人から28人へ拡大される。なお2019年までは最大40人に拡大されていた(通称「'''セプテンバー・コールアップ'''」。コールアップ (call up) は「(チームに)選抜される」の意)。このルールにより、9月以降は傘下マイナーチームに待機していた選手が複数名MLBのベンチに加わることとなり、幅広い選手起用が可能になる。この時期にメジャーデビューを果たす若手選手も多く見られる。ただし、[[メジャーリーグベースボールのポストシーズン|ポストシーズン]]には26人ロースターの選手のみ出場可能であり、また8月31日時点で当該チームの40人ロースターに登録されていなかった選手は原則、ポストシーズンのロースターには登録できない<ref group="注">2014年までは、8月31日時点で当該チームの25人枠に入っていないとポストシーズンには原則出場できなかった([[故障者リスト]]入り選手発生時には40人枠の選手が代替出場可能)が、2015年から本文記載の規定に変更された。
</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://baseballking.jp/ns/column/50293 |title=今季から変わったプレーオフの出場資格|publisher=BASEBALLKING(株式会社フロムワン)|date=2015-10-05|accessdate=2016-10-07}}</ref>。
MLBでは新古典派球場ブームにより、天候に左右されない[[ドーム球場]]は減る傾向にあるため、雨による中止が多く見られる。ただ、レギュラーシーズンの試合日程が過密であり、20から30連戦という日程が少なくないため<ref group="注">最長では51連戦という記録がある。</ref>、数時間にも及ぶ試合中断を挟んだ上でも試合を成立させることは珍しくない。これに加え、国内でも[[標準時|時差]]が3時間あり<ref group="注">2012年時点で所属する球団都市は[[太平洋標準時]](PST、[[UTC-8]])・[[山岳部標準時]](MST、[[UTC-7]])・[[中部標準時]](CST、[[UTC-6]])・[[東部標準時]](EST、[[UTC-5]])のいずれかに属する。</ref>、気候にも大きな差がある広大なアメリカ本土・カナダを縦横に移動するために、各球団が移動用の専用機を有し、深夜早朝を問わず航空会社のダイヤに左右されず最も都合の良い時間に移動することが可能<ref group="注">球場から貸切バスでそのまま空港構内に入場し、専用機(チャーター機)に横付けして金属探知を受けて飛行機に乗り込む。目的地ではやはり空港内にバスが横付けされている。空港は混雑の少ないサブ空港や果ては[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の施設を使うことすらある。参照:[http://www.nikkei.com/article/DGXMZO89049570Y5A700C1000000/ 「パ・リーグの遠征は厳しい」は本当か] ポストゲームショー([[田口壮]])、日本経済新聞サイト、2015年7月12日</ref>ではあるものの、肉体的な負担はとても大きい。1シーズンの総移動距離は約73,000キロにも達し、これは[[地球]]1.8周分に相当する<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20031104.htm 松井通信 2003/11/04 今シーズンの移動距離、地球1・8周 【ゴジラが見た大リーグ・1】] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090923222301/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20031104.htm |date=2009年9月23日 }} [[北國新聞]]</ref>。たとえ主軸のレギュラー野手であっても疲労回復のため定期的に先発から外すことが多く、162試合全てに出場する選手は毎年リーグに数えるほどしかいない。
前記のような延長時間無制限や過密日程、[[ロースター (MLB)#選手区分|投手枠の制限]]もあるため、大差がつき敗戦が決定的となった試合や、延長戦途中で投手を使い果たした場合などに、日本プロ野球ではまず見られない「野手が[[リリーフ]]投手として登板」という場面が発生することがあり、例えば2015年には[[イチロー]]を含め、延べ27人の野手がリリーフ登板している<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXMZO93228540V21C15A0000000/ 大リーグで登板 「投手・イチロー」の舞台裏] スポーツライター 丹羽政善、日本経済新聞サイト、2015年10月26日</ref>。
各チームが基本的に162試合全てを消化するルールだが、162試合すべてが必ず行われるとは限らない。ポストシーズン進出可否が完全に決定し、且つ地区順位も確定しているチーム同士による(雨天中止などによって順延されたゲームの)再試合は、仮に選手やチームの何らかのタイトル・記録にかかわる場合であっても基本的に行わないこととなっている。
=== オールスターゲーム ===
{{Main|MLBオールスターゲーム}}
7月には[[MLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]が行われる。当初はオールスター選手の祭典的な位置づけであったが、2003年から2016年までは勝ったリーグに[[ワールドシリーズ]]での本拠地開催優先権である'''ホームアドバンテージ'''が与えられることとなったため、引き分け試合がなくなり以前より本気の試合展開になった。
[[ファイル:2001 World Series first pitch.jpg|thumb|left|[[ジョージ・W・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ大統領]]によるワールドシリーズの[[始球式]]([[2001年]])]]
=== ポストシーズン ===
{{main|メジャーリーグベースボールのポストシーズン}}
{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align: center; margin-left: 1em; float: right"
|+ '''ワールドシリーズ優勝回数と出場回数'''
! 位!! 優勝チーム!! 優勝!! 出場
|-
| 1|| style="text-align: left;"| [[ニューヨーク・ヤンキース]]|| 27|| 40
|-
| 2|| style="text-align: left;"| [[セントルイス・カージナルス]]|| 11|| 19
|-
| 3|| style="text-align: left;"| [[オークランド・アスレチックス]]|| 9|| 14
|-
| 3|| style="text-align: left;"| [[ボストン・レッドソックス]]|| 9|| 14
|-
| 5|| style="text-align: left;"| [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]|| 8|| 20
|-
| 6|| style="text-align: left;"| [[ロサンゼルス・ドジャース]]|| 7|| 21
|-
| 7|| style="text-align: left;"| [[シンシナティ・レッズ]]|| 5|| 9
|-
| 8|| style="text-align: left;"| [[ピッツバーグ・パイレーツ]]|| 5|| 7
|-
| 9|| style="text-align: left;"| [[デトロイト・タイガース]]|| 4|| 11
|-
| 10|| style="text-align: left;"| [[シカゴ・カブス]]|| 3|| 11
|-
| 11|| style="text-align: left;"| [[アトランタ・ブレーブス]]|| 3|| 9
|-
| 12|| style="text-align: left;"| [[ボルチモア・オリオールズ]]|| 3|| 7
|-
| 13|| style="text-align: left;"| [[ミネソタ・ツインズ]]|| 3|| 6
|-
| 14|| style="text-align: left;"| [[シカゴ・ホワイトソックス]]|| 3|| 5
|-
| 15|| style="text-align: left;"| [[フィラデルフィア・フィリーズ]]|| 2|| 7
|-
| 16|| style="text-align: left;"| [[クリーブランド・ガーディアンズ]]|| 2|| 6
|-
| 17|| style="text-align: left;"| [[ニューヨーク・メッツ]]|| 2|| 5
|-
| 18|| style="text-align: left;"| [[カンザスシティ・ロイヤルズ]]|| 2|| 4
|-
| 19|| style="text-align: left;"| [[ヒューストン・アストロズ]]|| 2|| 3
|-
| 20|| style="text-align: left;"| [[トロント・ブルージェイズ]]|| 2|| 2
|-
| 20|| style="text-align: left;"| [[マイアミ・マーリンズ]]|| 2|| 2
|-
| 22|| style="text-align: left;"| [[テキサス・レンジャーズ]]|| 1|| 2
|-
| 23|| style="text-align: left;"| [[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]|| 1|| 1
|-
| 23|| style="text-align: left;"| [[ロサンゼルス・エンゼルス]]|| 1|| 1
|-
| 23|| style="text-align: left;"| [[ワシントン・ナショナルズ]]|| 1|| 1
|-
| 26|| style="text-align: left;"| [[サンディエゴ・パドレス]]|| 0|| 2
|-
| 27|| style="text-align: left;"| [[ミルウォーキー・ブルワーズ]]|| 0|| 1
|-
| 27|| style="text-align: left;"| [[コロラド・ロッキーズ]]|| 0|| 1
|-
| 29|| style="text-align: left;"| [[タンパベイ・レイズ]]|| 0|| 2
|-
| 30|| style="text-align: left;"| [[シアトル・マリナーズ]]|| 0|| 0
|}
10月に入るとポストシーズンゲームが行われる。
2022年からは、各リーグとも162試合の成績を元に各地区の勝率1位の3チームと[[ワイルドカード (スポーツ)#メジャーリーグベースボール|ワイルドカード]]3チームを加えた6チームずつによるトーナメント戦を行う。
2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、両者の1試合の「[[ワイルドカードゲーム]]」の勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。
2011年までは、ワイルドカードは1チームのみであった。
==== ワイルドカードシリーズ ====
2022年より導入された「[[ワイルドカードシリーズ]]」は、[[ディビジョンシリーズ]]への出場権をかけて4チームにより行われる。地区優勝チームは成績順にシード1,2,3となる。そのうちシード3のみがワイルドカードシリーズに参加し、シード1,2は免除される。ワイルドカードとなった3チームは成績順にシード4,5,6と呼ばれる。シード3と6が、シード4と5がそれぞれシード上位の本拠地で最大3試合を行い、先に2勝したチームがディビジョンシリーズに進出する。
2012年から2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、成績上位のチームの本拠地で行われる1試合の[[ワイルドカードゲーム]]のみの勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。
==== ディビジョンシリーズ ====
'''[[ディビジョンシリーズ]]'''(地区シリーズ)は、前述の「[[ワイルドカードシリーズ]]」を勝ち抜いたチームのうちシード4あるいは5にあたるチームとリーグ勝率1位のチーム、そしてシード3あるいは6にあたるチームとリーグ勝率2位のチームの組み合わせで試合を行う。最大5試合が行われ、一方が3勝すればシリーズは終了し、そのチームがリーグチャンピオンシップシリーズに進出する。
2021年までは、ワイルドカードチームと勝率1位のチーム、そして勝率2位と3位のチームの組み合わせであった。さらに2011年までは、最高勝率チームとワイルドカードのチームが同地区の場合、ワイルドカードとリーグ勝率2位のチーム、勝率1位チームと勝率3位チームの組み合わせで行っていた(ワイルドカードから見れば、対戦相手は必ず別の地区の地区勝率1位の2チームのうち勝率の高いほうとなる)<ref group="注">1995年から1997年はワイルドカードのチームが同地区の地区優勝チームと対戦しないのは同じであるが、ワイルドカードとリーグ勝率3位のチーム、勝率1位チームと勝率2位チームの組み合わせで行われることもあった。</ref>。
1981年はストライキにより前後期制をとり、前期優勝チームと後期優勝チームによる地区優勝決定シリーズが行われた。
==== リーグチャンピオンシップシリーズ ====
'''[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]'''(リーグ優勝決定シリーズ)は、[[ディビジョンシリーズ]]を勝ち上がった(1969年 - 1993年は東西それぞれの地区優勝を果たした)各リーグの2チームの対戦となる。試合は7戦4勝制(1969年 - 1984年は5戦3勝制)で行われ、4勝(1969年 - 1984年は3勝)したチームが出た時点でシリーズは終了し、リーグ優勝となりワールドシリーズ出場権を獲得する。
地区制度導入以前は1位に2球団が並んだ場合、アメリカンリーグは1試合制、ナショナルリーグは3試合制のプレーオフを実施していた。
==== ワールドシリーズ ====
'''[[ワールドシリーズ]]'''はアメリカンリーグ、ナショナルリーグの優勝チームが対戦する。7戦4勝制で行われ、4勝したチームがワールドシリーズチャンピオンとなる。例外として、[[1903年のワールドシリーズ|1903年]]と[[1919年のワールドシリーズ|1919年]]から[[1921年のワールドシリーズ|1921年]]の4回は9戦5勝制で行われた。
現在、ワールドシリーズチャンピオンになった経験があるチームは30チーム中25チームで、残りの5チームは一度もワールドシリーズチャンピオンの栄冠を獲得していない。なかでも[[シアトル・マリナーズ]]はリーグ優勝もかなっていない<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/202311020000362.html ワールドシリーズ未制覇は5球団に、マリナーズは唯一の進出なし -MLB] -日刊スポーツ 2023年11月2日</ref>。これまでの最多出場チームは[[ニューヨーク・ヤンキース]]の40回でありヤンキースは1960年以前から存在するナショナルリーグの8球団を全部ワールドシリーズで倒している。ヤンキースの優勝回数27回も30チーム中で最多である。
== ドラフトとマイナーリーグ ==
'''ドラフト'''は、戦力の均衡を目的に1965年から導入された<ref>[[出野哲也]]、[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]] 「メジャーリーグ100の基礎知識」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2003年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2003年、雑誌15509-5、87頁。</ref>。毎年6月または7月に開催され、学生および[[独立リーグ]]の選手を対象に、[[ウェーバー方式]]で1チームあたり数十名の新人選手が指名される。指名選手とはマイナー契約([[ロースター (MLB)|40人ロースター]]外での契約)しか締結できないため、ほぼ全ての選手はマイナーリーグで数年間の育成を経たのち、有望選手がMLB昇格を果たしていく。
またシーズンオフの12月([[ウィンターミーティング]]最終日)には、40人ロースター外で且つMLB傘下に一定年数以上在籍している他チームの現役選手を指名し獲得できる'''ルール・ファイブ・ドラフト'''(ルール 5 ドラフト)が開催される。この制度は選手の飼い殺しを防ぐ目的で行われる。
{{main|ドラフト会議 (MLB)}}
'''マイナーリーグベースボール'''(''Minor League Baseball'', '''MiLB''')は、独立採算制で運営されている[[北アメリカ]]のプロ野球リーグのうち、MLBの傘下に入る協定を結んでいるリーグを指す<ref>[[出野哲也]]、[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]] 「メジャーリーグ100の基礎知識」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2003年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2003年、雑誌15509-5、70頁。</ref>。MiLB所属チームは、最上位のAAA級を筆頭に5階級のクラスに分かれ、各クラス内でリーグを組み、公式戦を実施している。MLB所属チームは、各クラスのMiLB所属チームを直営するか、または各地域の既存の独立資本チームと選手育成契約 (PDL) を結んで選手およびコーチを派遣することで、自らの下部組織としている。
MiLBは、各フランチャイズでの野球振興のほか、MLBチームがドラフト・[[ドラフト会議 (MLB)#世界ドラフト構想|インターナショナルFA]]・[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA]]で獲得した選手、故障したMLB所属選手、MiLBチームが独自に獲得した選手たちの育成・調整目的の場となり、これらの選手をMLBに供給する役割も担っている。
{{main|マイナーリーグベースボール}}
== {{Visible anchor|コミッショナー制度|コミッショナー}} ==
{| class="wikitable" style="margin-left:1em; font-size:small; float:right"
|+ '''歴代コミッショナー'''
! 代
! コミッショナー
! 在任期間
|-
| style="text-align: center;"|1
| [[ケネソー・マウンテン・ランディス|ケネソー・M・ランディス]]
| 1920年 - 1944年
|-
| style="text-align: center;"|2
| [[ハッピー・チャンドラー]]
| 1945年 - 1951年
|-
| style="text-align: center;"|3
| [[フォード・フリック]]
| 1951年 - 1965年
|-
| style="text-align: center;"|4
| [[ウィリアム・エッカート]]
| 1965年 - 1968年
|-
| style="text-align: center;"|5
| [[ボウイ・キューン]]
| 1969年 - 1984年
|-
| style="text-align: center;"|6
| [[ピーター・ユベロス]]
| 1984年 - 1989年
|-
| style="text-align: center;"|7
| [[A・バートレット・ジアマッティ|バート・ジアマッティ]]
| 1989年
|-
| style="text-align: center;"|8
| [[フェイ・ヴィンセント]]
| 1989年 - 1992年
|-
| style="text-align: center;"|9
| [[バド・セリグ]]
| (1992年 - 1998年)<ref group="注">1992年より「MLBの最高諮問会議のチェアマン」との位置づけであったが、MLBの実質的最高責任者だった。1998年7月9日に正式に第9代コミッショナーに就任した。</ref><br />1998年 - 2015年
|-
| style="text-align: center;"|10
| [[ロブ・マンフレッド]]
| 2015年 - 現在
|}
{{main|MLBコミッショナー}}
1920年に[[ブラックソックス事件]]が発覚し、野球人気が低迷した。人気を回復するため中長期的な展望、戦略、迅速な意思決定をする必要に迫られた各オーナーたちが話し合い、中立的な意思決定機関として1920年にコミッショナー制度が導入された。そして、連邦地裁判事だった[[ケネソー・マウンテン・ランディス]]が初代コミッショナーに就任。制度導入以後はしばらくコミッショナーと両リーグ会長の三頭体制をとっていたが、1999年を最後に両リーグ会長職は廃止されている。
== 経営 ==
{| class="wikitable" style="float:left; text-align:right; font-size:small; margin:1em"
|+ スポーツチームの資産価値トップ50(2022年)<ref name="valuation">[https://www.forbes.com/sites/mikeozanian/2022/09/08/the-worlds-50-most-valuable-sports-teams-2022/?sh=d32284b385c4 The World’s 50 Most Valuable Sports Teams 2022] Forbes com. 2022年9月24日閲覧。</ref>
|-
!順位!!style="text-align:left"|リーグ!!チーム数
|-
|style="text-align:center"|1||style="text-align:left"|[[NFL]]||30
|-
|style="text-align:center"|2||style="text-align:left"|[[NBA]]||7
|-style="background-color: #feb;"
|style="text-align:center"|3||style="text-align:left"|MLB||5
|-
|style="text-align:center"|4||style="text-align:left"|[[プレミアリーグ]]||4
|-
|style="text-align:center"|5||style="text-align:left"|[[リーガ・デ・フトボル・プロフェシオナル|ラ・リーガ]]||2
|-
|rowspan="2" style="text-align:center"|6||style="text-align:left"|[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]||1
|-
|style="text-align:left"|[[リーグ・アン]]||1
|}
MLBは経営においてはカルテルであり、これについてはアメリカの法令において特別な例外規定により独占禁止法の適用を免れている。このためチームの総数の制限、収益の組織的分配、本来なら個人の自由な経済活動を制限するドラフト制度などを合法的に行える。特にドラフト制度と収益の分配は各チームの実力を均一化させ試合内容を充実することで、観客動員数およびテレビの視聴率を上げている。一方で日本のプロ野球は経営自体はたいてい赤字でチームのオーナー企業の宣伝が経済活動の基盤である。このため強いチーム(のオーナー企業)がわざわざ弱いチーム(のオーナー企業)に便宜を図って実力の均衡を図ることにメリットが存在しない。野球チームの経営はオーナー企業の広報活動の二次的なものに過ぎないからである。MLBでのそれぞれのチームはたいてい独立組織で黒字であり、逆に複数の企業がそのチームの威光の宣伝効果を求めてスポンサーになるという構造になっている。またMLBのチーム数は大都市のステータスとしてプロ野球チームの招致を希望するアメリカの都市の数より少なめに設置されている。これによりアメリカのプロ野球チームはさまざまな経済的優遇措置を招致都市から引き出すことができる。そのもっとも重要なものは、チームが使用するスタジアムを地元の自治体の予算で建設し無料で使用できることで、これだけで毎年で数百万ドル(数億円)にあたる補助金となっている。日本のプロ野球チームが二軍を維持するのがやっとなのに、アメリカのプロ野球チームが五軍まで維持できるのは経営そのものにこのような構造的違いがあるからである。
MLBの2006年の観客動員数は前年比1.5%増の7,604万3,902人と3年連続で増加し過去最高を記録している。30チーム中24チームが200万人を超え、8チームが300万人を超えており、年々入場券の平均価格が上がっているにも拘らず観客動員数は増加傾向である。現在までの年間観客動員数最多チームは[[ニューヨーク・ヤンキース]]で420万518人、最少チームは[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]で116万5,120人、全チームの平均は253万4797人となっている。また、2006年の[[マイナーリーグベースボール]]の観客動員数は4,171万357人で、MLBと合わせた観客動員数は1億1,775万4,259人となっている。入場券の売り上げだけで巨額なものとなっており、放送権収入、商標権収入、スポンサー収入、グッズ収入なども含めたMLB全体の総収入は1995年に約13億8,499万ドル、1996年に約17億7,517万ドル、1999年に約27億8,687万ドル、2005年に約47億3,300万ドルなどと年々増加し、2006年には約52億ドル(約6,130億円)に達した。これは、[[NFL]]の約60億ドルに次ぐ額となっている。
その後も放映権の高騰などMLBの総収入は増加を続け、2014年には90億ドル、2018年には103億ドルを記録するなど増加の一途をたどっている。
また、[[スポーツチームの資産価値順リスト|チームの資産価値]]も年々上昇しており、アメリカの経済誌[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]が2014年4月に発表したMLB各チームの平均資産価値は8億1,000万ドルとなっている。1位はニューヨーク・ヤンキースの25億ドルであり、2014年8月時点では[[NFL]]の[[ダラス・カウボーイズ]]と[[ニューイングランド・ペイトリオッツ]]に次いでアメリカのプロスポーツチームとして3番目の規模である。
MLB30位(最下位)の[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]は4億8500万ドルの価値と算定されている。また、2014年の統計ではMLBの30チーム中19チームが黒字である。赤字のチームにヤンキースやドジャースもあるが、後述の課徴金制度のためヤンキースなどの収入の多いチームは多額の課徴金を支払っており、これが赤字の原因の一つとなっている。さらに、各チームの収入にヤンキースは[[YESネットワーク]]による収入、カブスはWGNによる収入が含まれていないなど実際には各チームの収入はもっと多いとされている。また、チームの収益が選手年俸の伸びより速く増加しているため、全体の営業利益は2004年の1億3,200万ドルから2005年には3億6,000万ドルにまで増加している。選手の平均年俸も年々増加し、2001年に初めて200万ドルを超え、2006年の平均年俸は269万9,292ドルとなっている。また、2008年の全30チームの年俸合計額は28億7,935万7,538ドルで過去最高を更新している<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/081224/mlb0812241101004-n1.htm ヤンキースが年俸トップ 08年球団別年俸総額 (共同) - 産経ニュース 2008.12.24 11:01] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090125002847/http://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/081224/mlb0812241101004-n1.htm |date=2009年1月25日 }} 2009年5月23日閲覧。</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20081224033.html 08年球団別年俸総額はヤンキースがトップ (共同) - Sponichi Annex 2008年12月24日 10:44] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090924064707/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20081224033.html |date=2009年9月24日 }} 2009年5月23日閲覧。</ref>。さらに8年後の2016年には年俸合計額が40億ドルを突破し、平均年俸も過去最高の447万ドルを記録するなどこちらも年々増加し続けている。
== MLBにおこる問題とその対処 ==
=== 薬物問題 ===
{{main|メジャーリーグベースボールのドーピング問題}}
近年、メジャーリーグベースボールでは[[バリー・ボンズ]]や[[マーク・マグワイア]]の本塁打量産、[[ホセ・カンセコ]]の[[暴露話|暴露本]] 『[[禁断の肉体改造]]』出版による薬物使用の告白、かつて活躍した選手の急死などで[[ドーピング]]疑惑が注目されている。以前から薬物使用に甘いと言われてきたが、近年は毎年抜き打ち検査が実施されている。2005年からは薬物検査に関する規定を導入し、その内容は違反1回目で10日間、2回目で30日間、3回目で60日間、4回目で1年間の出場停止、5回目でコミッショナーが裁定を下すというものであった。しかし、導入当初は罰金を支払えば試合に出ることができるという逃げ道も設けていたことを、[[アメリカ合衆国下院|合衆国下院]]の政府改革委員会から追及された。さらに、これでも未だに他のスポーツに比べて制裁が甘いという批判があり、2006年から違反1回目で50試合、2回目で100試合の出場停止処分、3回目で永久追放という更に厳しい新規定を導入した。だが、この永久追放に関しても救済措置が設けられている。
2007年12月13日にMLBの薬物使用実態調査「[[ミッチェル報告書]]」が公表され、現役、引退問わず89名の選手の名前が記載されている。バリー・ボンズ、[[ロジャー・クレメンス]]、[[アンディ・ペティット]]、[[ミゲル・テハダ]]、[[エリック・ガニエ]]など大物現役選手や、[[アレックス・カブレラ]]、[[ジェフ・ウィリアムス]]ら日本のプロ野球に在籍経験のある選手も含まれている。
=== ストライキ ===
{{Main|プロ野球ストライキ#MLBにおけるストライキ}}
{{by|1972年}}以来、[[労働契約]]が満了するたびに、選手の[[ストライキ]]が5度、所有者の[[ロックアウト]]が3度発生している。いずれも収益に関する問題だった。{{by|1981年}}には[[1981年のMLBストライキ|50日間に及ぶストライキ]]の影響により、前後期の[[2シーズン制|スプリットシーズン制]]で開催されている。[[1994年から1995年のMLBストライキ|1994年から1995年にかけてのストライキ]]は[[サラリーキャップ]]制度の導入に反発したもので期間も232日と過去最長に及び、[[1994年のワールドシリーズ]]も中止になった。またこの他に{{by|2002年}}にもストライキの計画があったが、寸前で交渉が妥結した。{{by|2013年}}時点では1994年から1995年にかけてのストライキを最後にストライキは一度も行われていない。
== 戦力均衡策 ==
2014年(2015年1月)までコミッショナーを務めていた[[バド・セリグ]]は、かつて収益や観客動員の少ない[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]のオーナーを長年務め、チームの経営難に苦慮した経験を持っていたため、コミッショナーに就任して以来戦力均衡策の導入に積極的だった。インターリーグ(交流戦)、プレーオフでのワイルドカード、年俸総額が一定の額を超えたチームに課徴金(Luxury Tax、ぜいたく税)を課す課徴金制度などを導入した。また、サラリーキャップ制や収益の完全分配などを導入することも検討されている。1965年に導入されていた完全ウェーバー制ドラフトなどもあり、2001年以降ワールドシリーズの優勝チームが毎年入れ替わっている。ただし、所属選手の年俸総額を比較すれば各チームの戦力差に大きな開きが明らかであり、制度を充実させても、補強に積極的なチームとそうでないチームがあるとされている。
=== 収益分配制度 ===
MLBの収益分配制度は2つある。1つ目はBase Planと呼ばれるもので、各チームの純収入(総収入から球場[[経費]]を除いた額)に20 %課税し、各チームから集められた課税金の4分の3が全チームに均等に分配され、4分の1が全チームの平均収入を下回るチームに下回る額に比例して按分分配するという内容(スプリット・プール方式)である。前述した1994年のストライキを受けて1996年に導入され、その後、2002年8月に締結された労使協定で、税率が34 %で課税額の全てを全チームに均等分配する内容(ストレート・プール方式)に改められた。2つ目はCentral Fund Componentと呼ばれるもので、収入の高いチームに課税して、一定の規則のもと収入の低いチームに再分配するという内容(スプリット・プール方式)<ref>{{Cite web|url=https://www.fangraphs.com/blogs/mlbs-evolving-luxury-tax/|title=MLB’s Evolving Luxury Tax {{!}} FanGraphs Baseball|accessdate=2019-01-04}}</ref>。
この制度の目的は、収入の低いチームにより多くの分配金を分配することで収支を改善し、戦力均衡を促すことにあった。ところが、チームがポストシーズンに進出できなくなると球団側は有力選手を放出し、チーム全体の年俸総額を下げて多額の分配金を受け取ることを画策するようになり、結果的に戦力の均衡は達成できなかった。
そのため、2002年8月に締結された労使協定において、球団側が選手に支払う年俸総額が一定額を超えた場合、超過分に課徴金を課す「課徴金制度」(Luxury Tax、ぜいたく税)が導入された。4年間に一定額を超えた回数に応じて税率を引き上げていく内容となっており、2003年は40人枠の年俸総額が1億1,700万ドルを超えたチームは超過額の17.5 %を課税された。以降、2004年は1億2,050万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %、2005年は1億2,800万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %・3回目40 %、2006年は1億3,650万ドルで1回目0 %・2回目40 %・3回目40 %・4回目40 %課税されることとなっており、年俸の高騰を抑制し戦力の均衡を図った(ポスティングシステムによる入札金に、課徴金制度は適用されない)。その結果、2001年以降[[ワールドシリーズ]]の優勝チームが毎年入れ替わるなど、一定の成果を上げている。
また、2006年10月24日に締結された新労使協定では、Base Planにおける税率が34 %から31 %に変更され、またCentral Fund Componentでは、Base Planで再分配される全額の41.066 %分の額が、Base Planで支払う側のチームから受け取る側のチームにBase Planとは別に再分配されるよう変更された。支払う側のチームの負担額は、各チームの収入が全チームの平均収入の超過分に応じて、Base Planの41.066 %分の額が按分徴収され、その徴収額は受け取る側のチームにスプリット・プール方式で再分配される。それと同時に、チームの収入の定義を「過去3年間の平均値(変動制)」から「2005 - 2006年の実績値と2007 - 2008年の売上げ予測の平均値(固定制)」に変更された。
チーム収入の定義が変動制から固定制に変更されたことにより、各チームの収入増減が分配額に影響しないようになった。この結果、全チームの限界税率は31 %で統一され、安易な有力選手の放出が抑制されるため戦力が均衡しやすくなっている。
課徴金制度の年俸総額の一定額や、選手の最低年俸は、労使協定によりある程度のスパンをもって決められる<ref name=":1">{{Cite web|url=http://www.stevetheump.com/luxury_tax.htm|title=Baseball Competitive Balance "Luxury" Tax|accessdate=2019-01-04|website=www.stevetheump.com}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|url=http://www.mlbplayers.com/pdf9/5450407.pdf|title=2017-2021 Basic Agreement|access-date=2018-01-01|last=|first=|date=December 1, 2016|website=MLBPlayers.com|publisher=}}</ref>。
なお、日本のメディアにおいて「ぜいたく税制度によって徴収された課徴金は年俸総額の低いチームに配分される」と報道されることがあるが、これは上述のCentral Fund Componentと混同した誤りであり、課徴金は収益分配の対象ではない。
徴収されたぜいたく税は、最初の250万ドルが[[内部留保]]され、それを超えた額については、75 %が選手の[[福利厚生]]財源として、残りの25 %が“業界成長基金”(IGF:Industry Growth Fund)の財源として用いられることになる。IGFは1996年の労使協定において、アメリカやカナダをはじめとする全世界で野球を普及させる目的で設置されたものである<ref>http://tomoyasuzuki.jugem.jp/?eid=18</ref><ref>http://tomoyasuzuki.jugem.jp/?eid=22</ref><ref>http://tomoyasuzuki.jugem.jp/?eid=284</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin-left:1em"
|+贅沢税を課された球団とその金額<ref name=":1" />
|-
!チーム
!年
!総税額
|-
|[[ニューヨーク・ヤンキース|ヤンキース]]
|2003年 - 2017年
|$319.6 MM
|-
|[[ロサンゼルス・ドジャース|ドジャース]]
|2013年 - 2017年
|$149.7 MM
|-
|[[ボストン・レッドソックス|レッドソックス]]
|2004年 - 2007年、2010年 - 2011年、2015年 – 2016年、2018年
|$34.5 MM
|-
|[[デトロイト・タイガース|タイガース]]
|2008年、2016年 - 2017年
|$9.0 MM
|-
|[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ジャイアンツ]]
|2015年 - 2017年
|$8.8 MM
|-
|[[シカゴ・カブス|カブス]]
|2016年
|$2.96 MM
|-
|[[ワシントン・ナショナルズ|ナショナルズ]]
|2017年 - 2018年
|$2.65 MM
|-
|[[エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム|エンゼルス]]
|2004年
|$927,059
|}
== テレビ放映権 ==
{{seealso|{{日本語版にない記事リンク|テレビでのメジャーリーグベースボール|en|Major League Baseball on television}}}}
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin-left:1em; float:right"
|+自前のチャンネルを持っているチームと放映権料<ref name=":0">http://www.nikkei.com/article/DGXZZO51289480S3A200C1000000/?df=2</ref>
!チーム
!放映権料
!収益年
|-
![[ヤンキース]]
|9000万ドル
|2011年
|-
![[ニューヨーク・メッツ|メッツ]]
|6500万ドル
|2012年
|-
![[ボストン・レッドソックス|レッドソックス]]
|6000万ドル
|2012年
|-
![[ボルチモア・オリオールズ|オリオールズ]]
|2900万ドル
|2012年
|-
![[ナショナルズ]]
|2900万ドル
|2012年
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin-left:1em; float:right"
|+配当が契約に含まれているチームと放映権料<ref name=":0" />
!チーム
!契約
|-
! rowspan="2" |[[ロサンゼルス・エンゼルス|エンゼルス]]
|総額25億ドル
|-
|2013年 - 2028年、持ち株比率25%
|-
! rowspan="2" |[[テキサス・レンジャーズ|レンジャーズ]]
|総額30億ドル(1億ドルの契約ボーナス込み)
|-
|2015年 - 2034年、持ち株比率10%
|-
! rowspan="2" |[[ヒューストン・アストロズ|アストロズ]]
|総額32億ドル
|-
|2013年 - 2032年、持ち株比率45%
|-
! rowspan="2" |[[サンディエゴ・パドレス|パドレス]]
|総額14億ドル
|-
|2012年 - 2031年、持ち株比率20%
|}
[[File:Michael Kay, Paul O'Neill, Ken Singleton in broadcast booth.jpg|thumb|[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦の[[テレビ]][[野球中継]]のブース。[[YESネットワーク]]、{{仮リンク|マイケル・ケイ (アナウンサー)|label=マイケル・ケイ|en|Michael Kay (sports broadcaster)|Michael Kay}}、[[ケン・シングルトン]]、[[ポール・オニール (野球)|ポール・オニール]]]]
MLBの[[テレビ]][[放映権]]は、全国放送に限りMLB機構が管轄し、ローカル放送は各チームが[[FOXスポーツネット]](FSN)に代表されるRegional Sports Network(RSN、ローカルスポーツ専門チャンネル)や地元放送局などと直接契約を結んでいる。
ただし、[[WGN]]や2007年9月までの[[ターナー・ブロードキャスティング・システム|TBS]]<ref group="注">2007年10月、TBSが運営していた[[アトランタ]]のローカル局・WTBSが「PeachtreeTV」に改称、TBSとの[[サイマル放送]]を中止。2008年よりブレーブス戦は同局で放送。日本の[[TBSテレビ]]とは無関係。</ref>のような[[スーパーステーション]](地上波ローカル局と[[サイマル放送]]を行っている全米向け[[ケーブルテレビ]]向け放送局)と契約しているチーム(WGNは[[シカゴ・カブス]]と[[シカゴ・ホワイトソックス]]、TBSは[[アトランタ・ブレーブス]])の試合は結果的に全米で視聴可能となるため、放送局はチームに支払う放映権料とは別に機構に対していわゆる「スーパーステーション税」を支払う必要がある。
チームの本拠地が大都市であれば収入が大きくなり、小都市だと収入が少なくなるため、レギュラーシーズン・ポストシーズン全試合の放映権を管轄している[[NFL]]とは違い、チームによって放映権料収入は大きく異なる。1984年、[[ボストン・レッドソックス]]が[[:en:New England Sports Network|New England Sports Network(NESN)]]を設立したのを皮切りに、[[ニューヨーク・ヤンキース]]([[YESネットワーク|Yankees Entertainment and Sports Network(YES)]])、[[ニューヨーク・メッツ]]([[:en:SportsNet New York|SportsNet New York(SNY)]])など、チーム自らがローカルチャンネルを設立する例もある。これは別会社に入るお金までは課税されないためであり、その別会社がチームに支払う放映権料を低く抑えれば、リーグからの課税額も少なくなるだけにそのメリットは大きい。
なお、このように番組がスポーツ専用チャンネルに特化している米国では、その契約からも、テレビ中継は試合の途中で終わることはない。
また、アメリカでは元々商法行為に対する規制が厳しく、機構側の一括管理による独占・寡占契約はなされてこなかった。しかし、[[1961年]]の法律制定により解禁され、[[NFL]]が[[CBS]]と独占契約を結んだ(1960年に発足したAFL([[アメリカン・フットボール・リーグ]]、1970年にNFLと合併)が[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]と5年間の長期契約を結び、NFLを脅かす存在になったことが一因)ことを皮切りに、アメリカのプロスポーツ界では機構側が放映権を一括して複数年にわたる大型契約を結ぶようになった。その機構側が契約した放映権料はコミッショナー事務局のプール分を除いた額が30球団で均等に分配される。
=== 現行の放映権契約 ===
{| class="wikitable" style="float:left; text-align:left; font-size:small; margin:1em"
|+ '''FOXとTBSの2006年の放映権契約内容'''
! rowspan="5"|FOX
|レギュラーシーズン土曜日午後の試合
|-
|オールスターゲーム
|-
|奇数年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ
|-
|偶数年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ
|-
|ワールドシリーズ
|-
! rowspan="5"|TBS
|レギュラーシーズン日曜日午後の試合<ref group="注">2007年シーズンはアトランタ・ブレーブス戦を放送していたため、2008年シーズンより適用。</ref>
|-
|ディビジョンシリーズ全試合
|-
|奇数年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ
|-
|偶数年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ
|-
|地区優勝や[[ワイルドカードゲーム]] (2021年まで)
|}
従来、全国放送は[[ESPN]](レギュラーシーズン。[[2005年]]までの6年間8億5,100万ドル)と[[フォックス放送|FOX]](ポストシーズンなど。[[2006年]]までの6年間25億ドル)の2社が契約していた。
[[ESPN]]とは2005年9月、2006年から8年間23億6,800万ドルの新契約にこぎつけたものの、FOXはMLBの視聴率低下によって広告収入が放映権料を下回ったとして値下げを主張、交渉は難航していた。ESPNは主にレギュラーシーズンの平日および日曜夜の試合を中継する。
2006年7月11日、FOXおよびTBSとの間に契約が成立した。放映権料は[[2007年]]からの7年間で2社合計で約30億ドル(FOX18億ドル・TBS5億ドルという報道もある<ref>http://www.tv-asahi.net/html/a_media/439.html#4 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070929024414/http://www.tv-asahi.net/html/a_media/439.html |date=2007年9月29日 }}</ref>。両社の契約内容は右記のとおり。
なお、2006年3月13日に、ヨーロッパのテレビ局「[[:en:North American Sports Network|North American Sports Network]]」(NASN、2007年にESPNの傘下入り)が、2006年から5年間MLBの試合を放映する契約を結んだ。オープン戦からワールドシリーズまでの年間275試合が、[[イギリス]]、[[アイルランド]]、[[ドイツ]]、[[スイス]]、[[オランダ]]などのヨーロッパ7ヶ国で放送される。
=== 日本での放送 ===
日本向け放映権は電通が[[2004年]]から6年間2億7500万ドルで契約。テレビ放送では、[[日本放送協会]](NHK)・[[TBSテレビ]](TBS)・[[フジテレビジョン]]で放送している。2008年までは[[スカパーJSAT]]([[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]、[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!e2]])、[[モバHO!]]でも放送していた。
NHK・TBS・フジテレビは日本人選手が出場する予定の試合やオールスターゲーム・ポストシーズンを中心に生中継など行っている。当初は地上波では上記3局で月ごとのローテーションを決めていたが、その後週単位のローテーションに変更された。大抵系列BSでの中継であり、特にNHK BSでの中継本数が多く、BSデジタル放送受信世帯数を押し上げる要因のひとつにもなっている。注目カードは地上波で中継される場合もある。2006年のワールドシリーズはフジテレビでダイジェストとして放送された。また、メジャーリーグ開幕戦を日本の[[東京ドーム]]にて開催する場合は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が中継を担当している(年度によってはフジテレビで中継する場合もある)<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=イチローを、見ないのか ~MLB、今年は日本で開幕! イチロー7年ぶり日本凱旋!!~ |url=https://www.ntv.co.jp/baseball/articles/34cptstyvorlptd0q0.html |website=日本テレビ |access-date=2022-08-13 |date=2019-01-31}}</ref>。
スカパー!では[[スカチャン]](旧[[パーフェクト・チョイス]])にて500試合から600試合の生中継に加えて再放送を行っていた。スカパー!e2では、スカチャン(旧スカチャン!)にて毎日1・2試合程度生中継を行っていた。2006-2007年は[[J SPORTS|J sports Plus]](現J SPORTS 4)でも中継を行っていた(2007年は月曜夜に1試合録画中継)。
2007年4月、[[モバイル放送]](モバHO!)がモバイル放送権を獲得、同年5月より「チャンネルONE」(映像協力・スカパー!)で原則毎日1試合放送していた。また、同年7月より2008年9月まで「モバイル.n」(映像協力・NHK)で月2試合程度放送していた。
2009年、電通は2015年までの契約延長に合意した。新しい契約では、NHK、TBS、フジテレビに加えて、[[テレビ朝日]]、[[テレビ東京]]、[[J SPORTS]]でも放送されることになった<ref>[http://mlb.mlb.com/news/press_releases/press_release.jsp?ymd=20090601&content_id=5085474&vkey=pr_mlb&fext=.jsp&c_id=mlb Major League Baseball International renews four broadcast agreements and signs one new television deal]</ref>。一方で民放[[キー局]]のうち、日本テレビだけは放映権料の高騰を理由として、2009年から放映権を獲得しておらず、試合映像の配信も2022年シーズンまで受けていなかった<ref group="注">そのため、[[日本テレビ系列]]の[[報道番組|ニュース]]・[[情報番組]]でMLB関連の話題を報じる際は現地の[[新聞|新聞社]]や[[通信社]]などから提供を受けた写真(静止画)を使用していた。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/gei/200904/g2009040717_all.html |title=日テレ、メジャーリーガー切り捨て…映像配信受けず |access-date=2022-08-13 |date=2009-04-07 |website=夕刊フジ |archive-date=2009-04-10 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090410000701/https://www.zakzak.co.jp/gei/200904/g2009040717_all.html}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=各社「大谷翔平」で特需も… 「日テレ」が動画を放送できない事情 |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2018/06060559/?all=1 |website=週刊新潮 |access-date=2022-08-13 |date=2018-06-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレ「DayDay.」好スタート 武田真一アナにタイミングよく強力な“援軍” |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2023/04051142/?all=1 |website=週刊新潮 |access-date=2023-04-06 |date=2023-04-05 |page=1}}</ref>。前述のMLB公式戦を日本で行う場合は例外として、MLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている<ref name=":3" />。
J SPORTSについては、CS放送の独占放映権に加えて、BS放送(2011年10月よりJ SPORTS 1・2を放送開始、2012年3月よりJ SPORTS 3・4を放送開始)の放映権(非独占)も獲得、同年6月より放送を開始している。
ラジオ放送では、[[ニッポン放送]]が1996年頃より独占放送権を持ち、「[[メジャーリーグ中継 (ニッポン放送)|メジャーリーグ中継]]」を通常番組を休止して中継したり、通常番組内で日本人選手登板部分のみの中継を行っている。
=== インターネット配信 ===
{{節スタブ}}
*MLB.tv
:2002年より配信開始。2012年現在ではMLB.TVプレミアム(1,2MBまたは800k)とMLB.TV(400k)に分かれる。契約には月額、年額があり、契約すると全試合見られる。自動更新されるため解約には事前申請が必要。最初はPCのみだったが最近はAndroid端末、iPhone・iPad等iOS端末やPS3、XBOXの家庭用ゲーム機に対応している。
:MLB.TVにも放送権がついており、TV放送と同じで一部の地域ではNFL等他のスポーツ中継と同様にブラックアウトされることがある。
:2010年8月30日よりYouTubeにて録画での試合映像などの配信が開始された<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/net/news/internetcom/20100830-OYT8T00845.htm 読売新聞 - YouTube、メジャーリーグ全試合の配信開始]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。
*[[DAZN]]
:2023年シーズンは[[カナダ]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[スイス]]、[[オーストリア]]にて配信されている。2016年から2019年までは日本でも配信されていた<ref name="spozone">{{Cite web|和書|title=2020年シーズン 「SPOZONE」でのライブ配信が決定|url=https://this.kiji.is/650927237055136865|website=MLB.jp|date=2020-07-01|accessdate=2021-05-14|publisher=}}</ref>。
*[[Facebook]]
:2018年シーズンより週1試合を独占配信することを発表している<ref>{{Cite news |title=Facebook、メジャーリーグ25試合の独占配信権を獲得 |url=https://japan.cnet.com/article/35115968/ |newspaper=CNET Japan |date=2018-03-12 |accessdate=2021-05-16 }}</ref>。
*[[YouTube]]
:2019年シーズンから一部試合のライブ配信を開始。2022年シーズンは計15試合を182か国で無料独占配信した<ref>{{Cite web |title=YouTube、大リーグの15試合を無料配信へ |url=https://japan.cnet.com/article/35186382/ |website=CNET Japan |date=2022-04-15 |access-date=2022-04-15}}</ref>。
*[[SPOTV NOW]](旧・SPOZONE)
:LIVE SPORTS MEDIAが開始した配信サイト。2020年よりDAZNに代わり日本向け配信を独占的に開始<ref name="spozone" />。2021年より韓国向けも独占配信。2023年シーズンはエンゼルス戦全試合を含む1日最大8試合を配信。
*[[ABEMA]]
:2021年7月1日よりSPOZONE(当時)とのパートナーシップによりレギュラーシーズンの中継を開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=「ABEMA」、7月1日(木)午前8時より メジャーリーグベースボールのレギュラーシーズン公式試合、166試合を完全生中継 |url=https://www.cyberagent.co.jp/news/detail/id=26395 |publisher=ABEMA |date=2021-06-29 |accessdate=2021-07-22 }}</ref>。
*[[Apple TV+]]
:2022年シーズンから毎週金曜日の2試合を「Friday Night Baseball」とのタイトルで配信。アメリカや日本など、世界8か国にて配信<ref>{{Cite web|和書|title=Apple TV+でメジャーリーグ観戦が可能に 週に1度のダブルヘッダー「Friday Night Baseball」、日本でも |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2203/09/news083.html |website=ITmedia NEWS |accessdate=2022-03-09 |date=2022-03-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20220309-OHT1T51016.html?page=1 |title=米大リーグがまた放映収入 今季から毎週金曜にアップルTVで試合配信 |accessdate=2022-03-09 |date=2022-03-09 |website=スポーツ報知}}</ref>。
*[[Hulu#日本|Hulu]]
:2022年シーズンに1日最大2試合、合計324試合を配信していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.hulu.jp/mlb2022/ |title=2022年のMLB配信決定!1日最大2試合、324試合をライブ&見逃し配信 |accessdate=2022-03-25 |date=2022-03-25 |website=Hulu News & Information}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
[[File:Cracker_jacks.jpg|right|thumb|[[クラッカー・ジャック]]]]
* [[メジャーリーグベースボールの海外公式戦一覧]]
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧]]
* [[名前の判明していないメジャーリーグベースボールの選手一覧]]
* [[マイナーリーグベースボール]]
* [[ワールドシリーズ]]
* [[チャンピオンリング]]
*[[私を野球に連れてって]] - アメリカ合衆国の野球ファンの愛唱歌。
== 外部リンク ==
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* [https://www.mlb.com/ MLB.com]{{en icon}}
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[[Category:メジャーリーグベースボール|*]]
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2003-06-15T05:46:11Z
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2023-12-17T15:24:53Z
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10,053 |
ラジウム
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ラジウム(独: Radium [ˈraːdi̯ʊm]、英: radium [ˈreɪdiəm])は、原子番号88の元素。元素記号は Ra。アルカリ土類金属の一つ。安定同位体は存在しない。天然には4種類の同位体が存在する。白色の金属で、比重はおよそ5–6、融点は700 °C、沸点は1140 °C。常温、常圧での安定な結晶構造は体心立方構造 (BCC)。反応性は強く、水と激しく反応し、酸に易溶。空気中で簡単に酸化され暗所で青白く光る。原子価は2価。化学的性質などはバリウムに似る。炎色反応は洋紅色。
ラジウムがアルファ崩壊してラドンになる。ラジウムの持つ放射能を元にキュリー(記号 Ci)という単位が定義され、かつては放射能の単位として用いられていた。現在、放射能の単位はベクレル(記号 Bq)を使用することになっており、1 Ci = 3.7×10 Bqである。なお、ラジウム224、226、228は WHO の下部機関 IARC より発癌性がある (Type1) と勧告されている。
ラジウムそのものの崩壊ではアルファ線しか放出されないが、その後の娘核種の崩壊でベータ線やガンマ線なども放出される。
放射線を出しているため、ラテン語の radius にちなんで命名された。
1898年に、ピエール・キュリー、マリ・キュリー夫妻らが放射線の測定と分光学的測定を行うことでラジウムを発見した。彼らはピッチブレンド(閃ウラン鉱)から元素の分離を行なっていた際に、バリウムと似た化学的挙動を示す部分に高い放射能が存在することを見出した。彼らはピッチブレンドの中に新たな物質が存在すると考え、この新たな物質をバリウムから分離、精製した。この操作によってリン光を発する塩化ラジウムが分離された。これによりラジウムの存在が示された。夫であるピエール・キュリーの死後もマリ・キュリーはラジウムの研究を続け塩化ラジウムの電気分解から金属ラジウムを得ることに成功した。
1903年、田中舘愛橘により初めて日本にラジウムが持ち込まれた。また翌年の1904年には、三浦謹之助が「ラヂウムに就て」という神経学雑誌を発表した。また彼は、東京医学会例会において、ラジウムを用いた治療について言及した。1906年には長岡半太郎がラジウムの特徴について紹介している。
以前は、放射線源として放射線治療に使用されたが、現在は工業的な用途はほとんどない。また、1960年代以前は時計の文字盤などの夜光塗料として利用されていた。当時、ラジウムは時計に手作業で塗られていたが、作業を行う女性労働者は放射能を持つラジウムの付いた筆をなめて穂先を整えていた。これにより時計の生産に関わる女性たちの間でラジウムが原因と思われる病気が多発し、次々に死亡した。時計工場の女性労働者は訴訟を起こし、ラジウム・ガールズと呼ばれた。この訴訟は従業員が会社を訴える権利を確立させた最初の例となり、労働法史上画期的な出来事とされている。 Raは、骨転移のある去勢抵抗性前立腺癌に用いられる。
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"text": "以前は、放射線源として放射線治療に使用されたが、現在は工業的な用途はほとんどない。また、1960年代以前は時計の文字盤などの夜光塗料として利用されていた。当時、ラジウムは時計に手作業で塗られていたが、作業を行う女性労働者は放射能を持つラジウムの付いた筆をなめて穂先を整えていた。これにより時計の生産に関わる女性たちの間でラジウムが原因と思われる病気が多発し、次々に死亡した。時計工場の女性労働者は訴訟を起こし、ラジウム・ガールズと呼ばれた。この訴訟は従業員が会社を訴える権利を確立させた最初の例となり、労働法史上画期的な出来事とされている。 Raは、骨転移のある去勢抵抗性前立腺癌に用いられる。",
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ラジウムは、原子番号88の元素。元素記号は Ra。アルカリ土類金属の一つ。安定同位体は存在しない。天然には4種類の同位体が存在する。白色の金属で、比重はおよそ5–6、融点は700 °C、沸点は1140 °C。常温、常圧での安定な結晶構造は体心立方構造 (BCC)。反応性は強く、水と激しく反応し、酸に易溶。空気中で簡単に酸化され暗所で青白く光る。原子価は2価。化学的性質などはバリウムに似る。炎色反応は洋紅色。 ラジウムがアルファ崩壊してラドンになる。ラジウムの持つ放射能を元にキュリーという単位が定義され、かつては放射能の単位として用いられていた。現在、放射能の単位はベクレルを使用することになっており、1 Ci = 3.7×1010 Bqである。なお、ラジウム224、226、228は WHO の下部機関 IARC より発癌性がある (Type1) と勧告されている。 ラジウムそのものの崩壊ではアルファ線しか放出されないが、その後の娘核種の崩壊でベータ線やガンマ線なども放出される。
|
{{Elementbox
|name=radium
|japanese name=ラジウム
|number=88
|symbol=Ra
|pronounce={{IPAc-en|?|r|e?|d|i|?m}}<br>{{respell|RAY|dee-?m}}
|left= [[フランシウム]]
|right=[[アクチニウム]]
|above=[[バリウム|Ba]]
|below=[[ウンビニリウム|Ubn]]
|series=アルカリ土類金属
|group=2
|period=7
|block=s
|image name=Radium226.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=(226)
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 7s{{sup|2}}
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 18, 8, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=5.5
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|vapor pressure comment=
|crystal structure=body-centered cubic
|japanese crystal structure=[[体心立方]]
|oxidation states=2(強[[塩基性酸化物]])
|electronegativity=0.9
|number of ionization energies=2
|1st ionization energy=509.3
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|covalent radius=221 ± 2
|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|283]]
|magnetic ordering=[[反磁性]]
|electrical resistivity at 20=1 μ
|thermal conductivity=18.6
|CAS number=7440-14-4
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=223 | sym=Ra
| na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E5 s|11.43 d]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=5.99 | pn=219 | ps=[[ラドン|Rn]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=224 | sym=Ra
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| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=5.789 | pn=220 | ps=[[ラドン|Rn]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=226 | sym=Ra
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| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=4.871 | pn=222 | ps=[[ラドン|Rn]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=228 | sym=Ra
| na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E8 s|5.75 y]]
| dm=[[ベータ崩壊|β{{sup|-}}]] | de=0.046 | pn=228 | ps=[[アクチニウム|Ac]]}}
|isotopes comment=
}}
'''ラジウム'''({{lang-de-short|Radium}} {{IPA-de|ˈraːdi̯ʊm|}}、{{lang-en-short|radium}} {{IPA-en|ˈreɪdiəm|}})は、[[原子番号]]88の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Ra'''。[[アルカリ土類金属]]の一つ。安定同位体は存在しない。天然には4種類の[[同位体]]が存在する。白色の[[金属]]で、比重はおよそ5–6、[[融点]]は700 {{℃}}、[[沸点]]は1140 {{℃}}。常温、常圧での安定な結晶構造は[[体心立方構造]] (BCC)。反応性は強く、[[水]]と激しく反応し、[[酸]]に易溶。空気中で簡単に酸化され暗所で青白く光る。原子価は2価。化学的性質などは[[バリウム]]に似る。[[炎色反応]]は[[カーマイン|洋紅色]]。
ラジウムが[[アルファ崩壊]]して[[ラドン]]になる。ラジウムの持つ[[放射能]]を元に[[キュリー]](記号 Ci)という単位が定義され、かつては放射能の単位として用いられていた。現在、放射能の単位は[[ベクレル (単位)|ベクレル]](記号 Bq)を使用することになっており、1 Ci = {{val|3.7|e=10|u=Bq}}である。なお、ラジウム224、226、228は [[世界保健機関|WHO]] の下部機関 '''IARC''' より[[発癌性]]がある (Type1) と勧告されている。
ラジウムそのものの[[ウラン系列|崩壊]]ではアルファ線しか放出されないが、その後の[[娘核種]]の崩壊でベータ線やガンマ線なども放出される。
== 名称 ==
[[放射線]]を出しているため、[[ラテン語]]の ''radius'' にちなんで命名された<ref name="sakurai">{{Cite|和書|author=[[桜井弘]]|||title=元素111の新知識|date=1998|pages=356-357|publisher=[[講談社]]|series=|isbn=4-06-257192-7|ref=harv}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1898年]]に、[[ピエール・キュリー]]、[[マリ・キュリー]]夫妻らが放射線の測定と分光学的測定を行うことでラジウムを発見した。彼らはピッチブレンド([[閃ウラン鉱]])から元素の分離を行なっていた際に、[[バリウム]]と似た化学的挙動を示す部分に高い[[放射能]]が存在することを見出した。彼らはピッチブレンドの中に新たな物質が存在すると考え、この新たな物質をバリウムから分離、精製した。この操作によってリン光を発する塩化ラジウムが分離された。これによりラジウムの存在が示された。夫である[[ピエール・キュリー]]の死後も[[マリ・キュリー]]はラジウムの研究を続け塩化ラジウムの電気分解から金属ラジウムを得ることに成功した{{r|sakurai}}。
=== 日本における歴史 ===
1903年、[[田中舘愛橘]]により初めて日本にラジウムが持ち込まれた。また翌年の1904年には、[[三浦謹之助]]が「ラヂウムに就て」という神経学雑誌を発表した。また彼は、東京医学会例会において、ラジウムを用いた治療について言及した。1906年には[[長岡半太郎]]がラジウムの特徴について紹介している<ref>稲本一夫(1998)『初期のラジウム利用の歴史』、p137、138。</ref>。
== 利用 ==
以前は、[[放射線]]源として放射線治療に使用されたが、現在は工業的な用途はほとんどない<ref>「Newton別冊ありとあらゆる「物質」の基礎がわかる完全図解周期表第2版」 159ページ 2015年10月1日閲覧</ref>。また、1960年代以前は時計の文字盤などの[[蓄光|夜光塗料]]として利用されていた。当時、ラジウムは時計に手作業で塗られていたが、作業を行う女性労働者は放射能を持つラジウムの付いた筆をなめて穂先を整えていた。これにより時計の生産に関わる女性たちの間でラジウムが原因と思われる病気が多発し、次々に死亡した。時計工場の女性労働者は訴訟を起こし、[[ラジウム・ガールズ]]と呼ばれた。この訴訟は従業員が会社を訴える権利を確立させた最初の例となり、労働法史上画期的な出来事とされている<ref>『世界で一番美しい元素図鑑』セオドア・グレイ著 創元社</ref>。<br>
<sup>223</sup>Raは、骨転移のある去勢抵抗性[[前立腺癌]]に用いられる。<ref>[https://web.archive.org/web/20181123065650/https://pharma-navi.bayer.jp/omr/online/product_material/XOF_MPI_201810050_1538444913.pdf ゾーフィゴ静注]</ref>
== ラジウムに関連した事件 ==
*[[1920年代]]から[[1930年代]]にかけてアメリカで起こった、[[夜光塗料]]を[[時計]]の[[文字盤]]に塗る作業に関わった女性工場労働者が[[放射線障害]]になった事件とその訴訟。'''[[ラジウム・ガールズ]]'''を参照。
*1920年代にから1930年代にかけてアメリカ合衆国で販売された「[[ラディトール]]」は、ラジウムを水に溶解させた{{仮リンク|特許薬|en|Patent Medicine}}であり、服用した人物に健康被害をもたらした。同国の[[ソーシャライト]]で[[実業家]]の[[エベン・バイヤーズ]]は本薬による健康被害を受け、死去している。
*[[2011年]]10月、[[日本]][[東京都]][[世田谷区]]の木造民家の床下からラジウム226と推定される物質が発見された。時計用の夜光塗料として使われていたものと見られる。この床下のラジウムは毎時600 μ[[シーベルト|Sv]](年間5256 mSv)であった。ラジウムが発見された場合の処分費用の高額さとその負担が問題となっている{{r|blogos}}。
*2014年6月、[[スイス]]北部[[ビエンヌ]]の廃棄物処理場に、120 kg分に及ぶラジウムの廃棄物が持ち込まれていたことが発覚。場所によっては、放射線量が毎時300 μSvとなる場所もあった。廃棄物は、道路工事の最中に見つかったもので、時計の夜光塗料に用いられていたものと推測されている。夜光塗料としてのラジウムは、スイスでは1963年に使用が禁止されていたことから、住民に不安を与えないように事実が1年間隠匿されていた。
*厚生労働省の『放射性物質等の運搬に関する基準(平成十七年十一月二十四日厚生労働省告示第四百九十一号)』は「容器に封入することを要する放射性物質」の基準値を定めているが<ref>厚生労働省[https://web.archive.org/web/20160125234436/https://www.japal.org/contents/20051124_1124_491.pdf 『放射性物質等の運搬に関する基準』]、2005年11月24日。</ref>、他方、[[ラジウム223]]によって汚染された物の放射性物質の濃度基準は、2016年現在、『放射性物質等の運搬に関する基準の一部を改正する件(案)』により基準値の見直しが行われている<ref>厚生労働省[https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCM1040&id=495150295&Mode=2 『放射性物質等の運搬に関する基準の一部を改正する件(案)に関する意見の募集について』]、2015年12月28日。</ref>。
== 同位体 ==
{{main|ラジウムの同位体}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|refs=
<ref name="blogos">{{Cite web|和書
| author = 佐々木康彦
| url = http://blogos.com/article/22386/
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20130527193123/blogos.com/article/22386/
| title = ラジウム処分最終費用は数千万円に及ぶ可能性も、「ごみの不法投棄と同じ扱いになる」(文部科学省)ため地権者が全額負担ってまさかの展開に
| website = [[BLOGOS]]
| date = 2011-11-16
| accessdate = 2016-1-9
| archivedate = 2013-5-27
| deadlinkdate = 2023年2月13日 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[放射能泉]](ラジウム温泉)
* [[ホルミシス効果]](ラジウム温泉等の効能の根拠)
* [[三朝温泉]](世界屈指の高温ラジウム温泉湧出地。他[[バート・ガスタイン]]など)
* {{仮リンク|環境におけるラジウムとラドン|en|Radium and radon in the environment|preserve=1}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Radium}}
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
{{ラジウムの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らしうむ}}
[[Category:ラジウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アルカリ土類金属]]
[[Category:第7周期元素]]
[[Category:労働災害]]
|
2003-06-15T12:11:11Z
|
2023-11-20T10:43:18Z
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[
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"Template:IPA-de",
"Template:℃",
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"Template:Lang-de-short",
"Template:Commons"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0
|
10,054 |
マサバ
|
マサバ(真鯖、英: Chub mackerel、学名: Scomber japonicus)は、スズキ目サバ科に分類される海水魚の一種。全世界の亜熱帯・温帯海域に分布する。
日本では食用魚として重要で、近縁のゴマサバ、グルクマ等と共に「サバ」と総称されるが、単にサバと言った場合は本種を指すことが多い。地方名としてホンサバ(各地)、ヒラサバ(静岡県や高知県)、ヒラス(長崎県)、タックリ(鹿児島県)、サワなどもある。
成魚は全長50cmほどになる。体は前後に細長い紡錘形で、短い吻が前方に尖り、横断面は楕円形である。各鰭は体に対して小さい。鱗は細かく、側線鱗数は210-220枚ほどに達する。背面は青緑色の地にサバ類独特の黒い曲線模様が多数走り、側線より下の腹面は無地の銀白色をしている。
同属のゴマサバは、腹面に小黒点が散在すること、体の断面が円形に近いことで区別できる。他にも第1背鰭の棘条数(マサバ10以下・ゴマサバ11以上)、背鰭の軟条数(マサバ16以下・ゴマサバ17以上)などの相違点がある。
暖流に面した全世界の亜熱帯・温帯海域に広く分布する。日本近海でも暖流に沿った海域を中心に各地に分布する。摂氏14-17度と、ゴマサバやグルクマよりやや冷水温を好む。
沿岸域の表層で大群を作り遊泳する。春に北上して秋に南下するという季節的な回遊を行い、1日10kmほどの割合で移動するが、沿岸の岩礁域付近に留まる群れもある。食性は肉食性で、動物プランクトン、小魚、頭足類など小動物を捕食する。
産卵期は2-8月で、直径1.08-1.15mmほどの分離浮性卵を産卵する。産卵数は全長25cmの個体で10万-40万、全長40cmで80万-140万に達するが、卵や稚魚を保護する習性はなく、成長途中でほとんどが他の動物に捕食されてしまう。
サバ類は重量別にみると食用魚として日本で最も多く流通している非常に重要な食用魚で、その中心が本種である。
巻き網、定置網などの沿岸漁業で多量に漁獲される。外洋に面した防波堤や船からの釣りでも漁獲される。大分県の関さば、神奈川県の松輪サバ、青森県八戸市の八戸前沖鯖など各地に地域ブランドがある。日本近海の太平洋のマサバは、環境変化や乱獲の影響により一時は漁獲量が激減し2001年にはピーク時の3%にまで落ち込んだが、その後は休漁などの保護政策により2014年には2001年の11倍ほどに回復している。
身はやや白っぽいが赤身魚に分類され、ドコサヘキサエン酸(DHA)、エイコサペンタエン酸(EPA)を豊富に含む。秋から冬にかけてが脂が乗って旬とされる一方、夏は味が落ちるとされている。マサバの中でも特に脂の乗った鯖をとろ鯖と呼ぶ。
用途は〆鯖(きずし)、鯖寿司、焼き魚、煮付け、唐揚げ、缶詰、鯖節など幅広い。新鮮な身は刺身でも食べられるが、傷みが早いこと、鮮度が良かったとしてもアニサキスの寄生割合が高いことなどから生食の普及は限定的で、缶詰や塩鯖など保存が利くように加工された形で流通するものの方が多い。これは大半が生食される同じサバ科のマグロやカツオとは大きく異なる。
西日本旅客鉄道(JR西日本)が養殖・販売する「お嬢サバ」は、鳥取県岩美町において人工海水で育てて寄生虫を防ぎ、生食できることをセールスポイントにしている。
傷みが早い魚として知られ、鮮度の落ちたサバ料理は食中毒の原因となりうる。中でもサバの筋肉を特定の微生物が分解した結果生じるヒスタミンが原因のヒスタミン中毒(スコンブロイド中毒、サバ中毒とも)が知られる。ヒスタミンは調理時の洗浄や加熱では除去できず、予防法は筋肉の分解を極力抑制するため流通や保管の過程で高温にしない温度管理の徹底と、劣化した筋肉の摂取を避けることのみである。
養殖業における飼料の原料としても、マイワシ類と並んで重要な資源である。
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"text": "日本では食用魚として重要で、近縁のゴマサバ、グルクマ等と共に「サバ」と総称されるが、単にサバと言った場合は本種を指すことが多い。地方名としてホンサバ(各地)、ヒラサバ(静岡県や高知県)、ヒラス(長崎県)、タックリ(鹿児島県)、サワなどもある。",
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マサバは、スズキ目サバ科に分類される海水魚の一種。全世界の亜熱帯・温帯海域に分布する。 日本では食用魚として重要で、近縁のゴマサバ、グルクマ等と共に「サバ」と総称されるが、単にサバと言った場合は本種を指すことが多い。地方名としてホンサバ(各地)、ヒラサバ(静岡県や高知県)、ヒラス(長崎県)、タックリ(鹿児島県)、サワなどもある。
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{{生物分類表
|名称 =マサバ
|画像=[[ファイル:Scomber japonicus.png|250px]]<br />[[画像:Scomber japonicus (Matsuwasaba).jpg|250px]]
|画像キャプション=マサバ ''Scomber japonicus''
| status = LC
| status_ref = <ref name="iucn">{{cite iucn|author=Collette, B., Acero, A., Canales Ramirez, C., Cardenas, G., Carpenter, K.E., Chang, S.-K., Di Natale, A., Fox, W., Guzman-Mora, A., Juan Jorda, M., Miyabe, N., Montano Cruz, R., Nelson, R., Salas, E., Schaefer, K., Serra, R., Sun, C., Uozumi, Y., Wang, S., Wu, J. & Yeh, S.|year=2011|title=Scomber japonicus|page=e.T170306A6737373|doi=10.2305/IUCN.UK.2011-2.RLTS.T170306A6737373.en|accessdate=2023-09-26}}</ref>
|省略=条鰭綱
|目 = [[スズキ目]] {{sname||Perciformes}}
|科 = [[サバ科]] {{sname||Scombridae}}
|属 = [[サバ属]] {{snamei||Scomber}}
|種 = '''マサバ''' ''S. japonicus''
|学名 = {{snamei|Scomber japonicus}}<br />{{AUY|Houttuyn|1782}}
|英名 = [[w:Chub mackerel|Chub mackerel]]
|和名 = '''マサバ'''(真鯖)
}}
{{Wikispecies|Scomber japonicus}}
{{栄養価 | name=まさば 生<ref name=mext7>[[文部科学省]]『[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]』</ref>| kJ =1032| water=62.1 g| protein=20.6 g| fat=16.8 g| satfat=4.57 g| monofat = 5.03 g| polyfat =2.66 g| opt1n=[[コレステロール]] | opt1v=61 mg| carbs=0.3 g| sodium_mg=110| potassium_mg=330| calcium_mg=6| magnesium_mg=30| phosphorus_mg=220| iron_mg=1.2| zinc_mg=1.1| copper_mg=0.12| Manganese_mg=0.01| selenium_ug =70| betacarotene_ug=1| vitA_ug =37| vitD_ug=5.1| vitE_mg =1.3| vitK_ug=2| thiamin_mg=0.21| riboflavin_mg=0.31| niacin_mg=11.7| vitB6_mg=0.59| vitB12_ug=12.9| folate_ug=11| pantothenic_mg=0.66| opt2n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt2v=4.9 µg| vitC_mg=1| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>[[厚生労働省]]『[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf 日本人の食事摂取基準(2015年版)]』</ref>。別名: さば
廃棄部位: 頭部、内臓、骨、[[鰭]]等(三枚下ろし)| right=1 }}
{| class="wikitable" style="float:right; clear:right"
|+マサバ(生、100g中)の主な[[脂肪酸]]の種類<ref name=mext>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802.htm 五訂増補日本食品標準成分表]</ref><ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031801.htm 五訂増補日本食品標準成分表 脂肪酸成分表編]</ref>
|-
! 項目 !! 分量(g)
|-
| [[脂肪]]総量 || 12.1
|-
| [[脂肪酸]]総量 || 8.8
|-
| [[飽和脂肪酸]] || 3.3
|-
| [[一価不飽和脂肪酸]] || 3.6
|-
| [[多価不飽和脂肪酸]] || 1.9
|-
| 18:2(n-6)[[リノール酸]] || 0.097
|-
| 18:3(n-3)[[α-リノレン酸]] || 0.053
|-
| 20:4(n-6)[[アラキドン酸]] || 0.13
|-
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|-
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|}
'''マサバ'''(真鯖、{{lang-en-short|[[w:Chub mackerel|Chub mackerel]]}}、[[学名]]: {{Snamei|Scomber japonicus}})は、[[スズキ目]][[サバ科]]に分類される[[海水魚]]の一種。全世界の[[亜熱帯]]・[[温帯]]海域に分布する。
[[日本]]では食用魚として重要で、近縁の[[ゴマサバ]]、[[グルクマ]]等と共に「[[サバ]]」と総称されるが、単にサバと言った場合は本種を指すことが多い。[[地方名]]としてホンサバ(各地)、ヒラサバ([[静岡県]]や[[高知県]])、ヒラス([[長崎県]])、タックリ([[鹿児島県]])、サワなどもある。
== 形態 ==
成魚は全長50cmほどになる。体は前後に細長い紡錘形で、短い吻が前方に尖り、横断面は楕円形である。各[[鰭]]は体に対して小さい。[[鱗]]は細かく、[[側線]]鱗数は210-220枚ほどに達する。背面は青緑色の地にサバ類独特の黒い曲線模様が多数走り、側線より下の腹面は無地の銀白色をしている。
同属のゴマサバは、腹面に小黒点が散在すること、体の断面が円形に近いことで区別できる。他にも第1背鰭の棘条数(マサバ10以下・ゴマサバ11以上)、背鰭の軟条数(マサバ16以下・ゴマサバ17以上)などの相違点がある。
== 生態 ==
[[海流|暖流]]に面した全世界の亜熱帯・温帯海域に広く分布する。日本近海でも暖流に沿った海域を中心に各地に分布する。[[摂氏]]14-17度と、ゴマサバやグルクマよりやや冷水温を好む。
沿岸域の表層で[[群れ|大群]]を作り遊泳する。[[春]]に北上して[[秋]]に南下するという季節的な[[回遊]]を行い、1日10kmほどの割合で移動するが、沿岸の岩礁域付近に留まる群れもある。食性は肉食性で、動物[[プランクトン]]、小魚、[[頭足類]]など小動物を捕食する。
産卵期は2-8月で、直径1.08-1.15mmほどの分離浮性卵を産卵する。産卵数は全長25cmの個体で10万-40万、全長40cmで80万-140万に達するが、卵や稚魚を保護する習性はなく、成長途中でほとんどが他の動物に捕食されてしまう。
== 利用 ==
===食用===
サバ類は重量別にみると食用魚として日本で最も多く流通している非常に重要な食用魚で<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.market.jafic.or.jp/file/sanchi/2019/07_youtobetu_2019.htm|title=水産物流通統計(2019年)品目別用途別出荷量(19品目・32漁港)|publisher=[[水産庁]]|accessdate=2022-04-12}}</ref>、その中心が本種である。
[[巻き網]]、[[定置網]]などの沿岸漁業で多量に漁獲される。外洋に面した[[防波堤]]や[[船]]からの[[釣り]]でも漁獲される。[[大分県]]の[[関さば]]、[[神奈川県]]の[[松輪サバ]]、[[青森県]][[八戸市]]の[[八戸前沖鯖]]など各地に[[地域ブランド]]がある。日本近海の[[太平洋]]のマサバは、環境変化や[[乱獲]]の影響により一時は漁獲量が激減し2001年にはピーク時の3%にまで落ち込んだが、その後は休漁などの保護政策により2014年には2001年の11倍ほどに回復している<ref>{{cite news |title=太平洋マサバ復活 資源量、12年間で11倍 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2014-3-29|url=http://www.asahi.com/articles/ASG3X3D9SG3XULBJ004.html |accessdate=2014-3-29]}}</ref>。
身はやや白っぽいが赤身魚に分類され、[[ドコサヘキサエン酸]](DHA)、[[エイコサペンタエン酸]](EPA)を豊富に含む。[[秋]]から冬にかけてが脂が乗って[[旬]]とされる一方、夏は味が落ちるとされている。マサバの中でも特に脂の乗った鯖を[[とろ鯖]]と呼ぶ。
用途は〆鯖([[きずし]])、[[鯖寿司]]、[[焼き魚]]、[[煮る|煮付け]]、[[唐揚げ]]、[[缶詰]]、鯖節など幅広い。新鮮な身は[[刺身]]でも食べられるが、傷みが早いこと、鮮度が良かったとしても[[アニサキス]]の寄生割合が高い<ref>{{Citation |last=鈴木|first=淳ら|year=2011|
title=わが国におけるアニサキス症とアニサキス属幼線虫|periodical=東京都健康安全研究センター研究年報|volume=62|pages=13-24|url=https://www.tmiph.metro.tokyo.lg.jp/assets/issue/journal/2011/pdf/01-01.pdf}}</ref>ことなどから生食の普及は限定的で、[[缶詰]]や塩鯖など保存が利くように加工された形で流通するものの方が多い<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.market.jafic.or.jp/file/sanchi/2019/07_youtobetu_2019.htm|title=水産物流通統計(2019年)品目別用途別出荷量(19品目・32漁港)|publisher=水産庁|accessdate=2022-04-12}}</ref>。これは大半が生食される同じサバ科の[[マグロ]]や[[カツオ]]とは大きく異なる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.market.jafic.or.jp/file/sanchi/2019/07_youtobetu_2019.htm|title=水産物流通統計(2019年) 品目別用途別出荷量(19品目・32漁港)|publisher=水産庁|accessdate=2022-04-12}}</ref>。
[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が[[養殖]]・販売する「お嬢サバ」は、[[鳥取県]][[岩美町]]において人工海水で育てて[[寄生虫]]を防ぎ、生食できることをセールスポイントにしている<ref>
[https://mainichi.jp/articles/20220721/dde/001/020/033000c 「生サバOK」陸上養殖 寄生虫の混入排除 JR西も参入]『[[毎日新聞]]』夕刊2022年7月23日1面(同日閲覧)</ref>。
傷みが早い魚として知られ、鮮度の落ちたサバ料理は[[食中毒#化学性食中毒|食中毒]]の原因となりうる。中でもサバの筋肉を特定の微生物が分解した結果生じる[[ヒスタミン]]が原因のヒスタミン中毒(スコンブロイド中毒、サバ中毒とも)が知られる。ヒスタミンは調理時の洗浄や加熱では除去できず<ref>「[http://www.jpnsport.go.jp/anzen/anzen_school/tabid/1020/Default.aspx ヒスタミン食中毒の特徴と予防方法]」JAPAN SPORT COUNCIL(2015年8月6日閲覧)</ref>、予防法は筋肉の分解を極力抑制するため流通や保管の過程で高温にしない温度管理の徹底と、劣化した筋肉の摂取を避けることのみである。
===その他===
養殖業における[[飼料]]の原料としても、マイワシ類と並んで重要な資源である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.market.jafic.or.jp/file/sanchi/2019/07_youtobetu_2019.htm|title=水産物流通統計(2019年) 品目別用途別出荷量(19品目・32漁港)|publisher=水産庁|accessdate=2022-04-12}}</ref>。
== 慣用句 ==
* [[鯖の生き腐れ]] - 非常に傷みやすいところから。
* [[鯖を読む]] - 鯖は傷みやすく、市場などで手早く大雑把に数えていたことから転じて、[[年齢]]などをごまかすこと。
* [[鯖折り]] - [[相撲]]の決まり手の一つ。
{{-}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Scomber japonicus}}
* [[鯖寿司]]
* [[鯖街道]]
* [[へしこ]]
== 参考文献 ==
*[http://www.fishbase.org/summary/SpeciesSummary.php?id=117 Fishbase - ''Scomber japonicus''](英語)
*岡村収監修 山渓カラー名鑑『日本の海水魚』(サバ科執筆者 : 中村泉)[[山と渓谷社]] {{ISBN2|4-635-09027-2}}
*藍澤正宏ほか『新装版 詳細図鑑 さかなの見分け方』[[講談社]] {{ISBN2|4-06-211280-9}}
*[[檜山義夫]]監修 『野外観察図鑑4 魚』改訂版 旺文社 {{ISBN2|4-01-072424-2}}
*[[永岡書店]]編集部『釣った魚が必ずわかるカラー図鑑』 {{ISBN2|4-522-21372-7}}
*内田亨監修『学生版 日本動物図鑑』[[北隆館]] {{ISBN2|4-8326-0042-7}}
*岩井保『魚学入門』[[恒星社厚生閣]] {{ISBN2|4-7699-1012-6}}
== 外部リンク ==
* [http://aquadb.fra.affrc.go.jp/~aquadb/cgi-bin/speciesinfo.cgi?LANG=jp&TTAXID=13676&TARGET=1 Scomber japonicus(マサバ)][[水産総合研究センター]]
{{DEFAULTSORT:まさは}}
[[Category:サバ科]]
[[Category:青魚]]
[[Category:赤身魚]]
[[Category:1782年に記載された魚類]]
[[Category:マールテン・ホッタインによって名付けられた分類群]]
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10,055 |
高木彬光
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高木 彬光(たかぎ あきみつ、1920年(大正9年)9月25日 - 1995年(平成7年)9月9日)は、日本の推理小説作家。本名は高木 誠一。津軽方言詩人・医師の高木恭造の甥に当たる。
青森県青森市生まれ。4代続いた医者の家系だった。幼少時に母親と死別。
旧制青森中学校(現青森県立青森高等学校)から四修で第一高等学校理科乙類に入学。東京帝国大学理学部化学科の受験に失敗し、京都帝国大学薬学部に進んだが1年で中退、京都帝国大学工学部冶金学科卒。
非嫡出子として生まれ、一高入学の年に父親が亡くなり、家は破産して一家は離散し、親族からの援助で学業を続けた。その暗い生い立ちのせいもあってか「出身地・青森」には生涯思い入れを見せなかった。
京大卒業後、中島飛行機に就職したが太平洋戦争終結に伴い職を失う。1947年、骨相師の勧めにより小説家を志し、出来上がった長編『刺青殺人事件』が江戸川乱歩に認められて、翌1948年に出版の運びとなり、推理作家としてデビュー。
他、代表作に『能面殺人事件』(1950年、第3回探偵作家クラブ賞受賞)、『わが一高時代の犯罪』(1951年)、『人形はなぜ殺される』(1955年)、『成吉思汗の秘密』(1958年)、『白昼の死角』(1960年)、『破戒裁判』(1961年)など。主要な探偵は神津恭介(かみづきょうすけ)。そのほか百谷泉一郎弁護士・霧島三郎検事など、魅力的な探偵キャラクターの創造で知られる。推理小説だけでなく、時代小説・SF小説(架空戦記を含む)・少女向け小説も執筆している。
易、占いに通じていたことでも知られ、易に関する著作もある。また大学時代に学んだ冶金学の知識を生かし、秋田県で鉱山の発掘に熱中したこともあった。将棋も趣味であり、文壇名人戦の常連であった。
晩年は脳梗塞を幾度も発症し、その後遺症に苦しみ、闘病記『甦える』も執筆している。
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高木 彬光は、日本の推理小説作家。本名は高木 誠一。津軽方言詩人・医師の高木恭造の甥に当たる。
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{{読み仮名_ruby不使用|'''高木 彬光'''|たかぎ あきみつ|[[1920年]]([[大正]]9年)[[9月25日]] - [[1995年]]([[平成]]7年)[[9月9日]]}}は、[[日本]]の[[推理小説]][[作家]]。本名は'''高木 誠一'''。[[津軽弁|津軽方言]][[詩人]]・[[医師]]の[[高木恭造]]の甥に当たる。
== 来歴 ==
[[青森県]][[青森市]]生まれ。4代続いた医者の家系だった。幼少時に母親と死別。
旧制青森中学校(現[[青森県立青森高等学校]])から四修で[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]理科乙類に入学。[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京帝国大学理学部]]化学科の受験に失敗し、[[京都大学#沿革|京都帝国大学]][[京都大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学部]]に進んだが1年で中退、京都帝国大学[[京都大学大学院工学研究科・工学部|工学部]][[冶金学]]科卒。
非嫡出子として生まれ、一高入学の年に父親が亡くなり、家は破産して一家は離散し、親族からの援助で学業を続けた。その暗い生い立ちのせいもあってか「出身地・青森」には生涯思い入れを見せなかった。
京大卒業後、[[中島飛行機]]に就職したが[[太平洋戦争]]終結に伴い職を失う。[[1947年]]、骨相師の勧めにより小説家を志し、出来上がった長編『[[刺青殺人事件]]』が[[江戸川乱歩]]に認められて、翌[[1948年]]に出版の運びとなり、推理作家としてデビュー。
他、代表作に『[[能面殺人事件]]』([[1950年]]、第3回[[日本推理作家協会賞|探偵作家クラブ賞]]受賞)、『[[わが一高時代の犯罪]]』([[1951年]])、『[[人形はなぜ殺される]]』([[1955年]])、『[[成吉思汗の秘密]]』([[1958年]])、『[[白昼の死角]]』([[1960年]])、『[[破戒裁判]]』([[1961年]])など。主要な探偵は[[神津恭介]](かみづきょうすけ)。そのほか百谷泉一郎弁護士・[[検事霧島三郎|霧島三郎]]検事など、魅力的な探偵キャラクターの創造で知られる。推理小説だけでなく、[[時代小説]]・[[SF小説]]([[架空戦記]]を含む)・少女向け小説も執筆している。
[[易]]、[[占い]]に通じていたことでも知られ、易に関する著作もある。また大学時代に学んだ冶金学の知識を生かし、[[秋田県]]で鉱山の発掘に熱中したこともあった。[[将棋]]も趣味であり、文壇名人戦の常連であった。
晩年は[[脳梗塞]]を幾度も発症し、その後遺症に苦しみ、闘病記『甦える』も執筆している。
== エピソード ==
* 「謎の[[美人]][[易者]]」として一世を風靡した[[黄小娥]]の大ファンであった。手相にも詳しく、1981年(昭和56年)には[[角川文庫]]より『手相占い』が出版された。
* 『[[成吉思汗の秘密]]』、『[[邪馬台国の秘密]]』および『[[古代天皇の秘密]]』は、いずれも神津恭介が入院中の退屈しのぎに歴史上の謎に挑むという長編小説であり、これらの作品は、[[ジョセフィン・テイ]]の『[[時の娘]]』(1951年)に端を発した病院のベッドで動けない探偵が極めて限られた情報から推理する「[[ベッド・ディティクティヴ]]」という形式をとっている。
* 『成吉思汗の秘密』において、[[義経=ジンギスカン説]]とする論理の弱さや矛盾点を[[海音寺潮五郎]]に批判される。高木は表立った反論は行わず、作品を改訂した際に[[神津恭介]]が「ある歴史小説家」への回答を行うくだりを追加した。
*[[坂口安吾]]の未完成の推理小説『[[復員殺人事件]]』を、安吾の死後『樹のごときもの歩く』と改題して書き継ぎ、1957年(昭和32年)12月から翌1958年(昭和33年)4月に『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』に連載して完結させた<ref name="kaidai8">「解題」(『坂口安吾全集8』)([[筑摩書房]]、1998年)</ref><ref name="gonda">[[権田萬治]]「解説」(文庫版『復員殺人事件』)([[角川文庫]]、1977年。再版1978年。)</ref>。
* [[山田風太郎]]、高木彬光、[[島田一男]]、[[香山滋]]、[[大坪砂男]]の五人で「探偵小説界の戦後派五人男」と呼ばれた。また、1950年、山田風太郎、島田一男、香山滋らと新人探偵作家の会「鬼クラブ」を結成して、同人誌『鬼』を刊行した<ref>『[[ユリイカ]]』2001年12月号・特集[[山田風太郎]]P.188[[日下三蔵]]「山田風太郎執筆年譜」</ref>。
* 山田風太郎とは年齢・境遇が近かったこともあって親しく、高木がアイディアを出して山田が執筆した合作『悪霊の群』(『[[講談倶楽部]]』1952年5月特別号に掲載。のちに単行本。)がある。互いの死去時の[[葬儀委員長]]を約束していたが、高木の死去時に山田も大病を患っており、果たせなかった。
* 作品の参考にするため[[刑法 (日本)|刑法]]・[[刑事訴訟法]]にはかなり通じており、[[丸正事件]]で被疑者以外の人物を真犯人として名指しし[[名誉毀損]]で訴えられた[[弁護士]][[正木ひろし]]の[[特別弁護人]]を引き受けたこともある。
== 著書 ==
=== 神津恭介 ===
==== 長編 ====
*[[刺青殺人事件]] 1948 [[岩谷書店]] 1951 のち[[角川文庫]]、[[光文社文庫]]、[[ハルキ文庫]]、『白雪姫』角川文庫
*[[呪縛の家]] [[和同出版社]] 1954 のち角川文庫、光文社文庫
*[[魔弾の射手 (小説)|魔弾の射手]] [[東方社]] 1955 のち角川文庫
*地獄の舞姫 - 未完の作品。
*[[わが一高時代の犯罪]] 岩谷書店 1951 のち角川文庫、光文社文庫、ハルキ文庫 - 神津恭介の最初の事件
*白妖鬼 東方社 1955 のち角川文庫
*悪魔の嘲笑 東京文芸社 1957 のち角川文庫
*[[人形はなぜ殺される]] 大日本雄弁会講談社 1955 のち角川文庫、光文社文庫、ハルキ文庫
*[[死を開く扉]] 東京文芸社 1957 のち角川文庫
*[[成吉思汗の秘密]] [[光文社]] 1958 のち角川文庫、光文社文庫、ハルキ文庫
*[[白魔の歌]] [[光風社]] 1961 のち角川文庫
*火車と死者 [[講談社]] 1959 のち角川文庫
*[[死神の座]] 講談社 1960 のち角川文庫、光文社文庫
*[[邪馬台国の秘密]] 光文社 1973([[カッパ・ノベルス]])
*狐の密室 [[トクマ・ノベルス|徳間ノベルス]] 1977.7 のち角川文庫 - 大前田英策との共演
*[[古代天皇の秘密]] 神津恭介シリーズ 角川ノベルズ 1986.10 のち文庫
*[[七福神殺人事件]] 角川ノベルズ 1987.11 のち文庫
*神津恭介への挑戦 [[出版芸術社]] 1991.7 - 平成三部作
*神津恭介の復活 出版芸術社 1993.9
*神津恭介の予言 出版芸術社 1994.9 - 平成三部作の三作目。
==== 中編・短編集 ====
*[[妖婦の宿]] 1949 [[東方社]] 1955 のち角川文庫、春陽文庫 - 最初期の中短編集。
*死美人劇場 東方社 1955 のち角川文庫、春陽文庫
*血ぬられた薔薇 東方社 1955 のち角川文庫、春陽文庫
*白雪姫 東方社 1955 『白雪姫』角川文庫 1986.05 - 美女や妖女が絡む事件を集めた作品集。
**白雪姫 - 青森の旧家を舞台にした雪上の不可能犯罪。
**緑衣の女(小指のない魔女)
**眠れる美女 和同出版社 1956
**女の手
**蛇性の女
**幻影殺人事件(嘘つき娘)
**加害妄想狂
*[[邪教の神]] 東方社 1956 のち角川文庫、『私は殺される』春陽文庫
*蛇の環 東京文芸社 1957
*目撃者 東京文芸社 1959
*[[影なき女]] 神津恭介事件簿 [[アサヒ芸能出版]] 1964(平和新書)のち角川文庫 - 中編の代表作。
*出獄 神津恭助推理ノート [[桃源社]] 1965(ポピュラー・ブックス)
*これが法律だ 神津恭介推理ノート 桃源社 1965(ポピュラー・ブックス)
*盲目の奇蹟 神津恭介推理ノート 桃源社 1966(ポピュラー・ブックス)
*殺人シーン本番 神津恭介推理ノート 桃源社 1967(ポピュラー・ブックス)のち春陽文庫
*紫の恐怖 桃源社 1969(ポピュラー・ブックス)
*幽霊の顔 桃源社 1969(ポピュラー・ブックス)
*幽霊の血 桃源社 1977.5(ポピュラー・ブックス)
*首を買う女 神津恭介シリーズ 角川ノベルズ 1986.11 のち文庫
*神津恭介の回想 出版芸術社 1996.6
*初稿・刺青殺人事件 [[扶桑社文庫]] 2002.11
*悪魔の山 神月堂, 2004.12(神津恭介シリーズ未収録短編集 1)
=== 大前田英策 ===
*浮気な死神 東方文芸社 1957
*お前の番だ 東京文芸社 1958
*三尺の墓 東京文芸社 1958
*幽霊復活 東京文芸社 1959 『二十三歳の赤ん坊』角川文庫
*悪魔の火祭 [[桃源社]] 1958 のち角川文庫
*黒魔王 東京文芸社 1959(新訂版:[[論創社]] 2020.9)
*大前田探偵局事件簿 同光社出版 1959
*断層 桃源社 1959 のち角川文庫
*暗黒街の鬼 東京文芸社 1960
*東京秘密探偵局 [[章書房]] 1960
*秘密探偵局捜査メモ 第1-2 [[雄山閣出版]] 1961
*秘密探偵局捜査メモ 第3 青樹社 1965
*暗黒街の帝王 大前田英策推理ノート 桃源社 1966(ポピュラー・ブックス)
*魔炎 大前田英策推理ノート 桃源社 1966(ポピュラー・ブックス)
*恐怖の蜜月 大前田英策推理ノート 桃源社 1967(ポピュラー・ブックス)のち角川文庫
*暗黒街の密使 日本文華社、1975『魔の首飾』角川文庫
*恋は魔術師 角川文庫 1986.6
*姿なき女 大前田英策シリーズ 角川ノベルズ 1987.3 のち文庫
=== 弁護士・百谷泉一郎・明子夫妻 ===
*[[人蟻]] 森脇文庫 1960 のち角川文庫、光文社文庫
*[[破戒裁判]] [[東都書房]] 1961 のち角川文庫、光文社文庫
*[[誘拐 (小説)|誘拐]] 光文社 1961([[カッパ・ノベルス]])のち角川文庫、光文社文庫
*[[追跡 (小説)|追跡]] 光文社 1962(カッパ・ノベルス)のち角川文庫
*遺言書 1962 - 百谷夫妻もの唯一の短編。
*[[失踪 (高木彬光の小説)|失踪]] 講談社 1964 のち角川文庫
*法廷の魔女 講談社 1965 のち角川文庫
*脅迫 双葉新書 1967 のち角川文庫
=== 捜査検事(近松茂道) ===
*黒白の虹 光文社 1963(カッパブックス)のち角川文庫
*捜査検事 光文社 1964(カッパ・ノベルス)のち角川文庫 - [[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]主演で『[[捜査検事・近松茂道]]』としてテレビドラマ化。
*波止場の捜査検事 光文社 1966(カッパ・ノベルス)のち角川文庫
*偽装工作 光文社 1966(カッパ・ノベルス)のち角川文庫
*黒白の囮 [[読売新聞社]] 1967 のち角川文庫、光文社文庫
*最後の自白 近松検事シリーズ 光文社 1967(カッパ・ノベルス)のち角川文庫
*霧の罠 光文社 1968(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*追われる刑事 光文社 1969(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
=== 検事霧島三郎 ===
*[[検事霧島三郎]] 光文社 1964(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*密告者 光文社 1965(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*ゼロの蜜月 光文社 1965(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*都会の狼 光文社 1966(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*炎の女 光文社 1967(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*復讐保険 桃源社 1970(ポピュラー・ブックス)
*検事霧島三郎の記録 双葉新書 1970
*灰の女 光文社 1970(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*幻の悪魔 光文社カッパノベルス、1975 のち角川文庫、光文社文庫
*二幕半の殺人 角川文庫 1976
*花の賭 [[双葉新書]] 1970 のち角川文庫
*被害者を探せ 検事霧島三郎 双葉社 1996.7
=== クレージー・LP(東洋新聞社出版局局長 山西誠) ===
*裂けた視覚 光文社 1969(カッパ ノベルス)のち角川文庫
*[[女か虎か]] 双葉新書 1970 のち角川文庫 - リチャード・ストックトンの[[リドル・ストーリー]]『女か虎か』に因む。
=== 墨野隴人([[バロネス・オルツィ|オルツイ女男爵]]トリビュート) ===
*黄金の鍵 光文社 1970(カッパ・ブックス)のち角川文庫、光文社文庫 - 名探偵待望論に応えたシリーズ。
*[[一、二、三 - 死]] 光文社 1974(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫 - 鬼の数え歌による見立て殺人。他に類を見ない殺人の動機。
*大東京四谷怪談 立風書房 1976 のち角川文庫、光文社文庫
*現代夜討曽我 光文社 1987.6(カッパ・ノベルス)のち文庫
*仮面よ、さらば 墨野隴人シリーズ 角川ノベルズ 1988.5 のち文庫、光文社文庫 - 1988年に本作を発表し、引退を宣言。
=== ノンシリーズ ===
*[[能面殺人事件]] 岩谷書店 1951 のち[[春陽文庫]]、角川文庫、[[双葉文庫]] 高木の第二長編。第3回[[日本推理作家協会賞|探偵作家クラブ長編賞]]受賞。
*復讐鬼 東京文芸社 1955 ※『神秘の扉』と改題して、浪速書房 1960 のち角川文庫
*[[幽霊西へ行く]] 東方社 1955 のち角川文庫 1986
*五つの連作 東方社 1955 のち角川文庫 1986 - 雑誌『週刊朝日別冊』の企画で、5回にわたって犯人当て作品を載せて解答を募り、正解者各1名に抽選で[[スポンサー]]から賞品が提供される企画。
**殺人パララックス
**死人は筆を選ぶ
**時計はウソ発見機
**苦労性な犯人
**自動車収集狂
*ボルヂア家の毒薬 東方社 1956 『猟奇の都』角川文庫
*私の殺した男 和同出版社 1958 のち角川文庫
*[[白昼の死角]] 光文社 1960(カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫 - 1979年に映画化、テレビドラマ化されて話題となった。[[夏木勲]]など。
*展覧会の絵 東京文芸社 1962
*肌色の仮面 光文社 1962(カッパ・ノベルス)のち角川文庫
*占い推理帖 [[文藝春秋新社]] 1963(ポケット文春)
*羽衣の女 東京文芸社 1966 のち角川文庫
*脱獄死刑囚 桃源社 1966(ポピュラー・ブックス)
*犯罪の環 桃源社 1966(ポピュラー・ブックス)
*占い推理帖 人相篇 文藝春秋 1966(ポケット文春)
*青銅の顔の女 桃源社 1967(ポピュラー・ブックス)
*帝国の死角 上下 角川文庫 1978
**天皇の密使 帝国の死角 第1部 光文社 1971(カッパ・ノベルス)
**神々の黄昏 帝国の死角 第2部 光文社 1972(カッパ・ノベルス)
*神曲地獄篇 光文社 1973(カッパ・ノベルス)のち角川文庫
*ミイラ志願 光文社 1973(カッパ・ノベルス)のち角川文庫
*巨城の破片・万華の断片 角川書店 1979.1 のち文庫
*殺意 角川文庫 1979.4
**殺意
**無名の手紙
**家捜し
**レインコート
**女怪
**人妖
**死刑執行人
**ユダヤの商人
**ロンドン塔の判官
*刺青物語 角川文庫 1983.4
*妖術師 角川文庫 1987.6
*幽霊の血-わが愛しき探偵たち- 新芸術社、1989 『五人の探偵たち』 光文社文庫 1991.4
*朱の奇跡-わが愛しき探偵たち (2)- 出版芸術社、1991 『帰ってきた探偵たち』光文社文庫 1992.4
*真犯人 [[天山文庫]] 1992.1
*骸骨島 復刻版 神月堂 2002.7
*夜の皇帝・深夜の魔王 [[神月堂]] 2003.8
=== 時代・歴史小説 ===
*素浪人奉行 [[東京文芸社]] 1953 のち春陽文庫
*紅地獄絵巻 東京文芸社 1954
*蛇神様 東京文芸社 1954 のち角川文庫、春陽文庫
*怪盗白面鬼 東京文芸社 1954
*どくろ観音 千両文七捕物帳 [[同光社]] 1954 のち春陽文庫
*新選組 偕成社 1955(実録時代小説)
*[[あばれ振袖]] 正続 東京文芸社 1955-56 のち春陽文庫 - [[中村錦之助]]主演で映画化。
*千両文七 東方社 1956 『刺青の女』春陽文庫
*血髑髏組 東京文芸社 1956 『血どくろ組』春陽文庫
*折鶴秘帖 同光社 1956 のち春陽文庫
*振袖剣光録 東京文芸社 1956 のち春陽文庫
*妖説地獄谷 東京文芸社 1956 のち春陽文庫
*振袖夜叉 東京文芸社 1957 のち春陽文庫
*御用盗変化 東京文芸社 1957 のち春陽文庫
*あばれ千両肌 [[同光社出版]] 1957
*鼠六匹二万両 和同出版社 1957
*刺青一代女 東京文芸社 1957
*無想剣進上 和同出版社 1957 のち春陽文庫
*鬼来也 正続 東京文芸社 1958 のち春陽文庫
*青貝進之丞人斬控 東京文芸社 1958
*小太郎の旗 東京文芸社 1958
*白鬼屋敷 桃源社 1958
*修羅王参上 東京文芸社 1958
*隠密独眼竜 東京文芸社 1958 のち春陽文庫
*謎の唐人屋敷 東京文芸社 1958
*隠密愛染帖 東京文芸社 1959 のち春陽文庫
*人肌変化 桃源社 1959 のち春陽文庫
*長脇差大名 和同出版社 1959 のち春陽文庫
*蛇神魔殿 [[浪速書房]] 1959
*隠密飛竜剣 東京文芸社 1959 『柳生旅日記』
*怪傑修羅王 同光社出版 1959 のち春陽文庫
*魔剣青貝流 東京文芸社 1960
*花の千両肌 [[朝日書房]] 1960
*竜巻街道 正続 東京文芸社 1961 『たつまき街道』春陽文庫
*まぼろし姫 東京文芸社 1961 のち春陽文庫
*振袖変化 東京文芸社 1961 のち春陽文庫
*江戸の夜叉王 桃源社 1962 のち春陽文庫
*青竜の剣 東京文芸社 1962
*大江戸悪魔祭 東京文芸社 1962 『江戸悪魔祭』春陽文庫
*隠密月影帖 東都書房 1963 のち春陽文庫
*雪姫絵図 東都書房 1965 のち春陽文庫
*風来浪人 桃源社 1967(ポピュラー・ブックス)のち春陽文庫
*風雲の旗 桃源社 1971(ポピュラー・ブックス)のち春陽文庫
*なりひら盗賊 日本文華社、1973 のち春陽文庫
*大予言者の秘密 易聖・[[高島嘉右衛門]]の生涯 光文社 1979.7(カッパ・ブックス)のち角川文庫、『「横浜」をつくった男』光文社文庫
*人斬り魔剣 春陽文庫 1984.7
*蛇性の女 春陽文庫 1988.12
=== SF・架空戦記 ===
*宇宙戦争 偕成社 1954
*ハスキル人 東方社 1958 のち角川文庫 SF短編集
*連合艦隊ついに勝つ [[ミッドウェー海戦]]から[[レイテ沖海戦|レイテ海戦]]まで ベストセラーズ 1971 のち角川文庫、光文社文庫
=== ジュブナイル ===
*妖鬼の塔 [[偕成社]] 1949
*蝙蝠館の秘宝 [[ポプラ社]] 1950 のち [[ポプラポケット文庫]] 2006
*死神博士 偕成社 1951 のち[[ソノラマ文庫]]
*幽霊馬車 偕成社 1951
*黒衣の魔女 偕成社 1952
*悪魔の口笛 ポプラ社 1953 のち文庫
*白蝋の鬼 ポプラ社 1953 のちソノラマ文庫
*吸血魔 ポプラ社 1954.6
*消えた魔人 ポプラ社 1967(名探偵シリーズ)
=== 実用書(占術など) ===
*易の効用 運命開拓法 講談社 1963
*高木彬光人相教室 あなたの人相はどのタイプ? 双葉新書 1969
*易占入門 あなたにもできる易 講談社 1971
*方位学入門 知らないと危ない方角の吉・凶 光文社 1971(カッパ・ブックス)
*昭和47年度幸運の暦 ベストセラーズ 1971
*[[ノストラダムスの大予言|ノストラダムス 大予言]]の秘密 1999年7月はたして人類は滅亡するか! 日本文華社 1974 のち角川文庫
*人相学入門 人を見る眼を養うために 講談社 1976
*手相学入門 転ばぬ先の杖として 講談社 1976 『手相占い』角川文庫
*相性判断 この人があなたの幸運を招く 光文社文庫 1985.2
*あなたの運命はこうなる! 易占がズバリ予知!! 日本文芸社 1985.9
*高木彬光易占集 1-4 [[東洋書院]] 2005-06
=== 評論・随筆 ===
*随筆探偵小説 [[鱒書房]] 1956
*占い人生論 巌松堂出版 1961
*ぼくのヨーロッパ飛びある記 日本文華社 1966(文華新書)
*吸血の祭典 世界の神秘と怪奇 [[日本文華社]] 1967(文華新書)、『吸血の祭典』 出版芸術社 1996.1(ふしぎ文学館)
*邪馬台国推理行 角川書店 1975
*邪馬壱国の陰謀 日本文華社 1978.4(文華新書)
*甦える 脳梗塞・右半身麻痺と闘った900日 光文社 1982.9
*わが闘病記 脳梗塞・死からの脱出 曜曜社出版 1987.5
=== 全集・選集 ===
*高木彬光集 河出書房 1956(探偵小説名作全集10)
*'''神津恭介探偵小説全集''' 全10巻 和同出版社 1957-58
*高木彬光妖奇長篇選集 1-4 東京文芸社 1965
*世界怪奇犯罪小説集 桃源社 1970
*'''高木彬光長編推理小説全集''' 全16巻 光文社 1972-74
*'''高木彬光名探偵全集''' 1-11 立風書房 1975-76
*高木彬光集 リブリオ出版 1997.10(ポピュラーミステリーワールド第3巻)
*高木彬光コレクション 全10巻 [[光文社文庫]] 2005
*高木彬光探偵小説選 [[論創社]] 2010(論創ミステリ叢書)
=== 合作・共著・訳書 ===
*白薔薇殺人事件 『モダン日本』1948年11月号 - 戦後すぐに、その頃デビューした作家6名によって書かれた連作。香山滋・島田一男・山田風太郎(第3話を担当)・楠田匡介・岩田賛が1話ずつ担当し、完結編「薔薇未だ崩れず」を'''高木彬光'''で締める(『香山滋全集・別館』三一書房 1997)。
*十三の階段 1953 - 山田風太郎・[[島田一男]]・岡田鯱彦・高木彬光によるリレー作品。
*悪霊の群 東京文芸社、1955 - [[山田風太郎]]との合作。神津恭介シリーズ。
*雄鷲雌鷲 [[城昌幸]],[[陣出達朗]]連作 和同出版社 1955
*樹のごときもの歩く [[坂口安吾]]共著 [[東京創元社]] 1958 - 坂口安吾の未完長編『復員殺人事件』を補筆完成させたもの。
*乱歩・正史・風太郎 [[山前譲]]編 出版芸術社 2009.11
*風さん、高木さんの痛快ヨーロッパ紀行 出版芸術社 2011 -巨匠 山田風太郎 とのヨーロッパ旅行記を再刊、未公開の旅日記を初公開。
*[[帽子収集狂事件|帽子蒐集狂事件]] 高木彬光翻訳セレクション 論創社 2020(論創海外ミステリ)
*:[[ジョン・ディクスン・カー]] / 他に[[J・B・ハリス|ジェームズ・バーナード・ハリス]]の短編「死の部屋のブルース」「蝋人形」
== 出演 ==
=== 映画 ===
*[[金田一耕助の冒険 (映画)|金田一耕助の冒険]](床屋の客として出演、1979年)
*[[白昼の死角]](ニセ社員の応募に応じる役として出演、1979年)
===広告===
*[[角川書店]] 角川文庫ミステリーフェア GUILTY篇([[横溝正史]]、[[森村誠一]]と出演、1978年)<ref>『ACC CM年鑑'79』([[全日本シーエム放送連盟|全日本CM協議会]]編集、[[誠文堂新光社]]、1979年 44頁)</ref>
== 映像化作品 ==
=== 映画 ===
* [[透明人間現わる]](1949年、[[大映]])- 安達伸生監督作品
* [[わが一高時代の犯罪]](1951年、[[東映]])- [[関川秀雄]]監督作品
* [[刺青殺人事件]](1953年、[[新東宝]])- [[森一生]]監督作品
* 素浪人奉行(1953年、東映)- [[佐々木康]]監督作品
* あばれ振袖(1955年、東映)- [[萩原遼 (映画監督)|萩原遼]]監督作品
* 拳銃対拳銃(1956年、東映)- [[小沢茂弘]]監督作品(原作は[[山田風太郎]]との合作)
* 女難屋敷(1956年、[[松竹]])- [[堀内真直]]監督作品
* 魔の花嫁衣裳(前・後編)(1956年、大映)- [[浜野信彦]]監督作品
* のんき侍大暴れ(1956年、松竹)- [[倉橋良介]]監督作品
* 快傑修羅王(1956年、新東宝)- [[丸根賛太郎]]監督作品
* 朱桜判官(1958年、新東宝)- [[加戸野五郎]]監督作品
* 隠密変化(1959年、新東宝)- 加戸野五郎監督作品
* 蛇神魔殿(1960年、東映)- [[工藤栄一]]監督作品
* 誘拐(1962年、大映)- [[田中徳三]]監督作品
* [[検事霧島三郎]](1964年、大映)- [[田中重雄]]監督作品
* 密告者(1965年、大映)- 田中重雄監督作品
* いれずみ無残(1968年、松竹)- 関川秀雄監督作品
* 新・いれずみ無残 鉄火の仁義(1968年、松竹)- 関川秀雄監督作品
* [[白昼の死角]](1979年、[[角川映画]])- [[村川透]]監督作品
===テレビ ===
*[[白昼の死角]](1963年5月1日 - 6月26日、[[フジテレビ]])[[福中八郎]]演出
*白昼の死角(1979年8月4日 - 9月29日、[[毎日放送]])[[松尾昭典]]演出
*[[探偵・神津恭介の殺人推理]] 全11回(1983年 - 1992年、[[テレビ朝日]]) 神津恭介役は[[近藤正臣]]
*[[捜査検事・近松茂道]] 全14回(2002年 - 2013年、[[テレビ東京]]・[[BSジャパン]]) 近松茂道役は[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]
== 脚注 ==
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== 参考資料 ==
*{{Cite book|和書 |author=高木晶子 |date=2008-05 |title=想い出大事箱 父・高木彬光と高木家の物語 |publisher=[[出版芸術社]] |isbn=978-4-88293-345-8}}
== 関連項目 ==
* [[抜打座談会事件]]
* [[魔童子論争]]
== 外部リンク ==
*[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%BD%AC%E5%85%89-92523 高木彬光 とは] - [[コトバンク]]
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[[Category:高木彬光|*]]
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サバ
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サバ(鯖、青花魚、鮄、英: Mackerel)は、スズキ目・サバ科のサバ属(Scomber)・グルクマ属(Rastrelliger)・ニジョウサバ属(Grammatorcynus)などに分類される魚の総称。世界各地で食される。日本近海ではマサバ(真鯖)、ゴマサバ、グルクマ、ニジョウサバ(二条鯖)の計4種が見られる。
生物学的側面は各記事を参照。
日本の太平洋各地で水揚げされるサバは秋が旬で、「秋サバ」と称される。太平洋沿岸を回遊するサバは、伊豆半島沖で春頃に産卵し、餌を食べながら北上する。特に北海道沖での海域はプランクトンが豊富にありサバは丸々と太るが、脂肪分は皮と身の間などに貯められ、身に均等に回っていない。このサバが産卵のために南下を始める時期が9月-10月頃であり、その時期のサバは脂肪が身に入り込み、身も締まって風味は格段に上がる。特に八戸沖で水揚げされる「戻りのサバ」は最良とされている。北上するサバと南下するサバとでは脂肪含有率が全く違うが、脂肪含有率の多い順は北海道沖→八戸沖→三陸沖→常磐沖→銚子沖→伊豆沖となる。九州沿岸で水揚げされるサバは、冬が旬であり俗に「寒サバ」とも称する。真鯖の漁場が韓国の済州島辺りになってきている。
大西洋サバ(通称ノルウェーサバ, S. scombrus)は秋が旬である。アイルランド沖で春先に産卵し、孵化した幼魚は餌をとりながらノルウェー南部海域を目指す。ノルウェー南部海域にはルンベと称される浅瀬があり、そこには海草が生い茂り波も静かでプランクトンが豊富である。幼魚時期にそこで成長し、回遊ができる体になってから北上を始める。ノルウェー北部海域にはプランクトンが豊富にある海域があり、索餌行動をして丸々と太ったサバは産卵のため南下を始める。程よく脂も抜けて、身もしまり風味が良くなる時期が、9月中旬から10月中旬である。特にオーレスンド沖で水揚げされる戻りのサバが最良とされている。脂肪含有率の目安は、8月漁獲サバ:約30 - 32%、9月中旬 - 10月中旬漁獲サバ:約28%前後、1月漁獲サバ:約24%、3月漁獲サバ:約16 - 18%となる。
漁業の対象としてだけでなく、食用としての価値や引きの強さから、個人的な釣りでも人気が高い。
2016年度の日本の漁獲量は約49万トンで、1位の中国(約50万トン)に次ぐ世界2位である。このうち半分の約25万トン(2018年度)を海外に輸出している。一方、日本への輸入は約7万トン(2018年度)であり、そのうちの9割がノルウェー産である。
県別にみると、2017年度の水揚量の1位は「茨城常磐のマサバ」で有名な茨城県で、125,522トン。福井県では1974年には12,697トンの水揚げがあったが、2017年には203トンになった。
ヨーロッパ諸国では漁獲されるのは大型がメインとなるが、日本では漁獲されるのは小型のサバがメインである。しかし2018年に漁業法が改正されたことを受けて状況は変わりつつある。
ヨーロッパ産は高価であるが、脂が乗っておいしいため、日本にはノルウェー産が輸入されており、日本のスーパーで販売されるサバのうち7割(2018年度)がノルウェー産である。一方、日本で主に漁獲される小型のサバは、主に缶詰(サバ缶)に加工される他、「生餌」としてブリやマグロなどの養殖魚のエサに使われる。小型のサバは脂が乗っていないので日本の消費者には好まれないが、安価であり、アフリカ諸国の人でも購入しやすいため、日本の漁獲量の半分が輸出に回され、そのうち6割(2018年度)がナイジェリアやエジプトを中心とするアフリカ諸国に輸出され、残りの4割はアジア諸国を中心に輸出されている。川商フーズが「GEISHA」ブランドの鯖缶を海外で販売しており、特にガーナやナイジェリアを中心とする西アフリカでは国民食とも言える人気となっている。
マサバ及びゴマサバは資源の減少のため、1997年より日本で漁獲可能量(TAC)が設定されているが、設定された漁獲可能量(2018年度は812,000トン)を実際の漁獲量(2018年度は約50万トン)が下回る状態が続いており、あまり資源が回復していない。また輸出されるサバのキロ単価でも、ノルウェー産が約195円なのに対して日本産は106円と、約半分となっており、漁獲者はあまり儲かっていない。その理由としては「未成魚の漁獲圧」、つまりノルウェーでは30cm以下のサバを食用で漁獲することができないのに、日本では「ローソク」と呼ばれる子供のサバが盛んに水揚げされていることなどが考えられている。
日本でサバの資源量が少なくて未成魚しか獲れず、しかも未成魚を漁獲しても安く買いたたかれるにもかかわらず、未成魚が乱獲されている理由としては、日本でサバの資源量が減少していて未成魚しか獲れず、しかも未成魚は安く買いたたかれるので、ますます未成魚のサバを大量に漁獲せざるを得ないという悪循環が考えられている。漁獲を制限するために漁獲可能量の数字が設定されるため、漁獲量が漁獲可能量の数字に達した時点で漁獲をストップするが(そのため、毎年の漁獲量は漁獲可能量と同じ数字となる)、日本では漁獲可能量がとても大きく設定されており、どれだけ漁獲しても漁獲可能量に達することがなく、乱獲の歯止めとならないのも理由の一つと考えられている。
日本近海のサバの資源量(水産庁による推測)は、1990年代以降に10万トン台まで落ち込んだが、2000年代以降に回復基調にあり、特に2010年代以降に大きく回復し、2016年には約72万トンにまで回復したと評価されている。その背景として、漁獲抑制と、2011年の東日本大震災で漁港が壊滅して漁獲圧が減ったことが考えられている。そのため、サバの漁獲可能量も増やされているが、それでもまだ1980年代の水準(140万トン程度)には戻っておらず、漁獲可能量の見直しが再び乱獲を招くとの批判がある。
資源管理がなされたうえで漁獲されたサバは、乱獲ではないことを証明するために海洋管理協議会(MSC)の評価を受け、パッケージに「海のエコラベル」と呼ばれる「MSC認証シール」が貼ってある。「MSC認証」の存在も日本でノルウェー産サバのブランド価値を高めている要素の一つで、日本の小売り大手のイオンでは自社ブランドで「MSC認証さば」を販売しており、2017年に500万パックを販売したと言う。しかし2019年はノルウェーでもサバを獲りすぎ、MSC認証が停止された。
マグロやアジ等と並んで世界的に消費量の多い魚である。日本では焼き魚、煮魚(鯖味噌など)、寿司(鯖寿司、焼きサバ寿司)、〆鯖(しめさば)、なれ鮨等として多く食べられる他、めんつゆの原料など加工用途としての需要も高い。
胡麻鯖(福岡県)のような郷土料理も各地にあるほか、缶詰(サバ缶)にされる煮鯖も多い。鰹節と同様の「鯖節」(さばぶし)にされることもある。他の主要な食用魚と比較して傷みが早いため、生食は寄生虫や食中毒の問題がありタブーとされているが、関さばや葉山の根付きさばといったブランド鯖や、生育管理された養殖鯖(長崎ハーブ鯖など)で、尚且つ取れたてのものは、〆鯖ではない刺身でも食べられる。生食できることやブランド鯖であることを売り物にする産地や漁業者も拡大傾向にある。
DHA(ドコサヘキサエン酸)や EPA(エイコサペンタエン酸)などの高度不飽和脂肪酸 - ω-3脂肪酸(Omega-3)が多く含まれている点も注目されている。また新規化合物セレノネインが含まれおり、その抗酸化作用も注目されている。その一方で「鯖の生き腐れ」と呼ばれるほど鮮度の低下が著しいという欠点もある。またヒスチジンを多く含むためにアレルギー源となるヒスタミンを生じやすく、蕁麻疹の原因となることがある。
マサバでは豊後水道の関さば・岬さば(はなさば)、三浦市松輪の松輪サバ、ゴマサバでは屋久島の首折れ鯖、土佐清水市の清水サバなどの地域ブランドが存在する。
漁獲量の低下により養殖が行われるようになっている。養殖は大分県や鳥取県で盛んに行われ、輸入品はノルウェーがあり、主に塩蔵品(塩さば)に加工される。
サバの身にはアニサキスが寄生していることもある。アニサキスは加熱や冷凍で死滅するが、酢で締めても死滅しないので〆鯖もアニサキス症の危険がある。鮮度が落ちると内臓から身へ移るので、鮮度の良いうちに内臓を処理する。アニサキス保有リスクがあるにもかかわらず、西日本の特に北部九州などでは生食の習慣がある。その要因の一つとして収穫地域により保有するアニサキスの種類が異なり、生食習慣のある地域で食されるサバが保有する種類のアニサキスは内臓から肉身に移行する率が極めて低いためだとするアニサキスの種類原因説が挙げられている。
古来よりサバは、食あたりが発生しやすい食材と知られており、サバの生き腐れと呼ばれてきた。これは脂肪分が多く鮮度低下が比較的早いということと、環境中に常在するヒスタミン生産細菌によりヒスタミン中毒が生じることが原因である。鮮度の低下を防ぐために、釣りで捕獲した際は低温で保管するのはもちろんのこと、エラを切除するか首を折った後に海水に漬けて血抜きをすることが推奨される。冷蔵・冷凍技術や自動車がなかった近世以前に、若狭国から京都へ通じる鯖街道で運ばれた鯖は、塩をまぶして劣化を防いでいた。
低温だけではヒスタミン生産細菌の増殖とヒスタミンの生成を抑制することはできず、温度5°Cで5日間の保存により官能的に腐敗臭を感じない状態でも、ヒスタミン量が中毒の閾値を超える場合もある。また、調理の加熱ではヒスタミンは分解されず食品中に残存する。一方、酢で洗うなどの処理はヒスタミン生産細菌の増殖を抑制することができるため、鮮度保持には有効である。
古くから日本人になじみの深い食用魚である。縄文時代の遺跡である青森県の三内丸山遺跡でブリなどとともにサバの骨が出土した。「さば」の名称は古く、一説には、小さい歯が多いことから「小(さ)歯(ば)」の意であるという。平安時代には中男作物(地方産物を納めさせる税)として貢納され、また鯖売りの行商が行われていたなどという記録がある。
鯖は1年中日本近海で漁獲されるが、特に漁獲量の多いマサバは秋が旬とされている。「秋鯖は嫁に食わすな」という嫁いびりに繋げた言葉があるが、現代では「脂肪が多いから嫁さんには良くない」という解釈もある。
現代では、語呂合わせから3月8日が「鯖の日」とされている。鯖食愛好者でつくる全日本さば連合会などにより、2014年から毎年、各地の水揚げ漁港で鯖料理の即売などを行う「鯖サミット」が開かれている。また「SABAR」(サバー)など鯖料理を売り物にする飲食店の展開、鳥取県岩美町とJR西日本などが連携した陸上養殖ブランド鯖「お嬢サバ」の売り込みなど、鯖食文化の高付加価値化が進んでいる。
徳島県海陽町には、弘法大師(空海)を本尊とする鯖大師本坊(八坂寺)という寺がある。「鯖斷ち三年祈願」と言って、願掛けした後に鯖を3年間食べないことで、病気平癒・子宝成就・心願成就の御利益があると信じられている。旅僧姿の弘法大師または行基が旅僧の姿で鯖を請うたのに、商人または馬子が荷物の鯖を与えなかったため罰せられたという伝説がある。
『おもしろ金沢学』(北國新聞社)の「棟上げのサバは天狗よけ」という項目によると、越中五箇山や飛騨白川郷といった日本海に近い山間部では、正月の膳に必ず能登の塩サバが用意された記録がある、という。氷見や新湊ではブリが「年取り魚」となっているが、山間部ではサバが使われた。
トルコ最大の都市イスタンブールでは、金角湾にかかるガラタ橋からのサバ釣りと、その横でのサバサンド屋台が名物となっている。
また鯖は天狗が苦手とするものだという。
年を誤魔化す際の「鯖を読む」という言葉は、鯖が大量に捕れ、かつ鮮度低下が激しいため、漁師や魚屋が数もろくに数えず大急ぎで売りさばいたのが起源という説がある。
相撲の鯖折りの語は、釣り上げた鯖の鮮度を保つために、えらから指を入れて頭部を上方に折り曲げるという手法がよく取られたことに由来する。
英語において虎猫のうち縞模様が平行のものをマッカレルタビー(mackerel tabby)と呼ぶ。日本でもサバのような青みがかった縞の猫を鯖猫(さばねこ)と呼ぶが、これは英語ではシルバーマッカレルタビー(silver mackerel tabby)と呼ばれる。
フランスでは四月馬鹿(エイプリルフール)のことを Poisson d'avril (4月の魚)という。この「4月の魚」の意味は鯖を指しているが、これは鯖が4月に入るとたくさん釣れるためという説もある。
日本では、鯖は サーバ(主にWebサーバ)を指すインターネットスラングとしても使用される。
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"text": "低温だけではヒスタミン生産細菌の増殖とヒスタミンの生成を抑制することはできず、温度5°Cで5日間の保存により官能的に腐敗臭を感じない状態でも、ヒスタミン量が中毒の閾値を超える場合もある。また、調理の加熱ではヒスタミンは分解されず食品中に残存する。一方、酢で洗うなどの処理はヒスタミン生産細菌の増殖を抑制することができるため、鮮度保持には有効である。",
"title": "食材"
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"text": "古くから日本人になじみの深い食用魚である。縄文時代の遺跡である青森県の三内丸山遺跡でブリなどとともにサバの骨が出土した。「さば」の名称は古く、一説には、小さい歯が多いことから「小(さ)歯(ば)」の意であるという。平安時代には中男作物(地方産物を納めさせる税)として貢納され、また鯖売りの行商が行われていたなどという記録がある。",
"title": "文化"
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"text": "鯖は1年中日本近海で漁獲されるが、特に漁獲量の多いマサバは秋が旬とされている。「秋鯖は嫁に食わすな」という嫁いびりに繋げた言葉があるが、現代では「脂肪が多いから嫁さんには良くない」という解釈もある。",
"title": "文化"
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"text": "現代では、語呂合わせから3月8日が「鯖の日」とされている。鯖食愛好者でつくる全日本さば連合会などにより、2014年から毎年、各地の水揚げ漁港で鯖料理の即売などを行う「鯖サミット」が開かれている。また「SABAR」(サバー)など鯖料理を売り物にする飲食店の展開、鳥取県岩美町とJR西日本などが連携した陸上養殖ブランド鯖「お嬢サバ」の売り込みなど、鯖食文化の高付加価値化が進んでいる。",
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"text": "徳島県海陽町には、弘法大師(空海)を本尊とする鯖大師本坊(八坂寺)という寺がある。「鯖斷ち三年祈願」と言って、願掛けした後に鯖を3年間食べないことで、病気平癒・子宝成就・心願成就の御利益があると信じられている。旅僧姿の弘法大師または行基が旅僧の姿で鯖を請うたのに、商人または馬子が荷物の鯖を与えなかったため罰せられたという伝説がある。",
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"text": "『おもしろ金沢学』(北國新聞社)の「棟上げのサバは天狗よけ」という項目によると、越中五箇山や飛騨白川郷といった日本海に近い山間部では、正月の膳に必ず能登の塩サバが用意された記録がある、という。氷見や新湊ではブリが「年取り魚」となっているが、山間部ではサバが使われた。",
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"text": "トルコ最大の都市イスタンブールでは、金角湾にかかるガラタ橋からのサバ釣りと、その横でのサバサンド屋台が名物となっている。",
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"text": "また鯖は天狗が苦手とするものだという。",
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"text": "年を誤魔化す際の「鯖を読む」という言葉は、鯖が大量に捕れ、かつ鮮度低下が激しいため、漁師や魚屋が数もろくに数えず大急ぎで売りさばいたのが起源という説がある。",
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"text": "相撲の鯖折りの語は、釣り上げた鯖の鮮度を保つために、えらから指を入れて頭部を上方に折り曲げるという手法がよく取られたことに由来する。",
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"text": "英語において虎猫のうち縞模様が平行のものをマッカレルタビー(mackerel tabby)と呼ぶ。日本でもサバのような青みがかった縞の猫を鯖猫(さばねこ)と呼ぶが、これは英語ではシルバーマッカレルタビー(silver mackerel tabby)と呼ばれる。",
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"text": "フランスでは四月馬鹿(エイプリルフール)のことを Poisson d'avril (4月の魚)という。この「4月の魚」の意味は鯖を指しているが、これは鯖が4月に入るとたくさん釣れるためという説もある。",
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"text": "日本では、鯖は サーバ(主にWebサーバ)を指すインターネットスラングとしても使用される。",
"title": "文化"
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] |
サバは、スズキ目・サバ科のサバ属(Scomber)・グルクマ属(Rastrelliger)・ニジョウサバ属(Grammatorcynus)などに分類される魚の総称。世界各地で食される。日本近海ではマサバ(真鯖)、ゴマサバ、グルクマ、ニジョウサバ(二条鯖)の計4種が見られる。
|
{{Otheruses}}
{{生物分類表
|名称 = サバ
|色 = 動物界
|画像=[[ファイル:Maquereaux etal.jpg|250px]]
|画像キャプション = [[大西洋]]産サバの一種 ''Scomber scombrus''
|界 = [[動物界]] Animalia
|門 = [[脊索動物門]] Chordata
|亜門 = [[脊椎動物亜門]] Vertebrata
|綱 = [[条鰭綱]] Actinopterygii
|目 = [[スズキ目]] Perciformes
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|英名 = [[:en:Mackerel|Mackerel]]
|下位分類名
|下位分類 = {{Center|本文参照}}
}}
'''サバ'''('''鯖'''、'''青花魚'''、'''鮄'''、英: [[:en:Mackerel|Mackerel]])は、[[スズキ目]]・[[サバ科]]の[[サバ属]](''Scomber'')・グルクマ属(''Rastrelliger'')・ニジョウサバ属(''Grammatorcynus'')などに分類される[[魚類|魚]]の総称。世界各地で食される。[[日本]]近海では[[マサバ]](真鯖)、[[ゴマサバ]]、[[グルクマ]]、[[ニジョウサバ]](二条鯖)の計4種が見られる。
== 日本産サバ類 ==
生物学的側面は各記事を参照。
* [[サバ属]] ''[[:en:Scomber|Scomber]]''
** [[マサバ]] ''[[:en:Scomber japonicus|S. japonicus]]'' - 腹側は無地の銀白色、背中は斑点列。
** [[ゴマサバ]] ''[[:en:Scomber australasicus|S. australasicus]]'' - 腹側に黒い斑点が多数、、背中は斑点列。
** [[タイセイヨウサバ|大西洋サバ]](通称[[ノルウェーサバ]]) ''[[:en:Scomber scombrus|S. scombrus]]'' - 腹側は無地の銀白色、背中は曲線模様。日本近海には生息しておらず、冷凍品がノルウェーから輸入されている。
* [[グルクマ属]] ''[[:en:Rastrelliger|Rastrelliger]]''
** [[グルクマ]] ''[[:en:Rastrelliger kanagurta|R. kanagurta]]'' - 背中は斑点列。日本では[[南西諸島]]だけで漁獲される
* [[ニジョウサバ属]] ''[[:en:Grammatorcynus|Grammatorcynus]]''
** [[ニジョウサバ]] ''[[:en:Grammatorcynus bilineatus|G. bilineatus]]''- [[側線]]が背側と腹側に分岐する。南西諸島で稀に漁獲される
** ''[[:en:Grammatorcynus bicarinatus|Grammatorcynus bicarinatus]]'' <small>(Quoy & Gaimard, 1825)</small>, [[:en:shark mackerel|shark mackerel]]
== 漁獲 ==
[[ファイル:Global capture of all mackerel 1950–2009.png|thumb|right|全世界の漁獲高]]
日本の[[太平洋]]各地で水揚げされるサバは秋が旬で、「秋サバ」と称される。太平洋沿岸を[[回遊]]するサバは、[[伊豆半島]]沖で春頃に産卵し、餌を食べながら北上する。特に[[北海道]]沖での海域はプランクトンが豊富にありサバは丸々と太るが、脂肪分は皮と身の間などに貯められ、身に均等に回っていない。このサバが産卵のために南下を始める時期が9月-10月頃であり、その時期のサバは脂肪が身に入り込み、身も締まって風味は格段に上がる。特に[[八戸市|八戸]]沖で水揚げされる「戻りのサバ」は最良とされている。北上するサバと南下するサバとでは脂肪含有率が全く違うが、脂肪含有率の多い順は北海道沖→八戸沖→[[三陸沖]]→[[茨城県|常磐]]沖→[[銚子市|銚子]]沖→伊豆沖となる。[[九州]]沿岸で水揚げされるサバは、冬が[[旬]]であり俗に「寒サバ」とも称する。真鯖の漁場が韓国の[[済州島]]辺りになってきている。
[[タイセイヨウサバ|大西洋サバ]](通称[[ノルウェーサバ]], ''[[:en:Scomber scombrus|S. scombrus]]'')は秋が旬である。[[アイルランド]]沖で春先に産卵し、孵化した幼魚は餌をとりながら[[ノルウェー]]南部海域を目指す。ノルウェー南部海域にはルンベと称される浅瀬があり、そこには[[海草]]が生い茂り波も静かでプランクトンが豊富である。幼魚時期にそこで成長し、回遊ができる体になってから北上を始める。ノルウェー北部海域にはプランクトンが豊富にある海域があり、索餌行動をして丸々と太ったサバは産卵のため南下を始める。程よく脂も抜けて、身もしまり風味が良くなる時期が、9月中旬から10月中旬である。特にオーレスンド沖で水揚げされる戻りのサバが最良とされている。脂肪含有率の目安は、8月漁獲サバ:約30 - 32%、9月中旬 - 10月中旬漁獲サバ:約28%前後、1月漁獲サバ:約24%、3月漁獲サバ:約16 - 18%となる。
漁業の対象としてだけでなく、食用としての価値や引きの強さから、個人的な[[釣り]]でも人気が高い。
=== 日本の漁獲および輸出入 ===
2016年度の日本の漁獲量は約49万トンで、1位の中国(約50万トン)に次ぐ世界2位である<ref>[https://www.globalnote.jp/post-7066.html 世界のサバ(鯖)の漁獲量 国別ランキング・推移]– Global Note</ref>。このうち半分の約25万トン(2018年度)を海外に輸出している。一方、日本への輸入は約7万トン(2018年度)であり、そのうちの9割がノルウェー産である。
県別にみると、2017年度の水揚量の1位は「茨城常磐のマサバ」<ref>[http://www.pride-fish.jp/JPF/pref/detail.php?pk=1446616069 茨城常磐のまさば|茨城県] - プライドフィッシュ</ref>で有名な茨城県で、125,522トン<ref>農林水産省『大海区都道府県振興局別漁業種類別漁獲量』</ref>。[[福井県]]では[[1974年]]には12,697トンの水揚げがあったが、[[2017年]]には203トンになった。
ヨーロッパ諸国では漁獲されるのは大型がメインとなるが、日本では漁獲されるのは小型のサバがメインである。しかし2018年に[[漁業法]]が改正されたことを受けて状況は変わりつつある<ref>{{Cite web|title=新たな資源管理、まずサバなど4魚種 水産庁|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46005120S9A610C1EE8000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2020-12-01|language=ja}}</ref>。
ヨーロッパ産は高価であるが、脂が乗っておいしいため、日本にはノルウェー産が輸入されており、日本のスーパーで販売されるサバのうち7割(2018年度)がノルウェー産である。一方、日本で主に漁獲される小型のサバは、主に缶詰(サバ缶)に加工される他、「生餌」としてブリやマグロなどの養殖魚のエサに使われる。小型のサバは脂が乗っていないので日本の消費者には好まれないが、安価であり、アフリカ諸国の人でも購入しやすいため、日本の漁獲量の半分が輸出に回され、そのうち6割(2018年度)がナイジェリアやエジプトを中心とするアフリカ諸国に輸出され、残りの4割はアジア諸国を中心に輸出されている<ref>[https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00384/ サバの輸入国から輸出国になった日本 : 小型サバをアフリカに輸出、脂の乗ったノルウェー産を輸入] nippon.com</ref>。[[川商フーズ]]が「GEISHA」ブランドの鯖缶を海外で販売しており、特にガーナやナイジェリアを中心とする西アフリカでは国民食とも言える人気となっている。
マサバ及びゴマサバは資源の減少のため、1997年より日本で[[漁獲可能量]](TAC)が設定されているが、設定された漁獲可能量(2018年度は812,000トン)を実際の漁獲量(2018年度は約50万トン)が下回る状態が続いており、あまり資源が回復していない。また輸出されるサバのキロ単価でも、ノルウェー産が約195円なのに対して日本産は106円と、約半分となっており、漁獲者はあまり儲かっていない。その理由としては「未成魚の漁獲圧」、つまりノルウェーでは30cm以下のサバを食用で漁獲することができないのに、日本では「ローソク」と呼ばれる子供のサバが盛んに水揚げされていることなどが考えられている<ref>[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4495 加工処理しきれない大量のサバを漁獲してしまう日本 資源管理も地方創生の機会も台無しに] - WEDGE Infinity(ウェッジ)</ref>。
日本でサバの資源量が少なくて未成魚しか獲れず、しかも未成魚を漁獲しても安く買いたたかれるにもかかわらず、未成魚が乱獲されている理由としては、日本でサバの資源量が減少していて未成魚しか獲れず、しかも未成魚は安く買いたたかれるので、ますます未成魚のサバを大量に漁獲せざるを得ないという悪循環が考えられている。漁獲を制限するために漁獲可能量の数字が設定されるため、漁獲量が漁獲可能量の数字に達した時点で漁獲をストップするが(そのため、毎年の漁獲量は漁獲可能量と同じ数字となる)、日本では漁獲可能量がとても大きく設定されており、どれだけ漁獲しても漁獲可能量に達することがなく、乱獲の歯止めとならないのも理由の一つと考えられている<ref>[http://katukawa.com/?p=553 スケソウやサバ、漁獲可能量見直し 「資源守る基準超す」と批判] - [[勝川俊雄]]公式サイト</ref>。
日本近海のサバの資源量(水産庁による推測)は、1990年代以降に10万トン台まで落ち込んだが、2000年代以降に回復基調にあり、特に2010年代以降に大きく回復し、2016年には約72万トンにまで回復したと評価されている。その背景として、漁獲抑制と、2011年の東日本大震災で漁港が壊滅して漁獲圧が減ったことが考えられている。そのため、サバの漁獲可能量も増やされているが、それでもまだ1980年代の水準(140万トン程度)には戻っておらず、漁獲可能量の見直しが再び乱獲を招くとの批判がある。
資源管理がなされたうえで漁獲されたサバは、乱獲ではないことを証明するために[[海洋管理協議会]](MSC)の評価を受け、パッケージに「[[海のエコラベル]]」と呼ばれる「MSC認証シール」が貼ってある。「MSC認証」の存在も日本でノルウェー産サバのブランド価値を高めている要素の一つで、日本の小売り大手のイオンでは自社ブランドで「MSC認証さば」を販売しており、2017年に500万パックを販売したと言う<ref>[https://www.minato-yamaguchi.co.jp/minato/e-minato/articles/79902 MSC取得が大ヒット 調理の幅利かせ拡販/【連載】ノルウェーサバ旋風〈4〉イオンリテール] - みなと新聞 電子版</ref>。しかし2019年はノルウェーでもサバを獲りすぎ、MSC認証が停止された<ref>{{Cite web|title=サバの資源管理について {{!}} サバペディア|url=https://umito.maruha-nichiro.co.jp/saba|website=umito.maruha-nichiro.co.jp|accessdate=2020-12-01|language=ja|last=サバペディア}}</ref>。
== 食材 ==
{{栄養価| name=サバ(生)| water =70.15 g| kJ =661| protein =20.07 g| fat =7.89 g| carbs =0 g| fiber =0 g| sugars =0 g| calcium_mg =23| iron_mg =1.16| magnesium_mg =28| phosphorus_mg =125| potassium_mg =406| sodium_mg =86| zinc_mg =0.67| manganese_mg =0.015| selenium_μg =36.5| vitC_mg =2| thiamin_mg =0.111| riboflavin_mg =0.421| niacin_mg =8.32| pantothenic_mg =0.316| vitB6_mg=0.33| folate_ug =2| choline_mg =66.9| vitB12_ug =4.4| vitA_ug =19| betacarotene_ug =0| lutein_ug =0| vitE_mg =1| vitD_iu =366| vitK_ug =0.1| satfat =2.247 g| monofat =2.629 g| polyfat =1.94 g| opt2n = [[コレステロール]]| opt2v = 47 mg| tryptophan =0.225 g| threonine =0.88 g| isoleucine =0.925 g| leucine =1.631 g| lysine =1.843 g| methionine =0.594 g| cystine =0.215 g| phenylalanine =0.783 g| tyrosine =0.678 g| valine =1.034 g| arginine =1.201 g| histidine =0.591 g| alanine =1.214 g| aspartic acid =2.055 g| glutamic acid =2.996 g| glycine =0.963 g| proline =0.71 g| serine =0.819 g| omega3fat =1.564 g| right=1 | source_usda=1 }}
{{栄養価
| name=サバ(焼き物)
| kJ =1345
| protein =20.5 g
| carbs =trace
| sugars =trace
| fat =26.9 g
| satfat =6.3 g
| monofat =11.0 g
| polyfat =6,5 g
| omega3fat =4.1 g
| fiber =0.5 g
| sodium_mg =0.54
| right=1
| source_usda=1
}}
=== 一般論 ===
[[マグロ]]や[[アジ]]等と並んで世界的に消費量の多い魚である。日本では[[焼き魚]]、[[煮る|煮]]魚([[サバの味噌煮|鯖味噌]]など)、[[寿司]]([[鯖寿司]]、焼きサバ寿司)、〆鯖([[きずし|しめさば]])、[[なれ鮨]]<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110001172071/ 越中の古寺に継承されている鯖の馴れずしの食事史的研究] 調理科学 7(1), 23-29, 1974-02-20</ref>等として多く食べられる他、[[めんつゆ]]の原料など加工用途としての需要も高い。
[[胡麻鯖]](福岡県)のような郷土料理も各地にあるほか、[[缶詰]](サバ缶)にされる煮鯖も多い。[[鰹節]]と同様の「鯖節」(さばぶし)にされることもある。他の主要な食用魚と比較して傷みが早いため、生食は[[寄生虫]]や[[食中毒]]の問題がありタブーとされているが、[[関さば]]や[[葉山町|葉山]]の根付きさばといったブランド鯖や、生育管理された[[養殖]]鯖([[長崎ハーブ鯖]]など)で、尚且つ取れたてのものは、〆鯖ではない[[刺身]]でも食べられる。生食できることやブランド鯖であることを売り物にする産地や漁業者も拡大傾向にある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO30083230S8A500C1KNTP00/ 【トレンド】ブランドサバ、各地で大漁/鮮度管理を徹底・エサに酒かす配合/関東圏でも高級刺身「トロに負けない口溶け」]『日本経済新聞』夕刊2018年5月7日(くらしナビ面)2018年5月26日閲覧。</ref>。
DHA([[ドコサヘキサエン酸]])や EPA([[エイコサペンタエン酸]])などの高度[[不飽和脂肪酸]] - [[ω-3脂肪酸]]([[:en:Omega-3|Omega-3]])が多く含まれている点も注目されている。また新規化合物[[セレノネイン]]が含まれおり、その抗酸化作用も注目されている<ref>[https://www.ls-corporation.co.jp/identity/materials/selenoneine.php サバペプチド]</ref>。その一方で「鯖の生き腐れ」と呼ばれるほど鮮度の低下が著しいという欠点もある。また[[ヒスチジン]]を多く含むために[[アレルギー]]源となる[[ヒスタミン]]を生じやすく、[[蕁麻疹]]の原因となることがある。
マサバでは[[豊後水道]]の[[関さば]]・岬さば(はなさば)、[[三浦市]]松輪の[[松輪サバ]]、ゴマサバでは[[屋久島]]の[[首折れ鯖]]、[[土佐清水市]]の[[清水サバ]]などの[[地域ブランド]]が存在する。
漁獲量の低下により養殖が行われるようになっている。養殖は[[大分県]]や[[鳥取県]]で盛んに行われ、輸入品は[[ノルウェー]]があり、主に塩蔵品(塩さば)に加工される。
<gallery caption="様々な調理例">
Grilled mackarel-01.jpg|[[グリル]]
Smoked mackerel-01.jpg|[[燻製]]
Flickr - cyclonebill - Rugbrød med røget pebermakrel.jpg|[[ライムギ|ライ麦]][[パン]]とサバの燻製
Mackerel tomato sauce.jpg|サバと[[トマトソース]]の[[缶詰]]
Saba no nitsuke 20101113.jpg|鯖の煮付け
Saba zushi.JPG|[[駅弁]]の鯖寿司([[敦賀駅]]にて)
焼き鯖寿司.jpg|焼き鯖寿司
鯖の姿寿司.jpg|鯖の姿寿司
鯖寿司の1種、ピンと巻き.jpg|鯖寿司の1種、ピンと巻
精華町に伝わる鯖寿司.JPG|精華町に伝わる鯖寿司
Kitayama-sugi coating in Saba-zushi.jpg|薄皮に包まれた鯖寿司
Fish_sandwich,_Istanbul,_Turkey.JPG|鯖サンド([[バルク・エキメキ]])
</gallery>
{| class="wikitable" style="font-size:85%; margin-left:1em"
|+ サバ(100g中)の主な[[脂肪酸]]の種類<ref>https://data.nal.usda.gov/dataset/usda-national-nutrient-database-standard-reference-legacy-release</ref>
|-
! 項目 !! 分量(g)
|-
| [[脂肪]] || 7.89
|-
| [[飽和脂肪酸]] || 2.247
|-
| 14:0([[ミリスチン酸]]) || 0.34
|-
| 16:0([[パルミチン酸]])|| 1.389
|-
| 18:0([[ステアリン酸]]) || 0.441
|-
| [[不飽和脂肪酸|一価不飽和脂肪酸]] || 2.629
|-
| 16:1([[パルミトレイン酸]]) || 0.47
|-
| 18:1([[オレイン酸]]) || 1.328
|-
| 20:1 || 0.325
|-
| 22:1 || 0.485
|-
| [[多価不飽和脂肪酸]] || 1.94
|-
| 18:2([[リノール酸]]) || 0.116
|-
| 18:3([[α-リノレン酸]]) || 0.05
|-
| 18:4([[ステアリドン酸]]) || 0.125
|-|
| 20:4(未同定) || 0.081
|-
| 20:5 n-3([[エイコサペンタエン酸]](EPA)) || 0.509
|-
| 22:5 n-3([[ドコサペンタエン酸]](DPA)) || 0.123
|-
| 22:6 n-3([[ドコサヘキサエン酸]](DHA)) || 0.932
|}
=== 寄生虫 ===
{{main|アニサキス}}
サバの身には[[アニサキス]]が寄生していることもある。アニサキスは加熱や冷凍で死滅するが、[[酢]]で締めても死滅しないので〆鯖もアニサキス症の危険がある。鮮度が落ちると内臓から身へ移るので、鮮度の良いうちに内臓を処理する。アニサキス保有リスクがあるにもかかわらず、西日本の特に北部九州などでは生食の習慣がある。その要因の一つとして収穫地域により保有するアニサキスの種類が異なり、生食習慣のある地域で食されるサバが保有する種類のアニサキスは内臓から肉身に移行する率が極めて低いためだとするアニサキスの種類原因説が挙げられている<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/242876 九州の生サバなぜ大丈夫 寄生虫アニサキスの種類原因説 太平洋と日本海側 宿主鯨類の分布影響?] - 西日本新聞</ref><ref>[http://www.tokyo-eiken.go.jp/assets/issue/health/webversion/web28.html アニサキス症とサバのアニサキス寄生状況] - 東京都健康安全研究センター</ref>。
=== 鮮度維持の難しさ ===
古来よりサバは、[[食中毒|食あたり]]が発生しやすい食材と知られており、'''サバの生き腐れ'''と呼ばれてきた。これは[[脂肪]]分が多く鮮度低下が比較的早いということと、環境中に常在する[[ヒスタミン]]生産細菌により'''ヒスタミン中毒'''が生じることが原因である<ref>{{Cite web |author=[[日本中毒情報センター]] |date=2009 |url=http://wwwt.j-poison-ic.or.jp/ippan/M70351_0100_2.pdf |title=魚に起因するヒスタミン中毒 (サバ科類似魚類による中毒)Ver. 1.00 |website=保健師・薬剤師・看護師向け中毒情報 |publisher=日本中毒情報センター |accessdate=2019-10-18 |format=PDF }}
</ref><ref>{{Cite web |author=[[厚生労働省]] |date=2019 |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000130677.html |title=ヒスタミンによる食中毒について |website=政策 |publisher=厚生労働省 |accessdate=2019-10-18}}</ref><ref>{{Cite web |author=[[消費者庁]] |date=2018-08-15 |url=https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_safety/food_safety/food_safety_portal/topics/topics_003/ |title=ヒスタミン食中毒 |website=政策 |publisher=消費者庁 |accessdate=2019-10-18}}</ref><ref>[http://www.iph.pref.osaka.jp/news/vol13/13-2.html ヒスタミン食中毒(アレルギー様食中毒)] 大阪府立公衆衛生研究所</ref>。鮮度の低下を防ぐために、釣りで捕獲した際は低温で保管するのはもちろんのこと、エラを切除するか首を折った後に海水に漬けて血抜きをすることが推奨される。冷蔵・冷凍技術や自動車がなかった近世以前に、[[若狭国]]から[[京都]]へ通じる[[鯖街道]]で運ばれた鯖は、塩をまぶして劣化を防いでいた。
低温だけではヒスタミン生産細菌の増殖とヒスタミンの生成を抑制することはできず、温度5℃で5日間の保存により官能的に腐敗臭を感じない状態でも、ヒスタミン量が中毒の閾値を超える場合もある<ref>{{PDFlink|[http://rms1.agsearch.agropedia.affrc.go.jp/contents/JASI/pdf/society/29-0552.pdf 赤身魚類の貯蔵中におげるヒスタミンの消長]}}</ref>。また、調理の加熱ではヒスタミンは分解されず食品中に残存する。一方、[[酢]]で洗うなどの処理はヒスタミン生産細菌の増殖を抑制することができるため、鮮度保持には有効である<ref>[https://doi.org/10.11428/jhej1951.33.167 鮮魚の保存に及ぼす酢洗いの効果] 家政学雑誌 Vol.33 (1982) No.4 P167-172</ref>。
== 文化 ==
=== 食と信仰 ===
古くから日本人になじみの深い食用魚である。[[縄文時代]]の[[遺跡]]である[[青森県]]の[[三内丸山遺跡]]で[[ブリ]]などとともにサバの骨が出土した<ref>芝恒男「日本人と刺身」水産大学校 研究報告 第60巻3号(出典:樋泉岳二、三内丸山遺跡における自然環境と食生活「食べ物の考古学、学生社、2007)</ref>。「さば」の名称は古く、一説には、小さい歯が多いことから「小(さ)歯(ば)」の意であるという。[[平安時代]]には中男作物(地方産物を納めさせる税)として貢納され、また鯖売りの行商が行われていたなどという記録がある。
鯖は1年中日本近海で漁獲されるが、特に漁獲量の多いマサバは秋が[[旬]]とされている。「秋鯖は嫁に食わすな」という嫁いびりに繋げた言葉があるが、現代では「脂肪が多いから嫁さんには良くない」という解釈もある。
現代では、[[語呂合わせ]]から3月8日が「鯖の日」とされている。鯖食愛好者でつくる全日本さば連合会などにより、2014年から毎年、各地の水揚げ漁港で鯖料理の即売などを行う「鯖サミット」が開かれている<ref>[http://all38.com/ 全日本さば連合会]</ref>。また「SABAR」(サバー)<ref>[http://sabar38.com/ とろさば料理専門店「SABAR」公式サイト]</ref>など鯖料理を売り物にする飲食店の展開、[[鳥取県]][[岩美町]]と[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]などが連携した陸上養殖ブランド鯖「お嬢サバ」の売り込み<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/02/page_10058.html お嬢サバ販売開始!] JR西日本プレスリリース(2017年2月28日)</ref>など、鯖食文化の高付加価値化が進んでいる。
[[徳島県]][[海陽町]]には、[[空海|弘法大師(空海)]]を本尊とする[[八坂寺 (徳島県海陽町)|鯖大師本坊(八坂寺)]]という寺がある。「鯖斷ち三年祈願」と言って、願掛けした後に鯖を3年間食べないことで、病気平癒・子宝成就・心願成就の御利益があると信じられている。旅僧姿の弘法大師または[[行基]]が旅僧の姿で鯖を請うたのに、商人または馬子が荷物の鯖を与えなかったため罰せられたという伝説がある。
『おもしろ金沢学』(北國新聞社)の「棟上げのサバは天狗よけ」という項目によると、越中[[五箇山]]や飛騨[[白川郷]]といった日本海に近い山間部では、正月の膳に必ず能登の塩サバが用意された記録がある、という。[[氷見]]や[[新湊]]では[[ブリ]]が「[[年取り魚]]」となっているが、山間部ではサバが使われた。
[[トルコ]]最大の都市[[イスタンブール]]では、[[金角湾]]にかかる[[ガラタ橋]]からのサバ釣りと、その横でのサバサンド屋台が名物となっている。
また鯖は天狗が苦手とするものだという<ref>{{Cite web|date=2010-01-04 |url=https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/ref/ref3.pdf |title=レファレンス通信 3 「天狗は鯖がお嫌い?」 |format=PDF |publisher=石川県立図書館 |accessdate=2018-07-20}}</ref>。
=== 比喩 ===
年を誤魔化す際の「[[鯖読み|鯖を読む]]」という言葉は、鯖が大量に捕れ、かつ鮮度低下が激しいため、漁師や魚屋が数もろくに数えず大急ぎで売りさばいたのが起源という説がある。
[[相撲]]の[[鯖折り]]の語は、釣り上げた鯖の鮮度を保つために、[[えら]]から指を入れて頭部を上方に折り曲げるという手法がよく取られたことに由来する。
英語において[[トラネコ|虎猫]]のうち縞模様が平行のものを'''マッカレルタビー'''(mackerel tabby)と呼ぶ。日本でもサバのような青みがかった縞の猫を'''鯖猫'''(さばねこ)と呼ぶが、これは英語では'''シルバーマッカレルタビー'''(silver mackerel tabby)と呼ばれる。
フランスでは[[エイプリルフール|四月馬鹿(エイプリルフール)]]のことを Poisson d'avril (4月の魚)という。この「4月の魚」の意味は鯖を指しているが、これは鯖が4月に入るとたくさん釣れるためという説もある。
日本では、鯖は [[サーバ]](主に[[Webサーバ]])を指す[[インターネットスラング]]としても使用される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mackerel dishes|サバ料理}}
* [[青魚]]
* [[鯖街道]]
* [[アニサキス]]
* [[へしこ]]
* [[長崎ハーブ鯖]]
* [[梶賀のあぶり]]
*[[スコンブロイド食中毒]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.pref.shimane.lg.jp/industry/suisan/shinkou/umi_sakana/sakana/2/2-20.html |title=サバ(マサバ、ゴマサバ) [島根県水産技術センター] |date=20151028235534 }}
* {{PDFlink|[http://jsnfri.fra.affrc.go.jp/shigen/echocata/TopContents/Northwestpacific%20Pelagic.pdf 北西太平洋のマサバ,ゴマサバ]|753 [[キビバイト|KiB]]}} - [[水産研究・教育機構]] [[日本海区水産研究所]]
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ペルシャ (曖昧さ回避)
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ペルシャ
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ペルシャ イランの旧名「ペルシア」の別称。また、同地に栄えたペルシア帝国(アケメネス朝・サーサーン朝など)を指すこともある。
ネコの品種のひとつ。ペルシャ (ネコ)。
青沼貴子の漫画『ペルシャがすき!』およびその主人公の名前。
上記漫画を原案とする少女アニメ・テレビシリーズ『魔法の妖精ペルシャ』およびその主人公の名前。
機動戦士ガンダムの登場人物。機動戦士ガンダムの登場人物 民間人#ペルシア。
ヴァイスクロイツの登場人物、鷹取修一のヴァイスクロイツでの名。
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'''ペルシャ'''
# [[イラン]]の旧名「[[ペルシア]]」の別称。また、同地に栄えた[[ペルシア帝国]]([[アケメネス朝]]・[[サーサーン朝]]など)を指すこともある。
# [[ネコ]]の品種のひとつ。[[ペルシャ (ネコ)]]。
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# 上記漫画を原案とする少女アニメ・テレビシリーズ『[[魔法の妖精ペルシャ]]』およびその主人公の名前。
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青銅
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青銅(せいどう、英、仏、独、葡: bronze ブロンズ)とは、銅Cu を主成分としてスズSn を含む合金である。
一般にいう青銅色は彩度の低い青緑色であるが、本来の青銅は光沢ある金属で、その色は添加物の量によって様々である(例えば黄金色など)。添加する錫の量が少なければ日本の十円硬貨にみられるような純銅に近い赤銅色、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となる。そのため、古代の銅鏡は錫の添加量の多い白銀色の青銅を素材とするものが多く、日本語の「白銅」の語も元来はその白銀色の青銅を指していた。硬度は錫の添加量が多いほど上がるが、それにともなってもろくもなるので、青銅器時代の青銅製の刀剣は黄金色程度の色彩の青銅が多く使われている。また、中世・近世の銅鏡はもろい白銀色の青銅ではなく強靭な赤銅色の青銅で鋳造し、水銀で磨いたうえでアマルガムを生成させ、鏡面とする方法が主体になっている。
しかし、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じながら緑青となる。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になる。
青銅色の名からも分かるように、青銅といえば緑色と思われがちである。しかし、本来の青銅は前述の通り黄金色や白銀色の金属光沢を呈する。その見た目から、古代において金銀に準じる金属として利用された面があると考えられる。例として、先述のように銅鏡の反射面は白銀色に輝いていたうえ、弥生時代の国産鏡には錫の含有量を下げて黄金色に鋳造し、太陽を模したのではないかと考えられるものがある。
2014年現在では、青銅製の芸術作品の多くはアンモニア塗布などの方法で酸化皮膜を形成して着色されることが多いが、コンスタンティン・ブランクーシのように磨き上げて黄金色の金属光沢の作品仕上げをする芸術家もいる。
一般に銅は採掘可能な量が少なく、硬さと強度では鉄に劣る(沸点と硬度はほぼ比例しているゆえに硬くない)ものの、その一方で加工性に優れ、鉄より錆びにくい。
古代中国では、硬いが脆く展延性に劣る鋳鉄を「悪金」と呼ぶのに対し、加工性と耐久性と実用性のバランスに優れた青銅を「吉金」「美金」と称した。
古代ギリシャ人は、古い時代ほど世界は平和で豊かで、最も古い黄金時代から白銀時代そして青銅時代、英雄の時代、現代に当たる鉄の時代へ推移したという考えを持っていた。オリンピックの表彰メダルもこの伝説にちなんでおり、3位賞の銅メダルは英語でBronze medalと呼ばれるように青銅で作られている場合が多い(純銅や、同じ銅主体の合金でも、銀、亜鉛、ニッケルとの合金の場合もある)。
銅はスズを混合して青銅とすることで硬くなる。一方で適度な展延性があり、研磨や圧延などの加工ができる。また融点が低く、木炭を使った原始的な炉で熔解し、鋳造することができた。そのため青銅は、古代には斧・剣・銅鐸などに広く使われた。鉄が普及する以前には、もっとも広く利用されていた金属であった(青銅器時代を参照)。
紀元前3000年頃、初期のメソポタミア文明であるシュメール文明で発明された。イラン高原は、銅と錫、燃料の木材が豊富であった。また、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので自然に青銅が得られた。この場合、産地によって錫などの配合比が決まっているとともに、錫と同時に添加されることの多い鉛の同位体の比率が産出鉱山ごとに異なるので、分析によりその原産地を推定できる。
より硬く、より安価な鉄の製造技術が確立すると、多くの青銅製品は鉄製品に取って代わられ、青銅器時代から鉄器時代へと移行していった。また、貴金属製品としても金や銀、その合金のほうが主流となった。しかしながら鉄より錆びにくいことから、一部製品には鉄器時代以降も長く使われた。例えば建築物の屋根葺板、あるいは銅像といった用途であり、特に大砲の材料としては19世紀頃まで用いられている。これは大砲のような大型の製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったからであり、青銅を砲金と呼ぶのはこれに由来する。しかし、19世紀以降の製鉄技術の進歩によって、鉄製大砲へ移行することとなる。
紀元前4世紀頃、鉄とともに九州へ伝わった。青銅も鉄も最初は輸入されていた。
紀元前1世紀頃、国内での生産が始まった。ちなみに鉄の国内での生産(製鉄)は紀元後5世紀頃だと推測されている。
2世紀には大型銅鐸が作られ、技術は東アジアでもかなり高い水準に達していた。
いずれにせよ、日本の場合は鉄とともに伝来し、実用の道具としては鉄製品が主に用いられたため、青銅製品は祭器が中心であった。
戦国時代後期から江戸時代初期にかけて大砲の技術が伝来し、日本でも青銅砲が製造されることとなる。西洋で青銅砲から鉄製砲に移行した時期は、ちょうど鎖国が破られた時期に該当するため、青銅砲は鎖国下の日本における技術の停滞の象徴的存在となった(鉄製砲を製作するための反射炉が、開国による技術革新の象徴となった)。
本来、「青銅」は錫を含む銅合金の意味であるが、これが銅合金として有名であるために、アルミニウム青銅・マンガン青銅・ニッケル青銅・シルジン青銅などでは、「青銅」の語が錫が含まれていることを示すというよりも銅合金一般の代名詞として用いられている。このため、銅と錫からなる通常の意味での青銅を「錫青銅」と呼ぶこともある。同様に今日ベリリウム銅と呼ばれている合金も当初はベリリウム青銅と呼ぶことがあった。なお、リン青銅は錫を含んでおり、すなわち(通常の意味での)青銅にリンを加えた合金である。
一方、近年開発された銅合金の場合は、チタン銅、ジルコニウム銅、クロム銅のように主要合金元素名に銅をつけてよぶようになっている。
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青銅とは、銅Cu を主成分としてスズSn を含む合金である。
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{{出典の明記|date=2016年11月}}
[[画像:10JPY.JPG|thumb|right|250px|[[十円硬貨]]。銅95%、スズ1-2%、亜鉛4-3%の青銅製。]]
'''青銅'''(せいどう、[[英語|英]]、[[フランス語|仏]]、[[ドイツ語|独]]、[[ポルトガル語|葡]]: bronze ブロンズ)とは、[[銅]]Cu を主成分として[[錫|スズ]]Sn を含む[[合金]]である。<!--「[[砲金]]」ともいう。--厳密には同じものではないようです-->
== 特徴 ==
一般にいう青銅色は彩度の低い青緑色であるが、本来の青銅は光沢ある金属で、その色は添加物の量によって様々である(例えば黄金色など)。添加する錫の量が少なければ日本の[[十円硬貨]]にみられるような純銅に近い赤銅色、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となる。そのため、古代の[[銅鏡]]は錫の添加量の多い白銀色の青銅を素材とするものが多く、日本語の「[[白銅]]」の語も元来はその白銀色の青銅を指していた。硬度は錫の添加量が多いほど上がるが、それにともなってもろくもなるので、[[青銅器時代]]の青銅製の刀剣は黄金色程度の色彩の青銅が多く使われている。また、中世・近世の銅鏡はもろい白銀色の青銅ではなく強靭な赤銅色の青銅で鋳造し、[[水銀]]で磨いたうえで[[アマルガム]]を生成させ、鏡面とする方法が主体になっている。
しかし、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に[[炭酸塩]]を生じながら[[緑青]]となる。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になる。
青銅色の名からも分かるように、青銅といえば緑色と思われがちである。しかし、本来の青銅は前述の通り黄金色や白銀色の金属光沢を呈する。その見た目から、古代において金銀に準じる金属として利用された面があると考えられる。例として、先述のように[[銅鏡]]の反射面は白銀色に輝いていたうえ、[[弥生時代]]の国産鏡には錫の含有量を下げて黄金色に鋳造し、太陽を模したのではないかと考えられるものがある。
2014年現在では、青銅製の芸術作品の多くは[[アンモニア]]塗布などの方法で酸化皮膜を形成して着色されることが多いが、[[コンスタンティン・ブランクーシ]]のように磨き上げて黄金色の金属光沢の作品仕上げをする芸術家もいる。
一般に銅は採掘可能な量が少なく、硬さと強度では鉄に劣る(沸点と硬度はほぼ比例しているゆえに硬くない)ものの、その一方で加工性に優れ、鉄より錆びにくい。
古代中国では、硬いが脆く展延性に劣る[[鋳鉄]]を「悪金」と呼ぶのに対し、加工性と耐久性と実用性のバランスに優れた青銅を「吉金」「美金」と称した。
古代ギリシャ人は、古い時代ほど世界は平和で豊かで、最も古い[[黄金時代]]から[[白銀時代]]そして'''[[青銅時代]]'''、[[英雄の時代]]、現代に当たる[[鉄の時代]]へ推移したという考えを持っていた。[[近代オリンピック|オリンピック]]の表彰[[メダル]]もこの伝説にちなんでおり、3位賞の[[銅メダル]]は英語でBronze medalと呼ばれるように青銅で作られている場合が多い(純銅や、同じ銅主体の合金でも、銀、亜鉛、ニッケルとの合金の場合もある)。
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File:Icarus_in_Bristol_Museum_and_Art_Gallery.jpeg|ブロンズ像
File:Afloat_by_Hamish_black_.jpg|青銅色
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== 歴史 ==
銅はスズを混合して青銅とすることで硬くなる。一方で適度な[[展延性]]があり、研磨や圧延などの加工ができる。また[[融点]]が低く、木炭を使った原始的な炉で熔解し、鋳造することができた。そのため青銅は、古代には[[斧]]・[[剣]]・[[銅鐸]]などに広く使われた。[[鉄]]が普及する以前には、もっとも広く利用されていた金属であった([[青銅器時代]]を参照)。
[[紀元前3000年]]頃、初期の[[メソポタミア文明]]である[[シュメール文明]]で発明された。[[イラン高原]]は、銅と錫、燃料の木材が豊富であった。また、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので自然に青銅が得られた。この場合、産地によって錫などの配合比が決まっているとともに、錫と同時に添加されることの多い鉛の同位体の比率が産出鉱山ごとに異なるので、分析によりその原産地を推定できる。
より硬く、より安価な鉄の製造技術が確立すると、多くの青銅製品は鉄製品に取って代わられ、青銅器時代から鉄器時代へと移行していった。また、貴金属製品としても金や銀、その合金のほうが主流となった。しかしながら鉄より錆びにくいことから、一部製品には鉄器時代以降も長く使われた。例えば建築物の屋根葺板、あるいは[[銅像]]といった用途であり、特に[[大砲]]の材料としては19世紀頃まで用いられている。これは大砲のような大型の製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったからであり、青銅を砲金と呼ぶのはこれに由来する。しかし、19世紀以降の製鉄技術の進歩によって、鉄製大砲へ移行することとなる。
=== 日本 ===
[[紀元前4世紀]]頃、鉄とともに[[九州]]へ伝わった。青銅も鉄も最初は輸入されていた。
[[紀元前1世紀]]頃、国内での生産が始まった。ちなみに鉄の国内での生産(製鉄)は紀元後[[5世紀]]頃だと推測されている。
[[2世紀]]には大型[[銅鐸]]が作られ、技術は東アジアでもかなり高い水準に達していた。
いずれにせよ、日本の場合は鉄とともに伝来し、実用の道具としては鉄製品が主に用いられたため、青銅製品は祭器が中心であった。
戦国時代後期から江戸時代初期にかけて大砲の技術が伝来し、日本でも青銅砲が製造されることとなる。西洋で青銅砲から鉄製砲に移行した時期は、ちょうど[[鎖国]]が破られた時期に該当するため、青銅砲は鎖国下の日本における技術の停滞の象徴的存在となった(鉄製砲を製作するための[[反射炉]]が、開国による技術革新の象徴となった)。
== 「青銅」を名称に用いている合金 ==
本来、「青銅」は錫を含む銅合金の意味であるが、これが銅合金として有名であるために、[[アルミニウム青銅]]・[[マンガン青銅]]・[[ニッケル青銅]]・[[シルジン青銅]]などでは、「青銅」の語が錫が含まれていることを示すというよりも銅合金一般の代名詞として用いられている。このため、銅と錫からなる通常の意味での青銅を「錫青銅」と呼ぶこともある。同様に今日[[ベリリウム銅]]と呼ばれている合金も当初はベリリウム青銅と呼ぶことがあった。なお、[[リン青銅]]は錫を含んでおり、すなわち(通常の意味での)青銅に[[リン]]を加えた合金である。
一方、近年開発された銅合金の場合は、[[チタン銅]]、[[ジルコニウム銅]]、[[クロム銅]]のように主要合金元素名に銅をつけてよぶようになっている。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Bronze}}
{{Wiktionary}}
* [[銅]]
* [[黄銅]](銅と亜鉛の合金)
* [[洋白]](銅と亜鉛とニッケルの合金)
* [[白銅]](銅とニッケルの合金)
* [[赤銅 (合金)]](銅と金の合金)
* [[青銅砲]]
* [[青銅器]]
* [[砲金]]
* [[銅像|銅像(ブロンズ像)]]
<!--関連性が薄い
* [[キラー・カール・クラップ]]
* [[シンバル]](錫8~20%が主流)
-->
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せいとう}}
[[Category:青銅|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85
|
10,063 |
基本相互作用
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基本相互作用(きほんそうごさよう、Fundamental interaction)は、物理学で素粒子の間に相互にはたらく基本的な相互作用。素粒子の相互作用、自然界の四つの力、相互作用とも。
現代素粒子理論の基本となる標準模型によれば、物質を構成する実体は、電子やクオーク、ニュートリノ等、スピン=1/2をもつフェルミオンと総称される素粒子である。こうした素粒子は真空を構成する量子場の局所的な励起であるとされる。二つのフェルミオン粒子の間には、スピン=1をもつゲージ粒子が交換される事によって力が伝達されると理解される。ゲージ粒子には、電磁相互作用を媒介する光子、強い相互作用を媒介するグルーオン、そして弱い相互作用を媒介するW、Z粒子がある。フェルミオンの種類によって、交換できるゲージ粒子が異なる。例えば電子は光子を交換できるが、グルーオンを直接交換できない。そのため、電子は電磁相互作用するが、強い相互作用はできない。
注意:gravitonをゲージ粒子と見なさない者もいる。
今日の場の理論においては、これらの相互作用はゲージ粒子の交換により発生すると考えられている。また素粒子の対称性の研究からこれらの相互作用はビッグバン直後のような超高エネルギー状態においては、その挙動に違いは無くなると考えられた。電磁力と弱い力を統一する理論(ワインバーグ=サラム理論)は実験的に確立された。二つの力を一緒にして電弱力と呼ばれる。更に電弱力と強い力を統一する理論(大統一理論)も研究が盛んに行われているものの、理論によって予言される陽子崩壊等の新現象や、超対称性粒子が実験的に確認されていないために難航している。更に、これら3つの力と重力とを統一した超大統一理論(万物の理論)は実現には程遠い。
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基本相互作用は、物理学で素粒子の間に相互にはたらく基本的な相互作用。素粒子の相互作用、自然界の四つの力、相互作用とも。
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{{出典の明記|date=2022年1月}}
'''基本相互作用'''(きほんそうごさよう、Fundamental interaction)は、[[物理学]]で[[素粒子]]の間に相互にはたらく基本的な[[相互作用]]。'''素粒子の相互作用'''、'''自然界の四つの力'''、'''相互作用'''とも。
== 概要 ==
現代素粒子理論の基本となる[[標準模型]]によれば、[[物質]]を構成する実体は、[[電子]]や[[クオーク]]、[[ニュートリノ]]等、[[スピン]]=1/2をもつ[[フェルミオン]]と総称される素粒子である。こうした素粒子は真空を構成する[[量子場]]の局所的な励起であるとされる。二つのフェルミオン粒子の間には、スピン=1をもつ[[ゲージ粒子]]が交換される事によって力が伝達されると理解される。ゲージ粒子には、[[電磁相互作用]]を媒介する[[光子]]、[[強い相互作用]]を媒介する[[グルーオン]]、そして[[弱い相互作用]]を媒介するW、Z粒子がある。フェルミオンの種類によって、交換できるゲージ粒子が異なる。例えば電子は光子を交換できるが、グルーオンを直接交換できない。そのため、電子は電磁相互作用するが、強い相互作用はできない。
== 四つの基本相互作用 ==
{| class="wikitable"
! 名称 !! 相対的な強さ !! 影響範囲(m)
!無限遠の影響!! 力を伝達する[[ゲージ粒子]]
|-
| [[強い相互作用]] || 10<SUP>40</SUP> || 10<SUP>-15</SUP>
|同左で0|| [[グルーオン]]
|-
|[[電磁相互作用]] || 10<SUP>38</SUP> || 無限大 (強さは1/r<SUP>2</SUP>に比例)
|陽子と電子が対で打消し0|| [[光子]](フォトン)
|-
|[[弱い相互作用]] || 10<SUP>15</SUP> || 10<SUP>-18</SUP>
|同左で0|| [[ウィークボソン]](W<SUP>±</SUP>,Z<SUP>0</SUP>)
|-
|[[重力相互作用]] || 10<SUP>0</SUP> || 無限大 (強さは1/r<SUP>2</SUP>に比例)
|同左で0以上|| [[重力子]](グラビトン、2020年現在・未確認)
|}
注意:gravitonをゲージ粒子と見なさない者もいる。
== 基本相互作用統一の試み ==
<!-- [[相互作用]]2008年2月27日 04:40 UTC より転記 → -->今日の場の理論においては、これらの相互作用は[[ゲージ粒子]]の交換により発生すると考えられている。また[[素粒子]]の対称性の研究からこれらの相互作用は[[ビッグバン]]直後のような超高エネルギー状態においては、その挙動に違いは無くなると考えられた。電磁力と弱い力を統一する理論([[ワインバーグ=サラム理論]])は実験的に確立された。二つの力を一緒にして電弱力と呼ばれる。更に電弱力と強い力を統一する理論([[大統一理論]])も研究が盛んに行われているものの、理論によって予言される[[陽子崩壊]]等の新現象や、[[超対称性粒子]]が実験的に確認されていないために難航している。更に、これら3つの力と重力とを統一した超大統一理論([[万物の理論]])は実現には程遠い。
==関連項目==
* [[相互作用]]
{{基本相互作用}}
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{{DEFAULTSORT:きほんそうこさよう}}
[[Category:素粒子物理学]]
[[Category:統一場理論]]
[[Category:力 (自然科学)]]
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2022-09-27T12:29:02Z
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ペルシア語
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ペルシア語(ペルシアご、ペルシア語: فارسی [fɒːɾˈsiː] ( 音声ファイル))は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語(پارسی)ともいう。
言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。
ペルシア語での名称である「فارسی」(ファールシー)、日本語での名称である「ペルシア語」、英語での名称である「Persian」は、いずれも現代のイランの一地方であるファールス地方(古名: パールサ)に由来する。
ペルシア語では歴史的に「پارسی」(パールシー)という呼称もあったが、中世に/p/音のないアラビア語の影響により「فارسی」(ファールシー)となり、現在は日常的に専ら「ファールシー」が用いられる。歴史的には「ダリー語」という呼称も用いられてきたが、現在ではこの名称は一般にアフガニスタンのペルシア語を指す。
アフガニスタンでは1958年に「ダリー語」が公式の言語名として定められた。それ以前は現地のペルシア語話者は自分たちの言語を「ファールシー」と呼んでおり、外部からも「アフガン・ペルシア語」等の呼称で呼ばれていた。
タジキスタンでは「タジク語」を公式の言語名としている。
おもにイラン・タジキスタン・アフガニスタン及びウズベキスタン・ロシア・コーカサス地方・バーレーン・イラクの一部でも話される。母語話者は4600万人を超えるとされている。イラン、タジキスタンでは唯一の公用語とされ、アフガニスタンではパシュトー語とともに公用語とされている。ペルシア語は複数中心地言語のひとつであり、イラン、アフガニスタン、タジキスタンでそれぞれ標準語が別個に定められている。
歴史的経緯により、アフガニスタンではダリー語、タジキスタンではタジク語と呼ばれる。これらは現在ではそれぞれの国におけるペルシア語の方言を指すが、イランのペルシア語とは発音や語彙、正書法などに違いがあり、別言語として扱われる場合もある。また、使用される文字も異なり、イランおよびアフガニスタンではアラビア文字に4文字を足したペルシア文字によって表記されるのに対し、タジキスタンではキリル文字によって表記される。
各国における使用状況としては、イランにおいては人口の51%を占めるペルシア人の母語であり、上記のとおりイランの唯一の公用語である。イラン国内においても多数の方言が存在するが、テヘラン方言がほぼ標準語としての地位を確立している。
タジキスタンにおいても、人口の約85%を占めるタジク人の母語であり、多数派の言語かつ唯一の公用語であるが、かつてこの地を支配していたソヴィエト連邦の言語であったロシア語の通用度も高い。タジク人はタジキスタン国内だけでなく、ウズベキスタン南部のブハラやサマルカンドといったオアシスの旧都やフェルガナ盆地の一部などで多数派となっており、これらの地域では住民の多くがタジク語を話す。ウズベキスタンにおけるタジク人の割合は4.8%(2017年)、タジク語話者の割合は4.4%となっている。
アフガニスタンでは人口の約32%を占めるタジク人がペルシア語(ダリー語)話者であり、また人口の12%を占める中部山岳地帯のハザーラ人もペルシア語と方言関係にあるハザラギ語を話すうえ、西部の少数民族・アイマーク人もまたペルシア語の方言であるアイマーク語を話すなど、人口のほぼ半分弱がペルシア語母語話者となっている。タジク人が多数を占める首都カブールを含む北部の主要言語であり、南部の主要言語であるパシュトー語と並立状態にあるが、首都を言語圏としているうえにパシュトー語話者のかなりがダリー語を話せることもあり、共通語としてはダリー語の方が威信が高く広く使用される。このため、パシュトー語話者がほぼパシュトゥーン人のみで人口の47%を占めるのに対し、ダリー語話者は第二言語も含めれば人口の80%を占めている。
ペルシア語は、時代によって次のように「古」「中」「新」の3つに大別される。なお、日本では後者ふたつを「中世ペルシア語」、「近世ペルシア語」と呼ぶことが多いが、適切な名称とは言い難い。
651年にサーサーン朝がイスラム帝国(正統カリフ期)に滅ぼされてから200年ほどの間は、ペルシア語の文献は残っておらず、書記言語としてはアラビア語が用いられていた。ペルシア語そのものは、752年ごろのアフガニスタンの墓碑銘に残っており、他にもいくつかの文が断片的に発見されているが、これらはいずれもヘブライ文字などで書かれていた。しかし9世紀にはアラビア文字でペルシア語を書くことが一般化していったと考えられている。アッバース朝の衰退に伴って9世紀末ごろにホラーサーンに興ったサーマーン朝においてペルシア語は詩作に用いられ、ここからペルシア語は文章語として栄えるようになり、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、ニザーミーの『ホスローとシーリーン』などに代表されるペルシア文学が花開いた。サーマーン朝においてペルシア語は行政言語として用いられるようになり、以後東イランから中央アジアにおいて次々と興っていったイラン系の王朝もこれを踏襲した。また歴史・哲学などの学術書もこの言語で記された。
ペルシア語は、ペルシア語の母語話者以外にも広くリンガ・フランカとして用いられた。10世紀以降に中央アジアを支配したテュルク系民族は、ペルシア語を行政用語とし、ペルシア人の官僚を使用した。ガズナ朝やセルジューク朝のようなテュルク系の王朝がイランを支配しても、その状況は変わらなかった。オスマン・トルコ語やチャガタイ・トルコ語などのテュルク系の言語による文語が発達した後も、近代までペルシア語は併存しつづけた。そもそもオスマン語やチャガタイ語自体が、ペルシア語の強い影響を受けて成立したものだった。また、ティムール朝をはじめとする中央アジアの諸王朝は、ペルシア系・トゥルク系を問わずペルシア語を公用語として使用し続けた。さらに、ガズナ朝のインド侵攻以降デリー・スルターン朝やムガル帝国といった、中央アジアに起源をもつインド王朝が続き、これらの王朝は南アジアでペルシア語を公用語とした。このため、現代においてもウルドゥー語はペルシア語からの影響が非常に強く、帝国の領域に入ったベンガル語などにもペルシア語の語彙が流入した。オスマン帝国においては公用語はトルコ語系のオスマン・トルコ語であり、公的なペルシア語の重要性はやや低下したものの、文化言語としてはいまだに広く使用される言語のままだった。こうして、10世紀から19世紀前半にかけてはイラン高原を中心に西は小アジアからメソポタミア、北は中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(アム川・シル川流域)、東はインド亜大陸にかけて広がる広大なペルシア語圏が成立していた。
しかしこのペルシア語圏は、ムガル帝国に代わってインドを支配したイギリスが1835年に英語を公用語としたこと、中央アジアにおいてブハラ・ハン国やコーカンド・ハン国を滅ぼしたロシア帝国が同じくロシア語を公用語としたこと、そして民族主義の勃興によってこれら地域の諸民族が現地の言葉を優先して使用する傾向が強まったことから、19世紀以降大幅に縮小し、ペルシア系民族の優勢なイラン・アフガニスタン・タジキスタンの3か国が主な現代の使用地域となった。
フェルドウスィーの頃のペルシア語にはアラビア語の影響は少なかったが、時代が下るにつれてアラビア語からの借用語が増え、また文語と日常語の間の差が大きくなった。これに対してペルシア語の近代化の運動が行われ、1903年にはペルシア語純化のための最初のアカデミー会議が持たれた。パフラヴィー朝の建国者であるレザー・パフラヴィーは1928年にイラン言語アカデミーを設立してペルシア語の近代化に努め、この過程においてアラビア語や西洋の言語からの何千もの借用語を人工的に固有語に置き換えた。
イランやアフガニスタンにおいては、ペルシア語は28文字のアラビア文字を基本として、さらに4文字を加えた32文字のペルシア文字で表記される。数字もアラビア語で用いられるものとは微妙に形が異なる。また、イランではナスタアリーク体という書体が発展した。
一方、かつてロシアの統治下にあったタジキスタンではソヴィエト連邦統治時代の1930年に一度ラテン文字への記述法の切り替えが実施され、1940年にはさらにキリル文字への切り替えが行われたため、タジキスタン独立後もタジク語はキリル文字で表記されている。しかしこれに関しては、キリル文字に代表されるロシア・ソヴィエト連邦的なものからの決別を図る目的で、2000年代後半からラテン文字やアラビア文字への回帰論が盛んになってきている。
また、ペルシア語のラテン文字表記法も存在するが、定まった方式は存在せず、いくつかの表記法が併存している状態にある。
近代ペルシア語(新ペルシア語)の音韻は時代・地域によって異なるが、以下に示すのは、イランにおける現代標準ペルシア語の音韻である。
以上のうち æ e o は短母音、 ɒː iː uː は長母音とされ、転写するときには a e o ā ī ū とすることが多い。ただし、a と ā は長短の違いだけではなく質的な違いが大きい。
ほかに二重母音 ej、ow がある。
単語によっては、半母音 j の前に短母音 ɪ (転写は i )が現れることがある。
初期新ペルシア語は、中期ペルシア語と同様に八つの母音を持っており、母音には i, a, u の三つの単母音と ī, ē, ā, ō, ū の五つの長母音があった。その後の音変化により、現在のイラン・ペルシア語ではīとē、ōとūの区別が失われ、タジキスタン・タジク語ではiとī、uとūの区別が失われ、それぞれ母音が六つになった。一方、アフガニスタン・ダリー語では現在も八つの母音の区別を留めている。
以下の表は、新ペルシア語の母音の推移をまとめたものである。
平叙文での語順は、主語 - 目的語 - 動詞のSOV型である。
名詞の複数形は単数形に ها (-hā)または ان (-ān)を加える。ān は一般に生物(とくに人間)に対して使うことが多いが、実際には hā も人間に対して使われる。アラビア語からの借用語はアラビア語に由来する複数形を取ることがある。
性はほぼ完全に消滅しており、代名詞にも存在しない。例えば英語の「he/she/it」は、ペルシア語ではいずれも「او(ū/ウー)」となる。
格変化はほぼ完全に消滅しており、代名詞にも存在しない。格を表す役割は、語順と前置詞・後置詞が果たしている。英語等の所有代名詞にあたるものは代名詞の接尾辞形で表される。
接置詞は前置詞を用いる。ただし、定目的格のみ後置詞 rā (後述)となる。
名詞が形容詞または名詞に修飾される場合、修飾される名詞の後ろに形容詞・名詞が来る。この際、修飾される名詞は語尾に「e」(名詞が子音で終わる場合)または「ye」(名詞が母音で終わる場合)がつく。これをエザーフェという。複合名詞では修飾される名詞の前に修飾する名詞・形容詞が来る。
冠詞はないが、目的語に後置詞 rā をつけると、それは特定のものを意味する。また、不定のものを意味する接尾辞 -ī がある。
形容詞は英語と同様、不変化である。比較級・最上級は存在する。
動詞は主語の数(単数・複数)、人称(一人称〜三人称)に応じて人称変化する。動詞には現在語幹と過去語幹があり、これに接頭辞と人称語尾を加えて、さまざまな形を作る。現在語幹からは現在形・命令法・仮定法などが、過去語幹からは不定法(辞書にはこの形で載る)・過去形・未来形・過去分詞などが作られる。
ペルシア語は分析的な複合動詞が非常に多く、名詞の後ろに کردن (kardan, する)、شدن (šodan, なる)、زدن (zadan, 打つ)、دادن (dādan, 与える)などを組み合わせることでさまざまな動作を表すことができる。
助動詞は動詞の前に置く。分詞と動詞を組み合わせる場合、分詞は動詞の前に来る。
ペルシア語はテュルク諸語、及びヒンドゥスターニー語をはじめとするインドの諸言語に大きな影響を与えた。これは、中央アジアから小アジアにかけてのテュルク系諸王朝や、北インドを支配したムガル帝国が行政言語としてペルシア語を使用していたことによる。その後インドにおいてはイスラム教徒とヒンドゥー教徒が対立し、ヒンドゥスターニー語がウルドゥー語とヒンディー語に政治的に分化するようになった。このさいヒンドゥー教圏においては言語純化運動が進められ、ペルシア語由来の借用語の多くがサンスクリットへと置き換えられた。一方でイスラム教圏においてはこれが行われなかったので、ウルドゥー語においてはペルシア語由来の借用語がそのまま保持された。この言語純化運動はトルコ語においても行われ、この過程でアラビア語やペルシア語由来の単語の多くがトルコ語へと置き換えられた。しかしそれ以後もペルシア語由来の単語は多く、その一つである土地、国を意味するスターンという語は南アジアから旧ソ連地域南部にかけて広がっている。また、アラビア語にも非常に多数のペルシア語が借用語として取り入れられた。行政言語にペルシア語を用いなかった地域においても、特に南アジアや東南アジアなどにおいて広くペルシア語の影響は認められる。これは、イスラム教が東方へと拡大する際、アラビア語が広まるまでの教育用言語として用いられていたのがペルシア語だったためである。ただしこの借用語には、アラビア語からペルシア語を経由して現地語へと流入したものも非常に多い。ベンガル語のうちイスラム教圏で話されているものやインドネシア語にはこうした借用語が多く存在する。
一方、ペルシア語の長い歴史を反映して、他の言語から多くの語彙を取り入れている。特にイスラーム教の公用語であるアラビア語から取り入れられた語彙が非常に多い。言語改革によってアラビア語からの語彙のいくつかはペルシア語に置き換えられたものの、いまだ多くの借用語が残っている。他にテュルク諸語、モンゴル語、ギリシア語、フランス語、英語などからも語彙を取り入れている。
ペルシア語から直接日本語に借用された語は少ないが、ブドウやイチジクのように、ペルシア語から中国語を通じて日本語に入った言葉はいくつかある。それよりも多いのが、西洋の言語を経由して借用された語である。ただし、ペルシア語から西洋語に借用される間にトルコ語・アラビア語・ヒンディー語/ウルドゥー語などを経由している場合が多く、またペルシア語自身がこれらの言語からの借用であることも多いため、どれをペルシア語からの借用語とするか、難しいところがある。たとえばタージ・マハルがペルシア語とされることもあるが、タージもマハルも本来はアラビア語であり(ただし「タージ」はさらに元を辿るとペルシア語に由来している)、構文的にはヒンディー語/ウルドゥー語とも取れる。また、チューリップはトルコ語 tülbent に由来し、トルコ語はペルシア語 دلبند dolband の借用だが、ペルシア語での意味は「ターバン」であり、ペルシア語でチューリップは لاله lāle と呼ぶ。
以下に比較的問題の少ないものをあげる。
ペルシア語で「土色の」という意味の語が、ウルドゥー語を経由して西洋の言語に入った。
ただし本来はサンスクリット語が起源である。イランを通り、アラビア語を経由しヨーロッパに入ったとされる。
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"text": "ペルシア語は、ペルシア語の母語話者以外にも広くリンガ・フランカとして用いられた。10世紀以降に中央アジアを支配したテュルク系民族は、ペルシア語を行政用語とし、ペルシア人の官僚を使用した。ガズナ朝やセルジューク朝のようなテュルク系の王朝がイランを支配しても、その状況は変わらなかった。オスマン・トルコ語やチャガタイ・トルコ語などのテュルク系の言語による文語が発達した後も、近代までペルシア語は併存しつづけた。そもそもオスマン語やチャガタイ語自体が、ペルシア語の強い影響を受けて成立したものだった。また、ティムール朝をはじめとする中央アジアの諸王朝は、ペルシア系・トゥルク系を問わずペルシア語を公用語として使用し続けた。さらに、ガズナ朝のインド侵攻以降デリー・スルターン朝やムガル帝国といった、中央アジアに起源をもつインド王朝が続き、これらの王朝は南アジアでペルシア語を公用語とした。このため、現代においてもウルドゥー語はペルシア語からの影響が非常に強く、帝国の領域に入ったベンガル語などにもペルシア語の語彙が流入した。オスマン帝国においては公用語はトルコ語系のオスマン・トルコ語であり、公的なペルシア語の重要性はやや低下したものの、文化言語としてはいまだに広く使用される言語のままだった。こうして、10世紀から19世紀前半にかけてはイラン高原を中心に西は小アジアからメソポタミア、北は中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(アム川・シル川流域)、東はインド亜大陸にかけて広がる広大なペルシア語圏が成立していた。",
"title": "歴史"
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"text": "しかしこのペルシア語圏は、ムガル帝国に代わってインドを支配したイギリスが1835年に英語を公用語としたこと、中央アジアにおいてブハラ・ハン国やコーカンド・ハン国を滅ぼしたロシア帝国が同じくロシア語を公用語としたこと、そして民族主義の勃興によってこれら地域の諸民族が現地の言葉を優先して使用する傾向が強まったことから、19世紀以降大幅に縮小し、ペルシア系民族の優勢なイラン・アフガニスタン・タジキスタンの3か国が主な現代の使用地域となった。",
"title": "歴史"
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"text": "フェルドウスィーの頃のペルシア語にはアラビア語の影響は少なかったが、時代が下るにつれてアラビア語からの借用語が増え、また文語と日常語の間の差が大きくなった。これに対してペルシア語の近代化の運動が行われ、1903年にはペルシア語純化のための最初のアカデミー会議が持たれた。パフラヴィー朝の建国者であるレザー・パフラヴィーは1928年にイラン言語アカデミーを設立してペルシア語の近代化に努め、この過程においてアラビア語や西洋の言語からの何千もの借用語を人工的に固有語に置き換えた。",
"title": "歴史"
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"text": "イランやアフガニスタンにおいては、ペルシア語は28文字のアラビア文字を基本として、さらに4文字を加えた32文字のペルシア文字で表記される。数字もアラビア語で用いられるものとは微妙に形が異なる。また、イランではナスタアリーク体という書体が発展した。",
"title": "文字"
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"text": "一方、かつてロシアの統治下にあったタジキスタンではソヴィエト連邦統治時代の1930年に一度ラテン文字への記述法の切り替えが実施され、1940年にはさらにキリル文字への切り替えが行われたため、タジキスタン独立後もタジク語はキリル文字で表記されている。しかしこれに関しては、キリル文字に代表されるロシア・ソヴィエト連邦的なものからの決別を図る目的で、2000年代後半からラテン文字やアラビア文字への回帰論が盛んになってきている。",
"title": "文字"
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"text": "また、ペルシア語のラテン文字表記法も存在するが、定まった方式は存在せず、いくつかの表記法が併存している状態にある。",
"title": "文字"
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"text": "近代ペルシア語(新ペルシア語)の音韻は時代・地域によって異なるが、以下に示すのは、イランにおける現代標準ペルシア語の音韻である。",
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"text": "以上のうち æ e o は短母音、 ɒː iː uː は長母音とされ、転写するときには a e o ā ī ū とすることが多い。ただし、a と ā は長短の違いだけではなく質的な違いが大きい。",
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"text": "ほかに二重母音 ej、ow がある。",
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"text": "単語によっては、半母音 j の前に短母音 ɪ (転写は i )が現れることがある。",
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"text": "初期新ペルシア語は、中期ペルシア語と同様に八つの母音を持っており、母音には i, a, u の三つの単母音と ī, ē, ā, ō, ū の五つの長母音があった。その後の音変化により、現在のイラン・ペルシア語ではīとē、ōとūの区別が失われ、タジキスタン・タジク語ではiとī、uとūの区別が失われ、それぞれ母音が六つになった。一方、アフガニスタン・ダリー語では現在も八つの母音の区別を留めている。",
"title": "音韻"
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"text": "以下の表は、新ペルシア語の母音の推移をまとめたものである。",
"title": "音韻"
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"text": "平叙文での語順は、主語 - 目的語 - 動詞のSOV型である。",
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"text": "名詞の複数形は単数形に ها (-hā)または ان (-ān)を加える。ān は一般に生物(とくに人間)に対して使うことが多いが、実際には hā も人間に対して使われる。アラビア語からの借用語はアラビア語に由来する複数形を取ることがある。",
"title": "文法"
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"text": "性はほぼ完全に消滅しており、代名詞にも存在しない。例えば英語の「he/she/it」は、ペルシア語ではいずれも「او(ū/ウー)」となる。",
"title": "文法"
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"text": "格変化はほぼ完全に消滅しており、代名詞にも存在しない。格を表す役割は、語順と前置詞・後置詞が果たしている。英語等の所有代名詞にあたるものは代名詞の接尾辞形で表される。",
"title": "文法"
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"text": "接置詞は前置詞を用いる。ただし、定目的格のみ後置詞 rā (後述)となる。",
"title": "文法"
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"text": "名詞が形容詞または名詞に修飾される場合、修飾される名詞の後ろに形容詞・名詞が来る。この際、修飾される名詞は語尾に「e」(名詞が子音で終わる場合)または「ye」(名詞が母音で終わる場合)がつく。これをエザーフェという。複合名詞では修飾される名詞の前に修飾する名詞・形容詞が来る。",
"title": "文法"
},
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"text": "冠詞はないが、目的語に後置詞 rā をつけると、それは特定のものを意味する。また、不定のものを意味する接尾辞 -ī がある。",
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"text": "形容詞は英語と同様、不変化である。比較級・最上級は存在する。",
"title": "文法"
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"text": "動詞は主語の数(単数・複数)、人称(一人称〜三人称)に応じて人称変化する。動詞には現在語幹と過去語幹があり、これに接頭辞と人称語尾を加えて、さまざまな形を作る。現在語幹からは現在形・命令法・仮定法などが、過去語幹からは不定法(辞書にはこの形で載る)・過去形・未来形・過去分詞などが作られる。",
"title": "文法"
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"text": "ペルシア語は分析的な複合動詞が非常に多く、名詞の後ろに کردن (kardan, する)、شدن (šodan, なる)、زدن (zadan, 打つ)、دادن (dādan, 与える)などを組み合わせることでさまざまな動作を表すことができる。",
"title": "文法"
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"text": "助動詞は動詞の前に置く。分詞と動詞を組み合わせる場合、分詞は動詞の前に来る。",
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"text": "ペルシア語はテュルク諸語、及びヒンドゥスターニー語をはじめとするインドの諸言語に大きな影響を与えた。これは、中央アジアから小アジアにかけてのテュルク系諸王朝や、北インドを支配したムガル帝国が行政言語としてペルシア語を使用していたことによる。その後インドにおいてはイスラム教徒とヒンドゥー教徒が対立し、ヒンドゥスターニー語がウルドゥー語とヒンディー語に政治的に分化するようになった。このさいヒンドゥー教圏においては言語純化運動が進められ、ペルシア語由来の借用語の多くがサンスクリットへと置き換えられた。一方でイスラム教圏においてはこれが行われなかったので、ウルドゥー語においてはペルシア語由来の借用語がそのまま保持された。この言語純化運動はトルコ語においても行われ、この過程でアラビア語やペルシア語由来の単語の多くがトルコ語へと置き換えられた。しかしそれ以後もペルシア語由来の単語は多く、その一つである土地、国を意味するスターンという語は南アジアから旧ソ連地域南部にかけて広がっている。また、アラビア語にも非常に多数のペルシア語が借用語として取り入れられた。行政言語にペルシア語を用いなかった地域においても、特に南アジアや東南アジアなどにおいて広くペルシア語の影響は認められる。これは、イスラム教が東方へと拡大する際、アラビア語が広まるまでの教育用言語として用いられていたのがペルシア語だったためである。ただしこの借用語には、アラビア語からペルシア語を経由して現地語へと流入したものも非常に多い。ベンガル語のうちイスラム教圏で話されているものやインドネシア語にはこうした借用語が多く存在する。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "一方、ペルシア語の長い歴史を反映して、他の言語から多くの語彙を取り入れている。特にイスラーム教の公用語であるアラビア語から取り入れられた語彙が非常に多い。言語改革によってアラビア語からの語彙のいくつかはペルシア語に置き換えられたものの、いまだ多くの借用語が残っている。他にテュルク諸語、モンゴル語、ギリシア語、フランス語、英語などからも語彙を取り入れている。",
"title": "影響"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "ペルシア語から直接日本語に借用された語は少ないが、ブドウやイチジクのように、ペルシア語から中国語を通じて日本語に入った言葉はいくつかある。それよりも多いのが、西洋の言語を経由して借用された語である。ただし、ペルシア語から西洋語に借用される間にトルコ語・アラビア語・ヒンディー語/ウルドゥー語などを経由している場合が多く、またペルシア語自身がこれらの言語からの借用であることも多いため、どれをペルシア語からの借用語とするか、難しいところがある。たとえばタージ・マハルがペルシア語とされることもあるが、タージもマハルも本来はアラビア語であり(ただし「タージ」はさらに元を辿るとペルシア語に由来している)、構文的にはヒンディー語/ウルドゥー語とも取れる。また、チューリップはトルコ語 tülbent に由来し、トルコ語はペルシア語 دلبند dolband の借用だが、ペルシア語での意味は「ターバン」であり、ペルシア語でチューリップは لاله lāle と呼ぶ。",
"title": "影響"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "以下に比較的問題の少ないものをあげる。",
"title": "影響"
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"text": "ペルシア語で「土色の」という意味の語が、ウルドゥー語を経由して西洋の言語に入った。",
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"text": "ただし本来はサンスクリット語が起源である。イランを通り、アラビア語を経由しヨーロッパに入ったとされる。",
"title": "影響"
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] |
ペルシア語は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語(پارسی)ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。
|
{{特殊文字|説明=[[ペルシア文字]]}}
{{Infobox language
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|states={{IRN}}<ref name="Samadi">{{cite book
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| publisher = Multilingual Matters
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}}</ref><br />{{AFG}}<ref name="Samadi" />([[ダリー語]])<br />{{TJK}}<ref name="Samadi" />([[タジク語]])<br />{{UZB}}([[タジク語]])<ref>『イランを知るための65章』 岡田恵美子・北原圭一、鈴木珠里編著 明石書店 2004年 p.258 ISBN 9784750319803</ref><ref name="名前なし-1">「中央アジアを知るための60章」p143-144 宇山智彦編著 明石書店 2003年3月10日初版第1刷</ref><br />{{AZE}}<ref name="Windfuhr">Windfuhr, Gernot: ''The Iranian Languages'', Routledge 2009, p. 418.</ref><br />{{RUS}}<ref>{{cite book
| ref = harv
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}}: "Among other indigenous peoples of Iranian origin were the Tats, the Talishes and the Kurds"</ref><ref>{{cite book
| ref = harv
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| title = An Ethnic History of Russia: Pre-revolutionary Times to the Present
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| year = 1996
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}}, p. 80: "The Iranian Peoples (Ossetians, Tajiks, Tats, Mountain Judaists)"</ref><br />{{IRQ}}<ref>{{cite web
| url = http://www.iranicaonline.org/articles/iraq
| title = IRAQ
| accessdate = 7 November 2014
}}</ref>
|region=[[西アジア]]・[[中央アジア]]・[[カフカス]]
| speakers = 7000万人<ref>{{Cite web|url=https://asianstudies.unc.edu/persian/|title=Persian {{!}} Department of Asian Studies|language=en-US|access-date=2019-01-02|quote=There are numerous reasons to study Persian: for one thing, Persian is an important language of the Middle East and Central Asia, spoken by approximately 70 million native speakers and roughly 110 million people worldwide.}}</ref>
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}}
'''ペルシア語'''(ペルシアご、{{Lang-fa|فارسی}} {{IPA-fa|fɒːɾˈsiː||Farsi.ogg}})は、[[イラン]]を中心とする[[中東|中東地域]]で話される[[言語]]。'''ペルシャ語'''、'''ファールシー語'''、'''パールシー語'''({{lang|fa|'''پارسی'''}})ともいう。
[[言語学]]的には[[インド・ヨーロッパ語族]]-[[インド・イラン語派]]-[[イラン語群]]に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代[[ペルシア帝国]]から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語には[[アラビア語]]からの[[借用語]]が非常に多く<ref>『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 71頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。
== 言語名 ==
ペルシア語での名称である「{{lang|fa|فارسی」}}(ファールシー)、日本語での名称である「ペルシア語」、英語での名称である「Persian」は、いずれも現代のイランの一地方である[[ファールス (イラン)|ファールス地方]](古名: パールサ)に由来する。
ペルシア語では歴史的に「{{lang|fa|پارسی}}」(パールシー)という呼称もあったが、[[中世]]に/p/音のない[[アラビア語]]の影響により「{{lang|fa|فارسی」}}(ファールシー)となり、現在は日常的に専ら「ファールシー」が用いられる<ref>{{cite book|editor1-last=Campbell|editor1-first=George L.|editor2-last=King|editor2-first=Gareth|title=Compendium of the World's Languages|date=2013|publisher=Routledge|page=1339|edition=3rd|chapter=Persian|isbn=9781136258466|chapter-url=https://books.google.com/books?id=DWAqAAAAQBAJ&pg=PA1339}}</ref>。歴史的には「[[ダリー語]]」という呼称も用いられてきたが、現在ではこの名称は一般にアフガニスタンのペルシア語を指す。
[[アフガニスタン]]では1958年に「ダリー語」が公式の言語名として定められた。それ以前は現地のペルシア語話者は自分たちの言語を「ファールシー」と呼んでおり、外部からも「アフガン・ペルシア語」等の呼称で呼ばれていた。
[[タジキスタン]]では「[[タジク語]]」を公式の言語名としている。
==使用地域==
おもに[[イラン]]・[[タジキスタン]]・[[アフガニスタン]]及び[[ウズベキスタン]]・[[ロシア]]・[[コーカサス地方]]・[[バーレーン]]・[[イラク]]の一部でも話される。[[母語話者]]は4600万人を超えるとされている。イラン、タジキスタンでは唯一の[[公用語]]とされ、アフガニスタンでは[[パシュトー語]]とともに公用語とされている。ペルシア語は[[複数中心地言語]]のひとつであり、[[イラン]]、[[アフガニスタン]]、[[タジキスタン]]でそれぞれ標準語が別個に定められている。
歴史的経緯により、アフガニスタンでは[[ダリー語]]、タジキスタンでは[[タジク語]]と呼ばれる<ref>「言語世界地図」p156 町田健 新潮新書 2008年5月20日発行</ref>。これらは現在ではそれぞれの国におけるペルシア語の[[方言]]を指すが、イランのペルシア語とは発音や語彙、正書法などに違いがあり、別言語として扱われる場合もある。また、使用される文字も異なり、イランおよびアフガニスタンではアラビア文字に4文字を足した[[ペルシア文字]]によって表記されるのに対し、タジキスタンでは[[キリル文字]]によって表記される<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3096045 『「理解不能」な言葉使った記者に罰金、タジキスタン』 AFPBB 2016年08月02日 2017年6月24日閲覧</ref>。
各国における使用状況としては、イランにおいては人口の51%を占める[[ペルシア人]]の母語であり、上記のとおりイランの唯一の公用語である。イラン国内においても多数の方言が存在するが、[[テヘラン方言]]がほぼ標準語としての地位を確立している<ref>「イスラーム世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p62 佐藤次高・岡田恵美子編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2008年3月31日初版第1刷</ref>。
タジキスタンにおいても、人口の約85%を占める[[タジク人]]の母語であり、多数派の言語かつ唯一の公用語であるが、かつてこの地を支配していた[[ソヴィエト連邦]]の言語であった[[ロシア語]]の通用度も高い。タジク人はタジキスタン国内だけでなく、ウズベキスタン南部の[[ブハラ]]や[[サマルカンド]]といったオアシスの旧都や[[フェルガナ盆地]]の一部などで多数派となっており、これらの地域では住民の多くがタジク語を話す<ref>『イランを知るための65章』 岡田久美子・北原圭一、鈴木珠里編著 明石書店 2004年 p.258 ISBN 9784750319803</ref><ref name="名前なし-1"/>。ウズベキスタンにおけるタジク人の割合は4.8%(2017年)、タジク語話者の割合は4.4%となっている<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/uz.html#People CIA world factbook 2019年4月22日閲覧</ref>。
アフガニスタンでは人口の約32%を占めるタジク人がペルシア語(ダリー語)話者であり、また人口の12%を占める中部山岳地帯の[[ハザーラ人]]もペルシア語と方言関係にあるハザラギ語を話すうえ、西部の少数民族・[[アイマーク人]]もまたペルシア語の方言であるアイマーク語を話すなど、人口のほぼ半分弱がペルシア語母語話者となっている。タジク人が多数を占める首都[[カブール]]を含む北部の主要言語であり、南部の主要言語であるパシュトー語と並立状態にあるが、首都を言語圏としているうえにパシュトー語話者のかなりがダリー語を話せることもあり、共通語としてはダリー語の方が威信が高く広く使用される<ref>「言語世界地図」p165 町田健 新潮新書 2008年5月20日発行</ref>。このため、パシュトー語話者がほぼ[[パシュトゥーン人]]のみで人口の47%を占めるのに対し、ダリー語話者は第二言語も含めれば人口の80%を占めている<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/af.html CIA world factbook 2019年4月22日閲覧</ref>。
== 歴史 ==
ペルシア語は、時代によって次のように「古」「中」「新」の3つに大別される。なお、日本では後者ふたつを「中世ペルシア語」、「近世ペルシア語」と呼ぶことが多いが、適切な名称とは言い難い<ref group="注釈">以下の区分は日本では「古代」「中世」「近世」という名称が学界でも広く使われているが、歴史学における「中世」「近世」とはかなり時代がずれるため、非常に問題がある。そのため、本来は「古期ペルシア語」「中期ペルシア語」「新期ペルシア語」とすべきである。(たとえば伊藤義教は『ゾロアスター教論集』平河出版社 ISBN 4892033154、などでは「古期」「中期」「新期」という用語も併用していたが、学界の主流にはならなかった。)なお、英語では"Old Persian", "Middle Persian", "New Persian"と呼ぶことになっている。("Ancient Persian", "Medieval Persian", "Modern Persian"ではない。)</ref><ref>『イランを知るための65章』 岡田久美子・北原圭一、鈴木珠里編著 明石書店 2004年 p.66-68 ISBN 9784750319803</ref>。
# [[古代ペルシア語]] … [[古代ペルシア楔形文字]]を用いて書かれた[[アケメネス朝]]の碑文(紀元前6世紀 - 紀元前4世紀)によって知られる。
# 中期ペルシア語 … [[パフラヴィー語]]とも呼ばれる。[[サーサーン朝]]頃に使われた。[[アラム文字]]から派生した[[パフラヴィー文字]](中世ペルシア文字)を用いた。後述の口語のダリー語に対し、行政・宗教・文学で用いられた文語だった。
# '''新ペルシア語''' … 現代では「ペルシア語」といえばふつう新ペルシア語を指す。[[7世紀]]から[[9世紀]]頃に原型であるダリー語(アフガニスタンで現在話されている同名の言語とは関係がない。起源はサーサーン朝の宮廷口語。「Dar(宮廷)-ī(の)」が語源とされる)が成立した。[[アラビア文字]]を改良した[[ペルシア文字]]を用いている。特に「現代ペルシア語」ないし「現代ペルシア発音」という時は、新ペルシア語のうち、現代イランにおいて標準語とされているものを指し、古典的な新ペルシア語からはやや発音が変化している(i→e、u→o、q→ghなど)。
=== 新ペルシア語の展開 ===
[[651年]]にサーサーン朝が[[イスラム帝国]]([[正統カリフ]]期)に滅ぼされてから200年ほどの間は、ペルシア語の文献は残っておらず、書記言語としてはアラビア語が用いられていた。ペルシア語そのものは、752年ごろのアフガニスタンの墓碑銘に残っており、他にもいくつかの文が断片的に発見されているが、これらはいずれも[[ヘブライ文字]]などで書かれていた<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p44-45 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。しかし9世紀にはアラビア文字でペルシア語を書くことが一般化していったと考えられている<ref>「ペルシア語が結んだ世界 もうひとつのユーラシア史」(北海道大学スラブ研究センター スラブ・ユーラシア叢書7)p5 森本一夫 北海道大学出版会 2009年6月25日第1刷</ref>。[[アッバース朝]]の衰退に伴って[[9世紀]]末ごろに[[ホラーサーン]]に興った[[サーマーン朝]]においてペルシア語は詩作に用いられ、ここからペルシア語は文章語として栄えるようになり<ref>「イスラーム世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p63 佐藤次高・岡田恵美子編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2008年3月31日初版第1刷</ref>、[[フェルドウスィー]]の『[[シャー・ナーメ]]』、[[オマル・ハイヤーム]]の『[[ルバイヤート]]』、[[ニザーミー]]の『[[ホスローとシーリーン]]』などに代表される[[ペルシア文学]]が花開いた。サーマーン朝においてペルシア語は行政言語として用いられるようになり、以後東イランから中央アジアにおいて次々と興っていったイラン系の王朝もこれを踏襲した。また歴史・哲学などの学術書もこの言語で記された。
ペルシア語は、ペルシア語の母語話者以外にも広く[[リンガ・フランカ]]として用いられた。10世紀以降に中央アジアを支配した[[テュルク系民族]]は、ペルシア語を行政用語とし、ペルシア人の官僚を使用した<ref name="sakamoto">{{cite book|和書|author=坂本勉|title=トルコ民族主義|year=1996|publisher=[[講談社現代新書]]|pages=66,81}}</ref>。[[ガズナ朝]]や[[セルジューク朝]]のようなテュルク系の王朝がイランを支配しても、その状況は変わらなかった。[[オスマン・トルコ語]]や[[チャガタイ・トルコ語]]などのテュルク系の言語による文語が発達した後も、近代までペルシア語は併存しつづけた<ref name="sakamoto"/>。そもそもオスマン語やチャガタイ語自体が、ペルシア語の強い影響を受けて成立したものだった<ref>「ペルシア語が結んだ世界 もうひとつのユーラシア史」(北海道大学スラブ研究センター スラブ・ユーラシア叢書7)p9 森本一夫 北海道大学出版会 2009年6月25日第1刷</ref>。また、[[ティムール朝]]をはじめとする中央アジアの諸王朝は、ペルシア系・トゥルク系を問わずペルシア語を公用語として使用し続けた。さらに、ガズナ朝のインド侵攻以降[[デリー・スルターン朝]]や[[ムガル帝国]]といった、中央アジアに起源をもつインド王朝が続き、これらの王朝は[[南アジア]]でペルシア語を公用語とした<ref name="名前なし-2">「アラビア語の世界 歴史と現在」p490 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。このため、現代においても[[ウルドゥー語]]はペルシア語からの影響が非常に強く、帝国の領域に入ったベンガル語などにもペルシア語の語彙が流入した。[[オスマン帝国]]においては公用語はトルコ語系のオスマン・トルコ語であり、公的なペルシア語の重要性はやや低下したものの、文化言語としてはいまだに広く使用される言語のままだった。こうして、10世紀から[[19世紀]]前半にかけてはイラン高原を中心に西は[[小アジア]]から[[メソポタミア]]、北は中央アジアの[[マー・ワラー・アンナフル]]([[アム川]]・[[シル川]]流域)、東は[[インド亜大陸]]にかけて広がる広大なペルシア語圏が成立していた<ref>「ペルシア語が結んだ世界 もうひとつのユーラシア史」(北海道大学スラブ研究センター スラブ・ユーラシア叢書7)p7-11 森本一夫 北海道大学出版会 2009年6月25日第1刷</ref>。
しかしこのペルシア語圏は、ムガル帝国に代わってインドを支配した[[イギリス]]が[[1835年]]に[[英語]]を公用語としたこと、中央アジアにおいて[[ブハラ・ハン国]]や[[コーカンド・ハン国]]を滅ぼした[[ロシア帝国]]が同じく[[ロシア語]]を公用語としたこと、そして民族主義の勃興によってこれら地域の諸民族が現地の言葉を優先して使用する傾向が強まったことから、19世紀以降大幅に縮小し<ref>「ペルシア語が結んだ世界 もうひとつのユーラシア史」(北海道大学スラブ研究センター スラブ・ユーラシア叢書7)p11 森本一夫 北海道大学出版会 2009年6月25日第1刷</ref>、ペルシア系民族の優勢なイラン・アフガニスタン・タジキスタンの3か国が主な現代の使用地域となった。
フェルドウスィーの頃のペルシア語にはアラビア語の影響は少なかったが、時代が下るにつれてアラビア語からの借用語が増え、また文語と日常語の間の差が大きくなった。これに対してペルシア語の近代化の運動が行われ、[[1903年]]にはペルシア語純化のための最初のアカデミー会議が持たれた<ref>{{cite book|url=http://www.iranicaonline.org/articles/farhangestan|author=M. A. Jazayeri|chapter=FARHANGESTĀN|title=[[イラン百科事典]]|year=1999|}}</ref>。[[パフラヴィー朝]]の建国者である[[レザー・パフラヴィー]]は[[1928年]]にイラン言語アカデミーを設立してペルシア語の近代化に努め、この過程においてアラビア語や西洋の言語からの何千もの借用語を人工的に固有語に置き換えた<ref name="名前なし-3">「アラビア語の世界 歴史と現在」p482 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。
== 文字 ==
{{main|ペルシア文字|イスラームの書法}}
イランやアフガニスタンにおいては、ペルシア語は28文字の[[アラビア文字]]を基本として、さらに4文字を加えた32文字の[[ペルシア文字]]で表記される<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p216 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。数字もアラビア語で用いられるものとは微妙に形が異なる。また、イランでは[[ナスタアリーク体]]という書体が発展した。
一方、かつてロシアの統治下にあったタジキスタンではソヴィエト連邦統治時代の1930年に一度[[ラテン文字]]への記述法の切り替えが実施され、1940年にはさらにキリル文字への切り替えが行われた<ref>「タジク語入門」p4 ユーラシアセンター編 ベスト社 2007年4月7日初版発行</ref>ため、タジキスタン独立後も[[タジク語]]は[[キリル文字]]で表記されている。しかしこれに関しては、キリル文字に代表されるロシア・ソヴィエト連邦的なものからの決別を図る目的で、2000年代後半からラテン文字やアラビア文字への回帰論が盛んになってきている<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p171 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。
また、[[ペルシア語のラテン文字表記法]]も存在するが、定まった方式は存在せず、いくつかの表記法が併存している状態にある。
{| bgcolor = #eef8ff cellspacing=0 cellpadding=3 style="border: 1px solid #ced8df; "
!style="white-space:nowrap" bgcolor=#ccccff colspan=32 align=center|ペルシア文字
|-align=center
|[[ا]]
|[[ب]]
|[[پ]]
|[[ت]]
|[[ث]]
|[[ج]]
|[[چ]]
|[[ح]]
|[[خ]]
|[[د]]
|[[ذ]]
|[[ر]]
|[[ز]]
|[[ژ]]
|[[س]]
|[[ش]]
|[[ص]]
|[[ض]]
|[[ط]]
|[[ظ]]
|[[ع]]
|[[غ]]
|[[ف]]
|[[ق]]
|[[ک]]
|[[گ]]
|[[ل]]
|[[م]]
|[[ن]]
|[[و]]
|[[ه]]
|[[ی]]
|-align=center
|a
|b
|p
|t
|s
|j
|ch
|h
|x
|d
|z
|r
|z
|zh
|s
|sh
|s
|z
|t
|z
|’
|gh
|f
|gh<br>(q)
|k
|g
|l
|m
|n
|v/u
|h
|y/i
|}
== 音韻 ==
近代ペルシア語(新ペルシア語)の音韻は時代・地域によって異なるが、以下に示すのは、イランにおける現代標準ペルシア語の音韻である。
{|class="wikitable"
|+[[母音]]
! !!align=center|[[前舌母音|前舌]]!!align=center|[[後舌母音|奥舌]]
|-
|[[狭母音]]||div align=center|{{IPA2|iː}}||align=center|{{IPA2|uː}}
|-
|[[中央母音]]||align=center|{{IPA2|e}}||align=center|{{IPA2|o}}
|-
|[[広母音]]||align=center|{{IPA2|æ}}||align=center|{{IPA2|ɒː}}
|}
以上のうち {{IPA2|æ e o}} は短母音、 {{IPA2|ɒː iː uː}} は長母音とされ、[[転写]]するときには {{unicode|a e o ā ī ū}} とすることが多い。ただし、{{unicode|a}} と {{unicode|ā}} は長短の違いだけではなく質的な違いが大きい。
ほかに二重母音 {{IPA2|ej}}、{{IPA2|ow}} がある。
単語によっては、半母音 {{IPA2|j}} の前に短母音 {{IPA2|ɪ}} (転写は {{unicode|i}} )が現れることがある。
{|class="wikitable"
|+[[子音]]
! !![[両唇音]]!![[歯音]]!![[後部歯茎音]]<br>[[硬口蓋音]]!![[軟口蓋音]]!![[声門音]]
|-
|[[閉鎖音]]・[[破擦音]]||align=center| p b ||align=center| t d ||align=center| {{IPA2|tʃ dʒ}} ||align=center| {{IPA2|k ɡ}} ||align=center| {{IPA2|ʔ}}
|-
|[[摩擦音]]||align=center| f v ||align=center| s z ||align=center| {{IPA2|ʃ ʒ}} ||align=center| {{IPA2|x ɣ}} || align=center| h
|-
|[[鼻音]]||align=center| m ||align=center| n || || ||
|-
|[[流音]]|| ||align=center| l, r|| || ||
|-
|[[接近音]]|| || ||align=center| j || ||
|}
===歴史的変遷===
初期新ペルシア語は、[[中期ペルシア語]]と同様に八つの母音を持っており、母音には ''i, a, u'' の三つの単母音と ''ī, ē, ā, ō, ū'' の五つの長母音があった。その後の音変化により、現在のイラン・ペルシア語ではīとē、ōとūの区別が失われ、タジキスタン・タジク語ではiとī、uとūの区別が失われ、それぞれ母音が六つになった。一方、アフガニスタン・ダリー語では現在も八つの母音の区別を留めている。
以下の表は、新ペルシア語の母音の推移をまとめたものである<ref name="windfuhr1987">{{cite book | title=The World's Major Languages | year=1987 | last=Windfuhr | first=Gernot | editor=Bernard Comrie |chapter=Persian|publisher=Oxford University Press | location=Oxford | isbn=978-0-19-506511-4 | page=543 }}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
! 初期新ペルシア語
|width=15| i ||width=15| ī ||width=15| ē ||width=15| u ||width=15| ū ||width=15| ō ||width=15| a ||width=15| ā
|-
! アフガニスタン・ダリー語
| e || i || ē || o || u || ō || a || ā
|-
! イラン・ペルシア語
| e ||colspan=2| ī ||o ||colspan=2| ū || a ||ā
|-
! タジキスタン・タジク語
|colspan=2| i || e ||colspan=2| u || ů || a || o
|}
== 文法 ==
平叙文での[[語順]]は、[[主語]] - [[目的語]] - [[動詞]]の[[SOV型]]である。
名詞の複数形は単数形に {{lang|fa|ها}} (-hā)または {{lang|fa|ان}} (-ān)を加える。ān は一般に生物(とくに人間)に対して使うことが多いが、実際には hā も人間に対して使われる。アラビア語からの借用語はアラビア語に由来する複数形を取ることがある。
[[性 (文法)|性]]はほぼ完全に消滅しており、代名詞にも存在しない。例えば英語の「he/she/it」は、ペルシア語ではいずれも「{{lang|fa|او}}(ū/ウー)」となる。
[[格変化]]はほぼ完全に消滅しており、代名詞にも存在しない。[[格]]を表す役割は、語順と[[前置詞]]・[[後置詞]]が果たしている。英語等の所有代名詞にあたるものは代名詞の接尾辞形で表される。
接置詞は[[前置詞]]を用いる。ただし、[[定性|定]]目的格のみ後置詞 {{unicode|rā}} (後述)となる。
[[名詞]]が[[形容詞]]または[[名詞]]に修飾される場合、修飾される名詞の後ろに形容詞・名詞が来る。この際、修飾される名詞は語尾に「e」(名詞が子音で終わる場合)または「ye」(名詞が母音で終わる場合)がつく。これを[[エザーフェ]]という。複合名詞では修飾される名詞の前に修飾する名詞・形容詞が来る。
[[冠詞]]はないが、目的語に後置詞 {{unicode|rā}} をつけると、それは特定のものを意味する。また、不定のものを意味する接尾辞 {{unicode|-ī}} がある。
形容詞は英語と同様、不変化である。比較級・最上級は存在する。
動詞は主語の数(単数・複数)、人称(一人称〜三人称)に応じて[[人称変化]]する。動詞には現在語幹と過去語幹があり、これに接頭辞と人称語尾を加えて、さまざまな形を作る。現在語幹からは現在形・命令法・仮定法などが、過去語幹からは不定法(辞書にはこの形で載る)・過去形・未来形・過去分詞などが作られる。
ペルシア語は分析的な複合動詞が非常に多く、名詞の後ろに {{lang|fa|کردن}} (kardan, する)、{{lang|fa|شدن}} (šodan, なる)、{{lang|fa|زدن}} (zadan, 打つ)、{{lang|fa|دادن}} (dādan, 与える)などを組み合わせることでさまざまな動作を表すことができる。
[[助動詞 (言語学)|助動詞]]は[[動詞]]の前に置く。分詞と動詞を組み合わせる場合、分詞は動詞の前に来る。
== 影響 ==
ペルシア語は[[テュルク諸語]]、及び[[ヒンドゥスターニー語]]をはじめとするインドの諸言語に大きな影響を与えた。これは、中央アジアから[[小アジア]]にかけてのテュルク系諸王朝<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p486 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>や、北インドを支配したムガル帝国が行政言語としてペルシア語を使用していたことによる<ref name="名前なし-2"/>。その後インドにおいては[[イスラム教徒]]と[[ヒンドゥー教徒]]が対立し、ヒンドゥスターニー語が[[ウルドゥー語]]と[[ヒンディー語]]に政治的に分化するようになった。このさいヒンドゥー教圏においては[[言語純化]]運動が進められ、ペルシア語由来の借用語の多くが[[サンスクリット]]へと置き換えられた。一方でイスラム教圏においてはこれが行われなかったので、ウルドゥー語においてはペルシア語由来の借用語がそのまま保持された<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p491 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。この言語純化運動はトルコ語においても行われ、この過程でアラビア語やペルシア語由来の単語の多くがトルコ語へと置き換えられた<ref>『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 60頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>。しかしそれ以後もペルシア語由来の単語は多く、その一つである土地、国を意味する[[スターン (地名)|スターン]]という語は南アジアから旧ソ連地域南部にかけて広がっている。また、アラビア語にも非常に多数のペルシア語が借用語として取り入れられた<ref name="名前なし-3"/>。行政言語にペルシア語を用いなかった地域においても、特に南アジアや東南アジアなどにおいて広くペルシア語の影響は認められる。これは、イスラム教が東方へと拡大する際、アラビア語が広まるまでの教育用言語として用いられていたのがペルシア語だったためである。ただしこの借用語には、アラビア語からペルシア語を経由して現地語へと流入したものも非常に多い<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p467-468 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。[[ベンガル語]]のうちイスラム教圏で話されているもの<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p493 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>や[[インドネシア語]]にはこうした借用語が多く存在する<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p495 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。
一方、ペルシア語の長い歴史を反映して、他の言語から多くの語彙を取り入れている。特に[[イスラーム教]]の公用語である[[アラビア語]]から取り入れられた語彙が非常に多い<ref name="名前なし-3"/>。言語改革によってアラビア語からの語彙のいくつかはペルシア語に置き換えられたものの、いまだ多くの借用語が残っている。他にテュルク諸語、[[モンゴル語]]、[[ギリシア語]]、[[フランス語]]、[[英語]]などからも語彙を取り入れている。
=== 日本語との関係 ===
ペルシア語から直接日本語に借用された語は少ないが、ブドウやイチジクのように、ペルシア語から中国語を通じて日本語に入った言葉はいくつかある<ref>『暮らしが分かるアジア読本:イラン』 上岡弘二編 河出書房新社 1999年9月24日 pp. 271-272 ISBN 4309724671</ref>。それよりも多いのが、西洋の言語を経由して借用された語である。ただし、ペルシア語から西洋語に借用される間に[[トルコ語]]・[[アラビア語]]・[[ヒンディー語]]/[[ウルドゥー語]]などを経由している場合が多く、またペルシア語自身がこれらの言語からの借用であることも多いため、どれをペルシア語からの借用語とするか、難しいところがある。たとえば[[タージ・マハル]]がペルシア語とされることもあるが、タージもマハルも本来はアラビア語であり(ただし「タージ」はさらに元を辿るとペルシア語に由来している)、構文的にはヒンディー語/ウルドゥー語とも取れる。また、[[チューリップ]]はトルコ語 {{lang|tr|tülbent}} に由来し、トルコ語はペルシア語 {{lang|fa|دلبند}} {{unicode|dolband}} の借用だが、ペルシア語での意味は「ターバン」であり、ペルシア語でチューリップは {{lang|fa|[[wikt:en:لاله|لاله]]}} {{unicode|lāle}} と呼ぶ。
以下に比較的問題の少ないものをあげる。
* [[カーキ色|カーキ]] خاک xāk
ペルシア語で「土色の」という意味の語が、ウルドゥー語を経由して西洋の言語に入った<ref>『暮らしが分かるアジア読本:イラン』 上岡弘二編 河出書房新社 1999年9月24日 p271 ISBN 4309724671</ref>。
*[[キャビア]] {{lang|fa|[[wikt:en:خاویار|خاویار]]}} {{unicode|xāv(i)yār}}
*[[キャラバン]] {{lang|fa|[[wikt:en:کاروان|کاروان]]}} {{unicode|kārvān}}
*[[シタール]] {{lang|fa|[[wikt:en:سه|سه]]}} {{unicode|se}} (3) + {{lang|fa|[[wikt:en:تار|تار]]}} {{unicode|tār}} (弦)
*[[シャー]] {{lang|fa|[[wikt:en:شاه|شاه]]}} {{unicode|šāh}}
*[[シャーベット]] شربت sharbat もともとアラビア語起源であるが、英語にはペルシア語のシャルバトより入った。本来は、氷を入れて冷やしたシロップ類を意味するが、これが凍らせたものに限定し用いられるようになったとされている<ref>『暮らしが分かるアジア読本:イラン』 上岡弘二編 河出書房新社 1999年9月24日 pp. 267-268 ISBN 4309724671</ref>。
*[[ジャスミン]] {{lang|fa|[[wikt:en:یاس|یاس]]}} {{unicode|yās}}, {{lang|fa|[[wikt:en:ياسمين|یاسمین]]}} {{unicode|yāsamīn}}
*[[ショール]] {{lang|fa||[[wikt:en:شال|شال]]}} {{unicode|šāl}}
*[[チェス]] (英語の chess は check の古い複数形。check は {{lang|fa|شاه}} {{unicode|šāh}} に由来。ペルシア語自身ではチェスのことは {{lang|fa|[[wikt:en:شطرنج|شطرنج]]}} {{unicode|šatranj}} と呼ぶ)
*[[チャードル]] {{lang|fa|[[wikt:en:چادر|چادر]]}} {{unicode|čādor}}
*[[バザール]] {{lang|fa|[[wikt:en:بازار|بازار]]}} {{unicode|bāzār}}
*[[パジャマ]] {{lang|fa|[[wikt:en:پا|پا]]}} {{unicode|pā}}, {{lang|fa|[[wikt:en:پای|پای]]}} {{unicode|pāy}} (足) + {{lang|fa|[[wikt:en:جامه|جامه]]}} {{unicode|jāme}} (衣)
*[[パラダイス]] 古代イラン語のpari-daizaに遡る。pariは「まわりに」、daizaは「(こねるなどして)形作る」という意味である。本来は「周りを粘土や日干しレンガで囲った場所」のことであったが、ギリシャ語に入り「遊楽園、庭園」の意味で用いられ、聖書のギリシャ語訳では「天国」の意味で使用されるようになった<ref>『暮らしが分かるアジア読本:イラン』 上岡弘二編 河出書房新社 1999年9月24日 pp. 269-270 ISBN 4309724671</ref>。
*[[ピスタチオ]] پسته peste 中期ペルシア語ピスタグ(pistag)から来ている<ref name="名前なし-4">『暮らしが分かるアジア読本:イラン』 上岡弘二編 河出書房新社 1999年9月24日 p267 ISBN 4309724671</ref>。
*[[ピラフ]] پلو polow トルコ語を経由して入った。もともとのペルシア語のポローはたき込みご飯のことをいう<ref>『暮らしが分かるアジア読本:イラン』 上岡弘二編 河出書房新社 1999年9月24日 p268 ISBN 4309724671</ref>。
*[[ルーク]] {{lang|fa|[[wikt:en:رخ|رخ]]}} {{unicode|rox}}
*[[レモン]] {{lang|fa|[[wikt:en:لیمو|لیمو]]}} {{unicode|līmū}}, {{lang|fa|[[wikt:en:لیمون|لیمون]]}} {{unicode|līmūn}}
ただし本来はサンスクリット語が起源である。イランを通り、アラビア語を経由しヨーロッパに入ったとされる<ref name="名前なし-4"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ユダヤ・ペルシア語]]([[w:Judeo-Persian|Judeo-Persian]])… イランの[[ユダヤ人]]によって話された言語。
* [[ペルシア文字]]
* [[インド・イラン語派]]
== 外部リンク ==
{{Wikivoyage|Persian_phrasebook|ペルシア語{{en icon}}}}
{{Wikipedia|fa}}
{{Wikibooks|ペルシア語|ペルシア語}}
*[https://web.archive.org/web/20121209222040/http://persianlanguage.ir/ ペルシア語]
*[http://www.humnet.ucla.edu/languagesofla/farsi/farsi.htm Farsi (Persian) in Los Angeles]
* {{Kotobank}}
{{インド・イラン語派}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:へるしあこ}}
[[Category:ペルシア語|*]]
[[Category:イランの言語]]
[[Category:アフガニスタンの言語]]
[[Category:パキスタンの言語]]
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[[Category:インドの言語]]
[[Category:SOV型言語]]
[[Category:方言連続体|へるしあしよこ]]
[[Category:ナスタアリーク体]]
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2003-06-15T15:15:14Z
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2023-11-09T18:09:02Z
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10,065 |
インターナショナル
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インターナショナル(英: international)
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インターナショナル
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'''インターナショナル'''({{lang-en-short|international}})
== 作品名 ==
* [[インターナショナル (歌)]] - 19世紀のフランスで作られた楽曲。有名な革命歌で、万国の労働歌・ソ連の旧国歌となったほか、世界各国で労働者の歌や民主化への歌としての歌詞が存在する
* [[インターナショナル (ビリー・ブラッグのアルバム)]](''The Internationale'')- イギリスのミュージシャン、{{仮リンク|ビリー・ブラッグ|en|Billy Bragg}}のアルバム(1990年)
* [[インターナショナル (2000年の映画)]](原題:The Internationale)- 2000年のアメリカ映画。革命歌「インターナショナル」を主題とした作品[https://www.rottentomatoes.com/m/the_internationale?] → [[インターナショナル (歌)#インターナショナルの登場する作品]]を参照
* [[インターナショナル (ニュー・オーダーのアルバム)]](''International'')- イギリスのバンド、[[ニュー・オーダー]]のベスト・アルバム(2002年)
* {{仮リンク|インターナショナル (2006年の映画)|en|The International (2006 film)}} - 2006年のトルコ映画
* ''The International'' - 2009年のアメリカ映画、邦題は『[[ザ・バンク 堕ちた巨像]]』
* [[ゆとりですがなにか インターナショナル]] - 2023年公開予定の日本映画
== その他 ==
* [[インターナショナル (社会主義)]] - 社会主義運動の国際的組織の通称
* インターナショナル (自動車メーカー) - アメリカの商用車メーカー『[[ナビスター・インターナショナル]]』傘下のトラック部門でのブランド名
** {{仮リンク|インターナショナル・ハーベスター (自動車メーカー)|en|International Harvester}} - 上記トラックメーカーの前身。農耕器具などを製作していたが、トラクター事業から自動車生産に進出。
* [[インターナショナル・ウォッチ・カンパニー]] - [[スイス]]の時計メーカー
== 関連項目 ==
* {{prefixindex}}
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* [[国際社会]]
* [[国際化社会]]
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インター inter- は中、〜間、相互を意味するラテン語の接頭辞であり、インターはその英語読みである。 インテルナツィオナーレ・ミラノ あるいは単に (Inter)
インターナショナル (international) を含む語の略。
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横溝正史
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横溝 正史(よこみぞ せいし、本名: よこみぞ まさし、1902年〈明治35年〉5月24日 - 1981年〈昭和56年〉12月28日)は、日本の推理小説家。戦前にはロマン的な『鬼火』、名探偵・由利麟太郎が活躍する『真珠郎』、戦後には名探偵・金田一耕助を主人公とする『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』などの作品を著した。
当初は筆名は本名読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした。兵庫県神戸市東川崎出身。
横溝は1902年(明治35年)5月24日、兵庫県神戸市東川崎(現・中央区東川崎町)に父・宜一郎、母・波摩の次男として生まれた(三男とする説もある)。父親は岡山県浅口郡船穂町(現・倉敷市)柳井原出身、母親は岡山県窪屋郡清音村柿木(現・総社市清音柿木)出身。翌日の旧暦5月25日が楠木正成の命日にあたることから、「まさし」まで取って命名された。5歳の時に母を亡くし、まもなく父が後妻(正史にとって継母)・浅恵を迎える。
1920年(大正9年)3月、神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業、第一銀行神戸支店に勤務。
1921年、大阪薬学専門学校(大阪大学薬学部の前身校)入学後、雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』が一等を獲得し、賞金10円を得た。これが処女作とみなされている。
1924年、専門学校卒業後、一旦実家の生薬屋「春秋堂」で薬剤師として従事していたが、1926年に江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年に『新青年』の編集長に就任、その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家となる。
1933年(昭和8年)5月上旬に肺結核により大量の喀血を起こし「ヨコセイもどうやら年貢の納め時らしい」と言われるほど危険な状況になり、友人たちの経済的援助もあって1934年(昭和9年)7月下旬に長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所で5年間に渡る療養生活を余儀なくされ、執筆もままならない状態が続く。1日あたり3 - 4枚というペースで書き進めた渾身の一作『鬼火』も当局の検閲により一部削除を命じられる。また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、捕物帳シリーズ等の時代小説執筆に重点を移さざるを得なったが、1938年(昭和13年)から3年以上にわたって連載を続けていた『人形佐七』シリーズも時局の切迫で連載誌の『講談雑誌』から締め出されて一旦終了してしまう。1939年に東京に戻り、太平洋戦争の開戦前後である1941年6月から12月の時期には、横溝唯一の長編家庭小説とされる『雪割草』を地方紙に連載した(#家庭小説の項を参照)。
1945年(昭和20年)4月より3年間、岡山県吉備郡岡田村(のち大備村、真備町を経て、現・倉敷市真備町岡田)に疎開。第二次世界大戦終戦前から、「戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう」と考え、「晴耕雨読で、やがて来たるべき文芸復興の日に備えていた」。そして、終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、本格派推理小説を続々と発表する。1948年、金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』により第1回探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。同作はデビュー後25年目、長編としても8作目にあたるが、自選ベストテンとされるものも含め、代表作と呼ばれるものはほとんどこれ以降(特にこの後数年間)に発表されており、同一ジャンルで書き続けてきた作家としては異例の遅咲き現象である。やや地味なベテランから一挙に乱歩に替わる日本探偵小説界のエース的存在となった。
こうして戦後になって本人なりに文運が開けてきたと思っていた1949年(昭和24年)にふたたび結核が再発し、本人曰く「この時はマイシンという薬がなかったら、私はおそらくあの世とやらに旅立っていた」という危機に陥ったが、前述のようにストレプトマイシンが手に入るようになったため助かり、その後1970年頃までは胸の痼疾に悩まされることがなくなった。
人気が高まる中、骨太な本格派探偵小説以外にも、やや通俗性の強い長編も多く執筆。4誌同時連載を抱えるほどの売れっぷりだったが、1960年代に入り松本清張などによる社会派ミステリーが台頭すると執筆量は急速に減っていった。1964年に『蝙蝠男』を発表後、探偵小説の執筆を停止し、一時は数点の再版や『人形佐七捕物帳』のみが書店に残る存在となっていた。
1968年、講談社の『週刊少年マガジン』誌上で、影丸穣也の作画により漫画化された『八つ墓村』が連載されたことを契機として、注目が集まる。同時に、江戸川乱歩、夢野久作らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、横溝初の全集が講談社より1970年から1976年にかけて刊行された。また、1971年から、『八つ墓村』をはじめとした作品が、角川文庫から刊行され、圧倒的な売れ行きを示し、角川文庫は次々と横溝作品を刊行することになる。少し遅れてオカルトブームもあり、横溝の人気復活もミステリとホラーを融合させた際物的な側面があったが、映画産業への参入を狙っていた角川春樹はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって角川映画の柱とする。
1974年、角川文庫版の著作が、300万部突破。1975年、角川文庫の横溝作品が500万部突破。1976年、角川文庫の横溝作品が1,000万部を突破。1979年、角川文庫横溝作品4,000万部突破。その後横溝が亡くなる1981年までの間に計5,500万冊を売り上げた。1977年には文壇長者番付で第3位となった。
1975年にATGが映画化した『本陣殺人事件』がヒット。翌年の『犬神家の一族』を皮切りとした石坂浩二主演による映画化(「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」参照)、古谷一行主演による毎日放送でのテレビドラマ化(「古谷一行の金田一耕助シリーズ」参照)により、推理小説ファン以外にも広く知られるようになる。作品のほとんどを文庫化した角川はブームに満足はせず、さらなる横溝ワールドの発展を目指す。70歳の坂を越した横溝も、その要請に応えて驚異的な仕事量をこなしていたとされる。1976年1月16日の『朝日新聞』夕刊文化欄に寄稿したエッセイ「クリスティと私」の中で、前年に「田中先生(当時103歳の彫刻家・平櫛田中のこと。別のインタビュー記事では「田中さん」となっている。)には及びもないが、せめてなりたやクリスティ(アガサ・クリスティ)」という戯れ歌を作ったと記している。田中が100歳の誕生日に30年分の木工材料を買い込んだというエピソードを聞いてのものであった。
実際に、この後期の執筆活動により、中絶していた『仮面舞踏会』を完成させ、続いて短編を基にした『迷路荘の惨劇』、金田一耕助最後の事件『病院坂の首縊りの家』、エラリー・クイーンの「村物」に対抗した『悪霊島』と、70代にして4作の大長編を発表している。『仮面舞踏会』は、社会派の影響を受けてか抑制されたリアルなタッチ、続く2作はブームの動向に応えて怪奇色を強調、『悪霊島』は若干の現代色も加えるなど晩年期ですら作風の変換に余念がなかった。また、小林信彦の『横溝正史読本』などのミステリー研究の対象となったのもブームとは無縁ではない。
1976年(昭和51年)勲三等瑞宝章受章。
1981年(昭和56年)12月28日、結腸ガンのため国立病院医療センターで死去した。戒名は清浄心院正覚文道栄達居士。
小学校高学年の頃に世界的な探偵小説(ミステリー)ブームが起き、フランスの小説家、モーリス・ルブランの『古城の秘密』を手始めに探偵小説を読むようになる。神戸二中に進学後は、同じくミステリー好きな同級生・西田徳重と海外のミステリー雑誌を読むため神戸市内の古書店をあちこち巡った。卒業から間もなく徳重が急逝するが、探偵小説を翻訳していた彼の兄・西田政治と親しくなる。
1925年、大阪在住の江戸川乱歩が「探偵趣味の会」を設立すると、西田政治に誘われて加入。以降、乱歩から弟のように可愛がられ、就職を斡旋されるなど、生涯に渡り交流が続いた。
1927年、継母・浅恵の遠縁にあたる女性と結婚し、その後1男2女をもうけた。4歳年下の妻とは、“文壇のおしどり夫婦”として有名だった。妻は結核の持病のある横溝を献身的に支え続け、その後105歳の天寿を全うした。
1927年から1928年9月頃まで月刊誌『新青年』の2代目編集長であった。初代編集長森下雨村より「相棒を探しておくように」と言われ、渡辺温を編集の相棒に指名する。『新青年』は当時の探偵小説文壇のみならず、文化人とクロス・オーバーする存在であり、横溝・渡辺コンビは誌面をモダニズム色強く刷新して行き、この後の新青年の方向性に深い影響を与えている。『新青年』が縁で知り合った乾信一郎とは、1945年から1979年まで三十数年間で272通もの書簡を送るほど親交が深かった。
1934年から5年間に渡る長野での療養生活を終えた後も肺結核の症状は完全には収まらず、仕事が重なった時など時々喀血した。しばらく安静にすると良くなって原稿を書くという生活を送り、74歳頃までこの症状が続いた。
1945年、義理の姉からの勧めに応じて吉祥寺の家を引き払い、両親の出身地に近い岡山県吉備郡岡田村字桜(現・倉敷市真備町岡田)に疎開し、そこで村の親しかった人達から農村の因習や農漁民の生活などの話を聞いて作品の構想をあたため、終戦後、『本陣殺人事件』『獄門島』など岡山を舞台とする作品を執筆した。
横溝の次女によると、「父は日常生活を送りながら頭の中では常に作品のことを考えているような人でした」と回想している。書斎の膨大な資料と共に創作活動を行い、物語の構想や犯罪のトリックなどは頭の中で組み立てた。このため普段は書斎か寝室で独りで食事をとり、家族と一緒に食事をするのは正月ぐらいだった。次女が10代の頃、帰宅後に横溝と散歩に出かけるのが日課だったが、散歩中も脳裏で構想を練っていたため、横溝はいつも無言で歩いたという。執筆に行き詰まった際には編み物をして気分転換をしていた。
温厚で誰に対しても偉ぶることのない人柄はブームの中でも好感を持って迎えられ、また膨大な再刊、映画化が(角川春樹事務所が管理していたとはいえ)ほとんどスルーで実現する現象につながった。多忙期に乱作したような作品も含め片っ端から文庫に収録されるので、心配した友人の西田政治らから忠告を受け、また自身もおいおい気恥ずかしくなって、「ええ加減にしてくださいよ。これ以上出すとおたく(角川文庫)のコケンにかかわりますよ。」と尻込みしたが、角川春樹に押し切られ、その結果、自身が最低と決めつけている作品でも出ると売れたことから、最高と最低を自身で決めることは僭上の沙汰ではないか、読者諸賢の審判を待つべきであると割り切ることにした。
横溝研究の第一人者とされる二松学舎大学の山口直孝教授は、「よく練られた話は、予想できない展開の連続で伏線の張り方も見事。横溝は物語作りの天才でした」と評している。
戦前派探偵小説における唯一の現役小説家であった(しかも晩年に突如空前のブームを迎えた)こともあり、困窮し病に伏した往年の小説家仲間に援助したり、再刊の口利きをしつこく頼んでくる遺族に辛抱強く応対したりする様子も、公刊日記に控えめに記されている。
横溝は閉所恐怖症で、大の電車・飛行機嫌いであった。電車に乗る際は必ず酒の入った水筒を首からさげ、それを飲みながら電車を乗り継いだ。時には妻とともに乗ることもあったが、その際には妻が横溝の手をずっと握っていないとダメだったという。電車・飛行機嫌いの理由の一つに、“閉鎖空間でいつ喀血するか分からない怖さ”もあった。また、喀血だけでなく、血を見ること自体苦手だった。
酒は主に自宅での晩酌を好み、若い頃は毎晩月桂冠を1升飲み、後にウイスキーの水割りを愛飲するようになった。晩年も酒を欠かさず、時折乱れて妻を困惑させるさまは公刊日記にそのまま記されている。
愛煙家で、好きな銘柄はピース。“火を点けて少し吸っては消す”という吸い方で、一日50本以上吸っていた。
無類の愛犬家・愛猫家で、生前飼っていた愛犬には代々「カピ」と命名した。また、『白と黒』などいくつかの作品にもカピという名の犬を登場させている。
プロ野球球団では近鉄バファローズの大ファンであった。
昭和モダニストのたしなみ程度であるがクラシック音楽を好み、他にもシャンソンのレコードをよく聞いていた。『悪魔が来りて笛を吹く』『仮面舞踏会』『蝶々殺人事件』『迷路荘の惨劇』など、クラシック音楽がらみの長編もある。長男の横溝亮一は『東京新聞』記者を経て音楽評論家となり、急逝直前のバス歌手・大橋国一との対談(新版全集収録)は亮一がセッティングした。
岡山県倉敷市真備町にあった疎開宅は、横溝の生誕100年にあたる2002年より「横溝正史疎開宅」として一般公開されている。
東京都世田谷区成城にあった横溝の書斎(1955年(昭和30年)頃建築)は、山梨県山梨市に移築され、2007年(平成19年)3月25日より「横溝正史館」として公開されている。
『仮面舞踏会』などいくつかの作品の舞台に設定した長野県軽井沢町に1959年(昭和34年)から別荘を所有しており、晩年まで毎年のようにそこで夏を過ごし、成城の自宅と共に執筆の拠点でもあった。別荘に遺された小説草稿やノートなどは次女を経て、横溝正史旧蔵資料をコレクションしている二松学舎大学に2021年12月に寄贈された。旧宅や遺品については「所蔵品」節にて後述。
横溝の作品は、編集者と兼業して、あるいは闘病生活と並行して執筆が進められた戦前の作品と、戦時中の抑圧から解放されて精力的に執筆を進めた戦後の作品とに大別することができる。
戦前の作品は華麗な美文調の文体とロマンチシズムの香気に溢れた耽美的な変格物が多い。代表作としては、『鬼火』『面影双紙』『蔵の中』『かいやぐら物語』などの耽美的中短編、江戸川乱歩に「横溝探偵小説の一つの頂点を為すものかも知れない」との賛辞を寄せられた長編『真珠郎』(探偵役は由利麟太郎)などが挙げられる。また、昭和初期に書かれた、洒落た中に一抹の哀愁を湛えた都会派コントの数々は、『新青年』編集長として昭和モダニズムの旗手であった横溝の一面をよく伝えている。
戦後には、従来からの妖美耽異の世界に論理性やトリックを融合させ、『本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』など土俗的な犯罪を描いて独自の領域を切り拓いた。本格的な執筆は、ほぼ同時に雑誌連載された『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』の2編の長編から始まっている。前者は金田一耕助の初登場作品で、第1回探偵作家クラブ賞長編賞受賞作としても知られている。一方の後者は戦前作品からの探偵役である由利麟太郎を登場させ、坂口安吾に世界的レベルの傑作と激賞された終戦直後の純謎解き長編である。
戦後の作品は金田一を探偵役とするものが多くを占めているが、1949年ごろまでは他の人物を探偵役とする作品も多数発表している。長編に限っても『蝶々殺人事件』の他に『びっくり箱殺人事件』『女が見ていた』やジュヴナイル作品の『怪獣男爵』『夜光怪人』があり、『探偵小説』『かめれおん』などの「戦後初期短編」と呼ばれている作品群もある。しかし、金田一ものの代表作とされる作品群がおおむね出揃った1951年ごろからは、捕物帳を除いて専ら金田一を探偵役とするようになり、全く作風の異なる金田一登場作品を同時並行で雑誌連載していたこともある(たとえば悪魔の寵児#概要で言及されている事例)。ただし、ジュヴナイル作品については1953年ごろから中学生向け作品の一部を除いて金田一を登場させずに三津木俊助と御子柴進を探偵役とするように変わっている。
金田一が登場する作品は、長短編あわせて77作(中絶作品・ジュブナイル作品等を除く)が確認されている。探偵・金田一は主に東京周辺を舞台とする事件と、作者の疎開先であった岡山県など地方を舞台にした事件で活躍した(岡山県以外では、作者が戦前に転地療養生活を送り、戦後は別荘を所有していた長野県や、静岡県の事件が多い)。前者には戦後都会の退廃や倒錯的な性、後者には田舎の因習や血縁の因縁を軸としたものが多い。一般的には後者の作品群の方が評価が高いようである(前者は倶楽部雑誌と呼ばれる大衆誌に連載されたものが多く、発表誌の性格上どうしても扇情性が強調されがちである)。外見的には怪奇色が強いが、骨格としては全て論理とトリックを重んじた本格派推理小説で、一部作品で装飾的に用いられるケースを除いて超常現象やオカルティズムは排されている。このような特徴は、彼が敬愛する作家ジョン・ディクスン・カーの影響であるとのこと。また、薬剤師出身であるにもかかわらず、理化学的トリックは意外に少なく、毒殺の比率は高いものの薬名があっさり記述される程度である。
一旦発表した作品を改稿して発表するケースも多かった。通常このような原型作品は忘れられるものであるが、「金田一耕助」シリーズについてはそれらの発掘・刊行も進んでおり、人気の高さが窺える。
戦前作品の都会派コントから続くユーモアのセンスは戦後作品でも健在で、金田一のキャラクターなどに表れている。また、上述の『びっくり箱殺人事件』は今日のバカミスの遠祖ともいうべき全編ドタバタに終始する異色長編である。
創作した探偵役としては、由利、三津木、金田一の他に、人形佐七、お役者文七を主役とする捕物帖のシリーズがある。また、複数作品に登場させたものの3作以上続くシリーズにはならなかった探偵役として、速水健二(『恐るべき四月馬鹿』と『化学教室の怪火』)と星野夏彦&冬彦兄弟(『双生児は踊る』と『双生児は囁く』)がある。
1980年、角川書店の主催による長編推理小説新人賞「横溝正史賞」が開始された(のちに「横溝正史ミステリ大賞」「横溝正史ミステリ&ホラー大賞」と改称)。
2019年以降、イギリスで『本陣殺人事件』と『犬神家の一族』、イタリアで『本陣殺人事件』と『黒猫亭事件』が翻訳出版されており、イギリスでは好評を受け、2021年から2022年にかけて『八つ墓村』と『獄門島』も出版される予定。
横溝が執筆の場に使用していた木造平屋建ての書斎が、2006年5月に横溝の長男亮一から寄贈を受けた山梨市により「横溝正史館」として開館されており、書斎とともに寄贈された自筆の原稿など貴重な品々を含め、約70点の品物が所蔵されている。
2006年6月、東京・世田谷の横溝邸から未発表の短編『霧の夜の出来事』『犬神家の一族』などの生原稿をはじめ、横溝が小説執筆の資料に使っていたと思われる文献など、貴重な所蔵品が発見された。これらの所蔵品や資料は二松学舎大学が保管し、一般公開されることになっており、前述の『雪割草』の掲載媒体や文面を再発見したのも二松学舎大学である。
2020年7月、熊本県出身の作家、乾信一郎が生前に寄贈した1945年から1948年までの4年分の横溝の書簡32通の一部が、熊本市の「くまもと文学・歴史館」の展示会「「新青年」創刊100年 編集長・乾信一郎と横溝正史」で公開された。2020年9月、乾の没後、遺族から遺品の寄贈を受けた同館によって、1948年から1979年までの約30年間に横溝が乾宛に送った240通の書簡が発見された。同館は書簡の調査・整理を進め、2021年7月16日 - 9月23日開催の「没後40年横溝正史展」で公開された。
2022年4月、長野県軽井沢町にある横溝の別荘から、『仮面舞踏会』の草稿に『死仮面』の手直しを加えた原稿用紙を合わせて1000枚以上と、『人形佐七捕物帳』の一部草稿や『悪霊島』の創作ノートなどが発見されたことが公表された。寄贈を受け調査した二松学舎大学の山口直孝教授は「晩年の創作の進め方が分かる貴重な資料」「横溝は(19)64年から10年間、新作を発表していなかったが、その間も創作意欲を持ち続けていたことがわかる」と評価している。また今回、横溝の直筆のものと見られる墨書も見つかった。そこには「論理の骨格に ロマンの肉附けをし 愛情の衣を 着せませう」とあり、彼の作風に関するオリジナルの言葉が記されていた。これらの資料は年内にも一般公開される方針。
岡山県倉敷市の真備ふるさと歴史館に設けられている「横溝正史コーナー」には横溝の書斎が再現されており、そこに家族から寄贈された机やメガネ、ペンなどの遺品が自筆原稿や作品などとともに展示されている。
倉敷市真備町にある横溝正史疎開宅には、横溝と妻の遺品が、石坂浩二や古谷一行など金田一耕助を演じた役者のサイン、写真や資料などとともに展示されている。また、この疎開宅の敷地の一角には横溝の銅像が建てられている。
ここでは、映像化されたことのある作品に限定して列挙する。
ここでは、劇場映画化されたことのある作品に限定して列挙する。
1970年代以降に刊行されたシリーズについては人形佐七捕物帳#シリーズ一覧を参照
東京文芸社から第1期1954年、第2期1955年、第3期1956年に分けて刊行された。刊行以前に広く知られていた作品はおおむね網羅されているが、『不死蝶』『吸血蛾』などが未収録になっている。
東方社から1956年 - 1961年に刊行。
東京文芸社から1958年 - 1961年に刊行。刊行以前に広く知られていた作品はおおむね網羅されているが、『悪魔が来りて笛を吹く』『夜歩く』『女王蜂』『吸血蛾』『華やかな野獣』などが未収録になっている。
東都書房から1965年に刊行。
講談社から1970年に刊行。全10巻。
「全集」を名乗っているが全作品の網羅は目標としていない。たとえば金田一耕助登場作品については、この全集以前に刊行された探偵小説選(1954年版)と推理全集のいずれかに含まれる54作のうち収録されているのは19作である(金田一耕助登場作品の収録は全部で20作)。
講談社から1974年 - 1975年に刊行。全18巻。
旧版に収録された作品を全て収録したうえで追加しているが、やはり網羅は目標としていない。たとえば金田一耕助登場作品については、探偵小説選(1954年版)と推理全集のいずれかに含まれる54作のうち収録されているのは27作である(金田一耕助登場作品の収録は全部で30作)。
東京文芸社から1975年 - 1976年に刊行。主として1954年版に収録されていない作品を収録しているが、一部重複がある。収録作品は全て旧版全集や新版全集に未収録である。
1970年代後半における横溝ブームの中心となった角川文庫の刊行は1971年から1984年にかけて順次進められている。この刊行は、捕物帳などの時代小説を除いて最終的には横溝正史全作品の網羅が目標となり、その中心的存在であった中島河太郎が巻末解説の多くを書いている(後の改版で削除されているものが多い)。すなわち、角川文庫に収録されたのが当時知られていた全作品であると考えてよく、たとえば「金田一耕助登場作品はジュヴナイル作品を除いて77作ある」というのは、角川文庫への収録数である。
この時期の角川文庫には、作者に割り当てられた通番(横溝正史は304)と作者ごとの通番を組み合わせた通番が振られており、横溝正史の場合には304-1から304-71までの71編と、それとは別に304-80から304-95までのジュヴナイル作品16編、それに304-98『シナリオ悪霊島』と304-99『横溝正史読本』を合わせた89編が刊行されている。71編の内訳は、金田一耕助登場作品を含む42編、由利麟太郎&三津木俊助登場作品を含む13編、その他16編である。
89編の多くはKindle版などでしか出版されなくなっている。金田一耕助登場作品を含むものについては、42編のうちの21編に新たに編集した『人面瘡』ISBN 978-4-04-130497-6 を加えた22編を「金田一耕助ファイル」と銘打って紙媒体での出版が継続されている。
「金田一耕助ファイル」設定以降にも1990年代の間に既存89編のうち他の10編(うちジュヴナイル作品2編、その他の金田一耕助登場作品6編)が通常の角川文庫として紙媒体で出版された形跡があるが、再度品切れ状態になっているものが多い。そのほか、ジュヴナイル作品7編が初期の角川スニーカー文庫に新装改訂されて出版されている。2000年代以降には、別の既存版(由利麟太郎ものが比較的多い)を改版して再刊行する例がみられる。
なお、通番「304」を使わなくなった以降に新たに編集して紙媒体で刊行されたものとしては、『人面瘡』のほかエッセイ集や未収録作品集、最近発見された『雪割草』、あるいは人形佐七捕物帳などの傑作選がある。
2018年より「金田一耕助ファイル」以外の作品で杉本一文の絵が描かれた表紙カバーと巻末解説付きにて改版・復刊が始まり、2021年は「没後40年記念」、2022年は「生誕120年記念」と銘打ち、月1 - 2冊ペースで発行されている。
2023年現在ではジュヴナイルと怪獣男爵を含めた金田一耕助シリーズの全編は、角川文庫から展開されている金田一耕助ファイル22冊と同文庫からAmazonで展開されている「金田一耕助シリーズ」28冊(内3冊はエッセイ(21,26))と重複(28))および『金田一耕助の冒険』(旧文庫版1と2の内容を含む)、『怪獣男爵』、柏書房の「横溝正史少年小説コレクション2」(黄金の花びら)(唯一電子版が存在しない)の計50冊を以って全て入手することが可能となっている。
春陽文庫は1974年 - 1975年に「横溝正史長編全集」と銘打って20編を刊行した。しかし、「長編全集」と銘打ちながら代表的な長編はほとんど収録されず、むしろ中短編について金田一耕助登場作品の8割近くを網羅している(詳細は金田一耕助#文庫などへの収録を参照)。20編のうち第2編『蝶々殺人事件』のみが由利麟太郎登場作品を収録しており、他は全て金田一耕助登場作品を収録している。
1996年 - 1998年には「横溝正史長編全集」というシリーズ名を外して「新装版」として改めて刊行された。刊行順序は異なっているが収録作品の組み合わせは同じであり、それに『死仮面』が追加されて21編となった。表題作である『死仮面』は角川文庫刊行に伴う網羅作業の中で発掘された作品で、角川文庫の段階では欠落部分を中島河太郎が補完していたが、その欠落部分が発見されて本来の形としたものに「長編全集」に収録されていなかった『鴉』を合わせて1編としている。
また、春陽文庫は1984年に「人形佐七捕物帳全集」と銘打って14編を刊行している。さらに、春陽文庫を出版している春陽堂書店は、2019年 - 2021年に「完本人形佐七捕物帳」10編を刊行した。
出版芸術社から2006年 - 2007年に刊行。横溝正史は自選作品を何度か挙げているが、そのうち1977年1月16日に「毎日新聞日曜くらぶ」に掲載された「わたしのベスト10」(角川文庫『真説 金田一耕助』 ISBN 4-04-130463-6 に収録)に挙げたものが広く知られており、この自選集もこれによっている。講談社の全集を底本に初出誌と校合してテキストを確定するという方針で編集されている。また、横溝正史とのインタビューに際して製作され「著者公認」とされている、獄門島と鬼首村の地図が本文中に挿入されている。
柏書房は2017年 - 2018年に『横溝正史ミステリ短篇コレクション』6巻、2018年 - 2019年に『由利・三津木探偵小説集成』4巻、2021年に『横溝正史少年小説コレクション』7巻を刊行した。角川文庫収録作品の多くが出版されなくなった状況を受けての刊行であるが、初出または初刊の状態を基準として校訂し直すという方針も強調している。
『横溝正史ミステリ短篇コレクション』は、金田一耕助、由利麟太郎、三津木俊助が登場しない短編作品で、捕物帳などの時代小説でもジュヴナイル作品でもないものを集めている。すなわち、1984年までの角川文庫に収録された作品のうち、
を除いた全作品を、角川文庫と同じ順序(一部に編冊単位の順序が違う部分、ごく一部に編冊内での順序が違う部分がある)に収録し、さらに角川文庫未収録の『湖泥』(金田一耕助登場作品とは別)および『鬼火』の自筆原稿に基づくオリジナル版も収録されている。
『由利・三津木探偵小説集成』は由利麟太郎または三津木俊助が登場する作品を集めている。角川文庫(ジュヴナイル作品以外)に収録された由利&三津木登場作品の全てと、翻案ものという理由で収録されなかった『迷路の三人』 および未完の『神の矢』『模造殺人事件』が収録されており、確認されている全作品(ジュヴナイル作品および『仮面劇場』を長編化する前の原型作品を除く)と考えて良いと思われる。
『横溝正史少年小説コレクション』はジュブナイル作品を集めている。一般にジュブナイル作品は掲載誌が散逸しやすい傾向があり、横溝正史作品についても多数の角川文庫未掲載作品があった。未掲載作品の多くは論創社の『横溝正史探偵小説選』に順次収録されたが、それも含めて再整理し系統的なコレクションとしたものである。初出または初刊を重視する方針から、角川文庫などへの収録に際して金田一ものに改稿された作品は当初の由利&三津木登場作品に戻されている。また、掲載誌の休刊により中断し改めて書き直された作品は両方のバージョンを併録するなど、未完作品や未発表作品も積極的に収録している。
角川文庫では横溝正史作品を網羅的に刊行したが、中断作品はもとより、長編に改稿された元の短編作品が収録されなかった。このうち金田一耕助登場作品については、元となった短編作品の収録を目的として『金田一耕助の帰還』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-117-1、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73262-2)および『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-118-8、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73276-9)が刊行されている。ただし、中絶作品や金田一耕助が登場しない原型作品、『不死蝶』『火の十字架』の原型作品、『迷路荘の怪人』を最終的に『迷路荘の惨劇』とする前の中間段階の作品は収録されていない。
その後も角川文庫に収録されなかった作品の整理が進んでおり、その成果としてカドカワノベルズから1999年に『双生児は囁く』ISBN 978-4-04-788140-2(2005年に文庫化 ISBN 978-4-04-355502-4)、2000年に『喘ぎ泣く死美人』ISBN 978-4-04-788149-5(2006年に文庫化 ISBN 978-4-04-355505-5)が刊行されている。
出版芸術社は2003年 - 2004年に『横溝正史時代小説コレクション』全6巻を伝奇篇3巻と捕物篇3巻という構成で刊行した。伝奇篇は捕物帳ではない時代小説で出版実績の乏しい作品を集めたもので、比較的長い作品が多い。捕物篇のうち2巻は人形佐七捕物帳のうち春陽文庫の「全集」に収録されなかった30作を収録したものである。残る1巻は人形佐七以外の捕物帳を集めたもので、後に人形佐七ものに改稿された作品も含まれる。
さらに出版芸術社は2004年に『横溝正史探偵小説コレクション』3巻を刊行し、2012年に4、5を追加刊行した。2004年刊行の3巻は、角川文庫などへの未収録が多い戦時中や戦後の作品を、おおむね発表時期順に収録したもので、少数の角川文庫所収作品を除いて未収録作品である。金田一ものに改稿された原型作品6作も含まれる。4は後に長編化された原型作品のうち「短編」とは言えない分量がある『迷路荘の怪人』『旋風劇場』を収録している。5は「岡山もの」の短編を集めたもので、『首』の未発表改定増補版を除いて角川文庫所収作品である。
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"text": "横溝 正史(よこみぞ せいし、本名: よこみぞ まさし、1902年〈明治35年〉5月24日 - 1981年〈昭和56年〉12月28日)は、日本の推理小説家。戦前にはロマン的な『鬼火』、名探偵・由利麟太郎が活躍する『真珠郎』、戦後には名探偵・金田一耕助を主人公とする『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』などの作品を著した。",
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"text": "当初は筆名は本名読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした。兵庫県神戸市東川崎出身。",
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"text": "横溝は1902年(明治35年)5月24日、兵庫県神戸市東川崎(現・中央区東川崎町)に父・宜一郎、母・波摩の次男として生まれた(三男とする説もある)。父親は岡山県浅口郡船穂町(現・倉敷市)柳井原出身、母親は岡山県窪屋郡清音村柿木(現・総社市清音柿木)出身。翌日の旧暦5月25日が楠木正成の命日にあたることから、「まさし」まで取って命名された。5歳の時に母を亡くし、まもなく父が後妻(正史にとって継母)・浅恵を迎える。",
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"text": "1920年(大正9年)3月、神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業、第一銀行神戸支店に勤務。",
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"text": "1921年、大阪薬学専門学校(大阪大学薬学部の前身校)入学後、雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』が一等を獲得し、賞金10円を得た。これが処女作とみなされている。",
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"text": "1924年、専門学校卒業後、一旦実家の生薬屋「春秋堂」で薬剤師として従事していたが、1926年に江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年に『新青年』の編集長に就任、その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家となる。",
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"text": "1933年(昭和8年)5月上旬に肺結核により大量の喀血を起こし「ヨコセイもどうやら年貢の納め時らしい」と言われるほど危険な状況になり、友人たちの経済的援助もあって1934年(昭和9年)7月下旬に長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所で5年間に渡る療養生活を余儀なくされ、執筆もままならない状態が続く。1日あたり3 - 4枚というペースで書き進めた渾身の一作『鬼火』も当局の検閲により一部削除を命じられる。また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、捕物帳シリーズ等の時代小説執筆に重点を移さざるを得なったが、1938年(昭和13年)から3年以上にわたって連載を続けていた『人形佐七』シリーズも時局の切迫で連載誌の『講談雑誌』から締め出されて一旦終了してしまう。1939年に東京に戻り、太平洋戦争の開戦前後である1941年6月から12月の時期には、横溝唯一の長編家庭小説とされる『雪割草』を地方紙に連載した(#家庭小説の項を参照)。",
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"text": "1945年(昭和20年)4月より3年間、岡山県吉備郡岡田村(のち大備村、真備町を経て、現・倉敷市真備町岡田)に疎開。第二次世界大戦終戦前から、「戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう」と考え、「晴耕雨読で、やがて来たるべき文芸復興の日に備えていた」。そして、終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、本格派推理小説を続々と発表する。1948年、金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』により第1回探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。同作はデビュー後25年目、長編としても8作目にあたるが、自選ベストテンとされるものも含め、代表作と呼ばれるものはほとんどこれ以降(特にこの後数年間)に発表されており、同一ジャンルで書き続けてきた作家としては異例の遅咲き現象である。やや地味なベテランから一挙に乱歩に替わる日本探偵小説界のエース的存在となった。",
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"text": "こうして戦後になって本人なりに文運が開けてきたと思っていた1949年(昭和24年)にふたたび結核が再発し、本人曰く「この時はマイシンという薬がなかったら、私はおそらくあの世とやらに旅立っていた」という危機に陥ったが、前述のようにストレプトマイシンが手に入るようになったため助かり、その後1970年頃までは胸の痼疾に悩まされることがなくなった。",
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"text": "人気が高まる中、骨太な本格派探偵小説以外にも、やや通俗性の強い長編も多く執筆。4誌同時連載を抱えるほどの売れっぷりだったが、1960年代に入り松本清張などによる社会派ミステリーが台頭すると執筆量は急速に減っていった。1964年に『蝙蝠男』を発表後、探偵小説の執筆を停止し、一時は数点の再版や『人形佐七捕物帳』のみが書店に残る存在となっていた。",
"title": "経歴"
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"text": "1968年、講談社の『週刊少年マガジン』誌上で、影丸穣也の作画により漫画化された『八つ墓村』が連載されたことを契機として、注目が集まる。同時に、江戸川乱歩、夢野久作らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、横溝初の全集が講談社より1970年から1976年にかけて刊行された。また、1971年から、『八つ墓村』をはじめとした作品が、角川文庫から刊行され、圧倒的な売れ行きを示し、角川文庫は次々と横溝作品を刊行することになる。少し遅れてオカルトブームもあり、横溝の人気復活もミステリとホラーを融合させた際物的な側面があったが、映画産業への参入を狙っていた角川春樹はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって角川映画の柱とする。",
"title": "経歴"
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"text": "1974年、角川文庫版の著作が、300万部突破。1975年、角川文庫の横溝作品が500万部突破。1976年、角川文庫の横溝作品が1,000万部を突破。1979年、角川文庫横溝作品4,000万部突破。その後横溝が亡くなる1981年までの間に計5,500万冊を売り上げた。1977年には文壇長者番付で第3位となった。",
"title": "経歴"
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"text": "1975年にATGが映画化した『本陣殺人事件』がヒット。翌年の『犬神家の一族』を皮切りとした石坂浩二主演による映画化(「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」参照)、古谷一行主演による毎日放送でのテレビドラマ化(「古谷一行の金田一耕助シリーズ」参照)により、推理小説ファン以外にも広く知られるようになる。作品のほとんどを文庫化した角川はブームに満足はせず、さらなる横溝ワールドの発展を目指す。70歳の坂を越した横溝も、その要請に応えて驚異的な仕事量をこなしていたとされる。1976年1月16日の『朝日新聞』夕刊文化欄に寄稿したエッセイ「クリスティと私」の中で、前年に「田中先生(当時103歳の彫刻家・平櫛田中のこと。別のインタビュー記事では「田中さん」となっている。)には及びもないが、せめてなりたやクリスティ(アガサ・クリスティ)」という戯れ歌を作ったと記している。田中が100歳の誕生日に30年分の木工材料を買い込んだというエピソードを聞いてのものであった。",
"title": "経歴"
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"text": "実際に、この後期の執筆活動により、中絶していた『仮面舞踏会』を完成させ、続いて短編を基にした『迷路荘の惨劇』、金田一耕助最後の事件『病院坂の首縊りの家』、エラリー・クイーンの「村物」に対抗した『悪霊島』と、70代にして4作の大長編を発表している。『仮面舞踏会』は、社会派の影響を受けてか抑制されたリアルなタッチ、続く2作はブームの動向に応えて怪奇色を強調、『悪霊島』は若干の現代色も加えるなど晩年期ですら作風の変換に余念がなかった。また、小林信彦の『横溝正史読本』などのミステリー研究の対象となったのもブームとは無縁ではない。",
"title": "経歴"
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"text": "1976年(昭和51年)勲三等瑞宝章受章。",
"title": "経歴"
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"text": "1981年(昭和56年)12月28日、結腸ガンのため国立病院医療センターで死去した。戒名は清浄心院正覚文道栄達居士。",
"title": "経歴"
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"text": "小学校高学年の頃に世界的な探偵小説(ミステリー)ブームが起き、フランスの小説家、モーリス・ルブランの『古城の秘密』を手始めに探偵小説を読むようになる。神戸二中に進学後は、同じくミステリー好きな同級生・西田徳重と海外のミステリー雑誌を読むため神戸市内の古書店をあちこち巡った。卒業から間もなく徳重が急逝するが、探偵小説を翻訳していた彼の兄・西田政治と親しくなる。",
"title": "人物"
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"text": "1925年、大阪在住の江戸川乱歩が「探偵趣味の会」を設立すると、西田政治に誘われて加入。以降、乱歩から弟のように可愛がられ、就職を斡旋されるなど、生涯に渡り交流が続いた。",
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"text": "1927年、継母・浅恵の遠縁にあたる女性と結婚し、その後1男2女をもうけた。4歳年下の妻とは、“文壇のおしどり夫婦”として有名だった。妻は結核の持病のある横溝を献身的に支え続け、その後105歳の天寿を全うした。",
"title": "人物"
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"text": "1927年から1928年9月頃まで月刊誌『新青年』の2代目編集長であった。初代編集長森下雨村より「相棒を探しておくように」と言われ、渡辺温を編集の相棒に指名する。『新青年』は当時の探偵小説文壇のみならず、文化人とクロス・オーバーする存在であり、横溝・渡辺コンビは誌面をモダニズム色強く刷新して行き、この後の新青年の方向性に深い影響を与えている。『新青年』が縁で知り合った乾信一郎とは、1945年から1979年まで三十数年間で272通もの書簡を送るほど親交が深かった。",
"title": "人物"
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"text": "1934年から5年間に渡る長野での療養生活を終えた後も肺結核の症状は完全には収まらず、仕事が重なった時など時々喀血した。しばらく安静にすると良くなって原稿を書くという生活を送り、74歳頃までこの症状が続いた。",
"title": "人物"
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"text": "1945年、義理の姉からの勧めに応じて吉祥寺の家を引き払い、両親の出身地に近い岡山県吉備郡岡田村字桜(現・倉敷市真備町岡田)に疎開し、そこで村の親しかった人達から農村の因習や農漁民の生活などの話を聞いて作品の構想をあたため、終戦後、『本陣殺人事件』『獄門島』など岡山を舞台とする作品を執筆した。",
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"text": "横溝の次女によると、「父は日常生活を送りながら頭の中では常に作品のことを考えているような人でした」と回想している。書斎の膨大な資料と共に創作活動を行い、物語の構想や犯罪のトリックなどは頭の中で組み立てた。このため普段は書斎か寝室で独りで食事をとり、家族と一緒に食事をするのは正月ぐらいだった。次女が10代の頃、帰宅後に横溝と散歩に出かけるのが日課だったが、散歩中も脳裏で構想を練っていたため、横溝はいつも無言で歩いたという。執筆に行き詰まった際には編み物をして気分転換をしていた。",
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"text": "温厚で誰に対しても偉ぶることのない人柄はブームの中でも好感を持って迎えられ、また膨大な再刊、映画化が(角川春樹事務所が管理していたとはいえ)ほとんどスルーで実現する現象につながった。多忙期に乱作したような作品も含め片っ端から文庫に収録されるので、心配した友人の西田政治らから忠告を受け、また自身もおいおい気恥ずかしくなって、「ええ加減にしてくださいよ。これ以上出すとおたく(角川文庫)のコケンにかかわりますよ。」と尻込みしたが、角川春樹に押し切られ、その結果、自身が最低と決めつけている作品でも出ると売れたことから、最高と最低を自身で決めることは僭上の沙汰ではないか、読者諸賢の審判を待つべきであると割り切ることにした。",
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"text": "横溝研究の第一人者とされる二松学舎大学の山口直孝教授は、「よく練られた話は、予想できない展開の連続で伏線の張り方も見事。横溝は物語作りの天才でした」と評している。",
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"text": "戦前派探偵小説における唯一の現役小説家であった(しかも晩年に突如空前のブームを迎えた)こともあり、困窮し病に伏した往年の小説家仲間に援助したり、再刊の口利きをしつこく頼んでくる遺族に辛抱強く応対したりする様子も、公刊日記に控えめに記されている。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "横溝は閉所恐怖症で、大の電車・飛行機嫌いであった。電車に乗る際は必ず酒の入った水筒を首からさげ、それを飲みながら電車を乗り継いだ。時には妻とともに乗ることもあったが、その際には妻が横溝の手をずっと握っていないとダメだったという。電車・飛行機嫌いの理由の一つに、“閉鎖空間でいつ喀血するか分からない怖さ”もあった。また、喀血だけでなく、血を見ること自体苦手だった。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "酒は主に自宅での晩酌を好み、若い頃は毎晩月桂冠を1升飲み、後にウイスキーの水割りを愛飲するようになった。晩年も酒を欠かさず、時折乱れて妻を困惑させるさまは公刊日記にそのまま記されている。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "愛煙家で、好きな銘柄はピース。“火を点けて少し吸っては消す”という吸い方で、一日50本以上吸っていた。",
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"text": "無類の愛犬家・愛猫家で、生前飼っていた愛犬には代々「カピ」と命名した。また、『白と黒』などいくつかの作品にもカピという名の犬を登場させている。",
"title": "人物"
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"text": "プロ野球球団では近鉄バファローズの大ファンであった。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "昭和モダニストのたしなみ程度であるがクラシック音楽を好み、他にもシャンソンのレコードをよく聞いていた。『悪魔が来りて笛を吹く』『仮面舞踏会』『蝶々殺人事件』『迷路荘の惨劇』など、クラシック音楽がらみの長編もある。長男の横溝亮一は『東京新聞』記者を経て音楽評論家となり、急逝直前のバス歌手・大橋国一との対談(新版全集収録)は亮一がセッティングした。",
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"text": "岡山県倉敷市真備町にあった疎開宅は、横溝の生誕100年にあたる2002年より「横溝正史疎開宅」として一般公開されている。",
"title": "人物"
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"text": "東京都世田谷区成城にあった横溝の書斎(1955年(昭和30年)頃建築)は、山梨県山梨市に移築され、2007年(平成19年)3月25日より「横溝正史館」として公開されている。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "『仮面舞踏会』などいくつかの作品の舞台に設定した長野県軽井沢町に1959年(昭和34年)から別荘を所有しており、晩年まで毎年のようにそこで夏を過ごし、成城の自宅と共に執筆の拠点でもあった。別荘に遺された小説草稿やノートなどは次女を経て、横溝正史旧蔵資料をコレクションしている二松学舎大学に2021年12月に寄贈された。旧宅や遺品については「所蔵品」節にて後述。",
"title": "人物"
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"text": "横溝の作品は、編集者と兼業して、あるいは闘病生活と並行して執筆が進められた戦前の作品と、戦時中の抑圧から解放されて精力的に執筆を進めた戦後の作品とに大別することができる。",
"title": "解説"
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"text": "戦前の作品は華麗な美文調の文体とロマンチシズムの香気に溢れた耽美的な変格物が多い。代表作としては、『鬼火』『面影双紙』『蔵の中』『かいやぐら物語』などの耽美的中短編、江戸川乱歩に「横溝探偵小説の一つの頂点を為すものかも知れない」との賛辞を寄せられた長編『真珠郎』(探偵役は由利麟太郎)などが挙げられる。また、昭和初期に書かれた、洒落た中に一抹の哀愁を湛えた都会派コントの数々は、『新青年』編集長として昭和モダニズムの旗手であった横溝の一面をよく伝えている。",
"title": "解説"
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"text": "戦後には、従来からの妖美耽異の世界に論理性やトリックを融合させ、『本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』など土俗的な犯罪を描いて独自の領域を切り拓いた。本格的な執筆は、ほぼ同時に雑誌連載された『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』の2編の長編から始まっている。前者は金田一耕助の初登場作品で、第1回探偵作家クラブ賞長編賞受賞作としても知られている。一方の後者は戦前作品からの探偵役である由利麟太郎を登場させ、坂口安吾に世界的レベルの傑作と激賞された終戦直後の純謎解き長編である。",
"title": "解説"
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"text": "戦後の作品は金田一を探偵役とするものが多くを占めているが、1949年ごろまでは他の人物を探偵役とする作品も多数発表している。長編に限っても『蝶々殺人事件』の他に『びっくり箱殺人事件』『女が見ていた』やジュヴナイル作品の『怪獣男爵』『夜光怪人』があり、『探偵小説』『かめれおん』などの「戦後初期短編」と呼ばれている作品群もある。しかし、金田一ものの代表作とされる作品群がおおむね出揃った1951年ごろからは、捕物帳を除いて専ら金田一を探偵役とするようになり、全く作風の異なる金田一登場作品を同時並行で雑誌連載していたこともある(たとえば悪魔の寵児#概要で言及されている事例)。ただし、ジュヴナイル作品については1953年ごろから中学生向け作品の一部を除いて金田一を登場させずに三津木俊助と御子柴進を探偵役とするように変わっている。",
"title": "解説"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "金田一が登場する作品は、長短編あわせて77作(中絶作品・ジュブナイル作品等を除く)が確認されている。探偵・金田一は主に東京周辺を舞台とする事件と、作者の疎開先であった岡山県など地方を舞台にした事件で活躍した(岡山県以外では、作者が戦前に転地療養生活を送り、戦後は別荘を所有していた長野県や、静岡県の事件が多い)。前者には戦後都会の退廃や倒錯的な性、後者には田舎の因習や血縁の因縁を軸としたものが多い。一般的には後者の作品群の方が評価が高いようである(前者は倶楽部雑誌と呼ばれる大衆誌に連載されたものが多く、発表誌の性格上どうしても扇情性が強調されがちである)。外見的には怪奇色が強いが、骨格としては全て論理とトリックを重んじた本格派推理小説で、一部作品で装飾的に用いられるケースを除いて超常現象やオカルティズムは排されている。このような特徴は、彼が敬愛する作家ジョン・ディクスン・カーの影響であるとのこと。また、薬剤師出身であるにもかかわらず、理化学的トリックは意外に少なく、毒殺の比率は高いものの薬名があっさり記述される程度である。",
"title": "解説"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一旦発表した作品を改稿して発表するケースも多かった。通常このような原型作品は忘れられるものであるが、「金田一耕助」シリーズについてはそれらの発掘・刊行も進んでおり、人気の高さが窺える。",
"title": "解説"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "戦前作品の都会派コントから続くユーモアのセンスは戦後作品でも健在で、金田一のキャラクターなどに表れている。また、上述の『びっくり箱殺人事件』は今日のバカミスの遠祖ともいうべき全編ドタバタに終始する異色長編である。",
"title": "解説"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "創作した探偵役としては、由利、三津木、金田一の他に、人形佐七、お役者文七を主役とする捕物帖のシリーズがある。また、複数作品に登場させたものの3作以上続くシリーズにはならなかった探偵役として、速水健二(『恐るべき四月馬鹿』と『化学教室の怪火』)と星野夏彦&冬彦兄弟(『双生児は踊る』と『双生児は囁く』)がある。",
"title": "解説"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1980年、角川書店の主催による長編推理小説新人賞「横溝正史賞」が開始された(のちに「横溝正史ミステリ大賞」「横溝正史ミステリ&ホラー大賞」と改称)。",
"title": "解説"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2019年以降、イギリスで『本陣殺人事件』と『犬神家の一族』、イタリアで『本陣殺人事件』と『黒猫亭事件』が翻訳出版されており、イギリスでは好評を受け、2021年から2022年にかけて『八つ墓村』と『獄門島』も出版される予定。",
"title": "解説"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "横溝が執筆の場に使用していた木造平屋建ての書斎が、2006年5月に横溝の長男亮一から寄贈を受けた山梨市により「横溝正史館」として開館されており、書斎とともに寄贈された自筆の原稿など貴重な品々を含め、約70点の品物が所蔵されている。",
"title": "所蔵品"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2006年6月、東京・世田谷の横溝邸から未発表の短編『霧の夜の出来事』『犬神家の一族』などの生原稿をはじめ、横溝が小説執筆の資料に使っていたと思われる文献など、貴重な所蔵品が発見された。これらの所蔵品や資料は二松学舎大学が保管し、一般公開されることになっており、前述の『雪割草』の掲載媒体や文面を再発見したのも二松学舎大学である。",
"title": "所蔵品"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2020年7月、熊本県出身の作家、乾信一郎が生前に寄贈した1945年から1948年までの4年分の横溝の書簡32通の一部が、熊本市の「くまもと文学・歴史館」の展示会「「新青年」創刊100年 編集長・乾信一郎と横溝正史」で公開された。2020年9月、乾の没後、遺族から遺品の寄贈を受けた同館によって、1948年から1979年までの約30年間に横溝が乾宛に送った240通の書簡が発見された。同館は書簡の調査・整理を進め、2021年7月16日 - 9月23日開催の「没後40年横溝正史展」で公開された。",
"title": "所蔵品"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2022年4月、長野県軽井沢町にある横溝の別荘から、『仮面舞踏会』の草稿に『死仮面』の手直しを加えた原稿用紙を合わせて1000枚以上と、『人形佐七捕物帳』の一部草稿や『悪霊島』の創作ノートなどが発見されたことが公表された。寄贈を受け調査した二松学舎大学の山口直孝教授は「晩年の創作の進め方が分かる貴重な資料」「横溝は(19)64年から10年間、新作を発表していなかったが、その間も創作意欲を持ち続けていたことがわかる」と評価している。また今回、横溝の直筆のものと見られる墨書も見つかった。そこには「論理の骨格に ロマンの肉附けをし 愛情の衣を 着せませう」とあり、彼の作風に関するオリジナルの言葉が記されていた。これらの資料は年内にも一般公開される方針。",
"title": "所蔵品"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "岡山県倉敷市の真備ふるさと歴史館に設けられている「横溝正史コーナー」には横溝の書斎が再現されており、そこに家族から寄贈された机やメガネ、ペンなどの遺品が自筆原稿や作品などとともに展示されている。",
"title": "所蔵品"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "倉敷市真備町にある横溝正史疎開宅には、横溝と妻の遺品が、石坂浩二や古谷一行など金田一耕助を演じた役者のサイン、写真や資料などとともに展示されている。また、この疎開宅の敷地の一角には横溝の銅像が建てられている。",
"title": "所蔵品"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ここでは、映像化されたことのある作品に限定して列挙する。",
"title": "主要作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ここでは、劇場映画化されたことのある作品に限定して列挙する。",
"title": "主要作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1970年代以降に刊行されたシリーズについては人形佐七捕物帳#シリーズ一覧を参照",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "東京文芸社から第1期1954年、第2期1955年、第3期1956年に分けて刊行された。刊行以前に広く知られていた作品はおおむね網羅されているが、『不死蝶』『吸血蛾』などが未収録になっている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "東方社から1956年 - 1961年に刊行。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "東京文芸社から1958年 - 1961年に刊行。刊行以前に広く知られていた作品はおおむね網羅されているが、『悪魔が来りて笛を吹く』『夜歩く』『女王蜂』『吸血蛾』『華やかな野獣』などが未収録になっている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "東都書房から1965年に刊行。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "講談社から1970年に刊行。全10巻。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "「全集」を名乗っているが全作品の網羅は目標としていない。たとえば金田一耕助登場作品については、この全集以前に刊行された探偵小説選(1954年版)と推理全集のいずれかに含まれる54作のうち収録されているのは19作である(金田一耕助登場作品の収録は全部で20作)。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "講談社から1974年 - 1975年に刊行。全18巻。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "旧版に収録された作品を全て収録したうえで追加しているが、やはり網羅は目標としていない。たとえば金田一耕助登場作品については、探偵小説選(1954年版)と推理全集のいずれかに含まれる54作のうち収録されているのは27作である(金田一耕助登場作品の収録は全部で30作)。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "東京文芸社から1975年 - 1976年に刊行。主として1954年版に収録されていない作品を収録しているが、一部重複がある。収録作品は全て旧版全集や新版全集に未収録である。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半における横溝ブームの中心となった角川文庫の刊行は1971年から1984年にかけて順次進められている。この刊行は、捕物帳などの時代小説を除いて最終的には横溝正史全作品の網羅が目標となり、その中心的存在であった中島河太郎が巻末解説の多くを書いている(後の改版で削除されているものが多い)。すなわち、角川文庫に収録されたのが当時知られていた全作品であると考えてよく、たとえば「金田一耕助登場作品はジュヴナイル作品を除いて77作ある」というのは、角川文庫への収録数である。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "この時期の角川文庫には、作者に割り当てられた通番(横溝正史は304)と作者ごとの通番を組み合わせた通番が振られており、横溝正史の場合には304-1から304-71までの71編と、それとは別に304-80から304-95までのジュヴナイル作品16編、それに304-98『シナリオ悪霊島』と304-99『横溝正史読本』を合わせた89編が刊行されている。71編の内訳は、金田一耕助登場作品を含む42編、由利麟太郎&三津木俊助登場作品を含む13編、その他16編である。",
"title": "全集などの作品集"
},
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "89編の多くはKindle版などでしか出版されなくなっている。金田一耕助登場作品を含むものについては、42編のうちの21編に新たに編集した『人面瘡』ISBN 978-4-04-130497-6 を加えた22編を「金田一耕助ファイル」と銘打って紙媒体での出版が継続されている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "「金田一耕助ファイル」設定以降にも1990年代の間に既存89編のうち他の10編(うちジュヴナイル作品2編、その他の金田一耕助登場作品6編)が通常の角川文庫として紙媒体で出版された形跡があるが、再度品切れ状態になっているものが多い。そのほか、ジュヴナイル作品7編が初期の角川スニーカー文庫に新装改訂されて出版されている。2000年代以降には、別の既存版(由利麟太郎ものが比較的多い)を改版して再刊行する例がみられる。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "なお、通番「304」を使わなくなった以降に新たに編集して紙媒体で刊行されたものとしては、『人面瘡』のほかエッセイ集や未収録作品集、最近発見された『雪割草』、あるいは人形佐七捕物帳などの傑作選がある。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2018年より「金田一耕助ファイル」以外の作品で杉本一文の絵が描かれた表紙カバーと巻末解説付きにて改版・復刊が始まり、2021年は「没後40年記念」、2022年は「生誕120年記念」と銘打ち、月1 - 2冊ペースで発行されている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2023年現在ではジュヴナイルと怪獣男爵を含めた金田一耕助シリーズの全編は、角川文庫から展開されている金田一耕助ファイル22冊と同文庫からAmazonで展開されている「金田一耕助シリーズ」28冊(内3冊はエッセイ(21,26))と重複(28))および『金田一耕助の冒険』(旧文庫版1と2の内容を含む)、『怪獣男爵』、柏書房の「横溝正史少年小説コレクション2」(黄金の花びら)(唯一電子版が存在しない)の計50冊を以って全て入手することが可能となっている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "春陽文庫は1974年 - 1975年に「横溝正史長編全集」と銘打って20編を刊行した。しかし、「長編全集」と銘打ちながら代表的な長編はほとんど収録されず、むしろ中短編について金田一耕助登場作品の8割近くを網羅している(詳細は金田一耕助#文庫などへの収録を参照)。20編のうち第2編『蝶々殺人事件』のみが由利麟太郎登場作品を収録しており、他は全て金田一耕助登場作品を収録している。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1996年 - 1998年には「横溝正史長編全集」というシリーズ名を外して「新装版」として改めて刊行された。刊行順序は異なっているが収録作品の組み合わせは同じであり、それに『死仮面』が追加されて21編となった。表題作である『死仮面』は角川文庫刊行に伴う網羅作業の中で発掘された作品で、角川文庫の段階では欠落部分を中島河太郎が補完していたが、その欠落部分が発見されて本来の形としたものに「長編全集」に収録されていなかった『鴉』を合わせて1編としている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "また、春陽文庫は1984年に「人形佐七捕物帳全集」と銘打って14編を刊行している。さらに、春陽文庫を出版している春陽堂書店は、2019年 - 2021年に「完本人形佐七捕物帳」10編を刊行した。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "出版芸術社から2006年 - 2007年に刊行。横溝正史は自選作品を何度か挙げているが、そのうち1977年1月16日に「毎日新聞日曜くらぶ」に掲載された「わたしのベスト10」(角川文庫『真説 金田一耕助』 ISBN 4-04-130463-6 に収録)に挙げたものが広く知られており、この自選集もこれによっている。講談社の全集を底本に初出誌と校合してテキストを確定するという方針で編集されている。また、横溝正史とのインタビューに際して製作され「著者公認」とされている、獄門島と鬼首村の地図が本文中に挿入されている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "柏書房は2017年 - 2018年に『横溝正史ミステリ短篇コレクション』6巻、2018年 - 2019年に『由利・三津木探偵小説集成』4巻、2021年に『横溝正史少年小説コレクション』7巻を刊行した。角川文庫収録作品の多くが出版されなくなった状況を受けての刊行であるが、初出または初刊の状態を基準として校訂し直すという方針も強調している。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "『横溝正史ミステリ短篇コレクション』は、金田一耕助、由利麟太郎、三津木俊助が登場しない短編作品で、捕物帳などの時代小説でもジュヴナイル作品でもないものを集めている。すなわち、1984年までの角川文庫に収録された作品のうち、",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "を除いた全作品を、角川文庫と同じ順序(一部に編冊単位の順序が違う部分、ごく一部に編冊内での順序が違う部分がある)に収録し、さらに角川文庫未収録の『湖泥』(金田一耕助登場作品とは別)および『鬼火』の自筆原稿に基づくオリジナル版も収録されている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "『由利・三津木探偵小説集成』は由利麟太郎または三津木俊助が登場する作品を集めている。角川文庫(ジュヴナイル作品以外)に収録された由利&三津木登場作品の全てと、翻案ものという理由で収録されなかった『迷路の三人』 および未完の『神の矢』『模造殺人事件』が収録されており、確認されている全作品(ジュヴナイル作品および『仮面劇場』を長編化する前の原型作品を除く)と考えて良いと思われる。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "『横溝正史少年小説コレクション』はジュブナイル作品を集めている。一般にジュブナイル作品は掲載誌が散逸しやすい傾向があり、横溝正史作品についても多数の角川文庫未掲載作品があった。未掲載作品の多くは論創社の『横溝正史探偵小説選』に順次収録されたが、それも含めて再整理し系統的なコレクションとしたものである。初出または初刊を重視する方針から、角川文庫などへの収録に際して金田一ものに改稿された作品は当初の由利&三津木登場作品に戻されている。また、掲載誌の休刊により中断し改めて書き直された作品は両方のバージョンを併録するなど、未完作品や未発表作品も積極的に収録している。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "角川文庫では横溝正史作品を網羅的に刊行したが、中断作品はもとより、長編に改稿された元の短編作品が収録されなかった。このうち金田一耕助登場作品については、元となった短編作品の収録を目的として『金田一耕助の帰還』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-117-1、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73262-2)および『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-118-8、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73276-9)が刊行されている。ただし、中絶作品や金田一耕助が登場しない原型作品、『不死蝶』『火の十字架』の原型作品、『迷路荘の怪人』を最終的に『迷路荘の惨劇』とする前の中間段階の作品は収録されていない。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "その後も角川文庫に収録されなかった作品の整理が進んでおり、その成果としてカドカワノベルズから1999年に『双生児は囁く』ISBN 978-4-04-788140-2(2005年に文庫化 ISBN 978-4-04-355502-4)、2000年に『喘ぎ泣く死美人』ISBN 978-4-04-788149-5(2006年に文庫化 ISBN 978-4-04-355505-5)が刊行されている。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "出版芸術社は2003年 - 2004年に『横溝正史時代小説コレクション』全6巻を伝奇篇3巻と捕物篇3巻という構成で刊行した。伝奇篇は捕物帳ではない時代小説で出版実績の乏しい作品を集めたもので、比較的長い作品が多い。捕物篇のうち2巻は人形佐七捕物帳のうち春陽文庫の「全集」に収録されなかった30作を収録したものである。残る1巻は人形佐七以外の捕物帳を集めたもので、後に人形佐七ものに改稿された作品も含まれる。",
"title": "全集などの作品集"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "さらに出版芸術社は2004年に『横溝正史探偵小説コレクション』3巻を刊行し、2012年に4、5を追加刊行した。2004年刊行の3巻は、角川文庫などへの未収録が多い戦時中や戦後の作品を、おおむね発表時期順に収録したもので、少数の角川文庫所収作品を除いて未収録作品である。金田一ものに改稿された原型作品6作も含まれる。4は後に長編化された原型作品のうち「短編」とは言えない分量がある『迷路荘の怪人』『旋風劇場』を収録している。5は「岡山もの」の短編を集めたもので、『首』の未発表改定増補版を除いて角川文庫所収作品である。",
"title": "全集などの作品集"
}
] |
横溝 正史は、日本の推理小説家。戦前にはロマン的な『鬼火』、名探偵・由利麟太郎が活躍する『真珠郎』、戦後には名探偵・金田一耕助を主人公とする『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』などの作品を著した。 当初は筆名は本名読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした。兵庫県神戸市東川崎出身。
|
{{Infobox 作家
|name={{ruby|横溝|よこみぞ}} {{ruby|正史|せいし}}
|image=Masashi Yokomizo.jpg
|imagesize=250px
|caption=<small>世界社『富士』第5号(1952年)より</small>
|pseudonym=
|birth_name=横溝 正史 (よこみぞ まさし)
|birth_date=[[1902年]][[5月24日]]
|birth_place={{JPN}} [[兵庫県]][[神戸市]]東川崎
|death_date={{死亡年月日と没年齢|1902|5|24|1981|12|28}}
|death_place={{JPN}} [[東京都]][[新宿区]][[戸山 (新宿区)|戸山]]
|resting_place=春秋苑墓地([[神奈川県]][[川崎市]])
|occupation=[[作家]]
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|nationality={{JPN}}
|education=[[旧制専門学校]]<ref group="注">大阪薬専は3年制で専攻科もなかったので、薬学[[得業士]]の称号は有さないと思われる。</ref>
|alma_mater=[[大阪薬学専門学校 (旧制)|大阪薬学専門学校]]
|period=1921年 - 1981年
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|subject=
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|notable_works=『[[本陣殺人事件]]』(1946年)<br>『[[蝶々殺人事件]]』(1946年)<br>『[[獄門島]]』(1947年)<br>『[[八つ墓村]]』(1949年)<br>『[[犬神家の一族]]』(1950年)<br>『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』(1951年)<br />『[[悪魔の手毬唄]]』(1957年)
|awards=[[探偵作家クラブ賞]]長編賞受賞(1948年)<br>[[勲三等瑞宝章]]受章(1976年)
|debut_works=『[[恐ろしき四月馬鹿]]』(1921年)
|spouse=
|partner=
|children=
|relations=
|influences=
|influenced=
|signature=
|website=
<!--|footnotes=-->
}}
[[ファイル:Yokomizo-seitan3479.JPG|thumb|240px|生誕碑]]
{{読み仮名_ruby不使用|'''横溝 正史'''|よこみぞ せいし|本名: よこみぞ まさし、[[1902年]]〈[[明治]]35年〉[[5月24日]] - [[1981年]]〈[[昭和]]56年〉[[12月28日]]}}は、[[日本]]の[[推理作家|推理小説家]]。戦前には[[ロマン主義|ロマン的]]な『[[鬼火 (横溝正史)|鬼火]]』、名探偵・[[由利麟太郎]]が活躍する『[[真珠郎]]』、戦後には名探偵・[[金田一耕助]]を主人公とする『[[獄門島]]』『[[八つ墓村]]』『[[犬神家の一族]]』などの作品を著した。
当初は筆名は本名読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした<ref>{{Cite web|和書|date=2011-07-11 |url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/604 |title=昭和随一の流行作家は超遅咲き 横溝正史 |publisher=本の話WEB |accessdate=2016-06-12}}</ref>。[[兵庫県]][[神戸市]][[東川崎町|東川崎]]出身<ref name="dokuhon">小林信彦編『横溝正史読本』(角川文庫、2008年改版)「年譜」参照。</ref>。
== 経歴 ==
横溝は[[1902年]]([[明治]]35年)[[5月24日]]、兵庫県神戸市東川崎(現・[[中央区 (神戸市)|中央区]][[東川崎町]])に父・宜一郎、母・波摩の次男として生まれた<ref name=" 週刊現代2022 ">『[[週刊現代]]』2022年6月11日・18日号「昭和の怪物」研究・横溝正史「人の心の闇を見つめて」p173-180</ref>(三男とする説もある)。父親は[[岡山県]][[浅口郡]][[船穂町]](現・[[倉敷市]])柳井原出身、母親は岡山県[[窪屋郡]][[清音村]]柿木{{Efn2|「柿木」は「かきのき」と読む<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=33&city=1334281&id=128118&merge=2|title=柿木の郵便番号|website=日本郵便|publisher=[[日本郵便|日本郵便株式会社]]|accessdate=2023-06-09}}</ref>。『横溝正史の世界』には「柿の木」と記載されている<ref name="書かでもの記">{{Cite book|和書| author = 横溝正史 | editor = 日下三蔵 | title = 横溝正史エッセイコレクション2 横溝正史の世界 横溝正史読本 | quote = 『横溝正史の世界』 「書かでもの記」 | page=43 | publisher = 柏書房株式会社| date = 2022-06-05}}</ref>。生薬屋の注釈で後述するように、[[総社町 (岡山県)|総社町]]を中心に、[[真備町]]岡田や[[清音村]]あたりまで「備中売薬」という[[配置販売業|置き薬]]が盛んな地で、かつては「日本五大売薬」に挙げられる時代もあった<ref>{{Cite journal|和書|author=幸田浩文 |date=2021-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1060/00012264/ |title=備中売薬と11代万代常閑 -江戸時代中期から幕末まで- |journal=経営論集 |ISSN=0286-6439 |publisher=東洋大学経営学部 |volume=97 |pages=1-15 |naid=120007026170 |CRID=1050006363687240960}}</ref>。}}(現・[[総社市]]清音柿木)出身。翌日の[[5月25日 (旧暦)|旧暦5月25日]]が[[楠木正成]]の命日にあたることから、「まさし」まで取って命名された<ref group="注">世界社『富士』第5号(1952年)より。なお、該当記事には誕生日を1日ずらして5月25日としている。</ref>。5歳の時に母を亡くし、まもなく父が後妻(正史にとって継母)・浅恵を迎える<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
[[1920年]]([[大正]]9年)3月、神戸二中(現・[[兵庫県立兵庫高等学校]])を卒業、[[第一銀行]]神戸支店に勤務。
[[1921年]]、[[大阪薬学専門学校 (旧制)|大阪薬学専門学校]]([[大阪大学]]薬学部の前身校)入学後、雑誌『[[新青年 (日本)|新青年]]』の懸賞に応募した『[[恐ろしき四月馬鹿]]([[エイプリル・フール]])』が一等を獲得し、賞金10円を得た<ref name=" 週刊現代2022 "/>。これが処女作とみなされている。
[[1924年]]、専門学校卒業後、一旦実家の[[生薬]]屋「春秋堂」で[[薬剤師]]として従事していたが{{Efn2|生薬屋は母親が営んでいたもので、母親の生家の柿木は[[総社町 (岡山県)|総社]]に近く、その辺一帯が置き薬の製造販売が盛んな地であったことから、母親の生家もそれに関係していたのではないかというのが、横溝の長女・宣子の説である<ref name=" 書かでもの記 "/>。}}、[[1926年]]に[[江戸川乱歩]]の招きに応じて上京、[[博文館]]に入社する。[[1927年]]に『新青年』の編集長に就任、その後も『[[文芸倶楽部]]』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、[[1932年]]に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家となる。
1933年([[昭和]]8年)5月上旬に[[肺結核]]により大量の[[喀血]]を起こし「ヨコセイもどうやら年貢の納め時らしい」と言われるほど危険な状況になり、友人たちの経済的援助もあって<ref>横井司 編『横溝正史探偵小説選3』論創社、2008年。ISBN 978-4-8460-0734-8、p.596「佐七誕生記」(『探偵作家クラブ会報』1948年11月号(通巻30号))・609-610「私の捕物帳縁起」(『推理文学』1971年4月号(通巻6号))。</ref>[[1934年]](昭和9年)7月下旬に[[長野県]][[八ヶ岳]]山麓の[[富士見高原病院|富士見高原療養所]]で5年間に渡る療養生活を余儀なくされ<ref name=" 週刊現代2022 "/>、執筆もままならない状態が続く。1日あたり3 - 4枚というペースで書き進めた渾身の一作『[[鬼火 (横溝正史)|鬼火]]』も当局の[[日本における検閲|検閲]]により一部削除を命じられる。また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、捕物帳シリーズ等の[[時代小説]]執筆に重点を移さざるを得なったが<ref name=" 週刊現代2022 "/>、1938年(昭和13年)から3年以上にわたって連載を続けていた『人形佐七』シリーズも時局の切迫で連載誌の『講談雑誌』から締め出されて一旦終了してしまう<ref group="注">この時の規制は連載のみで単行本化はできたので本人によるとこの方の[[印税]]で終戦まで食いつなげたという。</ref><ref>横井司 編『横溝正史探偵小説選3』論創社、2008年。ISBN 978-4-8460-0734-8、p.606-607「佐七誕生記」</ref>。[[1939年]]に東京に戻り、[[太平洋戦争]]の開戦前後である[[1941年]]6月から12月の時期には、横溝唯一の長編家庭小説とされる『雪割草』を地方紙に連載した([[#家庭小説]]の項を参照)。
[[1945年]](昭和20年)4月{{Efn2|『金田一耕助のモノローグ』には「4月の終わりか5月上旬のことであったろう」と記載されている<ref>『金田一耕助のモノローグ』(横溝正史著・[[角川文庫]]、1993年)25ページ。</ref>。}}より3年間、岡山県[[吉備郡]][[岡田村 (岡山県)|岡田村]](のち[[大備村]]、[[真備町]]を経て、現・[[倉敷市]]真備町岡田)に[[疎開]]。[[第二次世界大戦]]終戦前から、「戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう」と考え、「晴耕雨読で、やがて来たるべき文芸復興の日に備えていた」<ref>横溝正史『<small>真説</small> 金田一耕助』(角川文庫、1979年) 「「本陣殺人事件」由来I」参照。</ref>。そして、終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、[[本格派推理小説]]を続々と発表する。[[1948年]]、[[金田一耕助]]が初登場する『[[本陣殺人事件]]』により第1回探偵作家クラブ賞(後の[[日本推理作家協会賞]])長編賞を受賞。同作はデビュー後25年目、長編としても8作目にあたるが、自選ベストテンとされるものも含め、代表作と呼ばれるものはほとんどこれ以降(特にこの後数年間)に発表されており、同一ジャンルで書き続けてきた作家としては異例の遅咲き現象である。やや地味なベテランから一挙に乱歩に替わる日本探偵小説界のエース的存在となった。
こうして戦後になって本人なりに文運が開けてきたと思っていた1949年(昭和24年)にふたたび結核が再発し、本人曰く「この時はマイシンという薬がなかったら、私はおそらくあの世とやらに旅立っていた」という危機に陥ったが、前述のように[[ストレプトマイシン]]が手に入るようになったため助かり、その後1970年頃までは胸の痼疾に悩まされることがなくなった<ref>横井司 編『横溝正史探偵小説選3』論創社、2008年。ISBN 978-4-8460-0734-8、p.546「還暦感あり」(『信濃毎日新聞』1962年6月15日付)・604「探偵小説五十年」(『新刊ニュース』1972年10月15日号(通巻252号))</ref>。
人気が高まる中、骨太な本格派探偵小説以外にも、やや通俗性の強い長編も多く執筆。4誌同時連載を抱えるほどの売れっぷりだったが、1960年代に入り[[松本清張]]などによる[[社会派推理小説|社会派ミステリー]]が台頭すると執筆量は急速に減っていった<ref group="注">清張と正史のお互いに対する考えは、「[[松本清張#推理作家]]」の横溝正史に関する記述を参照。</ref>。[[1964年]]に『蝙蝠男』を発表後、探偵小説の執筆を停止し<ref name="dokuhon" />、一時は数点の再版や『[[人形佐七捕物帳]]』のみが書店に残る存在となっていた。
[[1968年]]、[[講談社]]の『[[週刊少年マガジン]]』誌上で、[[影丸穣也]]の作画により漫画化された『[[八つ墓村]]』が連載されたことを契機として、注目が集まる<ref name=" 週刊現代2022 "/>。同時に、江戸川乱歩、[[夢野久作]]らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、横溝初の[[全集]]が講談社より[[1970年]]から[[1976年]]にかけて刊行された。また、[[1971年]]から、『八つ墓村』をはじめとした作品が、[[角川文庫]]から刊行され、圧倒的な売れ行きを示し、角川文庫は次々と横溝作品を刊行することになる。少し遅れて[[オカルトブーム]]もあり、横溝の人気復活も[[ミステリ]]とホラーを融合させた際物的な側面があったが<ref group="注">実際には横溝は超常現象的な内容はほとんど書かない。角川文庫収録作品では話の端的にのせられた短編を除くと『髑髏検校』に例外的に妖怪が登場する。</ref>、[[映画産業]]への参入を狙っていた[[角川春樹]]はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって[[角川映画]]の柱とする。
[[1974年]]、角川文庫版の著作が、300万部突破。[[1975年]]、角川文庫の横溝作品が500万部突破。1976年、角川文庫の横溝作品が1,000万部を突破。[[1979年]]、角川文庫横溝作品4,000万部突破。その後横溝が亡くなる1981年までの間に計5,500万冊を売り上げた<ref name=" 週刊現代2022 "/>。[[1977年]]には文壇長者番付で第3位となった<ref name="真説">{{Cite book|和書| author = 横溝正史 | editor = 日下三蔵 | title = 横溝正史エッセイコレクション3 真説 金田一耕助 金田一耕助のモノローグ | quote = 『真説 金田一耕助』 「付・昭和五十一年八月二十二日 ~ 昭和五十二年八月二十日の日記抄」より、昭和五十二年五月一日 | page=213 | publisher = 柏書房株式会社| date = 2022-06-05}}</ref>{{Efn2|第1位は[[松本清張]]、第5位は[[森村誠一]]、第10位が[[高木彬光]]であった<ref name="真説"/>。}}。
1975年に[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]が映画化した『本陣殺人事件』がヒット{{refnest|group=注|封切り初日に、プロデューサーの[[葛井欣士郎]]から作者に「先生、ヒットです、ヒットです。あまりの観客にドアがしまらないくらいです。」と電話があり、京都でもヒットしていると監督の[[高林陽一]]から電話があった<ref>『<small>真説</small> 金田一耕助』(横溝正史著、角川文庫、1979年)「小説と映画 I」参照。</ref>。}}。翌年の『[[犬神家の一族]]』を皮切りとした[[石坂浩二]]主演による映画化(「[[石坂浩二の金田一耕助シリーズ]]」参照)、[[古谷一行]]主演による[[毎日放送]]での[[テレビドラマ]]化(「[[古谷一行の金田一耕助シリーズ]]」参照)により、推理小説ファン以外にも広く知られるようになる。作品のほとんどを文庫化した角川はブームに満足はせず、さらなる横溝ワールドの発展を目指す。70歳の坂を越した横溝も、その要請に応えて驚異的な仕事量をこなしていたとされる。1976年1月16日の『[[朝日新聞]]』[[夕刊]]文化欄に寄稿した[[エッセイ]]「クリスティと私」の中で、前年に「田中先生(当時103歳の彫刻家・[[平櫛田中]]のこと。別のインタビュー記事では「田中さん」となっている。)には及びもないが、せめてなりたやクリスティ([[アガサ・クリスティ]])」という戯れ歌を作ったと記している。田中が100歳の誕生日に30年分の木工材料を買い込んだというエピソードを聞いてのものであった。
実際に、この後期の執筆活動により、中絶していた『[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]』を完成させ、続いて短編を基にした『[[迷路荘の惨劇]]』、金田一耕助最後の事件『[[病院坂の首縊りの家]]』、[[エラリー・クイーン]]の「[[ライツヴィル#ライツヴィルシリーズ|村物]]」に対抗した『[[悪霊島]]』と、70代にして4作の大長編を発表している。『仮面舞踏会』は、社会派の影響を受けてか抑制されたリアルなタッチ、続く2作はブームの動向に応えて怪奇色を強調、『悪霊島』は若干の現代色も加えるなど晩年期ですら作風の変換に余念がなかった<ref group="注">この4作は、長野県、[[静岡県]]、東京都、岡山県と、横溝が好んで舞台にした4つの都県を一巡している。</ref>。また、[[小林信彦]]の『横溝正史読本』などのミステリー研究の対象となったのもブームとは無縁ではない。
1976年(昭和51年)[[勲三等瑞宝章]]受章<ref>横溝正史『<small>真説</small> 金田一耕助』(角川文庫、1979年)「勲章を貰う話」参照。</ref>。
[[1981年]](昭和56年)[[12月28日]]、[[大腸癌|結腸ガン]]のため[[国立国際医療研究センター|国立病院医療センター]]で死去した。[[戒名]]は清浄心院正覚文道栄達居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』([[東京堂出版]]、1997年)351頁</ref>。
== 人物 ==
[[File:Seishi Yokomizo and Ranpo Edogawa2.jpg|thumb|240px|[[江戸川乱歩]]が西田政治を連れて岡山の疎開宅へ横溝を訪ねてきたときの写真([[横溝正史疎開宅]]にて)]]
小学校高学年の頃に世界的な探偵小説(ミステリー)ブームが起き、フランスの小説家、[[モーリス・ルブラン]]の『[[813 (小説)|古城の秘密]]』{{Efn2|『古城の秘密』は『[[813 (小説)|813]]』の翻案作品で、1912年([[大正]]元年)11月15日武侠世界社から出版された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.justice.co.jp/museum/ref_sakuhin_dtl.php?SerialNo=0056|title=作品しょうかい 作品の名前 (武侠探偵小説)古城の秘密|website=子どもの本 いま・むかし 大阪国際児童文学振興財団デジタル・ミュージアム|publisher=一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団|accessdate =2023-10-08}}</ref>。}}を手始めに探偵小説を読むようになる<ref name=" 週刊現代2022 "/>。神戸二中に進学後は、同じくミステリー好きな同級生・西田徳重と海外のミステリー雑誌を読むため神戸市内の古書店をあちこち巡った。卒業から間もなく徳重が急逝するが、探偵小説を翻訳していた彼の兄・西田政治と親しくなる。
1925年、大阪在住の江戸川乱歩が「[[探偵趣味の会]]」を設立すると、西田政治に誘われて加入。以降、乱歩から弟のように可愛がられ、就職を斡旋される<ref group="注">具体的には、乱歩が1925年末に東京に引っ越し、翌1926年に横溝のもとに「トモカク スグコイ」と電報が届いた。乱歩の身を案じて慌てて東京に駆けつけると、「君の顔が見たかっただけ」と告げられ拍子抜けした。乱歩は冗談のつもりだったが反省し、正史を大手出版社・博文館に編集者として就職させた。</ref>など、生涯に渡り交流が続いた。
1927年、継母・浅恵の遠縁にあたる女性と結婚し、その後1男2女をもうけた<ref name=" 週刊現代2022 "/>。4歳年下の妻とは、“文壇のおしどり夫婦”として有名だった<ref name=" 週刊現代2022 "/>。妻は結核の持病のある横溝を献身的に支え続け、その後105歳の天寿を全うした<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
1927年から1928年9月頃まで月刊誌『[[新青年 (日本)|新青年]]』の2代目編集長であった。初代編集長[[森下雨村]]より「相棒を探しておくように」と言われ、[[渡辺温]]を編集の相棒に指名する。『新青年』は当時の探偵小説文壇のみならず、文化人とクロス・オーバーする存在であり、横溝・渡辺コンビは誌面をモダニズム色強く刷新して行き、この後の新青年の方向性に深い影響を与えている。『新青年』が縁で知り合った[[乾信一郎]]とは、1945年から1979年まで三十数年間で272通もの書簡を送るほど親交が深かった{{refnest|group=注|乾は生前に1945年から1948年までの4年分の横溝の書簡32通を熊本市の「[[熊本県立図書館#くまもと文学・歴史館(旧:熊本近代文学館)|くまもと文学・歴史館]]」に寄贈した。さらに乾の没後、遺族から遺品の寄贈を受けた同館は、その中から横溝が乾に宛てた書簡240通を発見した<ref name="mainichi">[https://mainichi.jp/articles/20200912/ddm/012/040/104000c 横溝正史「弟分」に手紙240通 筆が進まぬ様子などつづる くまもと文学・歴史館]『[[毎日新聞]]』朝刊2020年9月12日</ref>。}}。
1934年から5年間に渡る[[長野県|長野]]での療養生活を終えた後も[[肺結核]]の症状は完全には収まらず、仕事が重なった時など時々喀血した。しばらく安静にすると良くなって原稿を書くという生活を送り、74歳頃までこの症状が続いた<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
1945年、義理の姉からの勧めに応じて[[吉祥寺]]の家を引き払い、両親の出身地に近い[[岡山県]][[吉備郡]]岡田村字桜(現・[[倉敷市]][[真備町]]岡田)に[[疎開]]し<ref>{{Cite book|和書| author = 横溝正史 | title = 金田一耕助のモノローグ | pages=8-25 | publisher = [[角川書店]] | series = [[角川文庫]] | date = 1993-11-10}}</ref>、そこで村の親しかった人達から農村の因習や農漁民の生活などの話を聞いて作品の構想をあたため、終戦後、『[[本陣殺人事件]]』『[[獄門島]]』など岡山を舞台とする作品を執筆した<ref name="文化振興課">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kurashiki.okayama.jp/9534.htm|title=横溝正史疎開宅|website=倉敷市 文化産業局 文化観光部 文化振興課|publisher=倉敷市|accessdate=2023-12-17}}</ref>。
横溝の次女によると、「父は日常生活を送りながら頭の中では常に作品のことを考えているような人でした」と回想している<ref name=" 週刊現代2022 "/>。書斎の膨大な資料と共に創作活動を行い、物語の構想や犯罪のトリックなどは頭の中で組み立てた<ref name=" 週刊現代2022 "/>。このため普段は書斎か寝室で独りで食事をとり、家族と一緒に食事をするのは正月ぐらいだった<ref name=" 週刊現代2022 "/>。次女が10代の頃、帰宅後に横溝と散歩に出かけるのが日課だったが、散歩中も脳裏で構想を練っていたため、横溝はいつも無言で歩いたという<ref name=" 週刊現代2022 "/>。執筆に行き詰まった際には[[編み物]]をして気分転換をしていた<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
温厚で誰に対しても偉ぶることのない人柄はブームの中でも好感を持って迎えられ、また膨大な再刊、映画化が([[角川春樹事務所]]が管理していたとはいえ)ほとんどスルーで実現する現象につながった。多忙期に乱作したような作品も含め片っ端から文庫に収録されるので、心配した友人の[[西田政治]]らから忠告を受け、また自身もおいおい気恥ずかしくなって、「ええ加減にしてくださいよ。これ以上出すとおたく(角川文庫)のコケンにかかわりますよ。」と尻込みしたが、角川春樹に押し切られ、その結果、自身が最低と決めつけている作品でも出ると売れたことから、最高と最低を自身で決めることは僭上の沙汰ではないか、読者諸賢の審判を待つべきであると割り切ることにした<ref>横溝正史『<small>真説</small> 金田一耕助』(角川文庫、1979年)「最高と最低」参照。</ref>。
横溝研究の第一人者とされる[[二松學舍大学|二松学舎大学]]の山口直孝教授は、「よく練られた話は、予想できない展開の連続で伏線の張り方も見事。横溝は物語作りの天才でした」と評している<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
戦前派探偵小説における唯一の現役小説家であった(しかも晩年に突如空前のブームを迎えた)こともあり、困窮し病に伏した往年の小説家仲間に援助したり、再刊の口利きをしつこく頼んでくる遺族に辛抱強く応対したりする様子も、公刊日記に控えめに記されている。
横溝は[[閉所恐怖症]]で、大の電車・飛行機嫌いであった<ref name=" 週刊現代2022 "/>。電車に乗る際は必ず酒の入った水筒を首からさげ<ref group="注">『横溝正史読本』によれば一種の[[アルコール依存症|アル中]]だと自己診断している。</ref>、それを飲みながら電車を乗り継いだ。時には妻とともに乗ることもあったが、その際には妻が横溝の手をずっと握っていないとダメだったという。電車・飛行機嫌いの理由の一つに、“閉鎖空間でいつ喀血するか分からない怖さ”もあった。また、喀血だけでなく、血を見ること自体苦手だった{{efn2|次女によると「父はあれだけ血生臭い作品を書いていたのに、ヒゲ剃りで失敗して少し血が出るたび『大変だ!』と独りで大騒ぎしていました」と回想している<ref name=" 週刊現代2022 "/>。}}。
酒は主に自宅での晩酌を好み、若い頃は毎晩[[月桂冠 (企業)|月桂冠]]を1升飲み、後に[[ウイスキー]]の水割りを愛飲するようになった<ref name=" 週刊現代2022 "/>。晩年も酒を欠かさず、時折乱れて妻を困惑させるさまは公刊日記にそのまま記されている<ref>『<small>真説</small> 金田一耕助』ハードカバー版参照。</ref>。
愛煙家で、好きな銘柄は[[ピース (たばこ)|ピース]]<ref name=" 週刊現代2022 "/>。“火を点けて少し吸っては消す”という吸い方で、一日50本以上吸っていた<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
[[File:Seishi Yokomizo - Sokaitaku.jpg|thumb|240px|[[横溝正史疎開宅]]<br/>([[岡山県]][[倉敷市]][[真備町]]岡田1546)]]
[[File:Yokomizoseishi-kan.jpg|thumb|240px|成城の自宅にあった書斎([[横溝正史館]])]]
無類の愛犬家・愛猫家で、生前飼っていた愛犬には代々「カピ」と命名した<ref name=" 週刊現代2022 "/>。また、『[[白と黒 (横溝正史)|白と黒]]』などいくつかの作品にもカピという名の犬を登場させている<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
[[プロ野球球団]]では[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]の大ファンであった<ref name=" 週刊現代2022 "/>。
昭和モダニストのたしなみ程度であるが[[クラシック音楽]]を好み、他にもシャンソンのレコードをよく聞いていた{{efn2|次女によると、戦時中に自宅がB29の爆撃を受けた際、横溝はわざと大音量で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|田園交響曲]]』をかけながら、「この芸術が分かるか!」と飛行機に向かって髪を振り乱しながら叫んだこともあったという<ref name=" 週刊現代2022 "/>。}}。『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』『[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]』『[[蝶々殺人事件]]』『[[迷路荘の惨劇]]』など、クラシック音楽がらみの長編もある。長男の[[横溝亮一]]は『[[東京新聞]]』記者を経て[[音楽評論家]]となり、急逝直前のバス歌手・[[大橋国一]]との対談(新版全集収録)は亮一がセッティングした。
岡山県倉敷市真備町にあった疎開宅は、横溝の生誕100年にあたる2002年より「[[横溝正史疎開宅]]」として一般公開されている<ref>{{YouTube|6tAdrSyb0Vs|備中ひと・風・景~高梁川流域百選(50)横溝正史疎開宅(倉敷市真備町岡田)}}</ref>。
東京都[[世田谷区]][[成城]]にあった横溝の[[書斎]](1955年(昭和30年)頃建築)は、[[山梨県]][[山梨市]]に移築され、2007年([[平成]]19年)3月25日より「[[横溝正史館]]」として公開されている。
『仮面舞踏会』などいくつかの作品の舞台に設定した長野県[[軽井沢町]]に1959年(昭和34年)から[[別荘]]を所有しており、晩年まで毎年のようにそこで夏を過ごし、成城の自宅と共に執筆の拠点でもあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://book.asahi.com/article/14635612|title=横溝正史、苦闘の跡 「仮面舞踏会」草稿など、軽井沢で発見|date=2022-05-30|website=好書好日|publisher=[[朝日新聞]]|accessdate =2022-06-08}}</ref>。別荘に遺された小説草稿やノートなどは次女を経て、横溝正史旧蔵資料をコレクションしている[[二松学舎大学]]に2021年12月に寄贈された<ref>[https://mainichi.jp/articles/20220530/k00/00m/040/023000c 「横溝正史の自筆資料を年内公開へ 軽井沢で発見の小説草稿やメモ」]『毎日新聞』2022年5月30日(同日閲覧)</ref>。旧宅や遺品については[[#所蔵品|「所蔵品」節にて後述]]。
== 解説 ==
横溝の作品は、編集者と兼業して、あるいは闘病生活と並行して執筆が進められた戦前の作品と、戦時中の抑圧から解放されて精力的に執筆を進めた戦後の作品とに大別することができる。
戦前の作品は華麗な美文調の文体とロマンチシズムの香気に溢れた耽美的な変格物が多い。代表作としては、『[[鬼火 (横溝正史)|鬼火]]』『面影双紙』『蔵の中』『かいやぐら物語』などの耽美的中短編、[[江戸川乱歩]]に「横溝探偵小説の一つの頂点を為すものかも知れない」との賛辞を寄せられた長編『[[真珠郎]]』(探偵役は[[由利麟太郎]])などが挙げられる<ref name="作風解説">{{Cite web|和書|url=https://kadobun.jp/reviews/bunko/entry-46809.html|title=横溝正史作品の戦前と戦後に大別した作風解説――『蝋面博士』横溝正史 文庫巻末解説【解説:山村正夫】|website=KADOKAWA文芸WEBマガジン カドブン|date=2022-10-8|accessdate=2023-2-25}}</ref>。また、昭和初期に書かれた、洒落た中に一抹の哀愁を湛えた都会派コントの数々は、『[[新青年 (日本)|新青年]]』編集長として昭和モダニズムの旗手であった横溝の一面をよく伝えている。
戦後には、従来からの妖美耽異の世界に論理性や[[トリック (推理小説)|トリック]]を融合させ、『[[本陣殺人事件]]』『[[獄門島]]』『[[八つ墓村]]』『[[悪魔の手毬唄]]』など土俗的な犯罪を描いて独自の領域を切り拓いた<ref name="作風解説" />。本格的な執筆は、ほぼ同時に雑誌連載された『本陣殺人事件』『[[蝶々殺人事件]]』の2編の長編から始まっている。前者は[[金田一耕助]]の初登場作品で、第1回[[日本推理作家協会賞|探偵作家クラブ賞]]長編賞受賞作としても知られている。一方の後者は戦前作品からの探偵役である由利麟太郎を登場させ、[[坂口安吾]]に世界的レベルの傑作と激賞された終戦直後の純謎解き長編である。
戦後の作品は金田一を探偵役とするものが多くを占めているが、1949年ごろまでは他の人物を探偵役とする作品も多数発表している。長編に限っても『蝶々殺人事件』の他に『[[びっくり箱殺人事件]]』『[[女が見ていた (小説)|女が見ていた]]』やジュヴナイル作品の『怪獣男爵』『夜光怪人』があり、『探偵小説』『かめれおん』などの「戦後初期短編」と呼ばれている作品群もある。しかし、金田一ものの代表作とされる作品群がおおむね出揃った1951年ごろからは、捕物帳を除いて専ら金田一を探偵役とするようになり、全く作風の異なる金田一登場作品を同時並行で雑誌連載していたこともある(たとえば[[悪魔の寵児#概要]]で言及されている事例)。ただし、ジュヴナイル作品については1953年ごろから中学生向け作品の一部を除いて金田一を登場させずに[[由利麟太郎#三津木俊助|三津木俊助]]と[[由利麟太郎#御子柴進|御子柴進]]を探偵役とするように変わっている。
金田一が登場する作品は、長短編あわせて77作<ref name=" 週刊現代2022 "/>(中絶作品・[[ジュブナイル]]作品等を除く)が確認されている。探偵・金田一は主に[[東京都|東京]]周辺を舞台とする事件と、作者の疎開先であった岡山県など地方を舞台にした事件で活躍した(岡山県以外では、作者が戦前に転地療養生活を送り、戦後は別荘を所有していた長野県や、静岡県の事件が多い)。前者には戦後都会の退廃や倒錯的な性、後者には田舎の因習や血縁の因縁を軸としたものが多い。一般的には後者の作品群の方が評価が高いようである(前者は倶楽部雑誌と呼ばれる大衆誌に連載されたものが多く、発表誌の性格上どうしても扇情性が強調されがちである)。外見的には怪奇色が強いが、骨格としては全て論理とトリックを重んじた[[本格派推理小説]]で、一部作品で装飾的に用いられるケースを除いて[[超常現象]]やオカルティズムは排されている。このような特徴は、彼が敬愛する作家[[ジョン・ディクスン・カー]]の影響であるとのこと。また、薬剤師出身であるにもかかわらず、理化学的トリックは意外に少なく、毒殺の比率は高いものの薬名があっさり記述される程度である。
一旦発表した作品を改稿して発表するケースも多かった。通常このような原型作品は忘れられるものであるが、「金田一耕助」シリーズについてはそれらの発掘・刊行も進んでおり、人気の高さが窺える。
戦前作品の都会派コントから続くユーモアのセンスは戦後作品でも健在で、金田一のキャラクターなどに表れている。また、上述の『びっくり箱殺人事件』は今日の[[バカミス]]の遠祖ともいうべき全編ドタバタに終始する異色長編である。
創作した探偵役としては、由利、三津木、金田一の他に、[[人形佐七捕物帳|人形佐七]]、お役者文七を主役とする捕物帖のシリーズがある。また、複数作品に登場させたものの3作以上続くシリーズにはならなかった探偵役として、速水健二(『恐るべき四月馬鹿』と『化学教室の怪火』)と星野夏彦&冬彦兄弟(『双生児は踊る』と『双生児は囁く』)がある。
1980年、[[角川書店]]の主催による長編推理小説新人賞「[[横溝正史賞]]」が開始された(のちに「横溝正史ミステリ大賞」「横溝正史ミステリ&ホラー大賞」と改称)。
2019年以降、[[イギリス]]で『本陣殺人事件』と『[[犬神家の一族]]』、[[イタリア]]で『本陣殺人事件』と『[[黒猫亭事件]]』が翻訳出版されており、イギリスでは好評を受け、2021年から2022年にかけて『八つ墓村』と『獄門島』も出版される予定<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210709231017/https://www.sankeibiz.jp/econome/news/210710/ecc2107100800001-n1.htm|title=没後40年の「横溝ミステリー」が欧米で翻訳続々 消えゆく日本の上流社会を求めて|newspaper=sankeibiz|date=2021-7-10|accessdate=2021-7-10}}</ref>。
== 所蔵品 ==
横溝が執筆の場に使用していた木造平屋建ての書斎が、[[2006年]]5月に横溝の長男亮一から寄贈を受けた[[山梨市]]により「横溝正史館」として開館されており、書斎とともに寄贈された自筆の原稿など貴重な品々を含め、約70点の品物が所蔵されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/yokomizo.html|title=横溝正史館|publisher=山梨市|accessdate=2020-11-14}}</ref>。
2006年6月、東京・世田谷の横溝邸から未発表の短編『霧の夜の出来事』『[[犬神家の一族]]』などの生原稿をはじめ、横溝が小説執筆の資料に使っていたと思われる文献など、貴重な所蔵品が発見された。これらの所蔵品や資料は[[二松学舎大学]]が保管し、一般公開されることになっており<ref>[https://web.archive.org/web/20110623004903/http://www.47news.jp/CN/200711/CN2007112001000448.html 「横溝正史邸から生原稿など発見される」](アーカイブ)[[47NEWS]]</ref>、前述の『雪割草』の掲載媒体や文面を再発見したのも二松学舎大学である。
[[2020年]]7月、熊本県出身の作家、[[乾信一郎]]が生前に寄贈した[[1945年]]から[[1948年]]までの4年分の横溝の書簡32通の一部が、熊本市の「[[熊本県立図書館#くまもと文学・歴史館(旧:熊本近代文学館)|くまもと文学・歴史館]]」の展示会「「新青年」創刊100年 編集長・乾信一郎と横溝正史」で公開された<ref name="mainichi" />。2020年9月、乾の没後、遺族から遺品の寄贈を受けた同館によって、1948年から[[1979年]]までの約30年間に横溝が乾宛に送った240通の書簡が発見された<ref name="mainichi" />。同館は書簡の調査・整理を進め、[[2021年]]7月16日 - 9月23日開催の「没後40年横溝正史展」で公開された<ref>{{Cite news|url=https://www.walkerplus.com/event/ar1043e410707/|title=くまもと文学・歴史館企画展「没後40年横溝正史展-新発見書簡に見る探偵小説作家の素顔-」|publisher=[[KADOKAWA]]|accessdate=2021-10-15}}</ref>。
[[File:Bronze statue of Seishi Yokomizo.jpg|thumb|160px|横溝正史像<br/>([[横溝正史疎開宅]])]]
2022年4月、長野県軽井沢町にある横溝の[[別荘]]から、『[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]』の草稿に『[[死仮面]]』の手直しを加えた原稿用紙を合わせて1000枚以上と、『[[人形佐七捕物帳]]』の一部草稿や『[[悪霊島]]』の創作ノートなどが発見されたことが公表された<ref name ="nhk2022">[https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/04/column/0423/ 金田一耕助シリーズ「悪霊島」「仮面舞踏会」横溝正史の新資料発見] NHK(2022年4月25日)2022年5月30日閲覧</ref><ref name ="kyodo2022">[https://web.archive.org/web/20220506161607/https://nordot.app/891630941050732544?c=39546741839462401 「横溝正史晩年の草稿発見 金田一シリーズ650枚」][[共同通信]](2022年4月26日)2020年5月30日閲覧</ref><ref name ="mainichi2022">[https://mainichi.jp/articles/20220530/k00/00m/040/023000c 横溝正史の自筆資料を年内公開へ 軽井沢で発見の小説草稿やメモ][[毎日新聞]](2022年5月30日)2022年6月8日閲覧</ref>。寄贈を受け調査した二松学舎大学の山口直孝教授は「晩年の創作の進め方が分かる貴重な資料<ref name ="kyodo2022"/>」「横溝は(19)64年から10年間、新作を発表していなかったが、その間も創作意欲を持ち続けていたことがわかる<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15312334.html 横溝正史 苦闘の跡「仮面舞踏会」草稿など軽井沢で発見]『[[朝日新聞]]』夕刊2022年6月1日2面(同日閲覧)</ref>」と評価している。また今回、横溝の直筆のものと見られる墨書も見つかった。そこには「[[論理]]の骨格に [[wikt:ja:ロマンチック|ロマン]]の肉附けをし [[愛|愛情]]の衣を 着せませう」とあり、彼の作風に関するオリジナルの言葉が記されていた<ref name ="nhk2022"/>{{efn2|1974年の夏、横溝が[[揮毫]]した[[色紙]]には「謎の骨格に論理の肉付けをして、浪漫の衣を着せましょう」と書きつけられている<ref>『殺人暦』(横溝正史著・[[春陽文庫]]、1995年)巻末の[[山前譲]]「講説」参照。</ref>。}}。これらの資料は年内にも一般公開される方針<ref name ="mainichi2022"/>。
[[岡山県]][[倉敷市]]の[[倉敷市真備ふるさと歴史館|真備ふるさと歴史館]]に設けられている「横溝正史コーナー」には横溝の[[書斎]]が再現されており、そこに家族から寄贈された机やメガネ、ペンなどの遺品が自筆原稿や作品などとともに展示されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kurashiki.okayama.jp/4167.htm|title=真備ふるさと歴史館|publisher=倉敷市|accessdate=2021-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kids.takahashiryuiki.com/wp-content/uploads/20180130_%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E7%9C%9F%E5%82%99%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E9%A4%A8.pdf|title=高梁川流域キッズ 倉敷市真備ふるさと歴史館|publisher=高梁川流域キッズ|accessdate=2021-04-18}}</ref>。
倉敷市[[真備町]]にある[[横溝正史疎開宅]]には、横溝と妻の遺品が、[[石坂浩二]]や[[古谷一行]]など金田一耕助を演じた役者のサイン、写真や資料などとともに展示されている<ref name="life=risk">{{Cite web|和書|url=https://www.sinrons.com/entry/2019/02/20/161730|title=岡山県倉敷市真備町にある横溝正史疎開宅探訪、名探偵金田一耕助はここで誕生しました!!|publisher=Life=Risk|accessdate=2021-04-25}}</ref>。また、この疎開宅の敷地の一角には横溝の銅像が建てられている<ref name="life=risk" />。
== 主要作品リスト ==
=== 推理小説(由利麟太郎&三津木俊助) ===
{{Main|由利麟太郎#登場作品リスト}}
ここでは、映像化されたことのある作品に限定して列挙する。
* 憑かれた女(『大衆倶楽部』1933年10月号 - 12月号、1948年1月に由利麟太郎が登場する形に改稿出版)
* [[真珠郎]](『新青年』1936年10月号 - 1937年2月号)
* 花髑髏(『富士』1937年6月号 - 7月号)
* 木乃伊の花嫁(『富士』1938年2月増刊号)
* 悪魔の家(『富士』1938年5月号)
* [[仮面劇場]](『[[サンデー毎日]]』1938年10月 - 11月、1942年7月に『旋風劇場』に改題、1947年8月に長編化して『暗闇劇場』に改題、1970年10月に元の『仮面劇場』に改題)
* 銀色の舞踏靴(『日の出』1939年3月号)
* [[蝶々殺人事件]](『ロック』1946年5月号 - 1947年4月号)
=== 推理小説(金田一耕助) ===
{{Main|金田一耕助#登場作品リスト}}
ここでは、劇場映画化されたことのある作品に限定して列挙する。
* [[本陣殺人事件]]<ref group="注">「金田一耕助シリーズ」の第1作。</ref>(『宝石』1946年4月号 - 12月号)
* [[獄門島]](『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』1947年1月号 - 1948年10月号)
* [[八つ墓村]](『新青年』1949年3月号 - 1950年3月号、中絶後、『宝石』1950年11月号 - 1951年1月号)
* [[犬神家の一族]](『[[キング (雑誌)|キング]]』1950年1月号 - 1951年5月号)
* [[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]](『キング』1951年6月号 - 1952年5月号)
* [[悪魔が来りて笛を吹く]](『宝石』1951年11月号 - 1953年11月号)
* [[幽霊男]](『[[講談倶楽部]]』1954年1月号 - 10月号)
* [[三つ首塔]](『小説倶楽部』1955年1月号 - 12月号)
* [[吸血蛾]](『講談倶楽部』1955年1月号 - 12月号)
* [[悪魔の手毬唄]](『宝石』1957年8月号 - 1959年1月号)
* [[病院坂の首縊りの家]]<ref group="注">「金田一耕助最後の事件」として知られる。</ref>(『[[小説 野性時代|野性時代]]』1975年12月号 - 1977年9月号)
* [[悪霊島]]<ref group="注">横溝正史による最後の長編。</ref>(『野性時代』1979年1月号 - 1980年5月号)
=== 推理小説(その他の探偵・ノンシリーズ) ===
* [[恐ろしき四月馬鹿]]<ref group="注">横溝正史の処女作の短編。</ref>(『新青年』1921年4月号)
* 広告人形(『探偵名作叢書 第3編』聚英閣 1926年)
* 山名耕作の不思議な生活(『大衆文芸』1927年1月号)
* 赤い水泳着(『[[アサヒグラフ]]』1929年4月号)
* ある女装冒険家の物語(『文学時代』[[新潮社]] 1930年5月号)
* 芙蓉屋敷の秘密<ref group="注">横溝正史の最初の長編。</ref>(『新青年』1930年5月号 - 8月号)
* 殺人暦(『講談雑誌』1931年2月号)
* 塙侯爵一家(『新青年』1932年7月号 - 12月号、単行本 新潮社 1934年)
* 呪ひの塔(呪いの塔)(『新作探偵小説全集 10』新潮社 1932年8月、上巻のみ 三佯社 1946年)
* 黄色い手袋(『日曜報知』1932年8月号)
* 幽霊騎手(講談雑誌 1933年)<!--『幽霊騎手』の初出は戦前、柏書房の『誘蛾燈』解説など参照-->
* [[鬼火 (横溝正史)|鬼火]](『新青年』1935年2月号 - 3月号)
* 藏の中(蔵の中)<ref group="注">ノンシリーズであるが[[蔵の中|映画化]]されており、ニューハーフ・松原留美子が姉を演じて話題になった。</ref>(『新青年』1935年8月号)
* 薔薇王(『新青年』1936年4月号 - 5月号)
* 青い外套を着た女(『サンデー毎日』1937年7月)
* 誘蛾燈(『[[オール讀物]]』1937年12月号)
* 八百八十八番目の護謨の木(『キング』1941年3月号)
* 刺青された男(『ロック』1946年4月号)
* ペルシャ猫を抱く女(『キング』1946年12月号)
* [[びっくり箱殺人事件]](『月刊読売』1948年1月号 - 9月号)
* 探偵小説(単行本 かもめ書房 1948年)
* [[女が見ていた (小説)|女が見ていた]](『時事新報』1949年5月 - 10月)
=== 捕物帳シリーズ ===
* 不知火捕物双紙<ref group="注">主人公は不知火甚左。横溝正史の捕物帳シリーズ最初の作品。</ref>
** からくり御殿<ref group="注">横溝の書いた初捕物帳。西洋人が黒幕で[[江戸城]][[大奥]]にも絡む、大掛かりな新興宗教の本山が敵というスケールの大きな作品となっている。</ref>(『講談雑誌』1937年4月号)
** 清姫の帯<ref group="注">[[流罪|島抜け]]の直次郎([[御家人#近世の御家人|御家人]]くずれ)は後の「人形佐七」にも登場。
</ref>(『講談雑誌』1937年12月号)
* [[人形佐七捕物帳]]
** 羽子板娘<ref group="注">「三人羽子板娘」の別題あり。</ref><ref group="注">『人形佐七捕物帳1 嘆きの遊女』嶋中文庫(2005年)収録。</ref>(『講談雑誌』1938年1月号)
** 屠蘇機嫌女夫捕物 (『江戸捕物帖』博文館(1939年)([[野村胡堂]]、[[佐々木味津三]]、[[岡本綺堂]]と共著)収録)
** 振袖幻之丞<ref group="注">「振袖幻之嬢」の別題あり。</ref><ref group="注">振袖を着た女装美少年・幻之丞(実は大身直参の正室(江戸御前)の息子)登場。直参の隠し子で女装の美男という設定は、のちの女装の女狂言師「お美乃(舞台で男役の時は坂東蓑次)」として敵の屋敷に潜入する「お役者文七」に引き継がれている。</ref>(『講談雑誌』1940年6月号)
** 歎きの遊女(『歎きの遊女 人形佐七捕物秘帳』白磁書房 1947年)
** 謎坊主(『大家花形全部傑作捕物帖』湊書房(1948年)(野村胡堂、[[山手樹一郎]]、[[納言恭平]]、[[城昌幸]]、[[角田喜久雄]]と共著)収録)
** お高祖頭巾の女<ref group="注">『横溝正史時代小説コレクション-捕物篇2』[[出版芸術社]](2004年)収録。</ref>(『講談雑誌』1949年1月号)
** お俊ざんげ(『お俊ざんげ 人形佐七捕物文庫』新文庫社 1949年)
** 好色頭巾(『好色頭巾 時代小説新作全集第5号』文芸図書出版社 1952年)
** 舟幽霊(『[[京都新聞]]』1953年2月号)
** 神隠しにあった女(『読切小説集』1953年3月号)
** 地獄の花嫁(単行本 神正書房 1953年)
** 生きてゐる自来也(単行本 向楽社 1955年)
** 三人色若衆<ref group="注">『人形佐七捕物帳全集8(新装版)』春陽文庫(1984年)収録。</ref>(『別冊講談倶楽部』1955年11月号)
** 女祈祷師(『小説新潮』第10巻 15号 1956年11月収録)
** 雪女郎(単行本 松沢書店 1958年)
** 怪談五色猫(『怪談五色猫 人形佐七捕物控』第一文芸社 1958年)
* 左一平捕物帳
** [[髑髏検校]](『奇譚』1939年1月号 - 7月号)<!-- これと「神変稲妻車」は時代小説では? -->
** 京人形の怪(『少年少女奇譚』1939年4月号)
** 左一平捕物帳(単行本 奥川書房 1942年)
* 左近捕物帳<ref group="注">花吹雪左近が難事件に挑む。</ref>
** まぼろし小町(『日の出』1940年6月号)
* 紫甚左捕り物帳
** 紫甚左捕り物帳(『大衆文芸戦時版 第6巻』 今日の問題社 1941年 )
* 左門捕物帳<ref group="注">旗本・服部左門を主人公にした捕物帳。</ref>
** 水芸三姉妹(『日光』1949年8月号)
** 十二匹の狐(『日光』1949年11月号)
** 春姿七福神(『日光』1950年2月号)
* お役者文七捕物暦<ref group="注">性別を問わず変装できる美男・お役者文七(正体は大身直参のご落胤)を中心に、だるま親分・その妻でお吉・女装姿の文七に惚れるお小夜などが活躍する推理群像劇。</ref>
** 蜘蛛の巣屋敷<ref group="注">第一長編。[[萬屋錦之介|中村錦之介]]主演で映画化(東映『お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷』1959年)。</ref>(『小説の泉』1957年11月号 - 1958年8月号)
** 恐怖の雪だるま(『週刊漫画Times』1960年1月6日号 - 1月27日号)
=== 時代小説 ===
* 菊水兵談(『講談雑誌』1941年1月号)
* 矢柄頓兵衛戦場噺(『講談雑誌』1943年1月号)
* 不知火奉行(単行本 同光社 1957年)
* 変化獅子(単行本 東京文芸社 1957年)
=== 家庭小説 ===
* 雪割草{{Refnest |group="注" |題名のほかは草稿の一部が判明しているのみの「幻の作品」とされていたが、1941年6月12日 - 12月29日の『新潟毎日新聞』(途中の8月1日から『新潟新聞』と統合して『新潟日日新聞』)に連載されていたことが発見され、2018年3月8日に[[戎光祥出版]]から単行本 ISBN 978-4-86403-281-0 として刊行された。この時点では最終回の上部が28行分欠損していたため、不足部分を山口直孝、浜田知明らが補っていた。その後、他の地方紙にも連載していたことが判明し、今のところ『京都日日新聞』が初出とされている。他の連載としては『九州日日新聞』1940年10月7日 - 1941年7月15日(『愛馬召さるゝ日』の別題にて)、『徳島毎日新聞』1941年1月11日(マイクロフィルム欠落のため推定) - 8月2日が判明している。2021年4月23日には、単行本で欠損を補っていた部分を『京都日日新聞』のテキストに差し替えるなどの校合を行ったうえで、[[角川文庫]]から文庫本 ISBN 978-4-04-109300-9 として刊行された<ref>{{Cite | 和書 | last = 山口 | first = 直孝 | chapter = 解説 銃後の芸術家小説 | title = 雪割草 | isbn = 978-4-04-109300-9 | publisher = [[KADOKAWA]] | date = 2021-4-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://www.sankei.com/article/20171221-OXWDSLU5B5N2HDDOJBAETPJWAY/ |title = 横溝正史、幻の長編小説「雪割草」見つかる…金田一耕助の“モデル”も登場 |publisher= 産経新聞社 |date = 2017-12-21 |accessdate = 2021-05-09}}</ref>}}(『京都日日新聞』1940年6月11日 - 12月31日)
=== ジュヴナイル作品 ===
==== 三津木俊助登場作品 ====
{{Main|由利麟太郎#ジュヴナイル作品}}
* 幽霊鉄仮面(『新少年』1937年4月号 - 1938年3月号)
* 夜光怪人(『[[譚海]]』1949年5月号 - 1950年5月号、角川文庫などでは金田一耕助登場作品に改稿)
==== 金田一耕助登場作品 ====
{{Main|金田一耕助#ジュヴナイル作品}}
* 大迷宮(『[[少年倶楽部]]』1951年1月号 - 12月号)
* 仮面城(『[[小学館の学年別学習雑誌#休・廃刊誌|小学五年生]]』1952年4月号 - 1953年3月号)
==== その他 ====
* 「渦卷く濃霧」「怪人魔人」「變幻幽靈盜賊」平凡社 1929年(『少年冒険小説全集』第12巻)
* 神変稲妻車(『少年少女譚海』1938年1月号 - 1938年3月号)、いなづま侍 同光社 1954年(単行本)、稲妻若衆 同星出版社 1958年(単行本)
* 南海の太陽児(『譚海』1940年11月号 - 1941年8月号)
* 怪獣男爵(1948年11月、[[偕成社]])<ref group="注">『大迷宮』と『黄金の指紋』の前日談で登場人物も一部共通するなど、世界観は金田一耕助のジュヴナイル作品系統と同一だが、耕助本人は登場しない(等々力警部は登場する)。</ref>
* まぼろし曲馬団 少年少女小説(1949年2月、内田書店)
* 神変竜巻組(1954年、[[ポプラ社]])
=== 翻訳作品 ===
* [[ジョンストン・マッカレー|ジョンストン・マッカーレイ]]「地下鉄サム」[[平凡社]] 1929年(『世界探偵小説全集』第7巻)
* [[L.J.ビーストン]]「決闘家倶楽部」他2作 平凡社 1929年(『世界探偵小説全集』第7巻)
* ヒユウム「二輪馬車の秘密」博文館 1930年(『世界探偵小説全集』第6巻 ヒユウム集・英米七人集所収<ref group="注">巻末に横溝による紹介文「フアーガス・ヒユウム」がある。</ref>)<ref group="注">[[扶桑社文庫]]S1-2 『昭和ミステリ秘宝 横溝正史翻訳コレクション 鍾乳洞殺人事件/二輪馬車の秘密』ISBN 4594052983 2006年12月刊に「鍾乳洞殺人事件」と併録。巻末に前記横溝正史の紹介文を「ファーガス・ヒューム」と仮名遣いを改めて収録、博文館の単行本の第10章が丸々割愛されて、結合するため前後の文章に相違のある『[[新青年 (日本)|新青年]]』掲載版の該当部分を付録として収録、解説 [[杉江松恋]]、「横溝正史翻訳リスト」[[浜田知明]]</ref>
* エデソン・マーシアル「リンウツド倶楽部事件」博文館 1930年(『世界探偵小説全集』第6巻 ヒユウム集・英米七人集)
* メリー・ロバーツラインハート「真珠騒動」博文館 1930年(『世界探偵小説全集』第6巻 ヒユウム集・英米七人集)
* バリイ・ベイン「死体の顔」博文館 1930年(『世界探偵小説全集』第6巻 ヒユウム集・英米七人集)
* [[エリス・パーカー・バトラー|イリス・パーカア・バトラア]]「アモス・ホプストン」博文館 1930年(『世界探偵小説全集』第6巻 ヒユウム集・英米七人集)
* エル・ジェ・ビーストン「マーレイ卿の客」博文館 1930年(『世界探偵小説全集』第6巻 ヒユウム集・英米七人集)
* リチヤード・コンネル「痴者の犯罪」「実験魔術師」博文館 1930年(『世界探偵小説全集』第6巻 ヒユウム集・英米七人集)
* [[アレクサンドル・デュマ・ペール|ヂューマ]]「[[ボルジア家|ボルジヤ家]]罪悪史」平凡社 1931年(『[[世界猟奇全集|世界獵奇全集]]』第5巻)
* D.K.ウイツプル「鍾乳洞殺人事件」黒白書房 1935年(『世界探偵傑作叢書』第5巻)
* トム・ガロン「覗機械倫敦綺談」春秋社 1935年(『探偵小説短篇集』)
* [[アンソニー・ホープ|アントニー・ホープ]]「[[ゼンダ城の虜|風雲ゼンダ城]]」博文館 1940年(『世界傳奇叢書』)
* [[バロネス・オルツィ]]「[[紅はこべ]]」博文館 1940年(『世界傳奇叢書』)
== 全集などの作品集 ==
=== 人形佐七関連 ===
1970年代以降に刊行されたシリーズについては[[人形佐七捕物帳#シリーズ一覧]]を参照
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2020年4月}}
<!--- 本節の内容も整理したうえで[[人形佐七捕物帳#シリーズ一覧]]に組み入れることが望まれる --->
* 『人形佐七捕物帳』八紘社 1939年(単行本)
* 『人形佐七捕物帖 巻四』[[春陽堂書店]] 1941年(単行本)
* 『人形佐七捕物文庫』鷺の宮書房 1946年(単行本)
* 吉様まいる 夜毎くる男 雅兒地蔵 謎の百人一首 半分鶴之助 山雀供養 角兵衛獅子(『角兵衛獅子 他六篇』杉山書店 1949年)
* 出世競べ三人旅 孟宗竹 名月一夜狂言 双葉將棋 稚兒地藏 銀簪罪あり 每夜來る男 犬娘 角兵衞獅子(『人形佐七捕物帖 巻三』春陽堂書店 1950年(単行本))
* 『人形佐七捕物帖』東方社 1950年(単行本)
* 女虛無僧 狸の長兵衞 石見銀山 妖犬傳 八つ目鰻 めくら狼 山形屋騷動 括猿の祕密(『女虚無僧 人形佐七捕物帖』東方社 1951年(単行本))
* 假面の囚人 狸御殿 雪達摩の怪 化物屋敷 日本左衞門 謎の百人一首 睡り鈴之助 まぼろし小町 女易者 幽靈山伏(『仮面の囚人 人形佐七捕物帖』湊書房 1951年(単行本))
* 緋鹿の子娘 唐草權太 囮り萬歲 半分鶴之助 水晶の珠數 雛の呪ひ 武者人形の首 花見の假面 非人の仇討 (『緋鹿の子娘 人形佐七捕物帖』東方社 1951年(単行本))
* お化小姓 淸姬の帶 二人龜之助 嵐の修驗者 恩愛の凧 矢がすりの女 謎の折鶴 三本の矢(『謎の折鶴 人形佐七捕物帖』東方社 1951年(単行本))
* からくり駕籠 人面瘡綺譚 身代り千之丞 捕物三つ巴 水晶の珠數 お玉が池 鳥追人形 お化祝言 三本の矢(『新編人形佐七捕物帖』同光社 1951年(単行本))
* 春宵とんとんとん 影右衞門 猫屋敷 化け物長屋 狐の宗丹 相撲の仇討 妙法丸 山雀供養(『猫屋敷 人形佐七捕物帖』東方社 1952年(単行本))
* 本所七不思議 笛を吹く浪人 歎きの遊女 振袖幻之丞 蝙蝠屋敷 羽子板娘 お俊ざんげ からくり御殿 風流六歌仙 犬娘 ほほづき大盡 貝殼祕帖 しらぬ火祕佛 名槍まんじ曆 (『新編人形佐七捕物帖』春陽堂書店 1952年(単行本))
* 鬼の面 美男虛無僧 狐の裁判 拜領の茶釜 三日月おせん 当り矢 通り魔 風流女相撲(『美男虛無僧 人形佐七捕物帳』東方社 1954年(単行本))
* 恋の通し矢(『捕物絵図』東京文芸社 1954年(野村胡堂、角田喜久雄、城昌幸、[[佐々木杜太郎]]、[[陣出達朗]]、[[大林清]]、[[山手樹一郎]]、[[村上元三]]、[[土師清二]]と共著)収録)
* 色八卦 どくろ祝言 蛇性の肌 蛇使い浪人 たぬき女郎 ふたり市子 夜歩き姉妹 お時計献上 船幽霊(『人形佐七捕物文庫』大日本雄弁会講談社 1954年(単行本))
* 惡魔の富籤 笑い藥 呪いの疊針 花見の仇討 猫と女行者 色比丘尼 かくし念佛 若衆鬘 寳船殺人事件(『惡魔の富籤 人形佐七捕物文庫』同光社 1955年(単行本))
* 座頭の鈴 音羽の猫 二枚短冊 蛍屋敷 黒蝶呪縛 生きている自来也 幽霊姉妹(『人形佐七捕物帖 第1』春陽堂書店 1957年(単行本))
* 七人比丘尼 凧のゆくえ 怪談閨の鴛鴦 離魂病 すっぽん政談 戯作地獄 讐討走馬燈(『人形佐七捕物帖 第2』春陽堂書店 1957年(単行本))
* 河童の捕物 佐七の青春 鶴の千番 春色眉かくし 雪女郎 丑の時参り どもり和尚 笛を吹く浪人(『人形佐七捕物帖 第3』春陽堂書店 1957年(単行本))
* 羽子板娘 嘆きの遊女 犬娘 ほおずき大尽 振袖幻之丞 蝙蝠屋敷 お俊ざんげ(『人形佐七捕物帖 第4』春陽堂書店 1957年(単行本))
* 本所七不思議 風流六歌仙 からくり御殿 貝殻秘佛 しらぬ火秘帖 名槍まんじ暦(『人形佐七捕物帖 第5』春陽堂書店 1957年(単行本))
* お玉が池 狸御殿 夕月一夜狂言 凧のゆくえ どもり和尙 座頭の鈴 白羽の矢 戯作地獄 からくり駕籠 丑の時参り 幽霊姉妹 振袖幻之丞(『人形佐七捕物文庫』河出書房 1957年(単行本))
* 花嫁殺人魔 女刺青師 神隠しにあつた女 影法師 猫姫様 蝶合戦 人魚の彫物 相撲の仇討(『花嫁殺人魔 人形佐七捕物帖』同光社出版 1957年(単行本))
* 狸御殿 凧のゆくえ 雪女郎 雛の呪い 巡礼塚由来 笛を吹く浪人 お化小姓 恩愛の凧 敵討走馬燈(『雪女郎 人形佐七捕物控』第一文芸社 1958年(単行本))
* 銀の簪 夢の浮橋 藁人形 睡り鈴之助 妙法丸 仮面の囚人 鼓狂言(『仮面の囚人 人形佐七捕物控』第一文芸社 1958年(単行本)
* 吉様まいる 夜毎くる男 稚児地蔵 謎の百人一首 半分鶴之助 山雀供養 角兵衛獅子 日蝕御殿(『夜毎くる男 人形佐七捕物控』第一文芸社 1958年(単行本))
* 女易者 どもり和尚 狸ばやし 白羽の矢 河童の捕物 まぼろし役者 幽霊山伏 春姿松竹梅 丑の時参り 孟宗竹(『春姿松竹梅 人形佐七捕物控』第一文芸社 1959年(単行本))
=== その他戦前作品 ===
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2020年4月}}
* 「広告人形」「山名耕作の不思議な生活」「ネクタイ綺譚」「富籤紳士」「飾窓の中の恋人」「悲しき郵便屋」「断髪流行」「素敵なステツキの話」「鈴木と河越の話」「夫婦書簡文 帰れるお類」「川越雄作の不思議な旅館」「双生」「裏切る時計」「執念」「路傍の人」(全16作)改造社 1929年(『日本探偵小説全集 10 横溝正史集』)
* 「殺人暦」「三本の毛髪」「腕環」「丹夫人の化粧台」「髑髏鬼」「死の部屋」「カリオストロ夫人」(全7作)平凡社 1932年(『現代大衆文學全集 続第18巻 新選探偵小説集』、[[保篠龍緒|保篠竜緒]]、[[濱尾四郎|浜尾四郎]]と共著)
* 「殺人暦」「三本の毛髪」「丹夫人の化粧台」「髑髏鬼」(全4作)春陽堂 1932年(『日本小説文庫 173』)
* 「鬼火」「藏の中」「面影双紙」「獸人」(全4作)春秋社 1935年(『探偵小説短篇集』)
* 「劔の系圖」「焔の漂流船」「海の一族」「玄米食夫人」「沙漠の呼声」「ナミ子さんの一家」「雲雀」「大鵬丸消息なし」「菊花大会事件」「三行広告事件」(全10作)八紘社杉山書店 1944年(『劔の系圖 小説』(単行本))
* 「孔雀夫人」「女王蜂」「嵐の道化師」(全3作)松竹出版部 1947年(『孔雀夫人』単行本)
* 消すな蝋燭 女写真師 神楽太夫 蝋の首 靨 探偵小説 花粉(全7作)東方社 1956年(『消すな蝋燭』単行本)
=== 金田一耕助探偵小説選(1954年版) ===
{{節スタブ|1=第2期第1に関する情報|date=2020年4月}}
<!--- 国立国会図書館のデータベースに「第2期第1」該当なし、消去法的には「幽霊男」か? --->
東京文芸社から第1期1954年、第2期1955年、第3期1956年に分けて刊行された。刊行以前に広く知られていた作品はおおむね網羅されているが、『不死蝶』『吸血蛾』などが未収録になっている。
* 第1期第1 犬神家の一族
* 第1期第2 獄門島
* 第1期第3 八つ墓村
* 第1期第4 女王蜂
* 第1期第5 本陣殺人事件 黒猫亭事件
* 第2期第2 堕ちたる天女 蜃気楼島の情熱 百日紅の下にて 殺人鬼
* 第2期第3 湖泥 鴉 花園の悪魔 蝙蝠と蛞蝓 黒蘭姫
* 第2期第4 幽霊座 女怪 睡れる花嫁 車井戸は何故軋る
* 第2期第5 生ける死仮面 癈園の鬼 首 カルメンの死
* 第3期第1 三つ首塔
* 第3期第2 夜歩く
* 第3期第3 悪魔が来りて笛を吹く
* 第3期第4 {{unicode|蠟}}美人 毒の矢
* 第3期第5 死神の矢 黒い翼
=== 由利・三津木探偵小説選 ===
[[東方社]]から1956年 - 1961年に刊行<ref group="注">作品名の表記は国立国会図書館のデータベースに準拠した。</ref>。
* 第1 悪魔の設計図 1956年 悪魔の設計図 花髑髏 白{{unicode|蠟}}怪
* 第2 双仮面 1956年 双假面 獸人 幻の女 迷路の三人
* 第3 石膏美人 1956年 石膏美人 白{{unicode|蠟}}少年 猿と死美人 {{unicode|蠟}}人形事件 焙烙の刑 嵐の道化師 黒衣の人
* 第4 蜘蛛と百合 1956年 暗闇劇場 蜘蛛と百合 薔薇と鬱金香
* 第5 カルメンの死 1957年 眞珠郞 憑かれた女 カルメンの死
* 第6 夜光虫 1957年 夜光蟲 首吊船 幽霊騎手
* 第7 カルメンの死{{疑問点|date=2023年9月|title=これは第5巻の重版ではないでしょうか?}} 1961年 眞珠郞 憑かれた女 カルメンの死
=== 金田一耕助推理全集 ===
東京文芸社から1958年 - 1961年に刊行。刊行以前に広く知られていた作品はおおむね網羅されているが、『悪魔が来りて笛を吹く』『夜歩く』『女王蜂』『吸血蛾』『華やかな野獣』などが未収録になっている。
* 第1巻 不死蝶 1958年
* 第2巻 悪魔の降誕祭 1958年 トランプ台上の首
* 第3巻 魔女の暦 1958年 鏡が浦の殺人
* 第4巻 火の十字架 1958年 貸しボート十三号
* 第5巻 迷路荘の怪人 1959年 蜃気楼島の情熱
* 第6巻 金田一耕助事件簿 1959年 霧の中の女 洞の中の女 鏡の中の女 傘の中の女 鞄の中の女 夢の中の女
* 第7巻 三つの首塔 1959年
* 第8巻 犬神家の一族 1959年
* 第9巻 八つ墓村 1959年
* 第10巻 女怪 1959年 殺人鬼 鴉 首 蝙蝠と蛞蝓
* 第11巻 花園の悪魔 1959年 廃園の鬼 睡れる花嫁 黒蘭姫 カルメンの死
* 第12巻 蜃気楼島の情熱 1959年 百日紅の下にて 生ける死仮面 湖泥
* 第13巻 車井戸はなぜ軋る 1959年 堕ちたる天女 {{unicode|蠟}}美人
* 第14巻 毒の矢 1959年 幽霊座
* 第15巻 黒猫亭事件 1959年 本陣殺人事件
* 続刊第1巻 スペードの女王 1960年
* 続刊第2巻 支那扇の女 1960年 人面瘡
* 続刊第3巻 壷中美人 1960年 泥の中の女
* 続刊第4巻 扉のかげの女 1960年
* 続刊第5巻 霧の山荘 女の決闘 1961年
* 続刊第6巻 悪魔の手毬唄 1961年
* 続刊第7巻 悪魔の寵児 1961年
* 続刊第8巻 幽霊男 1961年
* 続刊第9巻 死神の矢 黒い翼 1961年
* 続刊第10巻 獄門島 1961年
=== 横溝正史傑作選集 ===
[[東都書房]]から1965年に刊行。
* 第1 犬神家の一族
* 第2 悪魔が来たりて笛を吹く
* 第3 八つ墓村
* 第4 本陣殺人事件・蝶々殺人事件
* 第5 白と黒
* 第6 獄門島
* 第7 悪魔の手毬唄
* 第8 女王蜂
=== 横溝正史全集(旧版) ===
{{節スタブ|1=刊行趣旨|date=2021年4月}}
講談社から1970年に刊行。全10巻。
「全集」を名乗っているが全作品の網羅は目標としていない。たとえば金田一耕助登場作品については、この全集以前に刊行された[[#金田一耕助探偵小説選(1954年版)|探偵小説選(1954年版)]]と[[#金田一耕助推理全集|推理全集]]のいずれかに含まれる54作のうち収録されているのは19作である(金田一耕助登場作品の収録は全部で20作)。
=== 新版横溝正史全集 ===
{{節スタブ|1=刊行趣旨|date=2021年4月}}
講談社から1974年 - 1975年に刊行。全18巻。
[[#横溝正史全集(旧版)|旧版]]に収録された作品を全て収録したうえで追加しているが、やはり網羅は目標としていない。たとえば金田一耕助登場作品については、[[#金田一耕助探偵小説選(1954年版)|探偵小説選(1954年版)]]と[[#金田一耕助推理全集|推理全集]]のいずれかに含まれる54作のうち収録されているのは27作である(金田一耕助登場作品の収録は全部で30作)。
=== 金田一耕助探偵小説選(1975年版) ===
{{節スタブ|1=13巻で完結したという確証|date=2020年9月}}
東京文芸社から1975年 - 1976年に刊行。主として[[#金田一耕助探偵小説選(1954年版)|1954年版]]に収録されていない作品を収録しているが、一部重複がある<ref group="注">各巻の内容は国立国会図書館のデータベースによる。</ref>。収録作品は全て[[#横溝正史全集(旧版)|旧版全集]]や[[#新版横溝正史全集|新版全集]]に未収録である。
* 1 夜の黒豹 1975年
* 2 吸血蛾 1975年 カルメンの死
* 3 魔女の暦 1975年 殺人鬼
* 4 死神の矢 1975年 黒い翼
* 5 壺中美人 1975年 鏡が浦の殺人
* 6 スペードの女王 1975年 女の決闘
* 7 扉の影の女 1975年 暗闇にひそむ猫
* 8 金田一耕助の謎 1975年 霧の中の女 洞の中の女 鏡の中の女 傘の中の女 鞄の中の女 夢の中の女 泥の中の女
* 9 火の十字架 1976年 霧の山荘
* 10 不死蝶 1976年
* 11 華やかな野獣 1975年 毒の矢
* 12 悪魔の百唇譜 1975年 睡れる花嫁
* 13 生ける死仮面 1976年 堕ちたる天女
=== 各作家1巻の作品集 ===
{{節スタブ|date=2020年3月}}
* 『日本探偵小説代表作集 6 横溝正史』生活百科刊行会 1956年(黒猫亭事件、湖泥、蜃気楼塔の情熱、首、黒い翼)
* 『長篇小説名作全集 16 横溝正史』大日本雄弁会講談社 1950年(蝶々殺人事件、本陣殺人事件、獄門島)
* 『現代推理小説大系 4 横溝正史』講談社 1972年(本陣殺人事件、蝶々殺人事件、獄門島)
* 『昭和国民文学全集 16 横溝正史集』筑摩書房 1973年(獄門島、悪魔の手毬唄、蜃気楼島の情熱)
* 『日本探偵小説全集 9 横溝正史集』東京創元社 1989年(鬼火、探偵小説、本陣殺人事件、百日紅の下にて、獄門島、車井戸はなぜ軋る)
=== 角川文庫 ===
1970年代後半における横溝ブームの中心となった[[角川文庫]]の刊行は1971年から1984年にかけて順次進められている。この刊行は、捕物帳などの時代小説を除いて最終的には横溝正史全作品の網羅が目標となり、その中心的存在であった[[中島河太郎]]が巻末解説の多くを書いている(後の改版で削除されているものが多い)。すなわち、角川文庫に収録されたのが当時知られていた全作品であると考えてよく、たとえば「金田一耕助登場作品はジュヴナイル作品を除いて77作ある」というのは、角川文庫への収録数である。
この時期の角川文庫には、作者に割り当てられた通番(横溝正史は304)と作者ごとの通番を組み合わせた通番が振られており、横溝正史の場合には304-1から304-71までの71編と、それとは別に304-80から304-95までのジュヴナイル作品16編、それに304-98『シナリオ悪霊島』と304-99『横溝正史読本』を合わせた89編が刊行されている。71編の内訳は、金田一耕助登場作品を含む42編、由利麟太郎&三津木俊助登場作品を含む13編、その他16編である<ref>{{Cite web|和書|url=http://kakeya.world.coocan.jp/ys_pedia/bunko/ys_kado_m304.html |title=角川文庫 緑三〇四 ― 旧No.シリーズ ― |website=横溝正史エンサイクロペディア |accessdate=2020-3-28 }}</ref>。
89編の多くはKindle版などでしか出版されなくなっている。金田一耕助登場作品を含むものについては、42編のうちの21編に新たに編集した『人面瘡』ISBN 978-4-04-130497-6 を加えた22編を「金田一耕助ファイル」と銘打って紙媒体での出版が継続されている。
「金田一耕助ファイル」設定以降にも1990年代の間に既存89編のうち他の10編(うちジュヴナイル作品2編、その他の金田一耕助登場作品6編)が通常の角川文庫として紙媒体で出版された形跡があるが<ref>{{Cite web|和書|url=http://kakeya.world.coocan.jp/ys_pedia/bunko/ys_kado_new_y5.html |title=角川文庫 よ5 ― 現行No.シリーズ ― |website=横溝正史エンサイクロペディア |accessdate=2020-3-28 }}</ref>、再度品切れ状態になっているものが多い。そのほか、ジュヴナイル作品7編が初期の[[角川スニーカー文庫]]に新装改訂されて出版されている。2000年代以降には、別の既存版(由利麟太郎ものが比較的多い)を改版して再刊行する例がみられる<ref group="注">『悪魔の降誕祭』のみ1990年代に出版したものを改版。</ref>。
なお、通番「304」を使わなくなった以降に新たに編集して紙媒体で刊行されたものとしては、『人面瘡』のほかエッセイ集や[[#未収録作品等の刊行|未収録作品集]]、最近発見された『雪割草』、あるいは人形佐七捕物帳などの傑作選がある。
2018年より「金田一耕助ファイル」以外の作品で[[杉本一文]]の絵が描かれた表紙カバーと巻末解説付きにて改版・復刊が始まり、2021年は「没後40年記念」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322108000247/ |title= 扉の影の女 |accessdate=2022-05-18 }}</ref>、2022年は「生誕120年記念」と銘打ち<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322111000517/ |title=支那扇の女 |accessdate=2022-05-18 }}</ref>、月1 - 2冊ペースで発行されている。
2023年現在ではジュヴナイルと怪獣男爵を含めた金田一耕助シリーズの全編は、角川文庫から展開されている金田一耕助ファイル22冊<ref>[https://store.kadokawa.co.jp/shop/b/b00042901/ 金田一耕助ファイル]</ref>と同文庫からAmazonで展開されている「金田一耕助シリーズ」28冊<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B0977MJHBM 「金田一耕助」シリーズ (全28巻)]</ref>(内3冊はエッセイ(21,26))と重複(28))および『金田一耕助の冒険』(旧文庫版1と2の内容を含む)<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B0B2JBB768 金田一耕助の冒険 (角川文庫) Kindle版]</ref>、『怪獣男爵』<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B0BLS8NKK2 怪獣男爵 (角川文庫) Kindle版]</ref>、柏書房の「横溝正史少年小説コレクション2」(黄金の花びら)<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/4760153853 横溝正史少年小説コレクション2 迷宮の扉 単行本]</ref>(唯一電子版が存在しない)の計50冊を以って全て入手することが可能となっている。
=== 春陽文庫 ===
[[春陽堂書店#刊行物|春陽文庫]]は1974年 - 1975年に「横溝正史長編全集」と銘打って20編を刊行した。しかし、「長編全集」と銘打ちながら代表的な長編はほとんど収録されず、むしろ中短編について金田一耕助登場作品の8割近くを網羅している(詳細は[[金田一耕助#文庫などへの収録]]を参照)。20編のうち第2編『蝶々殺人事件』のみが由利麟太郎登場作品を収録しており、他は全て金田一耕助登場作品を収録している。
1996年 - 1998年には「横溝正史長編全集」というシリーズ名を外して「新装版」として改めて刊行された。刊行順序は異なっているが収録作品の組み合わせは同じであり、それに『死仮面』が追加されて21編となった。表題作である『[[死仮面]]』は角川文庫刊行に伴う網羅作業の中で発掘された作品で、角川文庫の段階では欠落部分を中島河太郎が補完していたが、その欠落部分が発見されて本来の形としたものに「長編全集」に収録されていなかった『鴉』を合わせて1編としている。
また、春陽文庫は1984年に「人形佐七捕物帳全集」と銘打って14編を刊行している。さらに、春陽文庫を出版している[[春陽堂書店]]は、2019年 - 2021年に「完本人形佐七捕物帳」10編を刊行した。
{{Main|人形佐七捕物帳#シリーズ一覧}}
=== 横溝正史自選集 ===
出版芸術社から2006年 - 2007年に刊行。横溝正史は自選作品を何度か挙げているが、そのうち1977年1月16日に「毎日新聞日曜くらぶ」に掲載された「わたしのベスト10」(角川文庫『真説 金田一耕助』 ISBN 4-04-130463-6 に収録)に挙げたものが広く知られており、この自選集もこれによっている。[[#新版横溝正史全集|講談社の全集]]を底本に初出誌と校合してテキストを確定するという方針で編集されている<ref>{{Cite | 和書 | last = 浜田 | first = 知明 | chapter = 解説 | title = 横溝正史自選集5 | isbn = 978-4-88293-318-2 | page = 365}}</ref>。また、横溝正史とのインタビューに際して製作され「著者公認」とされている、獄門島と鬼首村の地図が本文中に挿入されている<ref>{{Cite | 和書 | last = 浜田 | first = 知明 | chapter = 解説 | title = 横溝正史自選集2 | isbn = 978-4-88293-313-7 | page = 317}}</ref><ref>{{Cite | 和書 | last = 浜田 | first = 知明 | chapter = 解説 | title = 横溝正史自選集6 | isbn = 978-4-88293-323-6 | page = 365}}</ref>。
* 1 本陣殺人事件 / 蝶々殺人事件 ISBN 978-4-88293-308-3
* 2 獄門島 ISBN 978-4-88293-313-7
* 3 八つ墓村 ISBN 978-4-88293-316-8
* 4 犬神家の一族 ISBN 978-4-88293-309-0
* 5 悪魔が来りて笛を吹く ISBN 978-4-88293-318-2
* 6 悪魔の手毬唄 ISBN 978-4-88293-323-6
* 7 仮面舞踏会 ISBN 978-4-88293-324-3
=== 柏書房によるコレクション ===
[[柏書房]]は2017年 - 2018年に『横溝正史ミステリ短篇コレクション』6巻、2018年 - 2019年に『由利・三津木探偵小説集成』4巻、2021年に『横溝正史少年小説コレクション』7巻を刊行した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kashiwashobo.co.jp/author/a157498.html |title=横溝正史 |publisher=柏書房 |accessdate=2021-12-8 }}</ref>。角川文庫収録作品の多くが出版されなくなった状況を受けての刊行であるが、初出または初刊の状態を基準として校訂し直すという方針も強調している。
『横溝正史ミステリ短篇コレクション』は、金田一耕助、由利麟太郎、三津木俊助が登場しない短編作品で、捕物帳などの時代小説でもジュヴナイル作品でもないものを集めている。すなわち、1984年までの角川文庫に収録された作品のうち、
* 『自選人形佐七捕物帳』に収録された作品
* 別番号のシリーズに収録されたジュヴナイル作品
* 金田一または由利&三津木が登場する作品
* 『びっくり箱殺人事件』『神変稲妻車』『髑髏検校』『女が見ていた』『呪いの塔』
を除いた全作品を、角川文庫と同じ順序(一部に編冊単位の順序が違う部分、ごく一部に編冊内での順序が違う部分がある)に収録し、さらに角川文庫未収録の『湖泥』(金田一耕助登場作品とは別)および『鬼火』の自筆原稿に基づくオリジナル版も収録されている。
『由利・三津木探偵小説集成』は由利麟太郎または三津木俊助が登場する作品を集めている。角川文庫(ジュヴナイル作品以外)に収録された由利&三津木登場作品の全てと、翻案ものという理由で収録されなかった『迷路の三人』<ref group="注">本コレクションに先立って『[[#未収録作品等の刊行|横溝正史探偵小説コレクション]]1』に収録された。</ref> および未完の『神の矢』『模造殺人事件』が収録されており、確認されている全作品(ジュヴナイル作品および『仮面劇場』を長編化する前の原型作品を除く)と考えて良いと思われる。
『横溝正史少年小説コレクション』は[[ジュブナイル]]作品を集めている。一般にジュブナイル作品は掲載誌が散逸しやすい傾向があり、横溝正史作品についても多数の[[#角川文庫|角川文庫]]未掲載作品があった。未掲載作品の多くは論創社の『[[#未収録作品等の刊行|横溝正史探偵小説選]]』に順次収録されたが、それも含めて再整理し系統的なコレクションとしたものである。初出または初刊を重視する方針から、角川文庫などへの収録に際して金田一ものに改稿された作品は当初の由利&三津木登場作品に戻されている。また、掲載誌の休刊により中断し改めて書き直された作品は両方のバージョンを併録するなど、未完作品や未発表作品も積極的に収録している。
=== 未収録作品等の刊行 ===
角川文庫では横溝正史作品を網羅的に刊行したが、中断作品はもとより、長編に改稿された元の短編作品が収録されなかった。このうち金田一耕助登場作品については、元となった短編作品の収録を目的として『金田一耕助の帰還』([[出版芸術社]]1996年 ISBN 978-4-88293-117-1、[[光文社文庫]]2002年 ISBN 978-4-334-73262-2)および『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-118-8、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73276-9)が刊行されている。ただし、中絶作品や[[金田一耕助#金田一が登場しない原型作品|金田一耕助が登場しない原型作品]]、『[[不死蝶 (小説)|不死蝶]]』『[[火の十字架]]』の原型作品、『迷路荘の怪人』を最終的に『[[迷路荘の惨劇]]』とする前の中間段階の作品は収録されていない<ref group="注">『不死蝶』の原型作品と『迷路荘の惨劇』の中間段階作品は、各々後述の論創社や出版芸術社の書籍に収録された。『火の十字架』については『金田一耕助の新冒険』の単行本版の解説では未収録としているが、文庫版では量的にも質的にも改稿に値しないとの記述に改められている。</ref><ref group="注">中絶作品『病院横町の首縊りの家』については1998年3月に光文社文庫に収録されている([[病院坂の首縊りの家#原型短編]]を参照)。</ref>。
その後も角川文庫に収録されなかった作品の整理が進んでおり、その成果として[[カドカワノベルズ]]から1999年に『双生児は囁く』ISBN 978-4-04-788140-2(2005年に文庫化 ISBN 978-4-04-355502-4)、2000年に『喘ぎ泣く死美人』ISBN 978-4-04-788149-5(2006年に文庫化 ISBN 978-4-04-355505-5)が刊行されている。
出版芸術社は2003年 - 2004年に『横溝正史時代小説コレクション』全6巻を伝奇篇3巻と捕物篇3巻という構成で刊行した。伝奇篇は捕物帳ではない時代小説で出版実績の乏しい作品を集めたもので、比較的長い作品が多い。捕物篇のうち2巻は人形佐七捕物帳のうち[[#春陽文庫|春陽文庫]]の「全集」に収録されなかった30作を収録したものである。残る1巻は人形佐七以外の捕物帳を集めたもので、後に人形佐七ものに改稿された作品も含まれる。
さらに出版芸術社は2004年に『横溝正史探偵小説コレクション』3巻を刊行し、2012年に4、5を追加刊行した。2004年刊行の3巻は、角川文庫などへの未収録が多い戦時中や戦後の作品を、おおむね発表時期順に収録したもので、少数の角川文庫所収作品を除いて未収録作品である。[[金田一耕助#金田一が登場しない原型作品|金田一ものに改稿された原型作品]]6作も含まれる。4は後に長編化された原型作品のうち「短編」とは言えない分量がある『[[迷路荘の惨劇|迷路荘の怪人]]』『[[仮面劇場|旋風劇場]]』を収録している。5は「岡山もの」の短編を集めたもので、『首』の[[首 (横溝正史)#改定増補版|未発表改定増補版]]を除いて角川文庫所収作品である。
{{節スタブ|1=論創社『横溝正史探偵小説選』|date=2020年7月}}
== 演じた俳優 ==
* [[香川照之]] - 『[[RAMPO]]』([[松竹]])
* [[小日向文世]] - 『[[犬神家の一族]]』『[[八つ墓村]]』『[[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]]』『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』『[[悪魔の手毬唄]]』(いずれも[[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ|金田一耕助シリーズ]]」)
* 横溝正史(本人) - 『[[病院坂の首縊りの家 (映画)|病院坂の首縊りの家]]』([[東宝]])、『[[金田一耕助の冒険 (映画)|金田一耕助の冒険]]』([[東映]])
==その他==
===研究・解説本===
*[[小林信彦]]編 『横溝正史読本』(角川書店、1976年 / 角川文庫、1979年、改版2008年)
*『横溝正史研究』(2017年に第6号発行、戎光祥出版)<ref>[http://www.ebisukosyo.co.jp/products/detail.php?product_id=329 横溝正史研究 6] 戎光祥出版(2017年12月22日閲覧)</ref>
*[[中川右介]] 『[[江戸川乱歩]]と横溝正史』(集英社、2017年 / 集英社文庫、2020年)
*[[内田隆三]] 『乱歩と正史 人はなぜ死の夢を見るのか』(講談社選書メチエ、2017年)
===漫画作品===
* 『血まみれ観音』絵:[[高階良子]]
** 原題『夜光虫』の漫画化。1973年11月 - 1974年2月号の『[[なかよし]]』に連載。1999年に講談社漫画文庫で復刻した。
* 『真珠色の仮面』絵:高階良子
** 原題『仮面劇場』の漫画化、1972年11月 - 12月号の『なかよし』に連載。1999年講談社漫画文庫において『血まみれ観音』に収録。
* [[影丸譲也]]『八つ墓村』『悪魔が来りて笛を吹く』『霧の別荘の惨劇』
** 『八つ墓村』は1968年 - 1969年『[[週刊少年マガジン]]』誌に連載され大ヒット。横溝ブームの先駆け的役割を果たした。単行本は何種類も発行されている。
** 『悪魔が来りて笛を吹く』は1979年の東映映画公開のタイアップとして、映画シナリオを元に漫画化した作品。
* [[玄太郎]]『鬼火』『蔵の中』『カルメンの死』『蜘蛛と百合』
* [[ささやななえ]]『獄門島』『百日紅の下にて』
* [[つのだじろう]]『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』
* 岩川ひろみ『女王蜂』
* [[いけうち誠一]]『犬神家の一族』『獄門島』『悪魔の手毬唄』
* 鳳英洋『黒猫亭事件』
* 掛布しげを『湖泥』『八つ墓村』『女王蜂』
* [[JET (漫画家)|JET]]『獄門島』『本陣殺人事件』『黒猫亭事件』『睡れる花嫁』『車井戸はなぜ軋る』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』『女怪』『犬神家の一族』『蝙蝠と蛞蝓』『雌蛭』『悪魔が来りて笛を吹く』『花園の悪魔』『鴉』『悪魔の寵児』『悪霊島』『面影双紙』『真珠郎』『蜘蛛と百合』『薔薇と鬱金香』
* たまいまきこ『悪霊島』『女王蜂』『トランプ台上の首』
* 長尾文子『迷路荘の怪人』『睡れる花嫁』『不死蝶』『犬神家の一族』『本陣殺人事件』『獄門島』『悪魔の手毬唄』『八つ墓村』『鴉』
* [[小山田いく]]『犬神家の一族』
* [[田中つかさ]]『人形佐七捕物帳』
==出演==
===映画===
*[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]] (那須ホテルの主人として出演、1976年)
*[[悪魔が来りて笛を吹く#1979年版|悪魔が来りて笛を吹く]] (雑炊屋として出演、1979年)
*[[病院坂の首縊りの家 (映画)|病院坂の首縊りの家]] (老推理作家として出演、1979年)
*[[金田一耕助の冒険 (映画)|金田一耕助の冒険]] (横溝先生として出演、1979年)
===CM===
*[[角川書店]] 角川文庫ミステリーフェア GUILTY篇([[高木彬光]]、[[森村誠一]]と出演、1978年)<ref>『ACC CM年鑑'79』([[全日本シーエム放送連盟|全日本CM協議会]]編集、[[誠文堂新光社]]、1979年 44頁)</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[神戸文学館]]
* [[日本における検閲]]
* [[真備町]] - 戦時中の疎開先。「倉敷市横溝正史疎開宅」として当時の家が残されている。
* [[金田一耕助]]
* [[船穂町]] - 父親の出身地
* [[梁場山城]]
* [[横溝武夫]] - 異母弟、兄の正史と同じく『新青年』の編集長を務めた。
* [[岩田準一]] - 交流があった。
* [[金田一耕助の小径]]
* [[巡・金田一耕助の小径]]
== 外部リンク ==
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px|Portal:文学]]}}
* {{Commonscat-inline}}
* [https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/yokomizo.html 横溝正史館(山梨市)]
* [https://www.city.kurashiki.okayama.jp/9534.htm 横溝正史疎開宅(倉敷市)]
* [http://kakeya.world.coocan.jp/ys_pedia/ys_pedia_index.html 橫溝正史エンサイクロペディア]
* {{NHK人物録|D0009072312_00000}}
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[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:日本の薬剤師]]
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チンギス・カン
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チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、英語:Genghis Khan、1162年11月12日 - 1227年8月25日?)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。死後は廟号を太祖、諡を法天啓運聖武皇帝と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。
大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。
死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。
のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀にウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル国という国も建てて繁栄したが、契丹族の遼がモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている。
チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟のアンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏のクトラ・カンはアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った。
チンギス・カンはイェスゲイ・バアトルの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとした。『元朝秘史』などによると、この時、コンギラト氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとはわからない。
父のイェスゲイは、カブル・カンの次男のバルタン・バアトルの三男で、父と同じバアトル(勇者)の称号を持つ。イェスゲイは叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げ、カンにつぐ地位に就く(カンは空位のまま)。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイト部のカンであるトオリル(後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長のデイ・セチェンの家へ行き、その娘のボルテと婚約をさせる。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長であるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう。そんな中でもイェスゲイの妻のホエルンは配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていたスルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻ることができた。テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくしてメルキト部族連合の部族長トクトア・ベキ率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カンと、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部ジャダラン氏族長であるジャムカと同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する。
メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの弟がジャライル部族の領地の馬をひそかに略奪しようとして殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとダラン・バルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。
さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトオリルがカン位を追われ、わずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトオリルの両者は、トオリルがテムジンの父のイェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトオリルはケレイトのカン位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った(ウルジャ河の戦い)。この功績によりテムジンには金から「百人長」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャダラン氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルを打ち破った。
1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・キヤト同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟軍を破った。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男のイルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕えて処刑した。やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。
翌1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、九脚の白いトゥク(ヤクやウマの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。纛。tuq〜tuγ)を打ち立て、諸部族全体の統治者たるチンギス・カンに即位してモンゴル帝国を開いた。チンギス・カンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老のモンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。「チンギス」という語彙の由来については確実なことは分かっていない。元々モンゴル語ではなくテュルク語から来た外来語だったとみられ、「海」を意味するテンギズ (tenggis / tenngiz) を語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。
チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギス・カンと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。
戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3・4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。
このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギス・カンの3人の弟のジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギス・カンの3人の息子のジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギス・カンの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。
クリルタイが開かれたときには既に、チンギス・カンは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。
着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年に金と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って華北を荒らした。
この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗した。しかし、チンギス・カンとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身に付けていった。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査によれば約900万人ほどになってしまったという。南部に逃げた人たちも大勢いるがその勢力の強さが窺える。
こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギス・カンは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。翌1214年、チンギス・カンは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。1215年、モンゴル軍は金の従来の首都の燕京(現在の北京)を包囲・陥落させた。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス・カンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギス・カンは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。
このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主耶律直魯古から王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の10年によって疲弊していた。そこで、チンギス・カンは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなった。
1218年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した(ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊だった可能性を指摘する説もある)。その報復としてチンギス・カンは末弟のテムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達した。モンゴル帝国側の主な資料にはこの時のチンギス・カンの親征軍の全体の規模について、はっきりした数字は記録されていないようだが、20世紀を代表するロシアの東洋学者ワシーリィ・バルトリドは、その規模を15万から20万人と推計している。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊した。
ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの軍はキプチャクやルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。
一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタン・ホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーン・メングベルディーを追い、南下を開始した。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、メルブ(その後二度と復興しなかった百万都市)、バーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。特に、ジャラールッディーンが所領のガズニーから反撃に出た直後、大断事官のシギ・クトク率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたことに始まり(パルワーンの戦い)、バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子のモエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス・カン本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹のトムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていた。
アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため戦況が泥沼化したことによるのではないかとする指摘も近年、モンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによって指摘されている。
チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破するが、ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去った。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。チンギス・カンは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、1225年になってようやく帰国した。
西征から帰ったチンギス・カンは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男のチャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男のオゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。末子のトルイにはその時点では何も与えられないが、チンギス・カンの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、カン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。
これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギス・カンがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ってきたチンギス・カンはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギス・カンは再び戦いにとりかかった。
1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都の興慶(現在の銀川)より南の都市の霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。
1227年、チンギス・カンは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西・河南の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。『集史』によれば、南宋との国境、すなわち四川方面に向かったという。同年夏、チンギス・カンは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否した。
ところがこのとき、チンギス・カンは陣中で危篤に陥った。このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で崩御した。『元史』などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られた。これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝はこの起輦谷へ葬られた。
彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その崩御後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎が残された。
チンギス・カンの崩御後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたという。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。チンギスは崩御の間際、自分の死が世間に知られれば直ちに敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないよう家臣達に遺言したと言われている。
チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。
一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在中華人民共和国の内モンゴル自治区に全国重点文物保護単位であるオルドス市の成吉思汗陵(中国語版)とウランホト市の成吉思汗廟(中国語版)があるが、前者は1950年代に移動を重ねていた八白室を内モンゴルに戻して固定施設に変更して中国政府が建設したもので、後者は1940年代に当時の満州国に建てられたものであり、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。
冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは土を掘ることを嫌う風習と民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が外国人に発掘されることからこれに不満を持つ人が多いという。
2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。
シカゴ大学のジョン・ウッズ(英語版)教授も2001年にヘンティー山脈の丘陵地において、高さ約2.7~3.6メートルの石積みの壁が断続的に約3.2キロ続く遺構を確認、『元朝秘史』にある「古連勒古(クレルグ)」に比定し、チンギス・カンはじめモンゴル王族(元朝皇帝)の陵墓である可能性が高いと示唆するが、発掘調査には至っていない。
また2009年、中国大連在住のチンギス・カンの末裔とされる80歳の女性が「チンギス・カン陵墓が現在の四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族に伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたため、中国政府も調査を開始した。
2015年、チンギス・カンの墳墓が周辺にあるとされるブルカン・カルドゥンが世界遺産となった。
モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになった。
13世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。
チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、18世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しか現れなかった。外モンゴルと内モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。
こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。
2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼らによれば、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たという。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測しており、この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという仮説を発表した(、)。
この研究を主導したひとりクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は、チンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげている。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べている。
しかしながら、この論説に対しては批判もあり、特に集団遺伝学者でスタンフォード大学のルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。さらに、分布の状況と一夫多妻制が原因しているとするテイラー=スミスの見方に対しても、「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している。(同研究グループは同様の別の研究で、東アジアの男性約1000人のうち3.3%に現れた特定のY染色体について、その共通祖先は清朝初代皇帝ヌルハチの祖父ギオチャンガに比定しているが、カヴァッリ=スフォルツァはこの断定にも同様に根拠が薄弱であるという理由で異議を唱えている)
オックスフォード・アンセスターズの遺伝学者ブライアン・サイクスも研究が発表された2003年に出版した著書『アダムの呪い』で上記の研究を紹介しているが、「状況証拠は有力だが、残念ながら証明はできない」としながらも、検出されたY染色体についてチンギス・カンのものであるとほぼ断定している。同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・カンに対する人物評についても「チンギスハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている。だが同氏の見解のとおりだと、英国にも一定頻度で同様のY染色体キャリアがいることについて説明が出来ない、との反論がある。
大手遺伝子研究所であるケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士(Qasim Ayub, PhD Sanger Institute,CAMBRIDGE) らはアジア人の起源について研究していた。 アジア全域から集められた2000人以上の男性の血液サンプルを採取しDNAを抽出。 分析の結果、対象サンプルの多くがある同一の家系に属していることが判明した。 対象の8%にほぼ同一のマイクロサテライト(DNAの短い配列の繰り返し)が見られた。 考えられるのは彼らには同じDNAを持つ共通の祖先がいるということ。 その祖先がどの時代の人物かを割り出すと、およそ1000年前で、さらにその遺伝子の発祥地はモンゴルであることも判明した。 モンゴルで同一の遺伝子集団が多く見られたこと、また時代を考慮すると、その祖先とはチンギス・カンである可能性が高いという。世界の3200万人がその遺伝子を引き継いでいると結論づけた。
このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。
モンゴル人民共和国はスフバートル、ダンザン、ボドー、チョイバルサン、ドクソム(英語版)、チンギス・カンの直系子孫であるモンゴル学者ビャムビーン・リンチェン(英語版)や王侯ナヴァーンネレン(中国語版)等のモンゴル民族主義者で構成されたモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)がソビエト連邦の赤軍の支援を受けて独立させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する衛星国だったが、当初はリンチノ(英語版)ら汎モンゴル主義者を抱えていることから革命のためにチンギス・カンを政治的利用させた。1960年代にはトゥムルオチル(英語版)政治局員らがチンギス・カンの生誕800周年を祝い、チンギス・カンの研究者を集めたシンポジウムを開いて切手も発行され、チンギス・カンの故郷とされたダダル郡に記念碑が建設された。1962年にトゥムルオチル政治局員のライバルだった当時の首相ツェデンバルは、中ソ対立とこの祝賀を機にトゥムルオチルを「民族偏向主義者」「中国寄り」であるということで追放した。以後チンギス・カンは批判されていった。モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生モンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、モンゴルの紙幣トゥグルグでもスフバートルとともにチンギス・カンの肖像が用いられ、かつてスフバートル廟があったモンゴル政府宮殿前には改装の際にチンギス・カンの銅像が建てられて大統領の就任宣誓が行われている。
また、中華人民共和国でもチンギス・カンの生誕800周年はウランフと周恩来の後押しで建設されたオルドス市の成吉思汗陵で盛大に祝われ、チンギス・カンが死去した場所とされる六盤山の涼殿峡(中国語版)は保護区となっている。日本軍占領下でバトマラプタンとボヤンマンダフや松王の後押しによって建てられたウランホト市の成吉思汗廟もむしろ革命的なシンボルとして政府の資金で改修などがされており、歴史劇としてチンギス・カンの子孫であるモンゴル族俳優のバーサンジャブを主演に据えたテレビドラマ「チンギス・ハーン」や映画が制作されて内モンゴル自治区ではチンギス・ハーン鎮(中国語版)などの地名やチンギス・カンの像があり、モンゴルを訪問した際に習近平のような中国の指導者はチンギス・カン像に頭を下げて敬意を表し、中国国内ではチンギス・カンの肖像を踏みつけるといった行為は年少者でも民族の英雄を侮辱した罪で逮捕・実刑を受けているが、あくまで中国政府の主張する「中華民族の英雄」としての崇拝が認められており、人権活動家で内モンゴル独立運動家のハダとモンゴル族の若者が集まってチンギス・カンの肖像を掲げてモンゴルの歌を放吟すると「国家分裂扇動」「スパイ活動」として逮捕・拘禁されている。
『集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する4人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。
チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。
『集史』チンギス・ハン紀后妃表には5人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma)について記録されている。
『集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの多くの男子のうち、 クビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料に基づく)。
「チンギス・カン」とはテムジンが即位の際にコンゴタン氏族出身のテブ・テングリ(ココチュ)というシャーマンから与えられた称号であるが、その意味については諸説ある。
『集史』部族篇オロナウト族の項には、
とあり、『蒙古源流』には
とあり、ブリヤト・モンゴル人の学者ドルジ・バンザロフは「これはシャーマンの間で唱えられている光の精霊の名のHaǰir Činggis Tenggeriという言葉から出たに相違ない」とし、ポール・ペリオはテュルク語のdenggiz(海、湖)という語に比定し、「海の精霊」を指したものであろうとした。
チンギス・カンの呼称は、歴史的に見て「チンギス・カン」系と「チンギス・カアン」系の2種類に大別出来る。
本来、13 - 14世紀当時の中期モンゴル語では「チンギス・カン」 (Činggis Qan) と称していたことが同時代資料の調査から分かっている。
これは、当時のウイグル文字モンゴル語ではイェスンゲ紀功碑などでも CYNKKYZ Q'N (Činggis Qan) と書かれ、第5代モンゴル皇帝クビライの大元ウルスで開発されたパスパ文字によるモンゴル語皇帝聖旨碑文でも ǰiṅ-gis qa-nu とある。
また13世紀のアラビア語・ペルシア語年代記では、イブン・アル=アスィールの『完史 (al-Kāmil fī al-Ta'rīkh) 』(1231年成立)やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『ジャラールッディーン伝 (Sīrat al-Sulṭān Jalāl al-Dīn Mankubirtī) 』(1240年代初頭成立)、ジューズジャーニーの『ナースィル史話 (Tabaqāt-i Nāṣirī) 』(1260年成立)といったモンゴル帝国外で成立した資料では جنكيز خان Jinkīz Khān (ペルシア語資料の刊本では現在のペルシア文字の چ č/ch や گ g が補われて چنگيز خان Chingīz Khān )などと表記されており、モンゴル帝国側の資料と言えるジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』(1260年成立)でもやはり چنگيز خان Chingīz Khān などとなっている。ラシードゥッディーンの『集史』(1314年成立)では編者のラシード在世中に書写された紀年(1317年書写)を持つ現存最古の写本、いわゆる「イスタンブール本」(Revân köşkü No. 1518)では、(ウイグル文字での綴りを反映していると思われるが) چينككيز خان Chīnkkīz Khān とあって同書では「チンギス・カン」は一貫してこの綴りを用いている。このように13 - 14世紀のモンゴル帝国内外のアラビア語・ペルシア語文献ではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分は、従来からあったテュルク語の χan (ハン)のアラビア文字転写である خان khān を用いた。
一方で、後代のモンゴル語文献では「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) という言い方もされている。
17世紀初頭に成立した『アルタン・ハーン伝』などでは、「チンギス・カアン」 (CYNKKYZ Q'Q'N /Činggis Qaγan) の綴りで表記され、サガン・セチェン『蒙古源流』や『アルタン・トプチ』などの代表的な近代以降のモンゴル語年代記でも同様に表記されている。現存最古のモンゴル語による歴史書文献で明代に入って最終的な編纂をみる洪武刊十二巻本『元朝秘史』でも「成吉思可罕」 (Činggis Qahan) となっており、現存の『元朝秘史』は明代のものだが、14世紀末の「チンギス・カアン」系の資料である。
「カン」と「カアン」の違いについてだが、ハーンの項目でも述べられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγan) は、一般的な「王」や「君主」を意味する「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝」の意味として、第2代皇帝オゴデイによって古代の「カガン」 (Qaγan) の称号を復活させて用いられたと考えられており、第4代モンケ、第5代クビライによってモンゴル皇帝の称号として定着した。
13 - 14世紀にモンゴル帝国側の資料で「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) と呼ぶ例は、皆無ではないが筆記者による書き間違いなどの可能性もあるレベルで、一般的ではなかったようである。
例えば、大元ウルスでの場合、少林寺蒙漢合璧聖旨碑の例を挙げると、タツ年(至元5年戊辰、1268年)正月25日の紀年を持つウイグル文字モンゴル語によるクビライの聖旨碑文には、チンギスは CYNKKYZ X'N/Činggis Qan と書かれ、オゴデイは単に X'X'N/Qaγan〜Qa'an と書かれている。およそ半世紀のちのネズミ年(皇慶元年壬子、1318年)3月13日の紀年のある同じ碑石に刻された仁宗アユルバルワダによる聖旨碑でも、チンギスは「チンギス・カンの」 ǰiṅ -gis qa-nu/ǰiṅgis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 "ö-kˋö-däḙ q·a-nu/Öködeï Qa'an-u 、クビライは尊号である「セチェン・カアンの」 sä-čän q·a-nu/Sečen Qa'an-u で呼ばれており、続く成宗テムルも同じく尊号の「オルジェイトゥ・カアンの」 "öˆl-ǰäḙ-tˋu q·a-nu/Öˆlǰeïtü Qa'an-u、武宗カイシャンも尊号の「クルグ・カアンの」kˋü-lug q·a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号のまま使われており、オゴデイ以下他と区別がされている。
イルハン朝でも上述の通り、チンギスは『世界征服者の歴史』などの جنكيز خان Jinkīz Khān (または چنگيز خان Chigīz Khān)あるいは『集史』のような چينككيز خان Chīnkkīz Khān と書かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 اوكتاى قاآن Ūktāī Qā'ān、クビライは「クビライ・カアン」 قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān となっている。しかしながら例えばチンギス・カアン جنكيز قاآن Jinkīz Qā'ān のような表記をされた資料はイルハン朝以降も見られない。このような جنكيز خان Jinkīz Khān と(オゴデイ・)カアン قاان Qā'ān のような表記の書き分けは、第3代皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書にもはっきり確認される。13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。総じてこの جنكيز خان Jinkīz Khān という表記はティムール朝時代以降も一般的に使われている。
イルハン朝周辺でもウイグル文字モンゴル語で書かれた資料がいくつか残されており、例えば『集史』編纂後程なく成立したと見られる系図資料『五族譜』 (Shu`ab-i Panjgāna) は各々主要なモンゴル君主の部分には人物名のアラビア文字表記とウイグル文字表記とを併記しているのが特徴となっている。そこではチンギスの場合、アラビア文字で جينككيز خان Jīnkkīz Khān と表記され、ウイグル文字では cynγkyz q'n/čiŋγis qan と表記されている。クビライの場合はアラビア文字で قُوبِيلَاي قآن Qūbīlāī Qa'ān と表記され、ウイグル文字では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記されている(アラビア文字表記は『集史』イスタンブール本とほぼ同一となっている。「カアン」のアラビア文字表記について『世界征服者の歴史』やグユクのインノケンティウス4世宛国書では قاان Qā'ān もしくは قاآن Qā'ān と4文字で表記されるが、『集史』イスタンブール本や『五族譜』では قآن Qa'ān と3文字で表記されており、2番目の文字にアリフの長母音記号であるマッダ記号が附されているのが特徴的である)。
後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。
漢語文献では、チンギス在世中の記録として、ムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使者孟珙撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)の報告書『蒙韃備録』(1221年頃成立)やサマルカンド駐留中のチンギス・カンに謁見した長春真人・丘処機の旅行記『長春真人西遊記』(1228年頃成立)が知られているが、いずれも「成吉思皇帝」と書かれている。南宋側の記録である『蒙韃備録』や『黒韃事略』(1237年成立)でもチンギスは「成吉思皇帝」や「韃主」と呼ばれているが、「チンギス」という音写に基づく呼称は一貫して「成吉思」や「成吉思皇帝」であり、ウイグル文字、パスパ文字、アラビア文字などのような「カン」と「カアン」の書き分けは生じていない。『元朝秘史』のような「成吉思可罕」という表記は漢語文献では稀であり、ほとんど確認されない(ちなみに、1346年に成立したチベット語文献の『フゥラン・テプテル』でも「太祖チンギス帝」 (Thaḥi dsuṅ Jiṅ gi rgyal po) とあって「カン」や「カアン」の部分は音写されていない)。
1266年にクビライによってチンギス・カン以来のモンゴル皇帝や皇后、イェスゲイ・バアトルやトルイなどの主要モンゴル王族の廟号と諡号が設けられ、チンギスには廟号を太祖、諡号を聖武皇帝と贈られた。また、1309年12月3日に武宗カイシャンによってさらに法天啓運聖武皇帝と追諡された。これらを受けて大元ウルスの末期に編纂された随筆『南村輟耕録』の歴代モンゴル皇帝を列記した巻第1 列聖授受正統 には「太祖應天啓運聖武皇帝 諱鐵木眞國語曰成吉思。」と記されている。
以上のように、西方のアラビア文字圏ではイルハン朝以降もほぼ一貫して「チンギス・カン」系の表記のままであったのに対して、モンゴル高原では「チンギス・カアン」系に呼称が遷移した。近代モンゴル語 Чингис Хаан [ʧiŋgɪs χaːŋ]の音韻に近い「チンギス・ハーン」という表記が、近年一般に流布して用いられたが、これは表記上の問題以外に音韻上の変化についても問題となる。パスパ文字モンゴル語やアラビア文字表記から、ウイグル文字などに見られる Qaγan は第2音節の -aγa- は -a'a- と軟音化して「カアン」と発音されていたことが確実で、これが近現代音ではさらに χaːŋ のようにほぼ長母音化してしまっている。中期モンゴル語の q 音もパスパ文字モンゴル語表記やアラビア文字転写によって、「カ」に近い音であったが、現在では χ 音に移行している。χ 音は日本語の仮名転写では「ハ」行が用いられるため、中期モンゴル語としては「チンギス・カアン」と呼ぶべきものが「チンギス・ハーン」に変化しているのである。また、近現代モンゴル語でも「カン(ハン)」と「カアン(ハーン)」の区別は存在するが、チンギスは「ハーン(皇帝)」であるため、「チンギス・ハン (Чингис хан) 」とは呼んではならず、「チンギス・ハーン (Чингис хаан) 」と呼ぶべきだと現在のモンゴル人は考えている、との報告もされている。
一方で、ペルシア語文献でのアラビア文字(ペルシア文字)転写で多い、چنگيز خان Chigīz Khān を仮名転写すると「チンギーズ・ハーン」となり、近現代モンゴル語の「カアン」 (Qa'an) の発音転写とアラビア文字表記での「カン」 (Qan) の仮名転写が、「ハーン」という同一の転写になってしまう。「カン」と「カアン」という中期モンゴル語のレベルでは意味的に異なる単語が、依拠する資料で同一の仮名転写になるという弊害が生じることとなった。
このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言った具合に、日本語文献での仮名転写が研究者や執筆者の間でバラバラの状態になり、混乱をきたすようになった。一般に日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「成吉思汗」と書かれる。ただし、「汗」の読みは中国でも年代や地域により異なり、「ハン」「ホン」、閩東語・閩南語では「カン」(ガン)となるが、古代の上古中国語では「ガーン」であった。明治時代の日本ではジンギス・カンと振り仮名されていた。清朝時代の満州語では「ハン」と発音され、中期モンゴル語や近現代モンゴル語の「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立は見られないという。
主に、1980年前後から『アルタン・ハーン伝』に見られるような16 - 17世紀以降のモンゴル語文献の調査に基づく研究者の間では「チンギス・ハーン」という表記を採用する傾向にあり、一方で1990年代以降に中国で発掘された大元ウルス時代のパスパ文字モンゴル語碑文や『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語文献の調査の進展によって、中期モンゴル語音韻の復元研究が進み、モンゴル帝国では「カン」と「カアン」が明確に区別されていたことが判明・認識されるようになった。このため13 - 14世紀のモンゴル帝国時代の研究者からこれらの同時代文献資料での表現に基づいて「チンギス・カン」という表記が推奨されるようになった(両者の弁別を強く訴えている研究者としては、モンゴル帝国史・大元ウルス史の専門家である杉山正明などが有名である。また、「チンギス・ハン」は「チンギス・カン」の現代モンゴル語読み (Činggis Qa'an) か、どちらかというとアラビア文字表記の چنگيز خان Chigīz Khān から再現したテュルク語発音(Čiŋγis χan と転写すべきか)に近い)。
かつてはジンギス・カンと書かれることが多かったが、これはティムール朝以降のペルシア語年代記などのアラビア文字表記でجنكز خان (jinkiz khān) のようにイルハン朝時代の『集史』では保たれていた چ č が ج j のままになっている写本が多く見られることによる。これらの事情によっての13-14世紀以降のアラビア語文献や ج j のままの文献の音写から転訛した欧米の諸言語の発音に基づいた、19 - 20世紀前半までの表記がベースと考えられる。しかしながら、現在では「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般化しており、現在では「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米ではモンゴル帝国時代に存在した「カン」と「カアン」の区別についての認識がまだまだ周知されていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律表記される傾向にある)。
このように、13 - 14世紀のモンゴル帝国内部の中期モンゴル語やその影響にある文字表記では「チンギス・カン」と呼ばれている。13 - 14世紀の中期モンゴル語と近代・現代モンゴル語では q 〜 χ と音韻の変化が生じているが、それとは別に大元ウルスが崩壊した前後からモンゴル高原周辺ではチンギス・カンの称号について、「カン」系から「カアン」系へシフトしていったもので「チンギス・カアン」という言い方は、特に大元ウルスが崩壊した14世紀末以降に一般化していったものと考えられる。
以上、同時代のモンゴル語による表記は Činggis Qan で、チンギス・カンと発音したため、本項でもこれを使用する。その他の人名・部族名・地名の当時の発音については白鳥庫吉がローマ字音訳した 音訳蒙文元朝秘史を参照のこと。
Strategy&Tactics229号 Khan Rise of Mongols S&T編集長のジョー・ミランダのデザインした2人用ウォーゲーム。シャルルマーニュシステムの第4作に当たる。
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"text": "チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、英語:Genghis Khan、1162年11月12日 - 1227年8月25日?)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。死後は廟号を太祖、諡を法天啓運聖武皇帝と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。",
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"text": "大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。",
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"text": "死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。",
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"text": "のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀にウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル国という国も建てて繁栄したが、契丹族の遼がモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている。",
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"text": "チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。",
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"text": "やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟のアンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏のクトラ・カンはアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った。",
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"text": "チンギス・カンはイェスゲイ・バアトルの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとした。『元朝秘史』などによると、この時、コンギラト氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとはわからない。",
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"text": "父のイェスゲイは、カブル・カンの次男のバルタン・バアトルの三男で、父と同じバアトル(勇者)の称号を持つ。イェスゲイは叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げ、カンにつぐ地位に就く(カンは空位のまま)。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイト部のカンであるトオリル(後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長のデイ・セチェンの家へ行き、その娘のボルテと婚約をさせる。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう。",
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"text": "テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長であるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう。そんな中でもイェスゲイの妻のホエルンは配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていたスルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻ることができた。テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくしてメルキト部族連合の部族長トクトア・ベキ率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カンと、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部ジャダラン氏族長であるジャムカと同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する。",
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"text": "メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。",
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"text": "あるとき、ジャムカの弟がジャライル部族の領地の馬をひそかに略奪しようとして殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとダラン・バルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。",
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"text": "さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトオリルがカン位を追われ、わずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトオリルの両者は、トオリルがテムジンの父のイェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトオリルはケレイトのカン位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った(ウルジャ河の戦い)。この功績によりテムジンには金から「百人長」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。",
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"text": "テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャダラン氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルを打ち破った。",
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"text": "1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・キヤト同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟軍を破った。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。",
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"text": "しかし同年、オン・カンの長男のイルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。",
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"text": "1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕えて処刑した。やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。",
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"text": "翌1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、九脚の白いトゥク(ヤクやウマの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。纛。tuq〜tuγ)を打ち立て、諸部族全体の統治者たるチンギス・カンに即位してモンゴル帝国を開いた。チンギス・カンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老のモンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。「チンギス」という語彙の由来については確実なことは分かっていない。元々モンゴル語ではなくテュルク語から来た外来語だったとみられ、「海」を意味するテンギズ (tenggis / tenngiz) を語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。",
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"text": "チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギス・カンと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。",
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"text": "戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3・4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。",
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"text": "このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギス・カンの3人の弟のジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギス・カンの3人の息子のジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギス・カンの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。",
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"text": "クリルタイが開かれたときには既に、チンギス・カンは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。",
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"text": "着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年に金と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って華北を荒らした。",
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"text": "この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗した。しかし、チンギス・カンとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身に付けていった。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査によれば約900万人ほどになってしまったという。南部に逃げた人たちも大勢いるがその勢力の強さが窺える。",
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"text": "こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギス・カンは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。翌1214年、チンギス・カンは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。1215年、モンゴル軍は金の従来の首都の燕京(現在の北京)を包囲・陥落させた。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス・カンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギス・カンは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。",
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"text": "このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主耶律直魯古から王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の10年によって疲弊していた。そこで、チンギス・カンは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1218年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した(ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊だった可能性を指摘する説もある)。その報復としてチンギス・カンは末弟のテムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達した。モンゴル帝国側の主な資料にはこの時のチンギス・カンの親征軍の全体の規模について、はっきりした数字は記録されていないようだが、20世紀を代表するロシアの東洋学者ワシーリィ・バルトリドは、その規模を15万から20万人と推計している。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの軍はキプチャクやルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタン・ホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーン・メングベルディーを追い、南下を開始した。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、メルブ(その後二度と復興しなかった百万都市)、バーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。特に、ジャラールッディーンが所領のガズニーから反撃に出た直後、大断事官のシギ・クトク率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたことに始まり(パルワーンの戦い)、バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子のモエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス・カン本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹のトムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため戦況が泥沼化したことによるのではないかとする指摘も近年、モンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによって指摘されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破するが、ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去った。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。チンギス・カンは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、1225年になってようやく帰国した。",
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{
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"text": "西征から帰ったチンギス・カンは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男のチャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男のオゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。末子のトルイにはその時点では何も与えられないが、チンギス・カンの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、カン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。",
"title": "生涯"
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"text": "これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギス・カンがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ってきたチンギス・カンはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギス・カンは再び戦いにとりかかった。",
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"text": "1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都の興慶(現在の銀川)より南の都市の霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。",
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"text": "1227年、チンギス・カンは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西・河南の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。『集史』によれば、南宋との国境、すなわち四川方面に向かったという。同年夏、チンギス・カンは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否した。",
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "ところがこのとき、チンギス・カンは陣中で危篤に陥った。このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で崩御した。『元史』などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られた。これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝はこの起輦谷へ葬られた。",
"title": "生涯"
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"text": "彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その崩御後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎が残された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "チンギス・カンの崩御後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたという。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。チンギスは崩御の間際、自分の死が世間に知られれば直ちに敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないよう家臣達に遺言したと言われている。",
"title": "陵墓と祭祀"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。",
"title": "陵墓と祭祀"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在中華人民共和国の内モンゴル自治区に全国重点文物保護単位であるオルドス市の成吉思汗陵(中国語版)とウランホト市の成吉思汗廟(中国語版)があるが、前者は1950年代に移動を重ねていた八白室を内モンゴルに戻して固定施設に変更して中国政府が建設したもので、後者は1940年代に当時の満州国に建てられたものであり、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。",
"title": "陵墓と祭祀"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは土を掘ることを嫌う風習と民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が外国人に発掘されることからこれに不満を持つ人が多いという。",
"title": "陵墓と祭祀"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。",
"title": "陵墓と祭祀"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "シカゴ大学のジョン・ウッズ(英語版)教授も2001年にヘンティー山脈の丘陵地において、高さ約2.7~3.6メートルの石積みの壁が断続的に約3.2キロ続く遺構を確認、『元朝秘史』にある「古連勒古(クレルグ)」に比定し、チンギス・カンはじめモンゴル王族(元朝皇帝)の陵墓である可能性が高いと示唆するが、発掘調査には至っていない。",
"title": "陵墓と祭祀"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また2009年、中国大連在住のチンギス・カンの末裔とされる80歳の女性が「チンギス・カン陵墓が現在の四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族に伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたため、中国政府も調査を開始した。",
"title": "陵墓と祭祀"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2015年、チンギス・カンの墳墓が周辺にあるとされるブルカン・カルドゥンが世界遺産となった。",
"title": "陵墓と祭祀"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになった。",
"title": "子孫"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "13世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、18世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しか現れなかった。外モンゴルと内モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼らによれば、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たという。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測しており、この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという仮説を発表した(、)。",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この研究を主導したひとりクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は、チンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげている。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べている。",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、この論説に対しては批判もあり、特に集団遺伝学者でスタンフォード大学のルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。さらに、分布の状況と一夫多妻制が原因しているとするテイラー=スミスの見方に対しても、「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している。(同研究グループは同様の別の研究で、東アジアの男性約1000人のうち3.3%に現れた特定のY染色体について、その共通祖先は清朝初代皇帝ヌルハチの祖父ギオチャンガに比定しているが、カヴァッリ=スフォルツァはこの断定にも同様に根拠が薄弱であるという理由で異議を唱えている)",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "オックスフォード・アンセスターズの遺伝学者ブライアン・サイクスも研究が発表された2003年に出版した著書『アダムの呪い』で上記の研究を紹介しているが、「状況証拠は有力だが、残念ながら証明はできない」としながらも、検出されたY染色体についてチンギス・カンのものであるとほぼ断定している。同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・カンに対する人物評についても「チンギスハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている。だが同氏の見解のとおりだと、英国にも一定頻度で同様のY染色体キャリアがいることについて説明が出来ない、との反論がある。",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "大手遺伝子研究所であるケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士(Qasim Ayub, PhD Sanger Institute,CAMBRIDGE) らはアジア人の起源について研究していた。 アジア全域から集められた2000人以上の男性の血液サンプルを採取しDNAを抽出。 分析の結果、対象サンプルの多くがある同一の家系に属していることが判明した。 対象の8%にほぼ同一のマイクロサテライト(DNAの短い配列の繰り返し)が見られた。 考えられるのは彼らには同じDNAを持つ共通の祖先がいるということ。 その祖先がどの時代の人物かを割り出すと、およそ1000年前で、さらにその遺伝子の発祥地はモンゴルであることも判明した。 モンゴルで同一の遺伝子集団が多く見られたこと、また時代を考慮すると、その祖先とはチンギス・カンである可能性が高いという。世界の3200万人がその遺伝子を引き継いでいると結論づけた。",
"title": "子孫"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "モンゴル人民共和国はスフバートル、ダンザン、ボドー、チョイバルサン、ドクソム(英語版)、チンギス・カンの直系子孫であるモンゴル学者ビャムビーン・リンチェン(英語版)や王侯ナヴァーンネレン(中国語版)等のモンゴル民族主義者で構成されたモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)がソビエト連邦の赤軍の支援を受けて独立させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する衛星国だったが、当初はリンチノ(英語版)ら汎モンゴル主義者を抱えていることから革命のためにチンギス・カンを政治的利用させた。1960年代にはトゥムルオチル(英語版)政治局員らがチンギス・カンの生誕800周年を祝い、チンギス・カンの研究者を集めたシンポジウムを開いて切手も発行され、チンギス・カンの故郷とされたダダル郡に記念碑が建設された。1962年にトゥムルオチル政治局員のライバルだった当時の首相ツェデンバルは、中ソ対立とこの祝賀を機にトゥムルオチルを「民族偏向主義者」「中国寄り」であるということで追放した。以後チンギス・カンは批判されていった。モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生モンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、モンゴルの紙幣トゥグルグでもスフバートルとともにチンギス・カンの肖像が用いられ、かつてスフバートル廟があったモンゴル政府宮殿前には改装の際にチンギス・カンの銅像が建てられて大統領の就任宣誓が行われている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、中華人民共和国でもチンギス・カンの生誕800周年はウランフと周恩来の後押しで建設されたオルドス市の成吉思汗陵で盛大に祝われ、チンギス・カンが死去した場所とされる六盤山の涼殿峡(中国語版)は保護区となっている。日本軍占領下でバトマラプタンとボヤンマンダフや松王の後押しによって建てられたウランホト市の成吉思汗廟もむしろ革命的なシンボルとして政府の資金で改修などがされており、歴史劇としてチンギス・カンの子孫であるモンゴル族俳優のバーサンジャブを主演に据えたテレビドラマ「チンギス・ハーン」や映画が制作されて内モンゴル自治区ではチンギス・ハーン鎮(中国語版)などの地名やチンギス・カンの像があり、モンゴルを訪問した際に習近平のような中国の指導者はチンギス・カン像に頭を下げて敬意を表し、中国国内ではチンギス・カンの肖像を踏みつけるといった行為は年少者でも民族の英雄を侮辱した罪で逮捕・実刑を受けているが、あくまで中国政府の主張する「中華民族の英雄」としての崇拝が認められており、人権活動家で内モンゴル独立運動家のハダとモンゴル族の若者が集まってチンギス・カンの肖像を掲げてモンゴルの歌を放吟すると「国家分裂扇動」「スパイ活動」として逮捕・拘禁されている。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "『集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する4人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。",
"title": "宗室"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。",
"title": "宗室"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "『集史』チンギス・ハン紀后妃表には5人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma)について記録されている。",
"title": "宗室"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "『集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの多くの男子のうち、 クビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料に基づく)。",
"title": "宗室"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "「チンギス・カン」とはテムジンが即位の際にコンゴタン氏族出身のテブ・テングリ(ココチュ)というシャーマンから与えられた称号であるが、その意味については諸説ある。",
"title": "名前"
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{
"paragraph_id": 61,
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"text": "『集史』部族篇オロナウト族の項には、",
"title": "名前"
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{
"paragraph_id": 62,
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"text": "",
"title": "名前"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "とあり、『蒙古源流』には",
"title": "名前"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "とあり、ブリヤト・モンゴル人の学者ドルジ・バンザロフは「これはシャーマンの間で唱えられている光の精霊の名のHaǰir Činggis Tenggeriという言葉から出たに相違ない」とし、ポール・ペリオはテュルク語のdenggiz(海、湖)という語に比定し、「海の精霊」を指したものであろうとした。",
"title": "名前"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "チンギス・カンの呼称は、歴史的に見て「チンギス・カン」系と「チンギス・カアン」系の2種類に大別出来る。",
"title": "名前"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "本来、13 - 14世紀当時の中期モンゴル語では「チンギス・カン」 (Činggis Qan) と称していたことが同時代資料の調査から分かっている。",
"title": "名前"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "これは、当時のウイグル文字モンゴル語ではイェスンゲ紀功碑などでも CYNKKYZ Q'N (Činggis Qan) と書かれ、第5代モンゴル皇帝クビライの大元ウルスで開発されたパスパ文字によるモンゴル語皇帝聖旨碑文でも ǰiṅ-gis qa-nu とある。",
"title": "名前"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また13世紀のアラビア語・ペルシア語年代記では、イブン・アル=アスィールの『完史 (al-Kāmil fī al-Ta'rīkh) 』(1231年成立)やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『ジャラールッディーン伝 (Sīrat al-Sulṭān Jalāl al-Dīn Mankubirtī) 』(1240年代初頭成立)、ジューズジャーニーの『ナースィル史話 (Tabaqāt-i Nāṣirī) 』(1260年成立)といったモンゴル帝国外で成立した資料では جنكيز خان Jinkīz Khān (ペルシア語資料の刊本では現在のペルシア文字の چ č/ch や گ g が補われて چنگيز خان Chingīz Khān )などと表記されており、モンゴル帝国側の資料と言えるジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』(1260年成立)でもやはり چنگيز خان Chingīz Khān などとなっている。ラシードゥッディーンの『集史』(1314年成立)では編者のラシード在世中に書写された紀年(1317年書写)を持つ現存最古の写本、いわゆる「イスタンブール本」(Revân köşkü No. 1518)では、(ウイグル文字での綴りを反映していると思われるが) چينككيز خان Chīnkkīz Khān とあって同書では「チンギス・カン」は一貫してこの綴りを用いている。このように13 - 14世紀のモンゴル帝国内外のアラビア語・ペルシア語文献ではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分は、従来からあったテュルク語の χan (ハン)のアラビア文字転写である خان khān を用いた。",
"title": "名前"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "一方で、後代のモンゴル語文献では「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) という言い方もされている。",
"title": "名前"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "17世紀初頭に成立した『アルタン・ハーン伝』などでは、「チンギス・カアン」 (CYNKKYZ Q'Q'N /Činggis Qaγan) の綴りで表記され、サガン・セチェン『蒙古源流』や『アルタン・トプチ』などの代表的な近代以降のモンゴル語年代記でも同様に表記されている。現存最古のモンゴル語による歴史書文献で明代に入って最終的な編纂をみる洪武刊十二巻本『元朝秘史』でも「成吉思可罕」 (Činggis Qahan) となっており、現存の『元朝秘史』は明代のものだが、14世紀末の「チンギス・カアン」系の資料である。",
"title": "名前"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "「カン」と「カアン」の違いについてだが、ハーンの項目でも述べられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγan) は、一般的な「王」や「君主」を意味する「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝」の意味として、第2代皇帝オゴデイによって古代の「カガン」 (Qaγan) の称号を復活させて用いられたと考えられており、第4代モンケ、第5代クビライによってモンゴル皇帝の称号として定着した。",
"title": "名前"
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"paragraph_id": 72,
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"text": "13 - 14世紀にモンゴル帝国側の資料で「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) と呼ぶ例は、皆無ではないが筆記者による書き間違いなどの可能性もあるレベルで、一般的ではなかったようである。",
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"paragraph_id": 73,
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"text": "例えば、大元ウルスでの場合、少林寺蒙漢合璧聖旨碑の例を挙げると、タツ年(至元5年戊辰、1268年)正月25日の紀年を持つウイグル文字モンゴル語によるクビライの聖旨碑文には、チンギスは CYNKKYZ X'N/Činggis Qan と書かれ、オゴデイは単に X'X'N/Qaγan〜Qa'an と書かれている。およそ半世紀のちのネズミ年(皇慶元年壬子、1318年)3月13日の紀年のある同じ碑石に刻された仁宗アユルバルワダによる聖旨碑でも、チンギスは「チンギス・カンの」 ǰiṅ -gis qa-nu/ǰiṅgis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 \"ö-kˋö-däḙ q·a-nu/Öködeï Qa'an-u 、クビライは尊号である「セチェン・カアンの」 sä-čän q·a-nu/Sečen Qa'an-u で呼ばれており、続く成宗テムルも同じく尊号の「オルジェイトゥ・カアンの」 \"öˆl-ǰäḙ-tˋu q·a-nu/Öˆlǰeïtü Qa'an-u、武宗カイシャンも尊号の「クルグ・カアンの」kˋü-lug q·a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号のまま使われており、オゴデイ以下他と区別がされている。",
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"text": "イルハン朝でも上述の通り、チンギスは『世界征服者の歴史』などの جنكيز خان Jinkīz Khān (または چنگيز خان Chigīz Khān)あるいは『集史』のような چينككيز خان Chīnkkīz Khān と書かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 اوكتاى قاآن Ūktāī Qā'ān、クビライは「クビライ・カアン」 قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān となっている。しかしながら例えばチンギス・カアン جنكيز قاآن Jinkīz Qā'ān のような表記をされた資料はイルハン朝以降も見られない。このような جنكيز خان Jinkīz Khān と(オゴデイ・)カアン قاان Qā'ān のような表記の書き分けは、第3代皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書にもはっきり確認される。13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。総じてこの جنكيز خان Jinkīz Khān という表記はティムール朝時代以降も一般的に使われている。",
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"text": "イルハン朝周辺でもウイグル文字モンゴル語で書かれた資料がいくつか残されており、例えば『集史』編纂後程なく成立したと見られる系図資料『五族譜』 (Shu`ab-i Panjgāna) は各々主要なモンゴル君主の部分には人物名のアラビア文字表記とウイグル文字表記とを併記しているのが特徴となっている。そこではチンギスの場合、アラビア文字で جينككيز خان Jīnkkīz Khān と表記され、ウイグル文字では cynγkyz q'n/čiŋγis qan と表記されている。クビライの場合はアラビア文字で قُوبِيلَاي قآن Qūbīlāī Qa'ān と表記され、ウイグル文字では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記されている(アラビア文字表記は『集史』イスタンブール本とほぼ同一となっている。「カアン」のアラビア文字表記について『世界征服者の歴史』やグユクのインノケンティウス4世宛国書では قاان Qā'ān もしくは قاآن Qā'ān と4文字で表記されるが、『集史』イスタンブール本や『五族譜』では قآن Qa'ān と3文字で表記されており、2番目の文字にアリフの長母音記号であるマッダ記号が附されているのが特徴的である)。",
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"text": "後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。",
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"text": "漢語文献では、チンギス在世中の記録として、ムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使者孟珙撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)の報告書『蒙韃備録』(1221年頃成立)やサマルカンド駐留中のチンギス・カンに謁見した長春真人・丘処機の旅行記『長春真人西遊記』(1228年頃成立)が知られているが、いずれも「成吉思皇帝」と書かれている。南宋側の記録である『蒙韃備録』や『黒韃事略』(1237年成立)でもチンギスは「成吉思皇帝」や「韃主」と呼ばれているが、「チンギス」という音写に基づく呼称は一貫して「成吉思」や「成吉思皇帝」であり、ウイグル文字、パスパ文字、アラビア文字などのような「カン」と「カアン」の書き分けは生じていない。『元朝秘史』のような「成吉思可罕」という表記は漢語文献では稀であり、ほとんど確認されない(ちなみに、1346年に成立したチベット語文献の『フゥラン・テプテル』でも「太祖チンギス帝」 (Thaḥi dsuṅ Jiṅ gi rgyal po) とあって「カン」や「カアン」の部分は音写されていない)。",
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"text": "1266年にクビライによってチンギス・カン以来のモンゴル皇帝や皇后、イェスゲイ・バアトルやトルイなどの主要モンゴル王族の廟号と諡号が設けられ、チンギスには廟号を太祖、諡号を聖武皇帝と贈られた。また、1309年12月3日に武宗カイシャンによってさらに法天啓運聖武皇帝と追諡された。これらを受けて大元ウルスの末期に編纂された随筆『南村輟耕録』の歴代モンゴル皇帝を列記した巻第1 列聖授受正統 には「太祖應天啓運聖武皇帝 諱鐵木眞國語曰成吉思。」と記されている。",
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"text": "以上のように、西方のアラビア文字圏ではイルハン朝以降もほぼ一貫して「チンギス・カン」系の表記のままであったのに対して、モンゴル高原では「チンギス・カアン」系に呼称が遷移した。近代モンゴル語 Чингис Хаан [ʧiŋgɪs χaːŋ]の音韻に近い「チンギス・ハーン」という表記が、近年一般に流布して用いられたが、これは表記上の問題以外に音韻上の変化についても問題となる。パスパ文字モンゴル語やアラビア文字表記から、ウイグル文字などに見られる Qaγan は第2音節の -aγa- は -a'a- と軟音化して「カアン」と発音されていたことが確実で、これが近現代音ではさらに χaːŋ のようにほぼ長母音化してしまっている。中期モンゴル語の q 音もパスパ文字モンゴル語表記やアラビア文字転写によって、「カ」に近い音であったが、現在では χ 音に移行している。χ 音は日本語の仮名転写では「ハ」行が用いられるため、中期モンゴル語としては「チンギス・カアン」と呼ぶべきものが「チンギス・ハーン」に変化しているのである。また、近現代モンゴル語でも「カン(ハン)」と「カアン(ハーン)」の区別は存在するが、チンギスは「ハーン(皇帝)」であるため、「チンギス・ハン (Чингис хан) 」とは呼んではならず、「チンギス・ハーン (Чингис хаан) 」と呼ぶべきだと現在のモンゴル人は考えている、との報告もされている。",
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"text": "一方で、ペルシア語文献でのアラビア文字(ペルシア文字)転写で多い、چنگيز خان Chigīz Khān を仮名転写すると「チンギーズ・ハーン」となり、近現代モンゴル語の「カアン」 (Qa'an) の発音転写とアラビア文字表記での「カン」 (Qan) の仮名転写が、「ハーン」という同一の転写になってしまう。「カン」と「カアン」という中期モンゴル語のレベルでは意味的に異なる単語が、依拠する資料で同一の仮名転写になるという弊害が生じることとなった。",
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"text": "このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言った具合に、日本語文献での仮名転写が研究者や執筆者の間でバラバラの状態になり、混乱をきたすようになった。一般に日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「成吉思汗」と書かれる。ただし、「汗」の読みは中国でも年代や地域により異なり、「ハン」「ホン」、閩東語・閩南語では「カン」(ガン)となるが、古代の上古中国語では「ガーン」であった。明治時代の日本ではジンギス・カンと振り仮名されていた。清朝時代の満州語では「ハン」と発音され、中期モンゴル語や近現代モンゴル語の「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立は見られないという。",
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"text": "主に、1980年前後から『アルタン・ハーン伝』に見られるような16 - 17世紀以降のモンゴル語文献の調査に基づく研究者の間では「チンギス・ハーン」という表記を採用する傾向にあり、一方で1990年代以降に中国で発掘された大元ウルス時代のパスパ文字モンゴル語碑文や『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語文献の調査の進展によって、中期モンゴル語音韻の復元研究が進み、モンゴル帝国では「カン」と「カアン」が明確に区別されていたことが判明・認識されるようになった。このため13 - 14世紀のモンゴル帝国時代の研究者からこれらの同時代文献資料での表現に基づいて「チンギス・カン」という表記が推奨されるようになった(両者の弁別を強く訴えている研究者としては、モンゴル帝国史・大元ウルス史の専門家である杉山正明などが有名である。また、「チンギス・ハン」は「チンギス・カン」の現代モンゴル語読み (Činggis Qa'an) か、どちらかというとアラビア文字表記の چنگيز خان Chigīz Khān から再現したテュルク語発音(Čiŋγis χan と転写すべきか)に近い)。",
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"text": "かつてはジンギス・カンと書かれることが多かったが、これはティムール朝以降のペルシア語年代記などのアラビア文字表記でجنكز خان (jinkiz khān) のようにイルハン朝時代の『集史』では保たれていた چ č が ج j のままになっている写本が多く見られることによる。これらの事情によっての13-14世紀以降のアラビア語文献や ج j のままの文献の音写から転訛した欧米の諸言語の発音に基づいた、19 - 20世紀前半までの表記がベースと考えられる。しかしながら、現在では「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般化しており、現在では「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米ではモンゴル帝国時代に存在した「カン」と「カアン」の区別についての認識がまだまだ周知されていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律表記される傾向にある)。",
"title": "名前"
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"text": "このように、13 - 14世紀のモンゴル帝国内部の中期モンゴル語やその影響にある文字表記では「チンギス・カン」と呼ばれている。13 - 14世紀の中期モンゴル語と近代・現代モンゴル語では q 〜 χ と音韻の変化が生じているが、それとは別に大元ウルスが崩壊した前後からモンゴル高原周辺ではチンギス・カンの称号について、「カン」系から「カアン」系へシフトしていったもので「チンギス・カアン」という言い方は、特に大元ウルスが崩壊した14世紀末以降に一般化していったものと考えられる。",
"title": "名前"
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"text": "以上、同時代のモンゴル語による表記は Činggis Qan で、チンギス・カンと発音したため、本項でもこれを使用する。その他の人名・部族名・地名の当時の発音については白鳥庫吉がローマ字音訳した 音訳蒙文元朝秘史を参照のこと。",
"title": "名前"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "Strategy&Tactics229号 Khan Rise of Mongols S&T編集長のジョー・ミランダのデザインした2人用ウォーゲーム。シャルルマーニュシステムの第4作に当たる。",
"title": "関連作品"
}
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チンギス・カンは、モンゴル帝国の初代皇帝。死後は廟号を太祖、諡を法天啓運聖武皇帝と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。
|
{{redirect|ジンギスカン}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = チンギス・カン
<br>{{mongolUnicode|ᠴᠢᠩᠭᠢᠰ<br>ᠬᠠᠭᠠᠨ}}
| 各国語表記 = Činggis Qan, Činggis Qa'an, Genghis Khan
| 君主号 = [[モンゴル帝国]]初代皇帝([[ハーン|カアン]])<!-- チンギスに「皇帝」という称号を用いる点については[[ノート:モンゴル帝国]]での議論を参照の事 -->
| 画像 = YuanEmperorAlbumGenghisPortrait.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = チンギス・カン肖像
| 在位 = [[1206年]] - [[1227年]][[8月25日]]
| 戴冠日 = [[1206年]]初春
| 別号 = テムジン({{mongolUnicode|ᠲᠡᠮᠦᠵᠢᠨ}})
| 全名 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[ボルテ]]、[[クラン (メルキト部)|クラン]]、イェスイ(イェスゲン)、岐国公主、イェスルン 他 [[チンギス・カン#后妃|下記参照]]
| 子女 = [[ジョチ]]、[[チャガタイ]]、[[オゴデイ]]、[[トルイ]]、[[コルゲン (モンゴル帝国)|コルゲン]] 他[[チンギス・カン#子女|下記参照]]
| 兄弟 = [[ジョチ・カサル]]、[[カチウン]]、[[テムゲ・オッチギン]]
| 王家 =
| 王朝 =
| 賛歌 =
| 父親 = [[イェスゲイ]]
| 母親 = [[ホエルン]]
| 出生日 = [[大定 (金)|大定]]2年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]<br />([[1162年]][[11月12日]])(諸説あり)<ref name="birth_year"/>
| 生地 = デリウン・ボルダク(現在の[[ヘンティー山脈]]、[[モンゴル国]][[ヘンティー県]][[ダダル郡]]?)<ref name=deliun_boltaq/>
| 死亡日 = 太祖22年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]<br />([[1227年]][[8月25日]])<ref name="died_days"/>
| 没地 = [[六盤山]][[:zh:凉殿峡遗址|涼殿峡]](現在の[[寧夏回族自治区]][[固原市]][[涇源県]])<ref name=deliun_boltaq/>
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[起輦谷|起輦谷/クレルグ山]]([[モンゴル高原]])
}}
[[File:Mongolia - Genghis Khan (49310024376).jpg|thumb|300px|[[政府宮殿|モンゴル国政府宮殿]] 正面向かって中央に鎮座するチンギス・カン像]]
'''チンギス・カン'''([[モンゴル文字|モンゴル語]]:[[File:Cinggis qagan.svg|20px]]、[[キリル文字]]:{{lang|mn|''Чингис хаан''}}、[[ラテン文字化]]:''Činggis Qan'' または ''Činggis Qa'an''、[[漢字]]:成吉思汗、[[英語]]:''Genghis Khan''、[[1162年]][[11月12日]] - [[1227年]][[8月25日]]?)は、[[モンゴル帝国]]の初代[[皇帝]](在位:[[1206年]] - [[1227年]])。死後は廟号を'''太祖'''、[[諡]]を'''法天啓運聖武皇帝'''と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある([[#名前]]の節を参照)。
大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していた[[モンゴル]]の[[遊牧民]]諸部族を一代で統一し、[[中国]]・[[中央アジア]]・[[イラン]]・[[東ヨーロッパ]]などを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の[[世界帝国]]である[[モンゴル帝国]]の基盤を築き上げた。
死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は[[中央ユーラシア]]において生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在の[[モンゴル国]]において国家創建の英雄として称えられている<ref name="birth_year">一般的に[[1162年]]説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=[[1227年]][[8月25日]])、ここから逆算したものである。<br />[[1155年]]説については、主に[[イルハン朝]]で[[ガザン]]、[[オルジェイトゥ]]の勅命によって編纂された『[[集史]]』などに基づくもので、同書「チンギス・カン紀」では「彼の誕生した時は、[[ブタ]]の年([[亥年]])であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"([[1155年]][[1月6日]] - [[2月4日]])とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによる[[タタル部]]族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』([[アブー・サイード]]即位の[[1317年]]まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じく[[ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー|ムスタウフィー・カズヴィーニー]]の『選史』([[1330年]])ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」([[1155年]][[1月25日]])とする。<br />一方、[[1167年]]については、『[[聖武親征録]]』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから([[王国維]]の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年に[[ムカリ|ムカリ国王]]の宮廷を訪れた[[南宋]]の使節、[[孟珙]]の撰([[王国維]]の研究により著者は趙{{lang|zh-tw|珙}}と校正された)による『[[蒙韃備録]]』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち[[1154年]]とする。<br />このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。[[元 (王朝)|元朝]]末期の[[陶宗儀]]編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者[[洪鈞]]は丁亥年すなわち[[1167年]]ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『[[新元史]]』の著者[[柯劭忞]](かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者[[屠寄]]など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者[[ポール・ペリオ]]は、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『[[元朝秘史]]』には生年についての情報は載っていない。</ref>。
== 生涯 ==
=== チンギス・カンの先祖 ===
のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は[[6世紀]]から[[10世紀]]にかけて[[大興安嶺山脈]]付近に存在した[[室韋]](しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。[[9世紀]]に[[回鶻|ウイグル可汗国]]が崩壊すると、室韋は[[モンゴル高原]]に広がり、九姓タタル国<ref>[http://toyo-bunko.or.jp/newresearch/book_pdf/Periodical_list/gakuho/93/93-1-03_haku.pdf 10世紀から11世紀における「九姓タタル国」]</ref>という国も建てて繁栄したが、[[契丹]]族の[[遼]]がモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、[[阻卜]](そぼく)、[[烏古]](うこ)、[[敵烈]](てきれつ)、[[達旦]](たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃[[バイカル湖]]の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。[[1084年]]、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『[[遼史]]』には「萌古国」という名前で記されている<ref>『遼史』本紀第二十四 道宗四「(大康)十年春正月辛丑朔,如春水。丙午,復建南京奉福寺浮圖。戊辰,如山楡淀。二月庚午朔,萌古國遣使來聘。三月戊申,遠萌古國遣使來聘。丁巳,命知制誥王師儒、牌印郎君耶律固傅導燕國王延禧。」</ref>。
チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『[[元朝秘史]]』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立った[[ボルテ・チノ]](「[[蒼き狼]]」の意)とその妻なる[[コアイ・マラル]](「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人の[[アラン・ゴア]]は天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属する[[ボルジギン氏]]の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、[[ウリャンカイ]]、[[ジャライル]]といった異族を服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから7代目の[[カブル・カン|カブル]]が初めてモンゴル諸部族を統一して「[[カムク・モンゴル|あまねきモンゴル]]」の[[ハーン|カン]](qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちに[[キヤト氏]]と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの[[はとこ|又従兄弟]]の[[アンバガイ・カン]]であった。彼の子孫はのちに[[タイチウト氏]]と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏の[[クトラ・カン]]はアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った<ref>村上 1970,p66-77</ref><ref>佐口 1968,p29-30</ref>。
=== 生い立ち ===
チンギス・カンは[[イェスゲイ|イェスゲイ・バアトル]]の長男として生まれ、'''テムジン'''({{ラテン翻字|mn|Temüǰin}})という名を与えられた。『元朝秘史』、『[[集史]]』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイは[[タタル部]]族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとした。『元朝秘史』などによると、この時、[[コンギラト]]氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい<ref name="deliun_boltaq">デリウン岳 Deli'ün Boltaq (迭里温孛<sub>勒</sub>荅<sup>中</sup>合)での出産についても、主な資料では共通して述べている。『集史』では دلون بولداق Dilūn Būldāq 、『聖武親征録』では跌里温盤陀山と書かれている。ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号、1967年、p.1 - 16(ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『内陸アジア史論集』第2、内陸アジア史学会編 国書刊行会 東京、1979年、p.71 - 86. 再録);村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社、1970年、p.79 - 80.</ref>、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる<ref>この時、出生したばかりのテムジンは「右手に髀石のような血の固まりを握りしめていた」と伝承されているが、この有名な逸話は『元朝秘史』のみならず『集史』、『元史』、『聖武親征録』などにも見える[[ポール・ペリオ]]によると、この「血のかたまりを握って生まれる」という伝承は、『[[雑阿含経]]』第25巻にある『アショーカ王物語』 (''Ašokāvadāna'') の中の、[[カウシャーンビー]]の王マハーセーナの逸話と関係していると言う。この『アショーカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に付け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。</ref>。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ[[1155年]]・[[1162年]]・[[1167年]]と諸説が述べられており、はっきりとはわからない<ref name="birth_year" /><ref>ちなみに、この「テムジン」 (temüǰin) とはテュルク・モンゴル語で「'''テムルチ'''」 (temür-či) 、すなわち鉄(テムル)を作る人、鍛冶職人」を意味する単語の省略形だったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶屋だった」という伝説が流布するようになった。この種の「チンギス・カン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13 - 14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家[[パキメレス]]や、同じくマムルーク朝の歴史家[[ヌワイリー]]、[[1247年]]のグユクの即位に列席した[[キリキア]]の[[小アルメニア王国]]の[[ハイトン1世]]の旅行記、さらには[[1254年]]にモンケの宮廷を訪れた[[ウィリアム・ルブルック|ルブルクのギヨーム修道士]]の旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。{{要出典|date=2014年7月}}</ref>。
父のイェスゲイは、[[カブル・カン]]の次男の[[バルタン・バアトル]]の三男で、父と同じ[[バガトル|バアトル]](勇者)の称号を持つ。イェスゲイは叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げ、カンにつぐ地位に就く(カンは空位のまま)。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合[[ケレイト]]部のカンである[[オン・カン|トオリル]](後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長の[[デイ・セチェン]]の家へ行き、その娘の[[ボルテ]]と婚約をさせる。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう<ref>村上 1970,p78-91</ref>。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長である[[タルグタイ・キリルトク]](アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう。そんな中でもイェスゲイの妻の[[ホエルン]]は配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていた[[スルドス]]氏の[[ソルカン・シラ]]の助けもあって家族のもとへ戻ることができた。テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくして[[メルキト]]部族連合の部族長[[トクトア・ベキ]]率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カンと、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部[[ジャダラン]]氏族長である[[ジャムカ]]と同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する<ref>村上 1970,p99-198</ref>。
=== 諸部族の統一 ===
メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった<!--(しかし、『秘史』が伝える1189年の第一次即位には疑問がある)-->。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの弟がジャライル部族の領地の馬をひそかに略奪しようとして殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとダラン・バルジュトの平原で会戦した。[[十三翼の戦い]]([[1190年]]頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に[[釜茹で]]にされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。
[[File:Djengiz Khân et Toghril Ong Khan.jpeg|thumb|350px|流浪していた[[オン・ハン|トオリル]](左)を歓待するテムジン(右) (『集史』パリ本)]]
さらに、この戦いと同じ頃とされる[[1195年]]、ケレイト部で内紛が起こってトオリルがカン位を追われ、わずかな供回りとともに[[天山ウイグル王国|ウイグル]]や[[西夏]]、[[西遼]]などを放浪したが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトオリルの両者は、トオリルがテムジンの父のイェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトオリルはケレイトのカン位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の[[金 (王朝)|金]]に背いた高原東部の有力部族タタルを討った([[ウルジャ河の戦い]])。この功績によりテムジンには金から「[[ジャウン|百人長]]」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌[[1197年]]には高原北方のメルキト部に遠征し、[[1199年]]にはケレイト部と共同で高原西部の[[アルタイ山脈]]方面にいた[[ナイマン]]を討った。[[1200年]]、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャダラン氏のジャムカを破り、続いて[[大興安嶺]]方面のタタルを打ち破った。
[[1201年]]、東方の諸部族は、反ケレイト・キヤト同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わった[[コンギラト]]部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟軍を破った。[[1202年]]には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方の[[オイラト]]や東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男の[[イルカ・セングン]]とテムジンが仲違いし、翌[[1203年]]にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンは[[オノン川]]から北に逃れ、[[バルジュナ湖]]で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
=== 帝国の建設 ===
[[File:Dschingis Khan 01.jpg|350px|thumb|1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによって、テムジン、'''チンギス・カン'''として即位する。(『[[集史]]』パリ本)]]
[[1205年]]、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕えて処刑した。やがて南方の[[オングト]]もテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。
翌[[1206年]]2月、テムジンはフフ・ノールに近い[[オノン川]]上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めて[[クリルタイ]]を開き、九脚の白い[[ブンチューク|トゥク]]([[ヤク]]や[[ウマ]]の尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。纛。tuq〜tuγ)を打ち立て、諸部族全体の統治者たる'''チンギス・カン'''に即位してモンゴル帝国を開いた。'''チンギス・カン'''という名はこのとき、イェスゲイ一族の家老の[[モンリク・エチゲ]]という人物の息子で、モンゴルに仕える[[ココチュ (コンゴタン部)|ココチュ・テプテングリ]]という[[シャーマニズム|シャーマン]](巫者)がテムジンに奉った尊称である。「'''チンギス'''」という語彙の由来については確実なことは分かっていない。元々モンゴル語ではなく[[テュルク諸語|テュルク語]]から来た外来語だったとみられ、「海」を意味するテンギズ (tenggis / tenngiz) を[[語源]]に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。
チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギス・カンと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。
[[File:DiezAlbumsMountedArchers.jpg|350px|thumb|テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『[[集史]]』)]]
戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3・4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣[[ムカリ]]と[[ボオルチュ]]がそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。
このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギス・カンの3人の弟の[[ジョチ・カサル]]、[[カチウン]]、[[テムゲ・オッチギン]]を、西部のアルタイ山脈方面にはチンギス・カンの3人の息子の[[ジョチ]]、[[チャガタイ]]、[[オゴデイ]]にそれぞれの遊牧領民集団([[ウルス]])を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギス・カンの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。
クリルタイが開かれたときには既に、チンギス・カンは彼の最初の征服戦である[[西夏]]との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また[[1209年]]に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。さらに同年には[[天山ウイグル王国]]を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。
=== 征服事業 ===
==== 金朝への征服事業 ====
[[ファイル:Genghis Khan empire-en.svg|300px|thumb|チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。]]
着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、[[1211年]]に[[金 (王朝)|金]]と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と[[黄河]]の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って華北を荒らした。
この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗した。しかし、チンギス・カンとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身に付けていった。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査によれば約900万人ほどになってしまったという。南部に逃げた人たちも大勢いるがその勢力の強さが窺える。
[[File:Djengiz Khân et les envoyés chinois.jpeg|300px|thumb|1214年4月、金朝皇帝[[宣宗 (金)|宣宗]]との講和によってチンギス・カンのもとに嫁いで来た岐国公主(画面左の馬上の人物)。]]
[[File:Siège de Beijing (1213-1214).jpeg|300px|thumb|1215年、開封への遷都を責めて、モンゴル軍、中都を包囲する。(『集史』パリ本)]]
こうして[[中国内地]]での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギス・カンは[[1213年]]には[[万里の長城]]のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。翌[[1214年]]、チンギス・カンは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の[[開封府|開封]]に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。[[1215年]]、モンゴル軍は金の従来の首都の燕京(現在の[[北京市|北京]])を包囲・陥落させた。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する[[耶律楚材]]は、このときチンギス・カンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギス・カンは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。
==== 西遼・クチュルクへの征服事業 ====
このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだ[[クチュルク]]は西走して[[西遼]]に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主[[耶律直魯古]]から王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の10年によって疲弊していた{{要出典|date=2008年6月}}。そこで、チンギス・カンは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは[[仏教]]に改宗して地元の[[ムスリム]](イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。クチュルクは[[カシュガル]]の西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、[[1218年]]までには、モンゴル国家は西は[[バルハシ湖]]まで拡大して、南に[[ペルシア湾]]、西にカスピ海に達する[[イスラム王朝]]、[[ホラズム・シャー朝]]に接することとなった。
==== ホラズム・シャー朝への征服事業 ====
[[1218年]]、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にある[[オトラル]]の統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した(ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊だった可能性を指摘する説もある)。その報復としてチンギス・カンは末弟のテムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む軍隊を率いて[[中央アジア]]遠征を行い、[[1219年]]に[[スィル川]](シルダリア川)流域に到達した。モンゴル帝国側の主な資料にはこの時のチンギス・カンの[[親征]]軍の全体の規模について、はっきりした数字は記録されていないようだが、20世紀を代表するロシアの東洋学者[[ワシーリィ・バルトリド]]は、その規模を15万から20万人と推計している。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市[[サマルカンド]]、[[ブハラ]]、[[ウルゲンチ]]をことごとく征服した。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、[[1220年]]までにほぼ崩壊した。
[[File:Mort de Muhammad Hwârazmshâh.jpeg|300px|thumb|[[ホラズム・シャー朝]]の君主スルターン・[[アラーウッディーン・ムハンマド]]、カスピ海南東部のアーバースクーン島にて他界する。(『集史』パリ本)]]
ホラズム・シャー朝の君主[[アラーウッディーン・ムハンマド]]はモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはジェベと[[スベエデイ]]を追討に派遣した。彼らの軍が[[イラン]]を進むうちにアラーウッディーンは[[カスピ海]]上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、[[カフカス]]を経て南[[ロシア]]にまで達した。彼らの軍は[[キプチャク]]や[[ルーシ]]諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。
一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子で[[アフガニスタン]]・[[ホラーサーン]]で抵抗を続けていた[[ジャラールッディーン・メングベルディー]]を追い、南下を開始した。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、[[ニーシャープール]]、[[ヘラート]]、[[バルフ]]、[[メルブ]](その後二度と復興しなかった百万都市)、[[バーミヤーン]]といった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。特に、ジャラールッディーンが所領の[[ガズニー]]から反撃に出た直後、大断事官のシギ・クトク率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたことに始まり([[パルワーンの戦い]])、バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子のモエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス・カン本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹のトムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていた。
アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため戦況が泥沼化したことによるのではないかとする指摘も近年、モンゴル帝国史を専門とする[[杉山正明]]らによって指摘されている<ref>杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)94 - 95頁などを参照。</ref>。
チンギス・カンはジャラールッディーンを[[インダス川]]のほとりまで追い詰め撃破するが、ジャラールッディーンはインダス川を渡って[[インド]]に逃げ去った。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。チンギス・カンは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、[[1225年]]になってようやく帰国した。
=== 最後の遠征 ===
==== 西夏への懲罰遠征 ====
西征から帰ったチンギス・カンは広大になった領地を分割し、ジョチには南西[[シベリア]]から南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男のチャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男のオゴデイには西モンゴルおよび[[ジュンガリア]]の支配権を与えた。末子のトルイにはその時点では何も与えられないが、チンギス・カンの死後に[[末子相続]]により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、カン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。
これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギス・カンがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ってきたチンギス・カンはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギス・カンは再び戦いにとりかかった。
[[1226年]]初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都の興慶(現在の[[銀川市|銀川]])より南の都市の霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。
==== 崩御 ====
[[1227年]]、チンギス・カンは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて[[陝西省|陝西]]・[[河南省|河南]]の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。『集史』によれば、<!--宋の増援軍が寧夏に達するのを防ぐため(?)-->[[南宋]]との国境、すなわち[[四川省|四川]]方面に向かったという。同年夏、チンギス・カンは夏期の避暑のため[[六盤山]]に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否した。
ところがこのとき、チンギス・カンは陣中で危篤に陥った。このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年[[8月18日]]、チンギス・カンは陣中で崩御した<ref name="died_days">チンギス・カン崩御の日時について、『[[元朝秘史]]』『[[聖武親征録]]』など亥年や65歳であったことなど以外は全く言及されていないが、[[ジュヴァイニー]]の『[[世界征服者史]]』や[[バル・ヘブラエウス]]の『諸王朝史略(Ta'rīkh mukhtaṣar al-duwal)』などのヒジュラ暦624年ラマダーン月4日という記述から1227年8月25日になる(Qazvīnī, vol.1, p,144/Bar Hebraeus, ''Tārīkh mukhtaṣar al-duwal '',Bayrūt, Dār al-Mashriq, 1992. p.244.)。([[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|ドーソン]]の『モンゴル帝国史』やボイル J.A. Boyle の『世界征服者史』の英訳 ''The World-Conqueror'', vol. 1, p.182., note 11 では崩御日時を「1227年8月18日」としているが、これはヒジュラ暦624年ラマダーン月4日をユリウス暦に変換すると1227年8月18日になるためとも考えられる) また、『元史』太祖本紀の太祖二十二年秋七月条に「秋七月壬午,不豫。己丑,崩于薩里川哈老徒之行宮。臨崩謂左右曰:「金精兵在潼關,南據連山,北限大河,難以遽破。若假道于宋,宋、金世讎,必能許我,則下兵唐、鄧,直擣大梁。金急,必徵兵潼關。然以數萬之衆,千里赴援,人馬疲弊,雖至弗能戰,破之必矣。」言訖而崩,壽六十六。葬起輦谷。」とある。『元史』での不予(病を患った)となった太祖二十二年七月壬午は1227年8月18日であり、崩御した同七月己丑は1227年8月25日になる。また、ラシードゥッディーンの『集史』チンギス・ハン紀では、「亥年の秋の中月の15日、すなわち(ヒジュラ暦)624年ラマダーン月に崩御あそばされた。( و پانزدهم روز از ماه ميانه پاييز سال خاك، موافق ماه رمضان سنة اَرْبَعَ وَ عِشرِينَ وَ سِتَّمِائَة، از جهان فانى بگذاشت wa Pānzdahum rūz az māh-i Miyāna-yi Pā'īz-i sāl-i Khūk muwāfiq-i māh-i Ramaḍān sana Arba` wa `Ishrīn wa Sitta-Mi'a, az jahān fanā gudhāsht. :Rarshan&Mūsawī, vol. 1, p. 541.)」とあり、別の箇所では「先述の亥年の閏月(shūn-āy)、すなわちヒジュラ暦624年ラマダーン月14日に彼の棺(marqad)は彼の諸オルドへ運ばれ、(チンギス・カンの崩御の)出来事が明らかにされた( در شُون آی سال خوك مذكور، موافق چهاردهم رمضان سنة اَرْبَعَ وَ عِشرِينَ وَ سِتَّمِائَة هجرى، مرقد او را به اوردوهاى او رسانيدند و اظهاد واقعه كردند /dar Shūn-Āy-yi sāl-i Khūk-i madhkūr, muwāfiq-i Chahārdahum-i Ramaḍān sana Arba` wa `Ishrīn wa Sitta-Mi'a-yi Hijrī, marqad-i ū rā bi ūrdū-hā-yi ū rasānīdand wa aẓhār-i wāfi`a kardand)」。しかし、前者の「秋の中月の15日」という日時のとおりでは1227年9月26日になってしまい、さらに後者の「閏月」という記述を受け入れると、同年の「閏5月15日」は1227年6月30日となるため、それぞれのヒジュラ暦と中国暦との整合性が取れなくなる。[[ポール・ペリオ]]は「秋の中月の15日」は「秋の初月の15日」の誤り(すなわち「秋の初月の15日」は陰暦の7月15日なので1227年8月28日になる)と考えた。また、「閏月」についても、中国暦ではこの年の閏月は5月の後だが、ウイグル暦では7月の後に閏月を置いたであろうとして、「ラマダーン月の14日」とは中国暦での「7月25日」、西暦での「1227年8月28日」となるだろう、と論じた(Paul Pelliot, ''Note on Marco Polo'', vol. 1., Paris, 1959, pp.305-309.)。また、『元史』が崩御の場所としている「薩里川哈老徒之行宮」も西夏国内ではなくモンゴル高原のあたりになるため崩御の地とは考え難く、恐らく葬儀が執り行われた地と解するのが妥当と考えられる。村上正二によると、あるいは、18日に亡くなり、25日か28日には遺骸をモンゴル本土へ運び葬儀を執り行ったのでは、と論じている。(村上正二訳註『モンゴル秘史 3』p.274-275.)</ref>。『[[元史]]』などによると、モンゴル高原の'''起輦谷'''へ葬られた<ref>『元史』太祖本紀:太祖二十二年秋七月条「秋七月壬午,不豫。己丑,崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。葬起輦谷。」</ref>。これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝はこの起輦谷へ葬られた。
彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その崩御後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎が残された。
== 陵墓と祭祀 ==
チンギス・カンの崩御後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『[[東方見聞録]]』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたという。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。チンギスは崩御の間際、自分の死が世間に知られれば直ちに敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないよう家臣達に遺言したと言われている。
チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大[[オルド]]でそのまま行われた。四大オルドの[[廟|霊廟]]は陵墓からほど遠くない場所に帳幕([[ゲル (家屋)|ゲル]])としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。[[元 (王朝)|元]]から[[北元]]の時代には[[ジノン|晋王]]の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。[[15世紀]]のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも[[黄河]]の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民は[[オルドス部]]部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方も[[オルドス地方]]と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。
一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在[[中華人民共和国]]の[[内モンゴル自治区]]に[[全国重点文物保護単位]]である[[オルドス市]]の{{仮リンク|成吉思汗陵|zh|成吉思汗陵}}と[[ウランホト市]]の{{仮リンク|成吉思汗廟|zh|成吉思汗庙}}があるが、前者は1950年代に移動を重ねていた八白室を内モンゴルに戻して固定施設に変更して中国政府が建設したもので、後者は1940年代に当時の[[満州国]]に建てられたものであり、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。
[[冷戦]]が終結してモンゴルへの行き来が容易になった[[1990年代]]以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは土を掘ることを嫌う風習と民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が外国人に発掘されることからこれに不満を持つ人が多いという。
[[2004年]]、日本の調査隊は、モンゴルの首都である[[ウランバートル]]から東へ250キロの[[ヘルレン川]](ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が[[13世紀]]にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。
[[シカゴ大学]]の{{仮リンク|ジョン・E・ウッズ (歴史学者)|label=ジョン・ウッズ|en|John E. Woods (historian)}}[[教授]]も2001年にヘンティー山脈の丘陵地において、高さ約2.7~3.6メートルの石積みの壁が断続的に約3.2キロ続く[[遺構]]を確認、『元朝秘史』にある「古連勒古(クレルグ)」に比定し、チンギス・カンはじめモンゴル王族([[元朝]][[皇帝]])の陵墓である可能性が高いと示唆するが、発掘調査には至っていない。
また[[2009年]]、中国大連在住のチンギス・カンの末裔とされる80歳の女性が「チンギス・カン陵墓が現在の四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族に伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたため、中国政府も調査を開始した<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/309105/ チンギスハンの墓は四川省? 末裔の女性が新証言]</ref>。
[[2015年]]、チンギス・カンの墳墓が周辺にあるとされる[[ブルカン・カルドゥン]]が世界遺産となった。
== 子孫 ==
[[ファイル:Mongol Empire map.gif|250px|thumb|モンゴル帝国]]
モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則([[チンギス統原理]])が広く受け入れられるようになった。
[[13世紀]]の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちは[[ジョチ・ウルス]]、[[チャガタイ・ハン国]]、[[イルハン朝]]などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。<!--[[14世紀]]後半、モンゴル帝国の西半でチンギスの子孫の政権が次々に倒壊し、元が[[明]]に中国から追い出された後も、西チャガタイ・ハン国を再統一した非チンギス裔の[[ティムール]]はチンギスの末裔を傀儡のハン(カン)に立てなければ支配の正統性を示すことができず、[[15世紀]]の半ばの[[北元]]で非チンギス裔でありながらハーン(カアン)に即位した[[オイラト]]の[[エセン・ハーン|エセン]]は即位後すぐに内紛によって殺害された。-->
チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、[[18世紀]]頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しか現れなかった。外モンゴルと内モンゴルや[[カザフ人|カザフ]]では、[[20世紀]]の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。
こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。
===オクスフォード大学のY染色体調査研究===
[[2004年]]に[[オクスフォード大学]]の[[遺伝学]]研究チームは、[[デオキシリボ核酸|DNA]]解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも[[子孫]]を多く残した人物であるという結論を発表した。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼らによれば、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通する[[Y染色体]]ハプロタイプが検知出来たという。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにその[[Y染色体]]を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は'''1600万人'''にのぼるとされる。研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測しており、この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという仮説を発表した([http://www.timesonline.co.uk/printFriendly/0,,1-523-1143457,00.html]、[http://x51.org/x/04/06/1407.php])<ref>Tatiana Zerjal, Yali Xue, Giorgio Bertorelle, R. Spencer Wells, Weidong Bao, Suling Zhu, Raheel Qamar, Qasim Ayub, Aisha Mohyuddin, Songbin Fu, Pu Li, Nadira Yuldasheva, Ruslan Ruzibakiev, Jiujin Xu, Qunfang Shu, Ruofu Du, Huanming Yang, Matthew E. Hurles, Elizabeth Robinson, Tudevdagva Gerelsaikhan, Bumbein Dashnyam, S. Qasim Mehdi, and Chris Tyler-Smith, "The Genetic Legacy of the Mongols", ''American journal of human genetics'', 72-(3), 2003., p.717-721.</ref>。
この研究を主導したひとりクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は、チンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、[[ハザーラ人]]やパキスタン北部の[[フンザ]]の例をあげている。[[フンザ]]ではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べている。
しかしながら、この論説に対しては批判もあり、特に[[集団遺伝学]]者で[[スタンフォード大学]]の[[ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァ]]は、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。さらに、分布の状況と一夫多妻制が原因しているとするテイラー=スミスの見方に対しても、「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している<ref>Charlotte Schubert, "Y chromosomes reveal founding father", ''Nature Digest'', 2005, p.6(邦題「Y 染色体は始祖を表す」)</ref>。(同研究グループは同様の別の研究で、東アジアの男性約1000人のうち3.3%に現れた特定のY染色体について、その共通祖先は[[清朝]]初代皇帝[[ヌルハチ]]の祖父[[ギオチャンガ]]に比定しているが、カヴァッリ=スフォルツァはこの断定にも同様に根拠が薄弱であるという理由で異議を唱えている)
オックスフォード・アンセスターズの遺伝学者[[ブライアン・サイクス]]も研究が発表された[[2003年]]に出版した著書『アダムの呪い』で上記の研究を紹介しているが、「状況証拠は有力だが、残念ながら証明はできない」としながらも、検出されたY染色体についてチンギス・カンのものであるとほぼ断定している。同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・カンに対する人物評についても「チンギスハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている<ref>[[ブライアン・サイクス]]『アダムの呪い』([[大野晶子]]訳) ソニー・マガジンズ、2004年5月、p.244-250</ref>。だが同氏の見解のとおりだと、英国にも一定頻度で同様のY染色体キャリアがいることについて説明が出来ない、との反論がある<ref>早川智「青い血のカルテ(28)Y染色体とチンギス・ハーンの子孫」『産科と婦人科』73-(4)、2006年4月、p.532-535</ref>。
===ケンブリッジ サンガー研究所のアジア人起源研究===
大手遺伝子研究所であるケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士([https://uk.linkedin.com/pub/qasim-ayub/7/631/31 Qasim Ayub], PhD [[:en:Sanger Institute|Sanger Institute]],CAMBRIDGE)
らはアジア人の起源について研究していた。
アジア全域から集められた2000人以上の男性の血液サンプルを採取しDNAを抽出。
分析の結果、対象サンプルの多くがある同一の家系に属していることが判明した。
対象の8%にほぼ同一の[[マイクロサテライト]](DNAの短い配列の繰り返し)が見られた。
考えられるのは彼らには同じDNAを持つ共通の祖先がいるということ。
その祖先がどの時代の人物かを割り出すと、およそ1000年前で、さらにその遺伝子の発祥地はモンゴルであることも判明した。
モンゴルで同一の遺伝子集団が多く見られたこと、また時代を考慮すると、その祖先とはチンギス・カンである可能性が高いという。世界の3200万人がその遺伝子を引き継いでいると結論づけた。
== 評価 ==
[[File:GhingisHan-rev.jpg|thumb|right|250px|チンギス・カンが描かれたコイン]]
このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。
モンゴル人民共和国は[[ダムディン・スフバートル|スフバートル]]、[[ソリーン・ダンザン|ダンザン]]、[[ドグソミーン・ボドー|ボドー]]、[[ホルローギーン・チョイバルサン|チョイバルサン]]、{{仮リンク|ドクソム|en|Dansranbilegiin Dogsom|}}、チンギス・カンの直系子孫であるモンゴル学者{{仮リンク|ビャムビーン・リンチェン|en|Byambyn Rinchen|}}や王侯{{仮リンク|ナヴァーンネレン|zh|那旺纳林|}}等のモンゴル民族主義者で構成されたモンゴル人民党(後に[[モンゴル人民革命党]])が[[ソビエト連邦]]の[[赤軍]]の支援を受けて独立させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する[[衛星国]]だったが、当初は{{仮リンク|リンチノ|en|Elbegdorj Rinchino|}}ら[[汎モンゴル主義]]者を抱えていることから革命のためにチンギス・カンを政治的利用させた。[[1960年代]]には{{仮リンク|トゥムルオチル|en|Daramyn Tömör-Ochir|}}政治局員らがチンギス・カンの生誕800周年を祝い、チンギス・カンの研究者を集めた[[シンポジウム]]を開いて切手も発行され、チンギス・カンの故郷とされた[[ダダル郡]]に記念碑が建設された<ref>Michael Kohn (1 January 2006). Dateline Mongolia: An American Journalist in Nomad's Land. RDR Books. pp. 35–. ISBN 978-1-57143-155-4.</ref>。[[1962年]]にトゥムルオチル政治局員のライバルだった当時の首相[[ユムジャーギィン・ツェデンバル|ツェデンバル]]は、[[中ソ対立]]とこの祝賀を機にトゥムルオチルを「民族偏向主義者」「中国寄り」であるということで追放した<ref>Zhamsrangiĭn Sambuu (2010). Herdsman to Statesman: The Autobiography of Jamsrangiin Sambuu of Mongolia. Rowman & Littlefield. pp. 125–. ISBN 978-1-4422-0750-9.</ref>。以後チンギス・カンは批判されていった。モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生モンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、モンゴルの紙幣[[トゥグルグ]]でもスフバートルとともにチンギス・カンの肖像が用いられ、かつて[[スフバートル廟]]があったモンゴル政府宮殿前には改装の際にチンギス・カンの銅像が建てられて大統領の就任宣誓が行われている。
また、[[中華人民共和国]]でもチンギス・カンの生誕800周年は[[ウランフ]]と[[周恩来]]の後押し<ref>{{cite web|title=缅怀乌兰夫:从草原之子到国家领导人 曾动员内蒙古收养三千名孤儿(组图)|url=http://www.zgdsw.org.cn/n/2014/1209/c244523-26175329-6.html|date=2014-12-09|accessdate=2018-03-14|publisher=[[人民網]]}}</ref>で建設されたオルドス市の成吉思汗陵で盛大に祝われ<ref>Bayar, Nasan (2007), "On Chinggis Khan and Being Like a Buddha: A Perspective on Cultural Conflation in Contemporary Inner Mongolia", The Mongolia–Tibet Interface: Opening New Research Terrains in Inner Asia, Brill's Tibetan Studies Library, Vol. 10/9, Proceedings of the 10th Seminar of the IATS, Oxford, 2003, Leiden: Brill, pp. 212.</ref>、チンギス・カンが死去した場所とされる[[六盤山]]の{{仮リンク|涼殿峡|zh|凉殿峡遗址}}は保護区となっている<ref>{{cite web|title=涼殿峡|url=http://www.nx.xinhuanet.com/2017-06/01/c_111743870.htm|date=2017-06-01|accessdate=2018-03-14|publisher=[[新華社]]}}</ref>。[[日本軍]]占領下で[[バトマラプタン]]と[[ボヤンマンダフ]]や[[松王]]の後押しによって建てられたウランホト市の成吉思汗廟もむしろ革命的なシンボルとして政府の資金で改修などがされており<ref>森時彦編『20世紀中国の社会システム : 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告』収録「成吉思汗廟の創建 / 田中剛 著」</ref>、[[歴史劇]]としてチンギス・カンの子孫<ref>[http://news.sina.com.cn/s/p/2006-09-22/132311079041.shtml 巴森:{{lang|zh|再现成吉思汗风采(组图) | 新浪网}}] {{zh icon}} </ref><ref>[http://www.surag.net/?tag=8002 {{lang|zh|北方新闻网 | 中国蒙古学信息网}}] {{zh icon}} </ref>であるモンゴル族俳優の[[バーサンジャブ]]を主演に据えたテレビドラマ「[[チンギス・ハーン (テレビドラマ)|チンギス・ハーン]]」や映画が制作されて[[内モンゴル自治区]]では{{仮リンク|チンギス・ハーン鎮|zh|成吉思汗镇}}などの地名やチンギス・カンの像があり、モンゴルを訪問した際に[[習近平]]のような中国の指導者はチンギス・カン像に頭を下げて敬意を表し<ref>{{cite web|title=習近平向成吉思汗雕像點頭致意|url=http://gd.people.com.cn/BIG5/n/2014/0822/c123932-22072332.html|date=2014-08-22|accessdate=2018-02-24|publisher=[[人民網]]}}</ref><ref>{{cite web|title=習近平彭麗媛向成吉思汗雕像點頭致意|url=http://news.dwnews.com/china/big5/news/2014-08-22/59604824.html|date=2014-08-22|accessdate=2018-02-24|publisher=多維新聞網}}</ref>、中国国内ではチンギス・カンの肖像を踏みつけるといった行為は年少者でも民族の英雄を侮辱した罪で逮捕・[[実刑]]を受けているが<ref>{{Cite web|和書|title=チンギスハンの肖像画踏みつけ懲役1年、ネットで話題に—中国|url=https://www.recordchina.co.jp/b232095-s0-c70-d0000.html|date=2017-12-17|accessdate=2018-01-04|publisher=[[Record China]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=チンギス・ハーンの画像踏みつけた19歳に実刑、その背景|url=https://www.news-postseven.com/archives/20180103_638544.html|date=2018-01-03|accessdate=2018-01-04|publisher=[[NEWSポストセブン]]}}</ref><ref>{{cite web|title=Chinese man jailed for stamping on Genghis Khan portrait|url=http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-42364214|date=2017-12-15|accessdate=2018-01-04|publisher=[[BBC]]}}</ref>、あくまで中国政府の主張する「[[中華民族]]の英雄」<ref name=asahi021129>{{Cite web|和書|title=チンギス・ハンは誰の英雄|url=http://www.asahi.com/international/aan/column/021129.html|date=2002-11-29|accessdate=2017-07-11|publisher=[[朝日新聞]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=チンギス・ハンは中華的英雄?奪われた陵墓の数奇な運命|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/07/post-3807_1.php|date=2015-07-30|accessdate=2017-10-30|publisher=[[ニューズウィーク]]日本語版}}</ref>としての崇拝が認められており、人権活動家で[[内モンゴル独立運動]]家の[[ハダ]]とモンゴル族の若者が集まってチンギス・カンの肖像を掲げてモンゴルの歌を放吟すると「国家分裂扇動」「スパイ活動」として逮捕・拘禁されている<ref>{{cite web|publisher=[[Las Vegas Sun]]|work=[[Associated Press]]|accessdate=2010年12月31日 |date=Sunday, Dec. 19, 2010|title=Mongolian activist likely released from China jail|url=http://www.lasvegassun.com/news/2010/dec/19/as-china-mongolian-activist/}}</ref><ref name=amnestyjp20110101>{{Cite web|和書|publisher=[[アムネスティ・インターナショナル日本]]|accessdate=2011年01月03日|date=2011年01月01日|title=中国 : 中国は行方不明中のモンゴル人活動家の消息を明らかにしなければならない|url=http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=888}}</ref>。
== 宗室 ==
『[[集史]]』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『[[元史]]』では大オルドを監督する4人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。[[イルハン朝]]、[[ティムール朝]]時代の資料に準拠。漢字表記は『[[元史]]』「后妃表」による。
=== 父母兄弟 ===
* 父 [[イェスゲイ]]
* 母 [[ホエルン]]
** 次弟 [[ジョチ・カサル]]
** 三弟 [[カチウン]]
** 四弟 [[テムゲ・オッチギン]]
** 異母弟 [[ベルグテイ|ベルグテイ・ノヤン]]
**:『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人[[ベグテル]]という、ベルグテイの同母兄と思しき弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベグテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責したという。この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベグテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。
** 妹 [[テムルン]] - コンギラト部族の一派[[イキレス]]氏族の首長[[ブトゥ・キュレゲン]]に嫁ぐ
=== 后妃 ===
チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、[[ボルテ]]を第1位、[[クラン (メルキト部)|クラン]]を第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『[[元史]]』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。
==== 大オルド ====
* [[ボルテ|ボルテ・ウジン]](孛児台旭真太皇后) [[コンギラト]]部族デイ・セチェンの娘(正宮 孛剌合真皇后)
** 忽魯渾皇后
** 闊里桀皇后
** 脱忽思皇后
** 帖木倫皇后
** 亦憐真八剌皇后
==== 第二オルド ====
* [[クラン (メルキト部)|クラン]](忽蘭皇后) [[メルキト|ウハズ・メルキト]]部族長ダイル・ウスンの娘
** 哈児八真皇后
** 亦乞剌真皇后
** 脱忽茶児皇后
** 也真妃子
** 也里忽禿妃子
** 察真妃子
** 哈剌真妃子
==== 第三オルド ====
* イェスルン([[イェスイ]] 也速皇后) [[タタル部|トトクリウト・タタル]]部族出身。イェスゲンの姉。
** 忽魯哈剌皇后
** 阿失倫皇后
** 禿児哈剌皇后
** 察児皇后
** 阿昔迷失皇后
** 完者忽都皇后
** 渾魯忽歹妃子
** 忽魯灰妃子
** 剌伯妃子
* 岐国公主 [[金 (王朝)|金朝]]皇帝・[[衛紹王]]の娘
==== 第四オルド ====
* イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの妹。
** 忽答罕皇后
** 哈答皇后
** 斡者忽思皇后
** 燕里皇后
** 禿干妃子
** 完者妃子
** 金蓮妃子
** 完者台妃子
** 奴倫妃子
** 卯真妃子
** 鎖郎哈妃子
** 八不別及妃子
『集史』チンギス・ハン紀后妃表には5人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma)について記録されている。
* ベクトゥトミシュ・フジン [[ケレイト]]のジャガ・ガンボの娘で[[トルイ]]の妃[[ソルコクタニ・ベキ]]らの姉妹。
* グルベス・ハトゥン [[ナイマン]]部族連合の首長[[タヤン・カン]]の第一ハトゥンだった人物。
* チャク・ハトゥン [[西夏]]皇帝の娘。
** 氏名不明 ナイマン出身。ジョルチダイの母
=== 子女 ===
『[[集史]]』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『[[元史]]』では「六子」とする。これらの多くの男子のうち、 [[クビライ]]の時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『[[南村輟耕録]]』などのモンゴル時代以降の系譜資料に基づく)。
==== 男子 ====
* [[ジョチ]] 母 [[ボルテ]]
* [[チャガタイ]] 母 ボルテ
* [[オゴデイ]] 母 ボルテ
* [[トルイ]] 母 ボルテ
* [[コルゲン (モンゴル帝国)|コルゲン]](次六 闊列堅太子) 母 [[クラン (メルキト部)|クラン]]
* チャウル 母 イェスゲン
* ジョルチダイ
* ウルジュカン(次五 兀魯赤、無嗣)
* 氏名不明 母 タタル部族出身の側室
==== 女子 ====
* コアジン・ベキ - 叔母であるテムルンの死後、イキレス氏の[[ブトゥ・キュレゲン]]に嫁ぐ
* チェチェゲン - 『元朝秘史』ではオイラト駙馬家の首長[[クドカ・ベキ]]の息子[[イナルチ]]に与えられたというが、『元史』『集史』ではイナルチの弟[[トレルチ]]に与えられたとされる
* アラガイ・ベキ - オングト駙馬王家の首長[[アラクシ・ディギト・クリ]]の孫ボヨカに嫁ぐ
* トマルン - 同族であるオルクヌウト氏族でボルテの弟[[アルチ (コンギラト部)|アルチ・ノヤン]]の長男[[チグゥ|チグゥ・キュレゲン]]に嫁ぐ
* アルタルン - [[ホエルン]]の弟[[オラル (オルクヌウト部)|オラル・キュレゲン]]の息子タイチュ・キュレゲンに嫁ぐ
* イル・アルタイ(アル・アルトゥン) - 母不詳。[[天山ウイグル王国]]に嫁ぐ。
== 名前 ==
===チンギスについて===
「チンギス・カン」とはテムジンが即位の際にコンゴタン氏族出身の[[ココチュ (コンゴタン部)|テブ・テングリ]](ココチュ)という[[シャーマン]]から与えられた称号であるが、その意味については諸説ある。
『[[集史]]』部族篇オロナウト族の項には、
{{quotation|「チンク čīnk」は「強固な」という意味であり、「チンギス čīnkkīz」はその複数形である。この称号を採った理由は以下のとおりである。当時[[カラ・キタイ]] Qarā Ḫitāyの大帝王の称号は「グル・カン kūr ḫān」であり、グル kūrの意味も同じく「強固な」であり、王が非常に強大でない限り、グル・カン kūr ḫānと呼ばれなかった。モンゴル語で「チンギス čīnkkīz」は「グル kūr」と同じ意味を持つが、より大げさで、複数形でもあるため、この語をつけることは、例えばペルシア語でシャハンシャー šahanšāh(王の中の王)というのと同じであった。|『集史』部族篇オロナウト族の項}}<ref>チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察 宇野伸浩 2008</ref>
とあり、『[[蒙古源流]]』には
{{quotation|五色の瑞鳥が毎朝テムジンの天幕の前の石の上に留まって、「チンギス、チンギス」と鳴いたことから名付けた|『蒙古源流』}}
とあり、ブリヤト・モンゴル人の学者ドルジ・バンザロフは「これはシャーマンの間で唱えられている光の精霊の名のHaǰir Činggis Tenggeriという言葉から出たに相違ない」とし、[[ポール・ペリオ]]は[[テュルク語]]のdenggiz(海、湖)という語に比定し、「海の精霊」を指したものであろうとした。<ref>村上正二訳注『モンゴル秘史1チンギス・カン物語』p254</ref>
===カンとカアンについて===
チンギス・カンの呼称は、歴史的に見て「チンギス・'''カン'''」系と「チンギス・'''カアン'''」系の2種類に大別出来る。
==== 「チンギス・カン」系の資料 ====
本来、13 - 14世紀当時の中期モンゴル語では「チンギス・'''カン'''」 (Činggis Qan) と称していたことが同時代資料の調査から分かっている。
これは、当時のウイグル文字モンゴル語ではイェスンゲ紀功碑などでも CYNKKYZ Q'N (Činggis Qan) と書かれ、第5代モンゴル皇帝[[クビライ]]の大元ウルスで開発されたパスパ文字によるモンゴル語皇帝聖旨碑文でも ǰiṅ-gis qa-nu とある<ref name="syourinji_hibun">中村淳・松川節「新発現の蒙漢合璧の少林寺聖旨碑」『内陸アジア言語の研究』第8号、1993年 pp.1 - 92.</ref>。
また13世紀のアラビア語・ペルシア語年代記では、イブン・アル=アスィールの『完史 (al-Kāmil fī al-Ta'rīkh) 』(1231年成立)やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『[[ジャラールッディーン・メングベルディー|ジャラールッディーン]]伝 (Sīrat al-Sulṭān Jalāl al-Dīn Mankubirtī) 』(1240年代初頭成立)、ジューズジャーニーの『ナースィル史話 (Tabaqāt-i Nāṣirī) 』(1260年成立)といったモンゴル帝国外で成立した資料では جنكيز خان Jinkīz Khān (ペルシア語資料の刊本では現在の[[ペルシア文字]]の چ č/ch や گ g が補われて چنگيز خان Chingīz Khān )などと表記されており、モンゴル帝国側の資料と言える[[ジュヴァイニー]]の『[[世界征服者の歴史]]』(1260年成立)でもやはり چنگيز خان Chingīz Khān などとなっている。[[ラシードゥッディーン]]の『[[集史]]』(1314年成立)では編者のラシード在世中に書写された紀年(1317年書写)を持つ現存最古の写本、いわゆる「イスタンブール本」(Revân köşkü No. 1518)では、(ウイグル文字での綴りを反映していると思われるが) چينككيز خان Chīnkkīz Khān とあって同書では「チンギス・カン」は一貫してこの綴りを用いている。このように13 - 14世紀のモンゴル帝国内外のアラビア語・ペルシア語文献ではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分は、従来からあったテュルク語の χan (ハン)のアラビア文字転写である خان khān を用いた。
==== 「チンギス・カアン」系の資料 ====
一方で、後代のモンゴル語文献では「チンギス・'''カアン'''」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) という言い方もされている。
17世紀初頭に成立した『[[アルタン・ハーン伝]]』などでは、「チンギス・'''カアン'''」 (CYNKKYZ Q'Q'N /Činggis Qaγan) の綴りで表記され、[[サガン・セチェン]]『[[蒙古源流]]』や『[[アルタン・トプチ]]』などの代表的な近代以降のモンゴル語年代記でも同様に表記されている。現存最古のモンゴル語による歴史書文献で[[明|明代]]に入って最終的な編纂をみる[[洪武]]刊十二巻本『[[元朝秘史]]』でも「成吉思可罕」 (Činggis Qahan) となっており、現存の『元朝秘史』は明代のものだが、14世紀末の「チンギス・カアン」系の資料である。
==== 「チンギス・カン」と「チンギス・カアン」の対立 ====
「カン」と「カアン」の違いについてだが、[[ハーン]]の項目でも述べられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγan) は、一般的な「王」や「君主」を意味する「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝」の意味として、第2代皇帝オゴデイによって古代の「カガン」 (Qaγan) の称号を復活させて用いられたと考えられており、第4代モンケ、第5代クビライによってモンゴル皇帝の称号として定着した。
13 - 14世紀にモンゴル帝国側の資料で「チンギス・'''カアン'''」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) と呼ぶ例は、皆無ではないが筆記者による書き間違いなどの可能性もあるレベルで、一般的ではなかったようである。
例えば、大元ウルスでの場合、少林寺蒙漢合璧聖旨碑の例を挙げると、タツ年([[至元 (元世祖)|至元]]5年戊辰、[[1268年]])正月25日の紀年を持つウイグル文字モンゴル語によるクビライの聖旨碑文には、チンギスは CYNKKYZ X'N/Činggis Qan と書かれ、オゴデイは単に X'X'N/Qaγan〜Qa'an と書かれている。およそ半世紀のちのネズミ年([[皇慶 (元)|皇慶]]元年壬子、[[1318年]])3月13日の紀年のある同じ碑石に刻された仁宗[[アユルバルワダ]]による聖旨碑でも、チンギスは「チンギス・カンの」 ǰiṅ -gis qa-nu/ǰiṅgis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 "ö-kˋö-däḙ q·a-nu/Öködeï Qa'an-u 、クビライは尊号である「セチェン・カアンの」 sä-čän q·a-nu/Sečen Qa'an-u で呼ばれており、続く成宗[[テムル]]も同じく尊号の「オルジェイトゥ・カアンの」 "öˆl-ǰäḙ-tˋu q·a-nu/Öˆlǰeïtü Qa'an-u、武宗[[カイシャン]]も尊号の「クルグ・カアンの」kˋü-lug q·a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号のまま使われており、オゴデイ以下他と区別がされている<ref name="syourinji_hibun" />。
[[ファイル:LetterGuyugToInnocence.jpg|thumb|120px|right|グユクのインノケンティウス4世宛国書。15行目に「チンギス・カンと(オゴデイ・)カアン ( جنكيز خان و قاان Jinkīz Khān wa Qā'ān) 」と書かれている。(日本語訳<ref name="ebi">海老澤哲雄 『[https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tebisawa19.pdf グユクの教皇あてラテン語訳返書について]』 2004年 … ラテン語版返書とペルシャ語版返書の日本語訳</ref>)([[ペルシア語]]、[[バチカン美術館|バチカン図書館]]蔵)]]
イルハン朝でも上述の通り、チンギスは『世界征服者の歴史』などの جنكيز خان Jinkīz Khān (または چنگيز خان Chigīz Khān)あるいは『集史』のような چينككيز خان Chīnkkīz Khān と書かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 اوكتاى قاآن Ūktāī Qā'ān、クビライは「クビライ・カアン」 قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān となっている。しかしながら例えばチンギス・'''カアン''' جنكيز قاآن Jinkīz Qā'ān のような表記をされた資料はイルハン朝以降も見られない。このような جنكيز خان Jinkīz Khān と(オゴデイ・)カアン قاان Qā'ān のような表記の書き分けは、第3代皇帝[[グユク]]がローマ教皇[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]に宛てた国書にもはっきり確認される。13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。総じてこの جنكيز خان Jinkīz Khān という表記はティムール朝時代以降も一般的に使われている。
イルハン朝周辺でもウイグル文字モンゴル語で書かれた資料がいくつか残されており、例えば『集史』編纂後程なく成立したと見られる系図資料『五族譜』 (Shu`ab-i Panjgāna) は各々主要なモンゴル君主の部分には人物名のアラビア文字表記とウイグル文字表記とを併記しているのが特徴となっている。そこではチンギスの場合、アラビア文字で جينككيز خان Jīnkkīz Khān と表記され、ウイグル文字では cynγkyz q'n/čiŋγis qan と表記されている。クビライの場合はアラビア文字で قُوبِيلَاي قآن Qūbīlāī Qa'ān と表記され、ウイグル文字では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記されている(アラビア文字表記は『集史』イスタンブール本とほぼ同一となっている。「カアン」のアラビア文字表記について『世界征服者の歴史』やグユクのインノケンティウス4世宛国書では قاان Qā'ān もしくは قاآن Qā'ān と4文字で表記されるが、『集史』イスタンブール本や『五族譜』では قآن Qa'ān と3文字で表記されており、2番目の文字にアリフの長母音記号であるマッダ記号が附されているのが特徴的である)。
==== 漢語文献での「チンギス・カン」の呼称 ====
後裔である[[元 (王朝)|元朝]]によってつけられた中国風の[[廟号]]は太祖、[[諡]]は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代[[皇帝]]として扱われる。
漢語文献では、チンギス在世中の記録として、[[ムカリ]]国王の宮廷を訪れた[[南宋]]の使者[[孟珙]]撰([[王国維]]の研究により著者は趙{{lang|zh-tw|珙}}と校正された)の報告書『[[蒙韃備録]]』([[1221年]]頃成立)や[[サマルカンド]]駐留中のチンギス・カンに謁見した長春真人・[[丘処機]]の旅行記『[[長春真人西遊記]]』([[1228年]]頃成立)が知られているが、いずれも「成吉思皇帝」と書かれている。南宋側の記録である『蒙韃備録』や『[[黒韃事略]]』([[1237年]]成立)でもチンギスは「成吉思皇帝」や「韃主」と呼ばれているが、「チンギス」という音写に基づく呼称は一貫して「成吉思」や「成吉思皇帝」であり、ウイグル文字、パスパ文字、アラビア文字などのような「カン」と「カアン」の書き分けは生じていない。『元朝秘史』のような「成吉思可罕」という表記は漢語文献では稀であり、ほとんど確認されない(ちなみに、1346年に成立した[[チベット語]]文献の『[[フゥラン・テプテル]]』でも「太祖チンギス帝」 ({{lang|tib|Thaḥi dsuṅ Jiṅ gi rgyal po}}) とあって「カン」や「カアン」の部分は音写されていない)。
1266年にクビライによってチンギス・カン以来のモンゴル皇帝や皇后、[[イェスゲイ|イェスゲイ・バアトル]]や[[トルイ]]などの主要モンゴル王族の廟号と諡号が設けられ、チンギスには廟号を太祖、諡号を聖武皇帝と贈られた。また、[[1309年]]12月3日に武宗カイシャンによってさらに法天啓運聖武皇帝と追諡された<ref>『元史』巻一 太祖本紀「至元三年冬十月、追諡聖武皇帝 。至大二年冬十一月庚辰、加諡法天啓運聖武皇帝。廟號太祖。在位二十二年。」</ref>。これらを受けて大元ウルスの末期に編纂された随筆『南村輟耕録』の歴代モンゴル皇帝を列記した巻第1 列聖授受正統 には「太祖應天啓運聖武皇帝 諱鐵木眞國語曰成吉思。」と記されている。
==== 中期モンゴル語と近現代モンゴル語の音韻 ====
以上のように、西方のアラビア文字圏ではイルハン朝以降もほぼ一貫して「チンギス・カン」系の表記のままであったのに対して、モンゴル高原では「チンギス・'''カアン'''」系に呼称が遷移した。近代モンゴル語[[Image:Cinggis qagan.svg|15px]] Чингис Хаан{{Audio|Genghis Khan.ogg|2 = {{IPA|ʧiŋgɪs χaːŋ}} }}の音韻に近い「チンギス・ハーン」という表記が、近年一般に流布して用いられたが、これは表記上の問題以外に音韻上の変化についても問題となる。パスパ文字モンゴル語やアラビア文字表記から、ウイグル文字などに見られる Qaγan は第2音節の -aγa- は -a'a- と軟音化して「カ'''ア'''ン」と発音されていたことが確実で、これが近現代音ではさらに χaːŋ のようにほぼ長母音化してしまっている。中期モンゴル語の q 音もパスパ文字モンゴル語表記やアラビア文字転写によって、「カ」に近い音であったが、現在では χ 音に移行している。χ 音は日本語の仮名転写では「ハ」行が用いられるため、中期モンゴル語としては「チンギス・カアン」と呼ぶべきものが「チンギス・ハーン」に変化しているのである。また、近現代モンゴル語でも「カン(ハン)」と「カアン(ハーン)」の区別は存在するが、チンギスは「ハーン(皇帝)」であるため、「チンギス・ハン (Чингис хан) 」とは呼んではならず、「チンギス・ハーン (Чингис хаан) 」と呼ぶべきだと現在のモンゴル人は考えている、との報告もされている<ref>白石典之『チンギス・カン -“蒼き狼”の実像』 中公新書、2006年1月</ref>。
一方で、ペルシア語文献でのアラビア文字(ペルシア文字)転写で多い、چنگيز خان Chigīz Khān を仮名転写すると「チンギーズ・ハーン」となり、近現代モンゴル語の「カアン」 (Qa'an) の発音転写とアラビア文字表記での「カン」 (Qan) の仮名転写が、「ハーン」という同一の転写になってしまう。「カン」と「カアン」という中期モンゴル語のレベルでは意味的に異なる単語が、依拠する資料で同一の仮名転写になるという弊害が生じることとなった。
==== 「チンギス・カン」「チンギス・ハン」「チンギス・ハーン」 ====
このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言った具合に、日本語文献での仮名転写が研究者や執筆者の間でバラバラの状態になり、混乱をきたすようになった。一般に日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「'''成吉思汗'''」と書かれる。ただし、「汗」の読みは中国でも年代や地域により異なり、「ハン」「ホン」、[[閩東語]]・[[閩南語]]では「カン」(ガン)となるが、古代の[[上古中国語]]では「ガーン」であった<ref>[https://en.wiktionary.org/wiki/%E6%B1%97#Chinese 汗] Wiktionary.</ref>。明治時代の日本ではジンギス・カンと振り仮名されていた{{sfn|杉山思海|1888}}。[[清|清朝]]時代の[[満州語]]では「ハン」と発音され、中期モンゴル語や近現代モンゴル語の「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立は見られないという。
主に、1980年前後から『アルタン・ハーン伝』に見られるような16 - 17世紀以降のモンゴル語文献の調査に基づく研究者の間では「チンギス・ハーン」という表記を採用する傾向にあり、一方で1990年代以降に中国で発掘された大元ウルス時代のパスパ文字モンゴル語碑文や『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語文献の調査の進展によって、中期モンゴル語音韻の復元研究が進み、モンゴル帝国では「カン」と「カアン」が明確に区別されていたことが判明・認識されるようになった。このため13 - 14世紀のモンゴル帝国時代の研究者からこれらの同時代文献資料での表現に基づいて「チンギス・カン」という表記が推奨されるようになった(両者の弁別を強く訴えている研究者としては、モンゴル帝国史・大元ウルス史の専門家である[[杉山正明]]などが有名である。また、「チンギス・ハン」は「チンギス・カン」の現代モンゴル語読み (Činggis Qa'an) か、どちらかというとアラビア文字表記の چنگيز خان Chigīz Khān から再現したテュルク語発音(Čiŋγis χan と転写すべきか)に近い)。
かつては'''ジンギス・カン'''と書かれることが多かったが、これはティムール朝以降のペルシア語年代記などの[[アラビア文字]]表記でجنكز خان (jinkiz khān) のようにイルハン朝時代の『集史』では保たれていた چ č が ج j のままになっている写本が多く見られることによる。これらの事情によっての13-14世紀以降のアラビア語文献や ج j のままの文献の音写から転訛した欧米の諸言語の発音に基づいた、19 - 20世紀前半までの表記がベースと考えられる。しかしながら、現在では「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般化しており、現在では「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米ではモンゴル帝国時代に存在した「カン」と「カアン」の区別についての認識がまだまだ周知されていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律表記される傾向にある)。
このように、13 - 14世紀のモンゴル帝国内部の中期モンゴル語やその影響にある文字表記では「チンギス・カン」と呼ばれている。13 - 14世紀の中期モンゴル語と近代・現代モンゴル語では q 〜 χ と音韻の変化が生じているが、それとは別に大元ウルスが崩壊した前後からモンゴル高原周辺ではチンギス・カンの称号について、「カン」系から「カアン」系へシフトしていったもので「チンギス・カアン」という言い方は、特に大元ウルスが崩壊した14世紀末以降に一般化していったものと考えられる。
以上、同時代の[[モンゴル語]]による表記は Činggis Qan で、'''チンギス・カン'''と発音したため、本項でもこれを使用する。その他の人名・部族名・地名の当時の発音については[[東洋史]]学者・[[白鳥庫吉]]がローマ字音訳した{{ws|[[:s:音訳蒙文元朝秘史|『音訳蒙文元朝秘史』]]}}を参照のこと。
== 参考文献 ==
=== 史料 ===
{{Wikisource|成吉思汗実録|<br/>成吉思汗実録<br/>(那珂通世、1907年)}}
{{Wikisource|校正増注元親征録|<br/>校正増注元親征録<br/>(故那珂博士功績紀念会、1915年)|3=日本語訳}}
{{Wikisource|音訳蒙文元朝秘史|<br/>音訳蒙文元朝秘史<br/>(白鳥庫吉、1943年)}}
* {{Citation|和書| author=杉山思海| year=1888| url =https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777375/21| title=六雄八将論 : 古今列国腕力社会| volume=| volume-title=| publisher= 内藤加我| page=| quote=成吉思汗論| ref =harv}}
* [[那珂通世]](訳注) 『[{{NDLDC|782220/1}} 成吉思汗實録]』 大日本図書、1907年。
* 故那珂博士功績紀念会 「[{{NDLDC|950907/331}} 校正増注元親征録]」『那珂通世遺書』大日本図書、1915年。
*:チンギス・カンの生涯を漢文で記した年代記『[[聖武親征録]]』を[[:zh:何秋濤|何秋濤]]、[[李文田]]、[[沈曽植]]、[[那珂通世]]が校注した作品。<br/>注で『[[元朝秘史]]』、『[[元史]]』、[[ラシードゥッディーン]]著『[[集史]]』、[[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|ドーソン]]著『モンゴル帝国史』、[[:ru:Березин, Илья Николаевич|ベレジン]]著書、[[洪鈞]]著『元史訳文証補』などをふんだんに引用している。
* [[小林高四郎]](訳注) 『蒙古の秘史』 生活社、1940年。
* [[白鳥庫吉]](ローマ字音訳) 『[{{NDLDC|1917744/4}} 音訳蒙文元朝秘史]』 東洋文庫、1943年。
* 小林高四郎(抄訳) 『[[元史]]』 (中国古典新書)明徳出版社、1972年。
* 村上正二(訳注) 『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 (『[[平凡社東洋文庫|東洋文庫]]』全3巻)、平凡社、1970年 - 1976年。
* [[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|C.M.ドーソン]](佐口透訳注) 『モンゴル帝国史』 (『東洋文庫』全6巻)、平凡社、1968年 - 1979年。
* [[小沢重男]] 『[[元朝秘史]]全釈』 3巻、[[風間書房]]、1984年 - 1986年。
* 小沢重男 『元朝秘史全釈続攷』 3巻、風間書房、1987年 - 1989年。
* 小澤重男(訳) 『元朝秘史』 ([[岩波文庫]])2巻、岩波書店、1997年。
* [[栗林均]]、确精扎布 編 『『元朝秘史』モンゴル語全単語・語尾索引』 (『東北アジア研究センター叢書』第4号) 東北大学東北アジア研究センター、2001年12月。
*[[岡田英弘]]訳注『蒙古源流』[[刀水書房]]、[[2004年]]。
=== 研究書・論文 ===
* [[杉山正明]] 『モンゴル帝国と大元ウルス』 京都大学学術出版会、2004年。
* 本田實信 『モンゴル時代史研究』 東京大学出版会、1991年。
* 村上正二 『モンゴル帝国史研究』 風間書房、1993年。
=== その他の著書 ===
* [[岩村忍]] 『元朝秘史 チンギス=ハン実録』 ([[中公新書]])、[[中央公論社]]、1963年。
* 小林高四郎 『ジンギスカン』 ([[岩波新書]])、岩波書店、1960年。
* [[岡田英弘]] 『チンギス・ハーン 将に将たるの戦略』 [[集英社]]、1986年。
** 新版 『チンギス・ハーン』 (朝日文庫)、[[朝日新聞社]]、1994年。
* 岡田英弘 『モンゴル帝国の興亡』 ([[ちくま新書]])、[[筑摩書房]]、2001年。
* 小澤重男 『元朝秘史』 (岩波新書)、[[岩波書店]]、1994年。
* 勝藤猛 『草原の覇者・成吉思汗』 (清水新書)、清水書院、1984年。
* 白石典之 『チンギス・カン 蒼き狼の実像』 ([[中公新書]])、中央公論新社、2006年。
* ジャン=ポール・ルー 『チンギス・カンとモンゴル帝国』 杉山正明監修・田辺希久子訳 ([[「知の再発見」双書]]) [[創元社]]、2003年。
* 杉山正明、北川誠一 『世界の歴史9 大モンゴルの時代』 中央公論社、1997年、[[中公文庫]]、2008年。
* 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡』 [[講談社現代新書]] 上・下、1996年。
** 『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』 (角川選書) 角川書店、1992年
* ブラウヂン 『大統率者ジンギス汗の謎』 飯村穰訳注 (叢文社、1982年)
* イワニン 『鉄木真帖木児用兵論』 参謀本部訳 (陸軍文庫、1895年)
* 松尾裕夫 「ジンギス汗戦法の一考察(1)(2)」 (『幹部学校記事』第210 - 211号、1971年)
== 関連作品 ==
=== 小説 ===
* [[蒼き狼 (小説)|蒼き狼]]([[井上靖]])
* [[チンギス・ハーン英雄伝]]([[赤羽尭]])
* [[地果て海尽きるまで]]([[森村誠一]])
* チンギス・ハーンの一族([[陳舜臣]])
* 世界を創った男 チンギス・ハン([[堺屋太一]])
* チンギス紀([[北方謙三]])
* [[射鵰英雄伝]]([[金庸]])
* [[チンギス・ハンの白い雲]]([[チンギス・アイトマートフ]])
* 火と光の子([[山中恒]])…児童向け小説
=== 映画 ===
* [[成吉思汗 (1943年の映画)|成吉思汗]](1943年、日本 監督:[[牛原虚彦]]・[[松田定次]]、主演:[[戸上城太郎]])
* [[成吉思汗 (1951年の映画)|成吉思汗]](1951年、アメリカ 監督:[[ジョージ・シャーマン]]、演:[[マーヴィン・ミラー (俳優)|マーヴィン・ミラー]])原題は「The Golden Horde」で、チンギス・カンが主人公ではない。
* [[征服者 (1956年の映画)|征服者]](1956年、アメリカ 監督:[[ディック・パウエル]]、主演:[[ジョン・ウェイン]])
* [[ジンギス・カン (1965年の映画)|ジンギス・カン]](1965年、アメリカ/イギリス/西ドイツ/ユーゴスラビア合作 監督:[[ヘンリー・レヴィン]]、主演:[[オマル・シャリーフ|オマー・シャリフ]])
* [[ジンギス・カン (1987年の映画)|ジンギス・カン]](1987年、中国 監督:[[ジャン・シャンチー]]、主演:[[ドリ・グアル]])
* [[チンギス・ハーン (映画)|チンギス・ハーン]](1992年、モンゴル 監督:[[ベグズィン・バルジンジャム]]、主演:[[アグワンツェレーギン・エンフタイワン]])
* {{仮リンク|蒼き狼 チンギス・ハーン|en|Genghis Khan (1998 film)}}(1998年、中国 監督:[[サイフ (映画監督)|サイフ]]、[[マイリース]]、主演:[[テューメン]])
* [[蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜]](2007年、日本 原作:森村誠一、監督:[[澤井信一郎]]、主演:[[反町隆史]])
* [[モンゴル (映画)|モンゴル]](2007年、ドイツ/カザフスタン/ロシア/モンゴル合作 監督:[[セルゲイ・ボドロフ]]、主演:[[浅野忠信]])
* {{仮リンク|ライジング・ロード 男たちの戦記|ru|Тайна Чингис Хаана}}(2009年、ロシア/モンゴル/アメリカ合作 監督:[[アンドレイ・ボリソッブ]]、主演:[[エデュアード・オンダール]])
* {{仮リンク|戦神紀 チンギス・ハーン戦記|zh|战神纪}}(2018年、中国 監督:[[ハスチョロー]]、主演:[[陳偉霆|ウィリアム・チャン]])
=== テレビドラマ ===
* [[蒼き狼 成吉思汗の生涯]](1980年、日本 原作:井上靖、主演:[[加藤剛]])
* [[チンギス・ハーン (テレビドラマ)|チンギス・ハーン]](2000年、中国、主演:[[バーサンジャブ]])
=== 漫画 ===
* チンギスハーン([[横山光輝]])
* [[王狼]]、[[王狼伝]](作:[[武論尊]] 画:[[三浦建太郎]])
* 女神の赤い舌([[ウヒョ助|塚脇永久]])
* カラ・キタイの娘、[[シルクロード・シリーズ (漫画)|シルクロード]]([[神坂智子]]、『姫君の塔』に収録)
* [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]]([[モンキー・パンチ]]、「ジンギスカンの埋蔵金」に登場)
* [[ハーン -草と鉄と羊-]]([[瀬下猛]])
* やりすぎ!!! イタズラくん(吉野あすみ) - チンギス・カンの肖像画が登場する話が存在したが、主人公がデフォルメされた男性器<ref>チ(ン)・(チ)ンと名前のついた部分の下、肖像画の額のあたりに男性器が描き込まれていた</ref>を肖像画に描き込んだことが原因で、[[駐日モンゴル大使館]]から抗議を受ける。連載雑誌のコロコロコミックを発行する小学館は謝罪し、該当シーンのある本を回収した。
* [[シュトヘル]]([[伊藤悠]]、2009年〜2017年、[[小学館]])モンゴルに侵攻された西夏の住人を主人公として、モンゴルを率いる超常的な「大ハン」として描かれる。西夏侵攻のきっかけとして史実にないエピソードがある。
=== チンギス・カンの登場するコンピュータゲーム ===
* 蒼き狼 (CSK) - [[1983年]]9月。開発は、木屋通商。
* [[蒼き狼と白き牝鹿シリーズ]]([[コーエー|光栄]])
* [[エイジ オブ エンパイアII]] - キャンペーンモードで登場。
* [[ワールドヒーローズ]]([[エーディーケイ|アルファ電子]]) - [[1992年]]。
* 『[[シヴィライゼーション]]』シリーズ - [[シヴィライゼーション#シヴィライゼーション|第1作目]]からモンゴル文明の指導者として登場。ギリシャの[[アレキサンダー大王]]、イギリスの[[エリザベス1世]]、ズールー王国の[[シャカ・ズールー|シャカ]]、そしてインドの[[マハトマ・ガンジー]]とともに、(ナンバリングタイトルでは)第5作の[[シヴィライゼーション#シヴィライゼーションV|Civilization V]]まで皆勤の指導者である<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=0soMly08EZQ Civilization: Same Leaders in every Civ Game - Cutscenes Evolve]</ref>。
=== チンギス・カンの登場するボードゲーム ===
Strategy&Tactics229号 Khan Rise of Mongols
S&T編集長のジョー・ミランダのデザインした2人用ウォーゲーム。シャルルマーニュシステムの第4作に当たる。
=== 音楽 ===
* [[ジンギスカン (曲)|ジンギスカン]] [[ドイツ]]の音楽グループ、[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]]のデビュー曲。
<!--== 外部リンク ==
* [http://www.ub-mongolia.mn/history-of-mongolia/genghis-khan-history/the-era-of-genghis-khan.html Informations about Genghis Khan] - A Full section about Mongolian History and Genghis Khan and more than 100 pictures of a Genghis's Movie
-->
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Genghis Khan}}
* [[鮮卑]]
* [[ボルジギン氏]]
* [[イェスゲイ]]
* [[モンゴル帝国]]
* [[ハーン]]
* [[四駿四狗]]
* [[チンギス統原理]]
* [[義経=ジンギスカン説|義経=成吉思汗説]]
* [[ジンギスカン (料理)|ジンギスカン]]
* [[チンギスハーン国際空港]] - [[ボヤント・オハー国際空港]](旧チンギスハーン国際空港)
* チンギス・カンの伝記史料
** [[元史]]
** [[元朝秘史]]
** [[集史]]
** [[聖武親征録]]
** [[世界征服者の歴史]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|チンギス・ハン}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
{{モンゴル帝国皇帝|初代:1206年-1227年}}
{{normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちんきすかん}}
[[Category:チンギス・カン|*]]
[[Category:モンゴルのカン]]
[[Category:大ハーン]]
[[Category:元の追尊皇帝]]
[[Category:チンギス家|*]]
[[Category:モンゴルの紙幣の人物]]
[[Category:モンゴルによる大量虐殺]]
[[Category:12世紀アジアの君主]]
[[Category:13世紀アジアの君主]]
[[Category:1162年生]]
[[Category:1227年没]]
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10,083 |
東西線
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東西線(とうざいせん)は、鉄道および道路の路線名。
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東西線(とうざいせん)は、鉄道および道路の路線名。 札幌市営地下鉄東西線
仙台市地下鉄東西線
東京メトロ東西線
京都市営地下鉄東西線
JR東西線
阪神神戸高速線・阪急神戸高速線の神戸高速鉄道としての名称。
名古屋市営地下鉄東山線の1969年までの愛称。名古屋市の広報などに見られる。
北大阪急行電鉄会場線(廃止)の別名。1970年の日本万国博覧会開催期間のみ営業。
大阪市電東西線(廃止) 上海軌道交通2号線(東西線)
北京地下鉄1号線(東西線)
天津地下鉄2号線(東西線)
屯馬線(香港)の計画中の名称
MRT東西線(シンガポール)
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'''東西線'''(とうざいせん)は、[[鉄道]]および[[道路]]の路線名。
; 鉄道(日本)
* [[札幌市営地下鉄東西線]]
* [[仙台市地下鉄東西線]]
* [[東京メトロ東西線]]
* [[京都市営地下鉄東西線]]
* [[JR東西線]]
* [[阪神神戸高速線]]・[[阪急神戸高速線]]の[[神戸高速鉄道]]としての名称。
* [[名古屋市営地下鉄東山線]]の1969年までの愛称。名古屋市の広報などに見られる。
* [[北大阪急行電鉄南北線|北大阪急行電鉄会場線]](廃止)の別名。1970年の日本万国博覧会開催期間のみ営業。
* [[大阪市電東西線]](廃止)
; 鉄道(日本国外)
* [[上海軌道交通2号線]](東西線)
* [[北京地下鉄1号線]](東西線)
* [[天津地下鉄2号線]](東西線)
* [[屯馬線]](香港)の計画中の名称
* [[MRT東西線]](シンガポール)
== 関連項目 ==
; 東西線の文字列を含むもの
* [[止々呂美東西線]]
; その他
* [[東部線 (曖昧さ回避)]]
* [[西部線 (曖昧さ回避)]]
* [[南北線 (曖昧さ回避)]]
* [[中央線 (曖昧さ回避)]]
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10,084 |
斬鉄剣
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斬鉄剣(ざんてつけん)は、鉄を切断することができる刀剣のこと。
刀匠、小林康宏(初代小林 林および二代小林直紀)が作刀した日本刀のうち、極めて強度の高い複数の作品を、居合道家がその強靱さを讃えてこのように呼んだ。
ただし、日本刀については、粗悪に作られたものでなければ細い鉄筋程度は容易に両断できる。細かく言えば、鉄の中でも硬いものは炭素が一定量以上含有された鋼であり、鋼製の刀剣を使うならば低炭素の軟鋼を切断することは不可能ではない。
実際に、刀の性能を試す(あるいは、示す)ために、鉄兜を試し斬りすることもしばしば行われた(天覧兜割りにおける同田貫を用いた榊原健吉の逸話が有名)。こうした「甲切り」と称される刀の他にも、「鉄砲切り」と称される刀も存在し、鎌倉一文字 助真作の大脇差「鉄砲切 助真(てっぽうきり すけざね)」は上杉謙信が相手の構えていた鉄砲を切ったために名付けられたという由来がある。
フジテレビで放映されたテレビ番組『たけし&マチャミの世界に誇る日本の技術に驚いてみませんか?SP』にて、「リアル斬鉄剣」が製作された。これは刀身の刃金の部分を超硬合金で作り、耐久性を増すために、その周りを鋼で挟んで造られた日本刀状の形状の刀である。名付け親は藤岡弘、。
「斬鉄剣」といえば良く切れる刀の代名詞とされ、フィクションの世界では、鉄に限らず、どんなものでも切り裂くことのできる一撃必殺の武器として描かれる。
この特徴は『ルパン三世』のキャラクター石川五ェ門の持つ斬鉄剣に最もよく現れている。また、コンピュータゲームにおいても、しばしば斬鉄剣という名の武器ないし技が登場し、「一撃で敵を即死させる」「防御力を無視する」「一部の敵には全く効かない」といった特徴が与えられる。
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斬鉄剣(ざんてつけん)は、鉄を切断することができる刀剣のこと。
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{{複数の問題
|独自研究=2010年9月
|出典の明記=2010年9月}}
'''斬鉄剣'''(ざんてつけん)は、[[鉄]]を切断することができる[[刀剣]]のこと。
== 実在の斬鉄剣 ==
[[刀工|刀匠]]、[[小林康宏]](初代小林 林および二代小林直紀)が作刀した[[日本刀]]のうち、極めて強度の高い複数の作品を、[[居合道]]家がその強靱さを讃えてこのように呼んだ。
ただし、日本刀については、粗悪に作られたものでなければ細い鉄筋程度は容易に両断できる<ref group="注釈">例として、居合術家の[[町井勲]]は『[[ザ・ベストハウス123]]』の番組内実験において、中空構造の[[鉄パイプ]]および厚さ0.4mmの[[鉄板]]を切断することに成功している(使用刀は「立子山住 将平」)<!-- 2012年現在、ユーチューブ動画「正宗切水果達人」で映像検索可能。 -->。</ref>。細かく言えば、鉄の中でも硬いものは[[炭素]]が一定量以上含有された[[鋼]]であり、鋼製の刀剣を使うならば低炭素の軟鋼を切断することは不可能ではない。
実際に、刀の性能を試す(あるいは、示す)ために、鉄[[兜]]を試し斬りすることもしばしば行われた([[天覧兜割り]]における[[同田貫]]を用いた[[榊原健吉]]の逸話が有名)。こうした「甲切り」と称される刀の他にも、「鉄砲切り」と称される刀も存在し、鎌倉一文字 [[助真]]作の大[[脇差]]「鉄砲切 助真(てっぽうきり すけざね)」は[[上杉謙信]]が相手の構えていた[[鉄砲]]を切ったために名付けられたという由来がある<ref group="注釈"><!-- 参考・『広辞苑 第六版』 [[岩波書店]]を一部参考。 -->現代でも町井勲が中空構造の鉄パイプを切断していることから、不可能だとは言えず、創作された逸話として片づけることはできない。<!--(加えて鉄砲切の方は短刀である。)--></ref>。
=== リアル斬鉄剣 ===
[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で放映されたテレビ番組『たけし&マチャミの世界に誇る日本の技術に驚いてみませんか?SP』にて、「リアル斬鉄剣」が製作された<ref>[http://alloy-kogyo.com/publics/index/18/ アロイ工業株式会社公式ホームページ・研究開発]</ref>。これは刀身の[[刃金]]の部分を[[超硬合金]]で作り、耐久性を増すために、その周りを鋼で挟んで造られた日本刀状の形状の[[刀]]である<ref group="注釈">現在の日本の法律上は伝統の製法に則って特定の素材を使用して作刀したもののみが「日本刀」と認められるため、この「リアル斬鉄剣」は日本刀とはみなされない。</ref>。名付け親は[[藤岡弘、]]。
== フィクションにおける斬鉄剣 ==
「斬鉄剣」といえば良く切れる刀の[[代名詞]]とされ、フィクションの世界では、鉄に限らず、どんなものでも切り裂くことのできる一撃必殺の武器として描かれる。
この特徴は『[[ルパン三世]]』のキャラクター[[石川五ェ門 (ルパン三世)|石川五ェ門]]の持つ斬鉄剣に最もよく現れている。また、[[コンピュータゲーム]]においても、しばしば斬鉄剣という名の武器ないし技が登場し、「一撃で敵を即死させる」「防御力を無視する」「一部の敵には全く効かない」といった特徴が与えられる。
; 「斬鉄剣」が登場する作品
:* 漫画およびアニメ『[[ルパン三世]]』の登場人物・[[石川五ェ門 (ルパン三世)|石川五ェ門]]が所持している。''(詳細は「[[石川五ェ門 (ルパン三世)#斬鉄剣に関して]]」を参照。)''
:* 短編小説"{{Interlang|en|Tales of the Shadowmen#Tales of the Shadowmen, Volume 2: Gentlemen of the Night|Ex Calce Liberatus}}"では、[[アルセーヌ・ルパン]]が付け狙う名剣の一つとして斬鉄剣 (zantetsuken <iron-cutting sword>) が登場する。
:* コンピュータゲーム「[[ファイナルファンタジーシリーズ]]」に登場する[[ファイナルファンタジーシリーズの召喚獣|召喚獣]]「[[オーディン]]」が使う敵全体を切り裂き即死させる技として「斬鉄剣」が登場する。
== その他 ==
* 鉄も斬る刀という伝承は日本刀に限らず、外国にも例は見られ、中国では[[諸葛亮]]が刀匠の蒲元に3千本の神刀を作らせたが斬鉄も可能であったと伝えられている<ref>[[金文京]] 『中国の歴史 A History of China 04 後漢三国時代 三国志の世界』 [[講談社]] 2005年 ISBN 4-06-274054-0 p.306.</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[日本刀一覧]]
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|
10,085 |
京都市交通局
|
京都市交通局(きょうとしこうつうきょく、英称:Kyoto Municipal Transportation Bureau)は、京都市交通事業の設置等に関する条例(昭和41年12月16日京都市条例第33号)に基づき京都府京都市内及びその周辺地域で公営交通事業を行う京都市の地方公営企業の一つである。地下鉄(市営地下鉄)、路線バス(市バス)を運営している。かつては市電(京都市電)・無軌条電車(市営トロリーバス)も運営していた。
局章は京都市の市章を交通ネットワークを意味する3本の曲線で接続したもので、市電のレールの断面を一辺として、それを三辺、三角形のようにつなぎ合わせ、それぞれの角をより外向きに引っ張ってデザイン化した形で京都の「京」という字を連想させるデザインとなっている。
スルッとKANSAIでカードに印字される符号は入場記録用は京交で、降車記録用がKCである。
各事業の詳細は以下の各項目を参照。
京都市営バスでは、運行の一部を外部のバス事業者に委託している。2020年時点の主な事業者は以下のとおり。なお、かつて京阪バスも委託を受けていたが、契約の期間満了に伴い撤退している。
▲は赤字を示す。
各事業の詳細な歴史は、京都市営地下鉄、京都市営バス、京都市電、京都市営トロリーバスの各項目を参照。
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{{pp-vandalism|small=yes}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 京都市交通局
| 英文社名 = Kyoto Municipal Transportation Bureau
| ロゴ = [[ファイル:Kyoto MTB Logo.svg|100px]]
| 画像 = [[ファイル:Sansa Ukyo 20090412-003.jpg|300px]]
| 画像説明 = [[太秦天神川駅]]上にある京都市交通局本庁舎<br />([[サンサ右京]]3-5階)
| 種類 = [[地方公営企業]]
| 市場情報 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 616-8104
| 本社所在地 = [[京都府]][[京都市]][[右京区]][[太秦]]下刑部町12番地
| 設立 = [[1912年]]([[明治]]45年)[[6月11日]](※1)
| 業種 = 陸運業
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 鉄道事業、自動車運送事業、電気事業
| 代表者 = 北村 信幸(公営企業管理者交通局長)
| 資本金 =
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = {{Unbulleted list|自動車運送事業:197億1500万円|高速鉄道事業:300億6300万円}}(2023年3月期)
| 営業利益 =
| 純利益 = {{Unbulleted list|自動車運送事業:▲7億9100万円|高速鉄道事業:▲6億7800万円}}(2023年3月期)
| 純資産 =
| 総資産 =
| 従業員数 = 1,844人(2020年4月1日現在)
| 決算期 = 毎年[[3月31日]]
| 主要株主 =
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/
| 特記事項 = ※1:[[1947年]]([[昭和]]22年)[[12月17日]] 京都市交通局に改組。
}}
[[ファイル:Kyoto-Municipal-Transportation-Bureau-01.jpg|thumb|200px|right|[[中京区]][[壬生 (京都市)|壬生]]にあった京都市交通局旧庁舎(解体済)、市バス壬生操車場も併設されていた。]]
[[ファイル:Kyoto City Bus 200 Ka 1519.jpg|thumb|200px|right|[[京都市営バス|市バス]]車両]]
[[ファイル:Kyoto City 10 series EMU early type 001.JPG|thumb|200px|right|[[京都市営地下鉄烏丸線]]車両([[京都市交通局10系電車|10系]])]]
'''京都市交通局'''(きょうとしこうつうきょく、[[英語|英称]]:{{Lang|en|''Kyoto Municipal Transportation Bureau''}})は、京都市交通事業の設置等に関する条例(昭和41年12月16日京都市条例第33号)に基づき[[京都府]][[京都市]]内及びその周辺地域で公営交通事業を行う[[京都市役所|京都市]]の[[地方公営企業]]の一つである。[[地下鉄]]([[京都市営地下鉄|市営地下鉄]])、[[路線バス]]([[京都市営バス|市バス]])を運営している。かつては[[市電]]([[京都市電]])・[[トロリーバス|無軌条電車]]([[京都市営トロリーバス|市営トロリーバス]])も運営していた。
局章は京都市の市章を交通ネットワークを意味する3本の曲線で接続したもので、市電のレールの断面を一辺として、それを三辺、三角形のようにつなぎ合わせ、それぞれの角をより外向きに引っ張ってデザイン化した形で京都の「京」という字を連想させるデザインとなっている。
[[スルッとKANSAI]]でカードに印字される符号は入場記録用は'''京交'''で、降車記録用が'''KC'''である。
== 事業 ==
各事業の詳細は以下の各項目を参照。
* 高速鉄道事業:[[京都市営地下鉄]](2路線 31.2km)
** 上記の付随事業として、[[駅ナカ]][[店|商業施設]]「[[Kotochika]]」(コトチカ)を展開している<ref>{{Cite news|url = https://karasuma.keizai.biz/headline/1388/|title = 烏丸御池駅に「コトチカ御池」-改札内にワインやビールが飲めるカフェも|publisher = 烏丸経済新聞|date = 2011-05-16|accessdate = 2020-12-22}}</ref><ref name="nikkei20180802">{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33740400S8A800C1LKA000/|title = 京都の地下鉄 再建へ両輪 駅ナカ10億円突破、乗客増でキャラPR|newspaper = 日本経済新聞|date = 2018-08-02|accessdate = 2020-12-22}}</ref>。
* 自動車運送事業:[[京都市営バス]]
== 組織 ==
=== 事業所 ===
* 市バス・地下鉄乗客案内所 - 所在地 : [[京都府]][[京都市]][[右京区]][[太秦]]下刑部町12
* 企画総務部
** 総務課 - 所在地 : 京都府京都市右京区太秦下刑部町12
** 職員課
** 財務課
** 研修所 - 所在地 : 京都府京都市[[伏見区]]竹田西段川原町18
* 自動車部
** 営業課
** 運輸課
** 技術課
** 西賀茂営業所 - 所在地 : 京都府京都市[[北区 (京都市)|北区]]西賀茂山ノ森町50
** 烏丸営業所 - 所在地 : 京都府京都市北区小山北上総町49-1
*** 錦林出張所(委託) - 所在地 : 京都府京都市[[左京区]]浄土寺真如町15
** 横大路営業所(委託) - 所在地 : 京都府京都市伏見区横大路橋本24
** 九条営業所 - 所在地 : 京都府京都市[[南区 (京都市)|南区]]東九条下殿田町70
** 梅津営業所(委託) - 所在地 : 京都府京都市右京区西院笠目町9-15
** 洛西営業所(委託) - 所在地 : 京都府京都市[[西京区]]大枝東新林町2丁目2
* 高速鉄道部
** 営業課
** 運輸課
** 烏丸線運輸事務所
** 東西線運輸事務所
** 技術監理課
** 高速車両課
** 電気課
=== 外部委託 ===
京都市営バスでは、運行の一部を外部のバス事業者に委託している。[[2020年]]時点の主な事業者は以下のとおり<ref>{{Cite web|和書|url = http://www2.city.kyoto.lg.jp/shikai/img/iinkai/sangyokousui/H30/data/301114koutu-youkyu1.pdf|title = 市バス事業の管理の受委託の次期実施概要について|publisher = [[京都市会]]|date = 2018-11-14|accessdate = 2020-12-22|format = PDF}}</ref>。なお、かつて[[京阪バス]]も委託を受けていたが<ref name="kyoto20181205">{{Cite news|url = https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1281|title = 民間撤退で赤字100億円超に膨張へ 京都市バス、今後10年で|newspaper = 京都新聞|date = 2018-12-05|accessdate = 2020-12-22}}</ref><ref name="asa20200929">{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASN9X71WKN9RPLZB00P.html|title = 京都市バス 75%が赤字63路線に 運転手不足など|newspaper = [[朝日新聞デジタル]]|date = 2020-09-29|accessdate = 2020-12-22}}</ref>、契約の期間満了に伴い撤退している。
* [[西日本ジェイアールバス]]<ref name="kyoto20181205"/><ref name="asa20200929"/>
* [[MKグループ|エムケイ]]<ref>{{Cite news|url = https://www.sankei.com/west/news/171204/wst1712040038-n1.html|title = 京都市バス運転士が乗務中にスマホ操作 委託先のエムケイ、ドラレコで特定|newspaper = 産経WEST|date = 2017-12-04|accessdate = 2020-12-22}}{{リンク切れ|date=2022年9月}}</ref>
* [[京都バス]]<ref name="ns20130704">{{Cite web|和書|url = https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK0200Y_S3A700C1000000/|title = 京都はバスの見本市 高速・自治会・プリンセス…|publisher = NIKKEI STYLE|date = 2013-07-04|accessdate = 2020-12-22}}</ref>
* [[阪急バス]]<ref name="ns20130704"/>
* [[近鉄バス]]
== 経営状況 ==
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ 決算概要 (金額 百万円)<ref>京都市の[http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000020415.html 交通事業決算概要]及び[http://www.city.kyoto.lg.jp/menu5/category/69-2-3-0-0-0-0-0-0-0.html 交通局決算の概要]より。2017年8月11日閲覧。令和5年度は当初予算。</ref>
|-
! rowspan="2" | 年度 || colspan="3" | 高速鉄道事業 || colspan="2" | 自動車運送事業
|-
! 経常収支 || 企業債等残高 || 一般会計<br>からの繰入金 || 経常収支 || 一般会計<br>からの繰入金
|-
! 平成24年
| ▲4,841 || 436,848 || 16,619 || 2,601 || 4,990
|-
! 平成25年
| ▲4,055 || 421,469 || 13,199 || 2,747 || 4,780
|-
! 平成26年
| ▲862 || 406,655 || 14,326 || 2,406 || 4,359
|-
! 平成27年
| 848 || 391,069 || 14,974 || 2,381 || 4,272
|-
! 平成28年
| 1,608 || 376,384 || 12,821 || 2,687 || 4,098
|-
! 平成29年
| 212 || 362,897 || 10,055 || 2,269 || 4,093
|-
! 平成30年
| 2,333 || 352,946 || 6,051 || 1,900 || 4,082
|-
! 令和元年
| 2,345 || 344,493 || 6,811 || 200 || 4,527
|-
! 令和2年
| ▲5,392 || 343,234 || 8,407 || ▲4,805 || 5,028
|-
! 令和3年
| ▲3,797 || 340,278 || 8,134 || ▲3,541 || 4,820
|-
! 令和4年
| ▲678 || 334,494 || 7,300 || ▲791 || 4,900
|-
! 令和5年
| ▲3,200 || 331,200 || 6,483 || ▲2,000 || 4,928
|}
▲は赤字を示す。
== 歴史 ==
各事業の詳細な歴史は、[[京都市営地下鉄]]、[[京都市営バス]]、[[京都市電]]、[[京都市営トロリーバス]]の各項目を参照。
* [[1895年]]([[明治]]28年)[[2月1日]]:[[京都電気鉄道]]が、日本初の[[路面電車]]を塩小路東洞院下ル(現在の京都駅前付近) - 伏見下油掛間で開業させる。
* [[1912年]](明治45年)[[6月11日]]:京都市電気軌道事務所が市電烏丸線、千本・大宮線、四条線、丸太町線を開業。
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[7月1日]]:京都市が京都電気鉄道を買収。
* [[1920年]](大正9年)[[7月7日]]:京都市電気部に改組。
* [[1924年]](大正13年)[[4月15日]]:[[京都市電気局]]に改組。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[5月10日]]:市バス運行開始。
* [[1932年]](昭和7年)[[4月1日]]:[[トロリーバス]]運行開始。
* [[1947年]](昭和22年)[[12月17日]]:京都市交通局に改組。
* [[1969年]](昭和44年)[[10月1日]]:トロリーバス廃止。
* [[1978年]](昭和53年)10月1日:市電全廃。
* [[1981年]](昭和56年)[[5月29日]]:[[京都市営地下鉄烏丸線|地下鉄烏丸線]]開業。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月15日]]:「[[京都観光一日乗車券]]」が発売開始。
* [[1993年]]([[平成]]5年)7月1日:プリペイドカード「トラフィカ京カード」が発売開始。
* [[1997年]](平成9年)[[10月12日]]:[[京都市営地下鉄東西線|地下鉄東西線]]開業。
* [[2000年]](平成12年)[[3月1日]]:共通乗車カードシステム「[[スルッとKANSAI]]」に加入。「スルッとKANSAI都カード」発売。
* [[2007年]](平成19年)4月1日:地下鉄路線でICカード「[[PiTaPa]]」を導入(乗り入れしている[[近畿日本鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]大津線も同時導入)。[[大阪メトロサービス]]との提携カードである「[[京都ぷらすOSAKA PiTaPa]]」を発行。
* [[2008年]](平成20年)[[3月31日]]:京都市交通局本庁舎が、中京区壬生から右京区太秦天神川「[[サンサ右京]]」に移転。旧庁舎跡地は[[中京警察署]]用地として京都府へ譲渡。
* 2008年(平成20年)度末:[[地方公共団体の財政の健全化に関する法律]](自治体財政健全化法)に基づき、[[総務省]]より[[財政健全化団体|経営健全化団体]]の指定を受ける(2017年度に解除)<ref name="nikkei20180802"/><ref>{{Cite web|和書|url = https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000156419.html|title = 経営健全化|publisher = 京都市交通局企画総務部総務課|date = 2015-09-24|accessdate = 2020-12-22}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.sankei.com/article/20170406-BWTAIWZFGBJL5PENYMOACP7W2A/4/|title = 地下鉄に徒歩職員が勝つ? ユーチューブで動画、萌えキャラやイケメン花盛り…京都市営地下鉄がアツい|newspaper = 産経WEST|date = 2017-04-06|accessdate = 2020-12-22}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月16日]]:[[定期観光バス]]の運行から撤退
** 6月11日:京都市公営交通100周年を迎える。
* [[2014年]](平成26年)[[12月24日]]:市バスに「PiTaPa」(ほか全国共通ICカード合計10種)を導入。
* [[2017年]](平成29年)4月1日:地下鉄・市バスでICカード「[[ICOCA]]」、および「ICOCA定期券」の発売開始<ref>{{Cite web|和書|title=京都市交通局におけるICOCAおよびICOCA定期券の発売について|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000214464.html|publisher=京都市交通局|date=2017-02-03|accessdate=2017-02-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170204004026/http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000214464.html |archivedate=2017-02-04}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[9月30日]]:この日をもって「トラフィカ京カード」の発売終了。
== キャラクター ==
* 都くん
** 地下鉄のキャラクター。[[京都市交通局50系電車]]とモグラを掛け合わせたデザイン。1997年8月に地下鉄東西線開業を記念して作られた<ref name="kyomiyako">[http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000057276.html 京都市交通局:☆京ちゃんと都くんの自己紹介☆]、京都市交通局、2013年6月21日更新、2014年5月20日閲覧。</ref>。
* 京ちゃん
** 市バスのキャラクター。バスに京都市の花の一つである椿をあしらったデザイン。都くんと同じく1997年8月に作られた<ref name="kyomiyako" />。
* じゅうじゅう
** 運行受託する「[[よるバス]]」のキャラクター。フクロウの姿をしている。
* 太秦 萌(うずまさ もえ)、松賀 咲(まつが さき)、小野 ミサ(おの みさ)など
*: {{Main|地下鉄に乗るっ}}
** 2011年、「京都市地下鉄5万人増客推進本部」の下部組織として若手職員7人を中心に結成された「燃え燃えチャレンジ」班によって作られたキャラクター。デザインは職員の家族による。2013年11月、「“[[地下鉄に乗るっ]]”キャンペーン」の実施に合わせて、京都市内のデザイン事務所 GK京都、京都府出身のイラストレーター[[賀茂川 (イラストレーター)|賀茂川]]<ref>{{Twitter status|Koro0902|403805652751233024}}</ref>によってリメイクされた。3人とも市内の高校に通う17歳で幼馴染同士という設定<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000096959.html 京都市交通局:燃え燃えチャレンジ班―若手職員増客チーム―]、京都市交通局、2012年4月6日更新、2014年5月19日閲覧。</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=地下鉄・市バス応援キャラクターによる “地下鉄に 乗るっ”キャンペーンが始動します! |publisher=京都市交通局 |date=2013-11-20 |url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000158989.html |access-date=2022-09-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131128165542/http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000158989.html |archivedate=2013-11-28 }}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20131128062025/http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1311/28/news049.html 激変!? 萌えキャラ「太秦萌」リメイクで人気沸騰 京都市交通局「人気ありがたい」]、ITmediaニュース、2013年11月28日更新、2015年1月12日閲覧(アーカイブ)。</ref>。
** 2014年4月28日、京都市交通局と[[京都学園大学]]が連携協定を結び、その取り組みの一つとして、太秦萌とコラボした「太秦その」という大学PRキャラクターが作られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyotogakuen.ac.jp/news/5_535e18f86f0d4/index.html |title=京都市交通局と本学が連携協定を結びました |work=全学 ニュース |publisher=京都学園大学 |date=2014-04-28 |access-date=2022-09-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141126112756/http://www.kyotogakuen.ac.jp/news/index.html |archivedate=2014-11-26}}</ref>。太秦萌と太秦そのは従姉妹同士という設定<ref>{{Twitter status|kamogawasodachi|464011701721907200}}</ref>。
** 2014年9月17日、「“地下鉄に乗るっ”キャンペーン」と[[京都国際マンガミュージアム]]のコラボレーションPRの展開に合わせて、「烏丸ミユ」というミュージアムPRキャラクターが発表された。太秦萌達が憧れる帰国子女の大学3年生で、小野ミサの兄の同級生という設定<ref>{{Cite press release |和書 |title=〜「太秦萌」達に新たな仲間が誕生〜 地下鉄と京都国際マンガミュージアムがコラボレーションPRを展開します! |publisher=京都市交通局 |date=2014-09-17 |url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000172733.html |access-date=2022-09-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140918160636/http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000172733.html |archivedate=2014-09-18 }}</ref>。
** 2015年9月2日、[[講談社ラノベ文庫]]から「京・ガールズデイズ1〜太秦萌の九十九戯曲〜」(著:幹 イラスト:賀茂川)が発刊された。京都を舞台に彼女たちを主人公にした話である<ref>{{Cite web|和書|url=http://lanove.kodansha.co.jp/books/2015/9/ |title=既刊案内 2015年9月の新刊 |website=ラノベ文庫 |publisher=講談社 |access-date=2022-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923190438/http://lanove.kodansha.co.jp/books/2015/9/ |archivedate=2015-09-23}}</ref>。
** 2015年10月2日から運行を開始した金曜日の地下鉄深夜便「コトキン・ライナー」のPRキャラとして、太秦萌の姉「太秦麗(うずまされい)」が誕生した。
** 2016年10月4日には、「“地下鉄に乗るっ”キャンペーン」初めての男性キャラで、小野 ミサの兄である「小野 陵(おの りょう)」と、小野 陵の高校時代からの同級生「十条 タケル(じゅうじょう たける)」が誕生した。
** 2021年9月21日、新キャラクター「京乃つかさ」が誕生。市の各事業全般で使えるキャラクターとしては初。
== 備考 ==
* 社名に「京都」を冠する路線バス事業者の、[[京都交通 (舞鶴)]]、[[京阪京都交通]](旧・[[京都交通 (亀岡)]])・[[京都京阪バス]]・[[京都バス]]とは、京都バスをのぞき人材・資本の関係はない。京都バスとは、交通局烏丸営業所錦林出張所の一部業務を委託している。
* 京都市交通局の[[労働組合]]は'''京都交通労働組合'''([[日本都市交通労働組合|都市交]]に加盟)と'''京都市交通局労働組合'''(都市交に非加盟)である。
* 2007年に[[京都市幽霊バス問題]]が発覚した。
* 公共広告機構(現:[[ACジャパン]])の[[2007年]]度地域キャンペーン「天ぷら油で走る」の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に京都市営バスが登場した。CMの内容は、[[1997年]]に発表された[[京都議定書]]に基づき、[[地球温暖化]]防止のために[[軽油]]に代わる燃料として[[食用油]]の廃油で作った[[バイオディーゼル]]燃料を使用し、市バスやゴミ収集車に使用しているというもの。このCMはAC大阪事務局が企画し、主に[[関西ローカル]](一部全国)で放送された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kyoto Municipal Transportation Bureau}}
{{Multimedia|京都市交通局の画像}}
* [https://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/ 京都市交通局]
* {{Twitter|kyotocity_kotsu|【公式】京都市交通局}}
* {{Twitter|kyotokotsu_info|【公式】京都市交通局(市バス・地下鉄運行情報)}}
* {{Facebook|kikaku.j|太秦萌}}(京都市地下鉄・市バス応援キャラクター)
* {{Instagram|kyotocity_bus_subway|【公式】京都市交通局}}
* {{Youtube|c=UCWWJc2s88DRmg25lyK8JyHw|京都市交通局_Kyoto Municipal Transportation Bureau}}
{{京都市交通局}}
{{スルッとKANSAI}}
{{ICOCA}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きようとしこうつうきよく}}
[[Category:京都市交通局|*]]
[[Category:京都府の地方公営企業]]
[[Category:京都市の交通]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:近畿地方の乗合バス事業者]]
[[Category:かつて存在した日本の軌道事業者]]
[[Category:右京区の企業]]
[[Category:太秦]]
[[Category:1912年設立の企業]]
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10,086 |
ブラウン管
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ブラウン管(ブラウンかん)は、電子銃から電子ビームを蛍光面に照射し、発光させて図像を表示する、陰極線管(cathode-ray tube, CRT)と呼ばれる種類の真空管を応用した装置である。名称は、発明者であるドイツのカール・フェルディナント・ブラウンに由来する。
ビデオモニター、テレビ受像機、コンピュータなどのディスプレイやオシロスコープなどの用途があり、かつては一般家庭でも用いられた。当時はテレビの代名詞のように扱われることもあり、庶民には手の届かない世界として映画スターを指す「銀幕のスター」と対置されたように、華やかなテレビの世界などを指して「ブラウン管のスター」「ブラウン管の向こう~に」と表現されることもあった。
YouTubeの "Tube" はブラウン管に由来しており、YouTubeのロゴマークは、ブラウン管テレビの画面が丸みを帯びた四角形をしていたことに由来している。
ファンネル(漏斗)と呼ばれる真空管内で、電子銃により電子ビームを発射する。陽極に印加された高い電圧により電子は加速され、蛍光物質を塗布した蛍光面に衝突し発光する。電子ビームは、電界または磁界により偏向され、蛍光面を走査する。偏向するための電磁石のことをヨーク(yoke、ヨークコイル)と言う。
ビデオモニターやディスプレイでは管面全体を走査線(ラスタ)とよぶ固定パターンでスキャンしつつ、映像信号の輝度成分に従って電子ビームの強さを変調する。このように、画面上の任意の点の明るさを制御することにより画像を作り上げている。オシロスコープでは、電子ビームの強さは一定の設定値に保ち(=輝度一定)、ビームを任意に動かして描画する。通常、水平偏向は一定時間毎ないし何らかのトリガで一定速度で走査し、垂直偏向は入力信号の電圧に対応するように走査する。
オシロスコープ用のブラウン管はテレビのものより細長く、電界により偏向させる。これは、電界偏向(静電偏向)のほうが磁界偏向よりも高い周波数で走査を行えるためである。電界偏向では磁界偏向に比べてビームを偏向するにあたっての印加電圧が低くできる反面、ブラウン管を大きくした場合など広い範囲の偏向を行うには不向きという側面もある。また、静電偏向型は大型化、薄型化した場合、高電圧化させる必要がある事も不利な理由である。但し、電源電圧の変動に関しては磁界偏向よりも耐性がある。
初期のレーダー表示装置では、パラボラアンテナの向きと同期して放射線状に電子線を走査し表示を行う。
レーザー光線を用いて大気中の微粒子をスクリーンとし、文字や図形を表示する手法があるが、それと同様に、ビームの方向を自由に制御し、文字、図形を一筆書きのように表示する。
カラーブラウン管では、各々光の三原色の赤(R)・緑(G)・青(B)に発光する3色の異なる蛍光物質を使い、方形や円状(シャドーマスク管)または直線状(アパーチャーグリル管やスロットマスク管)に密集して配置する。電子銃がRGB各色に対応して3本あり、各電子銃は対応するRGB各1色のドット(蛍光体)にのみ電子線を発するようにする。これらから逸れた電子線は発光面直前にあるシャドーマスク またはスロットマスク、アパーチャーグリルによって他のドットに誤って入らないように吸収ないし遮蔽される。
シャドーマスクは、円形、三角形ないし六角形状に穴が開いているが、アパーチャーグリルは垂直方向に細いスリット状(スリットマスク)になっている。スリットマスク同士が動いてしまわないように、水平方向に支えの線(ダンパーワイヤー)が入っている。アパーチャーグリルのブラウン管の画像をよく見ると、その線が観察できる(15インチトリニトロン管の例では画面の上半分と下半分の中間に1本、また17インチ以上のモニターでは、上下三分の一周辺に2本のダンパーワイヤーが見られる。アパーチャーグリルを使うブラウン管の代表的なものとしては、ソニーのトリニトロン管や三菱電機のダイヤモンドトロン管がある。なお、シャドーマスクは電子ビームが通過する穴を小さく、密集させる程に同一面積で電子ビームが遮られるマスク面が広くなりがちで、画面が暗くなる(技術的限界)ことから高解像度とし難いため、一般のテレビ受像用はともかくハイビジョンやパソコン用ディスプレイでは、アパーチャーグリルを採用した物が広く使われた。
アパーチャーグリルは縦方向に区切ったマスクを吊す構造であり振動や加熱による変形によって色のにじみに弱い。これらを改善するためスロットマスク方式ではマスク開口を横方向にも区切っている。しかし、この区切りにより輝度が低下する点がある。スロットマスクを採用した物はNECのクロマクリア管がある。
電子ビーム形状はそれぞれの方式に対応した形状となり、結果として表示面に映るドット形状もこの形となる。すなわち、シャドーマスクは円形や三角形、六角形となる。アパーチャーグリルはスリットマスクが縦長であり縦方向のドット間には仕切がないため、縦方向のみ自然なつながりとなる。スロットマスクは縦長の長方形となる。
外回りはガラス製なので、蛍光体で発生した光はモニタ外から見えるが、特にカラーブラウン管において、高エネルギー電子線の衝突により発生する危険なX線を遮る必要がある。このため、ブラウン管用のガラスは鉛ガラスが用いられる。これ以外にも、遮蔽板やアノード電圧が上がり過ぎないような保護回路があるので、最近のブラウン管からのX線放射は安全基準値を十分下回る。
ブラウン管は三極管の特性をもつため、電子ビームと発光強度の間に指数的な特性がある。この指数に数式ではγをよく使うことからガンマ値と呼ぶ。この曲線(ガンマカーブ)は、ヴェーバー‐フェヒナーの法則により人の視覚の特性とだいたい一致することから好都合であるが、デスクトップ・パブリッシングなど再現性が重要な分野では、ガンマ補正により、元データの意図にできるだけ一致するよう調整が必要である。
多色表示の方法で記述したようにシャドーマスクまたはスロットマスク、アパーチャーグリルによって誤って他の色のドットに電子線が入らないようになっているため十分にドットが小さければドット間隔に関わらず走査線周波数を変えることで複数の解像度に対応する。複数の解像度に対応したものはマルチスキャンディスプレイと呼ばれる。
ブラウン管に磁石を近接させると、管を構成する金属部品や蒸着膜が帯磁して内部の電子ビームに歪みが起こり、正しく動作しなくなる場合がある。特に、鉄製のアパーチャーグリルやシャドウマスクを採用している物でも、これらマスクが磁化すると色ズレを起こしやすい。色ズレの影響が目立ちやすいコンピュータ用ディスプレイでは、消磁機能を内蔵しているものが多いほか、内蔵していない場合でもテレビなどの消磁に用いる専用の消磁器もあり、高速で磁場を反転させながら、徐々に磁場を弱くすることにより、帯磁を消失させる。
消磁器は作動させたら、画面上で円を描くようにしながら次第に遠ざける事で磁気の影響を気に成らない程度に軽減させられる。熟練を要し、失敗のリスクを伴う方法だが、永久磁石でも上手に一定速度で画面上を動かしながら遠ざけることで、消磁することも原理的には可能である。
基本的にブラウン管使用機器のそばにスピーカーやモーターといった磁気を発する物を設置するのは避けるべきである。ただしこれらの影響を与えないように防磁機能を持たせているものは、影響が無視できるほどに小さくなっている。
社団法人電子情報技術産業協会(JEITA)の発表(外部リンクの節参照)によると、日本における一般PC向けのCRT需要は、2005年度でほぼ消滅。印刷物に対して忠実な色再現性が求められるDTP分野以外は、完全に液晶ディスプレイ(LCD)に置き換わった。世界でも縮小傾向にある。
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"text": "ブラウン管(ブラウンかん)は、電子銃から電子ビームを蛍光面に照射し、発光させて図像を表示する、陰極線管(cathode-ray tube, CRT)と呼ばれる種類の真空管を応用した装置である。名称は、発明者であるドイツのカール・フェルディナント・ブラウンに由来する。",
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"text": "ビデオモニター、テレビ受像機、コンピュータなどのディスプレイやオシロスコープなどの用途があり、かつては一般家庭でも用いられた。当時はテレビの代名詞のように扱われることもあり、庶民には手の届かない世界として映画スターを指す「銀幕のスター」と対置されたように、華やかなテレビの世界などを指して「ブラウン管のスター」「ブラウン管の向こう~に」と表現されることもあった。",
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"text": "YouTubeの \"Tube\" はブラウン管に由来しており、YouTubeのロゴマークは、ブラウン管テレビの画面が丸みを帯びた四角形をしていたことに由来している。",
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"text": "ファンネル(漏斗)と呼ばれる真空管内で、電子銃により電子ビームを発射する。陽極に印加された高い電圧により電子は加速され、蛍光物質を塗布した蛍光面に衝突し発光する。電子ビームは、電界または磁界により偏向され、蛍光面を走査する。偏向するための電磁石のことをヨーク(yoke、ヨークコイル)と言う。",
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"text": "ビデオモニターやディスプレイでは管面全体を走査線(ラスタ)とよぶ固定パターンでスキャンしつつ、映像信号の輝度成分に従って電子ビームの強さを変調する。このように、画面上の任意の点の明るさを制御することにより画像を作り上げている。オシロスコープでは、電子ビームの強さは一定の設定値に保ち(=輝度一定)、ビームを任意に動かして描画する。通常、水平偏向は一定時間毎ないし何らかのトリガで一定速度で走査し、垂直偏向は入力信号の電圧に対応するように走査する。",
"title": "走査方式"
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"text": "オシロスコープ用のブラウン管はテレビのものより細長く、電界により偏向させる。これは、電界偏向(静電偏向)のほうが磁界偏向よりも高い周波数で走査を行えるためである。電界偏向では磁界偏向に比べてビームを偏向するにあたっての印加電圧が低くできる反面、ブラウン管を大きくした場合など広い範囲の偏向を行うには不向きという側面もある。また、静電偏向型は大型化、薄型化した場合、高電圧化させる必要がある事も不利な理由である。但し、電源電圧の変動に関しては磁界偏向よりも耐性がある。",
"title": "走査方式"
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"text": "初期のレーダー表示装置では、パラボラアンテナの向きと同期して放射線状に電子線を走査し表示を行う。",
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"text": "レーザー光線を用いて大気中の微粒子をスクリーンとし、文字や図形を表示する手法があるが、それと同様に、ビームの方向を自由に制御し、文字、図形を一筆書きのように表示する。",
"title": "走査方式"
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"text": "カラーブラウン管では、各々光の三原色の赤(R)・緑(G)・青(B)に発光する3色の異なる蛍光物質を使い、方形や円状(シャドーマスク管)または直線状(アパーチャーグリル管やスロットマスク管)に密集して配置する。電子銃がRGB各色に対応して3本あり、各電子銃は対応するRGB各1色のドット(蛍光体)にのみ電子線を発するようにする。これらから逸れた電子線は発光面直前にあるシャドーマスク またはスロットマスク、アパーチャーグリルによって他のドットに誤って入らないように吸収ないし遮蔽される。",
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},
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"text": "シャドーマスクは、円形、三角形ないし六角形状に穴が開いているが、アパーチャーグリルは垂直方向に細いスリット状(スリットマスク)になっている。スリットマスク同士が動いてしまわないように、水平方向に支えの線(ダンパーワイヤー)が入っている。アパーチャーグリルのブラウン管の画像をよく見ると、その線が観察できる(15インチトリニトロン管の例では画面の上半分と下半分の中間に1本、また17インチ以上のモニターでは、上下三分の一周辺に2本のダンパーワイヤーが見られる。アパーチャーグリルを使うブラウン管の代表的なものとしては、ソニーのトリニトロン管や三菱電機のダイヤモンドトロン管がある。なお、シャドーマスクは電子ビームが通過する穴を小さく、密集させる程に同一面積で電子ビームが遮られるマスク面が広くなりがちで、画面が暗くなる(技術的限界)ことから高解像度とし難いため、一般のテレビ受像用はともかくハイビジョンやパソコン用ディスプレイでは、アパーチャーグリルを採用した物が広く使われた。",
"title": "多色表示の方法"
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"text": "アパーチャーグリルは縦方向に区切ったマスクを吊す構造であり振動や加熱による変形によって色のにじみに弱い。これらを改善するためスロットマスク方式ではマスク開口を横方向にも区切っている。しかし、この区切りにより輝度が低下する点がある。スロットマスクを採用した物はNECのクロマクリア管がある。",
"title": "多色表示の方法"
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"text": "電子ビーム形状はそれぞれの方式に対応した形状となり、結果として表示面に映るドット形状もこの形となる。すなわち、シャドーマスクは円形や三角形、六角形となる。アパーチャーグリルはスリットマスクが縦長であり縦方向のドット間には仕切がないため、縦方向のみ自然なつながりとなる。スロットマスクは縦長の長方形となる。",
"title": "多色表示の方法"
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"text": "外回りはガラス製なので、蛍光体で発生した光はモニタ外から見えるが、特にカラーブラウン管において、高エネルギー電子線の衝突により発生する危険なX線を遮る必要がある。このため、ブラウン管用のガラスは鉛ガラスが用いられる。これ以外にも、遮蔽板やアノード電圧が上がり過ぎないような保護回路があるので、最近のブラウン管からのX線放射は安全基準値を十分下回る。",
"title": "多色表示の方法"
},
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"text": "ブラウン管は三極管の特性をもつため、電子ビームと発光強度の間に指数的な特性がある。この指数に数式ではγをよく使うことからガンマ値と呼ぶ。この曲線(ガンマカーブ)は、ヴェーバー‐フェヒナーの法則により人の視覚の特性とだいたい一致することから好都合であるが、デスクトップ・パブリッシングなど再現性が重要な分野では、ガンマ補正により、元データの意図にできるだけ一致するよう調整が必要である。",
"title": "多色表示の方法"
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"text": "多色表示の方法で記述したようにシャドーマスクまたはスロットマスク、アパーチャーグリルによって誤って他の色のドットに電子線が入らないようになっているため十分にドットが小さければドット間隔に関わらず走査線周波数を変えることで複数の解像度に対応する。複数の解像度に対応したものはマルチスキャンディスプレイと呼ばれる。",
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"text": "ブラウン管に磁石を近接させると、管を構成する金属部品や蒸着膜が帯磁して内部の電子ビームに歪みが起こり、正しく動作しなくなる場合がある。特に、鉄製のアパーチャーグリルやシャドウマスクを採用している物でも、これらマスクが磁化すると色ズレを起こしやすい。色ズレの影響が目立ちやすいコンピュータ用ディスプレイでは、消磁機能を内蔵しているものが多いほか、内蔵していない場合でもテレビなどの消磁に用いる専用の消磁器もあり、高速で磁場を反転させながら、徐々に磁場を弱くすることにより、帯磁を消失させる。",
"title": "磁石の影響"
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"text": "消磁器は作動させたら、画面上で円を描くようにしながら次第に遠ざける事で磁気の影響を気に成らない程度に軽減させられる。熟練を要し、失敗のリスクを伴う方法だが、永久磁石でも上手に一定速度で画面上を動かしながら遠ざけることで、消磁することも原理的には可能である。",
"title": "磁石の影響"
},
{
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"text": "基本的にブラウン管使用機器のそばにスピーカーやモーターといった磁気を発する物を設置するのは避けるべきである。ただしこれらの影響を与えないように防磁機能を持たせているものは、影響が無視できるほどに小さくなっている。",
"title": "磁石の影響"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "社団法人電子情報技術産業協会(JEITA)の発表(外部リンクの節参照)によると、日本における一般PC向けのCRT需要は、2005年度でほぼ消滅。印刷物に対して忠実な色再現性が求められるDTP分野以外は、完全に液晶ディスプレイ(LCD)に置き換わった。世界でも縮小傾向にある。",
"title": "市場規模"
}
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ブラウン管(ブラウンかん)は、電子銃から電子ビームを蛍光面に照射し、発光させて図像を表示する、陰極線管と呼ばれる種類の真空管を応用した装置である。名称は、発明者であるドイツのカール・フェルディナント・ブラウンに由来する。
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{{出典の明記|date=2022年7月}}
[[ファイル:CRT color enhanced.png|thumb|300px|カラー受像管の断面図<br />1.[[電子銃]]<br />2.電子ビーム<br />3.集束コイル(焦点調整)<br />4.偏向コイル<br />5.陽極端子<br />6.シャドーマスク<br />7.色蛍光体<br />8.色蛍光体を内側から見た拡大図]]
'''ブラウン管'''(ブラウンかん)は、[[電子銃]]から[[電子ビーム]]を[[蛍光|蛍光面]]に照射し、発光させて図像を表示する、[[陰極線]]管(cathode-ray tube, CRT)と呼ばれる種類の真空管を応用した装置である。名称は、発明者である[[ドイツ]]の[[フェルディナント・ブラウン|カール・フェルディナント・ブラウン]]に由来する。<!--英語圏であまりbraun tubeと言わないのは、イギリス人が「ブラウン」から報復兵器V2のW・フォン・ブラウン博士を連想するためだ、という説を読んだことがある気がするんですが俗説っぽい上に出典を思い出せないのでコメントに。記事に書かれるのでしたら確実な出典を付けるようお願いします。-->
== 概要 ==
[[ファイル:Trinitron-brown.jpg|サムネイル|パソコン用のブラウン管ディスプレイ]]
[[ビデオモニター]]、[[テレビ受像機]]、[[コンピュータ]]などの[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]や[[オシロスコープ]]などの用途があり、かつては一般家庭でも用いられた。当時はテレビの代名詞のように扱われることもあり、庶民には手の届かない世界として映画スターを指す「銀幕のスター」と対置されたように、華やかなテレビの世界などを指して「ブラウン管のスター」「ブラウン管の向こう~に」と表現されることもあった。
[[YouTube]]の "Tube" はブラウン管に由来しており<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/388278 「YouTubeが実現した「テレビと真逆」の動画革命 アメリカ本社の最高ビジネス責任者に直撃」]東洋経済 2020/11/12 閲覧</ref>、YouTubeのロゴマークは、ブラウン管テレビの画面が丸みを帯びた四角形をしていたことに由来している<ref>[https://macromancer.com/why_is_youtube_a_tube/ 『 YouTubeはどうして「チューブ」なの? ロゴマークに隠された意味 』]MACROMANCER {{Accessdate|2023-09-04}}</ref>。
=== 動作原理 ===
ファンネル([[漏斗]])と呼ばれる[[真空管]]内で、[[電子銃]]により電子ビームを発射する。[[陽極]]に印加された高い[[電圧]]により[[電子]]は加速され、蛍光物質を塗布した蛍光面に衝突し発光する。電子ビームは、[[電場|電界]]または[[磁場|磁界]]により偏向され、蛍光面を'''[[走査]]'''する。偏向するための[[電磁石]]のことをヨーク(yoke、ヨークコイル)と言う。
== 走査方式 ==
[[ファイル:日本陸軍電探用ブラウン管.JPG|thumb|300px|日本陸軍電探用ブラウン管、静電偏向型]]
=== ラスタスキャン ===
{{main|ラスタースキャン}}
[[ビデオモニター]]や[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]では管面全体を[[走査線]](ラスタ)とよぶ固定パターンでスキャンしつつ、[[映像信号]]の輝度成分に従って電子ビームの強さを変調する。このように、画面上の任意の点の明るさを制御することにより画像を作り上げている<ref name=":02">{{Cite journal|author=赤木真澄|year=|date=1983-11-01|title=オペレーターのための新・電気の広場 ビデオ・ゲームのしくみと働き 連載第2回|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19831101p.pdf|journal=ゲームマシン|volume=223|page=16|publisher=アミューズメント通信社}}</ref>。オシロスコープでは、電子ビームの強さは一定の設定値に保ち(=輝度一定)、ビームを任意に動かして描画する。通常、水平偏向は一定時間毎ないし何らかのトリガで一定速度で走査し、垂直偏向は入力信号の電圧に対応するように走査する。
オシロスコープ用のブラウン管はテレビのものより細長く、電界により偏向させる。これは、電界偏向(静電偏向)のほうが磁界偏向よりも高い周波数で走査を行えるためである。電界偏向では磁界偏向に比べてビームを偏向するにあたっての[[印加]]電圧が低くできる反面、ブラウン管を大きくした場合など広い範囲の偏向を行うには不向きという側面もある。また、静電偏向型は大型化、薄型化した場合、高電圧化させる必要がある事も不利な理由である。但し、電源電圧の変動に関しては磁界偏向よりも耐性がある。
=== ラジアルスキャン ===
初期の[[レーダー]]表示装置では、[[パラボラアンテナ]]の向きと同期して放射線状に電子線を走査し表示を行う。
=== ベクタースキャン ===
{{main|ベクタースキャン}}
[[レーザー光線]]を用いて大気中の微粒子をスクリーンとし、文字や図形を表示する手法があるが、それと同様に、ビームの方向を自由に制御し、文字、図形を一筆書きのように表示する。
== 多色表示の方法 ==
[[ファイル:CRT phosphors.png|thumb|ブラウン管による表示の波長スペクトラム]]
カラーブラウン管では、各々光の[[原色|三原色]]の赤(R)・緑(G)・青(B)に発光する3[[色]]の異なる蛍光物質を使い、方形や円状([[シャドーマスク]]管)または直線状([[アパーチャーグリル]]管や[[スロットマスク]]管)に密集して配置する<ref name=":0">{{Cite journal|author=赤木真澄|year=|date=1984-01-01|title=オペレーターのための新・電気の広場 ビデオ・ゲームのしくみと働き 連載第5回|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19840101p.pdf|journal=ゲームマシン|volume=227|page=|pages=22-23|publisher=アミューズメント通信社}}</ref>。電子銃が[[RGB]]各色に対応して3本あり<ref name=":0" />、各電子銃は対応するRGB各1色のドット(蛍光体)にのみ電子線を発するようにする。これらから逸れた電子線は発光面直前にあるシャドーマスク<ref name=":0" /> またはスロットマスク、アパーチャーグリルによって他のドットに誤って入らないように吸収ないし遮蔽される。
シャドーマスクは、円形、三角形ないし六角形状に穴が開いているが、アパーチャーグリルは垂直方向に細いスリット状(スリットマスク)になっている。スリットマスク同士が動いてしまわないように、水平方向に支えの線(ダンパーワイヤー)が入っている。アパーチャーグリルのブラウン管の画像をよく見ると、その線が観察できる(15インチトリニトロン管の例では画面の上半分と下半分の中間に1本、また17インチ以上のモニターでは、上下三分の一周辺に2本のダンパーワイヤーが見られる。アパーチャーグリルを使うブラウン管の代表的なものとしては、[[ソニー]]の[[トリニトロン]]管や[[三菱電機]]の[[ダイヤモンドトロン]]管がある。なお、シャドーマスクは電子ビームが通過する穴を小さく、密集させる程に同一面積で電子ビームが遮られるマスク面が広くなりがちで、画面が暗くなる(技術的限界)ことから高[[解像度]]とし難いため、一般のテレビ受像用はともかく[[ハイビジョン]]やパソコン用ディスプレイでは、アパーチャーグリルを採用した物が広く使われた。
アパーチャーグリルは縦方向に区切ったマスクを吊す構造であり振動や加熱による変形によって色のにじみに弱い。これらを改善するためスロットマスク方式ではマスク開口を横方向にも区切っている。しかし、この区切りにより輝度が低下する点がある。スロットマスクを採用した物は[[日本電気|NEC]]の[[クロマクリア管]]がある。
電子ビーム形状はそれぞれの方式に対応した形状となり、結果として表示面に映るドット形状もこの形となる。すなわち、シャドーマスクは円形や三角形、六角形となる。アパーチャーグリルはスリットマスクが縦長であり縦方向のドット間には仕切がないため、縦方向のみ自然なつながりとなる。スロットマスクは縦長の長方形となる。
外回りはガラス製なので、蛍光体で発生した光はモニタ外から見えるが、特にカラーブラウン管において、高エネルギー電子線の衝突により発生する危険な[[X線]]を遮る必要がある。このため、ブラウン管用のガラスは[[クリスタル・ガラス|鉛ガラス]]が用いられる。これ以外にも、遮蔽板やアノード電圧が上がり過ぎないような保護回路があるので、最近{{いつ|date=2013年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->のブラウン管からのX線放射は安全基準値を十分下回る。
ブラウン管は三極管の特性をもつため、電子ビームと発光強度の間に指数的な特性がある。この指数に数式ではγをよく使うことから[[ガンマ値]]と呼ぶ。この曲線(ガンマカーブ)は、[[ヴェーバー‐フェヒナーの法則]]により人の視覚の特性とだいたい一致することから好都合であるが、[[DTP|デスクトップ・パブリッシング]]など再現性が重要な分野では、[[ビットマップ画像#ガンマ補正|ガンマ補正]]により、元データの意図にできるだけ一致するよう調整が必要である。
== 複数解像度の対応 ==
多色表示の方法で記述したようにシャドーマスクまたはスロットマスク、アパーチャーグリルによって誤って他の色のドットに電子線が入らないようになっているため十分にドットが小さければドット間隔に関わらず走査線周波数を変えることで複数の解像度に対応する。複数の解像度に対応したものはマルチスキャンディスプレイと呼ばれる。
== 磁石の影響 ==
ブラウン管に[[磁石]]を近接させると、管を構成する金属部品や蒸着膜が帯磁して内部の電子ビームに歪みが起こり、正しく動作しなくなる場合がある。特に、鉄製のアパーチャーグリルやシャドウマスクを採用している物でも、これらマスクが磁化すると色ズレを起こしやすい。色ズレの影響が目立ちやすいコンピュータ用ディスプレイでは、消磁機能を内蔵しているものが多いほか、内蔵していない場合でもテレビなどの消磁に用いる専用の消磁器もあり、高速で磁場を反転させながら、徐々に磁場を弱くすることにより、帯磁を消失させる。
消磁器は作動させたら、画面上で円を描くようにしながら次第に遠ざける事で磁気の影響を気に成らない程度に軽減させられる。熟練を要し、失敗のリスクを伴う方法だが、[[永久磁石]]でも上手に一定速度で画面上を動かしながら遠ざけることで、消磁することも原理的には可能である。
基本的にブラウン管使用機器のそばに[[スピーカー]]や[[電動機|モーター]]といった磁気を発する物を設置するのは避けるべきである。ただしこれらの影響を与えないように防磁機能を持たせているものは、影響が無視できるほどに小さくなっている。
== 特殊なブラウン管 ==
* ある閾値以上の輝度で光らせた輝点は、以後、走査せずとも光り続けるような仕掛けになっているブラウン管があり、[[直視形蓄積管]]([[:en:Storage tube]])という。次の記憶装置用のものと区別するためDirect-View Storage Tube(DVST)とも。[[:en:Direct-view bistable storage tube]]も参照。
* 蛍光面の帯電をダイナミックメモリに応用したものがあり、特に区別する場合は[[ウィリアムス管]]という。1940から1950年代の[[コンピューター]]で採用例がある。これも蓄積管と呼ばれることがある。
*[[低速度走査テレビジョン]]やレーダー、[[ベクタースキャン]]など、リフレッシュ間隔が長い応用で使われる、残光が(比較して)長く残るタイプのブラウン管を長残光ブラウン管という。[[パソコン]]では[[ベーシックマスター#ベーシックマスターレベル3|ベーシックマスターレベル3]]の専用ディスプレイなどの採用例がある。
* たいていのブラウン管は、蛍光体の画像を見る面の反対側の面に陰極線を当てる構造になっているが、ポータブル薄型テレビ([[ソニー]]のウォッチマン([[:en:Sony Watchman]])など)やカメラ付き[[インターホン]]のモニタ用などで使われている、画像を見る側に陰極線を当てる構造のものもある。
*[[薄型ブラウン管]]
* 真空管という構造的に、丸い、ないし丸みをおびた形状にどうしてもならざるをえないのだが、[[長方形|矩形]]の画像を表示する以上は、外形はより矩形に、表示面はより平坦に近いほうがよいわけで、そのように研究開発が進められていた。[[トリニトロン]]は表示面が円筒状になっており縦方向には平らであった。1996年に発売されたフラットトリニトロンに代表されるように、ブラウン管時代の末期には、特に高級モデル向けで、ほぼ完全に矩形で平坦な表示面が実現されていた。
* 完全平面の表示器を目指し、多数個のブラウン管を並べたような構造などが研究されたこともあり、たとえば[[松下電器]](現[[パナソニック]])の「フラットビジョン」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.museum.uec.ac.jp/database/sf/sf950/s981.html |title=テレビ受像機 カラーフラットテレビジョンTH-14F1 | ラジオ受信機 | 第2展示室 | UEC コミュニケーション ミュージアム |accessdate=2023-09-04}}</ref>などがある。
== その他 ==
{{雑多|date=2022年8月|section=1}}
<!--[[WP:NOTTEXTBOOK]]
* ブラウン管は数千から数万V(数十kV)と、非常に高い電圧で動作する。カラーブラウン管のアノード[[電圧]]は20,000Vから26,000[[ボルト (単位)|V]] であり(白黒ブラウン管ではこれよりも低い)、この高電圧はブラウン管を内蔵する機器の電源を切ったあとでも基板上やフライバックトランスの陽極端子に充電部があり、ブラウン管の陽極端子に「帯電」という形で数日間は残る。そのため、このような機器を分解することは技術的な訓練を受け適切な事故予防処置をとらない限り、電気的な知識がない素人が行なうべき行為ではない。安易な作業により誤って帯電部分に触れると[[感電]]、すなわち高電圧の[[電撃]]を受けるため、ブラウン管を内蔵した機器本体・及びそれに付属するマニュアルなどで警告するなどの措置がとられている。
* ブラウン管はそのものが大型の真空管であるため、万一ガラス部分に不慮のダメージが加わった場合[[爆縮]]を起こし、割れたブラウン管の破片(ガラス)が勢いよく飛び散る危険性がある。対策としてブラウン管には爆縮時におけるガラスの前面方向への飛散を防止するため金属製の枠が接着されている。基本的に前面部分(普段露出している部分)は当然かなり丈夫に作られていて液晶テレビよりも壊れにくいが、機器の筐体を分解した場合に露になる裏側の部分はかなり脆い箇所があるため、作業中に手や工具等が当たった場合や、近接の部品を外そうとした時の弾みなどで誤って破損しない様に非常に注意する必要がある。やむを得ず分解する必要がある場合には、万一の爆縮に備えて防護ゴーグルをつけ、手足なども防護しておくことが望ましい。
* ブラウン管の周辺や内部には、内部の電子ビームがシャドーマスクやアパーチャーグリルに衝突した際に発生するX線を遮蔽するため、X線を透過させない[[鉛ガラス]]が使用されている。ガラスなので直接環境中に溶出する可能性は比較的少ないが、再資源化時には鉛ガラスを分別する必要がある。
[[WP:NOTTEXTBOOK]]-->
* ブラウン管ディスプレイを長時間使い続けると[[焼き付き]]が発生し、画質が低下する。特に、同じ画像を映し続けると蛍光体面にその跡が残る。1970~80年代のアーケードゲームやATM端末等ではタイトル画面やスコア表示などで常に点灯している部分にそのような跡がよく見られた。問題が認識された後は、こまめに全画面を書き換えるようなアトラクト等と呼ばれる効果動画を流すようになったり、パーソナルコンピュータ等では[[スクリーンセーバー]]が活用されるようになった。
*ブラウン管テレビでは、スイッチを入れたらすぐ表示できるようにするため、および加熱と冷却、通電と放電の繰返しによって寿命が短くなることを防ぐため、いくらかの回路を通電しっぱなしにするため[[待機電力]]を消費した。真空管時代にはこのことをうたった「[[ポンパ]]」という商品名もある。
*スイッチを入れた時に聞こえる「ブーン」という音は残留磁場を消磁する音である。動作中には非常に高い周波数の「キーン」という音が、特に高域の聴覚が敏感な子供には聞こえるが、これは水平走査の音である。
* 有害物質や希土類元素(レアメタル)が蛍光体や電子銃等に使用されている為、環境負荷を減らす為にもリサイクル率を高め、再資源化される必要がある。
*走査線で描画しているためビデオカメラなどで撮影すると上から下へと描画していることがわかる。
[[File:CRT monitor turns on.ogg|thumb|電源投入と自動消磁機能の音]]
== 市場規模 ==
社団法人[[電子情報技術産業協会]](JEITA)の発表([[#外部リンク|外部リンクの節]]参照)によると、日本における一般PC向けのCRT需要は、2005年度でほぼ消滅。印刷物に対して忠実な色再現性が求められる[[DTP]]分野以外は、完全に[[液晶ディスプレイ]](LCD)に置き換わった。世界でも縮小傾向にある。
== ブラウン管の歴史 ==
* [[1897年]] - [[フェルディナント・ブラウン|ブラウン]]が陰極線管を発明。
* [[1907年]] - ロシアの[[ボリス・ロージング]]がブラウン管を使った受像装置を発案。
* [[1925年]] - イギリスの[[ジョン・ロジー・ベアード]]が円盤を使ったテレビを発明。
* [[1927年]] - 日本の[[高柳健次郎]]が撮像に円盤を使い、映像にブラウン管を使った受像装置までの開発を成功。
* [[1927年]] - アメリカのフィロ・ファーンズワース、電子式テレビ撮像機の開発。
* [[1934年]] - ドイツでテレビ放送が開始。世界最初のテレビ局は[[パウル・ニプコウ]]。
* [[1967年]] - [[ソニー]]、[[トリニトロン]]を開発。
* [[1990年]] - [[ソニー]]、[[ハイビジョンブラウン管テレビ]] (KW-3600HD) を発売。
* [[1996年]] - ソニースーパーフラットトリニトロン管を採用したテレビ受像機を発売。
* [[2008年]] - ソニー、トリニトロン生産を終了。
* [[2015年]] - [[シャープ]]、フィリピンでのブラウン管テレビ生産終了。
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:CRT screen. closeup.jpg|シャドーマスク方式の画面拡大図
ファイル:Aperture grille closeup.jpg|アパーチャーグリル方式の画面拡大図
ファイル:Shadow mask closeup cursor.jpg|シャドーマスク方式による[[マウスポインタ]]の拡大図
ファイル:Aperture grille closeup teletext.jpg|アパーチャーグリル方式による[[英字]]「[[e]]」の拡大図
ファイル:Egun.jpg|[[電子銃]]
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[シャドーマスク]]
* [[スロットマスク]]
* [[アパーチャーグリル]]
* [[薄型ブラウン管]]
* [[トリニトロン]]管
* [[トリニトロン|ダイヤモンドトロン]]管
* [[ハイビジョンブラウン管テレビ]]
* [[ドットマトリクス]]
* [[映像機器]]
* [[キドカラー]]
* [[ポンパ]]
* [[ニモ・チューブ]]
* [[ディスプレイデバイス]]
* [[The Society for Information Display]] - SID ; 世界最大のディスプレイ学会
== 外部リンク ==
{{Commons|Cathode ray tube}}
* {{webarchive |url=https://archive.fo/wIeCb |date=2014年12月8日 |title=「昭和」の象徴…ブラウン管TVの生産終了へ(読売新聞、2014年12月8日)}}{{Accessdate|2023-09-04}}
* {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20090329073204/http://it.jeita.or.jp/statistics/intelterm/2005/index.html |date=2009年3月29日 |title=2005年情報端末関連機器の世界・日本市場規模および需要予測}}(社団法人 電子情報技術産業協会){{Accessdate|2023-09-04}}
<!--* [http://it.jeita.or.jp/statistics/intelterm/2006/display.html 2006年情報端末関連機器の世界・日本市場規模および需要予測] (社団法人 電子情報技術産業協会)-->
<!--(英語版:18:44, 23 Jul 2003 から翻訳。逐語訳でもないので原文は他言語リンクのみ) -->
{{映像出力機器}}
{{Electronic components|state=collapsed}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:ふらうんかん}}
[[Category:光学]]
[[Category:光学機器]]
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ファンタシースターオンライン
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『ファンタシースターオンライン』(Phantasy Star Online)は、セガが運営していたオンラインゲーム。略称は「PSO」。開発はソニックチーム。
2000年12月21日、ドリームキャスト用ソフトとして初登場した。日本で初めて成功した家庭用ゲーム機用オンラインゲームと言える作品で、第5回日本ゲーム大賞を受賞した。後にバグの修正や難易度・レアアイテムなどが追加変更された『Ver.2』や、ドリームキャスト生産終了以降はプラットフォームを変えてバージョンアップ版が多数発売された。
ロールプレイングゲーム「ファンタシースターシリーズ」の一つであるが、ストーリー内容については具体的に過去作との繋がりは薄いため、プレイしていなくても問題は無いように配慮されている。
2010年12月27日に、Windows版をはじめとする一連の『PSO』シリーズは全ての(オフィシャル)オンラインモードサービスが終了した。
なお、『ファンタシースターオンライン2』のサービス開始以降は『PSO』以降のファンタシースターシリーズ全作が「PSOシリーズ」と呼称されることもある。本項では、狭義のPSOシリーズについて記述する。
本作は後述の『ファンタシースターオンライン ブルーバースト』(以下、ブルーバースト)を除いて、基本的に「ネットワーク対応RPG」であり、オンラインプレイ専用ではなく、ゲームのプレイには必ずしもインターネットの接続は必要ない。『ブルーバースト』以外のタイトルにはシングルプレイ用のオフラインモードが搭載されている。
オンラインモードは大規模な世界を多人数で共有するゲームではなく、比較的小さな空間を最大4人の比較的少人数で冒険するゲームである。一時期は海外のユーザーとも共にプレイできるサーバーも存在した。ドリームキャスト時代は最盛期で同時接続者数2万6000人(国内)、登録者数30万人(国内外)だったといわれている。
当時としては珍しくタイトルに「オンライン」が付いていたため、内容をよく知らないユーザーやオンライン環境が整っていないユーザーに敬遠される傾向があった。しかし、ネットワーク環境が本格的に整備される以前に公開されたタイトルという事もあり、オフラインモードも充実しており、「オンライン通信で協力プレイもできるアクションRPG」という表現が当てはまる作品といえる。これは、近年のオンライン対応ゲームソフトに見受けられる、オフラインモードが存在していると明記されていてもネットワークに接続してプレイしないと本格的に楽しめないのとは対称的である。
アクションゲーム要素の強さもあり、比較的短いプレイ時間でも楽しめるボリューム内容やゲーム構成であるが、一方で容量の問題からストーリーに関する表現はかなり淡白な作りになっている。特に普通のロールプレイングゲームと違い、街は最低限の機能をもったものがひとつだけしかない。後のGC版、Xbox版に追加された新マップの拡張に伴い街が1つ追加されているが、機能的にはほぼ同一である。
ネットワーク接続することで追加クエストをダウンロードが可能となるなど拡張性を意識した作りだったが、追加されたシナリオのバリエーションとクオリティはあまり高い物であるとは言いがたく、特定の地点まで行ってアイテムを取ってくるといったお使いクエストが大半を占める。「ドラゴンクエストシリーズ」のような直接的な物語性を重視するプレイヤーよりも、『ウィザードリィ』『不思議のダンジョン』といった黙々とレベルを上げたり、アイテム探索を行うことが好きなプレイヤー寄りの内容といえる。また、時間の概念として現地時間ではなくインターネットタイムを導入しており、インターネットタイムによって一部の武器の攻撃力が可変するといったギミックが搭載されていたが、いわゆるマップの天候や昼夜が変わるといった仕様は盛り込まれていない。
セーブデータは、ゲーム機本体やメモリーカードなどに保管されるローカル保存形式(『ブルーバースト』より前のバージョン)であったが、そのためセーブデータの改造による不正行為が非常に多かった。
なお本項目では、注記が無い限り基本的に「ドリームキャスト版Ver1」「ドリームキャスト版Ver2」「PC版Ver1(DC版Ver2同等)」について記述されている。また、続編である『ファンタシースターユニバース』ではロボット系のキャラクタを「キャスト」と呼んでいるが、『PSO』の世界観に基づき本項目ではあえて「アンドロイド」の表現を用いる。また、以降使われる「DC」はドリームキャスト、「GC」はニンテンドーゲームキューブを、「EP1」はドリームキャスト版Ver1・Ver2・PC版を、「EP2」はゲームキューブ版・Xbox版、そしてブルーバーストの一部仕様を指すものとする。
ファンタシースターオンラインの世界観はサイエンスフィクションで、特に映画「スター・ウォーズ・シリーズ」の影響を強く受けており、「ライトセーバー」のような概観の剣やエネルギーの弾丸を発射する銃などが基本の武器アイテムとして用意されている。実弾を発射する銃器や金属の刃物なども多少存在はするが、希少なレアアイテムの一部としてのみ登場する。
作品中に登場する種族はヒューマン(人間)と、その遺伝子を改造したエルフのようなとんがった形状の耳を持つニューマン(新人類)、そして頭脳を含む全身を機械で作られたアンドロイドの3種族が一つの宇宙船「パイオニア2」に混在する形で同居している。ゲーム中ではオフラインクエストでニューマンについての種族差別やアンドロイドに対する規制について軽く触れるが、深いところまでは立ち入らない。
本作ではヒューマンが一番地位が高く、次いでニューマン、アンドロイドといった関係にあるようである。特にアンドロイドは、感情的な差別とは違って「社会的地位(のある職業)を持つ事」「人工皮膚を着用(して人間に近い外観を)すること」を禁じられており、明確に区別されている。
ヒューマンとニューマンの地位の差については、NPCキャラクターでもニューマンでありながら相当の権力を持つと思われるキャラクターが何人か存在するためそこまで大きな差が無いのだが、アンドロイドについてはせいぜい「実力が高く同業者からの信頼が厚いハンター」程度であり、権力的な立場を持っている個体は一切登場しない。それどころか、完全な自律型ではなくヒューマンの隊長などの指示によってのみ動く半自律型のロボットのようなキャラクターも多数存在しており、扱いはヒューマン・ニューマンと明らかに異なる。
もっとも、前述の通りこれらは基本的にオフラインクエストで軽く触れられるのみであり、本筋のストーリーには一切関与しない。これらの背景を知った上で登場するNPCを観察していると「なるほど」と思える程度である。 この種族設定は本作の後継作品『ファンタシースターユニバース』の差別部分を強く全面的に押し出した世界観および、『ファンタシースターZERO』以降の「絆」を前面に押し出したもののいずれとも大きく違う相違点である。
初の日本製コンシュマーネットワークRPGだが、海外展開も視野において作られており、絵柄こそ明るめであるものの、キャラクターの顔の造形やシルエットはアメリカンコミックのテイストが濃い。ただし、あるステージを境に音楽も暗く、危機感をあおり始めるようなものになり「頭や腕などを破壊されても黙々と近寄って襲ってくるロボット集団」や「倒すとなんとも形容しがたい声で消滅する敵」など、ゲーム序盤とは打って変わり軽いホラー調も盛り込まれている点もある。
これまで以下のバージョンが発売されている。オフィシャルのオンラインモードは全て終了している(オフラインモードのプレイは可能)。
本作はバージョンによってエピソード1と2の二部構成に分かれている。各種DC版とPC版にはエピソード1のみしか含まれていないが、GC・Xbox版にはエピソード1と2の両方が含まれる。また、『ブルーバースト』ではそれに加えエピソード4が追加されている。エピソード3は本作のようにアクションRPGではなく、カードゲーム形式として発売された。
冒険用のマップは、大小様々な部屋と通路が複数繋がって一つの大きなダンジョンとなっている。それぞれの小部屋には扉が設置されており、隣の部屋に移動するには扉のロックを解除する必要がある。ロックの解除には条件があり、基本的に扉のロックがかかっている部屋のエネミーを殲滅すれば開くようになるほか、スイッチを切り替える事で解除されるものもある。エネミー殲滅のパターンでも殲滅対象のエネミーはその部屋内にいるケースばかりとは限らず、またスイッチのパターンでも1個だけのスイッチで解除されるものもあれば、複数箇所のスイッチを全て切り替えて初めて解除となるものもある。オンラインだとさらに上に乗って踏んでいる間しか切り替えられないスイッチが登場し、複数人で同時にスイッチを操作しなければならないものもある。このため、オンラインでは一人ではクリアできないマップも多い(裏技によってクリア可能な場合もある)。
また、マップ中には様々なトラップや、スイッチ切り替えで解除されるレーザーフェンスが設置されていたり、真っ暗な部屋の場合は電灯をONにしないと視界がほぼゼロといった多彩なギミックが仕掛けられており、それをうまく活用してゲームを進める形になる。こうしたギミックやエネミーの攻撃をかいくぐり、マップの最深部に到達すると、次の階層(エリア)へ移動するためのワープポイントがあり、それに入ることで次階層へと進入することができる。最深部に居るボス敵を倒すことで、そのステージをクリアしたとみなされ、次のステージへ進むことができる(オフラインでは、総督との会話が必要な場合もある)。
これを繰り返し、それぞれのエピソードの最終ステージにいる最終ボスを倒すと、「ノーマル」→「ハード」→「ベリーハード」→「アルティメット(ドリームキャストのVer2以降)」と、さらに敵の強さがあがった高難易度のゲームモードが開放される(基本的なストーリー展開に変化はない)。オフラインモードでは上記の通りラストボスを倒す事だけが次の難易度の出現条件だが、オンラインの場合は個別に設定された制限レベルを満たしている必要があるため、オンラインになると次の難易度に挑戦できなくなる場合がある。
オフラインで一度クリアしたステージとその次のステージはゲームを終了してもまたプレイできるほか、オンラインでも行けるステージは前述の通りである。このため、オンラインしかプレイせずに育成したキャラでは、高難易度で部屋を作っても最初のステージしかプレイできない。それでも順番にクリアしていけば次のステージに行けるが、オフラインでクリアしない限りリセットされる。また、オフラインで遺跡エリアにいくためには、それ以前の各々のステージのエリア2のどこかにあるモニュメントのスイッチを全て押さねばならない。オフラインクエストに関しては、オフラインでの進行度に加え、それまでのオフラインクエストのクリア状況によって、プレイ可能なクエストが変わる。但し、ダウンロードクエスト、オンラインクエストに関しては、オフラインの進行度に関係なく、全てのエリアをプレイできる。
人口増加と環境破壊により母星「コーラル」は衰退し、人類は外宇宙へ移住する「パイオニア計画」を敢行。 長年の調査により移住可能な惑星「ラグオル」を発見、ただちに本格的移住の準備をすべく、先行艦パイオニア1が旅立つ。
数年後、一般移民船「パイオニア2」がラグオルの衛星軌道上に到着し、パイオニア1(セントラルドーム)との通信回線を開こうとした瞬間、ドームを中心に広範囲を被い尽くす謎の大爆発が発生し地表との通信は途絶えた。
エピソード1に登場するステージは初心者〜中級者向けを意識した難易度調整になっており、一人で冒険したとしても、比較的テンポよくゲームを進行させることができる。 しかしこれは単に難易度がマイルドな仕上がりになっているわけではなく、絶妙なゲームバランス調節による物であり、上級者でも存分に楽しむことが可能である。
各種家庭用ゲーム機版の本作ではキーボード入力による日本語変換は独自の物(Xbox版はモバイルWnnを採用している)を用意しており、「なか」と入力して変換すると「中裕司」「社長」に変換できるといったジョークも組み込まれている。この独自辞書には変換ミスも多く、有名なものではゲームに登場するキャラクタ"リコ"のニックネーム「赤い輪のリコ」を最後まで無変換で入力し 最後に変換すると「赤岩紀子」と表示されるものなどがある。
最初に発売されたドリームキャスト版はキーボードが別売りのオプション(ドリームキャストにはPS2のようにUSB端子が付属しておらず、独自規格のコネクタしかなかった)だったため、プレイヤー間でコミュニケーションをいかにして行うかが開発時に問題となっていたようである。画面にキーボードを表示して文字をカーソルで選択する「ソフトキーボード」も用意されているが、このゲームではそれにとどまらず、以下のキーボードを必要としないコミュニケーション手段が用意されている。
画面で必要な文型と単語を選択することで文章を構成することができる。この時に表示される定型文は現在の状況を多少反映しており、他のプレイヤーが最後に使ったワードセレクトの内容などによってトップに来る定型文が変わる事がある。できあがる文章は機械的でぎこちなく、独特である。
例:(助けてくれ、死にたかねえよ>みんな)(ツインブランド+99欲しい>みんな)等
本作では発売された地域に関係なく表示言語を「日本語」「英語」「フランス語」「スペイン語」「ドイツ語」にそれぞれ変更することができ、ゲーム中のあらゆる表記(キャラクタの台詞やアイテム名など)が設定した言語のものになり、外国のゲームをプレイしているような雰囲気を味わう事もできる。ワードセレクトで作った定型文もこの設定によって自動的に翻訳されて表示されるので、簡易ではあるが 異国のプレイヤーとのコミュニケーションを行うことができた。(Xbox版、BB以外)。
外形(丸や四角)に線や点、吹き出しのマークや効果音などを組み合わせて表情などを作っておいて 簡単なショートカットから感情表現として表示することができる。作れる画像は顔に限らず、組み合わせの自由度が高いため、「ねそべっているドラえもん」や「月を背景に佇む猫のシルエット」など 想像力次第で様々なアートワークを作り出す事が出来、手の込んだシンボルを作る事を目標とするシンボルチャット職人と呼ばれるプレイヤーも存在した。
本作は非常にシンプルな作りになっている反面、ネットワークRPGにしては奥が深いゲーム性を持つ。近年の量産型MMORPGと比べる事自体が不毛であるが、現在プレイしても その操作性や(一部を除いた)ゲームバランス、システムは水準が高く いまも名作と言われ続ける所以である。 なお、以下の説明は多くがGC版以降に基づいており、特記無い限りはDC・PC版とは異なる事が多い。
本作が初めてリリースされたドリームキャストのボタンは4ボタン、スタートボタン+LRトリガーで、メインで使うボタンは4つの色(赤・青・緑・黄)に着色されていた。
画面の右下にはそれと同じ配列と同じ色の"パレット"が表示されており、そこに"アクション"を振り分けて「同じ色のボタンを押す=そのアクションを起こす」といった視覚的なユーザーの誘導が行われている。
この「アクションパレット」は一部を除いた3つのボタン プラス特定のキーを押しっぱなしにしているときだけ姿を出す「裏パレット」にも登録する事で 最高6個のアクションを登録する事ができる。例えば従来のRPGであれば「メニューを開いて回復薬を選択し、使う」という三重構造だったが、アクションパレットにあらかじめ回復薬を登録しておけば ボタン一つでいつでも回復アイテムを使う事ができるようになる。アイテムを使い切ってもパレットからは消去されないので、同じ回復薬を冒険中に拾えば またアイテムを登録しなおす事はない。
しかし複数の特殊能力を使う「フォース系」のキャラクターには絶対的にボタンとパレット数が足りないといった問題があり、赴くステージによって いちいちパレットをカスタマイズする手間があった。
この問題は、続編のドリームキャスト版Ver.2において裏パレットを開いた状態で上パレットボタンを押してショートカットウィンドウを開くことができるようにすることで改善された。その後、最新バージョンであるWindows版「ファンタシースターオンライン ブルーバースト」ではキーボードの数字キー(設定次第ではテンキー)にアクションパレットを割り当てる事でさらに拡張されている。
本作では「ノーマルアタック」「ヘビーアタック」「エクストラアタック」の3種類攻撃方法を使い分けて戦いを進める。
「ノーマルアタック」は命中率が高いが威力が弱く、「ヘビーアタック」は攻撃力が高い代わりに隙が大きく命中率が低い。「エクストラアタック」は後述するエレメントの発動に使い、隙が大きく命中率は非常に低い。
通常攻撃はタイミングよくボタンを押すと最高3連続攻撃を出す事ができ、段階を踏むごとに命中率に補正がかかるようになっている。基本的に初段はノーマルアタックで牽制(けんせい)し、さらにノーマルアタックに繋げるかヘビーアタックに繋げる事になる。もちろん初めからいきなりヘビーアタックやエクストラアタックで攻撃を仕掛けても良いが、攻撃を外してしまうと反撃を受けるリスクがあるためギャンブル的な戦いになってしまう。堅実に戦うのなら初段はノーマルアタックが基本となる。
また、武器によって攻撃速度や回数が異なり、種類によっては同じタイミングでボタンを押しても敵に割り込まれたりするため、一種類の武器に固執して戦うのではなく、相手や状況によって武器を素早く切り替えて戦うのが武器戦闘の基本である。
テクニックとは他のゲームでいう「魔法」にあたる能力で テクニックポイントを消費して発動する。これらを得意とするのはニューマン系の種族である。
トラップはDC版Ver2では難易度アルティメットでのみ、それ以降のGC版・Xbox版では全ての難易度において、アンドロイド系のキャラクターだけが使えるようになった特殊攻撃で、Ver1には存在しない。"テクニックが使えない代わり"の機能である。
トラップには「ダメージトラップ」「フリーズトラップ」「コンフューズトラップ」の3種類があり、一度の冒険で使える個数には限りがあるが 冒険途中にある回復ポイントに立ち寄るか 一度 街に戻ってメディカルセンターで回復すれば最大値までチャージされる。また、自分のレベルが上がれば、トラップを持てる最大値があがって行く。これらは設置するとプレイヤーキャラクターの頭上に現れる。起爆反応後一定時間が経つか 自分、もしくは仲間がそのトラップを破壊すれば効果を発動させる事ができる。EXアタックやテクニックと違い、効果は100%発動するので重宝する(ただし、キャラクタ特性によって効果の無い相手もいる)。
これとは別にダンジョンに最初から設置してあるものも存在し、こちらは反応後時間経過で起爆した場合は敵味方関係なく効果を及ぼすが、攻撃して破壊した場合には誰にも影響を及ぼさない。また至近距離に近づくまで隠れて目視できないようになっている。これを遠距離から見破るにはトラップを見破る効果を持ったアイテムを使用するか、そういう効果を持った装備品を身につけるかする必要がある。目視出来る状態にならなければトラップに攻撃して破壊・除去する事も出来ない。 なお、アンドロイドにはその機能が標準搭載されているため、特に何もしなくても隠されているトラップを見破る事が出来る。
トラップとは名ばかりで、ゲームのシステム上、乱戦状態で相手の目の前に置く→即自分で攻撃して発動させる、というのが基本的な使い方である。特に高難易度のステージにおける「フリーズトラップ」と「コンフューズトラップ」の利用頻度は高く、アンドロイド系のキャラクターならば扱いこなせるようになるのは必須であると言える。また、混乱と凍結は同時にかからないため、パーティにアンドロイドが複数いる時はお互いの意思の疎通ができないとトラップが無駄になる可能性がある。
上記のアンドロイド用トラップに加え、バトルモードでは「スロートラップ」「ソナートラップ」の2種類が存在し、ダメージトラップを除いた残りの2種類と合わせた4種類を、全てのキャラクターが使う事が出来る。スロートラップは通常冒険でダンジョンに設置してある物と同様で、作動すると範囲内のキャラクターを一定時間スロー状態にする。ソナートラップは作動すると音が鳴る警報機のようなもので、どこに隠れているか分からない相手の居場所を知る手がかりになる。
ゲーム途中で死んでしまうとその場にとどまるか、パイオニア2へ戻るか選択を迫られ、パイオニア2へ戻った場合はメディカルセンター(病院)に戻される。ステージ内の進行状況はそのままであるため、死んだ場所まで歩いて戻れば続けてプレイが可能となっている。ネットワークモードならば、その場にとどまり続けてテクニックやアイテムで蘇生してもらえばその場で復活する事もできる。
本作にも他のゲーム同様にBGMが流れているが、本作では一つのミュージックデータに複数のループポイントが設定されており、エネミーとエンカウント(近寄ったり、攻撃を受けたり)するとシームレスに戦闘用にアレンジされたBGMに切り替わるという特徴を持つ。BGMのシームレス変化は『時の継承者 ファンタシースターIII』の時点で存在した演出で、それを踏襲したものである。
オンラインモードのサーバー(本作ではSHIP、船と呼ぶ)に接続すると最初に降り立つ場所はパイオニア2の街中ではなく、ビジュアル・ロビーに転送される。このビジュアルロビーはバージョンによって異なるが、一度に数十人のプレイヤーが混在することができ、プレイヤーが満員だった場合は同じサーバーの別の階層に転送される。また、階層ごとにロビーのグラフィックと形状は微妙に異なる。
GC版以降、季節によってビジュアル・ロビーの装飾が変更されるようになった。装飾の内容や装飾の続く期間はバージョンや年度ごとに若干違う。また、ネットワークモードに接続している場合のみ、パイオニア2のシティ(ビジュアルロビーではなく、冒険エリアに突入するための準備用エリア)にも雪だるまや餅といった装飾がされる。
DC版では、パイオニア2のシティにオブジェが現れるだけとなっている。
一部の階層にはボールが出現してサッカーをプレイできるサッカーロビーが存在する(Ver2以降)。このサッカーロビーは厳密に決められたルールの元に稼動しているわけではなく、単に玉(プレイヤーが触れる事で蹴って転がせる)とゴール(玉を重ねるとスコアが加算されるポイント)が設置されているだけであり、どのように遊んでも基本的に自由である。玉には数種類のパターンがあり、形状によって飛距離が異なる。また、しばらく蹴らないでほうっておくか、一定時間がたつとマップの中心にリセットされる。しかしゲームシステムの仕様上、ボールやプレイヤーの位置などに同期ズレが発生しやすく、多少遊びにくい。
オンラインモードでは通常の冒険のほかに、いくつかのゲームモードが存在する。 なお、バトルモードとチャレンジモードは通常冒険とは別のオリジナルマップで行われ、マップ中で手に入れたアイテムは基本的に手元に残らない。
『ブルーバースト』において追加されたゲームモードについては、ファンタシースターオンライン ブルーバースト#ゲームモードを参照。
通常同様ゲームをプレイする基本モード。同じ難易度の同じエリアでも、オンラインでは複数人による協力プレイが前提となっているため、オフラインよりもエネミーが多少強化されている。一度に出現するエネミーの数もオフラインの同場面に比べて多い。
また、オンラインでは「複数人が同時に踏まないと作動しないスイッチ」が登場する。オフラインでも複数のスイッチを踏んでロックを解除する扉はあるが、オンラインではこれの一部が踏んでもスイッチの上から退くとスイッチが戻ってしまい、全ての箇所のスイッチを同時に踏まないといけないようになっている。
洞窟エリアと遺跡エリアでは、次のエリアに進むために必ず通る事になる扉の開閉スイッチに「複数人で同時に踏まなければならないスイッチ」があるため、一人では最後までエリアを踏破出来ない。
Ver2以降に導入された、他のプレイヤーと戦うことのできるゲームモード。現在のレベルやアイテムを持ち越して戦うモードや、全員特定のレベルまで一時的に戻って同じ敷布で戦うモードがあり、互いに当たり判定がある状態でラグオルを冒険する事もできる。
単純なバトルのほか、マップ中に落ちているお金を拾って、もっとも所持金額の多い者が勝つなど ルールも多様である。
Ver2以降に導入されたモードで、全員が限られたレベル、装備、アイテムで出された課題をクリアーするゲームモード。誰かが一度でも死ぬとその場でゲーム終了になり、また、ゲームバランスや謎解きなど、通常冒険とは大きく異なる。マップのグラフィック自体と、ダメージ後の無敵時間の長さはアルティメットのもの、エネミーは基本的にオンラインのノーマルのものとなっている。
合計クリアタイムでランクが変わり、タイムを一定以下にすると専用のレアアイテムがもらえる。また、タイム制度という特徴と各ステージごとの最速タイムも記録されるようになっていたことから、より短い時間でクリアを目指す"タイムアタック"も盛んに行われていた。後継作品である「ファンタシースターユニバース」では素の状態でこのチャレンジモードに近いルール設定がされている。
また、チャレンジモードのステージを一つでもクリアするとビジュアルロビー中、名前が表示される部分に専用の称号が表示されるようになる。この称号は到達したステージの数によって変化するため、もしも自分と同じ称号のプレイヤーがいれば、それは自分と同じステージまで到達したプレイヤーであると言える。
チャレンジモードで最高のSランクを取ると、刃の部分が金色の通常グラフィックの武器、通称「S武器」がもらえるようになっている。また、S武器は「プレイヤーが自由につけられる名前+武器名」となっており、たとえば名前を「PSO」にし、ソード系の武器(SWORD)を選んだ場合は「PSO SWORD」となる。
またGC版以降では、S武器は一部のオンラインモード用クエスト中で条件を満たせば用意された中で好きなエクストラアタックを一つだけセットすることもでき(武器の種類によってセットできるエクストラアタックは異なり、エレメントの種類によって付加条件も異なる。またアンドロイドは精神・TPに関連したエレメントをセットすることは出来ず、セットした武器を装備する事も出来ない)、ある意味で完全オリジナルの自分専用武器を作ることが可能である。 基本的には、金色のフォトンの付いた汎用武器のグラフィックなのだが、一部にはレア武器のグラフィックもある。見た目が通常クエストで入手できる武器と同じでも、職業制限が異なる場合があるので注意が必要である。
オフラインチャレンジでは、景品としてランクに応じて防具が貰える。EP1では盾、EP2ではリングとなっている。
他、計18個の受賞。
多数の著名人がPSOをプレイしていると公言していたため、その一部を記載する。
以下はその他にもプレイしていた著名ユーザー。
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"text": "もっとも、前述の通りこれらは基本的にオフラインクエストで軽く触れられるのみであり、本筋のストーリーには一切関与しない。これらの背景を知った上で登場するNPCを観察していると「なるほど」と思える程度である。 この種族設定は本作の後継作品『ファンタシースターユニバース』の差別部分を強く全面的に押し出した世界観および、『ファンタシースターZERO』以降の「絆」を前面に押し出したもののいずれとも大きく違う相違点である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "初の日本製コンシュマーネットワークRPGだが、海外展開も視野において作られており、絵柄こそ明るめであるものの、キャラクターの顔の造形やシルエットはアメリカンコミックのテイストが濃い。ただし、あるステージを境に音楽も暗く、危機感をあおり始めるようなものになり「頭や腕などを破壊されても黙々と近寄って襲ってくるロボット集団」や「倒すとなんとも形容しがたい声で消滅する敵」など、ゲーム序盤とは打って変わり軽いホラー調も盛り込まれている点もある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "これまで以下のバージョンが発売されている。オフィシャルのオンラインモードは全て終了している(オフラインモードのプレイは可能)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "本作はバージョンによってエピソード1と2の二部構成に分かれている。各種DC版とPC版にはエピソード1のみしか含まれていないが、GC・Xbox版にはエピソード1と2の両方が含まれる。また、『ブルーバースト』ではそれに加えエピソード4が追加されている。エピソード3は本作のようにアクションRPGではなく、カードゲーム形式として発売された。",
"title": "ステージ制度"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "冒険用のマップは、大小様々な部屋と通路が複数繋がって一つの大きなダンジョンとなっている。それぞれの小部屋には扉が設置されており、隣の部屋に移動するには扉のロックを解除する必要がある。ロックの解除には条件があり、基本的に扉のロックがかかっている部屋のエネミーを殲滅すれば開くようになるほか、スイッチを切り替える事で解除されるものもある。エネミー殲滅のパターンでも殲滅対象のエネミーはその部屋内にいるケースばかりとは限らず、またスイッチのパターンでも1個だけのスイッチで解除されるものもあれば、複数箇所のスイッチを全て切り替えて初めて解除となるものもある。オンラインだとさらに上に乗って踏んでいる間しか切り替えられないスイッチが登場し、複数人で同時にスイッチを操作しなければならないものもある。このため、オンラインでは一人ではクリアできないマップも多い(裏技によってクリア可能な場合もある)。",
"title": "ステージ制度"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "また、マップ中には様々なトラップや、スイッチ切り替えで解除されるレーザーフェンスが設置されていたり、真っ暗な部屋の場合は電灯をONにしないと視界がほぼゼロといった多彩なギミックが仕掛けられており、それをうまく活用してゲームを進める形になる。こうしたギミックやエネミーの攻撃をかいくぐり、マップの最深部に到達すると、次の階層(エリア)へ移動するためのワープポイントがあり、それに入ることで次階層へと進入することができる。最深部に居るボス敵を倒すことで、そのステージをクリアしたとみなされ、次のステージへ進むことができる(オフラインでは、総督との会話が必要な場合もある)。",
"title": "ステージ制度"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "これを繰り返し、それぞれのエピソードの最終ステージにいる最終ボスを倒すと、「ノーマル」→「ハード」→「ベリーハード」→「アルティメット(ドリームキャストのVer2以降)」と、さらに敵の強さがあがった高難易度のゲームモードが開放される(基本的なストーリー展開に変化はない)。オフラインモードでは上記の通りラストボスを倒す事だけが次の難易度の出現条件だが、オンラインの場合は個別に設定された制限レベルを満たしている必要があるため、オンラインになると次の難易度に挑戦できなくなる場合がある。",
"title": "ステージ制度"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "オフラインで一度クリアしたステージとその次のステージはゲームを終了してもまたプレイできるほか、オンラインでも行けるステージは前述の通りである。このため、オンラインしかプレイせずに育成したキャラでは、高難易度で部屋を作っても最初のステージしかプレイできない。それでも順番にクリアしていけば次のステージに行けるが、オフラインでクリアしない限りリセットされる。また、オフラインで遺跡エリアにいくためには、それ以前の各々のステージのエリア2のどこかにあるモニュメントのスイッチを全て押さねばならない。オフラインクエストに関しては、オフラインでの進行度に加え、それまでのオフラインクエストのクリア状況によって、プレイ可能なクエストが変わる。但し、ダウンロードクエスト、オンラインクエストに関しては、オフラインの進行度に関係なく、全てのエリアをプレイできる。",
"title": "ステージ制度"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "人口増加と環境破壊により母星「コーラル」は衰退し、人類は外宇宙へ移住する「パイオニア計画」を敢行。 長年の調査により移住可能な惑星「ラグオル」を発見、ただちに本格的移住の準備をすべく、先行艦パイオニア1が旅立つ。",
"title": "ストーリーとステージ構成"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "数年後、一般移民船「パイオニア2」がラグオルの衛星軌道上に到着し、パイオニア1(セントラルドーム)との通信回線を開こうとした瞬間、ドームを中心に広範囲を被い尽くす謎の大爆発が発生し地表との通信は途絶えた。",
"title": "ストーリーとステージ構成"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "エピソード1に登場するステージは初心者〜中級者向けを意識した難易度調整になっており、一人で冒険したとしても、比較的テンポよくゲームを進行させることができる。 しかしこれは単に難易度がマイルドな仕上がりになっているわけではなく、絶妙なゲームバランス調節による物であり、上級者でも存分に楽しむことが可能である。",
"title": "ストーリーとステージ構成"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "各種家庭用ゲーム機版の本作ではキーボード入力による日本語変換は独自の物(Xbox版はモバイルWnnを採用している)を用意しており、「なか」と入力して変換すると「中裕司」「社長」に変換できるといったジョークも組み込まれている。この独自辞書には変換ミスも多く、有名なものではゲームに登場するキャラクタ\"リコ\"のニックネーム「赤い輪のリコ」を最後まで無変換で入力し 最後に変換すると「赤岩紀子」と表示されるものなどがある。",
"title": "コミュニケーション"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "最初に発売されたドリームキャスト版はキーボードが別売りのオプション(ドリームキャストにはPS2のようにUSB端子が付属しておらず、独自規格のコネクタしかなかった)だったため、プレイヤー間でコミュニケーションをいかにして行うかが開発時に問題となっていたようである。画面にキーボードを表示して文字をカーソルで選択する「ソフトキーボード」も用意されているが、このゲームではそれにとどまらず、以下のキーボードを必要としないコミュニケーション手段が用意されている。",
"title": "コミュニケーション"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "画面で必要な文型と単語を選択することで文章を構成することができる。この時に表示される定型文は現在の状況を多少反映しており、他のプレイヤーが最後に使ったワードセレクトの内容などによってトップに来る定型文が変わる事がある。できあがる文章は機械的でぎこちなく、独特である。",
"title": "コミュニケーション"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "例:(助けてくれ、死にたかねえよ>みんな)(ツインブランド+99欲しい>みんな)等",
"title": "コミュニケーション"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "本作では発売された地域に関係なく表示言語を「日本語」「英語」「フランス語」「スペイン語」「ドイツ語」にそれぞれ変更することができ、ゲーム中のあらゆる表記(キャラクタの台詞やアイテム名など)が設定した言語のものになり、外国のゲームをプレイしているような雰囲気を味わう事もできる。ワードセレクトで作った定型文もこの設定によって自動的に翻訳されて表示されるので、簡易ではあるが 異国のプレイヤーとのコミュニケーションを行うことができた。(Xbox版、BB以外)。",
"title": "コミュニケーション"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "外形(丸や四角)に線や点、吹き出しのマークや効果音などを組み合わせて表情などを作っておいて 簡単なショートカットから感情表現として表示することができる。作れる画像は顔に限らず、組み合わせの自由度が高いため、「ねそべっているドラえもん」や「月を背景に佇む猫のシルエット」など 想像力次第で様々なアートワークを作り出す事が出来、手の込んだシンボルを作る事を目標とするシンボルチャット職人と呼ばれるプレイヤーも存在した。",
"title": "コミュニケーション"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "本作は非常にシンプルな作りになっている反面、ネットワークRPGにしては奥が深いゲーム性を持つ。近年の量産型MMORPGと比べる事自体が不毛であるが、現在プレイしても その操作性や(一部を除いた)ゲームバランス、システムは水準が高く いまも名作と言われ続ける所以である。 なお、以下の説明は多くがGC版以降に基づいており、特記無い限りはDC・PC版とは異なる事が多い。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "本作が初めてリリースされたドリームキャストのボタンは4ボタン、スタートボタン+LRトリガーで、メインで使うボタンは4つの色(赤・青・緑・黄)に着色されていた。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "画面の右下にはそれと同じ配列と同じ色の\"パレット\"が表示されており、そこに\"アクション\"を振り分けて「同じ色のボタンを押す=そのアクションを起こす」といった視覚的なユーザーの誘導が行われている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この「アクションパレット」は一部を除いた3つのボタン プラス特定のキーを押しっぱなしにしているときだけ姿を出す「裏パレット」にも登録する事で 最高6個のアクションを登録する事ができる。例えば従来のRPGであれば「メニューを開いて回復薬を選択し、使う」という三重構造だったが、アクションパレットにあらかじめ回復薬を登録しておけば ボタン一つでいつでも回復アイテムを使う事ができるようになる。アイテムを使い切ってもパレットからは消去されないので、同じ回復薬を冒険中に拾えば またアイテムを登録しなおす事はない。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "しかし複数の特殊能力を使う「フォース系」のキャラクターには絶対的にボタンとパレット数が足りないといった問題があり、赴くステージによって いちいちパレットをカスタマイズする手間があった。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この問題は、続編のドリームキャスト版Ver.2において裏パレットを開いた状態で上パレットボタンを押してショートカットウィンドウを開くことができるようにすることで改善された。その後、最新バージョンであるWindows版「ファンタシースターオンライン ブルーバースト」ではキーボードの数字キー(設定次第ではテンキー)にアクションパレットを割り当てる事でさらに拡張されている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "本作では「ノーマルアタック」「ヘビーアタック」「エクストラアタック」の3種類攻撃方法を使い分けて戦いを進める。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "「ノーマルアタック」は命中率が高いが威力が弱く、「ヘビーアタック」は攻撃力が高い代わりに隙が大きく命中率が低い。「エクストラアタック」は後述するエレメントの発動に使い、隙が大きく命中率は非常に低い。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "通常攻撃はタイミングよくボタンを押すと最高3連続攻撃を出す事ができ、段階を踏むごとに命中率に補正がかかるようになっている。基本的に初段はノーマルアタックで牽制(けんせい)し、さらにノーマルアタックに繋げるかヘビーアタックに繋げる事になる。もちろん初めからいきなりヘビーアタックやエクストラアタックで攻撃を仕掛けても良いが、攻撃を外してしまうと反撃を受けるリスクがあるためギャンブル的な戦いになってしまう。堅実に戦うのなら初段はノーマルアタックが基本となる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、武器によって攻撃速度や回数が異なり、種類によっては同じタイミングでボタンを押しても敵に割り込まれたりするため、一種類の武器に固執して戦うのではなく、相手や状況によって武器を素早く切り替えて戦うのが武器戦闘の基本である。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "テクニックとは他のゲームでいう「魔法」にあたる能力で テクニックポイントを消費して発動する。これらを得意とするのはニューマン系の種族である。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "トラップはDC版Ver2では難易度アルティメットでのみ、それ以降のGC版・Xbox版では全ての難易度において、アンドロイド系のキャラクターだけが使えるようになった特殊攻撃で、Ver1には存在しない。\"テクニックが使えない代わり\"の機能である。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "トラップには「ダメージトラップ」「フリーズトラップ」「コンフューズトラップ」の3種類があり、一度の冒険で使える個数には限りがあるが 冒険途中にある回復ポイントに立ち寄るか 一度 街に戻ってメディカルセンターで回復すれば最大値までチャージされる。また、自分のレベルが上がれば、トラップを持てる最大値があがって行く。これらは設置するとプレイヤーキャラクターの頭上に現れる。起爆反応後一定時間が経つか 自分、もしくは仲間がそのトラップを破壊すれば効果を発動させる事ができる。EXアタックやテクニックと違い、効果は100%発動するので重宝する(ただし、キャラクタ特性によって効果の無い相手もいる)。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "これとは別にダンジョンに最初から設置してあるものも存在し、こちらは反応後時間経過で起爆した場合は敵味方関係なく効果を及ぼすが、攻撃して破壊した場合には誰にも影響を及ぼさない。また至近距離に近づくまで隠れて目視できないようになっている。これを遠距離から見破るにはトラップを見破る効果を持ったアイテムを使用するか、そういう効果を持った装備品を身につけるかする必要がある。目視出来る状態にならなければトラップに攻撃して破壊・除去する事も出来ない。 なお、アンドロイドにはその機能が標準搭載されているため、特に何もしなくても隠されているトラップを見破る事が出来る。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "トラップとは名ばかりで、ゲームのシステム上、乱戦状態で相手の目の前に置く→即自分で攻撃して発動させる、というのが基本的な使い方である。特に高難易度のステージにおける「フリーズトラップ」と「コンフューズトラップ」の利用頻度は高く、アンドロイド系のキャラクターならば扱いこなせるようになるのは必須であると言える。また、混乱と凍結は同時にかからないため、パーティにアンドロイドが複数いる時はお互いの意思の疎通ができないとトラップが無駄になる可能性がある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "上記のアンドロイド用トラップに加え、バトルモードでは「スロートラップ」「ソナートラップ」の2種類が存在し、ダメージトラップを除いた残りの2種類と合わせた4種類を、全てのキャラクターが使う事が出来る。スロートラップは通常冒険でダンジョンに設置してある物と同様で、作動すると範囲内のキャラクターを一定時間スロー状態にする。ソナートラップは作動すると音が鳴る警報機のようなもので、どこに隠れているか分からない相手の居場所を知る手がかりになる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ゲーム途中で死んでしまうとその場にとどまるか、パイオニア2へ戻るか選択を迫られ、パイオニア2へ戻った場合はメディカルセンター(病院)に戻される。ステージ内の進行状況はそのままであるため、死んだ場所まで歩いて戻れば続けてプレイが可能となっている。ネットワークモードならば、その場にとどまり続けてテクニックやアイテムで蘇生してもらえばその場で復活する事もできる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "本作にも他のゲーム同様にBGMが流れているが、本作では一つのミュージックデータに複数のループポイントが設定されており、エネミーとエンカウント(近寄ったり、攻撃を受けたり)するとシームレスに戦闘用にアレンジされたBGMに切り替わるという特徴を持つ。BGMのシームレス変化は『時の継承者 ファンタシースターIII』の時点で存在した演出で、それを踏襲したものである。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "オンラインモードのサーバー(本作ではSHIP、船と呼ぶ)に接続すると最初に降り立つ場所はパイオニア2の街中ではなく、ビジュアル・ロビーに転送される。このビジュアルロビーはバージョンによって異なるが、一度に数十人のプレイヤーが混在することができ、プレイヤーが満員だった場合は同じサーバーの別の階層に転送される。また、階層ごとにロビーのグラフィックと形状は微妙に異なる。",
"title": "ビジュアルロビー"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "GC版以降、季節によってビジュアル・ロビーの装飾が変更されるようになった。装飾の内容や装飾の続く期間はバージョンや年度ごとに若干違う。また、ネットワークモードに接続している場合のみ、パイオニア2のシティ(ビジュアルロビーではなく、冒険エリアに突入するための準備用エリア)にも雪だるまや餅といった装飾がされる。",
"title": "ビジュアルロビー"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "DC版では、パイオニア2のシティにオブジェが現れるだけとなっている。",
"title": "ビジュアルロビー"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "一部の階層にはボールが出現してサッカーをプレイできるサッカーロビーが存在する(Ver2以降)。このサッカーロビーは厳密に決められたルールの元に稼動しているわけではなく、単に玉(プレイヤーが触れる事で蹴って転がせる)とゴール(玉を重ねるとスコアが加算されるポイント)が設置されているだけであり、どのように遊んでも基本的に自由である。玉には数種類のパターンがあり、形状によって飛距離が異なる。また、しばらく蹴らないでほうっておくか、一定時間がたつとマップの中心にリセットされる。しかしゲームシステムの仕様上、ボールやプレイヤーの位置などに同期ズレが発生しやすく、多少遊びにくい。",
"title": "ビジュアルロビー"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "オンラインモードでは通常の冒険のほかに、いくつかのゲームモードが存在する。 なお、バトルモードとチャレンジモードは通常冒険とは別のオリジナルマップで行われ、マップ中で手に入れたアイテムは基本的に手元に残らない。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "『ブルーバースト』において追加されたゲームモードについては、ファンタシースターオンライン ブルーバースト#ゲームモードを参照。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "通常同様ゲームをプレイする基本モード。同じ難易度の同じエリアでも、オンラインでは複数人による協力プレイが前提となっているため、オフラインよりもエネミーが多少強化されている。一度に出現するエネミーの数もオフラインの同場面に比べて多い。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "また、オンラインでは「複数人が同時に踏まないと作動しないスイッチ」が登場する。オフラインでも複数のスイッチを踏んでロックを解除する扉はあるが、オンラインではこれの一部が踏んでもスイッチの上から退くとスイッチが戻ってしまい、全ての箇所のスイッチを同時に踏まないといけないようになっている。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "洞窟エリアと遺跡エリアでは、次のエリアに進むために必ず通る事になる扉の開閉スイッチに「複数人で同時に踏まなければならないスイッチ」があるため、一人では最後までエリアを踏破出来ない。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "Ver2以降に導入された、他のプレイヤーと戦うことのできるゲームモード。現在のレベルやアイテムを持ち越して戦うモードや、全員特定のレベルまで一時的に戻って同じ敷布で戦うモードがあり、互いに当たり判定がある状態でラグオルを冒険する事もできる。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "単純なバトルのほか、マップ中に落ちているお金を拾って、もっとも所持金額の多い者が勝つなど ルールも多様である。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "Ver2以降に導入されたモードで、全員が限られたレベル、装備、アイテムで出された課題をクリアーするゲームモード。誰かが一度でも死ぬとその場でゲーム終了になり、また、ゲームバランスや謎解きなど、通常冒険とは大きく異なる。マップのグラフィック自体と、ダメージ後の無敵時間の長さはアルティメットのもの、エネミーは基本的にオンラインのノーマルのものとなっている。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "合計クリアタイムでランクが変わり、タイムを一定以下にすると専用のレアアイテムがもらえる。また、タイム制度という特徴と各ステージごとの最速タイムも記録されるようになっていたことから、より短い時間でクリアを目指す\"タイムアタック\"も盛んに行われていた。後継作品である「ファンタシースターユニバース」では素の状態でこのチャレンジモードに近いルール設定がされている。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また、チャレンジモードのステージを一つでもクリアするとビジュアルロビー中、名前が表示される部分に専用の称号が表示されるようになる。この称号は到達したステージの数によって変化するため、もしも自分と同じ称号のプレイヤーがいれば、それは自分と同じステージまで到達したプレイヤーであると言える。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "チャレンジモードで最高のSランクを取ると、刃の部分が金色の通常グラフィックの武器、通称「S武器」がもらえるようになっている。また、S武器は「プレイヤーが自由につけられる名前+武器名」となっており、たとえば名前を「PSO」にし、ソード系の武器(SWORD)を選んだ場合は「PSO SWORD」となる。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "またGC版以降では、S武器は一部のオンラインモード用クエスト中で条件を満たせば用意された中で好きなエクストラアタックを一つだけセットすることもでき(武器の種類によってセットできるエクストラアタックは異なり、エレメントの種類によって付加条件も異なる。またアンドロイドは精神・TPに関連したエレメントをセットすることは出来ず、セットした武器を装備する事も出来ない)、ある意味で完全オリジナルの自分専用武器を作ることが可能である。 基本的には、金色のフォトンの付いた汎用武器のグラフィックなのだが、一部にはレア武器のグラフィックもある。見た目が通常クエストで入手できる武器と同じでも、職業制限が異なる場合があるので注意が必要である。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "オフラインチャレンジでは、景品としてランクに応じて防具が貰える。EP1では盾、EP2ではリングとなっている。",
"title": "ゲームモード"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "他、計18個の受賞。",
"title": "受賞歴"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "多数の著名人がPSOをプレイしていると公言していたため、その一部を記載する。",
"title": "関連する人物"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "以下はその他にもプレイしていた著名ユーザー。",
"title": "関連する人物"
}
] |
『ファンタシースターオンライン』は、セガが運営していたオンラインゲーム。略称は「PSO」。開発はソニックチーム。 2000年12月21日、ドリームキャスト用ソフトとして初登場した。日本で初めて成功した家庭用ゲーム機用オンラインゲームと言える作品で、第5回日本ゲーム大賞を受賞した。後にバグの修正や難易度・レアアイテムなどが追加変更された『Ver.2』や、ドリームキャスト生産終了以降はプラットフォームを変えてバージョンアップ版が多数発売された。 ロールプレイングゲーム「ファンタシースターシリーズ」の一つであるが、ストーリー内容については具体的に過去作との繋がりは薄いため、プレイしていなくても問題は無いように配慮されている。 2010年12月27日に、Windows版をはじめとする一連の『PSO』シリーズは全ての(オフィシャル)オンラインモードサービスが終了した。 なお、『ファンタシースターオンライン2』のサービス開始以降は『PSO』以降のファンタシースターシリーズ全作が「PSOシリーズ」と呼称されることもある。本項では、狭義のPSOシリーズについて記述する。
|
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2017年1月
| 参照方法 = 2017年1月
| 脚注の不足 = 2017年1月
| 更新 = 2017年1月
| 大言壮語 = 2017年1月
| 独自研究 = 2017年1月
| Wikify = 2017年1月
| 内容過剰 = 2017年1月
}}
{{コンピュータゲーム
| Title = ファンタシースターオンライン<br />ファンタシースターオンライン Ver.2
| image = <!-- 画像ファイル名(著作権に注意) -->
| Genre = ネットワークRPG
| Plat = [[ドリームキャスト]]
| Dev = [[ソニックチーム]]
| Pub = [[セガ]]
| distributor = <!-- 販売元 -->
| producer = <!-- 担当プロデューサー -->
| director = <!-- 担当ディレクター -->
| designer = <!-- 担当ゲームデザイナー -->
| writer = <!-- シナリオ担当スタッフ -->
| programmer = <!-- 担当プログラマー -->
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| artist = <!-- 美術関係の主なスタッフ -->
| license = <!-- ソフトウェアライセンス(無料配布ゲームの場合のみ) -->
| series = ファンタシースターシリーズ
| Ver =
| Play = <!-- プレイ人数 -->
| Media = <!-- ソフト媒体 -->
| Date = 2000年12月21日
| latest release version = 2
| latest release date = 2001年6月7日
| latest preview version = <!-- 最新評価版 -->
| latest preview date = <!-- 最新評価版リリース日 -->
| Rating = {{ESRB-T}}、ELSPA:11+、aDeSe:+13
| ContentsIcon = <!-- コンテンツアイコン -->
| Download content = <!-- ダウンロードコンテンツ -->
| Device = <!-- 使用可能デバイス -->
| Spec = <!-- 必要環境(PCゲームの場合のみ) -->
| Engine = <!-- 使用ゲームエンジン(PCゲームの場合のみ) -->
| aspect ratio = <!-- 画面のアスペクト比 -->
| resolution = <!-- 画面の解像度 -->
| Sale = 185,364本<ref name="売上">『[[週刊ファミ通]]』2018年12月6日号、[[KADOKAWA]]、2018年、45頁。</ref><br />167,557本 (Ver.2)<ref name="売上" />
| etc = <!-- その他の情報 -->
}}
『'''ファンタシースターオンライン'''』(Phantasy Star Online)は、[[セガ]]が運営していた[[オンラインゲーム]]。略称は「PSO」。開発は[[ソニックチーム]]。
[[2000年]][[12月21日]]、[[ドリームキャスト]]用ソフトとして初登場した。日本で初めて成功した家庭用[[ゲーム機]]用オンラインゲームと言える作品で、第5回[[日本ゲーム大賞]]を受賞した。後にバグの修正や難易度・レアアイテムなどが追加変更された『Ver.2』や、ドリームキャスト生産終了以降は[[ゲーム機|プラットフォーム]]を変えてバージョンアップ版が多数発売された。
[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]「[[ファンタシースターシリーズ]]」の一つであるが、ストーリー内容については具体的に過去作との繋がりは薄いため、プレイしていなくても問題は無いように配慮されている。
[[2010年]][[12月27日]]に、Windows版をはじめとする一連の『PSO』シリーズは全ての(オフィシャル)オンラインモードサービスが終了した。
なお、『[[ファンタシースターオンライン2]]』のサービス開始以降は『PSO』以降のファンタシースターシリーズ全作が「PSOシリーズ」と呼称されることもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://pso2.jp/players/news/?id=7579 |title=お知らせ | 『ファンタシースターオンライン2』プレイヤーズサイト |publisher=[[SEGA]] |accessdate=2017-01-17 }}</ref>。本項では、狭義のPSOシリーズについて記述する。
== 概要 ==
本作は後述の『[[ファンタシースターオンライン ブルーバースト]]』(以下、ブルーバースト)を除いて、基本的に「ネットワーク対応RPG」であり、オンラインプレイ専用ではなく、ゲームのプレイには必ずしもインターネットの接続は必要ない。『ブルーバースト』以外のタイトルにはシングルプレイ用のオフラインモードが搭載されている。
オンラインモードは[[MMORPG|大規模な世界を多人数で共有するゲーム]]ではなく、比較的小さな空間を[[MORPG|最大4人の比較的少人数で冒険する]]ゲームである。一時期は海外のユーザーとも共にプレイできるサーバーも存在した。ドリームキャスト時代は最盛期で同時接続者数2万6000人(国内)、登録者数30万人(国内外)だったといわれている。
当時としては珍しくタイトルに「オンライン」が付いていたため、内容をよく知らないユーザーやオンライン環境が整っていないユーザーに敬遠される傾向があった。しかし、ネットワーク環境が本格的に整備される以前に公開されたタイトルという事もあり、オフラインモードも充実しており、「オンライン通信で協力プレイもできるアクションRPG」という表現が当てはまる作品といえる。これは、近年のオンライン対応ゲームソフトに見受けられる、オフラインモードが存在していると明記されていてもネットワークに接続してプレイしないと本格的に楽しめないのとは対称的である。
アクションゲーム要素の強さもあり、比較的短いプレイ時間でも楽しめるボリューム内容やゲーム構成であるが、一方で容量の問題からストーリーに関する表現はかなり淡白な作りになっている。特に普通のロールプレイングゲームと違い、街は最低限の機能をもったものがひとつだけしかない。後のGC版、Xbox版に追加された新マップの拡張に伴い街が1つ追加されているが、機能的にはほぼ同一である。
ネットワーク接続することで追加クエストをダウンロードが可能となるなど拡張性を意識した作りだったが、追加されたシナリオのバリエーションとクオリティはあまり高い物であるとは言いがたく、特定の地点まで行ってアイテムを取ってくるといったお使いクエストが大半を占める。「[[ドラゴンクエストシリーズ]]」のような直接的な物語性を重視するプレイヤーよりも、『[[ウィザードリィ]]』『[[不思議のダンジョン]]』といった黙々とレベルを上げたり、アイテム探索を行うことが好きなプレイヤー寄りの内容といえる。また、時間の概念として現地時間ではなく[[スウォッチ・インターネットタイム|インターネットタイム]]を導入しており、インターネットタイムによって一部の武器の攻撃力が可変するといったギミックが搭載されていたが、いわゆるマップの天候や昼夜が変わるといった仕様は盛り込まれていない。
セーブデータは、ゲーム機本体やメモリーカードなどに保管される[[ローカル]]保存形式(『ブルーバースト』より前のバージョン)であったが、そのため[[チート|セーブデータの改造による不正行為]]が非常に多かった。
なお本項目では、注記が無い限り基本的に「ドリームキャスト版Ver1」「ドリームキャスト版Ver2」「PC版Ver1(DC版Ver2同等)」について記述されている。また、続編である『ファンタシースターユニバース』ではロボット系のキャラクタを「キャスト」と呼んでいるが、『PSO』の世界観に基づき本項目ではあえて「[[人造人間|アンドロイド]]」の表現を用いる。また、以降使われる「DC」はドリームキャスト、「GC」は[[ニンテンドーゲームキューブ]]を、「EP1」はドリームキャスト版Ver1・Ver2・PC版を、「EP2」はゲームキューブ版・Xbox版、そしてブルーバーストの一部仕様を指すものとする。
=== 世界観 ===
ファンタシースターオンラインの世界観は[[サイエンスフィクション]]で、特に映画「[[スター・ウォーズ・シリーズ]]」の影響を強く受けており、「[[ライトセーバー]]」のような概観の剣やエネルギーの弾丸を発射する銃などが基本の武器アイテムとして用意されている。実弾を発射する銃器や金属の刃物なども多少存在はするが、希少なレアアイテムの一部としてのみ登場する。
作品中に登場する種族はヒューマン(人間)と、その遺伝子を改造した[[エルフ]]のようなとんがった形状の耳を持つニューマン(新人類)、そして頭脳を含む全身を機械で作られたアンドロイドの3種族が一つの宇宙船「パイオニア2」に混在する形で同居している。ゲーム中ではオフラインクエストでニューマンについての種族差別やアンドロイドに対する規制について軽く触れるが、深いところまでは立ち入らない。
本作ではヒューマンが一番地位が高く、次いでニューマン、アンドロイドといった関係にあるようである。特にアンドロイドは、感情的な差別とは違って「社会的地位(のある職業)を持つ事」「人工皮膚を着用(して人間に近い外観を)すること」を禁じられており、明確に区別されている。
ヒューマンとニューマンの地位の差については、NPCキャラクターでもニューマンでありながら相当の権力を持つと思われるキャラクターが何人か存在するためそこまで大きな差が無いのだが、アンドロイドについてはせいぜい「実力が高く同業者からの信頼が厚いハンター」程度であり、権力的な立場を持っている個体は一切登場しない。それどころか、完全な自律型ではなくヒューマンの隊長などの指示によってのみ動く半自律型のロボットのようなキャラクターも多数存在しており、扱いはヒューマン・ニューマンと明らかに異なる。
もっとも、前述の通りこれらは基本的にオフラインクエストで軽く触れられるのみであり、本筋のストーリーには一切関与しない。これらの背景を知った上で登場するNPCを観察していると「なるほど」と思える程度である。
この種族設定は本作の後継作品『ファンタシースターユニバース』の差別部分を強く全面的に押し出した世界観および、『ファンタシースターZERO』以降の「絆」を前面に押し出したもののいずれとも大きく違う相違点である。
初の日本製[[コンシュマー]]ネットワークRPGだが、海外展開も視野において作られており、絵柄こそ明るめであるものの、キャラクターの顔の造形やシルエットは[[アメリカンコミック]]のテイストが濃い。ただし、あるステージを境に音楽も暗く、危機感をあおり始めるようなものになり「頭や腕などを破壊されても黙々と近寄って襲ってくるロボット集団」や「倒すとなんとも形容しがたい声で消滅する敵」など、ゲーム序盤とは打って変わり軽いホラー調も盛り込まれている点もある。
=== これまでに発売されたバージョン ===
これまで以下のバージョンが発売されている。オフィシャルのオンラインモードは全て終了している(オフラインモードのプレイは可能)。
; PHANTASY STAR ONLINE(DC)
: 2000年12月21日発売、6800円。いわゆる「無印」と呼ばれる最初期バージョン。テクニック修得は一律Lv15までで、ゲームランクはベリーハードまでしかない。また『[[ソニックアドベンチャー2]]』の体験版も同梱されていた。なお、発売時からドリームキャスト用ブロードバンドアダプタに本格的に対応を行ったゲームは本ゲームが初である。
; PHANTASY STAR ONLINE Ver2(DC)
: 2001年6月7日発売、4800円。無印のセーブデータを引き継いでプレイできる。無印とVer.2は一部の状況下を除き、一緒にオンラインモードで冒険することも可能。
: バトルモード、チャレンジモード、最高難易度のアルティメットモードが追加され、レアアイテムも増えた。その他、フォースのみテクニックをLv30まで修得できる。
; PHANTASY STAR ONLINE(Windows)
: 2001年12月20日発売、6800円。パソコン版、Ver2と同等内容だが、グラフィック面やロード時間はドリームキャスト版に比べ多少向上している。また、ドリームキャスト版とは別のサーバーで取り扱われた。後述する『BlueBurst』サービス開始に伴い2004年1月1日にネットワークモード終了。特に大規模な拡張更新などは行われなかった。
; [[ファンタシースターオンライン エピソード1&2|PHANTASY STAR ONLINE Episode1&2]](GC)
: 2002年9月12日発売、6800円。通称『EP2』。[[ゲームボーイアドバンス]]のジョイキャリーシステム対応。
: 新マップと新ストーリーの『EP2』が追加、選べる職業にヒューキャシール、レイマール、フォーマーが追加。
: また、職業別にテクニックの修得制限が分けられる。以降のシリーズは、この分別を踏襲する形で固定される。
: DC版でダウンロード配信にて提供していた一部クエストを実装。
: ハードの性能を活かしオフラインモードにおいてGC1台で画面分割による最大4人のパーティプレイが可能。
; PHANTASY STAR ONLINE Episode1&2 Ver1.1(GC)
: 2002年12月12日発売・交換開始、6800円。アイテムを無限増殖できるバグがあり、[[リコール (一般製品)|リコール]]で修正・配布されたバージョン。一部ゲームバランスの修正もあり、先に発売されたEP2のプレイヤーと同一のサーバーでプレイすることはできない。旧版のセーブデータを引き継いでプレイできる。
; PHANTASY STAR ONLINE Episode1&2(Xbox)
: 2003年1月16日発売、6800円。"[[Xbox Live|Xbox Liveスターターセット]]"同梱。オンライン・オフラインにかかわらず、Xbox Liveに会員登録しなければゲームをプレイできなかった。ボイスチャットに対応、声質を変化させる機能が搭載されている。その他は基本的にゲームキューブ版と同等だが、互いに干渉できない別サーバーで運営された。2008年3月31日(月)をもって、オンライン、オンラインサービスに関する各種BBS・みんなの広場・サポーターズリンク全てが終了した。
; [[ファンタシースターオンライン エピソード1&2 Plus|PHANTASY STAR ONLINE Episode1&2 Plus]](GC)
: 2003年11月27日発売、3980円。ゲームキューブ版Ver1.1にオフラインモード用のステージを追加した最終バージョン。
: ゲームバランス変更や新規アイテムの追加は行われておらず、ネットワークモードについてはVer1.1と同等である。
: 『EP3』を除き、現在家庭用ゲーム機として最後に発売された作品となっている(2009年5月現在)。
: 全オンラインサービスが終了した後、プレイ可能なオフラインの最終バージョン。
: GCだけの特徴、オフラインでも画面分割により最大4人まで同時にプレイできる。
: 前作同様[[ゲームボーイアドバンス]]のジョイキャリーシステムにも対応しており、前作まで全てを網羅した作品になっている。
: 生産量も少なく現在でもオークションや店頭では高値で取引されている。
: PHANTASY STAR ONLINEシリーズ完全版と位置づけられる事が多い。
; [[ファンタシースターオンライン エピソード3 カードレボリューション|PHANTASY STAR ONLINE Episode3 カードレボリューション]](GC)
: 2003年11月27日発売、6980円。アクションRPGではなく、カードゲームとしてリリースされた。
: ストーリーの時間軸はゲームキューブ版EP1&2とWindows版Blue Burst EPIVよりも後である。
; [[ファンタシースターオンライン ブルーバースト|PHANTASY STAR ONLINE Blue Burst]](Windows)
: 2004年4月9日クローズドβテスト、同年5月21日〜7月5日までオープンβテスト、7月8日正式サービス開始。無料ダウンロード(レベル20に達するかアカウント登録から15日以降もプレイする場合は別途料金が発生)の他、パッケージ版は30日利用権付きで2079円、追加利用料金が30日で1260円。
: オフラインモードは廃止されたが、オンラインでプレイする1人用という形で残っている。セーブデータはサーバーに保存されるので今までの作品と比べて[[チート]]されにくくなっている。1アカウントにつき4キャラまで作成可能。他にも、キャラ名に日本語等の全角の名前を付けることが可能になり、チームシステムの導入(これにより、以前は部屋名をチームと呼んでいたがパーティに変更となった)、数字キーによるアクションパレットの拡張、メインクエストの導入によるストーリー性の強化など、様々な機能がパワーアップしている。
:2010年12月27日をもってサービスが終了した。
; PHANTASY STAR ONLINE Blue Burst Episode4(Windows)
: 2005年2月3日発売。上記「BlueBurst」の[[拡張パック]]。パッケージ版は3990円、サントラCDと専用レアアイテム交換チケットが付属。サントラCDの付かないダウンロード販売版は当初は3000円だったが、2008年6月に1000円に値下げされた(特典レアアイテムチケットは価格改定後も継続)。30日利用権は含まれておらず、レベル20に達するかアカウント登録から15日以降もプレイする場合は別途料金が発生。
:現在この拡張パックは無料でダウンロードできるようになっており、以前にパッケージを購入したユーザーには追加で専用のレアアイテムが配布された。これ以降、新規で購入した場合は当初付属していた特典と追加特典の両方が貰えるようになっている。
: エピソード4ストーリーはエピソード2とエピソード3の間を補完するものとなっている。
:2010年12月27日をもってサービスが終了した。
== キャラクタークリエイション ==
{{main|ファンタシースターオンラインのキャラクタークリエイション}}
== ステージ制度 ==
本作はバージョンによってエピソード1と2の二部構成に分かれている。各種DC版とPC版にはエピソード1のみしか含まれていないが、GC・Xbox版にはエピソード1と2の両方が含まれる。また、『ブルーバースト』ではそれに加えエピソード4が追加されている。[[ファンタシースターオンライン エピソード3 カードレボリューション|エピソード3]]は本作のようにアクションRPGではなく、[[カードゲーム]]形式として発売された。
=== ゲームの大まかな進め方 ===
冒険用のマップは、大小様々な部屋と通路が複数繋がって一つの大きな[[ダンジョン]]となっている。それぞれの小部屋には扉が設置されており、隣の部屋に移動するには扉のロックを解除する必要がある。ロックの解除には条件があり、基本的に扉のロックがかかっている部屋のエネミーを殲滅すれば開くようになるほか、スイッチを切り替える事で解除されるものもある。エネミー殲滅のパターンでも殲滅対象のエネミーはその部屋内にいるケースばかりとは限らず、またスイッチのパターンでも1個だけのスイッチで解除されるものもあれば、複数箇所のスイッチを全て切り替えて初めて解除となるものもある。オンラインだとさらに上に乗って踏んでいる間しか切り替えられないスイッチが登場し、複数人で同時にスイッチを操作しなければならないものもある。このため、オンラインでは一人ではクリアできないマップも多い(裏技によってクリア可能な場合もある)。
また、マップ中には様々なトラップや、スイッチ切り替えで解除される[[柵|レーザーフェンス]]が設置されていたり、真っ暗な部屋の場合は電灯をONにしないと視界がほぼゼロといった多彩なギミックが仕掛けられており、それをうまく活用してゲームを進める形になる。こうしたギミックやエネミーの攻撃をかいくぐり、マップの最深部に到達すると、次の階層(エリア)へ移動するためのワープポイントがあり、それに入ることで次階層へと進入することができる。最深部に居るボス敵を倒すことで、そのステージをクリアしたとみなされ、次のステージへ進むことができる(オフラインでは、総督との会話が必要な場合もある)。
これを繰り返し、それぞれのエピソードの最終ステージにいる最終ボスを倒すと、「ノーマル」→「ハード」→「ベリーハード」→「アルティメット(ドリームキャストのVer2以降)」と、さらに敵の強さがあがった高難易度のゲームモードが開放される(基本的なストーリー展開に変化はない)。オフラインモードでは上記の通りラストボスを倒す事だけが次の難易度の出現条件だが、オンラインの場合は個別に設定された制限レベルを満たしている必要があるため、オンラインになると次の難易度に挑戦できなくなる場合がある。
オフラインで一度クリアしたステージとその次のステージはゲームを終了してもまたプレイできるほか、オンラインでも行けるステージは前述の通りである。このため、オンラインしかプレイせずに育成したキャラでは、高難易度で部屋を作っても最初のステージしかプレイできない。それでも順番にクリアしていけば次のステージに行けるが、オフラインでクリアしない限りリセットされる。また、オフラインで遺跡エリアにいくためには、それ以前の各々のステージのエリア2のどこかにあるモニュメントのスイッチを全て押さねばならない。オフラインクエストに関しては、オフラインでの進行度に加え、それまでのオフラインクエストのクリア状況によって、プレイ可能なクエストが変わる。但し、ダウンロードクエスト、オンラインクエストに関しては、オフラインの進行度に関係なく、全てのエリアをプレイできる。
== ストーリーとステージ構成 ==
=== エピソード1 ===
[[人口]]増加と環境破壊により母星「コーラル」は衰退し、人類は外宇宙へ移住する「パイオニア計画」を敢行。
長年の調査により移住可能な惑星「ラグオル」を発見、ただちに本格的移住の準備をすべく、先行艦パイオニア1が旅立つ。
数年後、一般移民船「パイオニア2」がラグオルの衛星軌道上に到着し、パイオニア1(セントラルドーム)との通信回線を開こうとした瞬間、ドームを中心に広範囲を被い尽くす謎の大爆発が発生し地表との通信は途絶えた。
エピソード1に登場するステージは初心者〜中級者向けを意識した難易度調整になっており、一人で冒険したとしても、比較的テンポよくゲームを進行させることができる。
しかしこれは単に難易度がマイルドな仕上がりになっているわけではなく、絶妙なゲームバランス調節による物であり、上級者でも存分に楽しむことが可能である。
; 森 "Forest"
:; ストーリー
:: 謎の爆発から交信を絶ったパイオニア1を捜査すべく、ハンターズとして地表に降り立つ。
:: 地表は既に[[テラフォーミング]]されており緑豊かで美しかったが、衛星軌道上からも容易に確認出来るほどの大爆発があったにも関わらず、地形も植物も一切破壊されておらず、とても静かであった。強いて言えば人工物はいくらか破損の跡がみられるものもあったが爆発によるものとは言えない程度の小規模な破損で、各種装置は殆どが問題なく稼働し続けている。
:: このような地形の影響の無さに反して人影は全く無かった。元からいなかったのではなく、異変直前まで人がいたのが突然消失したかのような数々の遺物が世界の異常を知らせている。
:: 遠くには半壊したセントラルドームが冒険者を迎え、最初の試練が彼らを襲う。
:; ステージの特徴
:: 物語上、プレイヤーが最初に降り立つステージであり、短めの構成でトレーニング的意味合いの強いステージ。あちこちにパイオニア1の遺物が残り、美しい景観とは裏腹に異様な雰囲気を醸している。
:: MAPは二面構成で、MAP1ではドーム外縁を、MAP2では雨天のなか沈黙のセントラルドームへと近づく。
:: 登場するモンスターの属性はNative(原生動物)。
:; BOSS/ドラゴン(シル・ドラゴン)
:: ドーム地下の大空洞に巣食う伝説の幻獣ドラゴンに似た巨大生物。巨体を活かした体当たりと火炎を用い攻撃してくる。
:
; 洞窟 "Cave"
:; ストーリー
:: セントラルドーム地下に発見された空洞は、さらに巨大な洞窟へと続いていた。これらの地下施設は、事前にパイオニア1より送られてきていた開拓記録に記載されていないことが判明。
:: 自然洞を元にしてはいるが、明らかに後から人の手が加えられ整備された洞窟と分かる。
:: パイオニア1の人々は此処で何をしようとしていたのか…。
:: 薄闇の中では異様な怪物たちが跋扈し、探索は危険度を増してゆく。そして彼らハンターズが最深部で見たものとは。
:; ステージの特徴
:: ここから悪質な状態異常攻撃をもつモンスターが出現し、道中には数々の罠が張り巡らされている。
:: MAP構成も三面と増え、冒険者最初の難関である。MAP1は人の手が加わった溶岩洞。MAP2は静かな地下水脈。MAP3はラグオニウム採掘所となっている。
:: 登場するモンスターの属性はA-Beast(アルタード・ビースト、変異獣)。
:; BOSS/デ・ロル・レ(ダル・ラ・リー)
:: 最深部で発見された地下水路に現れたおぞましい姿の巨大な長虫。生体弾と鋭利な触手を使い攻撃してくる。
:
; 坑道 "Mine"
:; ストーリー
:: 水路から流れ着いた先は巨大な地下の研究施設だった。今でも稼動するそれは、まるで意思を持つかのように探索隊に牙を剥く。
:: 監督する主のいなくなった廃墟では、今も狂った機械たちが新たな犠牲者を求め彷徨っていた。
:; ステージの特徴
:: MAP数は2となったが、癖のあるエネミー達がプレイヤーに襲い掛かる。MAP1は現在も稼動する工場のような施設で、MAP2にはいると、爆発の爪あとの残る廃墟の研究練となっている。
:: 登場するモンスターの属性はMachine(機械)。
:; BOSS/ボル・オプト(ボル・オプトVer2)
::地下施設を統括する巨大コンピューター。ウィルスか何者かに乗っ取られており、多数の迎撃システムを駆使してハンターズを苦しめる。
:
; 遺跡 "Ruin"
:; ストーリー
:: 伝説的なハンター・リコの軌跡を追う冒険の旅はついに終着へと至った。
:: 最深部の採掘現場で発見された遺構の扉には、道中に散見された謎の構造物が関係していた。
:: 封印を解いた彼らは、自分たちとは違う文明の存在を知ることになる。パイオニア1の人々、そしてリコはここへ来たのだろうか…。
:; ステージの特徴
:: MAPは三面構成。内部はコーラル文明とは明らかに異質のもので、調査の結果巨大な宇宙船であることが判明している。
:: そこでは生命とも無機物ともつかない深海に潜む生物のような異形の怪物が放たれていた。
:: MAP1、2は異星人の宇宙船だが、MAP3になると、何かに浸食され全体が巨大な生物の体内になっているかのように壁面が脈打ち胎動する。
:: 登場するモンスターの属性はDark(闇)。
:: 最深部では中央に巨大なコンピューターが変異したような脳を持つ構造物が立つホールがある。その先で冒険者が知る真実とは…。
:; BOSS/ダークファルス
:: 遺跡は宇宙船であると共に、この存在を封印する巨大な棺であった。
:: 辿り着いた先は青空から陽が差し、六人分の謎の墓碑と巨大なオベリスクの屹立する不思議な花園という、地下奥深くであったはずの遺跡内とは思えない空間であったが、突然一転して地獄のような世界に変貌する。
:: 前哨戦としてダーバントという怪物が大量に発生し、それらを退けると本体のダークファルスが登場する連戦である。
:: 「ファンタシースターシリーズ」における禍の根源であり、本作ではその姿を大きく変えたが、胸元には歴代シリーズにて確認されたDFの姿がある。
:: これを打倒すると仮初の肉体を脱ぎ捨て、ついにその本質を顕わにする。封印空間での最後の戦いに勝利したとき、一つの悲劇の幕が下りた。
=== エピソード2のステージ ===
{{main|ファンタシースターオンライン エピソード1&2#ステージ|ファンタシースターオンライン エピソード1&2 Plus#ステージ}}
===エピソード4のステージ===
{{main|ファンタシースターオンライン ブルーバースト#ステージ}}
== コミュニケーション ==
各種家庭用ゲーム機版の本作ではキーボード入力による日本語変換は独自の物(Xbox版はモバイルWnnを採用している)を用意しており、「なか」と入力して変換すると「[[中裕司]]」「社長」に変換できるといったジョークも組み込まれている。この独自辞書には変換ミスも多く、有名なものではゲームに登場するキャラクタ"リコ"のニックネーム「赤い輪のリコ」を最後まで無変換で入力し 最後に変換すると「赤岩紀子」と表示されるものなどがある。
最初に発売されたドリームキャスト版はキーボードが別売りのオプション(ドリームキャストには[[PlayStation 2|PS2]]のようにUSB端子が付属しておらず、独自規格のコネクタしかなかった)だったため、プレイヤー間でコミュニケーションをいかにして行うかが開発時に問題となっていたようである。画面にキーボードを表示して文字をカーソルで選択する「ソフトキーボード」も用意されているが、このゲームではそれにとどまらず、以下のキーボードを必要としないコミュニケーション手段が用意されている。
=== ワードセレクトシステム ===
画面で必要な文型と単語を選択することで文章を構成することができる。この時に表示される定型文は現在の状況を多少反映しており、他のプレイヤーが最後に使ったワードセレクトの内容などによってトップに来る定型文が変わる事がある。できあがる文章は機械的でぎこちなく、独特である。
'''例:(助けてくれ、死にたかねえよ>みんな)(ツインブランド+99欲しい>みんな)等'''
本作では発売された地域に関係なく表示言語を「日本語」「英語」「フランス語」「スペイン語」「ドイツ語」にそれぞれ変更することができ、ゲーム中のあらゆる表記(キャラクタの台詞やアイテム名など)が設定した言語のものになり、外国のゲームをプレイしているような雰囲気を味わう事もできる。ワードセレクトで作った定型文もこの設定によって自動的に翻訳されて表示されるので、簡易ではあるが 異国のプレイヤーとのコミュニケーションを行うことができた。(Xbox版、BB以外)。
=== シンボルチャット ===
外形(丸や四角)に線や点、吹き出しのマークや効果音などを組み合わせて表情などを作っておいて 簡単なショートカットから感情表現として表示することができる。作れる画像は顔に限らず、組み合わせの自由度が高いため、「ねそべっている[[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]]」や「[[月]]を背景に佇む[[ネコ|猫]]のシルエット」など 想像力次第で様々なアートワークを作り出す事が出来、手の込んだシンボルを作る事を目標とするシンボルチャット職人と呼ばれるプレイヤーも存在した。
== ゲームシステム ==
本作は非常にシンプルな作りになっている反面、ネットワークRPGにしては奥が深いゲーム性を持つ。近年の量産型MMORPGと比べる事自体が不毛であるが、現在プレイしても その操作性や(一部を除いた)ゲームバランス、システムは水準が高く いまも名作と言われ続ける所以である。
なお、以下の説明は多くがGC版以降に基づいており、特記無い限りはDC・PC版とは異なる事が多い。
=== アクションパレット ===
本作が初めてリリースされたドリームキャストのボタンは4ボタン、スタートボタン+LRトリガーで、メインで使うボタンは4つの色(赤・青・緑・黄)に着色されていた。
画面の右下にはそれと同じ配列と同じ色の"パレット"が表示されており、そこに"アクション"を振り分けて「同じ色のボタンを押す=そのアクションを起こす」といった視覚的なユーザーの誘導が行われている。
この「アクションパレット」は一部を除いた3つのボタン プラス特定のキーを押しっぱなしにしているときだけ姿を出す「裏パレット」にも登録する事で 最高6個のアクションを登録する事ができる。例えば従来のRPGであれば「メニューを開いて回復薬を選択し、使う」という三重構造だったが、アクションパレットにあらかじめ回復薬を登録しておけば ボタン一つでいつでも回復アイテムを使う事ができるようになる。アイテムを使い切ってもパレットからは消去されないので、同じ回復薬を冒険中に拾えば またアイテムを登録しなおす事はない。
しかし複数の特殊能力を使う「フォース系」のキャラクターには絶対的にボタンとパレット数が足りないといった問題があり、赴くステージによって いちいちパレットをカスタマイズする手間があった。
この問題は、続編のドリームキャスト版Ver.2において裏パレットを開いた状態で上パレットボタンを押してショートカットウィンドウを開くことができるようにすることで改善された。その後、最新バージョンであるWindows版「ファンタシースターオンライン ブルーバースト」ではキーボードの数字キー(設定次第ではテンキー)にアクションパレットを割り当てる事でさらに拡張されている。
=== 通常攻撃 ===
本作では「ノーマルアタック」「ヘビーアタック」「エクストラアタック」の3種類攻撃方法を使い分けて戦いを進める。
「ノーマルアタック」は命中率が高いが威力が弱く、「ヘビーアタック」は攻撃力が高い代わりに隙が大きく命中率が低い。「エクストラアタック」は後述するエレメントの発動に使い、隙が大きく命中率は非常に低い。
通常攻撃はタイミングよくボタンを押すと最高3連続攻撃を出す事ができ、段階を踏むごとに命中率に補正がかかるようになっている。基本的に初段はノーマルアタックで牽制(けんせい)し、さらにノーマルアタックに繋げるかヘビーアタックに繋げる事になる。もちろん初めからいきなりヘビーアタックやエクストラアタックで攻撃を仕掛けても良いが、攻撃を外してしまうと反撃を受けるリスクがあるためギャンブル的な戦いになってしまう。堅実に戦うのなら初段はノーマルアタックが基本となる。
また、武器によって攻撃速度や回数が異なり、種類によっては同じタイミングでボタンを押しても敵に割り込まれたりするため、一種類の武器に固執して戦うのではなく、相手や状況によって武器を素早く切り替えて戦うのが武器戦闘の基本である。
=== テクニック攻撃 ===
テクニックとは他のゲームでいう「魔法」にあたる能力で テクニックポイントを消費して発動する。これらを得意とするのはニューマン系の種族である。
{{main|ファンタシースターオンラインのテクニック一覧}}
=== トラップ攻撃 ===
トラップはDC版Ver2では難易度アルティメットでのみ、それ以降のGC版・Xbox版では全ての難易度において、アンドロイド系のキャラクターだけが使えるようになった特殊攻撃で、Ver1には存在しない。"テクニックが使えない代わり"の機能である。
トラップには「ダメージトラップ」「フリーズトラップ」「コンフューズトラップ」の3種類があり、一度の冒険で使える個数には限りがあるが 冒険途中にある回復ポイントに立ち寄るか 一度 街に戻ってメディカルセンターで回復すれば最大値までチャージされる。また、自分のレベルが上がれば、トラップを持てる最大値があがって行く。これらは設置するとプレイヤーキャラクターの頭上に現れる。起爆反応後一定時間が経つか 自分、もしくは仲間がそのトラップを破壊すれば効果を発動させる事ができる。EXアタックやテクニックと違い、効果は100%発動するので重宝する(ただし、キャラクタ特性によって効果の無い相手もいる)。
これとは別にダンジョンに最初から設置してあるものも存在し、こちらは反応後時間経過で起爆した場合は敵味方関係なく効果を及ぼすが、攻撃して破壊した場合には誰にも影響を及ぼさない。また至近距離に近づくまで隠れて目視できないようになっている。これを遠距離から見破るにはトラップを見破る効果を持ったアイテムを使用するか、そういう効果を持った装備品を身につけるかする必要がある。目視出来る状態にならなければトラップに攻撃して破壊・除去する事も出来ない。
なお、アンドロイドにはその機能が標準搭載されているため、特に何もしなくても隠されているトラップを見破る事が出来る。
トラップとは名ばかりで、ゲームのシステム上、乱戦状態で相手の目の前に置く→即自分で攻撃して発動させる、というのが基本的な使い方である。特に高難易度のステージにおける「フリーズトラップ」と「コンフューズトラップ」の利用頻度は高く、アンドロイド系のキャラクターならば扱いこなせるようになるのは必須であると言える。また、混乱と凍結は同時にかからないため、パーティにアンドロイドが複数いる時はお互いの意思の疎通ができないとトラップが無駄になる可能性がある。
上記のアンドロイド用トラップに加え、バトルモードでは「スロートラップ」「ソナートラップ」の2種類が存在し、ダメージトラップを除いた残りの2種類と合わせた4種類を、全てのキャラクターが使う事が出来る。スロートラップは通常冒険でダンジョンに設置してある物と同様で、作動すると範囲内のキャラクターを一定時間スロー状態にする。ソナートラップは作動すると音が鳴る警報機のようなもので、どこに隠れているか分からない相手の居場所を知る手がかりになる。
=== 状態異常 ===
; 毒
: 何らかの有害な物質を体の中に送り込まれた状態。徐々にHPが減っていく。ただし、減少は1で止まり、毒によって死亡はしない。アンティドート、ソルアトマイザー、アンティで治療可能。アンドロイド系の種族には無効。麻痺と同時にはかからず、後からかかった状態異常が優先する。
; 感電
: 痺れて移動とアイテム使用しか出来なくなる。ソルアトマイザー、アンティ(GC版以降はLv2以上)で治療可能の他、時間経過でも治る。アイテムが無いと自力治療が出来ないが、放っておけばすぐ治るので、余程切羽詰った戦闘中になったりしない限り、さほど支障は無い。DC版ではアンドロイド系のみなった状態異常だが、以降のバージョンで他の種族もなるように変更された。エネミーの場合はmachine属性のもののみに有効で、一定時間一切の行動が不能になる。
; 麻痺
: 体が思うように動かない状態。麻痺毒や超音波、強烈な打撃など要因は様々であるが、状態異常としてはどれも同じで、移動とアイテムの使用しか出来なくなる。アンティパラライズ、ソルアトマイザー、アンティ(GC版以降はLv3以上)で治療可能。感電と異なり時間経過では回復しない。性質上、ソロプレイ時にこれにかかり、回復アイテムを持っていない場合シティまで戻る(テレパイプも無い場合歩いて引き返す羽目に)事になる地味に嫌らしい状態異常。なお、麻痺にかかる寸前にアンティを詠唱し、かかった直後に効果が発動するようにすれば、自力で治療することは可能。アンドロイド系の種族には無効。毒とは同時にかからないのでポイゾナスリリーから麻痺を受けた場合、わざと毒を食らってアンティをかける手もある。エネミーにかかった場合は凍結と同じ効果で一定時間行動不能になるが、時間経過で回復してしまう。ボスおよびマシン属性、浮遊中のエネミーにはかからない。
; 混乱
: 目が回って真っ直ぐ歩けなくなる。ソルアトマイザー、アンティLv4以上で治療可能。時間経過でも治る。武器攻撃も見当外れの方向になるが、対象の位置を中心に発動するタイプと全方位攻撃タイプのテクニックは影響を受けずに攻撃出来る。凍結と同時にはかからない。また、エネミーにかかった場合は一定時間、一番近くにいる対象を敵味方関係なく攻撃する。エネミーの攻撃力が高いアルティメットでは混乱での同士討ちを狙うだけで難所を超えられる場合もあり、重宝する。ボスエネミーにはかからない。
; スロー
: 動きが鈍くなった状態。移動や武器(素手)攻撃の動作がゆっくりになってしまう。ソルアトマイザー、アンティ(GC版以降はLv5以上)で治療可能。時間経過でも治る。アンドロイド系の職業には無効。
; シフタ
: 攻撃力が上昇した状態。厳密には状態「異常」ではないのでアンティなどで治療されてしまう事は無い(ただし、メディカルセンターでは消されてしまう)。時間経過で元に戻る。(GC版以降では、より高レベルの)ジェルンをかけられる事で上書きされて消える。(GC版以降では、より高レベルの)シフタでも上書き可能。
; デバンド
: 防御力が上昇した状態。厳密には状態「異常」ではないのでアンティなどで治療されてしまう事は無い(ただし、メディカルセンターでは消されてしまう)。時間経過で元に戻る。また、より高レベルのザルアをかけられる事で上書きされて消える。(GC版以降では、より高レベルの)デバンドもで上書き可能。シフタとデバンドはセットでかける事が多いため、シフタとデバンドをひとまとめにして「シフデバ」と呼ぶ場合がある。
; ジェルン
: 攻撃力が低下した状態。ソルアトマイザー、アンティ(GC版以降ではLv6以上)、(GC版以降ではより高レベルの)シフタによる上書きで治療可能。時間経過でも治る。
; ザルア
: 防御力が低下した状態。ソルアトマイザー、アンティ(GC版以降ではLv6以上)、(GC版以降ではより高レベルの)デバンドによる上書きで治療可能。時間経過でも治る。プレイヤーに対する異常としてかかる事は少ないが、プレイヤーがエネミーに対してかける場合はジェルンとザルアがセットである事が多いので、ひとまとめに「ジェルザル」「ジェザル」などと呼ばれる場合がある。
; 凍結
: 一切の行動が出来なくなる。アンティ(GC版以降ではLv7以上)でのみ治療可能、一定時間が経過しても回復するが、コントローラーのアナログキーを振ること(所謂レバガチャ。4往復)を行うと即座に回復できる。この状態で攻撃を受けた場合、ダウンせず、自動防御も起きず、ダメージ後に無敵時間も発生しないため、複数のエネミーに取り囲まれた場合、一気に倒されてしまう可能性がある。混乱と同時にはかからない。また、ボスエネミー、ナノノドラゴおよびエピソード4で登場するドルフォン、ズーなど一部エネミーにはかからない。
; 拘束
: グラスアサッシンの吐く糸に絡みつかれた状態で、移動、ショートカットウィンドウからのアイテム使用、武器変更、攻撃/テクニック以外での方向変更ができなくなる。他の状態異常と異なり、それを示すアイコンは表示されない。時間経過で治る。
; テクニック使用不可
: 全てのテクニックが使用不可となる。他の状態異常と異なり、それを示すアイコンは表示されない。クエスト内の特定の状態や、特定の攻撃を受けた場合にのみに起きる。その状態を抜け出すか、固有の回復ポイントに到達した時に治る。
=== デスペナルティ ===
ゲーム途中で死んでしまうとその場にとどまるか、パイオニア2へ戻るか選択を迫られ、パイオニア2へ戻った場合はメディカルセンター([[病院]])に戻される。ステージ内の進行状況はそのままであるため、死んだ場所まで歩いて戻れば続けてプレイが可能となっている。ネットワークモードならば、その場にとどまり続けてテクニックやアイテムで蘇生してもらえばその場で復活する事もできる。
; ドリームキャスト版Ver1・Ver2・PC版
: 「装備していた武器をその場に落とす」「メセタを全額その場に落とす」
: メセタについては容易く大量に手に入っていたため、例え手持ちの全額を失っても大した痛手ではなかったが、武器を落とすという事は他プレイヤーが即座に拾える状態になるという事であるため、落とすのを狙ってわざと足を引っ張り、死んだところで武器を回収してゲームを終了させ、持ち逃げを図る者が散見され、またバグを利用した技によって直接他プレイヤーを攻撃し文字通りの強奪をする者まで現れたため、後に修正される事になる。
; GC版(Ver1.0、Ver1.1、Plus) Xbox版
: {{main|ファンタシースターオンライン エピソード1&2#デスペナルティー}}
; Blue Burst
: {{main|ファンタシースターオンライン ブルーバースト#デスペナルティー}}
=== BGM ===
本作にも他のゲーム同様にBGMが流れているが、本作では一つのミュージックデータに複数のループポイントが設定されており、エネミーとエンカウント(近寄ったり、攻撃を受けたり)するとシームレスに戦闘用にアレンジされたBGMに切り替わるという特徴を持つ。BGMのシームレス変化は『[[時の継承者 ファンタシースターIII]]』の時点で存在した演出で、それを踏襲したものである。
== ビジュアルロビー ==
オンラインモードのサーバー(本作ではSHIP、船と呼ぶ)に接続すると最初に降り立つ場所はパイオニア2の街中ではなく、ビジュアル・ロビーに転送される。このビジュアルロビーはバージョンによって異なるが、一度に数十人のプレイヤーが混在することができ、プレイヤーが満員だった場合は同じサーバーの別の階層に転送される。また、階層ごとにロビーのグラフィックと形状は微妙に異なる。
=== 季節別ロビー ===
GC版以降、季節によってビジュアル・ロビーの装飾が変更されるようになった。装飾の内容や装飾の続く期間はバージョンや年度ごとに若干違う。また、ネットワークモードに接続している場合のみ、パイオニア2のシティ(ビジュアルロビーではなく、冒険エリアに突入するための準備用エリア)にも[[雪だるま]]や[[餅]]といった装飾がされる。
* お正月 - 平均1月1日〜 正月飾りがされる。
* バレンタイン - 平均1月29日〜 バレンタインの装飾がされる。
* ホワイトデー - 平均3月8日〜 ホワイトデーの装飾がされる。
* 春装飾 - 平均3月22日〜 ビジュアルロビーに桜の木が植えられ、花びらが舞う。
* 紅白装飾 - 平均3月29日〜 桜に加え、紅白の垂れ幕が下がる。
* イースター - 平均4月5日〜 聖誕祭仕様。[[イースターエッグ|色つき卵]]が装飾される。
* ウェディング - 平均6月7日〜 ロビーの音楽が変わり、装飾がされる。
* 紅葉 - 平均9月27日〜 ビジュアルロビーが紅葉装飾される。
* ハロウィン - 平均10月11日〜 ハロウィン装飾がされ、音楽が変わる。
* クリスマス - 平均12月1日〜 クリスマスツリーや雪だるまが装飾され、音楽が変わる。
DC版では、パイオニア2のシティにオブジェが現れるだけとなっている。
=== ゴーゴーボール ===
一部の階層にはボールが出現してサッカーをプレイできるサッカーロビーが存在する(Ver2以降)。このサッカーロビーは厳密に決められたルールの元に稼動しているわけではなく、単に玉(プレイヤーが触れる事で蹴って転がせる)とゴール(玉を重ねるとスコアが加算されるポイント)が設置されているだけであり、どのように遊んでも基本的に自由である。玉には数種類のパターンがあり、形状によって飛距離が異なる。また、しばらく蹴らないでほうっておくか、一定時間がたつとマップの中心にリセットされる。しかしゲームシステムの仕様上、ボールやプレイヤーの位置などに同期ズレが発生しやすく、多少遊びにくい。
== 武器の種類 ==
{{main|ファンタシースターオンラインのアイテム一覧}}
=== 防具とスロット ===
{{main|ファンタシースターオンラインのアイテム一覧#防具とスロット}}
== 属性とエレメント ==
{{main|ファンタシースターオンラインのアイテム一覧#属性とエレメント}}
== テクニック ==
{{main|ファンタシースターオンラインのテクニック一覧}}
== ゲームモード ==
オンラインモードでは通常の冒険のほかに、いくつかのゲームモードが存在する。
なお、バトルモードとチャレンジモードは通常冒険とは別のオリジナルマップで行われ、マップ中で手に入れたアイテムは基本的に手元に残らない。
『ブルーバースト』において追加されたゲームモードについては、[[ファンタシースターオンライン ブルーバースト#ゲームモード]]を参照。
=== 通常冒険 ===
通常同様ゲームをプレイする基本モード。同じ難易度の同じエリアでも、オンラインでは複数人による協力プレイが前提となっているため、オフラインよりもエネミーが多少強化されている。一度に出現するエネミーの数もオフラインの同場面に比べて多い。
また、オンラインでは「複数人が同時に踏まないと作動しないスイッチ」が登場する。オフラインでも複数のスイッチを踏んでロックを解除する扉はあるが、オンラインではこれの一部が踏んでもスイッチの上から退くとスイッチが戻ってしまい、全ての箇所のスイッチを同時に踏まないといけないようになっている。
洞窟エリアと遺跡エリアでは、次のエリアに進むために必ず通る事になる扉の開閉スイッチに「複数人で同時に踏まなければならないスイッチ」があるため、一人では最後までエリアを踏破出来ない。
=== バトルモード ===
Ver2以降に導入された、他のプレイヤーと戦うことのできるゲームモード。現在のレベルやアイテムを持ち越して戦うモードや、全員特定のレベルまで一時的に戻って同じ敷布で戦うモードがあり、互いに当たり判定がある状態でラグオルを冒険する事もできる。
単純なバトルのほか、マップ中に落ちているお金を拾って、もっとも所持金額の多い者が勝つなど ルールも多様である。
=== チャレンジモード ===
Ver2以降に導入されたモードで、全員が限られたレベル、装備、アイテムで出された課題をクリアーするゲームモード。誰かが一度でも死ぬとその場でゲーム終了になり、また、ゲームバランスや謎解きなど、通常冒険とは大きく異なる。マップのグラフィック自体と、ダメージ後の無敵時間の長さはアルティメットのもの、エネミーは基本的にオンラインのノーマルのものとなっている。
合計クリアタイムでランクが変わり、タイムを一定以下にすると専用のレアアイテムがもらえる。また、タイム制度という特徴と各ステージごとの最速タイムも記録されるようになっていたことから、より短い時間でクリアを目指す"タイムアタック"も盛んに行われていた。後継作品である「ファンタシースターユニバース」では素の状態でこのチャレンジモードに近いルール設定がされている。
また、チャレンジモードのステージを一つでもクリアするとビジュアルロビー中、名前が表示される部分に専用の称号が表示されるようになる。この称号は到達したステージの数によって変化するため、もしも自分と同じ称号のプレイヤーがいれば、それは自分と同じステージまで到達したプレイヤーであると言える。
==== チャレンジモードで手に入るアイテム ====
チャレンジモードで最高のSランクを取ると、刃の部分が金色の通常グラフィックの武器、通称「S武器」がもらえるようになっている。また、S武器は「プレイヤーが自由につけられる名前+武器名」となっており、たとえば名前を「PSO」にし、ソード系の武器(SWORD)を選んだ場合は「PSO SWORD」となる。
またGC版以降では、S武器は一部のオンラインモード用クエスト中で条件を満たせば用意された中で好きなエクストラアタックを一つだけセットすることもでき(武器の種類によってセットできるエクストラアタックは異なり、エレメントの種類によって付加条件も異なる。またアンドロイドは精神・TPに関連したエレメントをセットすることは出来ず、セットした武器を装備する事も出来ない)、ある意味で完全オリジナルの自分専用武器を作ることが可能である。
基本的には、金色のフォトンの付いた汎用武器のグラフィックなのだが、一部にはレア武器のグラフィックもある。見た目が通常クエストで入手できる武器と同じでも、職業制限が異なる場合があるので注意が必要である。
オフラインチャレンジでは、景品としてランクに応じて防具が貰える。EP1では盾、EP2ではリングとなっている。
== 特殊防具「マグ」 ==
{{main|ファンタシースターオンラインのアイテム一覧#特殊防具「マグ」}}
== 主な登場人物 ==
{{main|ファンタシースターオンラインの登場人物}}
== エネミー ==
{{main|ファンタシースターオンラインのエネミー一覧}}
== 用語 ==
; [[フォトン]]
: 新しく発見された、非常に高いエネルギーを持つ粒子。そのままでもエネルギー源として有用であるが、収束させることで物理的な影響力を持たせる事が可能であり、結晶化させることも出来る。
: 空間に存在する未知のエネルギーをフォトンジェネレータによって1つのエネルギー粒子に変換することによって得られ、その性質上無限に近いエネルギーを得られる。本星では行き詰まりかけていたエネルギー問題を一挙に解決する画期的な新技術だったが、「エネルギーとして利用する技術」だけが先んじて発見・発展してしまったため、更なる新技術の開発で国家が競争する構図を生み出す原因ともなった。
: 最初期は特定の鉱石をフォトンジェネレータの触媒として使用していたが、次第にもっと効率が良く扱いやすいジェネレータが開発されて行き、今では鉱石を使用したフォトンジェネレータは伝統工芸として僅かに残すのみとなった。なお、ラグオルにもフォトンジェネレータの触媒に適した鉱石が存在するようである。
; パイオニア1
: 人間を未開の自然豊かな異星に移住させる「パイオニア計画」のため建造された超大規模の宇宙船とその艦隊の第1陣。先住者の可能性を考慮し軍人と武器が豊富に搭載され、また環境開発のための技術者が多数搭乗していたとされており、これらを考慮すればゲーム中ラグオル地表で豊富に手に入る武器やアイテムはパイオニア1の人々が残したものと考える事ができる。
; パイオニア2
: パイオニア1と同じく、大規模移住計画「パイオニア計画」における超大規模宇宙艦隊の第2陣。パイオニア1によってある程度以上開発され安全が確保された星に向かうと言う前提であったため、移住する一般民間人が多数搭乗している一方で軍人の搭乗者数は少なくなっており、有事の際にはすぐに戦力不足に陥った。
; <span id="bb">ブルーバースト</span>
: エピソード1のパイオニア2着陸直前に発生した大爆発に対して、後に名づけられた。衛星軌道上からでも確認できるほどの大爆発だったにも関わらず、地形や建造物に一切の被害が見られない事から、その詳細は一切不明。オープニングムービーでは爆発の瞬間、半透明なダークファルスの姿が見える。
; D因子
: フォトン技術における国家競争が激しくなっていた頃に飛来した隕石から発見された因子。高いエネルギーを保持する粒子であり、フォトンと非常に良く似た性質を持っている。が、フォトンと決定的に違う点として、それ自身が意思を持っているかのように、他の生命体に対して侵食・融合を行うという点である。因子自身が融合することによって侵食をするのは生命体だけであるが、非生命体であるコンピューター等に対しても何らかの影響力を持つようである。
; D細胞
: D型寄生細胞とも呼ぶ。D因子によって侵食された生物細胞の事。マグは、これを核にして作られている。飛来した隕石より発見されたD因子は絶対量が少なく、マグ等の「パーツ」になるような細胞しか作られなかったが、人間などのある程度の大きさを持った生物を侵食しつくしたりすればD因子の意思によって生命体が活動し始める。その生命活動は極めて特殊であり、ヒースクリフ・フロウウェンをして「奴らは死という概念自体がない」と言わしめるほど強靭な生命力を持つようである。
; エモーショナルAI
: D因子の働きを制御する事を目的として開発されたシステム。
; MOTHER計画
: D因子の飛来に始まり、D因子の解明からその技術利用を目的とした一連の計画。オスト博士とモンタギュー博士が先頭に立って推し進められてきたが、二人が目指す方向性が一致せず、パイオニア1の出発を機に計画が分裂する。
: オスト博士はD細胞を利用した新生物の創造を目指し、その過程でデ・ロル・レを生み出し、ガル=ダ=バル島の施設では同じく超高性能AIオル・ガとD細胞の融合を果たし、プロトファルスを倒した際、D因子による「生きた傷」に侵されたフロウウェンの体を媒介に新たな侵食遺伝子を生み出すに至る。
: モンタギュー博士はD因子の動きを制御するシステムの開発を目指し、エモーショナルAIを完成。試作機が製作されたところで軍の介入がありモンタギュー博士が失踪したため、頓挫している。
== 受賞歴 ==
* 第6回[[デジタルメディア協会|AMD Award]] Best Programmer賞
* 第5回[[文化庁メディア芸術祭]]審査委員会 特別賞
* BAFTA Interactive Entertainment Awards Games-Networked Award部門
* 第6回[[アニメーション神戸]] ネットワーク部門作品賞
* 第5回[[日本ゲーム大賞]]
* [https://web.archive.org/web/20010429035448/http://www.zdnet.co.jp/gamespot/dreamcastmagazine/gp2000/ Dreamcast Magazine Grandprix 2000]最優秀作品賞・ネットワーク活用大賞
他、計18個の受賞。<ref>[http://www.sonicteam.com/pso/game/award.html PSO受賞内容] 『PSOが今まで受賞させていただいた各賞(ノミネート含む)』</ref>
== 備考 ==
{{複数の問題
| section = 1
| 出典の明記 = 2019年10月
| 雑多な内容の箇条書き = 2019年10月
}}
* 家庭用初の[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]対応ゲームでもある。ただしDCはアナログモデムが標準であり、プレイヤーの大多数もその環境で遊んでいた。それほど通信基盤が整っていない時代の作品にも関わらず、最盛期にはDC版のみで同時接続者2万6000人(国内)、登録者数30万人(国内外)ものユーザーを集めた。PCゲームを含め、当時のトップクラスである。
* 後発の作品にも大きな影響を与え、ゲームシステムを模倣した作品が多く生まれた。[[モンスターハンター]]のスタッフもこのゲームを参考にしたと発言している。
* それまで、大規模なアップデートが期待出来ないMO型ネットワークゲームは、規模と商売上の問題から、無料提供が主流だった。しかしDC版PSOでは、他のDCソフトでも行われていた月額サービス路線から、1ヵ月400円/3ヵ月1000円の課金を行っていた(北米版Ver.1とヨーロッパ版は課金無し)が、この作品の成功により、以後のネットワークRPGでも料金を徴収するゲームが増えた。これを本作の功罪とする声もあるが、ビジネスモデルとして月額課金を成り立たせたことは、パッケージ売り切りではなく、長期運営による利益が計算可能ともなり、またASCII24の開発者インタビューでは、本作は相当なパケットが流れる事による回線使用費を主要因としているため、HDD搭載によるアップデート有無のみで語れるわけでは無いようだ<ref>参考アドレス ASCII24 国産オンラインゲームの先行者「PHANTASY STAR ONLINE」成功を支えたバックエンド(後編)[http://akiba.ascii24.com/akiba/game/interview/2002/03/02/634122-000.html]</ref>。
* 厳密に言うと、DC版無印は「家庭用ゲーム機初のネットワーク対応RPG」ではない(1997年12月より[[セガ]]と[[富士通]]によって共同運営されたセガサターン用ソフト「[[Dragon's Dream]]」が「家庭用初」に該当する。また、2000年8月に[[ハドソン]]より発売されたDC用ソフト「[[ルーンジェイド]]」が「家庭用初のインターネット対応」に該当する)が、「インターネット対応」「全世界対応」を考慮するとDC版PSO無印が「家庭用初」となる。
* GC、Xbox版発売の時点で他機種混在でのオンラインプレイも予定されていたが、[[チート]]の多さにその案は見送られた。
* 上記の理由や当時の風潮もあってか、アイテムの[[リアルマネートレーディング|RMT]]取引はごく初期を除いてあまり活発ではなかった。
* DC版Ver.1を極めたユーザーに再度刺激を与えるために、DC版Ver.2のアルティメットのバランスは極めて凶悪に設定されており、アルティメットで発掘した武器でなければ、ほぼ通用しない。通用しない理由の大半が「命中力が足りなくて当たらない」だった。加えて、エネミーの防御力が跳ね上がるため、シフタ・デバンド・ザルア・ジェルン等の補助テクニックをフルに活用しなければダメージを与えるのも困難となっている(特にアンドロイドレンジャーのソロプレイは、かなり過酷)。もっとも、この極端なまでの難易度差は単なるバランス調整失敗との批判の的になることが多いが、「やる事がなくなった人のための、"挑む"難易度」と発売前から語られていた通りのもので、これがゲーム最終段階のバランスであるとすれば、それも考慮の上であるかも知れない。
* 以降の機種で緩和されたものの、ベリーハードまで非常に良好なゲームバランスであるのに、アルティメットで落差がある(敵の回避力が高いため、ハンターなどは高いヒット属性の武器がなければ通用しない)ことは継承された。基本的には、武器の能力以前にヒット属性が無ければ始まらないため、本来、ショップ販売品などから、ベリーハードまでで発掘される初期レア武器に切り替えて戦うべきなのだが、低い難易度で発見されたレア武器は補正ボーナスの発生率が低い上に補正数値も低いため、結局、高ヒット属性のチャージ系など、特定のショップ武器が役に立つという逆転現象が起き、アルティメットランクのレアが出るまでやりくりを強いられる形になってしまっている。
* そうした事情のため、DC版では、マグやキャラクター能力を好みに育てても問題なかったが、GC版以降はある程度一貫した育て方でないと、アルティメットモードで苦戦する可能性が高い。特に攻撃力のあるフォースであるはずのフォーマーは命中の成長限界が極端に低く、アルティメットでは高ヒット属性なくして、牽制すらままならない。またテクニックは確実にHITするが、テク自体、打撃の連続攻撃と比較にならないほど威力が乏しいため、フォース系は、アルティメットオンラインでは味方強化と敵弱体化、回復に徹し、他の職業が殴るという役割分担が常套となる。
* 当然のことながら、この命中率バランスはNPCにも適用されるので、アルティメットにおけるNPCは、ほぼお荷物。
* 非推奨、および利用規約では禁止されているが [[エミュレーター]]サーバーに接続すれば、サービスを終了した機種でもオンラインプレイをすることが可能である。ただし、そういった非公式のサーバーに接続するには特殊な改造が必要な場合がほとんど(設定を変更するだけで済む場合もある)で、なにか問題が発生しても(そのサーバーに該当する規約が無い限り)誰にも苦情は言えないし、正式なサーバーとは若干挙動が違うなど、接続する場合はあくまで自己責任である。
* ソニックチームが開発を手掛けていたことから、追加配信クエストの中には[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ|ソニック]]、[[マイルス "テイルス" パウアー|テイルス]]、[[ナックルズ・ザ・エキドゥナ|ナックルズ]]がNPCとして登場するクエストもあった。また武器やマグの中にもこれらにちなんだデザインや名前を持つものも存在する。
== オンラインサービス廃止の歴史 ==
* 2004年1月1日 Windows版「PHANTASY STAR ONLINE」
* 2007年4月1日
** ドリームキャスト版「PHANTASY STAR ONLINE」
** ドリームキャスト版「PHANTASY STAR ONLINE ver.2」
** ゲームキューブ版「PHANTASY STAR ONLINE EPISODE I&II (Ver1.1)」
** ゲームキューブ版「PHANTASY STAR ONLINE EPISODE I&II Plus」
** ゲームキューブ版「PHANTASY STAR ONLINE EPISODE III C.A.R.D. Revolution」
*: ※当初は2007年3月31日23時59分にサービス終了とアナウンスされていた。最終的には少し遅れ、4月1日0時10分に終了。
*2008年1月31日(23時59分) (初代)XBOX版「PHANTASY STAR ONLINE EPISODE I&II」
*2010年12月27日(24時00分) WINDOWS版「PHANTASY STAR ONLINE BLUE BURST」
*: ※当初は16時00分にサービス終了とアナウンスされていた。その後、同年12月14日に上記時刻に終了時刻の変更が告知された。
== 関連する人物 ==
{{ページ番号|date=2017年1月}}
多数の著名人がPSOをプレイしていると公言していたため、その一部を記載する。
* [[永野護]]<ref name=psobookaw>ファンタシースターオンライン完全設定資料集 The book of Hunters(角川書店)2001年3月27日発行</ref> - 初期からのユーザーで、本作を「セガの中でも『バーチャファイター2』と並ぶ最高傑作だ」と評価している<ref name=naganoreview>永野護(2001年2月16日).{{Cite web|和書|url=http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20010216/pso.htm |title=特別レビュー |publisher=[[Impress Watch|GAME Watch]] |accessdate=2017-01-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010221005630/http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20010216/pso.htm |archivedate=2001年2月21日 |deadlinkdate=2008年12月 }}</ref>。Ver.2では永野デザインの武器が登場。各プラットフォームごとにFSSロビーと呼ばれる永野ファンが集うロビーがあった<ref name=naganoreview />。
* [[田中理恵 (声優)|田中理恵]] - 20時間連続してのプレイ経験があり、そのことで見吉ディレクターと意気投合。オーディションで次作[[ファンタシースターユニバース|PSU]]のヒロインの声優に選ばれる。PSO発売5周年を迎うイベントであるPSO5周年記念大感謝祭では、ストリーミング番組「ゲストとPSO BB!」に出演し、PSOBBをプレイする様子を披露した。田中いわく、PSOは相当やりこんだと語る{{要出典|date=2017年1月}}。
以下はその他にもプレイしていた著名ユーザー。
* [[伊集院光]]<ref name=psobookaw />
* [[伊福部崇]]<ref name=psobookaw />
* [[榎本温子]]<ref name=psobookaw />
* [[小野坂昌也]]<ref name=psobookaw />
* [[神谷浩史]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1424838992 |title=オンラインRPG『PHANTASY STAR ONLINE 2』ドラマCD第二弾キャストインタビュー:カスラ役・神谷浩史さん |publisher=[[アニメイトタイムズ]] |accessdate=2017-01-17 }}</ref>
* [[桑野信義]]<ref name=psobookaw />
* [[新谷良子]]<ref name=psobookaw />
* [[田村ゆかり]]<ref name=psobookaw />
* [[保志総一朗]]<ref name=psobookaw />
* [[堀江由衣]]<ref name=psobookaw />
* [[緑川光]](GC版)<ref>DENGEKI COLUMNS「ターゲット・ロックオン!!」『[[電撃PlayStation]]』Vol.442、[[アスキー・メディアワークス]]、2009年。</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[バーニングレンジャー]] - クエスト「セントラルドームの災渦」において、オープニングとエンディング曲を起用。
*[[ソニックアドベンチャー2]] - 前述の通り、DC版無印に体験版が同梱されていた。なお体験版と製品版のタイトルロゴは大きく異なっていた。GC版エピソード1&2では『ソニックアドベンチャー2バトル』と『[[ソニックアドベンチャー|ソニックアドベンチャーDX]]』に特別なチャオを連れて行けるクエストが存在し、クリアすると[[ゲームボーイアドバンス]]および同ハードのゲームソフト『[[ソニックアドバンス]]』・『[[ソニックアドバンス2]]』とジョイキャリーすることで入手可能。
== 外部リンク ==
* [http://sega.jp/ 株式会社セガ]
* [http://www.sonicteam.com/ ソニックチーム(開発)]
* [http://phantasystar.sega.jp/ ファンタシースターシリーズ 公式ポータルサイト]
* {{Wayback |url=http://www.sonicteam.com/pso/ |title=ファンタシースターオンライン 公式ウェブサイト |date=20120921022403 }}
* {{Wayback |url=http://akiba.ascii24.com/akiba/game/interview/2002/03/02/634122-000.html |title=ASCII24 2002年3月2日 「PHANTASY STAR ONLINE」成功を支えたバックエンド(後編) |date=20090708024423 }}
* [http://psobb.jp/news/wis/?mode=view&id=738 「PSO BB」サービス終了のお知らせ]
{{ファンタシースターシリーズ}}
{{日本ゲーム大賞}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふあんたしいすたあおんらいん}}
[[Category:ファンタシースターのコンピュータゲーム|おんらいん1]]
[[Category:2000年のコンピュータゲーム]]
[[Category:オンラインRPG]]
[[Category:ファミ通クロスレビュープラチナ殿堂入りソフト]]
[[Category:ドリームキャスト用ソフト]]
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[[Category:Xbox用ソフト]]
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[[Category:サービスを終了したオンラインゲーム]]
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10,090 |
フランシウム
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フランシウム(羅: francium 英語発音: [ˈfrænsiəm])は、原子番号87の元素。元素記号は Fr。アルカリ金属元素の一つ(最も原子番号が大きい)で、典型元素である。又、フランシウムの単体金属をもいう。
Fr はアスタチンと同じくウランやトリウム鉱石において生成と崩壊を絶えず繰り返すため、その量は非常に少なく、フランシウムはアスタチンに次いで地殻含有量が少ない元素である。地球の地殻ではわずかに20-30 gほどではあるが Fr が常に存在しており、他の同位体は全て人工的に作られたものである。最も多いものでは、研究所において300,000以上の原子が作られた。以前にはエカ・セシウムもしくはアクチニウムKと呼ばれていた。
安定同位体は存在せず、最も半減期が長いフランシウム223でも22分しかないため、化学的、物理的性質はよく分かっていないが、原子価は+1価である事が確認されていて、化学的性質はセシウムに類似すると思われている。アクチニウム227の1.2%がα崩壊して、フランシウム223となることが分かっている。また、フランシウムはアスタチン、ラジウムおよびラドンへと崩壊する、非常に放射性の強い金属である。
フランシウムは合成でなく自然において発見された最後の元素である。
フランスにちなむ。ガリウムに次いで二つ目のフランスにちなんで名づけられた元素となった。
1870年という早い時期に、化学者はセシウムの次のアルカリ金属である原子番号87の元素があるべきであると考えていた。それは暫定的にエカ-セシウムという名で言及されていた。この未確認な元素を発見し、単離するための研究チームによる試みは、本物のフランシウムが発見されるまでに、少なくとも四つの誤った主張がなされた。
ソビエト連邦の化学者 D. K. Dobroserdov はエカ-セシウム(フランシウム)を発見したと主張した初の科学者であった。1925年、彼はカリウムおよび他のアルカリ金属のサンプルから弱い放射能を観測し、これはエカ-セシウムがサンプルを汚染しているためであると誤って結論付けた。しかし、サンプルからの放射能は、実際には天然に存在するカリウムの放射性同位体であるカリウム40によるものであった。その後彼はエカ-セシウムの物性の予測を発表し、そこで彼は祖国の名を取ってこの元素を russium と名付けた。その後すぐに、彼はオデッサのクライストチャーチ・ポリテクニック工科大学での教育活動に専念し、その元素に関する更なる研究を続けなかった。
その翌年、イギリスの化学者 Gerald J. F. Druce および Frederick H. Loring は、硫酸マンガン(II)のX線写真の解析を行い、彼らは観測したスペクトル線をエカ-セシウムであると推定した。彼らは87番目の元素の発見を発表し、それが最も重いアルカリ金属元素であることから alkalinium という名前を提案した。
1930年、オーバーン大学のフレッド・アリソン(英語版)は、リチア雲母およびポルックス石を彼の磁気光学機器を用いて解析した際に原子番号87の元素を発見したと主張した。アリソンは、彼の故郷であるヴァージニア州から virginium と名付け、その原子記号を Vi および Vm とするように要請した。しかし、1934年、カリフォルニア大学バークレー校のH. G. マクファーソンは、アリソンの装置の効果と、この間違った発見の有用性について反証した。
1936年、ルーマニアの化学者ホリア・フルベイ(英語版)と、彼のフランスの同僚イヴェット・コショワ(英語版)もまた、彼らの高解像度X線装置を用いたポルックス石の分析を行った。彼らはいくつかの弱い輝線を観測し、それを原子番号87の元素であると推定した。フルベイおよびコショワはこの発見を報告し、彼らが仕事をしていたルーマニアの行政区からその名前を moldavium、原子記号を Ml と提唱した。1937年、フルベイの仕事は、フルベイの研究手法を拒絶したアメリカ合衆国の物理学者 F. H. Hirsh Jr. によって批判された。Hirsh はエカ-セシウムは自然界には存在しないと確信しており、フルベイは水銀もしくはビスマスのX線の輝線を見たのであろうとした。しかしフルベイは、彼のX線装置と手法はそのような取り違いをするにはあまりに精密であると主張した。このため、ノーベル物理学賞受賞者でありフルベイの師であるジャン・ペランは、マルグリット・ペレーが発見した francium よりも、エカ-セシウムとしての moldavium を支持した。しかし、ペレーは、彼女が原子番号87の元素のただ一人の発見者であると信じられるまで、フルベイの仕事を批判し続けた。
フランシウムは、マルグリット・ペレー (M. Perey) がフランスのパリにあるキュリー研究所において1939年に発見した。彼女が Ac のサンプルを精製した際、220 keVの崩壊エネルギーがあることが報告された。しかし、彼女は80 keV以下のエネルギー準位の崩壊素粒子に着目した。彼女は、このサンプルの崩壊は、精製しきれなかった未確認の崩壊生成物に起因するのかもしれないと考えたが、再び純粋な Ac を用いて試験を行っても同一の結果となった。様々な試験の結果、この未知の物質がトリウム、ラジウム、鉛、ビスマス、タリウムである可能性が消去された。この新しい生成物は、セシウム塩と共沈するようなアルカリ金属の化学的性質を示し、Ac のアルファ崩壊によって生成した、原子番号87の元素であるとペレーは信じた。ペレーはその後、Ac のアルファ崩壊とベータ崩壊の割合の測定を試みた。彼女の初めの試験では、アルファ崩壊への分岐は0.6%であり、その後彼女はその数字を1%に修正した。
ペレーは新しい同位体元素をアクチニウム-K(現在はFrとして知られる)と命名した。そして、1946年に、彼女は新しく発見された元素の名前を catium とするよう提案した。これは、彼女がこの元素が全ての元素の中で最も電気陽性 (cation) であると考えていたためである。ペレーの監督者の一人であるイレーヌ・ジョリオ=キュリーは、cation よりむしろ cat の含意のためにその名称に反対した。ペレーはその後、フランスにちなんだフランシウムという名前を提案した。フランシウムという名称は1949年に国際純正・応用化学連合によって公式に採用された。フランシウムは初め、元素記号 Fa を割り当てられたが、その後まもなく Fr に修正された。フランシウムは1925年に発見されたレニウムに続いて発見された、自然界で発見された最後の元素であり、その後発見された元素は全て合成されたものである。フランシウムの構造に関する更なる研究は、1970年代から1980年代にかけて、Sylvain Liebermanおよび彼のチームによって欧州原子核研究機構において行われた。
フランシウムは自然に産出する元素の中で最も不安定な元素である。最も長い半減期を持つフランシウム223でも半減期が22分しかないため、秤量可能な量の単体金属及び化合物として取り出すことがほとんどできない。よってフランシウムの化学的、物理的性質は実験結果として求められた実際の数値は少なく、理論的な推定値が大半を占める。対照的に、自然に産出する元素の中で2番目に不安定な元素であるアスタチンの最大の半減期は8.5時間である。フランシウムの全ての同位体は崩壊してアスタチン、ラジウムもしくはラドンとなる。Frは半減期がわずか3.5ナノ秒しかなく、原子番号105(ドブニウム)までの合成された元素の内、最も不安定なものである。単体は銀白色の金属と推定されている。また、フランシウムは高度に放射性である。
フランシウムは、化学的性質の大部分がセシウムに似たアルカリ金属元素である。1個の価電子を持つとても重い元素であり、元素の当量は最も大きい。もし単体の金属フランシウムが作られたならば、その融点において表面張力はおそらく0.05092 N/mである。フランシウムの融点は計算上およそ27 °C付近になると推定されている。しかし、融点はフランシウム元素の非常な希さと放射性のためはっきりと確認されておらず、主張及び推定の域にとどまっている。同様に、推定された677 °Cという沸点もまた未確認である。放射性元素は放熱するため、その熱によって金属フランシウムはほぼ間違いなく液体であると考えられている。
ライナス・ポーリングは、フランシウムの電気陰性度を、その値が正しいとするような実験データはないものの、セシウムのもつ0.79というポーリング・スケールからポーリング・スケールで0.7と推測した。フランシウムのイオン化エネルギーは不活性電子対効果より想定されるように、セシウムの375.7041(2) kJ/molよりわずかに高い392.811(4) kJ/molであり、これはセシウムがフランシウムよりも電気陰性度が低いことを示唆している。
過塩素酸セシウムと共沈させることによってごく少量の過塩素酸フランシウムが得られる。この共沈物はL. E. グレンダナンおよびC. M. ネルソンによる放射性セシウムの共沈法を適用することによってフランシウムを分離するのに用いることができる。それはまた、ヨウ素酸塩、ピクリン酸塩、酒石酸塩(酒石酸ルビジウムも)、ヘキサクロロ白金酸塩、タングストケイ酸などを含む、他の多くのセシウム塩と共沈させる事ができる。タングストケイ酸および過塩素酸塩による共沈もまた、担体としての他のアルカリ金属なしにフランシウムを分離する方法を提供する。ほとんど全てのフランシウム塩は水溶性である。
フランシウムの不安定さと希少性ゆえに、市販されたとしても用途はなく、生物学および原子構造の分野における研究目的で用いられるのみである。かつてさまざまながんの潜在的な診断補助の用途も検討されたが、この用途においても実用的でないとみなされた。
合成、捕集、冷却されたフランシウムの比較的単純な原子構造を専門的な分光学実験の対象に利用され、これらの実験により原子を構成する素粒子同士の結合定数やエネルギー準位に関する情報の特定につながった。レーザートラッピングされた Fr イオンによる発光の研究は、量子力学によって予測された値と非常に類似した、原子エネルギー準位間の遷移の正確なデータを与えた。
Fr は、Ac のアルファ崩壊によって生産されるため、ウランおよびトリウム鉱石中に痕跡量存在している。ウランのサンプル中には、ウラン原子1 × 10個中に1個のフランシウム原子が存在していると推定される。また、地殻中には常に多くても30 gのフランシウムが存在していると算出されている。フランシウムは、地殻中においてアスタチンに次いで2番目に存在量の少ない元素である(地殻中の元素の存在度も参照)。
フランシウムは核反応によって合成することができる。
このプロセスはニューヨーク州立大学ストーニーブルック校物理学科によって開発され、209、210、211のフランシウムの同位体を生じさせる。これらは磁気光学トラップ (MOT) によって分離される。特定の同位体の生産率は酸素ビームのエネルギーに依存する。ニューヨーク州立大学ストーニブルック校の電子・陽電子線形加速器 (LINAC) から放たれた O ビームは、金のターゲットにおける核反応によって Fr を合成する。この生産は、理解と発展にいくらかの時間を要した。金のターゲットを融点の非常に近くまで操作し、その表面が非常に清浄であることを確認することが重要であった。核反応は、フランシウム原子を金のターゲットの奥深くに埋め込み、それを効率的に除去しなければならなかった。その原子は金のターゲットの表面を素早く拡散し、イオンとして放出されるが、毎回起こるわけではない。フランシウムイオンは静電レンズによって、熱されたイットリウム上に誘導され、再び電気的に中性となる。その後、フランシウムはガラス球に注入される。磁場とレーザービームによって冷却され、ガラス球中に留められる。とはいえ、元素を留めておくことができるのはフランシウム原子が逃げるか崩壊する前のわずか20秒ほどだけであり、新しい原子の規則的な流れが失われた原子を置き換えることで、数分以上の間一定数の原子の数を保つことができる。当初の実験においては、およそ1,000個のフランシウム原子がトラップされた。この方法は徐々に改善され、一度に300,000を超える中性のフランシウム原子をトラップできるだけの能力に改善された。これらは中性な金属原子(フランシウム金属)であるとされているものの、結合していないバラバラな気体状態になっている。フランシウム原子によって放たれる光を蛍光としてビデオカメラで捕らえることができるのに十分な量のフランシウムがトラップされた。原子は直径1ミリメートルの赤熱した球として現れた。これは人類がフランシウムを見た最初の瞬間であった。研究者は、トラップされた原子による発光と吸収を測定するための非常に敏感な測定器を作り、フランシウムにおける原子エネルギー準位間のさまざまな遷移に関する初めての実験結果を得た。始めの測定結果は、量子論に基づく計算値との間で非常に良い一致を示した。他の合成方法は、ラジウムを中性子で攻撃する、トリウムを陽子、重陽子もしくはヘリウムイオンで攻撃する方法が含まれる。フランシウムは、2012年現在、まだ十分に多くの重量は合成されていない。
フランシウムは34の同位体が知られており、その質量範囲はフランシウム199からフランシウム232までである。フランシウムは七つの準安定核同位体を有している。安定同位体は存在せず、非常に不安定な元素である。Fr および Fr のみが自然に存在する同位体であり、前者の方がはるかに一般的である。
半減期21.8分の Fr が最も安定であり、これまでに発見および合成されたフランシウムの同位体で、これより長い半減期を持つものは非常にありそうにない。Fr はアクチニウム系列における5番目の生成元素であり、その後大部分はベータ崩壊によって1149 keVの崩壊エネルギーとともに Ra へと崩壊し、0.006%はアルファ崩壊の経路によって5.4 MeVの崩壊熱と共に At へと崩壊する。
Fr は4.8分の半減期を有している。それはネプツニウム系列の9番目の生成元素であり、Ac の娘核種である。Fr はα崩壊によって6.457 MeVの崩壊熱と共に At へと崩壊する。
最も不安定な基底状態の同位元素は Fr であり、0.12マイクロ秒の半減期を有し、9.54 MeVの崩壊熱と共に At へと崩壊する。準安定状態の核異性体である Fr はさらに不安定であり、その半減期はわずか3.5ナノ秒である。
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"text": "フランシウム(羅: francium 英語発音: [ˈfrænsiəm])は、原子番号87の元素。元素記号は Fr。アルカリ金属元素の一つ(最も原子番号が大きい)で、典型元素である。又、フランシウムの単体金属をもいう。",
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"text": "Fr はアスタチンと同じくウランやトリウム鉱石において生成と崩壊を絶えず繰り返すため、その量は非常に少なく、フランシウムはアスタチンに次いで地殻含有量が少ない元素である。地球の地殻ではわずかに20-30 gほどではあるが Fr が常に存在しており、他の同位体は全て人工的に作られたものである。最も多いものでは、研究所において300,000以上の原子が作られた。以前にはエカ・セシウムもしくはアクチニウムKと呼ばれていた。",
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"text": "安定同位体は存在せず、最も半減期が長いフランシウム223でも22分しかないため、化学的、物理的性質はよく分かっていないが、原子価は+1価である事が確認されていて、化学的性質はセシウムに類似すると思われている。アクチニウム227の1.2%がα崩壊して、フランシウム223となることが分かっている。また、フランシウムはアスタチン、ラジウムおよびラドンへと崩壊する、非常に放射性の強い金属である。",
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"text": "1870年という早い時期に、化学者はセシウムの次のアルカリ金属である原子番号87の元素があるべきであると考えていた。それは暫定的にエカ-セシウムという名で言及されていた。この未確認な元素を発見し、単離するための研究チームによる試みは、本物のフランシウムが発見されるまでに、少なくとも四つの誤った主張がなされた。",
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"text": "ソビエト連邦の化学者 D. K. Dobroserdov はエカ-セシウム(フランシウム)を発見したと主張した初の科学者であった。1925年、彼はカリウムおよび他のアルカリ金属のサンプルから弱い放射能を観測し、これはエカ-セシウムがサンプルを汚染しているためであると誤って結論付けた。しかし、サンプルからの放射能は、実際には天然に存在するカリウムの放射性同位体であるカリウム40によるものであった。その後彼はエカ-セシウムの物性の予測を発表し、そこで彼は祖国の名を取ってこの元素を russium と名付けた。その後すぐに、彼はオデッサのクライストチャーチ・ポリテクニック工科大学での教育活動に専念し、その元素に関する更なる研究を続けなかった。",
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"text": "その翌年、イギリスの化学者 Gerald J. F. Druce および Frederick H. Loring は、硫酸マンガン(II)のX線写真の解析を行い、彼らは観測したスペクトル線をエカ-セシウムであると推定した。彼らは87番目の元素の発見を発表し、それが最も重いアルカリ金属元素であることから alkalinium という名前を提案した。",
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"text": "1930年、オーバーン大学のフレッド・アリソン(英語版)は、リチア雲母およびポルックス石を彼の磁気光学機器を用いて解析した際に原子番号87の元素を発見したと主張した。アリソンは、彼の故郷であるヴァージニア州から virginium と名付け、その原子記号を Vi および Vm とするように要請した。しかし、1934年、カリフォルニア大学バークレー校のH. G. マクファーソンは、アリソンの装置の効果と、この間違った発見の有用性について反証した。",
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"text": "1936年、ルーマニアの化学者ホリア・フルベイ(英語版)と、彼のフランスの同僚イヴェット・コショワ(英語版)もまた、彼らの高解像度X線装置を用いたポルックス石の分析を行った。彼らはいくつかの弱い輝線を観測し、それを原子番号87の元素であると推定した。フルベイおよびコショワはこの発見を報告し、彼らが仕事をしていたルーマニアの行政区からその名前を moldavium、原子記号を Ml と提唱した。1937年、フルベイの仕事は、フルベイの研究手法を拒絶したアメリカ合衆国の物理学者 F. H. Hirsh Jr. によって批判された。Hirsh はエカ-セシウムは自然界には存在しないと確信しており、フルベイは水銀もしくはビスマスのX線の輝線を見たのであろうとした。しかしフルベイは、彼のX線装置と手法はそのような取り違いをするにはあまりに精密であると主張した。このため、ノーベル物理学賞受賞者でありフルベイの師であるジャン・ペランは、マルグリット・ペレーが発見した francium よりも、エカ-セシウムとしての moldavium を支持した。しかし、ペレーは、彼女が原子番号87の元素のただ一人の発見者であると信じられるまで、フルベイの仕事を批判し続けた。",
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"text": "ペレーは新しい同位体元素をアクチニウム-K(現在はFrとして知られる)と命名した。そして、1946年に、彼女は新しく発見された元素の名前を catium とするよう提案した。これは、彼女がこの元素が全ての元素の中で最も電気陽性 (cation) であると考えていたためである。ペレーの監督者の一人であるイレーヌ・ジョリオ=キュリーは、cation よりむしろ cat の含意のためにその名称に反対した。ペレーはその後、フランスにちなんだフランシウムという名前を提案した。フランシウムという名称は1949年に国際純正・応用化学連合によって公式に採用された。フランシウムは初め、元素記号 Fa を割り当てられたが、その後まもなく Fr に修正された。フランシウムは1925年に発見されたレニウムに続いて発見された、自然界で発見された最後の元素であり、その後発見された元素は全て合成されたものである。フランシウムの構造に関する更なる研究は、1970年代から1980年代にかけて、Sylvain Liebermanおよび彼のチームによって欧州原子核研究機構において行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "フランシウムは自然に産出する元素の中で最も不安定な元素である。最も長い半減期を持つフランシウム223でも半減期が22分しかないため、秤量可能な量の単体金属及び化合物として取り出すことがほとんどできない。よってフランシウムの化学的、物理的性質は実験結果として求められた実際の数値は少なく、理論的な推定値が大半を占める。対照的に、自然に産出する元素の中で2番目に不安定な元素であるアスタチンの最大の半減期は8.5時間である。フランシウムの全ての同位体は崩壊してアスタチン、ラジウムもしくはラドンとなる。Frは半減期がわずか3.5ナノ秒しかなく、原子番号105(ドブニウム)までの合成された元素の内、最も不安定なものである。単体は銀白色の金属と推定されている。また、フランシウムは高度に放射性である。",
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"text": "フランシウムは、化学的性質の大部分がセシウムに似たアルカリ金属元素である。1個の価電子を持つとても重い元素であり、元素の当量は最も大きい。もし単体の金属フランシウムが作られたならば、その融点において表面張力はおそらく0.05092 N/mである。フランシウムの融点は計算上およそ27 °C付近になると推定されている。しかし、融点はフランシウム元素の非常な希さと放射性のためはっきりと確認されておらず、主張及び推定の域にとどまっている。同様に、推定された677 °Cという沸点もまた未確認である。放射性元素は放熱するため、その熱によって金属フランシウムはほぼ間違いなく液体であると考えられている。",
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フランシウムは、原子番号87の元素。元素記号は Fr。アルカリ金属元素の一つ(最も原子番号が大きい)で、典型元素である。又、フランシウムの単体金属をもいう。 223Fr はアスタチンと同じくウランやトリウム鉱石において生成と崩壊を絶えず繰り返すため、その量は非常に少なく、フランシウムはアスタチンに次いで地殻含有量が少ない元素である。地球の地殻ではわずかに20-30 gほどではあるが 223Fr が常に存在しており、他の同位体は全て人工的に作られたものである。最も多いものでは、研究所において300,000以上の原子が作られた。以前にはエカ・セシウムもしくはアクチニウムKと呼ばれていた。 安定同位体は存在せず、最も半減期が長いフランシウム223でも22分しかないため、化学的、物理的性質はよく分かっていないが、原子価は+1価である事が確認されていて、化学的性質はセシウムに類似すると思われている。アクチニウム227の1.2%がα崩壊して、フランシウム223となることが分かっている。また、フランシウムはアスタチン、ラジウムおよびラドンへと崩壊する、非常に放射性の強い金属である。 フランシウムは合成でなく自然において発見された最後の元素である。
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|crystal structure= 体心立方構造(推定)
|oxidation states=1(強[[塩基性酸化物]])
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|1st ionization energy=380
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|Van der Waals radius=[[1 E-10 m|348]]
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=221 | sym=Fr
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}}
'''フランシウム'''({{lang-la-short|francium}} {{IPA-en|ˈfrænsiəm}})は、[[原子番号]]87の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Fr'''。[[アルカリ金属]]元素の一つ(最も原子番号が大きい)で、[[典型元素]]である。又、フランシウムの単体金属をもいう。
<sup>223</sup>Fr は[[アスタチン]]と同じく[[ウラン]]や[[トリウム]]鉱石において生成と崩壊を絶えず繰り返すため、その量は非常に少なく、フランシウムはアスタチンに次いで地殻含有量が少ない元素である。地球の地殻ではわずかに20-30 gほどではあるが <sup>223</sup>Fr が常に存在しており、他の同位体は全て人工的に作られたものである。最も多いものでは、研究所において300,000以上の原子が作られた<ref name=chemnews>{{citation|url=http://pubs.acs.org/cen/80th/francium.html|title=Francium|journal=Chemical and Engineering News|year=2003|author=Luis A. Orozco }}</ref>。以前にはエカ・セシウムもしくはアクチニウムK<ref group="注釈">実際には最も安定な同位体元素 <sup>223</sup>Fr に対して。</ref>と呼ばれていた。
[[安定同位体]]は存在せず、最も[[半減期]]が長いフランシウム223でも22分しかないため、化学的、物理的性質はよく分かっていないが、原子価は+1価である事が確認されていて、化学的性質は[[セシウム]]に類似すると思われている。[[アクチニウム]]227の1.2%が[[α崩壊]]して、フランシウム223となることが分かっている。また、フランシウムはアスタチン、[[ラジウム]]および[[ラドン]]へと崩壊する、非常に放射性の強い金属である。
フランシウムは合成でなく自然において発見された最後の元素である<ref group="注釈">[[テクネチウム]]のような合成された元素が後に自然において発見されることはあった。</ref>。
== 名称 ==
[[フランス]]にちなむ。[[ガリウム]]に次いで二つ目のフランスにちなんで名づけられた元素となった。
== 歴史 ==
1870年という早い時期に、化学者はセシウムの次のアルカリ金属である[[原子番号]]87の元素があるべきであると考えていた<ref name="andyscouse" />。それは暫定的に''エカ-セシウム''という名で言及されていた<ref name="chemeducator">Adloff, Jean-Pierre; Kaufman, George B. (2005-09-25). [http://chemeducator.org/sbibs/s0010005/spapers/1050387gk.htm Francium (Atomic Number 87), the Last Discovered Natural Element] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130604212956/http://chemeducator.org/sbibs/s0010005/spapers/1050387gk.htm |date=2013年6月4日 }}. ''The Chemical Educator'' '''10''' (5). Retrieved on 2007-03-26.</ref>。この未確認な元素を発見し、単離するための研究チームによる試みは、本物のフランシウムが発見されるまでに、少なくとも四つの誤った主張がなされた。
=== 誤発見 ===
[[ソビエト連邦]]の化学者 D. K. Dobroserdov はエカ-セシウム(フランシウム)を発見したと主張した初の科学者であった。1925年、彼は[[カリウム]]および他のアルカリ金属のサンプルから弱い放射能を観測し、これはエカ-セシウムがサンプルを汚染しているためであると誤って結論付けた。しかし、サンプルからの放射能は、実際には天然に存在するカリウムの放射性同位体である[[カリウム40]]によるものであった<ref name="fontani">{{cite conference| first = Marco| last = Fontani| title = The Twilight of the Naturally-Occurring Elements: Moldavium (Ml), Sequanium (Sq) and Dor (Do)| booktitle = International Conference on the History of Chemistry| pages = 1–8| date = 2005-09-10| location = Lisbon| url = http://5ichc-portugal.ulusofona.pt/uploads/PaperLong-MarcoFontani.doc| archiveurl = https://web.archive.org/web/20060224090117/http://5ichc-portugal.ulusofona.pt/uploads/PaperLong-MarcoFontani.doc| archivedate = 2006年2月24日| accessdate = 2007-04-08| deadurldate = 2017年9月}}</ref>。その後彼はエカ-セシウムの物性の予測を発表し、そこで彼は祖国の名を取ってこの元素を ''russium'' と名付けた<ref name="vanderkroft">{{cite web| last = Van der Krogt| first = Peter| title = Francium| work = Elementymology & Elements Multidict| date = 2006-01-10| url = http://elements.vanderkrogt.net/element.php?sym=Fr| accessdate = 2007-04-08}}</ref>。その後すぐに、彼は[[オデッサ]]のクライストチャーチ・ポリテクニック工科大学での教育活動に専念し、その元素に関する更なる研究を続けなかった<ref name="fontani"/>。
その翌年、[[イギリス]]の化学者 Gerald J. F. Druce および Frederick H. Loring は、[[硫酸マンガン(II)]]の[[X線]]写真の解析を行い<ref name="vanderkroft"/>、彼らは観測した[[スペクトル線]]をエカ-セシウムであると推定した。彼らは87番目の元素の発見を発表し、それが最も重いアルカリ金属元素であることから ''alkalinium'' という名前を提案した<ref name="fontani"/>。
1930年、[[オーバーン大学]]の{{仮リンク|フレッド・アリソン|en|Fred Allison}}は、[[リチア雲母]]および[[ポルックス石]]を彼の[[磁気光学効果|磁気光学機器]]を用いて解析した際に原子番号87の元素を発見したと主張した。アリソンは、彼の故郷である[[ヴァージニア州]]から ''virginium'' と名付け、その[[原子記号]]を Vi および Vm とするように要請した<ref name="vanderkroft"/><ref>{{cite news| title = Alabamine & Virginium| publisher = TIME| date = 1932-02-15|url = http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,743159,00.html| accessdate = 2007-04-01}}</ref>。しかし、1934年、[[カリフォルニア大学バークレー校]]のH. G. マクファーソンは、アリソンの装置の効果と、この間違った発見の有用性について反証した<ref>{{citation| last = MacPherson| first = H. G.| title = An Investigation of the Magneto-Optic Method of Chemical Analysis| journal = Physical Review| volume = 47| issue = 4| pages = 310–315| publisher = American Physical Society|year=1934|doi = 10.1103/PhysRev.47.310}}</ref>。
1936年、[[ルーマニア]]の化学者{{仮リンク|ホリア・フルベイ|en|Horia Hulubei}}と、彼のフランスの同僚{{仮リンク|イヴェット・コショワ|en|Yvette Cauchois}}もまた、彼らの高解像度X線装置を用いたポルックス石の分析を行った<ref name="fontani"/>。彼らはいくつかの弱い輝線を観測し、それを原子番号87の元素であると推定した。フルベイおよびコショワはこの発見を報告し、彼らが仕事をしていたルーマニアの行政区からその名前を ''moldavium''、原子記号を Ml と提唱した<ref name="vanderkroft"/>。1937年、フルベイの仕事は、フルベイの研究手法を拒絶した[[アメリカ合衆国]]の[[物理学者]] F. H. Hirsh Jr. によって批判された。Hirsh はエカ-セシウムは自然界には存在しないと確信しており、フルベイは[[水銀]]もしくは[[ビスマス]]のX線の輝線を見たのであろうとした。しかしフルベイは、彼のX線装置と手法はそのような取り違いをするにはあまりに精密であると主張した。このため、[[ノーベル物理学賞]]受賞者でありフルベイの師である[[ジャン・ペラン]]は、[[マルグリット・ペレー]]が発見した ''francium'' よりも、エカ-セシウムとしての ''moldavium'' を支持した。しかし、ペレーは、彼女が原子番号87の元素のただ一人の発見者であると信じられるまで、フルベイの仕事を批判し続けた<ref name="fontani"/>。
=== ペレーの分析 ===
フランシウムは、[[マルグリット・ペレー]] (M. Perey) が[[フランス]]の[[パリ]]にある[[キュリー研究所 (パリ)|キュリー研究所]]において[[1939年]]に発見した。彼女が <sup>227</sup>Ac のサンプルを精製した際、220 k[[電子ボルト|eV]]の崩壊エネルギーがあることが報告された。しかし、彼女は80 keV以下のエネルギー準位の崩壊素粒子に着目した。彼女は、このサンプルの崩壊は、精製しきれなかった未確認の崩壊生成物に起因するのかもしれないと考えたが、再び純粋な <sup>227</sup>Ac を用いて試験を行っても同一の結果となった。様々な試験の結果、この未知の物質が[[トリウム]]、[[ラジウム]]、[[鉛]]、[[ビスマス]]、[[タリウム]]である可能性が消去された。この新しい生成物は、セシウム塩と共沈するようなアルカリ金属の化学的性質を示し、<sup>227</sup>Ac の[[アルファ崩壊]]によって生成した、原子番号87の元素であるとペレーは信じた<ref name="chemeducator" />。ペレーはその後、<sup>227</sup>Ac のアルファ崩壊と[[ベータ崩壊]]の割合の測定を試みた。彼女の初めの試験では、アルファ崩壊への分岐は0.6%であり、その後彼女はその数字を1%に修正した<ref name="mcgraw">{{citation| contribution = Francium| year = 2002| title = [[McGraw-Hill Encyclopedia of Science & Technology]]| volume = 7| pages = 493–494| publisher = McGraw-Hill Professional|isbn = 0-07-913665-6}}</ref>。
ペレーは新しい同位体元素をアクチニウム-K(現在は<sup>223</sup>Frとして知られる)と命名した<ref name="chemeducator" />。そして、1946年に、彼女は新しく発見された元素の名前を ''catium'' とするよう提案した。これは、彼女がこの元素が全ての元素の中で最も電気陽性 (cation) であると考えていたためである。ペレーの監督者の一人である[[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]]は、''cation'' よりむしろ ''cat'' の含意のためにその名称に反対した<ref name="chemeducator"/>。ペレーはその後、フランスにちなんだフランシウムという名前を提案した。フランシウムという名称は1949年に[[国際純正・応用化学連合]]によって公式に採用された<ref name="andyscouse" />。フランシウムは初め、元素記号 Fa を割り当てられたが、その後まもなく Fr に修正された<ref name="hackh">{{citation| last = Grant| first = Julius| contribution = Francium| year = 1969| title = Hackh's Chemical Dictionary| pages = 279–280| publisher = McGraw-Hill| isbn = 0-07-024067-1}}</ref>。フランシウムは1925年に発見された[[レニウム]]に続いて発見された、自然界で発見された最後の元素であり、その後発見された元素は全て合成されたものである<ref name="chemeducator" />。フランシウムの構造に関する更なる研究は、1970年代から1980年代にかけて、Sylvain Liebermanおよび彼のチームによって[[欧州原子核研究機構]]において行われた<ref>{{cite web|title = History|work = Francium|publisher = [[State University of New York at Stony Brook]]|date = 2007-02-20|url = http://fr.physics.sunysb.edu/francium_news/history.HTM|accessdate = 2007-03-26|archiveurl = https://archive.is/19990203121919/http://fr.physics.sunysb.edu/francium_news/history.HTM|archivedate = 1999年2月3日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
== 特徴 ==
フランシウムは自然に産出する元素の中で最も不安定な元素である。最も長い半減期を持つフランシウム223でも半減期が22分しかないため、秤量可能な量の単体金属及び化合物として取り出すことがほとんどできない。よってフランシウムの化学的、物理的性質は実験結果として求められた実際の数値は少なく、理論的な推定値が大半を占める。対照的に、自然に産出する元素の中で2番目に不安定な元素であるアスタチンの最大の半減期は8.5時間である<ref name="andyscouse">{{cite web| last = Price| first = Andy| title = Francium| date = 2004-12-20| url = http://www.andyscouse.com/pages/francium.htm| accessdate = 2007-03-25}}</ref>。フランシウムの全ての同位体は崩壊してアスタチン、ラジウムもしくはラドンとなる<ref name="andyscouse"/>。<sup>215m</sup>Frは半減期がわずか3.5ナノ秒しかなく、原子番号105([[ドブニウム]])までの合成された元素の内、最も不安定なものである<ref name="CRC2006">{{citation|year =2006 |title = CRC Handbook of Chemistry and Physics |volume = 4|page= 12|publisher = CRC|isbn= 0-8493-0474-1}}</ref>。単体は銀白色の金属と推定されている。また、フランシウムは高度に[[放射性]]である。
フランシウムは、化学的性質の大部分が[[セシウム]]に似たアルカリ金属元素である<ref name="CRC2006"/>。1個の[[価電子]]を持つとても重い元素であり<ref>{{cite web| last = Winter| first = Mark| title = Electron Configuration| work = Francium| publisher = The University of Sheffield| url = http://www.webelements.com/webelements/elements/text/Fr/eneg.html| accessdate = 2007-04-18}}</ref>、[[化学当量|元素の当量]]は最も大きい<ref name="CRC2006" />。もし単体の金属フランシウムが作られたならば、その融点において[[表面張力]]はおそらく0.05092 [[ニュートン (単位)|N]]/mである<ref>{{citation|last = Kozhitov| first = L. V.| coauthors = Kol'tsov, V. B.; Kol'tsov, A. V.| title = Evaluation of the Surface Tension of Liquid Francium|journal = Inorganic Materials| volume = 39| issue = 11|pages = 1138–1141| year = 2003|doi = 10.1023/A:1027389223381}}</ref>。フランシウムの融点は計算上およそ27 {{℃}}付近になると推定されている<ref name="losalamos">{{cite web| title = Francium| publisher = Los Alamos National Laboratory|date = 2003-12-15| url = http://periodic.lanl.gov/elements/87.html|accessdate = 2007-03-29}}</ref>。しかし、融点はフランシウム元素の非常な希さと放射性のためはっきりと確認されておらず、主張及び推定の域にとどまっている。同様に、推定された677 {{℃}}という沸点もまた未確認である。放射性元素は放熱するため、その熱によって金属フランシウムはほぼ間違いなく液体であると考えられている。
[[ライナス・ポーリング]]は、フランシウムの[[電気陰性度]]を、その値が正しいとするような実験データはないものの、セシウムのもつ0.79という[[電気陰性度#ポーリングの電気陰性度(1932年)|ポーリング・スケール]]からポーリング・スケールで0.7と推測した<ref>{{citation| last = Pauling| first = Linus| title = The Nature of the Chemical Bond (3rd Edn.)| authorlink = Linus Pauling| publisher = Cornell University Press| year = 1960| pages = 93}}</ref><ref>{{citation|author= Allred, A. L. |year= 1961 |journal= J. Inorg. Nucl. Chem.|volume= 17 |issue= 3–4 |pages= 215–221 |title= Electronegativity values from thermochemical data |doi= 10.1016/0022-1902(61)80142-5}}</ref>。フランシウムの[[イオン化エネルギー]]は[[不活性電子対効果]]より想定されるように、セシウムの375.7041(2) k[[ジュール|J]]/molよりわずかに高い392.811(4) kJ/molであり<ref>{{citation|author = Andreev, S.V.; Letokhov, V.S.; Mishin, V.I.,|title = Laser resonance photoionization spectroscopy of Rydberg levels in Fr|journal = [[Physical Review Letters]]|year = 1987|volume = 59|pages = 1274–76|doi = 10.1103/PhysRevLett.59.1274|pmid=10035190|bibcode=1987PhRvL..59.1274A}}</ref>、これはセシウムがフランシウムよりも電気陰性度が低いことを示唆している。
過塩素酸セシウムと[[共沈法|共沈]]させることによってごく少量の過塩素酸フランシウムが得られる。この共沈物はL. E. グレンダナンおよびC. M. ネルソンによる放射性セシウムの共沈法を適用することによってフランシウムを分離するのに用いることができる。それはまた、[[ヨウ素酸]]塩、[[ピクリン酸]]塩、[[酒石酸]]塩(酒石酸ルビジウムも)、[[ヘキサクロロ白金酸]]塩、タングストケイ酸などを含む、他の多くのセシウム塩と共沈させる事ができる。タングストケイ酸および過塩素酸塩による共沈もまた、担体としての他のアルカリ金属なしにフランシウムを分離する方法を提供する<ref>{{citation|last= Hyde |first= E. K. |title= Radiochemical Methods for the Isolation of Element 87 (Francium) |journal= [[J. Am. Chem. Soc.]] |year= 1952 |volume= 74 |issue= 16 |pages= 4181–4184 |doi= 10.1021/ja01136a066}}</ref><ref>E. N K. Hyde ''Radiochemistry of Francium'',Subcommittee on Radiochemistry, National Academy of Sciences-National Research Council; available from the Office of Technical Services, Dept. of Commerce, 1960.</ref>。ほとんど全てのフランシウム塩は水溶性である<ref>{{citation|author=Maddock, A. G. |title=Radioactivity of the heavy elements|journal=Q. Rev., Chem. Soc.|year=1951|volume=3|pages=270–314|doi=10.1039/QR9510500270}}</ref>。
== 用途 ==
フランシウムの不安定さと希少性ゆえに、市販されたとしても用途はなく<ref>{{cite web| last = Winter| first = Mark| title = Uses| work = Francium| publisher = The University of Sheffield|url = http://www.webelements.com/webelements/elements/text/Fr/uses.html| accessdate = 2007-03-25}}</ref><ref name="s">{{cite web| last = Bentor| first = Yinon| title = Chemical Element.com - Francium| url = http://www.chemicalelements.com/elements/fr.html| accessdate = 2007-03-25}}</ref><ref name="nbb">{{citation| last = Emsley|url=https://books.google.co.jp/books?id=Yhi5X7OwuGkC&pg=PA151&redir_esc=y&hl=ja| first = John| title = Nature's Building Blocks| publisher = Oxford University Press| year = 2001| location = Oxford| pages = 151–153| isbn = 0-19-850341-5}}</ref><ref name="elemental">{{cite web| last = Gagnon| first = Steve| title = Francium| publisher = Jefferson Science Associates, LLC| url = http://education.jlab.org/itselemental/ele087.html| accessdate = 2007-04-01}}</ref><ref name="nostrand332">{{citation|year = 2005|title= Chemical Elements, in Van Nostrand's Encyclopedia of Chemistry|editor-last = Considine| editor-first = Glenn D.|page=332|location= New York| publisher = Wiley-Interscience| isbn = 0-471-61525-0}}</ref>、生物学<ref name='bio'>{{citation| last = Haverlock|first = TJ|pmid = 12553788|doi= 10.1021/ja0255251|title = Selectivity of calix[4]arene-bis(benzocrown-6) in the complexation and transport of francium ion|journal = J Am Chem Soc|year = 2003|volume=125|pages=1126–7| last2 = Mirzadeh| first2 = S| last3 = Moyer| first3 = BA| issue = 5}}</ref>および原子構造の分野における研究目的で用いられるのみである。かつてさまざまな[[がん]]の潜在的な診断補助の用途も検討された<ref name="andyscouse" />が、この用途においても実用的でないとみなされた<ref name="nbb" />。
合成、捕集、冷却されたフランシウムの比較的単純な原子構造を専門的な[[分光学]]実験の対象に利用され、これらの実験により原子を構成する[[素粒子]]同士の[[結合定数 (物理学)|結合定数]]や[[エネルギー準位]]に関する情報の特定につながった<ref>{{citation| last = Gomez| first = E| coauthors = Orozco, L A, and Sprouse, G D| title = Spectroscopy with trapped francium: advances and perspectives for weak interaction studies| journal = Rep. Prog. Phys.| volume = 69| issue = 1| pages = 79–118| date = 2005-11-07|doi = 10.1088/0034-4885/69/1/R02}}</ref>。[[光ピンセット|レーザートラッピング]]された <sup>210</sup>Fr イオンによる発光の研究は、[[量子力学]]によって予測された値と非常に類似した、原子エネルギー準位間の遷移の正確なデータを与えた<ref>{{citation|last = Peterson|first = I|title = Creating, cooling, trapping francium atoms|page= 294|journal= Science News|date = 1996-05-11|url = http://www.sciencenews.org/pages/pdfs/data/1996/149-19/14919-06.pdf|accessdate = 2009-09-11|volume=149|issue=19}}</ref>。
== 存在 ==
[[File:Pichblende.jpg|thumb|この[[閃ウラン鉱]]のサンプルはおよそ100,000個のフランシウム原子 (3.3 × 10<sup>-20</sup> g) を常に含んでいる<ref name="nbb" />。|alt=A shiny gray 5-centimeter piece of matter with a rough surface.]]
=== 自然界 ===
<sup>223</sup>Fr は、<sup>227</sup>Ac のアルファ崩壊によって生産されるため、[[ウラン]]および[[トリウム]][[鉱石]]中に痕跡量存在している<ref name="CRC2006" />。ウランのサンプル中には、ウラン原子1 × 10<sup>18</sup>個中に1個のフランシウム原子が存在していると推定される<ref name="nbb" />。また、[[地殻]]中には常に多くても30 gのフランシウムが存在していると算出されている<ref>{{cite web|last = Winter|first = Mark|title = Geological information|work = Francium|publisher = The University of Sheffield|url = http://www.webelements.com/webelements/elements/text/Fr/geol.html|accessdate = 2007-03-26}}</ref>。フランシウムは、地殻中において[[アスタチン]]に次いで2番目に存在量の少ない元素である<ref name="andyscouse" /><ref name="nbb" />([[地殻中の元素の存在度]]も参照)。
=== 合成 ===
フランシウムは[[核反応]]によって合成することができる。
: <chem>^{197}_{79}Au{} + {}^{18}_8 O -> {}^{210}_{87}Fr{} + 5^{1}_{0}\mathit{n}</chem>
このプロセスは[[ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校]]物理学科によって開発され、209、210、211のフランシウムの同位体を生じさせる<ref name="sbproduction">{{cite web| title = Production of Francium| work = Francium| publisher = [[State University of New York at Stony Brook]]| date = 2007-02-20| url = http://fr.physics.sunysb.edu/francium_news/production.HTM| accessdate = 2007-03-26| archiveurl = https://archive.is/20071012010344/http://fr.physics.sunysb.edu/francium_news/production.HTM| archivedate = 2007年10月12日| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。これらは[[磁気光学効果|磁気光学トラップ]] (MOT) によって分離される<ref name="sbtrapping">{{cite web| title = Cooling and Trapping| work = Francium| publisher = [[State University of New York at Stony Brook]]| date = 2007-02-20| url = http://fr.physics.sunysb.edu/francium_news/trapping.HTM| accessdate = 2007-05-01| archiveurl = https://archive.is/20071122170110/http://fr.physics.sunysb.edu/francium_news/trapping.HTM| archivedate = 2007年11月22日| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。特定の同位体の生産率は酸素ビームのエネルギーに依存する。ニューヨーク州立大学ストーニブルック校の電子・陽電子線形加速器 (LINAC) から放たれた <sup>18</sup>O ビームは、[[金]]のターゲットにおける核反応によって <sup>210</sup>Fr を合成する。この生産は、理解と発展にいくらかの時間を要した。金のターゲットを融点の非常に近くまで操作し、その表面が非常に清浄であることを確認することが重要であった。核反応は、フランシウム原子を金のターゲットの奥深くに埋め込み、それを効率的に除去しなければならなかった。その原子は金のターゲットの表面を素早く拡散し、イオンとして放出されるが、毎回起こるわけではない。フランシウムイオンは静電レンズによって、熱された[[イットリウム]]上に誘導され、再び電気的に中性となる。その後、フランシウムはガラス球に注入される。磁場とレーザービームによって冷却され、ガラス球中に留められる。とはいえ、元素を留めておくことができるのはフランシウム原子が逃げるか崩壊する前のわずか20秒ほどだけであり、新しい原子の規則的な流れが失われた原子を置き換えることで、数分以上の間一定数の原子の数を保つことができる。当初の実験においては、およそ1,000個のフランシウム原子がトラップされた。この方法は徐々に改善され、一度に300,000を超える中性のフランシウム原子をトラップできるだけの能力に改善された<ref name=chemnews>{{citation|url=http://pubs.acs.org/cen/80th/francium.html|title=Francium|journal=Chemical and Engineering News|year=2003|author=Luis A. Orozco }}</ref>。これらは中性な金属原子(フランシウム金属)であるとされているものの、結合していないバラバラな気体状態になっている。フランシウム原子によって放たれる光を蛍光として[[ビデオカメラ]]で捕らえることができるのに十分な量のフランシウムがトラップされた。原子は直径1ミリメートルの赤熱した球として現れた。これは人類がフランシウムを見た最初の瞬間であった。研究者は、トラップされた原子による発光と吸収を測定するための非常に敏感な測定器を作り、フランシウムにおける原子エネルギー準位間のさまざまな遷移に関する初めての実験結果を得た。始めの測定結果は、量子論に基づく計算値との間で非常に良い一致を示した。他の合成方法は、ラジウムを[[中性子]]で攻撃する、トリウムを[[陽子]]、[[重陽子]]もしくは[[ヘリウム]]イオンで攻撃する方法が含まれる<ref name="mcgraw">{{citation| contribution = Francium| year = 2002| title = [[McGraw-Hill Encyclopedia of Science & Technology]]| volume = 7| pages = 493–494| publisher = McGraw-Hill Professional|isbn = 0-07-913665-6}}</ref>。フランシウムは、2012年現在、まだ十分に多くの重量は合成されていない<ref name="andyscouse" /><ref name="CRC2006" /><ref name="losalamos">{{cite web| title = Francium| publisher = Los Alamos National Laboratory|date = 2003-12-15| url = http://periodic.lanl.gov/elements/87.html|accessdate = 2007-03-29}}</ref><ref name="nbb" />。
== 同位体 ==
{{main|フランシウムの同位体}}
フランシウムは34の同位体が知られており、その質量範囲はフランシウム199からフランシウム232までである<ref name="CRC2006-2">{{citation|year = 2006 |title = CRC Handbook of Chemistry and Physics |editor-last = Lide |editor-first = David R. |volume = 11 |pages = 180–181 |publisher = CRC |isbn=0-8493-0487-3}}</ref>。フランシウムは七つの準安定核同位体を有している<ref name="CRC2006-2" />。安定同位体は存在せず、非常に不安定な元素である。<sup>223</sup>Fr および <sup>221</sup>Fr のみが自然に存在する同位体であり、前者の方がはるかに一般的である<ref name="nostrand679">{{citation|year = 2005|title= Francium, in Van Nostrand's Encyclopedia of Chemistry|editor-last = Considine| editor-first = Glenn D.| page= 679|location= New York| publisher = Wiley-Interscience| isbn = 0-471-61525-0}}</ref>。
半減期21.8分の <sup>223</sup>Fr が最も安定であり<ref name="CRC2006-2" />、これまでに発見および合成されたフランシウムの同位体で、これより長い半減期を持つものは非常にありそうにない<ref name="mcgraw" />。<sup>223</sup>Fr は[[アクチニウム系列]]における5番目の生成元素であり、その後大部分はベータ崩壊によって1149 keVの崩壊エネルギーとともに <sup>223</sup>Ra へと崩壊し、0.006%はアルファ崩壊の経路によって5.4 MeVの崩壊熱と共に <sup>219</sup>At へと崩壊する<ref>{{cite web |author=National Nuclear Data Center |year=1990 |title=Table of Isotopes decay data |url=http://ie.lbl.gov/toi/nuclide.asp?iZA=870223 |publisher=[[Brookhaven National Laboratory]] |accessdate=2007-04-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061031212436/http://ie.lbl.gov/toi/nuclide.asp?iZA=870223 |archivedate=2006年10月31日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
<sup>221</sup>Fr は4.8分の半減期を有している<ref name="CRC2006-2" />。それは[[ネプツニウム系列]]の9番目の生成元素であり、<sup>225</sup>Ac の娘核種である<ref name="nostrand332" />。<sup>221</sup>Fr はα崩壊によって6.457 MeVの崩壊熱と共に <sup>217</sup>At へと崩壊する<ref name="CRC2006-2" />。
最も不安定な[[基底状態]]の同位元素は <sup>221</sup>Fr であり、0.12マイクロ秒の半減期を有し、9.54 MeVの崩壊熱と共に <sup>211</sup>At へと崩壊する<ref name="CRC2006-2" />。準安定状態の[[核異性体]]である <sup>215m</sup>Fr はさらに不安定であり、その半減期はわずか3.5ナノ秒である<ref name="NNDClist">{{cite web |author=National Nuclear Data Center |year=2003 |title=Fr Isotopes |url=http://ie.lbl.gov/education/parent/Fr_iso.htm |publisher=[[Brookhaven National Laboratory]] |accessdate=2007-04-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070630041029/http://ie.lbl.gov/education/parent/Fr_iso.htm |archivedate=2007年6月30日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Commons-inline|Francium}}
{{元素周期表}}
{{フランシウムの化合物}}
{{Normdaten}}
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10,091 |
日高町 (兵庫県)
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日高町(ひだかちょう)は、かつて兵庫県の北中部にあった町。旧気多郡。本項では、町制前の名称でもある日高村(ひだかむら)についても述べる。
2005年(平成17年)4月1日、豊岡市、城崎郡城崎町・竹野町、出石郡出石町・但東町と合併して新たに豊岡市が発足し、日高町は廃止された。
日高町東部を円山川が北流する。町西部には神鍋高原があり、複数のスキー場がある。神辺高原には植村直己記念館がある。冬季は日高町全体に積雪があるが、1月に集中的に積雪した後、2・3月はあまり降雪しない傾向にある。
神鍋高原はスイカとキャベツの栽培に適した気候であり、かつてはスイカ、キャベツ、イチゴの特産地であった。
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日高町(ひだかちょう)は、かつて兵庫県の北中部にあった町。旧気多郡。本項では、町制前の名称でもある日高村(ひだかむら)についても述べる。 2005年(平成17年)4月1日、豊岡市、城崎郡城崎町・竹野町、出石郡出石町・但東町と合併して新たに豊岡市が発足し、日高町は廃止された。
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{{日本の町村 (廃止)
| 画像 = ファイル:130914_Uemura_Naomi_Memorial_Museum_Toyooka_Hyogo_pref_Japan01s3.jpg
| 画像の説明 = [[植村直己冒険館]]
| 旗 = [[ファイル:Flag_of_Hidaka_Hyogo.JPG|100px|border|日高町旗]]
| 旗の説明 = 日高[[市町村旗|町旗]]
| 紋章 = [[ファイル:Hidaka_Hyogo_chapter.JPG|70px|日高町章]]
| 紋章の説明 = 日高[[市町村章|町章]]
| 廃止日 = 2005年4月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = 豊岡市、[[城崎町]]、[[竹野町]]、'''日高町'''、[[出石町]]、[[但東町]] → [[豊岡市]]
| 現在の自治体 = [[豊岡市]]
| よみがな = ひだかちょう
| 自治体名 = 日高町
| 区分 = 町
| 都道府県 = 兵庫県
| 郡 = [[城崎郡]]
| コード = 28544-8
| 面積 = 150.24
| 境界未定 = なし
| 人口 = 18025
| 人口の出典 = [[推計人口]]
| 人口の時点 = 2005年3月1日
| 隣接自治体 = [[豊岡市]]、[[養父市]]、[[竹野町]]、[[出石町]]、[[村岡町]]
| 木 = [[カエデ|モミジ]]
| 花 = [[シャクナゲ]]・[[ツツジ]]
| シンボル名 =
| 鳥など =
| 郵便番号 = 669-5305
| 所在地 = 城崎郡日高町祢布920<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=旧・日高町役場庁舎位置<br />(現・豊岡市日高支所)}}
|座標 = {{Coord|format=dms|type:city(18025)_region:JP-28|display=inline,title|name=日高町}}
| 位置画像 = [[ファイル:Hyogo Hidaka-town.png|right|兵庫県日高町 位置図]]
| 特記事項 =
}}
'''日高町'''(ひだかちょう)は、かつて[[兵庫県]]の北中部にあった[[町]]。旧[[気多郡 (兵庫県)|気多郡]]。本項では、町制前の名称でもある'''日高村'''(ひだかむら)についても述べる。
2005年(平成17年)4月1日、[[豊岡市]]、[[城崎郡]][[城崎町]]・[[竹野町]]、[[出石郡]][[出石町]]・[[但東町]]と合併して新たに[[豊岡市]]が発足し、日高町は廃止された。
== 地理 ==
日高町東部を[[円山川]]が北流する。町西部には[[神鍋高原]]があり、複数の[[スキー場]]がある。神辺高原には植村直己記念館がある。{{要出典範囲|冬季は日高町全体に積雪があるが、1月に集中的に積雪した後、2・3月はあまり降雪しない傾向にある。|date=2021-01}}
神鍋高原は[[スイカ]]と[[キャベツ]]の栽培に適した気候であり、かつてはスイカ、キャベツ、イチゴの特産地であった。
=== 隣接していた自治体 ===
* [[豊岡市]]
* [[出石郡]][[出石町]]
* [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]][[八鹿町]]
* [[城崎郡]][[竹野町]]
* [[美方郡]][[村岡町]]
== 歴史 ==
* 1889年([[明治]]22年)4月1日 - [[町村制]]の施行により、[[気多郡 (兵庫県)|気多郡]]久田谷村・道場村・夏栗村・久斗村・岩中村・宵田村・江原村・日置村・鶴岡村・祢布村・国保村・水上村・山本村の区域をもって'''日高村'''が発足。
* 1896年(明治39年)4月1日 - 日高村の所属郡が[[城崎郡]]に変更。
* 1925年([[大正]]14年)11月1日 - 日高村が町制施行して'''日高町'''となる。
* 1955年([[昭和]]30年)2月1日 - [[養父郡 (兵庫県)|養父郡]][[宿南村]]([[大字]]赤崎・浅倉)の一部を編入。
* 1955年(昭和30年)3月25日 - [[国府村 (兵庫県)|国府村]]・[[八代村 (兵庫県)|八代村]]・[[三方村 (兵庫県城崎郡)|三方村]]・[[西気村]]・[[清滝村 (兵庫県)|清滝村]]と合併し、改めて'''日高町'''が発足。
* 1958年(昭和33年)1月1日 - 大字上佐野が[[豊岡市]]に編入される。
* 2005年([[平成]]17年)4月1日 - 豊岡市・[[城崎町]]・[[竹野町]]・[[出石郡]][[出石町]]・[[但東町]]と合併し、改めて'''[[豊岡市]]'''が発足。同日日高町廃止。
== 経済 ==
=== 特産品 ===
* 虹鱒
* タバコ
* 製畳
* 木製ハンガー
* はちみつ
* キャベツ
* スイカ
* イチゴ
=== スキー場 ===
* [[名色スキー場]]
* [[万場スキー場]]
* [[奥神鍋スキー場]]
* [[大岡山スキー場]]
* [[アップかんなべスキー場]]
* [[アルペンローズ]](神鍋高原)
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
* [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]
** [[山陰本線]]:[[江原駅]] - [[国府駅 (兵庫県)|国府駅]]
=== 道路 ===
* [[一般国道]]
** [[国道312号]]
** [[国道482号]]
* 県道
** [[兵庫県道1号日高竹野線]]
** [[兵庫県道249号府市場伏線]]
** [[兵庫県道250号藤井上石線]]
** [[兵庫県道258号山田日高線]]
** [[兵庫県道259号耀山日高線]]
** [[兵庫県道268号十戸養父線]]
** [[兵庫県道529号八代石井線]]
** [[兵庫県道713号豊岡日高線]]
== 教育 ==
=== 小学校 ===
* [[豊岡市立清滝小学校|日高町立清滝小学校]]
* [[豊岡市立静修小学校|日高町立静修小学校]]
* [[豊岡市立西気小学校|日高町立西気小学校]]
* [[豊岡市立日高小学校|日高町立日高小学校]]
* [[豊岡市立府中小学校|日高町立府中小学校]]
* [[豊岡市立三方小学校|日高町立三方小学校]]
* [[豊岡市立八代小学校|日高町立八代小学校]]
=== 中学校 ===
* [[豊岡市立日高西中学校|日高町立日高西中学校]]
* [[豊岡市立日高東中学校|日高町立日高東中学校]]
=== 高等学校 ===
* [[兵庫県立日高高等学校]]
== 出身・ゆかりのある人物 ==
* [[今井雅之]] - 俳優。
* [[植村直己]] - 冒険家。
* [[友田一郎]] - 政治家。兵庫県会議員、同議長<ref>[http://web.pref.hyogo.lg.jp/gikai/gichofukugicho/rekidai.html 歴代の議長・副議長]兵庫県議会サイト。2022年7月13日閲覧。</ref>。[[但馬銀行]]監査役。
* [[友田二郎]] - 外交官。[[憲仁親王妃久子]]の母方祖父。
* [[ユリオカ超特Q]] - 漫談家。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[兵庫県の廃止市町村一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|url=http://www.town-hidaka.com/|title=兵庫県日高町|publisher=日高町|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050324001634/http://www.town-hidaka.com/|archivedate=2005-03-24|accessdate=2020-11-16}}
{{Normdaten}}
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[[Category:城崎郡]]
[[Category:豊岡市域の廃止市町村]]
[[Category:合成地名]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1955年設置の日本の市町村]]
[[Category:2005年廃止の日本の市町村]]
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10,097 |
二十八宿
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二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球を28のエリア(星宿)に不均等分割したものであり、二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)の事である。二十七宿・十二直などと共に使用されることが多い。
中国の天文学・占星術で用いられた。江戸時代には二十八宿を含む多くの出版物が出され、当時は天文、暦、風俗が一体になっていたことが多くの古文書から読み取ることができる。28という数字は月の任意の恒星に対する公転周期(恒星月)である27.32日に由来すると考えられ、1日の間に月は1つのエリアを通過すると仮定している。
二十八宿は二十七宿よりも歴史が古いという説があり、二十八宿は中国にて誕生し、使用されていたが、インドへ伝わった後にヒンドゥー教の牛を神聖な存在とする宗教上理由から牛宿が除外され、バビロニア占星術などが関連した上で二十七宿となって中国に戻ってきたという。
また二十七宿は物理的な整合性が欠如しており、二十八宿がホロスコープなどの月の動きと連動している事に対し、二十七宿では牛宿が存在しないために月の動きとズレが生じる。
天文学においては角宿を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、均等区分の十二次と共に天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられた。27と28は太陽暦における恒星月の日数であり、アラブ・ペルシャではこれを半分にして13と14に分け(2週間毎の白道と黄道の交差周期による)、合計365日とし、太陰暦と併用した。中国における二十八宿の星座は4方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神または四陸ともいう)に分けられた。二十八宿はそれぞれの宿の西端の星(距星という。必ずしも明るいとは限らない)を基準とし、その距星から東隣の宿の距星までがその宿の広度(赤経差)となる。『漢書』「律暦志」 以降、二十八宿は度数を以て表されたが、その周天度は360度ではなく、1太陽年の長さである365度で表された。この場合、正確には365度に4分の1程度の端数が生じる訳で、その端数は全て斗宿の広度に含められ、これを斗分と呼んだ。太初暦の場合は斗分は1539分の385であった。一方で宿内における天体の位置は入宿度と呼ばれる距星からの度数(赤経差)と、去極度と呼ばれる天の北極からの度数(北極距離(赤緯の余角))によって表される赤道座標の一種であった。考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは1978年に湖北省随県で発掘された戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓(曾国の乙侯の墓)から出た物が最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった。日本における最初の二十八宿図は7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神の図と共に見つかっており、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことをうかがわせる。
暦注においてインド占星術やその流れを汲む宿曜道では、二十八宿と同様に恒星月に基づく二十七宿を用いており(密教占星術)、中国系の「七政四余」等とはルーツが異なる。日本の和暦の暦注においても宿曜道に基づく二十七宿が書かれていた(「古法」)。江戸幕府の天文方渋川春海による貞享2年(1685年)の改暦で貞享暦が採用された。別名を大和暦ともいうが、日本古来の暦法ではなく、インド・アラブ・ペルシャ天文学の成果を取り入れた元朝の授時暦を渋川が独自の天体観測に基づいて改良した当時最新の暦法である。この貞享暦においては二十七宿が廃され、牛宿(距星に関して、インド星座のAbhijit、アラビア星座のSa'ad ad-Dhābiḥに対応する)を持つ二十八宿に変更された。この際、貞享2年正月朔日、日曜日を星宿とした。この日が星宿にあたるとされた理由は不明。『清史稿』(1928)巻28 天文志3の「康熙甲子年(1684)黄道十二次初度値宿」の条は、木星座標=十二次の降婁戌次の値宿を星宿と記す。渋川は、あるいは木星座標の鏡像となる太歳座標の1685年の値宿を星宿と計算したか、あるいはこの日が日曜日であるため、下表の対応に基づき星宿としたか。ステラナビゲータなどのソフトウエアによる計算では、貞享2年=1685年旧暦正月朔日(グレゴリウス暦2月4日、日曜日)夜の木星座標=十二次は寿星と大火の間にあり、最寄りの二十八宿は角宿であり、その距星はおとめ座α星(スピカ/As-Simāk al-ʼAʽzal)であるため、天球上で北東(室宿)と南西(翼宿)を結ぶ直線を引いた場合に、星宿(うみへび座α星(アルファルド/Al-Fard))と角宿(スピカ/As-Simāk al-ʼAʽzal)は互いに鏡像の位置にある。貞享2年正月朔日(星宿)以降、天体観測に基づくことなく下表のサイクルが永遠に繰り返されている。28は7の倍数であり、12との間に公約数を持つため、上記の通り、曜日や日の十二支に密接な関連がある。
二十八宿を七曜で分類し、28種の動物に喩えるという占いの手法は古代中国の占術家の間で盛んで行われ、「禽星」とも呼び、これを利用して占うことは「演禽」(演禽風水)と呼ぶ。明の池本理撰『禽星易見』などによると、以下の表のような関係がある。
このうち地球から観測する場合、歳星である木星は約12年の周期で黄道を一周し、子年からの順で毎年の最初にそれぞれ虚宿、牛宿、尾宿、房宿、亢宿、翼宿、星宿、鬼宿、觜宿、昴宿、婁宿、室宿の方向で出現するため、金曜、日曜、火曜の3列の動物は十二支の生肖になるという説がある。
中国の民間信仰で後漢光武帝の時代に活躍していた雲台二十八将の前世は二十八宿だったという伝説があるため、廟で祀ることもある。この場合は李哪吒は中壇元帥として二十八宿を統領する。
日蓮宗では祈祷に界縄で二十八宿幣を用いるが、明治以前にはこれは吉田神道との交流で独自発展した三十番神の三十番神幣(注連)であった。
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"tag": "p",
"text": "二十八宿を七曜で分類し、28種の動物に喩えるという占いの手法は古代中国の占術家の間で盛んで行われ、「禽星」とも呼び、これを利用して占うことは「演禽」(演禽風水)と呼ぶ。明の池本理撰『禽星易見』などによると、以下の表のような関係がある。",
"title": "二十八宿に関する文化"
},
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"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "このうち地球から観測する場合、歳星である木星は約12年の周期で黄道を一周し、子年からの順で毎年の最初にそれぞれ虚宿、牛宿、尾宿、房宿、亢宿、翼宿、星宿、鬼宿、觜宿、昴宿、婁宿、室宿の方向で出現するため、金曜、日曜、火曜の3列の動物は十二支の生肖になるという説がある。",
"title": "二十八宿に関する文化"
},
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"text": "中国の民間信仰で後漢光武帝の時代に活躍していた雲台二十八将の前世は二十八宿だったという伝説があるため、廟で祀ることもある。この場合は李哪吒は中壇元帥として二十八宿を統領する。",
"title": "二十八宿に関する文化"
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"text": "日蓮宗では祈祷に界縄で二十八宿幣を用いるが、明治以前にはこれは吉田神道との交流で独自発展した三十番神の三十番神幣(注連)であった。",
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] |
二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球を28のエリア(星宿)に不均等分割したものであり、二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)の事である。二十七宿・十二直などと共に使用されることが多い。
|
{{二十八宿}}
'''二十八宿'''(にじゅうはっしゅく{{efn2|二十八宿の 「宿」 の字音は本来[[去声]]の 「シュウ」(中古拼音 siuh、現在の拼音はxiù)であって、[[入声]]の「シュク」(現在の拼音はsù)ではないとされている。しかし、現在では一般に 「にじゅうはっしゅく」 と呼ばれている。}})とは、[[天球]]を28のエリア([[月宿|星宿]])に不均等分割したものであり、'''二十八舎'''(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった[[天の赤道]]付近の28の[[星座]](中国では[[星官]]・天官といった)の事である。[[二十七宿]]・[[十二直]]などと共に使用されることが多い。
== 概要 ==
[[中国]]の[[天文学]]・[[占星術]]で用いられた。江戸時代には二十八宿を含む多くの出版物が出され、当時は[[天文道|天文]]、[[暦道|暦]]、[[風俗]]が一体になっていたことが多くの古文書から読み取ることができる。28という数字は月の任意の恒星に対する公転周期([[恒星月]])である27.32日に由来すると考えられ、1日の間に月は1つのエリアを通過すると仮定している。
二十八宿は[[二十七宿]]よりも歴史が古いという説があり、二十八宿は中国にて誕生し、使用されていたが、インドへ伝わった後に[[ヒンドゥー教]]の牛を神聖な存在とする宗教上理由から牛宿が除外され<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=十二直と二十八宿どっちを参考にしたらいい?違いは何? |url=https://web.archive.org/web/20220927142835/https://sk-imedia.com/32603 |website=web.archive.org |date=2022-09-27 |access-date=2023-01-14}}</ref>、[[占星術|バビロニア占星術]]などが関連した上で二十七宿となって中国に戻ってきたという<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=暦の素朴な疑問・二十八宿と二十七宿? |url=https://web.archive.org/web/20230115030845/http://koyomi8.com/doc/mlwa/202007040.htm |website=web.archive.org |date=2023-01-15 |access-date=2023-01-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=二十八宿と二十七宿が同じ? |url=https://web.archive.org/web/20210922073752/http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/200708030.htm |website=web.archive.org |date=2021-09-22 |access-date=2023-01-14}}</ref>。
また二十七宿は物理的な整合性が欠如しており、二十八宿が[[ホロスコープ]]などの月の動き<ref>{{Cite web|和書|title=暦Wiki/二十八宿 - 国立天文台暦計算室 |url=https://web.archive.org/web/20220818005306/http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C6F3BDBDC8ACBDC9.html |website=web.archive.org |date=2022-08-18 |access-date=2023-01-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=暦と二十八宿の関係 |url=https://web.archive.org/web/20140918232656/http://koyomi8.com/doc/mlwa/200809110.htm |website=web.archive.org |date=2014-09-18 |access-date=2023-01-15}}</ref>と連動している事に対し、二十七宿では牛宿が存在しないために月の動きとズレが生じる。
天文学においては[[角宿]]を起宿として[[天球]]を西から東に不均等分割したもので、均等区分の[[十二次]]と共に[[天体]]の位置を表示する経度方向の[[座標]]として用いられた。27と28は太陽暦における恒星月の日数であり、アラブ・ペルシャではこれを半分にして13と14に分け(2週間毎の白道と黄道の交差周期による)、合計365日とし、太陰暦と併用した。中国における二十八宿の星座は4方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、[[青竜|東方青龍]]・[[玄武|北方玄武]]・[[白虎|西方白虎]]・[[朱雀|南方朱雀]]の[[四神|四象]](四神または四陸ともいう)に分けられた。二十八宿はそれぞれの宿の西端の星('''距星'''という。必ずしも明るいとは限らない)を基準とし、その距星から東隣の宿の距星までがその宿の広度([[赤経]]差)となる。『[[漢書]]』「律暦志」 以降、二十八宿は度数を以て表されたが、その周天度は360度ではなく、1[[太陽年]]の長さである365度で表された。この場合、正確には365度に4分の1程度の端数が生じる訳で、その端数は全て斗宿の広度に含められ、これを'''斗分'''と呼んだ。[[太初暦]]の場合は斗分は1539分の385であった。一方で宿内における天体の位置は'''入宿度'''と呼ばれる距星からの度数(赤経差)と、'''去極度'''と呼ばれる[[天の北極]]からの度数([[北極距離]]([[赤緯]]の[[余角]]))によって表される[[赤道座標]]の一種であった。考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは1978年に[[湖北省]]随県で発掘された[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]初期([[紀元前5世紀]]後半)の[[曾侯乙墓]]([[曾]]国の[[乙侯]]の墓)から出た物が最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった<ref>{{cite journal|和書|last=劉|first=信芳|title=曾侯乙墓衣箱上的宇宙圖式|others= 大櫛敦弘、遠藤隆俊 (訳)|journal=高知大学学術研究報告 人文科学編|publisher=[[高知大学]]|year=2006|number=55|pages=71-81|ISSN=0389-0457|quote=曾侯乙墓より出土した五件の衣箱のうち、この一件(標本E66)の箱蓋上には二十八宿の名称が記されており、蓋面の右側には一匹の青龍が、左側には一匹の白虎が描かれている。}} 含 日本語・英語要旨 </ref>。日本における最初の二十八宿図は7世紀から8世紀頃に造られた[[高松塚古墳]]や[[キトラ古墳]]の[[壁画]]で[[白虎]]などの四神の図と共に見つかっており<ref>{{cite journal|和書|author=佐藤明達|title=高松塚古墳と「星座の親しみ」|journal=天界|ISSN=0287-6906|publisher=東亜天文学会|date=1981-09|volume=62|number=676|pages=p239-242|}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=佐藤明達|title=高松塚古墳と「星座の親しみ」補遺|journal=天界|ISSN=02876906|publisher=東亜天文学会|date=1982-07|volume=63|number=686|pages=p181-183}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author1=河津秀明|author2=真貝寿明|title=古星図に見る歴史と文化--高松塚古墳に描かれた28星宿を示すアプリケーションの制作|journal=天文教育|ISSN=1346-616X|publisher=天文教育普及研究会|date=2008-05|volume=20|number=3|pages=45-51}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=廣瀬覚|title=001 高松塚古墳の墳丘仮整備工事が竣工|journal=奈文研ニュース|publisher=独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所|date=2009-12|number=35|pages=1-1}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=成田聖|title=009 飛鳥資料館 春期特別展「星々と日月の考古学」|journal=奈文研ニュース|publisher=独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所|date=2011-03|number=40|pages=8-8}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=相原嘉之|title=書評と紹介 泉武著『キトラ・高松塚古墳の星宿図』|journal=日本歴史|ISSN=0386-9164|publisher=吉川弘文館|year=2018-11|number=846|pages=89-91}}</ref>、[[中国]]の天文学体系がこの頃には渡来していたことをうかがわせる。[[ファイル:28 xiu.svg|thumb|二十八宿]]
[[File:Suzhou star cartography.jpg|thumb|蘇州石刻天文図(復元、13世紀)内側の円から内規、[[天の赤道]]、外規。天の赤道から左上にずれた円が[[黄道]]。]]
暦注において[[インド占星術]]やその流れを汲む[[宿曜道]]では、二十八宿と同様に恒星月に基づく二十七宿を用いており(密教占星術)、中国系の「[[七政四余]]」等とはルーツが異なる<ref>[[森田龍遷]]は『密教占星法』( [[高野山大学]]出版部、[[1941年]])の中で「(密教占星術は)二十七宿が正当でこちらを使用するべき」と色々な文献を上げて解説している。</ref>。日本の[[和暦]]の[[暦注]]においても宿曜道に基づく二十七宿が書かれていた(「古法」)。[[江戸幕府]]の[[天文方]][[渋川春海]]による[[貞享]]2年([[1685年]])の改暦で[[貞享暦]]が採用された。別名を[[大和暦]]ともいうが、日本古来の暦法ではなく、インド・アラブ・ペルシャ天文学の成果を取り入れた[[元朝]]の[[授時暦]]を渋川が独自の天体観測に基づいて改良した当時最新の暦法である。この貞享暦においては二十七宿が廃され、牛宿(距星に関して、インド星座のAbhijit、アラビア星座のSa'ad ad-Dhābiḥに対応する)を持つ二十八宿に変更された。この際、貞享2年正月[[朔]]日、日曜日を星宿とした。この日が星宿にあたるとされた理由は不明。『清史稿』(1928)巻28 天文志3の「康熙甲子年(1684)黄道十二次初度値宿」の条は、木星座標=十二次の降婁戌次の値宿を星宿と記す。渋川は、あるいは木星座標の鏡像となる太歳座標の1685年の値宿を星宿と計算したか、あるいはこの日が日曜日であるため、下表の対応に基づき星宿としたか。ステラナビゲータなどのソフトウエアによる計算では、貞享2年=1685年旧暦正月[[朔]]日(グレゴリウス暦2月4日、日曜日)夜の木星座標=十二次は寿星と大火の間にあり、最寄りの二十八宿は角宿であり、その距星は[[スピカ|おとめ座α星]](スピカ/As-Simāk al-ʼAʽzal)であるため、天球上で北東(室宿)と南西(翼宿)を結ぶ直線を引いた場合に、星宿(うみへび座α星(アルファルド/Al-Fard))と角宿(スピカ/As-Simāk al-ʼAʽzal)は互いに鏡像の位置にある。貞享2年正月[[朔]]日(星宿)以降、天体観測に基づくことなく下表のサイクルが永遠に繰り返されている。28は7の倍数であり、12との間に[[公約数]]を持つため、上記の通り、[[曜日]]や日の[[十二支]]に密接な関連がある。
{| class="wikitable"
|+
!支
!月
!火
!水
!木
!金
!土
!日
|-
|子辰申
|畢
|翼
|箕
|奎
|鬼
|氐
|虚
|-
|丑巳酉
|危
|觜
|軫
|斗
|婁
|柳
|房
|-
|寅午戌
|心
|室
|参
|角
|牛
|胃
|星
|-
|卯未亥
|張
|尾
|壁
|井
|亢
|女
|昴
|}
{| class="wikitable sortable"
! colspan="7" |二十八宿一覧
|-
!グループ
!宿名
!音読{{Efn2|『安部晴明簠簋内伝図解』pp. 103-111による(ただし、読みなので現代仮名遣いに改めた)。別の読みがあるものもある。}}
!訓読{{efn2|『雑事類編』の天明本による(ただし、読みなので現代仮名遣いに改めた)。別の読みがあるものもある。}}
!現代星座での概略位置
!距星{{efn2|距星は[[明]]代から[[清]]代にかけて西洋の[[イエズス会]]士の観測を元に同定したもの。年代によって異なるものもある。また学者によって異説があるものもある。}}
!吉凶{{sfn|安部晴明簠簋内伝図解|1912|pages=67-199}}
|-
| rowspan="7" |東方<br>青龍
|[[角宿]]
|かくしゅく
|すぼし
|[[おとめ座]]中央部
|[[スピカ|おとめ座α星]]
|吉:着始め,結婚,柱立て,
普請造作。
凶:葬式。
|-
|[[亢宿]]
|こうしゅく
|あみぼし
|[[おとめ座]]東部
|[[おとめ座カッパ星|おとめ座κ星]]
|吉:衣類仕立て,種蒔き,
物品購入。
凶:造作。
|-
|[[氐宿]]
|ていしゅく
|ともぼし
|[[てんびん座]]
|[[てんびん座アルファ星|てんびん座α星]]
|吉:開店,結婚,結納,酒造り。
凶:着始め。
|-
|[[房宿]]
|ぼうしゅく
|そいぼし
|[[さそり座]]頭部
|[[さそり座パイ星|さそり座π星]]
|吉:移転,開店,髪切り,祭祀,
結婚,旅行。
|-
|[[心宿]]
|しんしゅく
|なかごぼし
|[[さそり座]]中央部
|[[さそり座シグマ星|さそり座σ星]]
|吉:移転,祭祀,新規事,旅行。
凶:結婚,造作。,盗難注意。
|-
|[[尾宿]]
|びしゅく
|あしたれぼし
|[[さそり座]]尾部
|[[さそり座ミュー星|さそり座μ星]]
|吉:移転,開店,結婚,新規事,
造作。
凶:着始め,衣類仕立て。
|-
|[[箕宿]]
|きしゅく
|みぼし
|[[いて座]]南部
|[[いて座ガンマ星|いて座γ星]]
|吉:池掘り,改築,仕入れ,
集金,動土。
凶:結婚,葬式。
|-
| rowspan="7" |北方<br>玄武
|[[斗宿]]
|としゅく
|ひきつぼし
|[[いて座]]中央部([[南斗六星]])
|[[いて座ファイ星|いて座φ星]]
|吉:開店,造作,土掘り。
|-
|[[牛宿]]
|ぎゅうしゅく
|いなみぼし
|[[やぎ座]]
|[[やぎ座ベータ星|やぎ座β星]]
|吉:移転,金談,旅行等全て。
|-
|[[女宿]]
|じょしゅく
|うるきぼし
|[[みずがめ座]]西端部
|[[みずがめ座イプシロン星|みずがめ座ε星]]
|吉:お披露目,稽古始め。
凶:結婚,葬式,訴訟。
|-
|[[虚宿]]
|きょしゅく
|とみてぼし
|[[みずがめ座]]西部
|[[みずがめ座ベータ星|みずがめ座β星]]
|吉:学問始め,着始め。
凶:積極的行動,相談,造作。
|-
|[[危宿]]
|きしゅく
|うみやめぼし
|[[みずがめ座]]一部・[[ペガスス座]]頭部
|[[みずがめ座アルファ星|みずがめ座α星]]
|吉:壁塗り,酒作り,船普請。
凶:衣類仕立て,高所作業。
|-
|[[室宿]]
|しっしゅく
|はついぼし
|[[ペガススの四辺形]]の西辺
|[[ペガスス座アルファ星|ペガスス座α星]]
|吉:井戸掘り,祈願始め,
結婚,祭祀,祝事。
|-
|[[壁宿]]
|へきしゅく
|なまめぼし
|[[ペガススの四辺形]]の東辺
|[[ペガスス座ガンマ星|ペガスス座γ星]]
|吉:衣類仕立て,開店,結婚,
新規事開始,旅行。
|-
| rowspan="7" |西方<br>白虎
|[[奎宿]]
|けいしゅく
|とかきぼし
|[[アンドロメダ座]]
|[[アンドロメダ座ゼータ星|アンドロメダ座ζ星]]
|吉:開店,樹木植替え,
文芸開始。
|-
|[[婁宿]]
|ろうしゅく
|たたらぼし
|[[おひつじ座]]西部
|[[おひつじ座ベータ星|おひつじ座β星]]
|吉:衣類仕立て,縁談,契約,
造園,造作,動土。
|-
|[[胃宿]]
|いしゅく
|えきえぼし
|[[おひつじ座]]東部
|[[おひつじ座35番星]]
|吉:移転,開店,求職。
|-
|[[昴宿]]{{efn2|プレアデス([[プレアデス星団]]ではない)に相当。}}
|ぼうしゅく
|すばるぼし
|[[おうし座]](プレアデス)
|[[おうし座17番星]]
|吉:開店,祝事,神仏詣。
|-
|[[畢宿]]{{efn2|ヒアデス([[ヒアデス星団]]ではない)に相当。}}
|ひっしゅく
|あめふりぼし
|[[おうし座]]頭部(ヒアデス)
|[[おうし座イプシロン星|おうし座ε星]]
|吉:運搬始め,稽古始め。
凶:着始め,造作。
|-
|[[觜宿]]
|ししゅく
|とろきぼし
|[[オリオン座]]頭部
|[[オリオン座ラムダ星|オリオン座λ星]]
|吉:運搬始め,稽古始め。
凶:着始め,造作。
|-
|[[参宿]]
|さんしゅく{{Efn2|参考文献の表現の[[ママ (引用)|ママ]]。中国語の読みを類推すると「しんしゅく」。}}
|からすきぼし
|[[オリオン座]]
|[[オリオン座ゼータ星|オリオン座ζ星]]
|吉:縁談,仕入れ,祝事,取引開始、納入。
|-
| rowspan="7" |南方<br>朱雀
|[[井宿]]
|せいしゅく
|ちちりぼし
|[[ふたご座]]南西部
|[[ふたご座ミュー星|ふたご座μ星]]
|吉:神仏詣,種蒔き,動土,普請。
凶:衣類仕立て。
|-
|[[鬼宿]]
|きしゅく
|たまおのぼし
|[[かに座]]中央部
|[[かに座シータ星|かに座θ星]]
|吉:大半。
凶:婚礼。
|-
|[[柳宿]]
|りゅうしゅく
|ぬりこぼし
|[[うみへび座]]頭部
|[[うみへび座デルタ星|うみへび座δ星]]
|吉:物事の拒否。
凶:開店,結婚,葬式。
|-
|[[星宿]]
|せいしゅく
|ほとおりぼし
|[[うみへび座]]心臓部
|[[うみへび座アルファ星|うみへび座α星]]
|吉:乗馬始め,便所改造。
凶:祝事,種蒔き。
|-
|[[張宿]]
|ちょうしゅく
|ちりこぼし
|[[うみへび座]]中央部
|[[うみへび座ウプシロン1星|うみへび座υ星]]{{efn2|参考文献の表現の[[ママ (引用)|ママ]]。うみへび座にはυ星は2星あり、厳密にはυ<sup>1</sup>星。}}
|吉:就職,祝事,神仏祈願,
見合い。
|-
|[[翼宿]]
|よくしゅく
|たすきぼし
|[[コップ座]]
|[[コップ座アルファ星|コップ座α星]]
|吉:植え替え,耕作始め,
種蒔き。
凶:結婚,高所作業。
|-
|[[軫宿]]
|しんしゅく
|みつかけぼし
|[[からす座]]
|[[からす座ガンマ星|からす座γ星]]
|吉:祭祀,祝事,地鎮祭,
落成式。
凶:衣類仕立て。
|}
<table>
<tr><td>[[ファイル:Twenty-eight mansions.jpg|left|500px]]</td></tr>
<tr><td><center><small>『安部晴明簠簋内傳圖解』東京:神誠館([[1912年]])より「二十八宿図」{{Sfn|安部晴明簠簋内伝図解|1912|p=100-101}}</small></center></td></tr>
</table>
== 二十八宿に関する文化 ==
=== 演禽(えんきん) ===
二十八宿を[[七曜]]で分類し、28種の動物に喩えるという[[占い]]の手法は[[古代中国]]の占術家の間で盛んで行われ、「禽星」とも呼び、これを利用して占うことは「[[演禽]]」(演禽[[風水]])と呼ぶ。[[明]]の[[池本理]]撰『[[禽星易見]]』などによると、以下の表のような関係がある<ref>{{Cite book|和書|author=黄金贵 (编)|title=中国古代文化会要|location=杭州|publisher=西泠印社出版社|year=2007|isbn=978-7-80735-159-7|page=31}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |url=http://www.dajiamazu.org.tw/content/art/art03_12.aspx |website=大甲鎮瀾宮 |accessdate=2022-04-08 |title=二十八星宿 |publisher=[[大甲鎮瀾宮]] |language=zh-tw}}</ref>。
{| class="wikitable"
!四神/七曜
![[木星|木]]
![[金星|金]]
![[土星|土]]
![[太陽|日]]
![[月]]
![[火星|火]]
![[水星|水]]
|-
![[東方青龍]]
|角木[[蛟竜|蛟]]
|亢金[[龍]]
|氐土[[貉]]
|房日[[兎]]
|心月[[狐]]
|尾火[[虎]]
|箕水[[豹]]
|-
![[北方玄武]]
|斗木[[獬豸|獬]]
|牛金[[牛]]
|女土[[蝙蝠|蝠]]
|虚日[[鼠]]
|危月[[ツバメ|燕]]
|室火[[猪]]
|壁水[[アツ窳|貐]]
|-
![[西方白虎]]
|奎木[[狼]]
|婁金[[狗]]
|胃土[[キジ|雉]]
|昴日[[鶏]]
|畢月[[烏]]
|觜火[[猴]]
|参水[[猿]]
|-
![[南方朱雀]]
|井木[[狴犴|犴]]
|鬼金[[羊]]
|柳土[[キバノロ|獐]]
|星日[[馬]]
|張月[[鹿]]
|翼火[[蛇]]
|軫水[[ミミズ|蚓]]
|}
このうち地球から観測する場合、[[歳星]]である[[木星]]は約12年の周期で[[黄道]]を一周し、[[子年]]からの順で毎年の最初にそれぞれ虚宿、牛宿、尾宿、房宿、亢宿、翼宿、星宿、鬼宿、觜宿、昴宿、婁宿、室宿の方向で出現するため、金曜、日曜、火曜の3列の動物は[[十二支]]の[[生肖]]になるという説がある<ref>{{Cite web |title=十二生肖是如何来的?俗语:“岁过六四二,年从虚宿起”,啥意思 |url=https://www.163.com/dy/article/GT7JH27E0532D4MK.html |website=www.163.com |date=2022-01-08 |accessdate=2022-04-08 |last=网易}}</ref><ref>{{Cite web |title=十二生肖中鼠为什么排第一 |url=https://tech.sina.com.cn/roll/2020-02-01/doc-iimxyqvy9492437.shtml |website=tech.sina.com.cn |date=2020-02-01 |accessdate=2022-04-08 |last=北京晚报}}</ref>。
=== 二十八将 ===
[[中国の民俗宗教|中国の民間信仰]]で[[後漢]][[光武帝]]の時代に活躍していた[[雲台二十八将]]の前世は二十八宿だったという伝説があるため、[[廟]]で祀ることもある。この場合は[[哪吒|李哪吒]]は中壇元帥として二十八宿を統領する<ref name=":0" />。
{| class="wikitable"
|-
!東方青龍
|角木蛟[[鄧禹]]
|亢金龍[[呉漢]]
|氐土貉[[賈復]]
|房日兎[[耿弇]]
|心月狐[[寇恂]]
|尾火虎[[岑彭]]
|箕水豹[[馮異]]
|-
!北方玄武
|斗木獬[[朱祜]]
|牛金牛[[祭遵]]
|女土蝠[[景丹]]
|虚日鼠[[蓋延]]
|危月燕[[堅鐔]]
|室火猪[[耿純]]
|壁水貐[[臧宮]]
|-
!西方白虎
|奎木狼[[馬武]]
|婁金狗[[劉隆]]
|胃土雉[[馬成]]
|昴日鶏[[王梁]]
|畢月烏[[陳俊]]
|觜火猴[[傅俊]]
|参水猿[[杜茂]]
|-
!南方朱雀
|井木犴[[銚期]]
|鬼金羊[[王覇]]
|柳土獐[[任光]]
|星日馬[[李忠 (漢)|李忠]]
|張月鹿[[万脩]]
|翼火蛇[[邳彤]]
|軫水蚓[[劉植]]
|}
===二十八宿幣===
[[日蓮宗]]では[[祈祷]]に界縄で二十八宿幣を用いるが、[[明治]]以前にはこれは[[吉田神道]]との交流で独自発展した[[三十番神]]の三十番神幣([[注連縄|注連]])であった<ref>{{cite journal|author=宮川 了篤|year=1997|title=明治期にみる日蓮宗修法史の一考察|url=https://doi.org/10.4259/ibk.45.669|journal=印度學佛教學研究|volume=45|issue=2}}</ref>。
=== 二十八宿を取り入れている作品 ===
'''古典'''
* 『{{仮リンク|歩天歌|zh|步天歌}}』 - [[隋]]の[[丹元子]]が作成したと見られる三垣二十八宿を詠む[[詩]]<ref>{{Cite web |title=香港太空館 - 研究資源 - 天象文學《丹元子步天歌》 |url=https://www.lcsd.gov.hk/CE/Museum/Space/archive/Research/Literature/c_research_literature_9.htm |website=www.lcsd.gov.hk |accessdate=2022-04-07}}</ref>。
* 『[[水滸伝]]』 - 宋江軍と戦う突厥軍に二十八宿将軍がいる。
* 『[[西遊記]]』 - [[西遊記の登場人物一覧|登場人物]]に昴日鶏(昴日星官)や奎木狼(黄袍怪)がいる。
* 『[[封神演義]]』 - 封ぜられる神の中に二十八宿がある。
'''現代'''
* 『[[星界の紋章]]』『[[星界の戦旗]]』 - [[アーヴ根源二九氏族]]のうちアブリアルを除いた二八氏族は、二十八宿を[[アーヴ語]]化して命名されている。
* 『[[ふしぎ遊戯]]』『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]』 - 登場する星士たちは二十八宿にちなむ<ref>{{Cite journal|和書|author=山田利博|date=2002-09|title=文学としてのマンガ(6)渡瀬悠宇作『ふしぎ遊戯』の構成美について|journal=[[宮崎大学]]教育文化学部紀要 人文科学|issue=7|pages=1–7}}</ref>。
* 『[[姫神さまに願いを]]』 - 本編主人公 カイとテンの関係が、二十八宿ではそれぞれ「業」と「胎」にあたる宿星である。また、カイが暦盤を用い、二十八宿で曜日を調べているシーンがある。
* 『[[鬼宿の庭]]』 - 二十八宿のうち、鬼宿の日にのみ現れる庭に住む者たちと絵師を目指す青年との交流を描く。
クイーンズ・クオリティ
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2020年2月|section=1}}
* {{Cite book|和書|author=大崎正次|chapter=二十八宿について|title=中国の星座の歴史|edition=再版|publisher=雄山閣出版|year=1987|ref={{sfnref|大崎正次|1987}}|pages=2-24}}<!--発刊当時、関係者の間で話題になって同年中に増刷されたもので、内容は初版と同じ、ハズ。-->
* {{Cite book|和書|author=柄沢照覚|title=安部晴明簠簋内伝図解 |location=東京|publisher= 神誠館|date=1912年(明治45年2月)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759925|website=国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2020-02-11|ref={{sfnref|安部晴明簠簋内伝図解|1912}}|pages=67-199}} 書名の読み「アベ セイメイ ホキ ナイデンズカイ」
* {{Cite book|和書|author=野尻抱影|authorlink=野尻抱影 |chapter=二十八宿の星名|title=日本の星 - 星の方言集|edition=改版|publisher=中央公論新社|series=中公文庫 BIBLIO〉|year=2002|ref={{sfnref|野尻抱影|2002}}|pages=339-343}};〈中公文庫〉、2018年、362-366頁。
* {{Cite book|和書|author=原恵|title=星座の神話 - 星座史と星名の意味|series=天文ライブラリー4|publisher=恒星社厚生閣|year=1996|ref={{sfnref|原恵|1996}}|pages=48-52,305|id={{全国書誌番号|97004596}}|ISBN=4-7699-0825-3}}<!--初版(1975年{{全国書誌番号|69011051}})と同じものは初版に合わせる。-->
* {{Cite book|和書|author=薮内清|authorlink=薮内清|chapter=中国・朝鮮・日本・印度の星座|title=星座|series=新天文学講座1|edition=改訂第2版|others=野尻抱影編|publisher=恒星社厚生閣|year=1964|ref={{sfnref|薮内清|1964}}|pages=123-145}}<!--当該個所は初版(1957年版・{{DOI|10.11501/1373785}})と同じ。-->
== 関連文献 ==
'''キトラ・高松塚古墳'''<br />
* 奈良文化財研究所飛鳥資料館 (編)『星々と日月の考古学』、国立文化財機構[[奈良文化財研究所]]〈[[飛鳥資料館]]図録〉第54冊、2011年。
* 国立文化財機構奈良文化財研究所『キトラ古墳天文図星座写真資料』〈奈良文化財研究所研究報告〉、2016年、第16冊、ISBN 9784905338598。
* 中村士『古代の星空を読み解く : キトラ古墳天文図とアジアの星図』、東京大学出版会、2018年、ISBN 9784130637145。
* 泉武『キトラ・高松塚古墳の星宿図』、同成社〈ものが語る歴史37〉、2018年、ISBN 9784886217783。
'''暦'''<br />
* 「日蓮大士二十八宿日割鑑」赤誠堂出版部 (編)、「二十八宿日割鑑」永田文昌堂編輯部 (編)。戸次貞雄 (編・監修)『皇禮典經』、1977年、NCID BB24504451。(アメリカ議会図書館〈日本の発禁書〉。Library of Congress Photo-duplication Service, Banned Japanese publications: MOJ-74-701-730)。1941年、熊本県泉村 : 清水滝不動堂発刊の合刻複製全30冊。
* 日外アソシエーツ『江戸近世暦 : 和暦・西暦・七曜・干支・十二直・納音・二十八(七)宿・二十四節気・雑節』、[[日外アソシエーツ]]、紀伊國屋書店 (発売)、2018年、ISBN 9784816927324。
'''哲学'''<br />
* 佐藤良純教授古稀記念論文集刊行会、佐藤良純『インド文化と仏教思想の基調と展開 : 佐藤良純教授古稀記念論文集』、山喜房佛書林、2003年、ISBN 4796301445。
'''天文学'''<br />
[[File:Shijitsutoshogi.png|thumb|佐田介石考案の視実等象儀]]
* 野尻抱影、原恵『星の文学誌』、筑摩書房〈野尻抱影の本 / 野尻抱影著2〉、1989年、ISBN 4480360123。
* 佐藤明達「司馬江漢画「改正二十八宿之図」について」『ステラ』、東亜天文学会、1995年、第4号、21-24頁、ISSN 0915-9185。
* 梅林誠爾、宮島一彦、岡田正彦「[[佐田介石]]の仏教天文儀器・視實等象儀」 (第52回同志社大学理工学研究所研究発表会 2014年度学内研究センター合同シンポジウム 講演予稿集)『同志社大学理工学研究報告』、[[同志社大学]]理工学研究所、2015年1月、第55巻第4号、30-35頁、ISSN 0036-8172。
'''美術、工芸'''<br />
* 矢代幸雄「五星二十八宿神形図巻」『美術研究 = The bijutsu kenkyu : the journal of art studies』、1946年11月5日、第139号、1-18頁、NAID 120006481384。
* 寺島良安『倭漢三才図会』、新典社、1979年、NCID BN04073475。
* 佐藤明達「祇園祭 役行者山二十八宿図のことなど」『天界』、東亜天文学会、1999年8月、第80巻第891号、479-482頁、ISSN 0287-6906。
* 水野杏紀「祇園祭 長刀鉾の鉾建にみる宇宙(陰陽五行、四神、八珍果、二十八宿、三十六禽) : 建方・資材方・車方などの関係を踏まえて」『人間社会学研究集録』、[[大阪府立大学]]大学院 人間社会システム科学研究科、2018年3月31日、第13号、133-169頁、ISSN 1880-683X、DOI 10.24729/00002890。
'''文学'''<br />
* [[土井晩翠]]、[[薄田泣菫]]、[[蒲原有明]]、[[伊良子清白]]、[[横瀬夜雨]]、[[三木露風]]、[[日夏耿之介]]、[[河井醉茗]]『土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨・河井醉茗・三木露風・日夏耿之介集』、[[伊藤整]] (編)、[[筑摩書房]]〈現代日本文學大系12〉、1971年、ISBN 9784480100122。
'''民俗学'''<br />
* 垂井俊憲『葛城二十八宿を巡る : [[犬鳴山 (大阪府)|犬鳴山]]修験道 : 垂井俊憲写真集』、東方出版、2001年、ISBN 4885917026。
* 平塚市博物館『星々のみちびき : 大雄山参道二十八宿灯』 : 平塚市博物館平成二十三年度冬期特別展図録、[[平塚市]]博物館、2011年、NCID BB08931178。
* [[和歌山大学]]地域活性化総合センター紀州経済史文化史研究所『加太・友ヶ島の信仰と歴史 : [[葛城二十八宿|葛城修験二十八宿]]の世界』 : 2018年度特別展、和歌山大学地域活性化総合センター紀州経済史文化史研究所、2019年、NCID BB27687121。
'''歴史'''<br />
* {{Cite journal|和書|author=Kelley, David B. |year=1991 |month=03 |url=https://hdl.handle.net/10271/194 |title=THE TWENTY-EIGHT LUNAR MANSIONS OF CHINA |trans-title=中国の二十八宿 |journal=浜松医科大学紀要. 一般教育 |ISSN=0914-0174 |publisher=浜松医科大学 |volume=5 |pages=29-44 |id={{CRID|1050564287610844800}} |xhttps://hdl.handle.net/10271/194}}
* {{Cite journal|和書|author=David B. Kelley |year=1992 |month=03 |url=https://hdl.handle.net/10271/199 |title=The Twenty-Eight Lunar Mansions of China (Part Two: A Possible Relationship with Semitic Alphabets) |trans-title=中国の二十八宿 (第二部 セム文字群類との関係の可能性) |journal=浜松医科大学紀要. 一般教育 |ISSN=09140174 |publisher=浜松医科大学 |volume=6 |pages=37-54 |id={{CRID|1572261551665990272}} |hdl=10271/199 |NAID=110000494954}}
* Kelley、David Byron「中国の二十八宿(第3部) : 古代中米暦の関係の可能性」『浜松医科大学紀要. 一般教育』、[[浜松医科大学]]、1995年3月、第9巻、23-60頁、ISSN 0914-0174。
* {{Cite journal|和書|author=[[塚本麿充]] |date=2012-03 |url=https://tobunken.repo.nii.ac.jp/records/6037 |title=皇帝の文物と北宋初期の開封(下)―啓聖禅院、大相国寺、宮廷をめぐる文物とその意味について― |journal=美術研究 |issue=406 |pages=1-26 |id={{CRID|1050001201683435264}} |naid=120006480224}}
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箱根町
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箱根町(はこねまち)は、神奈川県西部にあり、足柄下郡に属する町。
箱根峠の東側にあり、箱根温泉や芦ノ湖、箱根神社で有名。
古くからの温泉町である。また、江戸時代には箱根関が置かれた地である。
温泉地としての評価は、江戸時代の温泉番付によると前頭格だった。戦後は、堤康次郎率いる国土計画・西武陣営(駿豆鉄道、現伊豆箱根鉄道等)と、五島慶太・安藤楢六率いる東急・小田急陣営(箱根登山鉄道等)によって「箱根山戦争」と揶揄される精力的な観光開発競争があり急速に発展、以後は日本を代表する温泉観光地として知られている。
なお、箱根温泉とは湯本、塔ノ沢、大平台、宮ノ下、小涌谷など町内にある温泉の総称である。
年明けの1月2、3日に行われる東京箱根間往復大学駅伝競走は長い歴史を持ち、数々の名勝負を生んだ正月の恒例行事であり、箱根が最も活気に溢れる。
2016年3月には芦ノ湖周辺が森林セラピー基地としての認定を受け、2017年に環境省により公表された富士山がある風景100選では町内12ヶ所が選定された。
箱根山を中心とする連山に囲まれ、カルデラ湖の芦ノ湖がある。町は森林セラピー基地に認定されている。
気候は町内が広いために多様性に富んでおり、標高や海との距離でも大きく異なっている。全般的には箱根山の影響で非常に雨が多い地域となっている。中心地の箱根湯本付近は低地のため小田原の気候と変わらず温暖であるが、内陸に行くほど、標高が上がるほど内陸性の寒冷な気候となっている。特に仙石原付近は標高700mほどだが平坦な高原地域となっており寒さが厳しくなっている。芦ノ湖は水温が高いために冬季に結氷することは無く、そのため冬でも湖水効果で近隣の同じような標高に位置する富士五湖地域と異なり、標高700m超の地域としては比較的温和な気候をもたらしている。町内には芦之湯の855mの地点にアメダスが設置されているものの降水量の観測しか行われておらず、気温は観測されていない。冬季は南岸低気圧の影響を受ける時に標高の高い地域では大雪となりやすく、首都圏の積雪予報の指標ともなっている。しかしながら、町内には積雪計も設置されていない。このように箱根の気候は多様性に富んでおり、一概に一つの地点のみをもってして箱根の気候を表現することは不可能である。
1990年代後半以降、人口の減少が著しいが、地方交付税の不交付団体であるため、過疎地域への指定は免れている。
箱根町では、「箱根町育英奨学金条例」に基づく奨学金制度がある。なお、奨学金は返還義務がともなう。
廃校となった中学校
廃校となった小学校
中心となる駅:箱根湯本駅
火山環境ならではの地学的な景勝や歴史を彩った名所が多い。高度経済成長期以後は箱根彫刻の森美術館などの美術館が多数開館されている。
近年、海外からの観光客が多く、外国語の表記が目立つ。
宮城野〜大平台の日帰り温泉。
塔ノ沢〜湯本茶屋の日帰り温泉。
芦之湯〜元箱根・箱根の日帰り温泉。
市外局番は0460(小田原MA)。市内局番が1桁、総桁数が9桁という日本では珍しい状況が長年続いていたが、2007年(平成19年)2月25日2:00より頭に「8」をつけた2桁に変更、総桁数も他地域と同様の10桁となった。
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] |
箱根町(はこねまち)は、神奈川県西部にあり、足柄下郡に属する町。 箱根峠の東側にあり、箱根温泉や芦ノ湖、箱根神社で有名。
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{{Otheruses|神奈川県の自治体|当自治体の大字で、便宜上「箱根町」と呼ばれる地域|箱根 (箱根町)}}
{{日本の町村
| 画像 = {{Multiple image
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| perrow = 1/2/2
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| 画像の説明 =<table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse">
<tr><td colspan="2"> [[芦ノ湖]]・[[箱根神社]]の平和鳥居と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]</tr>
<tr><td>[[箱根湯本温泉]]<td>[[箱根 彫刻の森美術館]]</tr>
<tr><td>[[大涌谷]]<td>[[箱根ガラスの森|箱根ガラスの森美術館]]</tr>
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| 旗 = [[ファイル:Flag of Hakone, Kanagawa.svg|border|100px|箱根町旗]]
| 旗の説明 = 箱根[[市町村旗|町旗]]
| 紋章 = [[ファイル:Emblem of Hakone, Kanagawa.svg|70px|箱根町章]]
| 紋章の説明 = 箱根[[市町村章|町章]]<br />[[1958年]][[2月11日]]制定
| 自治体名 = 箱根町
| 区分 = 町
| 都道府県 = 神奈川県
| 郡 = [[足柄下郡]]
| コード = 14382-1
| 隣接自治体 = [[小田原市]]、[[南足柄市]]、[[足柄下郡]][[湯河原町]]<br />[[静岡県]]:[[御殿場市]]、[[裾野市]]、[[三島市]]、[[駿東郡]][[小山町]]、[[田方郡]][[函南町]]
| 木 = [[ヤマザクラ]]
| 花 = [[サンショウバラ]]<br />(別名:ハコネ[[バラ]])
| シンボル名 = 町の鳥<br />町の魚<br />町の歌
| 鳥など = [[キツツキ|きつつき]]<br />[[ワカサギ]]<br />[[和む光の]](1976年制定)
| 郵便番号 = 250-0398
| 所在地 = 足柄下郡箱根町湯本256番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-14|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Hakone Town Hall.JPG|center|250px|箱根町役場]]{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=35.23|frame-longitude=139.1|text=町庁舎位置}}
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|14|382|image=Hakone in Kanagawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}
| 特記事項 =
}}
[[ファイル:Hakone-map 01-2.png|thumb|right|280px|箱根町全域のCG画像]]
'''箱根町'''(はこねまち)は、[[神奈川県]]西部にあり、[[足柄下郡]]に属する[[町]]。
[[箱根峠]]の東側にあり、[[箱根温泉]]や[[芦ノ湖]]、[[箱根神社]]で有名。
== 概要 ==
古くからの[[温泉地|温泉町]]である。また、[[江戸時代]]には箱根関が置かれた地である。
温泉地としての評価は、[[江戸時代]]の[[温泉番付]]によると[[前頭]]格だった。戦後は、[[堤康次郎]]率いる[[コクド|国土計画]]・[[西武グループ|西武]]陣営(駿豆鉄道、現[[伊豆箱根鉄道]]等)と、[[五島慶太]]・[[安藤楢六]]率いる[[東急グループ|東急]]・[[小田急グループ|小田急]]陣営([[箱根登山鉄道]]等)によって「[[箱根山戦争]]」と揶揄される精力的な[[観光]]開発競争があり急速に発展、以後は日本を代表する温泉観光地として知られている。
なお、[[箱根温泉]]とは湯本、塔ノ沢、大平台、宮ノ下、小涌谷など町内にある[[温泉]]の総称である。
年明けの1月2、3日に行われる[[東京箱根間往復大学駅伝競走]]は長い歴史を持ち、数々の名勝負を生んだ[[正月]]の恒例行事であり、箱根が最も活気に溢れる。
[[2016年]]3月には芦ノ湖周辺が[[森林セラピー基地]]としての認定を受け、[[2017年]]に[[環境省]]により公表された[[富士山がある風景100選]]では町内12ヶ所が選定された。
== 地理 ==
{{Main|箱根山}}
箱根山を中心とする連山に囲まれ、[[カルデラ#カルデラ湖|カルデラ湖]]の[[芦ノ湖]]がある。町は[[森林セラピー基地]]に認定されている。
* 山:[[神山]]、[[冠ヶ岳]]、[[箱根駒ヶ岳]]、[[明神ヶ岳 (神奈川県)|明神ヶ岳]]、[[金時山]]、[[箱根峠]]、[[二子山 (神奈川県箱根町)|二子山]]、[[鞍掛山 (神奈川県)|鞍掛山]]
* 川:蛇骨川、[[須雲川]]、[[早川 (神奈川県)|早川]]、明神川、大沢
* 湖:[[芦ノ湖]]、[[お玉ヶ池 (箱根町)|お玉ヶ池]]、[[大涌谷]]
* 滝:蛙の滝、[[玉簾の滝 (神奈川県)|玉簾の滝]]、[[飛烟の滝]]、初花の滝、飛竜の滝、[[千条の滝]]
=== 気候 ===
気候は町内が広いために多様性に富んでおり、標高や海との距離でも大きく異なっている。全般的には箱根山の影響で非常に雨が多い地域となっている。中心地の[[湯本 (箱根町)|箱根湯本]]付近は低地のため小田原の気候と変わらず温暖であるが、内陸に行くほど、標高が上がるほど内陸性の寒冷な気候となっている。特に[[仙石原]]付近は標高700mほどだが平坦な高原地域となっており寒さが厳しくなっている。[[芦ノ湖]]は水温が高いために冬季に結氷することは無く、そのため冬でも湖水効果で近隣の同じような標高に位置する[[富士五湖]]地域と異なり、標高700m超の地域としては比較的温和な気候をもたらしている。町内には[[芦之湯温泉|芦之湯]]の855mの地点に[[アメダス]]が設置されているものの降水量の観測しか行われておらず、気温は観測されていない。冬季は南岸低気圧の影響を受ける時に標高の高い地域では[[大雪]]となりやすく、首都圏の積雪予報の指標ともなっている。しかしながら、町内には積雪計も設置されていない。このように箱根の気候は多様性に富んでおり、一概に一つの地点のみをもってして箱根の気候を表現することは不可能である。{{Weather box|location=箱根(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan precipitation mm=127.7|Feb precipitation mm=151.3|Mar precipitation mm=284.6|Apr precipitation mm=321.8|May precipitation mm=326.8|Jun precipitation mm=420.4|Jul precipitation mm=425.3|Aug precipitation mm=346.1|Sep precipitation mm=448.7|Oct precipitation mm=403.8|Nov precipitation mm=197.1|Dec precipitation mm=107.9|year precipitation mm=3561.3|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=7.8|Feb precipitation days=8.8|Mar precipitation days=13.2|Apr precipitation days=12.7|May precipitation days=13.2|Jun precipitation days=16.2|Jul precipitation days=15.8|Aug precipitation days=13.1|Sep precipitation days=14.7|Oct precipitation days=12.9|Nov precipitation days=9.7|Dec precipitation days=7.2|year precipitation days=145.3|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web |url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=46&block_no=0390&year=&month=&day=&view= |title=箱根 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-09-29 |publisher=気象庁}}</ref>}}
== 歴史 ==
{{See also|箱根峠#歴史|箱根温泉#歴史|箱根関|箱根宿}}
* [[律令制|律令時代]] - [[東海道]][[相模国]][[足柄下郡]]に属す。
* [[1180年]]8月 - [[源頼朝]]が挙兵して序盤の戦いを石橋山で戦った。
{{See|石橋山の戦い}}
* [[江戸時代]] - [[徳川家康]]が江戸幕府を開くと、東海道を[[足柄峠]]経由から[[箱根峠]]経由に変更させ、現在の箱根町に当たる[[芦ノ湖]]畔に[[箱根関所]]を設置し、「[[入鉄砲に出女]](武家の妻女)」を厳重に監視した。[[箱根宿]]三島町及び芦川町は[[韮山代官所]]直轄の[[天領]]、箱根宿小田原町、新町、新谷町及びそれ以外の箱根町の区域のほとんどは、[[小田原藩]]領となる<ref name="tokaido">神奈川東海道ルネッサンス推進協議会『神奈川の東海道上〔第2版〕』60ページ、[[神奈川新聞]]、2000年、ISBN 9784876452651</ref>。
* [[1868年]][[8月17日]]([[慶応]]4年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - 箱根宿三島町及び芦川町の民政一般が[[神奈川府]]の管轄となる。ただし一部事務などは[[韮山県]]が扱った<ref name="tokaido"/>。
* [[明治]]初年 - 箱根宿が箱根駅に名称を変更する。
* [[1869年]][[7月25日]](明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[版籍奉還]]により、明治政府の行政区画としての小田原藩が成立する。
* [[1871年]][[8月29日]](明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[廃藩置県]]により、小田原藩が廃止され、[[小田原藩#小田原県|小田原県]]となる。
* [[1871年]](明治4年9月) - 韮山県廃止により、箱根駅が全面的に神奈川県の管轄となる。
* [[1871年]][[12月25日]](明治4年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - 小田原県は廃止され、神奈川県管轄地域を含めた[[足柄下郡]]の全域が[[足柄県]]に属す<ref>[{{NDLDC|787951/232}} 明治4年太政官布告第594] - [[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー</ref>。
* [[1876年]](明治9年)[[4月18日]] - 足柄県を分割して、これ以降は[[神奈川県]]に属する<ref>[{{NDLDC|787956/73}} 明治9年太政官布告第53号] - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー</ref>。
* [[1884年]](明治17年) - 箱根駅、元箱根村及び芦之湯村が「箱根駅外二ケ村」連合[[戸長]]制を敷く<ref name="tokaido"/>。
* [[1886年]](明治19年)7月 - 函根離宮(現在の[[恩賜箱根公園]])が竣工する。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、'''箱根駅'''、[[湯本町 (神奈川県)|湯本村]]、[[温泉村 (神奈川県)|温泉村]]、[[宮城野村]]、[[仙石原村]]、[[元箱根村]]及び[[芦之湯村]]が発足する<ref name="tokei">{{PDFlink|[https://www.town.hakone.kanagawa.jp/hakone_j/gyosei/aramashi/toukei20/img/01syou.pdf 統計はこね]}} - 箱根町</ref>。箱根駅、元箱根村及び芦之湯村は、「箱根駅外二ヶ村組合」にて行政を行う<ref name="tokaido"/>。
* [[1892年]](明治25年)[[10月29日]] - 県治局長による[[内簡|内翰]]により、箱根駅が'''箱根町'''に名称を変更する<ref name="tokei"/>。箱根駅外二ヶ村組合は、箱根町外二ヶ村組合となる。
* [[1904年]](明治37年) - [[箱根温泉#箱根七湯|七湯]]経由の[[人力車]]道が足ノ湖畔まで開通する<ref name="tokaido"/>。
* [[1927年]](昭和2年)[[10月1日]] - 湯本村が町制施行して、[[湯本町 (神奈川県)|湯本町]]となる<ref name="tokei"/>。
*[[1935年]](昭和10年)2月 - 同年、横浜市で行われた「横浜復興記念博覧会」の第二会場として「箱根観光博覧会」が開催される。温泉館、[[水族館]]などがあり、今なお続く箱根の[[大名行列]]はこの博覧会のイベントとして始まった<ref>[http://www.hakone-ryokan.or.jp/hakopedia/?p=951 「箱根の温泉公式ガイド 箱ぴた」 箱根観光博覧会の開催]</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)- 1月以降、[[ドイツ]]や[[ソビエト連邦]]、[[満州国]]などの[[大使館]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の空襲から避けるべく[[東京]]より疎開する。
{{Wikisource|町村の廃置分合 (昭和28年総理府告示第273号)|箱根町、元箱根村および芦之湯村を廃し、箱根町を置く件|[[総務省]][[告示]]文}}
* [[1954年]](昭和29年)[[1月1日]] - 箱根町外二ヶ村組合の箱根町、元箱根村及び芦之湯村が合併して、改めて'''箱根町'''が発足する。
{{Wikisource|町村の廃置分合 (昭和31年総理府告示第549号)|湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村および箱根町を廃し、箱根町を置く件|総務省告示文}}
* [[1956年]](昭和31年)[[9月30日]] - 湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村及び箱根町が合併して、改めて'''箱根町'''が発足する。
* [[1976年]](昭和51年) - [[市町村歌|町民歌]]「[[和む光の]]」制定。
== 人口 ==
{{人口統計|code=14382|name=箱根町|image=Population distribution of Hakane, Kanagawa, Japan.svg}}
1990年代後半以降、人口の減少が著しいが、地方交付税の不交付団体であるため、[[過疎地域]]への指定は免れている。
== 行政 ==
=== 町長 ===
* 町長:[[勝俣浩行]]([[2020年]][[11月15日]]就任、1期目)
{| class="wikitable"
! 代 !! 氏名 !! 就任年月日 !! 退任年月日
|-
| 初代 || 石村喜作 || 1956年11月15日<ref name="年表1956">[http://www.town.hakone.kanagawa.jp/sp/index.cfm/11,1290,49,183,html 町のあゆみ 年表 1956年(昭和31年)〜1965年(昭和40年) - 箱根町]</ref> || 1964年11月14日
|-
| 2代 || 亀井一郎 || 1964年11月15日<ref name="年表1956" /> || 1976年11月14日
|-
| 3代 || 勝俣茂 || 1976年11月15日<ref>[http://www.town.hakone.kanagawa.jp/sp/index.cfm/11,1292,49,183,html 町のあゆみ 年表 1976年(昭和51年)〜1985年(昭和60年) - 箱根町]</ref> || 1992年11月14日
|-
| 4代 || 小川欣一 || 1992年11月15日<ref>[http://www.town.hakone.kanagawa.jp/sp/index.cfm/11,1293,49,183,html 町のあゆみ 年表 1986年(昭和61年)〜1995年(平成7年) - 箱根町]</ref> || 2000年11月14日
|-
| 5代 || [[山口昇士]] || 2000年11月15日 || 2020年11月14日
|-
| 6代 || [[勝俣浩行]] || 2020年11月15日 || 現職
|}
=== 地区 ===
* [[仙石原]](せんごくはら) - 旧[[仙石原村]]
* [[箱根温泉#宮城野温泉|宮城野]](みやぎの) - 旧[[宮城野村]]
* [[箱根温泉#木賀温泉|木賀]](きが)
* [[強羅]](ごうら)
* [[二ノ平]](にのたいら)
* 旧[[温泉村 (神奈川県)|温泉村]]
** [[底倉温泉|底倉]](そこくら) - 旧底倉村
*** [[小涌谷]](こわくだに) - 旧小地獄
*** [[宮ノ下温泉|宮ノ下]](みやのした)
** [[大平台 (箱根町)|大平台]](おおひらだい) - 旧大平台村
* 旧[[湯本町 (神奈川県)|湯本町]]
** [[塔之澤]](とうのさわ) - 旧塔之澤村
** [[湯本 (箱根町)|湯本]](ゆもと) - 旧湯本村
** 湯本茶屋(ゆもとちゃや) - 旧湯本茶屋村
** 須雲川(すくもがわ) - 旧須雲川村
** [[畑宿]](はたじゅく) - 旧畑宿村
* [[箱根温泉#芦之湯温泉|芦之湯]](あしのゆ) - 旧[[芦之湯村]]
* [[元箱根]](もとはこね) - 旧[[元箱根村]]
* [[箱根 (箱根町)|箱根]](はこね) - 旧箱根駅([[箱根宿]]・[[箱根関所]])
== 議会 ==
=== 町議会 ===
{{main|箱根町議会}}
== 姉妹都市 ==
; 国内
:* [[洞爺湖町]](旧[[虻田町]]時代より提携。[[北海道]][[虻田郡]])
:** [[1964年]](昭和39年)[[7月4日]]提携
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
; 海外
:* [[ジャスパー (アルバータ州)|ジャスパー]]市({{CAN}})
:** [[1972年]](昭和47年)7月4日提携
:* [[タウポ]]市({{NZL}})
:** [[1987年]](昭和62年)[[10月7日]]提携
:* [[サン・モリッツ]]市({{SUI}})
:** [[2014年]](平成26年)[[11月2日]]提携(友好都市提携)
== 産業 ==
* 観光、温泉
* [[寄木細工]]([[伝統工芸]])
== 学校 ==
箱根町では、「箱根町育英奨学金条例」に基づく奨学金制度がある。なお、奨学金は返還義務がともなう。
=== 大学 ===
* 私立[[星槎大学|星槎大学箱根キャンパス]]
=== 高等学校 ===
* 私立[[函嶺白百合学園中学校・高等学校|函嶺白百合学園高等学校]]
=== 中学校 ===
* 箱根町立箱根中学校(仙石原中・湯本中・箱根明星中を統合して、2008年に開校)
* 私立[[函嶺白百合学園中学校・高等学校|函嶺白百合学園中学校]]
'''廃校となった中学校'''
* 箱根町立仙石原中学校(2008年(平成20年)3月31日廃校)
* 箱根町立湯本中学校(2008年(平成20年)3月31日廃校)
* 箱根町立箱根明星中学校(2008年(平成20年)3月31日廃校)
=== 小学校 ===
* [[箱根町立箱根の森小学校]](温泉小・宮城野小・箱根小を統合して、[[2008年]](平成20年)4月に開校)
* [[箱根町立仙石原小学校]]
* [[箱根町立湯本小学校]]
* 私立[[箱根恵明学園|恵明学園]]小学校
* 私立[[学校法人函嶺白百合学園|函嶺白百合学園]]小学校
'''廃校となった小学校'''
* [[箱根町立温泉小学校]](2008年(平成20年)3月31日廃校)
* 箱根町立宮城野小学校(2008年(平成20年)3月31日廃校)
* 箱根町立箱根小学校(2008年(平成20年)3月31日廃校)
== 交通 ==
=== 鉄道・ケーブルカー・ロープウェイ ===
中心となる駅:[[箱根湯本駅]]
;[[箱根登山鉄道]]
:*[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山電車]]
:**- [[箱根湯本駅]] - [[塔ノ沢駅]] - [[大平台駅]] - [[宮ノ下駅]] - [[小涌谷駅]] - [[彫刻の森駅]] - [[強羅駅]]
:*[[箱根登山鉄道鋼索線|箱根登山ケーブルカー]]
:**[[強羅駅]] - [[公園下駅]] - [[公園上駅]] - [[中強羅駅]] - [[上強羅駅]] - [[早雲山駅]]
:*[[箱根ロープウェイ]]
:**[[早雲山駅]] - [[大涌谷駅]] - [[姥子駅]] - [[桃源台駅]]
;[[プリンスホテル]]
:*[[箱根 駒ヶ岳ロープウェー]]
:**[[箱根園駅]] - [[駒ヶ岳山頂駅]]
=== 道路 ===
;[[有料道路]]
* [[芦ノ湖スカイライン]] - [[箱根峠]]から[[芦ノ湖]]の西脇を縦断して[[湖尻峠]]を経由し、芦ノ湖北岸(湖尻)へと至る。
* [[箱根ターンパイク]] - [[小田原市]][[早川 (小田原市)|早川]]から、[[箱根新道]]([[国道1号]]バイパス)や旧東海道([[神奈川県道732号湯本元箱根線|県道732号]])南方を、山地稜線を通るように平行に南西へと進んで[[湯河原峠]]へと至る。大観山から西方の箱根町内に入っている一部分では、[[神奈川県道75号湯河原箱根仙石原線|県道75号]](椿ライン)に割り込まれる格好になっており二分割されている。
;[[一般国道]]
* [[国道1号]] - 小田原市から[[箱根湯本]]・[[塔ノ沢]]・[[大平台 (箱根町)|大平台]]・[[宮ノ下]]・[[小涌谷]]・[[芦之湯温泉|芦ノ湯]]・[[元箱根]]・[[箱根峠]]を経由し、[[三島市]]へと下る「[[東海道]]」ルート。
** [[小田原箱根道路]] - [[小田原厚木道路]]や[[西湘バイパス]]の出口から、箱根湯本の東三枚橋で国道1号に合流するまでの区間のバイパスの名称。
** [[箱根新道]] - 須雲川沿いを[[神奈川県道732号湯本元箱根線|県道732号]](旧東海道)と平行するように南西へと進み、元箱根へは向かわずに[[箱根峠]]へとそのまま直行するバイパスの名称([[自動車専用道路]])。
* [[国道138号]](箱根裏街道) - 宮ノ下で国道1号と分岐し、[[箱根温泉#木賀温泉|木賀]]・[[箱根温泉#宮城野温泉|宮城野]]・[[仙石原]]・[[乙女峠 (神奈川県・静岡県)|乙女峠]]を通って[[御殿場市]]へと至る。
;[[主要地方道|主要県道]]
* [[神奈川県道75号湯河原箱根仙石原線]] - [[湯河原町]]の沿岸部[[国道135号]]から分岐して西進し[[湯河原駅]]前を通って[[奥湯河原]]へと至り、東方の城山方面から北上して大観山へと至る。箱根町に入ってからは[[元箱根]]、[[箱根神社]]前を経由しつつ[[仙石原]]へと至る。
;[[一般県道]]
* [[神奈川県道731号矢倉沢仙石原線]](はこね金太郎ライン) - 仙石原と南足柄市の[[足柄峠]]を結ぶ路線。
* [[神奈川県道732号湯本元箱根線]](旧東海道) - 箱根湯本から須雲川沿いに進んで元箱根へと至る。
* [[神奈川県道733号仙石原強羅停車場線]] - 仙石原と強羅をつなぐ。
* [[神奈川県道734号大涌谷小涌谷線]] - [[大涌谷]]から[[強羅]]・[[二ノ平]]を経て小涌谷へと至る。
* [[神奈川県道735号大涌谷湖尻線]] - 大涌谷から芦ノ湖北岸(湖尻)をつなぐ。
* [[神奈川県道736号御殿場箱根線]] - 乙女峠の手前で[[国道138号]]から分岐して西進し、[[長尾峠 (神奈川県・静岡県)|長尾峠]]を経由し北上、国道138号に再合流する。
* [[神奈川県道737号長尾芦川線]]
* [[神奈川県道738号仙石原新田線]]
=== 路線バス ===
*[[小田急グループ]]
**[[小田急ハイウェイバス]] - [[御殿場駅|御殿場]]・[[バスタ新宿|新宿]]方面。
**[[箱根登山バス]] - 御殿場・[[小田原駅|小田原]]方面。
**[[東海バス]] - [[三島駅|三島]]方面。
*[[西武グループ]]
**[[伊豆箱根バス]] - 小田原・[[熱海駅|熱海]]方面。
=== 船舶(観光船・遊覧船) ===
* [[箱根海賊船]]([[箱根観光船]]) - 小田急グループ。
* [[芦ノ湖遊覧船]] - [[富士急行]]グループ。
== 観光 ==
[[火山]]環境ならではの[[地球科学|地学]]的な景勝や[[歴史]]を彩った名所が多い。[[高度経済成長]]期以後は[[箱根彫刻の森美術館]]などの美術館が多数開館されている。
近年、海外からの観光客が多く、外国語の表記が目立つ。
=== 自然 ===
[[ファイル:Hakone Sengokuhara 05.jpg|thumb|250px|仙石原のすすき草原]]
[[ファイル:161223 Owakudani Hakone Japan09s3.jpg|thumb|250px|大涌谷]]
[[ファイル:Hakone Volcano 20121110.jpg|thumb|250px|箱根山の中央火口丘と芦ノ湖]]
[[ファイル:Hakone yumoto 02.jpg|thumb|250px|[[箱根温泉|箱根湯本温泉街]]を流れる[[早川 (神奈川県)|早川]]]]
[[ファイル:Ancient Cedar Avenue, Hakone old road - Hakone, Japan - DSC05946.jpg|thumb|250px|旧街道杉並木]]
[[ファイル:View above Hakone Checkpoint Museum, May 2017 1.jpg|thumb|250px|箱根関所]]
[[ファイル:Views of Mount Fuji from Ōwakudani 20211202.jpg|thumb|250px|大涌谷から見た富士山]]
* [[仙石原]]
* [[箱根山]]
** [[大涌谷]]([[箱根ロープウェイ]])
** [[箱根駒ヶ岳]]([[箱根駒ヶ岳ロープウェー]])
** [[二子山 (神奈川県箱根町)|二子山]]
* [[芦ノ湖]]
* [[箱根温泉]]
* [[箱根旧街道]]杉並木
=== 公園・植物・動物 ===
* [[箱根湿生花園]]
* [[強羅公園]]
* [[箱根園]](西武系)
** [[箱根園水族館]]
** ふれあいどうぶつランド
* [[恩賜箱根公園]]
* 箱根町立森のふれあい館
=== 寺社・旧跡・伝統文化 ===
* [[箱根神社]](里宮・本宮)
** [[九頭竜神社]](本宮・新宮)
* [[仙石原諏訪神社]]
** [[公時神社|公時神社 (金時神社)]]
* [[進士ヶ城]]
* [[早雲寺]]
* [[箱根旧街道]]石畳
* [[元箱根石仏群|元箱根石仏・石塔群]]
* [[箱根関所]]
* [[畑宿]]・[[寄木細工]]
=== 博物館・美術館 ===
* [[箱根ラリック美術館]]
* [[箱根ガラスの森]]
* [[ポーラ美術館]]
* [[箱根マイセンアンティーク美術館]]
* [[箱根写真美術館]]
* [[箱根美術館]]
* [[箱根 彫刻の森美術館]]
* [[岡田美術館]]
* [[箱根関#復元と史跡指定|箱根町立郷土資料館]]
* [[箱根ジオパーク]]
** [[箱根ジオミュージアム]]
** [[神奈川県立生命の星・地球博物館]]
** [[神奈川県温泉地学研究所]]
* [[箱根ドールハウス美術館]]
* [[箱根神社]]宝物殿
* [[成川美術館]]
* [[箱根関所資料館]]
** [[箱根寄木細工 関所からくり美術館]]
** [[箱根関所 旅物語館]]
* [[箱根駅伝ミュージアム]]
=== 日帰り温泉 ===
==== 仙石原周辺 ====
* 川涌の湯 マウントビュー箱根
* 仙石原 品の木一の湯
* 仙石原 ススキの原 一の湯
* かま家
* 温泉旅館 みたけ
* [[四季倶楽部]] フォレスト箱根
* 四季倶楽部 箱根和の香
* ホテルグリーンプラザ箱根
*[[箱根仙石原プリンスホテル]]
==== 強羅・底倉周辺 ====
宮城野〜大平台の日帰り温泉。
* 宮城野温泉会館
* 四季倶楽部 強羅彩香
* 温泉ホテル強羅館
* [[国民宿舎]] 箱根太陽山荘
* メルヴェール箱根強羅
* 箱根 ゆとわ
* 白湯の宿 山田家
* 箱根二ノ平温泉 亀の湯
* [[箱根小涌園]]ユネッサン
* 四季倶楽部 箱根仙泉閣
* 四季倶楽部 ヴィラ箱根80
* 底倉温泉 凾嶺(かんれい)
* 宮ノ下共同浴場 太閤湯
* 箱根大平台温泉 姫之湯
==== 箱根湯本周辺 ====
塔ノ沢〜湯本茶屋の日帰り温泉<ref>[http://www.hakoneyumoto.com/hotspa/ 箱根湯本の日帰り温泉] - 箱根湯本観光協会</ref>。
* 塔ノ沢[[一の湯]](本館、新館)
* 箱根湯寮
* かっぱ天国
* 湯本[[富士屋ホテル]]
* 弥次喜多の湯
* 日帰り温泉 和泉
* 吉池旅館
* 弥坂湯
* 湯遊び処 箱根の湯
* [[天成園]]
* 木もれびの宿 ふるさと
* 湯の里おかだ
* ホテルおかだ
* 天山湯治郷
** かよい湯治 一休
** ひがな湯治 天山
* 雉子亭 豊栄荘
==== 元箱根周辺 ====
芦之湯〜元箱根・箱根の日帰り温泉。
* 箱根高原ホテル
* 箱根レイクホテル
* 姥子温泉 芦ノ湖一の湯
* 絶景日帰り温泉 龍宮殿本館(西武系)
* 箱根湯の花[[プリンスホテル]](西武系)
* 山形屋旅館
* 美肌の湯きのくにや
* ホテルラクーン
* ホテルむさしや
* 箱根宿 夕霧荘
=== スポーツ・アウトドア ===
* 箱根町総合体育館(星槎レイクアリーナ箱根)
* 芦ノ湖キャンプ村
==== ゴルフ場 ====
* [[富士屋ホテル仙谷ゴルフコース]]
* [[大箱根カントリークラブ]]([[西武グループ|西武]]系)
* [[箱根カントリー倶楽部]]
* 箱根湖畔ゴルフコース
* [[小田原湯本カントリークラブ]]
* [[箱根湯の花ゴルフ場]](西武系)
* [[箱根園]]ゴルフ場(西武系)
* 箱根くらかけゴルフ場
=== 祭り・イベント ===
* 芦ノ湖冬景色花火大会(箱根神社節分祭奉祝花火大会) - 2月2日。
* [[箱根神社]]節分祭 - 2月3日([[節分]])。
* [[湯立獅子舞]] - [[1976年]](昭和51年)[[10月19日]]に、[[神奈川県指定文化財一覧#無形民俗文化財|神奈川県の無形民俗文化財]]に指定された。
** 3月27日(仙石原諏訪神社)
** 7月15日(宮城野諏訪神社)
* ケンペル・バーニー祭 - [[元箱根]]、4月中旬。
* [[大平台 (箱根町)|大平台]]春祭り - 山神神社、4月16日-17日。
* 公時まつり - 公時神社([[仙石原]])、5月5日。
* [[小涌谷]]つつじまつり - 5月上旬-下旬。
* 九頭龍神社例祭 - 6月13日。
* 天王祭 - 仙石原、7月第三日曜日。
* 湖水まつり - 7月31日。
* [[箱根神社]]例大祭 - 8月1日。
** 御神幸祭 - 8月2日。
* 太閤ひょうたん祭 - [[宮ノ下]]温泉(富士屋ホテル)、8月3日。
* [[箱根園]]サマーナイトフェスタ - 8月2日-3日。
* 湖尻龍神祭 - 8月4日。
* 鳥居焼まつり・流燈祭 - 8月5日。
* [[大平台 (箱根町)|大平台]]温泉夏祭り(姫祭り) - 8月11日。
* 納涼盆踊り大会 - 仙石原文化センターにて、8月13日-14日。
* 宮城野[[箱根温泉#木賀温泉|木賀]]夏まつり - 8月14日-15日。
* 箱根[[強羅]]夏まつり大文字焼 - 8月16日。
* [[仙石原]]すすき祭り - 9月下旬。
* 湯本熊野神社祭 - 9月9日。
* 正眼寺地蔵縁日 - 9月21日。
* 芦刈まつり - [[箱根温泉#芦之湯温泉|芦之湯温泉]]、10月下旬。
* 箱根大名行列 - [[箱根湯本]]、11月3日。
* 箱根の秋音楽祭 - [[仙石原]]、11月中旬。
* 塔之沢火伏観音菩薩例大祭 - 11月17日。
== 著名な出身者 ==
* [[BOOMER|河田貴一]] - タレント (BOOMER)
* [[いまのまい]] - 歌手・タレント(完熟娘。)
* [[松尾和子]] - 歌手。[[東京ナイトクラブ]]や[[誰よりも君を愛す]]など。
* 松尾駿 - タレント ([[チョコレートプラネット]])、はこね親善大使
* [[勝俣翔貴]] - プロ野球選手([[オリックス・バファローズ]])
* [[勝俣浩行]] - 箱根町長
=== ゆかりの人物 ===
* [[八代亜紀]] - 演歌歌手、女優、タレント、画家、はこね親善大使
* [[折口信夫]] - [[国文学者]]、[[民俗学者]]、[[歌人]]、[[作家]](仙石原に別荘を所有していた)
* [[並木秋人]] - [[詩人]]
* [[カール・ツンベルク]] - [[植物学者]](箱根町に滞在して植物標本を採集した)
* [[黒沢元治]] - [[レーシングドライバー]]、[[テストドライバー]](箱根町内に別荘を所有している)
* [[熊川哲也]] - バレエダンサー(箱根町内に別荘を所有している)
* [[ピエール瀧]] - 俳優(箱根町内に別荘を所有している)
* [[丘みつ子]] ‐ 女優(過去に在住経験がある)
== 箱根町を舞台とした作品 ==
{{See also|Category:箱根を舞台とした作品}}
* [[箱根山 (小説)|箱根山]] - [[獅子文六]]
* [[鉄鼠の檻]] - [[京極夏彦]]
* [[蒼い描点]] - [[松本清張]]の小説。[[箱根温泉]]など町内を主要な舞台とし、著者が執筆時に宿泊した旅館も町内に現存する。[[1960年]](昭和35年)以降4度テレビドラマ化された。
* [[新世紀エヴァンゲリオン]] - 現在の仙石原が物語の中心地の「[[第3新東京市]]」として登場する。町の観光協会が[[スタジオカラー]]および[[ガイナックス]]監修のもと[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]とタイアップ企画の観光パンフレット「ヱヴァンゲリヲン箱根補完マップ」を配布する<ref>[https://japan.cnet.com/article/20393788/ 箱根町観光協会、エヴァで町おこし--「箱根補完マップ」を無料配布 2009/05/26 ]CNET Japan 2011年9月6日閲覧。</ref>、旧仙石原中学校でのアニメイベントを開催するなど町をあげたタイアップ企画を行っている。
* [[太陽の黙示録]] - 主人公の舷一郎は箱根の山中で遊んでいた時に日本大震災に遭った。
* [[温泉幼精ハコネちゃん]] - [[由伊大輔]]の漫画。箱根温泉の精霊の幼女と、町民の少年少女が繰り広げるコメディ作で、2015年(平成27年)にはテレビアニメ化されている。
* [[頭文字D|頭文字D Fifth Stage]] - [[しげの秀一]]原作の漫画・アニメ。[[神奈川県道732号湯本元箱根線|箱根七曲り]]が走り屋チーム「チームスパイラル」、[[神奈川県道75号湯河原箱根仙石原線|椿ライン]]が「サイドワインダー」の本拠地として登場。また、[[箱根ターンパイク]]で[[マツダ・RX-7|FC3S型RX-7]]と[[日産・スカイラインGT-R|R32型スカイラインGT-R]]がバトルを行うシーンも存在する。
* [[レーシングラグーン]] - [[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]](現・[[スクウェア・エニックス]])のレースゲーム・RPG。箱根が「HAKONE」という名称、箱根七曲りが「HOLY ROAD」という名称で登場しその場所が走り屋チーム「箱根 DRIFT DANCERS」やHAKONEの走り屋である織田真学の本拠地として登場。
* [[ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり]] - 箱根の温泉宿がテレビアニメ第9話の主な舞台となっている。
* [[かなたかける]] - 高橋しんによる駅伝を主題とした漫画。
== 箱根町のご当地ソング ==
* 「箱根馬子唄」民謡、藤原義則
* 「[[箱根八里]]」唱歌、[[デューク・エイセス]]
* 「[[箱根のおんな]]」北島三郎
* 「[[箱根パノラマ・ゴーゴー]]」クレイジーケンバンド
* 「[[箱根スカイライン]]」クレイジーケンバンド
* 「[[箱根八里の半次郎]]」[[氷川きよし]]、[[五木ひろし]]
* 「[[シシカバブー (ゆずの曲)#CD|ボサ箱根]]」[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]
* 「箱根峠」[[音羽しのぶ]]
* 「[[あじさい情話]]」北島三郎
* 「ハコネハコイリムスメ」petit milady
* 「箱根 おんな宿」真咲よう子
* 「箱根の神様」[[N.U.]]
* 「箱根が待ってるよ」N.U.
* 「箱根に一泊」[[半田健人]]
== 電話番号 ==
[[日本の市外局番|市外局番]]は0460(小田原[[単位料金区域|MA]])。市内局番が1桁、総桁数が9桁という日本では珍しい状況が長年続いていたが、[[2007年]](平成19年)[[2月25日]]2:00より頭に「8」をつけた2桁に変更、総桁数も他地域と同様の10桁となった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[箱根]]
* [[富士箱根伊豆国立公園]]
== 外部リンク ==
* {{Osmrelation|2689439}}
* {{ウィキトラベル インライン|箱根町|箱根町}}
* {{wikivoyage-inline|ja:箱根町|箱根町{{ja icon}}}}
* {{Official website}}
* {{Facebook|hakonekeikan|箱根町景観だより}}
* [https://www.hakone.or.jp/ 箱根町観光協会]
*[https://www.hakone-ryokan.or.jp/ 箱根温泉の宿探し 箱ぴた] - 箱根温泉旅館ホテル協同組合
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カシオペヤ座
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カシオペヤ座(、ラテン語: Cassiopeia)は、現代の88星座の1つで、プトレマイオスの48星座の1つ。古代ギリシアの伝承に登場するエチオピアの王妃カッシオペイアをモチーフとしている。3個の2等星と2個の3等星が、ラテン文字のWの形に並ぶ姿で知られる。このW字は、天の北極を探すための指極星として用いられる。北緯44°より北の地域では、星座全体が地平線に沈むことのない周極星となる。
星座名の正式な日本語表記は「カシオペヤ」と定められているが、いくつかの国語辞典では見出し語を「カシオペア座」とするものもある。
α・β・γの3つの2等星がある。5等星のρ星とV509星は、非常に珍しい黄色極超巨星に分類される大質量星である。
2023年9月現在、国際天文学連合 (IAU) によって8個の恒星に固有名が認証されている。
このほか、以下の恒星が知られている。
α・β・γ・δ・ε の5つの星が形作る「W」字のアステリズムは、北極星のある方角を知るための指極星として用いられている。
メシエ天体に数えられる散開星団が2つ位置している。また、6つの天体がパトリック・ムーア(英語版)がアマチュア天文家の観測対象に相応しい星団・星雲・銀河を選んだ「コールドウェルカタログ」に選ばれている。また、16世紀から17世紀にかけて地球に光が届いた2つの超新星爆発の残骸がある。
カシオペヤ座の領域内に放射点がある流星群のうち、IAUの流星データセンター (IAU Meteor Data Center) で確定された流星群 (Established meteor showers) とされているものは、ペルセウス座流星群 (Perseids)、6月カシオペヤ座μ流星群 (June mu-Cassiopeiids)、カシオペヤ座ψ流星群 (psi-Cassiopeiids)、12月カシオペヤ座φ流星群 (December phi-Cassiopeiids) の4つである。毎年8月13日前後に極大を迎えるペルセウス座流星群は、12月のふたご座流星群、1月のしぶんぎ座流星群とともにいわゆる三大流星群の1つとされる。
この星座のモチーフとされたのは、古代ギリシアの伝承に登場するエチオピア王ケーペウスの妃で、王女アンドロメダーの母親とされるカッシオペイアである。
星座としてのカシオペヤは、紀元前4世紀の古代ギリシアの天文学者クニドスのエウドクソスの著書『ファイノメナ (古希: Φαινόμενα)』に名前が挙げられていた。エウドクソスの『ファイノメナ』は現存していないが、これを元に詩作したとされる紀元前3世紀前半のマケドニアの詩人アラートスの詩篇『ファイノメナ (古希: Φαινόμενα)』にはカシオペヤ座を詠った詩が収められており、アラートスはこの星座の特徴的な形状を「鍵」に喩えている。
カシオペヤ座に属する星の数は、紀元前3世紀後半の天文学者エラトステネースの天文書『カタステリスモイ (古希: Καταστερισμοί)』では15個、1世紀初頭の古代ローマの著作家ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスの『天文詩 (羅: De Astronomica)』では14個、帝政ローマ期の2世紀頃のクラウディオス・プトレマイオスの天文書『ヘー・メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース (古希: ἡ Μεγάλη Σύνταξις τῆς Ἀστρονομίας)』、いわゆる『アルマゲスト』では13個とされた。
9世紀から15世紀にかけての挿し絵では、両手を広げたカッシオペイアの姿が描かれていたが、ドイツの版画家アルブレヒト・デューラーが1515年に製作した星図では左手にヤシの葉を携えて玉座から身を乗り出すような姿で描かれている。さらに17世紀フランスの天文学者オギュスタン・ロワイエが1679年に著した星図では、左手にヤシの葉を携えて玉座に深く腰掛けた姿が描かれた。ヤシの葉はキリスト教の殉教のシンボルであるため、17世紀の星図にはカッシオペイアの姿ではなくマグダラのマリアやソロモンの母バト・シェバ、ヤシの木の下で裁きをおこなったデボラなどが描かれることもあった。
1922年5月にローマで開催されたIAUの設立総会で現行の88星座が定められた際にそのうちの1つとして選定され、星座名は Cassiopeia、略称は Cas と正式に定められた。
10世紀のペルシアの天文学者アブドゥッラハマーン・スーフィーが、『アルマゲスト』を元に964年頃に著した天文書『星座の書』では、「玉座にある女」を意味する Dhāt al-Kursīy という星座名が付けられ、13個の星があるとされた。
アラブの一部では、α・β・γ・δ・εの5つの星群を「染められた手」を意味する al-kaf al-khadib とも呼んでいた。これは、アラブの女性が手や足にヘナと呼ばれる植物性の赤い染料を塗るという習慣に由来するものと考えられており、β星の固有名カフ (Caph) の由来ともなっている。この手は、アラビアの月宿で第3宿とされたプレヤデス星団 ath-thuraya (al-thurayya) を頭として、そこからくじら座とカシオペヤ座に伸びる2つの腕を持つ巨大なアステリズムの一部であった。一方、この「染められた手」は、ムハンマドの娘ファーティマの血に染まった手であるとする伝承もある。
また、アンドロメダ座やペルセウス座の星々と合わせて大きなヒトコブラクダの姿に見立てられることもあった。このラクダの中でカシオペヤ座の星々は胴体を成しており、W字の5星はコブから臀部にかけてを構成していた。
ドイツ人宣教師イグナーツ・ケーグラー(英語版)(戴進賢)らが編纂し、清朝乾隆帝治世の1752年に完成・奏進された星表『欽定儀象考成』では、カシオペヤ座の星は、天の北極近くの区域である三垣の1つで天の北極を中心とする「紫微垣」と、二十八宿の北方玄武七宿の第六宿「室宿」、西方白虎七宿の第一宿「奎宿」に配されていたとされる。
紫微垣では、不明の星1つと40・HD 7389・31・φ・43・ωの計7星が天子の車に被せられる飾りのついた蓋を表す星官「華蓋」に、HD 19275・49・51・50・54・48・42・38の8星が華蓋の柄(え)を表す星官「杠」に、23番星が紫微垣の左の垣を表す星官「紫微左垣」の「少丞」に、16・32・55・HD 17948の4星が食客のための宿舎を表す星官「伝舎」に、それぞれ配された。室宿では、σ・ρ・τ・ARの4星が空を飛ぶ蛇身の怪物を表す「螣蛇」に配された。奎宿では、β・κ・η・α・λの5星が春秋時代晋の政治家趙襄子の御者で馬術の名人であった王良を表す星官「王良」に、γ星が御者の使う鞭を表す星官「策」に、ζ星が閣道の別道を表す星官「附路」に、ι・ε・δ・θ・ν・οの6星が宮殿と宮殿を繋ぐ渡り廊下を表す星官「閣道」に、それぞれ配された。
エラトステネースの『カタステリスモイ』やヒュギーヌスの『天文詩 (羅: De Astronomica)』では、紀元前5世紀のソポクレスやエウリーピデースの戯曲『アンドロメダー』にその物語が伝えられているとしている。これらの戯曲はいずれも現存していないが、以下の伝承が伝えられている。
ある日、カッシオペイアは「自分は海のニュムペーのネーレーイスよりも美しい」と自惚れた。ポセイドーンの妻でネーレーイスのアムピトリーテーとその姉妹たちは、カッシオペイアの自惚れを罰するようポセイドーンに訴え出た。彼女らの訴えを聞き入れたポセイドーンは、エチオピアに海の怪物ケートスを遣わし、災害を引き起こさせた。困り果てたエチオピア王ケーペウスが神託を立てたところ、「災害を止めるにはアンドロメダーを生贄としてケートスに捧げなければならない」という神託が下った。ケーペウスは神託に従ってアンドロメダーを生贄に出したが、たまたま通りがかった勇者ペルセウスによってケートスは倒され、アンドロメダーは救い出された。その後、ペルセウスとアンドロメダー、ケーペウス、カッシオペイアは天に上げられ星座とされたが、玉座に座った姿で天に上げられたカッシオペイアは、彼女の不敬ゆえに頭を下にして天を回転させられている、とされる。
世界で共通して使用されるラテン語の学名は Cassiopeia、日本語の学術用語としては「カシオペヤ」とそれぞれ正式に定められている。
明治初期の1874年(明治7年)に文部省より出版された関藤成緒の天文書『星学捷径』で「カッシオペイア」という読みと「椅子ニ踞シタル女王」という解説が紹介された。また、1879年(明治12年)にノーマン・ロッキャーの著書『Elements of Astronomy』を訳して刊行された『洛氏天文学』では「カスシオペイア」と紹介された。30年ほど時代を下った明治後期には「カシオペイア」と呼ばれていたことが、1908年(明治41年)4月に創刊された日本天文学会の会報『天文月報』の第1巻1号に掲載された「四月の天」と題した記事で確認できる。この訳名は、東京天文台の編集により1925年(大正14年)に初版が刊行された『理科年表』にも「カシオペイア」として引き継がれ、1944年(昭和19年)に天文学用語が見直しされた際も「カシオペイア」が継続して使用されることとされた。
これに対して、天文同好会の山本一清らは異なる読みを充てていた。天文同好会の編集により1928年(昭和3年)4月に刊行された『天文年鑑』第1号では、星座名 Cassiopeia に対して「カシオペア」の読みを充てた。しかし、翌1929年(昭和4年)刊行の第2号ではこれを「カシオペヤ」と改め、以降の号でもこの表記を継続して用いた。これについて山本は東亜天文学会の会誌『天界』1934年4月号の「天文用語に關する私見と主張 (2)」という記事の中でCassiopeia はフランス語で Cassiopée と書く.それで,筆者も以前には「カシオペ」と屡々書いた.しかし,叉,考へ直して,今日我が國のインテリゲンチャたちは,やはり,「カシオペ」よりも「カシオペヤ」と書いた方が,女性名詞としてのより自然な感じを受けるだらうと思ひ,最近は改めた.Cassiopeia を「カシオペイア」と書く人があるが,之れは實に滑稽である.ラテン語を知つて居る人には,わかつてゐる通り,ラテン語の i は子音としても用ゐられる.現にドイツ語でも,Cassiopeia は Cassiopeja と譯してゐるではないか! 故に,日本語では -ia は單に -ヤ と書くのが好いのである.と述べている。
戦後も継続して「カシオペイア」が使われていたが、1952年(昭和27年)7月に日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」とした際に、Cassiopeia の日本語名は「カシオペヤ」と改められた。以降は「カシオペヤ」という表記が継続して用いられている。
このように、学術用語としての星座名はカシオペイアまたはカシオペヤという表記が用いられ、現在は明確にカシオペヤと定められているが、集英社国語辞典・新明解国語辞典・日本国語大辞典などの国語辞典のように カシオペア座を見出し語として採用している辞典もある。
現代の中国では、仙后座と呼ばれている。
日本各地に、その特徴的なWの形を成す5つの星の総称としての呼称が伝わっている。
構成する星の数から、静岡県静岡市、埼玉県さいたま市浦和区・所沢市・上尾市・秩父郡横瀬町・皆野町、千葉県成田市、東京都西多摩郡檜原村、神奈川県相模原市藤野に「イツツボシ(五つ星)」、山梨県上野原市に「イツボシ(五星)」、茨城県坂東市岩井に「ゴヨセボシ(五寄せ星)」という呼称が伝わっている。星の並びから、愛媛県西条市や京都府綾部市ではWの形を山に見立てた「ヤマガタボシ(山形星)」、大分県中津市には、Wの2つの角がずれていることを指した「カドチガイボシ」とした呼称が伝えられている。天球上での動きから、子の星(北極星)を食べようとする七曜の星(北斗七星)を追い払って守る星と見立てて「ヤライノホシ」という呼称も伝えられている。また、W字を船の錨に見立てた呼び名として、香川県観音寺市に「イカリボッサン」、宮城県仙台市泉区根白石・大沢、静岡県焼津市・静岡市、神奈川県相模原市藤野、香川県東かがわ市に「イカリボシ」という呼称が伝わっている。信仰に由来する呼び名として、静岡県御前崎市白羽に「ゴヨウ(五曜)」、埼玉県秩父郡横瀬町に「ゴヨウセイ」、静岡県焼津市・牧之原市静波に「クヨー(九曜)」、焼津市・静岡市鷹匠に「クヨーノホシ」、兵庫県宍粟郡に「ホクヨウセイ(北曜星)」という呼称が伝えられている。この他、兵庫県姫路市北条にはWを弓に見立てた「ユミボシ(弓星)」、同市網干には英文字に見立てた「エイモンジボシ(英文字星)」という比較的新しい呼称も採集されている。
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"text": "紫微垣では、不明の星1つと40・HD 7389・31・φ・43・ωの計7星が天子の車に被せられる飾りのついた蓋を表す星官「華蓋」に、HD 19275・49・51・50・54・48・42・38の8星が華蓋の柄(え)を表す星官「杠」に、23番星が紫微垣の左の垣を表す星官「紫微左垣」の「少丞」に、16・32・55・HD 17948の4星が食客のための宿舎を表す星官「伝舎」に、それぞれ配された。室宿では、σ・ρ・τ・ARの4星が空を飛ぶ蛇身の怪物を表す「螣蛇」に配された。奎宿では、β・κ・η・α・λの5星が春秋時代晋の政治家趙襄子の御者で馬術の名人であった王良を表す星官「王良」に、γ星が御者の使う鞭を表す星官「策」に、ζ星が閣道の別道を表す星官「附路」に、ι・ε・δ・θ・ν・οの6星が宮殿と宮殿を繋ぐ渡り廊下を表す星官「閣道」に、それぞれ配された。",
"title": "由来と歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "エラトステネースの『カタステリスモイ』やヒュギーヌスの『天文詩 (羅: De Astronomica)』では、紀元前5世紀のソポクレスやエウリーピデースの戯曲『アンドロメダー』にその物語が伝えられているとしている。これらの戯曲はいずれも現存していないが、以下の伝承が伝えられている。",
"title": "神話"
},
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ある日、カッシオペイアは「自分は海のニュムペーのネーレーイスよりも美しい」と自惚れた。ポセイドーンの妻でネーレーイスのアムピトリーテーとその姉妹たちは、カッシオペイアの自惚れを罰するようポセイドーンに訴え出た。彼女らの訴えを聞き入れたポセイドーンは、エチオピアに海の怪物ケートスを遣わし、災害を引き起こさせた。困り果てたエチオピア王ケーペウスが神託を立てたところ、「災害を止めるにはアンドロメダーを生贄としてケートスに捧げなければならない」という神託が下った。ケーペウスは神託に従ってアンドロメダーを生贄に出したが、たまたま通りがかった勇者ペルセウスによってケートスは倒され、アンドロメダーは救い出された。その後、ペルセウスとアンドロメダー、ケーペウス、カッシオペイアは天に上げられ星座とされたが、玉座に座った姿で天に上げられたカッシオペイアは、彼女の不敬ゆえに頭を下にして天を回転させられている、とされる。",
"title": "神話"
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"text": "世界で共通して使用されるラテン語の学名は Cassiopeia、日本語の学術用語としては「カシオペヤ」とそれぞれ正式に定められている。",
"title": "呼称と方言"
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"text": "明治初期の1874年(明治7年)に文部省より出版された関藤成緒の天文書『星学捷径』で「カッシオペイア」という読みと「椅子ニ踞シタル女王」という解説が紹介された。また、1879年(明治12年)にノーマン・ロッキャーの著書『Elements of Astronomy』を訳して刊行された『洛氏天文学』では「カスシオペイア」と紹介された。30年ほど時代を下った明治後期には「カシオペイア」と呼ばれていたことが、1908年(明治41年)4月に創刊された日本天文学会の会報『天文月報』の第1巻1号に掲載された「四月の天」と題した記事で確認できる。この訳名は、東京天文台の編集により1925年(大正14年)に初版が刊行された『理科年表』にも「カシオペイア」として引き継がれ、1944年(昭和19年)に天文学用語が見直しされた際も「カシオペイア」が継続して使用されることとされた。",
"title": "呼称と方言"
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"text": "これに対して、天文同好会の山本一清らは異なる読みを充てていた。天文同好会の編集により1928年(昭和3年)4月に刊行された『天文年鑑』第1号では、星座名 Cassiopeia に対して「カシオペア」の読みを充てた。しかし、翌1929年(昭和4年)刊行の第2号ではこれを「カシオペヤ」と改め、以降の号でもこの表記を継続して用いた。これについて山本は東亜天文学会の会誌『天界』1934年4月号の「天文用語に關する私見と主張 (2)」という記事の中でCassiopeia はフランス語で Cassiopée と書く.それで,筆者も以前には「カシオペ」と屡々書いた.しかし,叉,考へ直して,今日我が國のインテリゲンチャたちは,やはり,「カシオペ」よりも「カシオペヤ」と書いた方が,女性名詞としてのより自然な感じを受けるだらうと思ひ,最近は改めた.Cassiopeia を「カシオペイア」と書く人があるが,之れは實に滑稽である.ラテン語を知つて居る人には,わかつてゐる通り,ラテン語の i は子音としても用ゐられる.現にドイツ語でも,Cassiopeia は Cassiopeja と譯してゐるではないか! 故に,日本語では -ia は單に -ヤ と書くのが好いのである.と述べている。",
"title": "呼称と方言"
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"text": "戦後も継続して「カシオペイア」が使われていたが、1952年(昭和27年)7月に日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」とした際に、Cassiopeia の日本語名は「カシオペヤ」と改められた。以降は「カシオペヤ」という表記が継続して用いられている。",
"title": "呼称と方言"
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"text": "このように、学術用語としての星座名はカシオペイアまたはカシオペヤという表記が用いられ、現在は明確にカシオペヤと定められているが、集英社国語辞典・新明解国語辞典・日本国語大辞典などの国語辞典のように カシオペア座を見出し語として採用している辞典もある。",
"title": "呼称と方言"
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"text": "現代の中国では、仙后座と呼ばれている。",
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"text": "日本各地に、その特徴的なWの形を成す5つの星の総称としての呼称が伝わっている。",
"title": "呼称と方言"
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"text": "構成する星の数から、静岡県静岡市、埼玉県さいたま市浦和区・所沢市・上尾市・秩父郡横瀬町・皆野町、千葉県成田市、東京都西多摩郡檜原村、神奈川県相模原市藤野に「イツツボシ(五つ星)」、山梨県上野原市に「イツボシ(五星)」、茨城県坂東市岩井に「ゴヨセボシ(五寄せ星)」という呼称が伝わっている。星の並びから、愛媛県西条市や京都府綾部市ではWの形を山に見立てた「ヤマガタボシ(山形星)」、大分県中津市には、Wの2つの角がずれていることを指した「カドチガイボシ」とした呼称が伝えられている。天球上での動きから、子の星(北極星)を食べようとする七曜の星(北斗七星)を追い払って守る星と見立てて「ヤライノホシ」という呼称も伝えられている。また、W字を船の錨に見立てた呼び名として、香川県観音寺市に「イカリボッサン」、宮城県仙台市泉区根白石・大沢、静岡県焼津市・静岡市、神奈川県相模原市藤野、香川県東かがわ市に「イカリボシ」という呼称が伝わっている。信仰に由来する呼び名として、静岡県御前崎市白羽に「ゴヨウ(五曜)」、埼玉県秩父郡横瀬町に「ゴヨウセイ」、静岡県焼津市・牧之原市静波に「クヨー(九曜)」、焼津市・静岡市鷹匠に「クヨーノホシ」、兵庫県宍粟郡に「ホクヨウセイ(北曜星)」という呼称が伝えられている。この他、兵庫県姫路市北条にはWを弓に見立てた「ユミボシ(弓星)」、同市網干には英文字に見立てた「エイモンジボシ(英文字星)」という比較的新しい呼称も採集されている。",
"title": "呼称と方言"
}
] |
カシオペヤ座(カシオペヤざ、は、現代の88星座の1つで、プトレマイオスの48星座の1つ。古代ギリシアの伝承に登場するエチオピアの王妃カッシオペイアをモチーフとしている。3個の2等星と2個の3等星が、ラテン文字のWの形に並ぶ姿で知られる。このW字は、天の北極を探すための指極星として用いられる。北緯44°より北の地域では、星座全体が地平線に沈むことのない周極星となる。 星座名の正式な日本語表記は「カシオペヤ」と定められているが、いくつかの国語辞典では見出し語を「カシオペア座」とするものもある。
|
{{Infobox Constellation
| janame = カシオペヤ座
| name = Cassiopeia
| abbreviation = Cas
| genitive = Cassiopeiae
| pronounce = {{IPA-en|ˌkæsi.ɵˈpiː.ə|}} ''Cássiopéia,'' 口語的に{{IPA|/ˌkæsiˈoʊpiː.ə/}} ''Cássiópeia;'' 属格 {{IPA|/ˌkæsi.ɵˈpiː.iː/}}
| symbology = [[カッシオペイア]]
| RA = {{RA|22|57|04.6}} - {{RA|03|41|14.1}}{{R|boundary}}
| dec = +77.69° - +46.68°{{R|boundary}}
| culmination time = 20時
| culmination date = 12月上旬{{R|Nenkan2016}}
| quadrant = NQ1
| areatotal = 598.407
| arearank = 25
| numberbfstars = 53
| numberbrightstars = 4
| brighteststarname = [[カシオペヤ座アルファ星|α Cas]]
| starmagnitude = 2.23
| numbermessierobjects = 2
| meteorshowers = [[ペルセウス座流星群]]{{efn2|name="Perse"|[[ペルセウス座流星群]]の[[放射点]]は、[[ペルセウス座]]、[[きりん座]]、カシオペヤ座の境界近くのカシオペヤ座の領域内に位置している{{R|StellaNavigator11|MDC_Perseids}}。}}<br />6月カシオペヤ座μ流星群<br />カシオペヤ座ψ流星群<br />12月カシオペヤ座φ流星群{{R|NAOJ_meteor}}
| bordering = [[きりん座]]<br />[[ケフェウス座]]<br />[[とかげ座]]<br />[[アンドロメダ座]]<br />[[ペルセウス座]]
|notes =
}}
{{読み仮名|'''カシオペヤ座'''|カシオペヤざ|{{lang-la|Cassiopeia}}}}は、[[星座#国際天文学連合による88星座|現代の88星座]]の1つで、[[トレミーの48星座|プトレマイオスの48星座]]の1つ{{R|Ridpath}}。[[古代ギリシア]]の伝承に登場するエチオピアの王妃[[カッシオペイア]]をモチーフとしている{{R|IAU_constellations}}。3個の2等星と2個の3等星が、ラテン文字の'''W'''の形に並ぶ姿で知られる。このW字は、[[天の北極]]を探すための[[指極星]]として用いられる。北緯44°より北の地域では、星座全体が地平線に沈むことのない[[周極星]]となる。
星座名の正式な[[日本語]]表記は「'''カシオペヤ'''」と定められているが、いくつかの[[国語辞典]]では見出し語を「カシオペア座」とするものもある{{R|mainichi-kotoba}}。
== 主な天体 ==
=== 恒星 ===
{{See also|カシオペヤ座の恒星の一覧}}
α・β・γの3つの2等星がある{{R|simbad_alpha|simbad_beta|simbad_gamma}}。5等星のρ星とV509星は、非常に珍しい'''[[黄色極超巨星]]'''に分類される大質量星である。
[[2023年]]9月現在、[[国際天文学連合]] (IAU) によって8個の恒星に固有名が認証されている{{R|iaucsn}}。
* [[カシオペヤ座アルファ星|α星]]:[[太陽系]]から約231 [[光年]]の距離にある、[[見かけの等級|見かけの明るさ]]2.23 等、[[スペクトル分類|スペクトル型]]K0-IIIaの巨星で、2等星{{R|simbad_alpha}}。カシオペヤ座で最も明るく見える。固有名の「'''シェダル'''{{R|StellaNavigator11}}(Schedar{{R|iaucsn}})」は、[[アラビア語]]で「胸」を意味する言葉に由来する{{Sfn|Kunitzsch|2006|p=26}}。
* [[カシオペヤ座ベータ星|β星]]:見かけの明るさ2.27 等、スペクトル型F2IIIの巨星で、2等星{{R|simbad_beta}}。ほぼ赤経0h に位置しているため、[[恒星時]]を計るための大まかな指針として使われる。2.30 等のA星と12.45 等のB星から成る[[連星|連星系]]で、約27日の周期で互いを周回している{{R|WDS_beta}}。A星は[[たて座デルタ型変光星]]に分類される[[脈動変光星]]で、約0.1 日の周期で0.03 等の振幅で変光する{{R|GCVS_beta}}。固有名の「'''カフ'''{{R|StellaNavigator11}}(Caph{{R|iaucsn}})」は、アラビア語で「染められた手」という意味の言葉に由来する{{Sfn|Kunitzsch|2006|p=26}}。
* [[カシオペヤ座デルタ星|δ星]]:太陽系から約102 光年の距離にある、見かけの明るさ2.680 等、スペクトル型A5IV の[[準巨星]]で、3等星{{R|simbad_delta}}。[[おうし座]]の[[ヒアデス星団]]と同じ[[分子雲]]で生まれた[[運動星団|ヒアデス運動星団]] ({{Lang-en-short|Hyades Moving Group}}) の一員と考えられている{{R|simbad_delta}}。固有名の「'''ルクバー'''{{R|StellaNavigator11}}(Ruchbah{{R|iaucsn}})」は、アラビア語で「膝」を意味する言葉に由来する{{Sfn|Kunitzsch|2006|p=26}}。
* [[カシオペヤ座イプシロン星|ε星]]:太陽系から約466 光年の距離にある、見かけの明るさ3.37 等、スペクトル型B3Vp_sh の[[B型主系列星]]{{R|simbad_epsilon}}。固有名の「'''セギン'''{{R|StellaNavigator11}}(Segin{{R|iaucsn}})」は、おそらく[[うしかい座ガンマ星|うしかい座γ星]]の固有名セギヌス (Seginus) が転訛したものであろうと考えられている{{Sfn|Kunitzsch|2006|p=62}}。
* [[カシオペヤ座ゼータ星|ζ星]]:太陽系から約355 光年の距離にある、見かけの明るさ3.66 等、スペクトル型B2IV の準巨星で、4等星{{R|simbad_zeta}}。Aa星の固有名「'''フールー'''{{R|StellaNavigator11}}(附路、Fulu{{R|iaucsn}})」は、この星が[[中国]]の天文学において[[二十八宿]]の1つ「[[奎宿]]」にある星官「附路」に充てられていたことから認証された{{R|iaucsn}}。
* [[カシオペヤ座イータ星|η星]]:太陽系から約19.3 光年の距離にある、見かけの明るさ3.44 等、スペクトル型F9V の[[主系列星]]で、3等星{{R|simbad_eta}}。3.52 等のA星と7.36 等のB星から成る連星系で、A星の固有名「'''アキルド'''{{R|StellaNavigator11}}(Achird{{R|iaucsn}})」は、ε星と同じく[[スロバキア]]の天文学者[[アントニーン・ベチュヴァーシュ]]が1951年に刊行した『スカルナテ・プレソ星図』に付された星表で初めて登場した由来不明の名称{{Sfn|Kunitzsch|2006|p=62}}だが、[[2017年]]にIAUの恒星の命名に関するワーキンググループ (WGSN) によって認証された{{R|iaucsn}}。
* [[カシオペヤ座ウプシロン2星|υ{{sup|2}}星]]:太陽系から約196 光年の距離にある、見かけの明るさ4.622 等、スペクトル型G8.5IIIbFe-0.5 の[[化学特異星]]で、5等星{{R|simbad_upsilon2}}。[[核 (天体)|中心核]]での[[水素]]の[[核融合]]を終えて、[[ヘリウム燃焼過程|ヘリウム核燃焼]]を始めた[[水平分枝]]の段階にあると考えられている{{R|Puzeras2010}}。また、スペクトル中にバリウムの強い吸収線を示すことから[[バリウム星]]に分類されていることから、既に[[白色矮星]]に進化した未発見の伴星が存在しており、その星が[[漸近巨星分枝]]だった頃に合成された[[s過程]]元素を多く含む物質が主星の表面に降着したものと考えられている{{R|Bergeat1997}}。A星の固有名「'''カストゥラ'''{{R|StellaNavigator11}}(Castula{{R|iaucsn}})」は、[[ヨハン・バイエル]]の天文書『[[ウラノメトリア]]』でυ星の位置を「ペチコートのようなもの」を意味する castulam と形容したことに由来する{{Sfn|原恵|2007|p=184}}{{efn2|[[原恵]]は[[ケフェウス座]]の項にこの固有名と由来を記述している{{Sfn|原恵|2007|p=184}}が、実際はカシオペヤ座のページにその記述がある{{R|Bayer1603}}。また『ウラノメトリア』のケフェウス座にはυ星は存在しない{{R|Bayer1603}}。}}。
* [[HD 17156]]:太陽系から約253 光年の距離にある、見かけの明るさ8.16 等、スペクトル型F9V の主系列星で、8等星{{R|simbad_HD17156}}。IAUの100周年記念行事「[[NameExoWorlds|IAU100 NameExoWorlds]]」で[[アメリカ合衆国]]に命名権が与えられ、主星は''Nushagak''、太陽系外惑星はMulchatnaと命名された{{R|approved}}。
このほか、以下の恒星が知られている。
* [[カシオペヤ座ガンマ星|γ星]]:太陽系から約382 光年の距離にある、見かけの明るさ2.39 等、スペクトル型B0.5IVpeの化学特異星で、2等星{{R|simbad_gamma}}。強力なX線を放出しており、スペクトル中に水素の強い輝線が見られる[[Be星]]の主星Aと白色矮星の伴星Bからなる[[X線連星]]であると考えられている{{R|Hamaguchi2016}}。主星のA星は「[[カシオペヤ座ガンマ型変光星|カシオペヤ座γ型変光星]]」のプロトタイプとされる[[爆発型変光星]]で、その明るさを1.60 等から3.00 等まで大きく変化させる{{R|GCVS_gamma}}。中国の天文学において二十八宿の1つ「奎宿」にある乗馬に使う鞭を表す星官「策」に充てられていたことから「'''ツィー'''{{Sfn|原恵|2007|p=204}}(Tsih{{R|Allen2013}})」という名前で呼ばれることもある。また、[[アメリカ合衆国]]の[[宇宙飛行士]]で[[アポロ1号]]の搭乗員であった[[ガス・グリソム]]のミドルネーム Ivan の綴りを前後逆にした '''Navi''' という通称でも知られる{{R|NASA}}。
* [[カシオペヤ座ミュー星|μ星]]:太陽系から約25 光年の距離にある、G型主系列星のA星と赤色矮星のB星からなる連星系で、5等星{{R|simbad_mu}}。2020年の研究では、連星系の年齢は127億±27億 歳で、おそらく'''肉眼で見える恒星としては全天で最も古い星'''であるとしている{{R|Bond2020}}。
* [[カシオペヤ座ロー星|ρ星]]:見かけの明るさ4.59 等、スペクトル型G2_0 の[[黄色極超巨星]]で、5等星{{R|simbad_rho}}。[[1901年]]に[[エドワード・ピッカリング]]の下で[[写真乾板]]の解析をしていたLouisa Wellsによって変光星であることが発見された{{R|PickeringColsonFlemingWells1901}}。1945年以降、4回の大きなアウトバーストを起こしている{{R|MaraveliasKraus2022}}。[[主系列星]]から低温で巨大な[[赤色超巨星]]に進化した後に、再び高温の星となる段階にあると考えられている{{R|Beasor2023}}。
* [[カシオペヤ座R星|R星]]:太陽系から約568 光年の距離にある[[ミラ型変光星]]{{R|simbad_R}}。[[1853年]]に[[イギリス]]の天文学者[[ノーマン・ポグソン]]によって発見された{{R|AAVSO_R}}。約430日の周期で最大4.7 等から最小13.5 等までの範囲で見かけの明るさを変える{{R|AAVSO_R}}が、1周期の光度の振幅は6等級前後である{{R|AstroArts20230203}}。
* [[カシオペヤ座V509星|V509星]]:見かけの明るさ5.13 等、スペクトル型G4_0 の黄色極超巨星で、5等星{{R|simbad_V509}}。ρ星と同じく赤色超巨星の段階から再び高温の星となる段階にあると考えられている{{R|Nieuwenhuijzen2012}}。[[1978年]]の研究からB型主系列星の伴星の存在が示唆されている{{R|Nieuwenhuijzen2012}}。
* [[HD 221568]]:太陽系から約773 光年の距離にある、見かけの明るさ7.55 等、スペクトル型 A0p の[[特異星|A型特異星]]で、8等星{{R|simbad_HD221568}}。[[日本]]の天文学者[[大沢清輝]]が先駆的な研究を行ったことから「'''大沢スター'''{{R|Nishimura2003}}('''Osawa's Peculiar Star'''{{R|Kodaira1969}})」の別名で知られる。分光スペクトル中に[[ストロンチウム]]、[[クロム]]、[[ユウロピウム]]の強い[[スペクトル#スペクトルの波形の特長による種類|吸収線]]が見られるA型特異星(Ap星、磁変星)に分類される{{R|Nishimura2003|Kodaira1969}}。変光星としては、159日の周期で色指数が変光する[[りょうけん座アルファ2型変光星|りょうけん座α{{sup|2}}型変光星]]に分類されている{{R|GCVS_V436}}。
==== アステリズム ====
α・β・γ・δ・ε の5つの星が形作る「W」字の[[アステリズム]]は、[[北極星]]のある方角を知るための'''指極星'''として用いられている{{R|Shosanbetu201812}}。
[[File:The Pointers (Cassiopeia).jpg|thumb|center|360px|カシオペヤ座のWから[[北極星]]を見つける方法。βとα、εとδ をそれぞれ結んだ線分を2つの線が交わるまで拡張する。2つの線の交点からW字の中心の星 (γ) に向けて線で繋ぎ、その線分を5倍に伸ばしたあたりに[[天の北極]]や北極星を見つけることができる。]]
=== 星団・星雲・銀河 ===
[[メシエ天体]]に数えられる散開星団が2つ位置している。また、6つの天体が{{仮リンク|パトリック・ムーア (天文学者)|label=パトリック・ムーア|en|Patrick Moore}}がアマチュア天文家の観測対象に相応しい星団・星雲・銀河を選んだ「[[カルドウェルカタログ|コールドウェルカタログ]]」に選ばれている{{R|SEDS_Caldwell}}。また、[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて地球に光が届いた2つの[[超新星爆発]]の[[超新星残骸|残骸]]がある。
* [[M52 (天体)|M52]]:太陽系から約5,400 光年の距離にある[[散開星団]]{{R|simbad_M52}}。[[1774年]]9月7日、[[シャルル・メシエ]]が発見した{{R|SEDS_M52}}。
* [[M103 (天体)|M103]]:太陽系から約6,700 光年の距離にある散開星団{{R|simbad_M103}}。[[1781年]]に[[ピエール・メシャン]]が発見した{{R|SEDS_M103}}。メシエが編纂した[[メシエカタログ]]で最後に収録された。すぐ隣にあるNGC 663 のほうが星が多く見栄えもすることから、M103と間違えられることもある{{R|SEDS_M103}}。
* [[NGC 559]]:太陽系から約9,400 光年の距離にある散開星団{{R|simbad_NGC559}}。コールドウェルカタログの8番に選ばれている{{R|SEDS_Caldwell}}。
* [[NGC 663]]:太陽系から約9,600 光年の距離にある散開星団{{R|simbad_NGC663}}。コールドウェルカタログの10番に選ばれている{{R|SEDS_Caldwell}}。7 等級と明るい星団で、東西に2つの星の集団が並んでいる姿を馬の蹄に喩えて Horseshoe cluster と呼ばれることもある{{R|Mobberley2009}}。
* [[NGC 7635]]:太陽系から約7,900 光年の距離にあり、M52のすぐ隣に見える[[散光星雲]]{{R|simbad_NGC7635}}。コールドウェルカタログの11番に選ばれている{{R|SEDS_Caldwell}}。[[1787年]]にイギリスの天文学者[[ウィリアム・ハーシェル]]によって発見された{{R|Hubble20160421}}。そのシャボン玉のような見た目から「'''バブル星雲'''{{R|Numasawa2007}}(Bubble Nebula{{R|simbad_NGC7635}})」という通称でも知られる{{R|simbad_NGC7635}}。星雲内にあるO型の大質量星BD +60°2522 から放たれる[[恒星風]]によって形成されたと考えられており、BD +60°2522は1000万-2000万年後に超新星爆発を起こすと予測されている{{R|Hubble20160421}}。
* [[NGC 457]]:散開星団{{R|simbad_NGC457}}。コールドウェルカタログの13番に選ばれている{{R|SEDS_Caldwell}}。5等星のφ{{sup|1}}と7等星のφ{{sup|2}}が目のように見えることから「'''ふくろう星団''' (Owl Cluster{{R|simbad_NGC457}})」や「'''ET星団''' (ET Cluster{{R|simbad_NGC457}})」と呼ばれることもある。
* [[NGC 147]]:天の川銀河から約248万 光年の距離にある[[矮小楕円銀河]]{{R|simbad_NGC147}}。コールドウェルカタログの17番に選ばれている{{R|SEDS_Caldwell}}。[[1829年]]9月8日にイギリスの天文学者[[ジョン・ハーシェル]]が発見した{{R|Frommert2012}}。[[1944年]]、ドイツ生まれのアメリカの天文学者[[ウォルター・バーデ]]によって、近くにある[[NGC 185]]とともに[[局所銀河群]]に属していることが発見された{{R|Frommert2012|Baade1944}}。NGC 185と共にM31([[アンドロメダ銀河]])の[[伴銀河]]となっているが、現在はM31よりも天の川銀河のほうがより近い位置にある{{R|Frommert2012}}。
* [[NGC 185]]:天の川銀河から約215万 光年の距離にある矮小楕円銀河{{R|simbad_NGC185}}。コールドウェルカタログの18番に選ばれている{{R|SEDS_Caldwell}}。1787年11月30日にウィリアム・ハーシェルが発見した{{R|Frommert2005}}。2016年の研究によると、NGC 147では約69億年前から約30億年前にかけて盛んに星形成されたが3億年前にはほとんど星形成されなくなったのに対して、NGC 185では約83億年前に星形成のピークを迎えた後、率は大きく落ちたもののある程度コンスタントに星形成が続いている、とされた{{R|Hamedani2016}}。
* [[SN 1572|SN 1572A]]:[[1572年]]に観測された[[超新星]]で、[[ティコ・ブラーエ]]が詳細な観測記録を残したことから「'''ティコの超新星'''{{R|AstroArts20221129}}(Tycho's Supernova)」の名前で知られる{{R|simbad_SN1572}}。その[[超新星残骸]]のX線のスペクトルから[[Ia型超新星]]と推測されており、周辺の残骸から届く[[光エコー]]のスペクトルを解析した2008年の研究により、標準的なIa型超新星であったことが判明した{{R|Subaru20081203|Krause2008}}。
* [[カシオペヤ座A]]:全天で最も強力な電波源の1つとされる超新星残骸{{R|simbad_CasA}}。超新星残骸の膨張速度からの逆算により、1681±19年頃に[[超新星爆発]]の光が太陽系に到達したと推測されている{{R|Fesen2006}}が、明らかな観測記録は残されていない{{R|Krause2008b}}。周辺の残骸から届く光エコーのスペクトルを解析した2008年の研究により、[[II型超新星|IIb型超新星]]であったことが判明した{{R|Krause2008b}}。
{{Gallery
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| 2022-10-24 25-ngc7635 BubbleNebula 136x300 v01.1.jpg | [[散開星団]][[M52 (天体)|M52]](右)と、'''バブル星雲'''の通称で知られる[[散光星雲]][[NGC 7635]](左)。
| M103, NGC 581 (noao-m103).jpg | [[2000年]]12月24日に[[アメリカ]] [[アリゾナ州]]の[[キットピーク国立天文台]]の2.1 m望遠鏡で撮影された散開星団[[M103 (天体)|M103]]。
| NGC 559 PanSTARRS.jpg | [[パンスターズ|PanSTARRS]]によって撮影された散開星団[[NGC 559]]。
| NGC663HunterWilson.jpg | 散開星団[[NGC 663]]。
| The Bubble Nebula - NGC 7635 - Heic1608a.jpg | 2016年2月、[[ハッブル宇宙望遠鏡]] (HST) の[[広視野カメラ3]] (WFC3) によって撮像されたバブル星雲。色は青が[[酸素]]、緑が[[水素]]、赤が[[窒素]]に対応している。
| NGC457.jpg | 散開星団[[NGC 457]]。
| NGC 0147 DSS.jpg | [[矮小楕円銀河]][[NGC 147]]。
| Caldwell 18 (50289818793).jpg | HSTのWFC3によって撮像された矮小楕円銀河[[NGC 185]]。
| Tycho-supernova-xray.jpg | [[NASA]]の[[X線天文衛星]]「[[チャンドラ (人工衛星)|チャンドラX線天文台]]」によって撮像された[[SN 1572|ティコの超新星残骸]]の疑似カラー画像。
| Cassiopeia A Spitzer Crop.jpg | [[ハッブル宇宙望遠鏡]]、[[スピッツァー宇宙望遠鏡]]、チャンドラX線天文台による撮像を合成した、[[カシオペヤ座A]]の疑似カラー画像。
}}
== 流星群 ==
カシオペヤ座の領域内に[[放射点]]がある[[流星群]]のうち、IAUの流星データセンター (IAU Meteor Data Center) で確定された流星群 (Established meteor showers) とされているものは、[[ペルセウス座流星群]] (Perseids){{R|Perse|group="注"}}、6月カシオペヤ座μ流星群 (June mu-Cassiopeiids)、カシオペヤ座ψ流星群 (psi-Cassiopeiids)、12月カシオペヤ座φ流星群 (December phi-Cassiopeiids) の4つである{{R|NAOJ_meteor}}。毎年8月13日前後に極大を迎えるペルセウス座流星群は、12月の[[ふたご座流星群]]、1月の[[しぶんぎ座流星群]]とともにいわゆる'''三大流星群'''の1つとされる{{R|NAOJ_majormeteor}}。
== 由来と歴史 ==
[[File:Sidney Hall - Urania's Mirror - Cassiopeia (image right side up).jpg|thumb|360px|[[19世紀]]の[[イギリス]]で販売された星座カード集『[[ウラニアの鏡]]』に描かれたカシオペヤ座。]]
この星座のモチーフとされたのは、[[古代ギリシア]]の伝承に登場するエチオピア王[[ケーペウス]]の妃で、王女[[アンドロメダー]]の母親とされる[[カッシオペイア]]である{{R|Ridpath}}。
星座としてのカシオペヤは、[[紀元前4世紀]]の古代ギリシアの天文学者[[エウドクソス|クニドスのエウドクソス]]の著書『ファイノメナ ({{Lang-grc-short|Φαινόμενα}})』に名前が挙げられていた。エウドクソスの『ファイノメナ』は現存していないが、これを元に詩作したとされる[[紀元前3世紀]]前半の[[マケドニア]]の詩人[[アラトス|アラートス]]の詩篇『ファイノメナ ({{Lang-grc-short|Φαινόμενα}})』にはカシオペヤ座を詠った詩が収められており、アラートスはこの星座の特徴的な形状を「鍵」に喩えている{{R|Ito2007}}。
カシオペヤ座に属する星の数は、[[紀元前3世紀]]後半の天文学者[[エラトステネス|エラトステネース]]の天文書『[[カタステリスモイ]] ({{Lang-grc-short|Καταστερισμοί}})』では15個、1世紀初頭の[[古代ローマ]]の著作家[[ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス]]の『天文詩 ({{Lang-la-short|De Astronomica}})』では14個、[[帝政ローマ]]期の2世紀頃の[[クラウディオス・プトレマイオス]]の天文書『ヘー・メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース ({{Lang-grc-short|ἡ Μεγάλη Σύνταξις τῆς Ἀστρονομίας}})』、いわゆる『[[アルマゲスト]]』では13個とされた{{R|Condos1997}}。
[[9世紀]]から[[15世紀]]にかけての挿し絵では、両手を広げたカッシオペイアの姿が描かれていたが{{R|Ridpath|TheWarburgInstituteIconographicDatabase}}、ドイツの[[版画家]][[アルブレヒト・デューラー]]が[[1515年]]に製作した[[星図]]では左手に[[ヤシ]]の葉を携えて玉座から身を乗り出すような姿で描かれている{{R|Ridpath}}。さらに[[17世紀]]フランスの天文学者[[オギュスタン・ロワーエ|オギュスタン・ロワイエ]]が[[1679年]]に著した星図では、左手にヤシの葉を携えて玉座に深く腰掛けた姿が描かれた{{R|Staal1988}}。ヤシの葉はキリスト教の殉教のシンボルであるため、17世紀の星図にはカッシオペイアの姿ではなく[[マグダラのマリア]]や[[ソロモン]]の母[[バト・シェバ]]、ヤシの木の下で裁きをおこなった[[デボラ]]などが描かれることもあった{{R|Staal1988}}。
[[1922年]]5月に[[ローマ]]で開催されたIAUの設立総会で現行の88星座が定められた際にそのうちの1つとして選定され、星座名は '''Cassiopeia'''、略称は '''Cas''' と正式に定められた{{R|IAU_list}}。
=== 中東 ===
10世紀の[[ペルシア]]の天文学者[[アブドゥル・ラフマーン・スーフィー|アブドゥッラハマーン・スーフィー]]が、『アルマゲスト』を元に[[964年]]頃に著した天文書『[[星座の書]]』では、「玉座にある女」を意味する Dhāt al-Kursīy という星座名が付けられ、13個の星があるとされた{{R|Hafez2010}}。
アラブの一部では、α・β・γ・δ・εの5つの星群を「染められた手」を意味する al-kaf al-khadib とも呼んでいた{{R|Adams2015}}。これは、アラブの女性が手や足に[[ヘナ]]と呼ばれる植物性の赤い染料を塗るという習慣に由来するものと考えられており{{R|Staal1988}}、β星の固有名カフ (Caph) の由来ともなっている{{Sfn|Kunitzsch|2006|p=26}}。この手は、アラビアの[[月宿]]で第3宿とされた[[プレヤデス星団]]{{R|Yamamoto1985}} ath-thuraya (al-thurayya) を頭として、そこから[[くじら座]]と'''カシオペヤ座'''に伸びる2つの腕を持つ巨大な[[アステリズム]]の一部であった{{R|Adams2015}}。一方、この「染められた手」は、[[ムハンマド]]の娘[[ファーティマ]]の血に染まった手であるとする伝承もある{{R|Staal1988}}。
また、[[アンドロメダ座]]や[[ペルセウス座]]の星々と合わせて大きな[[ヒトコブラクダ]]の姿に見立てられることもあった{{R|Staal1988}}。このラクダの中でカシオペヤ座の星々は胴体を成しており、W字の5星はコブから臀部にかけてを構成していた{{R|Staal1988}}。
=== 中国 ===
ドイツ人宣教師{{仮リンク|イグナーツ・ケーグラー|en|Ignaz Kögler}}(戴進賢)らが編纂し、[[清|清朝]][[乾隆帝]]治世の[[1752年]]に完成・奏進された星表『欽定儀象考成』では、カシオペヤ座の星は、天の北極近くの区域である[[三垣]]の1つで天の北極を中心とする「[[紫微垣]]」と、二十八宿の[[玄武|北方玄武]]七宿の第六宿「[[室宿]]」、[[白虎|西方白虎]]七宿の第一宿「[[奎宿]]」に配されていたとされる{{Sfn|伊世同|1981|pp=140-141}}。
紫微垣では、不明の星1つと40・HD 7389・31・φ・43・ωの計7星が[[天子]]の車に被せられる飾りのついた蓋を表す[[星官]]「華蓋」に、HD 19275・49・51・[[カシオペヤ座50番星|50]]・54・48・42・38の8星が華蓋の柄(え)を表す星官「杠」に、23番星が紫微垣の左の垣を表す星官「紫微左垣」の「少丞」に、16・32・55・HD 17948の4星が[[食客]]のための宿舎を表す星官「伝舎」に、それぞれ配された{{Sfn|伊世同|1981|pp=140-141}}{{R|Osaki1987_1}}。室宿では、σ・ρ・τ・ARの4星が空を飛ぶ蛇身の怪物を表す「[[螣蛇]]」に配された{{Sfn|伊世同|1981|pp=140-141}}{{R|Osaki1987_1}}。奎宿では、β・[[カシオペヤ座カッパ星|κ]]・η・α・λの5星が[[春秋時代]][[晋 (春秋)|晋]]の政治家[[趙無恤|趙襄子]]の御者で馬術の名人であった王良を表す星官「王良」に、γ星が御者の使う鞭を表す星官「策」に、ζ星が閣道の別道を表す星官「附路」に、[[カシオペヤ座イオタ星|ι]]・ε・δ・[[カシオペヤ座シータ星|θ]]・ν・οの6星が宮殿と宮殿を繋ぐ渡り廊下を表す星官「閣道」に、それぞれ配された{{Sfn|伊世同|1981|pp=140-141}}{{R|Osaki1987_1}}。
== 神話 ==
エラトステネースの『カタステリスモイ』やヒュギーヌスの『天文詩 ({{Lang-la-short|De Astronomica}})』では、[[紀元前5世紀]]の[[ソポクレス]]や[[エウリピデス|エウリーピデース]]の[[戯曲]]『アンドロメダー』にその物語が伝えられているとしている{{R|Condos1997}}。これらの戯曲はいずれも現存していないが、以下の伝承が伝えられている{{R|Ridpath}}。
ある日、カッシオペイアは「自分は海の[[ニュムペー]]の[[ネーレーイス]]よりも美しい」と自惚れた。[[ポセイドーン]]の妻でネーレーイスの[[アムピトリーテー]]とその姉妹たちは、カッシオペイアの自惚れを罰するようポセイドーンに訴え出た。彼女らの訴えを聞き入れたポセイドーンは、エチオピアに海の怪物[[ケートス]]を遣わし、災害を引き起こさせた{{R|Ridpath}}。困り果てたエチオピア王[[ケーペウス]]が神託を立てたところ、「災害を止めるにはアンドロメダーを生贄としてケートスに捧げなければならない」という神託が下った。ケーペウスは神託に従ってアンドロメダーを生贄に出したが、たまたま通りがかった勇者[[ペルセウス]]によってケートスは倒され、アンドロメダーは救い出された{{R|Ridpath}}。その後、ペルセウスとアンドロメダー、ケーペウス、カッシオペイアは天に上げられ星座とされたが、玉座に座った姿で天に上げられたカッシオペイアは、彼女の不敬ゆえに頭を下にして天を回転させられている、とされる{{R|Condos1997}}。
== 呼称と方言 ==
世界で共通して使用されるラテン語の学名は Cassiopeia、日本語の学術用語としては「'''カシオペヤ'''」とそれぞれ正式に定められている{{Sfn|学術用語集:天文学編(増訂版)|1994|pp=305-306}}。
明治初期の[[1874年]](明治7年)に[[文部省]]より出版された[[関藤成緒]]の天文書『星学捷径』で「'''カッシオペイア'''」という読みと「'''椅子ニ踞シタル女王'''」という解説が紹介された{{R|Sekito1874}}。また、[[1879年]](明治12年)に[[ノーマン・ロッキャー]]の著書『Elements of Astronomy』を訳して刊行された『洛氏天文学』では「'''カスシオペイア'''」と紹介された{{R|Rakushi}}。30年ほど時代を下った明治後期には「'''カシオペイア'''」と呼ばれていたことが、[[1908年]](明治41年)4月に創刊された[[日本天文学会]]の会報『天文月報』の第1巻1号に掲載された「四月の天」と題した記事で確認できる{{R|AH190804}}。この訳名は、[[東京天文台]]の編集により[[1925年]](大正14年)に初版が刊行された『[[理科年表]]』にも「'''カシオペイア'''」として引き継がれ{{R|Rika_1925}}、[[1944年]](昭和19年)に天文学用語が見直しされた際も「'''カシオペイア'''」が継続して使用されることとされた{{R|1944jutsugo}}。
これに対して、[[東亜天文学会|天文同好会]]{{efn2|現在の[[東亜天文学会]]。}}の[[山本一清]]らは異なる読みを充てていた。天文同好会の編集により[[1928年]](昭和3年)4月に刊行された『[[天文年鑑]]』第1号では、星座名 Cassiopeia に対して「'''カシオペア'''」の読みを充てた{{R|nenkan1928}}。しかし、翌1929年(昭和4年)刊行の第2号ではこれを「'''カシオペヤ'''」と改め{{R|nenkan1929}}、以降の号でもこの表記を継続して用いた{{R|nenkan1937}}。これについて山本は東亜天文学会の会誌『[[天界]]』1934年4月号の「天文用語に關する私見と主張 (2)」という記事の中で{{行内引用|Cassiopeia はフランス語で Cassiopée と書く.それで,筆者も以前には「カシオペ」と屡々書いた.しかし,叉,考へ直して,今日我が國のインテリゲンチャたちは,やはり,「カシオペ」よりも「カシオペヤ」と書いた方が,女性名詞としてのより自然な感じを受けるだらうと思ひ,最近は改めた.Cassiopeia を「カシオペイア」と書く人があるが,之れは實に滑稽である.ラテン語を知つて居る人には,わかつてゐる通り,ラテン語の i は子音としても用ゐられる.現にドイツ語でも,Cassiopeia は Cassiopeja と譯してゐるではないか! 故に,日本語では -ia は單に -ヤ と書くのが好いのである.}}{{R|Yamamoto1934}}と述べている。
戦後も継続して「カシオペイア」が使われていた{{R|Rika_1949}}が、[[1952年]](昭和27年)7月に日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」{{Sfn|学術用語集:天文学編(増訂版)|1994|p=316}}とした際に、Cassiopeia の日本語名は「'''カシオペヤ'''」と改められた{{R|AH195210}}。以降は「カシオペヤ」という表記が継続して用いられている。
このように、学術用語としての星座名は'''カシオペイア'''または'''カシオペヤ'''という表記が用いられ、現在は明確に'''カシオペヤ'''と定められているが、集英社国語辞典・[[新明解国語辞典]]・[[日本国語大辞典]]などの国語辞典のように '''カシオペア座'''を見出し語として採用している辞典もある{{R|mainichi-kotoba}}。
現代の中国では、'''仙后座'''{{Sfn|伊世同|1981|p=131}}{{R|Osaki1987_2}}と呼ばれている。
=== 方言 ===
{{See also|[[星・星座に関する方言#カシオペヤ座|カシオペヤ座の方言]]}}
日本各地に、その特徴的な'''W'''の形を成す5つの星の総称としての呼称が伝わっている。
構成する星の数から、[[静岡県]][[静岡市]]、[[埼玉県]][[さいたま市]][[浦和区]]・[[所沢市]]・[[上尾市]]・[[秩父郡]][[横瀬町]]・[[皆野町]]、[[千葉県]][[成田市]]、[[東京都]][[西多摩郡]][[檜原村]]、[[神奈川県]][[相模原市]][[藤野町|藤野]]に「'''イツツボシ'''(五つ星)」、[[山梨県]][[上野原市]]に「'''イツボシ'''(五星)」、[[茨城県]][[坂東市]][[岩井市|岩井]]に「'''ゴヨセボシ'''(五寄せ星)」という呼称が伝わっている{{R|Kitao2018}}。星の並びから、[[愛媛県]][[西条市]]や[[京都府]][[綾部市]]ではWの形を山に見立てた「'''ヤマガタボシ'''(山形星)」、[[大分県]][[中津市]]には、Wの2つの角がずれていることを指した「'''カドチガイボシ'''」とした呼称が伝えられている{{R|Kitao2018}}。天球上での動きから、子の星(北極星)を食べようとする七曜の星(北斗七星)を追い払って守る星と見立てて「'''ヤライノホシ'''」という呼称も伝えられている{{R|Kitao2018}}。また、W字を船の[[錨]]に見立てた呼び名として、[[香川県]][[観音寺市]]に「'''イカリボッサン'''」、[[宮城県]][[仙台市]][[泉区 (仙台市)|泉区]][[根白石]]・[[大沢 (仙台市泉区)|大沢]]、静岡県[[焼津市]]・静岡市、神奈川県相模原市藤野、香川県[[東かがわ市]]に「'''イカリボシ'''」という呼称が伝わっている{{R|Kitao2018}}。信仰に由来する呼び名として、静岡県[[御前崎市]]白羽に「'''ゴヨウ'''(五曜)」、埼玉県秩父郡横瀬町に「'''ゴヨウセイ'''」、静岡県焼津市・[[牧之原市]]静波に「'''クヨー'''(九曜)」、焼津市・静岡市鷹匠に「'''クヨーノホシ'''」、[[兵庫県]][[宍粟郡]]に「'''ホクヨウセイ'''(北曜星)」という呼称が伝えられている{{R|Kitao2018}}。この他、兵庫県姫路市北条にはWを弓に見立てた「'''ユミボシ'''(弓星)」、同市網干には英文字に見立てた「'''エイモンジボシ'''(英文字星)」という比較的新しい呼称も採集されている{{R|Kitao2018}}。
== カシオペヤ座に由来する事物 ==
{{Main|星座を扱った事物}}<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
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| title=星座の神話 - 星座史と星名の意味
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* {{Cite book | 和書
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| title=学術用語集:天文学編(増訂版)
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トンネル
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トンネル(英: tunnel [ˈtʌnl] ( 音声ファイル))または隧道(すいどう、ずいどう)は、地上から目的地まで地下や海底、山岳などの土中を通る人工の、または自然に形成された土木構造物であり、断面の高さあるいは幅に比べて軸方向に細長い地下空間をいう。1970年のOECDトンネル会議で「計画された位置に所定の断面寸法をもって設けられた地下構造物で、その施工法は問わないが、仕上がり断面積が2平方メートル (m) 以上のものとする」と定義された。
人工のものは道路、鉄道(線路)といった交通路(山岳トンネル、地下鉄など)や水道、電線等ライフラインの敷設(共同溝など)、鉱物の採掘、物資の貯留などを目的として建設される。
日本ではかつて中国語と同じく隧道と呼ばれていた。常用漢字以外の文字(隧)が使われているために、第二次世界大戦後の漢字制限や用語の簡略化、外来語の流入などの時代の流れにより、今日では一般的には「トンネル」と呼ばれるようになったが、トンネルの正式名称に「隧道」と記されることも多い(青函隧道など)。
鉄道や道路のトンネルには「入口」「出口」が定められており、起点に近い方が「入口」となっている。新幹線で例えると、東京寄りの坑口が「入口」であり、その反対側が「出口」である。
山岳地帯においては、地上の地形に関わらず曲線・つづら折れ・勾配を減少させ、自動車や列車の高速走行や大量輸送が容易になる。また強風・積雪時の通行規制(豪雪地帯の峠越えは積雪による冬季閉鎖で通行出来ない箇所が多い)を減らすことができる。坑口付近を除いて景観を損ねず(景観破壊にならない)、森林破壊にもつながりにくい(生態系の保持)。海底トンネルや水底トンネルであれば、大型船の通行(橋であれば、橋の下を通過する大型船に高さ制限や幅制限が発生してしまう)に影響が無いといった長所が挙げられる。特に急峻な地形が連続する地域では不可欠な設備である。
その一方、短所もある。トンネルに作用する土圧や水圧のため断面積を闇雲に大きくはできず、通行する車両には車両限界が設定され、従って輸送能力に制限が加わってしまうことが多い。また、断面積を大きくとるほど掘削に要する費用も増大する。地質によっては落盤を防ぐための補強で建設費が嵩むことがある。
掘削作業によって地下水脈を寸断し、周辺地域に渇水を引き起こすなど、地下水位に影響を与えることもある。
長大トンネルにおいては換気が困難で、空気が汚れやすい。また充分な酸素が供給されないと乗客の健康を脅かし、車両の走行性能も低下する。火災時に一酸化炭素などの有毒ガスが溜まりやすいことや、場合により危険物積載車の通行が規制されることもこれに起因する。また海底トンネルや水底トンネルは内部の湿度が高く、車両やトンネル内設備が腐食しやすい。
トンネルは世界各地に古くから人間の手によって造られてきた。トンネルの歴史は古く、灌漑用水路として古代に造られているが、紀元前交通路としての建設は紀元前2000年頃にユーフラテス川の河底を横断する歩行者用のトンネルがバビロンに造られたのが最初とされている。
また、古代ローマや古代ギリシアには数多くのトンネルが造られ、現在に至るまで使用されているものも存在する。日本では近代までトンネルは発達せず、1632年(寛永9年)に現在の金沢市で着工された辰巳用水が日本最初のトンネルではないかといわれている。
代わりに峠道が発達し、五街道をはじめ各地で整備が行われた。交通路のトンネルとしてよく知られるのは、1764年(明和元年)頃に、禅海が20数年の歳月をかけて槌とノミだけで完成させたと伝えられる耶馬渓の青の洞門(大分県中津市本耶馬渓町)がある。
機械動力の無い時代、あるいはその確保が困難な場合、トンネルの掘削はツルハシやノミなどの器具を用いた人力に頼るしかなかった。日本においては青の洞門や中山隧道(新潟県長岡市 - 魚沼市間)がその端的な例である。
なお、山梨県南都留郡富士河口湖町船津から富士吉田市新倉字出口に繋がる新倉掘抜は、農業用水として河口湖の湖水を船津側から山の下を貫通させて富士吉田側に供給するために延宝3年(1675年)から約170年かけて完成したもので、全長3.8キロメートルを測る「日本最長の手掘りトンネル」と言われる(富士河口湖町・富士吉田市それぞれの指定史跡)。
近代になり鉄道技術が発達すると、ヨーロッパにおいて鉄道を通すためのトンネルが多く作られるようになり、著しくトンネルの掘削技術が向上した。イギリスでは、トーマス・テルフォードやロバート・スチーブンソンなどの優れた技術者が多く誕生した。
ダイナマイトが発明されると、これを用いた発破によってトンネル建設の効率は飛躍的に高まった。さらに、様々な建設機械・工法の出現によってトンネル技術は21世紀になっても進化を続けている。
日本最初の西洋式トンネルは、東海道本線の神戸市内にあった石屋川隧道である。1871年(明治4年)完成。天井川であった石屋川の下をくぐっていたが、同区間の高架化により消滅した。
また、日本人技術者のみで最初に造られたトンネルは、東海道本線の大津市内にあった逢坂山隧道である。1880年(明治13年)完成。新線切り替えにより廃止され、名神高速道路建設などにより部分的に消滅したが、東側の坑口が現存する。
掘削した壁面に矢板(やいた)という木板(主に松が使用され「松矢板(まつやいた)」と呼ばれた)や鉄板(「鋼矢板(こうやいた)」と呼ばれる)をあてがい、支保工という支柱で支え、その内側をコンクリートなどで固める「巻き立て」によって仕上げる。日本では1980年代の東北新幹線・上越新幹線建設までこの方法が取られていた。
しかしながら、事前調査の不足も重なり、特に蔵王トンネルでは工期が3年延びたほか、中山トンネルでは出水の連続から多数の迂回坑建設や300基を越える直上ボーリングの実施が必要となり、総工費が膨れ上がったばかりか、経路変更によって生じた曲線は開業後の速度制限をももたらした。
今後の新幹線や高速道路にますます必要となる長大トンネルには技術的に不足があるのは明らかであった。これらが転機となって、その後は中山トンネルの一部で試行されたNATMが主流工法となり、それまでの経験工学からの転換という意味合いを含め、今までの工法として在来工法とも呼ばれる。
シールドマシンを用いた工法。
トンネルボーリングマシンを用いた工法。
New Austrian Tunneling Methodの頭文字をとってNATM(ナトム)ともいう。掘削した部分を素早く吹き付けコンクリートで固め、ロックボルトを岩盤奥深くにまで打ち込んで地山自体の保持力を利用する工法。
オープンカット工法とも呼ばれる。地表面を掘り下げてトンネルの構造物を構築し、後で埋め戻す工法。地表面に近い部分や、鉄道駅のように大規模になる施設の構築に用いられる。初期(1960年代まで)に建設された地下鉄では主流の工法であったが、1970年代以降は地下鉄網の拡充からより深い位置にトンネルを建設せざるを得なくなり、駅部分を除いてはシールド工法が主体となっている。
また開削工法にシールド工法を組み合わせた工法としてオープンシールド工法がある。
複数のケーソン(潜函)を水底に沈め、これを接続してトンネルとする工法。
トンネル工事(英語版)は労働基準法等の法令により、坑内労働として規定され、就業制限や安全衛生について一般の作業場とは異なる規制が設けられている。
用途別では、道路や鉄道の交通用トンネルの他に、灌漑や水力発電用の水路トンネルや、鉱山の坑道もトンネルの一種に数えられ、大都市で建設される共同溝や地下街、地下駐車場、地下鉄も広義のトンネルとされる。場所や工法による分類では、山岳トンネル(山岳工法)、シールドトンネル(シールド工法)、都市トンネル、開削トンネル(開削工法)、沈埋(ちんまい)トンネル(沈埋工法)など様々な形態がある。
山を貫通するように掘られたトンネル。トンネル中央部を高く、両端の出口を低くする逆V字型の勾配(拝み勾配)とすることで自然排水が可能である。ただし、立地条件などから片勾配となっているものも少なくないが、これでも自然排水は可能である。
都市の建造物の中や地下を通るトンネル。首都高速道路に於けるトンネルのほとんどや地下鉄の多くはこれである。滑走路等を避けて空港の地下を通るトンネルもある。傾斜は周囲の構造物などによって大きく異なる。
川底や海底に掘られたトンネル。構造的に中央部が低くなるため、排水を機械的に行う必要がある。
例えば水族館の水槽の中などに作られた観賞用の通路で、アクリル樹脂などで透明になっていてトンネルの外の水中を眺められる構造になっている。
自動車用の長大トンネルには大規模な換気設備や、非常ボタン・消火設備・非常電話・非常停車帯・避難用トンネル(避難坑)などの防災設備が設置されている。また、日本においては、道路法で長さ5,000m以上並びに水底・水際の道路トンネルは危険防止のため、危険物積載車通行が禁止されている。
最近建設されるトンネルは車同士のすれ違いが出来るよう、2車線確保できる断面積にする場合が多い。2車線未満のトンネルは一方通行や片側交互通行、車両幅制限、大型車の通行規制などで対応する場合がある。
高速道路や主要道路を中心に、ラジオの再送信を行っているケースもある。なお、トンネル内で交通事故や火災などが発生した場合、全ての放送局の再送信を休止して、緊急時の正しい行動を周知する放送を流す。これは、再送信している全ての周波数で同じものが流れる。
トンネルの入口手前に一般道路・高速道路問わず、信号機を設置している場合がある(写真参照)。また、高速道路ではトンネルの長さなどに関係なく必ず全てのトンネルの入口にトンネル情報表示器が設置される。長大トンネルではトンネル内にも設置される。
自動車用のトンネルにおいて歩道が設置されている場合、排気ガス対策から自動車用のトンネルとは別に併行してトンネルが設置されている場合がある。関門トンネルでは、人道用と車道用とが2層になっている。
また、歩行者専用に地下道が設置されている場合、道路や鉄道を立体的に横断するために地下横断歩道が設置されている場合がある。
鉄道用のトンネル。鉄道トンネルでは特に、単線のものを単線トンネル、複線のものを複線トンネルと呼ぶことが多い。換気が困難な長大トンネルや、特に列車運転頻度の高い線区のトンネルは早く(蒸気機関車が一般的であった時代)から電化されている。
また、鉄道は勾配に弱いため、山の斜面を標高の低いところから掘り進んで建設する必要に迫られることから、全般的にみて道路トンネルよりも長大なものが多い。
電化を前提としていない古くからある鉄道トンネルでは、電化の際に建築限界の小ささから通過できる車両に制限がかかったり(中央本線など)、架線などの必要なスペースが取れないため、問題となる。
解決策として、断面積の大きい新トンネルを掘削し、旧トンネルを廃止したり(常磐線、赤穂線、呉線など)、複線化の際に単線トンネルを掘削し、路盤を下げるなどで旧トンネルを改良し、単線トンネルを2本並べた形にする方法(山陽本線、東北本線など)がある。
また、複線化と電化を同時に行い、新線に複線トンネルを新設する場合も多い(北陸本線の北陸トンネル・頸城トンネル〔現:日本海ひすいライン〕や函館本線の神居トンネル)。
なお、鉄道車両の高速化に伴い、トンネル微気圧波などが問題となったため、トンネルの出入口付近に、少しでも圧力変化を穏やかにするための構造を設けている場合もある。
水路用のトンネル。
運河において、山を避けてトンネルを掘り、船舶の航行が可能なトンネルがある(例:イギリスのバーミンガム近くのネザートン・トンネル(英語版))。河川では洪水を避けるためなどに掘削された河川トンネルがある。用水路では暗渠も参照。
また、下水道についてもトンネルが用いられる。下水処理場そのものをトンネルに設置した例もある。
大量のワインの貯蔵には地下の倉(ワインカーヴ)が用いられる。この地下蔵を掘るにもトンネル掘削技術が用いられるが、一方、廃道となったトンネルをワイン貯蔵用に再利用する場所もある。
キノコ等の菌類の栽培には湿度が要るが、日光が不要などの状況があり、廃道となったトンネルを転用している場所もある。
山岳トンネルは多くが馬蹄型又は卵型の開口部を持つ。ニワトリの卵が縦方向の衝撃・圧力に強い構造であるように、このようなアーチを構成することによって山から受ける圧力に耐える構造としている。この種のトンネルが並列したものを特にメガネトンネルと称する。
シールドマシンによって掘削されたトンネルは基本的に断面が真円であるが、シールドマシンの発展に伴い、長方形や馬蹄形などにも掘削できるようになった。道路トンネルの場合、上部に換気路・中央部に道路本体・下部に電気回路や排水路を設ける。
開削トンネルや沈埋トンネルは断面が箱形である。
トンネル掘削の際、本坑と呼ばれる主となるトンネルに並行して、先進坑(先進導坑)と呼ばれる断面積の小さいトンネルを掘削することがある。先進坑は本坑に先行して掘削を行い、工事中は本坑を掘削する際の地質把握や水抜きとして、開通後は緊急時の避難ルート(避難坑)や保守通路として、それぞれ役割を持つ。
在来工法では文字通り「先進」として小断面にて導坑を掘り、それを切り広げて本坑を掘削する。支保を行いながらの掘削で1本(底設導坑:下半部の真中)あるいは2本(側壁導坑:下半部の両壁)の導坑をまず掘削し、その後トンネルの上半部を掘削、導坑の支保を取り除きながらの下半部の掘削となる。
前述の通り、特に道路トンネル内部は排気がこもりやすい構造となりがちであることから、道路トンネルの設計においては換気装置の検討が重要となってくる。
トンネル内の換気方法としては、自動車交通により発生する空気の流れ(交通換気)やトンネルそのものを抜ける風(自然風)を利用して換気を行う「自然換気方式」と、何らかの機械設備を用いて強制的に換気を行う「機械換気方式」の2つに大分される。自然換気方式は特別な装置が不要な一方で、適用可能な長さや交通量に制限が生ずる方式であり、一定以上の規模のトンネルにおいては機械換気方式が採用されることが多い。
機械換気方式には、主に以下のような3種類が挙げられる。
鉄道トンネルにおいても、走行時に高温の煤煙と蒸気を放出する石炭焚きの蒸気機関車が動力車として使用されていた時代には、トンネル内換気や排煙の誘導が重要な問題となっていた。このため、長大トンネル区間においてはトンネル天井から垂直に地上部まで縦坑を掘って排煙を促進する、トンネル両端の坑口部に強制換気ファンを設置する、列車通過後に遮断幕を下ろして煤煙が後方へ流れにくくする、など、様々な対策が講じられた。
もっとも、それでも勾配区間の長大トンネルでは北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故のように機関車動輪に空転が発生し列車の運行速度が低下あるいは停止した際にまとわりついた煤煙が原因で乗務員や乗客が窒息する事故が少なからず発生した。
これは特に小断面の長大トンネルを含む区間で積極的に電化工事やトンネルの改築工事、あるいは線路付け替えによる改良工事が実施され、また、ディーゼル機関車の導入が他より優先的に実施される一因となった。なお先に触れた柳ヶ瀬トンネル内での事故により殉職者を出していた敦賀機関区においては、トンネル内における蒸気機関車の排煙の流れを制御し乗務員が窒息する危険性を軽減するための集煙装置と呼ばれる装置が1951年に開発されている。
世界で最もトンネルが多い国は中国で、約8,600個所、総延長約 4,375 km となっている(2004年)。うち、鉄道トンネルは6,876個所、総延長約 3,670 km で世界一、道路トンネルは1,972個所、総延長約 835 km となっている。
地下鉄や水道のトンネルも含めたリスト(日本国内、国外を含む)としては延長別トンネルの一覧を参照。
トンネルはその構造から災害発生時や事故発生時の避難行動や救出活動が比較的難しくなる。
日本の高速道路のトンネルでは、50mの間隔で押しボタン式通報装置と消火器(2本)、200m間隔で非常電話が設置されている。
また、長大トンネルの入口にはトンネル入り口用信号機や入口表示板が設置され、トンネル内で火災が発生した際には赤灯火の信号や「進入禁止火災」などの表示が行われる ほか、非常停車スペースを途中に確保したり、道路用トンネルに並行して一回り小さい避難用のトンネルを設けている場合がある。
トンネル内部の照明は、白色も使用されているがオレンジ色に発光する低圧ナトリウムランプの使用が圧倒的に多い。
低圧ナトリウムランプは、ガラス管にナトリウム蒸気を封入した放電灯に使用されるランプで、日本で最初に高速道路が造られたときにトンネルの照明に採用されたランプである。オレンジ色の光は波長が長く、排気ガスの塵で拡散されにくく光が遠くまで届くという特性があり、排気ガスで視界が悪くなりがちなトンネル内部の視認性を向上して安全性を高めている。
また、各種ランプの中でも電気エネルギーを光に変換する効率が高く、ランプ寿命が約9000時間と比較的長いことから経済的であるというメリットがある。
その半面、オレンジ色の光は演色性が悪いため、赤いものが黒っぽく見えるというデメリットも持ち合わせており、トンネル内の消火栓などは蛍光の赤色で塗装するという工夫により、万一のときの安全を図っている。また、トンネルに入った時に、トンネル内部の暗さに合わせて人間の瞳の瞳孔が開くまで時間がかかることから、トンネルに入った時の内部の視認性向上のために出入り口付近の内部照明の数を増やし、中央部よりも明るくしている。
日本では「山の中に女が入ると、女神である山の神の嫉妬に遭い事故が起こる」という迷信が長らく信じられてきた。そのためトンネルや坑道などへの立ち入りは長らく女人禁制であった。
見学者のうち女性のみが拒否され問題となった例 も多数ある。
同様にアメリカ合衆国でも、トンネル建設現場に女性がいると不幸が起きると信じられていたが、1972年、コロラド州のアイゼンハワー・トンネルの建設現場において、性別を理由にトンネル内の建設現場から事務仕事に異動させられた女性が提訴したことを契機に、性差を理由にした制限等が解消されている。
また、度々トンネルは怪談や都市伝説の舞台になる。トンネル内で、工事中あるいは開通後の事故で死んだ人の亡霊が現れる、といったたぐいである。有名なところでは、石北本線常紋トンネルにおいてはいわゆる「タコ部屋労働」が原因であるとして、また肥薩線第二山の神トンネルにおいてはそこで発生した乗客轢死事故が原因であるとして亡霊話がしばしば語られる。
トンネルの貫通の際に採取された石を貫通石(かんつうせき)といい、安産のお守りとして用いられる。最近では各高速道路会社などが販売することもある。
企業・団体・集団・著名人の長期の業績・状態・売上不振や、スポーツチームの長期の連敗・下位低迷などを「トンネル」と表現されることがあるほか、野球の失策において野手がゴロを捕球できず自分の股の下をすり抜けさせることをトンネルと表現する。
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"text": "また、日本人技術者のみで最初に造られたトンネルは、東海道本線の大津市内にあった逢坂山隧道である。1880年(明治13年)完成。新線切り替えにより廃止され、名神高速道路建設などにより部分的に消滅したが、東側の坑口が現存する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "掘削した壁面に矢板(やいた)という木板(主に松が使用され「松矢板(まつやいた)」と呼ばれた)や鉄板(「鋼矢板(こうやいた)」と呼ばれる)をあてがい、支保工という支柱で支え、その内側をコンクリートなどで固める「巻き立て」によって仕上げる。日本では1980年代の東北新幹線・上越新幹線建設までこの方法が取られていた。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、事前調査の不足も重なり、特に蔵王トンネルでは工期が3年延びたほか、中山トンネルでは出水の連続から多数の迂回坑建設や300基を越える直上ボーリングの実施が必要となり、総工費が膨れ上がったばかりか、経路変更によって生じた曲線は開業後の速度制限をももたらした。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "今後の新幹線や高速道路にますます必要となる長大トンネルには技術的に不足があるのは明らかであった。これらが転機となって、その後は中山トンネルの一部で試行されたNATMが主流工法となり、それまでの経験工学からの転換という意味合いを含め、今までの工法として在来工法とも呼ばれる。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "シールドマシンを用いた工法。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "トンネルボーリングマシンを用いた工法。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "New Austrian Tunneling Methodの頭文字をとってNATM(ナトム)ともいう。掘削した部分を素早く吹き付けコンクリートで固め、ロックボルトを岩盤奥深くにまで打ち込んで地山自体の保持力を利用する工法。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "オープンカット工法とも呼ばれる。地表面を掘り下げてトンネルの構造物を構築し、後で埋め戻す工法。地表面に近い部分や、鉄道駅のように大規模になる施設の構築に用いられる。初期(1960年代まで)に建設された地下鉄では主流の工法であったが、1970年代以降は地下鉄網の拡充からより深い位置にトンネルを建設せざるを得なくなり、駅部分を除いてはシールド工法が主体となっている。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "また開削工法にシールド工法を組み合わせた工法としてオープンシールド工法がある。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "複数のケーソン(潜函)を水底に沈め、これを接続してトンネルとする工法。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "トンネル工事(英語版)は労働基準法等の法令により、坑内労働として規定され、就業制限や安全衛生について一般の作業場とは異なる規制が設けられている。",
"title": "トンネルの施工"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "用途別では、道路や鉄道の交通用トンネルの他に、灌漑や水力発電用の水路トンネルや、鉱山の坑道もトンネルの一種に数えられ、大都市で建設される共同溝や地下街、地下駐車場、地下鉄も広義のトンネルとされる。場所や工法による分類では、山岳トンネル(山岳工法)、シールドトンネル(シールド工法)、都市トンネル、開削トンネル(開削工法)、沈埋(ちんまい)トンネル(沈埋工法)など様々な形態がある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "山を貫通するように掘られたトンネル。トンネル中央部を高く、両端の出口を低くする逆V字型の勾配(拝み勾配)とすることで自然排水が可能である。ただし、立地条件などから片勾配となっているものも少なくないが、これでも自然排水は可能である。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "都市の建造物の中や地下を通るトンネル。首都高速道路に於けるトンネルのほとんどや地下鉄の多くはこれである。滑走路等を避けて空港の地下を通るトンネルもある。傾斜は周囲の構造物などによって大きく異なる。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "川底や海底に掘られたトンネル。構造的に中央部が低くなるため、排水を機械的に行う必要がある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "例えば水族館の水槽の中などに作られた観賞用の通路で、アクリル樹脂などで透明になっていてトンネルの外の水中を眺められる構造になっている。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "自動車用の長大トンネルには大規模な換気設備や、非常ボタン・消火設備・非常電話・非常停車帯・避難用トンネル(避難坑)などの防災設備が設置されている。また、日本においては、道路法で長さ5,000m以上並びに水底・水際の道路トンネルは危険防止のため、危険物積載車通行が禁止されている。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "最近建設されるトンネルは車同士のすれ違いが出来るよう、2車線確保できる断面積にする場合が多い。2車線未満のトンネルは一方通行や片側交互通行、車両幅制限、大型車の通行規制などで対応する場合がある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "高速道路や主要道路を中心に、ラジオの再送信を行っているケースもある。なお、トンネル内で交通事故や火災などが発生した場合、全ての放送局の再送信を休止して、緊急時の正しい行動を周知する放送を流す。これは、再送信している全ての周波数で同じものが流れる。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "トンネルの入口手前に一般道路・高速道路問わず、信号機を設置している場合がある(写真参照)。また、高速道路ではトンネルの長さなどに関係なく必ず全てのトンネルの入口にトンネル情報表示器が設置される。長大トンネルではトンネル内にも設置される。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "自動車用のトンネルにおいて歩道が設置されている場合、排気ガス対策から自動車用のトンネルとは別に併行してトンネルが設置されている場合がある。関門トンネルでは、人道用と車道用とが2層になっている。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、歩行者専用に地下道が設置されている場合、道路や鉄道を立体的に横断するために地下横断歩道が設置されている場合がある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "鉄道用のトンネル。鉄道トンネルでは特に、単線のものを単線トンネル、複線のものを複線トンネルと呼ぶことが多い。換気が困難な長大トンネルや、特に列車運転頻度の高い線区のトンネルは早く(蒸気機関車が一般的であった時代)から電化されている。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、鉄道は勾配に弱いため、山の斜面を標高の低いところから掘り進んで建設する必要に迫られることから、全般的にみて道路トンネルよりも長大なものが多い。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "電化を前提としていない古くからある鉄道トンネルでは、電化の際に建築限界の小ささから通過できる車両に制限がかかったり(中央本線など)、架線などの必要なスペースが取れないため、問題となる。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "解決策として、断面積の大きい新トンネルを掘削し、旧トンネルを廃止したり(常磐線、赤穂線、呉線など)、複線化の際に単線トンネルを掘削し、路盤を下げるなどで旧トンネルを改良し、単線トンネルを2本並べた形にする方法(山陽本線、東北本線など)がある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、複線化と電化を同時に行い、新線に複線トンネルを新設する場合も多い(北陸本線の北陸トンネル・頸城トンネル〔現:日本海ひすいライン〕や函館本線の神居トンネル)。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "なお、鉄道車両の高速化に伴い、トンネル微気圧波などが問題となったため、トンネルの出入口付近に、少しでも圧力変化を穏やかにするための構造を設けている場合もある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "水路用のトンネル。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "運河において、山を避けてトンネルを掘り、船舶の航行が可能なトンネルがある(例:イギリスのバーミンガム近くのネザートン・トンネル(英語版))。河川では洪水を避けるためなどに掘削された河川トンネルがある。用水路では暗渠も参照。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、下水道についてもトンネルが用いられる。下水処理場そのものをトンネルに設置した例もある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "大量のワインの貯蔵には地下の倉(ワインカーヴ)が用いられる。この地下蔵を掘るにもトンネル掘削技術が用いられるが、一方、廃道となったトンネルをワイン貯蔵用に再利用する場所もある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "キノコ等の菌類の栽培には湿度が要るが、日光が不要などの状況があり、廃道となったトンネルを転用している場所もある。",
"title": "トンネルの分類"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "山岳トンネルは多くが馬蹄型又は卵型の開口部を持つ。ニワトリの卵が縦方向の衝撃・圧力に強い構造であるように、このようなアーチを構成することによって山から受ける圧力に耐える構造としている。この種のトンネルが並列したものを特にメガネトンネルと称する。",
"title": "断面・形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "シールドマシンによって掘削されたトンネルは基本的に断面が真円であるが、シールドマシンの発展に伴い、長方形や馬蹄形などにも掘削できるようになった。道路トンネルの場合、上部に換気路・中央部に道路本体・下部に電気回路や排水路を設ける。",
"title": "断面・形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "開削トンネルや沈埋トンネルは断面が箱形である。",
"title": "断面・形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "トンネル掘削の際、本坑と呼ばれる主となるトンネルに並行して、先進坑(先進導坑)と呼ばれる断面積の小さいトンネルを掘削することがある。先進坑は本坑に先行して掘削を行い、工事中は本坑を掘削する際の地質把握や水抜きとして、開通後は緊急時の避難ルート(避難坑)や保守通路として、それぞれ役割を持つ。",
"title": "本坑と先進坑"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "在来工法では文字通り「先進」として小断面にて導坑を掘り、それを切り広げて本坑を掘削する。支保を行いながらの掘削で1本(底設導坑:下半部の真中)あるいは2本(側壁導坑:下半部の両壁)の導坑をまず掘削し、その後トンネルの上半部を掘削、導坑の支保を取り除きながらの下半部の掘削となる。",
"title": "本坑と先進坑"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、特に道路トンネル内部は排気がこもりやすい構造となりがちであることから、道路トンネルの設計においては換気装置の検討が重要となってくる。",
"title": "換気装置"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "トンネル内の換気方法としては、自動車交通により発生する空気の流れ(交通換気)やトンネルそのものを抜ける風(自然風)を利用して換気を行う「自然換気方式」と、何らかの機械設備を用いて強制的に換気を行う「機械換気方式」の2つに大分される。自然換気方式は特別な装置が不要な一方で、適用可能な長さや交通量に制限が生ずる方式であり、一定以上の規模のトンネルにおいては機械換気方式が採用されることが多い。",
"title": "換気装置"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "機械換気方式には、主に以下のような3種類が挙げられる。",
"title": "換気装置"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "鉄道トンネルにおいても、走行時に高温の煤煙と蒸気を放出する石炭焚きの蒸気機関車が動力車として使用されていた時代には、トンネル内換気や排煙の誘導が重要な問題となっていた。このため、長大トンネル区間においてはトンネル天井から垂直に地上部まで縦坑を掘って排煙を促進する、トンネル両端の坑口部に強制換気ファンを設置する、列車通過後に遮断幕を下ろして煤煙が後方へ流れにくくする、など、様々な対策が講じられた。",
"title": "換気装置"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "もっとも、それでも勾配区間の長大トンネルでは北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故のように機関車動輪に空転が発生し列車の運行速度が低下あるいは停止した際にまとわりついた煤煙が原因で乗務員や乗客が窒息する事故が少なからず発生した。",
"title": "換気装置"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "これは特に小断面の長大トンネルを含む区間で積極的に電化工事やトンネルの改築工事、あるいは線路付け替えによる改良工事が実施され、また、ディーゼル機関車の導入が他より優先的に実施される一因となった。なお先に触れた柳ヶ瀬トンネル内での事故により殉職者を出していた敦賀機関区においては、トンネル内における蒸気機関車の排煙の流れを制御し乗務員が窒息する危険性を軽減するための集煙装置と呼ばれる装置が1951年に開発されている。",
"title": "換気装置"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "世界で最もトンネルが多い国は中国で、約8,600個所、総延長約 4,375 km となっている(2004年)。うち、鉄道トンネルは6,876個所、総延長約 3,670 km で世界一、道路トンネルは1,972個所、総延長約 835 km となっている。",
"title": "記録を持つトンネル"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "地下鉄や水道のトンネルも含めたリスト(日本国内、国外を含む)としては延長別トンネルの一覧を参照。",
"title": "主なトンネル"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "トンネルはその構造から災害発生時や事故発生時の避難行動や救出活動が比較的難しくなる。",
"title": "トンネル内の安全確保"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "日本の高速道路のトンネルでは、50mの間隔で押しボタン式通報装置と消火器(2本)、200m間隔で非常電話が設置されている。",
"title": "トンネル内の安全確保"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また、長大トンネルの入口にはトンネル入り口用信号機や入口表示板が設置され、トンネル内で火災が発生した際には赤灯火の信号や「進入禁止火災」などの表示が行われる ほか、非常停車スペースを途中に確保したり、道路用トンネルに並行して一回り小さい避難用のトンネルを設けている場合がある。",
"title": "トンネル内の安全確保"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "トンネル内部の照明は、白色も使用されているがオレンジ色に発光する低圧ナトリウムランプの使用が圧倒的に多い。",
"title": "トンネル内の安全確保"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "低圧ナトリウムランプは、ガラス管にナトリウム蒸気を封入した放電灯に使用されるランプで、日本で最初に高速道路が造られたときにトンネルの照明に採用されたランプである。オレンジ色の光は波長が長く、排気ガスの塵で拡散されにくく光が遠くまで届くという特性があり、排気ガスで視界が悪くなりがちなトンネル内部の視認性を向上して安全性を高めている。",
"title": "トンネル内の安全確保"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "また、各種ランプの中でも電気エネルギーを光に変換する効率が高く、ランプ寿命が約9000時間と比較的長いことから経済的であるというメリットがある。",
"title": "トンネル内の安全確保"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "その半面、オレンジ色の光は演色性が悪いため、赤いものが黒っぽく見えるというデメリットも持ち合わせており、トンネル内の消火栓などは蛍光の赤色で塗装するという工夫により、万一のときの安全を図っている。また、トンネルに入った時に、トンネル内部の暗さに合わせて人間の瞳の瞳孔が開くまで時間がかかることから、トンネルに入った時の内部の視認性向上のために出入り口付近の内部照明の数を増やし、中央部よりも明るくしている。",
"title": "トンネル内の安全確保"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日本では「山の中に女が入ると、女神である山の神の嫉妬に遭い事故が起こる」という迷信が長らく信じられてきた。そのためトンネルや坑道などへの立ち入りは長らく女人禁制であった。",
"title": "トンネルと文化的影響"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "見学者のうち女性のみが拒否され問題となった例 も多数ある。",
"title": "トンネルと文化的影響"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "同様にアメリカ合衆国でも、トンネル建設現場に女性がいると不幸が起きると信じられていたが、1972年、コロラド州のアイゼンハワー・トンネルの建設現場において、性別を理由にトンネル内の建設現場から事務仕事に異動させられた女性が提訴したことを契機に、性差を理由にした制限等が解消されている。",
"title": "トンネルと文化的影響"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "また、度々トンネルは怪談や都市伝説の舞台になる。トンネル内で、工事中あるいは開通後の事故で死んだ人の亡霊が現れる、といったたぐいである。有名なところでは、石北本線常紋トンネルにおいてはいわゆる「タコ部屋労働」が原因であるとして、また肥薩線第二山の神トンネルにおいてはそこで発生した乗客轢死事故が原因であるとして亡霊話がしばしば語られる。",
"title": "トンネルと文化的影響"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "トンネルの貫通の際に採取された石を貫通石(かんつうせき)といい、安産のお守りとして用いられる。最近では各高速道路会社などが販売することもある。",
"title": "トンネルと文化的影響"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "企業・団体・集団・著名人の長期の業績・状態・売上不振や、スポーツチームの長期の連敗・下位低迷などを「トンネル」と表現されることがあるほか、野球の失策において野手がゴロを捕球できず自分の股の下をすり抜けさせることをトンネルと表現する。",
"title": "トンネルと文化的影響"
}
] |
トンネルまたは隧道(すいどう、ずいどう)は、地上から目的地まで地下や海底、山岳などの土中を通る人工の、または自然に形成された土木構造物であり、断面の高さあるいは幅に比べて軸方向に細長い地下空間をいう。1970年のOECDトンネル会議で「計画された位置に所定の断面寸法をもって設けられた地下構造物で、その施工法は問わないが、仕上がり断面積が2平方メートル (m2) 以上のものとする」と定義された。 人工のものは道路、鉄道(線路)といった交通路(山岳トンネル、地下鉄など)や水道、電線等ライフラインの敷設(共同溝など)、鉱物の採掘、物資の貯留などを目的として建設される。 日本ではかつて中国語と同じく隧道と呼ばれていた。常用漢字以外の文字(隧)が使われているために、第二次世界大戦後の漢字制限や用語の簡略化、外来語の流入などの時代の流れにより、今日では一般的には「トンネル」と呼ばれるようになったが、トンネルの正式名称に「隧道」と記されることも多い(青函隧道など)。 鉄道や道路のトンネルには「入口」「出口」が定められており、起点に近い方が「入口」となっている。新幹線で例えると、東京寄りの坑口が「入口」であり、その反対側が「出口」である。
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{{otheruses|道路や鉄道用などの土木構造物としてのトンネル|その他}}
{{redirect|機械換気方式|機械による換気全般|機械換気}}
[[ファイル:E62深川留萌自動車道 幌糠トンネル 深川側坑口.jpg|サムネイル|E62深川留萌自動車道(一般国道233号)幌糠トンネルの沼田側坑口]]
'''トンネル'''({{Lang-en-short|tunnel}} {{IPA-en|ˈtʌnl||en-us-tunnel.ogg}})または'''隧道'''(すいどう、ずいどう<ref>{{コトバンク|隧道}}</ref>{{efn|[[呉音]]では「ずいどう」、[[漢音]]では「すいとう」となる。国土交通省は「ずいどう」を用いている[https://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_01a_04.html]。}})は、[[地上]]から目的地まで[[地下]]や[[海底]]、[[山岳]]などの土中を通る人工の、または自然に形成された土木[[構造物]]であり、断面の高さあるいは幅に比べて軸方向に細長い地下空間をいう。[[1970年]]の[[経済協力開発機構|OECD]]トンネル会議で「計画された位置に所定の断面寸法をもって設けられた地下構造物で、その施工法は問わないが、仕上がり断面積が2[[平方メートル]] (m<sup>2</sup>) 以上のものとする」と定義された<ref>[http://www.japan-tunnel.org/Gallery_tunnel トンネルとは?]、一般社団法人日本トンネル技術協会</ref>{{sfn|浅井建爾|2015|p=190}}。
人工のものは[[道路]]、[[鉄道]]([[線路 (鉄道)|線路]])といった交通路(山岳トンネル、[[地下鉄]]など)や[[水道]]、[[電線]]等[[ライフライン]]の敷設([[共同溝]]など)、[[鉱物]]の採掘、物資の貯留などを目的として建設される。
[[日本]]ではかつて[[中国語]]と同じく'''隧道'''と呼ばれていた{{sfn|浅井建爾|2001|p=234}}。[[常用漢字]]以外の文字(隧)が使われているために、[[第二次世界大戦]]後の[[漢字]]制限や用語の簡略化、[[外来語]]の流入などの時代の流れにより、今日では一般的には「トンネル」と呼ばれるようになったが、トンネルの正式名称に「隧道」と記されることも多い([[青函トンネル|青函隧道]]など)。
鉄道や道路のトンネルには「入口」「出口」が定められており、[[起点]]に近い方が「入口」となっている。[[新幹線]]で例えると、[[東京駅|東京]]寄りの坑口が「入口」であり、その反対側が「出口」である。
== 特徴 ==
山岳地帯においては、地上の地形に関わらず[[曲線]]・[[つづら折れ]]・[[縦断勾配|勾配]]を減少させ、[[自動車]]や[[列車]]の高速走行や大量輸送が容易になる。また[[強風]]・[[積雪]]時の通行規制([[豪雪地帯]]の[[峠]]越えは積雪による[[冬|冬季]]閉鎖で通行出来ない箇所が多い)を減らすことができる{{efn|より稀な例としては、川沿いや谷底の道が冬季に[[雪崩]]の危険があることからトンネルで迂回することもある。}}。坑口付近を除いて[[景観]]を損ねず([[景観破壊]]にならない)、[[森林破壊]]にもつながりにくい([[生態系]]の保持)。海底トンネルや水底トンネルであれば、[[大型船]]の通行([[橋]]であれば、橋の下を通過する大型船に高さ制限や幅制限が発生してしまう)に影響が無いといった長所が挙げられる。特に急峻な地形が連続する地域では不可欠な設備である。
その一方、短所もある。トンネルに作用する[[土圧]]や[[水圧]]のため[[断面積]]を闇雲に大きくはできず、通行する車両には[[車両限界]]が設定され、従って輸送能力に制限が加わってしまうことが多い。また、断面積を大きくとるほど掘削に要する費用も増大する。地質によっては[[落盤]]を防ぐための補強で建設費が嵩むことがある。
掘削作業によって地下水脈を寸断し、周辺地域に[[渇水]]を引き起こすなど<ref>{{Cite web|和書|title=トンネル工事で減水 水源確保、水田に送水 諫早市多良見町井樋ノ尾地区 | 長崎新聞|url=https://this.kiji.is/514795843809494113?c=174761113988793844|website=長崎新聞|date=2019-06-21|accessdate=2020-07-10|language=ja|last=長崎新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=九州新幹線工事で水枯れ 代替井戸で水田へ送水、久々の田植えに喜び|url=https://mainichi.jp/articles/20190628/k00/00m/040/099000c|website=毎日新聞|accessdate=2020-07-10|language=ja}}</ref>、[[地下水]]位に影響を与えることもある。
長大トンネルにおいては[[換気]]が困難で、空気が汚れやすい<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20120113-a107/ トンネルでは基準の10倍超 - 東大など、高速道路上の二酸化窒素濃度を調査](2012年1月13日[[マイナビ]]ニュース)</ref><ref>{{Citation|和書|url=http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=52993 |title=長いトンネル、外気は禁物…NO2基準の50倍|date=2012年1月14日|work=読売新聞|archivedate=2012-01-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120123221429/http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=52993}}</ref>。また充分な[[酸素]]が供給されないと乗客の健康を脅かし、車両の走行性能も低下する。[[火災]]時に[[一酸化炭素]]などの有毒ガスが溜まりやすいことや、場合により[[危険物]]積載車の通行が規制されることもこれに起因する。また[[水底トンネル|海底トンネルや水底トンネル]]は内部の[[湿度]]が高く、車両やトンネル内設備が[[腐食]]しやすい。
== 歴史 ==
[[ファイル:旧長野トンネル津.jpg|thumb|240px|right|[[長野峠 (三重県)|長野隧道]]。[[1885年]]([[明治]]18年)完成]]
トンネルは世界各地に古くから人間の手によって造られてきた。トンネルの歴史は古く、[[灌漑]][[用水路]]として[[古代]]に造られているが、紀元前交通路としての建設は[[紀元前20世紀|紀元前2000年]]頃に[[バビロンの川底トンネル|ユーフラテス川の河底を横断する歩行者用のトンネル]]が[[バビロン]]に造られたのが最初とされている{{sfn|浅井建爾|2001|p=234}}。
また、[[古代ローマ]]や[[古代ギリシア]]には数多くのトンネルが造られ、現在に至るまで使用されているものも存在する。[[日本]]では[[近代]]までトンネルは発達せず、[[1632年]]([[寛永]]9年)に現在の[[金沢市]]で着工された[[辰巳用水]]が日本最初のトンネルではないかといわれている{{sfn|浅井建爾|2001|p=234}}。
代わりに[[峠]]道が発達し、[[五街道]]をはじめ各地で整備が行われた。交通路のトンネルとしてよく知られるのは、[[1764年]]([[明和]]元年)頃に、[[禅海]]が20数年の歳月をかけて槌とノミだけで完成させたと伝えられる[[耶馬渓]]の[[青の洞門|青の洞門(]][[大分県]][[中津市]][[本耶馬渓町]])がある{{sfn|浅井建爾|2001|p=234}}。
機械[[動力]]の無い時代、あるいはその確保が困難な場合、トンネルの掘削は[[ツルハシ]]や[[鑿|ノミ]]などの[[器具]]を用いた[[人力]]に頼るしかなかった。日本においては青の洞門や[[中山隧道]]([[新潟県]][[長岡市]] - [[魚沼市]]間)がその端的な例である。
なお、[[山梨県]][[南都留郡]][[富士河口湖町]]船津から[[富士吉田市]]新倉字出口に繋がる[[新倉掘抜]]は、[[農業用水]]として[[河口湖]]の湖水を船津側から山の下を貫通させて富士吉田側に供給するために[[延宝]]3年([[1675年]])から約170年かけて完成したもので、全長3.8キロメートルを測る「日本最長の手掘りトンネル」と言われる<ref name=y-shinpou>[http://www.y-shinpou.co.jp/MUSEUM/horinuki.html 「河口湖・新倉掘抜史跡館」][[山梨新報|山梨新報社]]公式HP</ref>(富士河口湖町・富士吉田市それぞれの指定[[史跡]]<ref name=kawaguchikonet>[https://kawaguchiko.net/cultural-assets/kawaguchiko-arakurahorinuki/ 「河口湖新倉掘抜史跡館」]河口湖net公式HP</ref><ref>[https://web.fujinet.ed.jp/Info/250 「市指定史跡・市指定名勝」]富士吉田市公式HP</ref>)。
[[近代]]になり鉄道技術が発達すると、[[ヨーロッパ]]において鉄道を通すためのトンネルが多く作られるようになり、著しくトンネルの掘削技術が向上した。[[イギリス]]では、[[トーマス・テルフォード]]や[[ロバート・スチーブンソン]]などの優れた技術者が多く誕生した。
[[ダイナマイト]]が発明されると、これを用いた[[発破]]によってトンネル建設の効率は飛躍的に高まった。さらに、様々な[[建設機械]]・工法の出現によってトンネル技術は[[21世紀]]になっても進化を続けている。
日本最初の西洋式トンネルは、[[東海道本線]]の[[神戸市]]内にあった[[石屋川トンネル|石屋川隧道]]である。[[1871年]]([[明治]]4年)完成。[[天井川]]であった[[石屋川]]の下をくぐっていたが、同区間の[[高架橋|高架]]化により消滅した。
また、日本人技術者のみで最初に造られたトンネルは、東海道本線の[[大津市]]内にあった[[逢坂山トンネル|逢坂山隧道]]である。[[1880年]](明治13年)完成。新線切り替えにより廃止され、[[名神高速道路]]建設などにより部分的に消滅したが、東側の坑口が現存する。
== トンネルの施工 ==
=== 工法 ===
==== 矢板工法 ====
[[掘削]]した壁面に[[形鋼#鋼矢板(シートパイル)|矢板]](やいた)という木板(主に松が使用され「松矢板(まつやいた)」と呼ばれた)や[[鉄板]](「鋼矢板(こうやいた)」と呼ばれる)をあてがい、[[支保工]]という支柱で支え、その内側を[[コンクリート]]などで固める「巻き立て」によって仕上げる。日本では1980年代の[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]建設までこの方法が取られていた。
しかしながら、事前調査の不足も重なり、特に[[蔵王トンネル]]では工期が3年延びたほか、[[中山トンネル (上越新幹線)|中山トンネル]]では出水の連続から多数の迂回坑建設や300基を越える直上ボーリングの実施が必要となり、総工費が膨れ上がったばかりか、経路変更によって生じた曲線は開業後の速度制限をももたらした<ref>『東北新幹線工事誌 黒川・有壁間』(日本国有鉄道仙台新幹線工事局編)及び『上越新幹線工事誌 大宮・水上間』(日本鉄道建設公団東京新幹線建設局編)による</ref>。
今後の新幹線や高速道路にますます必要となる長大トンネルには技術的に不足があるのは明らかであった。これらが転機となって、その後は中山トンネルの一部で試行された[[#新オーストリアトンネル工法|NATM]]が主流工法となり、それまでの経験工学からの転換という意味合いを含め、今までの工法として'''在来工法'''とも呼ばれる。
==== シールド工法 ====
[[シールドマシン]]を用いた工法。{{Main|シールドトンネル}}
* 例:[[アクアトンネル]]([[東京湾アクアライン]])
[[ファイル:HidaTunnel KawaiSide.jpg|thumb|240px|right|[[飛驒トンネル]]はTBM工法(一部NATM)によって施工が行われた]]
==== TBM工法 ====
[[トンネルボーリングマシン]]を用いた工法。{{Main|トンネルボーリングマシン}}
* 例:[[飛驒トンネル]]([[東海北陸自動車道]])
==== 新オーストリアトンネル工法 ====
New Austrian Tunneling Methodの頭文字をとって'''NATM'''(ナトム)ともいう。掘削した部分を素早く吹き付け[[コンクリート]]で固め、ロックボルトを岩盤奥深くにまで打ち込んで地山自体の保持力を利用する工法。{{Main|新オーストリアトンネル工法}}
* 例:[[中山トンネル (上越新幹線)|中山トンネル]]([[上越新幹線]])
==== <span id="オープンカット工法"></span>開鑿(開削)工法 ====
オープンカット工法とも呼ばれる。地表面を掘り下げてトンネルの構造物を構築し、後で埋め戻す工法<ref>[https://web.archive.org/web/20031205123924/http://www.tokyometro.go.jp/anzen/atarashii/kensetsu/index.html 快適で安全な地下鉄を目指して(営団地下鉄ホームページ)](インターネットアーカイブ・2003年時点の版)</ref>。地表面に近い部分や、[[鉄道駅]]のように大規模になる施設の構築に用いられる。初期(1960年代まで)に建設された[[地下鉄]]では主流の工法であったが、1970年代以降は地下鉄網の拡充からより深い位置にトンネルを建設せざるを得なくなり、駅部分を除いてはシールド工法が主体となっている。
また開削工法にシールド工法を組み合わせた工法として'''オープンシールド工法'''がある。
* 例:[[東京メトロ南北線]]の[[後楽園駅]]
==== 沈埋トンネル工法 ====
複数の[[ケーソン]](潜函)を水底に沈め、これを接続してトンネルとする工法。{{Main|沈埋トンネル}}
* 例:[[多摩川トンネル]]([[首都高速道路]][[首都高速湾岸線|湾岸線]])
=== トンネル工事と安全確保 ===
{{ill2|トンネル工事|en|Tunnel construction}}は[[労働基準法]]等の法令により、'''坑内労働'''として規定され、就業制限や安全衛生について一般の作業場とは異なる規制が設けられている。
{{main|坑内労働}}
== トンネルの分類 ==
[[ファイル:Fukiage Tunnel 2nd Generation Tx-re.jpg|thumb|240px|right|道路トンネルの例(旧[[吹上トンネル]])。両端の出口を低くする逆 V 字型の勾配になっており、自然排水が可能になっている。]]
[[ファイル:Tomei-Nihonzaka-Tunnel 1999-07-25.JPG|thumb|240px|right|道路トンネルの例([[日本坂トンネル]])。大規模火災事故([[日本坂トンネル火災事故]])発生の歴史があり、入り口に[[交通信号機|信号機]]を設けている]]
[[ファイル:Seikan Tunnel Entrance Honshu side.jpg|thumb|240px|right|鉄道トンネルの例([[青函トンネル]])]]
[[ファイル:Shimizuyado.jpg|thumb|240px|right|現役としては日本最古の鉄道トンネル「[[清水谷戸トンネル]]」(左側)。[[神奈川県]][[横浜市]][[戸塚区]][[品濃町]]側([[横須賀線]][[東戸塚駅]]近辺)]]
[[ファイル:Minatogawa0.JPG|thumb|240px|right|河川トンネルの例([[湊川 (兵庫県)|新湊川]])]]
用途別では、道路や鉄道の交通用トンネルの他に、灌漑や水力発電用の水路トンネルや、鉱山の坑道もトンネルの一種に数えられ、大都市で建設される共同溝や地下街、地下駐車場、地下鉄も広義のトンネルとされる{{sfn|浅井建爾|2001|p=234}}。場所や工法による分類では、山岳トンネル(山岳工法)、シールドトンネル(シールド工法)、都市トンネル、開削トンネル(開削工法)、沈埋(ちんまい)トンネル(沈埋工法)など様々な形態がある{{sfn|浅井建爾|2001|pp=234-235}}。
=== 場所による分類 ===
==== 山岳トンネル ====
山を貫通するように掘られたトンネル。トンネル中央部を高く、両端の出口を低くする逆V字型の勾配(拝み勾配)とすることで自然排水が可能である。ただし、立地条件などから片勾配となっているものも少なくないが、これでも自然排水は可能である。
==== 都市トンネル ====
都市の建造物の中や地下を通るトンネル。[[首都高速道路]]に於けるトンネルのほとんどや[[地下鉄]]の多くはこれである。[[滑走路]]等を避けて[[空港]]の地下を通るトンネルもある。傾斜は周囲の構造物などによって大きく異なる。
==== 水底トンネル ====
{{Main|水底トンネル}}
[[川底]]や[[海底]]に掘られたトンネル。構造的に中央部が低くなるため、排水を機械的に行う必要がある。
==== 水中トンネル ====
例えば[[水族館]]の[[水槽]]の中などに作られた観賞用の通路で、[[アクリル樹脂]]などで透明になっていてトンネルの外の水中を眺められる構造になっている<ref>例:[http://www5.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/zoo/sansaku/san_pengin.html 旭川市・旭山動物園]</ref>。
=== 用途による分類 ===
==== 道路トンネル ====
===== 自動車用 =====
自動車用の長大トンネルには大規模な換気設備や、非常ボタン・消火設備・非常電話・非常停車帯・避難用トンネル('''避難坑''')などの防災設備が設置されている。また、日本においては、[[道路法]]で長さ5,000m以上並びに水底・水際の道路トンネルは危険防止のため、[[危険物]]積載車通行が禁止されている。
最近建設されるトンネルは車同士のすれ違いが出来るよう、2車線確保できる断面積にする場合が多い。2車線未満のトンネルは一方通行や片側交互通行、車両幅制限、大型車の通行規制などで対応する場合がある。
高速道路や主要道路を中心に、[[ラジオ]]の再送信を行っているケースもある。なお、トンネル内で交通事故や火災などが発生した場合、全ての[[放送局]]の再送信を休止して、緊急時の正しい行動を周知する[[放送]]を流す。これは、再送信している全ての周波数で同じものが流れる。
トンネルの入口手前に一般道路・高速道路問わず、[[交通信号機|信号機]]を設置している場合がある(写真参照)。また、高速道路ではトンネルの長さなどに関係なく必ず全てのトンネルの入口にトンネル情報表示器が設置される。長大トンネルではトンネル内にも設置される。
===== 歩行者用 =====
自動車用のトンネルにおいて[[歩道]]が設置されている場合、[[排気ガス]]対策から自動車用のトンネルとは別に併行してトンネルが設置されている場合がある。[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]では、人道用と車道用とが2層になっている。
また、歩行者専用に[[地下道]]が設置されている場合、[[道路]]や[[鉄道]]を立体的に横断するために[[地下横断歩道]]が設置されている場合がある。
==== 鉄道トンネル ====
鉄道用のトンネル。鉄道トンネルでは特に、[[単線]]のものを単線トンネル、[[複線]]のものを複線トンネルと呼ぶことが多い。換気が困難な長大トンネルや、特に[[列車]]運転頻度の高い[[鉄道路線|線区]]のトンネルは早く([[蒸気機関車]]が一般的であった時代)から[[鉄道の電化|電化]]されている。
また、鉄道は勾配に弱いため、山の斜面を標高の低いところから掘り進んで建設する必要に迫られることから、全般的にみて道路トンネルよりも長大なものが多い{{sfn|浅井建爾|2015|p=192}}。
電化を前提としていない古くからある鉄道トンネルでは、電化の際に[[建築限界]]の小ささから通過できる車両に制限がかかったり([[中央本線]]など)、[[架線]]などの必要なスペースが取れないため、問題となる。
解決策として、断面積の大きい新トンネルを掘削し、旧トンネルを廃止したり([[常磐線]]、[[赤穂線]]、[[呉線]]など)、複線化の際に単線トンネルを掘削し、路盤を下げるなどで旧トンネルを改良し、単線トンネルを2本並べた形にする方法([[山陽本線]]、[[東北本線]]など)がある。
また、複線化と電化を同時に行い、新線に複線トンネルを新設する場合も多い([[北陸本線]]の[[北陸トンネル]]・[[頸城トンネル]]〔現:[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]]〕や[[函館本線]]の神居トンネル)。
なお、鉄道車両の高速化に伴い、[[トンネル微気圧波]]などが問題となったため、トンネルの出入口付近に、少しでも圧力変化を穏やかにするための構造を設けている場合もある。
<!--[[非電化]]の長大鉄道トンネルでは道路トンネルと同様、大規模な換気設備が必要である。{{要出典}}←非電化線区における長大トンネルのうち、少なくとも過半数に大規模な換気設備があるようならコメントアウトをはずしてください。-->
==== 水路トンネル ====
水路用のトンネル。
[[運河]]において、山を避けてトンネルを掘り、船舶の航行が可能なトンネルがある(例:[[イギリス]]の[[バーミンガム]]近くの{{仮リンク|ネザートン・トンネル|en|Netherton Tunnel Branch Canal}})。河川では洪水を避けるためなどに掘削された河川トンネルがある。[[用水路]]では[[溝渠#暗渠|暗渠]]も参照。
また、[[下水道]]についてもトンネルが用いられる。[[下水処理場]]そのものをトンネルに設置した例もある<ref>[http://www.jswa.jp/suisuiland/3-4-12.html 下水処理場なんでも一番・その2_日本最初のトンネル式下水処理場]</ref>。
==== 貯蔵用トンネル ====
大量の[[ワイン]]の貯蔵には地下の倉(ワインカーヴ)が用いられる。この地下蔵を掘るにもトンネル掘削技術が用いられるが、一方、[[廃道]]となったトンネルをワイン貯蔵用に再利用する場所もある<ref>[http://www.lococom.jp/features/hucc/15/ 産業遺産保存・活用事例集33_甲州市勝沼地域におけるワイン貯蔵庫・遊歩道としての活用]</ref>。
==== 栽培用トンネル ====
[[キノコ]]等の[[菌類]]の栽培には湿度が要るが、日光が不要などの状況があり、廃道となったトンネルを転用している場所もある<ref>[http://www.yobou.com/contents/tokushu/report/t42_05.html 「予防医療.com」・特集・キノコ多糖体]</ref>。
{{-}}
== 断面・形態 ==
山岳トンネルは多くが[[蹄鉄|馬蹄]]型又は卵型の開口部を持つ。[[ニワトリ]]の[[卵]]が縦方向の衝撃・圧力に強い構造であるように、このような[[アーチ]]を構成することによって山から受ける圧力に耐える構造としている。この種のトンネルが並列したものを特にメガネトンネルと称する。
[[シールドマシン]]によって掘削されたトンネルは基本的に断面が真円であるが、シールドマシンの発展に伴い、長方形や馬蹄形などにも掘削できるようになった。道路トンネルの場合、上部に換気路・中央部に道路本体・下部に電気回路や排水路を設ける。
開削トンネルや沈埋トンネルは断面が箱形である。
== 本坑と先進坑 ==
トンネル掘削の際、'''本坑'''と呼ばれる主となるトンネルに並行して、'''先進坑'''('''先進導坑''')と呼ばれる断面積の小さいトンネルを掘削することがある。先進坑は本坑に先行して掘削を行い、工事中は本坑を掘削する際の地質把握や水抜きとして、開通後は緊急時の避難ルート('''避難坑''')や保守通路として、それぞれ役割を持つ。
在来工法では文字通り「先進」として小断面にて導坑を掘り、それを切り広げて本坑を掘削する。支保を行いながらの掘削で1本(底設導坑:下半部の真中)あるいは2本(側壁導坑:下半部の両壁)の導坑をまず掘削し、その後トンネルの上半部を掘削、導坑の支保を取り除きながらの下半部の掘削となる。
== 換気装置 ==
[[ファイル:Jet-fan.JPG|thumb|ジェットファン([[上信越自動車道]]下り線[[横川サービスエリア|横川SA]]に展示)]]
[[ファイル:Kawasaki artificial island.jpg|サムネイル|風の塔(川崎人工島)は[[東京湾アクアライン|アクアトンネル]]の換気口である]]
[[ファイル:Sasago Tunnel(Chūō Expwy) 3D model.png|thumb|横流換気方式の断面図([[中央自動車道]][[笹子トンネル (中央自動車道)|笹子トンネル]]のモデル図)]]
[[#特徴|前述]]の通り、特に道路トンネル内部は[[排出ガス|排気]]がこもりやすい構造となりがちであることから、道路トンネルの設計においては[[換気]]装置の検討が重要となってくる。
{{see|{{ill2|換気シャフト|en|Ventilation shaft}}}}
トンネル内の換気方法としては、自動車交通により発生する空気の流れ(交通換気)やトンネルそのものを抜ける風(自然風)を利用して換気を行う「'''自然換気方式'''」と、何らかの機械設備を用いて強制的に換気を行う「'''機械換気方式'''」の2つに大分される<ref name="jste2007">{{PDFlink|[http://www.jste.or.jp/toptoe/hb/cp/p116.pdf 社団法人交通工学研究会], ed. (2007), 道路交通技術必携2007, p. 116, ISBN ISBN 978-4-7676-7600-5}}</ref>。自然換気方式は特別な装置が不要な一方で、適用可能な長さや交通量に制限が生ずる方式であり、一定以上の規模のトンネルにおいては機械換気方式が採用されることが多い。
機械換気方式には、主に以下のような3種類が挙げられる<ref name="jste2007"/>。
; {{Anchors|縦流換気方式}}縦流換気方式
: トンネル天井に'''ジェットファン'''と呼ばれる大型の[[送風機]]をぶら下げたり、送風機の機能を持つ換気口を設けるなどして縦断方向の空気の流れを強制的に作り、トンネルの坑口または中間部から排気を排出すると同時に、外部から直接トンネル内部に新鮮な空気を送り込む方法。
: 交通換気力を有効に活用する方法で、換気ダクトが不要なためトンネル断面を小さくできることから機械換気方式の中ではコスト面で最も有利な方式である。ただし、交通量が少なかったり、逆に交通量が増えすぎて旅行速度が低下すると交通換気力が低下して十分な換気が困難になる。また自然風の変動を受けやすい方式でもある。
: [[自動車排出ガス規制]]の強化に伴い、長大トンネルであっても強力な換気機能を備える必要がなくなりつつあることから、後述の横流換気方式から切り替えられるケースがある。
; {{Anchors|半横換気方式}}半横換気方式
: トンネルの一部を仕切って「換気[[ダクト]]」とし、新鮮な空気をトンネルの坑口などに設けた吸気口から換気ダクトを通じて車道内に一様に供給し、排出ガスを新鮮な空気によって坑口から押し出す方法。
: トンネルポータル(坑口)の上部に天井板を設けて、天井板で区切られたスペースを換気ダクトとすることも多いが、[[シールドトンネル]]の場合はデッドスペースとなる道路の下にダクトを通す事が多い。また、鋼製のダクトをトンネル内に配管させるケースもある。
: 新鮮な空気の供給に関しては交通量や自然風に影響されない換気方式であるが、換気ダクトや換気装置を必要とするためコスト面では不利となる。また、換気風は坑口に向かって大きくなるため、適用延長に限界がある。
; {{Anchors|横流換気方式}}横流換気方式
: 半横換気方式と同様にトンネルの一部を仕切って「換気ダクト」のスペースを設け、さらにこれを「排気ダクト」と「送気ダクト」に分割し、新鮮な空気を送気ダクトを通じて車道内に供給すると共に、排気ダクトを通じて排気ガスを強制的に排出する方法。
: トンネルポータルの上部に天井板を設けて、天井板の上部に隔壁を設けて排気ダクトと送気ダクトとして確保することも多いが、シールドトンネルの場合はデッドスペースとなる道路の下にダクトを通す事が多い。[[山手トンネル]]([[首都高速道路]])でも横流換気方式を採用しているが、シールド工法区間では道路下にダクトを通しており、天井板はついていない<ref>{{PDFlink|[http://tokyo-smooth.jp/sinagawa/deploy/kids/manga/no03/secret3/images/secret3.pdf 品川線の秘密13 トンネルの換気方式]}} - 東京SMOOTH(首都高速道路特設サイト)内</ref>。
: 送気用と排気用に換気装置がそれぞれ別に必要となることからコスト面では最も不利な方法であるが、トンネル内の縦断方向に換気風を起こす必要がなく、トンネル延長や交通量、自然風に影響されないため、最も安定した換気方式と言える。
: かつては長大トンネルに多く採用されていたが、天井板が存在することの圧迫感や、ジェットファンの性能向上等もあって近年では少数派になりつつあった。更に2012年12月に[[笹子トンネル天井板落下事故]]が発生、老朽化した天井板の危険性が指摘される様になったことから、全国において天井板の撤去、縦流換気方式への転換が進んだ。しかしながら機能的に撤去不能なトンネルや、撤去を見合わせるトンネルも少数ある{{efn|[[関越トンネル]]では天井板の撤去は難しいとされ、撤去は一部にとどまった。}}。
: なお、海底トンネルなどではこれらの方式を組み合わせた換気方式も見られる。
鉄道トンネルにおいても、走行時に高温の[[煤煙]]と[[蒸気]]を放出する石炭焚きの[[蒸気機関車]]が[[動力車]]として使用されていた時代には、トンネル内換気や排煙の誘導が重要な問題となっていた。このため、長大トンネル区間においてはトンネル天井から垂直に地上部まで縦坑を掘って排煙を促進する、トンネル両端の坑口部に強制換気ファンを設置する、列車通過後に遮断幕を下ろして煤煙が後方へ流れにくくする、など、様々な対策が講じられた。
もっとも、それでも勾配区間の長大トンネルでは[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故|北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故]]のように機関車動輪に[[空転]]が発生し列車の運行速度が低下あるいは停止した際にまとわりついた煤煙が原因で乗務員や乗客が窒息する事故が少なからず発生した。
これは特に小断面の長大トンネルを含む区間で積極的に[[鉄道の電化|電化]]工事やトンネルの改築工事、あるいは線路付け替えによる改良工事が実施され、また、[[ディーゼル機関車]]の導入が他より優先的に実施される一因となった。なお先に触れた柳ヶ瀬トンネル内での事故により[[殉職]]者を出していた[[敦賀機関区]]においては、トンネル内における蒸気機関車の排煙の流れを制御し乗務員が窒息する危険性を軽減するための[[集煙装置]]と呼ばれる装置が[[1951年]]に開発されている。
== 記録を持つトンネル ==
=== 最長・最短 ===
* [[世界一の一覧|世界最長]]のトンネルは、{{要出典範囲|date=2016年6月|ニューヨーク市へ続く[[水道]]トンネル、[[キャッツキルアケダクト]]で、全長 147.2 km。}}
* 人間が往来するトンネルとして世界最長のものは、[[スイス]]の[[鉄道]]トンネル、[[ゴッタルドベーストンネル]]で、全長57.1 km
* 世界最長の海底鉄道トンネルは[[青函トンネル]]で、全長 53.85 km、海底部長 23.3 km。
* 世界最長の海底道路トンネルは[[東京湾アクアトンネル]]で、全長 9.6 km{{sfn|浅井建爾|2001|p=241}}。
* [[海底]]部が世界最長の鉄道トンネルは、[[英仏海峡トンネル]]で、全長 50.49 km、海底部長 37.9 km。
* 世界最長の[[狭軌|狭軌鉄道]]の山岳トンネルは、スイスの[[フェライナトンネル]]で、全長 19.0 km。
* 日本最長の狭軌鉄道の山岳トンネルは[[北陸トンネル]]で、全長 13.87 km。
* 日本最長の連続した地下鉄トンネルは、[[都営地下鉄大江戸線]]で、光が丘 - 都庁前 - 大門 - 両国 - 都庁前の全線が該当し、 40.7 km。
* 日本の私鉄で最長の鉄道トンネルは、[[えちごトキめき鉄道]][[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]]の[[頸城トンネル]]で、全長11,353 m。
* 世界最長の道路トンネルは、[[ノルウェー]]の[[ラルダールトンネル]]で、全長 24,510 m。
* [[日本一の一覧|日本最長]]の道路トンネルは、[[首都高速道路|首都高速]][[首都高速中央環状線|中央環状線]]にある[[山手トンネル]]で、全長 18,200 m。
* 日本最短の鉄道トンネルは、[[呉線]]の[[川尻トンネル]]で、全長8.7 m。
=== 総数・総延長 ===
世界で最もトンネルが多い国は[[中華人民共和国|中国]]で、約8,600個所、総延長約 4,375 km となっている([[2004年]])。うち、鉄道トンネルは6,876個所、総延長約 3,670 km で世界一、道路トンネルは1,972個所、総延長約 835 km となっている。
== 主なトンネル ==
地下鉄や水道のトンネルも含めたリスト(日本国内、国外を含む)としては[[延長別トンネルの一覧]]を参照。
=== 鉄道トンネル ===
==== 日本国内 ====
{|class="sortable wikitable"
|+ '''主な鉄道トンネル一覧(国内)'''
!トンネル<br />
!事業者<br />
!線区<br />
!全長<br />(m)
!備考<br />
|-
![[新登川トンネル]]
|[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]
|[[石勝線]]
|align="right"|5,825
|
|-
![[狩勝トンネル|新狩勝トンネル]]
|JR北海道
|[[根室本線]]
|align="right"|5,790
|
|-
![[青函トンネル]]
|JR北海道
|[[海峡線]]、[[北海道新幹線]]
|align="right"|53,850
|
|-
![[津軽トンネル]]
|JR北海道
|海峡線
|align="right"|5,880
|
|-
![[八甲田トンネル]]
|[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]
|[[東北新幹線]]
|align="right"|26,455
|
|-
![[岩手一戸トンネル]]
|JR東日本
|東北新幹線
|align="right"|25,808
|
|-
![[福島トンネル]]
|JR東日本
|東北新幹線
|align="right"|11,705
|
|-
![[蔵王トンネル]]
|JR東日本
|東北新幹線
|align="right"|11,215
|
|-
![[清水トンネル]]
|JR東日本
|[[上越線]](上り)
|align="right"|9,702
|
|-
![[新清水トンネル]]
|JR東日本
|上越線(下り)
|align="right"|13,490
|
|-
![[大清水トンネル]]
|JR東日本
|[[上越新幹線]]
|align="right"|22,221
|
|-
![[榛名トンネル]]
|JR東日本
|上越新幹線
|align="right"|15,350
|
|-
![[中山トンネル (上越新幹線)|中山トンネル]]
|JR東日本
|上越新幹線
|align="right"|14,857
|
|-
![[魚沼トンネル]]
|JR東日本
|上越新幹線
|align="right"|8,625
|
|-
![[飯山トンネル]]
|JR東日本
|[[北陸新幹線]]
|align="right"|22,225
|
|-
![[六十里越トンネル]]
|JR東日本
|[[只見線]]
|align="right"|6,359
|
|-
![[仙山トンネル]]
|JR東日本
|[[仙山線]]
|align="right"|5,361
|
|-
![[仙台トンネル]]
|JR東日本
|仙石線
|align="right"|3,530.5
|地下区間(広義の[[地下鉄]])
|-
![[仙岩トンネル]]
|JR東日本
|([[秋田新幹線]])、[[田沢湖線]]
|align="right"|3,915
|
|-
![[東京トンネル]]
|JR東日本
|横須賀線(所属は東海道本線)<br />総武本線
|align="right"|9,532
|地下区間(広義の地下鉄)
|-
![[笹子トンネル (中央本線)|笹子トンネル]]
|JR東日本
|[[中央本線]]
|align="right"|4,670
|下りの長さ。上りは4,656 m
|-
![[塩嶺トンネル]]
|JR東日本
|中央本線
|align="right"|5,994
|
|-
![[丹那トンネル]]
|[[東海旅客鉄道|JR東海]]
|[[東海道本線]]
|align="right"|7,841
|熱海側の一部区間はJR東日本に属する
|-
![[新丹那トンネル]]
|JR東海
|[[東海道新幹線]]
|align="right"|7,959
|
|-
![[日本坂トンネル]]
|JR東海
|東海道新幹線
|align="right"|2,174
|
|-
![[大原トンネル]]
|JR東海
|[[飯田線]]
|align="right"|5,063
|
|-
![[北陸トンネル]]
|[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]
|[[北陸本線]]
|align="right"|13,870
|[[在来線]]のトンネルとしては日本最長
|-
![[頸城トンネル]]
|[[えちごトキめき鉄道]]
|[[日本海ひすいライン]]
|align="right"|11,353
|[[JR|JRグループ]]以外の鉄道トンネルとしては日本最長。
|-
![[新逢坂山トンネル]]
|JR西日本
|東海道本線
|align="right"|2,335
|[[複々線]]のトンネルとしては日本最長<br />複々線の山岳トンネルはほかには[[東山トンネル]]しかない
|-
![[六甲トンネル]]
|JR西日本
|山陽新幹線
|align="right"|16,250
|
|-
![[安芸トンネル (山陽新幹線)|安芸トンネル]]
|JR西日本
|山陽新幹線
|align="right"|13,000
|
|-
![[川尻トンネル]]
|JR西日本
|[[呉線]]
|align="right"|8.7
|日本一短い鉄道トンネル
|-
![[新関門トンネル]]
|JR西日本
|[[山陽新幹線]]
|align="right"|18,713
|
|-
![[犬寄トンネル]]
|[[四国旅客鉄道|JR四国]]
|[[予讃線]]
|align="right"|6,012
|四国の中では最長のトンネル
|-
![[大歩危トンネル]]
|JR四国
|[[土讃線]]
|align="right"|4,179
|
|-
![[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]
|[[九州旅客鉄道|JR九州]]
|[[山陽本線]]
|align="right"|3,614
|下りの長さ。上りは3,604 m。
|-
![[篠栗トンネル]]
|JR九州
|[[九州旅客鉄道|福北ゆたか線]]
|align="right"|4,550
|
|-
![[第三紫尾山トンネル]]
|JR九州
|[[九州新幹線]]
|align="right"|9,987
|
|-
![[長崎トンネル]]
|JR九州
|[[長崎本線]]
|align="right"|6,173
|
|-
![[真崎トンネル]]
|[[三陸鉄道]]
|[[三陸鉄道リアス線|リアス線]]
|align="right"|6,532
|非電化の区間では日本最長
|-
![[赤倉トンネル]]
|[[北越急行]]
|[[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]
|align="right"|10,472
|
|-
![[鍋立山トンネル]]
|北越急行
|ほくほく線
|align="right"|9,130
|土木史上稀に見る難工事
|-
![[薬師峠トンネル]]
|北越急行
|ほくほく線
|align="right"|6,199
|
|-
![[霧ヶ岳トンネル]]
|北越急行
|ほくほく線
|align="right"|3,727
|
|-
![[第一飯室トンネル]]
|北越急行
|ほくほく線
|align="right"|3,279
|
|-
!北神トンネル
|[[神戸市営地下鉄]]
|[[神戸市営地下鉄北神線|北神線]]
|align="right"|7,276
|[[日本国有鉄道|国鉄]]・JRに由来しない鉄道の山岳トンネルでは最長
|-
![[新青山トンネル]]
|[[近畿日本鉄道|近鉄]]
|[[近鉄大阪線]]
|align="right"|5,652
|[[大手私鉄]]の山岳トンネルでは最長
|-
![[生駒トンネル#奈良線 新生駒トンネル|新生駒トンネル]]
|近鉄
|[[近鉄奈良線]]
|align="right"|3,494
|[[生駒トンネル#奈良線 旧生駒トンネル|(旧)生駒トンネル]]は3,388 m
|-
![[生駒トンネル]]
|近鉄
|[[近鉄けいはんな線]]
|align="right"|4,737
|
|-
![[紀見トンネル|新紀見トンネル]]
|[[南海電気鉄道]]
|[[南海高野線]]
|align="right"|1,853
|紀見トンネル(上り線)は1915年開通の1,562 m
|-
![[谷津トンネル]]
|[[伊豆急行]]
|[[伊豆急行線]]
|align="right"|2,796
|
|-
![[正丸トンネル]]
|[[西武鉄道]]
|[[西武秩父線]]
|align="right"|4,811
|
|}
==== 日本以外 ====
{|class="sortable wikitable"
|+ '''主な鉄道トンネル一覧(日本以外)'''
!トンネル
!国/事業者
!線区
!全長
!備考
|-
![[英仏海峡トンネル]]
|フランス - イギリス間ドーバー海峡
|
|align="right"|50.49 km
|
|-
![[烏鞘嶺トンネル]]
|中国/[[中国国鉄]]
|[[蘭新線]]
|align="right"|20.5 km
|
|-
![[シンプロントンネル]]
|スイス - イタリア国境/[[スイス連邦鉄道]](スイス国鉄)
|
|align="right"|19.8 km
|
|-
![[新フルカトンネル]]
|スイス/マッターホルン・ゴッタルド鉄道
|
|align="right"|15.4 km
|
|-
![[新観音トンネル]]
|台湾/[[台湾鉄路管理局]]
|[[北廻線]]
|align="right"|10.3 km
|
|-
![[レッチュベルクベーストンネル]]
|スイス/BLS
|
|align="right"|34.6 km
|
|-
![[オーレスン・リンク]]
|デンマーク - スウェーデン間エーレスンド海峡
|
|align="right"|4.05 km
|
|-
![[グレートベルト・リンク]]
|デンマーク大ベルト海峡
|
|align="right"|8.024 km
|
|-
![[ゴッタルドベーストンネル]]
|スイス/スイス国鉄
|
|align="right"|57.09 km
|
|-
![[金井トンネル]]
|韓国/[[韓国鉄道公社]]
|[[京釜高速線]]
|align="right"|20.3 km
|
|-
![[栗峴トンネル]]
|韓国/[[SR (企業)|SR]]
|[[水西平沢高速線]]
|align="right"|50.3 km
|
|-
|}
=== 道路トンネル ===
==== 日本国内 ====
{|class="sortable wikitable"
|+ '''主な道路トンネル一覧(日本国内)'''
! トンネル
! 所属する道路
! 所在地
! style="width:13%" | 長さ
! style="width:25%" | 備考
|-
! [[天城トンネル]]<br />(天城山隧道)
| 旧[[国道414号]]
| [[静岡県]][[伊豆市]]<br />静岡県[[賀茂郡]][[河津町]]
| align="right" | 445.5 m
| [[重要文化財]](道路トンネルでは初)
|-
! [[関越トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]]
| [[群馬県]][[利根郡]][[みなかみ町]]<br />[[新潟県]][[南魚沼郡]][[湯沢町]]
| align="right" | 下り10,926 m<br />上り11,055 m
| 道路トンネルでは日本第2位{{sfn|浅井建爾|2015|p=v}}
|-
! [[青梅トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]
| [[東京都]][[羽村市]]<br />東京都[[青梅市]]
| align="right" | 2,094 m
| 国内初<ref>[http://www.kajima.co.jp/news/digest/oct_2001/genba/index-j.htm 月報KAJIMA 2001 October]</ref><ref>[http://www.geostr.co.jp/30tec/contents1.html ジオスター(株)]</ref> の2層構造で4車線を構成し、掘削断面積でも国内最大級の規模
|-
! [[山手トンネル]]
| [[首都高速道路]][[首都高速中央環状線|中央環状線]]
| 東京都<br />([[高松入口]] - [[大井ジャンクション|大井JCT]]間)
| align="right" | 18,200 m
| 道路トンネルでは国内最長{{sfn|浅井建爾|2015|p=190}}
|-
! [[飛驒トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E41}} [[東海北陸自動車道]]
| [[岐阜県]][[飛驒市|飛騨市]]<br />岐阜県[[大野郡]][[白川村]]
| align="right" | 10,712 m
| 道路トンネルとして日本第3位
|-
! [[小仏トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E20}} [[中央自動車道]]
| [[東京都]][[八王子市]]<br />[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]
| align="right" | 下り1,642 m<br />上り2,002 m
| [[渋滞]]の名所
|-
! [[笹子トンネル (中央自動車道)|笹子トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E20}} [[中央自動車道]]
| [[山梨県]][[大月市]]<br />山梨県[[甲州市]]
| align="right" | 下り4,717 m<br />上り4,784 m
| [[2012年]]12月、「[[笹子トンネル天井板落下事故]]」発生
|-
! [[笹子隧道|新笹子隧道]]
| [[国道20号]]
| [[山梨県]][[大月市]]<br />山梨県[[甲州市]]
| align="right" | 2,953 m
|
|-
! [[小鳥トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]
| [[岐阜県]][[高山市]]
| align="right" | 4,346 m
|
|-
! [[権兵衛トンネル]]
| [[国道361号]]
| [[長野県]][[塩尻市]]<br />長野県[[上伊那郡]][[南箕輪村]]
| align="right" | 4,467 m
|
|-
! [[タラガトンネル]]
| [[国道256号]]
| [[岐阜県]][[郡上市]]<br />岐阜県[[関市]]
| align="right" | 4,571 m
|
|-
! [[猪臥山トンネル]]
| [[岐阜県道90号古川清見線]]
| [[岐阜県]][[高山市]]
| align="right" | 4,475 m
| [[都道府県道]]にあるトンネルでは日本最長{{sfn|浅井建爾|2015|p=v}}
|-
! [[冠山峠道路|冠山トンネル]]
| [[国道417号]]
| [[岐阜県]][[揖斐郡]][[揖斐川町]]<br />[[福井県]][[今立郡]][[池田町 (福井県)|池田町]]
| align="center" | 4,834 m(予定)
| 事業中
|-
! [[大和トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]]
| [[神奈川県]][[大和市]]
| align="right" | 280 m
| 渋滞の名所
|-
! [[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]
| [[国道2号]]
| [[山口県]][[下関市]]<br />[[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]
| align="right" | 3,461 m
| 世界初の海底道路トンネル{{sfn|浅井建爾|2001|p=240}}
|-
! [[日本坂トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]]
| [[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]]<br />静岡県[[焼津市]]
| align="right" | 下り2,555 m<br />上り(左)2,378 m<br />上り(右)2,371 m
| 1998年に新下り線トンネル開通<br />旧下り線トンネルは上り線右ルートに転用
|-
! [[日本坂トンネル|新日本坂トンネル]]
| [[国道150号]]
| [[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]]<br />静岡県[[焼津市]]
| align="right" | 下り2,207 m<br />上り3,104 m
| 無料通行の片側2車線トンネルでは日本最長{{要出典|date=2015年5月}}
|-
! [[樽峠トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E52}} [[中部横断自動車道]]
| [[静岡県]][[静岡市]][[清水区]]<br />[[山梨県]][[南巨摩郡]][[南部町 (山梨県)|南部町]]
| align="right" | 4,999 m
| 危険物積載車が通行可能なトンネルでは日本一
|-
! [[恵那山トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E19}} [[中央自動車道]]
| [[長野県]][[下伊那郡]][[阿智村]]<br />[[岐阜県]][[中津川市]]
| align="right" | 下り8,489 m<br />上り8,649 m
| 道路トンネルでは日本第5位{{要出典|date=2015年5月}}
|-
! [[肥後トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E3}} [[九州自動車道]]
| [[熊本県]][[八代市]]<br />熊本県[[球磨郡]][[山江村]]
| align="right" | 下り6,340 m<br />上り6,331 m
|
|-
! rowspan="2" | [[加久藤トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E3}} [[九州自動車道]]
| [[熊本県]][[人吉市]]<br />[[宮崎県]][[えびの市]]
| align="right" | 下り6,264 m<br />上り6,255 m
|
|-
| [[国道221号]]
| [[熊本県]][[人吉市]]<br />[[宮崎県]][[えびの市]]
| align="right" | 約1,800 m
|
|-
! [[雁坂トンネル有料道路|雁坂トンネル]]
| [[国道140号]]
| [[埼玉県]][[秩父市]]<br />[[山梨県]][[山梨市]]
| align="right" | 6,625 m
| [[一般国道]]では東京湾アクアトンネルに次ぐ日本第2位{{sfn|浅井建爾|2001|pp=238-239}}
|-
! [[東京湾アクアライン|アクアトンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|CA}} [[東京湾アクアライン]]
| [[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]<br />[[千葉県]][[木更津市]]
| align="right" | 9,607 m
| 海底道路トンネルでは世界最長{{sfn|浅井建爾|2001|p=241}}、道路トンネルでは日本第4位{{sfn|浅井建爾|2015|p=v}}。
|-
! [[阪神高速32号新神戸トンネル|新神戸トンネル]]<br />第2新神戸トンネル
| 神戸市道生田川箕谷線
| [[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]<br />兵庫県神戸市[[北区 (神戸市)|北区]]
| align="right" | 北行7.9 km<br />南行8.1 km
| [[市町村道]]にあるトンネルでは日本最長{{sfn|浅井建爾|2015|p=v}}
|-
! [[天王山トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]
| [[京都府]][[乙訓郡]][[大山崎町]]<br />[[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]
| align="right" | 下り(左)1,440 m<br />下り(右)1,488 m<br />上り(左)2,010 m<br />上り(右)1,718 m
|
|-
! [[鈴鹿トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]
| [[三重県]][[亀山市]]<br />[[滋賀県]][[甲賀市]]
| align="right" | 下り3,959 m<br />上り4,005 m
|
|-
! [[敦賀トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]]
| [[福井県]][[南条郡]][[南越前町]]<br />福井県[[敦賀市]]
| align="right" | 下り2,925 m<br />上り3,225 m
|
|-
! [[子不知トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]]
| [[新潟県]][[糸魚川市]]
| align="right" | 下り4,563 m<br />上り4,557 m
|
|-
! [[八風山トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]]
| [[群馬県]][[甘楽郡]][[下仁田町]]<br />[[長野県]][[佐久市]]
| align="right" | 下り4,471 m<br />上り3,998 m
|
|-
! [[安房トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]
| [[長野県]][[松本市]]<br />[[岐阜県]][[高山市]]
| align="right" | 4,370 m
| 世界で唯一の[[活火山]]を貫通して建設されたトンネル。
|-
! [[関電トンネル]]<br />(大町トンネル)
| [[関西電力]]<br />([[立山黒部アルペンルート]])
| [[長野県]][[大町市]]<br />[[富山県]][[中新川郡]][[立山町]]
| align="right" | 5430.6 m
| 一般車両の通行は不可<br />専用の電気バスとダム工事関係車両専用
|-
! [[寒風山トンネル]]
| [[国道194号]]
| [[高知県]][[吾川郡]][[いの町]]<br />[[愛媛県]][[西条市]]
| align="right" | 5,432 m
| [[四国]]最長<br /> 無料で通行できる一般国道トンネル、[[自転車]]や[[歩行|徒歩]]で通行できるトンネルとしては最長{{sfn|浅井建爾|2015|p=v}}。
|-
! [[三頭トンネル]]
| [[国道438号]]
| [[徳島県]][[美馬市]]<br />[[香川県]][[仲多度郡]][[まんのう町]]
| align="right" | 2,648 m
|
|-
! [[笹ヶ峰トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E32}} [[高知自動車道]]
| [[高知県]][[長岡郡]][[大豊町]]<br />[[愛媛県]][[四国中央市]]
| align="right" | 4,307 m
| 四国の高速道路で最長
|-
! [[阪奈トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E92}} [[第二阪奈有料道路]]
| [[大阪府]][[東大阪市]]<br />[[奈良県]][[生駒市]]
| align="right" | 5,578 m
|
|-
! [[箕面トンネル (箕面有料道路)|箕面トンネル]]
| [[箕面有料道路]]
| [[大阪府]][[箕面市]]
| align="right" | 5,623 m
|
|-
! [[箕面トンネル (新名神高速道路)|箕面トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]
| [[大阪府]][[茨木市]]<br />大阪府[[箕面市]]
| align="right" | 下り4,982 m<br />上り4,997 m
|
|-
! [[紀見トンネル]]
| [[国道371号]](元[[国道170号]])
| [[大阪府]][[河内長野市]]<br />[[和歌山県]][[橋本市]]
| align="right" | 1,453 m
|
|-
! [[新天辻トンネル]]
| [[国道168号]]
| [[奈良県]][[五條市]]
| align="right" | 1,174 m
|
|-
! [[伯母峰トンネル]]
| [[国道169号]]
| [[奈良県]][[吉野郡]][[川上村 (奈良県)|川上村]]<br />奈良県吉野郡[[上北山村]]
| align="right" | 1,964 m
|
|-
! [[川合トンネル]]
| [[国道309号]]
|
| align="right" | 2,751 m
|
|-
! [[水越トンネル]]
| [[国道309号]]
|
| align="right" | 2,370 m
|
|-
! [[矢筈トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E69}} [[三遠南信自動車道]]
| [[長野県]]
| align="right" | 4,176 m
|
|-
! [[新仙人トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E46}} [[仙人峠道路]]
| [[岩手県]][[釜石市]]、[[気仙郡]][[住田町]]
| align="right" | 4,492 m
|
|-
! [[みちのくトンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E4A}} [[みちのく有料道路]]
|
| align="right" | 3,178 m
|
|-
! [[坂梨トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]]
| [[秋田県]][[鹿角郡]][[小坂町]]<br />[[青森県]][[平川市]]
| align="right" | 4,265 m
|
|-
! [[早坂峠道路|早坂トンネル]]
| [[国道455号]]
| [[岩手県]]
| align="right" | 3,115 m
|
|-
! [[福島トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]]
| [[福島県]][[福島市]]
| align="right" | 下り909 m<br />上り880 m
|
|-
! [[笹谷トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E48}} [[山形自動車道]]
| [[宮城県]][[柴田郡]][[川崎町 (宮城県)|川崎町]]<br />[[山形県]][[山形市]]
| align="right" | 下り3,286 m<br />上り3,411 m
|
|-
! [[仙秋鬼首トンネル]]
| [[国道108号]]
| [[宮城県]][[大崎市]]<br />[[秋田県]][[湯沢市]]
| align="right" | 3,527 m
|
|-
! [[大峠トンネル]]
| [[国道121号]]
| [[福島県]][[喜多方市]]<br />[[山形県]][[米沢市]]
| align="right" | 3,940 m
|
|-
! [[境目トンネル]]
| [[国道192号]]
| [[愛媛県]][[四国中央市]]<br />[[徳島県]][[三好市]]
| align="right" | 855 m
|
|-
! [[新境目トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E32}} [[徳島自動車道]]
| [[徳島県]][[三好市]]<br />[[愛媛県]][[四国中央市]]
| align="right" | 2,794 m
|
|-
! [[大坂トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E11}} [[高松自動車道]]
|
| align="right" | 2,032 m
|
|-
! [[地芳トンネル]]
| [[国道440号]]
| [[愛媛県]][[上浮穴郡]][[久万高原町]]<br />[[高知県]][[高岡郡]][[檮原町]]
| align="right" | 2,983.5 m
|
|-
! [[倉羅トンネル]]
| [[国道193号]]
|
| align="center" | 2,700 m(予定)
| 建設中
|-
! [[梅香トンネル]]
| [[国道349号]]
| [[茨城県]][[水戸市]]
| align="right" | 607 m
|
|-
! [[オランダ坂トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E34}} [[ながさき出島道路]]
|
| align="right" | 2,923 m
|
|-
! [[六十里越トンネル]]
| [[国道252号]]
| [[新潟県]][[魚沼市]]<br />[[福島県]][[南会津郡]][[只見町]]
| align="right" | 788.5 m
|
|-
! [[甲子トンネル]]
| [[国道289号]]
| [[福島県]][[南会津郡]][[下郷町]]<br />福島県[[西白河郡]][[西郷村]]
| align="right" | 4,345 m
|
|-
! [[大阪港咲洲トンネル]]
| [[大阪市]]港湾局
| [[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]<br />大阪府大阪市[[住之江区]]
| align="right" | 2,200 m
| 道路部分のみ
|-
! [[信夫山トンネル]]
| [[国道13号]]
| [[福島県]][[福島市]]
| align="right" | 700 m
|
|-
! [[東栗子トンネル]]
| [[国道13号]]
| [[福島県]][[福島市]]
| align="right" | 2,376 m
|
|-
! [[西栗子トンネル]]
| [[国道13号]]
| [[山形県]][[米沢市]]
| align="right" | 2,675 m
|
|-
! [[栗子トンネル (東北中央自動車道)|栗子トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E13}} [[東北中央自動車道]]
| [[福島県]][[福島市]]<br />[[山形県]][[米沢市]]
| align="right" | 8,972 m
| 道路トンネルとして日本第5位の長さ。無料の道路トンネルとしては日本最長{{sfn|浅井建爾|2015|p=188}}。
|-
! [[土湯トンネル]]
| [[国道115号]]
| [[福島県]][[福島市]]<br />福島県[[耶麻郡]][[猪苗代町]]
| align="right" | 3,360 m
|
|-
! [[衣浦トンネル]]
| [[愛知県道265号碧南半田常滑線]]
| [[愛知県]][[半田市]]<br />愛知県[[碧南市]]
| align="right" | 西行1,019 m<br />東行1,141 m
| 日本初の港湾道路トンネル{{sfn|浅井建爾|2015|p=vi}}
|-
! [[あつみトンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E7}} [[日本海東北自動車道]]
| [[山形県]][[鶴岡市]]
| align="right" | 6,022 m
| 通行料不要の道路トンネルでは栗子トンネルに次ぐ2位の長さ([[新直轄方式|新直轄]]区間){{sfn|浅井建爾|2015|p=188}}
|-
! [[新潟みなとトンネル]]
|
| [[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]<br />新潟県新潟市[[東区 (新潟市)|東区]]
| align="right" | 1,423 m
|
|-
! [[川崎港海底トンネル]]
|
| [[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]
| align="right" | 2,170 m
|
|-
! [[国道273号#トンネル|浮島トンネル]]
| [[国道273号]]
| [[北海道]][[上川郡 (石狩国)|上川郡]][[上川町]]<br />[[北海道]][[紋別郡]][[滝上町]]
| align="right" | 3,332 m
|
|-
! [[北大雪トンネル]]
| {{Ja Exp Route Sign|E39}} [[国道450号線#旭川紋別自動車道|旭川紋別自動車道]]
| [[北海道]][[上川郡 (石狩国)|上川郡]][[上川町]]<br />[[北海道]][[紋別郡]][[遠軽町]]
| align="right" | 4,098 m
|
|-
! 新佐呂間トンネル
| [[国道333号]]
| [[北海道]][[常呂郡]][[佐呂間町]]
| align="right" | 4,110 m
| [[北海道佐呂間町竜巻災害]]で9名の死者
|-
! [[17号トンネル|17号(明神)トンネル]]
| [[新潟県道50号小出奥只見線]]
| [[新潟県]][[魚沼市]]
| align="right" | 3,989.5 m
|
|-
! [[神戸長田トンネル]]
| [[阪神高速31号神戸山手線]]
| [[兵庫県]][[神戸市]]
| align="right" | 下り3,906 m<br />上り2,184 m
| 2010年12月18日に湊川まで延伸
|-
! [[石榑峠|石榑トンネル]]
| [[国道421号]]
| [[三重県]][[いなべ市]]<br />[[滋賀県]][[東近江市]]
| align="right" | 4,157 m
|
|-
! [[野塚トンネル]]
| [[国道236号]]
| [[北海道]][[浦河郡]][[浦河町]]<br />[[北海道]][[広尾郡]][[広尾町]]
| align="right" | 4,232 m
| [[日高山脈襟裳国定公園]]
|-
! [[えりも黄金トンネル]]
| [[国道336号]]
| [[北海道]][[幌泉郡]][[えりも町]]
| align="right" | 4,941 m
| 北海道首位の総延長
|-
! [[武岡トンネル#新武岡トンネル|新武岡トンネル]]
| [[鹿児島東西幹線道路]]
| [[鹿児島県]][[鹿児島市]]
| align="right" | 1,513 m
| 本線とランプの合流部の掘削断面積が日本一<ref>『南日本新聞』 2012年2月14日付 4面(新武岡トンネル貫通)</ref><br/>軟弱地盤([[シラス (地質)|シラス]])でのトンネル内分岐初施工事例<ref>[http://www.kc-news.co.jp/kikaku/web2013-09-28.pdf 鹿児島東西道路鹿児島IC~建部IC間が開通] - 鹿児島建設新聞、2013年9月28日付</ref>
|-
|}
==== 日本以外 ====
{|class="sortable wikitable"
|+ '''主な道路トンネル一覧(日本以外)'''
!トンネル
!所属する国、道路
!長さ
!備考
|-
![[ラルダールトンネル]]
|[[ノルウェー]]
|align="right"|24,510 m
|道路トンネルでは世界最長
|-
![[クロスシティトンネル]]
|[[オーストラリア]]
|align="right"|約2.1 km
|
|-
![[雪山トンネル]]
|[[台湾]]・[[北宜高速公路|国道5号]]
|align="right"|12.9 km
|道路トンネルでは台湾最長
|}
=== 構想・その他 ===
* [[紀淡トンネル]]([[紀淡海峡]])
* [[豊予トンネル]]([[豊予海峡]])
* [[日韓トンネル]]([[対馬海峡]])
* [[宗谷トンネル]]([[宗谷海峡]])
* {{仮リンク|スタッド・シップ・トンネル|en|Stad Ship Tunnel}}(船舶用トンネル構想、ノルウェー)
== トンネル内の安全確保 ==
トンネルはその構造から災害発生時や事故発生時の避難行動や救出活動が比較的難しくなる。
=== 高速道路での安全対策 ===
日本の高速道路のトンネルでは、50mの間隔で押しボタン式通報装置と[[消火器]](2本)、200m間隔で[[非常電話]]が設置されている<ref name="JAF19">{{Cite web|和書|url=http://www.jaf.or.jp/qa/ecosafety/careful/19.htm|title=高速道路のトンネルで火災が発生した場合の対処とは?|publisher=日本自動車連盟|accessdate=2013-12-10}}</ref>。
また、長大トンネルの入口にはトンネル入り口用[[交通信号機|信号機]]や入口表示板が設置され、トンネル内で火災が発生した際には赤灯火の信号や「進入禁止火災」などの表示が行われる<ref name="JAF19"/> ほか、非常停車スペースを途中に確保したり、道路用トンネルに並行して一回り小さい避難用のトンネルを設けている場合がある。
[[File:Sodium Vapor Lamp.JPG|thumb|right|220px|トンネルに設置されたナトリウムランプ]]
トンネル内部の照明は、白色も使用されているがオレンジ色に発光する[[低圧ナトリウムランプ]]の使用が圧倒的に多い{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=95-96}}。
低圧ナトリウムランプは、ガラス管に[[ナトリウム]]蒸気を封入した放電灯に使用されるランプで、日本で最初に高速道路が造られたときにトンネルの照明に採用されたランプである{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=95-96}}。オレンジ色の光は波長が長く、排気ガスの塵で拡散されにくく光が遠くまで届くという特性があり、排気ガスで視界が悪くなりがちなトンネル内部の視認性を向上して安全性を高めている。
また、各種ランプの中でも電気エネルギーを光に変換する効率が高く、ランプ寿命が約9000時間と比較的長いことから経済的であるというメリットがある{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=95-96}}。
その半面、オレンジ色の光は[[演色性]]が悪いため、赤いものが黒っぽく見えるというデメリットも持ち合わせており、トンネル内の消火栓などは蛍光の赤色で塗装するという工夫により、万一のときの安全を図っている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=95-96}}。また、トンネルに入った時に、トンネル内部の暗さに合わせて人間の瞳の[[瞳孔]]が開くまで時間がかかることから、トンネルに入った時の内部の視認性向上のために出入り口付近の内部照明の数を増やし、中央部よりも明るくしている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=95-96}}。
=== 鉄道での安全対策 ===
=== 主なトンネル事故 ===
{{main|en:Category:Tunnel disasters}}
* [[肥薩線列車退行事故]](1945年8月22日、[[日本国有鉄道|国鉄]][[肥薩線]])
* [[近鉄大阪線列車衝突事故]](1971年10月25日、[[近鉄大阪線]])
* [[豊浜トンネル岩盤崩落事故]](1996年2月10日、[[国道229号]])
* [[福岡トンネルコンクリート塊落下事故]](1999年6月27日、[[山陽新幹線]])
* [[笹子トンネル天井板落下事故]](2012年12月2日、[[中央自動車道]])
;トンネル火災
{{see|地下鉄#火災}}
* [[北陸トンネル火災事故]](1972年11月6日、国鉄[[北陸本線]])
* [[日本坂トンネル火災事故]](1979年7月11日、[[東名高速道路]])
== トンネルと文化的影響 ==
日本では「山の中に女が入ると、[[女神]]である[[山の神]]の嫉妬に遭い事故が起こる」という[[迷信]]が長らく信じられてきた。そのためトンネルや坑道などへの立ち入りは長らく[[女人禁制]]であった。
見学者のうち女性のみが拒否され問題となった例<ref>一例として{{Citation|和書|url=http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/news/20010905/1712/ |title=トンネル工事で女性を立入禁止| work=日経コンストラクション|date=2001-09-05}}</ref> も多数ある。
同様に[[アメリカ合衆国]]でも、トンネル建設現場に女性がいると不幸が起きると信じられていたが、[[1972年]]、[[コロラド州]]の[[アイゼンハワー・トンネル]]の建設現場において、性別を理由にトンネル内の建設現場から事務仕事に異動させられた女性が提訴したことを契機に、性差を理由にした制限等が解消されている<ref>[https://www.cnn.co.jp/fringe/35095077-5.html 圧巻のスケールと技術力、世界の巨大トンネル10選] CNN(2017年3月25日)2017年5月14日閲覧</ref>。
また、度々トンネルは[[怪談]]や[[都市伝説]]の舞台になる。トンネル内で、工事中あるいは開通後の事故で死んだ人の[[亡霊]]が現れる、といったたぐいである。有名なところでは、[[石北本線]][[常紋トンネル]]においてはいわゆる「[[タコ部屋労働]]」が原因であるとして、また[[肥薩線]]第二山の神トンネルにおいてはそこで発生した[[肥薩線列車退行事故|乗客轢死事故]]が原因であるとして亡霊話がしばしば語られる。
トンネルの貫通の際に採取された石を[[貫通石]](かんつうせき)といい、安産の[[お守り]]として用いられる。最近では各高速道路会社などが販売することもある。
企業・団体・集団・著名人の長期の業績・状態・売上不振や、スポーツチームの長期の連敗・下位低迷などを「トンネル」と表現されることがあるほか、[[野球]]の[[失策]]において野手がゴロを捕球できず自分の股の下をすり抜けさせることをトンネルと表現する。
== 自然に作られたトンネル ==
* [[洞窟]]
** [[溶岩洞]]
** {{ill2|氷穴|en|Ice cave}}(氷洞)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編)|date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tunnels|トンネル}}
* [[延長別トンネルの一覧]]
* [[延長別日本の交通用トンネルの一覧]]
* [[延長別日本の道路トンネルの一覧]]
* [[土木工学]] - [[岩盤工学]]、{{ill2|トンネル工事|en|Tunnel construction}}
* [[坑道]]、[[炭鉱]]
* [[トンネル式便所]]
* [[覆道]] - [[雪崩]]や[[落石 (自然災害)|落石]]、[[土砂崩れ]]から道路を守るために作られた建造物。
* [[アーケード (建築物)]]
* [[公共事業]]、[[カナート]](紀元前から作られた中東の乾燥に強い地下水道)
* [[雪中トンネル]]
* {{ill2|運河トンネル|en|Canal tunnel}}
* [[立体交差]](アンダーパス)、{{仮リンク|動物横断路|en|Wildlife crossing}}
* [[切通し]]
* [[監査廊]]
* {{ill2|Erdstall|en|Erdstall}} - ヨーロッパ中にある中世以降に作られた謎のトンネル。避難所や貯蔵庫、儀式に使われたとも言われるが詳細は不明。
** {{ill2|Fogou|en|Fogou}} - イギリスのコーンウォールにあるもの
* {{ill2|Souterrain|en|Souterrain}} - ヨーロッパの鉄器時代に使用されたもの。
* {{ill2|戦争におけるトンネル|en|Tunnel warfare}}
** {{ill2|ガザ地区の地下トンネル|en|Palestinian tunnel warfare in the Gaza Strip}}(Gaza Metro)
== 外部リンク ==
* [http://www.japan-tunnel.org/ 社団法人トンネル技術協会]
* [https://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/tunnel/index.html 鹿島建設の建築誌博物館ホームページ]([[鹿島建設]])
* [https://www.jehdra.go.jp/kikenbutsu.html 水底トンネル等における危険物積載車両の通行禁止又は制限について]([[日本高速道路保有・債務返済機構]])
* {{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/06/060302/03.pdf 危険物積載車両の通行規制を実施している水底トンネル等]}}([[国土交通省]])
{{トンネル}}
{{地形}}
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[[Category:トンネル|*]]
[[Category:交通施設]]
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橋
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橋(はし、英: bridge)は、地面が下がった場所や何らかの障害(川など)を越えて、「みち」(路、道) のたぐい(通路・道路・鉄道など)を通す構築物である。工学上は橋梁 (きょうりょう) という。
橋というのは、何らかの障害を越えて、路や道を通す構築物である。橋が通す「路」のたぐいには、道路や鉄道のほか水路もある。橋が越える障害には、河川、湖沼、海峡、湾、運河、低地などのほか、他の交通路(他の鉄道や他の道路類)や他の構造物など、さまざまなものがある。
紀元前4000年(紀元前40世紀)頃のメソポタミア文明では石造のアーチ橋が架けられている。紀元前2200年頃、バビロンではユーフラテス川に長さ 200 m のレンガ橋が架けられた。
なおアーチ橋の架橋技術は、古代メソポタミア地方で発祥した技術が、世界に伝播して西洋と東洋それぞれ独自に発展したとする研究が発表されている。
古代ローマ帝国は技術力や軍事力に優れ、地中海世界やガリアの地で支配地を広げ巨大な帝国となるにともなって、物資運搬(ロジスティクス、兵站)、軍が戦地へ移動する速度、水の供給、などの戦略的な重要さの理解も深まり、道路網と水道網(水路網)も積極的・戦略的に整備した結果、多数の橋が架けられ、架橋技術も大きく進歩した。現存する古代ローマの水道橋は驚くべき精度を持っている。
なおローマ教皇は英語で「ポープ」と呼ばれるが、この「Pope」の正式名称である「最高司教:Pontifex maximus」の前半部は「橋:Ponti」と「つくる:fex」から成り立っている。この名前が示すように、初期キリスト教の時代(古代ローマ時代)には橋を架けることは聖職者の仕事(聖職者が主導して行う仕事)でもあった。中国や日本でも橋は仏教僧侶が(主導して)架けることが多かったのである。
日本での記録に残っている最古の橋は、『日本書紀』によると景行天皇の時代に現在の大牟田市にあった「御木のさ小橋」(みきのさおはし)である。巨大な倒木による丸木橋とされている(ただし大きさに誇張がある。詳細は巨樹#伝説上の巨樹を参照)。人工の橋では同じく『日本書紀』によると324年(仁徳天皇14年)に猪甘津橋(いかいつのはし)が架けられたのが最古とされている(現在の大阪市にあたる場所にあったと推定されている)。また、624年(推古天皇32年)に道昭が京都の宇治川に宇治橋を、726年(神亀3年)には行基が山崎橋を架けるなど、古くは僧侶が橋を架けたことが知られている。これは僧侶が遣隋使や遣唐使として中国に渡り技術を学び独自の高度な知識を持っていたことや、その知識を使って庶民の救済の一環として土木事業を指導したことによる。
中世でも、中規模程度の石造りのアーチ橋は造られ続けていた。戦乱の続いた時代では橋は戦略上重要な拠点となるため、守備用の塔が付属して建てられたり、戦時に敵の進軍を妨害するため簡単に壊せるようになっていたりする橋も多い。
ルネサンス期になると扁平アーチが開発され、軽快な石橋が建設されるようになった。
鎌倉時代、それ以前と同様に僧侶の勧進活動の1つとして、重源による瀬田橋や忍性による宇治橋の再建などが行われた。これは人々の労苦を救うとともに架橋を善行の1つとして挙げた福田思想の影響によるところが大きいとされている。
戦国時代の武将たちは、戦略・戦術上重要である築城に必要な土木技術を向上させ、大きな集団を組織・運営する能力もあり、大工を一時的に雇うだけでなく、土木技術を担う職人集団を自ら養成したので、その技術と技術者・作業員の集団が橋の建造にも次第に活かされるようになった。たとえば織田信長は、軍事・戦略的な意図もあり、それまで簡易的な橋でしかなかった瀬田の唐橋を本格的な橋に掛け変えた。また豊臣秀吉は大坂城の掘に「極楽橋」という橋を建造した。
鎌倉時代・戦国時代までの日本では木造の橋がほとんどであった。
(日本が本格的に武家の世になった)安土桃山時代から江戸時代に入るとようやく、都市部や街道において橋の整備が進められるようになった。
江戸時代の大都市には江戸幕府が管理した橋と町人が管理して一部においては渡橋賃を取った橋が存在し、それを江戸では「御入用橋」と「町橋」と呼び、大坂では「公儀橋」と「町人橋」と呼んだ。
江戸時代には九州や琉球では大陸文化の影響を受け、石造りの橋が多く作られるようになった。たとえば明出身の僧侶如定による長崎の眼鏡橋の造営があり、江戸時代末期に作られた肥後国の通潤橋は同地方の石工らによって様々な工夫がされたことで知られている。また、石積みの橋桁と木製のアーチを組み合わせた周防国岩国の錦帯橋など、中小河川における架橋技術の発達を示す例が各地でみられるようになった。
この他、八橋と言って、川底が浅い場所に杭を打ち、その杭の間に板を渡すという方法で作られたために、川の途中で曲がりくねった構造をした木造の橋が作られたこともあった。なお、2016年時点の日本においても「八橋」と言う地名が複数残っている。
18世紀末期から19世紀にかけて、産業革命によって生産量が増えた鉄を用いた橋が出現する。鉄の量産により橋梁技術が飛躍的に向上し、橋脚と橋脚の間隔を示す支間長(スパン)が大幅に伸びて長大橋が建設されるようになる。初めは銑鉄を用いた全長30 mの橋がイギリスで架けられ、製鉄技術の改良により鋼を用いた橋が誕生する。1873年には鉄筋コンクリートを用いた橋がフランスで初めて架けられ、その後全世界に普及する。日本で最初の鉄橋は、1868年(慶応4年)に長崎の眼鏡橋が架かる中島川の下流にオランダ人技師の協力を得て架けられたくろがね橋である。純日本国産の鉄橋第1号は、1876年(明治11年)に東京の楓川に架けられた弾正橋であり、鋼橋としては、1888年(明治21年)に完成した東海道本線の天竜川橋梁が日本初である。さらに鉄道網の進展、自動車の普及と交通量の変化に合わせて重い活荷重に耐えられる橋が要求されるようになって、1900年代に入ってから鉄筋コンクリート製の橋も造られるようになった。また、経済の急速な発展に伴い、経済的で短い工期の工法が重視された。
橋に求められる基本的な要件は、橋に掛かる荷重を支えること及び通行する車両等の荷重が掛かったり、振動が長期に繰り返されたりしても変形が大きくなり過ぎないことである。さらに、地震や台風の多い日本では、地震発生時及び台風通過時の安全性を確保することも重要になる。また現代の橋には、実用性だけではなく、デザイン性も求められる。大きく目立つ橋はその地域のシンボルになりうるため、構造物自体のデザイン性や周囲と調和するデザインを有していることが望ましい。
現代の橋には、構造の強さだけでなく、需要に即した規模、気象条件、景観を含めた周辺環境への配慮、経済性、ライフサイクルコストも考慮した設計が要求される。
現在の日本には、全国でおよそ72万6千の橋がある。
日本では高度経済成長期に大量に建設した橋が、大量に老朽化しつつある。長期的な視点での安全性の確保が必要で、また橋の建設というのは巨額の費用がかかり財政を圧迫し、新たに建造したり掛け替えるようなことをすると地方自治体や日本政府の財政破綻の要因のひとつともなりかねないので、新たに建造し直すのではなく、既存の橋を維持管理することの重要性が増している。
近年まで橋の定期点検が十分に行われていなかったため、老朽化を要因とする事故が相次いだ。2007年(平成19年)11月には吉野川水系の日開谷川の支流の1つである大影谷川にかかっていたトラス橋が、自動車通過中に落橋するという事故が起きた。この事故後の調査で、この橋も定期的な管理がなされていなかったことが判明した。
こうした事故を受け、2012年(平成24年)に道路法が改正され、道路管理者は管理する全ての橋梁について、5年に1度近接による目視で点検を行い、健全性を診断することにした。橋の定期点検をすることで、橋の安全性を確保し、点検結果を元に橋梁長寿命化修善計画を策定することで、橋の計画的な長寿命化及び更新を図っている。
上部構造は、床構造と主構造から成り立つ。床構造は床版(しょうばん)や床組(ゆかぐみ)によって形成され、通行する交通を支える役目を持つ。主構造は主桁など、床構造を支えて荷重を下部構造に伝達する役割がある。 吊橋や斜張橋では主塔やケーブルも上部構造に含まれる。さらに、車両や人などが橋から落下するのを防ぐ高欄(こうらん、欄干・らんかん)や自動車防護柵、照明柱などの付加物、下部構造とをつなぐ支承(ししょう)や道路と橋梁の境にあたる伸縮継手も上部構造に含まれる。
下部構造は上部構造を支え荷重を地盤に伝達する橋台(きょうだい)と橋脚(きょうきゃく)、それらを支える基礎(きそ)を指す。橋の両端に設置されるものを橋台、中間に設置されるものを橋脚と呼ぶ。基礎には直接基礎、杭基礎、ケーソン基礎などの形式がある。
橋には、用途や材料、橋床の位置、橋桁構造、可動するかどうかなどにより、様々に分類される。用途別、材料別、構造形式別によって分類が行われる。
それぞれ長所と短所があり、橋の用途や長さに建設コストの要素が考慮されて決定される。
橋の構造形式には以下のような種類がある。なお、主な部材に働く力については、構造力学、材料力学、力学などの項目を参照のこと。
主要構成部材の材料により、以下のような種類がある。
※なお日本では、鋼橋やコンクリート橋などが昭和30年代頃から「永久橋」などと呼ばれた。出典:国土交通省「II.道路の老朽化対策の本格実施に向けて」 (PDF) 。
その橋が何を渡す(通す)もの(あるいはどんな路(道)を通すか)で大分類する用途による分類も一般的である。一種類だけを渡す(通す)のではなく、何種類かを渡す(通す)ものも多い(たとえば自動車の道路と鉄道をともに渡す橋(併用橋)は珍しくない)。
なお、橋の下が地面であるものは陸橋と分類する。
道路交通(自動車)を渡す道路橋、人を渡す人道橋(歩道橋)、列車を渡す鉄道橋などがあり、さらに何を渡る橋であるかによって前記の表に示すような分類名が使われる。道路と鉄道の双方を渡す橋もあり、鉄道道路併用橋(併用橋)と呼ばれる。
なお二層通路橋(Double-decker bridge)は上下層で方向を別にしたり(ジョージ・ワシントン・ブリッジなど)、道路と鉄道の併用にしたりするもの(鉄道道路併用橋)。
平面交差(交差点)が生じるのを避ける、などの理由で道をあえて高くして橋にしたものを高架橋という。(「立体交差」も参照)
特に運河を通すための橋。水運(河川舟運)のための橋。ヨーロッパで多く見られる。日本語では「水路橋」や「運河橋」と呼ぶが、「水路橋」は主に水道を通すための橋を指し、「運河橋」は運河を越える橋も含めて指すので、どちらもはっきりせず、分類名としては使いづらい。
現在、世界最長とされるのはドイツのマクデブルクにあるマクデブルク水路橋(de:Wasserstraßenkreuz Magdeburg)で全長918 m、エルベ川を跨いでハーフェル運河とミッテルラント運河を接続する。なお、ミッテルラント運河はミンデンでもヴェーザー川を渡っている。
水路を渡す(通す)ための橋。古代ローマの水道橋など、水利目的の水路橋が古くから建設、利用されてきた。
現在は、金属製などのパイプ(管)を用いるものが増えており、上水道用のものは水管橋である。
パイプライン輸送用の橋もあり、たとえば石油パイプラインの橋がある。またガス導管橋のための橋もある。港や工場ではスクリュコンベアのための橋や粉体の空気輸送装置のための橋もあり、原材料・半製品の輸送が行われている。
大規模な鉱山では鉱石運搬用ベルトコンベアが道路や河川を越えるための橋が設置されることがある。
電気(電流)を通すための電線路専用橋もある(たとえば多摩川専用橋)。
橋は例外なく屋外に設置され、気温や気象による自然環境の影響や、橋の上を通過する活荷重によって繰り返し応力が掛かる。これにより、コンクリート橋ではひび割れ・凍害、化学的侵入、摩耗、塩害、鉄筋の腐食や二酸化炭素による中性化、疲労などの劣化が生じる。また、鋼橋では特に溶接部の疲労や腐食も生じる。ひび割れに対しては樹脂やバテの注入、鋼板接着や炭素繊維による補強などが行われる。鋼橋では腐食に対してはサンドブラストで古い塗膜を除去した上で再塗装をする、き裂がある場合にはその先端部にストップホールを設けて進展を防ぐなどの方法で保守が行われる。
橋の点検は表面的な変状を目視点検し、場合によってはハンマーの打音などで手で触れることなどが行われる。こうした目視点検により、橋の舗装・高欄・排水装置・伸縮装置などの表面で分かる不具合から深部の不具合が疑われることがある。ある不具合が発見されれば、それを引き起こす原因となりうる不具合を推測する。目視点検を行いやすくするため、点検用の通路を設置する(小規模な橋の場合は仮設できるように足場を設置するための金具を設置する)、橋梁点検車で点検するなどの工夫が取られることがある。
一般に、劣化が軽度な状態で補修した方が、より劣化の進んだ状態で補修するよりも必要な費用が小さくなる。
アメリカ合衆国では、1920年代以降に造られた橋梁をはじめとした近代的なインフラが1980年代に耐用年数を超え始め、使用に制限を加えざるを得ないなど社会問題化した。このため、積極的にインフラの老朽化対策が進められるようになった。
1995年の兵庫県南部地震以降、耐震設計が見直され、橋の免震や制震に関する技術が開発されて耐震補強工事に活用されるようになった。地震後に橋が落下しないように、上部工と下部工でかかり長を確保することや、支承部の移動を制限する装置や地震のエネルギーを吸収する装置の設置、桁を相互に連結させる工事などが行われてきた。
日本では2020年代以降、高度成長期に建設された橋梁をはじめとしたインフラストラクチャーの供用年数が50年を超え、後述のアメリカ合衆国同様に耐用年数が問題となる時期に差し掛かるため、政府は2013年よりインフラの長寿命化計画を立案し、順次必要なメンテナンスを進めている。限られた予算の中で長寿命化やメンテナンスを進めるため、橋が供用年数、劣化の程度、橋の重要度からメンテナンスの優先順位が定められる。
地方の小規模な橋では、建設年の記録が残っていない例もある。人口減少が著しい地域(過疎地域)では、架け替えや補修に必要な財政負担に見合う通行者数や自動車交通量が今後見込めないため、管理する自治体が撤去を決断する橋も多い。国土交通省の2018年時点集計では、撤去・廃止が決まった橋は全国で137カ所ある。
一方で、いつ、誰が設置したかを河川管理者(国や都道府県など)が把握していない「管理者不明橋」(「勝手橋」)が、日本全国の河川で多数発見されている。これらの橋は占用許可など法的手続きを経ないまま、河川管理者が定める基準を無視して設計・建造された可能性がある。迂回を嫌う地元住民の利用が多いとされるが、いずれも補修や点検が施されないまま放置されており、管理責任を曖昧なままにしておくことで、老朽化による崩落や、それに伴う事故や災害の拡大に繋がることが懸念されている。
イタリアでは、2018年にモランディ橋が崩壊した際、設計の不備が疑われたほかメンテナンスが追い付いていないことも問題となった。また、イタリア国内において2013年からの過去5年間に10カ所の高架橋が崩壊していたことも報道されている。
高さのある車両(高さのある貨物を積載した車両やクレーンを下ろし忘れた車両を含む)が橋桁にぶつからないようにするため橋の手前に橋桁防護工という頑丈なゲートが設置されることがある。橋桁防護工に表示された制限高を超える車両の通行をゲートで阻止するための設備である。
なお、同じ目的で車両が踏切で空中の架線に引っかからないように制限高を表示して注意を促す道路の左右に渡した標識を踏切注意標という。
世界遺産に認定されたり、各国の文化財指定(日本の重要文化財指定など)を受けている橋は重要なのでこれを挙げる。
なお、日本語(大和言葉)の「はし」という言葉は、道のはしに架けるものから由来しているとされる。
工学的に橋の長さを議論する場合、橋全体の長さを表す「橋長」ではなく2つの「支承」間の距離である支間(しかん、span、スパン)を用い、特に最も長くなる事が多い中央支間の長さが問題とされる。高架橋のように支間長の短い橋を連続させれば橋長の長い橋は容易に造れるが、長い支間の橋を建設するには高度な技術が必要となるからである。
橋の定義には、構築物(人が構築したもの)という言葉入っている。ただし人間が造る橋に形状が似た自然物を比喩で「橋」に喩えて天然橋 と呼ぶこともある。だが同様の形状の自然物は「門」や「アーチ」と呼ぶこともある。たとえばプレヒシュ(スイス)、ロックブリッジ(アメリカ合衆国)など。日本では雄橋(日本・広島県、天然記念物に指定)も含めて「世界三大天然橋として有名だ」などと勝手に思っている人がいる。
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"tag": "p",
"text": "橋というのは、何らかの障害を越えて、路や道を通す構築物である。橋が通す「路」のたぐいには、道路や鉄道のほか水路もある。橋が越える障害には、河川、湖沼、海峡、湾、運河、低地などのほか、他の交通路(他の鉄道や他の道路類)や他の構造物など、さまざまなものがある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "紀元前4000年(紀元前40世紀)頃のメソポタミア文明では石造のアーチ橋が架けられている。紀元前2200年頃、バビロンではユーフラテス川に長さ 200 m のレンガ橋が架けられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "なおアーチ橋の架橋技術は、古代メソポタミア地方で発祥した技術が、世界に伝播して西洋と東洋それぞれ独自に発展したとする研究が発表されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "古代ローマ帝国は技術力や軍事力に優れ、地中海世界やガリアの地で支配地を広げ巨大な帝国となるにともなって、物資運搬(ロジスティクス、兵站)、軍が戦地へ移動する速度、水の供給、などの戦略的な重要さの理解も深まり、道路網と水道網(水路網)も積極的・戦略的に整備した結果、多数の橋が架けられ、架橋技術も大きく進歩した。現存する古代ローマの水道橋は驚くべき精度を持っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "なおローマ教皇は英語で「ポープ」と呼ばれるが、この「Pope」の正式名称である「最高司教:Pontifex maximus」の前半部は「橋:Ponti」と「つくる:fex」から成り立っている。この名前が示すように、初期キリスト教の時代(古代ローマ時代)には橋を架けることは聖職者の仕事(聖職者が主導して行う仕事)でもあった。中国や日本でも橋は仏教僧侶が(主導して)架けることが多かったのである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "日本での記録に残っている最古の橋は、『日本書紀』によると景行天皇の時代に現在の大牟田市にあった「御木のさ小橋」(みきのさおはし)である。巨大な倒木による丸木橋とされている(ただし大きさに誇張がある。詳細は巨樹#伝説上の巨樹を参照)。人工の橋では同じく『日本書紀』によると324年(仁徳天皇14年)に猪甘津橋(いかいつのはし)が架けられたのが最古とされている(現在の大阪市にあたる場所にあったと推定されている)。また、624年(推古天皇32年)に道昭が京都の宇治川に宇治橋を、726年(神亀3年)には行基が山崎橋を架けるなど、古くは僧侶が橋を架けたことが知られている。これは僧侶が遣隋使や遣唐使として中国に渡り技術を学び独自の高度な知識を持っていたことや、その知識を使って庶民の救済の一環として土木事業を指導したことによる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "中世でも、中規模程度の石造りのアーチ橋は造られ続けていた。戦乱の続いた時代では橋は戦略上重要な拠点となるため、守備用の塔が付属して建てられたり、戦時に敵の進軍を妨害するため簡単に壊せるようになっていたりする橋も多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ルネサンス期になると扁平アーチが開発され、軽快な石橋が建設されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "鎌倉時代、それ以前と同様に僧侶の勧進活動の1つとして、重源による瀬田橋や忍性による宇治橋の再建などが行われた。これは人々の労苦を救うとともに架橋を善行の1つとして挙げた福田思想の影響によるところが大きいとされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "戦国時代の武将たちは、戦略・戦術上重要である築城に必要な土木技術を向上させ、大きな集団を組織・運営する能力もあり、大工を一時的に雇うだけでなく、土木技術を担う職人集団を自ら養成したので、その技術と技術者・作業員の集団が橋の建造にも次第に活かされるようになった。たとえば織田信長は、軍事・戦略的な意図もあり、それまで簡易的な橋でしかなかった瀬田の唐橋を本格的な橋に掛け変えた。また豊臣秀吉は大坂城の掘に「極楽橋」という橋を建造した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "鎌倉時代・戦国時代までの日本では木造の橋がほとんどであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "(日本が本格的に武家の世になった)安土桃山時代から江戸時代に入るとようやく、都市部や街道において橋の整備が進められるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の大都市には江戸幕府が管理した橋と町人が管理して一部においては渡橋賃を取った橋が存在し、それを江戸では「御入用橋」と「町橋」と呼び、大坂では「公儀橋」と「町人橋」と呼んだ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には九州や琉球では大陸文化の影響を受け、石造りの橋が多く作られるようになった。たとえば明出身の僧侶如定による長崎の眼鏡橋の造営があり、江戸時代末期に作られた肥後国の通潤橋は同地方の石工らによって様々な工夫がされたことで知られている。また、石積みの橋桁と木製のアーチを組み合わせた周防国岩国の錦帯橋など、中小河川における架橋技術の発達を示す例が各地でみられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "この他、八橋と言って、川底が浅い場所に杭を打ち、その杭の間に板を渡すという方法で作られたために、川の途中で曲がりくねった構造をした木造の橋が作られたこともあった。なお、2016年時点の日本においても「八橋」と言う地名が複数残っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "18世紀末期から19世紀にかけて、産業革命によって生産量が増えた鉄を用いた橋が出現する。鉄の量産により橋梁技術が飛躍的に向上し、橋脚と橋脚の間隔を示す支間長(スパン)が大幅に伸びて長大橋が建設されるようになる。初めは銑鉄を用いた全長30 mの橋がイギリスで架けられ、製鉄技術の改良により鋼を用いた橋が誕生する。1873年には鉄筋コンクリートを用いた橋がフランスで初めて架けられ、その後全世界に普及する。日本で最初の鉄橋は、1868年(慶応4年)に長崎の眼鏡橋が架かる中島川の下流にオランダ人技師の協力を得て架けられたくろがね橋である。純日本国産の鉄橋第1号は、1876年(明治11年)に東京の楓川に架けられた弾正橋であり、鋼橋としては、1888年(明治21年)に完成した東海道本線の天竜川橋梁が日本初である。さらに鉄道網の進展、自動車の普及と交通量の変化に合わせて重い活荷重に耐えられる橋が要求されるようになって、1900年代に入ってから鉄筋コンクリート製の橋も造られるようになった。また、経済の急速な発展に伴い、経済的で短い工期の工法が重視された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "橋に求められる基本的な要件は、橋に掛かる荷重を支えること及び通行する車両等の荷重が掛かったり、振動が長期に繰り返されたりしても変形が大きくなり過ぎないことである。さらに、地震や台風の多い日本では、地震発生時及び台風通過時の安全性を確保することも重要になる。また現代の橋には、実用性だけではなく、デザイン性も求められる。大きく目立つ橋はその地域のシンボルになりうるため、構造物自体のデザイン性や周囲と調和するデザインを有していることが望ましい。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "現代の橋には、構造の強さだけでなく、需要に即した規模、気象条件、景観を含めた周辺環境への配慮、経済性、ライフサイクルコストも考慮した設計が要求される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "現在の日本には、全国でおよそ72万6千の橋がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本では高度経済成長期に大量に建設した橋が、大量に老朽化しつつある。長期的な視点での安全性の確保が必要で、また橋の建設というのは巨額の費用がかかり財政を圧迫し、新たに建造したり掛け替えるようなことをすると地方自治体や日本政府の財政破綻の要因のひとつともなりかねないので、新たに建造し直すのではなく、既存の橋を維持管理することの重要性が増している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "近年まで橋の定期点検が十分に行われていなかったため、老朽化を要因とする事故が相次いだ。2007年(平成19年)11月には吉野川水系の日開谷川の支流の1つである大影谷川にかかっていたトラス橋が、自動車通過中に落橋するという事故が起きた。この事故後の調査で、この橋も定期的な管理がなされていなかったことが判明した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "こうした事故を受け、2012年(平成24年)に道路法が改正され、道路管理者は管理する全ての橋梁について、5年に1度近接による目視で点検を行い、健全性を診断することにした。橋の定期点検をすることで、橋の安全性を確保し、点検結果を元に橋梁長寿命化修善計画を策定することで、橋の計画的な長寿命化及び更新を図っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "上部構造は、床構造と主構造から成り立つ。床構造は床版(しょうばん)や床組(ゆかぐみ)によって形成され、通行する交通を支える役目を持つ。主構造は主桁など、床構造を支えて荷重を下部構造に伝達する役割がある。 吊橋や斜張橋では主塔やケーブルも上部構造に含まれる。さらに、車両や人などが橋から落下するのを防ぐ高欄(こうらん、欄干・らんかん)や自動車防護柵、照明柱などの付加物、下部構造とをつなぐ支承(ししょう)や道路と橋梁の境にあたる伸縮継手も上部構造に含まれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "下部構造は上部構造を支え荷重を地盤に伝達する橋台(きょうだい)と橋脚(きょうきゃく)、それらを支える基礎(きそ)を指す。橋の両端に設置されるものを橋台、中間に設置されるものを橋脚と呼ぶ。基礎には直接基礎、杭基礎、ケーソン基礎などの形式がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "橋には、用途や材料、橋床の位置、橋桁構造、可動するかどうかなどにより、様々に分類される。用途別、材料別、構造形式別によって分類が行われる。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "それぞれ長所と短所があり、橋の用途や長さに建設コストの要素が考慮されて決定される。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "橋の構造形式には以下のような種類がある。なお、主な部材に働く力については、構造力学、材料力学、力学などの項目を参照のこと。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "主要構成部材の材料により、以下のような種類がある。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "※なお日本では、鋼橋やコンクリート橋などが昭和30年代頃から「永久橋」などと呼ばれた。出典:国土交通省「II.道路の老朽化対策の本格実施に向けて」 (PDF) 。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その橋が何を渡す(通す)もの(あるいはどんな路(道)を通すか)で大分類する用途による分類も一般的である。一種類だけを渡す(通す)のではなく、何種類かを渡す(通す)ものも多い(たとえば自動車の道路と鉄道をともに渡す橋(併用橋)は珍しくない)。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、橋の下が地面であるものは陸橋と分類する。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "道路交通(自動車)を渡す道路橋、人を渡す人道橋(歩道橋)、列車を渡す鉄道橋などがあり、さらに何を渡る橋であるかによって前記の表に示すような分類名が使われる。道路と鉄道の双方を渡す橋もあり、鉄道道路併用橋(併用橋)と呼ばれる。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "なお二層通路橋(Double-decker bridge)は上下層で方向を別にしたり(ジョージ・ワシントン・ブリッジなど)、道路と鉄道の併用にしたりするもの(鉄道道路併用橋)。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "平面交差(交差点)が生じるのを避ける、などの理由で道をあえて高くして橋にしたものを高架橋という。(「立体交差」も参照)",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "特に運河を通すための橋。水運(河川舟運)のための橋。ヨーロッパで多く見られる。日本語では「水路橋」や「運河橋」と呼ぶが、「水路橋」は主に水道を通すための橋を指し、「運河橋」は運河を越える橋も含めて指すので、どちらもはっきりせず、分類名としては使いづらい。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "現在、世界最長とされるのはドイツのマクデブルクにあるマクデブルク水路橋(de:Wasserstraßenkreuz Magdeburg)で全長918 m、エルベ川を跨いでハーフェル運河とミッテルラント運河を接続する。なお、ミッテルラント運河はミンデンでもヴェーザー川を渡っている。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "水路を渡す(通す)ための橋。古代ローマの水道橋など、水利目的の水路橋が古くから建設、利用されてきた。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "現在は、金属製などのパイプ(管)を用いるものが増えており、上水道用のものは水管橋である。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "パイプライン輸送用の橋もあり、たとえば石油パイプラインの橋がある。またガス導管橋のための橋もある。港や工場ではスクリュコンベアのための橋や粉体の空気輸送装置のための橋もあり、原材料・半製品の輸送が行われている。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "大規模な鉱山では鉱石運搬用ベルトコンベアが道路や河川を越えるための橋が設置されることがある。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "電気(電流)を通すための電線路専用橋もある(たとえば多摩川専用橋)。",
"title": "橋の種類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "橋は例外なく屋外に設置され、気温や気象による自然環境の影響や、橋の上を通過する活荷重によって繰り返し応力が掛かる。これにより、コンクリート橋ではひび割れ・凍害、化学的侵入、摩耗、塩害、鉄筋の腐食や二酸化炭素による中性化、疲労などの劣化が生じる。また、鋼橋では特に溶接部の疲労や腐食も生じる。ひび割れに対しては樹脂やバテの注入、鋼板接着や炭素繊維による補強などが行われる。鋼橋では腐食に対してはサンドブラストで古い塗膜を除去した上で再塗装をする、き裂がある場合にはその先端部にストップホールを設けて進展を防ぐなどの方法で保守が行われる。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "橋の点検は表面的な変状を目視点検し、場合によってはハンマーの打音などで手で触れることなどが行われる。こうした目視点検により、橋の舗装・高欄・排水装置・伸縮装置などの表面で分かる不具合から深部の不具合が疑われることがある。ある不具合が発見されれば、それを引き起こす原因となりうる不具合を推測する。目視点検を行いやすくするため、点検用の通路を設置する(小規模な橋の場合は仮設できるように足場を設置するための金具を設置する)、橋梁点検車で点検するなどの工夫が取られることがある。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一般に、劣化が軽度な状態で補修した方が、より劣化の進んだ状態で補修するよりも必要な費用が小さくなる。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では、1920年代以降に造られた橋梁をはじめとした近代的なインフラが1980年代に耐用年数を超え始め、使用に制限を加えざるを得ないなど社会問題化した。このため、積極的にインフラの老朽化対策が進められるようになった。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1995年の兵庫県南部地震以降、耐震設計が見直され、橋の免震や制震に関する技術が開発されて耐震補強工事に活用されるようになった。地震後に橋が落下しないように、上部工と下部工でかかり長を確保することや、支承部の移動を制限する装置や地震のエネルギーを吸収する装置の設置、桁を相互に連結させる工事などが行われてきた。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "日本では2020年代以降、高度成長期に建設された橋梁をはじめとしたインフラストラクチャーの供用年数が50年を超え、後述のアメリカ合衆国同様に耐用年数が問題となる時期に差し掛かるため、政府は2013年よりインフラの長寿命化計画を立案し、順次必要なメンテナンスを進めている。限られた予算の中で長寿命化やメンテナンスを進めるため、橋が供用年数、劣化の程度、橋の重要度からメンテナンスの優先順位が定められる。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "地方の小規模な橋では、建設年の記録が残っていない例もある。人口減少が著しい地域(過疎地域)では、架け替えや補修に必要な財政負担に見合う通行者数や自動車交通量が今後見込めないため、管理する自治体が撤去を決断する橋も多い。国土交通省の2018年時点集計では、撤去・廃止が決まった橋は全国で137カ所ある。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "一方で、いつ、誰が設置したかを河川管理者(国や都道府県など)が把握していない「管理者不明橋」(「勝手橋」)が、日本全国の河川で多数発見されている。これらの橋は占用許可など法的手続きを経ないまま、河川管理者が定める基準を無視して設計・建造された可能性がある。迂回を嫌う地元住民の利用が多いとされるが、いずれも補修や点検が施されないまま放置されており、管理責任を曖昧なままにしておくことで、老朽化による崩落や、それに伴う事故や災害の拡大に繋がることが懸念されている。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "イタリアでは、2018年にモランディ橋が崩壊した際、設計の不備が疑われたほかメンテナンスが追い付いていないことも問題となった。また、イタリア国内において2013年からの過去5年間に10カ所の高架橋が崩壊していたことも報道されている。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "高さのある車両(高さのある貨物を積載した車両やクレーンを下ろし忘れた車両を含む)が橋桁にぶつからないようにするため橋の手前に橋桁防護工という頑丈なゲートが設置されることがある。橋桁防護工に表示された制限高を超える車両の通行をゲートで阻止するための設備である。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "なお、同じ目的で車両が踏切で空中の架線に引っかからないように制限高を表示して注意を促す道路の左右に渡した標識を踏切注意標という。",
"title": "保守・点検・防護"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "世界遺産に認定されたり、各国の文化財指定(日本の重要文化財指定など)を受けている橋は重要なのでこれを挙げる。",
"title": "世界遺産や重要文化財になっている橋"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、日本語(大和言葉)の「はし」という言葉は、道のはしに架けるものから由来しているとされる。",
"title": "雑学"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "工学的に橋の長さを議論する場合、橋全体の長さを表す「橋長」ではなく2つの「支承」間の距離である支間(しかん、span、スパン)を用い、特に最も長くなる事が多い中央支間の長さが問題とされる。高架橋のように支間長の短い橋を連続させれば橋長の長い橋は容易に造れるが、長い支間の橋を建設するには高度な技術が必要となるからである。",
"title": "雑学"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "橋の定義には、構築物(人が構築したもの)という言葉入っている。ただし人間が造る橋に形状が似た自然物を比喩で「橋」に喩えて天然橋 と呼ぶこともある。だが同様の形状の自然物は「門」や「アーチ」と呼ぶこともある。たとえばプレヒシュ(スイス)、ロックブリッジ(アメリカ合衆国)など。日本では雄橋(日本・広島県、天然記念物に指定)も含めて「世界三大天然橋として有名だ」などと勝手に思っている人がいる。",
"title": "雑学"
}
] |
橋は、地面が下がった場所や何らかの障害(川など)を越えて、「みち」(路、道) のたぐい(通路・道路・鉄道など)を通す構築物である。工学上は橋梁 (きょうりょう) という。
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{{For|その他の用法|橋 (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2018年3月}}
[[File:Bosporus Bridge from Ortaköy 02.JPG|thumb|[[トルコ]]、[[イスタンブール]]の[[ボスポラス橋]]]]
'''橋'''(はし、{{Lang-en-short|bridge}})は、[[地面]]が下がった場所や何らかの障害([[川]]など)を越えて、「[[みち]]」(路、道) のたぐい([[通路]]・[[道路]]・[[鉄道]]など)を通す[[構築物]]である<ref>Merriam Webster, definition of bridge.</ref>。工学上は'''橋梁''' (きょうりょう) という<ref name="Britannica">[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典【橋】</ref>。
== 概説 ==
橋というのは、何らかの障害を越えて、[[路]]や道を通す構築物である。橋が通す「路」のたぐいには、[[道路]]や[[鉄道]]のほか[[水路]]もある<ref name="Britannica" />。橋が越える障害には、[[河川]]、[[湖沼]]、[[海峡]]、[[湾]]、[[運河]]、[[低地]]などのほか、他の交通路(他の鉄道や他の道路類)や他の構造物など、さまざまなものがある<ref name="Britannica" />。
== 歴史 ==
=== 古代の橋 ===
[[紀元前4000年]](紀元前40世紀)頃の[[メソポタミア|メソポタミア文明]]では[[石橋|石造]]の[[アーチ橋]]が架けられている。[[紀元前2200年]]頃、[[バビロン]]では[[ユーフラテス川]]に長さ 200 [[メートル|m]] の[[レンガ]]橋が架けられた。
[[File:Pont du Gard FRA 001.jpg|thumb|300px|[[ポン・デュ・ガール]]。古代[[ローマ帝国]]の[[水路橋]]。西暦[[50年]]ころに建造。[[ガルドン川]]にかけられており、当時の[[ガリア]]の地、現在の[[フランス]]の[[ガール県]][[ニーム (フランス)|ニーム]]あたりに位置する。]]
なおアーチ橋の架橋技術は、古代メソポタミア地方で発祥した技術が、世界に伝播して[[西洋]]と[[東洋]]それぞれ独自に発展したとする研究が発表されている{{sfn|武部健一|2015|p=9|ps=、武部「アーチは東漸したか」『第九回日本土木史研究発表会論文集』より孫引き。}}。
[[古代ローマ帝国]]は技術力や軍事力に優れ、[[地中海世界]]や[[ガリア]]の地で支配地を広げ巨大な帝国となるにともなって、物資運搬([[ロジスティクス]]、[[兵站]])、軍が戦地へ移動する速度、水の供給、などの[[戦略]]的な重要さの理解も深まり、道路網と[[水道]]網([[水路]]網)も積極的・戦略的に整備した結果、多数の橋が架けられ、架橋技術も大きく進歩した。現存する古代ローマの水道橋は驚くべき精度を持っている。
なお[[ローマ教皇]]は英語で「ポープ」と呼ばれるが、この「Pope」の正式名称である「最高司教:Pontifex maximus」の前半部は「橋:Ponti」と「つくる:fex」から成り立っている。この名前が示すように、[[初期キリスト教]]の時代([[古代ローマ]]時代)には橋を架けることは[[聖職者]]の仕事(聖職者が主導して行う仕事)でもあった。中国や日本でも橋は仏教[[僧侶]]が(主導して)架けることが多かったのである<ref name = "橋 HASHI">大野春雄監修『橋 HASHI なぜなぜ読本』山海堂 2000年5月20日 第1版第3刷発行</ref>。
{{Gallery
|width = 220px
|Pont mycénien de Kazarma 2.jpg|[[アルカディコ橋]]。現存する最古の橋とされ、[[ミケーネ文明]]のもの。
|Eleutherna Bridge, Crete, Greece. Pic 01.jpg|{{仮リンク|エレウテルナ橋|en|Eleutherna Bridge}}。スパンが3.95メートルの[[持送りアーチ]]橋。[[紀元前4世紀]]か[[紀元前3世紀]]のものと推定されており、[[古代ギリシア]]、[[クレタ島]]の[[都市国家]]{{仮リンク|エレウテルナ|en|Eleutherna}}によるもの。
|Ancient Roman bridge near Dolen Bulgaria.jpg|ローマ帝国時代の橋(現在の[[ブルガリア]]南部のドレン [[:en:Dolen, Blagoevgrad Province|Dolen]]あたりにあるもの
|ファイル:Su kemeri (yakın).JPG|[[ヴァレンス水道橋]]。ローマ帝国の水道橋。現在のトルコ、[[イスタンブール]]に位置する。
}}
日本での記録に残っている最古の橋は、『[[日本書紀]]』によると[[景行天皇]]の時代に現在の[[大牟田市]]にあった「御木のさ小橋」(みきのさおはし)である。巨大な倒木による丸木橋とされている(ただし大きさに誇張がある。詳細は[[巨樹#伝説上の巨樹]]を参照)。人工の橋では同じく『日本書紀』によると[[324年]]([[仁徳天皇]]14年)に[[猪甘津橋]](いかいつのはし)が架けられたのが最古とされている{{sfn|武部健一|2015|p=25}}{{sfn|浅井建爾|2001|p=212}}(現在の[[大阪市]]にあたる場所にあったと推定されている)。また、[[624年]]([[推古天皇]]32年)に[[道昭]]が京都の宇治川に[[宇治橋 (宇治市)|宇治橋]]を、[[726年]]([[神亀]]3年)には[[行基]]が[[山崎橋 (山城国)|山崎橋]]を架けるなど、古くは僧侶が橋を架けたことが知られている{{sfn|浅井建爾|2001|p=212}}。これは僧侶が[[遣隋使]]や[[遣唐使]]として中国に渡り[[技術]]を学び独自の高度な知識を持っていたことや、その知識を使って庶民の救済の一環として土木事業を指導したことによる。
=== 中世ヨーロッパの橋 ===
中世でも、中規模程度の石造りのアーチ橋は造られ続けていた。戦乱の続いた時代では橋は戦略上重要な拠点となるため、守備用の塔が付属して建てられたり、戦時に敵の進軍を妨害するため簡単に壊せるようになっていたりする橋も多い。
[[ルネサンス]]期になると扁平アーチが開発され、軽快な石橋が建設されるようになった。
=== 中世・近世日本の橋 ===
[[鎌倉時代]]、それ以前と同様に僧侶の勧進活動の1つとして、[[重源]]による[[瀬田橋]]や[[忍性]]による宇治橋の再建などが行われた。これは人々の労苦を救うとともに架橋を善行の1つとして挙げた[[福田 (仏教)|福田思想]]の影響によるところが大きいとされている。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]たちは、戦略・戦術上重要である[[築城]]に必要な土木技術を向上させ、大きな集団を組織・運営する能力もあり、大工を一時的に雇うだけでなく、土木技術を担う職人集団を自ら養成したので、その技術と技術者・作業員の集団が橋の建造にも次第に活かされるようになった。たとえば[[織田信長]]は、軍事・戦略的な意図もあり、それまで簡易的な橋でしかなかった[[瀬田の唐橋]]を本格的な橋に掛け変えた。また豊臣秀吉は[[大坂城]]の掘に「極楽橋」という橋を建造した。
鎌倉時代・戦国時代までの日本では木造の橋がほとんどであった。
(日本が本格的に武家の世になった)[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]に入るとようやく、都市部や街道において橋の整備が進められるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/edo.html|title=江戸時代 - 新宿区市年表|accessdate=2021-10-05}}</ref>。
[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|thumb|300px|[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]の[[浮世絵]]。([[歌川広重]]『[[東海道五十三次]]』の「日本橋」)]]
[[江戸時代]]の大都市には[[江戸幕府]]が管理した橋と町人が管理して一部においては渡橋賃を取った橋が存在し、それを[[江戸]]では「御入用橋」と「町橋」と呼び、[[大坂]]では「[[公儀橋]]」と「町人橋」と呼んだ。
江戸時代には九州や琉球では大陸文化の影響を受け、石造りの橋が多く作られるようになった。たとえば明出身の僧侶[[如定]]による[[長崎市|長崎]]の[[眼鏡橋 (長崎市)|眼鏡橋]]の造営があり、江戸時代末期に作られた[[肥後国]]の[[通潤橋]]は同地方の石工らによって様々な工夫がされたことで知られている{{sfn|浅井建爾|2001|p=212}}。また、石積みの橋桁と木製のアーチを組み合わせた[[周防国]][[岩国市|岩国]]の[[錦帯橋]]など、中小河川における架橋技術の発達を示す例が各地でみられるようになった。
この他、[[八橋]]と言って、川底が浅い場所に杭を打ち、その杭の間に板を渡すという方法で作られたために、川の途中で曲がりくねった構造をした木造の橋が作られたこともあった。なお、2016年時点の日本においても「八橋」と言う地名が複数残っている。
=== 産業革命後の橋 ===
[[ファイル:The world's first iron bridge.jpg|thumb|300px|[[アイアンブリッジ (橋)|アイアンブリッジ]]]]
[[18世紀]]末期から[[19世紀]]にかけて、[[産業革命]]によって生産量が増えた[[鉄]]を用いた橋が出現する{{sfn|浅井建爾|2001|p=221}}。鉄の量産により橋梁技術が飛躍的に向上し、橋脚と橋脚の間隔を示す支間長(スパン)が大幅に伸びて長大橋が建設されるようになる{{sfn|浅井建爾|2001|p=221}}。初めは[[銑鉄]]を用いた全長30 mの橋が[[イギリス]]で架けられ、製鉄技術の改良により[[鋼]]を用いた橋が誕生する{{sfn|石井一郎|1987|p=86}}。[[1873年]]には[[鉄筋コンクリート]]を用いた橋が[[フランス]]で初めて架けられ、その後全世界に普及する{{sfn|石井一郎|1987|p=86}}。日本で最初の鉄橋は、[[1868年]]([[慶応]]4年)に長崎の[[眼鏡橋 (長崎市)|眼鏡橋]]が架かる[[中島川]]の下流に[[オランダ人]]技師の協力を得て架けられた[[くろがね橋]]である{{sfn|浅井建爾|2001|p=221}}。純日本国産の鉄橋第1号は、[[1876年]]([[明治]]11年)に東京の[[楓川]]に架けられた[[楓川#楓川に架かる橋|弾正橋]]であり{{sfn|浅井建爾|2001|p=221}}、鋼橋としては、[[1888年]](明治21年)に完成した[[東海道本線]]の天竜川橋梁が日本初である{{sfn|浅井建爾|2001|p=221}}。さらに鉄道網の進展、[[自動車]]の普及と交通量の変化に合わせて重い[[活荷重]]に耐えられる橋が要求されるようになって、[[1900年代]]に入ってから[[鉄筋コンクリート]]製の橋も造られるようになった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=212,221}}。また、経済の急速な発展に伴い、経済的で短い工期の工法が重視された。
=== 現代の橋 ===
橋に求められる基本的な要件は、橋に掛かる荷重を支えること及び通行する車両等の荷重が掛かったり、振動が長期に繰り返されたりしても変形が大きくなり過ぎないことである。さらに、[[地震]]や[[台風]]の多い日本では、地震発生時及び台風通過時の安全性を確保することも重要になる。また現代の橋には、実用性だけではなく、デザイン性も求められる。大きく目立つ橋はその地域のシンボルになりうるため、構造物自体のデザイン性や周囲と調和するデザインを有していることが望ましい。
現代の橋には、構造の強さだけでなく、需要に即した規模、気象条件、[[景観]]を含めた周辺[[環境]]への配慮、経済性、[[ライフサイクルコスト]]も考慮した設計が要求される。
{{Gallery
|width = 200px
|File:Storseisundet bridge.jpg|ノルウェーの[[大西洋道路]]の[[:en:Storseisundet bridge]](1989年開通)
|File:Melbourne (AU), Evan Walker Bridge -- 2019 -- 1432.jpg|オーストラリア、[[メルボルン]]のEvan Walker Bridge(1992年完成)<ref>
[https://structurae.net/en/structures/evan-walker-bridge International Database and Gallery of Structures, Evan Walker Bridge]</ref>
|File:Klosters-Sunnibergbruecke-view from the raetische Bahn-01.jpg|スイスの[[:en:Sunniberg Bridge]](1998年完成)
|ファイル:Twinkle Kisogawa bridge02.jpg|[[トゥインクル (橋)|"トゥインクル"(湾岸木曽川橋および湾岸揖斐川橋)]](2001年完成。2001年度土木学会田中賞作品部門賞 受賞。)
|File:Jambatan Seri Wawasan 4493633704 3cbff54de1.jpg|マレーシアの[[:en:Seri Wawasan Bridge]](2003年開通)
|File:Ponte estaiada Octavio Frias - Sao Paulo.jpg|[[ブラジル]]、[[サンパウロ州]]の[[:en:Octávio Frias de Oliveira Bridge]](2008年完成)
|ファイル:Double-Helix-Bridge.jpg|シンガポールの[[ヘリックスブリッジ]](2010年開通)
|File:Tolerance Bridge.jpg|[[ドバイ]]のドバイ運河にかかるTolerance Bridge(2017年11月完成)
}}
;現在の日本の橋
現在の日本には、全国でおよそ'''72万6千'''の橋がある<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/yobohozen/yobohozen_maint_index.html#maint_27 国土交通省、道路メンテナンス年報]</ref>。
日本では[[高度経済成長期]]に大量に建設した橋が、大量に老朽化しつつある。長期的な視点での安全性の確保が必要で、また橋の建設というのは巨額の費用がかかり財政を圧迫し、新たに建造したり掛け替えるようなことをすると地方自治体や日本政府の[[財政破綻]]の要因のひとつともなりかねないので、新たに建造し直すのではなく、既存の橋を[[維持]]管理することの重要性が増している。
近年まで橋の定期点検が十分に行われていなかったため、老朽化を要因とする事故が相次いだ。[[2007年]]([[平成]]19年)11月には[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]水系の[[日開谷川]]の支流の1つである[[大影谷川]]にかかっていたトラス橋が、自動車通過中に[[落橋]]するという事故が起きた<ref>[http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/news/20071219/514427/ トラス橋が車の通過中に崩落、香川と徳島の県境で]</ref>。この事故後の調査で、この橋も定期的な管理がなされていなかったことが判明した<ref>[http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASFK1701N_X10C14A6000000&uah=DF250520127861 誰も管理しない橋、コンクリ落下で「発見」相次ぐ]</ref>。
こうした事故を受け、[[2012年]](平成24年)に[[道路法]]が改正され、道路管理者は管理する全ての橋梁について、5年に1度近接による目視で点検を行い、健全性を診断することにした。橋の定期点検をすることで、橋の安全性を確保し、点検結果を元に橋梁長寿命化修善計画を策定することで、橋の計画的な長寿命化及び更新を図っている。
{{Main2|日本の道路橋に対する技術基準の変遷|道路橋示方書}}
==== 現代の橋の一般的な構造 ====
[[ファイル:Bridge structure 2 NT.PNG|thumb|250px|断面(道路橋)<br>1.全幅(ぜんぷく) 2.有効幅員(ゆうこうふくいん) 3.高欄(こうらん) 4.地覆(じふく) 5.[[歩道]]、歩道幅員 6.[[縁石]](えんせき) 7.[[路肩]](ろかた)、路肩幅員 8.[[車道]] 9.舗装 10. 床版(しょうばん)11.主桁]]
[[ファイル:Bridge structure NT.PNG|thumb|250px|側面 <br>1.橋長(きょうちょう) 2.支間(しかん) 3.橋桁(はしげた) 4.支承(ししょう) 5.橋台(きょうだい) 6.杭基礎 7.橋脚(きょうきゃく) 8.[[ケーソン]]基礎 9.直接基礎 10.上部構造(じょうぶこうぞう) 11.下部構造(かぶこうぞう)]]
;上部構造
上部構造は、床構造と主構造から成り立つ{{sfn|藤原稔|2010|p=3}}。床構造は[[床版]](しょうばん)や[[床組]](ゆかぐみ)によって形成され、通行する[[交通]]を支える役目を持つ{{sfn|藤原稔|2010|p=3}}。主構造は[[主桁]]など、床構造を支えて荷重を下部構造に伝達する役割がある{{sfn|藤原稔|2010|p=3}}。
[[吊橋]]や[[斜張橋]]では主塔やケーブルも上部構造に含まれる。さらに、車両や人などが橋から落下するのを防ぐ高欄(こうらん、欄干・らんかん)や自動車防護柵、照明柱などの付加物、下部構造とをつなぐ[[支承]](ししょう)や道路と橋梁の境にあたる[[伸縮継手]]も上部構造に含まれる。
;下部構造
下部構造は上部構造を支え荷重を地盤に伝達する橋台(きょうだい)と[[橋脚]](きょうきゃく)、それらを支える[[基礎]](きそ)を指す{{sfn|藤原稔|2010|p=3}}。橋の両端に設置されるものを橋台、中間に設置されるものを橋脚と呼ぶ。基礎には直接基礎、杭基礎、ケーソン基礎などの形式がある{{sfn|藤原稔|2010|p=3}}。{{-}}
== 橋の種類 ==
橋には、用途や材料、橋床の位置、橋桁構造、可動するかどうかなどにより、様々に分類される{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。[[#機能別|用途別]]、[[#材料別|材料別]]、[[#形式別|構造形式別]]によって分類が行われる。
それぞれ長所と短所があり、橋の用途や長さに建設コストの要素が考慮されて決定される{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。
=== 形式別 ===
橋の構造形式には以下のような種類がある。なお、主な部材に働く力については、[[構造力学]]、[[材料力学]]、[[力学]]などの項目を参照のこと。
*[[ビーム橋]] - 両端を橋脚などで支持したビーム(梁)を使い造る橋。ビーム橋は橋の形式として最も一般的なものである<ref>[https://www.britannica.com/technology/bridge-engineering Britannica, Bridgeの記事。Basic formsの節の中の「Beam」の節。「The beam bridge is the most common bridge form.」と説明してある。]</ref>。なお日本語では(次に説明する)桁橋と安易にごちゃまぜにしてしまう人がいるが、英語では桁橋とは区別することがある。渡る距離が比較的短い橋ではこのビーム橋方式が採用されることが多い。全長が長い橋をビーム橋方式で建造する場合は、ビームを縦に連続的に配置して建造する。長いビーム橋では全長が数十キロメートルに及ぶものもある。
*[[ファイル:Girder bridge.png|thumb|桁橋]][[桁橋]] - 2つあるいは3つ以上の支点上に水平に桁を架け、その上あるいは内部を通行する橋。桁には[[曲げモーメント]]により主桁内部の上側に圧縮応力が発生、下側に引張応力が発生する。材料には[[鋼]]、[[コンクリート]]、[[木材]]などが用いられ、I形、箱形、T形などの断面がある。一般に荷重を主として負担する[[主桁]]と通行路を造る[[床版]]は異なる部材だが、比較的小規模のコンクリート橋では床版が主桁としての役割も果たす床版橋(スラブ桁橋)もある。また、吊橋の桁は[[補剛桁]]と呼ばれる。建設費が比較的安価なことから、(近年の日本では)最も多く採用される形式{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。
{{-}}
*[[ファイル:Deck and through arch.png|thumb|140px|アーチ橋のいくつかのタイプ]][[アーチ橋]] - [[アーチ]]つまり「上向きに凸な弧」を用いた橋であり、アーチ部分(アーチリブ)には大きな圧縮力と比較的小さな曲げモーメントが作用する。素材としては[[石材]]の他に、[[コンクリート]]や[[鋼]]、さらに[[材木]]も可能である。古代や中世でも、また19世紀や20世紀でも造られて続けた石橋([[石材]]を建築材料にした橋)で最も一般的な構造である。アーチと路の上下の位置関係で4種類ほどに下位分類がされており、石橋のようなアーチの上を路が通るアーチ橋は「上路アーチ」という。鋼材を用いるようになってからは、鋼材アーチの下に路をつくり路を吊るような構造の「下路アーチ」も増えた。東京都中央区の[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]](1911年完成)もアーチ橋(石造り、2連)、隅田川にかかる[[永代橋]](1926年完成)もアーチ橋(スチール製)であり、街中でも広く見かけられる形式である。「深い渓谷など、橋脚を造ることが困難な場所で採用されることが多い形式」{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。
{{-}}
*[[ファイル:Truss bridge.png|thumb|トラス橋]][[トラス橋]] - 棒状の部材を三角形に組み合わせ交点([[格点]]と呼ぶ)をピンで結ぶ[[トラス]]構造を用いた橋。鉄道橋に多い形式{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。トラス部材には[[軸力]](圧縮力または引張力)のみが作用する。ただし、実際にはピン結合ではなく剛結とすることが多く、この場合トラス部材には曲げモーメントも作用する。材料には鋼や木がよく用いられる。トラス構造は、使用部材を減ずる目的で断面2次モーメントを極大化させるため、桁構造と比して鉛直方向に構造が大きくなる。特に下路式の場合は、構造下面と路面や軌道面との間の高さを減ずることが可能であることから、桁下に余裕の無い箇所や取り付け部での縦断勾配の得づらい箇所での採用例も多い。トラス部材の配置によって以下のような分類がある。平行弦ワーレントラス、曲弦ワーレントラス、垂直材付きワーレントラス、プラットトラス、ハウトラス、Kトラス。{{-}}
*[[ファイル:Rigid frame bridge.png|thumb|方丈ラーメン橋]][[ラーメン橋]] - [[橋脚]]と[[主桁]]が剛に結合された骨組([[ラーメン (骨組)|ラーメン]])構造を用いた橋。ラーメンはドイツ語 Rahmen (鋼節骨組)に由来する{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。部材には軸力、せん断力と曲げモーメントが作用し、材料としてはコンクリートあるいは鋼が用いられる。構造力学の観点からは、ラーメン構造は力の釣り合い方程式の数より未知反力の数の方が多い[[不静定]]構造である。これにより過大な荷重によってある部材が大きく変形しても落橋は免れたり、橋脚上に支承がなく上部構造がずれ落ちたりすることがないため耐震性の高い構造と考えられている{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。{{-}}
[[File:Bridge-suspension.svg|thumb|吊橋]]
*[[吊橋]] - [[ケーブル]]、[[ロープ]]など曲がりやすいが引張強度が大きい部材から桁あるいは床版を吊り下げた橋を呼ぶ。近代以降の大規模な吊橋は、両岸にケーブルを繋ぎ留める[[アンカーブロック]]やアンカレイジと呼ばれる構造とその間に(通常2本以上の)[[主塔]]を設け、その上に張り渡したメインケーブルから通行路となる桁を吊り下げる形式を採る。ケーブルには引張力、主塔には圧縮力が作用する。アンカレイジはケーブルに生じる引張力に対してその質量および底面の摩擦力によって抵抗する。なお、主塔とケーブルが接触する主塔頂部のサドルの形状を固定式とする場合、荷重の偏在によっては主塔に曲げ応力が生じる場合がある。ケーブルには高強度の鋼、主塔には鋼やコンクリートが主に用いられる。アンカレイジを用いず桁の両端でメインケーブルを固定する「自碇式吊橋」「自定式吊橋」という形式もあるが、橋桁に大きな圧縮力が働くので設計が複雑になる。床版をメインケーブルと一体化し、主塔を使わず橋台から直接吊り下げる「吊床版橋」というものもある。床版をそのまま通路とする「直路式」、桁を載せる「上路式」、上路式の派生として、床版と桁の両端を固定してアンカーブロックを不要とした「自碇式」がある。
[[File:Bridge-fan-cable-stayed.svg|thumb|斜張橋]]
*[[斜張橋]] - 吊橋の一種で、支点となる主塔から斜めに張ったケーブルで橋桁を吊ったもの{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。主塔上部から斜めに伸びた多数のケーブルが橋桁などの鉛直荷重を受け持つとともに、桁に対して圧縮力となる軸力を導入する。ケーブルには引張力が生じるため、鋼製。主塔には圧縮力が働き、桁には曲げ[[モーメント]]と軸力が作用するため、コンクリートが用いられることが多いが、軟弱地盤の場合は主塔にも鋼構造が用いられる。また、主塔の設置箇所の制限から、中央径間と側径間との延長のバランスが悪い場合、主塔に曲げ応力が生じるのを回避するため、単位長さ重量の大きいコンクリートと小さい鋼とを組み合わせた複合構造を用いることもある。ケーブルの張り方によって、主塔側面の異なった高さから斜め平行に張られる「ハープ」と主塔上部の一点から放射線状に張られる「ファン」の2つの形式があるほか、張る面を桁中央(道路の場合は中央分離帯)に寄せる1面吊り、桁側端に分離する2面吊り、1面に2条近接させる形式など、様々なバリエーションがある。<ref name = "橋 HASHI"/>。美観に優れることから、近年採用例が増えつつある{{sfn|浅井建爾|2001|pp=214-215}}。
*[[エクストラドーズド橋]] - 外ケーブルを用いたプレストレストコンクリート橋の一種。比較的高さの低い主塔から斜材(外ケーブル)により主桁を支持する構造。外ケーブルが構造断面の外側に飛び出していることから「大偏心外ケーブル構造」とも呼ばれる。外観は斜張橋に類似しているが、主桁の剛性が高く構造としては桁橋に近い。また、斜材ケーブルの角度が小さいことから、[[活荷重]]の影響による斜材の張力変動が小さく疲労に対して有利であり、斜張橋に比べ斜材ケーブルの張力を高く取ることができる。さらに低い主塔と相まって、建設コストを低く抑えることができ、近年は鉄道、道路を問わず、採用例が増加している。
=== 材料別 ===
主要構成部材の材料により、以下のような種類がある。
* [[石橋]] - [[石材]]を用いた橋の総称<ref name=":0" />。古代から近代まで使われている、橋の建築材料。石材は圧縮力に対して強いが、引張力に対して弱いという特性を備えているので、主に[[アーチ橋]]で用いられる{{sfn|石井一郎|1987|p=87}}。一度造ると数百年や千年以上の耐久性があり、紀元前に造られた石橋が現存していて今でも普通に通行に使用されている例もある。
<gallery>
File:Stone golf bridge.jpg|小さな石橋(スコットランドのゴルフ場)
File:426, Taiwan, 台中市新社區協成里 - panoramio (2).jpg|台湾[[台中市]][[新社区]]の石橋
File:Culham Old Bridge (South Side).jpg|イギリス[[オックスフォードシャー]]の[[:en:Culham Bridge]]。[[1416年]]に造られた石橋。
File:Puente Romano Cordoba.jpg|[[コルドバ (スペイン)|スペイン、コルドバ]]のローマ時代[[紀元前1世紀]]に建造された石橋「コルドバのローマ橋 [[:en:Roman bridge of Córdoba]]」。
</gallery>
* [[木橋]] - [[木材]]を用いた橋。わずか数十年ほどで劣化してしまう素材。特に、濡れたり乾いたりを繰り返す箇所で腐敗が進む。木材で橋を作ってしまうと、数十年ごとに丸ごと作り直さなければならない状態に陥る。日本では手に入りやすい素材であり、橋の材料として古来用いられ現在でも[[人道橋]]など荷重強度が小さな橋を中心に架設例がある<ref name=":0" />。[[1990年代]]以降は、従来の無垢材に加えて[[集成材]]の利用も行われるようになりこれは以前の伝統的木橋と区別して「近代木橋」と呼ばれることもある。橋梁形式としては、桁橋、トラス橋、アーチ橋を中心に各種の形式がある。{{Efn|このほか鉄筋コンクリートや鋼材、[[繊維強化プラスチック]]などとの複合橋も架設されているが、それは[[複合橋]]で説明する。}}
<gallery>
File:Overview of wood bridge near Doubravčice, Kolín District.jpg|丸太で造った木橋
File:Old Oich Bridge - geograph.org.uk - 489087.jpg|製材した材木で造った木橋
File:Pumphreys Old Bridge, November 2020 03.jpg|腐り、崩壊した木橋
File:Conargo Billabong Creek Old Bridge.JPG|腐り、崩壊した木橋
</gallery>
* [[鋼橋]] - 上部構造に[[鋼]]([[スチール]])を用いた橋。鋼は[[比強度]]が高く、弾力性に富む<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.tokushima.jp/bridge/about/|title=橋の博物館とくしま 橋の種類・構成|accessdate=2018-02-10|publisher=徳島県道路整備課機能再生・管理担当}}</ref>。[[錆|発錆]]を防止するため[[塗装]]が必要<ref name=":0" />。塗装を怠ると錆で劣化が急速に進む。
* [[鉄橋]] - 上部構造に[[鉄]]を用いた橋。鋼(スチール)製の橋が登場する以前の鉄の橋が鉄橋であるが、後から登場した鋼橋も含めて漠然と「鉄橋」と呼ぶ習慣が残った。大正時代や昭和初期など[[鉄道橋]]は主に鉄橋(鋼橋)で造られたので、今でも「鉄橋」を「鉄道橋」とほぼ同義のように使う人が一部にいる。
* [[コンクリート橋]] - 橋の上部構造が[[コンクリート]]製の橋。コンクリートは圧縮強度に比べて引張強度がおよそ 1/10 と低く弱いため、引張応力を鋼材で負担する[[鉄筋コンクリート]]や、PC鋼材によりあらかじめ圧縮力を与え引張応力を打ち消す[[プレストレスト・コンクリート]](PC)を用いる。近年のコンクリート橋はアーチ橋やごく小規模なものを除き、ほとんどがPC橋である。
** [[鉄筋コンクリート橋]](RC橋)
** [[プレストレスト・コンクリート橋|PC (Prestressed Concrete) 橋]]
** PPC (Partialy Prestresssed Concrete) 橋 - PC橋のうち、ある程度の引張応力を許容する構造の橋。
** PRC(プレストレスト鉄筋コンクリート)橋 - PPC橋のうち、ある程度のひび割れの発生を許容する構造の橋。日本において用いられる区分である。
** 竹筋コンクリート橋(BRC橋) - 鉄筋の代わりに[[竹]]を用いた橋。竹材資源の豊富な東南アジア地域で見られるほか、鋼材が不足していた戦時中の日本でも架けられた。
* [[舟橋]] - [[舟]](とロープと木の板)を材料とした橋。浮橋、[[浮体橋]]とも。多数の舟をロープや鎖で繋いで対岸まで並べ、その上に板を並べて簡易的な橋とするもの。古代から用いられている橋である。日本でも古代や平安時代には造られた。古代から世界各地で軍隊が遠征した先で河川を渡らなければならない場合、しばしばこの舟橋方式で橋を造った。速やかに架橋・撤去が可能だからである。現代でもアメリカ合衆国やノルウェイでは大規模な施工例がある。現代の軍隊でもこの舟橋が使われる(たとえば[[92式浮橋]])。日本では普段は見られなくなった。
* [[土橋]] - 木橋の橋面を丸太で作り、上を土でならした橋。簡素である。
* [[氷橋]] - 「すがばし」と読む。[[北海道]]開拓の初期から[[第二次世界大戦]]後にかけて見られた。凍結した川に丸太や枝などを敷いて雪を載せ、水をかけて凍らせる氷でできた橋。[[穂別町]]の例では、丸太を積載した[[馬橇]]が通行できる大型の橋も存在した<ref>{{Cite book |和書 |author=菅原昭二「十四歳の丸太馬搬」|year=2014 |title=穂別高齢者の語り聞き史(昭和編)大地を踏みしめて 上|page=p274 |publisher=穂別高齢者の語りを聞く会 }}</ref>。
* [[複合橋]] - 異種材料や異種部材による[[合成構造]]あるいは[[混合構造]]を用いた橋。一般には、鋼部材とコンクリート部材を組み合わせた上部形式を指す。
** 合成構造 - 古くから、床版を鉄筋コンクリート、主桁を鋼桁とした合成桁橋が古くから用いられてきたが、構造形式としてきわめて一般的であり、合成構造には含めないことが多い。近年の形式としては、
*** 鋼合成桁橋 - PC床版と鋼桁を組み合わせた橋
*** 波形鋼板ウェブ橋 - PC箱桁橋のウェブ部材に波形上に加工した鋼板を用いる橋
*** 鋼複合トラス橋 - 上床版・下床版をコンクリートとし、鋼部材による斜材を組み合わせた[[トラス橋]]
** 混合構造としては、多径間の一部が鋼桁、他がコンクリート桁からなる橋などがある。[[鋼]]、[[コンクリート]]、[[木材|木]]、[[岩石|石]]の他に[[炭素繊維]]や[[ガラス繊維]]など比較的新しい材料を用いた複合橋も提案されている。
※なお日本では、鋼橋やコンクリート橋などが[[昭和]]30年代頃から「永久橋」などと呼ばれた。出典:{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/001036084.pdf 国土交通省「Ⅱ.道路の老朽化対策の本格実施に向けて」]}}。
=== 通すものによる分類 ===
その橋が何を渡す(通す)もの(あるいはどんな路(道)を通すか)で大分類する用途による分類も一般的である。一種類だけを渡す(通す)のではなく、何種類かを渡す(通す)ものも多い(たとえば自動車の道路と鉄道をともに渡す橋(併用橋)は珍しくない)。
{| class="wikitable floatright" style="text-align:center; margin-left:0.5em"
|+ 何を渡し(通し)、何を渡る(越える)か、による橋の分類(分類名)
!rowspan="2"|通過交通<br>および総称!!道路!!歩道!!鉄道
|-
|道路橋||[[人道橋]]<br>(歩道橋)||[[鉄道橋]]
|-
|川・谷・海を渡る||橋・橋梁||橋・人道橋||橋梁
|-
|道路を渡る||[[跨道橋]]||[[横断歩道橋]]||架道橋
|-
|鉄道を渡る||[[跨線橋]]||跨線橋||線路橋
|}
なお、橋の下が地面であるものは[[陸橋]]と分類する。
==== 陸上交通を通す橋 ====
道路交通(自動車)を渡す'''道路橋'''、人を渡す'''人道橋'''(歩道橋)、列車を渡す'''鉄道橋'''などがあり、さらに何を渡る橋であるかによって前記の表に示すような分類名が使われる。道路と鉄道の双方を渡す橋もあり、'''[[鉄道道路併用橋]]'''(併用橋)と呼ばれる。
なお[[二層通路橋]]([[:en:Bridge#Double-decker bridge|Double-decker bridge]])は上下層で方向を別にしたり([[ジョージ・ワシントン・ブリッジ]]など)、道路と鉄道の併用にしたりするもの([[鉄道道路併用橋]])。
平面交差([[交差点]])が生じるのを避ける、などの理由で道をあえて高くして橋にしたものを[[高架橋]]という。(「[[立体交差]]」も参照)
==== 運河を通す橋 ====
特に[[運河]]を通すための橋。[[水運]]([[河川舟運]])のための橋。ヨーロッパで多く見られる。日本語では「水路橋」や「運河橋」と呼ぶが、「水路橋」は主に水道を通すための橋を指し、「運河橋」は運河を越える橋も含めて指すので、どちらもはっきりせず、分類名としては使いづらい。
現在、世界最長とされるのは[[ドイツ]]の[[マクデブルク]]にあるマクデブルク水路橋([[:de:Wasserstraßenkreuz Magdeburg]])で全長918 m、[[エルベ川]]を跨いでハーフェル運河とミッテルラント運河を接続する。なお、ミッテルラント運河は[[ミンデン (ノルトライン=ヴェストファーレン)|ミンデン]]でも[[ヴェーザー川]]を渡っている。
<gallery>
File:Briare - Pont canal 14.jpg|フランスの[[ブリアール運河]](ロワール川とセーヌ川を結ぶ運河)のブリアール運河橋([[:fr:Pont-canal de Briare]])。
File:Pontcysyllte aqueduct arp.jpg|イギリス、ウェールズの[[ポントカサステ水路橋と運河]]
</gallery>
==== 水や液体や粉体を通すための橋 ====
水路を渡す(通す)ための橋。古代ローマの'''[[水路橋|水道橋]]'''など、水利目的の水路橋が古くから建設、利用されてきた。
現在は、金属製などの[[パイプ]](管)を用いるものが増えており、[[上水道]]用のものは'''水管橋'''である<ref>[http://www.wsp.gr.jp/suikankyo.htm 水管橋] 日本水道鋼管協会</ref>。
[[パイプライン輸送]]用の橋もあり、たとえば石油パイプラインの橋がある。また'''ガス導管橋'''のための橋もある。港や工場では[[スクリュコンベア]]のための橋や粉体の空気輸送装置<ref>[http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub9.htm]</ref>のための橋もあり、原材料・半製品の輸送が行われている。
大規模な[[鉱山]]では鉱石運搬用[[ベルトコンベア]]が道路や河川を越えるための橋が設置されることがある。
[[電気]]([[電流]])を通すための[[電線路]]専用橋もある(たとえば[[多摩川大橋|多摩川専用橋]])。
=== 特殊な動線による分類 ===
* [[ループ橋]]
* [[クローバー橋]] - 中央部は通常の橋と同じく一本になっているが両端は二方向に分離し、上から見ると「 '''X''' 」のような形状の橋。[[釧路市]]にある[[旭跨線橋]](4車線路)、[[東京都]]・[[隅田川]]に架かる[[桜橋 (東京都)|桜橋]]、[[名古屋市]]の[[黄金跨線橋]]、[[仙台市]]のかつての[[宮城野橋]]など。
* 八つ橋 - (主に公園施設などで、池の上で)折れ曲がる形(あるいは四方八方に延びる形)で設置される木製の橋。
=== その他 ===
[[ファイル:Tower bridge London Twilight - November 2006.jpg|thumb|跳開橋 [[タワーブリッジ]]]]
[[ファイル:Chateau de Chenonceau 2008E.jpg|thumb|フランスの[[シュノンソー城]]。橋の上が貴族の[[シャトー]](館、城)になっている。]]
[[ファイル:Ponte Vecchio 001.jpg|thumb|イタリア、フィレンツェの [[ヴェッキオ橋]]。橋の上に多数の店舗や、回廊(隠された連絡通路)がある。]]
*[[可動橋]] - 船舶の運航に支障がないよう上部構造を動かせる構造とした橋{{sfn|石井一郎|1987|p=91}}。航路となっている海や河川に架ける橋で、前後の取付部の関係から十分に高い位置に架設できない場合に採用される{{sfn|石井一郎|1987|p=91}}。可動橋はさらに跳開橋、旋開橋、昇開橋などに下位分類される{{sfn|石井一郎|1987|p=91}}。
* [[運搬橋]] - 可動橋と同様、航路を確保するために考えられた形式。非常に高い位置に橋をかけ、そこからワイヤーで吊したゴンドラを行き来させることで人や荷物を対岸まで輸送する。現存数は非常に少ない。
* 建築物付きの橋 - フランスの[[シュノンソー城]]、イタリアの[[ヴェッキオ橋|ポンテ・ヴェッキオ(ベッキオ橋)]]、イギリスの[[:en:Pulteney Bridge]]、旧ロンドン橋など
** 店舗付きの橋 - 川に架かる橋の上が店舗になっているもの。[[ヴェッキオ橋|ポンテ・ヴェッキオ(ベッキオ橋)]]、イギリスの[[:en:Pulteney Bridge]]、日本では[[渋谷川]]の上にあった[[東急百貨店]]東横店東館など。
** [[屋根付橋]] - 屋根(や覆い)をつけた橋。アメリカには多数あり、特にメリル・ストリープとクリント・イーストウッドが出演した映画『[[マディソン郡の橋 (映画)|マディソン郡の橋]]』で世界の人々の心に焼き付けられた。
** 駅付きの橋 - 駅に焦点をあてる場合は「[[橋上駅]]」といい、[[鉄道駅]]の一種にも分類され、[[プラットホーム]]の上に駅舎があり、跨線橋と一体化しているもの。
* [[橋上市場]] - [[岩手県]][[釜石市]]の[[鈴木東民]]市長の主導により、[[河川法]]の特例許可を受けて[[甲子川]](地元では大渡川と呼ばれた)に架かる大渡橋に並行する形で[[1958年]]([[昭和]]33年)に完成した全長 110 m 、全幅 13 m の市場。[[1965年]](昭和40年)の河川法改正により営利目的の河川占有が認められなくなり、市場内店舗は[[2003年]](平成15年)1月5日に全店閉店、代替施設として建設された「駅前橋上市場 サン・フィッシュ釜石」へ移転し、その後解体された<ref>[[鎌田慧]]『反骨 鈴木東民の生涯』(講談社, 1989年)</ref><ref>『[[サンデー毎日]]』(2003年3月2日号)「消えゆく光景・釜石橋上市場」</ref>。
* [[流れ橋]] - [[洪水]]の際に、橋桁が流される構造の橋。[[上津屋橋]]など。
* 軍事用の即席の架橋
** 架橋機材 - 分解・折りたたみ式の橋桁と必要な物品をトラックなどで運搬できるようにした機材。軍事目的での利用が基本(日本では[[07式機動支援橋]]など)。日本の自衛隊は災害派遣活動がかなり多いので、災害で橋が破損し通行できない場合に臨時で架設するのにも使う。
** [[架橋戦車]] - [[戦車]]の[[シャーシ]]に[[橋梁]]を乗せることで目的地まで自走できる橋。
::(なお陸軍の造る「[[門橋]]」のほうは、名称に「橋」という文字が含まれているが、実際には戦車などを運ぶために舟を並べて板を並べ浮力と安定性を増したものであり、それが水面上を移動するので、実質的には一種の[[渡し船]]である。)
== 保守・点検・防護 ==
=== メンテナンス・老朽化問題と対策 ===
橋は例外なく屋外に設置され、気温や気象による自然環境の影響や、橋の上を通過する活荷重によって繰り返し応力が掛かる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=191}}。これにより、コンクリート橋ではひび割れ・凍害、化学的侵入、摩耗、[[塩害]]、鉄筋の[[腐食]]や[[二酸化炭素]]による中性化、疲労などの劣化が生じる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=191}}。また、鋼橋では特に[[溶接]]部の疲労や腐食も生じる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=191}}。ひび割れに対しては樹脂やバテの注入、鋼板接着や[[炭素繊維]]による補強などが行われる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=191}}。鋼橋では腐食に対しては[[サンドブラスト]]で古い塗膜を除去した上で再塗装をする、き裂がある場合にはその先端部に[[ストップホール]]を設けて進展を防ぐなどの方法で保守が行われる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=193}}。
橋の点検は表面的な変状を目視点検し、場合によっては[[槌|ハンマー]]の打音などで手で触れることなどが行われる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=188}}。こうした目視点検により、橋の[[舗装]]・[[高欄]]・排水装置・伸縮装置などの表面で分かる不具合から深部の不具合が疑われることがある{{Sfn|五十畑弘|2019|p=185}}。ある不具合が発見されれば、それを引き起こす原因となりうる不具合を推測する{{Sfn|五十畑弘|2019|p=185}}。目視点検を行いやすくするため、点検用の通路を設置する(小規模な橋の場合は仮設できるように足場を設置するための金具を設置する)、[[橋梁点検車]]で点検するなどの工夫が取られることがある{{Sfn|五十畑弘|2019|p=189}}。
一般に、劣化が軽度な状態で補修した方が、より劣化の進んだ状態で補修するよりも必要な費用が小さくなる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=197}}。
==== アメリカ合衆国 ====
アメリカ合衆国では、1920年代以降に造られた橋梁をはじめとした近代的なインフラが[[1980年代]]に耐用年数を超え始め、使用に制限を加えざるを得ないなど社会問題化した。このため、積極的にインフラの老朽化対策が進められるようになった<ref>{{Cite web|和書|date= |url= https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1132000.html|title=社会インフラの維持管理をめぐる状況 「荒廃するアメリカ」とその後の取組み |publisher=国土交通省 |accessdate=2018-08-25}}</ref>。
==== 日本 ====
[[ファイル:Car to inspect the bridge,Katori-city,Japan.jpg|サムネイル|右|橋の下まわりを点検するために開発された橋梁点検車。]]
1995年の[[兵庫県南部地震]]以降、耐震設計が見直され、橋の[[免震]]や[[制震]]に関する技術が開発されて耐震補強工事に活用されるようになった{{Sfn|五十畑弘|2019|p=195}}。地震後に橋が落下しないように、上部工と下部工でかかり長を確保することや、支承部の移動を制限する装置や地震のエネルギーを吸収する装置の設置、桁を相互に連結させる工事などが行われてきた{{Sfn|五十畑弘|2019|p=195}}。
日本では[[2020年代]]以降、[[高度成長期]]に建設された橋梁をはじめとした[[インフラストラクチャー]]の供用年数が50年を超え、後述の[[アメリカ合衆国]]同様に耐用年数が問題となる時期に差し掛かる<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.pwri.go.jp/caesar/overview/02-01.html |title= 橋を取り巻く交通環境と進行する高齢化|publisher= 国立研究開発法人 土木研究所|accessdate=2018-08-25}}</ref>ため、政府は2013年よりインフラの長寿命化計画を立案し、順次必要なメンテナンスを進めている<ref>{{Cite web|和書|date= 2013-11|url=https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/infra_roukyuuka/pdf/houbun.pdf |title=インフラ長寿命化基本計画 |publisher=インフラ老朽化対策の推進に関する関係省庁連絡会議 |accessdate=2018-08-25}}</ref>。限られた予算の中で長寿命化やメンテナンスを進めるため、橋が供用年数、劣化の程度、橋の重要度からメンテナンスの優先順位が定められる{{Sfn|五十畑弘|2019|p=196}}。
地方の小規模な橋では、建設年の記録が残っていない例もある。人口減少が著しい地域([[過疎地域]])では、架け替えや補修に必要な財政負担に見合う通行者数や自動車交通量が今後見込めないため、管理する自治体が撤去を決断する橋も多い。[[国土交通省]]の2018年時点集計では、撤去・廃止が決まった橋は全国で137カ所ある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38035750R21C18A1EA4000/ 老朽で「廃橋」全国137ヵ所/改修断念、地方多く/人口減、利用頻度見極め]『日本経済新聞』朝刊2018年11月25日(6面)2018年11月29日閲覧。</ref>。
一方で、いつ、誰が設置したかを河川管理者(国や都道府県など)が把握していない「[[河川における管理者不明の橋|管理者不明橋]]」(「勝手橋」)が、日本全国の河川で多数発見されている<ref name="kattebashi">[https://www.yomiuri.co.jp/national/20211122-OYT1T50059/ 誰が設置したのか「勝手橋」…住民多数が利用でも、管理者不明のまま補修されず放置] 読売新聞 2021年11月22日</ref>。これらの橋は占用許可など法的手続きを経ないまま、河川管理者が定める基準を無視して設計・建造された可能性がある。迂回を嫌う地元住民の利用が多いとされるが、いずれも補修や点検が施されないまま放置されており、管理責任を曖昧なままにしておくことで、老朽化による崩落や、それに伴う事故や災害の拡大に繋がることが懸念されている<ref name="kattebashi" />。
==== イタリア ====
[[イタリア]]では、2018年に[[モランディ橋]]が崩壊した際、設計の不備が疑われたほかメンテナンスが追い付いていないことも問題となった。また、イタリア国内において2013年からの過去5年間に10カ所の高架橋が崩壊していたことも報道されている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-08-16|title= イタリア・高架橋崩落 過去5年間に10件|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/401581|publisher= 日テレ24|accessdate=2018-08-25}}</ref>。
=== 橋桁の防護 ===
高さのある車両(高さのある貨物を積載した車両やクレーンを下ろし忘れた車両を含む)が橋桁にぶつからないようにするため橋の手前に'''橋桁防護工'''という頑丈なゲートが設置されることがある<ref name="hyou119">{{Cite book |和書 |year=2010 |author1=磯兼雄一郎|author2=井上孝司|title=標識と信号で広がる鉄の世界|page=119|publisher=秀和システム}}</ref>。橋桁防護工に表示された制限高を超える車両の通行をゲートで阻止するための設備である<ref name="hyou119" />。
なお、同じ目的で車両が踏切で空中の架線に引っかからないように制限高を表示して注意を促す道路の左右に渡した標識を踏切注意標という<ref>{{Cite book |和書 |year=2010 |author1=磯兼雄一郎|author2=井上孝司|title=標識と信号で広がる鉄の世界|page=117|publisher=秀和システム}}</ref>。
== 世界遺産や重要文化財になっている橋 ==
[[世界遺産]]に認定されたり、各国の文化財指定(日本の[[重要文化財]]指定など)を受けている橋は重要なのでこれを挙げる。
<!--ここに掲載する橋は世界遺産・重要文化財などに登録されているものや記録を有する橋などに限定しています-->
;世界の著名な橋
* [[ポン・デュ・ガール]]([[フランス]]/ガルドン川) - ローマの水道橋。石造アーチ橋([[紀元前1世紀|紀元前19年頃]])。[[世界遺産]]。
* [[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]([[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]/[[ドリナ川]])- [[ミマール・スィナン]]の橋(16世紀)。『[[ドリナの橋]]』の舞台。[[世界遺産]]。
* [[スタリ・モスト]](ボスニア・ヘルツェゴビナ/[[ネレトヴァ川]])- ミマール・スィナンの門下生が手がけたとされる橋(1566年)。世界遺産。
* [[来遠橋]]([[ベトナム]]、[[クアンナム省]][[ホイアン]]/トゥボン川水路) - 日本人商人がかけたとされる橋(1593年)。世界遺産の一部。
* [[アイアンブリッジ (橋)|アイアンブリッジ]](コールブルックデール橋)([[イギリス]]・[[アイアンブリッジ峡谷]]) - 世界初の鉄橋。アーチ橋([[1779年]])。[[世界遺産]]。
* [[フォース橋]](イギリス/[[フォース湾]]) - トラス橋([[1890年]])。世界遺産。
* [[ビスカヤ橋]]([[スペイン]]/[[ネルビオン川]])- 世界最古の[[運搬橋]](1893年)。世界遺産。
* [[タワーブリッジ]](イギリス、[[ロンドン]]/[[テムズ川]]) - 近代吊橋の原点。吊橋([[1894年]])。イギリス指定建造物の第一級指定建築物に指定されている。
;日本の重要文化財に指定された橋
* [[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]](東京都[[中央区 (東京都)|中央区]]) - もともと[[徳川家康]]による[[江戸]]の最初の[[町割り]]の場所に建造され[[東海道]]の起点とされ、現在も(日本全体の)[[道路元標]]が設置されている特別な橋であり、最初のものから20回ほど掛け替えられ現在の橋は1911年に建造されたものであるが技術的にも意匠的に優れた「明治期を代表する石造アーチ道路橋」であるので1999年(平成11年)に国の[[重要文化財]]の指定を受けた。
* [[通潤橋]](熊本県[[山都町]]) - 日本では珍しい巨大な石造アーチ水道橋。[[重要文化財]]に指定されている。
* [[かずら橋]]([[徳島県]]の山間部各地) - 植物([[サルナシ]])の[[蔓]]で架けられた[[吊橋]]。[[祖谷渓]]のかずら橋は[[重要有形民俗文化財]]に指定されている。
* [[萬代橋]](新潟県[[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]/[[信濃川]]) - [[花崗岩]]による化粧張りが施された重厚なコンクリートアーチ橋で、意匠・記述性を評価され[[重要文化財]]に指定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hrr.mlit.go.jp/niikoku/bandaibridge/keii.html |title=重要文化財萬代橋 重要文化財の経緯 |publisher=[[国土交通省]]北陸地方整備局新潟国道事務所 |accessdate=2020-09-23 }}</ref>。
== 記録を持った橋 ==
;世界一高い橋
* [[ミヨー橋]](フランス/[[タルン川]]) - 世界一高い橋。斜張橋([[2004年]])
{{-}}
[[File:Western Span of the San Francisco-Oakland Bay Bridge at dusk, seen from Yerba Buena Island.jpg|thumb|[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ]]]]
;世界一 幅が広い橋
*[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ]]([[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]の[[サンフランシスコ]]市 - [[オークランド (カリフォルニア州) |オークランド]]市間) デッキ部分の幅が総計で78.740メートルあり、自動車用の車線が10本および4.724メートル幅(15.5-ft)の自転車道および中央部の段差や[[パイロン]]なども含めてその幅になっている<ref>[https://www.guinnessworldrecords.com/world-records/69083-widest-bridge Guinness World Records, widest bridge.]</ref>。
{{-}}
;「世界最長」の歴史
* [[ハーバーブリッジ]]([[オーストラリア]]、[[シドニー]]) - 完成当時世界最長のシングルアーチ橋([[1932年]])
* [[ノルマンディー橋]]([[フランス]]/[[セーヌ川]]) - 完成当時世界最長の斜張橋([[1995年]])
[[File:Golden gate2.jpg|thumb|[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]]]
* [[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]([[サンフランシスコ]]) - [[1937年]]完成。当橋は1937年の完成から27年に渡り「スパン世界一」であった橋であり、「スパン世界一 記録保持期間が最も長かった吊橋」である。(なおサンフランシスコのランドマークとなっており「世界で最も写真撮影された橋」とされている。)
{{-}}
;現在の「世界最長」の橋
{{See also|橋の一覧 (長さ順)}}
* [[丹陽-昆山特大橋]]([[中華人民共和国]][[江蘇省]][[丹陽市]]-[[崑山市]]間) - 陸上の高架橋として世界最長。[[ギネス世界記録|ギネスブック]]認定<ref>{{Cite web |date=2011-06|url=https://guinnessworldrecords.jp/world-records/longest-bridge|title=Longest bridge|publisher=ギネス・ワールド・レコーズ|accessdate=2020-02-20}}</ref>。全長164.8 [[キロメートル|km]]で、うち9 kmの水上区間を含む。
* [[バーンナー高速道路]]([[タイ王国|タイ]][[バンコク]][[バーンナー区]]-[[チョンブリー県]]間) - 道路橋として世界最長。ギネスブック認定<ref>{{Cite web |date=2000-07|url=https://guinnessworldrecords.jp/world-records/longest-road-bridge/|title=Longest road bridge|publisher=ギネス・ワールド・レコーズ|accessdate=2020-02-20}}</ref>。全長54 km。
* [[港珠澳大橋]](中華人民共和国[[広東省]][[珠海市]]と[[香港]][[新界]][[離島区]][[ランタオ島]]及び[[マカオ]][[花地瑪堂区]]間)- 海上橋として世界最長。トンネル部分を含み49.968 km。
** 上海舟山周湖橋(中華人民共和国[[上海市]]-[[浙江省]][[舟山市]]-浙江省[[寧波市]]間) - 建設中の道路鉄道併用橋。完成すると海上橋として世界最長となる(全長130 km)<ref>{{Cite web|和書|url=http://tech.ifeng.com/discovery/detail_2013_07/30/28066473_0.shtml|date=2013-07-30|accessdate=2020-02-20|publisher=凤凰新媒体|title=舟山规划130公里通道连上海_科技频道_凤凰网}}</ref>。
* [[ポンチャートレイン湖コーズウェイ]]([[アメリカ合衆国]][[ルイジアナ州]][[ニューオリンズ]]/[[ポンチャートレイン湖]]) - 全長 38.4 km 。
{{Double image aside|right|1915 Çanakkale Bridge 20220327.jpg|200|Akashi Bridge.JPG|200|[[チャナッカレ1915橋]]|[[明石海峡大橋]]}}
* [[チャナッカレ1915橋]] - [[トルコ共和国]]の[[ダーダネルス海峡]]に掛かる吊橋で、2022年3月18日に完成し、現在「主径間が世界最長」の吊橋。
** [[明石海峡大橋]]([[兵庫県]]) - 全長 3,911 m{{sfn|浅井建爾|2001|p=224}}(中央支間長 1,991 m は当時世界最長だったが、上述のチャナッカレ1915橋に抜かれ、「主径間世界最長」の座は譲った。)
* [[関西国際空港連絡橋]]([[大阪府]]) - 鉄道車道併用トラス橋として世界最長{{sfn|浅井建爾|2001|p=224}}。全長 3,750 m 。
* [[ルースキー島連絡橋]] ([[ロシア連邦]]・東ボスフォル海峡) - 斜張橋として世界最長。 支間長1,104 m
* [[蓬萊橋 (大井川)|蓬萊橋]]([[静岡県]][[島田市]]/[[大井川]]) - 木橋として世界最長。896 m 。ギネスブックに認定されている{{sfn|浅井建爾|2001|p=216}}。
* [[夢吊橋]]([[広島県]]) - 吊床版橋として世界最長。支間長 147.6 m 。
* [[瀬戸大橋]]([[岡山県]]・[[香川県]]) - 全長12.3 kmで、ギネスブックに「世界一長い道路鉄道併用橋」として認定されている。ただし、瀬戸大橋は[[南備讃瀬戸大橋]]や[[北備讃瀬戸大橋]]など6本の橋から成るものであり、ギネスではこれを1本の橋として認定している{{sfn|浅井建爾|2001|p=224}}。
;「日本最長」の橋
* [[東京湾アクアライン|アクアブリッジ]]([[千葉県]]) - 自動車の橋としては日本最長。4,384 m 。
* [[明石海峡大橋]](兵庫県) - (世界最長の橋を参照)
* [[多々羅大橋]](広島県・[[愛媛県]]) - 斜張橋として日本最長(中央支間長 890 m)。[[本州四国連絡橋]]尾道・今治ルートに掛かる橋。
* [[広島空港大橋]]([[広島県]][[三原市]]) - 最大支間長380.0 mの日本最長のアーチ橋<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/hiroshima-airport-bridge.html|title=広島空港大橋(ひろしまくうこうおおはし)|publisher=[[広島県]]土木建築局道路企画課|date=2015-03-11|accessdate=2018-03-12}}</ref>。
* [[関西国際空港連絡橋]](大阪府) - (世界最長の橋を参照)
* [[蓬萊橋 (大井川)|蓬萊橋]](静岡県) - (世界最長の橋を参照)
* [[第一北上川橋梁]]([[岩手県]]) - [[東北新幹線]]の橋梁で、鉄道橋として日本最長{{sfn|浅井建爾|2001|p=224}}。3,868 m。
* [[長流川橋]]([[北海道]]) - 高速道路の橋で日本最長。1,773 m 。
* [[伊良部大橋]]([[沖縄県]])- 通行料無料の橋としては日本最長。3,540 m 。
* [[箱根西麓・三島大吊橋]](静岡県)- 歩行者専用の吊橋として日本最長。 400 m 。
== 雑学 ==
;日本語の「はし」の由来
なお、[[日本語]](大和言葉)の「はし」という言葉は、道の'''はし'''に架けるものから由来しているとされる{{sfn|石井一郎|1987|p=85}}。
;橋の"長さ"
{{要出典範囲|工学的に橋の長さを議論する場合、橋全体の長さを表す「橋長」ではなく2つの「支承」間の距離である支間(しかん、span、スパン)を用い、特に最も長くなる事が多い中央支間の長さが問題とされる。[[高架橋]]のように支間長の短い橋を連続させれば橋長の長い橋は容易に造れるが、長い支間の橋を建設するには高度な技術が必要となるからである。|date=2022年11月}}
;他
橋の定義には、構築物(人が構築したもの)という言葉入っている。ただし人間が造る橋に形状が似た自然物を[[比喩]]で「橋」に喩えて[[天然橋]] と呼ぶこともある。だが同様の形状の自然物は「[[門]]」や「[[アーチ]]」と呼ぶこともある。たとえばプレヒシュ([[スイス]])、ロックブリッジ(アメリカ合衆国)など。日本では雄橋(日本・広島県、天然記念物に指定)も含めて「世界三大天然橋として有名だ」などと勝手に思っている人がいる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|ref=harv|author=石井一郎|title=土木工学概論|series=土木教程選書|date=1987-10-30|year=1987|publisher=鹿島出版会|ISBN=4-306-02222-6}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|author=藤原稔|title=写真で見る橋の構造形式 -道路橋の保全のために-|date=2010-07-20|year=2010|publisher=技報堂|ISBN=978-4-7655-1772-0}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=図解入門 よくわかる「橋」の科学と技術|date=2019-07-01|year=2019|publisher=秀和システム|ref=harv|author=五十畑弘}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
|commonscat=Bridges
|commons=Bridge
|wikt=橋
|q=橋
|b=no|s=no|n=no|v=no
|d=Q12280
}}
* [[:Category:橋画像|橋の画像一覧]]
* [[土木工学]] - 橋梁工学
* [[応用力学]] - [[構造力学]]
* [[橋の一覧]]
** [[日本の橋一覧]]
* [[橋の一覧 (長さ順)]]
* [[支間長順の吊橋の一覧]]
* [[洗い越し]]
* [[橋名板]]
* {{ill2|Fischbauchträger|de|Fischbauchträger}}、{{ill2|レンズトラス橋|de|Linsenträger}}
== 外部リンク ==
* [http://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/hashi/index.html 鹿島建設建築博物館の橋のホームページ]
* [http://www.kojima-cci.or.jp/ftown/bridge/top.html 倉敷市瀬戸大橋架橋記念館]
* [http://www.hashinohi.jp/index.html みんなで広げよう橋の日を(8月4日)]
* [http://www1.harenet.ne.jp/~wawa/B/bridge.html 小さな橋の博物館]
* [http://www.jasbc.or.jp/ 社団法人日本橋梁建設協会]
* [{{NDLDC|898142/160}} 「鉄橋の始」:石井研堂『明治事物起原』(国会図書館・近代デジタルライブラリー)]
* {{Kotobank|橋(はし)}}
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ワロン語
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ワロン語 (ワロンご、ワロン語: Walon、英: Walloon language) は、ベルギーのワロン地方および北部フランスの一部で話される、ラテン語から派生したロマンス語の一つで、オイル語系の言語である。
ワロン語を話す人口はおよそ60万人と言われている。
ワロン地域のリエージュ州、ナミュール州、ブラバン・ワロン州、リュクサンブール州、エノー州で主に話される。フランス国境に近いエノー州、ナミュール州、リュクサンブール州では、フランス語諸方言の話者も多い。ただし、ベルギーの公用語はオランダ語、フランス語、ドイツ語であり、ワロン語は公用語ではない。
ベルギー国外では、フランスのベルギー国境近くと、19世紀に多くのワロン人が移民したアメリカ合衆国のウィスコンシン州北東部(ブラウン、ケワニー、ドアの3郡)でも話されている。
フランス国内のフランス語の諸方言がパリ方言の影響を強く受けているのに対し、ワロン語は古い特徴を保っている。
ベルギーではフランス語が広く話されており、フランス語とワロン語は区別される。現在のベルギーのワロン地域や首都ブリュッセルでは、標準フランス語が話され理解される。ただし、口語にはいくらかのワロン特有の言い回しや訛りが見られる。
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ワロン語 は、ベルギーのワロン地方および北部フランスの一部で話される、ラテン語から派生したロマンス語の一つで、オイル語系の言語である。 ワロン語を話す人口はおよそ60万人と言われている。
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{{Infobox Language
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[[ファイル:Franse GemeenschapLocatie.svg|thumb|right|フランス語共同体]]
[[ファイル:Wallonie-linguistique-fr.svg|thumb|right|フランス語共同体におけるワロン語使用地域と方言区分]]
'''ワロン語''' (ワロンご、ワロン語: Walon、{{Lang-en-short|Walloon language}}) は、[[ベルギー]]の[[ワロン地域|ワロン地方]]および北部フランスの一部で話される、[[ラテン語]]から派生した[[ロマンス語]]の一つで、[[オイル語]]系の言語である。
ワロン語を話す[[人口]]はおよそ60万人と言われている。
== 使用地域 ==
[[ワロン地域]]の[[リエージュ州]]、[[ナミュール州]]、[[ブラバン・ワロン州]]、[[リュクサンブール州]]、[[エノー州]]で主に話される。フランス国境に近いエノー州、ナミュール州、リュクサンブール州では、フランス語諸方言の話者も多い。ただし、ベルギーの[[公用語]]は[[オランダ語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]であり、ワロン語は公用語ではない。
ベルギー国外では、[[フランス]]のベルギー国境近くと、[[19世紀]]に多くの[[ワロン人]]が移民した[[アメリカ合衆国]]の[[ウィスコンシン州]]北東部([[ブラウン郡 (ウィスコンシン州)|ブラウン]]、[[ケワニー郡 (ウィスコンシン州)|ケワニー]]、[[ドア郡 (ウィスコンシン州)|ドア]]の3郡<ref>[http://uwdc.library.wisc.edu/collections/WI/BelgAmrCol Belgian-American Research Collection]. ''University of Wisconsin Digital Collections''. University of Wisconsin.</ref>)でも話されている。
== フランス語との関係 ==
フランス国内のフランス語の諸方言が[[パリ]]方言の影響を強く受けているのに対し、ワロン語は古い特徴を保っている。
ベルギーではフランス語が広く話されており、フランス語とワロン語は区別される。現在のベルギーのワロン地域や首都[[ブリュッセル]]では、標準フランス語が話され理解される。ただし、口語にはいくらかのワロン特有の言い回しや訛りが見られる。
== ベルギーの言語とワロン語の方言 ==
[[File:Languages Benelux.PNG|right|200px|thumb|[[ベネルクス]]3国の言語分類。下に行くほど細かい分類となる。]]
* [[ベルギー]]の言語
**[[低地ドイツ語]]
***[[低地フランク語]]
****'''フラマン語'''(公用語)
*****[[リンブルフ語]]
*****{{ill|ブラバント語|en|Brabantian dialect}}
*****{{仮リンク|東フラマン語|en|East Flemish|preserve=1}}
*****[[西フラマン語]]
** 高地ドイツ語
***[[ドイツ語]](公用語)
****[[リプアーリ語]]
***[[ルクセンブルク語]]
** [[オイル語]]
***[[フランス語]](公用語)
***'''ワロン語'''([[ベルギー]]の[[フランス語共同体]]の命令により「内生的[[地方言語]]」(仏: langue régionale endogène)のように信認 )
****'''東ワロン方言''' / '''リエージュ語'''<small>(ワロン: 「ワロン・ド・レヴァン ([[:wa:Payis_d'_Lidje_(diyalectolodjeye)|walon do Levant]])」、仏: 「[[リエージュ|リエージョワ]] ([[:fr:Wallonie_dialectale#Est-wallon ou liégeois|liégeois]])」※[[リエージュ州]]の仏語地域辺り、[[ナミュール州]]の東地域辺り)</small>
*****'''高アルデンヌ'''方言<small>(ワロン: 「ワロン・デル・ホート・オールデンヌ ([[:wa:Hôte Årdene|walon del Hôte Årdene]])」、仏: 「オー・アルデンネ (haut [[:fr:Ardennais|ardennais]])」※高[[アルデンヌ]]地域 (リエージュ州の仏語の東・南地域辺り、[[リュクサンブール州]]の北地域辺り) 辺り)</small>
****'''中央ワロン方言''' / '''ナミュール語'''<small>(ワロン: 「ワロン・ド・ミタン ([[:wa:Walon_do_Mitan|walon do Mitan]])」、仏: 「[[ナミュール|ナミューロワ]] ([[:fr:Wallonie_dialectale#Centre-wallon ou namurois ou wallon central|namurois]])」※ナミュール州辺り、[[ブラバン・ワロン州]]の東地域)</small>
*****'''ウィスコンシン'''・ワロン方言<small>(ワロン: 「ワロン・デル・ウィスコンセン ([[:wa:Walons del Wisconsene|walon del Wisconsene]])」、仏: 「ワロン・ドゥ・ウィスコンスィン ([[:fr:Wallon#Wisconsin|wallon du Wisconsin]])」※17〜19世紀の[[ベルギー人]][[移民]]ゟ[[アメリカ合衆国]][[ウィスコンシン州]])</small>
****'''西ワロン方言''' / '''ワロン=ピカルディ語'''<small>(ワロン: 「ワロン・ド・クーチャン ([[:wa:Walon_do_Coûtchant|walon do Coûtchant]])」、仏: 「ワロ=ピカル ([[:fr:Wallonie_dialectale#Wallo-picard ou Ouest-wallon|wallo-picard]])」※[[エノー州]]の[[シャルルロワ]]地域辺り、ブラバン・ワロン州の西地域辺り、ナミュール州の東地域辺り)</small>
*****'''ラ・ルヴィエール'''方言 / '''北ワロン=ピカルディ'''方言<small>(ワロン: 「サント ([[:wa:Payis_del_Lovire_(diyalectolodjeye)|Cinte]])」「ワロン・ド・パイィ・デル・ロヴィール (walon do Payis del Lovire)」「ワロ=ピコール・ビジレース (walo-picård bijhrece)」、仏: 「[[ラ・ルヴィエール|ルヴィエーロワ]] (louviérois)」「ワロ=ピカル・セプタントリョナル (wallo-picard septentrional)」※エノー州のラ・ルヴィエール地域辺り)</small>
****'''南ワロン方言''' / '''低アルデンヌ方言''' / '''ワロン=ロレーヌ語'''<small>(ワロン: 「ワロン・ド・ノンヌ ([[:wa:Basse_Årdene|walon d' Nonne]])」、仏: 「バ・アルデンネ (bas ardennais)」「ワロ=ロラン ([[:fr:Wallonie_dialectale#Wallo-lorrain ou Sud-wallon|wallo-lorrain]])」※リュクサンブール州の中地域辺り、ナミュール州の南地域辺り)</small>
*****'''南アルデンヌ'''方言<small>(ワロン: 「オールデンヌ・ノンーレース ([[:wa:Årdene_nonnrece_(diyalectolodjeye)|Årdene nonnrece]])」、仏: 「アルデンネ・メリデョナル (ardennais méridional)」※リュクサンブール州の南アルデンヌ地域辺り)</small>
***[[ピカルディ語]]
***[[シャンパーニュ語]]
***[[ロレーヌ語]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==外部リンク==
{{Wikipedia|wa}}
*{{ethnologue|code=wln}}
*[http://llmap.org/languages/wln.html LL-Map]
*[http://multitree.org/codes/wln MultiTree]
*{{kotobank|ワロニー方言}}
{{フランス語}}
{{ロマンス諸語}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:ベルギーの言語]]
[[Category:フランスの言語]]
[[Category:ロマンス諸語]]
[[Category:ワロン地域]]
[[Category:フランス語の方言]]
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ダイナマイト
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ダイナマイト(英: dynamite)は、ニトログリセリンを主剤とする爆薬の総称。アルフレッド・ノーベルが最初に発明したのはニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませたもの。現代の日本においては、社団法人火薬学会の規格では6%をこえるニトロゲル(後述のゼリグナイト)を含有する爆薬の総称と規定されている。
1846年に発見されたニトログリセリンは、鋭敏な爆発物で爆薬としての実用は困難であった。実用できる爆発物には、多少の衝撃に反応せず、経時劣化を起こしたり化学変化を起こしたりしない安定性が必要となる。アルフレッド・ノーベルは1866年にニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませ安全化し、さらに雷管を発明して爆発のコントロールに成功した。1875年にはニトログリセリンと、同様に爆薬である低硝化綿薬(弱綿薬)を混合してゲル状とし、珪藻土を用いたときと同様に安定化するのに成功した。これはゼリグナイト(ブラスチングゼラチン)と呼ばれる発明品であり、不活性物質である珪藻土の使用をやめ、爆薬の威力を高めるものであった。彼はこれらの製品を事業化し、多大な利益を得た。ダイナマイトという名前は「力」を意味するギリシア語δύναμις(dunamis)に由来する。
日本では明治に入ると外国から輸入され琵琶湖疏水の工事などで使用されていたが、当時は貴重な外貨を消費して輸入される貴重品であった。日露戦争では大量のダイナマイトが使用され、旅順攻囲戦における坑道戦にてロシア軍の東鶏冠山北堡塁を2,300kgものダイナマイトで吹き飛ばしたのが初めての本格的な使用である。国産ダイナマイトの製造が始まったのは群馬県岩鼻村(現在の高崎市)に、東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所が作られてからである。1905年(明治38年)から製造が始まっている。東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所の跡地は現在では群馬の森になっており、ダイナマイト発祥の地と刻まれた記念碑が建っている。
ノーベルは本来は土木工事の安全性向上を目的としてダイナマイトを発明したのであり、それが戦争に用いられたのはその意志に反していたという風聞があるが、実際にはノーベルにとってダイナマイトが戦争目的で使われることは想定内であった。むしろノーベルは、ダイナマイトのような破壊力の大きな兵器が使われることで、それが戦争抑止力として働くことを期待した。しかし実際は戦争の激化を招き、ノーベルの名は「死の商人」として世に知られる事となり、この事がノーベル賞設立の動機となった。
歴史的にノーベルが発明した最初のダイナマイトで、危険なニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませて安全化した。珪藻土は不活性物質で、爆力には不利である。これは後にゼリグナイトに置き換えられ、珪藻土ダイナマイトは既に100年近く作られていないが、今も法律用語として生きている。
ニトログリセリンを硝酸ソーダと木粉等の活性吸収剤にしみ込ませたもので、綿薬を使用しない。ニトログリセリンの含有量を適宜変えて各種の威力のダイナマイトが作れる。研究用途であり、産業用には使用されない。
現在の産業用ダイナマイトはニトロゲルに各種酸化剤と燃料を混合したもので、ニトロゲルのパーセンテージが高いと膠質(ゲル状の固体)になり、低いと粉状になる。目的・用途により各種製造されている。
桐、榎、梅などには製造会社や配合の小変化に伴い白、新などの語を付け加えることが多い。
産業用ダイナマイトの多くは直径32または25 mmの円柱状に成型し、薬包紙で包み、溶融パラフィンに浸漬して外側に耐水、耐湿の皮膜をつくり保護する。粉状ダイナマイトは薬包紙筒かポリエチレン袋に充填包装する。
近来はニトログリセリンの一部がニトログリコールで置き換えられている。かつてニトログリコールは不凍ダイナマイトに少量使用されるのみであったが、石油化学技術の発達により原料となるエチレングリコールが天然油脂の加水分解で作るグリセリンよりも安価に製造できるようになったため、ニトログリコールの使用量が増した。
ダイナマイトよりも安全かつ安価な含水爆薬やアンホ爆薬への置き換えが進み、またダイナマイト並みの威力を持った代替品も開発されたため、日本の各メーカーでの廃品種化も進みつつある。
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ダイナマイトは、ニトログリセリンを主剤とする爆薬の総称。アルフレッド・ノーベルが最初に発明したのはニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませたもの。現代の日本においては、社団法人火薬学会の規格では6%をこえるニトロゲル(後述のゼリグナイト)を含有する爆薬の総称と規定されている。
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{{Otheruses}}
[[Image:Dynamite-5.svg|thumb|'''ダイナマイトの構造'''<br />A. ニトログリセリンをしみ込ませた[[おがくず]](その他の材料でも可)。<br />B. 爆発物を包む保護層。<br />C. 雷管。<br />D. 雷管のコード。]]
'''ダイナマイト'''({{lang-en-short|dynamite}})は、[[ニトログリセリン]]を主剤とする[[爆薬]]の総称。[[アルフレッド・ノーベル]]が最初に発明したのはニトログリセリンを[[珪藻土]]にしみ込ませたもの。現代の日本においては、[[社団法人]][[火薬学会]]の規格では6%をこえるニトロゲル(後述のゼリグナイト)を含有する爆薬の総称と規定されている。
== 歴史 ==
[[ファイル:AlfredNobel2.jpg|thumb|120px|left|ノーベル]]
[[1846年]]に発見された[[ニトログリセリン]]は、鋭敏な[[爆発物]]で爆薬としての実用は困難であった。実用できる爆発物には、多少の衝撃に反応せず、経時劣化を起こしたり化学変化を起こしたりしない安定性が必要となる。[[アルフレッド・ノーベル]]は[[1866年]]にニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませ安全化し{{#tag:ref|1868年に米国特許<ref>{{Anchors|nobel1868}}Nobel, Alfred(1868年5月26日)『Improved explosive compound』米国特許庁、[http://patimg1.uspto.gov/.piw?Docid=00078317 US000078317]、https://www.google.com/patents/about?id=ArMAAAAAEBAJ 、2010年10月24日閲覧。</ref>を取得。|group=†}}、さらに[[雷管]]を発明して爆発のコントロールに成功した。[[1875年]]にはニトログリセリンと、同様に爆薬である[[ニトロセルロース|低硝化綿薬]](弱綿薬)を混合して[[ゲル]]状とし、[[珪藻土]]を用いたときと同様に安定化するのに成功した。これは[[ゼリグナイト]](ブラスチングゼラチン)と呼ばれる発明品であり、不活性物質である珪藻土の使用をやめ、爆薬の威力を高めるものであった。彼はこれらの製品を事業化し、多大な利益を得た。ダイナマイトという名前は「力」を意味する[[ギリシア語]]{{lang|el|δύναμις}}(dunamis)に由来する。
[[ファイル:Forest of Gunma dynamite monument.jpg|thumb|[[群馬の森]]([[群馬県]][[高崎市]]、岩鼻火薬製造所跡)に建つダイナマイト発祥の地の碑]]
[[日本]]では[[明治]]に入ると外国から輸入され[[琵琶湖疏水]]の工事などで使用されていたが、当時は貴重な外貨を消費して輸入される貴重品であった。[[日露戦争]]では大量のダイナマイトが使用され、[[旅順攻囲戦]]における[[坑道戦]]にてロシア軍の東鶏冠山北堡塁を2,300kgものダイナマイトで吹き飛ばしたのが初めての本格的な使用である。国産ダイナマイトの製造が始まったのは群馬県[[岩鼻村]](現在の高崎市)に、[[東京砲兵工廠]]岩鼻火薬製造所が作られてからである。[[1905年]](明治38年)から製造が始まっている。東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所の跡地は現在では[[群馬の森]]になっており、ダイナマイト発祥の地と刻まれた記念碑が建っている。
ノーベルは本来は[[土木工事]]の安全性向上を目的としてダイナマイトを発明したのであり、それが戦争に用いられたのはその意志に反していたという風聞があるが、実際にはノーベルにとってダイナマイトが戦争目的で使われることは想定内であった。むしろノーベルは、ダイナマイトのような破壊力の大きな兵器が使われることで、それが戦争抑止力として働くことを期待した<ref>『当った予言、外れた予言』ジョン・マローン著 [[文春文庫]] ISBN 4167308967</ref>。しかし実際は戦争の激化を招き、ノーベルの名は「死の商人」として世に知られる事となり、この事が[[ノーベル賞]]設立の動機となった。
== 種別 ==
{{複数の問題
| section = 1
| 出典の明記 = 2020年7月
| 独自研究 = 2020年7月
}}
=== 珪藻土のダイナマイト ===
歴史的にノーベルが発明した最初のダイナマイトで、危険なニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませて安全化した。珪藻土は不活性物質で、爆力には不利である。これは後にゼリグナイトに置き換えられ、珪藻土ダイナマイトは既に100年近く作られていないが、今も法律用語として生きている。
=== ストレートダイナマイト ===
ニトログリセリンを[[硝酸ナトリウム|硝酸ソーダ]]と木粉等の活性吸収剤にしみ込ませたもので、綿薬を使用しない。ニトログリセリンの含有量を適宜変えて各種の威力のダイナマイトが作れる。研究用途であり、産業用には使用されない。
=== 膠質ダイナマイトと粉状ダイナマイト ===
現在の産業用ダイナマイトはニトロゲルに各種[[酸化剤]]と[[燃料]]を混合したもので、ニトロゲルのパーセンテージが高いと[[膠|膠質]](ゲル状の固体)になり、低いと粉状になる。目的・用途により各種製造されている。<!-- 松・桜・桐・榎・梅の各ダイナマイトについては、JIS K 4800 火薬用語 に記載がある。 -->
;松ダイナマイト
:ニトロゲル(ゼリグナイト)そのもののダイナマイト。ダイナマイトの中では最大の威力を誇る。研究試験用など特殊用途以外には使用されない<ref>温泉旅館に爆破男 酔ってマイト投げる『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月8日夕刊 3版 11面</ref>。
;桜ダイナマイト
:膠質ダイナマイトのひとつ。ニトロゲルに酸素供給剤として[[硝酸カリウム]]または[[硝酸ナトリウム]]を混合して造る。今日では産業用用途には用いられていない。
;桐ダイナマイト
:膠質ダイナマイトのひとつ。ニトロゲルに酸素供給剤として[[硝酸アンモニウム]]を混合して造る。主力産業用ダイナマイトのひとつ。新桐、3号桐等がある。
;榎ダイナマイト
:膠質ダイナマイトのひとつ。桐ダイナマイトを改良したもので、酸素供給剤として硝酸アンモニウムの他に硝酸カリウムまたは硝酸ナトリウムを混合し、爆発後に残るガス(後ガス)を改善したもの。坑内用にも使用できる。2号榎が一般的である。
;梅ダイナマイト
:膠質ダイナマイトのひとつ。桐ダイナマイトに減熱消炎剤([[塩化ナトリウム|食塩]]など)を加え、炭坑内で[[メタン]]ガスや[[炭塵]]に着火しないようにした[[検定爆薬]]。[[炭坑]]掘進用の主力ダイナマイトであったが、炭坑の衰微にともない、使用量は激減した。
;桂ダイナマイト
:硝酸アンモンを酸化剤とする粉状ダイナマイト。[[非検定爆薬]]。
;硝安ダイナマイト
:粉状ダイナマイト。硝酸アンモンを酸化剤とし、減熱消炎剤を加えた炭坑坑内用主力ダイナマイト。検定爆薬。現在の使用量はわずかである。
=== 備考 ===
桐、榎、梅などには製造会社や配合の小変化に伴い白、新などの語を付け加えることが多い。
産業用ダイナマイトの多くは直径32または25{{nbsp}}[[ミリメートル|mm]]の円柱状に成型し、[[薬包紙]]で包み、溶融[[パラフィン]]に浸漬して外側に耐水、耐湿の皮膜をつくり保護する。粉状ダイナマイトは薬包紙筒か[[ポリエチレン]]袋に充填包装する。
近来はニトログリセリンの一部が[[ニトログリコール]]で置き換えられている。かつてニトログリコールは不凍ダイナマイトに少量使用されるのみであったが、[[石油化学]]技術の発達により原料となる[[エチレングリコール]]が天然[[油脂]]の[[加水分解]]で作る[[グリセリン]]よりも安価に製造できるようになったため、ニトログリコールの使用量が増した。
ダイナマイトよりも安全かつ安価な[[含水爆薬]]や[[アンホ爆薬]]への置き換えが進み、またダイナマイト並みの威力を持った代替品も開発されたため、日本の各メーカーでの廃品種化も進みつつある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kayakujapan.co.jp/sale/dynamite.html |title=産業用火薬爆薬類 ダイナマイト |publisher=カヤク・ジャパン株式会社 |language=ja |accessdate=2023-1-31 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220705084414/https://www.kayakujapan.co.jp/sale/dynamite.html |archivedate=2022-07-05 --> }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kayakujapan.co.jp/sale/ultex_enoki_kiri.html |title=アルテックス®榎、桐(高威力含水爆薬) |publisher=カヤク・ジャパン株式会社 |language=ja |accessdate=2023-1-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-kayaku.jp/product |title=国内生産品リスト |publisher=日本火薬工業会 |language=ja |accessdate=2023-1-31}}</ref>。
==ダイナマイトに関連した主な事件・事故==
* [[1955年]] - [[秋葉ダム・ダイナマイト爆発事故]]
== 脚注 ==
{{Reflist|group=†}}
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Dynamite}}
* [[ノーベル賞]]
* [[ダイナマイト砲]]
* [[ダイナマイト漁]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20060630065530/http://www.oregon.gov/OSP/AES/Dynamite.shtml Oregon State Police - Arson and Explosives Section (Handling instructions and photos)]
* [http://www.datafieldindia.com/detonator_cables.html Detonator cables]
* {{Kotobank}}
{{DEFAULTSORT:たいなまいと}}
[[Category:火薬]]
[[Category:爆薬]]
[[Category:民生転用技術]]
[[Category:アルフレッド・ノーベル]]
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ライン
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ライン
一般概念。普通名詞。
英語の「Ryne」
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ライン
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{{Wiktionary|ライン|line|Rhine|en:ryne}}
'''ライン'''
== 一般概念 ==
一般概念。[[普通名詞]]。
* [[線]]、[[直線]]、[[行]](line)。
* [[ライン (単位)]](line) - [[ヤード・ポンド法]]の長さの単位。
* [[ライン (音響機器)]](line) - 音響機器の入出力に用いられる端子。
* 釣り糸(line)。{{main|[[道糸]]}}
* [[ライン (競輪)]] - 数人の選手が一列に並ぶ競輪の戦法。
* [[ライン生産方式]]、生産ライン([[:en:production line]]) - ある製品を作るために、複数名で別々の工程を担当して、まるでひとつの線のようにつながった状態で、流れ作業を行うこと。(「生産ライン」はその作業を行うための施設と働く人々。工場内ではしばしば「ライン」と略す。)
* ライン部門{{main|[[ラインアンドスタッフ]]}}
* 反復配列の一種{{main|[[長鎖散在反復配列]]}}
== 企業名およびそのサービス名 ==
* [[LINE (企業)]] - 東京都新宿区に本社を置き、主にLINE (アプリケーション)などを運営する日本の企業。
** [[LINE (アプリケーション)]] - [[モバイルメッセンジャー]]アプリケーション。
== 地名 ==
* [[ライン (レヒ)]] (Rain) - ドイツ・バイエルン州ドナウ=リース郡の市。
* [[ライン川]] (Rhein) - ヨーロッパ6か国を流れる国際河川。
* [[ライン諸島]] (Line) - 太平洋に存在する島嶼郡。アメリカ合衆国とキリバスが領有している。
* [[ライン郡区]] - ミャンマー・ヤンゴン市の行政区画。
== 都市計画名 ==
* [[ザ・ライン]](The Line) - サウジアラビア・タブーク州ネオムに建設中の、全長170キロメートル、幅200メートルの直線状のスマートシティ、建物。
== 作品名 ==
;楽曲
* ライン (Rhein) - [[ロベルト・シューマン]]の楽曲(1851年){{main|[[交響曲第3番 (シューマン)]]}}
* LINE - [[中村由真]]の楽曲、アニメ[[美味しんぼ]]エンディングテーマ。[[Dang Dang 気になる]]のカップリング(1989年)。
* [[ライン (アルバム)]] - [[遊吟]]のファーストアルバム(2008年)。
* ライン - [[Salyu]]の楽曲、シングル『[[アイニユケル/ライン]]』に収録(2014年)。
* [[LINE (スキマスイッチの曲)]] - [[スキマスイッチ]]のシングル曲(2015年)。
;小説
* ライン - [[村上龍]]の小説(2002年刊、幻冬舎文庫)。
;漫画
* [[ライン (漫画)]] - [[小手川ゆあ]]による漫画(2003年)。
== 姓 ==
* [[ヴィルヘルム・ライン]] (Rein、1847 - 1929) - ドイツの[[教育学]]者。
* [[ヨハネス・ユストゥス・ライン]] (Reinm、1853 - 1918) - ドイツの[[地理学]]者。
* [[ジョゼフ・バンクス・ライン]] (Rhine、1895 - 1980) - アメリカの[[超心理学]]者。
* {{仮リンク|ピーター・ライン|en|Peter Line}} (Line、1974 - ) - アメリカのスノーボーダー
== 男性名 ==
英語の「Ryne」
* [[ライン・サンドバーグ]] (1959 - ) - アメリカの野球選手 ([[二塁手]])、[[アメリカ野球殿堂]]、通算2386安打・282本塁打
* {{仮リンク|ライン・サンボーン|en|Ryne Sanborn}} (1989 - ) - アメリカのアイスホッケー選手
* [[ライン・スタネック]] (1991 - ) - アメリカの野球選手 ([[投手]])
* {{仮リンク|ライン・デュレン|en|Ryne Duren}} (1929 - 2011) - アメリカの野球選手 ([[投手]])、[[MLBオールスターゲーム]]4回選出
* [[ライン・ネルソン]] (1998 - ) - アメリカの野球選手 ([[投手]])
* [[ライン・ハーパー]] (1989 - ) - アメリカの野球選手 ([[投手]])
== 関連項目 ==
* [[レイン]]
* [[ボーダーライン]] (borderline) ‐ 境界線
* [[パイプライン]] (pipeline)
* [[オンライン]] (online) - インターネット回線
* [[シルエット (曖昧さ回避)]] (silhouette) - ボディライン
* [[ルート]] (root)
* [[リネ]] (Line) - [[デンマーク語]]、[[ノルウェー語]]等の女性名
* [[ライナー]] (liner, Reiner, Ryner)
* [[ライノ]] (Ryno) - Ryneの愛称
* [[ラインハルト]] (Reinhard, Reinhardt)
*{{Prefix}}
*{{intitle}}
* [[Wikipedia:索引 らいん]]
* [[:en:Special:PrefixIndex/Line]]
* [[:en:Special:PrefixIndex/Ryne]]
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:らいん}}
[[Category:英語の語句]]
[[Category:ドイツ語の姓]]
[[Category:英語の姓]]
[[Category:英語の男性名]]
[[Category:同名の作品]]
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ユウロピウム
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ユウロピウム(英: europium [jʊˈroʊpiəm])は、原子番号63の元素である。元素記号は Eu。希土類元素、ランタノイド元素に属する。
地名のヨーロッパにちなんで名づけられた。
銀白色の金属で、ナイフで切ることができるほど柔らかい。常温、常圧で安定な結晶構造は体心立方構造 (BCC) で、比重は5.24、融点は822 °C、沸点は1527 °C(融点、沸点とも異なる実験値あり)。希土類元素中でも反応性が高いことで知られ、単体は空気中で速やかに酸化され、水に対してはカルシウムと同程度の反応性を持つ。熱水、酸には易溶。アンモニア(液体)に溶ける。ハロゲン元素と反応し3価のハロゲン化物を生成する。
原子価は+2, +3価があり、一般的には3価のほうが安定で、無色の2価のイオンは水溶液中では酸化されやすく、淡桃色の3価のイオンになる。標準酸化還元電位は以下の通りである。
しかし希土類元素中では最も安定な2価状態をとり、硫酸ユウロピウム(II) EuSO4 が水に難溶性であるなど2価の化合物はストロンチウムに類似の性質を示す。このため自然界ではユウロピウムは斜長石などアルカリ土類金属を含む鉱物中に見出されることが多く、モナズ石など通常の希土類鉱物中の含有率は異常に少ない(ユウロピウム異常)。
発光挙動は+3価が赤色であるのに対して、+2価は周辺環境によって青色、緑色、黄色と変化する。
カルコゲン化ユウロピウムは磁性半導体として重要。カルコゲンとは硫黄、セレンなどの第16族元素のことである(酸素は除かれる場合がある)。
酸化イットリウム(III) Y2O3などに酸化ユウロピウム(III) Eu2O3 をドープした化合物はブラウン管カラーテレビの発光面、3波長形蛍光灯の蛍光体などに使われている。青色発光ダイオードが製品化されてからは、Euドープのαサイアロンが青色の補色である黄色―琥珀色蛍光体として用いられ、白色ダイオードを実現するのに用いられている。
ウジェーヌ・ドマルセー (E.A.Demarçay) が1896年に発見し、1901年に単離に成功した。
原子価は2価および3価のものがある。
ユウロピウムの安定同位体は、Euのみである。しかし、Euは長い半減期を持った核種であるため、現在の地球において、Euも天然に比較的まとまった量が存在している。
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ユウロピウムは、原子番号63の元素である。元素記号は Eu。希土類元素、ランタノイド元素に属する。
|
{{Expand English|Europium|date=2023-11}}
{{Elementbox
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|japanese name=ユウロピウム
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|symbol=Eu
|pronounce={{IPAc-en|j|ʊ|ˈ|r|oʊ|p|i|əm}}<br> {{respell|yoo|ROH|pee-əm}}
|left=[[サマリウム]]
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|series=ランタノイド
|group=3
|period=6
|block=f
|image name=Europium.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=151.964
|electron configuration=[[[キセノン|Xe]]] 4f<sup>7</sup> 6s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 25, 8, 2
|phase=固体
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|melting point K=1099
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|crystal structure=body-centered cubic
|japanese crystal structure=[[立方晶系]]
|oxidation states='''3''', 2(弱[[塩基性酸化物]])
|electronegativity=? 1.2
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|1st ionization energy=547.1
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|atomic radius=180
|covalent radius=198 ± 6
|magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name=magnet>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf |date=2012年1月12日 }}, in {{RubberBible86th}}</ref>
|electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (poly) 0.900 µ
|thermal conductivity=est. 13.9
|thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (poly) 35.0
|Young's modulus=18.2
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|Poisson ratio=0.152
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|CAS number=7440-53-1
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=150 | sym=Eu
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=36.9 [[年|y]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=2.261 | pn=150 | ps=[[サマリウム|Sm]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=151 | sym=Eu
| na=47.8 % | hl=5 × 10<sup>18</sup> [[年|y]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de= | pn=147 | ps=[[プロメチウム|Pm]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=152 | sym=Eu
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=13.516 [[年|y]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=1.874 | pn1=152 | ps1=[[サマリウム|Sm]]
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{{Elementbox_isotopes_stable | mn=153 | sym=Eu | na=52.2 % | n=90}}
|isotopes comment=
}}
'''ユウロピウム'''({{lang-en-short|europium}} {{IPA-en|jʊˈroʊpiəm|}})は、[[原子番号]]63の[[元素]]である。[[元素記号]]は '''Eu'''。[[希土類元素]]、[[ランタノイド元素]]に属する。
== 名称 ==
地名の[[ヨーロッパ]]にちなんで名づけられた。
== 性質 ==
銀白色の[[金属]]で、ナイフで切ることができるほど柔らかい。常温、常圧で安定な結晶構造は[[体心立方構造]] (BCC) で、[[比重]]は5.24、[[融点]]は822 {{℃}}、[[沸点]]は1527 {{℃}}(融点、沸点とも異なる実験値あり)。希土類元素中でも反応性が高いことで知られ、単体は空気中で速やかに酸化され、水に対してはカルシウムと同程度の反応性を持つ。熱水、[[酸]]には易溶。[[アンモニア]](液体)に溶ける。[[ハロゲン元素]]と反応し3価のハロゲン化物を生成する。
原子価は+2, +3価があり、一般的には3価のほうが安定で、無色の2価のイオンは水溶液中では酸化されやすく、淡桃色の3価のイオンになる。標準酸化還元電位は以下の通りである。
: <chem>Eu^{3+}(aq){} + \mathit{e}^- \ = \ Eu^{2+}(aq)\ </chem> <math>(\ E^\circ = -0.35\,\mathrm V)</math>
しかし希土類元素中では最も安定な2価状態をとり、[[硫酸ユウロピウム(II)]] EuSO<sub>4</sub> が水に難溶性であるなど2価の化合物は[[ストロンチウム]]に類似の性質を示す。このため自然界ではユウロピウムは[[斜長石]]など[[アルカリ土類金属]]を含む鉱物中に見出されることが多く、[[モナズ石]]など通常の希土類鉱物中の含有率は異常に少ない(ユウロピウム異常)。
発光挙動は+3価が赤色であるのに対して、+2価は周辺環境によって青色、緑色、黄色と変化する<ref name=kakonichi201507>「青学大 希土類系青色ナノ粒子 低温焼成で実現」『化学工業日報』2015年7月1日p1、東京、化学工業日報社</ref>。
== 用途 ==
カルコゲン化ユウロピウムは[[磁性半導体]]として重要。[[第16族元素|カルコゲン]]とは[[硫黄]]、[[セレン]]などの[[第16族元素]]のことである([[酸素]]は除かれる場合がある)。
[[酸化イットリウム(III)]] Y<sub>2</sub>O<sub>3</sub>などに[[酸化ユウロピウム(III)]] Eu<sub>2</sub>O<sub>3</sub> を[[ドープ]]した化合物は[[ブラウン管]][[カラーテレビ]]の発光面、3波長形[[蛍光灯]]の[[蛍光体]]などに使われている。青色[[発光ダイオード]]が製品化されてからは、Euドープのαサイアロンが青色の補色である黄色―琥珀色蛍光体として用いられ、白色ダイオードを実現するのに用いられている。
== 歴史 ==
[[ウジェーヌ・ドマルセー]] (E.A.Demarçay) が[[1896年]]に発見し<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 277|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>、[[1901年]]に単離に成功した。
== ユウロピウムの化合物 ==
[[原子価]]は2価および3価のものがある。
* [[酸化ユウロピウム(II)]] (EuO)
* [[酸化ユウロピウム(III)]] (Eu<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) - セスキ酸化ユウロピウム
* [[塩化ユウロピウム(II)]] (EuCl<sub>2</sub>)
* [[硫化ユウロピウム(II)]] (EuS)
* [[セレン化ユウロピウム(II)]] (EuSe)
* [[テルル化ユウロピウム(II)]] (EuTe)
* [[オキシ塩化ユウロピウム]] (EuOCl)
* [[硫酸ユウロピウム(III)]] (Eu<sub>2</sub>S<sub>3</sub>O<sub>12</sub>)
* [[硝酸ユウロピウム(III)]] (EuN<sub>3</sub>O<sub>9</sub>)
* [[酢酸ユウロピウム(III)]] (EuC<sub>6</sub>H<sub>9</sub>O<sub>6</sub>)
== 同位体 ==
{{main|ユウロピウムの同位体}}
ユウロピウムの安定同位体は、<sup>153</sup>Euのみである。しかし、<sup>151</sup>Euは長い[[半減期]]を持った核種であるため、現在の地球において、<sup>151</sup>Euも天然に比較的まとまった量が存在している。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Commons|Europium}}
{{元素周期表}}
{{ユウロピウムの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆうろひうむ}}
[[Category:ユウロピウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:ランタノイド]]
[[Category:第6周期元素]]
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"Template:ユウロピウムの化合物"
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10,120 |
FIFAコンフェデレーションズカップ
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FIFAコンフェデレーションズカップ(英: FIFA Confederations Cup)は、 かつて国際サッカー連盟(FIFA)によって4年ごとに開催されていた、男子代表チームの国際サッカー大会である。6つの大陸選手権のそれぞれの優勝国と、FIFAワールドカップの優勝国・開催国によって争われ、最大8チームによって争われた。
1992年にサウジアラビアで開始され、1997年の第3回大会から2017年大会までは国際サッカー連盟(FIFA)によって開催された。各大陸の代表は、それぞれの大陸連盟が主催する大陸選手権大会で決まっていた。日本においては「コンフェデ」や「コンフェデ杯」などと略された。
代替大会としてFIFAクラブワールドカップを2021年から4年に1度開催する予定であったが延期された。
1992年に、当時アジアカップのタイトルを保持していたサウジアラビアと、他の大陸王者とを戦わせるという目的で始まった。参加したのは開催国でアジア王者のサウジアラビア、南米王者のアルゼンチン、北中米カリブ海王者のアメリカ合衆国、アフリカ王者のコートジボワールの4か国だった。このころは国際サッカー連盟(FIFA)が主催する大会ではなく、サウジアラビアが開催国として大会を運営しており、大会名もキング・ファハド・カップという名前だった。
1995年に第2回大会が行われ、このとき1992年のアジアカップ(上記第1回大会の直後に行われた)を制した日本と、欧州からデンマークが参加した。1997年に第3回大会が行われ、このときオセアニア王者のオーストラリアも参加し、すべての大陸王者が参加する大会になった。また、大会の管轄がFIFAに移管され、大会名称も現在のFIFAコンフェデレーションズカップに変更となった。1999年に第4回大会が行われ、開催地がメキシコとなり、初めてサウジアラビア以外の国で開催された。
2001年には、翌年のFIFAワールドカップ・日韓大会のプレ公式大会として、第5回大会が日本と韓国で共催された。なお、これ以前のワールドカップのプレ大会は、開催国が独自にプレ親善大会を行っていた。2003年は前回優勝国であるフランスで開催された。しかし、ほぼ中1日間隔という強行日程が問題となった。2005年はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のプレ公式大会として、ドイツで開催された。この大会でFIFAワールドカップのプレ公式大会として正式に定義され、以降、翌年のワールドカップ本大会の開催国で開催されていた。
2018年、FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長が各大陸の連盟に送った書簡によると、第10回大会のFIFAコンフェデレーションズカップ2017を最後に廃止されることが決まった。理由はファンやスポンサーから支持が得られなかった為と見られている。代替大会としてFIFAクラブワールドカップを2021年から4年に1度の開催とし、コンフェデレーションズカップと同様にFIFAワールドカップのプレ公式大会として、ワールドカップ開催国で前年の6月頃に18日間の日程で開催する予定であったが、延期されている。
キング・ファハド・カップがコンフェデレーションズカップとしてFIFAに管轄が移ってから、本大会は2年に1度、世界の勢力図を測るためのもう1つの世界一決定戦として一旦は位置付けられていた。しかし、決勝まで進出するチームはわずか10日から12日の中で5試合を行い、試合間隔は基本的に中1日という、A代表によって争われる国際大会としては異例の過密日程や、当時は国際Aマッチデーが定められておらず、大会の開催期間が欧州のリーグ戦日程と重なるということもあり、出場国のモチベーションが高くなく、一流選手が出場を見送ることも常態化するなど、価値の高い大会とは言えなかった。
2003年の第6回フランス大会では、この超過密日程の影響が最悪の形で現れた。6月26日に行われた準決勝カメルーン対コロンビア戦の試合中にカメルーン代表のマルク・ヴィヴィアン・フォエが試合中にピッチ上で倒れ、そのまま亡くなる事件が発生した。その後の3位決定戦、決勝戦では試合前に黙祷がささげられ、選手全員が喪章をつけて試合に臨むという追悼ムードに包まれたままの大会閉幕になった。この一件により、サッカーにおける過密日程どころか大会の廃止までもが議論の焦点となった。
そこでFIFAは第8回南アフリカ大会からは大会の間隔を従来の2年に1度から4年に1度に変え、開催地を翌年開かれるFIFAワールドカップ・本大会の開催国とした。この決定によって、コンフェデレーションズカップは「FIFAワールドカップのプレ公式大会」としてサッカー界のカレンダーに明確に再定義されることになった。また、試合間隔も2005年の第7回ドイツ大会からは中2日に改められた。
大会の価値を少しでも高めようと、FIFAは比較的高い賞金を支払っており、2009年の第8回南アフリカ大会の賞金総額は1760万ドル(約17億6000万円)で、優勝賞金は375万ドル(約3億7125万円)、2位は325万ドル(約3億2175万円)、3位275万ドル(約2億7225万円)、4位225万ドル(約2億2275万円)、残りの4チームにも140万ドル(約1億3860万円)が支払われた。
第9回ブラジル大会では賞金として、優勝が410万ドル(約3億8000万円)、2位は360万ドル(約3億3000万円)、3位300万ドル(約2億7820万円)、4位250万ドル(約2億3180万円)、残りの4チームには140万ドル(約1億6000万円)、賞金総額2000万ドル(約18億6000万円)を支払う。決勝トーナメント進出国の賞金を上げ、賞金総額は南アフリカ大会よりも14%アップした。
1997年大会以降は、出場チームは8チームとなっており、以下の方式で実施された。それ以前の大会については各大会記事を参照。
|
[
{
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"text": "FIFAコンフェデレーションズカップ(英: FIFA Confederations Cup)は、 かつて国際サッカー連盟(FIFA)によって4年ごとに開催されていた、男子代表チームの国際サッカー大会である。6つの大陸選手権のそれぞれの優勝国と、FIFAワールドカップの優勝国・開催国によって争われ、最大8チームによって争われた。",
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{
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"text": "1992年にサウジアラビアで開始され、1997年の第3回大会から2017年大会までは国際サッカー連盟(FIFA)によって開催された。各大陸の代表は、それぞれの大陸連盟が主催する大陸選手権大会で決まっていた。日本においては「コンフェデ」や「コンフェデ杯」などと略された。",
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"text": "代替大会としてFIFAクラブワールドカップを2021年から4年に1度開催する予定であったが延期された。",
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{
"paragraph_id": 3,
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"text": "1992年に、当時アジアカップのタイトルを保持していたサウジアラビアと、他の大陸王者とを戦わせるという目的で始まった。参加したのは開催国でアジア王者のサウジアラビア、南米王者のアルゼンチン、北中米カリブ海王者のアメリカ合衆国、アフリカ王者のコートジボワールの4か国だった。このころは国際サッカー連盟(FIFA)が主催する大会ではなく、サウジアラビアが開催国として大会を運営しており、大会名もキング・ファハド・カップという名前だった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "1995年に第2回大会が行われ、このとき1992年のアジアカップ(上記第1回大会の直後に行われた)を制した日本と、欧州からデンマークが参加した。1997年に第3回大会が行われ、このときオセアニア王者のオーストラリアも参加し、すべての大陸王者が参加する大会になった。また、大会の管轄がFIFAに移管され、大会名称も現在のFIFAコンフェデレーションズカップに変更となった。1999年に第4回大会が行われ、開催地がメキシコとなり、初めてサウジアラビア以外の国で開催された。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2001年には、翌年のFIFAワールドカップ・日韓大会のプレ公式大会として、第5回大会が日本と韓国で共催された。なお、これ以前のワールドカップのプレ大会は、開催国が独自にプレ親善大会を行っていた。2003年は前回優勝国であるフランスで開催された。しかし、ほぼ中1日間隔という強行日程が問題となった。2005年はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のプレ公式大会として、ドイツで開催された。この大会でFIFAワールドカップのプレ公式大会として正式に定義され、以降、翌年のワールドカップ本大会の開催国で開催されていた。",
"title": "概要"
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{
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"text": "2018年、FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長が各大陸の連盟に送った書簡によると、第10回大会のFIFAコンフェデレーションズカップ2017を最後に廃止されることが決まった。理由はファンやスポンサーから支持が得られなかった為と見られている。代替大会としてFIFAクラブワールドカップを2021年から4年に1度の開催とし、コンフェデレーションズカップと同様にFIFAワールドカップのプレ公式大会として、ワールドカップ開催国で前年の6月頃に18日間の日程で開催する予定であったが、延期されている。",
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"text": "キング・ファハド・カップがコンフェデレーションズカップとしてFIFAに管轄が移ってから、本大会は2年に1度、世界の勢力図を測るためのもう1つの世界一決定戦として一旦は位置付けられていた。しかし、決勝まで進出するチームはわずか10日から12日の中で5試合を行い、試合間隔は基本的に中1日という、A代表によって争われる国際大会としては異例の過密日程や、当時は国際Aマッチデーが定められておらず、大会の開催期間が欧州のリーグ戦日程と重なるということもあり、出場国のモチベーションが高くなく、一流選手が出場を見送ることも常態化するなど、価値の高い大会とは言えなかった。",
"title": "概要"
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"text": "2003年の第6回フランス大会では、この超過密日程の影響が最悪の形で現れた。6月26日に行われた準決勝カメルーン対コロンビア戦の試合中にカメルーン代表のマルク・ヴィヴィアン・フォエが試合中にピッチ上で倒れ、そのまま亡くなる事件が発生した。その後の3位決定戦、決勝戦では試合前に黙祷がささげられ、選手全員が喪章をつけて試合に臨むという追悼ムードに包まれたままの大会閉幕になった。この一件により、サッカーにおける過密日程どころか大会の廃止までもが議論の焦点となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "そこでFIFAは第8回南アフリカ大会からは大会の間隔を従来の2年に1度から4年に1度に変え、開催地を翌年開かれるFIFAワールドカップ・本大会の開催国とした。この決定によって、コンフェデレーションズカップは「FIFAワールドカップのプレ公式大会」としてサッカー界のカレンダーに明確に再定義されることになった。また、試合間隔も2005年の第7回ドイツ大会からは中2日に改められた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "大会の価値を少しでも高めようと、FIFAは比較的高い賞金を支払っており、2009年の第8回南アフリカ大会の賞金総額は1760万ドル(約17億6000万円)で、優勝賞金は375万ドル(約3億7125万円)、2位は325万ドル(約3億2175万円)、3位275万ドル(約2億7225万円)、4位225万ドル(約2億2275万円)、残りの4チームにも140万ドル(約1億3860万円)が支払われた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "第9回ブラジル大会では賞金として、優勝が410万ドル(約3億8000万円)、2位は360万ドル(約3億3000万円)、3位300万ドル(約2億7820万円)、4位250万ドル(約2億3180万円)、残りの4チームには140万ドル(約1億6000万円)、賞金総額2000万ドル(約18億6000万円)を支払う。決勝トーナメント進出国の賞金を上げ、賞金総額は南アフリカ大会よりも14%アップした。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1997年大会以降は、出場チームは8チームとなっており、以下の方式で実施された。それ以前の大会については各大会記事を参照。",
"title": "開催方式"
}
] |
FIFAコンフェデレーションズカップは、 かつて国際サッカー連盟(FIFA)によって4年ごとに開催されていた、男子代表チームの国際サッカー大会である。6つの大陸選手権のそれぞれの優勝国と、FIFAワールドカップの優勝国・開催国によって争われ、最大8チームによって争われた。 1992年にサウジアラビアで開始され、1997年の第3回大会から2017年大会までは国際サッカー連盟(FIFA)によって開催された。各大陸の代表は、それぞれの大陸連盟が主催する大陸選手権大会で決まっていた。日本においては「コンフェデ」や「コンフェデ杯」などと略された。 代替大会としてFIFAクラブワールドカップを2021年から4年に1度開催する予定であったが延期された。
|
{{国際サッカー大会
|大会名 = FIFAコンフェデレーションズカップ<br />FIFA Confederations Cup
|画像 =
|開始年 = 1992
|終了年 = 2017
|主催 = [[国際サッカー連盟|FIFA]]
|地域 = [[世界]]
|参加チーム数 = 8
|国 = [[アジアサッカー連盟|AFC]]<br />[[アフリカサッカー連盟|CAF]]<br />[[北中米カリブ海サッカー連盟|CONCACAF]]<br />[[南米サッカー連盟|CONMEBOL]]<br />[[オセアニアサッカー連盟|OFC]]<br />[[欧州サッカー連盟|UEFA]]
|最多優勝 = {{fb|BRA}} (4回)
|サイト = [https://www.fifa.com/tournaments/mens/confederationscup 公式サイト]
|備考 =
}}
'''FIFAコンフェデレーションズカップ'''({{lang-en-short|FIFA Confederations Cup}})は、 かつて[[国際サッカー連盟]](FIFA)によって4年ごとに開催されていた、男子代表チームの国際[[サッカー]]大会である。6つの大陸選手権<ref group="注釈">[[アジアサッカー連盟|AFC]]、[[アフリカサッカー連盟|CAF]]、[[北中米カリブ海サッカー連盟|Concacaf]]、[[南米サッカー連盟|CONMEBOL]]、[[オセアニアサッカー連盟|OFC]]、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]。</ref>のそれぞれの優勝国と、[[FIFAワールドカップ]]の優勝国・開催国によって争われ、最大8チームによって争われた。
1992年に[[サウジアラビアサッカー連盟|サウジアラビア]]で開始され、[[FIFAコンフェデレーションズカップ1997|1997年の第3回大会]]から[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|2017年大会]]までは[[国際サッカー連盟]](FIFA)によって開催された。各大陸の代表は、それぞれの大陸連盟が主催する大陸選手権大会で決まっていた。日本においては「'''コンフェデ'''」や「'''コンフェデ杯'''」などと略された。
代替大会として[[FIFAクラブワールドカップ]]を2021年から4年に1度開催する予定であったが延期された<ref name="haishi">[https://www.afpbb.com/articles/-/3171727?cx_part=top_category&cx_position=2 クラブW杯を4年ごとの開催に、コンフェデ杯廃止へ―FIFA方針-AFPBB News2018年4月19日]</ref>。
== 概要 ==
{{出典の明記|date=2017-04|section=1}}
{{独自研究|date=2017-04|section=1}}
=== 歴史 ===
1992年に、当時[[AFCアジアカップ|アジアカップ]]のタイトルを保持していた[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア]]と、他の大陸王者とを戦わせるという目的で始まった。参加したのは開催国でアジア王者のサウジアラビア、南米王者の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]、北中米カリブ海王者の[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国]]、アフリカ王者の[[サッカーコートジボワール代表|コートジボワール]]の4か国だった。このころは[[国際サッカー連盟]](FIFA)が主催する大会ではなく、[[サウジアラビアサッカー連盟|サウジアラビア]]が開催国として大会を運営しており、大会名も'''[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|キング・ファハド]]・カップ'''という名前だった。
1995年に第2回大会が行われ、このとき1992年のアジアカップ(上記第1回大会の直後に行われた)を制した[[サッカー日本代表|日本]]と、欧州から[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]が参加した。1997年に第3回大会が行われ、このときオセアニア王者の[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]も参加し、すべての大陸王者が参加する大会になった。また、大会の管轄がFIFAに移管され、大会名称も現在の'''FIFAコンフェデレーションズカップ'''に変更となった。1999年に第4回大会が行われ、開催地が[[メキシコ]]となり、初めて[[サウジアラビア]]以外の国で開催された。
2001年には、翌年の[[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・日韓大会]]のプレ公式大会として、第5回大会が[[日本]]と[[大韓民国|韓国]]で共催された。なお、これ以前のワールドカップのプレ大会は、開催国が独自にプレ親善大会<ref group="注釈">例:[[1998 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・フランス大会]]前年の1997年に開催された[[:en:Tournoi de France (1997)|トゥルノワ・ド・フランス]]。4か国対抗の国際親善大会だった。</ref>を行っていた。2003年は前回優勝国である[[フランス]]で開催された。しかし、ほぼ中1日間隔という強行日程が問題となった。2005年は[[2006 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・ドイツ大会]]のプレ公式大会として、[[ドイツ]]で開催された。この大会で[[FIFAワールドカップ]]のプレ公式大会として正式に定義され、以降、翌年のワールドカップ本大会の開催国で開催されていた。
2018年、FIFAの[[ジャンニ・インファンティーノ]]会長が各大陸の連盟に送った書簡によると、第10回大会の[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017]]を最後に廃止されることが決まった。理由は[[ファン]]や[[スポンサー]]から支持が得られなかった為と見られている。代替大会として[[FIFAクラブワールドカップ]]を2021年から4年に1度の開催とし、コンフェデレーションズカップと同様に[[FIFAワールドカップ]]のプレ公式大会として、ワールドカップ開催国で前年の6月頃に18日間の日程で開催する予定であったが、延期されている<ref name="haishi" />。
=== 大会の意義 ===
キング・ファハド・カップがコンフェデレーションズカップとしてFIFAに管轄が移ってから、本大会は2年に1度、世界の勢力図を測るためのもう1つの世界一決定戦として一旦は位置付けられていた。しかし、決勝まで進出するチームはわずか10日から12日の中で5試合を行い、試合間隔は基本的に中1日という、A代表によって争われる国際大会としては異例の過密日程<ref group="注釈">23歳以下の代表によって行われる[[オリンピックのサッカー競技]]も[[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|アトランタオリンピック]]までは基本的に中1日で進められたが、[[2000年シドニーオリンピックのサッカー競技|シドニーオリンピック]]からは開会式前から競技を始めることで中2日の試合間隔を確保した。</ref>や、当時は[[国際Aマッチ|国際Aマッチデー]]が定められておらず<ref group="注釈">定められたのは2003年から。</ref>、大会の開催期間が欧州のリーグ戦日程と重なるということもあり、出場国のモチベーションが高くなく、一流選手が出場を見送ることも常態化するなど、価値の高い大会とは言えなかった。
2003年の第6回フランス大会では、この超過密日程の影響が最悪の形で現れた。6月26日に行われた準決勝[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]対[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦の試合中にカメルーン代表の[[マルク=ヴィヴィアン・フォエ|マルク・ヴィヴィアン・フォエ]]が試合中にピッチ上で倒れ、そのまま亡くなる事件が発生した。その後の3位決定戦、決勝戦では試合前に黙祷がささげられ、選手全員が喪章をつけて試合に臨むという追悼ムードに包まれたままの大会閉幕になった。この一件により、サッカーにおける過密日程どころか大会の廃止までもが議論の焦点となった。
そこでFIFAは第8回南アフリカ大会からは大会の間隔を従来の2年に1度から4年に1度に変え、開催地を翌年開かれるFIFAワールドカップ・本大会の開催国とした。この決定によって、コンフェデレーションズカップは「FIFAワールドカップのプレ公式大会」としてサッカー界のカレンダーに明確に再定義されることになった。また、試合間隔も2005年の第7回ドイツ大会からは中2日に改められた。
=== 賞金 ===
大会の価値を少しでも高めようと、FIFAは比較的高い賞金を支払っており、2009年の[[FIFAコンフェデレーションズカップ2009|第8回南アフリカ大会]]の賞金総額は1760万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](約17億6000万円)で、優勝賞金は375万ドル(約3億7125万円)、2位は325万ドル(約3億2175万円)、3位275万ドル(約2億7225万円)、4位225万ドル(約2億2275万円)、残りの4チームにも140万ドル(約1億3860万円)が支払われた<ref group="注釈">1[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]=99.0円で計算</ref><ref name="コンフェデQ&A">[https://megalodon.jp/2012-0630-0451-41/www.southafrica.info/2010/confedcupfaq.htm コンフェデレーションズカップ2009Q&A-南アフリカ政府オンライン]</ref>。
[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|第9回ブラジル大会]]では賞金として、優勝が410万ドル(約3億8000万円)、2位は360万ドル(約3億3000万円)、3位300万ドル(約2億7820万円)、4位250万ドル(約2億3180万円)、残りの4チームには140万ドル(約1億6000万円)、賞金総額2000万ドル(約18億6000万円)を支払う<ref>[https://web.archive.org/web/20140223145924/http://www.fifa.com/confederationscup/news/newsid=2013285/index.html Prize money up by 14 per cent-FIFA公式HP2013年2月15日]</ref>。決勝トーナメント進出国の賞金を上げ、賞金総額は南アフリカ大会よりも14%アップした。
== 各大陸代表選出の大会 ==
{| class=wikitable
!大陸連盟(地域)!!選出大会!!rowspan=7|[[ファイル:World_Map_FIFA.svg|350px]]
|-
|{{legend|#ffb6c1|[[アジアサッカー連盟|AFC]]([[アジア]])}}
|[[AFCアジアカップ]]
|-
|{{legend|#deb887|[[アフリカサッカー連盟|CAF]]([[アフリカ]])}}
|[[アフリカネイションズカップ]]
|-
|{{legend|#db7093|[[北中米カリブ海サッカー連盟|CONCACAF]]([[北アメリカ|北中米カリブ海]])}}
|[[CONCACAFゴールドカップ]]
|-
|{{legend|#8fbc8f|[[南米サッカー連盟|CONMEBOL]]([[南アメリカ|南米]])}}
|[[コパ・アメリカ]]
|-
|{{legend|#ffd700|[[オセアニアサッカー連盟|OFC]]([[オセアニア]])}}
|[[OFCネイションズカップ]]
|-
|{{legend|#4682b4|[[欧州サッカー連盟|UEFA]]([[ヨーロッパ]])}}
|[[UEFA欧州選手権]]
|}
* 基本的に上記6大会の優勝国に、開催国と招待国を加えた8か国で行われていた。招待国は直近の[[FIFAワールドカップ]]優勝国や上位進出国、前回大会の優勝国、上記6大会の上位進出国など様々である。6大会の優勝国、開催国、招待国などが重複した場合は複数の国が招待されていた。
== 開催方式 ==
1997年大会以降は、出場チームは8チームとなっており、以下の方式で実施された。それ以前の大会については各大会記事を参照。
;グループリーグ
:参加8か国をAとBの2つのグループに分け、総当たり1回戦のリーグ戦を実施する。
:*同一連盟から2か国が参加している場合、必ず別のグループに分けられる。
:*各国、3試合で勝敗を決める。
:*勝点は勝利は3点/引き分けは1点/負けは0点
:*勝点、得失点差、総得点の順で各組成績上位の2か国を決め、決勝トーナメントを実施。
;決勝トーナメント
:準決勝はA組1位とB組2位・A組2位とB組1位が其々対戦。準決勝の敗者で3位決定戦を、勝者で決勝戦を行う。
== 結果 ==
{| class="wikitable" border="1" style="border-collapse:collapse; font-size:90%; white-space:nowrap;" cellpadding="1" cellspacing="1"
!rowspan="2"|回!!rowspan="2"|開催年!!rowspan="2"|開催国!!rowspan="2"| !!colspan="3"|決勝戦!!rowspan="2"| !!colspan="3"|3位決定戦!!rowspan="2"| !!rowspan="2"|出場<br />国数
|-
!優勝!!結果!!準優勝!!3位!!結果!!4位
|-
!colspan="13"|キング・ファハド・カップ
|-
|align="center"|[[キング・ファハド・カップ1992|1]]
|[[1992年]]
|{{SAU}}
|rowspan="2" bgcolor=#FFFFFF|
|'''{{fb|ARG}}'''
|'''3 - 1'''
|{{fb|KSA}}
|rowspan="2" bgcolor=#FFFFFF|
|{{fb|USA}}
|'''5 - 2'''
|{{fb|CIV}}
|rowspan="2" bgcolor=#FFFFFF|
|align="center"|4
|- bgcolor=#D0E7FF
|align="center"|[[キング・ファハド・カップ1995|2]]
|[[1995年]]
|{{SAU}}
|'''{{fb|DEN}}'''
|'''2 - 0'''
|{{fb|ARG}}
|{{fb|MEX}}
|'''1 - 1''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 5 - 4)</small>
|{{fb|NGA}}
|align="center"|6
|-
!colspan="13"|FIFAコンフェデレーションズカップ
|-
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1997|3]]
|[[1997年]]
|{{SAU}}
|rowspan="8" bgcolor=#FFFFFF|
|'''{{fb|BRA}}'''
|'''6 - 0'''
|{{fb|AUS}}
|rowspan="8" bgcolor=#FFFFFF|
|{{fb|CZE}}
|'''1 - 0'''
|{{fb|URU}}
|rowspan="8" bgcolor=#FFFFFF|
|align="center"|8
|- bgcolor=#D0E7FF
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1999|4]]
|[[1999年]]
|{{MEX}}
|'''{{fb|MEX}}'''
|'''4 - 3'''
|{{fb|BRA}}
|{{fb|USA}}
|'''2 - 0'''
|{{fb|KSA}}
|align="center"|8
|-
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|5]]
|[[2001年]]
|{{JPN}} / {{KOR}}
|'''{{fb|FRA}}'''
|'''1 - 0'''
|{{fb|JPN}}
|{{fb|AUS}}
|'''1 - 0'''
|{{fb|BRA}}
|align="center"|8
|- bgcolor=#D0E7FF
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|6]]
|[[2003年]]
|{{FRA1976}}
|'''{{fb|FRA}}'''
|'''1 - 0''' [[ゴールデンゴール|GG]]
|{{fb|CMR}}
|{{fb|TUR}}
|'''2 - 1'''
|{{fb|COL}}
|align="center"|8
|-
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|7]]
|[[2005年]]
|{{DEU}}
|'''{{fb|BRA}}'''
|'''4 - 1'''
|{{fb|ARG}}
|{{fb|GER}}
|'''4 - 3''' [[延長戦|aet]]
|{{fb|MEX}}
|align="center"|8
|- bgcolor=#D0E7FF
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2009|8]]
|[[2009年]]
|{{ZAF}}
|'''{{fb|BRA}}'''
|'''3 - 2'''
|{{fb|USA}}
|{{fb|ESP}}
|'''3 - 2''' [[延長戦|aet]]
|{{fb|RSA}}
|align="center"|8
|-
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|9]]
|[[2013年]]
|{{BRA}}
|'''{{fb|BRA}}'''
|'''3 - 0'''
|{{fb|ESP}}
|{{fb|ITA}}
|'''2 - 2''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 3 - 2)</small>
|{{fb|URU}}
|align="center"|8
|- bgcolor=#D0E7FF
|align="center"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|10]]
|[[2017年]]
|{{RUS}}
|'''{{fb|GER}}'''
|'''1 - 0'''
|{{fb|CHI}}
|{{fb|POR}}
|'''2 - 1''' [[延長戦|aet]]
|{{fb|MEX}}
|align="center"|8
|}
*'''略号'''
**aet - [[延長戦]]終了時の結果
**GG - [[ゴールデンゴール]]による結果
**PK - [[PK戦]]による結果
== 統計 ==
{{出典の明記|date=2016-07|section=1}}
{{独自研究|date=2016-07|section=1}}
=== 代表別通算成績 ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size: smaller; text-align:right"
!{{Abbr|順|順位}}!!class="unsortable"|{{Abbr|国・地域名|出場国・出場地域}}!!{{Abbr|出|出場回数}}!!{{Abbr|優|優勝回数}}!!{{Abbr|準|準優勝回数}}!!{{Abbr|三|3位回数}}!!{{Abbr|四|4位回数}}!!{{Abbr|試|試合数}}!!{{Abbr|勝|勝利数}}!!{{Abbr|分|引分数}}!!{{Abbr|敗|敗戦数}}!!{{Abbr|点|勝点}}!!{{Abbr|得|得点数}}!!{{Abbr|失|失点数}}!!{{Abbr|差|得失点差}}
|-
|1||align=left|'''{{fb|BRA}}'''||'''7'''||'''4'''||1||0||1||'''33'''||'''23'''||5||5||'''74'''||'''78'''||28||'''+50'''
|-
|2||align=left|'''{{fb|MEX}}'''||'''7'''||1||0||1||'''2'''||27||11||'''6'''||10||39||44||'''43'''||+1
|-
|3||align=left|'''{{fb|FRA}}'''||2||2||0||0||0||10||9||0||1||27||24||5||+19
|-
|4||align=left|'''{{fb|GER}}'''||3||1||0||1||0||13||8||2||3||26||29||22||+7
|-
|5||align=left|{{fb|ESP}}||2||0||1||1||0||10||7||1||2||22||26||8||+18
|-
|6||align=left|{{fb|USA}}||4||0||1||'''2'''||0||15||6||1||8||19||20||20||0
|-
|7||align=left|'''{{fb|ARG}}'''||3||1||'''2'''||0||0||10||5||3||2||18||22||14||+8
|-
|8||align=left|{{fb|AUS}}||4||0||1||1||0||16||5||3||8||18||17||25||-8
|-
|9||align=left|{{fb|JPN}}||5||0||1||0||0||16||5||2||9||17||19||25||-6
|-
|10||align=left|{{fb|URU}}||2||0||0||0||'''2'''||10||5||1||4||16||22||13||+9
|-
|11||align=left|{{fb|CMR}}||3||0||1||0||0||11||4||2||5||14||7||11||-4
|-
|12||align=left|{{fb|POR}}||1||0||0||1||0||5||3||2||0||11||9||3||+6
|-
|13||align=left|{{fb|ITA}}||2||0||0||1||0||8||3||2||3||11||13||15||-2
|-
|14||align=left|{{fb|KSA}}||4||0||1||0||1||12||3||1||8||10||13||31||-18
|-
|15||align=left|{{fb|NGA}}||2||0||0||0||1||6||2||2||2||8||11||7||+4
|-
|16||align=left|'''{{fb|DEN}}'''||1||1||0||0||0||3||2||1||0||7||5||1||+4
|-
|17||align=left|{{fb|CZE}}||1||0||0||1||0||5||2||1||2||7||10||7||+3
|-
|18||align=left|{{fb|TUR}}||1||0||0||1||0||5||2||1||2||7||8||8||0
|-
|19||align=left|{{fb|CHI}}||1||0||1||0||0||5||1||3||1||6||4||3||+1
|-
|20||align=left|{{fb|COL}}||1||0||0||0||1||5||2||0||3||6||5||5||0
|-
|21||align=left|{{fb|KOR}}||1||0||0||0||0||3||2||0||1||6||3||6||-3
|-
|22||align=left|{{fb|RSA}}||2||0||0||0||1||8||1||2||5||5||9||13||-4
|-
|23||align=left|{{fb|EGY}}||2||0||0||0||0||6||1||2||3||5||9||16||-7
|-
|24||align=left|{{fb|RUS}}||1||0||0||0||0||3||1||0||2||3||3||3||0
|-
|25||align=left|{{fb|TUN}}||1||0||0||0||0||3||1||0||2||3||3||5||-2
|-
|26||align=left|{{fb|ARE}}||1||0||0||0||0||3||1||0||2||3||2||8||-6
|-
|27||align=left|{{fb|BOL}}||1||0||0||0||0||3||0||2||1||2||2||3||-1
|-
|28||align=left|{{fb|IRQ}}||1||0||0||0||0||3||0||2||1||2||0||1||-1
|-
|29||align=left|{{fb|GRE}}||1||0||0||0||0||3||0||1||2||1||0||4||-4
|-
|30||align=left|{{fb|CAN}}||1||0||0||0||0||3||0||1||2||1||0||5||-5
|-
|31||align=left|{{fb|NZL}}||4||0||0||0||0||12||0||1||'''11'''||1||3||32||-29
|-
|32||align=left|{{fb|CIV}}||1||0||0||0||1||2||0||0||2||0||2||9||-7
|-
|33||align=left|{{fb|TAH}}||1||0||0||0||0||3||0||0||3||0||1||24||-23
|}
* データは2017年ロシア大会終了時点
* '''太字'''は優勝経験のある国・地域で、'''太数字'''は最多記録
* 国・地域名は現在の名称で統一した
* 順位は通算勝点の多い順で、通算勝点が同数の場合は得失点差の優れた方を、得失点差も同数の場合は総得点の多い方を上にした
* [[PK戦]]で決着がついた試合は記録上引き分けとなる
=== 通算優勝回数 ===
{| class="wikitable"
!回数!!国名!!年
|-
|align="center"|4回||{{fb|BRA}}||1997,2005,2009,2013
|-
|align="center"|2回||{{fb|FRA}}||2001,2003
|-
|align="center" rowspan="4"|1回||{{fb|ARG}}||1992
|-
|{{fb|DEN}}||1995
|-
|{{fb|MEX}}||1999
|-
|{{fb|GER}}||2017
|}
=== 個人通算得点 ===
{| class="wikitable"
!順位!!選手名!!得点数
|-
|align="center" rowspan="2"|1||{{flagicon|MEX}} [[クアウテモク・ブランコ]]||align="center" rowspan="2"|9
|-
|{{flagicon|BRA}} [[ロナウジーニョ]]
|-
|align="center"|3||{{flagicon|ESP}} [[フェルナンド・トーレス]]||align="center"|8
|-
|align="center" rowspan="2"|4||{{flagicon|BRA}} [[ロマーリオ]]||align="center" rowspan="2"|7
|-
|{{flagicon|BRA}} [[アドリアーノ・レイテ・リベイロ|アドリアーノ]]
|-
|align="center" rowspan="2"|6||{{flagicon|KSA}} [[:en:Marzouk Al-Otaibi|マゾウク・アル・オタイビ]]||align="center" rowspan="2"|6
|-
|{{flagicon|ESP}} [[ダビド・ビジャ]]
|-
|align="center" rowspan="6"|8||{{flagicon|CZE}} [[ヴラディミール・シュミツェル]]||align="center" rowspan="6"|5
|-
|{{flagicon|FRA}} [[ロベール・ピレス]]
|-
|{{flagicon|AUS}} [[ジョン・アロイージ]]
|-
|{{flagicon|BRA}} [[アレクサンドロ・デ・ソウザ]]
|-
|{{flagicon|BRA}} [[ルイス・ファビアーノ・クレメンチ|ルイス・ファビアーノ]]
|-
|{{flagicon|BRA}} [[フレデリコ・シャヴェス・ゲデス|フレッジ]]
|}
== 表彰 ==
=== ゴールデンボール(大会最優秀選手)===
{| class="wikitable"
!大会!!ゴールデンボール!!シルバーボール||ブロンズボール
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1997|1997]]||{{Flagicon|BRA}} [[デニウソン・デ・オリヴェイラ・アラウージョ|デニウソン]]||{{Flagicon|BRA}} [[ロマーリオ]]||{{Flagicon|CZE}} [[ヴラディミール・シュミツェル]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1999|1999]]||{{Flagicon|BRA}} [[ロナウジーニョ]]||{{Flagicon|MEX}} [[クアウテモク・ブランコ]]||{{Flagicon|KSA}} [[:en:Marzouk Al-Otaibi|マゾウク・アル・オタイビ]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|2001]]||{{Flagicon|FRA}} [[ロベール・ピレス]]||{{Flagicon|FRA}} [[パトリック・ヴィエラ]]||{{Flagicon|JPN}} [[中田英寿]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|2003]]||{{Flagicon|FRA}} [[ティエリ・アンリ]]||{{Flagicon|TUR}} [[トゥンジャイ・シャンル]]||{{Flagicon|CMR}} [[マルク=ヴィヴィアン・フォエ]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005]]||{{Flagicon|BRA}} [[アドリアーノ・レイテ・リベイロ|アドリアーノ]]||{{Flagicon|ARG}} [[フアン・ロマン・リケルメ]]||{{Flagicon|BRA}} [[ロナウジーニョ]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2009|2009]]||{{Flagicon|BRA}} [[カカ (サッカー選手)|カカ]]||{{Flagicon|BRA}} [[ルイス・ファビアーノ・クレメンチ|ルイス・ファビアーノ]]||{{Flagicon|USA}} [[クリント・デンプシー]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|2013]]||{{Flagicon|BRA}} [[ネイマール]]||{{Flagicon|ESP}} [[アンドレス・イニエスタ]]||{{Flagicon|BRA}} [[ジョゼ・パウロ・ベセーラ・マシエル・ジュニオール|パウリーニョ]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|2017]]||{{Flagicon|GER}} [[ユリアン・ドラクスラー]]||{{Flagicon|CHI}} [[アレクシス・サンチェス]]||{{Flagicon|GER}} [[レオン・ゴレツカ]]
|}
=== ゴールデンシューズ(得点王)===
{| class="wikitable"
!大会!!ゴールデンシューズ!!得点数!!シルバーシューズ!!得点数!!ブロンズシューズ!!得点数
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1997|1997]]||{{Flagicon|BRA}} [[ロマーリオ]]||align=center|7||{{Flagicon|CZE}} [[ヴラディミール・シュミツェル]]||align=center|5||{{Flagicon|BRA}} [[ロナウド]]||align=center|4
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1999|1999]]||{{Flagicon|BRA}} [[ロナウジーニョ]]||align=center|6||{{Flagicon|MEX}} [[クアウテモク・ブランコ]]||align=center|6||{{Flagicon|KSA}} [[:en:Marzouk Al-Otaibi|マゾウク・アル・オタイビ]]||align=center|6
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|2001]]||{{Flagicon|FRA}} [[ロベール・ピレス]]||align=center|2||{{Flagicon|FRA}} [[エリック・カリエール]]||align=center|2||{{Flagicon|KOR}} [[黄善洪]]||align=center|2
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|2003]]||{{Flagicon|FRA}} [[ティエリ・アンリ]]||align=center|4||{{Flagicon|TUR}} [[トゥンジャイ・シャンル]]||align=center|3||{{Flagicon|JPN}} [[中村俊輔]]||align=center|3
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005 ]]||{{Flagicon|BRA}} [[アドリアーノ・レイテ・リベイロ|アドリアーノ]]||align=center|5||{{Flagicon|GER}} [[ミヒャエル・バラック]]||align=center|4||{{Flagicon|AUS}} [[ジョン・アロイージ]]||align=center|4
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2009|2009]]||{{Flagicon|BRA}} [[ルイス・ファビアーノ・クレメンチ|ルイス・ファビアーノ]]||align=center|5||{{Flagicon|ESP}} [[フェルナンド・トーレス]]||align=center|3||{{Flagicon|ESP}} [[ダビド・ビジャ]]||align=center|3
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|2013]]||{{Flagicon|ESP}} [[フェルナンド・トーレス]]||align=center|5||{{Flagicon|BRA}} [[フレデリコ・シャヴェス・ゲデス|フレッジ]]||align=center|5||{{Flagicon|BRA}} [[ネイマール]]||align=center|4
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|2017]]||{{Flagicon|GER}} [[ティモ・ヴェルナー]]||align=center|3||{{Flagicon|GER}} [[レオン・ゴレツカ]]||align=center|3||{{Flagicon|GER}} [[ラース・シュティンドル]]||align=center|3
|}
=== ゴールデングローブ(最優秀GK)===
{| class="wikitable"
!大会!!受賞者
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005]]||{{Flagicon|MEX}} [[オスワルド・サンチェス]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2009|2009]]||{{Flagicon|USA}} [[ティム・ハワード]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|2013]]||{{Flagicon|BRA}} [[ジュリオ・セザル・ソアレス・エスピンドラ|ジュリオ・セザル]]
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|2017]]||{{Flagicon|CHI}} [[クラウディオ・ブラーボ]]
|}
=== フェアプレー賞 ===
{| class="wikitable"
!大会!!受賞国
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1997|1997]]||{{fb|RSA}}
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ1999|1999]]||{{fb|NZL}} / {{fb|BRA}}
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|2001]]||{{fb|JPN}}
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|2003]]||{{fb|JPN}}
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005]]||{{fb|GRE}}
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2009|2009]]||{{fb|BRA}}
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|2013]]||{{fb|ESP}}
|-
|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|2017]]||{{fb|GER}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[FIFAワールドカップ]]
* [[FIFAクラブワールドカップ]]
== 外部リンク ==
* [https://www.fifa.com/tournaments/mens/confederationscup FIFA Confederations Cup™]{{en icon}}
* [http://www.rsssf.com/tablesi/intconcup.html RSSSFによる記録]{{en icon}}
{{FIFAコンフェデレーションズカップ}}
{{世界のサッカー国際大会}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:FIFAこんふえてれえしよんすかつふ}}
[[Category:FIFAコンフェデレーションズカップ|*]]
[[Category:FIFAサッカー大会]]
[[Category:ナショナルチームによる国際サッカー大会]]
[[Category:1992年開始のスポーツイベント]]
[[Category:2017年終了のスポーツイベント]]
|
2003-06-17T14:29:30Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/FIFA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97
|
10,121 |
塩基
|
塩基(えんき、英: base)は、化学において酸と対になってはたらく物質のこと。
一般に、プロトン (H) を受け取る、または電子対を与える化学種。
歴史の中で、概念の拡大を伴いながら定義が考え直されてきたことで、何種類かの塩基の定義が存在する。
塩基としてはたらく性質を塩基性(えんきせい)、またそのような水溶液を特にアルカリ性という。酸や塩基の定義は相対的な概念であるため、ある系で塩基である物質が、別の系では酸としてはたらくことも珍しくはない。
例えば水は、塩化水素に対しては、プロトンを受け取るブレンステッド塩基として振る舞うが、アンモニアに対しては、プロトンを与えるブレンステッド酸として作用する。
塩基性の強い塩基を強塩基(強アルカリ)、弱い塩基を弱塩基(弱アルカリ)と呼ぶ。また、核酸が持つ核酸塩基のことを、単に塩基と呼ぶことがある。
アルカリ金属やアルカリ土類金属などの水酸化物、あるいはアンモニア、アミンなど水溶液のpHが7より大きく塩基性を示す物質を総称してアルカリ (英: alkali) と呼ぶ。「アルカリ」の語源は、中世のイスラーム圏で薬や洗剤として用いられていた قلوي と呼ばれるものに由来するとされる。また、アルカリ性の水溶液やアルカリ金属のことを、単にアルカリと呼ぶことがある。アルカリ性の化合物は基本的に苦味を呈す。
以下に、それぞれの塩基の定義を概略のみ述べる。
錬金術の用語"the matrix"の類義語として、1717年にフランスの化学者 Louis Lémery が使用したのが最初である。錬金術師のパラケルススは、普遍的な酸か潜在原理が土壌の matrix もしくは wombに含侵することで天然に存在する塩が地中で生まれると主張した。その理論を近代化学に導入したのが フランスの化学者 Guillaume-François Rouelle で、中性塩がアルカリ水溶液等と酸を混ぜ合わせる事で生成されることを明らかにした。18世紀における既知の酸のほとんどが揮発性か蒸留可能な"spirits"で、一方、塩基は酸を「結晶状態の塩か凝固した状態」の形を与え、定着させられる"Base"と考えられた。
|
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"title": "英語 Base の語源"
}
] |
塩基は、化学において酸と対になってはたらく物質のこと。
|
{{Otheruses|酸と対になって働く一般の塩基|特に[[デオキシリボ核酸|DNA]]・[[リボ核酸|RNA]]の[[ヌクレオチド]]を構成する核酸塩基|核酸塩基}}
{{酸と塩基}}
'''塩基'''(えんき、{{lang-en-short|base}})は、[[化学]]において[[酸]]と対になって働く[[物質]]のこと。
==概要==
一般に、[[水素イオン|プロトン]] (H<sup>+</sup>) を受け取る、または[[電子対]]を与える[[化学種]]<ref>[http://goldbook.iupac.org/B00601.html base] - IUPAC Gold Book</ref>。
歴史の中で、概念の拡大を伴いながら定義が考え直されてきたことで、何種類かの塩基の定義が存在する。
塩基としてはたらく性質を'''塩基性'''(えんきせい)、またそのような[[水溶液]]を特に'''アルカリ性'''という。酸や塩基の定義は相対的な概念であるため、ある系で塩基である物質が、別の系では酸としてはたらくことも珍しくはない。
例えば[[水]]は、[[塩化水素]]に対しては、プロトンを受け取る[[ブレンステッド塩基]]として振る舞うが、[[アンモニア]]に対しては、プロトンを与える[[ブレンステッド酸]]として作用する。
塩基性の強い塩基を[[強塩基]](強アルカリ)、弱い塩基を弱塩基(弱アルカリ)と呼ぶ。また、[[核酸]]が持つ[[核酸塩基]]のことを、単に塩基と呼ぶことがある。
== アルカリ ==
{{main|アルカリ}}
[[アルカリ金属]]や[[アルカリ土類金属]]などの[[水酸化物]]、あるいはアンモニア、[[アミン]]など水溶液の[[水素イオン指数|pH]]が7より大きく塩基性を示す物質を総称して'''[[アルカリ]] ({{lang-en-short|alkali}})''' と呼ぶ<ref>『理化学辞典』 第五版, 岩波書店</ref>。「アルカリ」の語源は、中世のイスラーム圏で薬や洗剤として用いられていた {{transl|ar|قلوي}} と呼ばれるものに由来するとされる<ref name="EI2-AL-ḲILY">{{EI2|volume=5|title=AL-ḲILY|first=M. |last=Ullmann}}</ref><ref name="CNRTL-alcali">{{CNRTL|alcali}}</ref>。また、アルカリ性の水溶液やアルカリ金属のことを、単にアルカリと呼ぶことがある。アルカリ性の[[化合物]]は基本的に[[苦味]]を呈す。
== 塩基の定義 ==
以下に、それぞれの塩基の定義を概略のみ述べる。{{main|酸と塩基}}
; アレニウス塩基 (Arrhenius base)
: [[スヴァンテ・アレニウス|アレニウス]]の定義による塩基。水に溶けたときに[[水酸化物イオン]] (OH<sup>−</sup>) を出す物質。下式において、[[水酸化ナトリウム]] (NaOH) はアレニウス塩基としてはたらいている。
: <chem>NaOH -> Na^+ + OH^-</chem>
; ブレンステッド塩基 (Brønsted base)
: [[ヨハンス・ブレンステッド|ブレンステッド]]-[[マーチン・ローリー|ローリー]]の定義による塩基。プロトンを受け取る物質<ref>[http://goldbook.iupac.org/B00745.html Brønsted base] - IUPAC Gold Book</ref>。下式の反応で「'''B'''」、あるいは「'''B'''{{sup-}}」がブレンステッド塩基。
: <chem>B + H^+ -> B^+H</chem>
: <chem>B^- + H^+ -> BH</chem>
; ルイス塩基 (Lewis base)
: [[ギルバート・ルイス|ルイス]]の定義による塩基。電子対を与える物質<ref>[http://goldbook.iupac.org/L03511.html Lewis base] - IUPAC Gold Book</ref>。下式の反応で「'''B'''」がルイス塩基。
: [[Image:Lewis_acid-base_equilibrium.png|250px|ルイス酸塩基反応]]
== 英語 Base の語源 ==
錬金術の用語"the matrix"の類義語として、1717年にフランスの化学者 Louis Lémery が使用したのが最初である<ref name="Jensen">{{cite journal|author=Jensen, William B. |title=The origin of the term "base" |journal=The Journal of Chemical Education |year=2006 |volume=83 |page=1130 |url=http://www.che.uc.edu/Jensen/W.%20B.%20Jensen/Reprints/129.%20Base.pdf |issue=8 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304023719/http://www.che.uc.edu/Jensen/W.%20B.%20Jensen/Reprints/129.%20Base.pdf |archivedate=4 March 2016 |df=dmy |bibcode=2006JChEd..83.1130J |doi=10.1021/ed083p1130 }}</ref>。錬金術師の[[パラケルスス]]は、普遍的な酸か潜在原理が土壌の matrix もしくは wombに含侵することで天然に存在する塩が地中で生まれると主張した。その理論を近代化学に導入したのが フランスの化学者 Guillaume-François Rouelle で、[[塩 (化学)|中性塩]]がアルカリ水溶液等と酸を混ぜ合わせる事で生成されることを明らかにした。18世紀における既知の酸のほとんどが揮発性か蒸留可能な"spirits"で、一方、塩基は酸を「結晶状態の塩か凝固した状態」の形を与え、定着させられる"Base"と考えられた。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|塩基}}
{{Commonscat|Bases}}
* [[酸と塩基]]
* [[酸]]
* [[強塩基]]、[[超塩基]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えんき}}
[[Category:化学]]
[[Category:溶液化学]]
[[Category:塩基|*]]
[[Category:酸塩基化学]]
[[Category:イオン]]
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結合法則
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数学における結合性(けつごうせい、英: associative property, associativity)は、一部の二項演算が持つ性質である。演算が結合的であるために満たされるべき条件を結合法則(けつごうほうそく、英: associative law; 結合律、結合則)という。命題論理において、結合則(結合規則)は形式的証明における式に対する妥当(英語版)な置換規則(英語版)のひとつに挙げられる。
ひとつの式の中に同じ結合的演算が一度に複数現れる場合、それらの演算を施す順番は、被演算子の並びの順を変えない限りにおいて、結果に影響を与えない。つまり、(必要ならば中置記法と括弧を使った式に書き換えて)そのような式における括弧の位置を入れ替えても、式の値は変わることはない。例えば、等式:
や
を例にとると、各行とも左辺と中辺で括弧の位置が変わっている(そして被演算子の現れる位置は変わっていない)けれども、その値である右辺は変わりないことを述べている。このような関係式は、被演算子を任意の実数とする加法や乗法を計算する限りにおいて満足されるから、それを「実数の加法および乗法は結合的(演算)である」とか、「実数の加法および乗法は(実数全体の成す集合上で)結合法則を満足する」などと言い表す。
結合性は、「二つの被演算子の現れる位置を入れ替えても結果が変わらない」ことを意味する可換則とは異なる。例えば、実数の乗法が可換演算であるのは、実数の乗法において被演算子の順番を変えてもよいこと—つまり a × b = b × a—が満足されることによる。
結合的演算は数学において遍く存在する。事実として、多くの代数的構造(例えば半群や圏)では、それらの持つ二項演算が結合的であることを明示的に要請される。
とはいえ、重要で意義のある非結合的演算もたくさん存在する。例えば減法、冪演算、ベクトルの交叉積などはそうである。
厳密に、集合 S 上で定義された二項演算 ∗ が結合的であるとは、結合法則
を満足するときに言う。ここで、∗ は考えたい演算(それを一般に「乗法」や「積」と呼んだりする)を表す記号(演算子)であって、これは別にどのような記号が用いられてもよいし、あまつさえ「乗法」を表す記号のない併置 (juxtaposition) 記法で
と書くこともある。 結合法則を函数記法で表すこともでき、その場合は
のようになる。
二項演算が結合的ならば、その演算が反復して適用されるとき、その式においてきちんと(開きと閉じが)対になる括弧がどのように挿入されるかを気にすることなく、その演算結果が同じであることがわかる。そのことを一般化された結合法則 (generalized associative law) と言う。実例として、四つの元の積を、それらの因子の順番を変えることなく書き下せば、五種類の異なる計算順序が考えられる:
が、これらの積を得る演算が結合的ならば、一般化された結合法則の述べるに従い、これらすべてが同じ値の積であることが結論される。となれば(これらの式から括弧をすべて取り払った式に既に別の意味が施されているのでない限り)この積において括弧は「不要」のものと考えることができて、この積を紛れの虞なく
と書くことができる。
このような繰り返しの積において、因子となる元の数が増えるにしたがって、釣り合いのとれた括弧の挿入の仕方の総数は急速に増加するけれども、演算が結合的ならばそれらの区別もやはり必要がなくなる。
結合的だからといって単純に括弧を取り去ってはいけない例として、双条件(英語版) ↔ を挙げよう。↔ は結合的であって A ↔ (B ↔ C) は (A ↔ B) ↔ C に同値であるが、A ↔ B ↔ C はふつうは A ↔ B かつ B ↔ C の意味であって先のふたつとは同値でない。
結合的演算の例をいくつか挙げる:
標準的な真理函数的命題論理において、結合則 (association, associativity) は二つの妥当(英語版)な置換規則(英語版)を言う。それは、論理学的証明における論理式に現れる括弧の位置を動かしてもよい規則を述べるもので、論理結合子を用いて書けば
のふたつである。ただし、" ⟺ {\displaystyle \iff } " はメタ論理(英語版)の記号(英語版)で、「形式的証明において置換してよい」ことを表す。
真理函数的命題論理における真理函数の結合子のいくつかは結合性 (associativity) を持つ。以下の論理同値(英語版)(これらは真理函数的恒真式である)は結合性が特定の結合子の持つ性質であることを示している :
接合否定 (joint denial) は結合的でない真理函数結合子の例である。
集合 S 上の二項演算 ∗ が結合法則を満足しない—記号で書けば
—となるとき、非結合的 (non-associative) である、必ずしも結合的でないなどという。
そのような演算では、計算順序は結果に影響する。非結合演算の例として
などがある。あるいは無限和もまた一般には非結合的である。例えば:
非結合的構造の研究は、古典代数学の主流からはいくらか異なった理由から生じてくるものである。非結合多元環の領域にあってすでに一大分野へと発展したリー代数の理論では、結合法則の代わりにヤコビ恒等式が採用される。リー代数は無限小変換(英語版)の本質的な特質を抽象化するものであり、数学に遍在するものとなった。
既に深く調べられているほかの特定種類の非結合的構造もあり、それらは何らかの特定の応用から、あるいは組合せ論のような分野から生じたものである。その他の例は、Quasigroup(英語版)、準体(英語版)、非結合的環、非結合的多元環、可換(非結合的)マグマ(英語版)など。
非結合的演算が一つの式の中で複数回現れるときには、評価の順を指し示すために括弧を挿入することは(例えば 2/3/4 のように、ほかの方法で順番を指定する記法を用いているのでない限り)一般には不可避である。とはいえ、いくつかのよく用いられる非結合的演算については、特定の順番に評価することにして括弧の使用を回避する簡便記法が、受け入れられている。
左結合 (left-associative) 演算とは、規約として左から右に評価する—式で書けば
を意味する—演算を言う。同様に右結合 (right-associative) 演算は、右から左に評価するものと約束する:
左結合演算も右結合演算もどちらも生じ得る。左結合演算の例:
右結合演算の例:
評価順について特定の規約がない演算の例:
中置記法を採用しているプログラミング言語においては、任意の演算子について数学で言うところの結合法則が成り立たないことを仮定して、その式の意味をどういった順序で、値を演算子により結合させたものとするかについて、それぞれの言語にそれぞれ法則がある。「演算子の優先順位」(英: Operator precedence) と「演算子の結合性(英語版)」(英: Operator associativity) と言う。
なお、優先順位と結合性は値の扱いに関する規則であって、式の評価の順序に関する規則ではないことに注意が必要である。評価順は優先順位と結合性に直感的に従っていることもあれば、従っていないこともある。言語仕様としては決められていないこともある(評価順と関連するものとして、短絡評価がある。短絡評価のためには評価順が決まっている必要があるため、一般に演算子の左辺と右辺の評価順を決めていないC言語だが、短絡評価される演算子については決まっている。Javaは仕様で全て決めている。Adaでは両辺を評価する演算子と短絡評価の演算子とが用意されている。)。
優先順位と結合性は、仕様上の表現としては構文規則の一部として決まっているものが多い(たいていは便利さのために別表にまとめられている。yaccのように通常の規則とは別建てで定義できるものもある)。ここでは例として、四則演算を主に挙げるが、他の演算子についても規則は同様にある。
(ここでの前提である、中置記法を採用している)たいていのプログラミング言語の四則演算の演算子において、加減算より乗除算のほうが優先順位が高い、としているものが多い。
すなわち a * b + c は (a * b) + c という意味であり、a - b / c は a - (b / c) という意味である。
多くの演算子を持ち、その数に応じて多くの優先順位を定めているC言語のような言語もあれば、ほとんど優先順位が無く、次節で説明する結合性のみで、どんな演算も左から右、あるいは右から左(たとえばAPL)といったように決めている言語もある。
(前節と同様、中置記法を採用している)たいていのプログラミング言語の四則演算の演算子において、加算と減算、乗算と除算のそれぞれの間には優先順位に差が無い。加減算の連続、たとえば a + b - c + d - e というような式は、左から順に (((a + b) - c) + d) - e という意味となる。このような結合を"左結合" (英: left-associative)、あるいは"左から右" (英: left to right) と言う。逆が"右結合"(英: right-associative)、あるいは"右から左" (英: right to left) である。
右結合の例としては、C系の言語に特徴的な代入演算子 = は右結合である。a = b = 1; という式文における式は a = (b = 1) という意味であり b = 1 という代入演算子による式の値は 1 なので、それが a に(も)代入され、結果として a と b に 1 が代入される。
冪乗の演算子として ** や ^ がある言語があるが、数学の記法では a b c {\displaystyle a^{b^{c}}} と ( a b ) c {\displaystyle (a^{b})^{c}} のように、左を先にしたい場合に括弧が要るので、右結合すなわち a**b**c は a**(b**c) という意味であるとしたほうが数学の記法とは一致するが(たとえばRubyでは ** は右結合である(オブジェクトの種類等によるものではなく、構文上の規則である))、VBのように算術演算は全て左結合としているため冪乗の ^ も左結合、という言語もある。
非結合(non-associative)は、右結合でも左結合でもない、たとえば比較演算子 < のように、a < b < c の意味が (a < b) < c でも a < (b < c) でもない、というような演算子の結合性である(C言語では左結合として解釈し、比較結果の真理値を整数0か1として、次の比較を行うという通常は意図しない意味を持ってしまう。Pythonのように a < b < c と書いて、意図した通りの意味になる言語もある)。加算や乗算のみの演算のような順序によらない演算には順序を定めない、という言語も考えられるが、あまり見られない(算術と違いコンピュータ上の計算ではオーバーフロー等のために、真に順序によらない計算は実はあまりない、という事情もある)。
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数学における結合性は、一部の二項演算が持つ性質である。演算が結合的であるために満たされるべき条件を結合法則という。命題論理において、結合則(結合規則)は形式的証明における式に対する妥当な置換規則のひとつに挙げられる。 ひとつの式の中に同じ結合的演算が一度に複数現れる場合、それらの演算を施す順番は、被演算子の並びの順を変えない限りにおいて、結果に影響を与えない。つまり、(必要ならば中置記法と括弧を使った式に書き換えて)そのような式における括弧の位置を入れ替えても、式の値は変わることはない。例えば、等式: や を例にとると、各行とも左辺と中辺で括弧の位置が変わっている(そして被演算子の現れる位置は変わっていない)けれども、その値である右辺は変わりないことを述べている。このような関係式は、被演算子を任意の実数とする加法や乗法を計算する限りにおいて満足されるから、それを「実数の加法および乗法は結合的(演算)である」とか、「実数の加法および乗法は(実数全体の成す集合上で)結合法則を満足する」などと言い表す。 結合性は、「二つの被演算子の現れる位置を入れ替えても結果が変わらない」ことを意味する可換則とは異なる。例えば、実数の乗法が可換演算であるのは、実数の乗法において被演算子の順番を変えてもよいこと—つまり a × b = b × a—が満足されることによる。 結合的演算は数学において遍く存在する。事実として、多くの代数的構造(例えば半群や圏)では、それらの持つ二項演算が結合的であることを明示的に要請される。 とはいえ、重要で意義のある非結合的演算もたくさん存在する。例えば減法、冪演算、ベクトルの交叉積などはそうである。
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{{About|数学|プログラミング言語|{{ill2|演算子の結合性|en|operator associativity}}}}
[[数学]]における'''結合性'''(けつごうせい、{{lang-en-short|''associative property''<ref>
{{cite book
|last=Hungerford
|first=Thomas W.
|year=1974 |edition=1st
|title=Algebra
|page=24
|publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer]]
|isbn=978-0387905181
|quote=Definition 1.1 (i) a(bc) = (ab)c for all a, b, c in G.}}</ref>, ''associativity''}})は、一部の[[二項演算]]が持つ性質である。演算が結合的であるために満たされるべき条件を'''結合法則'''(けつごうほうそく、{{lang-en-short|associative law}}; '''結合律'''、'''結合則''')という。[[命題論理]]において、'''結合則'''(結合規則)は{{ill2|形式的証明|en|Formal proof}}における[[well-formed formula|式]]に対する{{ill2|論理的妥当性|en|Validity (logic)|label=妥当}}な{{ill2|置換規則|en|rule of replacement}}のひとつに挙げられる。
ひとつの式の中に同じ結合的演算が一度に複数現れる場合、それらの演算を施す順番は、[[被演算子]]の並びの順を変えない限りにおいて、結果に影響を与えない。つまり、(必要ならば[[中置記法]]と[[パーレン|括弧]]を使った式に書き換えて)そのような式における括弧の位置を入れ替えても、式の値は変わることはない。例えば、等式: <math display="block">(2 + 3) + 4 = 2 + (3 + 4) = 9</math> や <math display="block">2 \times (3 \times 4) = (2 \times 3) \times 4 = 24</math> を例にとると、各行とも左辺と中辺で括弧の位置が変わっている(そして被演算子の現れる位置は変わっていない)けれども、その値である右辺は変わりないことを述べている。このような関係式は、被演算子を任意の[[実数]]とする[[加法]]や[[乗法]]を計算する限りにおいて満足されるから、それを「実数の加法および乗法は結合的(演算)である」とか、「実数の加法および乗法は(実数全体の成す集合上で)結合法則を満足する」などと言い表す。
結合性は、「二つの[[被演算子]]の現れる位置を入れ替えても結果が変わらない」ことを意味する[[交換法則|可換則]]とは異なる。例えば、実数の乗法が可換演算であるのは、実数の乗法において被演算子の順番を変えてもよいこと—つまり {{math|1=''a'' × ''b'' = ''b'' × ''a''}}—が満足されることによる。
結合的演算は数学において遍く存在する。事実として、多くの[[代数的構造]](例えば[[半群]]や[[圏 (数学)|圏]])では、それらの持つ二項演算が結合的であることを明示的に要請される。
とはいえ、重要で意義のある非結合的演算もたくさん存在する。例えば[[減法]]、[[冪|冪演算]]、ベクトルの[[交叉積]]などはそうである。<!--理論的性質として実数の加法は結合的であるにもかかわらず、その[[計算機科学]]における表現である[[浮動小数点数]]では加法は結合的でない(結合順序の決め方によって丸め誤差に重大な影響が出ることがある)。-->
== 定義 ==
[[File:Semigroup_associative.svg|thumbnail|集合 {{mvar|S}} 上の二項演算 {{math|∗}} が結合的となるのは、[[可換図式|この図式が可換]]のとき。つまり、左上の {{math|''S'' × ''S'' × ''S''}} から右下の {{mvar|S}} までいくのに考え得る二種類の経路に沿って得られる[[写像の合成]]が、{{math|''S'' × ''S'' × ''S''}} から {{mvar|S}} への同じ写像を定める。]]
厳密に、[[集合]] {{mvar|S}} 上で定義された[[二項演算]] {{math|∗}} が'''結合的'''であるとは、'''{{vanc|結合法則}}''' <math display="block">(x * y) * z = x * (y * z)\qquad (\forall x, y, z \in S)</math> を満足するときに言う。ここで、{{math|∗}} は考えたい演算(それを一般に「乗法」や「積」と呼んだりする{{efn|とはいえ、数の[[乗法]]や積とは直接的に関係のない、任意の抽象的演算についていう}})を表す記号([[演算子]])であって、これは別にどのような記号が用いられてもよいし、あまつさえ「乗法」を表す記号のない併置 ([[wikt:juxtaposition|juxtaposition]]) 記法で <math display="block">(xy)z = x(yz) = xyz\qquad (\forall x, y, z \in S)</math> と書くこともある。
結合法則を函数記法で表すこともでき、その場合は <math display="block">f(f(x, y), z) = f(x, f(y, z))</math> のようになる。
== 一般化された結合法則 ==
[[Image:Tamari lattice.svg|thumb|250px|結合性がない場合には、五つの因子 {{mvar|a, b, c, d, e}} のこの順での積は、四次の{{ill2|タマリ束|en|Tamari lattice}}を成し、それぞれが異なる値を持ち得る。]]
二項演算が結合的ならば、その演算が反復して適用されるとき、その式においてきちんと(開きと閉じが)対になる括弧がどのように挿入されるかを気にすることなく、その演算結果が同じであることがわかる<ref>{{cite book |last=Durbin |first=John R. |title=Modern Algebra: an Introduction |year=1992 |publisher=Wiley |location=New York |isbn=978-0-471-51001-7 |page=78 |url=http://www.wiley.com/WileyCDA/WileyTitle/productCd-EHEP000258.html |edition=3rd |quote=If <math>a_1, a_2, \dots, a_n \,\, (n \ge 2)</math> are elements of a set with an associative operation, then the product <math>a_1 a_2 \dots a_n</math> is unambiguous; this is, the same element will be obtained regardless of how parentheses are inserted in the product}}</ref>。そのことを'''一般化された結合法則''' (''generalized associative law'') と言う。実例として、四つの元の積を、それらの因子の順番を変えることなく書き下せば、五種類の異なる計算順序が考えられる:
* <math>((ab)c)d,</math>
* <math>(ab)(cd),</math>
* <math>(a(bc))d,</math>
* <math>a((bc)d),</math>
* <math>a(b(cd)).</math>
が、これらの積を得る演算が結合的ならば、一般化された結合法則の述べるに従い、これらすべてが同じ値の積であることが結論される。となれば(これらの式から括弧をすべて取り払った式に既に別の意味が施されているのでない限り)この積において括弧は「不要」のものと考えることができて、この積を紛れの虞なく <math display="block">abcd</math> と書くことができる。
このような繰り返しの積において、因子となる元の数が増えるにしたがって、[[ディック言語|釣り合いのとれた括弧の挿入の仕方]]の[[カタラン数|総数]]は急速に増加するけれども、演算が結合的ならばそれらの区別もやはり必要がなくなる。
結合的だからといって単純に括弧を取り去ってはいけない例として、{{ill2|双条件論理結合子|en|logical biconditional|label=双条件}} {{math|↔}} を挙げよう。{{math|↔}} は結合的であって {{math|''A'' ↔ (B ↔ C)}} は {{math|(A ↔ B) ↔ C}} に同値であるが、{{math|A ↔ B ↔ C}} はふつうは {{nowrap|{{math|A ↔ B}} かつ {{math|B ↔ C}}}} の意味であって先のふたつとは同値でない。
== 例 ==
[[File:Associativity of binary operations (without question marks).svg|thumb|結合的演算において <math>(x\circ y)\circ z = x\circ(y\circ z)</math> である。]]
[[File:Associativity of real number addition.svg|thumb|実数の加法は結合的である。]]
結合的演算の例をいくつか挙げる:
* [[文字列結合|文字列の連接]]: 三つの[[文字列]] <code>"hello"</code>, <code>" "</code>, <code>"world"</code> の連接を計算するのに、最初の二つをつないで <code>"hello "</code>) を得てから三つ目の <code>"world"</code> をつなぐのと、後の二つをつないで <code>" world"</code> を得てから一つ目の <code>"hello"</code> をつなぐのと、二種類の仕方があるがこれらは同じ結果になる。ゆえに文字列の連接は結合的である(が[[交換法則|可換]]ではない)。
* [[算術]]における[[実数]]の[[加法]]および[[乗法]]は結合的である。すなわち <math display="block">\begin{array}{l}
(x+y)+z=x+(y+z)=x+y+z\\
(xy)z=x(yz)=xyz
\end{array}\qquad(\forall x,y,z\in\mathbb{R})
</math> が成立する。この結合性により、グループ化を表す括弧は曖昧さを生むことなく除去できる。
* 右自明演算 {{math|1=''x'' ∗ ''y'' = ''x''}}(第二の引数の如何に依らず、第一の引数を返す)は結合的だが可換でない。同様に左自明演算 {{math|1=''x'' ∘ ''y'' = ''y''}}(第一引数の如何に依らず、第二引数を返す)は結合的であり可換でない。
* [[複素数]]および[[四元数]]の加法および乗法。[[八元数]]は加法は結合的だが乗法は結合的でない。
* [[最大公約数]]をとる演算および[[最小公倍数]]をとる演算は結合的である: <math display="block">\begin{array}{l}
\operatorname{gcd}(\operatorname{gcd}(x,y),z)=
\operatorname{gcd}(x,\operatorname{gcd}(y,z))=
\operatorname{gcd}(x,y,z)\\
\operatorname{lcm}(\operatorname{lcm}(x,y),z)=
\operatorname{lcm}(x,\operatorname{lcm}(y,z))=
\operatorname{lcm}(x,y,z)
\end{array}\qquad(\forall x,y,z\in\mathbb{Z}).
</math>
* [[集合]]の[[交叉 (集合論)|交叉]]および[[合併 (集合論)|合併]]: <math display="block">\begin{array}{l}
(A\cap B)\cap C=A\cap(B\cap C)=A\cap B\cap C\\
(A\cup B)\cup C=A\cup(B\cup C)=A\cup B\cup C
\end{array}\qquad(\forall A,B,C).
</math>
* 適当な集合 {{mvar|M}} に対する {{mvar|M}} 上の自己写像([[写像]] {{math|''M'' → ''M''}})全体の成す集合 {{math|''S'' {{coloneqq}} [[配置集合|''M{{exp|M}}'']]}}について、{{mvar|S}} 上で定義された[[写像の合成|合成演算]] {{math|∘}} は結合的である: <math display="block">(f\circ g)\circ h=f\circ(g\circ h)=f\circ g\circ h\qquad(\forall f,g,h\in S).</math>
* 少し一般に、四つの集合 {{math2|''M, N, P, Q''}} とそれらの間の写像 {{math|''h'': ''M'' → ''N''}}, {{math|''g'': ''N'' → ''P''}}, {{math|''f'': ''P'' → ''Q''}} についてやはり <math display="block">(f\circ g)\circ h=f\circ(g\circ h)=f\circ g\circ h</math> が成り立つ。要するに写像の合成は常に結合的である。
* 三元集合 {{math|{{mset|A, B, C}}}} に演算を以下の乗積表に従って定めたものは結合的である(かつ可換でない):
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin: 1ex auto;"
|-
! × !! A !! B !! C
|-
! A
| A || A || A
|-
! B
| A || B || C
|-
! C
| A || A || A
|}
* 通常の[[行列の積]]は結合的である。[[行列 (数学)|行列]]は[[線型写像]]を[[行列表現|表現]]し、行列の積は線型写像の[[写像の合成|合成]]に対応するから、合成について既に見たことから行列の積の結合性は直ちに得られる<ref>{{cite web|url=http://www.khanacademy.org/math/linear-algebra/matrix-transformations/composition-of-transformations/v/matrix-product-associativity|title=Matrix product associativity|publisher=Khan Academy|accessdate=5 June 2016}}</ref>。
== 命題論理 ==
<!--{{Transformation rules}}-->{{推論規則}}
=== 結合規則 ===
標準的な真理函数的[[命題論理]]において、'''結合則''' (''association''<ref>Moore and Parker{{full citation needed|date=October 2016}}</ref><ref>Copi and Cohen{{full citation needed|date=October 2016}}</ref>, ''associativity''<ref>Hurley{{full citation needed|date=October 2016}}</ref>) は二つの{{ill2|論理的妥当性|en|Validity (logic)|label=妥当}}な{{ill2|置換規則|en|rule of replacement}}を言う。それは、{{ill2|形式的証明|en|Formal proof|label=論理学的証明}}における論理式に現れる括弧の位置を動かしてもよい規則を述べるもので、[[論理演算|論理結合子]]を用いて書けば
* <math>(P \lor (Q \lor R)) \iff ((P \lor Q) \lor R)</math>
* <math>(P \land (Q \land R)) \iff ((P \land Q) \land R),</math>
のふたつである。ただし、"<math>\iff</math>" は{{ill2|メタ論理|en|metalogic}}の{{ill2|形式的記号|en|Symbol (formal)|label=記号}}で、「形式的証明において置換してよい」ことを表す。
=== 論理演算の結合性 ===
真理函数的命題論理における真理函数の[[論理結合子|結合子]]のいくつかは結合性 (''associativity'') を持つ。以下の{{ill2|論理同値|en|logical equivalence}}(これらは真理函数的[[恒真式]]である)は結合性が特定の結合子の持つ性質であることを示している <ref>[https://math.stackexchange.com/questions/2197480/symbolic-logic-proof-of-associativity]</ref>:
; 選言の結合性:
:<math>((P \lor Q) \lor R) \leftrightarrow (P \lor (Q \lor R))</math>
:<math>(P \lor (Q \lor R)) \leftrightarrow ((P \lor Q) \lor R)</math>
; 連言の結合性
:<math>((P \land Q) \land R) \leftrightarrow (P \land (Q \land R))</math>
:<math>(P \land (Q \land R)) \leftrightarrow ((P \land Q) \land R)</math>
; 論理同値の結合性:
:<math>((P \leftrightarrow Q) \leftrightarrow R) \leftrightarrow (P \leftrightarrow (Q \leftrightarrow R))</math>
:<math>(P \leftrightarrow (Q \leftrightarrow R)) \leftrightarrow ((P \leftrightarrow Q) \leftrightarrow R)</math>
接合否定 (joint denial) は結合的で'''ない'''真理函数結合子の例である。
== 非結合的演算 ==
集合 {{mvar|S}} 上の二項演算 {{math|∗}} が結合法則を満足しない—記号で書けば <math display="block">(x*y)*z\ne x*(y*z)\qquad(\exists x,y,z\in S)</math> —となるとき、'''非結合的''' (''non-associative'') である、'''必ずしも結合的でない'''などという。
そのような演算では、計算順序は結果に影響'''する'''。非結合演算の例として
* [[減法]]: <math display="inline">(5-3)-2 \ne 5-(3-2)</math>
* [[除法]]: <math display="inline">(4/2)/2 \ne 4/(2/2)</math>
* [[冪|冪演算]]: <math display="inline">2^{(1^2)} \ne (2^1)^2</math>
などがある。あるいは[[無限級数|無限和]]もまた一般には非結合的である。例えば: <math display="block">\begin{align}
(1+-1)+(1+-1)+(1+-1)+(1+-1)+(1+-1)+(1+-1)+\dotsb = 0\\
\ne 1+(-1+1)+(-1+1)+(-1+1)+(-1+1)+(-1+1)+(-1+1)+\dotsb = 1.
\end{align}</math>
非結合的構造の研究は、古典代数学の主流からはいくらか異なった理由から生じてくるものである。[[非結合多元環]]の領域にあってすでに一大分野へと発展した[[リー代数]]の理論では、結合法則の代わりに[[ヤコビ恒等式]]が採用される。リー代数は{{ill2|無限小変換|en|infinitesimal transformation}}の本質的な特質を抽象化するものであり、数学に遍在するものとなった。
既に深く調べられているほかの特定種類の非結合的構造もあり、それらは何らかの特定の応用から、あるいは[[組合せ論]]のような分野から生じたものである。その他の例は、{{ill2|Quasigroup|en|Quasigroup}}、{{ill2|準体|en|Quasifield}}、[[非結合的環]]、[[非結合的多元環]]、{{ill2|可換マグマ|en|Commutative magmas|label=可換(非結合的)マグマ}}など。
=== 非結合的演算の記法 ===
{{main|Operator associativity}}
非結合的演算が一つの式の中で複数回現れるときには、[[演算の優先順位|評価の順]]を指し示すために括弧を挿入することは(例えば {{math|{{sfrac|2|3/4}}}} のように、ほかの方法で順番を指定する記法を用いているのでない限り)一般には不可避である。とはいえ、いくつかのよく用いられる非結合的演算については、特定の順番に評価することにして括弧の使用を回避する簡便記法が、受け入れられている。
'''左結合''' (''left-associative'') 演算とは、規約として左から右に評価する—式で書けば <math display="block">\begin{array}{l}
x*y*z :=(x*y)*z\\
w*x*y*z :=((w*x)*y)*z\\
\text{etc.}\end{array}\qquad(\forall w,x,y,z,\dotsc\in S)
</math> を意味する—演算を言う。同様に'''右結合''' (''right-associative'') 演算は、右から左に評価するものと約束する: <math display="block">\begin{array}{l}
x*y*z:=x*(y*z)\\
w*x*y*z:=w*(x*(y*z))\\
\text{etc.}\end{array}\qquad(\forall w,x,y,z,\dotsc \in S).
</math>
左結合演算も右結合演算もどちらも生じ得る。左結合演算の例:
* 実数の[[減法]]および[[除法]]<ref>George Mark Bergman: [https://math.berkeley.edu/~gbergman/misc/numbers/ord_ops.html Order of arithmetic operations]</ref><ref>Education Place: [http://eduplace.com/math/mathsteps/4/a/index.html The Order of Operations]</ref><ref>[[Khan Academy]]: [https://www.khanacademy.org/math/pre-algebra/pre-algebra-arith-prop/pre-algebra-order-of-operations/v/introduction-to-order-of-operations The Order of Operations], timestamp [https://www.youtube.com/watch?v=ClYdw4d4OmA&t=5m40s 5m40s]</ref><ref>Virginia Department of Education: [http://www.doe.virginia.gov/instruction/mathematics/middle/algebra_readiness/curriculum_companion/order-operations.pdf#page=3 Using Order of Operations and Exploring Properties], section 9</ref><ref name="Bronstein_1987">Bronstein: [[:de:Taschenbuch der Mathematik]], pages 115-120, chapter: 2.4.1.1, {{ISBN2|978-3-8085-5673-3}}</ref>: <math display="block">x-y-z:=(x-y)-z</math><math display="block">x/y/z:=(x/y)/z.</math>
* 函数の適用: <math display="block">(f \, x \, y) = ((f \, x) \, y).</math> この記法は[[カリー化]]の同型によって動機づけられる。
右結合演算の例:
* 実数の[[冪]](上付き添字記法の場合): <math display="block">x^{y^z}=x^{(y^z)}.</math> 冪演算は、反復的な左結合冪演算にあまり需要がない(左からの繰り返しの冪は、冪指数の乗法を使って <math display="block">(x^y)^z=x^{(yz)}</math> と書き直せる)ため、括弧が付かない場合にはふつう右結合的とする。
** 正しく組まれている限り、上付き添字それ自体に括弧で括るのと本質的に同じ効果が期待できる。例えば {{math|2{{exp|''x''+3}}}} という式では右肩の和の計算が冪をとるよりも先に行われ、それは括弧で括って {{math|2{{exp|(''x''+3)}}}} と明示的に書いたときに期待される計算順序になっている。それゆえ、{{mvar|x{{exp|y{{exp|z}}}}}} のような式が与えられたときは、底 {{mvar|x}} に対する全体の冪指数 {{mvar|y{{exp|z}}}} がまず計算されるのは必定である。とはいえ、手書きする場合などは特にそうだが、文脈によっては <math display="block">{x^y}^z,\quad x^{yz},\quad x^{y^z}</math>(これらを、陽に括弧を付けて書けば、順に <math display="inline">(x^y)^z,\, x^{(yz)},\,x^{(y^z)}</math>)の判別が難しいこともある。そういった場合には、ふつう右結合性が暗黙に用いられている。
* [[写像の合成]](図式順): <math display="block">\mathbb{Z} \rarr \mathbb{Z} \rarr \mathbb{Z} = \mathbb{Z} \rarr (\mathbb{Z} \rarr \mathbb{Z})</math><math display="block">x \mapsto y \mapsto x - y = x \mapsto (y \mapsto x - y).</math> これらの演算の右結合記法は、[[カリー・ハワード同型対応|カリー–ハワード対応]]および[[カリー化]]同型に動機づけられる。
評価順について特定の規約がない演算の例:
* 実数の冪演算(中置記法の場合):<ref name="Codeplea_2016">[https://codeplea.com/exponentiation-associativity-options Exponentiation Associativity and Standard Math Notation] Codeplea. 23 Aug 2016. Retrieved 20 Sep 2016.</ref><math display=block>(x^\wedge y)^\wedge z\ne x^\wedge(y^\wedge z).</math>
* [[クヌースの矢印記法]]: <math display="block">\begin{array}{l}
a \uparrow \uparrow (b \uparrow \uparrow c) \ne (a \uparrow \uparrow b) \uparrow \uparrow c\\
a \uparrow \uparrow \uparrow (b \uparrow \uparrow \uparrow c) \ne (a \uparrow \uparrow \uparrow b) \uparrow \uparrow \uparrow c\\ \text{etc.}\end{array}</math>
* ベクトルの[[交叉積]]([[ベクトル三重積]]): <math display="block">\vec a \times (\vec b \times \vec c) \neq (\vec a \times \vec b ) \times \vec c \qquad(\exists \vec a,\vec b,\vec c \in \mathbb{R}^3).</math>
* 実数の対ごとの[[算術平均]]: <math display="block">{(x+y)/2+z\over2}\ne{x+(y+z)/2\over2} \qquad(\forall x,y,z\in\mathbb{R}, x\ne z).</math>
* [[差集合|集合の差]]: <math>(A\setminus B)\setminus C</math> は <math>A\setminus (B\setminus C)</math> と一致しない(論理学における{{ill2|否定論理包含|en|material nonimplication}}の場合と比較せよ)。
== プログラミング言語 ==
{{main|{{仮リンク|演算子の結合性|en|Operator associativity}}}}
[[中置記法]]を採用している[[プログラミング言語]]においては、任意の演算子について数学で言うところの結合法則が成り立たないことを仮定して、その[[式 (プログラミング)|式]]の[[プログラム意味論|意味]]をどういった順序で、値を演算子により結合させたものとするかについて、それぞれの言語にそれぞれ法則がある。「[[演算子の優先順位]]」({{lang-en-short|''Operator precedence''}}) と「{{仮リンク|演算子の結合性|en|Operator associativity}}」({{lang-en-short|''Operator associativity''}}) と言う。
なお、優先順位と結合性は値の扱いに関する規則であって、'''式の評価の順序に関する規則ではない'''ことに注意が必要である。評価順は優先順位と結合性に直感的に従っていることもあれば、従っていないこともある。言語仕様としては決められていないこともある(評価順と関連するものとして、[[短絡評価]]がある。短絡評価のためには評価順が決まっている必要があるため、一般に演算子の左辺と右辺の評価順を決めていないC言語だが、短絡評価される演算子については決まっている。[[Java]]は仕様で全て決めている。[[Ada]]では両辺を評価する演算子と短絡評価の演算子とが用意されている。)。
優先順位と結合性は、仕様上の表現としては構文規則の一部として決まっているものが多い(たいていは便利さのために別表にまとめられている。[[yacc]]のように通常の規則とは別建てで定義できるものもある)。ここでは例として、四則演算を主に挙げるが、他の演算子についても規則は同様にある。
=== 優先順位 ===
{{main|演算子の優先順位#プログラミング言語}}
(ここでの前提である、中置記法を採用している)たいていのプログラミング言語の四則演算の演算子において、加減算より乗除算のほうが優先順位が高い、としているものが多い。
すなわち a * b + c は (a * b) + c という意味であり、a - b / c は a - (b / c) という意味である。
多くの演算子を持ち、その数に応じて多くの優先順位を定めているC言語のような言語もあれば、ほとんど優先順位が無く、次節で説明する結合性のみで、どんな演算も左から右、あるいは右から左(たとえば[[APL]])といったように決めている言語もある。
=== 結合性 ===
(前節と同様、中置記法を採用している)たいていのプログラミング言語の四則演算の演算子において、加算と減算、乗算と除算のそれぞれの間には優先順位に差が無い。加減算の連続、たとえば a + b - c + d - e というような式は、左から順に (((a + b) - c) + d) - e という意味となる。このような結合を"'''左結合'''" ({{lang-en-short|''left-associative''}})、あるいは"左から右" ({{lang-en-short|''left to right''}}) と言う。逆が"'''右結合'''"({{lang-en-short|''right-associative''}})、あるいは"右から左" ({{lang-en-short|''right to left''}}) である。
右結合の例としては、C系の言語に特徴的な代入演算子 = は右結合である。a = b = 1; という式文における式は a = (b = 1) という意味であり b = 1 という代入演算子による式の値は 1 なので、それが a に(も)代入され、結果として a と b に 1 が代入される。
[[冪乗]]の演算子として ** や ^ がある言語があるが、数学の記法では <math>a^{b^c}</math> と <math>(a^b)^c</math> のように、左を先にしたい場合に括弧が要るので、右結合すなわち a**b**c は a**(b**c) という意味であるとしたほうが数学の記法とは一致するが(たとえば[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]では ** は右結合である(オブジェクトの種類等によるものではなく、構文上の規則である))、[[Microsoft Visual Basic|VB]]のように算術演算は全て左結合としているため冪乗の ^ も左結合<ref>http://msdn.microsoft.com/en-us/library/vstudio/zh100ckf.aspx</ref>、という言語もある。
'''非結合'''(non-associative)は、右結合でも左結合でもない、たとえば比較演算子 < のように、a < b < c の意味が (a < b) < c でも a < (b < c) でもない、というような演算子の結合性である(C言語では左結合として解釈し、比較結果の真理値を整数0か1として、次の比較を行うという通常は意図しない意味を持ってしまう。[[Python]]のように a < b < c と書いて、意図した通りの意味になる言語もある)。加算や乗算のみの演算のような順序によらない演算には順序を定めない、という言語も考えられるが、あまり見られない(算術と違いコンピュータ上の計算ではオーバーフロー等のために、真に順序によらない計算は実はあまりない、という事情もある)。
== 関連項目 ==
* {{ill2|ライトの結合性判定法|en|Light's associativity test}}
* [[畳み込み級数]]: 級数の中間項が打ち消しあうには加法の結合性が必要
* [[半群]]: 結合的二項演算を持つ集合
* [[交換法則|可換性]]・[[分配法則|分配性]]: 結合性と同様に、二項演算にしばしば期待されるよい性質
* {{ill2|冪結合性|en|Power associativity}}・{{ill2|交代性|en|Alternativity}}・{{ill2|柔軟代数|en|flexible algebra|label=柔軟性}}・{{ill2|多項結合性|en|N-ary associativity}}: 弱い形の結合性
* {{ill2|モーファンク・ループ|en|Moufang loop|label=モーファンク恒等式}}からも弱い形の結合性が出る
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 外部リンク ==
* {{MathWorld |urlname= Associative |title= Associative}}
* {{nlab |urlname= associativity |title= associativity}}
* {{PlanetMath |urlname= associative |title= associative}}
* {{ProofWiki |urlname= Definition:Associative_Operation |title= Definition:Associative Operation}}
* {{ProofWiki |urlname= Category:Definitions/Associativity |title= Category:Definitions/Associativity}}
* {{SpringerEOM |urlname= Associativity |title= Associativity |first1= O.A. |last1= Ivanova |first2= D.M. |last2= Smirnov}}
{{DEFAULTSORT:けつこうほうそく}}
[[Category:代数的構造]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:数学の法則]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2022-10-30T23:55:39Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%90%88%E6%B3%95%E5%89%87
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10,125 |
数ベクトル空間
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数ベクトル空間(すうベクトルくうかん、space of numerical vectors, numerical vector space)とは、「“数”の組からなる空間」(数空間)を自然にベクトル空間と見たものである。
体 K 上の n-次元数ベクトル空間は K の n 個の直積集合 K を台集合として
からなる組 ( K n , + , ∘ ) {\displaystyle (K^{n},+,\circ )} である。ここで x = ( x 1 , x 2 , ... , x n ) ∈ K n , y = ( y 1 , y 2 , ... , y n ) ∈ K n , λ ∈ F {\displaystyle {\boldsymbol {x}}=(x_{1},x_{2},\ \ldots ,\ x_{n})\in K^{n},{\boldsymbol {y}}=(y_{1},y_{2},\ \ldots ,\ y_{n})\in K^{n},\lambda \in F} である。
この組は数のタプルを元としてベクトル空間の公理系を満たし、後述のようにn次の有限次元であるため、"n-次元" "数ベクトル空間" と呼ばれる。
数ベクトル空間 K n {\displaystyle K^{n}} においてn個のベクトルからなる集合 B = { e i ∈ K n | 1 ≤ i ≤ n } {\displaystyle B=\{{\boldsymbol {e_{i}}}\in K^{n}|1\leq i\leq n\}} を次のように定義する。
このとき任意のベクトル x ∈ K n {\displaystyle {\boldsymbol {x}}\in K^{n}} は e i {\displaystyle {\boldsymbol {e_{i}}}} の線型結合で表現できる。つまり
が成立する、すなわち K n {\displaystyle K^{n}} は B {\displaystyle B} で張られる(全域性)。また B {\displaystyle B} は明らかに線形独立である。ゆえに B {\displaystyle B} は K n {\displaystyle K^{n}} の基底である。この基底を標準基底 (canonical basis, standard basis) という。
K n {\displaystyle K^{n}} の基底を構成するベクトルの数がnであることから、 K n {\displaystyle K^{n}} は K 上のベクトル空間として n-次元の有限次元である。
標準内積は次のように定義される。
標準内積を考えない場合の数ベクトル空間をとくに n 次元アフィン空間 A = AK と呼ぶことがある。これはアフィン変換で閉じている。正則アフィン変換は直交群と平行移動群の直和に位相群として分解される。
実数体 R 上のアフィン空間 A = AR はユークリッド空間 E に付随して座標や平行移動を表す空間と見なされ、E のなかで平行性や線型独立性など、距離に依存しない性質を扱うことができる。
有限次元ベクトル空間は基底を選ぶことにより、次元の同じ数ベクトル空間に同型となるため、有限次元の抽象ベクトル空間の分類は次元によって支配されているということができる。
無限次元の数ベクトル空間と呼ぶべきものについては、その位相についての議論を避けることはできないが、いくつか存在する。例えば、次元が十分大きな数空間 K の n を限りなく大きくとることの極限として得られる可算次元空間
や、座標が無限数列となるような可算次元空間
や、あるいはもっと濃度の大きな集合で添字付けられるようなものも同様に想定できるが、これらはもはや関数空間として扱われるようなものである。
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数ベクトル空間とは、「“数”の組からなる空間」(数空間)を自然にベクトル空間と見たものである。
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'''数ベクトル空間'''(すうベクトルくうかん、space of numerical vectors, numerical vector space)とは、「“数”の組からなる空間」([[数空間]]<ref>{{Cite Kotobank |word=数空間 |accessdate=2015年10月22日}}</ref>{{Refnest|group="*"|数空間のことを座標空間と呼ぶこともある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.math.kanagawa-u.ac.jp/~homma/lec/Ga0616.pdf |title=11 座標空間 |access-date=2015年10月22日 |author=本間正明 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150608101904/http://www.math.kanagawa-u.ac.jp/~homma/lec/Ga0616.pdf |archive-date=2015-06-08 |deadlinkdate=2022-05-17}}</ref>が、「座標系を備えた空間」という意味で座標空間と呼ぶこともあるので紛らわしい({{仮リンク|座標空間|en|Coordinate space}}の項も参照)。}})を自然に[[ベクトル空間]]と見たものである。
: ここでいう“数”の集合 ''K'' は四則の定められた代数系、殊に[[可換体]]で[[順序体|順序]]や[[位相体|位相]]の定められたものを指している。実数全体の成す体 '''R''' や複素数全体の成す体 '''C''' は典型的であるが、代数体や有限体あるいはその局所化などの上で数ベクトル空間を考えることもある。関数体の上で考える場合は関数空間として捉える方が妥当である。
== 定義 ==
'''体 ''K'' 上の ''n''-次元数ベクトル空間'''は [[数空間|''K'' の ''n'' 個の直積集合 ''K''<sup>''n''</sup>]] を台集合として
* 加法 <math>+: K^n \times K^n \rightarrow K^n; (\boldsymbol{x}, \boldsymbol{y}) \mapsto (x_1 + y_1, x_2 + y_2, \ \ldots, \ x_n + y_n)</math>
* スカラー乗法 <math>\circ :
F \times K^n \rightarrow K^n;
(\lambda , \boldsymbol{x}) \mapsto (\lambda x_1, \lambda x_2, \ \ldots, \ \lambda x_n)</math>
からなる組 <math>(K^n, +, \circ)</math> である。ここで <math>\boldsymbol{x} = (x_1, x_2, \ \ldots, \ x_n) \in K^n,
\boldsymbol{y} = (y_1, y_2, \ \ldots, \ y_n) \in K^n, \lambda \in F</math> である。
この組は数のタプルを元として[[ベクトル空間]]の公理系を満たし、後述のようにn次の有限次元であるため、"n-次元" "数ベクトル空間" と呼ばれる。
== 基底と次元 ==
数ベクトル空間 <math>K^n</math> においてn個のベクトルからなる集合 <math>B = \{ \boldsymbol{e_i} \in K^n | 1 \leq i \leq n \}</math> を次のように定義する。
: <math>\begin{align}
\mathbf{e}_1 &= (1,0,0,\ldots,0),\\
\mathbf{e}_2 &= (0,1,0,\ldots,0),\\
\mathbf{e}_3 &= (0,0,1,\ldots,0),\\
&\ \vdots \\
\mathbf{e}_n &= (0,0,0,\ldots,1)\\
\end{align}</math>
このとき任意のベクトル <math>\boldsymbol{x} \in K^n</math> は <math>\boldsymbol{e_i}</math> の[[線型結合]]で表現できる。つまり
: <math>\boldsymbol{x} = (x_1,x_2,\ldots,x_n)=\sum_{i=0}^{n}x_i\mathbf{e}_i</math>
が成立する、すなわち <math>K^n</math> は <math>B</math> で張られる(全域性)。また <math>B</math> は明らかに線形独立である。ゆえに <math>B</math> は <math>K^n</math> の[[基底 (線型代数学)|基底]]である。この基底を'''標準基底''' {{lang|en|(canonical basis, standard basis)}} という。
<math>K^n</math> の基底を構成するベクトルの数がnであることから、<math>K^n</math> は {{mvar|K}} 上のベクトル空間として {{mvar|n}}-次元の有限次元である。
== 内積 ==
[[標準内積]]は次のように定義される。
: <math>(x_1, x_2, \ldots, x_n)\cdot(y_1, y_2, \ldots, y_n) := x_1 y_1 + x_2 y_2 + \cdots + x_n y_n</math>
== アフィン構造 ==
標準内積を考えない場合の数ベクトル空間をとくに ''n'' 次元[[アフィン空間]] '''A'''<sup>''n''</sup> = '''A'''<sub>''K''</sub><sup>''n''</sup> と呼ぶことがある。これは[[アフィン変換]]で閉じている。正則アフィン変換は直交群と平行移動群の直和に位相群として分解される。
実数体 '''R''' 上のアフィン空間 ''A''<sup>''n''</sup> = '''A'''<sub>'''R'''</sub><sup>''n''</sup> は[[ユークリッド空間]] ''E''<sup>''n''</sup> に付随して[[座標]]や平行移動を表す空間と見なされ、''E''<sup>''n''</sup> のなかで平行性や線型独立性など、[[距離空間|距離]]に依存しない性質を扱うことができる。
== 一般のベクトル空間との関係 ==
有限次元ベクトル空間は基底を選ぶことにより、次元の同じ数ベクトル空間に同型となるため、有限次元の抽象ベクトル空間の分類は次元によって支配されているということができる。
== 類似概念 ==
{{main|数列空間|函数空間}}
無限次元の数ベクトル空間と呼ぶべきものについては、その位相についての議論を避けることはできないが、いくつか存在する。例えば、次元が十分大きな数空間 '''K'''<sup>''n''</sup> の ''n'' を限りなく大きくとることの極限として得られる可算次元空間
: <math>\mathbb{K}^{\infty} = \bigoplus_{n=0}^{\infty} \mathbb{K} = \varinjlim_{n\to\infty}\mathbb{K}^n = \bigcup_{n=0}^{\infty}\mathbb{K}^n</math>
や、座標が無限数列となるような可算次元空間
: <math>\mathbb{K}^{\mathbb{N}} = \mathrm{Map}(\mathbb{N},\mathbb{K}) = \prod_{n=0}^{\infty}\mathbb{K} = \varprojlim_{n\to\infty}\mathbb{K}^n</math>
や、あるいはもっと濃度の大きな集合で添字付けられるようなものも同様に想定できるが、これらはもはや[[関数空間]]として扱われるようなものである。
== 注 ==
{{reflist|group="*"}}
== 参考文献 ==
{{reflist}}
==関連項目==
* {{仮リンク|座標空間|en|Coordinate space}}
* [[実数空間|実 {{mvar|n}}-次元数空間]]
* [[複素数空間|複素 {{mvar|n}}-次元数空間]]
{{DEFAULTSORT:すうへくとるくうかん}}
[[Category:線型代数学]]
[[Category:アフィン幾何学]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:ベクトル空間]]
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ライン生産方式
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ライン生産方式(ラインせいさんほうしき)とは、ある期間において、単一の製品を大量に製造するための方法。大量生産を行う工場で製品の組み立て工程、作業員の配置を一連化(ライン化)させ、ベルトコンベアなどにより流れてくる機械に部品の取り付けや小加工を行う作業である。いわゆる流れ作業。またライン作業とも呼ばれる。別名で、量産方式ともいう。セル生産方式、ラインレス生産方式の対立概念である。
ライン生産方式による製造現場において作業に従事するブルーカラー作業員をライン工(ラインこう)と呼ぶ。
ライン生産方式では、作業員一人一人の仕事は多くとも数点の部品の組み付けだけであり、職人的な技量は求められず、全くの素人でも数時間のOJTを行えば事足りる。均一の工業製品を安価に大量生産するのに適した製造工程であり、作業員の熟度に合わせてベルトコンベアのスピードを上げてゆけば生産性は高まる。
ライン生産方式をとるための条件が、いくつかある。
ライン生産方式を、生産する製品の種類によって分類することができる。
3S(整理・整頓・清掃)または4S(整理、整頓、清潔、清掃)、5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)を製品、工程、技術、管理方式の4つについて典型的に進めることで、生産効率を高めるとされている。
それぞれが工夫を重ねることで、生産性は次第にライン生産を上回り更にそれ以上に上昇していくことがある。もちろん、流れ作業をやめて一人が全て組み立てる方式にした直後は、一時的に生産効率が低下する。これは作業者が全ての工程を覚えるために一時的に生産性が低下した結果である。しかし、ある程度作業を覚えてくると、作業者の独創性によって生産性があがるという。
工場生産に応用したのは英国でマーク・イザムバード・ブルネル(en:Marc Isambard Brunel)が英国海軍用に滑車装置(en:Block and tackle)を作るためにアセンブリー・ライン(en:Assembly line)を用いたのが最初といわれている。1801年のことであった。
米国ではアルバート・ポープが1890年代にアセンブリーラインによる流れ作業での生産を開始している。ポープは英国で自転車製造を見学、米国初の自転車製造会社を創業し、かつ、米国自転車産業界を特許闘争で独占し、米国自転車の帝王とよばれた人物である。
米国での自動車生産におけるアセンブリーラインによる流れ作業の第一号は1901年、ランサム・E・オールズがオールズモビル・カーブドダッシュ生産でおこない、特許も取得している。第二号は、トマス・B・ジェフリーが1902年にランブラーC型でおこない、フォード社が1903年に初期のA型フォードでその後に続く。フォード社の技術者は1906年にコンセプトを形作っており、フォード社は工場全体にわたってこのコンセプトを適用した初の会社だった。さらにフォード社は、1914年に建造したフォード・モデルTの新生産工場でベルトコンベアを導入し、流れ作業をさらに効率化した。
流れ作業を始めた当初から、単純労働による労働者の労働意欲の低下や離職率の高さはすさまじく、賃上げや作業工程の見直しなどが相次いだ。1936年には、チャップリンの映画、『モダン・タイムス』で題材に取り上げられている。労働者に対して人間性よりも、ひたすら機械の一部としての忍耐を求めるこのシステムは批判は受けつつも、第二次世界大戦中の武器、軍需物資の生産に応用されたり、戦後は工業以外の食品製造など広範な分野に広まり、世界中で普及した。
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"title": "社会問題"
}
] |
ライン生産方式(ラインせいさんほうしき)とは、ある期間において、単一の製品を大量に製造するための方法。大量生産を行う工場で製品の組み立て工程、作業員の配置を一連化(ライン化)させ、ベルトコンベアなどにより流れてくる機械に部品の取り付けや小加工を行う作業である。いわゆる流れ作業。またライン作業とも呼ばれる。別名で、量産方式ともいう。セル生産方式、ラインレス生産方式の対立概念である。
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{{出典の明記|date=2016年4月16日}}
[[画像:Hyundai car assembly line.jpg|thumb|250px|自動車のライン生産]]
'''ライン生産方式'''(ラインせいさんほうしき)とは、ある期間において、単一の製品を大量に製造するための方法。[[大量生産]]を行う[[工場]]で製品の組み立て工程、作業員の配置を一連化(ライン化)させ、[[ベルトコンベア]]などにより流れてくる[[機械]]に[[部品]]の取り付けや小加工を行う作業である。いわゆる'''流れ作業'''。また'''ライン作業'''とも呼ばれる。別名で、量産方式ともいう。[[セル生産方式]]、[[ラインレス生産方式]]の対立概念である。
== ライン工 ==
ライン生産方式による製造現場において作業に従事する[[ブルーカラー]][[作業員]]を'''ライン工'''(ラインこう)と呼ぶ。
== 概要 ==
ライン生産方式では、作業員一人一人の仕事は多くとも数点の部品の組み付けだけであり、[[職人]]的な[[スキル|技量]]は求められず、全くの[[アマチュア|素人]]でも数時間の[[OJT]]を行えば事足りる。均一の工業製品を安価に[[大量生産]]するのに適した製造工程であり、作業員の熟度に合わせて[[ベルトコンベア]]のスピードを上げてゆけば[[生産性]]は高まる。
ライン生産方式をとるための条件が、いくつかある。
#各製品の[[需要]]量は予測可能。
#専用工程を設置しても経済的に見合うだけの需要量がある。
#対象製品の生産期間が比較的長期にわたる。
ライン生産方式を、生産する製品の種類によって分類することができる。
#[[単一品種組立ライン]]
#[[多品種組立ライン]]
3S(整理・整頓・清掃)または[[4S運動|4S]](整理、整頓、清潔、清掃)、[[5S]](整理・整頓・清掃・清潔・躾)を製品、工程、技術、管理方式の4つについて典型的に進めることで、生産効率を高めるとされている。
それぞれが工夫を重ねることで、生産性は次第にライン生産を上回り更にそれ以上に上昇していくことがある。もちろん、流れ作業をやめて一人が全て組み立てる方式にした直後は、一時的に生産効率が低下する。これは作業者が全ての工程を覚えるために一時的に生産性が低下した結果である。しかし、ある程度作業を覚えてくると、作業者の独創性によって生産性があがるという。
==歴史==
工場生産に応用したのは[[英国]]で[[マーク・イザムバード・ブルネル]]([[:en:Marc Isambard Brunel]])が英国[[海軍]]用に[[滑車]]装置([[:en:Block and tackle]])を作るために[[アセンブリー・ライン]]([[:en:Assembly line]])を用いたのが最初といわれている。[[1801年]]のことであった。
米国では[[アルバート・ポープ]]が[[1890年代]]にアセンブリーラインによる流れ作業での生産を開始している。ポープは英国で[[自転車]]製造を見学、米国初の自転車製造会社を創業し、かつ、米国自転車産業界を特許闘争で独占し、米国自転車の帝王とよばれた人物である。
米国での[[自動車]]生産におけるアセンブリーラインによる流れ作業の第一号は[[1901年]]、[[ランサム・E・オールズ]]が[[オールズモビル・カーブドダッシュ]]生産でおこない、特許も取得している。第二号は、[[トマス・B・ジェフリー]]が1902年に[[ランブラーC型]]でおこない、[[フォード・モーター|フォード社]]が[[1903年]]に初期の[[フォード・モデルA (1903)|A型フォード]]でその後に続く。フォード社の技術者は1906年にコンセプトを形作っており、フォード社は工場全体にわたってこのコンセプトを適用した初の会社だった。さらにフォード社は、[[1914年]]に建造した[[フォード・モデルT]]の新生産工場で[[ベルトコンベア]]を導入し、流れ作業をさらに効率化した。
==社会問題==
流れ作業を始めた当初から、単純労働による労働者の労働意欲の低下や[[離職率]]の高さはすさまじく、賃上げや作業工程の見直しなどが相次いだ。[[1936年]]には、[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]の[[映画]]、『[[モダン・タイムス]]』で題材に取り上げられている。労働者に対して人間性よりも、ひたすら機械の一部としての忍耐を求めるこのシステムは批判は受けつつも、[[第二次世界大戦]]中の[[武器]]、[[軍需物資]]の生産に応用されたり、戦後は工業以外の[[食品]]製造など広範な分野に広まり、世界中で普及した。
==関連項目==
*[[期間工]]
*[[セル生産方式]]
*[[アンドン]]
*[[工業化]]
*[[工場制機械工業]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らいんせいさんほうしき}}
[[Category:労働]]
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10,128 |
単一品種組立ライン
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単一品種組立ライン(たんいつひんしゅくみたてライン)とは、特定の単一品種を生産するために、あらかじめ準備された生産ラインで、その単一品種を連続的に生産する方式のことをいう。単一品種ライン生産方式、専用ライン生産方式、単一ライン生産方式、単一製品ライン生産方式などは同義語である。
静止作業方式、移動作業方式などに分けることができる。特に、ベルトコンベアを利用するものを「静止作業式コンベア方式」、「移動作業式コンベア方式」などという。コンベアを利用しない「タクト方式」もある。
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マルタ
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マルタ共和国(マルタきょうわこく、マルタ語: Repubblika ta' Malta、英語: Republic of Malta)、通称マルタ(Malta)は、南ヨーロッパの共和制国家。イギリス連邦および欧州連合(EU)の加盟国でもあり、公用語はマルタ語と英語、通貨はユーロ、首都はバレッタである。地中海中心部の複数の島からなる小さな島国で、人口は約44万人。いわゆるミニ国家の一つ。
イタリアのシチリア島の南に位置し、面積は316kmで、東京23区の面積622.99kmの約半分の大きさで、人口は約44万人、人口密度は約1380人/kmである。主要な島はマルタ島とゴゾ島、コミノ島の三つである。
地中海のほぼ中央にあり、アフリカ大陸にも近い。このためカルタゴ、共和政ローマ時代に既に地中海貿易で繁栄し、その後一時イスラム帝国の支配に入ったこともある。それに抵抗して戦ったマルタ騎士団がこの地の名前を有名にした。
小型犬のマルチーズの発祥の地であり、マルチーズの名はマルタに由来する。
新石器時代から人間が生活していたといわれ、巨石文明および平行に穿たれた2本の溝の遺跡が島内各所に残る。前者はジュガンティーヤ、スコルバ、タルシーン、ハジャイーム、(イ)ムナイドラの各神殿を含む。後者は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、この溝には水路説と神殿などに石を運ぶために出来た(あるいは造られた)レール説があるが、鉄道のポイントのように分岐点が所々存在する。
紀元前1000年ごろ、現在のレバノン一帯が起源とされるフェニキア人が渡ってきて支配者となる。
紀元前400年ごろに、カルタゴの支配下に入り、その後紀元前218年にローマに攻略される。そのころから既に地中海貿易で繁栄していた。
フランス占領下のマルタ(英語版) 1798–1800 マルタ保護国(英語版) 1800–1813 直轄植民地マルタ(英語版) 1813–1964 マルタ国(英語版) 1964–1974
紀元60年ごろ、使徒パウロがローマで皇帝の裁判を受けるために護送される途中で嵐に遭い、船が難破して打ち上げられた。なお、マルタ島の北部にパウロと兵士や船員たちが打ち上げられたと言われる「聖パウロ湾」(Saint Paul's Bay)と呼ばれる場所がある。
870年にアラブ人の侵攻を受け、1127年にノルマン人が占拠するまでイスラム帝国の支配下に置かれた。その後、1479年にスペインの支配下に置かれ、1530年には、1522年にロドス島を追われた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領となった。1565年にマルタ騎士団はオスマン帝国からの攻撃を受けるが(マルタ包囲戦)、およそ4か月で撃退に成功した。現在の首都バレッタは、この時のマルタ騎士団の団長ジャン・ド・ヴァレットの名前にちなんでいる。
1795年にエジプト遠征途上のナポレオン・ボナパルトによって占領された(フランスのマルタ占領)が、まもなくイギリスが支配したため、フランス軍はエジプトに孤立した。マルタ占領で地中海進出を果たしたイギリスに対し、通商権を侵害されたとしたデンマーク、スウェーデンと、そもそもイギリスの地中海進出に難色を示したロシアはプロイセンと結び、1800年に第二次武装中立同盟を結成する。
イギリスは、1801年にデンマークの首都コペンハーゲンを攻撃して(コペンハーゲンの海戦, 4月2日)武装中立同盟を解体させる。ナポレオン戦争の終了後、ウィーン会議でイギリスのマルタ領有が確定する。
地中海を経由してインドに至るルート上に位置するマルタは、イギリスの重要拠点となっていく。第一次世界大戦と第二次世界大戦では、マルタ沖では海戦が度々勃発した。特に第二次世界大戦中にはエジプトへの連合国側の輸送路の途上にあり、またイギリス海軍の拠点として、イタリアと北アフリカとを結ぶ枢軸国側の輸送路を脅かす存在となった。このため、マルタ島は激しい空襲に晒されたが(第二次マルタ包囲戦)、ついに陥落することはなく、連合国軍のシチリアやイタリア本土への上陸作戦の拠点となった。
戦時下の国民の努力と忍耐を讃え、イギリス国王ジョージ6世は「マルタの国と国民全て」を対象にジョージ十字勲章を授与された。勲章は現在の国旗のデザインとしてあしらわれている。
戦後、反英抵抗運動、独立闘争では後に第3代大統領となるアガサ・バーバラらが活躍した。1964年9月21日、英連邦王国自治領マルタ国(State of Malta / Stat ta' Malta)としてイギリスから独立、エリザベス2世を女王とする人的同君連合となった。さらに1974年12月13日には君主制から共和制に移行し、イギリス連邦加盟のマルタ共和国となった。2004年5月1日に欧州連合(EU) に加盟した。
国家元首たる 大統領は任期5年で、立法府である代議院によって選出される(複選制)。全ての執行権は大統領によって直接的または間接的に行使されるが、基本的には儀礼的・形式的地位である。
行政府の長である首相は、代議院選挙後に第1党の党首が大統領により指名され就任する。代議院の信任を失った場合は辞職する(議院内閣制)。
代議院は任期5年の一院制で、原則として定数は65議席となっている。比例代表制選挙により選出されるが、選挙の結果、いずれの党も単独過半数の議席を得ることができなかった場合は、もっとも得票率が高かった党に対してさらに最大4議席を追加配分し、単独過半数を確保させる。これは二大政党制が確立しているマルタにおいて、例えば第1党が32議席、第2党が30議席、第3党が3議席という結果になった場合、国民全体の中で少数の支持しか得ていない第3党が連立政権の発足および維持において過剰な影響力を行使しうる事態に陥るのを回避することにより、民意の国政への正確な反映よりも、政局の安定を重視した制度である。
2017年、パナマ文書を元にマルタ政府要人の租税回避の関係を追及していた記者ダフネ・カルーアナ・ガリジアが爆殺される事件が発生した。マルタはイタリアのマフィアのオンライン賭博の温床になっているという指摘もあり、反マフィア団体はマフィア排除の必要性を求めている。
マルタは、東西冷戦の終結を告げる歴史的なマルタ会談の舞台としても知られる。
1989年12月3日、当時のミハイル・ゴルバチョフ(ソビエト連邦最高会議議長兼ソ連共産党書記長)とジョージ・H・W・ブッシュ(アメリカ大統領)のふたりが、マルタで米ソ首脳会談を開催して戦後44年間続いた冷戦の幕引きを世界にアピールし、欧州新秩序づくりへ向けての一致協力をうたった。
東西冷戦が1945年のヤルタ会談から事実上始まり、マルタ会談で終結したことから、マルタ会談については「ヤルタからマルタへ」というキャッチフレーズで語られることも多い。
陸海空の各戦力を有する。兵員は約1,600名で志願制度。マルタ軍の設立は共和制となった1974年のことである。
マルタは地中海の中央部、シチリア島の南約93kmに位置する。マルタ島、ゴゾ島、コミノ島、無人島2島の5島よりなる。
海岸線が変化に富むため、良港が多い。地形は低い丘陵や台地からなり、最高地点はマルタ島内の標高253mの丘陵である。
気候は地中海性気候のため、冬は温暖で雨が多く、夏は暑く乾燥している。
地方行政区画は、68の市(町・村)に分かれる。県や州に相当する国と市の中間レベルの地方行政単位はない。
18世紀までは綿花とタバコの栽培、造船業が中心で、造船業はイギリス軍にとって有用なものだった。1854年のクリミア戦争のように、戦時の度にマルタ経済が繁栄した。1869年のスエズ運河の開通後は船舶の寄港地として賑わうこととなった。しかし19世紀末以降、大型船の就航により、燃料補給のための寄港の必要性が減少し、マルタの経済は縮小。第二次世界大戦が終わった1940年代後半には特に深刻な危機に陥った。現在のマルタは、国内にエネルギー資源はなく、石灰岩が産出されるのみである。食料自給率も20%にすぎない。全人口をカバーできる水資源はないため、飲料水はイタリアなどから輸入している。
経済的に有利な点は、欧州に近く地中海の中央に位置することと、労働者が勤勉なことである。貿易を中心とした経済となっており、電子、繊維、観光が主要産業である。とくに観光インフラは近年整備され、良質なホテルがある。また、映画製作も成長産業で、巨額予算の外国映画のロケ地として誘致している。
貿易や観光以外に金融にも力を入れている。税率が低いタックス・ヘイヴンとして多くの企業・資金を呼び込んでいる。規制も緩く、仮想通貨企業が進出している。
資源や経済の乏しさを補うために、教育拡充を重要視し、政府は教育を無料にして将来の経済成長を支える人材育成に励んでいる。とはいえ現実としては国民の教育水準は高くなく、2010年時点における15歳以上の労働力人口においては、小学校など初等教育のみで教育課程を終える国民が全体の53%を占めている。また識字率も15歳以上の国民で92.4%に留まり、欧州主要国よりも低い状態にある。
2004年5月には欧州連合に加盟した。国営企業の民営化と市場開放に取り組んでおり、2007年1月に国営郵便の40%を放出した。2008年1月より統一通貨ユーロが導入された。対岸のチュニジアとの間で大陸棚の商業的開発、とくに石油探鉱の協議を進めている。
自動車の通行区分はイギリス統治時代と変わらず左側通行である。多くの国民が自動車を所有し、交通手段に利用している。左側通行であることから、自動車は右ハンドル仕様の欧州車に加え、日本から輸入された中古車が多く使われており、対日中古車輸入および関連産業が盛んである。バレッタ南方13kmのマルサシュロック(英語版)にある自由港は、欧州11位のコンテナ扱い高がある。
マルタの住民は南イタリアと同様の地中海系民族をベースにノルマン系、アラブ系、スペイン系などの征服民族との混血が進んだものである。
言語は、マルタ語と英語が公用語である。また1934年まで公用語であったイタリア語もかなり使用されており、イタリアの地上波テレビ放送が届く距離であるため、イタリア語によるテレビ番組も視聴されている。2012年の調査では、96%がマルタ語、4%が英語を母語と回答している。また、89%が英語で、56%がイタリア語で、11%がフランス語で会話が可能であると回答している。マルタ語はアラビア語の方言とされるが、別言語に区分する説もあるほど正則アラビア語や他方言との差は大きい。「アラビア語」で会話可能と答えた者は2006年の調査では2%である。
婚姻時は自己の姓をそのまま名乗る(夫婦別姓)、姓を変更(夫婦同姓)、結合姓から選択することが可能である。妻が夫の姓に変える場合が最も多く、夫婦別姓を選ぶカップルも一定数いる。一方、結合姓を選択することは稀である。
離婚は、かつては法律上認められていなかったが、2011年5月の国民投票により認められることとなった。2017年9月1日より同性結婚が可能となった。
宗教の信仰人数は、カトリック教会が98%である。
2022年01月07日時点での外務省からの報告では「一般に治安は良く、凶悪な犯罪はほとんどありませんが、スリ、窃盗、車上荒らし等の被害があります。」とされている。また、犯罪被害が多発する危険地域とされる場所では「パーチャビル(英語版)」が挙げられる。パーチャビルは若者を対象とした娯楽施設が集中している繁華街で、傷害事件が発生することがあるほか、麻薬が流通しているとの情報も寄せられている。
ルソーの著作『エミール』の中では、「必要とあらばアイスランドの氷の中であろうと、マルタ島の焼けただれる岩壁の上であろうと、生き抜くことを彼に教えなければならない」とマルタについての言及があり、近代初めのヨーロッパ人にとっては、この地がいかに過酷な生活環境とみなされていたかがうかがえる。
マルタの The Producer's Creative Partnership (PCP) 社は、世界最大の撮影用水槽を有している。NHKのスペシャルドラマ『坂の上の雲』第9話「広瀬、死す」の旅順口閉塞作戦のシーンはここで撮影された。
マルタ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。
マルタは2010年まで、欧州連合(EU)加盟28ヶ国の中で唯一冬季オリンピックに参加していなかったが、2014年ソチオリンピックでエリーズ・ペレグリンがアルペンスキー競技に出場し、EU加盟全28ヶ国が冬季五輪に参加した。以後は2018年平昌オリンピックや2022年北京オリンピックにもマルタは参加しており、3大会連続でEU加盟全28カ国参加を果たしている。また、マルタは欧州小国競技大会を開催し参加している。
マルタ国内でも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーも当然の事ながら最も人気のスポーツとなっており、1909年にサッカーリーグのマルタ・プレミアリーグが創設された。スリマ・ワンダラーズFCがリーグ最多26度の優勝を達成しており、さらにカップ戦のマルタFAトロフィーでも歴代最多21度の優勝を数える。また、1900年に設立されたマルタサッカー協会(MFA)によってサッカーマルタ代表が構成されているが、FIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権への出場歴はなく、UEFAネーションズリーグでも最弱グループのリーグDに属する(2022年現在)。
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"text": "マルタの住民は南イタリアと同様の地中海系民族をベースにノルマン系、アラブ系、スペイン系などの征服民族との混血が進んだものである。",
"title": "国民"
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"tag": "p",
"text": "言語は、マルタ語と英語が公用語である。また1934年まで公用語であったイタリア語もかなり使用されており、イタリアの地上波テレビ放送が届く距離であるため、イタリア語によるテレビ番組も視聴されている。2012年の調査では、96%がマルタ語、4%が英語を母語と回答している。また、89%が英語で、56%がイタリア語で、11%がフランス語で会話が可能であると回答している。マルタ語はアラビア語の方言とされるが、別言語に区分する説もあるほど正則アラビア語や他方言との差は大きい。「アラビア語」で会話可能と答えた者は2006年の調査では2%である。",
"title": "国民"
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"text": "婚姻時は自己の姓をそのまま名乗る(夫婦別姓)、姓を変更(夫婦同姓)、結合姓から選択することが可能である。妻が夫の姓に変える場合が最も多く、夫婦別姓を選ぶカップルも一定数いる。一方、結合姓を選択することは稀である。",
"title": "国民"
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"text": "離婚は、かつては法律上認められていなかったが、2011年5月の国民投票により認められることとなった。2017年9月1日より同性結婚が可能となった。",
"title": "国民"
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"text": "宗教の信仰人数は、カトリック教会が98%である。",
"title": "国民"
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"text": "2022年01月07日時点での外務省からの報告では「一般に治安は良く、凶悪な犯罪はほとんどありませんが、スリ、窃盗、車上荒らし等の被害があります。」とされている。また、犯罪被害が多発する危険地域とされる場所では「パーチャビル(英語版)」が挙げられる。パーチャビルは若者を対象とした娯楽施設が集中している繁華街で、傷害事件が発生することがあるほか、麻薬が流通しているとの情報も寄せられている。",
"title": "治安"
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"text": "ルソーの著作『エミール』の中では、「必要とあらばアイスランドの氷の中であろうと、マルタ島の焼けただれる岩壁の上であろうと、生き抜くことを彼に教えなければならない」とマルタについての言及があり、近代初めのヨーロッパ人にとっては、この地がいかに過酷な生活環境とみなされていたかがうかがえる。",
"title": "文化"
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"text": "マルタの The Producer's Creative Partnership (PCP) 社は、世界最大の撮影用水槽を有している。NHKのスペシャルドラマ『坂の上の雲』第9話「広瀬、死す」の旅順口閉塞作戦のシーンはここで撮影された。",
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"text": "マルタ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。",
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"text": "マルタは2010年まで、欧州連合(EU)加盟28ヶ国の中で唯一冬季オリンピックに参加していなかったが、2014年ソチオリンピックでエリーズ・ペレグリンがアルペンスキー競技に出場し、EU加盟全28ヶ国が冬季五輪に参加した。以後は2018年平昌オリンピックや2022年北京オリンピックにもマルタは参加しており、3大会連続でEU加盟全28カ国参加を果たしている。また、マルタは欧州小国競技大会を開催し参加している。",
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"text": "マルタ国内でも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーも当然の事ながら最も人気のスポーツとなっており、1909年にサッカーリーグのマルタ・プレミアリーグが創設された。スリマ・ワンダラーズFCがリーグ最多26度の優勝を達成しており、さらにカップ戦のマルタFAトロフィーでも歴代最多21度の優勝を数える。また、1900年に設立されたマルタサッカー協会(MFA)によってサッカーマルタ代表が構成されているが、FIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権への出場歴はなく、UEFAネーションズリーグでも最弱グループのリーグDに属する(2022年現在)。",
"title": "スポーツ"
}
] |
マルタ共和国、通称マルタ(Malta)は、南ヨーロッパの共和制国家。イギリス連邦および欧州連合(EU)の加盟国でもあり、公用語はマルタ語と英語、通貨はユーロ、首都はバレッタである。地中海中心部の複数の島からなる小さな島国で、人口は約44万人。いわゆるミニ国家の一つ。
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{{Otheruses|マルタ共和国}}
{{基礎情報 国
|略名 = マルタ
|日本語国名 = マルタ共和国
|公式国名 = {{lang|mt|'''Repubblika ta' Malta'''}}</small>(マルタ語)</small><br/>{{lang|en|'''Republic of Malta'''}}</small>(英語)</small>
|国旗画像 = Flag of Malta.svg
|国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Malta.svg|100px|マルタの国章]]
|国章リンク = ([[マルタの国章|国章]])
|標語 = なし
|国歌 = [[マルタ賛歌|{{lang|mt|L-Innu Malti}}]]{{mt icon}}<br>''マルタ賛歌''<br>{{center| }}
|位置画像 = EU-Malta.svg
|公用語 = [[マルタ語]]、[[英語]]
|首都 = [[バレッタ]]
|最大都市 = [[セント・ポールズ・ベイ|セントポールズベイ]]
|元首等肩書 = [[マルタの大統領|大統領]]
|元首等氏名 = [[ジョージ・ヴェラ]]
|首相等肩書 = [[マルタの首相|首相]]
|首相等氏名 = [[ロベルト・アベーラ]]
|面積順位 = 186
|面積大きさ = 1 E8
|面積値 = 316
|水面積率 = ごく僅か
|人口統計年 = 2020
|人口順位 = 169
|人口大きさ = 1 E5
|人口値 = 442,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/mt.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref>
|人口密度値 = 1,379.8<ref name=population/>
|GDP統計年元 = 2020
|GDP値元 = 130億5500万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月25日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=181,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref>
|GDP統計年MER = 2020
|GDP順位MER = 122
|GDP値MER = 148億9900万<ref name="economy" />
|GDP MER/人 = 2万8955.293<ref name="economy" />
|GDP統計年 = 2020
|GDP順位 = 145
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|建国形態 = 独立
|建国年月日 = [[1964年]][[9月21日]]
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|通貨コード = EUR
|通貨追記 = <ref>[[マルタのユーロ硬貨]]も参照。</ref>
|時間帯 = +1
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|ISO 3166-1 = MT / MLT
|ccTLD = [[.mt]]
|国際電話番号 = 356
|注記 = <references />
}}
'''マルタ共和国'''(マルタきょうわこく、{{Lang-mt|Repubblika ta' Malta}}、{{Lang-en|Republic of Malta}})、通称'''マルタ'''({{lang|mt|Malta}})は、[[南ヨーロッパ]]の[[共和制]][[国家]]。[[イギリス連邦]]および[[欧州連合]](EU)の加盟国でもあり、[[公用語]]は[[マルタ語]]と[[英語]]、通貨は[[ユーロ]]、首都は[[バレッタ]]である。[[地中海]]中心部の複数の島からなる小さな[[島国]]で、人口は約44万人。いわゆる[[ミニ国家]]の一つ。
== 概要 ==
[[イタリア]]の[[シチリア島]]の南に位置し、面積は316[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、[[東京都区部|東京23区]]の面積622.99km<sup>2</sup>の約半分の大きさで、人口は約44万人、人口密度は約1380人/km<sup>2</sup>である。主要な島は[[マルタ島]]と[[ゴゾ島]]、[[コミノ島]]の三つである。
地中海のほぼ中央にあり、[[アフリカ大陸]]にも近い。このため[[カルタゴ]]、[[共和政ローマ]]時代に既に地中海貿易で繁栄し、その後一時[[イスラム帝国]]の支配に入ったこともある。それに抵抗して戦った[[マルタ騎士団]]がこの地の名前を有名にした。
[[小型犬]]の[[マルチーズ]]の発祥の地であり、マルチーズの名はマルタに由来する。
<!--
== 国名 ==
-->
== 歴史 ==
{{main|マルタの歴史}}
[[新石器時代]]から人間が生活していたといわれ、[[巨石記念物|巨石文明]]および平行に穿たれた2本の溝の遺跡が島内各所に残る。前者は[[ジュガンティーヤ]]、スコルバ、タルシーン、ハジャイーム、(イ)ムナイドラの各[[神殿]]を含む。後者は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、この溝には[[水路]]説と神殿などに石を運ぶために出来た(あるいは造られた)[[レール]]説があるが、鉄道のポイントのように分岐点が所々存在する。
[[紀元前1000年]]ごろ、現在の[[レバノン]]一帯が起源とされる[[フェニキア人]]が渡ってきて支配者となる。
[[紀元前400年]]ごろに、[[カルタゴ]]の支配下に入り、その後[[紀元前218年]]に[[共和政ローマ|ローマ]]に攻略される。そのころから既に[[地中海]]貿易で繁栄していた。
[[ファイル:Siege of malta 1.jpg|thumb|[[マルタ包囲戦 (1565年)]]]]
{{Quote box |width=18em |bgcolor=#B0C4DE
|title=変遷
|fontsize=100% |quote={{flagicon|SMOM}} [[聖ヨハネ騎士団]] 1566–1798<br>
{{flagicon|FRA}} {{ill2|フランス占領下のマルタ|en|French occupation of Malta}} 1798–1800<br>
{{flagicon|UK}} {{ill2|マルタ保護国|en|Malta Protectorate}} 1800–1813<br>
{{flagicon|MLT|1943}} {{ill2|直轄植民地マルタ|en|Crown Colony of Malta}} 1813–1964<br>
{{flagicon|MLT}} {{ill2|マルタ国|en|State of Malta}} 1964–1974<br>
{{flagicon|MLT}} マルタ共和国 1974–現在
}}
紀元[[60年]]ごろ<ref>「カラー聖書ガイドブック」(いのちのことば社)P568に、総督ペリクスが解任させられたのが[[59年]]とある。その直後、パウロは[[カイサリア・マリティマ|カイザリア]]からローマに向けて船出した。</ref>、[[パウロ|使徒パウロ]]がローマで皇帝の裁判を受けるために護送される途中で嵐に遭い、船が難破して打ち上げられた<ref>[[使徒言行録]]28章</ref>。なお、マルタ島の北部にパウロと兵士や船員たちが打ち上げられたと言われる「聖パウロ湾」({{lang|en|Saint Paul's Bay}})と呼ばれる場所がある。
[[870年]]に[[アラブ人]]の侵攻を受け、[[1127年]]に[[ノルマン人]]が占拠するまで[[イスラム帝国]]の支配下に置かれた。その後、[[1479年]]に[[スペイン]]の支配下に置かれ、[[1530年]]には、[[1522年]]に[[ロドス島]]を追われた[[聖ヨハネ騎士団]](後の[[マルタ騎士団]])の所領となった。[[1565年]]にマルタ騎士団は[[オスマン帝国]]からの攻撃を受けるが([[マルタ包囲戦 (1565年)|マルタ包囲戦]])、およそ4か月で撃退に成功した。現在の首都バレッタは、この時のマルタ騎士団の団長[[ジャン・ド・ヴァレット]]の名前にちなんでいる。
[[1795年]]に[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]途上の[[ナポレオン・ボナパルト]]によって占領された([[フランスのマルタ占領]])が、まもなく[[イギリス]]が支配したため、フランス軍はエジプトに孤立した。マルタ占領で地中海進出を果たしたイギリスに対し、通商権を侵害されたとした[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]と、そもそもイギリスの地中海進出に難色を示した[[ロシア帝国|ロシア]]はプロイセンと結び、1800年に[[武装中立同盟|第二次武装中立同盟]]を結成する。
イギリスは、1801年にデンマークの首都[[コペンハーゲン]]を攻撃して([[コペンハーゲンの海戦]], 4月2日)武装中立同盟を解体させる。ナポレオン戦争の終了後、[[ウィーン会議]]でイギリスのマルタ領有が確定する。
地中海を経由して[[インド]]に至るルート上に位置するマルタは、イギリスの重要拠点となっていく。[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]では、マルタ沖では海戦が度々勃発した。特に第二次世界大戦中にはエジプトへの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側の輸送路の途上にあり、またイギリス海軍の拠点として、[[イタリア]]と北アフリカとを結ぶ[[枢軸国]]側の輸送路を脅かす存在となった。このため、マルタ島は激しい空襲に晒されたが([[マルタ包囲戦 (第二次世界大戦)|第二次マルタ包囲戦]])、ついに陥落することはなく、連合国軍のシチリアやイタリア本土への上陸作戦の拠点となった。
{{main|[[地中海の戦い (第二次世界大戦)]]}}
戦時下の国民の努力と忍耐を讃え、イギリス国王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]は「マルタの国と国民全て」を対象に[[ジョージ・クロス|ジョージ十字勲章]]を授与された。勲章は現在の国旗のデザインとしてあしらわれている。
戦後、反英抵抗運動、独立闘争では後に第3代大統領となる[[アガサ・バーバラ]]らが活躍した。[[1964年]]9月21日、[[英連邦王国]][[自治領]]'''マルタ国'''({{lang|en|State of Malta}} / {{lang|en|Stat ta' Malta}})としてイギリスから独立、[[エリザベス2世]]を女王とする[[人的同君連合]]となった。さらに[[1974年]][[12月13日]]には君主制から共和制に移行し、[[イギリス連邦]]加盟の'''マルタ共和国'''となった。[[2004年]][[5月1日]]に欧州連合(EU) に加盟した。
{{Clearleft}}
== 政治 ==
{{Main|{{仮リンク|マルタの政治|en|Politics of Malta}}}}
[[File:Malta Valletta BW 2011-10-07 10-41-05.JPG|thumb|首都[[バレッタ]]の裁判所。]]
国家[[元首]]たる [[マルタの大統領|大統領]]は任期5年で、[[立法府]]である[[代議院 (マルタ)|代議院]]によって選出される([[複選制]])。全ての執行権は大統領によって直接的または間接的に行使されるが、基本的には儀礼的・形式的地位である。
{{main|マルタ総督|マルタの大統領}}
[[政府の長|行政府の長]]である[[マルタの首相|首相]]は、代議院選挙後に第1党の党首が大統領により指名され就任する。代議院の信任を失った場合は辞職する([[議院内閣制]])。
{{Main|マルタの首相}}
代議院は任期5年の[[一院制]]で、原則として定数は65議席となっている。[[比例代表制]]選挙により選出されるが、選挙の結果、いずれの党も単独過半数の議席を得ることができなかった場合は、もっとも得票率が高かった党に対してさらに最大4議席を追加配分し、単独過半数を確保させる。これは[[二大政党制]]が確立しているマルタにおいて、例えば第1党が32議席、第2党が30議席、第3党が3議席という結果になった場合、国民全体の中で少数の支持しか得ていない第3党が連立政権の発足および維持において過剰な影響力を行使しうる事態に陥るのを回避することにより、民意の国政への正確な反映よりも、政局の安定を重視した制度である。
{{Main|{{仮リンク|マルタの政党|en|List of political parties in Malta}}}}
2017年、[[パナマ文書]]を元にマルタ政府要人の[[租税回避]]の関係を追及していた記者[[ダフネ・カルーアナ・ガリジア]]が爆殺される事件が発生した<ref name="ando">安藤健二、[https://www.huffingtonpost.jp/entry/malta-murder_jp_5c5b6fc7e4b0faa1cb678c05 「ここはマフィアの国だ」爆殺されたジャーナリストの息子が訴える],[[ハフィントンポスト]]2017年10月18日 15時08分 JST</ref><ref>[http://www.excite.co.jp/News/world_g/20171018/Tbs_news_108396.html]「パナマ文書」調査報道の記者殺害、息子「マフィアの国」と非難</ref>。マルタはイタリアの[[マフィア]]のオンライン賭博の温床になっているという指摘もあり<ref name="ando"/>、反マフィア団体はマフィア排除の必要性を求めている<ref>Silence surrounds 'Mafia State' banner removal[https://www.timesofmalta.com/articles/view/20171024/local/silence-surrounds-mafia-state-banner-removal.661217]</ref><ref>http://www.maltatoday.com.mt/news/national/81600/mafia_seeing_malta_as_a_little_paradise_italian_antimafia_commission_warns</ref>。
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|マルタの国際関係|en|Foreign relations of Malta}}}}
[[ファイル:Ministry of Foreign Affairs of Malta 20110713 1.jpg|thumb|180px|マルタ外務省で開催された[[東北地方太平洋沖地震]]の被災者を支援するコンサート]]
=== 冷戦終結の舞台 ===
マルタは、[[冷戦|東西冷戦]]の終結を告げる歴史的な[[マルタ会談]]の舞台としても知られる。
[[1989年]][[12月3日]]、当時の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]([[ソビエト連邦最高会議議長]]兼[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党書記長]])と[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]([[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]])のふたりが、マルタで米ソ首脳会談を開催して戦後44年間続いた冷戦の幕引きを世界にアピールし、欧州新秩序づくりへ向けての一致協力をうたった。
東西冷戦が[[1945年]]の[[ヤルタ会談]]から事実上始まり、マルタ会談で終結したことから、マルタ会談については「'''ヤルタからマルタへ'''」という[[キャッチフレーズ]]で語られることも多い。
=== 日本との関係 ===
{{main|日本とマルタの関係}}
* [[1862年]]、[[1858年]]にイギリス、フランスなど5カ国と個別に締結された修好通商条約の修正を求めて派遣された[[文久遣欧使節|文久遣欧使節団]]が訪問している<ref name=sankei20090205n3/>。
* [[第一次世界大戦]]中の[[1917年]][[6月11日]]、[[日英同盟]]に基づきイギリス側に参戦し、地中海に派遣されていた[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]「[[榊 (樺型駆逐艦)|榊]]」が、マルタへの帰還途上で敵艦の攻撃により大破した。その戦死者を葬る「大日本帝国[[第二特務艦隊]]戦死者之墓」がある<ref name=sankei20090205n1>[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090205/erp0902051750005-n1.htm 皇太子時代にご訪問 (1/4ページ)] 産経ニュース 2009.2.5</ref><ref name=sankei20090205n2>[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090205/erp0902051750005-n2.htm 地中海のマルタに「旧日本海軍墓地」があった… 昭和天皇も皇太子時代にご訪問 (2/4ページ)] 産経ニュース 2009.2.5</ref>。
* [[1921年]]4月、皇太子時代の[[昭和天皇]]が訪問し、「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」に拝礼している<ref name=sankei20090205n3>[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090205/erp0902051750005-n3.htm 地中海のマルタに「旧日本海軍墓地」があった… 昭和天皇も皇太子時代にご訪問 (3/4ページ)] 産経ニュース 2009.2.5 </ref>。
* [[2017年]]5月27日、[[安倍晋三]][[内閣総理大臣]](当時)が[[第43回先進国首脳会議|タオルミーナサミット]]の帰路にマルタ島を訪問し、「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」に拝礼すると共に<ref>{{Cite news2|url=https://www.sankei.com/article/20170528-W5XZERSWSFO4FEJJKKR5PIIQ6E/|title=安倍晋三首相、マルタの日本海軍戦没者墓地で献花|agency=産経デジタル|newspaper=産経ニュース|date=2017-05-28|accessdate=2023-09-23}}</ref>、当時のマルタ共和国首相[[ジョゼフ・ムスカット]]との会談を行っている<ref>{{Cite news2|url=https://www.sankei.com/article/20170528-RQGX4BM2PJOF5AMENZR3GOJWZA/|title=安倍晋三首相、マルタを訪問 首脳会談、中国念頭に「法の支配」で連携確認|agency=産経デジタル|newspaper=産経ニュース|date=2017-05-28|accessdate=2023-09-23}}</ref>。
== 軍事 ==
{{main|マルタの軍事}}
陸海空の各戦力を有する。兵員は約1,600名で[[志願制度]]<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malta/data.html</ref>。マルタ軍の設立は共和制となった1974年のことである。
== 地理 ==
{{main|{{仮リンク|マルタの地理|en|Geography of Malta}}}}
[[File:View of Nature Reserve from St. Agatha's Tower.JPG|thumb|国土風景]]
マルタは地中海の中央部、シチリア島の南約93kmに位置する。[[マルタ島]]、[[ゴゾ島]]、[[コミノ島]]、無人島2島の5島よりなる<ref>{{Cite Kotobank|word=マルタ(国)|author=田辺裕・柴田匡平|encyclopedia=小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)|access-date=2023-06-28}}</ref>。
海岸線が変化に富むため、良港が多い。地形は低い丘陵や台地からなり、最高地点はマルタ島内の標高253mの丘陵である。
気候は[[地中海性気候]]のため、冬は温暖で雨が多く、夏は暑く乾燥している。
{{Clearleft}}
== 地方行政区分 ==
[[File:General map of Malta.svg|thumb|地形図]]
{{Main|マルタの地方行政区画|マルタの都市の一覧}}
地方行政区画は、68の'''市'''(町・村)に分かれる。県や州に相当する国と市の中間レベルの地方行政単位はない。
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|マルタの経済|en|Economy of Malta}}}}
[[File:Gozo Channel Line Malita.jpg|thumb|ゴゾ島を結ぶフェリー。]]
[[File:Valletta-Harbour.jpg|thumb|バレッタ港。]]
[[File:Malta Freeport from Pretty Bay at Birzebbuga.jpg|thumb|マルタ自由港。]]
[[File:Malta Marsaxlokk BW 2011-10-04 14-44-00.JPG|thumb|マルサシュロック港]]
[[File:Malta International Airport2.jpg|thumb|[[マルタ国際空港]]、マルタ航空の拠点。]]
18世紀までは[[綿花]]と[[タバコ]]の栽培、造船業が中心で、造船業はイギリス軍にとって有用なものだった。1854年の[[クリミア戦争]]のように、戦時の度にマルタ経済が繁栄した。1869年の[[スエズ運河]]の開通後は船舶の寄港地として賑わうこととなった。しかし19世紀末以降、大型船の就航により、燃料補給のための寄港の必要性が減少し、マルタの経済は縮小。第二次世界大戦が終わった1940年代後半には特に深刻な危機に陥った。現在のマルタは、国内にエネルギー資源はなく、[[石灰岩]]が産出されるのみである。食料自給率も20%にすぎない。全人口をカバーできる水資源はないため、飲料水はイタリアなどから輸入している。
経済的に有利な点は、欧州に近く地中海の中央に位置することと、労働者が勤勉なことである。貿易を中心とした経済となっており、電子、繊維、観光が主要産業である。とくに観光インフラは近年整備され、良質なホテルがある。また、映画製作も成長産業で、巨額予算の外国映画のロケ地として誘致している。
貿易や観光以外に[[金融]]にも力を入れている。税率が低い[[タックス・ヘイヴン]]として多くの企業・資金を呼び込んでいる。規制も緩く、[[仮想通貨]]企業が進出している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34017210Z00C18A8EE9000/ 「マルタ 仮想通貨大国に/世界最大手が今年拠点 緩い規制、1日1100億円超取引」]『日本経済新聞』朝刊2018年8月10日(金融経済面)2018年9月27日閲覧。</ref>。
資源や経済の乏しさを補うために、教育拡充を重要視し、政府は教育を無料にして将来の経済成長を支える人材育成に励んでいる。とはいえ現実としては国民の教育水準は高くなく、2010年時点における15歳以上の労働力人口においては、小学校など初等教育のみで教育課程を終える国民が全体の53%を占めている{{#tag:ref|Cedefop (2010)
<ref>{{cite book| |author= Cedefop(European Centre for the Development of Vocational Training) |year= 2010|title= Skills supply and demand in Europe: medium-term forecast up to 2020 |edition= |series =| publisher=Publications Office of the European Union |location= Luxembourg |url= http://www.cedefop.europa.eu/en/Files/3052_en.pdf |accessdate= 2014-03-29|isbn= 978-92-896-0536-6 |doi= 10.2801/25431 |pages= |ref=}}</ref>,p.88.の、2010年におけるマルタの労働力人口に対する初等教育修了者のデータより算出。}}。また[[識字率]]も15歳以上の国民で92.4%に留まり、欧州主要国よりも低い状態にある{{Refnest|group="注"|[[ザ・ワールド・ファクトブック]]における識字率一覧<ref name="cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2103.html#136 アメリカ合衆国中央情報局の国際情勢資料]</ref>によれば、マルタの識字率は2005年の15歳以上のマルタ国民に対する調査で92.4%となった。一方、15歳以上の国民に対する同様の調査でドイツ、フランス、イタリアは99%、スペインは97.7%となっている<ref name="cia"></ref>。}}。
2004年5月には[[欧州連合]]に加盟した<ref name="マイペディア">{{Cite Kotobank|word=マルタ|author=|encyclopedia=平凡社百科事典マイペディア|access-date=2023-06-28}}</ref>。国営企業の民営化と市場開放に取り組んでおり、2007年1月に国営郵便の40%を放出した。2008年1月より統一通貨[[ユーロ]]が導入された<ref name="マイペディア" />。対岸の[[チュニジア]]との間で[[大陸棚]]の商業的開発、とくに石油探鉱の協議を進めている。
[[自動車]]の通行区分は[[イギリス]]統治時代と変わらず[[対面交通|左側通行]]である。多くの国民が自動車を所有し、交通手段に利用している。左側通行であることから、自動車は右ハンドル仕様の欧州車に加え、日本から輸入された[[中古車]]が多く使われており、対日中古車輸入および関連産業が盛んである。バレッタ南方13kmの{{仮リンク|マルサシュロック|en|Marsaxlokk}}にある自由港は、欧州11位の[[海上コンテナ|コンテナ]]扱い高がある。
== 交通 ==
{{main|{{仮リンク|マルタの交通|en|Transport in Malta}}}}
=== 道路 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの道路|en|Roads in Malta}}}}
=== 鉄道 ===
{{main|マルタの鉄道}}
=== 航空 ===
{{main|マルタの空港の一覧}}
== 国民 ==
{{main|{{仮リンク|マルタの人口統計|en|Demographics of Malta}}}}
マルタの住民は南イタリアと同様の地中海系民族をベースにノルマン系、アラブ系、スペイン系などの征服民族との混血が進んだものである<ref>平凡社[[世界大百科事典]]デジタル版 第2版『マルタ』竹内啓一</ref>。
=== 言語 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの言語|en|マルタの言語}}}}
言語は、[[マルタ語]]と[[英語]]が[[公用語]]である。また[[1934年]]まで公用語であった[[イタリア語]]もかなり使用されており、イタリアの[[地上波]]テレビ放送が届く距離であるため、イタリア語によるテレビ番組も視聴されている<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/country_profiles/1045691.stm Malta country profile] BBC News 2018年9月27日閲覧。</ref>。2012年の調査では、96%がマルタ語、4%が英語を[[母語]]と回答している。また、89%が英語で、56%がイタリア語で、11%が[[フランス語]]で会話が可能であると回答している<ref> [http://ec.europa.eu/public_opinion/archives/ebs/ebs_386_en.pdf Special Eurobarometer 386 Europeans and their Languages] [[欧州委員会]]</ref>。マルタ語は[[アラビア語]]の方言とされるが、別言語に区分する説もあるほど[[正則アラビア語]]や他[[方言]]との差は大きい。「アラビア語」で会話可能と答えた者は2006年の調査では2%である<ref>[http://ec.europa.eu/public_opinion/archives/ebs/ebs_243_en.pdf Special Eurobarometer 243 Europeans and their Languages] 欧州委員会</ref>。
=== 婚姻 ===
婚姻時は自己の姓をそのまま名乗る([[夫婦別姓]])、姓を変更(夫婦同姓)、結合姓から選択することが可能である。妻が夫の姓に変える場合が最も多く、夫婦別姓を選ぶカップルも一定数いる。一方、結合姓を選択することは稀である<ref>[https://www.ourwedding.com.mt/en/the-surname-dilemma-for-maltese-brides THE SURNAME DILEMMA FOR MALTESE BRIDES]</ref>。
[[離婚]]は、かつては法律上認められていなかったが、2011年5月の国民投票により認められることとなった<ref>{{cite news
| author = 青木伸行
| url = http://sankei.jp.msn.com/world/news/121208/asi12120818010002-n1.htm
| title = 離婚制度がない国 フィリピン
| newspaper = [[産経新聞]]
| date = 2012-12-08
| accessdate = 2016-03-25
}}</ref>。2017年9月1日より[[同性結婚]]が可能となった。
=== 宗教 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの宗教|en|Religion in Malta}}}}
宗教の信仰人数は、[[カトリック教会]]が98%である。
=== 教育 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの教育|en|Education in Malta}}}}
{{節スタブ}}
* [[マルタ大学]]
=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの保健|en|Health in Malta}}}}
{{節スタブ}}
==== 医療 ====
{{main|{{仮リンク|マルタの医療|en|Healthcare in Malta}}}}
== 治安 ==
2022年01月07日時点での[[外務省]]からの報告では「一般に治安は良く、凶悪な犯罪はほとんどありませんが、[[スリ]]、[[窃盗]]、[[車上荒らし]]等の被害があります。」とされている。また、犯罪被害が多発する危険地域とされる場所では「{{仮リンク|パーチャビル|en|Paceville}}」が挙げられる。パーチャビルは若者を対象とした娯楽施設が集中している[[繁華街]]で、[[傷害]]事件が発生することがあるほか、[[麻薬]]が流通しているとの情報も寄せられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_195.html|title=マルタ 安全対策基礎データ|accessdate=2022-3-30|publisher=外務省}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|マルタにおける人権|en|Human rights in Malta}}}}
{{節スタブ}}
== メディア ==
=== マスコミ ===
{{main|{{仮リンク|マルタのテレビ|en|Television in Malta}}|{{仮リンク|マルタの新聞の一覧|en|List of newspapers in Malta}}}}
{{節スタブ}}
=== インターネット ===
{{main|{{仮リンク|マルタのインターネット|en|Internet in Malta}}}}
{{節スタブ}}
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|マルタの文化|en|Culture of Malta}}}}
=== 食文化 ===
{{Main|マルタ料理|{{仮リンク|マルタ料理の一覧|en|List of Maltese dishes}}}}
{{節スタブ}}
=== 文学とマルタ ===
{{main|{{仮リンク|マルタ文学|en|Maltese literature}}}}
[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の著作『[[エミール (ルソー)|エミール]]』の中では、「必要とあらば[[アイスランド]]の氷の中であろうと、マルタ島の焼けただれる岩壁の上であろうと、生き抜くことを彼に教えなければならない」とマルタについての言及があり、近代初めのヨーロッパ人にとっては、この地がいかに過酷な生活環境とみなされていたかがうかがえる。
<!--シチリア以北のストロンボリ島
他にも、[[ジュール・ヴェルヌ]]の『[[地底探検]]』で、主人公たちが[[アイスランド]]の火山から地底に潜り、出てくるのがこのマルタ島である。-->
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの音楽|en|Music of Malta}}}}
{{節スタブ}}
=== 映画 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの映画|en|Cinema of Malta}}|{{仮リンク|マルタ映画の一覧|en|List of Maltese films}}}}
{{節スタブ}}
==== 映像 ====
マルタの The Producer's Creative Partnership (PCP) 社は、世界最大の撮影用水槽を有している。NHKのスペシャルドラマ『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』第9話「広瀬、死す」の[[旅順口区|旅順口]]閉塞作戦のシーンはここで撮影された。
=== 建築 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの建築|en|Architecture of Malta}}}}
{{節スタブ}}
=== 世界遺産 ===
[[ファイル:Panorama_of_Valletta.jpg|thumb|[[世界遺産]]([[文化遺産]])である[[バレッタ]]市街。]]
{{Main|マルタの世界遺産}}
マルタ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件存在する。
* [[ハル・サフリエニの地下墳墓]] -(1980年)
* [[バレッタ]]市街 -(1980年)
* [[マルタの巨石神殿群]] -(1980年)
=== 祝祭日 ===
{{main|{{仮リンク|マルタの祝日|en|Public holidays in Malta}}}}
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== スポーツ ==
{{main|{{仮リンク|マルタのスポーツ|en|Sport in Malta}}|}}
マルタは[[2010年]]まで、[[欧州連合]](EU)加盟28ヶ国の中で唯一[[冬季オリンピック]]に参加していなかったが、[[2014年ソチオリンピック]]でエリーズ・ペレグリンが[[2014年ソチオリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー競技]]に出場し、EU加盟全28ヶ国が冬季五輪に参加した<ref>[[:en:Malta_at_the_2014_Winter_Olympics|[:en]]]Malta at the 2014 Winter Olympics(英語版)</ref>。以後は[[2018年平昌オリンピック]]や[[2022年北京オリンピック]]にもマルタは参加しており、3大会連続でEU加盟全28カ国参加を果たしている。また、マルタは[[欧州小国競技大会]]を開催し参加している。
{{main|オリンピックのマルタ選手団}}
=== サッカー ===
{{main|{{仮リンク|マルタのサッカー|en|Football in Malta}}}}
マルタ国内でも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様に、[[サッカー]]も当然の事ながら最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1909年]]にサッカーリーグの[[マルタ・プレミアリーグ]]が創設された。[[スリマ・ワンダラーズFC]]がリーグ最多26度の優勝を達成しており、さらに[[カップ戦]]の[[マルタFAトロフィー]]でも歴代最多21度の優勝を数える。また、[[1900年]]に設立された[[マルタサッカー協会]](MFA)によって[[サッカーマルタ代表]]が構成されているが、[[FIFAワールドカップ]]および[[UEFA欧州選手権]]への出場歴はなく、[[UEFAネーションズリーグ]]でも最弱グループのリーグDに属する([[2022年]]現在)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2017年9月}}
* ピーター・シャンクランド&アンソニー・ハンター著『マルタ島攻防戦』[[朝日ソノラマ]]、1986年12月発行(原著は1961年発行).
* 石川和恵著『マルタ島に魅せられて―地中海の小さな島』晶文社、1997年7月発行.
* ビッグボーイ編集部編『ザビッハマルタ―マルタ共和国ガイドブック』楽天舎ブック、1997年9月発行.
* 桜田久編『日本海軍地中海遠征秘録』産経新聞ニュースサービス、1997年10月発行.
* ビッグボーイ編集部編『バスの王国マルタ』楽天舎ブック、1999年2月発行.
* [[紅山雪夫]]著『シチリア・南イタリアとマルタ』トラベルジャーナル、2001年7月発行.
* マルタ観光局編『The Maltese Cross』vol.3.,2010年5月発行.
=== 関連作品 ===
* 「マルタの猫―地中海・人とネコの不思議な物語」(2003年3月17日BS-hi放送、2010年10月7日BS-hi再放送)
* 「[[岩合光昭の世界ネコ歩き]]・マルタ」(2015年9月18日、NHK-BS2放送)
== 関連項目 ==
* [[マルタ関係記事の一覧]]
* [[A・J・クィネル]] - 『[[マイ・ボディガード (2004年の映画)|マイ・ボディガード]]』(2004年の映画)の原作などで知られる世界的冒険小説家。亡くなる2005年7月までゴゾ島で暮らした。
* [[マルチーズ]] - マルタ島発祥の小型犬。
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Malta|Malta}}
; 政府
* [https://www.gov.mt/ マルタ共和国政府] {{mt icon}}{{en icon}}
* [https://president.gov.mt/ マルタ大統領府] {{en icon}}
* [http://www.opm.gov.mt/ マルタ首相府] {{en icon}}
* [http://www.ipsj-tokyo.org/malta/index-malta.html マルタ共和国名誉総領事館] {{ja icon}}
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malta/ 日本外務省 - マルタ]
* [https://www.it.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在イタリア日本国大使館] - 在マルタ大使館を兼轄
; 地域情報
* [http://www.midmed-news.com/ 中央地中海通信] {{ja icon}}
; 観光
* [https://www.visitmalta.com/en/home マルタ政府観光局] {{en icon}}
* [https://www.mtajapan.com/ マルタ観光局日本事務所] {{ja icon}}
* [https://www.google.com/maps/d/viewer?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3%2C0x0%3A0x0%2C0&msa=0&ll=43.58039099999998%2C10.371093999999971&spn=19.090979%2C43.066406&z=4&source=embed&mid=1UmO4sHNWCoMQP0dP71W3OAOA2dw マルタ空港からの就航地図] {{ja icon}}
;SNS
* [https://twitter.com/mtajapan Twitter - マルタ観光局] {{ja icon}}
; その他
* {{Kotobank|マルタ(国)}}
{{ヨーロッパ}}
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{{イギリス連邦}}
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10,133 |
多品種組立ライン
|
多品種組立ライン(たひんしゅくみたてライン)は、市場の大量需要化、細分化、製品細分化による多品種、多仕様化に対して、量産効果を発揮しながら適応しようとする生産方式。多品種製品ライン生産方式も、ほぼ同義。
多品種組立ラインは、2つに分けることができる。バッチ式組立ラインと混合品種組立ラインである。
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多品種組立ライン(たひんしゅくみたてライン)は、市場の大量需要化、細分化、製品細分化による多品種、多仕様化に対して、量産効果を発揮しながら適応しようとする生産方式。多品種製品ライン生産方式も、ほぼ同義。 多品種組立ラインは、2つに分けることができる。バッチ式組立ラインと混合品種組立ラインである。
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'''多品種組立ライン'''(たひんしゅくみたてライン)は、市場の大量需要化、細分化、製品細分化による多品種、多仕様化に対して、量産効果を発揮しながら適応しようとする[[生産]]方式。'''多品種製品ライン生産方式'''も、ほぼ同義。
多品種組立ラインは、2つに分けることができる。バッチ式組立ラインと混合品種組立ラインである。
== バッチ式組立ライン ==
* ある期間中に生産される品種数に応じて、計画期間をいくつかの小期間に細分し、細分された小期間は一品種のみを連続的に生産する方式のことである。ライン切り替え生産方式とも呼ばれる。
== 混合品種組立ライン ==
* 作業方法がほぼ等しいので特定の複数品種を混合して連続的に生産するために、あらかじめ準備された一本の生産ラインである複数品種を混合して連続的に生産する方式のことである。
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10,134 |
レベリング
|
レベリング(levelling、leveling)
|
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レベリング(levelling、leveling) 水準測量 - 水準器を使う測量。
塗装やレベリング材などを塗布して表面を滑らかにすること。
ゲームキャラクターのレベルを上げるためのゲームプレイ。
レベリング法 - 別名 ウェスティングハウス法、Westinghouse System,平準化法。レイティング法に見られない利点:作業速度の変動要因を「熟練」「努力」「環境条件」「一致性」の4項目に分解し、定性的に格付けした結果が定量的にどのようになるかを結びつけていること。
|
'''レベリング'''({{en|levelling}}、{{en|leveling}})
* [[水準測量]] - [[水準器]]を使う測量。
* [[塗装]]や[[レベリング材]]などを塗布して表面を滑らかにすること。
* [[レベル (ロールプレイングゲーム)|ゲームキャラクターのレベル]]を上げるためのゲームプレイ。
* [[レベリング法]] - 別名 ウェスティングハウス法、Westinghouse System,平準化法。レイティング法に見られない利点:作業速度の変動要因を「熟練」「努力」「環境条件」「一致性」の4項目に分解し、[[定性的]]に格付けした結果が[[定量的]]にどのようになるかを結びつけていること。
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|
10,135 |
定性的研究
|
定性的研究(ていせいてきけんきゅう、英: qualitative research、質的調査)は、対象の質的な側面に注目した研究。そこで扱われるデータは定性データと呼ばれる。対象の量的な側面に注目した定量的研究と対を成す概念である。
定性的研究とは、インタビューや観察結果、文書や映像、歴史的記録などの質的データ(定性的データ)を得るために、社会学や社会心理学、文化人類学などで用いられる方法である。狭義の調査だけでなく、実験や観察、インタビューやエスノメソドロジー、文書や映像の内容分析、会話分析、住み込んでの参与観察、各種のフィールドワークなど、多様な手法を用いた調査方法を指す概念である。社会調査の一種として考えた場合、社会からデータをとるための一つの方法であるが、その意味で多義的であり、社会調査のみではなく純粋な観察なども含む。観察は必ずしも質問をする必要はなく、言葉の通じない幼児などに対しても可能な場合があり、シンボリック相互作用論以来の研究の伝統もある。社会調査は多くの場合、対象者に何らかの質問をすることになる。グラウンデッド・セオリーのように、適切な分析法を作ろうとする研究もある。
定性的研究の手法として様々なものが提唱されている。比較的多くの分野で知られているものに、以下のものがある。
一般に、定性的研究は次のような目的に適しているとされることが多い。
定性的研究において取り扱われる質的側面には、具体的には次のようなものがある。
定性的研究は非常に多くの分野で多用されているが、その中には次のような分野が含まれる。
定性的研究は、定量的研究と比べて科学的でない、と評される場合がある。比較的よく見られる定性的研究への批判には以下のようなものがある。
これに対して、定性的研究に従事する者や定性的研究を擁護する立場からの反論や、定量的研究に対する批判も数多く存在している。これらの意見は、認識論的な前提や研究者の社会的役割についての考え方が多様であり、簡単にまとめることが難しいが、以下のようなものが含まれる。
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"text": "定性的研究において取り扱われる質的側面には、具体的には次のようなものがある。",
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定性的研究は、対象の質的な側面に注目した研究。そこで扱われるデータは定性データと呼ばれる。対象の量的な側面に注目した定量的研究と対を成す概念である。
|
{{人類学}}
'''定性的研究'''(ていせいてきけんきゅう、{{lang-en-short|qualitative research}}、'''質的調査''')は、対象の質的な側面に注目した研究。そこで扱われるデータは定性データと呼ばれる。対象の量的な側面に注目した[[定量的研究]]と対を成す概念である。
== 概要 ==
定性的研究とは、インタビューや観察結果、文書や映像、歴史的記録などの質的データ(定性的データ)を得るために、[[社会学]]や[[社会心理学]]、[[文化人類学]]などで用いられる方法である。狭義の調査だけでなく、実験や観察、インタビューや[[エスノメソドロジー]]、文書や映像の[[内容分析]]、[[会話分析]]、住み込んでの[[参与観察]]、各種の[[フィールドワーク]]など、多様な手法を用いた調査方法を指す概念である。社会調査の一種として考えた場合、社会からデータをとるための一つの方法であるが、その意味で多義的であり、[[社会調査]]のみではなく純粋な観察なども含む。観察は必ずしも質問をする必要はなく、言葉の通じない幼児などに対しても可能な場合があり、[[シンボリック相互作用論]]以来の研究の伝統もある。社会調査は多くの場合、対象者に何らかの質問をすることになる。[[グラウンデッド・セオリー]]のように、適切な分析法を作ろうとする研究もある。
== 方法と対象 ==
定性的研究の手法として様々なものが提唱されている。比較的多くの分野で知られているものに、以下のものがある。
* [[フィールドワーク]]
* [[参与観察]]
* [[エスノメソドロジー]]
* [[事例研究]](ケーススタディ)
* [[内容分析]](テクスト分析)
* [[会話分析]]([[談話分析]])
一般に、定性的研究は次のような目的に適しているとされることが多い。
* 先行研究などが乏しく、詳細が不明な対象を扱う研究
* 一般化が困難な複雑な事象を対象とする研究
* 対象の複雑性や詳細を明らかにするための研究
定性的研究において取り扱われる質的側面には、具体的には次のようなものがある。
# ある集団や組織などの構造や歴史
# ある行為、慣習などの背景にある心理や動機
# ある概念や理論の論理的構成や一貫性、他の関連概念、理論との異同
# 倫理、道徳など規範的な意見の価値
# さまざまな法、制度、政策の価値
# 芸術作品やその批評など審美的な価値
定性的研究は非常に多くの分野で多用されているが、その中には次のような分野が含まれる。
* [[社会学]]
* [[社会心理学]]
* [[歴史学]]
* [[文化人類学]]
* [[精神分析学]]
* [[経営学]]
* [[法学]]
* [[政策科学]]
* [[文学]]、[[美学]]
* [[言語学]]
* [[哲学]]、思想
== 定性的研究と定量的研究 ==
{{独自の研究|section=1|date=2016年7月7日 (木) 11:29 (UTC)}}
定性的研究は、定量的研究と比べて科学的でない、と評される場合がある。比較的よく見られる定性的研究への批判には以下のようなものがある。
# 古典や理論などを解釈し続けるばかりで実用性、応用性、実証性に欠ける。
# 研究対象となる異文化などに研究者自ら参加してしまうため、[[客観性]]があるかどうかが疑わしい([[参与観察]]など)。
# 研究者自身の経験を題材にしており客観性があるかどうかが疑わしい(アクション・リサーチなど)。
# 客観的な研究が望める事実判断だけに研究を限定せず、善悪や美醜をめぐる価値判断も扱っている。
# 言語や身振り、表情の意味の解釈などを含んでおり、判断の恣意性、主観性が高い。
# 研究を通じて特定の価値判断や物の見方を広めようとしており、中立性を欠く([[カルチュラル・スタディーズ|文化研究]]など)。
# 結論に辿り着くプロセスとして、仮説の選定、調査のデザイン、データ収集、分析、結論という順序に従っていない。このため、他の研究者が同じ研究を行っていた場合には結論が異なっていたのではないかと疑われる([[:en:grounded theory|グラウンデッド・セオリー]]など)。
# 研究を発表するスタイルとして、事前に採択した仮説、調査のデザイン、分析結果、解釈、結論という体裁をとっておらず、結論が主張され、それを支持する証拠や主な反証に対する反駁が示されるという形をとる。この場合、調査のデザインや分析結果が示されている体裁をとっている場合と比べて、結論を出す際の元になったデータの全容が第三者にはわかりづらい。結論に説得力を持たせるために切り捨てている部分などがあったとしても、第三者はそれに気づかない可能性が高い。
これに対して、定性的研究に従事する者や定性的研究を擁護する立場からの反論や、定量的研究に対する批判も数多く存在している。これらの意見は、[[認識論]]的な前提や研究者の社会的役割についての考え方が多様であり、簡単にまとめることが難しいが、以下のようなものが含まれる。
# 理論研究や古典の研究は、他の研究者への影響や学生への教育などを通じて一定の貢献を果たしている。
# 研究対象が未知であったり、複雑であったりする場合には、定量的研究では適切に扱うことができない。
# [[要素還元主義]]的な学問には限界があり、複雑な物事に関する総合的判断を行うためには恣意性とつきあっていかなければならない。
# 定量的研究にも、研究者が意識していないだけで様々な恣意性がある。定量研究ではそれらを意識化し、考察の対象にしていないために、かえってそうした恣意性に束縛されやすい面もある。
# 研究対象に対する恣意的な解釈が研究からどうしても除外できない場合があるので、その場合には恣意性との付合い方を考えるべきで、恣意性の徹底排除だけが望ましいアプローチではない。
# [[価値判断]]を徹底して控えることは、研究者が既存の価値観に対して無批判になることであり、倫理的に望ましいこととは言えない。
# 積極的に行うか否かに関わらず、学術出版物は社会的影響を持ってしまうので、出版の結果について考えないことは社会的責任の放棄にあたる。
==参考文献==
{{参照方法|section=1|date=2016年7月7日 (木) 11:29 (UTC)}}
*盛山和夫.2004.『社会調査法入門』有斐閣.
*原純輔・海野道郎.2004.『社会調査演習 第2版』東京大学出版会.
*今田高俊編.2000.『社会学研究法 -リアリティの捉え方』有斐閣 ISBN 978-4641121157.
*木村邦博.2006.『日常生活のクリティカル・シンキング』河出書房新社.
*北澤毅・古賀正義編. 1997. 『社会を読み解く技法 -質的調査法への招待』 福村出版.
*大谷信介他編.2005.『社会調査へのアプローチ 第2版』ミネルヴァ書房.
*[[佐藤郁哉]].2002.『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』有斐閣.
*鹿又伸夫・長谷川計二・野宮大志郎.2001.『質的比較分析』ミネルヴァ書房 ISBN 978-4623034741.
*鈴木裕久.2006.『臨床心理研究のための質的方法概説』創風社.
*宮内洋.2005.『体験と経験のフィールドワーク』北大路書房.
*Flick, Uwe, 1995, ''Qualitative Forschung'', Rowohlt Taschenbuch Verlag GmbH, Reinbek bei Hamburg
*小田博志・春日常・山本則子・宮地尚子訳、2002『質的研究入門―「人間の科学」のための方法論』、春秋社 ISBN 978-4393499092
*Gary King, Robert O. Keohane, Sidney Verba. 1994 =真渕勝監訳.2004.『 社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論』勁草書房 ISBN 978-4326301508.
*戈木クレイグヒル滋子.2006.『グラウンデッド・セオリー・アプローチ ―理論を生みだすまで』新曜社 ISBN 978-4788509917.
*安田三郎・原純輔.1982.『社会調査ハンドブック(第3版)』有斐閣.
*Robert K. Yin, 近藤 公彦訳.『ケース・スタディの方法 (第2版)』千倉書房 ISBN 978-4805107324.
==関連項目==
*[[定量的研究]]
*[[社会調査]]
*[[質的心理学]]
*[[エスノメソドロジー]]
*[[参与観察]]
*[[内容分析]]([[テキスト分析]])
*[[会話分析]]
*[[現象学]]
*[[シンボリック相互作用論]]
*[[ラベリング理論]]
*[[コミュニケーション論]]
*[[社会調査士]]
*[[世論調査]]
*[[事例研究]](ケーススタディ)
*[[グラウンデッド・セオリー]]
*[[NVivo|QDAソフト - NVivo -]]
== 外部リンク ==
*[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/edu/situteki.html 日本社会学会「質的な分析の方法に関する科目」の授業内容に関する調査報告書]
*[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaqp/index.html 日本質的心理学会]
*[http://web.kyoto-inet.or.jp/people/mabuchir/ 社会調査の道具箱]
*{{Wayback|url=http://dir.yahoo.co.jp/Social_Science/Social_Research/ |title=ヤフー 社会調査 |date=20160618101230}}
*[http://kccn.konan-u.ac.jp/sociology/research/02/1_1.html 社会調査工房オンライン]
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ロボットアニメ
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ロボットアニメ(和製英語:robot anime)とは、ロボットを中心的題材としたアニメーションのこと。物語性のある作品であれば主人公格に据えたものをいう。多くは「メカアニメ」と呼ばれる上位カテゴリに含まれ、カテゴリ内の中心的一分野を形成する。
これを他と区別して語られるべきものとして捉えるのは20世紀後期後半の日本のアニメ(日本製アニメーション)から生まれてきた概念である。日本のアニメを中心に通用しているものの、明確に定義されてはいない。
メディアミックス作品の展開が多い関連分野でもこの概念は用いられており、その意味では「ロボットアニメ」のいう呼称は係る概念における最狭義と捉えるべきである。これを踏まえた広義の用語として「ロボットもの」がある。英語圏(英語圏のファンや関係者の間)では "mecha anime and manga" のジャンルに含まれる "mecha anime" の下位カテゴリとしての "robot anime" である。
ロボットアニメは登場するロボットの種類によって幾つか類型に分けられる。一般的にロボットアニメといえば、「ヒトを模していない自律型ロボット」「遠隔操作型ロボット」「搭乗型ロボット」のアニメを指す例が多いが、本節で述べるように「アンドロイド(ガイノイドも含む)」や「装着型ロボット」も広義的にはこの部類に該当する。
ここでは、ロボットアニメに主人公格で登場するロボットの類型を、日本での捉え方を中心にしながら、可能な限り外国での捉え方も交えて解説する。
何をもってロボットアニメとするか、あるいはそのアニメがロボットアニメか否かは見る側で基準や根拠がまちまちであり、ファン同士で意見が食い違うことがしばしばある。「アンドロイド」「装着型ロボット」も狭義的にはロボットアニメには含まれないので論題にされる。 「ロボット」は原初であるカレル・チャペックの『R.U.R.』においては、有機質からなる人造人間であったが、20世紀以後現在においてはもっぱら金属など無機質の機械からなるものをいう、定義の遷移が生じており、有機質・生命体のものや、あるいはゴーレムのように非科学的手段で稼働するものをロボットに含めうるかという議論も存在する。以下は具体例。
1970年前半は現在では「スーパーロボット系」などと呼ばれるジャンルのテレビアニメが生まれた時代である(初の作品がマジンガーZ)。魅力的かつ個性的な造形を持ち、通常兵器では到底及ばぬ強大な戦闘力を持つ巨大人型戦闘ロボットの存在を前提として、勧善懲悪と巨大メカ戦を基本にしながら今なお多くのファンを持つ作品群が数多く生まれた。そのほぼ全ての作品が玩具として商品展開されており、その中には『鋼鉄ジーグ』の様に視聴率には恵まれなくとも、玩具の販売成績の優秀さに支えられて放映が続いた作品も存在していた。
1974年に「合体・変形ロボット」作品の元祖と位置づけられる『ゲッターロボ』が製作される。これ以降数々の合体・変形ロボットアニメが製作されるようになった。
1976年になると長浜ロマンロボシリーズの第一作である『超電磁ロボ コン・バトラーV』が製作された。それまでのロボットアニメにみられる勧善懲悪から脱却し、敵側が地球を侵略する理由を強く描いて善悪の相対化を行い、それと同時に様々なドラマ性が追求され高年齢のファンを獲得することになる。
1979年の『機動戦士ガンダム』の出現を皮切りに、世界観に政治・軍事・組織論なども絡ませ複雑化する物語(『太陽の牙ダグラム』はガンダムとは逆に解放・独立派側からの視点で描かれている)や、物理学・機械工学・SF理論などにある程度準拠したリアリティのあるメカデザイン・設定や戦闘描写がなされた「リアルロボット系」と総称されるアニメ群が一代ムーブメントを巻き起こす。そして、このリアルロボット系作品もまた『超時空要塞マクロス』『装甲騎兵ボトムズ』など様々な方向性に分化し、それぞれに頂点といえる作品を経ながら、その席巻は1980年代中盤にかけて続いた。
この1970年代から1980年代にかけては、ロボットアニメブームと呼ばれるほど多数のロボットアニメ作品が製作された。視聴率も平均して高く、主な放送時間も夜7時から9時のプライムタイムであった。視聴者層の大半を占める子供たち向けの玩具(アニメに登場するロボットのプラモデルなど)の売り上げも好調であり、それらを販売する玩具メーカーがテレビアニメのスポンサーについた。
だが、ピークを過ぎてくると、作品の量的飽和や過剰なリアル志向への行き詰まり感、人間キャラによるバトル物の流行などに伴ってタイアップ玩具の市場の閉塞感が見え隠れする様になり、それらに反動するかの如く、1970年代のスーパーロボット系作品へのオマージュを盛り込みつつ美少女や超能力といった要素を持たせたOVA作品が1987年頃から立て続けに製作され、この流れは1990年代前半まで続いた。また、日常系ロボットアニメ、『ドラえもん』『Dr.スランプ アラレちゃん』のヒットもこの時代である。
1990年代でも玩具業界のタイアップによるロボットアニメの特徴を正統に受け継いだ作品は製作され続け、『勇者シリーズ』『エルドランシリーズ』『平成ガンダム』と呼ばれる一連の子供向け作品群が生まれた。また、テレビゲーム『ドラゴンクエスト』などのブームを受けて、『魔神英雄伝ワタル』といったファンタジー要素を持たせたものも多く現れた。
こうした状況下で『新世紀エヴァンゲリオン』が発表された。アニメ・漫画・特撮・SF・その他文芸作品など、過去作品のオマージュをふんだんに盛り込んでおり、リアルやスーパーといった分類ではくくりきれない個性を放つ作品となった。
しかし、1990年代後半には視聴率低下やテレビ局側の事情などによる『勇者シリーズ』や『平成ガンダム』の打ち切りで陰りが見え始め、2000年代に入るとポストエヴァの作品も勢いを失い、その後継となる大きな潮流も生まれずロボットアニメは全体的に衰退傾向を呈している。特に全日枠アニメにおけるロボットアニメは壊滅状態となり、深夜アニメでの放映が事実上の標準となった。巨大ロボットが登場する番組の内、全日枠で現在も放送を継続しているのは特撮の『スーパー戦隊シリーズ』のみである。
これは、家庭用ゲームやトレーディングカードゲームの普及などによる趣味の多様化によって、選択肢が増加した事を原因とする玩具業界全体の不振に伴うスポンサーの撤退、テレビ局と制作会社・玩具会社との軋轢などや、日本の総人口に占める子供の割合が低下したことによって、そこからさらに獲得できる客層の割合が減少したこと、そして現実の技術の発達や情勢の変化による従来の定番の陳腐化などが主な要因だった。 こうした時代・情勢の末期に、等身大ロボットが主要キャラクターとして登場するコンピューターゲーム(ビジュアルノベル)『To Heartシリーズ』が、そのヒットの結果複数回アニメ化され商業的に一定の成功を納めたが、これらをロボットアニメに含めることは少ない。
こうした経緯を受けて、テレビ放送されるロボットアニメのビジネスモデルは大きく変わった。企画段階から若年層や玩具会社を排除、立体商品は高年齢層を想定した設計のものに加えて、限定的な版権許諾型ビジネスで発売されるガレージキットなどに留まった。一方でDVDを販売する映像レーベルやメディアミックス系出版社などの販売元が企画の中核となり、既にロボットアニメに親しんでいる高年齢層向けのアニメとして製作しソフトの売り上げを主たる収入源と位置づける、新たなビジネスモデルに基づいた作品が作られるようになった。それら客層に合わせて過去のヒット作のリメイクや続編作品なども作られるようになっていった。
今日ではオリジナル・シリーズもの共に一定のヒット作が生まれつつも、上記の通り大人層を主流としたことによる主要客層の高齢化・固定化や定番構造をあまりにも多用し続けていることによる作品構造のマンネリ化といった問題は依然として抱えており、特に子供や若年層などの新規客層の乏しさが一層問題視されるようになっている。それでも現在は未だ数多くの作品が製作され続けているが、ロボットを単独のメインに据えずあくまで一構成要素に留める作品も作られる等ジャンルの拡散が進んでいる状況であり、各社が新しいロボットアニメの主流の模索を続けている。
巨大ロボットものの第一人者と言える制作会社として『機動戦士ガンダム』を制作したサンライズが挙げられる。1975年の『勇者ライディーン』に始まり、『ロマンロボ(製作は東映)』『ガンダム』『勇者』などのシリーズ作品、単発作品を多々輩出し、ロボットアニメ全盛期の1970年代後半から一貫して「ロボットアニメと言えばサンライズ」と言われるほどの実績を築きつづけている。しかし、『勇者』シリーズ終了以降はロボットアニメの制作数は少しばかり減少している。これはサンライズ自身がロボットアニメ以外の方向に向き始めている表れだと言える。
その他にロボットアニメの制作会社としては『マジンガーZ』などの(東映アニメーション)、『マクロス』の(スタジオぬえ)や続編制作を継承した(サテライト)そして『エヴァンゲリオン』を制作した(ガイナックス)と外部協力企業の(タツノコプロ)や同作品の版権継承会社(カラー)が主な所と言えるだろう。
古くはロボットアニメの制作会社と言えば他にも『J9シリーズ』『アクロバンチ』『スラングル』の国際映画社、『ダンクーガ』『ゴーショーグン』『マシンロボ』の葦プロダクションなどがあるが、前者は80年代中期に倒産して今はなく、後者も最近はロボットアニメを殆ど制作していない(しかしながら2007年に久々のロボットアニメ『獣装機攻ダンクーガノヴァ』を制作している)。最近では『グラヴィオン』『トランスフォーマーギャラクシーフォース』のゴンゾ、元サンライズのプロデューサー南雅彦らが設立した『ラーゼフォン』『エウレカセブン』のボンズなどが比較的多数のロボットアニメを制作している。
地上波民放では各局で放送例が見られる。ただし、フジテレビのように、歴史的にはエポックメーキングな作品である『鉄腕アトム』『鉄人28号』『タイムボカンシリーズ』『マジンガーZ』『ゲッターロボ』などを放送してきたが1980年代後半以降はレギュラー枠として巨大ロボットアニメを放送していない例もある。名古屋テレビの土曜夕方5時30分枠は1977年の『無敵超人ザンボット3』に始まり、1990年に移動するまで足掛け13年に渡り、数多くのロボットアニメを世に送り出した。NHKでは巨大ロボットアニメを放送した例としては『女神候補生』『時空冒険記ゼントリックス』などがある。
日本国内で製作されているロボットアニメは外国に輸出され、中には世界各国で放送されたものもある。地域によっては日本国内以上の人気を得たアニメもあり、1970〜80年代にかけて輸出された『UFOロボ グレンダイザー』(ヨーロッパでは「ゴルドラック」や「アトラス」などに改題されている)は、ヨーロッパ圏で高視聴率をキープした記録がある。1979年にフィリピンに輸出された『超電磁マシーン ボルテスV』は当時のマルコス政権打倒に貢献したとして、フィリピンで認知度100%の国民的アニメになっていると日本でも報道された。
アメリカでも『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』(1984年)、『アイアン・ジャイアント』(1999年)、『シン・バイオニックタイタン (英語版)』(2010年)、『ベイマックス』(2014年)などのロボットアニメが製作された。CGを多用した作品が多いのも特徴のひとつである。日本との合作も多く、そのうち『ロボテック』(1985年)は『超時空要塞マクロス』『超時空騎団サザンクロス』『機甲創世記モスピーダ』を、『ボルトロン』(1984年)は『百獣王ゴライオン』と『機甲艦隊ダイラガーXV』を1つの作品に繋げて輸出したもので、独自に展開した派生シリーズの中でリブートの『ヴォルトロン』(2016年)は日本でも公開された。
韓国においては『テコンV』(1976年)と呼ばれるスーパーロボットアニメを皮切りに、数々のロボットアニメが製作された。その中で『幻影闘士バストフレモン』(2001年)、日本との合作で『無限戦記ポトリス』(2003年)などは日本国内でも放送された。他にも変身自動車トボト、ハローカボトなどがある。
中国や台湾においても『星原戦記アストロプラン (中国語版)』(2010年)、『戦闘装甲鋼羽 (中国語版)』(2011年)、『超限猎兵凯能 (中国語版)』(2013年)、『重甲機神Baryon (中国語版)』(2018年)など数々のロボットアニメが製作されている。中には日本と中国が合作した『重神機パンドーラ』(2018年)、中国・香港・マカオ・台湾が合作した『黎明之神意 (中国語版)』(2014)のような作品もある。
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"text": "地上波民放では各局で放送例が見られる。ただし、フジテレビのように、歴史的にはエポックメーキングな作品である『鉄腕アトム』『鉄人28号』『タイムボカンシリーズ』『マジンガーZ』『ゲッターロボ』などを放送してきたが1980年代後半以降はレギュラー枠として巨大ロボットアニメを放送していない例もある。名古屋テレビの土曜夕方5時30分枠は1977年の『無敵超人ザンボット3』に始まり、1990年に移動するまで足掛け13年に渡り、数多くのロボットアニメを世に送り出した。NHKでは巨大ロボットアニメを放送した例としては『女神候補生』『時空冒険記ゼントリックス』などがある。",
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"text": "日本国内で製作されているロボットアニメは外国に輸出され、中には世界各国で放送されたものもある。地域によっては日本国内以上の人気を得たアニメもあり、1970〜80年代にかけて輸出された『UFOロボ グレンダイザー』(ヨーロッパでは「ゴルドラック」や「アトラス」などに改題されている)は、ヨーロッパ圏で高視聴率をキープした記録がある。1979年にフィリピンに輸出された『超電磁マシーン ボルテスV』は当時のマルコス政権打倒に貢献したとして、フィリピンで認知度100%の国民的アニメになっていると日本でも報道された。",
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"text": "アメリカでも『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』(1984年)、『アイアン・ジャイアント』(1999年)、『シン・バイオニックタイタン (英語版)』(2010年)、『ベイマックス』(2014年)などのロボットアニメが製作された。CGを多用した作品が多いのも特徴のひとつである。日本との合作も多く、そのうち『ロボテック』(1985年)は『超時空要塞マクロス』『超時空騎団サザンクロス』『機甲創世記モスピーダ』を、『ボルトロン』(1984年)は『百獣王ゴライオン』と『機甲艦隊ダイラガーXV』を1つの作品に繋げて輸出したもので、独自に展開した派生シリーズの中でリブートの『ヴォルトロン』(2016年)は日本でも公開された。",
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"text": "韓国においては『テコンV』(1976年)と呼ばれるスーパーロボットアニメを皮切りに、数々のロボットアニメが製作された。その中で『幻影闘士バストフレモン』(2001年)、日本との合作で『無限戦記ポトリス』(2003年)などは日本国内でも放送された。他にも変身自動車トボト、ハローカボトなどがある。",
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"text": "中国や台湾においても『星原戦記アストロプラン (中国語版)』(2010年)、『戦闘装甲鋼羽 (中国語版)』(2011年)、『超限猎兵凯能 (中国語版)』(2013年)、『重甲機神Baryon (中国語版)』(2018年)など数々のロボットアニメが製作されている。中には日本と中国が合作した『重神機パンドーラ』(2018年)、中国・香港・マカオ・台湾が合作した『黎明之神意 (中国語版)』(2014)のような作品もある。",
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ロボットアニメとは、ロボットを中心的題材としたアニメーションのこと。物語性のある作品であれば主人公格に据えたものをいう。多くは「メカアニメ」と呼ばれる上位カテゴリに含まれ、カテゴリ内の中心的一分野を形成する。 これを他と区別して語られるべきものとして捉えるのは20世紀後期後半の日本のアニメ(日本製アニメーション)から生まれてきた概念である。日本のアニメを中心に通用しているものの、明確に定義されてはいない。 メディアミックス作品の展開が多い関連分野でもこの概念は用いられており、その意味では「ロボットアニメ」のいう呼称は係る概念における最狭義と捉えるべきである。これを踏まえた広義の用語として「ロボットもの」がある。英語圏(英語圏のファンや関係者の間)では "mecha anime and manga" のジャンルに含まれる "mecha anime" の下位カテゴリとしての "robot anime" である。
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{{Otheruses|ロボットの登場するアニメーション全般|2013年放送のテレビアニメ|直球表題ロボットアニメ}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2013年3月
| 独自研究 = 2009年2月
| 言葉を濁さない = 2012年12月
}}<!--※本項の構成や内容について不満のある方はノートにて議題を提起して下さい。-->
'''ロボットアニメ'''({{small|[[和製英語]]:}}robot anime)とは、[[ロボット]]を中心的題材とした[[アニメーション]]のこと。[[物語]]性のある作品であれば[[主人公]]格に据えたものをいう。多くは「'''[[メカ]]アニメ'''」と呼ばれる上位[[カテゴリ]]に含まれ、カテゴリ内の中心的一分野を形成する<ref group="注">ロボットアニメ以外のメカアニメは、例えば、[[軍艦]]型の[[宇宙船]]を主人公格にした『[[宇宙戦艦ヤマト]]』がこれに当たる。そのほか、[[機械]]を[[擬人化]]するアニメが一分野を形成しており、結果的のメカアニメやロボットアニメになってはいる。「[[美少女]]メカアニメ」「美少女ロボットアニメ」などと呼ばれるものがこれに当たる。ただこれは美少女のほうに表現の比重が置かれている「[[メカ少女]]」と呼ばれるカテゴリであって、メカアニメに分類されることはあっても主流の扱いを受けることはない。</ref>。
これを他と区別して語られるべきものとして捉えるのは20世紀後期後半の[[日本]]の[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]](日本製アニメーション)から生まれてきた[[概念]]である。日本のアニメを中心に通用しているものの、明確に[[定義]]されてはいない。
[[メディアミックス]]作品の展開が多い関連分野でもこの概念は用いられており、その意味では「ロボットアニメ」のいう呼称は係る概念における最狭義と捉えるべきである。これを踏まえた広義の用語として「'''ロボットもの'''」がある。[[英語圏]](英語圏の[[ファン]]や関係者の間<ref group="注">広く一般に通用するものではない。</ref>)では "[[:en:Mecha anime and manga|mecha anime and manga]]" のジャンルに含まれる "mecha anime" の下位カテゴリとしての "robot anime" である。
== 類型 ==
ロボットアニメは登場するロボットの種類によって幾つか類型に分けられる。一般的にロボットアニメといえば、「[[ヒト]]を模していない自律型ロボット」「遠隔操作型ロボット」「搭乗型ロボット」のアニメを指す例が多いが、本節で述べるように「[[人造人間#アンドロイド|アンドロイド]]([[ガイノイド]]も含む)」や「装着型ロボット」も広義的にはこの部類に該当する。
ここでは、ロボットアニメに主人公格で登場するロボットの類型を、日本での捉え方を中心にしながら、可能な限り外国での捉え方も交えて解説する。
* '''{{Anchors|自律型}}自律型'''({{small|[[英語|英]]:}}'''Sentient''')
:: 自律性能を有するロボット。技術面からは[[人工知能]]搭載型のほか、人知を超えたオーバーテクノロジーによるものや、既存の生命原理から外れた存在までがある。ヒトを模したものと模していないものに大別でき、また、等身大(人間大)のものとそれ以外(大きいものと小さいもの)に大別できる。活劇はもちろん、人間との交流・共存がテーマとなる作品が多い。巨大ロボットが登場する代表作が『[[アストロガンガー]]』。
:*; {{Anchors|等身大の自律性ヒト型}}等身大の自律性ヒト型
:: ヒトを模した等身大(人間大)の自律性[[直立二足歩行]]型ロボット。すなわち、[[人造人間#アンドロイド|アンドロイド]]のこと。活劇はもちろん、人間との交流・共存、果ては恋愛がテーマとなることが多い。代表作品の『[[鉄腕アトム]]』は最初のロボットアニメ作品であり、最初の30分の[[テレビアニメ]]シリーズ作品でもある。
:*; {{Anchors|非等身大の自律性ヒト型}}非等身大の自律性ヒト型
:: ヒトを模した自律性直立二足歩行型ではあるが、非等身大のロボット。小さい方の代表作は『[[ミクロマン・マグネパワーズ|小さな巨人 ミクロマン]]』。
:: カラーのロボットアニメ作品第1号である『[[アストロガンガー]]』では、「生きている金属」を使って生成した自律型ロボットに人間の主人公が融合することでさらなる力を引き出すという異色の作品になっている。
:*; {{Anchors|ヒトを模していない自律型}}ヒトを模していない自律型
:: 代表作は、[[タイムボカンシリーズ]]、[[トランスフォーマー]]シリーズ、[[勇者シリーズ]]など。キャラクターでは[[タチコマ]]も該当(代表作は『[[タチコマな日々]]』)。
* '''{{Anchors|装着型}}装着型'''({{small|英:}}'''Wearable''')
:: 人間が装着する、能力強化型のロボット<!--※元の文は「ヒトが装着型ロボットに変身するタイプ」だが、言語明瞭意味不明です。他者に伝わる表現でお願いします。-->。
* '''{{Anchors|変形型}}変形型'''({{small|英:}}'''Transforming''')
:: 補佐キャラクターとして登場する作品は多い。代表作は『[[機甲創世記モスピーダ]]』、[[トランスフォーマー]]シリーズ、『[[機甲警察メタルジャック]]』など。
* '''{{Anchors|遠隔操作型}}遠隔操作型'''({{small|英:}}'''Remote controlled''')
:: 人間が外部から遠隔操作するロボット。最初の巨大ロボット作品である『[[鉄人28号]]』(1955年)以後、巨大ロボットとしてはあまり見られないタイプであるが、『[[プラレス3四郎]]』や『[[ガンダムビルドファイターズ]]』などの人間大未満の場合や、[[シミュレーション]]タイプとして[[カードゲーム]]アニメに遠隔操作型ロボットが登場する場合もある。
* '''{{Anchors|搭乗型}}搭乗型'''({{small|英:}}'''Piloted''')
:: 人間が乗り込んで操作するロボット。日本のロボットアニメの中で、最も作品数の多い一大ジャンルである。一般的にロボットアニメというとこの部類を指す例が多い。
:: 最初の搭乗型巨大ロボットが登場する作品は1950年に[[フランス]]で発表された『[[王と鳥|やぶにらみの暴君]]』であり、『[[マジンガーZ]]』(1972年)でジャンルとして確立した。少数派になるが非ヒト型も、合体型ロボットの分離状態に頻出する他、『[[ゾイド]]』などが存在する。
::古くは、「ロボット」はある程度以上の自立稼働可能な形式を指し、搭乗形式では人型や動物型に近いものでも「[[戦車|タンク]]」と称していることがあった(『[[黄金バット]]』(1947年)、『[[魔神ガロン]]』(1959年)等では、自律・遠隔操作型のロボットと、搭乗型のタンクを呼び分けている)。
:もっとも、[[ロボット工学]]的には人型のような形態はただ立っているだけでも常に自身のバランス制御が必要で、これを含めた一挙手一投足を操縦者自身により制御することは、現実的に不可能に近い。大多数のロボットは操縦方式いかんによらず基本動作は自律して行っており、操縦者は高次の行動を指示する形態とする必要がある。つまりコントロール面に関して、鉄人28号とマジンガーZやガンダムとの違いは、おおよそのところ操縦装置が無線リモコンか、機体に直付けかに過ぎないと言える。
: なお、『マジンガーZ』などのように、主人公側(搭乗型)と違ったタイプのロボットを、敵役(自立稼働・音声遠隔指示型)が使う場合も多い。
=== 分類基準 ===
何をもってロボットアニメとするか、あるいはそのアニメがロボットアニメか否かは見る側で基準や根拠がまちまちであり、ファン同士で意見が食い違うことがしばしばある。「[[人造人間#アンドロイド|アンドロイド]]」「装着型ロボット」も狭義的にはロボットアニメには含まれないので論題にされる。
「ロボット」は原初である[[カレル・チャペック]]の『[[R.U.R.]]』においては、有機質からなる人造人間であったが、20世紀以後現在においてはもっぱら金属など無機質の機械からなるものをいう、定義の遷移が生じており、有機質・生命体のものや、あるいは[[ゴーレム]]のように非科学的手段で稼働するものをロボットに含めうるかという議論も存在する。以下は具体例。
; {{Anchors|ロボットは登場してもそれが物語の中心ではない}}ロボットは登場してもそれが物語の中心ではない
: 『[[キスダム -ENGAGE planet-]]』『[[ヒロイック・エイジ]]』などが該当。作品全体としてロボットでの戦闘の比重が少なく、あくまで多くある舞台装置の中の一つといった描写に止まっている。また、ある程度(もしくは毎回)ロボットの見せ場があっても、他の要素の方が際立っている場合にはロボットアニメとしての側面が疑われやすい。こちらには『[[神無月の巫女]]』などが該当。
; {{Anchors|パワードスーツを題材としている}}[[パワードスーツ]]を題材としている
: 『[[強殖装甲ガイバー]]』『[[IS 〈インフィニット・ストラトス〉]]』などが該当。パワードスーツの上からロボットを着る・纏う(装着型ロボットの様式)、あるいはロボットに内蔵される様式でより判別が難しい作品もある。こちらには『[[バブルガムクライシス]]』『[[Get Ride! アムドライバー]]』などが該当。
; {{Anchors|ロボットの設定や描写が特殊}}ロボットの設定や描写が特殊
: 『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』などが該当。これに登場する人型兵器・[[エヴァンゲリオン (架空の兵器)|エヴァンゲリオン]]は設定上かつ描写的には旧来からのロボットとは程遠い[[人造人間]]であるゆえ、一般的にロボットアニメ扱いされる現状に未だ難色を示す意見もある。
; {{Anchors|スーパーロボット大戦シリーズに参戦済み}}[[スーパーロボット大戦シリーズ]]に参戦済み
: 『[[宇宙の騎士テッカマンブレード]]』『[[疾風!アイアンリーガー]]』などが該当。前者がパワードスーツを題材とした作品で、ロボットに内蔵される要素も持つようにいずれも上記のような争点を抱えている。当該の参戦経験を[[状況証拠]]に、スーパーロボット大戦シリーズへの参戦希望に上記の作品らが挙げられたり、上記の作品らがロボットアニメに当てはまる根拠にされたりすることもある。これについて[[寺田貴信]]は「ロボットが出てるアニメとロボットアニメは別。単にロボットが出ていればOK、というわけではないです」と述べている<ref name="冬幻舎-加藤213">{{Cite web|和書|author=[[加藤レイズナ]](取材、構成、文)|date= |title=加藤の実況取材道 vol.3 「スーパーロボット大戦」シリーズの寺田貴信プロデューサーにインタビュー スーパーロボットスピリッツ~鋼の魂~編 |url=http://webmagazine.gentosha.co.jp/B-TEAM/vol213_special.html |publisher=[[冬幻舎]] |website=Webマガジン冬幻舎 |volume=213 |accessdate=2016-03-29 |archiveurl=https://archive.is/jed9G |archivedate=2016-03-29 |deadlinkdate= }}</ref>。後に[[宇宙戦艦ヤマト2199]]など人型の機械すら登場しない作品も参戦している。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2021年4月|section=1}}
=== 1970年代 ===
1970年前半は現在では「[[スーパーロボット]]系」などと呼ばれるジャンルのテレビアニメが生まれた時代である(初の作品が[[マジンガーZ#テレビアニメ|マジンガーZ]])。魅力的かつ個性的な造形を持ち、通常兵器では到底及ばぬ強大な戦闘力を持つ巨大人型戦闘ロボットの存在を前提として、[[勧善懲悪]]と巨大メカ戦を基本にしながら今なお多くのファンを持つ作品群が数多く生まれた。そのほぼ全ての作品が玩具として商品展開されており、その中には『[[鋼鉄ジーグ]]』の様に視聴率には恵まれなくとも、玩具の販売成績の優秀さに支えられて放映が続いた作品も存在していた。
1974年に「合体・変形ロボット」作品の元祖と位置づけられる『[[ゲッターロボ]]』が製作される。これ以降数々の合体・変形ロボットアニメが製作されるようになった。
1976年になると[[長浜ロマンロボシリーズ]]の第一作である『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』が製作された。それまでのロボットアニメにみられる勧善懲悪から脱却し、敵側が地球を侵略する理由を強く描いて善悪の相対化を行い、それと同時に様々なドラマ性が追求され高年齢のファンを獲得することになる。
=== 1980年代 ===
[[1979年]]の『[[機動戦士ガンダム]]』の出現を皮切りに、世界観に[[政治]]・[[軍事]]・[[組織 (社会科学)|組織]]論なども絡ませ複雑化する物語(『[[太陽の牙ダグラム]]』はガンダムとは逆に解放・独立派側からの視点で描かれている)や、[[物理学]]・[[機械工学]]・[[サイエンス・フィクション|SF理論]]などにある程度準拠したリアリティのあるメカデザイン・設定や戦闘描写がなされた「[[リアルロボット]]系」と総称されるアニメ群が一代ムーブメントを巻き起こす。そして、このリアルロボット系作品もまた『[[超時空要塞マクロス]]』『[[装甲騎兵ボトムズ]]』など様々な方向性に分化し、それぞれに頂点といえる作品を経ながら、その席巻は1980年代中盤にかけて続いた。
この[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけては、ロボットアニメブームと呼ばれるほど多数のロボットアニメ作品が製作された。[[視聴率]]も平均して高く、主な放送時間も夜7時から9時の[[ゴールデンタイム|プライムタイム]]であった。視聴者層の大半を占める子供たち向けの玩具(アニメに登場するロボットのプラモデルなど)の売り上げも好調であり、それらを販売する玩具メーカーがテレビアニメのスポンサーについた。
だが、ピークを過ぎてくると、作品の量的飽和や過剰なリアル志向への行き詰まり感、人間キャラによるバトル物の流行などに伴ってタイアップ玩具の市場の閉塞感が見え隠れする様になり、それらに反動するかの如く、1970年代のスーパーロボット系作品へのオマージュを盛り込みつつ[[美少女]]や[[超能力]]といった要素を持たせたOVA作品が1987年頃から立て続けに製作され、この流れは1990年代前半まで続いた。また、日常系ロボットアニメ、『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』『[[Dr.スランプ アラレちゃん]]』のヒットもこの時代である。
=== 1990年代以降 ===
1990年代でも玩具業界のタイアップによるロボットアニメの特徴を正統に受け継いだ作品は製作され続け、『[[勇者シリーズ]]』『[[エルドランシリーズ]]』『平成ガンダム』と呼ばれる一連の子供向け作品群が生まれた。また、テレビゲーム『[[ドラゴンクエスト]]』などのブームを受けて、『[[魔神英雄伝ワタル]]』といったファンタジー要素を持たせたものも多く現れた。
こうした状況下で『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』が発表された。アニメ・漫画・特撮・SF・その他文芸作品など、過去作品のオマージュをふんだんに盛り込んでおり、リアルやスーパーといった分類ではくくりきれない個性を放つ作品となった。
しかし、1990年代後半には視聴率低下やテレビ局側の事情などによる『勇者シリーズ』や『平成ガンダム』の打ち切りで陰りが見え始め、[[2000年代]]に入るとポストエヴァの作品も勢いを失い、その後継となる大きな潮流も生まれずロボットアニメは全体的に衰退傾向を呈している。特に[[全日]]枠アニメにおけるロボットアニメは壊滅状態となり、[[深夜アニメ]]での放映が事実上の標準となった。巨大ロボットが登場する番組の内、全日枠で現在も放送を継続しているのは[[特撮]]の『[[スーパー戦隊シリーズ]]』のみである。
これは、家庭用ゲームやトレーディングカードゲームの普及などによる趣味の多様化によって、選択肢が増加した事を原因とする[[玩具]]業界全体の不振に伴うスポンサーの撤退、テレビ局と制作会社・玩具会社との軋轢などや、[[少子高齢化|日本の総人口に占める子供の割合が低下]]したことによって、そこからさらに獲得できる客層の割合が減少したこと、そして現実の技術の発達や情勢の変化による従来の定番の陳腐化などが主な要因だった。
こうした時代・情勢の末期に、等身大ロボットが主要キャラクターとして登場する[[コンピューターゲーム]]([[ビジュアルノベル]])『[[To Heart]]シリーズ』が、そのヒットの結果複数回アニメ化され商業的に一定の成功を納めたが、これらをロボットアニメに含めることは少ない。
=== 2000年代以降 ===
こうした経緯を受けて、テレビ放送されるロボットアニメのビジネスモデルは大きく変わった。企画段階から若年層や玩具会社を排除、立体商品は高年齢層を想定した設計のものに加えて、限定的な[[版権]]許諾型ビジネスで発売される[[ガレージキット]]などに留まった。一方で[[DVD]]を販売する映像[[ブランド|レーベル]]や[[メディアミックス]]系[[出版社]]などの販売元が企画の中核となり、既にロボットアニメに親しんでいる高年齢層向けのアニメとして製作しソフトの売り上げを主たる収入源と位置づける、新たなビジネスモデルに基づいた作品が作られるようになった。それら客層に合わせて過去のヒット作の[[リメイク]]や続編作品なども作られるようになっていった。
今日ではオリジナル・シリーズもの共に一定のヒット作が生まれつつも、上記の通り大人層を主流としたことによる主要客層の高齢化・固定化や定番構造をあまりにも多用し続けていることによる作品構造のマンネリ化といった問題は依然として抱えており、特に子供や若年層などの新規客層の乏しさが一層問題視されるようになっている。それでも現在は未だ数多くの作品が製作され続けているが、ロボットを単独のメインに据えずあくまで一構成要素に留める作品も作られる等ジャンルの拡散が進んでいる状況であり、各社が新しいロボットアニメの主流の模索を続けている。
== 制作会社・放映局 ==
巨大ロボットものの第一人者と言える制作会社として『機動戦士ガンダム』を制作した[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]が挙げられる。1975年の『勇者ライディーン』に始まり、『ロマンロボ(製作は東映)』『ガンダム』『勇者』などのシリーズ作品、単発作品を多々輩出し、ロボットアニメ全盛期の1970年代後半から一貫して「'''ロボットアニメと言えばサンライズ'''」と言われるほどの実績を築きつづけている。しかし、『勇者』シリーズ終了以降はロボットアニメの制作数は少しばかり減少している。これはサンライズ自身がロボットアニメ以外の方向に向き始めている表れだと言える。
その他にロボットアニメの制作会社としては『マジンガーZ』などの([[東映アニメーション]])、『マクロス』の(スタジオぬえ)や続編制作を継承した(サテライト)そして『エヴァンゲリオン』を制作した([[ガイナックス]])と外部協力企業の(タツノコプロ)や同作品の版権継承会社(カラー)が主な所と言えるだろう。
古くはロボットアニメの制作会社と言えば他にも『J9シリーズ』『アクロバンチ』『スラングル』の[[国際映画社]]、『ダンクーガ』『ゴーショーグン』『マシンロボ』の[[葦プロダクション]]などがあるが、前者は80年代中期に倒産して今はなく、後者も最近はロボットアニメを殆ど制作していない(しかしながら2007年に久々のロボットアニメ『獣装機攻ダンクーガノヴァ』を制作している)。最近では『グラヴィオン』『トランスフォーマーギャラクシーフォース』の[[ゴンゾ]]、元サンライズのプロデューサー[[南雅彦]]らが設立した『ラーゼフォン』『エウレカセブン』のボンズなどが比較的多数のロボットアニメを制作している。
=== 放映局 ===
地上波民放では各局で放送例が見られる。ただし、フジテレビのように、歴史的にはエポックメーキングな作品である『[[鉄腕アトム]]』『[[鉄人28号]]』『[[タイムボカンシリーズ]]』『[[マジンガーZ]]』『[[ゲッターロボ]]』などを放送してきたが1980年代後半以降はレギュラー枠として巨大ロボットアニメを放送していない例もある。[[名古屋テレビ制作土曜夕方5時30分枠のアニメ|名古屋テレビの土曜夕方5時30分枠]]は1977年の『[[無敵超人ザンボット3]]』に始まり、1990年に移動するまで足掛け13年に渡り、数多くのロボットアニメを世に送り出した。[[日本放送協会|NHK]]では巨大ロボットアニメを放送した例としては『[[女神候補生]]』『[[時空冒険記ゼントリックス]]』などがある。
=== 主な制作会社 ===
* [[サンライズ_(アニメ制作会社)|サンライズ]] - 『[[勇者ライディーン]]』『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』『[[装甲騎兵ボトムズ]]』『[[勇者シリーズ]]』『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』など。巨大ロボットものの第一人者と言われる制作会社。地上波初のHDデジタル作品となる『[[ゼーガペイン]]』も製作している。
* [[タツノコプロ]] - 『[[闘士ゴーディアン]]』『[[ゴールドライタン]]』『機甲創世記モスピーダ』など。
* [[東映]] - 『[[長浜ロマンロボシリーズ]]』『[[宇宙大帝ゴッドシグマ]]』『[[百獣王ゴライオン]]』など。
* [[東映アニメーション]] - 『[[マジンガーZ]]』『[[ゲッターロボ]]』『[[大空魔竜ガイキング]]』『[[マグネロボシリーズ]]』など。
* [[トムス・エンタテインメント]] - 『[[太陽の使者 鉄人28号]]』『[[六神合体ゴッドマーズ]]』『[[魔法騎士レイアース]]』など。
* [[国際映画社]] - 『[[J9シリーズ]]』『[[魔境伝説アクロバンチ]]』『[[亜空大作戦スラングル]]』など。倒産のため、現在は版権管理のみ。
* [[プロダクション リード|葦プロダクション]] - 『[[宇宙戦士バルディオス]](国際映画社との共同製作)』『[[超獣機神ダンクーガ]]』『[[戦国魔神ゴーショーグン]]』『[[マシンロボ]]』など。最近はロボットアニメを殆ど制作していなかったが、2007年に久々のロボットアニメ『[[獣装機攻ダンクーガノヴァ]]』を制作している。
* [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]] - 『[[戦え!!イクサー1]]』『[[破邪大星ダンガイオー]]』『[[冥王計画ゼオライマー (OVA)|冥王計画ゼオライマー]]』など。
* [[ガイナックス]] - 『[[トップをねらえ!]]』『[[新世紀エヴァンゲリオン]](タツノコプロと共同制作)』『[[天元突破グレンラガン]]』など。
* [[ボンズ (アニメ制作会社)|ボンズ]] - 『[[ラーゼフォン]]』『[[絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク]]』『[[交響詩篇エウレカセブン]]』『[[STAR DRIVER 輝きのタクト]]』『[[テンカイナイト]]』など。元サンライズのプロデューサー[[南雅彦]]ら
* [[ゴンゾ|GONZO]] - 『[[超重神グラヴィオン]]』『[[フルメタル・パニック!]]』『[[GAD GUARD]]』『[[キディ・グレイド]]』など。元[[ガイナックス]]のプロデューサー[[村濱章司]]ら
* [[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC]] - 『[[機動戦艦ナデシコ]]』『[[ゾイド -ZOIDS-]]』『[[地球防衛企業ダイ・ガード]]』『[[宇宙のステルヴィア]]』『[[蒼穹のファフナー]]』など。
* [[サテライト (アニメ制作会社)|サテライト]] - 『[[創聖のアクエリオン]]』『[[マクロスF]]』など。
== 世界のロボットアニメ ==
日本国内で製作されているロボットアニメは外国に輸出され、中には世界各国で放送されたものもある。地域によっては日本国内以上の人気を得たアニメもあり、1970〜80年代にかけて輸出された『[[UFOロボ グレンダイザー]]』(ヨーロッパでは「ゴルドラック」や「アトラス」などに改題されている)は、ヨーロッパ圏で高視聴率をキープした記録がある。1979年に[[フィリピン]]に輸出された『[[超電磁マシーン ボルテスV]]』は当時の[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]政権打倒に貢献したとして、フィリピンで認知度100%の国民的アニメになっていると日本でも報道された。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも『[[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー]]』(1984年)、『[[アイアン・ジャイアント]]』(1999年)、『[[:en:Sym-Bionic Titan|シン・バイオニックタイタン (英語版)]]』(2010年)、『[[ベイマックス]]』(2014年)などのロボットアニメが製作された。[[コンピュータグラフィックス|CG]]を多用した作品が多いのも特徴のひとつである。日本との合作も多く、そのうち『[[ロボテック]]』(1985年)は『[[超時空要塞マクロス]]』『[[超時空騎団サザンクロス]]』『[[機甲創世記モスピーダ]]』を、『[[ボルトロン]]』(1984年)は『[[百獣王ゴライオン]]』と『[[機甲艦隊ダイラガーXV]]』を1つの作品に繋げて輸出したもので、独自に展開した派生シリーズの中でリブートの『[[ヴォルトロン]]』(2016年)は日本でも公開された。
[[大韓民国|韓国]]においては『[[テコンV]]』(1976年)と呼ばれるスーパーロボットアニメを皮切りに、数々のロボットアニメが製作された。その中で『[[幻影闘士バストフレモン]]』(2001年)、日本との合作で『[[無限戦記ポトリス]]』(2003年)などは日本国内でも放送された。他にも変身自動車トボト、ハローカボトなどがある。
[[中華人民共和国|中国]]や[[台湾]]においても『[[:en:Astro Plan|星原戦記アストロプラン (中国語版)]]』(2010年)、『[[:zh:战斗装甲钢羽|戦闘装甲鋼羽 (中国語版)]]』(2011年)、『[[:zh:超限獵兵-凱能|超限猎兵凯能 (中国語版)]]』(2013年)、『[[:zh:重甲機神Baryon|重甲機神Baryon (中国語版)]]』(2018年)など数々のロボットアニメが製作されている。中には日本と中国が合作した『[[重神機パンドーラ]]』(2018年)、中国・[[香港]]・[[マカオ]]・台湾が合作した『[[:zh:黎明之神意|黎明之神意 (中国語版)]]』(2014)のような作品もある。
[[ヨーロッパ]]ではオリジナルのロボットアニメこそ製作していないものの、1980年代に[[ハンナ・バーベラ・プロダクション]]が製作した『[[マシンロボ]]』の北米展開版アニメなど、日本製作以外のロボットアニメを放送したことがある。
== 著名なロボットアニメシリーズ ==
* [[鉄人28号]]
* [[マジンガーZ|マジンガーシリーズ]]
* [[ゲッターロボ]]
* [[長浜ロマンロボシリーズ]]
* [[ガンダムシリーズ]]
** [[宇宙世紀]]
** [[SDガンダム]]
* [[超時空シリーズ]]
** [[マクロスシリーズ]]
* [[装甲騎兵ボトムズ]]
* [[トランスフォーマー]]
* [[勇者シリーズ]]
* [[エルドランシリーズ]]
* [[ゾイド]]
* [[エウレカセブン]]
* [[コードギアス]]
* [[創聖のアクエリオン|アクエリオンシリーズ]]
* [[マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス]]
* [[エヴァンゲリオンシリーズ]]
== 関連文献 ==
<!--※出典に使用したものは「参考文献」節に繰り上げて下さい。出典表示の例:{{Sfnp|石渡|2007|p=ページ番号}}-->
* <!--いしわた-->{{Cite journal |和書 |author=石渡さくら<ref group="注">{{Cite web|和書|title=石渡 さくら |url=https://researchmap.jp/read0066924/education/14141674 |publisher=[[科学技術振興機構]] (JST) |work=researchmap |accessdate=2020-06-27 }}</ref> |date=2007 |title=子ども番組研究:ロボットアニメにおける対立構造の変容 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110007055784 |publisher=[[日本大学]] |journal=日本大学芸術学部紀要 |volume=45 |issue= |issn=0385-5910 |oclc=835669893 |pages=73-83 |ref={{SfnRef|石渡|2007}} }}{{naid|110007055784}}、{{ncid|AN00194345}} 。{{国立国会図書館書誌ID|000000029567}}。
* <!--おはら-->{{Cite book |和書 |author=小原篤 |date=2012-12 |title=1面トップはロボットアニメ─小原篤のアニマゲ丼 |url= |publisher=[[日本評論社]] |oclc=840075879 |ref={{SfnRef|小原|2012}} }}ISBN 4-535-56316-0、ISBN 978-4-535-56316-2。{{ncid|BB11514929}}。{{国立国会図書館書誌ID|024118267}}。
* <!--なとり-->{{Cite journal |和書 |author=名取琢自<ref group="注">{{Cite web|和書|title=名取 琢自 |url=https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000010252412/ |publisher=[[文部科学省]]、[[日本学術振興会]] |website=KAKEN |accessdate=2020-06-27 }}</ref><ref group="注">{{Cite web|和書|title=名取琢自 |url=https://research-er.jp/researchers/view/473256 |publisher=株式会社バイオインパクト |work=日本の研究.com |accessdate=2020-06-27 }}</ref> |date=2006 |title=人形浄瑠璃とロボットアニメ:身体性と投影の視点から |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I8979602-00?ar=4e1f |publisher=[[京都文教大学]] |journal=人間学研究 |volume=7 |issue= |pages=103-114 |ref={{SfnRef|名取|2006}} }}{{naid|110006484872}}、{{ncid|AA11469829}}。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[軍事用ロボット]]
* [[スーパーロボット]]
* [[リアルロボット]]
* [[スーパーロボット大戦シリーズ]]
** [[スーパーロボット大戦シリーズの参戦作品一覧]]
* [[パワードスーツ]]
** [[パワードスーツの登場するサイエンス・フィクション一覧]]
* [[ロボット工学]]
* [[特撮]]
** [[ウルトラシリーズ]]
** [[スーパー戦隊シリーズ]]
== 外部リンク ==
* [https://mediag.bunka.go.jp/article/robotanimation-1143/ 日本アニメーションガイド ロボットアニメ編|メディア芸術カレントコンテンツ]
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{{デフォルトソート:ろほつとあにめ}}
[[Category:ロボットを題材としたアニメ作品|*]]
[[Category:巨大ロボットを題材としたアニメ作品|*]]
[[Category:アニメのジャンル]]
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定量的研究
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定量的研究(ていりょうてきけんきゅう、英: quantitative research)とは、データの収集と分析を数値化して行うことに焦点を当てた研究戦略である。経験主義や実証主義の哲学に基づいており、理論を検証することに重点を置いた演繹的アプローチから形成されている。
この研究戦略では、観察可能な現象の関係を検証し理解するために客観的な実証研究を促進し、自然科学、応用科学、形式科学、社会科学に関連している。定量的研究は、さまざまな定量化の方法や技術によって行われ、さまざまな学問分野にわたって研究戦略として幅広く利用されて影響を及ぼしている。
定量的研究の目的は、現象に関する数学的モデル、科学理論、および仮説を開発し、採用することである。測定のプロセスは定量的研究の中心で、経験的(英語版)な観測と定量的な関係の数学的表現との間の根底にある繋がりを提供する。
定量的データ(英: quantitative data)とは、統計量やパーセンテージなどの数値形式のデータのことである。研究者は、統計学の助けを借りてデータを分析し、その数字がより大きな母集団に一般化できるような偏り(英語版)のない結果をもたらすことを期待している。一方、定性的研究は、特定の経験を深く掘り下げ、テキスト、物語、または視覚的なデータを通じてその関係者だけの主題を開発し、意味を記述・探究することを意図している。
定量的研究は、心理学、経済学、人口統計学、社会学、マーケティング、公衆衛生、健康や人間の発達、ジェンダー研究、および政治学などで広く用いられており、人類学や歴史学ではあまり利用されていない。物理学などの数理科学における研究も(この用語の使用は文脈によって異なるが)定義上は「定量的」である。社会科学では、この用語は、哲学的実証主義や統計史(英語版)の両方に由来する実験的方法に関連しており、定性的研究方法とは対照的である。
定性的研究では、調査した特定のケースに関する情報のみ得られ、より一般的な結論は仮説にすぎない。そのような仮説のどれが正しいかを検証するために定量的方法を用いることができる。1935年から2005年の間にアメリカの社会学ジャーナルの上位2誌に掲載された1,274の論文を包括的に分析した結果、これらの論文のおよそ2/3が定量的な方法を用いていることがわかった。
定量的研究は、一般的に「科学的方法」の考えと密接に関連しており、次のような例をあげられる。
定量的研究はしばしば定性的研究と対比される。後者は数学的モデルを用いない方法で、現象や主体の種類の分類を含め、根底にある意味や関係のパターンを発見することに焦点を当てることを目的とする。定量的心理学(英語版)での取り組みは、エルンスト・ハインリヒ・ヴェーバーの研究に基づいたグスタフ・フェヒナーによる心理物理学の研究が最初であり、自然科学における定量的アプローチを手本にモデル化された。一科学的調査は一般に質的側面と量的側面に分けられるが、両者は密接に関連していると言われている。たとえば、トーマス・クーンは、科学史の分析に基づいて「物理科学において実りある定量化を行うためには、通常、大量の定性的な作業が必要であった」と結論づけている。定性的研究は、現象に対する一般的な感覚を得て、その上に定量的研究を用いて検証できる理論を形成するためによく用いられる。たとえば、社会科学の分野では、(被験者の音声応答から)志向性や意味(なぜこの人・グループが何かを言ったのか、それは彼らにとって何を意味したのか)などをより深く理解するために、定性的研究法がしばしば行われる(Kieron Yeoman)。
人々が事象や物を数えて記録をし始めて以来、定量的な調査は存在していたが、現代の定量的プロセスの考え方は、オーギュスト・コントの実証主義の枠組みにまでさかのぼる。実証主義とは「何が、どこで、なぜ、どのように、いつ起こるか」を説明し予測する仮説を実証的に検証するために、観察による科学的方法を用いることに重点を置くものであった。コントのような実証主義の学者は、人間の行動に対して、これまでの精神的な説明ではなく、科学的な方法のみが進歩の可能性があると信じていた。
定量的方法は、データ・パーコレーションの方法論によって育まれた5つの分析視点で不可欠な要素である。そこに含まれるものは、定性的方法、文献のレビュー(学術的なものを含む)、専門家へのインタビュー、コンピュータシミュレーション、拡張されたデータ-・トライアンギュレーションの形成である。
定量的方法には限界がある。これらの研究は被験者の回答の背後にある根拠を説明しておらず、また過小評価グループに触れないことがしばしばあり、データを収集するために長期間にわたる場合がある。
統計学は、自然科学以外の定量的研究で最も広く使われている数学の一分野であり、統計力学など自然科学の分野でも応用されている。統計的手法は、経済学、社会科学、生物学などの分野で幅広く利用されている。統計的手法を用いた定量的研究は、仮説や理論に基づき、データ収集から始まる。通常は、大規模な標本データが収集された後、分析が行われる前に検証、妥当性確認、記録が必要となる。この目的のため一般に、SPSSやRなどのソフトウェアパッケージが用いられる。因果関係の調査は、実験結果に関連する他の変数を制御しながら、関心のある現象に影響を与えると考えられる因子を操作することによって行われる。たとえば健康の分野では、研究者は、運動などの他の重要な変数を制御しながら、食事摂取量と体重減少などの測定可能な生理学的効果との関係を測定し研究することが可能である。定量的な意見調査(英語版)はメディアで広く使用されており、ある立場を支持する回答者の割合などの統計が日常報道されている。意見調査の分野では、回答者に構造化された一連の質問をし、その回答を集計する。気候科学の分野で、研究者は気温や二酸化炭素の大気中濃度などの統計を集めて比較する。
また、一般線形モデル、非線形モデル、または因子分析を用いて経験的な関係や関連性の研究もよく行われる。定量的研究の基本原則によれば、相関関係は因果関係を意味しないとされているが、クライヴ・グレンジャーのように、一連の相関関係は因果関係の程度を示唆しうると提案するものもいる。この原則は、共分散がある程度認められる変数の間には、常に疑似相関が存在する可能性があるという事実に基づく。統計学の方法を用いて、連続変数とカテゴリ変数の任意の組み合わせの間で関連性を調べることができる。
定量的的研究における測定の役割については見解が分かれている。測定は、因果関係や関連性を調べるために、観察結果を数値で表現する手段に過ぎないとしばしば見なさる。しかし、定量的研究において、測定はより重要な役割を果たすことが多いと主張されている。たとえば、クーンは「定量的研究の範囲内で、示された結果が見慣れないものであることを証明することができる」と主張した。なぜなら、定量的なデータの結果に基づく理論を受け入れることは、これが自然現象であることを証明する可能性を持っているからである。次に示すように、彼は「このような異常は、データを取得する過程で見られると興味深い。」と主張した。
古典物理学では、測定の基礎となる理論や定義は、本質的に決定論的である。これに対し、社会科学の分野では、ラッシュモデル(英語版)や項目応答理論モデルとして知られる確率的な測定モデルが一般的に採用されている。計量心理学(英語版)は、社会的および心理的属性や現象を測定するための理論と技術に関する学問分野である。この分野は、社会科学の分野で行われる多くの定量的研究の中心である。
定量的研究では、直接測定することができない他の数量の代用として、プロキシ (proxy)(英語版)を使用することがある。たとえば、樹木の年輪幅は、成長期の暖かさや降雨量など、周囲の環境条件を示す信頼できる代理指標と考えられる。科学者は過去の気温を直接測定することはできないが、年輪幅やその他の気候指標を使用して、紀元1000年までの北半球における平均気温(英語版)の半定量的な記録を提供することができる。この方法で使用した場合、プロキシ記録(たとえば年輪幅)は元の記録からわずかな変動のみしか復元できない。短期的変動と長期的変動のどちらを明らかにするかを含め、どの程度の変動を把握するかを決定するために(たとえば、機器記録の期間中に)プロキシを較正することがある。年輪幅の場合、場所や生物種の異なりによって、たとえば降雨量や気温に対して敏感あるいは鈍感なこともある。気温の記録を復元する場合、目的の変数とよく相関するプロキシを選択するにはかなりの熟練が要求される。
自然科学や生物科学の分野では、定量的方法と定性的方法のどちらを使うかは議論の余地がなく、それぞれは適切な場合に用いられる。しかし社会科学の分野、特に社会学、社会人類学、心理学では、どちらか一方または他の方法を用いるかによって論争が行われ、特定の学派が一方の方法を支持し他方を軽蔑するというイデオロギーを形成することさえある。しかし、社会科学の歴史を通じてみれば、両方の方法を組み合わせて使う「いいとこ取り」の取り組みが主流であった。定量的方法によって得られた結論の意味を理解するために、定性的方法が使われることがある。定量的方法を用いることで、定性的な考えに正確さと検証可能な表現を与えることができる。このように定量的データと定性的データを組み合わせて収集する方法は、しばしば混合研究法(英語版)と呼ばれている。
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"text": "定量的的研究における測定の役割については見解が分かれている。測定は、因果関係や関連性を調べるために、観察結果を数値で表現する手段に過ぎないとしばしば見なさる。しかし、定量的研究において、測定はより重要な役割を果たすことが多いと主張されている。たとえば、クーンは「定量的研究の範囲内で、示された結果が見慣れないものであることを証明することができる」と主張した。なぜなら、定量的なデータの結果に基づく理論を受け入れることは、これが自然現象であることを証明する可能性を持っているからである。次に示すように、彼は「このような異常は、データを取得する過程で見られると興味深い。」と主張した。",
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定量的研究とは、データの収集と分析を数値化して行うことに焦点を当てた研究戦略である。経験主義や実証主義の哲学に基づいており、理論を検証することに重点を置いた演繹的アプローチから形成されている。 この研究戦略では、観察可能な現象の関係を検証し理解するために客観的な実証研究を促進し、自然科学、応用科学、形式科学、社会科学に関連している。定量的研究は、さまざまな定量化の方法や技術によって行われ、さまざまな学問分野にわたって研究戦略として幅広く利用されて影響を及ぼしている。 定量的研究の目的は、現象に関する数学的モデル、科学理論、および仮説を開発し、採用することである。測定のプロセスは定量的研究の中心で、経験的な観測と定量的な関係の数学的表現との間の根底にある繋がりを提供する。 定量的データとは、統計量やパーセンテージなどの数値形式のデータのことである。研究者は、統計学の助けを借りてデータを分析し、その数字がより大きな母集団に一般化できるような偏りのない結果をもたらすことを期待している。一方、定性的研究は、特定の経験を深く掘り下げ、テキスト、物語、または視覚的なデータを通じてその関係者だけの主題を開発し、意味を記述・探究することを意図している。 定量的研究は、心理学、経済学、人口統計学、社会学、マーケティング、公衆衛生、健康や人間の発達、ジェンダー研究、および政治学などで広く用いられており、人類学や歴史学ではあまり利用されていない。物理学などの数理科学における研究も(この用語の使用は文脈によって異なるが)定義上は「定量的」である。社会科学では、この用語は、哲学的実証主義や統計史の両方に由来する実験的方法に関連しており、定性的研究方法とは対照的である。 定性的研究では、調査した特定のケースに関する情報のみ得られ、より一般的な結論は仮説にすぎない。そのような仮説のどれが正しいかを検証するために定量的方法を用いることができる。1935年から2005年の間にアメリカの社会学ジャーナルの上位2誌に掲載された1,274の論文を包括的に分析した結果、これらの論文のおよそ2/3が定量的な方法を用いていることがわかった。
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{{出典の明記|date=2013年7月}}
[[File:Art-big-data-blur-373543.jpg|alt=A depiction of data networks and big data.|thumb|青い光のつながりで描画したデータネットワークやビッグデータのイメージ。 |300x300px]]
'''定量的研究'''(ていりょうてきけんきゅう、{{Lang-en-short|quantitative research}})とは、データの[[:Category:データ収集|収集]]と[[データ解析|分析]]を数値化して行うことに焦点を当てた研究戦略である<ref name=":0">{{Cite book|last=Bryman, Alan |title=Social research methods |date=2012 |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-958805-3 |edition=4th |location=Oxford |oclc=751832004}}</ref>。[[経験主義]]や[[実証主義]]の哲学に基づいており、理論を検証することに重点を置いた[[演繹]]的アプローチから形成されている<ref name=":0" />。
この研究戦略では、観察可能な[[現象]]の関係を検証し理解するために[[客観性 (哲学)|客観的]]な[[実証研究]]を促進し、[[自然科学]]、[[応用科学]]、[[形式科学]]、[[社会科学]]に関連している。定量的研究は、さまざまな定量化の方法や技術によって行われ、さまざまな[[学問|学問分野]]にわたって研究戦略として幅広く利用されて影響を及ぼしている<ref>{{Cite book|last=Babbie, Earl R. |title=The practice of social research |date=2010 |publisher=Wadsworth Cengage |isbn=978-0-495-59841-1 |edition=12th |location=Belmont, Calif |oclc=317075477}}</ref><ref>{{Cite book |last=Muijs, Daniel |title=Doing quantitative research in education with SPSS |isbn=978-1-84920-323-4 |edition=2nd |location=Los Angeles |oclc=656776067}}</ref><ref name="Given 2008">{{cite book|last=Given|first=Lisa M.|title=The SAGE Encyclopedia of Qualitative Research Methods|publisher=[[:en:SAGE Publications|SAGE Publications]]|year=2008|isbn=978-1-4129-4163-1|location=Los Angeles}}</ref>。
定量的研究の目的は、現象に関する[[数学的モデル]]、[[科学理論]]、および[[仮説]]を開発し、採用することである。[[測定]]のプロセスは定量的研究の中心で、{{Ill2|経験的実証|en|Empirical evidence|label=経験的}}な[[観測]]と定量的な関係の数学的表現との間の根底にある繋がりを提供する。
定量的データ({{Lang-en-short|quantitative data}})とは、統計量やパーセンテージなどの数値形式のデータのことである<ref name="Given 2008" />。研究者は、[[記述統計量|統計学]]の助けを借りてデータを分析し、その数字がより大きな母集団に一般化できるような{{Ill2|バイアス (統計学)|en|Bias (statistics)|label=偏り}}のない結果をもたらすことを期待している。一方、[[定性的研究]]は、特定の経験を深く掘り下げ、テキスト、物語、または視覚的なデータを通じてその関係者だけの[[主題]]を開発し、意味を記述・探究することを意図している<ref>{{cite book |title=Becoming Qualitative Researchers: An Introduction |last=Corrine |first=Glesne |date=2011 |publisher=[[:en:Pearson plc|Pearson]] |isbn=978-0137047970 |edition=4th |location=Boston |oclc=464594493}}</ref>。
定量的研究は、[[心理学]]、[[経済学]]、[[人口統計学]]、[[社会学]]、[[マーケティング]]、[[公衆衛生]]、[[健康]]や[[人間の発達]]、[[ジェンダー研究]]、および[[政治学]]などで広く用いられており、[[人類学]]や[[歴史学]]ではあまり利用されていない。[[物理学]]などの数理科学における研究も(この用語の使用は文脈によって異なるが)定義上は「定量的」である。社会科学では、この用語は、哲学的[[実証主義]]や{{Ill2|統計の歴史|en|History of statistics|label=統計史}}の両方に由来する実験的方法に関連しており、定性的研究方法とは対照的である。
定性的研究では、調査した特定のケースに関する情報のみ得られ、より一般的な結論は仮説にすぎない。そのような仮説のどれが正しいかを検証するために定量的方法を用いることができる。1935年から2005年の間にアメリカの社会学ジャーナルの上位2誌に掲載された1,274の論文を包括的に分析した結果、これらの論文のおよそ2/3が定量的な[[方法論|方法]]を用いていることがわかった<ref name="Hunter">{{cite journal |doi=10.1007/s12108-008-9042-1 |title=Collaborative Research in Sociology: Trends and Contributing Factors |year=2008 |last1=Hunter |first1=Laura |last2=Leahey |first2=Erin |journal=The American Sociologist |volume=39 |issue=4 |pages=290–306}}</ref>。
== 概要 ==
定量的研究は、一般的に「[[科学的方法]]」の考えと密接に関連しており、次のような例をあげられる。
* モデル、理論、[[仮説]]の作成
* [[測定]]のための[[計測機器|機器]]や方法の開発
* [[変数 (数学)|変数]]の実験的制御と操作
* 経験的データの収集
* データのモデリングと分析
定量的研究はしばしば[[定性的研究]]と対比される。後者は数学的モデルを用いない方法で、現象や主体の種類の分類を含め、根底にある意味や関係のパターンを発見することに焦点を当てることを目的とする。{{ill2|定量的心理学|en|Quantitative psychology}}での取り組みは、[[エルンスト・ハインリヒ・ヴェーバー]]の研究に基づいた[[グスタフ・フェヒナー]]による[[心理物理学]]の研究が最初であり、自然科学における定量的アプローチを手本にモデル化された<ref>Massachusetts Institute of Technology, MIT OpenCourseWare. 11.201 Gateway to the Profession of Planning, Fall 2010. p. 4.</ref>。一科学的調査は一般に質的側面と量的側面に分けられるが、両者は密接に関連していると言われている。たとえば、[[トーマス・クーン]]は、科学史の分析に基づいて「物理科学において実りある定量化を行うためには、通常、大量の定性的な作業が必要であった」と結論づけている<ref>{{cite journal|author=Kuhn, Thomas S. |title= The Function of Measurement in Modern Physical Science|volume=52|journal=Isis|pages=161–193 (162)|issue= 2|year= 1961|jstor=228678|doi=10.1086/349468}}</ref>。定性的研究は、現象に対する一般的な感覚を得て、その上に定量的研究を用いて検証できる理論を形成するためによく用いられる。たとえば、社会科学の分野では、(被験者の音声応答から)志向性や意味(なぜこの人・グループが何かを言ったのか、それは彼らにとって何を意味したのか)などをより深く理解するために、定性的研究法がしばしば行われる(Kieron Yeoman)。
人々が事象や物を数えて記録をし始めて以来、定量的な調査は存在していたが、現代の定量的プロセスの考え方は、[[オーギュスト・コント]]の[[実証主義]]の枠組みにまでさかのぼる<ref>{{cite book |author=Kasim, R. |author2=Alexander, K. |author3=Hudson, J. |title=A choice of research strategy for identifying community-based action skill requirements in the process of delivering housing market renewal |publisher=Research Institute for the Built and Human Environment, University of Salford, UK |year=2010 |url=http://eprints.uthm.edu.my/268/}}</ref>。実証主義とは「何が、どこで、なぜ、どのように、いつ起こるか」を説明し予測する仮説を実証的に検証するために、観察による科学的方法を用いることに重点を置くものであった。コントのような実証主義の学者は、人間の行動に対して、これまでの精神的な説明ではなく、科学的な方法のみが進歩の可能性があると信じていた。
定量的方法は、データ・パーコレーションの[[方法論]]によって育まれた5つの分析視点で不可欠な要素である<ref>Mesly, Olivier
(2015). ''Creating Models in Psychological Research.'' United States: Springer Psychology: 126 pages. {{ISBN2|978-3-319-15752-8}}</ref>。そこに含まれるものは、定性的方法、文献のレビュー(学術的なものを含む)、専門家へのインタビュー、コンピュータ[[シミュレーション]]、拡張されたデータ-・トライアンギュレーションの形成である。
定量的方法には限界がある。これらの研究は被験者の回答の背後にある根拠を説明しておらず、また[[過小評価グループ]]に触れないことがしばしばあり、データを収集するために長期間にわたる場合がある<ref>{{cite journal|last1=Goertzen|first1=Melissa J.|title=Introduction to Quantitative Research and Data.|url=https://journals.ala.org/index.php/ltr/article/view/6325|journal=Library Technology Reports|year=2017|volume=53|issue=4|pages=12–18|issn=0024-2586}}</ref>。
== 統計学の利用 ==
[[有意|統計学]]は、自然科学以外の定量的研究で最も広く使われている数学の一分野であり、[[統計力学]]など自然科学の分野でも応用されている。統計的手法は、経済学、社会科学、[[生物学]]などの分野で幅広く利用されている。統計的手法を用いた定量的研究は、仮説や理論に基づき、[[データ収集]]から始まる。通常は、大規模な[[標本調査#標本抽出|標本データ]]が収集された後、分析が行われる前に検証、妥当性確認、記録が必要となる。この目的のため一般に、[[SPSS]]や[[R (プログラミング言語)|R]]などのソフトウェアパッケージが用いられる。因果関係の調査は、実験結果に関連する他の変数を制御しながら、関心のある現象に影響を与えると考えられる因子を操作することによって行われる。たとえば健康の分野では、研究者は、運動などの他の重要な変数を制御しながら、食事摂取量と体重減少などの測定可能な生理学的効果との関係を測定し研究することが可能である。定量的な{{Ill2|調査 (被験者研究)|en|Survey (human research)|label=意見調査}}はメディアで広く使用されており、ある立場を支持する回答者の割合などの統計が日常報道されている。意見調査の分野では、回答者に構造化された一連の質問をし、その回答を集計する。気候科学の分野で、研究者は気温や二酸化炭素の大気中濃度などの統計を集めて比較する。
また、[[一般線形モデル]]、[[非線形システム論|非線形]]モデル、または[[因子分析]]を用いて経験的な関係や関連性の研究もよく行われる。定量的研究の基本原則によれば、[[相関関係と因果関係|相関関係は因果関係を意味しない]]とされているが、[[クライヴ・グレンジャー]]のように、一連の相関関係は[[グレンジャー因果性|因果関係の程度]]を示唆しうると提案するものもいる。この原則は、[[共分散]]がある程度認められる変数の間には、常に[[擬似相関|疑似相関]]が存在する可能性があるという事実に基づく。統計学の方法を用いて、連続変数とカテゴリ変数の任意の組み合わせの間で関連性を調べることができる。
== 測定 ==
定量的的研究における測定<!-- measurement -->の役割については見解が分かれている。測定は、因果関係や関連性を調べるために、観察結果を数値で表現する手段に過ぎないとしばしば見なさる。しかし、定量的研究において、測定はより重要な役割を果たすことが多いと主張されている<ref>{{cite journal|author1=Moballeghi, M. |author2=Moghaddam, G.G. |name-list-style=amp |url=http://eprints.rclis.org/12286/ |title=How Do We Measure Use of Scientific Journals? A Note on Research Methodologies|journal=Scientometrics|year= 2008|volume= 76|issue= 1|pages=125–133|doi=10.1007/s11192-007-1901-y}}</ref>。たとえば、クーンは「定量的研究の範囲内で、示された結果が見慣れないものであることを証明することができる」と主張した。なぜなら、定量的なデータの結果に基づく理論を受け入れることは、これが自然現象であることを証明する可能性を持っているからである。次に示すように、彼は「このような異常は、データを取得する過程で見られると興味深い。」と主張した。
:理論から外れた測定値は単なる数値になりがちであり、その中立性ゆえに改善策の示唆を得る源としては特に不毛なものとなる。しかし数値はどんな定性的な手法にも真似できない権威や技巧をもって理論からの逸脱を記録し、その逸脱はしばしば探究を開始するのに十分である。(Kuhn, 1961, p. 180)
古典物理学では、測定の基礎となる理論や定義は、本質的に決定論的である。これに対し、社会科学の分野では、{{Ill2|ラッシュモデル|en|Rasch model}}や[[項目応答理論]]モデルとして知られる確率的な測定モデルが一般的に採用されている。{{Ill2|計量心理学|en|Psychometrics}}は、社会的および心理的属性や現象を測定するための理論と技術に関する学問分野である。この分野は、社会科学の分野で行われる多くの定量的研究の中心である。
定量的研究では、直接測定することができない他の数量の代用として、{{Ill2|プロキシ (統計学)|en|Proxy (statistics)|label=プロキシ (''proxy'')}}を使用することがある。たとえば、樹木の年輪幅は、成長期の暖かさや降雨量など、周囲の環境条件を示す信頼できる代理指標と考えられる。科学者は過去の気温を直接測定することはできないが、年輪幅やその他の気候指標を使用して、{{Ill2|過去2,000年の気温記録|en|Temperature record of the last 2,000 years|label=紀元1000年までの北半球における平均気温}}の半定量的な記録を提供することができる。この方法で使用した場合、プロキシ記録(たとえば年輪幅)は元の記録からわずかな変動のみしか復元できない。短期的変動と長期的変動のどちらを明らかにするかを含め、どの程度の変動を把握するかを決定するために(たとえば、機器記録の期間中に)プロキシを較正することがある。年輪幅の場合、場所や生物種の異なりによって、たとえば降雨量や気温に対して敏感あるいは鈍感なこともある。気温の記録を復元する場合、目的の変数とよく相関するプロキシを選択するにはかなりの熟練が要求される<ref>{{cite journal|doi=10.1029/2000JD900617|url=http://www.climateaudit.info/pdf/others/Briffa.2001.jgr.pdf|title=Low-frequency temperature variations from a northern tree ring density network|year=2001|last1=Briffa|first1=Keith R.|last2=Osborn|first2=Timothy J.|last3=Schweingruber|first3=Fritz H.|last4=Harris|first4=Ian C.|last5=Jones|first5=Philip D.|last6=Shiyatov|first6=Stepan G.|last7=Vaganov|first7=Eugene A.|journal=Journal of Geophysical Research|volume=106|issue=D3|pages=2929–2941|bibcode=2001JGR...106.2929B}}</ref>。
== 定性的方法との関係 ==
{{Further|定性的研究}}
自然科学や[[生物科学]]の分野では、定量的方法と定性的方法のどちらを使うかは議論の余地がなく、それぞれは適切な場合に用いられる。しかし社会科学の分野、特に社会学、[[社会人類学]]、心理学では、どちらか一方または他の方法を用いるかによって論争が行われ、特定の学派が一方の方法を支持し他方を軽蔑するというイデオロギーを形成することさえある。しかし、社会科学の歴史を通じてみれば、両方の方法を組み合わせて使う「いいとこ取り」の取り組みが主流であった。定量的方法によって得られた結論の意味を理解するために、定性的方法が使われることがある。定量的方法を用いることで、定性的な考えに正確さと検証可能な表現を与えることができる。このように定量的データと定性的データを組み合わせて収集する方法は、しばしば{{Ill2|混合研究法|en|Multimethodology}}と呼ばれている<ref>Diriwächter, R. & Valsiner, J. (January 2006) [http://www.qualitative-research.net/index.php/fqs/article/view/72 Qualitative Developmental Research Methods in Their Historical and Epistemological Contexts]. FQS. Vol 7, No. 1, Art. 8</ref>。
== 事例 ==
* 地球の大気を構成する全元素のパーセンテージ量から構成される研究
* ある医師の待合室で、平均的な患者が診察を受けるまでに2時間待たなければならないと結論付けた調査
* グループxは2錠/日のアスピリンを、グループyは2錠/日のプラセボを投与し、各被験者をどちらかのグループに[[ランダム|無作為]]に割り当てた実験。薬剤の量、成分の割合、待機時間などの数値的な要因によって、状況や結果が定量的になる。
* [[金融]]の分野では、[[証券市場]]に関する定量的研究によって、定量的[[ヘッジファンド]]や{{Ill2|取引戦略指標|en|Trading strategy index}}に見られるように、複雑な取引の価格を決定するモデルの開発や、投資仮説を活用したアルゴリズムの開発が行われている<ref>[https://www.investopedia.com/articles/investing/041114/simple-overview-quantitative-analysis.asp A Simple Overview of Quantitative Analysis]. Investopeda, January 2018</ref>。
== 関連項目 ==
{{Library resources box}}
* {{ill2|反実証主義|en|Antipositivism}} - 社会的領域の研究では、自然科学で利用される調査方法とは別の認識論を要すと主張する理論的立場
* [[ケーススタディー|ケーススタディ研究]] - 現実世界の文脈の中で、特定のケース(事例)または複数のケースを深く詳細に検討すること
* [[計量経済学]] - 経済関係に経験的な内容を与えるために、経済データに統計的手法を適用すること
* [[反証可能性]] - 科学的理論や仮説の評価基準(1934、[[カール・ポパー]])
* [[マーケティングリサーチ]] - 研究対象となる市場や顧客に関する情報を収集する組織的な取り組み
* [[実証主義]] - 真の知識は、定義によって真であるか、または感覚的経験から理性と論理によって導き出された事後的事実とする、経験主義的な哲学理論
* [[定性的研究]] - 研究者が得た(通常)非数値的なデータに依拠する質的な側面に注目した研究
* [[定量的マーケティング調査]] - マーケティング・リサーチの分野に定量的な調査方法を適用すること
* {{ill2|定量的心理学|en|Quantitative psychology}} - 心理学的プロセスの数学的モデリング、研究デザインと方法論、統計的分析に焦点を当てた研究分野
* {{ill2|定量化 (科学)|en|Quantification (science)}} - 数学や実証科学において、人間の感覚的な観察や経験を数量に対応付け・数え・測るという科学的方法
* {{ill2|観察研究|en|Observational study}} - 疫学、社会科学、心理学、統計学などの分野で、独立変数が研究者の管理下にない集団からの標本をもとに集団に対する推論を行う研究方法
* {{ill2|社会学における実証主義|en|Sociological positivism}} - [[科学哲学]]者オーギュスト・コンテによって提唱された実証主義の見解
* {{ill2|調査方法論|en|Survey methodology}} - 調査方法に関する研究で、人間に関する調査に特化した応用統計学の一分野
* [[統計学]] - データの収集、整理、分析、解釈、および提示に関する学問
== 出典 ==
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機械要素
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機械要素(きかいようそ、英: machine element)とは、機械を構成する最小の機能単位のことである。機素ともいう。
どんなに複雑な機械装置でも、単純な機械要素を組み合わせて構成される。機械要素の多くは国際標準化機構 (ISO) の国際標準規格や日本の日本産業規格 (JIS) など、各国の国家規格で規定されている場合が多い。
昨今はメカトロニクスの進展により、多くの複雑なメカニズムが電子回路やマイクロプロセッサ 組み込みシステムに置換えられてはいるが、機械的な動作を伴う部分が残ることもまだ多く、機械要素を用いた設計や機械要素そのものの研究開発は依然として重要な工学上の分野である。
マイクロマシンの研究が行われているが、いまのところ各機械要素を作る方法を試行している段階である。
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どんなに複雑な機械装置でも、単純な機械要素を組み合わせて構成される。機械要素の多くは[[国際標準化機構]] (ISO) の国際標準規格や日本の[[日本産業規格]] (JIS) など、各国の国家規格で規定されている場合が多い。
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[[マイクロマシン]]の研究が行われているが、いまのところ各機械要素を作る方法を試行している段階である。
== 分類 ==
* 締結要素
* 伝達要素
* 液体伝達要素
* [[シール (工学)|密封]]要素
* 案内要素
* 制御要素
* [[エネルギー]]の変換要素
* 緩衝要素
<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keyence.co.jp/ss/products/measure-sys/machine-elements/basic/function.jsp|title=機械要素の機能|website=イチから学ぶ機械要素|publisher=[[キーエンス]]|accessdate=2022-09-11}}</ref>
== 機械要素の例 ==
* [[歯車]](ギア)、[[スプロケット]]
* [[ねじ]]([[ボルト (部品)|ボルト]]・[[ナット]])
* [[てこ]]
* [[カム (機械要素)|カム]]
* [[リンク機構]]
* [[軸_(機械要素)|軸]]
* [[軸受]](ベアリング)
* [[軸継手]]
* [[ばね]](スプリング)
* [[ぜんまいばね]]
* [[キー (機械要素)|キー]]
* [[ベルト (機械)|ベルト]]、[[ローラーチェーン]]
* [[シール (工学)]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Machine elements}}
* [[機械工学]]
== 外部リンク ==
* {{機械工学事典|id=16:1002594}}
* [https://jrecin.jst.go.jp/html/compass/e-learning/31-365/index.html 事例に学ぶ機械要素コース] - 研究人材のためのe-learning([[科学技術振興機構]])
{{Tech-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きかいようそ}}
[[Category:機械要素|*]]
[[Category:機械工学]]
[[Category:ロボット工学]]
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神武天皇
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神武天皇(じんむてんのう、旧字体: 神󠄀武天皇、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)は、初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日〉 - 神武天皇76年3月11日)とされる日本神話(『古事記』・『日本書紀』(記紀))上の伝説上の人物である。
諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さの、さぬ)。『日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。
天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる伝説上の人物。
実在性の詳細は初期天皇の実在性を参照。
天孫(天照大御神の孫。皇孫(高皇産霊尊の外孫)ともいう)・瓊瓊杵尊の曽孫。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。
『日本書紀』によると庚午年(『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に筑紫の日向で誕生。15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳時に兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神(大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に即位して初代天皇に成る。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は西暦紀元前660年2月11日。皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命(かんやいみみ)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみ、綏靖天皇)を儲ける。神武天皇76年に崩御。
漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。
※ 史料は、特記が無い限り『日本書紀』に拠る。
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午年1月1日(庚辰の日) に日向国で生まれた。母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳時(甲申年)に太子となった。長じて日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。
甲寅年、45歳時に兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案し、塩土老翁が語った東方の美しい地(大和国、奈良盆地)を紹介した。青山が四方を巡り、その中に天磐船に乗って天降った神がいるという。饒速日命という物部氏の遠祖である。この地こそ都を作り、天下を治める事に適した場所だろうと彦火火出見尊が言うと皆、賛成した。
10月、諸皇子と舟師(水軍)を帥いて東征に出発。目指すは中洲(大和国)である。進んでいくと潮の流れの速い速吸の門で船が前に進めなくなった。難儀していると国神の珍彦と出会い、これを舟に引き入れて海導者(水先案内)とする事で無事に筑紫国の菟狭(『古事記』では豊国の宇沙)へ上陸することができた。珍彦は椎根津彦(『古事記』では槁根津日子)という名を与えられた。菟狭からさらに崗水門、安芸国を経た彦火火出見尊は、乙卯年3月吉備国に着き、三年間軍兵を整えた。
戊午年2月、皇師(官軍、彦火火出見尊たち)は吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。3月に河内国草香邑の青雲白肩津楯津で泊り、楯津(東大阪市日下)に上陸した。この記述は当時の地形である河内湖の存在を示唆している。そして龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。そこで東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分達が日に向かって(東に向かって)戦う事は天の意思に逆らう事だと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。
5月、五瀬命の矢傷が悪化し茅渟(和歌山市近辺)で亡くなった。船が熊野に差し掛かると海は大嵐になり、高波に船は木の葉のように揉まれ海は荒れ狂った。進軍が阻まれる事に憤慨した次兄、三兄の稲飯命と三毛入野命が「私の母は海神である」と言い自ら海に入った。すると波も静かになり、嵐は去った。稲飯命には新羅の王の祖であったという記録がある。
熊野に上陸したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。そこへ熊野高倉下が現れ、霊夢を見たと称して天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉った。これはかつて武甕槌神が所有していた剣である。剣の霊力により軍衆は起き上がる事ができた。
進軍を再開したが、軍衆は山をいくつも越えた所で道がわからなくなってしまった。すると天照大神が夢に現れて八咫烏を遣わし、その案内で軍勢は菟田下県に行きつく事ができた。
8月、菟田県を支配する兄猾を討伐し、弟猾が恭順。続いて吉野を巡行して井光、磐排別之子、苞苴担之子と出会った。
9月、高倉山に登り、周囲を見渡してみると四方要所は賊に囲まれていた。その夜に夢に天神が現れた。お告げの通りに多くの土器を作り、丹生の川上で天神地祇を祀った。この時に天の香久山から土を持ち帰った椎根津彦と弟猾に功があった。
10月、国見丘に八十梟帥を討ち、更に多くの賊たちを偽りの宴会で誅殺した。11月、磯城を支配する兄磯城を討伐し、弟磯城が恭順。12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てなかった。すると急に黒雲が空を覆い、辺りも暗くなり、叩き付けるように雹が降ってきた。そして一筋の光が差したかと思うと、金色の霊鵄が現れ、彦火火出見尊の弓の先に止まり、稲光のような瑞光を発した。長髄彦の軍は眩しくて目も開けられずに降参してしまった。
それでも長髄彦は恭順しなかった。彦火火出見尊が天神の子である事を疑ったためである。長髄彦は主君の饒速日尊が持つ神器である天羽々矢と步靫(かちゆき)を見せた。それは本物であり、彦火火出見尊も自分の神器を見せた。これも本物である。長髄彦は彦火火出見尊を天神の子と認めたが、それでも屈服しなかった。そこに饒速日尊が現れ降参するよう長髄彦を説得したが、改める気持ちは無い長髄彦は饒速日尊に誅殺される事となった。
己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで土蜘蛛を討ち破り、その場所を磐余と改めた。3月、中洲(大和国)の平定が終わったため、畝傍山のホトリに全軍を招集し、奠都の詔を高らかに宣言した(八紘為宇)。そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿を造らせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。
辛酉年1月1日、橿原宮にて天皇に即位して初代天皇となり、正妃を皇后とした。即位日はグレゴリオ暦(西暦)では紀元前660年2月11日であり、日本の「建国記念の日」(旧:紀元節)となっている。
即位2年2月2日、大業を成し遂げる事に尽くした人々の功を定め、賞を行った。道臣命は築坂邑に、大来目は畝傍山の西の川辺の地(後の来目邑、現在の橿原市久米町)に居住させ、珍彦(椎根津彦)を倭国造に、弟猾を猛田県主、弟磯城を磯城県主に任じ、剣根という者を葛城国造にそれぞれ任命した。また八咫烏にも賞があった。
即位4年2月23日、天下を平定し終わり、海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神を祀った。即位31年4月1日、巡幸して腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉の臀呫(あきつ の となめ。トンボの交尾する様)に似ている事から、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇76年3月11日、橿原宮にて崩御。127歳。
翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られた。
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、「神武天皇(じんむてんのう)」と後に諡された。
『古事記』
『日本書紀』
(特記以外は『日本書紀』本文による。「紀」は『日本書紀』を、「記」は『古事記』を指す。)
『日本書紀』によると以下の通りであり、庚午年(誕生)と甲申年(立太子)は年齢から逆算した物であり、明記された干支は甲寅年(東征開始)が最初である。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
以後3年間は、手研耳の反逆により空位となった。
『古事記』によると日向では高千穂宮にいた。東征中に宇佐の足一騰宮(あしひとつあがりのみや、『日本書紀』では一柱騰宮)、筑紫の岡田宮、安芸の多祁理宮(『日本書紀』では埃宮)、吉備の高島宮に立ち寄った。即位後の宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す(白檮はカシと読み、ブナ科の常緑高木でアラカシの別称)。『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」が発見できる。伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮。
「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対して宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。
明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際に周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。
昭和13年(1938年)より挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)によると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると当時から2600年前の物であり、その前後の誤差は±200年という事であった。この事から記紀の神武伝承には何らかの史実の反映があるとする説も存在する。
またこの時期に第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)が行われた。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))この事業は国費・紀元2600年記念奉祝会費により賄われた。
陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」 に治定されている(北緯34度29分51秒 東経135度47分16.5秒 / 北緯34.49750度 東経135.787917度 / 34.49750; 135.787917 (畝傍山東北陵(神武天皇陵)))。埋蔵文化財包蔵地とはされていない。宮内庁上の形式は円丘。
記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、 神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたと見られる。延喜式の第21巻の『諸陵式』によると神武天皇陵は平安初期には東西1町・南2町の広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在もわからなくなっていた。
江戸時代初期より神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃に幕府も天皇陵を立派にする事で幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし畝傍山からいかにも遠く、山上ではなく平地にあため、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」という場所にある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。
文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決定され、徳川幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。この時、山陵奉行として天皇陵修復の任に当たったのは宇都宮藩家老の戸田忠至、神武天皇陵治定に大きな役割を果たしたのは戸田に従事した三条西家の侍臣の谷森善臣であると言われている。同年の8月13日には孝明天皇自ら神武天皇陵への行幸が布告されたが、八・一八の政変により中止となった。が、修復が完成した11月28には勅使柳原光愛を神武天皇山陵に派遣し、年末の12月8日には御所の東庭にて孝明天皇自ら神武天皇陵を拝し祈りを捧げた。(「孝明天皇紀」)
このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年に神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。
確証に乏しい陵墓選定ではあったが、明治時代以降には文字通り神格化が進んだ。1916年(大正6年)には畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているとして集団移転させられた出来事もあった。
現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山から東北に300m離れており、東西500m・南北約400mの広大な領域を占めている。毎年4月3日には宮中と複数の神社にて神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。皇居では皇霊殿(宮中三殿の1つ)において、他の歴代天皇・皇族と共に神武天皇の霊が祀られ、神武天皇祭当日には天皇自らその祭りを執り行っている。
後陽成天皇は「神武天皇より百数代の末孫」と自認しそのことを明記した。その奥書を国立歴史民俗博物館の小倉慈司氏が近年発見し、近代以前の天皇にも神武天皇を初代天皇とみなしていた意識があったという事実が明らかになった。
光格天皇も「百二十代」(石清水、賀茂社再興を願う「御趣意書」)や、「神武百二十世兼仁合掌三礼」(「光格天皇宸翰南無阿弥陀仏」奥書、宮内庁蔵)という署名を残している。
孝明天皇も異国船襲来という国体の危機の中にあって、幕府に命じて神武山陵を整備させ神武天皇祭を制定した。
明治天皇は神武天皇祭を継承し、明治十年の紀元節(二月十一日)には神武天皇陵に行幸し参拝した。儀仗兵が整列するなか御拝され、御告文を奏されたという。
神武天皇が即位したという辛酉の歳はそのまま西暦に換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代早期又は縄文時代末期に当たる。
明治時代の歴史学者である那珂通世は、1897年の著書『上世年紀考』にて『日本書紀』の記述を批判し、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が改まり、王朝が代わり、同時に正しい改革も行われる、特に21回毎に大革命が起こるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。その上で那珂は「推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その21回前の辛酉、つまり紀元601年からさらに60×21=1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」と推測した。
大正時代には津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学と民俗学の成果を援用しつつ「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。このため津田は「皇室の尊厳を冒瀆した」とし、出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。
津田の説に対する反論も存在し、神武の実在性を主張する論者もいる。安本美典は神武東征を邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。田中卓は初期天皇の皇后の出自伝承の素朴さが寧ろ帝系譜の信憑性を高めるとしている。宝賀寿男は『記紀』が古代の地理事情を残している点や、古代氏族の系図やトーテム・習俗、年暦に関する研究から天照大神から神武天皇までの皇統譜を実在の物とした。田中や宝賀、古田は神武東征の出発地を北部九州とする点で安本や戦前の通説とは異なる。久保田穰は初期天皇の実在を直接示唆するのは『記紀』であるが、同時期の万葉集や風土記、その他史書や各種系図・神社伝承などが『記紀』の内容を支持するとした。志賀剛は神武天皇の実在を認めつつ、宇陀郡出身の人物として想定し、東征の前半部分を虚構とする。武光誠は西方文化集団の畿内への到来と銅鐸消滅時期が一致する事から神武天皇的な存在を認めている。神話学者の松前健も神武伝承には実際の具体的な諸国の地名や氏族の名が多数出てきて全くの机上の作り話とは考えられないとし、壬申の乱に天武・大海人皇子が神武山陵に祈った記事からして、それ以前から神武伝承が知られていたであろうことを指摘している。
現在神武天皇の史学的立ち位置は「神武天皇の史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」であるとされる。
ギネス世界記録では神武天皇の伝承を元に皇室を「現存する世界最古の王朝(英:dynasty)」としているが、発行物には「現実的には4世紀」と記載している。 実在が確実な雄略天皇から数えても現存する王朝としては世界最古に当たる。
神武天皇の即位年月日は『日本書紀』の記述に基づき、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。
『日本書紀』においては年月日は全て干支で記している。神武天皇の即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。
太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立ち、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)の特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
神武天皇の即位年は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」である事から立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと西暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。従って「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。またこの日を以って神武天皇即位紀元(皇紀)元年とする暦が主に明治・大正期から終戦(1868年 - 1945年)まで用いられた。
『日本書紀』は「庚辰」が朔(新月日)であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないため、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。
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"text": "神武天皇(じんむてんのう、旧字体: 神󠄀武天皇、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)は、初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日〉 - 神武天皇76年3月11日)とされる日本神話(『古事記』・『日本書紀』(記紀))上の伝説上の人物である。",
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"text": "神日本磐余彦天皇(神武天皇)の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午年1月1日(庚辰の日) に日向国で生まれた。母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳時(甲申年)に太子となった。長じて日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。",
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"text": "甲寅年、45歳時に兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案し、塩土老翁が語った東方の美しい地(大和国、奈良盆地)を紹介した。青山が四方を巡り、その中に天磐船に乗って天降った神がいるという。饒速日命という物部氏の遠祖である。この地こそ都を作り、天下を治める事に適した場所だろうと彦火火出見尊が言うと皆、賛成した。",
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"text": "10月、諸皇子と舟師(水軍)を帥いて東征に出発。目指すは中洲(大和国)である。進んでいくと潮の流れの速い速吸の門で船が前に進めなくなった。難儀していると国神の珍彦と出会い、これを舟に引き入れて海導者(水先案内)とする事で無事に筑紫国の菟狭(『古事記』では豊国の宇沙)へ上陸することができた。珍彦は椎根津彦(『古事記』では槁根津日子)という名を与えられた。菟狭からさらに崗水門、安芸国を経た彦火火出見尊は、乙卯年3月吉備国に着き、三年間軍兵を整えた。",
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"text": "『日本書紀』",
"title": "系譜"
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{
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"text": "(特記以外は『日本書紀』本文による。「紀」は『日本書紀』を、「記」は『古事記』を指す。)",
"title": "后妃・皇子女"
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"text": "『日本書紀』によると以下の通りであり、庚午年(誕生)と甲申年(立太子)は年齢から逆算した物であり、明記された干支は甲寅年(東征開始)が最初である。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。",
"title": "年譜"
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"text": "以後3年間は、手研耳の反逆により空位となった。",
"title": "年譜"
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"text": "『古事記』によると日向では高千穂宮にいた。東征中に宇佐の足一騰宮(あしひとつあがりのみや、『日本書紀』では一柱騰宮)、筑紫の岡田宮、安芸の多祁理宮(『日本書紀』では埃宮)、吉備の高島宮に立ち寄った。即位後の宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す(白檮はカシと読み、ブナ科の常緑高木でアラカシの別称)。『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」が発見できる。伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮。",
"title": "宮"
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"text": "「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対して宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。",
"title": "宮"
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"text": "明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際に周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。",
"title": "宮"
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"text": "昭和13年(1938年)より挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)によると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると当時から2600年前の物であり、その前後の誤差は±200年という事であった。この事から記紀の神武伝承には何らかの史実の反映があるとする説も存在する。",
"title": "宮"
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"text": "またこの時期に第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)が行われた。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))この事業は国費・紀元2600年記念奉祝会費により賄われた。",
"title": "宮"
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"text": "陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」 に治定されている(北緯34度29分51秒 東経135度47分16.5秒 / 北緯34.49750度 東経135.787917度 / 34.49750; 135.787917 (畝傍山東北陵(神武天皇陵)))。埋蔵文化財包蔵地とはされていない。宮内庁上の形式は円丘。",
"title": "陵・霊廟"
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"text": "記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、 神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたと見られる。延喜式の第21巻の『諸陵式』によると神武天皇陵は平安初期には東西1町・南2町の広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在もわからなくなっていた。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
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"text": "江戸時代初期より神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃に幕府も天皇陵を立派にする事で幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし畝傍山からいかにも遠く、山上ではなく平地にあため、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」という場所にある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。",
"title": "陵・霊廟"
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"text": "文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決定され、徳川幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。この時、山陵奉行として天皇陵修復の任に当たったのは宇都宮藩家老の戸田忠至、神武天皇陵治定に大きな役割を果たしたのは戸田に従事した三条西家の侍臣の谷森善臣であると言われている。同年の8月13日には孝明天皇自ら神武天皇陵への行幸が布告されたが、八・一八の政変により中止となった。が、修復が完成した11月28には勅使柳原光愛を神武天皇山陵に派遣し、年末の12月8日には御所の東庭にて孝明天皇自ら神武天皇陵を拝し祈りを捧げた。(「孝明天皇紀」)",
"title": "陵・霊廟"
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"text": "このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年に神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "確証に乏しい陵墓選定ではあったが、明治時代以降には文字通り神格化が進んだ。1916年(大正6年)には畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているとして集団移転させられた出来事もあった。",
"title": "陵・霊廟"
},
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"text": "現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山から東北に300m離れており、東西500m・南北約400mの広大な領域を占めている。毎年4月3日には宮中と複数の神社にて神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。皇居では皇霊殿(宮中三殿の1つ)において、他の歴代天皇・皇族と共に神武天皇の霊が祀られ、神武天皇祭当日には天皇自らその祭りを執り行っている。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "後陽成天皇は「神武天皇より百数代の末孫」と自認しそのことを明記した。その奥書を国立歴史民俗博物館の小倉慈司氏が近年発見し、近代以前の天皇にも神武天皇を初代天皇とみなしていた意識があったという事実が明らかになった。",
"title": "初代天皇としての視点"
},
{
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"text": "光格天皇も「百二十代」(石清水、賀茂社再興を願う「御趣意書」)や、「神武百二十世兼仁合掌三礼」(「光格天皇宸翰南無阿弥陀仏」奥書、宮内庁蔵)という署名を残している。",
"title": "初代天皇としての視点"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "孝明天皇も異国船襲来という国体の危機の中にあって、幕府に命じて神武山陵を整備させ神武天皇祭を制定した。",
"title": "初代天皇としての視点"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "明治天皇は神武天皇祭を継承し、明治十年の紀元節(二月十一日)には神武天皇陵に行幸し参拝した。儀仗兵が整列するなか御拝され、御告文を奏されたという。",
"title": "初代天皇としての視点"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "神武天皇が即位したという辛酉の歳はそのまま西暦に換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代早期又は縄文時代末期に当たる。",
"title": "考証"
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{
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"tag": "p",
"text": "明治時代の歴史学者である那珂通世は、1897年の著書『上世年紀考』にて『日本書紀』の記述を批判し、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が改まり、王朝が代わり、同時に正しい改革も行われる、特に21回毎に大革命が起こるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。その上で那珂は「推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その21回前の辛酉、つまり紀元601年からさらに60×21=1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」と推測した。",
"title": "考証"
},
{
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"text": "大正時代には津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学と民俗学の成果を援用しつつ「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。このため津田は「皇室の尊厳を冒瀆した」とし、出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。",
"title": "考証"
},
{
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"text": "津田の説に対する反論も存在し、神武の実在性を主張する論者もいる。安本美典は神武東征を邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。田中卓は初期天皇の皇后の出自伝承の素朴さが寧ろ帝系譜の信憑性を高めるとしている。宝賀寿男は『記紀』が古代の地理事情を残している点や、古代氏族の系図やトーテム・習俗、年暦に関する研究から天照大神から神武天皇までの皇統譜を実在の物とした。田中や宝賀、古田は神武東征の出発地を北部九州とする点で安本や戦前の通説とは異なる。久保田穰は初期天皇の実在を直接示唆するのは『記紀』であるが、同時期の万葉集や風土記、その他史書や各種系図・神社伝承などが『記紀』の内容を支持するとした。志賀剛は神武天皇の実在を認めつつ、宇陀郡出身の人物として想定し、東征の前半部分を虚構とする。武光誠は西方文化集団の畿内への到来と銅鐸消滅時期が一致する事から神武天皇的な存在を認めている。神話学者の松前健も神武伝承には実際の具体的な諸国の地名や氏族の名が多数出てきて全くの机上の作り話とは考えられないとし、壬申の乱に天武・大海人皇子が神武山陵に祈った記事からして、それ以前から神武伝承が知られていたであろうことを指摘している。",
"title": "考証"
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{
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"text": "現在神武天皇の史学的立ち位置は「神武天皇の史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」であるとされる。",
"title": "考証"
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"text": "ギネス世界記録では神武天皇の伝承を元に皇室を「現存する世界最古の王朝(英:dynasty)」としているが、発行物には「現実的には4世紀」と記載している。 実在が確実な雄略天皇から数えても現存する王朝としては世界最古に当たる。",
"title": "考証"
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"text": "神武天皇の即位年月日は『日本書紀』の記述に基づき、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。",
"title": "考証"
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"text": "『日本書紀』においては年月日は全て干支で記している。神武天皇の即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。",
"title": "考証"
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"tag": "p",
"text": "太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立ち、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)の特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。",
"title": "考証"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "神武天皇の即位年は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」である事から立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと西暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。従って「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。またこの日を以って神武天皇即位紀元(皇紀)元年とする暦が主に明治・大正期から終戦(1868年 - 1945年)まで用いられた。",
"title": "考証"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』は「庚辰」が朔(新月日)であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないため、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。",
"title": "考証"
}
] |
神武天皇は、初代天皇とされる日本神話(『古事記』・『日本書紀』)上の伝説上の人物である。 諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さの、さぬ)。『日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。 天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる伝説上の人物。 実在性の詳細は初期天皇の実在性を参照。
|
{{JIS2004}}
{{基礎情報 天皇
| 名 = 神武天皇
| 歴代= 初
| 画像= Tennō Jimmu image 01.jpg
| 画像幅= 220
| 画像説明= 『'''神武天皇'''御尊像』<br/>
[[1940年]]([[昭和]]15年)[[北蓮蔵]]画
| 和暦在位期間= 神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日<!--[[Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間]]に基づき、西暦表記は記載しない。以下同様。もしくは、3世紀後半-->
| 時代= [[神代]]
| 先代= [[ウガヤフキアエズ|鸕草葺不合尊]]([[日向三代]]、[[地神五代]])
| 次代= [[綏靖天皇]]
| 漢風諡号=神武天皇
|和風諡号=神日本磐余彦天皇
| 生年= [[庚午]]年{{efn2|name="kogo"|『[[日本書紀]]』の記載から換算すれば、[[ユリウス暦]][[紀元前711年]][[2月13日]]となる。}}[[1月1日 (旧暦)|1月1日]][[庚辰]]<ref name="jounroku">『[[本朝皇胤紹運録]]』。</ref>
| 生地=
| 没年= 神武天皇76年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]](宝算127年)
| 没地=
| 陵所= [[#陵・霊廟|畝傍山東北陵]]
| 諱 = 彦火々出見、狭野
| 異称= 磐余彦帝、若御毛沼命、豊御毛沼命、始馭天下之天皇
| 父親= [[ウガヤフキアエズ|彦波瀲武{{JIS2004フォント|鸕鶿}}草葺不合尊]]
| 母親= [[タマヨリビメ (日向神話)|玉依姫]]
| 皇后=[[ヒメタタライスズヒメ|媛蹈鞴五十鈴媛命]]
| 夫人=[[吾平津媛]]
| 兄弟= {{彦五瀬命}}[[稲飯命]] [[三毛入野命]]
| 子 = [[手研耳命]]<br />[[神八井耳命]]<br />神沼河耳命([[綏靖天皇]])<br />(その他諸説は[[#系譜]]参照)
| 皇居= [[#宮|畝傍橿原宮]]
}}
'''神武天皇'''(じんむてんのう、{{旧字体|'''神󠄀武天皇'''}}、[[庚午]]年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]<ref name="jounroku"/> - 神武天皇76年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]<ref name="syoki">『[[日本書紀]]』による。</ref>)は、初代[[天皇]](在位:神武天皇元年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]〉 - 神武天皇76年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]<ref name="syoki"/>)とされる[[日本神話]](『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』([[記紀]]))上の伝説上の人物である<ref group="注">実在していたかどうか様々な説があるが、実在しない伝説上の人物であるとする説が一般であり、通説である。</ref><ref>{{Harv|井上|1973}}P275</ref>。
<!--
※[[Wikipedia]]においては、必ず[[Wikipedia:中立的な観点]]のガイドラインにそって「対立する観点との相対的な勢力差を示す」必要があります。「各観点を1人ずつの主張として記すことによって、圧倒的な多数派の観点とごく少数の人々の観点をあたかも対等であるかのように伝えて」しまうのはナンセンスです。
「神話か歴史的事実か」など諸説については、[[学術]]的に主流とされる見解を記載の上で実在性の是非について編集を行ってください。
また、必要に応じて[[Wikipedia:ノートページのガイドライン]]に従って、ノートページにて議論を行ってください。
-->
[[諱]]は'''彦火火出見'''<ref name="syoki"/>(ひこほほでみ)、あるいは'''狭野'''<ref name="jounroku"/>(さの、さぬ)。『[[日本書紀]]』記載の名称は'''神日本磐余彦天皇'''(かんやまといわれびこのすめらみこと)。
[[天照大神|天照大御神]]の五世孫であり、[[タカミムスビ|高御産巣日神]]の五世の外孫と『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』に記述されている。[[奈良盆地]]一帯の指導者[[長髄彦]]らを滅ぼして一帯を征服([[神武東征]])。遷都した[[橿原神宮|畝傍橿原宮]](現在の[[奈良県]][[橿原市]])にて即位して[[日本国の建国|'''日本国を建国''']]したと言われる伝説上の人物。
実在性の詳細は[[天皇の一覧#初期天皇の実在性|初期天皇の実在性]]を参照。
== 略歴 ==
天孫(天照大御神の孫。皇孫(高皇産霊尊の外孫)ともいう)・[[ニニギ|瓊瓊杵尊]]{{efn2|神武天皇自身は瓊瓊杵尊を「天祖」と呼び、『日本書紀』は神代下の冒頭で高皇産霊尊を「皇祖」と記している。}}の曽孫。[[ウガヤフキアエズ|彦波瀲武{{JIS2004フォント|鸕鶿}}草葺不合命]](ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と[[タマヨリビメ (日向神話)|玉依姫]](たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に[[彦五瀬命]]、[[稲飯命]]、[[三毛入野命]]がいる。稲飯命は[[新羅]]王の祖ともされる。
『日本書紀』によると[[庚午]]年{{efn2|name="kogo"}}(『[[本朝皇胤紹運録]]』によると[[1月1日 (旧暦)|1月1日]][[庚辰]]の日)に[[九州|筑紫]]の[[日向国|日向]]で誕生。15歳で立太子{{efn2|初代天皇の立太子は明らかに不合理であるが、父の彦波瀲武鸕鶿草葺不合命を天皇に準じて扱ったとも見られる。父がいつ崩御したかの記述は無いが、東征開始時に父を「皇考」(亡父の意)と呼んでおり、これ以前に崩じたと見られる。}}。[[吾平津媛]]を妃とし、[[手研耳命]]を得た。45歳時に兄や子を集め東征を開始。日向から[[宇佐郡|宇佐]]、[[安芸国]]、[[吉備国]]、[[摂津国|難波国]]、[[河内国]]、[[紀伊国]]を経て数々の苦難を乗り越え中洲([[大和国]])を征し、[[畝傍山]]の東南[[橿原市|橿原]]の地に都を開いた。そして[[事代主|事代主神]]([[大物主|大物主神]])の娘の[[ヒメタタライスズヒメ|媛蹈鞴五十鈴媛命]](ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に即位して'''初代[[天皇]]'''に成る。『[[日本書紀]]』に基づく[[明治時代]]の計算によると[[即位]]日は西暦[[紀元前660年]][[2月11日]]。皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命との間には[[神八井耳命]](かんやいみみ)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみ、[[綏靖天皇]])を儲ける。神武天皇76年に[[崩御]]。
== 名称 ==
* 神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』([[和風諡号]])
* 彦火火出見(ひこほほでみ) - 『日本書紀』([[諱]])
* 狭野尊(さののみこと、さぬのみこと) - 第十一段の第一の一書での幼名。
* 神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれびこほほでみのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第二・第三の一書
* 磐余彦火々出見尊(いわれびこほほでみのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第四の一書
* 磐余彦尊(いわれびこのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第二
* 磐余彦帝(いわれびこのみかど) - 『日本書紀』[[継体天皇|継体紀]]
* 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)- 『古事記』
* 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』
* 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』
* 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』(美称)
[[漢風諡号]]である「神武」は、[[8世紀]]後半に[[淡海三船]]によって撰進された名称とされる<ref>[[上田正昭]] 「諡<!--おくりな-->」『日本古代史大辞典』 [[大和書房]]、2006年。</ref>。
== 事績 ==
[[File:Portrait-Emperor-Jimmu-by-Tsukioka-Yoshitoshi-1880.png|thumb|left|350px|upright=2.5|神武天皇と[[八咫烏]]の肖像。 [[月岡芳年]](1880年)]]
[[File:Emperor-Jinmu-from-series-Mirror-of-Famous-Generals-of-Great-Japan.png|thumb|200px|神武天皇。第一回[[国勢調査]]の表紙。1920年]]
{{Main|神武東征}}
※ 史料は、特記が無い限り『日本書紀』に拠る。
=== 出立 ===
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の[[諱]]は彦火火出見(ひこほほでみ)。[[彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊]]の四男として[[庚午]]年{{efn2|name="kogo"}}[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[庚辰]]の日)<ref name="jounroku"/> に[[日向国]]で生まれた。母は海神の娘の[[タマヨリビメ (日向神話)|玉依姫]]である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳時([[甲申]]年{{efn2|『[[日本書紀]]』の記載から換算すれば、[[紀元前697年]]となる。}})に太子となった。長じて[[日向国]][[阿多村|吾田邑]]の[[吾平津媛]]を妃とし、息子の[[手研耳命]]を得た。
甲寅年、45歳時に兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案し、[[塩土老翁]]が語った東方の美しい地([[大和国]]、[[奈良盆地]])を紹介した。青山が四方を巡り、その中に[[天磐船]]に乗って天降った神がいるという。[[饒速日命]]という[[物部氏]]の遠祖である。この地こそ都を作り、天下を治める事に適した場所だろうと彦火火出見尊が言うと皆、賛成した。
10月、諸皇子と舟師(水軍)を帥いて東征に出発。目指すは中洲([[大和国]])である。進んでいくと潮の流れの速い[[速吸之門|速吸の門]]で船が前に進めなくなった。難儀していると[[国津神|国神]]の[[椎根津彦|珍彦]]と出会い、これを舟に引き入れて海導者(水先案内)とする事で無事に[[筑紫国]]の[[宇佐郡|菟狭]](『古事記』では[[豊国]]の宇沙)へ上陸することができた。珍彦は椎根津彦(『古事記』では槁根津日子)という名を与えられた。菟狭からさらに[[遠賀郡|崗]]水門、[[安芸国]]を経た彦火火出見尊は、乙卯年3月[[吉備国]]に着き、三年間軍兵を整えた。
=== 試練 ===
[[ファイル:Tennō Jimmu.jpg|thumb|280px|『神武天皇東征之図』<br/>[[八咫烏]]に導かれる神武天皇。冒頭掲載画像の全図である]]
戊午年2月、皇師([[官軍]]、彦火火出見尊たち)は[[吉備国]]から東へ向かい難波の碕に至った。3月に[[河内国]][[孔舎衙村|草香邑]]の[[青雲白肩之津|青雲白肩津楯津]]で泊り、楯津(東大阪市日下)に上陸した。この記述は当時の地形である[[河内湖]]の存在を示唆している。そして龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。そこで東に軍を向けて[[生駒山|胆駒山]]を経て中洲([[大和国]])へ入ろうとし、この地を支配する[[長髄彦]]と[[孔舎衛坂]]で戦った。戦いに利なく、長兄の[[五瀬命]]は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分達が日に向かって(東に向かって)戦う事は天の意思に逆らう事だと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。
5月、五瀬命の矢傷が悪化し茅渟([[和歌山市]]近辺)で亡くなった。船が[[熊野灘|熊野]]に差し掛かると海は大嵐になり、高波に船は木の葉のように揉まれ海は荒れ狂った。進軍が阻まれる事に憤慨した次兄、三兄の[[稲飯命]]と[[三毛入野命]]が「私の母は海神である」と言い自ら海に入った。すると波も静かになり、嵐は去った。[[稲飯命]]には[[新羅]]の王の祖であったという記録がある。
熊野に上陸したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。そこへ[[高倉下|熊野高倉下]]が現れ、霊夢を見たと称して天神から授かった神剣[[韴霊]](ふつのみたま)を奉った。これはかつて[[武甕槌神]]が所有していた剣である。剣の霊力により軍衆は起き上がる事ができた。
進軍を再開したが、軍衆は山をいくつも越えた所で道がわからなくなってしまった。すると[[天照大神]]が夢に現れて[[八咫烏]]を遣わし、その案内で軍勢は[[宇陀|菟田]]下県に行きつく事ができた。
8月、[[宇陀|菟田県]]を支配する[[兄猾]]を討伐し、[[弟猾]]が恭順。続いて吉野を巡行して[[井氷鹿|井光]]、[[石押分之子|磐排別之子]]、[[贄持之子|苞苴担之子]]と出会った。
9月、高倉山に登り、周囲を見渡してみると四方要所は賊に囲まれていた。その夜に夢に天神が現れた。お告げの通りに多くの土器を作り、[[丹生川上神社|丹生の川上]]で[[天神地祇]]を祀った。この時に[[天香久山|天の香久山]]から土を持ち帰った[[椎根津彦]]と[[弟猾]]に功があった。
=== 決戦 ===
[[File:Emperor Jimmu.jpg|thumb|200px|[[月岡芳年]]『大日本名将鑑』より「神武天皇」。神武天皇の弓の先に止まった金鵄が光を放ち、長髄彦軍の兵の目をくらませている。]]
10月、国見丘に[[八十梟帥]]を討ち、更に多くの賊たちを偽りの宴会で誅殺した。11月、[[磯城]]を支配する[[兄磯城]]を討伐し、[[弟磯城]]が恭順。12月、[[長髄彦]]と遂に決戦となった。連戦するが勝てなかった。すると急に黒雲が空を覆い、辺りも暗くなり、叩き付けるように雹が降ってきた。そして一筋の光が差したかと思うと、[[金鵄|金色の霊鵄]]が現れ、彦火火出見尊の弓の先に止まり、稲光のような瑞光を発した。[[長髄彦]]の軍は眩しくて目も開けられずに降参してしまった。
それでも[[長髄彦]]は恭順しなかった。彦火火出見尊が天神の子である事を疑ったためである。[[長髄彦]]は主君の[[ニギハヤヒ|饒速日尊]]が持つ神器である[[天羽々矢]]と步靫(かちゆき)を見せた。それは本物であり、彦火火出見尊も自分の神器を見せた。これも本物である。[[長髄彦]]は彦火火出見尊を天神の子と認めたが、それでも屈服しなかった。そこに饒速日尊が現れ降参するよう[[長髄彦]]を説得したが、改める気持ちは無い[[長髄彦]]は饒速日尊に誅殺される事となった。
己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで[[土蜘蛛]]を討ち破り、その場所を[[磐余]]と改めた。3月、中洲([[大和国]])の平定が終わったため、畝傍山のホトリに全軍を招集し、[[奠都]]の詔を高らかに宣言した([[八紘一宇|八紘為宇]])。そして[[畝傍山]]の東南[[橿原]]の地に宮殿を造らせた。そこが今の[[橿原神宮]]である。庚申年9月、[[事代主神]]の娘の[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]を正妃とした。
=== 即位 ===
[[辛酉]]年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、[[橿原宮]]にて天皇に[[践祚|即位]]して初代天皇となり、正妃を[[皇后]]とした。即位日は[[グレゴリオ暦]](西暦)では[[紀元前660年]][[2月11日]]であり、日本の「[[建国記念の日]]」(旧:'''[[紀元節]]''')となっている。
即位2年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]、大業を成し遂げる事に尽くした人々の功を定め、賞を行った。道臣命は[[築坂邑]]に、[[大来目]]は畝傍山の西の川辺の地(後の[[来目邑]]、現在の橿原市久米町)に居住させ、珍彦(椎根津彦)を[[倭国造]]に、弟猾を[[猛田県主]]、弟磯城を[[磯城県主]]に任じ、[[剣根命|剣根]]という者を[[葛城国造]]にそれぞれ任命した。また[[八咫烏]]にも賞があった。
即位4年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]、天下を平定し終わり、海内無事である旨を詔し、[[鳥見山]]中に皇祖天神を祀った。即位31年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]、巡幸して腋上の[[嗛間丘]]に登り、[[蜻蛉]]の臀呫(あきつ の となめ。トンボの[[交尾]]する様)に似ている事から、その地を[[秋津洲]]と命名した。
神武天皇76年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]、橿原宮にて[[崩御]]。127歳。
翌年([[丁丑]]年)[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]、[[畝傍山東北陵]]に葬られた。
'''始馭天下之天皇'''(はつくにしらすすめらみこと)と称され、「'''神武天皇'''(じんむてんのう)」と後に諡された。
== 系譜 ==
=== 系図 ===
『古事記』
[[画像:Emperor_family_tree0.png|thumb|right|300px|神武天皇と比売多多良伊須気余理比売命までの系譜(『古事記』による)]]
『日本書紀』
<div style="max-width:650px;min-width:300px;margin:auto auto auto 0;">
<div style="margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; text-align: center; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align:center">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | |)|-|-|.| | | | | }}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | 002 | | | |001='''[[天照大神|{{Bgcolor|#F2CEE0|天照大神}}]]'''|002=[[素戔嗚尊]]<br />(記では[[天之冬衣神]])}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | |!| | |!| | | | | }}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | 002 | | | |001='''[[天忍穂耳尊]]'''|002=[[大己貴神]]}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | |!| | |!| | | | | }}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | 002 | | | |001='''[[瓊瓊杵尊]]'''|002=[[事代主神]]}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|-|-|-|-|-|(| | |)|-|-|.| | }}
{{familytree|border=0| 001 | | | | | | 002 | 003 | |!| |001=[[火闌降命]]|002='''[[火折尊]]'''|003=[[鴨王 (上古)|鴨王]]<br />(神武と同世代)}}
{{familytree|border=0| |!| | | | | | | |!| | |!| | |!| | }}
{{familytree|border=0| |)|-|-|.| | | | 001 | 002 | |!| |001='''[[鸕鶿草葺不合尊]]'''|002=(子孫は[[賀茂朝臣氏|賀茂氏]]・[[三輪氏]])}}
{{familytree|border=0| |!| | |!| | | | |!| | | | | |!| | }}
{{familytree|border=0| 001 | 002 |y|~| 003 |~|y|~| 004 |001=[[天曽利命]]|002=[[吾平津媛|{{Bgcolor|#F2CEE0|吾平津媛}}]]|003={{Supra|1}} '''神武天皇'''|004=[[媛蹈鞴五十鈴媛命|{{Bgcolor|#F2CEE0|媛蹈鞴五十鈴媛命}}]]}}
{{familytree|border=0| |!| | | | |!| | |,|-|-|(| | | | | }}
{{familytree|border=0| 001 | | | 002 | 003 | 004 | | | |001=(子孫は[[隼人]]、[[坂合部氏]]など)|002=[[手研耳命]]|003=[[神八井耳命]]|004={{Supra|2}} '''[[綏靖天皇]]'''}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | |!| | |!| | | | | }}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | |!| | | | |001=(子孫は[[多氏]])}}
{{familytree/end}}
<div style="text-align:left; margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; border-collapse: collapse; font-size: 95%">
* {{Bgcolor|#F2CEE0|赤背景}}は女性。
</div>
</div>
</div>
{{-}}
{{皇室地神五代}}
== 后妃・皇子女 ==
[[File:神武天皇 媛蹈鞴五十鈴媛命 emperor Jimmu and Himetataraisuzuhime no mikoto 日本国開闢由来記1.jpg|thumb|200px|[[歌川国芳]]『日本国開闢由来記』首巻より神武天皇と[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]]]
{{Smaller|(特記以外は『日本書紀』本文による。「紀」は『日本書紀』を、「記」は『古事記』を指す。)}}
* 妃:[[吾平津媛]](あいらつひめ、記:阿比良比売)
*: [[日向国]]吾田邑(あたのむら)出身。記によると兄は[[吾田君小橋|阿多之小椅君]]。『古代豪族系図集覧』は[[火闌降命]](海幸彦、神武天皇の[[大伯父]])の娘とする。
** 第1[[皇子]]:[[手研耳命]](たぎしみみ の みこと、記:多芸志美美命)
**: 神武天皇崩後に皇太子[[神渟名川耳尊]]に対する反逆([[タギシミミの反逆]])を起こし、殺害された。
** 皇子:[[岐須美美命]](きすみみ の みこと、『古事記』) - 『[[先代旧事本紀]]』。紀に無記載。
* [[皇后]]:[[ヒメタタライスズヒメ|媛蹈鞴五十鈴媛命]](ひめたたらいすずひめ の みこと、記:富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売)
*: [[事代主|事代主神]]の娘。記では[[大物主|大物主神]]の娘。
** 皇子:[[彦八井耳命]](ひこやいみみ の みこと、記:日子八井命、『本朝皇胤紹運録』:彦八井命) - 『先代旧事本紀』。紀に無記載。『本朝皇胤紹運録』『先代旧事本紀』は綏靖天皇の弟とする。
**: [[茨田氏]]・[[手島氏]]の祖(記)。
** 第2皇子:[[神八井耳命]](かんやいみみ の みこと、神八井命)
**: [[多氏]]・[[火氏]]・[[阿蘇君|阿蘇氏]]・[[科野国造]]等の祖(紀・記)。
** 第3皇子:'''[[神渟名川耳尊]]'''(かんぬなかわみみ の みこと、神渟名川尊、渟名川耳尊、記:神沼河耳命)
**: [[綏靖天皇]](第2代天皇)。
<div style="text-align:left; margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; border-collapse: collapse; font-size: 95%">
;天照大神以降の配偶者
{{皇室黎明期 (続柄)}}
</div>
== 年譜 ==
『日本書紀』によると以下の通りであり、庚午年(誕生)と甲申年(立太子)は年齢から逆算した物であり、明記された干支は甲寅年(東征開始)が最初である<ref name="iwanami">『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410</ref>。機械的に西暦に置き換えた年代については「[[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]]」を参照。
* [[庚午]]年
** 誕生。
* [[甲申]]年
** 15歳で立太子。
* [[甲寅]]年
** 10月、45歳で東征開始。
** [[速吸之門|速吸の門]]で[[椎根津彦|珍彦]]を水先案内とし、椎根津彦という名を与える。
** [[筑紫国]]、[[安芸国]]を経る。
* [[乙卯]]年
** 3月、[[吉備国]]に着き、3年間軍兵を整える。
* [[戊午]]年
** 2月、難波の碕に至る。
** 3月、[[孔舎衛坂]]で[[長髄彦]]に敗北。
** 5月、兄の[[五瀬命]]が矢傷の悪化で死亡、[[稲飯命]]と[[三毛入野命]]が熊野灘で[[入水]]。
** 8月、[[宇陀]]平定、吉野巡行。
** 9月、丹生の川上で[[天神地祇]]を祀る。
** 10月、国見丘で[[八十梟帥]]を討つ。
** 11月、[[磯城]]平定。
** 12月、長髄彦との決戦に勝利。[[饒速日尊]]の恭順。
* [[己未]]年
** 2月、[[土蜘蛛]]を征伐。
** 3月、畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)を開く。
* [[庚申]]年
** 9月、[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]を正妃とする。
* [[辛酉]]年(神武天皇元年)
** [[建国記念の日|1月1日]]、即位(初代天皇)。正妃を立后。
* 神武天皇2年
** [[2月2日 (旧暦)|2月2日]]、功を定め賞を行う。
* 神武天皇4年
** [[2月23日 (旧暦)|2月23日]]、鳥見山中に皇祖天神を祀る。
* 神武天皇31年
** [[4月1日 (旧暦)|4月1日]]、腋上の[[嗛間丘]]に巡幸、国を[[秋津洲]]と命名。
* 神武天皇42年
** [[1月3日 (旧暦)|1月3日]]、[[綏靖天皇|神渟名川耳尊]]を[[皇太子]]とする。
* 神武天皇76年
** [[3月11日 (旧暦)|3月11日]]、[[崩御]]。宝算は127歳(『古事記』では137歳という)。
* 神武天皇76年の翌年
** [[9月12日 (旧暦)|9月12日]]、[[畝傍山東北陵]]に葬られる。
以後3年間は、[[タギシミミの反逆|手研耳の反逆]]により空位となった。
== 宮 ==
[[File:Kashihara_M6485.jpg|thumb|280px|right|[[橿原神宮]]]]
『古事記』によると日向では高千穂宮にいた。[[神武東征|東征]]中に宇佐の足一騰宮(あしひとつあがりのみや、『日本書紀』では一柱騰宮)、筑紫の[[岡田宮]]、安芸の[[多家神社|多祁理宮]](『日本書紀』では埃宮)、吉備の[[高島宮]]に立ち寄った。即位後の宮([[皇居]])の名称は、『日本書紀』では「'''橿原宮'''(かしはらのみや)」、『[[延喜式]]』では「'''畝傍橿原宮'''(うねびのかしはらのみや)」、『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す(白檮はカシと読み、ブナ科の常緑高木で[[アラカシ]]の別称)。『[[万葉集]]』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」が発見できる{{Sfn|畝傍橿原宮(国史)}}。伝承地は[[奈良県]][[橿原市]]畝傍町の[[橿原神宮]]。
「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、[[江戸時代]]以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、[[明治]]21年([[1888年]])2月に奈良県県会議員の[[西内成郷]]が[[内務大臣 (日本)|内務大臣]][[山縣有朋]]に対して宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に[[明治天皇]]の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の[[賢所|内侍所]]を賜って[[本殿]]、[[神嘉殿]]を賜って[[拝殿]](現在の神楽殿)と成し、[[橿原神宮|橿原神社]](明治23年([[1890年]])に神宮号宣下、[[官幣大社]])が創建された。
明治44年([[1911年]])から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際に周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、[[洞部落]]208戸、1054人が[[大正]]6年([[1917年]])に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。
[[昭和]]13年([[1938年]])より挙行された[[紀元二千六百年記念行事|紀元2600年記念事業]]に伴い、[[末永雅雄]]の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から[[縄文時代]]後期~晩期の[[橿原遺跡|大集落跡と橿の巨木]]が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)によると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると当時から2600年前の物であり、その前後の誤差は±200年という事であった。この事から記紀の神武伝承には何らかの史実の反映があるとする説も存在する<ref>「生命の教育」 平成8年5月号、季刊『生きる知恵』第9号「科学的根拠のある神武天皇伝説」東神会出版室</ref><ref>[[樋口清之]]「日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』 神社新報社 1998年</ref>。
またこの時期に第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)が行われた。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))この事業は国費・紀元2600年記念奉祝会費により賄われた。
== 陵・霊廟 ==
[[File:Tomb of Emperor Jimmu, haisho.JPG|thumb|280px|right|{{center|神武天皇 畝傍山東北陵<br />([[奈良県]][[橿原市]])}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)の名は'''畝傍山東北陵'''(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。[[宮内庁]]により[[奈良県]][[橿原市]]大久保町の遺跡名・俗称「'''四条ミサンザイ'''」<ref name=shijo /> に治定されている({{Coord|34|29|51|N|135|47|16.5|E|region:JP-29|name=畝傍山東北陵(神武天皇陵)}})<ref>『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 400。</ref><ref>[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html 天皇陵](宮内庁)。</ref><ref>宮内省諸陵寮編[{{NDLDC|1237123/8}} 『陵墓要覧』](1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。</ref>{{Sfn|畝傍山東北陵(国史)}}。[[埋蔵文化財包蔵地]]とはされていない<ref name=shijo>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a176217.htm |publisher=[[衆議院]] |title=陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問主意書 |date=2010-11-30 |accessdate=2018-09-01}}</ref>。宮内庁上の形式は円丘。
記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。[[壬申の乱]]の際に[[天武天皇|大海人皇子]]が神懸りした際に「[[河俣神社|高市社]]の事代主神と[[牟佐坐神社|身狭社]]の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と[[神託]]を受けたため、<ref>『[[日本書紀]]』、巻第28</ref> 神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として[[大窪寺跡|大窪寺]]が建てられたと見られる。[[延喜式]]の第21巻の『[[諸陵式]]』によると神武天皇陵は[[平安時代|平安]]初期には東西1[[町 (単位)|町]]・南2町の広さであった。[[貞元 (日本)|貞元]]2年([[977年]])には神武天皇ゆかりのこの地に[[大窪寺跡|国源寺]]が建てられたが、中世には神武陵の所在もわからなくなっていた。
[[江戸時代]]初期より神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、[[徳川光圀|水戸光圀]]が『[[大日本史]]』の編纂を始めた頃に[[江戸幕府|幕府]]も天皇陵を立派にする事で幕府の権威をより一層高めようとした。[[元禄]]時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代[[綏靖天皇]]陵に治定されている)。しかし畝傍山からいかにも遠く、山上ではなく平地にあため、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」という場所にある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。
[[文久]]3年([[1863年]])に神武陵はミサンザイに決定され、[[江戸幕府|徳川幕府]]が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。この時、[[山陵奉行]]として天皇陵修復の任に当たったのは[[宇都宮藩]]家老の[[戸田忠至]]、神武天皇陵治定に大きな役割を果たしたのは戸田に従事した[[三条西家]]の侍臣の[[谷森善臣]]であると言われている。同年の8月13日には[[孝明天皇]]自ら神武天皇陵への行幸が布告されたが、[[八月十八日の政変|八・一八]]の政変により中止となった。が、修復が完成した11月28には勅使[[柳原光愛]]を神武天皇山陵に派遣し、年末の12月8日には御所の東庭にて孝明天皇自ら神武天皇陵を拝し祈りを捧げた。(「孝明天皇紀」)
このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年に神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。
確証に乏しい陵墓選定ではあったが、明治時代以降には文字通り神格化が進んだ。[[1916年]](大正6年)には畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているとして集団移転させられた出来事もあった<ref>真実からやっと神話へ『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月1日朝刊、11版、9面</ref>。
現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山から東北に300m離れており、東西500m・南北約400mの広大な領域を占めている。毎年4月3日には[[宮中三殿|宮中]]と複数の神社にて[[神武天皇祭]]が行なわれ、山陵には[[勅使]]が参向し、奉幣を行なっている。[[皇居]]では[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において、他の歴代天皇・皇族と共に神武天皇の霊が祀られ、神武天皇祭当日には天皇自らその祭りを執り行っている。
== 初代天皇としての視点 ==
[[後陽成天皇]]は「神武天皇より百数代の末孫」と自認しそのことを明記した。その奥書を[[国立歴史民俗博物館]]の小倉慈司氏が近年発見し、近代以前の天皇にも神武天皇を初代天皇とみなしていた意識があったという事実が明らかになった<ref>「神武天皇論」国書刊行会 2020-6</ref>。
[[光格天皇]]も「百二十代」(石清水、賀茂社再興を願う「御趣意書」)や、「神武百二十世兼仁合掌三礼」(「光格天皇宸翰南無阿弥陀仏」奥書、宮内庁蔵)という署名を残している<ref>藤田覚「幕末の天皇」講談社学術文庫 2013 85、86頁</ref>。
[[孝明天皇]]も異国船襲来という国体の危機の中にあって、幕府に命じて神武山陵を整備させ[[神武天皇祭]]を制定した<ref>武田秀章「維新期天皇祭祀の研究」大明堂 平成8年 52‐84頁</ref>。
[[明治天皇]]は神武天皇祭を継承し、明治十年の[[紀元節]](二月十一日)には[[神武天皇陵]]に行幸し参拝した。儀仗兵が整列するなか御拝され、御告文を奏されたという<ref>清水潔「神武天皇論」国書刊行会 令和2年 301頁</ref>。
== 考証 ==
=== 歴史的位置づけについて ===
神武天皇が即位したという[[辛酉]]の歳はそのまま[[西暦]]に換算すると[[紀元前660年]]であり、同時に[[弥生時代]]早期又は[[縄文時代]]末期に当たる。
[[明治時代]]の歴史学者である[[那珂通世]]は、1897年の著書『上世年紀考』にて『[[日本書紀]]』の記述を批判し、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が改まり、王朝が代わり、同時に正しい改革も行われる、特に21回毎に大革命が起こるとする「[[辛酉革命|辛酉革命説]]」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。その上で那珂は「[[推古天皇]]治世の最も輝かしい事跡が601年の[[辛酉]]にあったことから、その21回前の[[辛酉]]、つまり紀元601年からさらに60×21=1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」と推測した。
[[大正時代]]には[[津田左右吉]]は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、[[神話学]]と[[民俗学]]の成果を援用しつつ「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された[[日本神話]]の一部として理解すべきである」とした。このため津田は「皇室の尊厳を冒瀆した」とし、出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた([[津田事件]])。
津田の説に対する反論も存在し、神武の実在性を主張する論者もいる。[[安本美典]]は神武東征を[[邪馬台国]]の東遷(邪馬台国政権が[[九州]]から[[畿内]]へ移動したという説)であるとする。[[古田武彦]]も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/[[九州王朝説|九州王朝]]の分家だとしている。[[田中卓]]は初期天皇の皇后の出自伝承の素朴さが寧ろ帝系譜の信憑性を高めるとしている<ref>田中卓『日本国家の成立』1992年。</ref>。[[宝賀寿男]]は『記紀』が古代の地理事情を残している点や、古代氏族の系図や[[トーテム]]・習俗、年暦に関する研究から天照大神から神武天皇までの皇統譜を実在の物とした<ref>宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。</ref>。田中や宝賀、古田は神武東征の出発地を北部九州とする点で安本や戦前の通説とは異なる。久保田穰は初期天皇の実在を直接示唆するのは『記紀』であるが、同時期の[[万葉集]]や[[風土記]]、その他史書や各種系図・神社伝承などが『記紀』の内容を支持するとした<ref>久保田穰『古代史における論理と空想 邪馬台国のことなど』[[大和書房]]、1992年。</ref>。志賀剛は神武天皇の実在を認めつつ、[[宇陀郡]]出身の人物として想定し、東征の前半部分を虚構とする<ref>志賀剛「大和朝廷の起源と発生」『日本の神々と建国神話』[[雄山閣]]出版、1991。</ref>。[[武光誠]]は西方文化集団の畿内への到来と[[銅鐸]]消滅時期が一致する事から神武天皇的な存在を認めている<ref>武光誠『日本誕生』、1991年。</ref>。神話学者の[[松前健]]も神武伝承には実際の具体的な諸国の地名や氏族の名が多数出てきて全くの机上の作り話とは考えられないとし、[[壬申の乱]]に[[天武]]・[[大海人皇子]]が[[神武山陵]]に祈った記事からして、それ以前から神武伝承が知られていたであろうことを指摘している<ref>松前健「古代王権の神話学」雄山閣 2003 183頁</ref>。
現在神武天皇の史学的立ち位置は「神武天皇の史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」であるとされる<ref>『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』吉川弘文出版。</ref>。
[[ギネス世界記録]]では神武天皇の伝承を元に'''[[皇室]]'''を「'''現存する世界最古の[[王朝]]'''(英:dynasty)」としているが、発行物には「現実的には[[4世紀]]」と記載している。<ref>{{Cite web|和書|title=Oldest ruling house|url=https://guinnessworldrecords.jp/world-records/65161-oldest-ruling-house|website=ギネス世界記録|accessdate=2021-06-26|language=ja-JP}}</ref> 実在が確実な[[雄略天皇]]から数えても現存する王朝としては世界最古に当たる。
=== 即位年月日について ===
神武天皇の即位年月日は『[[日本書紀]]』の記述に基づき、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。
『[[日本書紀]]』においては年月日は全て[[干支]]で記している。神武天皇の即位年月日は'''「[[辛酉]]年春正月庚辰[[朔]]」'''とある。
太陽暦([[グレゴリオ暦]])が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立ち、[[紀元節]]が[[旧暦]]である[[天保暦]]の正月([[旧正月]])とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)の特定の日付に固定する必要が生まれた。[[文部省]]天文局が算出し、暦学者の[[塚本明毅]]が審査して[[2月11日]]という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
神武天皇の即位年は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算{{efn2|[[干支]]年は、[[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]26年([[50年]])に[[三統暦]]の超辰法をやめ([[元和 (漢)|元和]]2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返している。}}すると[[西暦]][[紀元前660年]]に相当し、即位月は「春正月」である事から[[立春]]の前後であり、即位日の[[干支]]は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと西暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。従って「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。またこの日を以って[[神武天皇即位紀元]](皇紀)元年とする暦が主に明治・大正期から終戦([[1868年]] - [[1945年]])まで用いられた。
『日本書紀』は「庚辰」が[[朔]]([[新月]]日)であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないため、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の[[月齢]]を天文知識に基づいて計算すると、この日{{efn2|天文学上の記法では-659年2月18日、[[ユリウス通日]]は1480407となる。}}は天文上の[[朔]]に当たる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=井上光貞|authorlink=井上光貞|date=1973-10|title=日本の歴史1 神話から歴史へ|series=中公文庫||publisher=中央公論社|isbn=4-12-200041-6|ref={{Harvid|井上|1973}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=|chapter=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}}
** {{Wikicite|reference=[[植村清二]] 「神武天皇」|ref={{Harvid|神武天皇(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=中村一郎 「畝傍山東北陵」(神武天皇項目内)|ref={{Harvid|畝傍山東北陵(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=岡田隆夫 「畝傍橿原宮」|ref={{Harvid|畝傍橿原宮(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=[[上田正昭]] 「はつくにしらすすめらみこと」|ref={{Harvid|はつくにしらすすめらみこと(国史)}}}}。
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=神武天皇|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642014588|ref={{Harvid|神武天皇(古代氏族)|2010年}}}}
* {{Cite book|和書|author=|editor=[[近藤敏喬]]|title=古代豪族系図集覧|year=1993|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=4-490-20225-3|page=6|chapter=|ref=keizu}}
== 関連項目 ==
* [[建国記念の日]]
* [[神武天皇即位紀元]]
* [[神武天皇祭]]
* [[橿原神宮]]
* [[宮崎神宮]]
* [[狭野神社]]
* [[神武景気]]
* [[紀元節]]
* [[神武帝]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Emperor Jimmu}}
* [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/001/index.html 畝傍山東北陵] - 宮内庁
* [http://www.kashiharajingu.or.jp/ 橿原神宮] - 公式サイト
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宣伝目的のサイトや、私的な考えを書いたに過ぎないようなサイトは削除されます。また、ウィキペディアはリンク集ではありません。ウィキペディアにおける適切な外部リンクの選び方は、[[Wikipedia:外部リンクの選び方]](ショートカット:[[WP:EL]])を参照して下さい。このメッセージは、2014年10月に貼り付けられました。{{外部リンクの方針参照}}を使って貼り付けることができます。-->
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[[Category:古墳時代以前の天皇]]
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経営システム工学
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経営システム工学(けいえいシステムこうがく、英:Management system engineering)とは、企業など組織における問題の発見と解決,目標の設定と達成のための統合化された科学技術である。経営工学が源流であるが、経営システムの概念を導入するために、機械工学、制御工学、信頼性工学、情報工学、システム工学、金融工学、保険数理、環境工学といった学問の要素の一部を含んでいる。
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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=学}}
'''経営システム工学'''(けいえいシステムこうがく、[[英語|英]]:Management system engineering)とは、企業など組織における問題の発見と解決,目標の設定と達成のための統合化された科学技術である。[[経営工学]]が源流であるが、経営システムの概念を導入するために、[[機械工学]]、[[制御工学]]、[[信頼性工学]]、[[情報工学]]、[[システム工学]]、[[金融工学]]、[[保険数理]]、[[環境工学]]といった学問の要素の一部を含んでいる。
== 適用分野例 ==
*経営企画:財務戦略、工場建設戦略、
*生産技術:[[プラント]]設計、設備保全、
*[[生産管理]]:[[生産計画]]、生産システム開発、
*情報 :[[情報システム]]分析、
== 研究機関 ==
=== 経営システム工学関連の学科・教育プログラムを設置している大学(五十音順) ===
* [[青山学院大学]] [[理工学部]] 経営システム工学科
* [[秋田県立大学]] システム科学技術学部 経営システム工学科
* [[大阪工業大学]] [[情報科学部]] [[データサイエンス学科]] 経営システム研究室、ものづくり経営マネジメント研究室
* [[中央大学]] 理工学部ビジネスデータサイエンス学科
* [[千葉工業大学]] 社会システム科学部 経営情報科学科 経営システムコース
* 千葉工業大学 社会システム科学部 プロジェクトマネジメント学科 経営システムコース
* 電気通信大学 情報理工学域 I類 経営・社会情報学プログラム
* [[東海大学]] [[情報通信学部]] 経営システム工学科
* [[東京工業大学]] [[工学部]] 経営システム工学科 経営工学専攻
* [[長岡技術科学大学]] 情報・経営システム工学課程/専攻
* [[名古屋工業大学]] 工学部 社会工学科 経営システム分野
* [[日本大学]] 生産工学部 マネジメント工学科 経営システムコース
* [[福島大学]] 理工学群 共生システム理工学類 経営システムコース
* [[法政大学]] 理工学部 経営システム工学科
* [[早稲田大学]] [[早稲田大学理工学術院|理工学術院]] 創造理工学部 経営システム工学科
* [[東京都市大学]] 知識工学部 [https://www.tcu.ac.jp/academics/knowledge/managementsystems/ 知能情報工学科(旧 経営システム工学科)]
* 東京都市大学 環境学部 [https://www.tcu.ac.jp/academics/environment/environmentalmanagementandsustainability/ 環境経営システム学科]
== 参考文献 ==
* 神戸大学経済経営学会編著『ハンドブック経営学[改訂版]』、[[ミネルヴァ書房]]、2016/4/11。ISBN 978-4623076734。
== 関連項目 ==
* [[経営学]]
* [[アクチュアリー]]
* [[経営工学科]]
== 外部リンク ==
* [http://www.aoyama.ac.jp/faculty/science/industrial_sys/ 青山学院大学 理工学部 経営システム工学科]
* [http://www.akita-pu.ac.jp/system/manage/index.html 秋田県立大学 システム科学技術学部 経営システム工学科]
* [http://www.chuo-u.ac.jp/academics/faculties/science/departments/industrial/ 中央大学 理工学部 経営システム工学科]
* [http://pm-cit.jp/?page_id=143 千葉工業大学 社会システム科学部 プロジェクトマネジメント学科 経営システムコース]
* [https://www.u-tokai.ac.jp/academics/undergraduate/information_and_telecommu/management_systems_engine/ 東海大学 情報通信学部 経営システム工学科]
* [http://www.me.titech.ac.jp/index-j.html 東京工業大学 工学部 経営システム工学科]
* [http://imse.nagaokaut.ac.jp/ 長岡技術科学大学 情報・経営システム工学課程]
* [http://www.ka.cit.nihon-u.ac.jp/about/2course/technology/ 日本大学 生産工学部 マネジメント工学科 経営システムコース]
* [https://www.sss.fukushima-u.ac.jp/guides/course#c02 福島大学 理工学群 共生システム理工学類 経営システムコース]
* [https://ise-hp.ws.hosei.ac.jp/ 法政大学 理工学部 経営システム工学科]
* [https://www.mgmt.waseda.ac.jp/ 早稲田大学 創造理工学部 経営システム工学科]
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ガドリニウム
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ガドリニウム (英: gadolinium [ˌɡædɵˈlɪniəm]) は原子番号64の元素。元素記号は Gd。希土類元素の一つ。ランタノイドに属す。
ガドリニウムの語源は、フィンランドの鉱物学者である ヨハン・ガドリン (J.Gadolin, 1760-1852) から。ヨハンはイットリア鉱石からガドリニウムを分離したほか、同鉱石の主成分であるイットリウムを発見したことでも知られる。
銀白色(白色)で展延性のある希土類。常温、常圧で安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP)。1235 °Cを超えると体心立方格子のβ形に変わる。比重は7.9、融点は1312 °C、沸点は約3000 °C。水にゆっくりと溶け、酸には易溶。安定な原子価は+3価。
ガドリニウムは、最大14個の電子が入る 4f 軌道が、占有可能な電子数の半分にあたる7個の電子で占有されており、7つの不対電子を持つ。そのため、7つの異なる軌道に合成スピン角運動量による磁気モーメントが最大となる。このことからガドリニウム錯体(Gd-DOTA 等)は磁性材料や MRI 検査用の造影剤(T1短縮効果)に利用されている。
3価の陽イオン Gd も 4f の球対称な電子配置を取るため、化合物中の原子価も無色の3価が唯一安定な状態となる。
室温以下で強磁性も示し、そのキュリー点は20 °C (292 K) である。
また、ガドリニウムは中性子吸収断面積が非常に大きいので、原子炉の制御材料などに使われる。中でもガドリニウム157の吸収力が優れている。
ジャン・マリニャック (J.C.G.de Marignac) が1880年に発見。
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ガドリニウム は原子番号64の元素。元素記号は Gd。希土類元素の一つ。ランタノイドに属す。
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|magnetic ordering=[[強磁性]]/[[常磁性]]<br />292 K で転移<ref name="curie">{{cite book| author =Charles Kittel| title = Introduction to Solid State Physics| publisher =Wiley| location = New York| year = 1996| page =449}}</ref>
|electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 1.310 µ
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=152 | sym=Gd
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'''ガドリニウム''' ({{lang-en-short|gadolinium}} {{IPA-en|ˌɡædɵˈlɪniəm|}}) は[[原子番号]]64の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Gd'''。[[希土類元素]]の一つ。[[ランタノイド]]に属す。
== 名称 ==
ガドリニウムの語源は、[[フィンランド]]の[[鉱物学]]者である
[[ヨハン・ガドリン]] (J.Gadolin, 1760-1852) から<ref name="sakurai" />。ヨハンは'''イットリア鉱石'''からガドリニウムを分離したほか、同鉱石の主成分である[[イットリウム]]を発見したことでも知られる。
== 性質 ==
銀白色(白色)で展延性のある[[希土類]]。常温、常圧で安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP)。1235 {{℃}}を超えると体心立方格子のβ形に変わる。比重は7.9、[[融点]]は1312 {{℃}}、[[沸点]]は約3000 {{℃}}。水にゆっくりと溶け、[[酸]]には易溶。安定な[[原子価]]は+3価。
ガドリニウムは、最大14個の[[電子]]が入る 4f 軌道が、占有可能な電子数の半分にあたる7個の電子で占有されており、7つの[[不対電子]]を持つ。そのため、7つの異なる軌道に合成スピン角運動量による[[磁気モーメント]]が最大となる。このことからガドリニウム錯体(Gd-DOTA 等)は磁性材料や [[核磁気共鳴画像法|MRI]] 検査用の[[造影剤]](T1短縮効果)に利用されている。
{{main|MRI造影剤}}
3価の陽イオン Gd<sup>3+</sup> も 4f<sup>7</sup> の[[球対称]]な[[電子配置]]を取るため、化合物中の原子価も無色の3価が唯一安定な状態となる。
室温以下で[[強磁性]]も示し、その[[キュリー点]]は20 {{℃}} (292 [[ケルビン|K]]) である<ref name="curie"/>。
また、ガドリニウムは中性子吸収断面積が非常に大きいので、原子炉の制御材料などに使われる。中でもガドリニウム157の吸収力が優れている。
== 歴史 ==
[[ジャン・マリニャック]] (J.C.G.de Marignac) が1880年に発見<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 279|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。
== ガドリニウムの化合物 ==
* [[酸化ガドリニウム(III)]] (Gd<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) - ガドリニアとも呼ばれる
* ガドリニウムガリウムガーネット (Gd<sub>3</sub>Ga<sub>5</sub>O<sub>12</sub>)
== 同位体 ==
{{main|ガドリニウムの同位体}}
* <sup>153</sup>Gd は、[[X線]]吸光光度分析法や[[骨粗鬆症]]のための[[骨密度測定]]等のX線源として用いられる。
* <sup>157</sup>Gd は、ガドリニウムの同位体の中でも熱中性子<ref>300Kの室温と熱平衡状態にある運動エネルギーが0.025[[電子ボルト|eV]](速度2200m/s)程度の中性子の事</ref>に対する吸収断面積が25万4000[[バーン (単位)|バーン]]と極めて高く、[[中性子捕捉療法]]の中性子吸収剤としての利用が期待されている。
== 出典 ==
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野球場
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野球場(やきゅうじょう、英: ballpark)は、野球を行うための運動場である。「球場(きゅうじょう)」とも。
野球の発祥地であり本場であるアメリカのMLB(メジャーリーグ・ベースボール)の野球場の形はひとつひとつ異なっている。
もともとアメリカでは野球場は街中の空き地に造られていたため、周囲の敷地や建物の影響を受けて複雑に歪んでいたので、野球場の形状や広さはまちまちでよいということになった。現在でもそうである(ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークはそのような昔の名残を色濃く残している)。野球場全体は左右非対称で歪んだ形をしていてもよいし、外野が複雑な形でもよい。外野のフェンスもウネウネと曲がっていても良くて、実際多くの球場のフェンスがそれぞれ敷地の形の都合や周囲の建造物の影響を受けてさまざまなゆがみ方をしており、そこに描かれる「この線を越えるとホームランと認定される線」も各球場の都合で引いてよく、(広告収入をもたらす)宣伝用看板を避けるように複雑に上下に折れ曲がっていてもよい。ファールエリアの形状も各球場ごとに全然異なっており、左右非対称に歪んでいる場合も多い。
ただし内野のサイズは厳密に定められている。すなわちダイヤモンドのサイズ、つまり4つの塁(ベース)が正しく正方形となることや塁間の寸法も厳密に定められている。
MLBの球場のサイズに関する規定はOFFICIAL BASEBALL RULESにかかれている。OFFICIAL BASEBALL RULESの2019年版はこちらに公開されており、その「2.01 Layout of the Field」に書かれている。
between two foul lines formed by extending two sides of the square, as in diagram in Appendix 1 (page 158). The distance from home base to the nearest fence, stand or other obstruction on fair territory shall be 250 feet or more. A distance of 320 feet or more along the foul lines, and 400 feet or more to center field is prefer- able. The infield shall be graded so that the base lines and home plate are level. The pitcher’s plate shall be 10 inches above the level of home plate. The degree of slope from a point 6 inches in front of the pitcher’s plate to a point 6 feet toward home plate shall be 1 inch to 1 foot, and such degree of slope shall be uniform. The infield and outfield, including the boundary lines, are fair territory and all other area is foul territory. It is desirable that the line from home base through the pitcher’s
最後の2行を解説すると、『本塁からピッチャープレートや2塁へと引いた直線は、東北東方向にあることが "望ましい"』としている。「望ましい」としているので、いわゆる努力義務(努力目標)であり、絶対に守らなければならない規則というわけではない(なぜこのような方角に関する規定があるかというと、この規定に従って本塁を南西に置いた場合、内野席の観客は太陽が視野に入らないためプレーが見やすいのである。さらに多層階のスタンドを持つ球場の場合、内野スタンドの大部分が午後のデーゲーム時には日陰となるので、観客は直射日光に晒されず涼しく観戦できる)。 努力義務(努力目標)であるが、アメリカのMLBの野球場のほとんどはこの努力義務を守っている(例外は、PNCパークやグレート・アメリカン・ボール・パークくらいである。これらの例外的球場は「景観作り」をするために方角の努力目標を後回しにした)。
なお、この努力義務規定に素直に沿った球場だと左投手(左腕で投げる投手)の投げるほうの腕(左腕)は南側になる。ここから左投手は「サウスポー」(south-paw)と呼ばれるようになったとされる。
日本の公認野球規則は、基本的にアメリカのOFFICIAL BASEBALL RULESを翻訳したものであり、やはり2.01章に以下のような野球場の規格についての定めがある。以後この節における数値は全て公式規定である。
正方形のそれぞれの頂点には目印となる塁を置く。 このうちの一点は本塁と呼び、五角形のゴム板を置く。 正方形を描くためにはまず本塁を置く位置を決め、本塁から127フィート3 3 8 {\displaystyle {\tfrac {3}{8}}} インチ(38.795メートル)の位置に二塁を置く。 次に、本塁と二塁を基点に90フィート(27.431メートル)ずつ測って、本塁から見て右側の交点を一塁、左側の交点を三塁と呼ぶ。 つまり本塁から反時計回り順に、一塁・二塁・三塁となる。 本塁以外の3つの塁には厚みのある、正方形状のキャンバスバッグを置く。 一・三塁ベースは描いた正方形の内側、二塁ベースは描いた正方形の頂点とキャンバスバッグの中央が重なるように置く。 そして本塁から二塁への線分上で、本塁から60フィート6インチ(18.44メートル)の位置には投手板と呼ばれる長方形の板を置く。 各塁と投手板は全て白色である。 本塁から一塁へ伸ばした半直線と、本塁から三塁へ伸ばした半直線をファウルラインと呼ぶ。
ファウルゾーンについては「本塁からバックストップ(ネット)までの距離、塁線からファウルグラウンドにあるフェンス・スタンドまでの距離は60フィート(18.288メートル)以上を必要とする。」 と書かれている。塁線は一、三塁までを指し、外野のファウルゾーンについては規定がない。
外野の広さについては「本塁よりフェアグラウンドにあるフェンス、スタンドまたはプレイの妨げになる施設までの距離は250フィート(76.199 メートル)以上を必要とするが、両翼は320フィート(97.534メートル)以上、また中堅は400フィート(121.918メートル)以上あることが優先して望まれる」と規定されている。両翼とは、本塁と一塁・三塁とを結ぶファウルラインの延長線上を指し、中堅とは本塁と二塁を結ぶ直線の延長のことをいう。
この規定には注記があり、1958年6月1日以降にプロ野球球団が新設する球場は、両翼325フィート(99.058メートル)、センター400フィート(121.918メートル)以上なければならないとし、既存の球場を改修する場合もこの距離以下とすることができない旨を定めている。ただし、日本においてはこの規定を満たさない球場が1958年6月1日以降も多数誕生しており、プロ野球球団の本拠地球場でも規定を満たしていない球場が見られる(詳細は後述)。
日本でもMLBの公式ルールと同様に方角に関する規定が盛り込んであり、「本塁から投手板を経て二塁に向かう線は、東北東に向かっていること」を「理想とする」と努力義務を定めている。
日本の球場は規定を無視して、ピッチャープレートや2塁を南から南南西方向に(「本塁を北から北北東に」)設置する場合が多い。これは日本の球場の多くが、国民体育大会や学生野球といった教育寄りの目的で建設された経緯があり、守備に就くプレイヤーたち(学生たち)への配慮を優先し午後のデーゲームで太陽が視野に入らないよう配慮した方向を選択したためである(代わりに、観客やバッターのほうは犠牲になってしまった)。
バッターボックス(batter's box、ルール上の正式名称はバッタースボックス、もしくは打者席)とは、打撃を行う際に打者が立つ場所のこと。しばしば打席とも言われる。ただし、「打席数」を意味する場合の「打席」は、英語で "plate appearance" という。通常は、天然土やアンツーカーの上に白いチョークで四角い線が引かれ、バッターボックスが示されている。バッターボックスは、本塁を挟んで左右に1つずつ存在し、打者はそのどちらかに入って打撃動作を行う。投手の側から見て右側の三塁方向に近いバッターボックスを右打席、一塁方向に近い左側のバッターボックスを左打席という。
打者の身体の一部分でも、バッターボックスの外で地面に接している時、投手は投球動作を行ってはならない。また、打者が一旦打席に入ったならば、投手がピッチャープレートに足を触れた後に打席を外すためには、必ず審判にタイムアウトを要求しなければならない。打球がフェアグラウンドに飛べば、打者は打者走者(バッターランナー)となって一塁に向かって走る必要がある。左打席の方が一塁ベースに近いため、内野安打に関しては左打席が有利である。
ホームベース後方のファウルグラウンドには、キャッチャーボックス(catcher's box、ルール上の正式名はキャッチャースボックス、もしくは捕手席)が位置している。捕手は、このキャッチャーボックス内で捕球動作を行う。キャッチャーボックスも、バッターボックスと同じく白いチョークで位置が示されている。投手が投球動作を始め、その手からボールが離れるまで、捕手は必ずファウルグラウンドに設けられたキャッチャーボックス内に位置していなければならない。
次打者、もしくは代打予定者が待機する場所として、ダートサークル側方の規定された位置(一塁三塁側それぞれ一箇所ずつ)に直径5フィートの円形区画が設けられ、これをネクスト・バッタースボックス(next batter's box、次打者席)と呼ぶ。ネクストバッターズサークル、ネクストバッターサークル、ウェイティングサークルなどとも称される。
また、一塁三塁のファウルゾーン側には、ベースコーチのためのコーチスボックス (coach's box) が白チョークなどにより明示される。
野球場のグラウンドは、大別して内野と外野の2つに区分できる。内野には4つの塁(るい、英:base または bag、日本語でもしばしばベースと呼称)が置かれ、内野を守る捕手、投手を除く4人の野手が内野手と呼ばれる。内野の正方形内のことをダイヤモンドとも呼ぶ。
本塁は、内野に位置する4つの塁のうち、左右両バッターボックスの間に位置する塁である。ホームベース(home base)、またはホームプレート(home plate)ともいう。4つの塁の中で最もジャッジの基準に用いられることが多い塁であり、得点を記録するために最終的に到達しなければならない塁である。本塁は五角形のゴム板で、グラウンドと面一に埋め込まれている。そのためプレイの最中に本塁が土に覆われてしまうということはしばしばであり、その都度球審がブラシで本塁上の土を払う光景が見られる。
野球場を作るには、まず本塁の位置を決める必要があり、これを基準にして他の塁やマウンドなどの位置が決められる。公認野球規則2.02では、本塁を次のように定義している。
本塁は五角形の白色のゴム板で表示する。この五角形をつくるには、まず一辺が 17 インチ(43.2 センチメートル)の正方形を描き、17 インチの一辺を決めてこれに隣り合った両側の辺を 8.5 インチ(21.6 センチメートル)とする。それぞれの点から各 12 インチ(30.5 センチメートル)の二辺を作る。12 インチの二辺が交わった個所を本塁一塁線、本塁三塁線の交点に置き、17 インチの辺が投手板に面し、2 つの 12 インチの辺が一塁線及び三塁線に一致し、その表面が地面と水平になるように固定する。
本塁は、塁やマウンドを設ける上での基準点としての役割だけでなく、ストライクゾーンの幅を決める基準としての役割も持つ。打者が打とうとしなかった(バットを振らなかった)投球がストライクと判定されるためには、インフライト(ノーバウンド)で本塁上を通過していることを必要とする(三振、一塁に走者がいない、ワンバウンドで捕球された・若しくは後逸、この3条件が満たされた瞬間は振り逃げが可能となり、出塁できる)。
走者がアウトにならずに本塁に達すれば、得点が記録される。そのため、得点させまいと触球を試みる捕手と、触球を避けようとする走者がぶつかり合うクロスプレイが起こることもあり、他の塁に比べて激しいプレイが起こりやすい。中には、捕手が本塁に触れさせまいと走路をブロックしたり、逆に、ブロックする捕手を、返球されるボールを受け取る前に突き飛ばして本塁前から排除し、本塁に触れようと体当たりを敢行する走者もみられる。これらのプレイは野球の醍醐味の一つと見られる向きもあるが、大怪我や大事故につながりかねない、非常に危険なプレイであり、また状況によっては走塁妨害あるいは守備妨害が宣告される反則行為ともなり得るものである(ぶつかり方によっては乱闘の発端にさえなる)。
プロ野球やメジャーリーグでは、審判の判定に不服を持った選手が抗議の意思を示すために、土を蹴り上げて本塁の幅を狭くしようとしたり、つばを吐いたり、プレート脇に“今の球はボールだろ”とバットで線を引いたりする行為を見かけることがある(これを実際に行うと球審侮辱で退場となる)。
一塁(first base、または1B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁側から見て右に位置する塁であり、打者走者が最初に到達しなければならない塁である。打者走者は、ただちに一塁に戻ってくる(二塁へ進塁を試みず、一塁へ戻ってくる)ことを条件として、駆け抜けることが認められている。一塁側ファウルライン(塁線)には「スリーフットライン」が設定されている。
打者がアウトにならずに一塁ベース上に到達することを出塁という。出塁が可能なのは安打、四球、死球、失策、野手選択、振り逃げ、打撃妨害、走塁妨害のいずれかの場合である。
一塁ベース付近を守る野手を、一塁手(first baseman)という。一塁手は各内野手からの送球の的となるため、長い四肢を持つ長身の選手が好ましいとされる。一般に打球や送球の捕球や、捕球後の送球、牽制球の触球では左投げの選手(サウスポー)の方が有利だとされる。右投げの選手は捕球後、体を90度回転させて無理な姿勢での送球になりがちだが、サウスポーなら自然体で投げることができる。牽制の触球は右手にミットを持つほうが素早く行うことができる。一塁手は普段、一塁から離れて守っているが、牽制球を受ける際には、塁に片足を付け、投手からの牽制送球に備える。
二塁(second base、または2B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁からマウンドへ延びる直線の延長上に位置する塁であり、一塁に到達した走者が、2番目に到達を目指す塁である。
本塁から最も遠い塁である(127フィート3.375インチ=38.184メートル)ため、一塁走者が二塁到達を狙って盗塁(二盗)を企てることが多い。二塁に走者が到達すると、単打でも本塁まで帰ってこられる可能性が高くなり、得点の可能性が一気に増す。そのため、二塁、もしくは三塁上に走者がいる状況を得点圏(scoring position)という。
二塁は、一塁や三塁のように一人の選手だけによって守られる塁ではない。一塁と二塁の間に二塁手(second baseman)、二塁と三塁の間に遊撃手(shortstop)が位置し、2人で連携して二塁の守備に当たる。二塁手と遊撃手は、併殺やベースカバーなどで、高度な連携が必要とされる。
一塁手と二塁手の間にあるスペースを一二塁間、二塁手と遊撃手の間にあるスペースを二遊間と呼ぶ。
三塁(third base、または3B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁側から見て左に位置する塁であり、二塁に到達した走者が、その次(3番目)に到達を目指す塁である。
三塁を占有できれば次に進塁すべき塁は本塁であり、この意味で本塁に最も近いということができる。三塁に走者がいる場合は得点の可能性が高い。安打での得点に加えて、無死また一死の状況で走者が三塁にいる場合は犠牲フライやスクイズプレイ、内野ゴロなどでも得点が可能になる(犠牲フライの場合は野手が余程の強肩でなければ捕手の触球は間に合わない)。暴投や捕逸が直接得点に結びつくため、投手はより慎重な投球を強いられる。
三塁への盗塁(三盗)が試みられることもあるが、物理的距離の意味でも本塁・二塁間の距離よりも本塁・三塁間の距離は短いため難易度は高く、二盗と比較すれば三盗が行われることは少ないといってよい。ただし、少ないといっても三盗はしばしば目にするプレイである。三盗の難易度は高いが、投手の油断を突いて試みられることが多い。三塁手と遊撃手の間にあるスペースは三遊間と呼ぶ。
一塁・二塁・三塁の位置や形状については公認野球規則2.03で定められており、ベースバッグは正方形で、白色のキャンバスかゴムで覆われた厚みのある形状である。設置位置は、一・三塁はバッグが内野の正方形内に完全に収まるようにし、二塁は、バッグの中心が二塁地点に重なるようにする。
厚さは3インチ(7.6センチメートル)ないし5インチ(12.7センチメートル)。大きさは正方形の一辺が15フィート(38.1センチメートル)と定められていたが、MLBでは2023年から18インチ(45.7センチメートル)に改められた。このベースは「ビガー・ベース (bigger base) 」とも呼ばれ、野手と走者が接触して負傷するのを防ぐ目的があるが、一・二塁間や二・三塁間は4.5インチ(11.4センチメートル)短くなるため、盗塁を試みる走者には有利に働く。
ベースバッグは必要に応じてダートエリアから取り外せるようになっている(外した後の穴は蓋を填めて塞ぐ。蓋がスライド式の作り付けになっている球場もある)。
外野には、ホームベース方向から見て左側から順に左翼(レフト)、中堅(センター)、右翼(ライト)の3つのポジションが存在する。それぞれの守備を担当する左翼手、中堅手、右翼手の3人をまとめて外野手と呼ぶ。
おおむね次のようなものがあるが、野球場の規模によって付帯する設備は大きく異なる。
外野及びファウルゾーンに設け、グラウンドとグラウンド外とを区切る柵。コンクリートパネルや金網などが用いられる。野手がフェンス際の打球を取りに出て衝突した際に怪我をしないよう、安全対策としてコンクリート部分には発泡ラバーや発泡ウレタン、ポリエステル不織布などの素材で造られた緩衝材を被せているところが多い。
抜ければ長打になるかという打球を、外野手がフェンスに衝突し転倒しながらも捕球することがある。また本塁打性の打球を、外野手が背走してフェンス際でグラブを差し出して捕球したり(フェンスに達すれば打者走者が二塁にまで進んでしまう事は確実)、時にはフェンスによじ登って捕球したりと、身を挺して本塁打を防ぐこともある。こうした好プレーは外野手の見せ場の一つでもある。
かつて日本国内にはフェンスに緩衝材を設けていなかった野球場が数多く、プロ本拠地でも対策が立ち遅れていた。1977年4月29日に川崎球場で開催された大洋ホエールズ対阪神タイガース9回戦で、左翼への飛球を追った阪神・佐野仙好がフェンスのコンクリート部に頭を強打し重傷を負ったことがきっかけで、プロ本拠地にはラバーフェンスの設置が義務付けられた。1988年以降は、フェンスに緩衝材が設置されていない野球場では地方に所在するものも含め、プロ野球の試合は一切開催できないと取り決められており、現在はアマチュア野球の公式戦の多くも、緩衝材が設けられている野球場で行われている。
西武ドームや長野オリンピックスタジアムなどファウルゾーン内にブルペンを設けている野球場では、グラウンド間を金網フェンスなどで区切っているところがある。このうち西武ドームでは2001年6月20日に開催された西武ライオンズ対大阪近鉄バファローズ16回戦で、一塁側ファウルゾーンへの飛球を追った西武・平尾博嗣がブルペンのフェンスに衝突した際、右足のスパイクを金網に引っ掛けて足首を強く捻り、複雑骨折する重傷を負ったのがきっかけで、同年オフにブルペンのフェンス下部をラバーフェンスに改修している。しかし地方球場のブルペン付近のフェンスは現在も、地面まで金網となっているところが多い。
アメリカでも、リグレー・フィールドの外野フェンスには緩衝材が設けられていないが、フェンスの壁面にツタを植栽して代用している。
公認野球規則上はバックストップと呼ばれ、本塁から基本的に60フィート(約18.288メートル)以上離れて設置される、ボールが後方場外に飛び出すのを防ぐ構造物。とくに本塁後方方向へのファウルボールは勢いがある場合が多いので、網で作られている場合が多く、通称としてバックネットと呼ばれる。バックネットが設置されていない野球場は皆無といって良い。バックストップの距離はあくまでも推奨値となっているが、日本版の規則のみ「必要」となっており、この事がエスコンフィールドHOKKAIDOのバックストップが海外設計事務所の設計により50フィートであったことに関して大論争を生んでいる。
一般的には支柱を立てて金属製もしくは合成繊維製の網を張る場合が多い。観客の多い野球場では細くて強度のあるステンレス製の網を用いたり、柱を用いず観客席上に張ったロープから網を吊り下げたり、バックネットを黒く塗る、網ではなくアクリル製の透明の板を使うなど、観客の安全性と視認性を高めるために工夫をこらしている野球場も多い。
打球がフェアかファウルかを判断するため、ファウルラインがフェンスと接する地点に立てる柱。公認野球規則では「白く塗らなければならない」と定められているが、打球の判別の便宜上、他の色でもよいとされている。白色ではボールが見えにくいことがあるため(幻の本塁打一覧)、現在はより判別しやすい黄色や橙色が多く使われている。判断をより正確にするため、ポールのフェア地域側にネットを取り付け、打球がファウル側からフェア側へ、またフェア側からファウル側へ飛び込まないよう考えられたものもある。
打球が直接ファウルポールに接触した場合は本塁打、打球が地面やフェンスに当たってからポールに接触した場合は二塁打となる。
競技の得点や出場選手、ボール・アウトカウントなどを表示するための設備。通常、外野中堅の後方に設けられることが多い。従来はイニングスコアや選手名をパネルにより掲出する方式が一般的で、鉄や木のパネル(黒板)にチョークで手書きするか、紙に印刷したものを貼付して表示していた。人力による作業を必要とするため、出場選手が交代する場合等にはパネルの入れ替えや書き換えに手間取ることもしばしばあった。
日本では1970年、後楽園球場に初の本格的な電光式スコアボードが導入された。当時は電球式で画素が粗く、画数の多い漢字などの表示がままならないケースもあり、かつて、ロッテに在籍していた醍醐猛夫は画数が多いため、一部の地方球場では「ダイゴ」とカタカナ表記で書かれていた事もあり、本人も「ファンの方から『外人選手だと思った』と言われた事があった」と言う。他に、地方球場ではないが、巨人や中日で外野手を努めた与那嶺要も『ヨナミネ』と書かれたスコアボードの写真が「プロ野球60年史」のオールスターの写真に掲載されている。
1975年からパシフィック・リーグで指名打者制度が採用されるようになったが、多くの球場では9人分しか表示できないため、守備中は投手、攻撃中は指名打者の選手を入れ替えて表示したことがあった。後楽園ではチーム名を表示する箇所に投手名、神宮球場では単色掲示板だった時代はフリーボードの箇所に投手名を表示したことがあるほか、川崎球場でもロッテオリオンズが本拠地とするようになった1978年に投手を含めた10人分を記載できるよう改造された。
現在は高輝度放電管や発光ダイオード(LED)を使用した電光式のシステムや、電磁石で制御する磁気反転式のシステムを使用して表示部を遠隔操作する方式が主流である。1997年以降、日本のプロ12球団が本拠地とする野球場は全て電光式を採用しており、それに加え大型映像装置が設置されている。これにより投手の球速、打者の現時点における打率・本塁打数・打点(その打席での結果如何――安打を打ち出塁するか、三振や凡退に終わるか――でこれら数値は変動するが、これも演算により修正可能で、上昇・下降が即時表示される)、風向・風速(千葉マリンスタジアム。測定用の風車がフラッグポールと同じ位置にある)などさまざまな情報を表示できる他、映像装置を使用して観客により多くの情報を提供でき、かつ様々な演出が行えるようになった。なおメジャーリーグではリグレー・フィールドのようにパネル式を敢えて残している球場もある。
1980年代後半から各地で採用されている磁気反転式のスコアボードは、ランニングコストやメンテナンスの低廉さと直射日光下での視認性の高さから主に地方球場で普及したが、表示部が自ら光を発せないため夜間にはスコアボード全体をライトアップせねばならず、また経年劣化すると表示部が帯磁して円滑に回転しなくなるという難点があり、老朽化して動作不良を起こすケースがしばしば発生している。
近年はフルカラーLEDのコスト低下に伴って映像装置の導入コストが低廉になったこともあり、本拠地球場ではスコアボードの全面を映像装置として、イニングスコアや選手名表示などといったスコアボード本来の表示機能を映像装置に表示させたり、画面全体を使った演出を行ったりする施設も増加している。なお、こうした派手な装飾のある表示形式はプロ野球での使用時のみで、それ以外のアマチュアの試合で使用する場合のためのシンプルな表示形式も用意している。また地方球場においても、消費電力が少なく且つ昼夜を問わず視認性を確保できるLED式のスコアボードを採用する例が多くなりつつあり、近年は郡山総合運動場開成山野球場(ヨーク開成山スタジアム)、埼玉県営大宮公園野球場、新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)、富山市民球場(アルペンスタジアム)、長良川球場、沖縄市野球場(コザしんきんスタジアム)などプロ本拠地ではない野球場でも映像装置を採用する例が増えつつある。
また磁気反転型のものも品種改良がなされ、より遠くからでも文字情報などが識別しやすいレモンイエロー(蛍光黄色)の文字盤を使ったものや、文字盤のパネルにLED電球を装着し、薄暮やナイターでも電光表示並みに明るさを保つことができるスコアボードが設置されている。
外野の中堅後方に設けられる暗色の板状の部分。打者・捕手・球審が投手の投球を視認しやすいように設けられる。日本では一般にバックスクリーンと呼ばれるが、これは和製英語で、英語ではcenterfield screen、もしくはcenterfield fence、batter's eye screenなどと呼ばれる。
公認野球規則に定めはないが、プロ野球球場ではバックスクリーンかこれに類似した措置(それに相当する外野席を暗色にしてその部分には観客を入場させないなど)が執られている。スコアボードと一体化されている野球場も多い。
投球練習場。内野ファウルグラウンドに多く設けられたが、甲子園球場や藤井寺球場では外野ラッキーゾーンにあった。練習中に打球が当たる恐れなどもあることから、近年、プロ野球球場では観客席下など(1階の関係者施設地区。ダグアウト後方)に設けていることが多い。メジャーリーグの球場では外野席と外野フェンスの間、ファウルグラウンドなどフィールド上に設けられている場合が多い。
両チームの選手、コーチなどの控え場所で、一塁、三塁のファウルグラウンド外側に設けられる。公認野球規則2.05には「ホームクラブは、各ベースラインから最短25フィート(7.62メートル)離れた場所に、ホームチーム及びビジティングチーム用として、各一個のプレーヤーズベンチを設け、これには左右後方の三方に囲いをめぐらし、屋根を設けることが必要である」とある。グラウンドよりも低い位置に設けられたものを「ダッグアウト」(dugout)、グラウンドと同じ高さに設けられたものを「ベンチ」(bench)と呼ぶ。プロ野球球場では、観客席を設ける関係でグラウンドよりも低いダッグアウトが多い。
公認野球規則にはどちらをホームチーム側とするといった規則はない。
競技を観覧するための座席を備えた建物。グラウンドに向かって階段状に設けられる。外周がグラウンドに近い形状のものと円形になっているものがある。重層になっていたり、屋根が付いたりする場合もある。小規模な野球場では外野席が土盛り(芝生のみで座席が設けられないことも多い)であったり、観客席が内野にしか設置されていないものも見られる。2021年現在日本国内でプロ野球本拠地として使用されている12球場のうち、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(以下「マツダスタジアム」)、楽天生命パーク宮城の外野席の一部に、固定式の座席が設けられていない芝生席が存在する。また、メットライフドームは2020年まで外野席の大部分が芝生席であった。
日本では、プロ球団の一軍が本拠地・準本拠地として使用する球場は、全てが収容人数3万人以上の規模である。最も収容人数が多い球場は阪神甲子園球場(収容人数47,808人)、次いで東京ドーム(収容人数約47,000人弱、ただし非公式)である。二軍の本拠地球場は全体的に座席数が少なく、数百~数千の収容人数となっている。
日本では、観客席が重層の球場は少なく、12球団の本拠地13球場で重層なのは半数以下の5球場である。各球場とも外野席に一定の座席を割いており、応援の中心が外野席であることも大きな特徴である。ほぼ全ての球場で、外野席に私設応援団が陣取っており、鳴り物(トランペット、太鼓、呼子笛)を利用した組織的応援が行われる。また試合内容によってはホーム側ファンとビジター側ファンの衝突さえ起きかねないため(試合終了後、場外での挑発合戦から睨み合いに発展し、機動隊が割って入って規制線を引いた事例さえある)、多くの本拠地球場でホーム側ファンの立ち入りを認めない「ビジター応援席」区域が設定される。
アメリカでは、メジャー球団が本拠地とする球場の多くが4万人以上の収容人数を誇る。アメリカンフットボールとの兼用球場を除く野球専用球場で収容人数が4万人を下回るのは、フェンウェイ・パーク(36,108席)、カウフマン・スタジアム(38,030席)、トロピカーナ・フィールド(36,048席)、PNCパーク(38,496席)の4球場のみである。
マイナーリーグの球場も、日本の二軍本拠地球場とは違い、一定以上の観客席が設けられている。AAA級では、収容人数23,145人のローゼンブラット・スタジアム(現在は閉場)を筆頭に、殆どの球場が1万席以上の観客席を備えている。AA級やA級、ルーキー級でも、数千人〜1万数千人の収容人数を持つ球場が揃っている。これは、米国でベースボールが国民的娯楽(national pastime)として広く親しまれている証である。
米国の球場は、日本とは違い観客席が重層のものが殆どである。ニューヨーク・ヤンキースのかつての本拠地ヤンキースタジアムのような巨大球場は、5階席まで存在する。野球は少しでもフィールド(内野・投手・打者)から近い位置で観戦するものだという意識によるものである。外野席に割かれる座席数は、球場によって違いはあるものの、概して少なめである。カンザスシティ・ロイヤルズの本拠地カウフマン・スタジアム(2008年度まで)や、ニューヨーク・メッツの前本拠地シェイ・スタジアムは、外野席がほとんどないことで有名であった。
韓国では、ロッテ・ジャイアンツの本拠地社稷野球場、LGツインズと斗山ベアーズの本拠地蚕室総合運動場野球場、SKワイバーンズの本拠地文鶴野球場の三球場が3万人以上の収容人数を誇る。日本と違って内野スタンドに応援団用のスペースが存在し、チアリーダー付きの応援が行われているのが大きな特徴である。
台湾では中信兄弟の本拠地台中インターコンチネンタル野球場が国内最大となる20,000人収容の観客席を有し、その他のプロ球団が使用する球場は収容人数が1万人台である。
夜間(昼間でも薄暗い時等)に試合を行うためにグラウンドを照らす設備。グラウンド全体を照らすため、複数(数個から数百個前後)の電球から成る照明を鉄塔など一定の高さの場所に設置する。光源には水銀灯、高圧ナトリウムランプ、ハロゲンランプ、メタルハライドランプ、LED照明などが用いられる。
野球場の照度は硬式、軟式と競技区分別にJIS規格で定められている。プロ野球の場合、内野は1500 - 3000ルクス、外野は750 - 1500ルクスの平均照度が必要とされている。
日本で初めて野球場に照明設備を設置したのは1933年7月、早稲田大学の戸塚球場である。高さ30.6mの照明塔6基に1.5kWの電球を156個取り付けたもので、照度は内野で150ルクス、外野で90ルクスしかなかった。1948年8月17日には、横浜ゲーリッグ球場で日本プロ野球で初のナイター試合が行われている。
ナイター設備が普及し始めた1950年代には白熱電球による照明が使われていたが、白熱電球の暗さを補うために水銀灯との組み合わせが考案された。1956年4月に阪神甲子園球場に設置されたものが初で、白・オレンジ2色の照明を組み合わせた様子から「カクテル光線」と称され、ナイター試合の代名詞として定着した。1962年に完成した東京スタジアムは1600ルクスの照明を備え、「光の球場」と呼ばれた。その後、明るいが演色性が十分でない水銀灯を置き換えるため、メタルハライドランプと高圧ナトリウムランプの組み合わせが主流となったが、白とオレンジの光色は引き継がれた。2010年代からはより省エネ性に優れ、これまでのものと違い即時点灯が可能なLEDも導入され始めている。LEDの場合は単色で十分な演色性・光量を得ることができるため、2色の光源を組み合わせる必要がなく、「カクテル光線」を備えた球場は少なくなりつつある(特殊な例として、阪神甲子園球場ではLED化後もカクテル光線を維持している)。
照明設備は内野1塁側・3塁側に2基ずつ、さらに外野に2基、計6基架設する形式のものが最も一般的だが、千葉マリンスタジアムや阪神甲子園球場、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)、秋田県立野球場(こまちスタジアム)、新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)などではスタンドの庇(ひさし)に照明を架設する手法が用いられている。
全ての野球場に設置されているわけではなく、地方球場には照明のない野球場も多い。2000年代以降そのような球場もプロ野球の公式戦が稀であるが行われ、日没によるコールドゲームも記録されている。
マスコミが試合の取材やテレビ・ラジオによる試合の生中継を行う為に、主要となる野球場を中心に放送席・記者席・カメラエリアが常設される。
主要野球場の放送席や記者席の場合、かつては内野スタンドのグラウンドレベルに配置されることが多かったが、近年建設された野球場では、放送席は内野スタンド上段に個々が独立、記者席は同じく上段に外(ドーム型球場に多い)または部屋の中(グラウンドが見えるように窓を設置)に配置されるようになった。カメラエリアは、プロ野球本拠地の場合、多くは場所を固定の場合(特にグラウンドレベルの一・三塁側)が多い。複数のAM放送局 で系列を問わず同一カードを中継することもあるため、ブースは複数ある。主にひとつの放送局でローカル・全国ネット兼用とビジターチーム向けの裏送り・ビジターチームの放送局スタッフが来場して制作用の2部屋を確保している。
地方球場の場合、ほとんどの場合、記者席はある程度確保してある場合が多いが、放送席に関しては常設していなかったり、適当な空き部屋の確保が難しい場合が多い為、個々の放送局が内野スタンド上段に臨時に小屋を設置したり、観客席を使用する場合が多い。カメラエリアも同様に場所が確保される。
グラウンドに芝を植えると、土埃の発生や表土の流出を防ぐことが出来る。また日光の反射が無く、スタンドと調和して風光を引き立てる。
アメリカでは、外野に加えて内野のマウンドとランニングゾーンを除く部分にも芝が敷設されている内外野総天然芝の球場が標準である。メキシコ、ベネズエラ、ドミニカ共和国などのカリブ海諸国や、台湾、韓国でも、主要球場のほとんどがこの形態である。
その一方、日本では、天然芝の育成・管理の難しさから、外野部分とファウルエリアのみ天然芝が敷設されている球場が多い。
かつて西宮球場は、1937年完成時から内外野天然芝としたが、1940年代後半には内野天然芝は廃止された。明治神宮野球場は、1945年の米軍接収時に内野に天然芝を植えたものの、グラウンドの使用が激しいため密生せず、まもなく廃止された。後楽園スタヂアムは1950年3月に内野に天然芝を植えたものの、芽が出ないうちから過激に使用したため、たちまち枯死した。
その後東京スタジアム(1962年完成-1972年閉鎖 現・味の素スタジアムではない)が内外野天然芝を導入すると、後楽園スタヂアムも再び内野天然芝を導入したが(1965年-1975年)、東京スタジアムは1977年4月に取り壊され、後楽園スタヂアムも1976年3月に内外野全面人工芝に切り替えられると、他球場も後楽園に倣ったため、内野天然芝は普及しなかった。
1995年の野茂英雄のメジャー挑戦以降、日本の野球ファンや選手の間でも天然芝への認識が高まり、人工芝でプレーする選手の身体への負担について議論されるようになった。2001年ごろ起こった千葉マリンスタジアムのドーム化計画や、横浜での人工芝ドーム球場建設計画にファンが抗議し、既存球場の天然芝化を要求したこと(両球場とも2003年に新型人工芝に変更)、広島の新球場計画が人工芝ドーム球場から天然芝球場に変更されたことなどがこの代表例である。
2023年現在、プロ野球全12球団の本拠地において、天然芝を採用しているのは阪神甲子園球場、前述の議論を経て2009年にオープンした広島市民球場、2016年に人工芝から切り替えられた宮城球場、そして2023年から北海道日本ハムファイターズの本拠地となるエスコンフィールドHOKKAIDOの4球場である。さらに国内で内外野天然芝を採用した球場は、前述の4球場に加えて、ほっともっとフィールド神戸、ひなたサンマリンスタジアム宮崎、鶴岡ドリームスタジアム、サングリンスタジアム(夕張市)などがある。
人工芝も張替え時には天然芝以上のコストがかかるとの指摘もある。天然芝のフィールドを採用している競技施設の中には味の素スタジアムなどのように、天然芝の箇所にアクリル板などの保護材を敷設してイベントとの併用を実現しているケースも存在する。
野球場で使用される天然芝は、暖地系として、野芝、高麗芝、バミューダ・グラス、寒地系として、ペレニアル・ライグラス、ケンタッキー・ブルーグラスなどが挙げられる。
アメリカでは主に寒地系のケンタッキー・ブルーグラスが野球場芝として利用される。ケンタッキー・ブルーグラスはアメリカで多く植栽される芝であるが、多くの水・肥料を必要とする上、種の発芽や初期成長が遅いのが欠点である。しかし造成された芝草は青々と美しく、かつ丈夫であり、通年に渡って常緑を維持する。
一方、日本においては、大半の地域で寒地系の芝は厳しい夏を越せずに枯死してしまうため、天然芝を使用する野球場の多くは暖地系の高麗芝を使用している。高麗芝は成長が早く、しかも日照りが続かない限り散水の必要性がほとんど無く、肥料も少量で済むので維持管理が比較的容易である。ただし高麗芝はケンタッキー・ブルーグラスと比較すると葉の発色性で劣る。さらに冬期には休眠するため、これを使用した野球場の芝生部分は若葉が生えてくる春季まで黄化し枯れたように見えてしまう。
1980年代後半、日本中央競馬会(JRA)が暖地系芝と寒地系芝の2毛作により通年に渡って常緑の芝生を実現する技術「オーバーシード」を開発し、これを野球場に導入する動きが広まった。現在、阪神甲子園球場、マツダスタジアム、ほっともっとフィールド神戸では、高麗芝より発色が鮮やかなバミューダ・グラス系のティフトン419と、ペレニアル・ライグラスによるオーバーシードが行われている。
その一方、宮城球場、鶴岡ドリームスタジアムは、所在地の夏の気候が比較的涼しいため、アメリカの野球場と同様、寒地系の芝が通年使用されている。
人工芝は天然芝のフィールドと比較してゴロ打球が失速しにくいことから、守備側の野手にはより素早い反応が求められる。その反面イレギュラーバウンドは発生しにくい。
1965年、世界初のドーム球場であるアストロドームで、世界初の人工芝(アストロターフ)が導入される。以後、アメリカンフットボールとも兼用できる野球場が米国で流行するにつれ、人工芝は急速に普及していった。だがその後、1990年代以降に興った新古典主義ボールパークの建設ラッシュにより、人工芝を採用する施設は減少の一途を辿っている。2020年現在のMLB本拠地で人工芝を採用している球場はMLB唯一の密閉式ドーム球場であるトロピカーナ・フィールド(セントピーターズバーグ)、開閉式屋根を持つロジャーズ・センター、チェイス・フィールド、グローブライフ・フィールドの4球場である。ただし、チェイス・フィールドは、開場当初は総天然芝で、史上初の開閉式屋根を持つ総天然芝野球場だった。またアメリカの独立リーグや大学野球の本拠地では寒冷地を中心に人工芝の球場も複数存在しているが、その多くはNPBやMLBと違い、走路はもとよりベース周りやマウンドまでもが着色された人工芝となっている。
一方、日本では1976年に後楽園球場が初めて人工芝を導入。2023年現在、日本国内でプロ野球本拠地として使用されている12球場のうち、8球場(ドーム球場は5)が人工芝を採用している。その結果、内野手の真正面を突くゴロ打球に対しては“打球が来るのを待つ”ような受け身の態勢で守備を行う機会が増加したこと、球足が速いので肩力が多少弱くても内野を守れるようになったこと、内外野問わず前述のケガのリスクから球際の鋭い当たりに対する消極的なプレイが増えたことから、一部では野手の守備レベルが低下しているのではないかという指摘もある。
人工芝が日本に導入された当時、天然芝の管理方法はあまり進歩しておらず、管理が行き届かないケースが多かったこともあり、人工芝のフィールドは「守りやすい」「景観が美しい」など、選手・ファンからは概ね好意的に受け止められていたが、グラウンドの管理面では雨天時の排水性が問題となった。初期の人工芝は、グラウンド周囲にコンクリートの側溝を設置し、ファウルグラウンドや外野をこの側溝に向かってやや傾斜させることで雨天時の排水を行っていたが、このような表面排水方式はグラウンド中央部分の排水が難しい。そのため各球場ではグラウンド上に吸水自動車を走らせて排水を行っていた。
雨天の多い日本では人工芝の排水性の無さが早急に解決すべき課題となり、その結果、旭化成は「サラン透水性人工芝」の開発に成功する。この人工芝は透水性を実現したことで地中に設けたパイプを使って排水することが可能となり、結果、初期人工芝では必須であったグラウンドの傾斜や吸水自動車を不要とした。当初、この透水性人工芝はヨーロッパのサッカースタジアムで使用されていたが、1982年3月に明治神宮野球場が野球場として初導入する。これを契機として透水性人工芝は全国の野球場に広まっていった。
また開発当初の人工芝はパイル(毛足)が短く、スライディングすると火傷や擦過傷を負うことも少なくなかった。更に天然芝と比較するとクッション性が低いため、足腰など選手の身体への負担増大も指摘されるようになり、この点についても品質向上が図られるようになった。先に述べた旭化成の「サラン透水性人工芝」はクッション性も考慮し、人工芝(パイル丈13mm)の下に厚さ14mmの透水性アンダーマットを敷いていたが、1990年代後半になるとパイルの丈は5~6cmと長くなり、その下層部に砂・土・ラバーチップを充填してクッション性を高めた「ロングパイル人工芝」が開発され、日本のプロ本拠地野球場でもロングパイル型を導入するところが増加した。またショートパイル型でも、長さの異なる2種類のパイルを用いることで、クッション性の向上に加えて景観も天然芝に近づけた製品がある。
このような改良が施された人工芝は「ハイテク人工芝」とも呼ばれ、従来の人工芝と比較して身体への負担が軽く、プレー条件も改善されていることなどから選手からも概ね好評である。とりわけ、屋外野球場として人工芝を使用している明治神宮野球場はデーゲームで高校や大学、社会人などアマチュア公式戦を行った後、ナイターでプロ野球を開催するなど、同日中に複数の試合を行うことが多いため、耐久性のある人工芝の特徴を活かしている。
このように日々改良が続けられている人工芝だが、プレーヤーの身体面へのデメリットを指摘する声は後を絶たない。実際、人工芝が導入されてからは足首の捻挫、靭帯や半月盤の損傷などの怪我が多くなったという意見がメーカーなどに寄せられている。人工芝のパイルにはポリエチレンなどの材質を使用しているため滑りやすくなっている。このため、不慣れなプレーヤーがプレー中に足を滑らせて転倒するようなことがしばしばある。特に降雨時等、パイルが水を含んだ時にはよりスリップしやすくなる。現在使われている野球スパイクのスタッド(歯)には金属や樹脂が使用されているが、天然芝であれば芝の下の土の部分までスタッドが刺さるため、それが衝撃吸収の役割を担う。しかし人工芝ではスタッドが刺さりにくいため衝撃が直接膝や脚にかかることが多い。一部の選手らからは「下から突き上げるような衝撃を感じる」という意見がある。激しいプレーではスパイクの引っ掛かりが土や天然芝に比べて強いことから筋肉や関節に特に負荷が掛かりやすい。さらに夏場など猛暑の際には輻射熱や日光の照り返しによってフィールドの表面温度が高温になりやすく、プレー条件が低下する恐れも生じる。こうした要素から、人工芝は天然芝や土に比べて故障を誘発しやすいといわれている。
またロングパイル型は品種により、打球のバウンドや野手のスライディングなどといったプレー中の状況によっては充填材のラバーチップが飛散することがあるため「思い切ったプレーがしにくい」という意見もあり、QVCマリンフィールドが2011年に張り替え工事を行った際には千葉ロッテマリーンズ選手会の意見を反映し、ラバーチップを充填していないショートパイル型が採用された例もある。
松井秀喜は読売ジャイアンツ在籍当時の2001年、『週刊ベースボール』8月13日号において「(天然芝は)打球を追う時に思い切ってダイビングできる。(人工芝は)単純に痛いし、こすれて熱い。(スパイクが)芝の継ぎ目に当たれば大怪我することになるし、足への負担が大きい。新しい人工芝の開発も進んでいるみたいだけど、人工芝は所詮人工芝」と話した他、ロサンゼルス・エンゼルス移籍後の2010年夏にスポーツニッポンの取材を受け、日本球界復帰の可能性を問われた際には、日本のプロ本拠地に人工芝を採用している施設が多い事と、自身が両膝に故障を抱えている事を引き合いに「僕の膝でどうやって人工芝の上でプレーするんですか。 自分が帰りたくてもプレーできない。DHでも走塁はある。1週間で膝を痛めて登録抹消ですよ」と答えるなど、人工芝には否定的な意見を述べている(現役最終年に所属した球団は皮肉にも人工芝のトロピカーナ・フィールドを本拠地とするタンパベイ・レイズだったが、この球場は走路は土になっている)。メーカー側も「土のグラウンドと違う筋肉を使うので、疲労がたまりやすい」と、人工芝にはある程度の「慣れ」が必要であることを指摘している。またスポーツ用品メーカーも、スタッドの低いスパイクやグラウンドシューズなど人工芝に対応した製品を開発・販売している。
しかし、天然芝の維持管理には農薬や化学肥料を使用しているケースが多い。こうしたことから天然芝と人工芝とを比較する場合、あらゆる安全性を勘案すると総合的な優劣は一概に判断し難い部分もある。
芝がなく、土が剥き出しになっているグラウンド。天然芝より維持が容易で、人工芝より初期コストが低い。英語では「bare ground(むき出しのグラウンド)」と称される。
軟式野球専用の野球場では内外野すべて土のグラウンドも見られる。かつての藤井寺球場や西宮球場のように、内野が土で外野が人工芝という球場もあった(この2つは後に全面人工芝化された)。
日本では、外野は天然芝(ごく稀に人工芝)、内野は土という球場が圧倒的に多く、かつてはプロ野球球団の本拠地球場(正しくは「専用球場」)もこの形式が多かった。現在でも阪神甲子園球場はこの形式であるが、旧広島市民球場の閉場により、専用球場としては世界で唯一となった(高校野球全国大会出場選手だけが持ち帰れる“甲子園の土”は現在も関係者の間で珍重されている。ファン感謝デーの際であっても持ち帰りは出来ない)。
アメリカでは土のグラウンドの球場は少なく、メジャーリーグの本拠地球場には使用されていない。AA、Aクラスのマイナーリーグなど低いグレードの球場では一部使用されているが、基本的に人工芝以上に評価が低い。日本では柔らかく湿気を含んだ黒土が好まれるのに対し、アメリカでは白く乾いた土が使われるのが通例である。このため日米間で移籍した選手は、芝の有無以上にグラウンド(特にピッチャーズ・マウンドなど)の固さに対する違和感を覚えることが多い。
MLBの本拠地球場は、1970年代から80年代にかけてアメリカンフットボールとの兼用球場が一世を風靡したが、1990年代からは天然芝の野球専用球場への回帰が進んだ。現在、人工芝の球場と密閉式ドーム球場はトロピカーナ・フィールドのみである。チェイス・フィールド、ロジャース・センター、T-モバイル・パーク、ミニッツメイド・パーク、アメリカンファミリー・フィールドは開閉式の屋根を備えている。他競技との兼用が行われている球場は、ロジャース・センター、オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムの2球場のみである(詳細は、後述のアメリカ合衆国における野球場の歴史を参照)。
米国では左右非対称で歪な形状の外野フェンスを持つ球場が多く、両翼や中堅の距離だけで球場の広さを測ることはできない。むしろ重要なのは左中間・右中間への距離や、フェンスの高さ、ファウルゾーンの広さ、気圧などである。例えば、左翼・中堅への距離がア・リーグ最長のコメリカ・パークや両翼への距離が全球場で最長のリグレー・フィールドは左中間、右中間の膨らみが少なく、決して打者不利の球場ではない(リグレー・フィールドは逆に打者有利の球場である)。また、右翼への距離がナ・リーグで最も短いオラクル・パークは、右中間最深部が128.3mもあり、右翼フェンスも7.6mと非常に高いため、左打者に不利な球場である。
球場ごとに、本塁打、二塁打、三塁打の出やすさや得点の入りやすさには明確な差異があるが、球場ごとの偏りを示す指標としてパークファクターが用いられている(詳細は当該記事を参照)。
一般に、投手有利の球場は「ピッチャーズパーク(ピッチャーフレンドリーパーク)」、打者有利の球場は「ヒッターズパーク(ヒッターフレンドリーパーク)」と呼ばれる。ESPNはターゲット・フィールドを除く29球場を2005年~2009年のパークファクター、BABIPを用いて総合的に評価し、打者に有利な順に並べたランキングを発表した。ベスト5とワースト5は以下の通りである。
本塁打の出やすさに限れば、ギャランティード・レート・フィールド、ヤンキー・スタジアム、グレート・アメリカン・ボール・パークがベスト3、ペトコ・パーク、T-モバイル・パーク、カウフマン・スタジアムがワースト3である。しかし、本塁打の出やすさと得点の入りやすさは必ずしも相関しない。
日本では興行上の理由から、公認野球規則2.01の規定を敢えて無視し、両翼を狭くすることで本塁打の出やすい球場が多く作られた。中には阪神甲子園球場、明治神宮野球場、阪急西宮球場、京都市西京極総合運動公園野球場(わかさスタジアム京都)、倉吉市営野球場などのように、完成時の広いグラウンド内に、わざわざラッキーゾーンという金網の柵を設けたこともあった。藤井寺球場には外野客席とフィールドの間にブルペンが設置(ラバーフェンスはフィールドとブルペンの間に設置)されており、事実上のラッキーゾーンを成していた(神宮球場は1967年にラッキーゾーンを撤去している)。
1984年のロサンゼルスオリンピックから野球がオリンピック公開競技となることが決まると、既存球場の広さでは将来的なオリンピック開催や選手の野球技術の向上の点で国際的に通用しないとの危機感が浮上した。1981年12月24日、日本野球機構の下田武三コミッショナーは12球団のオーナーらに要望書を送付。新設する野球場は正規の規格で建設するよう訴えた。こうした流れを受けて、1980年代後半以降は国際ルールに適合、またはそれに準ずる球場が続々完成(改修工事を施した球場でも両翼を国際基準、またはそれに準じたサイズに拡大)し、ラッキーゾーンのあった球場も倉吉(ナイター設備がラッキーゾーンの中にあるため撤去が困難)を除いて全て撤去された。後、2010年代になって宮城球場にEウイング、福岡ドームにホームランテラスと称する、外野フェンスから外野に張り出す形での観客席が新設され、フィールドを狭くするラッキーゾーン敷設同様の改修が行われている。
また従来の球場のファウルゾーンは、公認野球規則に規定された最低限の面積を遙かに上回る広大なものが多く、両翼までなだらかにファウルゾーンが狭まっていくのが主流であった。各球場のグラウンドの両翼が公認野球規則に従って拡張されつつあった1980年代から90年代にかけても、この点について考慮はあまり見られなかった。しかし2000年代以降、メジャーリーグのTV中継により視聴者がアメリカの球場を目にする機会が増えると、国内のプロ球団が使用する球場においても、観客席を新たに設けることにより、一(三)塁を過ぎた所でファウルゾーンを急激に狭める改修が進められた。特に2009年に完成したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(以降マツダスタジアム)は、公認野球規則の制限内において可能な限りファウルゾーンを狭めている。また、2008年から2009年にかけての改修によりファウルゾーンを狭めた西武ドームも同様であり、グラウンド面積はマツダスタジアムを下回り専用球場12球場で最小となっている。
基本的にフィールドは左右対称となっている(日本国内のプロ本拠地ではマツダスタジアムとエスコンフィールドが非対称)。アメリカでは、1960年代から1980年代までに建設されたものは左右対称のフィールドが多かったものの、新古典派球場ブームの到来で現在左右対称のフィールドとなっているスタジアムはわずかである。
さらにグラウンドの方角については、野手が長時間南側を向いて守備し、直射日光を受けねばならないことを考慮して、公認野球規則の規定を敢えて無視し、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を南向きにする球場が多く見られる。甲子園球場、宮城球場、神戸総合運動公園野球場、千葉マリンスタジアム、京都市西京極総合運動公園野球場、藤井寺球場などが代表例である。
一方、明治神宮球場・横浜スタジアムなどは、守備側が概ね南側を向くようになっており、さらにマツダスタジアムは公認野球規則に完全に従い、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を東北東向きとしている。公認野球規則の規定は球場内の多数を占める内野スタンドの観客が直射日光に晒されないよう配慮されたもので、アメリカ・メジャーリーグのスタジアムで数多く見られる伝統的なグラウンド配置である。こうした球場での午後のデーゲームは、内野スタンドの大部分が日陰になる一方、外野手のサングラス着用は必須となっている。
なお、現在プロ12球団が本拠地としている野球場の両翼・中堅・左右中間までの距離の公称値(非公称値含む)は下記の通りである。
2009年現在、公認野球規則2.01の付記(a)で規定された規格を充足しないのは神宮、横浜、甲子園の3球場である。神宮は2008年の改修によってフィールドを拡張したが、規格は充足されなかった。横浜は都市公園法上の建ぺい率制限から将来的にもほぼ拡張不可能。甲子園も2007年から行われた改修においてフィールドの拡張は行われなかった。ただし甲子園は左右中間の奥行きが広く、両翼のポールの位置も独特なため、両翼・中堅の数値だけをもって狭いとは言えない。左右中間の膨らみは規定されていないため、甲子園のように左右中間までの距離が中堅までとほぼ変わらず巨大な膨らみを持つ球場から、東京ドーム、福岡ドームのように左右中間の膨らみがほぼないものまで様々である。近年の球場の外野フェンスは二塁やや後方の一点を中心とする真円の弧になっているものが多い。フェンスの高さも規定されておらず、ホームランテラスを設置する前の福岡ドームの外野フェンスは5.8mあり、アメリカのフェンウェイ・パークにならって「グリーンモンスター」とも呼ばれた。
近年は国際大会での躍進が目立つ韓国だが、学生野球の段階から極端な少数精鋭制(野球部のある高校は全国で50余校しかない)を採っているため、野球の競技人口は非常に少なく、野球インフラの整備が進んでいない。そのため、大都市を除けば野球場が殆ど存在しないのが現状である。
プロ球団が本拠地とする9球場のうち、社稷野球場(釜山)、文鶴野球場(仁川)、蚕室野球場(ソウル)の3球場は内外野総天然芝のグラウンドなど充実した設備を持ち、3万人近い観客を収容可能である。それ以外の球場は人工芝で、1万人台前半〜2万人程度の収容能力しか持たず、設備も劣悪であった。特に大邱市民運動場野球場(大邱)は老朽化が深刻で宣銅烈は「プロ野球がこんな球場で行われるということ自体が恥ずかしい」と語っていた。米球界経験者である奉重根は、「韓国の球場施設はあまりにも劣悪。大邱や光州、木洞の球場は正直言って(マイナーリーグの)1A水準」「スライディンクもダイビングキャッチも、思い切ってできない状況だ。マウンドも少し投球しただけでくぼみができる」と不満を述べている。
近年はワールド・ベースボール・クラシック1次ラウンド誘致を見込んで、釜山にドーム球場建設の動きがある。「韓国球界の宿願」とされるドーム球場建設だが、資金面や運用面で問題が山積みであり、実現の目途は立っていなかったが、2015年10月にソウル特別市九老区で韓国初となるドーム球場高尺スカイドームが開場した。
光州広域市は2010年から、市幹部が相次いでMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を視察し、その結果、目標をドーム球場建設から内外野天然芝のボールパーク建設に鞍替えした。2011年12月から建設が始まった光州無等総合競技場野球場に代わる新球場は2014年2月に竣工し、光州起亜チャンピオンズフィールドと命名された。
野球が盛んな中南米には、本格的な野球場が多く存在する。ただし、一部の例外を除けば収容人数は多くても2万人台である。米国と同様に内外野総天然芝の屋外球場が基本的な形態である。特徴の1つとして、その地に所縁のある往年の名選手の名が付けられた球場が多い(例:ベネズエラのエスタディオ・ルイス・アパリシオ・エル・グランデ、ニカラグアのエスタディオ・デニス・マルティネス、プエルトリコのエスタディオ・ロベルト・クレメンテ・ウォーカーなど)。また、この地域は経済水準が北米や極東アジアに比べると低いため、プロレベルの試合が行われる野球場であっても、グラウンドのコンディションや設備が劣悪な状態であることも珍しくない。
野球はアメリカ合衆国の4大スポーツの中で最も古い歴史を持ち、野球場も時代の流れの中で大きな変遷を遂げてきた。以下、アメリカ合衆国における野球場の歴史を概説する。
野球のゲームルールを確立したアレクサンダー・カートライトが設立したニッカーボッカー・クラブはニューヨークが本拠地だったが、マンハッタンに適当なグラウンドが無かったために、1845年、ニュージャージー州のホーボーケンにあるエリシアン・フィールズを使い始めた。翌年、エリシアン・フィールズで、ニッカーボッカー・クラブとニューヨーク・ナインの試合が、初めての野球のクラブ対抗戦として開催された。1865年、エリシアン球場でニューヨークのミューチュアル・クラブとブルックリンのアトランティック・クラブの選手権試合が開催されおよそ2万人の観衆を集めた。この光景が印刷屋のカリアー&アイブズのリトグラフ「アメリカの国民的野球試合」(右図)に収められた。この時代の球場には外野フェンスが存在せず、本塁打は全てランニング本塁打だった。
1860年代には、野球がアメリカ合衆国内で急速に普及していく。1862年には、ニューヨークのブルックリンに初のフェンス付き野球場であるユニオン・グラウンズが完成。ユニオン・グラウンズでは、1500人ほどが入れる観客席があったことで、野球の試合で観客から入場料を取ることができるようになった。同球場では、米国にプロ野球組織が出来る前から、いくつものニューヨークの著名な野球クラブが本拠地とし、1871年以降は初期のナショナルリーグの試合でも用いられた。
1871年、初のプロ野球リーグナショナル・アソシエーションが誕生し、本格的な興行を目的とした近代野球場が、各地で相次いで建設された。この時代に作られた野球場の中でも、特に著名なものの1つが、ボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)の本拠地サウス・エンド・グラウンズである。1880年には、後にポロ・グラウンズとして知られることになる野球場(ブラザーフッド・パーク)がマンハッタンに完成。同球場は、1891年に「ポロ・グラウンズ」に改称してオープンし、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)が本拠地として使用を開始する。この時期にはまだ、プロが使用する球場であっても、収容人数は数千人~1万人台前半規模の物が多数を占めていたが、1882年開場のエクスポジション・パーク(収容人数:16,000人)のように、多くの観客席を備えた球場も存在した。
1890年代からは、1万人台後半以上の大規模な観客席を備えた野球場が次々と現れるようになる。シカゴ・カブスの本拠地ウエスト・サイド・パークは、1894年の改修で16,000人の観客席を備えた。1901年に誕生したニューヨーク・ハイランダース(現ニューヨーク・ヤンキース)は、当初オリオール・パークを本拠地にしていたが、1903年から収容人数16,000人のヒルトップ・パークに移転する。その後、1911年にジャイアンツが新ポロ・グラウンズに移転。2年後には、ハイランダースから球団名を変更したヤンキースも、同じくポロ・グラウンズに移転した。新ポロ・グラウンズは、34,000人もの大収容人数を誇る、当時では画期的な新球場であった。
黎明期の野球場は、現在と異なりフィールドの形がかなり歪であった。ポロ・グラウンズはその典型で、グラウンドがほぼ長方形の形をしており、中堅までが483ft(約147.2m)と異様に長いが、左翼までは279ft(約85.0m)、右翼までは257.67 ft(約78.5m)と極端に短くなっており、ポップフライでもポール際なら本塁打になることが多かった。ベーブ・ルースは、この球場の形状を利用して、本塁打を量産した。また、レイク・フロント・パーク(シカゴ)は、左翼まで186ft(約56.7m)、中堅まで300ft(約91.4m)、右翼まで196ft(約59.7m)と極めて狭く、あまりの狭さに1884年シーズン終了後に広いウエスト・サイド・パークに移転した。狭い球場が多い一方で、中堅までが542ft(約165.2m)、左翼365ft(約111.3m)、右翼400ft(約121.9m)というヒルトップ・パークのように広大な球場も多く、球場サイズは全く統一されていなかった。また、この時代の球場は木製であったため、火事に見舞われることも少なくなかった。
まだ木造建築が主流だった1908年、初めて鉄骨や鉄筋コンクリートを用いて建設された野球場であるシャイブ・パーク(フィラデルフィア)が開場。これを機に、鉄筋コンクリート製球場建設ブームが沸き起こり、その後長きに渡って米国の野球史を彩る近代野球場が次々と姿を現した。翌1909年にはフォーブス・フィールド(ピッツバーグ)が完成し、1910年には、収容人数3万人で、フィールドの広さも標準的な近代野球場コミスキー・パーク(シカゴ)がオープン。その2年後の1912年には、現存するMLB最古の球場であるフェンウェイ・パーク(ボストン)がオープンした。同年にはネビン・フィールド(デトロイト、後のタイガー・スタジアム)やエベッツ・フィールド(ニューヨーク)、クロスリー・フィールド(シンシナティ)、更に2年後の1914年にはリグレー・フィールド(シカゴ)がオープンし1915年には、当時最大の4万人を収容可能なブレーブス・フィールド(ボストン)が完成した。メジャーリーグの発展と野球人気の上昇により、球場の収容人数も、2万人~4万人規模が主流になっていった。
この時期に作られた球場は、依然としてフィールドのサイズは統一されていなかったが、概ね現代の水準に近づいてきていた。また、この時代は街中の限られた空き地に球場を作ることが多かったため、結果として左右非対称の歪な形状になることが多かった。その代表例がフェンウェイ・パークであり、左翼方向が右翼に比べて狭く、本塁打の乱発を防ぐためにレフトの外野フェンスが極端に高くなっている(通称:グリーンモンスター)。左右非対称の形状や、カクカクしたフェンスラインは、土地が足らないことによる苦肉の策であったが、次第に古き良き時代の野球場と象徴として捉えられるようになり、近年の新古典主義ボールパークの多くが、左右非対称の歪な外野フェンスラインを採用している。
1923年には、ニューヨーク・ヤンキースの新球場ヤンキー・スタジアムが開場。収容人数は当時最大の58,000人で、「ルースが建てた家」(The house that Ruth built )という異名を持った。しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」(Death Valley)=「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する。MLB屈指の強豪球団ヤンキースの本拠地として、ヤンキー・スタジアムは数々の歴史的場面の舞台となった。客席が増設され一時は82,000人収容になったり、1946年には照明灯が導入されるなど、改修もたびたび行われた。また野球以外にも使用され、1956年から1973年にかけてはNFLニューヨーク・ジャイアンツの本拠地として使用された。さらにプロボクシングのビッグマッチも行われた。
ヤンキー・スタジアムの完成を以って、大規模な近代野球場建設ラッシュも一段落する。1931年には「湖畔の失敗(The Mistake on the Lake)」と評されたミュニシパル・スタジアム(クリーブランド)が開場したが、次なる野球場建設ラッシュは、既存の球場の老朽化が始まり、球団拡張が進められた1960年代~1970年代を待つことになる。
(後述の「多目的施設としての野球場/アメフト兼用球場(円形兼用球場)」の項も参照)
1960年代中盤 - 1970年代になると、1900年代初頭に作られた野球場の老朽化が目立つようになった。更に、この時期にはMLBの球団拡張が進められ、各地で新球団が続々と産声を上げていた。また、この頃には既にNFLがMLBと並ぶ人気プロスポーツに成長しており、野球界と同じく新球場を求める声が上がっていた。こうした事情により、野球とアメリカンフットボールの兼用球場が各地で次々に建設されることになった。
野球・アメフト兼用球場という概念は、元々1887年からフィラデルフィア・フィリーズが本拠地として使用していたベイカー・ボウルを、1933年に誕生したNFL新球団のフィラデルフィア・イーグルスが本拠地として使用するようになったことで、出来上がった。そして、1960年代からは、最初からアメリカンフットボール兼用として建設される円形球場が流行となった。アメフト兼用球場は1970年代までに多数作られていった。1965年には世界初のドーム球場であるアストロドーム(ヒューストン)が誕生し、人工芝も1966年に誕生し各地に広まった。(詳しくは人工芝の項を参照)これらの球場は近代的で未来を感じさせる球場であった。また、
後に広いファウルゾーンや高めのスタンド、近代的だが無粋な外観、左右対称のグラウンド形状などが「クッキーカッター(画一的、どれも見た目が一緒)」、あるいは「コンクリートのドーナツ」「灰皿」と呼ばれるようになり、不評を買うようになる(後述)。
この流れの中でも、1961年開場のドジャー・スタジアム(ロサンゼルス)は野球専用球場として作られている。また、1973年開場のカウフマン・スタジアム(カンザスシティ)はアメフト用スタジアムと隣接して造られている。1987年にマイアミ・ドルフィンズの本拠地として建設されたドルフィン・スタジアムは、元々はアメフト専用球場であったが、1993年に誕生した新球団フロリダ・マーリンズが本拠地として使用することが決まると、野球も行えるように改修された。
(詳細は、後述の「野球専用球場・ボールパーク(ball park)」の項を参照)
1980年代に入っても流れは変わらず、メトロドームや近代的球場の最高峰とも呼べるスカイドーム(現ロジャース・センター)が建設された。この流れを大きく変化させたのは、1992年に開場したオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズである。これに続く新古典派球場の建設ラッシュにより1960年代からの円形兼用球場は次々と閉場され、同じ敷地に野球専用球場とアメフト用スタジアムが隣接するチームが増えていった。円形兼用球場は2008年を最後にメジャーリーグチームの本拠地球場としては使われなくなる。密閉型ドームや人工芝球場も減っていった。現在、このブームにそっていないといえる兼用球場で、移転の予定がないのはロジャース・センターのみである。人工芝球場及び密閉型ドームなのはトロピカーナ・フィールドのみである。
2020年にはテキサス・レンジャーズがグローブライフ・パーク・イン・アーリントンに変わってグローブライフ・フィールドが、2023年以降にはオークランド・アスレチックスがオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムに変わってオークランドボールパークがそれぞれ開場の予定となっている。現在のMLB本拠地球場は新しい物が多く、フェンウェイ・パークやリグレー・フィールドといった古い球場も新球場建設の予定は無いため、当分の間は現在の球場が継続使用されていく見込みである。
日本初の野球場は、新橋鉄道局の職員が結成し“日本初の野球チーム”とされる新橋アスレチック倶楽部が新橋駅近くに設けた保健場とされる。学生の間で野球が盛んになり学生野球が発展すると、早稲田大学が戸塚球場、慶應義塾大学が三田綱野球場、明治大学が明治大学球場などを作った。電鉄会社も沿線開発の一環として、京浜電気鉄道が羽田運動場、阪神電気鉄道が鳴尾球場、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道、阪神急行電鉄がそれぞれ豊中球場、宝塚球場、京阪電気鉄道が京阪グラウンド球場を建設している。
日本初の本格的な野球場は1924年(大正13年)、兵庫県西宮市にできた阪神甲子園球場である。中等学校野球のために阪神電気鉄道が建設した。完成当初は大会規模に比して、観客収容数が多すぎると懸念されていた甲子園は結果的に大成功を収め、ほかの電鉄会社も新たな球場を建設していった。1928年完成の藤井寺球場などがこれに当たる。1926年には明治神宮野球場が完成し、東京六大学野球連盟を中心として使用された。
1936年(昭和11年)に日本職業野球連盟によるプロ野球の第1回リーグ戦が始まった。この年は甲子園球場を基本に鳴海球場や宝塚、戸塚、上井草、洲崎の球場を使用してゲームをしていたが、翌年の1937年に内野スタンドが2層となっている阪急西宮球場と後楽園球場がプロ野球用に造られた。これらに甲子園を加えた3球場を基礎にプロ野球は興行された。
しかし太平洋戦争の激化により、プロ野球も学生野球も中断に追い込まれる。球場も軍に接収され、高射砲が設置されるなど野球どころではなくなっていった。
戦争終了の翌年、1946年にはペナントレースも学生野球も再開された。球場によってはアメリカ軍に接収されたところもあったが、徐々に解除されていった。
その後GHQの後押しもあり野球場が各地に造られていった。プロ野球チームの親会社によって中日スタヂアム(1948年)、大阪スタヂアム(1950年)、駒澤野球場(1953年)などが建設された。公営の球場も平和台野球場(1949年)、県営宮城球場(1950年)、川崎球場(1952年)、広島市民球場(1957年)などがこの時期に建設されている。これら以外にも、国民体育大会に対応する競技施設の整備を目的とするなどして、全国各地で公営の野球場が順次整備されていった。
この時期に建設された球場は、終戦後まもない時期のため、空襲等により空地になっていた市街地を活用して建設される場合が多く、そのため交通の便においては非常に優れていた反面、周辺市街地の復興が進むにつれ、グラウンドや諸設備の拡張が難しいという問題を抱えることとなった。だが、この当時建設された球場は、後に建設される球場に多大な影響を及ぼしている。それら日本独自とも言える特徴は以下の通りである。
1950年代からは各地にナイター設備が整備されていった。1958年にはプロ野球の全本拠地においてナイター設備が整備されている。地方では引き続き公営野球場の整備も進められた。
1962年の東京スタジアムの竣工をもってプロ本拠地の整備はほぼ一段落する。米国のキャンドルスティック・パークを手本に建設された東京スタジアムは、多層式スタンド、内外野天然芝を備え、当時の他球場とは明らかに異なるモダンな設計だったが、僅か15年で取り壊され、歴史の中へ消えていった。
1970年代後半にはアメリカの1960年代の流行が流れてきた。1976年には後楽園球場に日本初の人工芝が敷設されると、その見た目の美しさと整備の容易さからプロ野球の本拠地球場を中心に広まりを見せた。西宮球場、神宮球場等、由緒ある歴史を持つこれら球場も次々に人工芝を導入した。
さらに1978年には可動式スタンドや昇降式マウンドを備え、球場の平面図を真円形とし、大規模なコンサート等、野球以外のイベント開催にも対応できる横浜スタジアムが建設された。翌1979年には西武ライオンズ球場(現西武ドーム)が丘陵地を掘り起こすという珍しい形で建設された。
1988年に日本初のドーム球場、東京ドームが誕生した。これは同時に日本武道館を超える規模の室内コンサート会場が誕生したということになる。
屋根を備えた巨大コンサート会場という側面を持つ多目的ドーム球場は、大規模なイベント誘致を当て込んだ自治体にとって、存在すること自体が一種のステータス・憧れであり、巨額の資金を投じて大都市に次々と建設されていった。福岡ドーム(1993年)、大阪ドーム(現京セラドーム大阪)(1997年)、ナゴヤドーム(1997年)、札幌ドーム(2001年)などである。これとは別に西武球場も屋根を新設し西武ドームとして1999年に生まれかわった。
だが、これらの球場はいずれもアメリカの1960年代の流行である多目的円形球場の域を脱していない。多目的であるが故、可動式スタンドを備えた結果、広大なファウルゾーンが存在して臨場感に欠け、これでは野球観戦に最適な形態とは言い難い。さらに、以前はグラウンドレベルに設置されていた放送席が機械器具の発達によりスタンド内に設置されるようになったが、代わりに審判員・関係者用の諸室がグラウンドレベルに設置されたため、依然として観客席はグラウンドからは遠い存在であった。
さらに多目的ドーム球場は、可動式スタンド、昇降式マウンド、空調設備等、複雑な装置を備えた結果、補修・メンテナンス費用も莫大なものになっている。一例を挙げると、札幌ドームのメンテナンス費用は、2011年からの20年間で約200億円に達すると試算されており、その調達方法について未だ目処がついていないのが現状である。
一方で屋外球場では自治体によってグリーンスタジアム神戸(1988年)、千葉マリンスタジアム(正確には第三セクターによる)(1990年)が建設され、プロ野球の球団誘致に成功している。大阪ドーム、札幌ドームも第三セクターによるものである。
なお東京ドームとグリーンスタジアム神戸の両球場は、日本のプロ本拠地としては初めて公認野球規則で定められた規格を満たした球場である。この後、プロの使用を視野に入れた新設球場はほとんどが規格を満たすようになり、既存の球場は順次拡張されていった。
野茂英雄のメジャー挑戦により日本でもメジャー流の新古典派ボールパークや天然芝などに注目が集まるようになった。各球場でフィールドシートが設置されたり、天然芝に近いロングパイル人工芝などの新型人工芝への張り替えや、リボン状の新型映像装置などメジャー流を取り入れた改修が進んでいる。
1999年に完成した鶴岡ドリームスタジアムに日本の野球場として24年ぶりに内野天然芝が敷設された。翌2000年にはグリーンスタジアム神戸(ほっともっとフィールド神戸)、2001年にはサンマリンスタジアム宮崎も内野に天然芝を敷設した総天然芝の野球場となった。特に「ボールパーク宣言」を掲げたオリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸は、その後も低フェンス化、日本初のフィールドシートの設置など日本のボールパークの歴史の端緒となる改革を進めていった。
2004年から2期にわたる大規模改修工事をうけた宮城球場では天然芝こそ当時は断念した ものの、メジャーの新古典派を意識した特徴的なスタンドが造られた。その後、東京ドーム、福岡ドームなどでもファウルグラウンドに仮設のフィールドシートを設けるなど、ボールパーク化の試みは続いた。
2009年に新規の野球場として完成したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(マツダスタジアム)は、屋外型、左右非対称のフィールド、内外野完全天然芝、狭いファウルグラウンド、といった特徴を備え、さらに観客席最前列をグラウンドレベルとする等、米国のボールパークに近いレベルの野球場となった。ただし、外野フェンスのラインはレフトの一部を除いてこれまで通りの円弧である。
2023年に新規の野球場として完成したエスコンフィールドHOKKAIDOは左右非対称のフィールド、内外野完全天然芝、狭いファウルグラウンドに加え、日本の野球場としては初のスライド式開閉式屋根(北海道の建造物に多く見られる三角屋根のデザインを踏襲している)や、米国のボールパークでは一般的な直線のみの組み合わせによる外野フェンス(日本プロ野球の本拠地としては1953年までの藤井寺球場以来)とその向こうに設けられたブルペンなど、米国のボールパークの特徴を取り入れたデザインとなった。
広大さと収容能力の点で利点を持つことから、野球場は古くから野球以外のスポーツやイベントの開催地として使われてきた(阪神甲子園球場は設立当時から多目的施設としての利用も視野に入れていた)。
野球以外のスポーツで野球場を利用することが最も多い競技は、野球と同じく米国発祥の競技であり、広大なフィールドを必要とするアメリカンフットボールである。シーズン開催時期があまり重ならないことから、米国では野球場がMLBとNFLの本拠地としてよく併用され、特に1960年代からは可動スタンドを備えた円形球場(後述)が多数、新設された。近年の米国では新古典派球場ブームにより分化されていき、2020年時点でMLBとNFLの本拠地として併用されている球場は存在しない。日本では甲子園ボウル、ライスボウル(東京ドームで開催)などのように、ボウル・ゲームを野球場で行うケースが多い。
近年ではプロレス(主に新日本プロレス)・K-1などの格闘技が行われることも多い。ほかにもサッカー、競輪などが野球場で行われた例がある。また日米のプロサッカークラブの一部が野球場を本拠地としている。札幌ドームのホヴァリングサッカーステージの他に、米国ではアメフト兼用球場のアメフト用フィールドをそのままサッカー用に転用している。ただしこちらもサッカー用スタジアムがそろいつつある。詳細は各野球場の記述を参照。
イベントとして多いのはコンサートである。特にドーム球場は当初よりコンサート開催を考慮して設計されている。日本ではかつて、日本武道館で単独コンサートを行うことが一流の証と考えられてきた時代があったが、近年は収容能力をはるかにしのぐ野球場でのコンサート(主に東京ドーム)が最大のステイタスとされている。観客動員力が高いバンド・アーティストを『スタジアム級』と称することからも、それが伺える。ただし、野球場はもともと歌や演奏を聞かせるために作られた施設ではないため、音響や舞台設置の面で問題が生じるために、高い人気を得ていてもあえてスタジアムコンサートを行わないアーティストもいる。近年ではサッカースタジアムおよび陸上競技場を用いるケースが増えたため、相対的に野球場でのコンサート開催は減少している。
他にも、展覧会や大きな団体の集会でも使用される例がある。
米国では1960年代から1970年代にかけてアメフト兼用球場が流行した。1961年のD.C.スタジアムがこのタイプの始祖である。従来の球場はフィールドの形にそったスタンドであったが、これらの球場は二塁ベースの後方を中心に円形にスタンドを構成する。その円形の中に可動スタンドを備え、グラウンドが野球の時には扇型、アメフトの時には長方形になるように設計されていた。
円形のスタジアムは後にクッキーカッター(Cookie-cutter。日本語では“金太郎飴的”)としてファンから嫌われることとなる。円形兼用球場が嫌われた理由としては、見栄えの悪さと共に、野球観戦に不向きであったことが挙げられる。そもそも、野球とアメフトでは要求されるスタンドが異なる。基本的にバッテリー間の攻防が主となる野球では、バッテリー間を観るのに適した傾斜の低い観客席が好まれ、パスやランプレー、キックなどで常にフィールドを広く使うアメフトでは、急勾配でフィールド全体を俯瞰できるものが好まれる。更に、少ない試合数で一試合に多くの観客を動員するアメフトと違って、シーズン中はほぼ毎日試合を行う野球では、アメフト兼用球場の収容力(6万人~7万人台)は過剰であった。そのため、常に空席が目立つことになり、見栄えの悪さを強調した。アメフト兼用の円形球場は、野球を国民的娯楽(National Pastime)として愛する米国民に敬遠され、MLBの観客動員は停滞する。
1990年代に入ると、次々と前述の新古典派球場が完成。MLBの観客動員は飛躍的に増加し、1990年代から2000年代にかけての好況も相まって、MLBは空前の好景気を迎えることになる。一方で、アメフト兼用スタジアムは次第に姿を消していき、2023年時点で残存しているのはオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム、ドルフィン・スタジアムの2球場のみである。しかしドルフィン・スタジアムを本拠地としていたフロリダ・マーリンズ(のちのマイアミ・マーリンズ)は2012年に新球場に移転したため、それ以降同スタジアムにおいて野球は行われていない。オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムを本拠地とするオークランド・アスレチックスも、2012年に野球専用球場に移転する予定であったが、財政難と地元住民の反対により計画は中止された。一方、2019年シーズンをもってNFL球団のオークランド・レイダースがラスベガスに移転したため、オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムは(レイダースが一時ロサンゼルスに移転していた頃以来の)野球専用に戻り、恒常的に兼用される球場は消滅した。
一方、日本では横浜スタジアム、千葉マリンスタジアム、福岡ドーム、大阪ドーム、ナゴヤドーム、札幌ドームがこのタイプである。千葉マリンスタジアムを除いて円状にスライドする可動席を採用している。可動スタンドは三日月状もしくは弓形に近い形状のものが一対あるのが基本であるが、ナゴヤドームは本塁後方にも可動スタンドが存在する。これらの可動スタンドを持つ球場は球場の中心点から同じ距離にある座席が全て同じ高さにあるという特徴がある。
これらの球場のスタンドは以下の欠点がよく指摘される(詳しくは各球場の項を参照)。
ドーム球場とはグラウンドをドーム形状の屋根で覆った野球場のこと。天候に左右されずにゲームを開催できるという長所がある。
世界初のドームスタジアムは1965年アストロズの本拠地として建設されたアストロドーム。日本初のドームスタジアムは1988年完成の東京ドームである。現在、日本でプロ野球チームの本拠地として使用されているドーム球場には東京ドーム(1988年)、福岡ドーム(1993年)、ナゴヤドーム(1997年)、大阪ドーム(1997年)、西武ドーム(1999年)、札幌ドーム(2001年)がある。地方には大館樹海ドーム(2軍戦が開催)、出雲ドームなどが存在する。
ドーム球場は屋根の仕様から大まかに2つのタイプに分類することができる。1つ目のタイプは屋根の素材にテフロンコーティングのガラス繊維膜材などを使用し、場内を陽圧化することで屋根を持ち上げるタイプである。東京ドームやアメリカのメトロドームがこれにあたる。2つ目のタイプは天井を鉄骨屋根で覆うタイプである。福岡Yahoo!JAPANドームをはじめ日米問わずほとんどの球場がこの方式を採用している。その他にも木造建設の大館樹海ドーム、屋外野球場に屋根をかぶせた西武ドームなど、珍しいケースもある(「西武ライオンズ球場」時代は無蓋だった)。
当初は、屋根で場内を完全に密閉した密閉式のドーム球場が多かったが、青空・夜空の下での野球観戦を希求する声が強くなるにつれて、天候によって屋根を自由に開閉できる開閉式ドーム球場が登場した。世界初の開閉式ドーム球場はモントリオール・エキスポズの本拠地だったオリンピックスタジアムで、1988年改修されて簡易開閉式となった(同球場は設計ミス・故障により屋根を開閉できない状況が続いた)。当初から開閉式として建造されたドーム球場はブルージェイズの本拠地として1989年完成したロジャース・センターである。このスタジアムは日本初にして唯一の開閉式ドーム球場である福岡ドーム(福岡ヤフオク!ドーム)の設計に影響を与えている。
開閉式ドーム球場が生まれた当初はあくまでドーム球場であることを売りとしており、造形的にも屋根の開閉が可能なドーム球場としての色彩が濃かった。日照量が足りないこともあり、スカイドーム(ロジャースセンター)、福岡ドーム(ヤフオクドーム)は人工芝である。
アメリカでは1990年代以降、レトロ調ボールパークがブームになるにつれ、開閉式の屋根を建設するにしても、悪天候時のみ屋根を閉じる前提の設計とし、フィールドには天然芝を敷設し、屋根はドーム形状を用いない、「ドーム」を名乗らない、などボール・パーク色の強いものとなっていった。チェイス・フィールド、T-モバイル・パーク、ミニッツメイド・パーク、アメリカンファミリー・フィールドなどがその代表例である。これら球場に屋根が設置された理由は、チェイス・フィールド、ミニッツメイド・パーク、アメリカンファミリー・フィールドについては所在地特有の暑さ・寒さを避けるために、T-モバイル・パークは雨の多いシアトルの気候を考慮されたためである。一例としてチェイス・フィールドのナイトゲームの場合、午後4時の地元チーム練習開始に合わせて屋根は閉じられ、午後7時の試合開始に合わせて再び屋根が開く。この開閉に必要な時間はわずか4分程度、電気代は2ドルとされている。
一方、日本で唯一の開閉式ドーム球場であるヤフオクドームは日照量の問題、騒音問題、強風、開閉する際にかかるコストなどの複合的な要因で、2000年以降は特別に指定した試合を除き、屋根を開けて試合を開催しない状態になっている。野球場ではないが、サッカー場として建造された天然芝の御崎公園球技場では、日照や通風などの問題で芝の生育が不良になるという問題も発生している。
1999年完成の西武ドームは、屋根を支えるための、客席のみを覆うドーナツ状の鉄傘を取り付ける第1次工事が完了した1998年度に西武ライオンズ球場から一時的に西武ドーム球場(翌年正式に西武ドームへ改称)へと改称したが、グラウンド部分には屋根がなく降雨時にはもちろん雨天中止となった。このようにドーム球場ではないにもかかわらずドームを名乗るという珍しい状況が1年間続いた。屋根完成後も、観客席後方と屋根の間に隙間は存在したままであり、ドーム球場であるのにもかかわらず場外本塁打が生まれる。
純粋に野球開催のみを主目的に建設された野球場を、現在、米国では一般に「ボールパーク」と呼ぶ。野球場を指す一般的な用語としては、従前から「スタジアム」があり、米国では、1920年にグリフィス・スタジアムが野球場として初めて「スタジアム」を名乗って以来、「○○・スタジアム」という名の名称が一般的であった。しかし、1990年代以降に作られた新球場では、「○○・パーク」、「○○・フィールド」、「○○・ボールパーク」が主流になり、スタジアムと名が付く球場は減少傾向にある。
ボールパークと呼ばれる野球場は、天然芝、狭いファウルゾーン、野球専用でプレーが観やすい観客席、左右非対称のグラウンド形状、設計の随所に見られる遊び心、広く開放的な観客コンコース、等を共通の特徴としており、新古典派(ネオ・クラシック様式)とも呼ばれ、1992年に開場したオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズがその先駆けとなった。
カムデンヤーズはデザイン面だけでなくマーケティングの面でも画期的な存在であった。それまでの球場はアメフトとの兼用が多く、そのため少ない試合数でより多くの観客を収容することに重点を置いた設計であった。これはレギュラーシーズンだけで年間162試合もこなすMLBにとっては収容力が過剰であった。そこで、カムデンヤーズはあえて収容人数を4万人台まで減らし、相対的に収容率を上げ、ファンにチケット購入に対する飢餓感を醸成させた(「早く買わないとチケットが売り切れるかもしれない」と思わせることが購買意欲をあおる最高のマーケティングとなる)。一方で、客単価の高い高付加価値の上位クラス座席を増設し全座席に対する比率を上昇させ、全体の座席数は減らしながらも、収益性は逆に高まるというビジネスモデルを作り上げた。これに倣い、その後の新球場も座席数を抑える傾向にある。
さらに現在、米国においては、マイナーリーグ用に低予算でボールパークを建設し、「市街地の活性化」に活かそうとする事例が増えている。ボールパークの周囲にはメリーゴーランドや観覧車、さらにはバーベキューコーナーを設ける等、野球にあまり関心が無い人であってもボールパークの空間・雰囲気を楽しめるよう様々な工夫が凝らされており、その結果、数千人収容規模のボールパークでありながら、試合毎にそのキャパシティを大幅に上回る観客が訪れている。
このようにボールパーク型の野球場は、旧来の球場以上に訪れる観客の裾野を広げる可能性を持つと言える。
日本においても、野球場のことを「○○スタジアム」(野球に限らず、観客席を持つ競技場を意味する単語)、または「○○球場」と呼んでいたが、グリーンスタジアム神戸が2000年に「ボールパーク化計画」を発表、プロ野球本拠地として25年ぶりに内野を天然芝化し、その後も低いフェンス、内野にせり出したフィールドシート、1990年代から続くスタジアムDJによる場内アナウンスなど球場をアメリカ風に改革していったことで、「ボールパーク」という言葉が広く認知された。
また、広島の新球場計画では、当初ドーム球場を建設する方針であったが、本拠地とする予定の広島東洋カープがドーム完成後の採算性を危惧し、また選手らの肉体的負担を考慮して天然芝のフィールドを強く求めたことなどから、ボールパーク建設計画に変更された。(2003年に計画凍結、2005年に現計画が再開。詳細はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を参照)
さらに東京ドームなどで相次いでフィールドシートが設置され、千葉マリンスタジアム、横浜スタジアム、札幌ドームで内野フェンスが撤去もしくは低くされたりするなど、従来からの多目的球場においても、ボールパーク化の試みが行われている。
1992年のオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズを皮切りにMLBは未曾有の新古典派新球場建設ブームに沸いた。
上記のように、2020年までの29年間に23もの新球場が開場し、現在建設・計画中のもので1つの球場が開場となる予定である。
新球場ラッシュの背景には、ほとんどの野球場が建設費用の大半を税金でまかなっていることが挙げられる。2015年1月までコミッショナーを務めたバド・セリグの卓越した経営手腕の下、アメリカ野球史上に残る好景気を記録し、日本に比べて黒字経営球団の多いメジャーリーグといえど野球場の建設費用は莫大であり、簡単に調達できる金額ではない。
そこで、ほとんどの新球場建設にあたっては、住民投票によって地元住民の同意を得て税金投入や特別税徴収、公債発行が行われている。さらに球団は自治体から完成した球場を格安でリース契約できるなど、多くの優遇政策があり、その結果、このような新球場建設ラッシュを生んでいる。2006年までに建設された新古典派球場のなかで住民投票で税金投入などが認められなかったのはオラクル・パーク(サンフランシスコ・ジャイアンツ)のみである。例えば、2010年開場のミネソタ・ツインズの新球場は、建設費用5億2200万ドルのうち、約4分の3に相当する3億9200万ドルがミネアポリス市など地元自治体の負担であり、ミネアポリス市があるヘネピン郡では消費税率を引き上げている。このように新球場建設には地元住民の理解と協力が不可欠である。
なぜこのような公金投入が行われることになるのかは、アメリカの経済学者、アンドリュー・ジンバリストの著書『May the Best Team Win』 などに詳しい。それによると、MLB機構は球団の数や移転を管理し、球団数よりもそれを欲しがる自治体のほうが多い、需要過多・供給不足の状態を意図的に作り出している。そのため、フランチャイズ都市では球団オーナーがより良い待遇・環境を自治体から引き出すために「移転」という選択肢を選ぶこともある。地域の象徴であり、地域活性化にもつながるプロスポーツチームを手放したいと思う自治体は少なく、オーナーや球団の要求を呑むケースが多い。
かつて存在した「アメリカの古き良き野球場」を模した球場が、人々に懐かしさという感情をわき起こさせたことが、新古典派球場ブームの根底にある、というアメリカ固有の事情があるということが重要である。
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"text": "野球場(やきゅうじょう、英: ballpark)は、野球を行うための運動場である。「球場(きゅうじょう)」とも。",
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"text": "野球の発祥地であり本場であるアメリカのMLB(メジャーリーグ・ベースボール)の野球場の形はひとつひとつ異なっている。",
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"text": "もともとアメリカでは野球場は街中の空き地に造られていたため、周囲の敷地や建物の影響を受けて複雑に歪んでいたので、野球場の形状や広さはまちまちでよいということになった。現在でもそうである(ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークはそのような昔の名残を色濃く残している)。野球場全体は左右非対称で歪んだ形をしていてもよいし、外野が複雑な形でもよい。外野のフェンスもウネウネと曲がっていても良くて、実際多くの球場のフェンスがそれぞれ敷地の形の都合や周囲の建造物の影響を受けてさまざまなゆがみ方をしており、そこに描かれる「この線を越えるとホームランと認定される線」も各球場の都合で引いてよく、(広告収入をもたらす)宣伝用看板を避けるように複雑に上下に折れ曲がっていてもよい。ファールエリアの形状も各球場ごとに全然異なっており、左右非対称に歪んでいる場合も多い。",
"title": "概要"
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"text": "ただし内野のサイズは厳密に定められている。すなわちダイヤモンドのサイズ、つまり4つの塁(ベース)が正しく正方形となることや塁間の寸法も厳密に定められている。",
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"text": "MLBの球場のサイズに関する規定はOFFICIAL BASEBALL RULESにかかれている。OFFICIAL BASEBALL RULESの2019年版はこちらに公開されており、その「2.01 Layout of the Field」に書かれている。",
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"text": "between two foul lines formed by extending two sides of the square, as in diagram in Appendix 1 (page 158). The distance from home base to the nearest fence, stand or other obstruction on fair territory shall be 250 feet or more. A distance of 320 feet or more along the foul lines, and 400 feet or more to center field is prefer- able. The infield shall be graded so that the base lines and home plate are level. The pitcher’s plate shall be 10 inches above the level of home plate. The degree of slope from a point 6 inches in front of the pitcher’s plate to a point 6 feet toward home plate shall be 1 inch to 1 foot, and such degree of slope shall be uniform. The infield and outfield, including the boundary lines, are fair territory and all other area is foul territory. It is desirable that the line from home base through the pitcher’s",
"title": "概要"
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"text": "最後の2行を解説すると、『本塁からピッチャープレートや2塁へと引いた直線は、東北東方向にあることが \"望ましい\"』としている。「望ましい」としているので、いわゆる努力義務(努力目標)であり、絶対に守らなければならない規則というわけではない(なぜこのような方角に関する規定があるかというと、この規定に従って本塁を南西に置いた場合、内野席の観客は太陽が視野に入らないためプレーが見やすいのである。さらに多層階のスタンドを持つ球場の場合、内野スタンドの大部分が午後のデーゲーム時には日陰となるので、観客は直射日光に晒されず涼しく観戦できる)。 努力義務(努力目標)であるが、アメリカのMLBの野球場のほとんどはこの努力義務を守っている(例外は、PNCパークやグレート・アメリカン・ボール・パークくらいである。これらの例外的球場は「景観作り」をするために方角の努力目標を後回しにした)。",
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"text": "なお、この努力義務規定に素直に沿った球場だと左投手(左腕で投げる投手)の投げるほうの腕(左腕)は南側になる。ここから左投手は「サウスポー」(south-paw)と呼ばれるようになったとされる。",
"title": "概要"
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"text": "日本の公認野球規則は、基本的にアメリカのOFFICIAL BASEBALL RULESを翻訳したものであり、やはり2.01章に以下のような野球場の規格についての定めがある。以後この節における数値は全て公式規定である。",
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"text": "正方形のそれぞれの頂点には目印となる塁を置く。 このうちの一点は本塁と呼び、五角形のゴム板を置く。 正方形を描くためにはまず本塁を置く位置を決め、本塁から127フィート3 3 8 {\\displaystyle {\\tfrac {3}{8}}} インチ(38.795メートル)の位置に二塁を置く。 次に、本塁と二塁を基点に90フィート(27.431メートル)ずつ測って、本塁から見て右側の交点を一塁、左側の交点を三塁と呼ぶ。 つまり本塁から反時計回り順に、一塁・二塁・三塁となる。 本塁以外の3つの塁には厚みのある、正方形状のキャンバスバッグを置く。 一・三塁ベースは描いた正方形の内側、二塁ベースは描いた正方形の頂点とキャンバスバッグの中央が重なるように置く。 そして本塁から二塁への線分上で、本塁から60フィート6インチ(18.44メートル)の位置には投手板と呼ばれる長方形の板を置く。 各塁と投手板は全て白色である。 本塁から一塁へ伸ばした半直線と、本塁から三塁へ伸ばした半直線をファウルラインと呼ぶ。",
"title": "概要"
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"text": "ファウルゾーンについては「本塁からバックストップ(ネット)までの距離、塁線からファウルグラウンドにあるフェンス・スタンドまでの距離は60フィート(18.288メートル)以上を必要とする。」 と書かれている。塁線は一、三塁までを指し、外野のファウルゾーンについては規定がない。",
"title": "概要"
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"text": "外野の広さについては「本塁よりフェアグラウンドにあるフェンス、スタンドまたはプレイの妨げになる施設までの距離は250フィート(76.199 メートル)以上を必要とするが、両翼は320フィート(97.534メートル)以上、また中堅は400フィート(121.918メートル)以上あることが優先して望まれる」と規定されている。両翼とは、本塁と一塁・三塁とを結ぶファウルラインの延長線上を指し、中堅とは本塁と二塁を結ぶ直線の延長のことをいう。",
"title": "概要"
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"text": "この規定には注記があり、1958年6月1日以降にプロ野球球団が新設する球場は、両翼325フィート(99.058メートル)、センター400フィート(121.918メートル)以上なければならないとし、既存の球場を改修する場合もこの距離以下とすることができない旨を定めている。ただし、日本においてはこの規定を満たさない球場が1958年6月1日以降も多数誕生しており、プロ野球球団の本拠地球場でも規定を満たしていない球場が見られる(詳細は後述)。",
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"title": "概要"
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"text": "日本でもMLBの公式ルールと同様に方角に関する規定が盛り込んであり、「本塁から投手板を経て二塁に向かう線は、東北東に向かっていること」を「理想とする」と努力義務を定めている。",
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"text": "日本の球場は規定を無視して、ピッチャープレートや2塁を南から南南西方向に(「本塁を北から北北東に」)設置する場合が多い。これは日本の球場の多くが、国民体育大会や学生野球といった教育寄りの目的で建設された経緯があり、守備に就くプレイヤーたち(学生たち)への配慮を優先し午後のデーゲームで太陽が視野に入らないよう配慮した方向を選択したためである(代わりに、観客やバッターのほうは犠牲になってしまった)。",
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"text": "バッターボックス(batter's box、ルール上の正式名称はバッタースボックス、もしくは打者席)とは、打撃を行う際に打者が立つ場所のこと。しばしば打席とも言われる。ただし、「打席数」を意味する場合の「打席」は、英語で \"plate appearance\" という。通常は、天然土やアンツーカーの上に白いチョークで四角い線が引かれ、バッターボックスが示されている。バッターボックスは、本塁を挟んで左右に1つずつ存在し、打者はそのどちらかに入って打撃動作を行う。投手の側から見て右側の三塁方向に近いバッターボックスを右打席、一塁方向に近い左側のバッターボックスを左打席という。",
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"text": "打者の身体の一部分でも、バッターボックスの外で地面に接している時、投手は投球動作を行ってはならない。また、打者が一旦打席に入ったならば、投手がピッチャープレートに足を触れた後に打席を外すためには、必ず審判にタイムアウトを要求しなければならない。打球がフェアグラウンドに飛べば、打者は打者走者(バッターランナー)となって一塁に向かって走る必要がある。左打席の方が一塁ベースに近いため、内野安打に関しては左打席が有利である。",
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"text": "ホームベース後方のファウルグラウンドには、キャッチャーボックス(catcher's box、ルール上の正式名はキャッチャースボックス、もしくは捕手席)が位置している。捕手は、このキャッチャーボックス内で捕球動作を行う。キャッチャーボックスも、バッターボックスと同じく白いチョークで位置が示されている。投手が投球動作を始め、その手からボールが離れるまで、捕手は必ずファウルグラウンドに設けられたキャッチャーボックス内に位置していなければならない。",
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"text": "次打者、もしくは代打予定者が待機する場所として、ダートサークル側方の規定された位置(一塁三塁側それぞれ一箇所ずつ)に直径5フィートの円形区画が設けられ、これをネクスト・バッタースボックス(next batter's box、次打者席)と呼ぶ。ネクストバッターズサークル、ネクストバッターサークル、ウェイティングサークルなどとも称される。",
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"text": "また、一塁三塁のファウルゾーン側には、ベースコーチのためのコーチスボックス (coach's box) が白チョークなどにより明示される。",
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"text": "野球場のグラウンドは、大別して内野と外野の2つに区分できる。内野には4つの塁(るい、英:base または bag、日本語でもしばしばベースと呼称)が置かれ、内野を守る捕手、投手を除く4人の野手が内野手と呼ばれる。内野の正方形内のことをダイヤモンドとも呼ぶ。",
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"text": "本塁は、内野に位置する4つの塁のうち、左右両バッターボックスの間に位置する塁である。ホームベース(home base)、またはホームプレート(home plate)ともいう。4つの塁の中で最もジャッジの基準に用いられることが多い塁であり、得点を記録するために最終的に到達しなければならない塁である。本塁は五角形のゴム板で、グラウンドと面一に埋め込まれている。そのためプレイの最中に本塁が土に覆われてしまうということはしばしばであり、その都度球審がブラシで本塁上の土を払う光景が見られる。",
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"text": "野球場を作るには、まず本塁の位置を決める必要があり、これを基準にして他の塁やマウンドなどの位置が決められる。公認野球規則2.02では、本塁を次のように定義している。",
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"text": "本塁は五角形の白色のゴム板で表示する。この五角形をつくるには、まず一辺が 17 インチ(43.2 センチメートル)の正方形を描き、17 インチの一辺を決めてこれに隣り合った両側の辺を 8.5 インチ(21.6 センチメートル)とする。それぞれの点から各 12 インチ(30.5 センチメートル)の二辺を作る。12 インチの二辺が交わった個所を本塁一塁線、本塁三塁線の交点に置き、17 インチの辺が投手板に面し、2 つの 12 インチの辺が一塁線及び三塁線に一致し、その表面が地面と水平になるように固定する。",
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"text": "本塁は、塁やマウンドを設ける上での基準点としての役割だけでなく、ストライクゾーンの幅を決める基準としての役割も持つ。打者が打とうとしなかった(バットを振らなかった)投球がストライクと判定されるためには、インフライト(ノーバウンド)で本塁上を通過していることを必要とする(三振、一塁に走者がいない、ワンバウンドで捕球された・若しくは後逸、この3条件が満たされた瞬間は振り逃げが可能となり、出塁できる)。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "走者がアウトにならずに本塁に達すれば、得点が記録される。そのため、得点させまいと触球を試みる捕手と、触球を避けようとする走者がぶつかり合うクロスプレイが起こることもあり、他の塁に比べて激しいプレイが起こりやすい。中には、捕手が本塁に触れさせまいと走路をブロックしたり、逆に、ブロックする捕手を、返球されるボールを受け取る前に突き飛ばして本塁前から排除し、本塁に触れようと体当たりを敢行する走者もみられる。これらのプレイは野球の醍醐味の一つと見られる向きもあるが、大怪我や大事故につながりかねない、非常に危険なプレイであり、また状況によっては走塁妨害あるいは守備妨害が宣告される反則行為ともなり得るものである(ぶつかり方によっては乱闘の発端にさえなる)。",
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"text": "プロ野球やメジャーリーグでは、審判の判定に不服を持った選手が抗議の意思を示すために、土を蹴り上げて本塁の幅を狭くしようとしたり、つばを吐いたり、プレート脇に“今の球はボールだろ”とバットで線を引いたりする行為を見かけることがある(これを実際に行うと球審侮辱で退場となる)。",
"title": "概要"
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"text": "一塁(first base、または1B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁側から見て右に位置する塁であり、打者走者が最初に到達しなければならない塁である。打者走者は、ただちに一塁に戻ってくる(二塁へ進塁を試みず、一塁へ戻ってくる)ことを条件として、駆け抜けることが認められている。一塁側ファウルライン(塁線)には「スリーフットライン」が設定されている。",
"title": "概要"
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"text": "打者がアウトにならずに一塁ベース上に到達することを出塁という。出塁が可能なのは安打、四球、死球、失策、野手選択、振り逃げ、打撃妨害、走塁妨害のいずれかの場合である。",
"title": "概要"
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"text": "一塁ベース付近を守る野手を、一塁手(first baseman)という。一塁手は各内野手からの送球の的となるため、長い四肢を持つ長身の選手が好ましいとされる。一般に打球や送球の捕球や、捕球後の送球、牽制球の触球では左投げの選手(サウスポー)の方が有利だとされる。右投げの選手は捕球後、体を90度回転させて無理な姿勢での送球になりがちだが、サウスポーなら自然体で投げることができる。牽制の触球は右手にミットを持つほうが素早く行うことができる。一塁手は普段、一塁から離れて守っているが、牽制球を受ける際には、塁に片足を付け、投手からの牽制送球に備える。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "二塁(second base、または2B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁からマウンドへ延びる直線の延長上に位置する塁であり、一塁に到達した走者が、2番目に到達を目指す塁である。",
"title": "概要"
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"text": "本塁から最も遠い塁である(127フィート3.375インチ=38.184メートル)ため、一塁走者が二塁到達を狙って盗塁(二盗)を企てることが多い。二塁に走者が到達すると、単打でも本塁まで帰ってこられる可能性が高くなり、得点の可能性が一気に増す。そのため、二塁、もしくは三塁上に走者がいる状況を得点圏(scoring position)という。",
"title": "概要"
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"text": "二塁は、一塁や三塁のように一人の選手だけによって守られる塁ではない。一塁と二塁の間に二塁手(second baseman)、二塁と三塁の間に遊撃手(shortstop)が位置し、2人で連携して二塁の守備に当たる。二塁手と遊撃手は、併殺やベースカバーなどで、高度な連携が必要とされる。",
"title": "概要"
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"text": "一塁手と二塁手の間にあるスペースを一二塁間、二塁手と遊撃手の間にあるスペースを二遊間と呼ぶ。",
"title": "概要"
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"text": "三塁(third base、または3B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁側から見て左に位置する塁であり、二塁に到達した走者が、その次(3番目)に到達を目指す塁である。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "三塁を占有できれば次に進塁すべき塁は本塁であり、この意味で本塁に最も近いということができる。三塁に走者がいる場合は得点の可能性が高い。安打での得点に加えて、無死また一死の状況で走者が三塁にいる場合は犠牲フライやスクイズプレイ、内野ゴロなどでも得点が可能になる(犠牲フライの場合は野手が余程の強肩でなければ捕手の触球は間に合わない)。暴投や捕逸が直接得点に結びつくため、投手はより慎重な投球を強いられる。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "三塁への盗塁(三盗)が試みられることもあるが、物理的距離の意味でも本塁・二塁間の距離よりも本塁・三塁間の距離は短いため難易度は高く、二盗と比較すれば三盗が行われることは少ないといってよい。ただし、少ないといっても三盗はしばしば目にするプレイである。三盗の難易度は高いが、投手の油断を突いて試みられることが多い。三塁手と遊撃手の間にあるスペースは三遊間と呼ぶ。",
"title": "概要"
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"text": "一塁・二塁・三塁の位置や形状については公認野球規則2.03で定められており、ベースバッグは正方形で、白色のキャンバスかゴムで覆われた厚みのある形状である。設置位置は、一・三塁はバッグが内野の正方形内に完全に収まるようにし、二塁は、バッグの中心が二塁地点に重なるようにする。",
"title": "概要"
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"text": "厚さは3インチ(7.6センチメートル)ないし5インチ(12.7センチメートル)。大きさは正方形の一辺が15フィート(38.1センチメートル)と定められていたが、MLBでは2023年から18インチ(45.7センチメートル)に改められた。このベースは「ビガー・ベース (bigger base) 」とも呼ばれ、野手と走者が接触して負傷するのを防ぐ目的があるが、一・二塁間や二・三塁間は4.5インチ(11.4センチメートル)短くなるため、盗塁を試みる走者には有利に働く。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "ベースバッグは必要に応じてダートエリアから取り外せるようになっている(外した後の穴は蓋を填めて塞ぐ。蓋がスライド式の作り付けになっている球場もある)。",
"title": "概要"
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"text": "外野には、ホームベース方向から見て左側から順に左翼(レフト)、中堅(センター)、右翼(ライト)の3つのポジションが存在する。それぞれの守備を担当する左翼手、中堅手、右翼手の3人をまとめて外野手と呼ぶ。",
"title": "概要"
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"text": "おおむね次のようなものがあるが、野球場の規模によって付帯する設備は大きく異なる。",
"title": "概要"
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"text": "外野及びファウルゾーンに設け、グラウンドとグラウンド外とを区切る柵。コンクリートパネルや金網などが用いられる。野手がフェンス際の打球を取りに出て衝突した際に怪我をしないよう、安全対策としてコンクリート部分には発泡ラバーや発泡ウレタン、ポリエステル不織布などの素材で造られた緩衝材を被せているところが多い。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "抜ければ長打になるかという打球を、外野手がフェンスに衝突し転倒しながらも捕球することがある。また本塁打性の打球を、外野手が背走してフェンス際でグラブを差し出して捕球したり(フェンスに達すれば打者走者が二塁にまで進んでしまう事は確実)、時にはフェンスによじ登って捕球したりと、身を挺して本塁打を防ぐこともある。こうした好プレーは外野手の見せ場の一つでもある。",
"title": "概要"
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"text": "かつて日本国内にはフェンスに緩衝材を設けていなかった野球場が数多く、プロ本拠地でも対策が立ち遅れていた。1977年4月29日に川崎球場で開催された大洋ホエールズ対阪神タイガース9回戦で、左翼への飛球を追った阪神・佐野仙好がフェンスのコンクリート部に頭を強打し重傷を負ったことがきっかけで、プロ本拠地にはラバーフェンスの設置が義務付けられた。1988年以降は、フェンスに緩衝材が設置されていない野球場では地方に所在するものも含め、プロ野球の試合は一切開催できないと取り決められており、現在はアマチュア野球の公式戦の多くも、緩衝材が設けられている野球場で行われている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "西武ドームや長野オリンピックスタジアムなどファウルゾーン内にブルペンを設けている野球場では、グラウンド間を金網フェンスなどで区切っているところがある。このうち西武ドームでは2001年6月20日に開催された西武ライオンズ対大阪近鉄バファローズ16回戦で、一塁側ファウルゾーンへの飛球を追った西武・平尾博嗣がブルペンのフェンスに衝突した際、右足のスパイクを金網に引っ掛けて足首を強く捻り、複雑骨折する重傷を負ったのがきっかけで、同年オフにブルペンのフェンス下部をラバーフェンスに改修している。しかし地方球場のブルペン付近のフェンスは現在も、地面まで金網となっているところが多い。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アメリカでも、リグレー・フィールドの外野フェンスには緩衝材が設けられていないが、フェンスの壁面にツタを植栽して代用している。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "公認野球規則上はバックストップと呼ばれ、本塁から基本的に60フィート(約18.288メートル)以上離れて設置される、ボールが後方場外に飛び出すのを防ぐ構造物。とくに本塁後方方向へのファウルボールは勢いがある場合が多いので、網で作られている場合が多く、通称としてバックネットと呼ばれる。バックネットが設置されていない野球場は皆無といって良い。バックストップの距離はあくまでも推奨値となっているが、日本版の規則のみ「必要」となっており、この事がエスコンフィールドHOKKAIDOのバックストップが海外設計事務所の設計により50フィートであったことに関して大論争を生んでいる。",
"title": "概要"
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"text": "一般的には支柱を立てて金属製もしくは合成繊維製の網を張る場合が多い。観客の多い野球場では細くて強度のあるステンレス製の網を用いたり、柱を用いず観客席上に張ったロープから網を吊り下げたり、バックネットを黒く塗る、網ではなくアクリル製の透明の板を使うなど、観客の安全性と視認性を高めるために工夫をこらしている野球場も多い。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "打球がフェアかファウルかを判断するため、ファウルラインがフェンスと接する地点に立てる柱。公認野球規則では「白く塗らなければならない」と定められているが、打球の判別の便宜上、他の色でもよいとされている。白色ではボールが見えにくいことがあるため(幻の本塁打一覧)、現在はより判別しやすい黄色や橙色が多く使われている。判断をより正確にするため、ポールのフェア地域側にネットを取り付け、打球がファウル側からフェア側へ、またフェア側からファウル側へ飛び込まないよう考えられたものもある。",
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"paragraph_id": 51,
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"text": "打球が直接ファウルポールに接触した場合は本塁打、打球が地面やフェンスに当たってからポールに接触した場合は二塁打となる。",
"title": "概要"
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"text": "競技の得点や出場選手、ボール・アウトカウントなどを表示するための設備。通常、外野中堅の後方に設けられることが多い。従来はイニングスコアや選手名をパネルにより掲出する方式が一般的で、鉄や木のパネル(黒板)にチョークで手書きするか、紙に印刷したものを貼付して表示していた。人力による作業を必要とするため、出場選手が交代する場合等にはパネルの入れ替えや書き換えに手間取ることもしばしばあった。",
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"text": "日本では1970年、後楽園球場に初の本格的な電光式スコアボードが導入された。当時は電球式で画素が粗く、画数の多い漢字などの表示がままならないケースもあり、かつて、ロッテに在籍していた醍醐猛夫は画数が多いため、一部の地方球場では「ダイゴ」とカタカナ表記で書かれていた事もあり、本人も「ファンの方から『外人選手だと思った』と言われた事があった」と言う。他に、地方球場ではないが、巨人や中日で外野手を努めた与那嶺要も『ヨナミネ』と書かれたスコアボードの写真が「プロ野球60年史」のオールスターの写真に掲載されている。",
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1975年からパシフィック・リーグで指名打者制度が採用されるようになったが、多くの球場では9人分しか表示できないため、守備中は投手、攻撃中は指名打者の選手を入れ替えて表示したことがあった。後楽園ではチーム名を表示する箇所に投手名、神宮球場では単色掲示板だった時代はフリーボードの箇所に投手名を表示したことがあるほか、川崎球場でもロッテオリオンズが本拠地とするようになった1978年に投手を含めた10人分を記載できるよう改造された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "現在は高輝度放電管や発光ダイオード(LED)を使用した電光式のシステムや、電磁石で制御する磁気反転式のシステムを使用して表示部を遠隔操作する方式が主流である。1997年以降、日本のプロ12球団が本拠地とする野球場は全て電光式を採用しており、それに加え大型映像装置が設置されている。これにより投手の球速、打者の現時点における打率・本塁打数・打点(その打席での結果如何――安打を打ち出塁するか、三振や凡退に終わるか――でこれら数値は変動するが、これも演算により修正可能で、上昇・下降が即時表示される)、風向・風速(千葉マリンスタジアム。測定用の風車がフラッグポールと同じ位置にある)などさまざまな情報を表示できる他、映像装置を使用して観客により多くの情報を提供でき、かつ様々な演出が行えるようになった。なおメジャーリーグではリグレー・フィールドのようにパネル式を敢えて残している球場もある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半から各地で採用されている磁気反転式のスコアボードは、ランニングコストやメンテナンスの低廉さと直射日光下での視認性の高さから主に地方球場で普及したが、表示部が自ら光を発せないため夜間にはスコアボード全体をライトアップせねばならず、また経年劣化すると表示部が帯磁して円滑に回転しなくなるという難点があり、老朽化して動作不良を起こすケースがしばしば発生している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "近年はフルカラーLEDのコスト低下に伴って映像装置の導入コストが低廉になったこともあり、本拠地球場ではスコアボードの全面を映像装置として、イニングスコアや選手名表示などといったスコアボード本来の表示機能を映像装置に表示させたり、画面全体を使った演出を行ったりする施設も増加している。なお、こうした派手な装飾のある表示形式はプロ野球での使用時のみで、それ以外のアマチュアの試合で使用する場合のためのシンプルな表示形式も用意している。また地方球場においても、消費電力が少なく且つ昼夜を問わず視認性を確保できるLED式のスコアボードを採用する例が多くなりつつあり、近年は郡山総合運動場開成山野球場(ヨーク開成山スタジアム)、埼玉県営大宮公園野球場、新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)、富山市民球場(アルペンスタジアム)、長良川球場、沖縄市野球場(コザしんきんスタジアム)などプロ本拠地ではない野球場でも映像装置を採用する例が増えつつある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "また磁気反転型のものも品種改良がなされ、より遠くからでも文字情報などが識別しやすいレモンイエロー(蛍光黄色)の文字盤を使ったものや、文字盤のパネルにLED電球を装着し、薄暮やナイターでも電光表示並みに明るさを保つことができるスコアボードが設置されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "外野の中堅後方に設けられる暗色の板状の部分。打者・捕手・球審が投手の投球を視認しやすいように設けられる。日本では一般にバックスクリーンと呼ばれるが、これは和製英語で、英語ではcenterfield screen、もしくはcenterfield fence、batter's eye screenなどと呼ばれる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "公認野球規則に定めはないが、プロ野球球場ではバックスクリーンかこれに類似した措置(それに相当する外野席を暗色にしてその部分には観客を入場させないなど)が執られている。スコアボードと一体化されている野球場も多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "投球練習場。内野ファウルグラウンドに多く設けられたが、甲子園球場や藤井寺球場では外野ラッキーゾーンにあった。練習中に打球が当たる恐れなどもあることから、近年、プロ野球球場では観客席下など(1階の関係者施設地区。ダグアウト後方)に設けていることが多い。メジャーリーグの球場では外野席と外野フェンスの間、ファウルグラウンドなどフィールド上に設けられている場合が多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "両チームの選手、コーチなどの控え場所で、一塁、三塁のファウルグラウンド外側に設けられる。公認野球規則2.05には「ホームクラブは、各ベースラインから最短25フィート(7.62メートル)離れた場所に、ホームチーム及びビジティングチーム用として、各一個のプレーヤーズベンチを設け、これには左右後方の三方に囲いをめぐらし、屋根を設けることが必要である」とある。グラウンドよりも低い位置に設けられたものを「ダッグアウト」(dugout)、グラウンドと同じ高さに設けられたものを「ベンチ」(bench)と呼ぶ。プロ野球球場では、観客席を設ける関係でグラウンドよりも低いダッグアウトが多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "公認野球規則にはどちらをホームチーム側とするといった規則はない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "競技を観覧するための座席を備えた建物。グラウンドに向かって階段状に設けられる。外周がグラウンドに近い形状のものと円形になっているものがある。重層になっていたり、屋根が付いたりする場合もある。小規模な野球場では外野席が土盛り(芝生のみで座席が設けられないことも多い)であったり、観客席が内野にしか設置されていないものも見られる。2021年現在日本国内でプロ野球本拠地として使用されている12球場のうち、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(以下「マツダスタジアム」)、楽天生命パーク宮城の外野席の一部に、固定式の座席が設けられていない芝生席が存在する。また、メットライフドームは2020年まで外野席の大部分が芝生席であった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "日本では、プロ球団の一軍が本拠地・準本拠地として使用する球場は、全てが収容人数3万人以上の規模である。最も収容人数が多い球場は阪神甲子園球場(収容人数47,808人)、次いで東京ドーム(収容人数約47,000人弱、ただし非公式)である。二軍の本拠地球場は全体的に座席数が少なく、数百~数千の収容人数となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本では、観客席が重層の球場は少なく、12球団の本拠地13球場で重層なのは半数以下の5球場である。各球場とも外野席に一定の座席を割いており、応援の中心が外野席であることも大きな特徴である。ほぼ全ての球場で、外野席に私設応援団が陣取っており、鳴り物(トランペット、太鼓、呼子笛)を利用した組織的応援が行われる。また試合内容によってはホーム側ファンとビジター側ファンの衝突さえ起きかねないため(試合終了後、場外での挑発合戦から睨み合いに発展し、機動隊が割って入って規制線を引いた事例さえある)、多くの本拠地球場でホーム側ファンの立ち入りを認めない「ビジター応援席」区域が設定される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは、メジャー球団が本拠地とする球場の多くが4万人以上の収容人数を誇る。アメリカンフットボールとの兼用球場を除く野球専用球場で収容人数が4万人を下回るのは、フェンウェイ・パーク(36,108席)、カウフマン・スタジアム(38,030席)、トロピカーナ・フィールド(36,048席)、PNCパーク(38,496席)の4球場のみである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "マイナーリーグの球場も、日本の二軍本拠地球場とは違い、一定以上の観客席が設けられている。AAA級では、収容人数23,145人のローゼンブラット・スタジアム(現在は閉場)を筆頭に、殆どの球場が1万席以上の観客席を備えている。AA級やA級、ルーキー級でも、数千人〜1万数千人の収容人数を持つ球場が揃っている。これは、米国でベースボールが国民的娯楽(national pastime)として広く親しまれている証である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "米国の球場は、日本とは違い観客席が重層のものが殆どである。ニューヨーク・ヤンキースのかつての本拠地ヤンキースタジアムのような巨大球場は、5階席まで存在する。野球は少しでもフィールド(内野・投手・打者)から近い位置で観戦するものだという意識によるものである。外野席に割かれる座席数は、球場によって違いはあるものの、概して少なめである。カンザスシティ・ロイヤルズの本拠地カウフマン・スタジアム(2008年度まで)や、ニューヨーク・メッツの前本拠地シェイ・スタジアムは、外野席がほとんどないことで有名であった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "韓国では、ロッテ・ジャイアンツの本拠地社稷野球場、LGツインズと斗山ベアーズの本拠地蚕室総合運動場野球場、SKワイバーンズの本拠地文鶴野球場の三球場が3万人以上の収容人数を誇る。日本と違って内野スタンドに応援団用のスペースが存在し、チアリーダー付きの応援が行われているのが大きな特徴である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "台湾では中信兄弟の本拠地台中インターコンチネンタル野球場が国内最大となる20,000人収容の観客席を有し、その他のプロ球団が使用する球場は収容人数が1万人台である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "夜間(昼間でも薄暗い時等)に試合を行うためにグラウンドを照らす設備。グラウンド全体を照らすため、複数(数個から数百個前後)の電球から成る照明を鉄塔など一定の高さの場所に設置する。光源には水銀灯、高圧ナトリウムランプ、ハロゲンランプ、メタルハライドランプ、LED照明などが用いられる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "野球場の照度は硬式、軟式と競技区分別にJIS規格で定められている。プロ野球の場合、内野は1500 - 3000ルクス、外野は750 - 1500ルクスの平均照度が必要とされている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "日本で初めて野球場に照明設備を設置したのは1933年7月、早稲田大学の戸塚球場である。高さ30.6mの照明塔6基に1.5kWの電球を156個取り付けたもので、照度は内野で150ルクス、外野で90ルクスしかなかった。1948年8月17日には、横浜ゲーリッグ球場で日本プロ野球で初のナイター試合が行われている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ナイター設備が普及し始めた1950年代には白熱電球による照明が使われていたが、白熱電球の暗さを補うために水銀灯との組み合わせが考案された。1956年4月に阪神甲子園球場に設置されたものが初で、白・オレンジ2色の照明を組み合わせた様子から「カクテル光線」と称され、ナイター試合の代名詞として定着した。1962年に完成した東京スタジアムは1600ルクスの照明を備え、「光の球場」と呼ばれた。その後、明るいが演色性が十分でない水銀灯を置き換えるため、メタルハライドランプと高圧ナトリウムランプの組み合わせが主流となったが、白とオレンジの光色は引き継がれた。2010年代からはより省エネ性に優れ、これまでのものと違い即時点灯が可能なLEDも導入され始めている。LEDの場合は単色で十分な演色性・光量を得ることができるため、2色の光源を組み合わせる必要がなく、「カクテル光線」を備えた球場は少なくなりつつある(特殊な例として、阪神甲子園球場ではLED化後もカクテル光線を維持している)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "照明設備は内野1塁側・3塁側に2基ずつ、さらに外野に2基、計6基架設する形式のものが最も一般的だが、千葉マリンスタジアムや阪神甲子園球場、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)、秋田県立野球場(こまちスタジアム)、新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)などではスタンドの庇(ひさし)に照明を架設する手法が用いられている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "全ての野球場に設置されているわけではなく、地方球場には照明のない野球場も多い。2000年代以降そのような球場もプロ野球の公式戦が稀であるが行われ、日没によるコールドゲームも記録されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "マスコミが試合の取材やテレビ・ラジオによる試合の生中継を行う為に、主要となる野球場を中心に放送席・記者席・カメラエリアが常設される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "主要野球場の放送席や記者席の場合、かつては内野スタンドのグラウンドレベルに配置されることが多かったが、近年建設された野球場では、放送席は内野スタンド上段に個々が独立、記者席は同じく上段に外(ドーム型球場に多い)または部屋の中(グラウンドが見えるように窓を設置)に配置されるようになった。カメラエリアは、プロ野球本拠地の場合、多くは場所を固定の場合(特にグラウンドレベルの一・三塁側)が多い。複数のAM放送局 で系列を問わず同一カードを中継することもあるため、ブースは複数ある。主にひとつの放送局でローカル・全国ネット兼用とビジターチーム向けの裏送り・ビジターチームの放送局スタッフが来場して制作用の2部屋を確保している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "地方球場の場合、ほとんどの場合、記者席はある程度確保してある場合が多いが、放送席に関しては常設していなかったり、適当な空き部屋の確保が難しい場合が多い為、個々の放送局が内野スタンド上段に臨時に小屋を設置したり、観客席を使用する場合が多い。カメラエリアも同様に場所が確保される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "グラウンドに芝を植えると、土埃の発生や表土の流出を防ぐことが出来る。また日光の反射が無く、スタンドと調和して風光を引き立てる。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは、外野に加えて内野のマウンドとランニングゾーンを除く部分にも芝が敷設されている内外野総天然芝の球場が標準である。メキシコ、ベネズエラ、ドミニカ共和国などのカリブ海諸国や、台湾、韓国でも、主要球場のほとんどがこの形態である。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "その一方、日本では、天然芝の育成・管理の難しさから、外野部分とファウルエリアのみ天然芝が敷設されている球場が多い。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "かつて西宮球場は、1937年完成時から内外野天然芝としたが、1940年代後半には内野天然芝は廃止された。明治神宮野球場は、1945年の米軍接収時に内野に天然芝を植えたものの、グラウンドの使用が激しいため密生せず、まもなく廃止された。後楽園スタヂアムは1950年3月に内野に天然芝を植えたものの、芽が出ないうちから過激に使用したため、たちまち枯死した。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "その後東京スタジアム(1962年完成-1972年閉鎖 現・味の素スタジアムではない)が内外野天然芝を導入すると、後楽園スタヂアムも再び内野天然芝を導入したが(1965年-1975年)、東京スタジアムは1977年4月に取り壊され、後楽園スタヂアムも1976年3月に内外野全面人工芝に切り替えられると、他球場も後楽園に倣ったため、内野天然芝は普及しなかった。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1995年の野茂英雄のメジャー挑戦以降、日本の野球ファンや選手の間でも天然芝への認識が高まり、人工芝でプレーする選手の身体への負担について議論されるようになった。2001年ごろ起こった千葉マリンスタジアムのドーム化計画や、横浜での人工芝ドーム球場建設計画にファンが抗議し、既存球場の天然芝化を要求したこと(両球場とも2003年に新型人工芝に変更)、広島の新球場計画が人工芝ドーム球場から天然芝球場に変更されたことなどがこの代表例である。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2023年現在、プロ野球全12球団の本拠地において、天然芝を採用しているのは阪神甲子園球場、前述の議論を経て2009年にオープンした広島市民球場、2016年に人工芝から切り替えられた宮城球場、そして2023年から北海道日本ハムファイターズの本拠地となるエスコンフィールドHOKKAIDOの4球場である。さらに国内で内外野天然芝を採用した球場は、前述の4球場に加えて、ほっともっとフィールド神戸、ひなたサンマリンスタジアム宮崎、鶴岡ドリームスタジアム、サングリンスタジアム(夕張市)などがある。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "人工芝も張替え時には天然芝以上のコストがかかるとの指摘もある。天然芝のフィールドを採用している競技施設の中には味の素スタジアムなどのように、天然芝の箇所にアクリル板などの保護材を敷設してイベントとの併用を実現しているケースも存在する。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "野球場で使用される天然芝は、暖地系として、野芝、高麗芝、バミューダ・グラス、寒地系として、ペレニアル・ライグラス、ケンタッキー・ブルーグラスなどが挙げられる。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは主に寒地系のケンタッキー・ブルーグラスが野球場芝として利用される。ケンタッキー・ブルーグラスはアメリカで多く植栽される芝であるが、多くの水・肥料を必要とする上、種の発芽や初期成長が遅いのが欠点である。しかし造成された芝草は青々と美しく、かつ丈夫であり、通年に渡って常緑を維持する。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "一方、日本においては、大半の地域で寒地系の芝は厳しい夏を越せずに枯死してしまうため、天然芝を使用する野球場の多くは暖地系の高麗芝を使用している。高麗芝は成長が早く、しかも日照りが続かない限り散水の必要性がほとんど無く、肥料も少量で済むので維持管理が比較的容易である。ただし高麗芝はケンタッキー・ブルーグラスと比較すると葉の発色性で劣る。さらに冬期には休眠するため、これを使用した野球場の芝生部分は若葉が生えてくる春季まで黄化し枯れたように見えてしまう。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半、日本中央競馬会(JRA)が暖地系芝と寒地系芝の2毛作により通年に渡って常緑の芝生を実現する技術「オーバーシード」を開発し、これを野球場に導入する動きが広まった。現在、阪神甲子園球場、マツダスタジアム、ほっともっとフィールド神戸では、高麗芝より発色が鮮やかなバミューダ・グラス系のティフトン419と、ペレニアル・ライグラスによるオーバーシードが行われている。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "その一方、宮城球場、鶴岡ドリームスタジアムは、所在地の夏の気候が比較的涼しいため、アメリカの野球場と同様、寒地系の芝が通年使用されている。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "人工芝は天然芝のフィールドと比較してゴロ打球が失速しにくいことから、守備側の野手にはより素早い反応が求められる。その反面イレギュラーバウンドは発生しにくい。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "1965年、世界初のドーム球場であるアストロドームで、世界初の人工芝(アストロターフ)が導入される。以後、アメリカンフットボールとも兼用できる野球場が米国で流行するにつれ、人工芝は急速に普及していった。だがその後、1990年代以降に興った新古典主義ボールパークの建設ラッシュにより、人工芝を採用する施設は減少の一途を辿っている。2020年現在のMLB本拠地で人工芝を採用している球場はMLB唯一の密閉式ドーム球場であるトロピカーナ・フィールド(セントピーターズバーグ)、開閉式屋根を持つロジャーズ・センター、チェイス・フィールド、グローブライフ・フィールドの4球場である。ただし、チェイス・フィールドは、開場当初は総天然芝で、史上初の開閉式屋根を持つ総天然芝野球場だった。またアメリカの独立リーグや大学野球の本拠地では寒冷地を中心に人工芝の球場も複数存在しているが、その多くはNPBやMLBと違い、走路はもとよりベース周りやマウンドまでもが着色された人工芝となっている。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "一方、日本では1976年に後楽園球場が初めて人工芝を導入。2023年現在、日本国内でプロ野球本拠地として使用されている12球場のうち、8球場(ドーム球場は5)が人工芝を採用している。その結果、内野手の真正面を突くゴロ打球に対しては“打球が来るのを待つ”ような受け身の態勢で守備を行う機会が増加したこと、球足が速いので肩力が多少弱くても内野を守れるようになったこと、内外野問わず前述のケガのリスクから球際の鋭い当たりに対する消極的なプレイが増えたことから、一部では野手の守備レベルが低下しているのではないかという指摘もある。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "人工芝が日本に導入された当時、天然芝の管理方法はあまり進歩しておらず、管理が行き届かないケースが多かったこともあり、人工芝のフィールドは「守りやすい」「景観が美しい」など、選手・ファンからは概ね好意的に受け止められていたが、グラウンドの管理面では雨天時の排水性が問題となった。初期の人工芝は、グラウンド周囲にコンクリートの側溝を設置し、ファウルグラウンドや外野をこの側溝に向かってやや傾斜させることで雨天時の排水を行っていたが、このような表面排水方式はグラウンド中央部分の排水が難しい。そのため各球場ではグラウンド上に吸水自動車を走らせて排水を行っていた。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "雨天の多い日本では人工芝の排水性の無さが早急に解決すべき課題となり、その結果、旭化成は「サラン透水性人工芝」の開発に成功する。この人工芝は透水性を実現したことで地中に設けたパイプを使って排水することが可能となり、結果、初期人工芝では必須であったグラウンドの傾斜や吸水自動車を不要とした。当初、この透水性人工芝はヨーロッパのサッカースタジアムで使用されていたが、1982年3月に明治神宮野球場が野球場として初導入する。これを契機として透水性人工芝は全国の野球場に広まっていった。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "また開発当初の人工芝はパイル(毛足)が短く、スライディングすると火傷や擦過傷を負うことも少なくなかった。更に天然芝と比較するとクッション性が低いため、足腰など選手の身体への負担増大も指摘されるようになり、この点についても品質向上が図られるようになった。先に述べた旭化成の「サラン透水性人工芝」はクッション性も考慮し、人工芝(パイル丈13mm)の下に厚さ14mmの透水性アンダーマットを敷いていたが、1990年代後半になるとパイルの丈は5~6cmと長くなり、その下層部に砂・土・ラバーチップを充填してクッション性を高めた「ロングパイル人工芝」が開発され、日本のプロ本拠地野球場でもロングパイル型を導入するところが増加した。またショートパイル型でも、長さの異なる2種類のパイルを用いることで、クッション性の向上に加えて景観も天然芝に近づけた製品がある。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "このような改良が施された人工芝は「ハイテク人工芝」とも呼ばれ、従来の人工芝と比較して身体への負担が軽く、プレー条件も改善されていることなどから選手からも概ね好評である。とりわけ、屋外野球場として人工芝を使用している明治神宮野球場はデーゲームで高校や大学、社会人などアマチュア公式戦を行った後、ナイターでプロ野球を開催するなど、同日中に複数の試合を行うことが多いため、耐久性のある人工芝の特徴を活かしている。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "このように日々改良が続けられている人工芝だが、プレーヤーの身体面へのデメリットを指摘する声は後を絶たない。実際、人工芝が導入されてからは足首の捻挫、靭帯や半月盤の損傷などの怪我が多くなったという意見がメーカーなどに寄せられている。人工芝のパイルにはポリエチレンなどの材質を使用しているため滑りやすくなっている。このため、不慣れなプレーヤーがプレー中に足を滑らせて転倒するようなことがしばしばある。特に降雨時等、パイルが水を含んだ時にはよりスリップしやすくなる。現在使われている野球スパイクのスタッド(歯)には金属や樹脂が使用されているが、天然芝であれば芝の下の土の部分までスタッドが刺さるため、それが衝撃吸収の役割を担う。しかし人工芝ではスタッドが刺さりにくいため衝撃が直接膝や脚にかかることが多い。一部の選手らからは「下から突き上げるような衝撃を感じる」という意見がある。激しいプレーではスパイクの引っ掛かりが土や天然芝に比べて強いことから筋肉や関節に特に負荷が掛かりやすい。さらに夏場など猛暑の際には輻射熱や日光の照り返しによってフィールドの表面温度が高温になりやすく、プレー条件が低下する恐れも生じる。こうした要素から、人工芝は天然芝や土に比べて故障を誘発しやすいといわれている。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "またロングパイル型は品種により、打球のバウンドや野手のスライディングなどといったプレー中の状況によっては充填材のラバーチップが飛散することがあるため「思い切ったプレーがしにくい」という意見もあり、QVCマリンフィールドが2011年に張り替え工事を行った際には千葉ロッテマリーンズ選手会の意見を反映し、ラバーチップを充填していないショートパイル型が採用された例もある。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "松井秀喜は読売ジャイアンツ在籍当時の2001年、『週刊ベースボール』8月13日号において「(天然芝は)打球を追う時に思い切ってダイビングできる。(人工芝は)単純に痛いし、こすれて熱い。(スパイクが)芝の継ぎ目に当たれば大怪我することになるし、足への負担が大きい。新しい人工芝の開発も進んでいるみたいだけど、人工芝は所詮人工芝」と話した他、ロサンゼルス・エンゼルス移籍後の2010年夏にスポーツニッポンの取材を受け、日本球界復帰の可能性を問われた際には、日本のプロ本拠地に人工芝を採用している施設が多い事と、自身が両膝に故障を抱えている事を引き合いに「僕の膝でどうやって人工芝の上でプレーするんですか。 自分が帰りたくてもプレーできない。DHでも走塁はある。1週間で膝を痛めて登録抹消ですよ」と答えるなど、人工芝には否定的な意見を述べている(現役最終年に所属した球団は皮肉にも人工芝のトロピカーナ・フィールドを本拠地とするタンパベイ・レイズだったが、この球場は走路は土になっている)。メーカー側も「土のグラウンドと違う筋肉を使うので、疲労がたまりやすい」と、人工芝にはある程度の「慣れ」が必要であることを指摘している。またスポーツ用品メーカーも、スタッドの低いスパイクやグラウンドシューズなど人工芝に対応した製品を開発・販売している。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "しかし、天然芝の維持管理には農薬や化学肥料を使用しているケースが多い。こうしたことから天然芝と人工芝とを比較する場合、あらゆる安全性を勘案すると総合的な優劣は一概に判断し難い部分もある。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "芝がなく、土が剥き出しになっているグラウンド。天然芝より維持が容易で、人工芝より初期コストが低い。英語では「bare ground(むき出しのグラウンド)」と称される。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "軟式野球専用の野球場では内外野すべて土のグラウンドも見られる。かつての藤井寺球場や西宮球場のように、内野が土で外野が人工芝という球場もあった(この2つは後に全面人工芝化された)。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "日本では、外野は天然芝(ごく稀に人工芝)、内野は土という球場が圧倒的に多く、かつてはプロ野球球団の本拠地球場(正しくは「専用球場」)もこの形式が多かった。現在でも阪神甲子園球場はこの形式であるが、旧広島市民球場の閉場により、専用球場としては世界で唯一となった(高校野球全国大会出場選手だけが持ち帰れる“甲子園の土”は現在も関係者の間で珍重されている。ファン感謝デーの際であっても持ち帰りは出来ない)。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは土のグラウンドの球場は少なく、メジャーリーグの本拠地球場には使用されていない。AA、Aクラスのマイナーリーグなど低いグレードの球場では一部使用されているが、基本的に人工芝以上に評価が低い。日本では柔らかく湿気を含んだ黒土が好まれるのに対し、アメリカでは白く乾いた土が使われるのが通例である。このため日米間で移籍した選手は、芝の有無以上にグラウンド(特にピッチャーズ・マウンドなど)の固さに対する違和感を覚えることが多い。",
"title": "野球場のフィールド"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "MLBの本拠地球場は、1970年代から80年代にかけてアメリカンフットボールとの兼用球場が一世を風靡したが、1990年代からは天然芝の野球専用球場への回帰が進んだ。現在、人工芝の球場と密閉式ドーム球場はトロピカーナ・フィールドのみである。チェイス・フィールド、ロジャース・センター、T-モバイル・パーク、ミニッツメイド・パーク、アメリカンファミリー・フィールドは開閉式の屋根を備えている。他競技との兼用が行われている球場は、ロジャース・センター、オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムの2球場のみである(詳細は、後述のアメリカ合衆国における野球場の歴史を参照)。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "米国では左右非対称で歪な形状の外野フェンスを持つ球場が多く、両翼や中堅の距離だけで球場の広さを測ることはできない。むしろ重要なのは左中間・右中間への距離や、フェンスの高さ、ファウルゾーンの広さ、気圧などである。例えば、左翼・中堅への距離がア・リーグ最長のコメリカ・パークや両翼への距離が全球場で最長のリグレー・フィールドは左中間、右中間の膨らみが少なく、決して打者不利の球場ではない(リグレー・フィールドは逆に打者有利の球場である)。また、右翼への距離がナ・リーグで最も短いオラクル・パークは、右中間最深部が128.3mもあり、右翼フェンスも7.6mと非常に高いため、左打者に不利な球場である。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "球場ごとに、本塁打、二塁打、三塁打の出やすさや得点の入りやすさには明確な差異があるが、球場ごとの偏りを示す指標としてパークファクターが用いられている(詳細は当該記事を参照)。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "一般に、投手有利の球場は「ピッチャーズパーク(ピッチャーフレンドリーパーク)」、打者有利の球場は「ヒッターズパーク(ヒッターフレンドリーパーク)」と呼ばれる。ESPNはターゲット・フィールドを除く29球場を2005年~2009年のパークファクター、BABIPを用いて総合的に評価し、打者に有利な順に並べたランキングを発表した。ベスト5とワースト5は以下の通りである。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "本塁打の出やすさに限れば、ギャランティード・レート・フィールド、ヤンキー・スタジアム、グレート・アメリカン・ボール・パークがベスト3、ペトコ・パーク、T-モバイル・パーク、カウフマン・スタジアムがワースト3である。しかし、本塁打の出やすさと得点の入りやすさは必ずしも相関しない。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "日本では興行上の理由から、公認野球規則2.01の規定を敢えて無視し、両翼を狭くすることで本塁打の出やすい球場が多く作られた。中には阪神甲子園球場、明治神宮野球場、阪急西宮球場、京都市西京極総合運動公園野球場(わかさスタジアム京都)、倉吉市営野球場などのように、完成時の広いグラウンド内に、わざわざラッキーゾーンという金網の柵を設けたこともあった。藤井寺球場には外野客席とフィールドの間にブルペンが設置(ラバーフェンスはフィールドとブルペンの間に設置)されており、事実上のラッキーゾーンを成していた(神宮球場は1967年にラッキーゾーンを撤去している)。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "1984年のロサンゼルスオリンピックから野球がオリンピック公開競技となることが決まると、既存球場の広さでは将来的なオリンピック開催や選手の野球技術の向上の点で国際的に通用しないとの危機感が浮上した。1981年12月24日、日本野球機構の下田武三コミッショナーは12球団のオーナーらに要望書を送付。新設する野球場は正規の規格で建設するよう訴えた。こうした流れを受けて、1980年代後半以降は国際ルールに適合、またはそれに準ずる球場が続々完成(改修工事を施した球場でも両翼を国際基準、またはそれに準じたサイズに拡大)し、ラッキーゾーンのあった球場も倉吉(ナイター設備がラッキーゾーンの中にあるため撤去が困難)を除いて全て撤去された。後、2010年代になって宮城球場にEウイング、福岡ドームにホームランテラスと称する、外野フェンスから外野に張り出す形での観客席が新設され、フィールドを狭くするラッキーゾーン敷設同様の改修が行われている。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "また従来の球場のファウルゾーンは、公認野球規則に規定された最低限の面積を遙かに上回る広大なものが多く、両翼までなだらかにファウルゾーンが狭まっていくのが主流であった。各球場のグラウンドの両翼が公認野球規則に従って拡張されつつあった1980年代から90年代にかけても、この点について考慮はあまり見られなかった。しかし2000年代以降、メジャーリーグのTV中継により視聴者がアメリカの球場を目にする機会が増えると、国内のプロ球団が使用する球場においても、観客席を新たに設けることにより、一(三)塁を過ぎた所でファウルゾーンを急激に狭める改修が進められた。特に2009年に完成したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(以降マツダスタジアム)は、公認野球規則の制限内において可能な限りファウルゾーンを狭めている。また、2008年から2009年にかけての改修によりファウルゾーンを狭めた西武ドームも同様であり、グラウンド面積はマツダスタジアムを下回り専用球場12球場で最小となっている。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "基本的にフィールドは左右対称となっている(日本国内のプロ本拠地ではマツダスタジアムとエスコンフィールドが非対称)。アメリカでは、1960年代から1980年代までに建設されたものは左右対称のフィールドが多かったものの、新古典派球場ブームの到来で現在左右対称のフィールドとなっているスタジアムはわずかである。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "さらにグラウンドの方角については、野手が長時間南側を向いて守備し、直射日光を受けねばならないことを考慮して、公認野球規則の規定を敢えて無視し、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を南向きにする球場が多く見られる。甲子園球場、宮城球場、神戸総合運動公園野球場、千葉マリンスタジアム、京都市西京極総合運動公園野球場、藤井寺球場などが代表例である。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "一方、明治神宮球場・横浜スタジアムなどは、守備側が概ね南側を向くようになっており、さらにマツダスタジアムは公認野球規則に完全に従い、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を東北東向きとしている。公認野球規則の規定は球場内の多数を占める内野スタンドの観客が直射日光に晒されないよう配慮されたもので、アメリカ・メジャーリーグのスタジアムで数多く見られる伝統的なグラウンド配置である。こうした球場での午後のデーゲームは、内野スタンドの大部分が日陰になる一方、外野手のサングラス着用は必須となっている。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "なお、現在プロ12球団が本拠地としている野球場の両翼・中堅・左右中間までの距離の公称値(非公称値含む)は下記の通りである。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "2009年現在、公認野球規則2.01の付記(a)で規定された規格を充足しないのは神宮、横浜、甲子園の3球場である。神宮は2008年の改修によってフィールドを拡張したが、規格は充足されなかった。横浜は都市公園法上の建ぺい率制限から将来的にもほぼ拡張不可能。甲子園も2007年から行われた改修においてフィールドの拡張は行われなかった。ただし甲子園は左右中間の奥行きが広く、両翼のポールの位置も独特なため、両翼・中堅の数値だけをもって狭いとは言えない。左右中間の膨らみは規定されていないため、甲子園のように左右中間までの距離が中堅までとほぼ変わらず巨大な膨らみを持つ球場から、東京ドーム、福岡ドームのように左右中間の膨らみがほぼないものまで様々である。近年の球場の外野フェンスは二塁やや後方の一点を中心とする真円の弧になっているものが多い。フェンスの高さも規定されておらず、ホームランテラスを設置する前の福岡ドームの外野フェンスは5.8mあり、アメリカのフェンウェイ・パークにならって「グリーンモンスター」とも呼ばれた。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "近年は国際大会での躍進が目立つ韓国だが、学生野球の段階から極端な少数精鋭制(野球部のある高校は全国で50余校しかない)を採っているため、野球の競技人口は非常に少なく、野球インフラの整備が進んでいない。そのため、大都市を除けば野球場が殆ど存在しないのが現状である。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "プロ球団が本拠地とする9球場のうち、社稷野球場(釜山)、文鶴野球場(仁川)、蚕室野球場(ソウル)の3球場は内外野総天然芝のグラウンドなど充実した設備を持ち、3万人近い観客を収容可能である。それ以外の球場は人工芝で、1万人台前半〜2万人程度の収容能力しか持たず、設備も劣悪であった。特に大邱市民運動場野球場(大邱)は老朽化が深刻で宣銅烈は「プロ野球がこんな球場で行われるということ自体が恥ずかしい」と語っていた。米球界経験者である奉重根は、「韓国の球場施設はあまりにも劣悪。大邱や光州、木洞の球場は正直言って(マイナーリーグの)1A水準」「スライディンクもダイビングキャッチも、思い切ってできない状況だ。マウンドも少し投球しただけでくぼみができる」と不満を述べている。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "近年はワールド・ベースボール・クラシック1次ラウンド誘致を見込んで、釜山にドーム球場建設の動きがある。「韓国球界の宿願」とされるドーム球場建設だが、資金面や運用面で問題が山積みであり、実現の目途は立っていなかったが、2015年10月にソウル特別市九老区で韓国初となるドーム球場高尺スカイドームが開場した。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "光州広域市は2010年から、市幹部が相次いでMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を視察し、その結果、目標をドーム球場建設から内外野天然芝のボールパーク建設に鞍替えした。2011年12月から建設が始まった光州無等総合競技場野球場に代わる新球場は2014年2月に竣工し、光州起亜チャンピオンズフィールドと命名された。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "野球が盛んな中南米には、本格的な野球場が多く存在する。ただし、一部の例外を除けば収容人数は多くても2万人台である。米国と同様に内外野総天然芝の屋外球場が基本的な形態である。特徴の1つとして、その地に所縁のある往年の名選手の名が付けられた球場が多い(例:ベネズエラのエスタディオ・ルイス・アパリシオ・エル・グランデ、ニカラグアのエスタディオ・デニス・マルティネス、プエルトリコのエスタディオ・ロベルト・クレメンテ・ウォーカーなど)。また、この地域は経済水準が北米や極東アジアに比べると低いため、プロレベルの試合が行われる野球場であっても、グラウンドのコンディションや設備が劣悪な状態であることも珍しくない。",
"title": "各国の野球場"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "野球はアメリカ合衆国の4大スポーツの中で最も古い歴史を持ち、野球場も時代の流れの中で大きな変遷を遂げてきた。以下、アメリカ合衆国における野球場の歴史を概説する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "野球のゲームルールを確立したアレクサンダー・カートライトが設立したニッカーボッカー・クラブはニューヨークが本拠地だったが、マンハッタンに適当なグラウンドが無かったために、1845年、ニュージャージー州のホーボーケンにあるエリシアン・フィールズを使い始めた。翌年、エリシアン・フィールズで、ニッカーボッカー・クラブとニューヨーク・ナインの試合が、初めての野球のクラブ対抗戦として開催された。1865年、エリシアン球場でニューヨークのミューチュアル・クラブとブルックリンのアトランティック・クラブの選手権試合が開催されおよそ2万人の観衆を集めた。この光景が印刷屋のカリアー&アイブズのリトグラフ「アメリカの国民的野球試合」(右図)に収められた。この時代の球場には外野フェンスが存在せず、本塁打は全てランニング本塁打だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "1860年代には、野球がアメリカ合衆国内で急速に普及していく。1862年には、ニューヨークのブルックリンに初のフェンス付き野球場であるユニオン・グラウンズが完成。ユニオン・グラウンズでは、1500人ほどが入れる観客席があったことで、野球の試合で観客から入場料を取ることができるようになった。同球場では、米国にプロ野球組織が出来る前から、いくつものニューヨークの著名な野球クラブが本拠地とし、1871年以降は初期のナショナルリーグの試合でも用いられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "1871年、初のプロ野球リーグナショナル・アソシエーションが誕生し、本格的な興行を目的とした近代野球場が、各地で相次いで建設された。この時代に作られた野球場の中でも、特に著名なものの1つが、ボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)の本拠地サウス・エンド・グラウンズである。1880年には、後にポロ・グラウンズとして知られることになる野球場(ブラザーフッド・パーク)がマンハッタンに完成。同球場は、1891年に「ポロ・グラウンズ」に改称してオープンし、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)が本拠地として使用を開始する。この時期にはまだ、プロが使用する球場であっても、収容人数は数千人~1万人台前半規模の物が多数を占めていたが、1882年開場のエクスポジション・パーク(収容人数:16,000人)のように、多くの観客席を備えた球場も存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "1890年代からは、1万人台後半以上の大規模な観客席を備えた野球場が次々と現れるようになる。シカゴ・カブスの本拠地ウエスト・サイド・パークは、1894年の改修で16,000人の観客席を備えた。1901年に誕生したニューヨーク・ハイランダース(現ニューヨーク・ヤンキース)は、当初オリオール・パークを本拠地にしていたが、1903年から収容人数16,000人のヒルトップ・パークに移転する。その後、1911年にジャイアンツが新ポロ・グラウンズに移転。2年後には、ハイランダースから球団名を変更したヤンキースも、同じくポロ・グラウンズに移転した。新ポロ・グラウンズは、34,000人もの大収容人数を誇る、当時では画期的な新球場であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "黎明期の野球場は、現在と異なりフィールドの形がかなり歪であった。ポロ・グラウンズはその典型で、グラウンドがほぼ長方形の形をしており、中堅までが483ft(約147.2m)と異様に長いが、左翼までは279ft(約85.0m)、右翼までは257.67 ft(約78.5m)と極端に短くなっており、ポップフライでもポール際なら本塁打になることが多かった。ベーブ・ルースは、この球場の形状を利用して、本塁打を量産した。また、レイク・フロント・パーク(シカゴ)は、左翼まで186ft(約56.7m)、中堅まで300ft(約91.4m)、右翼まで196ft(約59.7m)と極めて狭く、あまりの狭さに1884年シーズン終了後に広いウエスト・サイド・パークに移転した。狭い球場が多い一方で、中堅までが542ft(約165.2m)、左翼365ft(約111.3m)、右翼400ft(約121.9m)というヒルトップ・パークのように広大な球場も多く、球場サイズは全く統一されていなかった。また、この時代の球場は木製であったため、火事に見舞われることも少なくなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "まだ木造建築が主流だった1908年、初めて鉄骨や鉄筋コンクリートを用いて建設された野球場であるシャイブ・パーク(フィラデルフィア)が開場。これを機に、鉄筋コンクリート製球場建設ブームが沸き起こり、その後長きに渡って米国の野球史を彩る近代野球場が次々と姿を現した。翌1909年にはフォーブス・フィールド(ピッツバーグ)が完成し、1910年には、収容人数3万人で、フィールドの広さも標準的な近代野球場コミスキー・パーク(シカゴ)がオープン。その2年後の1912年には、現存するMLB最古の球場であるフェンウェイ・パーク(ボストン)がオープンした。同年にはネビン・フィールド(デトロイト、後のタイガー・スタジアム)やエベッツ・フィールド(ニューヨーク)、クロスリー・フィールド(シンシナティ)、更に2年後の1914年にはリグレー・フィールド(シカゴ)がオープンし1915年には、当時最大の4万人を収容可能なブレーブス・フィールド(ボストン)が完成した。メジャーリーグの発展と野球人気の上昇により、球場の収容人数も、2万人~4万人規模が主流になっていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "この時期に作られた球場は、依然としてフィールドのサイズは統一されていなかったが、概ね現代の水準に近づいてきていた。また、この時代は街中の限られた空き地に球場を作ることが多かったため、結果として左右非対称の歪な形状になることが多かった。その代表例がフェンウェイ・パークであり、左翼方向が右翼に比べて狭く、本塁打の乱発を防ぐためにレフトの外野フェンスが極端に高くなっている(通称:グリーンモンスター)。左右非対称の形状や、カクカクしたフェンスラインは、土地が足らないことによる苦肉の策であったが、次第に古き良き時代の野球場と象徴として捉えられるようになり、近年の新古典主義ボールパークの多くが、左右非対称の歪な外野フェンスラインを採用している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "1923年には、ニューヨーク・ヤンキースの新球場ヤンキー・スタジアムが開場。収容人数は当時最大の58,000人で、「ルースが建てた家」(The house that Ruth built )という異名を持った。しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」(Death Valley)=「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する。MLB屈指の強豪球団ヤンキースの本拠地として、ヤンキー・スタジアムは数々の歴史的場面の舞台となった。客席が増設され一時は82,000人収容になったり、1946年には照明灯が導入されるなど、改修もたびたび行われた。また野球以外にも使用され、1956年から1973年にかけてはNFLニューヨーク・ジャイアンツの本拠地として使用された。さらにプロボクシングのビッグマッチも行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "ヤンキー・スタジアムの完成を以って、大規模な近代野球場建設ラッシュも一段落する。1931年には「湖畔の失敗(The Mistake on the Lake)」と評されたミュニシパル・スタジアム(クリーブランド)が開場したが、次なる野球場建設ラッシュは、既存の球場の老朽化が始まり、球団拡張が進められた1960年代~1970年代を待つことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "(後述の「多目的施設としての野球場/アメフト兼用球場(円形兼用球場)」の項も参照)",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "1960年代中盤 - 1970年代になると、1900年代初頭に作られた野球場の老朽化が目立つようになった。更に、この時期にはMLBの球団拡張が進められ、各地で新球団が続々と産声を上げていた。また、この頃には既にNFLがMLBと並ぶ人気プロスポーツに成長しており、野球界と同じく新球場を求める声が上がっていた。こうした事情により、野球とアメリカンフットボールの兼用球場が各地で次々に建設されることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "野球・アメフト兼用球場という概念は、元々1887年からフィラデルフィア・フィリーズが本拠地として使用していたベイカー・ボウルを、1933年に誕生したNFL新球団のフィラデルフィア・イーグルスが本拠地として使用するようになったことで、出来上がった。そして、1960年代からは、最初からアメリカンフットボール兼用として建設される円形球場が流行となった。アメフト兼用球場は1970年代までに多数作られていった。1965年には世界初のドーム球場であるアストロドーム(ヒューストン)が誕生し、人工芝も1966年に誕生し各地に広まった。(詳しくは人工芝の項を参照)これらの球場は近代的で未来を感じさせる球場であった。また、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "後に広いファウルゾーンや高めのスタンド、近代的だが無粋な外観、左右対称のグラウンド形状などが「クッキーカッター(画一的、どれも見た目が一緒)」、あるいは「コンクリートのドーナツ」「灰皿」と呼ばれるようになり、不評を買うようになる(後述)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "この流れの中でも、1961年開場のドジャー・スタジアム(ロサンゼルス)は野球専用球場として作られている。また、1973年開場のカウフマン・スタジアム(カンザスシティ)はアメフト用スタジアムと隣接して造られている。1987年にマイアミ・ドルフィンズの本拠地として建設されたドルフィン・スタジアムは、元々はアメフト専用球場であったが、1993年に誕生した新球団フロリダ・マーリンズが本拠地として使用することが決まると、野球も行えるように改修された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "(詳細は、後述の「野球専用球場・ボールパーク(ball park)」の項を参照)",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "1980年代に入っても流れは変わらず、メトロドームや近代的球場の最高峰とも呼べるスカイドーム(現ロジャース・センター)が建設された。この流れを大きく変化させたのは、1992年に開場したオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズである。これに続く新古典派球場の建設ラッシュにより1960年代からの円形兼用球場は次々と閉場され、同じ敷地に野球専用球場とアメフト用スタジアムが隣接するチームが増えていった。円形兼用球場は2008年を最後にメジャーリーグチームの本拠地球場としては使われなくなる。密閉型ドームや人工芝球場も減っていった。現在、このブームにそっていないといえる兼用球場で、移転の予定がないのはロジャース・センターのみである。人工芝球場及び密閉型ドームなのはトロピカーナ・フィールドのみである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "2020年にはテキサス・レンジャーズがグローブライフ・パーク・イン・アーリントンに変わってグローブライフ・フィールドが、2023年以降にはオークランド・アスレチックスがオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムに変わってオークランドボールパークがそれぞれ開場の予定となっている。現在のMLB本拠地球場は新しい物が多く、フェンウェイ・パークやリグレー・フィールドといった古い球場も新球場建設の予定は無いため、当分の間は現在の球場が継続使用されていく見込みである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "日本初の野球場は、新橋鉄道局の職員が結成し“日本初の野球チーム”とされる新橋アスレチック倶楽部が新橋駅近くに設けた保健場とされる。学生の間で野球が盛んになり学生野球が発展すると、早稲田大学が戸塚球場、慶應義塾大学が三田綱野球場、明治大学が明治大学球場などを作った。電鉄会社も沿線開発の一環として、京浜電気鉄道が羽田運動場、阪神電気鉄道が鳴尾球場、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道、阪神急行電鉄がそれぞれ豊中球場、宝塚球場、京阪電気鉄道が京阪グラウンド球場を建設している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "日本初の本格的な野球場は1924年(大正13年)、兵庫県西宮市にできた阪神甲子園球場である。中等学校野球のために阪神電気鉄道が建設した。完成当初は大会規模に比して、観客収容数が多すぎると懸念されていた甲子園は結果的に大成功を収め、ほかの電鉄会社も新たな球場を建設していった。1928年完成の藤井寺球場などがこれに当たる。1926年には明治神宮野球場が完成し、東京六大学野球連盟を中心として使用された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "1936年(昭和11年)に日本職業野球連盟によるプロ野球の第1回リーグ戦が始まった。この年は甲子園球場を基本に鳴海球場や宝塚、戸塚、上井草、洲崎の球場を使用してゲームをしていたが、翌年の1937年に内野スタンドが2層となっている阪急西宮球場と後楽園球場がプロ野球用に造られた。これらに甲子園を加えた3球場を基礎にプロ野球は興行された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "しかし太平洋戦争の激化により、プロ野球も学生野球も中断に追い込まれる。球場も軍に接収され、高射砲が設置されるなど野球どころではなくなっていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "戦争終了の翌年、1946年にはペナントレースも学生野球も再開された。球場によってはアメリカ軍に接収されたところもあったが、徐々に解除されていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "その後GHQの後押しもあり野球場が各地に造られていった。プロ野球チームの親会社によって中日スタヂアム(1948年)、大阪スタヂアム(1950年)、駒澤野球場(1953年)などが建設された。公営の球場も平和台野球場(1949年)、県営宮城球場(1950年)、川崎球場(1952年)、広島市民球場(1957年)などがこの時期に建設されている。これら以外にも、国民体育大会に対応する競技施設の整備を目的とするなどして、全国各地で公営の野球場が順次整備されていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "この時期に建設された球場は、終戦後まもない時期のため、空襲等により空地になっていた市街地を活用して建設される場合が多く、そのため交通の便においては非常に優れていた反面、周辺市街地の復興が進むにつれ、グラウンドや諸設備の拡張が難しいという問題を抱えることとなった。だが、この当時建設された球場は、後に建設される球場に多大な影響を及ぼしている。それら日本独自とも言える特徴は以下の通りである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "1950年代からは各地にナイター設備が整備されていった。1958年にはプロ野球の全本拠地においてナイター設備が整備されている。地方では引き続き公営野球場の整備も進められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "1962年の東京スタジアムの竣工をもってプロ本拠地の整備はほぼ一段落する。米国のキャンドルスティック・パークを手本に建設された東京スタジアムは、多層式スタンド、内外野天然芝を備え、当時の他球場とは明らかに異なるモダンな設計だったが、僅か15年で取り壊され、歴史の中へ消えていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半にはアメリカの1960年代の流行が流れてきた。1976年には後楽園球場に日本初の人工芝が敷設されると、その見た目の美しさと整備の容易さからプロ野球の本拠地球場を中心に広まりを見せた。西宮球場、神宮球場等、由緒ある歴史を持つこれら球場も次々に人工芝を導入した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "さらに1978年には可動式スタンドや昇降式マウンドを備え、球場の平面図を真円形とし、大規模なコンサート等、野球以外のイベント開催にも対応できる横浜スタジアムが建設された。翌1979年には西武ライオンズ球場(現西武ドーム)が丘陵地を掘り起こすという珍しい形で建設された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "1988年に日本初のドーム球場、東京ドームが誕生した。これは同時に日本武道館を超える規模の室内コンサート会場が誕生したということになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "屋根を備えた巨大コンサート会場という側面を持つ多目的ドーム球場は、大規模なイベント誘致を当て込んだ自治体にとって、存在すること自体が一種のステータス・憧れであり、巨額の資金を投じて大都市に次々と建設されていった。福岡ドーム(1993年)、大阪ドーム(現京セラドーム大阪)(1997年)、ナゴヤドーム(1997年)、札幌ドーム(2001年)などである。これとは別に西武球場も屋根を新設し西武ドームとして1999年に生まれかわった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "だが、これらの球場はいずれもアメリカの1960年代の流行である多目的円形球場の域を脱していない。多目的であるが故、可動式スタンドを備えた結果、広大なファウルゾーンが存在して臨場感に欠け、これでは野球観戦に最適な形態とは言い難い。さらに、以前はグラウンドレベルに設置されていた放送席が機械器具の発達によりスタンド内に設置されるようになったが、代わりに審判員・関係者用の諸室がグラウンドレベルに設置されたため、依然として観客席はグラウンドからは遠い存在であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "さらに多目的ドーム球場は、可動式スタンド、昇降式マウンド、空調設備等、複雑な装置を備えた結果、補修・メンテナンス費用も莫大なものになっている。一例を挙げると、札幌ドームのメンテナンス費用は、2011年からの20年間で約200億円に達すると試算されており、その調達方法について未だ目処がついていないのが現状である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "一方で屋外球場では自治体によってグリーンスタジアム神戸(1988年)、千葉マリンスタジアム(正確には第三セクターによる)(1990年)が建設され、プロ野球の球団誘致に成功している。大阪ドーム、札幌ドームも第三セクターによるものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "なお東京ドームとグリーンスタジアム神戸の両球場は、日本のプロ本拠地としては初めて公認野球規則で定められた規格を満たした球場である。この後、プロの使用を視野に入れた新設球場はほとんどが規格を満たすようになり、既存の球場は順次拡張されていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "野茂英雄のメジャー挑戦により日本でもメジャー流の新古典派ボールパークや天然芝などに注目が集まるようになった。各球場でフィールドシートが設置されたり、天然芝に近いロングパイル人工芝などの新型人工芝への張り替えや、リボン状の新型映像装置などメジャー流を取り入れた改修が進んでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "1999年に完成した鶴岡ドリームスタジアムに日本の野球場として24年ぶりに内野天然芝が敷設された。翌2000年にはグリーンスタジアム神戸(ほっともっとフィールド神戸)、2001年にはサンマリンスタジアム宮崎も内野に天然芝を敷設した総天然芝の野球場となった。特に「ボールパーク宣言」を掲げたオリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸は、その後も低フェンス化、日本初のフィールドシートの設置など日本のボールパークの歴史の端緒となる改革を進めていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "2004年から2期にわたる大規模改修工事をうけた宮城球場では天然芝こそ当時は断念した ものの、メジャーの新古典派を意識した特徴的なスタンドが造られた。その後、東京ドーム、福岡ドームなどでもファウルグラウンドに仮設のフィールドシートを設けるなど、ボールパーク化の試みは続いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "2009年に新規の野球場として完成したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(マツダスタジアム)は、屋外型、左右非対称のフィールド、内外野完全天然芝、狭いファウルグラウンド、といった特徴を備え、さらに観客席最前列をグラウンドレベルとする等、米国のボールパークに近いレベルの野球場となった。ただし、外野フェンスのラインはレフトの一部を除いてこれまで通りの円弧である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "2023年に新規の野球場として完成したエスコンフィールドHOKKAIDOは左右非対称のフィールド、内外野完全天然芝、狭いファウルグラウンドに加え、日本の野球場としては初のスライド式開閉式屋根(北海道の建造物に多く見られる三角屋根のデザインを踏襲している)や、米国のボールパークでは一般的な直線のみの組み合わせによる外野フェンス(日本プロ野球の本拠地としては1953年までの藤井寺球場以来)とその向こうに設けられたブルペンなど、米国のボールパークの特徴を取り入れたデザインとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "広大さと収容能力の点で利点を持つことから、野球場は古くから野球以外のスポーツやイベントの開催地として使われてきた(阪神甲子園球場は設立当時から多目的施設としての利用も視野に入れていた)。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "野球以外のスポーツで野球場を利用することが最も多い競技は、野球と同じく米国発祥の競技であり、広大なフィールドを必要とするアメリカンフットボールである。シーズン開催時期があまり重ならないことから、米国では野球場がMLBとNFLの本拠地としてよく併用され、特に1960年代からは可動スタンドを備えた円形球場(後述)が多数、新設された。近年の米国では新古典派球場ブームにより分化されていき、2020年時点でMLBとNFLの本拠地として併用されている球場は存在しない。日本では甲子園ボウル、ライスボウル(東京ドームで開催)などのように、ボウル・ゲームを野球場で行うケースが多い。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "近年ではプロレス(主に新日本プロレス)・K-1などの格闘技が行われることも多い。ほかにもサッカー、競輪などが野球場で行われた例がある。また日米のプロサッカークラブの一部が野球場を本拠地としている。札幌ドームのホヴァリングサッカーステージの他に、米国ではアメフト兼用球場のアメフト用フィールドをそのままサッカー用に転用している。ただしこちらもサッカー用スタジアムがそろいつつある。詳細は各野球場の記述を参照。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "イベントとして多いのはコンサートである。特にドーム球場は当初よりコンサート開催を考慮して設計されている。日本ではかつて、日本武道館で単独コンサートを行うことが一流の証と考えられてきた時代があったが、近年は収容能力をはるかにしのぐ野球場でのコンサート(主に東京ドーム)が最大のステイタスとされている。観客動員力が高いバンド・アーティストを『スタジアム級』と称することからも、それが伺える。ただし、野球場はもともと歌や演奏を聞かせるために作られた施設ではないため、音響や舞台設置の面で問題が生じるために、高い人気を得ていてもあえてスタジアムコンサートを行わないアーティストもいる。近年ではサッカースタジアムおよび陸上競技場を用いるケースが増えたため、相対的に野球場でのコンサート開催は減少している。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "他にも、展覧会や大きな団体の集会でも使用される例がある。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "米国では1960年代から1970年代にかけてアメフト兼用球場が流行した。1961年のD.C.スタジアムがこのタイプの始祖である。従来の球場はフィールドの形にそったスタンドであったが、これらの球場は二塁ベースの後方を中心に円形にスタンドを構成する。その円形の中に可動スタンドを備え、グラウンドが野球の時には扇型、アメフトの時には長方形になるように設計されていた。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "円形のスタジアムは後にクッキーカッター(Cookie-cutter。日本語では“金太郎飴的”)としてファンから嫌われることとなる。円形兼用球場が嫌われた理由としては、見栄えの悪さと共に、野球観戦に不向きであったことが挙げられる。そもそも、野球とアメフトでは要求されるスタンドが異なる。基本的にバッテリー間の攻防が主となる野球では、バッテリー間を観るのに適した傾斜の低い観客席が好まれ、パスやランプレー、キックなどで常にフィールドを広く使うアメフトでは、急勾配でフィールド全体を俯瞰できるものが好まれる。更に、少ない試合数で一試合に多くの観客を動員するアメフトと違って、シーズン中はほぼ毎日試合を行う野球では、アメフト兼用球場の収容力(6万人~7万人台)は過剰であった。そのため、常に空席が目立つことになり、見栄えの悪さを強調した。アメフト兼用の円形球場は、野球を国民的娯楽(National Pastime)として愛する米国民に敬遠され、MLBの観客動員は停滞する。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "1990年代に入ると、次々と前述の新古典派球場が完成。MLBの観客動員は飛躍的に増加し、1990年代から2000年代にかけての好況も相まって、MLBは空前の好景気を迎えることになる。一方で、アメフト兼用スタジアムは次第に姿を消していき、2023年時点で残存しているのはオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム、ドルフィン・スタジアムの2球場のみである。しかしドルフィン・スタジアムを本拠地としていたフロリダ・マーリンズ(のちのマイアミ・マーリンズ)は2012年に新球場に移転したため、それ以降同スタジアムにおいて野球は行われていない。オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムを本拠地とするオークランド・アスレチックスも、2012年に野球専用球場に移転する予定であったが、財政難と地元住民の反対により計画は中止された。一方、2019年シーズンをもってNFL球団のオークランド・レイダースがラスベガスに移転したため、オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムは(レイダースが一時ロサンゼルスに移転していた頃以来の)野球専用に戻り、恒常的に兼用される球場は消滅した。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "一方、日本では横浜スタジアム、千葉マリンスタジアム、福岡ドーム、大阪ドーム、ナゴヤドーム、札幌ドームがこのタイプである。千葉マリンスタジアムを除いて円状にスライドする可動席を採用している。可動スタンドは三日月状もしくは弓形に近い形状のものが一対あるのが基本であるが、ナゴヤドームは本塁後方にも可動スタンドが存在する。これらの可動スタンドを持つ球場は球場の中心点から同じ距離にある座席が全て同じ高さにあるという特徴がある。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "これらの球場のスタンドは以下の欠点がよく指摘される(詳しくは各球場の項を参照)。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "ドーム球場とはグラウンドをドーム形状の屋根で覆った野球場のこと。天候に左右されずにゲームを開催できるという長所がある。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "世界初のドームスタジアムは1965年アストロズの本拠地として建設されたアストロドーム。日本初のドームスタジアムは1988年完成の東京ドームである。現在、日本でプロ野球チームの本拠地として使用されているドーム球場には東京ドーム(1988年)、福岡ドーム(1993年)、ナゴヤドーム(1997年)、大阪ドーム(1997年)、西武ドーム(1999年)、札幌ドーム(2001年)がある。地方には大館樹海ドーム(2軍戦が開催)、出雲ドームなどが存在する。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "ドーム球場は屋根の仕様から大まかに2つのタイプに分類することができる。1つ目のタイプは屋根の素材にテフロンコーティングのガラス繊維膜材などを使用し、場内を陽圧化することで屋根を持ち上げるタイプである。東京ドームやアメリカのメトロドームがこれにあたる。2つ目のタイプは天井を鉄骨屋根で覆うタイプである。福岡Yahoo!JAPANドームをはじめ日米問わずほとんどの球場がこの方式を採用している。その他にも木造建設の大館樹海ドーム、屋外野球場に屋根をかぶせた西武ドームなど、珍しいケースもある(「西武ライオンズ球場」時代は無蓋だった)。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "当初は、屋根で場内を完全に密閉した密閉式のドーム球場が多かったが、青空・夜空の下での野球観戦を希求する声が強くなるにつれて、天候によって屋根を自由に開閉できる開閉式ドーム球場が登場した。世界初の開閉式ドーム球場はモントリオール・エキスポズの本拠地だったオリンピックスタジアムで、1988年改修されて簡易開閉式となった(同球場は設計ミス・故障により屋根を開閉できない状況が続いた)。当初から開閉式として建造されたドーム球場はブルージェイズの本拠地として1989年完成したロジャース・センターである。このスタジアムは日本初にして唯一の開閉式ドーム球場である福岡ドーム(福岡ヤフオク!ドーム)の設計に影響を与えている。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "開閉式ドーム球場が生まれた当初はあくまでドーム球場であることを売りとしており、造形的にも屋根の開閉が可能なドーム球場としての色彩が濃かった。日照量が足りないこともあり、スカイドーム(ロジャースセンター)、福岡ドーム(ヤフオクドーム)は人工芝である。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは1990年代以降、レトロ調ボールパークがブームになるにつれ、開閉式の屋根を建設するにしても、悪天候時のみ屋根を閉じる前提の設計とし、フィールドには天然芝を敷設し、屋根はドーム形状を用いない、「ドーム」を名乗らない、などボール・パーク色の強いものとなっていった。チェイス・フィールド、T-モバイル・パーク、ミニッツメイド・パーク、アメリカンファミリー・フィールドなどがその代表例である。これら球場に屋根が設置された理由は、チェイス・フィールド、ミニッツメイド・パーク、アメリカンファミリー・フィールドについては所在地特有の暑さ・寒さを避けるために、T-モバイル・パークは雨の多いシアトルの気候を考慮されたためである。一例としてチェイス・フィールドのナイトゲームの場合、午後4時の地元チーム練習開始に合わせて屋根は閉じられ、午後7時の試合開始に合わせて再び屋根が開く。この開閉に必要な時間はわずか4分程度、電気代は2ドルとされている。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "一方、日本で唯一の開閉式ドーム球場であるヤフオクドームは日照量の問題、騒音問題、強風、開閉する際にかかるコストなどの複合的な要因で、2000年以降は特別に指定した試合を除き、屋根を開けて試合を開催しない状態になっている。野球場ではないが、サッカー場として建造された天然芝の御崎公園球技場では、日照や通風などの問題で芝の生育が不良になるという問題も発生している。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "1999年完成の西武ドームは、屋根を支えるための、客席のみを覆うドーナツ状の鉄傘を取り付ける第1次工事が完了した1998年度に西武ライオンズ球場から一時的に西武ドーム球場(翌年正式に西武ドームへ改称)へと改称したが、グラウンド部分には屋根がなく降雨時にはもちろん雨天中止となった。このようにドーム球場ではないにもかかわらずドームを名乗るという珍しい状況が1年間続いた。屋根完成後も、観客席後方と屋根の間に隙間は存在したままであり、ドーム球場であるのにもかかわらず場外本塁打が生まれる。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "純粋に野球開催のみを主目的に建設された野球場を、現在、米国では一般に「ボールパーク」と呼ぶ。野球場を指す一般的な用語としては、従前から「スタジアム」があり、米国では、1920年にグリフィス・スタジアムが野球場として初めて「スタジアム」を名乗って以来、「○○・スタジアム」という名の名称が一般的であった。しかし、1990年代以降に作られた新球場では、「○○・パーク」、「○○・フィールド」、「○○・ボールパーク」が主流になり、スタジアムと名が付く球場は減少傾向にある。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "ボールパークと呼ばれる野球場は、天然芝、狭いファウルゾーン、野球専用でプレーが観やすい観客席、左右非対称のグラウンド形状、設計の随所に見られる遊び心、広く開放的な観客コンコース、等を共通の特徴としており、新古典派(ネオ・クラシック様式)とも呼ばれ、1992年に開場したオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズがその先駆けとなった。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "カムデンヤーズはデザイン面だけでなくマーケティングの面でも画期的な存在であった。それまでの球場はアメフトとの兼用が多く、そのため少ない試合数でより多くの観客を収容することに重点を置いた設計であった。これはレギュラーシーズンだけで年間162試合もこなすMLBにとっては収容力が過剰であった。そこで、カムデンヤーズはあえて収容人数を4万人台まで減らし、相対的に収容率を上げ、ファンにチケット購入に対する飢餓感を醸成させた(「早く買わないとチケットが売り切れるかもしれない」と思わせることが購買意欲をあおる最高のマーケティングとなる)。一方で、客単価の高い高付加価値の上位クラス座席を増設し全座席に対する比率を上昇させ、全体の座席数は減らしながらも、収益性は逆に高まるというビジネスモデルを作り上げた。これに倣い、その後の新球場も座席数を抑える傾向にある。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "さらに現在、米国においては、マイナーリーグ用に低予算でボールパークを建設し、「市街地の活性化」に活かそうとする事例が増えている。ボールパークの周囲にはメリーゴーランドや観覧車、さらにはバーベキューコーナーを設ける等、野球にあまり関心が無い人であってもボールパークの空間・雰囲気を楽しめるよう様々な工夫が凝らされており、その結果、数千人収容規模のボールパークでありながら、試合毎にそのキャパシティを大幅に上回る観客が訪れている。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "このようにボールパーク型の野球場は、旧来の球場以上に訪れる観客の裾野を広げる可能性を持つと言える。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "日本においても、野球場のことを「○○スタジアム」(野球に限らず、観客席を持つ競技場を意味する単語)、または「○○球場」と呼んでいたが、グリーンスタジアム神戸が2000年に「ボールパーク化計画」を発表、プロ野球本拠地として25年ぶりに内野を天然芝化し、その後も低いフェンス、内野にせり出したフィールドシート、1990年代から続くスタジアムDJによる場内アナウンスなど球場をアメリカ風に改革していったことで、「ボールパーク」という言葉が広く認知された。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "また、広島の新球場計画では、当初ドーム球場を建設する方針であったが、本拠地とする予定の広島東洋カープがドーム完成後の採算性を危惧し、また選手らの肉体的負担を考慮して天然芝のフィールドを強く求めたことなどから、ボールパーク建設計画に変更された。(2003年に計画凍結、2005年に現計画が再開。詳細はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を参照)",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "さらに東京ドームなどで相次いでフィールドシートが設置され、千葉マリンスタジアム、横浜スタジアム、札幌ドームで内野フェンスが撤去もしくは低くされたりするなど、従来からの多目的球場においても、ボールパーク化の試みが行われている。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "1992年のオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズを皮切りにMLBは未曾有の新古典派新球場建設ブームに沸いた。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "上記のように、2020年までの29年間に23もの新球場が開場し、現在建設・計画中のもので1つの球場が開場となる予定である。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "新球場ラッシュの背景には、ほとんどの野球場が建設費用の大半を税金でまかなっていることが挙げられる。2015年1月までコミッショナーを務めたバド・セリグの卓越した経営手腕の下、アメリカ野球史上に残る好景気を記録し、日本に比べて黒字経営球団の多いメジャーリーグといえど野球場の建設費用は莫大であり、簡単に調達できる金額ではない。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "そこで、ほとんどの新球場建設にあたっては、住民投票によって地元住民の同意を得て税金投入や特別税徴収、公債発行が行われている。さらに球団は自治体から完成した球場を格安でリース契約できるなど、多くの優遇政策があり、その結果、このような新球場建設ラッシュを生んでいる。2006年までに建設された新古典派球場のなかで住民投票で税金投入などが認められなかったのはオラクル・パーク(サンフランシスコ・ジャイアンツ)のみである。例えば、2010年開場のミネソタ・ツインズの新球場は、建設費用5億2200万ドルのうち、約4分の3に相当する3億9200万ドルがミネアポリス市など地元自治体の負担であり、ミネアポリス市があるヘネピン郡では消費税率を引き上げている。このように新球場建設には地元住民の理解と協力が不可欠である。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "なぜこのような公金投入が行われることになるのかは、アメリカの経済学者、アンドリュー・ジンバリストの著書『May the Best Team Win』 などに詳しい。それによると、MLB機構は球団の数や移転を管理し、球団数よりもそれを欲しがる自治体のほうが多い、需要過多・供給不足の状態を意図的に作り出している。そのため、フランチャイズ都市では球団オーナーがより良い待遇・環境を自治体から引き出すために「移転」という選択肢を選ぶこともある。地域の象徴であり、地域活性化にもつながるプロスポーツチームを手放したいと思う自治体は少なく、オーナーや球団の要求を呑むケースが多い。",
"title": "野球場の形態について"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "かつて存在した「アメリカの古き良き野球場」を模した球場が、人々に懐かしさという感情をわき起こさせたことが、新古典派球場ブームの根底にある、というアメリカ固有の事情があるということが重要である。",
"title": "野球場の形態について"
}
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野球場は、野球を行うための運動場である。「球場(きゅうじょう)」とも。
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{{Redirectlist|球場|その他のスポーツ|球技一覧|北朝鮮の郡|球場郡}}
{{Otheruses||[[村上春樹]]の短編小説|野球場 (村上春樹)}}
{{出典の明記|date=2017年10月}}
{{右|
[[ファイル:ATT Sunset Panorama.jpg|thumb|300px|[[オラクル・パーク]]。屋外、天然芝の野球場。アメリカでは普通の、左右非対称の野球場である。]]
[[ファイル:FenwayParkDimensions.svg|thumb|300px|[[フェンウェイ・パーク]]([[レッドソックス]]のホーム球場)のフィールドの形。複雑に歪んでいる。レフト側のフェンスまでの距離が短いが、その代わりレフト方向に打つバッターばかりが有利にならないように[[:en:Green Monster]] グリーン・モンスター(緑の怪物)と呼ばれる高さ11.33 mの緑色の壁が設けてある。]]
[[ファイル:SafecoFieldTop.jpg|thumb|300px|[[T-モバイル・パーク]]。[[シアトル・マリナーズ]]のホーム球場であり、以前はセーフコ・フィールドと呼ばれていた。開閉式屋根付きの天然芝の野球場。ひと目では分かりづらいが、この球場も左右非対称である(T-モバイル・パークの記事にフィールド図とフェンスまでの距離を掲載)。]]
[[ファイル:Dodger-Stadium-Panorama-052707.jpg|thumb|300px|[[ドジャー・スタジアム]]。屋外・天然芝・野球専用で、アメリカにしては珍しく左右対称の、例外的な野球場である。]]
}}
'''野球場'''(やきゅうじょう、{{Lang-en-short|ballpark}})は、[[野球]]を行うための[[運動場]]である。「球場(きゅうじょう)」とも。
== 概要 ==
=== 規格 ===
[[ファイル:Baseball_Area.png|thumb|300px|野球場の概要図]]
野球の発祥地であり本場である[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[MLB]](メジャーリーグ・ベースボール)の野球場の形は'''ひとつひとつ異なっている'''。
もともとアメリカでは野球場は街中の空き地に造られていたため、周囲の敷地や建物の影響を受けて複雑に歪んでいたので、野球場の形状や広さはまちまちでよいということになった。現在でもそうである([[ボストン・レッドソックス]]の本拠地[[フェンウェイ・パーク]]はそのような昔の名残を色濃く残している)。野球場全体は左右非対称で歪んだ形をしていてもよいし、外野が複雑な形でもよい。外野のフェンスもウネウネと曲がっていても良くて、実際多くの球場のフェンスがそれぞれ敷地の形の都合や周囲の建造物の影響を受けてさまざまなゆがみ方をしており、そこに描かれる「この線を越えるとホームランと認定される線」も各球場の都合で引いてよく、(広告収入をもたらす)宣伝用看板を避けるように複雑に上下に折れ曲がっていてもよい。ファールエリアの形状も各球場ごとに全然異なっており、左右非対称に歪んでいる場合も多い。
'''ただし内野のサイズは厳密に定められている'''。すなわちダイヤモンドのサイズ、つまり4つの塁(ベース)が正しく[[正方形]]となることや塁間の寸法も厳密に定められている。
MLBの球場のサイズに関する規定は'''OFFICIAL BASEBALL RULES'''にかかれている。OFFICIAL BASEBALL RULESの2019年版はこちら[https://content.mlb.com/documents/2/2/4/305750224/2019_Official_Baseball_Rules_FINAL_.pdf]に公開されており、その「2.01 Layout of the Field」に書かれている。
{{quotation|The infield shall be a 90-foot square. The outfield shall be the area
between two foul lines formed by extending two sides of the
square, as in diagram in Appendix 1 (page 158). The distance from
home base to the nearest fence, stand or other obstruction on fair
territory shall be 250 feet or more. A distance of 320 feet or more
along the foul lines, and 400 feet or more to center field is prefer-
able. The infield shall be graded so that the base lines and home
plate are level. The pitcher’s plate shall be 10 inches above the
level of home plate. The degree of slope from a point 6 inches in
front of the pitcher’s plate to a point 6 feet toward home plate shall
be 1 inch to 1 foot, and such degree of slope shall be uniform. The
infield and outfield, including the boundary lines, are fair territory
and all other area is foul territory.
It is desirable that the line from home base through the pitcher’s
plate to second base shall run East-Northeast.}}
最後の2行を解説すると、『本塁からピッチャープレートや2塁へと引いた直線は、'''東北東方向'''にあることが "望ましい"』としている。「望ましい」としているので、いわゆる努力義務(努力目標)であり、絶対に守らなければならない規則というわけではない(なぜこのような方角に関する規定があるかというと、この規定に従って本塁を南西に置いた場合、内野席の観客は太陽が視野に入らないためプレーが見やすいのである。さらに多層階のスタンドを持つ球場の場合、内野スタンドの大部分が午後のデーゲーム時には日陰となるので、観客は直射日光に晒されず涼しく観戦できる)。
努力義務(努力目標)であるが、アメリカのMLBの野球場のほとんどはこの努力義務を守っている(例外は、[[PNCパーク]]や[[グレート・アメリカン・ボール・パーク]]くらいである。これらの例外的球場は「景観作り」をするために方角の努力目標を後回しにした)。
なお、この努力義務規定に素直に沿った球場だと左投手(左腕で投げる投手)の投げるほうの腕(左腕)は南側になる。ここから左投手は「[[サウスポー]]」(south-paw)と呼ばれるようになったとされる。
;日本
日本の[[公認野球規則]]は、基本的にアメリカのOFFICIAL BASEBALL RULESを翻訳したものであり、やはり2.01章に以下のような野球場の規格についての定めがある。以後この節における数値は全て公式規定である。
{{quotation|野球場を作るためには、次の要領で正方形を描き、その一辺を90[[フィート]](27.431[[メートル]])としなければならない。<br>
正方形のそれぞれの頂点には目印となる塁を置く。<br>
このうちの一点は[[#本塁|本塁]]と呼び、五角形のゴム板を置く。<br>
正方形を描くためにはまず本塁を置く位置を決め、本塁から127フィート3<math>\tfrac{3}{8}</math>インチ(38.795メートル)の位置に[[#二塁|二塁]]を置く。<br>
次に、本塁と二塁を基点に90フィート(27.431メートル)ずつ測って、本塁から見て右側の交点を[[#一塁|一塁]]、左側の交点を[[#三塁|三塁]]と呼ぶ。<br>
つまり本塁から反時計回り順に、一塁・二塁・三塁となる。<br>
本塁以外の3つの塁には厚みのある、正方形状のキャンバスバッグを置く。<br>
一・三塁ベースは描いた正方形の内側、二塁ベースは描いた正方形の頂点とキャンバスバッグの中央が重なるように置く。<br>
そして本塁から二塁への線分上で、本塁から60フィート6インチ(18.44メートル)の位置には投手板と呼ばれる長方形の板を置く。<br>
各塁と投手板は全て白色である。<br>
本塁から一塁へ伸ばした半直線と、本塁から三塁へ伸ばした半直線をファウルラインと呼ぶ。<br>
2本のファウルラインで挟まれた、投手板や二塁のある側をフェアゾーン、それ以外をファウルゾーンと呼ぶ。}}
ファウルゾーンについては「本塁からバックストップ(ネット)までの距離、塁線からファウルグラウンドにあるフェンス・スタンドまでの距離は60フィート(18.288メートル)以上を必要とする。」 と書かれている。塁線は一、三塁までを指し、外野のファウルゾーンについては規定がない。
{{右|
[[ファイル:180404M-0005.jpg|right|thumb|300px|人工芝の多目的野球場([[横浜スタジアム]])]]
[[ファイル:Summer Koshien 2009 Final.jpg|right|thumb|300px|日本最古の本格的な野球専用球場であり、日本を代表する野球場の[[阪神甲子園球場]]]]
[[File:Tokyo_Dome_2015-5-12.JPG|thumb|300px|right|日本初の[[ドーム球場]]、[[東京ドーム]]]]
}}
外野の広さについては「本塁よりフェアグラウンドにあるフェンス、スタンドまたはプレイの妨げになる施設までの距離は250フィート(76.199 メートル)以上を必要とするが、両翼は320フィート(97.534メートル)以上、また中堅は400フィート(121.918メートル)以上あることが優先して望まれる」と規定されている。両翼とは、本塁と一塁・三塁とを結ぶファウルラインの延長線上を指し、中堅とは本塁と二塁を結ぶ直線の延長のことをいう。
この規定には注記があり、[[1958年]][[6月1日]]以降にプロ野球球団が新設する球場は、両翼325フィート(99.058メートル)、センター400フィート(121.918メートル)以上なければならないとし、既存の球場を改修する場合もこの距離以下とすることができない旨を定めている。ただし、日本においてはこの規定を満たさない球場が1958年6月1日以降も多数誕生しており、プロ野球球団の本拠地球場でも規定を満たしていない球場が見られる(詳細は後述)。
[[File:日米の野球場の方位.png|thumb|300px|日米の屋外野球場における本塁の方位]]
日本でもMLBの公式ルールと同様に方角に関する規定が盛り込んであり、「本塁から投手板を経て二塁に向かう線は、東北東に向かっていること」を「理想とする」と努力義務を定めている。
日本の球場は規定を無視して、ピッチャープレートや2塁を南から南南西方向に(「本塁を北から北北東に」)設置する場合が多い。これは日本の球場の多くが、[[国民体育大会]]や学生野球といった教育寄りの目的で建設された経緯があり、守備に就くプレイヤーたち(学生たち)への配慮を優先し午後のデーゲームで太陽が視野に入らないよう配慮した方向を選択したためである(代わりに、観客やバッターのほうは犠牲になってしまった)。
=== バッターボックス、キャッチャーボックス ===
[[ファイル:David-ortiz-batters-box.JPG|thumb|250px|左打席に立つ打者([[デービッド・オルティス]])。写真右は打者の後方に構える捕手と[[球審]]。]]
バッターボックス(batter's box、ルール上の正式名称はバッタースボックス、もしくは打者席)とは、打撃を行う際に[[打者]]が立つ場所のこと。しばしば'''[[打席]]'''とも言われる。ただし、「打席数」を意味する場合の「打席」は、英語で "plate appearance" という。通常は、[[土|天然土]]や[[アンツーカー]]の上に白いチョークで四角い線が引かれ、バッターボックスが示されている。バッターボックスは、本塁を挟んで左右に1つずつ存在し、打者はそのどちらかに入って打撃動作を行う。[[投手]]の側から見て右側の三塁方向に近いバッターボックスを右打席、一塁方向に近い左側のバッターボックスを左打席という。
打者の身体の一部分でも、バッターボックスの外で地面に接している時、投手は投球動作を行ってはならない。また、打者が一旦打席に入ったならば、投手がピッチャープレートに足を触れた後に打席を外すためには、必ず審判に[[タイムアウト]]を要求しなければならない。打球がフェアグラウンドに飛べば、打者は打者走者(バッターランナー)となって一塁に向かって走る必要がある。左打席の方が一塁ベースに近いため、内野安打に関しては左打席が有利である。
ホームベース後方のファウルグラウンドには、キャッチャーボックス(catcher's box、ルール上の正式名はキャッチャースボックス、もしくは捕手席)が位置している。[[捕手]]は、このキャッチャーボックス内で捕球動作を行う。キャッチャーボックスも、バッターボックスと同じく白いチョークで位置が示されている。投手が投球動作を始め、その手からボールが離れるまで、捕手は必ずファウルグラウンドに設けられたキャッチャーボックス内に位置していなければならない。
=== ネクスト・バッタースボックス、コーチスボックス ===
次打者、もしくは代打予定者が待機する場所として、[[ダートサークル]]側方の規定された位置(一塁三塁側それぞれ一箇所ずつ)に直径5[[フィート]]の円形区画が設けられ、これをネクスト・バッタースボックス(next batter's box、次打者席)と呼ぶ。'''[[ネクストバッターズサークル]]'''、'''ネクストバッターサークル'''、'''ウェイティングサークル'''などとも称される。
また、一塁三塁のファウルゾーン側には、ベースコーチのためのコーチスボックス (coach's box) が白チョークなどにより明示される。
=== 内野 ===
野球場のグラウンドは、大別して[[内野]]と[[外野]]の2つに区分できる。内野には4つの'''塁'''(るい、英:base または bag、日本語でもしばしば'''ベース'''と呼称)が置かれ、内野を守る[[捕手]]、[[投手]]を除く4人の[[野手]]が[[内野手]]と呼ばれる。内野の正方形内のことをダイヤモンドとも呼ぶ。
==== 本塁 ====
[[ファイル:Subway Series 2008.jpg|thumb|250px|本塁上は、度々捕手と走者のクロスプレイの場となる]]
本塁は、内野に位置する4つの塁のうち、左右両バッターボックスの間に位置する塁である。ホームベース(home base)、またはホームプレート(home plate)ともいう。4つの塁の中で最もジャッジの基準に用いられることが多い塁であり、得点を記録するために最終的に到達しなければならない塁である。本塁は[[五角形]]のゴム板で、グラウンドと面一に埋め込まれている。そのためプレイの最中に本塁が土に覆われてしまうということはしばしばであり、その都度[[審判員 (野球)#球審|球審]]がブラシで本塁上の土を払う光景が見られる。
野球場を作るには、まず本塁の位置を決める必要があり、これを基準にして他の塁や[[マウンド]]などの位置が決められる。公認野球規則2.02では、本塁を次のように定義している。
<blockquote>本塁は五角形の白色のゴム板で表示する。この五角形をつくるには、まず一辺が 17 [[インチ]](43.2 [[センチメートル]])の正方形を描き、17 インチの一辺を決めてこれに隣り合った両側の辺を 8.5 インチ(21.6 センチメートル)とする。それぞれの点から各 12 インチ(30.5 センチメートル)の二辺を作る。12 インチの二辺が交わった個所を本塁一塁線、本塁三塁線の交点に置き、17 インチの辺が投手板に面し、2 つの 12 インチの辺が一塁線及び三塁線に一致し、その表面が地面と水平になるように固定する。</blockquote>
本塁は、塁やマウンドを設ける上での基準点としての役割だけでなく、[[ストライクゾーン]]の幅を決める基準としての役割も持つ。打者が打とうとしなかった(バットを振らなかった)投球が[[ストライク (野球)|ストライク]]と判定されるためには、インフライト(ノーバウンド)で本塁上を通過していることを必要とする([[三振]]、一塁に走者がいない、ワンバウンドで捕球された・若しくは後逸、この3条件が満たされた瞬間は[[振り逃げ]]が可能となり、出塁できる)。
走者がアウトにならずに本塁に達すれば、得点が記録される。そのため、得点させまいと触球を試みる[[捕手]]と、触球を避けようとする走者がぶつかり合う[[クロスプレイ]]が起こることもあり、他の塁に比べて激しいプレイが起こりやすい。中には、捕手が本塁に触れさせまいと走路をブロックしたり、逆に、ブロックする捕手を、返球されるボールを受け取る前に突き飛ばして本塁前から排除し、本塁に触れようと体当たりを敢行する走者もみられる。これらのプレイは野球の醍醐味の一つと見られる向きもあるが、大怪我や大事故につながりかねない、非常に危険なプレイであり、また状況によっては[[走塁妨害]]あるいは[[守備妨害]]が宣告される反則行為ともなり得るものである(ぶつかり方によっては[[乱闘]]の発端にさえなる){{efn|[[メジャーリーグベースボール]]は2014年シーズンから、捕手がボールを持たずに本塁前に立ち塞がった場合は走塁妨害で本塁生還と看做すと定め、2015年のOfficial Baseball Rules改正時に、規則6.01(i)として「本塁での衝突プレイ」という項目が追加された。日本でも2016年に、同様の改正が行われた。}}。
[[プロ野球]]やメジャーリーグでは、審判の判定に不服を持った選手が抗議の意思を示すために、土を蹴り上げて本塁の幅を狭くしようとしたり、つばを吐いたり、プレート脇に“今の球はボールだろ”とバットで線を引いたりする行為を見かけることがある(これを実際に行うと球審侮辱で[[退場]]となる)。
==== 一塁 ====
[[ファイル:Baseball Play-at-first.jpg|thumb|250px|一塁ベースへ向かう打者走者と、送球を捕球しようとする[[一塁手]]。]]
一塁(first base、または1B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁側から見て右に位置する塁であり、打者走者が最初に到達しなければならない塁である。打者走者は、ただちに一塁に戻ってくる(二塁へ進塁を試みず、一塁へ戻ってくる)ことを条件として、駆け抜けることが認められている。一塁側ファウルライン(塁線)には「[[スリーフットライン]]」が設定されている。
打者が[[アウト (野球)|アウト]]にならずに一塁ベース上に到達することを[[出塁]]という。出塁が可能なのは[[安打]]、[[四球]]、[[死球]]、[[失策]]、[[野手選択]]、[[振り逃げ]]、[[打撃妨害]]、[[走塁妨害]]のいずれかの場合である。
一塁ベース付近を守る野手を、[[一塁手]](first baseman)という。一塁手は各内野手からの送球の的となるため、長い四肢を持つ長身の選手が好ましいとされる。一般に打球や送球の捕球や、捕球後の送球、[[牽制球]]の触球では左投げの選手([[サウスポー]])の方が有利だとされる。右投げの選手は捕球後、体を90度回転させて無理な姿勢での送球になりがちだが、サウスポーなら自然体で投げることができる。牽制の触球は右手にミットを持つほうが素早く行うことができる。一塁手は普段、一塁から離れて守っているが、牽制球を受ける際には、塁に片足を付け、投手からの牽制送球に備える。
==== 二塁 ====
二塁(second base、または2B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁から[[マウンド]]へ延びる直線の延長上に位置する塁であり、一塁に到達した走者が、2番目に到達を目指す塁である。
本塁から最も遠い塁である(127フィート3.375インチ=38.184メートル)ため、一塁走者が二塁到達を狙って[[盗塁]](二盗)を企てることが多い。二塁に走者が到達すると、単打でも本塁まで帰ってこられる可能性が高くなり、得点の可能性が一気に増す。そのため、二塁、もしくは三塁上に走者がいる状況を[[得点圏]](scoring position)という。
二塁は、一塁や三塁のように一人の選手だけによって守られる塁ではない。一塁と二塁の間に[[二塁手]](second baseman)、二塁と三塁の間に[[遊撃手]](shortstop)が位置し、2人で連携して二塁の守備に当たる。二塁手と遊撃手は、[[併殺]]やベースカバーなどで、高度な連携が必要とされる。
一塁手と二塁手の間にあるスペースを一二塁間、二塁手と遊撃手の間にあるスペースを二遊間と呼ぶ。
==== 三塁 ====
三塁(third base、または3B)は、内野に位置する4つの塁のうち、本塁側から見て左に位置する塁であり、二塁に到達した走者が、その次(3番目)に到達を目指す塁である。
三塁を占有できれば次に進塁すべき塁は本塁であり、この意味で本塁に最も近いということができる。三塁に走者がいる場合は得点の可能性が高い。安打での得点に加えて、無死また一死の状況で走者が三塁にいる場合は[[犠牲フライ]]や[[スクイズプレイ]]、内野ゴロなどでも得点が可能になる(犠牲フライの場合は野手が余程の強肩でなければ捕手の触球は間に合わない)。[[暴投]]や[[捕逸]]が直接得点に結びつくため、投手はより慎重な投球を強いられる。
三塁への盗塁(三盗)が試みられることもあるが、物理的距離の意味でも本塁・二塁間の距離よりも本塁・三塁間の距離は短いため難易度は高く、二盗と比較すれば三盗が行われることは少ないといってよい。ただし、少ないといっても三盗はしばしば目にするプレイである。三盗の難易度は高いが、投手の油断を突いて試みられることが多い。三塁手と遊撃手の間にあるスペースは三遊間と呼ぶ。
==== 一・二・三塁の位置、形状 ====
一塁・二塁・三塁の位置や形状については公認野球規則2.03で定められており、ベースバッグは[[正方形]]で、白色の[[帆布|キャンバス]]かゴムで覆われた厚みのある形状である。設置位置は、一・三塁はバッグが内野の正方形内に完全に収まるようにし、二塁は、バッグの中心が二塁地点に重なるようにする。
厚さは3インチ(7.6センチメートル)ないし5インチ(12.7センチメートル)。大きさは正方形の一辺が15フィート(38.1センチメートル)と定められていたが、MLBでは{{by|2023年}}から18インチ(45.7センチメートル)に改められた。このベースは「ビガー・ベース (bigger base) 」とも呼ばれ、野手と走者が接触して負傷するのを防ぐ目的があるが、一・二塁間や二・三塁間は4.5インチ(11.4センチメートル)短くなるため、盗塁を試みる走者には有利に働く<ref>{{Cite web |title=Pitch timer, shift restrictions among announced rule changes for '23 |url=https://www.mlb.com/news/mlb-2023-rule-changes-pitch-timer-larger-bases-shifts |website=MLB.com |access-date=2023-04-03 |language=en |year=2023-2-3}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「2023年は走り放題の年」に…?MLB新ルール「ビガー・ベース」がもたらすもの |url=https://baseballking.jp/ns/363492 |website=BASEBALL KING |access-date=2023-04-03 |date=2023-3-27}}</ref>。
ベースバッグは必要に応じてダートエリアから取り外せるようになっている(外した後の穴は蓋を填めて塞ぐ。蓋がスライド式の作り付けになっている球場もある)。
==== マウンド ====
{{main|マウンド}}
=== 外野 ===
{{main|外野}}
外野には、ホームベース方向から見て左側から順に左翼(レフト)、中堅(センター)、右翼(ライト)の3つのポジションが存在する。それぞれの守備を担当する[[左翼手]]、[[中堅手]]、[[右翼手]]の3人をまとめて[[外野手]]と呼ぶ。
=== 付帯設備 ===
おおむね次のようなものがあるが、野球場の規模によって付帯する設備は大きく異なる。
==== フェンス ====
[[ファイル:Wrigley_Field_400_sign.jpg|thumb|250px|[[リグレー・フィールド]]の特徴的な外野フェンス。蔦が生い茂っている。]]
外野及びファウルゾーンに設け、グラウンドとグラウンド外とを区切る柵。[[コンクリート]]パネルや金網などが用いられる。野手がフェンス際の打球を取りに出て衝突した際に怪我をしないよう、安全対策としてコンクリート部分には発泡ラバーや[[発泡ウレタン]]、ポリエステル不織布などの素材で造られた緩衝材を被せているところが多い。
抜ければ長打になるかという打球を、外野手がフェンスに衝突し転倒しながらも捕球することがある。また[[本塁打]]性の打球を、外野手が背走してフェンス際でグラブを差し出して捕球したり(フェンスに達すれば打者走者が二塁にまで進んでしまう事は確実)、時にはフェンスによじ登って捕球したりと、身を挺して本塁打を防ぐこともある。こうした[[珍プレー|好プレー]]は外野手の見せ場の一つでもある。
かつて日本国内にはフェンスに緩衝材を設けていなかった野球場が数多く、プロ本拠地でも対策が立ち遅れていた。[[1977年]][[4月29日]]に[[川崎球場]]で開催された[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]対[[阪神タイガース]]9回戦で、左翼への飛球を追った阪神・[[佐野仙好]]がフェンスのコンクリート部に頭を強打し重傷を負ったことがきっかけで、プロ本拠地にはラバーフェンスの設置が義務付けられた。[[1988年]]以降は、フェンスに緩衝材が設置されていない野球場では地方に所在するものも含め、プロ野球の試合は一切開催できないと取り決められており、現在はアマチュア野球の公式戦の多くも、緩衝材が設けられている野球場で行われている。
西武ドームや[[長野オリンピックスタジアム]]などファウルゾーン内にブルペンを設けている野球場では、グラウンド間を金網フェンスなどで区切っているところがある。このうち西武ドームでは[[2001年]][[6月20日]]に開催された[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]対[[大阪近鉄バファローズ]]16回戦で、一塁側ファウルゾーンへの飛球を追った西武・[[平尾博嗣]]がブルペンのフェンスに衝突した際、右足のスパイクを金網に引っ掛けて足首を強く捻り、[[骨折#開放性による分類|複雑骨折]]する重傷を負ったのがきっかけで、同年オフにブルペンのフェンス下部をラバーフェンスに改修している。しかし地方球場のブルペン付近のフェンスは現在も、地面まで金網となっているところが多い。
アメリカでも、リグレー・フィールドの外野フェンスには緩衝材が設けられていないが、フェンスの壁面にツタを植栽して代用している。
==== バックネット ====
公認野球規則上はバックストップと呼ばれ、本塁から基本的に60フィート(約18.288メートル)以上離れて設置される、ボールが後方場外に飛び出すのを防ぐ構造物。とくに本塁後方方向へのファウルボールは勢いがある場合が多いので、網で作られている場合が多く、通称としてバックネットと呼ばれる。バックネットが設置されていない野球場は皆無といって良い。バックストップの距離はあくまでも推奨値となっているが、日本版の規則のみ「必要」となっており、この事が[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]のバックストップが[[HKS (設計事務所)|海外設計事務所]]の設計により50フィートであったことに関して大論争を生んでいる。
一般的には支柱を立てて金属製もしくは合成繊維製の網を張る場合が多い。観客の多い野球場では細くて強度のあるステンレス製の網を用いたり、柱を用いず観客席上に張ったロープから網を吊り下げたり、バックネットを黒く塗る、網ではなく[[アクリル樹脂|アクリル]]製の透明の板を使うなど、観客の安全性と視認性を高めるために工夫をこらしている野球場も多い。
==== ファウルポール ====
[[File:Left Field seats at Kauffman.JPG|thumb|200px|ファウルポール]]
打球がフェアかファウルかを判断するため、ファウルラインがフェンスと接する地点に立てる柱。[[公認野球規則]]では「白く塗らなければならない」と定められているが、打球の判別の便宜上、他の色でもよいとされている。白色ではボールが見えにくいことがあるため([[幻の本塁打一覧]])、現在はより判別しやすい黄色や橙色が多く使われている。判断をより正確にするため、ポールのフェア地域側にネットを取り付け、打球がファウル側からフェア側へ、またフェア側からファウル側へ飛び込まないよう考えられたものもある。
打球が直接ファウルポールに接触した場合は本塁打、打球が地面やフェンスに当たってからポールに接触した場合は二塁打となる。
==== スコアボード ====
[[ファイル:Scoreboard.JPG|thumb|200px|[[リグレー・フィールド]]のパネル式スコアボード]]
[[ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-17.jpg|thumb|200px|[[阪神甲子園球場]]の3代目スコアボード]]
競技の得点や出場選手、ボール・アウトカウントなどを表示するための設備。通常、外野中堅の後方に設けられることが多い。従来はイニングスコアや選手名をパネルにより掲出する方式が一般的で、鉄や木のパネル([[黒板]])にチョークで手書きするか、紙に印刷したものを貼付して表示していた。人力による作業を必要とするため、出場選手が交代する場合等にはパネルの入れ替えや書き換えに手間取ることもしばしばあった。
日本では{{by|1970年}}、[[後楽園球場]]に初の本格的な電光式スコアボードが導入された。当時は電球式で画素が粗く、画数の多い漢字などの表示がままならないケースもあり、かつて、ロッテに在籍していた[[醍醐猛夫]]は画数が多いため、一部の地方球場では「ダイゴ」とカタカナ表記で書かれていた事もあり、本人も「ファンの方から『外人選手だと思った』と言われた事があった」と言う。他に、地方球場ではないが、巨人や中日で外野手を努めた[[与那嶺要]]も『ヨナミネ』と書かれたスコアボードの写真が「プロ野球60年史」のオールスターの写真に掲載されている。
{{by|1975年}}から[[パシフィック・リーグ]]で[[指名打者]]制度が採用されるようになったが、多くの球場では9人分しか表示できないため、守備中は投手、攻撃中は指名打者の選手を入れ替えて表示したことがあった。後楽園ではチーム名を表示する箇所に投手名、[[明治神宮野球場|神宮球場]]では単色掲示板だった時代はフリーボードの箇所に投手名を表示したことがあるほか、[[川崎球場]]でもロッテオリオンズが本拠地とするようになった{{by|1978年}}に投手を含めた10人分を記載できるよう改造された。
現在は高輝度放電管や[[発光ダイオード]](LED)を使用した電光式のシステムや、電磁石で制御する磁気反転式のシステムを使用して表示部を遠隔操作する方式が主流である。{{by|1997年}}以降、日本のプロ12球団が本拠地とする野球場は全て電光式を採用しており、それに加え大型映像装置が設置されている。これにより投手の球速、打者の現時点における[[打率]]・[[本塁打]]数・[[打点]](その[[打席]]での結果如何――安打を打ち出塁するか、[[三振]]や凡退に終わるか――でこれら数値は変動するが、これも演算により修正可能で、上昇・下降が即時表示される)、風向・風速([[千葉マリンスタジアム]]。測定用の風車がフラッグポールと同じ位置にある)などさまざまな情報を表示できる他、映像装置を使用して観客により多くの情報を提供でき、かつ様々な演出が行えるようになった。なおメジャーリーグでは[[リグレー・フィールド]]のようにパネル式を敢えて残している球場もある。
1980年代後半から各地で採用されている磁気反転式のスコアボードは、ランニングコストやメンテナンスの低廉さと直射日光下での視認性の高さから主に地方球場で普及したが、表示部が自ら光を発せないため夜間にはスコアボード全体をライトアップせねばならず、また経年劣化すると表示部が帯磁して円滑に回転しなくなるという難点があり、老朽化して動作不良を起こすケースがしばしば発生している。
近年はフルカラーLEDのコスト低下に伴って映像装置の導入コストが低廉になったこともあり、本拠地球場ではスコアボードの全面を映像装置として、イニングスコアや選手名表示などといったスコアボード本来の表示機能を映像装置に表示させたり、画面全体を使った演出を行ったりする施設も増加している。なお、こうした派手な装飾のある表示形式はプロ野球での使用時のみで、それ以外のアマチュアの試合で使用する場合のためのシンプルな表示形式も用意している。また地方球場においても、消費電力が少なく且つ昼夜を問わず視認性を確保できるLED式のスコアボードを採用する例が多くなりつつあり、近年は[[郡山総合運動場開成山野球場]](ヨーク開成山スタジアム)、[[埼玉県営大宮公園野球場]]、[[新潟県立野球場]](HARD OFF ECOスタジアム新潟)、[[富山市民球場]](アルペンスタジアム)、[[長良川球場]]、[[沖縄市野球場]](コザしんきんスタジアム)などプロ本拠地ではない野球場でも映像装置を採用する例が増えつつある。
また磁気反転型のものも品種改良がなされ、より遠くからでも文字情報などが識別しやすいレモンイエロー(蛍光黄色)の文字盤を使ったものや、文字盤のパネルにLED電球を装着し、薄暮やナイターでも電光表示並みに明るさを保つことができるスコアボードが設置されている。
==== バックスクリーン ====
{{see|バックスクリーン}}
外野の中堅後方に設けられる暗色の板状の部分。打者・捕手・球審が投手の投球を視認しやすいように設けられる。日本では一般にバックスクリーンと呼ばれるが、これは和製英語で、英語ではcenterfield screen、もしくはcenterfield fence、batter's eye screenなどと呼ばれる。
公認野球規則に定めはないが、プロ野球球場ではバックスクリーンかこれに類似した措置(それに相当する外野席を暗色にしてその部分には観客を入場させないなど)が執られている。スコアボードと一体化されている野球場も多い。
==== ブルペン ====
{{see|ブルペン}}
投球練習場。内野ファウルグラウンドに多く設けられたが、甲子園球場や藤井寺球場では外野ラッキーゾーンにあった。練習中に打球が当たる恐れなどもあることから、近年、プロ野球球場では観客席下など(1階の関係者施設地区。[[#プレーヤーズベンチ|ダグアウト]]後方)に設けていることが多い。メジャーリーグの球場では外野席と外野フェンスの間、ファウルグラウンドなどフィールド上に設けられている場合が多い。
==== プレーヤーズベンチ ====
[[両]]チームの選手、コーチなどの控え場所で、一塁、三塁のファウルグラウンド外側に設けられる。公認野球規則2.05には「ホームクラブは、各ベースラインから最短25フィート(7.62メートル)離れた場所に、ホームチーム及びビジティングチーム用として、各一個のプレーヤーズベンチを設け、これには左右後方の三方に囲いをめぐらし、屋根を設けることが必要である」とある。グラウンドよりも低い位置に設けられたものを「'''ダッグアウト'''」(''dugout'')、グラウンドと同じ高さに設けられたものを「'''ベンチ'''」(''bench'')と呼ぶ。プロ野球球場では、観客席を設ける関係でグラウンドよりも低いダッグアウトが多い。
公認野球規則にはどちらをホームチーム側とするといった規則はない。
: 日本のプロ野球では一塁側をホームチーム、三塁側をビジターチームが使うことが多いが、利便性を考慮する場合がある([[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]では一塁側の屋根にのみ[[ロッテ]]と[[千葉ロッテマリーンズ]]のロゴが描かれている。一方[[西武ドーム]]と[[楽天生命パーク宮城]]では逆に三塁側がホームチームで、[[埼玉西武ライオンズ]]、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]とファンはこちらに陣取る)。2023年現在、ホームチームが三塁側を使用するのは楽天、西武の2チームである。また、各球団の[[二軍]]の本拠地は選手寮に隣接しているものが多く、そのため選手寮に近い方をホームチームが使用することが多い。メジャーリーグの球団ではバラバラで、参加30チームのうち12チームが三塁側ホームである<ref>[http://www.npb.or.jp/qtaro/topic20020917.html 球太郎の野球雑学ページ 「ホームベンチは一塁側?」(日本野球機構オフィシャルサイト)]</ref>。<br />韓国のプロ野球は参加10チームのうち2チームが三塁側ホームである。
==== 観客席(スタンド) ====
[[ファイル:08 Shea Stadium big.jpg|thumb|235px|満員の観客席([[シェイ・スタジアム]])]]
[[ファイル:Seibu Dome baseball stadium - 32.jpg|thumb|235px|[[西武ドーム]]の外野芝生席(当時)]]
競技を観覧するための座席を備えた建物。グラウンドに向かって階段状に設けられる。外周がグラウンドに近い形状のものと円形になっているものがある。重層になっていたり、屋根が付いたりする場合もある。小規模な野球場では外野席が土盛り([[芝|芝生]]のみで座席が設けられないことも多い)であったり、観客席が内野にしか設置されていないものも見られる。2021年現在日本国内でプロ野球本拠地として使用されている12球場のうち、[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]](以下「マツダスタジアム」)、[[楽天生命パーク宮城]]の外野席の一部に、固定式の座席が設けられていない芝生席が存在する。また、[[メットライフドーム]]は2020年まで外野席の大部分が芝生席であった。
日本では、プロ球団の一軍が本拠地・準本拠地として使用する球場は、全てが収容人数3万人以上の規模である。最も収容人数が多い球場は[[阪神甲子園球場]](収容人数47,808人)、次いで[[東京ドーム]](収容人数約47,000人弱、ただし非公式)である。二軍の本拠地球場は全体的に座席数が少なく、数百~数千の収容人数となっている。
日本では、観客席が重層の球場は少なく、12球団の本拠地13球場で重層なのは半数以下の5球場である。各球場とも外野席に一定の座席を割いており、応援の中心が外野席であることも大きな特徴である。ほぼ全ての球場で、外野席に[[私設応援団]]が陣取っており、鳴り物(トランペット、太鼓、呼子笛)を利用した組織的応援が行われる。また試合内容によってはホーム側ファンとビジター側ファンの衝突さえ起きかねないため(試合終了後、場外での挑発合戦から睨み合いに発展し、[[機動隊]]が割って入って規制線を引いた事例さえある)、多くの本拠地球場でホーム側ファンの立ち入りを認めない「[[ビジター応援席]]」区域が設定される。
アメリカでは、メジャー球団が本拠地とする球場の多くが4万人以上の収容人数を誇る。[[アメリカンフットボール]]との兼用球場を除く野球専用球場で収容人数が4万人を下回るのは、[[フェンウェイ・パーク]](36,108席)、[[カウフマン・スタジアム]](38,030席)、[[トロピカーナ・フィールド]](36,048席)、[[PNCパーク]](38,496席)の4球場のみである。
*{{by|2008年}}までは、旧[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキー・スタジアム]]が57,545人という最多の収容人数を誇ったが、{{by|2009年}}から新[[ヤンキー・スタジアム]](収容人数52,325人)に移転したため、収容人数1位の座を[[ドジャー・スタジアム]](収容人数56,000人)に譲った。ただし、{{by|2003年}}の[[2003年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では、[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]が本拠地[[サンライフ・スタジアム|ドルフィン・スタジアム]]で通常時は開放していないフットボール用の観客席を開放したため、第5戦で65,975人の観客を動員している。
[[ファイル:Wrigley_Field_and_Wrigley_Rooftops.jpg|thumb|left|220px|[[リグレー・フィールド]]の外野スタンド。球場に隣接する家屋の屋上にも観客席が設けられている。]]
[[マイナーリーグ]]の球場も、日本の二軍本拠地球場とは違い、一定以上の観客席が設けられている。AAA級では、収容人数23,145人の[[ローゼンブラット・スタジアム]](現在は閉場)を筆頭に、殆どの球場が1万席以上の観客席を備えている。AA級やA級、ルーキー級でも、数千人〜1万数千人の収容人数を持つ球場が揃っている。これは、米国でベースボールが国民的娯楽(national pastime)として広く親しまれている証である。
米国の球場は、日本とは違い観客席が重層のものが殆どである。[[ニューヨーク・ヤンキース]]のかつての本拠地[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]]のような巨大球場は、5階席まで存在する。野球は少しでもフィールド(内野・投手・打者)から近い位置で観戦するものだという意識によるものである。外野席に割かれる座席数は、球場によって違いはあるものの、概して少なめである。[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]の本拠地[[カウフマン・スタジアム]](2008年度まで)や、[[ニューヨーク・メッツ]]の前本拠地[[シェイ・スタジアム]]は、外野席がほとんどないことで有名であった。
[[大韓民国|韓国]]では、[[ロッテ・ジャイアンツ]]の本拠地[[社稷野球場]]、[[LGツインズ]]と[[斗山ベアーズ]]の本拠地[[蚕室総合運動場野球場]]、[[SKワイバーンズ]]の本拠地[[文鶴野球場]]の三球場が3万人以上の収容人数を誇る。日本と違って内野スタンドに応援団用のスペースが存在し、[[チアリーダー]]付きの応援が行われているのが大きな特徴である。
[[台湾]]では[[中信兄弟]]の本拠地[[台中インターコンチネンタル野球場]]が国内最大となる20,000人収容の観客席を有し、その他のプロ球団が使用する球場は収容人数が1万人台である。
==== 照明 ====
{{See also|ナイター}}
夜間(昼間でも薄暗い時等)に試合を行うためにグラウンドを照らす設備。グラウンド全体を照らすため、複数(数個から数百個前後)の[[電球]]から成る照明を[[鉄塔]]など一定の高さの場所に設置する。光源には[[水銀灯]]、高圧[[ナトリウムランプ]]、[[ハロゲンランプ]]、[[メタルハライドランプ]]、[[LED照明]]などが用いられる。
野球場の照度は硬式、軟式と競技区分別にJIS規格で定められている。プロ野球の場合、内野は1500 - 3000[[ルクス]]、外野は750 - 1500ルクスの平均照度が必要とされている。
日本で初めて野球場に照明設備を設置したのは[[1933年]]7月、[[早稲田大学]]の[[戸塚球場]]である。高さ30.6mの照明塔6基に1.5kWの電球を156個取り付けたもので、照度は内野で150ルクス、外野で90ルクスしかなかった。[[1948年]][[8月17日]]には、[[横浜公園平和野球場|横浜ゲーリッグ球場]]で日本プロ野球で初のナイター試合が行われている。
ナイター設備が普及し始めた[[1950年代]]には[[白熱電球]]による照明が使われていたが、白熱電球の暗さを補うために水銀灯との組み合わせが考案された。1956年4月に[[阪神甲子園球場]]に設置されたものが初で、白・オレンジ2色の照明を組み合わせた様子から「カクテル光線」と称され、ナイター試合の代名詞として定着した<ref name="asahi210819">{{Cite news |和書|title=消えゆくカクテル光線、奇策で残す 発祥の地・甲子園 |newspaper=朝日新聞 |date=2021-08-19 |author=森田岳穂 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP8D7WK2P85PLFA00J.html |accessdate=2022-04-05}}</ref><ref name="kwatch220401">{{Cite web|和書|author=安蔵靖志 |url=https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/topic/topic/1398493.html |title=甲子園球場の照明がついにLED化! 何が変わったのか見てきた |website=家電 Watch |date=2022-04-01 |accessdate=2022-04-05}}</ref>。1962年に完成した[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]は1600ルクスの照明を備え、「光の球場」と呼ばれた。その後、明るいが[[演色性]]が十分でない水銀灯を置き換えるため、メタルハライドランプと高圧ナトリウムランプの組み合わせが主流となったが、白とオレンジの光色は引き継がれた<ref>{{Cite web|和書|author=畑野壮太 |url=https://getnavi.jp/sports/714565/ |title=甲子園のカクテル光線がLEDで超進化! 今季の虎を後押しする世界初の技術とは |website=GetNavi web |date=2022-03-24 |accessdate=2022-04-05}}</ref>。2010年代からはより省エネ性に優れ、これまでのものと違い即時点灯が可能なLEDも導入され始めている。LEDの場合は単色で十分な演色性・光量を得ることができるため、2色の光源を組み合わせる必要がなく<ref name="kwatch220401" />、「カクテル光線」を備えた球場は少なくなりつつある<ref name="asahi210819" />(特殊な例として、阪神甲子園球場ではLED化後もカクテル光線を維持している)。
照明設備は内野1塁側・3塁側に2基ずつ、さらに外野に2基、計6基架設する形式のものが最も一般的だが、[[千葉マリンスタジアム]]や[[阪神甲子園球場]]、[[岡山県倉敷スポーツ公園野球場]](マスカットスタジアム)、[[松山中央公園野球場]](坊っちゃんスタジアム)、[[秋田県立野球場]](こまちスタジアム)、[[新潟県立野球場]](HARD OFF ECOスタジアム新潟)などではスタンドの[[庇]](ひさし)に照明を架設する手法が用いられている。
全ての野球場に設置されているわけではなく、地方球場には照明のない野球場も多い。2000年代以降そのような球場もプロ野球の公式戦が稀であるが行われ、日没による[[コールドゲーム]]も記録されている。
==== マスコミの取材エリア ====
[[マスコミュニケーション|マスコミ]]が試合の取材やテレビ・ラジオによる試合の生中継を行う為に、主要となる野球場を中心に放送席・記者席・カメラエリアが常設される。
[[ファイル:Tokyo Dome 2007-7.jpg|thumb|200px|right|東京ドームの放送席・記者席]]
主要野球場の放送席や記者席の場合、かつては内野スタンドのグラウンドレベルに配置されることが多かったが、近年建設された野球場では、放送席は内野スタンド上段に個々が独立、記者席は同じく上段に外(ドーム型球場に多い)または部屋の中(グラウンドが見えるように窓を設置)に配置されるようになった。カメラエリアは、プロ野球本拠地の場合、多くは場所を固定の場合(特にグラウンドレベルの一・三塁側)が多い。複数のAM放送局{{efn|FMの中継は[[エフエムナックファイブ]]以外で行なわれたことはない。}} で系列を問わず同一カードを中継することもあるため、ブースは複数ある。主にひとつの放送局でローカル・全国ネット兼用とビジターチーム向けの裏送り・ビジターチームの放送局スタッフが来場して制作用の2部屋を確保している。
地方球場の場合、ほとんどの場合、記者席はある程度確保してある場合が多いが、放送席に関しては常設していなかったり、適当な空き部屋の確保が難しい場合が多い為、個々の放送局が内野スタンド上段に臨時に小屋を設置したり、観客席を使用する場合が多い<ref>[http://www.jsports.co.jp/baseball/blog/log/2007/04/post-47.html 下見日記] - 野球好き日記(J SPORTS)2007年4月17日</ref>。カメラエリアも同様に場所が確保される。
{{-}}
== 野球場のフィールド ==
=== 野球場と芝 ===
グラウンドに芝を植えると、土埃の発生や表土の流出を防ぐことが出来る。また日光の反射が無く、スタンドと調和して風光を引き立てる。
==== 天然芝 ====
[[ファイル:AmeriQuest Field, home of the Texas Rangers.jpg|thumb|250px|アメリカでは、ほとんどの野球場が内外野総天然芝である。]]
アメリカでは、外野に加えて内野のマウンドとランニングゾーンを除く部分にも芝が敷設されている内外野総天然芝の球場が標準である。[[メキシコ]]、[[ベネズエラ]]、[[ドミニカ共和国]]などの[[カリブ海]]諸国や、[[台湾]]、[[大韓民国|韓国]]でも、主要球場のほとんどがこの形態である。
その一方、日本では、天然芝の育成・管理の難しさから、外野部分とファウルエリアのみ天然芝が敷設されている球場が多い。
かつて[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]は、1937年完成時から内外野天然芝としたが、1940年代後半には内野天然芝は廃止された。[[明治神宮野球場]]は、1945年の米軍接収時に内野に天然芝を植えたものの、グラウンドの使用が激しいため密生せず、まもなく廃止された。[[後楽園球場|後楽園スタヂアム]]は1950年3月に内野に天然芝を植えたものの、芽が出ないうちから過激に使用したため、たちまち枯死した。
その後[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]](1962年完成-1972年閉鎖 現・味の素スタジアムではない)が内外野天然芝を導入すると、[[後楽園スタヂアム]]も再び内野天然芝を導入したが(1965年-1975年)、東京スタジアムは1977年4月に取り壊され、後楽園スタヂアムも1976年3月に内外野全面人工芝に切り替えられると、他球場も後楽園に倣ったため、内野天然芝は普及しなかった。
{{by|1995年}}の[[野茂英雄]]のメジャー挑戦以降、日本の野球ファンや選手の間でも天然芝への認識が高まり、人工芝でプレーする選手の身体への負担について議論されるようになった。{{by|2001年}}ごろ起こった[[千葉マリンスタジアム]]のドーム化計画や、横浜での人工芝ドーム球場建設計画にファンが抗議し、既存球場の天然芝化を要求したこと(両球場とも2003年に新型人工芝に変更)、広島の新球場計画が人工芝ドーム球場から天然芝球場に変更されたことなどがこの代表例である。
2023年現在、プロ野球全12球団の本拠地において、天然芝を採用しているのは[[阪神甲子園球場]]、前述の議論を経て2009年にオープンした[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|広島市民球場]]、2016年に人工芝から切り替えられた[[宮城球場]]、そして2023年から[[北海道日本ハムファイターズ]]の本拠地となる[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]の4球場である{{efn|ただし、阪神甲子園球場は外野のみ芝。}}。さらに国内で内外野天然芝を採用した球場は、前述の4球場に加えて、[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]、[[宮崎県総合運動公園硬式野球場|ひなたサンマリンスタジアム宮崎]]、[[鶴岡市小真木原野球場|鶴岡ドリームスタジアム]]、[[夕張市平和運動公園野球場|サングリンスタジアム]]([[夕張市]])などがある{{efn|少年野球用の球場は除く。ほっともっとフィールド神戸はブルーウェーブ時代の[[オリックスバファローズ|オリックス]]の本拠地であったが、オリックスが[[大阪近鉄バファローズ]]と合併した直後のタブルフランチャイズ以降は、[[阪神タイガース|阪神]]やオリックスの地方開催時のみ使用されている。}}。
* 長所
** クッション性が良いため選手の膝への負担が軽く、スライディング等の摩擦による火傷をしにくいことから選手は思い切ったプレイができる。
** 夏季において、人工芝や土と比較して、グラウンドの温度上昇が抑えられる。
* 短所
** ゴロ打球が失速しやすい上にイレギュラーバウンドも発生しやすいため、内外野手とも高レベルな技術が要求される。
** 日照条件や通風面など、維持管理には技術が必要であり、これらの障害となるような大型の観客席を備える球場は、散水装置を含めて天然芝用の専用設計が必要になる。
** 刈り込みや施肥、[[オーバーシード]]、雑草取りなどといった日常のメンテナンスが必要不可欠である。特に内野天然芝はバント処理等で野手がダッシュする場面が多いため損傷しやすく、修復作業が多くなるため、年間維持費用も人工芝に比べて余計にかかる。
** 痛んだ芝生を張り替えるため、球場とは別に天然芝を育成して準備しておく必要がある。
** イベントや他競技との併用が難しい。阪神甲子園球場ではコンサート開催時は外野の天然芝部分にステージを設営するが、そのコンサートの前後で長雨にたたられた影響でステージの部分の芝生が枯れてしまい、直後に行われたプロ野球公式戦に影響を及ぼした<ref>{{Cite web|和書|title=甲子園球場の芝生がボロボロ ゲリラ豪雨下のコンサートでダメージ/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2016/09/26/0009526996.shtml |website=デイリースポーツ online |date=2016-09-26 |access-date=2023-05-26 |language=ja}}</ref>。また、[[ハイヒール]]での入場を認めるかどうかで客と関係者との間でたびたび議論になっている。
人工芝も張替え時には天然芝以上のコストがかかるとの指摘もある。天然芝のフィールドを採用している競技施設の中には[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]などのように、天然芝の箇所にアクリル板などの保護材を敷設してイベントとの併用を実現しているケースも存在する。
==== 天然芝の種類 ====
野球場で使用される天然芝は、暖地系として、野芝、高麗芝、バミューダ・グラス、寒地系として、ペレニアル・ライグラス、ケンタッキー・ブルーグラスなどが挙げられる。
アメリカでは主に寒地系のケンタッキー・ブルーグラスが野球場芝として利用される。ケンタッキー・ブルーグラスはアメリカで多く植栽される芝であるが、多くの水・肥料を必要とする上、種の発芽や初期成長が遅いのが欠点である。しかし造成された芝草は青々と美しく、かつ丈夫であり、通年に渡って常緑を維持する。
一方、日本においては、大半の地域で寒地系の芝は厳しい夏を越せずに枯死してしまうため、天然芝を使用する野球場の多くは暖地系の高麗芝を使用している。高麗芝は成長が早く、しかも日照りが続かない限り散水の必要性がほとんど無く、肥料も少量で済むので維持管理が比較的容易である。ただし高麗芝はケンタッキー・ブルーグラスと比較すると葉の発色性で劣る。さらに冬期には休眠するため、これを使用した野球場の芝生部分は若葉が生えてくる春季まで黄化し枯れたように見えてしまう。
1980年代後半、[[日本中央競馬会]](JRA)が暖地系芝と寒地系芝の2毛作により通年に渡って常緑の芝生を実現する技術「[[オーバーシード]]」を開発し、これを野球場に導入する動きが広まった。現在、[[阪神甲子園球場]]、[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]、[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]では、高麗芝より発色が鮮やかなバミューダ・グラス系のティフトン419と、ペレニアル・ライグラスによるオーバーシードが行われている。
その一方、[[宮城球場]]、[[鶴岡市小真木原野球場|鶴岡ドリームスタジアム]]は、所在地の夏の気候が比較的涼しいため、アメリカの野球場と同様、寒地系の芝が通年使用されている。
==== 人工芝 ====
{{See also|人工芝#野球場}}
[[ファイル:Kunstgress.JPG|thumb|250px|[[人工芝]]]]
人工芝は天然芝のフィールドと比較してゴロ打球が失速しにくいことから、守備側の野手にはより素早い反応が求められる。その反面イレギュラーバウンドは発生しにくい。
[[1965年]]、世界初の[[ドーム球場]]である[[アストロドーム]]で、世界初の人工芝(アストロターフ)が導入される。以後、アメリカンフットボールとも兼用できる野球場が米国で流行するにつれ、人工芝は急速に普及していった。だがその後、1990年代以降に興った新古典主義ボールパークの建設ラッシュにより、人工芝を採用する施設は減少の一途を辿っている。[[2020年]]現在のMLB本拠地で人工芝を採用している球場はMLB唯一の密閉式ドーム球場である[[トロピカーナ・フィールド]]([[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]])、開閉式屋根を持つ[[ロジャーズ・センター]]、[[チェイス・フィールド]]、[[グローブライフ・フィールド]]の4球場である。ただし、チェイス・フィールドは、開場当初は総天然芝で、史上初の開閉式屋根を持つ総天然芝野球場だった。またアメリカの独立リーグや大学野球の本拠地では寒冷地を中心に人工芝の球場も複数存在しているが、その多くはNPBやMLBと違い、走路はもとよりベース周りやマウンドまでもが着色された人工芝となっている。
一方、日本では[[1976年]]に[[後楽園球場]]が初めて人工芝を導入。2023年現在、日本国内でプロ野球本拠地として使用されている12球場のうち、8球場(ドーム球場は5)が人工芝を採用している。その結果、内野手の真正面を突くゴロ打球に対しては“打球が来るのを待つ”ような受け身の態勢で守備を行う機会が増加したこと、球足が速いので肩力が多少弱くても内野を守れるようになったこと、内外野問わず前述のケガのリスクから球際の鋭い当たりに対する消極的なプレイが増えたことから、一部では野手の守備レベルが低下しているのではないかという指摘もある<ref>{{Cite news |title=かつては名選手を輩出したポジションの今。西武の遊撃手はなぜ定着できないのか |url=http://www.baseballchannel.jp/npb/17023/ |newspaper=ベースボールチャンネル |date=2016-04-18 }}</ref>。
===== 人工芝改良の歴史 =====
人工芝が日本に導入された当時、天然芝の管理方法はあまり進歩しておらず、管理が行き届かないケースが多かったこともあり、人工芝のフィールドは「守りやすい」「景観が美しい」など、選手・ファンからは概ね好意的に受け止められていたが、グラウンドの管理面では雨天時の排水性が問題となった。初期の人工芝は、グラウンド周囲にコンクリートの側溝を設置し、ファウルグラウンドや外野をこの側溝に向かってやや傾斜させることで雨天時の排水を行っていたが、このような表面排水方式はグラウンド中央部分の排水が難しい。そのため各球場ではグラウンド上に吸水自動車を走らせて排水を行っていた。
雨天の多い日本では人工芝の排水性の無さが早急に解決すべき課題となり、その結果、[[旭化成]]は「サラン透水性人工芝」の開発に成功する。この人工芝は透水性を実現したことで地中に設けたパイプを使って排水することが可能となり、結果、初期人工芝では必須であったグラウンドの傾斜や吸水自動車を不要とした。当初、この透水性人工芝はヨーロッパのサッカースタジアムで使用されていたが、1982年3月に[[明治神宮野球場]]が野球場として初導入する。これを契機として透水性人工芝は全国の野球場に広まっていった。
また開発当初の人工芝はパイル(毛足)が短く、スライディングすると火傷や擦過傷を負うことも少なくなかった。更に天然芝と比較するとクッション性が低いため、足腰など選手の身体への負担増大も指摘されるようになり、この点についても品質向上が図られるようになった。先に述べた旭化成の「サラン透水性人工芝」はクッション性も考慮し、人工芝(パイル丈13mm)の下に厚さ14mmの透水性アンダーマットを敷いていたが、1990年代後半になるとパイルの丈は5~6cmと長くなり、その下層部に砂・土・ラバーチップを充填してクッション性を高めた「ロングパイル人工芝」が開発され、日本のプロ本拠地野球場でもロングパイル型を導入するところが増加した。またショートパイル型でも、長さの異なる2種類のパイルを用いることで、クッション性の向上に加えて景観も天然芝に近づけた製品がある。
このような改良が施された人工芝は「ハイテク人工芝」とも呼ばれ、従来の人工芝と比較して身体への負担が軽く、プレー条件も改善されていることなどから選手からも概ね好評である。とりわけ、屋外野球場として人工芝を使用している明治神宮野球場はデーゲームで高校や大学、社会人などアマチュア公式戦を行った後、ナイターでプロ野球を開催するなど、同日中に複数の試合を行うことが多いため、耐久性のある人工芝の特徴を活かしている。
[[ファイル:Sendaimiyagikyuzyo200607b.jpg|thumb|250px|left|塁間に着色がなされた人工芝球場(人工芝時代の[[宮城球場|楽天生命パーク宮城]])。]]
===== 課題 =====
{{独自研究|section=1|date=2018年8月}}
このように日々改良が続けられている人工芝だが、プレーヤーの身体面へのデメリットを指摘する声は後を絶たない。実際、人工芝が導入されてからは足首の捻挫、靭帯や半月盤の損傷などの怪我が多くなったという意見がメーカーなどに寄せられている。人工芝のパイルにはポリエチレンなどの材質を使用しているため滑りやすくなっている。このため、不慣れなプレーヤーがプレー中に足を滑らせて転倒するようなことがしばしばある。特に降雨時等、パイルが水を含んだ時にはよりスリップしやすくなる。現在使われている野球スパイクのスタッド(歯)には金属や樹脂が使用されているが、天然芝であれば芝の下の土の部分までスタッドが刺さるため、それが衝撃吸収の役割を担う。しかし人工芝ではスタッドが刺さりにくいため衝撃が直接膝や脚にかかることが多い。一部の選手らからは「下から突き上げるような衝撃を感じる」という意見がある。激しいプレーではスパイクの引っ掛かりが土や天然芝に比べて強いことから筋肉や関節に特に負荷が掛かりやすい。さらに夏場など猛暑の際には輻射熱や日光の照り返しによってフィールドの表面温度が高温になりやすく、プレー条件が低下する恐れも生じる。こうした要素から、人工芝は天然芝や土に比べて故障を誘発しやすいといわれている。
またロングパイル型は品種により、打球のバウンドや野手のスライディングなどといったプレー中の状況によっては充填材のラバーチップが飛散することがあるため「思い切ったプレーがしにくい」という意見もあり、[[千葉マリンスタジアム|QVCマリンフィールド]]が[[2011年]]に張り替え工事を行った際には[[千葉ロッテマリーンズ]]選手会の意見を反映し、ラバーチップを充填していないショートパイル型が採用された例もある。
[[松井秀喜]]は[[読売ジャイアンツ]]在籍当時の[[2001年]]、『[[週刊ベースボール]]』8月13日号において「(天然芝は)打球を追う時に思い切ってダイビングできる。(人工芝は)単純に痛いし、こすれて熱い。(スパイクが)芝の継ぎ目に当たれば大怪我することになるし、足への負担が大きい。新しい人工芝の開発も進んでいるみたいだけど、人工芝は所詮人工芝」と話した他、[[ロサンゼルス・エンゼルス]]移籍後の2010年夏に[[スポーツニッポン]]の取材を受け、日本球界復帰の可能性を問われた際には、日本のプロ本拠地に人工芝を採用している施設が多い事と、自身が両膝に故障を抱えている事を引き合いに「僕の膝でどうやって人工芝の上でプレーするんですか。 自分が帰りたくてもプレーできない。DHでも走塁はある。1週間で膝を痛めて登録抹消ですよ」と答えるなど、人工芝には否定的な意見を述べている(現役最終年に所属した球団は皮肉にも人工芝の[[トロピカーナ・フィールド]]を本拠地とする[[タンパベイ・レイズ]]だったが、この球場は走路は土になっている)。メーカー側も「土のグラウンドと違う筋肉を使うので、疲労がたまりやすい」と、人工芝にはある程度の「慣れ」が必要であることを指摘している。またスポーツ用品メーカーも、スタッドの低いスパイクやグラウンドシューズなど人工芝に対応した製品を開発・販売している。
しかし、天然芝の維持管理には農薬や化学肥料を使用しているケースが多い。こうしたことから天然芝と人工芝とを比較する場合、あらゆる安全性を勘案すると総合的な優劣は一概に判断し難い部分もある。
* 長所
** 維持管理が簡便であるため一旦敷いてしまえばランニングコストは低廉であり、フィールドを多目的利用できる。
** 耐久性があるため、同日中に複数試合を行うことができる。
** フィールドの状態を長期間に亘ってほぼ恒常に保つことができる。
** 雨に強く、試合の雨天順延を減らせる。
** 日光が照射されない閉鎖式ドーム球場でも敷設できる。
** ゴロのイレギュラーバウンドは発生しにくいが球速が非常に速いため、内外野手とも打球に対する素早い反応が要求される。
* 短所
** 新品を敷設する際の初期投資額が膨大。使用済みのものは[[産業廃棄物]]として処理しなければならない。
** 天然芝は、プレーヤーが踏ん張ると足がスライドしながら土に食い込み、踏ん張った力が地中に抜けて衝撃を緩和するが、人工芝はプレーヤーのスパイクを噛むため、踏ん張った力が地中に抜けず強く抵抗する。雨が降ると逆に滑りやすくなる。その結果、プレーヤーの足腰に負担が掛かりやすくなり、故障が増える。
** 屋外野球場での夏期の日中は反射や照りつけによる温度上昇が激しく(摂氏50度近くまで上がる事もある)、プレーヤーに負担がかかる。
** メーカーや球場によって踏圧やボールのバウンド高がまちまち。品質基準も曖昧になっている部分がある。
==== 土 ====
[[ファイル:Hiroshima Municipal Stadium 1.jpg|thumb|250px|旧広島市民球場]]
芝がなく、土が剥き出しになっているグラウンド。天然芝より維持が容易で、人工芝より初期コストが低い。英語では「bare ground(むき出しのグラウンド)」と称される。
[[軟式野球]]専用の野球場では内外野すべて土のグラウンドも見られる。かつての[[藤井寺球場]]や[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]のように、内野が土で外野が人工芝という球場もあった(この2つは後に全面人工芝化された)。
日本では、外野は天然芝(ごく稀に人工芝)、内野は土という球場が圧倒的に多く、かつてはプロ野球球団の本拠地球場(正しくは「[[専用球場]]」)もこの形式が多かった。現在でも[[阪神甲子園球場]]はこの形式であるが、旧[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]の閉場により、専用球場としては世界で唯一となった(高校野球全国大会出場選手だけが持ち帰れる“甲子園の土”は現在も関係者の間で珍重されている。[[ファン感謝デー]]の際であっても持ち帰りは出来ない)。
アメリカでは土のグラウンドの球場は少なく、メジャーリーグの本拠地球場には使用されていない。AA、Aクラスのマイナーリーグなど低いグレードの球場では一部使用されているが、基本的に人工芝以上に評価が低い。日本では柔らかく湿気を含んだ黒土が好まれるのに対し、アメリカでは白く乾いた土が使われるのが通例である。このため日米間で移籍した選手は、芝の有無以上にグラウンド(特にピッチャーズ・マウンドなど)の固さに対する違和感を覚えることが多い。
== 各国の野球場 ==
=== アメリカ合衆国 ===
==== メジャーリーグベースボール (MLB) ====
[[ファイル:Coors field 1.JPG|thumb|250px|メジャーリーグで最も打者有利の球場とされる[[クアーズ・フィールド]]。]]
{{See also|メジャーリーグベースボールの本拠地野球場一覧}}
[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の本拠地球場は、1970年代から80年代にかけて[[アメリカンフットボール]]との兼用球場が一世を風靡したが、1990年代からは天然芝の野球専用球場への回帰が進んだ。現在、[[人工芝]]の球場と密閉式[[ドーム球場]]は[[トロピカーナ・フィールド]]のみである。[[チェイス・フィールド]]、[[ロジャーズ・センター|ロジャース・センター]]、[[T-モバイル・パーク]]、[[ミニッツメイド・パーク]]、[[アメリカンファミリー・フィールド]]は開閉式の屋根を備えている。他競技との兼用が行われている球場は、ロジャース・センター、[[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]の2球場のみである(詳細は、後述の[[野球場#アメリカ合衆国における野球場の歴史|アメリカ合衆国における野球場の歴史]]を参照)。
米国では左右非対称で歪な形状の外野フェンスを持つ球場が多く、両翼や中堅の距離だけで球場の広さを測ることはできない。むしろ重要なのは左中間・右中間への距離や、フェンスの高さ、ファウルゾーンの広さ、気圧などである。例えば、左翼・中堅への距離がア・リーグ最長の[[コメリカ・パーク]]や両翼への距離が全球場で最長の[[リグレー・フィールド]]は左中間、右中間の膨らみが少なく、決して打者不利の球場ではない(リグレー・フィールドは逆に打者有利の球場である)。また、右翼への距離がナ・リーグで最も短い[[オラクル・パーク]]は、右中間最深部が128.3mもあり、右翼フェンスも7.6mと非常に高いため、左打者に不利な球場である。
球場ごとに、[[本塁打]]、[[二塁打]]、[[三塁打]]の出やすさや得点の入りやすさには明確な差異があるが、球場ごとの偏りを示す指標として[[パークファクター]]が用いられている(詳細は当該記事を参照)。
一般に、[[投手]]有利の球場は「'''ピッチャーズパーク(ピッチャーフレンドリーパーク)'''」、[[打者]]有利の球場は「'''ヒッターズパーク(ヒッターフレンドリーパーク)'''」と呼ばれる。[[ESPN]]は[[ターゲット・フィールド]]を除く29球場を[[2005年]]~[[2009年]]のパークファクター、[[BABIP]]を用いて総合的に評価し、打者に有利な順に並べたランキングを発表した<ref name="rnk">Tristan H. Cockcroft(2010-3-28), [http://sports.espn.go.com/fantasy/baseball/flb/story?page=mlbdk2k10ballparks Ranking The Ballparks], ESPN(英語), 2010年11月26日閲覧</ref>。ベスト5とワースト5は以下の通りである。
;ベスト5
:{| class=wikitable
! style="width: 4.5em;" | 順位
! style="width: 20em;" | 球場名
! style="width: 35em;" | 理由
|-
| nowrap="nowrap" |1位||[[クアーズ・フィールド]]||標高約1600mの高地に位置し、海抜0mと比べて打球が9%も伸びる<ref name="rnk" />。外野は広く、抜ければ長打になる。長打を警戒して深く守れば、ポテンヒットが増える<ref name="slg">出野哲也「全30球団ボールパーク 傾向と対策&スケジュール」 『月刊スラッガー』2010年4月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-4、76-91頁。</ref>。
|-
|2位||[[レンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントン]]||[[テキサス州|テキサス]]の乾燥した気候に加え、右翼スタンドが前方にせり出しており本塁打が出やすい。ファウルゾーンも狭い<ref name="slg" />。
|-
|3位||[[チェイス・フィールド]]||[[砂漠]]地帯で空気が乾燥しており、標高も332mとクアーズフィールドに次いで高い<ref>Nick Piecoro(2006-08-04), [http://www.azcentral.com/sports/diamondbacks/articles/0804dbxmain0804.html Chase Field: a hitter's paradise], azcentral.com(英語), 2010年11月26日閲覧</ref>。外野の膨らみがない一方でポール際は広いので、本塁打、三塁打が共によく出る<ref name="slg" />。
|-
|4位||[[グレート・アメリカン・ボール・パーク]]||左中間・右中間の膨らみが少ないため本塁打が非常に出やすい。右翼後方の[[オハイオ川]]からの川風に乗り、レフト方向への打球がよく飛ぶ<ref name="slg" />。
|-
|5位||[[シチズンズ・バンク・パーク]]||右中間・左中間の膨らみがないので本塁打が出やすいことに加え、球場の構造的に打者の視界が良好で、球が見やすい<ref>Mel Antonen(2010-10-05), [http://www.usatoday.com/sports/baseball/2010-10-05-ballparks-playoffs_N.htm Pitcher or hitter friendly? Ballparks will come into play during playoffs], USA Today(英語), 2010年11月26日閲覧</ref>。
|}
;ワースト5
:{| class=wikitable
! style="width: 4.5em;" | 順位
! style="width: 20em;" | 球場名
! style="width: 35em;" | 原因
|-
|-
| nowrap="nowrap" |29位||[[ペトコ・パーク]]||外野が全体的に広いことに加え、サンディエゴ湾から吹く湿った海風により、打球が伸びない。右中間は非常に深く、左打者は特に不利<ref name="slg" />。
|-
|28位||[[ブッシュ・スタジアム]]||原因ははっきりしないが、右打者に本塁打が出にくい。[[アルバート・プホルス]]という強打者を抱えながら、2005年~2009年の得点ファクターは28位、本塁打ファクターは29位である<ref name="rnk" />。
|-
|27位||[[T-モバイル・パーク]]||[[雨]]が多い気候なので空気が湿っており、外野も広いため本塁打が出にくい。特に左中間は深く、右打者に不利な構造である<ref>[http://blog.seattlepi.com/marinersfanblog/archives/211589.asp Time to move the fences in at Safeco Field], Seattle PI(英語), 2010年11月26日</ref>。
|-
|26位||[[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]||左中間・右中間が広い上に、[[アメリカンフットボール|アメフト]]兼用であるためファウルゾーンが極めて広い。観客席が大きく風の影響も少ない<ref name="slg" />。
|-
|25位||[[シティ・フィールド]]||外野が広く、フェンスも高いため本塁打が出にくい<ref>Tristan H. Cockcroft(2009-07-02), [http://sports.espn.go.com/fantasy/baseball/flb/story?id=4284640 David Wright has lost six home runs to Citi Field's new dimensions], ESPN(英語), 2010年11月26日閲覧</ref>。
|}
本塁打の出やすさに限れば、[[ギャランティード・レート・フィールド]]、[[ヤンキー・スタジアム]]、[[グレート・アメリカン・ボール・パーク]]がベスト3、[[ペトコ・パーク]]、[[T-モバイル・パーク]]、[[カウフマン・スタジアム]]がワースト3である。しかし、本塁打の出やすさと得点の入りやすさは必ずしも相関しない<ref name="rnk" />。
;[[アメリカンリーグ]]球場一覧
:{| class="wikitable sortable" style="font-size: 80%;"
! style="width: 4.5em;" | 地区
! style="width: 20em;" | 球場名
! style="width: 19em;" | チーム
! style="width: 4.5em;" | 左翼
! style="width: 4.5em;" | 中堅
! style="width: 4.5em;" | 右翼
! style="width: 4.5em;" | 収容人数
! style="width: 4.5em;" | 開場年
! style="width: 20em;" | 所在地
|-
| rowspan="5" style="background-color: crimson; text-align: center;"|[[アメリカンリーグ東地区|{{color|white|東地区}}]]
| [[オリオールパーク・アット・カムデンヤーズ]]
| [[ボルチモア・オリオールズ]]
| style="text-align: center;" | 101.5m
| style="text-align: center;" | 125m
| style="text-align: center;" | 96.9m
| style="text-align: center;" | 48,876人
| style="text-align: center;" | [[1992年のメジャーリーグベースボール|1992]]
| {{flagicon|USA}} [[メリーランド州]][[ボルチモア]]
|-
| [[フェンウェイ・パーク]]
| [[ボストン・レッドソックス]]
| style="text-align: center;" | 94.5m
| style="text-align: center;" | '''128m'''
| style="text-align: center;" | 92m
| style="text-align: center;" | 38,805人
| style="text-align: center;" | '''[[1912年のメジャーリーグベースボール|1912]]'''
| {{flagicon|USA}} [[マサチューセッツ州]][[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン]]
|-
| [[ヤンキースタジアム]]
| [[ニューヨーク・ヤンキース]]
| style="text-align: center;" | 96.9m
| style="text-align: center;" | 124m
| style="text-align: center;" | 95.7m
| style="text-align: center;" | 50,086人
| style="text-align: center;" | [[2009年のメジャーリーグベースボール|2009]]
| {{flagicon|USA}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]・[[ブロンクス区|ブロンクス]]
|-
| [[トロピカーナ・フィールド]]
| [[タンパベイ・レイズ]]
| style="text-align: center;" | 96m
| style="text-align: center;" | 123m
| style="text-align: center;" | 98m
| style="text-align: center;" | 36,048人
| style="text-align: center;" | [[1990年のメジャーリーグベースボール|1990]]
| {{flagicon|USA}} [[フロリダ州]][[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]]
|-
| [[ロジャース・センター]]
| [[トロント・ブルージェイズ]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 121m
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | '''50,516人'''
| style="text-align: center;" | [[1989年のメジャーリーグベースボール|1989]]
| {{flagicon|CAN}} [[オンタリオ州]][[トロント]]
|-
| rowspan="5" style="background-color: #f00; text-align: center;"|[[アメリカンリーグ中地区|{{color|white|中地区}}]]
| [[ギャランティード・レート・フィールド]]
| [[シカゴ・ホワイトソックス]]
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 121.9m
| style="text-align: center;" | 102.1m
| style="text-align: center;" | 40,615人
| style="text-align: center;" | [[1991年のメジャーリーグベースボール|1991]]
| {{flagicon|USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]]
|-
| [[プログレッシブ・フィールド]]
| [[クリーブランド・ガーディアンズ]]
| style="text-align: center;" | 99.1m
| style="text-align: center;" | 125m
| style="text-align: center;" | 99.1m
| style="text-align: center;" | 43,863人
| style="text-align: center;" | [[1994年のメジャーリーグベースボール|1994]]
| {{flagicon|USA}} [[オハイオ州]][[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]
|-
| [[コメリカ・パーク]]
| [[デトロイト・タイガース]]
| style="text-align: center;" | '''105.2m'''
| style="text-align: center;" | '''128m'''
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 41,070人
| style="text-align: center;" | [[2000年のメジャーリーグベースボール|2000]]
| {{flagicon|USA}} [[ミシガン州]][[デトロイト (ミシガン州)|デトロイト]]
|-
| [[カウフマン・スタジアム]]
| [[カンザスシティ・ロイヤルズ]]
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 125m
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 38,177人
| style="text-align: center;" | [[1969年のメジャーリーグベースボール|1969]]
| {{flagicon|USA}} [[ミズーリ州]][[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]
|-
| [[ターゲット・フィールド]]
| [[ミネソタ・ツインズ]]
| style="text-align: center;" | 103.3m
| style="text-align: center;" | 123.1m
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 39,504人
| style="text-align: center;" | [[2010年のメジャーリーグベースボール|2010]]
| {{flagicon|USA}} [[ミネソタ州]][[ミネアポリス (ミネソタ州)|ミネアポリス]]
|-
| rowspan="5" style="background-color:#ff5600; text-align: center;" | [[アメリカンリーグ西地区|{{color|white|西地区}}]]
| [[エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム]]
| [[ロサンゼルス・エンゼルス]]
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 121.9m
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 45,050人
| style="text-align: center;" | [[1966年のメジャーリーグベースボール|1966]]
| {{flagicon|USA}} [[カリフォルニア州]][[アナハイム]]
|-
| [[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]
| [[オークランド・アスレチックス]]
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 121.9m
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 34,077人
| style="text-align: center;" | 1966
| {{flagicon|USA}} カリフォルニア州[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]
|-
| [[T-モバイル・パーク]]
| [[シアトル・マリナーズ]]
| style="text-align: center;" | 100.9m
| style="text-align: center;" | 123.4m
| style="text-align: center;" | 99.7m
| style="text-align: center;" | 47,116人
| style="text-align: center;" | [[1999年のメジャーリーグベースボール|1999]]
| {{flagicon|USA}} [[ワシントン州]][[シアトル]]
|-
| [[グローブライフ・フィールド]]
| [[テキサス・レンジャーズ]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 124m
| style="text-align: center;" | 99m
| style="text-align: center;" | 40,300人
| style="text-align: center;" | 2020
| {{flagicon|USA}} [[テキサス州]][[アーリントン (テキサス州)|アーリントン]]
|-
| [[ミニッツメイド・パーク]]
| [[ヒューストン・アストロズ]]
| style="text-align: center;" | 96.0m
| style="text-align: center;" | '''132.6m'''
| style="text-align: center;" | 99.4m
| style="text-align: center;" | 40,950人
| style="text-align: center;" | [[2000年のメジャーリーグベースボール|2000]]
| {{flagicon|USA}} [[テキサス州]][[ヒューストン]]
|}
;[[ナショナルリーグ]]球場一覧
:{| class="wikitable sortable" style="font-size: 80%;"
! style="width: 4.5em;" | 地区
! style="width: 20em;" | 球場名
! style="width: 19em;" | チーム
! style="width: 4.5em;" | 左翼
! style="width: 4.5em;" | 中堅
! style="width: 4.5em;" | 右翼
! style="width: 4.5em;" | 収容人数
! style="width: 4.5em;" | 開場年
! style="width: 20em;" | 所在地
|-
| rowspan="5" style="background-color: royalblue; text-align: center;"|[[アメリカンリーグ東地区|{{color|white|東地区}}]]
| [[トゥルーイスト・パーク]]
| [[アトランタ・ブレーブス]]
| style="text-align: center;" | 102m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 99m
| style="text-align: center;" | 41,500人
| style="text-align: center;" | [[2017年のメジャーリーグベースボール|2017]]
| {{flagicon|USA}} [[ジョージア州]][[アトランタ]]
|-
| [[ローンデポ・パーク]]
| [[マイアミ・マーリンズ]]
| style="text-align: center;" | 103.6m
| style="text-align: center;" | 126.8m
| style="text-align: center;" | 102.1m
| style="text-align: center;" | 37,000人
| style="text-align: center;" | [[2012年のメジャーリーグベースボール|2012]]
| {{flagicon|USA}} [[フロリダ州]][[マイアミ]]
|-
| [[シティ・フィールド]]
| [[ニューヨーク・メッツ]]
| style="text-align: center;" | 103.1m
| style="text-align: center;" | 125.4m
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 41,800人
| style="text-align: center;" | [[2009年のメジャーリーグベースボール|2009]]
| {{flagicon|USA}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]・[[クイーンズ区|クイーンズ]]
|-
| [[シチズンズ・バンク・パーク]]
| [[フィラデルフィア・フィリーズ]]
| style="text-align: center;" | 100.3m
| style="text-align: center;" | 122.2m
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 43,500人
| style="text-align: center;" | [[2004年のメジャーリーグベースボール|2004]]
| {{flagicon|USA}} [[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]
|-
| [[ナショナルズ・パーク]]
| [[ワシントン・ナショナルズ]]
| style="text-align: center;" | 102.4m
| style="text-align: center;" | 122.5m
| style="text-align: center;" | 102.1m
| style="text-align: center;" | 41,888人
| style="text-align: center;" | [[2008年のメジャーリーグベースボール|2008]]
| {{flagicon|USA}} [[ワシントンD.C.]]
|-
| rowspan="5" style="background-color: blue; text-align: center;"|[[アメリカンリーグ中地区|{{color|white|中地区}}]]
| [[リグレー・フィールド]]
| [[シカゴ・カブス]]
| style="text-align: center;" | '''108.2m'''
| style="text-align: center;" | 121.9m
| style="text-align: center;" | '''107.6m'''
| style="text-align: center;" | 41,118人
| style="text-align: center;" | '''[[1914年のメジャーリーグベースボール|1914]]'''
| {{flagicon|USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]]
|-
| [[グレート・アメリカン・ボール・パーク]]
| [[シンシナティ・レッズ]]
| style="text-align: center;" | 100.0m
| style="text-align: center;" | 123.1m
| style="text-align: center;" | 99.1m
| style="text-align: center;" | 42,059人
| style="text-align: center;" | [[2003年のメジャーリーグベースボール|2003]]
| {{flagicon|USA}} [[オハイオ州]][[シンシナティ]]
|-
| [[アメリカンファミリー・フィールド]]
| [[ミルウォーキー・ブルワーズ]]
| style="text-align: center;" | 104.9m
| style="text-align: center;" | 121.9m
| style="text-align: center;" | 105.2m
| style="text-align: center;" | 42,400人
| style="text-align: center;" | [[2001年のメジャーリーグベースボール|2001]]
| {{flagicon|USA}} [[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]
|-
| [[PNCパーク]]
| [[ピッツバーグ・パイレーツ]]
| style="text-align: center;" | 99.1m
| style="text-align: center;" | 121.6m
| style="text-align: center;" | 97.5m
| style="text-align: center;" | 38,496人
| style="text-align: center;" | 2001
| {{flagicon|USA}} ペンシルベニア州[[ピッツバーグ]]
|-
| [[ブッシュ・スタジアム]]
| [[セントルイス・カージナルス]]
| style="text-align: center;" | 102.4m
| style="text-align: center;" | 121.9m
| style="text-align: center;" | 102.1m
| style="text-align: center;" | 43,975人
| style="text-align: center;" | [[2006年のメジャーリーグベースボール|2006]]
| {{flagicon|USA}} [[ミズーリ州]][[セントルイス]]
|-
| rowspan="5" style="background-color:#007fff; text-align: center;" | [[アメリカンリーグ西地区|{{color|white|西地区}}]]
| [[チェイス・フィールド]]
| [[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 124.1m
| style="text-align: center;" | 101.8m
| style="text-align: center;" | 49,033人
| style="text-align: center;" | [[1998年のメジャーリーグベースボール|1998]]
| {{flagicon|USA}} [[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]
|-
| [[クアーズ・フィールド]]
| [[コロラド・ロッキーズ]]
| style="text-align: center;" | 105.8m
| style="text-align: center;" | 126.5m
| style="text-align: center;" | 106.7m
| style="text-align: center;" | 50,445人
| style="text-align: center;" | [[1995年のメジャーリーグベースボール|1995]]
| {{flagicon|USA}} [[コロラド州]][[デンバー (コロラド州)|デンバー]]
|-
| [[ドジャー・スタジアム]]
| [[ロサンゼルス・ドジャース]]
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | 120.4m
| style="text-align: center;" | 100.6m
| style="text-align: center;" | '''56,000人'''
| style="text-align: center;" | [[1962年のメジャーリーグベースボール|1962]]
| {{flagicon|USA}} [[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]
|-
| [[ペトコ・パーク]]
| [[サンディエゴ・パドレス]]
| style="text-align: center;" | 101.8m
| style="text-align: center;" | 120.7m
| style="text-align: center;" | 98.1m
| style="text-align: center;" | 42,445人
| style="text-align: center;" | 2004
| {{flagicon|USA}} カリフォルニア州[[サンディエゴ]]
|-
| [[オラクル・パーク]]
| [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]
| style="text-align: center;" | 103.3m
| style="text-align: center;" | 121.6m
| style="text-align: center;" | 94.2m
| style="text-align: center;" | 41,503人
| style="text-align: center;" | 2000
| {{flagicon|USA}} カリフォルニア州[[サンフランシスコ]]
|}
==== マイナーリーグ ====
{{節スタブ}}
=== 日本 ===
日本では興行上の理由から、公認野球規則2.01の規定を敢えて無視し、両翼を狭くすることで[[本塁打]]の出やすい球場が多く作られた。中には[[阪神甲子園球場]]、[[明治神宮野球場]]、[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]、[[京都市西京極総合運動公園野球場]](わかさスタジアム京都)、[[倉吉市営野球場]]などのように、完成時の広いグラウンド内に、わざわざ[[ラッキーゾーン]]という金網の柵を設けたこともあった。[[藤井寺球場]]には外野客席とフィールドの間にブルペンが設置(ラバーフェンスはフィールドとブルペンの間に設置)されており、事実上のラッキーゾーンを成していた(神宮球場は1967年にラッキーゾーンを撤去している)。
[[1984年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]から野球が[[オリンピック公開競技]]となることが決まると、既存球場の広さでは将来的なオリンピック開催や選手の野球技術の向上の点で国際的に通用しないとの危機感が浮上した。[[1981年]][[12月24日]]、[[日本野球機構]]の[[下田武三]][[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]は12球団のオーナーらに要望書を送付。新設する野球場は正規の規格で建設するよう訴えた。こうした流れを受けて、1980年代後半以降は国際ルールに適合、またはそれに準ずる球場が続々完成(改修工事を施した球場でも両翼を国際基準、またはそれに準じたサイズに拡大)し、ラッキーゾーンのあった球場も倉吉(ナイター設備がラッキーゾーンの中にあるため撤去が困難)を除いて全て撤去された。後、2010年代になって宮城球場にEウイング、福岡ドームにホームランテラスと称する、外野フェンスから外野に張り出す形での観客席が新設され、フィールドを狭くするラッキーゾーン敷設同様の改修が行われている。
また従来の球場のファウルゾーンは、公認野球規則に規定された最低限の面積を遙かに上回る広大なものが多く、両翼までなだらかにファウルゾーンが狭まっていくのが主流であった。各球場のグラウンドの両翼が公認野球規則に従って拡張されつつあった1980年代から90年代にかけても、この点について考慮はあまり見られなかった。しかし2000年代以降、メジャーリーグのTV中継により視聴者がアメリカの球場を目にする機会が増えると、国内のプロ球団が使用する球場においても、観客席を新たに設けることにより、一(三)塁を過ぎた所でファウルゾーンを急激に狭める改修が進められた。特に2009年に完成した[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]](以降マツダスタジアム)は、公認野球規則の制限内において可能な限りファウルゾーンを狭めている。また、2008年から2009年にかけての改修によりファウルゾーンを狭めた西武ドームも同様であり、グラウンド面積はマツダスタジアムを下回り専用球場12球場で最小となっている。
基本的にフィールドは左右対称となっている(日本国内のプロ本拠地ではマツダスタジアムとエスコンフィールドが非対称)。アメリカでは、1960年代から1980年代までに建設されたものは左右対称のフィールドが多かったものの、新古典派球場ブームの到来で現在左右対称のフィールドとなっているスタジアムはわずかである。
さらにグラウンドの方角については、野手が長時間南側を向いて守備し、直射日光を受けねばならないことを考慮して、公認野球規則の規定を敢えて無視し、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を南向きにする球場が多く見られる。甲子園球場、宮城球場、[[神戸総合運動公園野球場]]、千葉マリンスタジアム、京都市西京極総合運動公園野球場、藤井寺球場などが代表例である。
一方、明治神宮球場・横浜スタジアムなどは、守備側が概ね南側を向くようになっており、さらにマツダスタジアムは公認野球規則に完全に従い、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を東北東向きとしている。公認野球規則の規定は球場内の多数を占める内野スタンドの観客が直射日光に晒されないよう配慮されたもので、アメリカ・メジャーリーグのスタジアムで数多く見られる伝統的なグラウンド配置である。こうした球場での午後のデーゲームは、内野スタンドの大部分が日陰になる一方、外野手のサングラス着用は必須となっている。
なお、現在プロ12球団が本拠地としている野球場の両翼・中堅・左右中間までの距離の公称値(非公称値含む)は下記の通りである。
;[[日本野球機構|NPB]]球場一覧
:{| class="wikitable sortable" style="font-size: 80%;"
! style="width: 10em;" | リーグ
! style="width: 24em;" | 球場名
! style="width: 20em;" | チーム
! style="width: 4.5em;" | 両翼
! style="width: 4.5em;" | 中堅
! style="width: 4.5em;" | 右左中間
! style="width: 4.5em;" | 収容人数
! style="width: 4.5em;" | 開場年
! style="width: 12em;" | 所在地
|-
| rowspan="6" style="background-color: #8ce; text-align: center;"|[[パシフィック・リーグ]]
| [[エスコンフィールドHOKKAIDO]]
| [[北海道日本ハムファイターズ]]
| style="text-align: center;" | 左翼97m<br>右翼99m
| style="text-align: center;" | 121m
| style="text-align: center;" | 左中間最深部109m<br>右中間最深部122.6m
| style="text-align: center;" | 35,000人
| style="text-align: center;" |[[2023年]]
| {{flagicon|JPN}}[[北海道]][[北広島市]]
|-
|[[宮城球場]]/楽天モバイルパーク宮城
|[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]
| style="text-align: center;" | 100.1m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 116m
| style="text-align: center;" | 31,272人
| style="text-align: center;" |[[1950年]]
| {{flagicon|JPN}}[[宮城県]][[仙台市]][[宮城野区]]
|-
| [[西武ドーム]]/ベルーナドーム
| [[埼玉西武ライオンズ]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 116m
| style="text-align: center;" | 31,552人
| style="text-align: center;" |[[1979年]]
| {{flagicon|JPN}}[[埼玉県]][[所沢市]]
|-
| [[千葉マリンスタジアム]]/ZOZOマリンスタジアム
| [[千葉ロッテマリーンズ]]
| style="text-align: center;" | 99.5m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 112.3m
| style="text-align: center;" | 30,118人
| style="text-align: center;" |[[1990年]]
| {{flagicon|JPN}}[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]
|-
| [[大阪ドーム]]/京セラドーム大阪
| [[オリックス・バファローズ]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 116m
| style="text-align: center;" | 36,220人
| style="text-align: center;" |[[1997年]]
| {{flagicon|JPN}}[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]
|-
| [[福岡ドーム]]/福岡PayPayドーム
| [[福岡ソフトバンクホークス]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 110m
| style="text-align: center;" | 40,000人
| style="text-align: center;" |[[1993年]]
| {{flagicon|JPN}}[[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]
|-
| rowspan="6" style="background-color: #8b8; text-align: center;"|[[セントラル・リーグ]]
| [[東京ドーム]]
| [[読売ジャイアンツ]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 110m
| style="text-align: center;" | 46,000人
| style="text-align: center;" |[[1988年]]
| {{flagicon|JPN}}[[東京都]][[文京区]]
|-
|[[明治神宮野球場]]
|[[東京ヤクルトスワローズ]]
| style="text-align: center;" | 97.5m
| style="text-align: center;" | 120m
| style="text-align: center;" | 112.3m
| style="text-align: center;" | 30,969人
| style="text-align: center;" |[[1926年]]
| {{flagicon|JPN}}東京都[[新宿区]]
|-
| [[横浜スタジアム]]
| [[横浜DeNAベイスターズ]]
| style="text-align: center;" | 94.2m
| style="text-align: center;" | 117.7m
| style="text-align: center;" | 111.4m
| style="text-align: center;" | 34,046人
| style="text-align: center;" |[[1978年]]
| {{flagicon|JPN}}[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]
|-
| [[ナゴヤドーム]]/バンテリンドーム ナゴヤ
| [[中日ドラゴンズ]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 116m
| style="text-align: center;" | 40,500人
| style="text-align: center;" |[[1997年]]
| {{flagicon|JPN}}[[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]
|-
| [[阪神甲子園球場]]
| [[阪神タイガース]]
| style="text-align: center;" | 100m
| style="text-align: center;" | 118m
| style="text-align: center;" | 118m
| style="text-align: center;" | 43,508人
| style="text-align: center;" |[[1924年]]
| {{flagicon|JPN}}[[兵庫県]][[西宮市]]
|-
| [[広島市民球場]]/[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]
|[[広島東洋カープ]]
| style="text-align: center;" | 右翼100m<br>左翼101m
| style="text-align: center;" | 122m
| style="text-align: center;" | 116m
| style="text-align: center;" | 33,000人
| style="text-align: center;" |[[2009年]]
| {{flagicon|JPN}}[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]
|}
2009年現在、公認野球規則2.01の付記(a)で規定された規格を充足しないのは神宮、横浜、甲子園の3球場である。神宮は2008年の改修によってフィールドを拡張したが、規格は充足されなかった。横浜は都市公園法上の建ぺい率制限から将来的にもほぼ拡張不可能。甲子園も2007年から行われた改修においてフィールドの拡張は行われなかった。ただし甲子園は左右中間の奥行きが広く、両翼のポールの位置も独特なため、両翼・中堅の数値だけをもって狭いとは言えない。左右中間の膨らみは規定されていないため、甲子園のように左右中間までの距離が中堅までとほぼ変わらず巨大な膨らみを持つ球場から、東京ドーム、福岡ドームのように左右中間の膨らみがほぼないものまで様々である。近年の球場の外野フェンスは二塁やや後方の一点を中心とする真円の弧になっているものが多い。フェンスの高さも規定されておらず、ホームランテラスを設置する前の福岡ドームの外野フェンスは5.8mあり、アメリカの[[フェンウェイ・パーク]]にならって「グリーンモンスター」とも呼ばれた。
=== 韓国 ===
[[ファイル:Busan Sajik Stadium 20080706.JPG|thumb|250px|[[社稷野球場]]([[釜山広域市]])]]
近年は国際大会での躍進が目立つ[[大韓民国|韓国]]だが、学生野球の段階から極端な少数精鋭制(野球部のある高校は全国で50余校しかない)を採っているため、野球の競技人口は非常に少なく、野球[[インフラストラクチャー|インフラ]]の整備が進んでいない。そのため、大都市を除けば野球場が殆ど存在しないのが現状である<ref>水沼啓子(2009-03-29), [https://megalodon.jp/2009-0330-0229-40/sankei.jp.msn.com/world/korea/090329/kor0903291301002-n1.htm 【週刊韓(カラ)から】韓国野球の強さの秘訣は“抗日義士”?], MSN産経ニュース, 2010年11月26日閲覧</ref>。
プロ球団が本拠地とする9球場のうち、[[社稷野球場]]([[釜山広域市|釜山]])、[[文鶴野球場]]([[仁川広域市|仁川]])、[[蚕室野球場]]([[ソウル特別市|ソウル]])の3球場は内外野総天然芝のグラウンドなど充実した設備を持ち、3万人近い観客を収容可能である。それ以外の球場は人工芝で、1万人台前半〜2万人程度の収容能力しか持たず、設備も劣悪であった。特に[[大邱市民運動場野球場]]([[大邱広域市|大邱]])は老朽化が深刻で[[宣銅烈]]は「プロ野球がこんな球場で行われるということ自体が恥ずかしい」と語っていた<ref>{{Cite news|title=<野球>「崩壊の危険ある球場で野球しろと?」宣銅烈監督|newspaper=中央日報|date=2006-04-06|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=74444&servcode=600§code=|accessdate=2017-08-19}}</ref>。米球界経験者である[[奉重根]]は、「韓国の球場施設はあまりにも劣悪。大邱や[[光州広域市|光州]]、[[木洞野球場|木洞]]の球場は正直言って([[マイナーリーグ]]の)1A水準」「スライディンクもダイビングキャッチも、思い切ってできない状況だ。[[マウンド]]も少し投球しただけでくぼみができる」と不満を述べている<ref>{{Cite news|title=奉重根「韓国の野球インフラひどすぎ」|newspaper=朝鮮日報|date=2009-06-26|author=ナム・ジョンソク|url=http://www.chosunonline.com/news/20090626000045|accessdate=2017-08-19|archiveurl=https://archive.is/fiBtZ|archivedate=2013-09-28}}</ref>。
近年は[[ワールド・ベースボール・クラシック]]1次ラウンド誘致を見込んで、釜山にドーム球場建設の動きがある。「韓国球界の宿願」とされるドーム球場建設だが、資金面や運用面で問題が山積みであり、実現の目途は立っていなかったが<ref>[http://www.chosunonline.com/news/20100919000009 野球:釜山ドーム構想、費用問題で足踏み]{{リンク切れ|date=2017年8月}}, 朝鮮日報, 2010年11月26日閲覧</ref>、2015年10月にソウル特別市[[九老区]]で韓国初となるドーム球場[[高尺スカイドーム]]が開場した。
[[ファイル:New Gwangju Baseball Stadium.jpg|thumb|250px|2014年に開場した[[光州起亜チャンピオンズフィールド]]([[光州広域市]])。]]
* [[社稷野球場]]([[ロッテ・ジャイアンツ]]の本拠地) - 両翼95m、中堅118m。内外野[[天然芝]]。25,000人収容。
* [[文鶴野球場|仁川SK Happy Dreamパーク]]([[SKワイバーンズ]]の本拠地) - 両翼95m、中堅120m。内外野天然芝。27,800人収容。
* [[蚕室野球場]]([[LGツインズ]]と[[斗山ベアーズ]]の本拠地) - 両翼100m、中堅125m。内外野天然芝。27,500人収容。
* [[木洞野球場]](ネクセン・ヒーローズ(現・[[キウム・ヒーローズ]])の本拠地、2015年まで) - 両翼98m、中堅118m。[[人工芝]]。20,000人収容。
* [[高尺スカイドーム]](キウム・ヒーローズの本拠地、2016年から) - 両翼99m、中堅122m。[[人工芝]]。22,258人収容。
* [[馬山総合運動場野球場]]([[NCダイノス]]の前本拠地、2018年まで) - 両翼96m、中堅116m。人工芝。11,000人収容。
* [[昌原NCパーク]](NCダイノスの本拠地、2019年から) - 両翼101m、中堅122m。内外野天然芝。22,112人収容。
* [[大邱市民運動場野球場]]([[サムスン・ライオンズ]]の前本拠地、2015年まで) - 両翼98m、中堅120m。人工芝。13,941人収容。
* [[大邱サムスン・ライオンズ・パーク]](サムスン・ライオンズの本拠地、2016年から) - 両翼99.5m、中堅122m。内外野天然芝。29,178人収容(韓国の野球場としては最多)。
* [[光州無等総合競技場野球場]]([[起亜タイガース]]の前本拠地、2013年まで) - 両翼99m、中堅120m。人工芝。13,872人収容。
* [[光州起亜チャンピオンズフィールド]](起亜タイガースの本拠地) - 両翼99m、中堅121m。内外野天然芝。27,000人収容。
* [[大田ハンバッ運動場野球場|ハンファ生命イーグルスパーク]]([[ハンファ・イーグルス]]の本拠地) - 両翼99m、中堅121m。人工芝。13,000人収容。
* [[水原総合運動場野球場|水原ktウィズパーク]]([[KTウィズ]]の本拠地) - 両翼95m、中堅120m。天然芝。22,000人収容。
[[光州広域市]]は2010年から、市幹部が相次いで[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]を視察し、その結果、目標をドーム球場建設から内外野天然芝のボールパーク建設に鞍替えした。2011年12月から建設が始まった[[光州無等総合競技場野球場]]に代わる新球場は2014年2月に竣工し、[[光州起亜チャンピオンズフィールド]]と命名された。
=== 中南米 ===
[[ファイル:Estadio de beisbol en Monterrey.jpg|thumb|250px|[[エスタディオ・デ・ベイスボル・モンテレイ]]([[メキシコ]]・[[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]])]]
[[ファイル:Estadio Latinoamericano.jpg|thumb|250px|[[エスタディオ・ラティーノアメリカーノ]]([[キューバ]]・[[ハバナ]])]]
[[ファイル:Universitario-caracas.jpg|thumb|250px|[[エスタディオ・ウニベルシタリオ・デ・カラカス]]([[ベネズエラ]]・[[カラカス]])]]
野球が盛んな中南米には、本格的な野球場が多く存在する。ただし、一部の例外を除けば収容人数は多くても2万人台である。米国と同様に内外野総[[天然芝]]の屋外球場が基本的な形態である。特徴の1つとして、その地に所縁のある往年の名選手の名が付けられた球場が多い(例:[[ベネズエラ]]の[[エスタディオ・ルイス・アパリシオ・エル・グランデ]]、[[ニカラグア]]の[[エスタディオ・デニス・マルティネス]]、[[プエルトリコ]]の[[エスタディオ・ロベルト・クレメンテ・ウォーカー]]など)。また、この地域は経済水準が北米や極東アジアに比べると低いため、プロレベルの試合が行われる野球場であっても、グラウンドのコンディションや設備が劣悪な状態であることも珍しくない<ref>石原豊一(2008-07-18),[http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html リガ・ノロエステ ~もうひとつのウィンターリーグ(最終回)], 野球小僧編集部, 2010年11月26日閲覧</ref><ref name="nika">石原豊一(2008-12-05), [http://kozo.weblogs.jp/kozo/2008/12/post-1cd6.html ニカラグア野球紀行 第1回], 野球小僧編集部 , 2010年11月26日閲覧</ref><ref name="cuba">[http://www15.plala.or.jp/samayoinohoshi/cuba6.htm ラブランド・アイランド・キューバ VoL.6 キューバ野球]</ref>。
;[[メキシコ]]
:国内で最大の野球場は、北東部の都市[[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]]にある[[エスタディオ・デ・ベイスボル・モンテレイ]](2万8000人収容)である。[[1996年]]と[[1999年]]には[[サンディエゴ・パドレス]]の主催でMLBの公式戦が開催されている。次いで収容人数が多いのは、首都[[メキシコシティ]]にある多目的球場[[フォロ・ソル]](2万5000人収容)である。[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック]]のメキシコラウンドがフォロ・ソルで開催された。メキシコでは夏季リーグ([[リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル]])と[[ウィンターリーグ]]([[リーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ]])の2つのリーグが存在し、全国に一定規模の野球場が存在するが、収容人数が2万人を上回るのは前記の2球場だけで、それ以外は数千人 - 1万人台のものである。
;[[キューバ]]
:首都[[ハバナ]]にある[[エスタディオ・ラティーノアメリカーノ]]は[[ラテンアメリカ]]最大の野球場で、収容人数は最大で5万5000人に達する。{{by|1946年}}の開場当初は、3万人収容だったが、{{by|1971年}}の大改装で客席が大幅に増設された。名実共にキューバを代表する野球場であり、{{by|1999年}}3月28日には[[ボルチモア・オリオールズ対キューバ代表の親善試合]]第1戦も開催され、5万人を超える観客が詰めかけた<ref>[http://www.latinosportslegends.com/USvsCuba.htm http://www.latinosportslegends.com/USvsCuba.htm], Latino Legends in Sports(英語), 2010年11月26日</ref>。キューバではエスタディオ・ラティーノアメリカーノだけが突出して規模が大きく、その他の球場は他の中南米諸国と同程度の規模である。[[サンティアゴ・デ・クーバ]]市にある[[:es:Estadio Guillermón Moncada|エスタディオ・ギジェルモン・モンカダ]](2万5000人収容)、[[:en:Matanzas|マタンサス]]市にある[[:es:Estadio Victoria de Girón|エスタディオ・ビクトリア・デ・ヒロン]](2万2000人収容)が2万人以上の収容能力を持つ。
;[[ドミニカ共和国]]
:[[ウィンターリーグ]]で本拠地として使用される野球場は全部で5つあるが、収容人数2万人以上の球場は存在せず、国内第2の都市[[サンティアゴ・デ・ロス・カバリェロス]]にある[[エスタディオ・シバオ]]が1万8077人で国内最大である。首都[[サントドミンゴ]]の[[エスタディオ・キスケージャ]](1万6500人収容)が2番目の規模を持つ。プロ球団が使用する5球場では、[[エスタディオ・テテーロ・バルガス]]を除く4球場が1万人以上の収容能力を持つ。
;[[プエルトリコ]]
:最大の都市[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]にある[[ヒラム・ビソーン・スタジアム]](1万8000人収容)が同国最大の野球場である。[[ワールド・ベースボール・クラシック]]で2度会場になり、MLBの公式戦もたびたび開催されている。同球場と[[エスタディオ・フランシスコ・モンタネール]]、[[エスタディオ・ロベルト・クレメンテ・ウォーカー]]の3球場は、中南米の主要球場としては珍しく[[人工芝]]のグラウンドを持つ。
;[[ベネズエラ]]
:[[ウィンターリーグ]]で本拠地として使用される野球場は全部で7つあり、その全てが1万人以上の収容能力を持つ。国内最大([[南米大陸]]最大)の野球場は、首都[[カラカス]]にある[[エスタディオ・ウニベルシタリオ・デ・カラカス]](約2万6000人収容)である。2万人以上を収容できる野球場は、その他に[[マラカイボ]]の[[エスタディオ・ルイス・アパリシオ・エル・グランデ]](2万3900人収容)、[[バルキシメト]]の[[エスタディオ・アントニオ・エレーラ・グティエレス]](2万450人収容)がある。
;[[パナマ]]
:首都[[パナマ市]]にある[[:es:Estadio Nacional de Panamá|エスタディオ・ナシオナル・デ・パナマ]](2万7000人収容)が国内最大の野球場である。パナマ出身の殿堂入り選手[[ロッド・カルー]]を記念して、「エスタディオ・ナシオナル・ロッド・カルー」の別名を持つ。
;[[コロンビア]]
:本格的な野球場は、野球が盛んな[[カリブ海]]沿岸部に多い。[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]にある[[:es:Estadio Once de Noviembre|エスタディオ・オンス・デ・ノビエブレ]](1万2000人収容)と、[[シンセレホ]]にある[[:en:Estadio 20 de Enero|エスタディオ・20・デ・エネロ]](1万人収容)の2球場が1万人以上の収容能力を持つ<ref>{{cite web|url=http://teamrenteria.info/teamrenteria/Joomla/content/view/263/104/|title="Estadio Once de Noviembre" |language=スペイン語|accessdate=2009-05-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090528033326/http://teamrenteria.info/teamrenteria/Joomla/content/view/263/104/ |archivedate=2009年5月28日}}</ref>。[[バランキヤ]]にある[[:es:Estadio Tomás Arrieta|エスタディオ・トマス・アリエタ]](8000人収容)には、国内リーグの本部が設置されている<ref>石原豊一(2010-07-20), [http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat6387091/ コロンビア野球紀行 第19回], 野球小僧編集部, 2010年11月26日閲覧</ref>。ちなみに、同球場はバランキヤ出身の名遊撃手[[エドガー・レンテリア]]を冠した名称に変更される予定である<ref>[http://www.elheraldo.com.co/ELHERALDO/BancoConocimiento/E/estadioedgarrenteria/estadioedgarrenteria.asp?CodSeccion=59 Alcalde anuncia que estadio de béisbol se llamará Édgar Rentería], EL HERALD.COM.CO(スペイン語), 2010年11月26日閲覧</ref>。
;[[ニカラグア]]
:同国出身の名投手[[デニス・マルティネス]]の名を冠した[[エスタディオ・デニス・マルティネス]]が国内最大の野球場([[サッカー]]場も兼ねる多目的スタジアム)であり、中南米でも最大規模の収容能力(約3万100人収容)を持つ<ref>[http://fedefutbol.net/fed.aspx?id=NCA : Fedefutbol.net - Federaciones Internacionales de Fútbol :<!-- Bot generated title -->](スペイン語)</ref>。ただし、資料によっては2万5000人という表記もある<ref>Andrew G. Clem, [http://www.andrewclem.com/Baseball/EstadioDennisMartinez.html "Estadio Dennis Martinez"], [http://www.andrewclem.com/Baseball.php ''Clem's Baseball'']</ref>。全体的に球場のコンディションは悪く、デコボコの内野グラウンドに荒れた芝、薄暗い照明など劣悪な環境で試合が行われている<ref name="nika" />。
=== その他 ===
{{節スタブ}}
== 歴史 ==
=== アメリカ合衆国における野球場の歴史 ===
{{See also|メジャーリーグベースボールの本拠地野球場一覧}}
野球は[[アメリカ合衆国]]の4大スポーツの中で最も古い歴史を持ち、野球場も時代の流れの中で大きな変遷を遂げてきた。以下、アメリカ合衆国における野球場の歴史を概説する。
==== 黎明期 ====
[[ファイル:Baseball1866.JPG|thumb|250px|エリシアン・フィールズ(1866年)]]
野球のゲームルールを確立した[[アレクサンダー・カートライト]]が設立したニッカーボッカー・クラブは[[ニューヨーク]]が本拠地だったが、マンハッタンに適当なグラウンドが無かったために、[[1845年]]、[[ニュージャージー州]]の[[ホーボーケン (ニュージャージー州)|ホーボーケン]]にある[[:en:Elysian Fields, Hoboken, New Jersey|エリシアン・フィールズ]]を使い始めた<ref>Nieves, Evelyn. [http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0DE1D71239F930A35757C0A960958260 "Our Towns;In Hoboken, Dreams of Eclipsing the Cooperstown Baseball Legend"], ''The New York Times'', April 3, 1996. Accessed October 26, 2007. "</ref>。翌年、エリシアン・フィールズで、ニッカーボッカー・クラブとニューヨーク・ナインの試合が、初めての野球のクラブ対抗戦として開催された。1865年、エリシアン球場でニューヨークの[[ニューヨーク・ミューチュアルズ|ミューチュアル・クラブ]]とブルックリンの[[ブルックリン・アトランティックス|アトランティック・クラブ]]の選手権試合が開催されおよそ2万人の観衆を集めた。この光景が印刷屋のカリアー&アイブズの[[リトグラフ]]「アメリカの国民的野球試合」(右図)に収められた。この時代の球場には外野フェンスが存在せず、本塁打は全てランニング本塁打だった。
[[ファイル:Southendgrounds.jpg|thumb|250px|left|ボストン・ビーンイーターズ(現[[アトランタ・ブレーブス]])の本拠地であった[[サウス・エンド・グラウンズ]](1893年)]]
1860年代には、野球がアメリカ合衆国内で急速に普及していく。[[1862年]]には、[[ニューヨーク]]の[[ブルックリン区|ブルックリン]]に初のフェンス付き野球場である[[ユニオン・グラウンズ]]が完成。ユニオン・グラウンズでは、1500人ほどが入れる観客席があったことで、野球の試合で観客から入場料を取ることができるようになった。同球場では、米国にプロ野球組織が出来る前から、いくつものニューヨークの著名な野球クラブが本拠地とし、[[1871年]]以降は初期の[[ナショナルリーグ]]の試合でも用いられた。
[[1871年]]、初のプロ野球リーグ[[全米プロ野球選手協会|ナショナル・アソシエーション]]が誕生し、本格的な興行を目的とした近代野球場が、各地で相次いで建設された。この時代に作られた野球場の中でも、特に著名なものの1つが、[[アトランタ・ブレーブス|ボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)]]の本拠地[[サウス・エンド・グラウンズ]]である。[[1880年]]には、後に[[ポロ・グラウンズ]]として知られることになる野球場(ブラザーフッド・パーク)がマンハッタンに完成。同球場は、1891年に「ポロ・グラウンズ」に改称してオープンし、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)]]が本拠地として使用を開始する。この時期にはまだ、プロが使用する球場であっても、収容人数は数千人~1万人台前半規模の物が多数を占めていたが、1882年開場の[[エクスポジション・パーク (ピッツバーグ)|エクスポジション・パーク]](収容人数:16,000人)のように、多くの観客席を備えた球場も存在した。
[[ファイル:West Side Park 1908 08 30.jpg|thumb|right|350px|ウエスト・サイド・パーク(写真は1908年8月30日、カブス - [[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ジャイアンツ]]戦)。左翼 - 340 ft (約103.6 m)、中堅 - 516 ft (約157.3 m)、右翼 - 316 ft (約96.3 m)]]
1890年代からは、1万人台後半以上の大規模な観客席を備えた野球場が次々と現れるようになる。[[シカゴ・カブス]]の本拠地[[ウエスト・サイド・パーク]]は、1894年の改修で16,000人の観客席を備えた。[[1901年]]に誕生した[[ニューヨーク・ヤンキース|ニューヨーク・ハイランダース(現ニューヨーク・ヤンキース)]]は、当初[[オリオール・パーク]]を本拠地にしていたが、[[1903年]]から収容人数16,000人の[[ヒルトップ・パーク]]に移転する。その後、[[1911年]]にジャイアンツが新ポロ・グラウンズに移転。2年後には、ハイランダースから球団名を変更したヤンキースも、同じくポロ・グラウンズに移転した。新ポロ・グラウンズは、34,000人もの大収容人数を誇る、当時では画期的な新球場であった。
黎明期の野球場は、現在と異なりフィールドの形がかなり歪であった。ポロ・グラウンズはその典型で、グラウンドがほぼ長方形の形をしており、中堅までが483ft(約147.2m)と異様に長いが、左翼までは279ft(約85.0m)、右翼までは257.67 ft(約78.5m)と極端に短くなっており、ポップフライでもポール際なら本塁打になることが多かった。[[ベーブ・ルース]]は、この球場の形状を利用して、本塁打を量産した。また、レイク・フロント・パーク([[シカゴ]])は、左翼まで186ft(約56.7m)、中堅まで300ft(約91.4m)、右翼まで196ft(約59.7m)と極めて狭く、あまりの狭さに1884年シーズン終了後に広いウエスト・サイド・パークに移転した。狭い球場が多い一方で、中堅までが542ft(約165.2m)、左翼365ft(約111.3m)、右翼400ft(約121.9m)というヒルトップ・パークのように広大な球場も多く、球場サイズは全く統一されていなかった。また、この時代の球場は木製であったため、火事に見舞われることも少なくなかった。
==== 近代野球場の隆盛 ====
[[ファイル:Fenway from Legend's Box.jpg|thumb|250px|現存するメジャーリーグ最古の野球場、[[フェンウェイ・パーク]]。]]
まだ木造建築が主流だった[[1908年]]、初めて鉄骨や鉄筋コンクリートを用いて建設された野球場である[[シャイブ・パーク]]([[フィラデルフィア]])が開場。これを機に、鉄筋コンクリート製球場建設ブームが沸き起こり、その後長きに渡って米国の野球史を彩る近代野球場が次々と姿を現した。翌[[1909年]]には[[フォーブス・フィールド]]([[ピッツバーグ]])が完成し、[[1910年]]には、収容人数3万人で、フィールドの広さも標準的な近代野球場[[コミスキー・パーク]]([[シカゴ]])がオープン。その2年後の[[1912年]]には、現存するMLB最古の球場である[[フェンウェイ・パーク]]([[ボストン]])がオープンした。同年には[[タイガー・スタジアム|ネビン・フィールド]]([[デトロイト]]、後のタイガー・スタジアム)や[[エベッツ・フィールド]]([[ニューヨーク]])、[[クロスリー・フィールド]]([[シンシナティ]])、更に2年後の[[1914年]]には[[リグレー・フィールド]](シカゴ)がオープンし1915年には、当時最大の4万人を収容可能な[[ブレーブス・フィールド]](ボストン)が完成した。メジャーリーグの発展と野球人気の上昇により、球場の収容人数も、2万人~4万人規模が主流になっていった。
この時期に作られた球場は、依然としてフィールドのサイズは統一されていなかったが、概ね現代の水準に近づいてきていた。また、この時代は街中の限られた空き地に球場を作ることが多かったため、結果として左右非対称の歪な形状になることが多かった。その代表例がフェンウェイ・パークであり、左翼方向が右翼に比べて狭く、本塁打の乱発を防ぐためにレフトの外野フェンスが極端に高くなっている(通称:グリーンモンスター)。左右非対称の形状や、カクカクしたフェンスラインは、土地が足らないことによる苦肉の策であったが、次第に古き良き時代の野球場と象徴として捉えられるようになり、近年の新古典主義ボールパークの多くが、左右非対称の歪な外野フェンスラインを採用している。
[[ファイル:Yankee Stadium,1920s.jpg|thumb|200px|left|1920年代のヤンキー・スタジアム正面玄関]]
[[1923年]]には、ニューヨーク・ヤンキースの新球場[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキー・スタジアム]]が開場。収容人数は当時最大の58,000人で、「'''ルースが建てた家'''」(''The house that Ruth built'' )という異名を持った。しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」(''Death Valley'')=「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する<ref>[[藤澤文洋]] 『やっぱり凄い メジャーリーグ大雑学』 [[講談社]]<講談社+α文庫>、ISBN 4062564297、2000年、300頁。</ref>。MLB屈指の強豪球団ヤンキースの本拠地として、ヤンキー・スタジアムは数々の歴史的場面の舞台となった。客席が増設され一時は82,000人収容になったり、[[1946年]]には照明灯が導入されるなど、改修もたびたび行われた。また[[野球]]以外にも使用され、[[1956年]]から[[1973年]]にかけては[[NFL]][[ニューヨーク・ジャイアンツ]]の本拠地として使用された。さらに[[プロボクシング]]のビッグマッチも行われた。
ヤンキー・スタジアムの完成を以って、大規模な近代野球場建設ラッシュも一段落する。[[1931年]]には「'''湖畔の失敗'''(''The Mistake on the Lake'')」と評された[[ミュニシパル・スタジアム (クリーブランド)|ミュニシパル・スタジアム]]([[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]])が開場したが、次なる野球場建設ラッシュは、既存の球場の老朽化が始まり、球団拡張が進められた1960年代~1970年代を待つことになる。
{{ - }}
==== アメフト兼用野球場の流行 ====
(後述の「[[#アメフト兼用球場(円形兼用球場)|多目的施設としての野球場/アメフト兼用球場(円形兼用球場)]]」の項も参照)
1960年代中盤 - 1970年代になると、1900年代初頭に作られた野球場の老朽化が目立つようになった。更に、この時期にはMLBの球団拡張が進められ、各地で新球団が続々と産声を上げていた。また、この頃には既に[[NFL]]がMLBと並ぶ人気プロスポーツに成長しており、野球界と同じく新球場を求める声が上がっていた。こうした事情により、野球と[[アメリカンフットボール]]の兼用球場が各地で次々に建設されることになった。
{| class=wikitable
!開場年!!球場名(開場時)!!球団!!新球場!!備考
|-
| nowrap="nowrap" |[[1953年]]||[[ミルウォーキー・カウンティ・スタジアム]]||[[アトランタ・ブレーブス|ミルウォーキー・ブレーブス]]([[メジャーリーグベースボール|MLB]])<br />[[ミルウォーキー・ブルワーズ]](MLB)<br />[[グリーンベイ・パッカーズ]]([[NFL]])||[[アメリカンファミリー・フィールド]]||[[2001年]]閉場
|-
| nowrap="nowrap" |[[1960年]]||[[キャンドルスティック・パーク]]||[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]([[メジャーリーグベースボール|MLB]])<br />[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]]([[NFL]])||[[オラクル・パーク|パシフィック・ベル・パーク]]||[[1971年]]から<br />アメフト兼用
|-
|[[1961年]]||[[ロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアム]]||[[テキサス・レンジャーズ|ワシントン・セネタース]](MLB)<br />[[ワシントン・コマンダース|ワシントン・レッドスキンズ]](NFL)||[[ナショナルズ・パーク]]||
|-
|[[1964年]]||[[シェイ・スタジアム]]||[[ニューヨーク・メッツ]](MLB)<br />[[ニューヨーク・ジェッツ]](NFL)||[[シティ・フィールド]]||[[2008年]]閉場
|-
|[[1965年]]||[[アストロドーム]]||[[ヒューストン・アストロズ]](MLB)<br />[[テネシー・タイタンズ|ヒューストン・オイラーズ]](NFL)||[[ミニッツメイド・パーク]]||[[1968年]]から<br />アメフト兼用
|-
|[[1966年]]||[[エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム|アナハイム・スタジアム]]||[[ロサンゼルス・エンゼルス]](MLB)<br />[[ロサンゼルス・ラムズ]](NFL)||[[1997年]]に野球専用球場へ再改装||[[1981年]]から<br />アメフト兼用
|-
|[[1966年]]||[[ブッシュ・メモリアル・スタジアム|ブッシュ・スタジアムII]]||[[セントルイス・カージナルス]](MLB)<br />[[アリゾナ・カージナルス|セントルイス・カージナルス]](NFL)||[[ブッシュ・スタジアム|ブッシュ・スタジアムIII]]||[[2005年]]閉場
|-
|[[1966年]]||[[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]||[[オークランド・アスレチックス]](MLB)<br />[[ラスベガス・レイダース|オークランド・レイダース]](NFL)||||
|-
|[[1966年]]||[[アトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアム]]||[[アトランタ・ブレーブス]](MLB)<br />[[アトランタ・ファルコンズ]](NFL)||[[ターナー・フィールド]]||[[1996年]]閉場
|-
|[[1967年]]||[[クアルコム・スタジアム|サンディエゴ・スタジアム]]||[[サンディエゴ・パドレス]](MLB)<br />[[ロサンゼルス・チャージャーズ|サンディエゴ・チャージャーズ]](NFL)||[[ペトコ・パーク]]||
|-
|[[1970年]]||[[スリー・リバース・スタジアム]]||[[ピッツバーグ・パイレーツ]](MLB)<br />[[ピッツバーグ・スティーラーズ]](NFL)||[[PNCパーク]]||[[2000年]]閉場
|-
|[[1970年]]||[[リバーフロント・スタジアム]]||[[シンシナティ・レッズ]](MLB)<br />[[シンシナティ・ベンガルズ]](NFL)||[[グレート・アメリカン・ボール・パーク]]||[[2002年]]閉場
|-
|[[1971年]]||[[ベテランズ・スタジアム]]||[[フィラデルフィア・フィリーズ]](MLB)<br />[[フィラデルフィア・イーグルス]](NFL)||[[シチズンズ・バンク・パーク]]||[[2003年]]閉場
|-
|[[1976年]]||[[キングドーム]]||[[シアトル・マリナーズ]](MLB)<br />[[シアトル・シーホークス]](NFL)||[[T-モバイル・パーク]]||[[2000年]]閉場
|-
|[[1982年]]||[[ヒューバート・H・ハンフリー・メトロドーム|メトロドーム]]||[[ミネソタ・ツインズ]](MLB)<br />[[ミネソタ・バイキングス]](NFL)||[[ターゲット・フィールド]]||
|}
野球・アメフト兼用球場という概念は、元々1887年から[[フィラデルフィア・フィリーズ]]が本拠地として使用していた[[ベイカー・ボウル]]を、[[1933年]]に誕生したNFL新球団の[[フィラデルフィア・イーグルス]]が本拠地として使用するようになったことで、出来上がった。そして、1960年代からは、最初から[[アメリカンフットボール]]兼用として建設される円形球場が流行となった。アメフト兼用球場は1970年代までに多数作られていった。[[1965年]]には世界初のドーム球場である[[アストロドーム]]([[ヒューストン]])が誕生し、人工芝も[[1966年]]に誕生し各地に広まった。(詳しくは[[#人工芝|人工芝]]の項を参照)これらの球場は近代的で未来を感じさせる球場であった。また、
後に広いファウルゾーンや高めのスタンド、近代的だが無粋な外観、左右対称のグラウンド形状などが「[[w:en:Cookie cutter stadium|クッキーカッター]](画一的、どれも見た目が一緒)」、あるいは「コンクリートのドーナツ」「灰皿」と呼ばれるようになり、不評を買うようになる(後述)。
この流れの中でも、[[1961年]]開場の[[ドジャー・スタジアム]]([[ロサンゼルス]])は野球専用球場として作られている。また、[[1973年]]開場の[[カウフマン・スタジアム]]([[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]])はアメフト用スタジアムと隣接して造られている。[[1987年]]に[[マイアミ・ドルフィンズ]]の本拠地として建設された[[サンライフ・スタジアム|ドルフィン・スタジアム]]は、元々はアメフト専用球場であったが、[[1993年]]に誕生した新球団[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]が本拠地として使用することが決まると、野球も行えるように改修された。
==== 新古典派球場建設ブーム ====
(詳細は、後述の「[[#野球専用球場・ボールパーク(ball park)|野球専用球場・ボールパーク(ball park)]]」の項を参照)
1980年代に入っても流れは変わらず、[[メトロドーム]]や近代的球場の最高峰とも呼べるスカイドーム(現[[ロジャース・センター]])が建設された。この流れを大きく変化させたのは、[[1992年]]に開場した[[オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ]]である。これに続く新古典派球場の建設ラッシュにより1960年代からの円形兼用球場は次々と閉場され、同じ敷地に野球専用球場とアメフト用スタジアムが隣接するチームが増えていった。円形兼用球場は[[2008年]]を最後にメジャーリーグチームの本拠地球場としては使われなくなる。密閉型ドームや人工芝球場も減っていった。現在、このブームにそっていないといえる兼用球場で、移転の予定がないのは[[ロジャース・センター]]のみである。人工芝球場及び密閉型ドームなのは[[トロピカーナ・フィールド]]のみである。
[[2020年]]には[[テキサス・レンジャーズ]]が[[グローブライフ・パーク・イン・アーリントン]]に変わって[[グローブライフ・フィールド]]が、[[2023年]]以降には[[オークランド・アスレチックス]]が[[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]に変わって[[w:en:Oakland Ballpark|オークランドボールパーク]]がそれぞれ開場の予定となっている。現在のMLB本拠地球場は新しい物が多く、フェンウェイ・パークやリグレー・フィールドといった古い球場も新球場建設の予定は無いため、当分の間は現在の球場が継続使用されていく見込みである。
=== 日本における野球場の歴史 ===
==== 黎明期 ====
[[日本]]初の野球場は、新橋鉄道局の職員が結成し“日本初の野球チーム”とされる[[新橋アスレチック倶楽部]]が新橋駅近くに設けた'''[[保健場]]'''とされる。学生の間で野球が盛んになり学生野球が発展すると、[[早稲田大学]]が[[戸塚球場]]、[[慶應義塾大学]]が[[三田綱野球場]]、[[明治大学]]が[[明治大学球場]]などを作った。電鉄会社も沿線開発の一環として、[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]が[[羽田運動場]]、[[阪神電気鉄道]]が[[鳴尾球場]]、[[阪急電鉄]]の前身である[[箕面有馬電気軌道]]、[[阪神急行電鉄]]がそれぞれ[[豊中球場]]、[[宝塚球場]]、[[京阪電気鉄道]]が[[京阪グラウンド]]球場を建設している。
日本初の本格的な野球場は[[1924年]](大正13年)、[[兵庫県]][[西宮市]]にできた[[阪神甲子園球場]]である。[[全国中等学校優勝野球大会|中等学校野球]]のために[[阪神電気鉄道]]が建設した。完成当初は大会規模に比して、観客収容数が多すぎると懸念されていた甲子園は結果的に大成功を収め、ほかの電鉄会社も新たな球場を建設していった。[[1928年]]完成の[[藤井寺球場]]などがこれに当たる。[[1926年]]には[[明治神宮野球場]]が完成し、[[東京六大学野球連盟]]を中心として使用された。
==== 戦前 ====
[[1936年]](昭和11年)に[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本職業野球連盟]]による[[日本プロ野球|プロ野球]]の第1回リーグ戦が始まった。この年は甲子園球場を基本に[[鳴海球場]]や宝塚、戸塚、[[上井草球場|上井草]]、[[洲崎球場|洲崎]]の球場を使用してゲームをしていたが、翌年の[[1937年]]に内野スタンドが2層となっている[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]と[[後楽園球場]]がプロ野球用に造られた。これらに甲子園を加えた3球場を基礎にプロ野球は興行された。
しかし[[太平洋戦争]]の激化により、プロ野球も学生野球も中断に追い込まれる。球場も[[日本軍|軍]]に接収され、[[高射砲]]が設置されるなど野球どころではなくなっていった。
==== 戦後の建設ラッシュとナイター設備の導入 ====
[[ファイル:Osaka studium air 1985.jpg|thumb|250px|right|大阪スタジアム。狭隘な敷地に3万人を収容するため、1層式内野スタンドの傾斜は37度に達した]]
[[ファイル:西条市東予運動公園野球場 内野スタンド.JPG|thumb|250px|right|グラウンドレベルに放送席等が設けられているため、観客席の位置が高い]]
戦争終了の翌年、[[1946年]]にはペナントレースも学生野球も再開された。球場によってはアメリカ軍に接収されたところもあったが、徐々に解除されていった。
その後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の後押しもあり野球場が各地に造られていった。プロ野球チームの親会社によって[[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]]([[1948年]])、[[大阪スタヂアム]]([[1950年]])、[[駒澤野球場]]([[1953年]])などが建設された。公営の球場も[[平和台野球場]]([[1949年]])、[[宮城球場|県営宮城球場]]([[1950年]])、[[川崎球場]]([[1952年]])、[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]([[1957年]])などがこの時期に建設されている。これら以外にも、[[国民体育大会]]に対応する競技施設の整備を目的とするなどして、全国各地で公営の野球場が順次整備されていった。
この時期に建設された球場は、終戦後まもない時期のため、空襲等により空地になっていた市街地を活用して建設される場合が多く、そのため交通の便においては非常に優れていた反面、周辺市街地の復興が進むにつれ、グラウンドや諸設備の拡張が難しいという問題を抱えることとなった。だが、この当時建設された球場は、後に建設される球場に多大な影響を及ぼしている。それら日本独自とも言える特徴は以下の通りである。
; 1層式スタンド
: 敷地面積、及び建設コストの兼ね合いから、内野スタンドは多層式ではなく1層式が主流となった。それによる観客収容数の減少を防ぐため、座席の前後間隔を60 - 70cm程度に詰め、スタンドの傾斜は20.0 - 35.0度と急勾配になった(米国の球場の場合、1階スタンドの勾配は12.0度程度)<ref>{{PDF|[http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1116823311281/files/0722shiryou1.pdf 新球場の建設場所について(広島市)]}}</ref>。さらに外野スタンドも巨大化したため、球場の全体的な形状は「すり鉢型」となった。特に大阪スタヂアムの内野スタンドの傾斜は37度にも達したことで有名である。
;本塁の北側配置
: 公共施設として建設された球場の多くが、興業施設としてではなく、アマチュア利用者のプレーに設計の重きを置いたため、公認野球規則を敢えて無視し、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を南向きにしている。
; バックネット裏・グラウンドレベルへの放送席の配置
: プロ野球中継の盛り上がりを受けて、試合を実況するラジオ・テレビの放送席がバックネット裏のグラウンドレベルに設置された。当時の野球中継は国民の最大の娯楽の一つであり、その実況を行うアナウンサーが選手の一挙一動をつぶさに伝えるため、言わば球場の「特等席」を用意されていた。そのため観客席はその煽りを受ける形で上方へ押し上げられ、戦前に建設された球場と比べると臨場感に欠ける面があった。
; スタンドに張り巡らされたフェンス
: プロ野球の盛り上がりと共に、試合中、観客がグラウンド内に乱入して進行を妨げる事例が多発したため、各地の球場で侵入防止のフェンスが張り巡らされるようになった。また、日本独自の太鼓・楽器を用いた応援行為は、グラウンドに背を向ける姿勢で行われることも多々あるため、打球から身を守る安全措置としての意味合いもあった。
1950年代からは各地にナイター設備が整備されていった。[[1958年]]にはプロ野球の全本拠地においてナイター設備が整備されている。地方では引き続き公営野球場の整備も進められた。
[[1962年]]の[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]の竣工をもってプロ本拠地の整備はほぼ一段落する。米国の[[キャンドルスティック・パーク]]を手本に建設された東京スタジアムは、多層式スタンド、内外野天然芝を備え、当時の他球場とは明らかに異なるモダンな設計だったが、僅か15年で取り壊され、歴史の中へ消えていった。
==== 人工芝とそれを生かした多目的球場の登場 ====
1970年代後半にはアメリカの1960年代の流行が流れてきた。[[1976年]]には後楽園球場に日本初の[[人工芝]]が敷設されると、その見た目の美しさと整備の容易さからプロ野球の本拠地球場を中心に広まりを見せた。西宮球場、神宮球場等、由緒ある歴史を持つこれら球場も次々に人工芝を導入した。
さらに[[1978年]]には可動式スタンドや昇降式マウンドを備え、球場の平面図を真円形とし、大規模なコンサート等、野球以外のイベント開催にも対応できる[[横浜スタジアム]]が建設された。翌[[1979年]]には[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]](現西武ドーム)が[[丘陵地]]を掘り起こすという珍しい形で建設された。
==== ドーム時代到来 ====
[[1988年]]に日本初のドーム球場、[[東京ドーム]]が誕生した。これは同時に[[日本武道館]]を超える規模の室内コンサート会場が誕生したということになる。
屋根を備えた巨大コンサート会場という側面を持つ多目的ドーム球場は、大規模なイベント誘致を当て込んだ自治体にとって、存在すること自体が一種のステータス・憧れであり、巨額の資金を投じて大都市に次々と建設されていった。[[福岡ドーム]]([[1993年]])、[[大阪ドーム]](現京セラドーム大阪)([[1997年]])、[[ナゴヤドーム]]([[1997年]])、[[札幌ドーム]]([[2001年]])などである。これとは別に西武球場も屋根を新設し西武ドームとして[[1999年]]に生まれかわった。
だが、これらの球場はいずれもアメリカの1960年代の流行である多目的円形球場の域を脱していない。多目的であるが故、可動式スタンドを備えた結果、広大なファウルゾーンが存在して臨場感に欠け、これでは野球観戦に最適な形態とは言い難い。さらに、以前はグラウンドレベルに設置されていた放送席が機械器具の発達によりスタンド内に設置されるようになったが、代わりに審判員・関係者用の諸室がグラウンドレベルに設置されたため、依然として観客席はグラウンドからは遠い存在であった。
さらに多目的ドーム球場は、可動式スタンド、昇降式マウンド、空調設備等、複雑な装置を備えた結果、補修・メンテナンス費用も莫大なものになっている。一例を挙げると、札幌ドームのメンテナンス費用は、2011年からの20年間で約200億円に達すると試算されており、その調達方法について未だ目処がついていないのが現状である。
一方で屋外球場では自治体によって[[神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸]]([[1988年]])、[[千葉マリンスタジアム]](正確には[[第三セクター]]による)([[1990年]])が建設され、プロ野球の球団誘致に成功している。大阪ドーム、札幌ドームも第三セクターによるものである。
なお東京ドームとグリーンスタジアム神戸の両球場は、日本のプロ本拠地としては初めて[[公認野球規則]]で定められた規格を満たした球場である。この後、プロの使用を視野に入れた新設球場はほとんどが規格を満たすようになり、既存の球場は順次拡張されていった。
==== ボールパークへ ====
[[ファイル:MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima(March 21, 2016).JPG|thumb|320px|left|米国の新古典派ボールパークを参考に建設された[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]]]
[[野茂英雄]]のメジャー挑戦により日本でもメジャー流の新古典派ボールパークや天然芝などに注目が集まるようになった。各球場で[[フィールドシート]]が設置されたり、天然芝に近いロングパイル人工芝などの新型人工芝への張り替えや、[[オーロラビジョン#姉妹品|リボン状の新型映像装置]]などメジャー流を取り入れた改修が進んでいる。
[[1999年]]に完成した[[鶴岡ドリームスタジアム]]に日本の野球場として24年ぶりに内野天然芝が敷設された。翌[[2000年]]には[[神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸]](ほっともっとフィールド神戸)、[[2001年]]には[[サンマリンスタジアム宮崎]]も内野に天然芝を敷設した総天然芝の野球場となった。特に「ボールパーク宣言」を掲げたオリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸は、その後も低フェンス化、日本初のフィールドシートの設置など日本のボールパークの歴史の端緒となる改革を進めていった。
[[2004年]]から2期にわたる大規模改修工事をうけた[[宮城球場]]では天然芝こそ当時は断念した{{efn|[[2016年]]から天然芝となった。}} ものの、メジャーの新古典派を意識した特徴的なスタンドが造られた。その後、[[東京ドーム]]、[[福岡ドーム]]などでもファウルグラウンドに仮設のフィールドシートを設けるなど、ボールパーク化の試みは続いた。
[[2009年]]に新規の野球場として完成した[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]](マツダスタジアム)は、屋外型、左右非対称のフィールド、内外野完全天然芝、狭いファウルグラウンド、といった特徴を備え、さらに観客席最前列をグラウンドレベルとする等、米国のボールパークに近いレベルの野球場となった。ただし、外野フェンスのラインはレフトの一部を除いてこれまで通りの円弧である。
[[2023年]]に新規の野球場として完成した[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]は左右非対称のフィールド、内外野完全天然芝、狭いファウルグラウンドに加え、日本の野球場としては初のスライド式開閉式屋根(北海道の建造物に多く見られる三角屋根のデザインを踏襲している)や、米国のボールパークでは一般的な直線のみの組み合わせによる外野フェンス(日本プロ野球の本拠地としては[[1953年]]までの[[藤井寺球場]]以来)とその向こうに設けられたブルペンなど、米国のボールパークの特徴を取り入れたデザインとなった。
{{-}}
== 野球場の形態について ==
=== 多目的施設としての野球場 ===
[[ファイル:McAfeecoliseumsat.png|thumb|250px|left|多目的野球場の例([[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]])]]
広大さと収容能力の点で利点を持つことから、野球場は古くから野球以外のスポーツやイベントの開催地として使われてきた(阪神甲子園球場は設立当時から多目的施設としての利用も視野に入れていた)。
野球以外のスポーツで野球場を利用することが最も多い競技は、野球と同じく米国発祥の競技であり、広大なフィールドを必要とする[[アメリカンフットボール]]である。シーズン開催時期があまり重ならないことから、米国では野球場が[[メジャーリーグベースボール|MLB]]と[[NFL]]の本拠地としてよく併用され、特に1960年代からは可動スタンドを備えた円形球場(後述)が多数、新設された。近年の米国では新古典派球場ブームにより分化されていき、2020年時点でMLBとNFLの本拠地として併用されている球場は存在しない。日本では[[甲子園ボウル]]、[[ライスボウル]](東京ドームで開催)などのように、[[ボウル・ゲーム]]を野球場で行うケースが多い。
[[ファイル:Sapporo Dome Hovering Stage.jpg|thumb|200px|right|札幌ドームのホヴァリングサッカーステージ(オープンアリーナ)]]
近年では[[プロレス]](主に[[新日本プロレス]])・[[K-1]]などの格闘技が行われることも多い。ほかにも[[サッカー]]、[[競輪]]などが野球場で行われた例がある。また日米のプロサッカークラブの一部が野球場を本拠地としている。札幌ドームのホヴァリングサッカーステージの他に、米国ではアメフト兼用球場のアメフト用フィールドをそのままサッカー用に転用している。ただしこちらもサッカー用スタジアムがそろいつつある。詳細は各野球場の記述を参照。
イベントとして多いのは[[演奏会|コンサート]]である。特にドーム球場は当初よりコンサート開催を考慮して設計されている。日本ではかつて、[[日本武道館]]で単独コンサートを行うことが一流の証と考えられてきた時代があったが、近年は収容能力をはるかにしのぐ野球場でのコンサート(主に東京ドーム)が最大のステイタスとされている。観客動員力が高いバンド・アーティストを『スタジアム級』と称することからも、それが伺える。ただし、野球場はもともと歌や演奏を聞かせるために作られた施設ではないため、音響や舞台設置の面で問題が生じるために、高い人気を得ていてもあえてスタジアムコンサートを行わないアーティストもいる。近年ではサッカースタジアムおよび陸上競技場を用いるケースが増えたため、相対的に野球場でのコンサート開催は減少している。
他にも、[[展覧会]]や大きな団体の集会でも使用される例がある。
==== アメフト兼用球場(円形兼用球場) ====
[[ファイル:Three Rivers Stadium aerial view 1996.jpg|thumb|200px|典型的なクッキーカッター・スタジアムである[[スリー・リバース・スタジアム]](アメリカンフットボール開催時)]]
[[ファイル:Pedro goes to Pittsburgh.jpg|thumb|200px|スリー・リバース・スタジアムの後継として建設された野球専用球場[[PNCパーク]]]]
米国では1960年代から1970年代にかけてアメフト兼用球場が流行した。[[1961年]]の[[ロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアム|D.C.スタジアム]]がこのタイプの始祖である。従来の球場はフィールドの形にそったスタンドであったが、これらの球場は二塁ベースの後方を中心に円形にスタンドを構成する。その円形の中に可動スタンドを備え、グラウンドが野球の時には扇型、アメフトの時には長方形になるように設計されていた。
円形のスタジアムは後に'''クッキーカッター'''(Cookie-cutter。日本語では“[[金太郎飴]]的”)としてファンから嫌われることとなる。円形兼用球場が嫌われた理由としては、見栄えの悪さと共に、野球観戦に不向きであったことが挙げられる。そもそも、野球とアメフトでは要求されるスタンドが異なる。基本的にバッテリー間の攻防が主となる野球では、バッテリー間を観るのに適した傾斜の低い観客席が好まれ、パスやランプレー、キックなどで常にフィールドを広く使うアメフトでは、急勾配でフィールド全体を俯瞰できるものが好まれる。更に、少ない試合数で一試合に多くの観客を動員するアメフトと違って、シーズン中はほぼ毎日試合を行う野球では、アメフト兼用球場の収容力(6万人~7万人台)は過剰であった。そのため、常に空席が目立つことになり、見栄えの悪さを強調した。アメフト兼用の円形球場は、野球を国民的娯楽(National Pastime)として愛する米国民に敬遠され、MLBの観客動員は停滞する。
1990年代に入ると、次々と前述の新古典派球場が完成。MLBの観客動員は飛躍的に増加し、1990年代から2000年代にかけての好況も相まって、MLBは空前の好景気を迎えることになる。一方で、アメフト兼用スタジアムは次第に姿を消していき、2023年時点で残存しているのは[[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]、[[ハードロック・スタジアム|ドルフィン・スタジアム]]の2球場のみである。しかしドルフィン・スタジアムを本拠地としていたフロリダ・マーリンズ(のちの[[マイアミ・マーリンズ]])は2012年に新球場に移転したため、それ以降同スタジアムにおいて野球は行われていない。オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムを本拠地とする[[オークランド・アスレチックス]]も、2012年に野球専用球場に移転する予定であったが、財政難と地元住民の反対により計画は中止された。一方、2019年シーズンをもってNFL球団の[[ラスベガス・レイダース|オークランド・レイダース]]が[[ラスベガス]]に移転したため、オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムは(レイダースが一時[[ロサンゼルス]]に移転していた頃以来の)野球専用に戻り、恒常的に兼用される球場は消滅した。
一方、日本では横浜スタジアム、千葉マリンスタジアム、福岡ドーム、大阪ドーム、ナゴヤドーム、札幌ドームがこのタイプである。千葉マリンスタジアムを除いて円状にスライドする可動席を採用している。可動スタンドは三日月状もしくは[[円 (数学)#円の性質|弓形]]に近い形状のものが一対あるのが基本であるが、ナゴヤドームは本塁後方にも可動スタンドが存在する。これらの可動スタンドを持つ球場は球場の中心点から同じ距離にある座席が全て同じ高さにあるという特徴がある。
これらの球場のスタンドは以下の欠点がよく指摘される(詳しくは各球場の項を参照)。
* ファウルゾーンが広すぎて臨場感に欠ける。
* バックネット裏の座席、外野のフェンスと座席が不必要なまでに高い位置になる。
* ファウルポール直下が死角となる座席が多い。
* 内野席でダイヤモンド内が見えにくい席が存在する。
==== ドーム球場 ====
{{main|ドーム球場}}
[[ファイル:Baseball Game.jpg|thumb|250px|典型的なドーム球場、[[ナゴヤドーム]]]]
ドーム球場とはグラウンドをドーム形状の屋根で覆った野球場のこと。天候に左右されずにゲームを開催できるという長所がある。
世界初のドームスタジアムは1965年[[ヒューストン・アストロズ|アストロズ]]の本拠地として建設された[[アストロドーム]]。日本初のドームスタジアムは1988年完成の東京ドームである。現在、日本でプロ野球チームの本拠地として使用されているドーム球場には[[東京ドーム]](1988年)、[[福岡ドーム]](1993年)、[[ナゴヤドーム]](1997年)、[[大阪ドーム]](1997年)、[[西武ドーム]](1999年)、[[札幌ドーム]](2001年)がある。地方には[[大館樹海ドーム]](2軍戦が開催)、[[出雲ドーム]]などが存在する。
ドーム球場は屋根の仕様から大まかに2つのタイプに分類することができる。1つ目のタイプは屋根の素材に[[テフロン]]コーティングの[[ガラス繊維]]膜材などを使用し、場内を陽圧化することで屋根を持ち上げるタイプである。東京ドームやアメリカの[[ヒューバート・H・ハンフリー・メトロドーム|メトロドーム]]がこれにあたる。2つ目のタイプは天井を鉄骨屋根で覆うタイプである。福岡Yahoo!JAPANドームをはじめ日米問わずほとんどの球場がこの方式を採用している。その他にも木造建設の大館樹海ドーム、屋外野球場に屋根をかぶせた[[西武ドーム]]など、珍しいケースもある(「西武ライオンズ球場」時代は無蓋だった)。
[[ファイル:Tigersbluejaysapril2008.jpg|thumb|250px|世界初の本格的な開閉式ドーム球場、[[ロジャース・センター]](旧称スカイドーム)]]
当初は、屋根で場内を完全に密閉した密閉式のドーム球場が多かったが、青空・夜空の下での野球観戦を希求する声が強くなるにつれて、天候によって屋根を自由に開閉できる開閉式ドーム球場が登場した。世界初の開閉式ドーム球場は[[モントリオール・エキスポズ]]の本拠地だった[[オリンピック・スタジアム (モントリオール)|オリンピックスタジアム]]で、1988年改修されて簡易開閉式となった(同球場は設計ミス・故障により屋根を開閉できない状況が続いた)。当初から開閉式として建造されたドーム球場は[[ブルージェイズ]]の本拠地として1989年完成した[[ロジャース・センター]]である。このスタジアムは日本初にして唯一の開閉式ドーム球場である福岡ドーム(福岡ヤフオク!ドーム)の設計に影響を与えている。
開閉式ドーム球場が生まれた当初はあくまでドーム球場であることを売りとしており、造形的にも屋根の開閉が可能なドーム球場としての色彩が濃かった。日照量が足りないこともあり、スカイドーム(ロジャースセンター)、福岡ドーム(ヤフオクドーム)は人工芝である。
アメリカでは1990年代以降、レトロ調ボールパークがブームになるにつれ、開閉式の屋根を建設するにしても、悪天候時のみ屋根を閉じる前提の設計とし、フィールドには天然芝を敷設し、屋根はドーム形状を用いない、「ドーム」を名乗らない、などボール・パーク色の強いものとなっていった。[[チェイス・フィールド]]、[[T-モバイル・パーク]]、[[ミニッツメイド・パーク]]、[[アメリカンファミリー・フィールド]]などがその代表例である。これら球場に屋根が設置された理由は、チェイス・フィールド、ミニッツメイド・パーク、アメリカンファミリー・フィールドについては所在地特有の暑さ・寒さを避けるために、T-モバイル・パークは雨の多いシアトルの気候を考慮されたためである。一例としてチェイス・フィールドのナイトゲームの場合、午後4時の地元チーム練習開始に合わせて屋根は閉じられ、午後7時の試合開始に合わせて再び屋根が開く。この開閉に必要な時間はわずか4分程度、電気代は2ドルとされている。[[ファイル:MillerPark.jpg|thumb|left|250px|開閉式屋根付きの天然芝野球専用球場、[[アメリカンファミリー・フィールド]]]]
一方、日本で唯一の開閉式ドーム球場であるヤフオクドームは日照量の問題、騒音問題、強風、開閉する際にかかるコストなどの複合的な要因で、2000年以降は特別に指定した試合を除き、屋根を開けて試合を開催しない状態になっている。野球場ではないが、サッカー場として建造された天然芝の[[御崎公園球技場]]では、日照や通風などの問題で芝の生育が不良になるという問題も発生している。
1999年完成の[[西武ドーム]]は、屋根を支えるための、客席のみを覆うドーナツ状の鉄傘を取り付ける第1次工事が完了した1998年度に西武ライオンズ球場から一時的に西武ドーム球場(翌年正式に西武ドームへ改称)へと改称したが、グラウンド部分には屋根がなく降雨時にはもちろん雨天中止となった。このようにドーム球場ではないにもかかわらずドームを名乗るという珍しい状況が1年間続いた。屋根完成後も、観客席後方と屋根の間に隙間は存在したままであり、ドーム球場であるのにもかかわらず場外本塁打が生まれる。
{{-}}
=== 野球専用球場・ボールパーク(ball park) ===
[[ファイル:CamdenYards 2005-05-08.jpg|thumb|250px|新古典派ボールパークの先駆け、[[オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ]]]]
純粋に野球開催のみを主目的に建設された野球場を、現在、米国では一般に「ボールパーク」と呼ぶ。野球場を指す一般的な用語としては、従前から「[[スタジアム]]」があり、米国では、[[1920年]]に[[グリフィス・スタジアム]]が野球場として初めて「スタジアム」を名乗って以来、「○○・スタジアム」という名の名称が一般的であった。しかし、1990年代以降に作られた新球場では、「○○・パーク」、「○○・フィールド」、「○○・ボールパーク」が主流になり、スタジアムと名が付く球場は減少傾向にある。
ボールパークと呼ばれる野球場は、'''天然芝、狭いファウルゾーン、野球専用でプレーが観やすい観客席、左右非対称のグラウンド形状、設計の随所に見られる遊び心、広く開放的な観客コンコース、等'''を共通の特徴としており、'''新古典派(ネオ・クラシック様式)'''とも呼ばれ、[[1992年]]に開場した[[オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ]]がその先駆けとなった。
カムデンヤーズはデザイン面だけでなく[[マーケティング]]の面でも画期的な存在であった。それまでの球場はアメフトとの兼用が多く、そのため少ない試合数でより多くの観客を収容することに重点を置いた設計であった。これはレギュラーシーズンだけで年間162試合もこなすMLBにとっては収容力が過剰であった。そこで、カムデンヤーズはあえて収容人数を4万人台まで減らし、相対的に収容率を上げ、ファンにチケット購入に対する飢餓感を醸成させた(「早く買わないとチケットが売り切れるかもしれない」と思わせることが購買意欲をあおる最高のマーケティングとなる)。一方で、客単価の高い高付加価値の上位クラス座席を増設し全座席に対する比率を上昇させ、全体の座席数は減らしながらも、収益性は逆に高まるというビジネスモデルを作り上げた<ref>[http://tomoyasuzuki.jugem.jp/?eid=143]</ref>。これに倣い、その後の新球場も座席数を抑える傾向にある。
さらに現在、米国においては、マイナーリーグ用に低予算でボールパークを建設し、「市街地の活性化」に活かそうとする事例が増えている。ボールパークの周囲にはメリーゴーランドや観覧車、さらにはバーベキューコーナーを設ける等、野球にあまり関心が無い人であってもボールパークの空間・雰囲気を楽しめるよう様々な工夫が凝らされており、その結果、数千人収容規模のボールパークでありながら、試合毎にそのキャパシティを大幅に上回る観客が訪れている<ref>参考文献『野球小僧』2009年12月号(ISSN18801-12)112ページ「日本野球 構造改革の提言」より</ref>。
このようにボールパーク型の野球場は、旧来の球場以上に訪れる観客の裾野を広げる可能性を持つと言える。
日本においても、野球場のことを「○○スタジアム」(野球に限らず、観客席を持つ競技場を意味する単語)、または「○○球場」と呼んでいたが、グリーンスタジアム神戸が[[2000年]]に「ボールパーク化計画」を発表、プロ野球本拠地として25年ぶりに内野を天然芝化し、その後も低いフェンス、内野にせり出した[[フィールドシート]]、1990年代から続くスタジアムDJによる場内アナウンスなど球場をアメリカ風に改革していったことで、「ボールパーク」という言葉が広く認知された。
また、広島の新球場計画では、当初ドーム球場を建設する方針であったが、本拠地とする予定の[[広島東洋カープ]]がドーム完成後の採算性を危惧し、また選手らの肉体的負担を考慮して天然芝のフィールドを強く求めたことなどから、ボールパーク建設計画に変更された。(2003年に計画凍結、2005年に現計画が再開。詳細は[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]を参照)
さらに東京ドームなどで相次いでフィールドシートが設置され、千葉マリンスタジアム、横浜スタジアム、札幌ドームで内野フェンスが撤去もしくは低くされたりするなど、従来からの多目的球場においても、ボールパーク化の試みが行われている。
==== アメリカ合衆国における1990年代からの新球場建設ブームの背景 ====
1992年のオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズを皮切りにMLBは未曾有の新古典派新球場建設ブームに沸いた<ref>杉浦大介「[新球場建設が続く理由]税金を使って球場を建てるって本当?」『SLUGGER』2008年2月号、日本スポーツ企画出版社、44-47頁</ref>。
{| class=wikitable
!開場年!!球場名(開場時)!!球団!!備考
|-
| nowrap="nowrap" |[[1992年]]||[[オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ]]||[[ボルチモア・オリオールズ]]||
|-
|[[1994年]]||[[レンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントン|ザ・ボールパーク・イン・アーリントン]]||[[テキサス・レンジャーズ]]||
|-
|[[1994年]]||[[プログレッシブ・フィールド|ジェイコブス・フィールド]]||[[クリーブランド・ガーディアンズ]]||
|-
|[[1995年]]||[[クアーズ・フィールド]]||[[コロラド・ロッキーズ]]||
|-
|[[1997年]]||[[ターナー・フィールド]]||[[アトランタ・ブレーブス]]||
|-
|[[1998年]]||[[バンク・ワン・ボールパーク]]||[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]||世界初の開閉式屋根付き天然芝球場
|-
|[[1999年]]||[[T-モバイル・パーク|セーフコ・フィールド]]||[[シアトル・マリナーズ]]||開閉式屋根付き天然芝球場
|-
|[[2000年]]||[[ミニッツメイド・パーク]]||[[ヒューストン・アストロズ]]||開閉式屋根付き天然芝球場
|-
|[[2000年]]||[[オラクル・パーク|パシフィック・ベル・パーク]]||[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]||
|-
|[[2000年]]||[[コメリカ・パーク]]||[[デトロイト・タイガース]]||
|-
|[[2001年]]||[[アメリカンファミリー・フィールド]]||[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]||開閉式屋根付き天然芝球場
|-
|[[2001年]]||[[PNCパーク]]||[[ピッツバーグ・パイレーツ]]||
|-
|[[2003年]]||[[グレート・アメリカン・ボール・パーク]]||[[シンシナティ・レッズ]]||
|-
|[[2004年]]||[[ペトコ・パーク]]||[[サンディエゴ・パドレス]]||
|-
|[[2004年]]||[[シチズンズ・バンク・パーク]]||[[フィラデルフィア・フィリーズ]]||
|-
|[[2006年]]||[[ブッシュ・スタジアム]]||[[セントルイス・カージナルス]]||
|-
|[[2008年]]||[[ナショナルズ・パーク]]||[[ワシントン・ナショナルズ]]||
|-
|[[2009年]]||[[シティ・フィールド]]||[[ニューヨーク・メッツ]]||
|-
|[[2009年]]||[[ヤンキー・スタジアム]]||[[ニューヨーク・ヤンキース]]||
|-
|[[2010年]]||[[ターゲット・フィールド]]||[[ミネソタ・ツインズ]]||
|-
|[[2012年]]||[[ローンデポ・パーク]]||[[マイアミ・マーリンズ]]||開閉式屋根付き天然芝球場
|-
|[[2017年]]||[[トゥルーイスト・パーク]]||アトランタ・ブレーブス||
|-
|[[2020年]]||[[グローブライフ・フィールド]]||テキサス・レンジャーズ||
|-
|[[2023年]]以降||[[w:en:Oakland Ballpark|オークランドボールパーク]]||[[オークランド・アスレチックス]]||
|}
上記のように、2020年までの29年間に23もの新球場が開場し、現在建設・計画中のもので1つの球場が開場となる予定である。
新球場ラッシュの背景には、ほとんどの野球場が建設費用の大半を税金でまかなっていることが挙げられる。2015年1月まで[[MLBコミッショナー|コミッショナー]]を務めた[[バド・セリグ]]の卓越した経営手腕の下、アメリカ野球史上に残る好景気を記録し、日本に比べて黒字経営球団の多いメジャーリーグといえど野球場の建設費用は莫大であり、簡単に調達できる金額ではない。
そこで、ほとんどの新球場建設にあたっては、住民投票によって地元住民の同意を得て税金投入や特別税徴収、公債発行が行われている。さらに球団は自治体から完成した球場を格安でリース契約できるなど、多くの優遇政策があり、その結果、このような新球場建設ラッシュを生んでいる。2006年までに建設された新古典派球場のなかで住民投票で税金投入などが認められなかったのは[[オラクル・パーク]]([[サンフランシスコ・ジャイアンツ]])のみである{{efn|ただし、ジャイアンツは税額控除を受けている。建設当時は[[サンフランシスコ・ベイエリア]]は[[シリコン・バレー]]の好景気に沸いており、この巨大な経済基盤を持つ大都市であったからこそ、自前での球場建設が可能だったのである。}}。例えば、[[2010年]]開場の[[ミネソタ・ツインズ]]の新球場は、建設費用5億2200万ドルのうち、約4分の3に相当する3億9200万ドルが[[ミネアポリス市]]など地元自治体の負担であり、ミネアポリス市がある[[ヘネピン郡]]では消費税率を引き上げている。このように新球場建設には地元住民の理解と協力が不可欠である。
なぜこのような公金投入が行われることになるのかは、アメリカの経済学者、[[アンドリュー・ジンバリスト]]の著書『May the Best Team Win』<ref>『60億を投資できるMLBのからくり』[[鈴木友也]]訳、ベースボール・マガジン社、2007年、ISBN 9784583100180</ref> などに詳しい。それによると、MLB機構は球団の数や移転を管理し、球団数よりもそれを欲しがる自治体のほうが多い、需要過多・供給不足の状態を意図的に作り出している。そのため、フランチャイズ都市では球団オーナーがより良い待遇・環境を自治体から引き出すために「移転」という選択肢を選ぶこともある。地域の象徴であり、地域活性化にもつながるプロスポーツチームを手放したいと思う自治体は少なく、オーナーや球団の要求を呑むケースが多い。
かつて存在した「アメリカの古き良き野球場」を模した球場が、人々に懐かしさという感情をわき起こさせたことが、新古典派球場ブームの根底にある、というアメリカ固有の事情があるということが重要である。
== 代表的な野球場 ==
=== 日本国内 ===
* [[阪神甲子園球場]] 1924年開設の日本で最初に誕生した野球専用競技場。
* [[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]、[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]、[[宮崎県総合運動公園硬式野球場|ひなたサンマリンスタジアム宮崎]] プロ野球が行われるスタジアムで数少ない内外野全面天然芝球場。
* [[西武ドーム|ベルーナドーム]] 既存の屋外球場にドーム屋根を架設、丘陵地を掘り起こして建設された。
* [[札幌ドーム]] サッカー・野球兼用で、2022年までは日本で唯一、[[プロ野球]]と[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の本拠地を兼ねていた。
* [[東京ドーム]] 日本初のドーム球場。
* [[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]] 埋立地の人工海浜近くに立地し、[[海陸風]]に見舞われることが多い。常時風向風速測定がされる。
* [[川崎球場]] 外野スタンドが非対称(スタンドは2000年取り壊し)。
* [[長野オリンピックスタジアム]] 1998年長野冬季オリンピックの開会式・閉会式会場として利用。
* [[倉吉市営野球場|グリーンスタジアム倉吉]] 現存する主要屋外球場で唯一ラッキーゾーンが設けられている。
* [[福岡ドーム|福岡PayPayドーム]] 日本で2番目のドーム球場であり、日本初の開閉式の屋根付き球場。
* [[ナゴヤドーム|バンテリンドーム ナゴヤ]]
* [[横浜スタジアム]] スタンド可動式の多目的球場として建設されたが、2003年に新型人工芝へ変更され、固定式となった。
* [[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]
* [[エスコンフィールドHOKKAIDO]] プロ野球の本拠地としては日本で2番目の開閉式の屋根付き球場で、屋内型球場としては日本初の天然芝球場である。
=== 日本国外 ===
* [[アストロドーム]] 世界初のドーム球場、世界初の人工芝敷設(現在は野球は行われていない)。
* [[ヒューバート・H・ハンフリー・メトロドーム]] 世界初のエアドーム式野球場。
* [[ロジャース・センター]] 世界初の開閉屋根付きドーム球場。
* [[ミニッツメイド・パーク]]、[[アメリカンファミリー・フィールド]]、[[T-モバイル・パーク]] 開閉式屋根に天然芝グラウンドを併設。
* [[ミニッツメイド・パーク]] 中堅後方に「タルの丘」と呼ばれる傾斜がある。またタルの丘の頂上付近のフィールド内にフラッグポールが建っている。
* [[フェンウェイ・パーク]] 左翼方向が極端に狭い左右非対称なグラウンドと、10m以上の高さを誇るレフトフェンス(通称:グリーンモンスター)。
* [[オラクル・パーク]] 右翼席のすぐ後ろが海であるため、右翼席を極端に少なくして、海に飛び込む本塁打ボールを「スプラッシュヒット」として名物化させている。
* [[カウフマン・スタジアム]] 2008年まで、外野席が一部を除いて存在しなかった。外野部分には、巨大な噴水が設置されている。
* [[トロピカーナ・フィールド]] 人工芝のドーム球場だが、塁間は全て土である。
* [[エキシビション・スタジアム]] 本来は[[カナディアン・フットボール]]用のスタジアムであるため、ライトフェンスが仮設式であり、ライト後方にはフットボール用のグラウンドが広がっている [http://www.ballparksofbaseball.com/past/ExhibitionStadium.htm]。
* [[蚕室野球場|蚕室総合運動場野球場]] 両翼100m、左翼から右翼まで240m、中堅125mという世界でも屈指の広さを誇る左右対称球場。
* [[フォロ・ソル]] 海抜2,300mの高地に位置するため、打球が非常に飛びやすい。また、コンサート会場が野球場に改修された珍しい例。
* [[エスタディオ・ラティーノアメリカーノ]] ラテンアメリカ最大の収容人数で、ファウルグラウンドも広く、世界でも屈指の広さを誇る球場。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Baseball venues}}
* [[日本の野球場一覧]]
* [[ソフトボール]]
== 外部リンク ==
* [http://fudoki.web.fc2.com/index.html 球場風土記]
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~ranbee/zukan.htm 野球場図鑑]([http://www2s.biglobe.ne.jp/~ranbee/index.htm 野球もの] より)
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/index.htm |title=BALL PARK |date=20010802212020}}
* [http://ballparks.main.jp/ 球場巡礼]
* [http://yakyujo.com/ YAKYUJO.com]
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施設
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施設(しせつ)とは、社会生活を営む際に利用する構造物、建築物やその設備。国民の生活向上に必要な公共施設を社会資本・インフラストラクチャーなどという。
狭義、あるいは省略した用語として児童福祉施設、老人福祉施設などの福祉施設のことを指す場合もある。
この用語は部心、地域の骨格となる道路、河川、公園緑地、広場など公共施設に対して、住民の生活のために欠かせないサービス施設の呼称として用いる。学校等の教育施設、病院等の医療施設、集会所等のコミュニティ施設、官公庁施設などを含む。場合によっては、商業施設や銀行、郵便局、通信情報施設、電気、ガス、水道などのエネルギー施設を含むこともある。またインフラストラクチャーは公益施設も含まれる他、都市計画で土地区画整理事業に際し業務用施設用地、行政商業等施設用地、教育施設用地、住宅地などのほかに公益施設用地を定める。都市計画の構成要素に、都市基幹施設や公共公益施設の配置計画、また緑地には公共公益施設における植栽地等も想定される。公共公益施設の整備に関する事業を営む法人(鉄道事業者、電気事業者など)があり、特殊価格にも現況による管理を継続する公共公益施設が定められている。近年では公共公益施設の利用促進のために市町村などの自治体が公共交通空白地域を生める手段として運営する循環バスを運営することがある。
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{{Otheruseslist|'''[[建築物]]・[[建造物]]'''|[[仏教]]で「[[概念]]」を意味する「施設」(せせつ)|施設 (仏教用語)}}
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'''施設'''(しせつ)とは、[[社会生活]]を営む際に利用する構造物、[[建築物]]やその設備。[[国民]]の生活向上に必要な公共施設を[[社会資本]]・[[インフラストラクチャー]]などという。
狭義、あるいは省略した[[用語]]として[[児童福祉施設]]、[[老人福祉施設]]などの[[福祉施設]]のことを指す場合もある。
== さまざまな施設 ==
=== 公共施設 ===
; 産業の基盤
* [[道路]]
*: 代表的なものとしては[[ローマ]]の街道、インカ道、鎌倉街道、[[江戸時代]]の五街道などがある。これらは、[[権力]]行使の[[道具]]として使われてきた[[歴史]]がある。機能別に[[分類]]すると[[幹線|幹線道路]]、補助幹線道路、区画道路などに分けられる。また、施設管理者により[[国道]]・[[市町村道]]・[[私道]]などと区別する場合もある。[[日本]]国内法の、[[定義]]は[[法律]]によって異なり定義されている法律には、[[建築基準法]]、[[土地区画整理法]]、[[道路法]]などがある。[[現代 (時代区分)|現代]]の日本では[[供給]]施設の[[収納]][[空間]]・[[防災]]空間としての空間的機能の重要性が増している。また、日本の道路構造令は、[[自動車]]を中心とした[[設計]][[概念]]から、空間機能や、[[歩行者]]や[[自転車]]を対象にした設計概念へ[[転換]]する[[努力]]がされている。
* [[港湾]]施設 - [[灯台]]
* [[鉄道]]施設 - [[鉄道駅|駅]]•[[線路 (鉄道) |線路]]•[[鉄道施設|付帯設備]]
* [[空港]]
* [[通信]]施設
* [[証券取引所]]
; 生活の基盤
* [[下水道]]<!-- 都市計画法では、公営企業の[[上水道]]は含まれていない。 -->
<!-- * [[住宅]]住宅は建築物と説明されている。 -->
* [[寄宿舎]]・[[学生寮]]
* [[教育施設]]・[[学校施設]]<!-- ○○学校は教育機関、と説明している項目もある。 -->
* [[公民館]]<!-- 社会教育施設。 -->
* [[図書館]]<!-- 施設または機関。 -->
* [[医療機関]] - [[病院]]・[[診療所]]・[[助産所]]・[[施術所]]・[[薬局]]<!-- 病院は医療機関と説明されている。 -->
* [[福祉施設]] - [[児童福祉施設]]・[[老人福祉施設]]・[[障害者支援施設]]
* 宗教施設 - [[神社]]・[[寺院]]・[[教会]]・[[モスク]]
* [[火葬場]]
* [[墓地]]・[[霊園]]
* [[宿泊施設]] - [[ホテル]]・[[旅館]]
* 休憩施設 - [[ドライブイン]]
* [[公園]]・[[庭園]]
* [[遊園地]]
* [[映画館]]
* [[博物館]]・[[美術館]]・[[科学館]]・[[動物園]]・[[水族館]]・[[植物園]]
* [[劇場]]
* [[運動場]]・[[体育館]]
** [[陸上競技場]]
** [[球技場]] - [[野球場]]・[[ソフトボール場]]・[[サッカー場]]・[[庭球場]]([[テニス場]])・[[ラグビー場]]
** [[ゴルフ場]]
** [[スキー場]]
** [[アーチェリー場]]
** [[武道場]] - [[柔道場]]・[[剣道場]]・[[弓道場]]
** [[レスリング場]]
** [[体操場]]
** [[射撃場]]
=== 研究施設 ===
* [[研究所]]<!-- 機関または施設。 -->
* [[天文台]]
=== 軍事施設 ===
* [[軍事施設]] - [[軍事基地]]
** [[軍港]]
** [[工廠]]
** [[要塞]] - [[海堡]]
** [[通信施設]] - [[レーダー基地]]
== 公益施設 ==
この[[用語]]は{{要出典範囲|部心|date= 2014年3月}}、地域の骨格となる[[道路]]、[[川|河川]]、[[公園]][[緑地]]、[[広場]]など公共施設に対して、住民の生活のために欠かせない[[サービス施設]]の呼称として用いる。学校等の教育施設、病院等の医療施設、集会所等の[[コミュニティ施設]]、[[役所|官公庁]]施設などを含む。場合によっては、[[商業施設]]や[[銀行]]、[[郵便局]]、[[通信情報施設]]、[[電気]]、[[ガス燃料|ガス]]、[[水道]]などの[[エネルギー]]施設を含むこともある。また[[インフラストラクチャー]]は公益施設も含まれる他、[[都市計画]]で[[土地区画整理事業]]に際し[[業務用]]施設用地、[[行政]][[商業]]等施設用地、[[教育施設]]用地、[[住宅地]]などのほかに公益施設用地を定める。都市計画の構成要素に、都市基幹施設や公共公益施設の配置計画、また[[緑地]]には公共公益施設における植栽地等も想定される。公共公益施設の[[メンテナンス#整備事業|整備に関する事業]]を営む[[法人]]([[鉄道事業者]]、[[電気事業者]]など)があり、[[特殊価格]]にも現況による[[管理]]を継続する公共公益施設が定められている。近年では公共公益施設の[[使用 (法律)|利用]]促進のために市町村などの自治体が公共交通空白地域を生める手段として運営する循環バスを運営することがある。
=== 公益施設の例 ===
* [[ココネ上福岡]]公益施設棟([[埼玉県]][[ふじみ野市]]) - ふじみ野市サービスセンターなど。
* [[AOSSA]]([[福井県]][[福井市]]) - 7階・8階に福井県公益施設。
* [[もんぜんぷら座]]([[長野県]][[長野市]])
* [[クラシティ半田]]([[愛知県]][[半田市]]) - [[店舗]]と公益施設、[[住宅]]、[[駐車場]]の[[複合施設]]。
* [[サクランド岩倉|岩倉駅再開発ビル]](愛知県[[岩倉市]]) - 2階に生涯学習センター。([[スタジオ]]、[[会議室]]、[[料理室]]ほか。)
* [[門司港レトロハイマート]]([[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]) - [[住宅|住居]]と公共公益施設。([[展望台]])
* [[ウェルとばた]](福岡県北九州市[[戸畑区]]) - 公益施設と[[オフィスビル]]の複合施設。
== 関連項目 ==
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生産管理
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生産管理(せいさんかんり、英: production control)とは、経営計画あるいは販売計画に従って生産活動を計画し、組織し、統制する総合的な管理活動のこと。その内容は、生産計画、生産組織および、生産統制である。これらのうち、一つないし二つだけの管理は、生産管理の部分管理とみなされる。
「要求される品質の製品を、要求される時期に、要求量だけを、効率的に生産すること」である。ただし、生産管理は、企業目標達成の手段であり、目的ではない。
物を作るには材料や作業員、作業場所、設備、が必要となる。ただ用意するだけではなく、タイミング良く用意しなければならない。それらの管理を行うことを生産管理という。製造業にはふつう生産管理部門があり、それらの業務を行っている。生産管理の業務は工場運営の広い範囲をカバーするので、ある程度大きな企業になるとかなり大きな組織となる。生産管理は、技術管理も含むので、多くは生産管理部門を設けて行われるのが一般的である。工場経理は、生産管理の一部を担う。 生産管理には、大きくは受注生産型製造と見込み生産型製造の2つがあって、それぞれ管理の仕方には違いがある。また、見込み生産型製造であっても、連続装置プロセス型と、バッチプロセス型とでは、品質管理、原価管理などが違ってくる。生産管理のシステムを構築するには、対象となる企業の生産現場の実態を理解して、克明な製造プロセスが描けなければならない。業種が違えば、全く違った生産プロセスがあり、違った生産プロセスに対応したシステムがある。生産現場を知らずして(経験せずして)、生産管理システムは構築はできない。以下に述べる主要な生産活動業務は、基本的には同じであるが、ディテールでは全く違ったものになる。
主な生産活動業務
代表的な管理手法を挙げる。
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生産管理とは、経営計画あるいは販売計画に従って生産活動を計画し、組織し、統制する総合的な管理活動のこと。その内容は、生産計画、生産組織および、生産統制である。これらのうち、一つないし二つだけの管理は、生産管理の部分管理とみなされる。
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{{Otheruses|経営・製造における生産管理|労働争議の一形態|生産管理 (法学)}}
{{出典の明記|date=2012年7月}}
'''生産管理'''(せいさんかんり、[[英語|英]]: production control)とは、経営計画あるいは販売計画に従って[[生産]]活動を計画し、組織し、統制する総合的な管理活動のこと。その内容は、[[生産計画]]、生産組織および、[[生産統制]]である。これらのうち、一つないし二つだけの管理は、生産管理の部分管理とみなされる。
== 生産管理の目的 ==
「要求される[[品質]]の[[製品]]を、要求される時期に、要求量だけを、効率的に生産すること」である。ただし、生産管理は、企業目標達成の手段であり、目的ではない。
== 概要 ==
物を作るには材料や作業員、作業場所、設備、が必要となる。ただ用意するだけではなく、タイミング良く用意しなければならない。それらの管理を行うことを生産管理という。製造業にはふつう生産管理部門があり、それらの業務を行っている。生産管理の業務は工場運営の広い範囲をカバーするので、ある程度大きな企業になるとかなり大きな組織となる。生産管理は、技術管理も含むので、多くは生産管理部門を設けて行われるのが一般的である。工場経理は、生産管理の一部を担う。
生産管理には、大きくは受注生産型製造と見込み生産型製造の2つがあって、それぞれ管理の仕方には違いがある。また、見込み生産型製造であっても、連続装置プロセス型と、バッチプロセス型とでは、品質管理、原価管理などが違ってくる。生産管理のシステムを構築するには、対象となる企業の生産現場の実態を理解して、克明な製造プロセスが描けなければならない。業種が違えば、全く違った生産プロセスがあり、違った生産プロセスに対応したシステムがある。生産現場を知らずして(経験せずして)、生産管理システムは構築はできない。以下に述べる主要な生産活動業務は、基本的には同じであるが、ディテールでは全く違ったものになる。
主な生産活動業務
* [[資材購買|購買]]・原材料在庫管理・払出
: [[原材料|材料]]および[[治具|冶]][[工具]]の調達や、納期の管理、[[在庫管理]]、払出管理を行う。在庫管理(FIFO、ロット管理を含む)、催促なども重要な仕事であるが、適正な購買先の選定、単価交渉、品質管理も重要な業務である。
* [[生産計画]]
: 販売計画と連動した生産を行うことが重要である。まず、生産能力管理があり、生産能力の中で生産量の計画を構築する。販売計画の優先順位や在庫管理から品不足を回避する優先順位があって、生産能力にそれらを加味して、中期計画、年次計画、月次計画、週次計画(週報)などを順次決めていく。
* [[工程]]管理
: 月次計画、週次計画に従って、工程割付、作業員割付を行う。工程[[品質管理]]の状況情報を管理し、工程進捗情報を監視し、生産現場で不能率が発生しないように各種行動計画を立てる。
* [[製品品質管理]]
: [[ロット管理|ロット]]別、入庫日別の品質管理を行う。また、ロット別の品質劣化情報を社内へ発信する。
* 製品出荷・[[在庫管理]]
: 販売計画、出荷指示、納期管理をもとに、出荷指図、[[物流]]手配を行う。生産工場が抱える在庫のみならず、販売事業場管轄の在庫をも管理する。在庫が多すぎると製品寿命による廃棄リスク、価格変動のリスク、保管費、[[キャッシュ・フロー]]の悪化など、経営費用が余計にかかる。在庫は製品別、ロット別、保管場所別、位置別に管理する。
* [[原価計算|原価管理]]
: 製品の[[歩留まり]]を、ロット別、工程別に管理する。
: 製品の製造原価を管理する。
: 標準原価と実際原価を管理する事が必要である。
* 開発計画
: 新製品の開発立案などを行う。中長期計画の一環として行われる。
== 生産管理手法 ==
代表的な管理手法を挙げる。
* [[在庫管理]]
* [[ロジスティクス]]
* [[製造工程日程管理]]
* [[製造能力管理]]
* '''[[MRP]]''':[[資材所要量計画]] (Materials Requirements Planning)
* [[製番管理|製番方式]]
* [[トヨタ生産方式]]
* [[制約条件の理論|TOC]]
*[[ジャストインタイム生産システム|'''JIT''']](カンバン方式):ジャストインタイム生産システム/方式
*[[:en:Flexible_manufacturing_system|'''FMS''']](フレキシブル生産システム)
== 関連項目 ==
* [[インダストリアル・エンジニアリング]]
** [[OR]]/[[在庫管理]]
* [[生産工学]]
* [[生産計画]]
* [[工程管理]]
* [[工程設計]]
* [[日程計画]]
* [[BOP (製造)]]
* [[生産技術]]
* [[経営管理論]]
* [[日本経営学会]]
* [[製造に関する記事一覧]]
* [[PDCAサイクル]]
* [[確率統計学]]/[[予測]]
* [[統制]]/[[計画経済]]
* [[国策]]
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経営工学
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経営工学(けいえいこうがく、英: Engineering Management)は、人・材料・装置・情報・エネルギーを総合したシステムの設計・改善・確立に関する活動である。そのシステムから得られる結果を明示し、予測し、評価するために、工学的な分析・設計の原理・方法とともに、数学、物理および社会科学の専門知識と経験を利用する。
経営工学は、インダストリアル・エンジニアリング(英: industrial engineering、IE)に由来し、企業や工場における生産性の向上を図るために生まれた学問分野である。フレデリック・テイラーが、作業方法とその管理の客観化、合理化を図ろうとした「科学的管理法」に端を発する。
研究や授業では、システムの例として生産管理システム、情報システム、プラントシステムを題材にしている。
経営工学を修めた者は、製造業、情報通信業へ就職する者が多くいる。仕事の内容としては、次のようなことをしていることが多い。
今後の一つ課題としては、評価基準の多様化の考慮がある。生産性の向上や時間効率だけでなく、その他諸々を考慮した研究が必要と思われる。例えば品質を高める課題として食品に異物が混入しないことが要求されたら、製造工程の後に検査工程を増やすことが考えられる。この作業は商品が完成するのに今までと比較して時間効率が下がることが予想される。また、人間による目視検査がよいのか、X線異物検査装置が良いのかを検討するとX線は生態系に問題がないのかということも検討する必要があったりするという具合である。
この他、環境問題、資源問題、労働環境、など評価基準が多様化、詳細化している。したがって、経営工学は学科の枠を超えた知識も必要とされている。
孟子が梁の恵王に謁見した時の話に、「~経之営之~」と書かれている。ここでは、「経」を「測ること、測量すること」とし、「営」を「縄張りをする、縄張図を描く」の内容で書かれている。そのため「経営」の語源は、「経之営之」にあるとされている。
1950年代に体系化した本が出版された。
賃金問題を解決するために、はじまった分野とされている。作業時間の研究、指示書の導入がある。
工場や事務所において作業分析をして指示書を書いているうちに、機械を制御して自動化したりコンピュータでプログラミングしたりして自動で計算させたりする研究が盛んに行われだした。
マネジメント技術に関わる広範囲な領域を対象とし、下記の学問分野を含む。
※学部は存在しない。
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経営工学は、人・材料・装置・情報・エネルギーを総合したシステムの設計・改善・確立に関する活動である。そのシステムから得られる結果を明示し、予測し、評価するために、工学的な分析・設計の原理・方法とともに、数学、物理および社会科学の専門知識と経験を利用する。
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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=学}}
'''経営工学'''(けいえいこうがく、{{lang-en-short|Engineering Management}})は、[[人]]・[[原材料|材料]]・[[装置]]・[[情報]]・[[エネルギー]]を総合したシステムの設計・改善・確立に関する活動である。そのシステムから得られる結果を明示し、予測し、評価するために、工学的な分析・設計の原理・方法とともに、数学、物理および社会科学の専門知識と経験を利用する<ref name="IIEの「What is industrial engineering?」の訳">
{{Cite web
|url = http://www.iienet2.org/details.aspx?id=282
|title = About IIE
|accessdate = 2015-05-25 }}
</ref>。
== 概論 ==
経営工学は、[[インダストリアル・エンジニアリング]]({{lang-en-short|industrial engineering、IE}})に由来し、企業や工場における生産性の向上を図るために生まれた学問分野である。[[フレデリック・テイラー]]が、作業方法とその管理の客観化、合理化を図ろうとした「[[科学的管理法]]」に端を発する。
研究や授業では、システムの例として生産管理システム、情報システム、プラントシステムを題材にしている。
経営工学を修めた者は、製造業、情報通信業へ就職する者が多くいる。仕事の内容としては、次のようなことをしていることが多い。
* 製造現場で作業分析をして、適切な計画を立てて指示をしたり手順書、ソフトウェアを作成をする。
* センサ、電子・電気理論、アクチュエーター、マイコン、プログラマブルロジックコントローラを活用して工場の生産効率を上げるプログラムの開発。
* 制御工学、物理、化学を利用した機械の設計や改善。
今後の一つ課題としては、評価基準の多様化の考慮がある。生産性の向上や時間効率だけでなく、その他諸々を考慮した研究が必要と思われる。例えば品質を高める課題として食品に異物が混入しないことが要求されたら、製造工程の後に検査工程を増やすことが考えられる。この作業は商品が完成するのに今までと比較して時間効率が下がることが予想される。また、人間による目視検査がよいのか、X線異物検査装置が良いのかを検討するとX線は生態系に問題がないのかということも検討する必要があったりするという具合である。
この他、環境問題、資源問題、労働環境、など評価基準が多様化、詳細化している。したがって、経営工学は学科の枠を超えた知識も必要とされている。
== 歴史 ==
=== 経之営之 ===
孟子が梁の恵王に謁見した時の話に、「~経之営之~」と書かれている。ここでは、「経」を「測ること、測量すること」とし、「営」を「縄張りをする、[[ケバ図#縄張図|縄張図]]を描く」の内容で書かれている。そのため「経営」の語源は、「経之営之」にあるとされている。
=== 経営工学の誕生 ===
<!-- 日本では? -->1950年代に体系化した本{{どれ|date=2020-07}}が出版された。<!-- 編者の中には学長となった人もいる。← この項との関連がない -->
=== 科学的管理法 ===
賃金問題を解決するために、はじまった分野とされている。作業時間の研究、指示書の導入がある。
=== 制御・アルゴリズムの最適化 ===
工場や事務所において作業分析をして指示書を書いているうちに、機械を制御して自動化したりコンピュータでプログラミングしたりして自動で計算させたりする研究が盛んに行われだした。
== 経営工学の対象領域 ==
マネジメント技術に関わる広範囲な領域を対象とし、下記の学問分野を含む。
* 人に関する領域
** [[人間工学]] - [[作業研究]] - [[行動科学]] - [[認知心理学]]
* 材料・部品・製造に関する領域
** [[計測工学]] - [[生産工学]] - [[生産管理]] - [[品質工学]] - [[品質管理]](QC)
* 装置に関する領域
** [[機械工学]] - [[信頼性工学]] - [[生産技術]] - [[制御工学]] - [[ヒューマンマシンインタフェース]]
* 情報に関する領域
** [[情報科学]] - [[情報工学]] - [[システム工学]] - [[統計学]] - [[アルゴリズム]] - [[オペレーションズ・リサーチ]](OR) - [[人工知能]] - [[データサイエンス]]
* エネルギーに関する領域
** [[電気工学]] - [[電子工学]]
* 組織に関する領域
** [[経営学]] - [[経営システム工学]] - [[社会工学]] - [[社会システム科学|社会システム工学]] - [[管理会計]] - [[原価計算]] - [[工業簿記]] - [[マーケティング]] - [[ロジスティクス]] - [[サプライチェーン・マネジメント]](SCM)
* 関連分野
** [[経済学]] - [[金融工学]] - [[経済工学]] - [[サービス科学]]
== 経営工学科を置く大学 ==
{{main|経営工学科}}
※学部は存在しない。
== 経営工学を専攻した有名人(敬称略) ==
* [[逢沢一郎]]
* [[安西祐一郎]]
* [[稲垣嗣夫]]
* [[遠藤紘一]]
* [[尾﨑元規]]
* [[片山大介]]
* [[北城恪太郎]]
* [[山口明夫]]
* [[窪塚俊介]]
* [[桜井正光]]
* [[佐々木幹夫]]
* [[繁野麻衣子]]
* [[重光宏之]]
* [[高橋真紀子]]
* [[鳩山由紀夫]]
* [[英裕治]]
* [[藤村修]]
* [[本髙克樹]]
* [[森郁夫 (実業家)]]
* [[ロジャー・コーマン]]
* [[ニコール・ストット]]
== 経営工学に関連する法令 ==
* [[電気事業法]] 第六十九条一
*: 第五章 登録安全管理審査機関、指定試験機関及び登録調査機関の登録の基準
* [[電気事業法施行令]] 第七条
*: 電気工作物検査官の資格
* [[電気事業法の規定に基づく独立行政法人原子力安全基盤機構の検査等の実施に関する省令]]
* [[人事院規則]]八―一八(採用試験) 別表第一 区分試験及び区分試験の対象となる官職(第四条関係)
*:区分試験 数理科学・物理・地球科学
== 経営工学に関連する資格 ==
*[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu7/ 技術士試験(文部科学省 技術士分科会)]
*: 技術士試験において経営工学部門と総合技術監理部門が関係している。経営工学部門と総合技術監理部門の係わりは、[https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/18youshi/1805.html 経営工学分野のための教育認定制度とエンジニア資格制度]を参考にするとよい。
* [[情報処理技術者]]試験:IT共通知識体系では「情報化と経営」の分野に分類されている。
* 電気工事施工管理技術検定
*: 国土交通省令で定められている学科として認められている大学がある。[http://www.fcip-shiken.jp/html/1denshiteigakka.html 1級電気工事施工管理技術検定 指定学科]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[インダストリアル・エンジニアリング]]
* [[技術経営]]
* [[経営管理]]
* [[経営学]]
* [[マンハッタン計画]]
* [[アルベルト・シュペーア]]
* [[日本経営学会]]
* [[日本経営システム学会]]
* [[日本情報経営学会]]
* [[日本商業学会]]
* [[知的財産]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jimanet.jp/ 日本経営工学会]
* {{Kotobank}}
{{Engineering fields}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けいえいこうかく}}
[[Category:工学の分野]]
[[Category:マネジメントの種類]]
[[Category:経営学]]
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10,152 |
教育哲学
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教育哲学(きょういくてつがく、英語: philosophy of education)とは、教育の主要なテーマ、例えば、その目的、対象、そこで価値ありとされるような要因について、哲学的な分析と解明を目指す教育学の一分野。
20世紀には、分析哲学の影響を受けて、教育実践について語る言葉の意味分析、概念定義のみを主とするような行き方が隆盛した一方で、教育が常に世界観や人間観と不可分であることから、倫理学や哲学、宗教、社会学、人類学の中に教育学的知見を見出そうとする試みもある。この後者の立場は教育人間学と呼ばれることもある。このように、そのスタイルは一様ではない。
オーソドックスには、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ、フリードリヒ・フレーベルから、ジョン・デューイに至る教育学の古典的な学説の解釈と注記から、教育や子ども、教育可能性について語る語り口そのものについての反省や再検討というのが、通例だった。しかし、近年は、教育という制度そのものの批評など、そのかたちは、今日、かなり様相を異にしてきた。
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教育哲学とは、教育の主要なテーマ、例えば、その目的、対象、そこで価値ありとされるような要因について、哲学的な分析と解明を目指す教育学の一分野。
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{{出典の明記|date=2011年12月}}
'''教育哲学'''(きょういくてつがく、[[英語]]: philosophy of education)とは、教育の主要なテーマ、例えば、その目的、対象、そこで価値ありとされるような要因について、哲学的な分析と解明を目指す[[教育学]]の一分野。
==概要==
20世紀には、[[分析哲学]]の影響を受けて、教育実践について語る言葉の[[意味分析]]、[[概念定義]]のみを主とするような行き方が隆盛した一方で、教育が常に[[世界観]]や人間観と不可分であることから、[[倫理学]]や[[哲学]]、[[宗教]]、[[社会学]]、[[人類学]]の中に教育学的知見を見出そうとする試みもある。この後者の立場は[[教育人間学]]と呼ばれることもある。このように、そのスタイルは一様ではない。
オーソドックスには、[[ジョン・ロック]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]、[[フリードリヒ・フレーベル]]から、[[ジョン・デューイ]]に至る教育学の古典的な学説の解釈と注記から、[[教育]]や[[子ども]]、[[教育可能性]]について語る語り口そのものについての反省や再検討というのが、通例だった。しかし、近年は、教育という[[制度]]そのものの批評など、そのかたちは、今日、かなり様相を異にしてきた。
== 関連項目 ==
* [[教育学]]
* [[教育]]
* [[哲学教育]]
* [[教育人間学]]
* [[臨床教育学]]
* [[教育思想家一覧]]
* [[教育哲学会]]
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ジャストインタイム生産システム
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ジャストインタイム生産システム、ジャスト・イン・タイム生産システム(ジャストインタイムせいさんシステム、just-in-time, JIT)は、生産過程において、各工程に必要な物(部品など)を、必要な時に、必要な量だけ供給することで在庫(あるいは経費)を徹底的に減らして生産活動を行う技術体系(生産技術)をいう。
日本のトヨタ自動車において豊田喜一郎が合目的経営の観点から導入した生産方式としてよく知られている(トヨタ生産方式)。アメリカ合衆国の自動車業界でもJIT(ジット)といえばこのことである。
トヨタ生産方式の基本的な考え方は、やみくもな減量経営ではなく、限られた人、設備、在庫で効率的に生産を行う限量経営である(そのため減量ではなく限量と表現される)。
工程間の仕掛在庫を最少に抑える究極の形は完全受注生産である。しかし、生産のプロセスを見た場合、オーダーから出荷までの間には数多くの工程が存在し、それが結果としてリードタイムの長時間化をもたらす。ニッチな製品の場合は顧客側も長リードタイムを受け入れる場合が多いが、一般的な大量生産品の場合は長リードタイム化はそのまま販売の機会損失に繋がる。そのため、ある程度の見込み生産が発生するが、見込み生産の量が多いことは、資金の投資から回収までの期間を長くするため、キャッシュ・フローを見た場合、損失が大きい。また、販売不振による商品の切り替えが発生した場合、多量の仕掛在庫損失が発生することもある。
ジャストインタイム生産方式は後工程引取方式であり、後工程は必要な時に必要な量だけ前工程からものを引き取り、前工程では引き取られたものについて後工程から指示された量だけ生産するというシステムである。
自工程で使った分だけ前工程に作らせる連鎖を組むことで、工程間仕掛の在庫の最少化を実現することにより生産コストの削減を図るのである。
ジャストインタイム生産方式では後工程から前工程への生産指示票としてカンバンと呼ばれる帳票を利用する。このカンバンは、後工程に対しては納品書として加工品と共に引き渡される。後工程で加工品が使用されたらカンバンを前工程に戻す。前工程に戻す際は、発注票として渡され、このカンバンの受領を以て前工程では製品の加工を行う。
カンバン方式の連鎖の問題点は、販売側から工場へ入るオーダーのカンバンをどこに投入するかである。カンバンの戻す場所を「店」(MISE)といい、どこの工程にカンバンを戻すかを決めることを「店を構える」という表現を使う。製造の上流側に店を構える場合、工程間の仕掛在庫は最少になるが顧客への引渡しが遅くなる。完成品出庫側に店を構える場合、製造工程数が多い製品になればなるほど製造の源流にカンバンが届くまでの時間を要し、顧客への納期を守るために源流側で見込み生産が発生することがある。店は上流工程から順にアルファベットを用いてつけられA店,B店....と呼ぶ。
通常用いられるカンバンは、プラスチック製であったり紙をラミネート(透明フィルムに封入処理)したりしたものが多い。このようなカンバンは、実際に使われているカンバン数を素早く正確に把握することが困難であったり、紛失や長期間使用による損傷などの問題があったりする。また、製造工程が多工程にわたる場合や、遠隔地に取引企業が有る場合など、現物のカンバンがやり取りされることによる、上流工程へのカンバン伝達の時間的ロスが発生し、最上流部でカンバンに連動しない見込み生産が行われることがある。
カンバンが電子化されることの利点は、
が可能となる。
欠点として
カンバンは「現場作業者」が手扱いで行う必要がある。カンバンは工場内では「お金」として扱われる。電子カンバンはいわば手形取引のようなものになってしまい、現場での商品のやり取りが帳面上の形骸化になる可能性がある。
これを避けるために実際にカンバン自身がなくなることは無く、カンバンにバーコードをつけてそれを読み込ませることで電子化を行ったり、ICチップを埋め込まれて、工場内のどこにあるのかわかるようになっているものもある。
カンバンの振り出しから納品までのタイムラグを「便係数」と言う。例えば1日に1回の配達で発注してから2日で帰ってくる場合「1-1-2」という言い方をし、「一日一便2回遅れ」と言い方をする。ちなみに1日に14便で前の便で発注したものが次の便で帰ってくる場合は「1-14-1」となる。
この便係数から、その物品が入手できるリードタイムは「便係数の第1項と第3項を掛け合わせ、第2項で割る」ことで求められる。
先ほどの「1-14-1」の場合は、1×1÷14=0.0714となる。稼動時間が1日24時間の場合、1.71時間となる。つまり、この物品は1.71時間のリードタイム以下で生産しなければならないこととなる。
在庫を持たないので、指示どおり部品が納入されない場合、即座に操業が停止するリスクがある。1979年(昭和54年)7月の日本坂トンネル火災事故、1995年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災、1997年2月に発生したアイシン精機(現:アイシン)刈谷工場の火災による部品入手の滞りによる自動車メーカー各社の操業停止などが挙げられる。2011年(平成23年)の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では被害の大きい東北地方に自動車用部品や電子部品の工場が多かったことが災いした。部品の調達難によって、直接の被害がなかった愛知県豊田市の堤工場においても、3月14 - 27日の操業停止を余儀なくされた。2020年(令和2年)より世界に広がったコロナ禍により、日本国外の各工場で定期的かつ長期的な操業停止を余儀なくされた。これらの教訓から、その後は、リスクの高いものから優先的に複数発注体制に切り替えられている。
大型車の路上駐車とジャストインタイムとの関連について、神奈川県トラック協会が指摘している。ジャストインタイムでは配達時間を厳密に指定される。このためトラックは到着時間の調整が必要となるが、多くの場合、荷主は待機場所を提供しない。待機場所がないため道路上で駐車し時間調整をする大型トラックも多く、道路交通の障害となることが課題となっている。
上記のコロナ禍に加え、中華人民共和国の軍事的台頭に伴う台湾有事などの危険性、2022年ロシアのウクライナ侵攻に起因する西側諸国の対ロ経済制裁により、部品や資材のサプライチェーン(供給網)が分断される懸念が高まっている。このため、調達先を自国内や同盟・友好国に切り替えたり、在庫を多めに確保しておく「ジャスト・イン・ケース」(万が一の備え)を志向する動きが出ている。
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"text": "上記のコロナ禍に加え、中華人民共和国の軍事的台頭に伴う台湾有事などの危険性、2022年ロシアのウクライナ侵攻に起因する西側諸国の対ロ経済制裁により、部品や資材のサプライチェーン(供給網)が分断される懸念が高まっている。このため、調達先を自国内や同盟・友好国に切り替えたり、在庫を多めに確保しておく「ジャスト・イン・ケース」(万が一の備え)を志向する動きが出ている。",
"title": "リスク・問題点と対策"
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ジャストインタイム生産システム、ジャスト・イン・タイム生産システムは、生産過程において、各工程に必要な物(部品など)を、必要な時に、必要な量だけ供給することで在庫(あるいは経費)を徹底的に減らして生産活動を行う技術体系(生産技術)をいう。 日本のトヨタ自動車において豊田喜一郎が合目的経営の観点から導入した生産方式としてよく知られている(トヨタ生産方式)。アメリカ合衆国の自動車業界でもJIT(ジット)といえばこのことである。
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{{See also|リーン生産方式}}
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| 出典の明記 = 2012年6月
| 参照方法 = 2019年2月
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{{コーポレート・ファイナンス}}
'''ジャストインタイム生産システム'''、'''ジャスト・イン・タイム生産システム'''(ジャストインタイムせいさんシステム、just-in-time, JIT)は、生産過程において、各工程に必要な物([[部品]]など)を、必要な時に、必要な量だけ供給することで[[在庫]](あるいは経費)を徹底的に減らして生産活動を行う技術体系([[生産技術]])をいう<ref name="fujii7">{{Cite book |和書 |author=藤井春雄|title=よくわかる「ジャスト・イン・タイム」の本|year=2009|page=7|publisher=[[日刊工業新聞社]]}}</ref>。
[[日本]]の[[トヨタ自動車]]において[[豊田喜一郎]]が合目的経営の観点から導入した生産方式としてよく知られている<ref name="fujii7" />([[トヨタ生産方式]])。[[アメリカ合衆国]]の自動車業界でもJIT(ジット)といえばこのことである。
==概要==
トヨタ生産方式の基本的な考え方は、やみくもな減量経営ではなく、限られた人、設備、在庫で効率的に生産を行う限量経営である(そのため減量ではなく限量と表現される)<ref>{{Cite book |和書 |author=藤井春雄|title=よくわかる「ジャスト・イン・タイム」の本|year=2009|page=9|publisher=日刊工業新聞社}}</ref>。
=== ものの流れ(後工程引取方式) ===
工程間の仕掛在庫を最少に抑える究極の形は完全受注生産である。しかし、生産のプロセスを見た場合、オーダーから出荷までの間には数多くの[[工程]]が存在し、それが結果として[[リードタイム]]の長時間化をもたらす。[[ニッチ市場|ニッチ]]な製品の場合は顧客側も長リードタイムを受け入れる場合が多いが、一般的な[[大量生産]]品の場合は長リードタイム化はそのまま[[販売]]の機会損失に繋がる。そのため、ある程度の見込み生産が発生するが、見込み生産の量が多いことは、資金の投資から回収までの期間を長くするため、[[キャッシュ・フロー]]を見た場合、損失が大きい。また、販売不振による商品の切り替えが発生した場合、多量の仕掛在庫損失が発生することもある。
ジャストインタイム生産方式は後工程引取方式であり、後工程は必要な時に必要な量だけ前工程からものを引き取り、前工程では引き取られたものについて後工程から指示された量だけ生産するというシステムである<ref>{{Cite book |和書 |author=藤井春雄|title=よくわかる「ジャスト・イン・タイム」の本|year=2009|pages=7-8|publisher=日刊工業新聞社}}</ref>。
自工程で使った分だけ前工程に作らせる連鎖を組むことで、工程間仕掛の在庫の最少化を実現することにより生産コストの削減を図るのである。
=== 情報の流れ(カンバン方式) ===
ジャストインタイム生産方式では後工程から前工程への生産指示票として'''[[カンバン]]'''と呼ばれる[[帳票]]を利用する。このカンバンは、後工程に対しては[[納品書]]として加工品と共に引き渡される。後工程で加工品が使用されたらカンバンを前工程に戻す。前工程に戻す際は、発注票として渡され、このカンバンの受領を以て前工程では製品の加工を行う。
カンバン方式の連鎖の問題点は、販売側から工場へ入るオーダーのカンバンをどこに投入するかである。カンバンの戻す場所を「店」(MISE)といい、どこの工程にカンバンを戻すかを決めることを「店を構える」という表現を使う。製造の上流側に店を構える場合、工程間の仕掛在庫は最少になるが顧客への引渡しが遅くなる。完成品出庫側に店を構える場合、製造工程数が多い製品になればなるほど製造の源流にカンバンが届くまでの時間を要し、顧客への納期を守るために源流側で見込み生産が発生することがある。店は上流工程から順にアルファベットを用いてつけられA店,B店....と呼ぶ。
==電子カンバン==
通常用いられるカンバンは、[[プラスチック]]製であったり[[紙]]をラミネート(透明フィルムに封入処理)したりしたものが多い。このようなカンバンは、実際に使われているカンバン数を素早く正確に把握することが困難であったり、紛失や長期間使用による損傷などの問題があったりする。また、製造工程が多工程にわたる場合や、遠隔地に取引企業が有る場合など、現物のカンバンがやり取りされることによる、上流工程へのカンバン伝達の時間的ロスが発生し、最上流部でカンバンに連動しない見込み生産が行われることがある。
カンバンが電子化されることの利点は、
*カンバン総量の把握が容易となり、生産ボリューム変動に応じたカンバン数の柔軟化
*上流工程へのカンバン伝達のジャストインタイム化
が可能となる。
欠点として
*トヨタ生産方式の一つの柱である「[[見える化]]」が滞る可能性がある。
カンバンは「現場作業者」が手扱いで行う必要がある。カンバンは工場内では「お金」として扱われる。電子カンバンはいわば手形取引のようなものになってしまい、現場での商品のやり取りが帳面上の形骸化になる可能性がある。
これを避けるために実際にカンバン自身がなくなることは無く、カンバンに[[バーコード]]<ref>[[QRコード]]は当初、電子カンバンでの使用を念頭に[[デンソー|日本電装]](当時)で開発された。</ref>をつけてそれを読み込ませることで電子化を行ったり、[[ICチップ]]を埋め込まれて、工場内のどこにあるのかわかるようになっているものもある。
==便係数==
カンバンの振り出しから納品までの[[タイムラグ]]を「'''便係数'''」と言う。例えば1日に1回の配達で発注してから2日で帰ってくる場合「1-1-2」という言い方をし、「一日一便2回遅れ」と言い方をする。ちなみに1日に14便で前の便で発注したものが次の便で帰ってくる場合は「1-14-1」となる。
この便係数から、その物品が入手できるリードタイムは「便係数の第1項と第3項を掛け合わせ、第2項で割る」ことで求められる。
先ほどの「1-14-1」の場合は、1×1÷14=0.0714となる。稼動時間が1日24時間の場合、1.71時間となる。つまり、この物品は1.71時間のリードタイム以下で生産しなければならないこととなる。
==リスク・問題点と対策==
=== 災害・事故による部品不足 ===
在庫を持たないので、指示どおり部品が納入されない場合、即座に操業が停止する[[リスク]]がある。[[1979年]]([[昭和]]54年)7月の[[日本坂トンネル火災事故]]、[[1995年]]([[平成]]7年)1月の[[阪神・淡路大震災]]、[[1997年]]2月に発生したアイシン精機(現:[[アイシン]])刈谷工場の[[火災]]による部品入手の滞りによる自動車メーカー各社の操業停止<ref>[http://www.sydrose.com/case100/315/ ~アイシン精機で工場火災(1997)~] - サイドローズ > データベース > 失敗百選(2015年10月8日閲覧)</ref>などが挙げられる。[[2011年]](平成23年)の[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])では被害の大きい[[東北地方]]に自動車用部品や[[電子部品]]の工場が多かったことが災いした。部品の[[調達]]難によって、直接の被害がなかった[[愛知県]][[豊田市]]の[[トヨタ自動車堤工場|堤工場]]においても、3月14 - 27日の操業停止を余儀なくされた。[[2020年]]([[令和]]2年)より世界に広がった[[コロナ禍]]により、日本国外の各工場で定期的かつ長期的な操業停止を余儀なくされた。これらの教訓から、その後は、リスクの高いものから優先的に複数発注体制に切り替えられている。
===トラック物流における路上駐車===
大型車の路上駐車とジャストインタイムとの関連について、神奈川県トラック協会が指摘している<ref name="210808Mainichi">{{Cite news |和書|title=なぜ大型トラックは路駐するのか 後を絶たない追突事故|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2021-08-08|author= |url=https://mainichi.jp/articles/20210808/k00/00m/040/056000c|accessdate=2021-08-08}}</ref>。ジャストインタイムでは配達時間を厳密に指定される<ref name="210808Mainichi"/>。このためトラックは到着時間の調整が必要となるが、多くの場合、荷主は待機場所を提供しない<ref name="210808Mainichi"/>。待機場所がないため道路上で駐車し時間調整をする大型トラックも多く、道路交通の障害となることが課題となっている<ref name="210808Mainichi"/>。
===「ジャスト・イン・ケース」への転換===
上記のコロナ禍に加え、[[中華人民共和国]]の軍事的台頭に伴う[[台湾有事]]などの危険性、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]に起因する[[西側諸国]]の対ロ[[経済制裁]]により、部品や資材の[[サプライチェーンマネジメント|サプライチェーン]](供給網)が分断される懸念が高まっている。このため、調達先を自国内や同盟・友好国に切り替えたり、在庫を多めに確保しておく「ジャスト・イン・ケース」(万が一の備え)<ref>インタビュー:[[中曽宏]]さん([[大和総研]]理事長・前[[日本銀行]]前副総裁)[https://www.asahi.com/articles/DA3S15429434.html 金融危機また来るか/最悪想定し安全網 地味な実務の巧拙 決定的な意味持つ]『[[朝日新聞]]』朝刊2022年9月28日オピニオン面(2022年10月22日閲覧)</ref>を志向する動きが出ている。
==脚注==
{{reflist}}
==関連項目==
*[[混流生産]]
*[[外段取り]]
*[[下請いじめ]]
*[[ミルクラン]]
*[[生産技術]]
*[[日本経営学会]]
*[[大野耐一]]
*[[製造に関する記事一覧]]
*[[統計的プロセス制御]]
*[[1997年アイシン火災]]
*[[期間工]](必要な人数を、必要な[[工数]]だけ)
*[[宵積み]]
==外部リンク==
*[http://www.toyota.co.jp/ トヨタ自動車株式会社 グローバルサイト]
**[http://www.toyota.co.jp/jpn/company/vision/production_system/just.html 企業情報>ジャスト・イン・タイムについて] - トヨタ自動車によるジャスト・イン・タイムの紹介
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやすといんたいむせいさんしすてむ}}
[[Category:リーン生産方式]]
[[Category:経営学]]
[[Category:物流]]
[[Category:サプライチェーン管理]]
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2003-06-19T04:14:59Z
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2023-10-20T00:22:12Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E7%94%9F%E7%94%A3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
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10,155 |
MGS
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[] | null |
== MGS ==
*[[硫化マグネシウム]](MgS)
*[[マーズ・グローバル・サーヴェイヤー]](Mars Global Surveyor) - [[火星探査機]]
*機動砲システム(Mobile Gun System) - [[ストライカー装甲車]]の派生型で、低姿勢[[砲塔]]に[[ロイヤル・オードナンス L7|105mm砲M68A1E4]]を装備したもの。
*[[メディアグローバルステージ]](Media Global Stage Co.Ltd.) - 動画配信サイトおよび電子書籍配信サイトの運営会社。[[プレステージ (アダルトビデオ)]]も参照。
*[[メタルギアソリッド]](Metal Gear Solid) - [[ゲームソフト]]。[[メタルギアシリーズ]]も参照。
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インド亜大陸
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インド亜大陸(インドあたいりく、ヒンディー語: भारतीय उपमहाद्वीप、英語: Indian subcontinent)は、インド半島とも呼ばれ、南アジアのインド・バングラデシュ・パキスタン・ネパール・ブータンなどの国々を含む亜大陸・半島。かつては独立したインド大陸であった。
「インド亜大陸」という語はしばしば「南アジア」と同義に使われる。
アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説やプレートテクトニクスによると、パンゲア大陸から分離・移動して、ユーラシア大陸に衝突し、そのためにヒマラヤ山脈が隆起したとされる。現在もインド亜大陸は北上し続けている。
マダガスカル島との動植物の類似から、一時はレムリア大陸説が唱えられたが、現在はパンゲア大陸内でマダガスカル島と同じ地域にあったという説が有力。
気候は雨季と乾季を持ち、雨季には世界で最も多く雨の降る地域となる。
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インド
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インド亜大陸は、インド半島とも呼ばれ、南アジアのインド・バングラデシュ・パキスタン・ネパール・ブータンなどの国々を含む亜大陸・半島。かつては独立したインド大陸であった。 「インド亜大陸」という語はしばしば「南アジア」と同義に使われる。
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'''インド亜大陸'''(インドあたいりく、{{Lang-hi|भारतीय उपमहाद्वीप}}、{{Lang-en|Indian subcontinent}})は、'''インド半島'''とも呼ばれ、[[南アジア]]の[[インド]]・[[バングラデシュ]]・[[パキスタン]]・[[ネパール]]・[[ブータン]]などの国々を含む[[亜大陸]]・[[半島]]。古代は独立した'''インド大陸'''であった。
「インド亜大陸」という語はしばしば「南アジア」と同義に使われる。
== インド大陸・大陸移動 ==
[[File:Himalaya-formation.gif|thumb|right|200px|インド亜大陸と北辺の[[ヒマラヤ山脈]]は、[[インドプレート]]と[[ユーラシアプレート]]の衝突の結果である(濃いピンク色の部分が現代のインド亜大陸)。]]
[[アルフレート・ヴェーゲナー]]の[[大陸移動説]]や[[プレートテクトニクス]]によると、[[パンゲア大陸]]から分離・移動して、[[ユーラシア大陸]]に衝突し、そのために[[ヒマラヤ山脈]]が隆起したとされる。現在もインド亜大陸は北上し続けている。
[[マダガスカル島]]との動植物の類似から、一時は[[レムリア|レムリア大陸]]説が唱えられたが、現在はパンゲア大陸内で[[マダガスカル島]]と同じ地域にあったという説が有力。
== 地理・気候 ==
気候は[[雨季]]と[[乾季]]を持ち、雨季には世界で最も多く雨の降る地域となる。
== 属する国・地域 ==
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== 関連項目 ==
* [[インドの地理]]
* [[ユーラシア大陸]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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蒸気機関
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蒸気機関(じょうききかん)は、ボイラーで発生した蒸気のもつ熱エネルギーを機械的仕事に変換する熱機関の一部であり、ボイラ等と組み合わせて一つの熱機関となる。作業物質である水を外部より加熱する外燃機関に分類される。
蒸気機関には、蒸気をシリンダに導き、ピストンを往復運動させる往復動型のものと、蒸気で羽根車をまわすタービン型のものとが存在する。本稿では主として往復動型のものを説明する。タービン型のものについては蒸気タービンを参照のこと。
古代アレクサンドリアの工学者・数学者であったヘロン(10年頃 - 70年頃)が考案したさまざまな仕掛けの中に、「ヘロンの蒸気機関」と呼ばれるものが存在する。これは、蒸気を噴出し、円周で回転力を得るものである。これが記録に残っているものとしては人類史上に蒸気機関が登場した最初のものであるとされる。なお、ヘロンの蒸気機関は蒸気タービンの一種であり、レシプロ式のものではなかった。
フランス生まれでのちにイギリス等へ移った物理学者であるドニ・パパン(Denis Papin 1647年-1712年頃)は、ヘッセン=カッセル方伯領(現ドイツ)に滞在していた1690年に、当時知られていた大気の力を動力として利用する手段として蒸気を用いる方法を考案して、その模型を製作し、ロンドン王立協会で発表した。これは、ゲーリケのマクデブルクの半球などで実証されていた大気の力を取り出すための真空を実現するために、水の蒸気の凝縮現象を利用するというもので、真空と大気圧との差をピストンとシリンダーを用いて取り出そうとしたものであり、その後の蒸気機関の基本的な原理となった。しかし、パパンの模型はシリンダーそのものを火で加熱し、水をかけて冷却するというものであり、実用には遠いものであった。セイヴァリが別の機関を発表した後は、パパンもセイヴァリ類似の方式を試みるようになった。
イギリスの海軍軍人で発明家のトマス・セイヴァリ(Thomas Savery、1650年頃-1715年)は、1698年に「火の機関(セイヴァリ機関)」を開発し、国王の前での実験に成功し、特許を取得した。これは、ドニ・パパンの蒸気機関とは異なってピストンやシリンダなどは持たず、容器内の蒸気の凝縮による負圧で下方の配管から水を吸い上げ、それを再度蒸気の圧力で押しだして別の配管で上方へ排出するものであった。セイヴァリはこれを鉱山の排水その他に活用しようとしたが、いくつかの原理的欠点があり、低揚程で小水量の限られた用途でしか成功しなかった。しかし、彼が取得した特許は「火力によって揚水する装置」という実に広範かつ無限定のものであったため、その後のニューコメンらの機関は1733年の失効に至るまでの間この特許のもとで建造・稼動することとなった。
イギリスの発明家・技術者であるトマス・ニューコメン(Thomas Newcomen、1664年2月24日-1729年8月5日)は、1712年に、鉱山の排水用として実用になる最初の蒸気機関を製作した。
この蒸気機関は、パパンやセイヴァリの蒸気機関をさらに発展させたものであり、ボイラとは別に設けたシリンダーの蒸気に冷水を吹き込んで冷やし、蒸気が凝縮して生じる真空(大気圧)でピストンを吸引し、頂部の大きなてこを介して、その力で坑道からの揚水ポンプを駆動するものであった。原理的にはパパンの蒸気機関のシリンダーからボイラーを分離して、継続的に運転できるようにしたものであり、ニューコメン独自のアイデアとして、蒸気中へ冷水を直接噴射して冷却する方式、大てこの動きを利用した自動運転方式等が挙げられる。その後の産業革命の動力を担った蒸気機関の実質的な発明とされている。
セイヴァリは大気圧を超える蒸気の圧力を用いて水を排出しようとしたが、ニューコメンは大気圧の蒸気とその凝縮により生じる真空だけを利用した。当時の技術では、ある程度の高圧に耐え得るボイラが作れなかったため、この方式だけが実用化できた。発明の動機がニューコメンが住んでいた村の鉱山のわき水を汲み出す、自動の「つるべ井戸」であったために往復運動を回転運動に変えていない。運転速度は、毎分12サイクル程度であったという。なお冷水で冷やすときシリンダーも冷えるので燃料効率は低く、掘り出した石炭のうち実に1/3程度がこの揚水ポンプのために消費され,熱効率は1%にも達しない程度であった.
ニューコメン機関は1733年までセイヴァリの特許のもとで建造され、その後も含めて多くの技術者・科学者が建造・改良に関わった。1769年にワットがその改良特許を取得して以降も、ワット機関より多くのニューコメン機関が建造され、18 世紀の間でイギリスおよびヨーロッパの各地で建造されたニューコメン機関は、1500 から 2000 台にのぼった。
イギリス・スコットランドのエンジニアであるジェームズ・ワット(James Watt, 1736年1月19日 - 1819年8月19日)は、1769年に新方式の蒸気機関を開発した。これはニューコメンの蒸気機関の効率の悪さに目をつけて改良したもので、復水器で蒸気を冷やす事でシリンダーが高温に保たれることとなり効率が増した。さらに負圧だけでなく正圧の利用、往復運動から回転運動への変換、フィードバックとしての調速機の利用による動作の安定などの改良をしている。
蒸気機関の誕生以前の炭鉱では馬が動力として利用されていたが、飼葉代が高騰した際に、炭鉱経営者が馬に代わる動力として安価に入手出来る石炭を利用できる蒸気機関に着目したことが蒸気機関の普及を促進させたとも言われている。またワットは、定置動力としての蒸気機関を市場に供給するにあたり、後年における設備リース的な手法でエンジンを顧客に提供する手段も用いて普及を推し進めた。
それまで存在しなかった「馬力」という単位・尺度もワットの考案である。個々のエンジンの性能価値を算定するため、標準的な荷役馬の力も参考に、一定時間の仕事率を指標として作り出された重要な概念であった。その後、蒸気機関に限らずさまざまな動力の尺度に広く用いられることになった。
蒸気機関ではボイラーの爆発事故が多く起きたため、ワットはある程度以上の高圧の使用に反対した。蒸気圧を大きく高めて使う時代がきたのはワットの特許が切れてからである。ワットなどによって用途の広がった蒸気機関は、水力に頼らない工場の立地や交通機関への応用(都市化の進展、機関車、蒸気船)など、産業革命・工業化社会の原動力になるとともに、燃料である石炭を時代の主役に押し上げた。
ワットの蒸気機関の特許が1800年に失効すると、リチャード・トレヴィシックらがさっそく高圧蒸気機関の開発に成功し、蒸気機関の出力は大きく向上した。この蒸気機関は高圧蒸気で直接機関を動かし、復水器を廃止したものだった。その後も改良は続けられ、1849年にはアメリカのジョージ・コーリスが吸気弁と排気弁を改良したコーリス蒸気機関によってさらに大幅に効率が改善された。
また、こうした蒸気機関の性能向上のほかに、蒸気機関を他の用途に使用する試みも盛んに行われていた。なかでももっとも成功したものは交通機関への転用である。交通機関への転用で最も早く実用化されたのは蒸気船であった。蒸気船は1783年にフランスのクロード・ジョフロワ・ダバンが試験走行に成功したのち、幾人かが実用化を試みたが、ロバート・フルトンが1807年にハドソン川で外輪型蒸気船の航行に成功し、実用化に成功した。初期の蒸気船は外輪船だったが、これは外海の荒波と相性が悪く、航行は内陸河川に限られていた。やがて外輪の改良によって蒸気船は外洋航行が可能になったが、1840年代に入るとより高速を得られ安定性も高いスクリュープロペラが主流となり、さらに1860年代に高性能の船舶用蒸気機関が登場することで、蒸気船は全盛期にあった帆船を駆逐して主要な海洋交通手段となった。
ついで蒸気機関は陸上交通機関にも応用されるようになった。前述のリチャード・トレヴィシックは鉱山などに敷設されていた馬車鉄道に蒸気による交通機関を走らせることを構想し、1804年には世界初の蒸気機関車を発明した。これは実用的なものにはならなかったものの、以後改良が重ねられ、1825年にはジョージ・スチーブンソンによってストックトン・アンド・ダーリントン鉄道に蒸気機関車が走り、ついで1829年にはリバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車のコンテストでロバート・スチーブンソンの設計したロケット号が優勝し、翌1830年に営業を開始した。ロケット号には革新的な技術が使用されており、以後の蒸気機関車の基準となった。またリバプール・アンド・マンチェスター鉄道も大成功をおさめ、これによって蒸気機関車とそれの走る鉄道という組み合わせが完成し、瞬く間に世界中に普及した。なお、蒸気機関を自動車に使用する案は蒸気船や蒸気機関車よりもさらに古く、1769年にはフランスのニコラ=ジョゼフ・キュニョーが世界初の蒸気自動車であるキュニョーの砲車を開発したが、実用化には失敗した。以後、およそ100年以上にわたって蒸気自動車の開発は続けられ、19世紀末には電気自動車や各種内燃機関の自動車としのぎを削ったが、1910年代前半にはガソリン自動車との競争に敗れ姿を消した。
この時代のプレス機械や蒸気ハンマーには、蒸気機関の回転運動で作動する方式の他に、蒸気圧でピストンを直動させる(液圧を介する場合もある)方式もあった。
しかしその後、19世紀から20世紀にはいる頃から、電気動力・内燃機関動力が発達をしはじめた。蒸気機関は、ボイラー、復水器などの付帯設備が大きいこと、(それらの新動力と比べると)エネルギー効率が悪く対重量比出力が低いこと、起動・停止に手間がかかることなどが災いして、地位の低下を余儀なくされた。
大型化にシビアな制限のある小型の移動機関、特に自動車については早期に内燃機関に移行した。自動車ほど小型軽量化にシビアではない機関車は、20世紀中盤まで蒸気機関車が主役の座にあり続けたが、それもその後減少し、21世紀になる頃には世界的に見てもごくわずかなところに残るにすぎなくなっていた。なお、大きさや起動・停止の手間などが問題にならない大型のシステムについては、1884年にチャールズ・アルジャーノン・パーソンズによって蒸気タービンが実用化されるとレシプロ蒸気機関から蒸気タービンへの移行も発生した。発電用としては、大規模な発電プラントではおもに蒸気タービンが用いられ、規模の小さいプラントや移動用施設ではディーゼルエンジンやガスタービンが使用されるという形で特性に応じた住み分けが生じている。そのガスタービンなどの高温な排気ガスによりボイラーで蒸気を生み出し、発電機付き蒸気タービンを廻して発電量を増やし熱効率を向上させる、コンバインドサイクル発電は今日普通に見られる。外燃機関特有の熱源の多様性は蒸気機関のメリットとして現在も有効であり、原子力発電やRDF、ごみ焼却場の廃熱を利用して発電に用いられている。
また、大型船舶用としては、レシプロ蒸気機関は蒸気タービンに対しては負荷変動への適応性の高さと保守の容易さが、内燃機関に対しては燃料の多種性(石炭を使用でき、石油系資源に依存しない)が優位性を持ち、20世紀中盤までは共存状態が続いた。しかしながら民間の船舶に比べ高速・高出力を求められる軍艦においては、20世紀に入って以降、急速に蒸気タービンへの移行が進んだ。キヤードタービン、あるいはエレクトリック推進の普及で、効率と負荷変動への適応性が増した事で、その傾向に拍車がかかった。船舶分野では内燃機関は、信頼性が劣る事もあり、20世紀中頃までは傍流であった。しかしながら、その後の技術の発展により信頼性が増した内燃機関は、小型船舶からはじまり、次第に大型船舶までも置き換えていった。大型軍艦用としては蒸気タービンの能力は、発達著しい内燃機関に劣るものではなかったが、内燃機関を用いる船舶と燃料を統一し軽油を用いる必要性から、燃料の多様性のメリットが失われ、かつ軽油は蒸気タービン用としては揮発性の高さから爆発燃焼事故を招くなどの問題があり、次第に用いられなくなった。水上軍艦或いは民間船舶のガスタービン化と併せ、高温な排ガスからボイラーで発生した水蒸気で蒸気タービンを廻し動力なり電力を得る、COGESも見られる様になった。ただし原子力推進の軍艦においては、蒸気タービンが唯一の選択肢として用いられている。一部の航空母艦に艤装された蒸気カタパルトは、回転出力でなく直動出力を得るレシプロ蒸気機関の一種である。
また石油ショックを契機としたディーゼルエンジンの燃費効率の上昇から、民間船舶は概ねこれに切り替わった。
Mk50 (魚雷)等一部の魚雷においては、ヴァルター機関系を含む、閉サイクル蒸気タービン機関等が現役である。同様に非大気依存推進潜水艦の一部に、ヴァルター機関系の閉サイクル蒸気タービンが検討・試作された事がある。
液体燃料ロケット用ターボポンプの一部は、エキスパンダーサイクルの場合は外燃機関として蒸気(水蒸気とは限らない)タービンで駆動され、液体水素・液体酸素燃料タップオフサイクルの場合は内燃機関として燃焼ガスによる水蒸気タービンで駆動される。
日本では幕末の1853年にロシア帝国のエフィム・プチャーチンが来航し、蒸気で走る模型を披露したり、1854年にアメリカのマシュー・ペリーが江戸幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録がある。また、嘉永6年(1853年)、佐賀藩の精錬方であった田中久重、中村奇輔、石黒寛二らによって外国の文献を頼りに軌間130mmの蒸気機関車や蒸気船の雛型 (模型) が製作された。また、加賀の大野弁吉が蒸気機関車の模型を作った記録がある。さらに同時期に長州藩の中島治平が長崎で購入したか木戸孝允がパリで購入したと伝えられるナポレオン号が山口県立山口博物館に保存されている。これらの機関車は2003年に国立科学博物館で開催された江戸大博覧会で展示された。
佐賀藩以外にも宇和島藩で伊達宗城が蒸気船の模型を軍学者である大村益次郎とちょうちん屋の嘉蔵(前原巧山)に作らせたとする記録があり、日本では実物よりも先に模型の方が完成したことにより、実物の導入以前に既に蒸気機関の原理や構造への理解が習得されていた。その後、明治維新・文明開化を経て国内でも産業革命が発生、普及していったが、第二次世界大戦後は内燃機関の普及や動力近代化計画の進行と共に衰退した。現在では一部の保存団体や愛好家によって維持されたり、教育目的や懐古趣味による模型が作られている。
単動式蒸気機関とはピストンの下がる時、或いは上がる時のみに蒸気が供給され力を出す蒸気機関である。単式蒸気機関とは異なる。
複動式蒸気機関とはピストンが下がる時だけでなく上がる時にも反対側から蒸気が供給される事により出力する。同じシリンダ径の場合、単動式よりも高出力だが、蒸気の消費量は倍増する。複式蒸気機関とは異なる。
一度使用した蒸気は再利用せずに放出される。単動式蒸気機関とは異なる
一度利用した蒸気を低圧シリンダで再度膨張させる事によって利用する。低圧シリンダの方が直径が大きい。三段膨張機関、四段膨張機関もあった。 膨張段数を増やす事によって単式機関よりもエネルギー効率が高まった。複動式蒸気機関とは異なる。
吸気口が上死点側にあり蒸気の流入のみを受け持つ。下死点側に排気口があり排気のみを受け持つ。蒸気は常に吸気口から排気口へ一方方向へ流れるのでこの名称で呼ばれる。
定置式蒸気機関は主に揚水や工場の動力等に使用された。揚水用の蒸気機関はクランクがなく往復運動を利用してポンプで水をくみ上げる。
移動して運転する事が出来る蒸気機関で農業などで使用された。搭載される動力で自走できる機能を持つものもあった。
蒸気機関におけるリードとは死点に達する直前に吸気口が開き蒸気が流入する事である。リードが大きいと始動が困難になる。一般的に運転中は変えられない。
蒸気機関におけるラップとは流入する蒸気を下死点に達するよりも早く締め切る事である。ラップが大きい方が蒸気の利用効率は高まるが始動は困難になる。一般的に運転中は変えられない。
蒸気機関におけるカットオフとは蒸気が流入して回転力が最大に達した時点で吸気弁を締め切る事である。回転速度に応じてカットオフは変えることが可能である。
18世紀初頭以来、蒸気機関は動力源としてさまざまな分野で使われた。最初は蒸気ポンプなど簡単なものが多かったが、19世紀に入ると蒸気船、蒸気機関車など大規模な輸送機械として人類の生活に無くてはならないものとなった。
なお、蒸気船・蒸気機関車に関しては、レシプロ式蒸気機関のものだけではなく、蒸気タービンを用いたものも存在する。
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"text": "蒸気機関の誕生以前の炭鉱では馬が動力として利用されていたが、飼葉代が高騰した際に、炭鉱経営者が馬に代わる動力として安価に入手出来る石炭を利用できる蒸気機関に着目したことが蒸気機関の普及を促進させたとも言われている。またワットは、定置動力としての蒸気機関を市場に供給するにあたり、後年における設備リース的な手法でエンジンを顧客に提供する手段も用いて普及を推し進めた。",
"title": "歴史"
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"text": "それまで存在しなかった「馬力」という単位・尺度もワットの考案である。個々のエンジンの性能価値を算定するため、標準的な荷役馬の力も参考に、一定時間の仕事率を指標として作り出された重要な概念であった。その後、蒸気機関に限らずさまざまな動力の尺度に広く用いられることになった。",
"title": "歴史"
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"text": "蒸気機関ではボイラーの爆発事故が多く起きたため、ワットはある程度以上の高圧の使用に反対した。蒸気圧を大きく高めて使う時代がきたのはワットの特許が切れてからである。ワットなどによって用途の広がった蒸気機関は、水力に頼らない工場の立地や交通機関への応用(都市化の進展、機関車、蒸気船)など、産業革命・工業化社会の原動力になるとともに、燃料である石炭を時代の主役に押し上げた。",
"title": "歴史"
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"text": "ワットの蒸気機関の特許が1800年に失効すると、リチャード・トレヴィシックらがさっそく高圧蒸気機関の開発に成功し、蒸気機関の出力は大きく向上した。この蒸気機関は高圧蒸気で直接機関を動かし、復水器を廃止したものだった。その後も改良は続けられ、1849年にはアメリカのジョージ・コーリスが吸気弁と排気弁を改良したコーリス蒸気機関によってさらに大幅に効率が改善された。",
"title": "歴史"
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"text": "また、こうした蒸気機関の性能向上のほかに、蒸気機関を他の用途に使用する試みも盛んに行われていた。なかでももっとも成功したものは交通機関への転用である。交通機関への転用で最も早く実用化されたのは蒸気船であった。蒸気船は1783年にフランスのクロード・ジョフロワ・ダバンが試験走行に成功したのち、幾人かが実用化を試みたが、ロバート・フルトンが1807年にハドソン川で外輪型蒸気船の航行に成功し、実用化に成功した。初期の蒸気船は外輪船だったが、これは外海の荒波と相性が悪く、航行は内陸河川に限られていた。やがて外輪の改良によって蒸気船は外洋航行が可能になったが、1840年代に入るとより高速を得られ安定性も高いスクリュープロペラが主流となり、さらに1860年代に高性能の船舶用蒸気機関が登場することで、蒸気船は全盛期にあった帆船を駆逐して主要な海洋交通手段となった。",
"title": "歴史"
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"text": "ついで蒸気機関は陸上交通機関にも応用されるようになった。前述のリチャード・トレヴィシックは鉱山などに敷設されていた馬車鉄道に蒸気による交通機関を走らせることを構想し、1804年には世界初の蒸気機関車を発明した。これは実用的なものにはならなかったものの、以後改良が重ねられ、1825年にはジョージ・スチーブンソンによってストックトン・アンド・ダーリントン鉄道に蒸気機関車が走り、ついで1829年にはリバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車のコンテストでロバート・スチーブンソンの設計したロケット号が優勝し、翌1830年に営業を開始した。ロケット号には革新的な技術が使用されており、以後の蒸気機関車の基準となった。またリバプール・アンド・マンチェスター鉄道も大成功をおさめ、これによって蒸気機関車とそれの走る鉄道という組み合わせが完成し、瞬く間に世界中に普及した。なお、蒸気機関を自動車に使用する案は蒸気船や蒸気機関車よりもさらに古く、1769年にはフランスのニコラ=ジョゼフ・キュニョーが世界初の蒸気自動車であるキュニョーの砲車を開発したが、実用化には失敗した。以後、およそ100年以上にわたって蒸気自動車の開発は続けられ、19世紀末には電気自動車や各種内燃機関の自動車としのぎを削ったが、1910年代前半にはガソリン自動車との競争に敗れ姿を消した。",
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"text": "この時代のプレス機械や蒸気ハンマーには、蒸気機関の回転運動で作動する方式の他に、蒸気圧でピストンを直動させる(液圧を介する場合もある)方式もあった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかしその後、19世紀から20世紀にはいる頃から、電気動力・内燃機関動力が発達をしはじめた。蒸気機関は、ボイラー、復水器などの付帯設備が大きいこと、(それらの新動力と比べると)エネルギー効率が悪く対重量比出力が低いこと、起動・停止に手間がかかることなどが災いして、地位の低下を余儀なくされた。",
"title": "歴史"
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"text": "大型化にシビアな制限のある小型の移動機関、特に自動車については早期に内燃機関に移行した。自動車ほど小型軽量化にシビアではない機関車は、20世紀中盤まで蒸気機関車が主役の座にあり続けたが、それもその後減少し、21世紀になる頃には世界的に見てもごくわずかなところに残るにすぎなくなっていた。なお、大きさや起動・停止の手間などが問題にならない大型のシステムについては、1884年にチャールズ・アルジャーノン・パーソンズによって蒸気タービンが実用化されるとレシプロ蒸気機関から蒸気タービンへの移行も発生した。発電用としては、大規模な発電プラントではおもに蒸気タービンが用いられ、規模の小さいプラントや移動用施設ではディーゼルエンジンやガスタービンが使用されるという形で特性に応じた住み分けが生じている。そのガスタービンなどの高温な排気ガスによりボイラーで蒸気を生み出し、発電機付き蒸気タービンを廻して発電量を増やし熱効率を向上させる、コンバインドサイクル発電は今日普通に見られる。外燃機関特有の熱源の多様性は蒸気機関のメリットとして現在も有効であり、原子力発電やRDF、ごみ焼却場の廃熱を利用して発電に用いられている。",
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"text": "また、大型船舶用としては、レシプロ蒸気機関は蒸気タービンに対しては負荷変動への適応性の高さと保守の容易さが、内燃機関に対しては燃料の多種性(石炭を使用でき、石油系資源に依存しない)が優位性を持ち、20世紀中盤までは共存状態が続いた。しかしながら民間の船舶に比べ高速・高出力を求められる軍艦においては、20世紀に入って以降、急速に蒸気タービンへの移行が進んだ。キヤードタービン、あるいはエレクトリック推進の普及で、効率と負荷変動への適応性が増した事で、その傾向に拍車がかかった。船舶分野では内燃機関は、信頼性が劣る事もあり、20世紀中頃までは傍流であった。しかしながら、その後の技術の発展により信頼性が増した内燃機関は、小型船舶からはじまり、次第に大型船舶までも置き換えていった。大型軍艦用としては蒸気タービンの能力は、発達著しい内燃機関に劣るものではなかったが、内燃機関を用いる船舶と燃料を統一し軽油を用いる必要性から、燃料の多様性のメリットが失われ、かつ軽油は蒸気タービン用としては揮発性の高さから爆発燃焼事故を招くなどの問題があり、次第に用いられなくなった。水上軍艦或いは民間船舶のガスタービン化と併せ、高温な排ガスからボイラーで発生した水蒸気で蒸気タービンを廻し動力なり電力を得る、COGESも見られる様になった。ただし原子力推進の軍艦においては、蒸気タービンが唯一の選択肢として用いられている。一部の航空母艦に艤装された蒸気カタパルトは、回転出力でなく直動出力を得るレシプロ蒸気機関の一種である。",
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"text": "また石油ショックを契機としたディーゼルエンジンの燃費効率の上昇から、民間船舶は概ねこれに切り替わった。",
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"text": "Mk50 (魚雷)等一部の魚雷においては、ヴァルター機関系を含む、閉サイクル蒸気タービン機関等が現役である。同様に非大気依存推進潜水艦の一部に、ヴァルター機関系の閉サイクル蒸気タービンが検討・試作された事がある。",
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"text": "液体燃料ロケット用ターボポンプの一部は、エキスパンダーサイクルの場合は外燃機関として蒸気(水蒸気とは限らない)タービンで駆動され、液体水素・液体酸素燃料タップオフサイクルの場合は内燃機関として燃焼ガスによる水蒸気タービンで駆動される。",
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"text": "日本では幕末の1853年にロシア帝国のエフィム・プチャーチンが来航し、蒸気で走る模型を披露したり、1854年にアメリカのマシュー・ペリーが江戸幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録がある。また、嘉永6年(1853年)、佐賀藩の精錬方であった田中久重、中村奇輔、石黒寛二らによって外国の文献を頼りに軌間130mmの蒸気機関車や蒸気船の雛型 (模型) が製作された。また、加賀の大野弁吉が蒸気機関車の模型を作った記録がある。さらに同時期に長州藩の中島治平が長崎で購入したか木戸孝允がパリで購入したと伝えられるナポレオン号が山口県立山口博物館に保存されている。これらの機関車は2003年に国立科学博物館で開催された江戸大博覧会で展示された。",
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"text": "佐賀藩以外にも宇和島藩で伊達宗城が蒸気船の模型を軍学者である大村益次郎とちょうちん屋の嘉蔵(前原巧山)に作らせたとする記録があり、日本では実物よりも先に模型の方が完成したことにより、実物の導入以前に既に蒸気機関の原理や構造への理解が習得されていた。その後、明治維新・文明開化を経て国内でも産業革命が発生、普及していったが、第二次世界大戦後は内燃機関の普及や動力近代化計画の進行と共に衰退した。現在では一部の保存団体や愛好家によって維持されたり、教育目的や懐古趣味による模型が作られている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "単動式蒸気機関とはピストンの下がる時、或いは上がる時のみに蒸気が供給され力を出す蒸気機関である。単式蒸気機関とは異なる。",
"title": "分類"
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"text": "複動式蒸気機関とはピストンが下がる時だけでなく上がる時にも反対側から蒸気が供給される事により出力する。同じシリンダ径の場合、単動式よりも高出力だが、蒸気の消費量は倍増する。複式蒸気機関とは異なる。",
"title": "分類"
},
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"text": "一度使用した蒸気は再利用せずに放出される。単動式蒸気機関とは異なる",
"title": "分類"
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"text": "一度利用した蒸気を低圧シリンダで再度膨張させる事によって利用する。低圧シリンダの方が直径が大きい。三段膨張機関、四段膨張機関もあった。 膨張段数を増やす事によって単式機関よりもエネルギー効率が高まった。複動式蒸気機関とは異なる。",
"title": "分類"
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"text": "吸気口が上死点側にあり蒸気の流入のみを受け持つ。下死点側に排気口があり排気のみを受け持つ。蒸気は常に吸気口から排気口へ一方方向へ流れるのでこの名称で呼ばれる。",
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"text": "定置式蒸気機関は主に揚水や工場の動力等に使用された。揚水用の蒸気機関はクランクがなく往復運動を利用してポンプで水をくみ上げる。",
"title": "分類"
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"text": "移動して運転する事が出来る蒸気機関で農業などで使用された。搭載される動力で自走できる機能を持つものもあった。",
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"text": "蒸気機関におけるリードとは死点に達する直前に吸気口が開き蒸気が流入する事である。リードが大きいと始動が困難になる。一般的に運転中は変えられない。",
"title": "リード"
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"text": "蒸気機関におけるラップとは流入する蒸気を下死点に達するよりも早く締め切る事である。ラップが大きい方が蒸気の利用効率は高まるが始動は困難になる。一般的に運転中は変えられない。",
"title": "ラップ"
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"text": "蒸気機関におけるカットオフとは蒸気が流入して回転力が最大に達した時点で吸気弁を締め切る事である。回転速度に応じてカットオフは変えることが可能である。",
"title": "カットオフ"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "18世紀初頭以来、蒸気機関は動力源としてさまざまな分野で使われた。最初は蒸気ポンプなど簡単なものが多かったが、19世紀に入ると蒸気船、蒸気機関車など大規模な輸送機械として人類の生活に無くてはならないものとなった。",
"title": "応用"
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{
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"text": "なお、蒸気船・蒸気機関車に関しては、レシプロ式蒸気機関のものだけではなく、蒸気タービンを用いたものも存在する。",
"title": "応用"
}
] |
蒸気機関(じょうききかん)は、ボイラーで発生した蒸気のもつ熱エネルギーを機械的仕事に変換する熱機関の一部であり、ボイラ等と組み合わせて一つの熱機関となる。作業物質である水を外部より加熱する外燃機関に分類される。 蒸気機関には、蒸気をシリンダに導き、ピストンを往復運動させる往復動型のものと、蒸気で羽根車をまわすタービン型のものとが存在する。本稿では主として往復動型のものを説明する。タービン型のものについては蒸気タービンを参照のこと。
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{{出典の明記|date=2015年10月28日 (水) 04:04 (UTC)}}
'''蒸気機関'''(じょうききかん)は、[[ボイラー]]で発生した[[水蒸気|蒸気]]のもつ[[熱|熱エネルギー]]を[[仕事 (物理学)|機械的仕事]]に変換する[[熱機関]]の一部であり、ボイラ等と組み合わせて一つの熱機関となる。作業物質である水を外部より加熱する[[外燃機関]]に分類される。
蒸気機関には、蒸気を[[シリンダ]]に導き、[[ピストン]]を往復運動させる[[レシプロエンジン|往復動]]型のものと、蒸気で羽根車をまわす[[タービン]]型のものとが存在する。本稿では主として往復動型のものを説明する。タービン型のものについては[[蒸気タービン]]を参照のこと。<!--他に[[ポンプ#回転|回転容積ポンプ]]や[[圧縮機#容積圧縮機|回転容積圧縮機]]などの、[[歯車ポンプ|ギヤ]]・[[圧縮機#ロータリーピストン型|ロータリーピストン]]・ベーン・[[リショルム・コンプレッサ|ツインスクリュー]]・[[圧縮機#シングルスクリュー圧縮機|シングルスクリュー]]・[[圧縮機#スクロール圧縮機|スクロール]]・[[ロータリーエンジン|ヴァンケル]]などの各種回転容積式で高圧蒸気から回転出力を取り出す事も原理的に可能だが、実用化や普及する前に蒸気タービン化や容積式蒸気機関が衰退した。-->
== 歴史 ==
[[Image:Aeolipile illustration.png|thumb|ヘロンの蒸気機関]]
古代[[アレクサンドリア]]の工学者・数学者であった[[アレクサンドリアのヘロン|ヘロン]]([[10年]]頃 - [[70年]]頃)が考案したさまざまな仕掛けの中に、「[[ヘロンの蒸気機関]]」と呼ばれるものが存在する。これは、蒸気を噴出し、円周で回転力を得るものである。これが記録に残っているものとしては人類史上に蒸気機関が登場した最初のものであるとされる。なお、ヘロンの蒸気機関は[[蒸気タービン]]の一種であり、レシプロ式のものではなかった。
=== ドニ・パパンの蒸気機関模型 ===
[[File:PapinEngineFromFarey.jpg|thumb|left|150px|パパンの蒸気機関]]
フランス生まれでのちにイギリス等へ移った物理学者である[[ドニ・パパン]](Denis Papin [[1647年]]-[[1712年]]頃)は、[[ヘッセン=カッセル方伯領]](現ドイツ)に滞在していた1690年に、当時知られていた大気の力を動力として利用する手段として蒸気を用いる方法を考案して、その模型を製作し、ロンドン王立協会で発表した。これは、[[オットー・フォン・ゲーリケ|ゲーリケ]]の[[マクデブルクの半球]]などで実証されていた大気の力を取り出すための真空を実現するために、水の蒸気の凝縮現象を利用するというもので、真空と大気圧との差をピストンとシリンダーを用いて取り出そうとしたものであり、その後の蒸気機関の基本的な原理となった。しかし、パパンの模型はシリンダーそのものを火で加熱し、水をかけて冷却するというものであり、実用には遠いものであった。セイヴァリが別の機関を発表した後は、パパンもセイヴァリ類似の方式を試みるようになった。
=== セイヴァリの"火の機関" ===
[[画像:Savery pump.gif|thumb|セイヴァリの蒸気機関]]
イギリスの海軍軍人で発明家の[[トマス・セイヴァリ]](Thomas Savery、[[1650年]]頃-[[1715年]])は、[[1698年]]に「火の機関(セイヴァリ機関)」を開発し、国王の前での実験に成功し、特許を取得した。これは、ドニ・パパンの蒸気機関とは異なってピストンやシリンダなどは持たず、容器内の蒸気の凝縮による負圧で下方の配管から水を吸い上げ、それを再度蒸気の圧力で押しだして別の配管で上方へ排出するものであった。セイヴァリはこれを鉱山の排水その他に活用しようとしたが、いくつかの原理的欠点があり、低揚程で小水量の限られた用途でしか成功しなかった<ref>「エネルギー400年史 薪から石炭、石油、原子力、再生可能エネルギーまで」p79-80 リチャード・ローズ著 秋山勝訳 草思社 2019年7月25日第1刷発行</ref>。しかし、彼が取得した特許は「火力によって揚水する装置」という実に広範かつ無限定のものであったため、その後のニューコメンらの機関は1733年の失効に至るまでの間この特許のもとで建造・稼動することとなった<ref>「エネルギー400年史 薪から石炭、石油、原子力、再生可能エネルギーまで」p87 リチャード・ローズ著 秋山勝訳 草思社 2019年7月25日第1刷発行</ref>。
=== ニューコメンの蒸気機関 ===
[[Image:Newcomens Dampfmaschine aus Meyers 1890.png|thumb|ニューコメンの蒸気機関]]
イギリスの発明家・技術者である[[トマス・ニューコメン]](Thomas Newcomen、[[1664年]]2月24日-[[1729年]]8月5日)は、[[1712年]]に、鉱山の排水用として実用になる最初の蒸気機関を製作した。
この蒸気機関は、パパンやセイヴァリの蒸気機関をさらに発展させたものであり、ボイラとは別に設けたシリンダーの蒸気に冷水を吹き込んで冷やし、蒸気が[[凝縮]]して生じる真空(大気圧)でピストンを吸引し、頂部の大きなてこを介して、その力で坑道からの揚水ポンプを駆動するものであった。原理的にはパパンの蒸気機関のシリンダーからボイラーを分離して、継続的に運転できるようにしたものであり、ニューコメン独自のアイデアとして、蒸気中へ冷水を直接噴射して冷却する方式、大てこの動きを利用した自動運転方式等が挙げられる。その後の産業革命の動力を担った蒸気機関の実質的な発明とされている<ref>H. W. Dickinson (1939), "A Short History of the Steam Engine", Cambridge at the University Press, p.29.</ref>。
セイヴァリは大気圧を超える蒸気の圧力を用いて水を排出しようとしたが、ニューコメンは大気圧の蒸気とその凝縮により生じる真空だけを利用した。当時の技術では、ある程度の高圧に耐え得るボイラが作れなかったため、この方式だけが実用化できた。発明の動機がニューコメンが住んでいた村の鉱山のわき水を汲み出す、自動の「つるべ井戸」であったために{{要出典|date=2016年7月}}往復運動を回転運動に変えていない。運転速度は、毎分12サイクル程度であったという。なお冷水で冷やすときシリンダーも冷えるので燃料効率は低く、掘り出した石炭のうち実に1/3程度がこの揚水ポンプのために消費され,熱効率は1%にも達しない程度であった.
ニューコメン機関は1733年までセイヴァリの特許のもとで建造され、その後も含めて多くの技術者・科学者が建造・改良に関わった。1769年にワットがその改良特許を取得して以降も、ワット機関より多くのニューコメン機関が建造され、18 世紀の間でイギリスおよびヨーロッパの各地で建造されたニューコメン機関は、1500 から 2000 台にのぼった。
====動作====
#錘Kの重さでピストンDが上がり、ボイラーAの蒸気がシリンダーBの中に入る。
#ピストンDが上死点になったところで栓Cが閉じられる。
#タンクLから管Pを通ってシリンダーB内に冷水が導かれ、シリンダーB内の蒸気が水に戻される。この水は管Rを通ってSに溜められる。
#3.によりシリンダー内部の圧力が下がり、大気圧によってピストンDが下げられる。(負圧の発生)
#4.のピストンDが下がる時の力により、反対側にある錘KとピストンMを引き上げる(負圧の利用)。ピストンMによって汲み上げられた水の一部はNを通ってタンクLに溜められ、3.の行程に使われる。
#ピストンDが下死点になったところで栓Cが開いて再び1.に戻り、このサイクルを繰り返す。
*参考
**細川武志『蒸気機関車メカニズム図鑑』グランプリ出版 10頁, {{ISBN2|978-4-87687-317-3}}
===ワットの蒸気機関と普及===
[[image:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|ワットの蒸気機関]]
イギリス・スコットランドのエンジニアである[[ジェームズ・ワット]](James Watt, [[1736年]]1月19日 - [[1819年]]8月19日)は、[[1769年]]に新方式の蒸気機関を開発した。これはニューコメンの蒸気機関の効率の悪さに目をつけて改良したもので、[[復水器]]で蒸気を冷やす事でシリンダーが高温に保たれることとなり効率が増した。さらに負圧だけでなく正圧の利用、往復運動から回転運動への変換、フィードバックとしての調速機の利用による動作の安定などの改良をしている。
蒸気機関の誕生以前の炭鉱では[[ウマ|馬]]が動力として利用されていたが、飼葉代が高騰した際に、炭鉱経営者が馬に代わる動力として安価に入手出来る石炭を利用できる蒸気機関に着目したことが蒸気機関の普及を促進させたとも言われている。またワットは、定置動力としての蒸気機関を市場に供給するにあたり、後年における設備[[リース]]的な手法でエンジンを顧客に提供する手段も用いて普及を推し進めた。
それまで存在しなかった「[[馬力]]」という単位・尺度もワットの考案である。個々のエンジンの性能価値を算定するため、標準的な荷役馬の力も参考に、一定時間の[[仕事率]]を指標として作り出された重要な概念であった。その後、蒸気機関に限らずさまざまな動力の尺度に広く用いられることになった。
蒸気機関ではボイラーの爆発事故が多く起きたため、ワットはある程度以上の高圧の使用に反対した。蒸気圧を大きく高めて使う時代がきたのはワットの特許が切れてからである。ワットなどによって用途の広がった蒸気機関は、水力に頼らない工場の立地や交通機関への応用(都市化の進展、機関車、蒸気船)など、'''[[産業革命]]'''・[[工業化社会]]の原動力になるとともに、燃料である'''[[石炭]]'''を時代の主役に押し上げた。
===蒸気機関の普及と産業革命===
ワットの蒸気機関の特許が[[1800年]]に失効する<ref>「火と人間」p106 磯田浩 法政大学出版局 2004年4月20日初版第1刷</ref>と、[[リチャード・トレヴィシック]]らがさっそく高圧蒸気機関の開発に成功し、蒸気機関の出力は大きく向上した。この蒸気機関は高圧蒸気で直接機関を動かし、復水器を廃止したものだった<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p167 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>。その後も改良は続けられ、[[1849年]]にはアメリカのジョージ・コーリスが吸気弁と排気弁を改良したコーリス蒸気機関によってさらに大幅に効率が改善された<ref>「図説 世界史を変えた50の機械」p29 エリック・シャリーン著 柴田譲治訳 原書房 2013年9月30日第1刷</ref>。
また、こうした蒸気機関の性能向上のほかに、蒸気機関を他の用途に使用する試みも盛んに行われていた。なかでももっとも成功したものは交通機関への転用である。交通機関への転用で最も早く実用化されたのは[[蒸気船]]であった。蒸気船は[[1783年]]にフランスのクロード・ジョフロワ・ダバンが試験走行に成功したのち、幾人かが実用化を試みたが、[[ロバート・フルトン]]が[[1807年]]に[[ハドソン川]]で外輪型蒸気船の航行に成功し、実用化に成功した<ref>「世界一周の誕生――グローバリズムの起源」p46 園田英弘 文春新書 平成15年7月20日第1刷発行</ref>。初期の蒸気船は[[外輪船]]だったが、これは外海の荒波と相性が悪く、航行は内陸河川に限られていた。やがて外輪の改良によって蒸気船は外洋航行が可能になったが、1840年代に入るとより高速を得られ安定性も高い[[スクリュープロペラ]]が主流となり<ref>「アジアの海の大英帝国」p39 横井勝彦 講談社 2004年3月10日第1刷発行</ref>、さらに1860年代に高性能の船舶用蒸気機関が登場することで<ref>「アジアの海の大英帝国」p42 横井勝彦 講談社 2004年3月10日第1刷発行</ref>、蒸気船は全盛期にあった[[帆船]]を駆逐して主要な海洋交通手段となった。
ついで蒸気機関は陸上交通機関にも応用されるようになった。前述のリチャード・トレヴィシックは鉱山などに敷設されていた[[馬車鉄道]]に蒸気による交通機関を走らせることを構想し、[[1804年]]には世界初の[[蒸気機関車]]を発明した<ref>「エネルギー400年史 薪から石炭、石油、原子力、再生可能エネルギーまで」p143 リチャード・ローズ著 秋山勝訳 草思社 2019年7月25日第1刷発行</ref>。これは実用的なものにはならなかったものの、以後改良が重ねられ、[[1825年]]には[[ジョージ・スチーブンソン]]によって[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]に蒸気機関車が走り、ついで[[1829年]]には[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]に使用する機関車のコンテストで[[ロバート・スチーブンソン]]の設計した[[ロケット号]]が優勝し、翌[[1830年]]に営業を開始した<ref>「日本鉄道史 幕末・明治編」p2 老川慶喜 中公新書 2014年5月25日発行</ref>。ロケット号には革新的な技術が使用されており、以後の蒸気機関車の基準となった。またリバプール・アンド・マンチェスター鉄道も大成功をおさめ、これによって蒸気機関車とそれの走る[[鉄道]]という組み合わせが完成し、瞬く間に世界中に普及した。なお、蒸気機関を[[自動車]]に使用する案は蒸気船や蒸気機関車よりもさらに古く、[[1769年]]にはフランスの[[ニコラ=ジョゼフ・キュニョー]]が世界初の[[蒸気自動車]]である[[キュニョーの砲車]]を開発したが、実用化には失敗した。以後、およそ100年以上にわたって蒸気自動車の開発は続けられ、19世紀末には電気自動車や各種内燃機関の自動車としのぎを削ったが、1910年代前半には[[ガソリン]]自動車との競争に敗れ姿を消した<ref>「エネルギー400年史 薪から石炭、石油、原子力、再生可能エネルギーまで」p374-380 リチャード・ローズ著 秋山勝訳 草思社 2019年7月25日第1刷発行</ref>。
この時代の[[プレス機械]]や[[蒸気ハンマー]]には、蒸気機関の回転運動で作動する方式の他に、蒸気圧でピストンを直動させる(液圧を介する場合もある)方式もあった。
=== レシプロ式蒸気機関の落日と蒸気タービンへの移行 ===
しかしその後、[[19世紀]]から[[20世紀]]にはいる頃から、[[電気]]動力・[[内燃機関]]動力が発達をしはじめた。蒸気機関は、[[ボイラー]]、[[復水器]]などの付帯設備が大きいこと、(それらの新動力と比べると)[[エネルギー効率]]が悪く対重量比出力が低いこと、起動・停止に手間がかかることなどが災いして、地位の低下を余儀なくされた。
大型化にシビアな制限のある小型の移動機関、特に[[自動車]]については早期に[[内燃機関]]に移行した。自動車ほど小型軽量化にシビアではない[[機関車]]は、20世紀中盤まで[[蒸気機関車]]が主役の座にあり続けたが、それもその後減少し、21世紀になる頃には世界的に見てもごくわずかなところに残るにすぎなくなっていた。なお、大きさや起動・停止の手間などが問題にならない大型のシステムについては、[[1884年]]に[[チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ]]によって[[蒸気タービン]]が実用化されるとレシプロ蒸気機関から蒸気タービンへの移行も発生した。発電用としては、大規模な発電プラントではおもに蒸気タービンが用いられ、規模の小さいプラントや移動用施設では[[ディーゼルエンジン]]や[[ガスタービン]]が使用されるという形で特性に応じた住み分けが生じている。そのガスタービンなどの高温な排気ガスによりボイラーで蒸気を生み出し、発電機付き蒸気タービンを廻して発電量を増やし熱効率を向上させる、[[コンバインドサイクル発電]]は今日普通に見られる。[[外燃機関]]特有の熱源の多様性は蒸気機関のメリットとして現在も有効であり、[[原子力発電]]や[[廃棄物固形燃料|RDF]]、[[清掃工場|ごみ焼却場]]の廃熱を利用して[[発電]]に用いられている。
また、大型船舶用としては、レシプロ蒸気機関は蒸気タービンに対しては負荷変動への適応性の高さと保守の容易さが、内燃機関に対しては燃料の多種性([[石炭]]を使用でき、[[石油]]系資源に依存しない)が優位性を持ち、20世紀中盤までは共存状態が続いた。しかしながら民間の船舶に比べ高速・高出力を求められる[[軍艦]]においては、20世紀に入って以降、急速に蒸気タービンへの移行が進んだ。キヤードタービン、あるいはエレクトリック推進の普及で、効率と負荷変動への適応性が増した事で、その傾向に拍車がかかった。船舶分野では内燃機関は、信頼性が劣る事もあり、20世紀中頃までは傍流であった。しかしながら、その後の技術の発展により信頼性が増した内燃機関は、小型船舶からはじまり、次第に大型船舶までも置き換えていった。大型軍艦用としては蒸気タービンの能力は、発達著しい内燃機関に劣るものではなかったが、内燃機関を用いる船舶と燃料を統一し軽油を用いる必要性から、燃料の多様性のメリットが失われ、かつ軽油は蒸気タービン用としては揮発性の高さから爆発燃焼事故を招くなどの問題があり、次第に用いられなくなった。水上軍艦或いは民間船舶のガスタービン化と併せ、高温な排ガスからボイラーで発生した水蒸気で蒸気タービンを廻し動力なり電力を得る、[[COGES]]も見られる様になった。ただし原子力推進の軍艦においては、蒸気タービンが唯一の選択肢として用いられている。一部の[[航空母艦]]に艤装された[[蒸気カタパルト]]は、回転出力でなく直動出力を得るレシプロ蒸気機関の一種である。
また石油ショックを契機としたディーゼルエンジンの燃費効率の上昇から、民間船舶は概ねこれに切り替わった。
[[Mk50 (魚雷)]]等一部の魚雷においては、[[ヴァルター機関]]系を含む、[[非大気依存推進#閉サイクル蒸気タービン|閉サイクル蒸気タービン]]機関等が現役である。同様に[[非大気依存推進]]潜水艦の一部に、ヴァルター機関系の閉サイクル蒸気タービンが検討・試作された事がある。
[[液体燃料ロケット]]用[[ターボポンプ]]の一部は、[[エキスパンダーサイクル]]の場合は外燃機関として蒸気(水蒸気とは限らない)タービンで駆動され、液体水素・液体酸素燃料[[タップオフサイクル]]の場合は内燃機関として燃焼ガスによる水蒸気タービンで駆動される。
=== 日本の蒸気機関の歴史 ===
日本では[[幕末]]の[[1853年]]に[[ロシア帝国]]の[[エフィム・プチャーチン]]が来航し、[[ライブスチーム|蒸気で走る模型]]を披露したり、[[1854年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[マシュー・ペリー]]が江戸幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録がある{{efn|[[昌平坂学問所]]の河田八之助(河田興)が跨って乗車した記録がある{{sfn|斯文会・橋本昭彦|2006}}。}}。また、嘉永6年([[1853年]])<ref group="注釈">嘉永8年 [[1855年]]という説もある。</ref>、[[佐賀藩]]の[[精錬]]方であった[[田中久重]]、[[中村奇輔]]、[[石黒寛二]]らによって外国の文献を頼りに軌間130[[ミリメートル|mm]]の[[蒸気機関車]]や[[蒸気船]]の[[雛型]] (模型) が製作された。また、[[加賀国|加賀]]の[[大野弁吉]]が蒸気機関車の模型を作った記録がある。さらに同時期に長州藩の[[中島治平]]が長崎で購入したか[[木戸孝允]]がパリで購入したと伝えられる[[ナポレオン号]]が[[山口県立山口博物館]]に保存されている。これらの機関車は[[2003年]]に[[国立科学博物館]]で開催された江戸大博覧会<ref>[http://www2.saga-s.co.jp/pub/hodo/kaikaku/kaikaku33.html 江戸大博覧会]</ref>で展示された。
佐賀藩以外にも[[宇和島藩]]で[[伊達宗城]]が蒸気船の模型を軍学者である[[大村益次郎]]とちょうちん屋の嘉蔵([[前原巧山]])に作らせたとする記録があり、日本では実物よりも先に模型の方が完成したことにより、実物の導入以前に既に蒸気機関の原理や構造への理解が習得されていた。その後、[[明治維新]]・[[文明開化]]を経て国内でも[[産業革命]]が発生、普及していったが、[[第二次世界大戦]]後は[[内燃機関]]の普及や[[動力近代化計画]]の進行と共に衰退した。現在では一部の保存団体や愛好家によって維持されたり、教育目的や懐古趣味による模型が作られている。
== 機構 ==
{{節スタブ}}
== 分類 ==
=== 単動式 ===
単動式蒸気機関とはピストンの下がる時、或いは上がる時のみに蒸気が供給され力を出す蒸気機関である。単式蒸気機関とは異なる。
=== 複動式 ===
{{see|複動式機関}}
複動式蒸気機関とはピストンが下がる時だけでなく上がる時にも反対側から蒸気が供給される事により出力する。同じシリンダ径の場合、単動式よりも高出力だが、蒸気の消費量は倍増する。[[複式蒸気機関]]とは異なる。
=== 単式 ===
一度使用した蒸気は再利用せずに放出される。単動式蒸気機関とは異なる
=== 複式 ===
一度利用した蒸気を低圧シリンダで再度膨張させる事によって利用する。低圧シリンダの方が直径が大きい。三段膨張機関、四段膨張機関もあった。
膨張段数を増やす事によって単式機関よりもエネルギー効率が高まった。複動式蒸気機関とは異なる。
{{see|複式機関}}
=== ユニフロー式 ===
吸気口が上死点側にあり蒸気の流入のみを受け持つ。下死点側に排気口があり排気のみを受け持つ。蒸気は常に吸気口から排気口へ一方方向へ流れるのでこの名称で呼ばれる。
=== 定置式 ===
定置式蒸気機関は主に揚水や工場の動力等に使用された。揚水用の蒸気機関はクランクがなく往復運動を利用してポンプで水をくみ上げる。
=== 可搬式 ===
移動して運転する事が出来る蒸気機関で農業などで使用された。搭載される動力で自走できる機能を持つものもあった。
== リード ==
蒸気機関におけるリードとは死点に達する直前に吸気口が開き蒸気が流入する事である。リードが大きいと始動が困難になる。一般的に運転中は変えられない。
== ラップ ==
蒸気機関におけるラップとは流入する蒸気を下死点に達するよりも早く締め切る事である。ラップが大きい方が蒸気の利用効率は高まるが始動は困難になる。一般的に運転中は変えられない。
== カットオフ ==
蒸気機関におけるカットオフとは蒸気が流入して回転力が最大に達した時点で吸気弁を締め切る事である。回転速度に応じてカットオフは変えることが可能である。
==応用==
{{節スタブ}}
18世紀初頭以来、蒸気機関は動力源としてさまざまな分野で使われた。最初は[[蒸気ポンプ]]など簡単なものが多かったが、19世紀に入ると[[蒸気船]]、[[蒸気機関車]]など大規模な輸送機械として人類の生活に無くてはならないものとなった。
なお、蒸気船・蒸気機関車に関しては、レシプロ式蒸気機関のものだけではなく、蒸気タービンを用いたものも存在する。
==開発者==
* [[アレクサンドリアのヘロン]]
* [[エドワード・サマセット (第2代ウスター侯)|エドワード・サマセット]]([[ボーフォート公爵|ウスター侯爵]]) - 1650年頃に、蒸気による揚水機を製作したといわれている人物<ref>[[#Reference-Kotobank-蒸気機関|世界大百科事典 第2版]]-コトバンク。</ref>。
* [[ドニ・パパン]]
* [[トーマス・セイヴァリ]]
* [[トーマス・ニューコメン]]
* [[ジェームズ・ワット]]
* [[ニコラ=ジョゼフ・キュニョー]]
* [[リチャード・トレビシック]]
* [[ジョージ・スチーブンソン]]
* [[マーク・イザムバード・ブルネル]]
* [[イザムバード・キングダム・ブルネル]]
* [[ロバート・フルトン]]
* [[チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ]]
==関連項目==
* [[外燃機関]]
* [[機関 (機械)]]
* [[蒸気タービン]]
* [[飽和蒸気]]
* [[過熱蒸気]]
* [[ライブスチーム]]
* [[アドバンスト・スティーム・テクノロジー]]
* [[5AT先進技術蒸気機関車]]
* [[馬力]]
* [[ポンポン船]]:実用性のない玩具だが、蒸気機関によるパルスジェット推進船。
* [[スチームパンク]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
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*{{Cite book|和書|title=昌平坂学問所日記 |volume=3|editor=斯文会・橋本昭彦
|publisher=斯文会・東洋書院 (発売) |date=2006-01 |isbn=4-88594-382-5 |ncid=BA3981881X |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=細川武志 |title=蒸気機関車メカニズム図鑑 |publisher=グランプリ出版 |date=2011-06 |edition=新装版 |isbn=978-4-87687-317-3 |ncid=BB06387298 |ref=harv}}
{{Refend}}
==外部リンク==
{{Commons&cat|Steam machinery|Steam engines}}
* [http://1-stromvergleich.de/die-dampfmaschine/ Interactive Animation and Download Files for School] {{en icon}}・{{de icon}}・{{es icon}}
*{{britannica|technology|steam-engine|Steam engine (technology)}}{{en icon}}
*{{kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
{{Normdaten}}
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[[Category:産業革命]]
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蒸気機関車
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蒸気機関車(じょうききかんしゃ)は、蒸気機関を動力とする機関車のことである。
日本では Steam Locomotive の頭文字をとって、SL(エスエル)とも呼ばれる。また、蒸気機関車、または蒸気機関車が牽引する列車のことを、汽車(きしゃ)とも言う。また、明治時代には蒸気船に対して陸の上を蒸気機関で走ることから、「陸蒸気」(おかじょうき)とも呼んでいた。第二次世界大戦の頃までは「汽罐車」(きかんしゃ)という表記も用いられた(「汽罐」はボイラーの意)。
蒸気機関車の発明以前から鉄道を敷き台車を荷役動物に曳かせるものはあった。馬車鉄道などである。
1802年、リチャード・トレビシックがマーサー・ティドヴィルのペナダレン製鉄所で高圧蒸気機関を台車に載せたものを作った。これが世界初の蒸気機関車とされている。1803年、トレビシックはこの蒸気機関車の特許をサミュエル・ホンフレイに売却。ホンフレイは、トレビシックの蒸気機関車が10トンの鉄を牽引して、とある区間(約16km)を運べるか賭けを行い、1804年2月21日、ペナダレン号が10トンの鉄と5両の客車、それに乗った70人の乗客を4時間5分で輸送することに成功した。
1814年、ジョージ・スチーブンソンがキリングワースで石炭輸送のための実用的な蒸気機関車を設計し「Blücher」(ブリュヘル号)と名付け、ウェストムーアの自宅裏の作業場で製作し、1814年7月25日に初走行に成功。時速6.4kmで坂を上り30トンの石炭を運ぶことができるものであった。
蒸気機関車は湯を沸かして発生した蒸気を動力源として走行する。
ここでは主に世界各国で広く使用されていた、煙管式ボイラーとシリンダーを使用するタイプの蒸気機関車について説明する。
一般的な蒸気機関車を走らせるのに必要な機構としては以下のものがあげられる。
火室は燃料を燃焼して高温のガスを作る場所である。火室の底(床)部分は燃え滓の灰が落ちるように格子状(いわゆる火格子)に作られている。
蒸気機関車の出力を決める第一の要因は「火室でどれだけ大きな熱エネルギーを発生できるか」であり、その指標として火室の平面積を表す火格子面積が使われる。火格子面積は狭軌が一般的であった日本の場合、明治初期のころの機関車で1m以下、それ以降順次増大しD51形で3.27mまで大きくなったが、火室への燃料供給は人力(シャベル)による投炭であった。さらに大型(日本最大)で戦時の貨物増大に対応して製作されたD52形では火格子面積は3.85mとなったが、これは1人で人力投炭を行うには限界に近い負担を強いたため、第二次世界大戦後、同形式のボイラーを流用して製作されたC62形などと共に、蒸気エンジンで駆動される自動給炭装置(メカニカルストーカー)が装備された。ちなみに標準軌を採用した南満洲鉄道で特急列車「あじあ」を牽引したパシナ型機関車の火格子面積は6.25mで、ストーカーが標準搭載されていた。また、日本と同じく狭軌を標準としていた南アフリカでは当時黒人労働者を低賃金で利用できたことから、彼らを投炭手として複数乗務させ、交代で全力投炭させることでストーカーを装備せずに火床面積を日本の機関車よりも大きくとるケースが存在した。
なお、給炭の手間や燃費を除いても火床面積は出力に対し十分な火力が得られるならば無理に拡大する必要はなく、特に内火室容積に比べて過剰に大きい場合不完全燃焼が起きやすくなる。
強力機ではそのボイラー容量に見合った火力を得るため巨大な火室を備えるケースが多いが、高カロリーの良質な燃料を常用できる環境にあった鉄道、例えばイギリスのグレート・ウェスタン鉄道(GWR)の機関車では、4073形(キャッスル級あるいはカースル級とも。軸配置2C、過熱式単式4気筒、狭火室。火格子面積2.73m)のように、狭火室のままで他社が保有していた同クラスの機関車を上回る高性能を発揮する例が少なからず存在した。広火室は、総じて低品質の燃料でより大きな出力を得る手段として利用されていたのである。
機関車の火室には、左右の台枠間に設置したいわゆる狭火室タイプと、より大型の機関車に設置される台枠の幅(軌間)より大きな広火室タイプのものがある。D52等、一部の形式では煙管の手前に燃焼室を備える。
基本的に軌間が同一なら同じ面積の火床面積を得る場合、狭火室より広火室の方が奥行きが短くなる分投炭が楽になるが、奥まで石炭が届く構造ならばむしろ投炭口左右にシャベルを返す手間が省けるので狭火室のほうが楽な場合もある(前方への傾斜を調節し前後幅が3.8mもある火床の前部に石炭が崩れていくようにしたフランスのノール鉄道のスーパーパシフィックや、パリ・オルレアン鉄道の240.700形など)。
石炭が燃える際の炎は、石炭の成分が分解・蒸発しながら空気中の酸素と反応しているため、燃焼ガスの温度は石炭自体から少し離れたところで最高となる。このため火室内には燃焼ガスの流れを迂回させて、ボイラーの各煙管の距離を稼いで最高温度の燃焼ガスを導くのと各煙管に均等に燃焼ガスが流れることができるように火室中央部を斜めに通るアーチ管に載せらた邪魔板 (煉瓦アーチ)がある。火室の前後左右と上部は缶胴内の水で囲まれており内火室と呼ばれている、前述したアーチ管には、缶胴内の水が入り込むことで、缶胴内の水を循環させる役割を持たせており、ここの部分は外火室と呼ばれボイラーの一部となっている。また、燃焼ガスの火力を高めるために内火室とボイラーの煙管の間に燃焼室を設ける場合がある。これは、火室の邪魔板の上の空間が延長された構造となっている。
火格子面積の大きい広火室を備えた機関車に装備され、炭水車からスクリュー(送りねじ)で石炭を運転室まで搬送し、蒸気で火室内に飛ばした。
大型機が多く大量の石炭を消費したアメリカでは、1901年には開発され、1905年頃には、普及。1938年には法律で、ボイラーの大きなSLには、搭載が義務付けられた。この通達で、1939年4月15日以降に製造される動輪重量で16万lbs(ポンド)以上の旅客用機関車、同じく17.5万lbs(ポンド)以上の貨物用機関車に、搭載された。
その後、日本でも導入された。
1次大戦後ペンシルバニア鉄道の当時の主力機K4形(火床面積6.5平方m)に大量に採用され、その後火床面積5.5平方m以上の機関車には設置が義務付けられたが、そこまで多量の石炭を消費しないヨーロッパ諸国(+日本)では手炊きに比べて無駄が多いとされ、フランスでは1938年のフランス国鉄(SNCF)450P形で初採用したものの設置された機関車は少数派で、イギリスは最後まで設置せず、ドイツや日本も二次大戦前には未使用である。
日本では蒸気機関車用の自動給炭機は、1948年(昭和23年)製のC62形、C61形を嚆矢として、戦時形のD52形についても、標準形への装備改造時およびD62形への改造時に装備された。熱量の低い石炭を使用する常磐線用のD51形の一部にも搭載された。
重油をバーナーで霧状にし、火床で燃焼している石炭の上方に噴射することで煤煙の減少と火室容積を最大限に活かし、平面燃焼と立体燃焼を同時に行う。 諸外国ではあまり使用されていない技術のため、日本独自の発達を遂げた技術である。
1898年(明治31年)から1899年(明治32年)のころ、重油 (原油) を機関車燃焼に試用され、大正の初めに秋田県黒川油田が噴出すると多数の機関車に重油燃焼装置を取付けられ、1934年(昭和9年)ごろまで使用された。飯山敏雄の考案にかかる飯山式、横井実郎の考案になる横井式といったものも試験されたが、重油の価格は石炭よりも変動が甚だしく、安定した供給が困難になると撤去されてしまった。明治、大正年間の重油燃焼に関する詳細な資料は残っておらず、飯山式、横井式の構造も明らかではないが、扁平の吹出口から油を蒸気で吹出すもののようであったという。
戦後、1951年(昭和26年)の秋に石炭が不足したため、石炭危機の対策と質の悪い石炭を有効に活用するため、機関車に対して重油を石炭と併し、石炭の節約が実施された。その後、石炭事情は好転したが、消煙効果と投炭量の減少によって、乗客に対するサービスの向上と乗務員の苦痛の軽減から好評を博し、引張定数または速度を10%向上することも可能であることが分かり、全国的に拡大実施された。
ただし重油を使用しても単純に楽になるわけではなく、火力が増すのでボイラー周りが高温になって排煙ですら100度を超え、トンネルなどに入ると非常に熱くなるので上記の消煙効果や投炭軽減を差し引いても「無い方が楽(盛岡機関区の機関士、内藤利雄 談)」と評価されたり、使い過ぎると燃え残った重油がべとつき、煙管が詰まったり集煙装置の開閉ができなくなる不具合が起きたので「私はあまり油は使わんのです」(人吉機関区の機関士、石井篤信 談)といった使用控えもあった。
火室で作られた高温の燃焼ガスは、煙管と呼ばれる数多くの細い管に導かれる。煙管の本数や管のサイズは機関車の出力性能に大きく関与するが、本数は50本から200本、管の直径は50mm前後である。煙管の周囲は水で満たされており、燃焼ガスが通過する際の熱伝導を受けて蒸気が発生する、いわゆるボイラーであり、この部分は缶胴と呼ばれている。ボイラーの材質は鋼鉄が一般的だったが、イギリス等では銅も使用された。発生した蒸気は上部の蒸気溜めのドームに一旦溜められ、溜められた蒸気は、蒸気機関車の各種補機類を作動させるために取付けられた配管により分配されるが、走行に使用される蒸気は、加減弁で流量を調整後、乾燥管を通って蒸気中の水分を取り除かれて乾燥された蒸気となり、煙室の主蒸気管を介して走り装置の蒸気室のシリンダーに送られる。
まれに車両限界の都合などでドームがない機関車もあり、こういった車両は缶胴最上部に細いスリットを持つ管を通し、そこから蒸気を採集する。蒸気は気体なので普通にこの穴を通過できるが同じ流体でも粘性のある熱湯は通過しにくいためシリンダー側に湯が入ることはまずないが、勾配区間での使用に関しては当然ドームがある方が安全であり、日本などでは使用されていない。
使用される蒸気は、圧力が10-16kg/cmで温度は200°Cの飽和蒸気を使用する飽和式と、さらに蒸気を加熱して圧力を高めるため、主蒸気管と乾燥管の間に過熱管寄せとそこから煙管の内部まで伸びて過熱管寄せに戻る過熱管を装備して、乾燥管からの蒸気を、過熱管寄せから過熱管を介して通過させることにより、蒸気の温度をさらに300-400°Cに高めた過熱蒸気を使用する過熱式とがあり、直径が通常の煙管の2倍以上で過熱管を内蔵した煙管を大煙管と呼んでいる。1910年代以降の大型機関車には過熱蒸気を使用するようになった。
ボイラーの上部には蒸気圧が高くなりすぎたときに蒸気を逃がして圧力を下げる安全弁(万が一の故障を考慮して必ず複数が装備される)や、汽笛が装備されている。またボイラー内の水位を維持するために、水槽から新しい水を注水するための給水ポンプやインゼクタ(注水器)の2つが取付けられており、2つのルートからボイラーに水を送り込む仕組みとなっている。両者とも動力源にボイラーの蒸気を使用しているが、後者は蒸気溜からの配管から直接蒸気が送られる。また、ボイラー缶胴内に装備された注水パイプにより、均一に水を噴射させてボイラー内の水温にムラが出ないようにしている。中・大型機では注水の際に低温の水を注水する事でボイラー内の水が温度低下を起こし蒸気圧が下がるのを防止するため、一般に走行中は給水ポンプから給水温め器(蒸気室のシリンダーや補機類で使用された蒸気を引き通して水に熱を伝える熱交換器)を介してボイラーに注水し、走行中や絶気中はインゼクタを使用する(なおインゼクタは冷水でないと給水できないのでこれだけを使う機関車では給水温め器の必要はない)。
なお、第二次世界大戦中のドイツで設計・製作された貨物用の52形では、軸配置1Eの大型機であったが構造簡素化による生産性の向上を目的としてインゼクタを複数搭載として従来のドイツ国鉄機で標準であった給水ポンプ+給水温め器の搭載が省略され、またイギリスのグレート・ウェスタン鉄道などではやはりインゼクタの複数搭載を標準としていたが、クラック弁と称する特殊な弁を使用することで、ボイラーに注水される水の温度が段階的に引き上げられる、つまり給水温め器を使用するのと同様の効果が得られるような機構を採用していた。
ボイラーの性能を表す指標として、蒸気圧力、飽和式か過熱式か、煙管・大煙管の太さと本数または煙管の総表面積(熱伝導面積)などが使用される。一般にボイラーでは圧力が高いほどエネルギー効率は上昇する(飽和式の場合は水に戻りにくくなるというメリットも生まれる)が、蒸気漏れなどに対する対策に高度な技術が必要となるのでそういった兼ね合いで上限値を定め、蒸気機関車の場合は構造上や運用の都合もあって据え置き式や船舶のボイラーなどと比較すれば低圧の部類に入る。最初期の蒸気機関車では1829年のスチーブンソンのロケット号が出場したレインヒルトライアルのルールが「(安全のため)ボイラ圧力は1平方インチ当たり50ポンド(約3.55気圧)以下」と非常に低圧で、その後鋳鉄技術の向上で1850年ごろには10気圧程度まで上がり、以下1870年代には鋼鉄製が一般化して11~12気圧、20世紀初頭には13~14気圧ぐらいでイギリスの場合では最盛期で17.7気圧(正確には「1平方インチ当たり250ポンド」)になった。他の国の場合はフランスは複式が多いので初期の圧力を高めにして20世紀初頭に16気圧、1930年代に20気圧のものが出始めこれが全盛期の標準。ドイツは過熱蒸気を早いうちに採用したので低圧でも飽和蒸気のような問題は起きないと保守を楽にするため、あまり圧力を上げずに第二次大戦前でも16気圧付近が上限で戦後の試作機10形の18気圧が最大で、これを手本にした日本も世界的には低圧気味で明治初期のイギリスなどから輸入した機関車で8気圧前後から始まって順次昇圧したが最大で16気圧までにとどまっている(計画では18気圧のものもあった)。試験的なもの(水管式ボイラーを採用していた一部の試作機関車では、ボイラー圧力が100kg/cm超えもあったが実用的に成功したものはない)を除くと高圧が多かったのは蒸気機関車全盛期のアメリカで、黎明期の19世紀中ごろ時点では7気圧とかなり低かったが1893年のNYCの999号(New York Central and Hudson River Railroad No. 999)が12.6気圧、その後他の国で圧力の進化が止まっても上昇を続け、第二次大戦中21気圧、戦後ノーフォーク&ウェスタン鉄道で22気圧を煙管式ボイラーで達している。
煙室は機関車の先頭部分にあり、ボイラー内の煙管を通過した燃焼ガスと蒸気室内のシリンダーでピストンの作動させた蒸気(排気ブラスト)が吐出管を介して入り、その後に上部にある煙突から両者が吐き出される所である。吐出管から勢い良く噴射した蒸気が、上部にある煙突に目がけて流れるため、霧吹きで水が吸い上げられるように、気圧差により内火室からの燃焼ガスを煙管を介して強制的に誘引することにより、内火室への空気流入量が増えて燃焼効率の向上を助ける働きを持っており、これを「ドラフト」という。
模索期の機関車と復水式の機関車ではドラフトに圧縮空気を使用するものもあったが、模索期の米仏にあった車軸からベルトでふいごを動かす装置では勾配(低速になる)でドラフトが弱まるという致命的な問題があったため、蒸気消費量が多くなるほどドラフトが強くなる排気ブラストを使用する方法を変えることはなく、復水式は蒸気を捨てずに水に戻して再使用する以上排気ブラストが使えないことから一部の蒸気でタービンを回してそれで車体前部では排気ブラストに変わってドラフトを起こし、テンダーでは蒸気を冷やして水に戻したが、このエネルギー分の燃料とメンテナンスの手間が増大したので、復水式自体が商業的に成功しなかった。
また、煙は上の煙管を通りやすいので燃焼ガスの流れを上下で均一にするため、加減反射板を装備して、蒸気の通過速度が一番速い煙室下部に迂回して燃焼ガスを導いており、加減反射板は迂回の度合いを調整することが可能である。また、一部の機関車では、吐出管から出るの蒸気の噴射速度の調整ができるようになっている。また、惰性運転時での後述する絶気運転や停止中では、蒸気溜の加減弁が閉の状態のため、蒸気室のシリンダーにボイラーからの蒸気か送り込まれず、煙室内にドラフトを発生させるため、運転室の蒸気分解箱にある通風弁(ブロアバルブ)を開いて、蒸気を別にある通風管を介して煙室内に送り込み、煙突に向けて噴き出すことで、ドラフトを発生させて内火室からの燃焼ガスを煙管を介して誘引させている。
機関車をスムーズに走らせるためには、シリンダーに送る蒸気の方向を適切に制御する必要があり、右側の弁装置 により制御される。出力の制御は運転室にある加減弁ハンドルと逆転機ハンドルによって制御される。加減弁ハンドルは、蒸気溜にある加減弁に引き棒で繋がっており、動かす事により蒸気溜から蒸気が乾燥管と主蒸気管を介して蒸気室に流れ、蒸気室内の2つの蒸気弁の間のある弁室を介して蒸気室前後に設けられた蒸気通路のどちらか一方を通って蒸気が送り込まれ、シリンダー室内のピストンを作動させる。蒸気が送り込まれたピストンの反対側の蒸気は、シリンダー室から蒸気が送り込まれた蒸気通路とは反対側の蒸気通路を通って蒸気室に戻り、蒸気室左右にある排気通路から吐出管に排出される。この動きを前後交互に行うことでシリンダー内のピストンを往復運動させることができる。シリンダー内のピストンを往復運動させる蒸気の給排気を行う蒸気室の蒸気弁は、ピストンとの間で90度の位相差で動いており、蒸気弁はピストンの動きを伝達して動かしている。力の伝達はピストンロット→クロスヘッド→合併テコ→蒸気弁の弁心棒とピストンロット→クロスヘッド→主連棒→返りリンク→偏心棒→加減リンク→心向棒→合併テコ→蒸気弁の弁心棒の2つの径路で伝達される。また、合併テコは2方向から伝達される力を合併する役割を持っており、それを介して蒸気弁を作動させる。また、発車時では、一気に加減弁を開けてしまうと、蒸気が一気にシリンダー内に入り、動輪が空転してしまうため、加減弁を徐々に開いていく操作を行う。惰性運転時には、加減弁を完全に閉じてシリンダー室に蒸気がまったく入ってこない状態にする(絶気運転とも呼んでいる)。
逆転機ハンドルは逆転棒と繋がっており、その先の釣りリンク腕と釣りリンクを介して心向棒と繋がっていて、さらに心向棒から加減リンクを通り蒸気室の蒸気弁と合併テコを介してクロスヘッドに繋がっている。逆転機ハンドルは回すことで、心向棒を介してシリンダー室上部にある蒸気室の蒸気弁を操作できるようになっている。蒸気機関車の速度制御は、蒸気溜にある加減弁での調整によっても可能であるが、実際の速度制御は、蒸気弁からシリンダーへの通路の開口部の開口率の変化によって行われる。その変化の動作に使用されるのが偏心棒、加減リンク、心向棒の3つであり、加減リンクは中央を支点としてモーション・プレートに取り付けられており、その下部に連結された偏心棒により、加減リンクが支点を中心として上部と下部で往復運動を行なって、心向棒と合併テコを介して蒸気弁の弁心棒に力を伝達する仕組みとなっている。心向棒の力点は、逆転機ハンドルにより加減リンク内を上下方向に動かすことが可能であり、加減リンクの支点に近い位置では、蒸気弁の往復運動の幅が小さくなり、加減リンクの支点から離れた位置では、蒸気弁の往復運動の幅が大きくなる。その幅の変化が開口率の変化となり、開口部の大きさと蒸気弁からシリンダーへの蒸気が入らないカットオフの時間が変化することで、シリンダーに入る蒸気量の調整を行い、シリンダー内の中のピストンが時々の状況に応じた速度に対応した往復運動をするようになっている(出発時は、心向棒を加減リンク中央から下に離れた位置に移動させて、開口率を大きくカットオフの時間を短くすることでシリンダー室に入る蒸気を多くして動輪の回転力を大きく回転数を小さくし、速度が上がるにつれて、心向棒を加減リンク下部から中央の位置に徐々に移動させて、開口率を小さくカットオフの時間を長くすることでシリンダー室に入る蒸気を少なくして動輪の回転力を小さく回転数を大きくする)。また、開口率は、80%-0%の間で表しており、全出力で80%、停止時や惰性運転時では0%としている。また、加減リンクは前進または後進の切り替えも行い、同じく逆転機ハンドルを回すことにより、心向棒を加減リンクの中央(支点の部分)から下に下げると前進、上に上げると後進となる(前後進の切替は停止時に行う)。その他に、発車時に常温まで冷えたシリンダー室に蒸気を送ると、蒸気の温度が下がり凝縮が発生してシリンダー室に水が溜まるため、溜まった水を排出するシリンダー排水弁や、蒸気室の前後をバイパス管で結びその中間に弁を設置し、惰性運転時に、逆転機ハンドルを操作して蒸気室とシリンダー室を結ぶ蒸気通路の開口率を80%にしてからその弁を開き、シリンダー室のピストンの前後の空気を行き来できるようにして、ピストンの空気抵抗を最小にするバイパス弁がある。
機関車の出力は最終的にはシリンダーの大きさ×数×蒸気圧力で決まる。カタログではシリンダー直径×行程で示される。蒸気機関車の設計は、シリンダーで使用される蒸気量と、蒸気を作る能力(火室やボイラーの性能)がマッチするよう考慮される。
気筒室で作られた往復運動は主連接棒(メインロッド)を通じて動輪に伝えられ、ここで最終的に回転運動におきかえられる。主連接棒と連結されている動輪を主動輪という。主動輪と他の動輪は連結棒(カップリングロッド)で連結されている。また左右の動輪は車軸で繋がっており、2シリンダー機の場合は連結棒を介して90度の角度でずらして主連接棒と連結されていて、それにより片方の気筒室内のピストンが前端または後端の死点に達してピストンの力がゼロになっても、もう片方のピストンの力が最大になるように動力伝達されている。
動輪以外に機関車に設置される車輪として先輪と従輪がある。先輪は動輪の前に設置され、カーブでのスムーズな方向転換に有効であり、機関車重量の一部を負担する効果もある。従輪は動輪より後ろに配置され、機関車後部の重量を受け持つ。大きな火室を必要とする高出力機では、小さな従輪の上に幅広の火室を装備する広火室タイプが採用された。
蒸気機関車の最高速度はシリンダーの往復速度と動輪の直径(動輪径)で決まる。すなわち巨大なクランク構造となっている蒸気機関車の動輪回転数は400rpm付近が限界とされており、実際に各国の蒸気機関車の最高速度もほぼこの限界値近くにある。高速度が要求される蒸気機関車は当然大きな動輪径が設定される。
蒸気機関車に限らないが滑らかな鉄の車輪を鉄のレールの上で走らせるため、スリップ(空転)を起こしやすい。重量のある列車を牽引する際に空転を防ぐためには動輪とレールの粘着性を上げることが必要だが、手段としては全動輪にかかる重量を増やす方法がとられる。即ち動輪1対あたりの重量(軸重)を増やすか、動輪数を増やして動軸上重量を増やすの2種類の方法がある。動輪および前輪と従輪の配置や数(軸配置)は機関車の性能を決定する重要なファクターである(車軸配置参照)。軸重の増加については軌道の強化が必要であり、動輪数を増やす場合については機関車の長さの問題、急カーブ通過時の問題などが発生する。動輪数を増やしてカーブ対策を行った方式として、前後に複数の駆動システムを有する関節式機関車がある。
前記したボイラーに水を注水するための給水ポンプとインゼクタがボイラー横に搭載される他、蒸気機関車自体や牽引する客車のブレーキ装置を作動させる圧縮空気を作る目的でボイラー缶胴部横や煙室前面などにコンプレッサーを搭載している(イギリスなど真空ブレーキ式の国ではこれがなかった。空気ブレーキはアメリカで1869年に発明され1872年に直通から自動式に改良、米国では1893年に全列車に空気ブレーキが装備が義務付けられた。なお、日本では真空ブレーキが先(1891年)に導入されたが、勾配が多い日本では1920年代以後に連続使用が効く空気ブレーキ式に切り替えられた。)調圧器により自動的に作動しており、そこで作られた圧縮空気は繰出管を介して冷却されてボイラー横の元空気溜に蓄圧される。また、前照灯など電気装置やATSの保安装置などを使用する目的でタービン発電機がボイラー上部の運転室側に搭載される。コンプレッサーもタービン発電機もボイラーから運転室に取付けられた弁が付いた蒸気分配箱を介して送られた蒸気を動力源としており、これらの弁の操作により蒸気が送られて各種補機を作動させる。
こうした理由で、ディーゼル機関車の発展が早かった米国では1930年代頃から蒸気機関車に挑戦するようになり、1946年の調査では、蒸気機関車が得意な特急牽引(蒸気機関車は低速だと全力が出せない)の仕事でさえ、NYCのナイヤガラ特急牽引機で比較した結果、初期コストと運用コストのいずれにおいても蒸気機関車と(電気式)ディーゼル機関車がほぼ同じ経済性とされるほどになっていた。1950年代に至っては、大半の鉄道会社がゼネラルモーターズ(GM)やゼネラルエレクトリック(GE)のディーゼル機関車に置き替えていた。
フランスでは技師たちの努力により、個々の性能ではディーゼル機関車どころか、1952年にパリ‐リヨン間の電化区間で主力になる予定だった電気機関車(パリ・オルレアン鉄道から引き継いだ機関車の改良型、3900馬力)よりも大馬力の蒸気機関車まで存在した。しかし電化の方が将来性があるとして、1948年から蒸気機関車新造を打ち切っており、これ以後は改造機もほとんどない。
日本でも新造は1948年のE10か改造名義だが実質新規製造のC62(1949年)までで、1950年代は従輪の付け替え程度の改造にとどめていた。その後国鉄は「動力近代化計画」として1960年(昭和35年)の会計年度より蒸気機関車を15年で全廃する計画を立て、電化やディーゼル化を推進した。そして梅小路蒸気機関車館に保存された車両を除き、予定通り1975年(昭和50年)の年度末となる1976年(昭和51年)3月に完了させた。
ドイツでも戦後量産されたのは、3000両以上あるプロイセンP8型の置き換え用として戦前に計画された、2-6-2プレイリーの23形だけであり、1959年末の製造終了をもって、ドイツ国鉄(DB)における蒸気機関車の新造は打ち切られた(東ドイツのDRでは改造機も含めるともう少し製造を行っており、ベルリンの壁崩壊まで残存の機関車もいた。)。
イギリスは、先進国の中では最も長く蒸気機関車の製造を続けており、1950年代にも完全新設計の機関車が新造されていたが、イギリス国鉄(BR)は1960年の貨物用2-10-0イブニングスターを最後に蒸気機関車の製造を打ち切り、1968年には蒸気機関車の商業運行を打ち切った。
日本の国有鉄道に在籍した蒸気機関車の弁装置の種類は次の通りであった。
蒸気機関車にとって、動輪と従輪の配置は非常に重要な要素である。これによって、機関車の用途が決まってしまうといっても過言ではない。動輪径を大きくすれば同一回転速度で運転速度を高くできるが、機関車全体が一定の長さに収まるようにするには、動軸数を減らすことになり、牽引力が低下する。そのため、高速が要求される旅客列車牽引向けということになる。逆に動輪数を増やせば牽引力は増すが、その分動輪径は小さくせざるを得なくなり、速度性能が犠牲になることになるため、貨物列車牽引や急勾配区間向けということになる。
従輪については、機関車重量の一部を負担するばかりでなく、先従輪には曲線通過時に、動輪をスムーズに導く機能があり、高速を要求される旅客用機関車では、2軸としたボギー台車が装備されることが多い。一方で、貨物用機関車では動輪上重量を増して粘着力を高めるため従輪の数は少なく、高速も要求されないため、より簡便な構造の1軸先台車が採用されることが多い。
1両の機関車にボイラーに固定されず独立した台枠を有する1組以上の走り装置を装備し、出力強化や曲線通過の容易化を図ったもの。
動態保存は世界の複数の国で実施されている。日本も含む。
国鉄の車両形式一覧#蒸気機関車を参照。
計画機
イギリスでは数々の先進技術を導入した最高速度200km/hの5AT先進技術蒸気機関車の計画が進められていたが、2012年に資金難で中止された。
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"text": "日本では Steam Locomotive の頭文字をとって、SL(エスエル)とも呼ばれる。また、蒸気機関車、または蒸気機関車が牽引する列車のことを、汽車(きしゃ)とも言う。また、明治時代には蒸気船に対して陸の上を蒸気機関で走ることから、「陸蒸気」(おかじょうき)とも呼んでいた。第二次世界大戦の頃までは「汽罐車」(きかんしゃ)という表記も用いられた(「汽罐」はボイラーの意)。",
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"text": "蒸気機関車の発明以前から鉄道を敷き台車を荷役動物に曳かせるものはあった。馬車鉄道などである。",
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"text": "1802年、リチャード・トレビシックがマーサー・ティドヴィルのペナダレン製鉄所で高圧蒸気機関を台車に載せたものを作った。これが世界初の蒸気機関車とされている。1803年、トレビシックはこの蒸気機関車の特許をサミュエル・ホンフレイに売却。ホンフレイは、トレビシックの蒸気機関車が10トンの鉄を牽引して、とある区間(約16km)を運べるか賭けを行い、1804年2月21日、ペナダレン号が10トンの鉄と5両の客車、それに乗った70人の乗客を4時間5分で輸送することに成功した。",
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"text": "1814年、ジョージ・スチーブンソンがキリングワースで石炭輸送のための実用的な蒸気機関車を設計し「Blücher」(ブリュヘル号)と名付け、ウェストムーアの自宅裏の作業場で製作し、1814年7月25日に初走行に成功。時速6.4kmで坂を上り30トンの石炭を運ぶことができるものであった。",
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"text": "蒸気機関車は湯を沸かして発生した蒸気を動力源として走行する。",
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"text": "ここでは主に世界各国で広く使用されていた、煙管式ボイラーとシリンダーを使用するタイプの蒸気機関車について説明する。",
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"text": "一般的な蒸気機関車を走らせるのに必要な機構としては以下のものがあげられる。",
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"text": "火室は燃料を燃焼して高温のガスを作る場所である。火室の底(床)部分は燃え滓の灰が落ちるように格子状(いわゆる火格子)に作られている。",
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"text": "蒸気機関車の出力を決める第一の要因は「火室でどれだけ大きな熱エネルギーを発生できるか」であり、その指標として火室の平面積を表す火格子面積が使われる。火格子面積は狭軌が一般的であった日本の場合、明治初期のころの機関車で1m以下、それ以降順次増大しD51形で3.27mまで大きくなったが、火室への燃料供給は人力(シャベル)による投炭であった。さらに大型(日本最大)で戦時の貨物増大に対応して製作されたD52形では火格子面積は3.85mとなったが、これは1人で人力投炭を行うには限界に近い負担を強いたため、第二次世界大戦後、同形式のボイラーを流用して製作されたC62形などと共に、蒸気エンジンで駆動される自動給炭装置(メカニカルストーカー)が装備された。ちなみに標準軌を採用した南満洲鉄道で特急列車「あじあ」を牽引したパシナ型機関車の火格子面積は6.25mで、ストーカーが標準搭載されていた。また、日本と同じく狭軌を標準としていた南アフリカでは当時黒人労働者を低賃金で利用できたことから、彼らを投炭手として複数乗務させ、交代で全力投炭させることでストーカーを装備せずに火床面積を日本の機関車よりも大きくとるケースが存在した。",
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"text": "なお、給炭の手間や燃費を除いても火床面積は出力に対し十分な火力が得られるならば無理に拡大する必要はなく、特に内火室容積に比べて過剰に大きい場合不完全燃焼が起きやすくなる。",
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"text": "強力機ではそのボイラー容量に見合った火力を得るため巨大な火室を備えるケースが多いが、高カロリーの良質な燃料を常用できる環境にあった鉄道、例えばイギリスのグレート・ウェスタン鉄道(GWR)の機関車では、4073形(キャッスル級あるいはカースル級とも。軸配置2C、過熱式単式4気筒、狭火室。火格子面積2.73m)のように、狭火室のままで他社が保有していた同クラスの機関車を上回る高性能を発揮する例が少なからず存在した。広火室は、総じて低品質の燃料でより大きな出力を得る手段として利用されていたのである。",
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"text": "機関車の火室には、左右の台枠間に設置したいわゆる狭火室タイプと、より大型の機関車に設置される台枠の幅(軌間)より大きな広火室タイプのものがある。D52等、一部の形式では煙管の手前に燃焼室を備える。",
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"text": "基本的に軌間が同一なら同じ面積の火床面積を得る場合、狭火室より広火室の方が奥行きが短くなる分投炭が楽になるが、奥まで石炭が届く構造ならばむしろ投炭口左右にシャベルを返す手間が省けるので狭火室のほうが楽な場合もある(前方への傾斜を調節し前後幅が3.8mもある火床の前部に石炭が崩れていくようにしたフランスのノール鉄道のスーパーパシフィックや、パリ・オルレアン鉄道の240.700形など)。",
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"text": "石炭が燃える際の炎は、石炭の成分が分解・蒸発しながら空気中の酸素と反応しているため、燃焼ガスの温度は石炭自体から少し離れたところで最高となる。このため火室内には燃焼ガスの流れを迂回させて、ボイラーの各煙管の距離を稼いで最高温度の燃焼ガスを導くのと各煙管に均等に燃焼ガスが流れることができるように火室中央部を斜めに通るアーチ管に載せらた邪魔板 (煉瓦アーチ)がある。火室の前後左右と上部は缶胴内の水で囲まれており内火室と呼ばれている、前述したアーチ管には、缶胴内の水が入り込むことで、缶胴内の水を循環させる役割を持たせており、ここの部分は外火室と呼ばれボイラーの一部となっている。また、燃焼ガスの火力を高めるために内火室とボイラーの煙管の間に燃焼室を設ける場合がある。これは、火室の邪魔板の上の空間が延長された構造となっている。",
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"text": "火格子面積の大きい広火室を備えた機関車に装備され、炭水車からスクリュー(送りねじ)で石炭を運転室まで搬送し、蒸気で火室内に飛ばした。",
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"text": "大型機が多く大量の石炭を消費したアメリカでは、1901年には開発され、1905年頃には、普及。1938年には法律で、ボイラーの大きなSLには、搭載が義務付けられた。この通達で、1939年4月15日以降に製造される動輪重量で16万lbs(ポンド)以上の旅客用機関車、同じく17.5万lbs(ポンド)以上の貨物用機関車に、搭載された。",
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"text": "その後、日本でも導入された。",
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"text": "1次大戦後ペンシルバニア鉄道の当時の主力機K4形(火床面積6.5平方m)に大量に採用され、その後火床面積5.5平方m以上の機関車には設置が義務付けられたが、そこまで多量の石炭を消費しないヨーロッパ諸国(+日本)では手炊きに比べて無駄が多いとされ、フランスでは1938年のフランス国鉄(SNCF)450P形で初採用したものの設置された機関車は少数派で、イギリスは最後まで設置せず、ドイツや日本も二次大戦前には未使用である。",
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"text": "日本では蒸気機関車用の自動給炭機は、1948年(昭和23年)製のC62形、C61形を嚆矢として、戦時形のD52形についても、標準形への装備改造時およびD62形への改造時に装備された。熱量の低い石炭を使用する常磐線用のD51形の一部にも搭載された。",
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"text": "重油をバーナーで霧状にし、火床で燃焼している石炭の上方に噴射することで煤煙の減少と火室容積を最大限に活かし、平面燃焼と立体燃焼を同時に行う。 諸外国ではあまり使用されていない技術のため、日本独自の発達を遂げた技術である。",
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"text": "1898年(明治31年)から1899年(明治32年)のころ、重油 (原油) を機関車燃焼に試用され、大正の初めに秋田県黒川油田が噴出すると多数の機関車に重油燃焼装置を取付けられ、1934年(昭和9年)ごろまで使用された。飯山敏雄の考案にかかる飯山式、横井実郎の考案になる横井式といったものも試験されたが、重油の価格は石炭よりも変動が甚だしく、安定した供給が困難になると撤去されてしまった。明治、大正年間の重油燃焼に関する詳細な資料は残っておらず、飯山式、横井式の構造も明らかではないが、扁平の吹出口から油を蒸気で吹出すもののようであったという。",
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"text": "戦後、1951年(昭和26年)の秋に石炭が不足したため、石炭危機の対策と質の悪い石炭を有効に活用するため、機関車に対して重油を石炭と併し、石炭の節約が実施された。その後、石炭事情は好転したが、消煙効果と投炭量の減少によって、乗客に対するサービスの向上と乗務員の苦痛の軽減から好評を博し、引張定数または速度を10%向上することも可能であることが分かり、全国的に拡大実施された。",
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"text": "ただし重油を使用しても単純に楽になるわけではなく、火力が増すのでボイラー周りが高温になって排煙ですら100度を超え、トンネルなどに入ると非常に熱くなるので上記の消煙効果や投炭軽減を差し引いても「無い方が楽(盛岡機関区の機関士、内藤利雄 談)」と評価されたり、使い過ぎると燃え残った重油がべとつき、煙管が詰まったり集煙装置の開閉ができなくなる不具合が起きたので「私はあまり油は使わんのです」(人吉機関区の機関士、石井篤信 談)といった使用控えもあった。",
"title": "蒸気機関車の原理"
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"text": "火室で作られた高温の燃焼ガスは、煙管と呼ばれる数多くの細い管に導かれる。煙管の本数や管のサイズは機関車の出力性能に大きく関与するが、本数は50本から200本、管の直径は50mm前後である。煙管の周囲は水で満たされており、燃焼ガスが通過する際の熱伝導を受けて蒸気が発生する、いわゆるボイラーであり、この部分は缶胴と呼ばれている。ボイラーの材質は鋼鉄が一般的だったが、イギリス等では銅も使用された。発生した蒸気は上部の蒸気溜めのドームに一旦溜められ、溜められた蒸気は、蒸気機関車の各種補機類を作動させるために取付けられた配管により分配されるが、走行に使用される蒸気は、加減弁で流量を調整後、乾燥管を通って蒸気中の水分を取り除かれて乾燥された蒸気となり、煙室の主蒸気管を介して走り装置の蒸気室のシリンダーに送られる。",
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"text": "まれに車両限界の都合などでドームがない機関車もあり、こういった車両は缶胴最上部に細いスリットを持つ管を通し、そこから蒸気を採集する。蒸気は気体なので普通にこの穴を通過できるが同じ流体でも粘性のある熱湯は通過しにくいためシリンダー側に湯が入ることはまずないが、勾配区間での使用に関しては当然ドームがある方が安全であり、日本などでは使用されていない。",
"title": "蒸気機関車の原理"
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"text": "使用される蒸気は、圧力が10-16kg/cmで温度は200°Cの飽和蒸気を使用する飽和式と、さらに蒸気を加熱して圧力を高めるため、主蒸気管と乾燥管の間に過熱管寄せとそこから煙管の内部まで伸びて過熱管寄せに戻る過熱管を装備して、乾燥管からの蒸気を、過熱管寄せから過熱管を介して通過させることにより、蒸気の温度をさらに300-400°Cに高めた過熱蒸気を使用する過熱式とがあり、直径が通常の煙管の2倍以上で過熱管を内蔵した煙管を大煙管と呼んでいる。1910年代以降の大型機関車には過熱蒸気を使用するようになった。",
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"text": "ボイラーの上部には蒸気圧が高くなりすぎたときに蒸気を逃がして圧力を下げる安全弁(万が一の故障を考慮して必ず複数が装備される)や、汽笛が装備されている。またボイラー内の水位を維持するために、水槽から新しい水を注水するための給水ポンプやインゼクタ(注水器)の2つが取付けられており、2つのルートからボイラーに水を送り込む仕組みとなっている。両者とも動力源にボイラーの蒸気を使用しているが、後者は蒸気溜からの配管から直接蒸気が送られる。また、ボイラー缶胴内に装備された注水パイプにより、均一に水を噴射させてボイラー内の水温にムラが出ないようにしている。中・大型機では注水の際に低温の水を注水する事でボイラー内の水が温度低下を起こし蒸気圧が下がるのを防止するため、一般に走行中は給水ポンプから給水温め器(蒸気室のシリンダーや補機類で使用された蒸気を引き通して水に熱を伝える熱交換器)を介してボイラーに注水し、走行中や絶気中はインゼクタを使用する(なおインゼクタは冷水でないと給水できないのでこれだけを使う機関車では給水温め器の必要はない)。",
"title": "蒸気機関車の原理"
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"text": "なお、第二次世界大戦中のドイツで設計・製作された貨物用の52形では、軸配置1Eの大型機であったが構造簡素化による生産性の向上を目的としてインゼクタを複数搭載として従来のドイツ国鉄機で標準であった給水ポンプ+給水温め器の搭載が省略され、またイギリスのグレート・ウェスタン鉄道などではやはりインゼクタの複数搭載を標準としていたが、クラック弁と称する特殊な弁を使用することで、ボイラーに注水される水の温度が段階的に引き上げられる、つまり給水温め器を使用するのと同様の効果が得られるような機構を採用していた。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "ボイラーの性能を表す指標として、蒸気圧力、飽和式か過熱式か、煙管・大煙管の太さと本数または煙管の総表面積(熱伝導面積)などが使用される。一般にボイラーでは圧力が高いほどエネルギー効率は上昇する(飽和式の場合は水に戻りにくくなるというメリットも生まれる)が、蒸気漏れなどに対する対策に高度な技術が必要となるのでそういった兼ね合いで上限値を定め、蒸気機関車の場合は構造上や運用の都合もあって据え置き式や船舶のボイラーなどと比較すれば低圧の部類に入る。最初期の蒸気機関車では1829年のスチーブンソンのロケット号が出場したレインヒルトライアルのルールが「(安全のため)ボイラ圧力は1平方インチ当たり50ポンド(約3.55気圧)以下」と非常に低圧で、その後鋳鉄技術の向上で1850年ごろには10気圧程度まで上がり、以下1870年代には鋼鉄製が一般化して11~12気圧、20世紀初頭には13~14気圧ぐらいでイギリスの場合では最盛期で17.7気圧(正確には「1平方インチ当たり250ポンド」)になった。他の国の場合はフランスは複式が多いので初期の圧力を高めにして20世紀初頭に16気圧、1930年代に20気圧のものが出始めこれが全盛期の標準。ドイツは過熱蒸気を早いうちに採用したので低圧でも飽和蒸気のような問題は起きないと保守を楽にするため、あまり圧力を上げずに第二次大戦前でも16気圧付近が上限で戦後の試作機10形の18気圧が最大で、これを手本にした日本も世界的には低圧気味で明治初期のイギリスなどから輸入した機関車で8気圧前後から始まって順次昇圧したが最大で16気圧までにとどまっている(計画では18気圧のものもあった)。試験的なもの(水管式ボイラーを採用していた一部の試作機関車では、ボイラー圧力が100kg/cm超えもあったが実用的に成功したものはない)を除くと高圧が多かったのは蒸気機関車全盛期のアメリカで、黎明期の19世紀中ごろ時点では7気圧とかなり低かったが1893年のNYCの999号(New York Central and Hudson River Railroad No. 999)が12.6気圧、その後他の国で圧力の進化が止まっても上昇を続け、第二次大戦中21気圧、戦後ノーフォーク&ウェスタン鉄道で22気圧を煙管式ボイラーで達している。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "煙室は機関車の先頭部分にあり、ボイラー内の煙管を通過した燃焼ガスと蒸気室内のシリンダーでピストンの作動させた蒸気(排気ブラスト)が吐出管を介して入り、その後に上部にある煙突から両者が吐き出される所である。吐出管から勢い良く噴射した蒸気が、上部にある煙突に目がけて流れるため、霧吹きで水が吸い上げられるように、気圧差により内火室からの燃焼ガスを煙管を介して強制的に誘引することにより、内火室への空気流入量が増えて燃焼効率の向上を助ける働きを持っており、これを「ドラフト」という。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "模索期の機関車と復水式の機関車ではドラフトに圧縮空気を使用するものもあったが、模索期の米仏にあった車軸からベルトでふいごを動かす装置では勾配(低速になる)でドラフトが弱まるという致命的な問題があったため、蒸気消費量が多くなるほどドラフトが強くなる排気ブラストを使用する方法を変えることはなく、復水式は蒸気を捨てずに水に戻して再使用する以上排気ブラストが使えないことから一部の蒸気でタービンを回してそれで車体前部では排気ブラストに変わってドラフトを起こし、テンダーでは蒸気を冷やして水に戻したが、このエネルギー分の燃料とメンテナンスの手間が増大したので、復水式自体が商業的に成功しなかった。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また、煙は上の煙管を通りやすいので燃焼ガスの流れを上下で均一にするため、加減反射板を装備して、蒸気の通過速度が一番速い煙室下部に迂回して燃焼ガスを導いており、加減反射板は迂回の度合いを調整することが可能である。また、一部の機関車では、吐出管から出るの蒸気の噴射速度の調整ができるようになっている。また、惰性運転時での後述する絶気運転や停止中では、蒸気溜の加減弁が閉の状態のため、蒸気室のシリンダーにボイラーからの蒸気か送り込まれず、煙室内にドラフトを発生させるため、運転室の蒸気分解箱にある通風弁(ブロアバルブ)を開いて、蒸気を別にある通風管を介して煙室内に送り込み、煙突に向けて噴き出すことで、ドラフトを発生させて内火室からの燃焼ガスを煙管を介して誘引させている。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "機関車をスムーズに走らせるためには、シリンダーに送る蒸気の方向を適切に制御する必要があり、右側の弁装置 により制御される。出力の制御は運転室にある加減弁ハンドルと逆転機ハンドルによって制御される。加減弁ハンドルは、蒸気溜にある加減弁に引き棒で繋がっており、動かす事により蒸気溜から蒸気が乾燥管と主蒸気管を介して蒸気室に流れ、蒸気室内の2つの蒸気弁の間のある弁室を介して蒸気室前後に設けられた蒸気通路のどちらか一方を通って蒸気が送り込まれ、シリンダー室内のピストンを作動させる。蒸気が送り込まれたピストンの反対側の蒸気は、シリンダー室から蒸気が送り込まれた蒸気通路とは反対側の蒸気通路を通って蒸気室に戻り、蒸気室左右にある排気通路から吐出管に排出される。この動きを前後交互に行うことでシリンダー内のピストンを往復運動させることができる。シリンダー内のピストンを往復運動させる蒸気の給排気を行う蒸気室の蒸気弁は、ピストンとの間で90度の位相差で動いており、蒸気弁はピストンの動きを伝達して動かしている。力の伝達はピストンロット→クロスヘッド→合併テコ→蒸気弁の弁心棒とピストンロット→クロスヘッド→主連棒→返りリンク→偏心棒→加減リンク→心向棒→合併テコ→蒸気弁の弁心棒の2つの径路で伝達される。また、合併テコは2方向から伝達される力を合併する役割を持っており、それを介して蒸気弁を作動させる。また、発車時では、一気に加減弁を開けてしまうと、蒸気が一気にシリンダー内に入り、動輪が空転してしまうため、加減弁を徐々に開いていく操作を行う。惰性運転時には、加減弁を完全に閉じてシリンダー室に蒸気がまったく入ってこない状態にする(絶気運転とも呼んでいる)。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "逆転機ハンドルは逆転棒と繋がっており、その先の釣りリンク腕と釣りリンクを介して心向棒と繋がっていて、さらに心向棒から加減リンクを通り蒸気室の蒸気弁と合併テコを介してクロスヘッドに繋がっている。逆転機ハンドルは回すことで、心向棒を介してシリンダー室上部にある蒸気室の蒸気弁を操作できるようになっている。蒸気機関車の速度制御は、蒸気溜にある加減弁での調整によっても可能であるが、実際の速度制御は、蒸気弁からシリンダーへの通路の開口部の開口率の変化によって行われる。その変化の動作に使用されるのが偏心棒、加減リンク、心向棒の3つであり、加減リンクは中央を支点としてモーション・プレートに取り付けられており、その下部に連結された偏心棒により、加減リンクが支点を中心として上部と下部で往復運動を行なって、心向棒と合併テコを介して蒸気弁の弁心棒に力を伝達する仕組みとなっている。心向棒の力点は、逆転機ハンドルにより加減リンク内を上下方向に動かすことが可能であり、加減リンクの支点に近い位置では、蒸気弁の往復運動の幅が小さくなり、加減リンクの支点から離れた位置では、蒸気弁の往復運動の幅が大きくなる。その幅の変化が開口率の変化となり、開口部の大きさと蒸気弁からシリンダーへの蒸気が入らないカットオフの時間が変化することで、シリンダーに入る蒸気量の調整を行い、シリンダー内の中のピストンが時々の状況に応じた速度に対応した往復運動をするようになっている(出発時は、心向棒を加減リンク中央から下に離れた位置に移動させて、開口率を大きくカットオフの時間を短くすることでシリンダー室に入る蒸気を多くして動輪の回転力を大きく回転数を小さくし、速度が上がるにつれて、心向棒を加減リンク下部から中央の位置に徐々に移動させて、開口率を小さくカットオフの時間を長くすることでシリンダー室に入る蒸気を少なくして動輪の回転力を小さく回転数を大きくする)。また、開口率は、80%-0%の間で表しており、全出力で80%、停止時や惰性運転時では0%としている。また、加減リンクは前進または後進の切り替えも行い、同じく逆転機ハンドルを回すことにより、心向棒を加減リンクの中央(支点の部分)から下に下げると前進、上に上げると後進となる(前後進の切替は停止時に行う)。その他に、発車時に常温まで冷えたシリンダー室に蒸気を送ると、蒸気の温度が下がり凝縮が発生してシリンダー室に水が溜まるため、溜まった水を排出するシリンダー排水弁や、蒸気室の前後をバイパス管で結びその中間に弁を設置し、惰性運転時に、逆転機ハンドルを操作して蒸気室とシリンダー室を結ぶ蒸気通路の開口率を80%にしてからその弁を開き、シリンダー室のピストンの前後の空気を行き来できるようにして、ピストンの空気抵抗を最小にするバイパス弁がある。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "機関車の出力は最終的にはシリンダーの大きさ×数×蒸気圧力で決まる。カタログではシリンダー直径×行程で示される。蒸気機関車の設計は、シリンダーで使用される蒸気量と、蒸気を作る能力(火室やボイラーの性能)がマッチするよう考慮される。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "気筒室で作られた往復運動は主連接棒(メインロッド)を通じて動輪に伝えられ、ここで最終的に回転運動におきかえられる。主連接棒と連結されている動輪を主動輪という。主動輪と他の動輪は連結棒(カップリングロッド)で連結されている。また左右の動輪は車軸で繋がっており、2シリンダー機の場合は連結棒を介して90度の角度でずらして主連接棒と連結されていて、それにより片方の気筒室内のピストンが前端または後端の死点に達してピストンの力がゼロになっても、もう片方のピストンの力が最大になるように動力伝達されている。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "動輪以外に機関車に設置される車輪として先輪と従輪がある。先輪は動輪の前に設置され、カーブでのスムーズな方向転換に有効であり、機関車重量の一部を負担する効果もある。従輪は動輪より後ろに配置され、機関車後部の重量を受け持つ。大きな火室を必要とする高出力機では、小さな従輪の上に幅広の火室を装備する広火室タイプが採用された。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車の最高速度はシリンダーの往復速度と動輪の直径(動輪径)で決まる。すなわち巨大なクランク構造となっている蒸気機関車の動輪回転数は400rpm付近が限界とされており、実際に各国の蒸気機関車の最高速度もほぼこの限界値近くにある。高速度が要求される蒸気機関車は当然大きな動輪径が設定される。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車に限らないが滑らかな鉄の車輪を鉄のレールの上で走らせるため、スリップ(空転)を起こしやすい。重量のある列車を牽引する際に空転を防ぐためには動輪とレールの粘着性を上げることが必要だが、手段としては全動輪にかかる重量を増やす方法がとられる。即ち動輪1対あたりの重量(軸重)を増やすか、動輪数を増やして動軸上重量を増やすの2種類の方法がある。動輪および前輪と従輪の配置や数(軸配置)は機関車の性能を決定する重要なファクターである(車軸配置参照)。軸重の増加については軌道の強化が必要であり、動輪数を増やす場合については機関車の長さの問題、急カーブ通過時の問題などが発生する。動輪数を増やしてカーブ対策を行った方式として、前後に複数の駆動システムを有する関節式機関車がある。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "前記したボイラーに水を注水するための給水ポンプとインゼクタがボイラー横に搭載される他、蒸気機関車自体や牽引する客車のブレーキ装置を作動させる圧縮空気を作る目的でボイラー缶胴部横や煙室前面などにコンプレッサーを搭載している(イギリスなど真空ブレーキ式の国ではこれがなかった。空気ブレーキはアメリカで1869年に発明され1872年に直通から自動式に改良、米国では1893年に全列車に空気ブレーキが装備が義務付けられた。なお、日本では真空ブレーキが先(1891年)に導入されたが、勾配が多い日本では1920年代以後に連続使用が効く空気ブレーキ式に切り替えられた。)調圧器により自動的に作動しており、そこで作られた圧縮空気は繰出管を介して冷却されてボイラー横の元空気溜に蓄圧される。また、前照灯など電気装置やATSの保安装置などを使用する目的でタービン発電機がボイラー上部の運転室側に搭載される。コンプレッサーもタービン発電機もボイラーから運転室に取付けられた弁が付いた蒸気分配箱を介して送られた蒸気を動力源としており、これらの弁の操作により蒸気が送られて各種補機を作動させる。",
"title": "蒸気機関車の原理"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "こうした理由で、ディーゼル機関車の発展が早かった米国では1930年代頃から蒸気機関車に挑戦するようになり、1946年の調査では、蒸気機関車が得意な特急牽引(蒸気機関車は低速だと全力が出せない)の仕事でさえ、NYCのナイヤガラ特急牽引機で比較した結果、初期コストと運用コストのいずれにおいても蒸気機関車と(電気式)ディーゼル機関車がほぼ同じ経済性とされるほどになっていた。1950年代に至っては、大半の鉄道会社がゼネラルモーターズ(GM)やゼネラルエレクトリック(GE)のディーゼル機関車に置き替えていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "フランスでは技師たちの努力により、個々の性能ではディーゼル機関車どころか、1952年にパリ‐リヨン間の電化区間で主力になる予定だった電気機関車(パリ・オルレアン鉄道から引き継いだ機関車の改良型、3900馬力)よりも大馬力の蒸気機関車まで存在した。しかし電化の方が将来性があるとして、1948年から蒸気機関車新造を打ち切っており、これ以後は改造機もほとんどない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本でも新造は1948年のE10か改造名義だが実質新規製造のC62(1949年)までで、1950年代は従輪の付け替え程度の改造にとどめていた。その後国鉄は「動力近代化計画」として1960年(昭和35年)の会計年度より蒸気機関車を15年で全廃する計画を立て、電化やディーゼル化を推進した。そして梅小路蒸気機関車館に保存された車両を除き、予定通り1975年(昭和50年)の年度末となる1976年(昭和51年)3月に完了させた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ドイツでも戦後量産されたのは、3000両以上あるプロイセンP8型の置き換え用として戦前に計画された、2-6-2プレイリーの23形だけであり、1959年末の製造終了をもって、ドイツ国鉄(DB)における蒸気機関車の新造は打ち切られた(東ドイツのDRでは改造機も含めるともう少し製造を行っており、ベルリンの壁崩壊まで残存の機関車もいた。)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "イギリスは、先進国の中では最も長く蒸気機関車の製造を続けており、1950年代にも完全新設計の機関車が新造されていたが、イギリス国鉄(BR)は1960年の貨物用2-10-0イブニングスターを最後に蒸気機関車の製造を打ち切り、1968年には蒸気機関車の商業運行を打ち切った。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "日本の国有鉄道に在籍した蒸気機関車の弁装置の種類は次の通りであった。",
"title": "蒸気機関車の分類"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車にとって、動輪と従輪の配置は非常に重要な要素である。これによって、機関車の用途が決まってしまうといっても過言ではない。動輪径を大きくすれば同一回転速度で運転速度を高くできるが、機関車全体が一定の長さに収まるようにするには、動軸数を減らすことになり、牽引力が低下する。そのため、高速が要求される旅客列車牽引向けということになる。逆に動輪数を増やせば牽引力は増すが、その分動輪径は小さくせざるを得なくなり、速度性能が犠牲になることになるため、貨物列車牽引や急勾配区間向けということになる。",
"title": "蒸気機関車の分類"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "従輪については、機関車重量の一部を負担するばかりでなく、先従輪には曲線通過時に、動輪をスムーズに導く機能があり、高速を要求される旅客用機関車では、2軸としたボギー台車が装備されることが多い。一方で、貨物用機関車では動輪上重量を増して粘着力を高めるため従輪の数は少なく、高速も要求されないため、より簡便な構造の1軸先台車が採用されることが多い。",
"title": "蒸気機関車の分類"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1両の機関車にボイラーに固定されず独立した台枠を有する1組以上の走り装置を装備し、出力強化や曲線通過の容易化を図ったもの。",
"title": "蒸気機関車の分類"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "動態保存は世界の複数の国で実施されている。日本も含む。",
"title": "稼動している蒸気機関車"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "国鉄の車両形式一覧#蒸気機関車を参照。",
"title": "代表的な形式"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "計画機",
"title": "代表的な形式"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "イギリスでは数々の先進技術を導入した最高速度200km/hの5AT先進技術蒸気機関車の計画が進められていたが、2012年に資金難で中止された。",
"title": "5AT先進技術蒸気機関車"
}
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蒸気機関車(じょうききかんしゃ)は、蒸気機関を動力とする機関車のことである。 日本では Steam Locomotive の頭文字をとって、SL(エスエル)とも呼ばれる。また、蒸気機関車、または蒸気機関車が牽引する列車のことを、汽車(きしゃ)とも言う。また、明治時代には蒸気船に対して陸の上を蒸気機関で走ることから、「陸蒸気」(おかじょうき)とも呼んでいた。第二次世界大戦の頃までは「汽罐車」(きかんしゃ)という表記も用いられた(「汽罐」はボイラーの意)。
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[[File:AutoCAD drawing of a Great Western King.png|thumb|right|300px|[[グレート・ウェスタン鉄道]][[グレート・ウェスタン鉄道6000形蒸気機関車|6000形]](キングクラス)蒸気機関車の図面]]
'''蒸気機関車'''(じょうききかんしゃ)は、[[蒸気機関]]を[[動力]]とする[[機関車]]のことである。
[[日本]]では Steam Locomotive の[[頭字語|頭文字]]をとって、'''SL'''(エスエル)とも呼ばれる。また、蒸気機関車、または蒸気機関車が牽引する列車のことを、'''汽車'''(きしゃ)とも言う<ref group="注釈">なお[[中国語]]では汽車は「[[自動車]]」を意味する。日本語で言う「汽車」は「[[火車]]」と表記する。</ref><ref group="注釈">ただし、地域や世代によっては、電気で動く物も含めて全ての列車のことを「汽車」と呼んだり、[[日本国有鉄道|国鉄]]・[[JR]]を「汽車」、[[路面電車]]や[[私鉄]]を「[[電車]]」と呼んで区別したりする場合がある(このような「汽車」の用法については「[[汽車]]」を参照のこと)。</ref>。また、[[明治]]時代には[[蒸気船]]に対して陸の上を蒸気機関で走ることから、「陸蒸気」(おかじょうき)とも呼んでいた。第二次世界大戦の頃までは「汽罐車」(きかんしゃ)という表記も用いられた(「汽罐」は[[ボイラー]]の意)。
== 歴史 ==
[[File:Locomotive trevithick.svg|thumb|[[リチャード・トレビシック]]による1802年製作の蒸気機関車]]
[[File:Stephenson's Rocket drawing.jpg|thumb|1829年に[[レインヒル・トライアル]]で勝利した[[ジョージ・スチーブンソン]]製作の[[ロケット号]]]]
蒸気機関車の発明以前から鉄道を敷き台車を荷役動物に曳かせるものはあった<ref group="注釈">たとえば[[:en:Derby Canal Railway]]などは1792年から使われていた</ref>。[[馬車鉄道]]などである。
1802年、[[リチャード・トレビシック]]がマーサー・ティドヴィルのペナダレン製鉄所で高圧蒸気機関を台車に載せたものを作った。これが世界初の蒸気機関車とされている。1803年、トレビシックはこの蒸気機関車の[[特許]]を[[サミュエル・ホンフレイ]]に売却。ホンフレイは、トレビシックの蒸気機関車が10トンの鉄を牽引して、とある区間(約16km)を運べるか賭けを行い、1804年2月21日、ペナダレン号が10トンの鉄と5両の客車、それに乗った70人の乗客を4時間5分で輸送することに成功した。
1814年、[[ジョージ・スチーブンソン]]がキリングワースで石炭輸送のための実用的な蒸気機関車を設計し「Blücher」(ブリュヘル号)と名付け<ref group="注釈">[[:en:Killingworth locomotives]]も参照可</ref>、ウェストムーアの自宅裏の作業場で製作し、1814年7月25日に初走行に成功。[[時速]]6.4kmで坂を上り30トンの石炭を運ぶことができるものであった。
=== 蒸気機関車の発明・開発に関わった主要な人物 ===
; [[リチャード・トレビシック]]
: [[1804年]]に[[イギリス]]で蒸気機関車を走行させる。[[鉄道の歴史|鉄道史上]]初とされている。
; [[ジョージ・スチーブンソン]]
: 公共鉄道で走行する最初の蒸気機関車「[[ロコモーション号]]」を制作。さらに「[[ロケット号]]」で蒸気機関車の基本設計を確立した。
; [[ロバート・スチーブンソン]]
: ジョージ・スチーブンソンの息子。父とともに蒸気機関車の実用運転に貢献。
; [[マーク・イザムバード・ブルネル]]
: シールド工法でロンドンの地下鉄を建設した。
; [[イザムバード・キングダム・ブルネル]]
: 広軌のグレートウエスタン鉄道を建設した。
; [[マシュー・マレー]]
: 1812年、軌条の側面がラックレールの軌道を走る機関車[[:en:The Salamanca|サラマンカ号]]を走らせた。
; [[ナイジェル・グレズリー]]
: [[グレズリー式連動弁装置]]を開発。また[[LNER A1形・A3形蒸気機関車|A3形]]や蒸気機関車の速度記録を持つ[[LNER A4形蒸気機関車4468号機 マラード|マラード号]]を設計した。
; [[アンドレ・シャプロン]]
: キルシャップの開発やボイラの内的流線化等の、蒸気機関車の科学的改良を初めて行った。のちにリビオ・ダンテ・ポルタら蒸気機関車技術者に多大な影響を与えた。
=== 世界各国の歴史 ===
* [[アメリカ合衆国の鉄道史]]
* [[イギリスの鉄道史]]
* [[ドイツの鉄道史]]
* [[フランスの鉄道史]]
; 日本での歴史
[[File:FirstModelLocomotiveToJpan.jpg|thumb|[[マシュー・ペリー|ペリー提督]]が幕府に献上した蒸気車]]
* [[日本の蒸気機関車史]]
**[[国産の国鉄蒸気機関車]]
*軽便鉄道・産業鉄道
**鉄道省、そして規模の大きな私鉄向けの蒸気機関車は規格化・国産化された。しかし資本力の小さな鉄道向けの小型蒸気機関車までは国は関与しなかった。[[軽便鉄道]]、[[産業鉄道]]に向けては主にドイツ、[[オーレンシュタイン・ウント・コッペル|コッペル社]]の小型蒸気機関車が廉価で高品質であったこともあり、第一次世界大戦までは大量に輸入され続けた。
**その後は[[日本車輌製造]]、[[雨宮製作所]]、あるいは[[深川造船所]]などのメーカーによって国産化が進み、第二次世界大戦期には[[立山重工業]]などの手による規格化設計機関車の量産も実施された。
* [[軍用鉄道]]
**[[鉄道連隊演習線]]
== 蒸気機関車の原理 ==
{| style="border: 1px solid"
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[[File:Steam locomotive scheme new.png|left|600px|The main [[Steam locomotive components|components of a steam locomotive]]]]
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# 火室
# 灰受け皿
# 水 (ボイラー内部)
# 煙室
# 運転室
# 炭水車
# 蒸気溜
# 安全弁
# 加減弁
# 煙室内の加熱管寄せとそれに付属した過熱管
# ピストン
# ブラスト・パイプ
# 弁装置
# ギュレータ・ロッド
# ドライブ・フレーム
# 従輪ポニー台車{{efn|name="ポニー台車"|ポニー台車とは先輪(原文は「前従輪」)が1軸の場合(2軸以上の場合は「ボギー台車」)に使用され、釣合梁(equalizer)を介して先輪と第1動輪それぞれの板ばねで支えられるもの、製作者の名前をとって「ビッセル台車」とも呼ばれる(日本の鉄道省は「心向台車」と呼称)<ref>[[#近藤2007|(近藤2007) p.177]]</ref>。}}
# 先輪ポニー台車<ref group="注釈" name="ポニー台車"/>
# ベアリング及び軸箱
# 板ばね
# ブレーキ片
# 空気ブレーキ・ポンプ
# (前部) 中央連結器
# 汽笛
# 砂箱
|}
蒸気機関車は湯を沸かして発生した蒸気を動力源として走行する。
ここでは主に世界各国で広く使用されていた、煙管式ボイラーとシリンダーを使用するタイプの蒸気機関車について説明する。
一般的な蒸気機関車を走らせるのに必要な機構としては以下のものがあげられる。
* [[石炭]]等の燃料を効率よく燃やして、高温の[[燃焼ガス]]を作る火室。
* 火室で発生した燃焼ガスの持つ熱エネルギーを利用して[[水]]を[[沸騰]]させ、高温高圧の蒸気を作る[[ボイラー]]。
* [[シリンダー]]に送る蒸気の方向や量を制御する各種[[弁装置]]。
* 蒸気のエネルギーを往復運動のエネルギーに変えるシリンダー。
* シリンダーの往復運動を回転運動に変換し駆動力を発生させるロッドと動輪。
=== 火室 ===
[[File:Cutaway steam locomotive.jpg|thumb|切断展示物の火室 (左) 及びボイラー (右)]]
{{main|{{仮リンク|火室 (蒸気機関)|en|Firebox (steam engine)}} }}
火室は燃料を燃焼して高温のガスを作る場所である。火室の底(床)部分は燃え滓の灰が落ちるように格子状(いわゆる火格子)に作られている。
蒸気機関車の出力を決める第一の要因は「火室でどれだけ大きな熱エネルギーを発生できるか」であり、その指標として火室の平面積を表す'''火格子面積'''が使われる。火格子面積は狭軌が一般的であった日本の場合、明治初期のころの機関車で1[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]以下、それ以降順次増大し[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]で3.27m<sup>2</sup>まで大きくなった<ref group="注釈">D51形に先立ち1925年にアメリカから輸入された単式3シリンダー機の[[国鉄8200形蒸気機関車|8200形]](C52形)では手焚きのままで火格子面積を3.8m<sup>2</sup>としたが、これは当時の日本人の一般的な体格・体力では投炭を担当する機関助士に過大な負担を強いたため、のちの改造で火格子面積を縮小している。</ref>が、火室への燃料供給は人力([[シャベル]])による投炭であった。さらに大型(日本最大)で戦時の貨物増大に対応して製作された[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]では火格子面積は3.85m<sup>2</sup>となったが、これは1人で人力投炭を行うには限界に近い負担を強いたため、第二次世界大戦後、同形式のボイラーを流用して製作された[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形]]などと共に、蒸気エンジンで駆動される[[自動給炭機|自動給炭装置]](メカニカルストーカー)が装備された。ちなみに[[標準軌]]を採用した[[南満洲鉄道]]で[[特別急行列車|特急列車]]「[[あじあ (列車)|あじあ]]」を牽引したパシナ型機関車の火格子面積は6.25m<sup>2</sup>で、ストーカーが標準搭載されていた。また、日本と同じく狭軌を標準としていた南アフリカでは[[アパルトヘイト|当時黒人労働者を低賃金で利用できた]]ことから、彼らを投炭手として複数乗務させ、交代で全力投炭させる<ref group="注釈">キャブの大きさの都合で機関車では船のように二人同時に投炭をやった国はなく、二人機関助手がいる場合は投炭を交代して休んでいる方がタブレットの受け渡しなどをやる。[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.256]]</ref>ことでストーカーを装備せずに火床面積を日本の機関車よりも大きくとるケースが存在した。
なお、給炭の手間や燃費を除いても火床面積は出力に対し十分な火力が得られるならば無理に拡大する必要はなく、特に内火室容積に比べて過剰に大きい場合不完全燃焼が起きやすくなる<ref group="注釈">例として満鉄のデカイ型では元になったミカイ型と同じ牽引力で軌道の弱い区域を走行させるため、ミカイの従輪部分にも動輪をつけて5軸にして動輪上軸重を分散させて対処した際、本来小さな従輪で支えていた広火室を動輪のうえにのせた影響で火床面積はさほど変わらないのに火室がかなり浅くなり、不完全燃焼が起きやすくなったとされる。<br />『満洲鉄道発達史』高木宏之 著、株式会社潮書房光人社、2012年、ISBN 978-4-7698-1524-2、P113。</ref>。
強力機ではそのボイラー容量に見合った火力を得るため巨大な火室を備えるケースが多いが、高カロリーの良質な燃料を常用できる環境にあった鉄道、例えばイギリスのグレート・ウェスタン鉄道(GWR)の機関車では、[[グレート・ウェスタン鉄道4073形蒸気機関車|4073形]](キャッスル級あるいはカースル級とも。軸配置2C、過熱式単式4気筒、狭火室。火格子面積2.73m<sup>2</sup>)のように、狭火室のままで他社が保有していた同クラスの機関車を上回る高性能を発揮する例<ref group="注釈">1925年に[[ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道]] (LNER) との間で同社最新の[[LNER A1形・A3形蒸気機関車|A1形]](軸配置2C1、過熱式単式3気筒、広火室。火格子面積3.83m<sup>2</sup>)とを交換し、互いの鉄道線において同条件下で実施された比較試験では、キャッスル型の方がコンパクトでボイラーの火格子面積もA1形の約70パーセント強しかなかったにもかかわらず、使用炭の品質が本来想定されるより低下するLNER社線上においてさえ、出力・燃費の双方で勝利を収めている。これは弁装置設計などでGWR側に一日の長があったことによる部分が大きいが、この例が示すように狭火室と広火室の違いは必ずしも性能に決定的な差をもたらすとは限らない。</ref>が少なからず存在した<ref group="注釈">例えば、ドイツでは良質な石炭の入手が容易であった[[プロイセン]]をはじめとする北部の各邦国が保有する鉄道は狭火室を常用し、良質炭の入手が難しかった南部の[[バーデン大公国]]や[[バイエルン王国]]などが保有した各鉄道は広火室を早い時期から導入していた。また、アメリカで広火室積極導入の端緒の一つとなったウーテン式火室を備える[[キャメルバック式蒸気機関車]]は廉価だが着火しにくい[[無煙炭]]を燃料とすることを前提に研究開発されており、通常の石炭以外の異種燃料を燃やす手段として通常より大きめの火室を備えた機関車を製作するケースはアメリカ製機関車を中心に各国で見られた。</ref>。広火室は、総じて低品質の燃料でより大きな出力を得る手段として利用されていたのである。
機関車の火室には、左右の台枠間に設置したいわゆる'''狭火室'''タイプと、より大型の機関車に設置される台枠の幅([[軌間]])より大きな'''広火室'''タイプのものがある。[[D52]]等、一部の形式では煙管の手前に燃焼室を備える。
基本的に軌間が同一なら同じ面積の火床面積を得る場合、狭火室より広火室の方が奥行きが短くなる分投炭が楽になるが、奥まで石炭が届く構造ならばむしろ投炭口左右にシャベルを返す手間が省けるので狭火室のほうが楽な場合もある(前方への傾斜を調節し前後幅が3.8mもある火床の前部に石炭が崩れていくようにしたフランスのノール鉄道のスーパーパシフィックや、パリ・オルレアン鉄道の240.700形など)<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.357]]・[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.86]]</ref>。
石炭が燃える際の炎は、石炭の成分が分解・[[蒸発]]しながら空気中の[[酸素]]と反応しているため、燃焼ガスの温度は石炭自体から少し離れたところで最高となる。このため火室内には燃焼ガスの流れを迂回させて、ボイラーの各煙管の距離を稼いで最高温度の燃焼ガスを導くのと各煙管に均等に燃焼ガスが流れることができるように火室中央部を斜めに通るアーチ管に載せらた邪魔板 (煉瓦アーチ)がある。火室の前後左右と上部は缶胴内の水で囲まれており'''内火室'''と呼ばれている、前述したアーチ管には、缶胴内の水が入り込むことで、缶胴内の水を循環させる役割を持たせており、ここの部分は'''外火室'''と呼ばれボイラーの一部となっている。また、燃焼ガスの火力を高めるために内火室とボイラーの煙管の間に'''燃焼室'''を設ける場合がある。これは、火室の邪魔板の上の空間が延長された構造となっている。
=== 自動給炭機 ===
{{main|自動給炭機}}
火格子面積の大きい広火室を備えた機関車に装備され、炭水車からスクリュー(送りねじ)で石炭を運転室まで搬送し、蒸気で火室内に飛ばした。
大型機が多く大量の石炭を消費したアメリカでは、1901年には開発され、1905年頃には、普及。1938年には法律で、ボイラーの大きなSLには、搭載が義務付けられた。この通達で、1939年4月15日以降に製造される動輪重量で16万lbs(ポンド)以上の旅客用機関車、同じく17.5万lbs(ポンド)以上の貨物用機関車に、搭載された。
その後、日本でも導入された。
1次大戦後ペンシルバニア鉄道の当時の主力機K4形(火床面積6.5平方m)に大量に採用され、その後火床面積5.5平方m以上の機関車には設置が義務付けられたが、そこまで多量の石炭を消費しないヨーロッパ諸国(+日本)では手炊きに比べて無駄が多いとされ、フランスでは1938年のフランス国鉄(SNCF)450P形で初採用したものの設置された機関車は少数派で、イギリスは最後まで設置せず、ドイツや日本も二次大戦前には未使用である<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.255・359-360]]・[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.89]]</ref>。
日本では蒸気機関車用の自動給炭機は、1948年(昭和23年)製のC62形、C61形を[[嚆矢]]として、戦時形のD52形についても、標準形への装備改造時およびD62形への改造時に装備された。熱量の低い石炭を使用する[[常磐線]]用のD51形の一部にも搭載された。
=== 重油併燃装置 ===
重油をバーナーで霧状にし、火床で燃焼している石炭の上方に噴射することで煤煙の減少<ref>{{Cite journal|和書|author=岩本太郎 |title=続・滋賀の技術小史 |journal=[https://www.rikou.ryukoku.ac.jp/journal/ 龍谷理工ジャーナル] |publisher=龍谷大学理工学会 |year=2012 |volume=24 |issue=1 |pages=11-19,図巻頭1p |naid=40019238069 |url=https://www.rikou.ryukoku.ac.jp/images/journal62/RJ62-03.pdf |format=PDF}}</ref>と火室容積を最大限に活かし、平面燃焼と立体燃焼を同時に行う<ref>[https://transport.or.jp/tetsudoujiten/pages/leaves/1958_%e9%89%84%e9%81%93%e8%be%9e%e5%85%b8_%e4%b8%8a%e5%b7%bb_P0759.pdf 鉄道辞典 上巻]</ref>。
諸外国ではあまり使用されていない技術のため、日本独自の発達を遂げた技術である<ref>{{Cite journal|和書|author=横堀進 |title=重油燃焼機関車 |journal=燃料協会誌 |issn=0369-3775 |publisher=日本エネルギー学会 |year=1953 |volume=32 |issue=2 |pages=103-105 |naid=130003823552 |doi=10.3775/jie.32.103}}</ref>。
1898年(明治31年)から1899年(明治32年)のころ、重油 (原油) を機関車燃焼に試用され、大正の初めに秋田県[[八橋油田|黒川油田]]が噴出すると多数の機関車に重油燃焼装置を取付けられ、1934年(昭和9年)ごろまで使用された。[[飯山敏雄]]の考案にかかる飯山式、[[横井実郎]]の考案になる横井式といったものも試験されたが、重油の価格は石炭よりも変動が甚だしく、安定した供給が困難になると撤去されてしまった。明治、大正年間の重油燃焼に関する詳細な資料は残っておらず、飯山式、横井式の構造も明らかではないが、扁平の吹出口から油を蒸気で吹出すもののようであったという<ref>鉄道技術発達史 第4篇 車両と機械 1-4章P329</ref>。
戦後、1951年(昭和26年)の秋に石炭が不足したため、石炭危機の対策と質の悪い石炭を有効に活用するため、機関車に対して重油を石炭と併し、石炭の節約が実施された。その後、石炭事情は好転したが、消煙効果と投炭量の減少によって、乗客に対するサービスの向上と乗務員の苦痛の軽減から好評を博し、引張定数または速度を10%向上することも可能であることが分かり、全国的に拡大実施された<ref>鉄道技術発達史 第4篇 車両と機械 1-4章P333-P336</ref>。
ただし重油を使用しても単純に楽になるわけではなく、火力が増すのでボイラー周りが高温になって排煙ですら100度を超え、トンネルなどに入ると非常に熱くなるので上記の消煙効果や投炭軽減を差し引いても「無い方が楽([[盛岡運輸区|盛岡機関区]]の機関士、内藤利雄 談)」と評価されたり、使い過ぎると燃え残った重油がべとつき、煙管が詰まったり集煙装置の開閉ができなくなる不具合が起きたので「私はあまり油は使わんのです」([[人吉機関区]]の機関士、石井篤信 談)といった使用控えもあった<ref>「SL甲組」の肖像1、椎橋俊之、ネコ・パブリッシング、2007年、 ISBN 978-4-7770-0427-0、p.57・103。</ref>。
=== ボイラー ===
{{see also|ボイラー}}
火室で作られた高温の燃焼ガスは、'''煙管'''と呼ばれる数多くの細い管に導かれる。煙管の本数や管のサイズは機関車の出力性能に大きく関与するが、本数は50本から200本、管の直径は50mm前後である。煙管の周囲は水で満たされており、燃焼ガスが通過する際の熱伝導を受けて蒸気が発生する、いわゆる[[ボイラー]]であり、この部分は缶胴と呼ばれている。ボイラーの材質は[[鋼鉄]]が一般的だったが、イギリス等では[[銅]]も使用された。発生した蒸気は上部の蒸気溜めのドームに一旦溜められ、溜められた蒸気は、蒸気機関車の各種補機類を作動させるために取付けられた配管により分配されるが、走行に使用される蒸気は、加減弁で流量を調整後、乾燥管を通って蒸気中の水分を取り除かれて乾燥された蒸気となり、煙室の主蒸気管を介して走り装置の蒸気室のシリンダーに送られる。
まれに車両限界の都合などでドームがない機関車もあり、こういった車両は缶胴最上部に細いスリットを持つ管を通し、そこから蒸気を採集する。蒸気は気体なので普通にこの穴を通過できるが同じ流体でも粘性のある熱湯は通過しにくいためシリンダー側に湯が入ることはまずないが、勾配区間での使用に関しては当然ドームがある方が安全であり、日本などでは使用されていない<ref>[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.94-95]]</ref>。
使用される蒸気は、圧力が10-16kg/cm<sup>2</sup>で温度は200℃の飽和蒸気を使用する'''飽和式'''と、さらに蒸気を加熱して圧力を高めるため、主蒸気管と乾燥管の間に過熱管寄せとそこから煙管の内部まで伸びて過熱管寄せに戻る過熱管を装備して、乾燥管からの蒸気を、過熱管寄せから過熱管を介して通過させることにより、蒸気の温度をさらに300-400℃に高めた過熱蒸気を使用する'''過熱式'''とがあり、直径が通常の煙管の2倍以上で過熱管を内蔵した煙管を'''大煙管'''と呼んでいる。1910年代以降の大型機関車には[[過熱蒸気]]を使用するようになった。
ボイラーの上部には蒸気圧が高くなりすぎたときに蒸気を逃がして圧力を下げる安全弁(万が一の故障を考慮して必ず複数が装備される)や、汽笛が装備されている。またボイラー内の水位を維持するために、水槽から新しい水を注水するための給水ポンプや[[インジェクタ|インゼクタ]](注水器)の2つが取付けられており、2つのルートからボイラーに水を送り込む仕組みとなっている。両者とも動力源にボイラーの蒸気を使用しているが、後者は蒸気溜からの配管から直接蒸気が送られる。また、ボイラー缶胴内に装備された注水パイプにより、均一に水を噴射させてボイラー内の水温にムラが出ないようにしている。中・大型機では注水の際に低温の水を注水する事でボイラー内の水が温度低下を起こし蒸気圧が下がるのを防止するため、一般に走行中は給水ポンプから給水温め器(蒸気室のシリンダーや補機類で使用された蒸気を引き通して水に熱を伝える熱交換器)を介してボイラーに注水し、走行中や絶気中はインゼクタを使用する<ref>[[#萩原1977|(萩原1977) p.102]]</ref>(なおインゼクタは冷水でないと給水できないのでこれだけを使う機関車では給水温め器の必要はない<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.306]]</ref>)。
なお、第二次世界大戦中のドイツで設計・製作された貨物用の52形では、軸配置1Eの大型機であったが構造簡素化による生産性の向上を目的としてインゼクタを複数搭載として従来のドイツ国鉄機で標準であった給水ポンプ+給水温め器の搭載が省略され、またイギリスのグレート・ウェスタン鉄道などではやはりインゼクタの複数搭載を標準としていたが、クラック弁と称する特殊な弁を使用することで、ボイラーに注水される水の温度が段階的に引き上げられる、つまり給水温め器を使用するのと同様の効果が得られるような機構を採用していた。
ボイラーの性能を表す指標として、'''蒸気圧力'''、'''飽和式'''か'''過熱式'''か、'''煙管・大煙管の太さと本数'''または'''煙管の総表面積(熱伝導面積)'''などが使用される。一般にボイラーでは圧力が高いほどエネルギー効率は上昇する(飽和式の場合は水に戻りにくくなるというメリットも生まれる)が、蒸気漏れなどに対する対策に高度な技術が必要となるのでそういった兼ね合いで上限値を定め、蒸気機関車の場合は構造上や運用の都合もあって据え置き式や船舶のボイラーなどと比較すれば低圧の部類に入る。<br>最初期の蒸気機関車では1829年のスチーブンソンの[[ロケット号]]が出場したレインヒルトライアルのルールが「(安全のため)ボイラ圧力は1平方インチ当たり50ポンド(約3.55気圧)以下」と非常に低圧で、その後鋳鉄技術の向上で1850年ごろには10気圧程度まで上がり、以下1870年代には鋼鉄製が一般化して11~12気圧、20世紀初頭には13~14気圧ぐらいでイギリスの場合では最盛期で17.7気圧(正確には「1平方インチ当たり250ポンド」)になった。他の国の場合はフランスは複式が多いので初期の圧力を高めにして20世紀初頭に16気圧、1930年代に20気圧のものが出始めこれが全盛期の標準。ドイツは過熱蒸気を早いうちに採用したので低圧でも飽和蒸気のような問題は起きないと保守を楽にするため、あまり圧力を上げずに第二次大戦前でも16気圧付近が上限で戦後の試作機10形の18気圧が最大で、これを手本にした日本も世界的には低圧気味<ref group="注釈">ただし、日本でも陸軍の鉄道大隊・[[鉄道連隊]]向けに1901年より製作が開始された[[日本陸軍鉄道連隊A/B形蒸気機関車|双合機関車]]では軸配置Cの8t級機関車を背中合わせに組み合わせた小型機関車であったが、既に15.5kg/cm<sup>2</sup>を標準採用していた。</ref>で明治初期のイギリスなどから輸入した機関車で8気圧前後から始まって順次昇圧したが最大で16気圧までにとどまっている(計画では18気圧のものもあった)。試験的なもの(水管式ボイラーを採用していた一部の試作機関車では、ボイラー圧力が100kg/cm<sup>2</sup>超えもあったが実用的に成功したものはない)を除くと高圧が多かったのは蒸気機関車全盛期のアメリカで、黎明期の19世紀中ごろ時点では7気圧とかなり低かったが1893年のNYCの999号([[:en:New York Central and Hudson River Railroad No. 999|New York Central and Hudson River Railroad No. 999]])が12.6気圧、その後他の国で圧力の進化が止まっても上昇を続け、第二次大戦中21気圧、戦後ノーフォーク&ウェスタン鉄道で22気圧を煙管式ボイラーで達している<ref>[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.101-102]]。</ref>。
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ファイル:A48steam dome & valve.jpg|A48の煙管と上部にある蒸気溜めと加減弁
ファイル:37385 boiler and superheater .jpg|過熱式蒸気機関車の煙室、通常の煙管のほかに、上部には煙管の中を通る過熱管が入り込んだ大煙管がある、右端に見えるのが煙突下部
ファイル:C61 20 safety valve.jpg|C61 20号機の安全弁
ファイル:C61 20 feed pump.JPG.jpg|C61 20号機の給水ポンプ
ファイル:D51 452 cab.jpg|青梅鉄道公園に保存されているD51 452号機の運転室にある各装置類(各部の詳しい説明は画像をクリックしてください)
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=== 煙室 ===
煙室は機関車の先頭部分にあり、ボイラー内の煙管を通過した燃焼ガスと蒸気室内のシリンダーでピストンの作動させた蒸気(排気ブラスト)が吐出管を介して入り、その後に上部にある煙突から両者が吐き出される所である。吐出管から勢い良く噴射した蒸気が、上部にある煙突に目がけて流れるため、霧吹きで水が吸い上げられるように、気圧差により内火室からの燃焼ガスを煙管を介して強制的に誘引することにより、内火室への空気流入量が増えて燃焼効率の向上を助ける働きを持っており、これを「ドラフト」という。
模索期の機関車と復水式の機関車ではドラフトに圧縮空気を使用するものもあったが、模索期の米仏にあった車軸からベルトでふいごを動かす装置では勾配(低速になる)でドラフトが弱まるという致命的な問題があったため、蒸気消費量が多くなるほどドラフトが強くなる排気ブラストを使用する方法を変えることはなく<ref>[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.24-25]]</ref>、復水式は蒸気を捨てずに水に戻して再使用する以上排気ブラストが使えないことから一部の蒸気でタービンを回してそれで車体前部では排気ブラストに変わってドラフトを起こし、テンダーでは蒸気を冷やして水に戻したが、このエネルギー分の燃料とメンテナンスの手間が増大したので、復水式自体が商業的に成功しなかった<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.299・430]]</ref>。
また、煙は上の煙管を通りやすいので燃焼ガスの流れを上下で均一にするため、加減反射板を装備して、蒸気の通過速度が一番速い煙室下部に迂回して燃焼ガスを導いており<ref name="名前なし-1">[[#萩原1977|(萩原1977) p.99]]</ref>、加減反射板は迂回の度合いを調整することが可能である。また、一部の機関車では、吐出管から出るの蒸気の噴射速度の調整ができるようになっている。また、惰性運転時での後述する絶気運転や停止中では、蒸気溜の加減弁が閉の状態のため、蒸気室のシリンダーにボイラーからの蒸気か送り込まれず、煙室内にドラフトを発生させるため、運転室の蒸気分解箱にある通風弁(ブロアバルブ)を開いて、蒸気を別にある通風管を介して煙室内に送り込み、煙突に向けて噴き出すことで、ドラフトを発生させて内火室からの燃焼ガスを煙管を介して誘引させている<ref name="名前なし-1"/>。
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ファイル:A48head2.jpg|煙室の構造、シリンダーで使われた蒸気は下部の白色の吐出管から煙突に吹き上げられる。煙突入口には火の粉よけのメッシュが装備されている
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=== 弁装置・シリンダー・コントロール装置 ===
[[File:Steam Locomotive run device.png|thumb|400px|蒸気機関車の走り装置(ワルシャート式)のモデル図<br />1弁室、2蒸気弁、3蒸気室、4弁心棒、5合併テコ、6心向棒、7加減リンク(中央の支点をモーション・プレートに固定)、8釣りリンク腕、9シリンダー室、10ピストン、11ピストンロッド、12滑り棒、13クロスヘッド、14主連棒、15偏心棒、16返りリンク、17連結棒。]]
機関車をスムーズに走らせるためには、シリンダーに送る蒸気の方向を適切に制御する必要があり、右側の'''弁装置''' により制御される。出力の制御は運転室にある加減弁ハンドル<ref group="注釈">レギュレータとも呼ばれている。</ref>と逆転機ハンドルによって制御される。加減弁ハンドルは、蒸気溜にある加減弁に引き棒で繋がっており、動かす事により蒸気溜から蒸気が乾燥管と主蒸気管を介して蒸気室に流れ、蒸気室内の2つの蒸気弁の間のある弁室を介して蒸気室前後に設けられた蒸気通路のどちらか一方を通って蒸気が送り込まれ、シリンダー室内のピストンを作動させる。蒸気が送り込まれたピストンの反対側の蒸気は、シリンダー室から蒸気が送り込まれた蒸気通路とは反対側の蒸気通路を通って蒸気室に戻り、蒸気室左右にある排気通路から吐出管に排出される。この動きを前後交互に行うことでシリンダー内のピストンを往復運動させることができる。シリンダー内のピストンを往復運動させる蒸気の給排気を行う蒸気室の蒸気弁は、ピストンとの間で90度の位相差で動いており、蒸気弁はピストンの動きを伝達して動かしている。力の伝達はピストンロット→クロスヘッド→合併テコ→蒸気弁の弁心棒とピストンロット→クロスヘッド→主連棒→返りリンク→偏心棒→加減リンク→心向棒→合併テコ→蒸気弁の弁心棒の2つの径路で伝達される。また、合併テコは2方向から伝達される力を合併する役割を持っており、それを介して蒸気弁を作動させる。また、発車時では、一気に加減弁を開けてしまうと、蒸気が一気にシリンダー内に入り、動輪が空転してしまうため、加減弁を徐々に開いていく操作を行う。惰性運転時には、加減弁を完全に閉じてシリンダー室に蒸気がまったく入ってこない状態にする(絶気運転とも呼んでいる)。
逆転機ハンドルは逆転棒と繋がっており、その先の釣りリンク腕と釣りリンクを介して心向棒と繋がっていて、さらに心向棒から加減リンクを通り蒸気室の蒸気弁と合併テコを介してクロスヘッドに繋がっている。逆転機ハンドルは回すことで、心向棒を介してシリンダー室上部にある蒸気室の蒸気弁を操作できるようになっている。蒸気機関車の速度制御は、蒸気溜にある加減弁での調整によっても可能であるが、実際の速度制御は、蒸気弁からシリンダーへの通路の開口部の開口率の変化によって行われる。その変化の動作に使用されるのが偏心棒、加減リンク、心向棒の3つであり、加減リンクは中央を支点としてモーション・プレートに取り付けられており、その下部に連結された偏心棒により、加減リンクが支点を中心として上部と下部で往復運動を行なって、心向棒と合併テコを介して蒸気弁の弁心棒に力を伝達する仕組みとなっている。心向棒の力点は、逆転機ハンドルにより加減リンク内を上下方向に動かすことが可能であり、加減リンクの支点に近い位置では、蒸気弁の往復運動の幅が小さくなり、加減リンクの支点から離れた位置では、蒸気弁の往復運動の幅が大きくなる。その幅の変化が開口率の変化となり、開口部の大きさと蒸気弁からシリンダーへの蒸気が入らないカットオフの時間が変化することで、シリンダーに入る蒸気量の調整を行い、シリンダー内の中のピストンが時々の状況に応じた速度に対応した往復運動をするようになっている(出発時は、心向棒を加減リンク中央から下に離れた位置に移動させて、開口率を大きくカットオフの時間を短くすることでシリンダー室に入る蒸気を多くして動輪の回転力を大きく回転数を小さくし、速度が上がるにつれて、心向棒を加減リンク下部から中央の位置に徐々に移動させて、開口率を小さくカットオフの時間を長くすることでシリンダー室に入る蒸気を少なくして動輪の回転力を小さく回転数を大きくする)。また、開口率は、80%-0%の間で表しており、全出力で80%、停止時や惰性運転時では0%としている。また、加減リンクは前進または後進の切り替えも行い、同じく逆転機ハンドルを回すことにより、心向棒を加減リンクの中央(支点の部分)から下に下げると前進、上に上げると後進となる(前後進の切替は停止時に行う)。その他に、発車時に常温まで冷えたシリンダー室に蒸気を送ると、蒸気の温度が下がり[[凝縮]]が発生してシリンダー室に水が溜まるため、溜まった水を排出するシリンダー排水弁や、蒸気室の前後をバイパス管で結びその中間に弁を設置し、惰性運転時に、逆転機ハンドルを操作して蒸気室とシリンダー室を結ぶ蒸気通路の開口率を80%にしてからその弁を開き、シリンダー室のピストンの前後の空気を行き来できるようにして、ピストンの空気抵抗を最小にするバイパス弁がある。
機関車の出力は最終的にはシリンダーの大きさ×数×蒸気圧力で決まる。カタログでは'''シリンダー直径×行程'''で示される。蒸気機関車の設計は、シリンダーで使用される蒸気量と、蒸気を作る能力(火室やボイラーの性能)がマッチするよう考慮される。
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ファイル:A48cylinder.jpg|A48のシリンダー部分の切断展示、ピストンは前端位置にある。
ファイル:C61 20 superstructure.jpg|C61 20号機の上部にある加減弁引き棒と加減弁につながる加減弁クランク。
ファイル:D51 452 cab no2.jpg| 青梅鉄道公園に保存されているD51 452号機の運転室にある各運転機器類。(各部の詳しい説明は画像をクリックしてください)
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=== 動輪・先輪・従輪 ===
気筒室で作られた往復運動は'''主連接棒'''(メインロッド)を通じて[[駆動輪|動輪]]に伝えられ、ここで最終的に回転運動におきかえられる。主連接棒と連結されている動輪を'''主動輪'''という。主動輪と他の動輪は'''連結棒'''(カップリングロッド)で連結されている。また左右の動輪は車軸で繋がっており、2シリンダー機の場合は連結棒を介して90度の角度でずらして主連接棒と連結されていて、それにより片方の気筒室内のピストンが前端または後端の死点に達してピストンの力がゼロになっても、もう片方のピストンの力が最大になるように動力伝達されている。
動輪以外に機関車に設置される車輪として'''[[先輪]]'''と'''[[従輪]]'''がある。先輪は動輪の前に設置され、カーブでのスムーズな方向転換に有効であり、機関車重量の一部を負担する効果もある。従輪は動輪より後ろに配置され、機関車後部の重量を受け持つ。大きな火室を必要とする高出力機では、小さな従輪の上に幅広の火室を装備する'''広火室'''タイプが採用された。
蒸気機関車の最高速度はシリンダーの往復速度と動輪の直径('''動輪径''')で決まる。すなわち巨大な[[クランク (機械要素)|クランク]]構造となっている蒸気機関車の動輪回転数は400[[rpm (単位)|rpm]]付近が限界<ref>『[[#久保田 (2005)|日本の鉄道史セミナー]]』p.136</ref>とされており、実際に各国の蒸気機関車の最高速度もほぼこの限界値近くにある<ref group="注釈">スピード記録などのための無理をして出した記録としては毎分500回転近くまで出したものもあり、イギリスではロンドン&ミッドランド鉄道ダッチェスクラス(4シリンダー)の480回転(1937年、[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.55]])、ロンドン&ノースイースタン鉄道A4クラス(3シリンダー)の530回転(1938年、[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.61]]。ただし中央クランクが損傷した)、アメリカのノーフォーク&ウェスタン鉄道のJ型(2シリンダー)の540回転([[#齋藤2018|(齋藤2018) p.81]])などがある。<br>フランスは最高時速120km制限の関係でここまで極端なのはなくパリ・オルレアン鉄道240.700形(4シリンダー)の430回転([[#齋藤2018|(齋藤2018) p.52]]。なおこれは試験時の特例で151km/hの速度限界超過の値。)、ドイツは高速回転化が進まず01<sup>10</sup>型の375回転程度([[#齋藤2018|(齋藤2018) p.71]])でそれを習った日本も回転数増加の流れには至ってない。なお回転数増加は走行装置の摩耗損傷の増加も招く上に(H.C.B. Rogers, Riddles and the 9Fs (Ian Allan, 1982))、内側にシリンダーがある場合は過熱による不具合まで起こしてしまう。[[リビオ・ダンテ・ポルタ]]と21世紀の技術で作られた[[w:en:LNER Peppercorn Class A1 60163 Tornado|A1 60163トルネード]]も過熱による呪縛から逃れられていない。</ref>。高速度が要求される蒸気機関車は当然大きな動輪径が設定される。
蒸気機関車に限らないが滑らかな鉄の車輪を鉄のレールの上で走らせるため、スリップ([[空転]])を起こしやすい<ref group="注釈">黎明期の機関車ではこれを危惧して通常の車輪は車体を支えるのみで動輪をギア状にしたブレキンソップや、足をつけて馬のように動かして走らせようとしたブラントン(どちらもイギリス人)といった例がある。[[#萩原1977|(萩原1977) p.178-179]]</ref>。重量のある列車を牽引する際に空転を防ぐためには動輪とレールの[[粘着式鉄道|粘着性]]を上げることが必要だが、手段としては全動輪にかかる重量を増やす方法がとられる。即ち動輪1対あたりの重量('''軸重''')を増やすか、動輪数を増やして'''動軸上重量'''を増やすの2種類の方法がある。動輪および前輪と従輪の配置や数('''軸配置''')は機関車の性能を決定する重要なファクターである([[車軸配置]]参照)。軸重の増加については[[軌道 (鉄道)|軌道]]の強化が必要であり、動輪数を増やす場合については機関車の長さの問題、急カーブ通過時の問題などが発生する。動輪数を増やしてカーブ対策を行った方式として、前後に複数の駆動システムを有する[[関節式機関車]]がある。
=== 補機類 ===
前記したボイラーに水を注水するための給水ポンプとインゼクタがボイラー横に搭載される他、蒸気機関車自体や牽引する客車のブレーキ装置を作動させる圧縮空気を作る目的でボイラー缶胴部横や煙室前面などに[[圧縮機|コンプレッサー]]を搭載している(イギリスなど真空ブレーキ式の国ではこれがなかった。空気ブレーキはアメリカで1869年に発明され1872年に直通から自動式に改良、米国では1893年に全列車に空気ブレーキが装備が義務付けられた。なお、日本では真空ブレーキが先(1891年)に導入されたが、勾配が多い日本では1920年代以後に連続使用が効く空気ブレーキ式に切り替えられた<ref>[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.133-116]]</ref>。)調圧器により自動的に作動しており、そこで作られた圧縮空気は繰出管を介して冷却されてボイラー横の元空気溜に蓄圧される。また、前照灯など電気装置やATSの保安装置などを使用する目的でタービン発電機がボイラー上部の運転室側に搭載される。コンプレッサーもタービン発電機もボイラーから運転室に取付けられた弁が付いた蒸気分配箱を介して送られた蒸気を動力源としており、これらの弁の操作により蒸気が送られて各種補機を作動させる<ref>[[#萩原1977|(萩原1977) p.102-103]]</ref>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%">
ファイル:C61 20 turbine generator.jpg|C61 20号機のタービン発電機
ファイル:C61 20 compressor.jpg|C61 20号機のコンプレッサー(空気圧縮機)
</gallery>
== 特徴 ==
=== 長所 ===
*多種類の燃料が使える。高熱量のものが望ましいが、石炭に限らずおよそ可燃物なら何でも使用可能。[[石炭]]以外の例として、石油の豊富な[[インドネシア]]などでは[[重油]]、東京ディズニーランドの[[ウエスタンリバー鉄道]]などでは灯油、軽便鉄道などでは[[薪]]、海外では[[草本|草]]・[[バガス]]などの例がある。第二次大戦中、燃料が高騰する一方で電力は[[水力発電]]で確保できていたスイスでは、蒸気機関車を[[スイス国鉄E3/3形蒸気機関車 (電気式)|電気加熱できるよう改造した例]]もある。
<!---*物理的に重量を抑える必要がある場合、[[電気機関車]]や[[ディーゼル機関車]]より軽量化できる。ただし、牽引力は劣る。--->
*耐用寿命が長い。通常約30年程度。それ以降の運転は大規模な修繕や部品交換([[オーバーホール]])が必要とされるが、電気機関車やディーゼル機関車に比べて、延命が容易。[[世界遺産]]でもある[[インド]]の[[ダージリン・ヒマラヤ鉄道]]で使用される[[イギリス]]製の蒸気機関車は、最古のもので110年にわたり使用されている。また車体そのものは動態保存が目的だが、車籍を有し現用の電車・気動車と同じ鉄道路線を走行(営業運転)することのできる機関車として、[[日本の鉄道|日本]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]]が保有する[[国鉄8620形蒸気機関車58654号機|58654(8620形)]]があり、これは[[1988年]](昭和63年)の復活運転以降ボイラーや台枠など多くの部品が交換されているものの、[[1922年]](大正11年)の製造から約90年を経過してなお運行を続けている。さらに正式な鉄道路線ではないものの、[[博物館明治村]]で動態保存され施設内で実際に乗車できる客車を牽引する旧[[名古屋鉄道]]12号(元[[国鉄160形蒸気機関車]]165号)に至っては、ボイラーは1985年(昭和60年)に新製されたものと交換されているが、[[1874年]](明治7年)の製造から130年以上が経過している。
*一時的な過負荷では故障しない。戦場における軍用鉄道などではこの利点がある。
=== 短所 ===
[[ファイル:Murii_forest_railway_locomotive_Type_18_(No.21).jpg|thumb|煙突から火の粉が飛んで山火事や火事をおこさせない機構が取り付けられた[[武利意森林鉄道18号形蒸気機関車]]]]
[[File:Kadode Station 06.jpg|thumb|煤煙に注意するよう促す看板。(大井川鉄道[[門出駅]]、2021年2月撮影)]]
*機構が簡単だが調整が難しく、雑な調整ではうまく走れない。したがって、修理作業に熟練を要する。もっとも工作精度の点では内燃機関よりも低くとも問題なく、むしろ一定以上の高精度で組み立てると動作しない場合すらある<ref group="注釈">第二次世界大戦中、南方戦線で日本軍が蒸気機関車を運用していた際に、鉄道車両に関する知識のない自動車技師出身の整備兵が内燃機関と同じ精度で蒸気機関車の各部品の整備・組み立てを行ったところ全く動作せず、精度を落として(各可動部に意図的に遊びを設けて)再組み立てしてようやく動作した、という逸話が残っている。</ref><ref group="注釈" name="seibi">電車・電気機関車は制御器の接点の調整に熟練を要し、上手くあっていないとノッチ進段時の衝動が大きくなったりするほか、酷いときには高速度遮断器が作動して運転不可能になる事例もあった。また気動車・ディーゼル機関車はディーゼルエンジンそのものが蒸気機関に比べてはるかに複雑で部品点数が多く、やはり整備には熟練と専門知識を要した。これらが劇的に解消されるのは、電気車では[[可変電圧可変周波制御|VVVFインバータ]]制御が一般化し、内燃機関車では大型高速ディーゼル機関のメンテナンスフリー化が進んでからである。</ref>。
*電気機関車やディーゼル機関車より燃費効率が悪く、牽引力も弱い。蒸気機関車の[[熱効率]]は10%程度といわれ、ディーゼル機関車の熱効率35%程度に比べてかなり劣る
*高速運転できない。一般的な構造を備える蒸気機関車の速度は、動輪の直径とシリンダーの往復速度に比例するため、シリンダーの往復速度を速く、また動輪径を大きくするほど高速運転が可能となる。しかしシリンダーの往復速度の上限は、シリンダーとそれを支える台枠の剛性や強度、それにシリンダーやロッドなどの慣性質量に依存することから、ホイールベースが長く高速走行をする機関車ほど振動が激しくなり<ref group="注釈">極端な例だが、ソ連の[[:en:4-14-4#AA20|AA20]]形は直径1600mmの動輪が7軸もあり、非常にホイールベースが長かった結果、時速70kmで振動が激しくなったのでこれが最高速度とされた。[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.75]]</ref>、通常の構造では一定の速度以上への引き上げは難しい<ref group="注釈">なお、この振動は前後と上下の2つがあるのでウェイトをつけてもどちらか片方しか修正できず([[ハンマーブロー]]参照)、多気筒にすることである程度抑えられる。[[#齋藤2018|(齋藤2018) 「第4章 回転数アップ」P.48-65]]。)<br>もっとも電気機関車や電気式ディーゼル機関車の場合もモーター重量を直接動輪軸にかける形式([[吊り掛け駆動方式|吊りかけ式]]など)でモーターが重い時代の頃はハンマーブローこそないものの([[鉄道車両の台車#ばね下重量・ばね間重量|ばね下重量]]が蒸気機関車以上に重いので)結局高速走行時には堅固な軌道が求められた[[#ウェストウッド2010|(ウェストウッド2010) p.192]]<br>(注:ウェストウッド著『世界の鉄道の歴史図鑑』の原文では「ディーゼル機関車」の項でこの説明があるが、電気式の足回りは電気機関車と同じな上、直後に「スイスの電気機関車で車体側でモーターを支えてこの問題を解決した話」があるので電気機関車も含んでの話と判断した。)</ref>。また動輪径についても、動輪の後方で従輪で火室を支えたり、ボイラー下に火室や動輪がこない[[ガーラット式機関車|ガーラット式]]などの構造である程度カバーはできるものの、大径化に伴いボイラーや火室の邪魔になる他、軌間(レールの幅)を大幅に越えると一般に重心が高くなるため走行が不安定になり、危険である。このため標準軌でも実用になったのは7 - 8フィート(2135 - 2440mm)付近(20世紀に入ってからは7フィート以下が普通)であり<ref>[[#齋藤2018|(齋藤2018) 「第3章 より速く走るために」P.40-47]]</ref>、これ以上に大径の動輪は実験的なものである。<br>蒸気機関車の最高速度は、[[狭軌]] (1067mm) では1954年に日本の[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形17号機]]が129km/hを記録し、標準軌 (1435mm) では1936年にドイツの05形が、1938年にイギリスのLNER A4がそれぞれ時速200kmをわずかに超えた速度を記録している。しかし[[LNER A4形蒸気機関車|LNER A4]]はページにある通り無理やりに速度を出した場合の数値である。C62はまだまだ余力を残しており10‰勾配と曲線を超え木曽川橋梁から岐阜へ向かえば140km/hは出せていた<ref>[[#蒸気機関車EX Vol.4|蒸気機関車EX Vol.4 P71]]</ref>。C62の営業列車で120㎞/h以上(速度計の数値は120㎞/hまでしか書かれていない)の速度を出す機関士もおり<ref>[[#蒸気機関車EX Vol.4|蒸気機関車EX Vol.4 PP68-69]]</ref>、他の機種でも戦時中の若い機関士を中心に客車を引っ張って129km/h以上を出すこともあった<ref>[[#蒸気機関車EX Vol.4|蒸気機関車EX Vol.4 P70]]</ref>。
:営業最高速度は日本と同じ1067mm軌間ではインドネシア(1000形=C53形)やニュージーランド(Ka形([[:en:NZR KA class]])の時速120km前後が最高(日本は前述のとおり130km/hほどの速度を出すこともあったが[[600メートル条項]]の建前上時速100km程度)である<ref>[[#齋藤2018|(齋藤2018) P83・194-195]]</ref>。なお[[:id:Lokomotif_C53 | インドネシア(1000形=C53形)]]は90kmほどで機関車が手に負えないほど振動が激しくなり、1931年に試験目的で100kmを出してみたところ更に激しく揺れたため最高速度は90kmに制限されており<ref>[https://kereta-api.info/c28-dan-c53-loko-uap-tercepat-di-indonesia-351.htm C28 dan C53, Loko Uap Tercepat di Indonesia]Kereta Api</ref><ref>[https://heritage.kereta-api.co.id/page/Lokomotif%20C53 Lokomotif C53]Heritage - Kereta Api Indonesia</ref>、120kmの営業運転がされていたという記述は信憑性が全く無い。インドネシアの最速機関車は110㎞の記録を出した[[:id:Lokomotif C28|C28タンク機関車]]で短距離高速列車を90kmから95kmの営業最高速度で運転していた<ref>{{Cite web |url=https://heritage.kereta-api.co.id/page/Lokomotif%20C28|title=Lokomotif C28 |accessdate=2021-12-14}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://p2k.unimus.ac.id/id1/2-3040-2937/C28_85130_p2k-unimus.html|title=WORLD ENCYCLOPEDIY C28|accessdate=2021-12-14}}</ref>。さらにニュージーランドKa形についても[[:en:NZR JA class | 同国のJA形]]が120kmを超えた逸話<ref>Engine Pass - New Zealand Railways P169 David Bruce Leitch 著 A.H.&A.W. Reed 発行 1967年</ref>と混同しており、蒸気機関車時代の営業運転速度は120kmどころか50マイル(80.5 km/ h)である。またニュージーランド最速記録は[[:en:NZR RM class (Vulcan)|英国から輸入したレールバス]]の125.5kmであり<ref>Vulcan Railcars in New Zealand P7 Neill J. Cooper 著 New Zealand Railway and Locomotive SocietyIncorporated 発行 1981年</ref>、それに迫る速度で営業運転をしていたことになる。標準軌でも、前述の最高速度記録を持つイギリスのLNER A4は、通常運行では安全面から時速90マイル(145km)ほどである(ドイツの05形に至っては車両自体が高速性特化で牽引力が低いため4から5両程度の客車しか引けずに量産されてない)<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.288-289・327]]</ref>。一方こういった問題のない電気運転の場合は、1903年にすでに時速200kmを突破した記録がある。([[高速鉄道の最高速度記録の歴史]]も参照)
*低速においても、鉱物などの大量輸送で見かけるような時速20-40km程度では、本来の力を発揮できない<ref group="注釈">低速で動く出発時や加速時にこそ大出力が欲しいのに、その時蒸気機関車は全力の半分ほどしか出せない。参考までにいうとアメリカのユニオンパシフィック鉄道4000型(ビッグボーイ)は時速70マイル(112km)時に1万馬力の出力をシリンダーは出せたが、時速35マイル(56km)では6200馬力、時速20マイルでは5200馬力しか出せなかった。[[#ロス2007|(ロス2007) p.193]])
</ref>。これは構造にもよるが、蒸気機関車は通常時速50kmから100kmで最高出力となるためでなので、時速15kmほどから強力な牽引力が発揮できるうえ、トルクの変動(空転の原因になる)もなく、機関車重量すべてを粘着重量にとれる電気式ディーゼルの方が圧倒的に有利<ref name="名前なし-2">[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.436-437]]</ref>。
*始動に時間がかかる。煙缶式ボイラーが完全に冷え切った状態の場合、火入れ・蒸気の発生に数時間前から作業開始する必要がある。また走行終了後も石炭ガラの廃棄などの作業が必要。
*電気機関車やディーゼル機関車の場合1人でも運転可能であるが、蒸気機関車の運転には、走行操作をする[[動力車操縦者|機関士]]とボイラーに水や石炭を送る操作をする[[火夫|機関助士]]の2人が必要となるため、2倍の人員を必要とする。後年[[自動給炭機|自動給炭]]が可能なものも登場したが、機関助士の乗務を不要とするには至っていない。また、電気機関車やディーゼル機関車は[[重連運転]]の場合先頭車にだけ運転士が乗っていればよいが、蒸気機関車の場合は重連で四人、三重連だと六人の人員が必要になる<ref>[[石井幸孝]]「[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51]]物語」P95、[[JTBパブリッシング]]、2004年</ref>。なお、燃料を石油だけにすれば1人でも運転可能ということにはなるが<ref group="注釈">[[王立バイエルン邦有鉄道PtL2/2型蒸気機関車]]は石炭焚きでの数少ない1人乗務形の形式である。</ref>、他の欠点を補えるわけではないので、そのような時代が来る前に電気機関車・ディーゼル機関車の時代になった。
*高温を発するボイラーを稼動させるために、[[運転士]](機関士、機関助士)が過酷な労働を強いられる<ref name="名前なし-3">[[#萩原1977|(萩原1977) p.173]]</ref>。とりわけ夏季の高温環境における石炭投入などの重労働、冬季の寒気や雪の吹きさらしによる肉体的負担が挙げられる。
*前方視界が悪い。構造上大型のボイラーを前方に配置せざるを得ず、結果線路上の障害物や軌道の損傷の発見も遅れて、大事故に結びつきやすい。
*性能が条件により変化し、一定しない(燃料の発熱量、タンク機関車の場合は燃料と水の使用に伴う[[軸重]]の変化も影響する<ref group="注釈">ディーゼル機関車も燃料消費で軽くはなるが、水を大量に消費する蒸気機関車ほどは大きく変動はしない。</ref>)。
<!--
*急激な出力の調整が困難。出力を減らすには蒸気を排気すれば比較的容易であるが、再度出力上がるためには時間が必要。
--><!-- ボイラ圧と出力を混同しているのでは? -->
*大量の煤煙・ガスを排出するのでトンネルでは窓を開けられない(この関係で山国では早くから電化が進んでいることが多い)<ref>[[#萩原1977|(萩原1977) p.172]]</ref>。日本国内では急勾配と長大なトンネルが多く、統計によると1931年(昭和6年)から1941年(昭和16年)までにトンネル内での乗務員事故36名、犠牲者2名を出している。[[狩勝トンネル]]では[[国鉄9600形蒸気機関車|9600形]]の乗務で事故や犠牲者が出ており安全衛生の改善を発端に[[狩勝トンネル#狩勝トンネル争議|争議が発生した]]<ref>高桑 榮松 蒸気機関車運転室(キャブ)内労働衛生調査と事故防止対策 狩勝トンネル争議</ref>。1928年には、急勾配のため従来から立ち往生や逆行を起こしていた<ref>[https://www.rikou.ryukoku.ac.jp/images/journal62/RJ62-03.pdf 続・滋賀の技術小史]</ref>[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]二両が牽引する貨物列車がトンネルで空転を起こし、救援に向かった列車も立ち往生してしまい全員が窒息による危篤状態に陥り、3名(5名説もあり)が死亡、12名が昏倒する悲惨な事故が起きている<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1212/07/news013_3.html 杉山淳一の時事日想 鉄道のトンネルは、安全なのか]</ref>。
*煙の火の粉が線路周囲の森林や草・家屋などに燃え移ることにより、時として[[山火事]]や火事が起きる<ref>{{Cite web |url=https://www.tribuneindia.com/news/archive/himachal/steam-engine-causes-forest-fire-villagers-enraged-557370 |title=Steam engine causes forest fire, villagers enraged |access-date=2022-10-30 |last=Service |first=Tribune News |website=Tribuneindia News Service |language=en}}</ref><ref>{{Cite journal |last=茗荷 |first=傑 |date=2009 |title=浅間山麓六里ヶ原周辺の土地機能回復過程に関する考察 |url=https://doi.org/10.14866/ajg.2009s.0.9.0 |publisher=公益社団法人 日本地理学会 |language=ja |doi=10.14866/ajg.2009s.0.9.0}}</ref>。藁葺きや木の屋根が普通であった時代には火災が多発し、これによる[[鉄道と政治#鉄道忌避伝説|鉄道忌避伝説]]もある。
*保守に手がかかる<ref group="注釈" name="seibi" />。
**摩耗部分が多く、日本の場合約39万km走るとオーバーホールしていた(同時期の電車や電気機関車は80万kmほどでオーバーホール)<ref name="名前なし-3"/>。
**ボイラー部などの熱・高圧疲労・耐用年数による老朽化。
**水垢の蓄積。
<!--**国鉄の蒸気機関車全廃による機構部品の生産終了。日本国鉄独自の問題なのでコメントアウト-->
<!--*コンプレッサー、給水ポンプなど稼動の多い付属品では交換が多く部品が不足する。//補器類の整備が必要なのは蒸気動力車に限ったものではないのでは?-->
*燃料と水を補給する必要があり、大型機では約100kmごとに補給が必要。そのため、駅や機関区などに水・石炭などの補給や、使用済みの石炭ガラ処理用の大型設備が必要となる。また、電気機関車などのように1000km程度の長距離を乗務員の交代のみで運転することはできず、機関車の所要数が増える。
*機関車そのもので蒸気を発生させて走るため性能の発揮に熟練が必要。とりわけ特急列車のような「計算上の最大出力を出さねばダイヤが維持できない」列車の場合、石炭や水の使用効率のことも考えると特に技量の高い機関士・機関助士を必要とする<ref>「鉄道ファン」2003年12月号P108
、西村勇夫の寄稿。「特急乗りには望みもないが、せめてなりたや局長に」ということまで当時の国鉄内部では言われていたという。</ref>。
*設計上逆向き運転が考慮されておらず、[[転車台]]・[[デルタ線]]・[[ループ線]]など方向転換のための設備を必要とする。ただし、後年には[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]や[[国鉄C56形蒸気機関車|C56形]]など逆向き運転が容易な形式も出現した。また、石油だけを燃料とするなら必ずしも運転席をボイラーと炭水車との間に設ける必要はないので、理論的には逆向き運転も容易になる。
こうした理由で、ディーゼル機関車の発展が早かった米国では1930年代頃から蒸気機関車に挑戦するようになり、1946年の調査では、蒸気機関車が得意な特急牽引(蒸気機関車は低速だと全力が出せない)の仕事でさえ、NYCのナイヤガラ特急牽引機で比較した結果、初期コストと運用コストのいずれにおいても蒸気機関車と(電気式)ディーゼル機関車がほぼ同じ経済性とされるほどになっていた。1950年代に至っては、大半の鉄道会社がゼネラルモーターズ(GM)やゼネラルエレクトリック(GE)のディーゼル機関車に置き替えていた<ref name="名前なし-2"/>。
フランスでは技師たちの努力により、個々の性能ではディーゼル機関車どころか、1952年にパリ‐リヨン間の電化区間で主力になる予定だった電気機関車(パリ・オルレアン鉄道から引き継いだ機関車の改良型、3900馬力)よりも大馬力の蒸気機関車まで存在した。しかし電化の方が将来性があるとして、1948年から蒸気機関車新造を打ち切っており、これ以後は改造機もほとんどない<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.370・374-375]]</ref>。
日本でも新造は1948年のE10か改造名義だが実質新規製造のC62(1949年)までで、1950年代は従輪の付け替え程度の改造にとどめていた。その後国鉄は「[[動力近代化計画]]」として[[1960年]](昭和35年)の会計年度より蒸気機関車を15年で全廃する計画を立て、[[鉄道の電化|電化]]やディーゼル化を推進した。そして[[梅小路蒸気機関車館]]に保存された車両を除き、予定通り[[1975年]](昭和50年)の年度末となる[[1976年]](昭和51年)3月に完了させた<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.274-275]]</ref>。
ドイツでも戦後量産されたのは、3000両以上ある[[プロイセン邦有鉄道P8型蒸気機関車|プロイセンP8型]]の置き換え用として戦前に計画された、2-6-2プレイリーの23形だけであり、1959年末の製造終了をもって、ドイツ国鉄(DB)における蒸気機関車の新造は打ち切られた(東ドイツのDRでは改造機も含めるともう少し製造を行っており、ベルリンの壁崩壊まで残存の機関車もいた。)<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.299-304]]</ref>。
イギリスは、先進国の中では最も長く蒸気機関車の製造を続けており、1950年代にも完全新設計の機関車が新造されていたが、イギリス国鉄(BR)は1960年の貨物用2-10-0イブニングスターを最後に蒸気機関車の製造を打ち切り、1968年には蒸気機関車の商業運行を打ち切った<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.338-342]]</ref>。
== 蒸気機関車の分類 ==
=== 駆動方式による分類 ===
; [[ピストン]]式
: 蒸気の圧力を[[シリンダー]]に導きピストンを作動させることで往復運動に変換し、その往復運動で動輪を駆動する方式で、広く普及した。
; [[タービン]]式
: 蒸気の圧力を[[蒸気タービン]]に導き、[[回転運動]]に直接変換する方式である。タービンで発生した回転運動はギアやロッドにより間接的に動輪に伝達される。 詳細は[[蒸気タービン機関車]]を参照。
; [[発電]]式
: 車上の[[ボイラー]]で発生させた蒸気を、蒸気タービンや多気筒式蒸気エンジンに導き電力を発生させ、電気モーターにより駆動する方式である。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などに存在したが、試作段階にとどまった。一見するとディーゼル機関車のようで、とうてい蒸気機関車には見えないものが存在する。
=== 動力伝達方式での分類 ===
; ロッド式
: ピストンの往復運動をロッドで直接的に動輪に伝達する方式。シリンダーとメインロッドと動輪そのものが[[レシプロエンジン]]を構成するが、通常はレシプロという用語を用いない。ほとんどの蒸気機関車がこの方式を採用している。
; 歯車式
: ピストンの往復運動を回転運動に変換し、その回転運動を[[歯車]]により間接的に動輪に伝達する方式、もしくはピストンの往復運動を[[クランクシャフト]]で回転運動に変え、シャフトとギアで[[動輪]]に伝達する方式。蒸気機関車の始祖とでもいうべき[[リチャード・トレビシック|トレビシック]]の機関車は前者の方式だったが、当時の技術ではギアの高速回転ができず、本人自ら4号機の「Catch me who can」では歯車を排してしまっている。後者はギアードロコとしてそこそこ使われた方式で詳しくは[[ギアードロコ]]の項を参照。
; チェーン式
: ピストンの往復運動を回転運動に変換し、その回転運動を[[チェーン]]{{要曖昧さ回避|date=2023年7月}}により間接的に動輪に伝達する方式。[[自転車]]と似た原理である。ロッドを動輪に接続する必要がないため構造が簡便であるが、信頼性やチェーンの耐久性が低く普及しなかった。後述する[[#関節式機関車|バヴァリア号]]や、アメリカの[[森林鉄道]]でハンドメイドされた一部の車両がこの方式を採用している。
; 摩擦式
: 動輪を上下2段に付け、上段の動輪をシリンダーで駆動し、下段の無動力の車輪を摩擦により間接的に駆動する方式。歯車比の理論を当てはめて考案されたもので、速度を上げる場合は上段を大きく、下段を小さくし、牽引力を上げる場合には上段を小さく、下段を大きくするという物であるが、実際には成果を上げず摩擦機構の問題も多かったため実用化しなかった。主な形式は[[1876年]]ドイツのエルザス=ロートリンゲン鉄道向けに製造されたものであり、D7形451号「ファゾルト」という形式を与えられ[[1906年]]まで在籍していた。上段と下段の車輪径の比率は1:3で、牽引力を重視したため最高速度はわずか時速10kmだった。のちに似た方式をアメリカのホールマンとユージーン・フォンテインがそれぞれ考案している。
; 独立駆動式
: V字型の蒸気エンジン1基を1つの動輪に直結させ、直接動輪を回転させる方式。各動輪間は連結されておらず、ロッド式のような重い可動部を持たない。静粛性や高速走行に優れる反面、引き出し時などに空転が起こりやすい欠点があった。[[ヘンシェル]]が製造した[[ドイツ国鉄19.10形蒸気機関車]]が代表例であるが、実用化された時期が遅く、ディーゼル機関車の台頭期と重なったこともあって量産されず、短期間の運行のみに終わった。
=== エネルギー源による分類 ===
; 化学燃料(有機燃料)
: [[石炭]]や[[コークス]]、[[重油]]などの[[化石燃料]]、その他薪や[[ガス燃料|ガス]]などの[[炭素]]資源を燃焼させることにより熱エネルギーを発生させ、これによりボイラー内の水を沸騰させて[[蒸気]]を得る方式である。蒸気機関車のほとんどがこの方式で、燃料には主に石炭、コークスが用いられる。旧国鉄の制式機では蒸気機関車時代の後期に補助重油タンクを装備し、勾配区間などパワーが必要な際に重油を投入したほか、[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]の127号機が重油のみを燃料とする重油専燃機に改造されたことで知られている。日本国外では[[ドイツ連邦鉄道]]がこの方式に積極的であったことが知られ、世界的には重油専燃機がある程度普及した。[[タイ王国|タイ]]などの[[東南アジア]]各国では薪が多く使われた。変わった例としては、東南アジアの製糖工場で、砂糖の原料となる[[サトウキビ]]の絞りかす([[バガス]])を機関車の燃料として用いた例が多くある。
; 圧力の外部供給
: ボイラーを有さず、外部から熱水とともに高圧蒸気を供給し、それをタンク内に蓄圧してピストンを駆動する方式を[[無火機関車]](ファイアレス)と呼ぶ。一般的に蓄圧に2 - 3時間以上を要するにもかかわらず、その走行可能距離は著しく短いが、火を使わず煤煙なども一切出さないため、火気厳禁の産業施設などで使用された。また、高圧蒸気と熱水の代わりに圧搾空気を用いた[[圧搾空気機関車]]や、走行可能な距離が短いという欠点を改善するために、[[アンモニア]]や[[水酸化ナトリウム|苛性ソーダ]]などの化学薬品を使用する車両も製作された。日本では無火機関車が[[1963年]]まで[[日本製鉄九州製鉄所八幡地区|八幡製鐵]]構内で数多く使われていたほか、[[浜川崎駅]]から分岐するシェル石油(現在の[[昭和シェル石油]])の精油所引き込み線で[[1960年代]]まで使用されていたことが知られている。生まれながらの無火機関車ではないが、群馬県の「ホテルSL」(元・[[SLホテル]])や栃木県の「SLキューロク館」、鳥取県の[[若桜駅]]では静態保存されていた蒸気機関車の動力部などを整備し、圧搾空気を使って短い距離を走行させるというユニークな試みを行っている。日本国外でも観光用としての活動が伝えられており([[ドイツ]]の[[マンハイム]]の産業博物館など)、そのほか現在も[[南アメリカ|南米]]などで商業用として稼動している可能性がある。
; 電力
: [[架線]]から運転台天井部に取り付けた[[集電装置|パンタグラフ]]で集電し、その電気エネルギーでボイラー内の水を沸騰させて蒸気を得るという機関車がスイスに存在した。これは[[スイス連邦鉄道|SBB(スイス国鉄)]]の[[スイス国鉄E3/3形蒸気機関車 (電気式)|E3/3形]]と呼ばれる軸配置0-6-0の入れ替え用タンク機関車であり、[[第二次世界大戦]]中の石炭の入手難に対応すべく2両が試作されたものである。この形式の場合、電気を動力源(熱源)としているが、[[電動機]]や[[電磁石]]など、電気のみによって駆動力を得ているわけではなく、電力はあくまで熱源としてボイラーの加熱にのみ用いられ、最終的には蒸気で動輪を駆動するため、電気機関車ではなく蒸気機関車に分類される。
; [[原子力機関車|原子力]]
: 搭載した[[原子炉]]で蒸気を発生させ、蒸気タービンで発電しモーターを駆動する方式で、[[#駆動方式による分類|発電式機関車]]の一種である。主に[[1950年代]]と[[1970年代]]に計画されたが、重量が極端に大きくなる、放射能漏れの危険性があるなどの問題により、実現した例はなかった。
:; [[アメリカ合衆国|アメリカ]]
:: GE製のガスタービン機関車を改造する予定であった。
:; [[ソビエト連邦|ソ連]]
:: TE-3型ディーゼル機関車を改造する予定であり、1970年代には超広軌の巨大な機関車が計画された。
:; 旧[[西ドイツ]]
:: V200形ディーゼル機関車を2両連結に改造する予定であった。
:; [[日本]]
:: 昭和30年代に[[鉄道技術研究所]]により、AH101という形式が計画された(形式のAはAtomicの略であると思われる)。
:
; [[ハイブリッド]]
: 蒸気機関とディーゼル機関を両方搭載した、[[蒸気ディーゼルハイブリッド機関車|ハイブリッド方式の機関車]]が試作された。[[1926年]]にイギリスのキトソン社がスティル社のディーゼルエンジンを使用して[[ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道]]向けに試作機が製造され、[[1934年]]まで試験が行われたが、ボイラーなどに問題が多く実用化しなかった。ソビエトでは戦前から戦後にかけて[[:ru:Теплопаровоз|いくつかの試作機]]が製造されたがどれも成功せずに終わっている。
=== ボイラーによる分類 ===
; 煙管式
: 円筒形の水缶に、缶を貫通する多数の細管による伝熱部を設け、火室で発生した燃焼ガスをこの細管に誘導する。燃焼ガスの熱エネルギーによって水缶内に湛えられた水を沸騰させることで、高温高圧の蒸気を得る。そのバレル部分の構造の複雑さなどから高圧化が難しく、また清掃にも手間がかかる。鉄道車両では一般に10気圧から20気圧程度の範囲のボイラー圧力で使用される。以下の二種に大別される。
:; <span id="飽和式">飽和式</span>
:: ボイラーで発生させた蒸気([[水蒸気#飽和蒸気と過熱蒸気|飽和蒸気]])を直接シリンダーへ導く方式。蒸気の膨張により温度が下がると水滴が凝結した。蒸気の持つエネルギーが少なく、効率もよくない。
:; 過熱式
:: ボイラーで発生させた蒸気を、過熱管寄せを介して細いパイプ(過熱管)で煙管内に導き再度加熱してできた過熱蒸気を使用する方式。飽和式に比べ効率がよく、蒸気機関車の出力向上や水・石炭の消費量の節約に大きく貢献した。理論上での提案はされていたが、高温の蒸気を使用するため、シリンダー潤滑油が改良されるまで実用化できなかった。
:
; 水管式
: 火室に伝熱管を設け、火室で発生した熱エネルギーを直接この管に伝え、その中に通された水を沸騰させることで高温高圧の蒸気を得る。煙管式と比較して熱効率や始動性に優れ、高圧化が容易という特徴があり、鉄道車両では100気圧程度のボイラー圧力を実現したものも存在した。ただし煙管式と比較して保持する水量が少なく応答が鋭敏な分、適切な出力を安定的に得るには燃料や水の供給、燃焼の制御を高精度に行う必要があり、また振動に弱く高圧がかかる水管や補機の保守が難しいという問題を抱えている。このため、大きな振動が発生するレシプロ式の駆動系を備える蒸気機関車では、一般に普及することはなかった<ref group="注釈">振動の問題の少ない船舶では軍艦を中心に1910年代以降急速に普及した。そのため、船舶用として安定した性能を発揮していた機種を機関車用として転用することが再三に渡って試みられた。日本でも、帝国海軍の艦船用[[艦本式ボイラー]]の原型となった宮原式水管缶を機関車に搭載する事例が、1910年代中盤にいくつか存在した。しかし、レシプロ駆動系を備える鉄道車両用動力源としての水管式ボイラーは、コンパクト化が強く求められ、また軽負荷でもあった蒸気動車用を除くと、この宮原式の事例を含むほぼ全てが量産・実用段階に到達せずに終わっている。</ref>。
; フランコ・クロスティ式
: 給水加熱器を、使用済蒸気と共にボイラーからの燃焼ガスも利用するよう強化し、給水の温度を高めることで、熱効率の向上を図ったもの。
{{main|フランコ・クロスティ式ボイラー}}
=== 火室による分類 ===
; 狭火室
: 火室の幅が線路の幅より狭く動輪間の台枠内にそのまま収めたもの。台枠設計をシンプルにできるというメリットがある他、動輪の間に置かれるので安定性もよい。車輪のバックゲージの問題から台枠の幅が狭くなる狭軌で、しかも使用炭の品質も世界的な水準から見て良好とは言いがたかった日本では、大型機関車にこの方式を採用すると十分な火格子面積=火力が確保できず、高出力化の障害となった。それに対し、標準軌間を採用し、高発熱量かつ灰分の少ない良質炭の入手が容易であったイギリス、特に傑出した品質で知られたカーディフ炭を産出するウェールズ地方が沿線にあった[[グレート・ウェスタン鉄道]]などでは、狭火室でも他鉄道における広火室に匹敵するかこれを凌駕する性能が得られたことから、この方式を蒸気機関車時代の最後まで採用しているほか、フランスでは火床前方に急に傾斜させて石炭が奥の方まで崩れ落ちるようにして、狭火室だが前後の長さを取ることで火格子面積を確保した240形([[フランス国鉄240P型蒸気機関車]])の例がある<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.357]]</ref>。
; 広火室
: 火室の幅を線路の幅より広くした、近代の大型機では一般的な方式である。広い火格子面積を確保できるため、特に低品質炭を常用せざるを得ない各国・各鉄道で蒸気機関車の出力向上に大きく貢献した。なお、そのまま火室の幅を広げると動輪が邪魔になるので、通常は以下の4つの手法を取られる。
* 後方2つの動輪の間をあけて火室を落とし込む方式。
* 動輪の上に火室をそのまま上乗せで配置する方式。
* 動輪の後ろで台枠を拡幅してこれを支える従台車を置き、そこに火室を配置する方式。
* 火室を動輪の後ろに突き出すが支えないでオーバーハング状態にする方式。
: 日本では[[国鉄5830形蒸気機関車|5830形]]が1番目、[[国鉄8850形蒸気機関車|8850形]]が2番目、[[国鉄8900形蒸気機関車|8900形]]が3番目にそれぞれ該当するが、1番目は「動輪のホイールベースが伸びて曲線通過の悪影響やサイドロッドの重量がかさむ」、2番目は「重心が上がり、特に大動輪の機関車では安定性が悪くなる。」、3番目は「全長が長くなる。また、列車牽き出し時の後方への重心移動により、本来は動輪にかかるべき荷重が従輪にかかるようになるため、特に列車出発時に空転が生じやすくなる。」といった一長一短な要素を持っている。なお4番目のオーバーハングさせる方式は速度を上げるとピッチングが激しくなる<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.67]]</ref>ため、日本では採用されてない<ref group="注釈">外国では入替機関車({{lang-en|[[:en:USRA 0-6-0|USRA 0-6-0]]}}など)などに使われたことがある。</ref>。
:; 燃焼室の設置
:: 本来は19世紀の米国で石炭から出るガスと空気をよく混ぜて燃やそう<ref group="注釈">この時代は火室のレンガアーチもまだなく、炎はそのまま煙管に向かって伸びていた。</ref>という発想で設けられた仕組みなのでこの名前だが、当時の小さく短いボイラーでは伝熱面積の減少による悪影響の方が大きく、火の粉が逆に出やすくなって一度は廃れ、20世紀になってボイラー大型化に伴う通風の悪化の改善のため復活したものである<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.108-109]]</ref>。
::蒸気機関車の燃料として最も望ましい[[瀝青炭]]の燃焼時の炎は長く、火室内では収まりきらないので、火室前方に副室を設けこれを燃焼室と呼んだ。燃焼室を設けることにより高温の炎からの輻射熱を十分に吸収でき、効率が向上した。また、燃焼時間が長くなったことにより煤煙の発生が減少し、煙管の詰まりも防がれた。外見から燃焼室の有無を知るには火室の前方にも洗口栓があるかどうかを調べればよい。日本の国鉄では[[国鉄C52形蒸気機関車|8200形]]製造時に導入のチャンスがあり、またメーカー側も推奨していたが、通常の火室ですら修繕に悩まされている現状で複雑な腐食箇所が多い火室となるのが欠点とされた。<ref>多賀祐重「機関車鮭の煙管の長さに就て」『業務研究資料』第15巻第7. 号,1927年</ref>このため、鉄道省の中にも[[島秀雄]]のように効果を評価<ref>幻の国鉄車両 P32</ref>する者がいたにもかかわらず、戦時設計で極限性能発揮が求められた[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]まで採用されなかった。だが、戦時設計の粗雑な製造という悪条件も重なり、燃焼室で破裂事故(D52 73 昭和19年 5月 14日山陽線大久保-土山間において破裂、D52 83 昭和19年 6月 30日 山陽線万富駅にて破裂、D52 209 昭和20年 10月 19日 東海道線醒ケ井駅にて破裂)を起こし<ref>鉄道技術発達史 第4篇P.340</ref>、D52に対する悪評の一因ともなった。余談だが同じ戦時型でも[[アメリカ陸軍輸送部隊S118型蒸気機関車|S118]]や[[アメリカ陸軍輸送部隊S160型蒸気機関車|S160]]などは燃焼室を装備せず極限性能ではなく製造を優先した設計思想も存在する<ref>[https://jdhsmith.math.iastate.edu/term/slusatc.htm USATC steam locomotives]</ref>。
::欧州では1930年代半ばに燃焼室の効果に疑問を呈されたことがあり<ref group="注釈">[https://www.steamindex.com/jile/jile25.htm]リンク先も参照。ナイジェル・グレズリーはこれに反論しているが、持論ではなくフランスの友人がこうしているからと語っただけであった。</ref>、[[:en:Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie Moderne#Awards|1937年パリ万国博覧会]]で最高の賞を授与した[[:pl:Pm36|ポーランドPm36]]には燃焼室が付いておらず、英国[[LMSコロネーション級蒸気機関車]]から燃焼室を取り4-6-4とした四気筒機関車の計画が進められていたが世界情勢の悪化により立ち消えとなっている<ref>Cox, Stewart, Locomotive Panorama : P125</ref>。フランスではSNCFが誕生した際に標準型機関車として[[アンドレ・シャプロン]]が設計に携わった[[:fr:141_P_SNCF|SNCF 141P]]に燃焼室が付けられなかった<ref>[http://openarchives.sncf.com/archive/0505lm0020 Locomotive type 141 P]</ref>。ソビエト連邦で燃焼室は[[:ru:ФД|FD機関車]]に搭載されたが波及したとは言いがたく、[[:ru:Сталинская_премия|スターリン章]]を授与された[[:ru:Л_(паровоз)|L型機関車]]と最後の量産機である[[:ru:П36|P36型]]に設置されずなかった。そのため、ソ連技術の影響を受けた[[中国国鉄前進型蒸気機関車]]で燃焼室が搭載されたのは1964年の改良型からであった<ref>https://min.news/history/9a9a6f07750cb49af547944415e1e76a.html</ref>。
:
; 特殊な火室
:; {{仮リンク|ベルペヤ火室|en|Belpaire firebox}}
:: ベルギーの鉄道技術者、{{仮リンク|アルフレッド・ベルペヤ|en|Alfred Belpaire}}が考案した火室形状で、内火室と外火室の形状を相似形にしているため、内火室を支えるステイの形状を単純にでき、缶水の循環が良く水垢の付着が少ないという利点を持つ。上部が角張った形状が特徴であるが、円筒形の煙管部との接合工作が難しいという欠点がある。
:; 台形火室
:: 上から見ると火床が台形(前部は狭く動輪の間に収まるが、後部は広火室。)。重い火室を少しでも前に持っていくことで走行を安定させ重量牽引時の軸重移動を抑える。フランスで使用されていた<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.204-205]]</ref>。
:; ウーテン火室
:: 広火室の一種で、外見上は下部が大きく広がっているのが特徴である。泥炭など質の悪い石炭を燃焼させるためにアメリカで考案されたもので、日本では[[日本鉄道]]が質の悪い常磐炭を使用するために、一部の形式で採用した。
=== 弁装置による分類 ===
日本の国有鉄道に在籍した蒸気機関車の弁装置の種類は次の通りであった。
* [[スチーブンソン式弁装置|スチーブンソン式]](基本形、ハウ形、アメリカ形):初期の蒸気機関車の標準型として広く用いられた。弁室は、基本形ではシリンダの内側に置かれるが、アメリカ形では上部に置かれる。
* [[スチーブンソン式弁装置#アラン式弁装置|アラン式(トリック式)]]
* [[ジョイ式弁装置|ジョイ式]](基本形、ウェッブ形)
* [[ベーカー式弁装置|ベーカー式]](深川形)
*宇佐美式 : [[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]で試用。自動可変リード弁の一種。
*マーシャル式(ヴィンターツール形、コッペル形)
* [[グレズリー式連動弁装置|グレズリー式]]:3シリンダ式機関車の中央シリンダ用に使用される方式で、左右の弁装置の動きをてこで合成することで、中央シリンダの弁装置を作動させる。
* [[ワルシャート式弁装置|ワルシャート式]](ヘルムホルツ形、ホイジンガー形):近代の大型蒸気機関車のほとんどがこの方式で、動作機構が全て動輪の外側にあるため、整備性が良い。
=== 気筒数による分類 ===
; 1気筒(単気筒)
: 蒸気機関車の黎明期に存在した。また、[[1857年]]、ニールソンが1気筒の小型機を製造し、多くがスコットランドの炭鉱や製鉄所で使用された。
; 2気筒
: ごく一般的な方式である。2組の気筒(シリンダ)があるため、より円滑な動作が可能である。ロッドが死点に位置して、起動不能となるのを防ぐため、左右の位相は90°ずらされている。日本の国有鉄道においては右側先行が原則であったが、[[国鉄9600形蒸気機関車|9600形]]など左側先行の例外も少数ながら存在した。
: [[ギアードロコ]]ではV形配置のものも見られる。
; 3気筒・4気筒
: 国鉄では[[国鉄C52形蒸気機関車|C52形]]・[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]が3気筒である。頻繁な点検や注油などを要する複雑な弁装置を車輪間に設置するのを回避する目的で、左右の弁装置の作用を合成、あるいはロッカーアームなどで位相変換して車輪間のシリンダーへの蒸気圧供給を制御させる、特別な弁装置を搭載するケースが多い。そのため動軸を複雑かつ工作精度の維持の難しいクランク軸とする必要があるなど、概して2気筒機関車に比べ構造が複雑で整備性が悪く、特に車輪の間のシリンダーに手を入れにくい(原則、線路間にピットを設けてこの中に人が入って下から修理する<ref group="注釈">インドネシア国鉄C53(4気筒)のように先輪と動輪の間を離して、ピットがなくてもこの間に入って内側シリンダーを整備できるようにしたものもある。[[#齋藤2018|(齋藤2018) p.81-83]]</ref>)ため長距離を走るアメリカでは外部から点検困難なことから嫌われ、1920年代に機関車の大型化で一時アルコ社が前方から整備ができるグレズリー連動弁装置を使った3気筒を製造したこともあったが、すぐにライマ社の2気筒シンプルで大型の火室を使う方式が主流になり廃れている<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.383]]</ref>。日本の3気筒もアメリカを手本にしていたのだが本国以上に定着せず、満鉄向けのミカニと日本国内向けのC52を20年代半ばにアルコ社から輸入後、ミカニ(増備分)とC53を30年代初頭まで製造していたが、その後は3気筒後継形式は生まれないまま終わっている<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.252-259・383・394-395]]</ref><ref group="注釈">なお、このグレズリー連動弁装置は左右のシリンダーからてこで中央シリンダーの吸排気を操作するので下にもぐらなくても前方から整備できたうえ、ロッド・クランク横のバルブギアを省略できる(普通は個々のシリンダーに1つずつつけるが、この方式はレバーで左右のバルブが中央シリンダーを操作する。)のでこまめな整備をしていれば狭軌でも理論上は使いやすい物だった([[蒸気機関車#齋藤2007|(齋藤2007) p.168-169・253]])。実際は理論上通りにはいかず、アメリカの[[ウォーバッシュ鉄道]]クラスK5やニュージーランドの[[:en:NZR_G_class_(1928)|NZR 98]]などは使いにくく不評で短命に終わっている。日本で3気筒がはやらなかった理由について「狭軌だから」という文献が多いが、標準機で軌道の強度も大きい満鉄でもクランク軸の折損事故を起こしていた(『満洲鉄道発達史』高木宏之 著、株式会社潮書房光人社、2012年、ISBN 978-4-7698-1524-2、P139)他、イギリスでもグレズリー弁式の3シリンダー機では戦時中は整備が行き届かずにレバーのボールベアリングが擦り減り、ガタが生じた結果中央シリンダーが触れすぎてクランク車軸を痛めることがあった。[[蒸気機関車#齋藤2007|(齋藤2007) p.258]]</ref>。
: その一方で、これらの方式はメインロッドを3本あるいは4本とすることで各シリンダーの位相をそれぞれ120°あるいは90°ずつずらし、[[ハンマーブロー|ハンマー・ブロー現象]]を抑えることができ、またシリンダーの排気も1/3ないしは1/4周期で順番に行われるため、ボイラー煙管内の強制通風が均等かつ円滑に行われて燃焼効率が改善される、といった利点がある<ref group="注釈">特に4気筒の場合は左右の動輪を挟んだシリンダーを2基ずつペアとした複式として設計することで、蒸気を有効に利用できる。そのため、ドイツ国鉄18.6形のようにボイラー性能さえ十分ならば、自重やサイズが1ランク上の単式2気筒機(01形)に匹敵するかこれを上回る性能を実現することも不可能ではない。</ref>。もっとも日本のC53形はこの機構に対する十分な理解のないままに設計が行われた結果、発車時のロッドの位置によっては発車不能になることがあり、問題視された。
: これに対し、標準軌間を採用する各国、特にフランス・イギリスの2か国では、燃費の改善や強力化の手段<ref group="注釈">例えば車両限界の制約が大きく単式のまま左右のシリンダーを大直径とすると各駅のホームに抵触する恐れがあったイギリスでは単式3・4気筒機の導入例が多く、自国の石炭資源産出量やその品質などの問題から特に燃費に神経質であったフランスでは複雑精緻な複式4気筒機が積極的に導入されている。</ref>として3・4気筒機が積極的に導入されている。
: ドイツは帝国統一以前はバイエルンなどの南部で複式3~4気筒式も使用されていたが、統一後は過熱器の発明もあって単式2気筒の方が整備性に良いと一時はこれのみを製造していた時期もあったが、時速160kmを超えるような高速になると振動が大きくなる(アメリカはこれをレシプロマスの軽量化とハンマーブローに耐える頑丈な軌条を設けることで防いでいた。)ので単式のまま3気筒の1930年代後半に製造しているが、二次大戦と重なったためそれほど多くは製造されてない(01<sup>10</sup>型が55両、03<sup>10</sup>型が60両。)<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) p.279-291]]</ref>。
: 3気筒と4気筒それぞれのメリットとデメリットは、4気筒は外側シリンダーと対にできるので小型のレバーを使って外側のバルブで内側を駆動でき<ref group="注釈">3気筒でもグレズリーバルブギアが外側のバルブで内側を駆動するが、こちらはかなり神経質な機構だった。</ref>バルブギアを2気筒と同じ2つで済ませられるが、機関車の出力が上がるとクランク車軸がゆがみやすくなる(車軸にクランクが2つあり強度が落ちる)というものがあり、大馬力高速運転には3気筒の方がクランクウェブの厚みが取れ(フランスのシャプロンの計算では4気筒が1000馬力×4付近が上限、3気筒は2000馬力×3ぐらいまで可能性があるした。)、トルク変動も2・4気筒が1回転に4回なのに対し3気筒は6回に分散するためトルクのむらが少なく有利という違いがある<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) 「第4章 回転数アップ」P.50-56・60-62]]</ref>。
: 変則的なパターンにアメリカのボークレーン社が複式による燃費向上と内側シリンダーによる整備性悪化を防ぐことを両立するため、シリンダーを全部外側につけた4気筒式(通常のシリンダーの位置に上下に高圧と低圧シリンダーを並べる構造)が存在したが、こちらは動きが2気筒と同じなので振動減衰に役立たない<ref group="注釈">前述の振動を抑える3・4気筒はどちらも内側と外側のシリンダーで動きをずらしてロッドが逆の位置で動くことで重心移動による振動が小さくなるだけで、気筒を増やしても一斉に同じ方向に動いているのでは重心が動き、振動は減衰しない。</ref>どころか、シリンダーやロッドの数が増えた分駆動系の重量が増加して逆に振動を増加させており、燃費向上のメリットを差し引いてもうまみが薄くボークレーン社も過熱器が導入され始めると製造を打ち切っている<ref>[[#齋藤2007|(齋藤2007) P.72-74]]</ref>。
: 気筒数がさらに多い機関車では、フランスで低速走行時の経済性を改良するために1940年に作られた160.A.1.型の「6気筒」というものがある(第一動輪と先輪の間に低圧シリンダーが横並びに4つ、高圧シリンダーが第3・第4動輪の内側に2つ)が、1両のみの試作に終わっている<ref>[[#ロス2007|(ロス2007) p.187]]</ref>。
: 3気筒と4気筒の大きな問題に運転が煩雑になること、内側のシリンダーに過負荷がかかることや過熱による部品の熔解や潤滑システムの故障が発生しやすい欠陥があった。特に[[グレズリー式連動弁装置|グレズリー式]]でこの問題が顕著に現れていた<ref>Report on "2 to 1" Gresley valve gear on L.N.E.R. 3-cylinder locomotives</ref>。設計に技術的な欠陥があるため故障ばかりで<ref>[https://rchs.org.uk/wp-content/uploads/2021/03/FINAL-Wilson-LNER_2.pdf#page=35| What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? P35]The Railway & Canal Historical Society</ref>、2気筒に比べて製造コストが高いだけでなくメンテナンス不足に陥りやすいためLNERに無駄なコストがかかったと考えられている<ref>[https://rchs.org.uk/wp-content/uploads/2021/03/FINAL-Wilson-LNER_2.pdf#page=34| What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? P34]The Railway & Canal Historical Society</ref>。その反省を受けたアーサー・ペパコーン([[w:en:Arthur Peppercorn|Arthur Peppercorn]])の設計でも依然として問題は残り<ref>[http://www.donashton.co.uk/html/peppercorn_a1.html|LNER PEPPERCORN A1 PACIFICS]Don Ashton</ref>、結局21世紀の技術で設計製造された[[w:en:LNER Peppercorn Class A1 60163 Tornado|A1 60163トルネード]]すらこれらの欠陥を解決する至っていない。<ref>[https://web.archive.org/web/20220404011521/https://www.a1steam.com/2018/04/17/tornado-repair-update/ A1 Tornado – repair update]Steam Locomotive Trust</ref>[[:en:Railway_and_Canal_Historical_Society|イギリスの交通を研究する歴史協会]]は実用機関車としては通常の2気筒のほうがはるかに優れていたと結論を出している。<ref>[https://rchs.org.uk/wp-content/uploads/2021/03/FINAL-Wilson-LNER_2.pdf#page=44| What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? P44]The Railway & Canal Historical Society</ref>
: 燃料事情から複式4気筒機を積極的に導入していたフランスも複式4気筒機は運転が難しいため制約が余りにも多いことが問題となった。1日の平均走行距離は1945年に約75km<ref>[https://books.openedition.org/igpde/14737 Institut de la gestion publique et du développement économique] La SNCF au temps du Plan Marshall</ref>と終戦直後の[[鉄道省|日本の鉄道省]]が走らせていた約150kmの半分しか動いていなかった<ref>{{Cite book ja-jp |author=日本国有鉄道|year=1958|title=鉄道技術発達史. 第5篇|publisher=日本国有鉄道 |series=鉄道技術発達史|pages=194}}</ref>。戦前から非効率な状況を改善しようとする大規模な試験も行われたが、陳腐で新しい体制に適応できない設計によって造られた機関車のため概して失敗に終わっている<ref>Revue générale des chemins de fer 1950年1月号 P21</ref>。戦後に[[:en:USRA_Light_Mikado|1918年より製造が開始されたライトミカド型]]を基にした[[:fr:141_R|2気筒機の141R形]]を導入するとこれまでのフランス機が持ちえなかった人間工学を備え運転や整備がしやすい卓越した機関車と評された。<ref>[http://www.antiqbrocdelatour.com/les-anciens-trains-de-legende/locomotive-legendaire-141-R-1944.php Les locomotives légendaires La locomotive a vapeur 141 R de la SNCF]Antiquités brocante de la tour</ref>[[:fr:Régime_de_banalité|凡庸な人員でも交代で運行が可能になった]]ことでSNCFに3気筒・4気筒では不可能であった革新をもたらし<ref>[https://www.trainvapeur-auvergne.com/le-materiel-roulant/la-141r420/ La 141R420]Train à vapeur d'Auvergne / Association de la 141R420</ref><ref>日本が、1台の機関車に専属の乗員を割り当てず、それぞれ別々の運用としたやり方に完全移行したのは戦前の昭和14年である。『鉄道技術発達史 第5篇 運転』出版者: 日本国有鉄道 P21.P193.P199</ref>、歴史的遺産として[[:fr:Liste_des_locomotives_protégées_aux_monuments_historiques|最多の4両が保存されている]]。
<!--: 碓氷峠で使用されたアプト式機関車は、動輪用の駆動装置の他に歯車用の駆動装置を別に備えており、4気筒式であった。--><!--これは通常の4気筒機とは意味合いが異なります-->
: ギアードロコでは、ボイラー脇にシリンダーを垂直にむき出しに並べた、インライン(直列)配置が一般的で、整備性の問題がないことからこのタイプの3気筒は特例的にアメリカでも使用され続けた。
=== 使用済み蒸気による分類 ===
; <span id="単式">単式</span>
: ボイラーで発生させた蒸気を一度だけ使用するのが単式で、ごく一般的な方式である。
; 複式(2段膨張式)
: 単式に対して、一度使用した蒸気を、もう一度別のシリンダに送り込んで再使用するのが[[複式機関|複式]]である。一度使用した蒸気は圧力が下がるので、1次側(高圧)のシリンダより2次側(低圧)のシリンダの方が径が大きくなる。スイス人の[[アナトール・マレー]]が[[1874年]]に特許を取得し、[[1876年]]に実用化に成功した。
: 複式には種々の方式があり、左右のシリンダをそれぞれ高圧・低圧とした2シリンダ式、フレーム外部と内部に高圧と低圧のシリンダー(どちらがどちらになるかは車両による)3・4シリンダ式、左右のシリンダそれぞれに高圧・低圧のシリンダを装備した4シリンダ式、高圧・低圧の2組の走り装置を有するマレー式([[#関節式機関車|後述]])などがある。日本においては、[[山陽鉄道]]が4シリンダ複式(ボークレイン複式)を積極的に導入したほか、明治時代末期に国有鉄道がマレー式を一時大量輸入した程度で、他にはほとんど普及しなかったが、[[1893年]]に官設鉄道神戸工場で製作された国産第1号機関車([[国鉄860形蒸気機関車|860形]])が2シリンダ複式(ワースデル複式)であったのは特筆される。
; 復水式
:{{Main|復水式蒸気機関車}}
: シリンダーで使用した蒸気を回収し、コンデンサー(凝縮器)で水に戻して再利用する方式。水の便の悪い地域で用いられる。
=== 車軸配置による分類 ===
{{Main|車軸配置}}
[[File:Uploco.jpg|thumb|[[ホワイト式車輪配置]]において、19世紀アメリカの典型的な車軸配置である[[車輪配置 4-4-0|4-4-0]]の「ガブ・スタンフォード」]]
蒸気機関車にとって、動輪と従輪の配置は非常に重要な要素である。これによって、機関車の用途が決まってしまうといっても過言ではない。動輪径を大きくすれば同一回転速度で運転速度を高くできるが、機関車全体が一定の長さに収まるようにするには、動軸数を減らすことになり、牽引力が低下する。そのため、高速が要求される旅客列車牽引向けということになる。逆に動輪数を増やせば牽引力は増すが、その分動輪径は小さくせざるを得なくなり、速度性能が犠牲になることになるため、貨物列車牽引や急勾配区間向けということになる。
従輪については、機関車重量の一部を負担するばかりでなく、先従輪には曲線通過時に、動輪をスムーズに導く機能があり、高速を要求される旅客用機関車では、2軸としたボギー台車が装備されることが多い。一方で、貨物用機関車では動輪上重量を増して粘着力を高めるため従輪の数は少なく、高速も要求されないため、より簡便な構造の1軸先台車が採用されることが多い。
=== 車体構成による分類 ===
; [[タンク機関車|タンク式(タンク機関車)]]
: 石炭および水を機関車本体に搭載する方式、主に小型機が多いが、[[国鉄4110形蒸気機関車|4100形、4110形]]、[[国鉄E10形蒸気機関車|E10形]]など急勾配線専用の大型機にも採用例がある。小回りが利くなど長所があるが、長距離運転ができないなどの短所がある。
; [[テンダー機関車|テンダー式(テンダー機関車)]]
: 石炭や水をテンダー(炭水車)に積載し、機関車本体に牽引させる方式。通常、機関車本体と炭水車を分離して運用することはないが、検査時は切り離しが可能である。長距離運転ができるなど、長所があるが、一部の種類を除いてバック運転や、小回りが利かないなどの短所がある。
; [[キャブ・フォワード型蒸気機関車|キャブ・フォワード型]]
: テンダー式機関車のうち、機関車本体の前後を逆にしたもの。キャブ(運転室)を最前部に設けることにより機関士は煙害から免れることができ、また良好な前方視界を得た。ドイツや、アメリカのカリフォルニア州の山岳地帯のトンネルが多い線区で使用された。
; [[キャメルバック式蒸気機関車|キャメルバック型]](キャブ・ミドルワード型)
: テンダー式機関車のうち、機関車の中央に運転台が位置しているもの。詳細は[[キャメルバック式蒸気機関車]]の項を参照。
=== 関節式機関車 ===
{{main|関節式機関車}}
1両の機関車にボイラーに固定されず独立した台枠を有する1組以上の走り装置を装備し、出力強化や曲線通過の容易化を図ったもの。
; [[マレー式機関車|マレー式]]
: ボイラーの下に2組の走り装置を設けた方式。後部動力台車はボイラーに固定されていて、高圧蒸気の供給を受けてシリンダーを駆動し、その排気を左右に首を振れる前部動力台車に送って径の大きな低圧シリンダーを再度駆動する[[#使用済み蒸気による分類|複式機関車]]である。
: なお、製作者のアナトール・マレーの関節式にした意図は、これ以前に作った複式機関車で起きた出力の違うシリンダーで別々の車輪を駆動することによって起きた高速での不安定化を防止するためであり、出力強化や曲線通過の容易化は副次的なものであった<ref>[[#近藤2007|(近藤2007) p.206-207]]</ref>。
; [[単式膨張型関節式蒸気機関車|単式膨張型関節式]](単式マレー式)
: 日本にはない形式で、アメリカのsimple expansion articulated engine の訳語。前述のマレー式では前部が低圧シリンダーのため関節部に蒸気を送るのが容易な反面、シリンダーが大型になりすぎ車両限界に接触したり重量過大を招いたため、前部・後部のシリンダーが同径で、同じ圧力の高圧蒸気がボイラーから直接同時に供給される単式機関車として考案された<ref>[[#近藤2007|(近藤2007) p.207-208]]</ref>。
; [[ガーラット式機関車|ガーラット式]]
: 2組の走り装置を別々の台枠に設け、その両車の間に跨ってボイラーを搭載した主台枠が首振り構造で載る方式。
; [[フェアリー式蒸気機関車|(ダブル)フェアリー式]]
: 2つのボイラーを背中合わせに繋ぎ、その下に2組の独立した走り装置を設けた方式。
: マレー式と同じくボイラーの下に2組の走り装置を装備するが、2組の走り装置はどちらもボイラーに固定されておらず、完全に独立した首振り構造であり、シリンダーが中央に寄っている点でもマレー式と異なる。
; [[フェアリー式蒸気機関車|シングルフェアリー式]]
: 車体前部にボイラーから独立した1組の走り装置を備え、運転台下部には無動力のボギー台車を備える。
; [[メイヤー式蒸気機関車|メイヤー式]]
: 2組の独立した走り装置を備える。シリンダーは前後とも中央側にある。
; [[マッファイ式蒸気機関車|マッファイ式]]
: ドイツの[[J.A.マッファイ]]社により、[[1851年]]のゼメリング・コンテストのために考案された方式。
; [[ヴィーナー・ノイシュタット式蒸気機関車|ヴィーナー・ノイシュタット式]]
: ドイツのヴィーナー・ノイシュタット社により、1851年のゼメリング・コンテストのために考案された方式。
; [[コッケリル式蒸気機関車|コッケリル式]]
: ベルギーのコッケリル社により、1851年のゼメリング・コンテストのために考案された方式。
; [[デュ・ブスケ式蒸気機関車|デュ・ブスケ式]](<small>[[:en:du Bousquet locomotive|英語版]]</small>)
: フランスの鉄道技術者ガストン・デュ・ブスケ(<small>[[:fr:Gaston du Bousquet|フランス語版]]</small>)により開発された方式。
; [[ゴルウェ式蒸気機関車|ゴルウェ式]]([[:en:Golwé locomotive|Golwé locomotive]])
: ベルギーで製作されフランスの西アフリカ植民地で使われた方式。
=== 双合式 ===
:(ツヴィリングスロクス、Zwillingsloks)
: 2両の通常型タンク式蒸気機関車を背中合わせに連結した形式。転車台の設置が困難で、軸重制限が厳しく、かつ一定の牽引力が要求される野戦軽便鉄道用としてドイツで考案された。[[ドイツ陸軍]]の影響下にあった[[日本陸軍]]も導入し、[[鉄道連隊]]には[[日本陸軍鉄道連隊A/B形蒸気機関車|A/B形]]と呼ばれる双合式機関車が400両あまり在籍していた。
=== 歯車式蒸気機関車 ===
{{main|ギアードロコ}}
; [[シェイ式蒸気機関車]]
: 船舶用のエンジンを右側面に設置した歯車式蒸気機関車
; [[クライマックス式蒸気機関車]]
: 側面に斜めに傾斜したシリンダーから中央の伝達軸を駆動する。
; [[ハイスラー式蒸気機関車]]
: V型に配置された蒸気機関で前後の車輪を駆動する
; [[ウィラメット式蒸気機関車]]
: シェイと類似の形態だが重油を燃料として使用し、[[過熱蒸気]]式、弁装置は[[ワルシャート式弁装置]]
== 稼動している蒸気機関車 ==
; 営業運転
* [[ダージリン・ヒマラヤ鉄道]]、[[ニルギリ山岳鉄道]]([[世界遺産]]「[[インドの山岳鉄道群]]」を構成している)、[[パッフィン・ビリー鉄道]]
*ドイツの[[ハルツ狭軌鉄道]]<ref>NHK BS プレミアムアーカイブス ハイビジョンスペシャル「煙はるかに 世界SL紀行 魔女の森に汽笛が響く〜ドイツ・ハルツ地方〜」5月22日放送</ref>
*ドイツ・[[ツィッタウ]]のザクセン・オーバーラウジッツ鉄道(Sächsisch-Oberlausitzer Eisenbahngesellschaft)
; [[動態保存]]
動態保存は世界の複数の国で実施されている。日本も含む。
{{Seealso|保存鉄道}}
::日本国内については[[動態保存中の蒸気機関車]]を参照。
== 代表的な形式 ==
=== アメリカ合衆国 ===
* [[ユニオン・パシフィック鉄道3985号蒸気機関車]](チャレンジャー)
* [[ユニオン・パシフィック鉄道4000形蒸気機関車]](ビッグボーイ)
* [[ユニオン・パシフィック鉄道800形蒸気機関車]](FEF)
* [[チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道H8形蒸気機関車|チェサピーク&オハイオ鉄道H8形蒸気機関車]](アレゲニー)
* [[ノーフォーク・アンド・ウエスタン鉄道Jクラス蒸気機関車|ノーフォーク&ウエスタン鉄道J形蒸気機関車]]
* [[ニューヨークセントラル鉄道Jクラス蒸気機関車|ニューヨーク・セントラル鉄道J形蒸気機関車]](ハドソン)
* [[ニューヨークセントラル鉄道Sクラス蒸気機関車|ニューヨーク・セントラル鉄道S形蒸気機関車]](ナイアガラ)
* [[USRA 0-6-0]]
* [[USRA 0-8-0]]
* [[USRA ライト パシフィック]]
* [[USRA ヘビー パシフィック]]
* [[USRA ライト ミカド]]
* [[USRA ヘビー ミカド]]
* [[USRA ライト マウンテン]]
* [[USRA ヘビー マウンテン]]
* [[USRA ライト サンタフェ]]
* [[USRA ヘビー サンタフェ]]
* [[USRA 2-6-6-2]]
* [[USRA 2-8-8-2]]
* [[サザン・パシフィック鉄道GS-4形蒸気機関車]]
* [[ペンシルバニア鉄道K4s形蒸気機関車]]
* [[ペンシルバニア鉄道T1形蒸気機関車]]
* [[アメリカ陸軍輸送部隊S160型蒸気機関車|アメリカ陸軍輸送部隊S160形蒸気機関車]]
* [[ティムケン1111]]
=== イギリス ===
[[File:Number 4468 Mallard in York.jpg|thumb|[[LNER A4形蒸気機関車4468号機 マラード]]]]
* [[グレート・ウェスタン鉄道1000形蒸気機関車]](カウンティ級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道2900形蒸気機関車]](セイント級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道3252形蒸気機関車]](デューク級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道3300形蒸気機関車]](ブルドッグ級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道3700形蒸気機関車]](シティ級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道4000形蒸気機関車]](スター級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道4073形蒸気機関車]](キャッスル級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道4120形蒸気機関車]](アタバラ級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道4300形蒸気機関車]]
* [[グレート・ウェスタン鉄道4900形蒸気機関車]](ホール級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道6000形蒸気機関車]](キング級)
* [[グレート・ウェスタン鉄道6959形蒸気機関車]](改ホール級)
* [[LNER A1形・A3形蒸気機関車]]
* [[LNER P2形蒸気機関車]]
* [[LNER A4形蒸気機関車]]
* [[サザン鉄道V形蒸気機関車]](スクールズ級)
=== ドイツ (プロイセン王国・バイエルン王国時代を含む)===
[[File:01118 Koenigstein.jpg|thumb|[[ドイツ国鉄01形蒸気機関車]]]]
* [[:de:Preußische T 3|プロイセン邦有鉄道T3型蒸気機関車]]
* [[王立バイエルン邦有鉄道S2/6型蒸気機関車]]
* [[王立バイエルン邦有鉄道S3/6型蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄01形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄03形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄05形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄18形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄24形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄38形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄42形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄44形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄50形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄52形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄86形蒸気機関車]]
* [[ドイツ国鉄89形蒸気機関車]]
=== フランス ===
[[File:141-R-568-a.jpg|thumb|[[フランス国鉄141R形蒸気機関車]]]]
* [[フランス国鉄141R形蒸気機関車]]
* [[フランス国鉄242A1型蒸気機関車]]
* [[フランス国鉄160A1型蒸気機関車]]
* [[フランス国鉄240P型蒸気機関車]]
* [[フランス国鉄241P型蒸気機関車]]
* [[フランス国鉄232U型蒸気機関車]]
=== ロシア(ロシア帝国・ソビエト連邦時代を含む) ===
[[File:Паровоз Эр766 - 41 с ретропоездом.jpg|thumb|{{仮リンク|ロシア式E形蒸気機関車|ru|Паровоз Эр}}]]
* {{仮リンク|ロシア式E形蒸気機関車|ru|Паровоз Эр}}
=== 日本 ===
[[File:SL 20081207.jpg|thumb|[[国鉄D51形蒸気機関車]]]]
[[国鉄の車両形式一覧#蒸気機関車]]を参照。
; 東武鉄道
* [[国鉄3350形蒸気機関車|A2]] I
* [[国鉄2100形蒸気機関車|A2]] II
* [[国鉄5500形蒸気機関車|B1・B4]]
* [[国鉄5300形蒸気機関車|B2]]
* [[国鉄5600形蒸気機関車|B3・B7]]
* [[国鉄6200形蒸気機関車|B5・B6]]
* [[国鉄400形蒸気機関車|C1・C3・C4]]
* [[国鉄230形蒸気機関車|C2]]
* [[国鉄C11形蒸気機関車|C11]]
; 南満洲鉄道
* [[南満洲鉄道パシナ型蒸気機関車]]
* [[南満洲鉄道パシハ型蒸気機関車]]
* [[南満洲鉄道ミカイ型蒸気機関車]]
* [[南満洲鉄道ミカニ型蒸気機関車|南満洲鉄道ミカ二型蒸気機関車]]
* [[南満洲鉄道ミカシ型蒸気機関車]]
* [[南満洲鉄道ミカク型蒸気機関車]]
* [[南満洲鉄道マテイ型蒸気機関車]]
* [[南満洲鉄道プレニ型蒸気機関車]]
計画機
* [[国鉄KE50形蒸気機関車]]
* [[国鉄機78-2形蒸気機関車]]
* [[国鉄HD53形蒸気機関車]]
* [[国鉄HC51形蒸気機関車]]
* [[国鉄HD60形蒸気機関車]]
* [[国鉄HE10形蒸気機関車]]
=== アルゼンチン ===
* [[リオ・トゥルビオ鉱山鉄道100型蒸気機関車]]
== 5AT先進技術蒸気機関車 ==
{{main|5AT先進技術蒸気機関車}}
イギリスでは数々の先進技術を導入した最高速度200km/hの[[5AT先進技術蒸気機関車]]の計画が進められていたが、2012年に資金難で中止された。
== 関連する人物・関連施設 ==
* [[動力車操縦者]](機関士)
* [[火夫]]<ref>{{cite kotobank|火夫}}</ref>
* [[検修員]] ‐ 点検作業を行う<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/morioka/lreport/article/000/91/ |title=SL銀河 支えた検修員の“愛”と“情熱” | NHK |access-date=2023-12-24 |last=日本放送協会 |website=NHK盛岡放送局 |language=ja}}</ref>。
* 設計者
** {{ill2|Alfred de Glehn|en|Alfred de Glehn}} - イギリス出身のフランスで蒸気機関車設計者として働いた。
===関連施設===
* {{ill2|蒸気機関車車両基地|de|Bahnbetriebswerk (steam locomotives)}}
== ギャラリー ==
{{Gallery
|title=
|footer=
|File:Water gauge Chatfield.jpg|蒸気機関車の水面計({{ill2|Sight glass|en|Sight glass}})、水面は最大のtop nutと呼ばれる状態。
|File:Steam locomotive work.gif|車輪の動作機構
|File:ParowozIR.jpg|IRカメラの映像
|File:GWRwater.jpg|水の補給
}}
== 文化 ==
<!-- 作品を入れる場合は、ガイドライン[[Wikipedia:関連作品]]に準拠し、蒸気機関の理解に貢献できる説明が行えるものを設置すること -->
{{main|Category:蒸気機関車を題材とした作品}}
* [[SLブーム]]
* [[sl (UNIX)|UNIXのslコマンド]] - コンソール画面に蒸気機関のアスキーアートを表示する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書| author = 萩原政男、編| title = 学研の図鑑 機関車・電車| publisher = 株式会社学習研究社| date = 1977年| edition=改訂版| ref = 萩原1977}}
* {{Cite book | 和書| author= 久保田博|authorlink=久保田博| title = 日本の鉄道史セミナー| publisher = [[グランプリ出版]]| date = 2005年5月18日| edition = 初版| isbn = 4-87687-271-6| ref = 久保田 (2005)}}
* {{Cite journal|和書| author = 齋藤晃| title = 蒸気機関車200年史| publisher = NTT出版| isbn = 978-4-7571-4151-3| date = 2007年| ref = 齋藤2007}}
* {{Cite journal|和書| author = 近藤喜代太郎| title = アメリカの鉄道史―SLが作った国―| publisher = 成山堂書店| isbn = 978-442-596131-3| date = 2007年| ref = 近藤2007}}
* {{Cite book|和書| author = デイビット・ロス| translator = 小池滋・和久田康雄| title = 世界鉄道百科事典| publisher = 悠書館| isbn = 978-4-903487-03-8| ref = ロス2007}}
* {{Cite journal|和書| author = ジョン・ウェストウッド| translator = 青木栄一、菅建彦 | title = 世界の鉄道の歴史図鑑 <small>蒸気機関車から超高速列車までの200年 ビジュアル版 </small>| publisher = 柊風舎| isbn = 978-4-903530-39-0| date = 2010年9月| ref = ウェストウッド2010}}
* {{Cite book|和書|author=川辺謙一 |title=鉄道車両メカニズム図鑑 |year=2012 |publisher=学研 |isbn=978-4-05-405338-0}}
* {{Cite journal|和書| author = 齋藤晃| title = 蒸気機関車の技術史 (改訂増補版) (交通ブックス117)| publisher = 成山堂書店| isbn = 978-4425761623| date = 2018年| ref = 齋藤2018}}
* {{Cite book|和書|title=蒸気機関車EX Vol.4 ―蒸機を愛するすべての人へ |year=2011|publisher = イカロス出版| |isbn=978 4 86320 428 7 | ref =蒸気機関車EX Vol.4 }}
* てつどうシリーズ「きょうりゅうマシーン」いいお かずお edu comics press 2022年
== 関連項目 ==
{{commonscat|Steam locomotives}}
* {{ill2|ボイラーの爆発|en|Boiler explosion}}
=== 蒸気機関車の形態・車両 ===
* [[国鉄機関車の車両形式]]
* [[ギアードロコ]]
* [[マレー式機関車]]
* [[キャメルバック式蒸気機関車]]
* [[キャブ・フォワード型蒸気機関車]]
* [[過熱式]]
* [[パニア]]
* [[サドルタンク]]
* [[ウェルタンク]]
* [[ダミー (蒸気機関車)]]
* [[USRA]]
* [[蒸気タービン機関車]]
=== 蒸気機関車の機構 ===
* [[蒸気機関車の構成要素]]
* [[カウキャッチャー (鉄道)|カウキャッチャー]]
* [[除煙板]]
* [[車軸配置]]
* [[集煙装置]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/kigiken/index.html |title=機関車技術研究会}}:蒸気機関車の技術についての情報を掲載している。
* [http://www.steamlocomotive.com/ Steamlocomotive.com] {{en icon}} :主に北アメリカの蒸気機関車についての情報を掲載している。
* [http://www.trainweb.org/tusp/ The Ultimate Steam page] {{en icon}} :現代における蒸気機関車の新技術・新造計画についての情報を掲載している。
* [http://www.aqpl43.dsl.pipex.com/MUSEUM/LOCOLOCO/locoloco.htm Extreme Steam- Unusual Variations on The Steam Locomotive.] {{en icon}} :特殊な形式の蒸気機関車についての情報を数多く掲載している。
* [https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD302MN0Q2A830C2000000/ 普段運行する列車までSLにしたら… 蒸気機関車の経済学(日本経済新聞、2022年9月12日掲載記事)]
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しようききかんしや}}
[[Category:蒸気機関車|*]]
[[Category:鉄道技術史]]
|
2003-06-19T05:47:48Z
|
2023-12-24T01:37:28Z
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[
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"Template:Wayback",
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"Template:Reflist"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A
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こどもの国駅 (神奈川県)
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こどもの国駅(こどものくにえき)は、神奈川県横浜市青葉区奈良町字中耕地にある、東急電鉄こどもの国線の駅。こどもの国線の終着駅である。駅番号はKD03。
こどもの国線は横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者となっており、当駅の施設も横浜高速鉄道が保有している。
名前の通り、児童厚生施設「こどもの国」の南西に位置している。
行き止まりの単式ホーム1面1線を有する地上駅である。方面標識や番線表示はないが、電車接近時には「まもなく1番線に電車がまいります」との放送が流れる。
ホーム有効長は、開業当初から5両編成の列車の発着が可能なように建設されている。これは当時の皇太子(上皇明仁)夫妻がこどもの国に来園した際に特別列車の発着と、多客時の臨時列車の運転に対応できるようにしたためである。
無人駅で、通常は長津田駅から遠隔監視を行っており、用事のある乗客には同駅の駅員がインターホンにより対応する。また、FAXも備えている。通常は自動改札機が3通路あるが、行楽時期になると自動改札機の左側にある臨時改札を使用し、こどもの国開園時間中のみ有人駅扱いとなる。なお、臨時改札にはICカード改札機は設置されていない。
ICカード対応自動改札機、自動精算機や自動券売機を設置しているため、駅員無配置でもある程度のことが可能なように整備されている。例えば乗車券を間違って購入してしまった場合、その乗車券をもう一度自動券売機に挿入すると長津田駅からの遠隔操作で払い戻しができるなどの簡単な対応ができるようになっている。また、自動精算機は乗車券を購入しなかった乗客の運賃の支払いにも対応している。
駅舎は横浜高速鉄道の所有で、こどもの国線が横浜高速鉄道に譲渡された際、駅の無人化対応を行った後に改築されたものである。開業当初は、こどもの国園内にある皇太子記念館と同様の形状の屋根を持つ駅舎で有人駅であり、長津田駅より駅係員が常時1名(多客期は増員)が派遣されていた。このほか開業時から現駅舎が竣工するまでは自動券売機や自動改札機が設置されておらず、東急の駅で最後まで出札窓口が設置され乗車券発売や改札業務は有人で行っていた。なお、当駅で購入可能であった乗車券は東急線内のみに限られていた。1989年のワンマン運転開始以降は列車が到着している時のみの販売で、こどもの国の休園日は終日無人駅であった。
こどもの国線が弾薬庫線であった時代は当駅から先も線路が続いていた。駅前から延びている桜並木がその線路跡である。当時は、そのまま奈良川を渡り、こどもの国中央広場周辺に貨物ホームが設けられていた。
なお、弾薬庫線時代には、上記の他にも現在のこどもの国 - 恩田間に設けられた分岐点から奈良橋バス停留所付近を斜めに横断して奈良川を渡り、こどもの国牧場口駐車場へ至る線路があった。しかし、こちらも現存せず、一部廃線跡が残るのみとなっている。
2022年度の1日平均乗降人員は9,487人である。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表のとおり。
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こどもの国駅(こどものくにえき)は、神奈川県横浜市青葉区奈良町字中耕地にある、東急電鉄こどもの国線の駅。こどもの国線の終着駅である。駅番号はKD03。 こどもの国線は横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者となっており、当駅の施設も横浜高速鉄道が保有している。 名前の通り、児童厚生施設「こどもの国」の南西に位置している。
|
{{駅情報
|社色 = #ee0011
|文字色 =
|駅名 = こどもの国駅
|画像 = kodomono-kuni-eki.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎(2002年12月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = こどものくに
|ローマ字 = Kodomonokuni
|副駅名 =
|隣の駅 =
|前の駅 = KD02 [[恩田駅|恩田]]
|駅間A = 1.6
|駅間B =
|次の駅 =
|駅番号 = {{駅番号r|KD|03|#0068b7|3}}
|所属事業者 = [[東急電鉄]]
|所属路線 = {{color|#0068b7|■}}[[東急こどもの国線|こどもの国線]]
|キロ程 = 3.4
|起点駅 = [[長津田駅|長津田]]
|所在地 = [[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]][[奈良町 (横浜市)|奈良町]]995-1
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 33 | 緯度秒 = 30.2 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 29 | 経度秒 = 11 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面1線
|開業年月日 = [[1967年]]([[昭和]]42年)[[4月28日]]<ref name="jtb190"/>
|乗降人員 = <ref group="東急" name="tokyu2022" />9,487
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = [[無人駅]]<br>施設は[[横浜高速鉄道]]保有
}}
'''こどもの国駅'''(こどものくにえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]][[奈良町_(横浜市)|奈良町]]字中耕地にある、[[東急電鉄]][[東急こどもの国線|こどもの国線]]の[[鉄道駅|駅]]。こどもの国線の[[終着駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KD03'''。
こどもの国線は[[横浜高速鉄道]]が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]となっており、当駅の施設も横浜高速鉄道が保有している。
名前の通り、[[児童厚生施設]]「[[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]」の南西に位置している。
== 歴史 ==
* [[1942年]]([[昭和]]17年) - [[日本国有鉄道|国有鉄道]]<!--当時は「鉄道省」-->[[横浜線]][[長津田駅]]からの[[弾薬庫]]線建設。
* [[1967年]](昭和42年)[[4月28日]] - こどもの国線開通により駅開業<ref name="jtb190">[[#jtb|東急の駅]]、p.190。</ref>。当時の施設保有は[[社会福祉法人]]こどもの国協会。
* [[1997年]]([[平成]]9年)[[8月1日]] - こどもの国線の第3種鉄道事業免許がこどもの国協会から横浜高速鉄道に譲渡されたため、同社の所有になる。
* [[2000年]](平成12年)[[3月29日]] - こどもの国線が通勤線化され、現駅舎および駅前バスロータリーが竣工。これに伴って駅は終日無人化、駅前への路線バス乗り入れ開始。
* [[2014年]](平成26年)
** [[2月15日]] - 午前7時頃、1番線ホームの[[旅客上屋|屋根]]が[[平成26年豪雪]]による[[積雪]]の重みに耐えきれず、約40メートルにわたって崩落<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/information/list/?id=98|title=こどもの国線こどもの国駅ホームの屋根落下について|publisher=東急電鉄|accessdate=2014年7月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140702153505/http://www.tokyu.co.jp/information/list/?id=98|archivedate=2014年7月2日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。この影響で終日運休したが、翌朝までに屋根を撤去し、運転再開。
** [[6月]]中旬 - 仮設屋根を設置(但し、車両の停止位置より手前まで)。
** [[9月16日]] - ホーム屋根の復旧工事を開始。
* [[2015年]](平成27年)
** [[2月27日]] - ホーム屋根の復旧工事完了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/company/news/list/Pid=2212.html|title=こどもの国線こどもの国駅ホーム屋根の落下の再発防止と復旧について(ご報告)|publisher=東急電鉄||date=2015年2月27日|accessdate=2021年8月15日}}</ref>。
** [[3月31日]] - 駅舎横(こどもの国駐車場側)にトイレ新設。
== 駅構造 ==
行き止まりの[[単式ホーム]]1面1線を有する[[地上駅]]である。方面標識や番線表示はないが、電車接近時には「まもなく1番線に電車がまいります」との放送が流れる。
ホーム[[有効長]]は、開業当初から5両編成の列車の発着が可能なように建設されている。これは当時の[[皇太子]]([[上皇明仁]])夫妻がこどもの国に来園した際に特別列車の発着と、多客時の[[臨時列車]]の運転に対応できるようにしたためである。
[[無人駅]]で、通常は[[長津田駅]]から遠隔監視を行っており、用事のある乗客には同駅の駅員が[[インターホン]]により対応する。また、[[ファクシミリ|FAX]]も備えている。通常は[[自動改札機]]が3通路あるが、行楽時期になると自動改札機の左側にある臨時改札を使用し、こどもの国開園時間中のみ有人駅扱いとなる。なお、臨時改札には[[ICカード]]改札機は設置されていない。
ICカード対応自動改札機、[[自動精算機]]や[[自動券売機]]を設置しているため、駅員無配置でもある程度のことが可能なように整備されている。例えば[[乗車券]]を間違って購入してしまった場合、その乗車券をもう一度自動券売機に挿入すると長津田駅からの遠隔操作で払い戻しができるなどの簡単な対応ができるようになっている。また、自動精算機は乗車券を購入しなかった乗客の運賃の支払いにも対応している。
駅舎は[[横浜高速鉄道]]の所有で、こどもの国線が横浜高速鉄道に譲渡された際、駅の無人化対応を行った後に改築されたものである。開業当初は、こどもの国園内にある皇太子記念館と同様の形状の屋根を持つ駅舎で有人駅であり、長津田駅より駅係員が常時1名(多客期は増員)が派遣されていた。このほか開業時から現駅舎が竣工するまでは自動券売機や自動改札機が設置されておらず、東急の駅で最後まで出札窓口が設置され乗車券発売や改札業務は有人で行っていた。なお、当駅で購入可能であった乗車券は東急線内のみに限られていた。1989年の[[ワンマン運転]]開始以降は列車が到着している時のみの販売で、こどもの国の休園日は終日無人駅であった。
[[ファイル:kodomono-kuni-eki-2.jpg|thumb|240px|ホーム(2005年8月15日)]]
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!行先
|-
!1
|[[File:Tokyu KD line symbol.svg|15px|KD]] こどもの国線||[[長津田駅|長津田]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202203_kd03_line2_kodomonokuni.pdf|title=こどもの国線標準時刻表 こどもの国駅 長津田方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2022/03/12}}</ref>
|}
=== 線路 ===
こどもの国線が弾薬庫線であった時代は当駅から先も線路が続いていた。駅前から延びている[[サクラ|桜]]並木がその線路跡である。当時は、そのまま[[恩田川#奈良川|奈良川]]を渡り、こどもの国中央広場周辺に貨物ホームが設けられていた。
なお、弾薬庫線時代には、上記の他にも現在のこどもの国 - 恩田間に設けられた分岐点から奈良橋バス停留所付近を斜めに横断して奈良川を渡り、こどもの国牧場口駐車場へ至る線路があった。しかし、こちらも現存せず、一部廃線跡が残るのみとなっている。
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''9,487人'''である<ref group="東急" name="tokyu2022" /><ref name="2000-">[[2000年]]度以降は[[恩田駅]]から[[定期乗車券|定期券]]で利用する乗降人員も計上されている</ref>。
近年の1日平均'''乗降・乗車'''人員推移は下表のとおり<ref name="2000-" />。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|-
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="*">[http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/index2.html#3 横浜市統計ポータル] - 横浜市</ref>
!年度
!1日平均<br>乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br>乗車人員<ref group="*">[http://www.pref.kanagawa.jp/life/6/27/142/ 神奈川県県勢要覧]</ref>
!出典
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|726
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|632
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|557
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|569
|<ref group="神奈川県統計">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移] - 25ページ</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|612
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|590
|
|-
|1998年(平成10年)
|
|569
|<ref group="神奈川県統計">平成12年 - 222ページ</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|655<ref>[[2000年]][[3月29日]]、通勤線化。</ref>
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}} - 224ページ</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|3,510
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|
|4,430
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|8,726
|4,675
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|
|4,909
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|9,335
|4,908
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 224ページ</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|9,434
|4,880
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 224ページ</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|9,785
|5,053
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 226ページ</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|10,053
|5,139
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 230ページ</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|10,293
|5,288
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|-
|2009年(平成21年)
|10,178
|5,167
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|10,538
|5,333
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|-
|2011年(平成23年)
|10,680
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|-
|2012年(平成24年)
|11,804
|5,994
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|-
|2013年(平成25年)
|12,221
|6,200
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|11,898
|6,021
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|11,808
|5,962
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 246ページ</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|11,779
|5,947
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|11,841
|5,973
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|11,750
|5,928
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 令和元年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="東急" name="tokyu2019">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2019.html |title=2019年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-08-13}}</ref>11,458
|5,777
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="東急" name="tokyu2020">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2020.html |title=2020年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-08-13}}</ref>7,803
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="東急" name="tokyu2021">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2021.html |title=2021年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-08-13}}</ref>8,894
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="東急" name="tokyu2022">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ |title=2022年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-08-13}}</ref>9,487
|
|
|}
== 駅周辺 ==
* [[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]
** こどもの国正門駐車場
* [[寺家ふるさと村]]
* [[東京都道・神奈川県道139号真光寺長津田線]](こどもの国通り)
* W.A.Oこどものくにショッピングセンター
** [[三和|スーパー三和]]子供の国店
** [[コーナン]]三和こどもの国店
* [[青葉警察署]]こどもの国駅前交番
* 奈良山公園
* [[TBSテレビ|TBS]][[緑山スタジオ・シティ]]
* 横浜奈良郵便局
* 町田成瀬台郵便局
* [[日本体育大学]]横浜健志台キャンパス
* [[横浜美術大学]]
* [[横浜市立奈良小学校]]
* [[横浜市立奈良の丘小学校]]
* [[横浜市立奈良中学校]]
* 介護老人福祉施設創生園青葉
=== バス路線 ===
* '''こどもの国駅'''(駅前バスロータリー)
** [[神奈川中央交通|神奈川中央交通東]]
*** [[神奈川中央交通東・大和営業所#成瀬駅・つくし野駅発着路線|成03]] [[成瀬駅]]行([[奈良 (横浜市)|奈良二丁目]]経由)
*** [[神奈川中央交通東・大和営業所#成瀬駅・つくし野駅発着路線|成04]] 成瀬駅行([[成瀬台]]経由)
* '''こどもの国入口(横浜市営) / こどもの国(東急・小田急)'''(こどもの国正門前)
** [[横浜市営バス]] - [[奈良北団地]]・[[緑山 (横浜市)|緑山]]方面へのバス停は正門駐車場側にある。
*** [[横浜市営バス若葉台営業所#177系統|177]] 奈良北団地折返場行/[[十日市場駅 (神奈川県)|十日市場駅]]前行
** [[東急バス]] - バス停は横浜市営バスと共用。
*** [[東急バス虹が丘営業所#市が尾中山線|市43]] 奈良北団地折返場行/[[市が尾駅]]行
*** [[東急バス青葉台営業所#恩田線|青118]] 奈良北団地折返場行/[[青葉台駅]](松風台経由)行
*** [[東急バス青葉台営業所#恩田線|青56]] 緑山循環・青葉台駅(中恩田橋経由)行
** [[小田急バス]] - 鶴07系統などは当バス停で折り返し進行方向を変えるため、上り・下りともに正門隣の(または介護老人施設・創生園青葉)そばの折返場にバス停がある。
*** [[小田急バス新百合ヶ丘営業所#三輪緑山 - こどもの国方面|鶴06]] [[鶴川駅]]行/[[三菱ケミカル]]前行
*** [[小田急バス新百合ヶ丘営業所#三輪緑山 - こどもの国方面|鶴07]] 鶴川駅行/奈良北団地行
*** [[小田急バス新百合ヶ丘営業所#柿生駅 - 下麻生 - こどもの国方面|柿21]] [[柿生駅]]南口行
== 隣の駅 ==
; 東急電鉄
: [[File:Tokyu KD line symbol.svg|15px|KD]] こどもの国線
:: [[恩田駅]] (KD02) - '''こどもの国駅 (KD03)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;東急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="東急"|3}}
;東急電鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
;神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|26em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Kodomonokuni Station (Kanagawa)}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[東急電鉄]]
* [[横浜高速鉄道]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=97|name=こどもの国}}
{{東急こどもの国線}}
{{DEFAULTSORT:ことものくに}}
[[Category:横浜市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 こ|とものくに]]
[[Category:東急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1967年開業の鉄道駅]]
[[Category:横浜市青葉区の交通|ことものくにえき]]
[[Category:横浜市青葉区の建築物|ことものくにえき]]
[[Category:多摩田園都市|駅ことものくに]]
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2003-06-19T06:04:05Z
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CD-R
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CD-R (Compact Disc Recordable) とは、データを書き込みできるコンパクトディスクの一種。一度書き込まれたデータは書き換えも消去もできないものの、容量が許す限り追記は可能であり、このことから「追記型」(WORMメディア)と呼ばれる。
1988年に太陽誘電がCD-Rを開発し、1989年6月より販売を開始、1990年に初めてCD-Rドライブが商品化され、同年に規格書「オレンジブック パートII」に規定された。
1990年代以降のデジタルデータ記録用途で使用されており、一旦書き込むと書き換え不能なメディアであるため、データなどのバックアップや、改変不能なデータの配布のためのメディアとして有用である。他に、CD-DAを書き込むことで、CDプレイヤーで使用可能な音楽CDを作成するために利用する用途もある。さらに、データとCD-DAを混在させたメディアの作成も可能である。また、ビデオCDの作成にも使用できる。
2000年代以降新しい規格策定により、追記可能メディアでも再生時間90分以上の音楽CDを作成出来る800 - 875MB盤が登場。しかし互換性の改善と書き込みソフトの対応は限定的で、データ保存の役割ではDVD-RやBD-R、メモリーカード・USBメモリ・オンラインストレージといった次世代メディアの大容量化と低価格化が進み、音楽CD以外の用途においてCD-Rは取って代わられている。
2020年代までに12cm・700MB盤が主流となり、650MB盤、800MB盤および8cm盤は1、2種類の製品のみ販売継続している。
記録できるCDとしては、CDのライセンサーであるソニーとフィリップスが開発し1987年に「ブルーブック」に規定されたCD-WO、同じく1988年に「オレンジブック パートI」に規定されたCD-MOがあったものの、いずれも普及しなかった。
1995年頃には既にパソコンにCD-ROMドライブがほぼ標準搭載されるようになり、Windows 95のような大容量のシステムも容易にインストールできる環境が整い、1996年からCD-Rは普及し始めた。当時のCD-Rドライブの価格は40万円、メディアが1枚5千円したのが、1996年初頭にはドライブは10万円を切るようになりメディアは1枚1000円と低価格化した。
1999年頃からは台湾メーカーによるメディアの価格競争もあり、1枚数百円に値下がりし急速に普及した。
CD-Rにはデータ用と音楽用が存在する。両者とも同じ材質である。
オレンジブックに規定されている一般的なCD-Rで容量は、12cmのディスクで最大700MB(80分)の記録が可能で、650MBの場合は74分である。8cmのディスクで最大210MB(24分)の記録が可能で、185MBの場合は21分である。ポケットサイズで50MBある。
1980年代は主に74分CDであったが、1990年代から80分CDが出回るようになった。このこともあり、12cmのディスクは700MB(80分)が、8cmのディスクでは210MB〈24分〉が主流になっていった。
なお、以前は12cmのディスクで550MB(63分)、8cmのディスクでは156MBのメディアもあったが、現在では一部の音楽愛好家が使用するのみでほとんど使われなくなった。
音楽専用CD-R/RWレコーダー用のメディアで、データ用との違いは、判別信号 (Disc Application Code) が記録されており、レコーダー側で識別できるようになっていること(音楽用はデータ用へ流用出来るがこの逆は出来ない)と、私的録音補償金が上乗せされていることである。
HCRDとも呼ばれる規格で、記憶容量はオレンジブックの規格上では最大で700MBである。しかし、700MBを超えるメディア、流通している物では最大870MBも存在しており、これらCD-Rや対応ドライブ・ライティングソフトが各社から発売されたため、2003年にフィリップスが700MBを超えるCD-Rの規格についてのガイドラインとして、High Capacity Recordable Disc (HCRD) 1.0を策定した。
最大容量は12cmのディスクで98分29秒74フレーム、8cmのディスクで30分の記録が可能である。ただし、ATIP(Absolute Time in Pregroove、絶対時間情報)のアドレスに矛盾が生じるため、オレンジブックには準拠しておらず、CD-Rのロゴは使用されていない。そして、このオレンジブックに準拠しないメディアを読み書きできる機器、ライティングソフトなどは依然として限られている。Eight-to-fourteen modulationが定めた規格最大容量は97分までであるため、ドライブ側で97分26秒であったり、97分32秒であったり対応が分かれている。
2019年現在90分ディスクは、ごく一部の市販CDに採用されている程度である。ドライブの読み書きの問題から、未だに難色を示すレーベルは多い。さらに、99分ディスクを使用したレーベルはまだ現れていない。このため「100分」という都合の悪い収録時間の音楽を収録しようとすると、CDを2枚組にしなければならず、CD出現初期からこの問題は解決していない。多くのCDプレーヤーの時間表示はそもそも100分以上を想定していないため、表示限界までの99分59秒がCD容量の限界として認識されたと考えられる。
CD-Rは、ポリカーボネイト製基板、記録層、反射膜層(金、白金、銀など)、保護層、レーベル層の順に層で構成されている。サンドイッチ状に基板に挟まれた従来の記録済みCDと違い、記録層を表板に貼り付けただけの構造であり、表面が傷つけば記録層も剥がれ落ちる。そのため、表面に文字を書き込む際には、鉛筆やボールペンなどの先の尖った筆記用具は使用できず、先が柔らかくて尖っていない油性マジックやサインペンなどで書き込むよう注意が必要である。
従来の記録済みCDが、アルミニウム製の薄膜に「ピット」と呼ばれる微小な凹みを設けたことで起きる光の反射の度合いの変化でデータを読み取る方式であるのに対して、CD-Rでは、金属薄膜に塗布された有機色素の有無で反射の度合いを変化させる。
記録時には強い赤外線領域の波長780nmのレーザー光を照射することによる熱で、この有機色素の膜を焼き切り、反射層へ直接透過する点を発生させ、これをピットに相当させる。このためデータの記録は非可逆的であり、1回書き込まれた情報の消去ができない。
品質の良いCD-Rであれば、反射率の変化は在来の記録済みCDにほぼ匹敵しており、一般のCD読み出し装置での使用が可能である。しかし、音楽用途では古いCDプレーヤーや反射光を読み込む性能が低いレンズを使用しているプレーヤーでは、一部のCD-Rを読み出せない事例や再生不良を起こす事例も多数報告されており注意が必要である。
CD-Rを使った音楽CDの私的複製やオリジナルのコンピレーションCDの作成などが一般的になると、レーベル面にインクジェットプリンタで印刷ができるプリンタブルメディアの需要が高まった。家庭用インクジェットプリンタの多くはCD-Rのレーベル面印刷に対応している。
CD-Rへの記録方式は、ディスクアットワンス方式とインクリメンタルライト方式とに大別される。実際の操作は使用するライティングソフトによって異なる。
書き込み速度は初期(1999年頃)には等倍速(1倍速)から4倍速であったが、徐々に向上し、2001年頃には8から16倍速、2003年頃には52倍速程度まで実用化された。この速度向上には、1994年に、ソニー、ヤマハ、太陽誘電など数社が「オレンジ研究会」を立ち上げ、製造段階でディスクに識別符号を割り振り各々の互換性を保証する「ライトストラテジー」を制定したことが影響している。なお、フィリップスはオレンジブックに準拠する立場から反対した。この高速化のためにはバッファーアンダーランの防止技術も必要とされた。
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CD-R とは、データを書き込みできるコンパクトディスクの一種。一度書き込まれたデータは書き換えも消去もできないものの、容量が許す限り追記は可能であり、このことから「追記型」(WORMメディア)と呼ばれる。 1988年に太陽誘電がCD-Rを開発し、1989年6月より販売を開始、1990年に初めてCD-Rドライブが商品化され、同年に規格書「オレンジブック パートII」に規定された。 1990年代以降のデジタルデータ記録用途で使用されており、一旦書き込むと書き換え不能なメディアであるため、データなどのバックアップや、改変不能なデータの配布のためのメディアとして有用である。他に、CD-DAを書き込むことで、CDプレイヤーで使用可能な音楽CDを作成するために利用する用途もある。さらに、データとCD-DAを混在させたメディアの作成も可能である。また、ビデオCDの作成にも使用できる。 2000年代以降新しい規格策定により、追記可能メディアでも再生時間90分以上の音楽CDを作成出来る800 - 875MB盤が登場。しかし互換性の改善と書き込みソフトの対応は限定的で、データ保存の役割ではDVD-RやBD-R、メモリーカード・USBメモリ・オンラインストレージといった次世代メディアの大容量化と低価格化が進み、音楽CD以外の用途においてCD-Rは取って代わられている。 2020年代までに12cm・700MB盤が主流となり、650MB盤、800MB盤および8cm盤は1、2種類の製品のみ販売継続している。
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{{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光ディスク|コンパクトディスク|frame=1}}
{{ディスクメディア
|名称=Compact Disc Recordable
|略称=CD-R
|ロゴ= [[File:CD-RECORDABLE logo.svg|200px]]
|画像= [[File:CD-R Back.jpg|250px]]
|画像コメント= フタロシアニン色素を使用したCD-Rの裏面。
|種類=光ディスク
|容量=650 MB、700 MBなど
|フォーマット=
|コーデック=
|読み込み速度=1.2 Mbps<br>(150 kiB/s、1倍速)<br>最高72倍速
|書き込み速度=1.2 Mbps<br>(150 kiB/s、1倍速)<br>最高52倍速
|回転速度=200 - 530 rpm
|読み取り方法=780 nm赤外線レーザー
|書き込み方法=780 nm赤外線レーザー
|書き換え=[[ライトワンス]]
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|策定=
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|ディスク径=12 cm、8 cm
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|上位=
|下位=
|関連=[[コンパクトディスク]]
}}
'''CD-R''' (Compact Disc Recordable) とは、データを書き込みできる[[コンパクトディスク]]の一種。一度書き込まれたデータは書き換えも消去もできないものの、容量が許す限り追記は可能であり、このことから「追記型」([[Write Once Read Many|WORM]]メディア)と呼ばれる。
1988年に[[太陽誘電]]がCD-Rを開発<ref name="cds21">{{Cite web|和書|url=http://www.cds21solutions.org/osj/j/cdr/r_birth.html |title=CD-Rの誕生 |publisher=CDs21ソリューションズ |accessdate=2022-01-09}}</ref>{{Efn|CD-Rは元々太陽誘電内の社内用コードネームであった{{R|cds21}}。}}し、1989年6月より販売を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040510/cds21.htm |title=2003年におけるCD-Rの世界生産量が100億枚を突破 -CDs21が記念パーティー、累計300億枚で地球を一周 |website=AV Watch |publisher=インプレス |date=2004-05-10 |accessdate=2022-01-09}}</ref>、1990年に初めてCD-Rドライブが商品化され<ref name="cds21" />、同年に規格書「オレンジブック パートII」に規定された<ref>{{Cite web |url=https://www.lscdweb.com/ordering/cd_products.html |title=CD Products |publisher=フィリップス |accessdate=2020-08-08}}</ref>。
1990年代以降のデジタルデータ記録用途で使用されており、一旦書き込むと書き換え不能なメディアであるため、データなどのバックアップや、改変不能なデータの配布のためのメディアとして有用である。他に、[[CD-DA]]を書き込むことで、[[CDプレイヤー]]で使用可能な音楽CDを作成するために利用する用途もある。さらに、データとCD-DAを混在させたメディアの作成も可能である。また、[[ビデオCD]]の作成にも使用できる。
2000年代以降新しい規格策定により、追記可能メディアでも再生時間90分以上の音楽CDを作成出来る800 - 875MB盤が登場。しかし互換性の改善と書き込みソフトの対応は限定的で、データ保存の役割では[[DVD#DVD-R|DVD-R]]や[[Blu-ray Disc#BD-R|BD-R]]、[[メモリーカード]]・[[USBメモリ]]・[[オンラインストレージ]]といった次世代メディアの大容量化と低価格化が進み、音楽CD以外の用途においてCD-Rは取って代わられている。
2020年代までに12cm・700MB盤が主流となり、650MB盤、800MB盤および8cm盤は1、2種類の製品のみ販売継続している。
== 歴史 ==
記録できるCDとしては、CDのライセンサーである[[ソニー]]と[[フィリップス]]が開発し1987年に「ブルーブック」に規定されたCD-WO、同じく1988年に「オレンジブック パートI」に規定されたCD-MOがあったものの、いずれも普及しなかった。
1995年頃には既にパソコンに[[CD-ROM]]ドライブがほぼ標準搭載されるようになり、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]のような大容量のシステムも容易にインストールできる環境が整い、1996年からCD-Rは普及し始めた<ref name="nipponsei">{{Wayback|url=http://www.nipponsei.jp/interview/ch-01/interview_yuden-04-02.html|date=20151117123425|title=太陽誘電 第4回『CD-Rがブレークする瞬間』 CD-ROMの存在がCD-Rの普及を促す――そして迎えたCD-Rのブレーク}}</ref>。当時のCD-Rドライブの価格は40万円、メディアが1枚5千円したのが、1996年初頭にはドライブは10万円を切るようになりメディアは1枚1000円と低価格化した<ref>[http://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960823/cdr.htm CD-Rドライブ価格調査] PC Watch 1996年8月22日</ref>。
1999年頃からは台湾メーカーによるメディアの[[価格競争]]もあり、1枚数百円に値下がりし急速に普及した。
== 仕様 ==
=== 容量 ===
CD-Rにはデータ用と音楽用が存在する。両者とも同じ材質である。
==== データ用 ====
オレンジブックに規定されている一般的なCD-Rで容量は、12cmのディスクで最大700MB(80分)の記録が可能で、650MBの場合は74分である。8cmのディスクで最大210MB(24分)の記録が可能で、185MBの場合は21分である。ポケットサイズで50MBある。
1980年代は主に74分CDであったが、1990年代から80分CDが出回るようになった。このこともあり、12cmのディスクは700MB(80分)が、8cmのディスクでは210MB〈24分〉が主流になっていった。
なお、以前は12cmのディスクで550MB(63分)、8cmのディスクでは156MBのメディアもあったが、現在では一部の音楽愛好家が使用するのみでほとんど使われなくなった。
==== 音楽用 ====
音楽専用CD-R/RWレコーダー用のメディアで、データ用との違いは、判別信号 (Disc Application Code) が記録されており、レコーダー側で識別できるようになっていること(音楽用はデータ用へ流用出来るがこの逆は出来ない)と、[[私的録音録画補償金制度|私的録音補償金]]が上乗せされていることである。
==== High Capacity Recordable Disc ====
HCRDとも呼ばれる規格で、記憶容量はオレンジブックの規格上では最大で700[[バイト (情報)|MB]]である。しかし、700MBを超えるメディア、流通している物では最大870MBも存在しており、これらCD-Rや対応ドライブ・ライティングソフトが各社から発売されたため、2003年にフィリップスが700MBを超えるCD-Rの規格についてのガイドラインとして、'''{{lang|en|High Capacity Recordable Disc}}''' (HCRD) 1.0を策定した<ref>{{Cite web |url =https://www.afterdawn.com/news/article.cfm/2003/05/12/high_capacity_recordable_disc_1_0_by_philips |title =High Capacity Recordable Disc 1.0 by Philips |publisher =www.afterdawn.com |date = |accessdate =2019-01-30 }}</ref>。
最大容量は12cmのディスクで98分29秒74フレーム<ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20151231171052/http://forum.videohelp.com/threads/83092-Data-capacity-of-CDs |title =High Capacity Recordable Disc system, Version 0.9, dated Sept 2002 |publisher =forum.videohelp.com |date = |accessdate =2019-01-30 }}</ref>、8cmのディスクで30分の記録が可能である。ただし、[[:en:Absolute Time in Pregroove|ATIP]](Absolute Time in Pregroove、絶対時間情報)のアドレスに矛盾が生じるため、[[オレンジブック]]には準拠しておらず、CD-Rのロゴは使用されていない<ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20190130212601/https://www.philips.ie/c-p/CR8D8NJ10_00/800-mb-90-min-52-x |title =800 Mb 90 Min |publisher =www.philips.ie |date = |accessdate =2019-01-30 }}</ref><ref>{{Cite web |url =https://archive.is/9BcHd |title =High Capasity CD-R |publisher =images.philips.com |date = |accessdate =2019-01-30 }}</ref>。そして、このオレンジブックに準拠しないメディアを読み書きできる機器、ライティングソフトなどは依然として限られている<ref>{{Cite book |和書 |author=森康裕 |year=2004 |title=焼きミスよさようなら!! DVD/CD-Rパーフェクトデータ |publisher=[[三才ブックス]] |isbn=4915540839 }}</ref>。Eight-to-fourteen modulationが定めた規格最大容量は97分までであるため、ドライブ側で97分26秒であったり、97分32秒であったり対応が分かれている<ref>{{Cite web|和書|url = https://archive.ph/yINbo|title = 97分26秒前後であることを証明する資料、多くのドライブが97分〇〇秒で設計している。|website = pioneer.jp|publisher = pioneer.jp|date =2021-05-27|accessdate = 2022-04-25}}</ref><ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20190131000353/https://forums.stevehoffman.tv/threads/longest-running-time-on-an-official-cd-you-bought.638860/ |title =Eight to Fourteen Modulation (EFM) allowed a theoretical maximum of 97 minutes on a 120mm disc. |publisher =forums.stevehoffman.tv |date = |accessdate =2019-01-30 }}</ref>。
2019年現在90分ディスクは、ごく一部の市販CDに採用されている程度である<ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20190131000615/https://store.deccaclassics.com/*/CD-Classics/Field-Nocturnes/5TLY0FL9000 |title =Field: Nocturnes |publisher =store.deccaclassics.com |date = |accessdate =2019-01-30 }}</ref>。ドライブの読み書きの問題から、未だに難色を示すレーベルは多い。さらに、99分ディスクを使用したレーベルはまだ現れていない。このため「100分」という都合の悪い収録時間の音楽<ref group="注釈">例えば[[マーラー]]や[[ブルックナー]]などの交響曲など。</ref>を収録しようとすると、CDを2枚組にしなければならず、CD出現初期からこの問題は解決していない。多くのCDプレーヤーの時間表示はそもそも100分以上を想定していないため、表示限界までの99分59秒がCD容量の限界として認識されたと考えられる。
=== 構造 ===
CD-Rは、ポリカーボネイト製基板、記録層、反射膜層([[金]]<ref group="注釈">[[太陽誘電]]が開発した当初のCD-Rは、反射膜層に金を用いていた。</ref>、[[白金]]、[[銀]]など)、保護層、レーベル層の順に層で構成されている。サンドイッチ状に基板に挟まれた[[CD|従来の記録済みCD]]と違い、記録層を表板に貼り付けただけの構造であり、表面が傷つけば記録層も剥がれ落ちる。そのため、表面に文字を書き込む際には、鉛筆やボールペンなどの先の尖った筆記用具は使用できず、先が柔らかくて尖っていない油性マジックやサインペンなどで書き込むよう注意が必要である。
従来の記録済みCDが、[[アルミニウム]]製の薄膜に「ピット」と呼ばれる微小な凹みを設けたことで起きる光の反射の度合いの変化でデータを読み取る方式であるのに対して、CD-Rでは、金属薄膜に塗布された有機色素の有無で反射の度合いを変化させる。
記録時には強い[[赤外線]]領域の波長780nmの[[レーザー|レーザー光]]を照射することによる熱で、この有機色素の膜を焼き切り、反射層へ直接透過する点を発生させ、これをピットに相当させる。このためデータの記録は非可逆的であり、1回書き込まれた情報の消去ができない。
品質の良いCD-Rであれば、反射率の変化は在来の記録済みCDにほぼ匹敵しており、一般のCD読み出し装置での使用が可能である。しかし、音楽用途では古いCDプレーヤーや反射光を読み込む性能が低いレンズを使用しているプレーヤーでは、一部のCD-Rを読み出せない事例や再生不良を起こす事例も多数報告されており注意が必要である。
==== 記録層 ====
;[[シアニン|シアニン色素]]
: [[太陽誘電]]が実用化した記録面材質で、CD販売初期から使われている。他の色素に比べて光や熱などによる化学的安定性が低いものの、CD-Rの普及に1役買った色素である。台湾製のメディアの一部などは一時期、シアニンを薄く塗ったCD-Rを販売して品質的にも問題があったが、フタロシアニンの普及などによる代替策がある。
;[[フタロシアニン|フタロシアニン色素]]
: [[三井化学]]が実用化した記録面材質である。当初は1社のみであったが、化学的性質が比較的安定しており、シアニンと比べて薄くしてもそれなりの効果が得られ、低価格化なども重なり、近年の韓国・台湾を始めとするアジア諸国製ディスクで多く使用されている。
;[[アゾ|アゾ色素]]
: [[三菱化学メディア]](現・[[Verbatim|Verbatim Japan]])が実用化した記録面材質で、裏面の青さが特徴である。俗に「裏青」と呼ばれる。最も化学的安定性が高く、市場や海賊版製造で根強い人気を誇る。他よりも比較的高価であるが、耐久性や耐光性に特に優れる。2005年6月以降、三菱化学メディア製ディスクにもフタロシアニン色素の採用が進み、希少性が高まる中で、同社の委託生産先(台湾)の工場火災からアゾ色素採用製品の供給が止まり、市場から姿を消した時期もあった。
==== レーベル層 ====
CD-Rを使った音楽CDの私的複製やオリジナルの[[コンピレーション・アルバム|コンピレーション]]CDの作成などが一般的になると、レーベル面にインクジェットプリンタで印刷ができるプリンタブルメディアの需要が高まった。家庭用インクジェットプリンタの多くはCD-Rのレーベル面印刷に対応している<ref group="注釈">なお、CD-Rのレーベル面印刷に対応している機種の場合、メディアのサイズが同じであるためDVD-R・BD-R等のレーベル面印刷にも対応可能である。</ref>。
=== 記録方式 ===
CD-Rへの記録方式は、ディスクアットワンス方式とインクリメンタルライト方式とに大別される。実際の操作は使用するライティングソフトによって異なる。
; ディスクアットワンス方式 (DAO - Disk at Once)
: ディスクアットワンス方式によると、古いドライブやパソコン以外の機器との互換性は高くなる一方で、未使用領域への追加的利用には対応できない。
; インクリメンタル方式 (Incremental Write)
: セッションアットワンス方式 (SAO - Session at Once) やトラックアットワンス方式 (TAO - Track at Once)、パケットライト方式 (Packet Write) のような、インクリメンタル方式によると、古いドライブやパソコン以外の機器との互換性は低くなる一方で、未使用領域への追加的利用には対応可能である。ただし、クローズ情報を記録([[ファイナライズ]])した場合には、それ以降、未使用領域への追加的利用には対応できなくなる。
=== 速度 ===
書き込み速度は初期(1999年頃)には等倍速(1倍速)から4倍速であったが、徐々に向上し、2001年頃には8から16倍速、2003年頃には52倍速程度まで実用化された。この速度向上には、[[1994年]]に、[[ソニー]]、[[ヤマハ]]、[[太陽誘電]]など数社が「オレンジ研究会」を立ち上げ、製造段階でディスクに識別符号を割り振り各々の互換性を保証する「[[ライトストラテジー]]」を制定したことが影響している。なお、[[フィリップス]]はオレンジブックに準拠する立場から反対した。{{Anchors|バッファーアンダーランエラー回避技術}}この高速化のためにはバッファーアンダーランの防止技術も必要とされた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
* [[HD-BURN]]
* [[R盤]]
* [[ライティングソフトウェア]]
* [[音響機器]]
== 外部リンク ==
* [http://yss.la.coocan.jp/ CD-R実験室]{{リンク切れ|date=2023年3月}}
* [http://www.cds21solutions.org/osj/j/index.html Orange Forum]
{{CD規格}}
{{光ディスク}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:CD-R}}
[[Category:コンパクトディスク|R]]
[[Category:日本の発明]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/CD-R
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ユーピテル
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ユーピテルもしくはユッピテル(ラテン語: Jūpiter, Juppiter, 古典綴 IV́PITER, IVPPITER)は、ローマ神話の主神である。また最高位の女神であるユーノーの夫である。 時として女性化・女体化して女神となり、その姿がディアーナであるという言い伝えもある。
日本語では長母音を省略してユピテルとも呼ばれ、英語読みのジュピターでも呼ばれている。
ラテン語のユーピテルは、古ラテン語の呼格 Jou と pater(父)の合成語として生じた呼称とされる。比較言語学の研究により、Jou-pater はインド・ヨーロッパ祖語の Dyēus-pətēr の呼格 Dyēu-pəter (ディェーウ=パテル、父なるディェーウス〔天空神〕よ)からの派生と推定される、と主張されている。ラテン名の属格は Jovis(ヨウィス)となり、斜格の語幹 Jov- に基づく英語の別名 Jove は詩語などに使用される。本来は天空の神、転じて気象現象(特に雷)を司る神とされた。
後にギリシア神話のゼウスと同一視される。実際、ともに古いインド・ヨーロッパ語系神話の天空神に起源を有する。『リグ・ヴェーダ』のディヤウスや北欧神話のテュールとも起源を同じくするとされている。
ローマ神話においては主神として扱われ、古代ローマではローマ市の中心にユーピテル神殿が建立されて永くローマの守護神として崇められた。戦争においては、特にユーピテル・フェレトリウスという呼称で一騎討ちを守護する神として崇敬され、一騎討ちで敵の将軍を破ったローマの将軍は、スポリア・オピーマという敵の将軍の鎧を樫の木に縛った勲章をユーピテルに奉献した。ディオクレティアヌスは国への帰属心が薄れつつあることを危惧し、皇帝権力の強化と愛国心の定着を図るため、自らをユーピテルの子であると宣言、皇帝礼拝と合わせ民衆にローマの神々を礼拝することも義務づけた。
死を汚れとみなす考え方があったため、ユーピテルの祭司長は死体を見ることを禁止されていた。
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ユーピテルもしくはユッピテルは、ローマ神話の主神である。また最高位の女神であるユーノーの夫である。
時として女性化・女体化して女神となり、その姿がディアーナであるという言い伝えもある。 日本語では長母音を省略してユピテルとも呼ばれ、英語読みのジュピターでも呼ばれている。
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<!--[[ファイル:Jupiter Stator Evreux1.jpg|180px|thumb|ユーピテル像]]-->
{{Roman mythology}}
'''ユーピテル'''もしくは'''ユッピテル'''({{lang-la|Jūpiter, Juppiter}}, 古典綴 {{Unicode|IV́PITER, IVPPITER}})は、[[ローマ神話]]の[[主神]]である{{sfn|グラント|1988}}。また最高位の[[女神]]である[[ユーノー]]の夫である{{sfn|グラント|1988}}。
時として女性化・女体化して女神となり、その姿が[[ディアーナ]]であるという言い伝えもある。
日本語では長母音を省略して'''ユピテル'''とも呼ばれ、[[英語]]読みの'''ジュピター'''でも呼ばれている{{sfn|グラント|1988}}。
== 概要 ==
ラテン語のユーピテルは、古ラテン語の呼格 ''Jou'' と ''pater''(父)の合成語として生じた呼称とされる。[[比較言語学]]の研究により、''Jou-pater'' は[[インド・ヨーロッパ祖語]]の {{Unicode|''Dyēus-pətēr''}} の呼格 {{Unicode|''Dyēu-pəter''}} (ディェーウ=パテル、父なるディェーウス〔天空神〕よ)からの派生と推定される、と主張されている。ラテン名の属格は Jovis(ヨウィス)となり{{sfn|田中}}、斜格の語幹 ''Jov-'' に基づく英語の別名 Jove は詩語などに使用される。本来は天空の神、転じて気象現象(特に雷)を司る神とされた{{sfn|グラント|1988}}。
後に[[ギリシア神話]]の[[ゼウス]]と同一視される{{sfn|グラント|1988}}。実際、ともに古いインド・ヨーロッパ語系神話の[[天空神]]に起源を有する。『[[リグ・ヴェーダ]]』の[[ディヤウス]]や[[北欧神話]]の[[テュール]]とも起源を同じくするとされている。
[[ローマ神話]]においては主神として扱われ、[[古代ローマ]]では[[ローマ市]]の中心に[[ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿|ユーピテル神殿]]が建立されて永くローマの守護神として崇められた{{sfn|グラント|1988}}。戦争においては、特にユーピテル・フェレトリウスという呼称で一騎討ちを守護する神として崇敬され、一騎討ちで敵の将軍を破ったローマの将軍は、[[スポリア・オピーマ]]という敵の将軍の鎧を樫の木に縛った勲章をユーピテルに奉献した。[[ディオクレティアヌス]]は国への帰属心が薄れつつあることを危惧し、皇帝権力の強化と愛国心の定着を図るため、自らをユーピテルの子であると宣言、[[皇帝礼拝]]と合わせ民衆にローマの神々を礼拝することも義務づけた。
死を汚れとみなす考え方があったため、ユーピテルの祭司長は死体を見ることを禁止されていた{{sfn|グリーン|2000|page=51}}。
== 出典 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|last=グラント|first=マイケル | coauthors=ジョン・ヘイゼル |title=ギリシア・ローマ神話事典 | publisher=大修館書店 |date=1988|isbn=978-4469012217|ref = harv}}
*{{Cite book|和書|last=グリーン|first=ミランダ・J |translator=井村君江 大出健|title=図説 ドルイド | publisher=東京書籍 | date =2000 |ISBN = 4-487-79412-9|ref = harv}}
*{{Cite|和書|last=田中|first=秀央 |title=羅和辞典 | publisher=研究社 |ref = harv}}
== 関連項目 ==
{{commons|Jupiter (mythology)}}
* [[古代ローマ]]
* [[ユーノー]] - 妻
* [[ディアーナ]]
* [[木星]]
* [[カピトリヌスの三神]]
* [[6月]]
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長野新幹線
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長野新幹線(ながのしんかんせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が運行する新幹線の特定の区間(北陸新幹線のうち高崎駅 - 長野駅間)にかつて用いられていた通称(運転系統名)である。
1998年(平成10年)2月の長野オリンピック開催に合わせて、1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線の高崎駅(運転系統上は東京駅) - 長野駅間が開業したが、この時点では北陸地方までつながっていなかったため、便宜的に「長野行新幹線」(ながのゆきしんかんせん)、後に「長野新幹線」と案内されていた。2015年(平成27年)3月14日に、金沢駅まで開業した際に、案内上の呼称は法令に基づく正式名称の「北陸新幹線」に統一され、長野新幹線という呼称は消滅した。以降、JR東日本区間では長野を経由することを明示するため、「北陸新幹線(長野経由)」という表記が用いられることがある(呼称の変遷の詳細は後述)。
以下、当記事では金沢延伸開業前の2015年(平成27年)3月13日までの営業形態について記述する。長野新幹線開業までの詳しい経緯については「北陸新幹線#沿革」を参照。
金沢延伸開業直前の2015年3月13日時点で、「あさま」が東京駅 - 長野駅間に27往復、東京駅 - 軽井沢駅間に1往復定期列車として運転されたほか、長野県内区間のみの列車として、軽井沢駅始発の下りの「あさま」599号が平日のみ長野駅まで臨時列車として運転されていた。
定期営業列車としては、1997年10月の開業時よりE2系0番台(N編成・8両)が用いられ、1998年1月からは200系の一部も充当され冬季長野オリンピックに対応した。2001年7月からはE4系、2014年3月からはE7系(F編成・12両)も充当された。
これら5車種の共通仕様は、50/60Hzの両周波数への対応と、軽井沢駅-安中榛名駅間(実距離23.3km、標高差648m、最大勾配30‰)の下り坂急勾配において、基礎ブレーキ以外に強力な抑速ブレーキを装備していることであった。
ここでは長野新幹線と呼称されていた2014年度までのデータを示す。
運賃は営業キロに基づいて算出された。東京駅 - 高崎駅間の営業キロは、並行する東北本線(東京駅 - 大宮駅間)・高崎線(大宮駅 - 高崎駅間)と同一になっていた。高崎駅 - 長野駅間の営業キロは、同区間のすべてを並行するJRの路線がないため、実キロ(新幹線での実際の距離)が営業キロとして用いられた。
特急料金は、「三角表」と称するものにより各駅間個別に定められている。一方、この各駅間の特急料金は当該区間の営業キロに基づいて算出されたものである。営業キロに対応する特急料金、およびその他の特定の区間の特急料金は北陸新幹線#運賃と特急料金の節を参照のこと。
特定の列車を対象とした割引切符として、平日朝に運行される軽井沢発長野行きの下り「あさま599号」のみに乗車できる「朝イチあさま切符」などが発売されていた。
なお、群馬県と長野県との県境付近は、長野新幹線開業に伴い信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間が廃止され、並行在来線がなくなったため普通列車のみでの往来が出来なくなった。しかし、長野新幹線においては上越線支線・博多南線と同様の特急料金不要の特例は設定されず、また在来線と乗り換え可能な高崎駅 - 軽井沢駅間のみの乗車であっても、通常料金よりも割引額の大きい特定特急料金等は設定されていない。
全列車に普通車(E2系:1 - 6・8号車、E7系:1 - 10号車)とグリーン車(E2系:7号車、E7系:11号車)を連結していたほか、E7系を使用する列車ではより上位のグレードである「グランクラス」車両(12号車)も連結していた。
なお、2004年12月のダイヤ改正で指定席、自由席各1両以外が禁煙化された後、2005年12月のダイヤ改正でJR東日本の新幹線としては初めて全面禁煙化された。
長野新幹線を含むJR東日本の各新幹線では、原則として車内改札を行わない。これは、乗客が乗車駅の自動改札機を通過する際に指定券のデータを読み取り、車掌が携帯する端末に伝送することで座席毎の予約状況を車上で把握可能とするシステムが導入されているためである。車掌は携帯端末に表示された予約状況と乗客の着席状況を照らし合わせ、一致していれば正規の乗客であるとみなして通過し、指定券が発券されていない座席に乗客が着席している場合などに限って、声を掛け確認していた。
開業当初よりすべての停車駅で同一のオリジナル楽曲がチャイムとして使われていた。ナレーションはフジテレビ元アナウンサーの堺正幸が担当していた。当該チャイムとナレーションは、金沢延伸後も同等区間に引き継がれている。
1972年7月に公示された全国新幹線鉄道整備法(全幹法)第4条第1項に基づく「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」(昭和47年7月3日 運輸省告示第243号)において、東京都から長野市、富山市付近を経由して大阪市に至る新幹線の路線名が「北陸新幹線」と定められると、翌1973年11月に運輸大臣により決定された整備計画でも同じ名称が規定され、「北陸新幹線」が法令上の根拠を持つ名称となっていた。
その後、1989年に高崎 - 軽井沢間、次いで1991年に軽井沢 - 長野間がいずれもフル規格(標準軌新線)で着工され、1998年の長野オリンピックに向けて1997年秋の高崎 - 長野間の先行(部分)開業の方針が固まると、開業前年の1996年ごろから長野県内の経済界において、北陸地方まで行かず長野止まりで開業する北陸新幹線について「長野へ向かう新幹線と分かる通称の使用を(関係機関へ)働き掛ける」といった動きが見られた。
開業を半年後に控えた1997年4月、高崎 - 長野間の運行主体となるJR東日本の松田昌士社長は、同年3月の北越急行ほくほく線開業で東京から北陸地方への最短ルートが上越新幹線(越後湯沢駅)経由となったことを踏まえ、「(『北陸新幹線』の名称を使用すると)北陸方面に行きたい乗客には紛らわしくなる。『北陸新幹線』という正式名称は使えないのではないか」との認識を示し、原山清己JR東日本副社長も「北陸方面へ行くルートは別にあり(『北陸新幹線』の名称使用は)不適当だ」と述べ、JR東日本として「北陸新幹線」とは別の営業用の通称使用を検討していることを明らかにした。
これらのJR東日本の動向に対し、吉村午良長野県知事は「(乗客の)紛らわしさをなくすため、何らかの工夫は必要ではないか」としつつ、北陸各県と協力して新幹線建設を目指してきたこれまでの経緯を念頭に、「長野止まりを印象づけるような名前は困る」と述べ、JR東日本が言及する通称の使用には消極的な意向を示した。また北陸地方の沿線自治体からも、長野以北のフル規格での着工が決まっていない中で「北陸」の名称を外してしまうと、「『北陸新幹線は長野止まりでいい』という空気が広がり、新幹線の建設が長野で止まってしまう事態にもつながりかねない」として、「北陸」の名称を残すことを求める声が上がった。
こうした反応がある中、1997年7月25日にJR東日本は、新幹線「あさま」のダイヤ発表と同時に、路線名や案内呼称を以下のように扱うことを発表した。
こうして1997年10月1日の開業を迎えたが、「長野行新幹線」の表記は、長野駅を含めた長野県内の複数駅の券売機の画面でも使用されたため、ほどなく長野県内の利用者から「(券売機の画面で、東京 - 高崎間で線路を共用する「上越新幹線」の表示もある中)東京へ行くきっぷを買うにはどこを触れればいいか分からない」などの不満の声が上がり、「長野行」表記の評判は芳しいものではなかった。そうした事情もあり、マスメディアでは車内放送等で用いられた「長野新幹線」の使用が広がり、定着していった。
そして翌1998年6月、JR東日本はマスメディアなどで「長野新幹線」の呼称が定着した状況を追認する形で、1998年6月号の時刻表から「長野行新幹線」の表記を「長野新幹線」に変更し、JRグループが出資する弘済出版社(現交通新聞社)の『JR時刻表』や日本交通公社出版事業局(現JTBパブリッシング)の『JTB時刻表』も、同年6月号から目次や索引地図で「長野行新幹線(北陸新幹線)」としていたのを「長野新幹線(北陸新幹線)」へ、ダイヤ部分の表記も「長野行新幹線」から「長野新幹線」に変更した。
その後、東京駅など首都圏の一部駅の構内掲示の「長野行新幹線」も徐々に姿を消し、構内掲示も含めて全面的に「長野新幹線」が用いられるようになった。また、時刻表の索引地図等で「長野新幹線(北陸新幹線)」と併記されていたのも、2002年ごろから「(北陸新幹線)」の表記がなくなり、「長野新幹線」単独で表記されるようになった。
2004年12月の政府・与党申合せで、未開業の長野以北の区間のうち、長野 - 金沢間を2014年度末にフル規格で一体的に開業する方針が固まり、開業に向けた同区間の工事が進むと、2008年ごろから長野県内では経済界を中心に、長野以北の延伸開業時に「長野新幹線の呼称が廃止されかねない」と危惧する声が上がるようになり、長野県や県内沿線自治体によって呼称の影響に関する調査が行われた。
2009年2月には長野商工会議所が、金沢延伸開業後の通称を「長野北陸新幹線」とするよう関係機関に働きかける活動を始め、同年3月には長野県商工会議所連合会など8団体が、JR東日本長野支社に対して、金沢延伸開業後の呼称を「長野北陸新幹線」とするように要望した。これらの長野県内の経済団体の動きについて村井仁長野県知事は一定の理解を示し、「長野県の気持ちというのをご理解いただけるよう一所懸命努力したい」と述べ、「長野」の呼称存続に意欲を示した。
2010年になると鷲沢正一長野市長も「金沢延伸開業後も『長野』という名称を残したい」との意向を示す一方、村井仁の後任で同年9月に長野県知事に就任した阿部守一は、「長野新幹線という名称については北陸関係県等での受けとめは厳しいものがある」との認識を示し、「長野」呼称存続について、いったん慎重な姿勢を見せた。
2011年5月には長野県内の北陸新幹線沿線自治体(31市町村)で構成する連絡協議会が、同年度の総会において「長野」呼称の存続を求める決議を行い、従来より呼称存続の活動を行ってきた長野県内の経済団体に加え、県内の自治体からも存続を求める動きが本格化した。さらに同年9月には、長野市内の市民有志の間で「長野」呼称存続に向けた署名活動が始まるなど、市民レベルの動きも活発化した。
これらの動きに対し、2011年10月、JR東日本の清野智社長は「地元意見を参考にして、JR東日本が主導して最終的な呼称は決定する」との意向を示した。他方、同月に富山県内で開催された北信越市長会の総会において、長野県市長会は「長野」の呼称存続を国などに求める提案を行ったが、北陸各県の自治体の理解を得られず提案は不採択となり、長野県内の自治体と北陸各県の自治体との温度差・認識の違いが浮き彫りとなった。
2012年には長野県内の自治体関係者から、「長野」の呼称存続に慎重姿勢の阿部長野県知事に対して、呼称存続をJRなどに働きかけることを求める声が相次いだ。また同年6月には、長野市議会関係者が新潟県の上越市議会議長らに対し、金沢延伸開業後の呼称が「北陸長野新幹線」となるよう協力を求めるといった動きも見られた。
その後、金沢延伸開業時期が2015年3月と具体化し、開業まで2年余りとなった2013年2月、阿部長野県知事は「1997年の長野開業から15年が経過し、長野新幹線の呼称が全国的に定着しており、また、長野を経由することが利用者にとってわかりやすいものであることが重要で、これにより路線全体の利用拡大にも貢献し、沿線全体のメリットにもなる」として、ついに「長野」の呼称存続を求めることを表明した。しかし、富山県の石井隆一知事は「法令では『北陸新幹線』と明確に書いてある。そう簡単に変える性格のものではない。北陸三県の関係者や多くの方が四十数年間、沿線みんなで努力してきたので、それが基本だと思っている」と述べ、石川県の谷本正憲知事も「金沢が当面は終着駅になるわけだから、堂々と『北陸新幹線』と名乗らないとかえって乗客に誤解を与える」として、北陸地方の県知事からは否定的な反応が示された。また北陸地方の経済界からも「(長野は)今まで既得権を何年か使ってきた。私たちとしては問答無用の気持ち。北陸新幹線で当然」(深山彬金沢商工会議所会頭)と、長野県側の要望を受け入れるつもりはないという発言が相次いだ。
この長野県側と北陸各県側の意見の相違に対し、JR東日本の冨田哲郎社長は2013年3月の定例記者会見で、「正式名称は北陸新幹線」との認識を示しつつ、「愛称的に『長野新幹線』が使用されてきたことに基づく長野県の要望と、富山県、石川県による『北陸を前面に打ち出してほしい』という意見に対して、利用者の分かりやすさという視点を重視しつつ、折り合いを探る」と述べ、同年6月の記者会見でも「利用者に分かりやすいことと、地元の方々に納得していただくことが条件である」との意向を示した。
その後、同年7月中旬、阿部長野県知事は「(金沢延伸開業後も東京駅や時刻表などに)長野を経由する路線であることを示して、利用者に分かりやすくしてもらうようJR東日本に要請する」と改めて表明すると、同月末、長野県内の沿線自治体関係者や経済団体の代表らと東京都内のJR東日本本社を訪問し、冨田哲郎社長に対して「長野」の呼称を残すことを要請した。これに対しJR東日本側からは、「『北陸長野新幹線』は難しいが、何らかの形で『長野』の呼称が残る」旨の発言がなされた。
そして同年10月2日、JR東日本は金沢延伸開業後の路線案内を以下のとおり行うと発表した。
また同日、延伸開業区間のうち上越妙高駅から西側を管轄するJR西日本も北陸新幹線の運行体系などを発表したが、路線表記については「現時点でJR西日本管内で『長野経由』を表記する必要性はない」として、JR東日本と同様の対応は行わない旨を表明した。
数年にわたり「長野」表記の存続を求めてきた長野県内の関係者は、このJR東日本の発表を概ね好意的に受け止め、阿部長野県知事は「思いを真摯に受け止め対応していただいた。JR東日本の判断に感謝申し上げたい。外国人観光客などにも長野を経由することが分かりやすくなる」と評価した。
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"text": "長野新幹線(ながのしんかんせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が運行する新幹線の特定の区間(北陸新幹線のうち高崎駅 - 長野駅間)にかつて用いられていた通称(運転系統名)である。",
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"text": "1998年(平成10年)2月の長野オリンピック開催に合わせて、1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線の高崎駅(運転系統上は東京駅) - 長野駅間が開業したが、この時点では北陸地方までつながっていなかったため、便宜的に「長野行新幹線」(ながのゆきしんかんせん)、後に「長野新幹線」と案内されていた。2015年(平成27年)3月14日に、金沢駅まで開業した際に、案内上の呼称は法令に基づく正式名称の「北陸新幹線」に統一され、長野新幹線という呼称は消滅した。以降、JR東日本区間では長野を経由することを明示するため、「北陸新幹線(長野経由)」という表記が用いられることがある(呼称の変遷の詳細は後述)。",
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"text": "以下、当記事では金沢延伸開業前の2015年(平成27年)3月13日までの営業形態について記述する。長野新幹線開業までの詳しい経緯については「北陸新幹線#沿革」を参照。",
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"text": "金沢延伸開業直前の2015年3月13日時点で、「あさま」が東京駅 - 長野駅間に27往復、東京駅 - 軽井沢駅間に1往復定期列車として運転されたほか、長野県内区間のみの列車として、軽井沢駅始発の下りの「あさま」599号が平日のみ長野駅まで臨時列車として運転されていた。",
"title": "運行形態"
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"text": "定期営業列車としては、1997年10月の開業時よりE2系0番台(N編成・8両)が用いられ、1998年1月からは200系の一部も充当され冬季長野オリンピックに対応した。2001年7月からはE4系、2014年3月からはE7系(F編成・12両)も充当された。",
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"text": "これら5車種の共通仕様は、50/60Hzの両周波数への対応と、軽井沢駅-安中榛名駅間(実距離23.3km、標高差648m、最大勾配30‰)の下り坂急勾配において、基礎ブレーキ以外に強力な抑速ブレーキを装備していることであった。",
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"text": "ここでは長野新幹線と呼称されていた2014年度までのデータを示す。",
"title": "利用状況"
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"text": "運賃は営業キロに基づいて算出された。東京駅 - 高崎駅間の営業キロは、並行する東北本線(東京駅 - 大宮駅間)・高崎線(大宮駅 - 高崎駅間)と同一になっていた。高崎駅 - 長野駅間の営業キロは、同区間のすべてを並行するJRの路線がないため、実キロ(新幹線での実際の距離)が営業キロとして用いられた。",
"title": "運賃と特急料金"
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"text": "特急料金は、「三角表」と称するものにより各駅間個別に定められている。一方、この各駅間の特急料金は当該区間の営業キロに基づいて算出されたものである。営業キロに対応する特急料金、およびその他の特定の区間の特急料金は北陸新幹線#運賃と特急料金の節を参照のこと。",
"title": "運賃と特急料金"
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"text": "特定の列車を対象とした割引切符として、平日朝に運行される軽井沢発長野行きの下り「あさま599号」のみに乗車できる「朝イチあさま切符」などが発売されていた。",
"title": "運賃と特急料金"
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"text": "なお、群馬県と長野県との県境付近は、長野新幹線開業に伴い信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間が廃止され、並行在来線がなくなったため普通列車のみでの往来が出来なくなった。しかし、長野新幹線においては上越線支線・博多南線と同様の特急料金不要の特例は設定されず、また在来線と乗り換え可能な高崎駅 - 軽井沢駅間のみの乗車であっても、通常料金よりも割引額の大きい特定特急料金等は設定されていない。",
"title": "運賃と特急料金"
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"text": "全列車に普通車(E2系:1 - 6・8号車、E7系:1 - 10号車)とグリーン車(E2系:7号車、E7系:11号車)を連結していたほか、E7系を使用する列車ではより上位のグレードである「グランクラス」車両(12号車)も連結していた。",
"title": "営業"
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"text": "なお、2004年12月のダイヤ改正で指定席、自由席各1両以外が禁煙化された後、2005年12月のダイヤ改正でJR東日本の新幹線としては初めて全面禁煙化された。",
"title": "営業"
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"text": "長野新幹線を含むJR東日本の各新幹線では、原則として車内改札を行わない。これは、乗客が乗車駅の自動改札機を通過する際に指定券のデータを読み取り、車掌が携帯する端末に伝送することで座席毎の予約状況を車上で把握可能とするシステムが導入されているためである。車掌は携帯端末に表示された予約状況と乗客の着席状況を照らし合わせ、一致していれば正規の乗客であるとみなして通過し、指定券が発券されていない座席に乗客が着席している場合などに限って、声を掛け確認していた。",
"title": "営業"
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"text": "開業当初よりすべての停車駅で同一のオリジナル楽曲がチャイムとして使われていた。ナレーションはフジテレビ元アナウンサーの堺正幸が担当していた。当該チャイムとナレーションは、金沢延伸後も同等区間に引き継がれている。",
"title": "営業"
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"text": "1972年7月に公示された全国新幹線鉄道整備法(全幹法)第4条第1項に基づく「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」(昭和47年7月3日 運輸省告示第243号)において、東京都から長野市、富山市付近を経由して大阪市に至る新幹線の路線名が「北陸新幹線」と定められると、翌1973年11月に運輸大臣により決定された整備計画でも同じ名称が規定され、「北陸新幹線」が法令上の根拠を持つ名称となっていた。",
"title": "「長野新幹線」の呼称の変遷"
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"text": "その後、1989年に高崎 - 軽井沢間、次いで1991年に軽井沢 - 長野間がいずれもフル規格(標準軌新線)で着工され、1998年の長野オリンピックに向けて1997年秋の高崎 - 長野間の先行(部分)開業の方針が固まると、開業前年の1996年ごろから長野県内の経済界において、北陸地方まで行かず長野止まりで開業する北陸新幹線について「長野へ向かう新幹線と分かる通称の使用を(関係機関へ)働き掛ける」といった動きが見られた。",
"title": "「長野新幹線」の呼称の変遷"
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"text": "開業を半年後に控えた1997年4月、高崎 - 長野間の運行主体となるJR東日本の松田昌士社長は、同年3月の北越急行ほくほく線開業で東京から北陸地方への最短ルートが上越新幹線(越後湯沢駅)経由となったことを踏まえ、「(『北陸新幹線』の名称を使用すると)北陸方面に行きたい乗客には紛らわしくなる。『北陸新幹線』という正式名称は使えないのではないか」との認識を示し、原山清己JR東日本副社長も「北陸方面へ行くルートは別にあり(『北陸新幹線』の名称使用は)不適当だ」と述べ、JR東日本として「北陸新幹線」とは別の営業用の通称使用を検討していることを明らかにした。",
"title": "「長野新幹線」の呼称の変遷"
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"text": "これらのJR東日本の動向に対し、吉村午良長野県知事は「(乗客の)紛らわしさをなくすため、何らかの工夫は必要ではないか」としつつ、北陸各県と協力して新幹線建設を目指してきたこれまでの経緯を念頭に、「長野止まりを印象づけるような名前は困る」と述べ、JR東日本が言及する通称の使用には消極的な意向を示した。また北陸地方の沿線自治体からも、長野以北のフル規格での着工が決まっていない中で「北陸」の名称を外してしまうと、「『北陸新幹線は長野止まりでいい』という空気が広がり、新幹線の建設が長野で止まってしまう事態にもつながりかねない」として、「北陸」の名称を残すことを求める声が上がった。",
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"text": "こうした反応がある中、1997年7月25日にJR東日本は、新幹線「あさま」のダイヤ発表と同時に、路線名や案内呼称を以下のように扱うことを発表した。",
"title": "「長野新幹線」の呼称の変遷"
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"text": "こうして1997年10月1日の開業を迎えたが、「長野行新幹線」の表記は、長野駅を含めた長野県内の複数駅の券売機の画面でも使用されたため、ほどなく長野県内の利用者から「(券売機の画面で、東京 - 高崎間で線路を共用する「上越新幹線」の表示もある中)東京へ行くきっぷを買うにはどこを触れればいいか分からない」などの不満の声が上がり、「長野行」表記の評判は芳しいものではなかった。そうした事情もあり、マスメディアでは車内放送等で用いられた「長野新幹線」の使用が広がり、定着していった。",
"title": "「長野新幹線」の呼称の変遷"
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"text": "そして翌1998年6月、JR東日本はマスメディアなどで「長野新幹線」の呼称が定着した状況を追認する形で、1998年6月号の時刻表から「長野行新幹線」の表記を「長野新幹線」に変更し、JRグループが出資する弘済出版社(現交通新聞社)の『JR時刻表』や日本交通公社出版事業局(現JTBパブリッシング)の『JTB時刻表』も、同年6月号から目次や索引地図で「長野行新幹線(北陸新幹線)」としていたのを「長野新幹線(北陸新幹線)」へ、ダイヤ部分の表記も「長野行新幹線」から「長野新幹線」に変更した。",
"title": "「長野新幹線」の呼称の変遷"
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"text": "その後、東京駅など首都圏の一部駅の構内掲示の「長野行新幹線」も徐々に姿を消し、構内掲示も含めて全面的に「長野新幹線」が用いられるようになった。また、時刻表の索引地図等で「長野新幹線(北陸新幹線)」と併記されていたのも、2002年ごろから「(北陸新幹線)」の表記がなくなり、「長野新幹線」単独で表記されるようになった。",
"title": "「長野新幹線」の呼称の変遷"
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"text": "2004年12月の政府・与党申合せで、未開業の長野以北の区間のうち、長野 - 金沢間を2014年度末にフル規格で一体的に開業する方針が固まり、開業に向けた同区間の工事が進むと、2008年ごろから長野県内では経済界を中心に、長野以北の延伸開業時に「長野新幹線の呼称が廃止されかねない」と危惧する声が上がるようになり、長野県や県内沿線自治体によって呼称の影響に関する調査が行われた。",
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"text": "2009年2月には長野商工会議所が、金沢延伸開業後の通称を「長野北陸新幹線」とするよう関係機関に働きかける活動を始め、同年3月には長野県商工会議所連合会など8団体が、JR東日本長野支社に対して、金沢延伸開業後の呼称を「長野北陸新幹線」とするように要望した。これらの長野県内の経済団体の動きについて村井仁長野県知事は一定の理解を示し、「長野県の気持ちというのをご理解いただけるよう一所懸命努力したい」と述べ、「長野」の呼称存続に意欲を示した。",
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"text": "また同日、延伸開業区間のうち上越妙高駅から西側を管轄するJR西日本も北陸新幹線の運行体系などを発表したが、路線表記については「現時点でJR西日本管内で『長野経由』を表記する必要性はない」として、JR東日本と同様の対応は行わない旨を表明した。",
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"text": "数年にわたり「長野」表記の存続を求めてきた長野県内の関係者は、このJR東日本の発表を概ね好意的に受け止め、阿部長野県知事は「思いを真摯に受け止め対応していただいた。JR東日本の判断に感謝申し上げたい。外国人観光客などにも長野を経由することが分かりやすくなる」と評価した。",
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長野新幹線(ながのしんかんせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が運行する新幹線の特定の区間にかつて用いられていた通称(運転系統名)である。 1998年(平成10年)2月の長野オリンピック開催に合わせて、1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線の高崎駅(運転系統上は東京駅) - 長野駅間が開業したが、この時点では北陸地方までつながっていなかったため、便宜的に「長野行新幹線」(ながのゆきしんかんせん)、後に「長野新幹線」と案内されていた。2015年(平成27年)3月14日に、金沢駅まで開業した際に、案内上の呼称は法令に基づく正式名称の「北陸新幹線」に統一され、長野新幹線という呼称は消滅した。以降、JR東日本区間では長野を経由することを明示するため、「北陸新幹線(長野経由)」という表記が用いられることがある(呼称の変遷の詳細は後述)。 以下、当記事では金沢延伸開業前の2015年(平成27年)3月13日までの営業形態について記述する。長野新幹線開業までの詳しい経緯については「北陸新幹線#沿革」を参照。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 長野新幹線
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|車両基地=
|使用車両=[[新幹線E2系電車|E2系]]、[[新幹線E4系電車|E4系]](東京 - 軽井沢間)、[[新幹線200系電車|200系]]、[[新幹線E7系・W7系電車|E7系]]<!--W7系は金沢延伸時に営業運転開始-->
|路線距離=226.0 [[キロメートル|km]](東京 - 長野間)
|軌間=1435 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化区間=全線
|電化方式=[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />(東京 - 高崎 - 軽井沢間)<br />交流25,000 V・60 Hz<br />(軽井沢 - 長野間)<br />いずれも[[架空電車線方式]]{{refnest|group="注"|name="周波数"|高崎駅 - 軽井沢駅間(50Hz)は[[東京電力]](当時)、軽井沢駅 - 長野駅間(60Hz)は[[中部電力]](当時)から供給される。[[商用電源周波数|周波数]]の切り換えは軽井沢駅 - 佐久平駅間(軽井沢駅から約5kmの地点)の[[デッドセクション|き電区分所]](切替セクション)で行う。}}
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=
|保安装置=
|最高速度=260 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=
}}
'''長野新幹線'''(ながのしんかんせん)は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が運行する[[新幹線]]の特定の区間([[北陸新幹線]]のうち[[高崎駅]] - [[長野駅]]間)にかつて用いられていた通称([[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|運転系統名]])である。
[[1998年]]([[平成]]10年)2月の[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]開催に合わせて、[[1997年]](平成9年)[[10月1日]]に北陸新幹線の高崎駅(運転系統上は[[東京駅]]) - 長野駅間が開業したが、この時点では[[北陸地方]]までつながっていなかったため、便宜的に「'''長野<small>行</small>新幹線'''」(ながのゆきしんかんせん){{R|交通970729}}<ref name="shinmai19970726">{{Cite news|url=http://www.shinmai.co.jp/olympic/199704/97041507 |title=北陸新幹線ダイヤを発表 長野まで最速79分 しなの鉄道2割増|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1997-07-26|accessdate=2021-08-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020310220639/http://www.shinmai.co.jp/olympic/199707/97072604.htm |archivedate=2021-08-04}}</ref>、後に「長野新幹線」と案内されていた<ref name="shinmai19980628">{{Cite news|url= |title=新幹線あさま 時刻表「長野新幹線」に変更 呼び方定着…追認|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1998-06-28|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]に、[[金沢駅]]まで開業した際に、案内上の呼称は法令<ref group="注">[[全国新幹線鉄道整備法]]</ref>に基づく正式名称の「北陸新幹線」に統一され、長野新幹線という呼称は消滅した。以降、JR東日本区間では長野を経由することを明示するため、「'''北陸新幹線(長野経由)'''」という表記が用いられることがある(呼称の変遷の詳細は[[#「長野新幹線」の呼称の変遷|後述]])。
以下、当記事では金沢延伸開業前の2015年(平成27年)[[3月13日]]までの営業形態について記述する。長野新幹線開業までの詳しい経緯については「[[北陸新幹線#沿革]]」を参照。
== 運行形態 ==
{{Main2|停車駅など、詳細|あさま#長野開業時}}
金沢延伸開業直前の2015年3月13日時点で、「[[あさま]]」が東京駅 - 長野駅間に27往復、東京駅 - [[軽井沢駅]]間に1往復定期列車{{refnest|group="注"|軽井沢駅発着の定期列車のうち、下りの「あさま」551号が毎週金曜日および一部の休日は長野駅まで、また、上りの「あさま」502号が毎週土曜日および一部の休日に長野駅始発として、いずれも軽井沢駅 - 長野駅間を臨時列車として延長運転を行っていた。}}として運転されたほか、長野県内区間のみの列車として、軽井沢駅始発の下りの「あさま」599号が平日のみ{{refnest|group="注"|土曜日および一部休日は運休。金沢延伸開業後は「あさま」699号として運転。}}長野駅まで臨時列車として運転されていた。
== 車両 ==
{{See also|北陸新幹線#車両}}
定期営業列車としては、1997年10月の開業時より[[新幹線E2系電車|E2系0番台]](N編成<ref group="注">開業当初から、2002年までは東北新幹線用のJ編成も入線していた(当時は8両編成)。</ref>・8両)が用いられ、1998年1月からは[[新幹線200系電車|200系]]の一部も充当され冬季長野オリンピックに対応した。2001年7月からは[[新幹線E4系電車|E4系]]<ref name="e4max_history">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/niigata/maxlastrun/history.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210903142815/https://www.jreast.co.jp/niigata/maxlastrun/history.html |title=E4系 Maxの軌跡 |archivedate=2021-09-03 |accessdate=2023-05-18 |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>、2014年3月からは[[新幹線E7系・W7系電車|E7系]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20140315-a107/ |title=JR東日本の新型車両E7系、長野新幹線「あさま」でデビュー! 4月以降も増便 |access-date=2023-05-18 |publisher=マイナビ |date=2014-03-15 |website=マイナビニュース}}</ref>(F編成・12両)<!--、[[新幹線E7系・W7系電車|W7系]] →W7系は2015年の金沢延伸時に営業運転開始-->も充当された。
これら5車種の共通仕様は、50/60Hzの両[[商用電源周波数|周波数]]への対応と、軽井沢駅-安中榛名駅間(実距離23.3km、標高差648m、最大勾配30[[パーミル|‰]])の下り坂急勾配において、基礎ブレーキ以外に強力な抑速ブレーキを装備していることであった。
<gallery>
ファイル:N11 Asama 514 Tokyo 20020601.jpg|E2系N編成
ファイル:Series-E7-F19.jpg|E7系
</gallery>
== 利用状況 ==
ここでは'''長野新幹線'''と呼称されていた2014年度までのデータを示す。
{{Main2|2014年度末の長野駅 - 金沢駅開業以降の平均通過人員は「[[北陸新幹線#利用状況]]」を}}
{|class="wikitable" border="1" style="font-size:90%; text-align:right;"
|+
!rowspan="2"|年度
!平均通過人員(人/日)
!rowspan="2"|備考
|-
!高崎 - 長野
|-
!style="text-align:left;"|1997年度<ref name="jreast1987-2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2017.pdf |title=路線別ご利用状況(1987〜2017年度(5年毎)) |accessdate=2019-10-04 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190330100718/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2017.pdf |archivedate=2019-03-30}}</ref>
|21,995
|style="text-align:left;"|10月1日高崎 - 長野間開業
|-
!style="text-align:left;"|2002年度<ref name="jreast1987-2017" />
||18,969
|
|-
!style="text-align:left;"|2006年度<ref name="jreast2006-2010">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2006-2010.pdf |title=路線別ご利用状況(2006〜2010年度)|accessdate=2020-07-11 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160717143453/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2006-2010.pdf |archivedate=2016-07-17}}</ref>
|19,305
|
|-
!style="text-align:left;"|2007年度<ref name="jreast2006-2010" />
|19,359
|
|-
!style="text-align:left;"|2008年度<ref name="jreast2006-2010" />
|19,129
|
|-
!style="text-align:left;"|2009年度<ref name="jreast2006-2010" />
|18,902
|
|-
!style="text-align:left;"|2010年度<ref name="jreast2010-2014">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2010-2014.pdf |title=路線別ご利用状況(2010〜2014年度)|accessdate=2020-07-11 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151106142128/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2010-2014.pdf |archivedate=2015-11-06}}</ref>
|17,572
|
|-
!style="text-align:left;"|2011年度<ref name="jreast2010-2014" />
|17,751
|
|-
!style="text-align:left;"|2012年度<ref name="jreast2010-2014" />
|18,565
|
|-
!style="text-align:left;"|2013年度<ref name="jreast2010-2014" />
|19,210
|
|-
!style="text-align:left;"|2014年度<ref name="jreast2010-2014" />
|21,247
|style="text-align:left;"|3月14日長野 - 金沢間開業
|}
== 運賃と特急料金 ==
[[運賃]]は営業キロに基づいて算出された。東京駅 - 高崎駅間の[[営業キロ]]は、並行する[[東北本線]](東京駅 - 大宮駅間)・[[高崎線]](大宮駅 - 高崎駅間)と同一になっていた。高崎駅 - 長野駅間の営業キロは、同区間のすべてを並行するJRの路線がないため{{refnest|group="注"|同区間には元々[[信越本線]]が存在していたが、長野新幹線開業に伴い[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - 軽井沢駅間は廃止、軽井沢駅 - [[篠ノ井駅]]間は[[第三セクター]]の[[しなの鉄道]]に移管され、全ての区間を並行する[[在来線]]が存在しない状態となった。}}、実キロ(新幹線での実際の距離)が営業キロとして用いられた。
[[特別急行券|特急料金]]は、「三角表」と称するものにより各駅間個別に定められている。一方、この各駅間の特急料金は当該区間の営業キロに基づいて算出されたものである。営業キロに対応する特急料金、およびその他の特定の区間の特急料金は[[北陸新幹線#運賃と特急料金]]の節を参照のこと。
特定の列車を対象とした割引切符として、平日朝に運行される軽井沢発長野行きの下り「あさま599号」のみに乗車できる「朝イチあさま切符{{refnest|group="注"|2005年夏から発売開始。運賃と特急料金を合わせた金額で軽井沢駅発が1,800円(通常料金だと3,070円)、佐久平駅発は1,500円(同2,740円)、上田駅発は1,000円(同1,410円)と通常料金から29%から45%割引されていた。}}」などが発売されていた。
なお、群馬県と長野県との県境付近は、長野新幹線開業に伴い[[信越本線]]の[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - 軽井沢駅間が廃止され、[[並行在来線]]がなくなったため[[普通列車]]のみでの往来が出来なくなった{{refnest|group="注"|廃止後の代替バスである[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]の[[碓氷線]]で両駅間を新幹線を使わずに乗り通すことは可能であるが、別途バス運賃が必要である。}}。しかし、長野新幹線においては[[上越線]]支線・[[博多南線]]と同様の[[特別急行券#特急料金不要の特例区間|特急料金不要の特例]]は設定されず、また在来線と乗り換え可能な高崎駅 - 軽井沢駅間のみの乗車であっても、通常料金よりも割引額の大きい[[特別急行券#特定特急券|特定特急料金]]等は設定されていない{{refnest|group="注"|[[安中榛名駅]] - 軽井沢駅間は隣接駅間として特定特急料金が設定されているが、安中榛名駅は新幹線単独駅のため在来線との乗り換えは不可能である。}}。
== 営業 ==
=== 車内設備 ===
全列車に[[普通車 (鉄道車両)|普通車]](E2系:1 - 6・8号車、E7系:1 - 10号車)と[[グリーン車]](E2系:7号車、E7系:11号車)を連結していたほか、E7系を使用する列車ではより上位のグレードである「[[グランクラス]]」車両(12号車)も連結していた。
<gallery>
ファイル:JRE E2 E226-301 inside.jpg|E2系の普通車
ファイル:JRE E2 N1 E215 inside.jpg|E2系のグリーン車
ファイル:E7Standard-sized car.JPG|E7系の普通車
ファイル:E7 Green class car 20140412.jpg|E7系のグリーン車
ファイル:E7Gran Class.JPG|E7系のグランクラス
</gallery>
なお、2004年12月のダイヤ改正で指定席、自由席各1両以外が禁煙化された後、2005年12月のダイヤ改正でJR東日本の新幹線としては初めて全面禁煙化された<ref name="JREast20060603">{{Cite press release|和書|title = 列車内の全面禁煙化について|format=PDF |publisher = 東日本旅客鉄道|date = 2006-06-03|url = https://www.jreast.co.jp/press/2006_1/20060603.pdf| accessdate = 2021-07-20 }}</ref>{{refnest|group="注"|東北・上越・山形・秋田の各新幹線および在来線特急列車すべての全面禁煙化は2007年3月のダイヤ改正以降である<ref name="JREast20060603" />。}}。
=== 車内改札 ===
長野新幹線を含むJR東日本の各新幹線では、原則として[[車内改札]]を行わない。これは、乗客が乗車駅の[[自動改札機]]を通過する際に[[座席指定券|指定券]]のデータを読み取り、[[車掌]]が携帯する端末に伝送することで座席毎の予約状況を車上で把握可能とするシステムが導入されているためである。車掌は携帯端末に表示された予約状況と乗客の着席状況を照らし合わせ、一致していれば正規の乗客であるとみなして通過し、指定券が発券されていない座席に乗客が着席している場合などに限って、声を掛け確認していた。
=== 車内放送 ===
開業当初よりすべての停車駅で同一のオリジナル楽曲がチャイムとして使われていた{{refnest|group="注"|チャイムのメロディーは[[上越新幹線]]のものと同一である。}}。ナレーションは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]元[[アナウンサー]]の[[堺正幸]]が担当していた。当該チャイムとナレーションは、金沢延伸後も同等区間に引き継がれている。
== 「長野新幹線」の呼称の変遷 ==
=== 高崎 - 長野間先行開業時の呼称 ===
[[1972年]]7月に公示された[[全国新幹線鉄道整備法]](全幹法)第4条第1項に基づく「[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画]]」(昭和47年7月3日 運輸省告示第243号<ref name="昭和47年運輸省告示第243号">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/notice/noticedata/sgml/1972/62035a01/62035a01.html |title=全国新幹線鉄道整備法第四条第一項の規定による建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画 昭和四十七年七月三日 運輸省告示第二百四十三号 変更 昭和四八年一一月一五日 運輸省告示第四六五号 |publisher=[[国土交通省]] |date= |accessdate=2021-08-04 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>)において、東京都から長野市、富山市付近を経由して大阪市に至る新幹線の路線名が「北陸新幹線」と定められると<ref name="昭和47年運輸省告示第243号" />、翌[[1973年]]11月に[[運輸大臣]]により決定された[[整備新幹線|整備計画]]でも同じ名称が規定され<ref name="昭和48年整備計画">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.saga.lg.jp/shinkansen/kiji0039655/3_9655_3_material731113.pdf |title=全国新幹線鉄道整備法、第七条第一項の規定に基づき、新幹線鉄道建設に関する整備計画を別紙のとおり決定する 昭和四十八年十一月十三日 運輸大臣 新谷 寅三郎 |format=PDF |publisher=[[佐賀県]] |date= |accessdate=2021-08-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171231100119/https://www.pref.saga.lg.jp/shinkansen/kiji0039655/3_9655_3_material731113.pdf |archivedate=2021-08-04 }}</ref>、「北陸新幹線」が法令上の根拠を持つ名称となっていた。
その後、[[1989年]]に高崎 - 軽井沢間、次いで1991年に軽井沢 - 長野間がいずれもフル規格(標準軌新線)で着工され、[[1998年]]の[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]に向けて[[1997年]]秋の高崎 - 長野間の先行(部分)開業の方針が固まると<ref group="注">1991年に軽井沢 - 長野間が着工された時点で、長野以北のうち長野 - [[上越妙高駅|上越]]間は未着工、上越 - 金沢間も一部区間が「暫定整備計画」(運輸省案)に基づきスーパー特急方式([[新幹線鉄道規格新線]])で着工されたため、長野以北区間を全てフル規格で開業する見通しは立っていなかった。</ref>、開業前年の[[1996年]]ごろから長野県内の経済界{{Refnest|group="注"|長野商工会議所(長野市)など<ref name="shinmai19970306">{{Cite news|url= |title=焦点 北陸へ行かぬ北陸新幹線開業「長野行き」名称に悩むJR|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1997-03-06|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}において、北陸地方まで行かず長野止まりで開業する北陸新幹線について「長野へ向かう新幹線と分かる通称の使用を(関係機関へ)働き掛ける{{Refnest|group="注"|1996年6月開催の長野商工会議所総会における決議<ref name="shinmai19970306" />。}}」といった動きが見られた。
開業を半年後に控えた1997年4月、高崎 - 長野間の運行主体となるJR東日本の[[松田昌士]]社長は、同年3月の[[北越急行ほくほく線]]開業で東京から北陸地方への最短ルートが上越新幹線([[越後湯沢駅]])経由となったことを踏まえ、「(『北陸新幹線』の名称を使用すると)北陸方面に行きたい乗客には紛らわしくなる。『北陸新幹線』という正式名称は使えないのではないか」との認識を示し<ref name="shinmai19970409">{{Cite news|url= |title=新幹線 高崎-長野間「北陸」と別の呼称考慮 JR社長が示唆|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1997-04-09|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、原山清己JR東日本副社長も「北陸方面へ行くルートは別にあり(『北陸新幹線』の名称使用は)不適当だ」と述べ、JR東日本として「北陸新幹線」とは別の営業用の通称使用を検討していることを明らかにした<ref name="shinmai19970415">{{Cite news|url=http://www.shinmai.co.jp/olympic/199704/97041507 |title=北陸新幹線・東京-長野 10月開業を発表 列車愛称「あさま」|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1997-04-15|accessdate=2021-08-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010713234205/http://www.shinmai.co.jp/olympic/199704/97041507.htm |archivedate=2021-08-04}}</ref>{{Refnest|group="注"|JR東日本が1997年3月に運輸省に提出した1997年度の事業計画書においても、高崎 - 長野間で開業する新幹線の記述では、「北陸」の名称は一切使われず「長野への新幹線」という表現で統一されていた<ref name="shinmai19970315">{{Cite news|url= |title=JR東日本 長野への新幹線事業計画「北陸」呼称遣わず|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1997-03-15|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}。
これらのJR東日本の動向に対し、[[吉村午良]]長野県知事は「(乗客の)紛らわしさをなくすため、何らかの工夫は必要ではないか」としつつ<ref name="shinmai19970412">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線・東京-長野“長野新幹線”の名称、知事「困る」|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1997-04-12|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、北陸各県と協力して新幹線建設を目指してきたこれまでの経緯を念頭に、「長野止まりを印象づけるような名前は困る」と述べ<ref name="shinmai19970306" />、JR東日本が言及する通称の使用には消極的な意向を示した<ref name="shinmai19970306" /><ref name="shinmai19970412" />。また北陸地方の沿線自治体からも、長野以北のフル規格での着工が決まっていない中で「北陸」の名称を外してしまうと、「『北陸新幹線は長野止まりでいい』という空気が広がり、新幹線の建設が長野で止まってしまう事態にもつながりかねない」として<ref name="shinmai19970306" />、「北陸」の名称を残すことを求める声が上がった<ref name="nikkei19970505">{{Cite news|url= |title=呼称は長野か北陸か新幹線揺れる―JR東日本『まだ長野まで』北陸自治体『名前は残して』」|newspaper=日本経済新聞|publisher=|date=1997-05-05|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>{{Refnest|group="注"|沿線各県からは、JR東日本が「北陸」の名称使用に否定的なことについて、「(建設費や採算性の観点からフル規格の)新幹線を長野止まりにしたいのが本音ではないか」と憶測する声も上がった<ref name="shinmai19970306" />。}}。
こうした反応がある中、[[1997年]][[7月25日]]にJR東日本は、新幹線「あさま」のダイヤ発表と同時に、路線名や案内呼称を以下のように扱うことを発表した<ref name="shinmai19970726" />。
*北陸方面に向かう乗客の誤乗車防止のため、東京駅や上野駅、大宮駅など首都圏の駅構内掲示や列車時刻表では「'''長野行新幹線'''」の案内名称で表示し{{Refnest|group="注"|実際の構内掲示では「'''長野<small>行</small>新幹線'''」のように「行」が小文字で表記された<ref name="shinmai19971021">{{Cite news|url= |title=JR「長野行新幹線」案内名称 利用客に不評 戸惑う自動券売機|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=1997-10-21|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}、原則として「北陸新幹線」の名称は使用しない。
*駅構内放送および車内放送では「'''長野新幹線'''」を使用する。
*安中榛名駅、軽井沢駅、佐久平駅、上田駅、長野駅の駅構内掲示では単に「'''新幹線'''」<!--(東北新幹線に入る[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[上野駅]]の上り線では現在も「'''新幹線上り'''」となっている)-->とする。
こうして1997年10月1日の開業を迎えたが{{Refnest|group="注"|開業当日に長野駅で行われたイベントのあいさつで、松田昌士JR東日本社長は「北陸新幹線」の表現は一切使わず、吉村午良長野県知事が一度だけ使うにとどまった<ref name="shinmai19971021" />。また、[[東海旅客鉄道|JR東海]]が管轄する東京駅の[[東海道新幹線]]ホームの構内掲示では、開業当日から「長野新幹線」の名称が使用されるなど[[JRグループ]]内でも表記は不統一となっていた。}}、「長野行新幹線」の表記は、長野駅を含めた長野県内の複数駅の券売機の画面でも使用されたため、ほどなく長野県内の利用者から「(券売機の画面で、東京 - 高崎間で線路を共用する「上越新幹線」の表示もある中)東京へ行くきっぷを買うにはどこを触れればいいか分からない」などの不満の声が上がり、「長野行」表記の評判は芳しいものではなかった<ref name="shinmai19971021" />。そうした事情もあり、マスメディアでは車内放送等で用いられた「長野新幹線」の使用が広がり、定着していった{{Refnest|group="注"|「JR東日本本社内では迷わず『長野新幹線』と呼んでいる」とのJR東日本社員の声も見られた<ref name="shinmai19971021" />。}}。
そして翌[[1998年]]6月、JR東日本はマスメディアなどで「長野新幹線」の呼称が定着した状況を追認する形で、1998年6月号の時刻表から「長野行新幹線」の表記を「長野新幹線」に変更し<ref name="shinmai19980628" />、JRグループが出資する弘済出版社(現[[交通新聞社]])の『[[時刻表#交通新聞社発行|JR時刻表]]』や[[JTB|日本交通公社出版事業局]](現[[JTBパブリッシング]])の『[[時刻表#JTBパブリッシング発行|JTB時刻表]]』も、同年6月号から目次や索引地図で「長野行新幹線(北陸新幹線)」としていたのを「長野新幹線(北陸新幹線)」へ、ダイヤ部分の表記も「長野行新幹線」から「長野新幹線」に変更した<ref name="shinmai19980628" /><ref name="rurubu">{{Cite web|和書|url=http://www.rurubu.com/book/recomm/jikokuhyou/ayumi3.aspx |title=JTB時刻表 時刻表80年のあゆみ-第3回- |format=|publisher=JTBパブリッシング |date= |accessdate=2021-08-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100211205936/http://www.rurubu.com/book/recomm/jikokuhyou/ayumi3.aspx |archivedate=2021-08-04 }}</ref>。
その後、東京駅など首都圏の一部駅の構内掲示の「長野行新幹線」も徐々に姿を消し、構内掲示も含めて全面的に「長野新幹線」が用いられるようになった<ref group="注">長野以北の区間で未着工だった長野 - 上越間は1998年3月にフル規格での着工が決まり、長野以北のフル規格での延伸開業に目途が付いたことで北陸地方の沿線自治体の抵抗感も薄まっていた。</ref>。また、時刻表の索引地図等で「長野新幹線(北陸新幹線)」と併記されていたのも、2002年ごろから「(北陸新幹線)」の表記がなくなり、「長野新幹線」単独で表記されるようになった<ref>『JTB時刻表』2002年12月号、p.24</ref>。
[[ファイル:Shinkansen-Platform-Takasaki-sta.jpg|thumb|270px|「長野<small>行</small>新幹線」表記が残っていた[[高崎駅]]新幹線ホーム(2007年7月21日撮影)。現在は「北陸新幹線<small>(長野経由)</small>」に変更されている。]]
=== 長野 - 金沢間延伸開業時の呼称の見直し ===
2004年12月の政府・与党申合せで、未開業の長野以北の区間のうち、長野 - 金沢間を2014年度末にフル規格で一体的に開業する方針が固まり、開業に向けた同区間の工事が進むと、2008年ごろから長野県内では経済界を中心に、長野以北の延伸開業時に「長野新幹線の呼称が廃止されかねない」と危惧する声が上がるようになり<ref name="shinmai20080527">{{Cite news|url= |title=「長野新幹線」呼称消える? 北陸延伸にらみ、県など影響調査|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2008-05-27|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、長野県や県内沿線自治体によって呼称の影響に関する調査が行われた<ref name="shinmai20080527" />。
2009年2月には長野商工会議所が、金沢延伸開業後の通称を「'''長野北陸新幹線'''」とするよう関係機関に働きかける活動を始め<ref name="shinmai20090206">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線―通称「長野北陸新幹線」に 長野商議所が要望活動へ 延伸後も県内経由、アピール|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2009-02-06|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、同年3月には長野県商工会議所連合会など8団体が、[[JR東日本長野支社]]に対して、金沢延伸開業後の呼称を「長野北陸新幹線」とするように要望した<ref name="shinmai20090317">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線長野-金沢間開業後 通称「長野北陸新幹線」に 県内8団体、JR東に要望書|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2009-03-17|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/area/nagano/news/20090317ddlk20040010000c.html|title=北陸新幹線:名称は「長野北陸新幹線」に 県商工会議所連合会らJRに要望/長野|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2009-03-17|accessdate=2009-03-17|archiveurl= |archivedate= }}{{リンク切れ|date=2014年11月}}</ref>。これらの長野県内の経済団体の動きについて[[村井仁]]長野県知事は一定の理解を示し、「長野県の気持ちというのをご理解いただけるよう一所懸命努力したい」と述べ、「長野」の呼称存続に意欲を示した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.pref.nagano.lg.jp/hisyo/press/20090316.htm|title=知事会見20090316|publisher=長野県|date=2009-03-16|accessdate=2009-03-16|archiveurl= |archivedate= }}{{リンク切れ|date=2014年11月}}</ref>。
2010年になると[[鷲沢正一]]長野市長も「金沢延伸開業後も『長野』という名称を残したい」との意向を示す一方<ref name="shinmai20100522">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線の通称 金沢開業後も「長野」残して 鷲沢市長、連絡協総会で|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2010-05-22|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、村井仁の後任で同年9月に長野県知事に就任した[[阿部守一]]は、「長野新幹線という名称については北陸関係県等での受けとめは厳しいものがある」との認識を示し<ref>{{Cite conference |title = 長野県議会本会議|conference = 平成22年11月定例会|volume = 04|quote = 長野新幹線という名称については北陸関係県等での受けとめ方は厳しいものがあると認識しております。|url = https://nagano.gijiroku.com/voices/cgi/voiweb.exe?ACT=200&KENSAKU=0&SORT=0&KTYP=0,1,2,3&KGTP=1,2&FYY=2010&TYY=2010&TITL_SUBT=%95%BD%90%AC%82Q%82Q%94N%82P%82P%8C%8E%92%E8%97%E1%89%EF%96%7B%89%EF%8Bc%81%7C12%8C%8E02%93%FA-04%8D%86&KGNO=337&FINO=1248&UNID=k_H22120200041|date = 2010-12-02 }}</ref>、「長野」呼称存続について、いったん慎重な姿勢を見せた。
2011年5月には長野県内の北陸新幹線沿線自治体(31市町村)で構成する連絡協議会が、同年度の総会において「長野」呼称の存続を求める決議を行い<ref name="shinmai20110525">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線県内沿線連絡協が総会「長野」の呼称、残すよう初の決議|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2011-05-25|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>{{Refnest|group="注"|その後、同連絡協議会は翌2012年度と2013年度の総会においても同様の決議を行った<ref name="shinmai20130523">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線「長野」呼称存続を 県内沿線連絡協、3度目決議|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-05-23|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}、従来より呼称存続の活動を行ってきた長野県内の経済団体に加え、県内の自治体からも存続を求める動きが本格化した{{Refnest|group="注"|同連絡協議会は、同年7月には国土交通省とJR東日本に対して、金沢延伸開業後の呼称に「長野」を含める要望を相次いで行った<ref name="shinmai20110712">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線呼称に「長野含めて」県内連絡協、国交省に要望|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2011-07-12|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref><ref name="shinmai20110720">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線「長野」呼称 県内沿線連絡協、JR支社にも要望|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2011-07-20|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}。さらに同年9月には、長野市内の市民有志の間で「長野」呼称存続に向けた署名活動が始まるなど<ref name="shinmai20110910">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線「長野」呼称存続へ 長野の有志が署名活動、近く開始|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2011-09-10|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、市民レベルの動きも活発化した。
これらの動きに対し、2011年10月、JR東日本の[[清野智]]社長は「地元意見を参考にして、JR東日本が主導して最終的な呼称は決定する」との意向を示した<ref name="shinmai20111005">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線の呼称はJR東日本主導 清野社長が会見、意向|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2011-10-05|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。他方、同月に富山県内で開催された北信越市長会の総会において、長野県市長会は「長野」の呼称存続を国などに求める提案を行ったが、北陸各県の自治体の理解を得られず提案は不採択となり、長野県内の自治体と北陸各県の自治体との温度差・認識の違いが浮き彫りとなった<ref name="shinmai20111014">{{Cite news|url= |title=富山で北信越市長会 北陸新幹線「長野」呼称、議題外れる 各県の理解得られず|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2011-10-14|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
2012年には長野県内の自治体関係者{{Refnest|group="注"|長野県市議会議長会など<ref name="shinmai20120208">{{Cite news|url= |title=県市議会議長会が阿部知事に要望 北陸新幹線名称など6項目|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2012-02-08|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}から、「長野」の呼称存続に慎重姿勢の阿部長野県知事に対して、呼称存続をJRなどに働きかけることを求める声が相次いだ<ref name="shinmai20120208" />{{Refnest|group="注"|呼称存続に加えて、長野駅発着列車および「あさま」の列車名の存続を求める動きも見られた<ref name="shinmai20120208" />。}}。また同年6月には、長野市議会関係者が新潟県の上越市議会議長らに対し、金沢延伸開業後の呼称が「'''北陸長野新幹線'''」となるよう協力を求めるといった動きも見られた<ref name="shinmai20120627">{{Cite news|url= |title=新幹線延伸後の呼称「北陸長野」に 長野市会、上越市議長らに協力要望 観光戦略特別委|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2012-06-27|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
その後、金沢延伸開業時期が2015年3月と具体化し、開業まで2年余りとなった2013年2月、阿部長野県知事は「1997年の長野開業から15年が経過し、長野新幹線の呼称が全国的に定着しており、また、長野を経由することが利用者にとってわかりやすいものであることが重要で、これにより路線全体の利用拡大にも貢献し、沿線全体のメリットにもなる」として<ref>{{Cite conference |title = 長野県議会本会議|conference = 平成25年2月定例会|volume = 01|quote = 金沢開業時における新幹線の呼称につきましては、正式な路線名は北陸新幹線でありますが、愛称として「長野」の文字が残ることが望ましいと考えます。|url = https://nagano.gijiroku.com/voices/cgi/voiweb.exe?ACT=200&KENSAKU=0&SORT=0&KTYP=0,1,2,3&KGTP=1,2&FYY=2013&TYY=2013&TITL_SUBT=%95%BD%90%AC%82Q%82T%94N%81@%82Q%8C%8E%92%E8%97%E1%89%EF%96%7B%89%EF%8Bc%81%7C02%8C%8E20%93%FA-01%8D%86&KGNO=468&FINO=1612&UNID=k_H25022000011|date = 2013-02-20 }}</ref>、ついに「長野」の呼称存続を求めることを表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.shinmai.co.jp/news/20130219/KT130218ATI090007000.php|title=呼称「長野」存続を 阿部知事要望へ 延伸開業後の新幹線|newspaper=[[信濃毎日新聞]]|publisher=信濃毎日新聞社|date=2013-02-19|accessdate=2013-02-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130222013852/http://www.shinmai.co.jp/news/20130219/KT130218ATI090007000.php|archivedate=2013-02-22}}</ref>。しかし、富山県の[[石井隆一]]知事は「法令では『北陸新幹線』と明確に書いてある。そう簡単に変える性格のものではない。北陸三県の関係者や多くの方が四十数年間、沿線みんなで努力してきたので、それが基本だと思っている」と述べ<ref>{{Cite news|url=http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20130220/CK2013022002000033.html|title=新幹線あくまで「北陸」 知事 「3県で40年努力した」|newspaper=[[中日新聞]]富山版|publisher=[[中日新聞社]]|date=2013-02-20|accessdate=2013-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130222063828/http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20130220/CK2013022002000033.html|archivedate=2013-02-20}}</ref>、石川県の[[谷本正憲]]知事も「金沢が当面は終着駅になるわけだから、堂々と『北陸新幹線』と名乗らないとかえって乗客に誤解を与える」<ref>{{Cite news|url=http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2013022102000191.html|title=新幹線 堂々と「北陸に」 谷本知事「乗客が誤解する」|newspaper=[[北陸中日新聞]]|publisher=[[中日新聞北陸本社]]|date=2013-02-21|accessdate=2013-02-21|archiveurl= |archivedate= }}{{リンク切れ|date=2014年11月}}</ref>として、北陸地方の県知事からは否定的な反応が示された。また北陸地方の経済界からも「(長野は)今まで既得権を何年か使ってきた。私たちとしては問答無用の気持ち。北陸新幹線で当然」(深山彬{{Refnest|group="注"|同時に[[北陸経済連合会]]副会長も務めていた<ref name="yomiuri20130305">{{Cite news|url=http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/economy/news/CK2013030202100008.html|title=問答無用「北陸」で当然|newspaper=北陸中日新聞|publisher=中日新聞北陸本社|date=2013-03-02|accessdate=2013-03-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130305122722/http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/economy/news/CK2013030202100008.html|archivedate=2013-03-05}}</ref>。}}金沢商工会議所会頭)と、長野県側の要望を受け入れるつもりはないという発言が相次いだ<ref name="yomiuri20130305" />。
この長野県側と北陸各県側の意見の相違に対し、JR東日本の[[冨田哲郎]]社長は2013年3月の定例記者会見で、「正式名称は北陸新幹線」との認識を示しつつ、「愛称的に『長野新幹線』が使用されてきたことに基づく長野県の要望と、富山県、石川県による『北陸を前面に打ち出してほしい』という意見に対して、利用者の分かりやすさという視点を重視しつつ、折り合いを探る」と述べ<ref>{{Cite news|url=http://www.shinmai.co.jp/news/20130306/KT130305ATI090024000.php|title=「長野」と「北陸」新幹線呼称「折り合い探る」JR東日本社長|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=信濃毎日新聞社|date=2013-03-06|accessdate=2013-03-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130309193346/http://www.shinmai.co.jp/news/20130306/KT130305ATI090024000.php|archivedate=2013-03-09}}</ref>、同年6月の記者会見でも「利用者に分かりやすいことと、地元の方々に納得していただくことが条件である」との意向を示した<ref name="shinmai20130605">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線金沢延伸 路線名称「分かりやすさと地元納得が条件」冨田JR東日本社長、会見で|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-06-05|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>{{Refnest|group="注"|鉄道評論家の[[川島令三]]は、長野県と北陸各県双方の顔が立つ案として(長野市議会などが提唱した)「『北陸長野新幹線』が最も簡単な解決方法」と主張した。またJR東日本が運行を担う東京 - 上越間を長野新幹線、JR西日本が運行を担う上越 - 金沢間を北陸新幹線とする案なども浮上した<ref name="sankeibiz20130518">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20130608003111/https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/130518/cpd1305180821003-n3.htm |title=「北陸新幹線」めぐり呼称論争 「長野新幹線」呼び名残すのは地域のエゴ?|newspaper=SankeiBiz|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2013-05-15|accessdate=2021-07-14|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}。
その後、同年7月中旬、阿部長野県知事は「(金沢延伸開業後も東京駅や時刻表などに)長野を経由する路線であることを示して、利用者に分かりやすくしてもらうようJR東日本に要請する」と改めて表明すると<ref name="shinmai20130719">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線金沢延伸後の呼称 東京駅などに「長野」を残す要請 阿部知事「JRに早急に伝えたい」|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-07-19|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、同月末、長野県内の沿線自治体関係者や経済団体の代表らと東京都内のJR東日本本社を訪問し、冨田哲郎社長に対して「長野」の呼称を残すことを要請した<ref name="shinmai20130731">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線金沢延伸後の呼称「長野」残して 阿部知事ら、JR東に要請|newspaper=信濃毎日新聞(夕刊)|publisher=|date=2013-07-31|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>{{Refnest|group="注"|併せて長野駅発着列車および「あさま」の列車名の存続の要請も行われた<ref name="shinmai20130731" />。}}。これに対しJR東日本側からは、「『北陸長野新幹線』は難しいが、何らかの形で『長野』の呼称が残る」旨の発言がなされた<ref name="shinmai20130801">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線「長野」呼称の存続要請 県内関係者「何らかの形で残る」期待|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-08-01|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
そして同年10月2日、JR東日本は金沢延伸開業後の路線案内を以下のとおり行うと発表した<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131002-OYT1T01023.htm|title=長野新幹線から「北陸新幹線」に…金沢延伸後|newspaper=[[YOMIURI ONLINE]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=2013-10-02|accessdate=2013-10-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131003071457/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131002-OYT1T01023.htm|archivedate=2013-10-03}}</ref><ref name="shinmai20131003a">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線金沢延伸 路線に「長野経由」表記、JR東が正式発表 JR西は表記せず|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-10-03|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref><ref name="nikkei20131002">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDD020OC_S3A001C1TJ0000/|title=北陸新幹線、4種類で運行 案内に「長野経由」表示|newspaper=日本経済新聞(電子版)|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2013-10-02|accessdate=2021-07-14|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
*現行の「長野新幹線」は使用せず、原則「北陸新幹線」で統一する。
*利用者の混乱防止の観点から、首都圏駅(東京駅、上野駅、大宮駅)の案内板や時刻表を中心に「'''北陸新幹線(長野経由)'''」と表記する{{Refnest|group="注"|英語表記では“Hokuriku Shinkansen(via Nagano)”と表記される。また、他の路線と併記する場合は「'''上越・北陸(長野経由)新幹線'''」といった表記も行う<ref name="shinmai20131004">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線金沢延伸「上越・北陸(長野経由)新幹線」表記も採用へ JR東、他路線と併記時に|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-10-04|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。}}。
*金沢行きの列車の場合、放送において「'''長野経由'''」と案内する。
また同日、延伸開業区間のうち上越妙高駅から西側を管轄するJR西日本も北陸新幹線の運行体系などを発表したが、路線表記については「現時点でJR西日本管内で『長野経由』を表記する必要性はない」として、JR東日本と同様の対応は行わない旨を表明した<ref name="shinmai20131003b">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線「長野経由」表記発表 JR西日本の会見、一問一答 管内での表記の必要性ない|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-10-03|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
数年にわたり「長野」表記の存続を求めてきた長野県内の関係者は、このJR東日本の発表を概ね好意的に受け止め<ref name="shinmai20131003c">{{Cite news|url= |title=焦点―北陸新幹線「長野経由」表記発表 認知度どう高める 県内沿線自治体、一定の評価|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-10-03|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>、阿部長野県知事は「思いを真摯に受け止め対応していただいた。JR東日本の判断に感謝申し上げたい。外国人観光客などにも長野を経由することが分かりやすくなる」と評価した<ref name="nikkei20131002" /><ref name="shinmai20131003d">{{Cite news|url= |title=北陸新幹線「長野経由」表記発表 阿部知事の会見、一問一答 JR東の判断に感謝する|newspaper=信濃毎日新聞|publisher=|date=2013-10-03|accessdate=|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/hokuriku.html 北陸新幹線:JR東日本]
* [https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=76&token=&50on= 時刻表 検索結果:JR東日本]
{{日本の新幹線}}
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[[Category:北陸新幹線|*なかの]]
[[Category:交通に関する呼称問題]]
[[Category:整備新幹線]]
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コジ・ファン・トゥッテ
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『コジ・ファン・トゥッテ』(伊:Così fan tutte)K.588 は、モーツァルトが1790年に作曲したオペラ・ブッファ。正式なタイトルはCosì fan tutte, ossia La scuola degli amanti(女はみなこうしたもの、または恋人たちの学校)。全2幕構成。
『コシ・ファン・トゥッテ』と表記されることが多いが、標準イタリア語の発音に近い表記は「コジ」である。
『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』に引き続いて、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本(リブレット)に作曲。モーツァルトとダ・ポンテのコンビによる、最後の作品となっている。
初演は1790年1月26日ウィーンのブルク劇場。初演後まもなく皇帝ヨーゼフ2世が死去したため、10回ほどの上演にとどまった。
物語は姉妹の恋人である2人の男が、それぞれの相手の貞節を試すために互いの相手を口説いたら、2人とも心変わりしてしまった。どちらにも言い分がありそのまま認めあうしかないものだということ。タイトルの原語の意味は「Così このように fan する tutte すべての女性は」。『フィガロの結婚』の第一幕に出て来た台詞で、全てを仕組んだアルフォンソ(登場人物参照)が事態を収拾するために恋人たちに説いて聞かせる台詞でもある。
本作品は19世紀を通じて、内容が不道徳であるとして評価が低く、特にワーグナーは音楽面をふくめて酷評している。20世紀に到って再評価され、モーツァルトのオペラの代表作であると認識されるようになった。商業的には、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』の3大オペラにこれを加えて4大オペラと呼んだり、さらに『後宮からの誘拐』を加えて5大オペラと呼ぶことがある。なお、ダ・ポンテによるイタリア語台本三部作の中では唯一イタリアを舞台にした作品だが、他の二作(これらもイタリアでの上演数はドイツ圏に比べごく少ない)にも増して同地では人気が低く、ミラノ・スカラ座は1826年から1951年までこの作品を一切上演しなかった。
もともとアンサンブルの多いモーツァルトのオペラ作品の中にあっても、特別にアンサンブルの割合が多い(30曲中16曲が重唱)作品である。フィオルディリージの各幕に一曲ずつあるアリアは、初演時の歌手の並外れた喉を反映して高度の技巧を要するが、全体を通じて二重唱から六重唱まで様々な組み合わせで作られたアンサンブルで進行する。登場人物が男女各三人という対称性を活用している。
この作品は、ステレオタイプな性格の登場人物という点で、いかにも18世紀のオペラブッファ的な作りである。しかし音楽はそれぞれの場面の登場人物の心理に対応して真に迫ったものになっており、ロココ風な人工的・遊戯的な性格を持つ台本を部分的に超越したものとなった。
楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2(バセットクラリネット1)、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ1対、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、バス(チェロ・コントラバス)、通奏低音楽器(チェンバロ、チェロ又はヴィオローネなど)
演奏時間は各幕カット無しで90分近く、全部で約3時間かかる。
舞台は18世紀末のナポリ。青年士官フェルランドとグリエルモは、老哲学者ドン・アルフォンソの「女は必ず心変わりする」との主張に対して、「自分たちの恋人に限ってそんなことはない」と言い争う。ドン・アルフォンソは、自分の主張を証明するために2人と賭けを行なうことを提案し、2人はドン・アルフォンソの指示に従うことを約束する。
フィオルディリージとドラベッラの姉妹が登場、自分たちと恋人の愛を讃える歌を歌う。そこにドン・アルフォンソが現れ、フェルランドとグリエルモが国王の命令で戦場に行くことになったと伝える。フェルランドとグリエルモが現れ、別れを嘆き悲しむふりをする。港に船が着き、兵士たちが出発する。4人の恋人たちが別れを告げ愛を誓う間に、ドン・アルフォンソは「笑いが止まらない」と歌う。兵士たちが出発したあとで、残された三人は航海の無事を祈る。
フィオルディリージとドラベッラの家。女中のデスピーナが愚痴をこぼしながら働いている。姉妹が嘆きながら帰ってくる。ドラベッラは、絶望の歌をコミカルに歌う。デスピーナは、「男はほかにもいるでしょう」と「つまみ食い」を勧め、「男や兵士の貞節なんて」と歌う。
ドン・アルフォンソはデスピーナをまるめこみ、芝居に協力させる。ドン・アルフォンソは「アルバニア人」に変装したフェルランドとグリエルモをデスピーナに紹介する。フィオルディリージとドラベッラが現れ、2人の男を追い出そうとするが、ドン・アルフォンソは彼らは自分の古い友人たちだと偽る。変装した2人は姉妹に求愛するが、フィオルディリージは貞節を誓うアリアを歌う。グリエルモは求愛の歌を歌うが、姉妹は立ち去る。
2人の青年は賭けに勝ったと笑うが、ドン・アルフォンソは芝居を続けろと命じる。フェルランドは愛のアリアを歌い上げる。ドン・アルフォンソはデスピーナと姉妹を陥落させる計画を進める。
姉妹は庭で恋人を想う二重唱を歌う。そこへ変装したフェルランドとグリエルモが現れ、絶望のあまり毒を飲んだふりをする。姉妹は驚き、変装した2人に同情しかかる。医者に変装したデスピーナが現れ、「磁気療法」を2人にほどこす。デスピーナは、のた打ち回る2人を支えるように姉妹に命ずる。意識を取り戻した2人は姉妹にキスを迫り、混乱のうちに幕を閉じる。
デスピーナはフィオルディリージとドラベッラに「気晴らし」することを勧め、「女の子は恋の手管を覚えなければなりません」と歌う。姉妹は互いに「どちらを選ぶ?」と尋ね、ドラベッラは「ブルネットの方」(グリエルモ)、フィオルディリージは「ブロンドの方」(フェルランド)と実際の逆の恋人を選んでしまう。
ドン・アルフォンソは姉妹を庭へ誘う。変装したフェルランドとグリエルモが木管の調べに乗って現れる。姉妹と2人の男が打ちとけないので、ドン・アルフォンソとデスピーナが四人をくっつけようとする。フェルランドとフィオルディリージは庭に散歩に出かける。残されたグリエルモがドラベッラを口説くと、ドラベッラは陥落してしまう。一方、フィオルディリージはフェルランドの求愛を拒絶し、揺れ動く心を長大なアリア(ロンド)に歌う。
フェルランドとグリエルモは互いの首尾を報告する。グリエルモはフィオルディリージの貞節を喜ぶが、フェルランドはドラベッラの心変わりにショックを受ける。グリエルモはフェルランドをなぐさめるために「女はたくさんの男と付き合うものだ」と歌う。フェルランドは裏切られたと嘆く。ドン・アルフォンソはさらに実験を続けると宣言する。
苦悩するフィオルディリージに向かって、ドラベッラは恋の楽しさを陽気に歌う。フィオルディリージは貞節を守るために恋人のいる戦場へ行こうと決意し軍服をまとう。しかし、そこに現れたフェルランドの激しい求愛のために、フィオルディリージもついに陥落する。
賭けに勝ったドン・アルフォンソは、互いに認め合いそれぞれの恋人と結婚するよう提案し、「女はみなこうしたもの」と歌う。
結婚式の祝宴の準備が進められる。フィオルディリージとフェルランド、ドラベッラとグリエルモのカップルが登場する。公証人に扮したデスピーナが現れ、2組のカップルは結婚の証書にサインする。そこに兵士たちの歌声が響き、婚約者たちが戻ってきたと知らされ、姉妹は呆然とする。変装を解いたフェルランドとグリエルモが現れる。2人の青年は結婚証書を見つけて激怒し、姉妹は平謝りする。そこですべてが種明かしされ、一同和解して幕となる。
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"text": "『コジ・ファン・トゥッテ』(伊:Così fan tutte)K.588 は、モーツァルトが1790年に作曲したオペラ・ブッファ。正式なタイトルはCosì fan tutte, ossia La scuola degli amanti(女はみなこうしたもの、または恋人たちの学校)。全2幕構成。",
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"text": "『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』に引き続いて、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本(リブレット)に作曲。モーツァルトとダ・ポンテのコンビによる、最後の作品となっている。",
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"text": "物語は姉妹の恋人である2人の男が、それぞれの相手の貞節を試すために互いの相手を口説いたら、2人とも心変わりしてしまった。どちらにも言い分がありそのまま認めあうしかないものだということ。タイトルの原語の意味は「Così このように fan する tutte すべての女性は」。『フィガロの結婚』の第一幕に出て来た台詞で、全てを仕組んだアルフォンソ(登場人物参照)が事態を収拾するために恋人たちに説いて聞かせる台詞でもある。",
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"text": "本作品は19世紀を通じて、内容が不道徳であるとして評価が低く、特にワーグナーは音楽面をふくめて酷評している。20世紀に到って再評価され、モーツァルトのオペラの代表作であると認識されるようになった。商業的には、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』の3大オペラにこれを加えて4大オペラと呼んだり、さらに『後宮からの誘拐』を加えて5大オペラと呼ぶことがある。なお、ダ・ポンテによるイタリア語台本三部作の中では唯一イタリアを舞台にした作品だが、他の二作(これらもイタリアでの上演数はドイツ圏に比べごく少ない)にも増して同地では人気が低く、ミラノ・スカラ座は1826年から1951年までこの作品を一切上演しなかった。",
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"text": "もともとアンサンブルの多いモーツァルトのオペラ作品の中にあっても、特別にアンサンブルの割合が多い(30曲中16曲が重唱)作品である。フィオルディリージの各幕に一曲ずつあるアリアは、初演時の歌手の並外れた喉を反映して高度の技巧を要するが、全体を通じて二重唱から六重唱まで様々な組み合わせで作られたアンサンブルで進行する。登場人物が男女各三人という対称性を活用している。",
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"text": "この作品は、ステレオタイプな性格の登場人物という点で、いかにも18世紀のオペラブッファ的な作りである。しかし音楽はそれぞれの場面の登場人物の心理に対応して真に迫ったものになっており、ロココ風な人工的・遊戯的な性格を持つ台本を部分的に超越したものとなった。",
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"text": "楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2(バセットクラリネット1)、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ1対、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、バス(チェロ・コントラバス)、通奏低音楽器(チェンバロ、チェロ又はヴィオローネなど)",
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"text": "舞台は18世紀末のナポリ。青年士官フェルランドとグリエルモは、老哲学者ドン・アルフォンソの「女は必ず心変わりする」との主張に対して、「自分たちの恋人に限ってそんなことはない」と言い争う。ドン・アルフォンソは、自分の主張を証明するために2人と賭けを行なうことを提案し、2人はドン・アルフォンソの指示に従うことを約束する。",
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"text": "フィオルディリージとドラベッラの姉妹が登場、自分たちと恋人の愛を讃える歌を歌う。そこにドン・アルフォンソが現れ、フェルランドとグリエルモが国王の命令で戦場に行くことになったと伝える。フェルランドとグリエルモが現れ、別れを嘆き悲しむふりをする。港に船が着き、兵士たちが出発する。4人の恋人たちが別れを告げ愛を誓う間に、ドン・アルフォンソは「笑いが止まらない」と歌う。兵士たちが出発したあとで、残された三人は航海の無事を祈る。",
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"text": "フィオルディリージとドラベッラの家。女中のデスピーナが愚痴をこぼしながら働いている。姉妹が嘆きながら帰ってくる。ドラベッラは、絶望の歌をコミカルに歌う。デスピーナは、「男はほかにもいるでしょう」と「つまみ食い」を勧め、「男や兵士の貞節なんて」と歌う。",
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"text": "ドン・アルフォンソはデスピーナをまるめこみ、芝居に協力させる。ドン・アルフォンソは「アルバニア人」に変装したフェルランドとグリエルモをデスピーナに紹介する。フィオルディリージとドラベッラが現れ、2人の男を追い出そうとするが、ドン・アルフォンソは彼らは自分の古い友人たちだと偽る。変装した2人は姉妹に求愛するが、フィオルディリージは貞節を誓うアリアを歌う。グリエルモは求愛の歌を歌うが、姉妹は立ち去る。",
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"text": "結婚式の祝宴の準備が進められる。フィオルディリージとフェルランド、ドラベッラとグリエルモのカップルが登場する。公証人に扮したデスピーナが現れ、2組のカップルは結婚の証書にサインする。そこに兵士たちの歌声が響き、婚約者たちが戻ってきたと知らされ、姉妹は呆然とする。変装を解いたフェルランドとグリエルモが現れる。2人の青年は結婚証書を見つけて激怒し、姉妹は平謝りする。そこですべてが種明かしされ、一同和解して幕となる。",
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『コジ・ファン・トゥッテ』K.588 は、モーツァルトが1790年に作曲したオペラ・ブッファ。正式なタイトルはCosì fan tutte, ossia La scuola degli amanti(女はみなこうしたもの、または恋人たちの学校)。全2幕構成。 『コシ・ファン・トゥッテ』と表記されることが多いが、標準イタリア語の発音に近い表記は「コジ」である。
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{{出典の明記|date=2010年7月}}
{{Portal box|クラシック音楽|舞台芸術}}
『'''コジ・ファン・トゥッテ'''』([[イタリア語|伊]]:{{lang|it|''Così fan tutte''}})K.588 は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]が[[1790年]]に作曲した[[オペラ#オペラ・ブッファ|オペラ・ブッファ]]。正式なタイトルは{{lang|it|''Così fan tutte, ossia La scuola degli amanti''}}(女はみなこうしたもの、または恋人たちの学校)。全2幕構成<ref name="nnt230217">{{Cite web|和書|url=https://www.nntt.jac.go.jp/opera/operastudio_cosifantutte_2023/ |title=新国立劇場オペラ研修所 修了公演『コジ・ファン・トゥッテ』 |website=オペラ |publisher=新国立劇場 |date=2023-02-17 |accessdate=2023-07-06}}</ref>。
『'''コシ・ファン・トゥッテ'''』と表記されることが多いが<ref> 音楽之友社・全音楽譜出版社では、現在も「コシ」を統一表記としている</ref>、標準イタリア語の発音に近い表記は「コジ」である。
== 概要 ==
{{External media
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| topic = 全曲を試聴する
| audio1 = [https://www.youtube.com/playlist?list=PLyPTjSogIU3kFhoKzim5IPdeZJ3iHQUUT バレンボイム⇔ベルリン・フィル&RIAS室内合唱団他]
| audio2 = [https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_lDSqwK4qpQncGKQ6iXrcf9nAwyFVnedJQ C.デイヴィス⇔ロイヤル・オペラハウス管他]
| audio3 = [https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_ksGy08ZvQJpkyegwsnDHtXBTTRHVuZz4E ヤーコプス⇔コンチェルト・ケルン他]<br />以上演奏3本は何れも[[アートトラック|YouTubeアートトラック]]公式収集による《[[プレイリスト]]》。
| audio4 = [https://www.youtube.com/watch?v=THuCO6WJ9k0 第1幕]・[https://www.youtube.com/watch?v=dEy_YtUpSoM 第2幕]<br />[[ヴォルフガング・ゲンネンヴァイン]]指揮[[ルートヴィヒスブルク音楽祭|ルートヴィヒスブルク音楽祭管弦楽団]]他による演奏。EuroArts公式YouTube。
}}
[[File:Cosi fan tutte - first performance.jpg|thumb|right|320px|『コジ・ファン・トゥッテ』初演告知ポスター]]
『[[フィガロの結婚]]』、『[[ドン・ジョヴァンニ]]』に引き続いて、[[ロレンツォ・ダ・ポンテ]]の台本([[リブレット (音楽)|リブレット]])に作曲。モーツァルトとダ・ポンテのコンビによる、最後の作品となっている<ref name="nnt230217" />。
初演は[[1790年]][[1月26日]][[ウィーン]]の[[ブルク劇場]]。初演後まもなく皇帝[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]が死去したため、10回ほどの上演にとどまった。
物語は姉妹の恋人である2人の男が、それぞれの相手の貞節を試すために互いの相手を口説いたら、2人とも心変わりしてしまった。どちらにも言い分がありそのまま認めあうしかないものだということ。タイトルの原語の意味は「{{lang|it|Così}} このように {{lang|it|fan}} する {{lang|it|tutte}} すべての女性は」。『フィガロの結婚』の第一幕に出て来た台詞で、全てを仕組んだアルフォンソ(登場人物参照)が事態を収拾するために恋人たちに説いて聞かせる台詞でもある。
本作品は[[19世紀]]を通じて、内容が不道徳であるとして評価が低く、特に[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]は音楽面をふくめて酷評している<ref>三宅新三『モーツァルトとオペラの政治学』青弓社、2011年。</ref>。[[20世紀]]に到って再評価され、モーツァルトのオペラの代表作であると認識されるようになった。商業的には、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』『[[魔笛]]』の3大オペラにこれを加えて4大オペラと呼んだり、さらに『[[後宮からの誘拐]]』を加えて5大オペラと呼ぶことがある<ref> 2012年現在、4大オペラと銘打った商品には、サー・チャールズ・マッケラス指揮のDVDセット(テラーク)、カラヤンやレヴァイン指揮の音源から編集したアリア集(グラモフォン)などが、5大オペラを銘打ったものにはショルティ指揮のCDボックス(デッカ)などが存在する。</ref>。なお、ダ・ポンテによるイタリア語台本三部作の中では唯一イタリアを舞台にした作品だが、他の二作(これらもイタリアでの上演数はドイツ圏に比べごく少ない)にも増して同地では人気が低く、ミラノ・スカラ座は1826年から1951年までこの作品を一切上演しなかった。<ref>水谷 彰良「新イタリア・オペラ史」音楽之友社、2015年、162ページ。</ref>
== 特徴 ==
もともとアンサンブルの多いモーツァルトのオペラ作品の中にあっても、特別にアンサンブルの割合が多い(30曲中16曲が重唱)作品である。フィオルディリージの各幕に一曲ずつある[[アリア]]は、初演時の歌手の並外れた喉を反映して高度の技巧を要するが、全体を通じて二重唱から六重唱まで様々な組み合わせで作られたアンサンブルで進行する。登場人物が男女各三人という対称性を活用している。
この作品は、ステレオタイプな性格の登場人物という点で、いかにも18世紀のオペラブッファ的な作りである。しかし音楽はそれぞれの場面の登場人物の心理に対応して真に迫ったものになっており、ロココ風な人工的・遊戯的な性格を持つ台本を部分的に超越したものとなった。
==登場人物と楽器編成==
#フィオルディリージ([[ソプラノ]]) - 2の姉で4の恋人。
#ドラベッラ([[メゾソプラノ]]<nowiki/>orソプラノ) - 1の妹で3の恋人。
#フェルランド([[テノール]]) - 士官。2の恋人。
#グリエルモ([[バリトン]]) - 士官。1の恋人。
#ドン・アルフォンソ([[バス (声域)|バス]]) - 1、2、3、4、6の友人で老哲学者。老といっても初老(40代)くらい。
#デスピーナ(ソプラノ) - 姉妹の女中。
楽器編成:[[フルート]]2、[[オーボエ]]2、[[クラリネット]]2([[バセットクラリネット]]1)、[[ファゴット]]2、[[ホルン]]2、[[トランペット]]2、[[ティンパニ]]1対、[[ヴァイオリン]]2部、[[ヴィオラ]]、バス([[チェロ]]・[[コントラバス]])、通奏低音楽器([[チェンバロ]]、チェロ又は[[ヴィオローネ]]など)
演奏時間は各幕カット無しで90分近く、全部で約3時間かかる。
==あらすじ==
===第1幕===
舞台は18世紀末の[[ナポリ]]。青年士官フェルランドとグリエルモは、老哲学者ドン・アルフォンソの「女は必ず心変わりする」との主張に対して、「自分たちの恋人に限ってそんなことはない」と言い争う。ドン・アルフォンソは、自分の主張を証明するために2人と賭けを行なうことを提案し、2人はドン・アルフォンソの指示に従うことを約束する。
フィオルディリージとドラベッラの姉妹が登場、自分たちと恋人の愛を讃える歌を歌う。そこにドン・アルフォンソが現れ、フェルランドとグリエルモが国王の命令で戦場に行くことになったと伝える。フェルランドとグリエルモが現れ、別れを嘆き悲しむふりをする。港に船が着き、兵士たちが出発する。4人の恋人たちが別れを告げ愛を誓う間に、ドン・アルフォンソは「笑いが止まらない」と歌う。兵士たちが出発したあとで、残された三人は航海の無事を祈る。
フィオルディリージとドラベッラの家。女中のデスピーナが愚痴をこぼしながら働いている。姉妹が嘆きながら帰ってくる。ドラベッラは、絶望の歌をコミカルに歌う。デスピーナは、「男はほかにもいるでしょう」と「つまみ食い」を勧め、「男や兵士の貞節なんて」と歌う。
ドン・アルフォンソはデスピーナをまるめこみ、芝居に協力させる。ドン・アルフォンソは「アルバニア人」に変装したフェルランドとグリエルモをデスピーナに紹介する。フィオルディリージとドラベッラが現れ、2人の男を追い出そうとするが、ドン・アルフォンソは彼らは自分の古い友人たちだと偽る。変装した2人は姉妹に求愛するが、フィオルディリージは貞節を誓うアリアを歌う。グリエルモは求愛の歌を歌うが、姉妹は立ち去る。
2人の青年は賭けに勝ったと笑うが、ドン・アルフォンソは芝居を続けろと命じる。フェルランドは愛のアリアを歌い上げる。ドン・アルフォンソはデスピーナと姉妹を陥落させる計画を進める。
姉妹は庭で恋人を想う二重唱を歌う。そこへ変装したフェルランドとグリエルモが現れ、絶望のあまり毒を飲んだふりをする。姉妹は驚き、変装した2人に同情しかかる。医者に変装したデスピーナが現れ、「磁気療法」を2人にほどこす。デスピーナは、のた打ち回る2人を支えるように姉妹に命ずる。意識を取り戻した2人は姉妹にキスを迫り、混乱のうちに幕を閉じる。
===第2幕===
デスピーナはフィオルディリージとドラベッラに「気晴らし」することを勧め、「女の子は恋の手管を覚えなければなりません」と歌う。姉妹は互いに「どちらを選ぶ?」と尋ね、ドラベッラは「ブルネットの方」(グリエルモ)、フィオルディリージは「ブロンドの方」(フェルランド)と実際の逆の恋人を選んでしまう。
ドン・アルフォンソは姉妹を庭へ誘う。変装したフェルランドとグリエルモが木管の調べに乗って現れる。姉妹と2人の男が打ちとけないので、ドン・アルフォンソとデスピーナが四人をくっつけようとする。フェルランドとフィオルディリージは庭に散歩に出かける。残されたグリエルモがドラベッラを口説くと、ドラベッラは陥落してしまう。一方、フィオルディリージはフェルランドの求愛を拒絶し、揺れ動く心を長大なアリア(ロンド)に歌う。
フェルランドとグリエルモは互いの首尾を報告する。グリエルモはフィオルディリージの貞節を喜ぶが、フェルランドはドラベッラの心変わりにショックを受ける。グリエルモはフェルランドをなぐさめるために「女はたくさんの男と付き合うものだ」と歌う。フェルランドは裏切られたと嘆く。ドン・アルフォンソはさらに実験を続けると宣言する。
苦悩するフィオルディリージに向かって、ドラベッラは恋の楽しさを陽気に歌う。フィオルディリージは貞節を守るために恋人のいる戦場へ行こうと決意し軍服をまとう。しかし、そこに現れたフェルランドの激しい求愛のために、フィオルディリージもついに陥落する。
賭けに勝ったドン・アルフォンソは、互いに認め合いそれぞれの恋人と結婚するよう提案し、「女はみなこうしたもの」と歌う。
結婚式の祝宴の準備が進められる。フィオルディリージとフェルランド、ドラベッラとグリエルモのカップルが登場する。公証人に扮したデスピーナが現れ、2組のカップルは結婚の証書にサインする。そこに兵士たちの歌声が響き、婚約者たちが戻ってきたと知らされ、姉妹は呆然とする。変装を解いたフェルランドとグリエルモが現れる。2人の青年は結婚証書を見つけて激怒し、姉妹は平謝りする。そこですべてが種明かしされ、一同和解して幕となる。
== 出典 ==
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<references />
==関連項目==
*[[フィガロの結婚]]
*[[ドン・ジョヴァンニ]]
*[[魔笛]]
*[[フランツ・アントン・メスメル]]
==外部リンク==
* {{IMSLP2|work=Cos%C3%AC_fan_tutte,_K.588_%28Mozart,_Wolfgang_Amadeus%29 |cname= Così fan tutte, K.588}}
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[[Category:モーツァルトのオペラ]]
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[[Category:イタリア語のオペラ]]
[[Category:ロレンツォ・ダ・ポンテ台本のオペラ]]
[[Category:ナポリを舞台とした作品]]
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10,165 |
イッテルビウム
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イッテルビウム (英: ytterbium [ɨˈtɜrbiəm]) は原子番号70の元素。元素記号は Yb。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。
発見地であるスウェーデンの小さな町、イッテルビー (en:Ytterby) にちなんで名づけられた。
同じ希土類に分類されるイットリウムと由来が同じである。発音、元素記号が似ているので注意を必要とする。銅酸化物系の高温超伝導が発見された当時、イットリウムを含む銅酸化物(YBCO 系)が超伝導を示すという情報が流れたとき、“イッテルビウム”が含まれているという誤情報(本当はイットリウム)が流れて、イッテルビウムの在庫が一時空になりかけたことがある。
ゼノタイム(燐酸塩鉱石)・ガドリン石・モナズ石・バストネス石に含まれる。
スイスの化学者ジャン・マリニャックが1878年に分離。発見地のイッテルビーからは、イッテルビウムの他、イットリウム、テルビウム、エルビウム、と合計4つの新元素が発見されている。
灰色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は面心立方構造 (FCC)。比重は6.97、融点は824 °C、沸点は1193 °C(異なる実験値あり)。空気中で表面が酸化されるが、内部までは侵されない。水にゆっくりと溶け、酸、液体アンモニアにも溶ける。水素、ハロゲンとも反応する。安定な原子価は+2、+3価。
ガラスの着色剤、YAGレーザーの添加物などに利用される。 2021年、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構は、イッテルビウム磁性体を利用した絶対零度近くへの極低温冷却技術を発表した(共同研究:独アウグスブルグ大学)。
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"text": "灰色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は面心立方構造 (FCC)。比重は6.97、融点は824 °C、沸点は1193 °C(異なる実験値あり)。空気中で表面が酸化されるが、内部までは侵されない。水にゆっくりと溶け、酸、液体アンモニアにも溶ける。水素、ハロゲンとも反応する。安定な原子価は+2、+3価。",
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イッテルビウム は原子番号70の元素。元素記号は Yb。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。
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|magnetic ordering=[[常磁性]]<ref>M. Jackson "Magnetism of Rare Earth" [https://web.archive.org/web/20130617084747/http://www.irm.umn.edu/quarterly/irmq10-3.pdf The IRM quarterly col. 10, No. 3, p. 1, 2000]</ref>
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'''イッテルビウム''' ({{lang-en-short|ytterbium}} {{IPA-en|ɨˈtɜrbiəm|}}) は[[原子番号]]70の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Yb'''。[[希土類元素]]の一つ([[ランタノイド]]にも属す)。
== 名称 ==
発見地であるスウェーデンの小さな町、[[イッテルビー]] ([[:en:Ytterby]]) にちなんで名づけられた。
同じ希土類に分類される[[イットリウム]]と由来が同じである。発音、元素記号が似ているので注意を必要とする。銅酸化物系の[[高温超伝導]]が発見された当時、イットリウムを含む銅酸化物(YBCO 系)が超伝導を示すという情報が流れたとき、“イッテルビウム”が含まれているという誤情報(本当はイットリウム)が流れて、イッテルビウムの在庫が一時空になりかけたことがある。
== 存在 ==
[[ゼノタイム]](燐酸塩鉱石)・[[ガドリン石]]・[[モナズ石]]・[[バストネス石]]に含まれる。
== 歴史 ==
[[スイス]]の化学者[[ジャン・マリニャック]]が[[1878年]]に分離<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 294|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。発見地のイッテルビーからは、イッテルビウムの他、[[イットリウム]]、[[テルビウム]]、[[エルビウム]]、と合計4つの新元素が発見されている。
== 性質 ==
灰色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は面心立方構造 (FCC)。比重は6.97、[[融点]]は824 {{℃}}、[[沸点]]は1193 {{℃}}(異なる実験値あり)。空気中で表面が酸化されるが、内部までは侵されない。水にゆっくりと溶け、[[酸]]、[[液体アンモニア]]にも溶ける。[[水素]]、[[ハロゲン]]とも反応する。安定な原子価は+2、+3価。
== 同位体 ==
{{main|イッテルビウムの同位体}}
== イッテルビウムの化合物 ==
* [[酸化イッテルビウム(III)]] (Yb<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)
* [[十二ホウ化イッテルビウム]] (YbB<SUB>12</SUB>)
* [[塩化イッテルビウム]] (YbCl<SUB>2</SUB>, YbCl<SUB>3</SUB>)
* 水素化イッテルビウム(YbH<SUB>2</SUB>)
== 用途 ==
[[ガラス]]の着色剤、[[YAGレーザー]]の添加物などに利用される。
2021年、国立研究開発法人[[日本原子力研究開発機構]]は、イッテルビウム磁性体を利用した絶対零度近くへの極低温冷却技術を発表した(共同研究:独[[アウグスブルグ大学]])<ref>https://www.jaea.go.jp/02/press2021/p21041201/</ref>。
== 出典 ==
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{{Commons|Ytterbium}}
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[[Category:イッテルビウム|*]]
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[[Category:第6周期元素]]
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10,166 |
アンモニア
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アンモニア(英: ammonia)は、分子式が NH 3 {\displaystyle {\ce {NH3}}} で表される無機化合物。常圧では無色の気体で、特有の強い刺激臭を持つ。
水に良く溶けるため、水溶液(アンモニア水)として使用されることも多く、化学工業では基礎的な窒素源として重要である。また生体において有毒であるため、重要視される物質である。塩基の程度は水酸化ナトリウムより弱い。
窒素原子上の孤立電子対のはたらきにより、金属錯体の配位子となり、その場合はアンミン(英: ammine)と呼ばれる。例えば:
名称の由来は、古代エジプトのアモン神殿の近くからアンモニウム塩が産出した事による。ラテン語の sal ammoniacum(アモンの塩)を語源とする。「アモンの塩」が意味する化合物は食塩と尿から合成されていた塩化アンモニウムである。アンモニアを初めて合成したのはジョゼフ・プリーストリー(1774年)である。
共役酸 (NH+4) はアンモニウムイオン(英: ammonium ion)、共役塩基 (NH−2) はアミドイオン(英: amide ion)である。
アンモニア分子は窒素を中心とする四面体構造を取っており、各頂点には3つの水素原子と一対の孤立電子対を持つ。常温常圧では無色で刺激臭のある可燃性気体。水に非常によく溶け、水溶液は塩基性を示す。 様々な酸と反応して、対応するアンモニウム塩を作る。また、有機反応において求核剤として振る舞う。例えば、ハロゲン化アルキルと反応してアミンを、カルボン酸ハロゲン化物やカルボン酸無水物と反応してアミドを与える。塩化水素(塩酸)を近づけると塩化アンモニウム (NH4Cl) の白煙を生じる。ネスラー試薬では褐色の沈殿を生じる。アンモニアは湿ったリトマス紙を青に変える事が可能である。
アンモニアは液化しやすく、20°C では、0.857 MPa(8.46気圧)で液化する。また沸点が −33°C と高いので、寒冷地では冬季に自然に液化することもあり得る。液体アンモニアの性質は水と似ている。例えば、様々な物質を溶解し、液体アンモニア自体も水溶液と似た性質を示す。
液体アンモニア中では弱い自己解離があり、−33°C(沸点)におけるイオン積は次のとおりである。
液体アンモニアには単体アルカリ金属、アルカリ土類金属およびユウロピウムなどを溶解する性質がある。アルカリ金属、特にセシウムの溶解度は非常に大きく、これらの金属の希薄溶液は溶媒和電子によって青色を呈するが、濃厚溶液は金属光沢ブロンズ様の液体となる。液体アンモニアに溶解した金属ナトリウムは、バーチ還元などの有機反応に利用される。さらに、金属溶液は高濃度で金属的な伝導挙動を示すことが知られている。
比誘電率は −33°C において 22.4 であり、水に比べてはるかに低い。無機塩類の液体アンモニアに対する溶解度は一般的に低いが、アンモニアの配位能力によってヨウ化銀(AgI)などは非常によく溶ける。
粘膜に対する刺激性が強く、濃度 0.1% 以上のガス吸引で危険症状を呈する。悪臭防止法に基づく特定悪臭物質の一つであり、毒物及び劇物取締法においても劇物に指定されている。日本では高圧ガス保安法で毒性ガス及び可燃性ガスに指定され、白色のボンベを用い、「毒性」などの注意書きは赤で書くように定められている。液体状のものが飛散した場合は非常に危険で、特に目に入った場合には失明に至る可能性が非常に高い。高濃度のガスを吸入した場合、刺激によるショックが呼吸停止を誘発することがある。生体において、血中アンモニア濃度が高くなると、中枢神経系に強く働き、意識障害が生じる。
急性毒性
人体においては、摂取した蛋白質が肝臓で分解される過程でアンモニアが生じ、さらに尿素へと変化する。肝機能が低下するなどしていると「汗がアンモニア臭い」と感じられることがある。またアンモニアを吸引するなどした場合は量によっては危険であるため、血中アンモニア濃度を測定する。また、魚介類などの人間以外の生体については、環境水における濃度を測定する。
通常の状態における空気中での引火性は知られていない。発火点は651°Cで空気中のアンモニア含有量が16–25%で爆発性ガスができる。液体アンモニアはハロゲン、強酸と接触すると激しく反応して爆発・飛散することがある。酸素中では燃焼し、窒素酸化物を発生する。
アンモニアの水に対する溶解度は気体としては非常に大きく濃厚水溶液が存在し、また密度は濃度と伴に減少し、市販の濃アンモニア水は25 - 28%程度のものが多く、26%(d=0.904 g cm)のものはモル濃度は13.8 mol dmである。アンモニアは水に対しかなり発熱的(すべての気体の溶解熱は発熱的であるが)に溶解し、また溶解に関するギブス自由エネルギー変化も負の値を取るため、水に非常に溶けやすいことになる。これは極性のアンモニア分子が、より極性の強い水分子と水素結合を形成するためである。
またアンモニア水は一部電離し、
の酸塩基平衡反応によってアンモニウムイオン NH4 と水酸化物イオン OH が生じ塩基性を示す。かつてアンモニア水の塩基性は水酸化アンモニウム NH4OH が生成し、これが電離すると考えられていたが、水溶液中にはそのような化学種は認められず、また低温ではアンモニア一水和物 NH3·H2O が生成するが、これはアンモニア分子と水分子が水素結合したものであり水酸化アンモニウムの構造ではない。
また、弱塩基のアンモニアを中和した塩であるアンモニウム塩は弱酸性を示すが、これはアンモニウムイオンの酸解離による。塩基の強度は共役酸の酸解離定数で表記する場合が多い。
アンモニアの塩基解離およびアンモニウムイオンの酸解離に対するエンタルピー変化、ギブス自由エネルギー変化、エントロピー変化および定圧モル比熱変化は以下の通りである。アンモニアの塩基解離に関しては電荷の増加による、水和の増加に伴いエントロピーの減少が見られるが、アンモニウムイオンの酸解離に関しては、電荷は変化しないためエントロピー変化は小さい。
アンモニウムイオン (英: ammonium) はアンモニアに水素イオンが付加(配位結合)することにより生成し、アンモニア水の電離によっても一部生成する1価の陽イオンであり、オニウムイオンの一種である。正四面体型構造をとる。
アンモニウムイオンを含むイオン結晶をアンモニウム塩(アンモニウムえん、英: ammonium)と呼び、アンモニアと酸との中和反応によっても生成する。多くのものが水に可溶であるが、過塩素酸塩、ヘキサクロロ白金酸塩などは溶解度が低く、アンモニウム塩の溶解度はアンモニウムイオンとイオン半径の近い、カリウム塩およびルビジウム塩に類似する。加熱により分解し、過塩素酸アンモニウムなどは爆発する。
現在ではアンモニアの工業生産はハーバー・ボッシュ法によるものが一般的である。実際のプラントでは水素と窒素を鉄触媒存在下 25 - 35 MPa、約500°C で反応させると、
の反応によってアンモニアが生成する。
実験室レベルでは、アンモニア水を加熱するか、塩化アンモニウムと水酸化カルシウムを混合して熱する方法で、発生させることができる。水への溶解度が大きく、空気の平均分子量より小さいため、吸湿して構わないならば上方置換によって集めることができる。
アンモニアは硝酸などの基礎化学品、硫安などチッソ肥料の原料となるため、工業的に極めて重要な物質である。2008年度日本国内生産量は 1,244,083t、消費量は 403,841t である。全世界の年間生産量(2010年)は1.6億tで、そのうち8割が肥料用であると言われている。 ソルベー法が盛んに用いられた時期には炭酸ナトリウムを製造するための原料だった。
液化したアンモニアはバーチ還元の溶媒として使用される。また、蒸発熱が大きいため (5.581 Kcal/mol)、冷蔵機・冷凍機の冷媒として利用されているが、小型の機器では吸収式冷凍機を除きそのほとんどがフロンなどに替わられた。しかし新しい冷媒に比べオゾン層の破壊係数が少ないことから、最近この用途で見直されつつある。また人工衛星などの宇宙開発用機器の冷却にも多く用いられている。
前述のようにアンモニアは条件次第で燃焼し、燃やしても代表的な温暖化ガスである二酸化炭素が生成されない。このためアンモニアを火力発電用燃料として使う技術開発が行われている。微粉炭と混焼させたり、ガスタービン発電で燃料や空気の供給量・速度を調整したりする方法等が研究されている。2020年現在、日本の火力発電所の燃料として利用する実証試験が行われている。この試験では、産油国であるサウジアラビアの化学プラントで天然ガスからアンモニアを製造する際に、排出される二酸化炭素を分離回収して、EOR(石油増進回収)やCCS(二酸化炭素回収貯留)に利用する。こうしたことから、使用するアンモニアを、カーボンニュートラルな燃料として、「ブルーアンモニア」と呼称している。
グリッド・パリティ達成、再エネの価格低下により地域によってはブルーアンモニアより安く再生可能エネルギーによるグリーンアンモニアを製造可能になっている。経済産業省では3円/kWhでアンモニアを製造できると試算しているが、発電時の損失、火力発電所の改修コストを考えると最終的な発電コストは23.5円/kWhとしている。
水素をそのままの状態で保存するよりアンモニアのほうが沸点、蒸気圧を下げ簡単に液化できるため水素貯蔵の一つとして研究されている。
アンモニアから水素の生成は吸熱反応で、400°C近い加熱された触媒によって生成される。
熱源はSOFCのような高温の燃料電池の廃熱を利用したり、アンモニアと空気の触媒燃焼によって賄うことができる。
環境に有害な窒素酸化物の発生を抑制するために火力発電所のボイラーなどに設置される、選択触媒還元脱硝装置の還元剤として使用される。ディーゼルエンジンを動力とするディーゼル自動車においても応用されている(尿素SCRシステム)が、アンモニアを直接搭載するのは危険であるため「AdBlue」と呼ばれる専用の尿素水を代わりに搭載し、これを排気中に噴射することにより高温下で加水分解させアンモニアガスを得る仕組みになっている。
ヒトの体内におけるアンモニアは血液によって運ばれ肝臓によって処理されるが、肝臓病などの疾病においてその処理機能が低下すると、高アンモニア血症を発症し脳障害など重大な影響を及ぼす。
食品、特に動物性食品の蛋白質やアミノ酸が微生物に分解されるとアンモニアが発生し、一定の量を超えればいわゆる腐敗臭を放つようになる。アンモニアには毒性があるが、微量であれば食物の風味付けに利用される。くさややホンオフェなど、刺激臭のする発酵食品の臭気の主成分の一つはアンモニアである。またアンモニアは食品添加物として認められ、パンや洋菓子などの生地の膨張剤として使用される。この場合アンモニアは加熱過程で消散し、製品に残留しないことが要求されている。
サメの体内にはアンモニアがあるために腐敗が遅い。冷蔵技術が普及する前、日本の山間部では、腐敗や食中毒を起こさずに海岸部から運んでこられるサメが海の幸として珍重されていた。
アンモニアは、また体内でも生成される。食物に含まれる蛋白質や、腸の分泌液に含まれる尿素が腸内細菌によって分解されるとアンモニアが生産され、血液中に放出される。血中アンモニアは肝臓で尿素やグルタミンに変換され、無毒化される。薬剤や肝硬変などで肝機能が低下したときには体内にアンモニアが蓄積され、肝性脳症を発症する(アンモニアは容易に血液脳関門を通過し、脳にダメージを与える。)。
生物は、蛋白質など代謝の結果で不要となった窒素を貯蔵、排泄しなければならない。硬骨魚類や両生類の幼生では主にアンモニアの形でそのまま排泄されるが、軟骨魚類、哺乳類や両生類の成体では主に尿素、爬虫類の多くや鳥類では尿酸に変換された上で貯蔵、排泄される。
電子技術総合研究所で神経回路の伝達の研究に使用されていたヤリイカの飼育は当初困難だったが、松本元により、アンモニアを除去するために循環濾過フィルター内にアンモニアを酸化する細菌(亜硝酸菌)と、それを還元する細菌(嫌気呼吸菌、脱窒菌)の繁殖・保持により達成された。これは現在の海水魚飼育で、基本的な技術となっている。
ウシなどではタンパク質などの過剰摂取により第一胃内および血液中のアンモニア濃度が上昇し、アンモニア中毒となることがある。
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"text": "通常の状態における空気中での引火性は知られていない。発火点は651°Cで空気中のアンモニア含有量が16–25%で爆発性ガスができる。液体アンモニアはハロゲン、強酸と接触すると激しく反応して爆発・飛散することがある。酸素中では燃焼し、窒素酸化物を発生する。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "アンモニアの水に対する溶解度は気体としては非常に大きく濃厚水溶液が存在し、また密度は濃度と伴に減少し、市販の濃アンモニア水は25 - 28%程度のものが多く、26%(d=0.904 g cm)のものはモル濃度は13.8 mol dmである。アンモニアは水に対しかなり発熱的(すべての気体の溶解熱は発熱的であるが)に溶解し、また溶解に関するギブス自由エネルギー変化も負の値を取るため、水に非常に溶けやすいことになる。これは極性のアンモニア分子が、より極性の強い水分子と水素結合を形成するためである。",
"title": "アンモニア水"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "またアンモニア水は一部電離し、",
"title": "アンモニア水"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "の酸塩基平衡反応によってアンモニウムイオン NH4 と水酸化物イオン OH が生じ塩基性を示す。かつてアンモニア水の塩基性は水酸化アンモニウム NH4OH が生成し、これが電離すると考えられていたが、水溶液中にはそのような化学種は認められず、また低温ではアンモニア一水和物 NH3·H2O が生成するが、これはアンモニア分子と水分子が水素結合したものであり水酸化アンモニウムの構造ではない。",
"title": "アンモニア水"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、弱塩基のアンモニアを中和した塩であるアンモニウム塩は弱酸性を示すが、これはアンモニウムイオンの酸解離による。塩基の強度は共役酸の酸解離定数で表記する場合が多い。",
"title": "アンモニア水"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アンモニアの塩基解離およびアンモニウムイオンの酸解離に対するエンタルピー変化、ギブス自由エネルギー変化、エントロピー変化および定圧モル比熱変化は以下の通りである。アンモニアの塩基解離に関しては電荷の増加による、水和の増加に伴いエントロピーの減少が見られるが、アンモニウムイオンの酸解離に関しては、電荷は変化しないためエントロピー変化は小さい。",
"title": "アンモニア水"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "アンモニウムイオン (英: ammonium) はアンモニアに水素イオンが付加(配位結合)することにより生成し、アンモニア水の電離によっても一部生成する1価の陽イオンであり、オニウムイオンの一種である。正四面体型構造をとる。",
"title": "アンモニウムイオン"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "アンモニウムイオンを含むイオン結晶をアンモニウム塩(アンモニウムえん、英: ammonium)と呼び、アンモニアと酸との中和反応によっても生成する。多くのものが水に可溶であるが、過塩素酸塩、ヘキサクロロ白金酸塩などは溶解度が低く、アンモニウム塩の溶解度はアンモニウムイオンとイオン半径の近い、カリウム塩およびルビジウム塩に類似する。加熱により分解し、過塩素酸アンモニウムなどは爆発する。",
"title": "アンモニウム塩"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "現在ではアンモニアの工業生産はハーバー・ボッシュ法によるものが一般的である。実際のプラントでは水素と窒素を鉄触媒存在下 25 - 35 MPa、約500°C で反応させると、",
"title": "合成"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "の反応によってアンモニアが生成する。",
"title": "合成"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "実験室レベルでは、アンモニア水を加熱するか、塩化アンモニウムと水酸化カルシウムを混合して熱する方法で、発生させることができる。水への溶解度が大きく、空気の平均分子量より小さいため、吸湿して構わないならば上方置換によって集めることができる。",
"title": "合成"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アンモニアは硝酸などの基礎化学品、硫安などチッソ肥料の原料となるため、工業的に極めて重要な物質である。2008年度日本国内生産量は 1,244,083t、消費量は 403,841t である。全世界の年間生産量(2010年)は1.6億tで、そのうち8割が肥料用であると言われている。 ソルベー法が盛んに用いられた時期には炭酸ナトリウムを製造するための原料だった。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "液化したアンモニアはバーチ還元の溶媒として使用される。また、蒸発熱が大きいため (5.581 Kcal/mol)、冷蔵機・冷凍機の冷媒として利用されているが、小型の機器では吸収式冷凍機を除きそのほとんどがフロンなどに替わられた。しかし新しい冷媒に比べオゾン層の破壊係数が少ないことから、最近この用途で見直されつつある。また人工衛星などの宇宙開発用機器の冷却にも多く用いられている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "前述のようにアンモニアは条件次第で燃焼し、燃やしても代表的な温暖化ガスである二酸化炭素が生成されない。このためアンモニアを火力発電用燃料として使う技術開発が行われている。微粉炭と混焼させたり、ガスタービン発電で燃料や空気の供給量・速度を調整したりする方法等が研究されている。2020年現在、日本の火力発電所の燃料として利用する実証試験が行われている。この試験では、産油国であるサウジアラビアの化学プラントで天然ガスからアンモニアを製造する際に、排出される二酸化炭素を分離回収して、EOR(石油増進回収)やCCS(二酸化炭素回収貯留)に利用する。こうしたことから、使用するアンモニアを、カーボンニュートラルな燃料として、「ブルーアンモニア」と呼称している。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "グリッド・パリティ達成、再エネの価格低下により地域によってはブルーアンモニアより安く再生可能エネルギーによるグリーンアンモニアを製造可能になっている。経済産業省では3円/kWhでアンモニアを製造できると試算しているが、発電時の損失、火力発電所の改修コストを考えると最終的な発電コストは23.5円/kWhとしている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "水素をそのままの状態で保存するよりアンモニアのほうが沸点、蒸気圧を下げ簡単に液化できるため水素貯蔵の一つとして研究されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "アンモニアから水素の生成は吸熱反応で、400°C近い加熱された触媒によって生成される。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "熱源はSOFCのような高温の燃料電池の廃熱を利用したり、アンモニアと空気の触媒燃焼によって賄うことができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "環境に有害な窒素酸化物の発生を抑制するために火力発電所のボイラーなどに設置される、選択触媒還元脱硝装置の還元剤として使用される。ディーゼルエンジンを動力とするディーゼル自動車においても応用されている(尿素SCRシステム)が、アンモニアを直接搭載するのは危険であるため「AdBlue」と呼ばれる専用の尿素水を代わりに搭載し、これを排気中に噴射することにより高温下で加水分解させアンモニアガスを得る仕組みになっている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ヒトの体内におけるアンモニアは血液によって運ばれ肝臓によって処理されるが、肝臓病などの疾病においてその処理機能が低下すると、高アンモニア血症を発症し脳障害など重大な影響を及ぼす。",
"title": "疾病"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "食品、特に動物性食品の蛋白質やアミノ酸が微生物に分解されるとアンモニアが発生し、一定の量を超えればいわゆる腐敗臭を放つようになる。アンモニアには毒性があるが、微量であれば食物の風味付けに利用される。くさややホンオフェなど、刺激臭のする発酵食品の臭気の主成分の一つはアンモニアである。またアンモニアは食品添加物として認められ、パンや洋菓子などの生地の膨張剤として使用される。この場合アンモニアは加熱過程で消散し、製品に残留しないことが要求されている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "サメの体内にはアンモニアがあるために腐敗が遅い。冷蔵技術が普及する前、日本の山間部では、腐敗や食中毒を起こさずに海岸部から運んでこられるサメが海の幸として珍重されていた。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "アンモニアは、また体内でも生成される。食物に含まれる蛋白質や、腸の分泌液に含まれる尿素が腸内細菌によって分解されるとアンモニアが生産され、血液中に放出される。血中アンモニアは肝臓で尿素やグルタミンに変換され、無毒化される。薬剤や肝硬変などで肝機能が低下したときには体内にアンモニアが蓄積され、肝性脳症を発症する(アンモニアは容易に血液脳関門を通過し、脳にダメージを与える。)。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "生物は、蛋白質など代謝の結果で不要となった窒素を貯蔵、排泄しなければならない。硬骨魚類や両生類の幼生では主にアンモニアの形でそのまま排泄されるが、軟骨魚類、哺乳類や両生類の成体では主に尿素、爬虫類の多くや鳥類では尿酸に変換された上で貯蔵、排泄される。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "電子技術総合研究所で神経回路の伝達の研究に使用されていたヤリイカの飼育は当初困難だったが、松本元により、アンモニアを除去するために循環濾過フィルター内にアンモニアを酸化する細菌(亜硝酸菌)と、それを還元する細菌(嫌気呼吸菌、脱窒菌)の繁殖・保持により達成された。これは現在の海水魚飼育で、基本的な技術となっている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ウシなどではタンパク質などの過剰摂取により第一胃内および血液中のアンモニア濃度が上昇し、アンモニア中毒となることがある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "室内アンモニア濃度が20ppm以上の状態でラットを長時間飼育すると呼吸器系の炎症を引き起こす。",
"title": "その他"
}
] |
アンモニアは、分子式が NH 3 で表される無機化合物。常圧では無色の気体で、特有の強い刺激臭を持つ。 水に良く溶けるため、水溶液(アンモニア水)として使用されることも多く、化学工業では基礎的な窒素源として重要である。また生体において有毒であるため、重要視される物質である。塩基の程度は水酸化ナトリウムより弱い。 窒素原子上の孤立電子対のはたらきにより、金属錯体の配位子となり、その場合はアンミンと呼ばれる。例えば: 名称の由来は、古代エジプトのアモン神殿の近くからアンモニウム塩が産出した事による。ラテン語の sal ammoniacum(アモンの塩)を語源とする。「アモンの塩」が意味する化合物は食塩と尿から合成されていた塩化アンモニウムである。アンモニアを初めて合成したのはジョゼフ・プリーストリー(1774年)である。 共役酸 (NH+4) はアンモニウムイオン、共役塩基 (NH−2) はアミドイオンである。
|
{{Chembox
| ImageFile = Ammonia 2D dimensions.svg
| ImageSize = 150 px
| ImageFileL1 = Ammonia-3D-balls-A.png
| ImageSizeL1 = 150 px
| ImageFileR1 = Ammonia-3D-vdW.png
| ImageSizeR1 = 150 px
| IUPACName = アザン<br>アンモニア(許容慣用名)
| OtherNames = 窒化水素
| Section1 = {{Chembox Identifiers
| CASNo = 7664-41-7
| UNNumber = ''無水物:''[[:en:List of UN Numbers 1001 to 1100|1005]]<br>''水溶液:''[[:en:List of UN Numbers 2601 to 2700|2672]], [[:en:List of UN Numbers 2001 to 2100|2073]], [[:en:List of UN Numbers 3301 to 3400|3318]]
| EINECS = 231-635-3
| PubChem = 222
| SMILES = N
| InChI = 1/H3N/h1H3
| RTECS = BO0875000
}}
| Section2 = {{Chembox Properties
| Formula = NH<sub>3</sub>
| MolarMass = 17.0306 g mol<sup>-1</sup>
| Appearance = 常温で刺激臭のある無色透明の気体
| Density = 0.6942<ref>[http://webbook.nist.gov/cgi/fluid.cgi?Action=Load&ID=C7664417&Type=IsoTherm&PLow=0.9&PHigh=1.1&PInc=0.1&T=25&RefState=DEF&TUnit=C&PUnit=bar&DUnit=kg%2Fm3&HUnit=kJ%2Fmol&WUnit=m%2Fs&VisUnit=uPa*s&STUnit=N%2Fm NIST Chemistry WebBook] (website page of the National Institute of Standards and Technology) URL last accessed 15 May 2007</ref>
| MeltingPtC= -77.73
| Melting_notes =
| BoilingPtC= -33.34
| Boiling_notes =
| Solubility = 89.9 g/100 cm<sup>3</sup> (0 ℃)
| SolubleOther =
| Solvent =
| pKa = 38
| pKb = 4.75 (H<sub>2</sub>Oと反応)
| RefractIndex = ε<sub>r</sub>
}}
| Section3 = {{Chembox Structure
| MolShape = [[三角錐形]]
| Dipole = 1.42 D
}}
| Section4 = {{Chembox Thermochemistry
| DeltaHf = -45.90 kJ mol<sup>-1</sup><ref name="NIST">{{cite web|title=Ammonia|url=https://webbook.nist.gov/cgi/cbook.cgi?ID=C7664417&Units=SI&Mask=1#Thermo-Gas|publisher=[[NIST]]|accessdate=2021年3月8日}}</ref>
| Entropy = 192.77 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup><ref name="NIST"/>
| HeatCapacity = 35.64 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup><ref name="NIST"/>
}}
| Section7 = {{Chembox Hazards
| ExternalSDS = [https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_card_id=0414&p_version=1&p_lang=ja ICSC:0414](日本語)<br>[https://inchem.org/documents/icsc/icsc/eics0414.htm ICSC 0414](英語)
<!--旧規格のため、隠しました。--><!--| EU分類 = {{Hazchem C}} 腐食性<br>{{Hazchem T+}} 有毒<br>{{Hazchem N}} 環境汚染-->
| GHSPictograms = {{GHS02}}{{GHS04}}{{GHS05}}{{GHS07}}{{GHS08}}{{GHS09}}<ref name="kourou-msds">[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7664-41-7.html 厚生労働省モデルSDS]</ref>
| GHSSignalWord=危険 <ref name="kourou-msds" />
| HPhrases = <br>
* 極めて可燃性又は引火性の高いガス
* 高圧ガス:熱すると爆発のおそれ
* 重篤な皮膚の薬傷及び眼の損傷
* 重篤な眼の損傷
* 吸入すると有害
* 吸入するとアレルギー、喘息又は呼吸困難を起こすおそれ
* 中枢神経系、呼吸器の障害
* 長期にわたる、又は反復ばく露による呼吸器の障害
* 水生生物に非常に強い毒性
* 長期継続的影響によって水生生物に非常に強い毒性 <ref name="kourou-msds" />
<!-- | PPhrases = {{P-phrases|210|260|261|264|271|273|280|301+330+331|303+361+353|304+340|305+351+338|310|311|321|363|377|381|391|403|403+233|405|501}}-->
<!--大雑把すぎるので、隠しました。--><!--| MainHazards = 独特の刺激臭
| IngestionHazard = 大いにあり。
| InhalationHazard = 大いにあり。
| 眼への危険性 = 大いにあり。
| 皮膚への危険性 = 大いにあり。-->
| NFPA-H = 3
| NFPA-F = 1
| NFPA-R = 0
| NFPA-O = COR
<!--旧規格のため、隠しました。--><!--| RPhrases ={{R10}}, {{R23}}, {{R34}}, {{R50}}
| SPhrases = {{S1/2}}, {{S16}}, {{S36/37/39}}, {{S45}}, {{S61}}
| RSPhrases =-->
| FlashPt = なし<ref>[http://www.wdserviceco.com/03aug06MSDS/msdsANH.pdf MSDS Sheet] from W.D. Service Co.</ref>
| Autoignition = 651 ℃
| ExploLimits =
| PEL = }}
| Section8 = {{Chembox Related
| OtherAnions = [[塩化アンモニウム]]<br>[[炭酸アンモニウム]]
| OtherCpds = [[ヒドラジン]]<br>[[アジ化水素]]<br>[[ヒドロキシルアミン]]<br>[[クロラミン]] }}
}}
'''アンモニア'''({{lang-en-short|ammonia}})は、[[分子式]]が <chem>NH3</chem> で表される[[無機化合物]]。常圧では[[無色]]の[[気体]]で、特有の強い[[刺激臭]]を持つ。
水に良く溶けるため、[[水溶液]](アンモニア水)として使用されることも多く、[[化学工業]]では基礎的な[[窒素]]源として重要である。また[[生体]]において有[[毒]]であるため、重要視される物質である。[[塩基]]の程度は[[水酸化ナトリウム]]より弱い。
窒素原子上の[[孤立電子対]]のはたらきにより、金属[[錯体]]の[[配位子]]となり、その場合は'''アンミン'''({{lang-en-short|ammine}})と呼ばれる。例えば:
: <chem>Cu^2+ + 4 NH3 <=> [Cu(NH3)4]^2+</chem>
: <chem>Ag^+ + 2 NH3 <=> [Ag(NH3)2]^+</chem>
名称の由来は、[[古代エジプト]]の[[アメン|アモン]]神殿の近くから[[アンモニウム塩]]が産出した事による。[[ラテン語]]の {{la|sal ammoniacum}}(アモンの塩)を語源とする。「アモンの塩」が意味する化合物は[[食塩]]と[[尿]]から合成されていた[[塩化アンモニウム]]である。アンモニアを初めて合成したのは[[ジョゼフ・プリーストリー]](1774年)である。
[[共役酸]] {{chem|(NH|4|+|)}} はアンモニウム[[イオン]]({{lang-en-short|ammonium ion}})、[[共役塩基]] {{chem|(NH|2|-|)}} はアミドイオン({{lang-en-short|amide ion}})である。
== 性質 ==
アンモニア分子は窒素を中心とする[[四面体]]構造を取っており、各頂点には3つの[[水素]][[原子]]と一対の[[孤立電子対]]を持つ。常温常圧では無色で刺激臭のある[[可燃性]]気体。水に非常によく溶け、水溶液は塩基性を示す。
様々な[[酸]]と反応して、対応するアンモニウム塩を作る。また、有機反応において[[求核剤]]として振る舞う。例えば、[[ハロゲン化アルキル]]と反応して[[アミン]]を、[[カルボン酸ハロゲン化物]]や[[カルボン酸無水物]]と反応して[[アミド]]を与える。[[塩化水素]](塩酸)を近づけると[[塩化アンモニウム]] (NH<sub>4</sub>Cl) の白煙を生じる。[[ネスラー試薬]]では褐色の[[沈殿]]を生じる。アンモニアは湿った[[リトマス紙]]を青に変える事が可能である。
=== 液体アンモニア ===
アンモニアは[[液化]]しやすく、20℃ では、0.857 MPa(8.46[[気圧]])で液化する。また[[沸点]]が −33℃ と高いので、寒冷地では冬季に自然に液化することもあり得る。液体アンモニアの性質は水と似ている。例えば、様々な物質を溶解し、液体アンモニア自体も水溶液と似た性質を示す。
液体アンモニア中では弱い[[自己解離]]があり、−33℃(沸点)におけるイオン積は次のとおりである<ref name=Charlot>シャロー 著; 藤永太一郎、佐藤昌憲 訳『溶液内の化学反応と平衡』丸善、1975年。</ref>。
: <chem>2NH3 <=> (NH4^+) + NH2^- , </chem><math>\quad K_\mbox{s} = 10^{-32.5}</math>
[[File:Liquified Ammonia Cylinder in Japan 20110606.jpg|100px|thumb|液体アンモニアの白色[[ボンベ]]。日本においては内容物によって塗装色が定められている。]]
液体アンモニアには[[単体]][[アルカリ金属]]、[[アルカリ土類金属]]および[[ユウロピウム]]などを溶解する性質がある。アルカリ金属、特に[[セシウム]]の[[溶解度]]は非常に大きく、これらの金属の希薄溶液は[[電子化物|溶媒和電子]]によって青色を呈するが、濃厚溶液は[[金属光沢]][[ブロンズ]]様の液体となる。液体アンモニアに溶解した金属[[ナトリウム]]は、[[バーチ還元]]などの有機反応に利用される。さらに、金属溶液は高濃度で金属的な伝導挙動を示すことが知られている。
[[比誘電率]]は −33℃ において 22.4 であり、水に比べてはるかに低い。無機塩類の液体アンモニアに対する溶解度は一般的に低いが、アンモニアの配位能力によって[[ヨウ化銀]](AgI)などは非常によく溶ける。
=== 毒性 ===
[[粘膜]]に対する刺激性が強く、濃度 0.1% 以上のガス吸引で危険症状を呈する。[[悪臭防止法]]に基づく[[特定悪臭物質]]の一つであり、[[毒物及び劇物取締法]]においても劇物に指定されている。日本では[[高圧ガス保安法]]で毒性ガス及び可燃性ガスに指定され、白色の[[ボンベ]]を用い、「毒性」などの注意書きは赤で書くように定められている。液体状のものが飛散した場合は非常に危険で、特に目に入った場合には[[失明]]に至る可能性が非常に高い<ref>{{Citation|和書|title=ミステリーの毒を科学する|publisher=[[講談社]]|series=[[ブルーバックス]]|last=山崎|first=昶|author-link=山崎昶|year=1992|id={{ISBN2|4-06-132919-7}}、ISBN 978-4-06-132919-5}}</ref>。高濃度のガスを吸入した場合、刺激によるショックが呼吸停止を誘発することがある<ref name=MSDS>{{PDFlink|[http://www.takachiho.biz/pdf/NH3.pdf アンモニア]}} 化学物質安全シート 高千穂科学工業</ref>。生体において、血中アンモニア濃度が高くなると、中枢神経系に強く働き、意識障害が生じる。
'''急性毒性'''<ref name=MSDS />
* 吸入 ラット LC{{sub|50}} 2000ppm/4hr
* 吸入 マウス LC{{sub|50}} 4230ppm/4hr
* 吸入 ウサギ LC{{sub|50}} 7 mg/m<sup>3</sup>/1hr
* 吸入 ネコ LC{{sub|50}} 7 mg/m<sup>3</sup>/1hr
* 経口 ラット LD{{sub|50}} 350 mg/kg
[[人体]]においては、摂取した[[蛋白質]]が[[肝臓]]で分解される過程でアンモニアが生じ、さらに[[尿素]]へと変化する。肝機能が低下するなどしていると「[[汗]]がアンモニア臭い」と感じられることがある<ref>[https://www.sawai.co.jp/kenko-suishinka/illness/201707.html 汗が臭くなる病気][[沢井製薬]](2017年7月)2018年4月12日閲覧。</ref>。またアンモニアを吸引するなどした場合は量によっては危険であるため、[[血液|血]]中アンモニア濃度を測定する。また、[[魚介類]]などの人間以外の生体については、環境水における濃度を測定する。
=== 燃焼 ===
通常の状態における[[空気]]中での引火性は知られていない。発火点は651℃で空気中のアンモニア含有量が16–25%で爆発性ガスができる。液体アンモニアは[[ハロゲン]]、[[強酸]]と接触すると激しく反応して[[爆発]]・飛散することがある。[[酸素]]中では燃焼し、[[窒素酸化物]]を発生する<ref>{{PDFlink|[http://www6.nsk.ne.jp/toyama-kak/1hoanjoho/MSDSshu/MSDS/13.pdf MSDS 液体アンモニア]}}</ref>。
== アンモニア水 ==
{{see also|水酸化アンモニウム}}
アンモニアの水に対する溶解度は気体としては非常に大きく濃厚水溶液が存在し、また[[密度]]は濃度と伴に減少し、市販の濃アンモニア水は25 - 28%程度のものが多く、26%(d=0.904 g cm<sup>-3</sup>)のものは[[モル濃度]]は13.8 mol dm<sup>−3</sup>である。アンモニアは水に対しかなり発熱的(すべての気体の溶解熱は発熱的であるが)に溶解し、また溶解に関する[[ギブス自由エネルギー]]変化も負の値を取るため<ref name=Parker>D.D. Wagman, W.H. Evans, V.B. Parker, R.H. Schumm, I. Halow, S.M. Bailey, K.L. Churney, R.I. Nuttal, K.L. Churney and R.I. Nuttal, The NBS tables of chemical thermodynamics properties, J. Phys. Chem. Ref. Data 11 Suppl. 2 (1982)</ref>、水に非常に溶けやすいことになる。これは[[極性]]のアンモニア分子が、より極性の強い水分子と[[水素結合]]を形成するためである。
: <chem>NH3(g) <=> NH3(aq)</chem>
{| class="wikitable" style="text-align:center; white-space:nowrap"
!
! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} H^\circ</math>
! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} G^\circ</math>
! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} S^\circ</math>
! style="white-space:nowrap"| <math> \mathit{\Delta} Cp^\circ</math>
|-
! style="white-space:nowrap"| アンモニアの溶解
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| -34.13 kJ mol<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| -10.05 kJ mol<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| -81.2 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| 59 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>
|}
またアンモニア水は一部電離し、
: <chem>NH3(aq) + H2O(l) <=> NH4^+(aq) + OH^{-}(aq)</chem>, <math> Kb = 1.8 \times 10^{-5}</math>
: <math>\mbox{p}K_{b} = 4.75 \,</math>
の[[酸と塩基|酸塩基]]平衡反応によってアンモニウムイオン NH<sub>4</sub><sup>+</sup> と[[水酸化物イオン]] OH<sup>-</sup> が生じ[[塩基]]性を示す。かつてアンモニア水の塩基性は水酸化アンモニウム NH<sub>4</sub>OH が生成し、これが[[電離]]すると考えられていたが、水溶液中にはそのような化学種は認められず、また低温ではアンモニア一水和物 NH<sub>3</sub>·H<sub>2</sub>O が生成するが、これはアンモニア分子と水分子が[[水素結合]]したものであり水酸化アンモニウムの構造ではない<ref name=Cotton>FA コットン, G. ウィルキンソン著, 中原 勝儼訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年、原書:F. ALBERT COTTON and GEOFFREY WILKINSON, Cotton and Wilkinson ADVANCED INORGANIC CHEMISTRY A COMPREHENSIVE TEXT Fourth Edition, INTERSCIENCE, 1980.</ref>。
また、弱塩基のアンモニアを中和した塩であるアンモニウム塩は弱酸性を示すが、これはアンモニウムイオンの酸解離による。塩基の強度は[[共役酸]]の[[酸解離定数]]で表記する場合が多い。
: <chem>NH4^+(aq) <=> H^+(aq)\ + NH3(aq) </chem>, <math>\ Ka = 5.6 \times 10^{-10}</math>
: {{pKa}}<math> = 9.25</math>
アンモニアの塩基解離およびアンモニウムイオンの酸解離に対する[[エンタルピー]]変化、ギブス自由エネルギー変化、[[エントロピー]]変化および[[定圧モル比熱]]変化は以下の通りである<ref name=Parker />。アンモニアの塩基解離に関しては電荷の増加による、[[水和]]の増加に伴いエントロピーの減少が見られるが、アンモニウムイオンの酸解離に関しては、[[電荷]]は変化しないため[[エントロピー]]変化は小さい<ref name=tanaka>田中元治 『基礎化学選書8 酸と塩基』 裳華房、1971年</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; white-space:nowrap"
!
! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} H^\circ</math>
! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} G^\circ</math>
! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} S^\circ</math>
! style="white-space:nowrap"| <math> \mathit{\Delta} Cp^\circ</math>
|-
! style="white-space:nowrap"| アンモニアの塩基解離
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| 3.62 kJ mol<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| 27.08 kJ mol<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| -78.6 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| -210 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>
|-
! style="white-space:nowrap"| アンモニウムイオンの酸解離
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| 52.22 kJ mol<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| 52.81 kJ mol<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| -2.1 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| -14 J mol<sup>-1</sup>K<sup>-1</sup>
|}
== アンモニウムイオン ==
{{main|アンモニウム}}
<div style="float:right">[[ファイル:Ammonium.svg|100px]]</div><div style="float:right">[[ファイル:Ammonium-3D-vdW.png|120px]]</div>
'''[[アンモニウムイオン]]''' ({{lang-en-short|ammonium}}) はアンモニアに水素イオンが付加([[配位結合]])することにより生成し、アンモニア水の電離によっても一部生成する1価の[[陽イオン]]であり、[[オニウムイオン]]の一種である。[[正四面体]]型構造をとる。
== アンモニウム塩 ==
アンモニウムイオンを含むイオン結晶を'''アンモニウム塩'''(アンモニウムえん、{{lang-en-short|ammonium}})と呼び、アンモニアと酸との[[中和反応]]によっても生成する。多くのものが水に可溶であるが、[[過塩素酸]]塩、[[ヘキサクロロ白金酸]]塩などは溶解度が低く、アンモニウム塩の溶解度はアンモニウムイオンと[[イオン半径]]の近い、[[カリウム]]塩および[[ルビジウム]]塩に類似する。加熱により分解し、[[過塩素酸アンモニウム]]などは爆発する。
* 無機アンモニウム塩
** [[塩化アンモニウム]] {{chem|NH|4|Cl}}(塩安)
** [[過塩素酸アンモニウム]] {{chem|NH|4|ClO|4}}
** [[硫酸アンモニウム]] {{chem|(NH|4|)|2|SO|4}}(硫安)
** [[硝酸アンモニウム]] {{chem|NH|4|NO|3}}(硝安)
** [[炭酸アンモニウム]] {{chem|(NH|4|)|2|CO|3}}(炭安)
<!--**[[次亜塩素酸アンモニウム]]
** [[塩素酸アンモニウム]]
** [[フッ化アンモニウム]]
** [[二クロム酸アンモニウム]]
** [[ヨウ化アンモニウム]]
** [[過マンガン酸アンモニウム]] 重要性の低いアンモニウム塩をいったんコメントアウトします。アンモニウム塩について整理すべきか-->
== その他関連物質 ==
* 有機アンモニウム塩
** [[酢酸アンモニウム]] {{chem|CH|3|COONH|4}}
* [[クロラミン]] {{chem|NH|2|Cl}}, {{chem|NHCl|2}}, {{chem|NCl|3}}(アンモニアの水素原子を[[塩素]]原子でいくつか置換したもの)
* アンモニアの酸化体としては[[硝酸]]や[[ヒドラジン]]などがある。
* [[第四級アンモニウムカチオン]] {{chem|R|4|N|+}}
== 合成 ==
現在ではアンモニアの工業生産は[[ハーバー・ボッシュ法]]によるものが一般的である。実際のプラントでは[[水素]]と[[窒素]]を[[鉄]][[触媒]]存在下 25 - 35 MPa、約500℃ で反応させると<ref name=esaki />、
: <chem>N2 + 3H2 -> 2NH3</chem>
の反応によってアンモニアが生成する。
{{main|ハーバー・ボッシュ法}}
=== 主な合成法 ===
実験室レベルでは、アンモニア水を加熱するか、[[塩化アンモニウム]]と[[水酸化カルシウム]]を混合して熱する方法で、発生させることができる。水への[[溶解度]]が大きく、空気の平均分子量より小さいため、吸湿して構わないならば[[上方置換]]によって集めることができる。
; 高電圧放電法(1905年、ビルケランド・アイデ法)
: 雷と同じ方法で、空中で火花放電させて窒素と酸素から[[一酸化窒素]]を作り最後に硝酸とする。1905年に実用化したが、電力消費が極めて大きい<ref name=esaki>江崎正直、{{PDFlink|[https://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/27/Sc27-2.pdf アンモニア合成]}}</ref>。
: <math>\mathrm{{N_2} + {O_2} \ \xrightarrow[3000^\circ{C}] \ \ 2NO \ \xrightarrow[600^\circ{C}] {O_2} \ 2NO_2 \ \xrightarrow {H_2O} \ 2NHO_3}</math>
; 石灰窒素法(1906年,フランク・カロ法)
: 1901年ドイツ人フランクとカロによる方法で、[[炭化カルシウム]]<chem>(CaC2)</chem> を窒化させて[[石灰窒素]]を合成する手法。消費電力は放電法の{{分数|1|4}}<ref name=esaki />。
: <math>\mathrm{{CaO} \ \xrightarrow[2000^\circ{C}] {3C} \ \ CaC_2 \ \xrightarrow[1000^\circ{C}] {N_2} \ CaCN_2 \ \xrightarrow {3H_2O} \ 2NH_3}</math>
; ルテニウム触媒(Ru-活性炭-K)
: 尾崎、秋鹿らによる、ハーバー法よりも温和な条件でアンモニアを合成できる、[[ルテニウム]]触媒を用いた合成法<ref>秋鹿研一、小山建次、山口寿太郎 ほか、「[https://doi.org/10.1246/nikkashi.1976.394 アンモニア合成用カリウム金属添加ルテニウムおよびオスミウム触媒の製法に関する研究]」『日本化学会誌』 1976年 1976巻 3号 p.394-398, 日本化学会, {{doi|10.1246/nikkashi.1976.394}}, {{naid|130004155575}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=秋鹿研一|journal=化学と教育|year=1994|volume=10|pages=680 - 684}}</ref>。
; C12A7 Electride
: アルミナセメントの構成成分を用いる方法で、常圧 320 - 400℃で合成可能<ref>北野政明、原亨和、細野秀雄、「[https://doi.org/10.7791/jspmee.2.293 電子化物を利用したアンモニア合成用触媒材料の開発]」『スマートプロセス学会誌』 Vol.2 (2013) No.6 p.293-298, {{doi|10.7791/jspmee.2.293}}</ref>。
; モリブデン錯体
: 2010年には[[レンゲ]]の[[酵素]]構造を参考にして、[[モリブデン]]を含む触媒により、常温常圧でアンモニアを合成する手法が発表された<ref>K. Arashiba, Y. Miyake and Y. Nishibayashi, A molybdenum complex bearing PNP-type pincer ligands leads to the catalytic reduction of dinitrogen into ammonia, Nature Chem. 3, 120-125 (2011).</ref><ref>[https://www.jst.go.jp/pr/announce/20170404-2/ 世界最高の活性を示すアンモニア合成触媒の開発に成功] 東京大学、九州大学、科学技術振興機構</ref>。
; ランタンコバルト金属間化合物 (LaCoSi): 貴金属触媒を使用しない方法<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2018/040432.html 貴金属を使わない高性能アンモニア合成触媒を開発] 東京工業大学、Yutong Gong, Jiazhen Wu, Masaaki Kitano, Junjie Wang, Tian-Nan Ye, Jiang Li, Yasukazu Kobayashi, Kazuhisa Kishida, Hitoshi Abe, Yasuhiro Niwa, Hongsheng Yang, Tomofumi Tada & Hideo Hosono., Ternary Intermetallic LaCoSi as a Catalyst for N2 Activation(日本語タイトル:窒素分子の活性化触媒としての3元系金属間化合物LaCoSi)., Nature Catalysis, {{doi|10.1038/s41929-017-0022-0}}</ref>。
; アンモニア電解合成
: {{main|アンモニア電解合成}}
; モリブデン触媒アンモニア合成
: 常温で窒素と水と還元剤のヨウ化サマリュウムとモリブデン触媒をかき混ぜるだけで、アンモニアを合成できる。2019年発表。<ref>[https://www.jst.go.jp/seika/bt2020-04.html 画期的なアンモニア合成法] 東京大学、科学技術振興機構</ref>
; 水素50℃+窒素=アンモニア合成
: 上水道や海水からセルロースナノファイバー電極と言う水素で脆くならず、錆びない電極を用いて水素を得て、水素を50℃に温めて、新触媒のRu/CaH2(ルテニウムナノ粒子とカルシウムハイドライドの複合体)Ca<sup>2+</sup> (H<sup>-</sup>)<sub>2</sub> Ca<sup>2+</sup> (Cl<sup>-</sup>)<sub>2</sub> 塩化カルシウム(除雪剤・脱水剤)を使用する事で、アンモニアを合成する手法。2020年発表。<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2020/046682 50 ℃で水素と窒素からアンモニアを合成する新触媒] 東京工業大学</ref>
== 用途 ==
===化学原料===
アンモニアは[[硝酸]]などの基礎化学品、[[硫酸アンモニウム|硫安]]などチッソ[[肥料]]の原料となるため、工業的に極めて重要な物質である。2008年度日本国内生産量は 1,244,083t、消費量は 403,841t である<ref>[http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/02_kagaku.html 経済産業省生産動態統計・生産・出荷・在庫統計] 平成20年年計による</ref>。全世界の年間生産量(2010年)は1.6億tで、そのうち8割が肥料用であると言われている<ref>http://www.ueri.co.jp/jhif/12Conference090610/doshisyauniv.pdf {{リンク切れ|date=2020年9月}}</ref>。
[[ソルベー法]]が盛んに用いられた時期には[[炭酸ナトリウム]]を製造するための原料だった。
===冷媒===
液化したアンモニアは[[バーチ還元]]の溶媒として使用される。また、[[蒸発熱]]が大きいため (5.581 Kcal/mol)、冷蔵機・冷凍機の[[冷媒]]として利用されているが、小型の機器では吸収式冷凍機を除きそのほとんどが[[フロン]]などに替わられた。しかし新しい冷媒に比べ[[オゾン層]]の破壊係数が少ないことから、最近この用途で見直されつつある<ref>[http://www.tepco.co.jp/cc/press/04033001-j.html 「自然冷媒(アンモニア)高効率ヒートポンプチラー」の開発・販売について 〜地球環境にやさしいアンモニア冷媒を採用、4月より販売開始〜] 2004年3月30日 [[東京電力]]</ref>。また[[人工衛星]]などの[[宇宙開発]]用機器の冷却にも多く用いられている。
===火力発電用燃料===
[[ファイル:X-15.jpg|サムネイル|[[X-15]]のエンジンがアンモニアを燃料として使用していた]]
前述のようにアンモニアは条件次第で燃焼し、燃やしても代表的な[[温暖化ガス]]である[[二酸化炭素]]が生成されない。このためアンモニアを[[火力発電]]用[[燃料]]として使う技術開発が行われている。微[[粉炭]]と混焼させたり<ref>[https://www.ihi.co.jp/ihi/all_news/2017/technology/2018-3-28/index.html 石炭火力発電所向け 燃焼試験設備で世界最高水準のアンモニア混焼を実証~CO2排出量低減に寄与 アンモニアの燃料利用を可能にする燃焼技術を開発~] [[IHI]]プレスリリース(2018年3月28日)2018年4月12日閲覧。</ref>、[[ガスタービンエンジン|ガスタービン発電]]で燃料や空気の供給量・速度を調整したり<ref>[https://www.jst.go.jp/seika/bt111-112.html アンモニアを直接燃焼させる 炭素を含まない燃料による火力発電] [[科学技術振興機構]](2018年4月12日閲覧)。</ref>する方法等が研究されている。2020年現在、日本の火力発電所の燃料として利用する実証試験が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ihi.co.jp/ihi/all_news/2020/resources_energy_environment/1196925_1601.html|title=世界初,カーボンニュートラルな「ブルーアンモニア」を利用する混焼試験を実施 ~CO₂フリーアンモニアのバリューチェーン構築に向けて,燃料製造側と利用側をつなぐ~|accessdate=2021-03-15|publisher=株式会社IHI}}</ref>。この試験では、産油国であるサウジアラビアの化学プラントで天然ガスからアンモニアを製造する際に、排出される二酸化炭素を分離回収して、EOR(石油増進回収)やCCS(二酸化炭素回収貯留)に利用する。こうしたことから、使用するアンモニアを、カーボンニュートラルな燃料として、「ブルーアンモニア」と呼称している。
[[グリッドパリティ|グリッド・パリティ]]達成、再エネの価格低下により地域によってはブルーアンモニアより安く再生可能エネルギーによるグリーンアンモニアを製造可能になっている。経済産業省では3円/kWhでアンモニアを製造できると試算しているが、発電時の損失、火力発電所の改修コストを考えると最終的な発電コストは23.5円/kWhとしている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/green_innovation/energy_structure/pdf/003_04_00.pdf |title=燃料アンモニアサプライチェーンの構築」 プロジェクトの 研究開発・社会実装の |access-date=2021.06.30 |publisher=経済産業省}}</ref>
=== 水素貯蔵 ===
水素をそのままの状態で保存するよりアンモニアのほうが沸点、蒸気圧を下げ簡単に液化できるため[[水素貯蔵]]の一つとして研究されている。
アンモニアから水素の生成は吸熱反応で、400℃近い加熱された触媒によって生成される<ref>{{Cite journal|author=永岡 勝俊|year=2016|title=触媒の酸化熱を利用したアンモニアの酸化分解による水素製造プロセスのコールドスタート|url=https://www.noe.jxtg-group.co.jp/company/rd/technical_review/pdf/vol58_no02_04.pdf|journal=ENEOS Technical Review|volume=58|issue=2}}</ref>。
: <chem>NH3 (g) -> 1{{.}}5H2 {(g)} + 0{{.}}5N2 (g)</chem> <math> \Delta H = +45 \mathrm{kJ/mol}</math>
熱源は[[固体酸化物形燃料電池|SOFC]]のような高温の[[燃料電池]]の廃熱を利用したり、アンモニアと空気の[[触媒燃焼]]によって賄うことができる。
=== 脱硝 ===
環境に有害な[[窒素酸化物]]の発生を抑制するために[[火力発電所]]の[[ボイラー]]などに設置される、[[選択触媒還元脱硝装置]]の[[還元剤]]として使用される<ref>{{Cite journal|和書|author=|year=2013|title=排煙脱硝装置|url=https://www.energia.co.jp/eneso/kankoubutsu/review/no33/pdf/33_p23.pdf|journal=エネルギア総研レビュー|volume=33|issue=3|pages=23|publisher=[[エネルギア総研]]|accessdate=2021-03-15|format=PDF|ref=|authorlink=}}</ref>。[[ディーゼルエンジン]]を動力とする[[ディーゼル自動車]]においても応用されている([[尿素SCRシステム]])が、アンモニアを直接搭載するのは危険であるため「[[AdBlue]]」と呼ばれる専用の[[尿素]]水を代わりに搭載し、これを排気中に噴射することにより高温下で[[加水分解]]させアンモニアガスを得る仕組みになっている。
=== その他の用途例 ===
* [[ハイパーゴリック推進剤|推進剤]] - [[燃料電池]]や[[XLR99]]のような[[ロケット]]燃料。
* [[19世紀]]末にはアメリカ合衆国で Emile Lamm が1870年と1872年にアンモニアを動力源として使用する機関車に関する特許を取得して<ref>{{US patent|125577}}</ref><ref>{{US patent|105581}}</ref>[[ニューオーリンズ]]で1872年に[[作動流体]]として[[圧縮空気]]や[[蒸気]]の代わりにアンモニアを使用する無火機関車が[[馬車鉄道]]の代わりに使用された<ref name="The Streetcars of New Orleans">{{Cite book |title=The Streetcars of New Orleans |author=Louis C. Hennick |author2=Elbridge Harper Charlton |date = 1965 |publisher =Pelican Publishing |isbn=9781455612598 |page =14-16 }}</ref>。費用は1日当たり$6.775で、動物による牽引では1日当たり$9.910だった。
* [[銀鏡反応]]を利用した[[銀]][[めっき]]の[[還元剤]]としても使用される。
* 強烈な刺激臭のため、[[失神|気絶]]した人に[[気付け薬]]として嗅がせることがある。また 9.5–10.5% のアンモニア水溶液は[[日本薬局方]]一部医薬品(日本薬局方アンモニア水)で虫刺され用の外用薬の成分として用いられることもある<ref>「[[キンカン (薬品)|キンカン]]」など。</ref>。ただし、アンモニア自体は[[ギ酸]]などには[[中和]]が期待されるものの、[[ヒスタミン]]などに対する分解作用は無い。
* ブルーアンモニアなど、船舶や自動車等のエンジン燃焼プロパティーで活用するとした実証実験が行われている。
== 疾病 ==
[[ヒト]]の体内におけるアンモニアは血液によって運ばれ[[肝臓]]によって処理される<ref>坂口力、「[https://doi.org/10.1265/jjh.19.369 環境要因とアンモニア代謝 第1報: 各種環境要因における脳, 肝, 血液のアンモニア濃度変化]」『日本衛生学雑誌』
1965年 19巻 6号 p.369-373, 日本衛生学会, {{DOI|10.1265/jjh.19.369}}</ref>が、[[肝臓病]]などの疾病においてその処理機能が低下すると、高アンモニア血症を発症し脳障害など重大な影響を及ぼす<ref>福嶋真理恵、古藤和浩、遠城寺宗近 ほか、「[https://doi.org/10.11405/nisshoshi.102.42 バルプロ酸ナトリウムにより高アンモニア血症をきたしたC型慢性肝炎の1例]」『日本消化器病学会雑誌』 2005年 102巻 1号 p.42-47, 日本消化器病学会, {{DOI|10.11405/nisshoshi.102.42}}</ref>。
== その他 ==
食品、特に動物性食品の蛋白質や[[アミノ酸]]が微生物に分解されるとアンモニアが発生し、一定の量を超えればいわゆる[[腐敗]]臭を放つようになる。アンモニアには毒性があるが、微量であれば食物の風味付けに利用される。[[くさや]]や[[ホンオフェ]]など、刺激臭のする[[発酵食品]]の臭気の主成分の一つはアンモニアである。またアンモニアは食品添加物として認められ、パンや洋菓子などの生地の膨張剤として使用される。この場合アンモニアは加熱過程で消散し、製品に残留しないことが要求されている。
[[サメ]]の体内にはアンモニアがあるために腐敗が遅い。[[冷蔵]]技術が普及する前、日本の山間部では、腐敗や食中毒を起こさずに海岸部から運んでこられるサメが[[魚介類|海の幸]]として珍重されていた<ref>{{Cite news
|accessdate=2009-08-10|url=http://mytown.asahi.com/tochigi/news.php?k_id=09000360901010002|date=2009-01-01|title=新年企画 食べるって何だ? 郷土の味 知恵凝縮|work=[[朝日新聞]]栃木版|publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>。
アンモニアは、また体内でも生成される。食物に含まれる蛋白質や、腸の分泌液に含まれる尿素が腸内細菌によって分解されるとアンモニアが生産され、血液中に放出される。血中アンモニアは肝臓で[[尿素]]や[[グルタミン]]に変換され、無毒化される。薬剤や[[肝硬変]]などで肝機能が低下したときには体内にアンモニアが蓄積され、[[肝性脳症]]<ref>加藤章信、鈴木一幸、「[https://doi.org/10.11405/nisshoshi.104.344 肝性脳症: 診断・検査]」『日本消化器病学会雑誌』 2007年 104巻 3号 p.344-351, {{DOI|10.11405/nisshoshi.104.344}}</ref>を発症する(アンモニアは容易に[[血液脳関門]]を通過し、[[脳]]にダメージを与える。)。
生物は、蛋白質など[[代謝]]の結果で不要となった窒素を貯蔵、排泄しなければならない。[[硬骨魚類]]や[[両生類]]の幼生では主にアンモニアの形でそのまま排泄されるが、[[軟骨魚類]]、[[哺乳類]]や[[両生類]]の成体では主に[[尿素]]、[[爬虫類]]の多くや[[鳥類]]では[[尿酸]]に変換された上で貯蔵、排泄される。
[[電子技術総合研究所]]で神経回路の伝達の研究に使用されていた[[ヤリイカ]]の飼育は当初困難だったが、[[松本元]]により、アンモニアを除去するために循環[[濾過]]フィルター内にアンモニアを酸化する細菌([[亜硝酸菌]])と、それを還元する細菌([[嫌気呼吸]]菌、[[脱窒]]菌)の繁殖・保持により達成された。これは現在の海水魚飼育で、基本的な技術となっている<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.brainvision.co.jp/genspage/ika.htm|title = ヤリイカの人工飼育|work = 松本 元先生 メモリアルサイト|publisher = ブレインビジョン株式会社|accessdate = 2011-12-15}}</ref>。
ウシなどではタンパク質などの過剰摂取により[[第一胃]]内および血液中のアンモニア濃度が上昇し、[[アンモニア中毒]]となることがある。
室内アンモニア濃度が20ppm以上の状態でラットを長時間飼育すると呼吸器系の炎症を引き起こす。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 光岡知足ほか編集 『獣医実験動物学』 川島書店、1990年、{{ISBN2|4-7610-0428-2}}。
== 関連文献 ==
* {{cite journal | 和書
| title = アンモニア合成に新手法
| journal = msn 産経ニュース
| publisher = The Sankei Shimbun & Sankei Digital
| issue = 2010.12.14 07:44
| url = https://web.archive.org/web/20110124134408/http://sankei.jp.msn.com//science/news/110113/scn11011306500010-n1.htm
| accessdate = 2010年12月14日(火)
}}-- [[東京大学]]大学院・触媒反応工学の研究グループが製造コストが安価なアンモニア合成方法を開発し、英国の科学誌 ''"[[:en:Nature Chemistry|Nature Chemistry]]"'' の電子版に発表された。アンモニアを燃焼させて熱エネルギーを取り出す場合、その際の排出物質は窒素と水だけである。二酸化炭素を排出しないので、次世代のエネルギー源になる可能性がある。
** {{cite
| author1 = Kazuya Arashiba
| author2 = Yoshihiro Miyake
| author3 = Yoshiaki Nishibayashi
| title = A molybdenum complex bearing PNP-type pincer ligands leads to the catalytic reduction of dinitrogen into ammonia
| journal = Nature Checmistry
| issue = 05 December 2010
| url = http://www.nature.com/nchem/journal/vaop/ncurrent/full/nchem.906.html
| accessdate = 2010年12月14日(火)
}}
== 関連項目 ==
* [[水素化合物]]
* [[窒素固定]]
* [[石炭化学]]
* [[石油化学]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
* {{Kotobank|アンミン}}
* {{Kotobank|アンミン錯塩}}
{{窒素の化合物}}
{{水素の化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あんもにあ}}
[[Category:アンモニア|*f]]
[[Category:無機窒素化合物]]
[[Category:窒化物]]
[[Category:塩基]]
[[Category:水素の化合物]]
[[Category:毒]]
[[Category:劇物]]
[[Category:危険物]]
[[Category:特定悪臭物質]]
[[Category:産業用ガス]]
[[Category:窒素循環]]
[[Category:カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]
[[Category:ジョゼフ・プリーストリー]]
|
2003-06-19T12:47:21Z
|
2023-10-23T23:54:13Z
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[
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|
10,167 |
テュール
|
テュール(古ノルド語: Týr 英語: Tyr)は、ドイツ神話や北欧神話における軍神。勇敢な神とされる。
古英語形ではティーウ (Tiw)、ドイツ語ではテュール (Tyr)、ツィーウ (Ziu)、またはティウ (Tiu) という。想定されるゲルマン祖語ではティワズ (*Tiwaz)。
ギリシア神話のゼウス (Ζεύς)、ローマ神話のユーピテル (Jupiter: 原型はDieu pater) など印欧語族の多くが天空神として信仰する神々と同語源と考えられ、テュールも本来は天空神だったらしいが、現存する史料では概ね軍神とされている。これは本来は法と豊穣と平和をつかさどる天空神であったのが、2世紀後半以降にゲルマン人の世界が激しい戦乱の時代をむかえ、戦争の神であるオーディンへの信仰が台頭し、テュールは最高神の地位を追われて一介の軍神に転落したからと考えられている。こうした経緯もあり、「テュール」というのは、古くは古ノルド語で「神」をあらわす一般名詞でもあった。
またテュールが最高神であった時代のゲルマン人諸族の王を意味する語は、ティワズの祭司を意味するティウダンス (thiudans) であった。 絵画などでは隻腕の戦士の姿で表され、これはフェンリルに片手を食いちぎられたことを示す。 またルーン文字の「テュール(上向き矢印のような形状、ラテン文字ではTに当たる)」はテュールの象徴で『詩のエッダ』によれば勝利のルーンであり、戦いの際にこのルーンを剣に刻み勝利を祈ったとされる。
軍神という点でローマ神話の軍神マールスと同一視され、ゲルマン語で火曜日を意味する Tuesday などの語源となった。
なお、同じ北欧神話の雷神トールとは別の神である。
『古エッダ』の『ヒュミルの歌』では、テュールは父である巨人ヒュミルの元に、神々が酒宴を開くのに必要な大釜を入手するために出向いている。ただし、このエピソードにおける「テュール」という名前は一般的な「神」の意味で用いられており、実際はロキであると解釈すべきという説がある。
『ロキの口論』第38、40節において、テュールはロキから、右腕を失ったこと(後述)を詰られた上、テュールの妻がロキの子供を産んでいたことを暴露された。
『シグルドリーヴァの言葉』第6節では、テュールを表すルーン文字を剣の柄や峰、血溝の上に彫って、2度テュールの名を唱えることで勝利できると語られている。
獰猛なフェンリルは最初は神々の元で拘束されていたが、餌をやる勇気があったのはテュールだけだった。やがてフェンリルをグレイプニルに繋ぐことになった際、疑り深いフェンリルはグレイプニルが危険でないことの証明のため誰かの腕を自身の口内に入れることを要求し、他の神々が戸惑っているのを見てフェンリルが嘲笑する。それを見たテュールはこれはまずい、と思い自ら腕を入れる。 グレイプニルに繋がれたあとフェンリルはそれを壊すことが出来ないと悟ったが既に遅く、怒り狂ったフェンリルはテュールの腕を噛み切った。テュールに片腕が無いのはそのためである(『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第34章による)。
テュールは、最後はラグナロクにて解放された番犬ガルムと相打ちになる。
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テュールは、ドイツ神話や北欧神話における軍神。勇敢な神とされる。
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{{otheruseslist|北欧神話の神|デンマークのバンド|ティア (バンド)|フランスの都市|チュール}}
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'''テュール'''<ref>{{Harvp|谷口訳|1973|loc=索引8頁}}には'''チュール'''、{{Harvp|菅原|1984|p=316|ps=(索引)}}には'''テュール'''の表記がみられる。</ref>({{lang-non|Týr}} {{lang-en|Tyr}})は、[[ゲルマン神話|ドイツ神話]]や[[北欧神話]]における[[軍神]]。勇敢な神とされる。
== 解説 ==
{{出典の明記|date=2018年1月22日 (月) 01:48 (UTC)|section=1|title=参考文献は示されているが脚注が無いため出典不明}}
[[古英語]]形では'''ティーウ''' ('''Tiw''')、[[ドイツ語]]では'''テュール''' ('''{{lang|de|Tyr}}''')、'''ツィーウ''' ('''{{lang|de|Ziu}}''')、または'''ティウ''' ('''{{lang|de|Tiu}}''') という。想定される[[ゲルマン祖語]]では'''ティワズ''' ('''*Tiwaz''')。
[[ギリシア神話]]の[[ゼウス]] (Ζεύς)、[[ローマ神話]]の[[ユーピテル]] ({{lang|la|Jupiter}}: 原型は{{lang|la|Dieu pater}}) など印欧語族の多くが[[天空神]]として信仰する神々と同語源と考えられ、テュールも本来は天空神だったらしいが、現存する史料では概ね軍神とされている。これは本来は法と豊穣と平和をつかさどる天空神であったのが、[[2世紀]]後半以降に[[ゲルマン人]]の世界が激しい戦乱の時代をむかえ、戦争の神である[[オーディン]]への信仰が台頭し、テュールは最高神の地位を追われて一介の軍神に転落したからと考えられている。こうした経緯もあり、「テュール」というのは、古くは[[古ノルド語]]で「[[神]]」をあらわす一般名詞でもあった<ref>例として[[オーディン]]を示す[[ケニング]](詩での比喩表現)に「勝利の'''テュール'''」や「吊るされた'''テュール'''」というものがある(池上良太、著『図解 北欧神話』株式会社新紀元社、2008年第2冊、ISBN 978-4-7753-0543-0、P225。)</ref>。
またテュールが最高神であった時代のゲルマン人諸族の王を意味する語は、ティワズの祭司を意味するティウダンス (thiudans) であった。
絵画などでは隻腕の戦士の姿で表され、これは[[フェンリル]]に片手を食いちぎられたことを示す。
また[[ルーン文字]]の「テュール(上向き矢印のような形状、ラテン文字ではTに当たる)」はテュールの象徴で『詩のエッダ』によれば勝利のルーンであり<ref>池上良太、著『図解 北欧神話』株式会社新紀元社、2008年第2冊、ISBN 978-4-7753-0543-0、P157。</ref>、戦いの際にこのルーンを剣に刻み勝利を祈ったとされる。
軍神という点で[[ローマ神話]]の軍神[[マールス]]と同一視され、ゲルマン語で[[火曜日]]を意味する {{lang|en|Tuesday}} などの語源となった。
なお、同じ北欧神話の雷神[[トール]]とは別の神である。
== 『古エッダ』 ==
[[ファイル:SÁM 66, 78v, Fenrir and Týr.jpg|thumb|180px|right|18世紀のアイスランドの写本『[[SÁM 66]]』に描かれた、テュールがフェンリルに右腕を噛み切られる場面。]]
[[ファイル:AM 738 4to, 39r, BW Týr.jpeg|thumb|180px|right|17世紀のアイスランドの写本『[[AM 738 4to]]』に描かれたテュール。]]
『[[古エッダ]]』の『[[ヒュミルの歌]]』では、テュールは父である巨人[[ヒュミル]]の元に、神々が酒宴を開くのに必要な大釜を入手するために出向いている<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』75-79頁。</ref>。ただし、このエピソードにおける「テュール」という名前は一般的な「神」の意味で用いられており、実際は[[ロキ]]であると解釈すべきという説がある<ref>『北欧の神話』132頁。</ref>。
『[[ロキの口論]]』第38、40節において、テュールはロキから、右腕を失ったこと(後述)を詰られた上、テュールの妻がロキの子供を産んでいたことを暴露された<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』84頁。</ref>。
『[[シグルドリーヴァの言葉]]』第6節では、テュールを表す[[ルーン文字]]を剣の柄や峰、血溝の上に彫って、2度テュールの名を唱えることで勝利できると語られている<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』144頁。</ref>。
== 『スノッリのエッダ』 ==
獰猛な[[フェンリル]]は最初は神々の元で拘束されていたが、餌をやる勇気があったのはテュールだけだった。やがてフェンリルを[[グレイプニル]]に繋ぐことになった際、疑り深いフェンリルはグレイプニルが危険でないことの証明のため誰かの腕を自身の口内に入れることを要求し、他の神々が戸惑っているのを見てフェンリルが嘲笑する。それを見たテュールはこれはまずい、と思い自ら腕を入れる。
グレイプニルに繋がれたあとフェンリルはそれを壊すことが出来ないと悟ったが既に遅く、怒り狂ったフェンリルはテュールの腕を噛み切った。テュールに片腕が無いのはそのためである(『[[スノッリのエッダ]]』第一部『[[ギュルヴィたぶらかし]]』第34章による<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』249-250頁。</ref>)。
=== ラグナロク ===
テュールは、最後は[[ラグナロク]]にて解放された[[番犬]][[ガルム]]と相打ちになる<ref>『エッダ 古代北欧歌謡集』276頁。</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
{{Commons|Category:Týr}}
* {{Cite book |和書 |editor=G・ネッケル; H・クーン; A・ホルツマルク; J・ヘルガソン |translator=[[谷口幸男]] |title=エッダ 古代北欧歌謡集 |publisher=[[新潮社]] |date=1973-08-30 |isbn=978-4-10-313701-6 |ref={{SfnRef|谷口訳|1973}} }}
* [[山室静]]『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』[[筑摩書房]]〈世界の神話 8〉、[[1982年]]、ISBN 978-4-480-32908-0。
* {{Cite book |和書 |last=菅原 |first=邦城 |authorlink=菅原邦城 |year=1984 |title=北欧神話 |publisher=[[東京書籍]] |id={{全国書誌番号|85011498}} |ref={{SfnRef|菅原|1984}} }}
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[[Category:北欧神話の神]]
[[Category:軍神]]
[[Category:天空神]]
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10,170 |
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷
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アフガニスタン国際戦犯民衆法廷(the International Criminal Tribunal for Afghanistan, ICTA)は、刑事裁判の形式をとってアメリカのアフガニスタン侵攻に抗議する民間の反戦運動である。「公聴会」・「公判」は主に日本で開かれる。
なお、主催者は公的機関ではなく、判決には法的拘束力はない。
法廷は、主催団体が作成したアフガニスタン国際戦犯民衆法廷規程及びアフガニスタン国際戦犯民衆法廷手続き証拠規則に基づいて運営された。
主催者側の主張によれば、アメリカのアフガニスタン侵攻においてアメリカ合衆国・イギリスが行なった空爆・民間人の殺傷などの戦争犯罪を、指導者ブッシュを被告として、市民の手で裁く民衆法廷(tribunal)である。
3度にわたる現地調査・証言収集を経て、2002年12月15日から日本国内外の各地で「公聴会」が開催されており、2003年7月から「公判」が始まり、2003年12月14日には「判決」が、2004年3月には「勧告」が出された。
ジョージ・W・ブッシュ(アメリカ合衆国大統領)
伊藤和子(弁護士)・加賀美有人(弁護士)・上山勤(弁護士)・神原元(弁護士)田部知江子(弁護士)・土井香苗(弁護士)・成見暁子(弁護士)・萩尾健太(弁護士)
大久保賢一(弁護士)
「ICTAにはなぜ弁護人がいないのですか?」という想定質問に対し、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷のホームページには次のような回答が掲載されている。 「もともと「裁判というからには弁護人が不可欠だ」という考え方には何ら根拠がありません。弁護人のいない法廷はいくらでもあります。」 「歴史的には長い間、刑事訴訟は裁く者と裁かれる者の二面構造でした。江戸時代の奉行による裁判ドラマを思い出してください。当事者(検事と被告人)と裁判所という三面構造は近代的な法廷でようやく確立したものです。」
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アフガニスタン国際戦犯民衆法廷は、刑事裁判の形式をとってアメリカのアフガニスタン侵攻に抗議する民間の反戦運動である。「公聴会」・「公判」は主に日本で開かれる。 なお、主催者は公的機関ではなく、判決には法的拘束力はない。
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'''アフガニスタン国際戦犯民衆法廷'''(the International Criminal Tribunal for Afghanistan, ICTA)は、[[裁判|刑事裁判]]の形式をとって[[アメリカのアフガニスタン侵攻]]に抗議する民間の[[反戦運動]]である。「公聴会」・「公判」は主に[[日本]]で開かれる。
なお、主催者は公的機関ではなく、判決には[[法的拘束力]]はない。
== 概要 ==
法廷は、主催団体が作成したアフガニスタン国際戦犯民衆法廷規程及びアフガニスタン国際戦犯民衆法廷手続き証拠規則に基づいて運営された。
主催者側の主張によれば、アメリカのアフガニスタン侵攻において[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]が行なった[[空爆]]・民間人の殺傷などの[[戦争犯罪]]を、指導者ブッシュを被告として、[[市民]]の手で裁く[[民衆法廷]](tribunal)である。
3度にわたる現地調査・証言収集を経て、[[2002年]][[12月15日]]から日本国内外の各地で「[[公聴会]]」が開催されており、[[2003年]]7月から「[[公判]]」が始まり、2003年12月14日には「判決」が、2004年3月には「勧告」が出された。
*'''特別顧問''':[[ラムゼイ・クラーク]](元アメリカ[[司法長官]])
*'''共同代表''':[[伊藤成彦]]([[中央大学]]名誉教授)、[[前田朗]](東京造形大学教授、国際刑事法)、サラ・フランダース(IAC)
*'''協力''':国際行動センター(IAC)、[[グローバル・エクスチェンジ]](アメリカのNGO)など
==「被告人」==
'''[[ジョージ・W・ブッシュ]]'''([[アメリカ合衆国大統領]])
==「判事団」==
*'''裁判長''':[[新倉修]]([[青山学院大学]]教授、[[刑事訴訟法]])
*'''判事''':[[水島朝穂]]([[早稲田大学]]教授、[[憲法]])、R・I・アクロイド(イギリス・元[[アストン大学]]法学部長、弁護士)、ニルーファ・バグワット(インド・[[ボンベイ大学]]法学部教授)、ピーター・アーリンダー(アメリカ・National Lawyers Guild元会長、[[ルワンダ国際戦犯法廷|ルワンダ国際刑事裁判所]]主任弁護人)
==「検事団」==
*'''団長''':[[土屋公献]](元[[日本弁護士連合会|日本弁護士連合会会長]]・弁護士)
*'''副団長''':[[山口広]](弁護士)
*'''事務局長''':[[猿田佐世]](弁護士)
[[伊藤和子 (弁護士)|伊藤和子]](弁護士)・加賀美有人(弁護士)・上山勤(弁護士)・[[神原元]](弁護士)田部知江子(弁護士)・[[土井香苗]](弁護士)・成見暁子(弁護士)・萩尾健太(弁護士)
== アミカス・キュリエ ==
大久保賢一(弁護士)
*アフガニスタン国際戦犯民衆法廷では弁護士を付さず、[[アミカス・キュリエ]]方式を採用して、被告人に代わって被告人の主張を述べる形を採った。
「ICTAにはなぜ弁護人がいないのですか?」という想定質問に対し、[http://icta.m-shonan.jp/japanese/whats.htm#02 アフガニスタン国際戦犯民衆法廷のホームページ]には次のような回答が掲載されている。
「もともと「裁判というからには[[弁護人]]が不可欠だ」という考え方には何ら根拠がありません。弁護人のいない法廷はいくらでもあります。」
「歴史的には長い間、刑事訴訟は裁く者と裁かれる者の二面構造でした。[[江戸時代]]の奉行による裁判ドラマを思い出してください。当事者([[検察官|検事]]と[[被告人]])と裁判所という三面構造は近代的な法廷でようやく確立したものです。」
==「起訴状」(草案)による訴因==
# '''[[侵略戦争|侵略]]の罪''':[[アフガニスタン]]への侵略・空爆には[[国際法]]・[[国際連合憲章]]上の根拠がない。
# '''[[迫害]]の罪''':多数の[[難民]]を作り出したのは、[[人道に対する罪]]の迫害に当たる。
# '''戦争犯罪''':民間施設や民間人の被害は、[[国際人道法]]に違反する戦争犯罪に当たる。
# '''[[捕虜虐待]]''':[[捕虜]]の一般的保護を定めた[[ジュネーヴ諸条約 (1949年)|ジュネーブ諸条約]]に違反している。
==「公判」日程 ==
*第1回公判 2003年7月21日
*第2回公判 2003年12月13日
*第3回公判 2003年12月14日
*第4回公判 2004年3月13日(判決・勧告)
==「判決」==
被告人ブッシュ大統領は、
:[[侵略戦争|侵略]]の罪について有罪。
:[[戦争犯罪]]については、民間人に対する攻撃について有罪。非軍事施設への攻撃について有罪。
:[[捕虜]]・被拘禁者の取り扱いについては、[[キューバ]]にある[[グアンタナモ]]基地における捕虜虐待については有罪。コンテナによる捕虜の輸送等、捕虜の取り扱いについては、ブッシュ大統領の関与につき十分な立証がなされていないので無罪。
:[[人道に対する罪]]については、大量の[[難民]]が発生し多数の死者が出ている状態で民間のインフラを攻撃し、さらなる難民発生を引き起こしたことについて有罪。[[劣化ウラン弾]]使用について有罪。
== 関連項目 ==
*[[国際刑事裁判所]]
*[[民衆法廷]]
== 外部リンク ==
*[http://icta.m-shonan.jp/ アフガニスタン国際戦犯民衆法廷]
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[[Category:第二次アフガニスタン紛争]]
[[Category:民衆法廷]]
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10,174 |
カール・フォン・クラウゼヴィッツ
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カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(独: Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz (Claußwitz)、1780年7月1日 - 1831年11月16日)は、プロイセン王国の陸軍軍人、軍事学者。最終階級は陸軍少将。クラウゼビッツとも表記。
ナポレオン戦争にプロイセン陸軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。特記すべき業績としては絶対的戦争、政治的交渉の延長としての戦争概念、摩擦、戦場の霧、重心、軍事的天才、防御の優位性、攻勢極限点、勝敗分岐点などがある。
クラウゼヴィッツが影響を受けた人物にはフリードリヒ2世、ナポレオン・ボナパルト、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストなどがいる。また、クラウゼヴィッツの影響を受けた人物にはヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケやコルマール・フォン・デア・ゴルツ、アルフレート・フォン・シュリーフェン、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルなどのドイツ軍の研究者や、エンゲルスなどの革命戦略家、そして海軍戦略家のジュリアン・コーベットや電撃戦の理論家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなど、研究者に幅広い影響を与えている。
1780年にプロイセン王国のマクデブルク市の東北20キロ先にあるブルク町で生まれる。クラウゼヴィッツ家はポーランド系ドイツ人で、父親フリードリヒ・ガブリエル・クラウゼヴィッツは、彼が生まれた時には徴税官であった。ガブリエルは七年戦争の末期に少尉として従軍し、戦後の1763年に中尉に昇進し、退役してからブルクの徴税官となった。母イェリアンと4人の息子と2人の娘を儲けており、カール・クラウゼヴィッツは一番下の弟であった。ガブリエルに影響があった陸軍のフォン・フント少佐の取り計らいもあって、4人の息子の3人は将校とされており、クラウゼヴィッツは1792年に12歳でポツダムのフェルディナント王子歩兵連隊にユンカーとして入隊した。第一次対仏同盟戦争でフェルディナント王子連隊は1794年3月にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。その行軍の途上でクラウゼヴィッツは旗手を務めている。戦闘は4月1日に開始され、砲兵が配置につく6月18日まで続き、7月23日にフランス軍が降伏する2日前に将校相当の准士官に昇進した。
クラウゼヴィッツは少尉に任官した15歳からの6年間をノイルピーンで過ごす。当時の連隊長の考課表によれば、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。そこで連隊長は1801年にクラウゼヴィッツをベルリンの士官学校に送った。そこで後に「父でもあり、心の友であった」と評するシャルンホルスト中佐のもとで軍事学を学ぶ機会を得ただけでなく、シャルンホルストが非公式に設置した軍事学会に入会することができた。この学会は論文の審査によって入会が許され、時事的な軍事問題の解決や国防意識の発揚のための学術的な研究団体として組織された。クラウゼヴィッツはこの学会で学術研究の様式を習得し、数学、論理学、地理学、歴史学、文学の一般教養と軍事学の専門知識を深め、1803年に学校を首席で卒業した。卒業後はシャルンホルストの推薦もあって軍事学会の会員でもあったアウグスト王子が指揮する近衛大隊に副官として勤務することになった。クラウゼヴィッツは半年間の試験採用期間を経て正式に副官となってからは宮廷社会に入るようになる。この時期にクラウゼヴィッツはシラーの文学に親しみ、マキアヴェリやモンテスキューの著作を読み、カント哲学の講義にも出席している。後に詳述するマリー・フォン・ブリュールと知り合ったのもこの頃で、1805年に婚約している。
1806年10月14日にプロイセン軍は、ナポレオン戦争の一つイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いで、フランス軍に壊滅的な打撃を受ける。クラウゼヴィッツの大隊もこの戦闘に参加しており、アウエルシュタットでホーエンローエ軍の退却に巻き込まれて退却を行った。ホーエンローエ公は4万の兵力を保持していたもののフランス軍の追跡により包囲され、解囲を試みずに降伏した。しかしクラウゼヴィッツが所属していた近衛大隊だけは降伏を拒否してバルト海沿岸を志向して解囲を試みている。両軍の騎兵部隊が交戦していたブレンツラウの町を避けながら北進中、町近郊のウッカー河でフランス軍の騎兵部隊と接触し、防御戦闘を繰り返しながら河岸の湿地帯を移動したが、沼地によって部隊が完全に行動不能になったため、ここで指揮官アウグストは降伏した。1806年12月にアウグストとともにクラウゼヴィッツはフランス北東部のナンシーに捕虜として抑留されたが、それほど厳しい抑留ではなかったためにフランス語の学習とパリの見学、また著述活動を行うことができた。
1807年に締結されたティルジット講和条約の捕虜交換によりクラウゼヴィッツは7月30日に釈放される。スイスを経由してフランス軍の占領下にあったベルリンに帰還した。そこでシャルンホルストの招きによりクラウゼヴィッツはアウグストとともにベルリンを離れてケーニヒスベルクに移った。そこでは政治改革を主張するシュタイン男爵、教育改革の草案を作成するフンボルト、そして軍制改革を主導するシャルンホルストなどが集まっていた。特にシャルンホルストは反仏感情を抱く将校や官僚、学者を主導し占領軍への国民的な反撃を準備しつつあり、彼らの一部はプロイセンから離れてスペインやオーストリアでフランス軍と戦っていた。1809年になるとスペインのゲリラ戦にフランス軍が手間取っているうちにオーストリアがフランスに宣戦布告し、チロル地方の農民がフランス軍に対して武装蜂起した。しかしプロイセン国王はフランスとの戦争には時期が早すぎると判断してフランスとの関係においても慎重な立場をとっていた。このような情勢においてクラウゼヴィッツはアウグストの副官から1809年にベルリンの陸軍省へと移る。
ベルリンではプロイセン改革として行政改革や教育改革などが進められており、軍制改革としては愛国的な国民軍の創設が準備されつつあった。軍隊における貴族的な特権の廃止、指揮官を育成するための陸軍大学校の準備などが進められシャルンホルストによって改革は計画されていた。シャルンホルストは19冊からなる軍制改革案を作成しており、人事、部隊編制、兵役義務、装備、訓練、戦闘教義、将校教育、整備、国土防衛、要塞建設などの幅広い領域にわたって改革を進めた。そして1808年から1812年の間にプロイセン軍の「基幹部隊」を育成することを開始し、各地域から毎月5名の新兵を受け入れて3ヶ月の訓練の後に帰郷させる制度を作り上げた。このことで軍事知識を普及させ、軍隊と国民の相互理解を深めるだけでなく、フランスが条約上で禁止した予備兵力を実質的に確保することが可能となった。クラウゼヴィッツはシャルンホルストがフランス占領軍に目をつけられて陸軍省を離れるまでこの軍制改革の推進のために働いており、1810年10月に新設された陸軍大学校の教官に任命されているだけでなく、プロイセン皇太子に軍事学の教官として指導にあたっている。この講義は『皇太子殿下御進講録』として残っている。
そして1810年12月17日に1805年に婚約していた伯爵令嬢マリー・フォン・ブリュール(Marie von Brühl)と国王の許可を得てベルリンの聖マリア教会で結婚式を挙げた。当時マリーは家柄もよく、女官長として勤めていたことから、宮廷グループの一部から貴族の称号も財産もないクラウゼヴィッツと結婚することには反発があった。しかしルイーゼ王妃の理解と支援によって結婚式を挙げることができた。夕食会も祝辞もなく、立会人や出席者の名簿も残っていない。二人はいくつかの親戚訪問を済ませた後にギーヴィッツに新婚旅行を楽しみ、年末にはベルリンの新居に引越しを済ませた。二人は子供はできなかったが、生涯を通じて良好な夫婦関係を保っており、マリーはゲーテの作品をクラウゼヴィッツに奨め、可能な限りの教育を受けるように計らい、クラウゼヴィッツ没後には残した遺稿を編纂している。
1812年2月24日にプロイセンがフランスと軍事同盟を締結した時にクラウゼヴィッツは自らの政治的見解を著作にまとめて公表に踏み切ろうとしたがグナイゼナウの反対から断念した。この著作は国民としての品位と自由を守るために戦わなければならず、プロイセンの存続のためにフランスとの同盟はありえないことを呼びかけたものであった。1812年3月31日にクラウゼヴィッツはベルリンを離れ、フランクフルトの兄弟に挨拶をしてからロシアへ向かった。4月18日に辞職願も認可され、馬車の購入費などの旅行費用もマリーが援助し、ブレスラウからケーニヒスベルクとタウロッゲンを経由して6月6日にロシア防衛軍司令部が置かれていたヴィルナに到着した。シャルンホルストの推薦状と既にロシア軍で戦っていたグナイゼナウ大佐やロシア皇帝の武官ヴォルツォーゲン中佐の配慮により、ロシア軍中佐に任命された。当時の戦況はフランス軍に有利であったが、1812年2月にシャルンホルストは皇帝アレクサンドル1世に特使を派遣して軍事戦略に関する助言を行った。それはロシアの広大な領土の奥地に戦場を移すことでフランス軍を弱体化させる戦略を提言するものであった。
クラウゼヴィッツはバーレン将軍の下で3週間ほど参謀勤務につき、第1騎兵軍団長ウヴァロフ将軍の参謀次長として兵站を担当した。ロシア軍はボロジノの戦いに敗北してからモスクワに退却し、また9月14日にはモスクワを焼き捨ててカルーガへと後退した。フランス軍はこの焦土作戦により弱体化し、10月24日にモスクワでロシアからの撤退を決断した。冬の到来が例年よりも早かったことや、後方連絡線が遮断されたこともあって、フランス軍では被服や食糧が欠乏状態にあった。そのために44万名の兵力で侵攻したフランス軍は数千名にまで減っていた。ナポレオンは12月5日に指揮権をミューラー元帥にわたしてパリへと帰還した。クラウゼヴィッツがこの戦役でヴィットゲンシュタイン軍団に勤務している間にマクドナルド元帥が指揮するフランス・プロイセン連合軍とロシア軍が対陣した。12月26日にクラウゼヴィッツはプロイセン軍との戦闘を回避するためにロシア軍の軍使としてプロイセン軍のヨルク中将を訪れ、停戦交渉を行った。ヨルクを説得したことでクラウゼヴィッツはナポレオン指揮下のプロイセン軍をロシア軍は中立と見なし、プロイセンからリトアニア地域を中立地帯に設定、東プロイセンをロシア軍の占領から解放するという「タウロッゲン協定」締結に成功した。この協定はプロイセン国王に伝えられ、ヨルク中将はフランスとの同盟を破棄する機会が到来したことを進言し、国王は12月30日に協定を承認した。
1813年1月にシュタインが新政府を樹立し、ケーニヒスベルクで国土防衛軍を組織していた。クラウゼヴィッツはタウロッゲン協定の仕事の後にケーニヒスベルクに戻り、一方のシャルンホルストも3月に参謀総長に返り咲いた。ケーニヒスベルクでは東プロイセンでシュタインとクラウゼヴィッツが防衛軍の組織化のための作業を開始しており、2月6日にはクラウゼヴィッツが作成した布告がシュタインとシャルンホルストの同意によって予備兵2万名が召集された。これはマクドナルド元帥がフランス軍4万名を保持してダンツィヒに存在する緊張状態の中で迅速に進められた。そして3月17日にプロイセン国王はフランスに対して宣戦布告を行い、ナポレオンの支配に対する諸国民解放戦争が勃発した。ヨルク中将は同日のうちにプロイセン固有の軍隊としてベルリン入場を果たし、再軍備の準備が進められていた。しかしクラウゼヴィッツはプロイセン軍に復帰することがなかなかできず、国王に自ら請願しているが、3月19日に却下された。そのためにシャルンホルストはロシア軍からの連絡将校としてプロイセン軍に勤務させる配慮を行い、ブリュッヘル軍に所属した。5月2日にシャルンホルストとともにグロースゲルシェンの戦いに参加し、フランス軍は兵力不足と損害の大きさ、そしてオーストリアの参戦を危惧して6月4日から8月16日までに休戦が締結された。シャルンホルストはこの戦いで銃創を脚に負ったが、無理を押して休戦中にオーストリアに参戦交渉に向かい、傷が悪化したためにプラハで6月28日に死去した。クラウゼヴィッツはグナイゼナウと共に追悼している。1813年の秋季戦役によってフランス軍は敗北し、1814年にはプロイセン国王はようやくクラウゼヴィッツをプロイセン軍の大佐に任命して復帰を許した。
復帰してからはクラウゼヴィッツは第3軍団参謀長を命じられたが、しばらくは大規模な戦闘はなかった。しかしナポレオンがエルバ島を脱出してフランスの政権を掌握したことから同盟国は再びフランスとの戦争に乗り出し、クラウゼヴィッツが所属する第3軍団も出撃した。1815年6月16日にプロイセンのブリュッヘル軍はリニーで敗北したがワーテルローの戦いでの勝利に寄与した。その作戦の指揮をとったグナイゼナウは戦後に戦略的な要所であるコブレンツに赴任し、そこでクラウゼヴィッツを参謀長として抜擢した。ここには軍制改革を推進した将校たちが集められ、シャルンホルストの息子も参謀として勤務している。ここでは夫人も呼び寄せられて生活しており、クラウゼヴィッツは夫人を随伴する参謀旅行の計画を策定している。しかしグナイゼナウは長期間にわたる疲労により健康状態が悪化していたことから退官願を提出して国王は無期限の休暇を与えた。グナイゼナウは1816年7月にコブレンツを離れ、シャルンホルストの軍制改革に反対していたフォン・ハーケ中将が赴任してきた。そこでクラウゼヴィッツは不満が多い勤務生活を送る傍らで、『戦争論』の作成に取り掛かり始めている。
1818年に少将に昇進して陸軍大学校校長として勤務することになった。しかしクラウゼヴィッツが改革派であったことから配慮して陸軍当局はクラウゼヴィッツの権限を学問的指導ではなく規律の維持に制約していたために、クラウゼヴィッツに与えられた権限も限られたものであった。この時期の彼の交際範囲は限られており、グナイゼナウが時折クラウゼヴィッツを訪問しているか、またベルンシュトルフ外務大臣の自宅を訪問している程度であった。クラウゼヴィッツはフランス語と英語を習得していたために、1821年にイギリスのロンドン勤務を希望したが、イギリス公使と国王によって申し出は拒否された。その後の7年間はマリーとともに軍事学の研究に専念することになった。マリーはこの研究に協力し、シレジア要塞についてクラウゼヴィッツに随伴して作業を手伝った。マリーは分かれて生活している間に交わした書簡を通じて、軍事問題に関する知識を習得し、クラウゼヴィッツの見解を時には批判し、またクラウゼヴィッツの発表物の全てを清書している。
1830年3月25日にクラウゼヴィッツは50歳になったことを契機に、再び活発な部隊勤務を希望して部隊転出を請願した。その際には12年間かけて作成した『戦争論』前8篇のうち6篇が書き上げられ、残りは草案として骨子がまとめられていた。校長を辞任するとともに、ブレスラウ管区の第2砲兵監に任命され、10月にはマリーを呼び寄せたが、すぐに7月革命に影響されたポーランドで暴動が発生する。そして東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長として、第1軍団、第2軍団、第5軍団、第6軍団、の指揮統制を補佐することになった。この戦いでは、繰り返される暴動を完全に鎮圧することが困難であったことから、作戦が長引くことになった。翌1831年に蔓延したコレラにより8月にグナイゼナウが感染し、専門医による処置が行われたが病没した。ポーランドの紛争が沈静化し、1831年11月7日にクラウゼヴィッツは再び第二砲兵監としてブレスラウに帰還して記録の整理を行った。クラウゼヴィッツは11月16日の昼食までは普段どおりに職務をこなしていたが、その午後になると嘔吐や痙攣などの症状があらわれ、背骨の激痛や胸部の痙攣を示しながら自宅で急死した。マリー夫人によるクラウゼヴィッツの臨終記録の中では、発作的な神経性のショックによる心臓麻痺が原因であるとされている。
クラウゼヴィッツ死に際し、ブレスラウの駐屯地で簡単な葬送行進が行われた。残されたマリー夫人はクラウゼヴィッツ没後に遺稿をまとめる作業を開始する。1832年には、それらの遺稿は『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍の遺稿』として出版され、『戦争論』は現在は、その1巻から3巻までの収録である。夫人が刊行の辞を書いており、この著作が不完全な状態にあることを、クラウゼヴィッツが問題視していたことについて述べている。そこには、友人のグラーベンやオエッツェルの手伝いによって出版ができた、ことについての感謝も述べられている。マリー夫人が死去する1836年までに7巻までが出版され、残りは翌年に協力者たちによって発表された。この遺稿集では『戦争論』だけでなく、戦史についての記述や政治論集なども含まれている。
クラウゼヴィッツの軍事思想の画期性は、戦争の二重構造を明らかにしたことに求めることができる。クラウゼヴィッツは戦争を研究する上で、当時ドイツで研究されていた観念論の哲学や弁証法の方法論に影響を受けていたことが指摘されている。戦争の概念がクラウゼヴィッツにより二種類に分かれていることは、当時のこの時代精神の文脈から理解することができる。まず戦争とは拡大された決闘であり、そこには暴力に基づいた相互作用が働いていると考える。この相互作用はエスカレーションをもたらすものであり、戦争における暴力の極大使用の原因ともされている。この暴力の相互作用は限界がないために、この法則に支配される戦争は、最終的には完全に敵を打倒する絶対的戦争に至るものとされている。しかし、このような絶対的戦争は現実の戦史には見られない戦争である。なぜならば、戦争における暴力の相互作用は政治的、社会的、経済的、地理的な要因によって抑制されるためである。特にクラウゼヴィッツは戦争が政治に対して従属的な性質を持っていることを指摘しており、殲滅戦争から単なる武装監視にいたるまで、あらゆる戦争の形態を政治は規定する、ことを論じている。これを定式化してクラウゼヴィッツは「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」だと述べている。
また、クラウゼヴィッツが、戦争の傾向を規定している要因について、三つの要因を挙げながら分析している。第一に、敵意や憎悪の情念を伴う暴力という要素であり、この要因が強ければ戦争の激しさが増大すると考えられる。第二に、不確実性や蓋然性を伴う賭けの要素であり、これは戦争において自由度を伴う精神活動であり戦果に反映される。そして第三の要素は、政治のための手段という従属的性質である。これら三つの要素は、それぞれ国内における社会的な行為主体に割り当てて考えることが可能であり、第一の要素は国民に、第二の要素は軍隊に、第三の要素は政府に関連している。この要素は三位一体として戦争に作用し、敵対行為の準備、戦闘の開始、講和の締結、戦後の展開までに作用する。これら相互の関係について、精神的活力を生み出すのが国民であり、政府はこの国民の意志を合理的な政策へと組織し、軍隊はその政策を実施する主体となるものと捉えられている。
クラウゼヴィッツは、さらに軍事行動における不確実性や過失の存在が戦争を複雑にしていることを指摘し、また指揮官の決心が部隊の作戦行動に与える影響を分析する。前者に指摘したものが摩擦であり、後者が天才または軍事的天才と呼ばれる概念である。摩擦とは、現実の戦争と机上の戦争の相違に認められる事象であり、現実の軍事行動に随伴する偶発的、予測不能な障害を指している。摩擦を克服する能力として天才の概念が考えられる。指揮官に必要な組織について分析を行っており、それを解釈するために天才という概念を適用する。危険や苦労、不確実性が支配する戦争の中で適切な軍事行動を指導するためには天才が不可欠であり、これはほとんどが精神的要素で構成されている。クラウゼヴィッツは、ナポレオンやフリードリヒ大王の戦史を研究することで、全く同等の軍事的条件が与えられても結果が異なることがありうると論じている。
クラウゼヴィッツの著述活動は、軍務のかたわらに断続的に続けられた。彼の軍事思想が表現された初期の著述は、1812年に当時軍事学を教授していたプロイセンの皇太子に送った書簡である。その後にナポレオン戦史に関する著作や戦略学の研究が書かれており、『戦争論』はそうしたクラウゼヴィッツの研究業績が総合されたものである。
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"text": "クラウゼヴィッツが影響を受けた人物にはフリードリヒ2世、ナポレオン・ボナパルト、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストなどがいる。また、クラウゼヴィッツの影響を受けた人物にはヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケやコルマール・フォン・デア・ゴルツ、アルフレート・フォン・シュリーフェン、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルなどのドイツ軍の研究者や、エンゲルスなどの革命戦略家、そして海軍戦略家のジュリアン・コーベットや電撃戦の理論家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなど、研究者に幅広い影響を与えている。",
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"tag": "p",
"text": "クラウゼヴィッツはバーレン将軍の下で3週間ほど参謀勤務につき、第1騎兵軍団長ウヴァロフ将軍の参謀次長として兵站を担当した。ロシア軍はボロジノの戦いに敗北してからモスクワに退却し、また9月14日にはモスクワを焼き捨ててカルーガへと後退した。フランス軍はこの焦土作戦により弱体化し、10月24日にモスクワでロシアからの撤退を決断した。冬の到来が例年よりも早かったことや、後方連絡線が遮断されたこともあって、フランス軍では被服や食糧が欠乏状態にあった。そのために44万名の兵力で侵攻したフランス軍は数千名にまで減っていた。ナポレオンは12月5日に指揮権をミューラー元帥にわたしてパリへと帰還した。クラウゼヴィッツがこの戦役でヴィットゲンシュタイン軍団に勤務している間にマクドナルド元帥が指揮するフランス・プロイセン連合軍とロシア軍が対陣した。12月26日にクラウゼヴィッツはプロイセン軍との戦闘を回避するためにロシア軍の軍使としてプロイセン軍のヨルク中将を訪れ、停戦交渉を行った。ヨルクを説得したことでクラウゼヴィッツはナポレオン指揮下のプロイセン軍をロシア軍は中立と見なし、プロイセンからリトアニア地域を中立地帯に設定、東プロイセンをロシア軍の占領から解放するという「タウロッゲン協定」締結に成功した。この協定はプロイセン国王に伝えられ、ヨルク中将はフランスとの同盟を破棄する機会が到来したことを進言し、国王は12月30日に協定を承認した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1813年1月にシュタインが新政府を樹立し、ケーニヒスベルクで国土防衛軍を組織していた。クラウゼヴィッツはタウロッゲン協定の仕事の後にケーニヒスベルクに戻り、一方のシャルンホルストも3月に参謀総長に返り咲いた。ケーニヒスベルクでは東プロイセンでシュタインとクラウゼヴィッツが防衛軍の組織化のための作業を開始しており、2月6日にはクラウゼヴィッツが作成した布告がシュタインとシャルンホルストの同意によって予備兵2万名が召集された。これはマクドナルド元帥がフランス軍4万名を保持してダンツィヒに存在する緊張状態の中で迅速に進められた。そして3月17日にプロイセン国王はフランスに対して宣戦布告を行い、ナポレオンの支配に対する諸国民解放戦争が勃発した。ヨルク中将は同日のうちにプロイセン固有の軍隊としてベルリン入場を果たし、再軍備の準備が進められていた。しかしクラウゼヴィッツはプロイセン軍に復帰することがなかなかできず、国王に自ら請願しているが、3月19日に却下された。そのためにシャルンホルストはロシア軍からの連絡将校としてプロイセン軍に勤務させる配慮を行い、ブリュッヘル軍に所属した。5月2日にシャルンホルストとともにグロースゲルシェンの戦いに参加し、フランス軍は兵力不足と損害の大きさ、そしてオーストリアの参戦を危惧して6月4日から8月16日までに休戦が締結された。シャルンホルストはこの戦いで銃創を脚に負ったが、無理を押して休戦中にオーストリアに参戦交渉に向かい、傷が悪化したためにプラハで6月28日に死去した。クラウゼヴィッツはグナイゼナウと共に追悼している。1813年の秋季戦役によってフランス軍は敗北し、1814年にはプロイセン国王はようやくクラウゼヴィッツをプロイセン軍の大佐に任命して復帰を許した。",
"title": "生涯"
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"text": "復帰してからはクラウゼヴィッツは第3軍団参謀長を命じられたが、しばらくは大規模な戦闘はなかった。しかしナポレオンがエルバ島を脱出してフランスの政権を掌握したことから同盟国は再びフランスとの戦争に乗り出し、クラウゼヴィッツが所属する第3軍団も出撃した。1815年6月16日にプロイセンのブリュッヘル軍はリニーで敗北したがワーテルローの戦いでの勝利に寄与した。その作戦の指揮をとったグナイゼナウは戦後に戦略的な要所であるコブレンツに赴任し、そこでクラウゼヴィッツを参謀長として抜擢した。ここには軍制改革を推進した将校たちが集められ、シャルンホルストの息子も参謀として勤務している。ここでは夫人も呼び寄せられて生活しており、クラウゼヴィッツは夫人を随伴する参謀旅行の計画を策定している。しかしグナイゼナウは長期間にわたる疲労により健康状態が悪化していたことから退官願を提出して国王は無期限の休暇を与えた。グナイゼナウは1816年7月にコブレンツを離れ、シャルンホルストの軍制改革に反対していたフォン・ハーケ中将が赴任してきた。そこでクラウゼヴィッツは不満が多い勤務生活を送る傍らで、『戦争論』の作成に取り掛かり始めている。",
"title": "生涯"
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"text": "1818年に少将に昇進して陸軍大学校校長として勤務することになった。しかしクラウゼヴィッツが改革派であったことから配慮して陸軍当局はクラウゼヴィッツの権限を学問的指導ではなく規律の維持に制約していたために、クラウゼヴィッツに与えられた権限も限られたものであった。この時期の彼の交際範囲は限られており、グナイゼナウが時折クラウゼヴィッツを訪問しているか、またベルンシュトルフ外務大臣の自宅を訪問している程度であった。クラウゼヴィッツはフランス語と英語を習得していたために、1821年にイギリスのロンドン勤務を希望したが、イギリス公使と国王によって申し出は拒否された。その後の7年間はマリーとともに軍事学の研究に専念することになった。マリーはこの研究に協力し、シレジア要塞についてクラウゼヴィッツに随伴して作業を手伝った。マリーは分かれて生活している間に交わした書簡を通じて、軍事問題に関する知識を習得し、クラウゼヴィッツの見解を時には批判し、またクラウゼヴィッツの発表物の全てを清書している。",
"title": "生涯"
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"text": "1830年3月25日にクラウゼヴィッツは50歳になったことを契機に、再び活発な部隊勤務を希望して部隊転出を請願した。その際には12年間かけて作成した『戦争論』前8篇のうち6篇が書き上げられ、残りは草案として骨子がまとめられていた。校長を辞任するとともに、ブレスラウ管区の第2砲兵監に任命され、10月にはマリーを呼び寄せたが、すぐに7月革命に影響されたポーランドで暴動が発生する。そして東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長として、第1軍団、第2軍団、第5軍団、第6軍団、の指揮統制を補佐することになった。この戦いでは、繰り返される暴動を完全に鎮圧することが困難であったことから、作戦が長引くことになった。翌1831年に蔓延したコレラにより8月にグナイゼナウが感染し、専門医による処置が行われたが病没した。ポーランドの紛争が沈静化し、1831年11月7日にクラウゼヴィッツは再び第二砲兵監としてブレスラウに帰還して記録の整理を行った。クラウゼヴィッツは11月16日の昼食までは普段どおりに職務をこなしていたが、その午後になると嘔吐や痙攣などの症状があらわれ、背骨の激痛や胸部の痙攣を示しながら自宅で急死した。マリー夫人によるクラウゼヴィッツの臨終記録の中では、発作的な神経性のショックによる心臓麻痺が原因であるとされている。",
"title": "生涯"
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"text": "クラウゼヴィッツ死に際し、ブレスラウの駐屯地で簡単な葬送行進が行われた。残されたマリー夫人はクラウゼヴィッツ没後に遺稿をまとめる作業を開始する。1832年には、それらの遺稿は『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍の遺稿』として出版され、『戦争論』は現在は、その1巻から3巻までの収録である。夫人が刊行の辞を書いており、この著作が不完全な状態にあることを、クラウゼヴィッツが問題視していたことについて述べている。そこには、友人のグラーベンやオエッツェルの手伝いによって出版ができた、ことについての感謝も述べられている。マリー夫人が死去する1836年までに7巻までが出版され、残りは翌年に協力者たちによって発表された。この遺稿集では『戦争論』だけでなく、戦史についての記述や政治論集なども含まれている。",
"title": "生涯"
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"text": "クラウゼヴィッツの軍事思想の画期性は、戦争の二重構造を明らかにしたことに求めることができる。クラウゼヴィッツは戦争を研究する上で、当時ドイツで研究されていた観念論の哲学や弁証法の方法論に影響を受けていたことが指摘されている。戦争の概念がクラウゼヴィッツにより二種類に分かれていることは、当時のこの時代精神の文脈から理解することができる。まず戦争とは拡大された決闘であり、そこには暴力に基づいた相互作用が働いていると考える。この相互作用はエスカレーションをもたらすものであり、戦争における暴力の極大使用の原因ともされている。この暴力の相互作用は限界がないために、この法則に支配される戦争は、最終的には完全に敵を打倒する絶対的戦争に至るものとされている。しかし、このような絶対的戦争は現実の戦史には見られない戦争である。なぜならば、戦争における暴力の相互作用は政治的、社会的、経済的、地理的な要因によって抑制されるためである。特にクラウゼヴィッツは戦争が政治に対して従属的な性質を持っていることを指摘しており、殲滅戦争から単なる武装監視にいたるまで、あらゆる戦争の形態を政治は規定する、ことを論じている。これを定式化してクラウゼヴィッツは「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」だと述べている。",
"title": "軍事思想"
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"text": "また、クラウゼヴィッツが、戦争の傾向を規定している要因について、三つの要因を挙げながら分析している。第一に、敵意や憎悪の情念を伴う暴力という要素であり、この要因が強ければ戦争の激しさが増大すると考えられる。第二に、不確実性や蓋然性を伴う賭けの要素であり、これは戦争において自由度を伴う精神活動であり戦果に反映される。そして第三の要素は、政治のための手段という従属的性質である。これら三つの要素は、それぞれ国内における社会的な行為主体に割り当てて考えることが可能であり、第一の要素は国民に、第二の要素は軍隊に、第三の要素は政府に関連している。この要素は三位一体として戦争に作用し、敵対行為の準備、戦闘の開始、講和の締結、戦後の展開までに作用する。これら相互の関係について、精神的活力を生み出すのが国民であり、政府はこの国民の意志を合理的な政策へと組織し、軍隊はその政策を実施する主体となるものと捉えられている。",
"title": "軍事思想"
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"text": "クラウゼヴィッツは、さらに軍事行動における不確実性や過失の存在が戦争を複雑にしていることを指摘し、また指揮官の決心が部隊の作戦行動に与える影響を分析する。前者に指摘したものが摩擦であり、後者が天才または軍事的天才と呼ばれる概念である。摩擦とは、現実の戦争と机上の戦争の相違に認められる事象であり、現実の軍事行動に随伴する偶発的、予測不能な障害を指している。摩擦を克服する能力として天才の概念が考えられる。指揮官に必要な組織について分析を行っており、それを解釈するために天才という概念を適用する。危険や苦労、不確実性が支配する戦争の中で適切な軍事行動を指導するためには天才が不可欠であり、これはほとんどが精神的要素で構成されている。クラウゼヴィッツは、ナポレオンやフリードリヒ大王の戦史を研究することで、全く同等の軍事的条件が与えられても結果が異なることがありうると論じている。",
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"text": "クラウゼヴィッツの著述活動は、軍務のかたわらに断続的に続けられた。彼の軍事思想が表現された初期の著述は、1812年に当時軍事学を教授していたプロイセンの皇太子に送った書簡である。その後にナポレオン戦史に関する著作や戦略学の研究が書かれており、『戦争論』はそうしたクラウゼヴィッツの研究業績が総合されたものである。",
"title": "著作"
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カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツは、プロイセン王国の陸軍軍人、軍事学者。最終階級は陸軍少将。クラウゼビッツとも表記。 ナポレオン戦争にプロイセン陸軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。特記すべき業績としては絶対的戦争、政治的交渉の延長としての戦争概念、摩擦、戦場の霧、重心、軍事的天才、防御の優位性、攻勢極限点、勝敗分岐点などがある。 クラウゼヴィッツが影響を受けた人物にはフリードリヒ2世、ナポレオン・ボナパルト、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストなどがいる。また、クラウゼヴィッツの影響を受けた人物にはヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケやコルマール・フォン・デア・ゴルツ、アルフレート・フォン・シュリーフェン、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルなどのドイツ軍の研究者や、エンゲルスなどの革命戦略家、そして海軍戦略家のジュリアン・コーベットや電撃戦の理論家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなど、研究者に幅広い影響を与えている。
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{{脚注の不足|date=2018年11月}}
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = カール・フォン・クラウゼヴィッツ
| 各国語表記 = Carl von Clausewitz
| 生年月日 = [[1780年]][[6月1日]]
| 没年月日 = [[1831年]][[11月16日]] 没時51歳
| 画像 = Carl von Clausewitz.PNG
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 渾名 =
| 生誕地 = {{PRU1750}} [[ブルク_(ザクセン=アンハルト州)|ブルク]]<ref>([[:en:Burg bei Magdeburg|Burg bei Magdeburg]])</ref>
| 死没地 = {{PRU1803}} [[ブレスラウ]]
| 所属政体 =
| 所属組織 = [[image:War Ensign of Prussia (1816).svg|border|25px]] [[プロイセン陸軍]]<br/>{{RUS1883}}[[ロシア帝国陸軍|陸軍]]
| 軍歴 = 1792年 - 1831年
| 最終階級 = [[少将]]
| 指揮 = 陸軍大学校校長
| 部隊 =
| 戦闘 = [[マインツ包囲]]<br/>[[ナポレオン戦争]]<br/>[[諸国民解放戦争]]
| 戦功 =
| 賞罰 =
| 除隊後 =
| 廟 =
}}
'''カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ'''({{lang-de-short|Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz (Claußwitz)}}、[[1780年]][[7月1日]]<ref>本人は誕生日を1780年[[6月1日]]と信じていたが、教区の登記簿によれば7月1日となっていた。</ref> - [[1831年]][[11月16日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Carl-von-Clausewitz Carl von Clausewitz Prussian general] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[プロイセン王国]]の[[陸軍軍人]]、[[軍事学者]]。最終階級は[[陸軍少将]]。'''クラウゼビッツ'''とも表記<ref>デジタル大辞泉 [[小学館]]、大辞林 第三版 [[三省堂]]</ref>。
[[ナポレオン戦争]]に[[プロイセン陸軍]]の将校として参加しており、[[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト|シャルンホルスト]]将軍および[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後[[1832年]]に発表された『'''[[戦争論]]'''』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。特記すべき業績としては[[絶対的戦争]]、政治的交渉の延長としての[[戦争]]概念、[[摩擦 (クラウゼヴィッツ)|摩擦]]、[[戦場の霧]]、[[重心 (軍事)|重心]]、[[軍事的リーダーシップ|軍事的天才]]、[[防御 (軍事)|防御]]の優位性、[[攻撃の限界点|攻勢極限点]]、[[勝利の限界点|勝敗分岐点]]などがある。
クラウゼヴィッツが影響を受けた人物には[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]、[[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト]]などがいる。また、クラウゼヴィッツの影響を受けた人物には[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ]]や[[コルマール・フォン・デア・ゴルツ]]、[[アルフレート・フォン・シュリーフェン]]、[[クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル]]などのドイツ軍の研究者や、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]などの革命戦略家、そして海軍戦略家の[[ジュリアン・コーベット]]や電撃戦の理論家[[ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー]]など、研究者に幅広い影響を与えている。
== 生涯 ==
===少年時代===
1780年にプロイセン王国の[[マクデブルク]]市の東北20キロ先にあるブルク町で生まれる。クラウゼヴィッツ家は[[ポーランド人|ポーランド系]][[ドイツ人]]で、父親フリードリヒ・ガブリエル・クラウゼヴィッツは、彼が生まれた時には徴税官であった。ガブリエルは[[七年戦争]]の末期に少尉として従軍し、戦後の1763年に中尉に昇進し、退役してからブルクの徴税官となった。母イェリアンと4人の息子と2人の娘を儲けており、カール・クラウゼヴィッツは一番下の弟であった。ガブリエルに影響があった陸軍のフォン・フント少佐の取り計らいもあって、4人の息子の3人は将校とされており、クラウゼヴィッツは[[1792年]]に12歳で[[ポツダム]]のフェルディナント王子歩兵連隊に[[ユンカー]]として入隊した。[[第一次対仏大同盟|第一次対仏同盟]]戦争でフェルディナント王子連隊は[[1794年]]3月に[[ラインラント]]におけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。その行軍の途上でクラウゼヴィッツは旗手を務めている。戦闘は4月1日に開始され、砲兵が配置につく6月18日まで続き、7月23日にフランス軍が降伏する2日前に将校相当の准士官に昇進した。
===士官学校===
クラウゼヴィッツは少尉に任官した15歳からの6年間を[[ノイルピーン]]で過ごす。当時の連隊長の考課表によれば、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。そこで連隊長は[[1801年]]にクラウゼヴィッツを[[ベルリン]]の士官学校に送った。そこで後に「父でもあり、心の友であった」と評する[[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト|シャルンホルスト]]中佐のもとで[[軍事学]]を学ぶ機会を得ただけでなく、シャルンホルストが非公式に設置した軍事学会に入会することができた。この学会は論文の審査によって入会が許され、時事的な軍事問題の解決や国防意識の発揚のための学術的な研究団体として組織された。クラウゼヴィッツはこの学会で学術研究の様式を習得し、数学、論理学、地理学、歴史学、文学の一般教養と軍事学の専門知識を深め、1803年に学校を首席で卒業した。卒業後はシャルンホルストの推薦もあって軍事学会の会員でもあったアウグスト王子が指揮する近衛大隊に副官として勤務することになった。クラウゼヴィッツは半年間の試験採用期間を経て正式に副官となってからは宮廷社会に入るようになる。この時期にクラウゼヴィッツは[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の文学に親しみ、[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキアヴェリ]]や[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]の著作を読み、[[イマヌエル・カント|カント]]哲学の講義にも出席している。後に詳述するマリー・フォン・ブリュールと知り合ったのもこの頃で、1805年に婚約している。
===アウエルシュタットの戦いでの敗北===
[[1806年]]10月14日にプロイセン軍は、[[ナポレオン戦争]]の一つ[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イエナの戦いとアウエルシュタットの戦い]]で、フランス軍に壊滅的な打撃を受ける。クラウゼヴィッツの大隊もこの戦闘に参加しており、アウエルシュタットでホーエンローエ軍の退却に巻き込まれて退却を行った。[[フリードリヒ・ルートヴィヒ (ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯)|ホーエンローエ公]]は4万の兵力を保持していたもののフランス軍の追跡により包囲され、解囲を試みずに降伏した。しかしクラウゼヴィッツが所属していた近衛大隊だけは降伏を拒否して[[バルト海]]沿岸を志向して解囲を試みている。両軍の騎兵部隊が交戦していたブレンツラウの町を避けながら北進中、町近郊のウッカー河でフランス軍の騎兵部隊と接触し、防御戦闘を繰り返しながら河岸の湿地帯を移動したが、沼地によって部隊が完全に行動不能になったため、ここで指揮官アウグストは降伏した。1806年12月にアウグストとともにクラウゼヴィッツはフランス北東部の[[ナンシー]]に捕虜として抑留されたが、それほど厳しい抑留ではなかったために[[フランス語]]の学習と[[パリ]]の見学、また著述活動を行うことができた。
===フランス占領下===
[[1807年]]に締結された[[ティルジット講和条約]]の捕虜交換によりクラウゼヴィッツは7月30日に釈放される。スイスを経由してフランス軍の占領下にあったベルリンに帰還した。そこでシャルンホルストの招きによりクラウゼヴィッツはアウグストとともにベルリンを離れて[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]に移った。そこでは政治改革を主張するシュタイン男爵、教育改革の草案を作成する[[アレクサンダー・フォン・フンボルト|フンボルト]]、そして軍制改革を主導するシャルンホルストなどが集まっていた。特にシャルンホルストは反仏感情を抱く将校や官僚、学者を主導し占領軍への国民的な反撃を準備しつつあり、彼らの一部はプロイセンから離れてスペインやオーストリアでフランス軍と戦っていた。1809年になるとスペインのゲリラ戦にフランス軍が手間取っているうちにオーストリアがフランスに宣戦布告し、[[チロル]]地方の農民がフランス軍に対して武装蜂起した。しかしプロイセン国王はフランスとの戦争には時期が早すぎると判断してフランスとの関係においても慎重な立場をとっていた。このような情勢においてクラウゼヴィッツはアウグストの副官から[[1809年]]にベルリンの陸軍省へと移る。
===軍制改革の推進===
ベルリンではプロイセン改革として行政改革や教育改革などが進められており、軍制改革としては愛国的な国民軍の創設が準備されつつあった。軍隊における貴族的な特権の廃止、指揮官を育成するための陸軍大学校の準備などが進められシャルンホルストによって改革は計画されていた。シャルンホルストは19冊からなる軍制改革案を作成しており、人事、部隊編制、兵役義務、装備、訓練、戦闘教義、将校教育、整備、国土防衛、要塞建設などの幅広い領域にわたって改革を進めた。そして1808年から1812年の間にプロイセン軍の「基幹部隊」を育成することを開始し、各地域から毎月5名の新兵を受け入れて3ヶ月の訓練の後に帰郷させる制度を作り上げた。このことで軍事知識を普及させ、軍隊と国民の相互理解を深めるだけでなく、フランスが条約上で禁止した予備兵力を実質的に確保することが可能となった。クラウゼヴィッツはシャルンホルストがフランス占領軍に目をつけられて陸軍省を離れるまでこの軍制改革の推進のために働いており、1810年10月に新設された[[陸軍大学校 (ドイツ)|陸軍大学校]]の教官に任命されているだけでなく、プロイセン皇太子に軍事学の教官として指導にあたっている。この講義は『[[皇太子殿下御進講録]]』として残っている。
===結婚===
そして[[1810年]]12月17日に[[1805年]]に婚約していた伯爵令嬢マリー・フォン・ブリュール(Marie von Brühl)と国王の許可を得てベルリンの聖マリア教会で結婚式を挙げた。当時マリーは家柄もよく、女官長として勤めていたことから、宮廷グループの一部から貴族の称号も財産もないクラウゼヴィッツと結婚することには反発があった。しかしルイーゼ王妃の理解と支援によって結婚式を挙げることができた。夕食会も祝辞もなく、立会人や出席者の名簿も残っていない。二人はいくつかの親戚訪問を済ませた後にギーヴィッツに新婚旅行を楽しみ、年末にはベルリンの新居に引越しを済ませた。二人は子供はできなかったが、生涯を通じて良好な夫婦関係を保っており、マリーは[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の作品をクラウゼヴィッツに奨め、可能な限りの教育を受けるように計らい、クラウゼヴィッツ没後には残した遺稿を編纂している。
===ロシアでの従軍===
[[1812年]]2月24日にプロイセンがフランスと軍事同盟を締結した時にクラウゼヴィッツは自らの政治的見解を著作にまとめて公表に踏み切ろうとしたがグナイゼナウの反対から断念した。この著作は国民としての品位と自由を守るために戦わなければならず、プロイセンの存続のためにフランスとの同盟はありえないことを呼びかけたものであった。1812年3月31日にクラウゼヴィッツはベルリンを離れ、フランクフルトの兄弟に挨拶をしてからロシアへ向かった。4月18日に辞職願も認可され、馬車の購入費などの旅行費用もマリーが援助し、[[ブレスラウ]]からケーニヒスベルクと[[タウラゲ|タウロッゲン]]を経由して6月6日にロシア防衛軍司令部が置かれていた[[ヴィルナ]]に到着した。シャルンホルストの推薦状と既にロシア軍で戦っていたグナイゼナウ大佐やロシア皇帝の武官ヴォルツォーゲン中佐の配慮により、ロシア軍中佐に任命された。当時の戦況はフランス軍に有利であったが、1812年2月にシャルンホルストは皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]に特使を派遣して軍事戦略に関する助言を行った。それはロシアの広大な領土の奥地に戦場を移すことでフランス軍を弱体化させる戦略を提言するものであった。
===タウロッゲン協定の交渉===
クラウゼヴィッツはバーレン将軍の下で3週間ほど参謀勤務につき、第1騎兵軍団長ウヴァロフ将軍の参謀次長として兵站を担当した。ロシア軍は[[ボロジノの戦い]]に敗北してから[[モスクワ]]に退却し、また9月14日にはモスクワを焼き捨てて[[カルーガ]]へと後退した。フランス軍はこの焦土作戦により弱体化し、10月24日にモスクワでロシアからの撤退を決断した。冬の到来が例年よりも早かったことや、[[後方連絡線]]が遮断されたこともあって、フランス軍では被服や食糧が欠乏状態にあった。そのために44万名の兵力で侵攻したフランス軍は数千名にまで減っていた。ナポレオンは12月5日に指揮権を[[ジョアシャン・ミュラ|ミューラー]]元帥にわたしてパリへと帰還した。クラウゼヴィッツがこの戦役でヴィットゲンシュタイン軍団に勤務している間に[[ジャック・マクドナル|マクドナルド]]元帥が指揮するフランス・プロイセン連合軍とロシア軍が対陣した。12月26日にクラウゼヴィッツはプロイセン軍との戦闘を回避するためにロシア軍の軍使としてプロイセン軍の[[ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク|ヨルク]]中将を訪れ、停戦交渉を行った。ヨルクを説得したことでクラウゼヴィッツはナポレオン指揮下のプロイセン軍をロシア軍は中立と見なし、プロイセンからリトアニア地域を中立地帯に設定、[[東プロイセン]]をロシア軍の占領から解放するという「タウロッゲン協定」締結に成功した。この協定はプロイセン国王に伝えられ、ヨルク中将はフランスとの同盟を破棄する機会が到来したことを進言し、国王は12月30日に協定を承認した。
===秋季攻勢===
[[1813年]]1月にシュタインが新政府を樹立し、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]で国土防衛軍を組織していた。クラウゼヴィッツはタウロッゲン協定の仕事の後にケーニヒスベルクに戻り、一方のシャルンホルストも3月に参謀総長に返り咲いた。ケーニヒスベルクでは東プロイセンでシュタインとクラウゼヴィッツが防衛軍の組織化のための作業を開始しており、2月6日にはクラウゼヴィッツが作成した布告がシュタインとシャルンホルストの同意によって予備兵2万名が召集された。これはマクドナルド元帥がフランス軍4万名を保持してダンツィヒに存在する緊張状態の中で迅速に進められた。そして3月17日にプロイセン国王はフランスに対して宣戦布告を行い、ナポレオンの支配に対する[[諸国民解放戦争]]が勃発した。ヨルク中将は同日のうちにプロイセン固有の軍隊としてベルリン入場を果たし、再軍備の準備が進められていた。しかしクラウゼヴィッツはプロイセン軍に復帰することがなかなかできず、国王に自ら請願しているが、3月19日に却下された。そのためにシャルンホルストはロシア軍からの連絡将校としてプロイセン軍に勤務させる配慮を行い、[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]軍に所属した。5月2日にシャルンホルストとともに[[グロースゲルシェンの戦い]]に参加し、フランス軍は兵力不足と損害の大きさ、そしてオーストリアの参戦を危惧して6月4日から8月16日までに休戦が締結された。シャルンホルストはこの戦いで銃創を脚に負ったが、無理を押して休戦中にオーストリアに参戦交渉に向かい、傷が悪化したために[[プラハ]]で6月28日に死去した。クラウゼヴィッツは[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]と共に追悼している。[[ライプツィヒの戦い|1813年の秋季戦役]]によってフランス軍は敗北し、1814年にはプロイセン国王はようやくクラウゼヴィッツをプロイセン軍の大佐に任命して復帰を許した。
===プロイセン軍復帰===
復帰してからはクラウゼヴィッツは第3軍団参謀長を命じられたが、しばらくは大規模な戦闘はなかった。しかしナポレオンがエルバ島を脱出してフランスの政権を掌握したことから同盟国は再びフランスとの戦争に乗り出し、クラウゼヴィッツが所属する第3軍団も出撃した。[[1815年]]6月16日にプロイセンのブリュッヘル軍はリニーで敗北したが[[ワーテルローの戦い]]での勝利に寄与した。その作戦の指揮をとったグナイゼナウは戦後に戦略的な要所であるコブレンツに赴任し、そこでクラウゼヴィッツを参謀長として抜擢した。ここには軍制改革を推進した将校たちが集められ、シャルンホルストの息子も参謀として勤務している。ここでは夫人も呼び寄せられて生活しており、クラウゼヴィッツは夫人を随伴する参謀旅行の計画を策定している。しかしグナイゼナウは長期間にわたる疲労により健康状態が悪化していたことから退官願を提出して国王は無期限の休暇を与えた。グナイゼナウは1816年7月にコブレンツを離れ、シャルンホルストの軍制改革に反対していたフォン・ハーケ中将が赴任してきた。そこでクラウゼヴィッツは不満が多い勤務生活を送る傍らで、『戦争論』の作成に取り掛かり始めている。
===『戦争論』の執筆===
[[1818年]]に少将に昇進して陸軍大学校校長として勤務することになった。しかしクラウゼヴィッツが改革派であったことから配慮して陸軍当局はクラウゼヴィッツの権限を学問的指導ではなく規律の維持に制約していたために、クラウゼヴィッツに与えられた権限も限られたものであった。この時期の彼の交際範囲は限られており、グナイゼナウが時折クラウゼヴィッツを訪問しているか、またベルンシュトルフ外務大臣の自宅を訪問している程度であった。クラウゼヴィッツはフランス語と英語を習得していたために、1821年にイギリスのロンドン勤務を希望したが、イギリス公使と国王によって申し出は拒否された。その後の7年間はマリーとともに軍事学の研究に専念することになった。マリーはこの研究に協力し、シレジア要塞についてクラウゼヴィッツに随伴して作業を手伝った。マリーは分かれて生活している間に交わした書簡を通じて、軍事問題に関する知識を習得し、クラウゼヴィッツの見解を時には批判し、またクラウゼヴィッツの発表物の全てを清書している。
===晩年===
[[1830年]]3月25日にクラウゼヴィッツは50歳になったことを契機に、再び活発な部隊勤務を希望して部隊転出を請願した。その際には12年間かけて作成した『戦争論』前8篇のうち6篇が書き上げられ、残りは草案として骨子がまとめられていた。校長を辞任するとともに、ブレスラウ管区の第2砲兵監に任命され、10月にはマリーを呼び寄せたが、すぐに[[7月革命]]に影響されたポーランドで暴動が発生する。そして東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長として、第1軍団、第2軍団、第5軍団、第6軍団、の指揮統制を補佐することになった。この戦いでは、繰り返される暴動を完全に鎮圧することが困難であったことから、作戦が長引くことになった。翌1831年に蔓延した[[コレラ]]により8月にグナイゼナウが感染し、専門医による処置が行われたが病没した。ポーランドの紛争が沈静化し、1831年11月7日にクラウゼヴィッツは再び第二砲兵監としてブレスラウに帰還して記録の整理を行った。クラウゼヴィッツは11月16日の昼食までは普段どおりに職務をこなしていたが、その午後になると嘔吐や痙攣などの症状があらわれ、背骨の激痛や胸部の痙攣を示しながら自宅で急死した。マリー夫人によるクラウゼヴィッツの臨終記録の中では、発作的な神経性のショックによる心臓麻痺が原因であるとされている。
===死後における著作発表===
クラウゼヴィッツ死に際し、ブレスラウの駐屯地で簡単な葬送行進が行われた。残されたマリー夫人はクラウゼヴィッツ没後に遺稿をまとめる作業を開始する。1832年には、それらの遺稿は『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍の遺稿』として出版され、『戦争論』は現在は、その1巻から3巻までの収録である。夫人が刊行の辞を書いており、この著作が不完全な状態にあることを、クラウゼヴィッツが問題視していたことについて述べている。そこには、友人のグラーベンやオエッツェルの手伝いによって出版ができた、ことについての感謝も述べられている。マリー夫人が死去する1836年までに7巻までが出版され、残りは翌年に協力者たちによって発表された。この遺稿集では『戦争論』だけでなく、戦史についての記述や政治論集なども含まれている。
==軍事思想==
===二種類の戦争===
クラウゼヴィッツの軍事思想の画期性は、戦争の二重構造を明らかにしたことに求めることができる。クラウゼヴィッツは戦争を研究する上で、当時ドイツで研究されていた観念論の哲学や弁証法の方法論に影響を受けていたことが指摘されている。戦争の概念がクラウゼヴィッツにより二種類に分かれていることは、当時のこの時代精神の文脈から理解することができる。まず戦争とは拡大された決闘であり、そこには暴力に基づいた相互作用が働いていると考える。この相互作用はエスカレーションをもたらすものであり、戦争における暴力の極大使用の原因ともされている。この暴力の相互作用は限界がないために、この法則に支配される戦争は、最終的には完全に敵を打倒する絶対的戦争に至るものとされている。しかし、このような絶対的戦争は現実の戦史には見られない戦争である。なぜならば、戦争における暴力の相互作用は政治的、社会的、経済的、地理的な要因によって抑制されるためである。特にクラウゼヴィッツは戦争が政治に対して従属的な性質を持っていることを指摘しており、殲滅戦争から単なる武装監視にいたるまで、あらゆる戦争の形態を政治は規定する、ことを論じている。これを定式化してクラウゼヴィッツは「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」だと述べている。
===戦争の三要素===
また、クラウゼヴィッツが、戦争の傾向を規定している要因について、三つの要因を挙げながら分析している。第一に、敵意や憎悪の情念を伴う暴力という要素であり、この要因が強ければ戦争の激しさが増大すると考えられる。第二に、不確実性や蓋然性を伴う賭けの要素であり、これは戦争において自由度を伴う精神活動であり戦果に反映される。そして第三の要素は、政治のための手段という従属的性質である。これら三つの要素は、それぞれ国内における社会的な行為主体に割り当てて考えることが可能であり、第一の要素は国民に、第二の要素は軍隊に、第三の要素は政府に関連している。この要素は三位一体として戦争に作用し、敵対行為の準備、戦闘の開始、講和の締結、戦後の展開までに作用する。これら相互の関係について、精神的活力を生み出すのが国民であり、政府はこの国民の意志を合理的な政策へと組織し、軍隊はその政策を実施する主体となるものと捉えられている。
===摩擦と天才===
クラウゼヴィッツは、さらに軍事行動における不確実性や過失の存在が戦争を複雑にしていることを指摘し、また指揮官の決心が部隊の作戦行動に与える影響を分析する。前者に指摘したものが摩擦であり、後者が天才または軍事的天才と呼ばれる概念である。摩擦とは、現実の戦争と机上の戦争の相違に認められる事象であり、現実の軍事行動に随伴する偶発的、予測不能な障害を指している。摩擦を克服する能力として天才の概念が考えられる。指揮官に必要な組織について分析を行っており、それを解釈するために天才という概念を適用する。危険や苦労、不確実性が支配する戦争の中で適切な軍事行動を指導するためには天才が不可欠であり、これはほとんどが精神的要素で構成されている。クラウゼヴィッツは、ナポレオンやフリードリヒ大王の戦史を研究することで、全く同等の軍事的条件が与えられても結果が異なることがありうると論じている。
==著作==
クラウゼヴィッツの著述活動は、軍務のかたわらに断続的に続けられた。彼の軍事思想が表現された初期の著述は、1812年に当時軍事学を教授していたプロイセンの皇太子に送った書簡である。その後にナポレオン戦史に関する著作や戦略学の研究が書かれており、『戦争論』はそうしたクラウゼヴィッツの研究業績が総合されたものである。
*1806年『1814年のフランス戦役における戦略批判』
*:攻撃、防御、作戦計画について理論的な分析を加えた上で、グナイゼナウやナポレオンの作戦を評価している。
*1812年『[[皇太子殿下御進講録]]』
*:クラウゼヴィッツによるプロイセン皇太子に対する軍事教育の内容の概要がまとめられたもの。
*1813年『1813年の戦役から休戦協定まで』
*1814年『1812年のロシア戦役』一部
*:ロシアでのクラウゼヴィッツの軍務の経験が述べられたもの。
*1816-1818年『[[戦争論]]』初稿
*1816-1818年『1814年のフランス戦役』
*:フランスでの戦役についてグナイゼナウなどから証言を得て、自説を立証したもの。
*1816-1818年『シャルンホルストの生涯』
*:軍制改革を推進したシャルンホルストの軍歴と彼の特徴について、2部構成から論述したもの。
*1819年、陸軍士官学校に関する覚書
*1819-1823年、政治論集
*1819-1827年『戦争論』1-6篇、7-8篇の下書き
*1820年初頭『フリードリヒ大王の戦役』
*:二度に渡るシュレジエン戦争の概要を述べ、会戦の勝敗の要因を指摘し、フリードリヒ大王の運用の特徴を分析したもの。
*1824年-1825年『破局を迎えたプロイセン』
*:プロイセンの昔ながらの絶対主義が存続できなくなっていることを主張したもの。
*1824年以後『1812年のロシア戦役』
*1827-1830年『戦争論』の修正
*1827-1830年『1796年のイタリア戦役』
*:ナポレオンの特性が作戦にも反映されているが、彼の回想録は自らの過失を認めていないとして批判したもの。
*1827-1830年『1799年のイタリアおよびスイス戦役』
*:オーストリア軍のカルル大公が、劣勢なフランス軍を殲滅することに失敗した理由についての分析がなされたもの。
*1827-1830年『1815年のフランス戦役』
*:ワーテルローの戦いについて戦略、作戦に関して指揮官であったナポレオンやウェリントン、グナイゼナウの判断について分析したもの。
*1831年『政治論集』
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*井門満明 『クラウゼヴィッツ「戦争論」入門』 [[原書房]]、新版2010年
*[[清水多吉]]・[[石津朋之]]編 『クラウゼヴィッツと「戦争論」』 [[彩流社]]、2008年
*戦略研究学会編 『戦略論大系2 クラウゼヴィッツ』 芙蓉書房出版、2001年
*[[加藤秀治郎]]編訳 『クラウゼヴィッツ語録 『戦争論』のエッセンス』 一藝社、2017年
**新版『「戦争論」クラウゼヴィッツ語録』[[日経BP]]社・日経ビジネス人文庫、2022年
* ティーハ・フォン・ギーツィー、ボルコ・フォン・アーティンガー、クリストファー・バスフォー編著
*:『クラウゼヴィッツの戦略思考 戦争論に学ぶリーダーシップと決断の本質』、ダイヤモンド社、2002年
*Aron, R. 1976. Penser la guerre, Clausewitz. 2 vols. Paris: Gallimard.
**[[レイモン・アロン]]、佐藤毅夫・中村五雄訳 『戦争を考える―クラウゼヴィッツと現代の戦略』、政治広報センター、1978年
*Clausewitz, C. von. 1977. The campaign of 1812 in Russia. Westport, Conn.: Grennwood Press.
**クラウゼヴィッツ、[[金森誠也]]訳 『クラウゼヴィッツのナポレオン戦争従軍記』 ビイング・ネット・プレス、2008年
***旧訳版、外山卯三郎訳 『ナポレオンのモスクワ遠征』 原書房(新版)、1982年
*Clausewitz, C. von. 1937. Strategie aus dem Jahr 1804. hamburg: Hanseatische Verlagsanstalt.
**クラウゼヴィッツ、新庄宗雅訳 『覚え書「戦略」草稿』 新庄宗雅(私家版)、1984年
*Clausewitz, C. von. 1984. On war. ed and trans. M. Howard and P. Paret. Princeton, N.J.: Princeton Univ. Press.
**クラウゼヴィッツ、[[清水多吉]]訳 『[[戦争論]]』(上下)、[[中公文庫]]、2001年
**クラウゼヴィッツ、加藤秀治郎訳『縮訳版 戦争論』日本経済新聞出版、2020年
*Dill, G., ed. 1980. Clausewitz in Perspektive. Frankfurt a.M.: Ullstein.
*Doepner, F. 1987. Die Familie des Kriegsphilosophen Carl von Clausewitz. In Der Herold, vol.23, pp. 53-68.
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**[[マイケル・ハワード (歴史学者)|マイケル・ハワード]]『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の思想』[[奥山真司 (戦略学者)|奥山真司]]監訳、勁草書房、2021年
*Niemeyer, J. 1987. Einleitung. In Scharnhorst-Briefe and Friedrich von der Decken 1803-1813, pp.7-39. Bonn: Duemmler.
*Paret, P. 1976. Clausewitz and the state. Oxford: Clarendon Press.
**[[ピーター・パレット]]、[[白須英子]]訳 『クラウゼヴィッツ 戦争論の誕生』 [[中央公論新社|中央公論社]]、1988年、[[中公文庫]]、1991年、改版2005年
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*Rothfels, H. 1980. Clausewitz, Politik und Krieg. Bonn: Duemmler.
**ハンス・ロートフェルス、新庄宗雅訳 『クラウゼヴィッツ論 政治と戦争 思想史的研究』 [[鹿島出版社]]、1982年
*Tashjean, J. 1988. Zum Kulminationsbegriff bei und nach Clausewitz. In Clausewitz, Jomini, Erxherzog Carl, ed. M. Rauchensteiner. Vienna: Oesterreichischer Bundesverlag.
*Wehler, H. U. 1987. Deutsche Gesellschaftsgeschichte. 2 vols. Munich: Beck.
== 関連項目 ==
*[[戦争]] - [[戦争哲学]] - [[絶対戦争]] - [[限定戦争|制限戦争]]
*[[戦略]] - [[戦術]]
*[[攻撃]] - [[防御]]
*[[戦場の霧]]
*[[攻撃の限界点]] - [[勝利の限界点]]
*[[文民統制]]
*[[軍事著作家一覧]]
== 外部リンク ==
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* [http://www.clausewitz.com/index.htm Clausewitz Homepage]{{en icon}}
* [http://www.securitygirl.net/clausewitz.html Securitygirl.net クラウゼヴィッツ]
* [http://www.clausewitz-jp.com/ 「日本クラウゼヴィッツ学会」(Clausewitz Society of Japan)]
* [http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Clausewitz/Clausewitz.html クラウゼヴィッツ研究 STUDIES IN CLAUSEWITZ]
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==軍事思想==
*田穰苴([[司馬穰苴]])(紀元前6世紀ごろ) - 『[[司馬法]]』の著者とされる。
*[[孫武]](紀元前5世紀ごろ) - 『[[孫子 (書物)|孫子]]』の著者。[[兵家]]の代表的人物
*[[孫臏]](紀元前4世紀ごろ) - 『[[孫臏兵法]]』の著者。孫武の子孫とされる。
*[[戚継光]] (1528 - 1587) - 対[[倭寇]]戦の経験から『紀效新書』、『錬兵実紀』を著し、中国や日本の兵学に大きな影響を与えた。
*[[趙士楨]] (1567? - ?) - [[火縄銃]]の製造法と火器を用いた戦術を研究し『神器譜』を著した。
*[[小幡景憲]] (1572 - 1663) - [[甲州流軍学|甲州流]]の兵学者。『[[甲陽軍鑑]]』の作者であると言われている
*[[北条氏長]] (1609 - 1670) - [[北条流]]兵学の祖。小幡景憲に学んだ
*[[山鹿素行]] (1622 - 1685) - [[山鹿流]]兵学の祖
*[[長沼澹斎]] (1635 - 1690) - [[長沼流]]兵学の祖
*[[片山良庵]] (1601 - 1668) - 軍学者。北条氏長に学び、北越に学統を残す。
*[[有沢永貞]]
*[[荻生徂徠]] (1666 - 1728) - 当時の兵学が非実用的であることを批判し、兵学書『鈐録』を著した。
*[[徳田邑興]] (1738 - 1678)- 火器を重視する兵学である[[合伝流]]の祖。
== 軍事理論 ==
*[[ニッコロ・マキャヴェッリ]] (Niccolò Machiavelli, 1469 - 1527) - イタリアの政治思想家。『[[君主論]]』、『[[戦術論]]』などの著者
*[[マウリッツ (オラニエ公)|ナッサウ伯マウリッツ]] (Maurits van Nassau, 1567 - 1625) - オランダ総督。自らの軍隊に徹底した訓練を行い、[[火器]]を用いた戦術を確立した
*[[アントワーヌ・アンリ・ジョミニ]] (Antoine Henri Jomini, 1779 – 1869) - フランスの軍人。『[[戦争概論]]』の著者。クラウゼヴィッツと並ぶ戦略家
*[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]] (Carl von Clausewitz, 1780 - 1831) - プロイセンの軍人。『[[戦争論]]』の著者
*[[ビゲロー]]{{要曖昧さ回避|date=2016年4月}}
*[[アルフレッド・セイヤー・マハン]] (Alfred Thayer Mahan, 1840 - 1914) - アメリカの軍人・理論家。『[[海上権力史論]]』や『[[海軍戦略]]』などの著者
*[[エルヴィン・ロンメル]]
*[[ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー]] (J.F.C. Fuller, 1878 - 1966) - イギリスの軍人。戦車戦の理論家であり、『[[制限戦争指導論]]』などの著者
*[[ハインツ・グデーリアン]] (Heinz Guderian, 1888 - 1954) - 、ドイツの軍人。電撃戦の理論家。『[[電撃戦]]』や『Achtung ! Panzer』の著者
*[[石原莞爾]](1889 - 1949)- [[満州事変]]の理論的指導者。日米戦争を予言した『[[世界最終戦論]]』を著す。
*[[毛沢東]] (1893 – 1976) - 中国の独裁者で、[[ゲリラ戦]]の理論家。『[[遊撃戦論]]』等の著者
*[[ベイジル・リデル=ハート]] (Basil Liddell Hart, 1895 - 1970) - イギリスの軍事思想家・理論家。20世紀全般で影響を及ぼした「間接アプローチ」の提唱者であり、『[[戦略論 (リデル=ハート)|戦略論]]』などの著者。
*[[ジョン・ボイド (軍人)|ジョン・ボイド]] ([[:en:John Boyd (military strategist)|John Boyd]], 1927 – 1997) - アメリカの軍人。決定サイクルの発明者
*[[チェ・ゲバラ]] (Che Guevara, 1928 – 1967) - [[アルゼンチン]]/[[キューバ]]のゲリラ指導者で、『[[ゲリラ戦争]]』の著者。
*[[カルロス・マリゲーラ]] - [[ブラジル]]の[[都市ゲリラ]]指導者。『都市ゲリラ作戦教程』の著者。
*[[山屋他人]]
==軍事史==
*[[トゥキディデス]] (Thucydides, 460 BC - 395 BC) - ギリシアの歴史家。[[ペロポネソス戦争]]を実証的な立場から著した『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』の著者
*[[クセノポン]] (Xenophon, 430 BC - 355 BC) - ギリシアの軍人・作家。トゥキディデスから引き継いで『[[ギリシア史]]』を完成
*[[ハンス・デルブリュック]] ([[:de:Hans Delbrück|Hans Delbrück]], 1848 - 1929) - ドイツの軍事史研究家であり、『[[政治史の枠組における戦争術の歴史]]』
*[[コーネリアス・ライアン]] (Cornelius Ryan, 1920 - 1974) - アメリカ人ジャーナリスト。第二次世界大戦の戦史に関する著作がある
*[[ジョン・キーガン]] ([[:en:John Keegan|John Keegan]], 1934 - ) - イギリスの軍事史家
*[[ヤヌツ・ピカルキヴィッツ]] ([[:de:Janusz Piekalkiewicz|Janusz Piekalkiewicz]],1925 - 1988) - ポーランド生まれの軍事史家。ドイツ語で著作。第二次世界大戦と諜報戦に関する著作が多い。「クルスク大戦車戦」が[[加登川幸太郎]]により、日本語版へ翻訳されている。
*[[パウル・カレル]] (Paul Carell, 1911 - 1997) - ドイツの軍人・軍事史家。「バルバロッサ作戦」の著作で有名な研究者
*[[マイケル・ハワード (歴史学者)|マイケル・ハワード]](Michael Eliot Howard, 1922 -)- イギリスの軍事史家
*[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]](1889年-1962年)日本の作家・軍事史家。「連合艦隊の最後」、「帝国陸軍の最後」などの著者。
*[[平間洋一]]
*[[戸高一成]]
*[[半藤一利]]
==回想録==
*[[ガイウス・ユリウス・カエサル]] (Gaius Julius Caesar, 100 BC – 44 BC) - 古代ローマの将軍で、『[[ガリア戦記]]』の著者
*[[プロコピオス]] (Procopius, 500 - 565) - パレスチナ出身の歴史家。[[ベリサリウス]]の配下として従軍した記録を『[[戦史 (プロコピオス)|戦史]]』に残す
*[[ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ]] (Bernal Díaz del Castillo, 1496 – 1584) - [[エルナン・コルテス]]の配下で、『メキシコ征服記』の著者
*[[ダグラス・マッカーサー]](Douglas MacArthur, 1880 - 1964) - アメリカの軍人。回想録を残す
*[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]] (Erich von Manstein, 1887 - 1973) - ドイツの元帥で、『失われた勝利』の著者
*[[ウィンストン・チャーチル]] (Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874 - 1965) - イギリスの政治家・首相。『第二次世界大戦回顧録』の著者で、ノーベル文学賞受賞者
*[[宇垣纏]]
*[[草鹿龍之介]]
*[[高木惣吉]]
*[[雨倉孝之]]
*[[原勝洋]]
== 従軍記 ==
*[[クルト・マイヤー]](Kurt Meyer, 1910 - 1961) - 第二次世界大戦のドイツの軍人、『擲弾兵;パンツー・マイヤー戦記』の著者
*[[獅子文六]]
==関連項目==
*[[軍事史]]
*[[戦記作家一覧]]
*[[軍事学者]]
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MD5
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MD5(エムディーファイブ、英: message digest algorithm 5)は、暗号学的ハッシュ関数のひとつである。ハッシュ値は128ビット。
MD4が前身であり、安全性を向上させたもの。1991年に開発された。開発者はMD4と同じくロナルド・リベスト。
d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e
のようなハッシュ値が得られる。
一般的な暗号学的ハッシュ関数と同様に使用できる。ただし、後述の脆弱性があり強度が必要な場合には使ってはいけない。
FreeBSDはインストール可能なCDイメージと、それのMD5値を同時に配布している。(MD5値の改変はないと仮定して)インストール可能なCDイメージが、途中で改変されていないことを確認してみる。
MD5、およびRIPEMDとよばれるハッシュ関数には理論的な弱点が存在することが明らかとなっている。
2004年8月、暗号の国際会議 CRYPTO (のランプセッション)にて、MD5のコリジョンを求めることができたという報告があった。理論的可能性として、MD5を用いて改竄されないことを確認する場合、あらかじめ正規のファイルと不正なファイルを用意しておき、正規のファイルを登録しておきながら、実際には同じMD5を持つ不正なファイルに摩り替える攻撃がありえることを意味する。また2007年11月、2つの全く異なる実行ファイルを元に、各々の末尾にデータブロックを付加し、その部分を変更しながら探索を行うことにより、同一のMD5を持たせることに成功したという報告があった。この攻撃方法は実証されたことになる。
アメリカ合衆国政府では、MD5ではなく、Secure Hash Algorithm (SHA)を標準のハッシュとして使用している。 日本のCRYPTRECでは、MD5を政府推奨暗号リストから外し、SHA-256 (SHA-2のバリエーション) 以上を推奨している。
MD5 のハッシュ値については、パソコンレベルでも数10分程度で、同一ハッシュ値の非ユニークなデータ列を生成できる実装が広まっている。すなわち、強衝突耐性は容易に突破されうる状態にある(SHA-0/SHA-1アルゴリズムについても、MD5ほど容易ではないが突破される脆弱性が発見されている)。
一方、任意に与えられたハッシュ値に対して、(何らかの別の)データを生成する実装が広まっているわけではない。すなわち、弱衝突耐性が容易に突破されうる訳ではない。また、任意に与えられたハッシュ値に対して、改竄者の意図どおりのデータ列を容易に生成できる訳でもない(もしそうならば、それは既に暗号ではない)。
強衝突耐性の突破とは例えば、同一のハッシュ値を持つ非ユニークな2つのデータ列D1とD2のペアを1つ発見できた、ということである。なお、この場合D1やD2が意味を持つデータであるかどうかは問われない。また、データ列D3のハッシュ値がHであったとして、この"特定の"ハッシュ値Hに対して、同一のハッシュ値を持つような他のデータ列D4を発見できたとしたら、それは弱衝突耐性を突破された事を意味する(即ち、D3とHの組み合わせで無改竄性を証明できなくなる)。
そのため、直ちにこれらのハッシュアルゴリズムを用いている暗号化通信が盗聴・改竄されたり、電子署名の有効性が無くなると言うわけではない。しかし、強衝突耐性が突破されたという事は、将来的には攻撃手法や計算能力の進化により、弱衝突耐性も突破されうるという事を暗示する。もし弱衝突耐性が突破されたとしたら、もはや暗号化通信や電子署名の無改竄性を証明できなくなり、その暗号化・署名システムは(半ば)死を意味する。
また、暗号化・署名システムのintegrity(例えば最良攻撃手法に対して十分に頑強であるという事)にハッシュ強衝突耐性の突破が困難であるという前提がもし有った場合には、そのシステムのintegrityも当然に失われる事になる。Integrityを要求されるシステムでは、その再検証が最低限必要となる。
2007年4月IPAはAPOPの脆弱性について警告した。これは電気通信大学の太田和夫(暗号理論)らが発見したもので、APOPのプロトコル上の弱点を利用して、MD5ハッシュから理論的に元のパスワードを求めることが出来るというものである。これの対策としては、SSLの利用が推奨されている。(総当たり攻撃法によるツールは既に公表されている)
2012年4月に発覚した「Flame攻撃」(Microsoft Updateに対するなりすまし攻撃)において、一部のデジタル証明書の署名アルゴリズムにMD5が使われていたことから、MD5 の衝突耐性に関する脆弱性をついて、デジタル証明書の偽造が行われたように一部媒体では報道されている。
しかし、米ソフォス (Sophos) 社の記事によると、マイクロソフトがコード署名に使用できるデジタル証明書であって、ターミナルサーバーライセンスインフラストラクチャ(中間Certificate Authenticity)上で使用できるものを、誤って発行していた事が原因とされている。また、Flameマルウェアが攻撃に使用したデジタル証明書を入手した経路、また前述の MD5 で署名された証明書をクラックして偽造したものであるか否かは明らかになっていないとしている。一方マイクロソフトは、Windows Vista以降のバージョンにおけるコード署名の検証を回避するためには攻撃者が MD5 の衝突を利用して特定の拡張フィールドを削除する必要があったとしている。
マイクロソフトは2012年6月5日に、問題となったターミナルサーバーライセンスインフラストラクチャの中間Certificate Authenticityを無効化するセキュリティアップデートを公開している。
MD5は可変長の入力を処理して、128ビット固定長の値を出力する。入力メッセージは512ビット(32ビットのワードが16個)ごとに切り分けられるが、長さが512の倍数となるようにパディングが行われる。 パディングとしてはまずメッセージの最後に1ビットの1を足して、その後には長さが512で割って448余る(つまり、512の倍数に64足りない)長さになるようにひたすら0を付け足していく。そして、残った64ビットには元のメッセージの長さ(の下位64ビット)を入れることとなる。
MD5のメイン部分のアルゴリズムは32ビット×4ワード(それぞれのワードをA、B、C、Dと表す) = 128ビットの状態を持って進行していく。初期状態では、この4ワードは決まった定数で初期化されており、 512ビットのブロックを順次使ってこの状態を変化させていくのがMD5の中核となっている。1回の処理では非線形な関数F、2を法とした加算、左へのビットローテートが行われる。 そして、16回の操作を1ラウンドとして、512ビットの入力ブロックを処理するのに4ラウンドの処理が行われる。Fには4通りの関数があり、ラウンドごとに異なるものが使われる。
⊕ , ∧ , ∨ , ¬ {\displaystyle \oplus ,\wedge ,\vee ,\neg } はそれぞれXOR、AND、OR、NOT演算を意味する。
MD5ハッシュは、以下の擬似コードで書いたアルゴリズムで算出される。値はすべてリトルエンディアンとする。
なお、RFC 1321 にある本来の式に代えて、以下のように計算するほうが効率的な場合がある(高級言語で書いている場合、コンパイラの最適化に任せるほうがよい。 NANDとANDが並行して計算できる環境であれば、並列演算のできない以下の式に比べて、元のままのほうが速いことも多々ある)。
MD5をサポートしているライブラリは以下の通り。
|
[
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"text": "MD5(エムディーファイブ、英: message digest algorithm 5)は、暗号学的ハッシュ関数のひとつである。ハッシュ値は128ビット。",
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"text": "FreeBSDはインストール可能なCDイメージと、それのMD5値を同時に配布している。(MD5値の改変はないと仮定して)インストール可能なCDイメージが、途中で改変されていないことを確認してみる。",
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"text": "MD5、およびRIPEMDとよばれるハッシュ関数には理論的な弱点が存在することが明らかとなっている。",
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"text": "2004年8月、暗号の国際会議 CRYPTO (のランプセッション)にて、MD5のコリジョンを求めることができたという報告があった。理論的可能性として、MD5を用いて改竄されないことを確認する場合、あらかじめ正規のファイルと不正なファイルを用意しておき、正規のファイルを登録しておきながら、実際には同じMD5を持つ不正なファイルに摩り替える攻撃がありえることを意味する。また2007年11月、2つの全く異なる実行ファイルを元に、各々の末尾にデータブロックを付加し、その部分を変更しながら探索を行うことにより、同一のMD5を持たせることに成功したという報告があった。この攻撃方法は実証されたことになる。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国政府では、MD5ではなく、Secure Hash Algorithm (SHA)を標準のハッシュとして使用している。 日本のCRYPTRECでは、MD5を政府推奨暗号リストから外し、SHA-256 (SHA-2のバリエーション) 以上を推奨している。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "MD5 のハッシュ値については、パソコンレベルでも数10分程度で、同一ハッシュ値の非ユニークなデータ列を生成できる実装が広まっている。すなわち、強衝突耐性は容易に突破されうる状態にある(SHA-0/SHA-1アルゴリズムについても、MD5ほど容易ではないが突破される脆弱性が発見されている)。",
"title": "安全性"
},
{
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"text": "一方、任意に与えられたハッシュ値に対して、(何らかの別の)データを生成する実装が広まっているわけではない。すなわち、弱衝突耐性が容易に突破されうる訳ではない。また、任意に与えられたハッシュ値に対して、改竄者の意図どおりのデータ列を容易に生成できる訳でもない(もしそうならば、それは既に暗号ではない)。",
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},
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"text": "強衝突耐性の突破とは例えば、同一のハッシュ値を持つ非ユニークな2つのデータ列D1とD2のペアを1つ発見できた、ということである。なお、この場合D1やD2が意味を持つデータであるかどうかは問われない。また、データ列D3のハッシュ値がHであったとして、この\"特定の\"ハッシュ値Hに対して、同一のハッシュ値を持つような他のデータ列D4を発見できたとしたら、それは弱衝突耐性を突破された事を意味する(即ち、D3とHの組み合わせで無改竄性を証明できなくなる)。",
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},
{
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"text": "そのため、直ちにこれらのハッシュアルゴリズムを用いている暗号化通信が盗聴・改竄されたり、電子署名の有効性が無くなると言うわけではない。しかし、強衝突耐性が突破されたという事は、将来的には攻撃手法や計算能力の進化により、弱衝突耐性も突破されうるという事を暗示する。もし弱衝突耐性が突破されたとしたら、もはや暗号化通信や電子署名の無改竄性を証明できなくなり、その暗号化・署名システムは(半ば)死を意味する。",
"title": "安全性"
},
{
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"text": "また、暗号化・署名システムのintegrity(例えば最良攻撃手法に対して十分に頑強であるという事)にハッシュ強衝突耐性の突破が困難であるという前提がもし有った場合には、そのシステムのintegrityも当然に失われる事になる。Integrityを要求されるシステムでは、その再検証が最低限必要となる。",
"title": "安全性"
},
{
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"text": "2007年4月IPAはAPOPの脆弱性について警告した。これは電気通信大学の太田和夫(暗号理論)らが発見したもので、APOPのプロトコル上の弱点を利用して、MD5ハッシュから理論的に元のパスワードを求めることが出来るというものである。これの対策としては、SSLの利用が推奨されている。(総当たり攻撃法によるツールは既に公表されている)",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2012年4月に発覚した「Flame攻撃」(Microsoft Updateに対するなりすまし攻撃)において、一部のデジタル証明書の署名アルゴリズムにMD5が使われていたことから、MD5 の衝突耐性に関する脆弱性をついて、デジタル証明書の偽造が行われたように一部媒体では報道されている。",
"title": "安全性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "しかし、米ソフォス (Sophos) 社の記事によると、マイクロソフトがコード署名に使用できるデジタル証明書であって、ターミナルサーバーライセンスインフラストラクチャ(中間Certificate Authenticity)上で使用できるものを、誤って発行していた事が原因とされている。また、Flameマルウェアが攻撃に使用したデジタル証明書を入手した経路、また前述の MD5 で署名された証明書をクラックして偽造したものであるか否かは明らかになっていないとしている。一方マイクロソフトは、Windows Vista以降のバージョンにおけるコード署名の検証を回避するためには攻撃者が MD5 の衝突を利用して特定の拡張フィールドを削除する必要があったとしている。",
"title": "安全性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "マイクロソフトは2012年6月5日に、問題となったターミナルサーバーライセンスインフラストラクチャの中間Certificate Authenticityを無効化するセキュリティアップデートを公開している。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "MD5は可変長の入力を処理して、128ビット固定長の値を出力する。入力メッセージは512ビット(32ビットのワードが16個)ごとに切り分けられるが、長さが512の倍数となるようにパディングが行われる。 パディングとしてはまずメッセージの最後に1ビットの1を足して、その後には長さが512で割って448余る(つまり、512の倍数に64足りない)長さになるようにひたすら0を付け足していく。そして、残った64ビットには元のメッセージの長さ(の下位64ビット)を入れることとなる。",
"title": "アルゴリズム"
},
{
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"tag": "p",
"text": "MD5のメイン部分のアルゴリズムは32ビット×4ワード(それぞれのワードをA、B、C、Dと表す) = 128ビットの状態を持って進行していく。初期状態では、この4ワードは決まった定数で初期化されており、 512ビットのブロックを順次使ってこの状態を変化させていくのがMD5の中核となっている。1回の処理では非線形な関数F、2を法とした加算、左へのビットローテートが行われる。 そして、16回の操作を1ラウンドとして、512ビットの入力ブロックを処理するのに4ラウンドの処理が行われる。Fには4通りの関数があり、ラウンドごとに異なるものが使われる。",
"title": "アルゴリズム"
},
{
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"tag": "p",
"text": "⊕ , ∧ , ∨ , ¬ {\\displaystyle \\oplus ,\\wedge ,\\vee ,\\neg } はそれぞれXOR、AND、OR、NOT演算を意味する。",
"title": "アルゴリズム"
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{
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"tag": "p",
"text": "MD5ハッシュは、以下の擬似コードで書いたアルゴリズムで算出される。値はすべてリトルエンディアンとする。",
"title": "アルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、RFC 1321 にある本来の式に代えて、以下のように計算するほうが効率的な場合がある(高級言語で書いている場合、コンパイラの最適化に任せるほうがよい。 NANDとANDが並行して計算できる環境であれば、並列演算のできない以下の式に比べて、元のままのほうが速いことも多々ある)。",
"title": "アルゴリズム"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "MD5をサポートしているライブラリは以下の通り。",
"title": "実装ライブラリ"
}
] |
MD5は、暗号学的ハッシュ関数のひとつである。ハッシュ値は128ビット。
|
{{参照方法|date=2012年6月}}
{{Infobox Encryption method
| name = MD5
| image =
| caption =
<!-- General -->
| designers = [[ロナルド・リベスト]]
| publish date = 1992年4月
| series = [[MD2]], [[MD4]], MD5, [[MD6]]
| derived from =
| derived to =
| related to =
| certification =
<!-- Detail -->
| digest size = 128 bit
| structure = [[Merkle-Damgård construction]]
| rounds = 4 <ref>{{IETF RFC|1321}}, section 3.4, "Step 4. Process Message in 16-Word Blocks", page 5.</ref>
| cryptanalysis = 2009年にTao Xie、Dengguo Fengによって[[#ハッシュの衝突耐性について|強衝突耐性]]が破られている (2<sup>20.96</sup> time)。通常のコンピュータで数秒で可能<ref>{{Cite journal|author=Tao Xie and Dengguo Feng |date=30 May 2009 |title=How To Find Weak Input Differences For MD5 Collision Attacks |url=http://eprint.iacr.org/2009/223.pdf }}</ref>。
}}
'''MD5'''(エムディーファイブ、{{lang-en-short|message digest algorithm 5}})は、[[暗号学的ハッシュ関数]]のひとつである。ハッシュ値は128ビット。
== 概要 ==
[[MD4]]が前身であり、安全性を向上させたもの。1991年に開発された。開発者はMD4と同じく[[ロナルド・リベスト]]。
<blockquote><code>d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e</code></blockquote>
のようなハッシュ値が得られる。
== 用途 ==
一般的な[[暗号学的ハッシュ関数]]と同様に使用できる。ただし、後述の脆弱性があり強度が必要な場合には使ってはいけない。
== 実際の使用例 ==
FreeBSDはインストール可能なCDイメージと、それのMD5値を同時に配布している。(MD5値の改変はないと仮定して)インストール可能なCDイメージが、途中で改変されていないことを確認してみる。
#md5 コマンドを、イメージファイルに実行する。
#:localhost% md5 5.1-RELEASE-i386-miniinst.iso
#:MD5 (5.1-RELEASE-i386-miniinst.iso) = 646da9ae5d90e6b51b06ede01b9fed67
#CHECKSUM.MD5の中身を確認し、一致していれば破損の可能性は極めて低いことが分かる。
#:localhost% cat CHECKSUM.MD5
#:MD5 (5.1-RELEASE-i386-disc1.iso) = 3b6619cffb5f96e1acfa578badae372f
#:MD5 (5.1-RELEASE-i386-disc2.iso) = 2cfa746974210d68e96ee620bf842fb6
#:MD5 (5.1-RELEASE-i386-miniinst.iso) = 646da9ae5d90e6b51b06ede01b9fed67
== 安全性 ==
MD5、および[[RIPEMD]]とよばれるハッシュ関数には理論的な弱点が存在することが明らかとなっている<ref>[https://www.ipa.go.jp/files/000013897.pdf MD5の安全性の限界に関する調査研究報告書]</ref><ref>{{Cite journal|author=Xiaoyun Wang, Dengguo Feng, Xuejia Lai and Hongbo Yu |date=17 August 2004 |title=Collisions for Hash Functions MD4, MD5, HAVAL-128 and RIPEMD |url=https://eprint.iacr.org/2004/199.pdf }}</ref>。
2004年8月、暗号の国際会議 CRYPTO (のランプセッション)にて、MD5のコリジョンを求めることができたという報告があった。理論的可能性として、MD5を用いて改竄されないことを確認する場合、あらかじめ正規のファイルと不正なファイルを用意しておき、正規のファイルを登録しておきながら、実際には同じMD5を持つ不正なファイルに摩り替える攻撃がありえることを意味する。また2007年11月、2つの全く異なる実行ファイルを元に、各々の末尾にデータブロックを付加し、その部分を変更しながら探索を行うことにより、同一のMD5を持たせることに成功したという報告があった。この攻撃方法は実証されたことになる。
[[アメリカ合衆国政府]]では、MD5ではなく、[[Secure Hash Algorithm]] (SHA)を標準のハッシュとして使用している。
日本の[[CRYPTREC]]では、MD5を政府推奨暗号リストから外し、SHA-256 ([[SHA-2]]のバリエーション) 以上を推奨している。
=== ハッシュの衝突耐性について ===
MD5 のハッシュ値については、パソコンレベルでも数10分程度で、同一ハッシュ値の非ユニークなデータ列を生成できる実装が広まっている。すなわち、強衝突耐性は容易に突破されうる状態にある([[SHA-0]]/[[SHA-1]]アルゴリズムについても、MD5ほど容易ではないが突破される脆弱性が発見されている)。
一方、任意に与えられたハッシュ値に対して、(何らかの別の)データを生成する実装が広まっているわけではない。すなわち、弱衝突耐性が容易に突破されうる訳ではない。また、任意に与えられたハッシュ値に対して、改竄者の意図どおりのデータ列を容易に生成できる訳でもない(もしそうならば、それは既に暗号ではない)。
強衝突耐性の突破とは例えば、同一のハッシュ値を持つ非ユニークな2つのデータ列D1とD2のペアを1つ発見できた、ということである。なお、この場合D1やD2が意味を持つデータであるかどうかは問われない。また、データ列D3のハッシュ値がHであったとして、この"特定の"ハッシュ値Hに対して、同一のハッシュ値を持つような他のデータ列D4を発見できたとしたら、それは弱衝突耐性を突破された事を意味する(即ち、D3とHの組み合わせで無[[改竄|改竄性]]を証明できなくなる)。
そのため、直ちにこれらのハッシュアルゴリズムを用いている暗号化通信が盗聴・改竄されたり、電子署名の有効性が無くなると言うわけではない。しかし、強衝突耐性が突破されたという事は、将来的には攻撃手法や計算能力の進化により、弱衝突耐性も突破されうるという事を暗示する。もし弱衝突耐性が突破されたとしたら、もはや暗号化通信や電子署名の無改竄性を証明できなくなり、その暗号化・署名システムは(半ば)死を意味する。
また、暗号化・署名システムのintegrity(例えば最良攻撃手法に対して十分に頑強であるという事)にハッシュ強衝突耐性の突破が困難であるという前提がもし有った場合には、そのシステムのintegrityも当然に失われる事になる。Integrityを要求されるシステムでは、その再検証が最低限必要となる。
=== APOPの脆弱性 ===
2007年4月IPAは[[APOP]]の脆弱性について警告した<ref>[https://web.archive.org/web/20181116152750/http://www.ipa.go.jp/security/vuln/documents/2007/JVN_19445002.html IPA:APOP におけるパスワード漏えいの脆弱性]</ref>。これは[[電気通信大学]]の太田和夫([[暗号理論]])らが発見したもので<ref>[http://www.win.tue.nl/hashclash/SoftIntCodeSign/ Software Integrity Checksum and Code Signing Vulnerability]</ref>、APOPのプロトコル上の弱点を利用して、MD5ハッシュから理論的に元のパスワードを求めることが出来るというものである。これの対策としては、SSLの利用が推奨されている。(総当たり攻撃法によるツールは既に公表されている)
=== Flame攻撃に関して ===
[[2012年]]4月に発覚した「Flame攻撃」([[Microsoft Update]]に対するなりすまし攻撃)において、一部の[[デジタル証明書]]の署名アルゴリズムにMD5が使われていたことから、MD5 の衝突耐性に関する脆弱性をついて、デジタル証明書の偽造が行われたように一部媒体では報道されている<ref>[http://www.security-next.com/031519 MS、Flameによる偽造証明書発生で多重対策を実施 - 証明書のルート分離やWUなど強化]</ref>。
しかし、米[[ソフォス]] (Sophos) 社の記事によると<ref>[http://nakedsecurity.sophos.com/2012/06/04/flame-malware-used-man-in-the-middle-attack-against-windows-update/ Flame malware used man-in-the-middle attack against Windows Update]</ref>、[[マイクロソフト]]がコード署名に使用できるデジタル証明書であって、ターミナルサーバーライセンスインフラストラクチャ(中間Certificate Authenticity)上で使用できるものを、誤って発行していた事が原因とされている。また、Flameマルウェアが攻撃に使用したデジタル証明書を入手した経路、また前述の MD5 で署名された証明書をクラックして偽造したものであるか否かは明らかになっていないとしている。一方マイクロソフトは、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]以降のバージョンにおけるコード署名の検証を回避するためには攻撃者が MD5 の衝突を利用して特定の拡張フィールドを削除する必要があったとしている<ref>[http://blogs.technet.com/b/srd/archive/2012/06/06/more-information-about-the-digital-certificates-used-to-sign-the-flame-malware.aspx Flame malware collision attack explained]</ref>。
マイクロソフトは2012年[[6月5日]]に、問題となったターミナルサーバーライセンスインフラストラクチャの中間Certificate Authenticityを無効化するセキュリティアップデートを公開している<ref>[http://technet.microsoft.com/ja-jp/security/advisory/2718704 マイクロソフト セキュリティ アドバイザリ (2718704)]</ref>。
== アルゴリズム ==
[[Image:MD5 algorithm.svg|right|thumbnail|300px|図1:MD5計算の1段階。MD5はこのような操作を64回行うが、16回の操作を1ラウンドとして4ラウンド行う。''F''は非線形な関数で、1ラウンドごとに1つの関数が使われる。''M<sub>i</sub>''はメッセージの入力、''K<sub>i</sub>''は操作ごとに異なる32ビットの定数である。[[Image:lll.png|left shift]]<sub>''s''</sub>は左への''s''ビットのローテーション操作であり、''s''は操作ごとに異なる。[[Image:Boxplus.png|Addition]]は2<sup>32</sup>を法とした加算である。]]
MD5は可変長の入力を処理して、128ビット固定長の値を出力する。入力メッセージは512ビット(32ビットのワードが16個)ごとに切り分けられるが、長さが512の倍数となるように[[パディング]]が行われる。
パディングとしてはまずメッセージの最後に1ビットの1を足して、その後には長さが512で割って448余る(つまり、512の倍数に64足りない)長さになるようにひたすら0を付け足していく。そして、残った64ビットには元のメッセージの長さ(の下位64ビット)を入れることとなる。
MD5のメイン部分のアルゴリズムは32ビット×4ワード(それぞれのワードを''A''、''B''、''C''、''D''と表す) = 128ビットの状態を持って進行していく。初期状態では、この4ワードは決まった定数で初期化されており、
512ビットのブロックを順次使ってこの状態を変化させていくのがMD5の中核となっている。1回の処理では非線形な関数''F''、2<sup>32</sup>を[[合同式|法とした]]加算、左への[[ビットローテート]]が行われる。
そして、16回の操作を1ラウンドとして、512ビットの入力ブロックを処理するのに4ラウンドの処理が行われる。''F''には4通りの関数があり、ラウンドごとに異なるものが使われる。
:<math>F(B,C,D) = (B\wedge{C}) \vee (\neg{B} \wedge{D})</math>
:<math>G(B,C,D) = (B\wedge{D}) \vee (C \wedge \neg{D})</math>
:<math>H(B,C,D) = B \oplus C \oplus D</math>
:<math>I(B,C,D) = C \oplus (B \vee \neg{D})</math>
<math>\oplus, \wedge, \vee, \neg</math>はそれぞれ[[排他的論理和|XOR]]、[[論理積|AND]]、[[論理和|OR]]、[[否定|NOT]]演算を意味する。
=== 擬似コード ===
MD5ハッシュは、以下の擬似コードで書いたアルゴリズムで算出される。値はすべて[[エンディアンネス|リトルエンディアン]]とする。
'''function''' md5 (message : '''array'''[0..*] '''of''' bit) '''returns''' '''array'''[0..15] '''of''' unsignedInt8 '''is'''
<span style="color:green">//''左ローテート関数''</span>
'''function''' leftRotate (x : unsignedInt32, c : integer '''range''' 0..31) '''returns''' unsignedInt32 '''is'''
'''begin''' leftRotate := (x '''leftShift''' c) '''bitOr''' (x '''rightShift''' (32-c)) '''end''' ;
'''function''' makeK (i : integer '''range''' 0..63) '''returns''' unsignedIt32 '''is'''
'''begin''' makeK := floor(2<sup>32</sup>×abs(sin(i + 1))) '''end''' ;
'''begin'''
<span style="color:green">//''注: すべての変数は符号なし32ビット値で、桁があふれた時は2<sup>32</sup>を法として演算されるものとする。''</span>
<span style="color:green">//''ラウンドごとのローテート量 sを指定する''</span>
'''const''' s : '''array'''[0..63] '''of''' unsignedInt32 :=
{
7, 12, 17, 22, 7, 12, 17, 22, 7, 12, 17, 22, 7, 12, 17, 22,
5, 9, 14, 20, 5, 9, 14, 20, 5, 9, 14, 20, 5, 9, 14, 20,
4, 11, 16, 23, 4, 11, 16, 23, 4, 11, 16, 23, 4, 11, 16, 23,
6, 10, 15, 21, 6, 10, 15, 21, 6, 10, 15, 21, 6, 10, 15, 21
} ;
<span style="color:green">//''整数ラジアンのときの三角関数からKの値を生成する''</span>
'''const''' K : '''array'''[0..63] '''of''' unsignedInt32 := '''range''' 0..63 '''map''' makeK ;
<span style="color:green">//''(Kを事前に計算して、テーブルとしておくこともできる)''</span>
<span style="color:green">//</span>
<span style="color:green">//'''const''' K : '''array'''[0..63] '''of''' unsignedInt32 :=</span>
<span style="color:green">// {</span>
<span style="color:green">// D76AA478<sub>(16進数)</sub>, E8C7B756<sub>(16進数)</sub>, 242070DB<sub>(16進数)</sub>, C1BDCEEE<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// F57C0FAF<sub>(16進数)</sub>, 4787C62A<sub>(16進数)</sub>, A8304613<sub>(16進数)</sub>, FD469501<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// 698098D8<sub>(16進数)</sub>, 8B44F7AF<sub>(16進数)</sub>, FFFF5BB1<sub>(16進数)</sub>, 895CD7BE<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// 6B901122<sub>(16進数)</sub>, FD987193<sub>(16進数)</sub>, A679438E<sub>(16進数)</sub>, 49B40821<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// F61E2562<sub>(16進数)</sub>, C040B340<sub>(16進数)</sub>, 265E5A51<sub>(16進数)</sub>, E9B6C7AA<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// D62F105D<sub>(16進数)</sub>, 02441453<sub>(16進数)</sub>, D8A1E681<sub>(16進数)</sub>, E7D3FBC8<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// 21E1CDE6<sub>(16進数)</sub>, C33707D6<sub>(16進数)</sub>, F4D50D87<sub>(16進数)</sub>, 455A14ED<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// A9E3E905<sub>(16進数)</sub>, FCEFA3F8<sub>(16進数)</sub>, 676F02D9<sub>(16進数)</sub>, 8D2A4C8A<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// FFFA3942<sub>(16進数)</sub>, 8771F681<sub>(16進数)</sub>, 6D9D6122<sub>(16進数)</sub>, FDE5380C<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// A4BEEA44<sub>(16進数)</sub>, 4BDECFA9<sub>(16進数)</sub>, F6BB4B60<sub>(16進数)</sub>, BEBFBC70<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// 289B7EC6<sub>(16進数)</sub>, EAA127FA<sub>(16進数)</sub>, D4EF3085<sub>(16進数)</sub>, 04881D05<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// D9D4D039<sub>(16進数)</sub>, E6DB99E5<sub>(16進数)</sub>, 1FA27CF8<sub>(16進数)</sub>, C4AC5665<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// F4292244<sub>(16進数)</sub>, 432AFF97<sub>(16進数)</sub>, AB9423A7<sub>(16進数)</sub>, FC93A039<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// 655B59C3<sub>(16進数)</sub>, 8F0CCC92<sub>(16進数)</sub>, FFEFF47D<sub>(16進数)</sub>, 85845DD1<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// 6FA87E4F<sub>(16進数)</sub>, FE2CE6E0<sub>(16進数)</sub>, A3014314<sub>(16進数)</sub>, 4E0811A1<sub>(16進数)</sub>,</span>
<span style="color:green">// F7537E82<sub>(16進数)</sub>, BD3AF235<sub>(16進数)</sub>, 2AD7D2BB<sub>(16進数)</sub>, EB86D391<sub>(16進数)</sub></span>
<span style="color:green">// } ;</span>
<span style="color:green">//''A、B、C、Dの初期値''</span>
'''var''' a0 : unsignedInt32 := 67452301<suB>(16進数)</suB> ; <span stylE="Color:green">// A</span>
'''var''' b0 : unsignedInt32 := EFCDAB89<suB>(16進数)</suB> ; <span stylE="Color:green">// B</span>
'''var''' c0 : unsignedInt32 := 98BADCFE<suB>(16進数)</suB> ; <span stylE="Color:green">// C</span>
'''var''' d0 : unsignedInt32 := 10325476<suB>(16進数)</suB> ; <span stylE="Color:green">// D</span>
<span style="color:green">//''パディング処理: 1ビットのデータ「1」を追加する''</span>
message[message.length] = (bit) 1 ;
<span style="color:green">//''注: 入力のバイト値は、最高位ビットが先のビットであるビット列として解釈するものとする<ref>{{IETF RFC|1321}}, section 2, "Terminology and Notation", Page 2.</ref>。''</span>
'''const''' initial_message_length : integer := message.length ;
<span style="color:green">//''パディング処理: 残りは「0」で埋める''</span>
'''repeat'''
message[message.length] := (bit) 0
'''until''' (message.length '''mod''' 512) = 448 ; <span style="color:green">//''448 = 512 - 64''</span>
message[message.length .. message.length+63] := split (initial_message_length '''mod''' 2<sup>64</sup>, 1bit) ;
<span style="color:green">//''入力を512ビットのブロックに切って、順次処理する''</span>
<span style="color:green">//''chunk のバイトオーダーは message のバイトオーダーのままである''</span>
'''var''' chunk : bits512 ;
'''for each''' chunk '''of''' split (message, 512bit) '''do'''
'''var''' M : '''array''' [0..15] '''of''' unsignedInt32 := split (chunk, 32bit) ;
<span style="color:green">//''内部状態の初期化''</span>
'''var''' A : unsignedInt32 := a0 ;
'''var''' B : unsignedInt32 := b0 ;
'''var''' C : unsignedInt32 := c0 ;
'''var''' D : unsignedInt32 := d0 ;
<span style="color:green">//''メインループ''</span>
'''var''' F : unsignedInt32 ;
'''var''' g : integer '''range''' 0..15 ;
'''for''' i '''from''' 0 '''to''' 63
'''switch'''
'''case''' 0 ≦ i ≦ 15 '''do'''
F := (B '''bitAnd''' C) '''bitOr''' (('''bitNot''' B) '''bitAnd''' D) ;
g := i
'''end case'''
'''case''' 16 ≦ i ≦ 31 '''do'''
F := (D '''bitAnd''' B) '''bitOr''' (('''bitNot''' D) '''bitAnd''' C) ;
g := (5×i + 1) '''mod''' 16
'''end case'''
'''case''' 32 ≦ i ≦ 47 '''do'''
F := (B '''bitXor''' C) '''bitXor''' D ;
g := (3×i + 5) '''mod''' 16
'''end case'''
'''case''' 48 ≦ i ≦ 63 '''do'''
F := C '''bitXor''' (B '''bitOr''' ('''bitNot''' D)) ;
g := (7×i) '''mod''' 16
'''end case'''
'''end switch'''
F := F + A + K[i] + M[g] ;
(D, C, A) := (C, B, D) ;
B := B + leftRotate(F, s[i]) ;
'''end for''' ;
<span style="color:green">//''今までの結果にこのブロックの結果を足す''</span>
a0 := a0 + A ;
b0 := b0 + B ;
c0 := c0 + C ;
d0 := d0 + D
'''end for''' ;
//<span style="color:green">16個の8ビット符号なし整数型データ列がMD5値である。</span>
//<span style="color:green">''リトルエンディアンでの出力''</span>
md5[ 0.. 3] := split (a0, 8bit) ;
md5[ 4.. 7] := split (b0, 8bit) ;
md5[ 8..11] := split (c0, 8bit) ;
md5[12..15] := split (d0, 8bit) ;
'''end'''.
なお、{{IETF RFC|1321}} にある本来の式に代えて、以下のように計算するほうが効率的な場合がある(高級言語で書いている場合、コンパイラの最適化に任せるほうがよい。
NANDとANDが並行して計算できる環境であれば、並列演算のできない以下の式に比べて、元のままのほうが速いことも多々ある)。
( 0 ≦ i ≦ 15): F := D '''bitXor''' (B '''bitAnd''' (C '''bitXor''' D))
(16 ≦ i ≦ 31): F := C '''bitXor''' (D '''bitAnd''' (B '''bitXor''' C))
== 実装ライブラリ ==
MD5をサポートしているライブラリは以下の通り。
* [[Botan]]
* {{ill|Bouncy Castle|en|Bouncy Castle (cryptography)}}
* {{ill|Cryptlib|en|cryptlib}}
* {{ill|Crypto++|en|Crypto++}}
* {{ill|Libgcrypt|en|Libgcrypt}}
* {{ill|Nettle|en|Nettle (cryptographic library)}}
* [[OpenSSL]]
* [[wolfSSL]]
== 参考文献 ==
* R. Rivest, "The MD5 Message-Digest Algorithm", {{IETF RFC|1321}}, April 1992.
* Hans Dobbertin, "The Status of MD5 After a Recent Attack", CryptoBytes Volume 2, Number 2, pp.1,3-6, Summer 1996. [ftp://ftp.rsa.com/pub/cryptobytes/crypto2n2.pdf]
* Xiaoyun Wang, Dengguo Feng, Xuejia Lai, Hongbo Yu, "Collisions for Hash Functions MD4, MD5, HAVAL-128 and RIPEMD", IACR ePrint #199, Augst 17 2004. [http://eprint.iacr.org/2004/199.pdf]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[ハッシュ関数]]
* [[MD2]]
* [[MD4]]
* [[Secure Hash Algorithm]] - [[SHA-1]] - [[SHA-2]] (SHA-224, SHA-256, SHA-384, SHA-512) - [[SHA-3]]
* [[HMAC]]
* [[アメリカサイバー軍]] - エンブレムに任務規定のMD5ハッシュが描かれている。
== 外部リンク ==
* {{IETF RFC|1321}}
** [https://www.nic.ad.jp/ja/tech/ipa/RFC1321JA.html MD5 メッセージダイジェストアルゴリズム (The MD5 Message-Digest Algorithm)]([[情報処理推進機構|IPA]]による日本語訳)
* {{IETF RFC|6151}}: {{IETF RFC|1321}}のsecurity considerationsについて置き換えるものであると規定している。
* [http://www.webutils.pl/MD5_Calculator MD2, MD4, MD5 Online Calculator] Calculate file hashes using an on-line web form.
* [http://passcracking.ru Online MD5 crack] – Rainbow Tables + big hash database (md5, md5(md5), sha1, mysql)
* [http://passcrack.spb.ru MD5 cracking by RainbowTables]
* [http://www.hash.spugesoft.com Simple hash calculator]
* [http://www.vector.co.jp/soft/unix/util/se365582.html 高速にMD5ハッシュの元の文字を見つけ出すツール]
* [http://ice.breaker.free.fr/ Online MD5 Reverser | Hash cracker]
* [http://www.microsoft.com/japan/technet/security/advisory/961509.mspx マイクロソフト セキュリティ アドバイザリ (961509): 研究機関によるMD5対する衝突攻撃(collision attack)の実現可能性にの実証に関して]
* [http://neuage.biz/tools/md5.html Secure hash calculator]
{{cryptography navbox|hash}}
[[Category:ハッシュ関数]]
[[Category:RFC|1321]]
|
2003-06-20T00:44:34Z
|
2023-11-02T13:44:03Z
| false | false | false |
[
"Template:Ill",
"Template:Cite journal",
"Template:Cryptography navbox",
"Template:参照方法",
"Template:Infobox Encryption method",
"Template:Lang-en-short",
"Template:IETF RFC"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/MD5
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10,180 |
音更町
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音更町(おとふけちょう)は、北海道十勝総合振興局にある町。北海道内の町村の中では最も人口の多い町として知られる。
町名の由来は、アイヌ語の「オトプケ」(毛髪が生ずる)が転訛したもの。音更川と然別川、士幌川の支流がたくさん流れているところからついたと言われている。農業を基幹産業としており、小麦や小豆の作付面積・収穫量が日本一となっているほか(平成30年産)、ニンジンの作付面積・出荷量が北海道一となっている(平成25年産)。また、大豆品種の音更大袖(音更大袖振)の発祥地である。 家畜改良センター十勝牧場は4,092ヘクタールの広さがあり、日本国内に12ヶ所ある家畜改良センターの中で最大規模になっている。
十勝平野のほぼ中央部に位置し、南は十勝川を隔てて帯広市と幕別町に、北は士幌町、西は鹿追町と芽室町、東は池田町に接している。町内東部の南北に長流枝内丘陵があるほかはほぼ平坦な地形であり、音更川を中央に士幌川、然別川が北から南に流れており、いずれも十勝川に注いでいる。
音更町は、昭和40年代後半からモータリゼーションの進展に伴い帯広市のベッドタウンとして市街地や団地の拡大などにより人口増加が進んでいった。2005年(平成17年)から2010年(平成22年)までの5年間の人口増減をみると、北海道内で比較的高い増加率で人口が増えている。
ケッペンの気候区分によると、音更町は湿潤大陸性気候に属する。寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。降雪量が多く、豪雪地帯に指定されている。冬季は-25°Cを下回る気温が観測されることが珍しくなく、寒さが厳しい。
「音更町統計書」参照
役場
歴代首長
議会
道の機関
独立行政法人
特殊法人等
警察
消防
病院
コミュニティ放送
短期大学
高等学校
中学校
小学校
認定こども園
保育園
小規模保育事業所
家庭的保育事業所
幼稚園
音更町の基幹産業は農業。恵まれた水利による肥沃な土壌や日照時間が長いことなどにより農業経営を行う上での地形的・気候的条件に恵まれている。主要作物は小麦、ビート(テンサイ)、馬鈴薯(ジャガイモ)、豆類、そ菜などで、酪農も盛んである。十勝川沿いには世界的にも珍しいモール温泉として知られている十勝川温泉があり、2004年(平成16年)に「モール温泉」として「北海道遺産」に選定。2008年(平成20年)には地域団体商標制度を受けて出願していた「十勝川温泉」の商標登録が「地域団体商標」になった。
50音順
工業団地
スーパーマーケット
町内に空港は存在しない。最寄りの空港は帯広空港。町内発着の連絡バスが1日6往復運行している。かつては北海道内初の民間飛行場である音更飛行場があったほか、陸軍帯広第二飛行場があった。
町内を鉄道路線は通っていない。鉄道を利用する場合の最寄り駅は、JR北海道根室本線帯広駅。かつては日本国有鉄道士幌線が走っていたが1987年3月23日に廃止された。
路線バス
コミュニティバス
空港連絡バス
都市間バス
帯広A地区適用地域。 小型車の初乗り上限運賃は550円。大型車の初乗り上限運賃は630円。
町内を通る幹線道路は、シーニックバイウェイの「トカプチ雄大空間」になっている。 また、ナショナルサイクルルート「トカプチ400」のルートにもなっている。
高速道路
一般国道
都道府県道
道の駅
映画
ドラマ
戯曲
漫画
50音順
音更町民憲章
音更町歌
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"text": "十勝平野のほぼ中央部に位置し、南は十勝川を隔てて帯広市と幕別町に、北は士幌町、西は鹿追町と芽室町、東は池田町に接している。町内東部の南北に長流枝内丘陵があるほかはほぼ平坦な地形であり、音更川を中央に士幌川、然別川が北から南に流れており、いずれも十勝川に注いでいる。",
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"text": "音更町は、昭和40年代後半からモータリゼーションの進展に伴い帯広市のベッドタウンとして市街地や団地の拡大などにより人口増加が進んでいった。2005年(平成17年)から2010年(平成22年)までの5年間の人口増減をみると、北海道内で比較的高い増加率で人口が増えている。",
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"text": "ケッペンの気候区分によると、音更町は湿潤大陸性気候に属する。寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。降雪量が多く、豪雪地帯に指定されている。冬季は-25°Cを下回る気温が観測されることが珍しくなく、寒さが厳しい。",
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] |
音更町(おとふけちょう)は、北海道十勝総合振興局にある町。北海道内の町村の中では最も人口の多い町として知られる。
|
{{日本の町村
| 自治体名 = 音更町
| 画像 = 131012_Tokachigawa_Onsen_Otofuke_Hokkaido_Japan01s3.jpg
| 画像の説明 = [[十勝川温泉]]街
| 旗 = [[File:Flag of Otofuke, Hokkaido.svg|100px|border]]
| 旗の説明 = 音更[[市町村旗|町旗]]<div style="font-size:smaller">[[1970年]][[4月10日]]制定
| 紋章 = [[ファイル:Emblem of Otofuke, Hokkaido.svg|80px|center]]
| 紋章の説明 = 音更[[市町村章|町章]]<div style="font-size:smaller">1970年4月10日制定
| 区分 = 町
| 都道府県 = 北海道
| 支庁 = [[十勝総合振興局]]
| 郡 = [[河東郡]]
| コード = 01631-4
| 隣接自治体 = [[帯広市]]<br />河東郡[[士幌町]]、[[鹿追町]]<br />[[河西郡]][[芽室町]]<br />[[中川郡 (十勝国)|中川郡]][[池田町 (北海道)|池田町]]、[[幕別町]]
| 木 = [[シラカンバ|シラカバ]]
| 花 = [[スズラン]]
| シンボル名 =
| 鳥など =
| 郵便番号 = 080-0198
| 所在地 = 河東郡音更町元町2<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-01|display=inline,title}}<br />[[File:Otofuke City Hall.jpg|250px]]{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=170|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=43.02|frame-longitude=143.11|text=町庁舎位置}}
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|01|631}}
| 特記事項 =
}}
'''音更町'''(おとふけちょう)は、[[北海道]][[十勝総合振興局]]にある[[町]]。[[北海道]]内の[[町村]]の中では'''最も[[人口]]の多い[[町]]'''として知られる。
== 概要 ==
町名の由来は、[[アイヌ語]]の「オトプケ」(毛髪が生ずる)が転訛したもの<ref name="沿革と概要">{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/machi/aramashi/gaiyo/enkakutogaiyo.html|title=音更町の沿革と概要 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>。[[音更川]]と[[然別川]]、[[士幌川]]の支流がたくさん流れているところからついたと言われている<ref name="沿革と概要"/>。[[農業]]を基幹産業としており、[[コムギ|小麦]]や[[アズキ|小豆]]の作付面積・収穫量が日本一となっているほか(平成30年産)<ref name="音更町農業の日本一">{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/machi/aramashi/sangyo/nogyo_no1.html |title=音更町農業の日本一 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>、[[ニンジン]]の作付面積・出荷量が北海道一となっている(平成25年産)<ref name="音更町農業の北海道一">{{Cite web|和書|url=http://www.town.otofuke.hokkaido.jp/town/outline/sanngyouzyouhou/otofuke-no1.html |title=音更町農業の日本一・北海道一 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14 |deadlinkdate=2021-04-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151020071421/http://www.town.otofuke.hokkaido.jp/town/outline/sanngyouzyouhou/otofuke-no1.html |archivedate=2015-10-20}}</ref>。また、[[大豆]]品種の[[音更大袖]](音更大袖振)の発祥地である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.oosodekun.com/oosode |title= 音更大袖振大豆 |publisher=音更町食のモデル地域実行協議会 |accessdate=2022-04-07 }}</ref>。 [[家畜改良センター十勝牧場]]は4,092[[ヘクタール]]の広さがあり、日本国内に12ヶ所ある[[家畜改良センター]]の中で最大規模になっている<ref name="音更町農業の日本一"/>。
== 地理 ==
[[十勝平野]]のほぼ中央部に位置し、南は[[十勝川]]を隔てて[[帯広市]]と[[幕別町]]に、北は[[士幌町]]、西は[[鹿追町]]と[[芽室町]]、東は[[池田町 (北海道)|池田町]]に接している。町内東部の南北に長流枝内丘陵があるほかはほぼ平坦な地形であり、[[音更川]]を中央に[[士幌川]]、[[然別川]]が北から南に流れており、いずれも[[十勝川]]に注いでいる。
* 山:[[国見山 (北海道)|国見山]]
* 河川:[[十勝川]]、[[音更川]]、[[鈴蘭川]]、[[然別川]]、[[ペンケチン川]]、[[矢部川 (北海道)|矢部川]]、[[士幌川]]、[[長流枝内川]]
<gallery widths="180" heights="120">
Otofuke Riv 1.JPG|音更川(2013年1月)
</gallery>
=== 人口 ===
音更町は、昭和40年代後半から[[モータリゼーション]]の進展に伴い帯広市の[[ベッドタウン]]として[[市街地]]や[[団地]]の拡大などにより人口増加が進んでいった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/kurashi/suido/ayumi/suidou.html |title=水道事業のあゆみ |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>。2005年(平成17年)から2010年(平成22年)までの5年間の人口増減をみると、北海道内で比較的高い増加率で人口が増えている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tkk/databook/2014/0201.htm |title=北海道データブック2014 人口・生活 |publisher=北海道 |accessdate=2021-04-14}}</ref>。
{{人口統計|code=01631|name=音更町|image=Population distribution of Otofuke, Hokkaido, Japan.svg}}
=== 町内の地名の変遷 ===
* 1925年(大正14年) - 村内の5大字を行政字に再編。
** 音更村 → 下音更、中音更、下士幌、中士幌
** 然別村 → 然別
** 東士狩村 → 上然別、下然別
** 凋寒村 → オサルシナイ
** 蝶多村 → アネップ、オサルシナイ、中士幌、下士幌
* 1976年(昭和51年)
** 下音更の一部 → 大通北1丁目、大通1〜15丁目、新通北1〜2丁目、新通1〜15丁目、北明台、柏寿台、北陽台、桜が丘、桜が丘西、元町、雄飛が丘、希望が丘、住吉台、東通10〜15丁目
* 1977年(昭和52年)
** 下音更の一部 → 大通16〜20丁目、新通16〜20丁目、南住吉台、東通16〜20丁目、柳町北区、柳町仲区、柳町南区、木野大通東1〜19丁目、木野大通西1〜19丁目、木野東通1〜5丁目、木野西通4〜19丁目、緑陽台北区、緑陽台仲区、緑陽台南区、共栄台東10〜13丁目、共栄台西11〜13丁目、木野新町、北鈴蘭北2〜5丁目、北鈴蘭南1〜5丁目、中鈴蘭元町、中鈴蘭北5〜6丁目、中鈴蘭南1〜6丁目、南鈴蘭北1〜6丁目、南鈴蘭南1〜6丁目、鈴蘭公園、木野公園下町
** 下士幌の一部 → 木野大通東1〜19丁目、木野東通1〜5丁目、柳町南区
* 1978年(昭和53年)
** 中音更の一部 → 駒場、南中音更、西中音更、東士狩、十勝種畜牧場、駒場本通1〜5丁目、駒場北1条通~2条通、駒場南1条通〜4条通、駒場北町、駒場西町、駒場南町、駒場平和台
** 然別の一部 → 万年、高倉、上然別
** 上然別の一部 → 万年、高倉、上然別
** 下然別の一部 → 万年
* 1979年(昭和54年)
** 下音更の一部 → 宝来北5〜6条、宝来南1条
** 中音更の一部 → 駒場東
** 下士幌の一部 → 宝来本通1〜8丁目、宝来南1〜2条、宝来北1〜6条、十勝川温泉南1〜20丁目、十勝川温泉北1〜20丁目、東和、東和基線、東和東1〜8線、東和西1〜5線
** アネップの一部 → 東和
* 1980年(昭和55年)
** 下士幌の一部 → 長流枝
** 中士幌 → 東音更幹線、東音更基線、東音更幹線東1〜2線、東音更幹線西1線、東音更西1〜3線、東音更東1〜9線、東音更、豊田基線、豊田、豊田東1〜10線、豊田西1〜2線
** オサルシナイ → 長流枝、長流枝幹線、下士幌、下士幌幹線
** アネップ(残部)→ 長流枝
* 1998年(平成10年)
** 宝来の一部 → ひびき野東町、ひびき野仲町、ひびき野西町
* 2000年(平成12年)
** 下音更の一部 → すずらん台北町、すずらん台仲町、すずらん台南町
* 2022年(令和4年)
** 音更西2線の一部、音更西3線の一部、下音更北9線西の一部 → [[なつぞら (音更町)|なつぞら]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/machi/shisetsu/michinoeki/tyomeikaisei.html|title=道の駅おとふけとその周辺の町(字)名改正について|publisher=音更町|accessdate=2022-03-30}}</ref>
== 気候 ==
<div style="font-size:smaller">
{{climate chart|'''音更町(駒場)'''
|-16.1|-2.7|32.1
|-15.7|-1.6|18.8
|-8.4|3.0|33.6
|-1.0|11.0|52.6
|4.0|16.9|78.3
|9.0|20.3|74.2
|13.5|23.0|117.2
|15.2|24.8|146.4
|10.4|20.9|130.9
|3.2|15.0|69.1
|-2.7|7.2|51.6
|-10.6|0.3|36.0
|float = right
|source = [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=20&block_no=1204&year=&month=&day=&view= 気象庁]
}}
</div>
ケッペンの気候区分によると、音更町は[[湿潤大陸性気候]]に属する。寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な[[大陸性気候]]である。降雪量が多く、[[豪雪地帯]]に指定されている。冬季は-25℃を下回る気温が観測されることが珍しくなく、寒さが厳しい。
* 最高気温:37.8{{℃}}(2014年6月3日)
* 最低気温:-32.1{{℃}}(2000年1月27日)
* 最大日降水量:142mm(1988年11月24日)
* 最大瞬間風速:27.9 m/s(2012年4月4日)
* 夏日最多日数:71日(2023年)
* 真夏日最多日数:26日(2023年)
* 猛暑日最多日数:4日(2017年)
* 熱帯夜最多日数:1日(2023年)
* 冬日最多日数:184日(1996年、1981年)
* 真冬日最多日数:94日(1981年){{Weather box
|location = 音更町駒場(駒場地域気象観測所)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 6.6
|Feb record high C = 9.8
|Mar record high C = 16.7
|Apr record high C = 29.8
|May record high C = 37.7
|Jun record high C = 37.8
|Jul record high C = 36.3
|Aug record high C = 36.2
|Sep record high C = 33.1
|Oct record high C = 28.9
|Nov record high C = 20.8
|Dec record high C = 13.1
|year record high C = 37.8
|Jan high C = -2.3
|Feb high C = -1.2
|Mar high C = 3.6
|Apr high C = 11.2
|May high C = 17.4
|Jun high C = 20.7
|Jul high C = 23.8
|Aug high C = 24.9
|Sep high C = 21.4
|Oct high C = 15.2
|Nov high C = 7.5
|Dec high C = 0.2
|year high C = 11.9
|Jan mean C = -8.1
|Feb mean C = -7.2
|Mar mean C = -1.6
|Apr mean C = 5.0
|May mean C = 10.9
|Jun mean C = 14.7
|Jul mean C = 18.4
|Aug mean C = 19.6
|Sep mean C = 16.0
|Oct mean C = 9.4
|Nov mean C = 2.6
|Dec mean C = -4.6
|year mean C = 6.3
|Jan low C = -15.6
|Feb low C = -15.2
|Mar low C = -7.8
|Apr low C = -1.0
|May low C = 4.5
|Jun low C = 9.5
|Jul low C = 14.1
|Aug low C = 15.3
|Sep low C = 10.9
|Oct low C = 3.5
|Nov low C = -2.5
|Dec low C = -10.7
|year low C = 0.4
|Jan record low C = -32.1
|Feb record low C = -30.9
|Mar record low C = -26.9
|Apr record low C = -14.7
|May record low C = -5.5
|Jun record low C = -1.0
|Jul record low C = 1.9
|Aug record low C = 3.7
|Sep record low C = -0.8
|Oct record low C = -5.7
|Nov record low C = -18.1
|Dec record low C = -25.9
|year record low C = -32.1
|Jan precipitation mm = 27.2
|Feb precipitation mm = 19.9
|Mar precipitation mm = 32.3
|Apr precipitation mm = 51.1
|May precipitation mm = 79.0
|Jun precipitation mm = 78.6
|Jul precipitation mm = 116.9
|Aug precipitation mm = 148.9
|Sep precipitation mm = 131.2
|Oct precipitation mm = 77.0
|Nov precipitation mm = 45.1
|Dec precipitation mm = 38.7
|year precipitation mm = 845.9
|unit precipitation days = 1.0 mm
|Jan precipitation days = 4.9
|Feb precipitation days = 4.3
|Mar precipitation days = 6.1
|Apr precipitation days = 7.7
|May precipitation days = 9.5
|Jun precipitation days = 9.8
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|Aug precipitation days = 11.9
|Sep precipitation days = 10.9
|Oct precipitation days = 8.7
|Nov precipitation days = 7.3
|Dec precipitation days = 6.2
|year precipitation days = 98.1
|Jan sun = 175.7
|Feb sun = 176.5
|Mar sun = 212.0
|Apr sun = 188.4
|May sun = 183.3
|Jun sun = 143.1
|Jul sun = 119.2
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|Sep sun = 145.8
|Oct sun = 172.4
|Nov sun = 159.5
|Dec sun = 160.9
|year sun = 1956.7
|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1977年-現在)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=20&block_no=1204&year=&month=&day=&view= |title=平年値(年・月ごとの値) |accessdate=2023-03-28 |publisher=気象庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_a.php?prec_no=20&block_no=1204&year=&month=&day=&view= |title=観測史上1~10位の値(年間を通じての値) |accessdate=2021-04 |publisher=気象庁}}</ref>
}}
== 歴史 ==
「音更町統計書」参照<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/files/00004800/00004859/otofuketyoutoukeisyo1-dai15syou.pdf |title=第15章主要年表 |year=2020 |format=PDF |work=令和2年版音更町統計書 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
* [[1858年]]([[安政]]{{0}}5年):[[松浦武四郎]]がトカチ内陸を探検し、音更地内に立ち入る。
* [[1874年]]([[明治]]{{0}}7年):アメリカ人の[[ベンジャミン・スミス・ライマン]]が、大雪山方面から十勝入りして[[音更川]]を踏査。
* [[1879年]](明治12年):大川宇八郎が音更に入地。[[アイヌ]]との交易を始める。
* [[1894年]](明治27年):増田立吉が下士幌で水稲試作。
* [[1896年]](明治29年):帯広-音更間の道路建設(現在の[[国道241号]])。
* [[1901年]](明治34年):下帯広外11村戸長役場から分離。音更外2村(然別・東士狩)[[戸長役場]]を開設。
* [[1905年]](明治38年):[[十勝川]]に開成橋(十勝大橋の前身)架橋。
* [[1906年]](明治39年):音更外2村戸長役場を廃止、'''音更村'''として2級町村制を施行。
* [[1920年]]([[大正]]{{0}}9年):ビート([[テンサイ]])耕作始まる。
* [[1921年]](大正10年):川上村(現在の[[士幌町]]と[[上士幌町]])、鹿追村(現在の[[鹿追町]])を分村。1級町村となる。
* [[1925年]](大正14年):[[日本国有鉄道|国鉄]][[士幌線]](帯広-士幌間)開通。翌年には上士幌まで延伸<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.obsinren.com/pdf/chronological%20table.pdf |title=帯広の歴史年表 |format=PDF |publisher=帯広市商店街振興組合連合会 |accessdate=2021-04-14}}</ref>。
* [[1926年]](大正15年):帯広-音更間定期[[乗合自動車]]開通。
* [[1933年]]([[昭和]]{{0}}8年):雨宮温泉を[[十勝川温泉]]と命名。
* [[1939年]](昭和14年):士幌線全通(帯広-十勝三股間)。
* [[1940年]](昭和15年):[[十勝大橋]]完成。
* [[1945年]](昭和20年):帯広・音更・幕別・本別・池田をグラマン艦載機が[[北海道空襲|空襲]]。
* [[1948年]](昭和23年):帯広市立商工高等学校音更分校(現在の[[北海道音更高等学校]])開校。
* [[1952年]](昭和27年):[[十勝沖地震]]発生。
* [[1953年]](昭和28年):町制施行し'''音更町'''となる。
* [[1957年]](昭和32年):音更橋が永久橋となる。
* [[1960年]](昭和40年):桜が丘団地分譲開始。
* [[1967年]](昭和42年):北海道協同乳業(現在の[[よつ葉乳業]])設立。乳製品工場(十勝主管工場)操業。
* [[1968年]](昭和43年):[[十勝沖地震]]発生。役場木野支所開設。
* [[1970年]](昭和45年):開基70年記念式典挙行。町章、町歌、音頭を制定。
* [[1971年]](昭和46年):柳町団地分譲開始。音更市街水道給水開始。
* [[1974年]](昭和49年):町民憲章制定。[[音更高等学校]]道立移管。緑陽台団地、北陽台団地分譲開始。
* [[1979年]](昭和54年):柏寿台団地分譲開始。
* [[1980年]](昭和55年):開基80年記念式典挙行。町の木([[シラカンバ|シラカバ]])、町の花([[スズラン]])指定。
* [[1982年]](昭和57年):雄飛が丘団地分譲開始。
* [[1984年]](昭和59年):[[北海道立緑ヶ丘病院]]が帯広市から移転新築。
* [[1985年]](昭和60年):[[岩手県]][[九戸郡]][[軽米町]]と姉妹提携。
* [[1986年]](昭和61年):音更町文化センターオープン。
* [[1987年]](昭和62年):国鉄士幌線廃止。
* [[1988年]](昭和63年):[[帯広大谷短期大学]]が帯広市から移転。
* [[1990年]]([[平成]]{{0}}2年):開基90年記念式典挙行。音更町総合体育館「サンドームおとふけ」オープン(音更町武道館は1994年オープン)。
* [[1991年]](平成{{0}}3年):[[平原大橋]]([[帯広北バイパス]])[[暫定2車線]]供用(2003年4車線供用)。
* [[1993年]](平成{{0}}5年):「帯広圏地方拠点都市地域基本計画」策定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kokudoseisaku/chisei/crd_chisei_tk_000035.html |title=地方拠点都市地域 構成市町村一覧 |publisher=[[国土交通省]] |accessdate=2021-04-14}}</ref>。
* [[1994年]](平成{{0}}6年):共和橋(帯広北バイパス)開通。全線暫定2車線供用開始。
* [[1995年]](平成{{0}}7年):[[道東自動車道]](道東道)[[音更帯広インターチェンジ|音更帯広IC]]開通。北十勝消防事務組合消防防災庁舎完成。
* [[1996年]](平成{{0}}8年):[[十勝大橋]]開通。十勝川アクアパークオープン。[[道の駅おとふけ]]登録<ref>{{Cite web|和書|url= https://hokkaido-michinoeki.jp/michinoeki/825/ |title=道の駅おとふけ |publisher=北の道の駅 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。
* [[1997年]](平成{{0}}9年):音更町総合福祉センターオープン。
* [[1998年]](平成10年):[[十勝中央大橋]]開通。
* [[2000年]](平成12年):音更町IC工業団地分譲開始。[[すずらん大橋 (十勝川)|すずらん大橋]]開通。開町100年記念式典挙行。音更町温水プール「アクリナちゃっぽ」オープン。
* [[2001年]](平成13年):[[コミュニティバス]]本運行開始。十勝中央広域農道開通。
* [[2003年]](平成15年):北海道立[[十勝エコロジーパーク]]一部開園(2008年全面開園)。[[十勝沖地震]]発生。
* [[2005年]](平成17年):宝来大橋開通。
* [[2007年]](平成19年):[[NHK帯広放送局]]と民放4局([[北海道放送|HBC]]、[[札幌テレビ放送|STV]]、[[北海道テレビ放送|HTB]]、[[北海道文化放送|UHB]])の[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]開始。
* [[2010年]](平成22年):翠柳大橋開通。開町110年記念式典挙行。
* [[2013年]](平成25年):十勝管内19市町村が「[[バイオマス]]産業都市」全国第1号選定<ref>{{Cite press release|和書|url= http://www.maff.go.jp/j/press/shokusan/bioi/130612_1.html |title=バイオマス産業都市の第一次選定結果及び認定証授与式の開催について |date=2013-06-12 |publisher=[[農林水産省]] |accessdate=2021-04-14 |deadlinkdate=2021-04-14 |archivedate=2017-10-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171029173040/http://www.maff.go.jp/j/press/shokusan/bioi/130612_1.html}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年):十勝圏域6消防本部統合し、[[とかち広域消防事務組合]]業務開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokachiken.or.jp/syoubou/start_chirashi.pdf |title=平成28年4月1日から十勝の広域消防がスタートします! |format=PDF |publisher=[[とかち広域消防事務組合]] |accessdate=2021-04-14 |deadlinkdate=2021-04-14 |archivedate=2016-03-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160328121425/http://www.tokachiken.or.jp/syoubou/start_chirashi.pdf}}</ref>。ガーデンスパ十勝川温泉オープン。
* [[2020年]]([[令和]]{{0}}2年):[[道の駅ガーデンスパ十勝川温泉]]登録<ref>{{Cite web|和書|url= https://hokkaido-michinoeki.jp/michinoeki/26870/ |title=道の駅ガーデンスパ十勝川温泉 |publisher=北の道の駅 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。
* [[2022年]](令和{{0}}4年):[[道の駅おとふけ|道の駅おとふけ なつぞらのふる里]]オープン。
== 姉妹都市・提携都市 ==
* [[軽米町]]([[岩手県]][[九戸郡]])
** [[1985年]]([[昭和]]60年)[[10月31日]]姉妹提携<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/machi/aramashi/gaiyo/simaityou.html|title=音更町の姉妹町 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
== 行政 ==
'''役場'''
* 音更町役場
** 木野支所(木野地域町民センター内)
'''歴代首長'''
{| class="wikitable"
|+ 令和3年1月現在<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/files/00004800/00004859/otofuketyoutoukeisyo1-dai14syou.pdf |title=第14章議会・行政・選挙 |year=2020 |format=PDF |work=令和2年版音更町統計書 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
!colspan="3"|戸長
|-
!歴代!!氏名!!就任年月日
|-
|初代||大塚伊三郎||1901年(明治34年)9月
|-
|2代||大谷信夫||1904年(明治37年)6月
|-
!colspan="3"|村長
|-
|初代||和知金次郎||1906年(明治39年)4月
|-
|2代||水越儀一||1907年(明治40年)4月
|-
|3代||石原重方||1913年(大正2年)5月
|-
|4代||武智和平||1917年(大正6年)4月
|-
|5代||竹内令之助||1920年(大正9年)4月
|-
||6代||中田宮五郎||1921年(大正10年)6月
|-
|7代||伊福部利三||1923年(大正12年)7月
|-
|8代||渡辺辰衛||1935年(昭和10年)8月
|-
|9代||小池清治||1943年(昭和18年)12月
|-
|10代||神田柳助||1947年(昭和22年)4月
|-
!colspan="3"|町長
|-
|初代||神田柳助||1953年(昭和28年)7月
|-
|2代||本家三郎||1963年(昭和38年)2月
|-
|3代||平正巳||1977年(昭和52年)4月
|-
|4代||金子尚一||1981年(昭和56年)4月
|-
|5代||山口武敏||1997年(平成9年)4月
|-
|6代||寺山憲二||2009年(平成21年)4月
|-
|7代||[[小野信次]]||2017年(平成29年)4月
|}
'''議会'''
* 議員定数:20人
* 本会議
** 定例会:年4回(3月、6月、9月、12月)
** 臨時会
* 常任委員会
** 総務文教常任委員会
** 経済建設常任委員会
** 民生常任委員会
* 特別委員会
* 議会運営委員会
== 官公署 ==
'''道の機関'''
* [[十勝総合振興局]]北部耕地出張所<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.pref.hokkaido.lg.jp/ss/hks/ |title=北部耕地出張所のトップページ |work=[[十勝総合振興局]] |publisher=北海道 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
* 十勝総合振興局帯広建設管理部車両センター
* [[北海道立緑ケ丘病院]]
<gallery widths="180" heights="120">
Hokkaido Prefectural Midorigaoka Hospital.jpg|北海道立緑ケ丘病院(2017年6月)
</gallery>
'''独立行政法人'''
* [[家畜改良センター十勝牧場]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nlbc.go.jp/tokachi/ |title=家畜改良センター 十勝牧場 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
'''特殊法人等'''
* [[東日本高速道路北海道支社]]帯広管理事務所<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/company/overview/office_list/hokkaido_office/ |title= 帯広管理事務所 |accessdate=2022-12-05}}</ref>
== 公共施設 ==
* 音更町文化センター
* 音更町図書館
* 音更町総合体育館「サンドームおとふけ」・音更町武道館
* 音更町温水プール「アクリナちゃっぽ」
* 音更町生涯学習センター(郷土資料室)
* 音更町ふれあい交流館
* 音更町総合福祉センター
* 木野地域町民センター
* 木野コミュニティセンター
* 共栄コミュニティセンター
* 音更町集団研修施設
* 音更町サッカー場(キックロスおとふけ)
* 音更町火葬場
* 音更霊園
== 公的機関 ==
'''警察'''
* [[北海道警察釧路方面本部]]
** [[帯広警察署]]木野交番、音更交番、十勝川温泉駐在所、駒場駐在所
** [[十勝機動警察隊]][[高速道路交通警察隊]]
'''消防'''
* [[とかち広域消防事務組合]]音更消防署
** 駒場分遣所、温泉分遣所
'''病院'''
* 音更宏明館病院
* 音更病院
* 帯広徳洲会病院
* [[北海道立緑ケ丘病院]]
'''コミュニティ放送'''
* [[エフエムおびひろ]](FM-JAGA)
* [[おびひろ市民ラジオ]](FM WING)
== 教育機関 ==
[[ファイル:Obihiro Otani Junior College.jpg|thumb|258px|帯広大谷短期大学(2017年9月)]]
'''短期大学'''
* [[帯広大谷短期大学]]
'''高等学校'''
* [[北海道音更高等学校]]
'''中学校'''
* 音更町立音更中学校<ref name="小中学校一覧">{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/kyoiku/kyoikuiinkai/kyoiku/shouchuu-gakkou-ichirann-hyou.html |title=音更町の小・中学校の一覧表 |publisher=音更町 |accessdate=2022-06-25}}</ref>
* [[音更町立下音更中学校]]<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立駒場中学校<ref name="小中学校一覧"/>
* [[音更町立緑南中学校]]<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立共栄中学校<ref name="小中学校一覧"/>
'''小学校'''
* 音更町立音更小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立下音更小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立駒場小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立下士幌小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立西中音更小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立東士狩小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立東士幌小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立木野東小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立柳町小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立緑陽台小学校<ref name="小中学校一覧"/>
* 音更町立鈴蘭小学校<ref name="小中学校一覧"/>
'''認定こども園'''
* 音更認定こども園<ref name="保育園など">{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/kurashi/kodomo/hoikuen/hoikusyo_service.html |title=保育園などの位置・連絡先・各種保育サービスについて |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
* 宝来こども園<ref name="保育園など"/>
* 緑陽台認定こども園<ref name="保育園など"/>
* 駒場認定こども園<ref name="保育園など"/>
* 柳町認定こども園<ref name="保育園など"/>
* 認定こども園帯広大谷短期大学附属音更大谷幼稚園<ref name="保育園など"/>
'''保育園'''
* 木野北保育園<ref name="保育園など"/>
* 木野南保育園<ref name="保育園など"/>
* 鈴蘭保育園<ref name="保育園など"/>
'''小規模保育事業所'''
* 家庭保育園ひまわり<ref name="保育園など"/>
* りとる・ちっぷす音更<ref name="保育園など"/>
* とかち帯広YMCA保育園<ref name="保育園など"/>
'''家庭的保育事業所'''
* ゆめのもりほいくえん<ref name="保育園など"/>
'''幼稚園'''
* 音更共栄台幼稚園
== 経済・産業 ==
[[File:Yotsuba Milk Products Tokachi Main Factory.jpg|thumb|258px|よつ葉乳業十勝主管工場(2020年2月)]]
[[File:Ryugetsu Sweetpia Garden.JPG|thumb|258px|柳月スイートピアガーデン(2009年10月)]]
[[File:Straw bales on a stubble field in Otofuke, Hokkaido(6008297127).jpg|thumb|258px|[[ロールベール]]が畑に点在する風景。[[十勝が丘公園]]西の十勝川温泉北で(2011年8月)]]
音更町の基幹産業は[[農業]]<ref name="沿革と概要"/>。恵まれた水利による肥沃な土壌や[[日照時間]]が長いことなどにより農業経営を行う上での地形的・気候的条件に恵まれている<ref name="音更町農業の日本一"/>。主要作物は[[コムギ|小麦]]、ビート([[テンサイ]])、馬鈴薯([[ジャガイモ]])、[[豆|豆類]]、[[蔬菜|そ菜]]などで、[[酪農]]も盛んである<ref name="沿革と概要"/>。十勝川沿いには世界的にも珍しい[[モール温泉]]として知られている[[十勝川温泉]]があり<ref>{{Cite web|和書|url=http://pucchi.net/hokkaido/closeup/moor.php |title=世界でも珍しいモール温泉 |date=2008-03-13 |work=[[北海道ファンマガジン]] |accessdate=2021-04-14}}</ref>、2004年(平成16年)に「モール温泉」として「[[北海道遺産]]」に選定<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokkaidoisan.org/heritage/033.html |title=モール温泉 |publisher=北海道遺産協議会 |accessdate=2021-04-14}}</ref>。2008年(平成20年)には[[地域団体商標制度]]を受けて出願していた「十勝川温泉」の商標登録が「[[地域団体商標]]」になった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hkd.meti.go.jp/hokip/machib/11.pdf |title=北海道内の地域団体商標活用事例 〜十勝川温泉〜 |format=PDF |publisher=北海道 |accessdate=2021-04-14 |deadlinkdate=2021-04-14 |archivedate=2016-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161113180725/http://www.hkd.meti.go.jp/hokip/machib/11.pdf}}</ref>。
=== 立地企業 ===
50音順
{{Columns-list|2|
* アース技研
* 旭川中央青果
* アシストワン
* エフビーエス
* 京北運輸
* [[象設計集団]]
* 高野ランドスケーププランニング
* [[第一ホテル (音更町)|第一ホテル]]
* 大同出版紙業
* 道新総合印刷
* [[ナガワ]]
* 日農機
* [[花畑牧場]]
* ハタナカ昭和
* [[富士レビオ]]([[H.U.グループホールディングス]])
* 北星農産
* [[北海道コカ・コーラボトリング]]
* 北海道製鎖
* [[北海道拓殖バス]]
* [[三菱自動車工業]]
* 山本忠信商店
* [[よつ葉乳業]](登記上の本店)
* [[柳月]](登記上の本店は帯広市)
}}
'''工業団地'''
* 開進工業団地
* 音更町IC工業団地<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ic-otofuke.or.jp |title=音更町土地開発公社 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
=== 組合 ===
* [[ホクレン農業協同組合連合会]](ホクレン)十勝地区家畜市場
* 音更町農業協同組合(JAおとふけ)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ja-otofuke.jp |title=JAおとふけ |accessdate=2021-04-14}}</ref>
* 木野農業協同組合(JA木野)<ref>{{Cite web |url=http://ja-kino.com |title=JA木野 木野農業協同組合 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
* 十勝大雪森林組合
* [[北海道農業共済組合]](NOSAI北海道)十勝北西部事業所・十勝北西部家畜診療所<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nosai-do.or.jp/office/tokachi/#office_n18 |title=十勝統括センター事業所紹介 |accessdate=2022-04-15}}</ref>
* [[生活協同組合コープさっぽろ]]トドックステーション帯広北
=== 商業施設 ===
'''スーパーマーケット'''
* [[イオン北海道]]([[イオングループ]])
** [[マックスバリュ]]音更店
* [[福原 (北海道の企業)|福原]]([[アークス (北海道の企業)|アークスグループ]])
** フクハラすずらん台店
** ぴあざフクハラ音更店
* [[ダイイチ (帯広市)|ダイイチ]]
** 音更店
** オーケー店
* 木野農業協同組合(JA木野)
** ハピオ木野
* [[ホクレン商事]]
** エーコープおとふけ店
* テキサス
** 売鮮市場どんどん音更店
=== 金融機関 ===
* [[北洋銀行]]木野支店
* [[北海道銀行]]音更支店
* [[帯広信用金庫]]音更支店、木野支店
* [[網走信用金庫]]音更支店
* JAバンク北海道([[北海道信用農業協同組合連合会]])JAおとふけ本所、JA木野本所
=== 郵便 ===
* [[音更郵便局]](集配局)
* 音更大通郵便局
* 音更緑陽台郵便局
* 木野郵便局
* 駒場郵便局
* 鈴蘭郵便局
* 十勝川温泉郵便局
* 音更宝来簡易郵便局
* 音更柳町簡易郵便局
* 上然別簡易郵便局
* 十勝栄簡易郵便局
* 万年簡易郵便局
=== 宅配便 ===
* [[ヤマト運輸]]道東主管支店音更センター
* [[佐川急便]]帯広営業所(所在地は帯広市)
== 交通 ==
[[File:Doto Expressway Otofuke-Obihiro Interchange.jpg|thumb|258px|音更帯広IC(2016年7月)]]
=== 空港 ===
町内に空港は存在しない。最寄りの空港は[[帯広空港]]。町内発着の連絡バスが1日6往復運行している。かつては北海道内初の民間飛行場である音更飛行場があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/machi/aramashi/rekishi/choshi/taisho1-14.html |title=おとふけの歴史 大正元年から大正14年まで |publisher=音更町 |accessdate=2023-03-19}}</ref>ほか、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]帯広第二飛行場があった。
=== 鉄道 ===
町内を鉄道路線は通っていない。鉄道を利用する場合の最寄り駅は、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[根室本線]][[帯広駅]]。かつては[[日本国有鉄道]][[士幌線]]が走っていたが[[1987年]][[3月23日]]に廃止された。
==== 廃線となった路線 ====
* [[日本国有鉄道]](国鉄)
** [[士幌線]]:[[木野駅 (北海道)|木野駅]] - [[音更駅]] - [[駒場駅]] - [[武儀駅]]
=== バス ===
'''路線バス'''
* [[十勝バス]]
* [[北海道拓殖バス]]
'''コミュニティバス'''
* 十勝バス
** 「しらかば号」(本町コース・木野コース)<ref name="コミバス">{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/kurashi/kotsu/bus/community-bus-norikata.html |title=コミュニティバスについて |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
* 北海道拓殖バス
** 「すずらん号」(本町コース・木野コース)<ref name="コミバス"/>
'''空港連絡バス'''
* 北海道拓殖バス
** [[道の駅おとふけ]]-[[帯広空港|とかち帯広空港]](帯広市内ホテル経由)
'''都市間バス'''
* [[北海道中央バス]]・[[ジェイ・アール北海道バス]]・[[北都交通 (北海道)|北都交通]]・十勝バス・北海道拓殖バス([[共同運行]])
** 帯広-札幌「ポテトライナー」(音更経由)
* [[道北バス]]・十勝バス・北海道拓殖バス(共同運行)
** 帯広-旭川「[[ノースライナー (北海道)|ノースライナー]]」(三国峠経由)
* 北都交通・[[帯運観光]](共同運行)
** 十勝川温泉・帯広-[[新千歳空港]]「とかちミルキーライナー」
* 北海道拓殖バス
** 帯広-[[釧路空港]]「スイーツライナー」(2023年3月26日より運行休止)<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.takubus.com/%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%96%93%E9%AB%98%E9%80%9F%E3%83%90%E3%82%B9/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/|title= スイーツライナー(十勝川温泉・帯広~釧路空港:予約制)|publisher=北海道拓殖バス|accessdate=2023-03-24}}</ref>。
* [[網走観光交通]]
** 帯広-[[阿寒湖温泉]]「まりもエクスプレス帯広号」
=== タクシー ===
帯広A地区適用地域。
小型車の初乗り上限運賃は550円。大型車の初乗り上限運賃は630円<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.taxi-japan.or.jp/pdf/unchinblock/hokkaidou_obhiro_a.pdf |title=自動認可運賃・料金表(帯広A地区) |accessdate=2022-11-17}}</ref>。
* 音更タクシー
=== 道路 ===
町内を通る幹線道路は、[[シーニックバイウェイ]]の「トカプチ雄大空間」になっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.scenicbyway.jp/routes/tokapuchi |title=トカプチ雄大空間 |work=シーニックバイウェイ北海道 |accessdate=2021-04-14}}</ref>。
また、[[ナショナルサイクルルート]]「[[トカプチ400]]」のルートにもなっている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mlit.go.jp/road/bicycleuse/good-cycle-japan/national_cycle_route/tokapuchi.html |title=トカプチ400 GOOD CYCLE JAPAN |work=国土交通省 |accessdate=2022-09-29}}</ref>。
'''[[高速道路]]'''
* [[道東自動車道]]([[北海道横断自動車道]]):[[音更帯広インターチェンジ|音更帯広IC]] - [[長流枝スマートインターチェンジ|長流枝SIC]](仮称)- [[長流枝パーキングエリア|長流枝PA]]
'''[[一般国道]]'''
* [[国道241号]]([[国道273号]]との[[重用区間]])
** [[帯広北バイパス]]
'''[[都道府県道]]'''
{{Columns-list|2|
* [[北海道道31号音更池田線]]
* [[北海道道54号東瓜幕芽室線]]
* [[北海道道73号帯広浦幌線]]
* [[北海道道75号帯広新得線]]
* [[北海道道133号音更新得線]]
* [[北海道道214号川西芽室音更線]]
* [[北海道道239号熊牛音更線]]
* [[北海道道316号上士幌音更線]]
* [[北海道道337号上士幌士幌音更線]]
* [[北海道道415号音更停車場線]]
* [[北海道道498号長流枝内木野停車場線]]
* [[北海道道771号笹川士幌線]]
* [[北海道道977号十勝川温泉帯広自転車道線]]([[自転車専用道路]])
}}
'''[[道の駅]]'''
* [[道の駅おとふけ|おとふけ なつぞらのふる里]]
* [[道の駅ガーデンスパ十勝川温泉|ガーデンスパ十勝川温泉]]
== 文化財 ==
* 町指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/kyoiku/bunka/tyousiteibunkazai.html |title=町指定文化財 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
** 十勝駒踊 - 十勝駒踊保存会
** 東士狩獅子舞 - 東士狩獅子舞保存会
** 矢部獅子舞 - 矢部獅子舞保存会
** 十勝坊主
== 観光・レジャー ==
* [[道の駅おとふけ|道の駅おとふけ なつぞらのふる里]]
* [[十勝川温泉]]
* [[道の駅ガーデンスパ十勝川温泉]]
* [[十勝が丘公園]]
* 十勝が丘展望台
* [[十勝エコロジーパーク]]
* [[家畜改良センター十勝牧場]]
* 小さな鉄道博物館「十勝晴駅」<ref>{{Cite web|和書|url=http://pucchi.net/hokkaido/trippoint/tokachibare.php |title=充実の鉄道コレクションは必見! 音更の体験型鉄道博物館・十勝晴駅 |date=2014-07-18 |work=北海道ファンマガジン |accessdate=2021-04-14}}</ref>
<gallery widths="180" heights="120">
131012 Tokachigawa Onsen Otofuke Hokkaido Japan13bs5.jpg|十勝川河畔(十勝川アクアパーク)と十勝中央大橋(2013年10月)
131012 Tokachigawa Onsen Otofuke Hokkaido Japan09bs.jpg|「モール温泉」北海道遺産認定証(2013年10月)
Michinoeki Garden Spa Tokachigawa Onsen Appearance.jpg|道の駅ガーデンスパ十勝川温泉(2020年9月)
Tokachigaoka park hanack.jpg|十勝が丘公園の花時計「ハナック」(2015年7月)
View from Tokachi-gaoka.JPG|十勝が丘展望台(2011年12月)
マッサン 白樺並木2014.jpg|家畜改良センター十勝牧場の白樺並木(2014年8月)
</gallery>
== 祭事・催事 ==
* 十勝川白鳥まつり「彩凛華(さいりんか)」(1月下旬から2月下旬)
* トカプチ雄大シーニックカフェ(4月下旬から9月下旬)
* 鈴蘭公園夜桜ライトアップ(4月下旬から5月上旬)
* 十勝川温泉フットパスウォーキング(6月)
* 花風景「ハナックと花ロード」(6月下旬から7月下旬)
* モール温泉夢ホタル観賞会(7月中旬から7月下旬)
* 十勝川イカダ下り(7月)
* 麦感祭(8月)
* 夏フェスタ納涼花火大会(8月)
* [[勝毎花火大会]](8月)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/hanabi/ |title=勝毎花火大会 |publisher=十勝毎日新聞社 |accessdate=2021-04-14}}</ref>
* 道新花火大会(8月)
* [[ラリー北海道]](9月)
* オータムフェスタin十勝川(10月上旬から11月上旬)
* 冬華火(ふゆはなび)inなつぞらのふる里(12月)
== 音更町が舞台(ロケ地)となった作品 ==
'''映画'''
* 『[[雪に願うこと]]』
* 『[[銀の匙 Silver Spoon]]』
* 『[[GTO (1998年のテレビドラマ)#映画|GTO]]』
'''ドラマ'''
*『[[マッサン]]』
'''戯曲'''
* 『火山灰地』
'''漫画'''
* 『[[十勝ひとりぼっち農園]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://kachimai.jp/article/index.php?no=432235|title=サンデー漫画家横山さん、音更で農作業に奮闘中|publisher=十勝毎日新聞|accessdate=2023-04-14}}</ref>
== 人物 ==
50音順
=== 出身人物 ===
{{Columns-list|2|
* [[阿部真弓]](元バスケットボール選手)
* [[AYUMI]](モデル)
* [[井川空]](プロサッカー選手)
* [[小野信次]](第7代音更町長、元音更町議会議員)
* [[小原唯志]](競輪選手。元スピードスケート選手)
* [[小山田舞]](元プロバスケットボール選手)
* [[草野侑己]](プロサッカー選手)
* [[草森紳一]](評論家)
* 後鳥亮介([[indigo la End]]メンバー)
* [[佐々木ののか]](文筆家)
* [[島崎京子]](元スピードスケート選手)
* 真也(元[[GHOSTY BLOW]]メンバー)
* [[平吉将]](フリーアナウンサー)
* [[滝菜月]] ([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー)
* [[遠野千夏]](タレント)
* [[中川和恵]](声優・舞台女優・タレント)
* [[流 (シンガーソングライター)|流]](ながれ)(シンガーソングライター。元三角堂メンバー)
* [[西岡和哉 (スピードスケート選手)|西岡和哉]](元スピードスケート選手)
* [[西川隆宏]](ミュージシャン。DREAMS COME TRUE元メンバー)
* [[平子裕基]](元スピードスケート選手)
* [[福井陽翔人]](パフォーマー。実業家)
* [[藤ノ川武雄]](元大相撲力士・第11代[[伊勢ノ海]])
* [[三次マキ]](漫画家)
* [[三谷幸宏]](競輪選手。元スピードスケート選手)
* [[八木圭一]](小説家)
* 山本健太(ミュージシャン。[[オトナモード]]元メンバー)
* [[横幕智裕]](脚本家、構成作家)
* [[若松平]](調教師)
}}
=== ゆかりのある人物 ===
* [[伊福部昭]](作曲家。幼少時に居住し、[[アイヌ音楽]]の影響を受ける)
* [[大島優子]](女優・タレント。AKB48元メンバー。母親の出身地)
* [[久保栄]](劇作家・演出家・小説家。戯曲『火山灰地』素材地の標が町内にある<ref>{{Cite web|和書|url=https://kachimai.jp/article/index.php?no=433738&display=auto |title=ゴシップ 火山灰地 |publisher=十勝毎日新聞社 |date=2018-07-07 |accessdate=2023-03-20}}</ref>。
* [[西條奈加]](小説家)
* [[横山裕二]](漫画家)
== 町民憲章・町歌 ==
'''音更町民憲章'''
{{Quotation|
: わたくしたちは、日高大雪連峰をはるかにのぞみ雄大な十勝川の流れにつくられた十勝平野の中央部に位置する美しい自然と環境に恵まれた誇りある音更町民です。
: わたくしたちは、先人の偉業をうけつぎ、今日のよろこびと、あすのしあわせを約束できる豊かで平和な町づくりのためにこの憲章を定めます。
* 教養を高め、からだをきたえ、豊かな心をつくります。
* たがいにいたわり、話しあい、明るい家庭をつくります。
* きまりを守り、力をあわせ、住みよいまちをつくります。
* 自然を愛し、環境をととのえ、美しいまちをつくります。
* 文化を高め、産業を伸ばし、希望のあるまちをつくります。
|昭和49年10月3日制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/machi/aramashi/gaiyo/chomin_kensho.html |title=町民憲章 |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14}}</ref>}}
'''音更町歌'''
* 作詞:三村洋
* 作曲:[[伊福部昭]]
* 昭和45年9月18日制定
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考資料 ==
* {{Cite web|和書|url=https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/files/00004700/00004716/sin-ene-zenpen.pdf |title=音更町地域新エネルギービジョン |year=2006 |format=PDF |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14 |ref={{SfnRef|音更町地域新エネルギービジョン|2006}}}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.town.otofuke.hokkaido.jp/town/iinnkai-singikai/sinngikai-yotei-kekka/soukei-singikai.data/soukei-singikai-kyoutsuusiryou2.pdf |title=音更町の人口に関する資料 |year=2010 |format=PDF |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14 |ref={{SfnRef|音更町の人口に関する資料|2010}} |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160309231304/http://www.town.otofuke.hokkaido.jp/town/iinnkai-singikai/sinngikai-yotei-kekka/soukei-singikai.data/soukei-singikai-kyoutsuusiryou2.pdf |archivedate=2016-03-09 |deadlinkdate=2021-04-14}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.town.otofuke.hokkaido.jp/town/zaisei-keikaku/keikaku/otofuke-soukei5.data/soukei5-all.pdf |title=第5期 音更町総合計画 |year=2011 |format=PDF |publisher=音更町 |accessdate=2021-04-14 |ref={{SfnRef|第5期 音更町総合計画|2011}} |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161114001702/http://www.town.otofuke.hokkaido.jp/town/zaisei-keikaku/keikaku/otofuke-soukei5.data/soukei5-all.pdf |archivedate=2016-11-14 |deadlinkdate=2021-04-14}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の地方公共団体 (お)]]
* [[日本の地方公共団体一覧]]
== 外部リンク ==
'''行政'''
* {{Official website}}
* {{Twitter|tweet_otofuke}}
* {{LINE公式アカウント|line_otofuke}}
'''産業'''
* [http://www.otofuke.jp 音更町商工会]
* [http://www.otofukebk.com 音更町物産協会]
'''観光'''
* [http://www.tokachigawa.net 音更町十勝川温泉観光協会]
* {{Facebook|tokachigawa.onsen|音更町十勝川温泉観光協会 (Hokkaido Tokachigawa Onsen Tourism Association)}}
{{十勝支庁の自治体}}
{{音更町の町・字}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:おとふけちよう}}
[[Category:音更町|*]]
[[Category:十勝管内]]
[[Category:北海道の市町村]]
[[Category:1906年設置の日本の市町村]]
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10,183 |
人名用漢字
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人名用漢字(じんめいようかんじ)は、日本における戸籍に子の名として記載できる漢字のうち、常用漢字に含まれないものを言う。法務省により戸籍法施行規則別表第二(「漢字の表」)として指定されている。
第二次世界大戦後の一時期、従来の複雑な日本語表記法の弊害を指摘し、漢字学習の負担を軽減するため漢字使用を極力制限、もしくは廃止するなど、日本語を単純化しようとする動きが起こった。当時の国語審議会委員にもこれら日本語改革論者の多数が就任し、当用漢字制定など戦後の国語政策に与えた影響は大きかった。
こうした動きを背景として「人名用漢字」は国語政策の一環として国語審議会で審議され、1951年5月の「人名漢字に関する建議」を受けて内閣告示されたものである。そしてその根拠となった理念は
また
というものであった。
子の名に用いる漢字及びその扱いは,1948年1月1日の戸籍法改正、及びそれを受けた戸籍法施行規則で規定されている。日本の戸籍に子の名として記載できる文字は、原則として常用漢字と人名用漢字、片仮名及び平仮名(変体仮名を除く)、長音符、踊り字(「々」など)のみである(戸籍法施行規則)。
根拠条文は、以下のとおりである。
戸籍法第50条(子の名に用いる文字)
戸籍法施行規則 第60条(常用平易な文字の範囲) 戸籍法第50条第2項の常用平易な文字は,次に掲げるものとする。
1946年11月16日に、内閣によって告示された当用漢字には、人名に頻繁に用いられる漢字の一部が含まれていなかった。1948年1月1日の戸籍法改正により、当用漢字の範囲に含まれない漢字は新生児の名に用いることができないとされたものの、1951年5月25日、内閣は92字を人名用漢字として新たに指定(人名用漢字別表)。子供の名前に使用したい漢字が使用できないことから親が裁判を行って使用が認められた字(1997年の「琉」、2004年の「曽」など)を人名用漢字に追加していった。また、親が子につける名前の多様化が進んだ結果、人名用漢字別表は次第に数を増やし、2004年7月12日時点で290の漢字が人名に用いることができるようになった。それでも「苺(いちご)」や「雫(しずく)」といった漢字が使えないなど、命名に対する不満の声があった。こうした声を受けて、同年9月27日には488字の大幅な追加がなされた。
2004年9月27日の追加では、沼尻・田尻・野尻などの名字で使われている「尻」や飛驒の「驒」、荏原の「荏」、さらに「焔・錨・鮪・燐・仍・崔・悧・懍・檸・檬・欅・浚・煕・瞑・碼・茗・萃・藺・逍・釐・霖・璋・鰹・鮭・葱・韮・蒜・體・絲・號・黴・莱(旧字体の萊は人名漢字)」などの追加を望む声もあったが追加には至らなかった。
外国人が日本国籍を取得する場合の姓にもこの文字の制限が適用されていたが、2008年12月8日の国籍法改正(2009年1月1日施行)に呼応した民事局長通達によりこの制限は緩和され、「康熙字典の正字」や「国字」も状況次第で使用可能となった。2008年12月31日以前は、「田尻」「小澤」「藪」や「崔・姜・趙・尹」といった、常用漢字や人名用漢字にない漢字を含む苗字にすることはできなかったが、現在はこの制限はなくなっている。なお、この漢字制限が明確に完全撤廃されたのは、2012年7月9日施行の新しい在留管理制度開始からである。
京都大学の安岡孝一は1976年に追加された「沙」の字(現在は常用漢字)が歌手の南沙織の影響を受けていると考えられることを例に、有名人の名前に使われた漢字が人名用漢字の拡大に寄与しているようだと述べた。
2004年6月11日、人名用漢字を一度に578字増やす見直し案が公表された。法相の諮問機関「法制審議会」の人名用漢字部会がまとめたもの。親から要望の強かった「雫・苺・遙・煌・牙」などが使用可能になるが、案は漢字の意味が「人名にふさわしいかどうか」の基準で判断せず、漢字の「使用頻度」や「平易さ」のみで選んだため、「糞・呪・屍・癌」など、ネガティブな意味を持つ漢字も多数含まれてしまった。同部会は、見直し案に対する意見を7月9日まで法務省のホームページなどで募集した。
同23日、審議会は先に募集した意見の中で反対の多かった、「糞・屍・呪・癌・姦・淫・怨・痔・妾」の9字を追加案から削除することを決めた。また、削除の要望のあった漢字489字のうち480字についても、さらに検討し削除するかを判断することとした。逆に追加するよう要望のあった「掬」を新たに加えることも決定した。
8月13日、審議会は7月23日に削除を決めた9字のほかに、「蔑・膿・腫・娼・尻・嘘」など79字を削除し、これを最終案として9月8日に法務大臣へ答申した。また、7月12日に訴訟の起こされていた3字が一足先に追加されたため、最終的に追加される漢字は488字となった。法務省はこの答申を受けて9月27日に法務省令(戸籍法施行規則)を改正した。これまで人名用漢字の許容字体とされていた異体字205字(「龍・彌」など)も人名用漢字となり、許容字体表は廃止された。この時点で人名用漢字の総数は983字となった。
なお、2010年11月30日の常用漢字改定で「呪」「淫」「怨」「蔑」「腫」「尻」については常用漢字に追加されたため、同時に人名にも使用可能になった。
人名に使える漢字の数(2017年9月25日現在) は
である。字種としては、1.の2136字種と2.の633字種を合わせて2769字種になる。3.は、すべてが常用漢字の異体字である。また、字体としては、1.の2136字体と2.の651字体、3.の212字体で合わせて2999字体になる。
長期間使っていたペンネームを名の変更届で本名とする場合は、「𠮷」など人名用漢字に含まれていない漢字でも家庭裁判所の判断により許可される可能性がある。
文字コード上のどの漢字とマッピングされているかと、正式な文字の字形は、法務省 戸籍統一文字情報で確認できる。
注「‐」は、相互の漢字が同一の字種であることを示している。
注:括弧内の漢字は、常用漢字表での字体を示している。
注:2004年に人名用漢字に統合され、現在は廃止されている。
人名に用いる読みの規定に制限はない。
しかし、近年は親が子につける名前が多様化し、中にはあらかじめ子の名前の読み方を決めてから漢字を当てるといった名前の付け方をする親も出てきた。そのため、名前がもとで「いじめ」などの社会問題が起こることがあり、人名に使用してよい読みを規定すべきだという主張もある。
なお、戸籍に登録されるのは本名だけであり、その読み方までは登録されないため、本名の字はそのままに読み方だけを変える場合には、役所に届け出れば読み方を変更することができる。本名の字も含めて名を変更したい場合には、家庭裁判所に届け出て許可を受ける必要がある。2018年に行われた茨城県境町の町長選挙に名を「勇喜」と書いて「てつわんあとむ」と読む人物が立候補して話題になったが、彼によればこれはれっきとした本名であり、同姓同名の人物が近所に住んでいるために郵便物や宅配便の誤配が相次いだため、裁判所に届け出て名を「勇喜(あとむ)」と改名し、のちに読み方を「てつわんあとむ」に変更する旨を役所に届け出たという。
いわゆるキラキラネームに悩んでいた当時18歳の男子高校生が、家庭裁判所に届け出て改名を2019年3月に果たして、「親は、本当によく考えて子どもに名前をつけてあげてください」とコメントした。
安土桃山時代にヨーロッパと交流が始まって以降、外国語を意訳して漢字を当てた名前が使用されるケースが存在するようになっていった。それに対し、無理に漢字を当てず仮名のほうがよいと指摘する専門家もいる。
日本以外の漢字文化圏での人名漢字についても、日本同様に制限されている場合もある。
韓国では、新生児の命名に漢字またはハングルを使用することができ(漢字とハングルの混合は認められておらず、漢字のみあるいはハングルのみに統一しなければならない)、漢字を使用する場合、日本同様に使用できる漢字は制限されており、命名に使用できる漢字を「인명용 한자(人名用漢字)」と呼んでいる。これは1991年に制定された。
韓国の人名用漢字もこれまでに数度の改訂で文字が追加されており、当初の2,731字から2015年には8,142字まで拡大されている。また韓国では、万が一人名用漢字にない漢字を使用した命名が役人の手違いにより受理された場合、後で役人が職権によりハングルに直すことがある。近年ではハングル表記のみで漢字名を持たない人もいる。
中国ではこれまで名付けに使える漢字に制限がなかった(ただし、「避諱」参照)。そのため、これまでの命名では文字コードにないような珍しい漢字が使用されることもあり、こういう漢字が使われるたびに文字コードに追加していかなくてはならないため、IT社会においては問題となる。そこで、中国でも将来的には命名に使える漢字を制限する方針にある。2020年1月現在、命名に対する法的な規制はないが、2013年に制定された通用規範漢字表収録の漢字を使用すべきとされている。
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"text": "いわゆるキラキラネームに悩んでいた当時18歳の男子高校生が、家庭裁判所に届け出て改名を2019年3月に果たして、「親は、本当によく考えて子どもに名前をつけてあげてください」とコメントした。",
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"title": "日本以外における人名用漢字"
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人名用漢字(じんめいようかんじ)は、日本における戸籍に子の名として記載できる漢字のうち、常用漢字に含まれないものを言う。法務省により戸籍法施行規則別表第二(「漢字の表」)として指定されている。
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{{特殊文字}}
'''人名用漢字'''(じんめいようかんじ)は、[[日本]]における[[戸籍]]に子の名として記載できる[[漢字]]のうち、[[常用漢字]]に含まれないものを言う。[[法務省]]により[[戸籍法]]施行規則別表第二(「漢字の表」)として指定されている。
== 導入の背景 ==
第二次世界大戦後の一時期、従来の複雑な日本語表記法の弊害を指摘し、漢字学習の負担を軽減するため漢字使用を極力制限、もしくは廃止するなど、日本語を単純化しようとする動きが起こった。当時の[[国語審議会]]委員にもこれら日本語改革論者の多数が就任し、当用漢字制定など戦後の国語政策に与えた影響は大きかった。
こうした動きを背景として「人名用漢字」は国語政策の一環として国語審議会で審議され、1951年5月の「人名漢字に関する建議」を受けて内閣告示されたものである。そしてその根拠となった理念は
{{Quotation|「子の名にはできるだけ常用平易な文字を用いることが理想である。その意味から子の名に用いる漢字は当用漢字によることが望ましい」|国語審議会 人名漢字に関する建議 昭和26年5月14日}}
また
{{Quotation|「国民の読み書き能力を向上させ,教育を高めるためには,国語表記法の改善が必要である。その具体的方法として,漢字整理と使用調整とが必要であることも,また動かしがたい方向である。(中略)国語審議会は人名の表記についても,これを念頭において考えるべきであると信ずるものである。(中略)いったい子の名というものは,常用平易な文字を選んでつけることが,その子の将来のためであるということは,社会通念として常識的に了解されることであろう。当用漢字の基準に従うことが,その子の幸福であることを知らなければならない。」|同・国語審議会 人名漢字に関する声明書 昭和26年5月14日}}
というものであった。
== 根拠法 ==
子の名に用いる漢字及びその扱いは,1948年1月1日の戸籍法改正、及びそれを受けた戸籍法施行規則で規定されている。日本の戸籍に子の名として記載できる文字は、原則として常用漢字と人名用漢字、[[片仮名]]及び[[平仮名]]([[変体仮名]]を除く)、[[長音符]]、[[踊り字]](「々」など)のみである(戸籍法施行規則)。
根拠条文は、以下のとおりである。
'''戸籍法第50条(子の名に用いる文字)'''
* 第1項 子の名には'''常用平易な文字'''を用いなければならない。
* 第2項 常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。
'''戸籍法施行規則 第60条(常用平易な文字の範囲)'''<br>
戸籍法第50条第2項の常用平易な文字は,次に掲げるものとする。
* 一 昭和21年内閣告示第32号当用漢字表に掲げる漢字
* 二 昭和26年内閣告示第1号人名用漢字別表に掲げる漢字(92字)
* 三 昭和51年内閣告示第1号人名用漢字追加表に掲げる漢字(28字)
* 四 片かな又は平かな(変体がなを除く。)
== 人名用漢字の変遷 ==
[[1946年]][[11月16日]]に、[[内閣]]によって告示された[[当用漢字]]には、人名に頻繁に用いられる漢字の一部が含まれていなかった。[[1948年]][[1月1日]]の[[戸籍法]]改正により、当用漢字の範囲に含まれない漢字は新生児の名に用いることができないとされたものの、[[1951年]][[5月25日]]、内閣は92字を人名用漢字として新たに指定(人名用漢字別表)。子供の名前に使用したい漢字が使用できないことから親が裁判を行って使用が認められた字(1997年の「琉」、2004年の「曽」など)を人名用漢字に追加していった。また、親が子につける名前の多様化が進んだ結果、人名用漢字別表は次第に数を増やし、2004年7月12日時点で290の漢字が人名に用いることができるようになった。それでも「[[イチゴ|苺(いちご)]]」や「[[水滴|雫(しずく)]]」といった漢字が使えないなど、命名に対する不満の声があった。こうした声を受けて、同年9月27日には488字の大幅な追加がなされた。
2004年9月27日の追加では、沼尻・田尻・野尻などの名字で使われている「尻」や飛驒の「驒」、荏原の「荏」、さらに「焔・錨・鮪・燐・仍<ref group="注釈">代表例に音楽ユニット『INFIX』(現[[infix]])のボーカル担当・[[長友仍世]](ながとも じょうせい)がある。</ref>・崔・悧・懍・檸<ref group="注釈" name="lemon">少年漫画作品『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』の主人公・「[[両津勘吉]]」の親戚(はとこ)に「擬宝珠檸檬(ぎぼし れもん)」という名前の小学生キャラが登場している。</ref>・檬<ref group="注釈" name="lemon" />・欅・浚・煕<ref group="注釈">[[異体字]]「熙」が人名漢字に指定する前はこの字が親字の扱いとなっていた。</ref>・瞑・碼・茗<ref group="注釈">一部少女漫画作品では、下の名前が “茗子(めいこ)” のサブヒロインキャラが登場した例がある。(※「[[ママレード・ボーイ]]」の項参照)</ref>・萃・藺・逍・釐・霖・璋・鰹・鮭・葱・韮・蒜・體・絲・號・黴・莱(旧字体の萊は人名漢字)<ref>[http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2009/07/02/rai/ Sanseido Word-Wise Web 三省堂辞書サイト 人名用漢字の新字旧字:「莱」と「萊」] 2009年7月2日</ref>」などの追加を望む声もあったが追加には至らなかった。
外国人が日本[[国籍]]を取得する場合の姓にもこの文字の制限が適用されていたが、[[2008年]][[12月8日]]の[[国籍法 (日本)|国籍法]]改正(2009年1月1日施行)に呼応した民事局長通達<ref>[http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~okuda/shiryoshu/heisei20_koseki_tsutatsu.html 民一第3302号民事局長通達] 第1-2-(3)参照</ref>によりこの制限は緩和され、「康熙字典の正字」や「国字」も状況次第で使用可能となった。2008年12月31日以前は、「田'''尻'''」「小'''澤'''」「'''藪'''」や「'''崔'''・'''姜'''・'''趙'''・'''尹'''」といった、常用漢字や人名用漢字にない漢字を含む苗字にすることはできなかったが、現在はこの制限はなくなっている<ref group="注釈">但し、姓名に関わらず印刷・機種・書体等による都合上、使用・表示・表記が制限される漢字が相当数存在する(※新規に登録された新人名許容漢字(親字・異体字)含む)。</ref>。なお、この漢字制限が明確に完全撤廃されたのは、2012年7月9日施行の新しい在留管理制度<ref>[http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact_1/ 新しい在留管理制度] 法務省 入国管理局</ref>開始からである<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20120324_95219.html 「鬼怒鳴門」で注目・帰化する際の日本名はどこまでOK?] 「NEWSポストセブン」の2012年3月24日の記事でこの漢字制限に言及。</ref>。
[[京都大学]]の[[安岡孝一]]は1976年に追加された「沙」の字(現在は常用漢字)が歌手の[[南沙織]]の影響を受けていると考えられることを例に、有名人の名前に使われた漢字が人名用漢字の拡大に寄与しているようだと述べた<ref>{{Cite web|和書|title=南沙織と人名用漢字 | yasuokaの日記 |author=安岡孝一 |url=https://srad.jp/~yasuoka/journal/545087/ |date=2012-01-13 |accessdate=2021-01-09 |website=スラド }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37759460U2A100C1000000?page=3|title=三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ|date=2012-01-10|work=ライフコラム ことばオンライン|website=NIKKEI STYLE|publisher=[[日本経済新聞社]], 日経BP|author=中川淳一|accessdate=2020-10-22|page=3}}</ref>。
=== 2004年9月の人名用漢字追加 ===
2004年6月11日、人名用漢字を一度に578字増やす見直し案が公表された。法相の諮問機関「法制審議会」の人名用漢字部会がまとめたもの。親から要望の強かった「{{JIS2004フォント|雫}}・{{JIS2004フォント|苺}}・{{JIS2004フォント|遙}}・{{JIS2004フォント|煌}}・{{JIS2004フォント|牙}}」などが使用可能になるが、案は漢字の意味が「人名にふさわしいかどうか」の基準で判断せず、漢字の「使用頻度」や「平易さ」のみで選んだため、「{{JIS2004フォント|糞}}・{{JIS2004フォント|呪}}・{{JIS2004フォント|屍}}・{{JIS2004フォント|癌}}」など、ネガティブな意味を持つ漢字も多数含まれてしまった。同部会は、見直し案に対する意見を7月9日まで法務省のホームページなどで募集した。
同23日、審議会は先に募集した意見の中で反対の多かった、「{{JIS2004フォント|糞}}・{{JIS2004フォント|屍}}・{{JIS2004フォント|呪}}・{{JIS2004フォント|癌}}・{{JIS2004フォント|姦}}・{{JIS2004フォント|淫}}・{{JIS2004フォント|怨}}・{{JIS2004フォント|痔}}・{{JIS2004フォント|妾}}」の9字を追加案から削除することを決めた<ref group="注釈">ただし、後の2010年の常用漢字改正では、追加される字にここで名前には不適切とされた「呪・怨」など34字が含まれており、名付けに使える字として復活した。</ref>。また、削除の要望のあった漢字489字のうち480字についても、さらに検討し削除するかを判断することとした。逆に追加するよう要望のあった「掬」を新たに加えることも決定した。
8月13日、審議会は7月23日に削除を決めた9字のほかに、「{{JIS2004フォント|蔑}}・{{JIS2004フォント|膿}}・{{JIS2004フォント|腫}}・{{JIS2004フォント|娼}}・{{JIS2004フォント|尻}}・{{JIS2004フォント|嘘}}」など79字を削除し、これを最終案として9月8日に法務大臣へ答申した。また、7月12日に訴訟の起こされていた3字が一足先に追加されたため、最終的に追加される漢字は488字となった。法務省はこの答申を受けて9月27日に法務省令(戸籍法施行規則)を改正した。これまで人名用漢字の許容字体とされていた異体字205字(「{{JIS2004フォント|龍}}・{{JIS2004フォント|彌}}」など)も人名用漢字となり、許容字体表は廃止された。この時点で人名用漢字の総数は983字となった。
なお、2010年11月30日の常用漢字改定で「呪」「淫」「怨」「蔑」「腫」「尻」については常用漢字に追加されたため、同時に人名にも使用可能になった。
=== 沿革 ===
* [[1951年]]5月25日、92字を人名用漢字として新たに指定
* [[1976年]]7月30日、28字を追加し、120字となる
* [[1981年]]10月1日、[[常用漢字]]に取り入れられた8字を削除し、54字を追加して166字となる
* [[1990年]]4月1日、118字を追加し284字となる
* [[1997年]]12月3日、1字「{{JIS2004フォント|琉}}」を追加し、285字となる。
* [[2004年]]2月23日、1字「{{JIS2004フォント|曽}}」を追加し、286字となる
* 同6月7日、1字「{{JIS2004フォント|獅}}」を追加し、287字となる
* 同7月12日、3字「{{JIS2004フォント|毘}}・{{JIS2004フォント|瀧}}<ref group="注釈">主にアメリカで活動するタレント・[[神田瀧夢]]の「瀧」は「[[滝]]」の旧字体である。</ref>・{{JIS2004フォント|駕}}」を追加し、290字となる
* 同9月27日、許容字体からの205字と追加された488字を加え、全部で983字となる
* [[2009年]]4月30日、2字「祷・穹」を追加し、985字となる
* [[2010年]]11月30日、[[常用漢字]]の改正に伴って、[[常用漢字表]]に追加された129字を削除(うち3字の異体字が表二へ移動)、常用漢字表から削除された5字<ref group="注釈">「勺」「錘」「銑」「脹」「匁」。</ref>を追加し、合計861字となる
* [[2015年]]1月7日、「巫」を追加し、合計862字となる<ref>{{Cite news |title=「巫」、きょうから人名用漢字に 09年以来の追加 |newspaper=朝日新聞 |date=2015-01-07 |url=http://www.asahi.com/articles/ASH166K7BH16UTIL036.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150107012525/http://www.asahi.com/articles/ASH166K7BH16UTIL036.html |archivedate=2015-01-07}}</ref>
* [[2017年]]9月25日、「渾」を追加し、合計863字となる<ref>{{Cite news |title=人名用漢字に「渾」追加 司法判断を受け法務省 改正戸籍法施行規則を施行、計863字に |newspaper=日本経済新聞 |date=2017-09-25 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H0N_U7A920C1000000/}}</ref>
== 人名用漢字の一覧 ==
{{Wiktionary|Wiktionary:人名用漢字の一覧}}
{{See also|[[人名用漢字一覧]]}}
人名に使える漢字の数(2017年9月25日現在) は
# [[常用漢字]]2136字種2136字体([[常用漢字一覧|一覧]])
# 漢字の表(一)(常用漢字の異体字でないもの)633字種651字体
# 漢字の表(二)(常用漢字の異体字であるもの)212字種212字体
である。字種としては、1.の2136字種と2.の633字種を合わせて2769字種になる。3.は、すべてが常用漢字の異体字である。また、字体としては、1.の2136字体と2.の651字体、3.の212字体で合わせて2999字体になる。
長期間使っていた[[ペンネーム]]を[[名の変更届]]で本名とする場合は、「𠮷」など人名用漢字に含まれていない漢字でも[[家庭裁判所]]の判断により許可される可能性がある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ABlog 入籍しました |url=http://abworks.blog83.fc2.com/blog-entry-951.html |website=abworks.blog83.fc2.com |access-date=2023-09-27 |publisher=[[安倍吉俊]]}}</ref>。
文字コード上のどの漢字とマッピングされているかと、正式な文字の字形は、[http://kosekimoji.moj.go.jp/kosekimojidb/mjko/PeopleTop 法務省 戸籍統一文字情報]で確認できる。
; [[常用漢字]]以外の文字とその[[異体字]]
: {{JIS2004フォント|{{big|丑 丞 乃 之 乎 也 云 亘‐亙 些 亦 亥 亨 亮 仔 伊 伍 伽 佃 佑 伶 侃 侑 俄 俠 俣 俐 倭 俱 倦 倖 偲 傭 儲 允 兎 兜 其 冴 凌 凜‐凛 凧 凪 凰 凱 函 劉 劫 勁 勺 勿 匁 匡 廿 卜 卯 卿 厨 厩 叉 叡 叢 叶 只 吾 吞 吻 哉 哨 啄 哩 喬 喧 喰 喋 嘩 嘉 嘗 噌 噂 圃 圭 坐 尭‐堯 坦 埴 堰 堺 堵 塙 壕 壬 夷 奄 奎 套 娃 姪 姥 娩 嬉 孟 宏 宋 宕 宥 寅 寓 寵 尖 尤 屑 峨 峻 崚 嵯 嵩 嶺 巌‐巖 巫 已 巳 巴 巷 巽 帖 幌 幡 庄 庇 庚 庵 廟 廻 弘 弛 彗 彦 彪 彬 徠 忽 怜 恢 恰 恕 悌 惟 惚 悉 惇 惹 惺 惣 慧 憐 戊 或 戟 托 按 挺 挽 掬 捲 捷 捺 捧 掠 揃 摑 摺 撒 撰 撞 播 撫 擢 孜 敦 斐 斡 斧 斯 於 旭 昂 昊 昏 昌 昴 晏 晃‐晄 晒 晋 晟 晦 晨 智 暉 暢 曙 曝 曳 朋 朔 杏 杖 杜 李 杭 杵 杷 枇 柑 柴 柘 柊 柏 柾 柚 桧‐檜 栞 桔 桂 栖 桐 栗 梧 梓 梢 梛 梯 桶 梶 椛 梁 棲 椋 椀 楯 楚 楕 椿 楠 楓 椰 楢 楊 榎 樺 榊 榛 槙‐槇 槍 槌 樫 槻 樟 樋 橘 樽 橙 檎 檀 櫂 櫛 櫓 欣 欽 歎 此 殆 毅 毘 毬 汀 汝 汐 汲 沌 沓 沫 洸 洲 洵 洛 浩 浬 淵 淳 渚‐渚 淀 淋 渥 渾 湘 湊 湛 溢 滉 溜 漱 漕 漣 澪 濡 瀕 灘 灸 灼 烏 焰 焚 煌 煤 煉 熙 燕 燎 燦 燭 燿 爾 牒 牟 牡 牽 犀 狼 猪‐猪 獅 玖 珂 珈 珊 珀 玲 琢‐琢 琉 瑛 琥 琶 琵 琳 瑚 瑞 瑶 瑳 瓜 瓢 甥 甫 畠 畢 疋 疏 皐 皓 眸 瞥 矩 砦 砥 砧 硯 碓 碗 碩 碧 磐 磯 祇 祢‐禰 祐‐祐 祷‐禱 禄‐祿 禎‐禎 禽 禾 秦 秤 稀 稔 稟 稜 穣‐穰 穹 穿 窄 窪 窺 竣 竪 竺 竿 笈 笹 笙 笠 筈 筑 箕 箔 篇 篠 簞 簾 籾 粥 粟 糊 紘 紗 紐 絃 紬 絆 絢 綺 綜 綴 緋 綾 綸 縞 徽 繫 繡 纂 纏 羚 翔 翠 耀 而 耶 耽 聡 肇 肋 肴 胤 胡 脩 腔 脹 膏 臥 舜 舵 芥 芹 芭 芙 芦 苑 茄 苔 苺 茅 茉 茸 茜 莞 荻 莫 莉 菅 菫 菖 萄 菩 萌‐萠 萊 菱 葦 葵 萱 葺 萩 董 葡 蓑 蒔 蒐 蒼 蒲 蒙 蓉 蓮 蔭 蔣 蔦 蓬 蔓 蕎 蕨 蕉 蕃 蕪 薙 蕾 蕗 藁 薩 蘇 蘭 蝦 蝶 螺 蟬 蟹 蠟 衿 袈 袴 裡 裟 裳 襖 訊 訣 註 詢 詫 誼 諏 諄 諒 謂 諺 讃 豹 貰 賑 赳 跨 蹄 蹟 輔 輯 輿 轟 辰 辻 迂 迄 辿 迪 迦 這 逞 逗 逢 遥‐遙 遁 遼 邑 祁 郁 鄭 酉 醇 醐 醍 醬 釉 釘 釧 銑 鋒 鋸 錘 錐 錆 錫 鍬 鎧 閃 閏 閤 阿 陀 隈 隼 雀 雁 雛 雫 霞 靖 鞄 鞍 鞘 鞠 鞭 頁 頌 頗 顚 颯 饗 馨 馴 馳 駕 駿 驍 魁 魯 鮎 鯉 鯛 鰯 鱒 鱗 鳩 鳶 鳳 鴨 鴻 鵜 鵬 鷗 鷲 鷺 鷹 麒 麟 麿 黎 黛 鼎}}}}
注「‐」は、相互の漢字が同一の字種であることを示している。
; [[常用漢字]]の[[異体字]]
: {{JIS2004フォント|{{big|亞(亜) 惡(悪) 爲(為) 逸(逸) 榮(栄) 衞(衛) 謁(謁) 圓(円) 緣(縁) 薗(園) 應(応) 櫻(桜) 奧(奥) 橫(横) 溫(温) 價(価) 禍(禍) 悔(悔) 海(海) 壞(壊) 懷(懐) 樂(楽) 渴(渇) 卷(巻) 陷(陥) 寬(寛) 漢(漢) 氣(気) 祈(祈) 器(器) 僞(偽) 戲(戯) 虛(虚) 峽(峡) 狹(狭) 響(響) 曉(暁) 勤(勤) 謹(謹) 駈(駆) 勳(勲) 薰(薫) 惠(恵) 揭(掲) 鷄(鶏) 藝(芸) 擊(撃) 縣(県) 儉(倹) 劍(剣) 險(険) 圈(圏) 檢(検) 顯(顕) 驗(験) 嚴(厳) 廣(広) 恆(恒) 黃(黄) 國(国) 黑(黒) 穀(穀) 碎(砕) 雜(雑) 祉(祉) 視(視) 兒(児) 濕(湿) 實(実) 社(社) 者(者) 煮(煮) 壽(寿) 收(収) 臭(臭) 從(従) 澁(渋) 獸(獣) 縱(縦) 祝(祝) 暑(暑) 署(署) 緖(緒) 諸(諸) 敍(叙) 將(将) 祥(祥) 涉(渉) 燒(焼) 奬(奨) 條(条) 狀(状) 乘(乗) 淨(浄) 剩(剰) 疊(畳) 孃(嬢) 讓(譲) 釀(醸) 神(神) 眞(真) 寢(寝) 愼(慎) 盡(尽) 粹(粋) 醉(酔) 穗(穂) 瀨(瀬) 齊(斉) 靜(静) 攝(摂) 節(節) 專(専) 戰(戦) 纖(繊) 禪(禅) 祖(祖) 壯(壮) 爭(争) 莊(荘) 搜(捜) 巢(巣) 曾(曽) 裝(装) 僧(僧) 層(層) 瘦(痩) 騷(騒) 增(増) 憎(憎) 藏(蔵) 贈(贈) 臟(臓) 卽(即) 帶(帯) 滯(滞) 瀧(滝) 單(単) 嘆(嘆) 團(団) 彈(弾) 晝(昼) 鑄(鋳) 著(著) 廳(庁) 徵(徴) 聽(聴) 懲(懲) 鎭(鎮) 轉(転) 傳(伝) 都(都) 嶋(島) 燈(灯) 盜(盗) 稻(稲) 德(徳) 突(突) 難(難) 拜(拝) 盃(杯) 賣(売) 梅(梅) 髮(髪) 拔(抜) 繁(繁) 晚(晩) 卑(卑) 祕(秘) 碑(碑) 賓(賓) 敏(敏) 冨(富) 侮(侮) 福(福) 拂(払) 佛(仏) 勉(勉) 步(歩) 峯(峰) 墨(墨) 飜(翻) 每(毎) 萬(万) 默(黙) 埜(野) 彌(弥) 藥(薬) 與(与) 搖(揺) 樣(様) 謠(謡) 來(来) 賴(頼) 覽(覧) 欄(欄) 龍(竜) 虜(虜) 凉(涼) 綠(緑) 淚(涙) 壘(塁) 類(類) 禮(礼) 曆(暦) 歷(歴) 練(練) 鍊(錬) 郞(郎) 朗(朗) 廊(廊) 錄(録)}}}}
注:括弧内の漢字は、常用漢字表での字体を示している。
== 人名用漢字許容字体表 ==
: {{JIS2004フォント|{{big|亞 惡 爲 衞 應 櫻 奧 價 壞 懷 樂 渴 卷 陷 氣 僞 戲 峽 狹 曉 勳 惠 揭 鷄 藝 縣 儉 劍 險 圈 檢 顯 驗 嚴 廣 恆 國 碎 雜 兒 濕 壽 收 從 澁 獸 縱 敍 將 燒 奬 條 乘 淨 剩 疊 孃 讓 釀 眞 寢 愼 盡 粹 醉 穗 齊 靜 攝 專 戰 纖 禪 壯 爭 莊 搜 裝 騷 增 藏 臟 帶 滯 單 團 彈 晝 鑄 廳 聽 鎭 轉 傳 燈 盜 稻 拜 賣 髮 拔 祕 拂 佛 飜 默 藥 與 搖 樣 謠 來 覽 龍 壘 亙 巖 彌 祿 穰}}}}
注:2004年に人名用漢字に統合され、現在は廃止されている。
== 読みをめぐる議論 ==
{{出典の明記|section=1|date=2013年6月}}
人名に用いる読みの規定に制限はない。
しかし、近年は親が子につける名前が多様化し、中にはあらかじめ子の名前の読み方を決めてから漢字を当てるといった名前の付け方をする親も出てきた<ref group="注釈">(例)永久恋愛(えくれあ)ちゃん、光宙(ぴかちゅう)くんなど。[[キラキラネーム|俗にいうキラキラネーム(DQNネーム)]]。</ref><ref>{{Cite news |title=安倍総裁「キラキラネーム、いじめられる」 北海道新聞「いじめ、いさめるのが教育」 |newspaper=J-CASTニュース |date=2012-11-23 |url=https://www.j-cast.com/2012/11/23155095.html?p=all}}</ref>。そのため、名前がもとで「いじめ」などの社会問題<ref group="注釈">いわゆる「[[消えた年金問題]]」を引き起こした国民年金加入者のデータ入力ミスの原因のひとつに名前の読みから漢字に直接変換できなかったこともあげられる。その上、問題解決の際に漢字から読みへの変換を行ったとき、日本語をよく知らない外国人に作業を行わせ、正しい読みにすらできないケースが発生して問題をさらに大きくさせた事象もある。{{要出典|date=2012年8月}}</ref>が起こることがあり、人名に使用してよい読みを規定すべきだという主張もある。
なお、[[戸籍]]に登録されるのは本名だけであり、その読み方までは登録されないため、本名の字はそのままに読み方だけを変える場合には、役所に届け出れば読み方を変更することができる。本名の字も含めて名を変更したい場合には、[[家庭裁判所]]に届け出て許可を受ける必要がある。[[2018年]]に行われた[[茨城県]][[境町]]の町長選挙に名を「勇喜」と書いて「てつわんあとむ」と読む人物が立候補して話題になったが、彼によればこれはれっきとした本名であり、同姓同名の人物が近所に住んでいるために郵便物や宅配便の誤配が相次いだため、裁判所に届け出て名を「勇喜(あとむ)」と改名し、のちに読み方を「てつわんあとむ」に変更する旨を役所に届け出たという<ref>{{Cite web|和書|title=「高嶋てつわんあとむ」は何者か 茨城県の町長選挙に出馬し話題|url=https://news.livedoor.com/article/detail/14403091/|website=ライブドアニュース|accessdate=2019-11-19|language=ja}}</ref>。
いわゆるキラキラネームに悩んでいた当時18歳の男子高校生が、家庭裁判所に届け出て改名を2019年3月に果たして、「親は、本当によく考えて子どもに名前をつけてあげてください」とコメントした<ref>{{Cite web|和書|title=「キラキラネームの十字架」を背負った高校生。彼の決意と改名までの道|url=https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/changingkirakiraname|website=BuzzFeed|accessdate=2020-05-29|language=en|first=Sumireko|last=Tomita}}</ref>。
[[安土桃山時代]]に[[ヨーロッパ]]と交流が始まって以降、外国語を意訳して漢字を当てた名前が使用されるケースが存在するようになっていった。{{誰範囲|date=2021年10月12日 (火) 02:31 (UTC)|それに対し、無理に漢字を当てず仮名のほうがよいと指摘する専門家もいる}}。
== 日本以外における人名用漢字 ==
日本以外の漢字文化圏での人名漢字についても、日本同様に制限されている場合もある。
=== 韓国 ===
[[大韓民国|韓国]]では、新生児の命名に漢字または[[ハングル]]を使用することができ(漢字とハングルの混合は認められておらず、漢字のみあるいはハングルのみに統一しなければならない)、漢字を使用する場合、日本同様に使用できる漢字は制限されており、命名に使用できる漢字を「{{Lang|ko|인명용 한자}}(人名用漢字)」と呼んでいる。これは[[1991年]]に制定された。
韓国の人名用漢字もこれまでに数度の改訂で文字が追加されており、当初の2,731字から[[2015年]]には8,142字まで拡大されている。また韓国では、万が一人名用漢字にない漢字を使用した命名が役人の手違いにより受理された場合、後で役人が職権によりハングルに直すことがある<ref>{{Cite news |title=韓国で子供に名前を付ける際の注意点とは? |newspaper=朝鮮日報日本語版 |date=2007-03-05 |url=http://www.chosunonline.com/article/20070305000048 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080505054333/http://www.chosunonline.com/article/20070305000048 |archivedate=2008-05-05}}</ref>。近年ではハングル表記のみで漢字名を持たない人もいる<ref group="注釈">韓国内外で活躍する[[スポーツ選手]]([[プロゴルファー]]の[[朴セリ]]など)や制作スタッフなどでも複数名存在する。</ref>。
{{Seealso|朝鮮人の人名#個人名}}
=== 中国 ===
[[中国]]ではこれまで名付けに使える漢字に制限がなかった(ただし、「[[避諱]]」参照)。そのため、これまでの命名では[[文字コード]]にないような珍しい漢字が使用されることもあり、こういう漢字が使われるたびに文字コードに追加していかなくてはならないため、IT社会においては問題となる。そこで、中国でも将来的には命名に使える漢字を制限する方針にある。2020年1月現在、命名に対する法的な規制はないが、[[2013年]]に制定された[[通用規範漢字表]]収録の漢字を使用すべきとされている<ref>{{Cite web |title=2019年全国姓名报告出炉:“张伟”重名最多|website=[[人民網]] [[江蘇]]|date=2020-1-21 |url=http://js.people.com.cn/n2/2020/0121/c360303-33734942.html|accessdate=2020-1-21}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=円満字二郎 |title=人名用漢字の戦後史 |year=2005 |month=7 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] 新赤版957 |ISBN=4-0043-0957-3}}
** [http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0507/sin_k241.html 人名用漢字の戦後史]
* {{Cite book |和書 |author=安岡孝一 |title=新しい常用漢字と人名用漢字 |year=2011 |month=3 |publisher=[[三省堂]] |ISBN=978-4-3853-6523-7}}
** [http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/books/wwb_joyo/ 新しい常用漢字と人名用漢字]
== 関連書籍 ==
* {{Cite book |和書 |author=日本加除出版編集部(編) |title=最新 子の名に使える漢字字典 |year=2004 |month=11 |publisher=[[日本加除出版]] |ISBN=4-8178-1291-5}}
* {{Cite book |和書 |author=戸籍実務研究会(編) |title=わかりやすい一表式 誤字俗字・正字一覧―戸籍の氏又は名の記載・記録に用いる文字― |edition=新版 |year=2004 |month=11 |publisher=日本加除出版 |ISBN=4-8178-3724-1}}
* {{Cite book |和書 |author=日本加除出版企画部(編) |title=最新人名用漢字と誤字俗字関係通達の解説 |year=2005 |month=6 |publisher=日本加除出版 |ISBN=978-4-8178-1296-4}}
* {{Cite book |和書 |author=日本加除出版編集部(編) |title=人名用漢字の変遷 ― 子の名に使える漢字の全履歴 |year=2007 |month=10 |publisher=日本加除出版 |ISBN=978-4-8178-1338-1}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|Wiktionary:人名用漢字の一覧}}
{{Wiktionary|Wiktionary:常用漢字の一覧}}
* [[人名用漢字一覧]]
* [[常用漢字]]
* [[常用漢字一覧]]
* [[表外漢字字体表]]([[印刷標準字体]]) - [[表外漢字字体表の漢字一覧]]
* [[JIS漢字コード]]
* [[戸籍統一文字]]
* [[MJ文字]]
* [[在留カード及び特別永住者証明書における正字]]
* [[避諱]]
* [[人名訓]]
* [[悪魔ちゃん命名騒動]]
* [[平仮名]]
* [[片仮名]]
* [[変体仮名]]
== 外部リンク ==
* [https://www.moj.go.jp/MINJI/minji86.html 子の名に使える漢字] - [[法務省]]
* [http://kosekimoji.moj.go.jp/kosekimojidb/mjko/PeopleTop 戸籍統一文字情報] - 法務省
* {{Egov law|322M40000010094|戸籍法施行規則(昭和22年12月29日司法省令第94号)}}
* [http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/japan-jimmei3.html 人名用漢字別表の変遷(漢字袋)] - [[安岡孝一]]・安岡素子
* [http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp Sanseido Word-Wise Web]連載[http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/table_of_contents/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E5%AD%9D%E4%B8%80%E3%81%95%E3%82%93%E4%BA%BA%E5%90%8D%E7%94%A8%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%AD%97%E6%97%A7%E5%AD%97/ 「人名用漢字の新字旧字」目次] - 安岡孝一
* [https://www.moj.go.jp/PUBLIC/MINJI46/pub_minji46.html 人名用漢字の範囲の見直し(拡大)に関する意見募集](2004年6月) - 法務省
* [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/kanji/ 常用漢字表](平成22年内閣告示第2号) - [[文化庁]]
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当用漢字
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当用漢字(とうようかんじ)は、1946年(昭和21年)11月5日に国語審議会が答申し、同年11月16日に内閣が告示した「当用漢字表」に掲載された1850の漢字を指す。「当用」とは「さしあたって用いる」の意。1981年(昭和56年)、常用漢字表の告示に伴い当用漢字表は廃止された。
広義には、以下の一連の内閣告示を総称する。
当用漢字は、さまざまな漢字のうち制定当時使用頻度の高かったものを中心に構成されており、公文書や出版物などに用いるべき範囲の漢字として告示され、その後学校教育、日本新聞協会加盟マスメディアなどを通じて普及した。複雑かつ不統一だった従来の字体の一部に代えて、簡易字体を正式な字体として採用した。
第二次世界大戦前から漢字廃止論者、漢字制限主義者、表音主義者は、漢字は数が多く学習に困難であるから制限または廃止すべきであると主張し、実際に、文部省を中心に用字制限などを試みた。しかし民間や文学者、日本語学者からの反対意見も強く、改革は行われないでいた。
戦後、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策となった国語国字改革のもと、簡素化と平明さを目指して、戦時下に作成された標準漢字表内の常用漢字を基に当用漢字が策定された。従前は、答申、すなわち単なる意見具申が内閣に提出されてから十分な期間、民間の討議に付されるのが一般的であったが、当用漢字については1946年(昭和21年)11月5日に漢字表を公表後、わずか11日後の16日に内閣告示という極めて性急なものであった。連合国軍最高司令官総司令部内部には「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」と考える者がおり、1948年(昭和23年)には連合国軍最高司令官総司令部のジョン・ペルゼルによる発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が持ち上がった。予備調査として正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した。1948年(昭和23年)8月、文部省教育研修所により、15歳から64歳までの約1万7000人を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率は非常に高く、漢字と識字率には関係がないことが証明された。このため当用漢字は実際には「常用」されることになり、この状況が常用漢字表告示まで続いた。
当用漢字の字種を指定した1946年(昭和21年)の告示には、当用漢字表を告示することの意図などが説明されている。
「まえがき」では、当用漢字は、法令、公文書、新聞、雑誌および一般社会を対象に、漢字制限のめやすとして選んだものとしている。
使用上の注意として、この当用漢字で書けない場合には、別の言葉にかえるか、かな書きにするとされた。
専門用語については当用漢字を基準として「整理」することが望ましいとした。これには、当用漢字に含まれない漢字の使用を即刻中止し、平仮名で表記せよという強硬な指示ではなく、専門家の判断を尊重するという含みがある。同時に、専門的な業務や研究においても基本的には当用漢字の範囲でのみ漢字を使用すべきであることを示唆している。なお、日本国憲法で使用される漢字はすべて当用漢字表に採用された。
固有名詞については「まえがき」に「法規上その他に関係するところが多いので、別に考えることとした」とある。例えば地名や人の姓については当用漢字に含まれないものが多くあるが、それは問題とされない。ただし土地区画整理事業・町名変更・出生などで新たに地名・人名を付ける場合は当用漢字に縛られることになる。人の名については、1947年(昭和22年)の改正戸籍法により、子の名に常用平易な文字を用いることとされ、戸籍法施行規則第60条で漢字は当用漢字の範囲に限られることとなった。
ほかに動物や植物の名称、中国を除く外国の地名、外来語などは、かな書きするとした。
字体および音訓(音読み・訓読み)については調査中であるとした。「𠮷」は当用漢字表には無かったが、官報に印刷された内閣総理大臣の名は「𠮷田茂」となっているなど混乱があった。これらについては後に当用漢字音訓表(1948年〈昭和23年〉2月16日)、当用漢字字体表(1949年〈昭和24年〉4月28日)として告示された。4月28日以降は吉田茂の表記に改められた。
当用漢字別表(1948年〈昭和23年〉2月16日)は、義務教育の期間に読み書きともにできるように指導することが必要であるとされた漢字を定める。
当用漢字以外の漢字(表外字)を含む語について、同音の当用漢字に書きかえた代用字と代用語が使われるようになり、一部に混乱も見られた。これを受け、『同音の漢字による書きかえ(1956年〈昭和31年〉7月5日国語審議会報告)』が示された。『同音の漢字による書きかえ』は、常用漢字表告示後も公文書をはじめとした用字の指針となっている。
1951年(昭和26年)、当用漢字以外で人名に使用することのできる漢字として、人名用漢字別表で92字が示された。1976年(昭和51年)には人名用漢字追加表により28字が加えられた。
1954年(昭和29年)3月、国語審議会は「将来当用漢字表の補正を決定するさいの基本的な資料」として「当用漢字表審議報告」をまとめた。新聞界の要望を基に、28字を入れ替えるなどの内容であった。文芸界や教育界・法曹界の反対により正式な答申や内閣告示には至らず、公用文や教科書などの漢字使用には影響しなかった。新聞界は「当用漢字表補正案」と呼び、運用を通じて当用漢字表見直しの検討材料にするとして、同年4月から全面的に採用し漢字使用のよりどころとした(当用漢字時代における新聞の漢字使用の方針については新聞常用漢字表#当用漢字時代を参照)。
1970年(昭和45年)、公害病・水俣病救済運動で当用漢字表にない「怨」という漢字を白く染め抜いた黒い幟旗が現れ、マスコミもこれを報じた。円満字二郎によれば、「朝日新聞戦後見出しデータベース」に収録された見出しの使用例は当用漢字実施から水俣病の社会問題化までの間の2例のみだが、これ以降「怨」の字がマスコミでも頻繁に用いられるようになった。次第に固有名詞以外でも当用漢字に縛られない漢字使用が広がりを見せた。
1966年(昭和41年)の中村梅吉文相発言(詳細は国語審議会#方針転換参照)により、漢字全廃ではなく「漢字仮名交じり文が前提」として、まず音訓が大幅に改定される。
1973年(昭和48年)に当用漢字改定音訓表が内閣により告示された。これは既存の音訓表に357の音訓を追加し、新たに当て字や熟字訓のうち日常生活で高頻度に使用される106語を「付表」としてまとめたものである。この時点でそれまでの制限的な色合いが大幅に緩和された。
1981年(昭和56年)、当用漢字を基にしつつ緩やかな「目安」である常用漢字表が内閣から告示され、当用漢字表は廃止された。
当用漢字以前に書かれていた熟語には「牽引」のように熟語を構成する漢字に当用漢字とそれ以外の漢字とが混在するものが多数存在した。これらの熟語は「けん引」のように当用漢字だけを漢字にしそれ以外(表外字)を仮名で書く交ぜ書きが行われることとなった。こうして一つの語の内部で字種の不統一を招いた。活版印刷の定着以降、分かち書きをしなくなった日本語においては、字種の変化が単語境界を示すマークとなっており、それを見つけにくくした。
中国文学者の高島俊男は、新字体の導入によって、例えば、同じ「專」が、專は専、傳・轉は伝・転、團は団となってしまい、「まるい」・「まるい運動」という共通義をもった家族(単語族)の縁が切れてしまったと指摘している。
当用漢字は日本独自の新字体を採用しているため、当用漢字だけの知識では古典を原典のままでは読めなくなってしまった。そこで、新字体に書き換えた古典が登場するようになったが、新字体では複数の字種を一つにまとめたので、例えば辨・辯・瓣は弁にまとめてしまったために、序文という意味(「弁」はかんむり)の「弁言」と、口達者という意味の「辯言」が新字体では「弁言」になって区別がつかなくなるという事態が発生するようになった。
当用漢字字体表告示の時点では、日本以外の漢字文化圏で、手書き文字として略字が民間で使われていたものの、公式に漢字を簡略化した国はなかった。これ以降、同じ意味の漢字であっても公式な字体や活字の字体が大きく異なるというものが出現した。中華人民共和国では1956年漢字簡化方案により簡体字が実施された。台湾、香港では漢字の系統的・政策的な簡略化は行われず、繁体字(概ね康煕字典体)を維持しているが、特に1980年代以降漢字の標準字体を示す際に整理が行われ、従来活字で見られたものとは異なる字体が標準とされた字も少なくない。朝鮮半島では漢字の字体の変更は行われていないが、ハングル専用政策により北朝鮮では漢字自体が全廃され、大韓民国では漢字の使用が激減した。
市町村名称の字体が、当用漢字字体表にない従来の字体の場合は、当用漢字字体表の字体で書き表しても、地方自治法における名称変更に該当しない。
当該市町村が各種法令に基づく手続等の際に、その名称を当用漢字字体表の字体で書き表しても法令上有効であり、個人や法人が、各種法令に基く手続等で住所を書き表す場合、市町村名および市町村内の町名または字名の書き表し方についても同様となる。
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当用漢字(とうようかんじ)は、1946年(昭和21年)11月5日に国語審議会が答申し、同年11月16日に内閣が告示した「当用漢字表」に掲載された1850の漢字を指す。「当用」とは「さしあたって用いる」の意。1981年(昭和56年)、常用漢字表の告示に伴い当用漢字表は廃止された。 広義には、以下の一連の内閣告示を総称する。 当用漢字表(1946年〈昭和21年〉11月16日)
当用漢字別表(1948年〈昭和23年〉2月16日)
当用漢字音訓表(同)
当用漢字字体表(1949年〈昭和24年〉4月28日)
当用漢字改定音訓表(1973年〈昭和48年〉6月18日)
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{{漢字}}
'''当用漢字'''(とうようかんじ)は、[[1946年]]([[昭和]]21年)11月5日に[[国語審議会]]が答申し、同年[[11月16日]]に[[内閣 (日本)|内閣]]が[[告示]]した「当用漢字表」に掲載された1850の[[漢字]]を指す。「当用」とは「さしあたって用いる」の意<ref>大辞林第3版、大辞泉、他。</ref>{{Refnest|国語審議会において「当用漢字表」の名称が提案された際、「当用」は「日常の使用にあてる」の意味であると説明された{{Sfn|漢字に関する主査委員会 第14回 議事録}}。}}。[[1981年]](昭和56年)、[[常用漢字]]表の告示に伴い当用漢字表は廃止された。
広義には、以下の一連の内閣告示を総称する。
*当用漢字表(1946年〈昭和21年〉11月16日)
*当用漢字別表([[1948年]]〈昭和23年〉2月16日)
*当用漢字音訓表(同)
*当用漢字字体表([[1949年]]〈昭和24年〉4月28日)
*当用漢字改定音訓表([[1973年]]〈昭和48年〉6月18日)
== 概説 ==
当用漢字は、さまざまな漢字のうち制定当時使用頻度の高かったものを中心に構成されており、[[証書|公文書]]や[[出版|出版物]]などに用いるべき範囲の漢字として告示され、その後[[学校教育]]、[[日本新聞協会]]加盟[[マスメディア]]などを通じて普及した。複雑かつ不統一だった従来の字体の一部に代えて、簡易字体を正式な字体として採用した。
[[第二次世界大戦]]前から[[漢字廃止論]]者、漢字制限主義者、[[表音主義]]者は、漢字は数が多く[[学習]]に困難であるから制限または廃止すべきであると主張し、<!-- 作家・[[山本有三]]、[[土岐善麿]]らは漢字の濫用が[[軍国主義]]復活につながると主張し、←戦前の事情を述べる文脈にあるのはおかしい -->実際に、[[文部省]]を中心に用字制限などを試みた。しかし[[民間人|民間]]や[[文学者]]、[[日本語学|日本語学者]]からの反対意見も強く、改革は行われないでいた。
[[戦後]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の[[連合国軍占領下の日本#政策|占領政策]]となった[[国語国字問題#国語改革|国語国字改革]]のもと、簡素化と平明さを目指して、戦時下に作成された標準漢字表内の常用漢字を基に当用漢字が策定された。従前は、答申、すなわち単なる意見具申が内閣に提出されてから十分な期間、民間の討議に付されるのが一般的であったが、当用漢字については1946年(昭和21年)11月5日に漢字表を公表後、わずか11日後の16日に内閣告示という極めて性急なものであった。連合国軍最高司令官総司令部内部には「[[日本語]]は漢字が多いために覚えるのが難しく、[[識字率]]が上がりにくいために[[民主化]]を遅らせている」と考える者がおり、1948年(昭和23年)には連合国軍最高司令官総司令部の[[ジョン・ペルゼル]]による発案で、日本語を[[ローマ字]]表記にしようとする計画が持ち上がった。予備調査として正確な識字率調査のため[[民間情報教育局]]は国字[[ローマ字論]]者の言語学者である[[柴田武]]に全国的な調査を指示した。1948年(昭和23年)8月、文部省教育研修所により、15歳から64歳までの約1万7000人を対象とした日本初の[[社会調査|全国調査]]「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率は非常に高く、漢字と識字率には関係がないことが証明された<ref>[[朝日新聞]]2008年12月5日夕刊</ref><ref>阿辻哲次『戦後日本漢字史』(新潮選書)40ページ〜</ref>。このため当用漢字は実際には「常用」されることになり、この状況が[[常用漢字]]表告示まで続いた。
== 制限の対象 ==
当用漢字の字種を指定した1946年(昭和21年)の告示には、当用漢字表を告示することの意図などが説明されている。
「まえがき」では、当用漢字は、[[法令]]、公文書、[[新聞]]、[[雑誌]]および一般[[社会]]を対象に、漢字制限のめやすとして選んだものとしている。
使用上の注意として、この当用漢字で書けない場合には、別の言葉にかえるか、[[仮名 (文字)|かな]]書きにするとされた。
[[専門用語]]については当用漢字を基準として「整理」することが望ましいとした。これには、当用漢字に含まれない漢字の使用を即刻中止し、平仮名で表記せよという強硬な指示ではなく、[[専門家]]の判断を尊重するという含みがある。同時に、専門的な業務や[[研究]]においても基本的には当用漢字の範囲でのみ漢字を使用すべきであることを示唆している。なお、[[日本国憲法]]で使用される漢字はすべて当用漢字表に採用された。
[[固有名詞]]については「まえがき」に「法規上その他に関係するところが多いので、別に考えることとした」とある。例えば[[地名]]や人の[[姓]]については当用漢字に含まれないものが多くあるが、それは問題とされない。ただし[[土地区画整理事業]]・[[町丁|町名]]変更・[[出生届|出生]]などで新たに地名・[[人名]]を付ける場合は当用漢字に縛られることになる。人の名については、[[1947年]](昭和22年)の改正[[戸籍法]]により、子の名に常用平易な文字を用いることとされ、戸籍法施行規則第60条で漢字は当用漢字の範囲に限られることとなった。
ほかに[[動物]]や[[植物]]の名称、[[中国]]を除く外国の地名、[[外来語]]などは、かな書きするとした。
[[字体]]および音訓([[音読み]]・[[訓読み]])については調査中であるとした。「𠮷」は当用漢字表には無かったが、官報に印刷された[[内閣総理大臣]]の名は「[[吉田茂|𠮷田茂]]」となっているなど混乱があった<ref name=":0">{{Cite web |title=第86回 「𠮷」と「吉」 {{!}} 人名用漢字の新字旧字(安岡 孝一) {{!}} 三省堂 ことばのコラム |url=https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%E7%AC%AC86%E5%9B%9E-%E3%80%8C%F0%A0%AE%B7%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%90%89%E3%80%8D |website=三省堂WORD-WISE WEB -Dictionaries & Beyond- |date=2011-05-19 |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>。これらについては後に当用漢字音訓表(1948年〈昭和23年〉2月16日)、当用漢字字体表(1949年〈昭和24年〉4月28日)として告示された。4月28日以降は'''吉'''田茂の表記に改められた<ref name=":0" />。
当用漢字別表(1948年〈昭和23年〉2月16日)は、義務教育の期間に読み書きともにできるように指導することが必要であるとされた漢字を定める。
当用漢字以外の漢字(表外字)を含む語について、同音の当用漢字に書きかえた代用字と代用語が使われるようになり、一部に混乱も見られた。これを受け、『[[同音の漢字による書きかえ]](1956年〈昭和31年〉7月5日国語審議会報告)』が示された。『同音の漢字による書きかえ』は、常用漢字表告示後も公文書をはじめとした用字の指針となっている。
== 当用漢字再検討の動き ==
[[1951年]](昭和26年)、当用漢字以外で人名に使用することのできる漢字として、[[人名用漢字]]別表で92字が示された。[[1976年]](昭和51年)には人名用漢字追加表により28字が加えられた。
[[1954年]](昭和29年)3月、国語審議会は「将来当用漢字表の補正を決定するさいの基本的な資料」として「[https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/02/bukai01/03.html 当用漢字表審議報告]」をまとめた。新聞界の要望を基に、28字を入れ替えるなどの内容であった。文芸界や教育界・法曹界の反対により正式な答申や内閣告示には至らず、公用文や教科書などの漢字使用には影響しなかった。新聞界は「当用漢字表補正案」と呼び、運用を通じて当用漢字表見直しの検討材料にするとして、同年4月から全面的に採用し漢字使用のよりどころとした(当用漢字時代における新聞の漢字使用の方針については[[新聞常用漢字表#当用漢字時代]]を参照)。
[[1970年]](昭和45年)、公害病・[[水俣病]]救済運動で当用漢字表にない「怨」という漢字を白く染め抜いた黒い[[幟|幟旗]]が現れ、マスコミもこれを報じた<ref>『昭和を騒がせた漢字たち : 当用漢字の事件簿』128ページ〜<!-- [[NHK教育テレビジョン]]「[[知るを楽しむ|知る楽]]」漢字事件簿 2009年--></ref>。円満字二郎によれば、「朝日新聞戦後見出しデータベース」に収録された見出しの使用例は当用漢字実施から水俣病の社会問題化までの間の2例のみだが、これ以降「怨」の字がマスコミでも頻繁に用いられるようになった<ref>『昭和を騒がせた漢字たち : 当用漢字の事件簿』144ページ</ref>。次第に固有名詞以外でも当用漢字に縛られない漢字使用が広がりを見せた。
[[1966年]](昭和41年)の[[中村梅吉]][[文部大臣|文相]]発言(詳細は[[国語審議会#方針転換]]参照)により、漢字全廃ではなく「[[仮名交じり文|漢字仮名交じり文]]が前提」として、まず音訓が大幅に改定される。
[[1973年]](昭和48年)に当用漢字改定音訓表が内閣により告示された。これは既存の音訓表に357の音訓を追加し、新たに当て字や熟字訓のうち日常生活で高頻度に使用される106語を「付表」としてまとめたものである。この時点でそれまでの制限的な色合いが大幅に緩和された。
[[1981年]](昭和56年)、当用漢字を基にしつつ緩やかな「目安」である'''[[常用漢字]]表'''が内閣から告示され、当用漢字表は廃止された。
== 問題点 ==
=== 交ぜ書き ===
当用漢字以前に書かれていた[[熟語 (漢字)|熟語]]には「牽引」のように熟語を構成する漢字に当用漢字とそれ以外の漢字とが混在するものが多数存在した。これらの熟語は「けん引」のように当用漢字だけを漢字にしそれ以外(表外字)を仮名で書く交ぜ書きが行われることとなった。こうして一つの語の内部で字種の不統一を招いた。[[活版印刷]]の定着以降、[[わかち書き|分かち書き]]をしなくなった日本語においては、字種の変化が単語境界を示すマークとなっており、それを見つけにくくした。
===単語族の断絶 ===
中国文学者の[[高島俊男]]は、[[新字体]]の導入によって、例えば、同じ「專」が、專は専、傳・轉は伝・転、團は団となってしまい、「まるい」・「まるい運動」という共通義をもった家族('''単語族''')の縁が切れてしまったと指摘している<ref>『漢字と日本人』 219ページ。</ref>。
=== 古典および他の漢字使用国からの隔絶 ===
当用漢字は日本独自の新字体を採用しているため、当用漢字だけの知識では古典を原典のままでは読めなくなってしまった<ref>『漢字と日本人』 223ページ。</ref>。そこで、新字体に書き換えた古典が登場するようになったが、新字体では複数の字種を一つにまとめたので、例えば辨・辯・瓣は弁にまとめてしまったために、序文という意味(「弁」はかんむり)の「弁言」と、口達者という意味の「辯言」が新字体では「弁言」になって区別がつかなくなるという事態が発生するようになった<ref>『漢字と日本人』 224-225ページ。</ref>。
当用漢字字体表告示の時点では、日本以外の[[漢字文化圏]]で、手書き文字として[[略字]]が民間で使われていたものの、公式に漢字を簡略化した国はなかった。これ以降、同じ意味の漢字であっても公式な字体や活字の字体が大きく異なるというものが出現した。[[中華人民共和国]]では1956年漢字簡化方案により[[簡体字]]が実施された。[[台湾]]、[[香港]]では漢字の系統的・政策的な簡略化は行われず、[[繁体字]](概ね[[康煕字典]]体)を維持しているが、特に1980年代以降漢字の標準字体を示す際に整理が行われ、従来活字で見られたものとは異なる字体が標準とされた字も少なくない。[[朝鮮半島]]では[[朝鮮漢字|漢字]]の字体の変更は行われていないが、[[ハングル専用]]政策により[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では漢字自体が全廃され、[[大韓民国]]では漢字の使用が激減した。
== 地名における使用 ==
市町村名称の字体が、当用漢字字体表にない従来の字体の場合は、当用漢字字体表の字体で書き表しても、[[地方自治法]]における名称変更に該当しない<ref name="tsuuchi">[[1958年]]([[昭和]]33年)[[4月21日]]、自丙行発第7号 各都道府県知事宛 自治庁行政局長通知</ref>。
当該市町村が各種法令に基づく手続等の際に、その名称を当用漢字字体表の字体で書き表しても法令上有効であり、個人や法人が、各種法令に基く手続等で住所を書き表す場合、市町村名および市町村内の町名または字名の書き表し方についても同様となる<ref name="tsuuchi"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=円満字二郎|authorlink=円満字二郎 |title=昭和を騒がせた漢字たち : 当用漢字の事件簿 |origdate=2007-09 |accessdate= |edition= |publisher=[[吉川弘文館]] |series= |isbn= 9784642056410 }}
* {{Cite book|和書|author=高島俊男|authorlink=高島俊男 |title=漢字と日本人 |origdate=2001-10-20 |accessdate=<!-- 2009-05-18 --> |edition=初版 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春新書]] |isbn=4166601989 }}
* {{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/bukai03/04.html|title=国語審議会 漢字に関する主査委員会 第14回 議事録 (昭和21年8月24日)|publisher=文化庁|accessdate=2023-11-04|ref ={{SfnRef|漢字に関する主査委員会 第14回 議事録}}}}
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
* [[国語国字問題]](漢字制限)
* [[漢字廃止論]]
* [[新字体]]
* [[同音の漢字による書きかえ]]([[国語審議会]][[1956年]]7月5日発表)
* [[漢字教育]]
* [[教育漢字]]
* [[常用漢字]]
== 外部リンク ==
* [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/index.html 文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報]
** [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin02/index.html 当用漢字表 (国語審議会答申 1946年)]
** [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin03/index.html 当用漢字別表 (国語審議会答申 1947年)]
** [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin04/index.html 当用漢字音訓表 (国語審議会答申 1947年)]
** [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin05/index.html 当用漢字字体表 (国語審議会答申 1948年)]
* 甲南女子大学 菊池真一研究室 (2017年9月12日の時点でのweb archive)
** [https://web.archive.org/web/20170912025845/http://www.kikuchi2.com/kanji/toyob.htm 当用漢字表(内閣告示第32号)・当用漢字表の実施に関する件(内閣訓令第7号)昭和21年11月16日]
*{{kotobank}}
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[[Category:日本の漢字]]
[[Category:日本の言語政策]]
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二分探索
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二分探索(にぶんたんさく、英: binary search、BS)やバイナリサーチとは、ソート済み配列に対する探索アルゴリズムの一つ。
ソート済みのリストや配列に入ったデータ(同一の値はないものとする)に対する検索を行うにあたって、 中央の値を見て、検索したい値との大小関係を用いて、検索したい値が中央の値の右にあるか、左にあるかを判断して、片側には存在しないことを確かめながら検索していく。
大小関係を用いるため、未ソートのリストや大小関係の定義されない要素を含むリストには二分探索を用いることはできない。
n個のデータがある場合、時間計算量は O ( log 2 n ) {\displaystyle O(\log _{2}n)} である(O記法)。
n個のデータの中央の値を見ることで、1回の操作でn/2個程度(奇数の場合は(n-1)/2個、偶数の場合はn/2個または(n/2)-1個)の要素を無視することができる。
具体例を示す。
下記のようなソート済み配列から25を探しだすことを考える。なお、配列内に値の重複はない(あるデータと同じ値のデータは他に存在しない)ものとする。
結果欄を設け、目的のデータがあるか否か不明な部分を「?」、データを調べた上で目的のデータが無いとわかった部分を「×」、データを調べるまでもなく目的のデータが無い部分を「×」、目的のデータがあった部分を「○」にすることにする。検索前は、以下のようになる。
まず、配列の中央の位置を求めると、1 + (10 - 1) / 2 = 5
位置5のデータは12なので「×」、位置1~4まではデータを調べなくても「×」とわかる。目的のデータは位置6~10にあるかもしれない。
位置6~10の中央の位置は、6 + (10 - 6) / 2 = 8
位置8のデータは22なので「×」、位置6~7までは「×」とわかる。目的のデータは位置9~10にあるかもしれない。
位置9~10の中央の位置は、9 + (10 - 9) / 2 = 9
位置9のデータは25なので目的のデータが見つかったことになる。位置10は調べていないが、配列内に値の重複はないという想定なので「×」としてよい。
下記のようなソート済み配列から4を探しだすことを考える。なお、配列内に値の重複はないものとする。
まず、配列の中央の位置を求めると、1 + (10 - 1) / 2 = 5
位置5のデータは12なので「×」、位置6~10まではデータを調べなくても「×」とわかる。目的のデータは位置1~4にあるかも知れない。
位置1~4の中央の位置は、1 + (4 - 1) / 2 = 2
位置2のデータは3なので「×」、位置1も「×」とわかる。目的のデータは位置3~4にあるかも知れない。
位置3~4の中央の位置は、3 + (4 - 3) / 2 = 3
位置3のデータは5なので「×」。もし、データ4が存在するならば、位置3のデータ5より小さいので左になるはずである。しかし、すでにそこには存在しないことがわかっている。また、位置3より右である位置4は、データを調べていないが、位置3より大きなデータのはずなので「×」。以上でデータが見つからないという結果になる。
下記のようなソート済み配列から29を探しだすことを考える。なお、配列内に値の重複はないものとする。
データの全体の一番右側が29より小さいので、データが見つからないという結果になる。
ドナルド・クヌースは "Although the basic idea of binary search is comparatively straightforward, the details can be surprisingly tricky ..."(二分探索の基本的なアイディアは比較的平易だが、その詳細は驚くほど扱いが難しいものになりうる)と述べており、二分探索が正確に実装されていないことは多い。Richard E. Pattis の1988年の調査では、書籍20冊のうち15冊が誤っていた。
よくある間違いの一つは、上記のC言語のコードで imin + (imax - imin) / 2 を (imax + imin) / 2 としてしまう事である。(imax + imin) / 2 では、imax + imin が int の値の上限 (INT_MAX) を超えて不正な値になってしまう可能性がある。(imax + imin が INT_MAX を超える可能性が全くないと保証できる場合は問題ない。)Java の標準ライブラリの Arrays.binarySearch() では JDK 1.2 (1998年) から間違えており、Java 6 (2006年) で修正された。なお、このバグについてクヌースは、自分が気がついていなかったパターンだと、あるインタビューの際に述べている(書籍『Coders at Work』にて。オーム社から出ている邦訳では567ページにある)。
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二分探索やバイナリサーチとは、ソート済み配列に対する探索アルゴリズムの一つ。
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'''二分探索'''(にぶんたんさく、{{lang-en-short|binary search}}、{{lang|en|BS}})や'''バイナリサーチ'''とは、[[ソート]]済み[[配列]]に対する[[探索]][[アルゴリズム]]の一つ。
== 概要 ==
[[ソート]]済みの[[リスト (抽象データ型)|リスト]]や[[配列]]に入ったデータ(同一の値はないものとする)に対する検索を行うにあたって、
中央の値を見て、検索したい値との大小関係を用いて、検索したい値が中央の値の右にあるか、左にあるかを判断して、片側には存在しないことを確かめながら検索していく。
大小関係を用いるため、未ソートのリストや大小関係の定義されない要素を含むリストには二分探索を用いることはできない。
n個のデータがある場合、時間計算量は<math>O(\log_2 n)</math><ref>O記法では定数倍を無視できるので、単に<math>O(\log n)</math>とも書ける。</ref>である([[O記法]])。
n個のデータの中央の値を見ることで、1回の操作でn/2個程度(奇数の場合は(n-1)/2個、偶数の場合はn/2個または(n/2)-1個)の要素を無視することができる。
==例==
具体例を示す。
===データが見つかる例===
下記のようなソート済み配列から'''''25'''''を探しだすことを考える。なお、配列内に値の重複はない(あるデータと同じ値のデータは他に存在しない)ものとする。
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! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || '''''25''''' || 28
|}
結果欄を設け、目的のデータがあるか否か不明な部分を「?」、データを調べた上で目的のデータが無いとわかった部分を「N」、データを調べるまでもなく目的のデータが無い部分を「n」、目的のデータがあった部分を「○」にすることにする。検索前は、以下のようになる。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || '''''25''''' || 28
|-
! 結果
| ? || ? || ? || ? || ? || ? || ? || ? || ? || ?
|}
まず、配列の中央の位置を求めると、1 + (10 - 1) / 2 = 5
:<small>除算の端数は切捨、切上のどちらでもいいが、ここは切捨とする。以下同じ。</small>
:<small>中央位置の計算は、手計算では (1 + 10) / 2 でもよいが、プログラム上では 1 + (10 - 1) / 2 すなわち 最小位置 + (最大位置 - 最小位置) / 2 とした方が安全である。[[#実装上の間違い]]を参照。</small>
位置5のデータは12なので「N」、位置1~4まではデータを調べなくても「n」とわかる。目的のデータは位置6~10にあるかもしれない。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || '''''25''''' || 28
|-
! 結果
| n || n || n || n || N || ? || ? || ? || ? || ?
|}
位置6~10の中央の位置は、6 + (10 - 6) / 2 = 8
位置8のデータは22なので「N」、位置6~7までは「n」とわかる。目的のデータは位置9~10にあるかもしれない。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || '''''25''''' || 28
|-
! 結果
| n || n || n || n || N || n || n || N || ? || ?
|}
位置9~10の中央の位置は、9 + (10 - 9) / 2 = 9
位置9のデータは25なので目的のデータが見つかったことになる。位置10は調べていないが、配列内に値の重複はないという想定なので「n」としてよい。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || '''''25''''' || 28
|-
! 結果
| n || n || n || n || N || n || n || N || '''○''' || n
|}
===データが見つからない例(1)===
下記のようなソート済み配列から'''''4'''''を探しだすことを考える。なお、配列内に値の重複はないものとする。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || 25 || 28
|}
まず、配列の中央の位置を求めると、1 + (10 - 1) / 2 = 5
:(除算の端数は切捨、切上のどちらでもいいが、ここは切捨とする。以下同じ)
位置5のデータは12なので「N」、位置6~10まではデータを調べなくても「n」とわかる。目的のデータは位置1~4にあるかも知れない。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || 25 || 28
|-
! 結果
| ? || ? || ? || ? || N || n || n || n || n || n
|}
位置1~4の中央の位置は、1 + (4 - 1) / 2 = 2
位置2のデータは3なので「N」、位置1も「n」とわかる。目的のデータは位置3~4にあるかも知れない。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || 25 || 28
|-
! 結果
| n || N || ? || ? || N || n || n || n || n || n
|}
位置3~4の中央の位置は、3 + (4 - 3) / 2 = 3
位置3のデータは5なので「N」。もし、データ4が存在するならば、位置3のデータ5より小さいので左になるはずである。しかし、すでにそこには存在しないことがわかっている。また、位置3より右である位置4は、データを調べていないが、位置3より大きなデータのはずなので「n」。以上でデータが見つからないという結果になる。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || 25 || 28
|-
! 結果
| n || N || N || n || N || n || n || n || n || n
|}
===データが見つからない例(2)===
下記のようなソート済み配列から'''''29'''''を探しだすことを考える。なお、配列内に値の重複はないものとする。
{| class="wikitable"
! 位置 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10
|-
! データ
| 1 || 3 || 5 || 11 || 12 || 13 || 17 || 22 || 25 || 28
|}
データの全体の一番右側が29より小さいので、データが見つからないという結果になる。
== コード例 ==
===[[C言語]]===
<syntaxhighlight lang="c">
int binary_search(int ary[], int key, int imin, int imax) {
if (imax < imin) {
return KEY_NOT_FOUND;
} else {
int imid = imin + (imax - imin) / 2;
if (ary[imid] > key) {
return binary_search(ary, key, imin, imid - 1);
} else if (ary[imid] < key) {
return binary_search(ary, key, imid + 1, imax);
} else {
return imid;
}
}
}
</syntaxhighlight>
===[[F Sharp]]===
<syntaxhighlight lang="fsharp">
let find value (xa: 'T[]) =
let rec ifind min max =
if max < min then None
else
let c = min + (max - min) / 2
if xa.[c] > value then ifind min (c - 1)
else if xa.[c] < value then ifind (c + 1) max
else Some c
ifind 0 (xa.Length - 1)
find 8 [|1; 2; 4; 5; 6; 8; 11; 13|]
</syntaxhighlight>
===[[Scheme]]===
<syntaxhighlight lang="scheme">
(define (find val xa)
(letrec ((ifind
(lambda (min max)
(if (< max min)
#f
(let ((c (+ min (quotient (- max min) 2))))
(cond ((> (list-ref xa c) val) (ifind min (- c 1)))
((< (list-ref xa c) val) (ifind (+ c 1) max))
(else c)))))))
(ifind 0 (- (length xa) 1))))
</syntaxhighlight>
== 実装上の間違い ==
[[ドナルド・クヌース]]は "Although the basic idea of binary search is comparatively straightforward, the details can be surprisingly tricky ..."(二分探索の基本的なアイディアは比較的平易だが、その詳細は驚くほど扱いが難しいものになりうる)と述べており<ref>
{{cite book
| last = Knuth
| first = Donald
| authorlink = Donald Knuth
| series = [[The Art of Computer Programming]]
| volume = 3
| title = Sorting and Searching
| chapter = Section 6.2.1: Searching an Ordered Table
| edition = 3rd
| pages = 409–426
| publisher = Addison-Wesley
| year = 1997
| isbn = 0-201-89685-0}}
</ref>、二分探索が正確に実装されていないことは多い。Richard E. Pattis の1988年の調査では、書籍20冊のうち15冊が誤っていた<ref>{{cite journal | first = Richard E. | last = Pattis | doi = 10.1145/52965.53012 | title = Textbook errors in binary searching | journal = SIGCSE Bulletin | volume = 20 | year = 1988 | pages = 190–194 }} cited at
{{cite book
| last = Kruse
| first = Robert
| title = Data Structures and Program Design in C++
| page = 280
| publisher = Prentice Hall
| year = 1998
| isbn = 0-13-768995-0}}</ref>。
よくある間違いの一つは、上記のC言語のコードで imin + (imax - imin) / 2 を (imax + imin) / 2 としてしまう事である。(imax + imin) / 2 では、imax + imin が int の値の上限 (INT_MAX) を超えて不正な値になってしまう可能性がある。(imax + imin が INT_MAX を超える可能性が全くないと保証できる場合は問題ない。)Java の標準ライブラリの Arrays.binarySearch() では JDK 1.2 (1998年) から間違えており、Java 6 (2006年) で修正された<ref>[http://bugs.java.com/bugdatabase/view_bug.do?bug_id=5045582 Bug ID: JDK-5045582 (coll) binarySearch() fails for size larger than 1<<30]</ref>。なお、このバグについてクヌースは、自分が気がついていなかったパターンだと、あるインタビューの際に述べている(書籍『Coders at Work』にて。オーム社から出ている邦訳では567ページにある)。
==関連項目==
*[[二分探索木]]
*[[二分法]] - 二分探索のようなアイデアで方程式の近似解を求める方法
== 参照 ==
{{reflist}}
{{アルゴリズム}}
[[Category:検索アルゴリズム|にふんたんさく]]
|
2003-06-20T07:59:03Z
|
2023-12-03T08:06:02Z
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[
"Template:Lang-en-short",
"Template:Lang",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Cite journal",
"Template:アルゴリズム",
"Template:Pathnav"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%88%86%E6%8E%A2%E7%B4%A2
|
10,186 |
原動機
|
原動機(げんどうき、英語: prime mover)は、自然界に存在するさまざまなエネルギーを機械的な仕事(力学的エネルギー)に変換する機械・装置の総称。狭義にはタービンなどの仕事を発生する機械そのものを指すが、広義には蒸気原動機、動力プラントなどのシステム全体を指すこともある。
原動機の損失は、入力エネルギーと出力仕事の差として定義される。主な損失として、仕事として回収しなかった損失(排気損失)、冷却による損失(冷却損失)、空気による抵抗(風損)、摩擦や補機などによる損失(機械損失)がある。これらの損失がない理想的な運転状態を考えたとき、電動機の効率は100%であるが、熱機関にはカルノーの原理による原理的な上限が存在する。
原動機には次のようなものがある。
|
[
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"text": "原動機(げんどうき、英語: prime mover)は、自然界に存在するさまざまなエネルギーを機械的な仕事(力学的エネルギー)に変換する機械・装置の総称。狭義にはタービンなどの仕事を発生する機械そのものを指すが、広義には蒸気原動機、動力プラントなどのシステム全体を指すこともある。",
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"tag": "p",
"text": "原動機の損失は、入力エネルギーと出力仕事の差として定義される。主な損失として、仕事として回収しなかった損失(排気損失)、冷却による損失(冷却損失)、空気による抵抗(風損)、摩擦や補機などによる損失(機械損失)がある。これらの損失がない理想的な運転状態を考えたとき、電動機の効率は100%であるが、熱機関にはカルノーの原理による原理的な上限が存在する。",
"title": "原動機の損失"
},
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"text": "原動機には次のようなものがある。",
"title": "原動機の分類"
}
] |
原動機は、自然界に存在するさまざまなエネルギーを機械的な仕事(力学的エネルギー)に変換する機械・装置の総称。狭義にはタービンなどの仕事を発生する機械そのものを指すが、広義には蒸気原動機、動力プラントなどのシステム全体を指すこともある。
|
{{出典の明記|date=2013年12月}}
[[File:4StrokeEngine Ortho 3D Small.gif|thumb|広く普及している原動機である内燃機関]]
'''原動機'''(げんどうき、{{Lang-en|prime mover}})は、[[自然界]]に存在するさまざまな[[エネルギー]]を[[機械]]的な[[仕事 (物理学)|仕事]]([[力学的エネルギー]])に変換する[[機械]]・[[装置]]の総称<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8E%9F%E5%8B%95%E6%A9%9F/|title=原動機(げんどうき)の意味|publisher= goo国語辞書 |accessdate=2019-12-06}}</ref>。狭義には[[タービン]]などの仕事を発生する機械そのものを指すが、広義には[[蒸気原動機]]、[[動力プラント]]などの[[システム]]全体を指すこともある。
== 原動機の損失 ==
原動機の損失は、入力[[エネルギー]]と出力[[仕事 (物理学)|仕事]]の差として定義される。主な損失として、仕事として回収しなかった損失(排気損失)、冷却による損失(冷却損失)、空気による抵抗(風損)、摩擦や補機などによる損失(機械損失)がある。これらの損失がない理想的な運転状態を考えたとき、電動機の効率は100%であるが、熱機関には[[カルノーの定理 (熱力学)|カルノーの原理]]による原理的な上限が存在する<ref>{{cite|和書 |author=松木英敏|author2=一ノ倉理 |title=電磁エネルギー変換工学 |publisher=朝倉書店 |year=2010 |isbn= |page=49}}</ref>。
== 原動機の分類 ==
原動機には次のようなものがある。
{| class="wikitable" align="none" cellpadding="5" style="background:#fff; text-align:center; font-size:smaller"
|+'''原動機の特徴と主な用途'''
|-
! 大分類
! 中分類
! 名称
! [[エネルギー]]源
! 速度
! [[トルク]]
! 出力[[制御]]
! 速度制御
! 始動時間
! [[エネルギー効率|効率]]
! [[体積]]
! [[質量]]
! [[整備]]
!その他
! 主な[[用途]]
|-
| rowspan=5 |{{縦書き|[[流体機械]]}}
| rowspan=2 |{{縦書き|[[気体]]}}
| [[風力原動機]]<br/>[[風車]]
| [[風力]]
|中
|低
|不適
|不適
|短
|良
|大
|大
|中
|
|[[風力発電]]
|-
| [[圧力モーター|空気モーター]]<br/>[[空気エンジン]]
| [[空気圧]]
|中-高
|低
|容易
|容易
|短
|良
|小
|小
|容易
|[[防爆]]
|制御機器<br/>[[圧縮空気自動車]]
|-
| rowspan=3 |{{縦書き|[[液体]]}}
|[[発電用水車|水力タービン]]
| rowspan=2 |[[水力]]
|低
|高
|容易
|不適
|短
|良
|大
|大
|煩雑
|
|[[水力発電]]
|-
|[[水車]]
|低
|高
|容易
|不適
|短
|良
|大
|大
|煩雑
|
|
|-
|[[圧力モーター|油圧シリンダ]]<br/>[[油圧モーター]]
|[[油圧]]
|低
|高
|容易
|容易
|短
|良
|中
|中
|煩雑
|
|[[工作機械]]<br/>制御機器<br/>[[流体継手]]
|-
| rowspan=8 |{{縦書き|[[熱機関]]}}
| rowspan=3 |{{縦書き|[[外燃機関]]}}
| [[蒸気タービン]]
| rowspan=8 |[[燃焼ガス]]
|高
|低
|不適
|不適
|長
|中
|大
|大
|煩雑
|他の外燃機関同様<br/>[[燃料]]の選択の幅が広い
|[[汽力発電]]
|-
|[[蒸気機関]]
|低
|高
|適
|適
|
|不良
|大
|大
|煩雑
|始動時のトルクが大きい
|[[蒸気機関車]]
|-
|[[スターリングエンジン|スターリング機関]]
|低
|高
|適
|適
|中
|良
|大
|大
|煩雑
|機械的エネルギーから<br/>温度差を作り出すこともできる
|[[冷凍機]]・[[潜水艦]]の[[非大気依存推進|AIP]]
|-
| rowspan=5 |{{縦書き|[[内燃機関]]}}
|[[火花点火機関]]<br/>[[ガソリンエンジン|オットー機関]]
|中
|中
|適
|適
|中
|中
|中
|中
|煩雑
|
|[[自動車]]・[[航空機]]・船{{Efn2|[[船外機]]など}}<br/>[[チェーンソー]]・[[刈払機]]
|-
|圧縮着火機関<br/>[[ディーゼルエンジン|ディーゼル機関]]
|低
|高
|適
|適
|中
|中
|中-大
|中-大
|煩雑
|
|[[自動車]]・[[船|船舶]]<br/>[[ディーゼル機関車|機関車]]・[[気動車]]
|-
|[[ガスタービンエンジン|ガスタービン機関]]
|高
|低
|不適
|不適
|中
|中
|中-大
|中-大
|煩雑
|rowspan=3|体積・質量あたり<br/>出力が大きい
|[[航空機]]<br/>[[コンバインドサイクル発電]]
|-
|[[液体燃料ロケット]]
|高
|
|適
|適
|中
|中
|大
|大
|極めて煩雑
|[[ロケット]]
|-
|[[固体燃料ロケット]]
|高
|
|不適
|不適
|短
|中
|中-大
|中-大
|容易
|[[ロケット]]・[[ミサイル]]
|-
| rowspan=7 |{{縦書き|[[電動機]]}}
| rowspan=3 |{{縦書き|[[整流子電動機|整流子]]}}
|[[永久磁石界磁形整流子電動機|永久磁石界磁形]]
| rowspan=7 |[[電力]]
|中
|高
|適
|適
|短
|良
|小
|小
|容易
|
|小型機器組み込み
|-
|[[電磁石界磁形整流子電動機|電磁石界磁形]]
|中
|高
|適
|適
|短
|良
|中
|中
|容易
|rowspan=2|簡単な回路で制御できる
|[[電車]]・[[電気機関車]]
|-
|[[交流整流子電動機|交流]]
|中
|高
|適
|適
|短
|良
|小
|小
|容易
|[[掃除機]]
|-
| rowspan=2 |{{縦書き|[[誘導電動機|誘導]]}}
|[[三相誘導電動機|三相誘導]]
|中
|中
|可
|可
|短
|良
|中
|中
|容易
|
|[[ポンプ]]・[[圧縮機]]
|-
|[[単相誘導電動機|単相]]
|中
|中
|可
|可
|短
|良
|小
|小
|容易
|
|[[家庭用電気機械器具|家電]]・[[電動工具]]
|-
| rowspan=2 |{{縦書き|[[同期電動機|同期]]}}
|[[電磁石同期電動機|電磁石]]
|中
|高
|可
|可
|短
|良
|大
|大
|容易
|
|大型機器
|-
|[[永久磁石同期電動機|永久磁石]]
|中
|高
|可
|可
|短
|良
|小
|小
|容易
|
|[[電気自動車]]<br/>[[ハイブリッドカー]]
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|原動機}}
* [[動力]]
* [[熱機関]]
* [[機関 (機械)]]
* [[熱力学サイクル]]
* [[エネルギー保存の法則]]
* [[コジェネレーション]]
* [[発電]]
* [[モーター]]
*[[エンジン]]
{{Tech-stub}}
{{発電の種類}}
{{DEFAULTSORT:けんとうき}}
[[Category:動力]]
[[Category:エネルギー変換]]
[[Category:エネルギー技術]]
[[Category:産業機械]]
|
2003-06-20T10:05:47Z
|
2023-11-15T13:26:47Z
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[
"Template:Cite web",
"Template:Cite",
"Template:Wiktionary",
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en",
"Template:縦書き",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:Efn2",
"Template:Reflist",
"Template:Tech-stub",
"Template:発電の種類"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%8B%95%E6%A9%9F
|
10,187 |
近東
|
近東(きんとう、英語: Near East)とは、西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、大まかに定義されるアジアの地域を指す。広義では、北アフリカの国々を含めることがある。
元々は東方問題が焦点となる中で、オスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成された。一方で「中東」は、イギリスの最も重要な植民地であったインドに至る地域(トルコ、エジプト、シリア、イラクなど)を指す呼称として形成された。
19世紀には「中近東(Near and Middle East)」の呼称が一般的に使われていた。20世紀になり中東の概念が用いられるようになった結果として、極東(Far East)、中東(Middle East)、近東(Near East)の三分した呼称で地域が区分されるようになった。
19世紀の後半から第一次世界大戦にかけての「近東」の概念は、第二次世界大戦後の「中東」の範囲とかなり重なる地域を指しており、トルコやアラブ世界にバルカン半島を含む地域を指していた。一方、「近東」と並行して用いられる場合の「中東」の概念は、第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なるもので、イランとコーカサス、アフガニスタン、中央アジアだけでなく、広義にはインドシナ半島やトルキスタンに至る地域を含むことがあった。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、ニューヨーク・タイムズは同じ地域に2つの呼称を使用していたが、1954年に表現を「中東」に統一した。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の国務省の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された。
|
[
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"text": "近東(きんとう、英語: Near East)とは、西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、大まかに定義されるアジアの地域を指す。広義では、北アフリカの国々を含めることがある。",
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"text": "元々は東方問題が焦点となる中で、オスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成された。一方で「中東」は、イギリスの最も重要な植民地であったインドに至る地域(トルコ、エジプト、シリア、イラクなど)を指す呼称として形成された。",
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"text": "19世紀には「中近東(Near and Middle East)」の呼称が一般的に使われていた。20世紀になり中東の概念が用いられるようになった結果として、極東(Far East)、中東(Middle East)、近東(Near East)の三分した呼称で地域が区分されるようになった。",
"title": "概念"
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"text": "19世紀の後半から第一次世界大戦にかけての「近東」の概念は、第二次世界大戦後の「中東」の範囲とかなり重なる地域を指しており、トルコやアラブ世界にバルカン半島を含む地域を指していた。一方、「近東」と並行して用いられる場合の「中東」の概念は、第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なるもので、イランとコーカサス、アフガニスタン、中央アジアだけでなく、広義にはインドシナ半島やトルキスタンに至る地域を含むことがあった。",
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"text": "第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、ニューヨーク・タイムズは同じ地域に2つの呼称を使用していたが、1954年に表現を「中東」に統一した。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の国務省の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された。",
"title": "概念"
}
] |
近東とは、西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、大まかに定義されるアジアの地域を指す。広義では、北アフリカの国々を含めることがある。
|
[[Image:B) Syria - Belka, Woman from Damascus, Arab from Baghdad.jpg|thumb|近東(19世紀後半)の住民]]
'''近東'''(きんとう、{{lang-en|Near East}})とは、[[西ヨーロッパ]]から見た文化の同一性や距離感によって、大まかに定義される[[アジア]]の地域を指す。広義では、[[北アフリカ]]の国々を含めることがある。
== 概念 ==
元々は[[東方問題]]が焦点となる中で、[[オスマン帝国]]の領域を可視化する呼称として形成された<ref name="ikeuchi">{{Cite web|和書|author=池内恵|url=https://www.jccme.or.jp/11/pdf/2018-07/josei02.pdf |title=「中東」概念の変容 中国・インドの台頭と「西アジア」の復活?|work=中東協力センターニュース 2018・7|accessdate=2020-06-30}}</ref>。一方で「中東」は、[[イギリス]]の最も重要な植民地であった[[インド]]に至る地域([[トルコ]]、[[エジプト]]、[[シリア]]、[[イラク]]など)を指す呼称として形成された<ref name="ikeuchi" />。
[[Image:NearEast2.png|300px|thumb|狭義の近東]]
19世紀には「[[中近東]](Near and Middle East)」の呼称が一般的に使われていた<ref>{{Cite journal |和書|author= 栗田禎子 |title=中東情勢と日本・世界のゆくえ |url=https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/103404/13kurita.pdf|publisher= 千葉大学 |journal= 公共研究 |volume=13 |issue=1 |pages=178 }}</ref>。20世紀になり中東の概念が用いられるようになった結果として、極東(Far East)、中東(Middle East)、近東(Near East)の三分した呼称で地域が区分されるようになった<ref name="hatanaka">{{Cite web|和書|author=畑中美樹|url=https://www.chukeiren.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/01/iinkai_202001.pdf |title=最近の中東情勢と世界経済への波及|work=中経連 2020.1|publisher= 中部経済連合会 |accessdate=2020-06-30}}</ref>。
19世紀の後半から[[第一次世界大戦]]にかけての「近東」の概念は、[[第二次世界大戦]]後の「中東」の範囲とかなり重なる地域を指しており、トルコや[[アラブ世界]]に[[バルカン半島]]を含む地域を指していた<ref name="ikeuchi" />。一方、「近東」と並行して用いられる場合の「中東」の概念は、第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なるもので、[[イラン]]と[[コーカサス]]、[[アフガニスタン]]、[[中央アジア]]だけでなく、広義には[[インドシナ半島]]や[[トルキスタン]]に至る地域を含むことがあった<ref name="ikeuchi" /><ref name="hatanaka" />。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、[[ニューヨーク・タイムズ]]は同じ地域に2つの呼称を使用していたが、1954年に表現を「中東」に統一した<ref name="hatanaka" />。また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]も1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された<ref name="ikeuchi" />。
== 出典 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[オリエント]]
* [[西アジア]]
* [[中東]] - [[中近東]] - [[極東]]
* 近東地域の歴史
** [[メソポタミア]]
** [[古代オリエント]]
** [[イラクの歴史]]
** [[エジプトの歴史]]
** [[ローマ帝国]]
** [[シリアの歴史]]
** [[トルコの歴史]]
{{Normdaten}}
[[Category:中東|*きんとう]]
[[Category:アジアの地域|きんとう]]
[[Category:アフリカの地域|きんとう]]
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10,188 |
交換法則
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初等代数学における交換法則(こうかんほうそく、英: commutative law; 可換則、交換律)は、与えられた演算の二つの引数を互いに入れ替えても結果が変わらないことを述べる。また交換法則を満足する演算は可換性(commutative property; 交換性質)を持つと言う。例えば自然数に関する足し算や掛け算は交換法則を満たしている。
しかし引き算や割り算はそうではない。
その他に交換法則を満たすものとしては主に次のようなものがある。
また、交換法則を満たさない主要な演算としては次のようなものがある。
ただし、ベクトルの外積のように、絶対値および絶対値に相当する数を考えたときに、交換法則は成り立つものも多い。
可換性質の暗黙的な使用は古代に遡る。古代エジプト人は積の計算の簡素化に乗法の可換性を用いているし、エウクレイデスが著書『原論』において乗法の可換性を仮定していたことは良く知られている。明示的な形で交換法則が立ち現れるのは、数学者により函数論が築かれ始める18世紀後半から19世紀初頭にかけてである。今日では可換性は数学の大部分の分野で良く知られた基本性質として扱われている。
記録上 commutative の語が初めて現れるのはセルヴォワ(英語版)の回顧録(1814年)で、現在では可換性と呼ばれる性質を持つ函数を記述するために commutatives の語が用いられている。語義はフランス語で「置き換え」や「入れ替え」を意味する commuter に「傾向がある」ことを意味する接尾辞 -ative が付いたものだから、字面通りに読めば「入れ替えようとするもの」である。
「交換」あるいは「可換」("commutative") という語は(関連はあるが厳密には異なる)いくつかの意味で用いられる。「交換法則」や「可換律」のように言うとき、一般的にはそれは二項演算(あるいはより一般に二項関係や二変数写像(英語版))に結び付けられた性質のことを言うものと理解される。特定の演算を固定して考えるとき、その演算の引数となる二つの元で、交換法則の言う条件式を満足するものに対しては、それらの二元が(与えられた演算のもとで)「交換する」「可換である」(commute) と言い表す。
以下、集合 E 上に二項演算 ∗ が定められているものとして:
より一般に、
あるいはまた、
群論や集合論において、(複数の演算を持つ)様々な代数系が、それが持つ特定の演算が交換法則を満足するとき「可換」と呼ばれる。
それらの分野の結果を利用する他の分野、例えば解析学や線型代数学では良く分かっている演算(例えば、実数や複素数に対する加法や乗法)は、いちいち断らなくても暗黙の仮定として証明等の中で縦横に用いられる
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初等代数学における交換法則は、与えられた演算の二つの引数を互いに入れ替えても結果が変わらないことを述べる。また交換法則を満足する演算は可換性を持つと言う。例えば自然数に関する足し算や掛け算は交換法則を満たしている。 4 + 5 = 5 + 4(両辺とも値は9である)
2 × 3 = 3 × 2(両辺とも値は6である) しかし引き算や割り算はそうではない。 4 − 5 ≠ 5 − 4 6 ÷ 3 ≠ 3 ÷ 6 その他に交換法則を満たすものとしては主に次のようなものがある。 有理数、実数、複素数の加算や乗算
行列、数ベクトルの加算
集合の共通部分や和集合 また、交換法則を満たさない主要な演算としては次のようなものがある。 行列の乗算
3次元数ベクトルのベクトル外積
写像の合成 (例えば関数の合成など)
四元数の乗算 ただし、ベクトルの外積のように、絶対値および絶対値に相当する数を考えたときに、交換法則は成り立つものも多い。
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{{混同|交替法則|x1=二つの演算が入れ替わる}}
{{出典の明記|date=2018年10月}}
[[初等代数学]]における'''交換法則'''(こうかんほうそく、{{lang-en-short|''commutative law''}}; '''可換則'''、'''交換律'''{{efn|交換性質を満たすことが定理として演繹される場合には「法則」、成り立つことが公理として要請される場合には「律」を使うことが多い。}})は、与えられた演算の二つの引数を互いに入れ替えても結果が変わらないことを述べる。また交換法則を満足する演算は'''可換性'''(''commutative property''; '''交換性質''')を持つと言う。例えば[[自然数]]に関する[[足し算]]や[[掛け算]]は交換法則を満たしている。
* 4 + 5 = 5 + 4(両辺とも値は9である)
* 2 × 3 = 3 × 2(両辺とも値は6である)
しかし引き算や割り算はそうではない。
* <math> 4 - 5 \neq 5 - 4</math>
* <math> 6 \div 3 \neq 3 \div 6</math>
その他に交換法則を満たすものとしては主に次のようなものがある。
* [[有理数]]、[[実数]]、[[複素数]]の加算や乗算
* [[行列 (数学)|行列]]、[[数ベクトル]]の加算
* [[集合]]の[[共通部分 (数学)|共通部分]]や[[合併 (集合論)|和集合]]
また、交換法則を満たさない主要な演算としては次のようなものがある。
* [[行列の乗法|行列の乗算]]
* 3次元[[数ベクトル]]の[[クロス積|ベクトル外積]]
* [[写像の合成]] (例えば関数の合成など)
* [[四元数#ハミルトン積|四元数の乗算]]
ただし、ベクトルの外積のように、[[絶対値]]および絶対値に相当する数を考えたときに、交換法則は成り立つものも多い。
== 歴史と語源 ==
[[File:Commutative Word Origin.PNG|right|thumb|250px|可換性の語の初出は1814年発行のフランスの雑誌である。]]
可換性質の暗黙的な使用は古代に遡る。古代[[エジプト人]]は積の計算の簡素化に[[乗法]]の可換性を用いている{{sfn|Lumpkin|1997|p=11}}{{sfn|Robins|Shute|1987|p=?}}{{page needed|date=2018年10月}}し、[[エウクレイデス]]が著書『[[ユークリッド原論|原論]]』において乗法の可換性を仮定していたことは良く知られている<ref>O'Conner and Robertson, ''Real Numbers''</ref>。明示的な形で交換法則が立ち現れるのは、数学者により函数論が築かれ始める18世紀後半から19世紀初頭にかけてである。今日では可換性は数学の大部分の分野で良く知られた基本性質として扱われている。
記録上 ''commutative'' の語が初めて現れるのは{{ill2|フランソワ゠ジョセフ・セルヴォワ|en|François-Joseph Servois|label=セルヴォワ}}の回顧録(1814年)で{{sfn|Cabillón|Miller|loc= ''Commutative and Distributive''}}{{sfn|O'Conner|Robertson|loc=''Servois''}}、現在では可換性と呼ばれる性質を持つ函数を記述するために ''commutatives'' の語が用いられている。語義はフランス語で「置き換え」や「入れ替え」を意味する ''commuter'' に「傾向がある」ことを意味する接尾辞 ''-ative'' が付いたものだから、字面通りに読めば「入れ替えようとするもの」である。
== 定義と語法 ==
「交換」あるいは「可換」("commutative") という語は(関連はあるが厳密には異なる)いくつかの意味で用いられる<ref>{{PlanetMath|title=Commutative|urlname=Commutative}}</ref><ref>{{MathWorld|title=Commutative|urlname=Commutative}}</ref>。「交換法則」や「可換律」のように言うとき、一般的にはそれは[[二項演算]](あるいはより一般に[[二項関係]]や{{ill2|二変数写像|en|binary function}})に結び付けられた性質のことを言うものと理解される。特定の演算を固定して考えるとき、その演算の引数となる二つの元で、交換法則の言う条件式を満足するものに対しては、それらの二元が(与えられた演算のもとで)「交換する」「可換である」(''commute'') と言い表す。
以下、[[集合]] {{mvar|E}} 上に[[二項演算]] {{math|∗}} が定められているものとして:
* {{mvar|E}} の二つの元 {{mvar|x, y}} が演算 {{math|∗}} のもと(互いに)'''交換する'''または'''可換である'''とは <math display="block"> x * y = y * x </math> を満たすときに言う。
* {{mvar|E}} の任意の二元 {{mvar|x, y}} が演算 {{math|∗}} のもと交換するとき、すなわち <math display="block">x * y = y * x\qquad(\forall x,y\in E)</math> が成り立つとき、演算 {{math|∗}} は'''交換法則'''を満足する、または'''可換である'''と言う。可換でない演算は'''非可換''' (''non-commutative'') であると言う。
より一般に、
* {{mvar|E}} の二つの部分集合 {{mvar|S, T}} が <math display="block">x * y = y * x\qquad(\forall x\in S, y\in T)</math> を満足するとき、{{mvar|S, T}} は'''元ごとに可換''' (''element-wise commute'') であるという。
* {{mvar|E}} の二つの部分集合 {{mvar|S, T}} が <math display="block">x * y = y' * x'\land y * x = x'' * y''\qquad(\forall x\in S, y\in T;\;\exists x',x''\in S, y',y''\in T)</math> を満足するとき、{{mvar|S, T}} は'''集合として可換''' (''commute as set'') であるという。{{efn|元 {{mvar|x}} と部分集合 {{mvar|S}} との積や、部分集合 {{mvar|S, T}} の積({{ill2|部分集合の積|en|Product of group subsets|label=「積集合」}})を <math display="block">\begin{align}x*S &:= \{x*s\mid s\in S\},& S*x &:=\{s*x\mid s\in S\},\\ S*T &= \{s*t\mid s\in S,t\in T\},& T*S &:=\{t*s\mid t\in T, s\in S\}\end{align}</math> と書くならば、{{mvar|S, T}} が集合として可換であることを <math display="block">x * y \in T * S \land y * x \in S * T\quad (\forall x\in S, y\in T)</math> や {{math|1=''S'' ∗ ''T'' = ''T'' ∗ ''S''}} と書くことができる。元と集合の可換性 {{math|1=''x'' ∗ ''S'' = ''S'' ∗ ''x''}} も元ごとなのか集合としてなのかで意味が異なる。}}
あるいはまた、
* {{ill2|二変数写像|en|binary function}} {{math|''f'': ''A'' × ''A'' → ''X''}} は、どの二元 {{mvar|x, y}} も交換するとき、すなわち <math display="block">f(x, y) = f(y, x)\qquad(\forall x,y\in A)</math> が成り立つとき、'''可換'''あるいは{{ill2|対称写像|en|symmetry function|label=対称}}であると言う。
* [[二項関係]] {{math|''R'' ⊂ ''A'' × ''B''}} は、どの二元 {{mvar|x, y}} も交換するとき、すなわち <math display="block">x\mathrel{R}y = y\mathrel{R}x \qquad(\forall x\in A,y\in B)</math> が成り立つとき、交換可能あるいは'''[[対称関係|対称]]'''であると言う。
== 交換法則の遍在 ==
[[群論]]や[[集合論]]において、(複数の演算を持つ)様々な代数系が、それが持つ特定の演算が交換法則を満足するとき「可換」と呼ばれる。
* {{ill2|可換半群|en|commutative semigroup}}は可換で[[結合法則|結合的]]な全域的演算を持つ。
* 可換半群がさらに[[単位元]]を持つという性質を持てば{{ill2|可換モノイド|en|commutative monoid}}と言う。
* [[アーベル群]]または'''可換群'''はその群演算が可換であるような[[群 (数学)|群]]を言う{{sfn|Gallian|2006|p=34}}。
* [[可換環]]はその乗法が可換となる[[環 (数学)|環]]を言う(環の加法は常に可換である){{sfn|Gallian|2006|p=236}}。
* [[可換体]]は加法と乗法がともに可換{{sfn|Gallian|2006|p=250}}。
それらの分野の結果を利用する他の分野、例えば[[解析学]]や[[線型代数学]]では良く分かっている演算(例えば、実数や複素数に対する[[加法]]や[[乗法]])は、いちいち断らなくても暗黙の仮定として証明等の中で縦横に用いられる{{sfn|Axler|1997|p=2}}{{sfn|Gallian|2006|pp=26,34,87}}
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*{{Cite book| first=Sheldon | last=Axler | title=Linear Algebra Done Right, 2e | publisher=Springer | year=1997 | isbn=0-387-98258-2}}
*{{Cite book|first=Joseph|last=Gallian|title=Contemporary Abstract Algebra, 6e|year=2006|isbn=0-618-51471-6|publisher=Houghton Mifflin|location=Boston, Mass.}}
* {{citation|url=https://web.archive.org/web/20070713072942/http://www.ethnomath.org/resources/lumpkin1997.pdf|last=Lumpkin|first=B.|year=1997|title= The Mathematical Legacy Of Ancient Egypt - A Response To Robert Palter. |publisher=Unpublished manuscript.}}
* {{citation|first1=R. Gay |last1=Robins|first2= Charles C. D. |last2=Shute|year=1987| ''The Rhind Mathematical Papyrus: An Ancient Egyptian Text''. London: British Museum Publications Limited. |isbn=0-7141-0944-4}}:''Translation and interpretation of the [[Rhind Mathematical Papyrus]].''
== 関連項目 ==
*[[反交換法則]]
*[[結合法則]]
*[[分配法則]]
*[[加法]]
*[[乗法]]
*[[かけ算の順序問題]]
== 外部リンク ==
* {{PlanetMath|title=Commutative|urlname=Commutative}}
* {{MathWorld|title=Commutative|urlname=Commutative}}
* {{citation|last1=O'Conner|first1= J. J. |last2=Robertson|first2= E. F.|url= http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/HistTopics/Real_numbers_1.html |series=MacTutor history |chapter= real numbers}}: [[マックチューター数学史アーカイブ]]の実数の項
* {{citation|last1=Cabillón|first1= Julio |last2= Miller |first2= Jeff. |url=http://jeff560.tripod.com/c.html|title= Earliest Known Uses Of Mathematical Terms}}
* {{citation|last1=O'Conner|first1= J. J. |last2=Robertson|first2= E. F.|url= http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Biographies/Servois.html |series=MacTutor biography |chapter=François Servois}}: マックチューターにあるサヴォワの文献集
{{デフォルトソート:こうかんほうそく}}
[[Category:代数的構造]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:数学の法則]]
[[Category:数学に関する記事]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%B3%95%E5%89%87
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10,189 |
結び
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結び(むすび)
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結び(むすび) 二つ以上の集合の合併。和集合を参照。
結びと交わり参照。
ロープの結び。結び目、ロープワークを参照。
文章の終わりの言葉。締め。
握飯(おにぎり)の別称、おむすび。
神道の概念むすひ(結び、産霊、産巣日)
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'''結び'''(むすび)
* 二つ以上の[[集合]]の合併。[[合併 (集合論)|和集合]]を参照。
* [[結びと交わり]]参照。
* ロープの結び。[[結び目]]、[[ロープワーク]]を参照。
* [[文|文章]]の終わりの言葉。締め。
* 握飯([[おにぎり]])の別称、おむすび。
* [[神道]]の概念[[むすひ]](結び、産霊、産巣日)
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10,190 |
微分
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数学における実変数函数(英語版)の微分係数、微分商または導関数(どうかんすう、英: derivative)は、別の量(独立変数)に依存して決まる、ある量(関数の値あるいは従属変数)の変化の感度を測るものであり、これらを求めることを微分(びぶん、英: differentiation)するという。微分演算の結果である微分係数や導関数も用語の濫用でしばしば微分と呼ばれる。
微分は解析学分野(特に微分積分学分野)の基本的な道具である。例えば、動く物体の位置の時間に関する導函数はその物体の速度であり、これは時間が進んだときその物体の位置がどれほど早く変わるかを測る。
一変数函数の適当に選んだ入力値における微分係数は、その点における函数のグラフの接線の傾きである。これは導函数がその入力値の近くでその函数の最適線型近似を記述するものであることを意味する。そのような理由で、微分係数はしばしば「瞬間の変化率」として記述される。瞬間の変化率は独立変数に依存する従属変数である。
微分は実多変数函数(英語版)にも拡張できる。この一般化において、導函数はそのグラフが(適当な変換の後)もとの函数のグラフを最適線型近似する線型変換と解釈しなおされる。ヤコビ行列はこの線型変換を独立および従属変数を選ぶことで与えられる基底に関して表現する行列であり、独立変数に関する偏微分を用いて計算することができる。多変数実数値函数に対して、ヤコビ行列は勾配に簡約される。
導函数を求める過程を微分あるいは微分法、微分演算(英: differentiation)と言い、その逆の過程(原始函数を求めること)を反微分という。微分積分学の基本定理は反微分が積分と同じであることを主張する。一変数の微分積分学において微分と積分は基本的な操作の二本柱である。
初めに最も簡単な場合を扱う。すなわち、実数値の変数を1個もち、値も1個の実数であるような関数 f(x)(または単に f とも書く)を微分することを考える。「微分する」というのは、より正確には、微分係数(英語版)または導関数のいずれかを求めることを意味している。
説明を単純にするため、f(x) はすべての実数 x に対して定義されているとしよう。すると各々の実数 a に対して、f の a における微分係数と呼ばれる数がある(定義されない場合もあるが、ここでは理想的な状況のみを想定して説明する)。これを f′(a) で表す。また、実数 a に対して微分係数 f′(a) を対応させる関数 f′ のことを f の導関数という。
微分係数 f′(a) とは何であるか直観的に説明するには、いくつかの方法がある。
これらはいずれも、論理的に厳密な定義とはいえない。それは、「接線」や「瞬間変化率」について厳密な定義が与えられていないし、またグラフを「限りなく拡大する」ということの意味も定かではないからである。
ごく単純な関数については、上記の説明が微分係数の具体的な値について十分な示唆を与えるのは確かだ。たとえば1次関数 f(x) = Ax + B を考えると、そのグラフは直線なので、「x = a における接線」もその直線自身であると考えるのが妥当だろう。直線 y = Ax + B の傾きは A だから、微分係数 f′(a) の値も A とすべきだと考えられる。また、2次関数についても、グラフの接線の概念を微分とは無関係に定義して、その傾きを求めることはできる。だが、ほとんどの関数にはこのような手法は通用しないから、一般的な定義を与えるためには新しい考えが必要である。
関数 f(x) が開区間 I ⊂ R {\displaystyle I\subset \mathbb {R} } において定義されているとする。そのとき、 a ∈ I {\displaystyle a\in I} に対し、極限
が存在するとき、f(x) は x = a において微分可能であるという(極限は有限確定値であることを要請する。すなわち、正の無限大や負の無限大であることは許容しない)。またそのとき、上記の極限を x = a における f(x) の微分係数とよび、f′(a) によって表す。
これにともない、f(x) のグラフ上の点 (a, f(a)) を通り傾き f′(a) をもつ直線のことを、f(x) のグラフの x = a における接線という。つまり、x = a における接線とは、y = f′(a)(x − a) + f(a) によって与えられる直線のことである。
上述の微分係数の定義に現れる分数
は差分商とよばれる。これは関数 f(x) のグラフ上の2点 (a, f(a)) と (a + h, f(a + h)) を通る直線(割線という)の傾きを表している。あるいは、変数 x の値が a から a + h まで変化するあいだの、関数の値の平均変化率を表しているとみることもできる。これらの見方によれば、微分係数の定義について、次のような解釈を与えることができる。
なお、上述の微分可能性の定義では h が 0 にどのようにして近づいても差分商が一定の値に収束することを要請したが、近づき方を限定することも考えられる。h が正の値をとりながら 0 に近づいたときの片側極限
が存在するとき、f(x) は x = a において右側微分可能であるといい、この片側極限を右側微分係数とよぶ。同様に、h が負の値をとりながら 0 に近づいたときの片側極限
が存在するとき、f(x) は x = a において左側微分可能であるといい、この片側極限を左側微分係数とよぶ。f(x) が x = a において微分可能であるためには、「f(x) が x = a において右側微分可能かつ左側微分可能で、かつ右側微分係数と左側微分係数が一致する」ということが必要十分である。
関数 f(x) が開区間 I ⊂ R {\displaystyle I\subset \mathbb {R} } で定義されており、すべての a ∈ I {\displaystyle a\in I} において微分可能であるとき、f は区間 I において微分可能であるという。またそのとき、a に対して微分係数 f(a) を対応させる区間 I 上の関数のことを、f の導関数といい f′(または変数の記号を補って f′(x))で表す。
I がその他のタイプの区間である場合にも、区間 I における微分可能性を定義することができる。たとえば、I が有界閉区間 [α, β] である場合には、区間の内点では通常の意味での微分係数の存在を要請し、α では右側微分係数が、β では左側微分係数が存在することを要請する。導関数 f′(x) の値は、x = α では右側微分係数、x = β では左側微分係数とする。
関数 f が区間 I において微分可能で、さらに導関数 f′ が I で連続であるとき、f は I において連続微分可能である、または C 級であるという。
開区間 I ⊂ R {\displaystyle I\subset \mathbb {R} } で定義された関数 f(x) について、 a ∈ I {\displaystyle a\in I} とするとき、次の条件は f(x) の x = a における微分可能性と同値である。
ある定数 A が存在して、h → 0 のとき f(a + h) = f(a) + Ah + o(h) である。
ここで o(h) はランダウの記号である。この条件が成り立つとき、A は微分係数 f′(a) に他ならない。
「h → 0 のとき f(a + h) = f(a) + Ah + o(h)」が成り立つことを指して、f(a) + Ah は f(a + h) の x = a における1次近似であるという。この言葉を用いれば、一点における微分可能性とは1次近似可能性のことだといえる。またこれは、#直観的な説明の、微分係数に関する3番目の説明を厳密化したものとみることができる。
関数 f(x) が x = a において微分可能ならば、 f(x) は x = a で必ず連続である。
一方で、関数がある一点で連続だったとしても、そこで微分可能でないことがある。
実用上現れる関数の大半は、ほとんど至るところで微分可能である。微分積分学の歴史(英語版)の初期には、多くの数学者は連続関数はほとんど至るところで微分可能であると考えていた。この仮定は緩やかな条件、たとえば単調性やリプシッツ連続性などのもとでは確かに満たされる。しかし1872年にヴァイアシュトラスは、至るところ連続だが、至るところ微分不可能な関数の例を与えた(ワイエルシュトラス関数)。1931年にバナフは、連続関数全体のなす空間において、少なくとも1点で微分可能な関数全体のなす集合が痩せている(meager)ことを示した。くだけた言い方をすれば、ほとんどあらゆる連続関数がすべての点で微分不可能なのである。
関数 f が区間 I で導関数 f ′ をもち、それがさらに I で微分可能なとき、f ′ の導関数を f の2階導関数とよび f ′′ で表す。より一般に、関数 f が区間 I で n 回繰り返して微分できるとき、f は I で n 回微分可能であるといい、n 回微分して得られる関数を n 階導関数といって f で表す。
f が n 回微分可能であって、さらに n 階導関数 f が連続であるとき、f は n 回連続微分可能である(または C 級である)という。何回でも微分可能な関数は無限回微分可能である(または C 級である)という。C 級関数のことを滑らかな関数ということもある(ただしこの語の用法は必ずしも一定していず、たとえば単に微分可能であることを指して滑らかであるという場合もある)。
微分可能な関数 f(x) について、導関数 f′(x) が正の値をとる区間では、f(x) の値は単調増加する(より詳しくいえば、狭義単調増加する)。導関数 f′(x) が負の値をとる区間では f(x) の値は単調減少する。導関数 f′(x) の値がつねに 0 であるような区間では、関数 f(x) の値は一定である。
2階微分可能な関数 f(x) について、2階導関数 f′′(x) が正の値をとる区間では、関数 f(x) は凸(下に凸)である。f′′(x) が負の値をとる区間では関数 f(x) は凹(上に凸)である。
関数 f(x) が x = a の前後で凸から凹に、あるいは凹から凸に切り替わるとき、点 (a, f(a)) は f(x) のグラフの変曲点であるという。2階微分可能な関数 f(x) については、これは2階導関数 f′′(x) の符号が切り替わる x の値に対応する点ということができる。
関数 f が開区間 I で n − 1 階微分可能で、n − 1 階導関数 f が x = a で微分可能なとき、f の x = a における微分係数を f(a) とすれば
が成り立つ(テイラーの定理のペアノの剰余項による形)。これは、前述の、一点における微分可能性の1次近似による定式化の一般化にあたる。
実数値の変数 x をもち、 R m {\displaystyle \mathbb {R} ^{m}} に値をもつベクトル値関数 f(x) = (f1(x), ..., fm(x)) を考える。これが一点 x = a において微分可能であるというのは、
という極限が存在することである。上記の極限として現れるベクトルを f′(a) で表す(これも R m {\displaystyle \mathbb {R} ^{m}} の元である)。一般には f′(a) に特に名前はないが、f(x) が R m {\displaystyle \mathbb {R} ^{m}} における点の位置の変化(曲線といってもよい)を表しているとみなす場合は、f′(a) を速度ベクトルとよぶことがある。
f(x) = (f1(x), ..., fm(x)) が x = a において微分可能であることと、各成分 fi(x) がすべて x = a において微分可能であることは同値である。また
が成り立つ。
ベクトル値関数 f(x) が区間 I の各点で微分可能なとき、f(x) は区間 I において微分可能であるという。
ベクトル値関数については、高階微分も同様にして考えることができる。f′′(a) は、f(x) が R m {\displaystyle \mathbb {R} ^{m}} における点の位置の変化を表しているとみなす場合は、加速度ベクトルとよばれる。
実数を拡大して超実数 R (⊃ R) の体系の中で考えるとき、実函数 y = f(x) の実点 x における微分係数は(f の超実数への自然延長をやはり f と書くとき)、無限小 ∆x に対して ∆y = f(x+ ∆x) - f(x) とすれば、Δy の Δx に関する商 ∆y/∆x の標準部(英語版) を考えることで定義することができる。ここで、上記の差分商の標準部が無限小 ∆x の取り方に依らずに定まるとき、すなわち
が成り立つとき、この実数 m を実函数 f の a における微分係数と呼ぶ。
関数 f(x) の導関数や高階導関数を表す記法には次のようなものがある。
また、y = f(x) とおいて、下記の記法における f を y で置き換えた記法も用いられる。
点 a における微分係数(および高階の微分係数)を表すには、(a) を添えたり | x = a を添えたりする。
例えば、
である。
u, v が微分可能な x の函数で、a, b が x に無関係な定数のとき
いくつかの初等函数に関して、特徴的な微分公式が挙げられる。e、a、loge x、logax はそれぞれ指数函数と対数函数であり、sin、cos、tan は三角函数、arcsin、arccos、arctan は三角函数の逆函数(逆三角函数)、sinh、cosh、tanh は双曲線函数、arsinh、arcosh、artanh は双曲線函数の逆函数(逆双曲線函数)である。また、三角函数および双曲線函数のべき乗は cosx ≔ (cos x) のように函数名の肩に指数を書いて表していることに注意。
n 個の実数値変数をもつ多変数関数 f(x1, ..., xn) が与えられたとする(f はスカラー値でなくベクトル値でもよい)。各 xj について、xj を除く n − 1 個の変数の値を固定することにより、f(x1, ..., xn) を変数 xj のみをもつ1変数関数とみなすことができる。そのようにみた上で f(x1, ..., xn) を変数 xj について微分するのが偏微分とよばれる操作である。
f(x1, ..., xn) が R n {\displaystyle \mathbb {R} ^{n}} の開集合 D で定義されているとする。点 ( a 1 , ... , a n ) ∈ D {\displaystyle (a_{1},\dots ,a_{n})\in D} に対し、xj 以外の変数を xk = ak とおいて固定し、
という xj の1変数関数を考える。その xj = aj における微分係数
を、f(x1, ..., xn) の点 (a1, ..., an) における xj に関する偏微分係数といい、
などの記号で表す。また、点 (a1, ..., an) に対してこれらの偏微分係数を対応づける D 上の関数を f(x1, ..., xn) の xj に関する偏導関数といい、
などで表す。丸い d の記号 ∂ は偏微分記号などとよばれる。
f(x1, ..., xn) が D の各点ですべての変数について偏微分可能で、かつすべての偏導関数 ∂f/∂xj が D で連続であるとき、関数 f は D で連続微分可能(または C 級)であるという。
偏微分を繰り返して行うことにより得られる微分係数のことを高階の偏微分係数という。これは微分の階数について帰納的に定義される。
たとえば f(x1, ..., xn) の点 a = (a1, ..., an) における2階偏微分係数
は次のように定義される。前提として、導関数 ∂f/∂xj2 が存在するものとする。この仮定のもとで、 ∂f/∂xj2 が点 a において xj1 に関して偏微分可能ならば、その偏微分係数のことを上記の記号で表すのである。∂f/∂xj2 があらゆる点 a において xj1 に関して偏微分可能であるとき、点 a に上記の2階偏微分係数を対応づける関数のことを、
と書いて2階偏導関数とよぶ。同様のことを繰り返して、一般の k 階偏微分係数
および k 階偏導関数
が定義される。
微分の順序交換については次が知られている。2変数関数 f(x, y) について、2階偏導関数 ∂f/∂x∂y, ∂f/∂y∂x がともに存在して、さらにいずれも点 a において連続ならば、
が成立する。2階偏導関数の連続性の仮定が満たされなければこの等式は一般には成立しない。n 変数関数の微分の順序交換についても同じことがいえる。
関数 f(x1, ..., xn) について、偏微分は f の各座標軸方向への変化を測る。f の任意の方向への変化を測るのが方向微分である。
ベクトル v = (v1, ..., vn) に対して、関数 f の点 a = (a1, ..., an) における v 方向への方向微分係数とは、
のことである。xj 軸正の方向の単位ベクトルを ej とするとき、ej 方向への方向微分係数は、xj に関する偏微分係数に他ならない。
f が点 a においてすべての変数に関して偏微分可能ならば、あらゆるベクトル v について、点 a における v 方向への方向微分係数が存在する。またこのとき、方向微分係数は v に関して線型である。特に、v = (v1, ..., vn) に対して方向微分係数 Dvf(a) は
によって与えられる。
f が R の開集合から R への函数ならば、f の方向微分は、その点における f の選択した方向への最適線型近似を与える。しかし、 n > 1 のときは、位置方向への方向微分だけでは f の挙動を完全に捉えることはできない。全微分は、全ての方向を一度にまとめて考えることで函数の挙動を完全にとらえるものである。
f の a における全微分係数(あるいは単に全微分)は
を満たす唯一の線型写像 f ′(a): R → R と定義される。ただし、h ∈ R だから分母におけるノルムは R における標準ノルムであり、他方 f ′(a)h ∈ R であり分子のノルムは R の標準ノルムである。v が a を始点とするベクトルならば、f ′(a)v は f による v の押し出しと呼ばれ、f∗v とも書かれる。f の点 a における全微分係数 f ′(a) は a を始点とする任意のベクトル v に対して、線型近似公式
が満足される。一変数の微分係数のときと同じく f ′(a) はこの近似の誤差が可能な限り最小となるように選ばれる。高次元の場合に、この線型近似公式が意味を持つためには f ′(a) は R のベクトルを R のベクトルへ写す線型写像でければならず、また f ′(a)v はその写像の v における値でなければならない。
点 a において全微分係数が存在するならば、a における f の任意の偏微分および方向微分が存在する。即ち、任意の v に対して f ′(a)v が f の a における v-方向への方向微分になる。f を座標成分函数を用いて f = (f1, f2, ..., fm) と書けば、全微分係数は、偏微分を用いて行列として表すことができる。この行列
は f の a におけるヤコビ行列と呼ばれる。全微分係数 f ′(a) が存在することは、すべての偏微分が存在することよりも真に強い条件であるが、偏微分が全て存在して連続ならば全微分は存在し、それはヤコビ行列によって与えられ、a に関して連続的に変化する。
全微分係数の定義は一変数の場合も含むものになっている。f が実一変数の実数値函数であるとき、全微分係数の存在する必要十分条件は通常の微分係数が存在することである。ヤコビ行列は微分係数 f ′(x) を唯一の成分とする 1 × 1 行列であり、この行列は f(a + h) ≈ f(a) + f ′(a)h なる近似性質を持つ。変数を取り替える(英語版)違いを除いて、これは函数 x ↦ f(a) + f ′(a)(x − a) が f の a における最適線型近似であることを述べるものである。
函数の全微分をとる操作では、一変数の場合と同じやり方で考えたのでは、別の函数(導函数)を与えることは無い。これは多変数函数の全微分係数が一変数函数の微分係数よりも多くの情報をもつものであることからくるもので、実際に全微分は函数の始域となる空間の接束から終域となる空間の接束への写像を与えるものになっている。
自然な意味で高階導函数に対応する概念は、線型写像でも接束上の写像でもなく、また全微分を繰り返すことで構成されるものでもない。
微分の概念を多くの他の状況設定の下でも拡張して定義することができる。共通することは、一つの点における函数の導函数がその点における函数の線型近似として働くことである。
|
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"text": "数学における実変数函数(英語版)の微分係数、微分商または導関数(どうかんすう、英: derivative)は、別の量(独立変数)に依存して決まる、ある量(関数の値あるいは従属変数)の変化の感度を測るものであり、これらを求めることを微分(びぶん、英: differentiation)するという。微分演算の結果である微分係数や導関数も用語の濫用でしばしば微分と呼ばれる。",
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"text": "一変数函数の適当に選んだ入力値における微分係数は、その点における函数のグラフの接線の傾きである。これは導函数がその入力値の近くでその函数の最適線型近似を記述するものであることを意味する。そのような理由で、微分係数はしばしば「瞬間の変化率」として記述される。瞬間の変化率は独立変数に依存する従属変数である。",
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"text": "微分は実多変数函数(英語版)にも拡張できる。この一般化において、導函数はそのグラフが(適当な変換の後)もとの函数のグラフを最適線型近似する線型変換と解釈しなおされる。ヤコビ行列はこの線型変換を独立および従属変数を選ぶことで与えられる基底に関して表現する行列であり、独立変数に関する偏微分を用いて計算することができる。多変数実数値函数に対して、ヤコビ行列は勾配に簡約される。",
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"text": "導函数を求める過程を微分あるいは微分法、微分演算(英: differentiation)と言い、その逆の過程(原始函数を求めること)を反微分という。微分積分学の基本定理は反微分が積分と同じであることを主張する。一変数の微分積分学において微分と積分は基本的な操作の二本柱である。",
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"text": "初めに最も簡単な場合を扱う。すなわち、実数値の変数を1個もち、値も1個の実数であるような関数 f(x)(または単に f とも書く)を微分することを考える。「微分する」というのは、より正確には、微分係数(英語版)または導関数のいずれかを求めることを意味している。",
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"text": "説明を単純にするため、f(x) はすべての実数 x に対して定義されているとしよう。すると各々の実数 a に対して、f の a における微分係数と呼ばれる数がある(定義されない場合もあるが、ここでは理想的な状況のみを想定して説明する)。これを f′(a) で表す。また、実数 a に対して微分係数 f′(a) を対応させる関数 f′ のことを f の導関数という。",
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"text": "f が n 回微分可能であって、さらに n 階導関数 f が連続であるとき、f は n 回連続微分可能である(または C 級である)という。何回でも微分可能な関数は無限回微分可能である(または C 級である)という。C 級関数のことを滑らかな関数ということもある(ただしこの語の用法は必ずしも一定していず、たとえば単に微分可能であることを指して滑らかであるという場合もある)。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "微分可能な関数 f(x) について、導関数 f′(x) が正の値をとる区間では、f(x) の値は単調増加する(より詳しくいえば、狭義単調増加する)。導関数 f′(x) が負の値をとる区間では f(x) の値は単調減少する。導関数 f′(x) の値がつねに 0 であるような区間では、関数 f(x) の値は一定である。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2階微分可能な関数 f(x) について、2階導関数 f′′(x) が正の値をとる区間では、関数 f(x) は凸(下に凸)である。f′′(x) が負の値をとる区間では関数 f(x) は凹(上に凸)である。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "関数 f(x) が x = a の前後で凸から凹に、あるいは凹から凸に切り替わるとき、点 (a, f(a)) は f(x) のグラフの変曲点であるという。2階微分可能な関数 f(x) については、これは2階導関数 f′′(x) の符号が切り替わる x の値に対応する点ということができる。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "関数 f が開区間 I で n − 1 階微分可能で、n − 1 階導関数 f が x = a で微分可能なとき、f の x = a における微分係数を f(a) とすれば",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ(テイラーの定理のペアノの剰余項による形)。これは、前述の、一点における微分可能性の1次近似による定式化の一般化にあたる。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "実数値の変数 x をもち、 R m {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{m}} に値をもつベクトル値関数 f(x) = (f1(x), ..., fm(x)) を考える。これが一点 x = a において微分可能であるというのは、",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "という極限が存在することである。上記の極限として現れるベクトルを f′(a) で表す(これも R m {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{m}} の元である)。一般には f′(a) に特に名前はないが、f(x) が R m {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{m}} における点の位置の変化(曲線といってもよい)を表しているとみなす場合は、f′(a) を速度ベクトルとよぶことがある。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "f(x) = (f1(x), ..., fm(x)) が x = a において微分可能であることと、各成分 fi(x) がすべて x = a において微分可能であることは同値である。また",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ベクトル値関数 f(x) が区間 I の各点で微分可能なとき、f(x) は区間 I において微分可能であるという。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ベクトル値関数については、高階微分も同様にして考えることができる。f′′(a) は、f(x) が R m {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{m}} における点の位置の変化を表しているとみなす場合は、加速度ベクトルとよばれる。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "実数を拡大して超実数 R (⊃ R) の体系の中で考えるとき、実函数 y = f(x) の実点 x における微分係数は(f の超実数への自然延長をやはり f と書くとき)、無限小 ∆x に対して ∆y = f(x+ ∆x) - f(x) とすれば、Δy の Δx に関する商 ∆y/∆x の標準部(英語版) を考えることで定義することができる。ここで、上記の差分商の標準部が無限小 ∆x の取り方に依らずに定まるとき、すなわち",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "が成り立つとき、この実数 m を実函数 f の a における微分係数と呼ぶ。",
"title": "1変数関数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "関数 f(x) の導関数や高階導関数を表す記法には次のようなものがある。",
"title": "記法について"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、y = f(x) とおいて、下記の記法における f を y で置き換えた記法も用いられる。",
"title": "記法について"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "点 a における微分係数(および高階の微分係数)を表すには、(a) を添えたり | x = a を添えたりする。",
"title": "記法について"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "例えば、",
"title": "記法について"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "記法について"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "u, v が微分可能な x の函数で、a, b が x に無関係な定数のとき",
"title": "微分公式"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "いくつかの初等函数に関して、特徴的な微分公式が挙げられる。e、a、loge x、logax はそれぞれ指数函数と対数函数であり、sin、cos、tan は三角函数、arcsin、arccos、arctan は三角函数の逆函数(逆三角函数)、sinh、cosh、tanh は双曲線函数、arsinh、arcosh、artanh は双曲線函数の逆函数(逆双曲線函数)である。また、三角函数および双曲線函数のべき乗は cosx ≔ (cos x) のように函数名の肩に指数を書いて表していることに注意。",
"title": "微分公式"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "n 個の実数値変数をもつ多変数関数 f(x1, ..., xn) が与えられたとする(f はスカラー値でなくベクトル値でもよい)。各 xj について、xj を除く n − 1 個の変数の値を固定することにより、f(x1, ..., xn) を変数 xj のみをもつ1変数関数とみなすことができる。そのようにみた上で f(x1, ..., xn) を変数 xj について微分するのが偏微分とよばれる操作である。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "f(x1, ..., xn) が R n {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{n}} の開集合 D で定義されているとする。点 ( a 1 , ... , a n ) ∈ D {\\displaystyle (a_{1},\\dots ,a_{n})\\in D} に対し、xj 以外の変数を xk = ak とおいて固定し、",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "という xj の1変数関数を考える。その xj = aj における微分係数",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "を、f(x1, ..., xn) の点 (a1, ..., an) における xj に関する偏微分係数といい、",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "などの記号で表す。また、点 (a1, ..., an) に対してこれらの偏微分係数を対応づける D 上の関数を f(x1, ..., xn) の xj に関する偏導関数といい、",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "などで表す。丸い d の記号 ∂ は偏微分記号などとよばれる。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "f(x1, ..., xn) が D の各点ですべての変数について偏微分可能で、かつすべての偏導関数 ∂f/∂xj が D で連続であるとき、関数 f は D で連続微分可能(または C 級)であるという。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "偏微分を繰り返して行うことにより得られる微分係数のことを高階の偏微分係数という。これは微分の階数について帰納的に定義される。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "たとえば f(x1, ..., xn) の点 a = (a1, ..., an) における2階偏微分係数",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "は次のように定義される。前提として、導関数 ∂f/∂xj2 が存在するものとする。この仮定のもとで、 ∂f/∂xj2 が点 a において xj1 に関して偏微分可能ならば、その偏微分係数のことを上記の記号で表すのである。∂f/∂xj2 があらゆる点 a において xj1 に関して偏微分可能であるとき、点 a に上記の2階偏微分係数を対応づける関数のことを、",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "と書いて2階偏導関数とよぶ。同様のことを繰り返して、一般の k 階偏微分係数",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "および k 階偏導関数",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "が定義される。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "微分の順序交換については次が知られている。2変数関数 f(x, y) について、2階偏導関数 ∂f/∂x∂y, ∂f/∂y∂x がともに存在して、さらにいずれも点 a において連続ならば、",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "が成立する。2階偏導関数の連続性の仮定が満たされなければこの等式は一般には成立しない。n 変数関数の微分の順序交換についても同じことがいえる。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "関数 f(x1, ..., xn) について、偏微分は f の各座標軸方向への変化を測る。f の任意の方向への変化を測るのが方向微分である。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ベクトル v = (v1, ..., vn) に対して、関数 f の点 a = (a1, ..., an) における v 方向への方向微分係数とは、",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "のことである。xj 軸正の方向の単位ベクトルを ej とするとき、ej 方向への方向微分係数は、xj に関する偏微分係数に他ならない。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "f が点 a においてすべての変数に関して偏微分可能ならば、あらゆるベクトル v について、点 a における v 方向への方向微分係数が存在する。またこのとき、方向微分係数は v に関して線型である。特に、v = (v1, ..., vn) に対して方向微分係数 Dvf(a) は",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "によって与えられる。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "f が R の開集合から R への函数ならば、f の方向微分は、その点における f の選択した方向への最適線型近似を与える。しかし、 n > 1 のときは、位置方向への方向微分だけでは f の挙動を完全に捉えることはできない。全微分は、全ての方向を一度にまとめて考えることで函数の挙動を完全にとらえるものである。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "f の a における全微分係数(あるいは単に全微分)は",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "を満たす唯一の線型写像 f ′(a): R → R と定義される。ただし、h ∈ R だから分母におけるノルムは R における標準ノルムであり、他方 f ′(a)h ∈ R であり分子のノルムは R の標準ノルムである。v が a を始点とするベクトルならば、f ′(a)v は f による v の押し出しと呼ばれ、f∗v とも書かれる。f の点 a における全微分係数 f ′(a) は a を始点とする任意のベクトル v に対して、線型近似公式",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "が満足される。一変数の微分係数のときと同じく f ′(a) はこの近似の誤差が可能な限り最小となるように選ばれる。高次元の場合に、この線型近似公式が意味を持つためには f ′(a) は R のベクトルを R のベクトルへ写す線型写像でければならず、また f ′(a)v はその写像の v における値でなければならない。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "点 a において全微分係数が存在するならば、a における f の任意の偏微分および方向微分が存在する。即ち、任意の v に対して f ′(a)v が f の a における v-方向への方向微分になる。f を座標成分函数を用いて f = (f1, f2, ..., fm) と書けば、全微分係数は、偏微分を用いて行列として表すことができる。この行列",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "は f の a におけるヤコビ行列と呼ばれる。全微分係数 f ′(a) が存在することは、すべての偏微分が存在することよりも真に強い条件であるが、偏微分が全て存在して連続ならば全微分は存在し、それはヤコビ行列によって与えられ、a に関して連続的に変化する。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "全微分係数の定義は一変数の場合も含むものになっている。f が実一変数の実数値函数であるとき、全微分係数の存在する必要十分条件は通常の微分係数が存在することである。ヤコビ行列は微分係数 f ′(x) を唯一の成分とする 1 × 1 行列であり、この行列は f(a + h) ≈ f(a) + f ′(a)h なる近似性質を持つ。変数を取り替える(英語版)違いを除いて、これは函数 x ↦ f(a) + f ′(a)(x − a) が f の a における最適線型近似であることを述べるものである。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "函数の全微分をとる操作では、一変数の場合と同じやり方で考えたのでは、別の函数(導函数)を与えることは無い。これは多変数函数の全微分係数が一変数函数の微分係数よりも多くの情報をもつものであることからくるもので、実際に全微分は函数の始域となる空間の接束から終域となる空間の接束への写像を与えるものになっている。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "自然な意味で高階導函数に対応する概念は、線型写像でも接束上の写像でもなく、また全微分を繰り返すことで構成されるものでもない。",
"title": "多変数函数の微分法"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "微分の概念を多くの他の状況設定の下でも拡張して定義することができる。共通することは、一つの点における函数の導函数がその点における函数の線型近似として働くことである。",
"title": "一般化"
}
] |
数学における実変数函数の微分係数、微分商または導関数は、別の量(独立変数)に依存して決まる、ある量(関数の値あるいは従属変数)の変化の感度を測るものであり、これらを求めることを微分するという。微分演算の結果である微分係数や導関数も用語の濫用でしばしば微分と呼ばれる。
|
{{otheruses|英語の "differentiation" に対応して微分係数や導関数([[:en:derivative|derivative]])を計算すること、あるいは用語の濫用によりその計算結果自体を指す「微分」|英語の "[[:en:Differential of a function|differential]]" に対応する「微分」|関数の微分|その他}}
{{出典の明記|date=2013年8月8日 (木) 02:02 (UTC)}}
{{Calculus |differential}}
[[File:Tangent to a curve.svg|thumb|[[関数のグラフ|函数のグラフ]](黒線)と[[関数 (数学)|函数]]が描く[[曲線]]の[[接線]](赤線)。接線の[[傾き (数学)|傾き]]は接点上の函数の微分係数に等しい。]]
[[数学]]における{{仮リンク|実変数函数|en|function of a real variable}}の'''微分係数'''、'''微分商'''または{{読み仮名_ruby不使用|'''導関数'''|どうかんすう|{{lang-en-short|derivative}}}}は、別の量([[独立変数]])に依存して決まる、ある量(関数の値あるいは[[従属変数]])の[[変化]]の[[感度]]を測るものであり、これらを求めることを{{読み仮名_ruby不使用|'''微分'''|びぶん|{{lang-en-short|differentiation}}}}'''する'''という。微分演算の結果である微分係数や導関数も[[記号の濫用|用語の濫用]]でしばしば微分と呼ばれる。
==概要==
微分は[[解析学]]分野(特に[[微分積分学]]分野)の基本的な道具である。例えば、動く物体の位置の時間に関する導函数はその物体の[[速度]]であり、これは時間が進んだときその物体の位置がどれほど早く変わるかを測る。
一変数函数の適当に選んだ入力値における微分係数は、その点における[[函数のグラフ]]の[[接線]]の[[傾き (数学)|傾き]]である。これは導函数がその入力値の近くでその函数の最適[[線型近似]]を記述するものであることを意味する。そのような理由で、微分係数はしばしば「[[瞬間]]の[[変化率]]」として記述される。瞬間の変化率は独立変数に依存する従属変数である。
微分は{{仮リンク|実多変数函数|en|function of several real variables}}にも拡張できる。この一般化において、導函数はそのグラフが(適当な変換の後)もとの函数のグラフを最適線型近似する[[線型変換]]と解釈しなおされる。[[ヤコビ行列]]はこの線型変換を独立および従属変数を選ぶことで与えられる基底に関して表現する[[行列 (数学)|行列]]であり、独立変数に関する[[偏微分]]を用いて計算することができる。多変数[[実数値関数|実数値函数]]に対して、ヤコビ行列は[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]に簡約される。
導函数を求める過程を'''微分'''あるいは微分法、微分演算({{lang-en-short|differentiation}})と言い、その逆の過程([[原始函数]]を求めること)を[[反微分]]という。[[微分積分学の基本定理]]は反微分が[[積分]]と同じであることを主張する。一変数の微分積分学において微分と積分は基本的な操作の二本柱である<ref>本項に述べる微分法は多くの情報源を持つ非常によく確立された数学の分野である。本項に書かれているような内容の大半は {{harvnb|Apostol|1967}}, {{harvnb|Apostol|1969}}, {{harvnb|Spivak|1994}} に含まれる。</ref>。
[[File:What is derivative (animation).gif|thumb|引数が変更されたときの関数のスイングのように、微分の直感的なアイデアを与えるアニメーション。]]
== 1変数関数の微分法 ==
=== 直観的な説明 ===
初めに最も簡単な場合を扱う。すなわち、実数値の変数を1個もち、値も1個の実数であるような関数 {{math|''f''(''x'')}}(または単に {{mvar|f}} とも書く)を微分することを考える。「微分する」というのは、より正確には、'''{{仮リンク|微分係数|en|differential coefficient|preserve=1}}'''または'''[[微分#区間における微分可能性と導関数|導関数]]'''のいずれかを求めることを意味している。
説明を単純にするため、{{math|''f''(''x'')}} はすべての実数 {{mvar|x}} に対して定義されているとしよう。すると各々の実数 {{mvar|a}} に対して、{{mvar|f}} の {{mvar|a}} における微分係数と呼ばれる数がある(定義されない場合もあるが、ここでは理想的な状況のみを想定して説明する)。これを {{math|''f''′(''a'')}} で表す。また、実数 {{mvar|''a''}} に対して微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} を対応させる関数 {{math|''f''′}} のことを {{mvar|f}} の導関数という。
微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} とは何であるか直観的に説明するには、いくつかの方法がある。
# 微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} とは、関数 {{mvar|f}} の[[グラフ (関数)|グラフ]]に {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において(すなわち点 {{math|(''a'', ''f''(''a''))}} において)接線をひいたときの、その接線の[[傾き (数学)|傾き]]のことである。
# 微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} とは、変数 {{mvar|x}} の値の変化に伴う {{math|''f''(''x'')}} の変化を考えたときの、{{math|''x'' {{=}} ''a''}} における {{math|''f''(''x'')}} の瞬間変化率のことである。
# 微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} とは、関数 {{mvar|f}} のグラフの {{math|''x'' {{=}} ''a''}} 付近を(すなわち点 {{math|(''a'', ''f''(''a''))}} 付近を)限りなく拡大していったときに、グラフが直線に近づいて見える場合における、その直線の傾きのことである。
これらはいずれも、論理的に厳密な定義とはいえない。それは、「接線」や「瞬間変化率」について厳密な定義が与えられていないし、またグラフを「限りなく拡大する」ということの意味も定かではないからである。
ごく単純な関数については、上記の説明が微分係数の具体的な値について十分な示唆を与えるのは確かだ。たとえば[[1次関数]] {{math|''f''(''x'') {{=}} ''Ax'' + ''B''}} を考えると、そのグラフは直線なので、「{{math|''x'' {{=}} ''a''}} における接線」もその直線自身であると考えるのが妥当だろう。直線 {{math|''y'' {{=}} ''Ax'' + ''B''}} の傾きは {{mvar|A}} だから、微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} の値も {{mvar|A}} とすべきだと考えられる。また、[[2次関数]]についても、グラフの接線の概念を微分とは無関係に定義して、その傾きを求めることはできる。だが、ほとんどの関数にはこのような手法は通用しないから、一般的な定義を与えるためには新しい考えが必要である。
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| header = 極限としての変化率
| width = 250
| image1 = Tangent-calculus.svg
| caption1 = '''Figure 1'''. {{math|(''x'', ''f''(''x''))}} における[[接線]]
| image2 = Secant-calculus.svg
| caption2 = '''Figure 2.''' 二点 {{math|(''x'', ''f''(''x''))}} および {{math|(''x''+''h'', ''f''(''x''+''h''))}} の定める、曲線 {{math|1=''y''= ''f''(''x'')}} の{{仮リンク|割線|en|Secant line|preserve=1}}
| image3 = Lim-secant.svg
| caption3 = '''Figure 3.''' 割線の極限としての接線
| image4 = Derivative GIF.gif
| caption4 = '''Figure 4.''' 割線の極限としての接線(アニメーション)
}}
=== 厳密な定式化 ===
==== 一点における微分可能性と微分係数 ====
関数 {{math|''f''(''x'')}} が[[区間 (数学)|開区間]] <math>I\subset\mathbb{R}</math> において定義されているとする。そのとき、<math>a\in I</math> に対し、[[極限]]
: <math>\lim_{h \to 0} \frac{f(a+h) - f(a)}{h}</math>
が存在するとき、{{math|''f''(''x'')}} は {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において'''微分可能'''であるという(極限は有限確定値であることを要請する。すなわち、正の無限大や負の無限大であることは許容しない)。またそのとき、上記の極限を {{math|''x'' {{=}} ''a''}} における {{math|''f''(''x'')}} の'''微分係数'''とよび、{{math|''f''′(''a'')}} によって表す。
これにともない、{{math|''f''(''x'')}} のグラフ上の点 {{math|(''a'', ''f''(''a''))}} を通り傾き {{math|''f''′(''a'')}} をもつ直線のことを、{{math|''f''(''x'')}} のグラフの {{math|''x'' {{=}} ''a''}} における'''接線'''という。つまり、{{math|''x'' {{=}} ''a''}} における接線とは、{{math|''y'' {{=}} ''f''′(''a'')(''x'' − ''a'') + ''f''(''a'')}} によって与えられる直線のことである。
上述の微分係数の定義に現れる分数
: <math>\frac{f(a+h) - f(a)}{h}</math>
は[[差分商]]とよばれる。これは関数 {{math|''f''(''x'')}} のグラフ上の2点 {{math|(''a'', ''f''(''a''))}} と {{math|(''a'' + ''h'', ''f''(''a'' + ''h''))}} を通る直線('''割線'''という)の傾きを表している。あるいは、変数 {{mvar|x}} の値が {{mvar|a}} から {{math|''a'' + ''h''}} まで変化するあいだの、関数の値の平均変化率を表しているとみることもできる。これらの見方によれば、微分係数の定義について、次のような解釈を与えることができる。
# グラフ上の2点 {{math|(''a'', ''f''(''a''))}}, {{math|(''a'' + ''h'', ''f''(''a'' + ''h''))}} を通る割線が、{{mvar|h}} を {{math|0}} へと近づけたときにある直線に近づくならば、それを接線とみなすのが妥当であろう。この意味での接線の傾きが、微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} である。
# 「変数 {{mvar|x}} の値が {{mvar|a}} から {{math|''a'' + ''h''}} まで変化するあいだの関数値の平均変化率」が、{{mvar|h}} を {{math|0}} へと近づけたときにある数に近づくならば、それを瞬間変化率とみなすのが妥当であろう。この瞬間変化率が、微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} である。
なお、上述の微分可能性の定義では {{mvar|h}} が {{math|0}} にどのようにして近づいても差分商が一定の値に収束することを要請したが、近づき方を限定することも考えられる。{{mvar|h}} が正の値をとりながら {{math|0}} に近づいたときの[[片側極限]]
: <math>\lim_{h\searrow 0} \frac{f(a+h) - f(a)}{h}</math>
が存在するとき、{{math|''f''(''x'')}} は {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において'''右側微分可能'''であるといい、この片側極限を'''右側微分係数'''とよぶ。同様に、{{mvar|h}} が負の値をとりながら {{math|0}} に近づいたときの片側極限
: <math>\lim_{h\nearrow 0} \frac{f(a+h) - f(a)}{h}</math>
が存在するとき、{{math|''f''(''x'')}} は {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において'''左側微分可能'''であるといい、この片側極限を'''左側微分係数'''とよぶ。{{math|''f''(''x'')}} が {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において微分可能であるためには、「{{math|''f''(''x'')}} が {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において右側微分可能かつ左側微分可能で、かつ右側微分係数と左側微分係数が一致する」ということが必要十分である。
==== 区間における微分可能性と導関数 ====
関数 {{math|''f''(''x'')}} が開区間 <math>I\subset\mathbb{R}</math> で定義されており、すべての <math>a\in I</math> において微分可能であるとき、{{mvar|f}} は区間 {{mvar|I}} において'''微分可能'''であるという。またそのとき、{{mvar|a}} に対して微分係数 {{math|''f''(''a'')}} を対応させる区間 {{mvar|I}} 上の関数のことを、{{mvar|f}} の'''導関数'''といい {{math|''f''′}}(または変数の記号を補って {{math|''f''′(''x'')}})で表す。
{{mvar|I}} がその他のタイプの区間である場合にも、区間 {{mvar|I}} における微分可能性を定義することができる。たとえば、{{mvar|I}} が有界閉区間 {{math|[''α'', ''β'']}} である場合には、区間の内点では通常の意味での微分係数の存在を要請し、{{mvar|α}} では右側微分係数が、{{mvar|β}} では左側微分係数が存在することを要請する。導関数 {{math|''f''′(''x'')}} の値は、{{math|''x'' {{=}} ''α''}} では右側微分係数、{{math|''x'' {{=}} ''β''}} では左側微分係数とする。
関数 {{mvar|f}} が区間 {{mvar|I}} において微分可能で、さらに導関数 {{math|''f''′}} が {{mvar|I}} で連続であるとき、{{mvar|f}} は {{mvar|I}} において'''連続微分可能'''である、または {{math|''C''{{exp|1}}}} '''級'''であるという。
==== 1次近似による定式化 ====
開区間 <math>I\subset\mathbb{R}</math> で定義された関数 {{math|''f''(''x'')}} について、<math>a\in I</math> とするとき、次の条件は {{math|''f''(''x'')}} の {{math|''x'' {{=}} ''a''}} における微分可能性と同値である。
<blockquote>
ある定数 {{mvar|A}} が存在して、{{math|''h'' → 0}} のとき {{math|''f''(''a'' + ''h'') {{=}} ''f''(''a'') + ''Ah'' + ''o''(''h'')}} である。
</blockquote>
ここで {{math|''o''(''h'')}} は[[ランダウの記号]]である。この条件が成り立つとき、{{mvar|A}} は微分係数 {{math|''f''′(''a'')}} に他ならない。
「{{math|''h'' → 0}} のとき {{math|''f''(''a'' + ''h'') {{=}} ''f''(''a'') + ''Ah'' + ''o''(''h'')}}」が成り立つことを指して、{{math|''f''(''a'') + ''Ah''}} は {{math|''f''(''a'' + ''h'')}} の {{math|''x'' {{=}} ''a''}} における'''1次近似'''であるという。この言葉を用いれば、一点における微分可能性とは1次近似可能性のことだといえる。またこれは、[[#直観的な説明]]の、微分係数に関する3番目の説明を厳密化したものとみることができる。
=== 連続性と可微分性 ===
関数 {{math|''f''(''x'')}} が {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において微分可能ならば、 {{math|''f''(''x'')}} は {{math|''x'' {{=}} ''a''}} で必ず連続である。
[[File:Absolute value.svg|right|thumb|絶対値関数は {{math|''x'' {{=}} 0}} において連続だが、割線の傾きが左側で {{math|−1}}、右側で {{math|1}} だから微分可能でない。]]
一方で、関数がある一点で連続だったとしても、そこで微分可能でないことがある。
* [[絶対値]]関数 {{math|''f''(''x'') {{=}} {{abs|''x''}} }} は {{math|''x'' {{=}} 0}} において連続だが、この点で微分可能でない。{{math|''h'' > 0}} のときは {{math|(0, 0)}}, {{math|(''h'', ''f''(''h''))}} を通る割線の傾きは {{math|1}} だが、{{math|''h'' < 0}} のときは {{math|−1}} である。この例では、グラフは {{math|''x'' {{=}} 0}} においてカスプ([[尖点]])をもつという言い方をする。
* 関数 {{math|''f''(''x'') {{=}} ''x''{{exp|1/3}}}} は {{math|''x'' {{=}} 0}} において連続だが、この点で微分可能でない。{{math|(0, 0)}}, {{math|(''h'', ''f''(''h''))}} を通る割線の傾きは、{{math|''h'' → 0}} のとき正の無限大に発散するからである。この例は、グラフが滑らかにつながっているからといって微分可能とはかぎらないことを示している。
実用上現れる関数の大半は、[[ほとんど_(数学)#ほとんど至るところで|ほとんど至るところで]]微分可能である。{{仮リンク|微分積分学の歴史|en|history of calculus}}の初期には、多くの数学者は連続関数はほとんど至るところで微分可能であると考えていた。この仮定は緩やかな条件、たとえば[[単調関数|単調性]]や[[リプシッツ連続|リプシッツ連続性]]などのもとでは確かに満たされる。しかし1872年に[[カール・ワイエルシュトラス|ヴァイアシュトラス]]は、至るところ連続だが、至るところ微分不可能な関数の例を与えた([[ワイエルシュトラス関数]])。1931年に[[ステファン・バナフ|バナフ]]は、連続関数全体のなす空間において、少なくとも1点で微分可能な関数全体のなす集合が[[第一類集合|痩せている]](meager)ことを示した{{sfn|Banach|1931}}。くだけた言い方をすれば、ほとんどあらゆる連続関数がすべての点で微分不可能なのである。
=== 高階微分 ===
関数 {{mvar|f}} が区間 {{mvar|I}} で[[微分#区間における微分可能性と導関数|導関数]] {{math|''f'' ′}} をもち、それがさらに {{mvar|I}} で微分可能なとき、{{math|''f'' ′}} の導関数を {{mvar|f}} の2階導関数とよび {{math|''f'' ″}} で表す。より一般に、関数 {{mvar|f}} が区間 {{mvar|I}} で {{mvar|n}} 回繰り返して微分できるとき、{{mvar|f}} は {{mvar|I}} で {{mvar|n}} '''回微分可能'''であるといい、{{mvar|n}} 回微分して得られる関数を {{mvar|n}} '''階導関数'''といって {{math|''f'' {{exp|(''n'')}}}} で表す。
{{mvar|f}} が {{mvar|n}} 回微分可能であって、さらに {{mvar|n}} 階導関数 {{math|''f'' {{exp|(''n'')}}}} が連続であるとき、{{mvar|f}} は {{mvar|n}} '''回連続微分可能'''である(または {{math|''C''{{exp| ''n''}}}} 級である)という。何回でも微分可能な関数は'''無限回微分可能'''である(または {{math|''C''{{exp| ∞}}}} 級である)という。{{math|''C''{{exp| ∞}}}} 級関数のことを'''[[滑らか]]'''な関数ということもある(ただしこの語の用法は必ずしも一定していず、たとえば単に微分可能であることを指して滑らかであるという場合もある)。
=== 微分と関数の増減・凹凸 ===
==== 導関数の符号と関数の増減 ====
微分可能な関数 {{math|''f''(''x'')}} について、導関数 {{math|''f''′(''x'')}} が正の値をとる区間では、{{math|''f''(''x'')}} の値は[[単調写像|単調増加]]する(より詳しくいえば、狭義単調増加する)。導関数 {{math|''f''′(''x'')}} が負の値をとる区間では {{math|''f''(''x'')}} の値は単調減少する。導関数 {{math|''f''′(''x'')}} の値がつねに {{math|0}} であるような区間では、関数 {{math|''f''(''x'')}} の値は一定である。
==== 2階導関数の符号と関数の凹凸 ====
2階微分可能な関数 {{math|''f''(''x'')}} について、2階導関数 {{math|''f''′′(''x'')}} が正の値をとる区間では、関数 {{math|''f''(''x'')}} は[[凸関数|凸]](下に凸)である。{{math|''f''′′(''x'')}} が負の値をとる区間では関数 {{math|''f''(''x'')}} は凹(上に凸)である。
関数 {{math|''f''(''x'')}} が {{math|''x'' {{=}} ''a''}} の前後で凸から凹に、あるいは凹から凸に切り替わるとき、点 {{math|(''a'', ''f''(''a''))}} は {{math|''f''(''x'')}} のグラフの'''[[変曲点]]'''であるという{{sfn|Apostol|1967|loc=§4.18}}。2階微分可能な関数 {{math|''f''(''x'')}} については、これは2階導関数 {{math|''f''′′(''x'')}} の符号が切り替わる {{mvar|x}} の値に対応する点ということができる。
=== 多項式近似への応用 ===
{{main|テイラーの定理}}
関数 {{mvar|f}} が開区間 {{mvar|I}} で {{math|''n'' − 1}} 階微分可能で、{{math|''n'' − 1}} 階導関数 {{math|''f''{{exp|(''n'' − 1)}}}} が {{math|''x'' {{=}} ''a''}} で微分可能なとき、{{math|''f''{{exp|(''n'' − 1)}}}} の {{math|''x'' {{=}} ''a''}} における微分係数を {{math|''f''{{exp|(''n'')}}(''a'')}} とすれば
: <math> f(a+h) = \frac{f(a)}{0!} + \frac{f'(a)h}{1!} + \frac{f''(a)}{2!} h^2 + \dots + \frac{f^{(n)}(a)}{n!} h^n + O(h^n)</math>
が成り立つ([[テイラーの定理]]のペアノの剰余項による形)。これは、前述の、一点における微分可能性の1次近似による定式化の一般化にあたる。
=== {{anchors|ベクトル値函数の微分}}ベクトル値関数の微分 ===
実数値の変数 {{mvar|x}} をもち、<math>\mathbb{R}^m</math> に値をもつ[[ベクトル値関数]] {{math|''f''(''x'') {{=}} (''f''{{ind|1}}(''x''), …, ''f''{{ind|''m''}}(''x''))}} を考える。これが一点 {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において'''微分可能'''であるというのは、
: <math>\lim_{h\to 0}\frac{f(a+h) - f(a)}{h}</math>
という極限が存在することである{{efn|ここでベクトル値関数の極限は、2乗ノルム、絶対値ノルムなど、どんな[[ノルム]]を用いて定めても同じことである。}}。上記の極限として現れるベクトルを {{math|''f''′(''a'')}} で表す(これも<math>\mathbb{R}^m</math>の元である)。一般には {{math|''f''′(''a'')}} に特に名前はないが、{{math|''f''(''x'')}} が <math>\mathbb{R}^m</math> における点の位置の変化([[曲線]]といってもよい)を表しているとみなす場合は、{{math|''f''′(''a'')}} を[[速度ベクトル]]とよぶことがある。
{{math|''f''(''x'') {{=}} (''f''{{ind|1}}(''x''), …, ''f''{{ind|''m''}}(''x''))}} が {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において微分可能であることと、各成分 {{math|''f''{{ind|''i''}}(''x'')}} がすべて {{math|''x'' {{=}} ''a''}} において微分可能であることは同値である。また
: <math>f'(a)=(f'_1(a),\dots,f'_m(a))</math>
が成り立つ。
ベクトル値関数 {{math|''f''(''x'')}} が区間 {{mvar|I}} の各点で微分可能なとき、{{math|''f''(''x'')}} は区間 {{mvar|I}} において'''微分可能'''であるという。
ベクトル値関数については、高階微分も同様にして考えることができる。{{math|''f''′′(''a'')}} は、{{math|''f''(''x'')}} が <math>\mathbb{R}^m</math> における点の位置の変化を表しているとみなす場合は、[[加速度|加速度ベクトル]]とよばれる。
=== 超準解析による定式化 ===
実数を拡大して[[超実数]] {{math|'''R'''<sup>*</sup> (⊃ '''R''')}} の体系の中で考えるとき、実函数 {{math|''y'' {{=}} ''f''(''x'')}} の実点 {{math|''x''}} における微分係数は({{mvar|f}} の超実数への自然延長をやはり {{mvar|f}} と書くとき)、[[無限小]] {{math|∆''x''}} に対して {{math|∆''y'' {{=}} ''f''(''x''+ ∆''x'') - ''f''(''x'')}} とすれば、{{math|Δ''y''}} の {{math|Δ''x''}} に関する商 {{math|{{sfrac|∆''y''|∆''x''}}}} の{{仮リンク|標準部|en|shadow (mathematics)}} を考えることで定義することができる。ここで、上記の差分商の標準部が無限小 {{math|∆''x''}} の取り方に依らずに定まるとき、すなわち
: <math>\exists! m\in \mathbb{R}, \forall \mathit{\Delta x}(\mathit{\Delta x} \in \operatorname{monad}(0)\land \mathit{\Delta x}\ne 0),\; m = \operatorname{st}\!\left( \frac{f(a+\mathit{\Delta x}) - f(a)}{\mathit{\Delta x}} \right) </math>
が成り立つとき、この実数 {{mvar|m}} を実函数 {{mvar|f}} の {{mvar|a}} における'''微分係数'''と呼ぶ。
== 記法について ==
{{main|微分の記法}}
関数 {{math|''f''(''x'')}} の[[導関数]]や高階導関数を表す記法には次のようなものがある{{sfn|Cajori|1923}}。
また、{{math|''y'' {{=}} ''f''(''x'')}} とおいて、下記の記法における {{mvar|f}} を {{mvar|y}} で置き換えた記法も用いられる。
{| class="wikitable"
|+ 導関数や高階導関数を表す記法
! !! 導関数 !! 2階導関数 !! 3階導関数 !! {{mvar|n}} 階導関数
|-
! ラグランジュの記法
| {{math|''f''′}} || {{math|''f''″}} || {{math|''f''′′′}} || {{math|''f''{{exp|(''n'')}}}}
|-
! [[ライプニッツの記法]]
| <math>\frac{df}{dx}</math> || <math>\frac{d^2f}{dx^2}</math> または <math>\frac{d^2}{dx^2}f</math> || <math>\frac{d^3f}{dx^3}</math> または <math>\frac{d^3}{dx^3}f</math> || <math>\frac{d^nf}{dx^n}</math> または <math>\frac{d^n}{dx^n}f</math>
|-
! [[ニュートンの記法]]
| <math>\dot{f}</math> || <math>\ddot{f}</math> || <math>\overset{...}{f}</math> || (通常使われない)
|-
! {{仮リンク|ルイ・アーボガスト|en|Louis François Antoine Arbogast}}の記法{{efn|アーボガストが導入したのは変数記号を伴わない {{math|''Df''}} のような記法だった{{sfn|Cajori|1923}}。その後、多変数関数の微分を扱うために変数記号を付した {{math|''D''{{ind|''x''}}''f''}} のような記法が[[オーガスタス・ド・モルガン|ド・モルガン]]や[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]により用いられるようになった{{sfn|de Morgan|1836|pp=267–268}}{{sfn|Cauchy|1840|p=5}}。}}
| {{math|''Df''}} または {{math|''D''{{ind|''x''}}''f''}} || {{math|''D''{{exp|2}}''f''}} または <math>D_x^2f</math> || {{math|''D''{{exp|3}}''f''}} または <math>D_x^3f</math> || {{math|''D''{{exp|''n''}}''f''}} または <math>D_x^nf</math>
|}
===微分係数===
点 {{mvar|a}} における微分係数(および高階の微分係数)を表すには、{{math|(''a'')}} を添えたり {{math|{{!}} {{ind|''x'' {{=}} ''a''}}}} を添えたりする。
例えば、
{{quotation|
: <math>f^{(n)}(a)=\frac{d^nf}{dx^n}(a)=\left.\frac{d^nf}{dx^n}\right|_{x=a}=D^nf(a)=\left.D^nf\right|_{x=a}=\left.y^{(n)}\right|_{x=a}=\left.\frac{d^ny}{dx^n}\right|_{x=a}</math>}}
である。
== 微分公式 ==
=== 基本法則 ===
{{main|{{ill2|微分法則|en|Differentiation rules}}}}
{{mvar|u, v}} が微分可能な {{mvar|x}} の函数で、{{mvar|a, b}} が {{mvar|x}} に無関係な[[定数]]のとき
* [[線型性]]:
*: <math>(au + bv)' = au' + bv'.</math>
* [[ライプニッツの法則]]:
*: <math>(uv)' = u'v + uv',</math>
*: <math>\begin{align}\frac{d(u_1u_2\cdots u_n)}{\mathit{dx}} &= \sum_{i=1}^n u_1\cdots u_{i-1}\frac{du_i}{\mathit{dx}}u_{i+1}\cdots u_n \\
&= \frac{du_1}{\mathit{dx}}u_2u_3\cdots u_n + u_1\frac{du_2}{\mathit{dx}}u_3\cdots u_n + \cdots + u_1u_2\cdots u_{n-1}\frac{du_n}{\mathit{dx}},\end{align}</math>
*: <math>\frac{d^n(uv)}{\mathit{dx}^n} =\sum_{i=0}^n {n \choose i}u^{(n-i)}v^{(i)}.</math>
* [[連鎖律]] {{lang|en|(Chain-rule)}}:
*: <math>\frac{d(u\circ v)}{\mathit{dx}} = \frac{du}{\mathit{dv}}\cdot\frac{dv}{\mathit{dx}}.</math>
=== {{anchors|初等関数に関する公式}}初等函数に関する公式 ===
いくつかの[[初等関数|初等函数]]に関して、特徴的な微分公式が挙げられる。{{math|e<sup>''x''</sup>}}、{{math|''a<sup>x</sup>''}}、{{math|log<sub>e</sub> ''x''}}、{{math|log<sub>''a''</sub>''x''}} はそれぞれ[[指数関数|指数函数]]と[[対数|対数函数]]であり、{{math|sin}}、{{math|cos}}、{{math|tan}} は[[三角関数|三角函数]]、{{math|arcsin}}、{{math|arccos}}、{{math|arctan}} は三角函数の[[逆関数|逆函数]]([[逆三角関数|逆三角函数]])、{{math|sinh}}、{{math|cosh}}、{{math|tanh}} は[[双曲線関数|双曲線函数]]、{{math|arsinh}}、{{math|arcosh}}、{{math|artanh}} は双曲線函数の逆函数([[逆双曲線関数|逆双曲線函数]])である。また、三角函数および双曲線函数の[[冪乗|べき乗]]は {{math|cos<sup>2</sup>''x'' {{coloneqq}} (cos ''x'')<sup>2</sup>}} のように函数名の肩に指数を書いて表していることに注意。
{|class=wikitable style="font-size:small"
|+初等函数の微分
!原始関数
!導関数
!備考
|-
|<math>\mathrm{e}^x</math>
|<math>\mathrm{e}^x</math>
|[[指数関数|指数函数]]の微分
|-
|<math>a^x</math>
|<math>\left(\log_e a\right)a^x</math>
|一般の底の指数函数に対する微分
|-
|<math>\log_e x</math>
|<math>{1 \over x} </math>
|[[自然対数]]の微分
|-
|<math>\log_a x</math>
|<math>{1 \over x \log_e a}</math>
|一般の底の[[対数]]に対する微分
|-
|<math>x^a</math>
|<math>ax^{a-1}</math>
|[[冪乗|べき]]の微分
|-
|<math>\sin x</math>
|<math>\cos x</math>
|[[正弦函数]]の微分
|-
|<math>\cos x</math>
|<math>-\sin x</math>
|[[余弦函数]]の微分
|-
|<math>\tan x</math>
|<math>{1 \over \cos^2 x} = 1 + \tan^2 x</math>
|[[正接函数]]の微分
|-
|<math>\arcsin x</math>
|<math>{1 \over \sqrt{1-x^2}},\quad\left(-1<x<1\right)</math>
|[[逆正弦函数]]の微分
|-
|<math>\arccos x</math>
|<math>-{1 \over \sqrt{1-x^2}},\quad\left(-1<x<1\right)</math>
|[[逆余弦函数]]の微分
|-
|<math>\arctan x</math>
|<math>{1 \over 1+x^2} </math>
|[[逆正接函数]]の微分
|-
|<math>\sinh x</math>
|<math>\cosh x</math>
|[[双曲線正弦函数]]の微分
|-
|<math>\cosh x</math>
|<math>\sinh x</math>
|[[双曲線余弦函数]]の微分
|-
|<math>\tanh x</math>
|<math>{1 \over \cosh^2 x} = 1 - \tanh^2 x</math>
|[[双曲線正接函数]]の微分
|-
|<math>\operatorname{arsinh} x</math>
|<math>{1 \over \sqrt{1+x^2}}</math>
|[[逆双曲線正弦函数]]の微分
|-
|<math>\operatorname{arcosh} x</math>
|<math>{1 \over \sqrt{x^2-1}},\quad\left(|x|>1\right)</math>
|[[逆双曲線余弦函数]]の微分
|-
|<math>\operatorname{artanh} x</math>
|<math>{1 \over {1-x^2}},\quad\left(-1<x<1\right)</math>
| [[逆双曲線正接函数]]の微分
|}
== {{anchors|多変数関数の微分法}}多変数函数の微分法 ==
{{main|ベクトル解析|多変数微分積分学}}
=== 偏微分と方向微分 ===
==== 偏微分 ====
{{Main|偏微分}}
{{mvar|n}} 個の実数値変数をもつ多変数関数 {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} が与えられたとする({{mvar|f}} はスカラー値でなくベクトル値でもよい)。各 {{math|''x''{{ind|''j''}}}} について、{{math|''x''{{ind|''j''}}}} を除く {{math|''n'' − 1}} 個の変数の値を固定することにより、{{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} を変数 {{math|''x''{{ind|''j''}}}} のみをもつ1変数関数とみなすことができる。そのようにみた上で {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} を変数 {{math|''x''{{ind|''j''}}}} について微分するのが偏微分とよばれる操作である。
{{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} が <math>\mathbb{R}^n</math> の開集合 {{mvar|D}} で定義されているとする。点 <math>(a_1,\dots,a_n)\in D</math> に対し、{{math|''x''{{ind|''j''}}}} 以外の変数を {{math|''x''{{ind|''k''}} {{=}} ''a''{{ind|''k''}}}} とおいて固定し、
: <math>f(a_1,\dots,a_{j-1},x_j,a_{j+1},\dots,a_n)</math>
という {{math|''x''{{ind|''j''}}}} の1変数関数を考える。その {{math|''x''{{ind|''j''}} {{=}} ''a''{{ind|''j''}}}} における微分係数
: <math>\lim_{h \to 0}\frac{f(a_1,\ldots,a_{j-1},a_j+h,a_{j+1},\ldots,a_n) - f(a_1,\ldots,a_{j-1},a_j,a_{j+1},\ldots,a_n)}{h}</math>
を、{{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} の点 {{math|(''a''{{ind|1}}, …, ''a''{{ind|''n''}})}} における {{mvar|x{{ind|j}}}} に関する'''偏微分係数'''といい、
: <math>f_{x_j}(a_1,\ldots,a_n)</math>, <math>\frac{\partial f}{\partial x_j}(a_1,\ldots,a_n)</math>, <math>\partial_{x_j}f(a_1,\ldots,a_n)</math>
などの記号で表す。また、点 {{math|(''a''{{ind|1}}, …, ''a''{{ind|''n''}})}} に対してこれらの偏微分係数を対応づける {{mvar|D}} 上の関数を {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} の {{mvar|x{{ind|j}}}} に関する'''偏導関数'''といい、
: <math>f_{x_j}</math>, <math>\frac{\partial f}{\partial x_j}</math>, <math>\partial_{x_j}f</math>
などで表す。丸い d の記号 [[∂]] は偏微分記号などとよばれる。
{{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} が {{mvar|D}} の各点ですべての変数について偏微分可能で、かつすべての偏導関数 {{math|∂''f''/∂''x''{{ind|''j''}}}} が {{mvar|D}} で連続であるとき、関数 {{mvar|f}} は {{mvar|D}} で'''連続微分可能'''(または {{math|''C''{{exp|1}}}} '''級''')であるという。
==== 高階の偏微分 ====
偏微分を繰り返して行うことにより得られる微分係数のことを高階の偏微分係数という。これは微分の階数について帰納的に定義される。
たとえば {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} の点 {{math|''a'' {{=}} (''a''{{ind|1}}, …, ''a''{{ind|''n''}})}} における2階偏微分係数
: <math>\frac{\partial^2 f}{\partial x_{j_1}\partial x_{j_2}}(a)</math>
は次のように定義される。前提として、導関数 {{math|∂''f''/∂''x''{{ind|''j''{{ind|2}}}}}} が存在するものとする。この仮定のもとで、 {{math|∂''f''/∂''x''{{ind|''j''{{ind|2}}}}}} が点 {{mvar|a}} において {{math|''x''{{ind|''j''{{ind|1}}}}}} に関して偏微分可能ならば、その偏微分係数のことを上記の記号で表すのである。{{math|∂''f''/∂''x''{{ind|''j''{{ind|2}}}}}} があらゆる点 {{mvar|a}} において {{math|''x''{{ind|''j''{{ind|1}}}}}} に関して偏微分可能であるとき、点 {{mvar|a}} に上記の2階偏微分係数を対応づける関数のことを、
: <math>\frac{\partial^2 f}{\partial x_{j_1}\partial x_{j_2}}</math>
と書いて2階偏導関数とよぶ。同様のことを繰り返して、一般の {{mvar|k}} 階偏微分係数
: <math>\frac{\partial^k f}{\partial x_{j_1}\partial x_{j_2}\dotsb\partial x_{j_k}}(a)</math>
および {{mvar|k}} 階偏導関数
: <math>\frac{\partial^k f}{\partial x_{j_1}\partial x_{j_2}\dotsb\partial x_{j_k}}</math>
が定義される。
微分の順序交換については次が知られている。2変数関数 {{math|''f''(''x'', ''y'')}} について、2階偏導関数 {{math|∂{{exp|2}}''f''/∂''x''∂''y''}}, {{math|∂{{exp|2}}''f''/∂''y''∂''x''}} がともに存在して、さらにいずれも点 {{mvar|a}} において連続ならば、
: <math>\frac{\partial^2 f}{\partial x\,\partial y}(a)=\frac{\partial^2 f}{\partial y\,\partial x}(a)</math>
が成立する。2階偏導関数の連続性の仮定が満たされなければこの等式は一般には成立しない。{{mvar|n}} 変数関数の微分の順序交換についても同じことがいえる。
==== 方向微分 ====
{{Main|方向微分}}
関数 {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''n''}})}} について、偏微分は {{mvar|f}} の各座標軸方向への変化を測る。{{mvar|f}} の任意の方向への変化を測るのが方向微分である。
ベクトル {{math|''v'' {{=}} (''v''{{ind|1}}, …, ''v''{{ind|''n''}})}} に対して、関数 {{mvar|f}} の点 {{math|''a'' {{=}} (''a''{{ind|1}}, …, ''a''{{ind|''n''}})}} における {{mvar|v}} 方向への'''方向微分係数'''とは、
: <math>\lim_{h\to 0}\frac{f(a + hv) - f(a)}{h}</math>
のことである。{{math|''x''{{ind|''j''}}}} 軸正の方向の単位ベクトルを {{math|''e''{{ind|''j''}}}} とするとき、{{math|''e''{{ind|''j''}}}} 方向への方向微分係数は、{{math|''x''{{ind|''j''}}}} に関する偏微分係数に他ならない。
{{mvar|f}} が点 {{mvar|a}} においてすべての変数に関して偏微分可能ならば、あらゆるベクトル {{mvar|v}} について、点 {{mvar|a}} における {{mvar|v}} 方向への方向微分係数が存在する。またこのとき、方向微分係数は {{mvar|v}} に関して[[線型写像|線型]]である。特に、{{math|''v'' {{=}} (''v''{{ind|1}}, …, ''v''{{ind|''n''}})}} に対して方向微分係数 {{math|''D''{{ind|''v''}}''f''(''a'')}} は
: <math>D_vf(a) = \sum_{j=1}^n v_j \frac{\partial f}{\partial x_j}(a)</math>
によって与えられる。
=== 全微分 ===
{{Main|全微分}}
{{mvar|f}} が {{math|'''R'''{{msup|''n''}}}} の開集合から {{math|'''R'''{{msup|''m''}}}} への函数ならば、{{mvar|f}} の方向微分は、その点における {{mvar|f}} の選択した方向への最適線型近似を与える。しかし、 {{math|''n'' > 1}} のときは、位置方向への方向微分だけでは {{mvar|f}} の挙動を完全に捉えることはできない。全微分は、全ての方向を一度にまとめて考えることで函数の挙動を完全にとらえるものである。
{{mvar|f}} の {{math|'''a'''}} における'''全微分係数'''(あるいは単に全微分)は
:<math>\lim_{\mathbf{h}\to 0} \frac{\lVert f(\mathbf{a} + \mathbf{h}) - f(\mathbf{a}) - f'(\mathbf{a})\mathbf{h}\rVert}{\lVert\mathbf{h}\rVert} = 0</math>
を満たす唯一の線型写像 {{math|''f ′''('''a'''): '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R'''<sup>''m''</sup>}} と定義される。ただし、{{math|'''h''' ∈ '''R'''{{msup|''n''}}}} だから分母におけるノルムは {{math|'''R'''{{msup|''n''}}}} における標準ノルムであり、他方 {{math|''f ′''('''a''')'''h''' ∈ '''R'''{{msup|''m''}}}} であり分子のノルムは {{math|'''R'''{{msup|''m''}}}} の標準ノルムである。{{math|'''v'''}} が {{math|'''a'''}} を始点とするベクトルならば、{{math|''f ′''('''a''')'''v'''}} は {{mvar|f}} による {{math|'''v'''}} の[[写像の微分|押し出し]]と呼ばれ、{{math|''f''{{ind|∗}}'''v'''}} とも書かれる。{{mvar|f}} の点 {{math|'''a'''}} における全微分係数 {{mvar|f ′('''a''')}} は {{mvar|'''a'''}} を始点とする任意のベクトル {{math|'''v'''}} に対して、線型近似公式
: <math>f(\mathbf{a} + \mathbf{v}) \approx f(\mathbf{a}) + f'(\mathbf{a})\mathbf{v}</math>
が満足される。一変数の微分係数のときと同じく {{math|''f ′''('''a''')}} はこの近似の誤差が可能な限り最小となるように選ばれる。高次元の場合に、この線型近似公式が意味を持つためには {{math|''f ′''('''a''')}} は {{math|'''R'''{{msup|''n''}}}} のベクトルを {{math|'''R'''{{msup|''m''}}}} のベクトルへ写す線型写像でければならず、また {{math|''f ′''('''a''')'''v'''}} はその写像の {{math|'''v'''}} における値でなければならない。
==== 偏微分・方向微分との関係 ====
点 {{math|'''a'''}} において全微分係数が存在するならば、{{math|'''a'''}} における {{mvar|f}} の任意の偏微分および方向微分が存在する。即ち、任意の {{math|'''v'''}} に対して {{math|''f ′''('''a''')'''v'''}} が {{mvar|f}} の {{math|'''a'''}} における {{math|'''v'''}}-方向への方向微分になる。{{mvar|f}} を座標成分函数を用いて {{math|1=''f'' = (''f''{{ind|1}}, ''f''{{ind|2}}, …, ''f''{{ind|''m''}})}} と書けば、全微分係数は、偏微分を用いて[[行列 (数学)|行列]]として表すことができる。この行列
: <math>f'(\mathbf{a}) = \operatorname{Jac}_{\mathbf{a}} = \left(\frac{\partial f_i}{\partial x_j}\right)_{ij}</math>
は {{mvar|f}} の {{math|'''a'''}} における[[ヤコビ行列]]と呼ばれる。全微分係数 {{math|''f ′''('''a''')}} が存在することは、すべての偏微分が存在することよりも真に強い条件であるが、偏微分が全て存在して連続ならば全微分は存在し、それはヤコビ行列によって与えられ、{{math|'''a'''}} に関して連続的に変化する。
全微分係数の定義は一変数の場合も含むものになっている。{{mvar|f}} が実一変数の実数値函数であるとき、全微分係数の存在する必要十分条件は通常の微分係数が存在することである。ヤコビ行列は微分係数 {{math|''f ′''(''x'')}} を唯一の成分とする {{math|1 × 1}} 行列であり、この行列は {{math|''f''(''a'' + ''h'') ≈ ''f''(''a'') + ''f ′''(''a'')''h''}} なる近似性質を持つ。{{仮リンク|変数変換|label=変数を取り替える|en|Change of variables}}[[違いを除いて]]、これは函数 {{math|''x'' {{mapsto}} ''f''(''a'') + ''f ′''(''a'')(''x'' − ''a'')}} が {{mvar|f}} の {{mvar|a}} における最適線型近似であることを述べるものである。
==== 高階の全微分 ====
函数の全微分をとる操作では、一変数の場合と同じやり方で考えたのでは、別の函数(導函数)を与えることは無い。これは多変数函数の全微分係数が一変数函数の微分係数よりも多くの情報をもつものであることからくるもので、実際に全微分は函数の始域となる空間の[[接束]]から終域となる空間の接束への写像を与えるものになっている。
自然な意味で高階導函数に対応する概念は、線型写像でも接束上の写像でもなく、また全微分を繰り返すことで構成されるものでもない。
; ジェット: 高階の全導函数となるべきものは{{仮リンク|ジェット (数学)|en|jet (mathematics)|label=ジェット}}と呼ばれるもので、これは線型写像ではない(高階導函数は凹性(凸性)などの微妙な幾何学的性質を反映するので、これはベクトルのような線型の情報では記述できない)し、接束上の写像でもない(接束は底空間と方向微分に対してしか意味を成さない)。ジェットは高階の情報を反映することから、各方向への高階の変化を表す追加の座標を引数としてとる。このような余分の座標によって決定される空間は{{仮リンク|ジェット束|en|jet bundle}}と呼ばれる。函数の全微分と偏微分との関係に並列に対応するものは、函数の {{mvar|k}}-階のジェットと {{mvar|k}} 階以下の偏微分との関係として理解することができる。
; 高階フレシェ微分: 全微分を繰り返しとることは、高階の[[フレシェ微分]](を {{math|'''R'''{{msup|''p''}}}} に特殊化したもの)として定式化することができる。つまり、{{mvar|k}}-階の全微分は
:: <math>D^k f\colon \mathbb{R}^n \to L^k(\mathbb{R}^n \times \cdots \times \mathbb{R}^n,\, \mathbb{R}^m)</math>
: なる写像として解釈することができる。この写像は点 {{math|'''x''' ∈ '''R'''{{msup|''n''}}}} に対して、{{math|'''R'''{{msup|''n''}}}} から {{math|'''R'''{{msup|''m''}}}} への {{mvar|k}}-[[重線型写像]]の空間の元で、その点において {{mvar|f}} を(ある特定の明確な意味において)「最適」に {{mvar|k}}-重線型近似するものを割り当てる。対角線埋め込み {{math|Δ: '''x''' → ('''x''', '''x''', …, '''x''')}} との合成を考えれば、多変数のテイラー級数も最初の方の項が
:: <math>\begin{align}
f(\mathbf{x}) & \approx f(\mathbf{a}) + (D f)(\mathbf{x}) + (D^2 f)(\Delta(\mathbf{x-a})) + \cdots\\
& = f(\mathbf{a}) + (D f)(\mathbf{x - a}) + (D^2 f)(\mathbf{x - a}, \mathbf{x - a})+ \cdots\\
& = f(\mathbf{a}) + \sum_i (D f)_i (\mathbf{x-a})^i + \sum_{j, k} (D^2 f)_{j k} (\mathbf{x-a})^j (\mathbf{x-a})^k + \cdots
\end{align}</math>
: となるようなものとして与えられる。ただし、{{math|''f''('''a''')}} は定値函数と同一視され、各 {{math|('''x''' − '''a'''){{msup|''i''}}}} はベクトル {{math|'''x''' − '''a'''}} の第 {{mvar|i}}-成分で、{{math|(''Df''){{ind|''i''}}, (''D''{{exp|2}}''f''){{ind|''jk''}}, …}} は線型変換としての {{math|''Df'', ''D''{{exp|2}}''f'', …}} の各成分を表す。
== 一般化 ==
{{Main|{{仮リンク|微分の一般化|en|Derivative (generalizations)|preserve=1}}}}
微分の概念を多くの他の状況設定の下でも拡張して定義することができる。共通することは、一つの点における函数の導函数がその点における函数の[[線型近似]]として働くことである。
* 実函数の微分の重要な一般化は、[[ガウス平面]]上の[[領域 (解析学)|領域]]からガウス平面 {{mathbf|C}} への函数のような[[複素数|複素]]変数の[[複素函数]]の微分である。複素函数の微分の概念は、実函数の微分の定義において実変数であるところを複素変数に置き換えることで得られる。二つの実数 {{mvar|x, y}} を用いて複素数 {{math|''z'' {{=}} ''x'' + ''i'' ''y''}} と書くことによりガウス平面 {{mathbf|C}} を座標平面 {{math|'''R'''<sup>2</sup>}} と同一視するとき、{{mathbf|C}} から {{mathbf|C}} への複素可微分函数は {{math|'''R'''<sup>2</sup>}} から {{math|'''R'''<sup>2</sup>}} へのある種の(その偏導函数が全て存在するという意味での)実可微分函数とみなすことができるが、逆は一般には成り立たない(複素微分が存在するのは実導函数が「複素線型」であるときに限り、これは二つの偏導函数が[[コーシー–リーマン方程式]]と呼ばれる関係式を満足することを課すものである)。[[正則函数]]の項を参照。
* 別の一般化として[[可微分多様体]](滑らかな多様体)の間の写像の微分を考えることができる。直観的に言えば、可微分多様体 {{mvar|M}} とはその各点 {{mvar|x}} の近くで[[接空間]]と呼ばれる[[ベクトル空間]]によって近似することのできる空間である(原型的な例は {{math|'''R'''<sup>3</sup>}} 内の{{仮リンク|滑らかな曲面|en|smooth surface}}である)。そのような多様体間の[[可微分写像]] {{math|''f'': ''M'' → ''N''}} の点 {{math|''x'' ∈ ''M''}} における微分係数あるいは微分は、{{mvar|x}} における {{mvar|M}} の接空間から {{mvar|''f''(''x'')}} における {{mvar|N}} の接空間への[[線型写像]]であり、導函数は {{mvar|M}} の[[接束]]から {{mvar|N}} の接束への写像となる。この定義は[[微分幾何学]]において基本的であり、多くの応用がある。[[微分写像]](押し出し)および{{仮リンク|引き戻し (微分幾何学)|en|pullback (differential geometry)}}の項を参照。
* [[バナッハ空間]]や[[フレシェ空間]]のような[[無限次元]][[線型空間]]の間の写像に対する微分法も定義できる。[[方向微分]]の一般化である[[ガトー微分]]や[[函数の微分]]の一般化である[[フレシェ微分]]などがある。
* 古典的な微分の欠点は微分可能な函数がそれほどまでには多くないことである。それにも関わらず、微分の概念を拡張して任意の[[連続函数]]やほかの多くの函数を微分可能とするものに、[[弱微分]]がある。これは連続函数をより大きな[[シュヴァルツ超函数|分布]]の空間に埋め込んで、「平均の上で」のみ微分可能性を課すというものである。
* 微分の性質に着想を得て代数学や位相空間論における同様の対象がたくさん導入され研究されている。例えば{{仮リンク|導分|en|Derivation (differential algebra)}}、[[微分環]]などを参照。
* 微分の離散的対応物は[[有限差分|差分]]である。微分法の研究は[[時間尺度微分積分学]]において差分法と統一される。
* {{仮リンク|算術微分|en|arithmetic derivative}}(数論的微分)
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}}
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
{{div col}}<!--五十音順に排列-->
* {{仮リンク|解析学の歴史|en|History of calculus}}
* [[積分]]
* {{仮リンク|微分の一般化|en|Generalizations of the derivative|preserve=1}}
** [[ラドン–ニコディム微分]]
** [[ダルブー導関数]]
** {{仮リンク|シュヴァルツ微分|en|Schwarzian derivative}}
** {{仮リンク|フラクタル微分|en|Fractal derivative}}
** {{仮リンク|ハッセ微分|en|Hasse derivative}}
* [[自動微分]]
* {{仮リンク|数値微分|en|Numerical differentiation}}
* {{仮リンク|線型化|en|Linearization|preserve=1}}
* [[対称微分]]
* {{仮リンク|滑らかさの等級|fr|Classe de régularité}}
* {{仮リンク|微積分作用素|en|Differintegral}}
* [[微分作用素]]
* [[微分法]]
* {{仮リンク|微分法則|en|Differentiation rules}}
* [[無限小]]
{{div col end}}
* [[微分可能関数]]
*[[スケール因子]] - 異なる[[物理量]]間で微分を考える際、得られる値は実際の比というより、[[物理単位]]の取り方に依存した仮想的な値になる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{cite book | last = Apostol | first = Tom M. | author-link = Tom M. Apostol | year = 1967 | title = Calculus, Vol. 1: One-Variable Calculus with an Introduction to Linear Algebra | publisher = Wiley | edition = 2nd | isbn = 978-0-471-00005-1 | ref=harv}}
* {{cite book | last = Apostol | first = Tom M. | year = 1969 | title = Calculus, Vol. 2: Multi-Variable Calculus and Linear Algebra with Applications | publisher = Wiley | edition = 2nd | isbn = 978-0-471-00007-5 | ref=harv}}
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* {{Citation | last=Cajori | first=Florian | author-link=フロリアン・カジョリ | year=1923 | title=The History of Notations of the Calculus | journal=Annals of Mathematics. Second Series | volume=25 | issue=1 | pages=1-46 | url=https://www.jstor.org/stable/1967725 | ref=harv }}
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=== 関連文献 ===
==== 印刷物 ====
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==== オンライン本 ====
{{Sister project links|Differentiation|Differentiation}}
{{Sister project links|Derivative|Derivative}}
{{Library resources box |by=no |onlinebooks=no|others=no |about=yes |label=Derivative}}
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*{{Citation | last = Crowell | first = Benjamin | title = Calculus | year = 2003 | url = http://www.lightandmatter.com/calc/}}
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==== ウェブサイト ====
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*[http://www.ugrad.math.ubc.ca/coursedoc/math100/notes/derivative/trig2.html Derivatives of Trigonometric functions], UBC
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひふん}}
[[Category:微分法|*]]
[[Category:解析学]]
[[Category:微分積分学]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:率・割合]]
[[Category:変化]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-06-20T11:34:29Z
|
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AE%E5%88%86
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10,191 |
連続 (数学)
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数学において、連続(れんぞく、英: continuous)および連続性(れんぞくせい、英: continuity)とは、点の集合が切れていないことを表す概念である。それの厳密な定義は極限によって定式化される。数学における連続の概念は、位相空間の間の写像に対して拡張され、開集合などといった位相的な概念を一定の方法で保つという条件によって連続性の概念が定められる。これは異なる位相空間の間の関係を表す最も基本的な枠組みである。
以下に1変数実関数の場合を主として、関数の連続性および様々な派生概念を述べる。
連続性は、各点の周りで考えられる概念である。1変数実関数 f(x) がある点 x0 で連続であるとは、x が x0 に限りなく近づくならば、f(x) が f(x0) に限りなく近づくことを言う:
これはε-δ論法を用いれば次のように定式化できる:
また、関数 f(x) がある区間 I で連続であるとは、I に属するそれぞれの点で連続であることを言う:
関数 f(x) が多変数であったり、またはベクトル値関数である場合にも、基本的には上の絶対値の記号をノルム(長さ)に変更すれば同じようにして連続性を定義することができる。関数空間のような無限個の変数で表される対象や、さらに抽象的な位相空間上で定義された写像についての連続性は近傍系やフィルター、有向点族(ネット)などの概念を通じて定義される。
一般に、f を位相空間 X から位相空間 Y への写像とするとき、f が x ∈ X で連続であるとは、f(x) ∈ Y の任意の近傍 V に対して、x のある近傍 Ux を取れば、それの像が f(Ux) ⊆ V とできることをいう。
これは、Y の点 f(x) を含む任意の近傍の f による逆像がまた x の近傍であるとき、f は x において連続であるというと言い換えることができる。また、f が X 全体で連続であるということは、単に Y の任意の開集合の逆像がまた X の開集合であるのと同じである。
実数や複素数(あるいはその列)の全体に対して、絶対値(あるいはノルム)を距離関数として距離空間の位相を導入すれば、「連続関数」は「連続写像」の例であることが理解される。
各点連続よりも強い概念に一様連続性の概念がある。1変数実関数 f(x) についてこれは次のように定義される。
任意の正の数 ε に対して、正の数 δ が存在し、距離が δ 未満であるどんな数 x, y に対しても、f(x) と f(y) との差が ε より小さくなっているならば、f は一様連続であるという。つまり、区間 I ⊂ R で定義された f : I → R が I 上一様連続とは、
ということである。定義より、ある関数が区間 I 上一様連続ならばそれは I 上連続でもある。一般的にこの逆は成り立たないが、区間 I が有界閉区間ならば逆も成り立つ(ハイネ・カントールの定理)。
この概念は距離空間の間の、あるいは一様空間の間の写像の一様連続性として抽象化される。有界閉区間上の関数に対する連続性と一様連続性の一致は、コンパクト空間が自然に一様空間の構造をもつということで説明される。
一様連続性の特別な場合として、ヘルダー連続性の概念がある。一変数実関数 f の値 f(x) と f(y) の差が x と y の差のべき乗に比例するある量で抑えられるとき f はヘルダー連続であるという。
ヘルダー連続性のさらに特別な場合として、リプシッツ連続性の概念がある。一変数実関数 f(x) について、f(x) と f(y) の差が x と y の差に比例するある量で抑えられるとき f はリプシッツ連続 (Lipschitz continuous) であるという。つまり、f が I 上リプシッツ連続であるとは、f が次の条件を満たすことである:
この条件は、リプシッツ条件 (Lipschitz condition) と呼ばれる。f がリプシッツ条件を満たすための L の値を f の リプシッツ定数 (Lipschitz constant) という。そのような最小の L をリプシッツ定数ということもある。
この概念は距離空間の間の写像に対して抽象化される。
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数学において、連続および連続性とは、点の集合が切れていないことを表す概念である。それの厳密な定義は極限によって定式化される。数学における連続の概念は、位相空間の間の写像に対して拡張され、開集合などといった位相的な概念を一定の方法で保つという条件によって連続性の概念が定められる。これは異なる位相空間の間の関係を表す最も基本的な枠組みである。
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{{Dablink|数学における他の連続:圏論における[[極限 (圏論)|連続性]]・[[スコット連続]]・{{仮リンク|連続関数 (集合論)|en|Continuous function (set theory)}}・{{仮リンク|グラフ連続|en|Graph continuous function}}・{{仮リンク|幾何学的連続性|en|Geometric continuity}}・[[連続体]]{{要曖昧さ回避|date=2019-06}}}}
{{混同|実数の連続性|[[連結空間|連結]]}}
{{Redirect|連続|一般的な意味|wikt:連続}}
{{複数の問題
|参照方法 = 2019-06
|単一の出典 = 2019-06
}}
{{Calculus}}
[[数学]]において、'''連続'''(れんぞく、{{Lang-en-short|''continuous''}})および'''連続性'''(れんぞくせい、{{Lang-en-short|''continuity''|links=no}})とは、点の[[集合]]が切れていないことを表す概念である。それの厳密な定義は[[極限]]によって定式化される。数学における連続の概念は、[[位相空間]]の間の[[写像]]に対して拡張され、[[開集合]]などといった位相的な概念を一定の方法で保つという条件によって連続性の概念が定められる。これは異なる位相空間の間の関係を表す最も基本的な枠組みである{{Efn2|日常語としては「連続」が「切れずに繋がっている」という意味で使われることがあるが、位相空間の性質として「切れずに繋がっている」ということを表す概念は「[[連結空間|連結]]性」である。事実として「連結[[領域 (解析学)|領域]]の連続像は必ず連結」であり、従って連結な定義域を持つ連続函数の[[グラフ (関数)|グラフ]]は文字通り「切れずに繋がっている」ことになるが、それは連続性の本質ではない。実際、[[位相幾何学者の正弦曲線]]は連結であるが関数は原点において連続ではない。位相空間から[[コンパクト空間|コンパクト]]・[[ハウスドルフ空間]]への写像が連続であることと同値な条件としてはグラフが[[閉集合]]であることがある{{sfn|Aliprantis|Border|2006|loc={{google books quote|id=4hIq6ExH7NoC|page=51|2.58 Closed Graph Theorem}}}}。}}。
{{See also|連続写像}}
== 一変数実関数の連続性 ==
以下に1変数実関数の場合を主として、関数の連続性および様々な派生概念を述べる。
=== 各点連続 ===
[[ファイル:Epsilon-delta definition of continuity (GIF).gif|サムネイル|右| イプシロン-デルタ論法による関数の連続性のGIFアニメーション ]]
{{Main|位相空間}}
連続性は、各点の周りで考えられる概念である。1変数実関数 {{math|''f''(''x'')}} がある点 {{math|''x''{{sub|0}}}} で'''連続'''であるとは、{{mvar|x}} が {{math|''x''{{sub|0}}}} に限りなく近づくならば、{{math|''f''(''x'')}} が {{math|''f''(''x''{{sub|0}})}} に限りなく近づくことを言う:
:<math>\lim_{x\to x_0} f(x) = f(x_0)</math>
これは[[イプシロン-デルタ論法|ε-δ論法]]を用いれば次のように定式化できる:
:任意の正の数 {{mvar|ε}} に対して、ある正の数 {{mvar|δ}} が存在し、{{math|''x''{{sub|0}}}} との距離が {{mvar|δ}} 未満であるどんな {{mvar|x}} に対しても、{{math|''f''(''x'')}} は {{math|''f''(''x''{{sub|0}})}} の差が {{mvar|ε}} より小さくなる:
:<math>{}^{\forall} \varepsilon >0,{}^{\exists} \delta>0 \;\text{s.t.}\; {}^{\forall} x\; [\ |x-x_0|<\delta \Rightarrow |f(x)-f(x_0)|<\varepsilon]</math>
また、関数 {{math|''f''(''x'')}} がある[[区間 (数学)|区間]] ''I'' で連続であるとは、''I'' に属するそれぞれの点で連続であることを言う:
:<math>{}^{\forall} x_0 \in I, {}^{\forall} \varepsilon >0, {}^{\exists} \delta>0 \;\text{s.t.}\; {}^{\forall} x \in I\ [\ |x-x_0|<\delta \Rightarrow |f(x)-f(x_0)|<\varepsilon]</math>
関数 {{math|''f''(''x'')}} が多変数であったり、または[[ノルム線型空間|ベクトル]]値関数である場合にも、基本的には上の[[絶対値]]の記号を[[ノルム]](長さ)に変更すれば同じようにして連続性を定義することができる。関数空間のような無限個の変数で表される対象や、さらに抽象的な位相空間上で定義された写像についての連続性は[[近傍系]]や[[フィルター (数学)|フィルター]]、[[有向点族]](ネット)などの概念を通じて定義される。
==== 一般の位相空間に対して ====
一般に、{{mvar|f}} を[[位相空間]] {{mvar|X}} から位相空間 {{mvar|Y}} への[[写像]]とするとき、{{mvar|f}} が {{math2|''x'' ∈ ''X''}} で連続であるとは、{{math2|''f''(''x'') ∈ ''Y''}} の任意の近傍 {{mvar|V}} に対して、{{mvar|x}} のある近傍 {{mvar|U{{sub|x}}}} を取れば、それの[[像 (数学)|像]]が {{math2|''f''(''U{{sub|x}}'') ⊆ ''V''}} とできることをいう。
これは、{{mvar|Y}} の点 {{math|''f''(''x'')}} を含む任意の近傍の {{mvar|f}} による逆像がまた {{mvar|x}} の近傍であるとき、{{mvar|f}} は {{mvar|x}} において連続であるというと言い換えることができる。また、{{mvar|f}} が {{mvar|X}} 全体で連続であるということは、単に {{mvar|Y}} の任意の[[開集合]]の逆像がまた {{mvar|X}} の開集合であるのと同じである。
実数や[[複素数]](あるいはその列)の全体に対して、絶対値(あるいはノルム)を距離関数として[[距離空間]]の位相を導入すれば、「連続関数」は「連続写像」の例であることが理解される。
=== 一様連続 ===
{{Main|一様連続}}
各点連続よりも強い概念に'''一様連続'''性の概念がある。1変数実関数 {{math|''f''(''x'')}} についてこれは次のように定義される。
任意の正の数 {{mvar|ε}} に対して、正の数 {{mvar|δ}} が存在し、距離が {{mvar|δ}} 未満であるどんな数 {{math2|''x'', ''y''}} に対しても、{{math|''f''(''x'')}} と {{math|''f''(''y'')}} との差が {{mvar|ε}} より小さくなっているならば、{{mvar|f}} は'''一様連続'''であるという。つまり、区間 {{math2|''I'' ⊂ '''R'''}} で定義された {{math2|''f'' : ''I'' → '''R'''}} が {{mvar|I}} 上一様連続とは、
:<math>{}^{\forall} \varepsilon >0, {}^{\exists} \delta>0 \;\text{s.t.}\; {}^{\forall} x,y \in I \;[\ |x-y|<\delta \Rightarrow |f(x)-f(y)|<\varepsilon]</math>
ということである。定義より、ある関数が区間 {{mvar|I}} 上一様連続ならばそれは {{mvar|I}} 上連続でもある。一般的にこの逆は成り立たないが、区間 {{mvar|I}} が有界閉区間ならば逆も成り立つ([[ハイネ・カントールの定理]])。
この概念は距離空間の間の、あるいは一様空間の間の写像の一様連続性として抽象化される。有界閉区間上の関数に対する連続性と一様連続性の一致は、コンパクト空間が自然に一様空間の構造をもつということで説明される。
=== ヘルダー連続 ===
{{Main|ヘルダー条件}}
一様連続性の特別な場合として、[[ヘルダー条件|ヘルダー連続性]]の概念がある。一変数実関数 {{mvar|f}} の値 {{math|''f''(''x'')}} と {{math|''f''(''y'')}} の差が {{mvar|x}} と {{mvar|y}} の差のべき乗に[[比例]]するある量で抑えられるとき {{mvar|f}} はヘルダー連続であるという。
=== リプシッツ連続 ===
{{Main|リプシッツ連続}}
ヘルダー連続性のさらに特別な場合として、リプシッツ連続性の概念がある。一変数実関数 {{math|''f''(''x'')}} について、{{math|''f''(''x'')}} と {{math|''f''(''y'')}} の差が {{mvar|x}} と {{mvar|y}} の差に[[比例]]するある量で抑えられるとき {{mvar|f}} は'''リプシッツ連続''' (Lipschitz continuous) であるという。つまり、{{mvar|f}} が {{mvar|I}} 上リプシッツ連続であるとは、{{mvar|f}} が次の条件を満たすことである:
:<math>{}^{\exists} L>0 \;\text{s.t.}\; {}^{\forall} x,y \in I\; [|f(x)-f(y)|\le L|x-y|]</math>
この条件は、'''リプシッツ条件''' (Lipschitz condition) と呼ばれる。{{mvar|f}} がリプシッツ条件を満たすための {{mvar|L}} の値を {{mvar|f}} の '''リプシッツ定数''' (Lipschitz constant) という。そのような最小の {{mvar|L}} をリプシッツ定数ということもある。
この概念は距離空間の間の写像に対して抽象化される。
== 不連続関数 ==
* [[床関数と天井関数#床関数|ガウス記号]] {{math|[''x'']}} によって[[実数]]から実数への関数 {{math2|1=''f''(''x'') = [''x'']}} を定義しよう。この関数は、各整数の点で不連続である。この場合、関数のグラフにはギャップができる。ギャップのある不連続点を'''第一種不連続点'''という。これは正確には、{{math2|''a''+, ''a''−}} の両側に[[極限]]が存在するが、両者の極限が等しくならないようなものである。これは不連続点の中では最も連続に''近い''ものである。<!-- 導関数は連続とは限らないが、第一種不連続点が現れることはない。: 趣旨が不明。そもそも不連続点で導関数が不定なことに問題があるのでは -->
* {{math|sin{{sfrac|1|''x''}}}} は {{math2|1=''x'' = 0}} での値をどのように定めてもこの点で不連続になる。これは第一種不連続点ではない。
* {{mvar|x}} が[[有理数]]なら {{math|1}}、[[無理数]]なら {{math|0}} の値をとる関数 {{math|''d''(''x'')}} を[[ディリクレの関数]]と呼ぶ。これは {{mathbf|R}} 上の全ての点で不連続である。単純だが極端な不連続関数の例として[[積分]]論などの議論で重宝される。
* 関数 {{mvar|f}} を、{{mvar|x}} が無理数の場合は {{math2|1=''f''(''x'') = 0}} と定義し、有理数の場合は {{math2|1=''x'' = {{sfrac|''p''|''q''}}}}({{mvar|p}} は整数、{{mvar|q}} は正の整数でこれらは互いに素)と表し、この {{mvar|q}} を使って {{math2|1=''f''(''x'') = {{sfrac|1|''q''}}}} と定義すると、{{mvar|f}} は無理数では連続、有理数では不連続となる。
== 注釈 ==
{{Notelist2}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|title=解析概論|edition=改訂第3版 軽装版|date=1983-09|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4000051717}}
* {{cite book
|last1 = Aliprantis
|first1 = Charalambos D.
|last2 = Border
|first2 = Kim C.
|title = Infinite Dimensional Analysis: A Hitchhiker's Guide
|edition = 3rd
|year = 2006
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|zbl = 1156.46001
|ref = harv
}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|32px|none]]}}
*[[実数]]
*[[位相空間]]
*[[距離空間]]
*[[絶対連続]]
*[[同程度連続]]
*[[半連続]]
*[[不連続性の分類]]
*[[微分可能関数]]
{{DEFAULTSORT:れんそく}}
[[Category:解析学]]
[[Category:位相幾何学]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2023-07-21T12:23:33Z
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ローレンシウム
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ローレンシウム(Lawrencium)は、元素記号Lr、原子番号103番の元素である。多くの人工放射性元素の発見に寄与したシンクロトロンの発明者であるアーネスト・ローレンスの名前に因んで名付けられた。7番目の超ウラン元素で、アクチノイド系列の最後の元素である。原子番号100以上の全ての元素と同様に、ローレンシウムは、より元素の軽い荷電粒子を加速器中で標的に照射することでのみ合成される。14の同位体が知られており、最も安定なLrの半減期は11時間であるが、より短命(半減期2.7分)だが大量合成が可能なLrが最も一般的に用いられている。
化学実験により、ローレンシウムは、ルテチウムの重いホモログとしての挙動を示し、3価の元素であることが確認された。第7周期の遷移金属にも分類されるが、その電子配置は、周期表上の位置からすると異常で、ルテチウムのsd配置とは異なるsp配置となる。これは、周期表の位置から予測されるよりも揮発性が高く、その値は鉛に匹敵することを意味する。
1950年代から1970年代に、ソビエト連邦及びアメリカ合衆国の研究所から、ローレンシウム合成の多くの主張があった。元素の発見の優先権、命名権がソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究者の間で論争となり、当初、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は、アメリカのチームを発見者としてローレンシウムを正式名称としたが、この決定は1997年に撤回され、両チームが発見の栄誉を分け合うが、元素の名前は変えないことが決定された。
1958年、ローレンス・バークレー国立研究所の研究者が、現在はノーベリウムと呼ばれている102番元素の発見を主張した。同時に、彼らは同じキュリウム標的に窒素14イオンを照射して103番元素の合成も試みた。崩壊エネルギー9±1 MeV、半減期約0.25秒の18の飛跡が記録され、バークレーのチームは、この飛跡の原因が103番元素の生成の可能性もあるが、他の可能性も除外できないと述べた。このデータは、後に発見された Lrのデータ (アルファ崩壊エネルギー 8.87 MeV、半減期 0.6 秒)と合理的なレベルで一致しているが、この実験で得られた証拠は、103番元素の合成を決定的に証明するのに必要な強度にはほど遠いものであった。標的が破壊されてしまったため、この実験のフォローアップは行われなかった。1960年に、同研究所は、Cf標的にBとBを照射して元素を合成する実験を試みたが、この実験の結果も決定的なものとはならなかった。
103番元素の合成に関する最初の重要な成果は、バークレーにおいて、アルバート・ギオルソ、トールビョルン・シッケランド、アルモン・ラーシュ、ロバート・ラティマーらにより、1961年2月14日に行われた。ローレンシウムの最初の原子は、重イオン線形加速器(HILAC)を用いて、カリホルニウムの3つの同位体を含む3mgの標的にホウ素10及びホウ素11の原子核を照射して合成されたと報じられている。バークレーのチームは、このような方法で同位体103を検出し、半減期8±2秒で8.6 MeVのアルファ粒子を放出して崩壊したと報告しているが、検出されたような性質はLrではなくLrが持つことが示され、この同定は後に103に訂正された。
これは当時、103番元素合成の説得力のある証拠であると考えられた。質量の同定についてはあまり確実ではなく、後に誤りであったことが証明されたが、103番元素が合成されたことを支持する議論には影響しなかった。ドゥブナの研究者は、いくつかの批判を提起したが、1つを除き全てが適切に回答された。唯一の例外は、標的中で最も豊富な同位体であったCfがと反応すると、Lrが生成するのは、4つの中性子を放出する時のみであり、3つの中性子の放出は、4つや5つの放出よりもずっと起こりにくいと考えられることであった。これは、生成曲線の幅が狭くなることを意味するが、バークレーのチームから報告されたものは、幅が広かった。これに対する可能な説明は、103番元素に起因するイベントの数が少なかったということである。証拠は完全に確信できるものではなかったが、これは、103番元素の間違いない発見に至る重要な中間段階であった。バークレーのチームは、サイクロトロンの発明者であるアーネスト・ローレンスの名前に因み、ローレンシウム(元素記号"Lw")という元素名を提案した。IUPACの無機化学命名法委員会は、この名前を承認したが、記号は"Lr"に変更した This acceptance of the discovery was later characterized as being hasty by the Dubna team.。
103番元素の合成に関するドゥブナの最初の成果は、1965年で、彼らは、Am標的にOを照射して、103を合成し、孫娘核から間接的に同定したと報告した。恐らくバックグラウンドのイベントのために、彼らが報告した半減期は長すぎたが、1967年に同じ反応から、8.35-8.50 MeVと8.50-8.60 MeVの2つの崩壊エネルギーを同定し、これらを103と103に割り当てた。この実験は追試されたが、半減期8秒でアルファ崩壊する粒子を103に割り当てることは確認できなかった。ロシア側は、1967年に「ラザホージウム」という名前を提案し、この名前は後にバークレーからも104番元素の名前として提案された。
1969年にはドゥブナ、1970年にはバークレーでさらなる実験が行われ、新しい元素がアクチノイドの性質を持つことが示された。そこで、1970年までに、103番元素は最後のアクチノイドであることが知られるようになった。1970年、ドゥブナのグループは、半減期20秒、アルファ崩壊エネルギー8.38 eVの103の合成を報告した。しかし、カリフォルニア大学バークレー校のチームが、原子番号255から260のローレンシウム同位体の一連の各崩壊特性を測定する実験に成功し、バークレーのチームが当初103を103と誤同定していたことを除く、これ以前のドゥブナとバークレーの全ての実験結果が正しかったと確かめられたのは、1971年になってからだった。その後、1976年と1977年に 103から放出されるX線のエネルギーが測定され、最終的に全ての疑義が払拭された。
1971年、IUPACは、元素の存在に関する理想的なデータがなかったにもかかわらず、ローレンス・バークレー研究所をローレンシウムの発見者として認定した。しかし1992年、IUPACのトランスフェルミウム作業部会(TWG)は、1961年のバークレーにおける実験は、ローレンシウム発見への重要な一歩となったが、完全な確定には至らず、一方、1965年、1968年、1970年のドゥブナにおける実験は、必要な信頼レベルにかなりのところまで接近したが、1971年のバークレーにおける実験において、これ以前の観測を明確に確定し、最終的に103番元素の発見を完全に信頼できるものにしたと結論付け、ドゥブナとバークレーの各チームを公式に共同発見者と認めた。「ローレンシウム」という名前については、この時点でも長い間使われていたためそのままにすることとなり、1997年8月にジュネーヴで行われたIUPACの会議において、ローレンシウムという名前とLrという記号が正式に承認された。
ローレンシウムは、最後のアクチノイドである。一般的に、スカンジウム、イットリウム、ルテチウムとともに第3族元素と考えられ、f殻が埋まっていることで、第7周期の遷移金属と似た性質を示すと予測されるが、この点についてはいくつかの議論がある。周期表上では、左にアクチノイドのノーベリウム、右に6d遷移金属のラザホージウムがある。また、上には多くの物理的、化学的性質を共有するランタノイドのルテチウムがある。ルテチウムと同様に、標準状態では固体で、六方最密充填構造(/a = 1.58)を取ると予測されるが、実験的には未だ確かめられていない。昇華エンタルピーは、ルテチウムの値と近い352 kJ/molと推定され、金属ローレンシウムは、3つの電子が非局在化した3価であると強く示唆している。この予測は、近隣の元素からルテチウムまで、蒸発熱、体積弾性率、ファンデルワールス半径の値を外挿することでも支持される。このことにより、2価であることが知られている後期アクチノイドのフェルミウムやメンデレビウム、また2価であると予測されているノーベリウムとは異なっている。推定蒸発熱は、ローレンシウムが後期アクチノイドの傾向から逸脱し、その代わり第3族元素としてのローレンシウムの解釈と一致し、後に続く6d元素であるラザホージウムやドブニウムの傾向と一致することを示す。最後のアクチノイドをノーベリウムとし、ローレンシウムは第7周期の最初の遷移金属であると考える研究者もいる。
具体的には、ローレンシウムは、3価の銀色の金属で、空気や蒸気、酸により容易に酸化し、ルテチウムと似た原子体積を持ち、3価金属の半径は171 pmと予測される。また、密度が約14.4 g/cmの重金属と予測される。さらに、融点は約1900 Kで、ルテチウムの値(1925 K)と近いと予測される。
1949年、アクチノイドの概念を構築したグレン・シーボーグは、103番元素は最後のアクチノイドとなり、水溶液中のLrイオンはLuイオンと同程度の安定性となると予測した。103番元素が実際に合成され、この予測が実験的に確認されたのは、数十年後のことであった。
1969年、ローレンシウムが塩素と反応し、三塩化物LrCl3である可能性が高い物質を形成することが示された。揮発性は、キュリウム、フェルミウム、ノーベリウムの塩化物と同程度で、ラザホージウムの塩化物よりずっと低かった。1970年、1500原子のローレンシウムを用いて化学実験が行われ、2価(ノーベリウム、バリウム、ラジウム)、3価(フェルミウム、カリホルニウム、キュリウム、アメリシウム、アクチニウム)、4価(トリウム、プルトニウム)の元素との比較が行われた。ローレンシウムは3価のイオンと共抽出されたが、Lrの半減期が短いため、Mdより先に溶出したことは確認できなかった。溶液中では、3価のLrイオンになるため、その化合物は他の3価のアクチノイドと似る。例えば、フッ化ローレンシウム(III)や水酸化ローレンシウム(III)は水に溶けない。アクチノイド収縮のため、Lrのイオン半径は、Mdよりも小さくなるはずであり、α-ヒドロキシイソ酪酸アンモニウムを溶離剤として用いると、Mdより先に溶出するはずである。長寿命のLrを用いた1987年の実験で、ローレンシウムが3価であることやエルビウムとほぼ同じ溶出傾向を持つことが確認された。また、イオン半径は、周期表上の傾向からの単純な外挿から予測されるよりも大きく、88.6±0.3 pmであることが分かった。1987 年の長寿命同位体Lrを用いた実験では、ローレンシウムが3価であることとエルビウムとほぼ同じ場所で溶出することが確認され、ローレンシウムのイオン半径は 88.6±0.3 pm であり、周期的な傾向からの単純な外挿から予想されるよりも大きいことがわかった。翌1988年の実験では、イオン半径はより正確に88.1±0.1 pmとされ、水和エンタルピーは-3685±13 kJ/molと計算された。また、アクチノイド系列末端でのアクチノイド収縮は、最後のアクチノイドであるローレンシウムを除き、恐らく相対論効果のため、対応するランタノイド収縮よりも大きいことが明らかとなった。
7s電子は相対論的に安定化していると考えられ、そのため、還元環境下では、7電子のみがイオン化し、1価のLrイオンが生成すると予測されている。しかし、ルテチウムと同様、水溶液中でLrをLrやLrに還元する全ての実験は失敗した。これを基にして、E°(Lr → Lr)対の標準電極電位は、-1.56 V以下と計算され、水溶液中ではLrが存在しないであろうことが示されている。E°(Lr → Lr)対、E°(Lr → Lr)対、E°(Lr → Lr)対の上限値は、各々、-0.44 V、-2.06 V、+7.9 Vと予測されている。6d遷移系列の[[[酸化状態]]の安定性は、Rf > Db > Sgと減少するが、ローレンシウムでもこの傾向は続き、LrはRfよりも安定である。
折れ線形分子構造と予測される二水素化ローレンシウム分子(LrH2)では、二水素化ランタンとは異なり、ローレンシウムの6d軌道は結合において役割を果たさないと予測される。二水素化ランタンのLa-H結合長は2.158 Aであるが、二水素化ローレンシウムのLr-H長は、相対論的収縮と結合に関わる7s及び7p軌道の安定化のためにより短く、2.042 Aである。一般的に、LrH2及びLrH分子は、対応するランタノイド分子よりも、対応するタリウム分子(タリウムは、気相では、ローレンシウムの7spと似た6spの価電子配置を取る)に似ると予測される。LrとLrの電子配置は、各々7s、7sと予測される。しかし、ローレンシウムの3つ全ての価電子がイオン化し、少なくとも形式上Lrを与える分子種では、ローレンシウムは典型的なアクチノイド、また特にローレンシウムの最初の3つのイオン化エネルギーがルテチウムのものと似ていると予測されるため、ルテチウムの同族体として振る舞う。そのため、タリウムとは異なるがルテチウムと同様に、ローレンシウムは、LrHよりもLrH3を形成しやすい。また、LrCOは既知のLuCOと似ていると予測され、どちらの金属もσπの価電子配置を取る。pπ-dπ結合はLuCl3、より一般的には全てのLnCl3と同様に、LrCl3でも見られると予測される。複合アニオン[Lr(C5H4SiMe3)3]は、ローレンシウムの電子配置が6dとなると予測され、この6d軌道は、HOMOとなる。これは、対応するルテチウム化合物の電子構造のアナログである。
ローレンシウムは、3つの価電子を持ち、5f電子は原子核にある。1970年、ローレンシウムの基底状態の電子配置は、構造原理に従って、[Rn]5f6d7s(基底状態の項記号はD3/2)であり、同族体であるルテチウムの[Xe]4f5d6sとも合致すると予測された。しかし翌年、この予測に疑義を唱え、その代わり、[Rn]5f7s7pという異常な電子配置を取るとする計算結果が公表された。初期の計算とは矛盾する結果が得られたが、より新しい研究や計算により、sp電子配置の提案が確認されている。1974年の相対論効果の計算により、2つの電子配置のエネルギーの差は小さく、どちらが基底状態かははっきりしていない。1995年の計算では、球状のs軌道とp1/2軌道は原子核に最も近いため相対論的質量が大幅に大きくなるのに十分な速さで動くため、sp電子配置がエネルギー的に有利であると結論付けた。
1988年、アイヒラーの率いる研究者のチームは、ローレンシウムの金属源への吸着エンタルピーは、これを利用してローレンシウムの電子配置を測定する実験を実施できるのに十分な電子配置依存性を持つと計算した。sp電子配置は、sd電子配置 よりも揮発性が高く、pブロック元素の鉛により似ていると予測された。ローレンシウムが揮発性であるという証拠は得られず、水晶や白金上へのローレンシウムの吸着エンタルピーの下限は、sp電子配置に対する推定値よりもかなり高かった。
2015年、Lrを用いて、ローレンシウムの第一イオン化エネルギーが測定された。測定された値は4.96-0.07 eVで、相対論理論からの予測値4.963(15) eVと非常によく一致しており、超アクチノイドの第一イオン化エネルギーを測定する第一歩となった。またこの値は、全てのランタノイド及びアクチノイドの中で最も低く、7p1/2電子は弱い結合のみと予測されていることから、sp電子配置を支持する結果である。
fブロック元素では、一般に、周期表の左から右に行くほどイオン化エネルギーは高くなるため、この低い値は、ルテチウムとローレンシウムがfブロック元素ではなくdブロック元素であることを示唆し、従って、これらがランタンやアクチニウムではなく、実際には、スカンジウムやイットリウムの同族体であることを示している。いくつかのアルカリ金属に似た挙動も予測されるが、吸着実験からは、ローレンシウムはアルカリ金属のような1価ではなく、スカンジウムやイットリウムと同じ3価であることが示される。2021年には、実験的に、第2イオン化エネルギーの下限(>13.3 eV)が見いだされた。
現在は、spがローレンシウムの基底状態、dsが低励起状態であることが知られており、励起エネルギーは、0.156 eV、0.165 eV、0.626 eV等と計算される。クロムや銅のように異常な電子配置を持つdブロック元素と考えられており、化学的挙動は、ルテチウムのアナログとしての予測と一致する。
質量数251-262、264、266の14の同位体が知られており、全てが放射性を持つ。また、質量数251と253の2つの核異性体が知られている。最も長寿命の同位体はLrで、半減期は約10時間であり、既知の最も長寿命な超重元素の同位体の1つとなっている。しかし、2014年にTsの崩壊鎖から発見されたLrは、現在ではより重い元素の最終崩壊生成物としてしか合成できないため、化学実験には、より短寿命の同位体が用いられている。ローレンシウムの最初の化学実験では半減期27秒のLrが用いられ、現在では通常、半減期2.7分のLrがこの目的で用いられている。Lrの次に長寿命の同位体は、Lr(4.8-1.3時間)、Lr(3.6時間)、Lr(44分)である。その他の既知の全ての同位体は半減期が5分以下で、その中で最も短いLrの半減期は24.4ミリ秒である。ローレンシウムの同位体の半減期は、LrからLrまで滑らかに増加し、LrからLrまで落ちる。
ローレンシウムの同位体の大部分は、アクチノイド(アメリシウムからアインスタイニウム)を標的とし、軽いイオン(ホウ素からネオン)を照射して合成する。最も重要な2つの同位体であるLrとLrは、各々、Cfと70 MeVのB(Lrと3つの中性子が生成)、BkとO(Lrとアルファ粒子、3つの中性子が生成)により合成できる。最も重く長寿命の2つの同位体であるLrとLrは、モスコビウムやテネシンに由来するドブニウムの崩壊生成物として、ずっと低収率で得られるだけである。
LrとLrはどちらも半減期が短すぎるため、化学的な精製過程を完了することができない。そのため、Lrを用いた初期の実験では、キレート剤のテノイルトリフルオロアセトンを溶解したメチルイソブチルケトンを有機相、酢酸バッファー溶液を水相として、急速溶媒抽出法を用いた。その後、+2から+4の異なる電荷を持つイオンは、異なるpH範囲で有機相に抽出されるが、この方法は、3価のアクチノイド同士を分離することはできないため、Lrは、8.24 MeVのアルファ粒子を放出することで識別する必要がある。
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"text": "ローレンシウム(Lawrencium)は、元素記号Lr、原子番号103番の元素である。多くの人工放射性元素の発見に寄与したシンクロトロンの発明者であるアーネスト・ローレンスの名前に因んで名付けられた。7番目の超ウラン元素で、アクチノイド系列の最後の元素である。原子番号100以上の全ての元素と同様に、ローレンシウムは、より元素の軽い荷電粒子を加速器中で標的に照射することでのみ合成される。14の同位体が知られており、最も安定なLrの半減期は11時間であるが、より短命(半減期2.7分)だが大量合成が可能なLrが最も一般的に用いられている。",
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"text": "化学実験により、ローレンシウムは、ルテチウムの重いホモログとしての挙動を示し、3価の元素であることが確認された。第7周期の遷移金属にも分類されるが、その電子配置は、周期表上の位置からすると異常で、ルテチウムのsd配置とは異なるsp配置となる。これは、周期表の位置から予測されるよりも揮発性が高く、その値は鉛に匹敵することを意味する。",
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"text": "1950年代から1970年代に、ソビエト連邦及びアメリカ合衆国の研究所から、ローレンシウム合成の多くの主張があった。元素の発見の優先権、命名権がソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究者の間で論争となり、当初、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は、アメリカのチームを発見者としてローレンシウムを正式名称としたが、この決定は1997年に撤回され、両チームが発見の栄誉を分け合うが、元素の名前は変えないことが決定された。",
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"text": "1958年、ローレンス・バークレー国立研究所の研究者が、現在はノーベリウムと呼ばれている102番元素の発見を主張した。同時に、彼らは同じキュリウム標的に窒素14イオンを照射して103番元素の合成も試みた。崩壊エネルギー9±1 MeV、半減期約0.25秒の18の飛跡が記録され、バークレーのチームは、この飛跡の原因が103番元素の生成の可能性もあるが、他の可能性も除外できないと述べた。このデータは、後に発見された Lrのデータ (アルファ崩壊エネルギー 8.87 MeV、半減期 0.6 秒)と合理的なレベルで一致しているが、この実験で得られた証拠は、103番元素の合成を決定的に証明するのに必要な強度にはほど遠いものであった。標的が破壊されてしまったため、この実験のフォローアップは行われなかった。1960年に、同研究所は、Cf標的にBとBを照射して元素を合成する実験を試みたが、この実験の結果も決定的なものとはならなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "103番元素の合成に関する最初の重要な成果は、バークレーにおいて、アルバート・ギオルソ、トールビョルン・シッケランド、アルモン・ラーシュ、ロバート・ラティマーらにより、1961年2月14日に行われた。ローレンシウムの最初の原子は、重イオン線形加速器(HILAC)を用いて、カリホルニウムの3つの同位体を含む3mgの標的にホウ素10及びホウ素11の原子核を照射して合成されたと報じられている。バークレーのチームは、このような方法で同位体103を検出し、半減期8±2秒で8.6 MeVのアルファ粒子を放出して崩壊したと報告しているが、検出されたような性質はLrではなくLrが持つことが示され、この同定は後に103に訂正された。",
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"text": "これは当時、103番元素合成の説得力のある証拠であると考えられた。質量の同定についてはあまり確実ではなく、後に誤りであったことが証明されたが、103番元素が合成されたことを支持する議論には影響しなかった。ドゥブナの研究者は、いくつかの批判を提起したが、1つを除き全てが適切に回答された。唯一の例外は、標的中で最も豊富な同位体であったCfがと反応すると、Lrが生成するのは、4つの中性子を放出する時のみであり、3つの中性子の放出は、4つや5つの放出よりもずっと起こりにくいと考えられることであった。これは、生成曲線の幅が狭くなることを意味するが、バークレーのチームから報告されたものは、幅が広かった。これに対する可能な説明は、103番元素に起因するイベントの数が少なかったということである。証拠は完全に確信できるものではなかったが、これは、103番元素の間違いない発見に至る重要な中間段階であった。バークレーのチームは、サイクロトロンの発明者であるアーネスト・ローレンスの名前に因み、ローレンシウム(元素記号\"Lw\")という元素名を提案した。IUPACの無機化学命名法委員会は、この名前を承認したが、記号は\"Lr\"に変更した This acceptance of the discovery was later characterized as being hasty by the Dubna team.。",
"title": "歴史"
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"text": "103番元素の合成に関するドゥブナの最初の成果は、1965年で、彼らは、Am標的にOを照射して、103を合成し、孫娘核から間接的に同定したと報告した。恐らくバックグラウンドのイベントのために、彼らが報告した半減期は長すぎたが、1967年に同じ反応から、8.35-8.50 MeVと8.50-8.60 MeVの2つの崩壊エネルギーを同定し、これらを103と103に割り当てた。この実験は追試されたが、半減期8秒でアルファ崩壊する粒子を103に割り当てることは確認できなかった。ロシア側は、1967年に「ラザホージウム」という名前を提案し、この名前は後にバークレーからも104番元素の名前として提案された。",
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"text": "1969年にはドゥブナ、1970年にはバークレーでさらなる実験が行われ、新しい元素がアクチノイドの性質を持つことが示された。そこで、1970年までに、103番元素は最後のアクチノイドであることが知られるようになった。1970年、ドゥブナのグループは、半減期20秒、アルファ崩壊エネルギー8.38 eVの103の合成を報告した。しかし、カリフォルニア大学バークレー校のチームが、原子番号255から260のローレンシウム同位体の一連の各崩壊特性を測定する実験に成功し、バークレーのチームが当初103を103と誤同定していたことを除く、これ以前のドゥブナとバークレーの全ての実験結果が正しかったと確かめられたのは、1971年になってからだった。その後、1976年と1977年に 103から放出されるX線のエネルギーが測定され、最終的に全ての疑義が払拭された。",
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"text": "1971年、IUPACは、元素の存在に関する理想的なデータがなかったにもかかわらず、ローレンス・バークレー研究所をローレンシウムの発見者として認定した。しかし1992年、IUPACのトランスフェルミウム作業部会(TWG)は、1961年のバークレーにおける実験は、ローレンシウム発見への重要な一歩となったが、完全な確定には至らず、一方、1965年、1968年、1970年のドゥブナにおける実験は、必要な信頼レベルにかなりのところまで接近したが、1971年のバークレーにおける実験において、これ以前の観測を明確に確定し、最終的に103番元素の発見を完全に信頼できるものにしたと結論付け、ドゥブナとバークレーの各チームを公式に共同発見者と認めた。「ローレンシウム」という名前については、この時点でも長い間使われていたためそのままにすることとなり、1997年8月にジュネーヴで行われたIUPACの会議において、ローレンシウムという名前とLrという記号が正式に承認された。",
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"text": "ローレンシウムは、最後のアクチノイドである。一般的に、スカンジウム、イットリウム、ルテチウムとともに第3族元素と考えられ、f殻が埋まっていることで、第7周期の遷移金属と似た性質を示すと予測されるが、この点についてはいくつかの議論がある。周期表上では、左にアクチノイドのノーベリウム、右に6d遷移金属のラザホージウムがある。また、上には多くの物理的、化学的性質を共有するランタノイドのルテチウムがある。ルテチウムと同様に、標準状態では固体で、六方最密充填構造(/a = 1.58)を取ると予測されるが、実験的には未だ確かめられていない。昇華エンタルピーは、ルテチウムの値と近い352 kJ/molと推定され、金属ローレンシウムは、3つの電子が非局在化した3価であると強く示唆している。この予測は、近隣の元素からルテチウムまで、蒸発熱、体積弾性率、ファンデルワールス半径の値を外挿することでも支持される。このことにより、2価であることが知られている後期アクチノイドのフェルミウムやメンデレビウム、また2価であると予測されているノーベリウムとは異なっている。推定蒸発熱は、ローレンシウムが後期アクチノイドの傾向から逸脱し、その代わり第3族元素としてのローレンシウムの解釈と一致し、後に続く6d元素であるラザホージウムやドブニウムの傾向と一致することを示す。最後のアクチノイドをノーベリウムとし、ローレンシウムは第7周期の最初の遷移金属であると考える研究者もいる。",
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"text": "具体的には、ローレンシウムは、3価の銀色の金属で、空気や蒸気、酸により容易に酸化し、ルテチウムと似た原子体積を持ち、3価金属の半径は171 pmと予測される。また、密度が約14.4 g/cmの重金属と予測される。さらに、融点は約1900 Kで、ルテチウムの値(1925 K)と近いと予測される。",
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"text": "1949年、アクチノイドの概念を構築したグレン・シーボーグは、103番元素は最後のアクチノイドとなり、水溶液中のLrイオンはLuイオンと同程度の安定性となると予測した。103番元素が実際に合成され、この予測が実験的に確認されたのは、数十年後のことであった。",
"title": "特徴"
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"text": "1969年、ローレンシウムが塩素と反応し、三塩化物LrCl3である可能性が高い物質を形成することが示された。揮発性は、キュリウム、フェルミウム、ノーベリウムの塩化物と同程度で、ラザホージウムの塩化物よりずっと低かった。1970年、1500原子のローレンシウムを用いて化学実験が行われ、2価(ノーベリウム、バリウム、ラジウム)、3価(フェルミウム、カリホルニウム、キュリウム、アメリシウム、アクチニウム)、4価(トリウム、プルトニウム)の元素との比較が行われた。ローレンシウムは3価のイオンと共抽出されたが、Lrの半減期が短いため、Mdより先に溶出したことは確認できなかった。溶液中では、3価のLrイオンになるため、その化合物は他の3価のアクチノイドと似る。例えば、フッ化ローレンシウム(III)や水酸化ローレンシウム(III)は水に溶けない。アクチノイド収縮のため、Lrのイオン半径は、Mdよりも小さくなるはずであり、α-ヒドロキシイソ酪酸アンモニウムを溶離剤として用いると、Mdより先に溶出するはずである。長寿命のLrを用いた1987年の実験で、ローレンシウムが3価であることやエルビウムとほぼ同じ溶出傾向を持つことが確認された。また、イオン半径は、周期表上の傾向からの単純な外挿から予測されるよりも大きく、88.6±0.3 pmであることが分かった。1987 年の長寿命同位体Lrを用いた実験では、ローレンシウムが3価であることとエルビウムとほぼ同じ場所で溶出することが確認され、ローレンシウムのイオン半径は 88.6±0.3 pm であり、周期的な傾向からの単純な外挿から予想されるよりも大きいことがわかった。翌1988年の実験では、イオン半径はより正確に88.1±0.1 pmとされ、水和エンタルピーは-3685±13 kJ/molと計算された。また、アクチノイド系列末端でのアクチノイド収縮は、最後のアクチノイドであるローレンシウムを除き、恐らく相対論効果のため、対応するランタノイド収縮よりも大きいことが明らかとなった。",
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"text": "7s電子は相対論的に安定化していると考えられ、そのため、還元環境下では、7電子のみがイオン化し、1価のLrイオンが生成すると予測されている。しかし、ルテチウムと同様、水溶液中でLrをLrやLrに還元する全ての実験は失敗した。これを基にして、E°(Lr → Lr)対の標準電極電位は、-1.56 V以下と計算され、水溶液中ではLrが存在しないであろうことが示されている。E°(Lr → Lr)対、E°(Lr → Lr)対、E°(Lr → Lr)対の上限値は、各々、-0.44 V、-2.06 V、+7.9 Vと予測されている。6d遷移系列の[[[酸化状態]]の安定性は、Rf > Db > Sgと減少するが、ローレンシウムでもこの傾向は続き、LrはRfよりも安定である。",
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"text": "折れ線形分子構造と予測される二水素化ローレンシウム分子(LrH2)では、二水素化ランタンとは異なり、ローレンシウムの6d軌道は結合において役割を果たさないと予測される。二水素化ランタンのLa-H結合長は2.158 Aであるが、二水素化ローレンシウムのLr-H長は、相対論的収縮と結合に関わる7s及び7p軌道の安定化のためにより短く、2.042 Aである。一般的に、LrH2及びLrH分子は、対応するランタノイド分子よりも、対応するタリウム分子(タリウムは、気相では、ローレンシウムの7spと似た6spの価電子配置を取る)に似ると予測される。LrとLrの電子配置は、各々7s、7sと予測される。しかし、ローレンシウムの3つ全ての価電子がイオン化し、少なくとも形式上Lrを与える分子種では、ローレンシウムは典型的なアクチノイド、また特にローレンシウムの最初の3つのイオン化エネルギーがルテチウムのものと似ていると予測されるため、ルテチウムの同族体として振る舞う。そのため、タリウムとは異なるがルテチウムと同様に、ローレンシウムは、LrHよりもLrH3を形成しやすい。また、LrCOは既知のLuCOと似ていると予測され、どちらの金属もσπの価電子配置を取る。pπ-dπ結合はLuCl3、より一般的には全てのLnCl3と同様に、LrCl3でも見られると予測される。複合アニオン[Lr(C5H4SiMe3)3]は、ローレンシウムの電子配置が6dとなると予測され、この6d軌道は、HOMOとなる。これは、対応するルテチウム化合物の電子構造のアナログである。",
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"text": "fブロック元素では、一般に、周期表の左から右に行くほどイオン化エネルギーは高くなるため、この低い値は、ルテチウムとローレンシウムがfブロック元素ではなくdブロック元素であることを示唆し、従って、これらがランタンやアクチニウムではなく、実際には、スカンジウムやイットリウムの同族体であることを示している。いくつかのアルカリ金属に似た挙動も予測されるが、吸着実験からは、ローレンシウムはアルカリ金属のような1価ではなく、スカンジウムやイットリウムと同じ3価であることが示される。2021年には、実験的に、第2イオン化エネルギーの下限(>13.3 eV)が見いだされた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "現在は、spがローレンシウムの基底状態、dsが低励起状態であることが知られており、励起エネルギーは、0.156 eV、0.165 eV、0.626 eV等と計算される。クロムや銅のように異常な電子配置を持つdブロック元素と考えられており、化学的挙動は、ルテチウムのアナログとしての予測と一致する。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "質量数251-262、264、266の14の同位体が知られており、全てが放射性を持つ。また、質量数251と253の2つの核異性体が知られている。最も長寿命の同位体はLrで、半減期は約10時間であり、既知の最も長寿命な超重元素の同位体の1つとなっている。しかし、2014年にTsの崩壊鎖から発見されたLrは、現在ではより重い元素の最終崩壊生成物としてしか合成できないため、化学実験には、より短寿命の同位体が用いられている。ローレンシウムの最初の化学実験では半減期27秒のLrが用いられ、現在では通常、半減期2.7分のLrがこの目的で用いられている。Lrの次に長寿命の同位体は、Lr(4.8-1.3時間)、Lr(3.6時間)、Lr(44分)である。その他の既知の全ての同位体は半減期が5分以下で、その中で最も短いLrの半減期は24.4ミリ秒である。ローレンシウムの同位体の半減期は、LrからLrまで滑らかに増加し、LrからLrまで落ちる。",
"title": "同位体"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ローレンシウムの同位体の大部分は、アクチノイド(アメリシウムからアインスタイニウム)を標的とし、軽いイオン(ホウ素からネオン)を照射して合成する。最も重要な2つの同位体であるLrとLrは、各々、Cfと70 MeVのB(Lrと3つの中性子が生成)、BkとO(Lrとアルファ粒子、3つの中性子が生成)により合成できる。最も重く長寿命の2つの同位体であるLrとLrは、モスコビウムやテネシンに由来するドブニウムの崩壊生成物として、ずっと低収率で得られるだけである。",
"title": "合成と精製"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "LrとLrはどちらも半減期が短すぎるため、化学的な精製過程を完了することができない。そのため、Lrを用いた初期の実験では、キレート剤のテノイルトリフルオロアセトンを溶解したメチルイソブチルケトンを有機相、酢酸バッファー溶液を水相として、急速溶媒抽出法を用いた。その後、+2から+4の異なる電荷を持つイオンは、異なるpH範囲で有機相に抽出されるが、この方法は、3価のアクチノイド同士を分離することはできないため、Lrは、8.24 MeVのアルファ粒子を放出することで識別する必要がある。",
"title": "合成と精製"
}
] |
ローレンシウム(Lawrencium)は、元素記号Lr、原子番号103番の元素である。多くの人工放射性元素の発見に寄与したシンクロトロンの発明者であるアーネスト・ローレンスの名前に因んで名付けられた。7番目の超ウラン元素で、アクチノイド系列の最後の元素である。原子番号100以上の全ての元素と同様に、ローレンシウムは、より元素の軽い荷電粒子を加速器中で標的に照射することでのみ合成される。14の同位体が知られており、最も安定な266Lrの半減期は11時間であるが、より短命(半減期2.7分)だが大量合成が可能な260Lrが最も一般的に用いられている。 化学実験により、ローレンシウムは、ルテチウムの重いホモログとしての挙動を示し、3価の元素であることが確認された。第7周期の遷移金属にも分類されるが、その電子配置は、周期表上の位置からすると異常で、ルテチウムのs2d配置とは異なるs2p配置となる。これは、周期表の位置から予測されるよりも揮発性が高く、その値は鉛に匹敵することを意味する。 1950年代から1970年代に、ソビエト連邦及びアメリカ合衆国の研究所から、ローレンシウム合成の多くの主張があった。元素の発見の優先権、命名権がソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究者の間で論争となり、当初、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は、アメリカのチームを発見者としてローレンシウムを正式名称としたが、この決定は1997年に撤回され、両チームが発見の栄誉を分け合うが、元素の名前は変えないことが決定された。
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{{元素
|name=lawrencium
|japanese name=ローレンシウム
|pronounce={{IPAc-en|l|ə|ˈ|r|ɛ|n|s|i|əm}}<br />{{Respell|lə|REN|see-əm}}
|number=103
|symbol=Lr
|left=[[ノーベリウム]]
|right=[[ラザホージウム]]
|above=[[ルテチウム|Lu]]
|below=[[ウンペントトリウム|Upt]]
|series=アクチノイド
|group=n/a
|period=7
|block=d
|altblock=f
|appearance=不明
|atomic mass=[262]
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 5f<sup>14</sup> 7s<sup>2</sup> 7p<sup>1</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 32, 8, 3
|phase=固体
|phase comment=推定
|oxidation states='''3'''
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy= 443.8
|2nd ionization energy=1428.0
|3rd ionization energy=2219.1
|CAS number=22537-19-5
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム252|252]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-1 s|0.36 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=9.02, 8.97 | pn=[[メンデレビウム248|248]] | ps=[[メンデレビウム|Md]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム253m|253<sup>m</sup>]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-1 s|0.57 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.79 | pn=[[メンデレビウム249|249]] | ps=[[メンデレビウム|Md]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ローレンシウム253g|253<sup>g</sup>]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E0 s|1.49 s]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (92 %) | de1=8.72 | pn1=[[メンデレビウム249|249]] | ps1=[[メンデレビウム|Md]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] (8 %) | de2= | pn2= | ps2=}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ローレンシウム254|254]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|13 s]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (78 %) | de1=8.46, 8.41 | pn1=[[メンデレビウム250|250]] | ps1=[[メンデレビウム|Md]]
| dm2=[[電子捕獲|ε]] (22 %) | de2= | pn2=[[ノーベリウム254|254]] | ps2=[[ノーベリウム|No]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム255|255]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|21.5 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.43, 8.37 | pn=[[メンデレビウム251|251]] | ps=[[メンデレビウム|Md]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム256|256]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|27 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.62, 8.52, 8.32... | pn=[[メンデレビウム252|252]] | ps=[[メンデレビウム|Md]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム257|257]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E-1 s|0.65 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.86, 8.80 | pn=[[メンデレビウム253|253]] | ps=[[メンデレビウム|Md]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム258|258]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|4.1 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.68, 8.65, 8.62, 8.59 | pn=[[メンデレビウム254|254]] | ps=[[メンデレビウム|Md]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ローレンシウム259|259]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E0 s|6.2 s]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (78 %) | de1=8.44 | pn1=[[メンデレビウム255|255]] | ps1=[[メンデレビウム|Md]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] (22 %) | de2= | pn2= | ps2=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム260|260]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E2 s|2.7 min]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.04 | pn=[[メンデレビウム256|256]] | ps=[[メンデレビウム|Md]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム261|261]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E3 s|44 min]]
| dm=[[自発核分裂|SF]]/[[電子捕獲|ε]] ? | de= | pn= | ps=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ローレンシウム262|262]] | sym=Lr
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E4 s|3.6 h]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de= | pn=[[ノーベリウム262|262]] | ps=[[ノーベリウム|No]]}}
|isotopes comment=
|covalent radius=161}}
'''ローレンシウム'''(Lawrencium)は、[[元素記号]]Lr、[[原子番号]]103番の[[元素]]である。多くの人工[[放射性元素]]の発見に寄与した[[シンクロトロン]]の発明者である[[アーネスト・ローレンス]]の名前に因んで名付けられた。7番目の[[超ウラン元素]]で、[[アクチノイド]]系列の最後の元素である。原子番号100以上の全ての元素と同様に、ローレンシウムは、より元素の軽い荷電粒子を[[加速器]]中で標的に照射することでのみ合成される。14の[[同位体]]が知られており、最も安定な<sup>266</sup>Lrの[[半減期]]は11時間であるが、より短命(半減期2.7分)だが大量合成が可能な<sup>260</sup>Lrが最も一般的に用いられている。
化学実験により、ローレンシウムは、[[ルテチウム]]の重いホモログとしての挙動を示し、3価の元素であることが確認された。[[第7周期元素|第7周期]]の[[遷移金属]]にも分類されるが、その[[電子配置]]は、[[周期表]]上の位置からすると異常で、ルテチウムのs<sup>2</sup>d配置とは異なるs<sup>2</sup>p配置となる。これは、周期表の位置から予測されるよりも[[相転移#物理学的性質|揮発性]]が高く、その値は[[鉛]]に匹敵することを意味する。
1950年代から1970年代に、[[ソビエト連邦]]及び[[アメリカ合衆国]]の研究所から、ローレンシウム合成の多くの主張があった。元素の発見の優先権、命名権がソビエト連邦とアメリカ合衆国の研究者の間で論争となり、当初、[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)は、アメリカのチームを発見者としてローレンシウムを正式名称としたが、この決定は1997年に撤回され、両チームが発見の栄誉を分け合うが、元素の名前は変えないことが決定された。
==歴史==
[[ファイル:96904536.thumb3.jpeg|thumb|left|1961年4月、周期表の103番元素の位置に"Lw"と書き込み、周期表を更新するギオルソ。共同発見者の、左からラティマー、シッケランド、ラーシュが見守っている。]]
1958年、[[ローレンス・バークレー国立研究所]]の研究者が、現在は[[ノーベリウム]]と呼ばれている102番元素の発見を主張した。同時に、彼らは同じ[[キュリウム]]標的に[[窒素14]]イオンを照射して103番元素の合成も試みた。[[崩壊エネルギー]]9±1 MeV、半減期約0.25秒の18の飛跡が記録され、バークレーのチームは、この飛跡の原因が103番元素の生成の可能性もあるが、他の可能性も除外できないと述べた。このデータは、後に発見された <sup>257</sup>Lrのデータ ([[アルファ崩壊]]エネルギー 8.87 MeV、半減期 0.6 秒)と合理的なレベルで一致しているが、この実験で得られた証拠は、103番元素の合成を決定的に証明するのに必要な強度にはほど遠いものであった。標的が破壊されてしまったため、この実験のフォローアップは行われなかった<ref name = "emsley2011">{{cite book|last=Emsley|first=John|title=Nature's Building Blocks|date=2011}}</ref><ref name="93TWG">{{Cite journal|doi=10.1351/pac199365081757|title=Discovery of the transfermium elements. Part II: Introduction to discovery profiles. Part III: Discovery profiles of the transfermium elements|year=1993|author=Barber, R. C.|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|pages=1757|last2=Greenwood|first2=N. N.|last3=Hrynkiewicz|first3=A. Z.|last4=Jeannin|first4=Y. P.|last5=Lefort|first5=M.|last6=Sakai|first6=M.|last7=Ulehla|first7=I.|last8=Wapstra|first8=A. P.|last9=Wilkinson|first9=D. H.|issue=8|s2cid=195819585}} (Note: for Part I see Pure Appl. Chem., Vol. 63, No. 6, pp. 879-886, 1991)</ref>。1960年に、同研究所は、<sup>252</sup>Cf標的に<sup>10</sup>Bと<sup>11</sup>Bを照射して元素を合成する実験を試みたが、この実験の結果も決定的なものとはならなかった<ref name="emsley2011" />。
103番元素の合成に関する最初の重要な成果は、バークレーにおいて、[[アルバート・ギオルソ]]、[[トールビョルン・シッケランド]]、アルモン・ラーシュ、ロバート・ラティマーらにより、1961年2月14日に行われた<ref>{{cite web|title=This Month in Lab History…Lawrencium Added to Periodic Table |url=https://today.lbl.gov/2013/04/09/this-month-in-lab-historylawrencium-added-to-periodic-table/ |website=today.lbl.gov |publisher=Lawrence Berkeley National Laboratory |access-date=13 February 2021 |date=9 April 2013 |quote=Lawrencium (Lw) was first synthesized Feb. 14, 1961, by a team led by Ghiorso, who was co-discoverer of a record 12 chemical elements on the periodic table.}}</ref>。ローレンシウムの最初の原子は、重イオン線形加速器(HILAC)を用いて、[[カリホルニウム]]の3つの同位体を含む3mgの標的に[[ホウ素10]]及び[[ホウ素11]]の[[原子核]]を照射して合成されたと報じられている<ref name="Lr">{{cite journal|first1=Albert|last1=Ghiorso|last2=Sikkeland|first2=T. |last3=Larsh|first3=A. E. |last4=Latimer|first4=R. M. |journal=Phys. Rev. Lett.|volume=6|page=473|date=1961|bibcode = 1961PhRvL...6..473G |doi = 10.1103/PhysRevLett.6.473|title=New Element, Lawrencium, Atomic Number 103|issue=9|url=https://escholarship.org/uc/item/2s43n491}}</ref>。バークレーのチームは、このような方法で同位体<sup>257</sup>103を検出し、半減期8±2秒で8.6 MeVの[[アルファ粒子]]を放出して崩壊したと報告しているが<ref name="93TWG" />、検出されたような性質は<sup>257</sup>Lrではなく<sup>258</sup>Lrが持つことが示され<ref name="93TWG" />、この同定は後に<sup>258</sup>103に訂正された<ref name="Lr" />。
これは当時、103番元素合成の説得力のある証拠であると考えられた。質量の同定についてはあまり確実ではなく、後に誤りであったことが証明されたが、103番元素が合成されたことを支持する議論には影響しなかった。ドゥブナの研究者は、いくつかの批判を提起したが、1つを除き全てが適切に回答された。唯一の例外は、標的中で最も豊富な同位体であった<sup>252</sup>Cfが<sup>10</sup>と反応すると、<sup>258</sup>Lrが生成するのは、4つの[[中性子]]を放出する時のみであり、3つの中性子の放出は、4つや5つの放出よりもずっと起こりにくいと考えられることであった。これは、生成曲線の幅が狭くなることを意味するが、バークレーのチームから報告されたものは、幅が広かった。これに対する可能な説明は、103番元素に起因するイベントの数が少なかったということである<ref name="93TWG" />。証拠は完全に確信できるものではなかったが、これは、103番元素の間違いない発見に至る重要な中間段階であった<ref name="93TWG" />。バークレーのチームは、サイクロトロンの発明者であるアーネスト・ローレンスの名前に因み、ローレンシウム(元素記号"Lw")という元素名を提案した。IUPACの[[無機化学命名法委員会]]は、この名前を承認したが、記号は"Lr"に変更した<ref name="qqq">{{cite journal|first=Norman N.|last=Greenwood|journal=Pure Appl. Chem.|volume=69|issue=1|pages=179-184|title=Recent developments concerning the discovery of elements 101-111|date=1997|doi=10.1351/pac199769010179|s2cid=98322292|url=http://old.iupac.org/publications/pac/1997/pdf/6901x0179.pdf}}</ref> This acceptance of the discovery was later characterized as being hasty by the Dubna team.<ref name="93TWG" />。
:{{nuclide|Cf|252}} + {{nuclide|B|11}} → {{nuclide|Lr|263}}* → {{nuclide|Lr|258}} + 5 n
103番元素の合成に関するドゥブナの最初の成果は、1965年で、彼らは、<sup>243</sup>Am標的に<sup>18</sup>Oを照射して、<sup>256</sup>103を合成し、孫娘核<sup>252</sup>から間接的に同定したと報告した。恐らくバックグラウンドのイベントのために、彼らが報告した半減期は長すぎたが、1967年に同じ反応から、8.35-8.50 MeVと8.50-8.60 MeVの2つの崩壊エネルギーを同定し、これらを<sup>256</sup>103と<sup>257</sup>103に割り当てた<ref name="93TWG" />。この実験は追試されたが、半減期8秒でアルファ崩壊する粒子を<sup>257</sup>103に割り当てることは確認できなかった<ref>{{cite journal|first=G. N.|last=Flerov|title=On the nuclear properties of the isotopes <sup>256</sup>103 and <sup>257</sup>103|journal=Nucl. Phys. A|volume=106|issue=2|page=476|date=1967|bibcode=1967NuPhA.106..476F|doi=10.1016/0375-9474(67)90892-5}}</ref><ref>{{cite journal |last1=Donets |first1=E. D. |last2=Shchegolev |first2=V. A. |last3=Ermakov |first3=V. A. |journal=Atomnaya Energiya|volume=19|issue=2|page=109|date=1965|language=ru}}<br>
:Translated in {{cite journal |last1=Donets |first1=E. D. |last2=Shchegolev |first2=V. A. |last3=Ermakov |first3=V. A. |year=1965 |title=Synthesis of the isotope of element 103 (lawrencium) with mass number 256 |journal=Soviet Atomic Energy |volume=19 |issue=2 |pages=109 |doi=10.1007/BF01126414|s2cid=97218361 }}</ref>。ロシア側は、1967年に「[[ラザホージウム]]」という名前を提案し<ref name = "emsley2011" /><ref name=Karpenko/>、この名前は後にバークレーからも104番元素の名前として提案された<ref name=Karpenko>{{cite journal |last1=Karpenko |first1=V. |date=1980 |title=The Discovery of Supposed New Elements: Two Centuries of Errors |journal=Ambix |volume=27 |issue=2 |pages=77-102 |doi=10.1179/amb.1980.27.2.77}}</ref>。
:{{nuclide|Am|243}} + {{nuclide|O|18}} → {{nuclide|Lr|261}}* → {{nuclide|Lr|256}} + 5 n
1969年にはドゥブナ、1970年にはバークレーでさらなる実験が行われ、新しい元素が[[アクチノイド]]の性質を持つことが示された<ref name="93TWG" /><ref>{{cite book|date = 2005|title = Theoretical chemistry and physics of heavy and superheavy element|page = 57|publisher = Springer|isbn=1-4020-1371-X|author =Kaldor, Uzi|author2 =Wilson, Stephen|name-list-style =amp}}</ref>。そこで、1970年までに、103番元素は最後のアクチノイドであることが知られるようになった。1970年、ドゥブナのグループは、半減期20秒、アルファ崩壊エネルギー8.38 eVの<sup>255</sup>103の合成を報告した<ref name="93TWG" />。しかし、[[カリフォルニア大学バークレー校]]のチームが、原子番号255から260のローレンシウム同位体の一連の各崩壊特性を測定する実験に成功し<ref name="Silva16412">{{harvnb|Silva|2011|pp=1641-2}}</ref><ref name="Eskola">{{cite journal|journal=Phys. Rev. C| volume=4|issue=2|pages=632-642|date=1971|title=Studies of Lawrencium Isotopes with Mass Numbers 255 Through 260|author=Eskola, Kari|author2=Eskola, Pirkko|author3=Nurmia, Matti|author4=Albert Ghiorso |doi=10.1103/PhysRevC.4.632|bibcode = 1971PhRvC...4..632E | url=http://www.escholarship.org/uc/item/1476j5n1}}</ref>、バークレーのチームが当初<sup>258</sup>103を<sup>257</sup>103と誤同定していたことを除く<ref name="93TWG" />、これ以前のドゥブナとバークレーの全ての実験結果が正しかったと確かめられたのは、1971年になってからだった。その後、1976年と1977年に <sup>258</sup>103から放出される[[X線]]のエネルギーが測定され、最終的に全ての疑義が払拭された<ref name="93TWG" />。
[[ファイル:Ernest Lawrence.jpg|thumb|upright=0.9|right|この元素は、アーネスト・ローレンスの名前に因んで命名された。]]
1971年、IUPACは、元素の存在に関する理想的なデータがなかったにもかかわらず、ローレンス・バークレー研究所をローレンシウムの発見者として認定した。しかし1992年、IUPACのトランスフェルミウム作業部会(TWG)は、1961年のバークレーにおける実験は、ローレンシウム発見への重要な一歩となったが、完全な確定には至らず、一方、1965年、1968年、1970年のドゥブナにおける実験は、必要な信頼レベルにかなりのところまで接近したが、1971年のバークレーにおける実験において、これ以前の観測を明確に確定し、最終的に103番元素の発見を完全に信頼できるものにしたと結論付け、ドゥブナとバークレーの各チームを公式に共同発見者と認めた<ref name = "emsley2011" /><ref name="qqq" />。「ローレンシウム」という名前については、この時点でも長い間使われていたためそのままにすることとなり<ref name = "emsley2011" />、1997年8月に[[ジュネーヴ]]で行われたIUPACの会議において、ローレンシウムという名前とLrという記号が正式に承認された<ref name="qqq" />。
==特徴==
===物理的特徴===
ローレンシウムは、最後のアクチノイドである。一般的に、[[スカンジウム]]、[[イットリウム]]、ルテチウムとともに[[第3族元素]]と考えられ、f殻が埋まっていることで、第7周期の[[遷移金属]]と似た性質を示すと予測されるが、この点についてはいくつかの議論がある。周期表上では、左にアクチノイドのノーベリウム、右に6d遷移金属のラザホージウムがある。また、上には多くの物理的、化学的性質を共有するランタノイドのルテチウムがある。ルテチウムと同様に、[[標準状態]]では固体で、[[六方最密充填構造]](<sup>''c''</sup>/<sub>''a''</sub> = 1.58)を取ると予測されるが、実験的には未だ確かめられていない<ref name="hcp">{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.84.113104|title=First-principles calculation of the structural stability of 6d transition metals|year=2011|last1=Östlin|first1=A.|last2=Vitos|first2=L.|journal=Physical Review B|volume=84|issue=11|page=113104|bibcode=2011PhRvB..84k3104O }}</ref>。[[昇華]][[エンタルピー]]は、ルテチウムの値と近い352 kJ/molと推定され、金属ローレンシウムは、3つの電子が非局在化した3価であると強く示唆している。この予測は、近隣の元素からルテチウムまで、[[蒸発熱]]、[[体積弾性率]]、[[ファンデルワールス半径]]の値を外挿することでも支持される<ref name="Silva1644">{{harvnb|Silva|2011|p=1644}}</ref>。このことにより、2価であることが知られている後期アクチノイドの[[フェルミウム]]や[[メンデレビウム]]、また2価であると予測されているノーベリウムとは異なっている<ref>{{harvnb|Silva|2011|p=1639}}</ref>。推定蒸発熱は、ローレンシウムが後期アクチノイドの傾向から逸脱し、その代わり第3族元素としてのローレンシウムの解釈と一致し<ref name="Jensen2015">{{cite journal |last1=Jensen |first1=William B. |date=2015 |title=The positions of lanthanum (actinium) and lutetium (lawrencium) in the periodic table: an update |url=https://link.springer.com/article/10.1007/s10698-015-9216-1 |journal=Foundations of Chemistry |volume=17 |issue= |pages=23-31 |doi=10.1007/s10698-015-9216-1 |s2cid=98624395 |accessdate=28 January 2021 |archive-date=30 January 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210130011116/https://link.springer.com/article/10.1007/s10698-015-9216-1 |url-status=live }}</ref>、後に続く6d元素であるラザホージウムや[[ドブニウム]]の傾向と一致することを示す<ref name=insights/><ref name=Jensen2015/>。最後のアクチノイドをノーベリウムとし、ローレンシウムは第7周期の最初の遷移金属であると考える研究者もいる<ref>{{cite web |url=https://www.webelements.com/ |title=WebElements |last=Winter |first=Mark |date=1993-2022 |website= |publisher=The University of Sheffield and WebElements Ltd, UK |access-date=5 December 2022 |quote=}}</ref><ref>{{cite book |last=Cowan |first=Robert D. |author-link= |date=1981 |title=The Theory of Atomic Structure and Spectra |url= |location= |publisher=University of California Press |page=598 |isbn=9780520906150}}</ref>。
具体的には、ローレンシウムは、3価の銀色の金属で、空気や蒸気、酸により容易に酸化し<ref name="Emsley2011">{{cite book|author=John Emsley|title=Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements|url=https://books.google.com/books?id=4BAg769RfKoC&pg=PA368|date= 2011|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-960563-7|pages=278-9}}</ref>、ルテチウムと似た原子体積を持ち、3価金属の半径は171 pmと予測される<ref name="Silva1644" />。また、[[密度]]が約14.4 g/cm<sup>3</sup>の[[重金属]]と予測される<ref name="density">{{cite journal |last1=Gyanchandani |first1=Jyoti |last2=Sikka |first2=S. K. |title=Physical properties of the 6 d -series elements from density functional theory: Close similarity to lighter transition metals |journal=Physical Review B |date=10 May 2011 |volume=83 |issue=17 |pages=172101 |doi=10.1103/PhysRevB.83.172101 |bibcode=2011PhRvB..83q2101G }}</ref>。さらに、[[融点]]は約1900 Kで、ルテチウムの値(1925 K)と近いと予測される<ref>{{cite book | editor = Lide, D. R. | title = CRC Handbook of Chemistry and Physics | edition = 84th | location = Boca Raton, FL | publisher = CRC Press | date = 2003 }}</ref>。
===化学的特徴===
[[ファイル:F-block elution sequence.png|thumb|right|upright=1.4|3価のランタノイド及びアクチノイドのα-ヒドロキシイソ酪酸アンモニウムを用いた溶出の様子。ローレンシウムの位置で曲線が壊れることが予測される。]]
1949年、アクチノイドの概念を構築した[[グレン・シーボーグ]]は、103番元素は最後のアクチノイドとなり、水溶液中のLr<sup>3+</sup>イオンはLu<sup>3+</sup>イオンと同程度の安定性となると予測した。103番元素が実際に合成され、この予測が実験的に確認されたのは、数十年後のことであった<ref name="Silva16447">{{harvnb|Silva|2011|pp=1644-7}}</ref>。
1969年、ローレンシウムが[[塩素]]と反応し、三塩化物LrCl<sub>3</sub>である可能性が高い物質を形成することが示された。揮発性は、キュリウム、フェルミウム、ノーベリウムの塩化物と同程度で、ラザホージウムの塩化物よりずっと低かった。1970年、1500原子のローレンシウムを用いて化学実験が行われ、2価(ノーベリウム、[[バリウム]]、[[ラジウム]])、3価(フェルミウム、カリホルニウム、キュリウム、[[アメリシウム]]、[[アクチニウム]])、4価([[トリウム]]、[[プルトニウム]])の元素との比較が行われた。ローレンシウムは3価のイオンと共抽出されたが、<sup>256</sup>Lrの半減期が短いため、Md<sup>3+</sup>より先に溶出したことは確認できなかった<ref name="Silva16447" />。溶液中では、3価のLr<sup>3+</sup>イオンになるため、その化合物は他の3価のアクチノイドと似る。例えば、[[フッ化ローレンシウム(III)]]や[[水酸化ローレンシウム(III)]]は水に溶けない<ref name="Silva16447" />。[[アクチノイド収縮]]のため、Lr<sup>3+</sup>の[[イオン半径]]は、Md<sup>3+</sup>よりも小さくなるはずであり、[[α-ヒドロキシイソ酪酸アンモニウム]]を[[溶離剤]]として用いると、Md<sup>3+</sup>より先に溶出するはずである<ref name="Silva16447" />。長寿命の<sup>260</sup>Lrを用いた1987年の実験で、ローレンシウムが3価であることや[[エルビウム]]とほぼ同じ溶出傾向を持つことが確認された。また、イオン半径は、周期表上の傾向からの単純な外挿から予測されるよりも大きく、88.6±0.3 pmであることが分かった<ref name="Silva16447" />。1987 年の長寿命同位体<sup>260</sup>Lrを用いた実験では、ローレンシウムが3価であることとエルビウムとほぼ同じ場所で溶出することが確認され、ローレンシウムのイオン半径は 88.6±0.3 pm であり、周期的な傾向からの単純な外挿から予想されるよりも大きいことがわかった<ref name="Silva16447" />。翌1988年の実験では、イオン半径はより正確に88.1±0.1 pmとされ、水和エンタルピーは-3685±13 kJ/molと計算された<ref name="Silva16447" />。また、アクチノイド系列末端でのアクチノイド収縮は、最後のアクチノイドであるローレンシウムを除き、恐らく[[相対論効果]]のため、対応する[[ランタノイド収縮]]よりも大きいことが明らかとなった<ref name="Silva16447" />。
7s電子は相対論的に安定化していると考えられ、そのため、還元環境下では、7<sup>p1/2</sup>電子のみがイオン化し、1価のLr<sup>+</sup>イオンが生成すると予測されている。しかし、ルテチウムと同様、水溶液中でLr<sup>3+</sup>をLr<sup>2+</sup>やLr<sup>+</sup>に還元する全ての実験は失敗した。これを基にして、''E''°(Lr<sup>3+</sup> → Lr<sup>+</sup>)対の[[標準電極電位]]は、-1.56 V以下と計算され、水溶液中ではLr<sup>+</sup>が存在しないであろうことが示されている。''E''°(Lr<sup>3+</sup> → Lr<sup>2+</sup>)対、''E''°(Lr<sup>3+</sup> → Lr)対、''E''°(Lr<sup>4+</sup> → Lr<sup>3+</sup>)対の上限値は、各々、-0.44 V、-2.06 V、+7.9 Vと予測されている<ref name="Silva16447" />。6d遷移系列の[[[酸化状態]]の安定性は、Rf<sup>IV</sup> > Db<sup>V</sup> > Sg<sup>VI</sup>と減少するが、ローレンシウムでもこの傾向は続き、Lr<sup>III</sup>はRf<sup>IV</sup>よりも安定である<ref>{{cite book| title = The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements| editor1-last = Morss|editor2-first = Norman M.| editor2-last = Edelstein| editor3-last = Fuger|editor3-first = Jean| last1 = Hoffman|first1 = Darleane C.|last2=Lee |first2=Diana M. |last3=Pershina |first3=Valeria |chapter = Transactinides and the future elements| publisher = Springer Science+Business Media| year = 2006| isbn = 1-4020-3555-1| location = Dordrecht, The Netherlands| edition = 3rd| ref = CITEREFHaire2006| page=1686}}</ref>。
[[折れ線形分子構造]]と予測される[[二水素化ローレンシウム]]分子(LrH<sub>2</sub>)では、[[二水素化ランタン]]とは異なり、ローレンシウムの6d軌道は結合において役割を果たさないと予測される。二水素化ランタンのLa-H[[結合長]]は2.158 Aであるが、二水素化ローレンシウムのLr-H長は、相対論的収縮と結合に関わる7s及び7p軌道の安定化のためにより短く、2.042 Aである。一般的に、LrH<sub>2</sub>及びLrH分子は、対応するランタノイド分子よりも、対応する[[タリウム]]分子(タリウムは、気相では、ローレンシウムの7s<sup>27</sup>p<sup>1</sup>と似た6s<sup>26</sup>p<sup>1</sup>の価電子配置を取る)に似ると予測される<ref>{{cite journal|last1=Balasubramanian|first1=K.|date=4 December 2001|title=Potential energy surfaces of Lawrencium and Nobelium dihydrides (LrH<sub>2</sub> and NoH<sub>2</sub>)|journal=Journal of Chemical Physics|volume=116|issue=9|pages=3568-75|bibcode=2002JChPh.116.3568B|doi=10.1063/1.1446029}}</ref>。Lr<sup>+</sup>とLr<sup>2+</sup>の電子配置は、各々7s<sup>2</sup>、7s<sup>1</sup>と予測される。しかし、ローレンシウムの3つ全ての[[価電子]]がイオン化し、少なくとも形式上Lr<sup>3+</sup>を与える分子種では、ローレンシウムは典型的なアクチノイド、また特にローレンシウムの最初の3つの[[イオン化エネルギー]]がルテチウムのものと似ていると予測されるため、ルテチウムの同族体として振る舞う。そのため、タリウムとは異なるがルテチウムと同様に、ローレンシウムは、LrHよりもLrH<sub>3</sub>を形成しやすい。また、LrCOは既知のLuCOと似ていると予測され、どちらの金属もσ<sup>2</sup>π<sup>1</sup>の価電子配置を取る。pπ-dπ結合はLuCl<sub>3</sub>、より一般的には全てのLnCl<sub>3</sub>と同様に、LrCl<sub>3</sub>でも見られると予測される。複合アニオン[Lr(C<sub>5</sub>H<sub>4</sub>SiMe<sub>3</sub>)<sub>3</sub>]<sup>-</sup>は、ローレンシウムの電子配置が6d<sup>1</sup>となると予測され、この6d軌道は、[[HOMO/LUMO|HOMO]]となる。これは、対応するルテチウム化合物の電子構造のアナログである<ref name=peculiar>
{{cite journal |last1=Xu |first1=Wen-Hua |last2=Pyykko |first2=Pekka |date=8 June 2016 |url=http://pubs.rsc.org/-/content/articlehtml/2016/cp/c6cp02706g |title=Is the chemistry of lawrencium peculiar |journal=Phys. Chem. Chem. Phys. |volume=2016 |issue=18 |pages=17351-5 |doi=10.1039/c6cp02706g |pmid=27314425 |access-date=24 April 2017|bibcode=2016PCCP...1817351X |hdl=10138/224395 |hdl-access=free }}</ref>。
===原子===
ローレンシウムは、3つの価電子を持ち、5f電子は原子核にある<ref name=jensenlaw>{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20201110113324/http://www.che.uc.edu/jensen/W.%20B.%20Jensen/Reprints/081.%20Periodic%20Table.pdf|last1=Jensen|first1=William B.|title=The Periodic Law and Table|date=2000|access-date=10 December 2022}}</ref>。1970年、ローレンシウムの[[基底状態]]の電子配置は、[[構造原理]]に従って、[Rn]5f<sup>14</sup>6d<sup>1</sup>7s<sup>2</sup>(基底状態の[[項記号]]は<sup>2</sup>D<sub>3/2</sub>)であり、同族体であるルテチウムの[Xe]4f<sup>14</sup>5d<sup>1</sup>6s<sup>2</sup>とも合致すると予測された<ref name="Silva16434">{{harvnb|Silva|2011|pp=1643-4}}</ref>。しかし翌年、この予測に疑義を唱え、その代わり、[Rn]5f<sup>14</sup>7s<sup>2</sup>7p<sup>1</sup>という異常な電子配置を取るとする計算結果が公表された<ref name="Silva16434" />。初期の計算とは矛盾する結果が得られたが<ref>{{cite journal|last1 = Nugent |first1 = L. J.|last2= Vander Sluis |first2=K. L. |last3=Fricke |first3=Burhard |last4=Mann |first4=J. B. |title = Electronic configuration in the ground state of atomic lawrencium|url = https://kobra.bibliothek.uni-kassel.de/bitstream/urn:nbn:de:hebis:34-2008091523764/1/Fricke_electronic_1974.pdf|journal = Phys. Rev. A|volume = 9|issue = 6|pages = 2270-72|date = 1974|doi = 10.1103/PhysRevA.9.2270|bibcode = 1974PhRvA...9.2270N }}</ref>、より新しい研究や計算により、s<sup>2</sup>p電子配置の提案が確認されている<ref>{{cite journal |last1 = Eliav |first1 = E. |last2 = Kaldor |first2= U. |last3 = Ishikawa |first3 = Y. |title = Transition energies of ytterbium, lutetium, and lawrencium by the relativistic coupled-cluster method |journal = Phys. Rev. A|volume = 52|issue = 1 |pages = 291-296 |date = 1995 |doi = 10.1103/PhysRevA.52.291|pmid = 9912247 |bibcode = 1995PhRvA..52..291E }}</ref><ref>{{cite journal|last = Zou|first = Yu|author2=Froese Fischer C. |title = Resonance Transition Energies and Oscillator Strengths in Lutetium and Lawrencium|journal = Phys. Rev. Lett. |volume = 88|page = 183001|date = 2002|pmid=12005680|doi=10.1103/PhysRevLett.88.023001|bibcode = 2001PhRvL..88b3001M|issue = 2 |last3 = Uiterwaal|first3 = C.|last4 = Wanner|first4 = J.|last5 = Kompa|first5 = K.-L.| s2cid=18391594 |url = http://digitalcommons.unl.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1011&context=physicsuiterwaal}}</ref>。1974年の相対論効果の計算により、2つの電子配置のエネルギーの差は小さく、どちらが基底状態かははっきりしていない<ref name="Silva16434" />。1995年の計算では、球状のs軌道とp<sub>1/2</sub>軌道は原子核に最も近いため相対論的質量が大幅に大きくなるのに十分な速さで動くため、s<sup>2</sup>p電子配置がエネルギー的に有利であると結論付けた<ref name="Silva16434" />。
1988年、アイヒラーの率いる研究者のチームは、ローレンシウムの金属源への[[吸着]]エンタルピーは、これを利用してローレンシウムの電子配置を測定する実験を実施できるのに十分な電子配置依存性を持つと計算した<ref name="Silva16434" />。s<sup>2</sup>p電子配置は、s<sup>2</sup>d電子配置
よりも揮発性が高く、[[pブロック元素]]の鉛により似ていると予測された。ローレンシウムが揮発性であるという証拠は得られず、[[水晶]]や[[白金]]上へのローレンシウムの吸着エンタルピーの下限は、s<sup>2</sup>p電子配置に対する推定値よりもかなり高かった<ref name="Silva16434" />。
[[ファイル:First Ionization Energy blocks.svg|thumb|right|512px|原子番号に対してプロットした第一イオン化エネルギー。ラザホージウムより上は予測値。ローレンシウムはこの値が非常に低く、fブロックよりもdブロックに適合する性質を持つ<ref name=JensenLr/>。]]
2015年、<sup>256</sup>Lrを用いて、ローレンシウムの第一イオン化エネルギーが測定された<ref name="Sato">{{cite journal |last1=Sato |first1=T. K. |last2=Asai |first2=M. |first3=A. |last3=Borschevsky |first4=T. |last4=Stora |first5=N. |last5=Sato |first6=Y. |last6=Kaneya |first7=K. |last7=Tsukada |first8=Ch. E. |last8=Düllman |first9=K. |last9=Eberhardt |first10=E. |last10=Eliav |first11=S. |last11=Ichikawa |first12=U. |last12=Kaldor |first13=J. V. |last13=Kratz |first14=S. |last14=Miyashita |first15=Y. |last15=Nagame |first16=K. |last16=Ooe |first17=A. |last17=Osa |first18=D. |last18=Renisch |first19=J. |last19=Runke |first20=M. |last20=Schädel |first21=P. |last21=Thörle-Pospiech |first22=A. |last22=Toyoshima |first23=N. |last23=Trautmann |date=9 April 2015 |title=Measurement of the first ionization potential of lawrencium, element 103 |journal=Nature |volume=520 |issue=7546 |pages=209–11 |doi=10.1038/nature14342 |bibcode = 2015Natur.520..209S |pmid=25855457|s2cid=4384213 |url=http://cds.cern.ch/record/2008656/files/TKSato-Lr-IP_prep_nature.pdf }}</ref>。測定された値は4.96<sup>+0.08</sup><sub>-0.07</sub> eVで、相対論理論からの予測値4.963(15) eVと非常によく一致しており、超アクチノイドの第一イオン化エネルギーを測定する第一歩となった<ref name="Sato"/>。またこの値は、全てのランタノイド及びアクチノイドの中で最も低く、7p<sub>1/2</sub>電子は弱い結合のみと予測されていることから、s<sup>2</sup>p電子配置を支持する結果である。
[[fブロック元素]]では、一般に、周期表の左から右に行くほどイオン化エネルギーは高くなるため、この低い値は、ルテチウムとローレンシウムがfブロック元素ではなく[[dブロック元素]]であることを示唆し、従って、これらが[[ランタン]]やアクチニウムではなく、実際には、スカンジウムやイットリウムの同族体であることを示している<ref name="JensenLr">{{cite web|url=https://www.che.uc.edu/jensen/W.%20B.%20Jensen/Reprints/251.%20Lawrencium.pdf |title=Some Comments on the Position of Lawrencium in the Periodic Table |last1=Jensen |first1=W. B. |date=2015 |accessdate=20 September 2015 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20151223091325/https://www.che.uc.edu/jensen/W.%20B.%20Jensen/Reprints/251.%20Lawrencium.pdf |archive-date=23 December 2015 }}</ref>。いくつかの[[アルカリ金属]]に似た挙動も予測されるが<ref>{{cite web |url=http://www.rsc.org/chemistryworld/2015/04/lawrencium-experiment-could-shake-periodic-table |title=Lawrencium experiment could shake up periodic table |last1=Gunther |first1=Matthew |date=9 April 2015 |website=RSC Chemistry World |accessdate=21 September 2015}}</ref>、吸着実験からは、ローレンシウムはアルカリ金属のような1価ではなく、スカンジウムやイットリウムと同じ3価であることが示される<ref name=insights>{{cite journal |last=Haire |first=R. G. |date=11 October 2007 |title=Insights into the bonding and electronic nature of heavy element materials |journal=Journal of Alloys and Compounds |volume=444-5 |pages=63-71 |doi=10.1016/j.jallcom.2007.01.103|url=https://zenodo.org/record/1259091 }}</ref>。2021年には、実験的に、[[第2イオン化エネルギー]]の下限(>13.3 eV)が見いだされた<ref>{{cite journal |last1=Kwarsick |first1=Jeffrey T. |last2=Pore |first2=Jennifer L. |first3=Jacklyn M. |last3=Gates |first4=Kenneth E. |last4=Gregorich |first5=John K. |last5=Gibson |first6=Jiwen |last6=Jian |first7=Gregory K. |last7=Pang |first8=David K. |last8=Shuh |date=2021 |title=Assessment of the Second-Ionization Potential of Lawrencium: Investigating the End of the Actinide Series with a One-Atom-at-a-Time Gas-Phase Ion Chemistry Technique |url= |journal=The Journal of Physical Chemistry A |volume=125 |issue=31 |pages=6818-6828 |doi=10.1021/acs.jpca.1c01961 |accessdate=}}</ref>。
現在は、s<sup>2</sup>pがローレンシウムの基底状態、ds<sup>2</sup>が低励起状態であることが知られており、[[励起エネルギー]]は、0.156 eV、0.165 eV、0.626 eV等と計算される<ref name=peculiar/>。[[クロム]]や[[銅]]のように異常な電子配置を持つdブロック元素と考えられており、化学的挙動は、ルテチウムのアナログとしての予測と一致する<ref name=Jensen2015/>。
==同位体==
{{main|ローレンシウムの同位体}}
[[質量数]]251-262、264、266の14の同位体が知られており、全てが放射性を持つ<ref name="Silva1642">{{harvnb|Silva|2011|p=1642}}</ref><ref name="266Lr">{{Cite journal |title=<sup>48</sup>Ca + <sup>249</sup>Bk Fusion Reaction Leading to Element ''Z'' = 117: Long-Lived α-Decaying <sup>270</sup>Db and Discovery of <sup>266</sup>Lr |journal=Physical Review Letters |volume=112 |issue=17 |doi=10.1103/PhysRevLett.112.172501 |date=2014 |last1=Khuyagbaatar |first1=J. |last2=Yakushev |first2=A. |last3=Dullmann |first3=Ch. E. |last4=Ackermann |first4=D. |last5=Andersson |first5=L.-L. |last6=Asai |first6=M. |last7=Block |first7=M. |last8=Boll |first8=R. A. |last9=Brand |first9=H. |last10=Cox |first10=D. M. |last11=Dasgupta |first11=M. |last12=Derkx |first12=X. |last13=Di Nitto |first13=A. |last14=Eberhardt |first14=K. |last15=Even |first15=J. |last16=Evers |first16=M. |last17=Fahlander |first17=C. |last18=Forsberg |first18=U. |last19=Gates |first19=J. M. |last20=Gharibyan |first20=N. |last21=Golubev |first21=P. |last22=Gregorich |first22=K. E. |last23=Hamilton |first23=J. H. |last24=Hartmann |first24=W. |last25=Herzberg |first25=R.-D. |last26=Hesberger |first26=F. P. |last27=Hinde |first27=D. J. |last28=Hoffmann |first28=J. |last29=Hollinger |first29=R. |last30=Hubner |first30=A. |display-authors=1|bibcode = 2014PhRvL.112q2501K |pmid=24836239 |page=172501|url=http://lup.lub.lu.se/search/ws/files/2377958/4432321.pdf |hdl=1885/70327 |s2cid=5949620 |hdl-access=free }}</ref><ref name="255Db" />。また、質量数251と253の2つの[[核異性体]]が知られている<ref name="Silva1642" />。最も長寿命の同位体は<sup>266</sup>Lrで、半減期は約10時間であり、既知の最も長寿命な[[超重元素]]の同位体の1つとなっている<ref>{{cite magazine|author=Clara Moskowitz |url=http://www.scientificamerican.com/article/superheavy-element-117-island-of-stability/ |title=Superheavy Element 117 Points to Fabled "Island of Stability" on Periodic Table |magazine=Scientific American |date= May 7, 2014 |access-date=2014-05-08}}</ref>。しかし、2014年に<sup>294</sup>Tsの崩壊鎖から発見された<ref name="Silva1642" /><ref name="266Lr" /><sup>266</sup>Lrは、現在ではより重い元素の最終[[崩壊生成物]]としてしか合成できないため、化学実験には、より短寿命の同位体が用いられている。ローレンシウムの最初の化学実験では半減期27秒の<sup>256</sup>Lrが用いられ、現在では通常、半減期2.7分の<sup>260</sup>Lrがこの目的で用いられている<ref name="Silva1642" />。<sup>266</sup>Lrの次に長寿命の同位体は、<sup>264</sup>Lr(4.8<sup>+2.2</sup><sub>-1.3</sub>時間)、<sup>262</sup>Lr(3.6時間)、<sup>261</sup>Lr(44分)である<ref name="Silva1642" /><ref name="unc">{{Cite web|url=http://www.nucleonica.net/unc.aspx|title=Nucleonica :: Web driven nuclear science|accessdate=2022-12-28}}</ref>。その他の既知の全ての同位体は半減期が5分以下で、その中で最も短い<sup>251</sup>Lrの半減期は24.4ミリ秒である<ref name="255Db">{{cite thesis |last1=Leppanen |first1=A.-P. |title=Alpha-decay and decay-tagging studies of heavy elements using the RITU separator |year=2005 |pages=83-100 |publisher=University of Jyvaskyla |isbn=978-951-39-3162-9 |issn=0075-465X |url=https://jyx.jyu.fi/bitstream/handle/123456789/13915/978-951-39-3162-9.pdf?sequence=1&isAllowed=y}}</ref><ref name="unc" /><ref name=251Lr>{{cite journal |last=Huang |first=T. |last2=Seweryniak |first2=D. |last3=Back |first3=B. B. |display-authors=<!--et al.-->3|title=Discovery of the new isotope <sup>251</sup>Lr: Impact of the hexacontetrapole deformation on single-proton orbital energies near the {{nowrap|Z {{=}} 100}} deformed shell gap |journal=Physical Review C |volume=106 |number=L061301 |date=2022 |doi=10.1103/PhysRevC.106.L061301}}</ref>。ローレンシウムの同位体の半減期は、<sup>251</sup>Lrから<sup>266</sup>Lrまで滑らかに増加し、<sup>257</sup>Lrから<sup>259</sup>Lrまで落ちる<ref name="Silva1642" /><ref name="unc" />。
==合成と精製==
ローレンシウムの同位体の大部分は、アクチノイド(アメリシウムから[[アインスタイニウム]])を標的とし、軽いイオン(ホウ素からネオン)を照射して合成する。最も重要な2つの同位体である<sup>256</sup>Lrと<sup>260</sup>Lrは、各々、<sup>249</sup>Cfと70 MeVの<sup>11</sup>B(<sup>256</sup>Lrと3つの中性子が生成)、<sup>249</sup>Bkと<sup>18</sup>O(<sup>260</sup>Lrとアルファ粒子、3つの中性子が生成)により合成できる<ref name="Silva16423">{{harvnb|Silva|2011|pp=1642-3}}</ref>。最も重く長寿命の2つの同位体である<sup>264</sup>Lrと<sup>266</sup>Lrは、[[モスコビウム]]や[[テネシン]]に由来するドブニウムの崩壊生成物として、ずっと低収率で得られるだけである。
<sup>256</sup>Lrと<sup>260</sup>Lrはどちらも半減期が短すぎるため、化学的な精製過程を完了することができない。そのため、<sup>256</sup>Lrを用いた初期の実験では、[[キレート剤]]の[[テノイルトリフルオロアセトン]]を溶解した[[メチルイソブチルケトン]]を有機相、[[酢酸]]バッファー溶液を水相として、急速[[溶媒抽出法]]を用いた。その後、+2から+4の異なる電荷を持つイオンは、異なるpH範囲で有機相に抽出されるが、この方法は、3価のアクチノイド同士を分離することはできないため、<sup>256</sup>Lrは、8.24 MeVのアルファ粒子を放出することで識別する必要がある<ref name="Silva16423" />。
==脚注==
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==出典==
{{Reflist|30em}}
==関連文献==
* {{cite journal |title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties |doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001 |last1=Audi |first1=G. |last2=Kondev |first2=F. G. |last3=Wang |first3=M. |last4=Huang |first4=W. J. |last5=Naimi |first5=S. |display-authors=3 |journal=Chinese Physics C |volume=41 |issue=3 <!--Citation bot deny-->|pages=030001 |year=2017
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A }}<!--for consistency and specific pages, do not replace with {{NUBASE2016}}-->
* {{cite book|last=Beiser|first=A.|title=Concepts of modern physics|date=2003|publisher=McGraw-Hill|isbn=978-0-07-244848-1|edition=6th|oclc=48965418}}
* {{cite book |last1=Hoffman |first1=D. C. |last2=Ghiorso |first2=A. |last3=Seaborg |first3=G. T. |title=The Transuranium People: The Inside Story |year=2000 |publisher=World Scientific |isbn=978-1-78-326244-1 }}
* {{cite book |last=Kragh |first=H. |date=2018 |title=From Transuranic to Superheavy Elements: A Story of Dispute and Creation |publisher=Springer Science+Business Media |isbn=978-3-319-75813-8 }}
* {{cite book|doi=10.1007/978-94-007-0211-0_13|title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements|date=2011|isbn=978-94-007-0210-3|publisher=Springer |place=Netherlands|last=Silva |first= Robert J.|editor= Morss, Lester R.|editor2= Edelstein, Norman M.|editor3= Fuger, Jean |chapter=Chapter 13. Fermium, Mendelevium, Nobelium, and Lawrencium }}
* {{cite journal|last1=Zagrebaev|first1=V.|last2=Karpov|first2=A.|last3=Greiner|first3=W.|date=2013|title=Future of superheavy element research: Which nuclei could be synthesized within the next few years?|journal=Journal of Physics: Conference Series|volume=420|issue=1|pages=012001|doi=10.1088/1742-6596/420/1/012001|arxiv=1207.5700|bibcode=2013JPhCS.420a2001Z|s2cid=55434734|issn=1742-6588}}
==外部リンク==
* {{cite web|url=http://www.nndc.bnl.gov/chart/|title=Chart of Nuclides|publisher=National Nuclear Data Center (NNDC)|accessdate=2014-08-21|archive-date=2018-10-10|archive-url=https://web.archive.org/web/20181010070007/http://www.nndc.bnl.gov/chart/|url-status=dead}}
* [http://periodic.lanl.gov/103.shtml Los Alamos National Laboratory's Chemistry Division: Periodic Table - Lawrencium]
* [http://www.periodicvideos.com/videos/103.htm Lawrencium] at ''The Periodic Table of Videos'' (University of Nottingham)
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リヒテンシュタイン
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リヒテンシュタイン公国(リヒテンシュタインこうこく、独: Fürstentum Liechtenstein)、通称リヒテンシュタインは、西ヨーロッパの立憲君主制国家。スイスとオーストリアに囲まれた国であり、ミニ国家の一つである。首都はファドゥーツ。欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国。
正式名称は公用語のドイツ語で Fürstentum Liechtenstein(ドイツ語発音: [ˈfʏʁstn̩tuːm ˈlɪçtn̩ʃtaɪn] フュルステントゥーム・リヒテンシュタイン)、Liechtenstein と表記する。公式の英語表記は Principality of Liechtenstein(プリンシパリティ・オヴ・リクテンスタイン)、略称、Liechtenstein。日本政府(外務省)による日本語表記はリヒテンシュタイン公国(略称:リヒテンシュタイン(リヒテンスタイン))。後述のように「リヒテンシュタイン侯国」を正しい訳語とする主張もある。リヒテンシュタイン公国がある現地のアレマン語(リヒテンシュタイン方言)では、Förschtatum Liachtaschta(フェアシュタツーム・リアハタシュタ)と表記される。英語表記で国名・形容詞とも Liechtenstein、国民は Liechtensteiner。
元首であるリヒテンシュタイン家の当主の称号はドイツ語で「Fürst」であり、「Herzog」(公爵、英語の「duke」)より一段下の爵位であるため、「公爵」ではなく「侯爵」と訳すべきとの主張もある。なお、日本国外務省は「公爵」と表記しており、リヒテンシュタイン公と表記する際の「公」は君主の意味である。
なお、英語においては「prince(プリンス)」とされ、国家体制は「Principality」と訳される。「Principality」は日本語において通例「公国」と訳される。英語における「プリンス」は広義的には多義的であり、公爵位のみを指すものではなく王侯貴族である領主を全般的に指す言葉である。リヒテンシュタイン家の当主の親族(男子)の称号は「Prinz」であり、「プリンス」と同義であるが、これは日本語においては「公子」と訳されるのが通例である。
リヒテンシュタイン家は神聖ローマ帝国・ハプスブルク帝国における大貴族の家系であり、オーストリア・モラビア・シレジアなどに大きな領土を持っていた。現在のリヒテンシュタインの領域にあたるシェレンベルク=ファドゥーツはその中の一部に過ぎず、歴代君主はウィーンに居住していた。1719年、シェレンベルク=ファドゥーツは領邦国家としてのリヒテンシュタイン公国として認められた。
1806年に神聖ローマ帝国が解体されると主権独立国家となり、翌年にライン同盟に参加した。地理的にもオーストリア帝国に近く、普墺戦争後もオーストリア側に付き、ドイツ帝国にも加わらなかった。1867年には永世中立国となり、第一次世界大戦では中立を守ったが、連合国側からは不信感を抱かれていた。このため国際連盟には加盟できなかったが、この際にチェコスロバキアを除く国からは国家としての承認を受けている。
1938年にナチス・ドイツがオーストリアを併合した(アンシュルス)。老齢で、ユダヤ人女性を妻としていたフランツ1世はフランツ・ヨーゼフ2世に譲位し、フランツ・ヨーゼフ2世はファドゥーツに移住した。当時、リヒテンシュタインでもナチズムの動きは高まっており、1939年3月にはリヒテンシュタインのドイツ国民運動(英語版)の一部がドイツとの合邦を宣言して逮捕される動きになった。このため1939年4月4日の総選挙は主要政党の進歩市民党(英語版)と祖国連合(英語版)にほぼ同数の議席を割り当てることとし、投票は行われなかった(1939年リヒテンシュタイン総選挙(英語版))。第二次世界大戦では中立を保ち、戦禍から逃れた。しかし戦前戦後を通じてチェコスロバキア・ポーランド内にあったリヒテンシュタイン家の領地は没収された。1990年の国際連合加盟以降は国際機関への参加を積極的に行うようになっている。
元首はリヒテンシュタイン侯で、リヒテンシュタイン家の当主による男子世襲制である。欧州の君主制国家の元首が象徴・儀礼的存在であるのに対して、侯は立法権・外交権・議会の解散権・法案の拒否権など強い権限を有している。2003年には君主の権限はさらに強化され、2012年に行われた国民投票でも、侯の拒否権保持を76%の国民が支持している。また、侯の費用は、国ではなくリヒテンシュタイン家の私有財産から拠出されており、さらに別途で多大な寄付も行っている。このように君主が政治の実権を持つものの、国民の自由と権利、法の支配、議会政治などの民主主義制度が充分に整備・保証されているため、立憲君主制と見做されている。現在の君主ハンス・アダム2世侯は、2004年に長男のアロイスを摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。
議会は一院制で、「Landtag(国会)」と称する。議員定数25、任期4年、解散あり。選挙は、複数投票制と比例代表制を組み合わせた直接選挙で行われる。女性参政権が認められたのは、世界的に見ても遅い1984年である。
議院内閣制を採用している。行政府の長である首相は議会の第一党党首が侯によって任命される。また、副首相には第二党の党首が任命される。政党は進歩市民党(英語版)(Fortschrittliche Bürgerpartei in Liechtenstein)と祖国連合(英語版)(Vaterländische Union)が二大政党である。
歴史的経緯から、民法はオーストリアの民法が基本となっており、刑法はスイスの刑法を基本としている。死刑制度は廃止されている。
1919年の合意に拠り、スイスが利益代表を務めている。現在も欧州評議会以外においてはスイスが利益代表を務めている。欧州連合には加盟していない。
日本との関係では、侯家と皇室との交流は伝統的に行われていたが、正式に両国が外交関係を結んだのは1996年6月である。
第一次世界大戦後に成立したチェコスロバキアは貴族称号を廃し、リヒテンシュタイン家が有していた爵位も廃された。当時、リヒテンシュタイン家はチェコスロバキアにおける第二位の大地主であったが、その半分は1920年から1938年に実施された土地改革で没収され、更に補償金も僅かなものであった。リヒテンシュタインは国際連盟の調停を求めたが、国際問題化を避けようとしたチェコスロバキアはリヒテンシュタインの主権を認めようとしなかった。1938年7月になってようやくチェコスロバキアはリヒテンシュタインの主権を認めたが、まもなくチェコスロバキア自体がナチス・ドイツによって解体されてしまったため、両国関係は進展しなかった。
第二次世界大戦終結直後の1945年、復活したチェコスロバキア政府は、同国領内の敵性国民(旧枢軸国民やチェコ及びスロバキア民族の敵と規定されている)からの農業財産を無償で没収した(ベネシュ布告1945年第28号令)が、これにはリヒテンシュタイン家の残存領地も含まれていた。リヒテンシュタインはこれに抗議し、長らく両国家関係は緊張した状態が続いた。冷戦終結後に解体されたチェコスロバキアの承継国であったチェコとスロバキアの国家承認も行っていなかったが、2009年7月13日にチェコとの外交関係開設を、同年12月9日にはスロバキアとの外交関係開設をそれぞれ発表した。
普墺戦争で当時密接な関係にあったオーストリアが敗北し、安全保障政策の見直しが必要となった。しかし自国の軍事力では近隣諸国に到底対抗できないため、1868年に軍を解体し非武装中立政策に転換する。
第一次世界大戦後におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊以降はスイスとの関係を強化している。このためリヒテンシュタイン国内には有事の際にはスイスの軍事的援助が行われるという見方が広まっているが、スイスがリヒテンシュタインを保護する条約上の義務は存在していない。第二次世界大戦中にはスイスはリヒテンシュタインを同一の経済圏内に置くことで保護したが、リヒテンシュタインのみが攻撃された場合には防衛しないという立場を明確にしていた。スイス軍は国民保護の観点からリヒテンシュタインと協力を行うことはしばしばあり、リヒテンシュタイン国内の防災訓練にスイス軍が参加することもある。
また、100名ほどの国家警察は隣接する諸国の軍(スイス軍およびオーストリア軍)と密接な関係を持っている。
国境を接する全ての国が内陸国の「二重内陸国」(海に出るために少なくとも2つの国境を越えなければならない国のこと)である。面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルと狭い。日本の小豆島とほぼ同じである。世界で6番目に小さい国。ドイツのシュヴェービッシュ・アルプスの延長線上に連なり、国土は山がち(最高地点2599m)だが南風が卓越し比較的温暖である。分水嶺は比較的全土的に分散されており、西はライン川に沿ってスイス(ザンクト・ガレン州・グラウビュンデン州)、東はオーストリア(フォアアールベルク州)と接している。
全部で11の基礎自治体(Gemeinde、ゲマインデ)に分かれる。これらは旧ファドゥーツ伯爵領のオーバーラント(Oberland、高地)と旧シェレンベルク男爵領のウンターラント(Unterland、低地)に分けることができ、現在でも国政選挙の選挙区としてこの区分が残っている。
主要な産業は精密機械、牧畜と医療。ほかに観光、国際金融、切手発行もよく知られている。スイスとの関税同盟があり、郵便や電話の制度はスイスと共通となっている。
タックス・ヘイブンとしても知られ、税金免除を目的とした外国企業のペーパーカンパニーも集中しており、人口よりも法人企業数が多いと言われる。これら法人税が税収の40%に及び、この結果、一般の国民には直接税(所得税、相続税、贈与税)がない。
近年はEUとの課税に関する条約に調印し、EU市民の預金については利子課税がなされることになった。ただし、これらの税は、個々の預金者の情報を相手国に通知することなしに一括してリヒテンシュタインから各国に支払われるため、銀行の守秘義務そのものは維持されている(同様の銀行守秘義務を維持している国は、欧州ではスイス、モナコ、サンマリノがある)。
OECDが指名する「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」(租税回避地)に掲載されている7カ国の1つであったが、2009年5月の時点で他の二ヶ国(アンドラ、モナコ)と共にリストから削除されている。
この国に拠点を持つ会社としては、薄膜コーティング装置の製造および、コーティングの受託加工のエリコンバルザース社、電動工具・鋲打機・墨出し機などのヒルティ社、プロ用オーディオコネクターのノイトリック社(ドイツ語版)、歯科材料のイボクラー社(ドイツ語版)などが有名。労働者の約半数はスイス、オーストリアから毎日越境している。
リヒテンシュタインの観光資源は史跡が中心となっている。
国内の主要な交通は路線バスであり、各所を結ぶ路線が頻繁に運転されている。黄色い車体のリヒテンシュタインバスをよく目にすることができる。主なバス停は郵便局の前であることが多い。バスはライン川対岸のスイスの鉄道駅(ザルガンスやブックス)のほか、オーストリアのフェルトキルヒ駅への路線もある。また、ユーロで運賃を支払うこともできる。
国内を鉄道が走っており、駅が3駅ある(主要駅はシャーン・ファドゥーツ駅)。2013年まではオーストリアとの国境付近にシャーンヴァルド(英語版)駅があったが現在運用されていない。運行をしているのはオーストリア国鉄である。オーストリアとスイスを結ぶ国際急行列車も通るが、リヒテンシュタイン国内の駅は全て通過する。
空港は存在しない。もっとも近い主要国際空港はスイスのチューリッヒ空港である。
住民はドイツ系が大半で、ゲルマン系のドイツ・アレマン人が86%、その他イタリア人、トルコ人などが14%である。
公用語は標準ドイツ語だが、現地住民は上部ドイツ語に属するアレマン語系最高地アレマン語(ドイツ語版)の一方言を使用し、その他にトリーゼンベルクではヴァリス語が使用される。
婚姻の際は、夫婦別姓、同姓、複合姓から選択できる。
宗教はローマ・カトリックが79.9%、プロテスタント(ルター派、カルヴァン派)が8.5%、その他にイスラムなどが5.4%存在する(2010年時点)。
リヒテンシュタインの教育制度はスイスの教育制度に酷似している点を持っている。 同国における識字率は100%とかなり高めである。
傍ら、スカウト運動を積極的に進めており、ボーイスカウトの参加率が高いことでも知られている。
同国の公立大学はリヒテンシュタイン大学のみとなっている。
リヒテンシュタインは治安の良い国として知られているが、旅行者が多い点からそれに関連する一般犯罪が発生している。
同国の犯罪統計によれば、2019年の犯罪件数は1990件(前年比0.6%増)で、内訳は財産犯罪(窃盗・車両盗・器物損壊・詐欺等)が720件、薬物:793件、傷害(脅迫を含む):198件、性犯罪:17件となっている。
リヒテンシュタインでは、冬場でも水風呂に入る習慣がある。
リヒテンシュタインの料理は、オーストリアやスイスの伝統料理を始め、ドイツ料理の影響を受けている面が強い。
チェコの作家カレル・チャペックの「山椒魚戦争」ではサンショウウオによる世界水没に対処するため、ファドゥーツで各国による国際会議が開かれた。
リヒテンシュタインには現在、世界遺産となるものが存在していない。
リヒテンシュタインでも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。さらにバドミントンも盛んであり全国選手権大会が開催されている。アルペンスキーも盛んで、1980年レークプラシッドオリンピックで金メダルを獲得したハンニ・ウェンツェルを始め多くのメダリストを輩出している。オリンピックにおいては、これまでの大会で銅メダルの獲得者が多い。また、欧州小国競技大会を開催し参加している。
リヒテンシュタインサッカー連盟は欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟しているが、加盟する55の国と地域の中で唯一国内プロサッカーリーグを保持しておらず、国内のサッカークラブはスイス・スーパーリーグに参加している。このため、UEFAチャンピオンズリーグの予選および本大会に「国内リーグの結果」によって出場可能なチームが存在しない(スイス・スーパーリーグで仮に優勝すれば、スイスの出場枠によって出る事は可能)。一方でカップ戦(リヒテンシュタイン・カップ)は開催されているため、UEFAヨーロッパリーグには予選1回戦から出場可能となっている。
サッカーリヒテンシュタイン代表は、これまでFIFAワールドカップやUEFA欧州選手権の本大会には未出場となっている。FIFAランキングの過去最高は、2008年1月に記録した118位である。
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"text": "1806年に神聖ローマ帝国が解体されると主権独立国家となり、翌年にライン同盟に参加した。地理的にもオーストリア帝国に近く、普墺戦争後もオーストリア側に付き、ドイツ帝国にも加わらなかった。1867年には永世中立国となり、第一次世界大戦では中立を守ったが、連合国側からは不信感を抱かれていた。このため国際連盟には加盟できなかったが、この際にチェコスロバキアを除く国からは国家としての承認を受けている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 6,
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"text": "1938年にナチス・ドイツがオーストリアを併合した(アンシュルス)。老齢で、ユダヤ人女性を妻としていたフランツ1世はフランツ・ヨーゼフ2世に譲位し、フランツ・ヨーゼフ2世はファドゥーツに移住した。当時、リヒテンシュタインでもナチズムの動きは高まっており、1939年3月にはリヒテンシュタインのドイツ国民運動(英語版)の一部がドイツとの合邦を宣言して逮捕される動きになった。このため1939年4月4日の総選挙は主要政党の進歩市民党(英語版)と祖国連合(英語版)にほぼ同数の議席を割り当てることとし、投票は行われなかった(1939年リヒテンシュタイン総選挙(英語版))。第二次世界大戦では中立を保ち、戦禍から逃れた。しかし戦前戦後を通じてチェコスロバキア・ポーランド内にあったリヒテンシュタイン家の領地は没収された。1990年の国際連合加盟以降は国際機関への参加を積極的に行うようになっている。",
"title": "歴史"
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"text": "元首はリヒテンシュタイン侯で、リヒテンシュタイン家の当主による男子世襲制である。欧州の君主制国家の元首が象徴・儀礼的存在であるのに対して、侯は立法権・外交権・議会の解散権・法案の拒否権など強い権限を有している。2003年には君主の権限はさらに強化され、2012年に行われた国民投票でも、侯の拒否権保持を76%の国民が支持している。また、侯の費用は、国ではなくリヒテンシュタイン家の私有財産から拠出されており、さらに別途で多大な寄付も行っている。このように君主が政治の実権を持つものの、国民の自由と権利、法の支配、議会政治などの民主主義制度が充分に整備・保証されているため、立憲君主制と見做されている。現在の君主ハンス・アダム2世侯は、2004年に長男のアロイスを摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。",
"title": "政治"
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"text": "議会は一院制で、「Landtag(国会)」と称する。議員定数25、任期4年、解散あり。選挙は、複数投票制と比例代表制を組み合わせた直接選挙で行われる。女性参政権が認められたのは、世界的に見ても遅い1984年である。",
"title": "政治"
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"text": "議院内閣制を採用している。行政府の長である首相は議会の第一党党首が侯によって任命される。また、副首相には第二党の党首が任命される。政党は進歩市民党(英語版)(Fortschrittliche Bürgerpartei in Liechtenstein)と祖国連合(英語版)(Vaterländische Union)が二大政党である。",
"title": "政治"
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"text": "歴史的経緯から、民法はオーストリアの民法が基本となっており、刑法はスイスの刑法を基本としている。死刑制度は廃止されている。",
"title": "政治"
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"text": "1919年の合意に拠り、スイスが利益代表を務めている。現在も欧州評議会以外においてはスイスが利益代表を務めている。欧州連合には加盟していない。",
"title": "国際関係"
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"text": "日本との関係では、侯家と皇室との交流は伝統的に行われていたが、正式に両国が外交関係を結んだのは1996年6月である。",
"title": "国際関係"
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{
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"text": "第一次世界大戦後に成立したチェコスロバキアは貴族称号を廃し、リヒテンシュタイン家が有していた爵位も廃された。当時、リヒテンシュタイン家はチェコスロバキアにおける第二位の大地主であったが、その半分は1920年から1938年に実施された土地改革で没収され、更に補償金も僅かなものであった。リヒテンシュタインは国際連盟の調停を求めたが、国際問題化を避けようとしたチェコスロバキアはリヒテンシュタインの主権を認めようとしなかった。1938年7月になってようやくチェコスロバキアはリヒテンシュタインの主権を認めたが、まもなくチェコスロバキア自体がナチス・ドイツによって解体されてしまったため、両国関係は進展しなかった。",
"title": "国際関係"
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"text": "第二次世界大戦終結直後の1945年、復活したチェコスロバキア政府は、同国領内の敵性国民(旧枢軸国民やチェコ及びスロバキア民族の敵と規定されている)からの農業財産を無償で没収した(ベネシュ布告1945年第28号令)が、これにはリヒテンシュタイン家の残存領地も含まれていた。リヒテンシュタインはこれに抗議し、長らく両国家関係は緊張した状態が続いた。冷戦終結後に解体されたチェコスロバキアの承継国であったチェコとスロバキアの国家承認も行っていなかったが、2009年7月13日にチェコとの外交関係開設を、同年12月9日にはスロバキアとの外交関係開設をそれぞれ発表した。",
"title": "国際関係"
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"text": "普墺戦争で当時密接な関係にあったオーストリアが敗北し、安全保障政策の見直しが必要となった。しかし自国の軍事力では近隣諸国に到底対抗できないため、1868年に軍を解体し非武装中立政策に転換する。",
"title": "軍事"
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"text": "第一次世界大戦後におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊以降はスイスとの関係を強化している。このためリヒテンシュタイン国内には有事の際にはスイスの軍事的援助が行われるという見方が広まっているが、スイスがリヒテンシュタインを保護する条約上の義務は存在していない。第二次世界大戦中にはスイスはリヒテンシュタインを同一の経済圏内に置くことで保護したが、リヒテンシュタインのみが攻撃された場合には防衛しないという立場を明確にしていた。スイス軍は国民保護の観点からリヒテンシュタインと協力を行うことはしばしばあり、リヒテンシュタイン国内の防災訓練にスイス軍が参加することもある。",
"title": "軍事"
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"text": "また、100名ほどの国家警察は隣接する諸国の軍(スイス軍およびオーストリア軍)と密接な関係を持っている。",
"title": "軍事"
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"text": "国境を接する全ての国が内陸国の「二重内陸国」(海に出るために少なくとも2つの国境を越えなければならない国のこと)である。面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルと狭い。日本の小豆島とほぼ同じである。世界で6番目に小さい国。ドイツのシュヴェービッシュ・アルプスの延長線上に連なり、国土は山がち(最高地点2599m)だが南風が卓越し比較的温暖である。分水嶺は比較的全土的に分散されており、西はライン川に沿ってスイス(ザンクト・ガレン州・グラウビュンデン州)、東はオーストリア(フォアアールベルク州)と接している。",
"title": "地理"
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"text": "全部で11の基礎自治体(Gemeinde、ゲマインデ)に分かれる。これらは旧ファドゥーツ伯爵領のオーバーラント(Oberland、高地)と旧シェレンベルク男爵領のウンターラント(Unterland、低地)に分けることができ、現在でも国政選挙の選挙区としてこの区分が残っている。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "主要な産業は精密機械、牧畜と医療。ほかに観光、国際金融、切手発行もよく知られている。スイスとの関税同盟があり、郵便や電話の制度はスイスと共通となっている。",
"title": "経済"
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"text": "タックス・ヘイブンとしても知られ、税金免除を目的とした外国企業のペーパーカンパニーも集中しており、人口よりも法人企業数が多いと言われる。これら法人税が税収の40%に及び、この結果、一般の国民には直接税(所得税、相続税、贈与税)がない。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "近年はEUとの課税に関する条約に調印し、EU市民の預金については利子課税がなされることになった。ただし、これらの税は、個々の預金者の情報を相手国に通知することなしに一括してリヒテンシュタインから各国に支払われるため、銀行の守秘義務そのものは維持されている(同様の銀行守秘義務を維持している国は、欧州ではスイス、モナコ、サンマリノがある)。",
"title": "経済"
},
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"text": "OECDが指名する「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」(租税回避地)に掲載されている7カ国の1つであったが、2009年5月の時点で他の二ヶ国(アンドラ、モナコ)と共にリストから削除されている。",
"title": "経済"
},
{
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"text": "この国に拠点を持つ会社としては、薄膜コーティング装置の製造および、コーティングの受託加工のエリコンバルザース社、電動工具・鋲打機・墨出し機などのヒルティ社、プロ用オーディオコネクターのノイトリック社(ドイツ語版)、歯科材料のイボクラー社(ドイツ語版)などが有名。労働者の約半数はスイス、オーストリアから毎日越境している。",
"title": "経済"
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"text": "リヒテンシュタインの観光資源は史跡が中心となっている。",
"title": "経済"
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"text": "国内の主要な交通は路線バスであり、各所を結ぶ路線が頻繁に運転されている。黄色い車体のリヒテンシュタインバスをよく目にすることができる。主なバス停は郵便局の前であることが多い。バスはライン川対岸のスイスの鉄道駅(ザルガンスやブックス)のほか、オーストリアのフェルトキルヒ駅への路線もある。また、ユーロで運賃を支払うこともできる。",
"title": "交通"
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"text": "国内を鉄道が走っており、駅が3駅ある(主要駅はシャーン・ファドゥーツ駅)。2013年まではオーストリアとの国境付近にシャーンヴァルド(英語版)駅があったが現在運用されていない。運行をしているのはオーストリア国鉄である。オーストリアとスイスを結ぶ国際急行列車も通るが、リヒテンシュタイン国内の駅は全て通過する。",
"title": "交通"
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"text": "空港は存在しない。もっとも近い主要国際空港はスイスのチューリッヒ空港である。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "住民はドイツ系が大半で、ゲルマン系のドイツ・アレマン人が86%、その他イタリア人、トルコ人などが14%である。",
"title": "国民"
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"text": "公用語は標準ドイツ語だが、現地住民は上部ドイツ語に属するアレマン語系最高地アレマン語(ドイツ語版)の一方言を使用し、その他にトリーゼンベルクではヴァリス語が使用される。",
"title": "国民"
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"text": "婚姻の際は、夫婦別姓、同姓、複合姓から選択できる。",
"title": "国民"
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"text": "宗教はローマ・カトリックが79.9%、プロテスタント(ルター派、カルヴァン派)が8.5%、その他にイスラムなどが5.4%存在する(2010年時点)。",
"title": "国民"
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"text": "リヒテンシュタインの教育制度はスイスの教育制度に酷似している点を持っている。 同国における識字率は100%とかなり高めである。",
"title": "国民"
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"text": "傍ら、スカウト運動を積極的に進めており、ボーイスカウトの参加率が高いことでも知られている。",
"title": "国民"
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"text": "同国の公立大学はリヒテンシュタイン大学のみとなっている。",
"title": "国民"
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"text": "リヒテンシュタインは治安の良い国として知られているが、旅行者が多い点からそれに関連する一般犯罪が発生している。",
"title": "治安"
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"text": "同国の犯罪統計によれば、2019年の犯罪件数は1990件(前年比0.6%増)で、内訳は財産犯罪(窃盗・車両盗・器物損壊・詐欺等)が720件、薬物:793件、傷害(脅迫を含む):198件、性犯罪:17件となっている。",
"title": "治安"
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"text": "リヒテンシュタインでは、冬場でも水風呂に入る習慣がある。",
"title": "文化"
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"text": "リヒテンシュタインの料理は、オーストリアやスイスの伝統料理を始め、ドイツ料理の影響を受けている面が強い。",
"title": "文化"
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"text": "チェコの作家カレル・チャペックの「山椒魚戦争」ではサンショウウオによる世界水没に対処するため、ファドゥーツで各国による国際会議が開かれた。",
"title": "文化"
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"text": "リヒテンシュタインには現在、世界遺産となるものが存在していない。",
"title": "文化"
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"text": "リヒテンシュタインでも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。さらにバドミントンも盛んであり全国選手権大会が開催されている。アルペンスキーも盛んで、1980年レークプラシッドオリンピックで金メダルを獲得したハンニ・ウェンツェルを始め多くのメダリストを輩出している。オリンピックにおいては、これまでの大会で銅メダルの獲得者が多い。また、欧州小国競技大会を開催し参加している。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "リヒテンシュタインサッカー連盟は欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟しているが、加盟する55の国と地域の中で唯一国内プロサッカーリーグを保持しておらず、国内のサッカークラブはスイス・スーパーリーグに参加している。このため、UEFAチャンピオンズリーグの予選および本大会に「国内リーグの結果」によって出場可能なチームが存在しない(スイス・スーパーリーグで仮に優勝すれば、スイスの出場枠によって出る事は可能)。一方でカップ戦(リヒテンシュタイン・カップ)は開催されているため、UEFAヨーロッパリーグには予選1回戦から出場可能となっている。",
"title": "スポーツ"
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{
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"text": "サッカーリヒテンシュタイン代表は、これまでFIFAワールドカップやUEFA欧州選手権の本大会には未出場となっている。FIFAランキングの過去最高は、2008年1月に記録した118位である。",
"title": "スポーツ"
}
] |
リヒテンシュタイン公国、通称リヒテンシュタインは、西ヨーロッパの立憲君主制国家。スイスとオーストリアに囲まれた国であり、ミニ国家の一つである。首都はファドゥーツ。欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国。
|
{{出典の明記|date=2021年1月}}
{{基礎情報 国
| 略名 =リヒテンシュタイン
| 日本語国名 =リヒテンシュタイン公国
| 漢字表記 =列支敦士登
| 公式国名 ={{Lang|de|'''Fürstentum Liechtenstein'''}}
| 国旗画像 =Flag of Liechtenstein.svg
| 国章画像 =[[ファイル:Staatswappen-Liechtensteins.svg|80px|リヒテンシュタインの国章]]
| 国章リンク =([[リヒテンシュタインの国章|国章]])
| 標語 ={{Lang|de|Für Gott, Fürst und Vaterland}}<br />(ドイツ語:神・侯・祖国のために)
| 位置画像 =Europe-Liechtenstein.svg
| 公用語 =[[ドイツ語]]|<!--公文書等は標準ドイツ語使用-->
首都 =[[ファドゥーツ]]
| 最大都市 =[[シャーン]]
| 元首等肩書 =[[リヒテンシュタインの統治者一覧|侯爵]]
| 元首等氏名 =[[ハンス・アダム2世]]
| 首相等肩書 =[[摂政]]
| 首相等氏名 =[[アロイス・フォン・リヒテンシュタイン (1968-)|アロイス]]
| 他元首等肩書1 =[[リヒテンシュタインの首相|首相]]
| 他元首等氏名1 =[[ダニエル・リッシュ]]
| 面積順位 =189
| 面積大きさ =1 E8
| 面積値 =160
| 水面積率 =極僅か
| 人口統計年 =2020
| 人口順位 =191
| 人口大きさ =1 E4
| 人口値 =39000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/li.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-11}}</ref>
| 人口密度値 =241.5<ref name=population/>
| GDP統計年元 =2008
| GDP値元 =43億
| GDP統計年MER =2017
| GDP順位MER =147
| GDP値MER =69億2500万<ref>[http://unstats.un.org/unsd/snaama/selbasicFast.asp National Accounts Main Aggregates Database, 2017], (Select all countries, "GDP, Per Capita GDP - US Dollars", and 2016 to generate table), [[w:United Nations Statistics Division|United Nations Statistics Division]]. Accessed on 17 Jan 2019.</ref>
| GDP統計年 =2014
| GDP順位= 179
| GDP値=49億7,800万<ref>{{Cite web|author=CIA|authorlink=中央情報局|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/208rank.html#LS|title=CIA World Factbook Country Comparison :: GDP (purchasing power parity) |date=2019|accessdate=2020-05-16}}</ref>
| GDP/人 =139,100<ref>{{Cite web|author=CIA|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/211rank.html#LS|title=CIA World Factbook Country Comparison :: GDP - per capita (PPP) |date=2019|accessdate=2020-05-16}}</ref><ref>2009年のデータである。</ref>
| 建国形態 =形成<br />[[独立]]<br /> - 日付
| 建国年月日 =[[1719年]][[1月23日]]<br />[[神聖ローマ帝国]]より<br />[[1806年]][[7月12日]]
| 通貨 =[[スイス・フラン]]
| 通貨コード =CHF
| 時間帯 =+1
| 夏時間 =+2
| 国歌 =[[若きライン川上流に|{{lang|de|Oben am jungen Rhein}}{{de icon}}]]<br>''若きライン川上流に''{{center|[[ファイル:Oben am jungen Rhein, by the U.S. Navy Band.ogg]]}}
| ISO 3166-1 = LI / LIE
| ccTLD =[[.li]]
| 国際電話番号 =423
| 注記 =
}}
'''リヒテンシュタイン公国'''(リヒテンシュタインこうこく、{{lang-de-short|Fürstentum Liechtenstein}})、通称'''リヒテンシュタイン'''は、[[西ヨーロッパ]]の[[立憲君主制]][[国家]]<ref>国連の分類でリヒテンシュタイン公国は西ヨーロッパの国 [https://unstats.un.org/unsd/methodology/m49/ 「一覧表:UN,Geographic Regions,Western Europe」] 、[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Europe_subregion_map_UN_geoschme.svg 「地図:国連の分類によるヨーロッパの区分け」]</ref>。[[スイス]]と[[オーストリア]]に囲まれた国であり、[[ミニ国家]]の一つである。首都は[[ファドゥーツ]]。[[欧州自由貿易連合]](EFTA)加盟国。
== 国名 ==
正式名称は公用語のドイツ語で {{Lang|de|Fürstentum Liechtenstein}}({{IPA-de|ˈfʏʁstn̩tuːm ˈlɪçtn̩ʃtaɪn}} フュルステントゥーム・リヒテンシュタイン)<!--ieという綴りですが、ここは長母音ではないです。-->、{{Lang|de|Liechtenstein}} と表記する。公式の英語表記は {{lang|en|Principality of Liechtenstein}}(プリンシパリティ・オヴ・リクテンスタイン)、略称、{{lang|en|Liechtenstein}}。日本政府(外務省)による日本語表記はリヒテンシュタイン'''公'''国(略称:'''リヒテンシュタイン'''(リヒテンスタイン))。後述のように「リヒテンシュタイン'''侯'''国」を正しい訳語とする主張もある<ref name="name">[https://ljg.li/name.html 国名表記について 日本リヒテンシュタイン協会公式サイト]</ref>。リヒテンシュタイン公国がある現地の[[アレマン語]](リヒテンシュタイン方言)では、{{Lang|de|Förschtatum Liachtaschta}}(フェアシュタツーム・リアハタシュタ)と表記される。英語表記で国名・形容詞とも {{lang|en|Liechtenstein}}、国民は {{lang|en|Liechtensteiner}}。
[[元首]]である[[リヒテンシュタイン家]]の当主の称号はドイツ語で{{Lang|de|[[フュルスト|「Fürst」]]}}であり、{{Lang|de|「Herzog」}}([[公爵]]、英語の「[[デューク (称号)|duke]]」)より一段下の爵位であるため、「公爵」ではなく「[[侯爵]]」と訳すべきとの主張もある<ref name="name"/>。なお、日本国外務省は「公爵」と表記しており<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/liechtenstein/data.html#section1 日本国外務省リヒテンシュタイン公国基礎データ]</ref>、リヒテンシュタイン公と表記する際の「公」は君主の意味である。
なお、英語においては「[[プリンス|prince(プリンス)]]」とされ、国家体制は「Principality」と訳される{{sfn|佐藤雪野|2017|p=65}}。「Principality」は日本語において通例「公国」と訳される。英語における「プリンス」は広義的には多義的であり、公爵位のみを指すものではなく王侯貴族である領主を全般的に指す言葉である。リヒテンシュタイン家の当主の親族(男子)の称号は「{{Lang|de|Prinz}}」であり、「プリンス」と同義であるが、これは日本語においては「公子」と訳されるのが通例である。
== 歴史 ==
{{Main|リヒテンシュタインの歴史}}
リヒテンシュタイン家は[[神聖ローマ帝国]]・[[ハプスブルク帝国]]における大貴族の家系であり、[[オーストリア]]・[[モラビア]]・[[シレジア]]などに大きな領土を持っていた。現在のリヒテンシュタインの領域にあたるシェレンベルク=ファドゥーツはその中の一部に過ぎず、歴代君主は[[ウィーン]]に居住していた。[[1719年]]、シェレンベルク=ファドゥーツは領邦国家としてのリヒテンシュタイン公国として認められた{{sfn|佐藤雪野|2017|p=59}}。
[[1806年]]に[[神聖ローマ帝国]]が解体されると主権独立国家となり、翌年に[[ライン同盟]]に参加した。地理的にも[[オーストリア帝国]]に近く、[[普墺戦争]]後もオーストリア側に付き、[[ドイツ帝国]]にも加わらなかった。[[1867年]]には[[永世中立国]]となり、[[第一次世界大戦]]では中立を守ったが、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側からは不信感を抱かれていた{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60}}。このため[[国際連盟]]には加盟できなかったが、この際に[[チェコスロバキア]]を除く国からは国家としての承認を受けている{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60-61}}。
[[1938年]]に[[ナチス・ドイツ]]が[[オーストリア]]を併合した([[アンシュルス]])。老齢で、ユダヤ人女性を妻としていた[[フランツ1世 (リヒテンシュタイン公)|フランツ1世]]は[[フランツ・ヨーゼフ2世]]に譲位し、フランツ・ヨーゼフ2世はファドゥーツに移住した。当時、リヒテンシュタインでも[[ナチズム]]の動きは高まっており、1939年3月には{{仮リンク|リヒテンシュタインのドイツ国民運動|en|German National Movement in Liechtenstein}}の一部がドイツとの合邦を宣言して逮捕される動きになった。このため1939年4月4日の総選挙は主要政党の{{ill2|進歩市民党 (リヒテンシュタイン)|en|Progressive Citizens' Party|label=進歩市民党}}と{{ill2|祖国連合 (リヒテンシュタイン)|en|Patriotic Union (Liechtenstein)|label=祖国連合}}にほぼ同数の議席を割り当てることとし、投票は行われなかった({{仮リンク|1939年リヒテンシュタイン総選挙|en|1939 Liechtenstein general election}})。[[第二次世界大戦]]では中立を保ち、戦禍から逃れた。しかし戦前戦後を通じてチェコスロバキア・[[ポーランド]]内にあったリヒテンシュタイン家の領地は没収された。[[1990年]]の[[国際連合]]加盟以降は国際機関への参加を積極的に行うようになっている。
=== 年表 ===
* [[1608年]] [[カール1世 (リヒテンシュタイン公)|カール1世]]が世襲君主であるリヒテンシュタイン侯に叙任される。リヒテンシュタイン侯爵家の始まり{{sfn|佐藤雪野|2017|p=59}}。
* [[1623年]] カール1世の弟のマクシミリアンとグンダカルがそれぞれ帝国諸侯となる<ref>[https://fuerstenhaus.li/en/princely-house/the-history-of-the-princely-house/ the-history-of-the-princely-house]リヒテンシュタイン侯家 公式サイト</ref>。
* [[1699年]] [[ヨハン・アダム・アンドレアス]]が{{仮リンク|シェレンベルク男爵領|de|Herrschaft Schellenberg}}を購入。
* [[1712年]] ヨハン・アダム・アンドレアスが{{仮リンク|ファドゥーツ伯爵領|de|Grafschaft Vaduz}}を購入。
* [[1719年]] [[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は、[[リヒテンシュタイン家]]が買収したファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せてリヒテンシュタイン侯領とすることを認可(リヒテンシュタインの始まり)<ref>{{Cite book|和書 |year = 2016 |title = 地球の歩き方 2016〜17 スイス |publisher = ダイヤモンド・ビッグ社 |page = 263 |isbn = 978-4-478-04886-3}}</ref>{{sfn|佐藤雪野|2017|p=59}}。
* [[1806年]] [[神聖ローマ帝国]]の崩壊によって独立国となり、翌年に[[ライン同盟]]に参加する。
* [[1815年]] [[ドイツ連邦]]に加入。
* [[1852年]] [[オーストリア帝国]]との関税同盟を締結。
* [[1866年]] ドイツ連邦解体
* [[1867年]] [[永世中立国]]となる。
* [[1868年]] 軍隊を廃止。
* [[1919年]] オーストリアとの[[関税同盟]]を解消。
** 9月14日-スイスの[[ベルン]]に最初の在外公館を設置{{sfn|佐藤雪野|2017|p=62}}
* [[1921年]] [[憲法]]制定。[[スイス・フラン]]を通貨とする。
* [[1923年]] スイスと関税同盟を結ぶ。
* [[1938年]] [[ナチス・ドイツ]]が[[オーストリア]]を併合([[アンシュルス]])。オーストリアに在住していた[[フランツ・ヨーゼフ2世]]はファドゥーツに移住する。
* [[1984年]]6月 [[女性参政権]]を認める。
* [[1990年]] [[国際連合]]に加盟する{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60}}。
* [[1991年]] [[欧州自由貿易連合]](EFTA)に加盟する{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60}}。
* [[1995年]] [[欧州経済領域]](EEA)、[[世界貿易機関]](WTO)に加盟する{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60}}。
* [[2003年]] 憲法を改正{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60}}。
* [[2011年]] [[シェンゲン協定]]に加盟する。
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの政治|en|Politics of Liechtenstein|fr|Politique au Liechtenstein}}}}
[[元首]]はリヒテンシュタイン侯で、[[リヒテンシュタイン家]]の当主による男子世襲制である。欧州の君主制国家の元首が象徴・儀礼的存在であるのに対して、侯は立法権・外交権・議会の解散権・法案の拒否権など強い権限を有している{{sfn|藤田憲資|2020|p=34}}。2003年には君主の権限はさらに強化され、2012年に行われた国民投票でも、侯の拒否権保持を76%の国民が支持している{{sfn|藤田憲資|2020|p=34}}。また、侯の費用は、国ではなくリヒテンシュタイン家の私有財産から拠出されており、さらに別途で多大な寄付も行っている{{sfn|藤田憲資|2020|p=34}}。このように君主が政治の実権を持つものの、国民の自由と権利、[[法の支配]]、議会政治などの[[民主主義]]制度が充分に整備・保証されているため、立憲君主制と見做されている。現在の君主[[ハンス・アダム2世]]侯は、[[2004年]]に長男のアロイスを摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。
{{See also|リヒテンシュタイン公国政府|{{仮リンク|リヒテンシュタインの憲法|de|Verfassung des Fürstentums Liechtenstein|fr|Constitution du Liechtenstein|en|Constitution of Liechtenstein}}}}
[[議会]]は[[一院制]]で、「{{lang|de|Landtag}}([[国会 (リヒテンシュタイン)|国会]])」と称する。議員定数25、任期4年、解散あり。[[選挙]]は、[[複数投票制]]と[[比例代表制]]を組み合わせた[[直接選挙]]で行われる。[[女性参政権]]が認められたのは、世界的に見ても遅い[[1984年]]である。
[[議院内閣制]]を採用している。[[リヒテンシュタイン公国政府|行政府]]の長である[[リヒテンシュタインの首相|首相]]は議会の第一党党首が侯によって任命される。また、副首相には第二党の党首が任命される。政党は{{ill2|進歩市民党 (リヒテンシュタイン)|en|Progressive Citizens' Party|label=進歩市民党}}({{lang|de|Fortschrittliche Bürgerpartei in Liechtenstein}})と{{ill2|祖国連合 (リヒテンシュタイン)|en|Patriotic Union (Liechtenstein)|label=祖国連合}}({{lang|de|Vaterländische Union}})が二大政党である。
歴史的経緯から、[[民法]]はオーストリアの民法が基本となっており、[[刑法]]はスイスの刑法を基本としている<ref>植田健嗣『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』(1999年 [[郁文堂]])P131</ref>。[[死刑|死刑制度]]は廃止されている。
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの国際関係|en|Foreign relations of Liechtenstein}}}}
1919年の合意に拠り、スイスが利益代表を務めている。現在も[[欧州評議会]]以外においてはスイスが利益代表を務めている。[[欧州連合]]には加盟していない。
[[日本]]との関係では、侯家と[[皇室]]との交流は伝統的に行われていたが、正式に両国が外交関係を結んだのは1996年6月である{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60}}。
===対チェコ・スロバキア関係===
第一次世界大戦後に成立した[[チェコスロバキア]]は貴族称号を廃し、リヒテンシュタイン家が有していた爵位も廃された。当時、リヒテンシュタイン家はチェコスロバキアにおける第二位の大地主であったが、その半分は1920年から1938年に実施された土地改革で没収され、更に補償金も僅かなものであった。リヒテンシュタインは国際連盟の調停を求めたが、国際問題化を避けようとしたチェコスロバキアはリヒテンシュタインの主権を認めようとしなかった{{sfn|佐藤雪野|2017|p=60}}。1938年7月になってようやくチェコスロバキアはリヒテンシュタインの主権を認めたが{{sfn|佐藤雪野|2017|p=65}}、まもなくチェコスロバキア自体が[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|ナチス・ドイツによって解体されてしまったため]]、両国関係は進展しなかった。
[[第二次世界大戦]]終結直後の[[1945年]]、復活したチェコスロバキア政府は、同国領内の敵性国民(旧枢軸国民やチェコ及びスロバキア民族の敵と規定されている)からの農業財産を無償で没収した([[ベネシュ布告]]1945年第28号令)が、これにはリヒテンシュタイン家の残存領地も含まれていた{{sfn|佐藤雪野|2017|p=66}}。リヒテンシュタインはこれに抗議し、長らく両国家関係は緊張した状態が続いた{{sfn|佐藤雪野|2017|p=62}}。[[冷戦]]終結後に[[ビロード離婚|解体された]]チェコスロバキアの[[承継国]]であった[[チェコ]]と[[スロバキア]]の[[国家の承認|国家承認]]も行っていなかったが、[[2009年]][[7月13日]]にチェコとの外交関係開設{{sfn|佐藤雪野|2017|p=62}}<ref>{{Cite web|date=2009-07-12|url=http://88.82.102.51/fileadmin/_pm.liechtenstein.li/en/090713_PM_Beziehungen_CzFl_en.pdf|title=Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations|publisher=Stabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit|format=PDF|language=英語|accessdate=2009-10-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511222932/http://88.82.102.51/fileadmin/_pm.liechtenstein.li/en/090713_PM_Beziehungen_CzFl_en.pdf|archivedate=2011年5月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>を、同年[[12月9日]]にはスロバキアとの外交関係開設をそれぞれ発表した<ref>{{Cite web|date=2009-12-09|url=http://88.82.102.51/fileadmin/_pm.liechtenstein.li/en/091209_Beziehungen_SKFL_en.pdf|title=Liechtenstein and the Slovak Republic establish diplomatic relations|publisher=Stabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit|format=PDF|language=英語|accessdate=2010-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511222920/http://88.82.102.51/fileadmin/_pm.liechtenstein.li/en/091209_Beziehungen_SKFL_en.pdf|archivedate=2011年5月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
== 軍事 ==
{{main|リヒテンシュタインの軍事}}
[[普墺戦争]]で当時密接な関係にあったオーストリアが敗北し、安全保障政策の見直しが必要となった。しかし自国の軍事力では近隣諸国に到底対抗できないため、[[1868年]]に軍を解体し[[非武装中立]]政策に転換する。
[[第一次世界大戦]]後におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊以降はスイスとの関係を強化している。このためリヒテンシュタイン国内には有事の際にはスイスの軍事的援助が行われるという見方が広まっているが、スイスがリヒテンシュタインを保護する条約上の義務は存在していない。[[第二次世界大戦]]中にはスイスはリヒテンシュタインを同一の経済圏内に置くことで保護したが、リヒテンシュタインのみが攻撃された場合には防衛しないという立場を明確にしていた<ref name="swissinfo2022-07-02">{{Cite web|和書|title = スイスとリヒテンシュタインの微妙な関係|url = https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%BE%AE%E5%A6%99%E3%81%AA%E9%96%A2%E4%BF%82/47720066?utm_campaign=teaser-in-channel&utm_source=swissinfoch&utm_content=o&utm_medium=display|date = 2022-07-02|author = SibillaBondolfi|website = swissinfo.ch|accessdate = 2022-7-16}}</ref>。[[スイス軍]]は国民保護の観点からリヒテンシュタインと協力を行うことはしばしばあり、リヒテンシュタイン国内の防災訓練にスイス軍が参加することもある<ref name="swissinfo2022-07-02" />。
また、100名ほどの[[国家警察]]は隣接する諸国の軍(スイス軍および[[オーストリア軍]])と密接な関係を持っている。
== 地理 ==
[[File:Ls-map.png|thumb|250px|リヒテンシュタインの地理]]
[[ファイル:Liechtenstein_Landsat001.jpg|thumb|200px|[[ランドサット]]衛星写真]]
{{main|リヒテンシュタインの地理}}
国境を接する全ての国が[[内陸国]]の「[[内陸国#二重内陸国|二重内陸国]]」(海に出るために少なくとも2つの国境を越えなければならない国のこと)である。面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルと狭い。日本の[[小豆島]]とほぼ同じである。世界で6番目に小さい国。ドイツのシュヴェービッシュ・アルプスの延長線上に連なり、国土は山がち(最高地点2599m)だが南風が卓越し比較的温暖である。分水嶺は比較的全土的に分散されており、西はライン川に沿って[[スイス]]([[ザンクト・ガレン州]]・[[グラウビュンデン州]])、東は[[オーストリア]]([[フォアアールベルク州]])と接している。
=== 地質 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの地質|en|Geology of Liechtenstein}}}}
{{節スタブ}}
== 地方行政区分 ==
{{Main|リヒテンシュタインの地方行政区画}}
<!-- ''詳細は[[リヒテンシュタインの(地域区分)]]を参照'' -->
全部で11の基礎自治体({{lang|de|Gemeinde}}、ゲマインデ)に分かれる。これらは旧ファドゥーツ伯爵領の'''オーバーラント'''({{lang|de|Oberland}}、高地)と旧シェレンベルク男爵領の'''ウンターラント'''({{lang|de|Unterland}}、低地)に分けることができ、現在でも国政選挙の選挙区としてこの区分が残っている。
=== オーバーラント ===
* [[シャーン]]
* [[トリーゼン]]
* [[トリーゼンベルク]]
* [[バルザース]]
* [[ファドゥーツ]]
* [[プランケン]]
=== ウンターラント ===
* [[エッシェン]]
* [[ガンプリン]]
* [[シェレンベルク]]
* [[マウレン]]
* [[ルッゲル]]
== 経済 ==
[[Image:vaduz centre.jpg|thumb|right|首都中心部]]
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの経済|de|Wirtschaft Liechtensteins|fr|Économie du Liechtenstein|en|Economy of Liechtenstein}}}}
主要な産業は[[精密機械]]、[[牧畜]]と[[医療]]。ほかに[[観光]]、[[国際金融]]、[[切手]]発行もよく知られている。スイスとの関税同盟があり、郵便や電話の制度はスイスと共通となっている。
[[タックス・ヘイヴン|タックス・ヘイブン]]としても知られ、税金免除を目的とした外国企業の[[ペーパーカンパニー]]も集中しており、人口よりも法人企業数が多いと言われる。これら[[法人税]]が税収の40%に及び、この結果、一般の国民には[[直接税]]([[所得税]]、[[相続税]]、[[贈与税]])がない。
近年は[[欧州連合|EU]]との課税に関する条約に調印し、EU市民の預金については利子課税がなされることになった。ただし、これらの税は、個々の預金者の情報を相手国に通知することなしに一括してリヒテンシュタインから各国に支払われるため、銀行の守秘義務そのものは維持されている(同様の銀行守秘義務を維持している国は、欧州では[[スイス]]、[[モナコ]]、[[サンマリノ]]がある)。
{{See also|{{仮リンク|リヒテンシュタイン国立銀行|en|National Bank of Liechtenstein}}|{{仮リンク|リヒテンシュタインの銀行の一覧|en|List of banks in Liechtenstein}}}}
[[経済協力開発機構|OECD]]が指名する「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」(租税回避地)に掲載されている7カ国の1つであった<ref group="注釈">外務省 - OECD有害税制プロジェクト(非協力的タックス・ヘイブン・リストの公表) - 3. 上記2. の国・地域のうち、[[2005年]]末までの透明性の確保及び実効的税務情報交換の実施を約束せず、[[2002年]][[4月18日]]に発表された「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」には掲載された国である[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oecd/th_list.html]。</ref>が、2009年5月の時点で他の二ヶ国([[アンドラ]]、[[モナコ]])と共にリストから削除されている<ref>In May 2009, the Committee on Fiscal Affairs decided to remove all three remaining jurisdictions (Andorra, the Principality of Liechtenstein and the Principality of Monaco) from the list of uncooperative tax havens in the light of their commitments to implement the OECD standards of transparency and effective exchange of information and the timetable they set for the implementation. As a result, no jurisdiction is currently listed as an unco-operative tax haven by the Committee on Fiscal Affairs. [http://www.oecd.org/countries/liechtenstein/listofunco-operativetaxhavens.htm]</ref>。
この国に拠点を持つ会社としては、[[薄膜]]コーティング装置の製造および、コーティングの受託加工の[[エリコンバルザース]]社、電動工具・鋲打機・墨出し機などの[[ヒルティ]]社、プロ用オーディオコネクターの{{仮リンク|ノイトリック|de|Neutrik|label=ノイトリック社}}、歯科材料の{{仮リンク|イボクラー|de|Ivoclar Vivadent|label=イボクラー社}}などが有名。労働者の約半数はスイス、オーストリアから毎日越境している。
{{See also|{{仮リンク|リヒテンシュタインの企業の一覧|en|List of companies of Liechtenstein}}}}
=== エネルギー ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインのエネルギー|en|Energy in Liechtenstein}}}}
{{節スタブ}}
=== 観光 ===
[[File:Liechtenstein center.jpg|left|thumb|ファドゥーツ中心部にあるリヒテンシュタインセンター。観光案内の他、パスポートに入国証明のスタンプを押してくれる。]]
リヒテンシュタインの観光資源は史跡が中心となっている。
*[[ファドゥーツ城]] - 現在でも[[リヒテンシュタイン公|リヒテンシュタイン侯]]の[[官邸]]であるため一般公開はされていない。
*[[シャーラング城]]
*[[ハインシャッツェ城]]
== 交通 ==
[[File:Rail map of Liechtenstein.PNG|thumb|right|200px|鉄道・駅の地図]]
{{main|リヒテンシュタインの交通}}
国内の主要な交通は路線バスであり、各所を結ぶ路線が頻繁に運転されている。黄色い車体の[[リヒテンシュタインバス]]をよく目にすることができる。主なバス停は郵便局の前であることが多い。バスは[[ライン川]]対岸のスイスの鉄道駅([[ザルガンス]]やブックス)のほか、オーストリアの[[フェルトキルヒ]]駅への路線もある。また、[[ユーロ]]で運賃を支払うこともできる。
国内を鉄道が走っており、駅が3駅ある(主要駅は[[シャーン・ファドゥーツ駅]])。2013年までは[[オーストリア]]との国境付近に{{仮リンク|シャーンヴァルド|en|Schaanwald}}駅があったが現在運用されていない。運行をしているのは[[オーストリア国鉄]]である。オーストリアとスイスを結ぶ国際急行列車も通るが、リヒテンシュタイン国内の駅は全て通過する。
{{See also|{{仮リンク|リヒテンシュタインの鉄道|fr|Transport ferroviaire au Liechtenstein|en|Rail transport in Liechtenstein}}}}
[[空港の存在しない国の一覧|空港は存在しない]]。もっとも近い主要国際空港はスイスの[[チューリッヒ空港]]である。
== 科学技術 ==
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|リヒテンシュタイン研究所|en|Liechtenstein Institute}}}}
== 国民 ==
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの人口統計|fr|Démographie du Liechtenstein|en|Demographics of Liechtenstein}}}}
<!-- ''詳細は[[リヒテンシュタインの国民]]を参照'' -->
=== 民族・人種 ===
住民は[[ドイツ人|ドイツ系]]が大半で、[[ゲルマン人|ゲルマン系]]の[[アラマンニ人|ドイツ・アレマン人]]が86%、その他[[イタリア人]]、[[トルコ人]]などが14%である。
=== 言語 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの言語|fr|Langues au Liechtenstein}}}}
[[公用語]]は標準[[ドイツ語]]だが、現地住民は[[上部ドイツ語]]に属する[[アレマン語]]系{{仮リンク|最高地アレマン語|de|Höchstalemannisch}}の一方言を使用し、その他に[[トリーゼンベルク]]では[[ヴァリス語]]が使用される<ref>植田健嗣『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』(1999年 郁文堂)P171</ref>。
=== 婚姻 ===
婚姻の際は、[[夫婦別姓]]、同姓、複合姓から選択できる<ref>[https://www.llv.li/files/aaa/bericht-pakt-i-en.pdf Liechtenstein Country Report], Second and Third Periodic Report under Article 16 of the International Covenant on Economic, Social and Cultural Rights of 16 December 1966.</ref>。
=== 宗教 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの宗教|en|Religion in Liechtenstein|fr|Religion au Liechtenstein}}}}
宗教は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が79.9%、[[プロテスタント]]([[ルーテル教会|ルター派]]、[[カルヴァン主義|カルヴァン派]])が8.5%、その他に[[リヒテンシュタインのイスラム教|イスラム]]などが5.4%存在する(2010年時点)。
=== 教育 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの教育|de|Bildungssystem in Liechtenstein|en|Education in Liechtenstein}}}}
リヒテンシュタインの教育制度はスイスの教育制度に酷似している点を持っている。 同国における識字率は100%とかなり高めである。
傍ら、[[スカウト運動]]を積極的に進めており、[[ボーイスカウト]]の参加率が高いことでも知られている。
{{See also|{{仮リンク|ボーイスカウト・リヒテンシュタイン連盟|en|Pfadfinder und Pfadfinderinnen Liechtensteins}}}}
同国の[[公立大学]]は[[リヒテンシュタイン大学]]のみとなっている。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|リヒテンシュタイン公国私立大学|en|Private University in the Principality of Liechtenstein}}}}
=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの医療|en|Healthcare in Liechtenstein}}}}
{{節スタブ}}
== 治安 ==
リヒテンシュタインは治安の良い国として知られているが、旅行者が多い点からそれに関連する一般犯罪が発生している。
同国の犯罪統計によれば、2019年の犯罪件数は1990件(前年比0.6%増)で、内訳は財産犯罪([[窃盗]]・車両盗・器物損壊・[[詐欺]]等)が720件、薬物:793件、[[傷害]](脅迫を含む):198件、[[性犯罪]]:17件となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_283.html|title=リヒテンシュタイン 安全対策基礎データ|accessdate=2021-12-19|publisher=外務省}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインにおける人権|en|Human rights in Liechtenstein}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|リヒテンシュタインの女性参政権|de|Frauenstimmrecht in Liechtenstein}}}}
== マスコミ ==
{{main|リヒテンシュタインのメディア}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|リヒテンシュタインの通信|en|Telecommunications in Liechtenstein}}|{{仮リンク|リヒテンシュタインの新聞の一覧|en|List of newspapers in Liechtenstein}}}}
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの文化|fr|Culture du Liechtenstein}}}}
{{要出典範囲|リヒテンシュタインでは、冬場でも[[水風呂]]に入る習慣がある。|date=2023年3月}}
=== 食文化 ===
{{節スタブ}}
参照:{{仮リンク|リヒテンシュタイン料理|en|Liechtenstein cuisine}}
リヒテンシュタインの料理は、周辺国の料理である[[スイス料理]]、[[ドイツ料理]]、[[フランス料理]]に共通したものが多い<ref name="儲">{{Cite book|和書|chapter=リヒテンシュタインの魅力|title=儲かる!! 世界の歩き方 お金を生む海外投資術 「オフショアの旅」編|year=2014|publisher=[[ゴマブックス]]}}</ref>。
[[チーズフォンデュ]]、[[オムレツ]]、[[シュニッツェル]]、[[ザワークラウト]]などがよく食べられている{{R|儲}}。
*ハファラーブ(Hafalaab) - ハムやベーコンを入れて作った[[コーンミール]]の団子を入れたスープ{{R|儲}}。
*カスクノーフル(Käsknöpfle) - [[すいとん]]にも似た小麦粉の生地にクリームやチーズをかけて食べる。リヒテンシュタインの[[国民食]]的な料理<ref>{{Cite book|和書|page=121|chapter=カスクノーフル|title=世界の郷土料理事典: 全世界各国・300地域料理の作り方を通して知る歴史、文化、宗教の食規定|author=青木ゆり子|year=2020|publisher=[[誠文堂新光社]]|isbn=978-4416620175}}</ref>。
=== 文学 ===
{{main|リヒテンシュタインの文学}}
[[チェコ]]の作家[[カレル・チャペック]]の「[[山椒魚戦争]]」では[[サンショウウオ]]による世界水没に対処するため、[[ファドゥーツ]]で各国による国際会議が開かれた。
{{節スタブ}}
=== 音楽 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの音楽|en|Music of Liechtenstein}}}}
{{節スタブ}}
=== 美術 ===
{{main|リヒテンシュタインの芸術}}
{{節スタブ}}
=== 映画 ===
{{main|リヒテンシュタインの映画}}
{{節スタブ}}
=== 建築 ===
{{main|リヒテンシュタインの建築}}
{{節スタブ}}
=== 世界遺産 ===
リヒテンシュタインには現在、[[世界遺産]]となるものが存在していない。
{{See also|世界遺産を保有していない国の一覧}}
=== 祝祭日 ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインの祝日|de|Feiertage in Liechtenstein|fr|Fêtes et jours fériés au Liechtenstein|en|Public holidays in Liechtenstein}}}}
{{節スタブ}}
== スポーツ ==
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインのスポーツ|fr|Sport au Liechtenstein}}}}
リヒテンシュタインでも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。さらに[[バドミントン]]も盛んであり全国選手権大会が開催されている。アルペンスキーも盛んで、[[1980年レークプラシッドオリンピック]]で金メダルを獲得した[[ハンニ・ウェンツェル]]を始め多くのメダリストを輩出している。[[近代オリンピック|オリンピック]]においては、これまでの大会で銅メダルの獲得者が多い。また、[[欧州小国競技大会]]を開催し参加している。
{{See also|オリンピックのリヒテンシュタイン選手団}}
=== サッカー ===
{{main|{{仮リンク|リヒテンシュタインのサッカー|fr|Football au Liechtenstein|de|Fussball in Liechtenstein|en|Football in Liechtenstein}}}}
[[リヒテンシュタインサッカー連盟]]は[[欧州サッカー連盟]](UEFA)に加盟しているが、加盟する55の国と地域の中で唯一国内プロサッカーリーグを保持しておらず、国内のサッカークラブは[[スイス]]・[[スーパーリーグ (スイス)|スーパーリーグ]]に参加している。このため、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の予選および本大会に「国内リーグの結果」によって出場可能なチームが存在しない(スイス・スーパーリーグで仮に優勝すれば、スイスの出場枠によって出る事は可能)。一方で[[カップ戦]]([[リヒテンシュタイン・カップ]])は開催されているため、[[UEFAヨーロッパリーグ]]には予選1回戦から出場可能となっている。
[[サッカーリヒテンシュタイン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]や[[UEFA欧州選手権]]の本大会には未出場となっている。[[FIFAランキング]]の過去最高は、[[2008年]]1月に記録した118位である。
== 著名な出身者 ==
{{main|リヒテンシュタイン人の一覧}}
{{colbegin|2}}
* [[ヨーゼフ・ラインベルガー]] - [[作曲家]]、[[オルガニスト|オルガン奏者]]
* [[オットマール・ハスラー]] - [[政治家]]
* [[クラウス・チュッチャー]] - 政治家
* [[シュトゥク・マグワート]] - 政治家
* [[バラック・ライディヒベルク]] - [[画家]]
* [[ヨアヒム・スタンフォール]] - [[物理学者]]
* [[ライラック・マッケンザー]] - [[小説家]]
* [[マルコ・ビュッヘル]] - [[アルペンスキー]]選手
* [[ハンニ・ウェンツェル]] - アルペンスキー選手
* [[アンドレアス・ウェンツェル]] - アルペンスキー選手
* [[ヴィリー・フロンメルト]] - アルペンスキー選手
* [[パウル・フロンメルト]] - アルペンスキー選手
* [[マリオ・フリック]] - 元[[サッカー選手]]
* [[マルティン・シュトックラサ]] - 元サッカー選手
* [[ペーター・イェーレ]] - 元サッカー選手
* [[フランツ・ブルクマイアー]] - 元サッカー選手
{{colend}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 植田健嗣『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』郁文堂、ISBN 978-4261072310
* 『A18 地球の歩き方 スイス 2016~2017』ダイヤモンド・ビッグ社、ISBN 978-4478048863
* {{cite journal|和書|title=リヒテンシュタインの国家承認問題と第一次チェコスロヴァキア土地改革|author=佐藤雪野|year=2017|journal=国際文化研究科論集|volume=25|pages=57-66|publisher=東北大学|ref=harv}}
* {{cite journal|和書|title=リヒテンシュタインの特徴と、その変化-スイスとの比較、および税逃れ対策の強化による影響に着目して-|author=藤田憲資|year=2020|journal=保健医療経営大学紀要|volume=12|issue=4|pages=31-46|publisher=保健医療経営大学|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[リヒテンシュタイン家]]
* [[LGTリヒテンシュタイン銀行]]
* [[欧州自由貿易連合]]
* [[ドイツ人]]
* [[若きライン川上流に]] - リヒテンシュタインの[[国歌]](作成者:[[ヤーコプ・ヤウホ]])
* [[軍隊を保有していない国家の一覧]]
* [[二重内陸国]]
* [[シェンゲン圏]]、[[シェンゲン協定]]
* [[ファドゥーツ城]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Liechtenstein|Liechtenstein}}
{{Wikivoyage|ja:リヒテンシュタイン}}
; 政府
: [https://www.liechtenstein.li Fürstentum Liechtenstein – Fürstentum Liechtenstein]:リヒテンシュタイン公国政府 {{De icon}}{{En icon}}
; 日本政府
: [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/liechtenstein/data.html リヒテンシュタイン基礎データ | 外務省]
: [https://www.ch.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在スイス日本国大使館] - 在リヒテンシュタイン大使館を兼轄する
; 観光
: [https://tourismus.li Ferien, Urlaub, Reisen / Fürstentum Liechtenstein]:リヒテンシュタイン政府観光局 {{De icon}}{{En icon}} - 日本語のページも少々ある
{{ヨーロッパ}}
{{欧州自由貿易連合 (EFTA)}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:りひてんしゆたいん}}
[[Category:リヒテンシュタイン|*]]
[[Category:ヨーロッパの国]]
[[Category:内陸国]]
[[Category:現存する君主国]]
[[Category:公国]]
[[Category:保護国]]
[[Category:先進国]]
[[Category:軍隊非保有国]]
[[Category:国際連合加盟国]]
[[Category:ドイツの領邦]]
[[Category:ドイツ連邦]]
[[Category:ドイツ語圏]]
[[Category:ライン同盟]]
|
2003-06-20T15:00:58Z
|
2023-12-29T12:48:59Z
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新美南吉
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新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30日 - 1943年〈昭和18年〉3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
半田市名誉市民。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。半田市は生誕100周年にあたる2013年に新美南吉生誕100年記念事業を各種行った。
1913年7月30日、畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑ(旧姓・新美)の次男として生まれる。戸籍上の出生地は多蔵の実家の半田町字西折戸61番地の3(現在の半田市新生町1丁目99番地)となっているが、実際は畳屋を営む半田町字東山86番地(現在の半田市岩滑中町〈やなべなかまち〉1丁目83番地)と推定されている。前年に生まれ18日後に死亡した兄「正八」の名をそのままつけられた。多蔵は講談好きで講談の本も良く読んでおり、講談に出てくる英雄「梁川庄八」をもじってつけた。また死んだ兄の分とあわせて二人分の知恵と身体を持つようにとの願いもこめられている。りゑは出産後から病気がちになり、1917年11月4日午前1時、29歳で死去する。多蔵は南吉を実家に預け、再婚相手を探した。1919年2月12日、多蔵は酒井志んと再婚。同月15日に異母弟・益吉が生まれている。 1920年4月1日、半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)に入学。おとなしく体は少し弱かったが成績優秀だった。あだ名は「正八」をもじった「ショッパ」。
南吉の実母・りゑの実家の新美家ではりゑの弟・鎌次郎がなくなり、跡継ぎがなくなってしまった。そこで南吉が養子に出されることになったが、当時の法律では跡取りの長男を養子に出すことを禁じていた。多蔵は、1921年7月19日志んと離婚。多蔵と南吉は祖父の六三郎の籍に入る。同月28日、8歳の南吉は祖父の孫として新美家と養子縁組させられた。南吉は養母・新美志もと二人暮らしをはじめるが、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻る。12月3日、多蔵と志んは復縁したが、南吉の籍は新美家のままだった。この出来事は幼い南吉にとって大きな衝撃であった。ただし、家族仲は良く、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉は異母弟の益吉をよくかわいがっていた。
1926年3月20日、半田第二尋常小学校卒業。成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与される。卒業式では卒業生代表として答辞を呼んだが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだった。畳屋の多蔵は息子を進学させるつもりはなかったが、担任の伊藤仲治が渡邊家に通って説得する。学校の先生になれると聞いた多蔵は進学を許可。4月5日、南吉は旧制愛知県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)に入学する。南吉は多蔵に進学を反対されたことを終生忘れず、のちに巽聖歌に「家は貧乏、父親は吝嗇、継母は自分をいじめる」と生い立ちを語っている。中学で南吉は児童文学に向かうようになり、1928年2月、校友会誌『柊陵』第九号に『椋の實の思出』童謡『喧嘩に負けて』が掲載される。その後様々な雑誌に作品を投稿する。1929年5月『張紅倫』、6月に『巨男の話』を脱稿、弟の益吉に朗読している。友人たちとも自作を持ち寄る朗読会をはじめたが2回で終了し、9月1日、同人誌『オリオン』を発行。10月、『愛誦』に掲載された童謡『空家』から「南吉」のペンネームを使いはじめた。『オリオン』は翌年1月1日の新年号(5号)で終刊。その後は日記帳に作品を書き始める。 半田中学校卒業直前、『赤い鳥童謡集(北原白秋編)』を読んで感銘を受ける。裏表紙に「一九三一・三・四 中学卒業式の前の日、現在地球上にこれよりすぐれた童謡集はないと思ふ。新美正八」と書き入れ、以後白秋に心酔した。南吉の実家は、多蔵が畳屋、志んが下駄屋を営んでおり、南吉には離れの家が与えられていたが、2月10日、離れが火事で全焼する。当初、南吉の火の不始末を疑われ、結局原因はわからず仕舞いとなったが、南吉は大きな衝撃を受けた。
1931年3月4日、半田中学校を卒業。南吉の希望は児童文学者の大西巨口や菊池寛のように大学に行って、卒業後は新聞記者で生計を立てながら作品を書き、いずれは記者を辞めて文筆業だけで食べていくことで、早稲田大学に進学を考えていた。しかし多蔵が許すはずもなく、結局岡崎師範学校を受験する。結果は不合格。体格検査で基準に達していなかったためといわれる。南吉は小学校時代の恩師の伊藤仲治をたずね、母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用される。『赤い鳥』5月号に南吉の童謡『窓』が掲載される。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続ける。8月号には童話『正坊とクロ』が掲載された。8月31日、代用教員を退職。南吉は東京高等師範学校の受験を考えていた。9月、童謡同人誌『チチノキ』に入会。白秋の愛弟子の巽聖歌や与田凖一と知り合う。またこの頃から木本咸子との交際が始まり、7月に初めてのデートをしている。 12月、上京して東京師範学校を受験するが不合格。しかし巽や与田と会い、同じ下宿「ミハラシ館」で寝泊まりしたこと、巽の紹介で北原白秋の家を訪ね、白秋との対面を果たし感激するなど充実した日々だった。また巽から卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められる。翌年1月2日帰郷。
1932年、『赤い鳥』1月号に『ごん狐』が掲載される。帰郷した南吉は両親に外語学校受験を願い出て許可される。 3月、東京外国語学校英語部文科受験。志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐり、見事合格。4月入学、上京。当初、結婚した巽聖歌の家に下宿し、2学期に学校寮に入った。寮のある中野区上高田には巽の他、与田凖一、藪田義雄も転居し、南吉は充実した学生生活を送った。また白秋指導のもと童謡を創作、『赤い鳥』に掲載された。しかし、1933年4月、白秋が鈴木三重吉と大喧嘩の末『赤い鳥』と絶縁。南吉もこれに従い『赤い鳥』への投稿をやめる。さらに『チチノキ』が経済的理由のため休刊。南吉は新しい童謡同人誌発行を計画するが、門下の分裂を恐れる白秋が反対したため断念。作品発表の場を失ってしまう。 7月、与田凖一の紹介で長編童話『大岡越前守』執筆するが、出版社から史実と違うという理由で拒否される。この原稿が日の目を見たのは南吉死後のことである。 1934年2月16日、第一回宮沢賢治友の会出席。 2月25日、結核のため喀血する。南吉は実家に帰り1か月あまり療養したのち、4月に学校に戻る。 1935年2月11日、チチノキが1年半ぶりに発行され、童謡や翻訳を発表するが、5月廃刊となる。フランス語科の河合弘に自分から声をかけ、友人になる。5月、巽が精文館から幼年童話の依頼を回してくる。南吉は「デンデンムシノカナシミ」など50篇ものカタカナ童話を量産するが、無名の新人という理由で出版不可となる。しかし、作品を書いた経験が南吉にとって大きな自信になった。 8月、木本と別れる。病弱な南吉が結婚に躊躇したのが原因だった。
1936年3月16日、東京外国語学校を卒業する。教員免許を取らなかった南吉は東京で就職活動するが、この年は不景気だったこともあり、文系学生の就職は困難だった。4月、東京商工会議所内の東京土産品協会に就職。南吉は英文カタログを作成する仕事をするが、激務の上月給は40円と安いものだった。10月9日、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になる。近所に住んでいた巽夫妻の献身的な看病で、小康状態となった南吉は、11月16日、帰郷し療養生活を送る。
1937年、教員の仕事を探し、4月、河和第一尋常高等小学校の代用教員を7月末まで務める。同じ学校で代用教員の山田梅子との交際が始まる。9月1日、杉治商会鴉根山畜禽研究所に就職。寄宿舎に住み込み、鶏の雛を世話をする仕事で、20円の薄給、休みは月2回という激務で、翌年1月退職する。 その後、半田中の恩師で安城高等女学校の校長になっていた佐治克己の働きかけで女学校教員採用が決まり、3月17日中等教員免状を取得する。3月31日安城高等女学校教諭心得の辞令が出る。中山ちゑとの交際がはじまり、4月1日、杉治商会時代から疎遠になっていた山田梅子に別れの手紙を書く。
1938年(昭和13年、25歳)、4月4日の入学式から教員生活がスタート。1年生の学級担任となり、1年生から4年生の英語、1年2年生の国語と農業を担当する。図書係や農芸・園芸部長も務めた。給料は70円。通勤に1時間半もかかるため、翌年の1939年、安城町新田の大見坂四郎家に下宿する。 4月23日、外語学校時代に知り合った江口榛一が哈爾濱日日新聞の文芸部に入り、南吉に原稿を依頼する手紙が来る。『最後の胡弓弾き』『久助君の話』や詩が翌年まで掲載される。体調もよく、3年生の関西旅行引率や富士登山、同僚と熱海や大島へ視察するなど充実した年であった。 1940年6月9日、中山ちゑが青森県の知人宅で体調を崩し、急死。南吉は葬儀で男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だった。
一方この年は作品が次々雑誌に載る。 年末、学習社という出版社から伝記物の依頼を受ける。学習社の編集者が豊島与志雄宅を訪れて新人作家の紹介を依頼した際、その場に居合わせた南吉の友人で河出書房に勤務していた澄川稔が南吉を推薦。豊島も『赤い鳥』投稿の南吉の作品を知っていたため同調。南吉に原稿依頼となった。1941年1月4日から良寛の伝記を書き始め、3月9日脱稿。10月1日『良寛物語 手毬と鉢の子』が出版される。2万部出版され1300円の印税を受け取る。多蔵は「正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円ももうけやがった。」としみじみ言ったという。11月28日、女学校の生徒の兄で早稲田大学の佐薙知の依頼で早稲田大学新聞に『童話に於ける物語性の喪失』を寄稿する。しかし伝記執筆後から体調が悪化。4月は腎臓病で10日あまりも学校を欠勤。その後も体調不良が続き、11月中旬には岩滑の実家に戻っていたが、12月血尿が出る。南吉は死を覚悟した。
1942年1月、病院で診察を受け腎臓炎と診断されるが、日記に死を覚悟した苦悩をつづる。巽から童話集出版の話が舞い込み、外語時代に書いた童話13篇を浄書して送るが巽は幼年童話を望んでいなかったため採用されなかった。3月末から5月末までの2か月の間に『ごんごろ鐘』『おぢいさんのランプ』『花の木村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』など童話を次々書き上げる。4月、与田凖一からも童話集の依頼。学習社に依頼された伝記『都築彌厚伝』執筆のため、8月、長野の温泉に行くが宿をとれず、群馬の万座温泉で過ごし1週間で帰宅。『都築彌厚伝』は頓挫した。10月10日はじめての童話集『おぢいさんのランプ』刊行。南吉は本の印税で高女職員全員に鶏飯をふるまい、職員室にラジオを寄付した。体調が悪化し、12月からは喉が痛み、声も出にくくなる。11月2日、北原白秋が死去。巽と与田から追悼詩集への執筆依頼を受け2篇の詩を書いて送る。それをきっかけに創作を再開、『耳』『小さい太郎の悲しみ』などを書く。1943年、年明けからは女学校を長期欠勤。2月10日安城女学校を退職。
退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになる。2月12日、巽聖歌に原稿と病状を手紙にして送る。また遺言状も書いている。南吉の病気を知らなかった巽は驚いて岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面、原稿の整理をする。3月20日、恩師伊藤仲治の妻が見舞いにきた。南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語った。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯だった。死因が結核だったこと、関係者が学年末で忙しかったことなどから、葬儀は1か月後の4月18日、離れの家で行われた。法名「釈文成」。半田市柊町の共同墓地、北谷墓地に葬られた。巽聖歌が寄贈した墓石の裏には「法名 釈文成 俗名 正八 昭和十八年三月二十二日歿行年三十一才童話詩小説の作家歿後声明高まる」と彫られている。
忌日の3月22日は、1934年に書かれた詩『貝殻』にちなみ「貝殻忌」と命名され、新美南吉記念館ではこの日を中心として講演会や朗読劇など様々なイベントが開催されている。
クラシック音楽愛好家で、日記にしばしば音楽についての記述がある。蓄音機を持っていなかったため東京では名曲喫茶と呼ばれた喫茶店に通ったり、蓄音機のある友人宅でレコードを聴いたりしていた。
生涯独身だったが、29年の生涯に3人の女性との交際経験がある。
地方で教師を務め、クラシック音楽を好み、独身のまま若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。
賢治は南吉がまだ学生だった1933年(昭和8年)に亡くなっているため、両者は会った事はないが、南吉自身は早くから賢治の作品を読み、高く評価していた。賢治没後の1934年(昭和9年)に開かれた「宮沢賢治友の会」にも出席している。
作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い(主人公は「久助君」「大作君」など作品によって変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たしている)。
「久助君」を主人公にした作品が最も多く、俗に「久助もの」と呼ばれる。
死後50年以上経過しているため著作権は消滅しており、作者名を明記すれば利用可能。著作者人格権はあるため、勝手に改変することは許されていない。インターネット上で文学作品を無料で提供しているサイトでは、戦後の一時期他者によって改変されたテキストが使われていることがあるため注意を要する。
生前に企画・制作された童話集は次の3作。うち2作は死後の刊行。()内は初出の雑誌名と刊行年。
南吉の作品は東京書籍や教育出版等多くの小学校国語教科書に掲載され、親しまれている。
半田市岩滑西町に新美南吉記念館がある。展示室では自筆原稿、著書、日記、手紙などを展示している。また、図書閲覧室には全集や絵本、南吉に関する研究書、郷土資料などが集められている。
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"text": "一方この年は作品が次々雑誌に載る。 年末、学習社という出版社から伝記物の依頼を受ける。学習社の編集者が豊島与志雄宅を訪れて新人作家の紹介を依頼した際、その場に居合わせた南吉の友人で河出書房に勤務していた澄川稔が南吉を推薦。豊島も『赤い鳥』投稿の南吉の作品を知っていたため同調。南吉に原稿依頼となった。1941年1月4日から良寛の伝記を書き始め、3月9日脱稿。10月1日『良寛物語 手毬と鉢の子』が出版される。2万部出版され1300円の印税を受け取る。多蔵は「正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円ももうけやがった。」としみじみ言ったという。11月28日、女学校の生徒の兄で早稲田大学の佐薙知の依頼で早稲田大学新聞に『童話に於ける物語性の喪失』を寄稿する。しかし伝記執筆後から体調が悪化。4月は腎臓病で10日あまりも学校を欠勤。その後も体調不良が続き、11月中旬には岩滑の実家に戻っていたが、12月血尿が出る。南吉は死を覚悟した。",
"title": "生涯"
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"text": "1942年1月、病院で診察を受け腎臓炎と診断されるが、日記に死を覚悟した苦悩をつづる。巽から童話集出版の話が舞い込み、外語時代に書いた童話13篇を浄書して送るが巽は幼年童話を望んでいなかったため採用されなかった。3月末から5月末までの2か月の間に『ごんごろ鐘』『おぢいさんのランプ』『花の木村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』など童話を次々書き上げる。4月、与田凖一からも童話集の依頼。学習社に依頼された伝記『都築彌厚伝』執筆のため、8月、長野の温泉に行くが宿をとれず、群馬の万座温泉で過ごし1週間で帰宅。『都築彌厚伝』は頓挫した。10月10日はじめての童話集『おぢいさんのランプ』刊行。南吉は本の印税で高女職員全員に鶏飯をふるまい、職員室にラジオを寄付した。体調が悪化し、12月からは喉が痛み、声も出にくくなる。11月2日、北原白秋が死去。巽と与田から追悼詩集への執筆依頼を受け2篇の詩を書いて送る。それをきっかけに創作を再開、『耳』『小さい太郎の悲しみ』などを書く。1943年、年明けからは女学校を長期欠勤。2月10日安城女学校を退職。",
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"text": "退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになる。2月12日、巽聖歌に原稿と病状を手紙にして送る。また遺言状も書いている。南吉の病気を知らなかった巽は驚いて岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面、原稿の整理をする。3月20日、恩師伊藤仲治の妻が見舞いにきた。南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語った。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯だった。死因が結核だったこと、関係者が学年末で忙しかったことなどから、葬儀は1か月後の4月18日、離れの家で行われた。法名「釈文成」。半田市柊町の共同墓地、北谷墓地に葬られた。巽聖歌が寄贈した墓石の裏には「法名 釈文成 俗名 正八 昭和十八年三月二十二日歿行年三十一才童話詩小説の作家歿後声明高まる」と彫られている。",
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"text": "忌日の3月22日は、1934年に書かれた詩『貝殻』にちなみ「貝殻忌」と命名され、新美南吉記念館ではこの日を中心として講演会や朗読劇など様々なイベントが開催されている。",
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"text": "クラシック音楽愛好家で、日記にしばしば音楽についての記述がある。蓄音機を持っていなかったため東京では名曲喫茶と呼ばれた喫茶店に通ったり、蓄音機のある友人宅でレコードを聴いたりしていた。",
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"text": "生涯独身だったが、29年の生涯に3人の女性との交際経験がある。",
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"text": "地方で教師を務め、クラシック音楽を好み、独身のまま若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。",
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"text": "賢治は南吉がまだ学生だった1933年(昭和8年)に亡くなっているため、両者は会った事はないが、南吉自身は早くから賢治の作品を読み、高く評価していた。賢治没後の1934年(昭和9年)に開かれた「宮沢賢治友の会」にも出席している。",
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"text": "作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い(主人公は「久助君」「大作君」など作品によって変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たしている)。",
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"text": "「久助君」を主人公にした作品が最も多く、俗に「久助もの」と呼ばれる。",
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"text": "死後50年以上経過しているため著作権は消滅しており、作者名を明記すれば利用可能。著作者人格権はあるため、勝手に改変することは許されていない。インターネット上で文学作品を無料で提供しているサイトでは、戦後の一時期他者によって改変されたテキストが使われていることがあるため注意を要する。",
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"text": "生前に企画・制作された童話集は次の3作。うち2作は死後の刊行。()内は初出の雑誌名と刊行年。",
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"text": "南吉の作品は東京書籍や教育出版等多くの小学校国語教科書に掲載され、親しまれている。",
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"text": "半田市岩滑西町に新美南吉記念館がある。展示室では自筆原稿、著書、日記、手紙などを展示している。また、図書閲覧室には全集や絵本、南吉に関する研究書、郷土資料などが集められている。",
"title": "新美南吉記念館"
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] |
新美 南吉は、日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。 半田市名誉市民。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。半田市は生誕100周年にあたる2013年に新美南吉生誕100年記念事業を各種行った。
|
{{Infobox 作家
| name = 新美 南吉<br />(にいみ なんきち)
| image = [[File:新美南吉.jpg|280px|新美南吉肖像]]
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| birth_name = 渡邊 正八
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<!--| footnotes = -->
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'''新美 南吉'''(にいみ なんきち、[[1913年]]〈[[大正]]2年〉[[7月30日]] - [[1943年]]〈[[昭和]]18年〉[[3月22日]])は、[[日本]]の[[児童文学]][[作家]]。本名は'''新美 正八'''(旧姓:'''渡邊''')<ref name="handa2017" />。[[愛知県]][[半田市]]出身。雑誌『[[赤い鳥]]』出身の作家の一人であり、彼の代表作『[[ごん狐]]』([[1932年]])はこの雑誌に掲載されたのが初出。[[結核]]により29歳で亡くなったため、作品数は多くない。[[童話]]の他に[[童謡]]、[[詩]]、[[短歌]]、[[俳句]]や[[戯曲]]も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の[[巽聖歌]]は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
半田市名誉市民<ref>{{Cite web|和書|title=顕彰活動の歩み |url=http://www.nankichi.gr.jp/Nankichi/kensyo.html |website=www.nankichi.gr.jp |access-date=2023-03-17}}</ref>。出身地の半田には、[[新美南吉記念館]]のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。半田市は生誕100周年にあたる2013年に新美南吉生誕100年記念事業<ref>{{Cite web|和書|title=新美南吉生誕100年(2013年) |url=http://www.nankichi.gr.jp/Event/seitan100.html |website=www.nankichi.gr.jp |access-date=2023-03-17}}</ref>を各種行った。
==生涯==
=== 生い立ち ===
1913年7月30日、畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑ(旧姓・新美)の次男として生まれる<ref name="handa2017" />。戸籍上の出生地は多蔵の実家の半田町字西折戸61番地の3(現在の半田市新生町1丁目99番地)となっているが、実際は畳屋を営む半田町字東山86番地(現在の半田市岩滑中町〈やなべなかまち〉1丁目83番地)と推定されている<ref>[http://www.nankichi.gr.jp/q_a/answer_02.htm Q 南吉はどこで生まれたの?]新美南吉記念館、2017年6月12日閲覧</ref>。前年に生まれ18日後に死亡した兄「正八」の名をそのままつけられた。多蔵は講談好きで講談の本も良く読んでおり、講談に出てくる英雄「梁川庄八」をもじってつけた。また死んだ兄の分とあわせて二人分の知恵と身体を持つようにとの願いもこめられている{{Sfn|帯金|2001|p=7}}。りゑは出産後から病気がちになり、1917年11月4日午前1時、29歳で死去する。多蔵は南吉を実家に預け、再婚相手を探した。1919年2月12日、多蔵は酒井志んと再婚。同月15日に異母弟・益吉が生まれている{{Sfn|帯金|2001|p=8-9}}。
1920年4月1日、半田第二尋常小学校(現・[[半田市立岩滑小学校]])に入学<ref name="handa2017" />。おとなしく体は少し弱かったが成績優秀だった。あだ名は「正八」をもじった「ショッパ」{{Sfn|帯金|2001|p=11}}。
南吉の実母・りゑの実家の新美家ではりゑの弟・鎌次郎がなくなり、跡継ぎがなくなってしまった。そこで南吉が養子に出されることになったが、当時の法律では跡取りの長男を養子に出すことを禁じていた。多蔵は、1921年7月19日志んと離婚。多蔵と南吉は祖父の六三郎の籍に入る。同月28日、8歳の南吉は祖父の孫として新美家と養子縁組させられた。南吉は養母・新美志もと二人暮らしをはじめるが、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻る。12月3日、多蔵と志んは復縁したが、南吉の籍は新美家のままだった。この出来事は幼い南吉にとって大きな衝撃であった。ただし、家族仲は良く、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉は異母弟の益吉をよくかわいがっていた{{Sfn|帯金|2001|pp=11-13}}。
=== 中学時代、創作 ===
1926年3月20日、半田第二尋常小学校卒業。成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与される。卒業式では卒業生代表として答辞を呼んだが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだった{{Sfn|帯金|2001|p=14}}。畳屋の多蔵は息子を進学させるつもりはなかったが、担任の伊藤仲治が渡邊家に通って説得する。学校の先生になれると聞いた多蔵は進学を許可。4月5日、南吉は旧制愛知県立半田中学校(現・[[愛知県立半田高等学校]])に入学する。南吉は多蔵に進学を反対されたことを終生忘れず、のちに巽聖歌に「家は貧乏、父親は吝嗇、継母は自分をいじめる」と生い立ちを語っている{{Sfn|帯金|2001|p=15}}<ref group="注">巽はこれを鵜呑みにして『新美南吉の手紙とその生涯』を執筆、以後定説となっていたが、浜野卓也が『新美南吉の世界』ではじめて誤りであると指摘した。{{Harv|帯金|2001|p=15}}</ref>。中学で南吉は児童文学に向かうようになり、1928年2月、校友会誌『柊陵』第九号に『椋の實の思出』童謡『喧嘩に負けて』が掲載される{{Sfn|帯金|2001|pp=16-17}}。その後様々な雑誌に作品を投稿する。1929年5月『張紅倫』<ref group="注">当初の題は「少佐と支那人の話」で脱稿後に「古井戸に落ちた少佐」に改題、のちに鈴木三重吉が「張紅倫」に改題。</ref>、6月に『巨男の話』を脱稿、弟の益吉に朗読している{{Sfn|帯金|2001|pp=22-23}}。友人たちとも自作を持ち寄る朗読会をはじめたが2回で終了し、9月1日、同人誌『オリオン』を発行。10月、『愛誦』に掲載された童謡『空家』から「'''南吉'''」のペンネームを使いはじめた。『オリオン』は翌年1月1日の新年号(5号)で終刊。その後は日記帳に作品を書き始める{{Sfn|帯金|2001|pp=23-28}}。 半田中学校卒業直前、『赤い鳥童謡集(北原白秋編)』を読んで感銘を受ける。裏表紙に「一九三一・三・四 中学卒業式の前の日、現在地球上にこれよりすぐれた童謡集はないと思ふ。新美正八」と書き入れ、以後白秋に心酔した{{Sfn|帯金|2001|p=32-33}}。南吉の実家は、多蔵が畳屋、志んが下駄屋を営んでおり、南吉には離れの家が与えられていたが、2月10日、離れが火事で全焼する。当初、南吉の火の不始末を疑われ、結局原因はわからず仕舞いとなったが、南吉は大きな衝撃を受けた{{Sfn|帯金|2001|pp=26-27}}。
=== 代用教員、北原白秋との出会い ===
1931年3月4日、半田中学校を卒業。南吉の希望は児童文学者の[[大西巨口]]や[[菊池寛]]のように大学に行って、卒業後は新聞記者で生計を立てながら作品を書き、いずれは記者を辞めて文筆業だけで食べていくことで、[[早稲田大学]]に進学を考えていた。しかし多蔵が許すはずもなく、結局[[岡崎師範学校]]を受験する。結果は不合格。体格検査で基準に達していなかったためといわれる{{Sfn|帯金|2001|p=29-30}}<ref group="注">南吉の中学五年生時の身長は165.5[[センチメートル|センチ]]、体重47.95[[キログラム|キロ]]。岡崎師範学校では体重÷身長の値が0.319という基準があった。</ref>。南吉は小学校時代の恩師の伊藤仲治をたずね、母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用される。『[[赤い鳥]]』5月号に南吉の童謡『窓』が掲載される。主催者の[[北原白秋]]を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続ける。8月号には童話『正坊とクロ』が掲載された{{Sfn|帯金|2001|pp=31-33}}。8月31日、代用教員を退職。南吉は東京高等師範学校の受験を考えていた。9月、童謡同人誌『チチノキ』に入会。白秋の愛弟子の[[巽聖歌]]や[[与田凖一]]と知り合う。またこの頃から木本咸子との交際が始まり、7月に初めてのデートをしている<ref group="注">この女性の名前は牧書店の全集、大石源三、浜野卓也の著書では「O子」、大日本図書の校定全集や「新美南吉紹介」では「αα」と伏字になっているが、新美南吉記念館のホームページでは本名が記載されている。</ref>。
12月、上京して東京師範学校を受験するが不合格。しかし巽や与田と会い、同じ下宿「ミハラシ館」で寝泊まりしたこと、巽の紹介で北原白秋の家を訪ね、白秋との対面を果たし感激するなど充実した日々だった。また巽から卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められる。翌年1月2日帰郷{{Sfn|帯金|2001|pp=35-37}}。
=== ごん狐、外語学校 ===
1932年、『赤い鳥』1月号に『ごん狐』が掲載される<ref name="handa2017" />。帰郷した南吉は両親に外語学校受験を願い出て許可される。
3月、[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]英語部文科受験。志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐり、見事合格。4月入学、上京。当初、結婚した[[巽聖歌]]の家に下宿し、2学期に学校寮に入った。寮のある[[中野区]][[上高田]]には巽の他、[[与田凖一]]、[[薮田義雄|藪田義雄]]も転居し、南吉は充実した学生生活を送った{{Sfn|帯金|2001|pp=39-40}}。また白秋指導のもと童謡を創作、『赤い鳥』に掲載された。しかし、1933年4月、白秋が鈴木三重吉と大喧嘩の末『赤い鳥』と絶縁。南吉もこれに従い『赤い鳥』への投稿をやめる。さらに『チチノキ』が経済的理由のため休刊。南吉は新しい童謡同人誌発行を計画するが、門下の分裂を恐れる白秋が反対したため断念。作品発表の場を失ってしまう{{Sfn|帯金|2001|pp=42}}。
7月、与田凖一の紹介で長編童話『大岡越前守』執筆するが、出版社から史実と違うという理由で拒否される。この原稿が日の目を見たのは南吉死後のことである{{Sfn|帯金|2001|pp=43-45}}。
1934年2月16日、第一回宮沢賢治友の会出席。
2月25日、結核のため喀血する。南吉は実家に帰り1か月あまり療養したのち、4月に学校に戻る{{Sfn|帯金|2001|p=46}}。
1935年2月11日、チチノキが1年半ぶりに発行され、童謡や翻訳を発表するが、5月廃刊となる{{Sfn|帯金|2001|pp=47-48}}。フランス語科の[[河合弘]]に自分から声をかけ、友人になる<ref group="注">河合弘は岐阜県大垣市出身。外語学校卒業後は南吉と同じく結核に苦しみ南吉と手紙のやりとりで励ましあっていた。その後、フランス語の通訳や翻訳の仕事に従事。著作に『友、新美南吉の思い出』がある。</ref><ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000179546|title=愛知県半田市出身の童話作家新美南吉の友人である大垣の人河合弘氏について|publisher=レファレンス協同データベース|accessdate=2017-6-13}}</ref>。5月、巽が精文館から幼年童話の依頼を回してくる。南吉は「デンデンムシノカナシミ」など50篇ものカタカナ童話を量産するが、無名の新人という理由で出版不可となる。しかし、作品を書いた経験が南吉にとって大きな自信になった{{Sfn|帯金|2001|pp=48-49}}。
8月、木本と別れる。病弱な南吉が結婚に躊躇したのが原因だった{{Sfn|帯金|2001|p=112}}。
=== 病気、転職 ===
[[File:河和港 04.jpg|thumb|200px|[[河和港]]の歌碑]]
1936年3月16日、東京外国語学校を卒業する。教員免許を取らなかった南吉は東京で就職活動するが、この年は不景気だったこともあり、文系学生の就職は困難だった。4月、東京商工会議所内の東京土産品協会に就職<ref name="handa2017" />。南吉は英文カタログを作成する仕事をするが、激務の上月給は40円と安いものだった。10月9日、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になる。近所に住んでいた巽夫妻の献身的な看病で、小康状態となった南吉は、11月16日、帰郷し療養生活を送る{{Sfn|帯金|2001|pp=50-53}}。
1937年、教員の仕事を探し、4月、河和第一尋常高等小学校の代用教員を7月末まで務める。同じ学校で代用教員の山田梅子との交際が始まる。9月1日、杉治商会鴉根山畜禽研究所に就職。寄宿舎に住み込み、鶏の雛を世話をする仕事で、20円の薄給、休みは月2回という激務で、翌年1月退職する{{Sfn|帯金|2001|pp=57-60}}。
その後、半田中の恩師で安城高等女学校の校長になっていた佐治克己の働きかけで女学校教員採用が決まり、3月17日中等教員免状を取得する。3月31日安城高等女学校教諭心得の辞令が出る。中山ちゑとの交際がはじまり、4月1日、杉治商会時代から疎遠になっていた山田梅子に別れの手紙を書く{{Sfn|帯金|2001|pp=61-63}}。
=== 女学校教員時代 ===
[[File:Katarai-no-isu-statue-Nankichi-reading-to-2female-student-in-Anjo-.jpg|thumb|モニュメント「南吉語らいの椅子」(安城市、2019年4月)]]
1938年(昭和13年、25歳)、4月4日の入学式から教員生活がスタート。1年生の学級担任となり、1年生から4年生の英語、1年2年生の国語と農業を担当する。図書係や農芸・園芸部長も務めた。給料は70円。通勤に1時間半もかかるため、翌年の1939年、安城町新田の大見坂四郎家に下宿する{{Sfn|帯金|2001|pp=63-65}}<ref>{{Cite web|和書|title=新美南吉の生涯 |url=http://www.nankichi.gr.jp/Nankichi/syogai.html |website=www.nankichi.gr.jp |access-date=2023-03-17}}</ref>。
4月23日、外語学校時代に知り合った江口榛一が哈爾濱日日新聞の文芸部に入り、南吉に原稿を依頼する手紙が来る。『最後の胡弓弾き』『久助君の話』や詩が翌年まで掲載される<ref name="handa2017" />。体調もよく、3年生の関西旅行引率や富士登山、同僚と熱海や大島へ視察するなど充実した年であった{{Sfn|帯金|2001|pp=65-68}}。
1940年6月9日、中山ちゑが青森県の知人宅で体調を崩し、急死。南吉は葬儀で男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だった{{Sfn|帯金|2001|pp=170-171}}。
一方この年は作品が次々雑誌に載る{{Sfn|帯金|2001|pp=70}}。
年末、学習社という出版社から伝記物の依頼を受ける。学習社の編集者が豊島与志雄宅を訪れて新人作家の紹介を依頼した際、その場に居合わせた南吉の友人で河出書房に勤務していた澄川稔が南吉を推薦。豊島も『赤い鳥』投稿の南吉の作品を知っていたため同調。南吉に原稿依頼となった。1941年1月4日から[[良寛]]の伝記を書き始め、3月9日脱稿。10月1日『良寛物語 手毬と鉢の子』が出版される。2万部出版され1300円の印税を受け取る。多蔵は「正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円ももうけやがった。」としみじみ言ったという{{Sfn|帯金|2001|pp=72-73}}。11月28日、女学校の生徒の兄で早稲田大学の佐薙知の依頼で早稲田大学新聞に『童話に於ける物語性の喪失』を寄稿する。しかし伝記執筆後から体調が悪化。4月は腎臓病で10日あまりも学校を欠勤。その後も体調不良が続き、11月中旬には岩滑の実家に戻っていたが、12月血尿が出る。南吉は死を覚悟した{{Sfn|帯金|2001|pp=73-74}}。
1942年1月、病院で診察を受け腎臓炎と診断されるが、日記に死を覚悟した苦悩をつづる。巽から童話集出版の話が舞い込み、外語時代に書いた童話13篇を浄書して送るが巽は幼年童話を望んでいなかったため採用されなかった。3月末から5月末までの2か月の間に『ごんごろ鐘』『おぢいさんのランプ』『花の木村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』など童話を次々書き上げる。4月、与田凖一からも童話集の依頼。学習社に依頼された伝記『都築彌厚伝』執筆のため、8月、長野の温泉に行くが宿をとれず、群馬の万座温泉で過ごし1週間で帰宅。『都築彌厚伝』は頓挫した{{Sfn|帯金|2001|pp=75-81}}。10月10日はじめての童話集『おぢいさんのランプ』刊行。南吉は本の印税で高女職員全員に鶏飯をふるまい、職員室にラジオを寄付した{{Sfn|帯金|2001|pp=81-82}}。体調が悪化し、12月からは喉が痛み、声も出にくくなる。11月2日、北原白秋が死去。巽と与田から追悼詩集への執筆依頼を受け2篇の詩を書いて送る。それをきっかけに創作を再開、『耳』『小さい太郎の悲しみ』などを書く{{Sfn|帯金|2001|pp=82-83}}。1943年、年明けからは女学校を長期欠勤。2月10日安城女学校を退職{{Sfn|帯金|2001|pp=269-270}}。
=== 死去 ===
[[ファイル:新見南吉の墓.jpg|サムネイル|新美南吉の墓(半田市北谷墓地)]]
退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになる。2月12日、巽聖歌に原稿と病状を手紙にして送る。また遺言状も書いている。南吉の病気を知らなかった巽は驚いて岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面、原稿の整理をする{{Sfn|帯金|2001|pp=271-274}}。3月20日、恩師伊藤仲治の妻が見舞いにきた。南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語った。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯だった。死因が結核だったこと、関係者が学年末で忙しかったことなどから、葬儀は1か月後の4月18日、離れの家で行われた。法名「釈文成」。半田市柊町の共同墓地、北谷墓地に葬られた。巽聖歌が寄贈した墓石の裏には「法名 釈文成 俗名 正八 昭和十八年三月二十二日歿行年三十一才童話詩小説の作家歿後声明高まる」と彫られている{{Sfn|帯金|2001|pp=277-279}}。
忌日の3月22日は、1934年に書かれた詩『貝殻』にちなみ「貝殻忌」と命名され、新美南吉記念館ではこの日を中心として講演会や朗読劇など様々なイベントが開催されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.handa.lg.jp/kikaku/shise/koho/hodo/kaiken/documents/20190213_nankichi.pdf |title=新美南吉没後76年「貝殻忌」について |access-date=2023-3-17 |publisher=半田市}}</ref>。
== 人物 ==
=== 趣味 ===
[[クラシック音楽]]愛好家で、日記にしばしば音楽についての記述がある。蓄音機を持っていなかったため東京では名曲喫茶と呼ばれた[[喫茶店]]に通ったり、蓄音機のある友人宅でレコードを聴いたりしていた{{Sfn|帯金|2001|p=177}}。
===女性関係===
生涯独身だったが、29年の生涯に3人の女性との交際経験がある。
;木本咸子(みなこ)
:新美南吉の初恋相手。18歳の頃、半田第二尋常小学校に代用教員として勤務中に交際を始めるが、4年後の22歳で別れた。
;山田梅子
:新美南吉の2度目の恋人。24歳の頃、河和第一尋常高等小学校に代用教員として勤務中に交際を始めるが、退職後疎遠になり、翌年4月に別れた。
;中山ちゑ
:新美南吉の幼馴染で、子どもの頃から親しく遊んでいた。26歳の頃、結婚を考えるが、翌年に急死したため婚約は叶わなかった。生涯最後の交際相手である。ちゑの死後の翌年、教え子の岩月みやという女性に結婚を申し込んでいるが、若すぎるという理由で断られた{{Sfn|帯金|2001|p=171}}。
== 略歴 ==
*1913年([[大正]]2年)
**7月30日 畳屋を営む父 渡辺多蔵、母 りゑの次男として[[愛知県]][[知多郡]]半田町(現・[[半田市]])岩滑(やなべ)で生まれる。この前年に生まれ、生後わずか18日でなくなった長男の名をそのまま付けられた。これは父親が2人分生きてほしいとの願いを込めたもの。また、父親の好きな[[講談]]に登場する英雄梁川庄八に由来する。
*1917年(大正6年)
**11月4日 母 りゑ逝去(享年29)。
*1919年(大正8年)
**2月12日 父 多蔵再婚。義母の名は「志ん」。2月15日弟益吉誕生。
*1920年(大正9年)
**4月1日 知多郡半田第二[[尋常小学校]](現・半田市立岩滑小学校)入学。おとなしく目立たない児童で、体は少し弱かったが成績は良かった。
*1921年(大正10年)
**7月19日 父多蔵離婚。しかし同年12月6日には同じ相手と再婚している。
**7月28日 正八、母方の祖母 新美志も の養子となり、新美正八と改姓。祖母と二人で暮らし始めるが、12月には新美姓のまま実家渡辺家に戻る。
*1926年(大正15年)
**3月で半田第二尋常小学校を卒業し、4月に旧制愛知県立半田中学校(現・[[愛知県立半田高等学校|半田高校]])へ入学。
*1928年([[昭和]]3年)頃~
**この頃から童謡や詩の投稿を始める。また、文芸誌『[[赤い鳥]]』や[[小川未明]]の『日本童話集』にであう。
*1931年(昭和6年)
**3月24日 [[岡崎師範学校]](現・[[愛知教育大学]])受験するが体格検査で不合格となる。
**4月1日 愛知県知多郡半田第二尋常小学校の[[代用教員]]となるが、8月には一身上の都合で退職している。
**5月 『赤い鳥』に初めて童謡が掲載される(5月号「窓」)。
*1932年(昭和7年)
**1月 『赤い鳥』1月号に童話「[[ごん狐]]」掲載。
**4月 [[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](現・[[東京外国語大学]])英語部文科文学に入学。
*1934年(昭和9年)
**2月25日 [[喀血]](かっけつ)。この頃顔色も優れず、頻繁に盗汗。
*1936年(昭和11年)
**3月16日 東京外国語学校を卒業。神田の貿易商会に勤めたが、二度目の喀血をして11月に帰郷。
*1937年(昭和12年)
**4月 知多郡河和小学校の代用教員となる。夏に体調をくずし、7月31日退職。
**9月 杉治商会(家畜の[[飼料]]製造販売)鴉根山畜禽研究所に入社。
*1938年(昭和13年)
**3月 安城高等女学校(現・[[愛知県立安城高等学校|安城高校]])の教員となる。英語、国語、農業担当。
*1941年(昭和16年)
**10月 初の単行本『[[良寛]]物語 手毬と鉢の子』(学習社)刊行
*1942年(昭和17年)
**10月 初の童話集『おぢいさんのランプ』刊行
*1943年(昭和18年)
**1月 病状悪化(喉頭[[結核]])。2月には安城高等女学校を退職。
**3月22日 29歳で逝去。
**9月10日 童話集『牛をつないだ椿の木』、9月30日 童話集『花のき村と盗人たち』と2冊の童話集が相次いで刊行。
== 作風 ==
地方で教師を務め、クラシック音楽を好み、独身のまま若くして亡くなった童話作家という共通点から[[宮沢賢治]]との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「'''北の賢治、南の南吉'''」と呼ばれ好対照をなしている。
賢治は南吉がまだ学生だった[[1933年]]([[昭和]]8年)に亡くなっているため、両者は会った事はないが、南吉自身は早くから賢治の作品を読み、高く評価していた。賢治没後の[[1934年]](昭和9年)に開かれた「宮沢賢治友の会」にも出席している<ref>{{Cite web|和書|title=南吉Q&A1 |url=http://www.nankichi.gr.jp/Nankichi/QA.html |website=www.nankichi.gr.jp |access-date=2023-03-17}}</ref>。
作品の多くは、故郷である[[半田市]]岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い(主人公は「久助君」「大作君」など作品によって変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たしている)。
「久助君」を主人公にした作品が最も多く、俗に「久助もの」と呼ばれる。
==作品==
死後50年以上経過しているため[[著作権]]は消滅しており、作者名を明記すれば利用可能<ref name="nankichi">{{Cite web|和書|title=よくある質問 |url=http://www.nankichi.gr.jp/Otoiawase/situmon.html |website=www.nankichi.gr.jp |access-date=2023-03-17}}</ref>。[[著作者人格権]]はあるため、勝手に改変することは許されていない<ref name="nankichi" />。インターネット上で文学作品を無料で提供しているサイトでは、戦後の一時期他者によって改変されたテキストが使われていることがあるため注意を要する<ref name="nankichi" />。
===童話集===
生前に企画・制作された童話集は次の3作。うち2作は死後の刊行。()内は初出の雑誌名と刊行年。
*『おぢいさんのランプ』 [[有光社]] 1942年(昭和17年)10月10日
**川 (新児童文化第1冊、昭和15年)
**いぼ(新児童文化第2冊、昭和15年)
**嘘 (新児童文化第3冊 昭和16年)
**ごんごろ鐘
**久助君の話 (哈爾賓日々新聞 昭和14年)
**うた時計 (少国民の友 昭和17年)
**[[おぢいさんのランプ]]
**貧乏な少年の話
*『牛をつないだ椿の木』 [[大和書店]] 1943年(昭和18年)9月10日
**かぶと虫<小さい太郎の悲しみ>
**[[手袋を買いに]]
**草
**狐
**[[牛をつないだ椿の木]] (少国民文化 昭和18年)
**耳 (少国民文化 昭和18年)
**疣
*『花のき村と盗人たち』 [[帝国教育出版部]] 1943年(昭和18年)9月30日
**[[ごん狐]] (赤い鳥 昭和7年)
**百姓の足・坊さんの足
**のら犬 (赤い鳥 昭和7年)
**和太郎さんと牛
**[[花のき村と盗人たち]]
**[[正坊とクロ]] (赤い鳥 昭和6年)
**鳥右ヱ門諸国をめぐる
===伝記小説===
* {{Cite book |和書 |author=新美南吉 |title=良寛物語 : 手毬と鉢の子 |publisher=[[学習社]] |year=1941}} - 復刻: [[中日新聞社]]、2013年。
* 新美南吉 『大岡越前守』学習社、1944年6月30日。
===全集===
*『新美南吉全集』全8巻 [[牧書店]]、1965年。
*『校定 新美南吉全集』全12巻、別巻2巻 [[大日本図書]]、1980年。
== 関連書籍 ==
*『新美南吉の手紙と生涯』[[巽聖歌]]著、[[英宝社]]、1962年。{{Doi|10.11501/1346328}}
*『新美南吉の世界』[[浜野卓也]]著、[[新評論]]、1973年。{{Doi|10.11501/12463747}}
*『友、新美南吉の思い出』[[河合弘]]著、大日本図書、1983年。{{Doi|10.11501/12463888}}
*『新美南吉の生涯 ごんぎつねのふるさと』[[大石源三]]著、[[エフエー出版]]、1987年。{{Doi|10.11501/12463934}}
**改訂版 1993年。ISBN 4-87208-039-4
== 教科書 ==
南吉の作品は[[東京書籍]]や[[教育出版]]等多くの小学校国語教科書に掲載され、親しまれている。
== 新美南吉記念館 ==
半田市岩滑西町に[[新美南吉記念館]]がある<ref name="handa2017">{{Cite web|和書|url=https://www.handa-kankou.com/cms/wp-content/uploads/2017/07/28120fd123d4e578f76975ff65a9b56a-5.pdf |title=新美南吉記念館 |work= |publisher=半田市観光協会|accessdate=2023-01-05 }}</ref>。展示室では自筆原稿、著書、日記、手紙などを展示している<ref name="handa2017" />。また、図書閲覧室には全集や絵本、南吉に関する研究書、郷土資料などが集められている<ref name="handa2017" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=帯金|first=充利 |year=2001|title=新美南吉紹介|publisher=三一書房 |isbn=4-380-01202-6}}
== 関連項目 ==
* [[新美南吉児童文学賞]]
* [[新美南吉童話賞]]
* [[赤い鳥]]
* [[巽聖歌]]
* [[北原白秋]]
* [[与田準一]]
* [[鈴木三重吉]]
== 外部リンク ==
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{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}
{{ウィキプロジェクトリンク|作家|[[画像:P author.svg|34px|Project:作家]]}}
* [http://www.nankichi.gr.jp/index.html 新美南吉記念館]
* {{青空文庫著作者|121|新美 南吉}}
* [http://www.anjo-h.aichi-c.ed.jp/ 安城高校HP 本人の顔写真白黒]
* [http://underzero.net/html/tz/spm_03.htm 新美南吉年譜(はっとし_ぜろホームページ内)]
* {{Wikiquote-inline}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にいみ なんきち}}
[[Category:新美南吉|!]]
[[Category:20世紀日本の児童文学作家]]
[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:東京外国語大学出身の人物]]
[[Category:結核で死亡した日本の人物]]
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