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折田先生像
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折田先生像(おりたせんせいぞう)は、京都大学の前身の一つである旧制第三高等学校の初代校長折田彦市(おりた ひこいち)の業績を讃えるために製作された銅像である。京都大学構内に設置されていたが、派手な落書き・いたずら(オブジェ化)が相次ぎ有名になる。本来の銅像が1997年に撤去されると、「折田先生像」と題してかつての設置状況を模倣したオブジェが制作・展示されるようになった。2000年代半ばより入学試験シーズン(前期試験期間中)に定期的に登場するこのオブジェも、「折田先生像」の名で呼ばれている。
折田彦市(1849年 - 1920年)は第三高等学校の校長を(その前身校も含めて)30年にわたって務め、京都帝国大学の設立に際しても創立委員としてかかわった人物である。折田校長の下で培われた三高の「自由の学風」は、後身である新制京都大学にも影響を及ぼしているとされている。
折田の功績を顕彰するための像は1940年以来過去3回製作されている。
現存する銅像「折田先生像」は1950年、辻晋堂(京都市立美術大学教授)製作によるものである。銅像は、かつての三高本館であった京都大学教養部A号館の前に設置された(教養部は1993年に廃止され、総合人間学部に移行)。しかし、ある時期から落書き・いたずらが相次いだため(後述)、1997年3月に大学当局は折田の像および台座を設置場所から撤去し、総合人間学部図書館の地下書庫に収納した。この像は13年半後の2010年10月より、京大吉田キャンパス本部構内南側の三高記念館設置準備室で一般公開が再開され、2013年より京大百周年時計台記念館1階の歴史展示室にて常設展示されている。
いつの頃からかは不明であるが、この銅像に対する落書き・いたずらが行われるようになった。またそれが1回限りの単発的な出来事でなく繰り返し行われたことから、大学内外で衆目を集めるようになる。初期はペンキによる着色など単純なものであったが、行為は徐々にエスカレートし、「腕を取り付ける」「自転車を担がせる」などの物体の付加や、像全体を覆って別の物として展示することにその内容が移行していった。
遅くとも1986年には顔を赤くスプレーされ、台座に「怒る人」と落書きされた、その後の姿に比べればごくシンプルなバージョンであり、一部で「京大の『怒る人』」として知られていた。これは比較的長い期間放置されていたが、1991年に何者かが赤い顔を青に塗り替え、台座に「怒らないで」と上書きした。これを機に、一連の落書きの連鎖が始まることになる。
「怒らないで」の次に、彼らが行った落書きは「歌舞伎の隈取」の意匠であった。これはすぐさま大学側によって消された。その後、合成樹脂による両手を取り付けた「れーにん」、巨大な被せ物による「モアイ」など、初期の何種かのバージョンが製作された。その後も折田先生像への落書きは一種の文化のように継承され、回を追うごとにエスカレートしていき、一部では銅像アートと呼ばれるさまざまな作品を残した。
これに対し、1994年から大学は一旦銅像を清掃し、横に右記のような立て看板を立てて学生に落書きを止めるよう要請した。しかしこの立て看板に対抗して、「この像を汚さないで」と銅像に早速落書きされた。以後もアンナミラーズのウェイトレスバージョン、ウルトラマンゼアスバージョン、「お父様、お母様、今まで育ててくれてありがとう。今日、私...お嫁に行きます」と張り紙のされた花嫁バージョンなど衣装や被り物が数多く制作された。こうした銅像に対する落書き・いたずらは構内整備を機に折田先生像が撤去される1997年3月まで続いた。
度重なるいたずらを理由に大学側は銅像を総合人間学部図書館の地下に収納する措置を採ったため、1997年3月限りで銅像そのものは姿を消すこととなった。このため本来の銅像や台座に対して何かを描き加えたり装着したりするということはなされなくなったが、それに代わって独自のオブジェが制作され、折田像が元あった場所に展示される事態となった。展示にあたっては像(オブジェ)のみならず、台座および像の取り扱いに関する注意書きの立看板も含めて折田像がかつて設置されていた状況を模倣するパロディへとエスカレートするようになった。
折田先生像撤去後すぐに『北斗の拳』のラオウを模した漢の生き様バージョンが設置された。その他にも力石徹バージョン、スターガオガイガーバージョン、さらには快傑ズバット像など、さまざまな新企画が示された。
2002年には場所を総合人間学部図書館前に移し、王蟲を連れたナウシカを模した風の谷のナウシカバージョン、M16のモデルガンを構えたゴルゴ13バージョン などが製作された。像だけでなく、横の「落書きしないように」との看板もキャラクターに合わせ文言を変えて模倣するのが先生像撤去後の特徴の一つである。
それも2003年7月頃に撤去されていたが、2004年2月の入試期間前後にひょっこりひょうたん島のサンデー先生バージョンが作られ、復活した。そして、同年7月には再び撤去された。2005年2月下旬には場所を吉田南構内正門付近に移し、新たにDr.スランプのキャラクターを模したスッパマンバージョンが出現したが同年5月下旬に撤去された。
2006年2月中旬、折田大仏と題された像が設置されたが、後日何者かに大仏は破壊された。同年2月下旬、ちびまる子ちゃんのキャラクターを模した永沢くんバージョンが出現し、同年3月25日に撤去された。
2007年2月下旬、不二家のマスコットキャラクターを模したポコちゃんバージョンが出現したが、同年3月19日未明に何者かにより破壊され翌日に撤去。その後は大学側で保管されている。
2008年2月下旬、アンパンマンの登場キャラクターを模したてんどんまんバージョンが出現した。
2009年2月下旬、仮面ライダーV3の登場キャラクターを模したライダーマンバージョンが出現した(ライダーマンに変身する結城丈二は京都大学工学部出身という設定である)。
2010年2月25日、『ポケットモンスター』の登場キャラクターを模したタケシバージョンが出現した。
2011年2月25日、グラクソ・スミスクラインの総合感冒薬「コンタック」のキャラクターを模したMr. CONTACバージョンが出現した。横に掲げられた看板の声明は、Mr.CONTAC の声を務める笑福亭笑瓶 の名義で出された。なお、これに先立つ24日には、にせほるんという Twitter の botを模した折田先生像のパロディが何者かによって設置されたが、27日までに撤去された。
2012年2月25日、地上デジタル放送化のマスコットキャラクターである地デジカバージョンが出現した。看板の声明は、同じく地上波デジタル放送推進のプロモーションを務めた草彅剛の韓国語読みであるチョナン・カン名義で出された。
2013年2月25日、ロッテのチョコレート菓子・TOPPOの販売促進キャラクターであるノッポトッポちゃんバージョンが出現した。看板の声明はTOPPOのテレビコマーシャルに出演した経験のある長瀬智也の名義で出された。
2014年2月25日、森永製菓のチョコボールのマスコットキャラクターであるキョロちゃんバージョンが出現した。看板の声明はチョコボールの「エンゼル」名義で出された。
2015年2月25日には漫画「サザエさん」に登場する磯野カツオの親友、中島弘バージョンが出現。なお、像の肩には小さなカツオ像が、像の後ろ側には小さなタマの像があった。看板の声明はサザエ名義で出された。この年は本部構内の時計台前のクスノキに映画アナと雪の女王に登場する「オラフ」の小さな人形を多数吊るした「折フ先生の森」と称するオブジェも登場し、看板ではなく張り紙ではあったが、教養部名義で声明文も掲出された。
2016年2月25日、任天堂のゲームソフトである星のカービィシリーズの主人公キャラクターであるカービィバージョンが出現した。像の後ろ側にはピンク色が共通しているためなのか、小さな桂ヒナギクのフィギュアがあった。看板の声明はカービィのライバルである「メタナイト」名義で出された。看板裏の写真はAV女優の上原亜衣のポートレート写真が貼られた。
2017年2月25日には、お笑い芸人であるコウメ太夫バージョンが出現した。看板の声明は「狩野英孝」名義で張り出されていた。さらに、その横には京都大学からの告示に似せた偽告示文が掲示されており、発出者はよく読むと京都大学ではなく「京都太夫」を称する謎の人物によるものであった。また「折田先生」の名称が、「告示文からの追求から逃れるため」として「川田先生」と改称させられていた。
2018年2月25日、任天堂のゲームシリーズであるどうぶつの森シリーズの登場キャラクターであるリセットさんバージョンが出現した。看板の声明は同ゲームの登場キャラクターである「みしらぬネコ」名義で出された。看板裏の写真は声優の小松未可子のポートレート写真が貼られた。さらに、その横には偽告示文が掲示されていたが、発出者は「折田彦市役所」となっていた。
2019年2月25日には、平成という元号を発表した当時の内閣官房長官である、小渕恵三バージョンが製作された。通常折田先生像が設置されていた場所に入試案内板が設置されていたため、別の場所に設置されている。看板の声明は時の内閣総理大臣である竹下登の名前で出されたが、後に大学当局によって撤去された。また、その手前には、偽折田先生像としてアニメ機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズのキャラクターであるオルガ・イツカの像「オルガ団長像」が設置され、花束や見切り品の鉄火丼を始めとした数々の品が供えられていたが、これも後に大学当局によって撤去された。偽看板も同様に設置され、声明は同作のヒロインであるクーデリア・藍那・バーンスタイン名義であった。なお、「オルガ団長像」については、台車が取り付けられた移動式であった。さらには、AR折田先生像も“設置”され、先述の入試案内板付近にバーチャルの折田先生像が設置された。AR折田先生像については、マリオシリーズのキャラクターヘイホーおよび、同年のセンター試験英語リスニング第1問目選択肢に掲載された「リスニング四天王」が確認されている。
翌日26日には、前日の撤去にもかかわらず新たな「折田先生像」が設置され、先述の小渕恵三官房長官とオルガ・イツカを合体させ、「鉄華」の字を掲げた「オルガ先生像」が設置された。看板の声明は機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズのキャラクターであるマクギリス・ファリドであるが、文中の「折田彦市先生」の名称が「オルガ彦市先生」名義であり、前日の2枚の声明を混ぜた内容だった。このほかに「折田先生の墓」と書かれた、台座のみの構造物も設置された。看板の声明文については、こちらは複数設置であった。
2020年2月25日には、TBS系番組『世界・ふしぎ発見!』に登場する人形であるスーパーヒトシ君バージョンが出現した。看板の声明は番組レギュラーである野々村真名義で出された。設置場所は昨年と同様。また、別の場所には本物の折田先生像を模した像も出現した。
2021年2月25日には、児童書・テレビアニメ『かいけつゾロリ』の主人公・ゾロリの弟子であるノシシバージョンが出現した。看板の声明は原作者である原ゆたか名義で出され、原作の表記に倣い「折田彦市せんせ」表記となっていた。別の場所には折田先生像の顔出し看板が設けられたほか、ゲーム『ファイナルファンタジーシリーズ』の登場キャラクターであるセフィロスをモチーフにした「田代先生像」、2020年10月に就任した当時の京都大学総長である湊長博と同姓のバーチャルYouTuberである湊あくあをモチーフにした「湊総長像」も出現した。
2022年2月25日には、スタジオジブリ制作の映画『崖の上のポニョ』の主人公であるポニョバージョンが出現した。看板の声明はポニョの父親であるフジモト名義で出された。別の場所にはゲーム『けものフレンズ3』の登場キャラクターであるミーアキャットをモチーフにした「ミーア先生像」、バーチャルYouTuber事務所にじさんじ所属の不破湊をモチーフにした「湊総長像」も出現した。
2023年2月25日には、漫画「ONE PIECE」の登場キャラクターであるトニートニー・チョッパーバージョンが出現した。看板の声明は漫画の主人公であるルフィ名義で出された。別の場所には漫画「メイドインアビス」の登場キャラクターであるボンドルドをモチーフにした「黎明卿像」、漫画「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公である後藤ひとりをモチーフにした「後藤先生像」も出現した。
「京都大学からのお願い」看板の裏には女性芸能人の写真が貼られることが恒例になっている。異例のものとしては2014年の艦隊これくしょん -艦これ-のキャラクター、島風のフィギュア写真、2016年のAV女優である上原亜衣、2021年のスポーツ選手の本田真凛がある。2017年には、メディアミックス『アイドルマスター シンデレラガールズ』のキャラクターである島村卯月が登場し、女性芸能人という設定の非実在人物が初登場となった。なお、アイドルマスターシリーズは、2019年にもアイドルマスターミリオンライブ!のキャラクターである桜守歌織が登場した。2020年には初の男性芸能人が登場した。
京都大学当局は当初、この風習を事実上黙認していた(後述)。2008年に登場したてんどんまんバージョンに対しては、京都大学高等教育研究開発推進機構が大学ホームページを通して公式声明を発表した。例年置かれる像の出来映えを賞賛し、折田先生像を「吉田南構内の風物詩の一つ」として事実上黙認する構えを見せた。また、いつも何者かに折田先生像が破壊される事実に対しては「創作物を壊すという行為は、最も悪質で下劣で野蛮な行為」と厳しく断じた。一方で『アンパンマン』シリーズの著作権を保有する企業から問い合わせがあり、撤去要求はなかったが著作物のイメージを損ねないよう要請があったことを明かした。これを受けて機構は制作者が自主的に像を撤去することを呼びかけ、それが叶わぬときは誰の目にも劣化したことが明らかになった際に機構が撤去するとした。
しかし2018年度以降、京大当局は大学周辺・構内における設置物への規制・管理を強化した(京都大学の立て看板参照)。2019年頃から京大当局は折田先生像に対する早期の撤去を警告するようになった。2019年の折田先生像は設置された当日の昼に撤去されている。2022年には午前中のうちに、「この工作物を撤去されない場合は処分します」と書かれた撤去要請の紙が京大当局によって貼られている。
折田彦市の曾孫は、朝日新聞の2012年の取材に対し、「折田一族全員、落書きや現状を知っています。誰も怒っていません」とコメントしている。
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"text": "2021年2月25日には、児童書・テレビアニメ『かいけつゾロリ』の主人公・ゾロリの弟子であるノシシバージョンが出現した。看板の声明は原作者である原ゆたか名義で出され、原作の表記に倣い「折田彦市せんせ」表記となっていた。別の場所には折田先生像の顔出し看板が設けられたほか、ゲーム『ファイナルファンタジーシリーズ』の登場キャラクターであるセフィロスをモチーフにした「田代先生像」、2020年10月に就任した当時の京都大学総長である湊長博と同姓のバーチャルYouTuberである湊あくあをモチーフにした「湊総長像」も出現した。",
"title": "銅像撤去後のオブジェ制作"
},
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2022年2月25日には、スタジオジブリ制作の映画『崖の上のポニョ』の主人公であるポニョバージョンが出現した。看板の声明はポニョの父親であるフジモト名義で出された。別の場所にはゲーム『けものフレンズ3』の登場キャラクターであるミーアキャットをモチーフにした「ミーア先生像」、バーチャルYouTuber事務所にじさんじ所属の不破湊をモチーフにした「湊総長像」も出現した。",
"title": "銅像撤去後のオブジェ制作"
},
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"paragraph_id": 30,
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"text": "2023年2月25日には、漫画「ONE PIECE」の登場キャラクターであるトニートニー・チョッパーバージョンが出現した。看板の声明は漫画の主人公であるルフィ名義で出された。別の場所には漫画「メイドインアビス」の登場キャラクターであるボンドルドをモチーフにした「黎明卿像」、漫画「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公である後藤ひとりをモチーフにした「後藤先生像」も出現した。",
"title": "銅像撤去後のオブジェ制作"
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"text": "「京都大学からのお願い」看板の裏には女性芸能人の写真が貼られることが恒例になっている。異例のものとしては2014年の艦隊これくしょん -艦これ-のキャラクター、島風のフィギュア写真、2016年のAV女優である上原亜衣、2021年のスポーツ選手の本田真凛がある。2017年には、メディアミックス『アイドルマスター シンデレラガールズ』のキャラクターである島村卯月が登場し、女性芸能人という設定の非実在人物が初登場となった。なお、アイドルマスターシリーズは、2019年にもアイドルマスターミリオンライブ!のキャラクターである桜守歌織が登場した。2020年には初の男性芸能人が登場した。",
"title": "銅像撤去後のオブジェ制作"
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"text": "京都大学当局は当初、この風習を事実上黙認していた(後述)。2008年に登場したてんどんまんバージョンに対しては、京都大学高等教育研究開発推進機構が大学ホームページを通して公式声明を発表した。例年置かれる像の出来映えを賞賛し、折田先生像を「吉田南構内の風物詩の一つ」として事実上黙認する構えを見せた。また、いつも何者かに折田先生像が破壊される事実に対しては「創作物を壊すという行為は、最も悪質で下劣で野蛮な行為」と厳しく断じた。一方で『アンパンマン』シリーズの著作権を保有する企業から問い合わせがあり、撤去要求はなかったが著作物のイメージを損ねないよう要請があったことを明かした。これを受けて機構は制作者が自主的に像を撤去することを呼びかけ、それが叶わぬときは誰の目にも劣化したことが明らかになった際に機構が撤去するとした。",
"title": "対応"
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"text": "しかし2018年度以降、京大当局は大学周辺・構内における設置物への規制・管理を強化した(京都大学の立て看板参照)。2019年頃から京大当局は折田先生像に対する早期の撤去を警告するようになった。2019年の折田先生像は設置された当日の昼に撤去されている。2022年には午前中のうちに、「この工作物を撤去されない場合は処分します」と書かれた撤去要請の紙が京大当局によって貼られている。",
"title": "対応"
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"text": "折田彦市の曾孫は、朝日新聞の2012年の取材に対し、「折田一族全員、落書きや現状を知っています。誰も怒っていません」とコメントしている。",
"title": "対応"
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] |
折田先生像(おりたせんせいぞう)は、京都大学の前身の一つである旧制第三高等学校の初代校長折田彦市の業績を讃えるために製作された銅像である。京都大学構内に設置されていたが、派手な落書き・いたずら(オブジェ化)が相次ぎ有名になる。本来の銅像が1997年に撤去されると、「折田先生像」と題してかつての設置状況を模倣したオブジェが制作・展示されるようになった。2000年代半ばより入学試験シーズン(前期試験期間中)に定期的に登場するこのオブジェも、「折田先生像」の名で呼ばれている。
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'''折田先生像'''(おりたせんせいぞう)は、[[京都大学]]の前身の一つである[[第三高等学校 (旧制)|旧制第三高等学校]]の初代校長'''[[折田彦市]]'''(おりた ひこいち)の業績を讃えるために製作された[[銅像]]である。京都大学構内に設置されていたが、派手な[[落書き]]・[[悪戯|いたずら]]([[オブジェ]]化)が相次ぎ有名になる。本来の銅像が1997年に撤去されると、「折田先生像」と題してかつての設置状況を模倣したオブジェが制作・展示されるようになった。[[2000年代]]半ばより入学試験シーズン(前期試験期間中)に定期的に登場するこのオブジェも、「折田先生像」の名で呼ばれている。
== 本来の「折田先生像」 ==
[[折田彦市]](1849年 - 1920年)は第三高等学校の校長を(その前身校も含めて)30年にわたって務め、[[京都大学|京都帝国大学]]の設立に際しても創立委員としてかかわった人物である。折田校長の下で培われた三高の「自由の学風」は、後身である新制京都大学にも影響を及ぼしているとされている。
折田の功績を顕彰するための像は1940年以来過去3回製作されている。
*1940年(昭和15年) - 三高卒業生有志者の寄付により像が制作され、三高本館前に設置される。
*1941年(昭和16年) - 太平洋戦争の金属供出により失われる。代わりに石膏像が制作される。
*1950年(昭和25年) - [[旧制高等学校]]廃止を記念し、同窓生の寄付により銅像が制作される。
現存する銅像「折田先生像」は1950年、辻晋堂([[京都市立芸術大学|京都市立美術大学]]教授)製作によるものである。銅像は、かつての三高本館であった京都大学教養部A号館の前に設置された(教養部は1993年に廃止され、[[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|総合人間学部]]に移行)。しかし、ある時期から落書き・いたずらが相次いだため(後述)、1997年3月に大学当局は折田の像および台座を設置場所から撤去し、総合人間学部図書館の地下書庫に収納した。この像は13年半後の2010年10月より、京大吉田キャンパス本部構内南側の三高記念館設置準備室で一般公開が再開され<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20110217000038 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110301113317/http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20110217000038 |archivedate=2011-03-01 |title=「安全圏」で御利益? オリジナル折田像を展示 |publisher=京都新聞 |date=2011-02-17}}</ref>、2013年より京大百周年時計台記念館1階の歴史展示室にて常設展示されている<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-u.ac.jp/static/ja/news_data/h/h1/news7/2013/130501_1.htm |title=大学文書館 常設展「第三高等学校の歴史」を開設しました。 |publisher=京都大学 |date=2013-05-01}}</ref>。
== 銅像への落書き ==
いつの頃からかは不明であるが、この銅像に対する落書き・いたずらが行われるようになった。またそれが1回限りの単発的な出来事でなく繰り返し行われたことから、大学内外で衆目を集めるようになる。初期はペンキによる着色など単純なものであったが、行為は徐々にエスカレートし、「腕を取り付ける」「自転車を担がせる」などの物体の付加や、像全体を覆って別の物として展示することにその内容が移行していった。
遅くとも1986年には顔を赤くスプレーされ、台座に「怒る人」と落書きされた、その後の姿に比べればごくシンプルなバージョンであり、一部で「京大の『怒る人』」として知られていた。これは比較的長い期間放置されていたが、1991年に何者かが赤い顔を青に塗り替え、台座に「怒らないで」と上書きした。これを機に、一連の落書きの連鎖が始まることになる。
「怒らないで」の次に、彼らが行った落書きは「[[歌舞伎]]の[[隈取]]」の意匠であった。これはすぐさま大学側によって消された。その後、合成樹脂による両手を取り付けた「れーにん」、巨大な被せ物による「モアイ」など、初期の何種かのバージョンが製作された。その後も折田先生像への落書きは一種の文化のように継承され、回を追うごとにエスカレートしていき、一部では銅像アートと呼ばれるさまざまな作品を残した。
*赤と黄色に彩られ、頭にカップを乗せた'''[[UFO仮面ヤキソバン|ヤキソバン]]バージョン'''<ref name="ASCII200804141">{{Cite news |url=http://ascii.jp/elem/000/000/124/124493/ |title=ゴルゴ13、京大にも来ていた──伝説の「折田先生像」 |publisher=ASCII.jp デジタル |date=2008-04-14}}</ref><ref name="asahi20120301">{{Cite news
|title =【京大・折田先生像】我こそ自由の体現者
|newspaper = 朝日新聞デジタル
|date = 2012-03-01
|author =
|url = http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201202290075.html
|accessdate = 2017-01-22<!--
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20170202012833/http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201202290075.html
|archivedate = 2017-02-02-->
}}</ref>
* 肩に自転車を掛け、「私も入ってます!!」と張り紙のされた'''サイクリング部勧誘バージョン'''
* 女性用下着を顔につけ、「フォオオオ」と書き込まれた'''[[究極!!変態仮面|変態仮面]]バージョン'''
* 全体にダンボールによって作られた[[モアイ|モアイ像]]を被された'''モアイバージョン'''
<div style="float:right;width:10em;margin-left:0.5em;padding:0.5em;border:1px solid #000;font-weight:bold;background-color:#fff">
<div style="text-indent:1em;margin:8px 0px;">折田彦市先生は、第三高等学校の校長として京大の創設に尽力し、京大に自由の学風を築くために多大な功績を残した人です。 どうかこの像を汚さないで下さい。</div>
<div style="text-align:right;margin:8px 0px;">総合人間学部</div>
</div>
これに対し、1994年から大学は一旦銅像を清掃し、横に右記のような立て看板を立てて学生に落書きを止めるよう要請した。しかしこの立て看板に対抗して、「この像を汚さないで」と銅像に早速落書きされた。以後も'''[[アンナミラーズ]]のウェイトレスバージョン'''、'''[[ウルトラマンゼアス]]バージョン'''、「お父様、お母様、今まで育ててくれてありがとう。今日、私…お嫁に行きます」と張り紙のされた'''花嫁バージョン'''など衣装や被り物が数多く制作された。こうした銅像に対する落書き・いたずらは構内整備を機に折田先生像が撤去される1997年3月まで続いた<ref name="asahi20120301" /><ref name="gigazine20080229" />。
== 銅像撤去後のオブジェ制作 ==
[[画像:MrOrita 2011 02.JPG|thumb|2011年は「偽物」まで出現した]]
度重なるいたずらを理由に大学側は銅像を総合人間学部図書館の地下に収納する措置を採ったため、1997年3月限りで銅像そのものは姿を消すこととなった。このため本来の銅像や台座に対して何かを描き加えたり装着したりするということはなされなくなったが、それに代わって独自のオブジェが制作され、折田像が元あった場所に展示される事態となった。展示にあたっては像(オブジェ)のみならず、台座および像の取り扱いに関する注意書きの立看板も含めて折田像がかつて設置されていた状況を模倣する[[パロディ]]へとエスカレートするようになった。
折田先生像撤去後すぐに『[[北斗の拳]]』の[[ラオウ]]を模した'''漢の生き様バージョン'''が設置された。その他にも'''[[あしたのジョー|力石徹]]バージョン'''<ref name="ASCII200804141"/>、'''[[勇者王ガオガイガー|スターガオガイガー]]バージョン'''、さらには'''[[快傑ズバット]]'''像など、さまざまな新企画が示された。
=== 2000年代 ===
2002年には場所を総合人間学部図書館前に移し、[[風の谷のナウシカ#蟲|王蟲]]を連れたナウシカを模した'''[[風の谷のナウシカ]]バージョン'''<ref name="asahi20120301" /><ref>『朝日新聞』2012年(平成24年)2月22日付大阪本社夕刊3面。</ref>、M16のモデルガンを構えた'''[[ゴルゴ13]]バージョン'''<ref name="ASCII200804141" /> などが製作された。像だけでなく、横の「落書きしないように」との看板もキャラクターに合わせ文言を変えて模倣するのが先生像撤去後の特徴の一つである。
それも2003年7月頃に撤去されていたが、2004年2月の入試期間前後に[[ひょっこりひょうたん島]]の'''サンデー先生バージョン'''が作られ、復活した。そして、同年7月には再び撤去された。2005年2月下旬には場所を吉田南構内正門付近に移し、新たに[[Dr.スランプ]]のキャラクターを模した'''[[Dr.スランプの登場人物#オカカウメ星|スッパマン]]バージョン'''が出現したが同年5月下旬に撤去された。
2006年2月中旬、折田大仏と題された像が設置されたが、後日何者かに大仏は破壊された。同年2月下旬、[[ちびまる子ちゃん]]のキャラクターを模した'''[[ちびまる子ちゃんの登場人物#まる子のクラスメイト|永沢くん]]バージョン'''が出現し、同年3月25日に撤去された。
2007年2月下旬、[[不二家]]のマスコットキャラクターを模した'''[[ポコちゃん]]バージョン'''が出現したが、同年3月19日未明に何者かにより破壊され翌日に撤去。その後は大学側で保管されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.z.k.kyoto-u.ac.jp/news.cgi?type=information&row_id=2097 |publisher=京都大学 高等教育研究開発推進機構 |title=「折田先生像」について |accessdate=2011-02-26}}</ref>。
2008年2月下旬、[[アンパンマン]]の登場キャラクターを模した'''[[アンパンマンの登場人物一覧#てんどんまん|てんどんまん]]バージョン'''が出現した<ref name="gigazine20080229">{{Cite news |url=http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080229_orita_sensei_tendonman/ |title=京都大学入試シーズンの風物詩・折田先生像、今年は「てんどんまん」 |publisher=[[GIGAZINE]] |date=2008-02-29}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008022500094 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080604000206/http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008022500094 |archivedate=2008-06-04 |title=「てんどんまん」に大変身 京大の折田先生像 受験生を出迎え |publisher=[[京都新聞]]Web News |date=2008-02-25}}</ref>。
2009年2月下旬、[[仮面ライダーV3]]の登場キャラクターを模した'''[[ライダーマン]]バージョン'''が出現した<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009022500077&genre=G1&area=K00 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090227125528/http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009022500077&genre=G1&area=K00 |archivedate=2009-02-27|title=京大、「ライダーマン」がお出迎え 国公立大入試の二次試験始まる |publisher=京都新聞Web News |date=2009-02-25}}</ref>(ライダーマンに変身する[[結城丈二]]は[[京都大学大学院工学研究科・工学部|京都大学工学部]]出身という設定である)。
=== 2010年代 ===
2010年2月25日、『[[ポケットモンスター]]』の登場キャラクターを模した'''[[タケシ (ポケットモンスター)|タケシ]]バージョン'''が出現した<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100225000092&genre=G1&area=K00 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100228160547/http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100225000092&genre=G1&area=K00 |archivedate=2010-02-28 |title=今年はポケモン「タケシ」京大・折田先生像 |publisher=京都新聞Web News |date=2010-02-25}}</ref>。
2011年2月25日、[[グラクソ・スミスクライン]]の総合感冒薬「コンタック」のキャラクターを模した'''Mr. CONTACバージョン'''が出現した<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110225000084 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110228024042/http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110225000084 |archivedate=2011-02-28 |title=京大「合格」効用あり!? 折田先生像 受験生出迎え |publisher=京都新聞Web News |date=2011-02-25}}</ref>。横に掲げられた看板の声明は、Mr.CONTAC の声を務める[[笑福亭笑瓶]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://glaxosmithkline.co.jp/press/press/2010_07/P1000650.html |title=1日2回の総合感冒薬「新コンタック®かぜ総合」 新TVCM 「コンコン秘書篇」|publisher= グラクソ・スミスクライン |date=2010-09-13 |accessdate=2011-02-26}}</ref> の名義で出された。なお、これに先立つ24日には、にせほるんという [[Twitter]] の [[インターネットボット|bot]]<ref>[http://twitter.com/nisehorn Twitter-にせほるん]</ref>を模した折田先生像のパロディが何者かによって設置されたが、27日までに撤去された。
2012年2月25日、地上デジタル放送化のマスコットキャラクターである'''[[地デジカ]]バージョン'''<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20120225000044 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120225155211/http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20120225000044 |archivedate=2012-02-25 |title=地デジカ、受験生を出迎え 京大「折田先生像」 |publisher=京都新聞Web News |date=2012-02-25}}</ref>が出現した。看板の声明は、同じく地上波デジタル放送推進のプロモーションを務めた[[草彅剛]]の韓国語読みである[[チョナン・カン]]名義で出された。
2013年2月25日、[[ロッテ]]のチョコレート菓子・[[トッポ (菓子)|TOPPO]]の販売促進キャラクターである'''ノッポトッポちゃんバージョン'''<ref>{{Cite news |url=http://kyoto-np.co.jp/education/article/20130225000079 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130225081713/http://kyoto-np.co.jp/education/article/20130225000079 |archivedate=2013-02-25 |title=ノッポトッポが受験生お出迎え 京大恒例「折田先生像」|publisher=京都新聞Web News |date=2013-02-25}}</ref>が出現した。看板の声明はTOPPOのテレビコマーシャルに出演した経験のある[[長瀬智也]]の名義で出された。
2014年2月25日、[[森永製菓]]の[[チョコボール]]のマスコットキャラクターである'''[[キョロちゃん]]バージョン'''<ref>{{Cite web|和書
|url = http://gigazine.net/news/20140225-orita-sensei-kyoto-u/
|title = 京大の自由の象徴・折田先生像、2014年は「キョロちゃん」になって出現
|publisher = GIGAZINE
|date = 2014-02-25
|accessdate = 2014-02-25
}}</ref>が出現した。看板の声明はチョコボールの「エンゼル」名義で出された。
2015年2月25日には漫画「[[サザエさん]]」に登場する[[磯野カツオ]]の親友、'''[[サザエさんの登場人物#中島弘|中島弘]]バージョン'''が出現。なお、像の肩には小さなカツオ像が、像の後ろ側には小さなタマの像があった。看板の声明は[[フグ田サザエ|サザエ]]名義で出された<ref>{{Cite web|和書
|url = https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1502/25/news070.html
|title = 京大「折田先生像」、今年はサザエさんの中島くん 受験生あおるアニメ看板も
|publisher = ねとらぼ
|date = 2015-02-25
|accessdate = 2015-02-25
}}</ref>。この年は本部構内の時計台前のクスノキに映画[[アナと雪の女王]]に登場する「オラフ」の小さな人形を多数吊るした「折フ先生の森」と称するオブジェも登場し、看板ではなく張り紙ではあったが、教養部名義で声明文も掲出された。
2016年2月25日、[[任天堂]]の[[ゲームソフト]]である[[星のカービィシリーズ]]の主人公キャラクターである'''[[カービィ]]バージョン'''が出現した。像の後ろ側にはピンク色が共通しているためなのか、小さな[[桂ヒナギク]]のフィギュアがあった。看板の声明はカービィのライバルである「[[メタナイト]]」名義で出された。看板裏の写真は[[AV女優]]の[[上原亜衣]]のポートレート写真が貼られた。
2017年2月25日には、お笑い芸人である'''[[コウメ太夫]]'''<ref group="注">偽告示文では小梅太夫表記だが、2009年以降はコウメ太夫に改名している。</ref>'''バージョン'''が出現した<ref>{{Cite news |url=https://karasuma.keizai.biz/headline/2767/ |title=京大入試の風物詩「折田先生像」今年も出現 受験生ら迎える |location=京都 |publisher=[[みんなの経済新聞ネットワーク |烏丸経済新聞]] |date=2017-02-25}}</ref>。看板の声明は「[[狩野英孝]]」名義で張り出されていた。さらに、その横には京都大学からの告示に似せた偽告示文が掲示されており、発出者はよく読むと京都大学ではなく「京都太夫」を称する謎の人物によるものであった。また「折田先生」の名称が、「告示文からの追求から逃れるため」として「川田先生」と改称させられていた。
2018年2月25日、[[任天堂]]のゲームシリーズである[[どうぶつの森シリーズ]]の登場キャラクターである'''リセットさんバージョン'''が出現した<ref>{{Cite news |url=https://karasuma.keizai.biz/headline/3125/ |title=京都大学に「折田先生像」 受験生ら迎える |publisher=[[みんなの経済新聞ネットワーク|烏丸経済新聞]] |date=2018-02-25}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASL2T4S6WL2TPLZB00C.html |title=京大入試恒例の「折田先生像」、今年はリセットさん |publisher=朝日新聞 |date=2018-02-26}}</ref>。看板の声明は同ゲームの登場キャラクターである「みしらぬネコ」名義で出された。看板裏の写真は[[声優]]の[[小松未可子]]のポートレート写真が貼られた。さらに、その横には偽告示文が掲示されていたが、発出者は「折田彦市役所」となっていた。
2019年2月25日には、[[平成]]という[[元号]]を発表した当時の[[内閣官房長官]]である、'''[[小渕恵三]]バージョン'''が製作された。通常折田先生像が設置されていた場所に入試案内板が設置されていたため、別の場所に設置されている<ref name="ねとらぼ20190225">{{Cite news |title=京大“折田先生像”、2019年版は「平成」掲げる小渕恵三 「オルガ像」や「AR版」も登場し現実も仮想もカオスに |publisher=ねとらぼ |date=2019-02-25 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1902/25/news117.html |accessdate=2019-02-25}}</ref>。看板の声明は時の[[内閣総理大臣]]である[[竹下登]]の名前で出されたが、後に大学当局によって撤去された<ref name=":1" />。また、その手前には、偽折田先生像としてアニメ[[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ]]のキャラクターであるオルガ・イツカの像「オルガ団長像」が設置され、花束や見切り品の[[鉄火丼]]を始めとした数々の品が供えられていたが、これも後に大学当局によって撤去された<ref name=":1" /><ref name=":0">{{Cite news |title=京大入試 「折田先生像」の隣に「オルガ像」あらわる 「止まるんじゃねぇぞ…」動き続けるもあえなく撤去 |date=2019-02-25 |archivedate=2019-02-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190225094137/https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0225/blnews_190225_5811050776.html |url=https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0225/blnews_190225_5811050776.html |publisher=BIGLOBEニュース |accessdate=2019-02-25}}</ref>。偽看板も同様に設置され、声明は同作のヒロインであるクーデリア・藍那・バーンスタイン名義であった<ref name=":1" />。なお、「オルガ団長像」については、台車が取り付けられた移動式であった<ref name=":0" />。さらには、[[拡張現実|AR]]折田先生像も“設置”され、先述の入試案内板付近にバーチャルの折田先生像が設置された。AR折田先生像については、[[マリオシリーズ]]のキャラクター[[ヘイホー]]および、同年の[[大学入試センター試験|センター試験]]英語リスニング第1問目選択肢に掲載された「[[リスニング四天王]]」が確認されている<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h313ar |title=H31_3 拡張現実 |accessdate=2019-02-26 |publisher=折田先生を讃える会}}</ref>。
翌日26日には、前日の撤去にもかかわらず新たな「折田先生像」が設置され、先述の小渕恵三官房長官とオルガ・イツカを合体させ、「鉄華」の字を掲げた「オルガ先生像」が設置された<ref name=":3">{{Cite news |title=京大入試「オルガ像」と「折田先生像」が悪魔合体 鉄華掲げる「オルガ先生像」になって復活 |date=2019-02-26 |publisher=BIGLOBEニュース|url=https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0226/blnews_190226_1705970067.html |accessdate=2019-02-26}}</ref>。看板の声明は[[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ]]のキャラクターであるマクギリス・ファリドであるが、文中の「折田彦市先生」の名称が「オルガ彦市先生」名義であり、前日の2枚の声明を混ぜた内容だった<ref name=":3" />。このほかに「折田先生の墓」と書かれた、台座のみの構造物も設置された<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h314owari |title=H31-4 折田先生の墓 |accessdate=2019-02-26 |publisher=折田先生を讃える会}}</ref>。看板の声明文については、こちらは複数設置であった<ref name=":4" />。
=== 2020年代 ===
2020年2月25日には、[[TBSテレビ|TBS]]系番組『[[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]]』に登場する人形である'''スーパーヒトシ君バージョン'''が出現した<ref name=京都新聞2020>{{Cite web|和書|title=「スーパーひとしくん」の折田先生像登場 かつてあった銅像模した像も |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/170493 |date=2020-02-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200930025345/https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/170493|archivedate=2020-09-30|accessdate=2022-11-24 |publisher=京都新聞}}</ref>。看板の声明は番組レギュラーである[[野々村真]]名義で出された。設置場所は昨年と同様。また、別の場所には本物の折田先生像を模した像も出現した<ref name="京都新聞2020" />。
2021年2月25日には、児童書・テレビアニメ『[[かいけつゾロリ]]』の主人公・ゾロリの弟子である'''ノシシバージョン'''が出現した<ref name="京都新聞2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/514907 |title=今年の折田先生像はゾロリの子分「まじめにふまじめな学風に多大な功績」 京大入試始まる |publisher=京都新聞 |date=2021-02-25 |accessdate=2021-02-25}}</ref>。看板の声明は原作者である[[原ゆたか]]名義で出され、原作の表記に倣い「折田彦市'''せんせ'''」表記となっていた。別の場所には折田先生像の顔出し看板が設けられたほか、ゲーム『[[ファイナルファンタジーシリーズ]]』の登場キャラクターである[[セフィロス]]をモチーフにした「[[田代まさし|田代]]先生像」、2020年10月に就任した当時の京都大学総長である湊長博と同姓の[[バーチャルYouTuber]]である[[湊あくあ]]をモチーフにした「湊総長像」も出現した。
2022年2月25日には、[[スタジオジブリ]]制作の映画『[[崖の上のポニョ]]』の主人公である'''ポニョバージョン'''が出現した<ref name="京都新聞2022">{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/738841 |title=京大「折田先生像」、今年は「ポニョ」 大学当局は「撤去要請」の張り紙 |publisher=京都新聞 |date=2022-02-25 |accessdate=2022-02-25}}</ref>。看板の声明はポニョの父親であるフジモト名義で出された。別の場所にはゲーム『[[けものフレンズ3]]』の登場キャラクターであるミーアキャットをモチーフにした「ミーア先生像」、[[バーチャルYouTuber]]事務所[[にじさんじ]]所属の不破湊をモチーフにした「湊総長像」も出現した。
2023年2月25日には、漫画「[[ONE PIECE]]」の登場キャラクターである'''[[トニートニー・チョッパー]]バージョン'''が出現した<ref name="京都新聞2023">{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/978726 |title=京都大学入試で恒例の折田先生像、今年は「チョッパー」 受験生にエール |publisher=京都新聞 |date=2023-02-25 |accessdate=2023-02-25}}</ref>。看板の声明は漫画の主人公である[[モンキー・D・ルフィ|ルフィ]]名義で出された。別の場所には漫画「[[メイドインアビス]]」の登場キャラクターであるボンドルドをモチーフにした「黎明卿像」、漫画「[[ぼっち・ざ・ろっく!]]」の主人公である後藤ひとりをモチーフにした「後藤先生像」も出現した。
=== 看板裏写真 ===
「京都大学からのお願い」看板の裏には女性芸能人の写真が貼られることが恒例になっている。異例のものとしては2014年の[[艦隊これくしょん -艦これ-]]のキャラクター、島風の[[フィギュア]]写真<ref name="讃える会キョロちゃん">{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h26-kyorochan |title=H26 キョロちゃん |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>、2016年の[[AV女優]]である[[上原亜衣]]、2021年のスポーツ選手の[[本田真凛]]がある。2017年には、メディアミックス『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』のキャラクターである[[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物|島村卯月]]が登場し、女性芸能人という設定の非実在人物が初登場となった<ref name="讃える会小梅">{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h29_koume |title=小梅太夫 |publisher= 折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>。なお、アイドルマスターシリーズは、2019年にも[[アイドルマスター ミリオンライブ!|アイドルマスターミリオンライブ!]]のキャラクターである[[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#桜守歌織|桜守歌織]]が登場した。2020年には初の男性芸能人が登場した。
=== 「再建」後の一覧 ===
{|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2"
!年度!!像のモチーフ!!付随した制作物!!看板の声明者!!看板裏写真!!並立した折田先生像
|-
|2000年<ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/sono4 |title=H12 ラオウ|publisher= 折田先生を讃える会|accessdate=2021-02-25}}</ref>||[[ラオウ]]<br />([[北斗の拳]])|| ||[[武論尊]]|| -|| -
|-
|2002年<ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/naushika |title=H14 ナウシカ|publisher= 折田先生を讃える会|accessdate=2021-02-25}}</ref>||[[風の谷のナウシカの登場人物#ナウシカ|ナウシカ]]<br />([[風の谷のナウシカ]])||[[風の谷のナウシカ#設定|王蟲]]<br />(風の谷のナウシカ)||総合人間学部|| -|| -
|-
|2003年||[[ゴルゴ13 (架空の人物)|ゴルゴ13]]<br />([[ゴルゴ13]])|| ||[[さいとう・たかを]]||[[安倍なつみ]]|| -
|-
|2004年||[[ひょっこりひょうたん島#主要キャラクター|サンデー先生]]<br />([[ひょっこりひょうたん島]])|| ||[[ドン・ガバチョ]]||[[上戸彩]]|| -
|-
|2005年||[[Dr.スランプの登場人物#オカカウメ星|スッパマン]]<br />([[Dr.スランプ]])|| || -||[[石原さとみ]]|| -
|-
|2006年||[[ちびまる子ちゃんの登場人物#レギュラー(クラスメイト)|永沢 君男]]<br />([[ちびまる子ちゃん]])||[[ちびまる子ちゃんの登場人物#レギュラー(クラスメイト)|藤木君]]<br />(ちびまる子ちゃん)||[[さくらももこ]]||[[長澤まさみ]]||大仏<ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/daibutu |title=H18_1 大仏 |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>
|-
|2007年||[[ポコちゃん]]<br />([[不二家]]のキャラクター)|| ||黒塗り||[[綾瀬はるか]]|| -
|-
|2008年||[[アンパンマンの登場人物一覧#どんぶりまんトリオ|てんどんまん]]<br />([[それいけ!アンパンマン]])|| ||[[やなせたかし]]||[[北乃きい]]|| -
|-
|2009年||[[結城丈二|ライダーマン]]<br />([[仮面ライダーV3]])|| ||[[風見志郎|V3]]||[[優木まおみ]]|| -
|-
|2010年||[[タケシ (アニメポケットモンスター)|タケシ]]<br />([[ポケットモンスター]])|| ||[[ポケモンの一覧 (52-101)#イワーク|イワーク]]||[[広末涼子]]|| -
|-
|2011年||Mr.CONTAC<br />([[グラクソ・スミスクライン]]のキャラクター)|| ||[[笑福亭笑瓶]]||[[加藤あい]]||にせほるん
|-
|2012年||[[地デジカ]]<br />([[地上デジタル放送推進協会]]のキャラクター)||ニコニコテレビちゃん<br />([[ニコニコ動画]]のキャラクター)||[[草彅剛|チョナン・カン]]||[[本仮屋ユイカ]]|| -
|-
|2013年<ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/2013toppo |title=H26 ノッポトッポちゃん |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>||ノッポトッポちゃん<br />([[ロッテ]]のキャラクター)||きのことたけのこ<br />([[明治製菓]]のキャラクター)||[[長瀬智也]]||[[岩佐真悠子]]|| -
|-
|2014年<ref name="讃える会キョロちゃん" />||[[キョロちゃん]]||連装砲ちゃん<br />([[艦隊これくしょん -艦これ-]])||[[チョコボール|エンゼル]]||[[峯岸みなみ]]<br />[[艦隊これくしょん -艦これ-#登場キャラクター|島風]]|| -
|-
|2015年<ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h27_nakajimakun |title=H27 なかじまくん |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>||[[サザエさんの登場人物#中島弘|中嶋弘]]<br />([[サザエさん]])||[[サザエさんの登場人物#磯野家・フグ田家|磯野カツオ]]<br />(サザエさん)<br />[[サザエさんの登場人物#タマ|タマ]]<br />(サザエさん)<br />[[チンアナゴ]]||[[サザエさんの登場人物#磯野家・フグ田家|サザエ]]||[[菅野美穂]]|| -
|-
|2016年<ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h28_kirby |title=H28 カービィ |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>||[[カービィ]]<br />([[星のカービィ]])|| ||[[メタナイト]]||[[上原亜衣]]|| -
|-
|2017年<ref name="讃える会小梅" />||[[コウメ太夫]]|| ||[[狩野英孝]]||[[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#島村卯月|島村卯月]]|| -
|-
|2018年<ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h30-risettosan |title=H30 リセットさん |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>||リセットさん<br />([[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]])||[[メジェド]]<br />([[古代エジプト神話]])||みしらぬネコ||[[小松未可子]]|| -
|-
|2019年<ref name="ねとらぼ20190225" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h311obchi |title=H31_1 小渕恵三先生 |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref>||[[小渕恵三]]<br />(第49代[[内閣官房長官]])|| ||[[竹下登]]||[[黒木華]]<br />[[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#桜守歌織|桜守歌織]]||[[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ#登場人物|オルガ・イツカ]]<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/freedomorita/h312orga |title=H31_2 オルガ |publisher=折田先生を讃える会 |accessdate=2021-02-25}}</ref><br />オルガ先生<ref name=":3" /><br />AR折田先生像<ref name=":2" /><br />折田先生の墓(台座)<ref name=":4" />
|-
|2020年<ref name="京都新聞2020" />||スーパーヒトシ君<br />([[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]])||[[板東英二]]の写真||[[野々村真]]||[[朝田淳弥]]<br />[[池田エライザ]]||折田先生像<ref name="京都新聞2020" />
|-
|2021年<ref name="京都新聞2021" />||ノシシ<br />([[かいけつゾロリ]])|| ||[[原ゆたか]]||[[本田真凜]]||[[顔ハメ看板]]<br />[[セフィロス]]像<br />[[湊あくあ]]総長像
|-
|2022年<ref name="京都新聞2022" />||ポニョ<br />([[崖の上のポニョ]])|| ||フジモト||[[齊藤なぎさ]]||[[けものフレンズ|ミーア先生]]像<br />[[ROF-MAO|不破湊]]総長像
|-
|2023年<ref name="京都新聞2023" />||[[トニートニー・チョッパー]]<br />([[ONE PIECE]])|| ||[[モンキー・D・ルフィ|ルフィ]]||[[小野寺梓]]<br />[[葉山舞鈴]]||[[メイドインアビス|黎明卿]]像<br />[[ぼっち・ざ・ろっく!#登場人物・バンド|後藤先生]]像
|}
== 対応 ==
=== 大学当局の対応 ===
京都大学当局は当初、この風習を事実上黙認していた(後述)。2008年に登場したてんどんまんバージョンに対しては、京都大学高等教育研究開発推進機構が大学ホームページを通して公式声明を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.z.k.kyoto-u.ac.jp/news.cgi?type=information&row_id=2192|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080303042003/http://www.z.k.kyoto-u.ac.jp/news.cgi?type=information&row_id=2192 |publisher=京都大学 高等教育研究開発推進機構 |title=平成20年度版 折田先生像について |archivedate=2008-03-03 |accessdate=2021-02-25}}</ref>。例年置かれる像の出来映えを賞賛し、折田先生像を「吉田南構内の風物詩の一つ」として事実上黙認する構えを見せた。また、いつも何者かに折田先生像が破壊される事実に対しては「創作物を壊すという行為は、最も悪質で下劣で野蛮な行為」と厳しく断じた。一方で『[[アンパンマン]]』シリーズの著作権を保有する企業から問い合わせがあり、撤去要求はなかったが著作物のイメージを損ねないよう要請があったことを明かした。これを受けて機構は制作者が自主的に像を撤去することを呼びかけ、それが叶わぬときは誰の目にも劣化したことが明らかになった際に機構が撤去するとした<ref name="gigazine20080229" /><ref>{{Cite news |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/29/news114.html |title=「てんどんまん」像は残った 京大と著作権者の“粋な計らい” |publisher=ITmedia News |date=2008-02-29}}</ref>。
しかし2018年度以降、京大当局は大学周辺・構内における設置物への規制・管理を強化した([[京都大学の立て看板]]参照)<ref>{{Cite news |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/6641 |title=京大のタテカン規制、学生ら「人間の鎖」で抗議 復活訴える |newspaper=京都新聞 |date=2019-04-15 |accessdate=2020-02-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/15347 |title=京都大学の立て看板(タテカン)をギャラリーで展示。京都市立芸大で企画展「Re/place」開催|work=美術手帳 |date=2018-05-16 |accessdate=2020-02-26}}</ref>。2019年頃から京大当局は折田先生像に対する早期の撤去を警告するようになった<ref>{{Cite web|和書|title = 折田先生を讃える会 - R03 ノシシ|url = https://sites.google.com/site/freedomorita/r03|accessdate = 2023-1-21}}</ref>。2019年の折田先生像は設置された当日の昼に撤去されている<ref name="ねとらぼ20190225" />。2022年には午前中のうちに、「この工作物を撤去されない場合は処分します」と書かれた撤去要請の紙が京大当局によって貼られている<ref>{{Cite web|和書|title = 京大恒例「折田先生像」 今年は「ポニョ」登場|url = https://www.sankei.com/article/20220225-SJK5ZVAZGZOLPHHQ5WZRLBVRPM/|website = 産経ニュース|publisher = 産経ニュース|date = 2022-2-25|accessdate = 2023-1-21}}</ref>。
=== 折田彦市一族の対応 ===
折田彦市の曾孫は、朝日新聞の2012年の取材に対し、「折田一族全員、落書きや現状を知っています。誰も怒っていません」とコメントしている<ref name="asahi20120301" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[折田彦市]]
* [[京都大学]]
* [[京都大学の立て看板]]
* [[ヴァンダリズム]]
* [[石垣カフェ]]
* [[人魚姫の像]] - 政治的メッセージなどためにたびたび装飾されている。
* [[ウェリントン公爵騎馬像 (グラスゴー)]] - 像の頭に[[三角コーン]]を被せるという悪戯が伝統化している。
* [[:en:Student prank|Student prank]]{{En icon}} - 欧米の大学で学生によって行われる悪戯。
* [[慈湖紀念雕塑公園]]
* [[:en:Hacks at the Massachusetts Institute of Technology|MIT hack]]{{En icon}} - [[マサチューセッツ工科大学]]での学生の悪戯。
* [[ジェレミ・ベンサム|ベンサムのオートアイコン]]
* [[芸術テロ]]
* [[京都大学吉田寮]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
*[https://sites.google.com/site/freedomorita/ 折田先生を讃える会] - 京都大学人間・環境学研究科で[[助教]]を務める角山雄一の運営によるサイト
*[http://freedomorita.web.fc2.com/histry02.html 先生(像)年表]
*[http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/ 三高私説]
{{京都大学}}
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[[Category:京都大学]]
[[Category:旧制第三高等学校]]
[[Category:いたずら]]
[[Category:日本のサブカルチャー]]
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チューリング・テスト
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チューリング・テスト(英: Turing test)は、アラン・チューリングが提案した、ある機械が「人間的」かどうかを判定するためのテストである。これが「知的であるかかどうか」とか「人工知能であるかどうか」とかのテストであるかどうかは、「知的」あるいは「(人工)知能」の定義、あるいは、人間が知的であるか、人間の能力は知能であるか、といった定義に依存する。
アラン・チューリングが1950年に『Computing Machinery and Intelligence』の中で書いたもので、以下のように行われる。人間の判定者が、一人の(別の)人間と一機の機械に対して通常の言語での会話を行う。このとき人間も機械も人間らしく見えるように対応するのである。これらの参加者はそれぞれ隔離されている。判定者は、機械の言葉を音声に変換する能力に左右されることなく、その知性を判定するために、会話はたとえばキーボードとディスプレイのみといった、文字のみでの交信に制限しておく。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械はテストに合格したことになる。
このテストについては、もっともだと納得する人もいれば、そうでない人もいた。後に実際に人間と「会話」するコンピュータ・プログラムが現れた後における知見としては、「ELIZA効果」などのように、先入観や情況などによって単純な(「機械的」な)反応をするだけのものにも人間はだまされてしまう場合があるということがわかり、それは結果的にはこのテストの発想への反例と考えられることがある。サールは、そのような一見人工知能のように見えるものを"弱いAI"とした。他にもサールは「中国語の部屋」という、表面的にはこのテストと同じであるにもかかわらず、直観的にはその示す所に納得できないようなアレンジを提示している。
2014年6月7日、ロンドンのテストに「13歳の少年」の設定で参加したロシアのチャットボットであるユージーン・グーツマン(英語版)が、30%以上の確率で審査員らに人間と間違われて史上初めての「合格者」となった。
1956年に生まれた人工知能の分野 は、哲学的にかなり根が深い問題であった。機械は思考できるのかという問題には長い歴史の末に、心に関する二元論と唯物論にはっきりと分けられていた。二元論の立場からすれば、心は形而上の(もしくは少なくとも形而上の性質を持っている)存在であり、したがって単に物理的な文脈では説明できないことになる。一方、唯物論の立場からすれば、心は物理的に説明できることから、心を人工的に作りだせる可能性はあることになる。
1936年、哲学者のアルフレッド・エイヤーは、他者の心(英語版)に関して、「他者が自分と同様の意識体験を持っているとなぜ分かるのか」という有名な哲学的疑問を検討した。エイヤーは、『言語・真理・論理』の中で、意識を持つ人間と意識を持たない機械を区別する方法を以下のように提案している。「私にとって、意識を持っているように見える対象が、本当は意識をもつ存在ではなく、単なるダミーや機械であると判断する根拠は、意識の有無を判定するための経験的なテスト(empirical tests)のどれかに失格した、ということしかない 」この意見は、チューリング・テストにとてもよく似ているが、チューリングがエイヤーによるこの哲学上の古典の内容を知っていたかどうかは定かでない。
イギリスの研究者たちは、AI研究という分野が確立する1956年より10年ほど前から「機械の知性」を研究していた。これはレイショウ・クラブ(英語版)のメンバーの共通のトピックであった。レイショウ・クラブは、イギリスのサイバネティクス・電子工学研究者による非公式の研究者グループであり、チューリングテストの名前の由来であるアラン・チューリングもメンバーの一人だった。
特にチューリングは、少なくとも1941年から機械の知性の概念に取り組んでおり、1947年に「コンピュータの知性(computer intelligence)」について触れているのは、知られている限りで最も早い。論文『知性を持つ機械』(Intelligent Machinery)の中で、チューリングは「機械に知性を持ったふるまいができるかどうかという問題」 について検討しており、この中で後に発表するチューリングテストの先駆けとも思われる提案をしている。
チェスでなかなかいい試合をするペーパー・マシーンを作るのは難しくない。さて、実験の被験者としてA、B、Cの三人を用意しよう。AとCはチェスがあまり上手くない。Bはペーパー・マシーンのオペレーターである。......手を伝えるための仕掛けを施した二つの部屋を使う。そしてC対AもしくはC対ペーパー・マシーンでゲームを行う。Cは自分の相手がどちらなのか、なかなか分からないかもしれない。
このように、チューリングは論文『計算する機械と知性』(Computing Machinery and Intelligence)を発表する以前から、数年間人工知能の可能性を検討していたのである。とはいえ、発表された論文 で、この概念のみに焦点を当てたのは、『計算する機械と知性』が最初である。
チューリングは、1950年の論文『計算する機械と知性』を「私は、『機械は思考できるか』という問題の検討を提案する」という主張で始めている。チューリングが強調しているように、このような問題への伝統的なアプローチは、「機械」と「知性」の定義から入ることである。だが、チューリングはあえてそうせず、代わりに問題を「緊密に関係しており、比較的厳密な言葉で表現されている」新しい問題に転換した。つまり、チューリングの提案は、「機械は思考できるか」という問題を「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか 」に換えることであった。チューリングの主張するこの新しい問題の利点は「人間の、物理的な能力(capacity)と知的な能力の間の、公平で厳しい境界線」を引く、ということであった。
この方法を説明するために、チューリングは、「模倣ゲーム」というテストを提案している。模倣ゲームとは、本来、男性と女性が別々の部屋に入り、ゲストはいくつかの質問を書き、それに対するタイプ打ちの回答を読んで、どちらが男性でどちらが女性か当てるというゲームである。このゲーム中の男性は、ゲストに女性と思わせるのが目的となる。チューリングは、以下のように作り直した模倣ゲームを提案している。
ここで問題だが、「このゲームにおけるAの役を、機械がやったらどうなるだろうか」質問者は、男性と女性でゲームを行ったときと同じくらいの頻度で、間違った判断をするだろうか。この問題が、元々の「機械は思考できるか」という問題を代替するのである。
論文の後部で、チューリングは、二者間で行う「同じ」図式を提案しており、ここでは質問者はコンピュータか人間の、どちらかとだけ会話する。このどちらの図式も、現在一般に知られているチューリングテストと正確には一致しない。チューリングは1952年に3つめの図式を提唱している。この、チューリングがBBCのラジオ放送で語ったバージョンでは、審査員はコンピューターにいくつか質問をする。コンピューターの役割は、審査員たちの多くを本物の人間(man) と信じ込ませることである。
チューリングの論文では、9つの反論が想定されており、論文が初めて発表されてから出された、人工知能に関する主要な議論がこの中にすべて含まれている。
ブレイ・ウィットビー(Blay Whitby)は、チューリングテストに関する歴史の中に、以下の4つの大きなターニングポイントを挙げている。
ELIZAは、ユーザーが打ったコメントからキーワードを探し出して動作する。キーワードが見つかれば、ユーザーのコメントを変換するルールが適用され、その結果の文章が返される。キーワードが見つからなければ、ELIZAは一般的な返事をするか、もしくは前に行った言葉を繰り返す。さらに、ワイゼンバウムは来談者中心療法のセラピストのふるまいを真似るようにELIZAを作った。つまりELIZAを「実世界のことをほとんど何も知らないかのようにふるまえる」ようにしたのである。これらのテクニックにより、ワイゼンバウムのプログラムはいくらかの人を騙し、実際の人間としゃべっていると思わせることができたのである。「ELIZAが人間『じゃない』なんて......とても納得できない」という被験者もいた。このように、ELIZAはチューリングテストを通過できるプログラムの(おそらく最初の)一つであることが多くの人によって主張された。
コルビーのPARRYは「感情傾向(attitude)のあるELIZA」と呼ばれた。PARRYはワイゼンバウムと(高度ではあるかもしれないが)同様の手法を使って偏執性統合失調症のふるまいを再現するよう試みたものである。研究を実証するため、PARRYは1970年代初期にチューリングテストのバリエーション試験を受けた。まずテレタイプ端末を通して、経験豊富な精神科医に、本物の患者とPARRYが動作するコンピュータの精神分析をさせた。次に別の精神科医のグループ33人に、この会話記録を見せる。そして、この二つのグループにどちらの「患者」が人間でどちらがプログラムか判別させた。この実験では、正しく判別できた精神科医は48パーセントだった。当てずっぽうで決めたのと同様の数字である。
ELIZAもPARRYも、厳密なチューリングテストを通過できたというわけではないが、ELIZA・PARRY、そして同様のソフトウェアは、チューリングテストを通過できるようなソフトウェアが作られる可能性を示唆している。さらに重要なのは、そのチューリングテストを通過できるソフトウェアに含まれるのは、データベースと単純なルールの適用だけ、ということもありうることだ。
ジョン・サールは、1980年の論文『心・脳・プログラム』(Minds, Brains, and Programs)の中でチューリングテストに対する反論を提出した。これは「中国語の部屋」として知られる思考実験である。サールは、単に理解していない記号を処理しているだけでも(ELIZAのような)ソフトはチューリングテストに合格できると述べた。理解していないのならば、人間がやっているのと同じ意味で「思考」しているとはいえないということだ。したがって、チューリングのもともとの提案とは逆に、チューリングテストは機械が思考できるということを証明するものではないとサールは結論している。
サールその他の心の哲学の研究者が提出した議論は、知性の本質、知性を持った機械の可能性、チューリングテストの価値についての、1980年代・1990年代を通しての激しい議論の火種となった。
1990年は、チューリングの『計算機械と知性』が最初に発表されてから40周年であったため、チューリングテストが再注目された。この年、2つの重要なイベントが起こった。1つ目は、4月にサセックス大学で開かれたチューリング会議(Turing Colloquium)である。このとき様々な分野の学者・研究者が集まってチューリングテストの過去・現在・未来について話し合った。2つ目は、毎年1回のローブナー賞大会の設立である。
ローブナー賞では、チューリングテストを実際に行う場を毎年提供している。最初の大会は、1991年の11月に開かれた。ローブナー賞はヒュー・ローブナーによって開催され、アメリカマサチューセッツ州のケンブリッジ行動研究センター(the Cambridge Center for Behavioral Studies)が2003年まで運営していた。ローブナーが語ったように、大会の目的はAI研究を発展させることであり、また「それ(チューリングテスト)を実際にやろうとする人が誰もいなかった」ことも開催理由の一部である。
銀賞(聴覚)と金賞(聴覚・視覚)の受賞はまだない。だが、エントリーした中で、審判の意見による、「最も人間らしい(most human)」会話上のふるまいを見せたコンピュータシステムに毎年銅賞が贈られている。Artificial Linguistic Internet Computer Entity (A.L.I.C.E. 人工言語インターネットコンピュータ体)は近年3回(2000、2001、2004)銅賞を受賞している。学習型AIのJabberwackyは2005年と2006年に受賞している。Jabberwackyの制作者たちは、テストの通過のため、テストの前に人間のプレイヤーと長く会話しておき、テストの際はこのプレイヤーの真似に専念する、という個人化バリエーションの機能を導入した。
ローブナー賞で試験されるのは会話上の知性である。受賞プログラムは典型的な会話ボットであり、人工話者(英語版)である。初期のローブナー賞では会話の制限がルールとなっていた。エントリーされたプログラムや隠れた人間が話すのは一つの話題のみで、同様に、質問者も一回につき一行のみに制限された質問を行っていた。この会話制限のルールは1995年のローブナー賞では取り払われ、様々な長さの会話がなされるようになった。サリー大学で行われた2003年のローブナー賞では、質問者はプログラムもしくは人間の相手と5分間話すことができた。2004年から2007年は、20分以上会話に時間をとってもよいことになった。2008年には質問の制限時間は1組あたり5分になった。これは主催者のケビン・ウォーリック(Kevin Warwick )とまとめ役のヒューマ・シャー(Huma Shah )が、長い会話をしたからといって、人工話者がほんとうに進歩したとはいえないと考えたためであった。皮肉にも、2008年の受賞プログラムのエルボットは人間を真似るものではなかった。個性はロボット自身のものだったにもかかわらず、人間と並行比較して、3人の質問者を騙し、人間だと思わせた。
ローブナー賞により、チューリングテストの現実性や、テストを実行する意義について新たに議論が巻き起こった。エコノミスト誌は、「artificial stupidity」(人工馬鹿)というタイトルの記事中で、最初のローブナー賞受賞プログラムの受賞理由(少なくとも理由の一部)が、「人間らしいタイプミスを真似」できたからだと書いている(チューリングは、出力にミスを加えれば、プログラムはゲームのより良い「プレイヤー」になると勧めている)。チューリングテストの通過に挑戦するのは他の実のある研究の邪魔になるだけだと言うものもいる。ローブナー賞の初期に第二の問題が起こった。「単純な(unsophisticated)」質問者を使ったため、知性と思われる何らかの要素よりも、器用に作られたごまかしが通過できたということである。ローブナー賞は2004年から質問者の中に哲学者・計算機科学者・ジャーナリストを配している。
2005年11月、サリー大学の主催で人工話者の開発者たちの1日集会が初めて開催され、ロビー・ガーナー、リチャード・ウォレス、ロロ・カーペンターらの、ローブナー賞受賞者も出席した。招聘された講演者は、デビッド・ハミル、ヒュー・ローブナー、ヒューマ・シャー など。
2008年、レディング大学で開かれたローブナー賞と並行して、AISB(Artificial Intelligence and Simulation of Behaviour人工知能および行動シミュレーション)研究会が、チューリングテストについて話し合う1日シンポジウムを開いた。主催はジョン・バーンデン、マーク・ビショップ、ヒューマ・シャー、ケビン・ウォーリック。講演者はイギリス王立研究所理事のスーザン・グリーンフィールド(Baroness Susan Greenfield)、Selmer Bringsjord、チューリングの伝記作家アンドリュー・ホッジズ、認識科学者オーウェン・ホラント などである。正式なチューリングテストに関する合意は得られなかったが、Bringsjordは相当に大きな賞を設ければ、チューリングテストの通過は早くなるだろうと語った。
チューリングテストの初期バージョンには主に少なくとも3つがある。この内2つは『計算機械と知性』で述べられたもので、最後の1つはソール・トライガー(Saul Traiger)が「標準解釈」と述べた バージョンである。この「標準解釈」が、チューリングが述べた通りのものなのか、チューリングの論文のミスリードに基づくものなのかには議論があるが、これらの3つのバージョンは同値であると見なされておらず、それぞれ長所と短所がはっきりしている。
先述したように、チューリングは3人のプレイヤーからなるただのパーティーゲームについて書いている。プレイヤーAは男性、プレイヤーBは女性、プレイヤーC(質問者)の性別はどちらでもよい。模倣ゲームの中で、プレイヤーCはプレイヤーA・Bのどちらも見ることができず、文字の書かれたメモを通してしかコミュニケーションできない。プレイヤーAとBにいくつか質問することで、プレイヤーCはどちらが男性でどちらが女性かの判断を試みる。プレイヤーAの役は、質問者を騙して間違わせるのが役目で、一方プレイヤーBは質問者を手助けして正しく答えさせるのが役目である。
チューリングはコンピュータがプレイヤーAの役をするのはどうかと提案した。これがスーザン・G・スターレットが「原型模倣ゲームテスト(Original Imitation Game Test)」 と呼ぶテストである。したがってコンピュータの役目は、女性になりきって質問者を騙し、間違った答えを出させることである。コンピュータが成功したかどうかは、プレイヤーAがコンピュータの場合の結果とプレイヤーAが男性だった場合を比較して判断する。チューリングが述べたところでは、もし「男性と女性でゲームを行ったときと同じくらいの頻度で、(対コンピュータのゲームで)間違った判断をする」 ならば、そのコンピュータには知性があると言える可能性がある。
チューリングの1950年の論文で第二のバージョンが発表された。原型模倣ゲームテストと同様に、プレイヤーAの役はコンピュータが演じるが、プレイヤーBの役が女性ではなくman(男性、人間)になっている点が異なる。
このバージョンでは、プレイヤーA(コンピュータ)とプレイヤーBはどちらも質問者を騙して間違った答えを出させようとしている。
チューリングテストは単に「コンピュータは質問者を騙してコンピュータを女性と思いこませるられるか」を確かめるのが目的ではなく、「コンピュータは人間の真似をできるか」を確かめるのが目的である、という共通見解があり、――この見解がチューリングの意図通りのものなのかという議論もあるが、スターレットはこの見解を信じており、これに合わせて第1・第2のバージョンをまとめている。トライガーなど、この見解を否定しているものもいる――この共通見解から「標準解釈」とされる解釈が導き出された。この標準解釈のバージョンでは、プレイヤーAはコンピューターでプレイヤーBは人間(性別はどちらでもよい)である。質問者の役目は、どちらが男性でどちらが女性であるかを当てることでなく、どちらがコンピュータでどちらが人間かを当てるものである。
どの解釈がチューリングの意図したものなのかについては議論があった。スターレットは、チューリングの1950年の論文にある二つのテストは、チューリング自身の発言とは逆に、同値ではないとしている。パーティーゲームを用いて正解頻度を比べるテストは「原型模倣ゲームテスト(Original Imitation Game Test)」と呼ばれ、一方で人間および機械と会話して、人間が(会話相手が機械かどうか)裁定するテストは「標準チューリングテスト(Standard Turing Test)」と呼ばれる。スターレットは、これを模倣ゲームの第二バージョンではなく「標準解釈(standard interpretation)」であると述べている。標準チューリングテストには、批判者も指摘する問題がいくつかあるが、定義上の原型模倣ゲームテストは標準チューリングテストと決定的な違いがあるため、それらの問題の多くに免疫があるという。原型模倣ゲームテストは判断基準を設定するために人間のふるまいを使用するけれども、人間のふるまいを真似できるかは判断基準にしていないのである。人間(男)が原型模倣ゲームテストに落ちることもありうるが、落ちることによって臨機応変の才に欠けた人が分かる、ということは知性のテストとして望ましいというのがスターレットの主張である。つまり原型模倣ゲームテストでは「会話の振る舞いのシミュレーション」ではなく、知性が伴う臨機応変の才が必要になる、ということだ。この原型模倣ゲームテストの基本構造は、非言語の模倣ゲームにも使える。
他の著作家 もチューリングは模倣ゲーム自体をテストであると主張していたと解釈しているが、パーティーゲームとしての模倣ゲームを使ってチューリングが提案したテスト(スターレットの言う原型模倣ゲームテスト)に関して、ゲーム1ラウンドあたりの成功数ではなく、(パーティーゲームとしての)模倣ゲームとの成功頻度の比較を判断基準に据える、というチューリングの言説をどう考えるかは特定できていない。
参加者のひとりがコンピュータだとテストの質問者は知っているのかどうか、チューリングは明言しなかった。原型模倣ゲームテストに関しては、チューリングはプレイヤーAが機械と入れ替わると言っただけで、プレイヤーCにこの交代が知らされるとは書いていない。F・D・ヒルフ、S・ウェーバー、A・D・KramerがPARRYをテストした時は、機械の存在を知らせていた。質問者はインタビュー対象のひとりかそれ以上機械がいるのか知るまでもないとしている。しかし、Ayse Sayginなどが強調しているように、この問題はチューリングテストの実装および結果に大きな違いを産む。
チューリングテストの強みの理由は、何について話してもよいという点である。チューリングは「我々が努力しようと思うようなどんな分野だろうと、その導入にはQ&A方式が適切であるように思える」と記している。John Haugelandは「言葉を理解する、というのは不十分だ。話題を理解しなくてはならない」と補足している。
うまくデザインされたチューリングテストを通過するには、機械は自然言語、常識的推論、知識、学習を活用しなければならない。またチューリングテストを映像入力や対象を取り入れる「入り口」を含めた形に拡張することもできる。こうなると機械は映像やロボット工学の技術も導入しなければならなくなる。これらによって、人工知能の主な問題はほぼ全て出そろう のである。
これらの強みや評価にもかかわらず、チューリングテストはいくつかの立場から批判されている。
チューリングテストは、「知性」や「知覚力」があるかをテストするものではなく、コンピューターが人間を真似ることができるかをテストするもので、明らかに擬人的である。チューリングテストが一般的に言う知性(intelligence)を試験できない理由は二つある。
スチュアート・J・ラッセルとピーター・ノーヴィグは、チューリングテストは、その擬人観のせいで知性を持つ機械の工学上の課題としてあまり実用的ではなくなってしまっていると主張した。ラッセルらは例えを用いて、「航空力学のテキストは、その部門における目標を『他の鳩を騙せるくらいに、鳩と全く同じように飛ぶ機械を作ること』と定義したりしない」と説明している。この非実用性のために、最も普遍的な解釈のチューリングテストへの挑戦は、2005年の時点では学術的・商業的な取り組みの主流からはあまり目を向けられていない。人工知能関係の分野での研究は、現在もっと小規模かつ特定された目標に注目している。
ラッセルとノーヴィグは、プログラムをテストする方法はもっと簡単なものがあるため、「人工知能の研究家は、チューリングテストの合格にほとんど注意を払っていない」と書いている。例えば、人と機械を入れたチャットルームでまず質問するというような遠回しな方法よりも、直接命令を与えたほうが簡単なのだ。チューリングは、自らが考えたテストがAIプログラムにおける実際の日常的な指標として用いられるとはまったく意図していなかった。チューリングは、人工知能の哲学を語る際の助けとなる、明確で理解しやすい例を提示しようとしたのである。
チューリングテストはまた、対象のふるまいのみを試すという点で明らかに行動主義・機能主義である。チューリングテストに合格する機械が人間の会話上の振る舞いをシミュレートできるのは、ただ巧妙に作られたルールに沿っているだけだから、ということもありうる。この文脈における有名な反論は、ジョン・サールの中国語の部屋と、ネド・ブロックのブロックヘッドの二つがある。
知性の作業定義としてチューリングテストが有効であったとしても、チューリングテストによって機械に意識(consciousness)や自主性(intentionality)があるかを測れるとは限らない。たとえば知性と意識がそれぞれ別個の概念だったとしたら、チューリングテストは知性のある機械と知性のある人間との間にある、鍵となる相違を見いだせないということもありうる。
先述したものも含め、チューリングテストには数多くの別バージョンが議論されてきた。
対象者や、それぞれの役目における機械・人間を反転させたチューリングテストは、反転チューリングテストと呼ばれる。これには精神分析学者のウィルフレッド・バイオン(英語版)の著作 で触れられた例がある。バイオンは特に、心と別の心の出会いが生む「嵐(storm)」に注目していた。ロバート・D・ヒンシェルウッド(R. D. Hinshelwood)はこの考えを進めて、心は「装置(apparatus)を認識する心」であるとし、このことがチューリングテストのある種の「補足」になりうると述べている。この場合の課題は、「関わっている相手が人間か別のコンピュータなのか、コンピュータ自身が判断できるか」になる。これはチューリングが試みた問題の拡張であり、人間らしく見えるように「考える」機械を見つけ出すためには、より高い水準の機械が必要となるであろう。
CAPTCHAは反転チューリングテストの一種である。ウェブサイト上で何らかの行動をする許可を得る前に、ユーザーはねじれた画像上の文字列を見せられ、その文字列を入力するように求められる。これは自動システムによるサイトへの嫌がらせを防ぐことを目的としている。歪んだ画像を読み込んで再処理するほどの進んだソフトが存在しない(少なくとも通常のユーザーには利用できない)ため、このような処理ができるシステムは人間だけである、ということがCAPTCHAの原理になっている。つまり裏を返せば、(おそらくだが)人工知能がいまだ完成されていないということになる。
専門家チューリングテストと呼ばれるバージョンでは、機械の反応は特定の領域の専門家によって比較される。脳や体のスキャン技術が進歩すれば、人間のデータ要素をコンピュータシステムに複製することも可能になるかもしれない。
不滅性テストと呼ばれるバリエーションは、人間の主要な個性が、オリジナルの人物と区別できないくらいそっくりに複製できたかを調べるチューリングテストである。
最小知性シグナルテストは、クリス・マッケンストリー(Chris McKinstry)が提唱したチューリングテストのバリエーションである。YES/NOの返答のみが許可される。このテストは主に、人工知能プログラムと対照するための統計データを集めるために使われる。
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"text": "チューリング・テスト(英: Turing test)は、アラン・チューリングが提案した、ある機械が「人間的」かどうかを判定するためのテストである。これが「知的であるかかどうか」とか「人工知能であるかどうか」とかのテストであるかどうかは、「知的」あるいは「(人工)知能」の定義、あるいは、人間が知的であるか、人間の能力は知能であるか、といった定義に依存する。",
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"text": "アラン・チューリングが1950年に『Computing Machinery and Intelligence』の中で書いたもので、以下のように行われる。人間の判定者が、一人の(別の)人間と一機の機械に対して通常の言語での会話を行う。このとき人間も機械も人間らしく見えるように対応するのである。これらの参加者はそれぞれ隔離されている。判定者は、機械の言葉を音声に変換する能力に左右されることなく、その知性を判定するために、会話はたとえばキーボードとディスプレイのみといった、文字のみでの交信に制限しておく。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械はテストに合格したことになる。",
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"text": "1936年、哲学者のアルフレッド・エイヤーは、他者の心(英語版)に関して、「他者が自分と同様の意識体験を持っているとなぜ分かるのか」という有名な哲学的疑問を検討した。エイヤーは、『言語・真理・論理』の中で、意識を持つ人間と意識を持たない機械を区別する方法を以下のように提案している。「私にとって、意識を持っているように見える対象が、本当は意識をもつ存在ではなく、単なるダミーや機械であると判断する根拠は、意識の有無を判定するための経験的なテスト(empirical tests)のどれかに失格した、ということしかない 」この意見は、チューリング・テストにとてもよく似ているが、チューリングがエイヤーによるこの哲学上の古典の内容を知っていたかどうかは定かでない。",
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"text": "特にチューリングは、少なくとも1941年から機械の知性の概念に取り組んでおり、1947年に「コンピュータの知性(computer intelligence)」について触れているのは、知られている限りで最も早い。論文『知性を持つ機械』(Intelligent Machinery)の中で、チューリングは「機械に知性を持ったふるまいができるかどうかという問題」 について検討しており、この中で後に発表するチューリングテストの先駆けとも思われる提案をしている。",
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"text": "ローブナー賞では、チューリングテストを実際に行う場を毎年提供している。最初の大会は、1991年の11月に開かれた。ローブナー賞はヒュー・ローブナーによって開催され、アメリカマサチューセッツ州のケンブリッジ行動研究センター(the Cambridge Center for Behavioral Studies)が2003年まで運営していた。ローブナーが語ったように、大会の目的はAI研究を発展させることであり、また「それ(チューリングテスト)を実際にやろうとする人が誰もいなかった」ことも開催理由の一部である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "銀賞(聴覚)と金賞(聴覚・視覚)の受賞はまだない。だが、エントリーした中で、審判の意見による、「最も人間らしい(most human)」会話上のふるまいを見せたコンピュータシステムに毎年銅賞が贈られている。Artificial Linguistic Internet Computer Entity (A.L.I.C.E. 人工言語インターネットコンピュータ体)は近年3回(2000、2001、2004)銅賞を受賞している。学習型AIのJabberwackyは2005年と2006年に受賞している。Jabberwackyの制作者たちは、テストの通過のため、テストの前に人間のプレイヤーと長く会話しておき、テストの際はこのプレイヤーの真似に専念する、という個人化バリエーションの機能を導入した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ローブナー賞で試験されるのは会話上の知性である。受賞プログラムは典型的な会話ボットであり、人工話者(英語版)である。初期のローブナー賞では会話の制限がルールとなっていた。エントリーされたプログラムや隠れた人間が話すのは一つの話題のみで、同様に、質問者も一回につき一行のみに制限された質問を行っていた。この会話制限のルールは1995年のローブナー賞では取り払われ、様々な長さの会話がなされるようになった。サリー大学で行われた2003年のローブナー賞では、質問者はプログラムもしくは人間の相手と5分間話すことができた。2004年から2007年は、20分以上会話に時間をとってもよいことになった。2008年には質問の制限時間は1組あたり5分になった。これは主催者のケビン・ウォーリック(Kevin Warwick )とまとめ役のヒューマ・シャー(Huma Shah )が、長い会話をしたからといって、人工話者がほんとうに進歩したとはいえないと考えたためであった。皮肉にも、2008年の受賞プログラムのエルボットは人間を真似るものではなかった。個性はロボット自身のものだったにもかかわらず、人間と並行比較して、3人の質問者を騙し、人間だと思わせた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ローブナー賞により、チューリングテストの現実性や、テストを実行する意義について新たに議論が巻き起こった。エコノミスト誌は、「artificial stupidity」(人工馬鹿)というタイトルの記事中で、最初のローブナー賞受賞プログラムの受賞理由(少なくとも理由の一部)が、「人間らしいタイプミスを真似」できたからだと書いている(チューリングは、出力にミスを加えれば、プログラムはゲームのより良い「プレイヤー」になると勧めている)。チューリングテストの通過に挑戦するのは他の実のある研究の邪魔になるだけだと言うものもいる。ローブナー賞の初期に第二の問題が起こった。「単純な(unsophisticated)」質問者を使ったため、知性と思われる何らかの要素よりも、器用に作られたごまかしが通過できたということである。ローブナー賞は2004年から質問者の中に哲学者・計算機科学者・ジャーナリストを配している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "2005年11月、サリー大学の主催で人工話者の開発者たちの1日集会が初めて開催され、ロビー・ガーナー、リチャード・ウォレス、ロロ・カーペンターらの、ローブナー賞受賞者も出席した。招聘された講演者は、デビッド・ハミル、ヒュー・ローブナー、ヒューマ・シャー など。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2008年、レディング大学で開かれたローブナー賞と並行して、AISB(Artificial Intelligence and Simulation of Behaviour人工知能および行動シミュレーション)研究会が、チューリングテストについて話し合う1日シンポジウムを開いた。主催はジョン・バーンデン、マーク・ビショップ、ヒューマ・シャー、ケビン・ウォーリック。講演者はイギリス王立研究所理事のスーザン・グリーンフィールド(Baroness Susan Greenfield)、Selmer Bringsjord、チューリングの伝記作家アンドリュー・ホッジズ、認識科学者オーウェン・ホラント などである。正式なチューリングテストに関する合意は得られなかったが、Bringsjordは相当に大きな賞を設ければ、チューリングテストの通過は早くなるだろうと語った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "チューリングテストの初期バージョンには主に少なくとも3つがある。この内2つは『計算機械と知性』で述べられたもので、最後の1つはソール・トライガー(Saul Traiger)が「標準解釈」と述べた バージョンである。この「標準解釈」が、チューリングが述べた通りのものなのか、チューリングの論文のミスリードに基づくものなのかには議論があるが、これらの3つのバージョンは同値であると見なされておらず、それぞれ長所と短所がはっきりしている。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "先述したように、チューリングは3人のプレイヤーからなるただのパーティーゲームについて書いている。プレイヤーAは男性、プレイヤーBは女性、プレイヤーC(質問者)の性別はどちらでもよい。模倣ゲームの中で、プレイヤーCはプレイヤーA・Bのどちらも見ることができず、文字の書かれたメモを通してしかコミュニケーションできない。プレイヤーAとBにいくつか質問することで、プレイヤーCはどちらが男性でどちらが女性かの判断を試みる。プレイヤーAの役は、質問者を騙して間違わせるのが役目で、一方プレイヤーBは質問者を手助けして正しく答えさせるのが役目である。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "チューリングはコンピュータがプレイヤーAの役をするのはどうかと提案した。これがスーザン・G・スターレットが「原型模倣ゲームテスト(Original Imitation Game Test)」 と呼ぶテストである。したがってコンピュータの役目は、女性になりきって質問者を騙し、間違った答えを出させることである。コンピュータが成功したかどうかは、プレイヤーAがコンピュータの場合の結果とプレイヤーAが男性だった場合を比較して判断する。チューリングが述べたところでは、もし「男性と女性でゲームを行ったときと同じくらいの頻度で、(対コンピュータのゲームで)間違った判断をする」 ならば、そのコンピュータには知性があると言える可能性がある。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "チューリングの1950年の論文で第二のバージョンが発表された。原型模倣ゲームテストと同様に、プレイヤーAの役はコンピュータが演じるが、プレイヤーBの役が女性ではなくman(男性、人間)になっている点が異なる。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "このバージョンでは、プレイヤーA(コンピュータ)とプレイヤーBはどちらも質問者を騙して間違った答えを出させようとしている。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "チューリングテストは単に「コンピュータは質問者を騙してコンピュータを女性と思いこませるられるか」を確かめるのが目的ではなく、「コンピュータは人間の真似をできるか」を確かめるのが目的である、という共通見解があり、――この見解がチューリングの意図通りのものなのかという議論もあるが、スターレットはこの見解を信じており、これに合わせて第1・第2のバージョンをまとめている。トライガーなど、この見解を否定しているものもいる――この共通見解から「標準解釈」とされる解釈が導き出された。この標準解釈のバージョンでは、プレイヤーAはコンピューターでプレイヤーBは人間(性別はどちらでもよい)である。質問者の役目は、どちらが男性でどちらが女性であるかを当てることでなく、どちらがコンピュータでどちらが人間かを当てるものである。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "どの解釈がチューリングの意図したものなのかについては議論があった。スターレットは、チューリングの1950年の論文にある二つのテストは、チューリング自身の発言とは逆に、同値ではないとしている。パーティーゲームを用いて正解頻度を比べるテストは「原型模倣ゲームテスト(Original Imitation Game Test)」と呼ばれ、一方で人間および機械と会話して、人間が(会話相手が機械かどうか)裁定するテストは「標準チューリングテスト(Standard Turing Test)」と呼ばれる。スターレットは、これを模倣ゲームの第二バージョンではなく「標準解釈(standard interpretation)」であると述べている。標準チューリングテストには、批判者も指摘する問題がいくつかあるが、定義上の原型模倣ゲームテストは標準チューリングテストと決定的な違いがあるため、それらの問題の多くに免疫があるという。原型模倣ゲームテストは判断基準を設定するために人間のふるまいを使用するけれども、人間のふるまいを真似できるかは判断基準にしていないのである。人間(男)が原型模倣ゲームテストに落ちることもありうるが、落ちることによって臨機応変の才に欠けた人が分かる、ということは知性のテストとして望ましいというのがスターレットの主張である。つまり原型模倣ゲームテストでは「会話の振る舞いのシミュレーション」ではなく、知性が伴う臨機応変の才が必要になる、ということだ。この原型模倣ゲームテストの基本構造は、非言語の模倣ゲームにも使える。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "他の著作家 もチューリングは模倣ゲーム自体をテストであると主張していたと解釈しているが、パーティーゲームとしての模倣ゲームを使ってチューリングが提案したテスト(スターレットの言う原型模倣ゲームテスト)に関して、ゲーム1ラウンドあたりの成功数ではなく、(パーティーゲームとしての)模倣ゲームとの成功頻度の比較を判断基準に据える、というチューリングの言説をどう考えるかは特定できていない。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "参加者のひとりがコンピュータだとテストの質問者は知っているのかどうか、チューリングは明言しなかった。原型模倣ゲームテストに関しては、チューリングはプレイヤーAが機械と入れ替わると言っただけで、プレイヤーCにこの交代が知らされるとは書いていない。F・D・ヒルフ、S・ウェーバー、A・D・KramerがPARRYをテストした時は、機械の存在を知らせていた。質問者はインタビュー対象のひとりかそれ以上機械がいるのか知るまでもないとしている。しかし、Ayse Sayginなどが強調しているように、この問題はチューリングテストの実装および結果に大きな違いを産む。",
"title": "チューリングテストの別バージョン"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "チューリングテストの強みの理由は、何について話してもよいという点である。チューリングは「我々が努力しようと思うようなどんな分野だろうと、その導入にはQ&A方式が適切であるように思える」と記している。John Haugelandは「言葉を理解する、というのは不十分だ。話題を理解しなくてはならない」と補足している。",
"title": "テストの強み"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "うまくデザインされたチューリングテストを通過するには、機械は自然言語、常識的推論、知識、学習を活用しなければならない。またチューリングテストを映像入力や対象を取り入れる「入り口」を含めた形に拡張することもできる。こうなると機械は映像やロボット工学の技術も導入しなければならなくなる。これらによって、人工知能の主な問題はほぼ全て出そろう のである。",
"title": "テストの強み"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "これらの強みや評価にもかかわらず、チューリングテストはいくつかの立場から批判されている。",
"title": "テストの弱み"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "チューリングテストは、「知性」や「知覚力」があるかをテストするものではなく、コンピューターが人間を真似ることができるかをテストするもので、明らかに擬人的である。チューリングテストが一般的に言う知性(intelligence)を試験できない理由は二つある。",
"title": "テストの弱み"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "スチュアート・J・ラッセルとピーター・ノーヴィグは、チューリングテストは、その擬人観のせいで知性を持つ機械の工学上の課題としてあまり実用的ではなくなってしまっていると主張した。ラッセルらは例えを用いて、「航空力学のテキストは、その部門における目標を『他の鳩を騙せるくらいに、鳩と全く同じように飛ぶ機械を作ること』と定義したりしない」と説明している。この非実用性のために、最も普遍的な解釈のチューリングテストへの挑戦は、2005年の時点では学術的・商業的な取り組みの主流からはあまり目を向けられていない。人工知能関係の分野での研究は、現在もっと小規模かつ特定された目標に注目している。",
"title": "テストの弱み"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ラッセルとノーヴィグは、プログラムをテストする方法はもっと簡単なものがあるため、「人工知能の研究家は、チューリングテストの合格にほとんど注意を払っていない」と書いている。例えば、人と機械を入れたチャットルームでまず質問するというような遠回しな方法よりも、直接命令を与えたほうが簡単なのだ。チューリングは、自らが考えたテストがAIプログラムにおける実際の日常的な指標として用いられるとはまったく意図していなかった。チューリングは、人工知能の哲学を語る際の助けとなる、明確で理解しやすい例を提示しようとしたのである。",
"title": "テストの弱み"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "チューリングテストはまた、対象のふるまいのみを試すという点で明らかに行動主義・機能主義である。チューリングテストに合格する機械が人間の会話上の振る舞いをシミュレートできるのは、ただ巧妙に作られたルールに沿っているだけだから、ということもありうる。この文脈における有名な反論は、ジョン・サールの中国語の部屋と、ネド・ブロックのブロックヘッドの二つがある。",
"title": "テストの弱み"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "知性の作業定義としてチューリングテストが有効であったとしても、チューリングテストによって機械に意識(consciousness)や自主性(intentionality)があるかを測れるとは限らない。たとえば知性と意識がそれぞれ別個の概念だったとしたら、チューリングテストは知性のある機械と知性のある人間との間にある、鍵となる相違を見いだせないということもありうる。",
"title": "テストの弱み"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "先述したものも含め、チューリングテストには数多くの別バージョンが議論されてきた。",
"title": "バリエーション"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "対象者や、それぞれの役目における機械・人間を反転させたチューリングテストは、反転チューリングテストと呼ばれる。これには精神分析学者のウィルフレッド・バイオン(英語版)の著作 で触れられた例がある。バイオンは特に、心と別の心の出会いが生む「嵐(storm)」に注目していた。ロバート・D・ヒンシェルウッド(R. D. Hinshelwood)はこの考えを進めて、心は「装置(apparatus)を認識する心」であるとし、このことがチューリングテストのある種の「補足」になりうると述べている。この場合の課題は、「関わっている相手が人間か別のコンピュータなのか、コンピュータ自身が判断できるか」になる。これはチューリングが試みた問題の拡張であり、人間らしく見えるように「考える」機械を見つけ出すためには、より高い水準の機械が必要となるであろう。",
"title": "バリエーション"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "CAPTCHAは反転チューリングテストの一種である。ウェブサイト上で何らかの行動をする許可を得る前に、ユーザーはねじれた画像上の文字列を見せられ、その文字列を入力するように求められる。これは自動システムによるサイトへの嫌がらせを防ぐことを目的としている。歪んだ画像を読み込んで再処理するほどの進んだソフトが存在しない(少なくとも通常のユーザーには利用できない)ため、このような処理ができるシステムは人間だけである、ということがCAPTCHAの原理になっている。つまり裏を返せば、(おそらくだが)人工知能がいまだ完成されていないということになる。",
"title": "バリエーション"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "専門家チューリングテストと呼ばれるバージョンでは、機械の反応は特定の領域の専門家によって比較される。脳や体のスキャン技術が進歩すれば、人間のデータ要素をコンピュータシステムに複製することも可能になるかもしれない。",
"title": "バリエーション"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "不滅性テストと呼ばれるバリエーションは、人間の主要な個性が、オリジナルの人物と区別できないくらいそっくりに複製できたかを調べるチューリングテストである。",
"title": "バリエーション"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "最小知性シグナルテストは、クリス・マッケンストリー(Chris McKinstry)が提唱したチューリングテストのバリエーションである。YES/NOの返答のみが許可される。このテストは主に、人工知能プログラムと対照するための統計データを集めるために使われる。",
"title": "バリエーション"
}
] |
チューリング・テストは、アラン・チューリングが提案した、ある機械が「人間的」かどうかを判定するためのテストである。これが「知的であるかかどうか」とか「人工知能であるかどうか」とかのテストであるかどうかは、「知的」あるいは「(人工)知能」の定義、あるいは、人間が知的であるか、人間の能力は知能であるか、といった定義に依存する。
|
'''チューリング・テスト'''({{Lang-en-short|'''Turing test'''}})は、[[アラン・チューリング]]が提案した、ある[[機械]]が「[[人間]]的」かどうかを判定するためのテストである。これが「[[知恵|知的]]であるかかどうか」とか「[[人工知能]]であるかどうか」とかのテストであるかどうかは、「知的」あるいは「(人工)知能」の定義、あるいは、人間が知的であるか、人間の能力は[[知能]]であるか、といった定義に依存する。
==概要==
アラン・チューリングが1950年に『Computing Machinery and Intelligence』の中で書いたもので、以下のように行われる。人間の判定者が、一人の(別の)人間と一機の機械に対して通常の言語での会話を行う。このとき人間も機械も人間らしく見えるように対応するのである。これらの参加者はそれぞれ隔離されている。判定者は、機械の言葉を音声に変換する能力に左右されることなく、その知性を判定するために、会話はたとえばキーボードとディスプレイのみといった、文字のみでの交信に制限しておく<ref group="注釈">チューリングは元々、1950年に可能だった数少ないテキストのみの交信である[[テレタイプ端末]]を想定していた。</ref>。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械はテストに合格したことになる。
このテストについては、もっともだと納得する人もいれば、そうでない人もいた。後に実際に人間と「会話」するコンピュータ・プログラムが現れた後における知見としては、「[[ELIZA効果]]」などのように、先入観や情況などによって単純な(「機械的」な)反応をするだけのものにも人間はだまされてしまう場合があるということがわかり、それは結果的にはこのテストの発想への反例と考えられることがある。[[ジョン・サール|サール]]は、そのような一見人工知能のように見えるものを"[[強いAIと弱いAI|弱いAI]]"とした。他にもサールは「[[中国語の部屋]]」という、表面的にはこのテストと同じであるにもかかわらず、直観的にはその示す所に納得できないようなアレンジを提示している。
2014年6月7日、[[ロンドン]]のテストに「13歳の少年」の設定で参加したロシアのチャットボットである{{仮リンク|ユージーン・グーツマン|en|Eugene Goostman}}が、30%以上の確率で審査員らに人間と間違われて史上初めての「合格者」となった<ref>AFP [https://www.afpbb.com/articles/-/3017239 露スパコンに「知性」、史上初のチューリングテスト合格] 2014年06月10日 10:35</ref><ref>[http://www.longbets.org/1#terms Long Bets - By 2029 no computer - or "machine intelligence" - will have passed the Turing Test]</ref><ref group="注釈">チューリングは、機械は2000年までにはチューリングテストに合格できるようになるだろうと予測していた。それどころか、チューリングは、2000年までに10億ビット(約119.2[[メビバイト]]、約120[[メガバイト]])のメモリがあれば、機械は5分間のテストで人間の審判の30%を騙せると予測していたのだ。そうなればもはや「考える機械(thinking machine)」という語は矛盾と考えられなくなるだろうし、また機械学習がすぐれた機械の構築の重要部分になりると予測しており、当時の人工知能研究者もこれを妥当であると考えていた。
:以前の数十年にわたる技術の指数関数的な成長を根拠に、[[未来学]]者の[[レイ・カーツワイル]]は、チューリングテストに合格できるコンピュータは、2020年ごろに作られるだろうと大まかに予測していた。 {{Harvnb|Kurzweil|1990}}
:[[ロングナウ財団|ロング・ベット・プロジェクト]]は、[[ミッチ・ケイパー]]とカーツワイルの間で交わされた、コンピュータが2029年までにチューリングテストに合格できるかについての1万ドルの賭けである。この賭けでは条件がかなり詳細に設定されている。</ref>。
[[File:Turing Test version 3.png|thumb|チューリングテストの「一般的解釈」。質問者であるプレイヤーCは、AとBどちらのプレイヤーがコンピュータでどちらが人間か回答しなければならない。質問者が回答のために使えるのは、文字上の質問に対する返事に限られる。]]
==歴史==
===哲学上の背景===
1956年に生まれた人工知能の分野<ref>{{Harvnb|Crevier|1993|pp=47-49}}{{Harvnb|Russell|Norvig|2003|p=17}}、{{Harvnb|Copeland|2003|p=1}}</ref> は、哲学的にかなり根が深い問題であった。機械は思考できるのかという問題には長い歴史の末に、心に関する二元論と唯物論にはっきりと分けられていた。二元論の立場からすれば、心は[[形而上学|形而上]]の(もしくは少なくとも[[性質二元論|形而上の性質]]を持っている<ref group="注釈">性質二元論の例としては[[クオリア]]を参照</ref>)存在であり、したがって単に物理的な文脈では説明できないことになる。一方、唯物論の立場からすれば、心は物理的に説明できることから、心を人工的に作りだせる可能性はあることになる<ref group="注釈">唯物論が人工的な心の可能性を「必然的に伴う」わけではない<!--現状日本語版に該当描写なし: (例:[[ロジャー・ペンローズ]]) -->。二元論も同様に、「必然的に排除する」わけではない(例:[[性質二元論]])。</ref>。
1936年、哲学者の[[アルフレッド・エイヤー]]は、{{仮リンク|他者の心|en|Problem of other minds}}に関して、「他者が自分と同様の意識体験を持っているとなぜ分かるのか」という有名な哲学的疑問を検討した。エイヤーは、『言語・真理・論理』の中で、意識を持つ人間と意識を持たない機械を区別する方法を以下のように提案している。「私にとって、意識を持っているように見える対象が、本当は意識をもつ存在ではなく、単なるダミーや機械であると判断する根拠は、意識の有無を判定するための経験的なテスト(empirical tests)のどれかに失格した、ということしかない<ref>''Language, Truth and Logic'' (p. 140), Penguin Books 2001</ref> 」この意見は、チューリング・テストにとてもよく似ているが、チューリングがエイヤーによるこの哲学上の古典の内容を知っていたかどうかは定かでない。
===チューリング===
[[イギリス]]の研究者たちは、AI研究という分野が確立する1956年より10年ほど前から「機械の知性」を研究していた。これは{{仮リンク|レイショウ・クラブ|en|Ratio Club}}のメンバーの共通のトピックであった。レイショウ・クラブは、イギリスの[[サイバネティクス]]・[[電子工学]]研究者による非公式の研究者グループであり、チューリングテストの名前の由来であるアラン・チューリングもメンバーの一人だった<ref>{{Harvnb|McCorduck|2004|p=95}}</ref>。
特にチューリングは、少なくとも1941年から機械の知性の概念に取り組んでおり<ref>{{Harvnb|Copeland|2003|p=1}}</ref>、1947年に「コンピュータの知性(computer intelligence)」について触れているのは、知られている限りで最も早い<ref>{{Harvnb|Copeland|2003|p=2}}</ref>。論文『知性を持つ機械』(Intelligent Machinery)の中で、チューリングは「機械に知性を持ったふるまいができるかどうかという問題<ref>{{Harvnb|Turing|1948|p=412}}</ref>」 について検討しており、この中で後に発表するチューリングテストの先駆けとも思われる提案をしている。
{{quote|
チェスでなかなかいい試合をするペーパー・マシーンを作るのは難しくない<ref group="注釈">1948年、大学の先輩だったD・G・チャンパーノウン([[:en:D. G. Champernowne|en:David Gawen Champernowne]] 経済学者)との研究のかたわら、チューリングはまだ存在しなかったコンピュータのためのチェス・プログラムを書き始めた。1952年には、プログラムを実行する処理能力を持ったコンピュータはなかったが、チューリングが一手につき30分かけてプログラムを再現したゲームを行っていた。このゲームは記録されており、プログラムはチューリングの同僚のアリック・グレニーに負けた。とはいえチャンパーノウンの妻との試合には勝ったといわれている。</ref>。さて、実験の被験者としてA、B、Cの三人を用意しよう。AとCはチェスがあまり上手くない。Bはペーパー・マシーンのオペレーターである。……手を伝えるための仕掛けを施した二つの部屋を使う。そしてC対AもしくはC対ペーパー・マシーンでゲームを行う。Cは自分の相手がどちらなのか、なかなか分からないかもしれない。
}}
このように、チューリングは論文『計算する機械と知性』(Computing Machinery and Intelligence)を発表する以前から、数年間人工知能の可能性を検討していたのである。とはいえ、発表された論文<ref group="注釈">『知性を持つ機械』はチューリングによって発表されたのではなく、1968年のC・R・エヴァンズ、A・D・J・ロバートソンによる『サイバネティクス:重要論文集』(Evans, C. R. & Robertson, A. D. J. (1968) ''Cybernetics: Key Papers'', University Park Press.)で初めて発表されたものである</ref> で、この概念のみに焦点を当てたのは、『計算する機械と知性』が最初である。
チューリングは、1950年の論文『計算する機械と知性』を「私は、『機械は思考できるか』という問題の検討を提案する」という主張で始めている<ref name="T433">{{Harvnb|Turing|1950|p=433}}</ref>。チューリングが強調しているように、このような問題への伝統的なアプローチは、「機械」と「知性」の[[定義]]から入ることである。だが、チューリングはあえてそうせず、代わりに問題を「緊密に関係しており、比較的厳密な言葉で表現されている」新しい問題に転換した<ref name=T433/>。つまり、チューリングの提案は、「機械は思考できるか」という問題を「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか<ref>{{Harvnb|Harnad|p=1}}</ref> 」に換えることであった。チューリングの主張するこの新しい問題の利点は「人間の、物理的な能力(capacity)と知的な能力の間の、公平で厳しい境界線」を引く、ということであった。
この方法を説明するために、チューリングは、「模倣ゲーム」というテストを提案している。模倣ゲームとは、本来、男性と女性が別々の部屋に入り、ゲストはいくつかの質問を書き、それに対するタイプ打ちの回答を読んで、どちらが男性でどちらが女性か当てるというゲームである。このゲーム中の男性は、ゲストに女性と思わせるのが目的となる。チューリングは、以下のように作り直した模倣ゲームを提案している。
{{quote|
ここで問題だが、「このゲームにおけるAの役を、機械がやったらどうなるだろうか」質問者は、男性と女性でゲームを行ったときと同じくらいの頻度で、間違った判断をするだろうか。この問題が、元々の「機械は思考できるか」という問題を代替するのである<ref name=1950Turing434>{{Harvnb|Turing|1950|p=434}}</ref>。
}}
論文の後部で、チューリングは、二者間で行う「同じ」図式を提案しており、ここでは質問者はコンピュータか人間の、どちらかとだけ会話する<ref>{{Harvnb|Turing|1950|p=446}}</ref>。このどちらの図式も、現在一般に知られているチューリングテストと正確には一致しない。チューリングは1952年に3つめの図式を提唱している。この、チューリングがBBCのラジオ放送で語ったバージョンでは、審査員はコンピューターにいくつか質問をする。コンピューターの役割は、審査員たちの多くを本物の人間(man)<ref group="注釈">チューリングはmanの意味を「男」とも「人間」とも明示していない。前者の場合は、この図式は模倣ゲームに近くなる。後者の場合は、現在言われているようなチューリングテストに近くなる。</ref>
と信じ込ませることである<ref>{{Harvnb|Turing|1952|pp=524-525}}</ref>。
チューリングの論文では、9つの反論が想定されており、論文が初めて発表されてから出された、人工知能に関する主要な議論がこの中にすべて含まれている<ref>{{Harvnb|Turing|1950}}。参考:{{Harvnb|Russell|Norvig|2003|p=948}}</ref><ref group="注釈">「チューリングは、人工知能の可能性に対して考えうる反論を幅広く検討した。このなかには、彼の論文が現れてから半世紀の間出されたものが、ほとんどすべて含まれていた。」</ref>。
===ELIZAとPARRY===
ブレイ・ウィットビー(Blay Whitby)は、チューリングテストに関する歴史の中に、以下の4つの大きなターニングポイントを挙げている。
*1950年の『計算機械と知性』の出版
*1966年の[[ジョセフ・ワイゼンバウム]]による[[ELIZA]]の発表
*1972年の{{仮リンク|ケネス・コルビー|en|Kenneth Colby}}の[[PARRY]]製作
*1990年のチューリング会議<ref>{{Harvnb|Whitby|1996|p=53}}</ref>
ELIZAは、ユーザーが打ったコメントからキーワードを探し出して動作する。キーワードが見つかれば、ユーザーのコメントを変換するルールが適用され、その結果の文章が返される。キーワードが見つからなければ、ELIZAは一般的な返事をするか、もしくは前に行った言葉を繰り返す<ref>{{Harvnb|Weizenbaum|1966|p=37}}</ref>。さらに、ワイゼンバウムは[[来談者中心療法]]のセラピストのふるまいを真似るようにELIZAを作った。つまりELIZAを「実世界のことをほとんど何も知らないかのようにふるまえる」ようにしたのである<ref name=Weizenbaum42>{{Harvnb|Weizenbaum|1966|p=42}}</ref>。これらのテクニックにより、ワイゼンバウムのプログラムはいくらかの人を騙し、実際の人間としゃべっていると思わせることができたのである。「ELIZAが人間『じゃない』なんて……とても納得できない」という被験者もいた<ref name=Weizenbaum42 />。このように、ELIZAはチューリングテストを通過できるプログラムの(おそらく最初の)一つであることが多くの人によって主張された。
コルビーのPARRYは「感情傾向(attitude)のあるELIZA」と呼ばれた<ref>{{Harvnb|Bowden|2006|p=370}}</ref>。PARRYはワイゼンバウムと(高度ではあるかもしれないが)同様の手法を使って[[偏執病|偏執性]][[統合失調症]]のふるまいを再現するよう試みたものである。研究を実証するため、PARRYは1970年代初期にチューリングテストのバリエーション試験を受けた。まず[[テレタイプ端末]]を通して、経験豊富な[[精神科医]]に、本物の患者とPARRYが動作するコンピュータの精神分析をさせた。次に別の精神科医のグループ33人に、この会話記録を見せる。そして、この二つのグループにどちらの「患者」が人間でどちらがプログラムか判別させた<ref>{{Harvnb|Coby|Hilf|Weber|Kraemer|1972|p=42}}</ref>。この実験では、正しく判別できた精神科医は48パーセントだった。当てずっぽうで決めたのと同様の数字である<ref>{{Harvnb|Saygin|Cicekli|Akman|2000|p=501}}</ref>。
ELIZAもPARRYも、厳密なチューリングテストを通過できたというわけではないが、ELIZA・PARRY、そして同様のソフトウェアは、チューリングテストを通過できるようなソフトウェアが作られる可能性を示唆している。さらに重要なのは、そのチューリングテストを通過できるソフトウェアに含まれるのは、データベースと単純なルールの適用だけ、ということもありうることだ。
===中国語の部屋===
{{Main|中国語の部屋}}
[[ジョン・サール]]は、1980年の論文『心・脳・プログラム』(Minds, Brains, and Programs)の中でチューリングテストに対する反論を提出した。これは「[[中国語の部屋]]」として知られる思考実験である。サールは、単に理解していない記号を処理しているだけでも(ELIZAのような)ソフトはチューリングテストに合格できると述べた。理解していないのならば、人間がやっているのと同じ意味で「思考」しているとはいえないということだ。したがって、チューリングのもともとの提案とは逆に、チューリングテストは機械が思考できるということを証明するものではないとサールは結論している<ref>{{Harvnb|Searle|1980}}</ref>。
サールその他の[[心の哲学]]の研究者が提出した議論は、知性の本質、知性を持った機械の可能性、チューリングテストの価値についての、1980年代・1990年代を通しての激しい議論の火種となった<ref>{{Harvnb|Saygin|Cicekli|Akman|2000|p=479}}</ref>。
===チューリング会議===
1990年は、チューリングの『計算機械と知性』が最初に発表されてから40周年であったため、チューリングテストが再注目された。この年、2つの重要なイベントが起こった。1つ目は、4月に[[サセックス大学]]で開かれたチューリング会議(Turing Colloquium)である。このとき様々な分野の学者・研究者が集まってチューリングテストの過去・現在・未来について話し合った。2つ目は、毎年1回の[[ローブナー賞]]大会の設立である。
===ローブナー賞===
{{main|ローブナー賞}}
ローブナー賞では、チューリングテストを実際に行う場を毎年提供している。最初の大会は、1991年の11月に開かれた。ローブナー賞はヒュー・ローブナーによって開催され、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[マサチューセッツ州]]のケンブリッジ行動研究センター(the Cambridge Center for Behavioral Studies)が2003年まで運営していた。ローブナーが語ったように、大会の目的はAI研究を発展させることであり、また「それ(チューリングテスト)を実際にやろうとする人が誰もいなかった」ことも開催理由の一部である<ref>{{Harvnb|Loebner|1994}}</ref>。
銀賞(聴覚)と金賞(聴覚・視覚)の受賞はまだない。だが、エントリーした中で、審判の意見による、「最も人間らしい(most human)」会話上のふるまいを見せたコンピュータシステムに毎年銅賞が贈られている。Artificial Linguistic Internet Computer Entity (A.L.I.C.E. 人工言語インターネットコンピュータ体)は近年3回(2000、2001、2004)銅賞を受賞している。学習型AIの[[Jabberwacky]]は2005年と2006年に受賞している。Jabberwackyの制作者たちは、テストの通過のため、テストの前に人間のプレイヤーと長く会話しておき、テストの際はこのプレイヤーの真似に専念する、という個人化バリエーションの機能を導入した<ref>[http://www.jabberwacky.com/s/PTT100605.pdf Computing Machinery and the Individual: the Personal Turing Test]</ref>。
ローブナー賞で試験されるのは会話上の知性である。受賞プログラムは典型的な[[人工無脳|会話ボット]]であり、{{仮リンク|人工話者|en|Chatbot}}である。初期のローブナー賞では会話の制限がルールとなっていた。エントリーされたプログラムや隠れた人間が話すのは一つの話題のみで、同様に、質問者も一回につき一行のみに制限された質問を行っていた。この会話制限のルールは1995年のローブナー賞では取り払われ、様々な長さの会話がなされるようになった。[[サリー大学]]で行われた2003年のローブナー賞では、質問者はプログラムもしくは人間の相手と5分間話すことができた。2004年から2007年は、20分以上会話に時間をとってもよいことになった。2008年には質問の制限時間は1組あたり5分になった。これは主催者のケビン・ウォーリック(Kevin Warwick <ref>[http://www.kevinwarwick.com/ Kevin Warwick]</ref>)とまとめ役のヒューマ・シャー(Huma Shah <ref name="humashah.blogspot.com">[http://humashah.blogspot.com/ Humane Humanoids vs. Mercantile Homo Sapiens]</ref>)が、長い会話をしたからといって、人工話者がほんとうに進歩したとはいえないと考えたためであった。皮肉にも、2008年の受賞プログラムのエルボットは人間を真似るものではなかった。個性はロボット自身のものだったにもかかわらず、人間と並行比較して、3人の質問者を騙し、人間だと思わせた。
ローブナー賞により、チューリングテストの現実性や、テストを実行する意義について新たに議論が巻き起こった。エコノミスト誌は、「artificial stupidity」(人工馬鹿)というタイトルの記事中で、最初のローブナー賞受賞プログラムの受賞理由(少なくとも理由の一部)が、「人間らしいタイプミスを真似」できたからだと書いている<ref>{{harvnb|"Artificial Stupidity"|1992}}</ref>(チューリングは、出力にミスを加えれば、プログラムはゲームのより良い「プレイヤー」になると勧めている<ref>{{harv|Turing|1950|page=448}}</ref>)。チューリングテストの通過に挑戦するのは他の実のある研究の邪魔になるだけだと言うものもいる<ref>{{harvnb|Shieber|1994|page=77}}</ref>。ローブナー賞の初期に第二の問題が起こった。「単純な(unsophisticated)」質問者を使ったため、知性と思われる何らかの要素よりも、器用に作られたごまかしが通過できたということである<ref>特に{{harvnb|Shapiro|1992|page=10-11}}、{{harvnb|Shieber|1994}}</ref>。ローブナー賞は2004年から質問者の中に哲学者・計算機科学者・ジャーナリストを配している。
===2005年 会話システム会議===
2005年11月、サリー大学の主催で人工話者の開発者たちの1日集会が初めて開催され、ロビー・ガーナー、リチャード・ウォレス、[[ロロ・カーペンター]]らの、ローブナー賞受賞者も出席した。招聘された講演者は、デビッド・ハミル、ヒュー・ローブナー、ヒューマ・シャー<ref name="humashah.blogspot.com"/> など。
===AISB2008 チューリングテストについてのシンポジウム===
2008年、[[レディング大学]]で開かれたローブナー賞と並行して、AISB(Artificial Intelligence and Simulation of Behaviour人工知能および行動シミュレーション)研究会が、チューリングテストについて話し合う1日シンポジウムを開いた。主催はジョン・バーンデン、マーク・ビショップ、ヒューマ・シャー、ケビン・ウォーリック。講演者は[[イギリス王立研究所]]理事の[[スーザン・グリーンフィールド]](Baroness Susan Greenfield)、Selmer Bringsjord、チューリングの伝記作家アンドリュー・ホッジズ<ref>[http://www.synth.co.uk/main.html Andrew Hodges]</ref>、認識科学者オーウェン・ホラント<ref>[http://cswww.essex.ac.uk/staff/owen/ Owen Holland ]</ref> などである。正式なチューリングテストに関する合意は得られなかったが、Bringsjordは相当に大きな賞を設ければ、チューリングテストの通過は早くなるだろうと語った。
==チューリングテストの別バージョン==
[[Image:The Imitation Game.png|thumb|チューリングが『計算機械と知性』で述べた模倣ゲーム。プレイヤーCは書面上でのいくつかの質問を通して、他の二人のプレイヤーのうちどちらが男性でどちらが女性か当てる。プレイヤーA(男性)はプレイヤーCを騙して間違わせようとしている。一方プレイヤーBはプレイヤーCを手助けしようとしている。]]
チューリングテストの初期バージョンには主に少なくとも3つがある。この内2つは『計算機械と知性』で述べられたもので、最後の1つはソール・トライガー(Saul Traiger)が「標準解釈」と述べた<ref name=Traiger2000>{{harvnb|Traiger|2000}}</ref> バージョンである。この「標準解釈」が、チューリングが述べた通りのものなのか、チューリングの論文のミスリードに基づくものなのかには議論があるが、これらの3つのバージョンは同値であると見なされておらず<ref name=Traiger2000 />、それぞれ長所と短所がはっきりしている。
===模倣ゲーム===
先述したように、チューリングは3人のプレイヤーからなるただのパーティーゲームについて書いている。プレイヤーAは男性、プレイヤーBは女性、プレイヤーC(質問者)の性別はどちらでもよい。模倣ゲームの中で、プレイヤーCはプレイヤーA・Bのどちらも見ることができず、文字の書かれたメモを通してしかコミュニケーションできない。プレイヤーAとBにいくつか質問することで、プレイヤーCはどちらが男性でどちらが女性かの判断を試みる。プレイヤーAの役は、質問者を騙して間違わせるのが役目で、一方プレイヤーBは質問者を手助けして正しく答えさせるのが役目である<ref>{{harvnb|Turing|1950|p=433-434}}</ref>。
チューリングはコンピュータがプレイヤーAの役をするのはどうかと提案した。これがスーザン・G・スターレットが「原型模倣ゲームテスト(Original Imitation Game Test)」<ref name=Moor2003 /> と呼ぶテストである。したがってコンピュータの役目は、女性になりきって質問者を騙し、間違った答えを出させることである。コンピュータが成功したかどうかは、プレイヤーAがコンピュータの場合の結果とプレイヤーAが男性だった場合を比較して判断する。チューリングが述べたところでは、もし「男性と女性でゲームを行ったときと同じくらいの頻度で、(対コンピュータのゲームで)間違った判断をする」<ref name=1950Turing434 /> ならば、そのコンピュータには知性があると言える可能性がある。
[[Image:Turing Test Version 1.png|thumb|原型模倣ゲームテスト。プレイヤーAがコンピューターと入れ替わる。コンピューターは女性の役をしなければならない。一方女性は引き続き質問者を手助けする。]]
チューリングの1950年の論文で第二のバージョンが発表された。原型模倣ゲームテストと同様に、プレイヤーAの役はコンピュータが演じるが、プレイヤーBの役が女性ではなくman(男性、人間)になっている点が異なる。
{{quote|「特別なデジタルコンピュータ''C''に注目しよう。このコンピュータに十分な記憶容量を持たせて、実行速度を相当に強化し、適切なプログラムを入れたとする。man(男性、人間)がBの役をやっている中、''C''は模倣ゲームにおけるAの役を十分にこなすことができるだろうか?
|{{Harvnb|Turing|1950|p=442}}}}
このバージョンでは、プレイヤーA(コンピュータ)とプレイヤーBはどちらも質問者を騙して間違った答えを出させようとしている。<ref name=Saygin252>{{Harvnb|Saygin et al|2000|p=252}}</ref>
===標準解釈===
チューリングテストは単に「コンピュータは質問者を騙してコンピュータを女性と思いこませるられるか」を確かめるのが目的ではなく、「コンピュータは人間の'''真似'''をできるか」を確かめるのが目的である、という共通見解があり<ref name=Saygin252 />、――この見解がチューリングの意図通りのものなのかという議論もあるが、スターレットはこの見解を信じており<ref name="Moor2003">{{Harvnb|Moor|2003}}</ref>、これに合わせて第1・第2のバージョンをまとめている。トライガーなど、この見解を否定しているものもいる<ref name="Traiger2000" />――この共通見解から「標準解釈」とされる解釈が導き出された。この標準解釈のバージョンでは、プレイヤーAはコンピューターでプレイヤーBは人間(性別はどちらでもよい)である。質問者の役目は、どちらが男性でどちらが女性であるかを当てることでなく、どちらがコンピュータでどちらが人間かを当てるものである<ref>{{harvnb|Traiger|2000|p=99}}</ref>。
===模倣ゲームvs標準チューリングテスト===
どの解釈がチューリングの意図したものなのかについては議論があった<ref name=Moor2003 />。スターレットは、チューリングの1950年の論文にある二つのテストは、チューリング自身の発言とは'''逆に'''、同値ではないとしている。パーティーゲームを用いて正解頻度を比べるテストは「'''原型模倣ゲームテスト(Original Imitation Game Test)'''」と呼ばれ、一方で人間および機械と会話して、人間が(会話相手が機械かどうか)裁定するテストは「'''標準チューリングテスト(Standard Turing Test)'''」と呼ばれる。スターレットは、これを模倣ゲームの第二バージョンではなく「標準解釈(standard interpretation)」であると述べている。標準チューリングテストには、批判者も指摘する問題がいくつかあるが、定義上の原型模倣ゲームテストは標準チューリングテストと決定的な違いがあるため、それらの問題の多くに免疫があるという。原型模倣ゲームテストは判断基準を設定するために人間のふるまいを使用するけれども、'''人間のふるまいを真似できるかは判断基準にしていない'''のである。人間(男)が原型模倣ゲームテストに落ちることもありうるが、落ちることによって臨機応変の才に欠けた人が分かる、ということは知性のテストとして望ましいというのがスターレットの主張である。つまり原型模倣ゲームテストでは「会話の振る舞いのシミュレーション」ではなく、知性が伴う臨機応変の才が必要になる、ということだ。この原型模倣ゲームテストの基本構造は、非言語の模倣ゲームにも使える<ref>{{Harvnb|Sterrett|2000}}</ref>。
他の著作家<ref>{{Harvnb|Genova|1994}}{{Harvnb|Hayes|Ford|1995}}{{Harvnb|Heil|1998}}{{Harvnb|Dreyfus|1979}}</ref> もチューリングは模倣ゲーム自体をテストであると主張していたと解釈しているが、パーティーゲームとしての模倣ゲームを使ってチューリングが提案したテスト(スターレットの言う原型模倣ゲームテスト)に関して、ゲーム1ラウンドあたりの成功数ではなく、(パーティーゲームとしての)模倣ゲームとの成功頻度の比較を判断基準に据える、というチューリングの言説をどう考えるかは特定できていない。
===質問者はコンピュータのことを知っているべきか?===
参加者のひとりがコンピュータだとテストの質問者は知っているのかどうか、チューリングは明言しなかった。原型模倣ゲームテストに関しては、チューリングはプレイヤーAが機械と入れ替わると言っただけで、プレイヤーCにこの交代が知らされるとは書いていない<ref name=1950Turing434 />。F・D・ヒルフ、S・ウェーバー、A・D・KramerがPARRYをテストした時は、機械の存在を知らせていた。質問者はインタビュー対象のひとりかそれ以上機械がいるのか知るまでもないとしている<ref>{{harvnb|Colby et al|1972}}</ref>。しかし、Ayse Sayginなどが強調しているように、この問題はチューリングテストの実装および結果に大きな違いを産む。
==テストの強み==
===話題の広さ===
チューリングテストの強みの理由は、何について話してもよいという点である。チューリングは「我々が努力しようと思うようなどんな分野だろうと、その導入にはQ&A方式が適切であるように思える」と記している<ref>{{Harvnb|Turing|1950}}"Critique of the New Problem"(新しい問題の批判)中にて</ref>。John Haugelandは「言葉を理解する、というのは不十分だ。話題を理解しなくてはならない」と補足している<ref>{{Harvnb|Haugeland|1985|p=8}}</ref>。
うまくデザインされたチューリングテストを通過するには、機械は[[自然言語処理|自然言語]]、[[常識的推論]]、[[知識表現|知識]]、[[機械学習|学習]]を活用しなければならない。またチューリングテストを映像入力や対象を取り入れる「入り口」を含めた形に拡張することもできる。こうなると機械は[[コンピュータビジョン|映像]]や[[ロボット工学]]の技術も導入しなければならなくなる。これらによって、人工知能の主な問題はほぼ全て出そろう<ref>"These six disciplines," 著者 [[スチュアート・J・ラッセル|Stuart J. Russell]] and [[ピーター・ノーヴィグ|Peter Norvig]], "represent most of AI". {{Harvnb|Russell|Norvig|2003|p=3}}</ref> のである。
==テストの弱み==
これらの強みや評価にもかかわらず、チューリングテストはいくつかの立場から批判されている。
===人間の知性vs一般的な知性===
[[Image:Weakness of Turing test 1.svg|thumb|250px]]
{{See|強いAIと弱いAI}}
チューリングテストは、「知性」や「知覚力」があるかをテストするものではなく、コンピューターが人間を真似ることができるかをテストするもので、明らかに[[擬人観|擬人的]]である。チューリングテストが一般的に言う知性(intelligence)を試験できない理由は二つある。
*人間の行動には知性によらないものがあるが、チューリングテストでは、機械は知性によるものであろうとなかろうと、'''全ての'''人間の行動をこなす必要がある。チューリングテストでは、全く知性に欠けたふるまいと思える行動さえも試される。例えば侮辱に対して反応したり、嘘をつきたいと考えたり、もしくは単純に高頻度で[[誤植|タイプミス]]をしたり、などである。タイプミスなど諸々の人間の行動の細かい真似ができない機械は、どんなに知性があろうとテストは不合格になる。
*知性による行動の中には、非人間的なものもある。難しい問題を解いたり、独自の洞察を思いついたりといった、すぐれて理知的な行動は、チューリングテストでは試されない。機械のほうからすれば、ごまかしが事実上必要になる。もしも人間には解けないような計算問題を素早く解いてしまうと、定義によりテストには不合格になる。
===非実用性===
{{仮リンク|スチュアート・J・ラッセル|en|Stuart J. Russell}}と[[ピーター・ノーヴィグ]]は、チューリングテストは、その擬人観のせいで知性を持つ機械の工学上の課題としてあまり実用的ではなくなってしまっていると主張した。ラッセルらは例えを用いて、「[[航空力学]]のテキストは、その部門における目標を『他の鳩を騙せるくらいに、鳩と全く同じように飛ぶ機械を作ること』と定義したりしない」と説明している<ref name="Russell 2003 3">{{Harvnb|Russell|Norvig|2003|p=3}}</ref>。この非実用性のために、最も普遍的な解釈のチューリングテストへの挑戦は、2005年の時点では学術的・商業的な取り組みの主流からはあまり目を向けられていない。人工知能関係の分野での研究は、現在もっと小規模かつ特定された目標に注目している。
ラッセルとノーヴィグは、プログラムをテストする方法はもっと簡単なものがあるため、「人工知能の研究家は、チューリングテストの合格にほとんど注意を払っていない」と書いている<ref name="Russell 2003 3"/>。例えば、人と機械を入れたチャットルームでまず質問するというような遠回しな方法よりも、直接命令を与えたほうが簡単なのだ。チューリングは、自らが考えたテストがAIプログラムにおける実際の日常的な指標として用いられるとはまったく意図していなかった。チューリングは、[[人工知能の哲学]]を語る際の助けとなる、明確で理解しやすい例を提示しようとしたのである<ref group="注釈">{{Harvnb|Turing|1950}}"The Imitation Game"(模倣ゲーム)の見出しで、こう書いている。「このような定義を試みる代わりに、問題に緊密に関係しており、比較的厳密な言葉で表現されている新しい問題に取り替えてみよう」</ref>。
===現実の知性vsシミュレート上の知性===
チューリングテストはまた、対象のふるまいのみを試すという点で明らかに[[行動主義心理学|行動主義]]・[[機能主義]]である。チューリングテストに合格する機械が人間の会話上の振る舞いをシミュレートできるのは、ただ巧妙に作られたルールに沿っているだけだから、ということもありうる。この文脈における有名な反論は、[[ジョン・サール]]の[[中国語の部屋]]と、[[ネド・ブロック]]の[[ブロックヘッド]]の二つがある。
知性の作業定義としてチューリングテストが有効であったとしても、チューリングテストによって機械に意識(consciousness)や自主性(intentionality)があるかを測れるとは限らない。たとえば知性と意識がそれぞれ別個の概念だったとしたら、チューリングテストは知性のある機械と知性のある人間との間にある、鍵となる相違を見いだせないということもありうる。
==バリエーション==
先述したものも含め、チューリングテストには数多くの別バージョンが議論されてきた。
===反転チューリングテストとCAPTCHA===
対象者や、それぞれの役目における機械・人間を反転させたチューリングテストは、反転チューリングテストと呼ばれる。これには精神分析学者の{{仮リンク|ウィルフレッド・バイオン|en|Wilfred Bion}}の著作<ref>{{Harvnb|Bion|1979}}</ref> で触れられた例がある。バイオンは特に、心と別の心の出会いが生む「嵐(storm)」に注目していた。ロバート・D・ヒンシェルウッド([[:en:R. D. Hinshelwood|R. D. Hinshelwood]])はこの考えを進めて、心は「装置(apparatus)を認識する心」であるとし、このことがチューリングテストのある種の「補足」になりうると述べている。この場合の課題は、「関わっている相手が人間か別のコンピュータなのか、コンピュータ自身が判断できるか」になる。これはチューリングが試みた問題の拡張であり、人間らしく見えるように「考える」機械を見つけ出すためには、より高い水準の機械が必要となるであろう。
[[CAPTCHA]]は反転チューリングテストの一種である。ウェブサイト上で何らかの行動をする許可を得る前に、ユーザーはねじれた画像上の文字列を見せられ、その文字列を入力するように求められる。これは自動システムによるサイトへの嫌がらせを防ぐことを目的としている。歪んだ画像を読み込んで再処理するほどの進んだソフトが存在しない(少なくとも通常のユーザーには利用できない)ため、このような処理ができるシステムは人間だけである、ということがCAPTCHAの原理になっている。つまり裏を返せば、(おそらくだが)人工知能がいまだ完成されていないということになる。
===専門家チューリングテスト===
専門家チューリングテストと呼ばれるバージョンでは、機械の反応は特定の領域の専門家によって比較される。脳や体のスキャン技術が進歩すれば、人間のデータ要素をコンピュータシステムに複製することも可能になるかもしれない<ref><!-- 出典追記 -->''The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology'' (Viking Penguin, ISBN 0-670-03384-7)</ref>。
===不滅性テスト===
不滅性テストと呼ばれるバリエーションは、人間の主要な個性が、オリジナルの人物と区別できないくらいそっくりに複製できたかを調べるチューリングテストである<ref><!-- 出典追記 -->''[[The Age of Spiritual Machines]]: When Computers Exceed Human Intelligence'' (2000)</ref>。
===最小知性シグナルテスト===
最小知性シグナルテストは、クリス・マッケンストリー(Chris McKinstry)が提唱したチューリングテストのバリエーションである。YES/NOの返答のみが許可される。このテストは主に、人工知能プログラムと対照するための統計データを集めるために使われる。
==脚注==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
===出典===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
{{Refbegin}}
* {{Citation | title = Artificial Stupidity | year = 1992 | date = 1992-09-01 | journal = [[エコノミスト|The Economist]] | volume = 324 | issue = 7770 | pages = 14}}
* {{Citation | last=Bion | first=W.S. | year=1979 | chapter=Making the best of a bad job | title=Clinical Seminars and Four Papers | publisher=Abingdon: Fleetwood Press. }}
* {{Citation | last = Bowden | first = Margaret A. | year = 2006| title = Mind As Machine: A History of Cognitive Science | publisher = [[オックスフォード大学出版局]] | ISBN = 9780199241446}}
* {{Citation | last = Colby | first = K. M. | last2 = Hilf | first2 = F. D. | last3 = Weber | first3 = S. | last4 = Kraemer | fisrt4 = H. | year = 1972 | title = Turing-like indistinguishability tests for the validation of a computer simulation of paranoid processes | journal = [[Artificial Intelligence (journal)|Artificial Intelligence]] | volume = 3 | pages = 199-221}}
* {{Citation | last = Copeland | first = Jack | year = 2003 | title = The Turing Test | work = The Turing Test: The Elusive Standard of Artificial Intelligence | editor-last = Moor | editor-first = James | publisher = Springer | ISBN = 1-40-201205-5}}
* {{Citation | last = Crevier | first = Daniel | year = 1993 | title = AI: The Tumultuous Search for Artificial Intelligence | location = New York, NY | publisher = BasicBooks | ISBN = 0-465-02997-3}}
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* {{Citation | last = Shieber | first = Stuart M. | title = Lessons from a Restricted Turing Test | year = 1994 | journal = [[Communications of the ACM]] | volume = 37 | issue = 6 | pages = 70-78 | url = http://www.eecs.harvard.edu/shieber/Biblio/Papers/loebner-rev-html/loebner-rev-html.html | accessdate = 2008-03-25}}
* {{Citation | last=Sterrett | first=S. G. | year=2000 | title=Turing's Two Test of Intelligence | journal=Minds and Machines | volume=10 | number=4 | ISSN= 0924-6495}} (reprinted in The Turing Test: The Elusive Standard of Artificial Intelligence edited by James H. Moor, Kluwer Academic 2003) ISBN 1-4020-1205-5
* {{Citation | last = Sundman | first = John | title = Artificial stupidity | year = 2003 | journal = [[Salon.com]] | date = February 26, 2003 | url = http://dir.salon.com/story/tech/feature/2003/02/26/loebner_part_one/index.html | accessdate = 2008-03-22}}
* {{Citation | last = Thomas | first = Peter J. | year = 1995 | title = The Social and Interactional Dimensions of Human-Computer Interfaces | publisher = [[ケンブリッジ大学出版局]] | ISBN = 052145302X }}
* {{Citation | last = Traiger | first = Saul | year = 2000 | title= Making the Right Identification in the Turing Test| journal=Minds and Machines | volume=10 | number=4 | ISSN= 0924-6495}} (reprinted in The Turing Test: The Elusive Standard of Artificial Intelligence edited by James H. Moor, Kluwer Academic 2003) ISBN 1-4020-1205-5
* {{Citation | last = Turing | first = Alan | authorlink=アラン・チューリング| year=1948 | chapter=Machine Intelligence | title = The Essential Turing: The ideas that gave birth to the computer age | editor=Copeland, B. Jack | ISBN = 0-19-825080-0 }}
* {{Citation| last = Turing| first = Alan| authorlink=アラン・チューリング| year=1950| title = Computing Machinery and Intelligence| journal=[[Mind (journal)|Mind]]| issn=0026-4423| volume = LIX| issue = 236| date=October 1950| pages= 433–460| url =http://loebner.net/Prizef/TuringArticle.html| doi=10.1093/mind/LIX.236.433|accessdate=2008-08-18}}
* {{Citation | last = Turing | first = Alan | authorlink=アラン・チューリング| year=1952 | chapter = Can Automatic Calculating Machines be Said to Think? | title = The Essential Turing: The ideas that gave birth to the computer age | editor=Copeland, B. Jack | ISBN = 0-19-825080-0 }}
* {{Citation | last=Zylberberg | first=A. | last2=Calot | first2=E. | year=2007 | title=Optimizing Lies in State Oriented Domains based on Genetic Algorithms | journal= Proceedings VI Ibero-American Symposium on Software Engineering | pages=11-18 | ISBN = 978-9972-2885-1-7 }}
* {{Citation | last = Weizenbaum | first = Joseph | authorlink = ジョセフ・ワイゼンバウム| year = 1966 | title = ELIZA - A Computer Program For the Study of Natural Language Communication Between Man And Machine | journal = [[Communications of the ACM]] | volume = 9| issue = 1 | date = January, 1966 | pages = 36-45 }}
* {{Citation | last = Whitby | first = Blay | year = 1996 | contribution = The Turing Test: AI's Biggest Blind Alley? | title = Machines and Thought: The Legacy of Alan Turing | volume = 1 | editor = Millican, Peter & Clark, Andy | publisher = [[オックスフォード大学出版局]] | pages = 53-62 | ISBN = 0-19-823876-2 }}
* {{Citation | last = Adams | first = Scott | year = 2008 | title = Dilbert | Distributed by = [[UFS, inc.]] | url =http://www.dilbert.com/comics/dilbert/archive/images/dilbert2008033349280.jpg}}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
*[[ウォズニアック・テスト]]
*[[人工知能]] / [[人工無能]]
*[[Captcha]]
*[[中国語の部屋]] / [[二十の扉]]
*[[ブロックヘッド]]
*[[技術的特異点]]
*[[不気味の谷現象]]
*[[アンドロイドは電気羊の夢を見るか?]] / [[ブレードランナー]] / [[HAL 9000]]
*[[ELIZA効果]]
*[[ローブナー賞]]
*[[AI完全]]
*[[強いAIと弱いAI]]
== 外部リンク ==
{{SEP|turing-test/|The Turing Test}}
* {{PhilP|351|The Turing Test}}
{{心の哲学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうりんくてすと}}
[[Category:人工知能の哲学]]
[[Category:人間とコンピュータの相互作用]]
[[Category:エポニム]]
[[Category:アラン・チューリング]]
[[Category:人工知能の歴史]]
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中国語の部屋
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中国語の部屋(ちゅうごくごのへや、Chinese Room)とは、哲学者のジョン・サールが、1980年に “Minds, Brains, and Programs(脳、心、プログラム)” という論文の中で発表した思考実験。
中国語を理解できない人を小部屋に閉じ込めて、マニュアルに従った作業をさせるという内容。チューリング・テストを発展させた思考実験で、意識の問題を考えるのに使われる。
ある小部屋の中に、アルファベットしか理解できない人を閉じこめておく(例えば英国人)。この小部屋には外部と紙きれのやりとりをするための小さい穴がひとつ空いており、この穴を通して英国人に1枚の紙きれが差し入れられる。そこには彼が見たこともない文字が並んでいる。これは漢字の並びなのだが、英国人の彼にしてみれば、それは「★△◎∇☆□」といった記号の羅列にしか見えない。 彼の仕事はこの記号の列に対して、新たな記号を書き加えてから、紙きれを外に返すことである。どういう記号の列に、どういう記号を付け加えればいいのか、それは部屋の中にある1冊のマニュアルの中に全て書かれている。例えば
などと書かれている。
彼はこの作業をただひたすら繰り返す。外から記号の羅列された紙きれを受け取り(実は部屋の外ではこの紙きれを"質問"と呼んでいる)、それに新たな記号を付け加えて外に返す(こちらの方は"回答"と呼ばれている)。すると、部屋の外にいる人間は「この小部屋の中には中国語を理解している人がいる」と考える。しかしながら、小部屋の中には英国人がいるだけである。彼は全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による対話が成立している。
この思考実験全体はコンピュータのアナロジーになっている。すなわち小部屋全体がコンピュータを表し、マニュアルに従って作業する英国人は、プログラムに従って動くCPUに相当する。この思考実験から帰結する論点は、基本的に単一のものだが、分野によってその表現が若干異なる。ここでは中国語の部屋の思考実験についてよく議論される三つの分野、心の哲学、言語哲学、人工知能の哲学からの表現を述べる。
心の哲学からこの実験を見ると、これは心身問題に対する立場の一つ、機能主義に対する反論を提示している。すなわち
言語哲学の観点からの表現は、次のようになる。
人工知能の哲学の観点から表現すると、次のようになる。
サールは中の人が中国語を理解していないことから対象は中国語を理解しているとはいえないと論じているが、チューリング・テストの観点からすると、そう断定するためには中の人間だけでなく、箱全体が中国語を理解していないことを証明しなければならないことになる。すなわち、中の人とマニュアルを複合させた存在が中国語を理解していないことを証明しなければならない。つまり、サールはカテゴリー錯誤の誤謬を犯していると反論している。
一方、知能の基準となっている人間の場合でさえ、脳内の化学物質や電気信号の完全な解析が行われず、知能の仕組みが明らかになっていないのだから、中国語の部屋も、中身がどうであれ正しく中国語のやり取りができている時点で中国語を理解していると判断してよいのではという、チューリング・テストの観点からの反論も存在する。以上のような反論に対してサールは、中国語の部屋を体内化して、すなわち部屋の中にある中国語のマニュアルを中の人がマスターし、中国語のネイティヴのように会話ができたとしても、なおその人は意味論的な見地からは中国語を理解していないと主張している。この再反論に対しては、確かに純粋な会話機械には身体性がないために意味論は理解し得ないが、ロボットの様なシステム総体としても理解できないというのは、やはりカテゴリー錯誤であるという批判がある。
日本語のオープンアクセス文献
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中国語の部屋とは、哲学者のジョン・サールが、1980年に “Minds, Brains, and Programs(脳、心、プログラム)” という論文の中で発表した思考実験。 中国語を理解できない人を小部屋に閉じ込めて、マニュアルに従った作業をさせるという内容。チューリング・テストを発展させた思考実験で、意識の問題を考えるのに使われる。
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{{混同|中国脳}}
'''中国語の部屋'''(ちゅうごくごのへや、''Chinese Room'')とは、[[哲学者]]の[[ジョン・サール]]が、[[1980年]]に “Minds, Brains, and Programs(脳、心、プログラム)” という論文の中で発表した[[思考実験]]<ref>Searle, John. (1980). “Minds, Brains, and Programs.” ''Behavioral and Brain Sciences'' '''3''', 417-424. ([http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.120.749&rep=rep1&type=pdf オンライン・ペーパー])</ref>。
[[中国語]]を理解できない人を小部屋に閉じ込めて、[[マニュアル]]に従った作業をさせるという内容。[[チューリング・テスト]]を発展させた思考実験で、[[意識]]の問題を考えるのに使われる。
== 思考実験の概要 ==
ある小部屋の中に、漢字を理解できない人(以下Aとする)を閉じこめておく。この小部屋には外部と紙きれのやりとりをするための小さい穴がひとつ空いており、この穴を通してAに1枚の紙きれが差し入れられる。そこにはAが見たこともない文字が並んでいる。これは[[漢字]]の並びなのだが、Aにしてみれば、それは「★△◎∇☆□」といった記号の羅列にしか見えない。
Aの仕事はこの記号の列に対して、新たな記号を書き加えてから、紙きれを外に返すことである。どういう記号の列に、どういう記号を付け加えればいいのか、それは部屋の中にある1冊のマニュアルの中に全て書かれている。例えば
: "「★△◎∇☆□」と書かれた紙片には「■@◎∇」と書き加えてから外に出せ"
などと書かれている。
Aはこの作業をただひたすら繰り返す。外から記号の羅列された紙きれを受け取り(実は部屋の外ではこの紙きれを"質問"と呼んでいる)、それに新たな記号を付け加えて外に返す(こちらの方は"回答"と呼ばれている)。すると、部屋の外にいる人間は「この小部屋の中には中国語を理解している人がいる」と考える。しかしながら、小部屋の中にはAがいるだけである。Aは全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による対話が成立している。
== 思考実験の意味 ==
この思考実験全体はコンピュータのアナロジーになっている。すなわち小部屋全体がコンピュータを表し、マニュアルに従って作業する英国人は、プログラムに従って動く[[CPU]]に相当する。この思考実験から帰結する論点は、基本的に単一のものだが、分野によってその表現が若干異なる。ここでは中国語の部屋の思考実験についてよく議論される三つの分野、[[心の哲学]]、[[言語哲学]]、[[人工知能]]の哲学からの表現を述べる。
心の哲学からこの実験を見ると、これは[[心身問題]]に対する立場の一つ、[[機能主義 (心の哲学)|機能主義]]に対する反論を提示している。すなわち
: 意識体験は機能に付随しない。機能主義は間違っている。
[[言語哲学]]の観点からの表現は、次のようになる。
: [[統語論 (論理学)|統語論]]は[[意味論 (論理学)|意味論]]を含まない。
人工知能の哲学の観点から表現すると、次のようになる。
: [[強いAIと弱いAI|強い人工知能]]は製作不可能である。
== 中国語の部屋に対する反論 ==
サールは中の人が中国語を理解していないことから対象は中国語を理解しているとはいえないと論じているが、[[チューリング・テスト]]の観点からすると、そう断定するためには中の人間だけでなく、箱全体が中国語を理解していないことを証明しなければならないことになる。すなわち、'''中の人とマニュアルを複合させた存在が中国語を理解していない'''ことを証明しなければならない。つまり、サールは[[カテゴリー錯誤]]の誤謬を犯していると反論している<ref name="戸田山『哲学入門』">{{Cite book |和書 |author=戸田山 和久 |title=哲学入門 |url=https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784480067685 |series=ちくま新書 |year=2014 |month=3 |day=5 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4-480-06768-5 |chapter=第1章 意味 |oclc=872214587}}</ref>{{Rp|47}}。
一方、知能の基準となっている人間の場合でさえ、脳内の化学物質や電気信号の完全な解析が行われず、知能の仕組みが明らかになっていないのだから、中国語の部屋も、中身がどうであれ正しく中国語のやり取りができている時点で中国語を理解していると判断してよいのではという、[[チューリング・テスト]]の観点からの反論も存在する。以上のような反論に対してサールは、中国語の部屋を体内化して、すなわち部屋の中にある中国語のマニュアルを中の人がマスターし、中国語のネイティヴのように会話ができたとしても、なおその人は意味論的な見地からは中国語を理解していないと主張している。この再反論に対しては、確かに純粋な会話機械には身体性がないために意味論は理解し得ないが、ロボットの様なシステム総体としても理解できないというのは、やはりカテゴリー錯誤であるという批判がある<ref name="戸田山『哲学入門』" />。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=柴田 正良 |author-link=柴田正良 |title=Robotto no kokoro : 7tsu no tetsugaku monogatari |series=講談社現代新書 |year=2001 |publisher=講談社 |isbn=4-06-149582-8 |pages=79–104 |oclc=676211631}}
* {{Cite book |和書 |author=デイヴィッド・チャーマーズ |author-link=デイヴィッド・チャーマーズ |title=意識する心: 脳と精神の根本理論を求めて |year=2001 |publisher=白揚社 |isbn=4-8269-0106-2 |pages=394–402 |translator=林 一 |oclc=676068112}}
== 関連文献 ==
日本語のオープンアクセス文献
* 服部裕幸 [http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/37/37ws/hattori-2.pdf 「AI研究および認知科学に対するジョン・サールの批判」] アカデミア(人文・社会科学編) 南山大学 第77号 (2003) pp.81-103
== 関連項目 ==
* [[チューリング・テスト]]
* [[ブロックヘッド]]
* [[人工知能]]
* [[言語哲学]]
* [[人工意識]]
* [[強いAIと弱いAI]]
* [[心の計算理論]]
== 外部リンク ==
{{Spedia|Chinese_room_argument|Chinese room argument}}
{{IEP|chineser|The Chinese Room Argument}}
{{SEP|chinese-room/|The Chinese Room Argument}}
* {{PhilP|353|The Chinese Room}}
{{心の哲学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうこくこのへや}}
[[Category:部屋]]
[[category:人工知能の哲学]]
[[category:心の哲学における思考実験]]
[[Category:科学技術の哲学]]
[[Category:中国語]]
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湘南電車
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湘南電車(しょうなんでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)東海道本線の湘南地域で運用した電車の愛称である。当初は1950年に運行開始しオレンジと緑のツートンカラーをまとって登場した80系電車の愛称であったが、その後、車両によらず東海道本線の東京駅 - 熱海駅・沼津駅間の電車列車(中距離電車)の通称として用いられている。
車両形式としての80系電車は「湘南形電車」などとも呼ばれた。80系電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装は「湘南色」とも呼ばれ、国鉄の直流近郊・急行型電車に普及した。一方、80系増備車からの前面非貫通2枚窓で上半分が傾斜したスタイルは1950年代以降に新造・車体更新された国鉄・私鉄車両に広く波及し、「湘南顔」のように呼ばれた。
東京と小田原・熱海・沼津の間に運転されていた電気機関車牽引の客車列車の国鉄部内呼称である「湘南列車」 が、1950年3月から電車運転へと切り替えられる際に「湘南電車」と呼び変えられ、一般にも用いられる様になった。「湘南列車」が国鉄部内での呼称であったのとは異なり、「湘南電車」という呼称が一般に浸透したのは、車体の色彩によるところが大きい。しかし、小田原以西では受け入れられず、運用開始時の小田原駅の看板では「湘南伊豆電車」が用いられた。
計画段階では「湘南電動列車」という語も用いられ、また、東海道本線電化当初、東京と小田原の間ならびに東京と横須賀の間に運転された列車には「湘南旅客列車」という呼称が用いられていた。
電車化の際、新たに開発された80系電車が専用に導入され、「湘南電車」の名はひいてはこの80系のことをも指すようになる。80系は、機関車牽引の客車列車を加減速・高速性能に優れた電車に置き換える目的で開発された長距離運転用電車であった。このため、高速性能を確保しつつ、在来客車に近い水準の接客設備を備え、また当時日本の電車最長の16両編成が可能な仕様であった。当時の国鉄では、電車は都市近郊での短距離運転向けのものと看做されていただけに、80系を使用し、120km以上の長距離を、在来電車では先例のない客車列車並みの長大編成で運行したことは画期的だった。
投入当初は初期故障を連発させ、新聞紙面で「遭難電車」と揶揄されもしたが、ほどなく安定運用が可能となり、国鉄での電車による長距離列車運転は広く定着していった。1950年8月から京阪神間急行電車に用いられ たほか、東海道本線の電化区間西伸にともない80系の運用区間も西進し、その後山陽本線、上越線、東北本線、信越本線、中央本線、飯田線、身延線でも運用され「湘南」の範囲に収まらなかったが、80系に対して「湘南形電車」という呼称が用いられた。
80系電車によっていた準急「東海」用に開発された91系→153系電車が「新湘南」と呼ばれた時期もあったが、次第に「東海形」と呼ばれる様になり「新湘南」は定着しなかった。
1962年に登場した111系電車により「湘南電車」は順次置き換えられ、80系電車の東京駅乗り入れは1977年3月28日に終了したが、運行系統として「湘南電車」の呼称は以後も用いられた。しかし、1980年代以降、旅客案内上は湘南電車にかわり東海道線が使用されるようになっている。
21世紀初頭の時点で、JRにおいて路線(もしくは区間)の愛称として「湘南電車」が使用されることは基本的にないが、大船駅東海道線ホームのグリーン車停車位置案内板には「グリーン車(湘南電車)はこの付近に止まります」という表示が存在している。ただし、英文での表現は、"Shōnan Train"ではなく"Tōkaidō Local Line"となっている。また、鉄道関係者や愛好者の間では慣用句として廃れずに用いられており、書籍などで表題に使われる場合もある。
80系投入当初より使用された車体塗装のカラーリングである、オレンジと緑のツートーンカラーを指す「湘南色」という呼び方は広く通用している。また、2021年現在も東海道線で運行されている「(湘南ライナー→)湘南」や「湘南新宿ライン」にもその名が引き継がれている。
2004年に国鉄時代から使用していた113系を本区間から運用撤退させる旨の発表がJR側からなされると、一部のマスコミが「湘南電車の引退」と報じた。2005年10月1日には、駅改良とエキュート品川の誕生を記念して湘南色のクモユニ74形を模した郵便ポストが品川駅コンコースに設置された。
2006年3月17日の営業運行終了に際して、JR東日本側でも「さよなら湘南電車」として沿線観光パンフレットを製作、最後まで運用した編成の先頭車前面に「ありがとう113系電車」と表記した4種類のステッカーを貼付の他、運用最終日には一部車両に「さようなら湘南電車」と書かれた横サボを挿入。さらには藤沢駅東海道線ホームのキヨスクに80系の意匠を採用するなど、単なる「車両の引退」という枠を超えたPRも行っていた。これは近年の一般社会で用いられた珍しい例といえる。
2011年2月5日と6日には、湘南色に復刻されていた幕張車両センターの房総地区用113系4両編成(マリ117編成)による団体臨時列車「懐かしの113系で行く東海道本線の旅」が横浜駅 - 熱海駅間で運転された。神奈川新聞ではこの列車の運行に際して「湘南電車カムバック」と報じている。
「湘南色」とは黄かん色(濃いオレンジ色)■と緑2号(濃い緑色、ダークグリーン)■のツートーンカラーの愛称である。
湘南色の始まりは、かつて東海道本線を走っていた80系まで遡る。同系列は1950年に当初からオレンジ色と緑色の塗り分けで運行開始されたが、それ以前の国鉄旅客車両の塗装が一般に客車も電車も「ぶどう色」と称される焦げ茶色1色のみで精彩に乏しかった中、同系列の派手な塗装は世論をわかせた。湘南色とその塗り分けパターンは、グレート・ノーザン鉄道の車両写真を見た島秀雄の意見がきっかけとなり、宣伝として目立つ色であり、また遠方からも識別容易であることからオレンジ色が、それに調和する汚れの目立たない色として濃緑色が選ばれた。しかし明るい色についての知見がなく小さい色見本で決定された当初の色はむしろ柿色に近く、サビ止め塗料かとの批判まであり、みかん色に変更された。この配色が「ミカンの実と葉の色にちなむ」というのは後付けの説明であるが、この他にも「神奈川県西部や静岡県地方特産のミカンとお茶にちなんだもの」といった沿線の風物に発祥しているとする解説がなされている場合がある。
また、その色合いから「かぼちゃ電車」「みかん電車」とも呼ばれる。
尚、湘南色及び同時期に明色化された横須賀線電車の塗色採用過程での試験塗装として、1949年末頃に横須賀線で運用されていた32系モハ32028を使用し、電気側側面を湘南色(本採用された色とは若干色調が異なる)、空気側側面と正面を横須賀色(スカ色)に塗装した実車試験が実施され、同車は一般乗客から「お化け電車」とあだ名された。
その後、国鉄は湘南色を直流電化区間の近郊型・急行型電車における車両制式色とし、地域に関係なく広く用いた。その背景の一つには、広域的な車両の転配属を考慮した国鉄が、塗装に至るまでの徹底した標準化を図っていたことが挙げられる。
80系では当初、車両前面の塗装塗り分けパターンに試行 も見られたが、最終的には窓上と窓下に円弧を描いた緑塗装とし、中央を菱形状にオレンジ塗装とするパターンとなった。こちらは「金太郎塗り」と呼ばれた。尚、正面3枚窓の80系一次車については後に金太郎塗りをやめ、窓上を直線で塗り分けた。また、中間車から改造のクハ85形については前面窓の上下とも直線塗り分けだった。
同系列以降に湘南色に塗装された電車としては、近郊形111系・113系、115系、急行形では153系・155系・159系・163系・165系・167系・169系の各系列が該当する。これらは前面に貫通路を備え、ほぼ共通したデザインモチーフの車両だが、系列ごとに車両前面の塗り分けパターンが異なっていた。111系・113系と159系は貫通路脇に向かって斜めの直線塗り分け、115系は貫通扉脇に小さなRを付けた直角塗り分けで、これらの近郊形3系列と159系はいずれも前面屋根部分についても緑色塗装となっている。153系・155系は前面がオレンジ色1色で緑色は側面のみ、165系・167系・169系は前面の下半分全体を貫通扉まで含めて緑色としている。ただし、165系のうち、クハ153形から改造編入されたクハ164形については前面がオレンジ1色のままだった。
80系以前の戦前製旧形国電(52系など)や70系サハ75形も1960年代にイメージアップのために一時湘南色に塗装されて飯田線などの運行に充当された例があった。しかし、湘南色はスカ色と異なり戦前形との相性が良いとはいえなかったことから、比較的短期間で再変更されている。
旅客用以外でも郵便・荷物車クモユニ74形、クモユニ82形、クモニ83形、クモユ141形、クモユ143形、クモニ143形、クモユニ143形、事業用車クモヤ143形の各形式も湘南色に塗装された。これらは切妻高運転台の80系クハ85形と共通するデザインモチーフの車両だが、正面塗り分け線は急行形の165系に準じ、上半分橙色、下半分緑色の塗り分けだった。
また、1962年から1968年にかけて、瀬野八越えをする153系急行列車に補機を連結する為の控車として使用されたオヤ35形客車も湘南色に塗装されていた。
国鉄末期の1980年代になるとイメージチェンジを目論んで各地域ごとに独自の塗色変更が行われるようになり、国鉄分割民営化後にはその傾向が加速した。1990年代以降は新車への置き換えやリニューアル時の塗色変更などで全体を湘南色に塗装した鋼鉄製車体の車両は著しく減少している。
民営化前後に製造されたオールステンレス車両の211系(名古屋地区に投入の0番台を除く)、213系5000番台は基本的にこの色分けを踏襲した帯を使用しているが、湘南色の伝統を踏まえつつも、車体の全体塗装ではなく、窓下などに湘南色をイメージした帯を巻いている。また、111系・113系用のグリーン車のうち2階建車両(サロ124・125形)の一部には、横須賀・総武快速線での使用を前提とした車両があり、これを東海道線に異動した際にそのまま帯色シールの張り方を踏襲した車両がある。
JR東日本が導入したE231系、E233系3000番台などは緑色の割合が多く、全体的に明るめの配色になっている。一時的に東海道線で運用されたE217系や宇都宮線に転用された205系600番台もこの塗色である。JR東日本では全体を湘南色に塗装した車両は置き換えられたものの、東海道線や宇都宮線、高崎地区の路線で運用される車両には引き続き湘南色の帯を採用している。また、東京・大宮総合訓練センターの209系改造の訓練車もE231系等と同じ帯色である。
JR東海は国鉄から引き継いだ車両に対しても多くが湘南色塗装のままで使われており、身延線にオリジナル色で登場した115系2600番台もJR化後に湘南色塗装に変更された。鋼製車もキハ11形に「白地に湘南色の帯」のタイプの帯色を採用し、103系やオリジナル塗装をまとった119系、キハ40形などの国鉄型車両も同様の塗装に変更された。この塗装は「(JR)東海色」とも呼ばれることがある。この塗り分けは佐久間レールパークに保存されていた旧性能電車クハ66形のカットモデルにも施されていた(閉館により現存しない)。
JR発足後も残った湘南色の車両は以下の通り。特記しない限り全体塗装または帯での塗装である。
国鉄およびJRグループ各社以外で以下の事業者が湘南色の車両を保有している。
鉄道総合技術研究所(鉄道総研)では国鉄から譲渡されたキハ30 15が湘南色に塗装されており、正面の塗り分け線が正面が前面強化板の上淵に達した独特なものとなっている。
しなの鉄道ではJR東日本から譲渡された169系および115系に、国鉄時代同様の湘南色を復刻塗装している。169系は2008年にS52編成が最初の湘南色塗装車となった。同編成は一旦しなの鉄道色に戻されたものの、2010年に再び湘南色となった。さらに2013年にはS54編成も塗装変更され、両編成とも同年の廃車まで湘南色で運行された。115系はリバイバル企画の一環として2017年にS3編成が、2019年にS25編成が湘南色に塗装された。ただし後者は2021年に廃車となった。
天竜浜名湖鉄道では2018年にTH2100形TH2101号車の車体全体に湘南色(正面塗り分け線は113系電車に準ずる)のラッピングを行い、「Re+」(リ・プラス)号として運転を開始した。
東海交通事業では、1993年の開業直後に、JR東海と共通運用するキハ11形に対して白地に湘南色の帯の塗装を施した。2015年に同車がひたちなか海浜鉄道に譲渡されたことにより消滅した。
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"text": "湘南電車(しょうなんでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)東海道本線の湘南地域で運用した電車の愛称である。当初は1950年に運行開始しオレンジと緑のツートンカラーをまとって登場した80系電車の愛称であったが、その後、車両によらず東海道本線の東京駅 - 熱海駅・沼津駅間の電車列車(中距離電車)の通称として用いられている。",
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"text": "車両形式としての80系電車は「湘南形電車」などとも呼ばれた。80系電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装は「湘南色」とも呼ばれ、国鉄の直流近郊・急行型電車に普及した。一方、80系増備車からの前面非貫通2枚窓で上半分が傾斜したスタイルは1950年代以降に新造・車体更新された国鉄・私鉄車両に広く波及し、「湘南顔」のように呼ばれた。",
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"text": "東京と小田原・熱海・沼津の間に運転されていた電気機関車牽引の客車列車の国鉄部内呼称である「湘南列車」 が、1950年3月から電車運転へと切り替えられる際に「湘南電車」と呼び変えられ、一般にも用いられる様になった。「湘南列車」が国鉄部内での呼称であったのとは異なり、「湘南電車」という呼称が一般に浸透したのは、車体の色彩によるところが大きい。しかし、小田原以西では受け入れられず、運用開始時の小田原駅の看板では「湘南伊豆電車」が用いられた。",
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"text": "計画段階では「湘南電動列車」という語も用いられ、また、東海道本線電化当初、東京と小田原の間ならびに東京と横須賀の間に運転された列車には「湘南旅客列車」という呼称が用いられていた。",
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"text": "電車化の際、新たに開発された80系電車が専用に導入され、「湘南電車」の名はひいてはこの80系のことをも指すようになる。80系は、機関車牽引の客車列車を加減速・高速性能に優れた電車に置き換える目的で開発された長距離運転用電車であった。このため、高速性能を確保しつつ、在来客車に近い水準の接客設備を備え、また当時日本の電車最長の16両編成が可能な仕様であった。当時の国鉄では、電車は都市近郊での短距離運転向けのものと看做されていただけに、80系を使用し、120km以上の長距離を、在来電車では先例のない客車列車並みの長大編成で運行したことは画期的だった。",
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"text": "投入当初は初期故障を連発させ、新聞紙面で「遭難電車」と揶揄されもしたが、ほどなく安定運用が可能となり、国鉄での電車による長距離列車運転は広く定着していった。1950年8月から京阪神間急行電車に用いられ たほか、東海道本線の電化区間西伸にともない80系の運用区間も西進し、その後山陽本線、上越線、東北本線、信越本線、中央本線、飯田線、身延線でも運用され「湘南」の範囲に収まらなかったが、80系に対して「湘南形電車」という呼称が用いられた。",
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"text": "1962年に登場した111系電車により「湘南電車」は順次置き換えられ、80系電車の東京駅乗り入れは1977年3月28日に終了したが、運行系統として「湘南電車」の呼称は以後も用いられた。しかし、1980年代以降、旅客案内上は湘南電車にかわり東海道線が使用されるようになっている。",
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"text": "21世紀初頭の時点で、JRにおいて路線(もしくは区間)の愛称として「湘南電車」が使用されることは基本的にないが、大船駅東海道線ホームのグリーン車停車位置案内板には「グリーン車(湘南電車)はこの付近に止まります」という表示が存在している。ただし、英文での表現は、\"Shōnan Train\"ではなく\"Tōkaidō Local Line\"となっている。また、鉄道関係者や愛好者の間では慣用句として廃れずに用いられており、書籍などで表題に使われる場合もある。",
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"text": "80系投入当初より使用された車体塗装のカラーリングである、オレンジと緑のツートーンカラーを指す「湘南色」という呼び方は広く通用している。また、2021年現在も東海道線で運行されている「(湘南ライナー→)湘南」や「湘南新宿ライン」にもその名が引き継がれている。",
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"text": "2004年に国鉄時代から使用していた113系を本区間から運用撤退させる旨の発表がJR側からなされると、一部のマスコミが「湘南電車の引退」と報じた。2005年10月1日には、駅改良とエキュート品川の誕生を記念して湘南色のクモユニ74形を模した郵便ポストが品川駅コンコースに設置された。",
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"text": "2006年3月17日の営業運行終了に際して、JR東日本側でも「さよなら湘南電車」として沿線観光パンフレットを製作、最後まで運用した編成の先頭車前面に「ありがとう113系電車」と表記した4種類のステッカーを貼付の他、運用最終日には一部車両に「さようなら湘南電車」と書かれた横サボを挿入。さらには藤沢駅東海道線ホームのキヨスクに80系の意匠を採用するなど、単なる「車両の引退」という枠を超えたPRも行っていた。これは近年の一般社会で用いられた珍しい例といえる。",
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"text": "2011年2月5日と6日には、湘南色に復刻されていた幕張車両センターの房総地区用113系4両編成(マリ117編成)による団体臨時列車「懐かしの113系で行く東海道本線の旅」が横浜駅 - 熱海駅間で運転された。神奈川新聞ではこの列車の運行に際して「湘南電車カムバック」と報じている。",
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"text": "「湘南色」とは黄かん色(濃いオレンジ色)■と緑2号(濃い緑色、ダークグリーン)■のツートーンカラーの愛称である。",
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"text": "湘南色の始まりは、かつて東海道本線を走っていた80系まで遡る。同系列は1950年に当初からオレンジ色と緑色の塗り分けで運行開始されたが、それ以前の国鉄旅客車両の塗装が一般に客車も電車も「ぶどう色」と称される焦げ茶色1色のみで精彩に乏しかった中、同系列の派手な塗装は世論をわかせた。湘南色とその塗り分けパターンは、グレート・ノーザン鉄道の車両写真を見た島秀雄の意見がきっかけとなり、宣伝として目立つ色であり、また遠方からも識別容易であることからオレンジ色が、それに調和する汚れの目立たない色として濃緑色が選ばれた。しかし明るい色についての知見がなく小さい色見本で決定された当初の色はむしろ柿色に近く、サビ止め塗料かとの批判まであり、みかん色に変更された。この配色が「ミカンの実と葉の色にちなむ」というのは後付けの説明であるが、この他にも「神奈川県西部や静岡県地方特産のミカンとお茶にちなんだもの」といった沿線の風物に発祥しているとする解説がなされている場合がある。",
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"text": "また、その色合いから「かぼちゃ電車」「みかん電車」とも呼ばれる。",
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"text": "尚、湘南色及び同時期に明色化された横須賀線電車の塗色採用過程での試験塗装として、1949年末頃に横須賀線で運用されていた32系モハ32028を使用し、電気側側面を湘南色(本採用された色とは若干色調が異なる)、空気側側面と正面を横須賀色(スカ色)に塗装した実車試験が実施され、同車は一般乗客から「お化け電車」とあだ名された。",
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"text": "その後、国鉄は湘南色を直流電化区間の近郊型・急行型電車における車両制式色とし、地域に関係なく広く用いた。その背景の一つには、広域的な車両の転配属を考慮した国鉄が、塗装に至るまでの徹底した標準化を図っていたことが挙げられる。",
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"text": "80系では当初、車両前面の塗装塗り分けパターンに試行 も見られたが、最終的には窓上と窓下に円弧を描いた緑塗装とし、中央を菱形状にオレンジ塗装とするパターンとなった。こちらは「金太郎塗り」と呼ばれた。尚、正面3枚窓の80系一次車については後に金太郎塗りをやめ、窓上を直線で塗り分けた。また、中間車から改造のクハ85形については前面窓の上下とも直線塗り分けだった。",
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"text": "同系列以降に湘南色に塗装された電車としては、近郊形111系・113系、115系、急行形では153系・155系・159系・163系・165系・167系・169系の各系列が該当する。これらは前面に貫通路を備え、ほぼ共通したデザインモチーフの車両だが、系列ごとに車両前面の塗り分けパターンが異なっていた。111系・113系と159系は貫通路脇に向かって斜めの直線塗り分け、115系は貫通扉脇に小さなRを付けた直角塗り分けで、これらの近郊形3系列と159系はいずれも前面屋根部分についても緑色塗装となっている。153系・155系は前面がオレンジ色1色で緑色は側面のみ、165系・167系・169系は前面の下半分全体を貫通扉まで含めて緑色としている。ただし、165系のうち、クハ153形から改造編入されたクハ164形については前面がオレンジ1色のままだった。",
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湘南電車(しょうなんでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)東海道本線の湘南地域で運用した電車の愛称である。当初は1950年に運行開始しオレンジと緑のツートンカラーをまとって登場した80系電車の愛称であったが、その後、車両によらず東海道本線の東京駅 - 熱海駅・沼津駅間の電車列車(中距離電車)の通称として用いられている。 車両形式としての80系電車は「湘南形電車」などとも呼ばれた。80系電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装は「湘南色」とも呼ばれ、国鉄の直流近郊・急行型電車に普及した。一方、80系増備車からの前面非貫通2枚窓で上半分が傾斜したスタイルは1950年代以降に新造・車体更新された国鉄・私鉄車両に広く波及し、「湘南顔」のように呼ばれた。
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{{Otheruseslist|国鉄・JRの湘南電車|「湘南電車」と呼ばれた私鉄(京浜急行電鉄の前身)|湘南電気鉄道|JR東日本の電車の運転系統|東海道線 (JR東日本)|1950年から使用されたこの愛称を持つ電車|国鉄80系電車}}
[[ファイル:Kuha86329.jpg|thumb|350px|初代湘南電車80系]]
'''湘南電車'''(しょうなんでんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)[[東海道本線]]の[[湘南]]地域で運用した[[電車]]の[[愛称]]である。当初は[[1950年]]に運行開始しオレンジと緑のツートンカラーをまとって登場した[[国鉄80系電車|80系電車]]の愛称であったが、その後、車両によらず東海道本線の[[東京駅]] - [[熱海駅]]・[[沼津駅]]間の電車列車([[中距離電車]])の通称として用いられている。
車両形式としての80系電車は「湘南形電車」などとも呼ばれた。80系電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装は「[[湘南色]]」とも呼ばれ、国鉄の直流近郊・急行型電車に普及した。一方、80系増備車からの前面非貫通2枚窓で上半分が傾斜したスタイルは1950年代以降に新造・車体更新された国鉄・私鉄車両に広く波及し、「[[湘南顔]]」のように呼ばれた<ref>「[[旅と鉄道]]」編集部編『懐かしの湘南顔電車』(旅鉄BOOKS 063)、天夢人、2023年、p.13</ref>。
== 歴史 ==
=== 由来 ===
東京と小田原・熱海・沼津の間に運転されていた[[電気機関車]]牽引の客車列車の国鉄部内呼称である「湘南列車」<ref name="Hoshi1965">星晃「誕生の頃の思い出あれこれ」[[鉄道ピクトリアル]] 1965年3月、「湘南電車の誕生」として[[交友社]]刊『回想の旅客車 上』に収録</ref> が、[[1950年]]3月から電車運転へと切り替えられる際に「湘南電車」と呼び変えられ<ref name="Sawayanagi2004">沢柳健一「80 系湘南形電車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年3月号 鉄道図書刊行会</ref>、一般にも用いられる様になった<ref name="Hoshi1965"/>。「湘南列車」が国鉄部内での呼称であったのとは異なり、「湘南電車」という呼称が一般に浸透したのは、車体の色彩によるところが大きい<ref name="Yuge1954">弓削進「国電復興物語」鉄道ピクトリアル 1954 『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 17 国電復興時代 1950』[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] (2009) 所収</ref>。しかし、小田原以西では受け入れられず<ref name="Sawayanagi2004"/>、運用開始時の小田原駅の看板では「[[湘南伊豆電車]]」が用いられた<ref name="Hoshi1965"/><ref name="Sawayanagi2004"/>。
計画段階では「湘南電動列車」という語も用いられ<ref name="Hoshi1983">星晃「湘南電車誕生の思い出」[[レイル (雑誌)|レイル]] '83 [[エリエイ]]出版部 プレス・アイゼンバーン 1983年7月、「電動列車時代の幕開け」として交友社刊『回想の旅客車 上』に収録</ref>、また、東海道本線[[鉄道の電化|電化]]当初、東京と小田原の間ならびに東京と横須賀の間に運転された列車には「湘南旅客列車」という呼称が用いられていた<ref name="Yamamoto1975">山本利三郎「東海道線電化を讃える」鉄道ピクトリアル 1975 年 12 月号 pp. 6 - 9</ref>。
=== 電車化 ===
電車化の際、新たに開発された80系電車が専用に導入され、「湘南電車」の名はひいてはこの80系のことをも指すようになる。80系は、[[機関車]]牽引の客車列車を加減速・高速性能に優れた電車に置き換える目的で開発された長距離運転用電車であった。このため、高速性能を確保しつつ、在来客車に近い水準の接客設備を備え、また当時日本の電車最長の16両編成が可能な仕様であった。当時の国鉄では、電車は都市近郊での短距離運転向けのものと看做されていただけに、80系を使用し、120km以上の長距離を、在来電車では先例のない客車列車並みの長大編成で運行したことは画期的だった。
投入当初は初期故障を連発させ<ref name="Yuge1954"/>、新聞紙面で「遭難電車」と揶揄されもしたが<ref name="Denkisha195608">「国電50年を偲ぶ 座談会」電気車の科学 1956-8 『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 17 国電復興時代 1950』鉄道図書刊行会 (2009) 所収</ref>、ほどなく安定運用が可能となり、国鉄での電車による長距離列車運転は広く定着していった。1950年8月から[[京阪神快速|京阪神間急行電車]]に用いられ<ref>1958年に「湘南色」に変更されるまでは、ぶどう色3号とクリーム3号のいわゆる関西色塗装であった。『鉄道ピクトリアル』2004年3月号 p.27、星晃「湘南電車誕生の思い出」前掲。</ref> たほか、東海道本線の電化区間西伸にともない80系の運用区間も西進し、その後[[山陽本線]]、[[上越線]]<ref name="ss_ut">のちに湘南新宿ラインや上野東京ラインとして、湘南電車が宇都宮線や高崎線と直通運転を行うようになり、運転系統として事実上一体化された。</ref>、[[東北本線]]<ref name="ss_ut" />、[[信越本線]]、[[中央本線]]、[[飯田線]]、[[身延線]]でも運用され「湘南」の範囲に収まらなかったが、80系に対して「湘南形電車」という呼称が用いられた。
80系電車によっていた[[東海 (列車)|準急「東海」]]用に開発された[[国鉄153系電車|91系→153系電車]]が「新湘南」と呼ばれた時期もあったが、次第に「東海形」と呼ばれる様になり「新湘南」は定着しなかった<ref name="Hoshi1971">星晃「30年代の急行形『電車・気動車』」交友社刊『回想の旅客車 上』収録</ref>。
=== 111系・113系への置き換え後 ===
[[ファイル:OfunaGreenCar.JPG|thumb|「湘南電車」の表記が現存する大船駅2番線のグリーン車停車位置案内板(2011年5月24日)]]
[[1962年]]に登場した[[国鉄113系電車#111系|111系電車]]により「湘南電車」は順次置き換えられ、80系電車の東京駅乗り入れは1977年3月28日に終了したが、運行系統として「湘南電車」の呼称は以後も用いられた。しかし、[[1980年代]]以降、旅客案内上は湘南電車にかわり'''東海道線'''が使用されるようになっている<ref name="Asahi1987">朝日新聞で同時代の東海道本線電車の意味で「湘南電車」が注釈なしに用いられたのは1987年7月3日朝刊が最後であり、以降は読者投稿での想い出としての言及や、車両の引退記事で用いられている。</ref>。
[[21世紀]]初頭の時点で、JRにおいて路線(もしくは区間)の愛称として「湘南電車」が使用されることは基本的にないが、[[大船駅]]東海道線ホームのグリーン車停車位置案内板には「グリーン車(湘南電車)はこの付近に止まります」という表示が存在している。ただし、英文での表現は、"Shōnan Train"ではなく"Tōkaidō Local Line"となっている。また、鉄道関係者や愛好者の間では[[慣用句]]として廃れずに用いられており、書籍などで表題に使われる場合もある<ref>たとえば、鈴木亨 (1988)『湘南電車歴史散歩』鷹書房 ISBN 4-8034-0339-2</ref>。
80系投入当初より使用された車体塗装のカラーリングである、オレンジと緑のツートーンカラーを指す「湘南色」という呼び方は広く通用している。また、2021年現在も東海道線で運行されている「([[湘南ライナー]]→)[[湘南 (列車)|湘南]]」や「[[湘南新宿ライン]]」にもその名が引き継がれている。
=== 113系の運用終了 ===
[[ファイル:113 Shonan Densha 20060317.jpg|thumb|2006年3月17日、東海道線東京口の113系運用最終日に一部車両に挿入されたサボ。]]
[[2004年]]に国鉄時代から使用していた[[国鉄113系電車|113系]]を本区間から運用撤退させる旨の発表がJR側からなされると、一部の[[マスメディア|マスコミ]]が「湘南電車の引退」と報じた<ref>たとえば、朝日新聞2006年03月18日朝刊 39 頁、2001年12月01日朝刊埼玉版35頁など。</ref>。[[2005年]][[10月1日]]には、駅改良と[[エキュート]]品川の誕生を記念して湘南色の[[国鉄クモユニ74形電車|クモユニ74形]]を模した[[郵便ポスト]]が[[品川駅]]コンコースに設置された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2005_1/20050809.pdf|title=エキナカ商業施設第2弾『ecute(エキュート)品川』 2005年10月1日(土)グランドオープン|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=2005-07-06|page=3}}</ref>。
[[2006年]][[3月17日]]の営業運行終了に際して、JR東日本側でも「さよなら湘南電車」として沿線観光パンフレットを製作、最後まで運用した編成の先頭車前面に「ありがとう113系電車」と表記した4種類の[[シール|ステッカー]]を貼付の他、運用最終日には一部車両に「さようなら湘南電車」と書かれた横[[行先標|サボ]]を挿入。さらには[[藤沢駅]]東海道線ホームの[[キヨスク]]に80系の意匠を採用するなど、単なる「車両の引退」という枠を超えたPRも行っていた。これは近年の一般社会で用いられた珍しい例といえる。
2011年2月5日と6日には、湘南色に復刻されていた[[幕張車両センター]]の房総地区用113系4両編成(マリ117編成)による団体臨時列車「懐かしの113系で行く東海道本線の旅」が[[横浜駅]] - [[熱海駅]]間で運転された<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/235437/ 【JR東】「懐かしの113系で行く東海道本線の旅」運転] 鉄道ホビダス、2011年2月10日</ref>。[[神奈川新聞]]ではこの列車の運行に際して「湘南電車カムバック」と報じている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=e-eIXmQAH4g 湘南電車カムバック、113系が東海道線に/神奈川新聞社(カナロコ)] カナロコチャンネル(YouTube)、2011年2月5日</ref>。
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ファイル:Shinagawa-station_post.jpg|[[国鉄クモユニ74形電車|クモユニ74形]]を模した[[品川駅]]の[[郵便ポスト]](2006年11月)
ファイル:Fujisawa_station_KIOSK.JPG|[[藤沢駅]]ホームに設置された湘南電車[[キヨスク]](2006年3月)
ファイル:80kei.kiosk.jpg|80系を模した店舗と113系電車の並ぶ姿(2006年3月)
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== 湘南色 ==
{{詳細記事|湘南色}}
{{色}}<!-- 写真も■も正確な色を示しているわけではないので -->
[[画像:Color-Pattern-Shonan.gif|thumb|200px|湘南色]]
[[File:GN_181-Whitefish.jpg|thumb|200px|グレート・ノーザン鉄道の機関車]]
'''「湘南色」'''とは[[黄かん色]](濃い[[オレンジ色]]){{Color|#CA6A1F|■}}と[[緑2号]](濃い[[緑|緑色]]、ダークグリーン){{Color|#354F33|■}}のツートーンカラーの愛称である。
=== 湘南色の登場 ===
湘南色の始まりは、かつて東海道本線を走っていた80系まで遡る<ref>ただし、80系以前に後述の試験塗装車が存在した。</ref>。同系列は[[1950年]]に当初からオレンジ色と緑色の塗り分けで運行開始されたが、それ以前の国鉄旅客車両の塗装が一般に客車も電車も「ぶどう色」と称される焦げ茶色1色のみで精彩に乏しかった中、同系列の派手な塗装は世論をわかせた<ref name="Hoshi1965"/>。湘南色とその塗り分けパターンは、[[グレート・ノーザン鉄道]]の車両写真を見た[[島秀雄]]の意見がきっかけとなり<ref name="Hoshi2008">星晃・南井健治対談「時代が求める形と色」『図説 鉄道のプロフェッショナル』学習研究社 ISBN 978-4-05-605271-8 p. 21</ref>、宣伝として目立つ色であり、また遠方からも識別容易であることからオレンジ色が、それに調和する汚れの目立たない色として濃緑色が選ばれた<ref name="Hoshi1965"/>。しかし明るい色についての知見がなく小さい色見本で決定された当初の色はむしろ柿色に近く<ref name="Hoshi1965"/>、[[鉛丹|サビ止め塗料]]かとの批判まであり<ref name="Hoshi1965"/><ref name="Sawayanagi2004"/>、みかん色に変更された<ref name="Hoshi1965"/>。この配色が「ミカンの実と葉の色にちなむ」というのは後付けの説明であるが<ref name="Hoshi1965"/><ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1977年7月号 p.17には80系の落成を報じる[[毎日新聞]]の記事が掲載されており、記事内ではこの時点で既に「ミカンの名所と山の色……」という文章が見受けられる。</ref>、この他にも「神奈川県西部や静岡県地方特産の[[ウンシュウミカン|ミカン]]と[[緑茶|お茶]]にちなんだもの」といった沿線の風物に発祥しているとする解説がなされている場合がある。
また、その色合いから「'''[[カボチャ|かぼちゃ]]電車'''」「'''みかん電車'''」とも呼ばれる<ref>{{Cite press release|和書|title=高崎支社管内を走る115系電車が本年3月に定期運行を終了します! |url=http://www.jrtt.go.jp/08-2Press/pdf/H28/pressh280915.pdf |publisher=[[東日本旅客鉄道高崎支社|JR東日本高崎支社]] |format=PDF |date=2018-01-15 |accessdate=2018-01-15}}</ref>。
尚、湘南色及び同時期に明色化された[[横須賀線]]電車の塗色採用過程での試験塗装として、1949年末頃に横須賀線で運用されていた[[国鉄32系電車|32系]]モハ32028を使用し、電気側側面を湘南色(本採用された色とは若干色調が異なる)、空気側側面と正面を横須賀色(スカ色)に塗装した実車試験が実施され、同車は一般乗客から「お化け電車」とあだ名された。
その後、国鉄は湘南色を[[直流電化]]区間の[[近郊形車両|近郊型]]・[[急行形車両|急行型電車]]における[[国鉄色|車両制式色]]とし、地域に関係なく広く用いた。<!--「ほとんど」は過大表現。統計上ほとんどと言い切ることはできない。-->その背景の一つには、広域的な車両の転配属を考慮した国鉄が、塗装に至るまでの徹底した標準化を図っていたことが挙げられる。
=== 塗り分けのパターン ===
80系では当初、車両前面の塗装塗り分けパターンに試行<ref name="Hoshi1965"/><ref name="Sawayanagi2004"/> も見られたが、最終的には窓上と窓下に円弧を描いた緑塗装とし、中央を菱形状にオレンジ塗装とするパターンとなった。こちらは'''「金太郎塗り」'''と呼ばれた<ref name="Yoshikwa1976">吉川文夫編 (1976) 『写真でみる戦後30年の鉄道車両』交友社 p. 26</ref>。尚、正面3枚窓の80系一次車については後に金太郎塗りをやめ、窓上を直線で塗り分けた<ref>例外的にクハ86001のみ晩年まで金太郎塗りを維持していた</ref>。また、中間車から改造のクハ85形については前面窓の上下とも直線塗り分けだった。
同系列以降に湘南色に塗装された電車としては、近郊形[[国鉄113系電車|111系・113系]]、[[国鉄115系電車|115系]]、急行形では[[国鉄153系電車|153系]]・[[国鉄155系・159系電車|155系・159系]]・[[国鉄165系電車|163系・165系・167系・169系]]の各系列が該当する。これらは前面に貫通路を備え、ほぼ共通したデザインモチーフの車両だが、系列ごとに車両前面の塗り分けパターンが異なっていた。111系・113系と159系は貫通路脇に向かって斜めの直線塗り分け、115系は貫通扉脇に小さなRを付けた直角塗り分けで、これらの近郊形3系列と159系はいずれも前面屋根部分についても緑色塗装となっている。153系・155系は前面がオレンジ色1色で緑色は側面のみ、165系・167系・169系は前面の下半分全体を貫通扉まで含めて緑色としている。ただし、165系のうち、クハ153形から改造編入されたクハ164形については前面がオレンジ1色のままだった。
80系以前の[[戦前]]製[[旧形国電]]([[国鉄52系電車|52系]]など)や70系サハ75形も[[1960年代]]にイメージアップのために一時湘南色に塗装されて飯田線などの運行に充当された例があった。しかし、湘南色はスカ色と異なり戦前形との相性が良いとはいえなかったことから、比較的短期間で再変更されている。
旅客用以外でも[[郵便車|郵便]]・[[荷物車]]クモユニ74形、クモユニ82形、クモニ83形、クモユ141形、クモユ143形、クモニ143形、クモユニ143形、[[事業用車]]クモヤ143形の各形式も湘南色に塗装された。これらは切妻高運転台の80系クハ85形と共通するデザインモチーフの車両だが、正面塗り分け線は急行形の165系に準じ、上半分橙色、下半分緑色の塗り分けだった。
また、1962年から1968年にかけて、[[瀬野八]]越えをする153系急行列車に補機を連結する為の[[控車]]として使用されたオヤ35形客車も湘南色に塗装されていた。
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File:80series86063.JPG|80系 クハ86形
File:80series85309.JPG|80系 クハ85形
File:113 series K60 Acty Ofuna 20030630 fixed.jpg|113系
File:Series115 6cars.jpg|115系
File:JNR Kumoni143-7.jpg|143系
File:153series01.jpg|153系
File:Kuha155.jpg|155系
File:JRE-EC165.jpg|165系
File:JNR kuha167-21.jpg|167系
File:JNR 169 myouko 3.jpg|169系
File:Oya35.jpg|オヤ35形
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=== 国鉄分割民営化後の動向 ===
国鉄末期の1980年代になるとイメージチェンジを目論んで各地域ごとに独自の塗色変更が行われるようになり、[[国鉄分割民営化]]後にはその傾向が加速した。[[1990年代]]以降は新車への置き換えやリニューアル時の塗色変更などで全体を湘南色に塗装した鋼鉄製車体の車両は著しく減少している。
民営化前後に製造された[[オールステンレス車両]]の[[国鉄211系電車|211系]](名古屋地区に投入の0番台を除く)、[[国鉄213系電車|213系5000番台]]は基本的にこの色分けを踏襲した帯を使用しているが、湘南色の伝統を踏まえつつも、車体の全体塗装ではなく、窓下などに湘南色をイメージした帯を巻いている。また、111系・113系用の[[グリーン車]]のうち[[2階建車両]]([[国鉄113系電車#サロ124形・サロ125形|サロ124・125形]])の一部には、[[横須賀・総武快速線]]での使用を前提とした車両があり、これを東海道線に異動した際にそのまま帯色シールの張り方を踏襲した車両がある。
JR東日本が導入した[[JR東日本E231系電車|E231系]]、[[JR東日本E233系電車|E233系3000番台]]などは緑色の割合が多く、全体的に明るめの配色になっている。一時的に[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]で運用された[[JR東日本E217系電車|E217系]]や[[宇都宮線]]に転用された[[国鉄205系電車|205系600番台]]もこの塗色である。JR東日本では全体を湘南色に塗装した車両は置き換えられたものの、東海道線や[[宇都宮線]]、[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎地区の路線]]で運用される車両には引き続き湘南色の帯を採用している。また、[[大宮総合車両センター東大宮センター#東京・大宮総合訓練センター|東京・大宮総合訓練センター]]の[[JR東日本209系電車|209系]]改造の訓練車もE231系等と同じ帯色である。
JR東海は国鉄から引き継いだ車両に対しても多くが湘南色塗装のままで使われており、身延線にオリジナル色で登場した[[国鉄115系電車#モハ114形2600番台|115系2600番台]]もJR化後に湘南色塗装に変更された。鋼製車も[[JR東海キハ11形気動車|キハ11形]]に「白地に湘南色の帯」のタイプの帯色を採用し、[[国鉄103系電車|103系]]やオリジナル塗装をまとった[[国鉄119系電車|119系]]、[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]]などの国鉄型車両も同様の塗装に変更された。この塗装は「(JR)東海色」とも呼ばれることがある<ref>[http://www.kojima.net/ec/disp/CSfGoodsPage_001.jsp?GOODS_STK_NO=2695559&rec_t=r&rec_k=v バンダイ Bトレインショーティー キハ40+キハ48 東海色]</ref><ref>[http://www.platz-hobby.com/products/5750.html プラッツ Zゲージ キハ40 2000番代 JR東海色 (動力なし)]</ref>。この塗り分けは[[佐久間レールパーク]]に保存されていた旧性能電車[[国鉄72系電車#モハ62形・クハ66形|クハ66形]]のカットモデルにも施されていた(閉館により現存しない)。
JR発足後も残った湘南色の車両は以下の通り。特記しない限り全体塗装または帯での塗装である。
* 東日本旅客鉄道
** [[国鉄113系電車|113系]](民営化 - [[2011年]])
** [[国鉄115系電車|115系]](民営化 - [[2022年]])
** [[国鉄143系電車|143系]](民営化 - )
** [[国鉄165系電車#165系|165系]](民営化 - [[2003年]])
** [[国鉄165系電車#167系|167系]](民営化 - [[2003年]])
** [[国鉄211系電車|211系]]<ref>基本的に湘南色の帯を巻くが、[[2013年]]7月に「高崎線130周年」として編成の一部分が車両全体の湘南色となった車両が登場し、同年末まで運用された。</ref>(民営化 - )
** [[国鉄185系電車|185系]]<ref>[[国府津車両センター]]所属車両の東京方に湘南色のブロックパターンが採用されていた。また、上記とは別に[[2010年]]から[[2013年]]まで、OM03編成が80系をイメージした湘南色塗装に塗り替えられていた。</ref>([[1999年]] - [[2017年]])
** [[JR東日本E231系電車|E231系]]([[2000年]] - )
** [[JR東日本E217系電車|E217系]]([[2006年]] - [[2015年]])
** [[JR東日本E233系電車|E233系]]([[2007年]] - )
** [[国鉄205系電車|205系]]([[2013年]] - [[2022年]])
* 東海旅客鉄道
** [[国鉄113系電車|113系]](民営化 - [[2007年]])
** [[国鉄115系電車|115系]](民営化 - [[2008年]])
** [[国鉄119系電車|119系]]([[1988年]] - [[2012年]])
** [[JR東海キハ11形気動車|キハ11形]]([[1988年]] - [[2016年]])
** [[国鉄211系電車|211系]]([[1988年]] - )
** [[国鉄103系電車|103系]]([[1989年]] - [[2001年]])
** [[国鉄123系電車|123系]]([[1989年]] - [[2007年]])
** [[国鉄213系電車#5000番台|213系]]([[1989年]] - )
** [[国鉄キハ40系気動車|キハ40系]]([[1990年]] - [[2016年]])
* 西日本旅客鉄道
** [[国鉄113系電車|113系]](民営化 - [[2017年]])
** [[国鉄115系電車|115系]](民営化 - )
** [[国鉄165系電車#165系|165系]](民営化 - [[2002年]])
** [[国鉄165系電車#167系|167系]](民営化 - [[2001年]])
* 四国旅客鉄道
** [[国鉄113系電車|111系]]([[2001年]])
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File:JRE Series211-3000 A37 Agatsuma-Line.jpg|211系
File:Series213-5000 H13.jpg|213系
File:Jre E217F.jpg|E217系
File:JRE Series-E231-1000 S-13.jpg|E231系
File:JRE Series-E233-3000 E-58.jpg|E233系
File:Series-205-600-Y12.jpg|205系
File:JNR185-200-OM03 Minakami.jpg|185系
File:Jnr 185 OM3-Kusatsu-20120103.jpg|185系 OM03編成
File:JNR EC Tc103-77.jpg|103系
File:JR-central-119-5300.JPG|119系
File:JRC cMc123-5041 Gendoji.jpg|123系
File:JRC-Kiha40-6300DC.jpg|キハ40形
File:JR-central-kiha11 111.JPG|キハ11形
</gallery>
=== 国鉄・JR以外での湘南色 ===
国鉄および[[JR]]グループ各社以外で以下の事業者が湘南色の車両を保有している。
[[鉄道総合技術研究所]](鉄道総研)では国鉄から譲渡されたキハ30 15が湘南色に塗装されており、正面の塗り分け線が正面が前面強化板の上淵に達した独特なものとなっている。
[[しなの鉄道]]ではJR東日本から譲渡された[[国鉄165系電車#169系|169系]]および[[国鉄115系電車|115系]]に、国鉄時代同様の湘南色を復刻塗装している。169系は[[2008年]]にS52編成が最初の湘南色塗装車となった。同編成は一旦しなの鉄道色に戻されたものの、[[2010年]]に再び湘南色となった。さらに[[2013年]]にはS54編成も塗装変更され、両編成とも同年の[[廃車 (鉄道)|廃車]]まで湘南色で運行された。115系はリバイバル企画の一環として[[2017年]]にS3編成が、[[2019年]]にS25編成が湘南色に塗装された。ただし後者は[[2021年]]に廃車となった。
[[天竜浜名湖鉄道]]では[[2018年]]に[[天竜浜名湖鉄道TH2000形気動車|TH2100形]]TH2101号車の車体全体に湘南色(正面塗り分け線は113系電車に準ずる)のラッピングを行い、「Re+」(リ・プラス)号として運転を開始した<ref>[https://www.tenhama.co.jp/events/9941/ 新ラッピング列車 『Re+(リ・プラス)』運行について] 天竜浜名湖鉄道公式サイト 2018年5月15日</ref>。
[[東海交通事業]]では、[[1993年]]の開業直後に、JR東海と共通運用する[[JR東海キハ11形気動車|キハ11形]]に対して白地に湘南色の帯の塗装を施した。[[2015年]]に同車が[[ひたちなか海浜鉄道]]に譲渡されたことにより消滅した。
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KiHa 30-15 RTRI Kokubunji 20151010.JPG|鉄道総研キハ30 15
JNR 169 S52 revival train Shinshu 20130324 (2).jpg|しなの鉄道169系 S52編成
Series115-1000 S3.jpg|しなの鉄道115系 S3編成
TH2101 Shonan livery 20210523.jpg|天竜浜名湖鉄道TH2101
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{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[東海道線 (JR東日本)]]
*[[東海道本線]]
* [[横浜DeNAベイスターズ]] - かつて大洋ホエールズ時代([[川崎球場]]本拠地時)に着用した[[ユニフォーム|ユニホーム]]が「湘南電車ユニホーム」といわれた。
* [[松本浩代]] - 女子[[プロレスラー]]。出身地の[[神奈川県]][[平塚市]]を東海道本線が通ることから、[[紙テープ]]の色も湘南色となっている。
* [[赤いスイートピー]] - [[松田聖子]]の楽曲。作詞をした[[松本隆]]によると、歌詞の冒頭"春色の電車"について「(春色は)子どもの頃に記憶している黄色と緑の湘南電車が海に続いているイメージ」<!--「江ノ電の鎌倉高校前から鎌倉駅の商店街を抜けて海が急に見えてくる景色が大好きだった」「その線路の脇に赤いスイートピーが咲いていたらかわいいんじゃないかな、と想像して歌の舞台にした」と2021年8月1日放送の「[[関ジャム 完全燃SHOW]]」で -->と解説。
{{DEFAULTSORT:しようなんてんしや}}
[[Category:東海道本線の列車|しようなんてんしや]]
[[Category:日本国有鉄道の列車]]
[[Category:東日本旅客鉄道の列車]]
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2003-07-07T00:45:48Z
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2023-09-27T04:00:41Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%98%E5%8D%97%E9%9B%BB%E8%BB%8A
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10,972 |
湘南
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湘南(しょうなん)は、神奈川県の南西部を指す名称である。海水浴やサーフィンなどのマリンスポーツの聖地とされる。
一般的には、相模川の河口を中心とする5市3町(平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町)を指す。広義には、相模湾沿岸の全域(三浦市から足柄下郡湯河原町まで)を含むことがある。
国内文献における「湘南」の初出は『倭名類聚抄』で、かつて中国に存在した長沙国湘南県である。中世中国の湘南では禅宗が発展し、その中心地であった。 現在の日本では「湘南」とは主に神奈川県相模湾沿岸を指すが、うち禅宗を保護した鎌倉幕府があった鎌倉は、現在も禅宗臨済宗建長寺派および臨済宗円覚寺派の大本山である建長寺や円覚寺の所在地であり、鎌倉時代には夢窓疎石らにより日本の禅宗の中心地ともなった、禅宗と非常に密接な関係を有する土地でもある。
鎌倉の市街地や内陸部には鎌倉時代に起源を持つこうした古刹が残るが、現在において湘南という呼称が喚起するのは、太陽が降り注ぐ相模湾沿岸の浜辺や、そこで盛んなサーフィンの聖地というイメージである。それらが形成されたのは太平洋戦争後の1961年(昭和36年)7月、鵠沼海岸でサーフィンを楽しんでいた厚木基地所属の在日米軍パイロットが地元の青年らに教えたことで全国的な普及のきっかけとなり、「日本のサーフィン発祥の地」と呼ばれるようになったことが大きい。1978年にはサザンオールスターズが、江の島や茅ヶ崎といった湘南の地名を謳い込んだ『勝手にシンドバッド』でデビューし、現在に続く湘南のイメージを広げた。
平成期に神奈川県は、海をレジャーやスポーツの場として活用する「かながわシープロジェクト」を展開した。これにより湘南の定義は、神奈川県の市町村単位ではなく沿岸地区地方を指す名称となり、新湘南・湘東と西湘からなる。
上記のように鎌倉や江の島、茅ヶ崎などはネームバリューや観光資源が豊富で観光集客力が高く、昭和期のマスコミによる形成されたイメージが残る。明治期に遡れば山と川が織りなす相模川西の景観が主眼だったが、昭和期は「海」「太陽」「若者」などが連想されるようになっていった。
「湘南」という言葉の由来には、二つある。一つは、神奈川県の中西部は令制国としては相模国であり、その「相」に「さんずい」を加えて「湘」として「相模国の南部」の意味としたというもの。他は、中国の長沙国(現在の湖南省)湘南県にちなむというもの。
歴史的には「湘南」は元々は現在の中国の湖南省を流れる湘江の南部のことで、かつては長沙国湘南県が存在し、中世には禅宗の本場だった。日本における「湘南」も禅宗の流入に伴って広まったと考えられ、禅宗を保護した鎌倉幕府の北条得宗家が居し、国内初の禅寺である建長寺や円覚寺を擁した鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで名付けられたといわれる。実際に、円覚寺の僧夢窓疎石の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見される。また、江戸時代に入った1664年頃、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居してういろう商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している。
江戸期に大磯発祥の命名とされる「湘南」は、明治期に政治結社名や合併村名に用いられた。 当時、相模川以西地域が湘南。相模川以東地域は湘東または新湘南という認識だった。 明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。
明治維新により、当時西欧で流行していた海水浴保養地が日本にも流入し、適した保養地として葉山、逗子、鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮など相模湾沿岸が注目されて別荘地となり、湘南文化が芽生える。
1897年、東京の赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が、逗子の自然を『國民新聞』に『湘南歳余』として紹介する。翌1898年の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂して、随筆集『自然と人生』(1900年)を出版する。これを端緒に「湘南」は、当初の相模川西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。
太平洋戦争前の1930年(昭和5年)、神奈川県は観光開発振興と大衆文化などをめざして、江の島対岸から大磯まで海岸沿い16.7キロメートルの道路設計に着手。1936年(昭和11年)に完成し、「湘南遊歩道路」などと呼ばれた(「神奈川県道片瀬大磯線」参照)。この名称が湘南という広域地名を普及させるのに大きく寄与した。戦後は三浦半島東部(東京湾側)の横須賀市や三浦市から延びる国道134号西半分の母体となり、国道134号は「湘南のメインストリート」と看做されるようになった。
かながわシープロジェクトFeel SHONANが発足し、相模湾沿岸13市町が湘南と定められた。
「湘南」の範囲は本来地形であるが、人や時代により様々に呼称されており、行政等における範囲を下記する。
◎印は湘南地域県政総合センター(県の行政区域)、湘南自動車検査登録事務所(ナンバープレート)の所在地を示す。
湘南ハイツ
横浜市栄区公田町にある大規模開発住宅地域。
栄湘南桂台地区
昭和40年代から50年代にかけて開発 された大規模な戸建て住宅地で、湘南桂台自治会区 域とそれに隣接するネオポリス自治会区域からなり、 区画数は約1,700区画である。
横浜市栄区犬山町、桂台北、桂台中、桂台 西一丁目、桂台西二丁目、桂台東、桂台南 一丁目、桂台南二丁目他。
県の行政区域「湘南地域」の中央に位置する。県の出先機関である「湘南地域県政総合センター」を始め、湘南ナンバーを発行する「湘南自動車検査登録事務所」など湘南地域を管轄する行政機関が多く所在し、湘南地域の行政の中心となっている。政治的にも「湘南市」として合併し政令指定都市を目指す構想の中心的役割を果たした。
海岸は急に深くなる地形的理由から海水浴に適さないが、「湘南」のイメージ戦略もあり、海岸工事により近年海水浴場を開設した。相模湾を一望する湘南平は湘南海岸を俯瞰できる場所として知られる。夜景も美しく、天気が良い日には東京スカイツリーまで見ることができる。湘南地域のデートスポットとして有名である。 関東三大七夕祭りの1つ「湘南ひらつか七夕まつり」が7月7日を中心とした3日間に開催される。サッカーJリーグ「湘南ベルマーレ」の本拠地は平塚競技場である。市西部に東海大学湘南キャンパスが存在する。
県の行政区域「湘南地域」の東部に位置する。江の島や姥島(烏帽子岩)を中心とした海岸風景は、いわゆる「湘南」の代表的なイメージである。
しかし、江ノ電沿線の大正時代に開発された住宅地である鵠沼や片瀬地域では、湘南(若者)のイメージからかけ離れた邸宅が見られるほか、内陸部に位置する藤沢市中心部は湘南の基本的な定義である「相模湾沿岸」に該当しない。経済活動も藤沢バイパスや相鉄いずみ野線、横浜市営地下鉄ブルーラインで結ばれる横浜とつながりが深い。「湘南」を冠する神奈川県立湘南高等学校、私立湘南学園(幼稚園 - 高等学校)(いずれも藤沢市に所在)は、湘南地域外からの通学者が多くなっている。
北部は海からも遠く、現代の「湘南」というイメージとはほど遠い工業・田園地帯である。地理的にも、町の雰囲気からみても、湘南と呼べるのは事実上東海道本線以南の沿岸地域だけといえるが、キャンパスの名称やマンション・アパート名など、大学や不動産業者のネーミング戦略的な理由により、かなり広い範囲で「湘南」「新湘南」が当てられている。
藤沢市北部に小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄の湘南台駅があり、その西に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスと文教大学湘南キャンパスがある。やや南の六会にも日本大学湘南キャンパス(旧・藤沢キャンパス)があるが、いずれも海岸からかなり離れた田園・丘陵地帯に位置する。
藤沢市西部、茅ヶ崎市北部にまたがる区域には「湘南ライフタウン」と呼ばれるニュータウンが存在するが、海岸地域ではなく、北部の丘陵地域を開発したものである。
昭和の「湘南」のイメージが一般にも定着している加山雄三は横浜生まれだが茅ヶ崎育ち、またサザンオールスターズの桑田佳祐は茅ヶ崎市の出身であり、現在は茅ヶ崎海水浴場も「サザンビーチ」と呼ばれている。
県の行政区域「湘南地域」の西部に位置する。江戸時代、崇雪が大磯の東海道筋にある標石に「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えた言葉を刻んだことから、湘南発祥の地とされており、その碑が城山公園内の大磯町郷土資料館に保存されている。
大磯は、律令制以前に豪族の師長(磯長)国造が支配する地域だが、中央集権体制の整備に伴い朝廷に仕えた渡来人が移住したと考えられ、高麗山や高来神社など、アジア大陸からの文化を広めた高句麗からの渡来人に由来する地名もある。明治以降には伊藤博文や吉田茂が別荘を構える。二宮は手狭な海水浴場で観光集客力は高くないが、温暖な気候で交通の便も良く、堤義明邸も所在する。
明治期の「湘南」は「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」であり、大磯、二宮近辺には湘南馬車鉄道や、大磯町の湘南大磯病院、二宮町の湘南牛乳株式会社、など「湘南」を冠する企業が存在した。
県の行政区域「湘南地域」の北部に位置する。伊勢原市などを山麓とする大山は江戸時代に「湘山」「湘岳」と呼称される。経済面では車両交通に優れる平塚市と関連深く、小田急小田原線や国道246号で結ばれる厚木市など県央地域と関係が深化している。
県の行政区域「湘南地域」の北西部に位置する。丹沢の麓に位置し、市内の標準最高地点は標高1490.9メートルの塔ノ岳。県内唯一の盆地である秦野盆地に市街地が広がるため、「湘南地域」の中でも他の市町村とは異なった様相を見せる。また、太平洋岸気候に属するため、盆地でありながら、盆地特有の気候の厳しさは少なく、山に囲まれた市街地は、夏は涼しく、冬はあまり雪が降らない住みやすい気候が特徴である。
隣接する平塚市とは、強い経済的つながりを持ち、平塚市に所在する東海大学湘南キャンパス、神奈川大学湘南ひらつかキャンパス (SHC)の最寄駅は、それぞれ秦野市内の小田急線の東海大学前駅、秦野駅である。
周辺の平塚市・大磯町とは主に神奈川県道62号平塚秦野線で結ばれ、二宮町とは湘南馬車鉄道が結ばれていたが、廃線後は、同路線を平行する形で構築された神奈川県道71号秦野二宮線でのアクセスが主たるルートである。平塚市・二宮町とは神奈川中央交通バスでも密接に結ばれている。
伊勢原市同様、小田急小田原線や国道246号で結ばれる厚木市など県央地域との関係も深い。
県行政区域上は「湘南地域」に含まれず、大磯 - 小田原間を結ぶ西湘バイパスの様に湘南の中の「西湘地域」と呼称される。小田原市は市町村合併で市域を拡大した事により、小田原沿岸は西湘地域最大の割合となっている。
城下町をはじめ独自色が強く、海や山川を生かした保養地と観光地の特色が強いが、現在もメディアや行政的ではなく広範囲な地形的である小田原市の一部地域は湘南と認識されている場合がある。
小田原市国府津地区は、昭和29年まで国府津町であった。小田原市の中でも国府津地区には湘南とされる大磯町、二宮町から連なる大磯丘陵「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」のある地形となっている。 明治期は国府津から海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれた。 避暑避寒の地として大隈重信や大鳥圭介、加藤泰秋等、華族や政財界要人が別荘を構えた。徳川慶喜は大鳥別荘を、西園寺公望は加藤別荘に滞在するなどの人的交流もあった。数多くの文人達もよく訪れていた。 国鉄時代は国府津機関区電車基地に湘南電車が配属されていた。 この電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装とは「湘南色」も呼ばれた。
小田原には「湘南」を冠したものが多く存在した。
県行政区域上「湘南地域」に含まれず、「横須賀三浦地域」と呼称される。現在の逗子市域は昭和初期に湘南電気鉄道沿線となる。石原裕次郎は「湘南」育ちの印象が強いが、8歳より逗子市で過ごしている。「歴史の街」や「御用邸」などの印象が強く、一般的に「湘南」として扱われる事は無い。
県行政区域上「湘南地域」に含まれず、「横須賀三浦地域」と呼称される。相模湾側は1000年以上昔から「湘南」と呼ばれ、鎌倉時代以降は幕府直轄領漁港として繁栄し、東京湾側と一線を引くように逗子市が横須賀市から分離する以前から最寄駅は逗子駅である。横須賀市中心部は相模湾ではなく東京湾に接し、湘南の基本的な定義である「相模湾沿岸」に該当しない。経済活動も横浜横須賀道路や京急急行電鉄の路線で結ばれる横浜とつながりが深い。相模湾に面する横須賀市や三浦市西部では、長者ヶ崎を挟み葉山に接する秋谷海岸などで「湘南」を訴求する住宅地や避暑地も近年見られる。湘南鷹取、湘南国際村、湘南信用金庫、横須賀市中心部に所在する湘南学院高等学校など地名や企業名などに湘南を採用する例も多く、古くは昭和初期の湘南電気鉄道がある。プロ野球球団横浜ベイスターズ(2010年当時)二軍チームは、2000年から2010年シーズン終了まで湘南シーレックスとして横須賀を本拠地に活動した。
南足柄市、足柄上郡、足柄下郡は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「西湘地域」と呼称され、一般的に「湘南」として扱われる事は無いが、自動車登録番号標の「湘南ナンバー」適用エリアである。
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称される。市内城山町小倉、城山町葉山島の両地区は、かつて湘南村という行政区が存在した。これは1889年に旧小倉村と旧葉山島村の合併で生じ、1955年に旧川尻村、旧三沢村と合併し旧城山町が成立して消滅する。2007年、旧城山町は旧藤野町とともに相模原市に編入され、現在に至る。旧村名の由来は「相模川を文人が湘江と呼んでいることにちなみ、湘江の南側の村」である。現在、1906年に創立された城山町小倉の小学校名にその名を留める。
大和市、海老名市、座間市、綾瀬市は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、気象予報区における二次細分区域「湘南」適用エリアである。
厚木市は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、湘南の衛星都市(湘東藤沢、西湘小田原、県央厚木)の一翼を担っている。湘南ベルマーレのホームタウンの一つである。
海沿いに延びる国道134号は様々な映画、ドラマ、楽曲で取り上げられ、葉山御用邸、鎌倉高校前駅、江の島、烏帽子岩など「湘南」をイメージとさせる地点も多く、有数のドライブコースとして知られる。
鎌倉市、藤沢市、平塚市、茅ヶ崎市、およびその周辺地域の合併が、神奈川県推進の「期待されている合併の一つ」に湘南東圏域として紹介されている。
「Category:湘南を舞台とした映画作品」を参照
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"text": "周辺の平塚市・大磯町とは主に神奈川県道62号平塚秦野線で結ばれ、二宮町とは湘南馬車鉄道が結ばれていたが、廃線後は、同路線を平行する形で構築された神奈川県道71号秦野二宮線でのアクセスが主たるルートである。平塚市・二宮町とは神奈川中央交通バスでも密接に結ばれている。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "伊勢原市同様、小田急小田原線や国道246号で結ばれる厚木市など県央地域との関係も深い。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "県行政区域上は「湘南地域」に含まれず、大磯 - 小田原間を結ぶ西湘バイパスの様に湘南の中の「西湘地域」と呼称される。小田原市は市町村合併で市域を拡大した事により、小田原沿岸は西湘地域最大の割合となっている。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "城下町をはじめ独自色が強く、海や山川を生かした保養地と観光地の特色が強いが、現在もメディアや行政的ではなく広範囲な地形的である小田原市の一部地域は湘南と認識されている場合がある。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "小田原市国府津地区は、昭和29年まで国府津町であった。小田原市の中でも国府津地区には湘南とされる大磯町、二宮町から連なる大磯丘陵「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」のある地形となっている。 明治期は国府津から海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれた。 避暑避寒の地として大隈重信や大鳥圭介、加藤泰秋等、華族や政財界要人が別荘を構えた。徳川慶喜は大鳥別荘を、西園寺公望は加藤別荘に滞在するなどの人的交流もあった。数多くの文人達もよく訪れていた。 国鉄時代は国府津機関区電車基地に湘南電車が配属されていた。 この電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装とは「湘南色」も呼ばれた。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "小田原には「湘南」を冠したものが多く存在した。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "県行政区域上「湘南地域」に含まれず、「横須賀三浦地域」と呼称される。現在の逗子市域は昭和初期に湘南電気鉄道沿線となる。石原裕次郎は「湘南」育ちの印象が強いが、8歳より逗子市で過ごしている。「歴史の街」や「御用邸」などの印象が強く、一般的に「湘南」として扱われる事は無い。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "県行政区域上「湘南地域」に含まれず、「横須賀三浦地域」と呼称される。相模湾側は1000年以上昔から「湘南」と呼ばれ、鎌倉時代以降は幕府直轄領漁港として繁栄し、東京湾側と一線を引くように逗子市が横須賀市から分離する以前から最寄駅は逗子駅である。横須賀市中心部は相模湾ではなく東京湾に接し、湘南の基本的な定義である「相模湾沿岸」に該当しない。経済活動も横浜横須賀道路や京急急行電鉄の路線で結ばれる横浜とつながりが深い。相模湾に面する横須賀市や三浦市西部では、長者ヶ崎を挟み葉山に接する秋谷海岸などで「湘南」を訴求する住宅地や避暑地も近年見られる。湘南鷹取、湘南国際村、湘南信用金庫、横須賀市中心部に所在する湘南学院高等学校など地名や企業名などに湘南を採用する例も多く、古くは昭和初期の湘南電気鉄道がある。プロ野球球団横浜ベイスターズ(2010年当時)二軍チームは、2000年から2010年シーズン終了まで湘南シーレックスとして横須賀を本拠地に活動した。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "南足柄市、足柄上郡、足柄下郡は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「西湘地域」と呼称され、一般的に「湘南」として扱われる事は無いが、自動車登録番号標の「湘南ナンバー」適用エリアである。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称される。市内城山町小倉、城山町葉山島の両地区は、かつて湘南村という行政区が存在した。これは1889年に旧小倉村と旧葉山島村の合併で生じ、1955年に旧川尻村、旧三沢村と合併し旧城山町が成立して消滅する。2007年、旧城山町は旧藤野町とともに相模原市に編入され、現在に至る。旧村名の由来は「相模川を文人が湘江と呼んでいることにちなみ、湘江の南側の村」である。現在、1906年に創立された城山町小倉の小学校名にその名を留める。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "大和市、海老名市、座間市、綾瀬市は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、気象予報区における二次細分区域「湘南」適用エリアである。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "厚木市は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、湘南の衛星都市(湘東藤沢、西湘小田原、県央厚木)の一翼を担っている。湘南ベルマーレのホームタウンの一つである。",
"title": "各地域の特色"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "海沿いに延びる国道134号は様々な映画、ドラマ、楽曲で取り上げられ、葉山御用邸、鎌倉高校前駅、江の島、烏帽子岩など「湘南」をイメージとさせる地点も多く、有数のドライブコースとして知られる。",
"title": "国道134号"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "鎌倉市、藤沢市、平塚市、茅ヶ崎市、およびその周辺地域の合併が、神奈川県推進の「期待されている合併の一つ」に湘南東圏域として紹介されている。",
"title": "湘南・鎌倉地域による合併案"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "「Category:湘南を舞台とした映画作品」を参照",
"title": "湘南を舞台とした作品"
}
] |
湘南(しょうなん)は、神奈川県の南西部を指す名称である。海水浴やサーフィンなどのマリンスポーツの聖地とされる。 一般的には、相模川の河口を中心とする5市3町(平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町)を指す。広義には、相模湾沿岸の全域(三浦市から足柄下郡湯河原町まで)を含むことがある。
|
{{Otheruses}}
{{出典の明記|date=2021年3月}}
[[File:Enoshima eastside beach.jpg|thumb|300px|{{Center|[[片瀬東浜海水浴場]]と[[江の島]]([[藤沢市]])}}]]
[[File:Seisho.png|thumb|300px|{{Center|湘南の範囲(背景色が橙色の自治体)}}]]
'''湘南'''(しょうなん)は、[[神奈川県]]の南西部の[[相模湾]]沿岸部を指す名称である。[[海水浴]]や[[サーフィン]]などの[[ウォータースポーツ|マリンスポーツ]]の[[聖地]]とされる。
一般的には、[[相模川]]の河口を中心とする5市3町([[平塚市]]、[[藤沢市]]、[[茅ヶ崎市]]、[[秦野市]]、[[伊勢原市]]、[[寒川町]]、[[大磯町]]、[[二宮町]])を指す<ref group="*">神奈川県公式ホームページ「[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/ph7/cnt/f7631/general/shonan.html 湘南エリアについて]」の掲載地域。</ref>。広義には、[[相模湾]]沿岸の全域([[三浦市]]から足柄下郡[[湯河原町]]まで)を含むことがある。
== 歴史 ==
=== 「湘南」の発端 ===
{{独自研究|section=1|date=2013年1月}}
国内文献における「湘南」の初出は『[[倭名類聚抄]]』で、かつて中国に存在した長沙国湘南県である。中世中国の湘南では[[禅宗]]が発展し、その中心地であった。
現在の日本では「湘南」とは主に[[神奈川県]][[相模湾]]沿岸を指すが、うち禅宗を保護した[[鎌倉幕府]]があった[[鎌倉]]は、現在も禅宗[[臨済宗#建長寺派|臨済宗建長寺派]]および[[臨済宗#円覚寺派|臨済宗円覚寺派]]の大[[本山]]である[[建長寺]]や[[円覚寺]]の所在地であり、[[鎌倉時代]]には[[夢窓疎石]]らにより日本の禅宗の中心地ともなった、禅宗と非常に密接な関係を有する土地でもある。
鎌倉の市街地や内陸部には鎌倉時代に起源を持つこうした古刹が残るが、現在において湘南という呼称が喚起するのは、太陽が降り注ぐ相模湾沿岸の浜辺や、そこで盛んな[[サーフィン]]の聖地というイメージである。それらが形成されたのは[[太平洋戦争]]後の[[1961年]]([[昭和]]36年)7月、[[鵠沼海岸]]でサーフィンを楽しんでいた[[厚木海軍飛行場|厚木基地]]所属の[[在日米軍]]パイロットが地元の青年らに教えたことで全国的な普及のきっかけとなり、「日本のサーフィン発祥の地」と呼ばれるようになったことが大きい。1978年には[[サザンオールスターズ]]が、[[江の島]]や[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]といった湘南の地名を謳い込んだ『[[勝手にシンドバッド]]』でデビューし、現在に続く湘南のイメージを広げた<ref name="朝日20200725">[https://www.asahi.com/articles/DA3S14559858.html 【みちものがたり】国道134号(神奈川県)サザンと「胸さわぎの道」/日本のサーフィンの聖地に][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2020年7月25日(6-7面)2020年11月8日閲覧</ref>。
[[平成]]期に神奈川県は、海をレジャーやスポーツの場として活用する「かながわシープロジェクト」<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/y2w/seaproject/index.html かながわシープロジェクト] 神奈川県(2020年11月8日閲覧)</ref>を展開した。これにより'''湘南'''の定義は、神奈川県の市町村単位ではなく沿岸地区地方を指す名称となり、'''新湘南・湘東'''と'''西湘'''からなる。
上記のように鎌倉や[[江の島]]、[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]などはネームバリューや観光資源が豊富で観光集客力が高く、昭和期のマスコミによる形成されたイメージが残る。[[明治]]期に遡れば山と川が織りなす[[相模川]]西の景観が主眼だったが、昭和期は「海」「太陽」「若者」などが連想されるようになっていった。
=== 「湘南」の由来 ===
「湘南」という言葉の由来には、二つある<ref>[http://m-y-star.com/shonan_story/yuhodo_birth/origin.shtml 湘南の発祥]</ref>。一つは、神奈川県の中西部は[[令制国]]としては[[相模国]]であり、その「相」に「[[さんずい]]」を加えて「湘」として「相模国の南部」の意味としたというもの。他は、中国の[[長沙国]](現在の[[湖南省]])湘南県にちなむというもの。
歴史的には「湘南」は元々は現在の中国の湖南省を流れる[[湘江]]の南部のことで、かつては長沙国湘南県が存在し、中世には禅宗の本場だった。日本における「湘南」も禅宗の流入に伴って広まったと考えられ、{{要出典|date=2015年8月}}禅宗を保護した鎌倉幕府の[[北条得宗家]]が居し、国内初の[[禅寺]]である建長寺や円覚寺を擁した鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで名付けられたといわれる<ref group="*">この地域が、景勝地でもある湘江の南部並みの絶景であったという説や、相模国の南部のため本来「相南」と略称するべきところ、佳字を当てる意味もあって中国の湘南にちなんだという説もある。</ref>。実際に、円覚寺の僧[[夢窓疎石]]の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見される。また、[[江戸時代]]に入った[[1664年]]頃、[[室町時代]]に中国から日本に移住した[[中国人]]の子孫が[[小田原市|小田原]]に居して[[ういろう (菓子)|ういろう]]商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した[[大磯]]の[[鴫立庵]]に建てた石碑に「著盡'''湘南'''清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している<ref group="*">語源は仏教語であるともいわれる。[[中華人民共和国|中国]]の湘南地方([[洞庭湖]]湖南の地域)は仏教の禅が発展した地方であることから、禅に関連した古典や事象に「湘南」の文字を見ることができる。『[[碧巌録]]』『湘南葛藤録』や[[西芳寺|西芳寺湘南亭]]など。</ref>。
=== 明治から昭和初期の「湘南」 ===
江戸期に大磯発祥の命名とされる「湘南」は、明治期に政治結社名や合併村名に用いられた。
当時、[[相模川]]以西地域が'''湘南'''。相模川以東地域は'''湘東'''または'''新湘南'''という認識だった。
明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる<ref group="*">「湘南社」(大磯を本拠地とする[[自由民権運動]]のための政治結社)、[[湘南村]](現在の[[相模原市]][[城山町 (神奈川県)|城山町]]の小倉・葉山島の両地区)など(出典「『湘南』はどこか」)。</ref>。
[[明治維新]]により、当時西欧で流行していた[[海水浴]][[保養地]]が日本にも流入し、適した保養地として[[葉山町|葉山]]、[[逗子市|逗子]]、[[鎌倉市|鎌倉]]、[[藤沢市|藤沢]]、[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]、[[平塚市|平塚]]、[[大磯町|大磯]]、[[二宮町|二宮]]など相模湾沿岸が注目されて[[別荘]]地となり、湘南文化が芽生える。
[[1897年]]、東京の[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]から逗子に転居した[[徳冨蘆花]]が、逗子の自然を『[[國民新聞]]』に『湘南歳余』として紹介する。翌[[1898年]]の[[元日]]から[[大晦日]]までの[[日記]]を『湘南雑筆』として編纂して、[[随筆]]集『自然と人生』([[1900年]])を出版<ref group="*">蘆花がこの随筆の中で描写した自然の一例として、「逗子から相模湾越しに望んだ[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]や[[相模|相]][[伊豆半島|豆]]の山並み」が挙げられる。</ref>する。これを端緒に「湘南」は、当初の[[相模川]]西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。
太平洋戦争前の1930年(昭和5年)、神奈川県は観光開発振興と[[大衆文化]]などをめざして、江の島対岸から[[大磯町|大磯]]まで海岸沿い16.7キロメートルの道路設計に着手。1936年(昭和11年)に完成し、「湘南遊歩道路」などと呼ばれた(「[[神奈川県道片瀬大磯線]]」参照)。この名称が湘南という[[広域地名]]を普及させるのに大きく寄与した。戦後は[[三浦半島]]東部([[東京湾]]側)の[[横須賀市]]や[[三浦市]]から延びる[[国道134号]]西半分の母体となり、国道134号は「湘南のメインストリート」と看做されるようになった<ref name="朝日20200725"/>。
=== 年表 ===
[[File:Shonan in Oiso.jpg|thumb|right|250px|1664年に宗雪という人が[[大磯町]]に[[鴫立庵]]を再建し、[[東海道]]を行き来する人々に「著盡湘南清絶地」と紹介しており、江戸時代で既に「湘南」という言葉が使われていたことが指摘されている。]]
[[ファイル:Here is Shonan.jpg|thumb|250px|「ここは湘南」と主張する碑([[藤沢市]]片瀬海岸)]]
==== 江戸時代以前 ====
* [[江戸時代]] : [[大磯町|大磯]]発祥の命名とされる「湘南」があった。
==== 明治時代 ====
* [[明治時代]]全般 : 「湘南」という名称が、[[政治結社]]や新しく生まれる[[行政村]]の名に用いられるようになる。
* [[1879年]]([[明治]]12年) : [[内務省 (日本)|内務省]]から[[海水浴場]]候補地の諮問を受けた[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]博士([[お雇い外国人]]で[[東京医学校]]の[[講師 (教育)|講師]]であった[[ドイツ人]][[医師]])が、[[江の島]]を訪問し、[[片瀬 (藤沢市)|片瀬]]が適地と答申する。
* [[1882年]](明治15年) : [[明治政府]]の使節団が、[[英国]][[ロンドン]]近郊の[[ブライトン]]海浜[[保養地]] ([[ブライトン#ビーチ|jp]],[[:en:Brighton#Beaches|en]]) を視察する。
* [[1885年]](明治18年)
** 某月某日 : [[軍医総監]]・[[松本良順]]の勧めで、{{誰|date=2018-03}}が海水浴場を大磯に設営する。
** [[3月25日]] : [[由比ヶ浜]]の[[三橋旅館]]が、海水浴場の開設を『[[横浜毎日新聞|東京横浜毎日新聞]]』誌上にて広告する。
* [[1886年]](明治19年) : 藤沢の[[鵠沼海岸]]に海水浴場を開設する。
* [[1887年]](明治20年)[[7月11日]] : [[鉄道省|官設鉄道]]東海道線(後の[[日本国有鉄道|国鉄]]及び[[JR]]の[[東海道本線]])の横浜駅(初代の横浜駅である現在の[[桜木町駅]])─[[国府津駅]]間が開通し、当地域では程ヶ谷駅(現・[[保土ケ谷駅]])、[[戸塚駅]]、[[藤沢駅]]、[[平塚駅]]、[[大磯駅]]、[[国府津駅]]の6駅が[[一般駅]]として開業。
* 1887年(明治20年)頃 : 葉山が別荘地として開発され、在日[[イタリア]][[公使]]レナルド・デ・マルティノや[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]博士([[皇族]]にとっては[[侍医]])などといった在留上層外国人が別荘を構える。
* [[1888年]](明治21年)[[11月1日]] : 官設鉄道東海道線で、[[大船駅]]が[[旅客駅]]として開業。
* [[1889年]](明治22年)
** 5月 : ベルツ博士の推奨の下、[[有栖川宮]]が葉山にあるレナルド・デ・マルティノ別邸を訪問する<ref name="Jusoken-2000">{{Cite web|和書|author=[[水沼淑子]], 他 |date=2000 |url=http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2000/9909-0.pdf |title=近代における皇族別荘の立地・ 沿革及び建築・ 使い方に関する研究 -海浜別荘を中心とする検討- |format=PDF |work=住総研 研究年報No.27 2000年版 |publisher=[[一般財団法人]]住総研 |accessdate=2018-03-08}}</ref>。
** [[6月16日]] : 官設鉄道[[横須賀線]]から[[大日本帝国海軍]][[軍港]]の[[横須賀市|横須賀]]に至る鉄路が開通し、当地域の近傍で[[鎌倉駅]]、[[逗子駅]]、[[横須賀駅]]の3駅が開業する。
* [[1891年]](明治24年)7月 : 有栖川宮が葉山のマルティノ別邸を購入し、有栖川宮別邸とする<ref name="Jusoken-2000" />/([[熱海御用邸]]のような[[温泉]]保養地の別荘などは別として)海浜別荘の設置は、これが皇族として史上初であった<ref name="Jusoken-2000" />。
* [[1892年]](明治25年)
** 5月 : 葉山にて[[北白川宮]]別邸が着工<ref name="Jusoken-2000" />(皇族の海浜別荘の新築はこれが史上初)。
** 11月 : [[英照皇太后]]が葉山の有栖川宮別邸に滞在<ref name="Jusoken-2000" />。
* [[1893年]](明治26年)
** 2月 : [[皇太子]]明宮(即位後の[[天皇]]嘉仁、[[大正天皇]])が葉山の有栖川宮別邸に滞在<ref name="Jusoken-2000" />。
** 5月 : 北白川宮別邸の竣工<ref name="Jusoken-2000" />。
* [[1894年]](明治27年)2月 : 葉山にて[[皇室]]の別邸([[葉山御用邸]])の竣工<ref name="Jusoken-2000" />。
* [[1896年]](明治29年)6月 : 葉山御用邸南付属邸の竣工<ref name="Jusoken-2000" />。
* [[1897年]](明治30年) : 徳富蘆花が赤坂から逗子柳屋へ転居する。
* [[1898年]](明治31年) : 『國民新聞』に『湘南歳余』(徳富蘆花)が掲載される。
* [[1900年]](明治33年) : 『湘南雑筆』を含む『自然と人生』(徳富蘆花)が出版され、逗子の自然や、逗子から見た相模湾や[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]などの風景を西洋画風に紹介。
*1902年(明治35年):[[江ノ島電鉄|江之島電氣鉄道]]の[[藤沢駅|藤澤駅]]‐片瀬駅(現・[[江ノ島駅]])間が開業。
*1910年(明治43年):江之島電氣鉄道の藤澤駅‐[[鎌倉駅#歴史|小町駅]]間が開業。
==== 大正時代 ====
* [[1921年]]([[大正]]10年) : [[神奈川県立湘南高等学校|神奈川縣立湘南中學校]]が藤沢町[[鵠沼]]に開校。
* [[1922年]](大正11年) : 歌誌『明星』2月号に、荻野綾子の鵠沼を詠んだ『湘南にて』が掲載される。
==== 昭和時代 ====
* [[1928年]]([[昭和]]3年) : [[高瀬弥一]]の江之島水道株式会社が玉川水道と提携し、湘南水道株式会社として事業を拡張する。
* [[1930年]](昭和5年) : [[湘南電気鉄道]][[黄金町]] - [[浦賀駅]]間、[[金沢八景駅]] - [[逗子・葉山駅|湘南逗子駅]]間が開業し、「[[湘南電気鉄道#概要|湘南電車]]」と呼ばれる。神奈川県土木部、[[神奈川県道片瀬大磯線|湘南海岸道路]]([[鎌倉郡]][[片瀬町|川口村]]片瀬龍口寺-[[中郡]]大磯町間)の敷設計画に着手。
* [[1931年]](昭和6年) : 湘南瓦斯株式会社が藤沢町鵠沼で創業する。湘南養蚕実行組合が藤沢町で結成。
* [[1932年]]([[昭和]]7年) : 植物学者[[久内清孝]]が、『植物研究雑誌』に「滅び行く湘南の鵠沼片瀬を弔う」を発表。
* [[1933年]]([[昭和]]8年) : [[湘南学園]](小学校・幼稚園)を藤沢町鵠沼に開設。
* [[1935年]]([[昭和]]10年) : 都市計画神奈川地方委員会が、[[湘南海岸公園]]計画地域を可決して答申。[[松岡静雄]]が『神楽舎講堂湘南国語研究会誌』第1輯を発行。
* [[1936年]](昭和11年) : 湘南氷業販売組合を藤沢町で結成。[[神奈川県道片瀬大磯線]][[相模川]]「湘南大橋」が完成し、全線開通。
* [[1941年]](昭和16年) : 藤沢市内外の文化人や宗教家が集まり、「湘南文化連盟」を結成。
==== 平成時代 ====
かながわシープロジェクト[[Feel SHONAN]]が発足し、相模湾沿岸13市町が湘南と定められた。
== 「湘南」の範囲 ==
「湘南」の範囲は本来地形であるが、人や時代により様々に呼称されており、行政等における範囲を下記する。
=== 行政 ===
[[File:Shonan.png|thumb|300px|{{Center|湘南の範囲}}]]
{| class="wikitable sortable" style="text-align: center; font-size:small;"
|-
!
!県の行政区域<br /><ref group="*">神奈川県の出先機関である「[http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/syonanac/index.htm 湘南地域県政総合センター]」の所管区域。</ref>
!気象区分<br /><ref group="*">横浜地方[[気象台]]の二次細分区域。[http://www.jma-net.go.jp/yokohama/yoko08.htm#table 横浜地方気象台市町村別区域一覧]</ref>
![[ナンバープレート]]<br /><ref group="*">[[関東運輸局]][[神奈川運輸支局]]の出先機関である「[[湘南自動車検査登録事務所]]」の管轄区域。</ref>
|-bgcolor="white"
|[[推計人口]]合計<br />({{自治体人口/神奈川県|date}})
|1,043,150人
|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|平塚市}} + {{自治体人口/神奈川県|藤沢市}} + {{自治体人口/神奈川県|茅ヶ崎市}} + {{自治体人口/神奈川県|大和市}} + {{自治体人口/神奈川県|海老名市}} + {{自治体人口/神奈川県|座間市}} + {{自治体人口/神奈川県|綾瀬市}} + {{自治体人口/神奈川県|寒川町}} + {{自治体人口/神奈川県|大磯町}} + {{自治体人口/神奈川県|二宮町}} }}}}人
|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|平塚市}} + {{自治体人口/神奈川県|藤沢市}} + {{自治体人口/神奈川県|茅ヶ崎市}} + {{自治体人口/神奈川県|秦野市}} + {{自治体人口/神奈川県|伊勢原市}} + {{自治体人口/神奈川県|小田原市}} + {{自治体人口/神奈川県|南足柄市}} + {{自治体人口/神奈川県|寒川町}} + {{自治体人口/神奈川県|大磯町}} + {{自治体人口/神奈川県|二宮町}} + {{自治体人口/神奈川県|中井町}} + {{自治体人口/神奈川県|大井町}} + {{自治体人口/神奈川県|松田町}} + {{自治体人口/神奈川県|山北町}} + {{自治体人口/神奈川県|開成町}} + {{自治体人口/神奈川県|箱根町}} + {{自治体人口/神奈川県|湯河原町}} + {{自治体人口/神奈川県|真鶴町}} }}}}人
|-
![[平塚市]]
|◎||○||◎
|-
![[藤沢市]]
|○||○||○
|-
![[茅ヶ崎市]]
|○||○||○
|-
![[秦野市]]
|○||×||○
|-
![[伊勢原市]]
|○||×||○
|-
![[大和市]]
|×||○||×
|-
![[海老名市]]
|×||○||×
|-
![[座間市]]
|×||○||×
|-
![[綾瀬市]]
|×||○||×
|-
![[小田原市]]
|×||×||○
|-
![[南足柄市]]
|×||×||○
|-
![[寒川町]]
|○||○||○
|-
![[大磯町]]
|○||○||○
|-
![[二宮町]]
|○||○||○
|-
![[中井町]]
|×||×||○
|-
![[大井町]]
|×||×||○
|-
![[松田町]]
|×||×||○
|-
![[山北町]]
|×||×||○
|-
![[開成町]]
|×||×||○
|-
![[箱根町]]
|×||×||○
|-
![[湯河原町]]
|×||×||○
|-
![[真鶴町]]
|×||×||○
|}
◎印は湘南地域県政総合センター(県の行政区域)、湘南自動車検査登録事務所(ナンバープレート)の所在地を示す。
=== その他 ===
; [[湘南市]]構想<ref group="*">2005年までの合併を目標としていたが、参加自治体の首長交代などにより白紙化され、事実上消滅。</ref>
: 平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町、大磯町、二宮町
; [[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]期の合併推進圏域<ref group="*">神奈川県の市町村合併推進時における「圏域」。</ref><ref name="名前なし-1">[http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/11/0103/kouiki/gappei/gappeisingikai/pdf/kousou.pdf 「神奈川県における自主的な市町村の合併の推進に関する構想」]
</ref>
: 湘南西圏域…平塚市、秦野市、伊勢原市、大磯町、二宮町、中井町およびその周辺地域<ref group="*">ただし、中井町は県西圏域と重複。</ref>
: 湘南東圏域…鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町およびその周辺地域<ref group="*">ただし、鎌倉市は三浦半島圏域と重複。</ref>
; 旧[[鎌倉湘南学区]]<ref group="*">県立高校の[[学区]]。[[神奈川県立湘南高等学校]]も1980年まで属していた。この学区は1981年の学区細分化によって「鎌倉藤沢学区」と「茅ヶ崎学区」に分割され、2005年には県立高校学区自体が撤廃された。ただし、地区校長会や部活動の地区としては残っている。</ref>
: 藤沢市、茅ヶ崎市、鎌倉市、寒川町。学区名称からも分かるように、鎌倉市は湘南地域には含まれない。
; [[腰越]]海岸(鎌倉市)
: 旧[[鎌倉郡]]の沿岸部には西から順に[[片瀬町]]([[江の島]]を含む)・[[腰越町]]・[[鎌倉町]]があった。1939年に腰越町と鎌倉町が合併して鎌倉市が発足し、1947年に片瀬町が藤沢市に編入された。旧腰越町域、なかでも[[小動岬]]以西の腰越海岸は片瀬東浜と連続しており<ref group="*">旧腰越町域の小動岬以東は[[七里ヶ浜]]となる。</ref>、[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]] - 神戸川間の沿岸部に形成された全く同じ砂浜を藤沢市域は片瀬東浜・鎌倉市域は腰越海岸と呼び分けているに過ぎず、藤沢・鎌倉市境を基準にした湘南の線引きが通用する箇所ではない。
; 旧[[湘南村]]
: 現在の[[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]のうち小倉<ref group="*">「おぐら」。郵便番号は220-0115。</ref>、葉山島<ref group="*">「はやまじま」。郵便番号は220-0114。</ref>の両地区。「[[相模川]]」の「南」にあることから名付けられたもので、現在の湘南地域とは離れている<ref>[http://j-town.net/kanagawa/column/gotochicolumn/105084.html?p=all 「湘南小学校」が海岸ではなく相模原の山奥にある意外な理由 幻の「湘南村」とは...](リンク切れ)</ref>。
== 「湘南」を冠する主なもの ==
=== 教育 ===
; [[湘南国際村]]<ref group="*">[[総合研究大学院大学]]や民間企業の研修所を含む国際研究拠点。</ref>
: [[横須賀市]]、[[葉山町]]<ref group="*">横須賀市と葉山町にまたがっているが、郵便番号は240-0107で横須賀市の一部として扱われている。</ref>
; [[湘南工科大学]]
: 藤沢市
; [[日本大学]] [[日本大学生物資源科学部・大学院生物資源科学研究科及び獣医学研究科|湘南キャンパス]]
: 藤沢市
; [[慶應義塾大学]] [[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス|湘南藤沢キャンパス]]
: 藤沢市
; [[多摩大学]] 湘南キャンパス
: 藤沢市
; [[文教大学]] 湘南キャンパス
: 茅ヶ崎市
; [[東海大学]] 湘南キャンパス
: 平塚市
; [[松蔭大学]] 湘南キャンパス
: 平塚市
; [[産業能率大学]] 湘南キャンパス
: 伊勢原市
; [[神奈川県立湘南高等学校]]
: 藤沢市
; [[学校法人]][[湘南学園]]<span style="font-weight:normal">(幼稚園、小学校、中学校、高等学校)</span>
: 藤沢市
; [[学校法人]][[湘南白百合学園]]<span style="font-weight:normal">(幼稚園、小学校、中学校、高等学校)</span>
: 藤沢市
; [[湘南学院高等学校]]
: 横須賀市
; [[相模原市立湘南小学校]]
: 相模原市(旧城山町立)湘南村由来による
=== スポーツ ===
* [[湘南ベルマーレ]](平塚市、藤沢市、[[厚木市]]、茅ヶ崎市、小田原市、秦野市、伊勢原市、[[鎌倉市]]、[[南足柄市]]、寒川町、大磯町、二宮町、[[大井町]]、[[開成町]]、[[中井町]]、[[箱根町]]、[[松田町]]、[[真鶴町]]、[[山北町]]、[[湯河原町]]:[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]])
* [[湘南ユナイテッドBC]](藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町)
* [[湘南シーサイドカントリー倶楽部]](茅ヶ崎市:[[ゴルフ場]])
* [[国本哲秀]]および有限会社湘南<ref>[http://www.keiba-db.com/1/db/om.cgi?&index=44108491&keys4=%97L%8C%C0%89%EF%8E%D0%8F%C3%93%EC keibaDATABASE]</ref>の[[冠名]]
** [[ショウナンパントル]]、[[ショウナンアデラ]]、[[ショウナンパンドラ]]、[[ショウナンカンプ]]など。
* [[湘南ひらつかマルユウベースボールクラブ]](平塚市)
* 湘南国際マラソン
* [[湘南乃海桃太郎]](大磯町出身の[[大相撲]][[力士]])
=== 交通・経済 ===
; [[湘南モノレール]]および[[湘南モノレール江の島線]] - [[湘南町屋駅]]、[[湘南深沢駅]]、[[湘南江の島駅]]
: 鎌倉市、藤沢市
; [[湘南海岸公園駅]]
: 藤沢市
; [[湘南電気鉄道]]<span style="font-weight:normal">([[京浜急行電鉄]]の母体会社の一つ)</span>
: 横須賀市、[[逗子市]]<ref group="*">起点の[[横浜市]]を除く。</ref>
; 湘南京急バス<span style="font-weight:normal">[[京浜急行バス]]の子会社</span>
: 鎌倉市、逗子市[[京浜急行バス鎌倉営業所|鎌倉営業所]]、横須賀市[[湘南京急バス堀内営業所|堀内営業所]] (一部は横浜市)
; <span style="font-weight:normal">旧</span>湘南馬車鉄道<span style="font-weight:normal">(後に</span>湘南軽便鉄道<span style="font-weight:normal">を経て</span>[[湘南軌道]]<span style="font-weight:normal">となる)</span>
: 秦野市、中井町、二宮町
; [[湘南電車]]<span style="font-weight:normal">(正式名ではないが、昭和初期には湘南電気鉄道の電車の愛称、戦後は[[東海道本線]]の[[中距離電車]]の愛称。[[東海道線 (JR東日本)]]参照)</span>
: 鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、真鶴町、湯河原町。列車は静岡県まで直通する。
; [[湘南色]]
: 国鉄[[東海道本線]]に投入された初代湘南電車([[国鉄80系電車|80系]])で初めて採用された窓周りが橙色、上下を深緑色で塗り分けた塗色の通称名<ref>[https://rail.hobidas.com/feature/443405/ 「湘南らしくはないけれど…」最も有名な地域色の由来とは?【コラム「湘南色」第2部】] 鉄道ホビダス、2023年2月6日</ref>。この塗色は国鉄時代、直流電化区間を走行する急行形・近郊形電車の標準色となり主に本州の関東甲信越地方以西地域で広く見る事が出来た。2018年時点もJR東日本[[群馬県|群馬]]・[[栃木県|栃木]]・[[新潟県|新潟]]エリアと[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[山陽地方|山陽]]エリアで僅かに見られ、[[第三セクター鉄道]]の[[しなの鉄道]]ではリバイバルカラーとして採用されている。発祥の地である湘南電車エリアの現在活躍中のステンレス製車両の帯色はやや鮮やかな色調に変更されてはいるが、「オレンジと緑」の組み合わせは健在である。
; [[湘南顔]]
: 地域ではなく、国鉄の初代湘南電車(80系)第二次製造車のデザインに由来する。[[流線形]]の前面2枚窓のデザインで、1950年代から1960年代頃まで日本の鉄道車両デザインのトレンドとなり、空前絶後とも言える影響を与えた<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/374917 2枚の大窓「湘南顔」、昭和の鉄道車両に大旋風] 東洋経済オンライン、2020年9月13日</ref>。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[藤沢駅]]ホーム上の[[キヨスク]]が、80系のほぼ原寸大のレプリカとなっている他、2017年時点でも全国の私鉄でこのデザインの車両が活躍している。「湘南スタイル」と呼ばれることもあるが、1998年創刊の同名の雑誌は全く無関係<ref group="*">内容が鉄道車両とは一切関係無い。</ref><ref group="*">その後、2011年に同一出版社から『鉄道湘南スタイル』というタイトルの書籍が刊行されたが、誤記が目立つ不完全な内容である。</ref>。
; [[湘南 (列車)|湘南]]<ref group="*">2021年3月の[[ダイヤ改正]]以前は[[湘南_(列車)#かつて運行されていた列車|湘南ライナー]]</ref><span style="font-weight:nomal">(湘南電車の[[特別急行列車|特急]]<ref group="*">2021年3月のダイヤ改正以前は[[ホームライナー]]</ref>)</span>
: 鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、二宮町、小田原市。
; [[湘南新宿ライン]]
: 鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、逗子市。鎌倉市は東海道本線・[[横須賀線]]双方、逗子市は横須賀線系統のみ、他は東海道本線系統のみ。
; [[湘南急行]]<span style="font-weight:normal">([[小田急江ノ島線]]にかつて存在した列車種別)</span>
: 大和市、藤沢市(小田原線沿線の自治体を除く)
; [[湘南ナンバー]]
; [[横浜湘南道路]]
: 藤沢市(起点の横浜市を除く)
; [[新湘南バイパス]]
: 藤沢市、茅ヶ崎市
; 湘南新道
: 藤沢市、茅ヶ崎市([[神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線]])
: 平塚市、寒川町([[神奈川県道44号伊勢原藤沢線]]別線)
; <span style="font-weight:normal">旧</span>[[神奈川県道片瀬大磯線|湘南遊歩道路]]
: 藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町
; <span style="font-weight:normal">旧</span>[[湘南道路]]
: 逗子市、鎌倉市、藤沢市
; [[湘南大橋]]
: 平塚市
; [[湘南港]]
: 藤沢市
; [[湘南信用金庫]]<span style="font-weight:normal">本店</span>
: 横須賀市。この名称は旧横須賀信用金庫が鎌倉信用金庫を併合したことによる。
=== 農産物 ===
; [[湘南ポモロン]]
: 神奈川県が開発した[[トマト]]で、生食でも加熱でもおいしく食べられる。色は、レッドとゴールドの2色がある。
: [[テレビ朝日]]『[[ごはんジャパン]]』<ref>[https://www.tv-asahi.co.jp/gohan-japan/backnumber/0017/ ごはんジャパン]</ref>でも取り上げられた。
; [[湘南ゴールド]]
: 神奈川県が開発した[[柑橘類]]の[[品種]]。
; [[湘南レッド]]
: 神奈川県が開発した[[赤たまねぎ]]。
; [[湘南の輝き]]
: 湘南で栽培されるハウス[[柑橘類|みかん]]。
=== 加工品 ===
; [[湘南みかんジュース]]
: 神奈川県で作られているみかんのジュース。
; [[湘南みかんシャーベット]]
: 神奈川県で作られているみかんシャーベット。
=== 病院・歯医者 ===
; 鎌倉市
: [[湘南鎌倉総合病院]]
: [[湘南記念病院]]
: 湘南クリニック(透析専門)
: 湘南おおふなクリニック
: 湘南かまくらクリニック
: 湘南鎌倉歯科・矯正歯科
: 湘南深沢歯科クリニック
: 湘南鎌倉バースクリニック
; 横須賀市
: [[湘南病院]]
: 湘南内科医院
: 湘南山手つちだクリニック
: 湘南山手歯科医院
: 湘南グリーンクリニック・歯科
; 藤沢市
: [[湘南美容クリニック|旧湘南美容外科クリニック藤沢院]] - 藤沢市、横浜市、東京都新宿区など
: 湘南中央病院
: 湘南藤沢徳洲会病院
: 藤沢湘南台病院
: 湘南敬愛病院
: 湘南大庭病院
: 湘南第一病院
: 湘南太平台病院
: 湘南よこた医院
: 湘南眼科医院
: 湘南鵠沼産婦人科
: 湘南ゆずクリニック
: 湘南C-Xデンタルクリニック
: 湘南藤沢クリニック
: 湘南藤沢形成外科クリニック R
: 湘南柄沢クリニック
: 坂本眼科湘南クリニック
: 湘南斉藤クリニック
: 湘南鵠沼内科・リウマチ科安達正則クリニック
: 湘南藤沢おぬき消化器クリニック
: 湘南中村クリニック
: 湘南ふかさわ鼠径ヘルニア大腸肛門外科クリニック
: 湘南レディースクリニック辻堂C-X
: 湘南キャットクリニック
: 湘南藤沢心臓血管クリニック
: 湘南レディースクリニック
: 湘南眼科クリニック
: 湘南海岸眼科クリニック
: 湘南あおぞらクリニック
: 湘南真心クリニック
: 湘南鵠沼脳神経クリニック
: メディカルパーク湘南こどもクリニック
: 湘南歯科口腔外科クリニック
: 湘南歯科口腔外科クリニック
: 湘南星和クリニック
: 山下湘南夢クリニック
: 湘南メンタルクリニック
: 湘南吉田クリニック
: 湘南江の島クリニック
: 湘南内科
: 湘南歯科クリニック
; 厚木市
: 湘南厚木病院
: 湘南美容クリニック本厚木院
: 湘南あつぎクリニック
; 茅ヶ崎市
: 湘南東部総合病院
: 湘南みわクリニック
: 湘南東部クリニック
: 湘南いしぐろクリニック
: 湘南中央クリニック
: 緑の湘南皮フ科クリニック
: 湘南すずきクリニック
: 湘南あかしあクリニック
; 海老名市
: オアシス湘南病院
; 平塚市
: 湘南平塚病院
: 湘南福祉センター診療所
: 湘南平塚クリニック
: 湘南デンタルクリニック
: 湘南GPクリニック
: シーサイドクリニック湘南
: 芳賀デンタルクリニック湘南
: 湘南こころのクリニック
: 湘南真田クリニック
: メモリーケアクリニック湘南
: 湘南いなほクリニック
: 湘南いいだハートクリニック
; 大磯町
: 湘南大磯病院
; 横浜市
: 湘南泉病院
: 湘南健診クリニック 湘南健康管理センター
: 湘南美容外科 横浜院
; 三浦市
: みなみ湘南医院
; 逗子市
: 湘南クリニック
: 湘南内科ペインクリニック
: 湘南記念小坪クリニック
; 葉山町
: 湘南葉山デイケアクリニック
; 二宮町
: 湘南デンタルケアークリニック
; 伊勢原市
: 湘南伊勢原クリニック
; 小田原市
: 湘南こつこつクリニック
=== その他 ===
; 神奈川県立 湘南海岸公園
: 藤沢市
; 湘南公園墓地 茅ヶ崎霊園
: 茅ヶ崎市
; [[湘南玉手箱(駅弁)]]
: 鎌倉市[[大船駅]]など
; <span style="font-weight:normal">旧</span>湘南水道株式会社
: 鎌倉市、藤沢市
: 1933年(昭和8年)に神奈川県に買収されるまで存在した民営水道。
'''湘南ハイツ'''
横浜市栄区公田町にある大規模開発住宅地域。
'''栄湘南桂台地区'''
昭和40年代から50年代にかけて開発 された大規模な戸建て住宅地で、湘南桂台自治会区 域とそれに隣接するネオポリス自治会区域からなり、 区画数は約1,700区画である。
横浜市栄区犬山町、桂台北、桂台中、桂台 西一丁目、桂台西二丁目、桂台東、桂台南 一丁目、桂台南二丁目他。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000047735.pdf|title=栄湘南桂台地区|accessdate=20201205}}</ref>{{独自研究|section=1|date=2013年1月}}
== 各地域の特色 ==
=== 平塚市 ===
[[ファイル:Shonandaira1.jpg|thumb|250px|[[湘南平]]([[平塚市]]・[[大磯町]])]]
県の行政区域「湘南地域」の中央に位置する。県の出先機関である「湘南地域県政総合センター」を始め、湘南ナンバーを発行する「湘南自動車検査登録事務所」など湘南地域を管轄する行政機関が多く所在し、湘南地域の行政の中心となっている。政治的にも「湘南市」として合併し[[政令指定都市]]を目指す構想の中心的役割を果たした。
海岸は急に深くなる地形的理由から[[海水浴]]に適さないが、「湘南」のイメージ戦略もあり、海岸工事により近年海水浴場を開設した。相模湾を一望する[[湘南平]]は湘南海岸を俯瞰できる場所として知られる。[[夜景]]も美しく、天気が良い日には[[東京スカイツリー]]まで見ることができる。湘南地域の[[デートスポット]]として有名である。 [[関東三大七夕祭り]]の1つ「[[湘南ひらつか七夕まつり]]」が[[7月7日]]を中心とした3日間に開催される。[[サッカー]][[Jリーグ]]「[[湘南ベルマーレ]]」の本拠地は[[平塚競技場]]である。市西部に[[東海大学]]湘南キャンパスが存在する。
=== 藤沢市、茅ヶ崎市===
[[ファイル:Enoshima view from Kugenuma beach.jpg|thumb|250px|[[鵠沼海岸]]から見た[[江の島]]([[藤沢市]])]]
県の行政区域「湘南地域」の東部に位置する。江の島や[[姥島]](烏帽子岩)を中心とした海岸風景は、いわゆる「湘南」の代表的なイメージである。
しかし、[[江ノ島電鉄線|江ノ電]]沿線の大正時代に開発された[[住宅地]]である[[鵠沼]]や[[片瀬 (藤沢市)|片瀬]]地域では、湘南(若者)のイメージからかけ離れた邸宅が見られるほか、内陸部に位置する藤沢市中心部は湘南の基本的な定義である「相模湾沿岸」に該当しない。経済活動も[[藤沢バイパス]]や[[相鉄いずみ野線]]、[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]で結ばれる横浜とつながりが深い。「湘南」を冠する[[神奈川県立湘南高等学校]]、私立[[湘南学園]](幼稚園 - 高等学校)(いずれも藤沢市に所在)は、湘南地域外からの通学者が多くなっている<ref>[https://www.pen-kanagawa.ed.jp/shonan-h/zennichi/gaiyou/jyoukyou.html 「湘南高校/生徒状況」]</ref><ref>[https://www.shogak.ac.jp/highschool/annnai/school_qa/#q36 「湘南学園/生徒の居住地域」]</ref>。
北部は海からも遠く、現代の「湘南」というイメージとはほど遠い工業・田園地帯である。地理的にも、町の雰囲気からみても、湘南と呼べるのは事実上[[東海道本線]]以南の沿岸地域だけといえるが、キャンパスの名称やマンション・アパート名など、大学や[[不動産]]業者のネーミング戦略的な理由により、かなり広い範囲で「湘南」「'''新湘南'''」が当てられている。
藤沢市北部に小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄の[[湘南台駅]]があり、その西に[[慶應義塾大学]]湘南藤沢キャンパスと[[文教大学]]湘南キャンパスがある。やや南の六会にも[[日本大学]]湘南キャンパス(旧・藤沢キャンパス)があるが、いずれも海岸からかなり離れた田園・丘陵地帯に位置する。
藤沢市西部、茅ヶ崎市北部にまたがる区域には「[[湘南ライフタウン]]」と呼ばれる[[日本のニュータウン|ニュータウン]]が存在するが、海岸地域ではなく、北部の丘陵地域を開発したものである。
昭和の「湘南」のイメージが一般にも定着している[[加山雄三]]は横浜生まれだが茅ヶ崎育ち、また[[サザンオールスターズ]]の[[桑田佳祐]]は茅ヶ崎市の出身であり、現在は茅ヶ崎海水浴場も「[[サザンビーチ]]」と呼ばれている。
=== 大磯町、二宮町 ===
[[File:OISO.jpg|thumb|300px|{{Center|大磯ロングビーチ(大磯町)}}]]
県の行政区域「湘南地域」の西部に位置する。[[江戸時代]]、崇雪が大磯の[[東海道]]筋にある標石に「著盡'''湘南'''清絶地」と景勝を讃えた言葉を刻んだことから、'''湘南発祥の地'''とされており、その碑が城山公園内の大磯町郷土資料館に保存されている。
大磯は、[[律令制]]以前に[[豪族]]の師長(磯長)[[国造]]が支配する地域だが、中央集権体制の整備に伴い朝廷に仕えた[[渡来人]]が移住したと考えられ、高麗山や高来神社など、[[アジア大陸]]からの文化を広めた[[高句麗]]からの渡来人に由来する地名もある。明治以降には[[伊藤博文]]や[[吉田茂]]が別荘を構える。[[二宮町|二宮]]は手狭な海水浴場で観光集客力は高くないが、温暖な気候で交通の便も良く、[[堤義明]]邸も所在する。
明治期の「湘南」は「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」であり、大磯、二宮近辺には[[湘南軌道|湘南馬車鉄道]]や、大磯町の湘南大磯病院、二宮町の湘南牛乳株式会社、など「湘南」を冠する企業<ref>(出典「『湘南』はどこか」)</ref>が存在した。
=== 伊勢原市 ===
県の行政区域「湘南地域」の北部に位置する。[[伊勢原市]]などを山麓とする[[大山 (神奈川県)|大山]]は江戸時代に「湘山」「湘岳」と呼称される。経済面では車両交通に優れる平塚市と関連深く、[[小田急小田原線]]や[[国道246号]]で結ばれる[[厚木市]]など県央地域と関係が深化している。
=== 秦野市 ===
[[ファイル:Hadano-Basin from Mt.Kunugi 01.jpg|thumb|300px|[[丹沢山地]]・櫟山より見た[[秦野盆地]]と[[相模湾]]]]
県の行政区域「湘南地域」の北西部に位置する。[[丹沢]]の麓に位置し、市内の標準最高地点は標高1490.9メートルの[[塔ノ岳]]。県内唯一の盆地である[[秦野盆地]]に市街地が広がるため、「湘南地域」の中でも他の市町村とは異なった様相を見せる。また、[[太平洋岸気候]]に属するため、盆地でありながら、盆地特有の気候の厳しさは少なく、山に囲まれた市街地は、夏は涼しく、冬はあまり雪が降らない住みやすい気候が特徴である。
隣接する平塚市とは、強い経済的つながりを持ち、平塚市に所在する[[東海大学]][[東海大学#湘南キャンパス|湘南キャンパス]]、[[神奈川大学]][[神奈川大学#湘南ひらつかキャンパス (SHC)|湘南ひらつかキャンパス (SHC)]]の最寄駅は、それぞれ秦野市内の[[小田急小田原線|小田急線]]の[[東海大学前駅]]、[[秦野駅]]である。
周辺の平塚市・大磯町とは主に[[神奈川県道62号平塚秦野線]]で結ばれ、二宮町とは[[湘南軌道|湘南馬車鉄道]]が結ばれていたが、廃線後は、同路線を平行する形で構築された[[神奈川県道71号秦野二宮線]]でのアクセスが主たるルートである。平塚市・二宮町とは神奈川中央交通バスでも密接に結ばれている。
伊勢原市同様、[[小田急小田原線]]や[[国道246号]]で結ばれる[[厚木市]]など県央地域との関係も深い。
=== 小田原市 ===
[[ファイル:Kozuyama - 01.jpg|thumb|250px|[[大磯丘陵|曽我丘陵]]([[小田原市]])]]
県行政区域上は「湘南地域」に含まれず、大磯 - 小田原間を結ぶ[[西湘バイパス]]の様に湘南の中の「[[西湘]]地域」と呼称される。小田原市は市町村合併で市域を拡大した事により、小田原沿岸は'''西湘'''地域最大の割合となっている。
城下町をはじめ独自色が強く、海や山川を生かした保養地と観光地の特色が強いが、現在もメディアや行政的ではなく広範囲な地形的である小田原市の一部地域は'''湘南'''と認識されている場合がある。
小田原市[[国府津]]地区は、昭和29年まで'''国府津'''町であった。小田原市の中でも国府津地区には湘南とされる大磯町、二宮町から連なる[[大磯丘陵]]「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」のある地形となっている。
明治期は国府津から海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれた。
避暑避寒の地として[[大隈重信]]や[[大鳥圭介]]、[[加藤泰秋]]等、[[華族]]や政財界要人が別荘を構えた。[[徳川慶喜]]は大鳥別荘を、[[西園寺公望]]は加藤別荘に滞在するなどの人的交流もあった。数多くの文人達もよく訪れていた。
国鉄時代は'''[[国府津車両センター|国府津機関区電車基地]]'''に[[湘南電車]]が配属されていた。
この電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装とは「'''湘南色'''」も呼ばれた。
小田原には「湘南」を冠したものが多く存在<ref group="*">湘南煙草合名会社(小田原市)、湘南度量衡器製作株式会社(小田原市)、湘南介立社(小田原市)など(出典「『湘南』はどこか」)。</ref>した。
=== 鎌倉市、逗子市、葉山町 ===
[[File:View of Mount Fuji from Hiroyama Park.jpg|thumb|250px|[[披露山公園]]([[逗子市]])]]
県行政区域上「湘南地域」に含まれず、「横須賀三浦地域」と呼称される。現在の逗子市域は昭和初期に[[湘南電気鉄道]]沿線となる。[[石原裕次郎]]は「湘南」育ちの印象が強いが、8歳より逗子市で過ごしている。「歴史の街」や「[[御用邸]]」などの印象が強く、一般的に「湘南」として扱われる事は無い。
=== 横須賀市、三浦市 ===
[[ファイル:Mt. Fuji from Shonan Village.jpg|thumb|250px|[[湘南国際村]]([[葉山町]]・[[横須賀市]])]]
県行政区域上「湘南地域」に含まれず、「横須賀三浦地域」と呼称される。相模湾側は1000年以上昔から「湘南」と呼ばれ、鎌倉時代以降は幕府直轄領漁港として繁栄し、[[東京湾]]側と一線を引くように逗子市が横須賀市から分離する以前から最寄駅は逗子駅である。横須賀市中心部は相模湾ではなく東京湾に接し、湘南の基本的な定義である「相模湾沿岸」に該当しない。経済活動も[[横浜横須賀道路]]や[[京急急行電鉄]]の路線で結ばれる横浜とつながりが深い。相模湾に面する横須賀市や[[三浦市]]西部では、長者ヶ崎を挟み葉山に接する秋谷海岸などで「湘南」を訴求する住宅地や避暑地も近年見られる。[[湘南鷹取]]、[[湘南国際村]]、[[湘南信用金庫]]、横須賀市中心部に所在する[[湘南学院高等学校]]など地名や企業名などに湘南を採用する例も多く、古くは昭和初期の湘南電気鉄道がある。[[プロ野球球団]][[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]](2010年当時)二軍チームは、2000年から2010年シーズン終了まで[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]]として横須賀を本拠地に活動した。
=== 南足柄市と足柄上郡・足柄下郡===
[[南足柄市]]、[[足柄上郡]]、[[足柄下郡]]は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「西湘地域」と呼称され、一般的に「湘南」として扱われる事は無いが、自動車登録番号標の「湘南ナンバー」適用エリアである。
=== 相模原市 ===
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称される。市内[[城山町 (神奈川県)|城山町]]小倉、城山町葉山島の両地区は、かつて[[湘南村]]という行政区が存在した。これは1889年に旧小倉村と旧葉山島村の合併で生じ、1955年に旧川尻村、旧三沢村と合併し旧城山町が成立して消滅する。2007年、旧城山町は旧[[藤野町]]とともに[[相模原市]]に編入され、現在に至る。旧村名の由来は「[[相模川]]を文人が湘江と呼んでいることにちなみ、湘江の南側の村」<ref>『[[角川日本地名大辞典]]』」</ref>である。現在、1906年に創立された城山町小倉の小学校名<ref>[http://www.sagamihara-shonan-e.ed.jp/ 湘南小学校「『湘南』とは?」]</ref>にその名を留める。
=== 大和市、海老名市、座間市、綾瀬市 ===
[[大和市]]、[[海老名市]]、[[座間市]]、[[綾瀬市]]は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、気象予報区における二次細分区域「湘南」適用エリアである。
=== 厚木市 ===
[[厚木市]]は県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、湘南の衛星都市([[藤沢市|湘東藤沢]]、[[小田原市|西湘小田原]]、[[厚木市|県央厚木]])の一翼を担っている。湘南ベルマーレのホームタウンの一つである。
== 国道134号 ==
海沿いに延びる[[国道134号]]は様々な映画、ドラマ、楽曲で取り上げられ、葉山御用邸、鎌倉高校前駅、江の島、烏帽子岩など「湘南」をイメージとさせる地点も多く、有数の[[ドライブコース]]として知られる。
== 湘南・鎌倉地域による合併案 ==
鎌倉市、藤沢市、平塚市、茅ヶ崎市、およびその周辺地域の合併が、神奈川県推進の「期待されている合併の一つ」に湘南東圏域として<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/11/0103/kouiki/gappei/shosai/pdf/9-5shonan_higashi.pdf 「湘南東圏域」]
</ref><ref group="*">鎌倉市は他にも三浦半島圏域案にも上っている。</ref><ref name="名前なし-1"/>紹介されている。
== 湘南を舞台とした作品 ==
{{Seealso|神奈川県を舞台とした作品一覧}}
=== 小説 ===
* 湘南探偵物語(シリーズ) - [[喜多嶋隆]]著
* [[十津川警部シリーズ|十津川警部]] 湘南アイデンティティ - [[西村京太郎]]著
* 湘南人肉医 - [[大石圭]]著
* 湘南ランナーズ・ハイ - [[倉阪鬼一郎]]著
* [[青春ブタ野郎]]シリーズ - [[鴨志田一]]著
* [[風の靴]] - [[朽木祥]]著
* [[青の炎]] - [[貴志祐介]]著
* [[ビブリア古書堂の事件手帖]]シリーズ - [[三上延]]著
=== 漫画 ===
* [[荒くれKNIGHT]] - [[吉田聡]]著
* [[海街diary]] - [[吉田秋生]]著
* [[ケンコー全裸系水泳部 ウミショー]] - [[はっとりみつる]]著
* [[SURF SIDE HIGH-SCHOOL]] - [[澤井健]]著
* [[GTO (漫画)|GTO]] SHONAN 14DAYS - [[藤沢とおる]]著
* [[湘南グラフィティ]] - 吉田聡著
* [[湘南爆走族]] - 吉田聡著
* [[湘南純愛組!]] - 藤沢とおる著
* [[侵略!イカ娘]] - [[安部真弘]]著
* [[SLAM DUNK]] - [[井上雄彦]]著
* [[辻堂さんの純愛ロード]] - [[黒柾志西]]著
* [[とめはねっ! 鈴里高校書道部|とめはねっ! <small>鈴里高校書道部</small>]] - [[河合克敏]]著
* [[なぎさMe公認]] - [[北崎拓]]著
* [[ピンポン (漫画)|ピンポン]] - [[松本大洋]]著
* [[ラヴァーズ・キス]] - [[吉田秋生]]著
* [[陸上防衛隊まおちゃん]] - [[赤松健]]著
* [[ハナヤマタ]] - [[浜弓場双]]著
* 神奈川ナンパ系ラブストーリー - 真崎聡子著
=== アニメ ===
*湘南爆走族
*湘南純愛組!
*[[夢喰いメリー]]
*[[吸血姫美夕]]
*うた∞かた
*[[エリアの騎士]]
*[[美鳥の日々]]
*[[侵略!イカ娘]]
*[[宇宙のステルヴィア]]
*[[天空のエスカフローネ]]
*[[機動戦艦ナデシコ]]
*[[ねらわれた学園 (2012年の映画)|ねらわれた学園]]
*[[エルフェンリート]]
*[[ケンコー全裸系水泳部 ウミショー]]
*[[繰繰れ! コックリさん]]
*[[いちばんうしろの大魔王]]
*[[ふたりはプリキュア Splash Star]]
*[[亜人ちゃんは語りたい]]
*SLAM DUNK
*ベイビーステップ(Baby Steps)
*[[武装神姫]]
*[[Cosmic Baton Girl コメットさん☆]]
*陸上防衛隊まおちゃん
*[[姉、ちゃんとしようよっ!]]
*[[絶園のテンペスト]]
*IS([[インフィニット・ストラトス]])
*[[GO!GO!575]]
*[[セイクリッドセブン]]
*[[ピンポン (漫画)|ピンポン THE ANIMATION]]
*[[ぼくらの]]
*青い花
*[[ひとり暮らしの小学生]]
*[[TARI TARI]]
*[[つり球]]
*ハナヤマタ
*[[覆面系ノイズ]]
*[[南鎌倉高校女子自転車部]]
*[[Just Because!]]
*[[無彩限のファントム・ワールド]]
*[[青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない]]
*[[妖怪ウォッチ!]]
**ニッポン全国 コマみ探しの旅! 湘南編
=== ゲーム ===
* [[THE ロボットつくろうぜっ! 激闘!ロボットファイト]]
* [[NOëL#NOëL 〜La neige〜|NOëL 〜La neige〜]]
* ホワイトブレス
* [[辻堂さんの純愛ロード]]
=== 音楽 ===
{{See|湘南サウンド|神奈川県のご当地ソング一覧#湘南}}
=== 映画 ===
「[[:Category:湘南を舞台とした映画作品]]」を参照
* [[一番美しく]] - [[黒澤明]]監督
* [[稲村ジェーン]] - [[桑田佳祐]]監督
* [[波の数だけ抱きしめて]] - [[馬場康夫]]監督
* [[青の炎]] - [[蜷川幸雄]]監督
* [[ビブリア古書堂の事件手帖]] - [[三島有紀子]]監督 等
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[湘南海岸]]
* [[湘南ナンバー]]
* [[湘南ベルマーレ]]
* [[湘南農業協同組合]]
* [[湘南市]] - 実現しなかった[[市町村合併]]構想
{{Normdaten}}
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[[Category:神奈川県の地域]]
[[Category:相模国]]
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岡崎武士
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岡崎 武士(おかざき たけし、1967年8月29日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。千葉県千葉市中央区出身。血液型A型。
大学在学中にまつもと泉のアシスタントを経て、1986年『5分でマーメイド』(『マンガハウス』第6巻掲載)でデビュー。代表作『精霊使い』(エレメンタラー)により1997年度、第1回文化庁メディア芸術祭 マンガ部門優秀賞受賞。
『精霊使い』の執筆中に肺気胸を患い、入退院を繰り返しながら執筆、同作品を未完のまま終了。その後しばらくの間、漫画家を休業してイラストレーターとして活動。また、趣味としていた模型で2005年よりワンダーフェスティバルにもディーラー参加し、2006年にはワンダーショーケースにも選出されている。
2007年10月に『週刊ヤングマガジン』に読み切り漫画『レッツ☆ラグーン』(のち月刊ヤングマガジンで2018年まで連載)を掲載し、漫画家の活動を再開した。2021年6月新型コロナウイルスによる世界的流行から、前年より延期になっていた『岡崎武士個展 VISIONARY』を秋葉原にて開催、
また、活動を再開してからはイラストだけでなく漫画においても一人での作画作業を続けていたが、デジタル機材やアプリケーションの更なる発達により、再び連載出来る環境が整ったとし『精霊使い』の連載を準備中であることを発表している。
アシスタントの時代の先輩でプライベートでも仲が良い作家として萩原一至がおり、仕事の仕方など影響を受けたと話している。他にも仲が良い作家としてCLAMPとも交流がある。
2021年1月より、日本SF作家クラブの会員となる。
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岡崎 武士は、日本の漫画家、イラストレーター。千葉県千葉市中央区出身。血液型A型。
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| 本名 = 岡崎 武昭
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'''岡崎 武士'''(おかざき たけし、[[1967年]][[8月29日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]出身<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/hapoi/status/1412049257306099713|url=https://twitter.com/hapoi/status/1412049257306099713|website=Twitter|accessdate=2021-07-05|language=ja}}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]A型。
== 経歴 ==
大学在学中に[[まつもと泉]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て、[[1986年]]『5分でマーメイド』(『マンガハウス』第6巻掲載)でデビュー。代表作『[[精霊使い]]』(エレメンタラー)により1997年度、第1回[[文化庁メディア芸術祭]] マンガ部門優秀賞受賞。
『精霊使い』の執筆中に[[肺気胸]]を患い、入退院を繰り返しながら執筆、同作品を未完のまま終了。その後しばらくの間、漫画家を休業してイラストレーターとして活動。また、趣味としていた模型で2005年より[[ワンダーフェスティバル]]にもディーラー参加し、2006年にはワンダーショーケースにも選出されている<ref>{{Cite web|title=Wonder Showcase|url=http://www.wondershowcase.com/wsc_archives/wsc033.html|website=www.wondershowcase.com|accessdate=2021-07-05}}</ref>。
2007年10月に『[[週刊ヤングマガジン]]』に読み切り漫画『[[レッツ☆ラグーン]]』(のち[[月刊ヤングマガジン]]で2018年まで連載)を掲載し、漫画家の活動を再開した。2021年6月[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]による世界的流行から、前年より延期になっていた『岡崎武士個展 VISIONARY』を秋葉原にて開催、
また、活動を再開してからはイラストだけでなく漫画においても一人での作画作業を続けていたが、デジタル機材やアプリケーションの更なる発達により、再び連載出来る環境が整ったとし『精霊使い』の連載を準備中であることを発表している。
アシスタントの時代の先輩でプライベートでも仲が良い作家として[[萩原一至]]がおり、仕事の仕方など影響を受けたと話している。他にも仲が良い作家として[[CLAMP]]とも交流がある。
2021年1月より、[[日本SF作家クラブ]]の会員となる<ref>[https://twitter.com/sfwj/status/1350444112844005378 @sfwjのtweet](2021年1月16日)</ref>。
== 漫画 ==
* 5分でマーメイド
* アクティブ
* ワガママン
* [[エクスプローラーウーマン・レイ]](EXPLORER WOMAN RAY)([[メディアミックス]]作品)
* [[精霊使い]](エレメンタラー)
** 精霊使い -些の塵滓-(精霊使いのリメイク作品)
* [[恋 (漫画)|恋]](月刊『[[サウス (雑誌)|サウス]]』掲載、原作:[[CLAMP|大川七瀬]])
* [[リリカルかれんちゃん]](『[[月刊ニュータイプ#コミックGENKi|コミックGENKiの素]]』掲載)
* [[カウンタック (岡崎武士)|カウンタック]]
*4色コミック版アトランシティー(『[[月刊IKKI]]』掲載。原作:[[渡辺浩弐]])(ちなみに1色コミック版アトランシティーの作画は、岡崎武士ではなく、[[加倉井ミサイル]])
*[[レッツ☆ラグーン]](『[[月刊ヤングマガジン]]』掲載)
*かつ子お仕えします!(『[[TECH GIAN|テックジャイアン]]』→『[[月刊ComicREX]]』)
== イラスト ==
* 封神演義CDドラマ(ジャケット絵)
* 晴れときどき女子高生[[プラトニックチェーン]](挿絵、[[渡辺浩弐]]/著、[[ジャンプ ジェイ ブックス]])
* イズミ幻戦記シリーズ(挿絵、[[若木未生]]/著・[[徳間デュアル文庫]])
* 電脳天使(挿絵、[[彩院忍]]/著・[[ソノラマ文庫]])
* [[ワースブレイド#ワースプロジェクト|剣の聖刻年代記]] デイル・フスリマクスティスの伝記 (挿絵、[[日下部匡俊]]/著・ソノラマ文庫、2巻まで)
* [[Fate/Apocrypha]]([[フランケンシュタイン]]・キャラクターデザイン)
* [[Fate/Grand Order]]([[TYPE-MOON]]) - 一部キャラクターデザイン
== アニメーション ==
* 精霊使い(原作・企画・脚本)
* プラトニックチェーン(キャラクターデザイン)
* [[夜桜四重奏 〜ヨザクラカルテット〜|夜桜四重奏 〜ハナノウタ〜]](第3話エンドカードイラスト)
* [[彼女がフラグをおられたら]](第10話エンドカードイラスト)
== 画集 ==
* EXIST
* void
* RE BOOT
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 外部リンク ==
*[http://hapoi.sakura.ne.jp/ オフィシャルサイト「hAPOI'S ROOM」][https://web.archive.org/web/20031023123142/http://www.t3.rim.or.jp/~happy/]
*{{twitter|hapoi}}
*{{マンガ図書館Z作家|1102}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本のイラストレーター]]
[[Category:千葉市出身の人物]]
[[Category:1967年生]]
[[Category:存命人物]]
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能登空港
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能登空港(のとくうこう、英: Noto Airport)は、石川県の能登半島北部にある地方管理空港である。愛称はのと里山空港(のとさとやまくうこう)。
本項目では、空港ターミナルビルや駐車場などの施設を共用している道の駅のと里山空港(みちのえき のとさとやまくうこう)についても記載する。
輪島市、穴水町、能登町にまたがる木原岳周辺に、2003年(平成15年)7月7日に開港。滑走路長は2,000 mで、エプロン(駐機場)は小型ジェット機、プロペラ機各2機が同時駐機できる。航空管制官を配置していないリモート空港で、大阪国際空港(伊丹空港)にある大阪対空センターの航空管制運航情報官が離着陸の情報を提供している。
空港の東隣に寄宿舎を備えた日本航空学園輪島校(日本航空高等学校石川、日本航空大学校)が開設されている。
計画段階では東京(羽田)、名古屋(小牧)、大阪(伊丹)の3路線を見込んでいたが、定期便として就航するのは全日本空輸による東京国際空港線のみである。東京国際空港の発着枠で当空港には1日1往復が割り当てられたが、自治体による搭乗率保証制度(後述)を前提とした1日2往復運航《NH747.NH748.NH749.NH750》となっている。
コロナ禍以前は、和倉温泉の加賀屋がチャーター便を台湾からの誘客ツアーに利用したほか、フジドリームエアラインズ(FDA)などの国内チャーター便が利用することがある。
年間利用客数は、開港15年目(2017年7月7日 - 2018年7月6日)の石川県集計(速報値)で16万2684人。4年連続の増加で、過去最多となった。
旅客機のほかに、航空自衛隊機や日本海で任務に就く海上保安庁の航空機も利用する。
開港前、1日1往復の運航で利用者数を見極めたい全日本空輸 (ANA) に対し、当初より1日2往復の運航を行い利便性などを高めたい石川県および地元自治体側との間において、意見の相違があった。
そこで、年間平均搭乗率が70%未満の場合は県と地元自治体が航空会社に2億円までの損失補填を行う、全国初の「搭乗率保証制度」を導入した。この制度では、あらかじめ定めた搭乗率に満たない場合、自治体側が補填することだけではなく、逆に定めた搭乗率以上が得られた場合は地元に金銭(販売促進協力金)にて還元することも盛り込まれていることが特徴である。この制度は使用機材の変更などによって年ごとに条件(目標搭乗率)を変更しつつ継続している(還元額は、2年目からは上限2億円としている)。また、開港3年目からは目標搭乗率前後に「特別枠」が設けられ、枠内の搭乗率であれば搭乗率の過不足にかかわらず双方それぞれの支払いを行わないものとした。
この制度はモデルケースとして地方空港活性化の今後のあり方のひとつを示したとされ、成功例として全国各地より視察や問い合わせなどが相次いでいるとされる。
能登空港では、利用促進を図る目的として、地域住民および観光客向けの助成金の制度がある。詳細は、のと里山空港公式サイトの助成金制度を参照。
河北郡内灘町・津幡町以北の在住者(原則として住民票登録者)を対象とした「助成制度」を設けている。自治体によって内容が異なるが、輪島市のように運賃を補助したり、七尾市のように商品券を交付するなどの例がある。
珠洲市、能登町、穴水町では観光客向けの「助成制度」を設けている。能登空港を利用かつ珠洲市など2市1町が指定する宿泊施設を利用した場合、宿泊料金が割引となる。珠洲市・穴水町についてはレンタカー料金に対する助成もある。
4階建て。日本初の試みとして、空港ターミナルビルに行政機関の庁舎が複合されており、地方行政機関(石川県奥能登総合事務所、奥能登農林総合事務所、奥能登土木総合事務所分室、奥能登教育事務所、奥能登広域圏事務組合事務局・奥能登行政センター)と生涯学習センター・会議室がある。
道の駅のと里山空港(みちのえき のとさとやまくうこう)は、石川県輪島市三井町洲衛(みいまちすえ)にある石川県道303号柏木穴水線の道の駅である。空港の道の駅の登録は全国初で、開駅当初は道の駅能登空港(みちのえき のとくうこう)の名称であった。
道の駅を空港の旅客施設と同一施設として運営しているのは、道の駅大館能代空港(秋田県北秋田市)と当駅のみである。
2021年(令和3年)には防災と災害支援拠点としての「防災道の駅」として選定された。石川県内では唯一の選定、北陸3県では福井県大野市の道の駅越前おおの荒島の郷(近畿地方整備局管轄)とともに選定されている。
国土交通省「空港管理状況調書」によると、能登空港の乗降客数は以下のとおりとなっている。
元のウィキデータクエリを参照してください.
いずれも北鉄奥能登バスによる運行。
和倉温泉や輪島、珠洲など、羽咋郡以北の能登半島各地と能登空港を結ぶ乗合タクシー「ふるさとタクシー」がある。なお、乗合タクシーの利用は前日の17時(七尾市、中能登町は15時)までに予約が必要となる。
各社共同のカウンターが設置されており、トヨタレンタカー、日産レンタカー、ニッポンレンタカーが利用できる。
自動車専用道路は、穴水道路(能越自動車道)のと里山空港ICが最寄りである。同ICから能登空港までは、石川県道303号柏木穴水線を経由する。
ここで経由する自動車専用道路(のと里山海道・能越自動車道)はすべて無料で通行することができる。
観光客を歓迎するための太鼓演奏が、2006年12月より毎週日曜日に行われている。また、開港前の2002年8月24日には、敷地内でモーニング娘。のコンサートが開催された。
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"text": "国土交通省「空港管理状況調書」によると、能登空港の乗降客数は以下のとおりとなっている。",
"title": "利用状況"
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"text": "元のウィキデータクエリを参照してください.",
"title": "利用状況"
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"text": "いずれも北鉄奥能登バスによる運行。",
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"text": "和倉温泉や輪島、珠洲など、羽咋郡以北の能登半島各地と能登空港を結ぶ乗合タクシー「ふるさとタクシー」がある。なお、乗合タクシーの利用は前日の17時(七尾市、中能登町は15時)までに予約が必要となる。",
"title": "交通"
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"text": "各社共同のカウンターが設置されており、トヨタレンタカー、日産レンタカー、ニッポンレンタカーが利用できる。",
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"text": "自動車専用道路は、穴水道路(能越自動車道)のと里山空港ICが最寄りである。同ICから能登空港までは、石川県道303号柏木穴水線を経由する。",
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"text": "ここで経由する自動車専用道路(のと里山海道・能越自動車道)はすべて無料で通行することができる。",
"title": "交通"
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"text": "観光客を歓迎するための太鼓演奏が、2006年12月より毎週日曜日に行われている。また、開港前の2002年8月24日には、敷地内でモーニング娘。のコンサートが開催された。",
"title": "芸術活動"
}
] |
能登空港は、石川県の能登半島北部にある地方管理空港である。愛称はのと里山空港(のとさとやまくうこう)。 本項目では、空港ターミナルビルや駐車場などの施設を共用している道の駅のと里山空港についても記載する。
|
{{Infobox 空港
| 名前 = 能登空港<br />Noto Airport
| 画像 = [[ファイル:Noto Airport 20160528.jpg|250px|能登空港]]
| IATA = NTQ
| ICAO = RJNW
| 国 = {{JPN}}
| 設置場所 = [[石川県]][[輪島市]]<!--ターミナルビル所在地-->
| タイプ = 商業
| 運営者 = [[石川県庁|石川県]]{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}
| 運営時間 = 8:00 - 19:30{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}
| 標高 m = 218.8{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}
| 標高 ft = 718{{sfn|月刊エアライン|2022|p=61}}
| 緯度度 = 37 |緯度分 = 17 |緯度秒 = 36 |N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 136 |経度分 = 57 |経度秒 = 44 |E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| ウェブサイト = [https://www.noto-airport.jp/ のと里山空港]
| 地図名 = Japan Ishikawa#Japan
| 地図説明 = 能登空港の位置
| 方向 滑走路1 = 07/25
| 全長 滑走路1 m = 2,000
| 全幅 滑走路1 = 45
| ILS 滑走路1 = I
| 全長 滑走路1 ft = 6,578
| 表面 滑走路1 = 舗装
| 統計年 = 2022年度
| 旅客数 = 111,212人
| 貨物取扱量 = 4[[トン|t]]
| 脚注 = [https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000185.html 航空:空港管理状況 - 国土交通省]
}}
[[ファイル:NotoAirport.jpg|thumb|right|上空俯瞰]]
'''能登空港'''(のとくうこう、{{lang-en-short|Noto Airport}})は、[[石川県]]の[[能登半島]]北部にある[[日本の空港#地方管理空港|地方管理空港]]である。[[愛称]]は'''のと[[里山]]空港'''(のとさとやまくうこう)<ref name="kensei2014">{{Cite web|和書|url = https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kenmin/kouhou/kenseikiroku/documents/2014kenseikiroku.pdf|title = 平成26年(2014) 県政記録いしかわ|publisher = 石川県広報広聴室|date = 2015-03|accessdate = 2022-06-11|format = PDF|page = 23}}</ref><ref name="chu20210702">{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/article/283311|title = 開港18年! グラス作ろう あす、能登空港でイベント|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210702031525/https://www.chunichi.co.jp/article/283311|date = 2021-07-02|archivedate = 2021-07-02|accessdate = 2022-06-11}}</ref>。
本項目では、[[空港ターミナルビル]]や駐車場などの施設を共用している'''道の駅のと里山空港'''(みちのえき のとさとやまくうこう)についても記載する。
== 概要 ==
[[File:Noto Airport Aerial photograph.2010.jpg|thumb|270px|能登空港の空中写真。(2010年撮影)。{{国土航空写真}}]]
[[輪島市]]、[[穴水町]]、[[能登町]]にまたがる木原岳周辺に、[[2003年]]([[平成]]15年)[[7月7日]]に開港{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}<ref name="chu20210702"/>{{sfn|ほっと石川|2003|p=2}}。[[滑走路]]長は2,000 mで{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}、[[エプロン (飛行場)|エプロン(駐機場)]]は小型[[ジェット機]]、[[プロペラ機]]各2機が同時駐機できる。[[航空管制官]]を配置していない[[リモート空港]]で、[[大阪国際空港]](伊丹空港)にある大阪対空センターの[[航空管制運航情報官]]が離着陸の情報を提供している<ref name="yomi20221015">{{Cite news|url = https://www.yomiuri.co.jp/national/20221015-OYT1T50283/|title = 管制官いない能登空港、海上保安庁機が着陸時に民間ヘリ離陸の重大インシデント|newspaper = [[読売新聞オンライン]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20221015203716/https://www.yomiuri.co.jp/national/20221015-OYT1T50283/|date = 2022-10-15|archivedate = 2022-10-15|accessdate = 2022-11-17}}</ref><ref name="hokkoku20221016">{{Cite news|url = https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/881581|title = 着陸機が滑走路を走行中、民間ヘリが離陸 能登空港で初の重大インシデント|newspaper = 北國新聞|archiveurl = https://web.archive.org/web/20221016192816/https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/881581|date = 2022-10-16|archivedate = 2022-10-16|accessdate = 2022-11-17}}</ref><ref name="nhk20221016">{{Cite web|和書|url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221016/k10013860321000.html|title = 能登空港トラブル ヘリ離陸前に“障害物はない”と誤った情報|website = NHK NEWS WEB|date = 2022-10-16|accessdate = 2022-11-17}}</ref><ref name="asa20221019">{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASQBL7HLVQBLPISC013.html|title = 能登空港重大インシデント ヘリ側の日本航空学園が会見|newspaper = [[朝日新聞デジタル]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20221019055822/https://www.asahi.com/articles/ASQBL7HLVQBLPISC013.html|date = 2022-10-19|archivedate = 2022-10-19|accessdate = 2022-11-17}}</ref>。
空港の東隣に[[寄宿舎]]を備えた[[学校法人日本航空学園|日本航空学園]]輪島校([[日本航空高等学校石川]]、[[日本航空大学校]])が開設されている{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}<ref name="hokkoku20221016"/><ref>{{Cite news|url = https://hochi.news/articles/20221020-OHT1T51262.html|title = 【ドラフト】日本航空石川の内藤鵬がオリックスから2位指名|newspaper = スポーツ報知|date = 2022-10-20|accessdate = 2022-11-17}}</ref>。
[[計画]]段階では[[東京国際空港|東京(羽田)]]、[[名古屋飛行場|名古屋(小牧)]]、[[大阪国際空港|大阪(伊丹)]]の3路線を見込んでいたが{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}<ref name="asayukan20030707">{{Cite news|和書|title = 能登空港オープン、羽田間1日2便|newspaper = 朝日新聞|date = 2003-07-07|issue = 夕刊(東京本社版)|pages = 14}}</ref>、定期便として就航するのは[[全日本空輸]]<ref group="注">開港当初は[[エアーニッポン]]による運航。</ref>による東京国際空港線のみである。東京国際空港の発着枠で当空港には1日1往復が割り当てられたが<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.fnn.jp/articles/-/292301|title = 「暮らしが豊かになる」は幻想だった。勝者も敗者もいない、福井空港をめぐる反対運動の結末|website = [[フジニュースネットワーク|FNNプライムオンライン]]|date = 2022-01-03|accessdate = 2022-06-11}}</ref>、自治体による[[#搭乗率保証制度|搭乗率保証制度]](後述)を前提とした1日2往復運航《NH747.NH748.NH749.NH750》となっている{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}<ref name="jcast">{{Cite web|和書|url = https://www.j-cast.com/2009/08/17047416.html?p=all|title = 静岡空港早くも「前途多難」 利用低調で減便の「危機」|website = J-CASTニュース|date = 2009-08-17|accessdate = 2022-06-11}}</ref><ref name="nikkei20180709">{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32774620Z00C18A7LB0000/|title = 能登空港の利用最高 開港15年目、石川県に12年ぶり協力金|newspaper = 日本経済新聞|date = 2018-07-09|accessdate = 2022-06-11}}</ref>。
[[コロナ禍]]以前は、[[和倉温泉]]の[[加賀屋]]が[[チャーター便]]を[[台湾]]からの誘客ツアーに利用したほか<ref>{{Cite web|和書|url = http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080701/164196/|title = 本物のおもてなしで、国境を越える(上)年間50以上のチャーター便を呼び寄せる高級旅館とは|publisher = 日経ビジネスONLINE|deadlinkdate = 2022年6月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080707131715/http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080701/164196/|date = 2008-07-07|archivedate = 2008-07-07|accessdate = 2022-06-19}}</ref>、[[フジドリームエアラインズ]](FDA)などの国内チャーター便が利用することがある<ref>[https://www.noto-airport.jp/info/docs/008a8a2c21b517eaa5c1d5749df4fcf599d8ee8f.pdf 平成29年度 のと里山空港国内チャーター便運航計画](2018年7月17日閲覧)</ref>。
年間利用客数は、開港15年目([[2017年]]7月7日 - [[2018年]][[7月6日]])の石川県集計(速報値)で16万2684人。4年連続の増加で、過去最多となった<ref name="nikkei20180709"/>。
[[旅客機]]のほかに、[[航空自衛隊]]機や[[日本海]]で任務に就く[[海上保安庁]]の航空機も利用する<ref>[https://www.kaiho.mlit.go.jp/09kanku/soumubu/nyuusatu/nyuusatusetumeisyo/ippankyousou/H29nendo/se_tavin_notokuko.pdf 能登空港における海上保安庁航空機用燃料の入札説明書](2018年7月17日閲覧)</ref>。
=== 搭乗率保証制度 ===
開港前、1日1往復の運航で利用者数を見極めたい[[全日本空輸]] (ANA) に対し<ref name="jcast"/>、当初より1日2往復の運航を行い利便性などを高めたい石川県および地元[[地方公共団体|自治体]]側との間において、意見の相違があった。
そこで、年間平均[[搭乗率]]が70%未満の場合は県と地元自治体が航空会社に2億円までの[[損失補填]]を行う、全国初の「'''搭乗率保証制度'''」を導入した<ref name="asayukan20030707"/><ref name="jcast"/><ref name="naikakufu">{{Cite web|和書|url = http://wwwb.cao.go.jp/bunken-jirei/jirei382.pdf|title = のと里山空港を核とした地域活性化|publisher = 内閣府|deadlinkdate = 2022年6月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20180926205612/http://wwwb.cao.go.jp/bunken-jirei/jirei382.pdf|date = 2015-09-28|archivedate = 2018-09-26|accessdate = 2022-06-19|format = PDF}}</ref><ref name="toyokeizai">{{Cite web|和書|url = https://toyokeizai.net/articles/-/9189?page=5|title = 北海道、青森、茨城、能登… 独自の活性化策で利用客を増やす地方空港|website = 東洋経済オンライン|date = 2012-05-22|accessdate = 2022-06-11}}</ref>。この制度では、あらかじめ定めた搭乗率に満たない場合、自治体側が補填することだけではなく、逆に定めた搭乗率以上が得られた場合は地元に金銭(販売促進協力金<ref name="naikakufu" />)にて還元することも盛り込まれていることが特徴である。この制度は使用機材の変更などによって年ごとに条件(目標搭乗率)を変更しつつ継続している(還元額は、2年目からは上限2億円としている)。また、開港3年目からは目標搭乗率前後に「特別枠」が設けられ、枠内の搭乗率であれば搭乗率の過不足にかかわらず双方それぞれの支払いを行わないものとした。
この制度はモデルケースとして地方空港活性化の今後のあり方のひとつを示したとされ<ref name="naikakufu" /><ref name="toyokeizai" />、成功例として全国各地より視察や問い合わせなどが相次いでいるとされる<ref name="toyokeizai" />。
=== 助成制度 ===
能登空港では、利用促進を図る目的として、地域住民および観光客向けの助成金の制度がある。詳細は、のと里山空港公式サイトの[https://www.noto-airport.jp/flight/jyosei.html 助成金制度]を参照。
; 住民向け
[[河北郡]][[内灘町]]・[[津幡町]]以北の在住者(原則として[[住民票]]登録者)を対象とした「助成制度」を設けている。自治体によって内容が異なるが、輪島市のように運賃を補助したり<ref>[https://www.city.wajima.ishikawa.jp/docs/2013032700198/ 輪島市のと里山空港利用促進助成金]</ref>、[[七尾市]]のように[[商品券]]を交付する<ref>[https://www.city.nanao.lg.jp/koryu-s/aramashi/shisetsu/notokuko/index.html 能登空港助成制度(市民向け)] - 七尾市産業部交流促進課</ref>などの例がある。
; 観光客向け
[[珠洲市]]<ref>[https://www.city.suzu.lg.jp/site/kankou/1697.html 観光客助成制度] - 珠洲市</ref>、[[能登町]]<ref>[https://www.town.noto.lg.jp/www/service/detail.jsp?common_id=3349 のと里山空港利用助成制度(観光客の方へ)] - 能登町企画財政課</ref>、[[穴水町]]<ref>[https://www.town.anamizu.lg.jp/kankou/renntaka_riyousyasyukuhak.html のと里山空港並びにレンタカー利用者宿泊助成制度] - 穴水町観光交流課</ref>では観光客向けの「助成制度」を設けている。能登空港を利用かつ珠洲市など2市1町が指定する宿泊施設を利用した場合、宿泊料金が割引となる。珠洲市・穴水町についてはレンタカー料金に対する助成もある。
== 歴史 ==
<!-- 目標搭乗率と協力金の記載、ならびに利用者数の記載は出典の提示がないため一律に削除しています。年表の記載は、複数の項目がない場合は年号と月を分ける必要はありません -->
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[2月]] - 空港建設地を木原岳周辺に決定{{sfn|ほっと石川|2003|p=2}}。
* [[1996年]](平成8年)[[12月]] - 能登空港が国の「第7次空港整備5カ年計画」に盛り込まれ、[[閣議 (日本)|閣議]]決定される{{sfn|ほっと石川|2003|p=2}}。
* [[1998年]](平成10年)[[11月5日]] - 空港の建設に着手{{sfn|ほっと石川|2003|p=2}}<ref>{{Cite book|和書|title = [[北國新聞]]に見るふるさと110年 (下)|publisher = 北國新聞社|date = 2003-08-05|pages = 427}}</ref>。
* [[2003年]](平成15年)
** [[7月7日]] - 開港{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}<ref name="chu20210702"/>{{sfn|ほっと石川|2003|p=2}}<ref name="asayukan20030707"/>。東京便到着の前に、[[桂文珍]]が所有する自家用機([[ジャイロフルーク SC 01 スピード・カナード|スピード・カナード]])が「ゼロ番機」として[[着陸]]する{{sfn|ほっと石川|2003|p=8}}<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.zakzak.co.jp/people/news/20110922/peo1109220851000-n1.htm|title = 【桂文珍】夕刊フジにぎわすような爺さん役に全力投球!|website = [[夕刊フジ|ZAKZAK]]|date = 2011-09-22|accessdate = 2022-06-11}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.sankei.com/article/20220222-G2FGO4DDTNPR3N42R5VITOZPJ4/|title = 【話の肖像画】桂文珍(21)パイロットの腕前はギネス級?|newspaper = 産経ニュース|date = 2022-02-22|accessdate = 2022-06-11}}</ref>。
** [[7月25日]] - {{要出典範囲|初の国際便として、[[光州空港]]([[大韓民国]])へのチャーター便が[[アシアナ航空]]により就航する|date=2022年11月}}。
** [[8月8日]] - [[道の駅]]として能登空港が登録される<ref name="hokkoku20030809">{{Cite news|和書|title = 道の駅に登録 県内で新たに4カ所|newspaper = 北國新聞|date = 2003-08-09|issue = 朝刊|pages = 4}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[2月25日]] - {{要出典範囲|[[台湾桃園国際空港]]([[台湾]])へのチャーター便が[[チャイナエアライン]]により就航する|date=2022年11月}}。
* [[2007年]](平成19年)[[3月25日]] - 同日発生した[[能登半島地震]]に伴い滑走路が事実上閉鎖される(地震当日は[[自衛隊]]の[[ヘリコプター]]のみ発着)<ref>{{Cite news|url = https://static.chunichi.co.jp/hokuriku/archives/hknotoeq/list/200703/CK2007032902104605.html|title = 空港閉鎖、新幹線も運休 在来線や高速道にも影響|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = |date = 2007-03-25|archivedate = |accessdate = 2022-11-17}}</ref>。なお、翌日の[[3月26日]]には再開したが<ref>{{Cite news|url = https://static.chunichi.co.jp/hokuriku/archives/hknotoeq/list/200703/CK2007032902104680.html|title = 能登空港が再開|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = |date = 2007-03-26|archivedate = |accessdate = 2022-11-17}}</ref>、{{要出典範囲|[[余震]]の状況により閉鎖もありうるという条件付きでの運用であった|date=2022年11月}}。
* [[2009年]](平成21年)
** [[1月20日]] - {{要出典範囲|能登空港PR施策が、第11回日本PR大賞「PRアワードグランプリ 日常広報部門 優秀賞」を受賞する|date=2022年11月}}。
** [[4月1日]] - ANAの[[運賃制度]]により、[[小松飛行場|小松]]および[[富山空港]]との相互利用([[マルチエアポート]])が認められる<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.ana.co.jp/pr/09-0103/09-011.html|title = 2009年度上期(4月〜9月)の国内線運賃を届出|publisher = 全日本空輸|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090127053446/https://www.ana.co.jp/pr/09-0103/09-011.html|date = 2009-01-23|archivedate = 2009-01-27|accessdate = 2022-06-26}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[7月6日]] - {{要出典範囲|開港から7年連続で、平均搭乗率が定められた目標搭乗率の62 %を越える<ref group="注">能登空港利用促進協議会が発表した7年目(2009年7月7日から2010年7月6日)の利用状況(速報値)は、利用者数が148,768人、提供座席数が239,294人、実績搭乗率が62.2 %であった。</ref>|date=2022年11月}}。
* [[2014年]](平成26年)[[7月5日]] - 能登空港から愛称である'''のと里山空港'''に掛け直された看板の除幕式が行われた<ref name="kensei2014"/>。
* [[2015年]](平成27年)[[4月2日]] - 能登[[超短波全方向式無線標識|VORDME]]の運用が24時間へ変更(3月5日[[官報]]公示)
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月31日]] - ANAの運賃制度により、小松および富山空港との相互利用(マルチエアポート)の取扱がこの日をもって終了<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.ana.co.jp/ja/jp/topics/notice160120/|title = 北陸路線(富山空港・小松空港・能登空港)相互利用取り扱い終了のお知らせ|publisher = 全日本空輸|date = 2016-01-20|accessdate = 2019-05-10}}</ref> 。
** 4月1日 - {{要出典範囲|管制施設が[[レディオ空港|レディオ管制]]から[[中部国際空港]]の飛行援助センター(中部FSC)での[[リモート空港|リモート管制]]に変更|date=2022年11月}}。
* [[2021年]]([[令和]]3年)
** [[6月11日]] - 道の駅のと里山空港が[[防災]]と[[災害]]支援拠点としての「防災道の駅」に選定<ref name="press20210611">{{Cite press release|和書|url = https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001408488.pdf|title = 「防災道の駅」として39駅を初めて選定しました!~広域的な防災拠点として役割を果たすための重点的な支援を実施します~|publisher = 国土交通省道路局企画課|date = 2021-06-11|accessdate = 2022-06-19|format = PDF}}</ref><ref name="travelwatch">{{Cite web|和書|url = https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1330866.html|title = 国交省、「道の駅」6駅を新規登録。新たに「防災道の駅」も選定開始、広域的防災拠点として重点支援|website = トラベルWatch|date = 2021-06-11|accessdate = 2022-06-19}}</ref>。
** [[10月1日]] - 航空管制業務を中部国際空港から[[大阪国際空港]]の大阪対空センターへ移管<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.japa.or.jp/wp-content/uploads/2021/10/japacab_20211001_2.pdf|title = 対空センター運用開始のお知らせ|author = 国土交通省航空局|publisher = 日本航空機操縦士協会|date = 2021-10-01|accessdate = 2022-06-19|format = PDF}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[10月15日]] - [[海上保安庁]]の測量機「[[あおばずく]]」が滑走路を走行中に、同じ滑走路から日本航空学園の関連会社のヘリコプターが離陸するトラブルが発生<ref name="yomi20221015"/><ref name="hokkoku20221016"/><ref name="nhk20221016"/><ref name="asa20221019"/>。[[国土交通省]]はこの事案を重大インシデントと認定<ref name="yomi20221015"/><ref name="hokkoku20221016"/><ref name="nhk20221016"/><ref name="asa20221019"/>。
== 施設 ==
=== ターミナルビル ===
4階建て。日本初の試みとして<ref name="naikakufu" />、[[空港ターミナルビル]]に行政機関の庁舎が複合されており、地方[[行政機関]]([[石川県庁|石川県]]奥能登総合事務所、奥能登農林総合事務所、奥能登土木総合事務所分室、奥能登教育事務所、[[奥能登広域圏事務組合]]事務局・奥能登行政センター)と[[学習センター|生涯学習センター]]・[[会議室]]がある。
; 1階
* 到着口・手荷物受取所
* ANAカウンター
* [[レンタカー]]カウンター
* 能登の旅 情報センター(観光案内所、9:00 - 17:00)<ref name="michiguide2022">{{Cite book|和書|title = 道の駅ハイパーガイドブック2022-2023|publisher = [[八重洲出版]]|date = 2022-04-28|pages = 127}}</ref>
* キャッシュサービスコーナー([[北國銀行]])
* 市町村行政サービスセンター(輪島市・珠洲市・能登町・穴水町在住者向け)
* [[輪島警察署]]能登空港警備[[派出所]]
; 2階
* 搭乗口・搭乗待合室
* セレンディピティ(売店、9:00 - 16:30)<ref name="michiguide2022"/><ref name="michiguide2022-2">{{Cite book|和書|title = 最新版 道の駅完全ガイドブック 2022-23|publisher = [[コスミック出版]]|date = 2022-08-11|isbn = 978-4-7747-4143-7|pages = 120}}</ref>
* 能登の市町PRコーナー
* 能登空港ターミナルビル(事務所)・石川県能登空港事務所
; 3階
* [[レストラン]]あんのん(9:00 - 16:30)<ref name="michiguide2022"/><ref name="michiguide2022-2"/>
* 見学者デッキ(8:30 - 17:30)<ref name="michiguide2022"/>
* 石川県奥能登農林総合事務所
* 石川県奥能登土木総合事務所分室
; 4階
* 奥能登広域圏事務組合事務局
* 石川県奥能登総合事務所
* 石川県奥能登教育事務所([[石川県教育委員会]]事務局)
; [[駐車場]]<!-- 駐車場の台数は、出典ならびに道の駅公式ホームページでの記載に準ずる -->
* [[普通自動車|普通車]]:501台<ref name="michiguide2022"/><ref name="michiguide2022-2"/>
* [[大型自動車|大型車]]:10台<ref name="michiguide2022"/><ref name="michiguide2022-2"/>
* [[身体障害|身障者]]用:3台<ref name="michiguide2022"/><ref name="michiguide2022-2"/>
<gallery widths="200px">
ファイル:Inside in Noto airport terminal Ishikawa,JAPAN.jpg|ターミナルビル内部(旅客施設部分)
ファイル:Noto Airport gate Lounge 20160528.jpg|ターミナルビル内部(出発ロビー)
ファイル:Noto Airport 2.jpg|駐機場と滑走路
</gallery>
=== 道の駅のと里山空港 ===
{{道の駅
|名称 = のと里山空港
|画像 = 道の駅 のと里山空港.jpg
|登録年 = [[2003年]]
|登録月日 = [[8月8日]]<ref name="hokkoku20030809"/>
|開駅年 = 2003年
|開駅月日 = [[7月7日]]{{sfn|月刊エアライン|2022|p=45}}<ref name="chu20210702"/>{{sfn|ほっと石川|2003|p=2}}
|事務所開設時間 = 8:30 - 17:30<ref name="michiguide2022"/><br/>(ターミナルビル・見学者デッキ)
|都道府県名 = [[石川県]]
|自治体名 = [[輪島市]]
|所在地 = 三井町洲衛10部11番1<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kuukou-k/noto-t.html|title = 能登空港ターミナルビル(株)の概要|publisher = 石川県企画振興部空港企画課|date = 2020-07-04|accessdate = 2022-06-11}}</ref>
|座標 = {{Coord|37|17|43.1|N|136|57|25.7|E|region:JP-17_type:landmark|name=道の駅のと里山空港}}
|国土交通省 =
|連絡会 = 19262
}}
'''道の駅のと里山空港'''(みちのえき のとさとやまくうこう)は、石川県輪島市三井町洲衛(みいまちすえ)にある[[石川県道303号柏木穴水線]]の道の駅である。空港の道の駅の登録は全国初で<ref name="naikakufu" />、開駅当初は'''道の駅能登空港'''(みちのえき のとくうこう)の名称であった<ref name="hokkoku20030809"/>。
道の駅を空港の旅客施設と同一施設として運営しているのは、[[大館能代空港|道の駅大館能代空港]]([[秋田県]][[北秋田市]])と当駅のみである<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.akita-abs.co.jp/blog/radipal/archives/29654|title = ラジパル日記 DRIVE&ACTION「道の駅大館能代空港」|publisher = 秋田放送|date = 2020-06-26|accessdate = 2022-06-11}}</ref>。
2021年(令和3年)には防災と災害支援拠点としての「防災道の駅」として選定された<ref name="press20210611"/><ref name="travelwatch"/>。石川県内では唯一の選定、[[北陸地方|北陸3県]]では[[福井県]][[大野市]]の[[道の駅越前おおの荒島の郷]]([[近畿地方整備局]]管轄)とともに選定されている<ref name="press20210611"/><ref name="travelwatch"/>。
== 就航路線 ==
=== 国内線 ===
* '''[[全日本空輸]] (ANA)'''<ref group="注">[[ANAウイングス]]の機材・乗務員による運航含む</ref>
** [[東京国際空港]]
: 上記の路線のほかに、[[ジェイ・キャス]]が[[関西国際空港]]との路線を開設する計画がある<ref>{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/article/512062|title = 【石川】関空−能登 24年就航計画 ジェイ・キャス 志賀に準備室|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20220721062846/https://www.chunichi.co.jp/article/512062|date = 2022-07-21|archivedate = 2022-07-21|accessdate = 2022-11-17}}</ref>。
== 利用状況 ==
[[国土交通省]]「空港管理状況調書」によると、能登空港の乗降客数は以下のとおりとなっている<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000185.html | title=航空:空港管理状況 | publisher=国土交通省 | accessdate=2020-12-29}}</ref>。
{{空港-統計|iata=NTQ}}
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
!年度
!国内線
!国際線
|-
|2006年度
|164,360
|7,826
|-
|2007年度
|157,548
|12,453
|-
|2008年度
|159,423
|11,999
|-
|2009年度
|150,787
|2,411
|-
|2010年度
|145,836
|3,942
|-
|2011年度
|140,923
|1,072
|-
|2012年度
|154,402
|894
|-
|2013年度
|152,978
|3,608
|-
|2014年度
|148,092
|3,646
|-
|2015年度
|154,374
|3,948
|-
|2016年度
|159,912
|4,517
|-
|2017年度
|164,140
|3,152
|-
|2018年度
|170,335
|2,016
|-
|2019年度
|165,493
|1,615
|}
== 交通 ==
=== 路線バス・特急バス ===
いずれも[[北鉄奥能登バス]]による運行。
* 輪島特急線([[金沢駅バスターミナル|金沢駅]] - 穴水此の木 - '''のと里山空港''' - [[道の駅輪島|輪島駅前]] - 輪島マリンタウン)
* 珠洲特急線([[金沢駅バスターミナル|金沢駅]] - [[穴水駅|穴水駅前]] - 穴水此の木 - '''のと里山空港''' - すずなり館前 - [[珠洲市|珠洲]]鉢ヶ崎)
* 珠洲宇出津特急線([[金沢駅バスターミナル|金沢駅]] - [[穴水駅|穴水駅前]] - 穴水此の木 - '''のと里山空港''' - [[宇出津駅|宇出津駅前]] - [[縄文真脇温泉|縄文真脇温泉口]] - すずなり館前)
* 穴水輪島線(穴水総合病院 - 穴水駅前 - 穴水此の木 - '''のと里山空港''' - [[市立輪島病院]] - 輪島駅前)
=== 乗合タクシー ===
[[和倉温泉]]や輪島、珠洲など、[[羽咋郡]]以北の能登半島各地と能登空港を結ぶ[[乗合タクシー]]「ふるさとタクシー」がある{{sfn|ほっと石川|2003|p=9}}。なお、乗合タクシーの利用は前日の17時(七尾市、中能登町は15時)までに予約が必要となる。
=== レンタカー ===
各社共同のカウンターが設置されており、[[トヨタレンタカー]]、[[日産レンタカー]]、[[ニッポンレンタカー]]が利用できる。<!--社名記載序列は、空港公式サイトに準拠。-->
=== 自動車 ===
[[自動車専用道路]]は、穴水道路([[能越自動車道]])[[のと里山空港インターチェンジ|のと里山空港IC]]が最寄りである。同ICから能登空港までは、[[石川県道303号柏木穴水線]]を経由する。
ここで経由する自動車専用道路([[のと里山海道]]・能越自動車道<ref group="注">富山県内の一部区間(小矢部砺波JCT - 高岡IC)は有料である。</ref>)はすべて無料で通行することができる。
== 芸術活動 ==
観光客を歓迎するための太鼓演奏が、2006年12月より毎週日曜日に行われている。また、開港前の[[2002年]][[8月24日]]には、敷地内で[[モーニング娘。]]のコンサートが開催された<ref>{{Cite news|和書|title = 能登空港は「モー娘。」で知名度アップ 24日、コンサート|newspaper = 朝日新聞|date = 2002-08-22|issue = 朝刊(石川面)|pages = 26}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title = 浮上の翼 離陸まで1年 能登空港に2万人集合|newspaper = 北國新聞|date = 2002-08-25|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref>。
; 当空港にちなんだ楽曲
* 銀河航路
** 開港前の2002年8月21日に発表された、大空亜由美(現 吉田美穂)が歌う「能登空港イメージソング」。作詞は鈴木玲子(結城忍が補作)、作曲は聖川湧である。{{要出典範囲|歌詞を一般公募した結果、最優秀作品『能登空港』を基に制作された|date=2022年6月}}。
* 能登空港
** 2006年6月7日に発表された、[[シルヴィア (歌手)|シルヴィア]]と[[三輪一雄 (歌手)|三輪一雄]]の[[デュエット]]曲。作詞は新條カオル、作曲は斎藤覚である。開港3周年に合わせて発表され、{{要出典範囲|現在でも定期便到着時などを中心にターミナル内で流れている。1Fおよび2Fの売店にて[[CD]]を販売している|date=2022年6月}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|url = https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kenmin/kouhou/hot/documents/hot_up_2003kaki.pdf|title = 飛翔! 新時代いしかわへテイクオフ - いま能登空港から全国へ発信 -|journal = ほっと石川|publisher = 石川県県民交流課広報広聴室|date = 2003-07-30|issue = 2003夏季号|format = PDF|pages = 2-9|ref = {{sfnref|ほっと石川|2003}} }}
* {{Cite journal|和書|title = 特集 ニッポンの空港|journal = [[エアライン (雑誌)|月刊エアライン]]|publisher = [[イカロス出版]]|date = 2022-05-01|issue = 2022年5月号|pages = 8-89|ref = {{sfnref|月刊エアライン|2022}} }}
== 関連項目 ==
* [[日本の空港]]
* [[道の駅一覧 北陸地方]]
* [[道の駅一覧 な行]]
* [[学校法人日本航空学園|日本航空学園]]
* [[奥能登広域圏事務組合]]
* [[のと里山空港インターチェンジ]]([[能越自動車道]])
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Noto Airport}}
* [https://www.noto-airport.jp/ のと里山空港 〜Noto Satoyama Airport〜]
* [https://www.hot-ishikawa.jp/spot/1949 ほっと石川旅ねっと 道の駅のと里山空港] - 石川県観光連盟
{{Airport-info|RJNW}}
{{日本の空港}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=道の駅のと里山空港|石川県の道の駅|道の駅 の|輪島市の交通}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のとくうこう}}
[[Category:中部地方の空港]]
[[Category:輪島市の交通]]
[[Category:穴水町の交通]]
[[Category:能登町の交通]]
[[Category:輪島市の建築物]]
[[Category:穴水町の建築物]]
[[Category:能登町の建築物]]
[[Category:2003年開業の施設]]
[[category:クラスEの空港]]
|
2003-07-07T01:46:51Z
|
2023-12-01T02:12:40Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E7%99%BB%E7%A9%BA%E6%B8%AF
|
10,984 |
わかち書き
|
わかち書き(わかちがき)とは、文章において語の区切りに空白を挟んで記述することである。分かち書き、分ち書き、別ち書き、分書とも表記する。分別書き、放ち書きとも。
日本語は、通常の文章では、空白(スペース)によって語を区切ることはない。日本語の通常の文章は仮名漢字交じりなので、漢字、カタカナ、ひらがな等の文字種の違いや、句読点や中点によって語や文章の区切りを識別する。しかし、句読点をこのような目的に使用するせいで、文構造や修飾関係、節の切れ目などを表わす機能があいまいなものになっている。句読点を付ける厳密な条件は決まっておらず、また一種類のみの文字種で構成された文章では、文章は語の区切りを誤りやすい。単語の区切りを誤って読むことは、「ぎなた読み」と呼ばれる。
例えば、
という文は、「講師丸谷才一」と「こう閉まる野菜市」に読める可能性がある。その場合、それぞれ、
とわかち書きをすれば誤読の可能性はなくなる。わかち書きをしないことにより、日本語はコンピュータによる検索や語数チェックなどのデータ処理が非常に難しくなっている。
分かち書きにも様々な流派がある。
短歌、俳句、川柳では通常、分かち書きはしない。これら詩歌においては分かち書き(改行も含む)に生ずる空白は、朗読の休止など、文学的表現上の意味や意図をもってなされるとみなされる。
のように全てかな書きであっても分かち書きをしない。
のように分かち書きがある作品は、空白部分は朗読を休止するものと解される。
日本語の点字は、仮名文字体系で表記されるので、墨字から点訳する場合は、わかち書きをする必要がある。基本的に文節ごとに区切るが、サ変動詞「する」や複合名詞の対応などは点字独自のルールがある。たとえば先述の例文を点字式で表記する場合は以下のように「きじゅつ」と「する」を分けて書く。
朝鮮語(韓国語)でも、一般に普及しているハングル専用表記の場合は、わかち書きを必要とする。そのため、日本語のわかち書きと同様、ほぼ文節に当たる単位(語節:助詞を語尾と見れば語ということになる)で分けるのが普通である。
ラテン文字を使用する言語では、語と語の間にスペースを置くことが多く、日本ではこれを「わかち書き」と呼ぶことがある。
古典ラテン語ではわかち書きを行う習慣がなく、中世に至ってわかち書きが普及した。碑文で中黒「・」(・)が使われることもあったが、多くの場合には単語の区切りが表されなかった。わかち書きは6世紀の頃にアイルランドで発明されたとみられており、ヨーロッパ大陸で普及したのは8世紀から10世紀にかけてである。
なおラテン文字を使用する多くの言語では語単位のわかち書きを行うが、ベトナム語では原則音節単位に空白を挿入するわかち書きを行う点で特異である。
アフリカのエチオピア周辺の諸言語の表記に使用されているゲエズ文字では、語と語の間にコロン「:」に似た記号を挿入しわかち書きを行う。ただし現代ではこの記号はスペースに置きかえられつつある。
以下の言語と文字体系では、通常わかち書きを行わない。
|
[
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"text": "なおラテン文字を使用する多くの言語では語単位のわかち書きを行うが、ベトナム語では原則音節単位に空白を挿入するわかち書きを行う点で特異である。",
"title": "ラテン文字を使用する言語のわかち書き"
},
{
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"text": "アフリカのエチオピア周辺の諸言語の表記に使用されているゲエズ文字では、語と語の間にコロン「:」に似た記号を挿入しわかち書きを行う。ただし現代ではこの記号はスペースに置きかえられつつある。",
"title": "ゲエズ文字を使用する言語のわかち書き"
},
{
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"tag": "p",
"text": "以下の言語と文字体系では、通常わかち書きを行わない。",
"title": "わかち書きを行わない言語・文字体系"
}
] |
わかち書き(わかちがき)とは、文章において語の区切りに空白を挟んで記述することである。分かち書き、分ち書き、別ち書き、分書とも表記する。分別書き、放ち書きとも。
|
[[ファイル:Diary no. I (1), November 14, 1927 to January 29, 1928 (1927) (20707057420).jpg|サムネイル|わかち書きがされた英文の日記]]
'''わかち書き'''(わかちがき)とは、[[Wikt:文章|文章]]において[[語]]の区切りに空白を挟んで記述することである。'''分かち書き'''<ref name="Kotobak 大辞泉">{{Cite Kotobank |word=分ち書 |encyclopedia=デジタル大辞泉 |accessdate=2022-12-11}}</ref>、'''分ち書き'''<ref name="Kotobak 大辞泉" /><ref name="広辞苑">[[岩波書店]]『[[広辞苑]]』(第五版)1998年。</ref>、'''別ち書き'''<ref name="広辞苑" />、'''分書'''<ref name="Kotobak 日本国語大辞典">{{Cite Kotobank |word=分書 |encyclopedia=精選版 日本国語大辞典 |accessdate=2022-12-11}}</ref>とも表記する。'''分別書き'''<ref name="Kotobak 日本国語大辞典" />、'''放ち書き'''<ref name="Kotobak 大辞泉" />とも。
== 日本語のわかち書き ==
[[日本語]]は、通常の文章では、空白([[スペース]])によって語を区切ることはない。日本語の通常の文章は[[仮名交じり文|仮名漢字交じり]]なので、[[漢字]]、[[片仮名|カタカナ]]、[[平仮名|ひらがな]]等の文字種の違いや、[[句読点]]や[[中黒|中点]]によって語や文章の区切りを識別する。しかし、句読点をこのような目的に使用するせいで、文構造や修飾関係、節の切れ目などを表わす機能があいまいなものになっている。句読点を付ける厳密な条件は決まっておらず、また一種類のみの文字種で構成された文章では、文章は語の区切りを誤りやすい。単語の区切りを誤って読むことは、「[[ぎなた読み]]」と呼ばれる。
例えば、
* こうしまるやさいいち
という文は、「講師[[丸谷才一]]」と「こう閉まる野菜市」に読める可能性がある。その場合、それぞれ、
* こうし まるやさいいち
* こう しまる やさいいち
とわかち書きをすれば誤読の可能性はなくなる。わかち書きをしないことにより、日本語はコンピュータによる検索や語数チェックなどのデータ処理が非常に難しくなっている。
分かち書きにも様々な流派がある。
* 日本語の文章において語の区切りに空白を挟んで記述すること(原文)
* にほんご の ぶんしょう に おい て ご の くぎり に くうはく を はさん で きじゅつする こと(単語ごとの区切り)
* にほんごの ぶんしょうに おいて ごの くぎりに くうはくを はさんで きじゅつする こと(文節ごとの区切り)
* にほんごの ぶんしょうにおいて ごのくぎりに くうはくをはさんで きじゅつすること(文章の長さでの区切り)
=== 現代における使用例 ===
* 日本語では、わかち書きは、漢字が制限されている小学校低学年や外国人初学者向けの[[教科書]]や、[[Read only memory|ROM]]容量が制限された[[コンピュータゲーム|テレビゲーム]]での、[[平仮名|ひらがな]]・[[片仮名|カタカナ]]のみから構成される文によく使われてきた。ハードの性能が進化してからも、『[[ポケットモンスター]]』など低年齢層のプレイを想定したゲームでは、わかち書きでの表記が使用されていることがある。
* 漢字の不使用自体を作法とする[[カナモジカイ#カナタイプ|カナタイプ]]の文章では、文意を正確に伝えるためにわかち書きが必須である。挟む空白は、[[全角と半角|全角]]([[2バイト言語|2バイト文字]]1個分)のこともあるが、その半分(半角)のこともある。
* 日本語に不慣れな外国人あるいは日本語学習者がひらがなを主体としたわかち書きの文章を用いる例があり<ref>{{Cite web|和書|author=琴欧洲 |authorlink=琴欧洲勝紀 |url=http://kotooshu.aspota.jp/2014/03/post_343.html |title=ありがとう ございます |website=琴欧洲オフィシャルブログ|『ちゃんこ鍋とヨーグルトって意外と合うんです』 |date=2014-03-25 |accessdate=2016-03-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160308193902/http://kotooshu.aspota.jp/2014/03/post_343.html |archivedate=2016-03-08}}大相撲力士 琴欧洲の引退に際してのブログ。</ref>、その[[Wikt:たどたどしい|たどたどしい]]さまが、[[Wikt:けなげ|けなげ]]さ、可愛らしさにつながりより深い共感を生む場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/44228 |title=琴欧洲親方の「泣けるブログ」存続 |website=東スポWEB |publisher=東京スポーツ新聞 |date=2014-04-24 |accessdate=2022-12-11}}</ref>。
===日本語での詩歌での分かち書き===
[[短歌]]、[[俳句]]、[[川柳]]では通常、分かち書きはしない。これら詩歌においては分かち書き(改行も含む)に生ずる空白は、朗読の休止など、文学的表現上の意味や意図をもってなされるとみなされる。
* をりとりてはらりとおもきすすきかな([[飯田蛇笏]]、『山廬集』に収録)
のように全てかな書きであっても分かち書きをしない。
* 寒い月 ああ貌がない 貌がない([[富澤赤黄男]]、『蛇の声』に収録)
のように分かち書きがある作品は、空白部分は朗読を休止するものと解される。
=== 日本語の点字のわかち書き ===
日本語の[[点字]]は、仮名文字体系で表記されるので、[[墨字]]から[[点訳]]する場合は、わかち書きをする必要がある。基本的に文節ごとに区切るが、サ変動詞「する」や複合名詞の対応などは点字独自の[[規則|ルール]]がある。たとえば先述の例文を点字式で表記する場合は以下のように「きじゅつ」と「する」を分けて書く。
* にほんごの ぶんしょうに おいて ごの くぎりに くうはくを はさんで きじゅつ する こと。(点字式)
== 朝鮮語のわかち書き ==
[[朝鮮語]](韓国語)でも、一般に普及しているハングル専用表記の場合は、わかち書きを必要とする。そのため、日本語のわかち書きと同様、ほぼ文節に当たる単位(語節:[[助詞]]を語尾と見れば[[語]]ということになる)で分けるのが普通である。
{{See also|朝鮮語の正書法|ハングル専用文と漢字ハングル混じり文}}
== ラテン文字を使用する言語のわかち書き ==
[[ラテン文字]]を使用する[[言語]]では、語と語の間にスペースを置くことが多く、[[日本]]ではこれを「わかち書き」と呼ぶことがある。
[[古典ラテン語]]ではわかち書きを行う習慣がなく、[[中世]]に至ってわかち書きが普及した。碑文で[[中黒]]「・」(・)が使われることもあったが、多くの場合には単語の区切りが表されなかった。わかち書きは[[6世紀]]の頃に[[アイルランド]]で発明されたとみられており、[[ヨーロッパ大陸]]で普及したのは[[8世紀]]から[[10世紀]]にかけてである<ref>{{Cite book|和書|others=責任編集:[[神崎繁]] [[熊野純彦]] [[鈴木泉]] |title=『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯 |date=2011-12-10 |publisher=講談社 |series=講談社選書メチエ |isbn=978-4-0625-8515-6 |page=190 |chapter=中世の言語哲学([[永嶋哲也]]、[[周藤多紀]])}}</ref>。
なおラテン文字を使用する多くの言語では語単位のわかち書きを行うが、[[ベトナム語]]では原則[[音節]]単位に空白を挿入するわかち書きを行う点で特異である。
== ゲエズ文字を使用する言語のわかち書き ==
[[アフリカ]]の[[エチオピア]]周辺の諸言語の表記に使用されている[[ゲエズ文字]]では、語と語の間に[[コロン (記号)|コロン]]「:」に似た記号を挿入しわかち書きを行う。ただし現代ではこの記号はスペースに置きかえられつつある<ref>{{Cite book |editor1-first=Peter |editor1-last=T. Daniels |editor1-link=:en:Peter T. Daniels |editor2-first=William |editor2-last=Bright |editor2-link=:en:William O. Bright |title=[[:en:The World's Writing Systems|The World's Writing Systems]] |publisher=Oxford University Press |date=1996-02-08 |isbn=978-0-1950-7993-7 |page=575 |chapter=Ethiopic Writing written by [[:en:Getatchew Haile|Haile, Getatchew]]}}(章自体はpp. 569–576.)</ref>。
== わかち書きを行わない言語・文字体系 ==
以下の言語と[[文字体系]]では、通常わかち書きを行わない。
* 日本語([[漢字]]・[[片仮名]]・[[平仮名]])※詳細は前述
* [[中国語]](漢字)
* [[タイ語]]([[タイ文字]])
* [[ラーオ語]](ラオス文字([[ラーオ文字]]))
* [[クメール語]]([[クメール文字]])
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[スペース]]
* [[ゼロ幅スペース]]
* [[形態素解析]]
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[[Category:日本語の表記]]
[[Category:朝鮮語の表記]]
[[Category:正書法]]
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パシフィック・リーグ
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パシフィック・リーグ(英: Pacific League)は、日本のプロ野球リーグのひとつ。
正式名称は日本プロ野球組織 パシフィック・リーグ運営部。パ・リーグ、またはパ。
日本におけるプロ野球リーグの一つで、オリックス・バファローズ、福岡ソフトバンクホークス、埼玉西武ライオンズ、北海道日本ハムファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの6球団から構成されている。
親会社はソフトバンクグループや楽天グループを筆頭に売上高1兆円越えの巨大企業が名を連ねている。また、ドーム球場を本拠地にしている球団が多い。
2023年(令和5年)にパーソルホールディングス株式会社とタイトルパートナー契約を締び、2023年シーズンのリーグ戦で「パーソル パシフィック・リーグ」の名称を使用する。
1949年(昭和24年)11月26日に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後のオリックス・バファローズ)、南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(後の北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に新球団の毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(後の埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)も加わり、計7球団で太平洋野球連盟(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である。初年度の1950年(昭和25年)は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、日本シリーズでも松竹ロビンスを倒し日本一に輝いた。
当初参加を予定していた大阪タイガース(後の阪神タイガース)は看板カードの巨人戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した。こちらが現在のセントラル野球連盟、いわゆるセントラル・リーグ(セ・リーグ)である。
この時代は鶴岡一人監督率いる南海ホークスと三原脩監督率いる西鉄ライオンズの黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、1959年(昭和34年)にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、1954年(昭和29年)のシーズン開幕前には高橋ユニオンズ(翌1955年のみトンボユニオンズ)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から1956年の3シーズンのみ参加し、1957年(昭和32年)2月に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、1957年シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、以後は現在に至るまで6球団体制となっている。
1リーグ時代の巨人を優勝に導いた三原脩を1951年シーズンから招聘した西鉄ライオンズは、大騒動を経て東急フライヤーズのスター大下弘を引き抜くとともに(大下騒動を参照)、豊田泰光・中西太・仰木彬らとともに野武士軍団と呼ばれる打線を形成。同リーグの鶴岡南海との優勝争いは54年~56年まで両軍ともに90勝に達するなど、ハイレベルな争いとなった。また、巌流島の決闘と言われたライバル・水原茂監督率いる巨人に対して1956~1958まで日本シリーズ三連覇、特に1958年はエース・稲尾和久の超人的な連投もあり、3連敗からの4連勝で制した。三原の采配は、2番打者に強打者を置く、またショートスターターなど後世の戦術を先取りしたものも多く、三原マジックとも呼ばれ、セ・パ両リーグの采配論に大きな影響を与えた。
前述の通り、1950年代は南海と西鉄の2強時代だった。南海ホークスは鶴岡一人監督の下、データ野球という斬新な考えを取り入れた野球で優勝争いの常連チームとなり、1950年代において南海は5度のリーグ優勝(1951年・1952年・1953年・1955年・1959年)を成し遂げる。しかしながら、日本シリーズでは読売ジャイアンツに1955年まで4度とも敗退していた。
1959年シーズンはシーズン終盤に大毎オリオンズに首位を明け渡した時期はあったが、杉浦忠や野村克也といった若いバッテリーの活躍もあり、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。1959年の日本シリーズでは、当時のセ・リーグ新記録となる5連覇を達成した読売ジャイアンツとの対戦となった。これまで南海は日本シリーズにおいて巨人に苦杯を舐めてきたが、杉浦の連戦での力投、さらにリーグ1位のチーム防御率という投手陣の層の厚さで、巨人打線を抑え、日本シリーズでは初となるストレート4連勝で球団初の日本一を成し遂げ、鶴岡監督の悲願である打倒巨人がようやく実現した。優勝後、日本で初めてのビールかけが南海ナインの手によって行われた。そして当時の南海の本拠地だった大阪市民は球団初の日本一に熱狂し、シリーズ終了翌々日の10月31日に秋晴れの下でおこなわれた大阪市内の優勝パレードには沿道に20万人が集まり、「御堂筋パレード」と呼ばれた。
1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、パ・リーグには逆風となった。1960年(昭和35年)11月、毎日新聞社が大毎オリオンズの経営から事実上撤退しており、1965年(昭和40年)には完全撤退に至った。
このような中、大毎オリオンズのオーナーになった永田雅一は私財を投げ打って東京・南千住に1962年(昭和37年)に「東京スタジアム」を完成させた。1969年(昭和44年)にロッテオリオンズに改称して翌年となる1970年(昭和45年)には東京スタジアムでのリーグ優勝を決めた。
それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人がV9(1965~1973年の9年連続日本一)をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった。
1961年5月には初の国外試合として、米軍施政下にあった沖縄・奥武山球場で西鉄-東映戦が行われた。また1964年には南海・村上雅則が野球留学生としてサンフランシスコ・ジャイアンツに入団し、日本人として初めてMLB昇格を果たした。1965年11月には初のドラフト会議が行われた。
東京オリンピックに沸いた1964年(昭和39年)は南海ホークスが3年ぶり9度目のリーグ優勝を果たした。この年の日本シリーズは南海と阪神タイガースの「関西シリーズ」という顔合わせとなった。
当時のプロ野球は、東京地区においてはセ・リーグの読売ジャイアンツ(巨人)、国鉄スワローズ(国鉄)、そして毎日大映(大毎)オリオンズの3球団が文京区の後楽園球場を本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。このうち大毎のオーナーだった永田雅一は私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。都内各所を自ら視察した結果、荒川区南千住の大和毛織工場跡地(旧千住製絨所)を建設地に決定した。かねてから「下町に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。
1962年5月31日に完成された球場は「東京スタジアム」と命名された。6月2日、パ・リーグ全6球団がスタジアムに集結。午後4時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい!」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。同日午後7時に初のプロ野球公式戦として、大毎対南海の7回戦が行われ、球場第1号本塁打は同試合で野村克也(南海)が放った。
アメリカ・サンフランシスコのキャンドルスティック・パーク(当時のMLB・サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)などをモデルにした東京スタジアムは、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造となっており、当時の南千住はマンションなどの高層建築物はなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景から『光の球場』と呼ばれた。スタンドの座席やエントランス部のスロープ式の通路などの工夫に加え、選手用の設備が当時としては最先端かつ大リーグ式の環境でありだったことが、選手からは好評だったという。「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想が具現化した、彼にとってはいわば「夢の野球場」だった。
東京スタジアムは大毎の本拠地として開業した。さらに1964年にオーナー企業名を排して都市名を冠した「東京オリオンズ」に改称。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示し、結局1965年に完全撤退となり、経営権も永田が掌握した。また、当時のオリオンズは低迷期で、開場年の1962年は4位。以降5位、4位、5位、4位、5位と苦戦していた。さらに1965年からは巨人がセ・リーグ9連覇という黄金期に入ったために、プロ野球人気はセ・リーグ偏重の傾向が強まっていた。年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたものの、その後はジリ貧に陥り、スタジアムの建設費を減価償却できない経営状態が続いた。また球場の敷地が狭隘であるため、フィールドは狭かったため、本塁打が出やすかった。そのため、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得して、長打力強化を図った。その年はチームはAクラスとなる3位だった。
1969年に菓子メーカー・ロッテをスポンサーに迎えて業務提携し、「ロッテオリオンズ」に改称。1970年は前述の外国籍選手2名に加えて、山崎裕之・榎本喜八・有藤通世・池辺巌・木樽正明・小山正明などが活躍して、本拠地・東京スタジアムで10年ぶり3度目のリーグ優勝を決めた。その時、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、この年の日本シリーズではV9の真最中でセ・リーグ6連覇だった巨人に1勝4敗と敗れた。ロッテの本拠地・東京スタジアムでの巨人の日本一の胴上げとなった。
1971年に永田が経営していた大映が業績悪化のため、ロッテに経営権を譲渡した。しかし、大映は結局倒産する。関連子会社の東京スタジアムも累積赤字が約15億円にまで膨らみ、経営権は1972年に国際興業社主の小佐野賢治にの手に移った。その際、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、球団の年間観客数も頭打ちになっており、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、11月22日の段階で交渉は事実上決裂。小佐野は「球場は廃業するので、来季以降は使用できない」とし、東京スタジアムは同年限りでの閉鎖が決まった。開場からわずか11年目のことだった。
1969年オフに発覚した八百長問題は、「黒い霧事件」として問題が拡大した。特に、4名が永久追放処分、2名が1年間活動停止等の処分を受けた西鉄ライオンズに致命的なダメージを与えただけでなく、パ・リーグ全体のイメージダウンともなった。西鉄は1972年にライオンズを中村長芳(当時福岡野球のオーナー)に譲渡し、太平洋クラブライオンズに改称し、球団経営から撤退した。さらに映画産業の衰退で球団を支える経営体力が無くなり、東京オリオンズの親会社だった大映(永田雅一→中村長芳)はロッテ(1969年~)へ、東映フライヤーズの親会社だった東映は日拓ホーム(1973年のみ)→日本ハムへ(1974年~) と、大手映画会社の球団譲渡が相次いだ。
更にロッテオリオンズに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった(ジプシー・ロッテを参照)。主に宮城球場(宮城県仙台市)を暫定本拠地とし、首都圏(後楽園・神宮・川崎など)でも主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続いた。そんな状況下でも、かつて国鉄スワローズ・読売ジャイアンツで投手として活躍した金田正一監督の下、1974年にリーグ優勝、その年の日本シリーズでも巨人の10連覇を阻止した中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、毎日オリオンズ以来24年ぶり2度目の日本一を果たした。
しかし1975年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。巨人のV9は、裏を返せばパリーグの9連敗であり、引き立て役に甘んじる年月であった。1971年のオールスター第1戦では阪神・江夏豊に9者連続三振という屈辱を喫し、前年から通算すると15連続三振を奪われた。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと前期・後期の2シーズン制の採用(1973年~1982年)、指名打者制度の採用(1975年~現在)などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える太平洋とロッテの遺恨試合を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。
そんな中、1970年代は西本幸雄→上田利治監督の下、福本豊・山田久志・長池徳士などを擁する阪急ブレーブスの黄金時代で、1967年のリーグ初優勝を皮切りに、1978年にかけて9度のリーグ優勝を果たした。特に1975年から3年連続日本一となっていた。南海ホークスも野村克也選手兼任監督の下、ID野球の原型とも言える「シンキング・ベースボール」で、1973年にリーグ優勝を果たす。
阪急や南海にはこうした人気があった。また関西球団同士のカード(特に南海主催のホームゲーム(大阪球場など))ではユーモア溢れる野次合戦など定評はあった。しかし、関西のスポーツ紙が阪神タイガースの記事一辺倒の為、阪神には人気は及ばず、阪急以外に南海、近鉄も含めた在阪パ・リーグ3球団の観客は急激には増えなかった。特に1977年6月の南海 - 阪急戦は在阪球団同士による首位攻防戦であったが(当時は前述したように2シーズン制で、事実上の前期優勝争いとなっていた)、当日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は掛布雅之の特訓記事だった、と当時南海の監督であった野村克也は著書で述べている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。また、近鉄は1979年・1980年と連覇を果たしたが、本拠地であった日本生命球場・及び保有する藤井寺球場では日本シリーズの開催基準を満たさず、大阪球場を借りてのシリーズ開催を余儀なくされたように、インフラ面においても潤沢とは言えなかった。317勝を挙げた鈴木啓示、465本塁打の土井正博の両看板を擁したが、観客動員は伸びなかった。
とはいえ、南海ホークスは「キタの阪神、ミナミの南海」と呼ばれる程、1リーグ時代・2リーグ時代初期では阪神タイガースと並ぶ人気だったということもあり、その後も南海は関西では阪神に次ぐ人気球団だったという。福岡移転後の2003年に大阪球場跡地に大型商業施設「なんばパークス」が開業。所々に大阪球場にちなんだモニュメントやデザインが所在しており、上階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」という球団の沿革を示す展示コーナーも設置されており、展示の前では年配層を中心に立ち止まる人の姿が絶えず、未だ関西でホークスが根強い人気を持つことを示している。
球界を襲った黒い霧事件の影響は西鉄だけでなく、東映フライヤーズにも飛び火した。1970年5月9日にはエースの森安敏明が同僚・田中調と共に、前年同事件で永久追放された永易将之の八百長工作に関連があったとされ、出場停止となり、7月30日に森安の永久追放が決定した。さらに、親会社の東映に至っては映画産業の斜陽に加え、1971年に逝去した大川博の後任のオーナーに就任した大川毅やオーナー代行に就任した東映の岡田茂新社長には球団経営の意欲がなかったこともあり、1972年シーズンオフに東映再建のため、球団売却を模索した。五島昇・東急電鉄社長(球団の事実上の所有者)とともに当初は家電メーカーのパイオニアとの間で売却交渉を進めていたが、10月21日に買収を断念。
その後、1973年1月16日に不動産会社の日拓ホームへ球団を売却し、「日拓ホームフライヤーズ」に改称された。「黒い霧事件」の後遺症が残る中、リーグに活気を取り戻すべく、日拓は球団運営やファンサービスで新しい試みを次々と打ち出してきたが、同年9月中旬に球団売却が報じられたことをきっかけで、10月17日のパ・リーグのオーナー懇談会において、日拓のオーナーだった西村昭孝はNPBの1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策した。南海・阪急・近鉄が合併を承認したが、セ・リーグ側からは猛反発を喰らい、合併は調印寸前で破談に至った。短期間で1リーグ制に向けた動きは終息したが、このような球界の体質に嫌気が差した西村は、球団経営の費用対効果が買収の時点で想定したほど高くなかったこともあって、球団経営を放棄することを決意。結局、わずか1シーズンで球団の経営権を売却した。その後11月19日に日拓ホームは球団の経営権を日本ハムに譲渡し、「日本ハムファイターズ」に改称した。
前述の通り、1972年オフに東京スタジアムが閉鎖されたため、ロッテオリオンズは本拠地を失うことになり、1973年からは引き続き東京都を保護地域としながら、宮城県仙台市の宮城球場を暫定本拠地とし、首都圏(後楽園、神宮、川崎など)や静岡市の草薙球場を転々としながら主催試合を開催することとなった。
当初は明治神宮野球場を準本拠地として年20試合程度の開催を計画していたが、ヤクルトアトムズ(当時)や大学野球などのに日程優先権がある影響で試合数が6試合と大幅に削減され、後楽園や川崎にその分を振り分けたといわれている。そこへ、仙台市や地元財界(東北野球企業など)などの提案により、宮城球場を暫定本拠地とすることになり、年26試合を開催した。当時はまだ、首都圏はおろか日本国内に本格的な照明設備を有する野球場が少なかったことも背景にあった。
また同年監督に就任した金田正一の人気や前期優勝争いに食い込んだこともあり、前年310,000人にとどまった観客動員数は当時のパ・リーグ新記録となる946,500人と大幅に増加した。1974年からはロッテは宮城県仙台市の宮城球場を本拠地にし、保護地域も暫定的に東京都から宮城県に移転した。
しかし、球団事務所や合宿所などの諸施設は引き続き東京都内に置き、選手やコーチも東京近郊に自宅を置いたままだったので、暫定本拠地だった仙台での試合になると、仙台市内のホテルに宿泊し、試合前はホテルでユニフォームに着替えてバスで球場入り。試合後はユニフォームを着たままバスでホテルに帰るというビジターや地方遠征と何ら変わりない形で臨んでいた。また当時のパ・リーグ6球団の本拠地は、西日本地域に偏っており(関西地方に3球団(南海・阪急・近鉄)、九州地方に1球団(太平洋クラブ→クラウンライター)が所在)、また当時の仙台はまだ東北新幹線が未開通だったこともあり、移動は過酷だった。これらにより、ロッテの仙台移転は、首都圏に新たな本拠地を確保するまでの暫定措置に過ぎなかったとも言われている。
1974年のロッテは前期2位、後期優勝を決め、プレーオフに進出すると、前期優勝の阪急ブレーブスを退け、第3戦での地元・宮城球場で4年ぶりのリーグ優勝を決めた。しかし、日本シリーズではロッテの主催試合は後楽園球場を使用することになった。これは当時の宮城球場の収容人数は28,000人だったことなど施設が未整備なことが背景にあった。1977年10月、実行委員会でロッテが保護地域を神奈川県に移す事を承認。(本拠地球場は川崎球場。)
1978年シーズンオフに、太平洋クラブ・クラウンライターの両ライオンズを経営した中村長芳からクラウンライターライオンズを買収した西武グループ は、球団経営に革命を起こす。埼玉県所沢市に大リーグ並みといわれた西武ライオンズ球場の建設、ファンサービスの充実に加え、当時西武ライオンズの監督で後の球団管理部長などを務め上げる根本陸夫の下、トレードで田淵幸一、山崎裕之らの獲得、ドラフト外入団で松沼博久・雅之兄弟、秋山幸二、小野和幸ら、傘下のプリンスホテルから石毛宏典・金森栄治・石井丈裕、さらに黄金時代の正捕手となる伊東勤は球団職員として採用してからのドラフト指名など、あらゆる方策を動員した選手補強を行った結果、1982年に西鉄ライオンズ以来となる19年ぶりパ・リーグ優勝、その年の日本シリーズでも24年ぶりの日本一を達成。広岡達朗→森祇晶監督の下、1980年代には実に5回の日本一(1982年・1983年・1986年・1987年・1988年)を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。NHKだけでなく民放テレビ局・ラジオ局も巨人戦一辺倒から西武戦も放送するようになった。
さらに近鉄バファローズも球団創設29年となる1979年にリーグ初優勝を果たし、翌年の1980年もリーグ連覇を果たす。また翌年の1981年には後に「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズも東映フライヤーズ以来の19年ぶりのリーグ優勝を達成した。
また1970年代前後に入団した福本豊、太田幸司、東尾修、門田博光、村田兆治、落合博満、L.リー、C.マニエルに加え、その頃から工藤公康、渡辺久信、阿波野秀幸、西崎幸広など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。特に当時の強豪校・PL学園野球部の甲子園スターであった清原和博の快進撃、西武の主砲への成長は、ドラフトで巨人への入団を果たせなかった事を含めて物語性をもって語られ、大きな注目を集めた。
1980年に名称をパシフィック野球連盟に改称した。
しかし西武の躍進や阪急・近鉄などの健闘にもかかわらず、セ・リーグとの観客動員数では依然として差があった。特に当時のロッテオリオンズの本拠地であり、老朽化が著しく、なおかつほとんど改修されなかったこともあり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた川崎球場 では観客が流しそうめんをしたり、鍋料理を囲む等の光景 が展開されるなど、オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞(フジテレビ系列の特別番組)でも格好のネタになっていた。川崎球場移転後のロッテも1983年に球団初の最下位に転落するなど、成績でも苦難が続いた。
一方、黎明期において、かつて西鉄とリーグ優勝争いを繰り広げていた南海は、1977年のシーズン途中に選手兼任で監督を務めていた野村克也の女性関係が問題視され、公私混同を理由に解任されると、当時の主力選手だった江夏豊や柏原純一が他球団に移籍するなどの戦力低下もあり、翌年の1978年以降は人気・成績の低迷が長引き、球団売却・福岡移転後の1997年まで20年連続Bクラスと、およそ20年に渡る低迷期に突入した。
また、阪急は少しでも観客を増やそうと1981年に球団マスコット「ブレービー」を登場させたり、1983年には福本豊ら3選手と競走馬を競争させるアトラクションまで行った。結果的には阪急はこの年のリーグMVPとなったブーマー・ウェルズや福本豊・今井雄太郎・佐藤義則などが活躍し、1984年に6年ぶりのパ・リーグ優勝を果たした。しかし、それでも同じく西宮を本拠としていた阪神タイガースが翌年の1985年に21年ぶりのセ・リーグ優勝、さらに球団初となる日本一になったことが日本中の大きな話題となったこともあり、結局、阪急における直接的な観客増には結びつかなかった。
南海と阪急は「球団を持つ使命は終えた」として、ともに1988年秋に南海はダイエーに、阪急はオリエント・リース(現:オリックス)に、それぞれ球団譲渡を行った。
南海の身売りにおいては、この年は球団創設50年だったが、球団売却前の1986年頃から当時の本拠地だった大阪球場を解体・撤去を見据えた難波地区再開発計画や、球団身売りに否定的だった名物オーナーの川勝傳が死去した事もあり、9月に南海の身売り発表が行われた。そして11月1日にダイエーへの球団譲渡並びに福岡市への本拠地移転が発表された。この年の南海は40歳の門田博光が本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、年間MVPに輝いた。
一方、阪急の身売り発表が行われたのは、10月19日17時であり、川崎球場でこの年に就任した仰木彬監督率いるリーグ2位の近鉄が、優勝をかけてリーグ最下位のロッテとのダブルヘッダー1試合目を行っている最中だった(10.19)。この試合は、パ・リーグとしては異例の注目を集めた。この試合は第1試合は近鉄が勝利するも、第2試合は引き分けに終わり、西武のリーグ3連覇が決まった日でもあった。この年のリーグ優勝を逃した近鉄だったが、元号が平成に変わった1989年(平成元年)は9年ぶり3度目のリーグ優勝を果たす。
パ・リーグにおいては80年代から日本の経済成長とともにMLBを経験した選手の加入が相次いだ。M.アル―(太平洋)、テリー(西武)、T.バナザード(南海)、B.オグリビー(近鉄)、B.マドロック(ロッテ)のようなMLBでレギュラーを張った選手がキャリア終盤に日本を選択する例が見られたほか、L.リー、T.ソレイタ、R.ブライアントらがタイトルを獲得、さらにブーマーは外国人として初の三冠王を獲得した。一撃で局面を打開する長打力、捕手をも吹き飛ばすスライディングは興行面でも不可欠な魅力となり、1994年からは外国人枠の拡大(2名⇒3名。1998年からは4名)にもつながった。捕手としても出場したM.ディアズ、ロス五輪での剛速球投手から技巧派に転じた郭泰源、またリリーフ投手として個性的パフォーマンスで沸かせたアニマル・レスリーなども登場した。
昭和から平成に元号が変わった1990年代前半は森祇晶監督率いる西武黄金時代が続き、1990年~1994年までパ・リーグ史上唯一の5連覇、1990年~1992年まで3年連続の日本一を飾ることになる。この頃の西武には野手陣は秋山幸二・石毛宏典・辻発彦・伊東勤・清原和博・O.デストラーデなど、投手陣は工藤公康・渡辺久信・郭泰源・石井丈裕・鹿取義隆・潮崎哲也・渡辺智男などがチームを支えた。その頃のペナントレースは、1991年に近鉄が77勝で猛追、1993年も日本ハムが1.0ゲーム差まで追い上げたが、ほぼ5年連続、常勝西武の独壇場であった。その中では新人から彗星のごとく現れた近鉄の野茂英雄が、特徴的なトルネード投法によりパ・リーグの人気を沸騰させ、デビューの1990年には18勝・287奪三振・防御率2.91で投手三冠を達成、のちにMLBにて日本人初・2度の(タイトル奪取)を達成するに至る。
一方で、本拠地球場が築40年以上を経過し、老朽化が顕著な問題となり始める。同時に、プロ野球規格の新球場が相次いで完成したため、地元の誘致もあり、既に1989年に福岡市に移転していたダイエー(旧・南海)は、ライオンズの本拠地だった平和台野球場から1993年に福岡ドームへ移転した。また1991年には当時阪急西宮球場を本拠地にしていたオリックス(旧・阪急)が神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)に、1992年には当時川崎球場を本拠地としていたロッテが千葉マリンスタジアムにそれぞれ本拠地を移転した。
特に千葉ロッテマリーンズに至っては、千葉マリンスタジアム移転元年である1992年は移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録したものの、2年目の1993年は大きく落ち込んだ。看板選手である落合博満が1987年に中日へ移籍して以降、千葉マリンスタジアム独特の浜風の影響もあり、長距離砲が育たなくなった事(1986年の落合以来、日本人の30本塁打以上は皆無)も響いた。
1994年はオリックスの20歳の新星、イチローが1シーズンで200本を超える安打を放つ大活躍でファンの人気を集めた。また、イチローの所属するオリックス・ブルーウェーブも1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災後の復興のシンボルとして、1995年シーズンを制覇、11年ぶり(オリックスとなってからは初)の優勝を果たした。当年シリーズは野村ヤクルトに1勝4敗で敗れたものの、翌1996年のリーグV2ののちの1996年シリーズは長嶋ジャイアンツに4勝1敗で勝利し、阪急ブレーブス以来となる19年ぶり4度目の日本一を達成、被災地の神戸市民を勇気づけた。また、近鉄監督時代のR.ブライアントや野茂に引き続いて再び独特な才能を引き出した仰木彬監督の手腕を評し、往年の三原脩監督に重ね合わせる人も多く、リーグの歴史に1ページを刻んだ。
また、福岡ダイエーホークスについては、福岡市では11年ぶりにプロ球団が誕生したという歓迎ムードもあったものの、当時の平和台野球場スタンドには空席が目立つことが多かった。そんな逆境の中、福岡ドームに本拠地を移した1993年には西武ライオンズで辣腕を振るった根本陸夫監督が専務兼任で就任し、チームの改革を行った。初年度は最下位になるが、翌1994年には4位ながらも17年ぶりのシーズン勝ち越しを決め、監督を勇退し専務に専念。後任には巨人の監督を歴任した王貞治が就任した。また、後のダイエーの主力となる秋山幸二・工藤公康などを西武から獲得し、ドラフト会議でも城島健司・柴原洋のほか、逆指名制度を駆使して小久保裕紀・井口忠仁・松中信彦などを獲得するなど、チームの強化を図った。こうした補強の成果は着実に現れており、1998年にオリックスとは同率ながら、21年ぶりのAクラスとなる3位を確保した。翌年のリーグ優勝と日本一、現在に至るまでのパ・リーグ屈指の人気球団・強豪ホークス復活への礎となる。
1990年代は上記の他にも伊良部秀輝・黒木知宏・西口文也・松坂大輔・松井稼頭央・中村紀洋・T.ローズなど全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。FA制度の導入によりセパ間の人材流動も盛んになったが、主に経営体力のあるセ・リーグへの選手流出のほうが多く、パ・リーグは同一リーグ間の移籍が主であった。
他方、1997年に発覚したプロ野球脱税事件、1998年の福岡ダイエーのサイン盗み疑惑(村上球団社長が戒告と6ヵ月間球団社長職務停止、岸谷代表が1カ月間代表職務停止)など、負の歴史も存在し、NPBホームページのリーグ略史に現在でも記載されている。
1988年(昭和63年)に日本初の屋根付き球場(ドーム球場)である東京ドームが完成し、日本ハムは前身の後楽園球場と同様、巨人と本拠地を併用することになった。その後、1993年に福岡ドームが、1997年に大阪ドームが新規開業したことに加え、1999年に西武ライオンズ球場の改装により西武ドームが誕生した。このため、既に東京ドームを本拠地としていた日本ハムを含めると、6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの70%近くにまで増加した。
日本ハムファイターズは1988年に東京ドーム開業景気に恵まれ、パ・リーグ1位の観客動員数となるが、フロントは“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策が消極的になった。西崎の後に、田中幸雄、岩本勉、小笠原道大など日本ハムを支える看板選手が登場、上田利治監督の指揮下でビッグバン打線を形成し、1996年や1998年には優勝目前に迫ったが、フロントの投手補強策が消極的だったツケもあり、終盤の失速にてV逸。結局東京ドーム最終年である2003年までの16年間で、一度もリーグ優勝ができなかった。
大阪近鉄バファローズも1997年に藤井寺球場から大阪ドームに本拠地を移転した。2001年に球団OBの梨田昌孝監督の下、タフィ・ローズや中村紀洋、北川博敏(この年に阪神から移籍)などの活躍で球団最後となる12年ぶり4度目のリーグ優勝 を果たしたものの、ドーム開業当時は周辺に本来の親会社である近鉄の駅がなく、近鉄沿線から孤立してしまったため、大阪ドーム元年である1997年をピークに、翌年以降は観客動員数が伸び悩んだ。また親会社の近鉄グループの経営難も追い打ちをかけ、オリックスとの球団合併に発展し、後に2004年のプロ野球再編問題を招くことになる。
1999年には、王貞治監督の福岡ダイエーホークスが26年ぶりのパ・リーグ優勝、さらにこの年の日本シリーズを制覇。翌2000年にもリーグ連覇を果たし、長嶋ジャイアンツとの日本シリーズは「ONシリーズ」と呼ばれるなど、パ・リーグの新盟主としての地歩を固めた。その後2003年にも生え抜きの井口資仁・松中信彦・城島健司・斉藤和巳・杉内俊哉・和田毅らを擁してパ・リーグ優勝、この年の日本シリーズの制覇を果たし、2004年・2005年もレギュラーシーズン勝率1位(プレーオフにて敗退)となるなど名実ともにリーグの中心球団となった。 また日本ハムも、2004年の北海道移転とともに球団名が「北海道日本ハムファイターズ」と改められてから2006・2007・2009年に優勝を飾るなど、地域密着の経営方針を採ったチームが躍動したことで、長年「人気のセ」に後塵を拝してきたパ・リーグの観客動員は、00年代前半に向上が見られた。 2005年からは育成選手制度がスタートした。 2009年1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された(セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。
2004年6月に大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併が突如発表され、これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、ロッテオリオンズ以来27年ぶりに宮城県をフランチャイズとする球団として、楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)とライブドア(仙台ライブドアフェニックス)が新規参入に名乗りを挙げた。同年11月2日のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定、分配ドラフトを経て旧近鉄の選手の多くを草創メンバーとして発足した。また福岡ダイエーホークスも親会社であるダイエーの経営危機により、「第2の合併チーム」として、千葉ロッテマリーンズとの合併騒動に見舞われるも、同年11月30日にIT企業大手のソフトバンクに球団譲渡され、現在の「福岡ソフトバンクホークス」に改称した。
これにより、2005年以降も6球団制が維持されている。大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体の変更のない球団は、新加盟の東北楽天ゴールデンイーグルスのみとなった。
セ・パ両リーグは、再編問題を契機に同年から交流戦を開始した。また、2004年から2006年にかけては現在のクライマックスシリーズの先鞭となる上位3チームによるプレーオフが導入され、大差のついたリーグ終盤の興行不振(消化試合)を防止し、全てのチームが3位以内を目指して終盤まで盛り上がる仕組みを整えた。
福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)の成功と東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生のほか、パ・リーグの各球団は、上述のプロ野球再編問題を教訓に様々な地域密着方針を打ち出している。
千葉ロッテマリーンズは、既に川崎から千葉に移転したのちも依然として観客動員数が伸び悩んでいたため、行政とも協力して千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」を打ち出した。また、サッカー・Jリーグのサポーターに影響された熱烈な応援(マリーンズサポーター)や独特な球団スタイルを創りあげることによって、ファンを増やすことにつなげた。その甲斐もあり、2005年にはリーグ優勝と31年ぶりに日本一に輝き、5年後の2010年にも再び日本一を達成した。
日本ハムファイターズは、2001年に札幌ドームが開業した事が転機となり、2004年にこれまでプロ野球球団の無かった北海道へ移転、球団名を北海道日本ハムファイターズに改称した。移転当初の北海道では長年巨人ファンが主体であり、新規ファンの開拓は困難とされていたが、地元マスメディアや自治体のバックアップ、移転後のファン獲得への努力により、既存層だけでなく野球に関心のなかった層の獲得に成功した。2006年には本拠地移転を契機に僅か3年で、1981年以来のリーグ優勝と1962年(東映フライヤーズ時代)以来の日本一を達成、翌2007年にはリーグV2を果たし、北海道移転後は5度のリーグ優勝(2006年・2007年・2009年・2012年・2016年)、2度の日本一(2006年・2016年)を果たしている。
東北楽天ゴールデンイーグルスも、2005年からの設立当初は2年連続最下位と苦しんだものの、2006年シーズンより野村克也が監督に就任して以降、田中将大の入団、2009年の2位及び同年CSでの健闘が注目され、ファンを開拓した。そして2011年に星野仙一監督が就任。3年目となる2013年には、球団初のパ・リーグ優勝・球団初の日本一を成し遂げた。こうして、北海道・東北においてフランチャイズ球団が地域及び球団自体に変化をもたらし、地域密着スタイルが再びクローズアップされることになった。
西武ライオンズも、経営陣が刷新された後の2008年からは、球団名に「埼玉」を掲げ、現在の埼玉西武ライオンズに改称し、西武沿線にこだわらず沿線人口の多いJR京浜東北・埼京線側の大宮公園球場でも主催試合を行うなど、地域密着の姿勢を打ち出した。
2010年代は全体で見れば秋山幸二・工藤公康両監督に率いられた福岡ソフトバンクホークスが優勝5回、日本一6回と他球団を圧倒し、シーズン・ポストシーズン通じてソフトバンクの覇権を強く印象付けた時代であった。他方、栗山英樹監督率いる北海道日本ハムファイターズのリーグ優勝2回・日本一1回、星野仙一監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルスの2013年における球団初のリーグ優勝(田中将大が24勝0敗1SでMVP)と日本一達成、終盤には辻発彦監督率いる埼玉西武ライオンズのV2もあった。また、MLBへ多くの日本人選手を輩出した時代でもあり、パリーグからはダルビッシュ有・岩隈久志・田中将大・菊池雄星・そして二刀流で社会現象となった大谷翔平らが海を渡った。
2010年、リーグ戦の年間協賛社としてマニュライフ生命保険株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまではクライマックスシリーズでの協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は2011年、2012年シーズンも継続した。
2011年は東日本大震災の発生により電力が逼迫、開幕を両リーグとも3月25日から4月12日に順延した。
2013年はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営するモブキャストとオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「パ・リーグTV」は2013年からモブキャスト、2018年からはパーソルが協賛し冠スポンサーとなった。
2010年代、セ・パ交流戦では、勝数はすべての年でセントラル・リーグを上回り(パの671勝548敗41分)、2010年代をつうじ、優勝チームを7回輩出した。日本シリーズでも2012年を除きパの球団が9度日本一となり、特にソフトバンクは、セ・リーグ全球団を相手に日本一となった。 また日本シリーズでは、2013年から2020年までパ・リーグ代表チームが8連覇となった。(内、ソフトバンクが日本一6回を占めている。)
観客動員は順調に増加。特に2019年は天皇即位に伴いGW10連休となった事も奏功して、当年の1試合平均の観客動員は初めて27,000人を突破、対2009年比では+21%増を達成した。また、三大都市圏の西武・ロッテ・オリックスよりも、地方に本拠地を置く日本ハム・ソフトバンクの観客のほうが多くなった時代でもあった。
2020年から2021年にかけ、新型コロナウィルスの発生に伴い、各球場とも観客動員を大きく減らした運営を強いられた。特に2020年は6月19日まで開幕がずれ込んだ結果、120試合のみの開催で1953年以来67年ぶりの規模縮小、入場者数(206万人、昨対比▲82%)は草創期である1951年以来の少なさとなった。また、クライマックスシリーズが2020年は1stステージ(2位-3位戦)が中止となったほか、外国人選手の入国制限により、契約そのものが出来ない・契約できても来日や帰国が自由にできず、本人や家族のメンタルの問題で出場試合数を大きく減らす結果ともなった。厳しい状況を経たが、2022年4月にはロッテの佐々木朗希による13者連続奪三振と完全試合、また2023年春のWBCにおいてもパリーグ選手やMLB選手が、セの選手とともに大いに活躍して14年ぶりの世界一を達成し、日本国民に明るい話題を届けた。
オリックスが、投手三冠の山本由伸らの活躍により投手力を高めて暗黒期から脱出、2021年には(一時ロッテに51年ぶりのマジック点灯を許しながらも)25年ぶりのリーグ優勝を達成、2022年にはソフトバンクと同率1位での(直接対決での勝敗規定により)連覇、日本一を成し遂げた。現存するパ・リーグ6球団が21世紀に最低1回以上はリーグ優勝・日本一を経験することとなった。
※球団表記順は野球協約の保護地域表記順
1952年のフランチャイズ(ホームタウン)制度が採用された後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。
※1:1952年度については決勝リーグ進出チームは予選と合せて120試合戦った。また最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった。 ※2:1997年 - 2000年と2004年、2015年 - 2019年、2021年はリーグ間の対戦は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形(1997年 - 2000年、2004年は14試合、2015年以降は13試合)である。なおその1試合増加分のホームチームは、2004年を除いて2年単位で隔年入れ替え制である。 ※3:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりであるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。
上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。
現行プレーオフが採用された2004年以後は以下の通りに順位を定める。
1975年のシーズンから、指名打者制度(DH制)が採用されている。
1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。
1973年 - 1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。
2004年 - 2006年度は予選リーグの上位3チームがトーナメント式のプレーオフを行った。詳細はプレーオフ制度 (日本プロ野球)#勝率1位・2位・3位によるプレーオフ(2004年 - 2006年のパ・リーグ)の項を参照。
プレーオフ制度 (日本プロ野球)も参照の事。
クライマックスシリーズを参照。但しレギュラーシーズンの優勝とは関係が無いため、上記のプレーオフとは性質が異なる。
※2022年、オリックスとソフトバンクの年間勝敗数・引分数が全て同数となって勝率が同率となったが、直接対決の成績(オリックス15勝10敗)の結果により(順位決定方法参照)オリックスが優勝となった。
読売ジャイアンツ・阪神タイガースを始めとする人気球団を多く擁するセントラル・リーグが「人気のセ」と言われることに対して、ここ数年の日本シリーズの成績、交流戦の勝ち越し、オールスターゲームの勝利数、対抗意識などから「実力のパ」といわれている。
交流戦が開始されて以降は、常にパ・リーグのチームが上位を占めていることが多く、2010年に至っては交流戦上位6球団全てがパ・リーグのチームであったように、2010年代にはパ・リーグの優位が特に顕著であった。
さらに、日本シリーズにおいては、2020年の日本シリーズで前年の4勝0敗に続きソフトバンクが4勝0敗で連続優勝したため、パ・リーグの209勝202敗8引分となった他、シリーズ対戦成績がセ・リーグ側優勝35回、パ・リーグ側優勝36回となり、パ・リーグが通算対戦成績を逆転する結果となった。
この理由について指名打者制度の有無に理由を求める向きもある。また、MLBに進出した本格派先発投手にパ・リーグ出身者が多かったことも、その論を補強した。但し巷間言われるような球速の差は、データ上は否定されている。
パ・リーグ各球団はセントラル・リーグのように観客収入を対巨人戦や対阪神戦に依存することが出来ないため、観客増を図るべく下記のような対策も実施している。
パ・リーグでは指名打者制(DH制)を導入しており、8人の野手と指名打者及び投手のスタメンで構成されている。
現在、福岡ソフトバンクホークスは、観客動員数でNPB全12球団でセ・リーグの読売ジャイアンツ・阪神タイガースに次ぐ3位でパ・リーグトップの観客動員数を誇る。また北海道に本拠地を移転した日本ハムや東北地方の大都市・仙台を本拠地とする楽天などの台頭もあるが、特にオリックス・バファローズなどは、それ以上にテレビ・ラジオ放映が少ないため、放映権料の収入はわずかである。そのため、パ・リーグ全6球団では更なる観客増を狙うべく積極的なファンサービスを行っている。
パ・リーグ各球団のファンクラブは、ジュニア会員にホームで内外野自由席無料、ビジターで外野席無料の特典を設けている(例外が東北楽天ゴールデンイーグルスと福岡ソフトバンクホークスのホームゲーム時)。これらの特典は、セ・リーグ球団では広島東洋カープがホームの内野自由席無料(地方主催の場合は外野自由席)を東京ヤクルトスワローズがホームの外野自由席無料を行なっているだけ(ちなみに球団が運営に直接関わるファンクラブも日本ハムファイターズが1973年に結成したのが日本初)。過去には、パ・リーグオールスター東西対抗が11月に開催された(1981-2006)。
また、スタジアム内でも、福岡PayPayドームやベルーナドームの勝利の花火、ZOZOマリンスタジアムでの特定曜日花火、京セラドーム大阪のお好み焼きタイム等、観客を野球以外で楽しませるための演出や入場者へのホームチームノベルティプレゼント、各試合ごとのイベント(ホームチーム地元在住者は証明出来れば内外野自由席無料、サラリーマンは500円、女性は1000円等)を行った。チアリーディングチームは全ての球団に存在し、2022年には札幌ドームでの「きつねダンス」が社会現象ともなる人気を博すなど、各球団がさまざまな営業努力を払っている。この結果、平日のナイターでも多くの観客を動員するまでに至っている。
各球団のホームスタジアムでは7回裏にホームチームの球団歌を流すだけでなく、7回表にビジターチームの球団歌を流している。また、以前はすべてのスタジアムでビジターチームが勝利した場合でもヒーローインタビューを場内に流していたが、北海道日本ハムファイターズのホームゲームでは大多数を占める日本ハムファンの心情に配慮してかビジターチームのヒーローインタビューは原則場内に流さないようになっている。(2014年途中より、ビジターチームのヒーローインタビューも場内に流れるようになった。)
近年ではインターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本であるソフトバンクや楽天はもちろん、ロッテや日本ハムも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。
2007年(平成19年)5月14日にはパ・リーグ6球団の共同事業による株式会社「パシフィックリーグマーケティング(PLM)」が設立され、2008年シーズンからは西武、オリックスが参加するとともに、同シーズンからはパ・リーグ6球団が個別で運用管理してきた公式ウェブサイト・携帯向けウェブサイトをPLMが一括管理し、パ・リーグ主催試合は「パ・リーグ 熱球ライブ!」という番組名でYahoo!動画の野球中継により無料で配信されることになった(交流戦ではパ・リーグ主催試合のみ配信)。その後、諸事情により2010年には有料会員制の「パ・リーグライブTV」に移行。2012年には「パ・リーグTV」と名称が変更され、2013年にはパ・リーグオフィシャルスポンサー(特別協賛)に就任した株式会社モブキャストが協賛スポンサーとなった。
また、2009年(平成21年)8月からはニコニコ生放送で楽天主催試合の一部を配信開始。2010年(平成22年)からはソフトバンクの主催試合も配信開始されるようになり、2011年からは地方開催試合も含む主催試合全試合が生中継で配信されるようになった。
携帯電話向けの動画サービスでも日本ハム、ロッテ、西武、ソフトバンクの4球団が2006年6月に「プロ野球24」を開始して主催試合をNTTドコモ・ソフトバンクの従来型携帯電話向けに動画配信している。2007年シーズンからは楽天が加わり、2008年シーズンからはオリックスも参加するとともに、経営体制もPLMへ移管された。
2009年(平成20年)6月から、当時J SPORTSで主催ゲームを放送していた4チーム(西武、ロッテ、オリックス、ソフトバンク)の試合ダイジェストやヒーローインタビューの動画を「パ・リーグチャンネル」と題してYouTubeで配信している。同年8月からは、楽天がニコニコ動画において同内容の動画配信を開始している。また、西武は独自にYouTubeに公式チャンネルを設け、イベントなどの様子を配信している。2010年(平成21年)からは楽天、日本ハムもYouTube配信を開始し、パ・リーグ全チームの動画が配信されるようになった。
2001年(平成13年)から2005年(平成17年)まで実施されたパシフィック・リーグの毎週月曜日開催の公式戦の愛称である。
長年、毎週月曜日はセントラル・リーグも含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日や学校の長期休暇時の開催や、地方開催が関係した変則日程や、シーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。
しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年(平成13年)から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。このためパ・リーグでは毎週木曜日を原則休養(あるいは予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、火・水の2連戦となるケースが一般的だった。ただし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多かった。また月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送する放送局が、J SPORTS・NHK BS1などの衛星放送や文化放送、ラジオ大阪、RKBラジオ、KBCラジオなど普段からパ・リーグの試合を中継している局以外ではほとんど無く、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。
セ・パ交流戦が実現したことで2005年(平成17年)を最後に廃止された。
1950年のベースボール・マガジン新年特大号で東急フライヤーズの猿丸理事が質問に答え、アメリカ横断鉄道のセントラルとトランス・パシフィックからそれぞれリーグ名をつけたと語った記事が載った。しかしこれは理事が取材記者の質問をはぐらかして答えたもので、実際には国際的な視野に立つことを謳いパシフィックという名称がつけられた。一方のセントラルは、日本プロ野球の中心を自負して決められた名称である。
低勝率罰金制度とは1953年にパシフィック・リーグ理事会総裁・永田雅一の考案した制度で、シーズン勝率が.350を割った球団から罰金500万円を徴収する制度である。
1954年に永田の球団である大映スターズが勝率.319で第1号となった。翌1955年にトンボユニオンズが勝率.300で第2号となった(これがきっかけでトンボ鉛筆は球団スポンサーを降り、翌年から球団名が高橋ユニオンズに戻った。)。
なお、この制度は1956年に廃止となった。
(1950年から1958年までは各球団の持ち回り)
(専任職移行後)
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"text": "パシフィック・リーグ(英: Pacific League)は、日本のプロ野球リーグのひとつ。",
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"text": "1949年(昭和24年)11月26日に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後のオリックス・バファローズ)、南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(後の北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に新球団の毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(後の埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)も加わり、計7球団で太平洋野球連盟(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である。初年度の1950年(昭和25年)は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、日本シリーズでも松竹ロビンスを倒し日本一に輝いた。",
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"text": "当初参加を予定していた大阪タイガース(後の阪神タイガース)は看板カードの巨人戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した。こちらが現在のセントラル野球連盟、いわゆるセントラル・リーグ(セ・リーグ)である。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "この時代は鶴岡一人監督率いる南海ホークスと三原脩監督率いる西鉄ライオンズの黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、1959年(昭和34年)にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、1954年(昭和29年)のシーズン開幕前には高橋ユニオンズ(翌1955年のみトンボユニオンズ)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から1956年の3シーズンのみ参加し、1957年(昭和32年)2月に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、1957年シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、以後は現在に至るまで6球団体制となっている。",
"title": "沿革"
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"text": "1リーグ時代の巨人を優勝に導いた三原脩を1951年シーズンから招聘した西鉄ライオンズは、大騒動を経て東急フライヤーズのスター大下弘を引き抜くとともに(大下騒動を参照)、豊田泰光・中西太・仰木彬らとともに野武士軍団と呼ばれる打線を形成。同リーグの鶴岡南海との優勝争いは54年~56年まで両軍ともに90勝に達するなど、ハイレベルな争いとなった。また、巌流島の決闘と言われたライバル・水原茂監督率いる巨人に対して1956~1958まで日本シリーズ三連覇、特に1958年はエース・稲尾和久の超人的な連投もあり、3連敗からの4連勝で制した。三原の采配は、2番打者に強打者を置く、またショートスターターなど後世の戦術を先取りしたものも多く、三原マジックとも呼ばれ、セ・パ両リーグの采配論に大きな影響を与えた。",
"title": "沿革"
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"text": "前述の通り、1950年代は南海と西鉄の2強時代だった。南海ホークスは鶴岡一人監督の下、データ野球という斬新な考えを取り入れた野球で優勝争いの常連チームとなり、1950年代において南海は5度のリーグ優勝(1951年・1952年・1953年・1955年・1959年)を成し遂げる。しかしながら、日本シリーズでは読売ジャイアンツに1955年まで4度とも敗退していた。",
"title": "沿革"
},
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"text": "1959年シーズンはシーズン終盤に大毎オリオンズに首位を明け渡した時期はあったが、杉浦忠や野村克也といった若いバッテリーの活躍もあり、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。1959年の日本シリーズでは、当時のセ・リーグ新記録となる5連覇を達成した読売ジャイアンツとの対戦となった。これまで南海は日本シリーズにおいて巨人に苦杯を舐めてきたが、杉浦の連戦での力投、さらにリーグ1位のチーム防御率という投手陣の層の厚さで、巨人打線を抑え、日本シリーズでは初となるストレート4連勝で球団初の日本一を成し遂げ、鶴岡監督の悲願である打倒巨人がようやく実現した。優勝後、日本で初めてのビールかけが南海ナインの手によって行われた。そして当時の南海の本拠地だった大阪市民は球団初の日本一に熱狂し、シリーズ終了翌々日の10月31日に秋晴れの下でおこなわれた大阪市内の優勝パレードには沿道に20万人が集まり、「御堂筋パレード」と呼ばれた。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、パ・リーグには逆風となった。1960年(昭和35年)11月、毎日新聞社が大毎オリオンズの経営から事実上撤退しており、1965年(昭和40年)には完全撤退に至った。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "このような中、大毎オリオンズのオーナーになった永田雅一は私財を投げ打って東京・南千住に1962年(昭和37年)に「東京スタジアム」を完成させた。1969年(昭和44年)にロッテオリオンズに改称して翌年となる1970年(昭和45年)には東京スタジアムでのリーグ優勝を決めた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人がV9(1965~1973年の9年連続日本一)をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1961年5月には初の国外試合として、米軍施政下にあった沖縄・奥武山球場で西鉄-東映戦が行われた。また1964年には南海・村上雅則が野球留学生としてサンフランシスコ・ジャイアンツに入団し、日本人として初めてMLB昇格を果たした。1965年11月には初のドラフト会議が行われた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "東京オリンピックに沸いた1964年(昭和39年)は南海ホークスが3年ぶり9度目のリーグ優勝を果たした。この年の日本シリーズは南海と阪神タイガースの「関西シリーズ」という顔合わせとなった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "当時のプロ野球は、東京地区においてはセ・リーグの読売ジャイアンツ(巨人)、国鉄スワローズ(国鉄)、そして毎日大映(大毎)オリオンズの3球団が文京区の後楽園球場を本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。このうち大毎のオーナーだった永田雅一は私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。都内各所を自ら視察した結果、荒川区南千住の大和毛織工場跡地(旧千住製絨所)を建設地に決定した。かねてから「下町に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1962年5月31日に完成された球場は「東京スタジアム」と命名された。6月2日、パ・リーグ全6球団がスタジアムに集結。午後4時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい!」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。同日午後7時に初のプロ野球公式戦として、大毎対南海の7回戦が行われ、球場第1号本塁打は同試合で野村克也(南海)が放った。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アメリカ・サンフランシスコのキャンドルスティック・パーク(当時のMLB・サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)などをモデルにした東京スタジアムは、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造となっており、当時の南千住はマンションなどの高層建築物はなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景から『光の球場』と呼ばれた。スタンドの座席やエントランス部のスロープ式の通路などの工夫に加え、選手用の設備が当時としては最先端かつ大リーグ式の環境でありだったことが、選手からは好評だったという。「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想が具現化した、彼にとってはいわば「夢の野球場」だった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "東京スタジアムは大毎の本拠地として開業した。さらに1964年にオーナー企業名を排して都市名を冠した「東京オリオンズ」に改称。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示し、結局1965年に完全撤退となり、経営権も永田が掌握した。また、当時のオリオンズは低迷期で、開場年の1962年は4位。以降5位、4位、5位、4位、5位と苦戦していた。さらに1965年からは巨人がセ・リーグ9連覇という黄金期に入ったために、プロ野球人気はセ・リーグ偏重の傾向が強まっていた。年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたものの、その後はジリ貧に陥り、スタジアムの建設費を減価償却できない経営状態が続いた。また球場の敷地が狭隘であるため、フィールドは狭かったため、本塁打が出やすかった。そのため、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得して、長打力強化を図った。その年はチームはAクラスとなる3位だった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1969年に菓子メーカー・ロッテをスポンサーに迎えて業務提携し、「ロッテオリオンズ」に改称。1970年は前述の外国籍選手2名に加えて、山崎裕之・榎本喜八・有藤通世・池辺巌・木樽正明・小山正明などが活躍して、本拠地・東京スタジアムで10年ぶり3度目のリーグ優勝を決めた。その時、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、この年の日本シリーズではV9の真最中でセ・リーグ6連覇だった巨人に1勝4敗と敗れた。ロッテの本拠地・東京スタジアムでの巨人の日本一の胴上げとなった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1971年に永田が経営していた大映が業績悪化のため、ロッテに経営権を譲渡した。しかし、大映は結局倒産する。関連子会社の東京スタジアムも累積赤字が約15億円にまで膨らみ、経営権は1972年に国際興業社主の小佐野賢治にの手に移った。その際、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、球団の年間観客数も頭打ちになっており、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、11月22日の段階で交渉は事実上決裂。小佐野は「球場は廃業するので、来季以降は使用できない」とし、東京スタジアムは同年限りでの閉鎖が決まった。開場からわずか11年目のことだった。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1969年オフに発覚した八百長問題は、「黒い霧事件」として問題が拡大した。特に、4名が永久追放処分、2名が1年間活動停止等の処分を受けた西鉄ライオンズに致命的なダメージを与えただけでなく、パ・リーグ全体のイメージダウンともなった。西鉄は1972年にライオンズを中村長芳(当時福岡野球のオーナー)に譲渡し、太平洋クラブライオンズに改称し、球団経営から撤退した。さらに映画産業の衰退で球団を支える経営体力が無くなり、東京オリオンズの親会社だった大映(永田雅一→中村長芳)はロッテ(1969年~)へ、東映フライヤーズの親会社だった東映は日拓ホーム(1973年のみ)→日本ハムへ(1974年~) と、大手映画会社の球団譲渡が相次いだ。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "更にロッテオリオンズに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった(ジプシー・ロッテを参照)。主に宮城球場(宮城県仙台市)を暫定本拠地とし、首都圏(後楽園・神宮・川崎など)でも主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続いた。そんな状況下でも、かつて国鉄スワローズ・読売ジャイアンツで投手として活躍した金田正一監督の下、1974年にリーグ優勝、その年の日本シリーズでも巨人の10連覇を阻止した中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、毎日オリオンズ以来24年ぶり2度目の日本一を果たした。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "しかし1975年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。巨人のV9は、裏を返せばパリーグの9連敗であり、引き立て役に甘んじる年月であった。1971年のオールスター第1戦では阪神・江夏豊に9者連続三振という屈辱を喫し、前年から通算すると15連続三振を奪われた。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと前期・後期の2シーズン制の採用(1973年~1982年)、指名打者制度の採用(1975年~現在)などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える太平洋とロッテの遺恨試合を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "そんな中、1970年代は西本幸雄→上田利治監督の下、福本豊・山田久志・長池徳士などを擁する阪急ブレーブスの黄金時代で、1967年のリーグ初優勝を皮切りに、1978年にかけて9度のリーグ優勝を果たした。特に1975年から3年連続日本一となっていた。南海ホークスも野村克也選手兼任監督の下、ID野球の原型とも言える「シンキング・ベースボール」で、1973年にリーグ優勝を果たす。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "阪急や南海にはこうした人気があった。また関西球団同士のカード(特に南海主催のホームゲーム(大阪球場など))ではユーモア溢れる野次合戦など定評はあった。しかし、関西のスポーツ紙が阪神タイガースの記事一辺倒の為、阪神には人気は及ばず、阪急以外に南海、近鉄も含めた在阪パ・リーグ3球団の観客は急激には増えなかった。特に1977年6月の南海 - 阪急戦は在阪球団同士による首位攻防戦であったが(当時は前述したように2シーズン制で、事実上の前期優勝争いとなっていた)、当日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は掛布雅之の特訓記事だった、と当時南海の監督であった野村克也は著書で述べている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。また、近鉄は1979年・1980年と連覇を果たしたが、本拠地であった日本生命球場・及び保有する藤井寺球場では日本シリーズの開催基準を満たさず、大阪球場を借りてのシリーズ開催を余儀なくされたように、インフラ面においても潤沢とは言えなかった。317勝を挙げた鈴木啓示、465本塁打の土井正博の両看板を擁したが、観客動員は伸びなかった。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "とはいえ、南海ホークスは「キタの阪神、ミナミの南海」と呼ばれる程、1リーグ時代・2リーグ時代初期では阪神タイガースと並ぶ人気だったということもあり、その後も南海は関西では阪神に次ぐ人気球団だったという。福岡移転後の2003年に大阪球場跡地に大型商業施設「なんばパークス」が開業。所々に大阪球場にちなんだモニュメントやデザインが所在しており、上階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」という球団の沿革を示す展示コーナーも設置されており、展示の前では年配層を中心に立ち止まる人の姿が絶えず、未だ関西でホークスが根強い人気を持つことを示している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "球界を襲った黒い霧事件の影響は西鉄だけでなく、東映フライヤーズにも飛び火した。1970年5月9日にはエースの森安敏明が同僚・田中調と共に、前年同事件で永久追放された永易将之の八百長工作に関連があったとされ、出場停止となり、7月30日に森安の永久追放が決定した。さらに、親会社の東映に至っては映画産業の斜陽に加え、1971年に逝去した大川博の後任のオーナーに就任した大川毅やオーナー代行に就任した東映の岡田茂新社長には球団経営の意欲がなかったこともあり、1972年シーズンオフに東映再建のため、球団売却を模索した。五島昇・東急電鉄社長(球団の事実上の所有者)とともに当初は家電メーカーのパイオニアとの間で売却交渉を進めていたが、10月21日に買収を断念。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "その後、1973年1月16日に不動産会社の日拓ホームへ球団を売却し、「日拓ホームフライヤーズ」に改称された。「黒い霧事件」の後遺症が残る中、リーグに活気を取り戻すべく、日拓は球団運営やファンサービスで新しい試みを次々と打ち出してきたが、同年9月中旬に球団売却が報じられたことをきっかけで、10月17日のパ・リーグのオーナー懇談会において、日拓のオーナーだった西村昭孝はNPBの1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策した。南海・阪急・近鉄が合併を承認したが、セ・リーグ側からは猛反発を喰らい、合併は調印寸前で破談に至った。短期間で1リーグ制に向けた動きは終息したが、このような球界の体質に嫌気が差した西村は、球団経営の費用対効果が買収の時点で想定したほど高くなかったこともあって、球団経営を放棄することを決意。結局、わずか1シーズンで球団の経営権を売却した。その後11月19日に日拓ホームは球団の経営権を日本ハムに譲渡し、「日本ハムファイターズ」に改称した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、1972年オフに東京スタジアムが閉鎖されたため、ロッテオリオンズは本拠地を失うことになり、1973年からは引き続き東京都を保護地域としながら、宮城県仙台市の宮城球場を暫定本拠地とし、首都圏(後楽園、神宮、川崎など)や静岡市の草薙球場を転々としながら主催試合を開催することとなった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "当初は明治神宮野球場を準本拠地として年20試合程度の開催を計画していたが、ヤクルトアトムズ(当時)や大学野球などのに日程優先権がある影響で試合数が6試合と大幅に削減され、後楽園や川崎にその分を振り分けたといわれている。そこへ、仙台市や地元財界(東北野球企業など)などの提案により、宮城球場を暫定本拠地とすることになり、年26試合を開催した。当時はまだ、首都圏はおろか日本国内に本格的な照明設備を有する野球場が少なかったことも背景にあった。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また同年監督に就任した金田正一の人気や前期優勝争いに食い込んだこともあり、前年310,000人にとどまった観客動員数は当時のパ・リーグ新記録となる946,500人と大幅に増加した。1974年からはロッテは宮城県仙台市の宮城球場を本拠地にし、保護地域も暫定的に東京都から宮城県に移転した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "しかし、球団事務所や合宿所などの諸施設は引き続き東京都内に置き、選手やコーチも東京近郊に自宅を置いたままだったので、暫定本拠地だった仙台での試合になると、仙台市内のホテルに宿泊し、試合前はホテルでユニフォームに着替えてバスで球場入り。試合後はユニフォームを着たままバスでホテルに帰るというビジターや地方遠征と何ら変わりない形で臨んでいた。また当時のパ・リーグ6球団の本拠地は、西日本地域に偏っており(関西地方に3球団(南海・阪急・近鉄)、九州地方に1球団(太平洋クラブ→クラウンライター)が所在)、また当時の仙台はまだ東北新幹線が未開通だったこともあり、移動は過酷だった。これらにより、ロッテの仙台移転は、首都圏に新たな本拠地を確保するまでの暫定措置に過ぎなかったとも言われている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1974年のロッテは前期2位、後期優勝を決め、プレーオフに進出すると、前期優勝の阪急ブレーブスを退け、第3戦での地元・宮城球場で4年ぶりのリーグ優勝を決めた。しかし、日本シリーズではロッテの主催試合は後楽園球場を使用することになった。これは当時の宮城球場の収容人数は28,000人だったことなど施設が未整備なことが背景にあった。1977年10月、実行委員会でロッテが保護地域を神奈川県に移す事を承認。(本拠地球場は川崎球場。)",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "1978年シーズンオフに、太平洋クラブ・クラウンライターの両ライオンズを経営した中村長芳からクラウンライターライオンズを買収した西武グループ は、球団経営に革命を起こす。埼玉県所沢市に大リーグ並みといわれた西武ライオンズ球場の建設、ファンサービスの充実に加え、当時西武ライオンズの監督で後の球団管理部長などを務め上げる根本陸夫の下、トレードで田淵幸一、山崎裕之らの獲得、ドラフト外入団で松沼博久・雅之兄弟、秋山幸二、小野和幸ら、傘下のプリンスホテルから石毛宏典・金森栄治・石井丈裕、さらに黄金時代の正捕手となる伊東勤は球団職員として採用してからのドラフト指名など、あらゆる方策を動員した選手補強を行った結果、1982年に西鉄ライオンズ以来となる19年ぶりパ・リーグ優勝、その年の日本シリーズでも24年ぶりの日本一を達成。広岡達朗→森祇晶監督の下、1980年代には実に5回の日本一(1982年・1983年・1986年・1987年・1988年)を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。NHKだけでなく民放テレビ局・ラジオ局も巨人戦一辺倒から西武戦も放送するようになった。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "さらに近鉄バファローズも球団創設29年となる1979年にリーグ初優勝を果たし、翌年の1980年もリーグ連覇を果たす。また翌年の1981年には後に「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズも東映フライヤーズ以来の19年ぶりのリーグ優勝を達成した。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 37,
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"text": "また1970年代前後に入団した福本豊、太田幸司、東尾修、門田博光、村田兆治、落合博満、L.リー、C.マニエルに加え、その頃から工藤公康、渡辺久信、阿波野秀幸、西崎幸広など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。特に当時の強豪校・PL学園野球部の甲子園スターであった清原和博の快進撃、西武の主砲への成長は、ドラフトで巨人への入団を果たせなかった事を含めて物語性をもって語られ、大きな注目を集めた。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "1980年に名称をパシフィック野球連盟に改称した。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "しかし西武の躍進や阪急・近鉄などの健闘にもかかわらず、セ・リーグとの観客動員数では依然として差があった。特に当時のロッテオリオンズの本拠地であり、老朽化が著しく、なおかつほとんど改修されなかったこともあり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた川崎球場 では観客が流しそうめんをしたり、鍋料理を囲む等の光景 が展開されるなど、オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞(フジテレビ系列の特別番組)でも格好のネタになっていた。川崎球場移転後のロッテも1983年に球団初の最下位に転落するなど、成績でも苦難が続いた。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一方、黎明期において、かつて西鉄とリーグ優勝争いを繰り広げていた南海は、1977年のシーズン途中に選手兼任で監督を務めていた野村克也の女性関係が問題視され、公私混同を理由に解任されると、当時の主力選手だった江夏豊や柏原純一が他球団に移籍するなどの戦力低下もあり、翌年の1978年以降は人気・成績の低迷が長引き、球団売却・福岡移転後の1997年まで20年連続Bクラスと、およそ20年に渡る低迷期に突入した。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、阪急は少しでも観客を増やそうと1981年に球団マスコット「ブレービー」を登場させたり、1983年には福本豊ら3選手と競走馬を競争させるアトラクションまで行った。結果的には阪急はこの年のリーグMVPとなったブーマー・ウェルズや福本豊・今井雄太郎・佐藤義則などが活躍し、1984年に6年ぶりのパ・リーグ優勝を果たした。しかし、それでも同じく西宮を本拠としていた阪神タイガースが翌年の1985年に21年ぶりのセ・リーグ優勝、さらに球団初となる日本一になったことが日本中の大きな話題となったこともあり、結局、阪急における直接的な観客増には結びつかなかった。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "南海と阪急は「球団を持つ使命は終えた」として、ともに1988年秋に南海はダイエーに、阪急はオリエント・リース(現:オリックス)に、それぞれ球団譲渡を行った。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "南海の身売りにおいては、この年は球団創設50年だったが、球団売却前の1986年頃から当時の本拠地だった大阪球場を解体・撤去を見据えた難波地区再開発計画や、球団身売りに否定的だった名物オーナーの川勝傳が死去した事もあり、9月に南海の身売り発表が行われた。そして11月1日にダイエーへの球団譲渡並びに福岡市への本拠地移転が発表された。この年の南海は40歳の門田博光が本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、年間MVPに輝いた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一方、阪急の身売り発表が行われたのは、10月19日17時であり、川崎球場でこの年に就任した仰木彬監督率いるリーグ2位の近鉄が、優勝をかけてリーグ最下位のロッテとのダブルヘッダー1試合目を行っている最中だった(10.19)。この試合は、パ・リーグとしては異例の注目を集めた。この試合は第1試合は近鉄が勝利するも、第2試合は引き分けに終わり、西武のリーグ3連覇が決まった日でもあった。この年のリーグ優勝を逃した近鉄だったが、元号が平成に変わった1989年(平成元年)は9年ぶり3度目のリーグ優勝を果たす。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "パ・リーグにおいては80年代から日本の経済成長とともにMLBを経験した選手の加入が相次いだ。M.アル―(太平洋)、テリー(西武)、T.バナザード(南海)、B.オグリビー(近鉄)、B.マドロック(ロッテ)のようなMLBでレギュラーを張った選手がキャリア終盤に日本を選択する例が見られたほか、L.リー、T.ソレイタ、R.ブライアントらがタイトルを獲得、さらにブーマーは外国人として初の三冠王を獲得した。一撃で局面を打開する長打力、捕手をも吹き飛ばすスライディングは興行面でも不可欠な魅力となり、1994年からは外国人枠の拡大(2名⇒3名。1998年からは4名)にもつながった。捕手としても出場したM.ディアズ、ロス五輪での剛速球投手から技巧派に転じた郭泰源、またリリーフ投手として個性的パフォーマンスで沸かせたアニマル・レスリーなども登場した。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "昭和から平成に元号が変わった1990年代前半は森祇晶監督率いる西武黄金時代が続き、1990年~1994年までパ・リーグ史上唯一の5連覇、1990年~1992年まで3年連続の日本一を飾ることになる。この頃の西武には野手陣は秋山幸二・石毛宏典・辻発彦・伊東勤・清原和博・O.デストラーデなど、投手陣は工藤公康・渡辺久信・郭泰源・石井丈裕・鹿取義隆・潮崎哲也・渡辺智男などがチームを支えた。その頃のペナントレースは、1991年に近鉄が77勝で猛追、1993年も日本ハムが1.0ゲーム差まで追い上げたが、ほぼ5年連続、常勝西武の独壇場であった。その中では新人から彗星のごとく現れた近鉄の野茂英雄が、特徴的なトルネード投法によりパ・リーグの人気を沸騰させ、デビューの1990年には18勝・287奪三振・防御率2.91で投手三冠を達成、のちにMLBにて日本人初・2度の(タイトル奪取)を達成するに至る。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "一方で、本拠地球場が築40年以上を経過し、老朽化が顕著な問題となり始める。同時に、プロ野球規格の新球場が相次いで完成したため、地元の誘致もあり、既に1989年に福岡市に移転していたダイエー(旧・南海)は、ライオンズの本拠地だった平和台野球場から1993年に福岡ドームへ移転した。また1991年には当時阪急西宮球場を本拠地にしていたオリックス(旧・阪急)が神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)に、1992年には当時川崎球場を本拠地としていたロッテが千葉マリンスタジアムにそれぞれ本拠地を移転した。",
"title": "沿革"
},
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"text": "特に千葉ロッテマリーンズに至っては、千葉マリンスタジアム移転元年である1992年は移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録したものの、2年目の1993年は大きく落ち込んだ。看板選手である落合博満が1987年に中日へ移籍して以降、千葉マリンスタジアム独特の浜風の影響もあり、長距離砲が育たなくなった事(1986年の落合以来、日本人の30本塁打以上は皆無)も響いた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "1994年はオリックスの20歳の新星、イチローが1シーズンで200本を超える安打を放つ大活躍でファンの人気を集めた。また、イチローの所属するオリックス・ブルーウェーブも1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災後の復興のシンボルとして、1995年シーズンを制覇、11年ぶり(オリックスとなってからは初)の優勝を果たした。当年シリーズは野村ヤクルトに1勝4敗で敗れたものの、翌1996年のリーグV2ののちの1996年シリーズは長嶋ジャイアンツに4勝1敗で勝利し、阪急ブレーブス以来となる19年ぶり4度目の日本一を達成、被災地の神戸市民を勇気づけた。また、近鉄監督時代のR.ブライアントや野茂に引き続いて再び独特な才能を引き出した仰木彬監督の手腕を評し、往年の三原脩監督に重ね合わせる人も多く、リーグの歴史に1ページを刻んだ。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、福岡ダイエーホークスについては、福岡市では11年ぶりにプロ球団が誕生したという歓迎ムードもあったものの、当時の平和台野球場スタンドには空席が目立つことが多かった。そんな逆境の中、福岡ドームに本拠地を移した1993年には西武ライオンズで辣腕を振るった根本陸夫監督が専務兼任で就任し、チームの改革を行った。初年度は最下位になるが、翌1994年には4位ながらも17年ぶりのシーズン勝ち越しを決め、監督を勇退し専務に専念。後任には巨人の監督を歴任した王貞治が就任した。また、後のダイエーの主力となる秋山幸二・工藤公康などを西武から獲得し、ドラフト会議でも城島健司・柴原洋のほか、逆指名制度を駆使して小久保裕紀・井口忠仁・松中信彦などを獲得するなど、チームの強化を図った。こうした補強の成果は着実に現れており、1998年にオリックスとは同率ながら、21年ぶりのAクラスとなる3位を確保した。翌年のリーグ優勝と日本一、現在に至るまでのパ・リーグ屈指の人気球団・強豪ホークス復活への礎となる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1990年代は上記の他にも伊良部秀輝・黒木知宏・西口文也・松坂大輔・松井稼頭央・中村紀洋・T.ローズなど全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。FA制度の導入によりセパ間の人材流動も盛んになったが、主に経営体力のあるセ・リーグへの選手流出のほうが多く、パ・リーグは同一リーグ間の移籍が主であった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "他方、1997年に発覚したプロ野球脱税事件、1998年の福岡ダイエーのサイン盗み疑惑(村上球団社長が戒告と6ヵ月間球団社長職務停止、岸谷代表が1カ月間代表職務停止)など、負の歴史も存在し、NPBホームページのリーグ略史に現在でも記載されている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1988年(昭和63年)に日本初の屋根付き球場(ドーム球場)である東京ドームが完成し、日本ハムは前身の後楽園球場と同様、巨人と本拠地を併用することになった。その後、1993年に福岡ドームが、1997年に大阪ドームが新規開業したことに加え、1999年に西武ライオンズ球場の改装により西武ドームが誕生した。このため、既に東京ドームを本拠地としていた日本ハムを含めると、6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの70%近くにまで増加した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "日本ハムファイターズは1988年に東京ドーム開業景気に恵まれ、パ・リーグ1位の観客動員数となるが、フロントは“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策が消極的になった。西崎の後に、田中幸雄、岩本勉、小笠原道大など日本ハムを支える看板選手が登場、上田利治監督の指揮下でビッグバン打線を形成し、1996年や1998年には優勝目前に迫ったが、フロントの投手補強策が消極的だったツケもあり、終盤の失速にてV逸。結局東京ドーム最終年である2003年までの16年間で、一度もリーグ優勝ができなかった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "大阪近鉄バファローズも1997年に藤井寺球場から大阪ドームに本拠地を移転した。2001年に球団OBの梨田昌孝監督の下、タフィ・ローズや中村紀洋、北川博敏(この年に阪神から移籍)などの活躍で球団最後となる12年ぶり4度目のリーグ優勝 を果たしたものの、ドーム開業当時は周辺に本来の親会社である近鉄の駅がなく、近鉄沿線から孤立してしまったため、大阪ドーム元年である1997年をピークに、翌年以降は観客動員数が伸び悩んだ。また親会社の近鉄グループの経営難も追い打ちをかけ、オリックスとの球団合併に発展し、後に2004年のプロ野球再編問題を招くことになる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1999年には、王貞治監督の福岡ダイエーホークスが26年ぶりのパ・リーグ優勝、さらにこの年の日本シリーズを制覇。翌2000年にもリーグ連覇を果たし、長嶋ジャイアンツとの日本シリーズは「ONシリーズ」と呼ばれるなど、パ・リーグの新盟主としての地歩を固めた。その後2003年にも生え抜きの井口資仁・松中信彦・城島健司・斉藤和巳・杉内俊哉・和田毅らを擁してパ・リーグ優勝、この年の日本シリーズの制覇を果たし、2004年・2005年もレギュラーシーズン勝率1位(プレーオフにて敗退)となるなど名実ともにリーグの中心球団となった。 また日本ハムも、2004年の北海道移転とともに球団名が「北海道日本ハムファイターズ」と改められてから2006・2007・2009年に優勝を飾るなど、地域密着の経営方針を採ったチームが躍動したことで、長年「人気のセ」に後塵を拝してきたパ・リーグの観客動員は、00年代前半に向上が見られた。 2005年からは育成選手制度がスタートした。 2009年1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された(セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2004年6月に大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併が突如発表され、これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、ロッテオリオンズ以来27年ぶりに宮城県をフランチャイズとする球団として、楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)とライブドア(仙台ライブドアフェニックス)が新規参入に名乗りを挙げた。同年11月2日のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定、分配ドラフトを経て旧近鉄の選手の多くを草創メンバーとして発足した。また福岡ダイエーホークスも親会社であるダイエーの経営危機により、「第2の合併チーム」として、千葉ロッテマリーンズとの合併騒動に見舞われるも、同年11月30日にIT企業大手のソフトバンクに球団譲渡され、現在の「福岡ソフトバンクホークス」に改称した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "これにより、2005年以降も6球団制が維持されている。大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体の変更のない球団は、新加盟の東北楽天ゴールデンイーグルスのみとなった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "セ・パ両リーグは、再編問題を契機に同年から交流戦を開始した。また、2004年から2006年にかけては現在のクライマックスシリーズの先鞭となる上位3チームによるプレーオフが導入され、大差のついたリーグ終盤の興行不振(消化試合)を防止し、全てのチームが3位以内を目指して終盤まで盛り上がる仕組みを整えた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)の成功と東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生のほか、パ・リーグの各球団は、上述のプロ野球再編問題を教訓に様々な地域密着方針を打ち出している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "千葉ロッテマリーンズは、既に川崎から千葉に移転したのちも依然として観客動員数が伸び悩んでいたため、行政とも協力して千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」を打ち出した。また、サッカー・Jリーグのサポーターに影響された熱烈な応援(マリーンズサポーター)や独特な球団スタイルを創りあげることによって、ファンを増やすことにつなげた。その甲斐もあり、2005年にはリーグ優勝と31年ぶりに日本一に輝き、5年後の2010年にも再び日本一を達成した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "日本ハムファイターズは、2001年に札幌ドームが開業した事が転機となり、2004年にこれまでプロ野球球団の無かった北海道へ移転、球団名を北海道日本ハムファイターズに改称した。移転当初の北海道では長年巨人ファンが主体であり、新規ファンの開拓は困難とされていたが、地元マスメディアや自治体のバックアップ、移転後のファン獲得への努力により、既存層だけでなく野球に関心のなかった層の獲得に成功した。2006年には本拠地移転を契機に僅か3年で、1981年以来のリーグ優勝と1962年(東映フライヤーズ時代)以来の日本一を達成、翌2007年にはリーグV2を果たし、北海道移転後は5度のリーグ優勝(2006年・2007年・2009年・2012年・2016年)、2度の日本一(2006年・2016年)を果たしている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "東北楽天ゴールデンイーグルスも、2005年からの設立当初は2年連続最下位と苦しんだものの、2006年シーズンより野村克也が監督に就任して以降、田中将大の入団、2009年の2位及び同年CSでの健闘が注目され、ファンを開拓した。そして2011年に星野仙一監督が就任。3年目となる2013年には、球団初のパ・リーグ優勝・球団初の日本一を成し遂げた。こうして、北海道・東北においてフランチャイズ球団が地域及び球団自体に変化をもたらし、地域密着スタイルが再びクローズアップされることになった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "西武ライオンズも、経営陣が刷新された後の2008年からは、球団名に「埼玉」を掲げ、現在の埼玉西武ライオンズに改称し、西武沿線にこだわらず沿線人口の多いJR京浜東北・埼京線側の大宮公園球場でも主催試合を行うなど、地域密着の姿勢を打ち出した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2010年代は全体で見れば秋山幸二・工藤公康両監督に率いられた福岡ソフトバンクホークスが優勝5回、日本一6回と他球団を圧倒し、シーズン・ポストシーズン通じてソフトバンクの覇権を強く印象付けた時代であった。他方、栗山英樹監督率いる北海道日本ハムファイターズのリーグ優勝2回・日本一1回、星野仙一監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルスの2013年における球団初のリーグ優勝(田中将大が24勝0敗1SでMVP)と日本一達成、終盤には辻発彦監督率いる埼玉西武ライオンズのV2もあった。また、MLBへ多くの日本人選手を輩出した時代でもあり、パリーグからはダルビッシュ有・岩隈久志・田中将大・菊池雄星・そして二刀流で社会現象となった大谷翔平らが海を渡った。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2010年、リーグ戦の年間協賛社としてマニュライフ生命保険株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまではクライマックスシリーズでの協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は2011年、2012年シーズンも継続した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2011年は東日本大震災の発生により電力が逼迫、開幕を両リーグとも3月25日から4月12日に順延した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2013年はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営するモブキャストとオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「パ・リーグTV」は2013年からモブキャスト、2018年からはパーソルが協賛し冠スポンサーとなった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2010年代、セ・パ交流戦では、勝数はすべての年でセントラル・リーグを上回り(パの671勝548敗41分)、2010年代をつうじ、優勝チームを7回輩出した。日本シリーズでも2012年を除きパの球団が9度日本一となり、特にソフトバンクは、セ・リーグ全球団を相手に日本一となった。 また日本シリーズでは、2013年から2020年までパ・リーグ代表チームが8連覇となった。(内、ソフトバンクが日本一6回を占めている。)",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "観客動員は順調に増加。特に2019年は天皇即位に伴いGW10連休となった事も奏功して、当年の1試合平均の観客動員は初めて27,000人を突破、対2009年比では+21%増を達成した。また、三大都市圏の西武・ロッテ・オリックスよりも、地方に本拠地を置く日本ハム・ソフトバンクの観客のほうが多くなった時代でもあった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2020年から2021年にかけ、新型コロナウィルスの発生に伴い、各球場とも観客動員を大きく減らした運営を強いられた。特に2020年は6月19日まで開幕がずれ込んだ結果、120試合のみの開催で1953年以来67年ぶりの規模縮小、入場者数(206万人、昨対比▲82%)は草創期である1951年以来の少なさとなった。また、クライマックスシリーズが2020年は1stステージ(2位-3位戦)が中止となったほか、外国人選手の入国制限により、契約そのものが出来ない・契約できても来日や帰国が自由にできず、本人や家族のメンタルの問題で出場試合数を大きく減らす結果ともなった。厳しい状況を経たが、2022年4月にはロッテの佐々木朗希による13者連続奪三振と完全試合、また2023年春のWBCにおいてもパリーグ選手やMLB選手が、セの選手とともに大いに活躍して14年ぶりの世界一を達成し、日本国民に明るい話題を届けた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "オリックスが、投手三冠の山本由伸らの活躍により投手力を高めて暗黒期から脱出、2021年には(一時ロッテに51年ぶりのマジック点灯を許しながらも)25年ぶりのリーグ優勝を達成、2022年にはソフトバンクと同率1位での(直接対決での勝敗規定により)連覇、日本一を成し遂げた。現存するパ・リーグ6球団が21世紀に最低1回以上はリーグ優勝・日本一を経験することとなった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "※球団表記順は野球協約の保護地域表記順",
"title": "現存する加盟球団"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1952年のフランチャイズ(ホームタウン)制度が採用された後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "※1:1952年度については決勝リーグ進出チームは予選と合せて120試合戦った。また最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった。 ※2:1997年 - 2000年と2004年、2015年 - 2019年、2021年はリーグ間の対戦は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形(1997年 - 2000年、2004年は14試合、2015年以降は13試合)である。なおその1試合増加分のホームチームは、2004年を除いて2年単位で隔年入れ替え制である。 ※3:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりであるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "現行プレーオフが採用された2004年以後は以下の通りに順位を定める。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1975年のシーズンから、指名打者制度(DH制)が採用されている。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "1973年 - 1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2004年 - 2006年度は予選リーグの上位3チームがトーナメント式のプレーオフを行った。詳細はプレーオフ制度 (日本プロ野球)#勝率1位・2位・3位によるプレーオフ(2004年 - 2006年のパ・リーグ)の項を参照。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "プレーオフ制度 (日本プロ野球)も参照の事。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "クライマックスシリーズを参照。但しレギュラーシーズンの優勝とは関係が無いため、上記のプレーオフとは性質が異なる。",
"title": "試合方式"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "※2022年、オリックスとソフトバンクの年間勝敗数・引分数が全て同数となって勝率が同率となったが、直接対決の成績(オリックス15勝10敗)の結果により(順位決定方法参照)オリックスが優勝となった。",
"title": "結果"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "読売ジャイアンツ・阪神タイガースを始めとする人気球団を多く擁するセントラル・リーグが「人気のセ」と言われることに対して、ここ数年の日本シリーズの成績、交流戦の勝ち越し、オールスターゲームの勝利数、対抗意識などから「実力のパ」といわれている。",
"title": "「実力のパ」"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "交流戦が開始されて以降は、常にパ・リーグのチームが上位を占めていることが多く、2010年に至っては交流戦上位6球団全てがパ・リーグのチームであったように、2010年代にはパ・リーグの優位が特に顕著であった。",
"title": "「実力のパ」"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "さらに、日本シリーズにおいては、2020年の日本シリーズで前年の4勝0敗に続きソフトバンクが4勝0敗で連続優勝したため、パ・リーグの209勝202敗8引分となった他、シリーズ対戦成績がセ・リーグ側優勝35回、パ・リーグ側優勝36回となり、パ・リーグが通算対戦成績を逆転する結果となった。",
"title": "「実力のパ」"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "この理由について指名打者制度の有無に理由を求める向きもある。また、MLBに進出した本格派先発投手にパ・リーグ出身者が多かったことも、その論を補強した。但し巷間言われるような球速の差は、データ上は否定されている。",
"title": "「実力のパ」"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "パ・リーグ各球団はセントラル・リーグのように観客収入を対巨人戦や対阪神戦に依存することが出来ないため、観客増を図るべく下記のような対策も実施している。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "パ・リーグでは指名打者制(DH制)を導入しており、8人の野手と指名打者及び投手のスタメンで構成されている。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "現在、福岡ソフトバンクホークスは、観客動員数でNPB全12球団でセ・リーグの読売ジャイアンツ・阪神タイガースに次ぐ3位でパ・リーグトップの観客動員数を誇る。また北海道に本拠地を移転した日本ハムや東北地方の大都市・仙台を本拠地とする楽天などの台頭もあるが、特にオリックス・バファローズなどは、それ以上にテレビ・ラジオ放映が少ないため、放映権料の収入はわずかである。そのため、パ・リーグ全6球団では更なる観客増を狙うべく積極的なファンサービスを行っている。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "パ・リーグ各球団のファンクラブは、ジュニア会員にホームで内外野自由席無料、ビジターで外野席無料の特典を設けている(例外が東北楽天ゴールデンイーグルスと福岡ソフトバンクホークスのホームゲーム時)。これらの特典は、セ・リーグ球団では広島東洋カープがホームの内野自由席無料(地方主催の場合は外野自由席)を東京ヤクルトスワローズがホームの外野自由席無料を行なっているだけ(ちなみに球団が運営に直接関わるファンクラブも日本ハムファイターズが1973年に結成したのが日本初)。過去には、パ・リーグオールスター東西対抗が11月に開催された(1981-2006)。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "また、スタジアム内でも、福岡PayPayドームやベルーナドームの勝利の花火、ZOZOマリンスタジアムでの特定曜日花火、京セラドーム大阪のお好み焼きタイム等、観客を野球以外で楽しませるための演出や入場者へのホームチームノベルティプレゼント、各試合ごとのイベント(ホームチーム地元在住者は証明出来れば内外野自由席無料、サラリーマンは500円、女性は1000円等)を行った。チアリーディングチームは全ての球団に存在し、2022年には札幌ドームでの「きつねダンス」が社会現象ともなる人気を博すなど、各球団がさまざまな営業努力を払っている。この結果、平日のナイターでも多くの観客を動員するまでに至っている。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "各球団のホームスタジアムでは7回裏にホームチームの球団歌を流すだけでなく、7回表にビジターチームの球団歌を流している。また、以前はすべてのスタジアムでビジターチームが勝利した場合でもヒーローインタビューを場内に流していたが、北海道日本ハムファイターズのホームゲームでは大多数を占める日本ハムファンの心情に配慮してかビジターチームのヒーローインタビューは原則場内に流さないようになっている。(2014年途中より、ビジターチームのヒーローインタビューも場内に流れるようになった。)",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "近年ではインターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本であるソフトバンクや楽天はもちろん、ロッテや日本ハムも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)5月14日にはパ・リーグ6球団の共同事業による株式会社「パシフィックリーグマーケティング(PLM)」が設立され、2008年シーズンからは西武、オリックスが参加するとともに、同シーズンからはパ・リーグ6球団が個別で運用管理してきた公式ウェブサイト・携帯向けウェブサイトをPLMが一括管理し、パ・リーグ主催試合は「パ・リーグ 熱球ライブ!」という番組名でYahoo!動画の野球中継により無料で配信されることになった(交流戦ではパ・リーグ主催試合のみ配信)。その後、諸事情により2010年には有料会員制の「パ・リーグライブTV」に移行。2012年には「パ・リーグTV」と名称が変更され、2013年にはパ・リーグオフィシャルスポンサー(特別協賛)に就任した株式会社モブキャストが協賛スポンサーとなった。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "また、2009年(平成21年)8月からはニコニコ生放送で楽天主催試合の一部を配信開始。2010年(平成22年)からはソフトバンクの主催試合も配信開始されるようになり、2011年からは地方開催試合も含む主催試合全試合が生中継で配信されるようになった。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "携帯電話向けの動画サービスでも日本ハム、ロッテ、西武、ソフトバンクの4球団が2006年6月に「プロ野球24」を開始して主催試合をNTTドコモ・ソフトバンクの従来型携帯電話向けに動画配信している。2007年シーズンからは楽天が加わり、2008年シーズンからはオリックスも参加するとともに、経営体制もPLMへ移管された。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成20年)6月から、当時J SPORTSで主催ゲームを放送していた4チーム(西武、ロッテ、オリックス、ソフトバンク)の試合ダイジェストやヒーローインタビューの動画を「パ・リーグチャンネル」と題してYouTubeで配信している。同年8月からは、楽天がニコニコ動画において同内容の動画配信を開始している。また、西武は独自にYouTubeに公式チャンネルを設け、イベントなどの様子を配信している。2010年(平成21年)からは楽天、日本ハムもYouTube配信を開始し、パ・リーグ全チームの動画が配信されるようになった。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2001年(平成13年)から2005年(平成17年)まで実施されたパシフィック・リーグの毎週月曜日開催の公式戦の愛称である。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "長年、毎週月曜日はセントラル・リーグも含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日や学校の長期休暇時の開催や、地方開催が関係した変則日程や、シーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年(平成13年)から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。このためパ・リーグでは毎週木曜日を原則休養(あるいは予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、火・水の2連戦となるケースが一般的だった。ただし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多かった。また月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送する放送局が、J SPORTS・NHK BS1などの衛星放送や文化放送、ラジオ大阪、RKBラジオ、KBCラジオなど普段からパ・リーグの試合を中継している局以外ではほとんど無く、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 103,
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"text": "セ・パ交流戦が実現したことで2005年(平成17年)を最後に廃止された。",
"title": "営業施策"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1950年のベースボール・マガジン新年特大号で東急フライヤーズの猿丸理事が質問に答え、アメリカ横断鉄道のセントラルとトランス・パシフィックからそれぞれリーグ名をつけたと語った記事が載った。しかしこれは理事が取材記者の質問をはぐらかして答えたもので、実際には国際的な視野に立つことを謳いパシフィックという名称がつけられた。一方のセントラルは、日本プロ野球の中心を自負して決められた名称である。",
"title": "名称の由来"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "低勝率罰金制度とは1953年にパシフィック・リーグ理事会総裁・永田雅一の考案した制度で、シーズン勝率が.350を割った球団から罰金500万円を徴収する制度である。",
"title": "低勝率罰金制度"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1954年に永田の球団である大映スターズが勝率.319で第1号となった。翌1955年にトンボユニオンズが勝率.300で第2号となった(これがきっかけでトンボ鉛筆は球団スポンサーを降り、翌年から球団名が高橋ユニオンズに戻った。)。",
"title": "低勝率罰金制度"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "なお、この制度は1956年に廃止となった。",
"title": "低勝率罰金制度"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "(1950年から1958年までは各球団の持ち回り)",
"title": "歴代リーグ会長(代表者)"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "(専任職移行後)",
"title": "歴代リーグ会長(代表者)"
}
] |
パシフィック・リーグは、日本のプロ野球リーグのひとつ。 正式名称は日本プロ野球組織 パシフィック・リーグ運営部。パ・リーグ、またはパ。
|
{{スポーツリーグ
|種類=[[野球]]
|開始年=1950
|チーム=6
|国={{JPN}}
|優勝=[[オリックス・バファローズ]](3年連続15回目)
|most_champs =[[埼玉西武ライオンズ]](23回)
}}
{{座標一覧}}
{{location map+|Japan|float=right|width=400|caption=パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(2005年~)|places=
{{Location map~|Japan|lat=43.015192|long=141.409686|label=[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]|mark=red pog.svg|position=}}
{{Location map~|Japan|lat=38.256136|long=140.902567|label=[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]|mark=red pog.svg|position=}}
{{Location map~|Japan|lat=35.768617|long=139.420464|label=[[埼玉西武ライオンズ|西武]]|mark=red pog.svg|position=left}}
{{Location map~|Japan|lat=35.645117|long=140.030847|label=[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]|mark=red pog.svg|position=right}}
{{Location map~|Japan|lat=34.669403|long=135.476214|label=[[オリックス・バファローズ|オリックス]]|mark=red pog.svg|position=top}}
{{Location map~|Japan|lat=33.595383|long=130.362175|label=[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]|mark=red pog.svg|position=}}
}}
'''パシフィック・リーグ'''({{lang-en-short|Pacific League}})は、[[日本]]の[[日本のプロ野球|プロ野球]]リーグのひとつ。
正式名称は'''[[日本プロフェッショナル野球組織|日本プロ野球組織]] パシフィック・リーグ運営部'''。'''パ・リーグ'''、または'''パ'''。
== 概要 ==
日本におけるプロ野球リーグの一つで、[[オリックス・バファローズ]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]、[[埼玉西武ライオンズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ]]、[[千葉ロッテマリーンズ]]、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の6球団から構成されている。
親会社は[[ソフトバンクグループ]]や[[楽天グループ]]を筆頭に売上高1兆円越えの巨大企業が名を連ねている。また、ドーム球場を本拠地にしている球団が多い。
[[2023年]](令和5年)に[[パーソルホールディングス]]株式会社とタイトルパートナー契約を締び、2023年シーズンのリーグ戦で「'''パーソル パシフィック・リーグ'''」の名称を使用する<ref name="NPBニュース">{{Cite web|和書|url= https://npb.jp/news/detail/20230124_02.html |title= 2023年 パ・リーグ公式戦 タイトルパートナーにパーソルグループが決定 |website= NPBニュース |publisher= 日本野球機構 |date= 2023-01-24 |accessdate= 2023-07-30 }}</ref>。
== 沿革 ==
{{location map+|Japan|float=right|width=300|caption=パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(1950年シーズン開始時)|places=
{{Location map~|Japan|lat=35.703694|long=139.7535 |label=[[北海道日本ハムファイターズ|東急]]・[[千葉ロッテマリーンズ|毎日]]・[[大映ユニオンズ|大映]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--後楽園球場:現ドームホテル-->
{{Location map~|Japan|lat=34.570325|long=135.590708|label=[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]|mark=red pog.svg|position=bottom}}<!--藤井寺球場-->
{{Location map~|Japan|lat=34.743778|long=135.359528|label=[[オリックス・バファローズ|阪急]]|mark=red pog.svg|position=top}}<!--阪急西宮球場-->
{{Location map~|Japan|lat=34.661806|long=135.501694|label=[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--大阪スタヂアム-->
{{Location map~|Japan|lat=33.586366|long=130.385192|label=[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]|mark=red pog.svg|position=}}<!--平和台球場:現舞鶴公園-->
}}
=== 誕生 ===
{{seealso|プロ野球再編問題 (1949年)}}
[[1949年]](昭和24年)[[11月26日]]に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後の[[オリックス・バファローズ]])、南海ホークス(後の[[福岡ソフトバンクホークス]])、東急フライヤーズ(後の[[北海道日本ハムファイターズ]])、大映スターズ(後の[[大映ユニオンズ]])に新球団の毎日オリオンズ(後の[[千葉ロッテマリーンズ]])、西鉄クリッパース(後の[[埼玉西武ライオンズ]])、近鉄パールス(後の[[大阪近鉄バファローズ]])も加わり、計7球団で'''太平洋野球連盟'''(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である<ref name="ベースボールマガジン6月30日">雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号62ページ「セ・パ分立当時の連盟旗」</ref>。初年度の[[1950年]](昭和25年)は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]でも[[松竹ロビンス]]を倒し日本一に輝いた。
当初参加を予定していた大阪タイガース(後の[[阪神タイガース]])は看板カードの[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した<ref group="注">その時毎日オリオンズは大阪に対して意趣返しとして、主力選手だった[[若林忠志]]・[[別当薫]]・[[土井垣武]]・[[本堂保次]]・[[呉昌征]]などを引き抜いた。</ref>。こちらが現在の'''セントラル野球連盟'''、いわゆる[[セントラル・リーグ]](セ・リーグ)である。
=== 1950年代 黎明期 ===
この時代は[[鶴岡一人]]監督率いる南海ホークスと[[三原脩]]監督率いる西鉄ライオンズの黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、[[1959年]](昭和34年)にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、[[1954年]](昭和29年)のシーズン開幕前には[[高橋ユニオンズ]](翌[[1955年]]のみトンボユニオンズ)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から[[1956年]]の3シーズンのみ参加し、[[1957年]](昭和32年)[[2月]]に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、[[1957年]]シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、以後は現在に至るまで6球団体制となっている。
==== 1956年~1958年 西鉄ライオンズの三原マジック ====
1リーグ時代の巨人を優勝に導いた[[三原脩]]を1951年シーズンから招聘した西鉄ライオンズは、大騒動を経て[[東急フライヤーズ]]のスター[[大下弘]]を引き抜くとともに([[大下弘#大下騒動|大下騒動]]を参照)、[[豊田泰光]]・[[中西太]]・[[仰木彬]]らとともに野武士軍団と呼ばれる打線を形成。同リーグの鶴岡南海との優勝争いは54年~56年まで両軍ともに90勝に達するなど、ハイレベルな争いとなった。また、巌流島の決闘と言われたライバル・[[水原茂]]監督率いる巨人に対して1956~1958まで日本シリーズ三連覇、特に1958年はエース・[[稲尾和久]]の超人的な連投もあり、3連敗からの4連勝で制した。三原の采配は、2番打者に強打者を置く、またショートスターターなど後世の戦術を先取りしたものも多く、'''三原マジック'''とも呼ばれ、セ・パ両リーグの采配論に大きな影響を与えた。
==== 1959年 南海ホークス、悲願の日本一 ====
前述の通り、1950年代は南海と西鉄の2強時代だった。南海ホークスは[[鶴岡一人]]監督の下、データ野球という斬新な考えを取り入れた野球で優勝争いの常連チームとなり、1950年代において南海は5度のリーグ優勝(1951年・1952年・1953年・1955年・1959年)を成し遂げる。しかしながら、日本シリーズでは[[読売ジャイアンツ]]に1955年まで4度とも敗退していた。
[[1959年の南海ホークス|1959年シーズン]]はシーズン終盤に[[千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ]]に首位を明け渡した時期はあったが、[[杉浦忠]]や[[野村克也]]といった若いバッテリーの活躍もあり、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。[[1959年の日本シリーズ]]では、当時のセ・リーグ新記録となる5連覇を達成した[[読売ジャイアンツ]]との対戦となった。これまで南海は日本シリーズにおいて巨人に苦杯を舐めてきたが、杉浦の連戦での力投、さらにリーグ1位のチーム防御率という投手陣の層の厚さで、巨人打線を抑え、日本シリーズでは初となるストレート4連勝で球団初の日本一を成し遂げ、鶴岡監督の悲願である打倒巨人がようやく実現した。優勝後、日本で初めての[[ビールかけ]]が南海ナインの手によって行われた。そして当時の南海の本拠地だった[[大阪市]]民は球団初の日本一に熱狂し、シリーズ終了翌々日の10月31日に秋晴れの下でおこなわれた大阪市内の優勝パレードには沿道に20万人が集まり、「[[御堂筋パレード]]」と呼ばれた。
=== 1960年代 衰退期 ===
1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、パ・リーグには逆風となった。[[1960年]](昭和35年)11月、[[毎日新聞社]]が大毎オリオンズの経営から事実上撤退しており、[[1965年]](昭和40年)には完全撤退に至った。
このような中、大毎オリオンズのオーナーになった[[永田雅一]]は私財を投げ打って東京・南千住に[[1962年]](昭和37年)に「[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]」を完成させた。[[1969年]](昭和44年)にロッテオリオンズに改称して翌年となる[[1970年]](昭和45年)には東京スタジアムでのリーグ優勝を決めた。
それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人が[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]](1965~1973年の9年連続日本一)をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった<ref group="注">ロッテオリオンズも初の同一都道府県内のみでの開催となった[[1970年の日本シリーズ]](GOシリーズ/東京シリーズ)において、V9の真最中でセ・リーグ6連覇だった[[読売ジャイアンツ]]に1勝4敗で敗れた。</ref>。
1961年5月には初の国外試合として、米軍施政下にあった沖縄・[[那覇市営奥武山野球場|奥武山球場]]で西鉄-東映戦が行われた。また1964年には南海・[[村上雅則]]が野球留学生として[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]に入団し、日本人として初めて[[MLB]]昇格を果たした。1965年11月には初の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]]が行われた。
==== 1962年 東映フライヤーズ 初のリーグ優勝・日本一 ====
==== 1964年 南海VS阪神の「関西シリーズ」 ====
[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に沸いた[[1964年]](昭和39年)は南海ホークスが3年ぶり9度目のリーグ優勝を果たした。[[1964年の日本シリーズ|この年の日本シリーズ]]は南海と[[阪神タイガース]]の「関西シリーズ」という顔合わせとなった。
==== 1962年~1972年 オリオンズの本拠地「東京スタジアム」 ====
{{seealso|東京スタジアム (野球場)}}
当時のプロ野球は、東京地区においてはセ・リーグの[[読売ジャイアンツ]](巨人)、[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]](国鉄)、そして[[千葉ロッテマリーンズ|毎日大映(大毎)オリオンズ]]の3球団が[[文京区]]の[[後楽園球場]]を本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。このうち大毎のオーナーだった[[永田雅一]]は私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。都内各所を自ら視察した結果、[[荒川区]][[南千住]]の大和毛織工場跡地(旧[[千住製絨所]])を建設地に決定した。かねてから「下町に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。
[[1962年]][[5月31日]]に完成された球場は「東京スタジアム」と命名された。[[6月2日]]、パ・リーグ全6球団がスタジアムに集結。午後4時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい!」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。同日午後7時に初のプロ野球公式戦として、大毎対南海の7回戦が行われ、球場第1号本塁打は同試合で[[野村克也]](南海)が放った。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[サンフランシスコ]]の[[キャンドルスティック・パーク]](当時の[[MLB]]・[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]の本拠地)などをモデルにした東京スタジアムは、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造となっており、当時の南千住は[[マンション]]などの[[高層建築物]]はなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景から『光の球場』と呼ばれた。スタンドの座席やエントランス部のスロープ式の通路などの工夫に加え、選手用の設備が当時としては最先端かつ大リーグ式の環境でありだったことが、選手からは好評だったという。「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想が具現化した、彼にとってはいわば「夢の野球場」だった。
東京スタジアムは大毎の本拠地として開業した。さらに[[1964年]]にオーナー企業名を排して都市名を冠した「東京オリオンズ」に改称。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示し、結局1965年に完全撤退となり、経営権も永田が掌握した。また、当時のオリオンズは低迷期で、開場年の1962年は4位。以降5位、4位、5位、4位、5位と苦戦していた。さらに[[1965年]]からは巨人が[[V9 (読売ジャイアンツ)|セ・リーグ9連覇という黄金期]]に入ったために、プロ野球人気はセ・リーグ偏重の傾向が強まっていた。年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたものの、その後はジリ貧に陥り、スタジアムの建設費を減価償却できない経営状態が続いた。また球場の敷地が狭隘であるため、フィールドは狭かったため、本塁打が出やすかった。そのため、[[1968年]]に[[ジョージ・アルトマン]]、[[アルト・ロペス]]などを獲得して、長打力強化を図った。その年はチームはAクラスとなる3位だった。
[[1969年]]に菓子メーカー・[[ロッテ]]をスポンサーに迎えて業務提携し、「ロッテオリオンズ」に改称。[[1970年]]は前述の外国籍選手2名に加えて、[[山崎裕之]]・[[榎本喜八]]・[[有藤通世]]・[[池辺巌]]・[[木樽正明]]・[[小山正明]]などが活躍して、本拠地・東京スタジアムで10年ぶり3度目のリーグ優勝を決めた。その時、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、[[1970年の日本シリーズ|この年の日本シリーズ]]ではV9の真最中でセ・リーグ6連覇だった巨人に1勝4敗と敗れた。ロッテの本拠地・東京スタジアムでの巨人の日本一の胴上げとなった。
[[1971年]]に永田が経営していた[[大映]]が業績悪化のため、ロッテに経営権を譲渡した。しかし、大映は結局倒産する。関連子会社の東京スタジアムも累積赤字が約15億円にまで膨らみ、経営権は1972年に[[国際興業]]社主の[[小佐野賢治]]にの手に移った。その際、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、球団の年間観客数も頭打ちになっており、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、11月22日の段階で交渉は事実上決裂。小佐野は「球場は廃業するので、来季以降は使用できない」とし、東京スタジアムは同年限りでの閉鎖が決まった。開場からわずか11年目のことだった。
=== 1970年代 暗黒時代・阪急黄金時代 ===
{{seealso|黒い霧事件 (日本プロ野球)|プロ野球再編問題 (1973年)}}
[[1969年]]オフに発覚した[[八百長]]問題は、「[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]」として問題が拡大した。特に、4名が永久追放処分、2名が1年間活動停止等の処分を受けた西鉄ライオンズに致命的なダメージを与えただけでなく、パ・リーグ全体のイメージダウンともなった。西鉄は1972年にライオンズを[[中村長芳]](当時[[福岡野球]]のオーナー)に譲渡し、[[太平洋クラブ]]ライオンズに改称し、球団経営から撤退した。さらに映画産業の衰退で球団を支える経営体力が無くなり、[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]の親会社だった大映([[永田雅一]]→[[中村長芳]])は[[ロッテ]]([[1969年]]~)へ<ref group="注">ただし、ロッテは当初スポンサーとして業務提携をしていた。しかし[[1971年]]に大映の経営危機により、ロッテが正式に球団を買収した。</ref>、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]の親会社だった東映は[[日拓グループ|日拓ホーム]]([[1973年]]のみ)→[[日本ハム]]へ([[1974年]]~)<ref group="注">[[1973年]]シーズンオフに日拓ホームフライヤーズが日本ハムへ売却されたと同時に[[1974年]]から球団名を「日本ハムファイターズ」に改称した。</ref> と、大手映画会社の球団譲渡が相次いだ。
更にロッテオリオンズに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった([[ジプシー・ロッテ]]を参照)。主に[[宮城球場]]([[宮城県]][[仙台市]])を暫定本拠地とし、首都圏([[後楽園球場|後楽園]]・[[明治神宮野球場|神宮]]・[[川崎球場|川崎]]など)でも主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は[[1977年]]まで続いた。そんな状況下でも、かつて[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]・[[読売ジャイアンツ]]で投手として活躍した[[金田正一]]監督の下、[[1974年]]にリーグ優勝、[[1974年の日本シリーズ|その年の日本シリーズ]]でも巨人の10連覇を阻止した[[中日ドラゴンズ]]を4勝2敗で破り、毎日オリオンズ以来24年ぶり2度目の日本一を果たした。
しかし[[1975年]]にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。巨人の[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]は、裏を返せばパリーグの9連敗であり、引き立て役に甘んじる年月であった。[[1971年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1971年のオールスター]]第1戦では阪神・[[江夏豊]]に[[江夏のオールスター9連続奪三振|9者連続三振]]という屈辱を喫し、[[1970年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|前年]]から通算すると15連続三振を奪われた。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと前期・後期の'''[[2シーズン制]]'''の採用([[1973年]]~[[1982年]])、[[指名打者]]制度の採用([[1975年]]~現在)などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える[[ライオンズとオリオンズの遺恨|太平洋とロッテの遺恨試合]]を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。
そんな中、1970年代は[[西本幸雄]]→[[上田利治]]監督の下、[[福本豊]]・[[山田久志]]・[[長池徳士]]などを擁する阪急ブレーブスの黄金時代で、[[1967年]]のリーグ初優勝を皮切りに、[[1978年]]にかけて9度のリーグ優勝を果たした。特に[[1975年の日本シリーズ|1975年]]から3年連続日本一となっていた。南海ホークスも[[野村克也]]選手兼任監督の下、ID野球の原型とも言える「シンキング・ベースボール」で、[[1973年]]にリーグ優勝を果たす。
阪急や南海にはこうした人気があった。また関西球団同士のカード(特に南海主催のホームゲーム([[大阪スタヂアム|大阪球場]]など))ではユーモア溢れる野次合戦など定評はあった。しかし、関西の[[スポーツ紙]]が[[阪神タイガース]]の記事一辺倒の為、阪神には人気は及ばず、阪急以外に南海、近鉄も含めた在阪パ・リーグ3球団の観客は急激には増えなかった。特に[[1977年]]6月の南海 - 阪急戦は在阪球団同士による首位攻防戦であったが(当時は前述したように2シーズン制で、事実上の前期優勝争いとなっていた)、当日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は[[掛布雅之]]の特訓記事だった、と当時南海の監督であった[[野村克也]]は著書で述べている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。また、近鉄は[[1979年の日本シリーズ|1979年]]・[[1980年の日本シリーズ|1980年]]と連覇を果たしたが、本拠地であった[[日本生命球場]]・及び保有する[[藤井寺球場]]では日本シリーズの開催基準<ref group="注">日本生命球場の収容人数が日本シリーズ開催基準の3万人に満たず、また藤井寺球場ではナイター用の照明設備が設置されていなかった。</ref>を満たさず、大阪球場を借りてのシリーズ開催を余儀なくされたように、インフラ面においても潤沢とは言えなかった。317勝を挙げた[[鈴木啓示]]、465本塁打の[[土井正博]]の両看板を擁したが、観客動員は伸びなかった。
とはいえ、南海ホークスは「キタの阪神、ミナミの南海」と呼ばれる程、1リーグ時代・2リーグ時代初期では阪神タイガースと並ぶ人気だったということもあり、その後も南海は関西では阪神に次ぐ人気球団だったという。福岡移転後の[[2003年]]に大阪球場跡地に大型商業施設「[[なんばパークス]]」が開業。所々に大阪球場にちなんだモニュメントやデザインが所在しており、上階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」という球団の沿革を示す展示コーナーも設置されており、展示の前では年配層を中心に立ち止まる人の姿が絶えず、未だ関西でホークスが根強い人気を持つことを示している。
==== 1973年 プロ野球再編問題 ====
{{seealso|1970年の東映フライヤーズ|1973年の日拓ホームフライヤーズ|プロ野球再編問題 (1973年)}}
球界を襲った[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]の影響は西鉄だけでなく、東映フライヤーズにも飛び火した。[[1970年]][[5月9日]]にはエースの[[森安敏明]]が同僚・[[田中調]]と共に、前年同事件で永久追放された[[永易将之]]の八百長工作に関連があったとされ、出場停止となり、[[7月30日]]に森安の永久追放が決定した。さらに、親会社の[[東映]]に至っては映画産業の斜陽に加え、[[1971年]]に逝去した[[大川博]]の後任のオーナーに就任した大川毅やオーナー代行に就任した東映の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]新社長には球団経営の意欲がなかったこともあり、[[1972年]]シーズンオフに東映再建のため、球団売却を模索した。[[五島昇]]・[[東急電鉄]]社長(球団の事実上の所有者)とともに当初は家電メーカーの[[パイオニア]]との間で売却交渉を進めていたが、10月21日に買収を断念。
その後、[[1973年]][[1月16日]]に不動産会社の[[日拓グループ|日拓ホーム]]へ球団を売却し、「日拓ホームフライヤーズ」に改称された。「黒い霧事件」の後遺症が残る中、リーグに活気を取り戻すべく、日拓は球団運営やファンサービスで新しい試みを次々と打ち出してきたが、同年9月中旬に球団売却が報じられたことをきっかけで、10月17日のパ・リーグのオーナー懇談会において、日拓のオーナーだった西村昭孝はNPBの1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策した。南海・阪急・近鉄が合併を承認したが、セ・リーグ側からは猛反発を喰らい、合併は調印寸前で破談に至った。短期間で1リーグ制に向けた動きは終息したが、このような球界の体質に嫌気が差した西村は、球団経営の費用対効果が買収の時点で想定したほど高くなかったこともあって、球団経営を放棄することを決意。結局、わずか1シーズンで球団の経営権を売却した。その後11月19日に日拓ホームは球団の経営権を[[日本ハム]]に譲渡し、「日本ハムファイターズ」に改称した。
==== 1973年~1977年 ジプシー・ロッテ ====
{{seealso|ジプシー・ロッテ}}
前述の通り、1972年オフに東京スタジアムが閉鎖されたため、ロッテオリオンズは本拠地を失うことになり、1973年からは引き続き東京都を保護地域としながら、[[宮城県]][[仙台市]]の[[宮城球場]]を暫定本拠地とし、首都圏(後楽園、[[明治神宮野球場|神宮]]、[[川崎球場|川崎]]など)や[[静岡市]]の[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場|草薙球場]]を転々としながら主催試合を開催することとなった。
当初は[[明治神宮野球場]]を準本拠地として年20試合程度の開催を計画していたが、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ(当時)]]や[[東京六大学野球連盟|大学野球]]などのに日程優先権がある影響で試合数が6試合と大幅に削減され、後楽園や川崎にその分を振り分けたといわれている。そこへ、仙台市や地元財界([[東北野球企業]]など)などの提案により、[[宮城球場]]を暫定本拠地とすることになり、年26試合を開催した。当時はまだ、首都圏はおろか日本国内に本格的な照明設備を有する野球場が少なかったことも背景にあった。
また同年監督に就任した[[金田正一]]の人気や前期優勝争いに食い込んだこともあり、前年310,000人にとどまった観客動員数は当時のパ・リーグ新記録となる946,500人と大幅に増加した。[[1974年]]からはロッテは宮城県仙台市の宮城球場を本拠地にし、保護地域も暫定的に東京都から宮城県に移転した。
しかし、球団事務所や合宿所などの諸施設は引き続き東京都内に置き、選手やコーチも東京近郊に自宅を置いたままだったので、暫定本拠地だった仙台での試合になると、仙台市内のホテルに宿泊し、試合前はホテルでユニフォームに着替えてバスで球場入り。試合後はユニフォームを着たままバスでホテルに帰るというビジターや地方遠征と何ら変わりない形で臨んでいた。また当時のパ・リーグ6球団の本拠地は、西日本地域に偏っており(関西地方に3球団([[福岡ソフトバンクホークス|南海]]・[[オリックス・バファローズ|阪急]]・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])、九州地方に1球団([[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブ→クラウンライター]])が所在)、また当時の仙台はまだ[[東北新幹線]]が未開通だったこともあり、移動は過酷だった。これらにより、ロッテの仙台移転は、首都圏に新たな本拠地を確保するまでの暫定措置に過ぎなかったとも言われている。
[[1974年のロッテオリオンズ|1974年のロッテ]]は前期2位、後期優勝を決め、[[1974年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]に進出すると、前期優勝の[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]を退け、第3戦での地元・宮城球場で4年ぶりのリーグ優勝を決めた。しかし、[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではロッテの主催試合は[[後楽園球場]]を使用することになった。これは当時の宮城球場の収容人数は28,000人<ref group="注">[[2017年]]現在の収容人数は30,508人である。</ref>だったことなど施設が未整備なことが背景にあった。1977年10月、実行委員会でロッテが保護地域を神奈川県に移す事を承認。(本拠地球場は川崎球場。)
=== 1980年代 西武黄金時代 ===
{{location map+|Japan|float=right|width=300|caption=パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(1988年シーズン終了時)|places=
{{Location map~|Japan|lat=35.705833|long=139.751944|label=[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--東京ドーム-->
{{Location map~|Japan|lat=35.768617|long=139.420464|label=[[埼玉西武ライオンズ|西武]]|mark=red pog.svg|position=left}}<!--西武ライオンズ球場-->
{{Location map~|Japan|lat=35.527083|long=139.709722|label=[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]|mark=red pog.svg|position=bottom}}<!--川崎球場-->
{{Location map~|Japan|lat=34.570325|long=135.590708|label=[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]|mark=red pog.svg|position=top}}<!--藤井寺球場-->
{{Location map~|Japan|lat=34.743778|long=135.359528|label=[[オリックス・バファローズ|阪急]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--阪急西宮球場-->
{{Location map~|Japan|lat=34.661806|long=135.501694|label=[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]|mark=red pog.svg|position=bottom}}<!--大阪スタヂアム-->
}}
[[1978年]]シーズンオフに、[[太平洋クラブ]]・[[クラウンガスライター|クラウンライター]]の両ライオンズを経営した[[中村長芳]]から[[埼玉西武ライオンズ|クラウンライターライオンズ]]を買収した[[西武グループ]]<ref group="注">正式には当時の[[1978年のクラウンライターライオンズ|クラウンライターライオンズ]]の運営会社だった[[福岡野球]]を西武グループの不動産会社だった[[コクド|国土計画]]が買収した。それと同時に、[[1979年]]に本拠地を[[福岡県]][[福岡市]]から[[埼玉県]][[所沢市]]に移転した。</ref> は、球団経営に革命を起こす。[[埼玉県]][[所沢市]]に大リーグ並みといわれた[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]]の建設、ファンサービスの充実に加え、当時[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の監督で後の球団管理部長などを務め上げる[[根本陸夫]]の下、トレードで[[田淵幸一]]、[[山崎裕之]]らの獲得、[[ドラフト外入団]]で[[松沼博久]]・[[松沼雅之|雅之]]兄弟、[[秋山幸二]]、[[小野和幸]]ら、傘下の[[プリンスホテル硬式野球部|プリンスホテル]]から[[石毛宏典]]・[[金森栄治]]・[[石井丈裕]]、さらに黄金時代の正捕手となる[[伊東勤]]は球団職員として採用してからのドラフト指名など、あらゆる方策を動員した選手補強を行った結果、[[1982年]]に西鉄ライオンズ以来となる19年ぶりパ・リーグ優勝、[[1982年の日本シリーズ|その年の日本シリーズ]]でも24年ぶりの日本一を達成。[[広岡達朗]]→[[森祇晶]]監督の下、1980年代には実に5回の日本一([[1982年の日本シリーズ|1982年]]・[[1983年の日本シリーズ|1983年]]・[[1986年の日本シリーズ|1986年]]・[[1987年の日本シリーズ|1987年]]・[[1988年の日本シリーズ|1988年]])を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。[[日本放送協会|NHK]]だけでなく民放テレビ局・ラジオ局も巨人戦一辺倒から西武戦も放送するようになった。
さらに[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]も球団創設29年となる[[1979年]]にリーグ初優勝を果たし、翌年の[[1980年]]もリーグ連覇を果たす<ref group="注">しかし近鉄は[[1979年の日本シリーズ|1979年]]・[[1980年の日本シリーズ|80年の日本シリーズ]]では2年連続でセ・リーグ優勝の[[広島東洋カープ]]に敗れている。</ref>。また翌年の[[1981年の日本ハムファイターズ|1981年]]には後に「親分」の愛称で親しまれた[[大沢啓二]]監督率いる[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]も東映フライヤーズ以来の19年ぶりのリーグ優勝を達成した。
また1970年代前後に入団した[[福本豊]]、[[太田幸司]]、[[東尾修]]、[[門田博光]]、[[村田兆治]]、[[落合博満]]、[[レロン・リー|L.リー]]、[[チャーリー・マニエル|C.マニエル]]に加え、その頃から[[工藤公康]]、[[渡辺久信]]、[[阿波野秀幸]]、[[西崎幸広]]など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。特に当時の強豪校・[[PL学園中学校・高等学校|PL学園野球部]]の甲子園スターであった'''[[清原和博]]'''の快進撃、西武の主砲への成長は、[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]で巨人への入団を果たせなかった事<ref group="注">[[KKドラフト事件]]を参照。</ref>を含めて物語性をもって語られ、大きな注目を集めた。
[[1980年]]に名称を'''パシフィック野球連盟'''に改称した。
しかし西武の躍進や阪急・近鉄などの健闘にもかかわらず、セ・リーグとの観客動員数では依然として差があった。特に当時のロッテオリオンズの本拠地であり、老朽化が著しく、なおかつほとんど改修されなかったこともあり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた[[川崎球場]]<ref group="注">元々は[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]が1957年から1977年までの21年間、本拠地として使用していたが、[[1978年]]に本拠地を[[横浜スタジアム]]に移転(これに伴い、横浜大洋ホエールズに改称した。)したため、[[川崎市]]の積極的な要望もあって、[[1978年]]から[[1991年]]にかけて14年間、ロッテオリオンズの本拠地として使用された。</ref> では観客が[[流しそうめん]]をしたり、鍋料理を囲む等の光景<ref group="注">[[2005年]](平成17年)に定められた「試合観戦契約約款」の第8条により、現在ではこれらの行為は全て禁止されており、各球場とも入場口で手荷物検査を行っているため、このような行為をする目的での入場は拒否される。</ref> が展開されるなど、オフの[[プロ野球珍プレー・好プレー大賞]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系列]]の特別番組)でも格好のネタになっていた。川崎球場移転後のロッテも[[1983年]]に球団初の最下位に転落するなど、成績でも苦難が続いた。
一方、黎明期において、かつて西鉄とリーグ優勝争いを繰り広げていた南海は、[[1977年]]のシーズン途中に選手兼任で監督を務めていた野村克也の女性関係が問題視され、公私混同を理由に解任されると、当時の主力選手だった[[江夏豊]]や[[柏原純一]]が他球団に移籍するなどの戦力低下もあり、翌年の[[1978年]]以降は人気・成績の低迷が長引き、球団売却・福岡移転後の[[1997年]]まで20年連続Bクラスと、およそ20年に渡る低迷期に突入した。
また、阪急は少しでも観客を増やそうと[[1981年]]に球団マスコット「ブレービー」を登場させたり、[[1983年]]には[[福本豊]]ら3選手と[[競走馬]]を競争させるアトラクションまで行った。結果的には阪急はこの年のリーグMVPとなった[[ブーマー・ウェルズ]]や[[福本豊]]・[[今井雄太郎]]・[[佐藤義則]]などが活躍し、[[1984年の阪急ブレーブス|1984年]]に6年ぶりのパ・リーグ優勝を果たした。しかし、それでも同じく西宮を本拠としていた[[阪神タイガース]]が翌年の[[1985年]]に[[1985年の阪神タイガース|21年ぶりのセ・リーグ優勝]]、さらに球団初となる日本一になったことが日本中の大きな話題となったこともあり、結局、阪急における直接的な観客増には結びつかなかった。
南海と阪急は「球団を持つ使命は終えた」として、ともに[[1988年]]秋に南海は[[ダイエー]]に、阪急はオリエント・リース(現:[[オリックス (企業)|オリックス]])に、それぞれ球団譲渡を行った。
南海の身売りにおいては、この年は球団創設50年だったが、球団売却前の[[1986年]]頃から当時の本拠地だった[[大阪スタヂアム|大阪球場]]を解体・撤去を見据えた難波地区再開発計画や、球団身売りに否定的だった名物オーナーの[[川勝傳]]が死去した事もあり、9月に南海の身売り発表が行われた。そして[[11月1日]]にダイエーへの球団譲渡並びに[[福岡市]]への本拠地移転が発表された。この年の南海は40歳の[[門田博光]]が本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、年間MVPに輝いた。
一方、阪急の身売り発表が行われたのは、[[10月19日]]17時であり、川崎球場でこの年に就任した[[仰木彬]]監督率いるリーグ2位の近鉄が、優勝をかけてリーグ最下位のロッテとのダブルヘッダー1試合目を行っている最中だった([[10.19]])。この試合は、パ・リーグとしては異例の注目を集めた。この試合は第1試合は近鉄が勝利するも、第2試合は引き分けに終わり、西武のリーグ3連覇が決まった日でもあった。この年のリーグ優勝を逃した近鉄だったが、元号が平成に変わった[[1989年]](平成元年)は9年ぶり3度目のリーグ優勝を果たす<ref group="注">しかし[[1989年の日本シリーズ]]で[[読売ジャイアンツ]]に3連勝しながらも、その後はまさかの4連敗を喫し敗退する。</ref>。
==== 1988年 10.19 ====
{{seealso|10.19}}
==== 外国人の活躍 ====
パ・リーグにおいては80年代から日本の経済成長とともに[[MLB]]を経験した選手の加入が相次いだ。[[マティ・アルー|M.アル―]](太平洋)、[[テリー・ウィットフィールド|テリー]](西武)、[[トニー・バナザード|T.バナザード]](南海)、[[ベン・オグリビー|B.オグリビー]](近鉄)、[[ビル・マドロック|B.マドロック]](ロッテ)のようなMLBでレギュラーを張った選手がキャリア終盤に日本を選択する例が見られたほか、[[レロン・リー|L.リー]]、[[トニー・ソレイタ|T.ソレイタ]]、[[ラルフ・ブライアント|R.ブライアント]]らがタイトルを獲得、さらに[[ブーマー・ウェルズ|ブーマー]]は外国人として初の三冠王を獲得した。一撃で局面を打開する長打力、捕手をも吹き飛ばすスライディングは興行面でも不可欠な魅力となり、1994年からは[[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人枠]]の拡大(2名⇒3名。1998年からは4名)にもつながった。<ref>2005年には、外国人が打撃30傑のうち9名を占めるに至った。https://npb.jp/bis/2005/stats/bat_p.html</ref>捕手としても出場した[[マイク・ディアズ|M.ディアズ]]、[[1984年ロサンゼルスオリンピックの野球競技|ロス五輪]]での剛速球投手から技巧派に転じた[[郭泰源]]、またリリーフ投手として個性的パフォーマンスで沸かせた[[アニマル・レスリー]]なども登場した。
=== 1990年代 西武黄金時代から、イチロー&ドーム時代へ ===
{{location map+|Japan|float=right|width=300|caption=パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(2003年シーズン終了時)|places=
{{Location map~|Japan|lat=35.705833|long=139.751944|label=[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]|mark=red pog.svg|position=top}}<!--東京ドーム-->
{{Location map~|Japan|lat=35.768617|long=139.420464|label=[[埼玉西武ライオンズ|西武]]|mark=red pog.svg|position=left}}<!--西武ドーム-->
{{Location map~|Japan|lat=35.645117|long=140.030847|label=[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--千葉マリンスタジアム-->
{{Location map~|Japan|lat=34.669403|long=135.476214|label=[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--大阪ドーム-->
{{Location map~|Japan|lat=34.405037|long=135.042403|label=[[オリックス・バファローズ|オリックス]]|mark=red pog.svg|position=left}}<!--神戸総合運動公園野球場-->
{{Location map~|Japan|lat=33.595383|long=130.362175|label=[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]|mark=red pog.svg|position=}}<!--福岡ドーム-->
}}
[[昭和時代|昭和]]から[[平成]]に元号が変わった[[1990年代]]前半は[[森祇晶]]監督率いる[[西武黄金時代]]が続き、[[1990年]]~[[1994年]]までパ・リーグ史上唯一の5連覇、[[1990年の日本シリーズ|1990年]]~[[1992年の日本シリーズ|1992年]]まで3年連続の日本一を飾ることになる。この頃の西武には野手陣は[[秋山幸二]]・[[石毛宏典]]・[[辻発彦]]・[[伊東勤]]・[[清原和博]]・[[オレステス・デストラーデ|O.デストラーデ]]など、投手陣は[[工藤公康]]・[[渡辺久信]]・[[郭泰源]]・[[石井丈裕]]・[[鹿取義隆]]・[[潮崎哲也]]・[[渡辺智男]]などがチームを支えた。その頃のペナントレースは、[[1991年の近鉄バファローズ|1991年]]に近鉄が77勝で猛追、[[1993年の日本ハムファイターズ|1993年]]も日本ハムが1.0ゲーム差まで追い上げたが、ほぼ5年連続、常勝西武の独壇場であった。その中では新人から彗星のごとく現れた近鉄の'''[[野茂英雄]]'''が、特徴的なトルネード投法によりパ・リーグの人気を沸騰させ、デビューの1990年には18勝・287奪三振・防御率2.91で投手三冠を達成、のちにMLBにて日本人初・2度の([[最多奪三振 (MLB)|タイトル奪取]])を達成するに至る。
一方で、本拠地球場が築40年以上を経過し、老朽化が顕著な問題となり始める。同時に、プロ野球規格の新球場が相次いで完成したため、地元の誘致もあり、既に[[1989年]]に福岡市に移転していたダイエー(旧・南海)は、ライオンズの本拠地だった[[平和台野球場]]から[[1993年]]に[[福岡ドーム]]へ移転した。また[[1991年]]には当時[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]を本拠地にしていたオリックス(旧・阪急)が[[神戸総合運動公園野球場]](グリーンスタジアム神戸)に、[[1992年]]には当時[[川崎球場]]を本拠地としていたロッテが[[千葉マリンスタジアム]]にそれぞれ本拠地を移転した。
特に[[千葉ロッテマリーンズ]]に至っては、[[千葉マリンスタジアム]]移転元年である[[1992年の千葉ロッテマリーンズ|1992年]]は移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録したものの、2年目の[[1993年]]は大きく落ち込んだ。看板選手である[[落合博満]]が[[1987年]]に[[中日ドラゴンズ|中日]]へ移籍して以降、千葉マリンスタジアム独特の浜風の影響もあり、長距離砲が育たなくなった事(1986年の落合以来、日本人の30本塁打以上は皆無)<ref>https://www.asahi.com/articles/ASN666JYXN66UTQP00K.html</ref>も響いた。
[[1994年の野球|1994年]]は[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の20歳の新星、'''[[イチロー]]'''が1シーズンで200本を超える安打を放つ大活躍でファンの人気を集めた。また、イチローの所属する[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]も[[1995年]][[1月17日]]に発生した[[阪神・淡路大震災]]後の復興のシンボルとして、[[1995年のオリックス・ブルーウェーブ|1995年シーズン]]を制覇、11年ぶり(オリックスとなってからは初)の優勝を果たした。[[1995年の日本シリーズ|当年シリーズ]]は野村[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]に1勝4敗で敗れたものの、[[1996年のオリックス・ブルーウェーブ|翌1996年]]のリーグV2ののちの[[1996年の日本シリーズ|1996年シリーズ]]は長嶋[[読売ジャイアンツ|ジャイアンツ]]に4勝1敗で勝利し、阪急ブレーブス以来となる19年ぶり4度目の日本一を達成、被災地の神戸市民を勇気づけた。また、近鉄監督時代のR.ブライアントや野茂に引き続いて再び独特な才能を引き出した[[仰木彬]]監督の手腕を評し、往年の[[三原脩]]監督に重ね合わせる人も多く<ref>https://www.nikkansports.com/baseball/news/202301180000034.html</ref>、リーグの歴史に1ページを刻んだ。
また、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]については、福岡市では11年ぶりにプロ球団が誕生したという歓迎ムードもあったものの、当時の平和台野球場スタンドには空席が目立つことが多かった。そんな逆境の中、福岡ドームに本拠地を移した[[1993年]]には[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]で辣腕を振るった[[根本陸夫]]監督が専務兼任で就任し、チームの改革を行った。初年度は最下位になるが、翌[[1994年]]には4位ながらも17年ぶりのシーズン勝ち越しを決め、監督を勇退し専務に専念。後任には[[読売ジャイアンツ|巨人]]の監督を歴任した[[王貞治]]が就任した。また、後のダイエーの主力となる[[秋山幸二]]・[[工藤公康]]などを西武から獲得し、ドラフト会議でも[[城島健司]]・[[柴原洋]]のほか、逆指名制度を駆使して[[小久保裕紀]]・[[井口資仁|井口忠仁]]・[[松中信彦]]などを獲得するなど、チームの強化を図った。こうした補強の成果は着実に現れており、[[1998年]]にオリックスとは同率ながら、21年ぶりのAクラスとなる[[1998年の福岡ダイエーホークス|3位を確保した]]。[[1999年の福岡ダイエーホークス|翌年のリーグ優勝]]と[[1999年の日本シリーズ|日本一]]、現在に至るまでのパ・リーグ屈指の人気球団・強豪ホークス復活への礎となる。
1990年代は上記の他にも[[伊良部秀輝]]・[[黒木知宏]]・[[西口文也]]・[[松坂大輔]]・[[松井稼頭央]]・[[中村紀洋]]・[[タフィ・ローズ|T.ローズ]]など全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA制度]]の導入によりセパ間の人材流動も盛んになったが、主に経営体力のあるセ・リーグへの選手流出のほうが多く、パ・リーグは同一リーグ間の移籍が主であった。
他方、1997年に発覚した[[プロ野球脱税事件]]、1998年の[[サイン盗み|福岡ダイエーのサイン盗み疑惑]](村上球団社長が戒告と6ヵ月間球団社長職務停止、岸谷代表が1カ月間代表職務停止)など、負の歴史も存在し、NPBホームページのリーグ略史<ref>https://npb.jp/pl/history.html</ref>に現在でも記載されている。
[[1988年]](昭和63年)に日本初の屋根付き球場(ドーム球場)である[[東京ドーム]]が完成し、日本ハムは前身の[[後楽園球場]]と同様、巨人と本拠地を併用することになった。その後、[[1993年]]に[[福岡ドーム]]が、[[1997年]]に[[大阪ドーム]]が新規開業したことに加え、[[1999年]]に西武ライオンズ球場の改装により[[西武ドーム]]が誕生した。このため、既に東京ドームを本拠地としていた日本ハムを含めると、6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの70%近くにまで増加した。
[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]は1988年に東京ドーム開業景気に恵まれ、パ・リーグ1位の観客動員数となるが、フロントは“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策が消極的になった。西崎の後に、[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]、[[岩本勉]]、[[小笠原道大]]など日本ハムを支える看板選手が登場、[[上田利治]]監督の指揮下で[[ビッグバン打線]]を形成し、[[1998年の日本ハムファイターズ|1996年]]や[[1998年の日本ハムファイターズ|1998年]]には優勝目前に迫ったが、フロントの投手補強策が消極的だったツケもあり、終盤の失速にてV逸。結局東京ドーム最終年である[[2003年]]までの16年間で、一度もリーグ優勝ができなかった。
[[大阪近鉄バファローズ]]も1997年に[[藤井寺球場]]から[[大阪ドーム]]に本拠地を移転した。[[2001年]]に球団OBの[[梨田昌孝]]監督の下、[[タフィ・ローズ]]や[[中村紀洋]]、[[北川博敏]](この年に[[阪神タイガース|阪神]]から移籍)などの活躍で[[2001年の大阪近鉄バファローズ|球団最後となる12年ぶり4度目のリーグ優勝]]<ref group="注">しかし、[[2001年の日本シリーズ|この年の日本シリーズ]]は[[若松勉]]監督率いる[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]に1勝4敗と敗退した。その後、近鉄は[[2003年の大阪近鉄バファローズ|2003年]]まではAクラスを記録するなど健闘を見せたが、結局一度も日本一になれないまま[[2004年の大阪近鉄バファローズ|2004年]]オフに55年の歴史に幕を下ろすことになった。</ref> を果たしたものの、ドーム開業当時は周辺に本来の親会社である近鉄の駅がなく、近鉄沿線から孤立してしまったため<ref group="注">近鉄が[[阪神なんば線]]への乗り入れで大阪ドームの最寄り駅であるドーム前駅に来るようになったのは近鉄球団消滅後の2009年3月。また、近鉄の管轄駅で大阪ドーム(現京セラドーム大阪)に最も近いのは[[大阪難波駅]](旧駅名は近鉄難波駅)である。</ref>、大阪ドーム元年である1997年をピークに、翌年以降は観客動員数が伸び悩んだ。また親会社の近鉄グループの経営難も追い打ちをかけ、オリックスとの球団合併に発展し、後に[[2004年]]の[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]を招くことになる。
=== 2000年代 改革の時代 ===
{{location map+|Japan|float=right|width=300|caption=パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(2004年シーズン終了時)|places=
{{Location map~|Japan|lat=43.015192|long=141.409686|label=[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]|mark=red pog.svg|position=}}<!--札幌ドーム-->
{{Location map~|Japan|lat=38.256136|long=140.902567|label=[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天(2005年-)]]|mark=red pog.svg|position=}}<!--宮城球場-->
{{Location map~|Japan|lat=35.768617|long=139.420464|label=[[埼玉西武ライオンズ|西武]]|mark=red pog.svg|position=left}}<!--西武ドーム-->
{{Location map~|Japan|lat=35.645117|long=140.030847|label=[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--千葉マリンスタジアム-->
{{Location map~|Japan|lat=34.669403|long=135.476214|label=[[大阪近鉄バファローズ|近鉄(-2004年)]]|mark=red pog.svg|position=right}}<!--大阪ドーム-->
{{Location map~|Japan|lat=34.405037|long=135.042403|label=[[オリックス・バファローズ|オリックス]]|mark=red pog.svg|position=left}}<!--神戸総合運動公園野球場-->
{{Location map~|Japan|lat=33.595383|long=130.362175|label=[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]|mark=red pog.svg|position=}}<!--福岡ドーム-->
}}
[[1999年]]には、王貞治監督の福岡ダイエーホークスが26年ぶりのパ・リーグ優勝、さらに[[1999年の日本シリーズ|この年の日本シリーズ]]を制覇。翌[[2000年]]にもリーグ連覇を果たし、長嶋ジャイアンツとの日本シリーズは「ONシリーズ」と呼ばれるなど、パ・リーグの新盟主としての地歩を固めた。その後[[2003年]]にも生え抜きの[[井口資仁]]・[[松中信彦]]・[[城島健司]]・[[斉藤和巳]]・[[杉内俊哉]]・[[和田毅]]らを擁してパ・リーグ優勝、[[2003年の日本シリーズ|この年の日本シリーズ]]の制覇を果たし、2004年・2005年もレギュラーシーズン勝率1位(プレーオフにて敗退)となるなど名実ともにリーグの中心球団となった。
また日本ハムも、2004年の北海道移転とともに球団名が「[[北海道日本ハムファイターズ]]」と改められてから[[2006年の北海道日本ハムファイターズ|2006]]・[[2007年の北海道日本ハムファイターズ|2007]]・[[2009年の北海道日本ハムファイターズ|2009]]年に優勝を飾るなど、地域密着の経営方針を採ったチームが躍動したことで、長年「人気のセ」に後塵を拝してきたパ・リーグの観客動員は、00年代前半に向上が見られた。<ref name="名前なし-pRjy-1">https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_pl.pdf</ref>
[[2005年]]からは[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手制度]]がスタートした。
[[2009年]][[1月1日]]の改定[[日本プロフェッショナル野球協約]]発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/081227/bsr0812270501000-n1.htm セ、パ両事務局が廃局] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081227090131/http://www.sanspo.com/baseball/news/081227/bsr0812270501000-n1.htm |date=2008年12月27日 }} [[サンケイスポーツ]] 2008年12月27日閲覧{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>(セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。
==== 2004年 プロ野球再編問題、ポストシーズン改革 ====
{{seealso|プロ野球再編問題 (2004年)}}
[[2004年]][[6月]]に大阪近鉄バファローズと[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]の合併が突如発表され、これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、ロッテオリオンズ以来27年ぶりに[[宮城県]]をフランチャイズとする球団として、[[楽天グループ|楽天]]([[東北楽天ゴールデンイーグルス]])と[[ライブドア]]([[ライブドアベースボール|仙台ライブドアフェニックス]])が新規参入に名乗りを挙げた。同年[[11月2日]]のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定、[[プロ野球再編問題 (2004年)#選手分配ドラフト|分配ドラフト]]を経て旧近鉄の選手の多くを草創メンバーとして発足した。また福岡ダイエーホークスも親会社である[[ダイエー]]の経営危機により、「第2の合併チーム」として、千葉ロッテマリーンズとの合併騒動に見舞われるも、同年[[11月30日]]に[[情報通信業|IT企業大手]]の[[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]]に球団譲渡され、現在の「[[福岡ソフトバンクホークス]]」に改称した。
これにより、[[2005年]]以降も6球団制が維持されている。大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体の変更のない球団は、新加盟の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]のみとなった。
セ・パ両リーグは、再編問題を契機に同年から[[セ・パ交流戦|交流戦]]を開始した。また、2004年から2006年にかけては現在の[[クライマックスシリーズ]]の先鞭となる[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#勝率1位・2位・3位によるプレーオフ(2004年 - 2006年のパ・リーグ)|上位3チームによるプレーオフ]]が導入され、大差のついたリーグ終盤の興行不振(消化試合)を防止し、全てのチームが3位以内を目指して終盤まで盛り上がる仕組みを整えた<ref group="注">現実に、2004年・2005年においては勝率2位からのリーグ優勝・日本シリーズ進出が実現した。</ref>。
==== パ・リーグ各球団の地域密着の主な取り組み ====
福岡ダイエーホークス(現:[[福岡ソフトバンクホークス]])の成功と[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の誕生のほか、パ・リーグの各球団は、上述のプロ野球再編問題を教訓に様々な地域密着方針を打ち出している。
[[千葉ロッテマリーンズ]]は、既に[[川崎市|川崎]]から[[千葉市|千葉]]に移転したのちも依然として観客動員数が伸び悩んでいたため、行政とも協力して[[千葉マリンスタジアム]]の「ボールパーク化構想」を打ち出した。また、[[サッカー]]・[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]のサポーターに影響された熱烈な応援([[マリーンズサポーター]])や独特な球団スタイルを創りあげることによって、ファンを増やすことにつなげた。その甲斐もあり、[[2005年]]にはリーグ優勝と[[2005年の日本シリーズ|31年ぶりに日本一]]に輝き、5年後の[[2010年]]にも再び[[2010年の日本シリーズ|日本一]]を達成した。
日本ハムファイターズは、[[2001年]]に[[札幌ドーム]]が開業した事が転機となり、[[2004年]]にこれまでプロ野球球団の無かった北海道へ移転、球団名を'''[[北海道日本ハムファイターズ]]'''に改称した。移転当初の北海道では長年巨人ファンが主体であり、新規ファンの開拓は困難とされていたが、地元マスメディアや自治体のバックアップ、移転後のファン獲得への努力により、既存層だけでなく野球に関心のなかった層の獲得に成功した<ref group="注">逆に、それまで「プラチナチケット」と称されるほど人気が高かった巨人主催による北海道シリーズは、2010年以降開催されなくなった。</ref>。[[2006年]]には本拠地移転を契機に僅か3年で、1981年以来のリーグ優勝と1962年(東映フライヤーズ時代)以来の[[2006年の日本シリーズ|日本一]]を達成、翌[[2007年の北海道日本ハムファイターズ|2007年]]にはリーグV2を果たし、北海道移転後は5度のリーグ優勝([[2006年の北海道日本ハムファイターズ|2006年]]・[[2007年の北海道日本ハムファイターズ|2007年]]・[[2009年の北海道日本ハムファイターズ|2009年]]・[[2012年の北海道日本ハムファイターズ|2012年]]・[[2016年の北海道日本ハムファイターズ|2016年]])、2度の日本一([[2006年の日本シリーズ|2006年]]・[[2016年の日本シリーズ|2016年]])を果たしている。
[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]も、2005年からの設立当初は2年連続最下位と苦しんだものの、[[2006年]]シーズンより[[野村克也]]が監督に就任して以降、[[田中将大]]の入団、2009年の2位及び[[2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|同年CS]]での健闘が注目され、ファンを開拓した。そして[[2011年]]に[[星野仙一]]監督が就任。3年目となる[[2013年]]には、[[2013年の東北楽天ゴールデンイーグルス|球団初のパ・リーグ優勝]]・[[2013年の日本シリーズ|球団初の日本一]]を成し遂げた。こうして、北海道・東北においてフランチャイズ球団が地域及び球団自体に変化をもたらし、地域密着スタイルが再びクローズアップされることになった。
西武ライオンズも、経営陣が刷新された後の[[2008年]]からは、球団名に「埼玉」を掲げ、現在の'''[[埼玉西武ライオンズ]]'''に改称し、西武沿線にこだわらず沿線人口の多いJR京浜東北・埼京線側の[[埼玉県営大宮公園野球場|大宮公園球場]]でも主催試合を行うなど、地域密着の姿勢を打ち出した。
=== 2010年代 ソフトバンク黄金時代 ===
2010年代は全体で見れば[[秋山幸二]]・[[工藤公康]]両監督に率いられた[[福岡ソフトバンクホークス]]が優勝5回、日本一6回と他球団を圧倒し、シーズン・ポストシーズン通じてソフトバンクの覇権を強く印象付けた時代であった<ref group="注">[[内川聖一]]、[[柳田悠岐]]、[[デニス・サファテ|D.サファテ]]らが主要タイトルを獲得した。[[パシフィック・リーグ個人タイトル獲得者一覧]]も参照。</ref>。他方、[[栗山英樹]]監督率いる[[北海道日本ハムファイターズ]]のリーグ優勝2回・日本一1回、[[星野仙一]]監督率いる[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の[[2013年の東北楽天ゴールデンイーグルス|2013年]]における球団初のリーグ優勝([[田中将大]]が24勝0敗1SでMVP)と日本一達成、終盤には[[辻発彦]]監督率いる[[埼玉西武ライオンズ]]のV2もあった<ref group="注">[[秋山翔吾]]、[[浅村栄斗]]、[[中村剛也]]、[[山川穂高]]らが主要タイトルを獲得した。</ref>。また、[[MLB]]へ多くの[[日本人選手のメジャーリーグ挑戦|日本人選手を輩出]]した時代でもあり、パリーグからは[[ダルビッシュ有]]・[[岩隈久志]]・[[田中将大]]・[[菊池雄星]]・そして'''二刀流'''で社会現象となった[[大谷翔平]]らが海を渡った。
[[2010年]]、リーグ戦の年間協賛社として[[マニュライフ生命保険]]株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまでは[[クライマックスシリーズ]]での協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は[[2011年]]、[[2012年]]シーズンも継続した。
[[2011年]]は[[東日本大震災]]の発生により電力が逼迫、開幕を両リーグとも3月25日から4月12日に順延した。
[[2013年]]はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営する[[モブキャスト]]とオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「[[パ・リーグTV]]」は2013年からモブキャスト、2018年からは[[パーソルホールディングス|パーソル]]が協賛し冠スポンサーとなった。
2010年代、[[セ・パ交流戦]]では、勝数はすべての年でセントラル・リーグを上回り<ref group="注">セ・パ交流戦でセントラル・リーグが勝ち越したシーズンは2009年と2021年、2022年のみであり、何れも僅差での勝ち越し(2009年は70勝67敗7分け(3勝差)、2021年は49勝48敗11分(1勝差)、2022年は55勝53敗(2勝差))となっており、また優勝チームも2009年は[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]、2021年は[[オリックス・バファローズ|オリックス]]とパシフィック・リーグの球団が優勝していたが、2022年はセントラル・リーグ球団の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]が優勝している。</ref>(パの671勝548敗41分)、2010年代をつうじ、優勝チーム<ref group="注">2015-2018年は最高勝率チーム</ref>を7回輩出した。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]でも2012年を除きパの球団が9度日本一となり<ref group="注">唯一の例外は[[北海道日本ハムファイターズ]]が[[読売ジャイアンツ]]に2勝4敗で敗退した[[2012年の日本シリーズ]]のみである。</ref>、特に[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]は、セ・リーグ全球団を相手<ref group="注">[[2011年の日本シリーズ|2011年]]の[[中日ドラゴンズ|中日]]・[[2014年の日本シリーズ|2014年]]の[[阪神タイガース|阪神]]・[[2015年の日本シリーズ|2015年]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]・[[2017年の日本シリーズ|2017年]]の[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]・[[2018年の日本シリーズ|2018年]]の[[広島東洋カープ|広島]]・[[2019年の日本シリーズ|2019年]]~[[2020年の日本シリーズ|2020年]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]。特に巨人から2年連続で4連勝のスウィープでの日本一(8勝0敗)を決めている。</ref>に日本一となった。
また[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]では、[[2013年の日本シリーズ|2013年]]から[[2020年の日本シリーズ|2020年]]までパ・リーグ代表チームが8連覇となった。(内、ソフトバンクが日本一6回を占めている。)
観客動員は順調に増加。特に2019年は[[明仁から徳仁への皇位継承|天皇即位]]に伴い[[ゴールデンウイーク#2019年の10連休|GW10連休]]となった事も奏功して、当年の1試合平均の観客動員は初めて27,000人を突破<ref name="名前なし-pRjy-1"/>、対2009年比では+21%増を達成した。また、[[三大都市圏]]の西武・ロッテ・オリックスよりも、地方に本拠地を置く日本ハム・ソフトバンクの観客のほうが多くなった時代でもあった。
<!--以下に、チケットの発券枚数を元にした発表となった2005年以降の[[ペナントレース]](リーグ戦+[[セ・パ交流戦]])における、主催試合(ホームゲーム)での、1試合あたり平均観客数(人/試合)の変遷を示す<ref>[http://npb.jp/statistics/2017/attendance.html 2017年 セ・パ公式戦 入場者数](日本野球機構)</ref>。[[2017年の日本プロ野球|2017年シーズン]]には、平均観客数の上位3チームが[[札仙広福]](地方中枢都市)に所在する地方球団(★)となり、下位3チームが[[三大都市圏]]に所在するチームになった。
{{Graph:Chart
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|y1Title=★福岡ソフトバンクホークス
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|x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017
|y1=31117 , 29964 , 32044 , 31251 , 31194 , 30062 , 31860 , 33993 , 33458 , 34284 , 35221 , 35112 , 35094
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|y6=19618 , 19848 , 21645 , 22245 , 20350 , 21474 , 18511 , 17211 , 17506 , 16999 , 18620 , 21207 , 20425
}}-->
=== 2020年代 ===
2020年から2021年にかけ、[[新型コロナウィルス]]の発生に伴い、各球場とも観客動員を大きく減らした運営を強いられた。特に2020年は6月19日まで開幕がずれ込んだ結果、120試合のみの開催で1953年以来67年ぶりの規模縮小、入場者数(206万人、昨対比▲82%)は草創期である1951年以来の少なさとなった<ref name="名前なし-pRjy-1"/>。また、クライマックスシリーズが2020年は1stステージ(2位-3位戦)が中止となったほか、外国人選手の入国制限により、契約そのものが出来ない・契約できても来日や帰国が自由にできず<ref>https://www2.myjcom.jp/npb/column/20210810.shtml</ref>、本人や家族のメンタルの問題で出場試合数を大きく減らす結果ともなった。厳しい状況を経たが、2022年4月にはロッテの[[佐々木朗希]]による[[佐々木朗希の完全試合|13者連続奪三振と完全試合]]、また[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック 決勝トーナメント|2023年春のWBC]]においてもパリーグ選手やMLB選手が、セの選手とともに大いに活躍して14年ぶりの世界一を達成し、日本国民に明るい話題を届けた。
==== 2021年~2023年 復活のオリックス ====
オリックスが、投手三冠の[[山本由伸]]らの活躍により投手力を高めて暗黒期から脱出、[[2021年のオリックス・バファローズ|2021年]]には(一時ロッテに51年ぶりのマジック点灯を許しながらも)25年ぶりのリーグ優勝を達成、[[2022年のオリックス・バファローズ|2022年]]にはソフトバンクと同率1位での(直接対決での勝敗規定により)連覇、[[2022年の日本シリーズ|日本一]]を成し遂げた。[[2023年のオリックス・バファローズ|2023年]]には2位に15.5差をつけた独走にてリーグV3を達成した。<ref>オリックスは(前身の阪急時代から通算で)3連覇以上を3回達成となり、(西鉄=西武)ライオンズと並ぶリーグ最多記録となっている。</ref>
== 現存する加盟球団 ==
=== 一覧 ===
{|class="wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:90%;"
|+ パシフィック・リーグの加盟球団
|-
!
! style="white-space: nowrap;" | 球団名
! [[プロ野球地域保護権|保護地域]]
! 創設年度
! style="white-space: nowrap;" | 本拠地球場
! チームカラー
|-
|[[File:Hokkaido Nippon-Ham Fighters insignia.svg|70px]]
|[[北海道日本ハムファイターズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Hokkaido Nippon-Ham Fighters'')</span>
|[[北海道]]
|1946年
|[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[北広島市]]、{{Coord|42|59|23|N|141|32|58|E|=北海道日本ハムファイターズ(ES CON FIELD HOKKAIDO)}})</span>
|style="color:#{{BaseballColor|北海道日本ハムファイターズ|2}}; background-color:#{{BaseballColor|北海道日本ハムファイターズ|1}}" |
|-
|[[File:Rakuten eagles insignia.png|70px]]
|[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Tohoku Rakuten Golden Eagles'')</span>
|[[宮城県]]
|2005年
|[[宮城球場]](楽天モバイルパーク宮城)<br /><span style="font-size: 90%;">([[仙台市]][[宮城野区]]、{{Coord|38|15|22.09|N|140|54|9.24|E|region:JP|name=東北楽天ゴールデンイーグルス(楽天生命パーク宮城)}})</span>
|style="color:#{{BaseballColor|東北楽天ゴールデンイーグルス|2}}; background-color:#{{BaseballColor|東北楽天ゴールデンイーグルス|1}}" |
|-
|[[File:Seibu lions insignia.png|70px]]
|[[埼玉西武ライオンズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Saitama Seibu Lions'')</span>
|style="white-space: nowrap;"|[[埼玉県]]
|1950年
|[[西武ドーム]](ベルーナドーム)<br /><span style="font-size: 90%;">([[所沢市]]、{{Coord|35|46|7.02|N|139|25|13.67|E|region:JP|name=埼玉西武ライオンズ(ベルーナドーム)}})</span>
|style="color:#{{BaseballColor|埼玉西武ライオンズ|4}}; background-color:#{{BaseballColor|埼玉西武ライオンズ|1}}" |
|-
|[[File:Chiba Lotte Marines insignia.svg|70px]]
|[[千葉ロッテマリーンズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Chiba Lotte Marines'')</span>
|[[千葉県]]
|1950年
|[[千葉マリンスタジアム]](ZOZOマリンスタジアム)<br /><span style="font-size: 90%;">([[千葉市]][[美浜区]]、{{Coord|35|38|42.42|N|140|1|51.05|E|region:JP|name=千葉ロッテマリーンズ(ZOZOマリンスタジアム)}})</span>
|style="color:#{{BaseballColor|千葉ロッテマリーンズ|2}}; background-color:#{{BaseballColor|千葉ロッテマリーンズ|1}}" |
|-
|[[File:Orix Buffaloes insignia.svg|70px]]
|[[オリックス・バファローズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''ORIX Buffaloes'')</span>
|[[大阪府]]
|1936年
|[[大阪ドーム]](京セラドーム大阪)<br /><span style="font-size: 90%;">([[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]、{{Coord|34|40|9.85|N|135|28|34.37|E|region:JP|name=オリックス・バファローズ(京セラドーム大阪)}})</span>
|style="color:#{{BaseballColor|オリックス・バファローズ|2}}; background-color:#{{BaseballColor|オリックス・バファローズ|1}}" |
|-
|[[File:Fukuoka SoftBank Hawks insignia.svg|70px]]
|[[福岡ソフトバンクホークス]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Fukuoka SoftBank Hawks'')</span>
|[[福岡県]]
|1938年
|[[福岡ドーム]](福岡PayPayドーム)<br /><span style="font-size: 90%;">([[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]、{{Coord|33|35|43.38|N|130|21|43.83|E|region:JP|name=福岡ソフトバンクホークス(福岡ヤフオク!ドーム)}})</span>
|style="color:#{{BaseballColor|福岡ソフトバンクホークス|2}}; background-color:#{{BaseballColor|福岡ソフトバンクホークス|1}}" |
|}
※球団表記順は野球協約の保護地域表記順
=== 各球団の略年譜 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:90%"
|+ 球団名・本拠地・親会社・その他の遍歴
!球団名!!遍歴
|-
|align="center" |[[オリックス・バファローズ|オリックス・<br />バファローズ]]||
[[1936年]][[1月23日]]に[[阪神急行電鉄]]を親会社として'''阪急軍'''を結成。[[宝塚球場]]を本拠地とする<br />
[[1937年]]、[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]に本拠地を移転<br />
[[1947年]]、球団名を'''阪急ベアーズ'''に改称。同年シーズン中、球団名を'''阪急ブレーブス'''に改称<br />
[[1988年]]、阪急電鉄が[[オリックス (企業)|オリエント・リース]]に球団を譲渡<br />
[[1989年]]、球団名を'''オリックス・ブレーブス'''に改称<br />
[[1991年]]、球団名を'''オリックス・ブルーウェーブ'''に改称。[[神戸総合運動公園野球場]]に本拠地を移転<br />
[[2004年]]、シーズン終了後に[[大阪近鉄バファローズ]]と合併<br />
[[2005年]]、球団名を'''オリックス・バファローズ'''に改称。暫定的に[[大阪ドーム]]を本拠地に加え、ダブルフランチャイズ制をとる<br />
[[2007年]]、大阪ドームに本拠地を一本化
|-
|align="center" |[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ソフトバンク<br />ホークス]]||
[[1938年]][[3月29日]]に[[南海電気鉄道|南海鉄道]]を親会社とした'''南海軍'''が[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]に加盟。[[堺大浜球場]]を本拠地とする<br />
[[1939年]]、[[中百舌鳥球場]]を本拠地とする<br />
[[1944年]]、[[陸上交通事業調整法]]による[[近畿日本鉄道]]の成立に伴い、シーズン中に球団名を'''近畿日本軍'''に改称<br />
[[1946年]]、球団名を'''グレートリング'''に改称<br />
[[1947年]]、近畿日本鉄道による南海電気鉄道への事業譲渡に伴い、シーズン中に球団名を'''南海ホークス'''に改称<br />
[[1948年]]、[[阪神甲子園球場]]に本拠地を移転<br />
[[1950年]]、[[大阪スタヂアム]]に本拠地を移転<br />
[[1988年]]、南海電気鉄道の球団株式売却により[[ダイエー]]が経営権を持つ<br />
[[1989年]]、球団名を'''福岡ダイエーホークス'''に改称。[[平和台野球場]]に本拠地を移転<br />
[[1993年]]、[[福岡ドーム]]に本拠地を移転<br />
[[2005年]]、ダイエーの球団株式売却により[[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]]が経営権を持つ。球団名を'''福岡ソフトバンクホークス'''に改称
|-
|align="center" |[[埼玉西武ライオンズ|埼玉西武<br />ライオンズ]]||
[[1949年]][[11月26日]]に[[西日本鉄道]]を親会社とした'''西鉄クリッパース'''がパシフィック・リーグに加盟。平和台野球場を本拠地とする<br />
[[1951年]]、シーズン開幕前に[[西日本パイレーツ]]と合併。球団名を'''西鉄ライオンズ'''に改称<br />
[[1972年]]、[[福岡野球]]が球団を買収。[[太平洋クラブ]]との提携を表明<br />
[[1973年]]、球団名を'''太平洋クラブライオンズ'''に改称<br />
[[1976年]]、[[クラウンガスライター]]との提携を表明<br />
[[1977年]]、球団名を'''クラウンライターライオンズ'''に改称<br />
[[1978年]]、[[コクド|国土計画]]が球団を買収<br />
[[1979年]]、球団名を'''西武ライオンズ'''に改称。[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]]に本拠地を移転<br />
[[1999年]]、西武ライオンズ球場のドーム化工事が完了。西武ドームとなる<br />
[[2008年]]、球団名を'''埼玉西武ライオンズ'''に改称
|-
|align="center" |[[北海道日本ハムファイターズ|北海道日本ハム<br />ファイターズ]]||
[[1945年]][[11月6日]]に'''セネタース'''が日本野球連盟に加盟<br />
[[1946年]]、[[東京急行電鉄]]が経営権を持つ<br />
[[1947年]]、球団名を'''東急フライヤーズ'''に改称<br />
[[1948年]]、大映野球が経営参加を表明。球団名を'''急映フライヤーズ'''に改称。[[後楽園球場]]を本拠地とする<br />
[[1949年]]、大映野球の経営撤退に伴い、球団名を再び'''東急フライヤーズ'''に改称<br />
[[1953年]]、シーズン中に[[駒澤野球場]]に本拠地を移転<br />
[[1954年]]、[[東映]]に球団経営を委託。球団名を'''東映フライヤーズ'''に改称<br />
[[1962年]]、[[明治神宮野球場]]に本拠地を移転<br />
[[1964年]]、後楽園球場に本拠地を再移転<br />
[[1973年]]、東映の球団株式売却により[[日拓グループ|日拓ホーム]]が経営権を持つ。球団名を'''日拓ホームフライヤーズ'''に改称<br />
同年、シーズン終了後に日拓ホームが球団株式売却。[[日本ハム]]が経営権を持つ<br />
[[1974年]]、球団名を'''日本ハムファイターズ'''に改称<br />
[[1988年]]、[[東京ドーム]]に本拠地を移転<br />
[[2004年]]、球団名を'''北海道日本ハムファイターズ'''に改称。[[札幌ドーム]]に本拠地を移転<br />
[[2023年]]、[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]に本拠地を移転
|-
|align="center" |[[千葉ロッテマリーンズ|千葉ロッテ<br />マリーンズ]]||
[[1949年]][[11月26日]]に[[毎日新聞社]]を親会社とした'''毎日オリオンズ'''がパシフィック・リーグに加盟。後楽園球場を本拠地とする<br />
[[1957年]]、シーズン終了後に[[大映ユニオンズ]]と合併<br />
[[1958年]]、球団名を'''毎日大映オリオンズ'''に改称<br />
[[1962年]]、シーズン中に[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]に本拠地を移転<br />
[[1964年]]、球団名を'''東京オリオンズ'''に改称<br />
[[1969年]]、[[ロッテ]]が経営参加を表明。球団名を'''ロッテオリオンズ'''に改称<br />
[[1973年]]、[[宮城球場]]に本拠地を移転<ref group="注">ただし1973年は公式には地域保護権は[[東京都]]に残り、準本拠地扱いであった。[[1974年]]に保護権を暫定的に[[宮城県]]に移すが、特例として東京都でも半数程度開催することがあった。</ref><br />
[[1978年]]、[[川崎球場]]に本拠地を移転<br />
[[1992年]]、球団名を'''千葉ロッテマリーンズ'''に改称。[[千葉マリンスタジアム]]に本拠地を移転
|-
|align="center" |[[東北楽天ゴールデンイーグルス|東北楽天<br />{{Nowrap|ゴールデンイーグルス}}]]||
[[2004年]][[11月2日]]に[[楽天グループ|楽天]]を親会社とした'''東北楽天ゴールデンイーグルス'''がパシフィック・リーグに加盟。[[宮城球場]]を本拠地とする
|-
|}
* 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
* 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記
== 過去に存在した加盟球団 ==
; パシフィック・リーグの消滅球団と成績
{| class="wikitable" style="width:60%; text-align:right; font-size:small"
!球団名!!創設年度!!優勝回数!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引分]]!![[勝率]]
|-
![[大阪近鉄バファローズ]]<br /><span style="font-size: smaller;">(''Osaka Kintetsu Buffaloes'')</span><br />(1950年 - 2004年)
|[[1949年]]||4||7119||3261||3720||271||.467
|-
![[大映ユニオンズ]]<br /><span style="font-size: smaller;">(''Daiei Unions'')</span><br />(1950年 - 1957年)
|[[1946年]]||0||1029||415||586||28||.415
|-
![[高橋ユニオンズ]]<br /><span style="font-size: smaller;">(''Takahashi Unions'')</span><br />(1954年 - 1956年)
|[[1954年]]||0||435||147||280||8||.344
|-
|}
* 成績はリーグが結成された1950年以降のもの
; 球団名・本拠地・親会社の遍歴
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
!球団名!!遍歴
|-
|align="center" |[[大映ユニオンズ]]||
[[1946年]][[2月18日]]に'''ゴールドスター'''が日本野球連盟に加盟。後楽園球場を本拠地とする<br />
[[1947年]]、球団名を'''金星スターズ'''に改称<br />
[[1949年]]、[[大映]]が球団を買収。球団名を'''大映スターズ'''に改称<br />
[[1957年]]、シーズン開幕前に[[高橋ユニオンズ]]と合併。球団名を'''大映ユニオンズ'''に改称<br />
同年、シーズン終了後に[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]と合併。合併球団名は'''毎日大映オリオンズ'''となる
|-
|align="center" |[[大阪近鉄バファローズ]]||
[[1949年]][[11月26日]]に[[近畿日本鉄道]]を親会社とした'''近鉄パールス'''がパシフィック・リーグに加盟。[[藤井寺球場]]を本拠地とする<br />
[[1950年]]、シーズン中に大阪スタヂアムに本拠地を移転<br />
[[1958年]]、[[日本生命球場]]に本拠地を移転<br />
[[1959年]]、球団名を'''近鉄バファロー'''に改称<br />
[[1962年]]、球団名を'''近鉄バファローズ'''に改称<br />
[[1984年]]、藤井寺球場に本拠地を再移転<br />
[[1997年]]、大阪ドームに本拠地を移転<br />
[[1999年]]、球団名を'''大阪近鉄バファローズ'''に改称<br />
[[2004年]]、シーズン終了後に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]と合併。合併球団名は'''オリックス・バファローズ'''となる
|-
|align="center" |[[高橋ユニオンズ]]||
[[1954年]][[2月4日]]に'''高橋ユニオンズ'''がパシフィック・リーグに加盟。川崎球場を本拠地とする<br />
[[1955年]]、[[トンボ鉛筆]]との提携を表明。球団名を'''トンボユニオンズ'''に改称<br />
[[1956年]]、トンボ鉛筆の経営撤退に伴い、球団名を再び'''高橋ユニオンズ'''に改称<br />
[[1957年]]、シーズン開幕前に[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]と合併。合併球団名は'''大映ユニオンズ'''となる
|-
|}
* 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
* 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記
== 試合方式 ==
=== 総当り回数 ===
[[1952年]]の[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]([[ホームタウン]])制度が採用された後は[[ホーム・アンド・アウェー]]方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。
* 1950年 - 1951年:20回 120試合
* 1952年:18回(予選:全チーム)108試合+4回(決勝:上位4チーム) 12試合 ※1
* 1953年 - 1955年:20回 (1953年:120試合、1954年・1955年:140試合)
* 1956年 - 1957年:22回 (1956年:154試合 1957年:132試合)
* 1958年 - 1960年:26回 130試合
* 1961年:28回 140試合
* 1962年:26回 130試合
* 1963年 - 1964年:30回 150試合
* 1965年:28回 140試合
* 1966年 - 1996年:26回 130試合
* 1997年 - 2000年:27回 135試合 ※2
* 2001年 - 2003年:28回 140試合
* 2004年:27回 135試合 ※2
* 2005年 - 2006年:20回+[[セ・パ交流戦|交流戦]](対セ・リーグ6チーム)6回 136試合
* 2007年 - 2014年:24回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)4回 144試合
* 2015年 - 2019年、2021年 - 2022年:25回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)3回 143試合 ※2、3
* 2020年:24回 120試合
※1:1952年度については決勝リーグ進出チームは予選と合せて120試合戦った。また最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった。<br />
※2:1997年 - 2000年と2004年、2015年 - 2019年、2021年はリーグ間の対戦は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形(1997年 - 2000年、2004年は14試合、2015年以降は13試合)である。なおその1試合増加分のホームチームは、2004年<ref group="注">本来は2005年も実施予定だったが、近鉄のオリックスへの合併、楽天の加盟と、[[セ・パ交流戦]]の開催により総当たり回数が変更となったため行われなかった。</ref>を除いて2年単位で隔年入れ替え制である。<br/>
※3:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりであるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。
; 引き分けに関する扱い
* 引き分け再試合制度実施年:1952年、1955年、1959年 - 1960年、1962年、1966年 - 1968年
* 引き分けを0.5勝0.5敗で勝率計算した年:1956年 - 1958年、1961年
上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。
* 1951年:同年[[10月20日]]より開催の日米野球に伴う日程上の都合で同月7日限りでペナントレースを打ち切り。
* 2004年:[[日本プロ野球選手会|選手会]]が球団合併凍結などを求めた[[プロ野球ストライキ]]を9月18日と19日に決行したため、同日に予定されていた全試合を中止。
* 2020年:[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染拡大の影響で開幕が約3ヶ月延期となり、シーズン日程を再考。交流戦が中止となるなど一部日程が変更され、当初の143試合から120試合に試合数を削減。
===同一勝率発生時の順位決定方法===
現行プレーオフが採用された[[2004年]]以後は以下の通りに順位を定める<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC229TG0S2A320C2000000/ セ・リーグ、優勝決定方法変更 リーグ内の対戦勝率も](日本経済新聞)</ref>。
#レギュラーシーズン全試合を通しての勝率(2022年:143試合)
#同勝率の当該球団間の対戦時の勝率
#パ・リーグ参加球団(2022年:6チーム・125試合)の対戦成績における勝率
#前年度の順位の高い順番
=== 指名打者制度 ===
[[1975年]]のシーズンから、[[指名打者]]制度(DH制)が採用されている。
=== 時間・回数制限 ===
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
!width=20%|年!!内容
|-
|align="center" |[[1950年]] - [[1951年]]||
シングルの場合は時間・回数制限なし(デーゲームの場合日没まで)<br />
ダブルヘッダー第1試合の延長は原則として12回。ただしナイトゲーム([[薄暮]]含む)は9回まで
|-
|align="center" |[[1952年]]||
変則ダブルヘッダー第1試合は9回まで。それ以外は時間・回数無制限
|-
|align="center" |[[1953年]]||
シングルでのデーゲームの場合は時間・回数制限なし。(日没まで。以後1970年まで同じ)<br />
変則ダブルヘッダー第1試合は12回まで。ナイトゲームは23:45を過ぎて次のイニングに入らない
|-
|align="center" |[[1954年]]||
ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1958年まで同じ)<br />
ナイトゲームは22:45を過ぎて次のイニングに入らない
|-
|align="center" |[[1955年]] - [[1958年]]||
ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない
|-
|align="center" |[[1959年]] - [[1960年]]||
ダブルヘッダー第1試合は9回まで(延長戦なし)<br />
ナイトゲームは22:30を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1964年まで同じ)
|-
|align="center" |[[1961年]] - [[1964年]]||
ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1965年も同じ)
|-
|align="center" |[[1965年]]||
ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1967年まで同じ)
|-
|align="center" |[[1966年]] - [[1967年]]||
ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで
|-
|align="center" |[[1968年]] - [[1970年]]||
ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで<br />
ナイトゲームは22:20を過ぎて次のイニングに入らない
|-
|align="center" |[[1971年]] - [[1973年]]||
ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで<br />
それ以外の試合(ダブルヘッダー第2試合含む)は試合開始から3時間20分を過ぎて次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある<br />
(1):19:00以後開始の場合は経過時間に関係なく22:20を過ぎて次のイニングに入らない<br />
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する
|-
|align="center" |[[1974年]] - [[1987年]]||
ダブルヘッダー第1試合は9回まで<br />
それ以外の試合は原則として試合開始から3時間を経過して次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある<br />
(1):19:00以後開始の試合は経過時間に関係なく22:00を過ぎて次のイニングに入らない<br />
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する
|-
|align="center" |[[1988年]] - [[1989年]]||
ダブルヘッダー第1試合は9回。それ以外は原則として延長12回まで。ただし、以下の規定がある<br />
(1):試合開始(開始時刻にかかわらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない<br />
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する
|-
|align="center" |[[1990年]] - [[1993年]]||
延長12回まで。ただし、以下の規定がある<br />
(1):試合開始(開始時刻にかかわらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない <br />
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する
|-
|align="center" |[[1994年]] - [[2010年]]||
延長12回まで、時間制限なし
|-
|align="center" |[[2011年]] - [[2012年]]||
延長12回まで。ただし、[[東日本大震災]]に伴う節電対策として以下の規定がある<br />
(1):試合開始から3時間30分(雨天等による中断時間も含む)が経過した場合は次のイニングに入らない<br />
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する
:※ただしクライマックスシリーズでは時限なし。
|-
|align="center" |[[2013年]] - [[2019年]]||
延長12回まで、時間制限なし
|-
|align="center" |[[2020年]]||
延長10回まで、時間制限なし<ref group="注" name="corona">新型コロナウイルスの影響に伴う感染防止の特別ルール。</ref>。
|-
|align="center" |[[2021年]]||
延長なし、時間制限なし<ref group="注" name="corona"/>。
|-
|align="center" |[[2022年]]||
延長12回まで、時間制限なし
|}
=== 備考 ===
1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。
1973年 - 1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。
2004年 - 2006年度は予選リーグの上位3チームがトーナメント式のプレーオフを行った。詳細は[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#勝率1位・2位・3位によるプレーオフ(2004年 - 2006年のパ・リーグ)]]の項を参照。
通期の勝率1位にもかかわらずV逸した例は、上記の要因によるもの([[1973年の阪急ブレーブス|1973年阪急]]・[[1975年の近鉄バファローズ|1975年近鉄]]・[[1979年の阪急ブレーブス|1979年阪急]]・[[1982年の日本ハムファイターズ|1982年日本ハム]]・[[2004年の福岡ダイエーホークス|2004年ダイエー]]・[[2005年の福岡ソフトバンクホークス|2005年ソフトバンク]])と、勝率1位タイであるが直接対戦成績のレギュレーションにより2位となった[[2022年の福岡ソフトバンクホークス|2022年ソフトバンク]]の7例がある。
===プレーオフ制度導入の背景===
'''[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)]]も参照の事。'''
; 1952年
: プロ野球の場合は、サッカーなど他の球技のような2部リーグが存在しないので、優勝争いが絞られる後半戦は、優勝争いに関係のない[[消化試合]]は観客動員数が大幅に減ってしまい、試合の質も落としてしまうことが課題となった。そこで1952年シーズンに、7チームで18回総当り・108試合の予選リーグを行った後で上位4チームが4回総当り・12試合の決勝リーグを行って優勝を決める方式を取り入れた。
: しかし、上位4チームの成績は予選・決勝を合わせた120試合の通算成績で争うものだったために予選落ちの下位3チームとの比較が出来ず、また予選落ちの球団から予選リーグ終了後は試合がないことで「置き去りにされた感じがした」などの批判が出たため、1年で取りやめとなってしまった。
; 1973年 - 1982年
: 1973年には[[2シーズン制|2シーズン(前後期)制]]を採用。年間130試合(当時)のペナントレースを4-6月の前期ステージと7-9月の後期ステージ、それぞれ65試合ずつに分けることにして、前期・後期各ステージ優勝チームによる5戦3勝制の決勝戦(プレーオフ)で優勝を決める方式を取り入れた。それぞれのステージごとの優勝争い、そしてプレーオフと1年で3つのクライマックス(山場)を設けて観客動員の確保に努めようという考えである。
: 導入当初は概ね好評で観客動員が比較的よく入ったが、日程面での課題もあった(前期が終了しないうちに後期が始まってしまったため、後期終了後に前期の未消化試合をこなすことがしばしば見られた)。
: 1973年度のペナントレースは、雨天中止になった場合の予備日程を確保するという名目で、前期終了から後期の開幕まで約2週間ものインターバルを取ったことがあった。しかし日程が余りにも空きすぎるとして翌1974年からインターバルをなくした連続開催形式での日程に変更している。また従来の半分の試合数で優勝が決まってしまうため、結果として消化試合が増加する(更に極端な話、前期優勝したチームは後期全ての試合を消化試合に出来てしまう)という問題もあった。
: 1980年代に入ると極端に観客動員が減少してしまったため2シーズン制を行う意義が薄れたとして1982年度の大会を最後にそれを打ち切った。
: なお、前後期制については1962年のオフにも「営業的にプラスが見込める」としてリーグ理事会で導入を検討したことがあったが、日程作成の困難を理由に見送りとなった。
; 1983年 - 1985年
: 1983年から2シーズン制に代えて変則1シーズン制を導入することとなった。これはいわば2シーズン制と通常の1シーズン制(同勝率の場合にのみプレーオフを行う)の中間に位置する折衷案として企画されたもので、130試合終了時に1位と2位のゲーム差が5ゲーム以内である場合、5戦3勝制を原則としたプレーオフを行うというものだった。但し勝率の計算はプレーオフを含めた成績ではじき出すため、1位のチームが1勝した後、2位のチームが残り4試合に全勝しても勝率が1位のチームに届かない場合はその時点で1位チームの優勝となるといった複雑なルールがあった。
: しかし、実際には優勝した各チーム(83年、85年は[[埼玉西武ライオンズ|西武]]、84年は[[オリックス・バファローズ|阪急]])が2位以下に大差を付けて圧倒的な優勝を決めたことからプレーオフの実施には至らず、この制度は1度も実施されぬまま廃止となり、「幻のプレーオフ」といわれた。
; 2004年 - 2006年
: その後セ・リーグ同様に通常の1シーズン制に戻して開催することとなったが、シーズンによっては独走で1位チームが優勝することもあり、前述のように試合の質を落とす懸念から2004年シーズンに上位3チームによるトーナメント方式のプレーオフ制度が導入された。このときは、第1ステージ勝ち上がりチームが日本シリーズに出場した場合、そのチームがリーグ優勝チームという扱いであった。
: しかしこの制度に関しても、1位通過チームに対する第2ステージのアドバンテージ(2005年度までは1位チームと第1ステージ勝ち上がりチームのレギュラーシーズンのゲーム差が5ゲーム以上付いていた場合、1位チームに1勝分のアドバンテージが与えられる)の扱いや、2005年に「勝ってしまうと3位チームがプレーオフに出場できない」という事態が発生した(詳細は[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#脚注|プレーオフ制度内の脚注]]参照)ことなどから、2006年度は以下のようにルールを改正した。
#1位通過チームはゲーム差に関係なく、第2ステージのアドバンテージ1勝分を与える。
#1位通過チームが複数同率で発生した場合でも第1ステージを行う。その場合、同率1位チームの当該チーム間のその年度の対戦成績の勝ち越しチーム(同数は前年度の順位を参考)を1位と見なし、2位扱いのチームと3位チームとで第1ステージを行うこととする。
#また、第2ステージの第3・4戦は、第1ステージ勝ち上がりチームのホームスタジアムを使用して行うことにする。
; 2007年 - 現在
[[クライマックスシリーズ]]を参照。但しレギュラーシーズンの優勝とは関係が無いため、上記のプレーオフとは性質が異なる。
== 結果 ==
* 年度背景桃色は[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優勝。<nowiki>*</nowiki>は左のチームと同率順位
* 1973年 - 1982年の二期制時代と2004年 - 2006年のパシフィック・リーグ プレーオフ実施時代は、プレーオフ勝利チームが優勝チームとなったため、レギュラーシーズン勝率1位のチームが優勝ではない年がある。
* 1973年 - 1982年の二期制時代の★印は前期優勝チーム、☆印は後期優勝チーム。
* 2006年までは優勝チームが日本シリーズに出場。[[クライマックスシリーズ]]導入後の2007年以降の日本シリーズ出場チームは'''太字'''で示す。
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:90%;white-space:nowrap"
!年度!!優勝!!勝!!敗!!分!!2位!!勝!!敗!!分!!3位!!勝!!敗!!分!!4位!!勝!!敗!!分!!5位!!勝!!敗!!分!!6位!!勝!!敗!!分!!7位!!勝!!敗!!分!!8位!!勝!!敗!!分
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1950年の日本プロ野球|1950]]
| bgcolor="#cccccc" |[[1950年の毎日オリオンズ|毎日]]||81||34||5
| bgcolor="#fbc700" |[[1950年の南海ホークス|南海]]||66||49||5
|[[1950年の大映スターズ|大映]]||62||54||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[1950年の阪急ブレーブス|阪急]]||54||64||2
|bgcolor="#87ceed"|[[1950年の西鉄クリッパース|西鉄]]||51||67||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[1950年の東急フライヤーズ|東急]]||51||69||
|bgcolor="#98d98e"|[[1950年の近鉄パールス|近鉄]]||44||72||4
|-
|[[1951年の日本プロ野球|1951]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1951年の南海ホークス|南海]]||72||24||8
|bgcolor="#87ceed"|[[1951年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||53||42||10
| bgcolor="#cccccc" |[[1951年の毎日オリオンズ|毎日]]||54||51||5
|[[1951年の大映スターズ|大映]]||41||52||8
| bgcolor="#00a3d9" |[[1951年の阪急ブレーブス|阪急]]||37||51||8
|bgcolor="#c8b88c"|[[1951年の東急フライヤーズ|東急]]||38||56||8
|bgcolor="#98d98e"|[[1951年の近鉄パールス|近鉄]]||37||56||5
|-
|[[1952年の日本プロ野球|1952]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1952年の南海ホークス|南海]]||76||44||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1952年の毎日オリオンズ|毎日]]||75||45||
|bgcolor="#87ceed"|[[1952年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||67||52||1
|[[1952年の大映スターズ|大映]]||55||65||1
| bgcolor="#00a3d9" |[[1952年の阪急ブレーブス|阪急]]||49||58||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[1952年の東急フライヤーズ|東急]]||49||59||
|bgcolor="#98d98e"|[[1952年の近鉄パールス|近鉄]]||30||78||
|-
|[[1953年の日本プロ野球|1953]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1953年の南海ホークス|南海]]||71||48||1
| bgcolor="#00a3d9" |[[1953年の阪急ブレーブス|阪急]]||67||52||1
|[[1953年の大映スターズ|大映]]||63||53||4
|bgcolor="#87ceed"|[[1953年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||57||61||2
| bgcolor="#cccccc" |[[1953年の毎日オリオンズ|毎日]]||56||62||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[1953年の東急フライヤーズ|東急]]||50||67||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1953年の近鉄パールス|近鉄]]||48||69||3
|-
|[[1954年の日本プロ野球|1954]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1954年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||90||47||3
| bgcolor="#fbc700" |[[1954年の南海ホークス|南海]]||91||49||
| bgcolor="#cccccc" |[[1954年の毎日オリオンズ|毎日]]||79||57||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1954年の近鉄パールス|近鉄]]||74||63||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[1954年の阪急ブレーブス|阪急]]||66||70||4
|[[1954年の高橋ユニオンズ|高橋]]||53||84||3
|bgcolor="#c8b88c"|[[1954年の東映フライヤーズ|東映]]||52||86||2
|[[1954年の大映スターズ|大映]]||43||92||5
|-
|[[1955年の日本プロ野球|1955]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1955年の南海ホークス|南海]]||99||41||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1955年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||90||50||4
| bgcolor="#cccccc" |[[1955年の毎日オリオンズ|毎日]]||85||55||2
| bgcolor="#00a3d9" |[[1955年の阪急ブレーブス|阪急]]||80||60||2
|bgcolor="#98d98e"|[[1955年の近鉄パールス|近鉄]]||60||80||2
|[[1955年の大映スターズ|大映]]||53||87||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[1955年の東映フライヤーズ|東映]]||51||89||3
|[[1955年のトンボユニオンズ|トンボ]]||42||98||1
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1956年の日本プロ野球|1956]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1956年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||96||51||7
| bgcolor="#fbc700" |[[1956年の南海ホークス|南海]]||96||52||6
| bgcolor="#00a3d9" |[[1956年の阪急ブレーブス|阪急]]||88||64||2
| bgcolor="#cccccc" |[[1956年の毎日オリオンズ|毎日]]||84||66||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1956年の近鉄パールス|近鉄]]||68||82||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[1955年の東映フライヤーズ|東映]]||58||92||4
|[[1956年の大映スターズ|大映]]||57||94||3
|[[1956年の高橋ユニオンズ|高橋]]||52||98||4
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1957年の日本プロ野球|1957]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1957年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||83||44||5
| bgcolor="#fbc700" |[[1957年の南海ホークス|南海]]||78||53||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1957年の毎日オリオンズ|毎日]]||75||52||5
| bgcolor="#00a3d9" |[[1957年の阪急ブレーブス|阪急]]||71||55||6
|bgcolor="#c8b88c"|[[1957年の東映フライヤーズ|東映]]||56||73||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1957年の近鉄パールス|近鉄]]||44||82||6
|[[1957年の大映ユニオンズ|大映]]||41||89||2
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1958年の日本プロ野球|1958]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1958年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||78||47||5
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| bgcolor="#00a3d9" |[[1958年の阪急ブレーブス|阪急]]||73||51||6
| bgcolor="#cccccc" |[[1958年の毎日大映オリオンズ|大毎]]||62||63||5
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|bgcolor="#98d98e"|[[1958年の近鉄パールス|近鉄]]||29||97||4
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1959年の日本プロ野球|1959]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1959年の南海ホークス|南海]]||88||42||4
| bgcolor="#cccccc" |[[1959年の毎日大映オリオンズ|大毎]]||82||48||6
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|bgcolor="#87ceed"|[[1959年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||66||64||14
| bgcolor="#00a3d9" |[[1959年の阪急ブレーブス|阪急]]||48||82||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1959年の近鉄バファロー|近鉄]]||39||91||3
|-
|[[1960年の日本プロ野球|1960]]
| bgcolor="#cccccc" |[[1960年の毎日大映オリオンズ|大毎]]||82||48||3
| bgcolor="#fbc700" |[[1960年の南海ホークス|南海]]||78||52||6
|bgcolor="#87ceed"|[[1960年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||70||60||6
| bgcolor="#00a3d9" |[[1960年の阪急ブレーブス|阪急]]||65||65||6
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|bgcolor="#98d98e"|[[1960年の近鉄バファロー|近鉄]]||43||87||1
|-
|[[1961年の日本プロ野球|1961]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1961年の南海ホークス|南海]]||85||49||6
|bgcolor="#c8b88c"|[[1961年の東映フライヤーズ|東映]]||83||52||5
|bgcolor="#87ceed"|[[1961年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||81||56||3
| bgcolor="#cccccc" |[[1961年の毎日大映オリオンズ|大毎]]||72||66||2
| bgcolor="#00a3d9" |[[1961年の阪急ブレーブス|阪急]]||53||84||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1961年の近鉄バファロー|近鉄]]||36||103||1
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1962年の日本プロ野球|1962]]
|bgcolor="#c8b88c"|[[1962年の東映フライヤーズ|東映]]||78||52||3
| bgcolor="#fbc700" |[[1962年の南海ホークス|南海]]||73||57||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1962年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||62||68||6
| bgcolor="#cccccc" |[[1962年の毎日大映オリオンズ|大毎]]||60||70||2
| bgcolor="#00a3d9" |[[1962年の阪急ブレーブス|阪急]]*||60||70||1
|bgcolor="#98d98e"|[[1962年の近鉄バファローズ|近鉄]]||57||73||1
|-
|[[1963年の日本プロ野球|1963]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1963年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||86||60||4
| bgcolor="#fbc700" |[[1963年の南海ホークス|南海]]||85||61||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[1963年の東映フライヤーズ|東映]]||76||71||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1963年の近鉄バファローズ|近鉄]]||74||73||3
| bgcolor="#cccccc" |[[1963年の毎日大映オリオンズ|大毎]]||64||85||1
| bgcolor="#00a3d9" |[[1963年の阪急ブレーブス|阪急]]||57||92||1
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1964年の日本プロ野球|1964]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1964年の南海ホークス|南海]]||84||63||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[1964年の阪急ブレーブス|阪急]]||79||65||6
|bgcolor="#c8b88c"|[[1964年の東映フライヤーズ|東映]]||78||68||4
| bgcolor="#cccccc" |[[1964年の東京オリオンズ|東京]]||77||68||5
|bgcolor="#87ceed"|[[1964年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||63||81||6
|bgcolor="#98d98e"|[[1964年の近鉄バファローズ|近鉄]]||55||91||4
|-
|[[1965年の日本プロ野球|1965]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1965年の南海ホークス|南海]]||88||49||3
|bgcolor="#c8b88c"|[[1965年の東映フライヤーズ|東映]]||76||61||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1965年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||72||64||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[1965年の阪急ブレーブス|阪急]]||67||71||2
| bgcolor="#cccccc" |[[1965年の東京オリオンズ|東京]]||62||74||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1965年の近鉄バファローズ|近鉄]]||46||92||2
|-
|[[1966年の日本プロ野球|1966]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1966年の南海ホークス|南海]]||79||51||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1966年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||75||55||8
|bgcolor="#c8b88c"|[[1966年の東映フライヤーズ|東映]]||70||60||6
| bgcolor="#cccccc" |[[1966年の東京オリオンズ|東京]]||61||69||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[1966年の阪急ブレーブス|阪急]]||57||73||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1966年の近鉄バファローズ|近鉄]]||48||82||3
|-
|[[1967年の日本プロ野球|1967]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1967年の阪急ブレーブス|阪急]]||75||55||4
|bgcolor="#87ceed"|[[1967年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||66||64||10
|bgcolor="#c8b88c"|[[1967年の東映フライヤーズ|東映]]||65||65||4
| bgcolor="#fbc700" |[[1967年の南海ホークス|南海]]||64||66||3
| bgcolor="#cccccc" |[[1967年の東京オリオンズ|東京]]||61||69||7
|bgcolor="#98d98e"|[[1967年の近鉄バファローズ|近鉄]]||59||71||2
|-
|[[1968年の日本プロ野球|1968]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1968年の阪急ブレーブス|阪急]]||80||50||4
| bgcolor="#fbc700" |[[1968年の南海ホークス|南海]]||79||51||6
| bgcolor="#cccccc" |[[1968年の東京オリオンズ|東京]]||67||63||9
|bgcolor="#98d98e"|[[1968年の近鉄バファローズ|近鉄]]||57||73||5
|bgcolor="#87ceed"|[[1968年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||56||74||3
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|-
|[[1969年の日本プロ野球|1969]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1969年の阪急ブレーブス|阪急]]||76||50||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1969年の近鉄バファローズ|近鉄]]||73||51||6
| bgcolor="#cccccc" |[[1969年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||69||54||7
|bgcolor="#c8b88c"|[[1969年の東映フライヤーズ|東映]]||57||70||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1969年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||51||75||4
| bgcolor="#fbc700" |[[1969年の南海ホークス|南海]]||50||76||4
|-
|[[1970年の日本プロ野球|1970]]
| bgcolor="#cccccc" |[[1970年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||80||47||3
| bgcolor="#fbc700" |[[1970年の南海ホークス|南海]]||69||57||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1970年の近鉄バファローズ|近鉄]]||65||59||6
| bgcolor="#00a3d9" |[[1970年の阪急ブレーブス|阪急]]||64||64||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[1970年の東映フライヤーズ|東映]]||54||70||6
|bgcolor="#87ceed"|[[1970年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||43||78||9
|-
|[[1971年の日本プロ野球|1971]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1971年の阪急ブレーブス|阪急]]||80||39||11
| bgcolor="#cccccc" |[[1971年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||80||46||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1971年の近鉄バファローズ|近鉄]]||65||60||5
| bgcolor="#fbc700" |[[1971年の南海ホークス|南海]]||61||65||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[1971年の東映フライヤーズ|東映]]||44||74||12
|bgcolor="#87ceed"|[[1971年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||38||84||8
|-
|[[1972年の日本プロ野球|1972]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1972年の阪急ブレーブス|阪急]]||80||48||2
|bgcolor="#98d98e"|[[1972年の近鉄バファローズ|近鉄]]||64||60||6
| bgcolor="#fbc700" |[[1972年の南海ホークス|南海]]||65||61||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[1972年の東映フライヤーズ|東映]]||63||61||6
| bgcolor="#cccccc" |[[1972年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||59||68||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1972年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||47||80||3
|-
!colspan=25|二期制開始
|-
|[[1973年の日本プロ野球|1973]]
| bgcolor="#fbc700" |★[[1973年の南海ホークス|南海]]||68||58||4
| bgcolor="#00a3d9" |☆[[1973年の阪急ブレーブス|阪急]]||77||48||5
| bgcolor="#cccccc" |[[1973年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||70||49||11
|bgcolor="#87ceed"|[[1973年の太平洋クラブライオンズ|太平洋]]||59||64||7
|bgcolor="#c8b88c"|[[1973年の日拓ホームフライヤーズ|日拓]]||55||69||6
|bgcolor="#98d98e"|[[1973年の近鉄バファローズ|近鉄]]||42||83||5
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1974年の日本プロ野球|1974]]
| bgcolor="#cccccc" |☆[[1974年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||69||50||11
| bgcolor="#00a3d9" |★[[1974年の阪急ブレーブス|阪急]]||69||51||10
| bgcolor="#fbc700" |[[1974年の南海ホークス|南海]]||59||55||16
|bgcolor="#87ceed"|[[1974年の太平洋クラブライオンズ|太平洋]]||59||64||7
|bgcolor="#98d98e"|[[1974年の近鉄バファローズ|近鉄]]||56||66||8
|bgcolor="#c8b88c"|[[1974年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||49||75||6
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1975年の日本プロ野球|1975]]
| bgcolor="#00a3d9" |★[[1975年の阪急ブレーブス|阪急]]||64||59||7
|bgcolor="#98d98e"|☆[[1975年の近鉄バファローズ|近鉄]]||71||50||9
|bgcolor="#87ceed"|[[1975年の太平洋クラブライオンズ|太平洋]]||58||62||10
| bgcolor="#cccccc" |[[1975年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||59||65||6
| bgcolor="#fbc700" |[[1975年の南海ホークス|南海]]||57||65||8
|bgcolor="#c8b88c"|[[1975年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||55||63||12
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1976年の日本プロ野球|1976]]
| bgcolor="#00a3d9" |★☆[[1976年の阪急ブレーブス|阪急]]||79||45||6
| bgcolor="#fbc700" |[[1976年の南海ホークス|南海]]||71||56||3
| bgcolor="#cccccc" |[[1976年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||63||56||11
|bgcolor="#98d98e"|[[1976年の近鉄バファローズ|近鉄]]||57||66||7
|bgcolor="#c8b88c"|[[1976年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||52||67||11
|bgcolor="#87ceed"|[[1976年の太平洋クラブライオンズ|太平洋]]||44||76||10
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1977年の日本プロ野球|1977]]
| bgcolor="#00a3d9" |★[[1977年の阪急ブレーブス|阪急]]||69||51||10
| bgcolor="#fbc700" |[[1977年の南海ホークス|南海]]||63||55||12
| bgcolor="#cccccc" |☆[[1977年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||60||57||13
|bgcolor="#98d98e"|[[1977年の近鉄バファローズ|近鉄]]||59||61||10
|bgcolor="#c8b88c"|[[1977年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||58||61||11
|bgcolor="#87ceed"|[[1977年のクラウンライターライオンズ|クラウン]]||49||73||8
|-
|[[1978年の日本プロ野球|1978]]
| bgcolor="#00a3d9" |★☆[[1978年の阪急ブレーブス|阪急]]||82||39||9
|bgcolor="#98d98e"|[[1978年の近鉄バファローズ|近鉄]]||71||46||13
|bgcolor="#c8b88c"|[[1978年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||55||63||12
| bgcolor="#cccccc" |[[1978年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||53||62||15
|bgcolor="#87ceed"|[[1978年のクラウンライターライオンズ|クラウン]]||51||67||12
| bgcolor="#fbc700" |[[1978年の南海ホークス|南海]]||42||77||11
|-
|[[1979年の日本プロ野球|1979]]
|bgcolor="#98d98e"|★[[1979年の近鉄バファローズ|近鉄]]||74||45||11
| bgcolor="#00a3d9" |☆[[1979年の阪急ブレーブス|阪急]]||75||44||11
|bgcolor="#c8b88c"|[[1979年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||63||60||7
| bgcolor="#cccccc" |[[1979年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||55||63||12
| bgcolor="#fbc700" |[[1979年の南海ホークス|南海]]||46||73||11
|bgcolor="#87ceed"|[[1979年の西武ライオンズ|西武]]||45||73||12
|-
|[[1980年の日本プロ野球|1980]]
|bgcolor="#98d98e"|☆[[1980年の近鉄バファローズ|近鉄]]||68||54||8
| bgcolor="#cccccc" |★[[1980年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||64||51||15
|bgcolor="#c8b88c"|[[1980年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||66||53||11
|bgcolor="#87ceed"|[[1980年の西武ライオンズ|西武]]||62||64||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[1980年の阪急ブレーブス|阪急]]||58||67||5
| bgcolor="#fbc700" |[[1980年の南海ホークス|南海]]||48||77||5
|-
|[[1981年の日本プロ野球|1981]]
|bgcolor="#c8b88c"|☆[[1981年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||68||54||8
| bgcolor="#00a3d9" |[[1981年の阪急ブレーブス|阪急]]||68||58||4
| bgcolor="#cccccc" |★[[1981年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||63||57||10
|bgcolor="#87ceed"|[[1981年の西武ライオンズ|西武]]||61||61||8
| bgcolor="#fbc700" |[[1981年の南海ホークス|南海]]||53||65||12
|bgcolor="#98d98e"|[[1981年の近鉄バファローズ|近鉄]]||54||72||4
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1982年の日本プロ野球|1982]]
|bgcolor="#87ceed"|★[[1982年の西武ライオンズ|西武]]||68||58||4
|bgcolor="#c8b88c"|☆[[1982年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||67||52||11
|bgcolor="#98d98e"|[[1982年の近鉄バファローズ|近鉄]]||63||57||10
| bgcolor="#00a3d9" |[[1982年の阪急ブレーブス|阪急]]||62||60||8
| bgcolor="#cccccc" |[[1982年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||54||69||7
| bgcolor="#fbc700" |[[1982年の南海ホークス|南海]]||53||71||6
|-
!colspan=25|二期制終了
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1983年の日本プロ野球|1983]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1983年の西武ライオンズ|西武]]||86||40||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[1983年の阪急ブレーブス|阪急]]||67||55||8
|bgcolor="#c8b88c"|[[1983年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||64||59||7
|bgcolor="#98d98e"|[[1983年の近鉄バファローズ|近鉄]]||52||65||13
| bgcolor="#fbc700" |[[1983年の南海ホークス|南海]]||52||69||9
| bgcolor="#cccccc" |[[1983年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||43||76||11
|-
|[[1984年の日本プロ野球|1984]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1984年の阪急ブレーブス|阪急]]||75||45||10
| bgcolor="#cccccc" |[[1984年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||64||51||15
|bgcolor="#87ceed"|[[1984年の西武ライオンズ|西武]]||62||61||7
|bgcolor="#98d98e"|[[1984年の近鉄バファローズ|近鉄]]||58||61||11
| bgcolor="#fbc700" |[[1984年の南海ホークス|南海]]||53||65||12
|bgcolor="#c8b88c"|[[1984年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||44||73||13
|-
|[[1985年の日本プロ野球|1985]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1985年の西武ライオンズ|西武]]||79||45||6
| bgcolor="#cccccc" |[[1985年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||64||60||6
|bgcolor="#98d98e"|[[1985年の近鉄バファローズ|近鉄]]||63||60||7
| bgcolor="#00a3d9" |[[1985年の阪急ブレーブス|阪急]]||64||61||5
|bgcolor="#c8b88c"|[[1985年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||53||65||12
| bgcolor="#fbc700" |[[1985年の南海ホークス|南海]]||44||76||10
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1986年の日本プロ野球|1986]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1986年の西武ライオンズ|西武]]||68||49||13
|bgcolor="#98d98e"|[[1986年の近鉄バファローズ|近鉄]]||66||52||12
| bgcolor="#00a3d9" |[[1986年の阪急ブレーブス|阪急]]||63||57||10
| bgcolor="#cccccc" |[[1986年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||57||64||9
|bgcolor="#c8b88c"|[[1986年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||57||65||8
| bgcolor="#fbc700" |[[1986年の南海ホークス|南海]]||49||73||8
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1987年の日本プロ野球|1987]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1987年の西武ライオンズ|西武]]||71||45||14
| bgcolor="#00a3d9" |[[1987年の阪急ブレーブス|阪急]]||64||56||10
|bgcolor="#c8b88c"|[[1987年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||63||60||7
| bgcolor="#fbc700" |[[1987年の南海ホークス|南海]]||57||63||10
| bgcolor="#cccccc" |[[1987年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||51||65||14
|bgcolor="#98d98e"|[[1987年の近鉄バファローズ|近鉄]]||52||69||9
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1988年の日本プロ野球|1988]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1988年の西武ライオンズ|西武]]||73||51||6
|bgcolor="#98d98e"|[[1988年の近鉄バファローズ|近鉄]]||74||52||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[1988年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||62||65||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[1988年の阪急ブレーブス|阪急]]||60||68||2
| bgcolor="#fbc700" |[[1988年の南海ホークス|南海]]||58||71||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1988年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||54||74||2
|-
|[[1989年の日本プロ野球|1989]]
|bgcolor="#98d98e"|[[1989年の近鉄バファローズ|近鉄]]||71||54||5
| bgcolor="#00a3d9" |[[1989年のオリックス・ブレーブス|オリックス]]||72||55||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1989年の西武ライオンズ|西武]]||69||53||8
| bgcolor="#fbc700" |[[1989年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||59||64||7
|bgcolor="#c8b88c"|[[1989年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||54||73||3
| bgcolor="#cccccc" |[[1989年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||48||74||8
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1990年の日本プロ野球|1990]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1990年の西武ライオンズ|西武]]||81||45||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[1990年のオリックス・ブレーブス|オリックス]]||69||57||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1990年の近鉄バファローズ|近鉄]]||67||60||3
|bgcolor="#c8b88c"|[[1990年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||66||63||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1990年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||57||71||2
| bgcolor="#fbc700" |[[1990年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||41||85||4
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1991年の日本プロ野球|1991]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1991年の西武ライオンズ|西武]]||81||43||6
|bgcolor="#98d98e"|[[1991年の近鉄バファローズ|近鉄]]||77||48||5
| bgcolor="#00a3d9" |[[1991年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||64||63||3
|bgcolor="#c8b88c"|[[1991年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||53||72||5
| bgcolor="#fbc700" |[[1991年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||53||73||4
| bgcolor="#cccccc" |[[1991年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||48||77||5
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1992年の日本プロ野球|1992]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1992年の西武ライオンズ|西武]]||80||47||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1992年の近鉄バファローズ|近鉄]]||74||50||6
| bgcolor="#00a3d9" |[[1992年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||61||64||5
| bgcolor="#fbc700" |[[1992年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||57||72||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[1992年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||54||73||3
| bgcolor="#cccccc" |[[1992年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||54||74||2
|-
|[[1993年の日本プロ野球|1993]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1993年の西武ライオンズ|西武]]||74||53||3
|bgcolor="#c8b88c"|[[1993年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||71||52||7
| bgcolor="#00a3d9" |[[1993年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||70||56||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1993年の近鉄バファローズ|近鉄]]||66||59||5
| bgcolor="#cccccc" |[[1993年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||51||77||2
| bgcolor="#fbc700" |[[1993年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||45||80||5
|-
|[[1994年の日本プロ野球|1994]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1994年の西武ライオンズ|西武]]||76||52||2
| bgcolor="#00a3d9" |[[1994年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||68||59||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1994年の近鉄バファローズ|近鉄]]||68||59||3
| bgcolor="#fbc700" |[[1994年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||69||60||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1994年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||55||73||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[1994年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||46||79||5
|-
|[[1995年の日本プロ野球|1995]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1995年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||82||47||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1995年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||69||58||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1995年の西武ライオンズ|西武]]||67||57||6
|bgcolor="#c8b88c"|[[1995年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||59||68||4
| bgcolor="#fbc700" |[[1995年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||54||72||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1995年の近鉄バファローズ|近鉄]]||49||78||3
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1996年の日本プロ野球|1996]]
| bgcolor="#00a3d9" |[[1996年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||74||50||6
|bgcolor="#c8b88c"|[[1996年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||68||58||4
|bgcolor="#87ceed"|[[1996年の西武ライオンズ|西武]]||62||64||4
|bgcolor="#98d98e"|[[1996年の近鉄バファローズ|近鉄]]||62||67||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1996年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||60||67||3
| bgcolor="#fbc700" |[[1996年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||54||74||2
|-
|[[1997年の日本プロ野球|1997]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1997年の西武ライオンズ|西武]]||76||56||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[1997年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||71||61||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1997年の近鉄バファローズ|近鉄]]||68||63||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[1997年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||63||71||1
| bgcolor="#fbc700" |[[1997年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]*||63||71||1
| bgcolor="#cccccc" |[[1997年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||57||76||2
|-
|[[1998年の日本プロ野球|1998]]
|bgcolor="#87ceed"|[[1998年の西武ライオンズ|西武]]||70||61||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[1998年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||67||65||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[1998年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||67||67||1
| bgcolor="#fbc700" |[[1998年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]*||66||66||3
|bgcolor="#98d98e"|[[1998年の近鉄バファローズ|近鉄]]||66||67||2
| bgcolor="#cccccc" |[[1998年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||61||71||3
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[1999年の日本プロ野球|1999]]
| bgcolor="#fbc700" |[[1999年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||78||54||3
|bgcolor="#87ceed"|[[1999年の西武ライオンズ|西武]]||75||59||1
| bgcolor="#00a3d9" |[[1999年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||68||65||2
| bgcolor="#cccccc" |[[1999年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||63||70||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[1999年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||60||73||2
|bgcolor="#98d98e"|[[1999年の大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||54||77||4
|-
|[[2000年の日本プロ野球|2000]]
| bgcolor="#fbc700" |[[2000年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||73||60||2
|bgcolor="#87ceed"|[[2000年の西武ライオンズ|西武]]||69||61||5
|bgcolor="#c8b88c"|[[2000年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||69||65||1
| bgcolor="#00a3d9" |[[2000年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||64||67||4
| bgcolor="#cccccc" |[[2000年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||62||67||6
|bgcolor="#98d98e"|[[2000年の大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||58||75||2
|-
|[[2001年の日本プロ野球|2001]]
|bgcolor="#98d98e"|[[2001年の大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||78||60||2
| bgcolor="#fbc700" |[[2001年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||76||63||1
|bgcolor="#87ceed"|[[2001年の西武ライオンズ|西武]]||73||67||
| bgcolor="#00a3d9" |[[2001年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||70||66||4
| bgcolor="#cccccc" |[[2001年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||64||74||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[2001年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||53||84||3
|-
|[[2002年の日本プロ野球|2002]]
|bgcolor="#87ceed"|[[2002年の西武ライオンズ|西武]]||90||49||1
|bgcolor="#98d98e"|[[2002年の大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||73||65||2
| bgcolor="#fbc700" |[[2002年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]*||73||65||2
| bgcolor="#cccccc" |[[2002年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||67||72||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[2002年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||61||76||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[2002年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||50||87||3
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2003年の日本プロ野球|2003]]
| bgcolor="#fbc700" |[[2003年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||82||55||3
|bgcolor="#87ceed"|[[2003年の西武ライオンズ|西武]]||77||61||2
|bgcolor="#98d98e"|[[2003年の大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||74||64||2
| bgcolor="#cccccc" |[[2003年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||68||69||3
|bgcolor="#c8b88c"|[[2003年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||62||74||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[2003年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||48||88||4
|-
!colspan=25|パシフィック・リーグ プレーオフ開始
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2004年の日本プロ野球|2004]]
|bgcolor="#87ceed"|[[2004年の西武ライオンズ|西武]]||74||58||1
| bgcolor="#fbc700" |[[2004年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||77||52||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[2004年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||66||65||2
| bgcolor="#cccccc" |[[2004年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||65||65||3
|bgcolor="#98d98e"|[[2004年の大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||61||70||2
| bgcolor="#00a3d9" |[[2004年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||49||82||2
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2005年の日本プロ野球|2005]]
| bgcolor="#cccccc" |[[2005年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||84||49||3
| bgcolor="#fbc700" |[[2005年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||89||45||2
|bgcolor="#87ceed"|[[2005年の西武ライオンズ|西武]]||67||69||
| bgcolor="#00a3d9" |[[2005年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||62||70||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[2005年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||62||71||3
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2005年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||38||97||1
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2006年の日本プロ野球|2006]]
|bgcolor="#c8b88c"|[[2006年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||82||54||
|bgcolor="#87ceed"|[[2006年の西武ライオンズ|西武]]||80||54||2
| bgcolor="#fbc700" |[[2006年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||75||56||5
| bgcolor="#cccccc" |[[2006年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||65||70||1
| bgcolor="#00a3d9" |[[2006年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||52||81||3
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2006年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||47||85||4
|-
!colspan=25|クライマックスシリーズ開始
|-
|[[2007年の日本プロ野球|2007]]
|bgcolor="#c8b88c"|[[2007年の北海道日本ハムファイターズ|'''日本ハム''']]||79||60||5
| bgcolor="#cccccc" |[[2007年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||76||61||7
| bgcolor="#fbc700" |[[2007年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||73||66||5
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2007年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||67||75||2
|bgcolor="#87ceed"|[[2007年の西武ライオンズ|西武]]||66||76||2
| bgcolor="#00a3d9" |[[2007年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||62||77||5
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2008年の日本プロ野球|2008]]
|bgcolor="#87ceed"|[[2008年の埼玉西武ライオンズ|'''西武''']]||76||64||4
| bgcolor="#00a3d9" |[[2008年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||75||68||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[2008年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||73||69||2
| bgcolor="#cccccc" |[[2008年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||73||70||1
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2008年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||65||76||3
| bgcolor="#fbc700" |[[2008年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||64||77||3
|-
|[[2009年の日本プロ野球|2009]]
|bgcolor="#c8b88c"|[[2009年の北海道日本ハムファイターズ|'''日本ハム''']]||82||60||2
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2009年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||77||66||1
| bgcolor="#fbc700" |[[2009年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||74||65||5
|bgcolor="#87ceed"|[[2009年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||70||70||4
| bgcolor="#cccccc" |[[2009年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||62||77||5
| bgcolor="#00a3d9" |[[2009年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||56||86||2
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2010年の日本プロ野球|2010]]
| bgcolor="#fbc700" |[[2010年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||76||63||5
|bgcolor="#87ceed"|[[2010年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||78||65||1
| bgcolor="#cccccc" |[[2010年の千葉ロッテマリーンズ|'''ロッテ''']]||75||67||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[2010年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||74||67||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[2010年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||69||71||4
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2010年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||62||79||3
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2011年の日本プロ野球|2011]]
| bgcolor="#fbc700" |[[2011年の福岡ソフトバンクホークス|'''ソフトB''']]||88||46||10
|bgcolor="#c8b88c"|[[2011年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||72||65||7
|bgcolor="#87ceed"|[[2011年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||68||67||9
| bgcolor="#00a3d9" |[[2011年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||69||68||7
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2011年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||66||71||7
| bgcolor="#cccccc" |[[2011年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||54||79||11
|-
|[[2012年の日本プロ野球|2012]]
|bgcolor="#c8b88c"|[[2012年の北海道日本ハムファイターズ|'''日本ハム''']]||74||59||11
|bgcolor="#87ceed"|[[2012年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||72||63||9
| bgcolor="#fbc700" |[[2012年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||67||65||12
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2012年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||67||67||10
| bgcolor="#cccccc" |[[2012年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||62||67||15
| bgcolor="#00a3d9" |[[2012年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||57||77||10
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2013年の日本プロ野球|2013]]
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2013年の東北楽天ゴールデンイーグルス|'''楽天''']]||82||59||3
|bgcolor="#87ceed"|[[2013年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||74||66||4
| bgcolor="#cccccc" |[[2013年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||74||68||2
| bgcolor="#fbc700" |[[2013年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||73||69||2
| bgcolor="#00a3d9" |[[2013年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||66||73||5
|bgcolor="#c8b88c"|[[2013年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||64||78||2
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2014年の日本プロ野球|2014]]
| bgcolor="#fbc700" |[[2014年の福岡ソフトバンクホークス|'''ソフトB''']]||78||60||6
| bgcolor="#00a3d9" |[[2014年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||80||62||2
|bgcolor="#c8b88c"|[[2014年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||73||68||3
| bgcolor="#cccccc" |[[2014年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||66||76||2
|bgcolor="#87ceed"|[[2014年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||63||77||4
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2014年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||64||80||
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2015年の日本プロ野球|2015]]
| bgcolor="#fbc700" |[[2015年の福岡ソフトバンクホークス|'''ソフトB''']]||90||49||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[2015年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||79||62||2
| bgcolor="#cccccc" |[[2015年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||73||69||1
|bgcolor="#87ceed"|[[2015年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||69||69||5
| bgcolor="#00a3d9" |[[2015年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||61||80||2
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2015年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||57||83||3
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2016年の日本プロ野球|2016]]
|bgcolor="#c8b88c"|[[2016年の北海道日本ハムファイターズ|'''日本ハム''']]||87||53||3
| bgcolor="#fbc700" |[[2016年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||83||54||6
| bgcolor="#cccccc" |[[2016年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||72||68||3
|bgcolor="#87ceed"|[[2016年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||64||76||3
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2016年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||62||78||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[2016年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||57||83||3
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2017年の日本プロ野球|2017]]
| bgcolor="#fbc700" |[[2017年の福岡ソフトバンクホークス|'''ソフトB''']]||94||49||
|bgcolor="#87ceed"|[[2017年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||79||61||3
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2017年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||77||63||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[2017年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||63||79||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[2017年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||60||83||
| bgcolor="#cccccc" |[[2017年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||54||87||2
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2018年の日本プロ野球|2018]]
|bgcolor="#87ceed"|[[2018年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||88||53||2
| bgcolor="#fbc700" |[[2018年の福岡ソフトバンクホークス|'''ソフトB''']]||82||60||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[2018年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||74||66||3
| bgcolor="#00a3d9" |[[2018年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||65||73||5
| bgcolor="#cccccc" |[[2018年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||59||81||3
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2018年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||58||82||3
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2019年の日本プロ野球|2019]]
|bgcolor="#87ceed"|[[2019年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||80||62||1
| bgcolor="#fbc700" |[[2019年の福岡ソフトバンクホークス|'''ソフトB''']]||76||62||5
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2019年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||71||68||4
| bgcolor="#cccccc" |[[2019年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||69||70||4
|bgcolor="#c8b88c"|[[2019年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||65||73||5
| bgcolor="#00a3d9" |[[2019年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||61||75||7
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2020年の日本プロ野球|2020]]
|bgcolor="#fbc700" |[[2020年の福岡ソフトバンクホークス|'''ソフトB''']]||73||42||5
|bgcolor="#cccccc" |[[2020年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||60||57||3
|bgcolor="#87ceed"|[[2020年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||58||58||4
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2020年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||55||57||8
|bgcolor="#c8b88c"|[[2020年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||53||62||5
|bgcolor="#00a3d9" |[[2020年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||45||68||7
|-
|[[2021年の日本プロ野球|2021]]
|bgcolor="#00a3d9" |[[2021年のオリックス・バファローズ|'''オリックス''']]||70||55||18
|bgcolor="#cccccc"|[[2021年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||67||57||19
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2021年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||66||62||15
|bgcolor="#fbc700" |[[2021年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||60||62||21
|bgcolor="#c8b88c"|[[2021年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||55||68||20
|bgcolor="#87ceed"|[[2021年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||55||70||18
|-
| bgcolor="#ffcccc" |[[2022年の日本プロ野球|2022]]
|bgcolor="#00a3d9" |[[2022年のオリックス・バファローズ|'''オリックス''']]||76||65||2
|bgcolor="#fbc700" |[[2022年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||76||65||2
|bgcolor="#87ceed"|[[2022年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||72||68||3
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2022年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||69||71||3
|bgcolor="#cccccc"|[[2022年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||69||73||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[2022年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||59||81||3
|-
|[[2023年の日本プロ野球|2023]]
|bgcolor="#00a3d9" |[[2023年のオリックス・バファローズ|'''オリックス''']] ||86||53||4
|bgcolor="#cccccc"|[[2023年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||70||68||5
|bgcolor="#fbc700"|[[2023年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトB]]||71||69||3
|bgcolor="#ff8e8e"|[[2023年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||70||71||2
|bgcolor="#87ceed"|[[2023年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||65||77||1
|bgcolor="#c8b88c"|[[2023年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||60||82||1
|}
※2022年、オリックスとソフトバンクの年間勝敗数・引分数が全て同数となって勝率が同率となったが、直接対決の成績(オリックス15勝10敗)の結果により([[パシフィック・リーグ#同一勝率発生時の順位決定方法|順位決定方法]]参照)オリックスが優勝となった。
== チーム別記録 ==
{{Notice|公平に数値表示を行うため、全球団の順位が確定するまで最新シーズンの結果は反映しないでください。}}
* 2023シーズン終了時点のデータ。データは各前身球団を含む。「Aク」はAクラス、「Bク」はBクラスを表す。
* '''太字'''の項目は最多数を表す。'''球団'''の列のソートボタンで元の順序に戻る。
* 二期制時代の順位は二期終了後の最終結果のみ反映している。
* 大映・高橋・近鉄の各球団は消滅しているため参考記録として扱う。
{| class="wikitable sortable" style="line-height:1.4em; font-size:85%; white-space:nowrap; text-align: right"
|-style="vertical-align:bottom; line-height:1.1em; white-space:nowrap;"
!style="padding-top:5px"|球団!!1位!!2位!!3位!!Aク計!!4位!!5位!!6位!!7位<br />8位!!Bク計
|-style="line-height:1em; white-space:nowrap;"
|-
|align="left"|{{Display none|01/}}[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||7||8||'''16'''||31||7||'''20'''||'''14'''||'''2'''||43
|-
|align="left"|{{Display none|02/}}[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||1||1||3||5||5||3||6||0||14
|-
|align="left"|{{Display none|03/}}[[埼玉西武ライオンズ|西武]]||'''23'''||12||15||'''50'''||9||8||7||0||24
|-
|align="left"|{{Display none|04/}}[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||5||11||14||30||'''18'''||17||9||0||'''44'''
|-
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|align="left"|{{Display none|06/}}[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||19||'''20'''||8||47||9||8||10||0||27
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|- style="background-color:#e6e6e6;"
|align="left"|{{Display none|08/}}[[高橋ユニオンズ|高橋]]||0||0||0||0||0||0||1||2||3
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|align="left"|{{Display none|09/}}[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||4||9||8||21||9||5||16||4||34
|}
== 「実力のパ」 ==
[[読売ジャイアンツ]]・[[阪神タイガース]]を始めとする人気球団を多く擁するセントラル・リーグが「''人気のセ''」と言われることに対して、ここ数年の日本シリーズの成績、交流戦の勝ち越し、オールスターゲームの勝利数、対抗意識などから「'''実力のパ'''」といわれている。
交流戦が開始されて以降は、常にパ・リーグのチームが上位を占めていることが多く<ref group="注">なお、交流戦開始以降は「交流戦で優勝するのも毎年パ・リーグのチーム」という状況が続いていたが、2012年に[[読売ジャイアンツ]]が交流戦開始以後では初のセ・リーグで交流戦を制覇したチームとなり、2年後の2014年も交流戦を制している。また2018年に[[東京ヤクルトスワローズ]]が交流戦を制覇した。</ref>、2010年に至っては交流戦上位6球団全てがパ・リーグのチームであったように、2010年代にはパ・リーグの優位が特に顕著であった。
さらに、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]においては、[[2020年の日本シリーズ]]で[[2019年の日本シリーズ|前年]]の4勝0敗に続きソフトバンクが4勝0敗で連続優勝したため、パ・リーグの209勝202敗8引分となった他、シリーズ対戦成績がセ・リーグ側優勝35回、パ・リーグ側優勝36回となり、パ・リーグが通算対戦成績を逆転する結果となった。
この理由について[[指名打者]]制度の有無に理由を求める向きもある<ref>https://www.chunichi.co.jp/article/29755</ref>。また、MLBに進出した本格派先発投手にパ・リーグ出身者が多かったことも、その論を補強した。但し巷間言われるような球速の差は、データ上は否定されている<ref>https://full-count.jp/2021/01/25/post1032406/</ref>。
== 営業施策 ==
パ・リーグ各球団は[[セントラル・リーグ]]のように観客収入を対巨人戦や対阪神戦に依存することが出来ないため、観客増を図るべく下記のような対策も実施している。
パ・リーグでは指名打者制(DH制)を導入しており、8人の野手と指名打者及び投手のスタメンで構成されている。
=== ファンサービス ===
現在、[[福岡ソフトバンクホークス]]は、観客動員数でNPB全12球団でセ・リーグの[[読売ジャイアンツ]]・[[阪神タイガース]]に次ぐ3位でパ・リーグトップの観客動員数を誇る。また北海道に本拠地を移転した日本ハムや東北地方の大都市・[[仙台市|仙台]]を本拠地とする楽天などの台頭もあるが、特に[[オリックス・バファローズ]]などは、それ以上にテレビ・ラジオ放映が少ないため、放映権料の収入はわずかである。そのため、パ・リーグ全6球団では更なる観客増を狙うべく積極的なファンサービスを行っている。
パ・リーグ各球団の[[ファンクラブ]]は、ジュニア会員にホームで内外野自由席無料、ビジターで外野席無料の特典を設けている(例外が東北楽天ゴールデンイーグルスと福岡ソフトバンクホークスのホームゲーム時)。これらの特典は、セ・リーグ球団では[[広島東洋カープ]]がホームの内野自由席無料(地方主催の場合は外野自由席)を[[東京ヤクルトスワローズ]]がホームの外野自由席無料を行なっているだけ(ちなみに球団が運営に直接関わるファンクラブも[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]が[[1973年]]に結成したのが日本初)。過去には、[[パ・リーグオールスター東西対抗]]が11月に開催された(1981-2006)。
また、スタジアム内でも、[[福岡ドーム|福岡PayPayドーム]]や[[西武ドーム|ベルーナドーム]]の勝利の花火、[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]での特定曜日花火、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]のお好み焼きタイム等、観客を野球以外で楽しませるための演出や入場者へのホームチーム[[ノベルティ]]プレゼント、各試合ごとのイベント(ホームチーム地元在住者は証明出来れば内外野自由席無料、サラリーマンは500円、女性は1000円等)を行った。[[日本のプロ野球のマスコットガール・チアリーディングチーム一覧|チアリーディングチーム]]は全ての球団に存在し、2022年には[[札幌ドーム]]での'''「[[きつねダンス]]」'''が社会現象ともなる人気を博すなど、各球団がさまざまな営業努力を払っている。この結果、平日のナイターでも多くの観客を動員するまでに至っている。
各球団のホームスタジアムでは7回裏にホームチームの球団歌を流すだけでなく、7回表にビジターチームの球団歌を流している。また、以前はすべてのスタジアムでビジターチームが勝利した場合でも[[ヒーローインタビュー]]を場内に流していたが、[[北海道日本ハムファイターズ]]のホームゲームでは大多数を占める日本ハムファンの心情に配慮してかビジターチームのヒーローインタビューは原則場内に流さないようになっている<ref group="注">例外もある。詳細は[[田中将大]]の項を参照。</ref>。(2014年途中より、ビジターチームのヒーローインタビューも場内に流れるようになった。)
=== 動画配信サービス ===
{{Main|パ・リーグTV}}
近年ではインターネットへの情報掲載や[[インターネットテレビ|動画配信]]が非常に盛んであり、IT系の資本であるソフトバンクや楽天はもちろん、ロッテや日本ハムも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。
[[2007年]](平成19年)[[5月14日]]にはパ・リーグ6球団の共同事業による株式会社「[[パシフィックリーグマーケティング]](PLM)」が設立され、2008年シーズンからは西武、オリックスが参加するとともに、同シーズンからはパ・リーグ6球団が個別で運用管理してきた公式ウェブサイト・携帯向けウェブサイトをPLMが一括管理し、パ・リーグ主催試合は「パ・リーグ 熱球ライブ!」という番組名で[[Yahoo!動画の野球中継]]により無料で配信されることになった(交流戦ではパ・リーグ主催試合のみ配信)。その後、諸事情により2010年には有料会員制の「パ・リーグライブTV」に移行。2012年には「パ・リーグTV」と名称が変更され、2013年にはパ・リーグオフィシャルスポンサー(特別協賛)に就任した株式会社[[モブキャスト]]が協賛スポンサーとなった。
また、[[2009年]](平成21年)8月からは[[ニコニコ生放送]]で楽天主催試合の一部を配信開始。[[2010年]](平成22年)からはソフトバンクの主催試合も配信開始されるようになり、2011年からは地方開催試合も含む主催試合全試合が生中継で配信されるようになった。
[[携帯電話]]向けの動画サービスでも日本ハム、ロッテ、西武、ソフトバンクの4球団が2006年6月に「プロ野球24」を開始して主催試合を[[NTTドコモ]]・[[SoftBank (携帯電話)|ソフトバンク]]の従来型携帯電話向けに動画配信している。2007年シーズンからは楽天が加わり、2008年シーズンからはオリックスも参加するとともに、経営体制もPLMへ移管された。
2009年(平成20年)6月から、当時[[J SPORTS]]で主催ゲームを放送していた4チーム(西武、ロッテ、オリックス、ソフトバンク)の試合ダイジェストやヒーローインタビューの動画を「パ・リーグチャンネル」と題して[[YouTube]]で配信している。同年8月からは、楽天が[[ニコニコ動画]]において同内容の動画配信を開始している。また、西武は独自にYouTubeに公式チャンネルを設け、イベントなどの様子を配信している。2010年(平成21年)からは楽天、日本ハムもYouTube配信を開始し、パ・リーグ全チームの動画が配信されるようになった。
=== マンデー・パ・リーグ ===
[[2001年]](平成13年)から[[2005年]](平成17年)まで実施されたパシフィック・リーグの毎週[[月曜日]]開催の公式戦の愛称である。
長年、毎週月曜日は[[セントラル・リーグ]]も含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日や学校の長期休暇時の開催や、地方開催が関係した変則日程や、シーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。
しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年(平成13年)から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。このためパ・リーグでは毎週[[木曜日]]を原則休養(あるいは予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、[[火曜日|火]]・[[水曜日|水]]の2連戦となるケースが一般的だった。ただし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多かった。また月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送する放送局が、[[J SPORTS]]・[[NHK衛星第1テレビジョン|NHK BS1]]などの衛星放送や[[文化放送]]、[[大阪放送|ラジオ大阪]]、[[RKBラジオ]]、[[KBCラジオ]]など普段からパ・リーグの試合を中継している局以外ではほとんど無く<ref group="注">[[朝日放送ラジオ]]・[[MBSラジオ]]・[[中国放送]]の様に、1980年代前期まで試合開催時の月曜ナイターのレギュラー編成を組んでいた時代がありながら、マンデー・パ・リーグ実施時には既に地元球団(朝日放送ラジオ・MBSラジオ=[[阪神タイガース]]、中国放送=[[広島東洋カープ]])の関与する試合以外の放送を打ち切っていた局もある(朝日放送ラジオ・毎日放送は在阪パ・リーグ球団主催試合についてはビジター地元局への裏送りのみ対応)。</ref>、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。
[[セ・パ交流戦]]が実現したことで[[2005年]](平成17年)を最後に廃止された。
==名称の由来==
1950年のベースボール・マガジン新年特大号で[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]の猿丸理事が質問に答え、アメリカ横断鉄道のセントラルとトランス・パシフィックからそれぞれリーグ名をつけたと語った記事が載った。しかしこれは理事が取材記者の質問をはぐらかして答えたもので、実際には国際的な視野に立つことを謳いパシフィックという名称がつけられた。一方のセントラルは、日本プロ野球の中心を自負して決められた名称である<ref name="ベースボールマガジン6月30日" />。
==低勝率罰金制度==
低勝率罰金制度とは[[1953年]]にパシフィック・リーグ理事会総裁・[[永田雅一]]の考案した制度で、シーズン勝率が.350を割った球団から罰金500万円を徴収する制度である。
[[1954年]]に永田の球団である[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]が勝率.319で第1号となった。翌[[1955年]]に[[高橋ユニオンズ|トンボユニオンズ]]が勝率.300で第2号となった(これがきっかけで[[トンボ鉛筆]]は球団スポンサーを降り、翌年から球団名が[[高橋ユニオンズ]]に戻った。)。
なお、この制度は[[1956年]]に廃止となった。
== 各球団監督 ==
{{main2|歴代監督|日本のプロ野球監督一覧}}
{{NPBパシフィック・リーグ監督}}
== 歴代リーグ会長(代表者) ==
(1950年から1958年までは各球団の持ち回り)
* 初代:[[大川博]]([[東映]]社長/東急フライヤーズ・東映フライヤーズオーナー)
(専任職移行後)
* 2代目:[[中澤不二雄]](1959年 - 1965年/野球解説者)
* 3代目:[[松浦晋]](1965年 - 1968年)
* 4代目:[[岡野祐]](1968年 - 1978年/元阪急ブレーブス代表)
* 5代目:[[工藤信一良]](1978年 - 1981年/元[[毎日新聞社]]副社長)
* 6代目:[[福島慎太郎]](1983年 - 1987年/元毎日オリオンズ、[[共同通信社]]、[[ジャパンタイムズ]]社長、元[[防衛施設庁|調達庁]]長官)
* 7代目:[[堀新助]](1987年 - 1991年/元駐イタリア・駐ポーランド大使)
* 8代目:[[原野和夫]](1991年 - 2000年/元[[時事通信社]]社長)
* 9代目:[[小池唯夫]](2000年 - 2008年/元毎日新聞社社長)【リーグ会長職廃止により退任】
=== リーグ運営部長 ===
* 初代:[[花井史朗光]](2009年 - )
== 逸話 ==
* 1980年代当時のパ・リーグの不人気ぶりは[[コンピュータゲーム]]にも反映されており、セ・リーグが6球団すべて収録される一方、パ・リーグは連合チームが多く見受けられた。
** [[任天堂]]が[[1983年]]に発売した[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]用ソフト『[[ベースボール (ファミコン)|ベースボール]]』では、モチーフがセ・リーグ6球団のみ<ref group="注">その一方、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]をモチーフとした北米版は[[アメリカンリーグ]]([[オークランド・アスレチックス]]・[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]・[[ニューヨーク・ヤンキース]])と[[ナショナルリーグ]]([[セントルイス・カージナルス]]・[[ロサンゼルス・ドジャース]]・[[フィラデルフィア・フィリーズ]])から3球団ずつが選出されている。</ref>。
** [[エポック社]]が[[1984年]]に発売した[[スーパーカセットビジョン]]用ソフト『スーパーベースボール』では、パ・リーグをモデルとしたチームは[[北海道日本ハムファイターズ|F]]・[[福岡ソフトバンクホークス|H]]・[[埼玉西武ライオンズ|L]]の3チームが登場しているが、BとOは[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]と[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]ではなく、[[アトランタ・ブレーブス]]と[[ボルチモア・オリオールズ]]がモデルとなっている。
** ナムコ(後の[[バンダイナムコエンターテインメント]])が[[1986年]]に発売した『[[プロ野球ファミリースタジアム]]』では、ソフト容量の問題から、パ・リーグをモデルとしたチームのうち単独チームは[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]をモデルにした「ライオネルズ」のみ。他の5球団は、親会社が[[鉄道事業者]]の「[[レイルウェイズ|レールウェイズ]]」([[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]・阪急ブレーブスがモデルの連合)、親会社が食品会社の「[[フーズフーズ]]」([[日本ハムファイターズ]]とロッテオリオンズがモデルの連合)にまとめられた。翌[[1987年]]の『[[プロ野球ファミリースタジアム'87]]』では、阪急ブレーブスがモデルの「ブラボーズ」が独立した<ref group="注">データ上はロッテオリオンズがモデルの「オリエンツ」も存在するが、デモ画面のみの登場で操作・対戦は不可となっている。</ref>。
** [[カプコン]]が[[1989年]]に発売した[[アーケードゲーム]]『[[CAPCOMベースボール 助っ人外人大暴れ!]]』では、西武ライオンズに相当するチームは「ライオネッツ」として単独で収録されていたが、他の5チームは連合チームとされた(日本ハム・ロッテの連合チームをモチーフとした「オールイースタン」と、近鉄・オリックス・[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]の連合チームをモチーフとした「オールウェスタン」)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
=== 参考文献 ===
* 「ベースボールマガジン」2009年11月号「パ・リーグ60年 魂の物語」(ベースボールマガジン社刊)
== 関連項目 ==
{{commonscat|Pacific League}}
* [[セントラル・リーグ]]
* [[セ・パ交流戦]]
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]
* [[クライマックスシリーズ]]
* [[日本選手権シリーズ]]
* [[パシフィック・リーグ個人タイトル獲得者一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.npb.jp/pl/ パシフィック・リーグ] - NPB.jp 日本野球機構
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七姫物語
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七姫物語(ななひめものがたり)は、高野和による日本のライトノベル。イラストは尾谷おさむが担当。電撃文庫(メディアワークス→アスキー・メディアワークス)にて2003年2月から2011年6月まで刊行された。2019年1月から、メディアワークス文庫で新装版が刊行開始。イラスト(表紙のみ)はA・Sが担当している。
第一作は第9回電撃ゲーム小説大賞金賞受賞作品で、高野のデビュー作。『このライトノベルがすごい!』作品部門では2005年版で6位を、同女性キャラクター部門では2005年版で空澄が7位をそれぞれ獲得している。
「東和」と呼ばれる地域に分布する7つの主要都市が、それぞれ先王の隠し子といわれる「姫」を擁立し割拠する世界を舞台とする異世界ファンタジー。野心家の青年トエルとテンの2人によって、新興都市カセンの姫として祭り上げられた孤児院の少女「空澄(カラスミ)」の生き方を描く。
各姫の()内は、作中の講談などでの呼び名で、ひいては民衆による各宮姫の愛称のようなもの。
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七姫物語(ななひめものがたり)は、高野和による日本のライトノベル。イラストは尾谷おさむが担当。電撃文庫(メディアワークス→アスキー・メディアワークス)にて2003年2月から2011年6月まで刊行された。2019年1月から、メディアワークス文庫で新装版が刊行開始。イラスト(表紙のみ)はA・Sが担当している。 第一作は第9回電撃ゲーム小説大賞金賞受賞作品で、高野のデビュー作。『このライトノベルがすごい!』作品部門では2005年版で6位を、同女性キャラクター部門では2005年版で空澄が7位をそれぞれ獲得している。 「東和」と呼ばれる地域に分布する7つの主要都市が、それぞれ先王の隠し子といわれる「姫」を擁立し割拠する世界を舞台とする異世界ファンタジー。野心家の青年トエルとテンの2人によって、新興都市カセンの姫として祭り上げられた孤児院の少女「空澄(カラスミ)」の生き方を描く。
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|タイトル= 七姫物語
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'''七姫物語'''(ななひめものがたり)は、[[高野和]]による[[日本]]の[[ライトノベル]]。イラストは[[尾谷おさむ]]が担当。[[電撃文庫]]([[メディアワークス]]→[[アスキー・メディアワークス]])にて2003年2月から2011年6月まで刊行された。2019年1月から、[[メディアワークス文庫]]で新装版が刊行開始。イラスト(表紙のみ)はA・Sが担当している。
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「東和」と呼ばれる地域に分布する7つの主要都市が、それぞれ先王の隠し子といわれる「姫」を擁立し割拠する世界を舞台とする[[ハイ・ファンタジー |異世界ファンタジー]]。野心家の青年トエルとテンの2人によって、新興都市カセンの姫として祭り上げられた孤児院の少女「空澄(カラスミ)」の生き方を描く。
== あらすじ ==
{{要あらすじ}}
== 登場人物 ==
各姫の()内は、作中の講談などでの呼び名で、ひいては民衆による各宮姫の愛称のようなもの。
=== 一宮シンセン ===
:元々の東和の首都。東和の都市の中で最も人口が多い。長い歴史と強大な力を持つが故に、内部は各種の派閥に分裂しており、その統制に苦心している。
; 黒曜姫(黒姫、星姫)
: 七人の姫の中でただ一人「先王」直系の娘とされる。長大な黒衣と異国風の黒帽子を好み、とても長い黒髪を持つ。何人も存在する影姫を身代わりに置き、自らはクロハと名を偽り他の宮都市を旅し、東和再編の準備を進める。常に笑みを浮かべ、人をからかうような言動を好むが、冷静に物事を計算し、二手三手先を見て行動する智謀の持ち主。間接的に他の宮姫全員と会っており、特にカラスミを気に入っている。
; 長老
: シンセンの議会に長老として君臨する評議員。見識ある人物であり、黒曜姫及びその配下とも比較的友好関係にある。
===二宮スズマ===
:首都シンセンの隣に位置する。真都同盟の中心地であり真都とも呼ばれ、長きに渡り一宮シンセンと対立関係にある。
; 翡翠姫(時姫)
: 翡翠色の法衣の姫。自分と二宮のもと東和をまとめ、一宮の支配から脱した新たな東和を造ろうとしている。本人は「真姫」と名乗り、一宮に対抗する「真都同盟」から絶大な支持を受けている。弱者に対する優しさと強い信念を併せ持つとして人々に慕われる。また権威はあるが実権を持たないことが一般的な宮姫としては珍しく、自ら先頭に立って政策を進めている。
; 大師
: スズマ及び真都同盟の最高指導者でもある老人。翡翠姫の実の祖父であり、その手腕によって真都同盟を繁栄に導いた絶大なカリスマを持つ人物。
; 破軍王ヴィイ
: 大陸の実力者である北帝の弟。東和に流れてきたところを翡翠姫に拾われてスズマの軍司令官となる。型破りな行動で翡翠姫を悩ませもするが、彼女のその性質を好ましく思っており、その支えたらんとしている。
===三宮ナツメ===
:鉱山都市。辺境の地にあり、鉱物以外の資源に乏しく、繁栄を求めてツヅミに先んじる形で独立を宣言した。
; 常磐姫(永姫)
: 常磐色の羽織を着た姫。武家の家柄という生まれもあり、男らしい性格と言葉遣いである。「七人の宮姫の中で最も苛烈」と言われるが、実際は素直で頑固な性格。剣も相当の腕前である。
; キリハ・ラサ
: かつては四宮ツヅミに属した地方武家の当主。四宮解体後、七宮カセンからの誘いを蹴り常磐姫に仕える事となった。
===四宮ツヅミ===
:人と物が行き交う主要都市の一つ。三宮ナツメと七宮カセンを繋ぐ街道上に位置しており、両都市との交易で栄えている。
; 琥珀姫(華姫)
: 「七人の宮姫の中で最も美しい」と言われている。
===五宮クラセ/六宮マキセ===
:湖の湖畔で水都として繁栄し、相互扶助の同盟を組む双子都市。政治・経済・文化のあらゆる面において密接な交流があり、対外的には双子都市としての同盟旗を掲げて行動することも多い。
; 浅黄姫(水姫)
: 五宮クラセの宮姫。萌黄姫の実の姉であり、外見は瓜二つ。穏やかな人柄だが、宮姫として東和の時勢に臨む際には厳しい表情も見せる。強大な都市による統一ではなく、七都市の協調と共存という有り方を望んでいる。
; 萌葱姫(香姫)
: 六宮マキセの宮姫。浅黄姫の実の妹であり、外見は瓜二つ。姉と同じく穏やかな人柄で知られる。東和の七都市は、必要以上の干渉をしあうことなく共存していくのが望ましいと考えている。
; ハルセ・サイ
: 父の死により双子都市の有力商家であるサイ家の当主となった青年。叔父夫妻の後援の元、二人の宮姫の使者として各地を巡る。
===七宮カセン===
:東和の西端に位置する新興都市
; 空澄姫(空姫)
: 七姫物語の中心人物。七人の宮姫の中でも最年少である。空澄姫のお側付き見習いと偽りカラカラとしてトエやテン、ヒカゲと街に出ることもある。カラカラと空澄姫の二つの役を演じている。世界を見たいと思っている。
; 左大臣トエル・タウ
: 空澄姫の補佐役。穏やかな人柄だが、空澄曰く一番の嘘つき。蔑称でタウ・トエとも呼ばれる。
; 東征将軍テン・フオウ
: トエルと違いお調子者な性格だが、東和一の実力を誇る。こちらも嘘つきで大ほらふき。蔑称でフオ・テンとも呼ばれる。
; 衣装役
: かつては本名の日向姫(ヒナタヒメ)の名で宮姫を務めた女性。トエやテンとは古くからの付き合いがあり、宮姫として擁立されることとなったカラを不憫に思い、本名を隠して衣装役として協力することとなった。
; ヒカゲ
: テンに拾われ空澄の護衛をしている少年。普段は姿を見せず、隠れて行動しているが、空姫がカラカラとして街に出るときは一緒に行動することも多い。隠密、密偵としてはずば抜けた技量を持ち、戦闘力も高い。口数は、少ないを通り越して無口だが、人付き合いは悪くない。空澄をはじめテンやトエからも信頼されている。甘党。
===その他===
; エヅ・ヨウト
: 七姫全員を見たいという夢を持つ絵師の青年。妙にテンや破軍王のような物騒な人間に気に入られやすく、トラブルによく巻き込まれる。
== 用語 ==
; 東和
: 物語の舞台。地理的に言えば大陸本土から山脈で隔たれた半島という表現が近いが、そう呼べないほど小さい。南、東に尖っている。大河が中心を流れる。
; 宮姫
: 本来は、東和の王位が空位の際に祭司を代行すべく、王族の未婚の娘から選ばれる地位。現在は各有力地方都市が独立の象徴として、象徴君主的意味合いで七名擁立されており、公的にはいずれも前王の隠し子とされる。
: 元来あくまで祭祀代行者であり、政治的な権限は持たず、引退後は俗世から離れ隠遁する物ではあるが、七姫動乱に際して擁立された宮姫の中には、自ら実権を振るう者もある。
== 既刊一覧 ==
* 高野和(著) / 尾谷おさむ(イラスト)、メディアワークス→アスキー・メディアワークス〈電撃文庫〉、全6巻
** 『七姫物語』2003年2月10日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200301000225/ |title=七姫物語 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-11-23}}</ref>、{{ISBN2|4-8402-2265-7}}
** 『七姫物語 第二章 世界のかたち』2004年1月10日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200312000085/ |title=七姫物語 第二章 世界のかたち |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-11-23}}</ref>、{{ISBN2|4-8402-2574-5}}
** 『七姫物語 第三章 姫影交差』2005年5月10日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200504000114/ |title=七姫物語 第三章 姫影交差 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-11-23}}</ref>、{{ISBN2|4-8402-3045-5}}
** 『七姫物語 第四章 夏草話』2006年9月10日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200608000100/ |title=七姫物語 第四章 夏草話 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-11-23}}</ref>、{{ISBN2|4-8402-3561-9}}
** 『七姫物語 第五章 東和の模様』2008年4月10日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200803000466/ |title=七姫物語 第五章 東和の模様 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-11-23}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-867018-0}}
** 『七姫物語 第六章 ひとつの理想』2011年6月10日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/201102000335/ |title=七姫物語 第六章 ひとつの理想 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-11-23}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-870552-3}}
* 高野和(著) / 'A・S(イラスト)『七姫物語 東和国秘抄 〜四季姫語り、言紡ぎの空〜』 KADOKAWA〈メディアワークス文庫〉、2019年1月25日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321808000314/ |title=七姫物語 東和国秘抄 〜四季姫語り、言紡ぎの空〜 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-11-23}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-912222-0}}
== 文庫未収録作品 ==
* 七姫物語 挿話 向日葵の光景(電撃hp SPECIAL 2004 SPRING掲載)
* 七姫物語 東和紀行 晩夏、そして早風(電撃hp SPECIAL 2004 AUTUMN掲載)
== 脚注 ==
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{{電撃小説大賞
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|作品名= 七姫物語
|著者= 高野和
|前回受賞作1= なし
|次回受賞作1= 我が家のお稲荷さま。
|次回受賞者1= 柴村仁
|同時受賞作= バッカーノ!
|同時受賞者= 成田良悟
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フィレモンへの手紙
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『フィレモンへの手紙』(フィレモンへのてがみ)は新約聖書中の一書で、使徒パウロによってフィレモン(ピレモン)、および姉妹アフィア、戦友アルキポ、ならびに(コロサイにある)フィレモンの家の教会にあてて(フィレモンへの手紙2節)書かれた書簡である。19世紀の聖書学者フェルディナント・クリスティアン・バウアがパウロのものであることに疑いを示したことで知られるが、現在ではほぼ疑いなくパウロの手によるものであると考えられている。現存するパウロ書簡の中ではもっとも短く25節しかない。『ピレモンへの手紙』、『フィリモンに達する書』とも表記される。
本書簡は、エフェソスにおいて獄中にあったパウロが、紀元53年頃に協力者フィレモンと二人の仲間(アフィアとアルキポ)およびフィレモンの家の教会にあてて記したものである。『コロサイの信徒への手紙』によれば、フィレモンはコロサイの共同体のメンバーであったと思われる。ただ『コロサイ書』の真筆性には疑問が残る。偽書とした場合、『コロサイ書』は本書を単に模倣したとする説もあるが、その成立はかなり早いと推定されるのでこうした関係を否定できないとする説もある。フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一であるとしてフィレモンがコロサイ書を執筆したという説もある。この書簡の登場人物は、フィレモンとアフィア以外はすべてコロサイの信徒への手紙にも登場している。
この書簡でパウロはフィレモンの奴隷であったオネシモ(オネシモス、ギリシア語で「役に立つ」の意)なる人物への配慮を求めている。詳しい事情は文面から知りえないが、オネシモは一度「役に立たないもの」としてフィレモンのもとを離れたが、彼を再び迎え入れてほしいというのがパウロの願いである。
聖書学者たちの見解はオネシモが主人のもとを逃亡したのだろうということである。もっとも田川建三はそれを否定している。さらに逃亡生活の中でパウロに出会い、キリスト教徒になったと考えられる。当然フィレモンは逃げたオネシモのことを良く思っていなかったが、パウロはキリスト教徒として二人を和解させようと考えている。
近年はゲルト・タイセン(英語版)、市川喜一らによって、逃亡奴隷説ではなく「オネシモは主人との間に立って問題を収めてくれる人物としてパウロを頼って来た」とする調停依頼説が出されている。
パウロ書簡は詳細な事情については書かないことが多い。この手紙でもパウロはオネシモの件を解決するため、フィレモンの「キリスト者としての愛」に訴えている。パウロはオネシモのフィレモンに対する借りを自分のものにしてくれるよう頼むことで帳消しにするとともに、フィレモンもまたパウロに借りがあることを想起させる。パウロはオネシモが信仰に入ったことで、新たな身分になったとし、オネシモが「奴隷でなく愛する兄弟として」フィレモンの元に戻れるよう配慮している。
パウロがフィレモンに何を望んでいたかということは、オネシモを許すこと、奴隷から解放すること、宣教者としてパウロの弟子とすることなど諸説がある。パウロにとって福音が「奴隷制度」という当時当たり前だった社会構造にくさびを打ち込むものと考えていたと見るものもいる。
コロサイの信徒への手紙4章9節によれば、同書が偽書だとしてもオネシモはその後パウロの周辺での奉仕者となったと考えられる。アンティオキアのイグナティオスは2世紀初頭のエフェソス司教としてオネシモという名前をあげているが、オネシモは奴隷の名前としてありふれたものだったので同一人物と断定するのは難しい。一方エフェソス司教オネシモが後日パウロ書簡集を蒐集しその最後にこの書をおいたとする説もある。またハリスンらはオネシモをエフェソ書の著者と考えている。
内容は特定の所用のために書かれたものであるので、『フィレモン書』が神学や思想にほとんど触れていないことは無理もない。マルティン・ルターは『フィレモン書』をパウロとキリストに共通する「ゆるし」という視点からとらえているが、ルターもこの手紙でパウロが社会制度の変革を考えているとは考えなかった。
しかし近年考えられていることは、「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ(10)」から、この手紙はパウロの後継者指名に関するものであるということである。「監禁中にもうけた」を洗礼ととる説もあるが、オネシモが家の教会の管理者の奴隷であることを鑑みれば、パウロと会った時に未受洗であったとは考えにくい。「わたしの心であるオネシモ(12)」はパウロと子弟的になっていることを髣髴させる。しかしオネシモはいまだフィレモンの奴隷である。「彼があなたに何か損害を与えたり(18)」は職務上の過失を仮定的に書いているのかもしれないし、オネシモが無能奴隷ということではない。「以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています(11)」は、キリストという語呂を含んでおり、「キリストのために役立たなかったものが役立つものとなった」ということであろう。事実コロサイの信徒への手紙では、オネシモはパウロに近いキリスト奉仕者として登場している。そうなると、この手紙の目的の必須の事項はオネシモの奴隷からの解放であり、「わたしが言う以上のことさえ(21)」はキリストの奉仕者として立てさせることであろう。そして、パウロの願いはいずれも適っているのである。
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『フィレモンへの手紙』(フィレモンへのてがみ)は新約聖書中の一書で、使徒パウロによってフィレモン(ピレモン)、および姉妹アフィア、戦友アルキポ、ならびに(コロサイにある)フィレモンの家の教会にあてて(フィレモンへの手紙2節)書かれた書簡である。19世紀の聖書学者フェルディナント・クリスティアン・バウアがパウロのものであることに疑いを示したことで知られるが、現在ではほぼ疑いなくパウロの手によるものであると考えられている。現存するパウロ書簡の中ではもっとも短く25節しかない。『ピレモンへの手紙』、『フィリモンに達する書』とも表記される。
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{{新約聖書}}
『'''フィレモンへの手紙'''』(フィレモンへのてがみ)は、[[新約聖書]]中の一書で、[[使徒]][[パウロ]]によって[[フィレモン]](ピレモン)、および姉妹アフィア、戦友アルキポ、ならびに(コロサイにある)フィレモンの家の教会にあてて(フィレモンへの手紙2節)書かれた書簡である。[[19世紀]]の聖書学者[[フェルディナント・クリスティアン・バウア]]がパウロのものであることに疑いを示したことで知られるが、現在ではほぼ疑いなくパウロの手によるものであると考えられている。現存するパウロ書簡の中ではもっとも短く25節しかない。『'''ピレモンへの手紙'''』、『'''フィリモンに達する書'''』とも表記される。
== 書簡の内容について ==
本書簡は、[[エフェソス]]において獄中にあったパウロが、紀元[[53年]]頃に協力者フィレモンと二人の仲間(アフィアとアルキポ)およびフィレモンの家の教会にあてて記したものである。『[[コロサイの信徒への手紙]]』によれば、フィレモンは[[コロサイ]]の共同体のメンバーであったと思われる。ただ『コロサイ書』の真筆性には疑問が残る。偽書とした場合、『コロサイ書』は本書を単に模倣したとする説もあるが、その成立はかなり早いと推定されるのでこうした関係を否定できないとする説もある。フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一であるとしてフィレモンがコロサイ書を執筆したという説もある<ref>[https://www.christiantoday.co.jp/articles/28028/20200507/paul-philemon-onesimus-15.htm パウロとフィレモンとオネシモ|「コロサイ書・エフェソ書」―誰が書いたのか]</ref>。この書簡の登場人物は、[[フィレモン]]とアフィア以外はすべて[[コロサイの信徒への手紙]]にも登場している。
この書簡でパウロはフィレモンの奴隷であったオネシモ(オネシモス、[[ギリシア語]]で「役に立つ」の意)なる人物への配慮を求めている。詳しい事情は文面から知りえないが、オネシモは一度「役に立たないもの」としてフィレモンのもとを離れたが、彼を再び迎え入れてほしいというのがパウロの願いである。
聖書学者たちの見解はオネシモが主人のもとを逃亡したのだろうということである。もっとも田川建三はそれを否定している<ref>新約聖書訳と注4、429p</ref>。さらに逃亡生活の中でパウロに出会い、キリスト教徒になったと考えられる。当然フィレモンは逃げたオネシモのことを良く思っていなかったが、パウロはキリスト教徒として二人を和解させようと考えている。
近年は{{仮リンク|ゲルト・タイセン|en|Gerd_Theissen}}、市川喜一<ref>[http://www.tenryo.net/m3_book.php?p=11&q=012 天旅|奴隷も自由人もない]</ref>らによって、逃亡奴隷説ではなく「オネシモは主人との間に立って問題を収めてくれる人物としてパウロを頼って来た」とする調停依頼説が出されている。
パウロ書簡は詳細な事情については書かないことが多い。この手紙でもパウロはオネシモの件を解決するため、フィレモンの「キリスト者としての愛」に訴えている。パウロはオネシモのフィレモンに対する借りを自分のものにしてくれるよう頼むことで帳消しにするとともに、フィレモンもまたパウロに借りがあることを想起させる。パウロはオネシモが信仰に入ったことで、新たな身分になったとし、オネシモが「奴隷でなく愛する兄弟として」フィレモンの元に戻れるよう配慮している。
パウロがフィレモンに何を望んでいたかということは、オネシモを許すこと、奴隷から解放すること、宣教者としてパウロの弟子とすることなど諸説がある。パウロにとって福音が「奴隷制度」という当時当たり前だった社会構造にくさびを打ち込むものと考えていたと見るものもいる。
コロサイの信徒への手紙4章9節によれば、同書が偽書だとしてもオネシモはその後パウロの周辺での奉仕者となったと考えられる。[[アンティオキアのイグナティオス]]は[[2世紀]]初頭のエフェソス[[司教]]としてオネシモという名前をあげているが、オネシモは奴隷の名前としてありふれたものだったので同一人物と断定するのは難しい。一方エフェソス[[司教]]オネシモが後日パウロ書簡集を蒐集しその最後にこの書をおいたとする説もある<ref>[http://www.tenryo.net/m3_book.php?p=11&q=013 天旅|パウロ書簡集とオネシモ]</ref>。またハリスンらはオネシモをエフェソ書の著者と考えている<ref name="paul-philemon-onesimus37">[https://www.christiantoday.co.jp/articles/29297/20210401/paul-philemon-onesimus-37.htm パウロとフィレモンとオネシモ37|クリスチャントゥデイコラム]</ref>。
== 特徴 ==
内容は特定の所用のために書かれたものであるので、『フィレモン書』が神学や思想にほとんど触れていないことは無理もない。[[マルティン・ルター]]は『フィレモン書』をパウロとキリストに共通する「ゆるし」という視点からとらえているが、ルターもこの手紙でパウロが社会制度の変革を考えているとは考えなかった。
しかし近年考えられていることは、「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ(10)」から、この手紙はパウロの後継者指名に関するものであるということである。「監禁中にもうけた」を洗礼ととる説もあるが、オネシモが家の教会の管理者の奴隷であることを鑑みれば、パウロと会った時に未受洗であったとは考えにくい。「わたしの心であるオネシモ(12)」はパウロと子弟的になっていることを髣髴させる。しかしオネシモはいまだフィレモンの奴隷である。「彼があなたに何か損害を与えたり(18)」は職務上の過失を仮定的に書いているのかもしれないし、オネシモが無能奴隷ということではない。「以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています(11)」は、キリストという語呂を含んでおり、「キリストのために役立たなかったものが役立つものとなった」ということであろう。事実[[コロサイの信徒への手紙]]では、オネシモはパウロに近いキリスト奉仕者として登場している。そうなると、この手紙の目的の必須の事項はオネシモの奴隷からの解放であり、「わたしが言う以上のことさえ(21)」はキリストの奉仕者として立てさせることであろう。そして、パウロの願いはいずれも適っているのである。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[パウロ書簡]]
== 外部リンク ==
{{Wikisource|ピレモンへの手紙(口語訳)}}
{{Wikisource|ピレモンへの書(文語訳)}}
*[https://www.christiantoday.co.jp/topics/paul-philemon-onesimus/ 「パウロとフィレモンとオネシモ」クリスチャントゥデイコラム]
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大東急
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大東急(だいとうきゅう)とは、陸上交通事業調整法による戦時統制下の東京急行電鉄を指す言葉。五島慶太がその総帥。
1942年(昭和17年)、東京横浜電鉄は陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、同じ五島慶太が経営していた小田急電鉄および京浜電気鉄道を合併。さらに、1944年(昭和19年)には京王電気軌道を合併。また1945年(昭和20年)には子会社で経営基盤が脆弱であった相模鉄道の経営を受託。その営業範囲は東横の元々のテリトリーであった東京市南西部および川崎・横浜に加え、八王子や町田・府中など東京多摩地域の中央本線より南側や、小田原・横須賀など神奈川県の大部分に及ぶものとなった。大東急時代の鉄道路線は、現在の東急電鉄のものに加え、京王電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄・相模鉄道に該当する。
さらには、以下の企業をその傘下に収めた。
太平洋戦争後、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)および過度経済力集中排除法が公布されたが、鉄道事業者である大東急は適用対象外となった。しかし鶴川一郎(後の小田急バス社長)を筆頭に旧小田急電鉄従業員を中心とした分離独立を求める動きが旧小田急のみならず旧京王・旧京浜でも高まり、企業分割を巡り社内が混乱した。さらに大東急の路線は私鉄の中でとりわけ空襲による被害が大きく、これをすべて復旧する資金を一企業が調達するのには限界があった。結局、公職追放を受けていた五島慶太は、会社を分けることで東急各線の復旧が早まると判断し、この意を受けた大川博(当時専務)の案により会社は再編成され、1948年(昭和23年)6月1日、京王・小田急・京急の3社が分離独立し、ほぼ1939年(昭和14年)当時の東京横浜電鉄の路線のみが東急の路線として残り、現在の形となった。
それ以外の私鉄も統合前の形に基本的には復することになったが、鉄道路線では元小田急電鉄の帝都線であった井の頭線が京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の所属となったり、バス路線でも旧東横乗合の路線のうち京王線以北が京王帝都電鉄に、東海道本線より海側が京浜急行電鉄の所属となったように、若干の変化はあった。
東京急行電鉄の直系前身となる会社は、デベロッパー・田園都市株式会社の開発した分譲地と省線(現在のJR)を結ぶための鉄道線として1922年(大正11年)に設立された目黒蒲田電鉄(目蒲電鉄)である。翌1923年(大正12年)に目黒 - 蒲田間(目蒲線、後の目黒線および東急多摩川線となる)を開業したが、それと並行する形で池上電気鉄道が1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)にかけて蒲田 - 五反田間の路線を開業させた。これにより、両者は競合関係になる。付帯事業である乗合バスまで含めた競争は、目蒲代表者の五島慶太が池上電鉄の大口出資者である東京川崎財閥を口説き落として、1934年(昭和9年)に漸く併呑する形で収拾、池上電鉄の路線は自社の池上線とした。この「敵を身内にしてしまう」やり方は、主に株式の買い占めを図ることで行われた。
次いで、目蒲の姉妹会社である(旧)東京横浜電鉄(東横電鉄、現在の東横線の母体)と、玉川電気鉄道(玉電、後の田園都市線の一部と世田谷線の母体)が渋谷開発を巡り衝突した。東横電鉄の東横百貨店開業に対抗し、玉電は二幸を誘致して玉電食堂ビルを建設した。また、東横乗合と玉電バスも路線が錯綜し競合していた。玉電は東横に対抗すべく、路線が隣接しておりかつ同じ井上篤太郎が経営していた京王電気軌道と結託した。このような対立関係が続く中、五島はまた東京高速鉄道の建設といった案件を抱えており、同社渋谷駅を建設するためには、玉電の協力が不可欠であった。こうして、五島は玉電の大株主である千代田生命保険に働きかけ、大量の同社株式を取得した。これで企業乗っ取りは成功し、1936年(昭和11年)玉電は東横電鉄に合併された。また、これで東横電鉄と京王は関係会社同士になったが、五島と井上は依然として敵対関係であり、手を携えるどころか、逆に主として乗合バス事業の面で大いに対立していた。
上記でも触れた東京高速鉄道(後に帝都高速度交通営団を経て現在の東京地下鉄)は、渋谷 - 新橋 - 東京間の地下鉄建設を行う会社として、大倉財閥を背景に設立された会社で、東横電鉄の経営で実績のあった五島が常務(事実上の代表者)に迎えられた。五島は、東京高速鉄道の新橋以東の路線をすでに浅草 - 神田 - 新橋間で開業していた東京地下鉄道と結んだ方が良いと判断し、先方と交渉に及び直通することで合意したが、東京地下鉄道側は京浜電気鉄道と結んで京浜地下鉄道を設立し、新橋から品川方面への延伸計画を発表した。
約束を反故にされた形の五島は、直ちに東京地下鉄道の提携先である京浜電気鉄道株式の買い占めにかかり、まず同社の大株主であった前山久吉(内国貯金銀行頭取で、後に衆議院議員となった森美秀の義父)から株式を譲り受け、次いで同社の実力者である望月軍四郎の説得に当たった。これには前山や鬼怒川水力電気の利光鶴松も荷担し、三者による再三にわたる説得に漸く望月も応じることになり、1939年(昭和14年)4月東京高速鉄道が京浜電気鉄道ならびに姉妹会社である湘南電気鉄道・東京地下鉄道を傘下に収めることになった。
なお、東横電鉄と京浜電鉄は川崎乗合自動車の経営を巡って争ったことがあり、また大森地区や江ノ島地区で乗合バス事業が競合していた。また、目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄を合併して名称を逆に(新)東京横浜電鉄に改称し、京浜電気鉄道もまた湘南電気鉄道・湘南半島自動車を合併。統制経済に伴う企業の集約化が進んだ(東横電鉄を略して東横と呼び、一時は子会社の社名に東急ではなく東横が使われたこともある)。これら一連の企業買収、企業乗っ取りで五島はその手腕の強烈さから、苗字をもじって強盗慶太との異名をとった。 鬼怒川水力電気の利光鶴松は上記の通り、五島の良き理解者であったが、自らが手掛けた山東半島の金鉱開発事業が経営上大きな負担となり、また主業であった電力事業が国家買収されたため、以降は採算の乏しい小田急電鉄だけとなってしまった。利光は同社の先行きは不透明であるが、高齢もあって自らの手での再建は難しいと考えた。このため引退を決意し、事業の一切を五島に引き継ぐこととした。
こうして1941年(昭和16年)9月、五島は小田急社長に迎えられ、同社の再建を担うことになった。
東横・京浜・小田急の3電鉄は全く異なる沿革を持ちながら、同一人物が経営することとなったため、経営の合理化と陸上交通事業調整法の趣旨に則って、合併することとなった。1942年(昭和17年)5月1日、三社合併が成立して「大東急」が誕生した。このとき、東横の一株主から「小田急の如き業績の悪い会社と1対1の比率で合併するのは企業価値を損ねる。」と反対されている。
陸上交通事業調整法の指定では、中央線以南が一ブロックとなっていたが、この地区では東急のほかには京王が存続していた。両社は関係会社であったが、既述の通り実態は反目し合う仲であった。京王の大株主は大日本電力の穴水熊雄であったが、穴水は以前東京地下鉄道株を五島に譲渡したこともあり、今回も五島に京王株を譲渡することに異存はなかった。しかしながら、穴水も事実上の実力者である井上篤太郎の意向を無視できず、結局五島は井上の説得にかかった。これまでも井上は「我が城(京王)は小さくともダイヤモンドだ。東京急行は規模はでかいかも知れないが瓦礫の山だ。」と言って合併話に取り合わなかったものの、戦時統制の波に京王が抗しきることはできず井上も合併を了承。1944年(昭和19年)5月31日遂に京王電気軌道は東急に合併した。
中央線以南ブロックでは、このほかに南武鉄道・鶴見臨港鉄道などの浅野財閥系の電鉄会社があった。南武鉄道も東急の関係会社ではあったが、京王同様実態は競合関係にあった。五島は南武の主要株主にも役員にもなっていたが、旧東京横浜電鉄と南武との協力関係はほとんどなかった。鶴見臨港鉄道は旧京浜電気鉄道とは関係があったが、旧東京横浜電鉄とは川崎乗合自動車の経営権を巡って対立関係にあった。浅野系電鉄会社各社は戦時買収で省線に組み入れられたため、大東急に加わることはなかった(ただし、この買収を仕掛けたのは東條英機に請われて運輸通信大臣に就任していた五島である)。
五島の公職追放やそれに伴う終戦後の処理が後手に回る等、大東急は経営が行き詰っていた。東急本社では、戦災復旧、郊外への人口移動による輸送力増強などの喫緊の課題が山積し、資金調達問題も絡み、買収・合併により編入した各線が東急本社の重荷になっていた。ここで東急社内や労働組合でも、事業規模を適正化して戦後復興を早めるべきとの声があがり、東急本社は大東急の分割再編成を決定するに至った。
1948年(昭和23年)に大東急から京急・小田急・京王の3社が分離することとなった。
なお、経営民主化を目的として一部傘下企業については、大東急の解体前後に東急の持株を当該企業の役職員が買い取って、大東急傘下から独立した。この中にはのちに再び東急グループに復する会社(のちの日本貨物急送となる厚木通運など)や、一応独立するがしばらく東急の衛星企業で推移した会社(静岡鉄道・関東バス・神奈川都市交通 など)、独立後小田急の傘下に入った会社(江ノ島電鉄・神中興業)、完全独立を果たした会社(相模鉄道・東部ネットワーク・王子運送 など)などがある。日本交通のように、その後も名目上東急グループに長期間籍を置きながら、この時期に事実上独立を果たしていた会社もある。
1945年6月1日時点。
いずれも京浜急行電鉄が継承したが久里浜線延長部(湘南久里浜駅 - 飯森駅間)以外は未成に終わっている。
なおこの他に、川崎線(八丁畷駅 - 川崎駅 - 京浜川崎駅 - 旧小美屋前、砂子一丁目 - 砂子二丁目、八丁畷駅 - 京町 - 日ノ出町(現・朝日町) - 富士電機前、八丁畷駅 - 池田町 - 京町北角(京町一丁目) - 京町南角(京町二丁目) - 平安町南角 - 平安町北角 - 池田町 - 八丁畷駅、平安町南角 - 平安町(ゴム通り入口)、京町 - 京町南角) 、相武台線(南林間駅 - 相武台前駅、相武台前駅 - 士官学校前 - 新戸 - 相武台前駅、小田急相模原駅 - 国立病院)があり、運休中のまま前者は京浜急行電鉄、後者は小田急電鉄がそれぞれ継承したが、いずれも運行再開されることなくそのまま廃止された。なお、前者沿線は川崎鶴見臨港バス(京急系)、後者沿線は神奈川中央交通(小田急系)の手により、いずれも代替に近い形で運行されている。
大東急成立時に車両番号が旧各社で重複するため、一斉に改番を行った。車両の一覧は大東急の鉄道車両一覧を参照。
大東急再編成後も、引継後の各社は大東急時代の車番を継承した。すなわち、小田急旧1000系、京王旧1000系(井の頭線)旧2000系(京王線)、東急旧3000系などである。なお、京浜急行は5000を引いた車番で継承した。京急230形などがそれである。
また、再編成後の4社とも電動車の記号として「デハ」を使用しているほか、再編成後の車両も東急車輛製造(現・JR東日本傘下の総合車両製作所)で生産された。
|
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"text": "大東急(だいとうきゅう)とは、陸上交通事業調整法による戦時統制下の東京急行電鉄を指す言葉。五島慶太がその総帥。",
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"text": "1942年(昭和17年)、東京横浜電鉄は陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、同じ五島慶太が経営していた小田急電鉄および京浜電気鉄道を合併。さらに、1944年(昭和19年)には京王電気軌道を合併。また1945年(昭和20年)には子会社で経営基盤が脆弱であった相模鉄道の経営を受託。その営業範囲は東横の元々のテリトリーであった東京市南西部および川崎・横浜に加え、八王子や町田・府中など東京多摩地域の中央本線より南側や、小田原・横須賀など神奈川県の大部分に及ぶものとなった。大東急時代の鉄道路線は、現在の東急電鉄のものに加え、京王電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄・相模鉄道に該当する。",
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"text": "太平洋戦争後、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)および過度経済力集中排除法が公布されたが、鉄道事業者である大東急は適用対象外となった。しかし鶴川一郎(後の小田急バス社長)を筆頭に旧小田急電鉄従業員を中心とした分離独立を求める動きが旧小田急のみならず旧京王・旧京浜でも高まり、企業分割を巡り社内が混乱した。さらに大東急の路線は私鉄の中でとりわけ空襲による被害が大きく、これをすべて復旧する資金を一企業が調達するのには限界があった。結局、公職追放を受けていた五島慶太は、会社を分けることで東急各線の復旧が早まると判断し、この意を受けた大川博(当時専務)の案により会社は再編成され、1948年(昭和23年)6月1日、京王・小田急・京急の3社が分離独立し、ほぼ1939年(昭和14年)当時の東京横浜電鉄の路線のみが東急の路線として残り、現在の形となった。",
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大東急(だいとうきゅう)とは、陸上交通事業調整法による戦時統制下の東京急行電鉄を指す言葉。五島慶太がその総帥。
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{{基礎情報 会社
|社名 = 東京急行電鉄株式会社
|ロゴ = [[File:TKK logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京府]][[東京市]][[渋谷区]]大和田町1<ref name="NDLDC1184231"/><!--大和町とあるが誤植か-->
|設立 = [[1922年]](大正11年)9月2日<ref name="NDLDC1184231"/>
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|事業内容 = 旅客鉄道事業、バス事業、不動産 他<ref name="NDLDC1184231"/>
|代表者 = 社長 [[五島慶太]]<ref name="NDLDC1184231"/>
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|特記事項 = 上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在<ref name="NDLDC1184231">[{{NDLDC|1184231/27}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
[[File:Tokyu1945.JPG|200px|thumb|渋谷のマンホールに「大東急」解体後も残る、大東急時代の東急社章(2008年)]]
'''大東急'''(だいとうきゅう)とは、[[陸上交通事業調整法]]による戦時統制下の'''東京急行電鉄'''<ref group="注釈">2019年10月以降、法人格上は[[東急]]、鉄道事業者としては[[東急電鉄]]に相当する。</ref>を指す言葉<ref name="tokyu257">[[#50th|50年史]]、pp.257-259。</ref>。[[五島慶太]]がその総帥<ref name="tokyu257"/>。
== 概要 ==
[[1942年]]([[昭和]]17年)、[[東京横浜電鉄]]<ref group="注釈">[[1910年]]に武蔵電気鉄道として設立された旧社ではなく、[[1922年]]に[[目黒蒲田電鉄]]として設立された「新社」の方である。</ref>は陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、同じ五島慶太が経営していた[[小田急電鉄]]および[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]を合併<ref name="tokyu261">[[#50th|50年史]]、pp.261-268。</ref>。さらに、[[1944年]](昭和19年)には[[京王電鉄|京王電気軌道]]を合併<ref name="tokyu269">[[#50th|50年史]]、pp.269-274。</ref>。また[[1945年]](昭和20年)には子会社で経営基盤が脆弱であった[[相模鉄道]]の経営を受託<ref name="tokyu289">[[#50th|50年史]]、pp.289-290。</ref>。その営業範囲は東横の元々のテリトリーであった[[東京市]]南西部および[[川崎市|川崎]]・[[横浜市|横浜]]に加え、[[八王子市|八王子]]や[[町田町|町田]]・[[府中町 (東京都)|府中]]など東京[[多摩地域]]の[[中央本線]]より南側や、[[小田原市|小田原]]・[[横須賀市|横須賀]]など神奈川県の大部分に及ぶものとなった<ref name="tokyu269"/>。大東急時代の鉄道路線は、現在の[[東急電鉄]]のものに加え、[[京王電鉄]]・小田急電鉄・[[京浜急行電鉄]]・相模鉄道に該当する<ref name="tokyu269"/>。
さらには、以下の企業をその傘下に収めた。
* 東京都南西部と多摩南部・神奈川県全域・静岡県中部および群馬県草津・長野県軽井沢地区の私鉄
** [[江ノ島電鉄|江ノ島電気鉄道]]<ref name="tokyu275">[[#50th|50年史]]、pp.275-284。</ref>、[[箱根登山鉄道]](法人は現・[[小田急箱根ホールディングス]])<ref name="tokyu275"/>、[[静岡鉄道]]<ref name="tokyu275"/>、[[大山観光電鉄大山鋼索線|大山鋼索鉄道]]<ref name="tokyu275"/>、[[草軽電気鉄道]](現・[[草軽交通]])<ref>[[#50th|50年史]]、p.513。</ref>
* バス路線
** 関東乗合自動車(現・[[関東バス]])<ref name="tokyu276">[[#50th|50年史]]、pp.276-279。</ref>、東都乗合自動車(現・[[国際興業バス]])<ref name="tokyu276"/>、東海道乗合自動車・藤沢自動車・伊勢原自動車<ref name="tokyu276"/>(統合し神奈川中央乗合自動車、現・[[神奈川中央交通]])
* 上記の私鉄バス事業および子会社、タクシー会社
** [[日本交通 (東京都)|日本交通]]<ref name="tokyu276"/>、[[神奈川都市交通]]
* 陸運会社
** 品川運送・城南運送・東横運送・東京砂利運送・厚木通運・相鉄運輸<ref name="tokyu279">[[#50th|50年史]]、pp.279-280。</ref>(以上、現・[[SBSロジコム]])
** 横浜西部運送・小田原運送・平塚運送・相模運送・横須賀運送<ref name="tokyu279"/>(以上、現・[[SBSフレイトサービス]])
** 横浜東部運送(現・[[東部ネットワーク]])、[[東京福山通運|王子運送]]、城北運送<ref name="tokyu279"/>
[[太平洋戦争]]後、[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]]([[独占禁止法]])および[[過度経済力集中排除法]]が公布されたが、鉄道事業者である大東急は適用対象外となった<ref>[[#50th|50年史]]、pp.373-374。</ref>。しかし鶴川一郎(後の[[小田急バス]]社長)を筆頭に旧小田急電鉄従業員を中心とした分離独立を求める動きが旧小田急のみならず旧京王・旧京浜でも高まり、企業分割を巡り社内が混乱した<ref>[[#50th|50年史]]、pp.381-383。</ref>。さらに大東急の路線は私鉄の中でとりわけ[[空襲]]による被害が大きく、これをすべて復旧する資金を一企業が調達するのには限界があった。結局、[[公職追放]]を受けていた五島慶太は、会社を分けることで東急各線の復旧が早まると判断し、この意を受けた[[大川博]](当時専務)の案により会社は再編成され、[[1948年]](昭和23年)[[6月1日]]、京王・小田急・京急の3社が分離独立し、ほぼ[[1939年]](昭和14年)当時の[[東急電鉄|東京横浜電鉄]]の路線のみが東急の路線として残り、現在の形となった<ref name="tokyu393">[[#50th|50年史]]、pp.393-395。</ref>。
それ以外の私鉄も統合前の形に基本的には復することになったが、鉄道路線では元小田急電鉄の帝都線であった[[京王井の頭線|井の頭線]]が京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の所属となったり<ref>[[#50th|50年史]]、pp.385-386。</ref>、バス路線でも旧東横乗合の路線のうち[[京王線]]以北が京王帝都電鉄に、[[東海道本線]]より海側が京浜急行電鉄の所属となったように、若干の変化はあった。
== 成立と崩壊の経緯 ==
東京急行電鉄の直系前身となる会社は、[[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]・[[田園都市株式会社]]の開発した分譲地と省線(現在のJR)を結ぶための鉄道線として[[1922年]]([[大正]]11年)に設立された[[目黒蒲田電鉄]](目蒲電鉄)である。翌[[1923年]](大正12年)に目黒 - 蒲田間([[東急目蒲線|目蒲線]]、後の[[東急目黒線|目黒線]]および[[東急多摩川線]]<!--これは社名も路線名に含まれる-->となる)を開業したが、それと並行する形で[[池上電気鉄道]]が1922年(大正11年)から[[1928年]](昭和3年)にかけて蒲田 - 五反田間の路線を開業させた<ref name="tokyu167">[[#50th|50年史]]、pp.167-176。</ref>。これにより、両者は競合関係になる<ref name="tokyu167"/>。付帯事業である乗合バスまで含めた競争は、目蒲代表者の五島慶太が池上電鉄の大口出資者である[[東京川崎財閥]]を口説き落として、[[1934年]](昭和9年)に漸く併呑する形で収拾、池上電鉄の路線は自社の[[東急池上線|池上線]]とした<ref name="tokyu168">[[#50th|50年史]]、pp.167-168。</ref>。この「敵を身内にしてしまう」やり方は、主に株式の買い占めを図ることで行われた<ref name="tokyu168"/>。
次いで、目蒲の姉妹会社である(旧)[[東京横浜電鉄]](東横電鉄、現在の[[東急東横線|東横線]]の母体)と、[[東急玉川線|玉川電気鉄道]](玉電、後の[[東急田園都市線|田園都市線]]の一部と[[世田谷線]]の母体)が渋谷開発を巡り衝突した。東横電鉄の[[東急百貨店|東横百貨店]]開業に対抗し、玉電は[[二幸]]を誘致して玉電食堂ビルを建設した<ref>[[#50th|50年史]]、pp.187-188。</ref>。また、東横乗合と玉電バスも路線が錯綜し競合していた。玉電は東横に対抗すべく、路線が隣接しておりかつ同じ[[井上篤太郎]]が経営していた京王電気軌道と結託した<ref name="tokyu269-271">[[#50th|50年史]]、pp.269-271。</ref>。このような対立関係が続く中、五島はまた東京高速鉄道の建設といった案件を抱えており、同社渋谷駅を建設するためには、玉電の協力が不可欠であった<ref name="tokyu178">[[#50th|50年史]]、pp.178-180。</ref>。こうして、五島は玉電の大株主である[[千代田生命保険]]に働きかけ、大量の同社株式を取得した<ref name="tokyu178"/>。これで企業乗っ取りは成功し、[[1936年]](昭和11年)玉電は東横電鉄に合併された<ref name="tokyu178"/>。また、これで東横電鉄と京王は関係会社同士になったが、五島と井上は依然として敵対関係であり、手を携えるどころか、逆に主として乗合バス事業の面で大いに対立していた。
上記でも触れた[[東京高速鉄道]](後に[[帝都高速度交通営団]]を経て現在の[[東京地下鉄]])は、渋谷 - 新橋 - 東京間の[[地下鉄]]建設を行う会社として、[[大倉財閥]]を背景に設立された会社で、東横電鉄の経営で実績のあった五島が常務(事実上の代表者)に迎えられた<ref>[[#50th|50年史]]、pp.220-223。</ref>。五島は、東京高速鉄道の新橋以東の路線をすでに浅草 - 神田 - 新橋間で開業していた[[東京地下鉄道]]と結んだ方が良いと判断し、先方と交渉に及び直通することで合意したが、東京地下鉄道側は[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]と結んで京浜地下鉄道を設立し、新橋から品川方面への延伸計画を発表した<ref name="tokyu225">[[#50th|50年史]]、pp.225-228。</ref>。
約束を反故にされた形の五島は、直ちに東京地下鉄道の提携先である京浜電気鉄道株式の買い占めにかかり、まず同社の大株主であった前山久吉([[協和銀行|内国貯金銀行]]頭取で、後に衆議院議員となった[[森美秀]]の義父)から株式を譲り受け、次いで同社の実力者である[[望月軍四郎]]の説得に当たった<ref name="tokyu247">[[#50th|50年史]]、pp.247-249。</ref>。これには前山や鬼怒川水力電気の[[利光鶴松]]も荷担し、三者による再三にわたる説得に漸く望月も応じることになり、1939年(昭和14年)4月東京高速鉄道が京浜電気鉄道ならびに姉妹会社である湘南電気鉄道・東京地下鉄道を傘下に収めることになった<ref name="tokyu247"/>。
なお、東横電鉄と京浜電鉄は[[川崎鶴見臨港バス|川崎乗合自動車]]の経営を巡って争ったことがあり、また大森地区や江ノ島地区<ref group="注釈">東横は江ノ島電気鉄道を傘下に収めて同社の再建に尽力していたのに対し、京浜は大船から片瀬滝之口までの間に専用自動車道を有し、同区間に乗合バスを運行して江ノ電と競合していた。また、京王も藤沢自動車を傘下に収めて藤沢 - 江ノ島間で乗合バスを運行して江ノ電と競合していた。</ref>で乗合バス事業が競合していた。また、目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄を合併して名称を逆に(新)東京横浜電鉄に改称し、京浜電気鉄道もまた湘南電気鉄道・湘南半島自動車を合併。統制経済に伴う企業の集約化が進んだ(東横電鉄を略して東横と呼び、一時は子会社の社名に東急ではなく東横が使われたこともある)。これら一連の企業買収、企業乗っ取りで五島はその手腕の強烈さから、苗字をもじって''強盗慶太''との異名をとった<ref name="tokyu225"/>。
鬼怒川水力電気の利光鶴松は上記の通り、五島の良き理解者であったが、自らが手掛けた[[山東半島]]の金鉱開発事業が経営上大きな負担となり、また主業であった電力事業が国家買収されたため、以降は採算の乏しい小田急電鉄だけとなってしまった<ref name="tokyu250">[[#50th|50年史]]、pp.250-253。</ref>。利光は同社の先行きは不透明であるが、高齢もあって自らの手での再建は難しいと考えた<ref name="tokyu250"/>。このため引退を決意し、事業の一切を五島に引き継ぐこととした<ref name="tokyu250"/>。
こうして[[1941年]](昭和16年)9月、五島は小田急社長に迎えられ、同社の再建を担うことになった<ref name="tokyu250"/>。
東横・京浜・小田急の3電鉄は全く異なる沿革を持ちながら、同一人物が経営することとなったため、経営の合理化と陸上交通事業調整法の趣旨に則って、合併することとなった。[[1942年]](昭和17年)[[5月1日]]、三社合併が成立して「大東急」が誕生した<ref>[[#50th|50年史]]、pp.261-263。</ref>。このとき、東横の一株主から「小田急の如き業績の悪い会社と1対1の比率で合併するのは企業価値を損ねる。」と反対されている。
陸上交通事業調整法の指定では、中央線以南が一ブロックとなっていたが<ref>[[#50th|50年史]]、p.24。</ref>、この地区では東急のほかには京王が存続していた<ref name="tokyu269"/>。両社は関係会社であったが、既述の通り実態は反目し合う仲であった。京王の大株主は[[大日本電力]]の[[穴水熊雄]]であったが、穴水は以前東京地下鉄道株を五島に譲渡したこともあり、今回も五島に京王株を譲渡することに異存はなかった<ref name="tokyu269"/>。しかしながら、穴水も事実上の実力者である井上篤太郎の意向を無視できず、結局五島は井上の説得にかかった<ref name="tokyu269"/>。これまでも井上は「我が城(京王)は小さくともダイヤモンドだ。東京急行は規模はでかいかも知れないが瓦礫の山だ。」<ref>東急沿線新聞編『東急外史 顔に歴史あり』105P、沿線新聞社、1982年発行。</ref>と言って合併話に取り合わなかったものの、戦時統制の波に京王が抗しきることはできず井上も合併を了承<ref name="tokyu269"/>。1944年(昭和19年)[[5月31日]]遂に京王電気軌道は東急に合併した<ref name="tokyu269"/>。
中央線以南ブロックでは、このほかに[[南武線|南武鉄道]]・[[鶴見臨港鉄道]]などの[[浅野財閥]]系の電鉄会社があった。南武鉄道も東急の関係会社ではあったが、京王同様実態は競合関係にあった。五島は南武の主要株主にも役員にもなっていたが、旧東京横浜電鉄と南武との協力関係はほとんどなかった。鶴見臨港鉄道は旧京浜電気鉄道とは関係があったが、旧東京横浜電鉄とは川崎乗合自動車の経営権を巡って対立関係にあった。浅野系電鉄会社各社は[[戦時買収私鉄|戦時買収]]で省線に組み入れられたため、大東急に加わることはなかった(ただし、この買収を仕掛けたのは[[東條英機]]に請われて運輸通信大臣に就任していた五島である)。
五島の公職追放やそれに伴う終戦後の処理が後手に回る等、大東急は経営が行き詰っていた。東急本社では、戦災復旧、郊外への人口移動による輸送力増強などの喫緊の課題が山積し、資金調達問題も絡み、買収・合併により編入した各線が東急本社の重荷になっていた。ここで東急社内や労働組合でも、事業規模を適正化して戦後復興を早めるべきとの声があがり、東急本社は大東急の分割再編成を決定するに至った。
1948年(昭和23年)に大東急から京急・小田急・京王の3社が分離することとなった。
なお、経営民主化を目的として一部傘下企業については、大東急の解体前後に東急の持株を当該企業の役職員が買い取って、大東急傘下から独立した。この中にはのちに再び東急グループに復する会社(のちの日本貨物急送となる厚木通運など)や、一応独立するがしばらく東急の衛星企業で推移した会社(静岡鉄道<ref group="注釈">2019年3月現在も筆頭株主は東京急行電鉄(現・東急)である。</ref>・関東バス<ref group="注釈">長い間東急専務の柏村毅が同社社長を兼任し、1970年まで東急と共に河口湖汽船を経営したりしていた。2014年3月現在の筆頭株主は京王電鉄だが、[[京王グループ]]には属していない。</ref>・神奈川都市交通<ref group="注釈">[[五島昇]]は没するまで同社の社外取締役を務めていた。また、2014年現在TOKYUポイントに加盟している。</ref> など)、独立後小田急の傘下に入った会社(江ノ島電鉄・神中興業)、完全独立を果たした会社(相模鉄道・東部ネットワーク・王子運送<ref group="注釈">2009年に[[福山通運]](当時、[[近鉄グループ]])の子会社となった。同社公式ホームページによると、2022年10月に社名が変更され、現社名は東京福山通運となっている。</ref> など)などがある。日本交通のように、その後も名目上東急グループに長期間籍を置きながら、この時期に事実上独立を果たしていた会社もある。
== 大東急の名残 ==
* 大東急の名残として、旧大東急系の[[健康保険組合]]である「'''東京西南私鉄連合健康保険組合'''」の存在が挙げられる。同健保組合は[[1935年]][[4月1日]]設立の「東横目蒲電鉄健保組合」を母体とし<ref name=kenpo />、東急電鉄(東急、[[東急バス]])、京王電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道([[相鉄ホールディングス]])、[[東映]]<ref group="注釈">東映の設立自体は第二次世界大戦後。前身である[[東横映画]]の流れを汲み、東急傘下にあった。のちにグループを離脱したが資本関係は残る。</ref>および関東バスの母体事業所および子会社等を包括した健保組合として存続している<ref name=kenpo /><ref>[[#50th|50年史]]、p.917。</ref>。
*: [[1978年]]8月までは小田急電鉄系も参加していたが、9月に小田急系は別途小田急グループ健康保険組合を設立。分離独立し<!--[[2003年]](平成15年)4月1日、[[東急車輛製造|東急車輛]]健康保険組合を合併したが、同社が2012年(平成24年)主な事業をJR東日本グループの総合車両製作所に譲渡したため、旧東急車輌系も離脱した-->て現在に至る<ref name=kenpo>[http://www.seinan-kenpo.or.jp/contents/profile/index.html プロフィール - 組合について] 東京西南私鉄連合健康保険組合 公式サイト</ref><ref group="注釈">神奈川中央交通や箱根登山鉄道、東海自動車などは別途健康保険組合を有していたが、これらも1994年から2004年までに小田急グループ健康保険組合に合併した。</ref>。
* 旧大東急系の私鉄5社では「'''[[神奈川県]]内大手民鉄5社'''」という枠組で年末年始の定期外利用実績に関する合同プレスリリースを毎年公表している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/221445HP_20230105.pdf|title=神奈川県内大手民鉄5社 年末年始の定期外輸送実績は、前年から6.9%増加|publisher=京王電鉄株式会社・小田急電鉄株式会社・東急電鉄株式会社・京浜急行電鉄株式会社・相模鉄道株式会社|format=PDF|date=2023-01-05|accessdate=2023-08-21}}</ref>。なお、京王が神奈川県内に路線網を伸ばしたのは大東急解体後の[[相模原線]]建設時である。
* かつては、東急電鉄、京王電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄に勤務する正規職員に貸与される[[職務乗車証]]や、職員の家族に貸与される家族乗車証は、自社の電車・路線バスのみならず、旧大東急系私鉄4社では公式に相互使用することができた。かつての家族乗車証には4社の社紋が表記されていた。現在は自社線のみでしか使用できない。
* 大東急の解体を記念して、1949年には五島慶太の蔵書を元に、旧大東急各社の出資で「'''大東急記念文庫'''」が設立された。五島の没後に同じく旧大東急各社の出資で[[五島美術館]]が開館すると、大東急記念文庫は同館への併設となり、後に法人も統合している。
== 大東急を構成した路線 ==
=== 鉄軌道路線 ===
1945年6月1日時点<ref name="tokyu289"/>。
==== 営業線 ====
;渋谷管理部
*'''[[東急東横線|東横線]]''':[[渋谷駅]] - [[桜木町駅]]
*'''[[京王井の頭線|井ノ頭線]]'''
**渋谷駅 - [[吉祥寺駅]]
**[[新代田駅|代田二丁目駅]] - [[世田谷代田駅|世田ヶ谷中原駅]]([[代田連絡線]]) ※非旅客線
*'''[[東急玉川線|玉川線]]'''<!--玉川線が下高井戸、砧、天現寺橋、中目黒線を含む総称-->
**渋谷駅 - [[二子玉川駅]]
**[[三軒茶屋駅]] - [[下高井戸駅]]([[東急世田谷線|下高井戸線]])
**二子玉川駅 - [[砧本村駅|砧駅]](砧線)
**渋谷駅前駅 - 天現寺橋駅(天現寺橋線) ※[[東京都交通局]]に運行委託
**渋谷橋駅 - 中目黒駅(中目黒線) ※東京都交通局に運行委託
;目黒管理部
*'''[[東急目蒲線|目蒲線]]''':[[矢口渡駅]] - [[目黒駅]]
*'''[[東急大井町線|大井町線]]''':[[大井町駅]] - [[溝の口駅|溝ノ口駅]]
*'''[[東急池上線|池上線]]''':[[五反田駅]] - [[蒲田駅]]
;品川管理部
*'''[[京急本線|湘南線]]'''(1943年5月までは品川線、旧京浜線)<!--品川線(京浜線)が穴守、大師線を含む総称-->{{refnest|group=注釈|東京急行電鉄が1943年(昭和18年)7月14日に神奈川県土木部に提出した「総未第三十六号 軌道ヲ地方鉄道ニ変更実施ノ件」による。これによれば、同年6月1日に実施した軌道から地方鉄道に変更した際に品川線の呼称をやめ、品川営業局管内の全線を湘南線と呼称することとしたと記載されている。また、『京浜急行八十年史』では1943年(昭和18年)に品川線と湘南線が統合され品川 - 浦賀間を湘南線としたとする記述があるが、『東京急行電鉄50年史』では営業局制から管理部制の変更の項、戦時中の駅休廃止の項、戦後の京急独立の項のいずれにおいても一貫して旧京浜線を品川線、旧湘南線を湘南線としており、1943年の路線名統合の記述はない<ref>{{Cite book|和書|author=東京急行電鉄株式会社社史編纂事務局(編)|year=1973|title=東京急行電鉄50年史|publisher=東京急行電鉄|pages=289-290, 302, 384頁ほか}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄株式会社社史編集班(編)|year=1980|title=京浜急行八十年史|publisher=京浜急行電鉄|pages=161-162}}</ref>。また、「[https://www.keikyu.co.jp/history/chronology04.html 京浜急行復活を告げるポスター]」など、京急側においても京急独立時まで「品川線」「湘南線」の区分けがあった資料が散見される<ref>{{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄株式会社社史編集班(編)|year=1980|title=京浜急行八十年史|publisher=京浜急行電鉄|page=173}}</ref>。}}
**[[品川駅]] - [[横浜駅]]
**[[京急蒲田駅|京浜蒲田駅]] - [[穴守駅]]([[京急空港線|穴守線]])
**[[京急川崎駅|京浜川崎駅]] - [[桜本駅]]([[京急大師線|大師線]])
;横浜管理部
*'''[[京急本線|湘南線]]'''<!--湘南線が逗子、久里浜線を含む総称-->
**横浜駅 - [[浦賀駅]]
**[[金沢八景駅]] - [[逗子・葉山駅|湘南逗子駅]]([[京急逗子線|逗子線]])
**[[堀ノ内駅|横須賀堀内駅]] - [[京急久里浜駅|湘南久里浜駅]]([[京急久里浜線|久里浜線]])
;新宿管理部
*'''[[小田急小田原線|小田原線]]'''
**[[新宿駅]] - [[小田原駅]]
**[[向ヶ丘遊園駅|稲田登戸駅]] - [[登戸駅]](登戸連絡線) ※非旅客線
*'''[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]''':[[相模大野駅]] - [[片瀬江ノ島駅]]
;京王管理部
*'''[[京王線]]'''
**[[京王線の新宿駅付近の廃駅#京王新宿駅|京王新宿駅]] - [[京王八王子駅|東八王子駅]]
**[[調布駅]] - [[京王多摩川駅]]([[京王相模原線|多摩川支線]])
;相模管理部
:([[相模鉄道]]より運営受託)
*'''[[相鉄本線|厚木線]]'''
**横浜駅 - [[海老名駅]]
**[[相模国分信号所|相模国分駅]] - [[厚木駅]] ※非旅客線
[[File:TKK Linemap 1945.svg|thumb|none|700px|路線網(1945年6月1日)]]
==== 休止線 ====
;目黒管理部
*目蒲線:蒲田駅 - [[矢口渡駅]]間 1945年6月1日休止
;京王管理部
*[[京王御陵線|御陵線]]:[[北野駅 (東京都)|北野駅]] - [[多摩御陵前駅]] 1945年1月21日休止
==== 計画線 ====
いずれも京浜急行電鉄が継承したが<ref name="tokyu394">[[#50th|50年史]]、p.394。</ref>久里浜線延長部([[湘南久里浜駅]] - 飯森駅間)以外は未成に終わっている。
;横浜管理部
*湘南線
**金沢八景駅 - 鎌倉八幡駅(鎌倉線)
**湘南逗子駅 - 林駅 - [[三崎口駅|飯森駅]](葉山線)
**湘南久里浜駅 - 飯森駅 - 三崎駅(三崎線)
*[[京急武山線|衣笠線]]<ref name="tokyu328">[[#50th|50年史]]、p.328。</ref>(武山線):[[衣笠駅]] - 林駅
=== バス営業所 ===
* 東京都(東京支部所管)
** 中野営業所(現・[[京王バス中野営業所]])
** 淡島営業所(現・[[東急バス淡島営業所]])
** 不動前営業所(のち[[東急バス不動前営業所]]、1969年廃止)
** 目黒営業所(現・[[東急バス目黒営業所]])
** 中延営業所(のち[[東急バス中延営業所]]、1981年廃止)
** 神明営業所(現・[[東急バス荏原営業所]])
** 高輪営業所(京浜急行電鉄時代に移転。現・[[京浜急行バス羽田営業所]])
** 池上営業所(現・[[東急バス池上営業所]])
** 国分寺営業所(京王帝都電鉄時代に移転。現・[[京王バス府中営業所]])
** 八王子営業所(現・[[京王電鉄バス八王子営業所]])
* 神奈川県(神奈川支部所管)
** 川崎営業所(のち[[東急バス川崎営業所]]、2010年廃止)
** 杉田営業所(現・[[京浜急行バス杉田営業所]])
** 堀ノ内営業所(現・[[京浜急行バス堀内営業所]])
** 衣笠営業所(現・[[京浜急行バス衣笠営業所]])
** 久里浜営業所(現・[[京浜急行バス久里浜営業所]])
** 鎌倉営業所(現・[[京浜急行バス鎌倉営業所]])
** 逗子営業所(現・[[京浜急行バス逗子営業所]])
** 三浦営業所(現・[[京浜急行バス三崎営業所]])
なおこの他に、川崎線([[八丁畷駅]] - [[川崎駅]] - [[京急川崎駅|京浜川崎駅]] - 旧[[小美屋]]前、[[砂子 (川崎市)|砂子]]一丁目 - 砂子二丁目、八丁畷駅 - [[京町 (川崎市)|京町]] - 日ノ出町(現・[[朝日町 (横浜市)|朝日町]]) - [[富士電機]]前、八丁畷駅 - [[池田 (川崎市)|池田町]] - 京町北角(京町一丁目) - 京町南角(京町二丁目) - [[平安町 (横浜市)|平安町]]南角 - 平安町北角 - 池田町 - 八丁畷駅、平安町南角 - 平安町([[ゴム通り]]入口)、京町 - 京町南角) 、相武台線([[南林間駅]] - [[相武台前駅]]、相武台前駅 - [[陸軍士官学校 (日本)#「市ヶ谷台」・「相武台」・「修武台」・「振武台」|士官学校]]前 - 新戸 - 相武台前駅、[[小田急相模原駅]] - [[国立病院機構相模原病院|国立病院]])があり、運休中のまま前者は京浜急行電鉄、後者は小田急電鉄がそれぞれ継承したが、いずれも運行再開されることなくそのまま廃止された<ref>相武台線の国立病院系統は神奈川中央乗合自動車から車両を借りて運行を継続していた。</ref>。なお、前者沿線は[[川崎鶴見臨港バス]](京急系)、後者沿線は[[神奈川中央交通]](小田急系)の手により、いずれも代替に近い形で運行されている。
== 鉄道車両 ==
大東急成立時に車両番号が旧各社で重複するため、一斉に改番を行った。車両の一覧は[[大東急の鉄道車両一覧]]を参照。
{|class="wikitable"
|旧東京横浜電鉄([[東急玉川線|玉川線]])
|1 - 999
|-
|旧小田急電鉄(井の頭線を含む)
|1000 - 1999
|-
|旧京王電気軌道
|2000 - 2999
|-
|旧東京横浜電鉄
|3000 - 3999
|-
|旧京浜電気鉄道
|5000 - 5999
|}
大東急再編成後も、引継後の各社は大東急時代の車番を継承した。すなわち、小田急旧1000系、京王旧1000系(井の頭線)旧2000系(京王線)、東急旧3000系などである。なお、京浜急行は5000を引いた車番で継承した。京急[[湘南電気鉄道デ1形電車|230形]]などがそれである。
また、再編成後の4社とも[[動力車|電動車]]の記号として「デハ」を使用しているほか、再編成後の車両も[[東急車輛製造]](現・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]傘下の[[総合車両製作所]])<ref group="注釈">再編成後の東急電鉄の車両は全て東急車輛製造で生産されていた。また、東急車輛以外のメーカーについては、[[川崎重工業]]が小田急電鉄と京浜急行電鉄の車両を、[[日本車輌製造]]が小田急電鉄と京王電鉄の車両をそれぞれ生産している。</ref>で生産された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |title=東京急行電鉄50年史 |publisher=東京急行電鉄株式会社 |date=1973-04-18 |ref=50th}}
== 関連項目 ==
*[[陸上交通事業調整法]]
*[[近畿日本鉄道]]
*[[阪急電鉄]]([[阪神急行電鉄]])
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京阪宇治線
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宇治線(うじせん)は、京都府京都市伏見区の中書島駅から京都府宇治市の宇治駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線である。
京都・大阪から宇治周辺の名所への行楽路線であり、また京都市伏見区・山科区南部や宇治市北部の宇治川右岸と京都市中心部や大阪方面を結ぶ通勤・通学路線でもある。六地蔵 - 宇治間が西日本旅客鉄道(JR西日本)の奈良線と並行している。
現行ダイヤでは、4両編成の普通列車が中書島駅 - 宇治駅間の線内折り返し運転を行っている。平日朝ラッシュ時は5 - 8分間隔、日中は10分間隔、正月ダイヤ実施期間の日中は12分間隔での運転である。朝ラッシュ時は5編成が、そのほかの時間は4編成が運用に入っている。中書島駅では京阪本線の特急や快速急行などとの接続が考慮されている。
かつては、多数の列車が京阪本線の三条方面と直通運転していたが、2000年7月1日のダイヤ改正でその大半が廃止された後(同時にこの改正で中書島駅に特急が終日停車するようになり、昼間時を中心に三条駅 - 宇治駅間の所要時分が直通列車より4 - 5分短縮された)、2003年9月5日までは平日午前中2本のみ残り、全線ラッシュ時は5 - 8分間隔で、昼間時間帯は15分間隔の運行であった。翌6日のダイヤ改正から三条方面の直通運転が廃止され、車両も5両編成と4両編成で運用されていたが、5両編成の宇治線定期運用は一時廃止された。2006年4月16日のダイヤ改正で土曜・休日の深夜に限り5両編成での定期運用が復活することになったが、2009年9月12日のダイヤ改正後は、平日、土曜・休日共に終日4両編成となっている。
2013年3月19日に発表されたプレスリリースにおいて、同年6月1日より宇治線でワンマン運転を開始することが発表された。京阪電鉄でのワンマン運転は、2002年11月30日開始の京津線、2003年10月4日開始の石山坂本線、2007年9月22日開始の交野線に次いで4例目である。宇治線では全駅に自動改札が導入されているため、乗車時はワンマン化前と同様自動券売機で乗車券を購入して自動改札を通り、列車も任意の扉から乗り降りする。またIC専用の自動券売機では乗車駅証明書も発行しており、それで自動改札を通った場合は降車駅で精算する。
その他、1947年4月1日から1968年12月19日まで丹波橋駅で京阪と奈良電気鉄道(奈良電。1963年10月1日以降は近鉄京都線)が接続して相互直通運転を行っており、宇治線の一部の電車が奈良電(近鉄京都線)の京都駅まで乗り入れていた。
方向板を車両正面に掲出していた頃、宇治発の三条行の方向板は大阪方面からの三条行と区別するため、「三」と「条」の間が開いたものを使用していた。
1965年4月21日から1989年9月26日までは平日のみ三条方面直通で急行も走っていた。当初は朝の宇治駅発のみの設定で、夕方の三条駅発の設定は1968年12月20日である。5両編成でラッシュ時に京阪本線を走ることで同線の混雑率が上がるため、まず1980年3月に同線の朝の急行の10分間隔化で朝の急行が廃止されて三条駅発の片道のみの運転となり、続いて1989年に夕方の急行も廃止(出町柳駅 - 淀駅・樟葉駅間の準急に立て替え)された。なお宇治線内は各駅停車だった。
ただし、1982年10月24日に、太陽が丘で宗教団体(団体名不明)による運動会を開催した際に、この1日限りで実施した臨時ダイヤ(同日限定で作成された宇治線列車運行図表による)では宇治線と京阪本線三条駅 - 中書島駅間で臨時列車を運転したが、宇治行き及び三条行き双方での宇治線直通の臨時急行も設定された。また、この日は宇治線内折返しの臨時普通列車も運転され、三条直通の定期列車と臨時急行および臨時普通とあわせて宇治線は最小約5分間隔で運転していた。
1960年代には行楽シーズンに大阪側から6両編成の臨時列車が設定されていた(ただし六地蔵駅のホームは最大5両までしか停車できなかった)。だが、1995年6月17日の宇治駅移転で線路の有効長が短くなり、以後6両編成の宇治線への入線は不可能となっている。また、1998年から1999年までの行楽シーズンに大阪方面直通の臨時快速「宇治快速」が運転されることがあった(後述)。上記の急行とは停車駅が異なり、宇治線内でも急行運転を実施していた。停車駅は六地蔵駅のみであった。
臨時急行には列車愛称が付けられ、過去には「鵜飼号」、その後「鵜飼号」は「ライン号」に改称(改称時期不明)され、ライン号も後に「宇治川ライン 天ヶ瀬号」(こちらの改称時期も不明)となり、1976年まで天ヶ瀬ダムのイラスト入り副標識を掲げて運転していた。「宇治川ライン 天ヶ瀬号」は1977年より再度改称され「宇治号」となり、副標識のイラストも天ヶ瀬ダムから平等院に変更され、以後1986年の運転終了までの間は「宇治号」として運転していた。
「宇治快速」は、京阪本線淀屋橋駅 - 宇治線宇治駅間に、淀屋橋駅→宇治駅間で2本、宇治駅→天満橋駅間で1本が運転された。1998年11月1日から1999年11月までの行楽シーズンの休日ダイヤ(当時は日曜日と祝日)のみ運行していた臨時列車である。列車種別は臨時列車とは言え、新たな種別名である「快速」を設定した。これは停車駅が特急並みであったことによる。なお、同社の快速は急行より上位の位置付けとなっており、当時の特急に対する快速急行に近似する位置付けであった。
運行期間は年間4シーズンあり、春休みは「宇治快速さくらSpecial」、ゴールデンウイークは「宇治快速わかばSpecial」、6月には「宇治快速あじさいSpecial」、秋のシーズンは「宇治快速もみじSpecial」と季節により列車名を変えていた。特記以外は「宇治快速」に統一して述べる。
この列車の設定理由は当時宇治地区が「源氏物語の街」として観光に力を入れていたこと、同年秋宇治線の宇治駅付近に「宇治市源氏物語ミュージアム」が完成したことによるものである。また、1996年に10haの敷地を擁する宇治市植物公園が開園し、1997年に京阪宇治交サービスの経営する地ビールレストラン「ガーデンズ天ヶ瀬」がオープン(営業不振のため2002年秋閉鎖)するなど新観光地が相次いで誕生しており、大阪方面から乗り換えなしで宇治地区への観光客を誘致する目的もあった。運行開始当初、「もみじSpecial」の運行に合わせて、秋の企画乗車券「もみじきっぷ」の一つとして「宇治フリーきっぷ」を設定した。列車内ではボランティアガイドによる観光案内放送や茶摘み娘によるPRもあり、「ガーデンズ天ヶ瀬」では「宇治市源氏物語ミュージアム」開館記念地ビール「源氏物語」を販売した。
前述のように、1986年までは行楽シーズンに淀屋橋駅 - 宇治駅間の臨時急行も運転されていたが、廃止されたので、京阪本線との直通列車は12年振りであった。なお、阪急電鉄の「嵯峨野エクスプレス」と違い、支線である宇治線内も急行運転された。ただし、宇治線内の通過駅では列車選別装置がないため、駅構内の踏切動作の関係上15km/h程度で通過していた。
「宇治快速」は1999年の「もみじSpecial」をもって運行を終了した。その後、2000年7月1日の京阪線ダイヤ改正で中書島が特急の終日停車駅となり、乗り換えが必要とは言え、従来の急行利用と比べて大阪方面への利便性が向上したこと(淀屋橋駅 - 宇治駅間は平均約20分も短縮され、所要時間も1時間を切った)もあって、以降は運行されていない。
当時の停車駅は、淀屋橋駅・北浜駅・天満橋駅・京橋駅・枚方市駅・中書島駅・六地蔵駅・三室戸駅(「宇治快速あじさいSpecial」のみ停車)・宇治駅で、1900系および、7200系が使用されていた。7200系は「宇治快速」運用のためだけに早朝の寝屋川車庫内で8両編成を5両編成に組み替え、運転終了後の夕方過ぎに再度8両編成に戻しており、7200系の特徴であるLED式車内案内表示器は全く使用されなかった。
1999年4月11日の「宇治快速さくらSpecial」には2600系を使用していたが、基本的には2600系は車外スピーカー未取り付けのため「宇治快速」では運用されなかった。 当時の車両には「快速」表示幕がなく、「臨時」表示幕を提示し、前面に「宇治快速」と「-Special」の合計2枚の表示板を用意して取り付けた。
2006年7月29日から運転されていた「きかんしゃトーマス」ラッピング電車のラストランである2007年1月21日には、臨時列車として宇治→天満橋間に10000系を使用した臨時特急が運転された。宇治線で特急列車が運転されるのはこれが初めてである。宇治線内では各駅に停車した。
2014年4月6日より5月6日までの土曜・休日に、宇治・伏見観光キャンペーンの一環として淀屋橋 - 宇治間に直通の臨時列車「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS」が運転され、久々に大阪側から宇治線への直通列車が運行された。停車駅は、淀屋橋駅・北浜駅・天満橋駅・京橋駅・中書島駅で、中書島駅から宇治線内は各駅に停車した。
2014年6月1日から6月29日までの土曜・休日に、三室戸寺のあじさいが見頃の時期に合わせて、「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS あじさいスペシャル」が運転された。今回は樟葉駅が停車駅に加わり、上り列車でこの列車の前に走行する急行(定期列車)を「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS連絡急行」として運転された。秋にも10月4日から11月30日までの土曜・休日に京阪本線で秋の特別ダイヤが実施され、これに合わせて「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS」が再度運行。ただし6月と同じ運行形態であった。
2012年4月14日から13000系が当路線で運用を開始した。同年7月13日13000系第5編成の運用開始に伴い、2600系4両編成が宇治線の定期運用から一旦離脱したが、2013年3月から2600系の定期運用が復活した。ワンマン運転が開始された同年6月1日からはワンマン機能を持つ13000系と10000系のみで運行されていることが多いが、予備車として2600系4両編成の2623Fが入線することがあった。しかし、2014年3月の4両編成の13000系第6編成の導入により2600系は予備車としても入線しなくなり(定期運用を完全に離脱)、2623Fは2015年7月31日付けで廃車となった。
以下は、現在も京阪に在籍していて過去に宇治線に営業車として入線経歴がある車両。いずれも7両以上に固定編成化されたため、宇治線への入線はほぼ不可能である。
このほかに2代目3000系が試運転で、4両・5両編成に組み替えて入線したことがある。 以下は除籍分
以下の4車種は1983年12月4日の架線電圧600ボルトから1500ボルトへの昇圧で廃車。
宇治線の軌道敷設特許は1907年(明治40年)1月に宇治川電気軌道(株)が得ていたが、沿線には醍醐寺・黄檗山万福寺・三室戸寺、宇治には平等院などの名刹があり、この路線の特許を1910年11月に京阪電気鉄道が譲り受け、企業業績安定後に着工する計画だった。ところが、この路線の特許は軌間1067mm、架線もトロリーバスと同じ複線式、宇治駅の位置も国鉄宇治駅の北側だったため、様々な変更をして認可を受けた。
当時の計画では中書島から宇治川を渡り、宇治川の南側から宇治へ向かう第1案と、伏見桃山から現在の宇治線のルートとなる第2案が比較検討され、第1案で建設が計画されたが、この直後1912年7月30日に明治天皇が崩御し、御陵は「伏見桃山」と発表された。「大喪の儀」は9月13日から15日にかけて行われ9月18日から10月15日まで一般参拝も許されたが、桃山一帯は混雑をきわめ、宮内省は11月3日まで期間を延長し、期間中の参拝者は400万人にも及んだ。翌年7月30日には明治天皇御1年祭が予定されており、参拝者輸送のため宇治線の計画ルートを変更して建設が前倒しされ、「明治天皇御1年祭までに開通させる」と1912年のうちにほとんどの用地買収を終え、工事認可前から準備工事をはじめ、一部では土地収用も行われた。そして工事認可から、わずか4か月間の突貫工事で宇治線は開通した。
開業後は、1917年9月‐10月の「大正大洪水」、1934年9月の室戸台風、その翌年の6月と8月の京都水害(鴨川水害)、1953年9月の台風13号、1959年8月13日の豪雨、1961年9月の第2室戸台風、1965年9月の台風24号などでは宇治川・山科川の横を走る中書島駅 - 木幡駅間が浸水して不通になる水害多発地帯であったが、1960年代から始まった天ヶ瀬ダムの建設と宇治川・山科川の堤防かさ上げ強化、それに伴う六地蔵駅の移設、排水ポンプ場の設置などようやく水害対策が完了した。
1950年代後半から沿線に向島住宅・醍醐石田団地・小栗栖団地などが造られるなど宅地化が本格化、列車増発のために六地蔵駅側に変電所が造られ、1965年には通勤客輸送のため朝に宇治から京都三条へ急行が設定されるなど観光路線から通勤路線へと変遷する。また1984年に並行して走るJR奈良線が電化され、1992年に六地蔵駅が建設されるのに対抗して、1993年1月に特急を中書島駅に朝のラッシュ時の淀屋橋行き6本を停車させて大阪方面へのアクセスが強化され、2000年からは同駅が終日特急停車駅に格上げされた。それに併せて宇治駅 - 三条駅間を直通する列車が削減され、ほぼすべて宇治線内のみの運転となり、2003年には三条直通列車は廃止された。
2011年5月、中書島・六地蔵・宇治の3駅を除く各駅は「他駅サポートシステム」により早朝、深夜を中心に駅係員が無配置化された。また、2013年6月1日より列車の運行はワンマン化されるなど省力化がすすんでいる。
六地蔵駅と黄檗駅で乗り換えの放送はない。また、路線図にも(黄檗駅の場合は)乗換駅と正式には書かれていない。
中書島駅では、京阪本線との誤乗を防ぐ(同一ホーム反対側に京阪本線下り用の2番線がある)ために宇治線ホームでは発車案内放送を「3番線・各駅停車の扉が閉まります」ではなく「3番線・宇治行の扉が閉まります」としている(枚方市駅でも発車案内放送は京阪本線と交野線で区別されているほか、京橋駅と天満橋駅でも似た措置がとられている)。なお、以上の言い回しは2007年6月16日以降の放送のもの。2007年6月15日以前は「3番線の宇治行きが発車します」であった。
2013年6月1日より電車の運行がワンマン化され、閑散時間帯の観月橋駅・桃山南口駅・木幡駅・黄檗駅・三室戸駅は他駅サポートシステムにより無人化されたが、各駅のプラットホームには緊急時通報装置の設置、運転士が安全確認するための鏡やモニターカメラの設置や増設、急カーブ上にある黄檗駅にはホームと電車の間から旅客が転落したことを検知する転落検知装置が設置されるなど安全対策が整えられている。
「自律分散式列車運行管理システム(ADEC、アデック)」の光ファイバー情報ネットワークシステムを利用し、アデック連動駅の宇治駅・中書島駅から各駅の旅客に対して駅員が改札口にいなくてもIPカメラ・IPインターホンを使い遠隔対応し、駅出入口のシャッター・空調・照明などの駅設備の操作監視を可能とする「他駅サポートシステム」を導入している。
宇治線のすべての駅に視覚障害者用点字運賃表と誘導用の黄色の点字ブロック、車椅子対応のエレベーター(宇治駅・六地蔵駅・中書島駅)またはスロープ(観月橋駅・桃山南口駅・木幡駅・黄檗駅・三室戸駅)を備え、電車とホームの間を渡す折りたたみ式の渡し板も各駅に配備されている。
駅のトイレには手すりや、オムツ交換台が設けられている。また車椅子に対応し、オストメイト対応設備も備えたバリアフリー対策済みの多目的トイレが設置されている。宇治駅にはAEDも配置されている。
2021年4月までに、中書島駅、六地蔵駅、宇治駅を除き終日無人駅となった。
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"text": "2014年4月6日より5月6日までの土曜・休日に、宇治・伏見観光キャンペーンの一環として淀屋橋 - 宇治間に直通の臨時列車「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS」が運転され、久々に大阪側から宇治線への直通列車が運行された。停車駅は、淀屋橋駅・北浜駅・天満橋駅・京橋駅・中書島駅で、中書島駅から宇治線内は各駅に停車した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2014年6月1日から6月29日までの土曜・休日に、三室戸寺のあじさいが見頃の時期に合わせて、「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS あじさいスペシャル」が運転された。今回は樟葉駅が停車駅に加わり、上り列車でこの列車の前に走行する急行(定期列車)を「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS連絡急行」として運転された。秋にも10月4日から11月30日までの土曜・休日に京阪本線で秋の特別ダイヤが実施され、これに合わせて「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS」が再度運行。ただし6月と同じ運行形態であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2012年4月14日から13000系が当路線で運用を開始した。同年7月13日13000系第5編成の運用開始に伴い、2600系4両編成が宇治線の定期運用から一旦離脱したが、2013年3月から2600系の定期運用が復活した。ワンマン運転が開始された同年6月1日からはワンマン機能を持つ13000系と10000系のみで運行されていることが多いが、予備車として2600系4両編成の2623Fが入線することがあった。しかし、2014年3月の4両編成の13000系第6編成の導入により2600系は予備車としても入線しなくなり(定期運用を完全に離脱)、2623Fは2015年7月31日付けで廃車となった。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "以下は、現在も京阪に在籍していて過去に宇治線に営業車として入線経歴がある車両。いずれも7両以上に固定編成化されたため、宇治線への入線はほぼ不可能である。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "このほかに2代目3000系が試運転で、4両・5両編成に組み替えて入線したことがある。 以下は除籍分",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "以下の4車種は1983年12月4日の架線電圧600ボルトから1500ボルトへの昇圧で廃車。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "宇治線の軌道敷設特許は1907年(明治40年)1月に宇治川電気軌道(株)が得ていたが、沿線には醍醐寺・黄檗山万福寺・三室戸寺、宇治には平等院などの名刹があり、この路線の特許を1910年11月に京阪電気鉄道が譲り受け、企業業績安定後に着工する計画だった。ところが、この路線の特許は軌間1067mm、架線もトロリーバスと同じ複線式、宇治駅の位置も国鉄宇治駅の北側だったため、様々な変更をして認可を受けた。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "当時の計画では中書島から宇治川を渡り、宇治川の南側から宇治へ向かう第1案と、伏見桃山から現在の宇治線のルートとなる第2案が比較検討され、第1案で建設が計画されたが、この直後1912年7月30日に明治天皇が崩御し、御陵は「伏見桃山」と発表された。「大喪の儀」は9月13日から15日にかけて行われ9月18日から10月15日まで一般参拝も許されたが、桃山一帯は混雑をきわめ、宮内省は11月3日まで期間を延長し、期間中の参拝者は400万人にも及んだ。翌年7月30日には明治天皇御1年祭が予定されており、参拝者輸送のため宇治線の計画ルートを変更して建設が前倒しされ、「明治天皇御1年祭までに開通させる」と1912年のうちにほとんどの用地買収を終え、工事認可前から準備工事をはじめ、一部では土地収用も行われた。そして工事認可から、わずか4か月間の突貫工事で宇治線は開通した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "開業後は、1917年9月‐10月の「大正大洪水」、1934年9月の室戸台風、その翌年の6月と8月の京都水害(鴨川水害)、1953年9月の台風13号、1959年8月13日の豪雨、1961年9月の第2室戸台風、1965年9月の台風24号などでは宇治川・山科川の横を走る中書島駅 - 木幡駅間が浸水して不通になる水害多発地帯であったが、1960年代から始まった天ヶ瀬ダムの建設と宇治川・山科川の堤防かさ上げ強化、それに伴う六地蔵駅の移設、排水ポンプ場の設置などようやく水害対策が完了した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1950年代後半から沿線に向島住宅・醍醐石田団地・小栗栖団地などが造られるなど宅地化が本格化、列車増発のために六地蔵駅側に変電所が造られ、1965年には通勤客輸送のため朝に宇治から京都三条へ急行が設定されるなど観光路線から通勤路線へと変遷する。また1984年に並行して走るJR奈良線が電化され、1992年に六地蔵駅が建設されるのに対抗して、1993年1月に特急を中書島駅に朝のラッシュ時の淀屋橋行き6本を停車させて大阪方面へのアクセスが強化され、2000年からは同駅が終日特急停車駅に格上げされた。それに併せて宇治駅 - 三条駅間を直通する列車が削減され、ほぼすべて宇治線内のみの運転となり、2003年には三条直通列車は廃止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2011年5月、中書島・六地蔵・宇治の3駅を除く各駅は「他駅サポートシステム」により早朝、深夜を中心に駅係員が無配置化された。また、2013年6月1日より列車の運行はワンマン化されるなど省力化がすすんでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "六地蔵駅と黄檗駅で乗り換えの放送はない。また、路線図にも(黄檗駅の場合は)乗換駅と正式には書かれていない。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "中書島駅では、京阪本線との誤乗を防ぐ(同一ホーム反対側に京阪本線下り用の2番線がある)ために宇治線ホームでは発車案内放送を「3番線・各駅停車の扉が閉まります」ではなく「3番線・宇治行の扉が閉まります」としている(枚方市駅でも発車案内放送は京阪本線と交野線で区別されているほか、京橋駅と天満橋駅でも似た措置がとられている)。なお、以上の言い回しは2007年6月16日以降の放送のもの。2007年6月15日以前は「3番線の宇治行きが発車します」であった。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2013年6月1日より電車の運行がワンマン化され、閑散時間帯の観月橋駅・桃山南口駅・木幡駅・黄檗駅・三室戸駅は他駅サポートシステムにより無人化されたが、各駅のプラットホームには緊急時通報装置の設置、運転士が安全確認するための鏡やモニターカメラの設置や増設、急カーブ上にある黄檗駅にはホームと電車の間から旅客が転落したことを検知する転落検知装置が設置されるなど安全対策が整えられている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「自律分散式列車運行管理システム(ADEC、アデック)」の光ファイバー情報ネットワークシステムを利用し、アデック連動駅の宇治駅・中書島駅から各駅の旅客に対して駅員が改札口にいなくてもIPカメラ・IPインターホンを使い遠隔対応し、駅出入口のシャッター・空調・照明などの駅設備の操作監視を可能とする「他駅サポートシステム」を導入している。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "宇治線のすべての駅に視覚障害者用点字運賃表と誘導用の黄色の点字ブロック、車椅子対応のエレベーター(宇治駅・六地蔵駅・中書島駅)またはスロープ(観月橋駅・桃山南口駅・木幡駅・黄檗駅・三室戸駅)を備え、電車とホームの間を渡す折りたたみ式の渡し板も各駅に配備されている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "駅のトイレには手すりや、オムツ交換台が設けられている。また車椅子に対応し、オストメイト対応設備も備えたバリアフリー対策済みの多目的トイレが設置されている。宇治駅にはAEDも配置されている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2021年4月までに、中書島駅、六地蔵駅、宇治駅を除き終日無人駅となった。",
"title": "駅一覧"
}
] |
宇治線(うじせん)は、京都府京都市伏見区の中書島駅から京都府宇治市の宇治駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線である。 京都・大阪から宇治周辺の名所への行楽路線であり、また京都市伏見区・山科区南部や宇治市北部の宇治川右岸と京都市中心部や大阪方面を結ぶ通勤・通学路線でもある。六地蔵 - 宇治間が西日本旅客鉄道(JR西日本)の奈良線と並行している。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Keihan Symbol.svg|20px|京阪電気鉄道]] 宇治線
|路線色 = #1d2088
|画像 = Keihan13000 Chushojima.JPG
|画像サイズ =
|画像説明 = 宇治線に投入された[[京阪13000系電車|13000系電車]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[京都府]]
|起点 = [[中書島駅]]
|終点 = [[宇治駅 (京阪)|宇治駅]]
|駅数 = 8駅
|路線記号 = {{駅番号s|#1d2088|white|KH}}
|開業 = [[1913年]][[6月1日]]
|廃止 =
|所有者 = <!-- [[京阪電気鉄道]](旧)→[[阪急電鉄|京阪神急行電鉄]]→ -->[[京阪電気鉄道]]
|運営者 = 京阪電気鉄道
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 7.6 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#K-ATS|K-ATS]]
|車両基地 = [[寝屋川車庫]]、[[淀車庫]]
|最大勾配 = 30 [[パーミル|‰]]
|最小曲線半径 = 200 [[メートル|m]]
|最高速度 = 80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="piku">『鉄道ピクトリアル』 臨時増刊号 京阪電気鉄道 2009年 08月号</ref>
|路線図 = Keihan Electric Railway Linemap.svg
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線<!-- ←信号場も含めているので「停車場」 -->
|title-bg=#1d2088
|title-color=white
|map=
{{BS||||[[京阪本線|{{駅番号s|#1d2088|#fff|KH}} 京阪本線]]|}}
{{BS4|BHFq|ABZq+r|||0.0|KH28 [[中書島駅]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=京都市電伏見線|京都市電伏見線]]|}}
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{{BS4|hKRZWaeq|xKRZu|STRr||||JR西:{{JR西路線記号|K|D}} 奈良線|}}
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{{BS4|WASSER||||||[[淀川|宇治川]]|}}
}}
[[ファイル:Kyoto-Nara Railway Line Map.jpg|thumb|right|京都・奈良間鉄道路線図<br />([[:ファイル:Kyoto-Nara Railway Line Map.svg|→SVG版]])]]
[[ファイル:Kyoto-Fushimi Railway Line Map.jpg|thumb|right|京都伏見付近拡大図]]
'''宇治線'''(うじせん)は、[[京都府]][[京都市]][[伏見区]]の[[中書島駅]]から京都府[[宇治市]]の[[宇治駅 (京阪)|宇治駅]]までを結ぶ[[京阪電気鉄道]]の[[鉄道路線]]である。
京都・大阪から宇治周辺の名所への行楽路線であり、また京都市伏見区・[[山科区]]南部や宇治市北部の[[淀川|宇治川]]右岸と京都市中心部や大阪方面を結ぶ通勤・通学路線でもある。六地蔵 - 宇治間が[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[奈良線]]と並行している。
== 路線データ ==
*路線距離([[営業キロ]]):7.6km
*[[軌間]]:1435mm
*駅数:8駅(起終点駅含む)
*複線区間:全線
*電化区間:全線電化(直流1500V)
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
**閉塞信号機 22基
*保安装置:[[自動列車停止装置#K-ATS|K-ATS]]
*踏切数:19か所(すべて第1種甲)、うち車が通行可能な17か所に[[踏切障害物検知装置]]が設置。
*最高速度:80km/h<ref name="piku" />
*最急曲線:半径200m(観月橋駅 - 桃山南口駅間・木幡駅 - 黄檗駅間)
*最急勾配:30[[パーミル|‰]](黄檗駅 - 三室戸駅間)
== 運行形態 ==
現行ダイヤでは、4両編成の[[普通列車]]が中書島駅 - 宇治駅間の線内折り返し運転を行っている。平日朝ラッシュ時は5 - 8分間隔、日中は10分間隔、[[京阪本線#正月ダイヤ|正月ダイヤ]]実施期間の日中は12分間隔での運転である。朝ラッシュ時は5編成が、そのほかの時間は4編成が運用に入っている。[[中書島駅]]では[[京阪本線]]の特急や快速急行などとの接続が考慮されている。
かつては、多数の列車が京阪本線の[[三条駅 (京都府)|三条]]方面と直通運転していたが、[[2000年]][[7月1日]]のダイヤ改正でその大半が廃止された後(同時にこの改正で中書島駅に特急が終日停車するようになり、昼間時を中心に三条駅 - 宇治駅間の所要時分が直通列車より4 - 5分短縮された)、[[2003年]]9月5日までは平日午前中2本のみ残り、全線[[ラッシュ時]]は5 - 8分間隔で、昼間時間帯は15分間隔の運行であった。翌[[9月6日|6日]]のダイヤ改正から三条方面の直通運転が廃止され、車両も5両編成と4両編成で運用されていたが、5両編成の宇治線定期運用は一時廃止された。[[2006年]][[4月16日]]のダイヤ改正で土曜・休日の深夜に限り5両編成での定期運用が復活することになったが、[[2009年]][[9月12日]]のダイヤ改正後は、平日、土曜・休日共に終日4両編成となっている<ref>京阪時刻表 2009より。</ref>。
[[2013年]][[3月19日]]に発表されたプレスリリースにおいて、同年[[6月1日]]より宇治線で[[ワンマン運転]]を開始することが発表された<ref name="keihan20130319">{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/info/upload/2013-03-19_01tetsudo-safety.pdf 京阪電車の運輸業における「『安全・安心』の提供」「運営体制の効率化」に関する取り組みについて]}} - 京阪電気鉄道 報道発表資料、2013年3月19日。</ref>。京阪電鉄でのワンマン運転は、[[2002年]][[11月30日]]開始の[[京阪京津線|京津線]]、[[2003年]][[10月4日]]開始の[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]、[[2007年]][[9月22日]]開始の[[京阪交野線|交野線]]に次いで4例目である<ref name="keihan20130319" />。宇治線では全駅に自動改札が導入されているため、乗車時はワンマン化前と同様自動券売機で乗車券を購入して自動改札を通り、列車も任意の扉から乗り降りする。またIC専用の自動券売機では乗車駅証明書も発行しており、それで自動改札を通った場合は降車駅で精算する。
その他、[[1947年]][[4月1日]]から1968年[[12月19日]]まで[[丹波橋駅]]で京阪と[[奈良電気鉄道]](奈良電。1963年10月1日以降は[[近鉄京都線]])が接続して相互直通運転を行っており、宇治線の一部の電車が奈良電(近鉄京都線)の[[京都駅]]まで乗り入れていた。
[[行先標|方向板]]を車両正面に掲出していた頃、宇治発の三条行の方向板は大阪方面からの三条行と区別するため、「三」と「条」の間が開いたものを使用していた{{Efn|ほかに京阪本線の普通列車で京都口の主要駅を発着するもの(「[[出町柳駅|出町柳]]」も実在した)または交野線内折り返し列車は、原則として着駅だけを表記したものを使用。なお両線とも1970年代中期までは線内折り返し列車は両端の発着駅を表示していた。}}。
=== 過去の列車種別 ===
==== 急行 ====
[[1965年]][[4月21日]]から[[1989年]][[9月26日]]までは平日のみ三条方面直通で[[急行列車|急行]]も走っていた。当初は朝の宇治駅発のみの設定で、夕方の三条駅発の設定は[[1968年]][[12月20日]]である。5両編成でラッシュ時に京阪本線を走ることで同線の混雑率が上がるため、まず[[1980年]]3月に同線の朝の急行の10分間隔化で朝の急行が廃止されて三条駅発の片道のみの運転となり、続いて1989年に夕方の急行も廃止(出町柳駅 - 淀駅・樟葉駅間の準急に立て替え)された。なお宇治線内は各駅停車だった。
ただし、[[1982年]][[10月24日]]に、[[京都府立山城総合運動公園|太陽が丘]]で宗教団体(団体名不明)による運動会を開催した際に、この1日限りで実施した臨時ダイヤ(同日限定で作成された宇治線[[ダイヤグラム|列車運行図表]]による)では宇治線と京阪本線三条駅 - 中書島駅間で[[臨時列車]]を運転したが、宇治行き及び三条行き双方での宇治線直通の臨時急行も設定された。また、この日は宇治線内折返しの臨時普通列車も運転され、三条直通の[[定期列車]]と臨時急行および臨時普通とあわせて宇治線は最小約5分間隔で運転していた。
==== 臨時急行 ====
[[1960年代]]には行楽シーズンに大阪側から6両編成の臨時列車が設定されていた(ただし六地蔵駅のホームは最大5両までしか停車できなかった)。だが、[[1995年]][[6月17日]]の宇治駅移転で線路の有効長が短くなり、以後6両編成の宇治線への入線は不可能となっている。また、[[1998年]]から[[1999年]]までの行楽シーズンに大阪方面直通の臨時快速「[[#宇治快速|宇治快速]]」が運転されることがあった(後述)。上記の急行とは停車駅が異なり、宇治線内でも急行運転を実施していた。停車駅は六地蔵駅のみであった。
臨時急行には列車愛称が付けられ、過去には「鵜飼号」、その後「鵜飼号」は「ライン号」に改称(改称時期不明)され、ライン号も後に「宇治川ライン 天ヶ瀬号」(こちらの改称時期も不明)となり、1976年まで[[天ヶ瀬ダム]]のイラスト入り副標識を掲げて運転していた。「宇治川ライン 天ヶ瀬号」は1977年より再度改称され「宇治号」となり、副標識のイラストも天ヶ瀬ダムから[[平等院]]に変更され、以後1986年の運転終了までの間は「宇治号」として運転していた。
==== 宇治快速 ====
「宇治快速」は、京阪本線[[淀屋橋駅]] - 宇治線宇治駅間に、淀屋橋駅→宇治駅間で2本、宇治駅→天満橋駅間で1本が運転された。1998年[[11月1日]]から[[1999年]]11月までの行楽シーズンの休日ダイヤ(当時は日曜日と祝日)のみ運行していた[[臨時列車]]である。[[列車種別]]は臨時列車とは言え、新たな種別名である「[[快速列車|快速]]」を設定した。これは停車駅が特急並みであったことによる。なお、同社の快速は急行より上位の位置付けとなっており、当時の特急に対する[[快速急行]]に近似する位置付けであった。
運行期間は年間4シーズンあり、[[春休み]]は「宇治快速さくらSpecial」、[[ゴールデンウイーク]]は「宇治快速わかばSpecial」、[[6月]]には「宇治快速あじさいSpecial」、[[秋]]のシーズンは「宇治快速もみじSpecial」と季節により列車名を変えていた。特記以外は「宇治快速」に統一して述べる。
この列車の設定理由は当時宇治地区が「[[源氏物語]]の街」として観光に力を入れていたこと、同年秋宇治線の宇治駅付近に「[[宇治市源氏物語ミュージアム]]」が完成したことによるものである。また、[[1996年]]に10haの敷地を擁する宇治市植物公園が開園し、[[1997年]]に[[京阪宇治交サービス]]の経営する[[地ビール]]レストラン「ガーデンズ天ヶ瀬」がオープン(営業不振のため2002年秋閉鎖)するなど新観光地が相次いで誕生しており、大阪方面から乗り換えなしで宇治地区への観光客を誘致する目的もあった。運行開始当初、「もみじSpecial」の運行に合わせて、秋の企画乗車券「もみじきっぷ」の一つとして「宇治フリーきっぷ」を設定した。列車内ではボランティアガイドによる観光案内放送や茶摘み娘によるPRもあり、「ガーデンズ天ヶ瀬」では「宇治市源氏物語ミュージアム」開館記念地ビール「源氏物語」を販売した。
前述のように、1986年までは行楽シーズンに淀屋橋駅 - 宇治駅間の臨時急行も運転されていたが、廃止されたので、京阪本線との直通列車は12年振りであった。なお、[[阪急電鉄]]の「[[阪急嵐山線#臨時列車|嵯峨野エクスプレス]]」と違い、支線である宇治線内も急行運転された。ただし、宇治線内の通過駅では[[列車選別装置]]がないため、駅構内の踏切動作の関係上15km/h程度で通過していた。
「宇治快速」は1999年の「もみじSpecial」をもって運行を終了した。その後、2000年[[7月1日]]の京阪線ダイヤ改正で中書島が特急の終日停車駅となり、乗り換えが必要とは言え、従来の急行利用と比べて大阪方面への利便性が向上したこと(淀屋橋駅 - 宇治駅間は平均約20分も短縮され、所要時間も1時間を切った)もあって、以降は運行されていない<ref name="tp200012zoukan">『鉄道ピクトリアル』2000年12月臨時増刊号より</ref>。
当時の停車駅は、淀屋橋駅・[[北浜駅 (大阪府)|北浜駅]]・[[天満橋駅]]・[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]・[[枚方市駅]]・中書島駅・[[六地蔵駅]]・[[三室戸駅]](「宇治快速あじさいSpecial」のみ停車)・宇治駅で、[[京阪1900系電車|1900系]]および、[[京阪7200系電車|7200系]]が使用されていた。7200系は「宇治快速」運用のためだけに早朝の寝屋川車庫内で8両編成を5両編成に組み替え、運転終了後の夕方過ぎに再度8両編成に戻しており<ref name="tp200012zoukan" />、7200系の特徴であるLED式車内案内表示器は全く使用されなかった。
1999年[[4月11日]]の「宇治快速さくらSpecial」には[[京阪2600系電車|2600系]]を使用していたが、基本的には2600系は車外スピーカー未取り付けのため「宇治快速」では運用されなかった<ref name="tp200012zoukan" />。
当時の車両には「快速」表示幕がなく、「臨時」表示幕を提示し、前面に「宇治快速」と「-Special」の合計2枚の表示板を用意して取り付けた。
2006年[[7月29日]]から運転されていた「[[きかんしゃトーマス]]」[[ラッピング車両|ラッピング電車]]のラストランである[[2007年]][[1月21日]]には、臨時列車として宇治→天満橋間に[[京阪10000系電車|10000系]]を使用した臨時特急が運転された。宇治線で特急列車が運転されるのはこれが初めてである。宇治線内では各駅に停車した。
==== 宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS ====
[[2014年]][[4月6日]]より[[5月6日]]までの土曜・休日に、宇治・伏見観光キャンペーンの一環として淀屋橋 - 宇治間に直通の臨時列車「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS」が運転され、久々に大阪側から宇治線への直通列車が運行された。停車駅は、淀屋橋駅・北浜駅・天満橋駅・京橋駅・中書島駅で、中書島駅から宇治線内は各駅に停車した<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/info/upload/2014-03-03_uji-fushimi.pdf 宇治・伏見観光キャンペーン 『宇治・伏見 水と歴史の、まちめぐり。』を展開します]}}京阪電気鉄道、2014年3月3日(2014年9月23日閲覧)</ref>。
2014年[[6月1日]]から[[6月29日]]までの土曜・休日に、[[三室戸寺]]の[[アジサイ|あじさい]]が見頃の時期に合わせて、「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS あじさいスペシャル」が運転された。今回は[[樟葉駅]]が停車駅に加わり、上り列車でこの列車の前に走行する急行(定期列車)を「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS連絡急行」として運転された<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/info/upload/2014-05-23_uji-ajisai.pdf 宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS あじさいスペシャルを運転します]}}京阪電気鉄道、2014年5月23日(2014年9月23日閲覧)</ref>。秋にも[[10月4日]]から[[11月30日]]までの土曜・休日に京阪本線で秋の特別ダイヤが実施され、これに合わせて「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS」が再度運行。ただし6月と同じ運行形態であった<ref>{{PDFlink|[https://www.keihan.co.jp/info/upload/2014-09-12_oujichama.pdf 今秋落成を迎える平等院鳳凰堂へ。淀屋橋から宇治への直通列車「宇治・伏見おうじちゃまEXPRESS」を運転します]}}京阪電気鉄道、2014年9月12日(2014年9月23日閲覧)</ref>。
== 使用車両 ==
2012年4月14日から13000系が当路線で運用を開始した。同年7月13日13000系第5編成の運用開始に伴い、2600系4両編成が宇治線の定期運用から一旦離脱したが<ref>投稿記事「2600系が宇治線から引退」月刊『とれいん』2012年9月号、エリエイ、143頁より</ref>、2013年3月から2600系の定期運用が復活した。ワンマン運転が開始された同年6月1日からはワンマン機能を持つ13000系と10000系のみで運行されていることが多いが、予備車として2600系4両編成の2623Fが入線することがあった。しかし、[[2014年]]3月の4両編成の13000系第6編成の導入により2600系は予備車としても入線しなくなり(定期運用を完全に離脱)、2623Fは2015年7月31日付けで廃車となった<ref>ジェー・アール・アール 『私鉄車両編成表2016』 交通新聞社、2016年、199頁。</ref>。
*[[京阪13000系電車|13000系]](4両編成) - 2012年4月14日から運転を開始した車両。2016年以降はこの形式が専ら運用されることが多い。
*[[京阪10000系電車|10000系]](4両編成) - ワンマン運転開始時より13000系と完全に共通運用となり、13000系を交野線でも運用させる代わりに宇治線でも定期運用されるようになった。
*[[京阪2600系電車|2600系]](5両編成。臨時組成編成)
**宇治川花火大会の日など輸送力確保のための5両編成による臨時列車が運用される時に、7両編成を組んでいる0番台車が5両編成に短縮して入線することがある。なお、4両編成による定期運用は2012年夏までに一旦13000系に置き換えられたが2013年3月から2623F(4両編成)による定期運用が復活した。しかし、2014年3月の13006Fの導入により完全に運用離脱した。
以下は、現在も京阪に在籍していて過去に宇治線に営業車として入線経歴がある車両。いずれも7両以上に固定編成化されたため、宇治線への入線はほぼ不可能である。
*[[京阪7200系電車|7200系]](5両編成。臨時組成編成)
**7201F・7202F(5両編成)。通常は入線しないが、試運転時や宇治川花火大会の日など輸送力確保のため5両編成が大量に使用される時、または車両運用の都合でも入る場合に、当時あった8両編成を5両編成に組み替えて入線することがあった。宇治快速やその折り返しの臨時回送でも5両編成で運用された。その後中間の電動車を抜いて、残りの車両も位置を組み替えて[[MT比|3M4T]]の7両に固定編成化された。
*[[京阪2200系電車|2200系]]
**2210F(4両編成)。2200系の導入当初より運用の都合や行楽期の臨時急行「天ヶ瀬号」で運用されていたこともあった。1974年から1976年にかけて冷房改造に併せて2200系は95両が7両編成13本に固定編成化され中間に入った先頭車は運転台を簡易撤去されたが、残った4両編成1本が非冷房時代に引き続き宇治線に入線したことがある。1978年に2600系が導入されるまでは宇治線に乗り入れることができる唯一の冷房車だった。その後車体更新に併せて2629F(3両)と変則固定編成化され、現在は組成変更により2200系同士で回生ブレーキ車と発電ブレーキ車を混結した7両編成になっている。
*[[京阪5000系電車|5000系]]
**5552F(4両編成)。[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京阪電気鉄道置石脱線事故|1980年2月の置石脱線事故]]で5554Fの3両が修復中、5002F+5552Fに分割して5002F3両+5554Fの大阪向きの4両で7連を組み、残った5552F4両編成が宇治線にも入線した。更新改造時に7両固定編成化された。
*[[京阪6000系電車|6000系]]
**4両編成。6001F - 6005Fが1983年3月の竣工時から同年12月の1500[[ボルト (単位)|ボルト]]昇圧前まで、制御回路を改造し1両あたり4つのモーターを2つだけ使用して入線。6012Fは新造時、中間の付随車にモーターや制御機への配線を通して、1986年11月から1989年3月まで入線。
*[[京阪7000系電車|7000系]]
**7003Fのみ1989年の竣工時から1991年9月に中間車2両を増結されるまで4両編成で入線した。その後中間車1両を増結して7両に固定編成化された。
このほかに2代目[[京阪3000系電車 (2代)|3000系]]が試運転で、4両・5両編成に組み替えて入線したことがある。
以下は除籍分
*[[京阪1900系電車|1900系]]
*[[京阪1800系電車 (2代)|1800系(2代)]]
*[[京阪700系電車 (2代)|700系(2代)]] - 暫定編成のみ入線実績あり。
以下の4車種は[[1983年]][[12月4日]]の架線電圧600ボルトから1500ボルトへの昇圧で廃車。
*[[京阪1800系電車 (初代)|1800系(初代)]] - 元特急専用車。3扉ロングシート化して一般車に格下げ後に入線。
*[[京阪1700系電車|1700系]] - 元初代特急専用車。3扉ロングシート化して一般車に格下げ後に入線。
*[[京阪1300系電車|1300系]] - 運輸省の規格電車。
*[[京阪600系電車 (2代)|600系]]
== 歴史 ==
宇治線の軌道敷設特許は[[1907年]]([[明治]]40年)1月に宇治川電気軌道(株)が得ていたが、沿線には[[醍醐寺]]・[[萬福寺|黄檗山万福寺]]・[[三室戸寺]]、宇治には[[平等院]]などの名刹があり、この路線の特許を[[1910年]]11月に京阪電気鉄道が譲り受け、企業業績安定後に着工する計画だった。ところが、この路線の特許は軌間1067mm、[[架線]]も[[トロリーバス]]と同じ複線式、宇治駅の位置も国鉄宇治駅の北側だったため、様々な変更をして認可を受けた<ref>参考文献『京都滋賀 鉄道の歴史』1998年京都新聞社発行</ref>。
当時の計画では中書島から宇治川を渡り、宇治川の南側から宇治へ向かう第1案と、伏見桃山から現在の宇治線のルートとなる第2案が比較検討され、第1案で建設が計画されたが、この直後[[1912年]][[7月30日]]に[[明治天皇]]が崩御し、御陵は「[[伏見桃山陵|伏見桃山]]」と発表された。「大喪の儀」は9月13日から15日にかけて行われ9月18日から10月15日まで一般参拝も許されたが、桃山一帯は混雑をきわめ、[[宮内省]]は11月3日まで期間を延長し、期間中の参拝者は400万人にも及んだ。翌年7月30日には明治天皇御1年祭が予定されており、参拝者輸送のため宇治線の計画ルートを変更して建設が前倒しされ、「明治天皇御1年祭までに開通させる」として1912年のうちにほとんどの用地買収を終え、工事認可前から準備工事をはじめ、一部では土地収用も行われた。そして工事認可から、わずか4か月間の突貫工事で宇治線は開通した<ref>出典・高橋修著「京阪電鉄、叡山電鉄、京福電鉄(嵐電) 1世紀の写真記録」ISBN 978-4-86598-826-0 の 59頁「『宇治市史』に登場する宇治線」</ref>。
開業後は、1917年9月‐10月の「大正大洪水<ref>[https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/flood_record/flood_1917_shosai.html 大正6年(1917年)大正大洪水 詳細解説][[国土交通省]]淀川事務所「洪水の記録」より。</ref>」、1934年9月の[[室戸台風]]、その翌年の6月と8月の[[京都水害]]([[鴨川 (淀川水系)#昭和の鴨川水害|鴨川水害]])、1953年9月の[[昭和28年台風第13号|台風13号]]、1959年8月13日の豪雨、1961年9月の[[第2室戸台風]]、1965年9月の[[昭和40年台風第24号|台風24号]]などでは[[淀川|宇治川]]・[[山科川]]の横を走る中書島駅 - 木幡駅間が浸水して不通になる水害多発地帯であったが、1960年代から始まった[[天ヶ瀬ダム]]の建設と宇治川・山科川の堤防かさ上げ強化、それに伴う六地蔵駅の移設、排水ポンプ場の設置などようやく水害対策が完了した<ref>水害に関する参考文献・植村善博著『京都の治水と昭和の大水害(文理閣)』第4章「宇治川と宇治市の水害」、京阪電気鉄道開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』165-166頁「台風禍と水害禍」231頁「台風13号の被害」、『鉄道ピクトリアル』1984年1月増刊号124頁、関西鉄道研究会『車両発達史シリーズ 1 京阪電気鉄道』第5章「京阪電気鉄道の路線の変遷について」の179頁「宇治線六地蔵付近の付け替え」</ref>。
1950年代後半から沿線に向島住宅・醍醐石田団地・小栗栖団地などが造られるなど宅地化が本格化、列車増発のために六地蔵駅側に変電所が造られ、1965年には通勤客輸送のため朝に宇治から京都三条へ急行が設定されるなど観光路線から通勤路線へと変遷する。また1984年に並行して走るJR奈良線が電化され、1992年に六地蔵駅が建設されるのに対抗して、1993年1月に特急を中書島駅に朝のラッシュ時の淀屋橋行き6本を停車させて大阪方面へのアクセスが強化され、2000年からは同駅が終日特急停車駅に格上げされた。それに併せて宇治駅 - 三条駅間を直通する列車が削減され、ほぼすべて宇治線内のみの運転となり、2003年には三条直通列車は廃止された。
2011年5月、中書島・六地蔵・宇治の3駅を除く各駅は「[[#他駅サポートシステム|他駅サポートシステム]]」により早朝、深夜を中心に駅係員が無配置化された。また、2013年6月1日より列車の運行はワンマン化<ref name="k PRESS20136">『K PREEES』(駅置き沿線情報誌) 2013年6月号16面「くらしのなかの京阪」</ref>されるなど省力化がすすんでいる。
=== 年表 ===
* [[1910年]]([[明治]]43年)[[11月22日]]:京阪電気鉄道が宇治川電気軌道より路線特許を8,000円で買収。
* [[1912年]]([[大正]]元年)9月:用地買収開始。
* [[1913年]](大正2年)
** [[1月19日]]:宇治線の工事敷設の認可が下りる。
** [[6月1日]]:中書島駅 - 宇治駅間が開業。
* [[1914年]](大正3年)[[9月13日]]:貨物輸送開始<ref>参考文献『京阪百年のあゆみ』資料編184頁、『鉄道ピクトリアル』2009年8月増刊号のP.145-p.147には「宇治駅・御陵前駅(現在の桃山南口駅)・中書島駅に設備があった」との記述がある。</ref>。
* [[1917年]](大正6年)
** [[2月1日]]:三室戸駅が開業。
** [[9月26日]] - [[10月1日]]:「大正大洪水」により[[淀川|宇治川]]・[[山科川]]で堤防決壊し、中書島駅 - 六地蔵駅間で浸水<ref>出典・京阪100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』84頁「淀川の決壊」</ref>。
* [[1918年]](大正7年)[[6月5日]]:三室戸駅が休止。
* [[1921年]](大正10年):この年までに三室戸駅の営業再開。
* [[1926年]](大正15年):黄檗山駅を黄檗駅に改称。
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[5月31日]]:観月橋付近の[[併用軌道]] 0.110km が宇治川の堤防改修に併せて専用軌道化<ref>車両発達史シリーズ1『京阪電気鉄道』181頁「併用軌道を専用軌道に変更」</ref>。
* [[1934年]](昭和9年)[[9月21日]]:[[室戸台風]]が来襲、停電と浸水で全線不通。同月27日運転再開<ref name="keihan100">出典・京阪100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』165-166頁「台風禍と水害禍」</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)
** [[6月29日]]:山科川が氾濫で浸水、全線不通。7月1日運転再開<ref name="keihan100" />。
** [[8月11日]]:宇治川が氾濫して浸水、全線不通。8月13日運転再開<ref name="keihan100" />。
* [[1943年]](昭和18年)
** 10月1日:会社合併により京阪神急行電鉄(阪急電鉄)の路線となる。
** [[11月1日]]:三室戸駅が廃止。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[9月15日]]:観月橋駅・御陵前駅休止。
** [[11月8日]]:観月橋駅の営業再開。
* [[1946年]](昭和21年)[[2月15日]]:御陵前駅の営業再開。
* [[1947年]](昭和22年)[[4月1日]]:三室戸駅が再開業。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[7月29日]]:豪雨のため観月橋駅 - 御陵前駅間で浸水、道床流失して全線不通<ref>京阪電気鉄道開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』資料編208頁</ref>。
** [[11月25日]]:御陵前駅を桃山南口駅に改称。
** [[12月1日]]:会社分離により京阪電気鉄道宇治線となる。
* [[1953年]](昭和28年)[[9月25日]]:[[昭和28年台風第13号|台風13号]]により被災し、宇治川から山科川へ逆流した水で桃山南口駅 - 六地蔵駅間が浸水、10月1日仮復旧・運行再開<ref>『鉄道ピクトリアル』1984年1月増刊号「特集 京阪電気鉄道」124頁</ref>。
* [[1957年]](昭和32年)
** [[2月21日]]:六地蔵変電所([[水銀整流器]]1500kW)が新設される{{Efn|1976年までには[[シリコン整流器]]に更新され、その後600/1500V複電圧仕様へ。昇圧後は3000kWと倍増している<ref>『鉄道ピクトリアル』1984年1月増刊号「特集 京阪電気鉄道」36-39頁「昇圧と電気設備」</ref>。}}<ref>京阪電気鉄道開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』292頁「変電所の増強」より</ref>。
** [[4月21日]]:3両編成の運用開始<ref>『関西の鉄道』別冊第1巻「京阪電気鉄道 戦後分離独立後の歩みPart1」32頁</ref>
* [[1959年]](昭和34年)[[8月13日]]:前線性豪雨で山科川が破堤、観月橋駅から六地蔵駅・木幡駅と周辺が浸水、宇治線は15日以降に運転再開{{Efn|周辺家屋約400戸が床上浸水した<ref>植村善博 著『京都の治水と昭和大水害』(文理閣刊)7頁 「昭和34年8月水害浸水域図」、89-115頁 第4章「宇治川と宇治市の水害」</ref>}}<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159185.html 京都市消防局昭和34年8月13.14日 水害] 2014年11月15日閲覧</ref>。
* [[1961年]](昭和36年)[[9月16日]]: [[第2室戸台風]]により16時30分より全線運転停止、翌17日午後9時より運転再開<ref>京阪電車開業100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』資料編 222頁</ref>。
* [[1965年]](昭和40年)
** 4月21日:ダイヤ改正。朝のラッシュ時に宇治発三条行急行を新設。
** [[9月17日]]:台風24号で六地蔵駅・木幡駅周辺が浸水{{Efn|六地蔵・木幡地区に避難勧告がで周辺家屋509戸が床上・床下浸水した<ref>植村善博 著『京都の治水と昭和大水害』(文理閣刊)第4章「宇治川と宇治市の水害」</ref>}}。
* [[1966年]](昭和41年)[[3月20日]]:山科川堤防嵩上げ工事に併せて橋梁架け替え、六地蔵駅付近が線路移設し六地蔵駅も堤防上に移設<ref>車両発達史シリーズ1『京阪電気鉄道』179頁「宇治線 六地蔵付近の付け替え」</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)
** 10月1日:日曜祝日に淀屋橋-宇治間の5連の直通急行運行開始<ref>『関西の鉄道』別冊第1巻「京阪電気鉄道 戦後分離独立後の歩みPart1」48頁</ref>。
** [[12月11日]]:全列車を4両編成化<ref>車両発達史シリーズ1『京阪電気鉄道』45頁、『関西の鉄道』別冊第1巻「京阪電気鉄道 戦後分離独立後の歩みPart1」48頁</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[1月29日]]:ATS使用開始<ref>車両発達史シリーズ1『京阪電気鉄道』45頁「関西私鉄のトップをきってATSを導入」</ref>。
** [[12月20日]]:ダイヤ改正。夕方混雑時に三条発宇治行急行を新設<ref>『関西の鉄道』別冊第1巻「京阪電気鉄道 戦後分離独立後の歩みPart1」50頁</ref>。
* [[1978年]](昭和53年)[[3月10日]]:全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。
* [[1980年]](昭和55年)[[3月23日]]:ダイヤ改正。土曜ダイヤ導入と朝のラッシュ時の三条行急行が廃止。
* [[1982年]](昭和57年):3月末までに、すべての駅に点字ブロックが設置される。
* [[1983年]](昭和58年)[[12月4日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月27日]]:ダイヤ改正。夕方ラッシュ時の三条発宇治行急行が廃止。
* [[1995年]](平成7年)[[6月17日]]:宇治駅が移転し、0.2km短縮<ref name="交通950613">{{Cite news |title=京阪が一部区間値下げ 宇治駅移転で17日から |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-06-13 |page=1 }}</ref>。これにより一部の駅間で運賃改定{{R|交通950613}}。
* [[1997年]](平成9年)
** [[7月11日]]:大戦川橋梁(三室戸駅 - 黄檗駅間)中書島行線路架け替え。
** [[7月25日]]:大戦川橋梁宇治行線路架け替え。
* [[2000年]](平成12年)[[7月1日]]:三条駅直通列車が平日朝の三条行の2本のみになる。
* [[2003年]](平成15年)[[9月6日]]:三条駅直通列車を廃止。
* [[2004年]](平成16年)[[8月1日]]:[[PiTaPa]]導入。
* [[2010年]](平成22年)[[9月1日]]:六地蔵駅に車イス対応エレベーターと多目的トイレ設置、宇治線の駅のバリアフリー化が完了。
* [[2011年]](平成23年)[[5月2日]]:観月橋駅・桃山南口駅・木幡駅・黄檗駅・三室戸駅が早朝・深夜時間帯に駅係員無配置となる。
* [[2012年]] (平成24年) [[8月14日]] : 豪雨で三室戸駅などが冠水して一時運行停止<ref name="keihan20201101"> 出典 『京阪グループ 開業110周年記念誌』京阪ホールディングス株式会社2020年11月1日発行 67-68頁「未来への教訓 京阪電車における重大事故・自然災害の振り返り」</ref>。
* [[2013年]](平成25年)6月1日:ワンマン運転を開始<ref name="keihan20130319" /><ref name="k PRESS20136" />。宇治線開業100周年を記念して特製ヘッドマークをつけた13000系が1か月間運行<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/info/upload/2013-06-06_ujiline%20100th-anniversary%20event.pdf 宇治線開業100周年記念イベントを開催]}} - 京阪電気鉄道、2013年6月6日。</ref>。
* [[2014年]](平成26年)2月21日:新茶屋踏切道(黄檗駅-三室戸駅間・中書島より約6.2km)の拡幅工事が完了、併せて踏切閃光灯を全方向型踏切閃光灯に更新<ref>駅置き沿線情報誌『K PRESS』2014年3月号16面「くらしのなかの京阪」より、中書島からの距離は『鉄道ピクトリアル』1984年1月増刊号「特集 京阪電気鉄道」41頁掲載「踏切道一覧表」より</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[2月4日]]:全線でK-ATSを使用開始<ref>出典・駅置き沿線情報誌『K PRESS』2017年2月号16面「くらしのなかの京阪」</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.keihan.co.jp/info/upload/2016-06-24_h28_setsubi.pdf 平成28年度鉄道設備投資計画について]}} - 京阪電気鉄道、2016年6月24日</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[6月18日]] : [[大阪府北部地震]]発生、安全確認のため一時運行停止 <ref name="keihan20201101" />。
** [[9月4日]] : [[平成30年台風第21号|台風21号]]の接近に伴い[[計画運休]]を初めて実施 <ref name="keihan20201101" />。
** [[9月30日]] : [[平成30年台風第24号|台風24号]]の接近に伴い2度目の計画運休を実施 <ref name="keihan20201101" />。
* [[2019年]](平成31年)2月 : 黄檗駅下りホーム中書島寄りのカーブ部分に列車停止時のホームと車体の間の隙間からの転落事故防止のために櫛状ゴムを取り付け<ref>『京阪グループ 開業110周年記念誌』京阪ホールディングス株式会社2020年11月1日発行 62頁「施設の安全対策」</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[1月26日]]:すべての踏切に[[踏切支障報知装置]](非常ボタン)の設置が完了<ref>駅置き沿線情報誌『K PRESS』2020年2月号16面「くらしのなかの京阪」</ref>。
== 駅一覧 ==
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は2014年4月1日に導入<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20140405000025 関西鉄道各社、外国人受け入れ体制強化] - 京都新聞、2014年4月5日</ref>。
* 全駅[[京都府]]内に所在。
* 普通列車のみ運転、全列車が全駅に停車。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width: 3.5em; border-bottom:solid 3px #1d2088;"|駅番号
!style="width: 6em; border-bottom:solid 3px #1d2088;"|駅名
!style="width: 2.5em; border-bottom:solid 3px #1d2088"|駅間キロ
!style="width: 2.5em; border-bottom:solid 3px #1d2088"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #1d2088;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #1d2088;"|所在地
|-
!KH28
|[[中書島駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[京阪電気鉄道]]:[[File:Number prefix Keihan lines.png|20px|KH]] [[京阪本線]]
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[京都市]]<br />[[伏見区]]
|-
!KH71
|[[観月橋駅]]
|style="text-align: right;"|0.7
|style="text-align: right;"|0.7
|
|-
!KH72
|[[桃山南口駅]]
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|style="text-align: right;"|2.3
|
|-
!KH73
|[[六地蔵駅]]
|style="text-align: right;"|0.8
|style="text-align: right;"|3.1
|[[京都市営地下鉄]]:[[File:Subway KyotoTozai.svg|14px|■]] [[京都市営地下鉄東西線|東西線]] (T01)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|D}} [[奈良線]] (JR-D06)
|-
!KH74
|[[木幡駅 (京阪)|木幡駅]]
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|
|rowspan="4"|[[宇治市]]
|-
!KH75
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|
|-
!KH76
|[[三室戸駅]]
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|-
!KH77
|[[宇治駅 (京阪)|宇治駅]]
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|}
六地蔵駅と黄檗駅で乗り換えの放送はない。また、路線図にも(黄檗駅の場合は)乗換駅と正式には書かれていない{{Efn|ただし、宇治駅では、[[宇治駅 (JR西日本)|JR宇治駅]]と間違えて来た人のために、[[京都駅]]へ行く方法として、黄檗または六地蔵での乗り換えが案内されている。}}。
[[中書島駅]]では、[[京阪本線]]との誤乗を防ぐ(同一ホーム反対側に京阪本線下り用の2番線がある)ために宇治線ホームでは発車案内放送を「3番線・各駅停車の扉が閉まります」ではなく「3番線・宇治行の扉が閉まります」としている([[枚方市駅]]でも発車案内放送は京阪本線と[[京阪交野線|交野線]]で区別されているほか、[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]と[[天満橋駅]]でも似た措置がとられている)。なお、以上の言い回しは2007年6月16日以降の放送のもの。2007年6月15日以前は「3番線の宇治行きが発車します」であった。
2013年6月1日より電車の運行がワンマン化され、閑散時間帯の観月橋駅・桃山南口駅・木幡駅・黄檗駅・三室戸駅は他駅サポートシステムにより無人化されたが、各駅のプラットホームには緊急時通報装置の設置、運転士が安全確認するための鏡やモニターカメラの設置や増設、急カーブ上にある黄檗駅にはホームと電車の間から旅客が転落したことを検知する転落検知装置が設置されるなど安全対策が整えられている<ref name="k PRESS20136" />。
=== 他駅サポートシステム ===
「自律分散式[[列車運行管理システム]](ADEC、アデック)」の光ファイバー情報ネットワークシステムを利用し、アデック連動駅の宇治駅・中書島駅から各駅の旅客に対して駅員が改札口にいなくても[[ネットワークカメラ|IPカメラ]]・IP[[インターホン]]を使い遠隔対応し、駅出入口のシャッター・空調・照明などの駅設備の操作監視を可能とする「[[駅集中管理システム|他駅サポートシステム]]」を導入している。
=== バリアフリー対策 ===
宇治線のすべての駅に視覚障害者用点字運賃表と誘導用の黄色の[[視覚障害者誘導用ブロック|点字ブロック]]、[[車椅子]]対応の[[エレベーター]](宇治駅・六地蔵駅・中書島駅)または[[スロープ]](観月橋駅・桃山南口駅・木幡駅・黄檗駅・三室戸駅)を備え、電車とホームの間を渡す折りたたみ式の渡し板も各駅に配備されている。
駅のトイレには手すりや、オムツ交換台が設けられている。また車椅子に対応し、[[オストメイト]]対応設備も備えた[[バリアフリー]]対策済みの多目的トイレが設置されている。宇治駅には[[自動体外式除細動器|AED]]も配置されている<ref>[http://www.keihan.co.jp/traffic/safety/barrierfree.html バリアフリー設備]</ref>。
=== 駅の無人化の実施===
2021年4月までに、中書島駅、六地蔵駅、宇治駅を除き終日[[無人駅]]となった<ref>[https://newswitch.jp/p/26736 京阪、20駅を無人化 今期黒字目指し構造改革]日刊工業新聞 2021年4月7日</ref><ref>[https://www.keihan.co.jp/traffic/station/stationinfo/316.html 観月橋駅]など</ref>。
== その他 ==
* 宇治線を舞台にした小説・コミック・アニメ
** 小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム]]』([[京都アニメーション]]制作)
**: 主人公らが宇治線を通学に使用する描写があり、[[響け!ユーフォニアム (アニメ)|アニメ]]化に際して京阪電鉄も製作に協力、タイアップ企画も実施した。なお、2019年7月には当線の桃山南口 - 六地蔵間の沿線で[[京都アニメーション放火殺人事件]]が発生し、同月から開催予定のタイアップ企画が11月に延期されるといった影響があった<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/2019-10-21_hibike.pdf 「京阪電車×響け!ユーフォニアム2019」を11月1日(金)から実施します]}} - 京阪電気鉄道、2019年10月21日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/2019-07-19_enki.pdf 「京阪電車×響け!ユーフォニアム2019」の開催延期について]}} - 京阪電気鉄道、2019年7月19日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/2019-07-11_hibike.pdf 〜宇治が舞台のアニメ「響け!ユーフォニアム」とのコラボレーション企画〜 「京阪電車×響け!ユーフォニアム2019」を7月20日(土)から実施します。]}} - 京阪電気鉄道、2019年7月11日</ref>。
** 小説『十津川警部 犯人は京阪宇治線に乗った』([[西村京太郎]]著、2013年)
* 地名や駅名としての「宇治」の[[アクセント]]は一般的に「宇」の方につくが、当路線の乗換案内放送及び車内放送での「宇治線」のアクセントは「治」の方についている。ただし、宇治線車内放送でも「宇治駅」の場合は「宇」の方につく。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 植村善博著『京都の治水と昭和の大水害』文理閣・2011年4月10日発行
*『京阪百年のあゆみ』京阪電気鉄道開業100周年記念誌・2011年3月24日発行
*『街をつなぐ 心をむすぶ』京阪電気鉄道開業90周年記念誌・2000年10月発行
*『京都滋賀 鉄道の歴史』1998年[[京都新聞社]]発行
*[[鉄道ピクトリアル]]
** 2009年8月臨時増刊号(京阪電気鉄道特集)
** 2000年12月臨時増刊号(京阪電気鉄道特集)
** 1991年12月臨時増刊号(京阪電気鉄道特集)
** 1984年1月臨時増刊号(京阪電気鉄道特集)
** 1973年7月臨時増刊号(京阪電気鉄道特集)
* 関西の鉄道(関西鉄道研究会)
** No.58「京阪電気鉄道 特集 PART V」2010年5月発行
** No.53「京阪電気鉄道 特集 PART IV」2007年7月発行
** No.38「京阪電気鉄道 特集 PART III」1999年10月発行
** No.17「京阪電気鉄道 特集 PART II」1987年7月発行
** No.8「京阪電気鉄道 特集」1983年1月発行
*京阪電鉄の駅置きの広報誌
**「K PREEES」(毎月1日発行)
**「くらしの中の京阪」(毎月1日発行・2000年4月号より「K PREEES」に統合)のバックナンバー
**「グラフ京阪」(季刊紙・現在休刊)のバックナンバー
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
{{京阪電気鉄道の路線}}
{{デフォルトソート:けいはんうしせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|うしせん]]
[[Category:京阪電気鉄道|路うしせん]]
[[Category:京都府の交通]]
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2003-07-07T07:20:49Z
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2023-10-15T16:27:46Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%98%AA%E5%AE%87%E6%B2%BB%E7%B7%9A
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国の人口順リスト (2003年)
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この国の人口順リスト(くにのじんこうじゅんリスト)は、『CIAワールドファクトブック2003年度版』のデータによるもの。
ここでは国際連合加盟国と北朝鮮・中華民国(台湾)・パレスチナ・バチカンを国とした。
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"title": "国(本土)の人口順リスト"
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この国の人口順リスト(くにのじんこうじゅんリスト)は、『CIAワールドファクトブック2003年度版』のデータによるもの。 本土の人口順
海外領土を含む人口順
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この'''国の人口順リスト'''(くにのじんこうじゅんリスト)は、『[http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/index.html CIAワールドファクトブック]2003年度版』のデータによるもの。
* [[#国(本土)の人口順リスト|本土の人口順]]
* [[#国(海外領土を含む)の人口順リスト|海外領土を含む人口順]]
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This is a '''list of [[countries]] by population'''. The data are from the ''[[w:CIA World Factbook|CIA World Factbook 2003]]'' and although not always quite up to date, at least roughly accurate. In the main list dependent or occupied areas are listed under the country which governs the area; the total population is also given, but the list is ordered according to the populations excluding dependencies and occupied areas. In the second list dependencies are positioned according to their own population.
''
See also: [[w:List of countries]], [[w:List of countries by area]], [[w:List of countries by population density]], [[w:List of countries by continent]], [[w:Most populous nations by 2025]]
</small-->
;関連項目
:[[国の一覧]]
:[[国の一覧 (大陸別)]]
:[[国の面積順リスト]]
:[[国の人口増加率順リスト]]
:[[国の人口密度順リスト]]
== 国(本土)の人口順リスト ==
ここでは[[国際連合]]加盟国と北朝鮮・中華民国(台湾)・パレスチナ・バチカンを[[国]]とした。
<table border="1" frame="box" rules="all" cellpadding="2" cellspacing="0">
<tr style="background:#efefef"><th>順位</th><th>国</th><th>人口</th></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="4">1</th><td>[[中華人民共和国]]</td><td align="right">1,286,975,468</td></tr>
<tr><td>[[香港]]</td><td align="right">7,394,170</td></tr>
<tr><td>[[マカオ]]</td><td align="right">469,903</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">1,294,839,541</td></tr>
<tr><th>2</th><td>[[インド]]</td><td align="right">1,049,700,118</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="7">3</th><td>[[アメリカ合衆国]]</td><td align="right">290,342,554</td></tr>
<tr><td>[[プエルトリコ]]</td><td align="right">3,885,877</td></tr>
<tr><td>[[グアム]]</td><td align="right">163,941</td></tr>
<tr><td>[[アメリカ領ヴァージン諸島]]</td><td align="right">124,778</td></tr>
<tr><td>[[北マリアナ諸島]]</td><td align="right">80,006</td></tr>
<tr><td>[[アメリカ領サモア]]</td><td align="right">70,260</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">294,667,416</td></tr>
<tr><th>4</th><td>[[インドネシア]]</td><td align="right">234,893,453</td></tr>
<tr><th>5</th><td>[[ブラジル]]</td><td align="right">182,032,604</td></tr>
<tr><th>6</th><td>[[パキスタン]]</td><td align="right">150,694,740</td></tr>
<tr><th>7</th><td>[[ロシア]]</td><td align="right">144,526,278</td></tr>
<tr><th>8</th><td>[[バングラデシュ]]</td><td align="right">138,448,210</td></tr>
<tr><th>9</th><td>[[ナイジェリア]]</td><td align="right">133,881,703</td></tr>
<tr><th>10</th><td>[[日本]]</td><td align="right">127,214,499</td></tr>
<tr><th>11</th><td>[[メキシコ]]</td><td align="right">104,907,991</td></tr>
<tr><th>12</th><td>[[フィリピン]]</td><td align="right">84,619,974</td></tr>
<tr><th>13</th><td>[[ドイツ]]</td><td align="right">82,398,326</td></tr>
<tr><th>14</th><td>[[ベトナム]]</td><td align="right">81,624,716</td></tr>
<tr><th>15</th><td>[[エジプト]]</td><td align="right">74,718,797</td></tr>
<tr><th>16</th><td>[[イラン]]</td><td align="right">68,278,826</td></tr>
<tr><th>17</th><td>[[トルコ]]</td><td align="right">68,109,469</td></tr>
<tr><th>18</th><td>[[エチオピア]]</td><td align="right">66,557,553</td></tr>
<tr><th>19</th><td>[[タイ王国|タイ]]</td><td align="right">64,265,276</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="11">20</th><td>[[フランス]]</td><td align="right">60,180,529</td></tr>
<tr><td>[[レユニオン]]</td><td align="right">755,171</td></tr>
<tr><td>[[グアドループ]]</td><td align="right">440,189</td></tr>
<tr><td>[[マルティニーク]]</td><td align="right">425,966</td></tr>
<tr><td>[[フランス領ポリネシア]]</td><td align="right">262,125</td></tr>
<tr><td>[[ニューカレドニア]]</td><td align="right">210,798</td></tr>
<tr><td>[[フランス領ギアナ]]</td><td align="right">186,917</td></tr>
<tr><td>[[マヨット]]</td><td align="right">178,437</td></tr>
<tr><td>[[ウォリス・フツナ]]</td><td align="right">15,734</td></tr>
<tr><td>[[サンピエール・ミクロン]]</td><td align="right">6,976</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">62,662,842</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="15">21</th><td>[[イギリス]]</td><td align="right">60,094,648</td></tr>
<tr><td>[[ジャージー島|ジャージー]]</td><td align="right">90,156</td></tr>
<tr><td>[[マン島]]</td><td align="right">74,261</td></tr>
<tr><td>[[ガーンジー]]</td><td align="right">64,818</td></tr>
<tr><td>[[バーミューダ]]</td><td align="right">64,482</td></tr>
<tr><td>[[ケイマン諸島]]</td><td align="right">41,934</td></tr>
<tr><td>[[ジブラルタル]]</td><td align="right">27,776</td></tr>
<tr><td>[[イギリス領ヴァージン諸島]]</td><td align="right">21,730</td></tr>
<tr><td>[[タークス・カイコス諸島]]</td><td align="right">19,350</td></tr>
<tr><td>[[アンギラ]]</td><td align="right">12,738</td></tr>
<tr><td>[[モントセラト]]</td><td align="right">8,995</td></tr>
<tr><td>[[セントヘレナ]]</td><td align="right">7,367</td></tr>
<tr><td>[[フォークランド諸島]]</td><td align="right">2,967</td></tr>
<tr><td>[[ピトケアン諸島]]</td><td align="right">47</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">60,531,269</td></tr>
<tr><th>22</th><td>[[イタリア]]</td><td align="right">57,998,353</td></tr>
<tr><th>23</th><td>[[コンゴ民主共和国]]</td><td align="right">56,625,039</td></tr>
<tr><th>24</th><td>[[大韓民国]]</td><td align="right">48,289,037</td></tr>
<tr><th>25</th><td>[[ウクライナ]]</td><td align="right">48,055,439</td></tr>
<tr><th>26</th><td>[[南アフリカ]]</td><td align="right">42,768,678</td></tr>
<tr><th>27</th><td>[[ミャンマー]]</td><td align="right">42,510,537</td></tr>
<tr><th>28</th><td>[[コロンビア]]</td><td align="right">41,662,073</td></tr>
<tr><th>29</th><td>[[スペイン]]</td><td align="right">40,217,413</td></tr>
<tr><th>30</th><td>[[アルゼンチン]]</td><td align="right">38,740,807</td></tr>
<tr><th>31</th><td>[[ポーランド]]</td><td align="right">38,622,660</td></tr>
<tr><th>32</th><td>[[スーダン]]</td><td align="right">38,114,160</td></tr>
<tr><th>33</th><td>[[タンザニア]]</td><td align="right">35,922,454</td></tr>
<tr><th>34</th><td>[[アルジェリア]]</td><td align="right">32,818,500</td></tr>
<tr><th>35</th><td>[[カナダ]]</td><td align="right">32,207,113</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="3">36</th><td>[[モロッコ]]</td><td align="right">31,689,265</td></tr>
<tr><td>[[西サハラ]]</td><td align="right">261,794</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">31,951,059</td></tr>
<tr><th>37</th><td>[[ケニア]]</td><td align="right">31,639,091</td></tr>
<tr><th>38</th><td>[[アフガニスタン]]</td><td align="right">28,717,213</td></tr>
<tr><th>39</th><td>[[ペルー]]</td><td align="right">28,409,897</td></tr>
<tr><th>40</th><td>[[ネパール]]</td><td align="right">26,469,569</td></tr>
<tr><th>41</th><td>[[ウズベキスタン]]</td><td align="right">25,981,647</td></tr>
<tr><th>42</th><td>[[ウガンダ]]</td><td align="right">25,632,794</td></tr>
<tr><th>43</th><td>[[イラク]]</td><td align="right">24,683,313</td></tr>
<tr><th>44</th><td>[[ベネズエラ]]</td><td align="right">24,654,694</td></tr>
<tr><th>45</th><td>[[サウジアラビア]]</td><td align="right">24,293,844</td></tr>
<tr><th>46</th><td>[[マレーシア]]</td><td align="right">23,092,940</td></tr>
<tr><th>47</th><td>[[台湾]]/[[中華民国]]</td><td align="right">22,603,001</td></tr>
<tr><th>48</th><td>[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]</td><td align="right">22,466,481</td></tr>
<tr><th>49</th><td>[[ルーマニア]]</td><td align="right">22,271,839</td></tr>
<tr><th>50</th><td>[[ガーナ]]</td><td align="right">20,467,747</td></tr>
<tr><th>51</th><td>[[スリランカ]]</td><td align="right">19,742,439</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="5">52</th><td>[[オーストラリア]]</td><td align="right">19,731,984</td></tr>
<tr><td>[[ノーフォーク諸島]]</td><td align="right">1,853</td></tr>
<tr><td>[[ココス諸島]]</td><td align="right">630</td></tr>
<tr><td>[[クリスマス諸島]]</td><td align="right">433</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">19,734,900</td></tr>
<tr><th>53</th><td>[[イエメン]]</td><td align="right">19,349,881</td></tr>
<tr><th>54</th><td>[[シリア]]</td><td align="right">17,585,540</td></tr>
<tr><th>55</th><td>[[モザンビーク]]</td><td align="right">17,479,266</td></tr>
<tr><th>56</th><td>[[マダガスカル]]</td><td align="right">16,979,744</td></tr>
<tr><th>57</th><td>[[コートジボワール]]</td><td align="right">16,962,491</td></tr>
<tr><th>58</th><td>[[カザフスタン]]</td><td align="right">16,763,795</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="4">59</th><td>[[オランダ]]</td><td align="right">16,150,511</td></tr>
<tr><td>[[オランダ領アンティル]]</td><td align="right">216,226</td></tr>
<tr><td>[[アルバ]]</td><td align="right">70,844</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">16,437,581</td></tr>
<tr><th>60</th><td>[[カメルーン]]</td><td align="right">15,746,179</td></tr>
<tr><th>61</th><td>[[チリ]]</td><td align="right">15,665,216</td></tr>
<tr><th>62</th><td>[[グアテマラ]]</td><td align="right">13,909,384</td></tr>
<tr><th>63</th><td>[[エクアドル]]</td><td align="right">13,710,234</td></tr>
<tr><th>64</th><td>[[ブルキナファソ]]</td><td align="right">13,228,460</td></tr>
<tr><th>65</th><td>[[カンボジア]]</td><td align="right">13,124,764</td></tr>
<tr><th>66</th><td>[[ジンバブエ]]</td><td align="right">12,576,742</td></tr>
<tr><th>67</th><td>[[マラウイ]]</td><td align="right">11,651,239</td></tr>
<tr><th>68</th><td>[[マリ共和国]]</td><td align="right">11,626,219</td></tr>
<tr><th>69</th><td>[[キューバ]]</td><td align="right">11,263,429</td></tr>
<tr><th>70</th><td>[[ニジェール]]</td><td align="right">11,058,590</td></tr>
<tr><th>71</th><td>[[アンゴラ]]</td><td align="right">10,766,471</td></tr>
<tr><th>72</th><td>[[ギリシャ]]</td><td align="right">10,665,989</td></tr>
<tr><th>73</th><td>[[セルビア・モンテネグロ]]</td><td align="right">10,655,774</td></tr>
<tr><th>74</th><td>[[セネガル]]</td><td align="right">10,580,307</td></tr>
<tr><th>75</th><td>[[ベラルーシ]]</td><td align="right">10,322,151</td></tr>
<tr><th>76</th><td>[[ザンビア]]</td><td align="right">10,307,333</td></tr>
<tr><th>77</th><td>[[ベルギー]]</td><td align="right">10,289,088</td></tr>
<tr><th>78</th><td>[[チェコ]]</td><td align="right">10,249,216</td></tr>
<tr><th>79</th><td>[[ポルトガル]]</td><td align="right">10,102,022</td></tr>
<tr><th>80</th><td>[[ハンガリー]]</td><td align="right">10,045,407</td></tr>
<tr><th>81</th><td>[[チュニジア]]</td><td align="right">9,924,742</td></tr>
<tr><th>82</th><td>[[チャド]]</td><td align="right">9,253,493</td></tr>
<tr><th>83</th><td>[[ギニア]]</td><td align="right">9,030,220</td></tr>
<tr><th>84</th><td>[[スウェーデン]]</td><td align="right">8,878,085</td></tr>
<tr><th>85</th><td>[[ドミニカ共和国]]</td><td align="right">8,715,602</td></tr>
<tr><th>86</th><td>[[ボリビア]]</td><td align="right">8,586,443</td></tr>
<tr><th>87</th><td>[[オーストリア]]</td><td align="right">8,188,207</td></tr>
<tr><th>88</th><td>[[ソマリア]]</td><td align="right">8,025,190</td></tr>
<tr><th>89</th><td>[[アゼルバイジャン]]</td><td align="right">7,830,764</td></tr>
<tr><th>90</th><td>[[ルワンダ]]</td><td align="right">7,810,056</td></tr>
<tr><th>91</th><td>[[ブルガリア]]</td><td align="right">7,537,929</td></tr>
<tr><th>92</th><td>[[ハイチ]]</td><td align="right">7,527,817</td></tr>
<tr><th>93</th><td>[[スイス]]</td><td align="right">7,318,638</td></tr>
<tr><th>94</th><td>[[ベナン]]</td><td align="right">7,041,490</td></tr>
<tr><th>95</th><td>[[タジキスタン]]</td><td align="right">6,863,752</td></tr>
<tr><th>96</th><td>[[ホンジュラス]]</td><td align="right">6,669,789</td></tr>
<tr><th>97</th><td>[[エルサルバドル]]</td><td align="right">6,470,379</td></tr>
<tr><th>98</th><td>[[イスラエル]]</td><td align="right">6,116,533</td></tr>
<tr><th>99</th><td>[[ブルンジ]]</td><td align="right">6,096,156</td></tr>
<tr><th>100</th><td>[[パラグアイ]]</td><td align="right">6,036,900</td></tr>
<tr><th>101</th><td>[[ラオス]]</td><td align="right">5,921,545</td></tr>
<tr><th>102</th><td>[[シエラレオネ]]</td><td align="right">5,732,681</td></tr>
<tr><th>103</th><td>[[リビア]]</td><td align="right">5,499,074</td></tr>
<tr><th>104</th><td>[[ヨルダン]]</td><td align="right">5,460,265</td></tr>
<tr><th>105</th><td>[[スロバキア]]</td><td align="right">5,430,033</td></tr>
<tr><th>106</th><td>[[トーゴ]]</td><td align="right">5,429,299</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="4">107</th><td>[[デンマーク]]</td><td align="right">5,384,384</td></tr>
<tr><td>[[グリーンランド]]</td><td align="right">56,385</td></tr>
<tr><td>[[フェロー諸島]]</td><td align="right">46,345</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">5,487,114</td></tr>
<tr><th>108</th><td>[[パプアニューギニア]]</td><td align="right">5,295,816</td></tr>
<tr><th>109</th><td>[[フィンランド]]</td><td align="right">5,190,785</td></tr>
<tr><th>110</th><td>[[ニカラグア]]</td><td align="right">5,128,517</td></tr>
<tr><th>111</th><td>[[グルジア]]</td><td align="right">4,934,413</td></tr>
<tr><th>112</th><td>[[キルギスタン]]</td><td align="right">4,892,808</td></tr>
<tr><th>113</th><td>[[トルクメニスタン]]</td><td align="right">4,775,544</td></tr>
<tr><th>114</th><td>[[シンガポール]]</td><td align="right">4,608,595</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="3">115</th><td>[[ノルウェー]]</td><td align="right">4,546,123</td></tr>
<tr><td>[[スバールバル諸島]]</td><td align="right">2,811</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">4,548,934</td></tr>
<tr><th>116</th><td>[[モルドバ]]</td><td align="right">4,439,502</td></tr>
<tr><th>117</th><td>[[クロアチア]]</td><td align="right">4,422,248</td></tr>
<tr><th>118</th><td>[[エリトリア]]</td><td align="right">4,362,254</td></tr>
<tr><th>119</th><td>[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]</td><td align="right">3,989,018</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="5">120</th><td>[[ニュージーランド]]</td><td align="right">3,951,307</td></tr>
<tr><td>[[クック諸島]]</td><td align="right">21,008</td></tr>
<tr><td>[[ニウエ]]</td><td align="right">2,145</td></tr>
<tr><td>[[トケラウ諸島]]</td><td align="right">1,418</td></tr>
<tr><td>''合計''</td><td align="right">3,975,878</td></tr>
<tr><th>121</th><td>[[アイルランド]]</td><td align="right">3,924,140</td></tr>
<tr><th>122</th><td>[[コスタリカ]]</td><td align="right">3,896,092</td></tr>
<tr><th>123</th><td>[[レバノン]]</td><td align="right">3,727,703</td></tr>
<tr><th>124</th><td>[[中央アフリカ]]</td><td align="right">3,683,538</td></tr>
<tr><th>125</th><td>[[リトアニア]]</td><td align="right">3,592,561</td></tr>
<tr><th>126</th><td>[[アルバニア]]</td><td align="right">3,582,205</td></tr>
<tr><th valign="top" rowspan="3">127</th><td>[[パレスチナ]](''合計'')</td><td align="right">3,512,062</td></tr>
<tr><td>[[ヨルダン川西岸]]</td><td align="right">2,237,194</td></tr>
<tr><td>[[ガザ地区]]</td><td align="right">1,274,868</td></tr>
<tr><th>128</th><td>[[ウルグアイ]]</td><td align="right">3,413,329</td></tr>
<tr><th>129</th><td>[[アルメニア]]</td><td align="right">3,326,448</td></tr>
<tr><th>130</th><td>[[リベリア]]</td><td align="right">3,317,176</td></tr>
<tr><th>131</th><td>[[パナマ]]</td><td align="right">2,960,784</td></tr>
<tr><th>132</th><td>[[コンゴ共和国]]</td><td align="right">2,954,258</td></tr>
<tr><th>133</th><td>[[モーリタニア]]</td><td align="right">2,912,584</td></tr>
<tr><th>134</th><td>[[オマーン]]</td><td align="right">2,807,125</td></tr>
<tr><th>135</th><td>[[モンゴル国|モンゴル]]</td><td align="right">2,712,315</td></tr>
<tr><th>136</th><td>[[ジャマイカ]]</td><td align="right">2,695,867</td></tr>
<tr><th>137</th><td>[[アラブ首長国連邦]]</td><td align="right">2,484,818</td></tr>
<tr><th>138</th><td>[[ラトビア]]</td><td align="right">2,348,784</td></tr>
<tr><th>139</th><td>[[クウェート]]</td><td align="right">2,183,161</td></tr>
<tr><th>140</th><td>[[ブータン]]</td><td align="right">2,139,549</td></tr>
<tr><th>141</th><td>[[マケドニア共和国]]</td><td align="right">2,063,122</td></tr>
<tr><th>142</th><td>[[スロベニア]]</td><td align="right">1,935,677</td></tr>
<tr><th>143</th><td>[[ナミビア]]</td><td align="right">1,927,447</td></tr>
<tr><th>144</th><td>[[レソト]]</td><td align="right">1,861,959</td></tr>
<tr><th>145</th><td>[[ボツワナ]]</td><td align="right">1,573,267</td></tr>
<tr><th>146</th><td>[[ガンビア]]</td><td align="right">1,501,050</td></tr>
<tr><th>147</th><td>[[エストニア]]</td><td align="right">1,408,556</td></tr>
<tr><th>148</th><td>[[ギニアビサウ]]</td><td align="right">1,360,827</td></tr>
<tr><th>149</th><td>[[ガボン]]</td><td align="right">1,321,560</td></tr>
<tr><th>150</th><td>[[モーリシャス]]</td><td align="right">1,210,447</td></tr>
<tr><th>151</th><td>[[スワジランド]]</td><td align="right">1,161,219</td></tr>
<tr><th>152</th><td>[[トリニダード・トバゴ]]</td><td align="right">1,104,209</td></tr>
<tr><th>153</th><td>[[東ティモール]]</td><td align="right">997,853</td></tr>
<tr><th>154</th><td>[[フィジー]]</td><td align="right">868,531</td></tr>
<tr><th>155</th><td>[[カタール]]</td><td align="right">817,052</td></tr>
<tr><th>156</th><td>[[キプロス]]</td><td align="right">771,657</td></tr>
<tr><th>157</th><td>[[ガイアナ]]</td><td align="right">702,100</td></tr>
<tr><th>158</th><td>[[バーレーン]]</td><td align="right">667,238</td></tr>
<tr><th>159</th><td>[[コモロ]]</td><td align="right">632,948</td></tr>
<tr><th>160</th><td>[[赤道ギニア]]</td><td align="right">510,473</td></tr>
<tr><th>161</th><td>[[ソロモン諸島]]</td><td align="right">509,190</td></tr>
<tr><th>162</th><td>[[ジブチ]]</td><td align="right">457,130</td></tr>
<tr><th>163</th><td>[[ルクセンブルク]]</td><td align="right">454,157</td></tr>
<tr><th>164</th><td>[[スリナム]]</td><td align="right">435,449</td></tr>
<tr><th>165</th><td>[[カーボベルデ]]</td><td align="right">412,137</td></tr>
<tr><th>166</th><td>[[マルタ]]</td><td align="right">400,420</td></tr>
<tr><th>167</th><td>[[ブルネイ]]</td><td align="right">358,098</td></tr>
<tr><th>168</th><td>[[モルディブ]]</td><td align="right">329,684</td></tr>
<tr><th>169</th><td>[[バハマ]]</td><td align="right">297,477</td></tr>
<tr><th>170</th><td>[[アイスランド]]</td><td align="right">280,798</td></tr>
<tr><th>171</th><td>[[バルバドス]]</td><td align="right">277,264</td></tr>
<tr><th>172</th><td>[[ベリーズ]]</td><td align="right">266,440</td></tr>
<tr><th>173</th><td>[[バヌアツ]]</td><td align="right">199,414</td></tr>
<tr><th>174</th><td>[[サモア]]</td><td align="right">178,173</td></tr>
<tr><th>175</th><td>[[サントメ・プリンシペ]]</td><td align="right">175,883</td></tr>
<tr><th>176</th><td>[[セントルシア]]</td><td align="right">162,157</td></tr>
<tr><th>177</th><td>[[セントビンセントおよびグレナディーン諸島]]</td><td align="right">116,812</td></tr>
<tr><th>178</th><td>[[ミクロネシア連邦]]</td><td align="right">108,143</td></tr>
<tr><th>179</th><td>[[トンガ]]</td><td align="right">108,141</td></tr>
<tr><th>180</th><td>[[キリバス]]</td><td align="right">98,549</td></tr>
<tr><th>181</th><td>[[グレナダ]]</td><td align="right">89,258</td></tr>
<tr><th>182</th><td>[[セーシェル]]</td><td align="right">80,469</td></tr>
<tr><th>183</th><td>[[ドミニカ国]]</td><td align="right">69,655</td></tr>
<tr><th>184</th><td>[[アンドラ]]</td><td align="right">69,150</td></tr>
<tr><th>185</th><td>[[アンティグア・バーブーダ]]</td><td align="right">67,897</td></tr>
<tr><th>186</th><td>[[マーシャル諸島]]</td><td align="right">56,429</td></tr>
<tr><th>187</th><td>[[セントクリストファー・ネイビス]]</td><td align="right">38,763</td></tr>
<tr><th>188</th><td>[[リヒテンシュタイン]]</td><td align="right">33,145</td></tr>
<tr><th>189</th><td>[[モナコ]]</td><td align="right">32,130</td></tr>
<tr><th>190</th><td>[[サンマリノ]]</td><td align="right">28,119</td></tr>
<tr><th>191</th><td>[[パラオ]]</td><td align="right">19,717</td></tr>
<tr><th>192</th><td>[[ナウル]]</td><td align="right">12,570</td></tr>
<tr><th>193</th><td>[[ツバル]]</td><td align="right">11,305</td></tr>
<tr><th>194</th><td>[[バチカン]]</td><td align="right">911</td></tr>
</table>
<!--''Note''
The 194 countries in the list are the 191 [[United Nations member states]], as well as Taiwan, Niue and Vatican City. Thus the UK, being one member state, is considered one country in the list. [http://de.wikipedia.org/wiki/Liste_unabh%E4ngiger_Staaten_nach_Einwohnerzahl The German Wikipedia] considers [[Niue]] to be a dependency of [[New Zealand]] and therefore has a list of 193 countries.
The list also shows the 11 countries which have a total of 42 permanently inhabited dependencies. The total is 236 countries and permanently inhabited dependencies. They correspond with those which the [[CIA World Factbook]] lists.-->
== 国(海外領土を含む)の人口順リスト ==
<table border="1" frame="box" rules="all" cellpadding="2" cellspacing="0">
<tr style="background:#efefef"><th>順位</th><th>地域</th><th>人口</th></tr>
<tr><th>1</th><td>[[中華人民共和国]]</td><td align="right">1,286,975,468</td></tr>
<tr><th>2</th><td>[[インド]]</td><td align="right">1,049,700,118</td></tr>
<tr><th>3</th><td>[[アメリカ合衆国]]</td><td align="right">290,342,554</td></tr>
<tr><th>4</th><td>[[インドネシア]]</td><td align="right">234,893,453</td></tr>
<tr><th>5</th><td>[[ブラジル]]</td><td align="right">182,032,604</td></tr>
<tr><th>6</th><td>[[パキスタン]]</td><td align="right">150,694,740</td></tr>
<tr><th>7</th><td>[[ロシア]]</td><td align="right">144,526,278</td></tr>
<tr><th>8</th><td>[[バングラデシュ]]</td><td align="right">138,448,210</td></tr>
<tr><th>9</th><td>[[ナイジェリア]]</td><td align="right">133,881,703</td></tr>
<tr><th>10</th><td>[[日本]]</td><td align="right">127,214,499</td></tr>
<tr><th>11</th><td>[[メキシコ]]</td><td align="right">104,907,991</td></tr>
<tr><th>12</th><td>[[フィリピン]]</td><td align="right">84,619,974</td></tr>
<tr><th>13</th><td>[[ドイツ]]</td><td align="right">82,398,326</td></tr>
<tr><th>14</th><td>[[ベトナム]]</td><td align="right">81,624,716</td></tr>
<tr><th>15</th><td>[[エジプト]]</td><td align="right">74,718,797</td></tr>
<tr><th>16</th><td>[[イラン]]</td><td align="right">68,278,826</td></tr>
<tr><th>17</th><td>[[トルコ]]</td><td align="right">68,109,469</td></tr>
<tr><th>18</th><td>[[エチオピア]]</td><td align="right">66,557,553</td></tr>
<tr><th>19</th><td>[[タイ王国|タイ]]</td><td align="right">64,265,276</td></tr>
<tr><th>20</th><td>[[フランス]]</td><td align="right">60,180,529</td></tr>
<tr><th>21</th><td>[[イギリス]]</td><td align="right">60,094,648</td></tr>
<tr><th>22</th><td>[[イタリア]]</td><td align="right">57,998,353</td></tr>
<tr><th>23</th><td>[[コンゴ民主共和国]]</td><td align="right">56,625,039</td></tr>
<tr><th>24</th><td>[[大韓民国]]</td><td align="right">48,289,037</td></tr>
<tr><th>25</th><td>[[ウクライナ]]</td><td align="right">48,055,439</td></tr>
<tr><th>26</th><td>[[南アフリカ]]</td><td align="right">42,768,678</td></tr>
<tr><th>27</th><td>[[ミャンマー]]</td><td align="right">42,510,537</td></tr>
<tr><th>28</th><td>[[コロンビア]]</td><td align="right">41,662,073</td></tr>
<tr><th>29</th><td>[[スペイン]]</td><td align="right">40,217,413</td></tr>
<tr><th>30</th><td>[[アルゼンチン]]</td><td align="right">38,740,807</td></tr>
<tr><th>31</th><td>[[ポーランド]]</td><td align="right">38,622,660</td></tr>
<tr><th>32</th><td>[[スーダン]]</td><td align="right">38,114,160</td></tr>
<tr><th>33</th><td>[[タンザニア]]</td><td align="right">35,922,454</td></tr>
<tr><th>34</th><td>[[アルジェリア]]</td><td align="right">32,818,500</td></tr>
<tr><th>35</th><td>[[カナダ]]</td><td align="right">32,207,113</td></tr>
<tr><th>36</th><td>[[モロッコ]]</td><td align="right">31,689,265</td></tr>
<tr><th>37</th><td>[[ケニア]]</td><td align="right">31,639,091</td></tr>
<tr><th>38</th><td>[[アフガニスタン]]</td><td align="right">28,717,213</td></tr>
<tr><th>39</th><td>[[ペルー]]</td><td align="right">28,409,897</td></tr>
<tr><th>40</th><td>[[ネパール]]</td><td align="right">26,469,569</td></tr>
<tr><th>41</th><td>[[ウズベキスタン]]</td><td align="right">25,981,647</td></tr>
<tr><th>42</th><td>[[ウガンダ]]</td><td align="right">25,632,794</td></tr>
<tr><th>43</th><td>[[イラク]]</td><td align="right">24,683,313</td></tr>
<tr><th>44</th><td>[[ベネズエラ]]</td><td align="right">24,654,694</td></tr>
<tr><th>45</th><td>[[サウジアラビア]]</td><td align="right">24,293,844</td></tr>
<tr><th>46</th><td>[[マレーシア]]</td><td align="right">23,092,940</td></tr>
<tr><th>47</th><td>[[台湾]]/[[中華民国]]</td><td align="right">22,603,001</td></tr>
<tr><th>48</th><td>[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]</td><td align="right">22,466,481</td></tr>
<tr><th>49</th><td>[[ルーマニア]]</td><td align="right">22,271,839</td></tr>
<tr><th>50</th><td>[[ガーナ]]</td><td align="right">20,467,747</td></tr>
<tr><th>51</th><td>[[スリランカ]]</td><td align="right">19,742,439</td></tr>
<tr><th>52</th><td>[[オーストラリア]]</td><td align="right">19,731,984</td></tr>
<tr><th>53</th><td>[[イエメン]]</td><td align="right">19,349,881</td></tr>
<tr><th>54</th><td>[[シリア]]</td><td align="right">17,585,540</td></tr>
<tr><th>55</th><td>[[モザンビーク]]</td><td align="right">17,479,266</td></tr>
<tr><th>56</th><td>[[マダガスカル]]</td><td align="right">16,979,744</td></tr>
<tr><th>57</th><td>[[コートジボワール]]</td><td align="right">16,962,491</td></tr>
<tr><th>58</th><td>[[カザフスタン]]</td><td align="right">16,763,795</td></tr>
<tr><th>59</th><td>[[オランダ]]</td><td align="right">16,150,511</td></tr>
<tr><th>60</th><td>[[カメルーン]]</td><td align="right">15,746,179</td></tr>
<tr><th>61</th><td>[[チリ]]</td><td align="right">15,665,216</td></tr>
<tr><th>62</th><td>[[グアテマラ]]</td><td align="right">13,909,384</td></tr>
<tr><th>63</th><td>[[エクアドル]]</td><td align="right">13,710,234</td></tr>
<tr><th>64</th><td>[[ブルキナファソ]]</td><td align="right">13,228,460</td></tr>
<tr><th>65</th><td>[[カンボジア]]</td><td align="right">13,124,764</td></tr>
<tr><th>66</th><td>[[ジンバブエ]]</td><td align="right">12,576,742</td></tr>
<tr><th>67</th><td>[[マラウイ]]</td><td align="right">11,651,239</td></tr>
<tr><th>68</th><td>[[マリ共和国]]</td><td align="right">11,626,219</td></tr>
<tr><th>69</th><td>[[キューバ]]</td><td align="right">11,263,429</td></tr>
<tr><th>70</th><td>[[ニジェール]]</td><td align="right">11,058,590</td></tr>
<tr><th>71</th><td>[[アンゴラ]]</td><td align="right">10,766,471</td></tr>
<tr><th>72</th><td>[[ギリシャ]]</td><td align="right">10,665,989</td></tr>
<tr><th>73</th><td>[[セルビア・モンテネグロ]]</td><td align="right">10,655,774</td></tr>
<tr><th>74</th><td>[[セネガル]]</td><td align="right">10,580,307</td></tr>
<tr><th>75</th><td>[[ベラルーシ]]</td><td align="right">10,322,151</td></tr>
<tr><th>76</th><td>[[ザンビア]]</td><td align="right">10,307,333</td></tr>
<tr><th>77</th><td>[[ベルギー]]</td><td align="right">10,289,088</td></tr>
<tr><th>78</th><td>[[チェコ]]</td><td align="right">10,249,216</td></tr>
<tr><th>79</th><td>[[ポルトガル]]</td><td align="right">10,102,022</td></tr>
<tr><th>80</th><td>[[ハンガリー]]</td><td align="right">10,045,407</td></tr>
<tr><th>81</th><td>[[チュニジア]]</td><td align="right">9,924,742</td></tr>
<tr><th>82</th><td>[[チャド]]</td><td align="right">9,253,493</td></tr>
<tr><th>83</th><td>[[ギニア]]</td><td align="right">9,030,220</td></tr>
<tr><th>84</th><td>[[スウェーデン]]</td><td align="right">8,878,085</td></tr>
<tr><th>85</th><td>[[ドミニカ共和国]]</td><td align="right">8,715,602</td></tr>
<tr><th>86</th><td>[[ボリビア]]</td><td align="right">8,586,443</td></tr>
<tr><th>87</th><td>[[オーストリア]]</td><td align="right">8,188,207</td></tr>
<tr><th>88</th><td>[[ソマリア]]</td><td align="right">8,025,190</td></tr>
<tr><th>89</th><td>[[アゼルバイジャン]]</td><td align="right">7,830,764</td></tr>
<tr><th>90</th><td>[[ルワンダ]]</td><td align="right">7,810,056</td></tr>
<tr><th>91</th><td>[[ブルガリア]]</td><td align="right">7,537,929</td></tr>
<tr><th>92</th><td>[[ハイチ]]</td><td align="right">7,527,817</td></tr>
<tr><th>93</th><td>[[香港]]([[中華人民共和国|PRC]]領)</td><td align="right">7,394,170</td></tr>
<tr><th>94</th><td>[[スイス]]</td><td align="right">7,318,638</td></tr>
<tr><th>95</th><td>[[ベナン]]</td><td align="right">7,041,490</td></tr>
<tr><th>96</th><td>[[タジキスタン]]</td><td align="right">6,863,752</td></tr>
<tr><th>97</th><td>[[ホンジュラス]]</td><td align="right">6,669,789</td></tr>
<tr><th>98</th><td>[[エルサルバドル]]</td><td align="right">6,470,379</td></tr>
<tr><th>99</th><td>[[イスラエル]]</td><td align="right">6,116,533</td></tr>
<tr><th>100</th><td>[[ブルンジ]]</td><td align="right">6,096,156</td></tr>
<tr><th>101</th><td>[[パラグアイ]]</td><td align="right">6,036,900</td></tr>
<tr><th>102</th><td>[[ラオス]]</td><td align="right">5,921,545</td></tr>
<tr><th>103</th><td>[[シエラレオネ]]</td><td align="right">5,732,681</td></tr>
<tr><th>104</th><td>[[リビア]]</td><td align="right">5,499,074</td></tr>
<tr><th>105</th><td>[[ヨルダン]]</td><td align="right">5,460,265</td></tr>
<tr><th>106</th><td>[[スロバキア]]</td><td align="right">5,430,033</td></tr>
<tr><th>107</th><td>[[トーゴ]]</td><td align="right">5,429,299</td></tr>
<tr><th>108</th><td>[[デンマーク]]</td><td align="right">5,384,384</td></tr>
<tr><th>109</th><td>[[パプアニューギニア]]</td><td align="right">5,295,816</td></tr>
<tr><th>110</th><td>[[フィンランド]]</td><td align="right">5,190,785</td></tr>
<tr><th>111</th><td>[[ニカラグア]]</td><td align="right">5,128,517</td></tr>
<tr><th>112</th><td>[[グルジア]]</td><td align="right">4,934,413</td></tr>
<tr><th>113</th><td>[[キルギスタン]]</td><td align="right">4,892,808</td></tr>
<tr><th>114</th><td>[[トルクメニスタン]]</td><td align="right">4,775,544</td></tr>
<tr><th>115</th><td>[[シンガポール]]</td><td align="right">4,608,595</td></tr>
<tr><th>116</th><td>[[ノルウェー]]</td><td align="right">4,546,123</td></tr>
<tr><th>117</th><td>[[モルドバ]]</td><td align="right">4,439,502</td></tr>
<tr><th>118</th><td>[[クロアチア]]</td><td align="right">4,422,248</td></tr>
<tr><th>119</th><td>[[エリトリア]]</td><td align="right">4,362,254</td></tr>
<tr><th>120</th><td>[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]</td><td align="right">3,989,018</td></tr>
<tr><th>121</th><td>[[ニュージーランド]]</td><td align="right">3,951,307</td></tr>
<tr><th>122</th><td>[[アイルランド]]</td><td align="right">3,924,140</td></tr>
<tr><th>123</th><td>[[コスタリカ]]</td><td align="right">3,896,092</td></tr>
<tr><th>124</th><td>[[プエルトリコ]]([[アメリカ合衆国|米]]領)</td><td align="right">3,885,877</td></tr>
<tr><th>125</th><td>[[レバノン]]</td><td align="right">3,727,703</td></tr>
<tr><th>126</th><td>[[中央アフリカ]]</td><td align="right">3,683,538</td></tr>
<tr><th>127</th><td>[[リトアニア]]</td><td align="right">3,592,561</td></tr>
<tr><th>128</th><td>[[アルバニア]]</td><td align="right">3,582,205</td></tr>
<tr><th>129</th><td>[[ウルグアイ]]</td><td align="right">3,413,329</td></tr>
<tr><th>130</th><td>[[アルメニア]]</td><td align="right">3,326,448</td></tr>
<tr><th>131</th><td>[[リベリア]]</td><td align="right">3,317,176</td></tr>
<tr><th>132</th><td>[[パナマ]]</td><td align="right">2,960,784</td></tr>
<tr><th>133</th><td>[[コンゴ共和国]]</td><td align="right">2,954,258</td></tr>
<tr><th>134</th><td>[[モーリタニア]]</td><td align="right">2,912,584</td></tr>
<tr><th>135</th><td>[[オマーン]]</td><td align="right">2,807,125</td></tr>
<tr><th>136</th><td>[[モンゴル国|モンゴル]]</td><td align="right">2,712,315</td></tr>
<tr><th>137</th><td>[[ジャマイカ]]</td><td align="right">2,695,867</td></tr>
<tr><th>138</th><td>[[アラブ首長国連邦]]</td><td align="right">2,484,818</td></tr>
<tr><th>139</th><td>[[ラトビア]]</td><td align="right">2,348,784</td></tr>
<tr><th>140</th><td>[[ヨルダン川西岸]]([[パレスチナ]])</td><td align="right">2,237,194</td></tr>
<tr><th>141</th><td>[[クウェート]]</td><td align="right">2,183,161</td></tr>
<tr><th>142</th><td>[[ブータン]]</td><td align="right">2,139,549</td></tr>
<tr><th>143</th><td>[[マケドニア共和国]]</td><td align="right">2,063,122</td></tr>
<tr><th>144</th><td>[[スロベニア]]</td><td align="right">1,935,677</td></tr>
<tr><th>145</th><td>[[ナミビア]]</td><td align="right">1,927,447</td></tr>
<tr><th>146</th><td>[[レソト]]</td><td align="right">1,861,959</td></tr>
<tr><th>147</th><td>[[ボツワナ]]</td><td align="right">1,573,267</td></tr>
<tr><th>148</th><td>[[ガンビア]]</td><td align="right">1,501,050</td></tr>
<tr><th>149</th><td>[[エストニア]]</td><td align="right">1,408,556</td></tr>
<tr><th>150</th><td>[[ギニアビサウ]]</td><td align="right">1,360,827</td></tr>
<tr><th>151</th><td>[[ガボン]]</td><td align="right">1,321,560</td></tr>
<tr><th>152</th><td>[[ガザ地区]]([[パレスチナ]])</td><td align="right">1,274,868</td></tr>
<tr><th>153</th><td>[[モーリシャス]]</td><td align="right">1,210,447</td></tr>
<tr><th>154</th><td>[[スワジランド]]</td><td align="right">1,161,219</td></tr>
<tr><th>155</th><td>[[トリニダード・トバゴ]]</td><td align="right">1,104,209</td></tr>
<tr><th>156</th><td>[[東ティモール]]</td><td align="right">997,853</td></tr>
<tr><th>157</th><td>[[フィジー]]</td><td align="right">868,531</td></tr>
<tr><th>158</th><td>[[カタール]]</td><td align="right">817,052</td></tr>
<tr><th>159</th><td>[[キプロス]]</td><td align="right">771,657</td></tr>
<tr><th>160</th><td>[[レユニオン]]([[フランス|仏]]領)</td><td align="right">755,171</td></tr>
<tr><th>161</th><td>[[ガイアナ]]</td><td align="right">702,100</td></tr>
<tr><th>162</th><td>[[バーレーン]]</td><td align="right">667,238</td></tr>
<tr><th>163</th><td>[[コモロ]]</td><td align="right">632,948</td></tr>
<tr><th>164</th><td>[[赤道ギニア]]</td><td align="right">510,473</td></tr>
<tr><th>165</th><td>[[ソロモン諸島]]</td><td align="right">509,190</td></tr>
<tr><th>166</th><td>[[マカオ]]([[中華人民共和国|PRC]]領)</td><td align="right">469,903</td></tr>
<tr><th>167</th><td>[[ジブチ]]</td><td align="right">457,130</td></tr>
<tr><th>168</th><td>[[ルクセンブルク]]</td><td align="right">454,157</td></tr>
<tr><th>169</th><td>[[グアドループ]]([[フランス|仏]]領)</td><td align="right">440,189</td></tr>
<tr><th>170</th><td>[[スリナム]]</td><td align="right">435,449</td></tr>
<tr><th>171</th><td>[[マルティニーク]]([[フランス|仏]]領)</td><td align="right">425,966</td></tr>
<tr><th>172</th><td>[[カーボベルデ]]</td><td align="right">412,137</td></tr>
<tr><th>173</th><td>[[マルタ]]</td><td align="right">400,420</td></tr>
<tr><th>174</th><td>[[ブルネイ]]</td><td align="right">358,098</td></tr>
<tr><th>175</th><td>[[モルディブ]]</td><td align="right">329,684</td></tr>
<tr><th>176</th><td>[[バハマ]]</td><td align="right">297,477</td></tr>
<tr><th>177</th><td>[[アイスランド]]</td><td align="right">280,798</td></tr>
<tr><th>178</th><td>[[バルバドス]]</td><td align="right">277,264</td></tr>
<tr><th>179</th><td>[[ベリーズ]]</td><td align="right">266,440</td></tr>
<tr><th>180</th><td>[[フランス領ポリネシア]]</td><td align="right">262,125</td></tr>
<tr><th>181</th><td>[[西サハラ]]</td><td align="right">261,794</td></tr>
<tr><th>182</th><td>[[オランダ領アンティル]]</td><td align="right">216,226</td></tr>
<tr><th>183</th><td>[[ニューカレドニア]]([[フランス|仏]]領)</td><td align="right">210,798</td></tr>
<tr><th>184</th><td>[[バヌアツ]]</td><td align="right">199,414</td></tr>
<tr><th>185</th><td>[[フランス領ギアナ]]</td><td align="right">186,917</td></tr>
<tr><th>186</th><td>[[マヨット]]([[フランス|仏]]領)</td><td align="right">178,437</td></tr>
<tr><th>187</th><td>[[サモア]]</td><td align="right">178,173</td></tr>
<tr><th>188</th><td>[[サントメ・プリンシペ]]</td><td align="right">175,883</td></tr>
<tr><th>189</th><td>[[グアム]]([[アメリカ合衆国|米]]領)</td><td align="right">163,941</td></tr>
<tr><th>190</th><td>[[セントルシア]]</td><td align="right">162,157</td></tr>
<tr><th>191</th><td>[[アメリカ領ヴァージン諸島]]</td><td align="right">124,778</td></tr>
<tr><th>192</th><td>[[セントビンセントおよびグレナディーン諸島]]</td><td align="right">116,812</td></tr>
<tr><th>193</th><td>[[ミクロネシア連邦]]</td><td align="right">108,143</td></tr>
<tr><th>194</th><td>[[トンガ]]</td><td align="right">108,141</td></tr>
<tr><th>195</th><td>[[キリバス]]</td><td align="right">98,549</td></tr>
<tr><th>196</th><td>[[ジャージー島|ジャージー]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">90,156</td></tr>
<tr><th>197</th><td>[[グレナダ]]</td><td align="right">89,258</td></tr>
<tr><th>198</th><td>[[セーシェル]]</td><td align="right">80,469</td></tr>
<tr><th>199</th><td>[[北マリアナ諸島]]([[アメリカ合衆国|米]]領)</td><td align="right">80,006</td></tr>
<tr><th>200</th><td>[[マン島]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">74,261</td></tr>
<tr><th>201</th><td>[[アルバ]]([[オランダ|蘭]]領)</td><td align="right">70,844</td></tr>
<tr><th>202</th><td>[[アメリカ領サモア]]</td><td align="right">70,260</td></tr>
<tr><th>203</th><td>[[ドミニカ国]]</td><td align="right">69,655</td></tr>
<tr><th>204</th><td>[[アンドラ]]</td><td align="right">69,150</td></tr>
<tr><th>205</th><td>[[アンティグア・バーブーダ]]</td><td align="right">67,897</td></tr>
<tr><th>206</th><td>[[ガーンジー]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">64,818</td></tr>
<tr><th>207</th><td>[[バーミューダ]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">64,482</td></tr>
<tr><th>208</th><td>[[マーシャル諸島]]</td><td align="right">56,429</td></tr>
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<tr><th>210</th><td>[[フェロー諸島]]([[デンマーク]]領)</td><td align="right">46,345</td></tr>
<tr><th>211</th><td>[[ケイマン諸島]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">41,934</td></tr>
<tr><th>212</th><td>[[セントクリストファー・ネイビス]]</td><td align="right">38,763</td></tr>
<tr><th>213</th><td>[[リヒテンシュタイン]]</td><td align="right">33,145</td></tr>
<tr><th>214</th><td>[[モナコ]]</td><td align="right">32,130</td></tr>
<tr><th>215</th><td>[[サンマリノ]]</td><td align="right">28,119</td></tr>
<tr><th>216</th><td>[[ジブラルタル]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">27,776</td></tr>
<tr><th>217</th><td>[[イギリス領ヴァージン諸島]]</td><td align="right">21,730</td></tr>
<tr><th>218</th><td>[[クック諸島]]([[ニュージーランド|NZ]]領)</td><td align="right">21,008</td></tr>
<tr><th>219</th><td>[[パラオ]]</td><td align="right">19,717</td></tr>
<tr><th>220</th><td>[[タークス・カイコス諸島]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">19,350</td></tr>
<tr><th>221</th><td>[[ウォリス・フツナ]]([[フランス|仏]]領)</td><td align="right">15,734</td></tr>
<tr><th>222</th><td>[[アンギラ]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">12,738</td></tr>
<tr><th>223</th><td>[[ナウル]]</td><td align="right">12,570</td></tr>
<tr><th>224</th><td>[[ツバル]]</td><td align="right">11,305</td></tr>
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<tr><th>226</th><td>[[セントヘレナ]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">7,367</td></tr>
<tr><th>227</th><td>[[サンピエール・ミクロン]]([[フランス|仏]]領)</td><td align="right">6,976</td></tr>
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<tr><th>229</th><td>[[スバールバル諸島]]([[ノルウェー]]領)</td><td align="right">2,811</td></tr>
<tr><th>230</th><td>[[ニウエ]]([[ニュージーランド|NZ]]領)</td><td align="right">2,145</td></tr>
<tr><th>231</th><td>[[ノーフォーク諸島]]([[オーストラリア|豪]]領)</td><td align="right">1,853</td></tr>
<tr><th>232</th><td>[[トケラウ諸島]]([[ニュージーランド|NZ]]領)</td><td align="right">1,418</td></tr>
<tr><th>233</th><td>[[バチカン]]</td><td align="right">911</td></tr>
<tr><th>234</th><td>[[ココス諸島]]([[オーストラリア|豪]]領)</td><td align="right">630</td></tr>
<tr><th>235</th><td>[[クリスマス諸島]]([[オーストラリア|豪]]領)</td><td align="right">433</td></tr>
<tr><th>236</th><td>[[ピトケアン諸島]]([[イギリス|英]]領)</td><td align="right">47</td></tr>
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東京臨海高速鉄道りんかい線
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りんかい線(りんかいせん)は、東京都江東区の新木場駅から品川区の大崎駅までを結ぶ東京臨海高速鉄道(TWR)の鉄道路線である。計画・開業時および現行の『鉄道要覧』における路線名は臨海副都心線(りんかいふくとしんせん)であるが、2000年からは一般公募によって決定された「りんかい線」を案内に使用している。駅ナンバリングで使われる路線記号はR。
大崎駅で接続する東日本旅客鉄道(JR東日本)埼京線・川越線と相互直通運転を行っている。大半の区間が地下にあるが、国土交通省監修の統計資料では地下鉄として扱われていない。また、日本地下鉄協会サイトの日本の地下鉄ページにも東京地下鉄や埼玉高速鉄道・東葉高速鉄道などと異なり、民営・準公営(第三セクター)地下鉄一覧には掲載されていない。
新木場 - 東京テレポート間は高度成長期に東京外環状線の一部として計画され、湾岸部の海底トンネル工事も完了していた旧国鉄京葉貨物線のうち、国鉄時代に旅客線に転用されず、国鉄分割民営化後は国鉄清算事業団が所有していた新木場 - 東京貨物ターミナル間の一部を東京臨海副都心地区の開発と同地区での開催が予定されていた世界都市博覧会(1995年開催中止決定)に伴う旅客輸送のために旅客線として開業したものである。東京貨物ターミナル方面から分岐する品川埠頭分岐部信号場 - 大崎間については新規に工事を行った上で延伸開業した。
なお、同じく工事が終了していた品川埠頭分岐部信号場 - 東京貨物ターミナル間は、東京貨物ターミナルの東側に車両基地(東臨運輸区)を設置した上で回送線として利用されている。また新木場駅の蘇我方ではJR東日本の京葉線と線路が接続されている。この京葉線との連絡線は、JR埼京線との直通運転が開始されるまでは主に車両検査時の回送用に使用されていた。
東京テレポート駅 - 品川埠頭分岐部信号場 - 東京貨物ターミナル駅(東臨運輸区)を結ぶ海底トンネル・東京港トンネルは旧国鉄の京葉貨物線の一部として建設されたもので、沈埋工法で建設されたためにトンネル断面形状はボックスケーソンの四角形となっている。一方、りんかい線開業に伴って新たに掘削された品川埠頭分岐部信号場 - 天王洲アイル駅間についてはシールド工法で建設されたため、トンネル断面形状は円形である。両線の分岐点である品川埠頭分岐部信号場でトンネル断面形状が変化する。
2010年代以降は平常時の外国人乗客も増えているため、2018年4月27日から英語を話せるコンシェルジュを東京テレポート駅などに配置するといった対応を進めている。
大崎駅からJR埼京線に直通し、川越線の川越駅まで相互直通運転を実施している。これにより、りんかい線新木場駅から埼京線経由で川越線川越駅までは一つの運転系統として成立している。
りんかい線内は新木場駅 - 大崎駅間の全線を通して運転する列車のほか、八潮車両基地への出入りのために東京テレポート駅発着の区間列車も設定されている。日中は1時間に大宮駅・川越駅発着の快速が3本、新木場駅 - 大崎駅間の各駅停車が4本の計7本が運転されているが、運転間隔はパターン化されていない。
りんかい線内では快速および通勤快速を含めて全列車が各駅に停車する。
全列車が2004年に10両編成化されて以降は自社車両だけではなくJRの車両もりんかい線内での折り返し運転に使用されている。
東京ディズニーリゾート玄関口の京葉線舞浜駅への短絡ルートとして、時折中央本線や東海道線などからりんかい線を通り、京葉線へ直通する団体客向けの臨時列車が運転される。
混雑が予想される日に特別ダイヤを組んで対応することが2002年12月の全通前はたびたびあったが、全通後はあまり実施されなくなった。ただし、大晦日にはJRからの直通臨時列車が設定されるほか、東京湾大華火祭、コミックマーケット期間等にも臨時列車が設定される。コミックマーケットが行われる時期には会場となる東京国際展示場の最寄駅が同路線の国際展示場駅であるため非常に混雑し、始発列車は特にその傾向が顕著であった。そのためそのような時期には臨時ダイヤが組まれ、列車が増発される。
りんかい線の地下区間は、トンネル内径が広く非常時に列車側部に脱出できるため、列車の先頭部と最後部に非常時脱出用貫通扉を装備していない系列であっても地下鉄等旅客車であれば走行可能である。
このほか、臨時列車や団体専用列車として、「FOODEX」の特別列車で183系、「カウントダウンあずさ」でE257系、485系のお座敷列車「華」・「リゾートエクスプレスゆう」・「宴」、検測車のE491系が乗り入れたことがある。相鉄12000系電車は入線自体は可能だが乗り入れない。
女性専用車は、埼京線と同じく、7時46分 - 9時41分に大崎駅を発車する新木場方面行全列車と22時34分以降に新木場駅を発車する大崎方面行全列車で、ともに平日のみに設定。設定車両は新木場方先頭車両である10号車。
全線開業以降。
臨海副都心や品川、江東湾岸地区の開発により、利用者数は増加傾向にある。
2020年度の混雑率は、大井町駅→品川シーサイド駅(8:00-9:00)で79%である。
大人旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符購入の場合は10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。
りんかい線は、新木場駅でJR京葉線の線路とつながっているが、りんかい線と京葉線との直通運転は実施されていない。これは、常時直通運転させるためには多額な設備投資が必要になることや、りんかい線が建設費の償還のためJRより相当に割高な運賃を設定しており、JRとの運賃配分で問題が生じやすいためである(特に、後述の交通系ICカード利用時の運賃計算)。
京葉線との直通運転が行われた場合、東京メトロ東西線の一部列車と同様に、事実上両側をJR線に挟まれた乗り入れになるため、不正乗車が多発する懸念がある。
また、池袋駅などJR東日本の駅から海浜幕張駅などJR東日本の駅(いずれも直通運転が行われた場合りんかい線との共用駅となる駅を除く)まで直通電車を利用するなどして途中で改札を通らずにSuicaなどの交通系ICカード利用で乗車した場合、東日本旅客鉄道株式会社ICカード乗車券取扱規則第63条(2)の規定により全線JR東日本線を利用したものとみなして出場駅で運賃が引き落とされる。
そのため、現状では、りんかい線とJR京葉線の直通運転は運賃の回収が確実な団体客向けの臨時列車のみとなっている。
京葉線が通る千葉県は、りんかい・京葉線直通で、ライナー(乗車券のほかにライナー券数百円必要)を走らせ、そのライナー券にJRとりんかい線の運賃の差額を上乗せする形で、この問題を解消しようと試みている。
なお、JR東日本が計画している「羽田空港アクセス線」(後述)では、東京テレポート駅に向かう「臨海部ルート」において、京葉線舞浜駅への直通が想定されている。これに関連して、東京都などが保有するTWRの株式をJR東日本が買収する意向であることが報じられている。しかし、東京臨海高速鉄道側はそれを否定している。
発車メロディや操作用のスイッチなどは、JR東日本で使用されているものと全く同じで、JRと共用している大崎駅以外では基本的に東洋メディアリンクス製の「Water Crown」・「Cielo Estrellado」を使用している。
2000年(平成12年)、運輸省(現・国土交通省)運輸政策審議会答申第18号において、「東京臨海高速鉄道臨海副都心線の建設及び羽田アクセス新線(仮称)の新設」として、東京テレポート駅から東京貨物ターミナル駅を経て東京国際空港に向かう路線がB路線(今後整備について検討すべき路線)として取り上げられ、「大崎方面からの直通ルートについても併せ検討する」としていた。
2013年から2014年にかけてJR東日本が発表した構想の中には「羽田空港アクセス改善」があり、2020年東京オリンピックを「きっかけ」(同社社長)として本路線を羽田空港アクセス線として活用する案が提示されている。
計画によると、休止中の東海道貨物線(大汐線)を活用し田町に接続する「東山手ルート」、東京貨物ターミナルから「東品川短絡線」を建設して品川シーサイド駅・大井町駅間で合流、大崎・新宿方面に直通する「西山手ルート」、東臨運輸区への回送線を複線化して品川埠頭分岐部信号場で合流、新木場方面に直通する「臨海部ルート」の3ルートを建設するとしている。
2016年4月、国土交通省交通政策審議会の東京圏における今後の都市鉄道のあり方に関する小委員会は答申第198号をまとめ、京葉線・りんかい線相互直通運転化と合わせて「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」に位置付けられた。
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"text": "女性専用車は、埼京線と同じく、7時46分 - 9時41分に大崎駅を発車する新木場方面行全列車と22時34分以降に新木場駅を発車する大崎方面行全列車で、ともに平日のみに設定。設定車両は新木場方先頭車両である10号車。",
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"text": "りんかい線は、新木場駅でJR京葉線の線路とつながっているが、りんかい線と京葉線との直通運転は実施されていない。これは、常時直通運転させるためには多額な設備投資が必要になることや、りんかい線が建設費の償還のためJRより相当に割高な運賃を設定しており、JRとの運賃配分で問題が生じやすいためである(特に、後述の交通系ICカード利用時の運賃計算)。",
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"text": "そのため、現状では、りんかい線とJR京葉線の直通運転は運賃の回収が確実な団体客向けの臨時列車のみとなっている。",
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"tag": "p",
"text": "なお、JR東日本が計画している「羽田空港アクセス線」(後述)では、東京テレポート駅に向かう「臨海部ルート」において、京葉線舞浜駅への直通が想定されている。これに関連して、東京都などが保有するTWRの株式をJR東日本が買収する意向であることが報じられている。しかし、東京臨海高速鉄道側はそれを否定している。",
"title": "直通運転について"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "発車メロディや操作用のスイッチなどは、JR東日本で使用されているものと全く同じで、JRと共用している大崎駅以外では基本的に東洋メディアリンクス製の「Water Crown」・「Cielo Estrellado」を使用している。",
"title": "発車メロディ・自動放送"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)、運輸省(現・国土交通省)運輸政策審議会答申第18号において、「東京臨海高速鉄道臨海副都心線の建設及び羽田アクセス新線(仮称)の新設」として、東京テレポート駅から東京貨物ターミナル駅を経て東京国際空港に向かう路線がB路線(今後整備について検討すべき路線)として取り上げられ、「大崎方面からの直通ルートについても併せ検討する」としていた。",
"title": "羽田空港アクセス線構想"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2013年から2014年にかけてJR東日本が発表した構想の中には「羽田空港アクセス改善」があり、2020年東京オリンピックを「きっかけ」(同社社長)として本路線を羽田空港アクセス線として活用する案が提示されている。",
"title": "羽田空港アクセス線構想"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "計画によると、休止中の東海道貨物線(大汐線)を活用し田町に接続する「東山手ルート」、東京貨物ターミナルから「東品川短絡線」を建設して品川シーサイド駅・大井町駅間で合流、大崎・新宿方面に直通する「西山手ルート」、東臨運輸区への回送線を複線化して品川埠頭分岐部信号場で合流、新木場方面に直通する「臨海部ルート」の3ルートを建設するとしている。",
"title": "羽田空港アクセス線構想"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "2016年4月、国土交通省交通政策審議会の東京圏における今後の都市鉄道のあり方に関する小委員会は答申第198号をまとめ、京葉線・りんかい線相互直通運転化と合わせて「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」に位置付けられた。",
"title": "羽田空港アクセス線構想"
}
] |
りんかい線(りんかいせん)は、東京都江東区の新木場駅から品川区の大崎駅までを結ぶ東京臨海高速鉄道(TWR)の鉄道路線である。計画・開業時および現行の『鉄道要覧』における路線名は臨海副都心線(りんかいふくとしんせん)であるが、2000年からは一般公募によって決定された「りんかい線」を案内に使用している。駅ナンバリングで使われる路線記号はR。 大崎駅で接続する東日本旅客鉄道(JR東日本)埼京線・川越線と相互直通運転を行っている。大半の区間が地下にあるが、国土交通省監修の統計資料では地下鉄として扱われていない。また、日本地下鉄協会サイトの日本の地下鉄ページにも東京地下鉄や埼玉高速鉄道・東葉高速鉄道などと異なり、民営・準公営(第三セクター)地下鉄一覧には掲載されていない。
|
{{混同|東京臨海新交通臨海線}}
{{Infobox 鉄道路線
| 路線名 = [[File:東京臨海高速鉄道ロゴマーク.svg|28px|東京臨海高速鉄道|link=東京臨海高速鉄道]] りんかい線
| 路線色 = #00b19d
| 路線色2 = #00389e
| ロゴ = Rinkai Line symbol.svg
| ロゴサイズ = 40px
| 画像 =Rinkai-line Series70-000 70-030.jpg
| 画像説明 = りんかい線東雲駅に入線する70-000形
| 国 = {{JPN}}
| 所在地 = [[東京都]]
| 起点 = [[新木場駅]]
| 終点 = [[大崎駅]]
| 駅数 = 8駅
| 路線記号 = R
| 開業 = {{start date|1996|3|30}}<ref name="交通960402">{{cite news |和書|title=臨海副都心線が開業 |newspaper=交通新聞 |date=1996-04-02 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>
| 休止 =
| 廃止 =
| 所有者 = [[東京臨海高速鉄道]]
| 運営者 = 東京臨海高速鉄道
| 車両基地 = [[東臨運輸区]]・[[川越車両センター]]
| 使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]を参照
| 路線距離 = 12.2 [[キロメートル|km]]
| 軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]
| 線路数 = [[複線]]
| 電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
| 最大勾配 = 33 [[パーミル|‰]]<ref name="JOURNAL200106">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2001年6月号「東京臨海高速鉄道東京テレポート - 天王洲アイル間を先行開業」pp.68 - 71。</ref>
| 最小曲線半径 = 185 m<ref name="JOURNAL200106"/>
| 閉塞方式 = 複線自動閉塞式
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
| 最高速度 = 100 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="yamanote">『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』 - 杉崎行恭</ref>
| 路線図 = TWR Linemap.svg
}}
{{BS-map
|width =
|title = 停車場・施設・接続路線
|title-bg = #00389e
|title-color = white
|collapse = no
|map = <!-- 煩雑になるため高架解消しています-->
{{BS5|ABZg2|STRc3||||||[[東日本旅客鉄道|JR]][[京葉線]]|}}
{{BS5|STR+c1|STR+4|KBSTa|||||[[新木場車両基地]]|}}
{{BS5|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|||0.0|R 01 [[新木場駅]]||}}
{{BS5|hKRZWae|hKRZWae|hKRZWae||||||}}
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{{BS5||tSTRa|||||||}}
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{{BS5||tSTR||uABZgl|uKBSTeq|||[[有明車両基地]]|}}
{{BS5||tSTR||uHST||||[[東京ビッグサイト駅]]|}}
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{{BS5||KBSTa|tSTR|||||[[東京総合車両センター]]|}}
{{BS5||STR|tSTRe|STR+l||||JR{{BSsplit|[[湘南新宿ライン]]|・[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]}}([[大崎支線]]) |}}
{{BS5|STRq|KRZu|KRZu|KRZu||||[[東海旅客鉄道|JR東海]][[東海道新幹線]] |}}
{{BS5|ABZq+r|KRZu|KRZu|KRZu||||[[品鶴線]](JR[[横須賀・総武快速線|横須賀線]])|}}
{{BS5|STR2|STR3u|STR+c2|STR3|||||}}
{{BS5|STR+r|O1=STR+1u|STR+4|ABZg+1|STRc4||||JR[[山手線]]|}}
{{BS5|BHF|O1=HUBaq|STR|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|||12.2|R 08 [[大崎駅]]||}}
{{BS5|STR|STR2|STR+c3|||||JR埼京線・湘南新宿ライン|}}
{{BS5|STR|STRc1|ABZg+4|O3=POINTERg@lfq|||||・相鉄線直通列車(山手貨物線)|}}
}}
'''りんかい線'''(りんかいせん)は、[[東京都]][[江東区]]の[[新木場駅]]から[[品川区]]の[[大崎駅]]までを結ぶ[[東京臨海高速鉄道]](TWR)の[[鉄道路線]]である。計画・開業時および現行の『[[鉄道要覧]]』における路線名は'''臨海副都心線'''(りんかいふくとしんせん)であるが、[[2000年]]からは一般公募によって決定された「'''りんかい線'''」を案内に使用している{{Efn|『鉄道要覧』における線名は、平成12年([[2000年]])度版まで「臨海副都心線」だったが、翌年の平成13年([[2001年]])度版より「りんかい線」に変更された後、平成30年([[2018年]])度版からは再び「臨海副都心線」となっている。}}。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''R'''。
大崎駅で接続する[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[埼京線]]・[[川越線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。大半の区間が地下にあるが、国土交通省監修の統計資料{{Efn|例えば、
{{cite book|和書
|year=2006
|month=10
|title=数字でみる鉄道2006
|editor=国土交通省鉄道局
|publisher=財団法人運輸政策研究機構
|}}等。}}では[[地下鉄]]として扱われていない。また、[[日本地下鉄協会]]サイトの日本の地下鉄ページにも[[東京地下鉄]]や[[埼玉高速鉄道]]・[[東葉高速鉄道]]などと異なり、[[私鉄|民営]]・準公営([[第三セクター鉄道|第三セクター]])地下鉄一覧には掲載されていない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/japan/ |title=日本の地下鉄 |publisher=[[日本地下鉄協会]] |accessdate=2022-04-12}}</ref>。
== 路線データ ==
* 管轄(事業種別):東京臨海高速鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):12.2km
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:8駅(起終点駅含む)・1信号場
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1500V・架空電車線方式)<ref name="JOURNAL200106"/>
* 最急勾配:33 [[パーミル|‰]]<ref name="JOURNAL200106"/>(大崎駅の地上に出る手前<ref name="JOURNAL200106"/>)
* 最小曲線半径:185 [[メートル|m]]<ref name="JOURNAL200106"/>(品川シーサイド駅付近<ref name="JOURNAL200106"/>)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:(複線)自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]<ref name="JOURNAL200106"/>
* 最高速度:100km/h<ref name="yamanote" />
* [[車両基地]]:[[東臨運輸区]](八潮車両基地)- 場所は[[東京貨物ターミナル駅]]脇
* 地上区間:大崎駅 - [[大井町駅]]間(東京総合車両センター付近まで)、[[国際展示場駅]](トンネル出口は東側) - 新木場駅間
* 地下区間:大井町駅 - 国際展示場駅間
== 沿革 ==
新木場 - [[東京テレポート駅|東京テレポート]]間は高度成長期に[[東京外環状線]]の一部として計画され、湾岸部の[[水底トンネル|海底トンネル]]工事も完了していた旧[[日本国有鉄道|国鉄]][[京葉線|京葉貨物線]]のうち、国鉄時代に旅客線に転用されず、[[国鉄分割民営化]]後は[[日本国有鉄道清算事業団|国鉄清算事業団]]が所有していた新木場 - [[東京貨物ターミナル駅|東京貨物ターミナル]]間の一部を[[東京臨海副都心]]地区の開発と同地区での開催が予定されていた[[世界都市博覧会]]([[1995年]]開催中止決定)に伴う旅客輸送のために旅客線として開業したものである。東京貨物ターミナル方面から分岐する[[品川埠頭分岐部信号場]] - 大崎間については新規に工事を行った上で延伸開業した。
なお、同じく工事が終了していた品川埠頭分岐部信号場 - 東京貨物ターミナル間は、東京貨物ターミナルの東側に車両基地([[東臨運輸区]])を設置した上で回送線として利用されている。また新木場駅の[[蘇我駅|蘇我]]方ではJR東日本の[[京葉線]]と線路が接続されている。この京葉線との連絡線は、JR埼京線との直通運転が開始されるまでは主に車両検査時の回送用に使用されていた。
東京テレポート駅 - 品川埠頭分岐部信号場 - 東京貨物ターミナル駅(東臨運輸区)を結ぶ海底トンネル・東京港トンネルは旧国鉄の京葉貨物線の一部として建設されたもので、[[沈埋トンネル|沈埋工法]]で建設されたためにトンネル断面形状はボックスケーソンの四角形となっている。一方、りんかい線開業に伴って新たに掘削された品川埠頭分岐部信号場 - 天王洲アイル駅間については[[シールド工法]]で建設されたため、トンネル断面形状は円形である。両線の分岐点である品川埠頭分岐部信号場でトンネル断面形状が変化する。
2010年代以降は平常時の外国人乗客も増えているため、2018年4月27日から[[英語]]を話せるコンシェルジュを[[東京テレポート駅]]などに配置するといった対応を進めている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO29601650Z10C18A4L83000/ りんかい線 外国語案内/4駅に「コンシェルジュ」配置/五輪会場集積に備え]『日本経済新聞』朝刊2018年4月20日(東京・首都圏経済面)2018年5月13日閲覧。</ref>。
=== 年表 ===
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月30日]]:第1期区間・新木場 - 東京テレポート間開業{{R|交通960402}}。当時は[[東京臨海高速鉄道70-000形電車|70-000形]]電車4両編成での運転で、この時の路線名称は「臨海副都心線」{{R|交通960402}}。もっぱら運営会社の略称である「TWR」と呼ばれていた。
* [[2000年]](平成12年)[[9月1日]]:「りんかい線」の愛称を使用開始<ref name="TWRName">{{Cite web|url=http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000829033800/http://www.twr.co.jp/aisyouset.html|title=愛称名は「りんかい線」に決定!|archivedate=2000-08-29|accessdate=2022-03-27|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年3月}}</ref>。同時に路線名を臨海副都心線からりんかい線に改称<ref name="TWRName"/>。
* [[2001年]](平成13年)[[2月8日]]:[[東臨運輸区|八潮車両基地]]の供用開始。
** [[3月31日]] 第2期区間・東京テレポート - [[天王洲アイル駅|天王洲アイル]]間部分開業<ref>{{Cite web|url=http://www.twr.co.jp/tenkset.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010409203911/http://www.twr.co.jp/tenkset.html|title=りんかい線「天王洲アイル駅」平成13年3月31日に開業!|archivedate=2001-04-09|accessdate=2022-03-27|publisher=東京臨海高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年3月}}</ref><ref>{{Cite news |title=東京臨海高速鉄道 東京テレポート~天王洲アイル 3月31日先行開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-12-19 |page=1 }}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:第2期区間・天王洲アイル - 大崎間開業(全線開業)<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021209101402/http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|language=日本語|title=「りんかい線」今年12月1日に大崎駅まで全線開業!|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2002-07-12|accessdate=2022-03-27|archivedate=2002-12-09}}</ref><ref name="JRC605">{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2002年12月 |date = 2003-03-01 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 24-25 }}</ref>。同時にJR東日本埼京線・川越線と相互乗り入れを開始<ref name="JRC605"/>。これを機に埼京線・川越線直通用列車を10両編成化し、さらにりんかい線内の専用列車を6両編成化。また、この日から[[2003年]][[2月28日]]まで開業時の運賃のままで利用できる「スピードアップキャンペーン」を実施。ただし、日中7分30秒毎の等間隔運転(1時間に8本運転)から毎時5 - 7本運転のランダムダイヤとなり、減便された。
* [[2004年]](平成16年)[[10月16日]]:全列車10両編成化。これ以降、JR車両もりんかい線内折り返し運用に就き、同様に自社車両も埼京線内折り返し運転の運用にも就くようになった。
* [[2008年]](平成20年)[[7月19日]]:東京テレポート駅において発車のベル音(公式ホームページでの呼称)を『[[踊る大捜査線]]』のテーマ曲に変更(詳細は[[#発車メロディ・自動放送|後述]])。りんかい線の駅でご当地メロディが導入されるのは初めて。
== 運行形態 ==
大崎駅からJR埼京線に直通し、[[川越線]]の[[川越駅]]まで[[直通運転|相互直通運転]]を実施している。これにより、りんかい線新木場駅から埼京線経由で川越線川越駅までは一つの運転系統として成立している。
りんかい線内は新木場駅 - 大崎駅間の全線を通して運転する列車のほか、[[東臨運輸区|八潮車両基地]]への出入りのために東京テレポート駅発着の区間列車も設定されている。日中は1時間に大宮駅・川越駅発着の快速が3本、新木場駅 - 大崎駅間の各駅停車が4本の計7本が運転されているが、運転間隔はパターン化されていない。
りんかい線内では[[快速列車|快速]]および[[列車種別#通勤種別|通勤快速]]を含めて全列車が各駅に停車する。
全列車が2004年に10両編成化されて以降は自社車両だけではなくJRの車両もりんかい線内での折り返し運転に使用されている。
[[東京ディズニーリゾート]]玄関口の京葉線[[舞浜駅]]への短絡ルートとして、時折[[中央本線]]や[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]などからりんかい線を通り、京葉線へ直通する[[団体専用列車|団体客向けの臨時列車]]が運転される。
混雑が予想される日に特別ダイヤを組んで対応することが2002年12月の全通前はたびたびあったが、全通後はあまり実施されなくなった。ただし、[[大晦日]]にはJRからの直通臨時列車が設定される<ref>交通新聞社『JR時刻表』2018年1月号</ref>ほか、[[東京湾大華火祭]]、[[コミックマーケット]]期間等にも臨時列車が設定される。コミックマーケットが行われる時期には会場となる[[東京国際展示場]]の最寄駅が同路線の[[国際展示場駅]]であるため非常に混雑し、始発列車は特にその傾向が顕著であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1808/06/news106.html |title= コミケの「始発ダッシュ」どう思う? 「りんかい線」コミケ戦線のホンネ |publisher=ねとらぼ |date=2018-08-07 |accessdate=2023-02-23}}</ref>。そのためそのような時期には臨時ダイヤが組まれ、列車が増発される<ref>{{Cite web|和書|url=https://ja.wtmnews.net/2021121512173 |title=「コミケ」2年ぶり開催 早朝に臨時列車を増発 ゆりかもめ・りんかい線 終夜運転はせず |publisher=鉄道・旅行ニュースWTM |date=2021-12-15 |accessdate=2022-11-10}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+日中の1時間あたりの運行パターン
|- style="line-height:110%;"
!種別\駅名
!直通先
! colspan="2" style="width:1em;"|大崎
!…
!style="width:1em;"|新木場
|-
| style="background:skyblue;" |快速
| style="text-align:right;" colspan="2" |川越←
| style="background:skyblue;" colspan="3" |3本
|-
|style="background:mediumseagreen;" |各駅停車
| colspan="2" |
| colspan="3" style="background:mediumseagreen;" |4本
|-
|}
== 使用車両 ==
りんかい線の地下区間は、トンネル内径が広く非常時に列車側部に脱出できる{{Efn|りんかい線は、現行法令「[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令|新鉄道技術省令]]」の解釈基準における「建築限界と車両限界の基礎限界との間隔が側部において400mm未満の区間」には該当しない。}}ため、列車の先頭部と最後部に非常時脱出用貫通扉を装備していない系列であっても[[地下鉄等旅客車]]であれば走行可能である。
=== 現在の使用車両 ===
==== 自社車両 ====
* [[東京臨海高速鉄道70-000形電車|70-000形]]
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;">
Rinkai-line Series70-000 70-030.jpg|70-000形
</gallery>
==== 乗り入れ車両 ====
; JR東日本
:* [[JR東日本E233系電車#7000番台|E233系7000番台]](2013年6月30日より乗り入れ開始<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2012/20120404.pdf 秋田新幹線用車両と埼京線・横浜線用車両の新造について] - 東日本旅客鉄道(2012年4月10日)}}</ref>)
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;">
Rinkai-line SeriesE233-7000 101.jpg|E233系7000番台
</gallery>
このほか、臨時列車や団体専用列車として、[[京葉線#りんかい線との関係|「FOODEX」の特別列車]]で[[国鉄183系電車|183系]]、「[[あずさ (列車)|カウントダウンあずさ]]」で[[JR東日本E257系電車|E257系]]、[[国鉄485系電車|485系]]のお座敷列車「[[華 (鉄道車両)|華]]」・「[[リゾートエクスプレスゆう]]」・「[[宴 (鉄道車両)|宴]]」、検測車の[[JR東日本E491系電車|E491系]]が乗り入れたことがある。[[相鉄12000系電車]]は入線自体は可能だが乗り入れない。
=== 過去の使用車両 ===
==== 乗り入れ車両 ====
; JR東日本
:* [[国鉄205系電車|205系]](2014年3月以降は予備編成である第28編成のみ運用。同年2月までは大崎寄りの2号車および3号車に6ドア車を組み込んだ編成も運用されていた<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2014/03/jr20528_4.html 205系ハエ28編成ヘッドマークを外し運用復帰(鉄道ホビダス・RMニュース)]</ref>)。
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;">
JRE_205-SAIKYOLINE.jpg|205系
</gallery>
=== 導入予定車両 ===
*71-000形 - [[2025年]]度下半期に導入予定<ref>{{Cite web|url=https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2023/20231106_information.pdf|title=りんかい線に新型車両71-000形を導入します |date=2023-11-06 |accessdate=2023-11-07|publisher=東京臨海高速鉄道}}</ref>。
== 女性専用車 ==
[[女性専用車両|女性専用車]]は、[[埼京線]]と同じく、7時46分 - 9時41分に大崎駅を発車する新木場方面行全列車と22時34分以降に新木場駅を発車する大崎方面行全列車で、ともに平日のみに設定。設定車両は新木場方先頭車両である10号車。
== 利用状況 ==
全線開業以降<ref>[http://www.twr.co.jp/enterprise/gaiyou05.html 平成17年度決算の概要「乗車人員・運輸収入ともに前年同期比13%以上増加」(東京臨海高速鉄道)]</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.twr.co.jp/enterprise/gaiyou_h24_final_outline.pdf 平成24年度決算の概要「りんかい線、通年で初の経常収支の黒字化を達成」] - 東京臨海高速鉄道、2013年5月31日(2014年5月28日閲覧)}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/enterprise/H28/gaiyou_h28_final_outline.pdf 平成28年度決算の概要] - 東京臨海高速鉄道、2017年6月8日(2017年6月25日閲覧)}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/enterprise/H29/gaiyou_h29_final_outline.pdf 平成29年度決算の概要] - 東京臨海高速鉄道、2018年6月4日(2018年7月9日閲覧)}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.twr.co.jp/Portals/0/gaiyou_r02_final_outline.pdf 令和2年度決算の概要] - 東京臨海高速鉄道、2021年6月8日(2021年10月6日閲覧)}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.twr.co.jp/Portals/0/gaiyou_r03_final_outline.pdf 令和3年度決算の概要] - 東京臨海高速鉄道、2022年6月3日(2023年6月14日閲覧)}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.twr.co.jp/Portals/0/gaiyou_r04_final_outline.pdf 令和4年度決算の概要] - 東京臨海高速鉄道、2023年6月5日(2023年6月14日閲覧)}}</ref>。
{|class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!年度
!1日平均利用者数
!運輸収入
!運輸収入増収率
|-
!2003年度
|12.2万人
|94億3600万円
|
|-
!2004年度
|13.3万人
|101億8800万円
|8.0%
|-
!2005年度
|15.0万人
|115億6300万円
|13.5%
|-
!2006年度
|16.4万人
|128億5100万円
|11.1%
|-
!2007年度
|18.5万人
|142億3900万円
|10.8%
|-
!2008年度
|19.8万人
|149億2800万円
|4.8%
|-
!2009年度
|20.2万人
|150億1300万円
|0.6%
|-
!2010年度
|20.0万人
|148億800万円
|−1.4%
|-
!2011年度
|19.7万人
|146億7600万円
|−0.9%
|-
!2012年度
|22.3万人
|166億6700万円
|13.5%
|-
!2013年度
|23.2万人
|173億3400万円
|4.0%
|-
!2014年度
|24.0万人
|178億円
|2.6%
|-
!2015年度
|24.3万人
|184億円
|3.3%
|-
!2016年度
|24.9万人
|186億8800万円
|1.5%
|-
!2017年度
|25.6万人
|192億2400万円
|2.8%
|-
!2018年度
|26.3万人
|196億2700万円
|2.1%
|-
!2019年度
|25.9万人
|190億7200万円
| −2.8%
|-
!2020年度
|14.9万人
|101億6600万円
| −46.7%
|-
!2021年度
|15.6万人
|115億1600万円
|13.3%
|-
!2022年度
|18.1万人
|138億6000万円
|20.3%
|}
[[臨海副都心]]や品川、江東湾岸地区の開発により、利用者数は増加傾向にある。
2020年度の[[混雑率]]は、大井町駅→品川シーサイド駅(8:00-9:00)で79%である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=5|format=PDF}}</ref>。
== 駅一覧 ==
[[ファイル:IT-spot at the Station of Tokyo Waterfront Area Rapid Transit in 2013.jpg|thumb|120px|ITすぽっと]]
* 全駅[[東京都]]内に所在。
* 線内は快速、通勤快速を含め全定期列車が全駅に停車する。
* 大崎駅以外の全駅に[[FREESPOT]]、[[エヌ・ティ・ティ・ブロードバンドプラットフォーム|NTTBP]]([[docomo Wi-Fi]]が利用)、[[UQコミュニケーションズ]]([[ワイヤ・アンド・ワイヤレス]]が利用)による[[公衆無線LAN]]アクセスポイントが設置されている。また、2013年3月21日から[[UQコミュニケーションズ]]の[[WiMAX]]による駅構内・駅間においてのデータ通信が、同年6月21日から携帯電話の駅間トンネルでの通信が可能となっている。
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は2016年10月より導入。<ref>{{Cite web |title=りんかい線 「駅ナンバリング」の導入について |url=https://www.twr.co.jp/tabid/101/ItemId/218/dispmid/860/Default.aspx |publisher=東京臨海高速鉄道 |date=2016-03-22|access-date=2023-01-09 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230109050253/https://www.twr.co.jp/tabid/101/ItemId/218/dispmid/860/Default.aspx |archive-date=2023-01-09}}</ref>
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
!style="white-space:nowrap;"|駅番号
!駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em;"|営業<br />キロ
!接続路線
!style="width:1em; line-height:1.1em;"|{{縦書き|地上/地下|height=6em}}
!所在地
|-
|colspan="7" style="border-top:3px solid #00b19d; border-bottom:3px solid #00389e; padding:0; line-height:1px;"|
|-
!R 01
|[[新木場駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 05)<br>[[東京地下鉄]]:[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] (Y-24)
|rowspan="2" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em;"|{{縦書き|地上|height=3em}}
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[江東区]]
|-
!R 02
|[[東雲駅 (東京都)|東雲駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|2.2
|
|-
!R 03
|[[国際展示場駅]]<br>{{Smaller|([[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]前)}}
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|3.5
|[[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]]:[[File:Yurikamome line symbol.svg|18px|U]] [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]([[有明駅 (東京都)|有明駅]]:U-12)
|rowspan="7" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em;"|{{縦書き|地下区間|height=5em}}
|-
!R 04
|style="white-space:nowrap;"|[[東京テレポート駅]]<br>{{Smaller|([[ダイバーシティ東京プラザ]]前)}}
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|4.9
|
|-
!rowspan="2"|
|rowspan="2"|([[品川埠頭分岐部信号場]])
|rowspan="2" style="text-align:center;"| -
|rowspan="2" style="text-align:right;"| (6.8)
|rowspan="2"|''[[東臨運輸区|八潮車両基地]]への引込線が分岐''
|[[港区 (東京都)|港区]]
|-style="height:1em;"
|rowspan="5"|[[品川区]]
|-
!R 05
|[[天王洲アイル駅]]<br>{{Smaller|([[寺田倉庫]]本社前)}}
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|7.8
|[[東京モノレール]]:[[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|18px|MO]] [[東京モノレール羽田空港線]] (MO 02)
|-
!R 06
|[[品川シーサイド駅]]<br>{{Smaller|([[ビッグローブ]]本社前)}}
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|8.9
|
|-
!R 07
|[[大井町駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|10.5
|東日本旅客鉄道:[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 19)<br>[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu OM line symbol.svg|18px|OM]] [[東急大井町線|大井町線]] (OM01)
|-
!R 08
|[[大崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|12.2
|東日本旅客鉄道:'''[[File:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 08)([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]経由{{Color|#00ac9a|■}}[[川越線]] [[川越駅]]まで直通運転)'''<br>・[[File:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]] (JA 08・JS 17)・[[File:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 24)・[[File:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 17)
|style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; "|{{縦書き|地上|height=3em}}
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 大崎駅付近の配線図 ===
{{hidden begin
|toggle = left
|title = ※ 大崎駅付近の配線略図
|titlestyle = background:palegreen;
|bodystyle = font-size:150%; font-weight:bold;
}}
{{駅配線図|image=Rail Tracks map Osaki Station.svg
|title=[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東京臨海高速鉄道|TWR]] 大崎駅付近の配線略図
|width=600px
|up=[[横浜駅|横浜]]・[[小田原駅|小田原]]・[[逗子駅|逗子]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]方面|up-align=center
|left=[[東京テレポート駅|東京テレポート]]<br>・[[新木場駅|新木場]]<br>方面|left-valign=top
|right=[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]・<br>[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[川越駅|川越]]・<br>[[高崎駅|高崎]]・[[宇都宮駅|宇都宮]]<br>方面|right-valign=middle
|down=[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]方面|down-align=left
|source={{Cite journal|和書|year=2004|month=1|title=特集 短絡線ミステリー7|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|issue=513|page=21|publisher=[[交友社]]}}
|note=<span style="font-size: smaller;">本図では、[[品鶴線]]とほぼ重なる[[東海道新幹線|新幹線]]と旧蛇窪信号場付近でオーバークロスする[[東急大井町線|大井町線]]の配線を省略している。</span>}}
{{hidden end}}
{{-}}
== 運賃 ==
大人旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符購入の場合は10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>{{PDFlink|[https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2019/20190906_fare%20revision.pdf 消費税率引上げに伴う運賃改定について]}} - 東京臨海高速鉄道、2019年9月6日(2019年10月1日閲覧)</ref>。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|キロ程!!colspan="2"|普通運賃(円)!!colspan="2"|定期運賃 1か月(円)
|-
!IC利用!!切符購入!!通勤!!通学
|-
|初乗り - 3km|| 210||210|| 8160||3760
|-
|4 - 6|| 272||280|| 10600||4890
|-
|7 - 9|| 335||340|| 13060||6020
|-
|10 - 13|| 398||400|| 15500||7160
|}
* 2002年12月1日の全線開業時から2003年2月28日までの3か月間は、「スピードアップキャンペーン」として、2002年11月30日までの運賃が適用されていた。
* 2007年4月28日より「[[一日乗車券|1日乗車券]]」を発売している。大人730円。各駅の自動券売機で当日券、大崎駅以外の各駅窓口で前売り券が購入可能。
* 2008年3月15日より通学定期運賃の割引率を50%から70%に拡大し、値下げした。
* 通勤定期運賃は普通運賃の約38 - 39倍(19 - 19.5往復分)である。
== 乗車券の取り扱い ==
* [[乗車カード]]は[[Suica]]が使用可能である(相互利用可能なカードはSuicaを参照のこと)。Suicaは東京臨海高速鉄道(水色面のりんかいSuica)・JR東日本(黄緑色面のSuica)・東京モノレール(銀地に擬人化した緑色のモノレールの絵のモノレールSuica)で発行しているものすべてが使用可能。かつては[[パスネット]]も[[自動改札機]]のみ使用できたが、[[2008年]]3月14日で取り扱いを終了し、翌日からは有人改札での精算や自社線完結の普通乗車券の購入に使用できるのみとなった。なお、りんかい線では当初から[[自動券売機]]や[[自動精算機]]でのパスネットの使用はできなかった。その後、利用の減少やSuica・PASMOなどのICカード普及の進行に伴い、[[2015年]]3月31日をもって利用を終了、[[2018年]]1月31日をもって払い戻しを終了([[資金決済に関する法律]]に基づく)した<ref>[http://www.twr.co.jp/info2/2014/20141215172615.html パスネットの使用終了と残額の払い戻しについて] - 東京臨海高速鉄道、2014年12月15日</ref>。
* パスネットは[[2000年]]10月14日の導入開始時から、Suicaは[[2002年]]12月1日の全線開通および埼京線乗り入れ開始時から導入されており、東京臨海高速鉄道では両方を発行していた。この2種類のカードを発行していた鉄道事業者は東京臨海高速鉄道のみである。これは、東京臨海高速鉄道の大株主が、東京都([[東京都交通局]])=パスネット・JR東日本=Suicaと双方の陣営にもあることが影響している。
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[ICOCA]]は[[2004年]]8月1日から、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[TOICA]]は2008年3月29日から、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の[[Kitaca]]は[[2009年]]3月14日から、[[西日本鉄道]]の[[nimoca]]、[[福岡市交通局]]の[[はやかけん]]や[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[SUGOCA]]は2010年3月13日から、[[manaca]]や[[PiTaPa]]は2013年3月23日から、それぞれSuicaとの相互利用開始時から利用可能となっている。
* [[イオカード]](磁気式)はりんかい線内では利用できなかったため、イオカードを使用してJR線から大崎経由でりんかい線に入った場合は窓口精算を行う必要があった。[[2006年]]2月10日をもってJRでのイオカードの自動改札機での利用が終了しているため、現在は行われていない。
* 東京臨海高速鉄道はパスネット加盟社だったが、[[2007年]]3月18日に開始された[[PASMO]]を加盟社局の中では唯一導入せず、ICカードは既に導入しているりんかいSuicaのみとした(PASMOも利用可能)。また、同線内でのSuicaの利用者増加に伴い、同日までにりんかい線内自動券売機でのパスネットの発売を終了した。
* Suica・PASMO・パスネットとも、自動改札機・自動券売機・自動精算機・窓口処理機での使用後に表示・印字される駅名には頭に「臨」が表示される(パスネットは乗車駅欄のみ。Suicaは大崎駅では表示されない)。なお、ICOCA・TOICAではSuicaエリア以外で表示・印字されると異なる表示がされる。
* 大井町駅が[[東急大井町線]]の始発駅となっている[[東急電鉄]]との間では[[東急お台場パス|東急線りんかい線お台場パス]]が設定され、東急線内の各駅と大井町駅を結ぶ往復乗車券と大崎駅を除くりんかい線内の各駅が1日乗降自由なフリー切符がセットとなっている。詳細は該当項目を参照。
* JR東日本が発売する一部の[[特別企画乗車券]]([[休日おでかけパス]]・[[ジャパンレールパス#JR East Pass|JR East Pass]])で利用が可能であるが、りんかい線の駅では発売されない。
* JR東日本と[[連絡運輸]]を行なっているが、普通乗車券の接続駅は大崎駅に限定されている。また、東京メトロの東西線(西船橋 - 中野)や千代田線(北千住 - 西日暮里)と異なり、大崎 - 新木場間の[[連絡運輸|通過連絡運輸]]は設定されていない。
== 直通運転について ==
{{See also|京葉線#りんかい線との関係}}
りんかい線は、[[新木場駅]]でJR[[京葉線]]の線路とつながっているが、りんかい線と京葉線との[[直通運転]]は実施されていない。これは、常時直通運転させるためには多額な設備投資が必要になることや、りんかい線が建設費の償還のためJRより相当に割高な運賃を設定しており、JRとの運賃配分で問題が生じやすいためである(特に、後述の交通系ICカード利用時の運賃計算)<ref name="sugiyama">{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1405/16/news009.html|title=線路はつながっていても――京葉線とりんかい線の直通運転はなぜ難しい?|newspaper=ITmedia|author=杉山淳一|date=2014-05-16|accessdate=2016-05-17}}</ref>。
京葉線との直通運転が行われた場合、[[東京メトロ東西線]]の一部列車と同様に、事実上両側をJR線に挟まれた乗り入れになるため{{Efn|JR以外では[[名鉄豊田線]] - [[名古屋市営地下鉄鶴舞線]] - [[名鉄犬山線]]の事例もあるが、この乗り入れはりんかい線関連とは異なり、東京メトロ東西線と同様に、名古屋市営地下鉄鶴舞線を貫通する直通列車も多数設定されている。なお、東京メトロや名古屋市交通局ではりんかい線と異なり、運賃問題はこれまでに議題に上ったことはない。}}、[[不正乗車]]が多発する懸念がある<ref name="sugiyama"/>。
また、[[池袋駅]]などJR東日本の駅から[[海浜幕張駅]]などJR東日本の駅(いずれも直通運転が行われた場合りんかい線との共用駅となる駅を除く)まで直通電車を利用するなどして途中で改札を通らずにSuicaなどの交通系ICカード利用で乗車した場合、東日本旅客鉄道株式会社ICカード乗車券取扱規則第63条(2)の規定{{Efn|2014年9月現在。}}により全線JR東日本線を利用したものとみなして出場駅で運賃が引き落とされる。
そのため、現状では、りんかい線とJR京葉線の直通運転は運賃の回収が確実な団体客向けの[[臨時列車]]のみとなっている。
{{要出典範囲|date=2023年3月|京葉線が通る[[千葉県]]は、りんかい・京葉線直通で、[[ホームライナー|ライナー]](乗車券のほかにライナー券数百円必要)を走らせ、そのライナー券にJRとりんかい線の運賃の差額を上乗せする形で、この問題を解消しようと試みている。}}
なお、JR東日本が計画している「[[羽田空港アクセス線]]」(後述)では、東京テレポート駅に向かう「臨海部ルート」において、京葉線舞浜駅への直通が想定されている<ref>{{Cite news|title=JR羽田新線 ディズニー直結へ 西ルート、中央線直通も|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202002/CK2020020802000258.html|newspaper=東京新聞|accessdate=2020-03-29|date=2020-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200305112749/https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202002/CK2020020802000258.html|archivedate=2020-03-05}}</ref>。これに関連して、東京都などが保有するTWRの株式をJR東日本が買収する意向であることが報じられている<ref name="tokyomxnews" />。しかし、東京臨海高速鉄道側はそれを否定している<ref name="tokyomxnews">{{Cite web|和書|url=http://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=201408226|title=りんかい線株売却「慎重に見る必要」|work=TOKYO MX NEWS|publisher=東京メトロポリタンテレビジョン|date=2015-08-22|accessdate=2016-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140822125148/http://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=201408226|archivedate=2014-08-22}}</ref>。
== 発車メロディ・自動放送 ==
[[発車メロディ]]や操作用のスイッチなどは、JR東日本で使用されているものと全く同じで、JRと共用している大崎駅以外では基本的に[[東洋メディアリンクス]]製の「Water Crown」・「Cielo Estrellado」を使用している。
*東京テレポート駅では、2008年7月19日より[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のドラマ『[[踊る大捜査線]]』のテーマソングをアレンジしたものに変更された(1番線〈大崎方面〉:C.X.、2番線〈新木場方面〉:Rhythm And Police)。なお、2012年12月7日 - 2013年1月31日までは映画『[[ONE PIECE FILM Z]]』のテーマ曲を使用していた<ref>[http://www.twr.co.jp/special/2012winter/index.html#winter2012MELODY 東京テレポート駅の発車メロディーが期間限定で「ワンピース」のテーマ曲になります] - 東京臨海高速鉄道</ref><ref name="twr20130128">[http://www.twr.co.jp/info2/2013/20130128144413.html 東京テレポート駅 発車メロディー「ワンピース」が終了し「踊る大捜査線」のテーマ曲が復活します。] - 東京臨海高速鉄道、2013年1月28日。</ref>。『ONE PIECE FILM Z』のメロディ使用終了後は『踊る大捜査線』以前のメロディにすることも検討していたが、お台場のイメージ保持のため、『踊る大捜査線』のメロディを再度使用している<ref name="twr20130128" />。
* 大井町駅では、同駅を最寄りとする「[[四季劇場[夏]]]」においてミュージカル上演期間中に限り、発車メロディがそのミュージカルのテーマ曲に変更されている。
** 2011年6月21日から2013年1月27日までは『[[美女と野獣]]』のテーマソングが使用されていた(1番線〈大崎方面〉:美女と野獣、2番線〈新木場方面〉:おもてなし - Be Our Guest)。
** 2013年10月25日から[[2017年]][[4月9日]]までは『[[リトル・マーメイド]]』のメロディが使用されていた(1番線〈大崎方面〉:Part of your world、2番線〈新木場方面〉:Under the sea{{Efn|ただし、初日のみメロディが逆であった。}})。
**『キャッツ』のメロディが使われていた時期もあった(1番線〈大崎方面〉:メモリー、2番線〈新木場方面〉:スキンブルシャンクス - 鉄道猫)。
*: 『美女と野獣』と『リトルマーメイド』のメロディ使用開始初日は主演俳優{{Efn|『美女と野獣』は[[坂本里咲]]と[[福井晶一]]、『リトル・マーメイド』は[[谷原志音]]、[[上川一哉]]。}}が1日駅長となってメロディを披露した<ref>[http://www.twr.co.jp/info/2011/beauty_and_beast.html ミュージカル『美女と野獣』出演者が一日駅長に就任します。大井町駅発車ベルが『美女と野獣』のメロディになります。] - 東京臨海高速鉄道</ref><ref>[http://www.twr.co.jp/info/2013/littlemermaid.html ミュージカル『リトルマーメイド』出演者が一日駅長に就任します。大井町駅発車ベルが『リトルマーメイド』のメロディになります。] - 東京臨海高速鉄道</ref>。
* 国際展示場駅では、期間限定で以下のメロディが使われていた。
** 2012年8月9日から9月30日まで[[ゼンリン]]の地図サービス「いつもNAVI」のCMソングを使用しており、曲名を当てるキャンペーンも行われていた<ref>[http://www.advertimes.com/20120809/article80466/ 「国際展示場」駅の発車メロディーに使われているCMソングを当てるキャンペーン] - AdverTimes 2012年8月12日閲覧。</ref>(キャンペーンガールであった「[[すーぱーそに子]]」の項も参照)。
** 2015年3月13日から[[6月22日]]までは[[日清食品]]の冷凍スパゲッティ「Spa王」のCMソングが使われていた。
** 2021年9月22日からは[[ライオン・キング]]の劇中歌が使われている。大崎方面が「ハクナ・マタタ」、新木場方面が「サークル・オブ・ライフ」を使用している<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/tabid/101/Default.aspx?itemid=699&dispmid=860 |title=劇団四季 ディズニーミュージカル『ライオンキング』の発車メロディについて |access-date=2022-05-06 |publisher=東京臨海高速鉄道 |date=2021-09-22}}</ref>。
== 羽田空港アクセス線構想 ==
{{Main|羽田空港アクセス線}}
[[2000年]]([[平成]]12年)、[[運輸省]](現・[[国土交通省]])[[運輸政策審議会答申第18号]]において、「東京臨海高速鉄道臨海副都心線の建設及び羽田アクセス新線(仮称)の新設」として、東京テレポート駅から[[東京貨物ターミナル駅]]を経て[[東京国際空港]]に向かう路線がB路線(今後整備について検討すべき路線)として取り上げられ、「大崎方面からの直通ルートについても併せ検討する」としていた<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/images/kotumo.pdf|title=具体的路線|work=東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(答申)|publisher=国土交通省|date=2000-01-27|accessdate=2016-04-09}}</ref>。
[[2013年]]から[[2014年]]にかけてJR東日本が発表した構想の中には「[[東京国際空港|羽田空港]]アクセス改善」<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131019.pdf グループ経営構想V(ファイブ)「今後の重点取組み事項」について]}} - 2013年10月29日</ref>があり、[[2020年東京オリンピック]]を「きっかけ」(同社社長)として本路線を羽田空港アクセス線として活用する案が提示されている。
計画によると、休止中の[[東海道貨物線]](大汐線)を活用し田町に接続する「東山手ルート」、東京貨物ターミナルから「東品川短絡線」を建設して品川シーサイド駅・大井町駅間で合流、大崎・新宿方面に直通する「西山手ルート」、東臨運輸区への回送線を複線化して品川埠頭分岐部信号場で合流、新木場方面に直通する「臨海部ルート」の3ルートを建設するとしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/knp/news/20140820/674069/ |title=羽田アクセス総取りか、JR新線3ルートの全貌(1/3)|author=大野雅人|work=日経コンストラクション|publisher=日経BP|date=2014-08-20|accessdate=2016-04-09}}</ref>。
2016年4月、[[国土交通省]][[交通政策審議会]]の東京圏における今後の都市鉄道のあり方に関する小委員会は[[交通政策審議会答申第198号|答申第198号]]<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001126948.pdf|title=東京圏における今後の都市鉄道のあり方について(案)|publisher=国土交通省|date=2016-04-07|accessdate=2016-04-09}}</ref>をまとめ、京葉線・りんかい線相互直通運転化と合わせて「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」に位置付けられた。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[東京臨海副都心]]
* [[都心部・臨海地域地下鉄構想]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Official website}}
* {{Twitter||りんかい線 公式 お知らせ}}
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[[Category:関東地方の鉄道路線|りんかいせん]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:第三セクター路線]]
[[Category:東京臨海高速鉄道|路りんかいせん]]
[[Category:埼京線]]
[[Category:京葉線]]
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東武鉄道
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東武鉄道株式会社(とうぶてつどう、英: TOBU RAILWAY CO., LTD.)は、東京都墨田区に本社を置く日本の鉄道事業者。大手私鉄の一つであり、関東地方1都4県で12の鉄道路線を運営している。略称は東武(とうぶ)。鉄道のほか、バスなどの交通・流通・物流業・住宅・レジャーなど約80社からなる東武グループの中核企業である。
東京証券取引所プライム市場上場。日経225(日経平均株価)の構成銘柄。旧根津財閥の中核企業であり、同じく関東の大手私鉄の京浜急行電鉄(京急電鉄)と共に芙蓉グループ(融資系列ではみずほグループ)を構成する企業の一つでもある。本社は東京都墨田区押上二丁目に所在(最寄駅は押上駅及びとうきょうスカイツリー駅)。
「東武」の名称は武蔵国の東部に由来する。創立は1897年(明治30年)で、日本の大手私鉄の中では最も古い老舗企業である。また明治期に発足した日本の私鉄のうち、創立以来社名を一度も変更せずに存続しているのは東武鉄道と近江鉄道・島原鉄道の3社のみである。
東京都・埼玉県・千葉県・栃木県・群馬県の1都4県に、総営業キロ数463.3kmに及ぶ鉄道路線を有する。2018年時点で、営業キロ数はJRを除く日本の鉄道では関東地方で最長、全国では近畿日本鉄道(近鉄)の501.1kmに次いで第2位である。路線は、創業路線である伊勢崎線(東武スカイツリーライン)や日光線・野田線(東武アーバンパークライン)を主軸とした「本線」と、東上本線・越生線からなる「東上線」の2つの路線群に分けられる(1983年に熊谷線の廃止で独立線区が消滅して以降)。
社紋は1897年(明治30年)の創立以来のものを使用しており、車輪を模した円に図案化した東武の「東」を加えて鉄道による奉仕の意思を表現している。
社紋に代わるロゴは時代によって様々なものが考案・使用されてきたが、グループ会社間で統一されていなかった。そのため東京スカイツリー建設による沿線地域の開発決定を機に、イメージの刷新を兼ねてグループ統一ロゴが制作されることになった。社内部門や協力会社との検討によって1,500種の案から選定された現在のロゴは2011年(平成23年)7月から使用を開始している。「T」を中心に四方に延びるラインには「高く伸びる東京スカイツリー」・「会社が周囲に提供する安全、安心、快適さ、期待感」・「地域ニーズの収集及び発信」という意味が込められている。またロゴの青色は「Future Blue」と命名され、東武グループの「信頼性」・「包括力」・「期待感」を表している。開発には凸版印刷のブランディング部門が関わった。
現在の東武鉄道の路線は、大きく本線(伊勢崎線〈東武スカイツリーライン〉・日光線・野田線〈東武アーバンパークライン〉ほか)と東上線(東上本線・越生線)とに二分出来る。なお、両線の間は自社線では結ばれていないが、車両の転属および東上線車両の南栗橋工場入出場は、秩父鉄道秩父本線のうち寄居駅 - 羽生駅間を利用して行われている。回送時には、秩父鉄道所属の電気機関車か、秩父ATS搭載の8000系電車(森林公園検修区→南栗橋車両管区所属の8506F)が先頭に連結される。
沿革で記載のように、東上鉄道(東上本線)を合併したほか、第二次世界大戦中の陸上交通事業調整法により、総武鉄道(野田線)や下野電気鉄道(鬼怒川線)など周辺の小規模な鉄道会社をいくつか合併した経緯がある。
東上鉄道との合併は、東武鉄道の歴史上唯一の対等合併であり、社内外の調整が難航した。結果的に東武本社とは別に東京・西池袋に東上線を管轄する東上業務部が2015年まで設置され、現在も本線とは列車種別や運行体制が異なるなど、独立色が強くなっている。
前述周辺私鉄を合併した戦後の最盛期には総延長591.6kmもの路線を有していた。その後、ローカル線の廃止を早く進めたこともあって、JRを除く日本の私鉄1位の路線網を擁する近畿日本鉄道(近鉄)と2位の名古屋鉄道(名鉄)に次ぐ第3位という状況が長く続いたが、1990年代後半より名鉄でローカル線の廃止が相次ぎ、2005年4月1日に名鉄と東武で順位が入れ替わり、近鉄に次いで2位となった。1997年に会沢線を廃止して以降の保有路線総延長は463.3kmで、近鉄・名鉄と同様に400km以上の路線網を擁する日本の大手私鉄の一つとなっている。
1984年まで多くの貨物列車がほぼ全線にわたって運行され、貨物駅も起点側都内の業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)や千住駅(現在の牛田駅 - 北千住駅間にあった千住分岐点からの分岐先に所在)を始め各地に存在し、北千住駅・久喜駅・伊勢崎駅などで貨物の連絡運輸が行われていた。その後は大幅に縮小しながらも大手私鉄では最後まで貨物列車が運行されていたが、末期の貨物列車運行区間であった伊勢崎線北部、佐野線でも、2003年9月30日限りで貨物営業が廃止された(貨物列車の運行自体は廃止日以前に終了している)。
施設面では、明治時代・大正時代に蒸気機関車牽引列車主体で営業を開始した路線が多く、いわゆる「国鉄式」のホーム配置など、旧国鉄と共通する駅構造を持った駅が多かった。これらの構造は、1980年代以降の高架化や複々線化など近代化の過程でほとんどが姿を消したが、現在でも春日部駅や伊勢崎線北部、日光線などにその構造が残っている駅がある。また、旅客営業規則についても、1997年3月24日まで本線系統の有料特急・急行列車に定期乗車券では利用できないなど、国鉄の規定にほぼ準じていた。これらの施設面や営業規則から、一部では「ミニ国鉄」と揶揄されたこともある。
東武の鉄道路線のトンネルは、押上駅付近の地下線の入口を除けば、日光線の明神駅 - 下今市駅間の十国坂トンネル1箇所のみで、それも全長40mと非常に短い。これは、大手私鉄ではトンネル区間のない西日本鉄道に次ぐ少なさ・短さである。
関東地方の大手私鉄で唯一、半世紀以上も路線延伸がなく、平成期に新線が開業しなかった事業者である。西板線(大師線)・熊谷線などの延伸計画はあったが、財政難などの理由で頓挫し、また都営三田線への乗り入れのため、高島平 - 和光市間の鉄道免許を受けたが、これも営団8号線(現・東京地下鉄有楽町線)に乗り入れ先が変更となり、建設されなかった。
以下で左端のマーク(英字)は駅ナンバリングで使われる記号
東武鉄道では、古くから日光線・鬼怒川線系統では「観光列車」として、伊勢崎線系統では「ビジネス列車」として、特急・急行などの優等列車を走らせていた。「特急料金」だけでなく「急行料金」が存在した。
「特急」については、本線では有料列車なのに対し、東上線では料金不要の速達列車(JRでいう「快速列車」の一種で、「特別快速」に相当)となっていたが、2008年6月14日のダイヤ改正時に東上線特急は廃止され、代わりに「快速急行」が新設された。
「急行」については、本線では、2006年3月18日のダイヤ改正時に従来「急行」として運行されていた列車が「特急」に統合され、急行は他の大手私鉄や東上線と同様の料金不要種別となった。従来から運転されていた「快速」の種別名称は変更されなかったため、当ダイヤ改正以降、快速は急行の上位種別となった。2013年3月16日のダイヤ改正時に東上線にも「快速」が新設されたが、本線と同様、快速は急行の上位種別となった。
2017年4月21日のダイヤ改正より、東武鉄道では26年ぶりの新型特急車両「リバティ」による特急が運行されることとなった。このうち「アーバンパークライナー」は本線と野田線を直通して運行される。
2022年3月12日のダイヤ改正時点で、下記の有料優等列車を運行している。
これらの列車に乗車する際は原則として特急券または座席指定券が必要であるが、下り「スカイツリーライナー」のせんげん台駅 - 春日部駅間、「アーバンパークライナー」のうち浅草駅発のせんげん台駅 - 大宮駅・柏駅間、大宮駅発の春日部駅 - 柏駅間、柏駅発の運河駅 - 大宮駅間においても特急券が不要となる。また、「リバティきぬ」と「リバティ会津」の鬼怒川温泉駅 - 会津田島駅間の相互利用に限り、座席の指定を受けない場合は特急券が不要となる。
上り列車に限り、とうきょうスカイツリー駅から浅草駅まで全列車で特急券が不要となるサービスがあったが、2023年3月18日の特急料金改定に合わせて廃止された。
東京メトロ日比谷線に直通する「THライナー」は特急ではないが、座席指定券が必要であり、東武線内のみの乗車は出来ない。
年末年始の終夜運転を除けば、JR以外では珍しい定期的に運行されている夜行列車である。東武トップツアーズが催行するツアーとしての運行で、事実上団体専用列車である。
行き先の駅には未明の到着になるので、到着後しばらく仮眠できる。「尾瀬夜行」の場合、2021年ダイヤでは23:55に浅草を出発し2:16に東武日光に到着、車内で4時頃まで仮眠を取ることができた。
2006年3月18日のダイヤ改正より、日光線とJR宇都宮線の接続駅である栗橋駅に連絡線を設け、東日本旅客鉄道(JR東日本)新宿駅 - 東武日光駅・鬼怒川温泉駅間を結ぶ下記の特急列車の直通運転が行われている。
新宿駅からの経路はJR山手貨物線 - 宇都宮線(東北本線) - 栗橋駅(運転停車) - 東武日光線・鬼怒川線である。なお、池袋駅で東上本線、大宮駅で野田線と接続することから、時刻表・発車案内・停車駅案内図において、JRの駅名を「JR池袋」など頭に「JR」を冠して案内している。
JR東日本線内で事故などの運転トラブルが生じた場合は、南栗橋駅止まり・栃木駅始発等の措置がとられる。また、2006年の運転開始当初のJR側の充当車両は485系および189系「彩野」で、485系が定期検査で使用できない際は第1予備の東武100系または第2予備の189系「彩野」が代走していた。2011年のJR東日本253系1000番台投入後は、253系が2編成あるため、第1予備を253系、第2予備を東武100系としている。
日光線および鬼怒川線では、蒸気機関車 (SL) またはディーゼル機関車 (DL) の牽引による臨時列車が運行されている。
上り列車は降車駅が池袋駅に限られる。下り列車のふじみ野駅 - 小川町駅間は座席指定券が不要となる。
以下に本線と東上本線で採用されている無料優等種別名を記す。前述の通り、東武鉄道は本線と東上本線で運行系統が大きく異なっており、無料優等列車で採用されている種別名も異なる。同一種別でも運行時間帯・運転間隔等が異なる。
詳しくは各路線の項目を参照のこと。
1899年(明治32年)8月27日の北千住駅 - 久喜駅間開業時にイギリスのベイヤー・ピーコック製蒸気機関車を導入した。1910年(明治43年)7月13日には、新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間が開通して、伊勢崎線浅草駅(現・とうきょうスカイツリー駅) - 伊勢崎駅間が全通し国有鉄道両毛線と連絡する。 浅草駅 - 伊勢崎駅間や佐野線館林駅 - 葛生駅間の直通運転に備えて山陽鉄道から譲受した国有化された5900形と同形のボールドウィン製D1形を増備した。1922年(大正元年)には第一次世界大戦後の好況期を迎え、機関車が不足したためシャープ・スチュアート製の5650形6両が追加された。1924年(大正13年)には伊勢崎線が電化されたが、旅客列車に限られたもので、貨物列車には蒸気機関車が継続して使用された。1955年(昭和30年)には第一次5か年計画で、貨物線の電化が掲げられ、1958年(昭和33年)から電化工事や電気機関車の新造により、東上線は1959年(昭和34年)4月1日に貨物列車が電化された。1960年(昭和35年)の第二次5カ年計画では伊勢崎線系統の非電化の貨物線の電化工事が推進した。1966年(昭和41年)6月30日には蒸気機関車が全廃された。以降は路線網の縮小や貨物輸送が廃止され、2003年(平成15年)には電気機関車が全廃された。一方2017年(平成29年)からSL大樹用に蒸気機関車・ディーゼル機関車・客車を保有するようになったが、これは大手私鉄では唯一の存在である。
通勤形車両については戦後、20m4扉車の導入に積極的であり、63形電車を譲り受けた7300系を皮切りに日比谷線直通を除く各線区へ20m車を大量導入していった。1963年(昭和38年)に登場した8000系は私鉄電車では最多の712両が20年間に渡って製造されたため、「私鉄の103系」の異名を持つ。
東武は関東大手私鉄の中では車両を更新・修繕して長期間使用する傾向が強い。そのため、旅客用車両の転出は他の大手私鉄と比較して極めて少ない。旧型車より台車・電装品など主要機器を流用して車体を新造した車両(機器流用車)を「更新車」と呼称し、一方、元来の車体を生かしてリニューアル工事を施工した車両を「修繕車」と呼称して区分している。前者は3000系列・5000系列・200型などが該当し、後者は8000系・9000系列・10000系列などが該当する。更新車は廃車に伴い次第に少なくなっているが、2020年(令和2年)時点でも6050系・200型が現役で、後者の機器類は新造から60年以上経過しているものがある。
多くの大手私鉄の優等列車の車両は先頭車を展望車にしたり、前面展望が可能な設計にしているが、東武鉄道の優等列車の車両はN100系「スペーシアX」以外は前面展望が不可能な構造になっている。ただし臨時特急にも運用されたことがある団体用車両「スカイツリートレイン」634型は客室側窓を拡大した展望車両となっているほか、SL大樹には2021年(令和3年)から12系客車を改造した展望車の連結を開始している。このほか、過去にはトク500形という展望客車を保有していたことがある。
他社から乗り入れてくる車両については、「JR東日本との相互直通運転列車」の節のほか、「伊勢崎線」・「日光線」・「鬼怒川線」・「東上本線」の各項目を参照のこと。
なお、SL大樹・DL大樹に関わる機関車・客車・貨車については、いずれもJR所属時代の付番体系を維持している。
本節では、100系以降の特急用車両と10000型以降の通勤形車両の付番方法について記述する。
本線系統には、長い間在姿形車輪削正旋盤(車両から台車や車輪を外さず削正を行う旋盤で、作業完了後すぐに営業運転が可能)が春日部検修区(現南栗橋車両管区春日部支所)の1台しかなく、南栗橋車両管区との2台体制になるまで、削正が追い付かない事態が続いていた。野田線車両の場合、七光台支所構内に削正旋盤がないため南栗橋車両管区まで回送して削正している。
大人普通旅客運賃(小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定。
2021年9月30日に普通回数乗車券を廃止したのと引き換えに、翌10月1日より普通運賃のポイント還元制度「トブポマイル」を開始した。
トブポマイルを利用するには、
以上2点が前提となる(Suicaは対応していない)。
トブポマイルには2つの制度がある。
貯めたマイルは、1マイル=1円でPASMOにチャージするか、TOBU POINTに1マイル=1.1ポイントの割合で交換して東武グループの商業施設で利用できる。
2011年3月16日から1枚の定期券で2つのルートが利用できる二区間定期券が発売されている。池袋駅経由のPASMO定期券で東武東上線池袋駅 - 和光市駅間と東京メトロ有楽町線・副都心線池袋駅 - 和光市駅間が利用できる。購入金額は東武東上線朝霞方面 - 池袋駅間の定期運賃と東京メトロ和光市 - 東京メトロ東池袋・雑司が谷・新大塚方面の定期運賃の合算額となる。名称は「二東流」(にとうりゅう)。
詳細は以下の各項目を参照。
以下の企画乗車券は東武トップツアーズ各店でのみ発売
東上線関係の企画乗車券は「東武東上本線#企画乗車券」を参照。
2020年度は 駅情報(乗降人員)|企業情報 より。それ以外は 関東交通広告協議会、東京都統計年鑑、埼玉県統計年鑑、千葉県統計年鑑 より。
・は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。
本線系統は北千住駅が、東上線系統は池袋駅が突出して乗降人員が多く、この2駅が東武鉄道のメインターミナル駅である。また、本線系統は北千住駅と押上駅で、東上線系統は和光市駅で東京メトロ線に相互直通運転を行っており、それぞれ東京都心方面の利便性と冗長性を確保している。
本線系統の始発駅である浅草駅は、1990年代前半に一日平均乗降人員が10万人を越えていた時期があった。当時は北千住駅が構造上の理由でラッシュ時に乗換客で飽和状態になり、その対策として浅草駅経由の迂回定期券が発行されていた時代であり、下りの特急列車も北千住駅を全列車が通過していた。1997年に北千住駅の改良工事が完了すると、特急列車が北千住駅に全列車停車するようになり、迂回定期券も廃止された。2003年に半蔵門線との直通運転を開始したことでバイパス路線が充実し、乗降人員はピーク時の半分以下まで減少している。一方、浅草駅の隣駅であるとうきょうスカイツリー駅は、運賃計算上は半蔵門線との接続駅である押上駅と同一駅扱いとなる関係で半蔵門線との直通運転開始を機に乗降人員が大幅に増加し、東京スカイツリーが開業した2012年度に一日平均乗降人員が10万人を超えた。
上位20位の中で大半を占めるのは東京都と埼玉県に所在する駅である。武蔵野線と接続する朝霞台駅、新越谷駅は両駅とも一日平均乗降人員が11万人前後であり、2000年代後半以降は増加傾向が続いている。また、志木駅は他路線と接続しない単独駅でありながら一日平均乗降人員が7万人を超えている。竹ノ塚駅は2007年度まで乗降人員が8万人を超えていたが、日暮里・舎人ライナーの開業を機に乗降人員が減少した。
野田線はJR線と接続する大宮駅、柏駅で一日平均乗降人員がそれぞれ10万人を超えている。このうち柏駅は2004年度まで一日平均乗降人員が16万人を超えていたが、つくばエクスプレス線の開業を機に乗降人員が減少した。
また、群馬県と栃木県の駅でかつて一日平均乗降人員が1万人を超えていたのは太田駅、館林駅、栃木駅の3駅であったが、2020年度は3駅とも1万人を下回った。2014年度までは東武宇都宮駅も1万人を超えていた。1998年度までは足利市駅も一日平均乗降人員が1万人を超えていたが、減少傾向に歯止めがかからず、2008年度に7千人を下回った。
有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り。
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"text": "前述周辺私鉄を合併した戦後の最盛期には総延長591.6kmもの路線を有していた。その後、ローカル線の廃止を早く進めたこともあって、JRを除く日本の私鉄1位の路線網を擁する近畿日本鉄道(近鉄)と2位の名古屋鉄道(名鉄)に次ぐ第3位という状況が長く続いたが、1990年代後半より名鉄でローカル線の廃止が相次ぎ、2005年4月1日に名鉄と東武で順位が入れ替わり、近鉄に次いで2位となった。1997年に会沢線を廃止して以降の保有路線総延長は463.3kmで、近鉄・名鉄と同様に400km以上の路線網を擁する日本の大手私鉄の一つとなっている。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1984年まで多くの貨物列車がほぼ全線にわたって運行され、貨物駅も起点側都内の業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)や千住駅(現在の牛田駅 - 北千住駅間にあった千住分岐点からの分岐先に所在)を始め各地に存在し、北千住駅・久喜駅・伊勢崎駅などで貨物の連絡運輸が行われていた。その後は大幅に縮小しながらも大手私鉄では最後まで貨物列車が運行されていたが、末期の貨物列車運行区間であった伊勢崎線北部、佐野線でも、2003年9月30日限りで貨物営業が廃止された(貨物列車の運行自体は廃止日以前に終了している)。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "施設面では、明治時代・大正時代に蒸気機関車牽引列車主体で営業を開始した路線が多く、いわゆる「国鉄式」のホーム配置など、旧国鉄と共通する駅構造を持った駅が多かった。これらの構造は、1980年代以降の高架化や複々線化など近代化の過程でほとんどが姿を消したが、現在でも春日部駅や伊勢崎線北部、日光線などにその構造が残っている駅がある。また、旅客営業規則についても、1997年3月24日まで本線系統の有料特急・急行列車に定期乗車券では利用できないなど、国鉄の規定にほぼ準じていた。これらの施設面や営業規則から、一部では「ミニ国鉄」と揶揄されたこともある。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "東武の鉄道路線のトンネルは、押上駅付近の地下線の入口を除けば、日光線の明神駅 - 下今市駅間の十国坂トンネル1箇所のみで、それも全長40mと非常に短い。これは、大手私鉄ではトンネル区間のない西日本鉄道に次ぐ少なさ・短さである。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "関東地方の大手私鉄で唯一、半世紀以上も路線延伸がなく、平成期に新線が開業しなかった事業者である。西板線(大師線)・熊谷線などの延伸計画はあったが、財政難などの理由で頓挫し、また都営三田線への乗り入れのため、高島平 - 和光市間の鉄道免許を受けたが、これも営団8号線(現・東京地下鉄有楽町線)に乗り入れ先が変更となり、建設されなかった。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "以下で左端のマーク(英字)は駅ナンバリングで使われる記号",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "東武鉄道では、古くから日光線・鬼怒川線系統では「観光列車」として、伊勢崎線系統では「ビジネス列車」として、特急・急行などの優等列車を走らせていた。「特急料金」だけでなく「急行料金」が存在した。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "「特急」については、本線では有料列車なのに対し、東上線では料金不要の速達列車(JRでいう「快速列車」の一種で、「特別快速」に相当)となっていたが、2008年6月14日のダイヤ改正時に東上線特急は廃止され、代わりに「快速急行」が新設された。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "「急行」については、本線では、2006年3月18日のダイヤ改正時に従来「急行」として運行されていた列車が「特急」に統合され、急行は他の大手私鉄や東上線と同様の料金不要種別となった。従来から運転されていた「快速」の種別名称は変更されなかったため、当ダイヤ改正以降、快速は急行の上位種別となった。2013年3月16日のダイヤ改正時に東上線にも「快速」が新設されたが、本線と同様、快速は急行の上位種別となった。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2017年4月21日のダイヤ改正より、東武鉄道では26年ぶりの新型特急車両「リバティ」による特急が運行されることとなった。このうち「アーバンパークライナー」は本線と野田線を直通して運行される。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ改正時点で、下記の有料優等列車を運行している。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "これらの列車に乗車する際は原則として特急券または座席指定券が必要であるが、下り「スカイツリーライナー」のせんげん台駅 - 春日部駅間、「アーバンパークライナー」のうち浅草駅発のせんげん台駅 - 大宮駅・柏駅間、大宮駅発の春日部駅 - 柏駅間、柏駅発の運河駅 - 大宮駅間においても特急券が不要となる。また、「リバティきぬ」と「リバティ会津」の鬼怒川温泉駅 - 会津田島駅間の相互利用に限り、座席の指定を受けない場合は特急券が不要となる。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "上り列車に限り、とうきょうスカイツリー駅から浅草駅まで全列車で特急券が不要となるサービスがあったが、2023年3月18日の特急料金改定に合わせて廃止された。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "東京メトロ日比谷線に直通する「THライナー」は特急ではないが、座席指定券が必要であり、東武線内のみの乗車は出来ない。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "年末年始の終夜運転を除けば、JR以外では珍しい定期的に運行されている夜行列車である。東武トップツアーズが催行するツアーとしての運行で、事実上団体専用列車である。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "行き先の駅には未明の到着になるので、到着後しばらく仮眠できる。「尾瀬夜行」の場合、2021年ダイヤでは23:55に浅草を出発し2:16に東武日光に到着、車内で4時頃まで仮眠を取ることができた。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2006年3月18日のダイヤ改正より、日光線とJR宇都宮線の接続駅である栗橋駅に連絡線を設け、東日本旅客鉄道(JR東日本)新宿駅 - 東武日光駅・鬼怒川温泉駅間を結ぶ下記の特急列車の直通運転が行われている。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "新宿駅からの経路はJR山手貨物線 - 宇都宮線(東北本線) - 栗橋駅(運転停車) - 東武日光線・鬼怒川線である。なお、池袋駅で東上本線、大宮駅で野田線と接続することから、時刻表・発車案内・停車駅案内図において、JRの駅名を「JR池袋」など頭に「JR」を冠して案内している。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "JR東日本線内で事故などの運転トラブルが生じた場合は、南栗橋駅止まり・栃木駅始発等の措置がとられる。また、2006年の運転開始当初のJR側の充当車両は485系および189系「彩野」で、485系が定期検査で使用できない際は第1予備の東武100系または第2予備の189系「彩野」が代走していた。2011年のJR東日本253系1000番台投入後は、253系が2編成あるため、第1予備を253系、第2予備を東武100系としている。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "日光線および鬼怒川線では、蒸気機関車 (SL) またはディーゼル機関車 (DL) の牽引による臨時列車が運行されている。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "上り列車は降車駅が池袋駅に限られる。下り列車のふじみ野駅 - 小川町駅間は座席指定券が不要となる。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "以下に本線と東上本線で採用されている無料優等種別名を記す。前述の通り、東武鉄道は本線と東上本線で運行系統が大きく異なっており、無料優等列車で採用されている種別名も異なる。同一種別でも運行時間帯・運転間隔等が異なる。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "詳しくは各路線の項目を参照のこと。",
"title": "優等列車"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1899年(明治32年)8月27日の北千住駅 - 久喜駅間開業時にイギリスのベイヤー・ピーコック製蒸気機関車を導入した。1910年(明治43年)7月13日には、新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間が開通して、伊勢崎線浅草駅(現・とうきょうスカイツリー駅) - 伊勢崎駅間が全通し国有鉄道両毛線と連絡する。 浅草駅 - 伊勢崎駅間や佐野線館林駅 - 葛生駅間の直通運転に備えて山陽鉄道から譲受した国有化された5900形と同形のボールドウィン製D1形を増備した。1922年(大正元年)には第一次世界大戦後の好況期を迎え、機関車が不足したためシャープ・スチュアート製の5650形6両が追加された。1924年(大正13年)には伊勢崎線が電化されたが、旅客列車に限られたもので、貨物列車には蒸気機関車が継続して使用された。1955年(昭和30年)には第一次5か年計画で、貨物線の電化が掲げられ、1958年(昭和33年)から電化工事や電気機関車の新造により、東上線は1959年(昭和34年)4月1日に貨物列車が電化された。1960年(昭和35年)の第二次5カ年計画では伊勢崎線系統の非電化の貨物線の電化工事が推進した。1966年(昭和41年)6月30日には蒸気機関車が全廃された。以降は路線網の縮小や貨物輸送が廃止され、2003年(平成15年)には電気機関車が全廃された。一方2017年(平成29年)からSL大樹用に蒸気機関車・ディーゼル機関車・客車を保有するようになったが、これは大手私鉄では唯一の存在である。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "通勤形車両については戦後、20m4扉車の導入に積極的であり、63形電車を譲り受けた7300系を皮切りに日比谷線直通を除く各線区へ20m車を大量導入していった。1963年(昭和38年)に登場した8000系は私鉄電車では最多の712両が20年間に渡って製造されたため、「私鉄の103系」の異名を持つ。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "東武は関東大手私鉄の中では車両を更新・修繕して長期間使用する傾向が強い。そのため、旅客用車両の転出は他の大手私鉄と比較して極めて少ない。旧型車より台車・電装品など主要機器を流用して車体を新造した車両(機器流用車)を「更新車」と呼称し、一方、元来の車体を生かしてリニューアル工事を施工した車両を「修繕車」と呼称して区分している。前者は3000系列・5000系列・200型などが該当し、後者は8000系・9000系列・10000系列などが該当する。更新車は廃車に伴い次第に少なくなっているが、2020年(令和2年)時点でも6050系・200型が現役で、後者の機器類は新造から60年以上経過しているものがある。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "多くの大手私鉄の優等列車の車両は先頭車を展望車にしたり、前面展望が可能な設計にしているが、東武鉄道の優等列車の車両はN100系「スペーシアX」以外は前面展望が不可能な構造になっている。ただし臨時特急にも運用されたことがある団体用車両「スカイツリートレイン」634型は客室側窓を拡大した展望車両となっているほか、SL大樹には2021年(令和3年)から12系客車を改造した展望車の連結を開始している。このほか、過去にはトク500形という展望客車を保有していたことがある。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "他社から乗り入れてくる車両については、「JR東日本との相互直通運転列車」の節のほか、「伊勢崎線」・「日光線」・「鬼怒川線」・「東上本線」の各項目を参照のこと。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお、SL大樹・DL大樹に関わる機関車・客車・貨車については、いずれもJR所属時代の付番体系を維持している。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "本節では、100系以降の特急用車両と10000型以降の通勤形車両の付番方法について記述する。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "本線系統には、長い間在姿形車輪削正旋盤(車両から台車や車輪を外さず削正を行う旋盤で、作業完了後すぐに営業運転が可能)が春日部検修区(現南栗橋車両管区春日部支所)の1台しかなく、南栗橋車両管区との2台体制になるまで、削正が追い付かない事態が続いていた。野田線車両の場合、七光台支所構内に削正旋盤がないため南栗橋車両管区まで回送して削正している。",
"title": "車両基地・工場"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2021年9月30日に普通回数乗車券を廃止したのと引き換えに、翌10月1日より普通運賃のポイント還元制度「トブポマイル」を開始した。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "トブポマイルを利用するには、",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "以上2点が前提となる(Suicaは対応していない)。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "トブポマイルには2つの制度がある。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "貯めたマイルは、1マイル=1円でPASMOにチャージするか、TOBU POINTに1マイル=1.1ポイントの割合で交換して東武グループの商業施設で利用できる。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2011年3月16日から1枚の定期券で2つのルートが利用できる二区間定期券が発売されている。池袋駅経由のPASMO定期券で東武東上線池袋駅 - 和光市駅間と東京メトロ有楽町線・副都心線池袋駅 - 和光市駅間が利用できる。購入金額は東武東上線朝霞方面 - 池袋駅間の定期運賃と東京メトロ和光市 - 東京メトロ東池袋・雑司が谷・新大塚方面の定期運賃の合算額となる。名称は「二東流」(にとうりゅう)。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "詳細は以下の各項目を参照。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "以下の企画乗車券は東武トップツアーズ各店でのみ発売",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "東上線関係の企画乗車券は「東武東上本線#企画乗車券」を参照。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2020年度は 駅情報(乗降人員)|企業情報 より。それ以外は 関東交通広告協議会、東京都統計年鑑、埼玉県統計年鑑、千葉県統計年鑑 より。",
"title": "一日平均乗降人員上位30駅"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "・は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。",
"title": "一日平均乗降人員上位30駅"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "本線系統は北千住駅が、東上線系統は池袋駅が突出して乗降人員が多く、この2駅が東武鉄道のメインターミナル駅である。また、本線系統は北千住駅と押上駅で、東上線系統は和光市駅で東京メトロ線に相互直通運転を行っており、それぞれ東京都心方面の利便性と冗長性を確保している。",
"title": "一日平均乗降人員上位30駅"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "本線系統の始発駅である浅草駅は、1990年代前半に一日平均乗降人員が10万人を越えていた時期があった。当時は北千住駅が構造上の理由でラッシュ時に乗換客で飽和状態になり、その対策として浅草駅経由の迂回定期券が発行されていた時代であり、下りの特急列車も北千住駅を全列車が通過していた。1997年に北千住駅の改良工事が完了すると、特急列車が北千住駅に全列車停車するようになり、迂回定期券も廃止された。2003年に半蔵門線との直通運転を開始したことでバイパス路線が充実し、乗降人員はピーク時の半分以下まで減少している。一方、浅草駅の隣駅であるとうきょうスカイツリー駅は、運賃計算上は半蔵門線との接続駅である押上駅と同一駅扱いとなる関係で半蔵門線との直通運転開始を機に乗降人員が大幅に増加し、東京スカイツリーが開業した2012年度に一日平均乗降人員が10万人を超えた。",
"title": "一日平均乗降人員上位30駅"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "上位20位の中で大半を占めるのは東京都と埼玉県に所在する駅である。武蔵野線と接続する朝霞台駅、新越谷駅は両駅とも一日平均乗降人員が11万人前後であり、2000年代後半以降は増加傾向が続いている。また、志木駅は他路線と接続しない単独駅でありながら一日平均乗降人員が7万人を超えている。竹ノ塚駅は2007年度まで乗降人員が8万人を超えていたが、日暮里・舎人ライナーの開業を機に乗降人員が減少した。",
"title": "一日平均乗降人員上位30駅"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "野田線はJR線と接続する大宮駅、柏駅で一日平均乗降人員がそれぞれ10万人を超えている。このうち柏駅は2004年度まで一日平均乗降人員が16万人を超えていたが、つくばエクスプレス線の開業を機に乗降人員が減少した。",
"title": "一日平均乗降人員上位30駅"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、群馬県と栃木県の駅でかつて一日平均乗降人員が1万人を超えていたのは太田駅、館林駅、栃木駅の3駅であったが、2020年度は3駅とも1万人を下回った。2014年度までは東武宇都宮駅も1万人を超えていた。1998年度までは足利市駅も一日平均乗降人員が1万人を超えていたが、減少傾向に歯止めがかからず、2008年度に7千人を下回った。",
"title": "一日平均乗降人員上位30駅"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り。",
"title": "労働組合"
}
] |
東武鉄道株式会社は、東京都墨田区に本社を置く日本の鉄道事業者。大手私鉄の一つであり、関東地方1都4県で12の鉄道路線を運営している。略称は東武(とうぶ)。鉄道のほか、バスなどの交通・流通・物流業・住宅・レジャーなど約80社からなる東武グループの中核企業である。
|
{{基礎情報 会社
| 社名 = 東武鉄道株式会社
| 英文社名 = TOBU RAILWAY CO., LTD.
| ロゴ = [[File:Tobu Logo full.svg|275px|ロゴ]]
| 画像 = [[File:tobuhonsha.jpg|300px]]
| 画像説明 = 本社(墨田区押上二丁目の東武館)
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref>[https://www.tobu.co.jp/corporation/governance/ コーポレート・ガバナンスについて] - 東武鉄道株式会社</ref>
| 市場情報 = {{上場情報|東証プライム|9001|1949年5月16日}}
| 略称 = 東武<!--、東武電車、TRC-->
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 131-8522
| 本社所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[押上]]二丁目18番12号([[東武館]])<ref name="honsya">{{Cite web|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/overview/|title=会社概要|publisher=東武鉄道|accessdate=2021-07-30}}</ref>
| 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 42|本社緯度秒 = 44.6|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139|本社経度分 = 48|本社経度秒 = 49.6|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 本店郵便番号 = 131-8522
| 本店所在地 = 東京都墨田区押上一丁目1番2号([[東京スカイツリーイーストタワー]])<ref name="honsya" />
| 本店緯度度 = 35|本店緯度分 = 42|本店緯度秒 = 37|本店N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本店経度度 = 139|本店経度分 = 48|本店経度秒 = 45.9|本店E(東経)及びW(西経) = E
| 本店地図国コード = JP
| 設立 = {{start date and age|1897|11|1}}
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 旅客鉄道事業 他
| 代表者 = {{Unbulleted list | class=nowrap | [[代表取締役]][[会長]] [[根津嘉澄]] | 代表取締役[[社長]]兼社長[[執行役員]] 都筑豊}}
| 資本金 = 1021億3500万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |author=東武鉄道株式会社 |date=2022-06-23 |title=第203期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書 |url=https://disclosure2dl.edinet-fsa.go.jp/searchdocument/pdf/S100R06O.pdf |accessdate=2023-09-24}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 = 2億981万5421株<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 = 連結: {{increase}}6147億5100万円<br />単独: {{increase}}2045億8500万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 = 連結: {{increase}}566億8800万円<br />単独: {{increase}}286億5300万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 = 連結: {{increase}}548億1500万円<br />単独: {{increase}}245億6200万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 = 連結: {{increase}}291億7900万円<br />単独: {{increase}}164億0700万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 = 連結: {{increase}}4805億7500万円<br />単独: {{increase}}3836億4500万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 = 連結: {{increase}}1兆7381億9500万円<br />単独: {{increase}}1兆6011億2200万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 = 連結: 18,599人<br />単独: 3,470人<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 決算期 = [[3月31日]]
| 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="fy" />
| 主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 15.57%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口) 4.08%<br />[[富国生命保険]] 2.50%<br />[[みずほ銀行]] 2.22%<br />STATE STREET BANK WEST CLIENT - TREATY 505234 1.84%<br />[[日本生命保険]] 1.52%<br />JP MORGAN CHASE BANK 385781 1.27%<br />[[埼玉りそな銀行]] 1.21%<br />[[三菱UFJ銀行]] 1.17%<br />STATE STREET BANK AND TRUST COMPANY 505103 0.88%<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 有価証券報告書提出会社は上位10名の株主を記載してください -->
| 主要子会社 = [[東武グループ]]を参照
| 関係する人物 = [[末延道成]]<br/>[[原六郎]]<br/>[[浅田正文]]<br/>[[根津嘉一郎 (初代)|初代 根津嘉一郎]]<br/>[[根津嘉一郎 (2代目)|2代目 根津嘉一郎]]<br/>[[内田隆滋]]
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 =
}}
[[File:Tobu Railway Company Main Office.jpg|thumb|旧東武鉄道本社ビル(2008年1月1日)]]
'''東武鉄道株式会社'''(とうぶてつどう、{{Lang-en-short|''TOBU RAILWAY CO., LTD.''}})は、[[東京都]][[墨田区]]に本社を置く[[日本]]の[[鉄道事業者]]。[[大手私鉄]]の一つであり、[[関東地方]]1都4県で12の[[鉄道路線]]を運営している<ref name="すべて">『[https://www.tabitetsu.jp/2019/01/2788/ 鉄道まるわかり004 東武鉄道のすべて]』([[インプレス#その他の分野|天夢人]]、2019年)「[[旅と鉄道]]」編集部</ref>。略称は'''東武'''(とうぶ)。[[鉄道]]のほか、[[バス (交通機関)|バス]]などの[[交通]]・[[流通]]・[[物流]]業・[[住宅]]・[[レジャー]]など約80社からなる[[東武グループ]]の中核企業である<ref>[https://www.tobu.co.jp/corporation/group/list/ グループ会社一覧] 東武鉄道(2021年8月15日閲覧)</ref><ref name="すべて"/>。<!-- バスや百貨店事業は別会社です。東武鉄道直営ではありません。他の事業との比較などは[[東武グループ]]で。-->
== 概要 ==
[[東京証券取引所]]プライム市場上場。[[日経平均株価|日経225(日経平均株価)]]の構成銘柄。旧[[根津財閥]]の中核企業であり、同じく関東の大手私鉄の[[京浜急行電鉄]](京急電鉄)と共に[[芙蓉グループ]](融資系列では[[みずほグループ]])を構成する企業の一つでもある。本社は東京都[[墨田区]][[押上]]二丁目に所在(最寄駅は[[押上駅]]及び[[とうきょうスカイツリー駅]])。
「東武」の名称は[[武蔵国|'''武'''蔵国]]の'''東'''部に由来する。創立は[[1897年]]([[明治]]30年)で、日本の大手私鉄の中では最も古い<ref group="注釈">路線開通年という観点で見れば1885年に一部が開通した[[南海本線]]を有する[[南海電気鉄道]]の方が先行しているが、[[法人]]としての南海電気鉄道の創立日は1925年3月28日と東武鉄道よりも遅くなっている。これは同線を開通させた[[阪堺鉄道]]は事業を南海鉄道に譲渡して解散し、同線を全通させたその南海鉄道も戦時企業統合政策([[陸上交通事業調整法]])により[[関西急行電鉄]]と合併して[[近畿日本鉄道]]となった事で法人消滅となり、後に旧南海鉄道の路線を[[高野山電気鉄道]](法人格上の南海電気鉄道の前身)に譲渡させるという形で分離した事に起因する。</ref>[[老舗]]企業である。また明治期に発足した日本の私鉄のうち、創立以来社名を一度も変更せずに存続しているのは東武鉄道と[[近江鉄道]]・[[島原鉄道]]の3社のみである。
[[東京都]]・[[埼玉県]]・[[千葉県]]・[[栃木県]]・[[群馬県]]の1都4県に、総[[営業キロ]]数463.3kmに及ぶ[[鉄道路線]]を有する。2018年時点で、営業キロ数は[[JR]]を除く日本の鉄道では関東地方で最長、全国では[[近畿日本鉄道]](近鉄)の501.1km<ref>『近鉄グループホールディングス株式会社第106期[[有価証券報告書]]』</ref>に次いで第2位である<ref group="注釈">第3位は[[名古屋鉄道]]。詳細は「[[#路線|路線]]」節を参照。</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-473/ 【鉄道トリビア】大手私鉄第2位の路線網、東武鉄道の山岳トンネルは1カ所だけ] [[マイナビニュース]](2018年9月15日)2021年8月15日閲覧</ref>。路線は、創業路線である[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)や[[東武日光線|日光線]]・[[東武野田線|野田線]](東武アーバンパークライン)を主軸とした「'''[[東武本線|本線]]'''」と、[[東武東上本線|東上本線]]・[[東武越生線|越生線]]からなる「'''東上線'''」の2つの路線群に分けられる(1983年に[[東武熊谷線|熊谷線]]の廃止で独立線区が消滅して以降)。
== 社紋・ロゴ ==
社紋は1897年(明治30年)の創立以来のものを使用しており、車輪を模した円に図案化した東武の「東」を加えて鉄道による奉仕の意思を表現している<ref name=symbol>{{Cite web|和書|date=2014-11|url=http://www.jametro.or.jp/upload/subway/asydHQBxEVtd.pdf|author=赤羽隆直|title=東武鉄道・東武グループのロゴについて|work=『SUBWAY 日本地下鉄協会報』第203号|format=PDF|publisher=[[日本地下鉄協会]]|accessdate=2018-10-03|pages=43-44}}</ref>。
社紋に代わる[[ロゴタイプ|ロゴ]]は時代によって様々なものが考案・使用されてきたが、グループ会社間で統一されていなかった。そのため[[東京スカイツリー]]建設による沿線地域の開発決定を機に、イメージの刷新を兼ねてグループ統一ロゴが制作されることになった。社内部門や協力会社との検討によって1,500種の案から選定された現在のロゴは[[2011年]]([[平成]]23年)7月から使用を開始している。「T」を中心に四方に延びるラインには「高く伸びる東京スカイツリー」・「会社が周囲に提供する安全、安心、快適さ、期待感」・「地域ニーズの収集及び発信」という意味が込められている。またロゴの青色は「Future Blue」と命名され、東武グループの「信頼性」・「包括力」・「期待感」を表している<ref name=symbol/>。開発には[[凸版印刷]]の[[ブランディング]]部門が関わった<ref>{{Cite web|和書|url=https://toppan-branding.com/casestudy/case/goverment04.html |title=東武鉄道株式会社様 グループブランディング プロジェクト |work=主なブランディング実績 |publisher=[[凸版印刷|トッパン ブランド コンサルティング]] |accessdate=2012年6月23日}}</ref>。
<gallery>
Tobu logomark.svg|社紋
Tōbu Tetsudō Logo.svg|ロゴ
Tobu group logo.svg|東武グループのロゴ
</gallery>
== 沿革 ==
<!--各路線・列車・駅の詳細・ダイヤ改正の詳細な内容(駅の改廃・直通区間の変遷など)は各記事で記す。合併した会社の創業はそれぞれの路線の記事で記す。-->
=== 創業から終戦まで ===
* [[1895年]]([[明治]]28年)4月6日:創立願い{{Sfn|東武鉄道株式会社|1964|p=886}}。
* [[1896年]](明治29年)
** 6月22日:仮免状下付<ref>{{Cite journal |和書 |date=1896-07-03 |title=私設鉄道仮免状及免許状下付 |journal=[[官報]] |issue=3903 |page=7 |publisher=内閣官報局 |id={{NDLJP|2947183}} |url={{NDLDC|2947183/7}}}}</ref>。
** 10月16日:創立総会開催。役員の選任(専務取締役・[[末延道成]]、取締役・[[今村清之助]]、[[南条新六郎]]、[[原六郎]]、[[渡辺洪基]]){{Sfn|東武鉄道株式会社|1964|p=886}}<ref>{{Cite book |和書 |editor=商業興信所 |year=1911 |title=日本全国諸会社役員録 |volume=明治32年 |publisher=商業興信所 |page=上編34頁 |id={{NDLJP|780114}} |url={{NDLDC|780114/78}}}}</ref>。
* [[1897年]](明治30年)
** 9月3日:本免許状下付([[北千住]] - [[足利市|足利]]間)<ref>{{Cite journal |和書 |date=1897年9月20日 |title=私設鉄道敷設免許状又ハ仮免状下付 |journal=官報 |issue=4267 |page=9 |publisher=内閣官報局 |id={{NDLJP|2947554}} |url={{NDLDC|2947554/5}}}}</ref>。
** 11月1日:企業創立([[登記]]完了)。
* [[1899年]](明治32年)8月27日:初の路線で現在の[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]となる[[北千住駅]] - [[久喜駅]]間開業。
* [[1905年]](明治38年):営業不振により、[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎(初代)]]を初代東武鉄道[[社長]]に迎える。<!-- このときまで社長職を置いていなかった(専務が代表)ので初代社長。 http://www.tobu.co.jp/history/fhistory01.html の明治44年も参照 -->
* [[1906年]](明治39年)
** 3月16日:[[帝国議会]]の[[衆議院]]で[[鉄道国有法|鉄道国有法案]]が可決され、東武鉄道が[[鉄道省|官設鉄道]]による買収対象となる。
** 3月25日:[[貴族院 (日本)|貴族院]]での修正可決案で東武鉄道が買収対象から除外され、同法がこの内容で公布された結果、東武鉄道は存続。
* [[1912年]](明治45年)3月30日:現在の[[東武佐野線|佐野線]]を運営していた佐野鉄道を合併。
* [[1913年]]([[大正]]2年)3月:現在の[[東武桐生線|桐生線]]を運営していた太田軽便鉄道を合併。
* [[1920年]](大正9年)7月22日:現在の[[東武東上本線|東上本線]]を運営していた東上鉄道と対等合併。存続会社は東武鉄道。
* [[1923年]](大正12年)9月1日:[[関東大震災]]により被災。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)10月1日:後の[[東武伊香保軌道線|伊香保軌道線]](1956年廃止)を[[東京電燈]]から買収(9月26日許可)<ref>{{Cite journal |和書 |date=1927年9月28日 |title=軌道譲渡 |journal=官報 |issue=226 |publisher=内閣印刷局 |id={{NDLJP|2956686}} |url={{NDLDC|2956686/4}}}}</ref>。
* [[1929年]](昭和4年)
** 10月1日:[[東武日光線|日光線]]全通。日本全国に先駆けて、[[電車]]による100km以上の長距離運転を実施。
** 10月10日:臨時で日光[[特急列車|特急]]運転開始。
* [[1931年]](昭和6年)
** 5月25日:[[浅草駅|浅草雷門駅]](現・浅草駅)に乗り入れ。根津の支援を受けて[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]が[[1927年]]に開業させていた[[東京地下鉄道]]([[帝都高速度交通営団]]→[[東京地下鉄]]〈東京メトロ〉の前身)の[[東京メトロ銀座線|銀座線]]と接続。
** 8月11日:[[東武宇都宮線|宇都宮線]]開業。
** 11月1日:浅草駅の駅ビルに[[松屋 (百貨店)|松屋]]入店。これは1920年(大正9年)11月1日に[[阪神急行電鉄]](現・[[阪急電鉄]])[[大阪梅田駅 (阪急)|梅田駅]]に開店した[[白木屋 (デパート)|白木屋]]、[[1928年]](昭和3年)12月18日に[[池上電気鉄道]](現・[[東急池上線]])[[五反田駅]]の白木屋に続き、日本全国で3番目のターミナル[[百貨店|デパート]]となる。
** 12月20日:震災復興などを理由に建設が遅れていた西板線のうち、[[西新井駅]] - [[大師前駅]]間が先行開業。その後、[[上板橋駅]]までの全線開業を断念し、同区間は[[東武大師線|大師線]]となる。
* [[1933年]](昭和8年)10月27日:傍系バス会社として毛武自動車([[東武バス]]の前身)が設立される。
* [[1934年]](昭和9年)4月1日:[[川越市|川越]]地区で直営バス事業開始([[東武バス#沿革]]を参照)。
* [[1936年]](昭和11年)9月8日:毛武自動車が東武自動車に社名変更。
* [[1937年]](昭和12年)1月10日:現在の[[東武小泉線|小泉線]]を運営していた上州鉄道を合併(1月9日許可)<ref>{{Cite journal |和書 |date=1937年1月13日 |title=鉄道譲渡許可 |journal=官報 |issue=3006 |publisher=内閣印刷局 |id={{NDLJP|2959488}} |url={{NDLDC|2959488/8}}}}</ref>。
* [[1938年]](昭和13年)
** 4月17日:本社社屋が完成。
** 8月:[[陸上交通事業調整法]]が施行。東武鉄道が[[北関東]]地域における統合主体となる。
* [[1939年]](昭和14年)6月1日:東武自動車が東武鉄道の直営バス事業を継承してバス事業を一元化。
* [[1941年]](昭和16年)7月:根津嘉一郎(初代)の逝去を受け、[[根津嘉一郎 (2代目)|根津嘉一郎(2代目)]]が第2代東武鉄道社長に就任。[[1994年]]([[平成]]6年)6月まで社長職を続け、[[東京証券取引所]]上場企業の中では、史上最長期間(52年12か月)の社長職を務める。
* [[1943年]](昭和18年)
** 5月1日:現在の[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]を運営していた下野電気鉄道を合併(4月30日許可)<ref>{{Cite journal |和書 |date=1943年5月10日 |title=地方鉄道譲渡 |journal=官報 |issue=4894 |page= |publisher=内閣印刷局 |id={{NDLJP|2961399}} |url={{NDLDC|2961399/9}}}}</ref>。
** 7月1日:現在の[[東武越生線|越生線]]を運営していた越生鉄道を合併(6月10日許可)<ref>{{Cite journal |和書 |date=1943年6月21日 |title=地方鉄道譲渡 |journal=官報 |issue=4930 |publisher=内閣印刷局 |id={{NDLJP|2961435}} |url={{NDLDC|2961435/10}}}}</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)3月1日:現在の[[東武野田線|野田線]]を運営していた総武鉄道を合併。
* [[1945年]](昭和20年)
** 3月10日:[[太平洋戦争]]下の[[東京大空襲]]により[[浅草]]地区を中心とした伊勢崎線沿線が被災。
** 4月13日:[[東京大空襲|城北大空襲]]により[[池袋]]地区を中心とした東上本線沿線が被災。東武堀之内駅(1951年に[[北池袋駅]]として復活)と金井窪駅が廃止。
=== 戦後 - 1970年代 ===
* [[1946年]](昭和21年)3月25日:[[日本の降伏|敗戦]]後の[[連合国軍占領下の日本|日本を占領統治]]した[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の[[連合軍専用列車#沿革|鉄道司令部]](RTO)の指令により、[[東武啓志線|啓志線]]全線が開通。[[連合軍専用列車]]を運行。
* [[1947年]](昭和22年)5月31日:後の[[東武日光軌道線|日光軌道線]]を運営していた日光軌道、傍系のバス会社である[[東武バス|東武自動車]]を合併。
* [[1948年]](昭和23年)8月6日:連合軍専用列車の一部を開放する形で日光・鬼怒川特急運転開始。「華厳」・「鬼怒」(現・[[けごん|「けごん」・「きぬ」]])と命名。私鉄による[[特急列車]]運行は[[近鉄特急]]に続いて日本全国で2番目。
* [[1949年]](昭和24年)
** 2月1日:特急が毎日運行になる。
** 4月3日:東上本線[[寄居駅]]から[[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]への旅客列車乗り入れ開始。
** 5月:東京証券取引所市場第一部に上場。
* [[1950年]](昭和25年)[[10月5日]]:[[日光交通#明智平ロープウェイ(日光普通索道)|日光普通索道線]] (0.3km) が開通。路線総延長が東武史上最長の591.6kmを記録<ref name="O-Kilo"/>。
* [[1952年]](昭和27年)4月:特急列車を自由定員制から[[座席指定席|座席指定制]]に変更。
* [[1955年]](昭和30年)7月2日:東武鉄道最初の[[東武鉄道夜行列車|夜行列車]]として不定期列車「日光山岳夜行」が運転。
* [[1956年]](昭和31年):桐生線新大間々駅(現・[[赤城駅]])から[[上毛電気鉄道]][[上毛電気鉄道上毛線|上毛線]]に乗り入れる[[りょうもう#歴史|急行「じょうもう」]]運転開始([[1963年]]まで)。
* [[1959年]](昭和34年)
** 4月1日:東上線で[[蒸気機関車]]の運転を廃止。
** 7月1日:[[東武矢板線|矢板線]]廃止。
* [[1960年]](昭和35年)10月:「デラックスロマンスカー(DRC)」と呼ばれた[[東武1720系電車|1720系]]が日光・鬼怒川特急に就役。[[日光市|日光]]観光を巡り、[[日本国有鉄道]](国鉄)との熾烈な市場獲得競争を繰り広げる。
* [[1962年]](昭和37年)5月31日:伊勢崎線が帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]と相互[[直通運転]]開始。
* [[1966年]](昭和41年)7月1日:本線で蒸気機関車の運転を廃止。
* [[1967年]](昭和42年)6月27日:[[踏切支障報知装置]]を設置。
* [[1968年]](昭和43年)
** 2月25日:日光軌道線廃止により、軌道路線が全廃となる。
** 4月1日:[[自動列車停止装置]]が一部使用開始。
** 11月1日:東武鉄道初の賃貸マンション「[[竹の塚]]ステーションビル」が完成。
* [[1969年]](昭和44年)7月1日:[[電話交換機]]を全自動化。
* [[1971年]](昭和46年)6月17日:東武鉄道初の分譲マンション「東武西新井サンライトマンション」が完成。
* [[1972年]](昭和47年)7月11日:伊勢崎線・東上線において冷房車の営業運転を開始<ref name="Tobu100th-785">東武鉄道 『東武鉄道百年史』pp.785・1068。</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)9月1日:本線全[[変電所#鉄道変電所|変電所]]において遠隔集中制御が開始。
* [[1974年]](昭和49年)7月2日:伊勢崎線北千住駅 - [[竹ノ塚駅]]間[[複々線]]化。関東私鉄として初めての複々線となる。
* [[1979年]](昭和54年)1月8日:鉄道運賃改定を実施し、対キロ区間制を導入。
=== 1980 - 1990年代 ===
* [[1981年]](昭和56年)
** 3月28日:[[東武動物公園]]が開園。
** 4月29日:全ての乗合バスを[[ワンマン運転]]化。
* [[1983年]](昭和58年)
** 6月1日:[[東武熊谷線|熊谷線]]廃止。これにより[[非電化]]区間が消滅。
** 7月21日:[[荷物電車]]の運転を廃止。
* [[1985年]](昭和60年)
** [[10月22日]]:東上本線所属車両が全車両冷房車となる<ref name="Tobu100th-785"/>(有楽町線との直通運転開始後は、非冷房の営団車が乗り入れてくる)。
* [[1986年]](昭和61年)
** 10月9日:鬼怒川線が[[野岩鉄道会津鬼怒川線]]と相互直通運転開始。
** 12月27日:[[東武鉄道夜行列車|スノーパル23:50]](現・23:55)の運転を開始。
** 12月31日:東武鉄道のバス路線廃止により、群馬県[[館林市]]が当時日本で唯一「[[路線バス]]が存在しない市」となる<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-04 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 5 |page = 140 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)8月25日:東上本線[[和光市駅]] - [[志木駅]]間複々線化。帝都高速度交通営団[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と相互直通運転開始。
* [[1988年]](昭和63年)
** 5月18日:[[特定都市鉄道整備事業]]の導入に伴い、鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人100円とする。北千住駅 - [[北越谷駅]]間に特別加算運賃(10円)を設定。
** 6月1日:[[とーぶカード]]を発行開始。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** 4月1日:[[消費税]]導入に伴う鉄道・バスの運賃改定を実施。
** 5月20日:伊勢崎線東向島駅高架下に[[東武博物館]]が開館。
* [[1990年]](平成2年)6月1日:[[東武100系電車|100系]]が日光・鬼怒川特急に就役。「スペーシア」の愛称が与えられる(列車名は「スペーシアきぬ」「スペーシアけごん」)。
* [[1991年]](平成3年)11月20日:鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人110円とする。
* [[1992年]](平成4年)4月1日:東上本線の[[秩父鉄道秩父本線]]への定期旅客列車の乗り入れが廃止。
* [[1993年]](平成5年)
** 4月24日:[[東武ワールドスクウェア]]が開園。
** 10月16日:本線に新電力システムを使用開始。
* [[1994年]](平成6年)6月:根津嘉一郎 (2代目)が東武鉄道[[会長]]職に退き、内田隆滋が第3代東武鉄道社長に就任<ref>{{Cite news |和書 |title=社長に内田氏内定 東武鉄道、53年ぶりに交代 |newspaper= [[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-05-27 |page=3 }}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)
** 8月11日:志木駅において初めて冷暖房付きホーム[[待合室]]を設置。
** 9月1日:鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人130円とする。時差[[回数乗車券]]と土・休日割引回数乗車券発売開始。
** 10月1日:自動券売機で普通・時差回数乗車券の発売開始。
* [[1996年]](平成8年)
** 4月30日:東武本線の冷房率が100%となる<ref name="Tobu100th-785"/>。
** 8月1日:[[ウェブサイト|公式サイト]]を開設<ref>{{Cite news |和書 |title=東武がホームページ 座席予約状況など提供 |newspaper=交通新聞|publisher=交通新聞社 |date=1996-08-02 |page=3 }}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** 3月25日:伊勢崎線北千住駅の大規模改良工事、[[草加駅]] - [[越谷駅]]間の[[連続立体交差]]化と複々線化が完成、日本の私鉄最長の複々線区間となる。<!-- この時点で東武:北千住-草加10.4km→北千住-越谷17.3km、京阪:天満橋 - 寝屋川信号所12.6km -->
** 4月1日:消費税率引き上げに伴い、鉄道運賃改定を実施。
** 12月28日:特定都市鉄道整備事業の期間満了に伴い、鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人140円とする。北千住駅 - 北越谷駅間に設定されていた特別加算運賃を廃止。
* [[1998年]](平成10年)10月30日:[[社史]]『東武鉄道百年史』を発行。
* [[1999年]](平成11年)6月:内田隆滋が社長職を辞職。[[根津嘉澄]]が第4代東武鉄道社長に就任。
=== 2000年代 ===
* [[2000年]](平成12年)
** 6月29日:[[ストックオプション]]制度を導入。
** 10月14日:共通乗車カード「[[パスネット]]」導入(東武鉄道の符丁はTB)。フェアスルーシステムを導入。
* [[2001年]](平成13年)
** 4月1日:東上線運行管理システムを使用開始。
** 11月20日:[[電子メール]]による会員制情報サービス「102@Club」(いちまるにアットクラブ)開始<ref>[https://web.archive.org/web/20021203144343/http://www.tobu.co.jp/news/2001/11/011121.html メール配信サービス「とぶとぶメール」がスタートします。](東武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2002年時点の版)</ref>。
* [[2002年]](平成14年)
** 9月30日:バス事業本部を廃止。翌10月1日よりバス事業を資産管理会社の[[東武バス]]、運行会社の[[東武バス|東武バスセントラル・東武バスウエスト・東武バスイースト]]・[[東武バス日光]]の4社に譲渡<ref>[https://web.archive.org/web/20021203145202/http://www.tobu.co.jp/news/2002/09/020925.html 10月1日(火)から新体制で再発進。東武バスグループがエリア別に営業を開始します](東武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2002年時点の版)</ref>。
** 11月1日:「会社創立105周年記念 特急・急行料金値下げキャンペーン」を11月30日まで実施<ref>[https://web.archive.org/web/20021209173413/http://www.tobu.co.jp/news/2002/09/020924.html 期間限定!「会社創立105周年記念。特急・急行料金値下げキャンペーン」を実施](東武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2002年時点の版)</ref>。
* [[2003年]](平成15年)
** 3月19日:伊勢崎線にて帝都高速度交通営団[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]・[[東京急行電鉄]][[東急田園都市線|田園都市線]]と相互直通運転開始。
** 5月1日:全駅で終日禁煙を実施<ref>{{Cite press release|和書|title=5月1日(木)より東武鉄道の全駅を全面禁煙といたします|publisher=東武鉄道|date=2003-04-21|url=http://www.tobu.co.jp/news/2003/04/030421.html|accessdate=2022-04-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030804113040/http://www.tobu.co.jp/news/2003/04/030421.html|archivedate=2003-08-04}}</ref>。
** 6月1日:施設・設備の維持補修および保守業務を[[東武エンジニアリング]]に委託。
** 8月1日:69駅における駅業務、構内営業等の業務を[[東武ステーションサービス]]に委託<ref>[https://web.archive.org/web/20040606102756/http://www.tobu.co.jp/news/2003/07/030723.html 駅業務、構内営業業務等を新会社に委託します](東武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。
** 9月30日:日本大手私鉄で唯一残存していた貨物営業を廃止(実質的な最終貨物列車はこの年の8月2日、北館林荷扱所 - 久喜駅間の石油輸送列車1往復)<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2003年9月 |journal = RAIL FAN |date = 2003-12-01 |issue = 12 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 22}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** 4月1日:[[南栗橋車両管区|南栗橋車両基地]]に工場棟が完成<ref name="Tobu200403">[https://web.archive.org/web/20050320165813/http://www.tobu.co.jp/news/2004/03/040329-1.html 南栗橋車両基地に工場棟完成](東武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref>。保守業務を[[東武インターテック]]に全面委託<ref name="Tobu200403"/>。
** 5月1日:団体割引の最少適用人員を引き下げ。特急料金の団体割引適用を開始。
** 8月1日:[[新桐生駅]]において初めて[[パークアンドライド]]サービスを開始。
* [[2005年]](平成17年)
** 3月20日:特定都市鉄道整備事業計画の期間満了に伴い、定期運賃のみ旅客運賃改定を実施。
** 4月1日:[[名古屋鉄道]]の一部路線廃止により同社の路線総延長が東武鉄道を下回ったため、路線総延長がJR以外の私鉄第2位となる。
** 9月29日:伊勢崎線竹ノ塚駅構内第37号[[踏切]]が自動化。これにより手動式踏切が消滅。
* [[2006年]](平成18年)
** 3月18日:日光線と[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[宇都宮線]]([[東北本線]])と相互直通運転する[[日光 (列車)|特急「日光」「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」]]を新設。大手私鉄で唯一残存していた東武本線における有料の「[[急行列車|急行]]」が「特急」に統合。「区間快速」を新設。半蔵門線直通列車の「通勤準急」を「急行」に、浅草駅および北千住駅発着の「準急」を「区間急行」に種別名を変更。
** 4月24日:東武鉄道お客さまセンターを開設。
** 11月1日:主要6駅に[[自動体外式除細動器]](AED)を設置。
* [[2007年]](平成19年)
** 3月18日:[[乗車カード#ICカード乗車券|ICカード乗車券]]「[[PASMO]]」を導入。同時にJR東日本などが発行するICカード乗車券[[Suica]]と相互利用を開始。[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]](JR東日本 - 東武 - JR東日本)を全廃。(その後、連絡定期券に限り復活<ref name="renraku-teiki">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/list.html#point5 |title=JR東日本:連絡定期券の発売範囲を拡大しました |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2009-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081223025920/http://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/list.html#point5 |archivedate=2008年12月23日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>)<!--通過連絡の部分について、普通連絡乗車券が廃止されたのみで定期券はそのまま移行されたのか、分かれば修正して下さい。-->
** 8月1日:[[遺失物]]検索システムを運用開始。
** 10月1日:鉄道事業部門に管区制を導入。
* [[2008年]](平成20年)
** 2月14日:[[遅延証明書]]を公式サイトでも発行するサービスを開始<ref>[http://www.tobu.co.jp/corporation/history/fhistory07.html 2001年〜2010年] - 東武鉄道 会社の沿革</ref><ref group="注釈">[http://www.railforum.jp/ftrain/app/bbs.php?act_view=true&Xbno=59&Xvno=769 【東武】ホームページ上での遅延証明書発行サービスを開始します 東武鉄道・グループの総合情報サイトをリニューアル](鉄道フォーラム掲示板)によると2月19日</ref>。
** 3月14日:自動改札機でのパスネット利用を終了。
** 6月14日:東上本線が[[東京メトロ副都心線]]開業に伴い同線と相互直通運転開始。「特急」を廃止し、座席定員制ライナー列車「[[TJライナー]]」と「快速急行」を新設。
** 7月14日:[[とうきょうスカイツリー駅|業平橋駅]]地平ホームの跡地に、東武鉄道・[[東武タワースカイツリー]]株式会社による[[電波塔]]「[[東京スカイツリー]]」を着工。
** 9月29日:「102@Club」(いちまるにアットクラブ)終了。
** 11月1日:会社創立111周年に際し、駅係員・乗務員の制服を一新。
** 11月11日:「特急券チケットレスサービス」「運行情報メールサービス」開始。伊勢崎線・日光線系統の特急券が対象。販売窓口を経由せずに購入・乗車が可能になる<ref>{{Cite web|和書|date=2008-11-11 |url=http://www.tobu-card.co.jp/topics/history/00006.html |title=東武ネット特急券がスタートしました。 |publisher=東武カード |accessdate=2014-01-02}}</ref><ref>[http://railway.tobu.co.jp/ticket/ticketless/about.html 特急券チケットレスサービス・東武携帯ネット会員]</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** 1月1日:池袋西口駐車場を吸収合併。
** 9月15日:本線の電気指令が[[北春日部駅|北春日部]]に移転。
** 9月18日:新本社ビル「東武館」竣工。
** 10月1日:本線の運転指令・営業指令が北春日部に移転。
** 11月1日:本社事務所を東京都墨田区押上一丁目1番2号から同区押上二丁目18番12号に移転<ref name="honsya" />。
** 11月20日:野田線運行管理システムを使用開始。
=== 2010年代以降 ===
* [[2010年]](平成22年)
** 3月24日:全線の踏切に踏切支障報知装置を設置。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月11日:[[東日本大震災]]により被災。全線が不通になるも、翌12日中に運行再開。東京メトロ日比谷線・有楽町線・半蔵門線との相互直通運転も中止されたが、それぞれ3月26日・4月1日・4月2日に再開。
** 7月:[[コーポレートアイデンティティ|CIロゴ]]を使用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/9cab2b4a0bc6e6d3c368717db00effe6/20110728.pdf|title=東武グループ グループロゴのご紹介|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210422110615/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/9cab2b4a0bc6e6d3c368717db00effe6/20110728.pdf|archivedate=2021-04-22}}</ref>。ただし、従来から使用されている円形の社紋も残る<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/corporation/philosophy/ |title=社是・信条 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2012年4月12日}}</ref>([[#社紋・ロゴ|社紋・ロゴ]]を参照)。
* [[2012年]](平成24年)
** 3月17日:伊勢崎線浅草駅・押上駅 - [[東武動物公園駅]]間の路線愛称名「東武スカイツリーライン」使用開始。全線全駅に[[駅ナンバリング]]を導入。
** 5月22日:東京スカイツリーをはじめとした[[東京スカイツリータウン]]が開業。前年制定したCIロゴの自社車両(主に[[東武100系電車|特急スペーシア]]・[[東武9000系電車|9000系電車]]・[[東武10000系電車|10000系電車]]・[[東武20000系電車|20000系電車]]・[[東武30000系電車|30000系電車]])への使用が本格化する<ref group="注釈">内外装をリニューアルした際にロゴを挿入したスペーシアを除き、かつての円形の社紋の部分を順次CIロゴに置き換えている。</ref>。
** 10月17日:佐野線[[葛生駅]]南側の貨物ヤード跡地で、東武鉄道・[[東武エネルギーマネジメント]]による[[日本の太陽光発電所|大規模太陽光発電(メガソーラー)]]事業を2013年夏に開始すると発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/3701b57a7a1477189464ef5f64329379/121017.pdf|title=大規模太陽光発電(メガソーラー)事業に参入します|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170808194452/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/3701b57a7a1477189464ef5f64329379/121017.pdf|archivedate=2017-08-08}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** 3月16日:東上本線が、[[東急東横線]]の[[渋谷駅]] - [[代官山駅]]間の地下化工事の完成により[[東京メトロ副都心線]]を介して東急東横線・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]との相互直通運転を開始。
** 3月23日:[[Kitaca]]・[[manaca]]・[[TOICA]]・[[ICOCA]]・[[PiTaPa]]・[[nimoca]]・[[はやかけん]]・[[SUGOCA]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始により利用可能になる。
** 6月15日:野田線に[[東武60000系電車|60000系電車]]を導入<ref name="tobu20121106">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/f898e7573fee77ed8d6119b15fb09ae3/121106_1.pdf|title=野田線(大宮〜船橋間)に新型車両「60000系」を導入します!|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130228081803/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/f898e7573fee77ed8d6119b15fb09ae3/121106_1.pdf|archivedate=2013-02-28}}</ref><ref name="tobu20130603">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/f02cac135d9d53bfe6f3ed997e71f891/130603.pdf|title=「60000系車両野田線就役記念乗車券」を6月9日(日)より限定販売します!|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150208120816/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/f02cac135d9d53bfe6f3ed997e71f891/130603.pdf|archivedate=2015-02-08}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)4月1日:野田線の路線愛称名「東武アーバンパークライン」使用開始<ref name="tobu20131217">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/d9efa3362e3ee79cbd6d8650126a3210/131217.pdf|title=2014年4月1日(火)より東武野田線に路線愛称名「東武アーバンパークライン」を導入します!|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170911205121/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/d9efa3362e3ee79cbd6d8650126a3210/131217.pdf|archivedate=2017-09-11}}</ref>。消費税率引き上げに伴い、旅客運賃改定。切符購入時の初乗旅客運賃を大人150円、ICカード利用時の初乗旅客運賃を大人144円とする。
* [[2015年]](平成27年)
** 1月31日:東上本線の川越市駅 - 小川町間に[[自動列車制御装置]](ATC)を導入<ref name="tobu20141224">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/fbfd2d4614b89669a757c34c55cee946/141224_1.pdf|title=東上線で新運転保安システム ATC を使用開始します|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150501094034/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/fbfd2d4614b89669a757c34c55cee946/141224_1.pdf|archivedate=2015-05-01}}</ref>。
** 6月13日:東上本線の和光市駅 - 川越市駅間にATCを導入<ref name="2015q2presentation">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/5713524df6fc26ca5a8ecdbcc1be5bff/presentation.pdf?date=20151111155711|title=2015年度第2四半期決算説明会プレゼンテーション資料|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171114040540/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/5713524df6fc26ca5a8ecdbcc1be5bff/presentation.pdf?date=20151111155711|archivedate=2017-11-14}}</ref>。
** 7月1日:東上業務部を廃止<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/15e1bf024269f37f4629fae9b430c4d1/150626 業務組織改正及び人事異動 【PDF】.pdf|title=業務組織の一部改正及び人事異動のお知らせ|format=PDF|accessdate=2022-03-25|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181005223057/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/15e1bf024269f37f4629fae9b430c4d1/150626%20%E6%A5%AD%E5%8B%99%E7%B5%84%E7%B9%94%E6%94%B9%E6%AD%A3%E5%8F%8A%E3%81%B3%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E7%95%B0%E5%8B%95%20%E3%80%90%EF%BC%B0%EF%BC%A4%EF%BC%A6%E3%80%91.pdf|archivedate=2018-10-05}}</ref>。
** 9月26日:東上本線の池袋駅 - 和光市駅間にATCを導入<ref name="2015q2presentation" />。池袋駅 - 小川町駅間にATC導入完了。
* [[2016年]](平成28年)
** 3月26日:<!-- 詳細は関係路線の記事で記述を。-->
*** 地下鉄副都心線・東急東横線・みなとみらい線直通列車を東上本線内で急行として運転開始。東上本線・副都心線内急行、東急東横線・みなとみらい線内特急として運転される列車の愛称を「[[Fライナー]]」とする。
*** 野田線(アーバンパークライン)で急行を運転開始。
* [[2017年]](平成29年)
** 4月21日:伊勢崎線・日光線・鬼怒川線・野田線特急で[[東武500系電車|500系]]「リバティ」運行開始<ref>[https://trafficnews.jp/post/68928/ 東武26年ぶり新型特急500系「リバティ」出発進行!] - 乗りものニュース、2017年4月21日</ref>(列車名称:「アーバンパークライナー」・「スカイツリーライナー」・「リバティ会津」「リバティけごん」・「リバティきぬ」・「リバティりょうもう」)。浅草駅発着の「快速」と「区間快速」を廃止し、南栗橋発着の「急行」と「区間急行」に種別名を変更。
** 8月10日:鬼怒川線で「[[SL大樹]]」運行開始。
* [[2019年]](平成31年、[[令和]]元年)
** 2月12日:東上本線でラッピング車両「池袋・川越アートトレイン」を運行開始<ref name="tobu20190117">{{Cite press release|和書|title=2019年3月16日(土) 東武東上線ダイヤ改正 東上線に新種別「川越特急」が誕生します|publisher=東武鉄道|date=2019-01-17|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/a22c9b7381aa0bcc3e364c1c4e71d8b3/190117_4.pdf|format=PDF|accessdate=2022-03-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190118014411/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/a22c9b7381aa0bcc3e364c1c4e71d8b3/190117_4.pdf|archivedate=2019-01-18}}</ref><ref name="trafficnews20190212">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/83433|title=「池袋・川越アートトレイン」東武東上線に登場 「生命」テーマに川越を日本画で表現|accessdate=2022-03-25|website=乗りものニュース}}</ref>。
** 3月16日:東上本線で「[[川越特急]]」運行開始<ref name="tobu20190117" /><ref name="trafficnews20190212" />。これに合わせ、川越駅、川越市駅において、特別発車メロディーを追加。
** 10月1日:消費税率引き上げに伴い、旅客運賃改定。切符購入時の初乗旅客運賃を大人150円、ICカード利用時の初乗旅客運賃を大人147円とする。
* [[2020年]](令和2年)
** 4月25日:[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症の流行状況]]から、一部の特急を6月5日まで運休<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58359650S0A420C2L60000/ 「東武鉄道、日光線などの特急を一部運休 25日から」] [[日本経済新聞]]ニュースサイト(2020年4月22日)同日閲覧</ref><ref name="tobu20200421" />。
** 6月6日:伊勢崎線に座席定員制ライナー列車「[[THライナー]]」を新設<ref name="tobu20200225">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/1748d4629b95c74a8661b243af941bda_200225_3%20.pdf|format=PDF|title=2020年6月6日(土) ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・東武アーバンパークライン【特急列車・THライナー・SL大樹概要が決定】|publisher=東武鉄道|date=2020-02-25|accessdate=2020-06-07}}</ref>。
**11月1日:東武グループ共通の新たな[[ポイントプログラム]]「TOBU POINT」を導入<ref>[http://www.tobu-card.co.jp/topics/detail.php?key=288 2020年11月1日より、新しいポイントサービス「TOBU POINT」が始まります!][[東武カード]](2020年09月29日)2020年11月1日閲覧</ref><ref>[https://www.tobupoint.jp/ TOBU POINT]</ref>。
**11月:東武鉄道が創立123周年を迎え、SL事業の転換期を迎えることと、さらなる飛躍を車両番号で表現することを意味して「'''C11 123'''」と命名。
* [[2021年]](令和3年)
** 8月2日:企業向けの有料手回り品料金制度を導入<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudo-ch.com/11651414.html|title=東武鉄道が企業むけ有料手回り品料金制度を導入、乗車区間の小児運賃相当額|accessdate=2022-03-25|website=鉄道チャンネル}}</ref>。
**9月30日:[[回数乗車券|普通回数券]]の販売を終了<ref name="resp0715">{{Cite web|和書|url=https://response.jp/article/2021/07/15/347691.html|title=運賃の最大15%が貯まる…東武がマイルサービス、回数券は一部を除き廃止へ 10月1日から|website=Response|publisher=イード|date=2021-07-15|accessdate=2021-09-13}}</ref>。
**10月1日:(モバイル)PASMOとTOBU POINTアプリの組み合わせによる普通運賃のポイント還元制度「[[#トブポマイル|トブポマイル]]」を開始<ref name="resp0715" />。
**[[10月17日]]:「DL大樹展望車お披露目ツアー」で運行を開始。
**11月4日:「DL大樹展望車」運行開始。
**12月24日:蒸気機関車C11 123の復元が完了し、組み上がった車体のお披露目と火入れ式が執り行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20211224-c11123/|title=東武鉄道、蒸気機関車C11形123号機を公開 - 来春の運行開始めざす|accessdate=2022-03-25|website=マイナビニュース}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 3月18日:東上本線が、東京メトロ副都心線を介して東急東横線・[[東急新横浜線]]経由で[[相模鉄道#現有路線|相鉄線]]との相互直通運転開始。[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]の導入に伴い、旅客運賃に上乗せして鉄道駅バリアフリー料金の収受を開始し、切符購入時の初乗旅客運賃・料金の合計額を大人160円、ICカード利用時の初乗旅客運賃・料金の合計額を大人157円とする<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道駅バリアフリー料金(3月18日より運賃に加算して収受する料金)について |publisher=東武鉄道 |url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/20230308173821gOeil5pz8zABtXdhXxcI8g.pdf |format=PDF |accessdate=2023-03-20}}</ref>。
** 6月23日:根津嘉澄が東武鉄道会長職に退き、都筑豊が第5代東武鉄道社長に就任<ref name="tobu20230224">{{Cite press release|title=代表取締役の就任及び異動(社長交代)に関するお知らせ|publisher=東武鉄道|date=2023-02-24|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/disclosure_documents/20230224151505lvct5-bRO1Wc64OTKRlRWQ.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-11-26}}</ref><ref name="tobu20230623">{{Cite press release|title=執行役員の異動のお知らせ |publisher=東武鉄道|date=2023-06-23|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/disclosure_documents/20230623112128siHBjvVqPBdtyeI5Z4mnkQ.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-11-26}}</ref>。
** 7月15日:[[東武N100系電車|N100系]]「スペーシアX」が日光・鬼怒川特急に就役<ref>{{Cite news |title=東武の新型特急「スペーシアX」運行開始 一番列車、日光へ |newspaper=産経新聞 |date=2023-07-15 |url=https://www.sankei.com/article/20230715-53CUYJ7GVZNGBJZBVL44MFA3SY/ |access-date=2023-07-29 |publisher=産経新聞社}}</ref>。
== 歴代社長 ==
{| class="wikitable"
|-
! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考
|-
| 1 || [[根津嘉一郎 (初代)]] || 1905年 || 1940年 || 本人死去に伴う退任
|-
| 2 || [[根津嘉一郎 (2代目)]] || 1941年7月 || 1994年6月 || 2002年死去
|-
| 3 || [[内田隆滋]] || 1994年6月 || 1999年6月 || 2016年死去
|-
| 4 || [[根津嘉澄]] || 1999年6月 || 2023年6月 ||
|-
| 5 || 都筑豊<ref name="tobu20230224" /> || 2023年6月 || ||
|}
== 路線 ==
[[File:Tobu Railway Linemap.svg|500px|thumb|right|路線図(クリックで拡大)]]
現在の東武鉄道の路線は、大きく'''[[東武本線|本線]]'''(伊勢崎線〈東武スカイツリーライン〉・日光線・野田線〈東武アーバンパークライン〉ほか)と'''[[東武東上本線|東上線]]'''(東上本線・越生線)とに二分出来る<ref>[https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/route/ 路線概要] 東武鉄道(2021年5月2日閲覧)。</ref>。なお、両線の間は自社線では結ばれていないが、車両の転属および東上線車両の[[南栗橋車両管区|南栗橋工場]]入出場は、[[秩父鉄道秩父本線]]のうち[[寄居駅]] - [[羽生駅]]間を利用して行われている。[[回送]]時には、秩父鉄道所属の電気機関車か、秩父[[自動列車停止装置|ATS]]搭載の[[東武8000系電車|8000系]]電車(森林公園検修区→南栗橋車両管区所属の8506F)が先頭に連結される。
沿革で記載のように、'''東上鉄道'''(東上本線)を合併したほか、[[第二次世界大戦]]中の[[陸上交通事業調整法]]により、'''総武鉄道'''(野田線)や'''下野電気鉄道'''(鬼怒川線)など周辺の小規模な鉄道会社をいくつか合併した経緯がある。
東上鉄道との合併は、東武鉄道の歴史上唯一の対等合併であり、社内外の調整が難航した。結果的に東武本社とは別に東京・[[西池袋]]に東上線を管轄する東上業務部が2015年まで設置され、現在も本線とは[[列車種別]]や運行体制が異なるなど、独立色が強くなっている。
前述周辺私鉄を合併した[[戦後]]の最盛期には総延長591.6km<!-- 沿革の1950年参照-->もの路線を有していた。その後、ローカル線の廃止を早く進めたこともあって、JRを除く日本の私鉄1位の路線網を擁する[[近畿日本鉄道]](近鉄)と2位の[[名古屋鉄道]](名鉄)<!-- 路線の総延長・順位に関係ないことはここに書かない。連携企画などは後の「その他」節に記述を。-->に次ぐ第3位という状況が長く続いたが、[[1990年代]]後半より名鉄でローカル線の廃止が相次ぎ、[[2005年]][[4月1日]]に名鉄と東武で順位が入れ替わり、近鉄に次いで2位となった。[[1997年]]に[[東武会沢線|会沢線]]を廃止して以降の保有路線総延長は463.3kmで、近鉄・名鉄と同様に400km以上の路線網を擁する日本の[[大手私鉄]]の一つとなっている<ref name="O-Kilo">近鉄の営業キロ推移 - 近畿日本鉄道(編)『近畿日本鉄道100年のあゆみ』(近畿日本鉄道、2010年)pp.201, 673-674<br />
東武の営業キロ推移 - 東武鉄道社史編纂室(編)『東武鉄道百年史 資料編』(東武鉄道、1998年)pp.114-119 および 東武鉄道年史編纂事務局(編)『東武鉄道六十五年史』(東武鉄道、1964年)pp.796-799<br />
名鉄の営業キロ推移 - 名古屋鉄道広報宣伝部(編纂)『名古屋鉄道百年史』(名古屋鉄道、1994年)pp.840-841</ref>。
[[1984年]]まで多くの[[貨物列車]]がほぼ全線にわたって運行され、[[貨物駅]]も起点側都内の業平橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])や千住駅(現在の牛田駅 - 北千住駅間にあった[[中千住駅|千住分岐点]]からの分岐先に所在)を始め各地に存在し、北千住駅・[[久喜駅]]・[[伊勢崎駅]]などで貨物の[[連絡運輸]]が行われていた。その後は大幅に縮小しながらも大手私鉄では最後まで貨物列車が運行されていたが、末期の貨物列車運行区間であった[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]北部、[[東武佐野線|佐野線]]でも、[[2003年]]9月30日限りで貨物営業が廃止された(貨物列車の運行自体は廃止日以前に終了している)。
施設面では、[[明治|明治時代]]・[[大正|大正時代]]に[[蒸気機関車]]牽引列車主体で営業を開始した路線が多く、いわゆる「[[単式・島式ホーム|国鉄式]]」のホーム配置など、旧[[日本国有鉄道|国鉄]]と共通する駅構造を持った駅が多かった。これらの構造は、[[1980年代]]以降の高架化や複々線化など近代化の過程でほとんどが姿を消したが、現在でも[[春日部駅]]や伊勢崎線北部、日光線などにその構造が残っている駅がある。また、[[旅客営業規則]]についても、1997年3月24日まで本線系統の有料特急・急行列車に定期乗車券では利用できないなど、国鉄の規定にほぼ準じていた。これらの施設面や営業規則から、一部では「ミニ国鉄」と揶揄されたこともある。
東武の鉄道路線の[[トンネル]]は、[[押上駅]]付近の地下線の入口を除けば、[[東武日光線|日光線]]の明神駅 - 下今市駅間の十国坂トンネル1箇所のみで、それも全長40mと非常に短い。これは、大手私鉄ではトンネル区間のない[[西日本鉄道]]に次ぐ少なさ・短さである。
関東地方の大手私鉄で唯一、半世紀以上も路線延伸がなく、平成期に新線が開業しなかった事業者である。西板線(大師線)・熊谷線などの延伸計画はあったが、財政難などの理由で頓挫し、また[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]への乗り入れのため、高島平 - 和光市間の鉄道免許を受けたが、これも営団8号線(現・[[東京メトロ有楽町線|東京地下鉄有楽町線]])に乗り入れ先が変更となり、建設されなかった。
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ファイル:Change of the operating kilometers of Kintetsu, Tōbu and Meitetsu.svg|東武鉄道(青)の営業キロ推移(クリックで拡大)
</gallery>
以下で左端のマーク(英字)は[[駅ナンバリング]]で使われる記号
=== 本線 ===
* [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|20px|TS]] [[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|20px|TI]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]:[[浅草駅]] - [[伊勢崎駅]] 114.5km 駅数54
*: [[押上駅]] - [[曳舟駅]]間は、とうきょうスカイツリー駅 - 曳舟駅間の線増(複々線のうちの2線)扱い。
*: 浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間には、「東武スカイツリーライン」の愛称がある。
** [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|20px|TS]] [[東武亀戸線|亀戸線]]:曳舟駅 - [[亀戸駅]] 3.4km 駅数5
** [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|20px|TS]] [[東武大師線|大師線]]:[[西新井駅]] - [[大師前駅]] 1.0km 駅数2
** [[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|20px|TI]] [[東武佐野線|佐野線]]:[[館林駅]] - [[葛生駅]] 22.1km 駅数10
** [[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|20px|TI]] [[東武桐生線|桐生線]]:[[太田駅 (群馬県)|太田駅]] - [[赤城駅]] 20.3km 駅数8
** [[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|20px|TI]] [[東武小泉線|小泉線]]:館林駅 - [[西小泉駅]]・太田駅 - [[東小泉駅]] 18.4km 駅数7
* [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|20px|TN]] [[東武日光線|日光線]]:[[東武動物公園駅]] - [[東武日光駅]] 94.5km 駅数25
** [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|20px|TN]] [[東武宇都宮線|宇都宮線]]:[[新栃木駅]] - [[東武宇都宮駅]] 24.3km 駅数10
** [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|20px|TN]] [[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]:[[下今市駅]] - [[新藤原駅]] 16.2km 駅数9 ([[鬼怒立岩信号場]]を含む)
* [[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|20px|TD]] [[東武野田線|野田線]]:[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[船橋駅]] 62.7km 駅数35
*: 「東武アーバンパークライン」の愛称がある。
=== 東上線 ===
* [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|20px|TJ]] [[東武東上本線|東上本線]]:[[池袋駅]] - [[寄居駅]] 75.0km 駅数39 ([[嵐山信号場]]を含む)
** [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|20px|TJ]] [[東武越生線|越生線]]:[[坂戸駅]] - [[越生駅]] 10.9km 駅数7
=== 廃止路線(全線廃止となった線のみ) ===
==== 旅客線 ====
<!-- 廃駅は各路線の記事を参照--><!-- 各路線の解説は各路線の記事に記述してください。-->
* [[東武伊香保軌道線|伊香保軌道線]]
** 高崎線:[[高崎駅|高崎駅前駅]] - 渋川新町駅 20.9km … 1953年7月1日廃止。
** 前橋線:[[前橋駅|前橋駅前駅]] - [[渋川駅|渋川駅前駅]] 14.5km … 1954年3月1日廃止。
** 伊香保線:渋川駅前駅 - 伊香保駅 12.6km … 1956年12月29日廃止。
* [[東武啓志線|啓志線]]:[[上板橋駅]] - グラントハイツ駅(旧啓志) … 1959年7月22日廃止。非電化。
* [[東武矢板線|矢板線]]:[[新高徳駅]] - [[矢板駅]] 23.5km … 1959年7月1日廃止。非電化。
* [[東武日光軌道線|日光軌道線]]:[[日光駅|日光駅前]] - 馬返駅 10.6km … 1968年2月25日廃止。
* [[東武日光鋼索鉄道線|日光鋼索鉄道線]]:馬返駅 - 明智平駅 1.2km … 1970年4月1日廃止。
* [[東武熊谷線|熊谷線]]:[[熊谷駅]] - [[妻沼駅]] 10.1km … 1983年6月1日廃止。非電化。東武最後の気動車運行路線。
** 熊谷線が廃止されたことにより、東武の独立線区、すなわち本線系にも東上線系にも属さない路線は消滅した。
==== 貨物線 ====
* 借宿線:[[野州山辺駅]] - 中川分岐 - 借宿駅 1.3km、中川分岐 - 只上駅 … 1935年7月7日廃止<ref>{{Cite journal |和書 |date=1935年10月18日 |title=鉄道一部貨物運輸営業廃止実施 |journal=官報 |issue=2639 |page= |publisher=内閣印刷局 |id={{NDLJP|2959118}} |url={{NDLDC|2959118/9}}}}</ref>。非電化。
* 戸奈良線:[[田沼駅]] - 戸奈良駅、田沼駅 - 戸室駅 … 1939年4月5日廃止。非電化。
* [[東武大谷線|大谷線]]:
** [[鶴田駅]] - 新鶴田駅 1.0km … 1952年9月1日廃止。非電化。
** [[西川田駅]] - 新鶴田駅 - 荒針駅 - 立岩駅 11.1km … 1964年6月16日廃止。非電化。
** 大谷軌道線 26.6km … 1952年3月31日全線廃止。非電化 。
* 大利根砂利線:[[羽生駅]] - 利根川右岸駅 … 1962年9月廃止。非電化?
* 東武和泉砂利線:[[東武和泉駅]] - 渡良瀬右岸駅 … 1967年3月23日廃止。
* [[東武根古屋線|根古屋線]]:[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]] - 根古屋駅 4.3km … 1967年4月1日廃止。非電化。
* [[木崎駅#東武徳川河岸線|徳川河岸線]]:[[木崎駅]] - [[徳川河岸駅]](平塚河岸駅) 3.2km - 1968年6月10日廃止。
* [[東武小泉線|仙石河岸線]]:[[西小泉駅]] - [[仙石河岸駅]] 3.0km … 1976年10月1日廃止。
* 小倉川砂利線:[[壬生駅]] - 小倉川採取場駅 … 1984年2月1日廃止。
* [[東武大叶線|大叶線]]:上白石駅 - 大叶駅 1.6km … 1986年10月21日廃止。
* 千住線:千住分岐点(旧・[[中千住駅]]) - 千住駅 0.6km … 1987年5月1日廃止。
* 柳原線:柳原信号所(野州大塚駅 - 壬生駅間に存在) - 柳原採取場駅 … 1989年11月28日廃止。
* [[東武会沢線|会沢線]]:[[葛生駅]] - 上白石駅 - 第三会沢駅 4.6km … 1997年10月1日全線廃止。
=== 未成線 ===
* [[東武大師線|西板線]]:[[大師前駅]] - 鹿浜駅 - [[上板橋駅]] 10.4km … 1932年7月26日鹿浜駅 - 上板橋駅間 7.2km、1937年6月23日大師前駅 - 鹿浜駅間 3.2km免許失効<ref name="moriguchi-p187">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』(JTB、2001年)p.187</ref>。
* [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]:[[伊勢崎駅]] - 荒牧駅 18.2km … 1935年12月13日免許失効<ref name="moriguchi-p187" />。
* [[東武佐野線|佐野線]]:[[田沼駅]] - [[家中駅]] 17.1km … 1924年5月7日免許失効<ref name="moriguchi-p187" />。日光線杉戸駅(現・東武動物公園駅) - 家中駅間の免許取得で不要に。
* [[東武熊谷線|熊谷線]]:[[妻沼駅]] - [[新小泉駅]] 3.7km … 1974年9月7日免許失効<ref name="moriguchi-p187" />。
* [[東武東上本線|東上本線]]:[[寄居駅]] - 東武高崎駅 30.1km … 1924年5月7日免許失効<ref name="moriguchi-p187" />。
* [[東武東上本線|渋川線]]<!-- 伊香保軌道線とは別-->:(東武)高崎駅 - 渋川駅 20.1km … 東上鉄道時代の1920年6月3日免許失効<ref name="moriguchi-p187" /><!-- つまり東武は免許を引継いでいない。-->。
* [[東武東上本線#東武高島平線|高島平線]]:[[和光市駅]] - [[西高島平駅]] 3.1km … 1972年12月21日免許失効<ref name="moriguchi-p187" />。
== 優等列車 ==
[[ファイル:Tobu Limited-Express.JPG|thumb|300px|浅草駅に停車中の「スペーシア」(奥)と「りょうもう」(手前)]]
東武鉄道では、古くから[[東武日光線|日光線]]・[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]系統では「観光列車」として、[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]系統では「ビジネス列車」として、特急・急行などの[[優等列車]]を走らせていた。「[[特別急行券|特急料金]]」だけでなく「[[急行券|急行料金]]」が存在した。
「特急」については、[[東武本線|本線]]では有料列車なのに対し、[[東武東上本線|東上線]]では料金不要の速達列車([[JR]]でいう「[[快速列車]]」の一種で、「[[特別快速]]」に相当)となっていたが、[[2008年]][[6月14日]]のダイヤ改正時に東上線特急は廃止され、代わりに「快速急行」が新設された。
「急行」については、本線では、[[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正時に従来「急行」として運行されていた列車が「特急」に統合され、急行は他の大手私鉄や東上線と同様の料金不要種別となった。従来から運転されていた「快速」の種別名称は変更されなかったため、当ダイヤ改正以降、快速は急行の上位種別となった。[[2013年]][[3月16日]]のダイヤ改正時に東上線にも「快速」が新設されたが、本線と同様、快速は急行の上位種別となった。
[[2017年]][[4月21日]]のダイヤ改正より、東武鉄道では26年ぶりの新型特急車両「リバティ」による特急が運行されることとなった<ref name="tobu170118_1">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b71449315c885fe96933bd12d8f48b8a/170118_1.pdf |title=2017年4月21日(金)ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・東武アーバンパークライン 【特急列車概要】 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2017年1月18日}}</ref>。このうち「アーバンパークライナー」は本線と野田線を直通して運行される。
2022年3月12日のダイヤ改正時点で、下記の有料優等列車を運行している。
=== 本線 ===
* [[東武日光線|日光線]]・[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]系統・[[野岩鉄道]]・[[会津鉄道]]直通系統
** 特急[[けごん|「'''けごん'''」・「'''リバティけごん'''」]](浅草駅 - 新栃木・東武日光駅)
** 特急 [[けごん|「'''きぬ'''」・「'''リバティきぬ'''」]](浅草駅 - 鬼怒川温泉駅・新藤原駅)
** 特急「'''[[けごん|リバティ会津]]'''」(浅草駅 - 会津田島駅)
* [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]・[[東武桐生線|桐生線]]・[[東武佐野線|佐野線]]系統
** 特急 [[りょうもう|「'''りょうもう'''」・「'''リバティりょうもう'''」]](浅草駅 - 館林駅・太田駅・赤城駅・葛生駅・伊勢崎駅)
* 伊勢崎線・[[東武野田線|野田線]]近距離列車
** 特急「'''[[アーバンパークライナー#スカイツリーライナー|スカイツリーライナー]]'''」(浅草駅 - 春日部駅)
** 特急「'''[[アーバンパークライナー]]'''」(浅草駅 - 大宮駅・柏駅、大宮駅・春日部駅 - 運河駅・柏駅)
* 伊勢崎線・[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]直通系統
** 「'''[[THライナー]]'''」(恵比寿駅・霞ヶ関駅 - 久喜駅)
これらの列車に乗車する際は原則として特急券または座席指定券が必要であるが、下り「スカイツリーライナー」のせんげん台駅 - 春日部駅間、「アーバンパークライナー」のうち浅草駅発のせんげん台駅 - 大宮駅・柏駅間、大宮駅発の春日部駅 - 柏駅間、柏駅発の運河駅 - 大宮駅間においても特急券が不要となる。また、「リバティきぬ」と「リバティ会津」の鬼怒川温泉駅 - 会津田島駅間の相互利用に限り、座席の指定を受けない場合は特急券が不要となる。
上り列車に限り、とうきょうスカイツリー駅から浅草駅まで全列車で特急券が不要となるサービスがあったが、2023年3月18日の特急料金改定に合わせて廃止された<ref>{{Cite web|和書|title=2023年3月18日(土)特急料金を改定します |publisher=東武鉄道 |date=2022-12-16 |url=https://www.tobu.co.jp/news/3164/ |access-date=2023-03-18}}</ref>。
東京メトロ日比谷線に直通する「THライナー」は特急ではないが、座席指定券が必要であり、東武線内のみの乗車は出来ない。
==== 臨時夜行列車 ====
* 「'''[[東武鉄道夜行列車|尾瀬夜行]]'''」(臨時、夏期運行、日光線・鬼怒川線系統[[夜行列車]])
* 「'''[[東武鉄道夜行列車|スノーパル]]'''」(臨時、冬期運行、日光線・鬼怒川線系統夜行列車)
[[年末年始]]の[[終夜運転]]を除けば、JR以外では珍しい定期的に運行されている夜行列車である<ref>{{Cite news |author= 恵 知仁 |date=2014年11月22日 |url=http://trafficnews.jp/post/36573/ |title=私鉄唯一の夜行列車、今冬も走行 超ピンポイントなその走行理由とは |publisher=メディア・ヴァーグ |newspaper=乗りものニュース |accessdate=2016年5月8日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141205215228/http://trafficnews.jp/post/36573/ |archivedate=2014年12月5日}}</ref>。東武トップツアーズが催行するツアーとしての運行で、事実上団体専用列車である。
行き先の駅には未明の到着になるので、到着後しばらく仮眠できる。「尾瀬夜行」の場合、2021年ダイヤでは23:55に浅草を出発し2:16に東武日光に到着、車内で4時頃まで仮眠を取ることができた。
==== JR東日本との相互直通運転列車 ====
[[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正より、日光線とJR[[宇都宮線]]の接続駅である[[栗橋駅]]に連絡線を設け、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[新宿駅]] - 東武日光駅・鬼怒川温泉駅間を結ぶ下記の特急列車の直通運転が行われている。
* 特急「'''[[日光 (列車)|スペーシアきぬがわ]]'''」(新宿駅 - 鬼怒川温泉駅、[[東武100系電車|100系]]使用、臨時列車のみ)
* 特急「'''[[日光 (列車)|スペーシア日光]]'''」(新宿駅 - 東武日光駅、100系使用)
* 特急「'''[[日光 (列車)|日光]]'''」(新宿駅 - 東武日光駅、[[JR東日本253系電車|JR東日本253系]]使用、臨時列車のみ)
* 特急「'''[[日光 (列車)|きぬがわ]]'''」(新宿駅 - 鬼怒川温泉駅、JR東日本253系使用)
新宿駅からの経路はJR[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]] - 宇都宮線([[東北本線]]) - 栗橋駅([[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]) - 東武日光線・鬼怒川線である。なお、池袋駅で東上本線、大宮駅で野田線と接続することから、時刻表・発車案内・停車駅案内図において、JRの駅名を「JR池袋」など頭に「JR」を冠して案内している。
JR東日本線内で事故などの運転トラブルが生じた場合は、南栗橋駅止まり・栃木駅始発等の措置がとられる。また、2006年の運転開始当初のJR側の充当車両は[[国鉄485系電車|485系]]および[[国鉄183系電車|189系]]「彩野」で、485系が定期検査で使用できない際は第1予備の東武100系または第2予備の189系「彩野」が代走していた。2011年のJR東日本253系1000番台投入後は、253系が2編成あるため、第1予備を253系、第2予備を東武100系としている。
==== 臨時SL・DL列車 ====
日光線および鬼怒川線では、蒸気機関車 (SL) またはディーゼル機関車 (DL) の牽引による臨時列車が運行されている。
* [[SL大樹|「'''SL大樹'''」・「'''DL大樹'''」]](下今市駅 - 鬼怒川温泉駅)
* 「'''[[SL大樹|SL大樹ふたら]]'''」(東武日光駅 - 下今市駅・鬼怒川温泉駅)
=== 東上本線 ===
* 「'''[[TJライナー]]'''」([[東武東上本線|東上線]]系統。上りは平日朝のみ<ref>{{Cite web|和書|url=http://railway.tobu.co.jp/timetable/special_express/tj.html |title=TJライナーの時刻表 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2016年5月8日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160408155719/http://railway.tobu.co.jp/timetable/special_express/tj.html |archivedate=2016年4月8日}}</ref><ref>{{Cite news |author=[[鉄道ファン (雑誌)]]|date=2016年3月29日 |url=http://railf.jp/news/2016/03/29/160000.html |title=東上線で上り"TJライナー"の運転開始 |newspaper=railf.jp(鉄道ニュース)|publisher=[[交友社]] |accessdate=2016年5月8日}}</ref>)
上り列車は降車駅が池袋駅に限られる。下り列車のふじみ野駅 - 小川町駅間は座席指定券が不要となる。
=== 過去に存在した主な有料優等列車 ===
; 本線
:* 快速急行「だいや」(一部ビジネスライナー)→急行「きりふり」→特急「'''[[きりふり]]'''」(浅草駅 - [[東武日光駅]]など)廃止日:2022年3月12日<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/03/07/160000.html |title=東武350系,定期運用を終了 |access-date=2022-06-01 |publisher=交友社 |date=2022-03-07 |website=鉄道ファン・railf.jp |work=鉄道ニュース }}</ref>
:* 快速急行「しもつけ」→快速急行「ビジネスライナーしもつけ」→急行「しもつけ」→特急「'''[[しもつけ (列車)|しもつけ]]'''」(浅草駅 - [[東武宇都宮駅]])廃止日:2020年6月6日<ref name="tobu20200225" />(ただし、[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染拡大]]防止のための特急減便により、同年4月25日から運休となり<ref name="tobu20200421">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/e07e94c503a66b3fd1a0a3c0177a4160_200421.pdf|title=特急列車の一部運休について|publisher=東武鉄道|date=2020-04-21|accessdate=2020-06-07}}</ref>、4月24日が事実上の最終運行日となった。)
:* 快速急行「おじか」→急行「'''[[きりふり|ゆのさと]]'''」(浅草駅 - 新藤原駅)廃止日:2006年3月18日(臨時化のうえ特急に格上げ)
:* 快速急行「おじか」→急行「'''[[南会津 (列車)|南会津]]'''」(浅草駅 - [[会津田島駅]])廃止日:2005年(平成17年)3月1日
:* 急行「(ビジネスライナー)'''[[りょうもう]]'''」([[浅草駅]] - [[太田駅 (群馬県)|太田駅]]・[[赤城駅]]・[[伊勢崎駅]]・[[葛生駅]])廃止日:1999年3月16日(特急に格上げ)
; 東上線
:* 特急「'''[[東武東上本線#特急|フライング東上]]'''」(池袋駅 - 寄居駅)廃止年:1962年11月(急行に格下げ→1967年12月16日に廃止)
=== 無料優等列車 ===
以下に本線と東上本線で採用されている無料優等種別名を記す。前述の通り、東武鉄道は本線と東上本線で運行系統が大きく異なっており、無料優等列車で採用されている種別名も異なる。同一種別でも運行時間帯・運転間隔等が異なる。
; 本線
:* 急行
:* 区間急行
:* 準急
:* 区間準急
: 2006年3月18日のダイヤ改正で種別名が変更され、急行と準急は半蔵門線直通列車に<!-- 東急が準急を導入したのは2007年で、種別を統一化したのは東急 -->、区間急行と区間準急は浅草または北千住駅を発着する無料優等列車に割り当てられる。
: 2017年4月21日のダイヤ改正で快速と区間快速の運転区間を浅草発着から南栗橋発着に短縮した上で、急行と区間急行に種別名を変更した。急行と区間急行は南栗橋駅を境に運用が分断され、同駅を直通する一般列車の運用は存在しない。
; 東上本線
:* 川越特急
:* 快速急行
:* 急行
:* 準急
: 2016年3月26日のダイヤ改正で東上本線と副都心線内で急行、東急東横線とみなとみらい線で特急となる列車には[[Fライナー]]の愛称が付与された。このダイヤ改正で平日朝ラッシュ時の上り線に設定されていた通勤急行は全て準急に置き換えられて廃止された。
: 2019年3月16日のダイヤ改正で川越特急が新設され、全列車が50090型のクロスシートで運転される。2023年3月18日のダイヤ改正で快速が廃止され、Fライナーの東上本線は種別を快速急行に変更した。
詳しくは各路線の項目を参照のこと。
== 車両 ==
1899年(明治32年)8月27日の[[北千住駅]] - [[久喜駅]]間開業時にイギリスの[[ベイヤー・ピーコック]]製[[蒸気機関車]]を導入した。1910年(明治43年)7月13日には、新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間が開通して、[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]浅草駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]]) - 伊勢崎駅間が全通し[[鉄道省|国有鉄道]][[両毛線]]と連絡する。 浅草駅 - 伊勢崎駅間や[[東武佐野線|佐野線]]館林駅 - 葛生駅間の直通運転に備えて[[山陽鉄道]]から譲受した国有化された5900形と同形の[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]製D1形を増備した。1922年(大正元年)には第一次世界大戦後の好況期を迎え、機関車が不足したため[[シャープ・スチュアート]]製の[[国鉄5500形蒸気機関車|5650形]]6両が追加された。1924年(大正13年)には伊勢崎線が電化されたが、旅客列車に限られたもので、貨物列車には蒸気機関車が継続して使用された。1955年(昭和30年)には第一次5か年計画で、貨物線の電化が掲げられ、1958年(昭和33年)から電化工事や[[電気機関車]]の新造により、東上線は1959年(昭和34年)4月1日に貨物列車が電化された。1960年(昭和35年)の第二次5カ年計画では伊勢崎線系統の非電化の貨物線の電化工事が推進した。1966年(昭和41年)6月30日には蒸気機関車が全廃された。以降は路線網の縮小や貨物輸送が廃止され、2003年(平成15年)には[[電気機関車]]が全廃された。一方2017年(平成29年)から[[SL大樹]]用に蒸気機関車・[[ディーゼル機関車]]・[[客車]]を保有するようになったが、これは大手私鉄では唯一の存在である。
通勤形車両については戦後、20m4扉車の導入に積極的であり、[[国鉄63系電車|63形]]電車を譲り受けた[[東武7300系電車|7300系]]を皮切りに日比谷線直通を除く各線区へ20m車を大量導入していった<ref group=注釈>日比谷線直通は2017年より20m車を導入し、2020年までに統一を図っている。一方、支線区では日比谷線直通から捻出された18m車による20m車の置き換えを実施している。</ref>。1963年(昭和38年)に登場した[[東武8000系電車|8000系]]は私鉄電車では最多の712両が20年間に渡って製造されたため、「私鉄の[[国鉄103系電車|103系]]」の異名を持つ。
東武は関東大手私鉄の中では車両を更新・修繕して長期間使用する傾向が強い。そのため、旅客用車両の転出は他の大手私鉄と比較して極めて少ない。旧型車より[[鉄道車両の台車|台車]]・電装品など主要機器を流用して車体を新造した車両(機器流用車)を「更新車」と呼称し、一方、元来の車体を生かしてリニューアル工事を施工した車両を「修繕車」と呼称して区分している。前者は3000系列・5000系列・200型などが該当し、後者は8000系・9000系列・10000系列などが該当する。更新車は廃車に伴い次第に少なくなっているが、2020年(令和2年)時点でも6050系・200型が現役で、後者の機器類は新造から60年以上経過しているものがある。
多くの大手私鉄の優等列車の車両は先頭車を[[展望車]]にしたり、前面展望が可能な設計にしているが、東武鉄道の優等列車の車両は[[東武N100系電車|N100系「スペーシアX」]]以外は前面展望が不可能な構造になっている。ただし臨時特急にも運用されたことがある団体用車両[[東武6050系電車#634型「スカイツリートレイン」|「スカイツリートレイン」634型]]は客室側窓を拡大した展望車両となっているほか、SL大樹には2021年(令和3年)から12系客車を改造した展望車の連結を開始している。このほか、過去には[[東武トク500形客車|トク500形]]という展望客車を保有していたことがある。
他社から乗り入れてくる車両については、「[[#JR東日本との相互直通運転列車|JR東日本との相互直通運転列車]]」の節のほか、「[[東武伊勢崎線#乗り入れ車両|伊勢崎線]]」・「[[東武日光線#他社からの乗り入れ車両|日光線]]」・「[[東武鬼怒川線#他社乗り入れ車両|鬼怒川線]]」・「[[東武東上本線#乗り入れ車両|東上本線]]」の各項目を参照のこと。
=== 優等列車・団体列車用 ===
* [[東武N100系電車|N100系]](スペーシアX:日光線・鬼怒川線特急)
* [[東武100系電車|100系]](スペーシア:日光線・鬼怒川線特急/JR線直通特急)
* [[東武200系電車|200系(200型)]](りょうもう:伊勢崎線特急)
* [[東武500系電車|500系]](リバティ:伊勢崎線・日光線・鬼怒川線・野田線特急/野岩鉄道・会津鉄道直通列車)
* [[東武6050系電車|6050系]](日光線・鬼怒川線急行・区間急行/野岩鉄道・会津鉄道直通列車)
* [[東武6050系電車#634型「スカイツリートレイン」|634型]](スカイツリートレイン:団体臨時列車)
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Tobu-n100wiki.jpg|特急用車両「スペーシアX」(N100系)
Tobu-Series100 orange.jpg|特急用車両「スペーシア」(100系)
Tobu-Series200 Ryomo.jpg|特急用車両「りょうもう」(200系)
Tobu-Series500.jpg|特急用車両「リバティ」(500系)
東武6050系.jpg|日光線・鬼怒川線を中心に運用される6050系
Tobu Series6050 Type634.jpg|団体専用列車として使われる634型
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=== 通勤列車用 ===
* [[東武70000系電車|70000系(70000型・70090型)]] (伊勢崎線・日光線・地下鉄日比谷線乗り入れ用)
* [[東武60000系電車|60000系]] (野田線用)
* [[東武50000系電車|50000系(50000型・50050型・50070型・50090型)]] (50000型は東上本線・一部は伊勢崎線・日光線・地下鉄半蔵門線・東急田園都市線乗り入れ用、50050型は伊勢崎線・日光線・地下鉄半蔵門線・東急田園都市線乗り入れ用、50070型は東上本線・地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速みなとみらい線乗り入れ用、50090型は東上本線の地上線用)
* [[東武30000系電車|30000系]] (東上本線の地上線用)
* [[東武20000系電車|20000系(20410型・20420型・20430型・20440型)]] (日光線南栗橋 - 新栃木間および宇都宮線用)
* [[東武10000系電車|10000系(10000型・10030型/50番台・10080型)]] (伊勢崎線・日光線・野田線・東上本線の各地上線用。10080型は伊勢崎線・日光線用)
* [[東武20000系電車|20000系(20000型・20050型・20070型・20400型)]] (伊勢崎線・日光線・地下鉄日比谷線乗り入れ用。20400型は日光線・宇都宮線用)
* [[東武9000系電車|9000系(9000型・9050型)]](東上本線・地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速みなとみらい線乗り入れ用)
* [[東武8000系電車|8000系(8000型・8500型・800型・850型)]](東上本線ワンマン区間・越生線・野田線・亀戸線・大師線・北部ローカル線用。800型・850型は伊勢崎線ワンマン区間・佐野線用)
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ファイル:Tobu-Series70000-71701.jpg|日比谷線乗り入れ各停用の70000型
ファイル:Tobu-Series70090-71792F.jpg|THライナーに使用される70090型
ファイル:Tobu-Series60000-61606F.jpg|野田線用の60000系
ファイル:Tobu-Tojo-Line-Series51001F.jpg|東上線の地上運用(一部は地下鉄半蔵門線・東急田園都市線乗り入れ急行・準急用)に使用される50000型
ファイル:Tobu-Series50050 Miyamaedaira.jpg|地下鉄半蔵門線・東急田園都市線乗り入れ急行・準急用の50050型
ファイル:Tobu-Tojo-Line-Series51072F.jpg|東上線・地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速みなとみらい線乗り入れ用の50070型
ファイル:Tobu tojo line 50090 kei.jpg|東上線で運用されるTJライナー用(一部は他の列車にも運用)の50090型
ファイル:Tobu-Series30000 31604.jpg|東上線の地上運用に使用される30000系
ファイル:Tobu-Type20400-21444.jpg|日光線・宇都宮線で運用される20400型
ファイル:Tobu-Series10000 11006.jpg|本線系・東上線で運用される10000型
ファイル:Tobu-Series10030R 11637.jpg|本線系・東上線で運用される10030型
ファイル:Tobu-Series11459.jpg|本線系・東上線で運用される10030型50番台
ファイル:Tobu-Tojo-Line-Series9101F.jpg|東上線で運用される9000型
ファイル:Tobu-Tojo-Line-Series9151F.jpg|東上線・地下鉄有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速みなとみらい線乗り入れ用の9050型
ファイル:Tobu-Noda-Line Series8000-84117.jpg|東武鉄道の各線で使用される8000型
ファイル:Tobu-Noda-Line-Series8000-8111F.jpg|東武博物館所有で臨時列車・団体列車に使用される8111F。8000系で唯一原型顔で残存する車両
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=== 蒸気機関車・ディーゼル機関車・客車・貨車 ===
* [[国鉄C11形蒸気機関車|C11形蒸気機関車]]
** [[国鉄C11形蒸気機関車#C11 207|C11 207]]([[北海道旅客鉄道]]所有)<ref name="c11207" />
*** 2017年(平成29年)8月10日から鬼怒川線で「'''[[SL大樹]]'''」として運行<ref name="tobu20170118_1">{{Cite press release |和書 |title=東武鬼怒川線で復活するSL「大樹」の営業運転開始日を2017年8月10日(木)に決定! |publisher=東武鉄道 |date=2017年1月18日 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/7bf111d6f69b03dc6942d94a799be133/170118-2.pdf |format=PDF |language= 日本語 |accessdate=2017年1月18日}}</ref><ref name="tobu20160421_3" />。C11 207は北海道旅客鉄道(JR北海道)にて使用されていた[[蒸気機関車]] (SL) で、他の「SL大樹」用の車両とは異なり、購入ではなく同社から借り受けて運行<ref name="c11207">{{Cite press release |和書 |title=蒸気機関車(SL)の復活を目指します(2017年度目途) |publisher=東武鉄道 |date=2015年8月10日 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/600f37f037a7d2fbc1d0fe205c15e469/150810.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2015年8月10日}}</ref><ref name="tobu20160421_3">{{Cite press release |和書 |title=東武鬼怒川線で運転するSL「大樹」の運転ダイヤ、停車駅、運転日などが決定! |publisher=東武鉄道 |date=2017年2月28日 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/8b0d35f59977ed0dc9106c91543ec096/170228_2.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年3月7日}}</ref><ref>{{Cite news|title=東武鉄道のSL列車、車掌車やディーゼル機関車も連結…JR5社からかき集める |publisher=株式会社イード |newspaper=[[Response.|レスポンス]] |date=2016-04-22|url=http://response.jp/article/2016/04/22/274019.html |accessdate=2016-05-09}}</ref>。
** [[国鉄C11形蒸気機関車#C11 325|C11 325]]
*** 1998年より[[真岡鐵道]]で「[[SLもおか]]」を牽引していた蒸気機関車を譲受し、2020年7月30日に受領<ref name="tobu20200720">{{Cite press release |和書 |title=真岡鐵道で運行していたSL(C11形325号機)を2020年7月30日に譲受します! |publisher=東武鉄道 |date=2020-07-20 |url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20200720120934fYUWPllo2KeWvQVUiEdU5g.pdf |format=PDF |accessdate=2020-10-09}}</ref>。2020年12月26日に「SL大樹」の2号機として運行が開始された。
** [[国鉄C11形蒸気機関車#C11 123|C11 123]]
*** 2018年11月、[[静態保存]]されていた[[国鉄C11形蒸気機関車#民間向けの同形機|C111]](1947年製造、[[江若鉄道]]→[[雄別鉄道]]→[[釧路開発埠頭]])を東武博物館が譲受し、[[動態保存|動態復元]]工事を開始した。なお復元後の車番は「C11 123」とすることになった。2022年7月18日から「SL大樹」3号機として運転開始と発表され<ref>{{Cite press release|和書|title=いよいよ7月18日(月・祝)から C11形123号機が営業運転を開始します!|publisher=東武鉄道|date=2022-06-16|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20220617104542aMMOCBE4BAqWWOMds1s60g.pdf|format=PDF|access-date=2022-06-18}}</ref>、同日から「SL大樹」の運行に就いている<ref>{{Cite news|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/612793|title=復元のSL大樹3両目デビュー 下今市駅で出発式|newspaper=[[下野新聞]]|date=2022-07-18|accessdate=2022-07-19}}</ref>。
*** 当初「SL大樹」2号機として2020年頃に運転開始することを目指していたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/81988|title=東武、蒸気機関車の動態復元に着手 「SL大樹」のC11形は2機体制に|publisher=乗りものニュース|date=2018-11-08|accessdate=2018-11-24}}</ref>、復元作業の難航と新型コロナウイルスの影響により作業が遅れていることを受け、完成目途を2021年冬に延期とした<ref name="tobu20200720" />。同年12月に行われた火入れ式では、2022年春に運行開始予定であることが発表された<ref>{{Cite tweet|author=蒸気機関車EX・電気機関車EX【公式です】|title=東武鉄道C11 123(元湧別鉄道C111)の火入れ式が本日南栗橋車両管区で行われました。まだ完成ではなく、営業運転は来春からの予定だそうです。|access-date=2022-02-10|number=1474224326958534660|user=steamloco_ex|date=2021-12-24}}</ref>が、2022年4月の試運転時には営業運転開始は同年7月の予定に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tetsudo.com/report/370/ |title=動態復元された東武のSL「C11形123号機」が試運転 7月デビューに向けカウントダウン |access-date=2022-06-06 |date=2022-04-21 |website=鉄道コム |work=リポート |publisher=朝日インタラクティブ}}</ref>。
* [[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形ディーゼル機関車]](DE10-1099・1109)
** 「SL大樹」の[[補助機関車]]用としてJR東日本から譲り受けた[[ディーゼル機関車]]<ref name="tobu20160421_3" />。2020年4月には1109号機もJR東日本から譲り受けた<ref name="traficnews20200404">{{Cite web|和書|title= DE10形ディーゼル機関車が東武鉄道へ 2両目は青色に金帯の塗装に! |url= https://trafficnews.jp/post/95285 |website=乗りものニュース|date=2020-04-04|accessdate=2020-04-04|language=|publisher=}}</ref>。1099号機はJR時代同様の[[国鉄色]]、1109号機はJR北海道の[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]][[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]牽引機に似せた青色に金帯のオリジナル塗装となっている。
* [[国鉄14系客車|14系客車]](スハフ14-1・5、オハ14-1、オハフ15-1/オハ14-504・505、スハフ14-501・508)
** 「SL大樹」用に譲り受けた客車(0番台は[[四国旅客鉄道]]〈JR四国〉、500番台はJR北海道より)。当初は全車国鉄色だったが、2021年に一部の車両が[[ぶどう色2号|ぶどう色]]に塗色変更された。車籍は東武鉄道だが、所有は[[東武博物館]]<ref name="tobu20160421_3" />。
* [[国鉄12系客車|12系客車]](オハテ12-1・2)
** 「SL大樹」用にJR四国より譲り受けた客車。元はグリーン座席車のオロ12形であったが、座席のボックスシート化や展望スペースの設置など大規模な改造を受け、2021年より「SL大樹」で運用されている。車籍は東武鉄道だが、所有は東武博物館<ref name="tobu20160421_3" />。
* [[国鉄ヨ8000形貨車|ヨ8000形貨車]](ヨ8634・8709)
** 「SL大樹」の保安機器積載のために[[日本貨物鉄道]](JR貨物)・[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)から譲り受けた[[車掌車]]。車籍は東武鉄道だが、所有は東武博物館<ref name="tobu20160421_3" />。
なお、SL大樹・DL大樹に関わる機関車・客車・貨車については、いずれもJR所属時代の付番体系を維持している。
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Tobu-C11-207.jpg|C11形蒸気機関車 (C11 207)
Series14-Tobu.jpg|14系客車
DE10-1099-Tobu.jpg|DE10形ディーゼル機関車 (DE10 1099)
下今市機関区.jpg|下今市機関区
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=== 導入予定の車両 ===
* 野田線用新型車両(形式不明)
** 2024年に野田線に導入予定の車両。同年から野田線の編成両数を6両から5両に変更することに伴って導入される。
=== 過去の車両 ===
* 優等列車用電車
** [[東武1720系電車|1700系・1720系]]「デラックスロマンスカー」(けごん:日光線特急/きぬ:鬼怒川線特急)
** [[東武デハ5形電車|モハ3210形・クハ250形]](日光線・鬼怒川線準快速)
** [[東武デハ10系電車|モハ5310形・クハ350形]](日光線・鬼怒川線特急→伊勢崎線急行、日光線・鬼怒川線急行・快速および団体臨時列車)
** [[東武モハ5320形電車|モハ5320形・モハ5800形・クハ340形]](日光線・鬼怒川線快速急行・快速および団体臨時列車)
** [[東武5700系電車|5700系]](日光線・鬼怒川線特急→伊勢崎線急行→日光線・鬼怒川線快速急行・快速および団体臨時列車)
** [[東武トク500形客車|トク500形]](日光線・鬼怒川線用[[展望車]]、元[[貴賓車]])
** [[東武6000系電車|6000系]](日光線・鬼怒川線快速急行・快速)
** [[東武1800系電車|1800系]](伊勢崎線急行および団体臨時列車)
** [[東武300系電車|300系]](特急および団体臨時列車)
** [[東武200系電車|200系(250型)]](伊勢崎線特急)
* 通勤形電車
** [[東武2000系電車|2000系・2080系]](地下鉄日比谷線乗り入れ用・2080系は野田線用)
** [[東武3000系電車|3000系・3050系・3070系]](16 - 18m級旧形車の更新車で、種車は3000系が3200系、3050系が5400系、3070系が5310系)
** [[東武3200系・5400系電車|3200系]](昭和初期に製造された旧デハ4形をはじめとした東武形電車、通称デッカー)
** [[東武5000系電車|5000系・5050系・5070系]](7800系の更新車)
** [[東武3200系・5400系電車|5400系]](旧デハ7形の一部とデハ1200形以降に製造された東武形電車など、通称PR)
** [[東武7300系電車|7300系]](戦後の混乱期に[[運輸省]]よる[[国鉄63系電車|国鉄63系]]の割当車、後に7800系と同系車体に更新)
** [[東武7800系電車|7800系]](7300系を基に設計された20m級4扉の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]])
* 軌道線用電車
** [[東武100形電車 (軌道)|100形]]
** [[東武200形電車 (軌道)|200形]]
* 電気機関車(本線系統・東上線系統用)
** ED3000形(旧総武鉄道[[総武鉄道デキ1形電気機関車|デキ1形]])
** ED4000形(旧[[東武ED10形電気機関車|ED10形]])
** [[東武ED4010形電気機関車|ED4010形・ED4020形]]
** [[東武ED5000形電気機関車|ED5000形]]
** [[東武ED5010形電気機関車|ED5010形・ED5050形]]
** [[東武ED5060形電気機関車|ED5060形・ED5080形]]
* 電気機関車(軌道線用) ''※下記の2形式については[[東武日光軌道線#車両]]を参照。''
** ED600形(旧国鉄[[国鉄ED40形電気機関車|ED40形]])
** [[東武ED610形電気機関車|ED610形]]
* 気動車
** [[東武キハ2000形気動車|キハ2000形]](熊谷線用)
* 蒸気機関車
** [[国鉄C11形蒸気機関車#民間向けの同形機|C112]](旧国鉄C11形)
** [[国鉄1800形蒸気機関車#譲渡|A1形(2代)]](旧国鉄1850形)
** [[国鉄2100形蒸気機関車#民間への譲渡|A2形]](旧国鉄2100形)
** [[国鉄5500形蒸気機関車#東武鉄道B1形|B1形]](自社導入機、旧国鉄5500形)
** [[国鉄5300形蒸気機関車#東武鉄道B2形|B2形]](旧国鉄5300形)
** [[国鉄5600形蒸気機関車#東武鉄道B3形|B3形]](自社導入機)
** [[国鉄5500形蒸気機関車#5650形(東武鉄道B4形)|B4形]](旧国鉄[[国鉄5500形蒸気機関車#5650形(東武鉄道B4形)|5650形]])
** [[国鉄6200形蒸気機関車|B5形]](旧国鉄6200形)
** [[国鉄6200形蒸気機関車#6250形|B6形]](旧国鉄[[国鉄6200形蒸気機関車#6250形|6250形]])
** [[国鉄5600形蒸気機関車|B7形]](旧国鉄5600形)
** [[国鉄400形蒸気機関車#東武鉄道|C1形(初代)]](旧山陽鉄道形式1)
** [[国鉄400形蒸気機関車#東武鉄道|C1形(2代)]](←C3形(初代))
** [[国鉄230形蒸気機関車|C2形(初代)]](自社導入機)
** [[国鉄400形蒸気機関車#東武鉄道|C3形(初代)]](自社導入機)
** [[国鉄400形蒸気機関車#東武鉄道|C3形(2代)]](←C1形(初代))
** C3形(3代)(旧東上鉄道A1形←国鉄[[国鉄400形蒸気機関車#400形|400形]])
* 貨車
** [[東武ホキ1形貨車|ホキ1形]]([[バラスト軌道|バラスト]]散布用)
** [[東武ヨ101形貨車|ヨ101形・ヨ201形]]([[車掌車]])
* 郵便車・荷物車
** [[東武モニ1470形電車|モニ1470形]](荷物車)
** [[東武モニ1470形電車|モユニ1490形]](郵便荷物合造車)
** [[東武モニ1470形電車|モユニ1190形]](大正14年系から改造)
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Tobu DRC kinu.jpg|かつての東武を代表する特急用車両1720系
Tobu 1800 ryomo nishiarai.jpg|「りょうもう」に使用された1800系
Tobu1800-commuter.jpg|急行形から通勤形に格下げ改造された1800系
Tobu_Railway_350_Limited_Express_Kirifuri.jpg|「きりふり」に使用された300系
Tobu 2000 2409 nishiarai.jpg|東武初の高性能車であり初代日比谷線直通車両の2000系
Tobu 2080 series set 2181 Kashiwa 199205.jpg |2000系を組み替えた2080系
Tobu 3070 3574 Nikko Line 19930504.jpg|18mの通勤形だった3000系列
Tobu 5050 5157 Tochigi 20060606.JPG|東武最後の[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]車であった5050系
Tobu Railway Deha 5-20090920-01.jpg|東武最初の電車デハ1形
Tobu-Railway-5701.jpg|登場時の5700系<br />通称「猫ひげ」
Tobu 5700 genjin train nishiarai.jpg|その後、5700系は貫通型となった
Tobu Moha 7329.JPG|[[国鉄63系電車|モハ63系]]の東武版7300系
Tobu-railway-Kiha2002-20110818.jpg|東武最後の気動車であるキハ2000形
Tobu-Railway-ED101.jpg|東武最初の電気機関車のひとつED10形
Tobu-ed5060.jpg|東武最後の電気機関車であったED5060形
Okayama tram 3005 20070505.jpg|日光軌道線の100形は[[岡山電気軌道]]で現役
Tobu-No5SteamLocomotive-a.jpg|開業時に用意された蒸気機関車B1形5号
</gallery>
=== 東武鉄道の車両を製造したメーカー ===
; [[アルナ工機|ナニワ工機]]→[[アルナ工機]]→[[アルナ車両]]
: [[阪急阪神東宝グループ]]の企業。元々初代・嘉一郎と[[阪急電鉄]]の創業者・[[小林一三]]の間に親交があったことから、[[1951年]](昭和26年)の[[東武5700系電車|5700系]]を皮切りに取引が始まり、以後[[東武100系電車|100系]](スペーシア)・[[東武1720系電車|1720系]] (DRC)、[[東武1800系電車|1800系]]・[[東武2000系電車|2000系]]・[[東武8000系電車|8000系]]・[[東武9000系電車|9000型]]・[[東武10000系電車|10000型]]・[[東武20000系電車|20000型]]・[[東武30000系電車|30000系]]を竣工。なおかつ新形式を起こす場合、その初号編成をアルナに発注していた(9000型は最初の10両中4両を担当)。また、[[東武7800系電車|7800系]]から[[東武5000系電車|5050系・5070系]]への車体更新、6000系から6050系への車体更新、1720系から[[東武200系電車|200型]]への更新、そして1800系から[[東武300系電車|300型・350型]]への改造工事も同社が行った。
: [[バブル崩壊]]以降、阪急の業績不振もあり、2001年度に同社は[[債務超過]]に陥り、鉄道車両製造から撤退。新たに設立されたアルナ車両へ[[路面電車]]製造および車両更新工事の事業を引き継いだ。現在でも8000系・10000型のリニューアル工事で津覇がアルナ車両の下請けの形を取るなど細々と関係が続いている。
; [[東急車輛製造]]<ref group="注釈">東急車輛製造は2014年に横浜金沢プロパティーズに商号変更し、2016年10月1日に東京急行電鉄(現・[[東急]])に吸収合併。</ref>(現事業・[[総合車両製作所]]<ref group="注釈">旧・新東急車輛</ref>)
: [[東急グループ]]の企業で、取引は1954年(昭和29年)熊谷線の[[気動車]][[東武キハ2000形気動車|キハ2000形]]・7800系の製造より始まった。以後他の車両製造はしなかったが1973年の8000系から製造を始め、100系・200型・[[東武6050系電車|6050系]]・9000型・10000型・20000型・30000系などを竣工した。同社は早くから[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[バッド (車両メーカー)|バッド]]社 (The Budd Company) と技術提携し、[[ステンレス鋼|ステンレス]]車両製造を行っている。東武初のステンレス車9000型の製造を手掛けたのも同社である。30000系製造終了以後は新車取引がないが、総合車両製作所発足直後に6050系のうち4両が横浜事業所に入場し<ref>{{Cite news |title=東武6050系2連2本が総合車両製作所へ |newspaper=railf.jp |date=2012-04-05 |author=石丸純也 |url=http://railf.jp/news/2012/04/05/152800.html |accessdate=2012年6月25日}}</ref>、634型「スカイツリートレイン」に改造された。
; 宇都宮車両→富士重工業(現・[[SUBARU]])
: 宇都宮線[[江曽島駅]] - [[南宇都宮駅]]間にある宇都宮製作所で気動車中心に鉄道車両を竣工していた(電車は黎明期を除き東武向けのみ)。宇都宮車両時代の1949年から1954年にかけて、国電戦災復旧車クハ450形、木造客車を鋼体化したクハ500形やクハ550形などの制御車、7800系の一部、日光軌道線の100形・200形を竣工。1965年の8000系2R車(2両編成)から取引が復活し、2000系(中間車)・6050系・9000型・10000型・30000系などの電車、ホキ1形・トキ1形・ワラ1形などの貨車を製造した。また、7800系から5070系への車体更新も行った。
: しかし生産両数の減少から、同社は[[自動車]]部門([[SUBARU (自動車)|スバル]])と航空宇宙部門(米[[ボーイング]]社向け分担生産等)へ経営資源の集中を決定、2003年2月に[[新潟トランシス]]へ鉄道車両事業を譲渡した。また、同時期に撤退した[[スバルカスタマイズ工房|バス車体部門]]も伊勢崎市に工場があり、[[東武バス]]向けに多数製作した。
; [[日立製作所]]
: 電気機関車のED5010形やED5050形・7800系を竣工後、長い間取引がなかった。ただし、制御装置など電装品での取引は長らくあった。アルナ工機の鉄道車両事業の事実上の受け皿になったことをきっかけに、2004年の50000型から取引再開。50000系列と60000系の全車が同社[[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]]で竣工したほか、N100系(スペーシアX)も日立に発注されている。また、9000型・9050型の副都心線乗り入れに伴う改造工事を[[日本電装 (埼玉県)|日本電装]]と、20000系列の栃木地区転用に伴う改造工事を津覇とともに行った(後述)。施工車両には日立と日本電装、または津覇の連名のプレートが取り付けられている。
; [[日本車輌製造]]
: [[愛知県]][[名古屋市]]に本社を置く[[東海旅客鉄道|JR東海]]グループの会社。[[1971年]](昭和46年)まで埼玉県[[蕨市]]に東京支店工場(蕨工場)があり、短距離の甲種輸送で済むため東武鉄道との取引が多かった。本線は北千住、東上本線は下板橋([[赤羽線]][[板橋駅]]を介していた)と川越([[川越線|国鉄川越線]]は当時非電化で大宮 - 川越間は蒸気機関車9600形やディーゼル機関車DE10形などで牽引していた)で引き渡していた。黎明期の客車を始め、東武最初の電車デハ1形、東武形電車デハ4形 - 6形・デハ10系・運輸省規格形モハ5300形やクハ330形、戦後に木造客車を鋼体化したクハ500形・63系割当車[[東武7300系電車|7300系]]・5700系・7800系・1720系・1800系・6000系・8000系ほか、総武鉄道からの編入車モハニ1101形やクハ1201形などを竣工したが、東京支店工場閉鎖後はアルナや富士重工・東急車輛に注文が流れ、取引が無くなった。
; [[汽車製造]](汽車会社)
: 東京都[[江東区]]に東京支店(工場)があった関係上、日車同様甲種輸送には短距離で済むため取引が多かった。デハ2形・ デハ4形 - 6形・デハ10系・戦時規格統制形クハ1200形・運輸省規格形モハ5300形・5700系・7800系と[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け]]車を中心に竣工し、1963年の8000系2編成(8104F・8105F)をもって取引が終了した。なお、同社は1972年に[[川崎重工業]]に吸収合併された。
; 川崎重工業→[[川崎車両]](旧:川崎造船所、川崎車輛)
: [[兵庫県]][[神戸市]]に本社を置く。1927年から翌年にかけてデハ4形 - 6形の一部のほか、下野電気鉄道からの編入車デハニ101形や、63系割当車7300系を製造した。他社向けとは違いいわゆる“川造型”の納入はなかった。2016年度<!-- ←製造年(営業運転はその後の2017年春)-->から、久々の川重での東武向け新造車両となる500系を製造している<ref>[http://www.khi.co.jp/news/detail/20150422_1.html 東武鉄道向け新型特急電車の製作者に決定] - 川崎重工業、2015年4月22日</ref>。
; [[近畿車輛]]
: [[大阪府]][[東大阪市]]にある[[近鉄グループ]]の企業。日比谷線直通用車両70000系を東京メトロ13000系と一括で受注し全車製造した<ref name="kinkisharyo20150617">[http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news150617.htm 東武鉄道株式会社殿東武スカイツリーライン新型車両(東京メトロ日比谷線相互直通運転車両)の製作者に決定しました] - 近畿車輛、2015年6月17日</ref>([[東京メトロ13000系電車#概要]]も参照)。
; [[東芝]](旧:東京芝浦電気)
: いずれも電気機関車で、東芝戦時形のED4010形やED4020形、箱型機のED5000形・ED5060形・ED5080形を竣工した。電装品では車両空調装置や30000系の運転台製作を担当している。
; [[東洋電機製造]]
: 日光軌道線の電気機関車ED610形を竣工した(車体は[[東洋工機]]が担当)。主に電装品を担当し、パンタグラフや、7800系・20000型・9050型では制御装置やモーターなどを総合的に関与、8000系など日立製制御装置搭載車ではモーターを担当。
; [[大栄車輌]]
: 運輸省規格形クハ330形の一部および[[東武3000系電車|3000系]]を竣工した。そのほか東武に譲受された国電の戦災車や事故車の復旧を行った。
; [[津覇車輌工業]]
: 旧西新井工場で東武車両の改造や更新作業を行ってきた特殊車両製造会社だが、東武系の企業ではない。7300系の更新、16 - 18m級旧形電車の3000系への更新、7800系の[[東武5000系電車|5000系]]への更新、8000系の冷房化改造や車体修繕工事などを手掛けた。
: 2004年に西新井工場を閉鎖し、館林へ移転後は8000系・10000型・20000型の車体修繕工事を行っている。なお、車体修繕工事は前述のアルナ車両あるいは日立と合同で受注しているため、車内製造[[銘板]]は2社の企業名が表記される。
=== 車両について付記 ===
* [[鉄道車両の台車|台車]]は、メーカー形式とは別に東武社内形式を付与している。例えば「TRS-81M」(メーカー形式FS-511)の場合、TRが台車を示し、Sは製造会社(S:[[住友金属工業]]→新日鐵住金→[[日本製鉄]]、F:扶桑金属工業=住友金属工業の前身、K:汽車会社、T:東芝、H:日立)、数字は設計年の西暦の下2桁(81は[[1981年]]を示す)、Mは電動台車を示し、同型の付随台車はMをTに置き換える。なお数字の部分は同じ年に違うメーカー形式の台車が登場した場合には数字の末尾にさらに1、2を加えて3桁にする<ref>出典:[[鉄道ダイヤ情報]] No.59 1989年3月号 P.42</ref>。社内形式を台車に付与する事例は[[東京都交通局]]にも見られる。
* 古い車両形式を中心に、5700系を「57系」、7800系を「78系」など上2桁で表記・呼称することが、[[鉄道雑誌|鉄道趣味誌]]および趣味者においてなされる例がある。
=== 付番方法について ===
本節では、100系以降の特急用車両と10000型以降の通勤形車両の付番方法について記述する。
==== 特急形車両・800型・850型 ====
{| class="wikitable" style="white-space:nowrap; text-align:center;"
|-
|モハ||1||01||-||1
|-
|↑||↑||↑|| ||↑
|-
|A||B||C|| ||D
|}
*A:車種を表す。制御車は「クハ」、付随車は「サハ」と区別されるが、動力車は運転席の有無にかかわらず「モハ」としている。
*B:系列を表わす。2019年10月現在、1から3と5・8が存在する。
** 800型・850型は通勤形であるが、例外的に特急形と同じ付番法則が適用されている。
*C:編成番号を表わす。通常は「01」から始まるが、仕様の違いで50番台などに区分されることがある。
*D:連結位置を表す。浅草方の先頭車を「1」とする。
==== 通勤形車両 ====
{| class="wikitable" style="white-space:nowrap; text-align:center;"
|-
|モハ||3||2||6||01
|-
|↑||↑||↑||↑||↑
|-
|A||B||C||D||E
|}
*A:特急形と同じく車種を表す。
*B:特急形と同じく系列を表わす。2019年10月現在、1から3と5から7が存在する。
*C:連結位置を表す。浅草・池袋・柏方の先頭車を「1」とする。10両固定編成の伊勢崎・寄居方の先頭車は「0」とする。
*D:編成の長さを表す。10両固定編成は「0」とする。
**なお、東上線に転属した30000系は10両固定編成化がなされているが、C・Dの番号は変更されていない。
*E:編成番号を表わす。通常は「01」から始まるが、仕様の違いで30番台・50番台などに区分される場合がある。
**10080型は試作的要素が強かったため、「81」ではなく「80」が付けられた。
== 車両基地・工場 ==
[[File:TOBU railway's Multiple Tie Tamper.jpg|thumb|300px|東武鉄道の[[マルチプルタイタンパー]](東上本線[[朝霞駅]]にて)]]
[[File:TOBU railway's Ballast sweeper.jpg|thumb|300px|東武鉄道のバラストスイーパー(東上本線朝霞駅にて)]]
* [[南栗橋車両管区]] - 本線系統所属車両の検修。伊勢崎線・日光線の車両を配置
** 春日部支所 - 伊勢崎線・日光線・亀戸線・大師線の車両を配置、検修
** [[南栗橋車両管区七光台支所|七光台支所]] - 野田線の車両を配置、検修
** 館林出張所 - 伊勢崎線(ワンマン区間用)・佐野線・小泉線・桐生線の車両を配置
** 新栃木出張所 - 宇都宮線・鬼怒川線の車両を配置
* [[下今市機関区]] - 鬼怒川線の「SL大樹」用の車両を配置
* [[森林公園検修区]] - 東上線所属車両の検修。東上本線・越生線の車両を配置
* [[南栗橋車両管区|南栗橋工場]] - 本線系統の全車両、および東上線系統の全車両の検査
* [[北館林荷扱所|資材管理センター北館林車両解体場]] - 廃車車両の[[解体]]
本線系統には、長い間在姿形車輪削正[[旋盤]](車両から台車や車輪を外さず削正を行う旋盤で、作業完了後すぐに営業運転が可能)が春日部検修区(現南栗橋車両管区春日部支所)の1台しかなく、南栗橋車両管区との2台体制になるまで、削正が追い付かない事態が続いていた。野田線車両の場合、七光台支所構内に削正旋盤がないため南栗橋車両管区まで回送して削正している。
=== かつて存在した車両基地・工場 ===
* 西新井電車区(現・東京メトロ[[千住検車区竹ノ塚分室]])
* 春日部検修区(現・南栗橋車両管区春日部支所)
* 七光台検修区(現・南栗橋車両管区七光台支所)
* 館林検修区(現・南栗橋車両管区館林出張所)
* 新栃木検修区(現・南栗橋車両管区新栃木出張所)
* 川越電車庫(森林公園検修区へ移転)
* [[東武鉄道浅草工場|浅草工場]]
* [[東武鉄道西新井工場|西新井工場]]
* [[東武鉄道杉戸工場|杉戸工場]]
* [[東武鉄道川越工場|川越工場]](2020年に廃止)
* 館林機関区
* 杉戸機関区
** 杉戸機関区妻沼派出所
* 坂戸機関区
== 乗務員区所 ==
; 本線
:* 業平橋乗務管区
:* 春日部乗務管区
:* 館林乗務管区
:* 南栗橋乗務管区
:**下今市機関区
; 野田線
:* 七光台乗務管区
; 東上線・越生線
:* 川越乗務管区
:* 森林公園乗務管区
=== かつて存在した乗務員区所 ===
; 本線
:* 新栃木乗務管区
; 東上線
:* 志木乗務管区
== 保安設備 ==
* 乗り入れ計画があった[[東京都交通局]]と共同開発したTSP形ATS(東武型多情報変周関数制御式自動列車停止装置)を東上本線以外の全ての路線で使用している。東上本線については、[[ワンマン運転]]区間となる小川町駅 - 寄居駅間と支線の越生線のみATSを使用し、池袋駅 - 小川町駅間では後述のATCを使用している。このため、ワンマン運転車両を含め東上線の車両の運転台はATSもATCも使える統合運転台で、東上線所属車は東武本線をそのまま走れるが、東武本線所属車は東上線を走れるのは小川町駅 - 寄居駅駅間と越生線坂戸駅 - 越生駅間のみである。詳細は「[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|自動列車停止装置]]」の同項目を参照。
* 東上本線では、[[自動列車制御装置]] (ATC) が、2015年1月31日には川越市駅 - 小川町駅間に、同年6月13日には和光市駅 - 川越市駅間に、9月26日には池袋駅 - 和光市駅間に導入され使用を開始した。これにより、東上本線の池袋駅 - 小川町駅間でのATC導入が完了した。
== 運賃 ==
大人普通旅客[[運賃]](小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]による料金10円の加算を含む。2023年(令和5年)3月18日改定<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道駅バリアフリー料金(3月18日より運賃に加算して収受する料金)について |publisher=東武鉄道 |url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/20230308173821gOeil5pz8zABtXdhXxcI8g.pdf |format=PDF |accessdate=2023-03-20}}</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
!rowspan="2" style="width:6em;"| キロ程
!style="text-align:center;" colspan="2"| 運賃(円)
!rowspan="2" style="width:6em;"| キロ程
!style="text-align:center;" colspan="2"| 運賃(円)
|-
! ICカード !! 切符利用 !! ICカード !! 切符利用
|-
|初乗り4km||style="text-align:right;"|157||style="text-align:right;"|160||46 - 50||style="text-align:right;"|670||style="text-align:right;"|670
|-
|5 - 7||style="text-align:right;"|178||style="text-align:right;"|180||51 - 60||style="text-align:right;"|743||style="text-align:right;"|750
|-
|8 - 10||style="text-align:right;"|209||style="text-align:right;"|210||61 - 70||style="text-align:right;"|827||style="text-align:right;"|830
|-
|11 - 15||style="text-align:right;"|261||style="text-align:right;"|270||71 - 80||style="text-align:right;"|912||style="text-align:right;"|920
|-
|16 - 20||style="text-align:right;"|324||style="text-align:right;"|330||81 - 90||style="text-align:right;"|995||style="text-align:right;"|1,000
|-
|21 - 25||style="text-align:right;"|377||style="text-align:right;"|380||91 - 100||style="text-align:right;"|1,089||style="text-align:right;"|1,090
|-
|26 - 30||style="text-align:right;"|429||style="text-align:right;"|430||101 - 120||style="text-align:right;"|1,225||style="text-align:right;"|1,230
|-
|31 - 35||style="text-align:right;"|481||style="text-align:right;"|490||121 - 140||style="text-align:right;"|1,393||style="text-align:right;"|1,400
|-
|36 - 40||style="text-align:right;"|534||style="text-align:right;"|540||141 - 178||style="text-align:right;"|1,581||style="text-align:right;"|1,590
|-
|41 - 45||style="text-align:right;"|607||style="text-align:right;"|610||colspan="3"|
|}
* 東武鉄道では、[[JR|JRグループ]]の[[地方交通線]]や[[近畿日本鉄道]]などが設定している、閑散線区等の割増賃率・擬制キロ程制度を採用せず、一律の運賃表を適用する。ただし、運賃計算に実際の距離とは異なるキロ程を用いる区間として、[[東武小泉線|小泉線]]館林駅 - 太田駅間には、同区間において距離の長い伊勢崎線経由のキロ程と同じになるよう調整された営業キロが設定されている。
* JR東日本との[[連絡運輸|通過連絡運輸]](JR線→東武鉄道→JR線と乗り継ぐ場合に前後のJR線の営業キロを合算する特例)が数多く設定されていたが、[[2007年]][[3月17日]]分を以ってそのすべてが廃止となった。その後、通算の適用はないが単純に2区間のJR線を含む連絡定期券に限り復活している<ref name="renraku-teiki" />。
<!-- 東武ワールドスクウェア駅・みなみ寄居駅の割引運賃は廃止済み。駅記事参照。 -->
=== 乗継割引 ===
* 東京メトロ線、都営地下鉄線、京成線、西武線とは、双方の会社線から10円を割引額として差し引いた片道普通乗車券を発売する。
** 小児は双方の会社線から5円を割引額として差し引き、端数計算はしない。
* 東日本旅客鉄道線とは、双方の会社線から10円を割引額として差し引いた片道普通乗車券を発売する。
** 小児は東武線から5円を割引額として差し引き、10円未満の端数は切り捨てる。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; font-size:95%;"
|-
!colspan="5"|乗継割引適用区間<ref>[https://www.tobu.co.jp/railway/ticket/other/regulation/ 運輸約款] - 東武鉄道</ref>
!rowspan="2"|割引額
|-
! 路線 !! 駅 !! 接続駅 !! 接続路線 !! 乗継割引適用駅
|-
| 伊勢崎線 || とうきょうスカイツリー駅 - 東向島駅 || rowspan="2"|浅草駅 || [[東京メトロ銀座線]] || 田原町駅・稲荷町駅
| rowspan="2"|'''20円'''
|-
| 亀戸線 || 小村井駅 || [[都営地下鉄浅草線]]<br/>[[都営地下鉄大江戸線]] || 浅草橋駅 - 押上駅<br/>両国駅・新御徒町駅
|-
| 伊勢崎線 || 曳舟駅 - 鐘ヶ淵駅 || rowspan="2"|押上駅 || rowspan="2"|[[東京メトロ半蔵門線]] || rowspan="2"|錦糸町駅・住吉駅
| rowspan="2"|'''20円'''
|-
| 亀戸線 || 小村井駅 - 亀戸水神駅
|-
| rowspan="3"|伊勢崎線 || 曳舟駅 - 五反野駅 || 牛田駅(京成関屋駅) || [[京成本線]] || 町屋駅 - お花茶屋駅
| '''20円'''
|-
| rowspan="2"|東向島駅 - 梅島駅 || rowspan="2"|北千住駅 || [[東京メトロ日比谷線]] || 南千住駅・三ノ輪駅
| rowspan="2"|'''20円'''
|-
| [[東京メトロ千代田線]] || 西日暮里駅 - 北綾瀬駅
|-
| 亀戸線 || 曳舟駅 - 亀戸水神駅 || 亀戸駅 || [[総武本線]] || 両国駅 - 平井駅
| '''10円'''
|-
| rowspan="5"|野田線 || rowspan="3"|北大宮駅 - 大和田駅 || rowspan="3"|大宮駅 || [[東北本線]]([[京浜東北線]]) || さいたま新都心駅・与野駅
| rowspan="5"|'''10円'''
|-
| 東北本線([[埼京線]]) || 北与野駅・与野本町駅
|-
| 東北本線([[宇都宮線]]) || 土呂駅
|-
| 初石駅 - 増尾駅 || 柏駅 || [[常磐線]] || 南柏駅・北柏駅
|-
| 塚田駅・新船橋駅 || 船橋駅 || 総武本線 || 西船橋駅・東船橋駅
|-
| rowspan="7"|東上本線 || rowspan="6"|北池袋駅 - 中板橋駅 || rowspan="6"|池袋駅 || [[東京メトロ丸ノ内線]] || 新大塚駅・茗荷谷駅
| rowspan="4"|'''20円'''
|-
| [[東京メトロ有楽町線]] || 護国寺駅 - 千川駅
|-
| [[東京メトロ副都心線]] || 西早稲田駅 - 千川駅
|-
| [[西武池袋線]] || 東長崎駅・椎名町駅
|-
| [[山手線]] || 高田馬場駅 - 巣鴨駅
| rowspan="2"|'''10円'''
|-
| [[赤羽線]](埼京線) || 板橋駅
|-
| 朝霞駅・朝霞台駅 || 和光市駅 || 東京メトロ有楽町線 || 地下鉄成増駅・地下鉄赤塚駅
| '''20円'''
|}
=== トブポマイル ===
2021年9月30日に普通回数乗車券を廃止したのと引き換えに、翌10月1日より普通運賃のポイント還元制度「トブポマイル」を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1338139.html|title=東武線乗車でマイルが貯まる「トブポマイル」。運賃の最大15%|publisher=Impress Watch|date=2021-07-14|accessdate=2021-12-31}}</ref>。
トブポマイルを利用するには、
*スマートフォンにTOBU POINTアプリをインストールする
*PASMOカード・モバイルPASMO(Android、またはApple Pay)をTOBU POINTアプリに登録する
以上2点が前提となる(Suicaは対応していない)。
トブポマイルには2つの制度がある。
*おでかけマイル - モバイルPASMOでの1乗車につき、運賃の3%(端数切り捨て)のマイルを付与
*リピートマイル - 同一運賃区間<ref group="注釈">運賃が同一であれば、違う区間でも構わない</ref>を同月に8回以上利用した場合、月間の利用回数分の総運賃額(運賃×利用回数)に対しマイルを付与。料率は8 - 15回で4%、16 - 23回で8%、24回以上では12%となる。
貯めたマイルは、1マイル=1円でPASMOにチャージするか、TOBU POINTに1マイル=1.1ポイントの割合で交換して東武グループの商業施設で利用できる。
=== 二区間定期券 ===
<!-- 東武では「二区間定期券」と呼んでいます。西武と同じではありません。公式リリースの別紙参照 -->
2011年3月16日から1枚の定期券で2つのルートが利用できる二区間定期券が発売されている。池袋駅経由のPASMO定期券で東武東上線池袋駅 - 和光市駅間と東京メトロ有楽町線・副都心線池袋駅 - 和光市駅間が利用できる。購入金額は東武東上線[[朝霞駅|朝霞]]方面 - 池袋駅間の定期運賃と東京メトロ和光市 - 東京メトロ[[東池袋駅|東池袋]]・[[雑司が谷駅|雑司が谷]]・[[新大塚駅|新大塚]]方面の定期運賃の合算額となる<ref>{{Cite press release |和書 |title=池袋〜和光市間で東武線・東京メトロ線の両方に乗車できる便利な定期券をPASMOで発売します! |publisher=東武鉄道 |date=2011年2月21日 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/9d5bf3753513c4d67ed88b32100c5306/110221_2.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-02}}</ref>。名称は「二東流」(にとうりゅう)。
=== 乗車カード・企画乗車券 ===
詳細は以下の各項目を参照。<!-- カード類は単に東武線が利用可能なものではなく“東武からも発売”しているもの/いたもの。-->
* [[パスネット]] - 発売終了
* [[PASMO]]
* [[会津往復 列車たびきっぷ]](終了)
* [[東武東京メトロパス]]
* まるごと日光・鬼怒川フリーパス
* まるごと日光フリーパス
* [[まるごと鬼怒川フリーパス]]
* [[JR・東武 日光・鬼怒川往復きっぷ]]
* [[浅草下町フリーきっぷ]]
* [[ふらっと両毛 東武フリーパス]]
* [[東武動物公園きっぷ]]
* スーパープールきっぷ
* [[東武鉄道#乗車カード・企画乗車券|東武ワールドスクウェアクーポン]]
* [[TOKYO探索きっぷ]] - 発売終了
* 空の旅おでかけキップ - 発売終了
* ゆったり会津 東武フリーパス
* [[埼玉県民の日フリー乗車券 (東武鉄道)|埼玉県民の日フリー乗車券]]
以下の企画乗車券は東武トップツアーズ各店でのみ発売
* [[プレミアム日光・鬼怒川 東武フリーパス]] - 春季から秋季限定
* [[羽田空港発まるごと日光・鬼怒川フリーパス]]
* [[羽田空港発まるごと日光フリーパス]]
* [[羽田空港発まるごと鬼怒川フリーパス]]
* [[日光・鬼怒川レンタカークーポン]]
* [[日光・鬼怒川グループ旅行クーポン|日光・鬼怒川グループ旅行クーポン タクシープラン]]
* 日光・鬼怒川グループ旅行クーポン バスプラン
* [[東武鉄道夜行列車|尾瀬夜行]] - 夏季限定発売
* [[東武鉄道夜行列車|スノーパル]] - 冬季限定発売
* 外国人旅行者向けお得乗車券
* 栃木蔵の街クーポン
東上線関係の企画乗車券は「[[東武東上本線#企画乗車券]]」を参照。
== 一日平均乗降人員上位30駅 ==
2020年度は [http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)|企業情報] より。それ以外は [http://www.train-media.net/index.html 関東交通広告協議会]、[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]、[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑]、[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] より。
{{↑}}・{{↓}}は、右欄の乗降人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。
* とうきょうスカイツリー駅と押上駅は同一駅とみなす。
{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:right;"
|-
!style="width:1em;"|順位
!style="width:12em;"|駅名
!style="width:6em;"|路線名
!style="width:8em;"|所在地
!style="width:6em;"|2020年度
!style="width:6em;"|2015年度
!style="width:6em;"|2010年度
!style="width:6em;"|2005年度
!style="width:6em;"|2000年度
!特記事項
|-
!1
|style="text-align:left;"|[[北千住駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|[[東京都]][[足立区]]
|{{↓}} 334,111
|{{↑}} 443,950
|{{↓}} 434,524
|{{↓}} 441,157
|466,279
|style="text-align:left;"|本線系統の駅として第1位。<br />[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]との直通人員を含む。<br />(各社局線総合では世界第6位)
|-
!2
|style="text-align:left;"|[[池袋駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|東京都[[豊島区]]
|{{↓}} 330,544
|{{↑}} 477,834
|{{↓}} 467,770
|{{↓}} 511,231
|540,167
|style="text-align:left;"|東上線系統の駅として第1位。<br />(各社局線総合では世界第3位)
|-
!3
|style="text-align:left;"|[[和光市駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|[[埼玉県]][[和光市]]
|{{↓}} 129,324
|{{↑}} 167,949
|{{↑}} 157,212
|{{↑}} 120,982
|115,002
|style="text-align:left;"|[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]、[[東京メトロ副都心線|副都心線]]との直通人員を含む。
|-
!4
|style="text-align:left;"|[[朝霞台駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[朝霞市]]
|{{↓}} 119,009
|{{↑}} 158,140
|{{↑}} 146,178
|{{↑}} 130,025
|122,307
|style="text-align:left;"|
|-
!5
|style="text-align:left;"|[[新越谷駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[越谷市]]
|{{↓}} 112,019
|{{↑}} 147,994
|{{↑}} 134,209
|{{↑}} 121,043
|109,613
|style="text-align:left;"|
|-
!6
|style="text-align:left;"|[[柏駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#33cccc|■}}野田線
|style="text-align:left;"|[[千葉県]][[柏市]]
|{{↓}} 111,864
|{{↑}} 142,795
|{{↓}} 137,213
|{{↓}} 152,017
|172,687
|style="text-align:left;"|
|-
!7
|style="text-align:left;"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#33cccc|■}}野田線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[さいたま市]][[大宮区]]
|{{↓}} 101,472
|{{↑}} 133,706
|{{↑}} 131,977
|{{↓}} 129,757
|133,987
|style="text-align:left;"|
|-
!8
|style="text-align:left;"|[[船橋駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#33cccc|■}}野田線
|style="text-align:left;"|千葉県[[船橋市]]
|{{↓}} 89,646
|{{↑}} 113,347
|{{↑}} 107,712
|{{↑}} 103,895
|103,456
|style="text-align:left;"|
|-
!9
|style="text-align:left;"|[[川越駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[川越市]]
|{{↓}} 87,676
|{{↑}} 128,021
|{{↑}} 121,558
|{{↑}} 116,615
|115,288
|style="text-align:left;"|
|-
!10
|style="text-align:left;"|[[とうきょうスカイツリー駅]]<br />[[押上駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|東京都[[墨田区]]
|{{↓}} 87,204
|{{↑}} 111,477
|{{↑}} 85,122
|{{↑}} 55,114
|12,907
|style="text-align:left;"|[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]との直通人員を含む。
|-
!11
|style="text-align:left;"|[[志木駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[新座市]]
|{{↓}} 77,230
|{{↑}} 103,074
|{{↑}} 99,752
|{{↑}} 94,714
|94,336
|style="text-align:left;"|他路線と接続しない単独駅として第1位。
|-
!12
|style="text-align:left;"|[[草加駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[草加市]]
|{{↓}} 68,850
|{{↑}} 84,674
|{{↓}} 79,327
|{{↑}} 79,915
|78,586
|
|-
!13
|style="text-align:left;"|[[竹ノ塚駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|東京都足立区
|{{↓}} 56,198
|{{↓}} 72,473
|{{↓}} 73,179
|{{↓}} 80,968
|84,399
|style="text-align:left;"|
|-
!14
|style="text-align:left;"|[[朝霞駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|埼玉県朝霞市
|{{↓}} 55,069
|{{↑}} 66,102
|{{↑}} 61,358
|{{↓}} 56,540
|59,129
|style="text-align:left;"|
|-
!15
|style="text-align:left;"|[[春日部駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線<br />{{Color|#33cccc|■}}野田線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[春日部市]]
|{{↓}} 53,824
|{{↑}} 73,634
|{{↑}} 71,063
|{{↓}} 68,184
|72,988
|style="text-align:left;"|
|-
!16
|style="text-align:left;"|[[西新井駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線<br />{{Color|#0f6cc3|■}}大師線
|style="text-align:left;"|東京都足立区
|{{↓}} 51,624
|{{↑}} 64,664
|{{↑}} 61,166
|{{↑}} 51,567
|51,282
|style="text-align:left;"|
|-
!17
|style="text-align:left;"|[[ふじみ野駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[富士見市]]
|{{↓}} 49,477
|{{↑}} 65,874
|{{↑}} 61,542
|{{↑}} 54,702
|48,115
|style="text-align:left;"|
|-
!18
|style="text-align:left;"|[[流山おおたかの森駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#33cccc|■}}野田線
|style="text-align:left;"|千葉県[[流山市]]
|{{↓}} 45,043
|{{↑}} 53,422
|{{↑}} 46,998
|{{↑}} 22,664
| -
|style="text-align:left;"|2005年開業。
|-
!19
|style="text-align:left;"|[[成増駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|東京都[[板橋区]]
|{{↓}} 45,033
|{{↓}} 58,426
|{{↓}} 58,944
|{{↓}} 64,086
|68,304
|style="text-align:left;"|
|-
!20
|style="text-align:left;"|[[上福岡駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[ふじみ野市]]
|{{↓}} 43,833
|{{↑}} 55,979
|{{↓}} 53,166
|{{↓}} 54,045
|60,013
|style="text-align:left;"|
|-
!21
|style="text-align:left;"|[[東武練馬駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|東京都板橋区
|{{↓}} 43,823
|{{↑}} 59,910
|{{↑}} 58,875
|{{↑}} 56,295
|54,745
|style="text-align:left;"|
|-
!22
|style="text-align:left;"|[[せんげん台駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|埼玉県越谷市
|{{↓}} 42,937
|{{↓}} 60,147
|{{↓}} 60,497
|{{↓}} 61,401
|62,176
|style="text-align:left;"|
|-
!23
|style="text-align:left;"|[[上板橋駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|東京都板橋区
|{{↓}} 40,240
|{{↑}} 50,739
|{{↓}} 48,882
|{{↓}} 49,688
|54,155
|style="text-align:left;"|
|-
!24
|style="text-align:left;"|[[大山駅 (東京都)|大山駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|東京都板橋区
|{{↓}} 39,845
|{{↑}} 50,539
|{{↓}} 46,727
|{{↓}} 48,098
|49,878
|style="text-align:left;"|
|-
!25
|style="text-align:left;"|[[越谷駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|埼玉県越谷市
|{{↓}} 39,752
|{{↑}} 48,829
|{{↑}} 44,993
|{{↓}} 44,491
|49,008
|style="text-align:left;"|
|-
!26
|style="text-align:left;"|[[獨協大学前駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|埼玉県草加市
|{{↓}} 39,657
|{{↑}} 56,266
|{{↓}} 53,970
|{{↓}} 54,850
|57,640
|style="text-align:left;"|
|-
!27
|style="text-align:left;"|[[鶴瀬駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|埼玉県富士見市
|{{↓}} 38,982
|{{↑}} 48,844
|{{↑}} 40,813
|{{↓}} 40,298
|44,795
|style="text-align:left;"|
|-
!28
|style="text-align:left;"|[[北越谷駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#0f6cc3|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|埼玉県越谷市
|{{↓}} 36,790
|{{↑}} 54,022
|{{↑}} 51,937
|{{↑}} 49,916
|46,505
|style="text-align:left;"|
|-
!29
|style="text-align:left;"|[[久喜駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#ff0000|■}}伊勢崎線
|style="text-align:left;"|埼玉県[[久喜市]]
|{{↓}} 36,669
|{{↑}} 51,441
|{{↑}} 49,338
|{{↓}} 43,211
|44,257
|style="text-align:left;"|
|-
!30
|style="text-align:left;"|[[ときわ台駅 (東京都)|ときわ台駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#004098|■}}東上本線
|style="text-align:left;"|東京都板橋区
|{{↓}} 35,856
|{{↑}} 47,966
|{{↓}} 46,297
|{{↓}} 48,225
|48,770
|style="text-align:left;"|
|-
|}
本線系統は北千住駅が、東上線系統は池袋駅が突出して乗降人員が多く、この2駅が東武鉄道のメイン[[ターミナル駅]]である。また、本線系統は北千住駅と押上駅で、東上線系統は和光市駅で東京メトロ線に相互直通運転を行っており、それぞれ東京[[都心]]方面の利便性と冗長性を確保している。
本線系統の始発駅である浅草駅は、1990年代前半に一日平均乗降人員が10万人を越えていた時期があった。当時は北千住駅が構造上の理由で[[ラッシュ時]]に乗換客で飽和状態になり、その対策として浅草駅経由の迂回定期券が発行されていた時代であり、下りの特急列車も北千住駅を全列車が通過していた。1997年に北千住駅の改良工事が完了すると、特急列車が北千住駅に全列車停車するようになり、迂回定期券も廃止された。2003年に半蔵門線との直通運転を開始したことでバイパス路線が充実し、乗降人員はピーク時の半分以下まで減少している。一方、浅草駅の隣駅であるとうきょうスカイツリー駅は、運賃計算上は半蔵門線との接続駅である押上駅と同一駅扱いとなる関係で半蔵門線との直通運転開始を機に乗降人員が大幅に増加し、東京スカイツリーが開業した2012年度に一日平均乗降人員が10万人を超えた。
上位20位の中で大半を占めるのは東京都と埼玉県に所在する駅である。武蔵野線と接続する朝霞台駅、新越谷駅は両駅とも一日平均乗降人員が11万人前後であり、2000年代後半以降は増加傾向が続いている。また、志木駅は他路線と接続しない単独駅でありながら一日平均乗降人員が7万人を超えている。竹ノ塚駅は2007年度まで乗降人員が8万人を超えていたが、[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]の開業を機に乗降人員が減少した。
野田線はJR線と接続する大宮駅、柏駅で一日平均乗降人員がそれぞれ10万人を超えている。このうち柏駅は2004年度まで一日平均乗降人員が16万人を超えていたが、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス線]]の開業を機に乗降人員が減少した。
また、群馬県と栃木県の駅でかつて一日平均乗降人員が1万人を超えていたのは[[太田駅 (群馬県)|太田駅]]、[[館林駅]]、[[栃木駅]]の3駅であったが、2020年度は3駅とも1万人を下回った。2014年度までは[[東武宇都宮駅]]も1万人を超えていた。1998年度までは[[足利市駅]]も一日平均乗降人員が1万人を超えていたが、減少傾向に歯止めがかからず、2008年度に7千人を下回った。
== その他 ==
=== 運転・ダイヤ ===
* 東武鉄道が乗り入れる事業者数は7事業者(東京メトロ・野岩鉄道・会津鉄道・東急電鉄・横浜高速鉄道・[[相模鉄道]]・JR東日本)で、私鉄では東京メトロの9事業者(東武鉄道・東急電鉄・JR東日本・[[西武鉄道]]・[[小田急電鉄]]・[[東葉高速鉄道]]・[[埼玉高速鉄道]]・横浜高速鉄道・相模鉄道)に次ぐ第2位である。これは[[都営地下鉄]](京成電鉄・[[北総鉄道]]・[[芝山鉄道]]・[[京浜急行電鉄]]・東急電鉄・相模鉄道・[[京王電鉄]])、東急電鉄(東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ・都営地下鉄・横浜高速鉄道・埼玉高速鉄道・相模鉄道)と並ぶ。東急電鉄・横浜高速鉄道・相模鉄道とは東京メトロを、会津鉄道とは野岩鉄道を介しての乗り入れとなる。また、JR東日本は特急列車のみの乗り入れとなっている。なお、<!--東武・都営地下鉄・東急電鉄・東京メトロ・埼玉高速鉄道の各事業者は2023年3月より相模鉄道へ直通運転を実施しており、さらに1事業者増加した。-->1992年までは[[秩父鉄道]]にも定期列車が乗り入れていたが、現在は伊勢崎線と東上線間の車両の回送のみである。
* 東武の鉄道路線がない関東の都県は[[神奈川県]]と[[茨城県]]のみだが、車両については東武伊勢崎線・日光線の電車が東京メトロ半蔵門線を通じて東急田園都市線に<!--乗り入れており-->、そして<!--2013年3月からは-->東上線から東京メトロ副都心線を経て[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]にそれぞれ乗り入れており、また東武伊勢崎線 - 日光線 - 鬼怒川線の特急が野岩鉄道・会津鉄道に乗り入れているため、神奈川県や[[福島県]]にも東武の車両が走っている。かつて群馬県・茨城県には直営の一般バス路線があったが、現在はグループ会社へ移管された。
* 2005年3月に行われた東上線系統のダイヤ改正で、池袋駅 - 寄居駅間を直通する列車が全廃され、[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]を跨いで利用する際は同駅での乗り換えが必須になっていたが、2023年3月のダイヤ改正で[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]] - 小川町駅 - 寄居駅間直通のワンマン列車の運行が開始された。2008年6月のダイヤ改正で日中の「急行」が毎時4本から毎時5本に増発されたが、[[パターンダイヤ]]が崩れて越生線との接続が悪化した。2013年6月のダイヤ改正で「快速」を新設し、日中の「急行」を毎時4本に減便する代わりに「快速」を毎時2本運転することで、川越市駅以北の利便性を確保しつつパターンダイヤが復活し、越生線との接続が改善した。
* 2006年3月に行われた本線系統のダイヤ改正で、浅草駅 - 伊勢崎駅間を直通する列車が一日一往復の特急「りょうもう」のみになった。また、基軸となる無料優等列車が浅草駅発着の「準急」から半蔵門線直通列車の「急行」に置き換えられ、日中は乗り入れ区間の北端である[[久喜駅]]と[[南栗橋駅]]で接続するダイヤに変更された。伊勢崎線方面で久喜駅を跨ぐ一般列車は朝夕ラッシュ時限定ではあるが健在であり、館林駅発着の「区間急行」が設定されている。一方で、日光線方面の無料優等列車として設定されていた浅草駅発着の「快速」と「区間快速」は2017年4月のダイヤ改正で南栗橋駅発着の「急行」と「区間急行」に置き換えられ、特急列車以外で南栗橋駅を跨いで利用する際は同駅での乗り換えが必須になった。
* 他の大手私鉄に比べ、1時間あたりの運転本数が1 - 2本しかない区間が[[埼玉県]]北部・[[群馬県]]・[[栃木県]]を中心に多く存在するが、その場合でも大部分は日中時間帯のダイヤがパターン化されており、朝夕は本数が増える傾向にある。初電はほとんどの駅で5時台に設定されているが、下り方向は6時台にならないと列車が来ない駅がある。また、上り方向の終電が21 - 22時台と、他の大手私鉄と比べても早い駅も多い。最近では利用者からの要望に応え、下り方向の列車を中心に終電の繰り下げ、上り方向の初電の繰り上げを行っている。
* かつて、[[都営地下鉄三田線]]と東上線との相互直通運転が構想されていたが、実現しなかった。
=== サービス ===
* 前述の通り、東武は旧芙蓉グループ(旧富士銀行系)を構成する企業の一つでもあるので、駅によっては構内に[[みずほ銀行]]の[[現金自動預け払い機|ATM]]を設置している。過去、東武本線(伊勢崎線・日光線・野田線)の準急・快速・特急停車駅や乗降客数が多い停車駅に富士銀行の支店もしくは周辺や駅構内にATMが設置されていた。
** 東武沿線には、みずほ銀行(旧・富士銀行)の店舗が多く、取引や資本関係も深い。また富士銀行の支店網がないところは伊勢崎線、日光線沿線の地域金融機関とも親密である。[[埼玉りそな銀行]]([[埼玉銀行]]→旧・[[あさひ銀行]])は東武鉄道の株主に名を連ねており、東武は[[群馬銀行]]の株主として名を連ねている。埼玉りそな銀行のほか、群馬銀行・[[足利銀行]]とも親密である。なお、鉄道会社では[[京浜急行電鉄]]もみずほ(旧・芙蓉)グループである。
* [[セブン銀行]]ATMを設置する駅も増加しており、2021年7月にはセブン銀行子会社の[[セブン・ペイメントサービス]]と提携し、[[#トブポマイル|トブポマイル]]をセブン銀行ATMでPASMOにチャージできるようにしている<ref>[https://www.sevenbank.co.jp/corp/news/2021/pdf/2021071401.pdf 東武鉄道と「ATM受取(電子マネーコース)」の提供に合意](2021年7月14日 セブン銀行)</ref>。
* 駅の案内表示や駅名標などのサインシステムについては[[東武本線|本線区]]と[[東武東上本線|東上線区]]とでそれぞれ違ったものが採用されている。いずれも2006年以降に[[ユニバーサルデザイン]]の[[ピクトグラム]]が導入されている。また本線区では2012年以降([[東京スカイツリー]]開業の前後)に随時、[[中国語]]・[[朝鮮語|韓国語]]併示のものに再度更新が始まっている。
** 大手私鉄で路線によってサインシステムを違えている事例は、他には近畿日本鉄道(けいはんな線とそれ以外の路線)や京阪電気鉄道(京阪線と大津線。ただし、2017年以降順次京阪線の様式のサインシステムに再統一を実施中)がある。
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File:Kita-Senju Station Sign (Tobu Isesaki Line).jpg|本線の駅名標・時刻表([[北千住駅]])
File:Narimasu Station sign 20130830.jpg|東上線の駅名標・時刻表([[成増駅]])
</gallery>
* 2001年11月20日より、[[電子メール]]による会員制情報サービス「102@Club」(いちまるにアットクラブ)を開始。2008年9月サービスが終了した。
* [[2008年]][[7月1日]]から、東武鉄道お客様センターのマスコットとして、「[[姫宮なな]]」という女性キャラクターが登場した。名前の由来は、[[姫宮駅]]と[[七里駅]]・[[七光台駅]]である<ref>{{Cite press release |和書 |title=東武鉄道お客さまセンターの電話番号が新しくなりました |publisher=東武鉄道 |date=2008年7月1日 |url=http://www.tobu.co.jp/file/1677/080701.pdf |format=PDF |accessdate=2008-07-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110523024722/http://www.tobu.co.jp/file/1677/080701.pdf |archivedate=2011年5月23日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。
* 「[[#沿革|沿革]]」節でも書かれているように、2020年11月1日から[[東武グループ]]共通の[[ポイントプログラム]]「'''TOBU POINT'''」を導入している。2021年10月からは東武線の乗車でポイントが貯まる「トブポマイル」が導入される<ref name="日経20210727">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC15B1S0V10C21A7000000/ 「東武鉄道、乗車でマイルたまるサービス 10月開始」]日本経済新聞ニュースサイト(2021年7月27日)2021年8月15日閲覧</ref>。
* 定期券の購入に自社カード(東武においては東武カード)以外のクレジットカードを使えないのは関東の大手私鉄では東武が唯一である。
=== PR活動 ===
* 東武及び乗り入れしている野岩鉄道・会津鉄道沿線では日光・鬼怒川・[[会津]]方面といった観光地を持っている。しかし1990年代以降同地区の観光客が減少傾向となっている。特急の相互乗り入れを開始した2006年以降はJR東日本ともに積極的にPRを行い、繁忙期には[[多摩地区]]や横浜方面からの臨時列車も走らせている。
* 2012年5月の東京スカイツリー開業に伴い、首都圏のみならず、[[関西地方]]など他地域との間でも積極的なコラボPRを行っている。2013年12月からは近畿日本鉄道との間で、高さ日本一の電波塔である「東京スカイツリー」と2014年3月に全面オープンする高さ日本一のビル「[[あべのハルカス]]」との相互PRを行っている<ref>{{Cite press release |和書 |title=「あべのハルカス」 ・「東京スカイツリー 」が初のコラボイベントを開催します ! |publisher=東京スカイツリー |date=2013年12月4日 |url=http://www.tokyo-skytree.jp/press/1212abePRWEB.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-02}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=「あべのハルカス」「東京スカイツリー」コラボイベント第二弾を開催します! |publisher=東京スカイツリー |date=2014年3月27日 |url=http://www.tokyo-skytree.jp/press/2014/03/2014-2.html |accessdate=2014-03-28}}</ref>。
== 労働組合 ==
[[有価証券報告書]]によれば、労働組合の状況は以下の通り<ref name="fy"></ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1"
|-
!名称
!上部組織
|-
|東武鉄道労働組合
|東武交通労働組合・[[日本私鉄労働組合総連合会]]
|}
== 関係会社 ==
{{See|東武グループ}}
== 関連人物 ==
* [[末延道成]]・[[川崎八右衛門]]・[[原六郎]]・[[浅田正文]]・本間栄一郎・内田三左衛門・千家尊賀 - 創立者。
* [[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎(初代)]] - 東武鉄道の再建に乗り出し、今日の東武グループを築いた人物。[[根津財閥]]総帥。
* [[根津嘉一郎 (2代目)|根津嘉一郎(2代目)]] - 嘉一郎(初代)の長男。初代没後、半世紀以上にわたり東武鉄道の社長を務め、戦後の東武グループの発展に寄与した。
* [[八田嘉明]] - 1941年に取締役会長。[[鉄道省#歴代大臣|鉄道大臣]]・[[逓信省#歴代大臣|逓信大臣]]・[[運輸通信省 (日本)#歴代の運輸通信大臣等|運輸通信大臣]]などを務める。
* [[正田貞一郎]] - 1942年に取締役会長。[[日清製粉]]グループ創業者。[[上皇后美智子]]の祖父。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=東武鉄道株式会社 |editor=東武鉄道年史編纂事務局 |year=1964 |title=東武鉄道六十五年史 |publisher=東武鉄道 |id={{全国書誌番号|64010839}} |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=東武鉄道社史編纂室 |year=1998 |title=東武鉄道百年史 |publisher=東武鉄道 |id={{全国書誌番号|20043141}} |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=根津翁伝記編纂会 |year=1961 |title=根津翁伝 |publisher=根津翁伝記編纂会 |id={{全国書誌番号|62004366}} |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=花上嘉成 |date=2004-03 |title=東武デラックスロマンスカー 1720系と東武特急の歩み |publisher=[[JTB]] |series=JTBキャンブックス |isbn=4533051707 |ref=harv}}
* 『[[鉄道ダイヤ情報]]』2006年3・4月号
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』東武鉄道特集号
* {{Cite book |和書 |date=1987-01 |title=私鉄の車両24 東武鉄道 |publisher=[[保育社]] |isbn=4586532246 |ref=harv}}
他
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tobu Railway}}
{{Multimedia|東武鉄道の画像}}
{{Wikinewscat|東武鉄道}}
* 乗り入れ先各社
** [[東京地下鉄]](東京メトロ)
** [[東急電鉄]]
** [[横浜高速鉄道]]
** [[相模鉄道]]
** [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** [[野岩鉄道]]
** [[会津鉄道]]
* [[関東鉄道]] - 東武鉄道も出資
* [[東葉高速鉄道]] - 東武鉄道も出資
* [[埼玉高速鉄道]] - 東武鉄道も出資
* [[埼玉新都市交通]] - 東武鉄道も出資
* [[上毛電気鉄道]] - 東武鉄道が筆頭株主
* [[わたらせ渓谷鐵道]]
* [[松屋 (百貨店)|松屋]] - 浅草駅に店舗を構える百貨店
* [[上野精養軒|精養軒]] - 姉妹会社
* [[東武健康ハイキング]]
* [[東武ファンフェスタ]]
* [[みずほグループ]]
** [[芙蓉グループ]]
* [[東京スカイツリー]]
* [[姫宮なな]]
* [[東武鉄道運転士懲戒解雇事件]]
* [[根津美術館]] - 東武鉄道社長である、[[根津嘉一郎 (初代)]]の収集品を展示するために作られた[[美術館]]
* [[近畿日本鉄道]] - [[#PR活動|上記]]の通り、東京スカイツリーとあべのハルカスとの相互PRを行っているほか、東武の2代目社長である[[根津嘉一郎 (2代目)]]は近畿日本鉄道の[[監査役]]を務めたことがある。
* [[富国生命保険]]/[[日本生命保険]] - ともに関係の強い[[生命保険会社]]。特に前者は根津財閥による経営関与の歴史も持っており、上記の東京スカイツリーにも共同でスポンサーに参加している。
== 外部リンク ==
<!-- [[Wikipedia:ウィキペディアは何でないか]]の「ウィキペディアはミラーサイトでもリンク集でもありません」の1.単なる外部リンク集ではありません。も参照のこと。念のため。-->
* [https://www.tobu.co.jp/ 東武鉄道]
**{{Twitter|TobuRailway_JP|東武鉄道運行情報【公式】}}
**{{Twitter|Tobu_skytrline|東武鉄道沿線情報 -スカイツリーラインエリア- 【公式】}}
**{{Twitter|Tobu_Kitakanto|東武鉄道沿線情報 -北関東エリア- 【公式】}}
**{{Twitter|Tobu_urban|東武鉄道沿線情報 -アーバンパークラインエリア- 【公式】}}
**{{Twitter|Tobu_to_jo|東武鉄道沿線情報 -東上線エリア- 【公式】}}
**{{Instagram|tobu_nikko_trip}}
** {{YouTube|channel = UCtoS9_BLDL3YgwWb42L9ApA|【公式】東武鉄道チャンネル / TOBU Railway}}
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川越線
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川越線(かわごえせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から同県川越市の川越駅を経由し、同県日高市の高麗川駅に至る、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。
埼玉県の県庁所在地であるさいたま市から西へ向かい、川越市を経由して日高市の高麗川駅までを結ぶ路線であるが、早朝時間帯の南古谷駅始発の下り列車を除き、川越駅を境に東西に運転系統が分断されている。川越駅以東(大宮駅 - 川越駅)の区間では、埼京線を介した東京臨海高速鉄道りんかい線新木場駅までの直通運転と、相鉄線直通列車として埼京線および相鉄新横浜線を介した相模鉄道本線海老名駅までの直通運転が行われ、車内に掲示してある路線図には、「埼京線・川越線」との表示がなされている。川越駅以西(川越駅 - 高麗川駅)の区間では、八高線の八王子駅までの直通運転が行われており、車内に掲示してある路線図には、「川越線・八高線」との表示がなされている。
全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれる。
旅客案内で使用されるラインカラーは、埼京線直通運転区間である大宮駅 - 川越駅間は緑(■)、川越駅 - 高麗川駅間ではグレー(■)である。ただし、大宮駅はグレー(■)を使用している。
1922年の改正鉄道敷設法の制定・施行当初、別表の「建設予定線」に、川越線に相当する路線は含まれていなかった。その後、1934年に、東北本線と八高線を短絡して中央本線のバイパスとするため、この別表に「埼玉県大宮ヨリ川越ヲ経テ飯能附近ニ至ル鉄道」が追加された(別表第50号ノ4)。東海道本線と東北本線を東京を経由せずに結ぶという「軍事的な危機管理政策」の観点から必要とされたこともあり、この別表への追加と同時に「建設線」となり、同年中に直ちに着工された。川越線開通を報じる当時の朝日新聞埼玉版の見出しには、「帝都防備の使命も重く」との記載がある。川越線は、このような異例のスピードで建設が進められ、1940年に全線が一度に開業した。
一方、大宮 - 川越間には、1906年開通の路面電車として西武大宮線が走っていたが、川越線の開通に伴い利用が激減し、1940年12月に運休し、翌1941年に廃線となった。
川越線は、昭和40年代(1965-1974年)以降、沿線人口の急増に伴い、利用客も増加した。一方、単線・非電化のまま抜本的な輸送力の増強対策がとられず、「1時間に1本か2本、ラッシュ時でも3本」という運行本数であったために、1980年頃には「国電なみの混雑」が指摘されるに至った。1980年5月17日には、沿線市町による「国鉄川越線複線電化促進協議会」が発足している。
その後、1985年の埼京線開業に伴い、埼京線と川越線の大宮駅 - 川越駅間との直通運転が開始された。同時に、川越線は大宮駅 - 日進駅間が複線化されるとともに、川越駅以西も含む全線が電化された。埼京線と川越線との直通運転は、埼京線の車両基地を、川越線の南古谷駅付近に新設したことに伴う(川越電車区、現在の川越車両センター)。埼京線は、当初は大宮駅以北を高崎線と併走させる計画であったが、埼京線区間に車両基地を設置する用地が確保できず、川越線沿線に車両基地を求めることとなった。これに伴い、川越線は都市近郊の通勤路線としての性格を強めることとなり、利用客もさらに増加した。
2002年には埼京線を介して東京臨海高速鉄道りんかい線との直通運転を開始し、相鉄線直通列車として2019年には埼京線・相鉄新横浜線を介して相模鉄道本線と相互直通運転を開始した。
一方川越線は、都市近郊の通勤路線としての性格が強いにもかかわらず、大宮駅 - 日進駅の1駅間を除くほぼ全線が依然として単線であり、運行本数も日中毎時3往復と少ない状態にある(ただし、平日朝の指扇駅 - 大宮駅間の上りのみは最大8本)。電化以後の大きな路線改良は、2009年開業の西大宮駅に行き違い設備が造られたのみである。
2015年には、利用客が微増傾向にあるにもかかわらず、川越駅 - 高麗川駅の日中時間帯が毎時3往復から2往復へと、五日市線・青梅線とともに減便となり、戦中戦後の混乱期を除いた国鉄時代を含め首都圏郊外路線で初の本数減となり、さらに2019年のダイヤ改正では相鉄線との直通運転が開始された一方で、大宮駅 - 川越駅間で朝夕に減便した。
早朝時間帯に運転される南古谷駅発高麗川駅行きや八王子駅行きの下り列車を除いて途中の川越駅で運転系統が分断されており、大宮駅 - 川越駅間では埼京線と直通運転を行い、川越駅 - 高麗川駅間では川越線内折り返し運転と八高線への直通運転がある。直通先の路線でトラブルや大幅なダイヤの乱れが発生した時には直通運転を中止し、線内で折り返し運転を行う場合がある。
川越線全線を直通する列車はないが、全線非電化だったころは大宮駅から八高線東飯能駅まで乗り入れる気動車列車も設定され、1985年3月14日の電化後も1989年3月10日までは大宮駅 - 高麗川駅間を直通する電車が設定されていた。
埼京線・東京臨海高速鉄道りんかい線と一体の運転系統として運行されている。大宮駅 - 川越駅間を運転する全定期列車が埼京線と直通運転を行い、りんかい線直通の新木場駅発着の列車も運転されている。多くの列車は埼京線内は快速・通勤快速として運転されるが、ともに川越線内は各駅に停車する。
列車は川越駅発着が基本であるが、川越車両センターからの車両出庫のため、早朝・夕方と平日の朝ラッシュ時間帯の一部に指扇駅発の上り列車も設定されている。また、2009年(平成21年)3月14日改正で早朝に南古谷駅発の上り列車が1本新設された。川越駅 - 川越車両センター間には回送列車が設定されている(川越駅構内では車両の夜間滞泊は行わない)。
当区間では指扇駅 - 南古谷駅間の荒川を鉄橋で越える関係上、悪天候(特に強風)による影響を受けやすく、埼京線との直通運転がしばしば中止される。このため、川越車両センターからの出庫を早朝に、入庫を深夜に集中的に行うダイヤとし、朝夕ラッシュ時を含む大半の時間で出入庫しないことで、混乱時にはすぐに大宮駅で直通運転を中断できるようにしている。
相模鉄道(相鉄)とJR東日本との直通運転が2019年(令和元年)11月30日に開始された。川越線には朝の一部列車が直通運転する。直通運転開始時点の相鉄線直通列車は、平日上りは指扇発海老名行きが1本(埼京線内は各駅停車、相鉄線内も各停として運転)、平日下りは海老名発川越行きが2本(相鉄線内は特急、埼京線内は通勤快速として運転)、土休日上りは川越発海老名行きが1本(埼京線内は快速、相鉄線内は特急として運転されているが、2021年3月13日改正以降は相鉄線内は各停に変更)設定されているほか、指扇発海老名行きが2本(埼京線内は2本とも各駅停車として運転し、相鉄線内はそれぞれ1本が特急・各停として運転)、土休日下りは海老名発川越行き(相鉄線内は各停、埼京線内は快速として運転)が設定されている。 2021年3月13日改正以降は、新たに平日朝上りに川越発の海老名行きが1本(埼京線内は通勤快速、相鉄線内は各停)が設定された。
日中はりんかい線新木場駅発着の快速が1時間あたり3本(20分に1本)運転されており、このうち2本は川越駅で高麗川方面の列車と接続する。この時間帯は西大宮駅と南古谷駅で上下列車の交換が行われる。2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正により、川越駅 - 高麗川駅間が日中時間帯において30分間隔に減便されて運転間隔が合わなくなったために、上りで13分、下りで15分の接続時間となる列車が生じており、さらに3本のうち1本は高麗川方面への接続が行われなくなった。
上述の通り電化開業から数年間は、日中に大宮駅 - 高麗川駅間を直通する列車(3両編成)が存在していたが、埼京線の快速列車の運転を30分間隔から20分間隔に、川越駅 - 高麗川駅間の運転を20分・40分の交互間隔から20分間隔に統一したことに伴い、川越駅 - 高麗川駅間の運転に短縮された。
使用されている車両のLED表示は、路線名と行き先を交互に表示している。東京臨海高速鉄道70-000形およびかつて運用されていた205系は、川越線区間(異常時の大宮駅 - 川越駅間折り返しも含む)の走行でも「埼京線」と表示され、りんかい線直通新木場行きの場合は「りんかい線直通」と表示されたため、LED表示に「川越線」と表示されることはない。E233系ではLED表示器に、大宮方面行きは「埼京・川越線」もしくは「埼京・川越線 りんかい線直通」、川越方面行きは「川越線」と表示される。
東京臨海高速鉄道70-000形車内ドア上の停車駅案内は、新木場駅 - 川越駅間のみが記載されており、川越駅 - 高麗川駅間各駅の表記がない。ただし高麗川方面への乗り換え案内表記はある。2009年3月14日に西大宮駅が開業し停車駅案内がリニューアルされるまでは、川越駅の乗り換え案内表記も東武東上線のみで高麗川方面への乗り換えが表記されておらず、車掌による川越駅到着前の高麗川方面への乗り継ぎ案内放送で補っていた。なお、この案内放送は現在も継続されている。
八高線八王子駅 - 高麗川駅間と一体の運転系統として運行されている。およそ半数の列車は八高線と相互直通運転を行い、残りの半数ほどは高麗川駅発着となっている。こちらも列車は川越駅発着が基本であるが、川越車両センターからの出庫のため、早朝の3本のみ南古谷発となっている。八高線電化時からこのような形態となったが、八高線との相互直通運転開始当時は、拝島駅から青梅線を経由して立川駅に発着する列車が少ないながら設定されていた(1999年12月3日に廃止)。
日中時間帯は30分間隔で運転されており、川越駅では大宮方面の電車と接続する(同一ホーム乗り換えが可能)。的場駅で上下列車の交換が行われる。この時間帯はすべて八高線八王子駅発着である。
2015年3月13日までは、川越駅 - 高麗川駅間の日中時間帯の運転間隔は、大宮駅 - 川越駅間と同様の20分間隔であり、川越駅における大宮方面列車との接続時間は上下線とも約3分であった。一方当時は、直通先である八高線の八王子方面との運転間隔(30分)とは合っておらず、八高線と直通する列車には高麗川駅で長時間停車するものがあった。翌14日のダイヤ改正では、通過人員が緩やかに増加している中にあって、日中時間帯の運転本数が八高線八王子方面の列車とあわせる形で30分間隔に減らされた。
なお、夏と冬の期間限定でおもに列車交換時や長時間停車時を中心にドアの開閉をボタン式に設定していたが、2006年12月1日から通年でドアの開閉がボタン式に変更された。
2022年3月12日のダイヤ改正より、直通先の八高線と同様にワンマン運転が開始された。
列車番号の末尾の英字はH(八高線内は、川越方面行きは{川越線内の番号+1}+E、八王子方面行きは{川越線内の番号-1}+Eとなる)。
女性専用車は埼京線と同じく、平日の朝7時30分 - 9時40分に新宿駅に到着する大崎方面行全電車と夜23時以降に新宿駅を発車する下り全電車で設定され、ともに設定車両は大崎方先頭車両である10号車となっている。
電化後は、すべて4ドアの通勤形電車が使用されている。他社車両である70-000形を除き、川越車両センターに所属する車両が運用されている。大宮駅 - 川越駅間は埼京線・東京臨海高速鉄道りんかい線と共通の車両が使われ、川越駅 - 高麗川駅間は八高線と共通で、半自動扉などの寒冷地対策を実施した車両が使われる。また、相鉄12000系が試運転や川越車両センターまつりの際に入線しているが、営業運転での入線実績はない。
これらの運用は、隅田川駅 - 大宮経由高麗川駅間の貨物列車が主だが、東武東上線の貨物中継列車も川越駅構内で行っており貨車のほかに東武の新車輸送(ナニワ工機製の一部富士重工業製が主だった)も行っていて、旧78系と8000系初期車がこれにあたり電化前からも(機関車牽引ながら)電車が走っていたことになる。1970年代には中継輸送が消滅し、東武車の引き渡しは下板橋駅と川越駅から熊谷貨物ターミナル駅へ統合した。そして、高麗川セメント輸送も八高線を残して電化した都合から1986年ですべて廃止した。川越線からは機関車が消えた。
東京に近い場所にありながら1980年代まで非電化であり、路線起点駅の大宮に隣接して大宮工場(現在の大宮総合車両センター)があることから、川越線では相模線と並んで気動車の試験運転が多く実施された。キハ44000形・キハ81系・キハ391系が新造直後の試運転で川越線に入線している。
川越線の始発駅にあたる大宮駅では、埼京線と直通運転をしているため、同線と共用の地下ホームに発着する。大宮駅を出ると、しばらく地下を走行し、鉄道博物館の横で地上に出る。トンネルの開口部は、かつての高崎線直通計画の名残で、複々線規格で造られている。
1985年(昭和60年)の電化以前は、大宮駅の地上ホーム(現在の11番線・12番線)から発着していた。現在の11番線は主に湘南新宿ラインから宇都宮線・高崎線へ直通する列車の着発で使用されるが、12番線は非電化のままで定期列車での使用はない。現在、地上ホームから発着する川越線定期列車は設定されていないが、レールはつながっており、快速「ぶらり川越号」や「おさんぽ川越号」などの臨時列車や工事列車などで使用されている。
トンネルを出ると左手に鉄道博物館を見ながら右手の高崎線とともに北上し、左手から交差する新幹線の高架下をくぐる地点で、大宮駅地上ホームとの連絡線が合流して国道17号大成跨線橋わきの築堤をくぐる。非電化時代は高崎線とともに橋の下をくぐっていたが、電化・複線化によりルートが変更された。直進する高崎線から大きく左に分かれ、右手につばさ小学校を見ながら市街地を進み、日進駅に着く。
日進駅からは単線となる。日進の市街地を下り勾配で直進し、鴨川橋梁を渡り、右手に宮前中学校、左手に佐川急便さいたま店を見送ると、宮前インターチェンジの下を過ぎて西大宮バイパスとしばらく並行し、西大宮駅に到着する。
西大宮駅を出ると住宅地の中を掘り割りで通り、指扇駅に至る。指扇駅を出ると川越線は緩やかに左(南)にカーブしながら築堤を上って、埼玉県道2号さいたま春日部線の上を越え、長い荒川橋梁で荒川や河川敷のゴルフ場を渡りきると築堤を下りながら、一面の田園風景の中を右(西)へカーブし、川越車両センターへの出入庫線が左に別れ、左手に広大な車両基地を眺めながら南古谷駅に着く。
南古谷駅を出ると、右手にウニクス南古谷を見送り、再び田園風景の中をほぼ真西へ一直線に進む。国道254号富士見川越バイパスの陸橋の下をくぐり、左手の砂中学校を見送ると、新河岸川を渡って川越市街に入る。右(北)にカーブしながら東武東上線の下と、川越街道と国道16号が交差する新宿町北の交差点直下を続けてトンネルでくぐり、間もなく東武東上線の西側に並び、川越駅に至る。
川越駅を出ると東武東上線と並行し、西武新宿線を越え、東上線川越市駅手前で左方向へカーブし東上線と別れる。そのまま住宅地帯を直進し、埼玉県道15号川越日高線をくぐると左へカーブ。埼玉県道160号川越北環状線の高架をくぐり、埼玉県道15号川越日高線と並行する。しばらくすると西川越駅に到着する。すぐに踏切を超え入間川を渡るため傾斜を登る。入間川の橋梁では前述の県道の初雁橋を左手に、東武東上線の橋梁を右手に見る。橋を渡ると傾斜を下り住宅地をゆるい左カーブで過ぎ東京国際大学を左手に見る。少し直進し埼玉県道114号川越越生線を渡ると的場駅。的場駅を出ると直進区間となり、関越自動車道をくぐって左手に霞が関小学校を見て小畔川を越えると笠幡駅に至る。
再び直線が続き日高市に入る。首都圏中央連絡自動車道をくぐり左へ緩くカーブし日高バイパスを越え国道407号を渡るとすぐに武蔵高萩駅へ。武蔵高萩駅を出ると直線区間が続き、南に大きくカーブして八高線と合流して、川越線の終点・高麗川駅に至る。
大宮駅 - 武蔵高萩駅間が大宮支社、高麗川駅が八王子支社の管轄であり、武蔵高萩駅 - 高麗川駅間に支社境界がある。
各年度の区間別の1日当たり平均通過人員および旅客運輸収入は下表の通り。2017年の平均通過人員は、大宮駅 - 川越駅間が88,962人であり、外房線の千葉駅 - 茂原駅間(86,013人)やJR西日本の桜島線(87,913人)と同程度である。川越駅 - 高麗川間は19,587人であり、八高線の八王子駅 - 高麗川駅間(20,610人)やJR西日本の可部線(17,690人)と同程度である。川越駅以東、川越駅以西ともに、電化の翌々年度にあたる1987年から1997年頃までに乗客が急増し、その後も緩やかに増加している。
2015年に実施された「第12回大都市交通センサス」による各駅間の1日当たり通過人員は、下表の通り。大宮駅に近づくにつれ通過人員が多くなり、高麗川駅に近づくほど通過人員が少なくなる傾向にある。
日進駅 - 西大宮駅間の通過人員(99,184人/日)は、第12回大都市交通センサスの対象地域である三大都市圏の鉄道路線のうち、単線区間としては最も人数が多い。また、西大宮駅 - 指扇駅間(87,113人/日)、指扇駅 - 南古谷駅間(74,956人/日)、南古谷駅 - 川越駅間(66,959人/日)の各駅間は、調査時点では第4 - 6位、東武野田線の高柳駅 - 六実駅間(91,029人/日)と逆井駅 - 高柳駅間(88,673人/日)が2019年末に複線化されて以降は、第2 - 4位を占める。すなわち、日本の三大都市圏において、川越線の日進駅 - 川越駅ほどの通過人員でありながら、単線である区間は、他に存在しない。
大宮駅 - 日進駅間が複線化された1985年以降、川越線の日進駅 - 川越駅間より通過人員の多い東武野田線の岩槻駅 - 春日部駅間や六実駅 - 馬込沢駅間(1989年 - 2004年)のみならず、より通過人員の少ない西武新宿線の狭山市駅 - 南大塚駅間(1989年 - 1991年)、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線の新三田駅 - 篠山口駅間(1996年 - 1997年)、奈良線の京都駅 - JR藤森駅間(2001年)、嵯峨野線の京都駅 - 園部駅間(1989年 - 2010年)、東武伊勢崎線の羽生駅 - 川俣駅間(1992年)などの区間が複線化された。一方で川越線は、2023年時点でも複線化の予定がない。
2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。
2018年度より南古谷駅周辺地区都市再生整備計画が交付され、2022年度までに南古谷駅橋上化・北口広場新設・南口広場再整備、周辺道路の整備として都市計画道路・南古谷伊佐沼線、市道0039号線の整備が盛り込まれ、事業が進められていくことになった。
JR東日本によって大宮駅 - 川越駅間のホームドア整備が行われる。2032年度末までの予定。
荒川水系河川整備計画 (2016年3月策定、2020年9月変更)に基づき、荒川では荒川第二・第三調節池の整備が進められており、このうち第二調節池の整備区間にある川越線の荒川橋梁付近では、橋梁付近での堤防の嵩上げと、荒川橋梁の架換えが予定されている(事業期間:2008年度 - 2030年度)。
これに対し、2020年11月には、複線化仕様での架換えに関する検討の場として、国土交通省・さいたま市・川越市・埼玉県の4者を会員とし、JR東日本をオブザーバーとする「JR川越線荒川橋りょうの複線化仕様での架換えに関する協議会」が設置された。第1回協議会では、さいたま市と川越市がJR東日本に対して複線化の検討を要請する意向を示し、埼玉県は「地元市の意向が重要」との考え方を示したが、JR東日本の見解が、依然として「今あるまちづくりの計画を勘案しても複線化が必要な状況ではない一方で、将来、利用人員が増えたときには、複線化の検討の可能性はある」というものであることが確認された。
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"text": "川越線(かわごえせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から同県川越市の川越駅を経由し、同県日高市の高麗川駅に至る、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。",
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"text": "埼玉県の県庁所在地であるさいたま市から西へ向かい、川越市を経由して日高市の高麗川駅までを結ぶ路線であるが、早朝時間帯の南古谷駅始発の下り列車を除き、川越駅を境に東西に運転系統が分断されている。川越駅以東(大宮駅 - 川越駅)の区間では、埼京線を介した東京臨海高速鉄道りんかい線新木場駅までの直通運転と、相鉄線直通列車として埼京線および相鉄新横浜線を介した相模鉄道本線海老名駅までの直通運転が行われ、車内に掲示してある路線図には、「埼京線・川越線」との表示がなされている。川越駅以西(川越駅 - 高麗川駅)の区間では、八高線の八王子駅までの直通運転が行われており、車内に掲示してある路線図には、「川越線・八高線」との表示がなされている。",
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"text": "全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれる。",
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"text": "旅客案内で使用されるラインカラーは、埼京線直通運転区間である大宮駅 - 川越駅間は緑(■)、川越駅 - 高麗川駅間ではグレー(■)である。ただし、大宮駅はグレー(■)を使用している。",
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"text": "1922年の改正鉄道敷設法の制定・施行当初、別表の「建設予定線」に、川越線に相当する路線は含まれていなかった。その後、1934年に、東北本線と八高線を短絡して中央本線のバイパスとするため、この別表に「埼玉県大宮ヨリ川越ヲ経テ飯能附近ニ至ル鉄道」が追加された(別表第50号ノ4)。東海道本線と東北本線を東京を経由せずに結ぶという「軍事的な危機管理政策」の観点から必要とされたこともあり、この別表への追加と同時に「建設線」となり、同年中に直ちに着工された。川越線開通を報じる当時の朝日新聞埼玉版の見出しには、「帝都防備の使命も重く」との記載がある。川越線は、このような異例のスピードで建設が進められ、1940年に全線が一度に開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、大宮 - 川越間には、1906年開通の路面電車として西武大宮線が走っていたが、川越線の開通に伴い利用が激減し、1940年12月に運休し、翌1941年に廃線となった。",
"title": "歴史"
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"text": "川越線は、昭和40年代(1965-1974年)以降、沿線人口の急増に伴い、利用客も増加した。一方、単線・非電化のまま抜本的な輸送力の増強対策がとられず、「1時間に1本か2本、ラッシュ時でも3本」という運行本数であったために、1980年頃には「国電なみの混雑」が指摘されるに至った。1980年5月17日には、沿線市町による「国鉄川越線複線電化促進協議会」が発足している。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、1985年の埼京線開業に伴い、埼京線と川越線の大宮駅 - 川越駅間との直通運転が開始された。同時に、川越線は大宮駅 - 日進駅間が複線化されるとともに、川越駅以西も含む全線が電化された。埼京線と川越線との直通運転は、埼京線の車両基地を、川越線の南古谷駅付近に新設したことに伴う(川越電車区、現在の川越車両センター)。埼京線は、当初は大宮駅以北を高崎線と併走させる計画であったが、埼京線区間に車両基地を設置する用地が確保できず、川越線沿線に車両基地を求めることとなった。これに伴い、川越線は都市近郊の通勤路線としての性格を強めることとなり、利用客もさらに増加した。",
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"text": "2002年には埼京線を介して東京臨海高速鉄道りんかい線との直通運転を開始し、相鉄線直通列車として2019年には埼京線・相鉄新横浜線を介して相模鉄道本線と相互直通運転を開始した。",
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"text": "一方川越線は、都市近郊の通勤路線としての性格が強いにもかかわらず、大宮駅 - 日進駅の1駅間を除くほぼ全線が依然として単線であり、運行本数も日中毎時3往復と少ない状態にある(ただし、平日朝の指扇駅 - 大宮駅間の上りのみは最大8本)。電化以後の大きな路線改良は、2009年開業の西大宮駅に行き違い設備が造られたのみである。",
"title": "歴史"
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"text": "2015年には、利用客が微増傾向にあるにもかかわらず、川越駅 - 高麗川駅の日中時間帯が毎時3往復から2往復へと、五日市線・青梅線とともに減便となり、戦中戦後の混乱期を除いた国鉄時代を含め首都圏郊外路線で初の本数減となり、さらに2019年のダイヤ改正では相鉄線との直通運転が開始された一方で、大宮駅 - 川越駅間で朝夕に減便した。",
"title": "歴史"
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"text": "早朝時間帯に運転される南古谷駅発高麗川駅行きや八王子駅行きの下り列車を除いて途中の川越駅で運転系統が分断されており、大宮駅 - 川越駅間では埼京線と直通運転を行い、川越駅 - 高麗川駅間では川越線内折り返し運転と八高線への直通運転がある。直通先の路線でトラブルや大幅なダイヤの乱れが発生した時には直通運転を中止し、線内で折り返し運転を行う場合がある。",
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"text": "川越線全線を直通する列車はないが、全線非電化だったころは大宮駅から八高線東飯能駅まで乗り入れる気動車列車も設定され、1985年3月14日の電化後も1989年3月10日までは大宮駅 - 高麗川駅間を直通する電車が設定されていた。",
"title": "運行形態"
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"text": "埼京線・東京臨海高速鉄道りんかい線と一体の運転系統として運行されている。大宮駅 - 川越駅間を運転する全定期列車が埼京線と直通運転を行い、りんかい線直通の新木場駅発着の列車も運転されている。多くの列車は埼京線内は快速・通勤快速として運転されるが、ともに川越線内は各駅に停車する。",
"title": "運行形態"
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"text": "列車は川越駅発着が基本であるが、川越車両センターからの車両出庫のため、早朝・夕方と平日の朝ラッシュ時間帯の一部に指扇駅発の上り列車も設定されている。また、2009年(平成21年)3月14日改正で早朝に南古谷駅発の上り列車が1本新設された。川越駅 - 川越車両センター間には回送列車が設定されている(川越駅構内では車両の夜間滞泊は行わない)。",
"title": "運行形態"
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"text": "当区間では指扇駅 - 南古谷駅間の荒川を鉄橋で越える関係上、悪天候(特に強風)による影響を受けやすく、埼京線との直通運転がしばしば中止される。このため、川越車両センターからの出庫を早朝に、入庫を深夜に集中的に行うダイヤとし、朝夕ラッシュ時を含む大半の時間で出入庫しないことで、混乱時にはすぐに大宮駅で直通運転を中断できるようにしている。",
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"text": "相模鉄道(相鉄)とJR東日本との直通運転が2019年(令和元年)11月30日に開始された。川越線には朝の一部列車が直通運転する。直通運転開始時点の相鉄線直通列車は、平日上りは指扇発海老名行きが1本(埼京線内は各駅停車、相鉄線内も各停として運転)、平日下りは海老名発川越行きが2本(相鉄線内は特急、埼京線内は通勤快速として運転)、土休日上りは川越発海老名行きが1本(埼京線内は快速、相鉄線内は特急として運転されているが、2021年3月13日改正以降は相鉄線内は各停に変更)設定されているほか、指扇発海老名行きが2本(埼京線内は2本とも各駅停車として運転し、相鉄線内はそれぞれ1本が特急・各停として運転)、土休日下りは海老名発川越行き(相鉄線内は各停、埼京線内は快速として運転)が設定されている。 2021年3月13日改正以降は、新たに平日朝上りに川越発の海老名行きが1本(埼京線内は通勤快速、相鉄線内は各停)が設定された。",
"title": "運行形態"
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"text": "日中はりんかい線新木場駅発着の快速が1時間あたり3本(20分に1本)運転されており、このうち2本は川越駅で高麗川方面の列車と接続する。この時間帯は西大宮駅と南古谷駅で上下列車の交換が行われる。2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正により、川越駅 - 高麗川駅間が日中時間帯において30分間隔に減便されて運転間隔が合わなくなったために、上りで13分、下りで15分の接続時間となる列車が生じており、さらに3本のうち1本は高麗川方面への接続が行われなくなった。",
"title": "運行形態"
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"text": "上述の通り電化開業から数年間は、日中に大宮駅 - 高麗川駅間を直通する列車(3両編成)が存在していたが、埼京線の快速列車の運転を30分間隔から20分間隔に、川越駅 - 高麗川駅間の運転を20分・40分の交互間隔から20分間隔に統一したことに伴い、川越駅 - 高麗川駅間の運転に短縮された。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "使用されている車両のLED表示は、路線名と行き先を交互に表示している。東京臨海高速鉄道70-000形およびかつて運用されていた205系は、川越線区間(異常時の大宮駅 - 川越駅間折り返しも含む)の走行でも「埼京線」と表示され、りんかい線直通新木場行きの場合は「りんかい線直通」と表示されたため、LED表示に「川越線」と表示されることはない。E233系ではLED表示器に、大宮方面行きは「埼京・川越線」もしくは「埼京・川越線 りんかい線直通」、川越方面行きは「川越線」と表示される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "東京臨海高速鉄道70-000形車内ドア上の停車駅案内は、新木場駅 - 川越駅間のみが記載されており、川越駅 - 高麗川駅間各駅の表記がない。ただし高麗川方面への乗り換え案内表記はある。2009年3月14日に西大宮駅が開業し停車駅案内がリニューアルされるまでは、川越駅の乗り換え案内表記も東武東上線のみで高麗川方面への乗り換えが表記されておらず、車掌による川越駅到着前の高麗川方面への乗り継ぎ案内放送で補っていた。なお、この案内放送は現在も継続されている。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "八高線八王子駅 - 高麗川駅間と一体の運転系統として運行されている。およそ半数の列車は八高線と相互直通運転を行い、残りの半数ほどは高麗川駅発着となっている。こちらも列車は川越駅発着が基本であるが、川越車両センターからの出庫のため、早朝の3本のみ南古谷発となっている。八高線電化時からこのような形態となったが、八高線との相互直通運転開始当時は、拝島駅から青梅線を経由して立川駅に発着する列車が少ないながら設定されていた(1999年12月3日に廃止)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "日中時間帯は30分間隔で運転されており、川越駅では大宮方面の電車と接続する(同一ホーム乗り換えが可能)。的場駅で上下列車の交換が行われる。この時間帯はすべて八高線八王子駅発着である。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "2015年3月13日までは、川越駅 - 高麗川駅間の日中時間帯の運転間隔は、大宮駅 - 川越駅間と同様の20分間隔であり、川越駅における大宮方面列車との接続時間は上下線とも約3分であった。一方当時は、直通先である八高線の八王子方面との運転間隔(30分)とは合っておらず、八高線と直通する列車には高麗川駅で長時間停車するものがあった。翌14日のダイヤ改正では、通過人員が緩やかに増加している中にあって、日中時間帯の運転本数が八高線八王子方面の列車とあわせる形で30分間隔に減らされた。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお、夏と冬の期間限定でおもに列車交換時や長時間停車時を中心にドアの開閉をボタン式に設定していたが、2006年12月1日から通年でドアの開閉がボタン式に変更された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "2022年3月12日のダイヤ改正より、直通先の八高線と同様にワンマン運転が開始された。",
"title": "運行形態"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "列車番号の末尾の英字はH(八高線内は、川越方面行きは{川越線内の番号+1}+E、八王子方面行きは{川越線内の番号-1}+Eとなる)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "女性専用車は埼京線と同じく、平日の朝7時30分 - 9時40分に新宿駅に到着する大崎方面行全電車と夜23時以降に新宿駅を発車する下り全電車で設定され、ともに設定車両は大崎方先頭車両である10号車となっている。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "電化後は、すべて4ドアの通勤形電車が使用されている。他社車両である70-000形を除き、川越車両センターに所属する車両が運用されている。大宮駅 - 川越駅間は埼京線・東京臨海高速鉄道りんかい線と共通の車両が使われ、川越駅 - 高麗川駅間は八高線と共通で、半自動扉などの寒冷地対策を実施した車両が使われる。また、相鉄12000系が試運転や川越車両センターまつりの際に入線しているが、営業運転での入線実績はない。",
"title": "使用車両"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "これらの運用は、隅田川駅 - 大宮経由高麗川駅間の貨物列車が主だが、東武東上線の貨物中継列車も川越駅構内で行っており貨車のほかに東武の新車輸送(ナニワ工機製の一部富士重工業製が主だった)も行っていて、旧78系と8000系初期車がこれにあたり電化前からも(機関車牽引ながら)電車が走っていたことになる。1970年代には中継輸送が消滅し、東武車の引き渡しは下板橋駅と川越駅から熊谷貨物ターミナル駅へ統合した。そして、高麗川セメント輸送も八高線を残して電化した都合から1986年ですべて廃止した。川越線からは機関車が消えた。",
"title": "使用車両"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "東京に近い場所にありながら1980年代まで非電化であり、路線起点駅の大宮に隣接して大宮工場(現在の大宮総合車両センター)があることから、川越線では相模線と並んで気動車の試験運転が多く実施された。キハ44000形・キハ81系・キハ391系が新造直後の試運転で川越線に入線している。",
"title": "使用車両"
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"tag": "p",
"text": "川越線の始発駅にあたる大宮駅では、埼京線と直通運転をしているため、同線と共用の地下ホームに発着する。大宮駅を出ると、しばらく地下を走行し、鉄道博物館の横で地上に出る。トンネルの開口部は、かつての高崎線直通計画の名残で、複々線規格で造られている。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "1985年(昭和60年)の電化以前は、大宮駅の地上ホーム(現在の11番線・12番線)から発着していた。現在の11番線は主に湘南新宿ラインから宇都宮線・高崎線へ直通する列車の着発で使用されるが、12番線は非電化のままで定期列車での使用はない。現在、地上ホームから発着する川越線定期列車は設定されていないが、レールはつながっており、快速「ぶらり川越号」や「おさんぽ川越号」などの臨時列車や工事列車などで使用されている。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "トンネルを出ると左手に鉄道博物館を見ながら右手の高崎線とともに北上し、左手から交差する新幹線の高架下をくぐる地点で、大宮駅地上ホームとの連絡線が合流して国道17号大成跨線橋わきの築堤をくぐる。非電化時代は高崎線とともに橋の下をくぐっていたが、電化・複線化によりルートが変更された。直進する高崎線から大きく左に分かれ、右手につばさ小学校を見ながら市街地を進み、日進駅に着く。",
"title": "沿線概況"
},
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"paragraph_id": 34,
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"text": "日進駅からは単線となる。日進の市街地を下り勾配で直進し、鴨川橋梁を渡り、右手に宮前中学校、左手に佐川急便さいたま店を見送ると、宮前インターチェンジの下を過ぎて西大宮バイパスとしばらく並行し、西大宮駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "西大宮駅を出ると住宅地の中を掘り割りで通り、指扇駅に至る。指扇駅を出ると川越線は緩やかに左(南)にカーブしながら築堤を上って、埼玉県道2号さいたま春日部線の上を越え、長い荒川橋梁で荒川や河川敷のゴルフ場を渡りきると築堤を下りながら、一面の田園風景の中を右(西)へカーブし、川越車両センターへの出入庫線が左に別れ、左手に広大な車両基地を眺めながら南古谷駅に着く。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "南古谷駅を出ると、右手にウニクス南古谷を見送り、再び田園風景の中をほぼ真西へ一直線に進む。国道254号富士見川越バイパスの陸橋の下をくぐり、左手の砂中学校を見送ると、新河岸川を渡って川越市街に入る。右(北)にカーブしながら東武東上線の下と、川越街道と国道16号が交差する新宿町北の交差点直下を続けてトンネルでくぐり、間もなく東武東上線の西側に並び、川越駅に至る。",
"title": "沿線概況"
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"text": "川越駅を出ると東武東上線と並行し、西武新宿線を越え、東上線川越市駅手前で左方向へカーブし東上線と別れる。そのまま住宅地帯を直進し、埼玉県道15号川越日高線をくぐると左へカーブ。埼玉県道160号川越北環状線の高架をくぐり、埼玉県道15号川越日高線と並行する。しばらくすると西川越駅に到着する。すぐに踏切を超え入間川を渡るため傾斜を登る。入間川の橋梁では前述の県道の初雁橋を左手に、東武東上線の橋梁を右手に見る。橋を渡ると傾斜を下り住宅地をゆるい左カーブで過ぎ東京国際大学を左手に見る。少し直進し埼玉県道114号川越越生線を渡ると的場駅。的場駅を出ると直進区間となり、関越自動車道をくぐって左手に霞が関小学校を見て小畔川を越えると笠幡駅に至る。",
"title": "沿線概況"
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"text": "再び直線が続き日高市に入る。首都圏中央連絡自動車道をくぐり左へ緩くカーブし日高バイパスを越え国道407号を渡るとすぐに武蔵高萩駅へ。武蔵高萩駅を出ると直線区間が続き、南に大きくカーブして八高線と合流して、川越線の終点・高麗川駅に至る。",
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"text": "大宮駅 - 武蔵高萩駅間が大宮支社、高麗川駅が八王子支社の管轄であり、武蔵高萩駅 - 高麗川駅間に支社境界がある。",
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"text": "各年度の区間別の1日当たり平均通過人員および旅客運輸収入は下表の通り。2017年の平均通過人員は、大宮駅 - 川越駅間が88,962人であり、外房線の千葉駅 - 茂原駅間(86,013人)やJR西日本の桜島線(87,913人)と同程度である。川越駅 - 高麗川間は19,587人であり、八高線の八王子駅 - 高麗川駅間(20,610人)やJR西日本の可部線(17,690人)と同程度である。川越駅以東、川越駅以西ともに、電化の翌々年度にあたる1987年から1997年頃までに乗客が急増し、その後も緩やかに増加している。",
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"text": "2015年に実施された「第12回大都市交通センサス」による各駅間の1日当たり通過人員は、下表の通り。大宮駅に近づくにつれ通過人員が多くなり、高麗川駅に近づくほど通過人員が少なくなる傾向にある。",
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"text": "日進駅 - 西大宮駅間の通過人員(99,184人/日)は、第12回大都市交通センサスの対象地域である三大都市圏の鉄道路線のうち、単線区間としては最も人数が多い。また、西大宮駅 - 指扇駅間(87,113人/日)、指扇駅 - 南古谷駅間(74,956人/日)、南古谷駅 - 川越駅間(66,959人/日)の各駅間は、調査時点では第4 - 6位、東武野田線の高柳駅 - 六実駅間(91,029人/日)と逆井駅 - 高柳駅間(88,673人/日)が2019年末に複線化されて以降は、第2 - 4位を占める。すなわち、日本の三大都市圏において、川越線の日進駅 - 川越駅ほどの通過人員でありながら、単線である区間は、他に存在しない。",
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"text": "大宮駅 - 日進駅間が複線化された1985年以降、川越線の日進駅 - 川越駅間より通過人員の多い東武野田線の岩槻駅 - 春日部駅間や六実駅 - 馬込沢駅間(1989年 - 2004年)のみならず、より通過人員の少ない西武新宿線の狭山市駅 - 南大塚駅間(1989年 - 1991年)、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線の新三田駅 - 篠山口駅間(1996年 - 1997年)、奈良線の京都駅 - JR藤森駅間(2001年)、嵯峨野線の京都駅 - 園部駅間(1989年 - 2010年)、東武伊勢崎線の羽生駅 - 川俣駅間(1992年)などの区間が複線化された。一方で川越線は、2023年時点でも複線化の予定がない。",
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"text": "2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。",
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"text": "2018年度より南古谷駅周辺地区都市再生整備計画が交付され、2022年度までに南古谷駅橋上化・北口広場新設・南口広場再整備、周辺道路の整備として都市計画道路・南古谷伊佐沼線、市道0039号線の整備が盛り込まれ、事業が進められていくことになった。",
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"text": "JR東日本によって大宮駅 - 川越駅間のホームドア整備が行われる。2032年度末までの予定。",
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"text": "荒川水系河川整備計画 (2016年3月策定、2020年9月変更)に基づき、荒川では荒川第二・第三調節池の整備が進められており、このうち第二調節池の整備区間にある川越線の荒川橋梁付近では、橋梁付近での堤防の嵩上げと、荒川橋梁の架換えが予定されている(事業期間:2008年度 - 2030年度)。",
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"text": "これに対し、2020年11月には、複線化仕様での架換えに関する検討の場として、国土交通省・さいたま市・川越市・埼玉県の4者を会員とし、JR東日本をオブザーバーとする「JR川越線荒川橋りょうの複線化仕様での架換えに関する協議会」が設置された。第1回協議会では、さいたま市と川越市がJR東日本に対して複線化の検討を要請する意向を示し、埼玉県は「地元市の意向が重要」との考え方を示したが、JR東日本の見解が、依然として「今あるまちづくりの計画を勘案しても複線化が必要な状況ではない一方で、将来、利用人員が増えたときには、複線化の検討の可能性はある」というものであることが確認された。",
"title": "今後の予定"
}
] |
川越線(かわごえせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から同県川越市の川越駅を経由し、同県日高市の高麗川駅に至る、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。
|
{{Otheruses2|国鉄およびJR東日本の川越線|かつて路線名が「川越線」だった旧・川越鉄道の路線|西武新宿線|西武国分寺線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 川越線
|路線色=#00ac9a
|路線色2=#a8a39d
|画像=Kawagoe-Line Series-E233-7000 111F.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=E233系7000番台による川越行き列車<br>(2022年6月 [[西大宮駅]])
|国={{JPN}}
|所在地=[[埼玉県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
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|駅数=11駅
|電報略号 = カハセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book|和書|author=日本国有鉄道電気局|date=1959-09-17|title=鉄道電報略号|url=|format=|publisher=|volume=|page=22}}</ref>
|開業={{start date and age|1940|7|22}}
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)
|車両基地=[[川越車両センター]]
|路線距離=30.6 [[キロメートル|km]]
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|最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=File:JR Kawagoe Line linemap.svg
}}
'''川越線'''(かわごえせん)は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から同県[[川越市]]の[[川越駅]]を経由し、同県[[日高市]]の[[高麗川駅]]に至る、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。
== 概要 ==
埼玉県の県庁所在地であるさいたま市から西へ向かい、[[川越市]]を経由して日高市の高麗川駅までを結ぶ路線であるが、早朝時間帯の南古谷駅始発の下り列車を除き、[[川越駅]]を境に東西に運転系統が分断されている。川越駅以東(大宮駅 - 川越駅)の区間では、[[埼京線]]を介した[[東京臨海高速鉄道りんかい線]][[新木場駅]]までの直通運転と、[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]として埼京線および[[相鉄新横浜線]]を介した[[相模鉄道]][[相鉄本線|本線]][[海老名駅]]までの直通運転が行われ、車内に掲示してある路線図には、「埼京線・川越線」との表示がなされている。川越駅以西(川越駅 - 高麗川駅)の区間では、[[八高線]]の[[八王子駅]]までの直通運転が行われており、車内に掲示してある路線図には、「川越線・八高線」との表示がなされている。
全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれる。
旅客案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は、埼京線直通運転区間である大宮駅 - 川越駅間は'''緑'''({{Color|#00ac9a|■}})、川越駅 - 高麗川駅間では'''グレー'''({{Color|#a8a39d|■}})である。ただし、大宮駅はグレー({{Color|#a8a39d|■}})を使用している。
== 歴史 ==
[[1922年]]の[[鉄道敷設法#改正鉄道敷設法別表|改正鉄道敷設法]]の制定・施行当初、[[鉄道敷設法別表一覧|別表]]の「建設予定線」に、川越線に相当する路線は含まれていなかった。その後、[[1934年]]に、[[東北本線]]と[[八高線]]を短絡して[[中央本線]]のバイパスとするため、この別表に「埼玉県大宮ヨリ川越ヲ経テ飯能附近ニ至ル鉄道」が追加された(別表第50号ノ4)<ref>鉄道敷設法中改正法律(昭和9年3月27日法律第18号)(『官報』第2168号、昭和9年3月27日、p.746. {{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|2958643/2}})</ref>。[[東海道本線]]と東北本線を東京を経由せずに結ぶという「軍事的な危機管理政策」の観点から必要とされたこともあり、この別表への追加と同時に「建設線」となり、同年中に直ちに着工された。川越線開通を報じる当時の朝日新聞埼玉版の見出しには、「帝都防備の使命も重く」との記載がある。川越線は、このような異例のスピードで建設が進められ、[[1940年]]に全線が一度に開業した<ref>昭和15年鉄道省告示第158号(『官報』第4058号、昭和15年7月17日、p.569. {{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|2960556/5}}</ref>。
一方、大宮 - 川越間には、[[1906年]]開通の路面電車として[[西武大宮線]]が走っていたが、川越線の開通に伴い利用が激減し、1940年12月に運休し、翌1941年に廃線となった<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介|authorlink=今尾恵介|title=地形図でたどる鉄道史[東日本編]|series=JTBキャンブックス|year=2000|publisher=JTB}}<!-- http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/rail.html --></ref>。
川越線は、昭和40年代(1965-1974年)以降、沿線人口の急増に伴い、利用客も増加した。一方、単線・非電化のまま抜本的な輸送力の増強対策がとられず、「1時間に1本か2本、ラッシュ時でも3本」という運行本数であったために、[[1980年]]頃には「[[国電]]なみの混雑」が指摘されるに至った。1980年5月17日には、沿線市町による「国鉄川越線複線電化促進協議会」が発足している<ref>[https://www.city.kawagoe.saitama.jp/shisei/kochokoho/kohokawagoe/koho/koho_back/s50s/koho_S55.files/kw19800525.pdf 国鉄川越線複線電化をめざして 大宮・川越・日高・飯能4市町による促進協議会が発足] 1980年5月25日発行 広報川越</ref>。
その後、[[1985年]]の[[埼京線]]開業に伴い、埼京線と川越線の大宮駅 - 川越駅間との直通運転が開始された。同時に、川越線は大宮駅 - [[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]間が複線化されるとともに、川越駅以西も含む全線が[[鉄道の電化|電化]]された。埼京線と川越線との直通運転は、埼京線の車両基地を、川越線の[[南古谷駅]]付近に新設したことに伴う(川越電車区、現在の[[川越車両センター]])。埼京線は、当初は大宮駅以北を[[高崎線]]と併走させる計画であったが、埼京線区間に車両基地を設置する用地が確保できず、川越線沿線に車両基地を求めることとなった。これに伴い、川越線は都市近郊の通勤路線としての性格を強めることとなり、利用客もさらに増加した。
[[2002年]]には埼京線を介して[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]との直通運転を開始し、相鉄線直通列車として[[2019年]]には埼京線・[[相鉄新横浜線]]を介して[[相模鉄道]][[相鉄本線|本線]]と相互直通運転を開始した。
一方川越線は、都市近郊の通勤路線としての性格が強いにもかかわらず、大宮駅 - 日進駅の1駅間を除くほぼ全線が依然として[[単線]]であり、運行本数も日中毎時3往復と少ない状態にある(ただし、平日朝の指扇駅 - 大宮駅間の上りのみは最大8本)。電化以後の大きな路線改良は、[[2009年]]開業の西大宮駅に行き違い設備が造られたのみである。
[[2015年]]には、利用客が微増傾向にあるにもかかわらず、川越駅 - 高麗川駅の日中時間帯が毎時3往復から2往復へと、[[五日市線]]・[[青梅線]]とともに減便となり、戦中戦後の混乱期を除いた国鉄時代を含め首都圏郊外路線で初の本数減となり<ref group="新聞" name=":0">{{Cite web|和書|title=JR東、首都圏郊外路線で初の本数減 春の新ダイヤ|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO82999000Z00C15A2L83000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2019-03-05|publisher=|date=2015-02-10}}</ref>、さらに2019年のダイヤ改正では相鉄線との直通運転が開始された一方で、大宮駅 - 川越駅間で朝夕に減便した。
=== 年表 ===
[[ファイル:Jnr 103 hachiko sayonara.JPG|thumb|180px|川越線電化20周年号(2005年10月 八王子駅)]]
[[File:記念ヘッドマークされたE233系7000番台 宮ハエ127編成 川越駅にで撮影.jpg|thumb|180px|80周年記念ヘッドマークを掲出したE233系7000番台 宮ハエ127編成。川越駅にて撮影]]
* [[1940年]]([[昭和]]15年)[[7月22日]]:大宮駅 - 高麗川駅間 (30.6 km) が開業。日進駅・指扇駅・南古谷駅・川越駅・西川越駅・的場駅・笠幡駅・武蔵高萩駅が開業。
* [[1980年]](昭和55年)[[5月17日]]:大宮・川越・日高・飯能4市町による「国鉄川越線複線電化促進協議会」が発足。
* [[1985年]](昭和60年)[[9月30日]]:全線電化。大宮駅 - 日進駅間が複線化。大宮駅 - 川越駅間で埼京線と直通運転開始。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:国鉄分割民営化に伴い東日本旅客鉄道が承継、全線の貨物営業が廃止。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[12月1日]]:川越駅 - 高麗川駅間に[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SN]]を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=170 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[3月16日]]:川越駅 - 高麗川駅間で八高線(高麗川駅 - 八王子駅間)と直通運転開始。
* [[2002年]](平成14年)12月1日:埼京線経由で東京臨海高速鉄道りんかい線と相互直通運転開始。
* [[2005年]](平成17年)
** [[8月6日]]:大宮駅 - 武蔵高萩駅間に[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) が導入。
** [[10月2日]]:103系3000番台ハエ53編成により、川越線電化開業20周年記念列車が一般運用で運転され、103系営業運転終了。
* [[2008年]](平成20年)[[3月1日]]:日進駅 - 武蔵高萩駅間の有人駅は、南古谷駅・川越駅を除いてジェイアール宇都宮企画開発からの駅員派遣に変更。
* [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:西大宮駅が開業。日中の単線区間での[[列車交換]]駅が指扇駅・川越駅から西大宮駅・南古谷駅に変更され、川越駅5・6番線ホームは日中の使用が停止される。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:ダイヤ改正により、日中時間帯の川越駅 - 高麗川駅間の運転本数を毎時3本から2本に減便<ref group="新聞" name=":0" />。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[10月12日]]:[[令和元年東日本台風]]の影響により、西川越駅 - 的場駅間の入間川橋りょうで、橋脚周りが洗掘する被害を受ける<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20200213_o01.pdf|title=台風19号による河川橋りょう災害復旧工事について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2020-02-13|accessdate=2020-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200425075852/https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20200213_o01.pdf|archivedate=2020-04-25}}</ref>。
** [[11月30日]]:[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]の運転を開始(早朝の一部列車)。
* [[2020年]](令和2年)[[7月22日]]:開業80周年を迎えたことを記念し、記念ヘッドマークの列車の運転、車掌による特別アナウンス、各駅のホーム柱駅名標への80周年オリジナルデザインの装飾などが行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200716_o01.pdf|title=川越線が開業 80 周年を迎えます - JR東日本|accessdate=2020-07-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)3月2日:21時50分に指扇駅 - 南古谷駅間の単線区間で上りと下りの電車が同一線路に進入し、約600m付近まで接近するトラブルが発生。上下の列車11本が運休となり、3月3日の午前1時に運転が再開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230303-OYT1T50096/ |title=JR川越線・単線区間の上りと下りの電車、わずか600mまで接近…乗客3時間閉じ込め |website=読売新聞オンライン |publisher=読売新聞社 |date=2023-03-03 |accessdate=2023-03-03}}</ref>。
== 運行形態 ==
[[ファイル:Linemap of East Japan Railway Company Kawagoe Line.PNG|706px|thumb|none|路線図]]
[[File:JRE-EC103-3000-at-Omiya.jpg|thumb|200px|1989年3月までは、大宮駅 - 高麗川駅間直通の電車も存在した。]]
早朝時間帯に運転される[[南古谷駅]]発高麗川駅行きや八王子駅行きの下り列車を除いて途中の川越駅で運転系統が分断されており、大宮駅 - 川越駅間では埼京線と直通運転を行い、川越駅 - 高麗川駅間では川越線内折り返し運転と八高線への直通運転がある。直通先の路線でトラブルや大幅なダイヤの乱れが発生した時には直通運転を中止し、線内で折り返し運転を行う場合がある。
川越線全線を直通する列車はないが、全線非電化だったころは大宮駅から八高線[[東飯能駅]]まで乗り入れる気動車列車も設定され、[[1985年]]3月14日の電化後も[[1989年]]3月10日までは大宮駅 - 高麗川駅間を直通する電車が設定されていた。
=== 大宮駅 - 川越駅間 ===
埼京線・[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]と一体の運転系統として運行されている。大宮駅 - 川越駅間を運転する全定期列車が埼京線と直通運転を行い、りんかい線直通の[[新木場駅]]発着の列車も運転されている。多くの列車は埼京線内は快速・通勤快速として運転されるが、ともに川越線内は各駅に停車する。
列車は川越駅発着が基本であるが、川越車両センターからの車両出庫のため、早朝・夕方と平日の朝ラッシュ時間帯の一部に[[指扇駅]]発の上り列車も設定されている。また、[[2009年]]([[平成]]21年)[[3月14日]]改正で早朝に[[南古谷駅]]発の上り列車が1本新設された。川越駅 - 川越車両センター間には回送列車が設定されている(川越駅構内では車両の[[夜間滞泊]]は行わない)。
当区間では指扇駅 - 南古谷駅間の荒川を鉄橋で越える関係上、悪天候(特に強風)による影響を受けやすく、埼京線との直通運転がしばしば中止される。このため、川越車両センターからの出庫を早朝に、入庫を深夜に集中的に行うダイヤとし、朝夕ラッシュ時を含む大半の時間で出入庫しないことで、混乱時にはすぐに大宮駅で直通運転を中断できるようにしている。
[[相模鉄道]](相鉄)とJR東日本との直通運転が[[2019年]]([[令和]]元年)[[11月30日]]に開始された<ref>{{Cite web|和書|title=都市鉄道利便増進事業 相鉄・JR直通線、相鉄・東急直通線|事業に関するお知らせ|url=http://www.chokutsusen.jp/info/index.html|website=www.chokutsusen.jp|accessdate=2020-06-05}}</ref><ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190326.pdf|title=相鉄・JR直通線の開業日決定|date=2019-03-28|accessdate=2019-03-28|publisher=相模鉄道株式会社・東日本旅客鉄道株式会社|format=PDF}}</ref>。川越線には朝の一部列車が直通運転する<ref group="報道" name="jreast20190906">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|format=PDF|title= 2019年11月ダイヤ改正について |publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-09-06|accessdate=2019-09-08}}</ref>。直通運転開始時点の相鉄線直通列車は、平日上りは指扇発[[海老名駅|海老名]]行きが1本(埼京線内は各駅停車、相鉄線内も各停として運転)、平日下りは海老名発川越行きが2本(相鉄線内は特急、埼京線内は通勤快速として運転)、土休日上りは川越発海老名行きが1本(埼京線内は快速、相鉄線内は特急として運転されているが、2021年3月13日改正以降は相鉄線内は各停に変更)設定されているほか、指扇発海老名行きが2本(埼京線内は2本とも各駅停車として運転し、相鉄線内はそれぞれ1本が特急・各停として運転)、土休日下りは海老名発川越行き(相鉄線内は各停、埼京線内は快速として運転)が設定されている。
2021年3月13日改正以降は、新たに平日朝上りに川越発の海老名行きが1本(埼京線内は通勤快速、相鉄線内は各停)が設定された。
日中はりんかい線新木場駅発着の快速が1時間あたり3本(20分に1本)運転されており、このうち2本は川越駅で高麗川方面の列車と接続する。この時間帯は西大宮駅と南古谷駅で上下列車の[[列車交換|交換]]が行われる。[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]のダイヤ改正により、川越駅 - 高麗川駅間が日中時間帯において30分間隔に減便されて運転間隔が合わなくなったために、上りで13分、下りで15分の接続時間となる列車が生じており、さらに3本のうち1本は高麗川方面への接続が行われなくなった。
上述の通り電化開業から数年間は、日中に大宮駅 - 高麗川駅間を直通する列車(3両編成)が存在していたが、埼京線の快速列車の運転を30分間隔から20分間隔に、川越駅 - 高麗川駅間の運転を20分・40分の交互間隔から20分間隔に統一したことに伴い、川越駅 - 高麗川駅間の運転に短縮された。
使用されている車両のLED表示は、路線名と行き先を交互に表示している。[[東京臨海高速鉄道70-000形電車|東京臨海高速鉄道70-000形]]およびかつて運用されていた[[国鉄205系電車|205系]]は、川越線区間(異常時の大宮駅 - 川越駅間折り返しも含む)の走行でも「埼京線」と表示され、りんかい線直通新木場行きの場合は「りんかい線直通」と表示されたため、LED表示に「川越線」と表示されることはない。[[JR東日本E233系電車|E233系]]ではLED表示器に、大宮方面行きは「埼京・川越線」もしくは「埼京・川越線 りんかい線直通」、川越方面行きは「川越線」と表示される。
東京臨海高速鉄道70-000形車内ドア上の停車駅案内は、新木場駅 - 川越駅間のみが記載されており、川越駅 - 高麗川駅間各駅の表記がない。ただし[[高麗川駅|高麗川]]方面への乗り換え案内表記はある。2009年3月14日に西大宮駅が開業し停車駅案内がリニューアルされるまでは、川越駅の乗り換え案内表記も[[東武東上本線|東武東上線]]のみで高麗川方面への乗り換えが表記されておらず、[[車掌]]による川越駅到着前の高麗川方面への乗り継ぎ案内放送で補っていた。なお、この案内放送は現在も継続されている。
* [[列車番号]]の末尾の英字:各駅停車…K 快速…F 通勤快速…S<ref name="tn">『JTB時刻表』2021年3月号、pp.684-687</ref>
=== 川越駅 - 高麗川駅間 ===
[[八高線]]八王子駅 - 高麗川駅間と一体の運転系統として運行されている。およそ半数の列車は八高線と相互直通運転を行い、残りの半数ほどは高麗川駅発着となっている。こちらも列車は川越駅発着が基本であるが、川越車両センターからの出庫のため、早朝の3本のみ南古谷発となっている。八高線電化時からこのような形態となったが、八高線との相互直通運転開始当時は、拝島駅から[[青梅線]]を経由して[[立川駅]]に発着する列車が少ないながら設定されていた([[1999年]][[12月3日]]に廃止)。
日中時間帯は30分間隔で運転されており、川越駅では大宮方面の電車と接続する(同一ホーム乗り換えが可能)。的場駅で上下列車の交換が行われる。この時間帯はすべて八高線八王子駅発着である。
2015年3月13日までは、川越駅 - 高麗川駅間の日中時間帯の運転間隔は、大宮駅 - 川越駅間と同様の20分間隔であり、川越駅における大宮方面列車との接続時間は上下線とも約3分であった。一方当時は、直通先である八高線の八王子方面との運転間隔(30分)とは合っておらず、八高線と直通する列車には高麗川駅で長時間停車するものがあった。翌14日のダイヤ改正では、通過人員が緩やかに増加している中にあって、日中時間帯の運転本数が八高線八王子方面の列車とあわせる形で30分間隔に減らされた。
なお、夏と冬の期間限定でおもに列車交換時や長時間停車時を中心にドアの開閉をボタン式に設定していたが、[[2006年]][[12月1日]]から通年でドアの開閉がボタン式に変更された。
2022年3月12日のダイヤ改正より、直通先の八高線と同様にワンマン運転が開始された。
列車番号の末尾の英字はH(八高線内は、川越方面行きは{川越線内の番号+1}+E、八王子方面行きは{川越線内の番号-1}+Eとなる)<ref name="tn" />。
=== 女性専用車 ===
[[女性専用車両|女性専用車]]は埼京線と同じく、平日の朝7時30分 - 9時40分に[[新宿駅]]に到着する大崎方面行全電車と夜23時以降に新宿駅を発車する下り全電車で設定され、ともに設定車両は大崎方先頭車両である10号車となっている<ref>{{Cite web|和書|title=女性専用車のご利用について:JR東日本|url=https://www.jreast.co.jp/woman/|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2019-12-01|language=ja}}</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現在の使用車両 ===
電化後は、すべて4ドアの[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]][[電車]]が使用されている。他社車両である70-000形を除き、[[川越車両センター]]に所属する車両が運用されている。大宮駅 - 川越駅間は埼京線・東京臨海高速鉄道りんかい線と共通の車両が使われ、川越駅 - 高麗川駅間は八高線と共通で、半自動扉などの寒冷地対策を実施した車両が使われる。また、[[相鉄12000系電車|相鉄12000系]]が試運転や川越車両センターまつりの際に入線しているが、営業運転での入線実績はない。
* 大宮駅 - 川越駅間(10両編成)
** [[JR東日本E233系電車|E233系]][[JR東日本E233系電車#7000番台|7000番台]]:後述の205系を置き換えるため、2013年6月30日より運用を開始した<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2012/20120404.pdf 秋田新幹線用車両と埼京線・横浜線用車両の新造について]}} - 東日本旅客鉄道(2012年4月10日)</ref><ref name="PIC2013-9">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2013年9月号「JR東日本E233系7000番台 埼京・川越線用」88頁記事。</ref> 。車体の帯色は埼京線の車体色である緑({{Color|#2e8b57|■}})。拡幅車体で定員は205系より約1割増加するため、6扉車は連結していない。
** [[東京臨海高速鉄道70-000形電車|東京臨海高速鉄道70-000形]]([[東臨運輸区]]所属):車体の帯色はエメラルドグリーンと青({{Color|#399|■}}{{Color|blue|■}})。
* 川越駅 - 高麗川駅間(4両編成):車体の帯色はオレンジとウグイス色({{Color|#f15a22|■}}{{Color|#9acd32|■}})。
** 209系[[JR東日本209系電車#3500番台|3500番台]]<ref name="railfjp20180512">[https://railf.jp/news/2018/05/12/203000.html 209系3500番台が営業運転を開始]『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2018年5月12日</ref>
** [[JR東日本E231系電車#3000番台|E231系3000番台]]<ref name="railf.20180221">[https://railf.jp/news/2018/02/25/195500.html E231系3000番台が営業運転を開始]『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2018年2月25日掲載</ref>
<gallery>
ファイル:Kawagoe-Line Series-E233-7000 132F.jpg|E233系7000番台(2022年1月27日)
ファイル:TWR 70-000 series Z2.jpg|東京臨海高速鉄道70-000形(2023年6月16日)
ファイル:JR_East_E231-3000_series_Hachikō_Line_20180302.jpg|E231系3000番台
ファイル:JR_East_209-3500_series_Hachikō_Line_20180607.jpg|209系3500番台
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
==== 機関車 ====
; [[国鉄9600形蒸気機関車|9600形]]蒸気機関車
: 開業時より[[1969年]]9月まで客車列車・貨物列車の牽引に使用された。
; [[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10]]ディーゼル機関車
: 蒸気機関車の置き換えで投入した。電化後の1986年まで運用された。
これらの運用は、[[隅田川駅]] - 大宮経由高麗川駅間の貨物列車が主だが、東武東上線の貨物中継列車も川越駅構内で行っており貨車のほかに東武の新車輸送([[アルナ工機|ナニワ工機]]製の一部[[SUBARU|富士重工業]]製が主だった)も行っていて、[[東武7800系電車|旧78系]]と[[東武8000系電車|8000系]]初期車がこれにあたり電化前からも(機関車牽引ながら)電車が走っていたことになる。1970年代には中継輸送が消滅し、東武車の引き渡しは下板橋駅と川越駅から[[熊谷貨物ターミナル駅]]へ統合した。そして、高麗川セメント輸送も八高線を残して電化した都合から1986年ですべて廃止した。川越線からは機関車が消えた。
==== 気動車 ====
; [[国鉄キハ07形気動車|キハ42000形]]・[[国鉄キサハ04形気動車|キサハ40800形]]
: キハ10系の登場前に使用されていた。
; [[国鉄キハ44500形気動車|キハ44500形→キハ15形]]
: 新製当初に配置された。
; [[国鉄キハ10系気動車|キハ10系]]
; [[国鉄キハ20系気動車|キハ20系]]
; [[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]
: 通勤輸送の増加に伴い、1964年からキハ10系・キハ20系に代わり、大宮機関区配置として[[1985年]]9月の電化まで使用された。当初は両運転台のキハ30形を投入し、のちに[[関西本線]]の電化で転入したキハ35形や、塩害多発の千葉地区で使用されていた[[オールステンレス車両|オールステンレス車体]]のキハ35形900番台も千葉地区電化で転入して使用された。1972年10月から高崎第一機関区(現・[[ぐんま車両センター]])に転属し、八高線と共通運用となった。さらに全国の非電化路線からも電化開業や、[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系列(40・47・48形)]]などへの置き換えによる捻出で転入してきた。新潟地区用キハ35形500番台も[[1984年]]の[[弥彦線|弥彦]]・[[越後線]]電化で新潟運転所(現・[[新潟車両センター]])から転入し川越線でも電化されるまで使用された。
東京に近い場所にありながら1980年代まで非電化であり、路線起点駅の大宮に隣接して大宮工場(現在の[[大宮総合車両センター]])があることから、川越線では[[相模線]]と並んで気動車の試験運転が多く実施された。[[日本の電気式気動車#国鉄キハ44000形|キハ44000形]]・[[国鉄キハ80系気動車|キハ81系]]・[[国鉄キハ391系気動車|キハ391系]]が新造直後の試運転で川越線に入線している。
==== 電車 ====
; [[国鉄103系電車|103系]]
: 電化時に埼京線との直通運転用の10両編成と、線内折り返し運転用の3両編成の3000番台が投入され、1996年に4両編成の3500番台が投入された。いずれも塗装は[[黄緑6号]](ウグイス色)であった。
: 10両編成は主に[[赤羽線]]・[[山手線]]からの転入車で、全車[[自動列車制御装置|ATC]]を搭載していた。注目は、非冷房の電動車(モハ)ユニットで最後まで冷房化されなかった900番台車と赤羽線10両編成化と山手線増発用の最終グループで落成した[[ランボード]]が[[国鉄201系電車|201系]]タイプで塗屋根<ref group="注釈">モハ103-787+モハ102-2044からモハ103-791+モハ102-2048がカナリア色で、モハ103-792+モハ102-2049からモハ103-793+モハ102-2050がウグイス色でそれぞれ落成。これは九州向けの1500番台でも同様である。</ref>といった車両があった。山手線が205系化されると、増発で転入した編成中5・6号車のMMユニットが冷房車という編成が登場した。205系が投入されると、車両単位で冷房車が非冷房車の比率が高い線区への転出を優先させたこともあり短期間ながら制御車(クハ)以外は全て廃車予定の非冷房車で固められた編成も存在した。[[1990年]]12月まで使用された。
: 3000番台は[[仙石線]]で使用していた[[国鉄72系電車#アコモデーション改良車|72系アコモデーション改良車]]を103系に改造した車両で、電化開業当初の約10年程度は3両編成と4両編成が混在していたが、1996年以降は全編成が4両編成となった。最後に残った1編成は[[2005年]]10月2日に[[さよなら運転]]を兼ねて運転された「川越線電化20周年記念号」を最後に定期運用から外れ予備車となり、故障車の代走で12日に走行し、これを最後に廃車となった。一時期は0番台の3両編成や3000番台に0番台のサハ103を組み込んだ4両編成も存在していたことがある。
: 3500番台は[[1996年]]3月の八高線一部電化にあわせて4両編成1本が改造されたもので、川越線でも使用された。2005年3月に運用を終了している。
; [[国鉄205系電車|205系]]0番台
: 埼京線との直通運転用の10両編成が、1989年7月1日から投入されていた。1990年12月1日に103系の運用を終了し、全電車が205系での運行になった。E233系7000番台への置き換えが進み、2014年3月以降は全車4扉車の予備編成である第28編成のみが運用されていたが、2016年10月27日に運用を終了した。埼京線の車体色である緑({{Color|#2e8b57|■}})の帯が巻かれていた。2002年から2014年2月までは、6扉車を2両連結した編成も存在した。
; 205系[[国鉄205系電車#八高・川越線向け(3000番台)|3000番台]]
: 山手線からの転用・改造車。2018年7月に運用を終了した<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2018/07/5_17.html 【JR東】205系3000番代が定期運用を離脱] - 鉄道ホビダス RMニュース、2018年7月20日</ref>。
; [[JR東日本209系電車|209系]][[JR東日本209系電車#3000番台|3000番台]]
: 1996年に4両編成4本が投入された。2019年2月に運用を終了した<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2019/03/jr209300064.html 【JR東】209系3000番代ハエ64編成 桐生へ疎開配給] - 鉄道ホビダス RMニュース、2019年3月13日</ref>。
; [[JR東日本209系電車|209系]][[JR東日本209系電車#3100番台|3100番台]]
:東京臨海高速鉄道70-000形から改造(一部新造)され、2005年に4両編成2本が導入された。2021年12月に運用を終了、2022年3月のダイヤ改正に伴う川越・八高線におけるワンマン運転開始に伴い引退した。
; [[国鉄201系電車|201系]]
: 車両不足の関係で一時的に西部区間での運用に使用されており、以前から川越線乗り入れを見越していたためか「川越」などの行き先表示もあった。
; [[国鉄115系電車|115系]][[国鉄115系電車#300番台|300番台]]
: [[2013年]]運転の臨時快速「おさんぽ川越号」(新習志野駅 - 川越駅)にて使用。6両編成、[[豊田車両センター]]所属。
; [[JR東日本E531系電車|E531系]]
: [[2014年]]運転の臨時快速「おさんぽ川越号」([[土浦駅]] - 川越駅)にて使用。5両編成、[[勝田車両センター]]所属。
; [[JR東日本E231系電車|E231系]][[JR東日本E231系電車#近郊タイプ|1000番台]]
: 臨時快速「おさんぽ川越号」([[新習志野駅]] - 川越駅)にて使用。5両編成、[[小山車両センター]]所属。
; [[JR東日本651系電車|651系0番台]]
: 臨時快速「ぶらり川越号」(日立駅 - 川越駅)にて使用。7両編成、[[勝田車両センター]]所属。
<gallery>
ファイル:103-3003 Matoba - Kasahata 20040605.JPG|103系3000番台(2004年6月5日)
ファイル:103-3501 Nishi-Kawagoe - Matoba 20040605.JPG|103系3500番台(2004年6月5日)
ファイル:Saikyo-Line-Series205-28.jpg|205系0番台(2016年9月27日)
ファイル:Series205-3000.jpg|205系3000番台(2017年4月16日)
ファイル:Series209-3000.jpg|209系3000番台(2017年4月16日)
ファイル:Series209-3100.jpg|209系3100番台(2017年4月16日)
</gallery>
== 沿線概況 ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#a8a39d}}
{{BS-table}}
{{BS||||1: [[京浜東北線]]|}}
{{BS||||2: [[宇都宮線]]・[[高崎線]]|}}
{{BS||||3: [[埼京線]]|}}
{{BS||||4: [[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]|}}
{{BS7text|1|2||3|4|5|6||5: [[埼玉新都市交通伊奈線|ニューシャトル]]|}}
{{BS7|STR|STR||tSTRa|STR|uWSLa||||6: [[西武鉄道|西武]]:''[[西武大宮線|大宮線]]'' -1941|}}
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{{BS7|STRr|STR|exSTR|STR2u|STR3|uLSTR|uexLSTR|||[[東武鉄道|東武]]:[[東武野田線|野田線]]|}}
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{{BS5|||||BHF|3.7|[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]||}}
{{BS5|||||BHF|6.3|[[西大宮駅]]||}}
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{{BS7||||uexSTR+l|uexSTRq|emKRZ|uexSTRr|||西武:''大宮線'' -1941|}}
{{BS5|||uexLSTR||hKRZWae||[[荒川橋梁 (川越線)|荒川橋梁]]|[[荒川 (関東)|荒川]]|}}
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{{BS7||||||KRWg+l|KRWr||||}}
{{BS5|||||BHF|12.4|[[南古谷駅]]||}}
{{BS7|||||STR+l|KRZu|STRq|||東武:[[東武東上本線|東上線]]|}}
{{BS5|||uexLSTR|BHF|O4=HUBaq|BHF|O5=HUBeq|16.1|[[川越駅]]||}}
{{BS5|||uexWSLr|STR|STR|||''川越久保町駅'' -1941|}}
{{BS5|||KHSTaq|KRZo|KRZo|||[[本川越駅]] 西武:[[西武新宿線|新宿線]]|}}
{{BS5||||HST|STR|||[[川越市駅]]|}}
{{BS5||||STR|BHF|18.7|[[西川越駅]]||}}
{{BS5||||hKRZWae|hKRZWae|||[[入間川 (埼玉県)|入間川]]|}}
{{BS5||||STRr|BHF|20.9|[[的場駅]]||}}
{{BS5|||||SKRZ-Au|||[[関越自動車道]]|}}
{{BS5|||||BHF|23.8|[[笠幡駅]]||}}
{{BS5|||||SKRZ-Au|||[[首都圏中央連絡自動車道]]|}}
{{BS5|||||BHF|27.0|[[武蔵高萩駅]]||}}
{{BS5|||||ABZg+r|||[[八高線]]|}}
{{BS5|||||BHF|30.6|[[高麗川駅]]||}}
{{BS5|||||STR||八高線||}}
|}
|}
=== 大宮駅 - 川越駅間 ===
川越線の始発駅にあたる[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]では、埼京線と直通運転をしているため、同線と共用の地下ホームに発着する。大宮駅を出ると、しばらく地下を走行し、[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]の横で地上に出る。トンネルの開口部は、かつての[[高崎線]]直通計画の名残で、複々線規格で造られている。
[[1985年]](昭和60年)の電化以前は、大宮駅の地上ホーム(現在の11番線・12番線)から発着していた。現在の11番線は主に[[湘南新宿ライン]]から[[宇都宮線]]・[[高崎線]]へ直通する列車の着発で使用されるが、12番線は非電化のままで定期列車での使用はない。現在、地上ホームから発着する川越線定期列車は設定されていないが、レールはつながっており、快速「ぶらり川越号」や「おさんぽ川越号」などの[[臨時列車]]や工事列車などで使用されている。
トンネルを出ると左手に鉄道博物館を見ながら右手の高崎線とともに北上し、左手から交差する新幹線の高架下をくぐる地点で、大宮駅地上ホームとの連絡線が合流して[[国道17号]][[大成跨線橋]]わきの築堤をくぐる。非電化時代は高崎線とともに橋の下をくぐっていたが、電化・複線化によりルートが変更された。直進する高崎線から大きく左に分かれ、右手に[[さいたま市立つばさ小学校|つばさ小学校]]を見ながら市街地を進み、[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]に着く。
日進駅からは単線となる。日進の市街地を下り勾配で直進し、[[鴨川 (埼玉県)|鴨川]]橋梁を渡り、右手に[[さいたま市立宮前中学校|宮前中学校]]、左手に佐川急便さいたま店を見送ると、[[宮前インターチェンジ]]の下を過ぎて[[西大宮バイパス]]としばらく並行し、[[西大宮駅]]に到着する。
西大宮駅を出ると住宅地の中を掘り割りで通り、[[指扇駅]]に至る。指扇駅を出ると川越線は緩やかに左(南)にカーブしながら築堤を上って、[[埼玉県道2号さいたま春日部線]]の上を越え、長い[[荒川橋梁 (川越線)|荒川橋梁]]で[[荒川 (関東) |荒川]]や[[河川敷]]の[[ゴルフ]]場を渡りきると築堤を下りながら、一面の田園風景の中を右(西)へカーブし、[[川越車両センター]]への出入庫線が左に別れ、左手に広大な車両基地を眺めながら[[南古谷駅]]に着く。
南古谷駅を出ると、右手に[[ウニクス南古谷]]を見送り、再び田園風景の中をほぼ真西へ一直線に進む。[[国道254号]][[富士見川越バイパス]]の陸橋の下をくぐり、左手の[[川越市立砂中学校|砂中学校]]を見送ると、[[新河岸川]]を渡って川越市街に入る。右(北)にカーブしながら[[東武東上本線|東武東上線]]の下と、[[川越街道]]と[[国道16号]]が交差する新宿町北の交差点直下を続けてトンネルでくぐり、間もなく東武東上線の西側に並び、[[川越駅]]に至る。
=== 川越駅 - 高麗川駅間 ===
川越駅を出ると東武東上線と並行し、[[西武新宿線]]を越え、東上線[[川越市駅]]手前で左方向へカーブし東上線と別れる。そのまま住宅地帯を直進し、[[埼玉県道15号川越日高線]]をくぐると左へカーブ。[[埼玉県道160号川越北環状線]]の高架をくぐり、[[埼玉県道15号川越日高線]]と並行する。しばらくすると[[西川越駅]]に到着する。すぐに踏切を超え[[入間川 (埼玉県)|入間川]]を渡るため傾斜を登る。入間川の橋梁では前述の県道の初雁橋を左手に、東武東上線の橋梁を右手に見る。橋を渡ると傾斜を下り住宅地をゆるい左カーブで過ぎ[[東京国際大学]]を左手に見る。少し直進し[[埼玉県道114号川越越生線]]を渡ると[[的場駅]]。的場駅を出ると直進区間となり、[[関越自動車道]]をくぐって左手に霞が関小学校を見て[[小畔川]]を越えると[[笠幡駅]]に至る。
再び直線が続き[[日高市]]に入る。[[首都圏中央連絡自動車道]]をくぐり左へ緩くカーブし[[日高バイパス (埼玉県)|日高バイパス]]を越え[[国道407号]]を渡るとすぐに[[武蔵高萩駅]]へ。武蔵高萩駅を出ると直線区間が続き、南に大きくカーブして八高線と合流して、川越線の終点・[[高麗川駅]]に至る。
== データ ==
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):30.6{{nbsp}}km
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* [[軌間]]:1,067{{nbsp}}mm
* 駅数:11(起終点駅を含む)
** 川越線所属駅に限定する場合、東北本線所属の大宮駅、八高線所属の高麗川駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref>が除外され、9駅となる。
* [[複線]]区間:大宮駅 - 日進駅間
** [[単線]]区間での[[列車交換|交換]]可能駅:西川越駅と笠幡駅を除く全駅
** 大宮駅 - 高麗川駅間30.6{{nbsp}}kmのうち、[[1985年]]に大宮駅 - 日進駅間3.7{{nbsp}}kmのみが複線化された一方、2021年現在に至るまで、9割近い区間が単線となっている。
** 単線区間のうち日進駅 - 川越駅間(4駅間)は、日本の[[三大都市圏]]の鉄道路線の中で、単線区間における利用者数(通過人員数)の上位1 - 4位を独占している状況であり、同程度の通過人員がありながら単線である区間は、他に例がない<ref name="名前なし-1">[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/sosei_transport_tk_000064.html 第12回大都市交通センサス]</ref>。一方で、JR東日本は「現在の利用状況から、現状設備で十分に対応でき、沿線でのまちづくりを踏まえたとしても、複線化が必要な状況ではない」との立場を示し、埼玉県が設置を呼び掛けた川越線複線化に関する協議会への参加も拒否した<ref>[https://www.pref.saitama.lg.jp/e1601/gikai-gaiyou/r0209/d030.html 埼玉県議会2020年9月定例会における埼玉県知事答弁]</ref>。
** 沿線の[[さいたま市]]・[[川越市]]・[[日高市]]・[[飯能市]]の4市は、「JR川越線整備促進協議会」を組織し、複線化・増発を要望している<ref>[https://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/kotsudorokasen/train_bus/yobokatsudo.html 川越市ホームページ「東武東上線・JR川越線に関する要望活動について」]</ref>。
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500{{nbsp}}V)
** [[1985年]]に全線が[[鉄道の電化|電化]]された。
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]
** 大宮駅 - 川越駅間:自動閉塞式
** 川越駅 - 高麗川駅間:特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
* 最高速度
** 大宮駅 - 川越駅間:95{{nbsp}}km/h
** 川越駅 - 高麗川駅間:85{{nbsp}}km/h
* [[運転指令所]]:東京総合指令室
** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):南古谷駅
* [[列車運行管理システム]]:[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) 大宮駅 - 武蔵高萩駅間
* [[車両基地]]:[[川越車両センター]](南古谷駅)
* [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]:全線(東京近郊区間)
* <!--* 担当乗務員区所:[[大宮運転区]]・[[大宮車掌区]](大宮駅 - 川越駅間)、八王子運輸区(南古谷駅 - 高麗川駅間)-->[[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:全線([[Suica]]の首都圏エリア)
大宮駅 - 武蔵高萩駅間が[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]、高麗川駅が[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]の管轄であり、武蔵高萩駅 - 高麗川駅間に[[JR支社境|支社境界]]<ref>[http://www.jreast.co.jp/hachioji/chuousen/gaiyo/profile.html 中央線まめちしき 支社概要 プロフィール] - 東日本旅客鉄道八王子支社</ref>がある。
=== 利用状況 ===
==== 平均通過人員の推移 ====
各年度の区間別の1日当たり[[輸送密度|平均通過人員]]および旅客運輸収入は下表の通り。2017年の平均通過人員は、大宮駅 - 川越駅間が88,962人であり、[[外房線]]の千葉駅 - 茂原駅間(86,013人)や[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[桜島線]](87,913人)と同程度である。川越駅 - 高麗川間は19,587人であり、八高線の八王子駅 - 高麗川駅間(20,610人)やJR西日本の[[可部線]](17,690人)と同程度である<ref name="rosen_avr2013-2017">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2013-2017.pdf 路線別ご利用状況(2013〜2017年度)]}} - 東日本旅客鉄道</ref><ref name="rosen_avrJRW">{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_08.pdf 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2017年度)]}} - 西日本旅客鉄道</ref>。川越駅以東、川越駅以西ともに、電化の翌々年度にあたる[[1987年]]から[[1997年]]頃までに乗客が急増し、その後も緩やかに増加している。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|平均通過人員(人/日)
!rowspan="2"|旅客運輸収入
(百万円)
!rowspan="2"|出典
|-
!大宮駅- 川越駅間
!川越駅 - 高麗川駅間
|-
|1987
|53,028
|12,050
|
|<ref name="rosen_avr1987-2017">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2017.pdf 路線別ご利用状況(1987~2017年度(5年毎))]}} - 東日本旅客鉄道</ref>
|-
|1992
|75,286
|16,459
|
|<ref name="rosen_avr1987-2017" />
|-
|1997
|81,949
|18,211
|
|<ref name="rosen_avr1987-2017" />
|-
|2002
|82,327
|17,869
|
|<ref name="rosen_avr1987-2017" />
|-
|2007
|87,950
|19,112
|
|<ref name="rosen_avr1987-2017" />
|-
|2008
|88,508
|19,306
|
|<ref name="rosen_avr2008-2012">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2008-2012.pdf 路線別ご利用状況(2008~2012年度)]}} - 東日本旅客鉄道</ref>
|-
|2009
|86,879
|19,055
|
|<ref name="rosen_avr2008-2012" />
|-
|2010
|85,495
|18,795
|
|<ref name="rosen_avr2008-2012" />
|-
|2011
|84,215
|18,244
|
|<ref name="rosen_avr2008-2012" />
|-
|2012
|85,105
|18,742
|
|<ref name="rosen_avr2008-2012" />
|-
|2013
|86,807
|19,185
|
|<ref name="rosen_avr2013-2017" />
|-
|2014
|85,857
|18,966
|6,312
|<ref name="rosen_avr2010-2014">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2010-2014.pdf 路線別ご利用状況(2010〜2014年度)]}} - 東日本旅客鉄道</ref>
|-
|2015
|88,083
|19,371
|6,467
|<ref name="rosen_avr2011-2015">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2011-2015.pdf 路線別ご利用状況(2011〜2015年度)]}} - 東日本旅客鉄道</ref>
|-
|2016
|88,483
|19,360
|6,494
|<ref name="rosen_avr2012-2016">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2011-2015.pdf 路線別ご利用状況(2012〜2016年度)]}} - 東日本旅客鉄道</ref>
|-
|2017
|88,962
|19,587
|6,575
|<ref name="rosen_avr2013-2017" />
|}
==== 各駅間の平均通過人員 ====
2015年に実施された「第12回大都市交通センサス」による各駅間の1日当たり[[輸送密度|通過人員]]は、下表の通り<ref name="名前なし-1"/>。大宮駅に近づくにつれ通過人員が多くなり、高麗川駅に近づくほど通過人員が少なくなる傾向にある。
日進駅 - 西大宮駅間の通過人員(99,184人/日)は、第12回大都市交通センサスの対象地域である[[三大都市圏]]の鉄道路線のうち、単線区間としては最も人数が多い。また、西大宮駅 - 指扇駅間(87,113人/日)、指扇駅 - 南古谷駅間(74,956人/日)、南古谷駅 - 川越駅間(66,959人/日)の各駅間は、調査時点では第4 - 6位、[[東武野田線]]の[[高柳駅]] - [[六実駅]]間(91,029人/日)と[[逆井駅]] - 高柳駅間(88,673人/日)が2019年末に複線化されて以降は、第2 - 4位を占める。すなわち、日本の三大都市圏において、川越線の日進駅 - 川越駅ほどの通過人員でありながら、単線である区間は、他に存在しない。
大宮駅 - 日進駅間が複線化された1985年以降、川越線の日進駅 - 川越駅間より通過人員の多い東武野田線の[[岩槻駅]] - [[春日部駅]]間や六実駅 - [[馬込沢駅]]間(1989年 - 2004年)のみならず、より通過人員の少ない[[西武新宿線]]の[[狭山市駅]] - [[南大塚駅]]間(1989年 - 1991年)、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[福知山線]]の[[新三田駅]] - [[篠山口駅]]間(1996年 - 1997年)、[[奈良線]]の[[京都駅]] - [[JR藤森駅]]間(2001年)、[[嵯峨野線]]の京都駅 - [[園部駅]]間(1989年 - 2010年)、[[東武伊勢崎線]]の[[羽生駅]] - [[川俣駅]]間(1992年)などの区間が複線化された。一方で川越線は、2023年時点でも複線化の予定がない。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|区間
!rowspan="2"|距離 (km)
!colspan="2"|定期券利用者数(人/日)
!colspan="2"|普通券利用者数(人/日)
!rowspan="2"|合計(人/日)
|-
!上り
!下り
!上り
!下り
|-
|大宮駅 - 日進駅間
|3.7
|41,426
|41,426
|16,857
|16,885
|116,594
|-
|日進駅 - 西大宮駅間
|2.6
|35,260
|35,260
|14,235
|14,429
|99,184
|-
|西大宮駅 - 指扇駅間
|1.4
|30,980
|30,980
|12,520
|12,633
|87,113
|-
|指扇駅 - 南古谷駅間
|4.7
|26,633
|26,633
|10,774
|10,916
|74,956
|-
|南古谷駅 - 川越駅間
|3.7
|23,315
|23,315
|9,871
|10,098
|66,599
|-
|川越駅 - 西川越駅間
|2.6
|8,955
|8,955
|4,202
|4,156
|26,268
|-
|西川越駅 - 的場駅間
|2.2
|6,454
|6,454
|3,701
|3,806
|20,415
|-
|的場駅 - 笠幡駅間
|2.9
|5,661
|5,661
|3,199
|3,172
|17,693
|-
|笠幡駅 - 武蔵高萩駅間
|3.2
|3,806
|3,806
|2,660
|2,610
|12,882
|-
|武蔵高萩駅 - 高麗川駅間
|3.6
|2,105
|2,105
|2,195
|2,116
|8,521
|-
|}
== 駅一覧 ==
* 川越駅では大宮方面と高麗川方面はそれぞれ乗換が必要となる。なお、一部早朝に、川越車両センターからの出庫のため南古谷始発高麗川方面電車が存在する。
* 埼京線内で快速・通勤快速となる電車も含め、川越線内では全電車とも運転区間内の全駅に停車。
* 大宮駅の東日本旅客鉄道の路線名は運転系統上の名称(正式路線名とは異なる)。
* 線路 … ∥:複線、∨:ここから下は単線、◇・|:単線(◇は[[列車交換]]可能)
* 全駅[[埼玉県]]内に所在。
=== 大宮駅 - 川越駅間 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:3px solid #00ac9a;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00ac9a;"|駅間<br />営業キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00ac9a;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #00ac9a;"|{{縦書き|線路}}
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #00ac9a;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00ac9a;"|{{Nowrap|大宮<br />から}}
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00ac9a;"|{{Nowrap|大崎<br />から}}
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="4"|大宮駅から [[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]]経由<br>[[ファイル:Rinkai_Line_symbol.svg|18px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] [[新木場駅]]まで<br>[[File:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線|相鉄線]] [[海老名駅]]まで
|-
|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right; width:2.5em;"|0.0
|style="text-align:right; width:3em;"|36.9
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] 埼京線(JA 26)(直通運転)・[[File:Shinkansen jre.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]](JK 47)・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[高崎線]]・[[上野東京ライン]](JU 07)・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]](JS 24)<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](TD-01)<br />[[埼玉新都市交通]]:[[ファイル:New Shuttle Line symbol.svg|18px]] [[埼玉新都市交通伊奈線|伊奈線(ニューシャトル)]](NS01)
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="4" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[さいたま市]]|height=6em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[大宮区]]
|-
|[[日進駅 (埼玉県)|日進駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|40.6
|
|style="text-align:center;"|∨
|[[北区 (さいたま市)|北区]]
|-
|[[西大宮駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|6.3
|style="text-align:right;"|43.2
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="2"|[[西区 (さいたま市)|西区]]
|-
|[[指扇駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|7.7
|style="text-align:right;"|44.6
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[南古谷駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|12.4
|style="text-align:right;"|49.3
|
|style="text-align:center;"|◇
|colspan="2" rowspan="2"|[[川越市]]
|-
|[[川越駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|16.1
|style="text-align:right;"|53.0
|東武鉄道:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東上線]](TJ-21)<br />[[西武鉄道]]:[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] …[[本川越駅]](SS29)
|style="text-align:center;"|◇
|}
=== 川越駅 - 高麗川駅間 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:3px solid #a8a39d;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #a8a39d"|駅間<br />営業キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #a8a39d"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #a8a39d"|{{縦書き|線路}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #a8a39d"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #a8a39d;"|{{Nowrap|大宮<br />から}}
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #a8a39d;"|{{Nowrap|八王子<br />から}}
|-
|[[川越駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|16.1
|style="text-align:right;"|45.6
|[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東上線]](TJ-21)<br />[[西武鉄道]]:[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] …[[本川越駅]](SS29)
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[川越市]]
|-
|[[西川越駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|18.7
|style="text-align:right;"|43.0
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[的場駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|20.9
|style="text-align:right;"|40.8
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[笠幡駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|23.8
|style="text-align:right;"|37.9
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[武蔵高萩駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|27.0
|style="text-align:right;"|34.7
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="2"|[[日高市]]
|-
|[[高麗川駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|30.6
|style="text-align:right;"|31.1
|[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#a8a39d|■}}[[八高線]]([[八王子駅]]方面と直通運転あり)・{{Color|#b4aa96|■}}八高線(高崎方面)
|style="text-align:center;"|◇
|}
2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の対象となっている。
== 今後の予定 ==
=== 南古谷駅橋上化 ===
2018年度より南古谷駅周辺地区都市再生整備計画が交付され、2022年度までに[[南古谷駅]]橋上化・北口広場新設・南口広場再整備、周辺道路の整備として都市計画道路・南古谷伊佐沼線、市道0039号線の整備が盛り込まれ、事業が進められていくことになった<ref>{{Cite web|和書|title=南古谷駅周辺地区都市再生整備計画/川越市|url=http://www.city.kawagoe.saitama.jp/shisei/toshi_machizukuri/machizukuri/shigaichiseibi/tetsudoeki/toshiseibi120180.html|website=www.city.kawagoe.saitama.jp|accessdate=2019-05-04}}</ref>。
=== ホームドア整備(大宮駅 - 川越駅間) ===
JR東日本によって大宮駅 - 川越駅間の[[ホームドア]]整備が行われる。2032年度末までの予定<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180305.pdf|title=東京圏におけるホームドアの整備促進について|accessdate=2019年5月4日|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
=== 荒川橋梁 架け替え工事 ===
荒川水系河川整備計画 (2016年3月策定、2020年9月変更)に基づき、[[荒川 (関東)|荒川]]では[[荒川第二・第三調節池]]の整備が進められており、このうち第二調節池の整備区間にある川越線の[[荒川橋梁 (川越線)|荒川橋梁]]付近では、橋梁付近での堤防の嵩上げと、荒川橋梁の架換えが予定されている(事業期間:2008年度 - 2030年度)<ref>{{Cite web|和書|title=国土交通省関東地方整備局「荒川第二・三調節池整備事業の概要」|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/kawagoesen/documents/kunisiryou1.pdf|website=埼玉県|accessdate=2021-01-15}}</ref>。
これに対し、2020年11月には、複線化仕様での架換えに関する検討の場として、国土交通省・さいたま市・川越市・埼玉県の4者を会員とし、JR東日本をオブザーバーとする「JR川越線荒川橋りょうの複線化仕様での架換えに関する協議会」が設置された<ref>{{Cite web|和書|title=JR川越線荒川橋りょうの複線化仕様での架換えに関する協議会|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/kawagoesen/kawagoesenkyougikai.html|website=埼玉県|accessdate=2021-01-15}}</ref>。第1回協議会では、さいたま市と川越市がJR東日本に対して複線化の検討を要請する意向を示し、埼玉県は「地元市の意向が重要」との考え方を示したが、JR東日本の見解が、依然として「今あるまちづくりの計画を勘案しても複線化が必要な状況ではない一方で、将来、利用人員が増えたときには、複線化の検討の可能性はある」というものであることが確認された<ref>{{Cite web|和書|title=第1回JR川越線荒川橋りょうの複線化仕様での架換えに関する協議会概要|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/kawagoesen/documents/kyougikaigaiyou.pdf|website=埼玉県|accessdate=2021-01-15}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 報道発表資料 ===
{{Reflist|group="報道"}}
=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kawagoe Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[埼京線]]
* [[八高線]]
* [[西武大宮線]] - 川越線開業の影響で廃止された鉄道路線
* [[大宮運転区]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=21=1=%90%ec%89z%90%fc 検索結果(川越線・八高線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=29=1=%8d%e9%8b%9e%90%fc%81E%90%ec%89z%90%fc 検索結果(埼京線・川越線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* [https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=21&token=&50on= 時刻表 検索結果:JR東日本]
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道大宮支社}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かわこえせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
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[[Category:川越線|*]]
|
2003-07-07T08:30:04Z
|
2023-11-20T22:36:22Z
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|
10,999 |
重力加速度
|
重力加速度(じゅうりょくかそくど、英: gravitational acceleration)とは、重力により生じる加速度である。
端的にいえば、物体を落としたとき、その物体の速度が単位時間当たりにどれだけ速くなるかを示した量であるといえる。原則として重力のみが作用する物体の運動の様子は、等価原理により物体の質量によらない。つまり重い物体でも軽い物体でも同じ速度で落下することが証明されているが、この落下する速度はだんだん上がる性質がある。このため重力を加速度によって表現することが可能となる。
単位には加速度と同じくメートル毎秒毎秒 (記号: m/s)が用いられる。ただし、質量あたりにかかる力 (g = F/m)という解釈からニュートン毎キログラム (記号: N/kg)の方がより適当だとの主張もある。どちらの単位を用いても数値は同じである。重力加速度は、重力を意味する英語: gravity の頭文字を取って g で表される。万有引力定数の G と区別するため、通常は小文字で書かれる。
球対称な天体を考え、自転の影響を考えない場合には、天体の質量を M、半径を R とすると、地表付近での重力加速度の大きさは、万有引力の法則から万有引力定数を G として
g = G M R 2 {\displaystyle g={\frac {GM}{R^{2}}}}
と表すことができる。半径方向の単位ベクトルを er とすれば
g = − G M R 2 e r {\displaystyle {\boldsymbol {g}}=-{\frac {GM}{R^{2}}}{\boldsymbol {e}}_{r}}
と表される。自転による遠心力を考慮すれば、自転の角速度を ω=ωez として
g = − ( G M R 2 − R ω 2 ) e r − R ω 2 e z sin φ {\displaystyle {\boldsymbol {g}}=-\left({\frac {GM}{R^{2}}}-R\omega ^{2}\right){\boldsymbol {e}}_{r}-R\omega ^{2}{\boldsymbol {e}}_{z}\sin \phi }
となる。ここで φ は観測点の緯度である。重力加速度の大きさは緯度によって変化し、赤道で最も小さく、極で最も大きい。また、その方向も球の中心からずれる。
地球の地表付近では、どんな物体でも地面の方向への力(重力)を受けており、その大きさはその物体の質量に比例する。この比例定数が重力加速度である。これはその物体が自由落下する場合の加速度に一致する。
重力加速度の値は場所によって異なるため、標準重力加速度を定めてその値を世界中で使うこととしている。当初の標準重力加速度の定義は「国際度量衡局(パリ)における重力加速度の値」というもので、数値は規定されていなかった。1880年に「北緯45度の海上の重力加速度の値」として、その値を 9.80619920 m/s と定めた。1901年の国際度量衡総会において、標準重力加速度の値を、正確に 9.80665 m/s と規定し、以来その値が用いられている。
重力加速度は加速度の単位としても用いられる。この場合は大文字で G と書かれ、「ジー」と読む。重力加速度と同じ加速度を 1.0 G のように表現する。G(ジー)はSI単位には含まれず、日本の計量法では商取引などでの使用が認められていない。また、アメリカではG(ジー)は認められている。
天体によって重力加速度は異なる。例えば月では 1.622 m/s と地球の約6分の1 (16.5 %)である。
|
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"text": "端的にいえば、物体を落としたとき、その物体の速度が単位時間当たりにどれだけ速くなるかを示した量であるといえる。原則として重力のみが作用する物体の運動の様子は、等価原理により物体の質量によらない。つまり重い物体でも軽い物体でも同じ速度で落下することが証明されているが、この落下する速度はだんだん上がる性質がある。このため重力を加速度によって表現することが可能となる。",
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"text": "単位には加速度と同じくメートル毎秒毎秒 (記号: m/s)が用いられる。ただし、質量あたりにかかる力 (g = F/m)という解釈からニュートン毎キログラム (記号: N/kg)の方がより適当だとの主張もある。どちらの単位を用いても数値は同じである。重力加速度は、重力を意味する英語: gravity の頭文字を取って g で表される。万有引力定数の G と区別するため、通常は小文字で書かれる。",
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"text": "となる。ここで φ は観測点の緯度である。重力加速度の大きさは緯度によって変化し、赤道で最も小さく、極で最も大きい。また、その方向も球の中心からずれる。",
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"text": "地球の地表付近では、どんな物体でも地面の方向への力(重力)を受けており、その大きさはその物体の質量に比例する。この比例定数が重力加速度である。これはその物体が自由落下する場合の加速度に一致する。",
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"text": "重力加速度の値は場所によって異なるため、標準重力加速度を定めてその値を世界中で使うこととしている。当初の標準重力加速度の定義は「国際度量衡局(パリ)における重力加速度の値」というもので、数値は規定されていなかった。1880年に「北緯45度の海上の重力加速度の値」として、その値を 9.80619920 m/s と定めた。1901年の国際度量衡総会において、標準重力加速度の値を、正確に 9.80665 m/s と規定し、以来その値が用いられている。",
"title": "地球の重力加速度"
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"text": "重力加速度は加速度の単位としても用いられる。この場合は大文字で G と書かれ、「ジー」と読む。重力加速度と同じ加速度を 1.0 G のように表現する。G(ジー)はSI単位には含まれず、日本の計量法では商取引などでの使用が認められていない。また、アメリカではG(ジー)は認められている。",
"title": "単位としての重力加速度"
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"text": "天体によって重力加速度は異なる。例えば月では 1.622 m/s と地球の約6分の1 (16.5 %)である。",
"title": "地球以外の重力加速度"
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] |
重力加速度とは、重力により生じる加速度である。
|
'''重力加速度'''(じゅうりょくかそくど、{{lang-en-short|gravitational acceleration}})とは、[[重力]]により生じる[[加速度]]である。
== 概略 ==
端的にいえば、'''物体を落としたとき、その物体の速度が単位時間当たりにどれだけ速くなるか'''を示した量であるといえる。原則として重力のみが作用する物体の運動の様子は、[[等価原理]]により物体の質量によらない。つまり重い物体でも軽い物体でも同じ速度で落下することが証明されているが、この落下する速度はだんだん上がる性質がある<ref>[http://www.buturigaku.net/main01/Mechanics/Mechanics20.html 重力加速度] - 物理学解体新書</ref>。このため重力を加速度によって表現することが可能となる。
[[単位]]には加速度と同じく[[メートル毎秒毎秒]] (記号: m/s{{sup|2}})が用いられる。ただし、質量あたりにかかる力 (''g = F/m'')という解釈から[[ニュートン (単位)|ニュートン]]毎[[キログラム]] (記号: N/kg)の方がより適当だとの主張もある。どちらの単位を用いても数値は同じである。重力加速度は、重力を意味する{{lang-en|gravity}} の頭文字を取って [[G|{{mvar|g}}]] で表される。[[万有引力定数]]の {{mvar|G}} と区別するため、通常は小文字で書かれる。
'''球対称な天体を考え、[[自転]]の影響を考えない場合'''には、天体の質量を {{mvar|M}}、半径を {{mvar|R}} とすると、地表付近での重力加速度の大きさは、[[万有引力]]の法則から[[万有引力定数]]を {{mvar|G}} として
{{Indent|
<math>g =\frac{GM}{R^2}</math>
}}
と表すことができる。半径方向の[[単位ベクトル]]を {{mvar|'''e'''{{sub|r}}}} とすれば
{{Indent|
<math>\boldsymbol{g} =-\frac{GM}{R^2}\boldsymbol{e}_r</math>
}}
と表される。自転による[[遠心力]]を考慮すれば、自転の角速度を {{math|1='''''ω'''''=''ω'''e'''{{sub|z}}''}} として
{{Indent|
<math>\boldsymbol{g} =-\left( \frac{GM}{R^2} -R\omega^2 \right) \boldsymbol{e}_r
-R\omega^2 \boldsymbol{e}_z\sin\phi</math>
}}
となる。ここで {{mvar|φ}} は観測点の[[緯度]]である。重力加速度の大きさは緯度によって変化し、赤道で最も小さく、極で最も大きい。また、その方向も球の中心からずれる。
== 地球の重力加速度 ==
{{see also|地球の重力}}
[[地球]]の地表付近では、どんな物体でも地面の方向への力(重力)を受けており、その大きさはその物体の[[質量]]に比例する。この比例定数が'''重力加速度'''である。これはその物体が[[自由落下]]する場合の加速度に一致する。
=== 標準重力加速度 ===
{{main|標準重力}}
{{物理定数| 名称=標準重力加速度|英語 = Standard gravity または standard acceleration due to free fall| 記号 =<math>g_0</math>,<math>g_n</math>| 値 = {{Val|9.80665|0|u=m/s2}} <ref>{{cite web |url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?gn |title=CODATA Value: standard acceleration of gravity |website=Fundamental Physical Constants |publisher=National Institute of Standards and Technology |accessdate=2013-01-25}}</ref> |不確かさ = 定義値}}
重力加速度の値は場所によって異なるため、'''[[標準重力|標準重力加速度]]'''を定めてその値を世界中で使うこととしている。当初の標準重力加速度の定義は「[[国際度量衡局]]([[パリ]])における重力加速度の値」というもので、数値は規定されていなかった。[[1880年]]に「北緯45度の海上の重力加速度の値」として、その値を {{Val|9.80619920|u=m/s2}} と定めた。[[1901年]]の[[国際度量衡総会]]において、標準重力加速度の値を、正確に {{Val|9.80665|u=m/s2}} と規定し、以来その値が用いられている。
== 単位としての重力加速度 ==
{{単位|記号 = G| 物理量=加速度| SI = {{Val|9.80665|u=m/s2}}}}
重力加速度は加速度の単位としても用いられる。この場合は大文字で G と書かれ、「ジー」と読む。重力加速度と同じ加速度を {{Val|1.0|u=G}} のように表現する。G(ジー)は[[国際単位系|SI単位]]には含まれず、日本の[[計量法]]では商取引などでの使用が認められていない。また、アメリカではG(ジー)は認められている。
*{{Val|1.0|u=G}} = {{Val|9.80665|u=m/s2}}
== 地球以外の重力加速度 ==
{{main|加速度の比較}}
天体によって重力加速度は異なる。例えば月では {{Val|1.622|u=m/s2}} と地球の約6分の1 (16.5 %)である。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[万有引力]]
*[[万有引力定数]]
*[[重力]]
*[[加速度]]
*[[加速度計]]
*[[第一宇宙速度]]
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[[Category:重力]]
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11,000 |
遠心力
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遠心力(えんしんりょく、英: centrifugal force)は、慣性系に対して回転している回転座標系において作用する慣性力の一つである。
慣性系において回転運動をしている物体には、何らかの力が向心力として働いている。
この物体と一緒に回転する回転座標系においては、物体が静止しているように見える。
非慣性系において向心力として働く力が作用しているにもかかわらず、物体が静止しているということは、回転座標系においては向心力と釣り合う力が作用していることを意味する。向心力と釣り合うこの力が遠心力である。
向心力は慣性系においても回転座標系においても作用するのに対し、遠心力は回転座標系においてのみ作用する。
回転座標系における慣性力は遠心力の他に、角速度変化に伴うオイラー力と物体の速度に比例するコリオリの力がある。
回転中心からの回転座標系における位置を r とし、回転座標系の慣性系に対する角速度を ω とするとき、遠心力は
F = − m ω × ( ω × r ) = m ω 2 r − m ω ( ω ⋅ r ) {\displaystyle {\boldsymbol {F}}=-m{\boldsymbol {\omega }}\times ({\boldsymbol {\omega }}\times {\boldsymbol {r}})=m\omega ^{2}{\boldsymbol {r}}-m{\boldsymbol {\omega }}({\boldsymbol {\omega }}\cdot {\boldsymbol {r}})}
と表される。角速度と平行な成分と直交する成分に分けたとき、平行成分は影響せず
F = m ω 2 r ⊥ {\displaystyle {\boldsymbol {F}}=m\omega ^{2}{\boldsymbol {r}}_{\perp }}
となる。
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遠心力は、慣性系に対して回転している回転座標系において作用する慣性力の一つである。
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{{出典の明記|date=2011年6月}}
{{古典力学}}
{{物理学}}
'''遠心力'''(えんしんりょく、{{Lang-en-short|centrifugal force}}<ref>{{Cite book|和書
|author=文部省|authorlink=文部省
|coauthors = [[日本物理学会]]編
|title = [[学術用語集]] 物理学編
|year = 1990
|publisher = [[培風館]]
|isbn = 4-563-02195-4
|page =
}}</ref>)は、[[慣性系]]に対して回転している[[回転座標系]]において作用する[[慣性力]]の一つである。
==概要==
慣性系において[[回転運動]]をしている物体には、何らかの力が[[向心力]]として働いている。
この物体と一緒に回転する回転座標系においては、物体が静止しているように見える。
非慣性系において向心力として働く力が作用しているにもかかわらず、物体が静止しているということは、回転座標系においては向心力と釣り合う力が作用していることを意味する。向心力と釣り合うこの力が遠心力である。
向心力は慣性系においても回転座標系においても作用するのに対し、遠心力は回転座標系においてのみ作用する。
==慣性力==
回転座標系における慣性力は遠心力の他に、角速度変化に伴う[[オイラー力]]と物体の速度に比例する[[コリオリの力]]がある。
==数学的表現==
回転中心からの回転座標系における[[位置]]を {{mvar|'''r'''}} とし、回転座標系の慣性系に対する[[角速度]]を {{mvar|'''ω'''}} とするとき、遠心力は
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となる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* {{Wiktionary-inline|遠心力}}
* {{Commonscat-inline|Centrifugal force}}
* [[遠心加速度]]
* [[遠心分離]]
* [[ジャイロ効果]]
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[[Category:回転]]
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11,002 |
七夕
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七夕(たなばた/しちせき)は、中国語で乞巧節(きっこうせつ)とも呼ばれ、中国神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭りである。中国の旧暦7月7日に行われる。
ロマンチックな愛を祝うこの祭りは、しばしば中国の伝統的なバレンタインデーに相当すると言われる。このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものである。牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきた。この有名な神話に関する最も古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られている。
この祭りは、二重七夕、中国のバレンタインデー、七夕の夜、カササギ祭りなど、さまざまな呼び名がある。
織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
一方、『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠(きこうでん)の風習が記されているが、織女については記されていない。
その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。
以前の女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかったので、少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていた。よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかなこころと器用な手先を得て、良縁が得られるように祈った。これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来である。女性はまた彩楼(飾り付けのある小屋)をつくり、黄銅で出来た細針(七孔針)を準備し、五色の糸で月に対し風を迎え針を通した。しばらくして、七夕も「女の子の日」となった。しかし古人が乞巧するのは七夕に限らず、正月や八九月も乞巧をし、宋以後になってから七夕だけに乞巧をするようになった。宋元時期、七夕乞巧節は盛んになり、乞巧の飾り物だけを売る市場ができ、乞巧市と称した。
『荊楚歳時記』によれば古代の女性は七夕の夜に“閨中秘戲”つまり「七月七日は牽牛と織女が会う日である。この夜、婦女は飾り付けのある小屋を作り、七孔針に糸を通し、またむしろをしいて酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて乞巧を行った。もし蜘蛛が瓜に網を張っていれば、印があったとする。」(七月七日,為牽牛織女聚會之夜。是夕,人家婦女結采縷,穿七孔針,或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧。有喜子網於瓜上。則以為符應)を行った。喜子とは一種の小型のクモである。「東京夢華録」では「婦人は月に向かって糸を通し、また小さな蜘蛛を箱に入れて、次の日に見て、もし網が丸く張っていれば、器用になるという」(婦女望月穿針,或以小蜘蛛安合子内,次日看之,若網圓正,謂之得巧。)とある。杜甫『牽牛織女』もこの風習に言及している“蛛絲小人態,曲綴瓜果中。”劉言史『七夕歌』:“碧空露重新盤濕,花上乞得蜘蛛絲。”
現在の七夕は「愛情節」と呼ばれている。多くの商店や人々は「情人節」(恋人の日、つまり中国版のバレンタインデー)と呼んでいる。しかし、七夕の伝統的な習俗にはカップルのデートはなかったので、民俗専門家は「情人節」は不適当であって「愛情節」と呼ぶべきだとする。中国大陸では、七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっていて伝統習俗は廃れており、人々の七夕に対する情熱は舶来の「情人節」(2月14日)とは比べものにならない。
江南の刺繍する少女は夜に月光の下で、一本の刺繍針を椀の水面にそっと置き、表面張力で針を浮かべる。月光が照らすなか、一番複雑な波紋が周りに出現した針が、一番良い刺繍が出来るとする。また針に赤い糸を透して、七仙女に「乞巧」(器用になることを願うこと)をする。唐代詩人の林杰の詩の「乞巧」では「七夕今宵看碧宵,牛郎織女渡河橋,家家乞巧望秋月,穿尽紅糸幾万条。」と述べている。
爪を染めることは西南一帯の七夕の習俗である。若い娘はこの日に樹液で髪を洗って若く美しくあることを願い、また未婚女性は想い人と巡りあうことを願う。
膠東地区では七夕に七神姐を拝んだ。女性たちは新しい服を着て、1つの堂に集まり、七姉妹となった。少女たちは牡丹や蓮や梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子をつくり、織女を祭った。
広東では少女たちによって「拜七姐」が行われた。(男性や老女は参加できなかった)6月から準備を開始し、稲や麦や緑豆の粒を椀で浸して発芽させる。七夕が近づくとハリボテの鵲橋をつくり、また様々な手の込んだ手芸品を作る。七夕の夜には八仙桌を廟堂に置き、その上に果物や花や発芽させた穀物の芽や、人形や紙細工などの女性が作った手芸品、彫刻した果物、化粧品やお菓子などを置く。女性たちは髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染める。八仙卓や鵲橋のそばで様々な遊戯を行う。また針に糸を通して乞巧(器用になることを願う)をしたり、北斗七星(織女の姉妹であるとされていた)や2つの星を拝む。また家々では乞巧卓を設け、人々をもてなした。深夜の12時は織女が下界に降りてくる時とされており、全ての灯りに火をともし、針に糸を通して、織女を出迎え、歓声があがる。そしてひと通り楽しんだ後、解散となった。
閩南では、織姫を「七娘媽」と呼び、子供の守り神とする。閩南の習俗では七夕の日にザクロとシクンシで煮た卵と肉と黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気よけとする。
現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。
韓国では七月七夕(칠월칠석、チルォルチルソッ)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられている。その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙、2日間、夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われている。
その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)とヘッグヮイル(季節の果物)を供え、女性らはチャントッテ(醤油がめやみそがめを置く高台)の上に水(井戸水)を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願する。また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう願う。チャントッテの上に水(井戸水)を供えたあと、灰を平らに盆にのせて、翌日そこに何か通り過ぎた跡があれば、霊感があって針仕事が上手くなると信じられている。また少年らは学問に秀でるため夜空に星を描いて祈る。 また、梅雨が過ぎたあとの湿気で、衣類や書籍類に虫がついたり変質することを防ぐため、七夕の日の強い夏の日差しにあて、家ごとに井戸水を汲み取ってきれいにした後、蒸し餅を作り井戸の上に置いたりして七夕の日を過ごした。七夕の日の料理にはミルクッス(小麦粉で作った麺、うどん)とミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)がある。この日をさかいに冷たい風が吹き始めると小麦粉料理の季節は終わりとなり、最後の小麦粉料理となる。また、鯉を材料としたインオフェ(鯉のさしみ)、インオグイ(鯉の焼き魚)、そしてオイキムチ(きゅうりのキムチ)などを食べ、桃やスイカで作ったクァイルファチェ(いろんな果物を入れて混ぜた飲み物)を飲む 。
台湾では、7月7日は七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南や鹿港ではzh:做十六歲という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。
元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。
ブラジルでは、日本の年中行事に親しむイベントや「商店街七夕」の形式で、日にちに拘らず行われる。
仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」は、仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、7月の週末に同市のリベルダージにて開催されている。南半球であるため冬の風物詩として定着している。
仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として2009年から始まった「ロサンゼルス七夕祭り」がある。時期は仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、8月中旬頃に同市のリトルトーキョーにて二世週日本祭(二世ウイーク)に合わせて開催されている。
2007年からの、グレゴリオ暦7月7日の月齢と天の川の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示す。天の川の輝きは淡いため、月明かりや光害の影響があると見ることが難しい。月齢は0が新月、7.5が上弦の月、15が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。
日本における「旧暦」は国家機関としては現在非公式扱いではあるが、国立天文台では2001年より「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、天体的に本来である旧暦7月7日を「伝統的七夕」と名付け、その日を新暦に換算した具体的日付を広く報じている。ただし冒頭の理由により建前上「伝統的七夕」の日の定義は、旧暦7月7日に近い日として「二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間=8月23日頃)を含む日かそれ以前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」としている。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時)は以下。
こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離した。ただ年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。
古典文学としておおまかなストーリーは以上のとおりの七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となった。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものである。羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。
「織姫と彦星」 昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんをむかえてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。
織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。
夏の大三角形が関係している。
中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。
グレゴリオ暦(新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なるため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。
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"text": "七夕(たなばた/しちせき)は、中国語で乞巧節(きっこうせつ)とも呼ばれ、中国神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭りである。中国の旧暦7月7日に行われる。",
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"text": "ロマンチックな愛を祝うこの祭りは、しばしば中国の伝統的なバレンタインデーに相当すると言われる。このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものである。牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきた。この有名な神話に関する最も古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られている。",
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"text": "この祭りは、二重七夕、中国のバレンタインデー、七夕の夜、カササギ祭りなど、さまざまな呼び名がある。",
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"text": "織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。",
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"text": "一方、『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠(きこうでん)の風習が記されているが、織女については記されていない。",
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"text": "その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。",
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"text": "以前の女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかったので、少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていた。よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかなこころと器用な手先を得て、良縁が得られるように祈った。これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来である。女性はまた彩楼(飾り付けのある小屋)をつくり、黄銅で出来た細針(七孔針)を準備し、五色の糸で月に対し風を迎え針を通した。しばらくして、七夕も「女の子の日」となった。しかし古人が乞巧するのは七夕に限らず、正月や八九月も乞巧をし、宋以後になってから七夕だけに乞巧をするようになった。宋元時期、七夕乞巧節は盛んになり、乞巧の飾り物だけを売る市場ができ、乞巧市と称した。",
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"text": "『荊楚歳時記』によれば古代の女性は七夕の夜に“閨中秘戲”つまり「七月七日は牽牛と織女が会う日である。この夜、婦女は飾り付けのある小屋を作り、七孔針に糸を通し、またむしろをしいて酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて乞巧を行った。もし蜘蛛が瓜に網を張っていれば、印があったとする。」(七月七日,為牽牛織女聚會之夜。是夕,人家婦女結采縷,穿七孔針,或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧。有喜子網於瓜上。則以為符應)を行った。喜子とは一種の小型のクモである。「東京夢華録」では「婦人は月に向かって糸を通し、また小さな蜘蛛を箱に入れて、次の日に見て、もし網が丸く張っていれば、器用になるという」(婦女望月穿針,或以小蜘蛛安合子内,次日看之,若網圓正,謂之得巧。)とある。杜甫『牽牛織女』もこの風習に言及している“蛛絲小人態,曲綴瓜果中。”劉言史『七夕歌』:“碧空露重新盤濕,花上乞得蜘蛛絲。”",
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"text": "現在の七夕は「愛情節」と呼ばれている。多くの商店や人々は「情人節」(恋人の日、つまり中国版のバレンタインデー)と呼んでいる。しかし、七夕の伝統的な習俗にはカップルのデートはなかったので、民俗専門家は「情人節」は不適当であって「愛情節」と呼ぶべきだとする。中国大陸では、七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっていて伝統習俗は廃れており、人々の七夕に対する情熱は舶来の「情人節」(2月14日)とは比べものにならない。",
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"text": "江南の刺繍する少女は夜に月光の下で、一本の刺繍針を椀の水面にそっと置き、表面張力で針を浮かべる。月光が照らすなか、一番複雑な波紋が周りに出現した針が、一番良い刺繍が出来るとする。また針に赤い糸を透して、七仙女に「乞巧」(器用になることを願うこと)をする。唐代詩人の林杰の詩の「乞巧」では「七夕今宵看碧宵,牛郎織女渡河橋,家家乞巧望秋月,穿尽紅糸幾万条。」と述べている。",
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"text": "爪を染めることは西南一帯の七夕の習俗である。若い娘はこの日に樹液で髪を洗って若く美しくあることを願い、また未婚女性は想い人と巡りあうことを願う。",
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"text": "膠東地区では七夕に七神姐を拝んだ。女性たちは新しい服を着て、1つの堂に集まり、七姉妹となった。少女たちは牡丹や蓮や梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子をつくり、織女を祭った。",
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"text": "広東では少女たちによって「拜七姐」が行われた。(男性や老女は参加できなかった)6月から準備を開始し、稲や麦や緑豆の粒を椀で浸して発芽させる。七夕が近づくとハリボテの鵲橋をつくり、また様々な手の込んだ手芸品を作る。七夕の夜には八仙桌を廟堂に置き、その上に果物や花や発芽させた穀物の芽や、人形や紙細工などの女性が作った手芸品、彫刻した果物、化粧品やお菓子などを置く。女性たちは髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染める。八仙卓や鵲橋のそばで様々な遊戯を行う。また針に糸を通して乞巧(器用になることを願う)をしたり、北斗七星(織女の姉妹であるとされていた)や2つの星を拝む。また家々では乞巧卓を設け、人々をもてなした。深夜の12時は織女が下界に降りてくる時とされており、全ての灯りに火をともし、針に糸を通して、織女を出迎え、歓声があがる。そしてひと通り楽しんだ後、解散となった。",
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"text": "閩南では、織姫を「七娘媽」と呼び、子供の守り神とする。閩南の習俗では七夕の日にザクロとシクンシで煮た卵と肉と黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気よけとする。",
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"text": "現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。",
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"text": "韓国では七月七夕(칠월칠석、チルォルチルソッ)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられている。その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙、2日間、夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われている。",
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"text": "その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)とヘッグヮイル(季節の果物)を供え、女性らはチャントッテ(醤油がめやみそがめを置く高台)の上に水(井戸水)を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願する。また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう願う。チャントッテの上に水(井戸水)を供えたあと、灰を平らに盆にのせて、翌日そこに何か通り過ぎた跡があれば、霊感があって針仕事が上手くなると信じられている。また少年らは学問に秀でるため夜空に星を描いて祈る。 また、梅雨が過ぎたあとの湿気で、衣類や書籍類に虫がついたり変質することを防ぐため、七夕の日の強い夏の日差しにあて、家ごとに井戸水を汲み取ってきれいにした後、蒸し餅を作り井戸の上に置いたりして七夕の日を過ごした。七夕の日の料理にはミルクッス(小麦粉で作った麺、うどん)とミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)がある。この日をさかいに冷たい風が吹き始めると小麦粉料理の季節は終わりとなり、最後の小麦粉料理となる。また、鯉を材料としたインオフェ(鯉のさしみ)、インオグイ(鯉の焼き魚)、そしてオイキムチ(きゅうりのキムチ)などを食べ、桃やスイカで作ったクァイルファチェ(いろんな果物を入れて混ぜた飲み物)を飲む 。",
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"text": "台湾では、7月7日は七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南や鹿港ではzh:做十六歲という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。",
"title": "風習"
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"text": "元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。",
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"text": "ブラジルでは、日本の年中行事に親しむイベントや「商店街七夕」の形式で、日にちに拘らず行われる。",
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"text": "仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」は、仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、7月の週末に同市のリベルダージにて開催されている。南半球であるため冬の風物詩として定着している。",
"title": "時期"
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"text": "仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として2009年から始まった「ロサンゼルス七夕祭り」がある。時期は仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、8月中旬頃に同市のリトルトーキョーにて二世週日本祭(二世ウイーク)に合わせて開催されている。",
"title": "時期"
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"text": "2007年からの、グレゴリオ暦7月7日の月齢と天の川の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示す。天の川の輝きは淡いため、月明かりや光害の影響があると見ることが難しい。月齢は0が新月、7.5が上弦の月、15が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。",
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"text": "日本における「旧暦」は国家機関としては現在非公式扱いではあるが、国立天文台では2001年より「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、天体的に本来である旧暦7月7日を「伝統的七夕」と名付け、その日を新暦に換算した具体的日付を広く報じている。ただし冒頭の理由により建前上「伝統的七夕」の日の定義は、旧暦7月7日に近い日として「二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間=8月23日頃)を含む日かそれ以前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」としている。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時)は以下。",
"title": "予定"
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"text": "こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離した。ただ年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。",
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"text": "古典文学としておおまかなストーリーは以上のとおりの七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となった。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものである。羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。",
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"text": "「織姫と彦星」 昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんをむかえてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。",
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"text": "織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。",
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"text": "夏の大三角形が関係している。",
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"text": "中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。",
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"text": "グレゴリオ暦(新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なるため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。",
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七夕(たなばた/しちせき)は、中国語で乞巧節(きっこうせつ)とも呼ばれ、中国神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭りである。中国の旧暦7月7日に行われる。 ロマンチックな愛を祝うこの祭りは、しばしば中国の伝統的なバレンタインデーに相当すると言われる。このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものである。牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきた。この有名な神話に関する最も古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られている。 この祭りは、二重七夕、中国のバレンタインデー、七夕の夜、カササギ祭りなど、さまざまな呼び名がある。
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{{Otheruseslist|主に中国の中国の七夕|日本の七夕|七夕 (日本)|5=七夕 (曖昧さ回避)|その他の七夕}}
{{脚注の不足|date=2023年7月}}
[[ファイル:Tanabata.jpg|thumb|180px|七夕の笹飾り<br>[[京阪電気鉄道|京阪]][[土居駅]]前・旭通り商店街にて(2005年7月撮影)]]
'''七夕'''(たなばた<ref>[[熟字訓]]</ref>/しちせき)は、中国語で乞巧節(きっこうせつ)とも呼ばれ、中国神話に登場する[[牛郎織女|牛郎と織女]]の逢瀬を祝う中国の祭りである<ref name="zhao15-13">{{Harvnb|Zhao|2015|loc=13}}.</ref><ref name="brown06-72">{{Harvnb|Brown|Brown|2006|loc=72}}.</ref><ref name="poon11-100">{{Harvnb|Poon|2011|loc=100}}.</ref><ref name="melbau10-912-3">{{Harvnb|Melton|Baumann|2010|loc=912–913}}.</ref>。中国の旧暦7月7日に行われる<ref name="zhao15-13" /><ref name="brown06-72" /><ref name="poon11-100" /><ref name="melbau10-912-3" />。
ロマンチックな愛を祝うこの祭りは、しばしば中国の伝統的な[[バレンタインデー]]に相当すると言われる<ref name="Wei Chinese Festivals Qixi">{{cite book |last1=Wei |first1=Liming |title=Chinese Festivals: Traditions, Customs and Rituals |date=2010 |location=Beijing |isbn=9787508516936 |pages=43–46 |edition=Second}}</ref>。このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものである<ref name="Wei Chinese Festivals Qixi" /><ref name="brown06-72" /><ref name="melbau10-912-3" />。牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきた<ref name="schomp09-70">{{Harvnb|Schomp|2009|loc=70}}.</ref>。この有名な神話に関する最も古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『[[詩経]]』の詩の中で語られている<ref name="schomp09-89">{{Harvnb|Schomp|2009|loc=89}}.</ref>。
この祭りは、二重七夕<ref name="melbau10-912-3" />、中国のバレンタインデー<ref>{{Harvnb|Welch|2008|loc=228}}.</ref>、七夕の夜<ref name="brown06-72" /><ref>Chester Beatty Library, [http://www.cbl.ie/china/Item.aspx?itemId=6 online] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141022035250/http://www.cbl.ie/china/Item.aspx?itemId=6|date=2014-10-22}}.</ref>、カササギ祭り<ref>{{Cite web |title=Magpie Festival |url=https://prezi.com/ohcgm9hcegtt/magpie-festival/?fallback=1 |access-date=2021-11-18 |website=prezi.com |language=en |archive-date=18 November 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211118022048/https://prezi.com/ohcgm9hcegtt/magpie-festival/?fallback=1 |url-status=live}}</ref>など、さまざまな呼び名がある。
== 歴史 ==
織女と牽牛の伝説は『[[文選 (書物)|文選]]』の中の[[漢]]の時代に編纂された「[[古詩十九首]]<ref>[https://syulan.hatenadiary.org/entry/20070707/p1 古詩十九首之十、迢迢牽牛星(無名氏)]</ref>」が文献として初出とされている<ref group="注釈">『[[詩経]]』の小雅、谷風之什の『大東』にも牽牛と織女の名が出ているが、恋愛伝説の形にはなっていない。</ref>が、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
一方、『[[西京雑記]]』には、[[前漢]]の采女が七月七日に七針に糸を通すという'''乞巧奠'''(きこうでん)の風習が記されているが、織女については記されていない<ref>[[s:zh:西京雜記/卷一#一六、七夕穿針開襟樓|『西京雑記』巻1]]「漢彩女常以七月七日穿七孔針於開襟楼、俱以習之。」</ref>。
その後、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の『[[荊楚歳時記]]』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また[[六朝]]・[[梁 (南朝)|梁代]]の[[殷芸]](いんうん)が著した『[[小説 (殷芸)|小説]]』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『[[月令広義|月令廣義]]』七月令にある[[逸文]])という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている<ref group="注釈">『小説』の原典は失われているが、[[明|明代]]の[[馮応京|馮應京]](ひょう おうきょう)が[[万暦|万暦年間]]に著した『[[月令広義]]』にこれが引用されている(「七月令」・「牛郎織女」項 [http://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029605.htm])。</ref>。
== 風習 ==
=== 中国 ===
以前の女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかったので、少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていた。よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかなこころと器用な手先を得て、良縁が得られるように祈った。これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来である。女性はまた彩楼(飾り付けのある小屋)をつくり、黄銅で出来た細針(七孔針)を準備し、五色の糸で月に対し風を迎え針を通した。しばらくして、七夕も「女の子の日」となった。しかし古人が乞巧するのは七夕に限らず、正月や八九月も乞巧をし、宋以後になってから七夕だけに乞巧をするようになった。[[宋 (王朝)|宋]][[元 (王朝)|元]]時期、七夕乞巧節は盛んになり、乞巧の飾り物だけを売る市場ができ、乞巧市と称した。
『[[荊楚歳時記]]』によれば古代の女性は七夕の夜に“閨中秘戲”つまり「七月七日は牽牛と織女が会う日である。この夜、婦女は飾り付けのある小屋を作り、七孔針に糸を通し、またむしろをしいて酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて乞巧を行った。もし蜘蛛が瓜に網を張っていれば、印があったとする。」(七月七日,為牽牛織女聚會之夜。是夕,人家婦女結采縷,穿七孔針,或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧。有喜子網於瓜上。則以為符應)を行った。喜子とは一種の小型の[[クモ]]である。「[[東京夢華録]]」では「婦人は月に向かって糸を通し、また小さな蜘蛛を箱に入れて、次の日に見て、もし網が丸く張っていれば、器用になるという」(婦女望月穿針,或以小蜘蛛安合子内,次日看之,若網圓正,謂之得巧。)とある。[[杜甫]]『牽牛織女』もこの風習に言及している“蛛絲小人態,曲綴瓜果中。”[[劉言史]]『七夕歌』:“碧空露重新盤濕,花上乞得蜘蛛絲。”
現在の七夕は「愛情節」と呼ばれている<ref>[http://www.pds.cn/Html/city_intro/city_news/quxiandongtai/51758.html 鲁山七夕爱情节系列活动筹备就绪],[http://www.xtnews.gov.cn/node3/xinwen/xtxw/userobject1ai18272.html 邢台天河山七夕爱情节],[http://xfrb.hj.cn/Read.asp?NewsID=190864 老河口七夕爱情节]」</ref>。多くの商店や人々は「情人節」(恋人の日、つまり中国版の[[バレンタインデー]])と呼んでいる。しかし、七夕の伝統的な習俗にはカップルのデートはなかったので、民俗専門家は「情人節」は不適当であって「愛情節」と呼ぶべきだとする<ref>[http://news.xinhuanet.com/book/2008-08/07/content_9013874.htm 冯骥才:七夕应为中国爱情节]</ref>。中国大陸では、七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっていて伝統習俗は廃れており<ref>{{Cite web|url=http://culture.people.com.cn/n/2013/0329/c172318-20965826.html|title=文化七夕:传统女儿节失落的背后|accessdate=2023-07-07|publisher=人民网}}</ref><!-- <ref>[http://bz.cenn.cn/info/nid_84656.html 商业包装“七夕节” 传统女儿节失落的背后]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref> -->、人々の七夕に対する情熱は舶来の「情人節」(2月14日)とは比べものにならない。
[[File:Niulang and Zhinv (Long Corridor).JPG|thumb|[[頤和園]]長廊彩絵:牛郎織女鵲橋会]]
==== 江南 ====
江南の刺繍する少女は夜に月光の下で、一本の刺繍針を椀の水面にそっと置き、[[表面張力]]で針を浮かべる。月光が照らすなか、一番複雑な波紋が周りに出現した針が、一番良い刺繍が出来るとする。また針に赤い糸を透して、七仙女に「乞巧」(器用になることを願うこと)をする。[[唐代]][[詩人]]の[[林杰]]の詩の「乞巧」では「七夕今宵看碧宵,牛郎織女渡河橋,家家乞巧望秋月,穿尽紅糸幾万条。」と述べている。
==== 西南 ====
爪を染めることは西南一帯の七夕の習俗である。若い娘はこの日に樹液で髪を洗って若く美しくあることを願い、また未婚女性は想い人と巡りあうことを願う。
==== 膠東 ====
[[膠東半島|膠東]]地区では七夕に七神姐を拝んだ。女性たちは新しい服を着て、1つの堂に集まり、七姉妹となった。少女たちは牡丹や蓮や梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子をつくり、織女を祭った。
==== 広東 ====
広東では少女たちによって「拜七姐」が行われた。(男性や老女は参加できなかった)6月から準備を開始し、稲や麦や緑豆の粒を椀で浸して発芽させる。七夕が近づくとハリボテの鵲橋をつくり、また様々な手の込んだ手芸品を作る。七夕の夜には八仙桌を廟堂に置き、その上に果物や花や発芽させた穀物の芽や、人形や紙細工などの女性が作った手芸品、彫刻した果物、化粧品やお菓子などを置く。女性たちは髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染める。八仙卓や鵲橋のそばで様々な遊戯を行う。また針に糸を通して乞巧(器用になることを願う)をしたり、北斗七星(織女の姉妹であるとされていた)や2つの星を拝む。また家々では乞巧卓を設け、人々をもてなした。深夜の12時は織女が下界に降りてくる時とされており、全ての灯りに火をともし、針に糸を通して、織女を出迎え、歓声があがる。そしてひと通り楽しんだ後、解散となった<ref>[http://wan.cncn.com/guide_5051.htm 广东七夕节风俗习惯]</ref>。
==== 閩南 ====
閩南では、織姫を「七娘媽」と呼び、子供の守り神とする。閩南の習俗では七夕の日に[[ザクロ]]と[[シクンシ科|シクンシ]]で煮た卵と肉と黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気よけとする。
=== 香港 ===
現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。
=== 韓国 ===
韓国では'''七月七夕'''({{lang|ko|칠월칠석}}、チルォルチルソッ)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられている。その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙、2日間、夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われている。
その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)とヘッグヮイル(季節の果物)を供え、女性らはチャントッテ(醤油がめやみそがめを置く高台)の上に水(井戸水)を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願する。また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう願う。チャントッテの上に水(井戸水)を供えたあと、灰を平らに盆にのせて、翌日そこに何か通り過ぎた跡があれば、霊感があって針仕事が上手くなると信じられている。また少年らは学問に秀でるため夜空に星を描いて祈る。
また、梅雨が過ぎたあとの湿気で、衣類や書籍類に虫がついたり変質することを防ぐため、七夕の日の強い夏の日差しにあて、家ごとに井戸水を汲み取ってきれいにした後、蒸し餅を作り井戸の上に置いたりして七夕の日を過ごした。七夕の日の料理にはミルクッス(小麦粉で作った麺、うどん)とミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)がある。この日をさかいに冷たい風が吹き始めると小麦粉料理の季節は終わりとなり、最後の小麦粉料理となる。また、鯉を材料としたインオフェ(鯉のさしみ)、インオグイ(鯉の焼き魚)、そしてオイキムチ(きゅうりのキムチ)などを食べ、桃やスイカで作ったクァイルファチェ(いろんな果物を入れて混ぜた飲み物)を飲む
<ref>[https://web.archive.org/web/20100627214349/http://www.seoulnavi.com/special/5002674 チルォルチルソッ(7月七夕)]韓国観光旅行ガイド ソウルナビ</ref>。
=== 台湾 ===
[[台湾]]では、7月7日は七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神の[[:zh:床母]]を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、[[冥銭|紙銭]]の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また[[台南]]<ref>{{cite web|url=http://www.chps.tn.edu.tw/tainan/c1-2.htm|title=真相大公開|accessdate=2010-03-27|publisher=[[台南市]]進學國小}}</ref>や[[鹿港鎮|鹿港]]<ref>{{cite news|title=拜七娘媽 鹿港小鎮仍流傳|date=2002-09-30|author=何烱榮|url=http://www.udn.com/2002/9/30/NEWS/TRAVEL/TAIWAN_NOTE/1011465.shtml|publisher=聯合報|language=繁體中文}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>では[[:zh:做十六歲]]<ref>{{cite web|url=http://taiwanpedia.culture.tw/web/content?ID=2037|title=七夕|accessdate=2010-03-27|author=洪淑苓|publisher=台灣大百科全書|language=繁體中文|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110814230730/http://taiwanpedia.culture.tw/web/content?ID=2037|archivedate=2011年8月14日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>という成人式をこの日に行う。近年では、[[バレンタインデー]]と同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。
== 時期 ==
=== 中国 ===
元来は中国の節句の一つであり、[[太陰太陽暦]]の[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]である。[[中国暦]]において[[7月 (旧暦)|7月]]は[[秋]]の最初の月「孟秋」であり、7日は[[上弦の月]]すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。[[二十四節気]]では[[立秋]]前後の時期に相当する。
=== ブラジル ===
[[ブラジル]]では、日本の年中行事に親しむイベントや「商店街七夕」の形式で、日にちに拘らず行われる。
仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「[[サンパウロ仙台七夕祭り]]」は、仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、7月の週末に同市の[[リベルダージ]]にて開催されている。[[南半球]]であるため[[冬]]の風物詩として定着している。
=== アメリカ ===
仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として2009年から始まった「[[ロサンゼルス]]七夕祭り」がある<ref>[https://www.tanabatalosangeles.org/wp-content/uploads/2018/05/2018-Tanabata-Flyer-JP.pdf 七夕飾りプロジェクト]ロサンゼルス七夕フェスティバル 2020年2月24日閲覧</ref>。時期は仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、8月中旬頃に同市の[[リトルトーキョー]]にて[[二世週日本祭]](二世ウイーク)に合わせて開催されている。
== 予定 ==
=== 新暦の七夕における月齢 ===
2007年からの、[[グレゴリオ暦]]7月7日の[[月#月齢と呼び名|月齢]]と[[天の川]]の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示す。天の川の輝きは淡いため、月明かりや[[光害]]の影響があると見ることが難しい。月齢は0が新月、7.5が上弦の月、15が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。
# 2007-07-07: 月齢22 ○
# 2008-07-07: 月齢4 ◎
# 2009-07-07: 月齢15 ×
# 2010-07-07: 月齢25 ◎
# 2011-07-07: 月齢6 ○
# 2012-07-07: 月齢18 ×
# 2013-07-07: 月齢29 ◎
# 2014-07-07: 月齢10 △
# 2015-07-07: 月齢21 △
# 2016-07-07: 月齢3 ◎
# 2017-07-07: 月齢13 ×
# 2018-07-07: 月齢24 ○
# 2019-07-07: 月齢5 ○
# 2020-07-07: 月齢16 ×
# 2021-07-07: 月齢27 ◎
# 2022-07-07: 月齢8 ○
=== 旧暦の七夕(伝統的七夕) ===
日本における「旧暦」は国家機関としては現在非公式扱いではあるが、[[国立天文台]]では2001年より「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、天体的に本来である旧暦7月7日を「'''伝統的七夕'''」と名付け、その日を新暦に換算した具体的日付を広く報じている。ただし冒頭の理由により建前上「伝統的七夕」の日の定義は、旧暦7月7日に近い日として「[[二十四節気]]の[[処暑]](しょしょ=[[黄道|太陽黄経]]が150度になる瞬間=[[8月23日]]頃)を含む日かそれ以前で、処暑に最も近い[[朔]](さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」としている<ref>{{Cite web|和書|author=[[国立天文台]] |date= |url=https://www.nao.ac.jp/faq/a0310.html |title=質問3-10) 伝統的七夕について教えて |work=よくある質問 |publisher= |accessdate=2020-08-27}}</ref>。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。「伝統的七夕」(旧七夕)の日付([[日本標準時]])は以下。<!-- 表現はISO(=JIS X 0301)に従っています。 -->
# 2011-08-06
# 2012-08-24 <ref group="注釈">中国では前日の8月23日。朔の瞬間から起算するため、時差により日本では1日遅い。</ref>
# 2013-08-13
# 2014-08-02
# 2015-08-20
# 2016-08-09
# 2017-08-28
# 2018-08-17
# 2019-08-07
# 2020-08-25
# 2021-08-14
# 2022-08-04
# 2023-08-22
# 2024-08-10
# 2025-08-29
== 織女星と牽牛星の伝説 ==
{{Main|牛郎織女}}
=== 説話 ===
[[ファイル:Jūnishi nochi ushi "kengyūsei" by Yamamoto Hōsui.jpg|200px|thumb|right|「十二支のうち丑『牽牛星』」[[山本芳翠]]筆]]
[[こと座]]の1等星[[ベガ]]は、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、[[わし座]]の[[アルタイル]]である。夏彦もまた働き者であり、[[天帝]]は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが[[夫婦生活]]が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を[[天の川]]を隔てて引き離した。ただ年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきた[[カササギ]]が橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には'''星あい'''(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。
古典文学としておおまかなストーリーは以上のとおりの七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、[[戯曲 (中国)|戯曲]]の題材となった。その中で有名なものに[[京劇]]などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である[[西王母]]によって天の川の東西に引き裂かれるというものである。[[羽衣伝説]]のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。
=== 物語 ===
「織姫と彦星」
[[昔話|昔]]々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんをむかえてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」
それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。
=== 星空 ===
[[織女]]や[[牽牛]]という星の名称は [[春秋戦国時代]]の『[[詩経]]』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。[[前漢]]の『[[史記]]』天官書を見るとかつての牽牛は[[牛宿]]のことであり、現在の牽牛すなわち[[アルタイル]]は河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。
夏の大三角形が関係している。
中国や日本で使われていた[[太陰太陽暦]]では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では[[光害]]の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。
グレゴリオ暦(新暦)では、[[#新暦の七夕における月齢|月の満ち欠けは毎年異なる]]ため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*『とやま祭ガイド』([[北日本新聞社]]、[[2004年]]3月31日発行) ISBN 4-906678-87-4
* [[網野善彦]]・大西廣・佐竹昭広『瓜と龍蛇― いまは昔 むかしは今 1巻 ―』(福音館書店、1989年)P.99-107。ISBN 4-8340-0150-4 C0090 上記「江家次第」の該当部分の編集部による大意、要約あり。また江戸時代の宮中で行われたもの(禁中近代年中行事 19世紀)の大意、要約、民間での「七夕」の記事あり。
== 関連項目 ==
{{節句}}
* [[短冊]]
* [[関東三大七夕祭り]]
* [[東北三大祭り]]
* [[仙台七夕]] - [[ベガルタ仙台]]
* [[ねぶた]] - [[ローソクもらい]]
* [[天体観測]]
* [[天体観望]]
* [[ウルヴァシー]]
* [[アメノワカヒコ]]
* [[七夕ミュージアム]]
* [[日本の祭一覧]]
* [[鷺舞]] - [[津和野町|津和野]]の鷺舞は七夕のカササギの橋の伝承が元となっているとされる。
* [[Jリーグオールスターサッカー]] - 1995年と1996年は、ジェイ・[[ヴェガ]]対ジェイ・[[アルタイル]]というチーム編成で7月に開催された。
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Cite web|和書|author = 一般社団法人七夕協会 |date = |url = https://tanabata.org/ |title = 公式ホームページ(2016年7月7日設立) |work = |publisher = |accessdate = 2017-07-07}}
* {{Cite web|和書|author = 伝統的七夕ライトダウン2011推進委員会 |date = |url = http://7min.darksky.jp/ |title = 伝統的七夕ライトダウン2011キャンペーン |work = |publisher = |accessdate = 2011-07-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110719070237/http://7min.darksky.jp/|archivedate=2011-07-19}}
* {{Cite web|和書|author = [[世界天文年2009]]日本委員会 |date = |url = http://www.astronomy2009.jp/ja/project/tanabata/ |title = 七夕に星を見よう |work = |publisher = |accessdate = 2011-07-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121128023241/http://www.astronomy2009.jp/ja/project/tanabata/|archivedate=2012-11-28}}
* {{Cite web|和書|author = AstroArts |date = |url = https://www.astroarts.co.jp/special/2012tanabata/legend-j.shtml |title = 【特集】七夕 |work = |publisher = |accessdate = 2011-07-25}}
* 参考資料:[https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8D%5D%89%C6%8E%9F%91%E6 早稲田大学 古典籍データベース(JAPANESE & CHINESE CLASSICS) 江家次第 第8巻 7月条「乞巧奠」] 各伝本(聞書、抄本含む)5種類がPDFファイル、HTMLファイルとして閲覧、ダウンロードできる。
* [https://ameblo.jp/inarizus1-gomadang0/entry-12691352023.html 伝統的七夕とその関連行事について]
* {{Kotobank}}
* {{ジャパンナレッジ|37}}
{{DEFAULTSORT:たなはた}}
[[Category:七夕|*]]
[[Category:年中行事]]
[[Category:日本の祭り]]
[[Category:7月]]
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[[Category:旧暦7月]]
[[Category:熟字訓]]
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2003-07-07T09:09:10Z
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11,004 |
電子ボルト
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電子ボルト(でんしボルト、英: electron volt、記号: eV)はエネルギーの単位のひとつである。非SI単位であるがSI併用単位となっている。ただし、計量法における法定計量単位ではない。
1 eV は、電気素量(電子1個の電荷の絶対値)をもつ荷電粒子が、真空中で1 V の電位差を抵抗なしに通過するときに得るエネルギーである。2019年のSI基本単位の再定義により、1 eV の値は正確に1.602176634×10 J である。
自由空間内で電子一つが 1 V の電圧で加速されるときに得るエネルギーが1 電子ボルトである。単位記号は 1 eV である。素粒子物理学をはじめ、原子核物理学、物性物理学、高エネルギー物理学、あるいは化学、半導体工学などの分野でも幅広く使用されるエネルギーの単位である。エレクトロンボルト(electron volt)と呼称することが多い。
倍量・分量単位を、SI単位と同様に、単位記号「eV」にSI接頭語を付けて表現する(SI併用単位#SI接頭語と組み合わせることができる単位)。分量単位は、meV、μeV であり、倍量単位は、keV(ケブ)、MeV(メブ)、GeV(ジェブ)(米 BeV: ベヴ)、TeV(テブ)、PeV(ペブ)、EeV、ZeV である。倍量単位の後の括弧内の表記は慣習的な発音である。「ブ」の代わりに「ヴ」と発音する場合もある。
物性物理学分野では数 meV – 数 eV(もっと大きい場合もある)の範囲の議論が多く(1 meVが約10 Kに相当する)、高エネルギー物理学の分野では数 MeV – 数 GeV(あるいはそれ以上)の範囲の議論が多い。
宇宙物理学では、超新星の爆発などにより銀河系の中からやってくる宇宙線がTeV – PeVオーダー。また、銀河系の外の未知の起源によりあらゆる方向からやってきている宇宙線は、1粒が毎秒電球1個のエネルギーという超強力なZeVオーダーという。
eVを含むエネルギー単位間の換算表を示す。
エネルギーと質量の単位は、互いに変換できる。これは、アルベルト・アインシュタインによる特殊相対性理論の帰結として有名な、質量とエネルギーの等価性の式「E=mc」による(E:エネルギー、m:質量、c:真空中の光速度)。
この関係から、素粒子の質量の単位として、eVを光速度の二乗で割った「eV/c」が使われている。発音例は「ee-vee per see-squared」「ee-vee over see-squared」など。
キログラム (kg)への換算は次のとおり。1 eV/c ≈ 1.782662×10 kg .(1eV = 1.602176634×10 J を光速度 c = 2.99792458×10 m/s の自乗で割って求められる。)
電子の質量は約 0.5109989500 MeV/c、陽子の質量は約 938.2720882 MeV/c、統一原子質量単位 1 u (ダルトンともいう)は陽子の質量に近く約 931.4941024 MeV/c に相当する。
※自然単位系においてeVはエネルギーそのものの次元と解釈できることに注意。
統計力学のボルツマンの公式に基づき、電子ボルト単位で表された値はボルツマン定数 kB (正確に1.380649×10 J/K)で割って温度(ケルビンを単位とする熱力学温度)に換算できる。
したがって、3/2 eV の平均運動エネルギーをもつ三次元単原子分子からなる理想気体の温度は 11604.5181 K となる。
典型的な磁場閉じ込め方式核融合炉のプラズマ温度として15 keVを例にとり、ボルツマン定数 で割ると、約170 MK(メガケルビン)(約1億7千万度)を得る。
プラズマ物理学では温度を電子ボルトで示す慣例がある。
電子ボルトという単位は、日常生活ではあまり用いられないが、巨視的な物質や現象を素粒子1個単位から記述するには便利である。このため学問や産業の現場において、光子や電子、原子などの持つエネルギーの大きさを表す際に広く利用されている。以下、代表的な例をいくつか挙げる。
ユニコード記号
|
[
{
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"text": "電子ボルト(でんしボルト、英: electron volt、記号: eV)はエネルギーの単位のひとつである。非SI単位であるがSI併用単位となっている。ただし、計量法における法定計量単位ではない。",
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"text": "1 eV は、電気素量(電子1個の電荷の絶対値)をもつ荷電粒子が、真空中で1 V の電位差を抵抗なしに通過するときに得るエネルギーである。2019年のSI基本単位の再定義により、1 eV の値は正確に1.602176634×10 J である。",
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"text": "自由空間内で電子一つが 1 V の電圧で加速されるときに得るエネルギーが1 電子ボルトである。単位記号は 1 eV である。素粒子物理学をはじめ、原子核物理学、物性物理学、高エネルギー物理学、あるいは化学、半導体工学などの分野でも幅広く使用されるエネルギーの単位である。エレクトロンボルト(electron volt)と呼称することが多い。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "倍量・分量単位を、SI単位と同様に、単位記号「eV」にSI接頭語を付けて表現する(SI併用単位#SI接頭語と組み合わせることができる単位)。分量単位は、meV、μeV であり、倍量単位は、keV(ケブ)、MeV(メブ)、GeV(ジェブ)(米 BeV: ベヴ)、TeV(テブ)、PeV(ペブ)、EeV、ZeV である。倍量単位の後の括弧内の表記は慣習的な発音である。「ブ」の代わりに「ヴ」と発音する場合もある。",
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},
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"text": "物性物理学分野では数 meV – 数 eV(もっと大きい場合もある)の範囲の議論が多く(1 meVが約10 Kに相当する)、高エネルギー物理学の分野では数 MeV – 数 GeV(あるいはそれ以上)の範囲の議論が多い。",
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"text": "宇宙物理学では、超新星の爆発などにより銀河系の中からやってくる宇宙線がTeV – PeVオーダー。また、銀河系の外の未知の起源によりあらゆる方向からやってきている宇宙線は、1粒が毎秒電球1個のエネルギーという超強力なZeVオーダーという。",
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"text": "eVを含むエネルギー単位間の換算表を示す。",
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{
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"text": "エネルギーと質量の単位は、互いに変換できる。これは、アルベルト・アインシュタインによる特殊相対性理論の帰結として有名な、質量とエネルギーの等価性の式「E=mc」による(E:エネルギー、m:質量、c:真空中の光速度)。",
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"text": "この関係から、素粒子の質量の単位として、eVを光速度の二乗で割った「eV/c」が使われている。発音例は「ee-vee per see-squared」「ee-vee over see-squared」など。",
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},
{
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"text": "キログラム (kg)への換算は次のとおり。1 eV/c ≈ 1.782662×10 kg .(1eV = 1.602176634×10 J を光速度 c = 2.99792458×10 m/s の自乗で割って求められる。)",
"title": "概要"
},
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"text": "電子の質量は約 0.5109989500 MeV/c、陽子の質量は約 938.2720882 MeV/c、統一原子質量単位 1 u (ダルトンともいう)は陽子の質量に近く約 931.4941024 MeV/c に相当する。",
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"text": "※自然単位系においてeVはエネルギーそのものの次元と解釈できることに注意。",
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"text": "統計力学のボルツマンの公式に基づき、電子ボルト単位で表された値はボルツマン定数 kB (正確に1.380649×10 J/K)で割って温度(ケルビンを単位とする熱力学温度)に換算できる。",
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},
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"text": "したがって、3/2 eV の平均運動エネルギーをもつ三次元単原子分子からなる理想気体の温度は 11604.5181 K となる。",
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},
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"text": "典型的な磁場閉じ込め方式核融合炉のプラズマ温度として15 keVを例にとり、ボルツマン定数 で割ると、約170 MK(メガケルビン)(約1億7千万度)を得る。",
"title": "概要"
},
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"text": "プラズマ物理学では温度を電子ボルトで示す慣例がある。",
"title": "概要"
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"text": "電子ボルトという単位は、日常生活ではあまり用いられないが、巨視的な物質や現象を素粒子1個単位から記述するには便利である。このため学問や産業の現場において、光子や電子、原子などの持つエネルギーの大きさを表す際に広く利用されている。以下、代表的な例をいくつか挙げる。",
"title": "主な利用場面"
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"text": "ユニコード記号",
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] |
電子ボルトはエネルギーの単位のひとつである。非SI単位であるがSI併用単位となっている。ただし、計量法における法定計量単位ではない。 1 eV は、電気素量(電子1個の電荷の絶対値)をもつ荷電粒子が、真空中で1 V の電位差を抵抗なしに通過するときに得るエネルギーである。2019年のSI基本単位の再定義により、1 eV の値は正確に1.602176634×10−19 J である。
|
{{参照方法|date=2016年10月}}{{単位|
名称=電子ボルト<br />(electron volt)|
記号=eV|
単位系=[[非SI単位]]、[[SI併用単位]]|
物理量=[[エネルギー]]|
定義=真空中において1 Vの電位差を通過することにより電子が得る運動エネルギー<ref> [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.115 表8 注(g)、[[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月</ref>|
SI={{Val|1.602176634|e=-19|u=J|s=(正確に)}}
}}
'''電子ボルト'''(でんしボルト、{{lang-en-short|electron volt}}、記号: eV<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.114 表8、[[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月</ref>)は[[エネルギー]]の[[単位]]のひとつである。[[非SI単位]]であるが[[SI併用単位]]となっている。ただし、[[計量法]]における[[計量法#法定計量単位|法定計量単位]]ではない。
{{Val|1|u=eV}} は、[[電気素量]]([[電子]]1個の[[電荷]]の絶対値)をもつ[[荷電粒子]]が、真空中で{{Val|1|ul=V}} の[[電圧|電位差]]を抵抗なしに通過するときに得るエネルギーである。[[2019年]]の[[SI基本単位の再定義 (2019年)|SI基本単位の再定義]]により、{{Val|1|u=eV}} の値は正確に{{Val|1.602176634|e=-19|u=J}} である。
== 概要 ==
[[自由空間]]内で[[電子]]一つが {{Val|1|u=V}} の[[電圧]]で加速されるときに得る[[エネルギー]]が1 電子ボルトである。単位記号は {{Val|1|u=eV}} である。[[素粒子物理学]]をはじめ、[[原子核物理学]]、[[物性物理学]]、[[高エネルギー物理学]]、あるいは[[化学]]、[[半導体工学]]などの分野でも幅広く使用されるエネルギーの単位である。'''エレクトロンボルト'''(electron volt)と呼称することが多い<ref>[[#近角(2013)|近角(2013)]] p.453</ref>。
=== 倍量・分量単位 ===
倍量・分量単位を、[[SI単位]]と同様に、単位記号「eV」に[[SI接頭語]]を付けて表現する([[SI併用単位#SI接頭語と組み合わせることができる単位]])。分量単位は、meV、μeV であり、倍量単位は、keV(ケブ)、MeV(メブ)、GeV(ジェブ)(米 BeV: ベヴ)、TeV(テブ)、PeV(ペブ)、EeV、ZeV である。倍量単位の後の括弧内の表記は慣習的な発音である。「ブ」の代わりに「ヴ」と発音する場合もある。
[[物性物理学]]分野では数 meV – 数 eV(もっと大きい場合もある)の範囲の議論が多く(1 meVが約10 [[ケルビン|K]]に相当する)、[[高エネルギー物理学]]の分野では数 MeV – 数 GeV(あるいはそれ以上)の範囲の議論が多い。
[[宇宙物理学]]では、[[超新星]]の爆発などにより[[銀河系]]の中からやってくる[[宇宙線]]がTeV – PeVオーダー。また、[[銀河系]]の外の未知の起源によりあらゆる方向からやってきている[[宇宙線]]は、1粒が毎秒[[電球]]1個のエネルギーという超強力なZeVオーダーという<ref>[http://slideshowjp.com/doc/1362298/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F%E4%B8%89%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%89%8B%E6%B3%95 宇宙の謎を解く三つの手法] [http://www.icrr.u-tokyo.ac.jp/public_relation/brochure/20131001/ICRRBrochure2014_web_low_4.pdf 同、PDFファイル] - 東京大学宇宙線研究所</ref>。
=== エネルギー単位間の換算 ===
eVを含む[[エネルギー]]単位間の[[単位の換算|換算]]表を示す。
{{エネルギーの単位}}
=== 質量との換算 ===
エネルギーと[[質量]]の単位は、互いに変換できる。これは、[[アルベルト・アインシュタイン]]による[[特殊相対性理論]]の帰結として有名な、質量とエネルギーの等価性の式「[[E=mc2|E=mc<sup>2</sup>]]」による(E:[[エネルギー]]、m:[[質量]]、c:真空中の[[光速度]])。
この関係から、[[素粒子]]の質量の単位として、eVを[[光速度]]の[[二乗]]で割った「{{math|eV/c{{sup|2}}}}」が使われている。[[発音]]例は「ee-vee per see-squared」「ee-vee over see-squared」など<ref>[https://physics.stackexchange.com/questions/112134/how-to-pronounce-textrmev-c2 How to pronounce eV/c2] -
_
Physics Stack Exchange</ref>。
[[キログラム]] (kg)への換算は次のとおり。1 {{math|eV/c{{sup|2}}}} ≈ {{Val|1.782662|e=-36|ul=kg}} .<ref>[http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?evkg CODATA(evkg)]</ref>(1eV = {{Val|1.602176634|e=-19|ul=J}} を[[光速度]] c = {{Val|2.99792458|e=8|ul=m/s}} の[[自乗]]で割って求められる。)
[[電子]]の質量は約 0.5109989500 M{{math|eV/c{{sup|2}}}}<ref>[https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mec2mev CODATA (electron mass)]</ref>、[[陽子]]の質量は約 938.2720882 M{{math|eV/c{{sup|2}}}}<ref>[https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mpc2mev CODATA (proton mass)]</ref>、[[統一原子質量単位]] {{Val|1|ul=u}} (ダルトンともいう)は陽子の質量に近く約 931.4941024 M{{math|eV/c{{sup|2}}}} <ref>[http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?uev CODATA (uev)]</ref>に相当する。
'''※'''[[自然単位系]]においてeVはエネルギーそのものの次元と解釈できることに注意。
=== 温度との換算 ===
[[統計力学]]の[[ボルツマンの公式]]に基づき、電子ボルト単位で表された値は[[ボルツマン定数]] {{math|''k''{{sub|B}}}} (正確に{{Val|1.380649|e=-23|u=J/K}})で割って[[温度]]([[ケルビン]]を単位とする[[熱力学温度]])に換算できる。
:<math>{1 \over k_{\text{B}}} = {1.602\,176\,634 \times 10^{-19} \text{ J/eV} \over 1.380\,649 \times 10^{-23} \text{ J/K}} = 1.160\,451\,81 \times 10^{4} \text{ K/eV}</math>
:<math>{k_{\text{B}}} = 8.617\,333\,3 \times 10^{-5} \text{ eV/K}</math>
したがって、{{Val|3|/|2|u=eV}} の平均[[運動エネルギー]]をもつ三次元[[単原子分子]]からなる[[理想気体]]の温度は {{Val|11604.5181|u=K}} となる。
典型的な[[磁場閉じ込め方式]][[核融合炉]]の[[プラズマ]]温度として15 keVを例にとり、[[ボルツマン定数]] で割ると、約170 MK(メガケルビン)(約1億7千万度)を得る。
[[プラズマ物理学]]では温度を電子ボルトで示す[[慣例]]がある。
== 主な利用場面 ==
電子ボルトという単位は、日常生活ではあまり用いられないが、[[巨視的]]な物質や現象を[[素粒子]]1個単位から記述するには便利である。このため学問や産業の現場において、[[光子]]や[[電子]]、[[原子]]などの持つエネルギーの大きさを表す際に広く利用されている。以下、代表的な例をいくつか挙げる。
*[[物質]]中の[[電子]]の持つエネルギーを表現する際に用いられる。たとえば外部から与えた[[電界]]によって全体の[[電位]]が {{Val|1|u=V}} 変化すると、電界中の電子の[[位置エネルギー]]がちょうど {{Val|1|u=eV}} 変化することになるため、計算上都合がよい。
**[[物質]]全般の[[価電子]]、[[自由電子]]などのエネルギーの表現に用いられる。
**[[半導体素子]]内部の[[バンド構造]]の表現に用いられる。
**[[プラズマ]]中の[[電子]](や[[原子]])のエネルギーの記述に用いられる。
**[[高エネルギー物理学]]、[[放射線治療]]において、[[加速器]]から照射される[[荷電粒子]]のエネルギーの大きさを表すのに用いられる。
*[[可視光線]]域での[[光子]]1個のエネルギーは数eVである(たとえば、波長620 [[ナノメートル|nm]]の赤い光の[[光子]]1個のエネルギーは2 eV)。単位eVは、光子と電子の[[相互作用]]の取り扱いに便利である。
<!--化学反応、素粒子物理、etc...-->
== 符号位置 ==
[[Unicode|ユニコード]]記号
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!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13006|32ce|-|電子ボルト<br />electron volt|font=個別|family='メイリオ',Meiryo,'VL ゴシック','VL Gothic','花園明朝A',HanaMinA,'AR PL Ukai CN',Code2000,'和田研中丸ゴシック2004絵文字',WadaLabChuMaruGo2004Emoji,YOzFont,'和田研細丸ゴシック2004絵文字',WadaLabMaruGo2004Emoji,'Nishiki-teki'}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[計量単位一覧]]
* [[エネルギーの比較]]
* [[エネルギーの単位]]
== 参考文献 ==
* {{cite book | 和書 | title=理解しやすい物理 物理基礎収録版 | editor=近角 聰信, 三浦 登(編) | publisher=文英堂 | year=2013 | ref=近角(2013) }}
* {{cite book | 和書 | author=S.グラストン, M. C. エドランド | title=原子炉の理論 | year=1955 | editor=伏見康治, 大塚 益比古(共訳) | ref=グラストン(1955) }}
{{SI units navbox}}
{{DEFAULTSORT:てんしほると}}
<!--[[category:物理学]]-->
[[Category:電子]]
[[Category:エネルギーの単位]]
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[[Category:SI併用単位]]
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2022-09-14T12:51:00Z
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"Template:単位"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
|
11,005 |
八千代緑が丘駅
|
八千代緑が丘駅(やちよみどりがおかえき)は、千葉県八千代市緑が丘一丁目にある、東葉高速鉄道東葉高速線の駅である。駅番号はTR06。
計画当初の仮称は「西八千代駅」であった。
2面4線の島式ホームを有する高架駅である。駅舎は3階建ての構造となっており、改札は2階部分に、3階高架部分にホームが設置されている。出口は1階と2階にある。駅舎の1階部分は飲食店などの店舗が、2階部分には複数銀行のATMコーナーの他に診療所や調剤薬局などが入居している(従来は書店があったが撤退、その跡区画に入居した)。ホーム部分はガラス壁で覆われており、屋根は曲線を多用した構造である。
改札は1か所のみとなっており、自動改札機のほかに有人通路がある。改札機はPASMO導入により対応機に交換された。
改札内の施設としては、改札を入場し正面にコンビニエンスストアのデイリーヤマザキ、西船橋方面ホーム下部分にトイレがある。階段は西船橋側、東葉勝田台側の両側にあるが、各ホームとも西船橋側のみエスカレーターが設置されている。階段の間の部分にエレベーターが設置されている。また上下ホームともに4・5号車の停車位置に既存の柱を囲むような形態で待合室が設置されている。
京成バラ園の最寄り駅ということで、駅構内の壁やホームの柱にはバラの写真が掲示されている。また、毎年5月に開催されるローズフェスティバル期間中には、バラ園提供のバラの鉢植えが改札内に展示される。この他にも年間を通して構内にプランターの花が提供されたり、駅前のロータリーにバラの植え込みがあるなど、関連は深い。
北口には秀明八千代中学校・高等学校・秀明大学方面へのバス乗り場やタクシー乗り場が設置されているロータリーがある。TOHOシネマズなどがある商業施設の公園都市プラザとは直接2階部分(施設内では1階扱い)でつながっている。南口にはイオンモール八千代緑が丘と連絡する通路があり、直接2階から入店出来るようになっている。また噴水などの飾りがある駅前広場があり、場外コンサートなども行われる。
2010年9月2日よりコンコースからホームへのエレベーター設置工事が開始され、2011年2月11日に完成した。しかし、改札外の1階へ降りるエレベーターは駅管理のものがなく、隣接している施設のものを使用するか、駅員に申告して改札外のエスカレーターを車椅子モードにして使用するかのどちらかとなる。
駅周辺には国道296号・千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線・千葉県道61号船橋印西線が走り、ショッピングセンター・映画館など商業施設が近辺に広がっている。区画整理が進められており中高層マンションが立ち並び、開発が進んでいる。駅から八千代中央駅方面は、古くからの住宅街と新規に建築された住宅やマンションが混在する街並みが続いている。駅西側はゴルフセンター・テニスコート・工場などとして利用されてきたが、こちらにも宅地化が進行している。吉橋地区には工場が集約する。
路線バスは北口のロータリーに発着する。なお公園都市通りからのバスは、南口のイオン前で降車扱いを行ってからロータリーへ移動する。
停留所名はちばレインボーバス・船橋新京成バスが「八千代緑が丘駅」、東洋バスが「緑が丘駅」である。
|
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"text": "八千代緑が丘駅(やちよみどりがおかえき)は、千葉県八千代市緑が丘一丁目にある、東葉高速鉄道東葉高速線の駅である。駅番号はTR06。",
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{
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"text": "計画当初の仮称は「西八千代駅」であった。",
"title": "歴史"
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"text": "2面4線の島式ホームを有する高架駅である。駅舎は3階建ての構造となっており、改札は2階部分に、3階高架部分にホームが設置されている。出口は1階と2階にある。駅舎の1階部分は飲食店などの店舗が、2階部分には複数銀行のATMコーナーの他に診療所や調剤薬局などが入居している(従来は書店があったが撤退、その跡区画に入居した)。ホーム部分はガラス壁で覆われており、屋根は曲線を多用した構造である。",
"title": "駅構造"
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"text": "改札は1か所のみとなっており、自動改札機のほかに有人通路がある。改札機はPASMO導入により対応機に交換された。",
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"text": "改札内の施設としては、改札を入場し正面にコンビニエンスストアのデイリーヤマザキ、西船橋方面ホーム下部分にトイレがある。階段は西船橋側、東葉勝田台側の両側にあるが、各ホームとも西船橋側のみエスカレーターが設置されている。階段の間の部分にエレベーターが設置されている。また上下ホームともに4・5号車の停車位置に既存の柱を囲むような形態で待合室が設置されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "京成バラ園の最寄り駅ということで、駅構内の壁やホームの柱にはバラの写真が掲示されている。また、毎年5月に開催されるローズフェスティバル期間中には、バラ園提供のバラの鉢植えが改札内に展示される。この他にも年間を通して構内にプランターの花が提供されたり、駅前のロータリーにバラの植え込みがあるなど、関連は深い。",
"title": "駅構造"
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"text": "北口には秀明八千代中学校・高等学校・秀明大学方面へのバス乗り場やタクシー乗り場が設置されているロータリーがある。TOHOシネマズなどがある商業施設の公園都市プラザとは直接2階部分(施設内では1階扱い)でつながっている。南口にはイオンモール八千代緑が丘と連絡する通路があり、直接2階から入店出来るようになっている。また噴水などの飾りがある駅前広場があり、場外コンサートなども行われる。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2010年9月2日よりコンコースからホームへのエレベーター設置工事が開始され、2011年2月11日に完成した。しかし、改札外の1階へ降りるエレベーターは駅管理のものがなく、隣接している施設のものを使用するか、駅員に申告して改札外のエスカレーターを車椅子モードにして使用するかのどちらかとなる。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "駅周辺には国道296号・千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線・千葉県道61号船橋印西線が走り、ショッピングセンター・映画館など商業施設が近辺に広がっている。区画整理が進められており中高層マンションが立ち並び、開発が進んでいる。駅から八千代中央駅方面は、古くからの住宅街と新規に建築された住宅やマンションが混在する街並みが続いている。駅西側はゴルフセンター・テニスコート・工場などとして利用されてきたが、こちらにも宅地化が進行している。吉橋地区には工場が集約する。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"tag": "p",
"text": "路線バスは北口のロータリーに発着する。なお公園都市通りからのバスは、南口のイオン前で降車扱いを行ってからロータリーへ移動する。",
"title": "バス路線"
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{
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"text": "停留所名はちばレインボーバス・船橋新京成バスが「八千代緑が丘駅」、東洋バスが「緑が丘駅」である。",
"title": "バス路線"
}
] |
八千代緑が丘駅(やちよみどりがおかえき)は、千葉県八千代市緑が丘一丁目にある、東葉高速鉄道東葉高速線の駅である。駅番号はTR06。
|
{{駅情報
|社色 = #3fb036
|文字色 =
|駅名 = 八千代緑が丘駅
|画像 = y midorigaoka from aeon rf.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 南口側より駅全景(2007年1月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = やちよみどりがおか
|ローマ字 = Yachiyo-midorigaoka
|前の駅 = TR05 [[船橋日大前駅|船橋日大前]]
|駅間A = 1.2
|駅間B = 2.8
|次の駅 = [[八千代中央駅|八千代中央]] TR07
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|TR|06|#3fb036|4}}
|所属事業者 = [[東葉高速鉄道]]
|所属路線 = {{color|#3fb036|■}}[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]
|キロ程 = 11.0
|起点駅 = [[西船橋駅|西船橋]]
|所在地 = [[千葉県]][[八千代市]][[緑が丘 (八千代市)|緑が丘]]一丁目1104番3号
|所在地幅 = long
|座標 = {{coord|35|43|43.6|N|140|4|23.4|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1996年]]([[平成]]8年)[[4月27日]]<ref name="chibanippo1996428">{{Cite news|title = 21世紀に向け“発進” 東葉高速鉄道 盛大に開業祝う|newspaper = [[千葉日報]]|pages = 13|publisher = 千葉日報社|date = 1996-04-28}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 20,525
|乗降人員 = 41,010<ref>[http://www.city.yachiyo.chiba.jp/21004/page000009.html 八千代市の統計 各種統計データ(11.運輸・通信)]</ref>
|統計年度 = 2019年
|乗換 =
|備考 =
}}
'''八千代緑が丘駅'''(やちよみどりがおかえき)は、[[千葉県]][[八千代市]][[緑が丘 (八千代市)|緑が丘]]一丁目にある、[[東葉高速鉄道]][[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TR06'''。
== 歴史 ==
計画当初の仮称は「西八千代駅」であった。
=== 年表 ===
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[8月17日]]:駅名が決定<ref name="chibanippo199521">{{Cite news |title = 東葉高速線の駅名決まる|newspaper = [[千葉日報]]|pages = 16|publisher = 千葉日報社|date = 1995-08-18}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[4月27日]]:開業<ref name="chibanippo1996428"/>。
* [[2007年]](平成19年)[[10月10日]]:待合室設置。
* [[2011年]](平成23年)[[2月11日]]:エレベーター設置<ref name="ToyoKousoku2011">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20110315030020/http://www.toyokosoku.co.jp/info/midori-ev/midori-ev-2.pdf 八千代緑が丘駅エレベーター設置について]}}(東葉高速鉄道更新情報・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。</ref><ref name="chibanippo2012212">{{Cite news|title = 八千代緑が丘駅にエレベーター設置 東葉高速|newspaper = [[千葉日報]]|pages = 8|publisher = 千葉日報社|date = 2012-02-12}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月13日]]:旅客用トイレのリニューアル工事が完了。
== 駅構造 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2016年8月}}
2面4線の[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]を有する[[高架駅]]である。駅舎は3階建ての構造となっており、[[改札]]は2階部分に、3階高架部分にホームが設置されている。出口は1階と2階にある。駅舎の1階部分は[[飲食店]]などの店舗が、2階部分には複数[[銀行]]の[[現金自動預け払い機|ATM]]コーナーの他に[[診療所]]や[[薬局|調剤薬局]]などが入居している(従来は書店があったが撤退、その跡区画に入居した)。ホーム部分はガラス壁で覆われており、屋根は曲線を多用した構造である。
改札は1か所のみとなっており、[[自動改札機]]のほかに有人通路がある。改札機は[[PASMO]]導入により対応機に交換された。
改札内の施設としては、改札を入場し正面に[[コンビニエンスストア]]の[[デイリーヤマザキ]]、西船橋方面ホーム下部分に[[便所|トイレ]]がある。階段は西船橋側、東葉勝田台側の両側にあるが、各ホームとも西船橋側のみ[[エスカレーター]]が設置されている。階段の間の部分に[[エレベーター]]が設置されている。また上下ホームともに4・5号車の停車位置に既存の柱を囲むような形態で[[待合室]]が設置されている。
[[京成バラ園]]の最寄り駅ということで、駅構内の壁やホームの柱には[[バラ]]の写真が掲示されている。また、毎年5月に開催されるローズフェスティバル期間中には、バラ園提供のバラの鉢植えが改札内に展示される。この他にも年間を通して構内に[[プランター]]の花が提供されたり、駅前のロータリーにバラの植え込みがあるなど、関連は深い。
北口には[[秀明八千代中学校・高等学校]]・[[秀明大学]]方面への[[バス停留所|バス乗り場]]やタクシー乗り場が設置されているロータリーがある。[[TOHOシネマズ]]などがある商業施設の公園都市プラザとは直接2階部分(施設内では1階扱い)でつながっている。南口には[[イオンモール八千代緑が丘]]と連絡する通路があり、直接2階から入店出来るようになっている。また噴水などの飾りがある駅前広場があり、場外コンサートなども行われる。
2010年9月2日よりコンコースからホームへのエレベーター設置工事が開始され、2011年2月11日に完成した<ref name="ToyoKousoku2011"/>。しかし、改札外の1階へ降りるエレベーターは駅管理のものがなく、隣接している施設のものを使用するか、駅員に申告して改札外のエスカレーターを車椅子モードにして使用するかのどちらかとなる。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Y midorigaoka south-exit.jpg|南口(2007年1月)
Toyo-rapid-railway-TR06-Yachiyo-midorigaoka-station-building-north-20210427-121950.jpg|北口(2021年4月)
toyokosokuhonsha.jpg|[[東葉高速鉄道]] 本社
</gallery>
=== のりば ===
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" class="wikitable"
|-
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
! 1・2
| rowspan="2" |[[ファイル:Number prefix Toyo-Rapid.svg|20px|TR]] 東葉高速線
| style="text-align:center" | 下り
|[[八千代中央駅|八千代中央]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=八千代緑が丘駅|東葉高速鉄道 |url=https://www.toyokosoku.co.jp/station/yachiyomidorigaoka |website=www.toyokosoku.co.jp |accessdate=2020-03-15}}</ref>
| rowspan="2" |2・3番ホームは主に当駅始発・回送が使用
|-
! 3・4
| style="text-align:center" | 上り
|[[船橋日大前駅|船橋日大前]]・[[西船橋駅|西船橋]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]方面<ref name=":0" />
|}
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Yachiyo-midorigaokastakaisatsu.jpg|改札口(2008年10月)
Y midorigaoka platform.jpg|ホーム(2007年1月)
</gallery>
==== 発着列車の扱い ====
{{出典の明記| section = 1| date = 2023年11月}}
* 当駅で折り返し運転を行うには到着後、車内点検の後一旦車庫側へ引き上げる配線となっているため、ここ数年は行われていない(撮影列車などの運転を除く)。
* 2017年3月4日改正時点では下り・上り共に待避列車は存在しない。
* 当駅終着下り列車は全て2番線に到着する。当駅始発下り列車は主に2番線で扱い、一部列車では1番線から発車するものもある。
* 上り当駅始発・終着列車は3番線で扱う。上り回送電車は主に3番線で扱うが、4番線で扱う運用もある。
* かつて運行されていた東葉快速の上り待避列車は3番線、下り待避列車は2番線で扱っていた。
== 利用状況 ==
* 2019年度の一日あたりの平均[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]は'''20,525人'''である<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>。西船橋駅についで9駅中2位であり、これは東葉高速線内接続する路線がない単独の駅としては最多である。
* 駅開業以来、当駅の利用客数は減ることなく増加してきた。今後は駅北西部にて、西八千代北部[[土地区画整理事業|区画整理事業]]が2022年まで行われる予定([[はぐみの杜]]、[[緑が丘西]]一〜八丁目)<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.city.yachiyo.chiba.jp/content/000122731.pdf |title=八千代市土地区画整理事業一覧表 |publisher=八千代市 |format=PDF |date=2020-08-18 |accessdate=2021-05-08}}</ref>。計画人口は14,000人を見込んでおり、それと同時に船橋市内からのアクセスも整備されるため今後も利用客数増加が予想される。2018年には当駅の1日平均乗車人員が初めて20,000人を突破した。
*近年の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!1日平均<br />乗車人員<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑]</ref>
!出典
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|5,902
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11 平成9年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|8,303
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11 平成10年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|9,316
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 平成11年]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|9,915
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|10,547
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|10,971
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|11,441
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|11,662
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|12,201
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|13,753
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|14,331
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|14,998
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|15,364
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|15,496
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|15,781
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|15,856
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|16,378
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|16,995
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|17,441
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|18,139
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|18,526
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|19,462
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|20,233
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|20,525
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|緑が丘 (八千代市)|緑が丘西}}
{{出典の明記| section = 1| date = 2016年8月}}
駅周辺には[[国道296号]]・[[千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線]]・[[千葉県道61号船橋印西線]]が走り、[[ショッピングセンター]]・[[映画館]]など商業施設が近辺に広がっている。区画整理が進められており中高層マンションが立ち並び、開発が進んでいる。駅から八千代中央駅方面は、古くからの住宅街と新規に建築された住宅やマンションが混在する街並みが続いている。駅西側はゴルフセンター・テニスコート・工場などとして利用されてきたが、こちらにも宅地化が進行している。[[吉橋]]地区には工場が集約する。
=== 北口 ===
{{Div col}}
* [[八千代警察署]] 八千代緑が丘駅前交番
* 公園都市プラザ
** 八千代市緑が丘支所<ref name="office">[https://www.city.yachiyo.lg.jp/soshiki/14/2393.html]八千代市</ref>
** 八千代緑が丘駅前郵便局 - [[2005年]](平成17年)[[4月2日]]開局<ref name="chibanippo2000102">{{Cite news|title = 特定郵便局が開局へ 16日、八千代緑が丘駅前 市内で15番目|newspaper = [[千葉日報]]|pages = 13|publisher = 千葉日報社|date = 2000-10-12}}</ref>
** [[TOHOシネマズ]] 八千代緑が丘
** [[まちの駅]] 八千代緑が丘
* [[八千代市立みどりが丘小学校]]
* [[千葉銀行]] 八千代緑が丘支店
* [[京葉銀行]] 八千代緑が丘支店
* [[イズム緑が丘]]
** [[トライアルカンパニー|メガセンタートライアル]] 八千代店
** [[北東商事|キャッツアイ]] 八千代店
* [[ワークマン]] 八千代吉橋店
* [[アパグループ#アパホテル|アパホテル]] 千葉八千代緑が丘
* 東葉高速鉄道本社・[[八千代緑が丘車両基地]]
* [[石井食品]]八千代工場(直売所)
* [[京成バラ園]]
* 坪井近隣公園
* ユニオンゴルフ緑が丘
* [[オーケー]]八千代緑が丘店(2019年2月17日をもって閉店した[[ヨーク (小売業)|ヨークマート]]緑が丘店の跡地に2020年7月15日オープン)
* [[ヤオコー]]八千代緑が丘店(2021年4月27日オープン)
{{Div col end}}
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
ファイル:Shumei hiroppi.jpg|[[秀明八千代中学校・高等学校]]
ファイル:京成バラ園.jpg|[[京成バラ園]]
</gallery>
=== 南口 ===
[[ファイル:Aeon-midorigaoka.jpg|thumb|[[イオンモール八千代緑が丘]]<span style="font-size: smaller;"><br/>※画像は[[ジャスコ]]時代</span>]]
{{Div col}}
* 八千代市役所 高津連絡所<ref name="office"></ref>
* 八千代警察署 高津交番
* 八千代市立緑が丘図書館・緑が丘プラザ - [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]開館<ref name="chibanippo200442">{{Cite news|title = 図書館と公民館複合 八千代緑が丘プラザがオープン|newspaper = [[千葉日報]]|pages = 4|publisher = 千葉日報社|date = 2004-04-02}}</ref>
* [[八千代市立高津中学校]]
* [[八千代市立新木戸小学校]]
* 八千代高津郵便局
* [[イオンモール八千代緑が丘]] - [[2005年]](平成17年)[[4月2日]]開店<ref name="chibanippo2005329">{{Cite news|title = イオンが県内最大店 「八千代緑が丘SC」2日オープン スーパー核に122専門店|newspaper = [[千葉日報]]|pages = 4|publisher = 千葉日報社|date = 2005-03-29}}</ref>
** [[イオン銀行]] イオンモール八千代緑が丘
* [[ベルク (企業)|ベルク]] 八千代緑が丘店
* [[タイヨー (茨城県)|タイヨー]] 八千代店
* [[ロピア]] ゆめまち習志野台モール店
* [[生活協同組合コープみらい]] コープ八千代店
* [[マツモトキヨシ]] 八千代緑が丘店
* [[サンドラッグ]] 八千代緑ヶ丘店
* [[ウエルシア薬局]] 八千代緑が丘店・八千代大和田2号店
* [[ニトリ]] 八千代店
* [[Olympicグループ|おうちDEPO]] 西八千代店
* [[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|TSUTAYA]] 八千代大和田新田店
* [[正願寺 (八千代市)|正願寺]]
* スポーツの杜公園
* 高津小鳥の森
* [[興真乳業|コーシン乳業]]八千代事業所・千葉工場
{{Div col end}}
== バス路線 ==
路線バスは北口のロータリーに発着する。なお公園都市通りからのバスは、南口のイオン前で降車扱いを行ってからロータリーへ移動する。
停留所名はちばレインボーバス・船橋新京成バスが「'''八千代緑が丘駅'''」、東洋バスが「'''緑が丘駅'''」である。
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" class="wikitable"
|-
!のりば!!事業者
!系統!!行先!!経由
!備考
|-
! 1
| rowspan="2" | [[ちばレインボーバス]]
|[[ちばレインボーバス#神崎線|神崎線]]
| 船尾車庫<br />睦小学校
| 吉橋・秀明学園・島田台
| 睦小学校行は八千代西高校を経由
|-
! rowspan="2" |2
|[[ちばレインボーバス#緑が丘西線|緑が丘西線]]
|7丁目北([[循環線|循環]])
|
|
|-
| [[船橋新京成バス]]
|[[船橋新京成バス#津田沼線|緑03]]
| [[津田沼駅]]
|[[新木戸]]・[[自衛隊]]前・[[薬園台駅]]入口・[[御嶽神社]]
|平日1本のみ運行
|-
! rowspan="2" | 3
| rowspan="3" | [[東洋バス]]
|41・43
| rowspan="2" | [[八千代台駅]]
| コーシン牛乳・高津入口・消防本部前<br />
|
|-
|35
|高津団地・高津川
|
|-
! 4
|41・43
|[[八千代中央駅]]・[[東京女子医科大学八千代医療センター|八千代医療センター]]
| 京成バラ園・農業会館
|
|-
! 5
| ちばレインボーバス
|神崎線
| 津田沼駅
| 自衛隊前・滝台
|
|}
== 隣の駅 ==
; 東葉高速鉄道
: [[ファイル:Number prefix Toyo-Rapid.svg|15px|TR]] 東葉高速線(東葉高速線内は全列車各駅に停車)
:: [[船橋日大前駅]] (TR05) - '''八千代緑が丘駅 (TR06)''' - [[八千代中央駅]] (TR07)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 利用状況 ===
; 私鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.toyokosoku.co.jp/station/yachiyomidorigaoka 八千代緑が丘駅] - 東葉高速鉄道
{{東葉高速線}}
{{デフォルトソート:やちよみとりかおか}}
[[Category:千葉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 や|ちよみとりかおか]]
[[Category:東葉高速鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1996年開業の鉄道駅]]
[[Category:八千代市の交通|やちよみとりかおかえき]]
[[Category:八千代市の建築物]]
|
2003-07-07T13:39:41Z
|
2023-12-16T23:40:51Z
| false | false | false |
[
"Template:出典の明記",
"Template:0",
"Template:See also",
"Template:Div col end",
"Template:PDFlink",
"Template:Commonscat",
"Template:東葉高速線",
"Template:駅情報",
"Template:Div col",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news",
"Template:Cite web"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%B7%91%E3%81%8C%E4%B8%98%E9%A7%85
|
11,006 |
メタン
|
メタン(独: Methan、英: methane)は、無色透明で無臭の気体(常温の場合)。天然ガスの主成分で、都市ガスに用いられている。メタンは最も単純な構造のアルカンで、1個の炭素原子に4個の水素原子が結合してできた炭化水素である。分子式は CH4。和名は沼気(しょうき)。CAS登録番号は [74-82-8]。カルバン (carbane) という組織名が提唱されたことがあるが、IUPAC命名法では非推奨である。
メタンの分子は炭素が中心に位置する正四面体構造をしている。炭素‐水素間の全てがσ結合で結合しており、π結合が存在しないため、sp混成軌道を取り、結合角は109゚である。
メタンの常圧での融点は −183 °C、沸点は −162 °Cであり、常温常圧では無色、無臭の気体として存在する。メタンは常圧での沸点が比較的低いうえに臨界温度も-82.4 °Cと低いため、20世紀中頃の技術ではメタンを液化したまま安定的に貯蔵・運搬することが難しかった。そのため、当時は産地から気体のままパイプラインで輸送できる場所で利用されることがせいぜいであった。なお、常温常圧では空気に対するメタンの比重は0.555であり、アルカンの中で唯一、空気の平均密度よりも小さい。
メタンそのものにはヒトに対する毒性が無いものの、高純度のメタンを吸入すれば酸素欠乏症になり得るため注意が必要である
メタンは天然ガスから得られるほか、一酸化炭素と水素を反応させることで工業的に大量に生産されている(「C1化学」参照)。そのため、実験室においてもガスボンベで供給されることが普通であるが、実験室的な生成法もいくつか知られている。
メタンは、光などの刺激によって励起されたハロゲン元素と反応し、水素原子がハロゲン原子に置換される。この反応は激しい発熱反応である。例えば塩素との混合気体を常温中で直射日光に曝すだけで発火する。
また、メタンを完全燃焼させると、1 molの二酸化炭素と2 molの水になる。
一方、メタンの不完全燃焼の場合、一酸化炭素が発生し、水も生成する。
大きな用途の1つは燃料用のガスとしてであり、都市ガスなどに使用されている。もう1つはC1化学プロセスに使用する原料としてである。また、メタンは高温の水蒸気との反応で一酸化炭素と水素の混合気(合成ガス)を生じ、この混合気そのもの、あるいは単離した一酸化炭素や水素を各種化学プロセスの原料として使用する。
この他に、液化メタンを燃料として使う宇宙ロケットを、IHIなどが開発中である。
メタンを置換基として見た場合は、メチル基(1価)、メチレン基(2価)、メチン基(3価)と呼ばれる。
炭素数1の化合物には化学工業において原料として重要な化合物が多く存在する。これらの多くがメタンから直接誘導される。これらの工業的な合成法については「C1化学」参照。
以下に代表的なものを挙げる。
太陽系最大の惑星である木星は、その大量の大気に0.1%のメタンを含む。天王星や海王星もその大気に2%程度のメタンを含み、これらの星が青く見えるのはメタンの吸収による効果によると考えられている。土星の衛星であるタイタンはその大気に2%程度のメタンを含むだけでなく、地表に液体メタンの雨が降り、液体メタンの海や川もあることが分かっている。また火星の大気もメタンを痕跡量含む。
このようにメタンは宇宙ではありふれた物質であり、生物の存在しない惑星にも存在する。土星の衛星タイタンでは太陽系で唯一、大気中で活発な有機物の高分子化が発生していることがカッシーニにより確認され、メタンが生物由来でないことが強く推測される。
油田やガス田から採掘されエネルギー源として有用な、天然ガスの主成分がメタンである。20世紀末以降の代替エネルギーとしてバイオガスやメタンハイドレートが新エネルギーとして注目されている。
産出するガスは起源によって同位体比と C1/(C2 + C3)(C1:メタン、C2:エタン、C3:プロパン)で求められる炭化水素比、含有する微量ガス比が異なり、組成を分析することで起源を知ることが可能である。天然のメタンを構成する炭素 C と C の同位体比は、98.9 : 1.1 とされ、起源有機物の同位体比、原油の熟成度、微生物分解の要因によって決定される。また微量ガスは、ヘリウムの同位体比(He/He)、窒素(N)・アルゴン(Ar)比など分析することで詳細に判別することが出来るとされている。
メタンは排他的経済水域や大陸棚といった、海底や地上の永久凍土層内にメタンハイドレートという形で多量に存在する。メタンは火山ガスでマグマからも生成されるため、メタンハイドレートは環太平洋火山帯に多く分布する。
2004年7-8月、日本の新潟県上越市沖で初めてメタンハイドレートの天然結晶の採取に成功。2008年3月、カナダ北西部のボーフォート海沿岸陸上地域にて永久凍土の地下1,100mから連続生産に成功。2013年3月12日には、日本の愛知県と三重県の沖合で海底からのメタンガスの採取に成功した。
メタンは火山活動で生成される以外にもメタン産生菌の活動などにより放出されるため自然界に広く存在し、特に沼地などに多く存在する。メタンの和名の「沼気」は、これが語源である。大気中には平均 0.00022% 含有されている。このメタン産生菌を用いて生ごみなどを嫌気醗酵させてメタンを得て、資源として利用することも実用化されつつある。実際にバイオガスの供給事業も始まっており、日本のバイオガス化市場規模は最大約2300億円と推計されている。シロアリに共生する体内微生物によってもメタンが生成され、その量は、地球上で発生している全メタンの5〜15%と推定される。
カーボンニュートラルメタン(CNメタン、Green Methane:グリーンメタン)は、再生可能エネルギーなどを使い製造したグリーン水素と、発電所や工場、バイオガスなどから排出される二酸化炭素を原料とし、二酸化炭素と水素からメタンを合成するメタネーション(Methanation)技術を使い製造した合成メタンのこと。
メタンは強力な温室効果ガスでもあり、同量の二酸化炭素の21〜72倍の温室効果をもたらすとされている。2021年開催の第26回気候変動枠組条約締約国会議(COP26)ではメタン排出削減を目指す国際枠組みが発足し、翌2022年11月17日には第27回気候変動枠組条約締約国会議(COP27)でアメリカとEUがメタン排出の2030年までの30%削減を目指す世界協定について150カ国以上が調印したことが発表された。天然ガス・石油施設や炭鉱といった大きなメタン排出源は人工衛星からの観測で特定できるようになっている。
産業革命以来、人工的な温暖化ガスの排出量が急激に増加しており、地球温暖化が加速度的に進行していることが国際的な社会問題となっている。気象庁の温室効果ガス世界資料センターによると、地球の大気における平均メタン濃度は2020年に1889ppbで、産業革命前の2.6倍に増えた。
火山ガスであるメタンは、世界最大の火山帯である日本列島および近海から常に大量に放出され続けていることに加え、気温が上昇すれば海底や永久凍土中のメタンハイドレートが放出されることも懸念されるため、日本は積極的にメタンやメタンハイドレートを開発し、燃焼させるべきだとする意見もある。
ロシアなどでは古くから天然ガスとして盛んにガス田の開発が行われてきた。ガスはガス田から消費地に向けてパイプライン輸送されるが、施設の老朽化によりガスが大量に大気中に漏出しているものとみられている。ロシアは漏出量を2019年時点で年間400万トンとしているが、国際エネルギー機関では2020年に1400万トン近くが漏出したと推計している。2021年にはタタールスタン共和国において、1時間当たり400トンに及ぶメタンガスがパイプラインから漏出していることが人工衛星のデータにより確認されている。
国連環境計画(UNEP)が2021年5月に公表した『世界メタン評価』によれば、人類による排出で最も多いのは農畜産分野(40%)で、化石燃料分野(35%)、ゴミ・排水処理など廃棄物分野(20%)が続き、排出削減の必要性を訴えている。牛など、草食動物のげっぷにはメタンが含まれ、その糞からもメタンが発生するため、牛が増えるとメタンガスも増えて温室効果を助長するという説が広まり、大量の牛肉を使用・廃棄しているハンバーガー販売企業がバッシングされる事態も発生した。人口の10倍以上の家畜を抱える酪農国のニュージーランドでは、羊や牛のげっぷを抑制するという温暖化対策を進めようとしたが、農民の反対を受けている。畜産はメタンガスの21%(げっぷ16%・糞尿5%)を排出していると言われている。日本の農研機構は牛の胃から、牛のエネルギー源となるプロピオン酸を多く産生してメタン発生量を抑える細菌を発見し、この菌を増やす飼料やサプリメント化を研究している。家畜排せつ物から発生するメタンは大気中に放出されれば温室効果ガスであるが、一方で発生したメタンを回収し、燃料や発電として利用すればカーボンニュートラルなバイオガスエネルギー、バイオマス資源となる。
酸素が乏しい湛水状態の水田では、気温の高い日が続くと土壌の還元が進みメタン生成菌が活性化し有機物を分解することにメタンガスが発生する。この現象は「わき」と呼ばれる。発生した土中のメタンは稲の根から吸い上げられて稲の茎を通して大気中に排出される。また、この現象は水稲の根の成長を妨げるため、「わき」を抑制するために古くから水田の水を抜き、土中に酸素を供給する中干しとい作業が行われる。この中干しは慣行では茎数が有効茎数の 8~9 割に到達した時点で1週間~10日程度行われるが、その期間を1週間程度前倒しし、中干しの期間を長くすることでメタンの発生を抑えられる。実験では1週間程度延長した場合メタンの発生を30%削減できた。しかし、中干しを長くすると収穫量が3%程度減少した、一方で登熟歩合(全籾数に対する登熟した籾数の割合)は向上し、米の品質は向上した。
メタンは大気中の寿命が約12年(時定数)で排出量の63.2%は分解され、分解量を超過する分が濃度上昇に反映される。このため、排出削減をすれば大気濃度がすぐに減少する。
|
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"text": "メタン(独: Methan、英: methane)は、無色透明で無臭の気体(常温の場合)。天然ガスの主成分で、都市ガスに用いられている。メタンは最も単純な構造のアルカンで、1個の炭素原子に4個の水素原子が結合してできた炭化水素である。分子式は CH4。和名は沼気(しょうき)。CAS登録番号は [74-82-8]。カルバン (carbane) という組織名が提唱されたことがあるが、IUPAC命名法では非推奨である。",
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"text": "メタンの分子は炭素が中心に位置する正四面体構造をしている。炭素‐水素間の全てがσ結合で結合しており、π結合が存在しないため、sp混成軌道を取り、結合角は109゚である。",
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"text": "メタンの常圧での融点は −183 °C、沸点は −162 °Cであり、常温常圧では無色、無臭の気体として存在する。メタンは常圧での沸点が比較的低いうえに臨界温度も-82.4 °Cと低いため、20世紀中頃の技術ではメタンを液化したまま安定的に貯蔵・運搬することが難しかった。そのため、当時は産地から気体のままパイプラインで輸送できる場所で利用されることがせいぜいであった。なお、常温常圧では空気に対するメタンの比重は0.555であり、アルカンの中で唯一、空気の平均密度よりも小さい。",
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"text": "メタンそのものにはヒトに対する毒性が無いものの、高純度のメタンを吸入すれば酸素欠乏症になり得るため注意が必要である",
"title": "物性"
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"text": "メタンは天然ガスから得られるほか、一酸化炭素と水素を反応させることで工業的に大量に生産されている(「C1化学」参照)。そのため、実験室においてもガスボンベで供給されることが普通であるが、実験室的な生成法もいくつか知られている。",
"title": "製法"
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"text": "メタンは、光などの刺激によって励起されたハロゲン元素と反応し、水素原子がハロゲン原子に置換される。この反応は激しい発熱反応である。例えば塩素との混合気体を常温中で直射日光に曝すだけで発火する。",
"title": "反応"
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"text": "また、メタンを完全燃焼させると、1 molの二酸化炭素と2 molの水になる。",
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"text": "一方、メタンの不完全燃焼の場合、一酸化炭素が発生し、水も生成する。",
"title": "反応"
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"text": "大きな用途の1つは燃料用のガスとしてであり、都市ガスなどに使用されている。もう1つはC1化学プロセスに使用する原料としてである。また、メタンは高温の水蒸気との反応で一酸化炭素と水素の混合気(合成ガス)を生じ、この混合気そのもの、あるいは単離した一酸化炭素や水素を各種化学プロセスの原料として使用する。",
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"text": "この他に、液化メタンを燃料として使う宇宙ロケットを、IHIなどが開発中である。",
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"text": "メタンを置換基として見た場合は、メチル基(1価)、メチレン基(2価)、メチン基(3価)と呼ばれる。",
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"text": "炭素数1の化合物には化学工業において原料として重要な化合物が多く存在する。これらの多くがメタンから直接誘導される。これらの工業的な合成法については「C1化学」参照。",
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"text": "以下に代表的なものを挙げる。",
"title": "C1化学"
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"text": "太陽系最大の惑星である木星は、その大量の大気に0.1%のメタンを含む。天王星や海王星もその大気に2%程度のメタンを含み、これらの星が青く見えるのはメタンの吸収による効果によると考えられている。土星の衛星であるタイタンはその大気に2%程度のメタンを含むだけでなく、地表に液体メタンの雨が降り、液体メタンの海や川もあることが分かっている。また火星の大気もメタンを痕跡量含む。",
"title": "天体"
},
{
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"text": "このようにメタンは宇宙ではありふれた物質であり、生物の存在しない惑星にも存在する。土星の衛星タイタンでは太陽系で唯一、大気中で活発な有機物の高分子化が発生していることがカッシーニにより確認され、メタンが生物由来でないことが強く推測される。",
"title": "天体"
},
{
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"text": "油田やガス田から採掘されエネルギー源として有用な、天然ガスの主成分がメタンである。20世紀末以降の代替エネルギーとしてバイオガスやメタンハイドレートが新エネルギーとして注目されている。",
"title": "資源"
},
{
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"text": "産出するガスは起源によって同位体比と C1/(C2 + C3)(C1:メタン、C2:エタン、C3:プロパン)で求められる炭化水素比、含有する微量ガス比が異なり、組成を分析することで起源を知ることが可能である。天然のメタンを構成する炭素 C と C の同位体比は、98.9 : 1.1 とされ、起源有機物の同位体比、原油の熟成度、微生物分解の要因によって決定される。また微量ガスは、ヘリウムの同位体比(He/He)、窒素(N)・アルゴン(Ar)比など分析することで詳細に判別することが出来るとされている。",
"title": "資源"
},
{
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"text": "メタンは排他的経済水域や大陸棚といった、海底や地上の永久凍土層内にメタンハイドレートという形で多量に存在する。メタンは火山ガスでマグマからも生成されるため、メタンハイドレートは環太平洋火山帯に多く分布する。",
"title": "資源"
},
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"text": "2004年7-8月、日本の新潟県上越市沖で初めてメタンハイドレートの天然結晶の採取に成功。2008年3月、カナダ北西部のボーフォート海沿岸陸上地域にて永久凍土の地下1,100mから連続生産に成功。2013年3月12日には、日本の愛知県と三重県の沖合で海底からのメタンガスの採取に成功した。",
"title": "資源"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "メタンは火山活動で生成される以外にもメタン産生菌の活動などにより放出されるため自然界に広く存在し、特に沼地などに多く存在する。メタンの和名の「沼気」は、これが語源である。大気中には平均 0.00022% 含有されている。このメタン産生菌を用いて生ごみなどを嫌気醗酵させてメタンを得て、資源として利用することも実用化されつつある。実際にバイオガスの供給事業も始まっており、日本のバイオガス化市場規模は最大約2300億円と推計されている。シロアリに共生する体内微生物によってもメタンが生成され、その量は、地球上で発生している全メタンの5〜15%と推定される。",
"title": "資源"
},
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"text": "カーボンニュートラルメタン(CNメタン、Green Methane:グリーンメタン)は、再生可能エネルギーなどを使い製造したグリーン水素と、発電所や工場、バイオガスなどから排出される二酸化炭素を原料とし、二酸化炭素と水素からメタンを合成するメタネーション(Methanation)技術を使い製造した合成メタンのこと。",
"title": "資源"
},
{
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"text": "メタンは強力な温室効果ガスでもあり、同量の二酸化炭素の21〜72倍の温室効果をもたらすとされている。2021年開催の第26回気候変動枠組条約締約国会議(COP26)ではメタン排出削減を目指す国際枠組みが発足し、翌2022年11月17日には第27回気候変動枠組条約締約国会議(COP27)でアメリカとEUがメタン排出の2030年までの30%削減を目指す世界協定について150カ国以上が調印したことが発表された。天然ガス・石油施設や炭鉱といった大きなメタン排出源は人工衛星からの観測で特定できるようになっている。",
"title": "温室効果ガス"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "産業革命以来、人工的な温暖化ガスの排出量が急激に増加しており、地球温暖化が加速度的に進行していることが国際的な社会問題となっている。気象庁の温室効果ガス世界資料センターによると、地球の大気における平均メタン濃度は2020年に1889ppbで、産業革命前の2.6倍に増えた。",
"title": "温室効果ガス"
},
{
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"tag": "p",
"text": "火山ガスであるメタンは、世界最大の火山帯である日本列島および近海から常に大量に放出され続けていることに加え、気温が上昇すれば海底や永久凍土中のメタンハイドレートが放出されることも懸念されるため、日本は積極的にメタンやメタンハイドレートを開発し、燃焼させるべきだとする意見もある。",
"title": "温室効果ガス"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ロシアなどでは古くから天然ガスとして盛んにガス田の開発が行われてきた。ガスはガス田から消費地に向けてパイプライン輸送されるが、施設の老朽化によりガスが大量に大気中に漏出しているものとみられている。ロシアは漏出量を2019年時点で年間400万トンとしているが、国際エネルギー機関では2020年に1400万トン近くが漏出したと推計している。2021年にはタタールスタン共和国において、1時間当たり400トンに及ぶメタンガスがパイプラインから漏出していることが人工衛星のデータにより確認されている。",
"title": "温室効果ガス"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "国連環境計画(UNEP)が2021年5月に公表した『世界メタン評価』によれば、人類による排出で最も多いのは農畜産分野(40%)で、化石燃料分野(35%)、ゴミ・排水処理など廃棄物分野(20%)が続き、排出削減の必要性を訴えている。牛など、草食動物のげっぷにはメタンが含まれ、その糞からもメタンが発生するため、牛が増えるとメタンガスも増えて温室効果を助長するという説が広まり、大量の牛肉を使用・廃棄しているハンバーガー販売企業がバッシングされる事態も発生した。人口の10倍以上の家畜を抱える酪農国のニュージーランドでは、羊や牛のげっぷを抑制するという温暖化対策を進めようとしたが、農民の反対を受けている。畜産はメタンガスの21%(げっぷ16%・糞尿5%)を排出していると言われている。日本の農研機構は牛の胃から、牛のエネルギー源となるプロピオン酸を多く産生してメタン発生量を抑える細菌を発見し、この菌を増やす飼料やサプリメント化を研究している。家畜排せつ物から発生するメタンは大気中に放出されれば温室効果ガスであるが、一方で発生したメタンを回収し、燃料や発電として利用すればカーボンニュートラルなバイオガスエネルギー、バイオマス資源となる。",
"title": "温室効果ガス"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "酸素が乏しい湛水状態の水田では、気温の高い日が続くと土壌の還元が進みメタン生成菌が活性化し有機物を分解することにメタンガスが発生する。この現象は「わき」と呼ばれる。発生した土中のメタンは稲の根から吸い上げられて稲の茎を通して大気中に排出される。また、この現象は水稲の根の成長を妨げるため、「わき」を抑制するために古くから水田の水を抜き、土中に酸素を供給する中干しとい作業が行われる。この中干しは慣行では茎数が有効茎数の 8~9 割に到達した時点で1週間~10日程度行われるが、その期間を1週間程度前倒しし、中干しの期間を長くすることでメタンの発生を抑えられる。実験では1週間程度延長した場合メタンの発生を30%削減できた。しかし、中干しを長くすると収穫量が3%程度減少した、一方で登熟歩合(全籾数に対する登熟した籾数の割合)は向上し、米の品質は向上した。",
"title": "温室効果ガス"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "メタンは大気中の寿命が約12年(時定数)で排出量の63.2%は分解され、分解量を超過する分が濃度上昇に反映される。このため、排出削減をすれば大気濃度がすぐに減少する。",
"title": "温室効果ガス"
}
] |
メタン(独: Methan、英: methane)は、無色透明で無臭の気体(常温の場合)。天然ガスの主成分で、都市ガスに用いられている。メタンは最も単純な構造のアルカンで、1個の炭素原子に4個の水素原子が結合してできた炭化水素である。分子式は CH4。和名は沼気(しょうき)。CAS登録番号は [74-82-8]。カルバン (carbane) という組織名が提唱されたことがあるが、IUPAC命名法では非推奨である。
|
{{chembox
| ImageFileR1 = Methane-CRC-MW-dimensions-2D.png
| ImageSizeR1 =150px
| ImageAltR1 = メタン
| ImageFileL1 = Methane-CRC-MW-3D-balls.png
| ImageSizeL1 = 100px
| ImageAltL1 = メタン
| ImageFileR2 = Methane-3D-space-filling.svg
| ImageSizeR2 = 100px
| ImageAltR2 = メタン
| ImageFileL2 = Ch4-structure.png
| ImageSizeL2 = 100px
| ImageAltL2 = メタン
| IUPACName = メタン
| 出典=[https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0291&p_version=2 国際化学物質安全性カード]<br />[https://webbook.nist.gov/cgi/cbook.cgi?ID=74-82-8&Units=SI NIST webbook]
| 別称 = 沼気(しょうき)、[[天然ガス]]、エコガス([[バイオガス]])
| Section1 = {{Chembox Identifiers
| CAS番号 = 74-82-8
| 日化辞番号 = J2.380I
| JGlobalID = 200907011491248663
| PubChem = 297
| ChemSpiderID = 291
| SMILES = C
| InChI=1/CH4/h1H4
}}
| Section2 = {{Chembox Properties
| 分子式 = CH<sub>4</sub>
| モル質量 = 16.042 g/mol
| 外観 = [[常温]]で無色透明の[[気体]]
| 密度 = 0.717 kg/m<sup>3</sup> 気体<br/>415 kg/m<sup>3</sup> 液体
| 融点C = -182.5
| 沸点C = -161.6
| 溶解度 = 2.27mg/100 mL
|LogP = 1.09
}}
| Section3 = {{Chembox Structure
| MolShape = [[正四面体]]
| Dipole = 0 [[デバイ|D]]
}}
| Section4 = {{Chembox Thermochemistry
| DeltaHf = −74.81 kJ mol<sup>−1</sup><ref name=Parker>D.D. Wagman, W.H. Evans, V.B. Parker, R.H. Schumm, I. Halow, S.M. Bailey, K.L. Churney, R.I. Nuttal, K.L. Churney and R.I. Nuttal, The NBS tables of chemical thermodynamics properties, ''J. Phys. Chem.'' Ref. Data 11 Suppl. 2 (1982).</ref>
| DeltaHc = −890.36 kJ mol<sup>−1</sup>
| Entropy = 186.264 J mol<sup>−1</sup>K<sup>−1</sup>
| HeatCapacity = 35.309 J mol<sup>−1</sup>K<sup>−1</sup>
}}
| Section7 = {{Chembox Hazards
| EU分類 = {{Hazchem FF}}
| NFPA-H = 1 | NFPA-F = 4 | NFPA-R = 0
| Rフレーズ = {{R12}}
| Sフレーズ = {{S-phrases|(2)}} {{S9}} {{S16}} {{S33}}
| 引火点 = −188 °C
| 発火点 = 537 °C
}}
| Section8 = {{Chembox Related
| その他の官能基 = [[エタン]]、[[プロパン]]
| 官能基 = [[アルカン]]
| 関連物質 = [[メタノール]]、[[クロロメタン]]、[[蟻酸]]、[[ホルムアルデヒド]]、[[シラン (化合物)|シラン]]
}}
}}
'''メタン'''({{lang-de-short|Methan}}<ref group="†">{{IPA-de|meˈtaːn}} </ref>、{{lang-en-short|methane}}<ref group="†"><small>[[アメリカ英語]]発音:</small> {{IPA-en|ˈmeθeɪn|}} 、<small>[[イギリス英語]]発音:</small> {{IPA-en|ˈmiːθeɪn|}}。</ref>)は、無色透明で無臭の気体(常温の場合)。天然ガスの主成分で、都市ガスに用いられている。メタンは最も単純な構造の[[アルカン]]で、1個の[[炭素]][[原子]]に4個の[[水素]]原子が結合してできた[[炭化水素]]である。[[分子式]]は CH<sub>4</sub>。[[和名]]は'''沼気'''(しょうき)。[[CAS登録番号]]は [74-82-8]。カルバン (carbane) という組織名が提唱されたことがあるが、[[IUPAC命名法]]では非推奨である。
== 構造 ==
メタンの[[分子]]は炭素が中心に位置する[[正四面体]]構造をしている。炭素‐水素間の全てが[[σ結合]]で結合しており、[[π結合]]が存在しないため、[[混成軌道|sp<sup>3</sup>混成軌道]]を取り、結合角は109゚である。
== 物性 ==
メタンの[[常圧]]での[[融点]]は −183 ℃、[[沸点]]は −162 ℃であり、[[常温]]常圧では無色、無臭の[[気体]]として存在する。メタンは常圧での沸点が比較的低いうえに[[臨界点|臨界温度]]も-82.4 ℃と低いため、20世紀中頃の技術ではメタンを[[液体|液化]]したまま安定的に貯蔵・運搬することが難しかった。そのため、当時は産地から気体のまま[[パイプライン輸送|パイプライン]]で輸送できる場所で利用されることがせいぜいであった<ref>中井 多喜雄 『知っているようで知らない燃料雑学ノート』(燃焼社 2018年5月25日発行 ISBN 978-4-88978-127-4)pp.67 - 70</ref>。なお、常温常圧では空気に対するメタンの[[比重]]は0.555であり、アルカンの中で唯一、[[空気]]の平均[[密度]]よりも小さい。
メタンそのものにはヒトに対する毒性が無いものの、高純度のメタンを吸入すれば[[酸素欠乏症]]になり得るため注意が必要である<ref>中井 多喜雄 『知っているようで知らない燃料雑学ノート』(燃焼社 2018年5月25日発行 ISBN 978-4-88978-127-4)p.67</ref>
== 製法 ==
{{リンクのみの節|a=C1化学}}
メタンは[[天然ガス]]から得られるほか、[[一酸化炭素]]と水素を反応させることで工業的に大量に生産されている(「[[C1化学]]」参照)。そのため、[[実験室]]においてもガスボンベで供給されることが普通であるが、実験室的な生成法もいくつか知られている。
* [[炭化アルミニウム]]に室温で[[水]]を反応させて[[加水分解]]する。
: <chem>Al4C3 + 12H2O -> 3CH4 + 4Al(OH)3</chem>
:なお、この反応は不純物のため強烈な臭いを伴う。
* [[酢酸塩]]を[[強塩基]]の存在下に強熱して脱炭酸させる。
** 例えば[[酢酸ナトリウム]]と[[ソーダ石灰]] Ca(OH)<sub>2</sub>・NaOH を混合し強く熱して脱炭酸させる。生成した[[二酸化炭素]]は[[炭酸ナトリウム]]として捕捉され、メタンがガスとして発生する。
: <chem>CH3COONa + NaOH -> CH4 + Na2CO3</chem>
* [[メタン菌]]による[[嫌気醗酵]]。
** いわゆる[[バイオガス]]の製法。強い[[嫌気性生物|嫌気度]]を要求する。なお、自然界で発生するメタンの殆どはメタン菌により合成されている。
: <chem>4H2 + HCO3^- + H^+ -> CH4 + 3H2O</chem>
: <chem>CH3COO^- + H2O -> CH4 + HCO3^-</chem>
== 反応 ==
メタンは、光などの刺激によって[[励起]]された[[ハロゲン元素]]と反応し、水素原子がハロゲン原子に[[置換反応|置換]]される。この反応は激しい発熱反応である。例えば[[塩素]]との混合気体を常温中で直射日光に曝すだけで発火する。
また、メタンを完全燃焼させると、1 molの[[二酸化炭素]]と2 molの水になる。
: <chem>CH4 + 2O2 -> CO2 + 2H2O</chem>
一方、メタンの[[不完全燃焼]]の場合、[[一酸化炭素]]が発生し、水も生成する。
: <chem>2CH4 + 3O2 -> 2CO + 4H2O</chem>
== 用途 ==
大きな用途の1つは[[ガス燃料|燃料用のガス]]としてであり、[[都市ガス]]などに使用されている。もう1つはC1化学プロセスに使用する[[原料]]としてである。また、メタンは高温の[[水蒸気]]との反応で一酸化炭素と水素の混合気([[合成ガス]])を生じ、この混合気そのもの、あるいは単離した一酸化炭素や水素を各種化学プロセスの原料として使用する。
: <chem>CH4 + H2O -> CO + 3H2</chem>
この他に、液化メタンを燃料として使う宇宙[[ロケット]]を、[[IHI]]などが開発中である<ref>{{PDFlink|[https://www.ihi.co.jp/var/ezwebin_site/.../be8f2e98a375d988db8239436895066f.pdf 宇宙輸送はメタンエンジンにおまかせ!]}} [[IHI]](2018年3月22日閲覧)</ref>。
{{main|LE-8}}
== 置換基 ==
[[Image:Methyl_group.svg|thumb|80px|メチル基]]
[[Image:Methylene Methylidene group.svg|thumb|150px|メチレン基、メチリデン基]]
[[Image:Methyne_group.svg|thumb|150px|メチン基、メチリジン基]]
メタンを[[置換基]]として見た場合は、[[メチル基]](1価)、[[メチレン基]](2価)、[[メチン基]](3価)と呼ばれる。
;メチル基 (methyl group)
:メタンから水素が1個取れた[[アルキル基]]がメチル基 (CH<sub>3</sub>−) である。項目: [[メチル基]]を参照。
;メチレン基 (methylene group)
:メタンから水素が2個取れたアルケン基がメチレン基 (−CH<sub>2</sub>−) である。
:原子価の相手は同一原子でも(X=CH<sub>2</sub> のような構造)、異なっていても(X−CH<sub>2</sub>−Y のような構造)良い。前者の場合には、'''メチリデン基''' (methylidene group) とも呼ばれる。
;メチン基 (methine group, methyne group)
:メタンから水素が3個取れたアルキン基がメチン基 (−CH<) である。
:ただし原子価の相手が同一原子である HC≡X のような構造を持つ場合には、'''メチリジン基''' (methylidyne group) とも呼ばれる。
== C1化学 ==
炭素数1の化合物には[[化学工業]]において原料として重要な化合物が多く存在する。これらの多くがメタンから直接誘導される。これらの工業的な合成法については「[[C1化学]]」参照。
以下に代表的なものを挙げる。
* アルコール
** [[メタノール]] CH<sub>3</sub>OH
* アルデヒド
** [[ホルムアルデヒド]](酸化メチレン) HCHO
* カルボン酸
** [[蟻酸]] HCOOH
* ニトリル
** [[シアン化水素]] HCN
* メタンのハロゲン化物
** フルオロメタン([[フロン]])類
*** [[フルオロメタン]](フッ化メチル) CH<sub>3</sub>F
*** [[ジフルオロメタン]](フッ化メチレン) CH<sub>2</sub>F<sub>2</sub>
*** トリフルオロメタン([[フルオロホルム]]) CHF<sub>3</sub>
*** テトラフルオロメタン([[四フッ化炭素]]) CF<sub>4</sub>
** クロロメタン類
*** [[クロロメタン]](塩化メチル) CH<sub>3</sub>Cl
*** [[ジクロロメタン]](塩化メチレン) CH<sub>2</sub>Cl<sub>2</sub>
*** トリクロロメタン([[クロロホルム]]) CHCl<sub>3</sub>
*** テトラクロロメタン([[四塩化炭素]]) CCl<sub>4</sub>
** ブロモメタン類
*** [[ブロモメタン]](臭化メチル) CH<sub>3</sub>Br
*** [[ジブロモメタン]](臭化メチレン) CH<sub>2</sub>Br<sub>2</sub>
*** トリブロモメタン([[ブロモホルム]]) CHBr<sub>3</sub>
*** テトラブロモメタン([[四臭化炭素]]) CBr<sub>4</sub>
** ヨードメタン類
*** [[ヨードメタン]](ヨウ化メチル) CH<sub>3</sub>I
*** [[ジヨードメタン]](ヨウ化メチレン) CH<sub>2</sub>I<sub>2</sub>
*** トリヨードメタン([[ヨードホルム]]) CHI<sub>3</sub>
*** テトラヨードメタン([[四ヨウ化炭素]]) CI<sub>4</sub>
** [[トリハロメタン]] — 任意のハロゲン原子が三置換したメタン化合物の総称。前述のフルオロホルム、クロロホルム、ブロモホルム、ヨードホルムを含む。
== 天体 ==
[[太陽系]]最大の惑星である[[木星]]は、その大量の大気に0.1%のメタンを含む。[[天王星]]や[[海王星]]もその大気に2%程度のメタンを含み、これらの星が青く見えるのはメタンの吸収による効果によると考えられている。[[土星の衛星]]である[[タイタン (衛星)|タイタン]]はその大気に2%程度のメタンを含むだけでなく、地表に液体メタンの雨が降り、液体メタンの海や川もあることが分かっている。また[[火星]]の大気もメタンを痕跡量含む。
このようにメタンは宇宙ではありふれた物質であり、生物の存在しない惑星にも存在する。土星の衛星タイタンでは太陽系で唯一、大気中で活発な有機物の高分子化が発生していることが[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]により確認され、メタンが生物由来でないことが強く推測される。
== 資源 ==
[[File:Gas hydrates 1996.svg|thumb|350px|[[1996年]]の[[アメリカ地質調査所]]の調査によるハイドレートの分布図<br />(黄色の点がガスハイドレートを示す)]]
[[油田]]や[[ガス田]]から採掘されエネルギー源として有用な、[[天然ガス]]の主成分がメタンである。20世紀末以降の[[代替エネルギー]]として[[バイオガス]]や[[メタンハイドレート]]が[[新エネルギー]]として注目されている。
=== 起源 ===
産出するガスは起源によって[[同位体]]比と C1/(C2 + C3)(C1:メタン、C2:エタン、C3:プロパン)で求められる炭化水素比、含有する微量ガス比が異なり、組成を分析することで起源を知ることが可能である<ref name=japt.72.585 />。天然のメタンを構成する炭素 {{sup|12}}C と {{sup|13}}C の[[同位体]]比は、98.9 : 1.1 とされ、起源有機物の同位体比、原油の熟成度、微生物分解の要因によって決定される<ref name=japt.72.585>[https://doi.org/10.3720/japt.72.585 早稲田周、岩野裕継「ガス炭素同位体組成による貯留層評価」]『石油技術協会誌』Vol.72 (2007) No.6 P.585-593, {{DOI|10.3720/japt.72.585}}</ref><ref>亀井玄人[https://doi.org/10.11456/shigenchishitsu1992.51.145 「茂原ガス田の地下水に含まれるヨウ素の起源と挙動」]『資源地質』Vol.51 (2001) No.2 P.145-151, {{doi|10.11456/shigenchishitsu1992.51.145}}</ref>。また微量ガスは、[[ヘリウム]]の同位体比('''{{sup|3}}He'''/'''{{sup|4}}He''')、窒素('''N''')・アルゴン('''Ar''')比<ref>北逸郎, 長谷川英尚, 神谷千紗子 ほか[https://doi.org/10.3720/japt.66.292 「CH{{sub|4}}の炭素同位体比とN{{sub|2}}/Ar比の分布に基づく天然ガスの生成プロセス」]『石油技術協会誌』Vol.66(2001年)No.3 pp.292-302, {{DOI|10.3720/japt.66.292}}</ref>など分析することで詳細に判別することが出来るとされている。
=== メタンハイドレート ===
{{main|メタンハイドレート}}
メタンは[[排他的経済水域]]や[[大陸棚]]といった、海底や地上の[[永久凍土]]層内に[[メタンハイドレート]]という形で多量に存在する。メタンは[[火山ガス]]で[[マグマ]]からも生成されるため、メタンハイドレートは[[環太平洋火山帯]]に多く分布する。
2004年7-8月、日本の[[新潟県]][[上越市]]沖で初めてメタンハイドレートの天然[[結晶]]の採取に成功<ref name="ref1">[https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2007/x6.html 新潟県上越市沖の海底にメタンハイドレートの気泡を発見] 東京大学、[[海洋研究開発機構]]、[[東京家政学院大学]]、[[独立総合研究所]]、[[産業技術総合研究所]]</ref>。2008年3月、[[カナダ]]北西部の[[ボーフォート海]]沿岸陸上地域にて永久凍土の地下1,100mから連続生産に成功。2013年3月12日には、日本の[[愛知県]]と[[三重県]]の沖合で海底からのメタンガスの採取に成功した。
=== バイオガス ===
{{main|バイオガス}}
メタンは火山活動で生成される以外にも[[メタン産生菌]]の活動などにより放出されるため自然界に広く存在し、特に沼地などに多く存在する。メタンの和名の「沼気」は、これが語源である。大気中には平均 0.00022% 含有されている。このメタン産生菌を用いて[[生ごみ]]などを[[嫌気醗酵]]させてメタンを得て、資源として利用することも実用化されつつある。実際にバイオガスの供給事業も始まっており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kanematsu.co.jp/tabid/176/Default.aspx|title=バイオガス供給事業の開始について|author=[[兼松]]株式会社|date=2007-10-12|accessdate=2009年11月23日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090925101742/http://www.kanematsu.co.jp/tabid/176/Default.aspx|archivedate=2009年9月25日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>、日本のバイオガス化市場規模は最大約2300億円と推計されている。[[シロアリ]]に共生する体内微生物によってもメタンが生成され、その量は、地球上で発生している全メタンの5〜15%と推定される<ref name="zensen">[http://www.jst.go.jp/kisoken/seika/zensen/04kudou/ 腸内微生物との共生関係の不思議]</ref>。
=== カーボンニュートラルメタン ===
カーボンニュートラルメタン(CNメタン、Green Methane:グリーンメタン)は、再生可能エネルギーなどを使い製造したグリーン水素と、発電所や工場、バイオガスなどから排出される二酸化炭素を原料とし、二酸化炭素と水素からメタンを合成する[[メタネーション]](Methanation)技術を使い製造した合成メタンのこと<ref>{{Cite report | language = ja | author = 柴田善朗 | author2 = 木村謙仁 | year = 2018 | title = カーボンニュートラルメタンの将来ポテンシャル-PtG とCCU の活用:都市ガスの低炭素化に向けて- | journal = IEEJ | pages = 1-40 | publisher = 日本エネルギー経済研究所 | url = https://eneken.ieej.or.jp/data/7769.pdf | ref = harv }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/methanation.html | title = ガスのカーボンニュートラル化を実現する「メタネーション」技術 | publisher = 経済産業省資源エネルギー庁 | date = 2021-11-26 | accessdate = 2022-04-09 }}</ref><ref>{{Cite report |language = ja | author = 新エネルギー・産業技術総合開発機構 | authorlink = 新エネルギー・産業技術総合開発機構 | title = 平成26年度~平成29年度成果報告書 水素利用等先導研究開発事業 エネルギーキャリアシステム調査・研究 高効率メタン化触媒を用いた水素・メタン変換 | date = 2018-10-20 | url = https://www.nedo.go.jp/library/seika/shosai_201810/20180000000754.html | ref = harv }}</ref>。
== 温室効果ガス ==
メタンは強力な[[温室効果ガス]]でもあり、同量の[[二酸化炭素]]の21〜72倍の温室効果をもたらすとされている<ref>[https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/chishiki_ondanka/p04.html 温室効果ガスの種類] 気象庁</ref><ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/ondan/plan/jikkou/san1.pdf 温室効果ガス排出量の算定方法について]{{リンク切れ|date=2021年12月}}[[横浜市]] メダンの地球温暖化係数は21</ref>。2021年開催の[[第26回気候変動枠組条約締約国会議]](COP26)ではメタン排出削減を目指す国際枠組みが発足し<ref name="毎日20211229"/>、翌[[2022年]]11月17日には[[第27回気候変動枠組条約締約国会議]](COP27)でアメリカとEUがメタン排出の[[2030年]]までの30%削減を目指す世界協定について150カ国以上が調印したことが発表された<ref>{{Cite news |title=COP27、米欧主導のメタン削減協定に150カ国超が調印 |url=https://jp.reuters.com/article/climate-un-methane-idJPKBN2S806W |work=Reuters |date=2022-11-18 |access-date=2022-12-31 |language=ja}}</ref>。天然ガス・[[石油]]施設や[[炭鉱]]といった大きなメタン排出源は[[人工衛星]]からの観測で特定できるようになっている<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASPCJ6TNKPCDULBJ007.html メタン削減 宇宙の「目」がサポート/人工衛星の監視技術 COP26でも紹介/排出源くっきり 国・企業に圧力]『[[朝日新聞]]』朝刊2021年11月16日(科学面)2022年1月5日閲覧</ref>。
[[産業革命]]以来、人工的な温暖化ガスの排出量が急激に増加しており、[[地球温暖化]]が加速度的に進行していることが国際的な社会問題となっている。[[気象庁]]の温室効果ガス世界資料センターによると、[[地球の大気]]における平均メタン濃度は2020年に1889[[ppb]]で、産業革命前の2.6倍に増えた<ref name="毎日20211229">[https://mainichi.jp/articles/20211228/ddm/013/040/016000c 「メタン削減 高い壁」]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年12月29日くらしナビ面(同日閲覧)</ref>。
火山ガスであるメタンは、世界最大の火山帯である[[日本列島]]および近海から常に大量に放出され続けていることに加え、気温が上昇すれば海底や[[永久凍土]]中のメタンハイドレートが放出されることも懸念されるため、日本は積極的にメタンやメタンハイドレートを開発し、燃焼させるべきだとする意見もある。
[[ロシア]]などでは古くから天然ガスとして盛んに[[ガス田]]の開発が行われてきた。ガスはガス田から消費地に向けて[[パイプライン輸送]]されるが、施設の老朽化によりガスが大量に大気中に漏出しているものとみられている。ロシアは漏出量を2019年時点で年間400万トンとしているが、[[国際エネルギー機関]]では2020年に1400万トン近くが漏出したと推計している。2021年には[[タタールスタン共和国]]において、1時間当たり400トンに及ぶメタンガスがパイプラインから漏出していることが人工衛星のデータにより確認されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211020-VTRW5XFA25ISRJHJDTORIYVX2Q/ |title=ロシアでメタン大量漏出 地下ガス管、米紙報道 |publisher=[[産経新聞]] |date=2021-10-20 |accessdate=2021-10-20}}</ref>。
[[国連環境計画]](UNEP)が2021年5月に公表した『世界メタン評価』によれば、人類による排出で最も多いのは農畜産分野(40%)で、[[化石燃料]]分野(35%)、ゴミ・排水処理など廃棄物分野(20%)が続き、排出削減の必要性を訴えている<ref name="毎日20211229"/>。[[ウシ|牛]]など、[[草食動物]]の[[げっぷ]]にはメタンが含まれ、その[[糞]]からもメタンが発生するため、牛が増えるとメタンガスも増えて[[温室効果]]を助長するという説が広まり、大量の[[牛肉]]を使用・廃棄している[[ハンバーガー]]販売企業がバッシングされる事態も発生した。人口の10倍以上の[[家畜]]を抱える酪農国の[[ニュージーランド]]では、[[ヒツジ|羊]]や牛のげっぷを抑制するという温暖化対策を進めようとしたが、農民の反対を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=http://nature.cc.hirosaki-u.ac.jp/lab/3/animsci/030902_NZ_gas.html|title=羊などの家畜に「げっぷ税」NZ、温暖化対策研究費に|author=[[弘前大学]]農学生命科学部畜産学研究室|date=2003-09-02|accessdate=2009年11月23日}} [[朝日新聞デジタル|asahi.com]]2003年9月2日より引用。</ref>。畜産はメタンガスの21%(げっぷ16%・糞尿5%)を排出していると言われている<ref>{{Cite news|title=地球温暖化:メタンガスと畜産 |date=2005-11-13 |url=http://www.hopeforanimals.org/environment/213/ |accessdate=2018-08-11 |work=畜産動物のためのサイト:動物はあなたのごはんじゃない }}</ref>。日本の[[農研機構]]は牛の胃から、牛のエネルギー源となる[[プロピオン酸]]を多く産生してメタン発生量を抑える細菌を発見し、この菌を増やす[[飼料]]や[[サプリメント]]化を研究している<ref>「農研機構 乳牛の第1胃から細菌発見 げっぷ由来のメタン削減へ 温暖化抑制、栄養浪費防ぐ/餌・サプリ開発に期待」『[[日本農業新聞]]』2021年12月8日9面</ref>。家畜排せつ物から発生するメタンは大気中に放出されれば温室効果ガスであるが、一方で発生したメタンを回収し、燃料や発電として利用すればカーボンニュートラルなバイオガスエネルギー、バイオマス資源となる<ref>{{Cite report |language = ja | author = 農林水産省生産局畜産振興課 | authorlink = 農林水産省 | title = 畜産環境をめぐる情勢 | date = 2021-03 | url = https://www.maff.go.jp/j/chikusan/kankyo/taisaku/pdf/210325kmegji.pdf | ref = harv }}</ref><ref>{{Cite report | language = ja |author = 浅井真康 | publisher = 農林水産省 | title = 家畜排せつ物のメタン発酵によるバイオガスエネルギー利用 | date = 2020-09 | url = https://www.maff.go.jp/j/chikusan/kankyo/taisaku/pdf/2020_sympo_asai.pdf | ref = harv }}</ref><ref>{{Cite report |language = ja | author = 農林水産省 | authorlink = 農林水産省 | title = バイオマスの利活用の推進 | date = 2004-11 | url = https://www.maff.go.jp/j/council/seisaku/kikaku/bukai/24/pdf/h161117_24_01_siryo.pdf | ref = harv }}</ref>。
酸素が乏しい湛水状態の水田では、気温の高い日が続くと土壌の還元が進み[[メタン生成菌]]が活性化し有機物を分解することにメタンガスが発生する。この現象は「わき」と呼ばれる。発生した土中のメタンは稲の根から吸い上げられて稲の茎を通して大気中に排出される。また、この現象は[[イネ#水稲と陸稲|水稲]]の根の成長を妨げるため、「わき」を抑制するために古くから水田の水を抜き、土中に酸素を供給する中干しとい作業が行われる。この中干しは慣行では茎数が有効茎数の 8~9 割に到達した時点で1週間~10日程度行われるが、その期間を1週間程度前倒しし、中干しの期間を長くすることでメタンの発生を抑えられる。実験では1週間程度延長した場合メタンの発生を30%削減できた。しかし、中干しを長くすると収穫量が3%程度減少した、一方で登熟歩合(全籾数に対する登熟した籾数の割合<ref>{{Cite web|和書| url = http://lib.ruralnet.or.jp/nrpd/#koumoku=12348 | title = 農業技術事典 収量構成要素 | publisher = 農研機構 | accessdate = 2022-04-10 }}</ref>)は向上し、米の品質は向上した<ref>{{Cite report | language = ja | author = 農業環境技術研究所 | authorlink = 農業環境技術研究所 | title = 【地球温暖化対策】水田メタン発生抑制のための新たな水管理技術マニュアル | date = 2012-08 | url = https://www.mlit.go.jp/.... | ref = harv }}</ref><ref name="毎日20211229"/>。
メタンは大気中の寿命が約12年([[時定数]])で排出量の63.2%は分解され、分解量を超過する分が濃度上昇に反映される。このため、排出削減をすれば大気濃度がすぐに減少する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cger.nies.go.jp/ja/library/qa/15/15-1/qa_15-1-j.html |title=温暖化の科学 Q10 二酸化炭素以外の温室効果ガス削減の効果 - ココが知りたい地球温暖化 |accessdate=2018-08-11 |website=地球環境研究センター}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
<!--
=== 参考文献 ===
-->
== 関連項目 ==
{{commons|Methane}}
* [[C1化学]]
* [[カルベン]]
* [[アルカン]]
* [[エネルギー貯蔵]]
* [[メタンの酸化カップリング]]
== 外部リンク ==
* {{EoE|Methane|Methane}}
* [https://www.globalmethane.org/index.aspx Global Methane Initiative (GMI)]
*[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF296V50Z20C23A6000000/ 大阪大学、CO2からメタン合成 保守容易な新装置 (日経産業新聞,2023年7月26日)]
{| class="toccolours" style="width: 20em; margin: 0 auto; text-align: center"
|-
| style="width: 33%" | <small>C<sub>0</sub>:<br />[[水素]]</small>
| style="width: 34%; border-left: 1px solid #aaa; border-right: 1px solid #aaa" | [[アルカン|直鎖アルカン]]
| style="width: 33%" | C<sub>2</sub>:<br />[[エタン]]
|}
{{アルカン}}
{{水素の化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:めたん}}
[[Category:メタン|*]]
[[Category:アルカン]]
[[Category:温室効果ガス]]
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11,008 |
エピタキシャル成長
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エピタキシャル成長(エピタキシャルせいちょう、英語:epitaxial growth)とは、薄膜結晶成長技術のひとつである。基板となる結晶の上に結晶成長を行い、下地の基板の結晶面にそろえて配列する成長の様式である。基板と薄膜が同じ物質である場合をホモエピタキシャル、異なる物質である場合をヘテロエピタキシャルと呼ぶ。結晶成長の方法として分子線エピタキシー法や有機金属気相成長法、液相エピタキシー法などがある。
エピタキシャル成長が起こるには格子定数のほぼ等しい結晶を選ぶ必要があり、温度による膨張係数の近い物でなくてはならない。
なお、現在窒化ガリウム(GaN)はサファイア基板上に結晶成長をする方法が広く採られているが、両者の格子定数は大きく違うこと等があり、通常の方法ではエピタキシャル成長できない。これを解決するために赤崎勇が低温バッファー層を導入したことによりサファイア基板上にGaNをエピタキシャル成長することに成功した。GaNのエピタキシャル成長が成功したことにより窒化物系半導体を用いた発光ダイオード、レーザーダイオード、電子デバイス、受光素子の発展へとつながった。
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エピタキシャル成長とは、薄膜結晶成長技術のひとつである。基板となる結晶の上に結晶成長を行い、下地の基板の結晶面にそろえて配列する成長の様式である。基板と薄膜が同じ物質である場合をホモエピタキシャル、異なる物質である場合をヘテロエピタキシャルと呼ぶ。結晶成長の方法として分子線エピタキシー法や有機金属気相成長法、液相エピタキシー法などがある。 エピタキシャル成長が起こるには格子定数のほぼ等しい結晶を選ぶ必要があり、温度による膨張係数の近い物でなくてはならない。 なお、現在窒化ガリウム(GaN)はサファイア基板上に結晶成長をする方法が広く採られているが、両者の格子定数は大きく違うこと等があり、通常の方法ではエピタキシャル成長できない。これを解決するために赤崎勇が低温バッファー層を導入したことによりサファイア基板上にGaNをエピタキシャル成長することに成功した。GaNのエピタキシャル成長が成功したことにより窒化物系半導体を用いた発光ダイオード、レーザーダイオード、電子デバイス、受光素子の発展へとつながった。
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{{出典の明記|date=2016年10月}}
'''エピタキシャル成長'''(エピタキシャルせいちょう、[[英語]]:epitaxial growth)とは、薄膜結晶成長技術のひとつである。基板となる[[結晶]]の上に[[結晶成長]]を行い、下地の基板の[[結晶面]]にそろえて配列する成長の様式である。基板と薄膜が同じ物質である場合を''ホモエピタキシャル''、異なる物質である場合を''[[ヘテロ接合 (半導体)|ヘテロ]]エピタキシャル''と呼ぶ。結晶成長の方法として[[分子線エピタキシー法]]や[[有機金属気相成長法]]、[[液相エピタキシー法]]などがある。
エピタキシャル成長が起こるには[[格子定数]]のほぼ等しい結晶を選ぶ必要があり、[[熱膨張率|温度による膨張係数]]の近い物でなくてはならない。
なお、現在[[窒化ガリウム]](GaN)は[[サファイア]]基板上に結晶成長をする方法が広く採られているが、両者の[[格子定数]]は大きく違うこと等があり、通常の方法ではエピタキシャル成長できない。これを解決するために[[赤崎勇]]が低温バッファー層を導入したことによりサファイア基板上にGaNをエピタキシャル成長することに成功した。GaNのエピタキシャル成長が成功したことにより窒化物系半導体を用いた[[発光ダイオード]]、[[レーザーダイオード]]、電子デバイス、受光素子の発展へとつながった。
== 関連項目 ==
* [[結晶成長]]
* [[分子線エピタキシー法]]
* [[有機金属気相成長法]]
* [[薄膜の成長機構]]
{{DEFAULTSORT:えひたきしやるせいちよう}}
[[Category:半導体製造]]
[[Category:薄膜]]
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議院内閣制
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議院内閣制(ぎいんないかくせい、英: parliamentary government/cabinet system)とは、行政府の主体たる内閣を議会(特に下院)の信任によって存立させる政治制度。
議院内閣制は議会と政府との関係の点から見た政治制度の分類の一つで、議会と政府(内閣)とが分立した上で、内閣は議会(特に下院)の信任によって存立する政治制度である。議会制民主主義の発祥国でもあるイギリスで誕生した政治制度であり、そこでは首相が内閣を、内閣は多数党を、多数党は議会をそれぞれ統率・指導・統制し、議会の多数党は国民の投票によって決定される。
議院内閣制を他の政治制度と比較すると、以下のような特徴によって表される。
政治モデルとしては、アメリカ型大統領制が立法権と行政権を厳格に分離し権力分立を指向するのに対し、イギリス型議院内閣制は立法権と行政権が政権党によって一元化され強力な内閣の下に権力を集中させる制度であるとされる。議院内閣制の下では、一般的に議会で多数を占める政党が政権を担当し与党となる。一方で大統領制の下では、議会の少数党であっても大統領が所属する政党が与党となる。議院内閣制の場合は、議員の中から選出される首相にも法案提出権が認められている事から、厳格な権力分立を指向する大統領制に比べて強い政治権力を有している。したがって、議院内閣制には集権性・集約性がみられるとされ、イギリスでは首相統治制・二大政党制を背景に首相権力の強い議院内閣制となっている。
国民による公選によって選出される大統領とは異なり、議院内閣制における首相は国民から直接選ばれるわけではないため、自らの民主的正統性の根拠について議会からの信任に依拠することになる。議院内閣制の下では原理的には議会は内閣に優位することになり、国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖と、内閣(首相・大臣)→議会(議院)→国民(有権者)という責任の連鎖を構築することによって行政権の民主的コントロールを確保するとともに、議会の多数党派が行政部の中枢機関を担うこととして政治上の責任の所在を明確にして民主主義的要請に応えようとする制度であるとされる。
大統領制の下では、大統領と議会とは別々に選出されるため民意は二元的に表れる二元代表制であるのに対し、議院内閣制では議会のみが選挙により選出されて内閣はそれを基盤として成立するため民意は一元的に表れる一元代表制である。そして、議院内閣制の下で議会と内閣の協働関係が破綻した際には、内閣不信任決議、内閣総辞職、議会解散権の行使のいずれかによって解決が図られる。
議院内閣制では立法権を持つ政党が行政権も担当している事から、基本的に議会多数派が政権を握ることになる。そのため、与党の分裂や連立与党の関係破綻などの問題が生じない限り、首相が提出した議案は成立する。議院内閣制の下では立法及び行政の統治責任は、議会を支配し現に内閣を組織している政権党に一元化される。議会選挙では内閣与党の治績の良否、政策競争の優劣などの点から国民の審判を仰ぐことになる。
以上の点は、立法府と行政府の厳格な分離をとり大統領の任期が定められる一方、議会解散権がなく、大統領の所属政党と議会多数派とが異なる場合も出現しやすいアメリカ型の大統領制と異なる点である。議院内閣制の利点を実際に活かすことができるか否かは政治上の諸条件にかかっているとされ、議会や政党に頽落を生じる場合にはアメリカ型の大統領制よりも大きな構造的な問題を抱えることになるとされる。
議院内閣制の問題点としては、政権与党が議会の圧倒的多数を占めると独裁化に近い状態になり、他方で政権与党が小政党の連立である場合には政権基盤は著しく不安定な状態になる点が挙げられる。
議院内閣制の本質については、解散権の有無と関連して責任本質説と均衡本質説の対立がある。
議院内閣制と議会統治制(スイス型)との違いについて、均衡本質説によれば内閣の解散権の有無により、責任本質説によれば辞職の自由の有無により区別すべきだとされる。
議院内閣制の下で内閣に議会解散権が広く認められる政治制度がとられるとき、議会には内閣に対する不信任決議、一方の内閣には議会解散権が認められているため、両者に意思の対立があれば(解散を経て)議会選挙を通じて国民がその問題に決着をつけることになる。このことは議会の解散によって選挙となることで国民の審判にさらされるという緊張関係を常に生じていることを意味し、そのため議院内閣制の下ではいつ選挙が行われても国民からの支持を得られるように民意への接近という動因が絶えず働くことになるとされる。実際の政党政治の下では議会において多数を占める政党が政権を担う(内閣を組織する)ことから、この要素は内閣と議会との間にではなく、与野党間・連立与党の各党間・与党の主流派と反主流派などにおいて働くとされている。
また、国民の支持の厚い首相=党首を擁する場合は、不信任決議とは関わりなく解散を行い、選挙に勝利することによって議会の多数を確保することで、さらに自党による政権期間を将来にわたって延ばすことができる。不人気な首相が自ら辞任して後継自党党首に託すのも、それだけで国民の支持が回復することが現実にあり得るからである。
このような考え方に対して、議会解散権が不意打ちによって行使されることは防ぐべきとして制限的に位置づける考え方もある。イギリスでは2011年に議会任期固定法が成立し、内閣不信任決議に対する解散権行使か、下院の3分の2以上の賛成による自主解散のみが認められることとなった。ただ、2016年6月23日にイギリスで行われたEU離脱の是非を問う国民投票では離脱が多数を占めたが、下院ではEU残留派が多数を占めていたため、議会制民主主義と国民投票による民主主義の矛盾(EU残留派とEU離脱派の対立)を解消するために下院の解散もその選択肢として取り上げられた。しかし、議会任期固定法により下院の任期途中での解散のハードルが高くなってしまったため、意思決定プロセスのあり方が注目されることとなった。
議院内閣制は議会多数派(一般的には政党)が内閣を組織することから政党内閣制とも呼ばれる。一党で内閣が組織される場合には単独内閣、複数党で内閣が組織される場合には連立内閣と呼ばれ、また内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとることを閣外協力と呼ぶ。
議院内閣制の下での内閣総理大臣の選出方法について、イギリスでは二大政党制の下で下院の第一党の党首が、国王により首相に任命されるのが慣行となっている。日本やドイツでは議会で首相指名選挙が行われ、連立政権となる場合には必ずしも第一党の党首が就任するわけでもない。例えば日本の細川護煕首相や羽田孜首相、村山富市首相は第一党の党首ではなかった。また、ドイツのヘルムート・シュミットはヴィリー・ブラントの後を受けて首相となったが第二党の所属であり、しかも党首職にも就いていなかった(ブラントが党首職に留まった)。
議院内閣制は沿革的には18世紀から19世紀にかけて、イギリスで王権と民権との拮抗関係の中で自然発生的に誕生し慣行として確立されるに至った制度である。
内閣制度の草創期において閣僚は国王の「家僕」とされており、国王は自由に閣僚を任免することができた。しかし徐々に議会の力が大きくなり、18世紀末に誕生した初期の議院内閣制では内閣は君主と議会の双方に責任を負い、大臣の地位は君主の信任を受けて認められると同時に議会の支持が得られなければ政治的根拠を失い、自発的に辞職しなければならないとする政治制度が定着した。このように、内閣が国家元首と議会の双方に対して責任を負う類型を二元主義型議院内閣制という。
幾度もの選挙法の改正による下院の地位向上などによって議会の優位がさらに進み、19世紀になると国家元首の任命権は形式的・名目的なものとなって、1841年には首相には議会の多数派党首を任命する慣行が成立し、議会の不信任決議により内閣は辞職しなければならないようになった。このように、内閣が議会に対してのみ責任を負う類型を一元主義型議院内閣制という。
一元主義型議院内閣制の下では大統領や君主などの元首は儀礼的な役割しか持たず、内閣が実際の行政権を持つのが普通である。一元主義型議院内閣制を採用している国家は、イギリス、フランス第三・第四共和制、日本、ドイツ、スペイン、スウェーデン、オランダなどが挙げられる。内閣は議会に対して連帯して責任を負い、分裂した状態で議会に対することはない。重要問題で首相と他の大臣が対立した場合、大臣が閣内にとどまったまま首相に対する反対派となることは許されず、首相に従うか辞任して反対派になるかを選択することになる。辞任を通じて議会内の多数派に変動が起き、結果的に内閣が倒れることは許容される。
内閣は議会の明示的、あるいは暗黙的な多数派に依拠しなければならない。議会は内閣不信任決議を行うことにより、いつでも内閣の構成を変えることができる。このとき内閣は不信任決議に従って総辞職するか、議会の多数派を再形成するために解散するかを選択する。解散を行うと、選挙を経て新たに作られた議会の勢力により内閣の命運が決まる。不信任決議によって解散する場合、必然的に与党議員からも信用を失っていることが多いため、選挙で相当な多数派形成に成功しなければ不信任された首相が再び指名されることはない。
議会の優位がさらに進むと政府が完全に議会に従属する議会統治制が出現するが、これが好ましい政治形態であるかは疑問とされ、イギリスなどではこのような展開は見られないとされる。
半大統領制の下では内閣が大統領と議会の双方に責任を負う二元主義型議院内閣制がみられるが、これは初期の二元型議院内閣制における君主が大統領に置き換わったものとして理解することができるとされる。
イギリスでは二大政党制の下、庶民院(下院)の第一党の党首が首相に任命されるのが慣行となっている(例外もある)。日本やドイツのような、議会による首相指名の手続はない。
閣僚の任免は首相の指名に基づいて国王が(形式的に)行うが、庶民院か貴族院(上院)のいずれかに議席がなければ閣僚となることはできない。
閣僚には約20名の閣議のメンバーとなる閣内大臣、そしてそのほかに閣外大臣がおり、その下に政務次官が置かれている。与党所属の庶民院議員のうち約100名が行政府に籍を置くことになるといわれ、与党と内閣は一体的で一元化されている。
日本では内閣総理大臣その他の国務大臣は議席の有無に関係なく議院出席の権利義務が定められている(日本国憲法第63条)。しかし、イギリスでは庶民院所属の閣僚は貴族院での審議に参加できず、反対に貴族院所属の閣僚は庶民院での審議に参加できないとされ、他院ではその院に属する閣外大臣や政務次官が審議に応じる形をとる。
官僚は政治的中立性の原則の下で、選挙によって成立した政権に忠誠を尽くすとともに、指揮関係を乱すことのないよう議員であっても大臣ではない者との接触は忌避されるという。
国会は貴族院と庶民院からなる二院制をとっている。しかし、実際には「庶民院の優越」が確立しているため、国民の代表である庶民院がほぼすべてのことを決定できるようになっており、上院は形式的な存在に過ぎなくなっている。そのため、実質的には一院制に近い。
行政府の長である連邦首相は、連邦議会議員から選出され、内閣を組閣する議院内閣制を採っている。内閣は連邦政府と呼ばれる。連邦首相の任期は4年である。元首である連邦大統領は、基本的に象徴的・儀礼的な権限しか持っていない。
内閣の不信任案および連邦議会の解散については、短期政権となるのを防ぐため「建設的不信任制」という制度を採用している。
「建設的不信任制」は憲法に当たるドイツ連邦共和国基本法で定められているもので、この制度の下では、ドイツ連邦議会は次の連邦首相候補を選出した後にしか内閣不信任案を提出できない。逆に首相の信任決議が否決された時以外、内閣は連邦議会を解散できない。次の連邦首相を決めるとなると、連立政権で首相や副首相などのポストで様々な思惑がでてくるため、連邦首相の不信任は困難なこととなっており、1949年から2013年までの間に「建設的不信任」が可決されたのは、1982年にヘルムート・シュミット政権が倒されたときの1回のみである。
「建設的不信任制」はヴァイマル共和政時代に倒閣だけを目的とした内閣不信任が乱発された結果、後継首相も決まらず、政治が安定せず、ナチスの台頭を許してしまったことへの反省によるものである。
また、建設的不信任と、基本的に議会の解散がないこともあり、長期安定政権を生み出しやすい。
スウェーデンは、代表制議会民主主義の国で、その立法機関は国会である。スウェーデン国会は、4年に1度選挙が行われる。行政府の長である首相は、国会議員から選出され、内閣を組閣する議院内閣制を採っている。
国会は一院制で、議席は349議席。選挙制度は完全な比例代表制度であり、選挙の得票数により各政党に議席が振り分けられる。小政党の乱立を防止する観点から、政党が1議席を獲得するためには、少なくとも総投票数の4%を獲得することが必要とされる。
英国に次いで長い議会政治の歴史を有するスウェーデンでは、1866年以降、地方議会の間接選挙を基盤とする第一院及び直接選挙を基盤とする第二院から構成される二院制が採用されていたが、1971年に一院制に移行した。この背景には、貴族制(イギリス型)もなくなり、連邦国家(ドイツ型)でもないスウェーデンにおいて、多額の経費がかかる二院制を維持する理由はないとする合理主義の思想があると考えられている。
また、一院制への移行に伴い、議員総数も削減された。
日本では歴史的・制度的な点から長い間にわたり権力の集中は生じないとみられてきた。しかし1999年1月以降、全ての内閣が連立内閣ではあるものの連立相手の政党は比較的小規模であるために、実質的には単独内閣に近い。また、2001年に実施された中央省庁再編により、内閣総理大臣の法的権限と補佐体制が強化されたことで首相が政策を立案する上での権限は増加することとなり、内閣総理大臣には閣議における発議権が認められたほか、内閣官房にも法案を準備する権限が正式に与えられた事によって、首相の権力は格段に強化された。一連の制度改革が及ぼした影響を踏まえ、日本の議院内閣制はウェストミンスター・システム化したとされる(#日本の議院内閣制)。
大日本帝国憲法においては、各大臣は天皇に責任を負う体制であり、憲法上は議院内閣制ではなかった。ただし、大正デモクラシーの流れを受け政党政治が活発になり、一時は憲政の常道として慣行的に議院内閣制が行われていた。
以下の条文から日本国憲法は議院内閣制を採用しているものと解釈されている。
なお、日本国憲法は議院内閣制を採用したものではないとする少数説もある。小嶋和司の主張のように、内閣総理大臣が国会の指名によって定まること(日本国憲法第67条)及び衆議院議員総選挙後に初めて国会の召集があったときは内閣は総辞職しなければならないとされている点(日本国憲法第70条)から、日本国憲法の議院内閣制は伝統的なものとはいえずむしろ議会支配制(議会統治制)の原理を浸透させたものであるとする見解もある。
日本の内閣制度は、長らく官僚内閣制と表現されてきた。議院内閣制の下では国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖が本来生じるはずであるが、日本の内閣制度の基本的特徴はこの権限委任の連鎖が首相以降の部分で断ち切られていることにあるとされた。
内閣の意思決定は全会一致を基本原則とするが、各省庁は高い自律性を持つ官僚集団であり、大臣は各省庁の代表者としてその意思を代弁する者となってしまい、また、個々の政策決定には官僚の同意を必要とし、内閣の意思決定には省庁の官僚間での調整が必要となり、首相が積極的に政策形成や意思決定、政策転換を行うことはこれまで困難とされてきたが、2001年に実施された中央省庁再編により、内閣総理大臣の法的権限と補佐機構が大幅に強化されたことで、首相が政策を立案する上での権限は増えることになった。内閣総理大臣には閣議における発議権が認められたほか、内閣官房に法案を準備する権限が正式に与えられ、首相の権力は以前より拡大した。
首相を直接補佐する内閣官房の強化、経済財政諮問会議など大臣と民間有識者がともに議員となる諮問機関の設置、閣内における特命担当大臣の設置などにより、首相の補佐機構が整備された。内閣官房には総合調整権限に加えて企画権限が与えられたことにより、従来は政策の原案はあくまでも各省庁が立案し、異論が他省庁から出た場合に最終的に内閣官房が総合調整を行って合意を形成する、というのが手続きの原則であったが、新しく企画権限を持つに至った内閣官房は自ら原案を作成し、各省庁に対して首相および内閣の基本方針を盾に異論を封じることを可能とした。これにより、内閣が与党・自由民主党内の派閥の意向に添わない閣僚・党人事を進め、大臣および各省に対して首相の意向を通すことが可能となった。
日本では1990年代に小選挙区制が導入されたことにより、他の先進民主主義国家と比しても、首相が政権内で絶大な権力を握ることが制度的にも可能となった。日本は首相の解散権行使に制約がなく、内閣人事局を通じて幹部人事権を掌握することで政治家が官僚に対して人事権を行使することが可能となっている数少ない国であり、この面でも内閣・首相の権力が強化されている。日本と同様に議院内閣制と小選挙区制を併用する英国では、政治家が官僚に対して人事権を行使することは強く制限され、首相の解散権行使も強く制限されている。オーストラリア、ニュージーランドなど議院内閣制を採る他の主要先進民主主義国家でも、政治家による官僚への人事権行使は制約されている。他方、米国では大統領が官公庁幹部を政治任用するが、大統領は議会と独立しており、官公庁幹部への人事権行使に関しても議会から強い規律を受ける。
こうした一連の制度改革が及ぼした影響を踏まえ、強力な首相の指導力を背景に日本の議院内閣制はウェストミンスター・システム化したとしばしば評価される。
歴史的には、日本では戦前から超然主義の下で権力分立の原理を意図的に持ち込み政党政治勢力を行政権から排除する運用がなされてきた。
英国では与党と内閣は一体的で一元化されているのに対し、日本では与党が内閣に並立的に存在し、政務は首相以下の閣僚など、党務は幹事長以下の党役員が担い、個々の法案成立には与党による事前審査手続が必要とされてきた。政府と与党の権力の二重構造とも表現され、このような構造は政治過程を不透明で解りにくいものにすると指摘されてきたが、1994年の選挙制度改革により、中選挙区制度に代わり小選挙区・比例代表並立制が導入され、同一の選挙区から複数の与党議員が当選することがなくなった結果、与党内における派閥の影響力は低下し、与党・自民党はかつてのような派閥連合政党ではなくなり凝集性が高まったことで、総理総裁が有する公認権の重要度が増し、党内における内閣総理大臣の影響力が増した。また、1999年1月以降、全ての内閣が連立内閣であるが、連立相手の政党は比較的小規模のため、実質的には単独内閣に近く、行政権は内閣に集中している。
事前審査制は1970年代に定着した日本独特の慣行で、官僚が法案を説明し、与党議員は必要であれば直接政府側に修正を要求しうるとするものであるが、政党全体としての自律的意思形成能力の向上を妨げる、政官関係の固定化、国会での論戦を著しく制約するといった弊害が指摘され、民主党は2009年に政権を獲得した際、事前審査制を採らなかった。このため、内閣と国会の議事運営権をめぐる関係が法案審議過程に及ぼす影響が一番顕在化したのは鳩山由紀夫内閣である。鳩山内閣はしばしば、重要法案を国会に提出後、与党議員の協力を確保できずに成立させることができなかった。こうした経験を踏まえ、野田内閣は事前審査制を復活させた。
日本においては、衆議院の優越の関係から衆議院の多数派の支持を得た者が最終的に首相に指名され、また、衆議院のみが内閣不信任を決議でき(参議院は政治的意味を有するにとどまる問責決議のみ)、一方、内閣は衆議院のみ解散できる(参議院は解散できない)。このようなことから日本において実質的に議院内閣制の関係が成立しているのは内閣と衆議院の間だけで、内閣と参議院の間ではこのような関係が成立していないとの指摘がある。
問題とされるのは衆議院の多数派を形成して内閣を組織している政権党が参議院での多数を失っている場合に立法活動が滞るという点である(ねじれ国会も参照)。
その原因としては日本では議院内閣制を採用するにしては上院(参議院)が強すぎるという問題があるとされる。憲法上、法律案については参議院の支持を得られなければ、衆議院は3分の2で再可決して成立させることができると衆議院の優越について定めてはいるが、この要件を満たすことは非常に難しく容易でない。
また、このような制度上の特質は内閣の存立が参議院選挙の結果にも左右されることとなり、現行憲法下では衆参の国政選挙がおよそ1年6か月ごとと頻繁に行われており安定政権の不存在の要因となっているとの指摘がある。議院内閣制をとるヨーロッパの国々では下院の任期は4年以上で、上下両院では選出方法が大きく異なり、上院での選挙結果が内閣の存立を左右することはないとされる。
かつて参議院は衆議院のカーボンコピーと揶揄されたが、1989年(平成元年)の参議院選挙以降、与野党間の差は縮まり、連立内閣の組織や重要法案の成否などの点において参議院は影響力を高めている。参議院議員には首相の解散権が及ばないため直接的にけん制する手段はない。そのため、衆参で「ねじれ」が生じて参議院が法案を支持しないとみられる場合に、首相が衆議院で法案を再可決できるだけの多数を得るため、あるいは参議院の翻意を促すために衆議院の解散が行われることもある(例として郵政解散)。
議院内閣制の下では国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖を生じる。しかし、日本の参議院における民意の反映の仕方は内閣統治に必要な権力の融合を難しくしているとの指摘がある。そこで参議院の内閣総理大臣の指名を削除するなど一院制的なものに編成を改め、衆議院総選挙を実質的な首相選出の選挙として直結させ、首相の地位(民主的正当性)を高めるなど政府・首相と国民との関係を明確なものにすべきとの意見もある。
2000年(平成12年)4月にまとめられた参議院議長の私的諮問機関である参院の将来像を考える有識者懇談会の意見書では、衆参の役割分担を明確にすべきとし、衆議院での再可決要件を3分の2以上から過半数に改める、参議院の内閣総理大臣指名の権限を廃止する、参議院からの閣僚就任を自粛する等の内容が盛り込まれたが、このような改革論には参議院側からの強い反発がある。
など
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "このような考え方に対して、議会解散権が不意打ちによって行使されることは防ぐべきとして制限的に位置づける考え方もある。イギリスでは2011年に議会任期固定法が成立し、内閣不信任決議に対する解散権行使か、下院の3分の2以上の賛成による自主解散のみが認められることとなった。ただ、2016年6月23日にイギリスで行われたEU離脱の是非を問う国民投票では離脱が多数を占めたが、下院ではEU残留派が多数を占めていたため、議会制民主主義と国民投票による民主主義の矛盾(EU残留派とEU離脱派の対立)を解消するために下院の解散もその選択肢として取り上げられた。しかし、議会任期固定法により下院の任期途中での解散のハードルが高くなってしまったため、意思決定プロセスのあり方が注目されることとなった。",
"title": "議院内閣制の本質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "議院内閣制は議会多数派(一般的には政党)が内閣を組織することから政党内閣制とも呼ばれる。一党で内閣が組織される場合には単独内閣、複数党で内閣が組織される場合には連立内閣と呼ばれ、また内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとることを閣外協力と呼ぶ。",
"title": "議院内閣制の本質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "議院内閣制の下での内閣総理大臣の選出方法について、イギリスでは二大政党制の下で下院の第一党の党首が、国王により首相に任命されるのが慣行となっている。日本やドイツでは議会で首相指名選挙が行われ、連立政権となる場合には必ずしも第一党の党首が就任するわけでもない。例えば日本の細川護煕首相や羽田孜首相、村山富市首相は第一党の党首ではなかった。また、ドイツのヘルムート・シュミットはヴィリー・ブラントの後を受けて首相となったが第二党の所属であり、しかも党首職にも就いていなかった(ブラントが党首職に留まった)。",
"title": "議院内閣制の本質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "議院内閣制は沿革的には18世紀から19世紀にかけて、イギリスで王権と民権との拮抗関係の中で自然発生的に誕生し慣行として確立されるに至った制度である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "内閣制度の草創期において閣僚は国王の「家僕」とされており、国王は自由に閣僚を任免することができた。しかし徐々に議会の力が大きくなり、18世紀末に誕生した初期の議院内閣制では内閣は君主と議会の双方に責任を負い、大臣の地位は君主の信任を受けて認められると同時に議会の支持が得られなければ政治的根拠を失い、自発的に辞職しなければならないとする政治制度が定着した。このように、内閣が国家元首と議会の双方に対して責任を負う類型を二元主義型議院内閣制という。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "幾度もの選挙法の改正による下院の地位向上などによって議会の優位がさらに進み、19世紀になると国家元首の任命権は形式的・名目的なものとなって、1841年には首相には議会の多数派党首を任命する慣行が成立し、議会の不信任決議により内閣は辞職しなければならないようになった。このように、内閣が議会に対してのみ責任を負う類型を一元主義型議院内閣制という。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "一元主義型議院内閣制の下では大統領や君主などの元首は儀礼的な役割しか持たず、内閣が実際の行政権を持つのが普通である。一元主義型議院内閣制を採用している国家は、イギリス、フランス第三・第四共和制、日本、ドイツ、スペイン、スウェーデン、オランダなどが挙げられる。内閣は議会に対して連帯して責任を負い、分裂した状態で議会に対することはない。重要問題で首相と他の大臣が対立した場合、大臣が閣内にとどまったまま首相に対する反対派となることは許されず、首相に従うか辞任して反対派になるかを選択することになる。辞任を通じて議会内の多数派に変動が起き、結果的に内閣が倒れることは許容される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "内閣は議会の明示的、あるいは暗黙的な多数派に依拠しなければならない。議会は内閣不信任決議を行うことにより、いつでも内閣の構成を変えることができる。このとき内閣は不信任決議に従って総辞職するか、議会の多数派を再形成するために解散するかを選択する。解散を行うと、選挙を経て新たに作られた議会の勢力により内閣の命運が決まる。不信任決議によって解散する場合、必然的に与党議員からも信用を失っていることが多いため、選挙で相当な多数派形成に成功しなければ不信任された首相が再び指名されることはない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "議会の優位がさらに進むと政府が完全に議会に従属する議会統治制が出現するが、これが好ましい政治形態であるかは疑問とされ、イギリスなどではこのような展開は見られないとされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "半大統領制の下では内閣が大統領と議会の双方に責任を負う二元主義型議院内閣制がみられるが、これは初期の二元型議院内閣制における君主が大統領に置き換わったものとして理解することができるとされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "イギリスでは二大政党制の下、庶民院(下院)の第一党の党首が首相に任命されるのが慣行となっている(例外もある)。日本やドイツのような、議会による首相指名の手続はない。",
"title": "英国の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "閣僚の任免は首相の指名に基づいて国王が(形式的に)行うが、庶民院か貴族院(上院)のいずれかに議席がなければ閣僚となることはできない。",
"title": "英国の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "閣僚には約20名の閣議のメンバーとなる閣内大臣、そしてそのほかに閣外大臣がおり、その下に政務次官が置かれている。与党所属の庶民院議員のうち約100名が行政府に籍を置くことになるといわれ、与党と内閣は一体的で一元化されている。",
"title": "英国の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "日本では内閣総理大臣その他の国務大臣は議席の有無に関係なく議院出席の権利義務が定められている(日本国憲法第63条)。しかし、イギリスでは庶民院所属の閣僚は貴族院での審議に参加できず、反対に貴族院所属の閣僚は庶民院での審議に参加できないとされ、他院ではその院に属する閣外大臣や政務次官が審議に応じる形をとる。",
"title": "英国の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "官僚は政治的中立性の原則の下で、選挙によって成立した政権に忠誠を尽くすとともに、指揮関係を乱すことのないよう議員であっても大臣ではない者との接触は忌避されるという。",
"title": "英国の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "国会は貴族院と庶民院からなる二院制をとっている。しかし、実際には「庶民院の優越」が確立しているため、国民の代表である庶民院がほぼすべてのことを決定できるようになっており、上院は形式的な存在に過ぎなくなっている。そのため、実質的には一院制に近い。",
"title": "英国の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "行政府の長である連邦首相は、連邦議会議員から選出され、内閣を組閣する議院内閣制を採っている。内閣は連邦政府と呼ばれる。連邦首相の任期は4年である。元首である連邦大統領は、基本的に象徴的・儀礼的な権限しか持っていない。",
"title": "ドイツの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "内閣の不信任案および連邦議会の解散については、短期政権となるのを防ぐため「建設的不信任制」という制度を採用している。",
"title": "ドイツの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "「建設的不信任制」は憲法に当たるドイツ連邦共和国基本法で定められているもので、この制度の下では、ドイツ連邦議会は次の連邦首相候補を選出した後にしか内閣不信任案を提出できない。逆に首相の信任決議が否決された時以外、内閣は連邦議会を解散できない。次の連邦首相を決めるとなると、連立政権で首相や副首相などのポストで様々な思惑がでてくるため、連邦首相の不信任は困難なこととなっており、1949年から2013年までの間に「建設的不信任」が可決されたのは、1982年にヘルムート・シュミット政権が倒されたときの1回のみである。",
"title": "ドイツの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「建設的不信任制」はヴァイマル共和政時代に倒閣だけを目的とした内閣不信任が乱発された結果、後継首相も決まらず、政治が安定せず、ナチスの台頭を許してしまったことへの反省によるものである。",
"title": "ドイツの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、建設的不信任と、基本的に議会の解散がないこともあり、長期安定政権を生み出しやすい。",
"title": "ドイツの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "スウェーデンは、代表制議会民主主義の国で、その立法機関は国会である。スウェーデン国会は、4年に1度選挙が行われる。行政府の長である首相は、国会議員から選出され、内閣を組閣する議院内閣制を採っている。",
"title": "スウェーデンの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "国会は一院制で、議席は349議席。選挙制度は完全な比例代表制度であり、選挙の得票数により各政党に議席が振り分けられる。小政党の乱立を防止する観点から、政党が1議席を獲得するためには、少なくとも総投票数の4%を獲得することが必要とされる。",
"title": "スウェーデンの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "英国に次いで長い議会政治の歴史を有するスウェーデンでは、1866年以降、地方議会の間接選挙を基盤とする第一院及び直接選挙を基盤とする第二院から構成される二院制が採用されていたが、1971年に一院制に移行した。この背景には、貴族制(イギリス型)もなくなり、連邦国家(ドイツ型)でもないスウェーデンにおいて、多額の経費がかかる二院制を維持する理由はないとする合理主義の思想があると考えられている。",
"title": "スウェーデンの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、一院制への移行に伴い、議員総数も削減された。",
"title": "スウェーデンの議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "日本では歴史的・制度的な点から長い間にわたり権力の集中は生じないとみられてきた。しかし1999年1月以降、全ての内閣が連立内閣ではあるものの連立相手の政党は比較的小規模であるために、実質的には単独内閣に近い。また、2001年に実施された中央省庁再編により、内閣総理大臣の法的権限と補佐体制が強化されたことで首相が政策を立案する上での権限は増加することとなり、内閣総理大臣には閣議における発議権が認められたほか、内閣官房にも法案を準備する権限が正式に与えられた事によって、首相の権力は格段に強化された。一連の制度改革が及ぼした影響を踏まえ、日本の議院内閣制はウェストミンスター・システム化したとされる(#日本の議院内閣制)。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国憲法においては、各大臣は天皇に責任を負う体制であり、憲法上は議院内閣制ではなかった。ただし、大正デモクラシーの流れを受け政党政治が活発になり、一時は憲政の常道として慣行的に議院内閣制が行われていた。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "以下の条文から日本国憲法は議院内閣制を採用しているものと解釈されている。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、日本国憲法は議院内閣制を採用したものではないとする少数説もある。小嶋和司の主張のように、内閣総理大臣が国会の指名によって定まること(日本国憲法第67条)及び衆議院議員総選挙後に初めて国会の召集があったときは内閣は総辞職しなければならないとされている点(日本国憲法第70条)から、日本国憲法の議院内閣制は伝統的なものとはいえずむしろ議会支配制(議会統治制)の原理を浸透させたものであるとする見解もある。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本の内閣制度は、長らく官僚内閣制と表現されてきた。議院内閣制の下では国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖が本来生じるはずであるが、日本の内閣制度の基本的特徴はこの権限委任の連鎖が首相以降の部分で断ち切られていることにあるとされた。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "内閣の意思決定は全会一致を基本原則とするが、各省庁は高い自律性を持つ官僚集団であり、大臣は各省庁の代表者としてその意思を代弁する者となってしまい、また、個々の政策決定には官僚の同意を必要とし、内閣の意思決定には省庁の官僚間での調整が必要となり、首相が積極的に政策形成や意思決定、政策転換を行うことはこれまで困難とされてきたが、2001年に実施された中央省庁再編により、内閣総理大臣の法的権限と補佐機構が大幅に強化されたことで、首相が政策を立案する上での権限は増えることになった。内閣総理大臣には閣議における発議権が認められたほか、内閣官房に法案を準備する権限が正式に与えられ、首相の権力は以前より拡大した。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "首相を直接補佐する内閣官房の強化、経済財政諮問会議など大臣と民間有識者がともに議員となる諮問機関の設置、閣内における特命担当大臣の設置などにより、首相の補佐機構が整備された。内閣官房には総合調整権限に加えて企画権限が与えられたことにより、従来は政策の原案はあくまでも各省庁が立案し、異論が他省庁から出た場合に最終的に内閣官房が総合調整を行って合意を形成する、というのが手続きの原則であったが、新しく企画権限を持つに至った内閣官房は自ら原案を作成し、各省庁に対して首相および内閣の基本方針を盾に異論を封じることを可能とした。これにより、内閣が与党・自由民主党内の派閥の意向に添わない閣僚・党人事を進め、大臣および各省に対して首相の意向を通すことが可能となった。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "日本では1990年代に小選挙区制が導入されたことにより、他の先進民主主義国家と比しても、首相が政権内で絶大な権力を握ることが制度的にも可能となった。日本は首相の解散権行使に制約がなく、内閣人事局を通じて幹部人事権を掌握することで政治家が官僚に対して人事権を行使することが可能となっている数少ない国であり、この面でも内閣・首相の権力が強化されている。日本と同様に議院内閣制と小選挙区制を併用する英国では、政治家が官僚に対して人事権を行使することは強く制限され、首相の解散権行使も強く制限されている。オーストラリア、ニュージーランドなど議院内閣制を採る他の主要先進民主主義国家でも、政治家による官僚への人事権行使は制約されている。他方、米国では大統領が官公庁幹部を政治任用するが、大統領は議会と独立しており、官公庁幹部への人事権行使に関しても議会から強い規律を受ける。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうした一連の制度改革が及ぼした影響を踏まえ、強力な首相の指導力を背景に日本の議院内閣制はウェストミンスター・システム化したとしばしば評価される。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "歴史的には、日本では戦前から超然主義の下で権力分立の原理を意図的に持ち込み政党政治勢力を行政権から排除する運用がなされてきた。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "英国では与党と内閣は一体的で一元化されているのに対し、日本では与党が内閣に並立的に存在し、政務は首相以下の閣僚など、党務は幹事長以下の党役員が担い、個々の法案成立には与党による事前審査手続が必要とされてきた。政府と与党の権力の二重構造とも表現され、このような構造は政治過程を不透明で解りにくいものにすると指摘されてきたが、1994年の選挙制度改革により、中選挙区制度に代わり小選挙区・比例代表並立制が導入され、同一の選挙区から複数の与党議員が当選することがなくなった結果、与党内における派閥の影響力は低下し、与党・自民党はかつてのような派閥連合政党ではなくなり凝集性が高まったことで、総理総裁が有する公認権の重要度が増し、党内における内閣総理大臣の影響力が増した。また、1999年1月以降、全ての内閣が連立内閣であるが、連立相手の政党は比較的小規模のため、実質的には単独内閣に近く、行政権は内閣に集中している。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "事前審査制は1970年代に定着した日本独特の慣行で、官僚が法案を説明し、与党議員は必要であれば直接政府側に修正を要求しうるとするものであるが、政党全体としての自律的意思形成能力の向上を妨げる、政官関係の固定化、国会での論戦を著しく制約するといった弊害が指摘され、民主党は2009年に政権を獲得した際、事前審査制を採らなかった。このため、内閣と国会の議事運営権をめぐる関係が法案審議過程に及ぼす影響が一番顕在化したのは鳩山由紀夫内閣である。鳩山内閣はしばしば、重要法案を国会に提出後、与党議員の協力を確保できずに成立させることができなかった。こうした経験を踏まえ、野田内閣は事前審査制を復活させた。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "日本においては、衆議院の優越の関係から衆議院の多数派の支持を得た者が最終的に首相に指名され、また、衆議院のみが内閣不信任を決議でき(参議院は政治的意味を有するにとどまる問責決議のみ)、一方、内閣は衆議院のみ解散できる(参議院は解散できない)。このようなことから日本において実質的に議院内閣制の関係が成立しているのは内閣と衆議院の間だけで、内閣と参議院の間ではこのような関係が成立していないとの指摘がある。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "問題とされるのは衆議院の多数派を形成して内閣を組織している政権党が参議院での多数を失っている場合に立法活動が滞るという点である(ねじれ国会も参照)。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "その原因としては日本では議院内閣制を採用するにしては上院(参議院)が強すぎるという問題があるとされる。憲法上、法律案については参議院の支持を得られなければ、衆議院は3分の2で再可決して成立させることができると衆議院の優越について定めてはいるが、この要件を満たすことは非常に難しく容易でない。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また、このような制度上の特質は内閣の存立が参議院選挙の結果にも左右されることとなり、現行憲法下では衆参の国政選挙がおよそ1年6か月ごとと頻繁に行われており安定政権の不存在の要因となっているとの指摘がある。議院内閣制をとるヨーロッパの国々では下院の任期は4年以上で、上下両院では選出方法が大きく異なり、上院での選挙結果が内閣の存立を左右することはないとされる。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "かつて参議院は衆議院のカーボンコピーと揶揄されたが、1989年(平成元年)の参議院選挙以降、与野党間の差は縮まり、連立内閣の組織や重要法案の成否などの点において参議院は影響力を高めている。参議院議員には首相の解散権が及ばないため直接的にけん制する手段はない。そのため、衆参で「ねじれ」が生じて参議院が法案を支持しないとみられる場合に、首相が衆議院で法案を再可決できるだけの多数を得るため、あるいは参議院の翻意を促すために衆議院の解散が行われることもある(例として郵政解散)。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "議院内閣制の下では国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖を生じる。しかし、日本の参議院における民意の反映の仕方は内閣統治に必要な権力の融合を難しくしているとの指摘がある。そこで参議院の内閣総理大臣の指名を削除するなど一院制的なものに編成を改め、衆議院総選挙を実質的な首相選出の選挙として直結させ、首相の地位(民主的正当性)を高めるなど政府・首相と国民との関係を明確なものにすべきとの意見もある。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)4月にまとめられた参議院議長の私的諮問機関である参院の将来像を考える有識者懇談会の意見書では、衆参の役割分担を明確にすべきとし、衆議院での再可決要件を3分の2以上から過半数に改める、参議院の内閣総理大臣指名の権限を廃止する、参議院からの閣僚就任を自粛する等の内容が盛り込まれたが、このような改革論には参議院側からの強い反発がある。",
"title": "日本の議院内閣制"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "など",
"title": "主な議院内閣制の国家"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "主な議院内閣制の国家"
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"text": "など",
"title": "主な議院内閣制の国家"
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議院内閣制とは、行政府の主体たる内閣を議会(特に下院)の信任によって存立させる政治制度。
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{{pp-vandalism|small=yes}}
{{政治}}
[[File:Forms of government.svg|thumb|right|350px|赤・橙色の国が議院内閣制を採用している。]]
'''議院内閣制'''(ぎいんないかくせい、{{lang-en-short|parliamentary government/cabinet system}})とは、[[行政|行政府]]の主体たる[[内閣]]を[[議会]](特に[[下院]])の信任によって存立させる[[政治システム|政治制度]]{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=321}}{{Sfn|小林直樹|1981|pp=233-234}}<ref name="saitou2010">{{Cite journal|和書|author=齋藤憲司|date=2010-11|title=日本における「議院内閣制」のデザイン|journal=レファレンス|issue=718|pages=11-30|publisher=[[国立国会図書館]]|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3050303_po_071802.pdf?contentNo=1|naid=40017393125}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/kokkai/kokkai_giinnaikakusei.htm |title=議院内閣制 |author= [[衆議院]]|date= |work= |publisher= |accessdate=2016-08-22 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/1-2.html |title=内閣制度と歴代内閣 |author= |date= |work=[[内閣総理大臣官邸|日本国首相官邸HP]] |publisher= |accessdate= 2016-08-21}}</ref>。
== 概説 ==
議院内閣制は議会と政府との関係の点から見た政治制度の分類の一つで{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=320}}、議会と政府(内閣)とが分立した上で、内閣は議会(特に下院)の信任によって存立する政治制度である{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=321}}{{Sfn|小林直樹|1981|pp=233-234}}。[[議会制民主主義]]の発祥国でもある[[イギリス]]で誕生した政治制度であり{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=321}}{{Sfn|小林直樹|1981|p=235}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=232}}、そこでは[[首相]]が内閣を、内閣は多数党を、多数党は議会をそれぞれ統率・指導・統制し、議会の多数党は国民の投票によって決定される{{Sfn|辻清明|1976|p=11}}。
議院内閣制を他の政治制度と比較すると、以下のような特徴によって表される。
* 議院内閣制(parliamentary government / parliamentary cabinet system、イギリス型)
: 行政府の主体たる内閣は議会(主に下院)の信任を得て統治を行う政治制度{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=320}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=231}}。[[権力分立]]の観点からみると、[[議会統治制]]とは異なり議会と政府は一応分立しているものの、[[大統領制]]のような厳格な分離は採られず、内閣は議会の信任によって存立している{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=321}}。[[民主主義]]の観点からみると、内閣の[[首班]](首相)は議会から選出されること、内閣は議会の信任を基礎として議会は内閣不信任を決議しうること、首班には[[法律#内閣による法律案|法案提出権]]が認められること、内閣の構成員たる[[大臣]]はその多くが[[議員]]であること、大臣には議会出席について権利義務を有することなどを特徴とする{{Sfn|小林直樹|1981|pp=233-235}}。
: また、内閣には[[解散 (議会)|議会解散権]]が認められているものの、議会解散権については議院内閣制一般に認められる本質的要素とみるか否かで、後述のように責任本質説と均衡本質説が対立する{{Sfn|小林直樹|1981|pp=233-235}}。
* 超然内閣制
: 政府(内閣)は[[君主]]に対してのみ責任を負うものとされ、議会に対しては責任を負わない政治制度{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=320}}。
* 大統領制(presidential system、アメリカ型)
: 今日では議院内閣制と並ぶ代表的な政治形態であり、[[立法権]]と[[行政権]]を厳格に独立させ、行政権の主体たる大統領と立法権の主体たる議会をそれぞれ個別に選出する政治制度{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=320}}{{Sfn|小林直樹|1981|p=232}}{{Sfn|大石眞|2004|p=85}}。その特徴としては、[[大統領]]は議会選挙からは独立した選挙により国民から直接選出されること([[アメリカ大統領選挙]]は制度上においては間接選挙であるが、実質的には直接選挙として機能しているとされる{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=231}})、原則として大統領は任期を全うすること(弾劾制度が設けられているが、弾劾の事由は狭く限定されたものとなっている{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=231}})、大統領には法案提出権や議会解散権が与えられていないこと、議員職と政府の役職とは兼務できないこと、政府職員は原則として議会に出席して発言できないことなどを特徴とする{{Sfn|小林直樹|1981|p=233}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=231}}。
* 半大統領制(semi-presidential system、フランス型)
: 議院内閣制と大統領制の中間に位置する制度。議院内閣制の枠組みを採りながら、より権限の大きな大統領を有する政治制度。
* 議会統治制/議会支配制(assembly government、スイス型)
: 政府は独立性を有さず、完全に議会の指揮下に置かれている政治制度(内閣不信任や議会解散権はない){{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=320}}{{Sfn|大石眞|2004|p=85}}。
政治モデルとしては、アメリカ型大統領制が立法権と行政権を厳格に分離し権力分立を指向するのに対し、イギリス型議院内閣制は立法権と行政権が政権党によって一元化され強力な内閣の下に権力を集中させる制度であるとされる{{Sfn|飯尾潤|2007|pp=143, 154}}{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=376}}。議院内閣制の下では、一般的に議会で多数を占める政党が[[政権]]を担当し[[与党]]となる<ref name="ref1">{{Cite book|和書|author= 政治・経済教育研究会編|year= 2014|month= 10|title= 政治・経済用語集|publisher= [[山川出版社]]|isbn= 978-4-634-05104-1}}</ref>。一方で大統領制の下では、議会の少数党であっても大統領が所属する[[政党]]が与党となる。議院内閣制の場合は、議員の中から選出される首相にも法案提出権が認められている事から、厳格な権力分立を指向する大統領制に比べて強い[[政治権力]]を有している。したがって、議院内閣制には集権性・集約性がみられるとされ、イギリスでは[[独任制|首相統治制]]・[[二大政党制]]を背景に首相権力の強い議院内閣制となっている{{Sfn|辻清明|1976|p=11}}<ref>[https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=1260 【書評】『首相の権力-日英比較からみる政権党とのダイナミズム-』高安健将著 | 研究活動 | 東京財団政策研究所]</ref>。
国民による公選によって選出される大統領とは異なり、議院内閣制における首相は国民から直接選ばれるわけではないため、自らの民主的正統性の根拠について議会からの信任に依拠することになる{{Sfn|野中俊彦|中村睦男|高橋和之|高見勝利|2006|p=164}}。議院内閣制の下では原理的には議会は内閣に優位することになり、国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖と、内閣(首相・大臣)→議会(議院)→国民(有権者)という責任の連鎖を構築することによって行政権の民主的コントロールを確保するとともに、議会の多数党派が行政部の中枢機関を担うこととして政治上の責任の所在を明確にして民主主義的要請に応えようとする制度であるとされる{{Sfn|小林直樹|1981|pp=234-235}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=233}}{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=376}}。
大統領制の下では、大統領と議会とは別々に選出されるため民意は二元的に表れる二元代表制であるのに対し、議院内閣制では議会のみが選挙により選出されて内閣はそれを基盤として成立するため民意は一元的に表れる一元代表制である{{Sfn|飯尾潤|2007|p=18}}。そして、議院内閣制の下で議会と内閣の協働関係が破綻した際には、[[内閣不信任決議]]、[[内閣総辞職]]、議会解散権の行使のいずれかによって解決が図られる{{Sfn|野中俊彦|中村睦男|高橋和之|高見勝利|2006|p=162}}。
議院内閣制では立法権を持つ政党が行政権も担当している事から、基本的に議会多数派が政権を握ることになる。そのため、与党の分裂や連立与党の関係破綻などの問題が生じない限り、首相が提出した議案は成立する{{Sfn|西尾勝|2001|p=103}}。議院内閣制の下では立法及び行政の統治責任は、議会を支配し現に内閣を組織している政権党に一元化される。議会選挙では内閣与党の治績の良否、政策競争の優劣などの点から国民の審判を仰ぐことになる{{Sfn|西尾勝|2001|p=103}}。
以上の点は、立法府と行政府の厳格な分離をとり大統領の任期が定められる一方、議会解散権がなく、大統領の所属政党と議会多数派とが異なる場合も出現しやすいアメリカ型の大統領制と異なる点である。議院内閣制の利点を実際に活かすことができるか否かは政治上の諸条件にかかっているとされ、議会や政党に頽落を生じる場合にはアメリカ型の大統領制よりも大きな構造的な問題を抱えることになるとされる{{Sfn|小林直樹|1981|p=240}}。
議院内閣制の問題点としては、政権与党が議会の圧倒的多数を占めると[[独裁政治|独裁化]]に近い状態になり、他方で政権与党が小政党の連立である場合には政権基盤は著しく不安定な状態になる点が挙げられる{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|pp=235-236}}。
== 議院内閣制の本質 ==
=== 学説 ===
議院内閣制の本質については、解散権の有無と関連して責任本質説と均衡本質説の対立がある。
; 責任本質説
: 内閣の議会解散権は、必ずしも議院内閣制の必要条件ではないと定義する。通常の憲法学または政治学上の多数説とされる。
; 均衡本質説
: 内閣の議会解散権も議院内閣制の要素であると定義する。
議院内閣制と議会統治制(スイス型)との違いについて、均衡本質説によれば内閣の解散権の有無により、責任本質説によれば辞職の自由の有無により区別すべきだとされる{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=233}}。
=== 議会解散権の位置づけ ===
議院内閣制の下で内閣に議会解散権が広く認められる政治制度がとられるとき、議会には内閣に対する不信任決議、一方の内閣には議会解散権が認められているため、両者に意思の対立があれば(解散を経て)議会選挙を通じて国民がその問題に決着をつけることになる{{Sfn|野中俊彦|中村睦男|高橋和之|高見勝利|2006|p=164}}。このことは議会の解散によって選挙となることで国民の審判にさらされるという緊張関係を常に生じていることを意味し、そのため議院内閣制の下ではいつ選挙が行われても国民からの支持を得られるように民意への接近という動因が絶えず働くことになるとされる{{Sfn|野中俊彦|中村睦男|高橋和之|高見勝利|2006|p=164}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|pp=233-234}}。実際の政党政治の下では議会において多数を占める政党が政権を担う(内閣を組織する)ことから、この要素は内閣と議会との間にではなく、与野党間・連立与党の各党間・与党の主流派と反主流派などにおいて働くとされている{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=234}}。
また、国民の支持の厚い首相=党首を擁する場合は、不信任決議とは関わりなく解散を行い、選挙に勝利することによって議会の多数を確保することで、さらに自党による政権期間を将来にわたって延ばすことができる。不人気な首相が自ら辞任して後継自党党首<ref group="注">[[ドイツ]]では、[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]や[[ヴィリー・ブラント|ブラント]]の様に首相職を辞任した後も与党の党首の座には留まったという例が見られる。</ref>に託すのも、それだけで国民の支持が回復することが現実にあり得るからである。
このような考え方に対して、議会解散権が不意打ちによって行使されることは防ぐべきとして制限的に位置づける考え方もある。イギリスでは2011年に[[2011年議会任期固定法|議会任期固定法]]が成立し、内閣不信任決議に対する解散権行使か、下院の3分の2以上の賛成による自主解散のみが認められることとなった<ref>{{Cite journal|和書|author=小松浩|date=2012-01|title=イギリス連立政権と解散権制限立法の成立|journal=立命館法学|issue=341|publisher=立命館大学法学会|url=https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-1/komatsu.pdf|naid=110009523714|accessdate=2016-06-28}}</ref>。ただ、2016年6月23日にイギリスで行われたEU離脱の是非を問う国民投票では離脱が多数を占めたが、下院ではEU残留派が多数を占めていたため、議会制民主主義と国民投票による民主主義の矛盾(EU残留派とEU離脱派の対立)を解消するために下院の解散もその選択肢として取り上げられた。しかし、議会任期固定法により下院の任期途中での解散のハードルが高くなってしまったため、意思決定プロセスのあり方が注目されることとなった<ref>[http://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/insight/eu160624.pdf 「英国民はEU離脱を選択」 - 吉田健一郎] みずほ総合研究所、2016年6月28日閲覧。</ref>。
=== 議院内閣制と政党 ===
議院内閣制は議会多数派(一般的には[[政党]])が内閣を組織することから'''[[政党内閣|政党内閣制]]'''とも呼ばれる{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=72}}。一党で内閣が組織される場合には単独内閣、複数党で内閣が組織される場合には[[連立内閣]]と呼ばれ、また内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとることを[[閣外協力]]と呼ぶ{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=72}}。
議院内閣制の下での内閣総理大臣の選出方法について、イギリスでは[[二大政党制]]の下で[[下院]]の[[第一党]]の[[党首]]が、国王により首相に任命されるのが慣行となっている<ref name="saitou2010"/>。日本やドイツでは議会で[[首相指名選挙]]が行われ、連立政権となる場合には必ずしも第一党の党首が就任するわけでもない{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=31,70}}。例えば日本の[[細川護煕]]首相や[[羽田孜]]首相、[[村山富市]]首相は第一党の党首ではなかった。また、ドイツの[[ヘルムート・シュミット]]は[[ヴィリー・ブラント]]の後を受けて首相となったが第二党の所属であり、しかも党首職にも就いていなかった(ブラントが党首職に留まった){{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=31,70}}。<!---備考 2016年スペインのように第1党ではなく、第2党に組閣指名が来る場合が有り。また、オランダ・フランスの大臣は議員との兼務はできないとの例も有り。--->
== 歴史 ==
議院内閣制は沿革的には[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけて、[[イギリス]]で王権と民権との拮抗関係の中で自然発生的に誕生し慣行として確立されるに至った制度である{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=321}}{{Sfn|小林直樹|1981|p=235}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=232}}。
内閣制度の草創期において閣僚は国王の「[[家僕]]」とされており、国王は自由に閣僚を任免することができた{{Sfn|高橋和之|2005|p=25}}。しかし徐々に議会の力が大きくなり、18世紀末に誕生した初期の議院内閣制では内閣は[[君主]]と議会の双方に責任を負い、大臣の地位は君主の信任を受けて認められると同時に議会の支持が得られなければ政治的根拠を失い、自発的に辞職しなければならないとする政治制度が定着した{{Sfn|高橋和之|2005|p=25}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=2312}}。このように、内閣が[[国家元首]]と議会の双方に対して責任を負う類型を'''二元主義型議院内閣制'''という<ref name="yabe2004">{{Cite book|和書|author=矢部明宏 |title=国会と内閣の関係 |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |year=2004 |series=シリーズ憲法の論点 3 . 調査資料 ; 2004-1-c |NCID=BA70179954 |ISBN=4875826079 |id={{国立国会図書館書誌ID|000007566945}} |url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2004/200403.pdf |format=PDF}}</ref>。
幾度もの選挙法の改正による下院の地位向上などによって議会の優位がさらに進み、19世紀になると国家元首の任命権は形式的・名目的なものとなって、1841年には首相には議会の多数派党首を任命する慣行が成立し<ref name="saitou2010"/>、議会の[[内閣不信任決議|不信任決議]]により内閣は辞職しなければならないようになった{{Sfn|高橋和之|2005|p=25}}{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=232}}。このように、内閣が議会に対してのみ責任を負う類型を'''一元主義型議院内閣制'''という<ref name="yabe2004"/>。
一元主義型議院内閣制の下では大統領や君主などの[[元首]]は儀礼的な役割しか持たず、内閣が実際の行政権を持つのが普通である。一元主義型議院内閣制を採用している国家は、[[イギリス]]、[[フランス]]第三・第四共和制、[[日本]]、[[ドイツ]]、[[スペイン]]、[[スウェーデン]]、[[オランダ]]などが挙げられる。内閣は議会に対して連帯して責任を負い、分裂した状態で議会に対することはない。重要問題で首相と他の大臣が対立した場合、大臣が閣内にとどまったまま首相に対する反対派となることは許されず、首相に従うか辞任して反対派になるかを選択することになる。辞任を通じて議会内の多数派に変動が起き、結果的に内閣が倒れることは許容される。
内閣は議会の明示的、あるいは暗黙的な多数派に依拠しなければならない。議会は[[内閣不信任決議]]を行うことにより、いつでも内閣の構成を変えることができる<ref group="注">ドイツの場合は、憲法に相当する[[ドイツ連邦共和国基本法]]で、[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]が新首相候補を選出した後にしか内閣不信任案を提出できない「建設的不信任([[:de:Konstruktives Misstrauensvotum|Konstruktives Misstrauensvotum]])」制度を採用しており、逆に首相の信任決議が否決された時以外、内閣は連邦議会を解散できない。これは[[ヴァイマル共和政]]時代に[[倒閣]]だけを目的とした内閣不信任が何度も可決された結果政治が安定せず、その混乱を衝く形で[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が台頭してしまったことへの反省によるものである。つまりドイツの内閣は、一見すると議会解散権を持たないように見えるが、実際には与党に信任決議案を出させわざとそれを否決させて解散を実現する手法がとられる。しかし、この手法を基本法違反と批判する法学者もいる。</ref>。このとき内閣は不信任決議に従って総辞職するか、議会の多数派を再形成するために解散するかを選択する。解散を行うと、選挙を経て新たに作られた議会の勢力により内閣の命運が決まる。不信任決議によって解散する場合、必然的に与党議員からも信用を失っていることが多いため、選挙で相当な多数派形成に成功しなければ不信任された首相が再び指名されることはない。
議会の優位がさらに進むと政府が完全に議会に従属する議会統治制が出現するが、これが好ましい政治形態であるかは疑問とされ、イギリスなどではこのような展開は見られないとされる{{Sfn|高橋和之|2005|p=25}}。
[[半大統領制]]の下では内閣が大統領と議会の双方に責任を負う二元主義型議院内閣制がみられるが、これは初期の二元型議院内閣制における君主が大統領に置き換わったものとして理解することができるとされる{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=235}}。
== 英国の議院内閣制 ==
{{See also|イギリスの政治}}
イギリスでは[[二大政党制]]の下、[[庶民院]]([[下院]])の[[第一党]]の[[党首]]が[[イギリスの首相|首相]]に任命されるのが慣行となっている{{Sfn|中村勝範|2005|p=82}}{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=31,70}}<ref name="saitou2010"/>(例外もある<ref>{{Cite journal|和書|author=齋藤憲司 |title=英国の2010年総選挙と連立新政権の政治改革 |journal=レファレンス |ISSN=00342912 |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |year=2010 |month=sep |volume=60 |issue=9 |pages=7-34 |naid=40017320351 |id={{NDLJP|3050286}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I000094485-00}}</ref>)。日本やドイツのような、議会による[[首相指名]]の手続はない{{Sfn|中村勝範|2005|p=82}}。
閣僚の任免は首相の指名に基づいて[[国王]]が(形式的に)行うが、庶民院か[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]([[上院]])のいずれかに議席がなければ閣僚となることはできない{{Sfn|中村勝範|2005|p=82}}{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=70}}。
閣僚には約20名の閣議のメンバーとなる閣内大臣、そしてそのほかに閣外大臣がおり、その下に[[政務次官]]が置かれている{{Sfn|中村勝範|2005|pp=82-83}}。与党所属の庶民院議員のうち約100名が行政府に籍を置くことになるといわれ、与党と内閣は一体的で一元化されている{{Sfn|中村勝範|2005|p=83}}{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=71}}。
日本では内閣総理大臣その他の国務大臣は[[議席]]の有無に関係なく議院出席の権利義務が定められている([[日本国憲法第63条]])。しかし、イギリスでは庶民院所属の閣僚は貴族院での審議に参加できず、反対に貴族院所属の閣僚は庶民院での審議に参加できないとされ、他院ではその院に属する閣外大臣や政務次官が審議に応じる形をとる{{Sfn|中村勝範|2005|p=83}}。
官僚は政治的中立性の原則の下で、選挙によって成立した政権に忠誠を尽くすとともに、指揮関係を乱すことのないよう議員であっても大臣ではない者との接触は忌避されるという<ref>{{Cite book|和書|author=飯尾潤 |title=日本の統治構造 : 官僚内閣制から議院内閣制へ |publisher=中央公論新社 |year=2007 |series=中公新書 |issue=1905 |NCID=BA82570707 |ISBN=9784121019059 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008833986-00 |page=156}}</ref>。
国会は貴族院と庶民院からなる[[両院制|二院制]]をとっている。しかし、実際には「庶民院の優越」が確立しているため、国民の代表である庶民院がほぼすべてのことを決定できるようになっており、上院は形式的な存在に過ぎなくなっている。そのため、実質的には[[一院制]]に近い。
== ドイツの議院内閣制 ==
行政府の長である[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]]は、[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]議員から選出され、内閣を組閣する議院内閣制を採っている。内閣は[[連邦政府 (ドイツ)|連邦政府]]と呼ばれる。連邦首相の任期は4年である。元首である[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]は、基本的に象徴的・儀礼的な権限しか持っていない。
内閣の不信任案および連邦議会の解散については、短期政権となるのを防ぐため「建設的不信任制」という制度を採用している。
「建設的不信任制」は憲法に当たる[[ドイツ連邦共和国基本法]]で定められているもので、この制度の下では、ドイツ連邦議会は次の連邦首相候補を選出した後にしか内閣不信任案を提出できない。逆に首相の信任決議が否決された時以外、内閣は連邦議会を解散できない。次の連邦首相を決めるとなると、連立政権で首相や副首相などのポストで様々な思惑がでてくるため、連邦首相の不信任は困難なこととなっており、1949年から2013年までの間に「建設的不信任」が可決されたのは、1982年に[[ヘルムート・シュミット]]政権が倒されたときの1回のみである。
「建設的不信任制」は[[ヴァイマル共和政]]時代に倒閣だけを目的とした内閣不信任が乱発された結果、後継首相も決まらず、政治が安定せず、ナチスの台頭を許してしまったことへの反省によるものである。
また、建設的不信任と、基本的に議会の解散がないこともあり、長期安定政権を生み出しやすい。
== スウェーデンの議院内閣制 ==
スウェーデンは、代表制議会民主主義の国で、その立法機関は国会である。スウェーデン国会は、4年に1度選挙が行われる。行政府の長である首相は、国会議員から選出され、内閣を組閣する議院内閣制を採っている。
国会は一院制で、議席は349議席。選挙制度は完全な比例代表制度であり、選挙の得票数により各政党に議席が振り分けられる。小政党の乱立を防止する観点から、政党が1議席を獲得するためには、少なくとも総投票数の4%を獲得することが必要とされる。
英国に次いで長い議会政治の歴史を有するスウェーデンでは、1866年以降、地方議会の間接選挙を基盤とする第一院及び直接選挙を基盤とする第二院から構成される二院制が採用されていたが、1971年に一院制に移行した。この背景には、貴族制(イギリス型)もなくなり、連邦国家(ドイツ型)でもないスウェーデンにおいて、多額の経費がかかる二院制を維持する理由はないとする合理主義の思想があると考えられている。
また、一院制への移行に伴い、議員総数も削減された。
== 日本の議院内閣制 ==
日本では歴史的・制度的な点から長い間にわたり権力の集中は生じないとみられてきた。しかし1999年1月以降、全ての内閣が[[連立内閣]]ではあるものの連立相手の政党は比較的小規模であるために、実質的には単独内閣に近い。また、2001年に実施された[[中央省庁再編]]により、内閣総理大臣の法的権限と補佐体制が強化されたことで首相が政策を立案する上での権限は増加することとなり、内閣総理大臣には[[閣議 (日本)|閣議]]における発議権が認められたほか、[[内閣官房]]にも[[法律#内閣による法律案|法案]]を準備する権限が正式に与えられた事によって、首相の権力は格段に強化された。一連の制度改革が及ぼした影響を踏まえ、日本の議院内閣制は[[ウェストミンスター・システム]]化したとされる{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=376}}<ref name="あ" >[https://www.nippon.com/ja/in-depth/a02301/ 日本の議院内閣制と安倍内閣の行方:ウェストミンスター化を阻む「壁」| nippon.com]</ref>([[#日本の議院内閣制]])。
=== 大日本帝国憲法 ===
[[大日本帝国憲法]]においては、各大臣は[[天皇]]に責任を負う体制であり、憲法上は議院内閣制ではなかった<ref name="yabe2004"/>。ただし、[[大正デモクラシー]]の流れを受け[[日本の政党|政党]]政治が活発になり、一時は[[憲政の常道]]として慣行的に議院内閣制が行われていた<ref name="yabe2004"/>。
=== 日本国憲法と議院内閣制 ===
以下の条文から日本国憲法は議院内閣制を採用しているものと解釈されている{{Sfn|大石眞|2004|p=88}}。
* [[内閣 (日本)|内閣]]は、[[行政|行政権]]の行使について、[[国会 (日本)|国会]]に対し連帯して責任を負ふ([[日本国憲法第66条]]3項)。
* [[内閣総理大臣]]は、[[日本の国会議員|国会議員]]の中から[[内閣総理大臣指名選挙|国会の議決]]で、これを指名する([[日本国憲法第67条]]1項)。
* 内閣総理大臣は、[[国務大臣]]を任命する。但し、その[[過半数]]は、国会議員の中から選ばれなければならない([[日本国憲法第68条]]1項)。
* 内閣は、[[衆議院]]で[[内閣不信任決議|不信任の決議案]]を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に[[衆議院解散|衆議院が解散]]されない限り、[[内閣総辞職|総辞職]]をしなければならない([[日本国憲法第69条]])。
* 内閣総理大臣が欠けたとき、又は[[衆議院議員総選挙]]の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない([[日本国憲法第70条]])。
* 内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に[[議席]]を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない([[日本国憲法第63条]])。
なお、日本国憲法は議院内閣制を採用したものではないとする少数説もある。[[小嶋和司]]の主張のように、内閣総理大臣が国会の指名によって定まること([[日本国憲法第67条]])及び[[衆議院議員総選挙]]後に初めて国会の召集があったときは内閣は総辞職しなければならないとされている点([[日本国憲法第70条]])から、日本国憲法の議院内閣制は伝統的なものとはいえずむしろ議会支配制([[議会統治制]])の原理を浸透させたものであるとする見解もある<ref>小嶋和司・大石眞著 『憲法概観(第7版)』 有斐閣、2011年、231頁</ref>。
=== 日本における問題点 ===
==== 官僚内閣制 ====
日本の内閣制度は、長らく'''官僚内閣制'''と表現されてきた。議院内閣制の下では国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖が本来生じるはずであるが{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=376}}、日本の内閣制度の基本的特徴はこの権限委任の連鎖が首相以降の部分で断ち切られていることにあるとされた{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=377}}。
内閣の意思決定は全会一致を基本原則とするが、各省庁は高い自律性を持つ官僚集団であり、大臣は各省庁の代表者としてその意思を代弁する者となってしまい、また、個々の政策決定には官僚の同意を必要とし、内閣の意思決定には省庁の官僚間での調整が必要となり、首相が積極的に政策形成や意思決定、政策転換を行うことはこれまで困難とされてきたが{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|pp=378-379}}、2001年に実施された[[中央省庁再編]]により、内閣総理大臣の法的権限と補佐機構が大幅に強化されたことで、首相が政策を立案する上での権限は増えることになった。内閣総理大臣には閣議における発議権が認められたほか、内閣官房に法案を準備する権限が正式に与えられ、首相の権力は以前より拡大した<ref name="あ" /><ref name=":2" />。
首相を直接補佐する[[内閣官房]]の強化、[[経済財政諮問会議]]など大臣と民間有識者がともに議員となる[[諮問機関]]の設置、閣内における[[特命担当大臣]]の設置などにより、首相の補佐機構が整備された。内閣官房には総合調整権限に加えて企画権限が与えられたことにより、従来は政策の原案はあくまでも各省庁が立案し、異論が他省庁から出た場合に最終的に内閣官房が総合調整を行って合意を形成する、というのが手続きの原則であったが、新しく企画権限を持つに至った内閣官房は自ら原案を作成し、各省庁に対して首相および内閣の基本方針を盾に異論を封じることを可能とした。これにより、内閣が与党・[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]内の派閥の意向に添わない閣僚・党人事を進め、大臣および各省に対して首相の意向を通すことが可能となった<ref name=":2">{{Cite web|和書|author= 田上嘉一 |title= 安倍一強を支えるメカニズム ーなぜ強い内閣は生まれたのかー |publisher= news.yahoo.co.jp |year= 2017.08.03 |accessdate=2022/10/02 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/51a4621609a88b5c9ab02b8ab2008d8ff3fecd21}}</ref><ref>[https://www.nippon.com/ja/features/c00408/ 政策決定における首相官邸の役割 | nippon.com]</ref>。
日本では1990年代に[[小選挙区制]]が導入されたことにより、他の先進民主主義国家と比しても、首相が政権内で絶大な権力を握ることが制度的にも可能となった。日本は首相の解散権行使に制約がなく、[[内閣人事局]]を通じて幹部人事権を掌握することで政治家が官僚に対して人事権を行使することが可能となっている数少ない国であり、この面でも内閣・首相の権力が強化されている。日本と同様に議院内閣制と小選挙区制を併用する英国では、政治家が官僚に対して人事権を行使することは強く制限され、首相の解散権行使も強く制限されている。オーストラリア、ニュージーランドなど議院内閣制を採る他の主要先進民主主義国家でも、政治家による官僚への人事権行使は制約されている。他方、米国では大統領が官公庁幹部を[[政治任用制|政治任用]]するが、大統領は議会と独立しており、官公庁幹部への人事権行使に関しても議会から強い規律を受ける<ref name=:1>[http://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=219 【論考】権力の集中が「忖度」を呼ぶ~官邸主導時代の政治ガバナンスのあり方 | 加藤 創太 | 研究活動 | 東京財団政策研究所]</ref><ref>{{Cite web|和書|author= 軽部 謙介 |title= 官僚人事、誰が決める:官邸主導で何が変わったか |publisher= nippon.com |year= 2018.09.03 |accessdate=2022/10/02 |url=https://www.nippon.com/ja/currents/d00433/}}</ref>。
こうした一連の制度改革が及ぼした影響を踏まえ、強力な首相の指導力を背景に日本の議院内閣制は[[ウェストミンスター・システム]]化したとしばしば評価される<ref name="あ" /><ref>笠「日本官僚制—日本型からウェストミンスター型へ」p. 223、p. 235、山口『内閣制度』p. 203</ref><ref>{{Cite book|和書|author=待鳥聡史 |title=首相政治の制度分析 : 現代日本政治の権力基盤形成 |publisher=千倉書房 |year=2012 |series=叢書21世紀の国際環境と日本 003 |NCID=BB09326416 |ISBN=9784805109939 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023630705-00 |page=139}}</ref>。
歴史的には、日本では戦前から[[超然主義]]の下で権力分立の原理を意図的に持ち込み政党政治勢力を行政権から排除する運用がなされてきた{{Sfn|大石眞|久保文明|佐々木毅|山口二郎|2002|p=96}}。
==== 政府と与党の関係 ====
英国では[[与党]]と内閣は一体的で一元化されているのに対し、日本では与党が内閣に並立的に存在し、政務は首相以下の閣僚など、党務は幹事長以下の党役員が担い、個々の法案成立には与党による事前審査手続が必要とされてきた{{Sfn|大石眞|久保文明|佐々木毅|山口二郎|2002|p=95}}{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=71}}。政府と与党の権力の二重構造とも表現され、このような構造は政治過程を不透明で解りにくいものにすると指摘されてきたが{{Sfn|大石眞|久保文明|佐々木毅|山口二郎|2002|p=36}}、1994年の選挙制度改革により、[[中選挙区制|中選挙区制度]]に代わり[[小選挙区比例代表並立制|小選挙区・比例代表並立制]]が導入され、同一の選挙区から複数の与党議員が当選することがなくなった結果、与党内における派閥の影響力は低下し、[[自由民主党 (日本)|与党・自民党]]はかつてのような派閥連合政党ではなくなり凝集性が高まったことで、[[総理総裁]]が有する公認権の重要度が増し、党内における内閣総理大臣の影響力が増した。また、1999年1月以降、全ての内閣が連立内閣であるが、連立相手の政党は比較的小規模のため、実質的には単独内閣に近く、行政権は内閣に集中している<ref name="あ" />。
事前審査制は1970年代に定着した日本独特の慣行で、官僚が法案を説明し、与党議員は必要であれば直接政府側に修正を要求しうるとするものであるが、政党全体としての自律的意思形成能力の向上を妨げる、政官関係の固定化、国会での論戦を著しく制約するといった弊害が指摘され{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=71}}{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|pp=381-382}}、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]は2009年に政権を獲得した際、事前審査制を採らなかった。このため、内閣と国会の議事運営権をめぐる関係が法案審議過程に及ぼす影響が一番顕在化したのは[[鳩山由紀夫内閣]]である。鳩山内閣はしばしば、重要法案を国会に提出後、与党議員の協力を確保できずに成立させることができなかった。こうした経験を踏まえ、[[野田内閣]]は事前審査制を復活させた<ref name="あ" />。
==== 参議院との関係 ====
日本においては、[[衆議院の優越]]の関係から衆議院の多数派の支持を得た者が最終的に首相に指名され、また、衆議院のみが[[内閣不信任決議|内閣不信任]]を決議でき(参議院は政治的意味を有するにとどまる[[問責決議]]のみ)、一方、内閣は衆議院のみ解散できる(参議院は解散できない)。このようなことから日本において実質的に議院内閣制の関係が成立しているのは内閣と衆議院の間だけで、内閣と参議院の間ではこのような関係が成立していないとの指摘がある{{Sfn|竹中治堅|2006|p=188}}。
問題とされるのは衆議院の多数派を形成して内閣を組織している[[政権党]]が参議院での多数を失っている場合に立法活動が滞るという点である([[ねじれ国会]]も参照){{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=405}}。
その原因としては日本では議院内閣制を採用するにしては上院(参議院)が強すぎるという問題があるとされる{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=405}}。憲法上、法律案については参議院の支持を得られなければ、衆議院は3分の2で再可決して成立させることができると衆議院の優越について定めてはいるが、この要件を満たすことは非常に難しく容易でない{{Sfn|竹中治堅|2006|p=189}}。
また、このような制度上の特質は内閣の存立が[[参議院議員通常選挙|参議院選挙]]の結果にも左右されることとなり、[[日本国憲法|現行憲法]]下では衆参の国政選挙がおよそ1年6か月ごとと頻繁に行われており安定政権の不存在の要因となっているとの指摘がある{{Sfn|大石眞|久保文明|佐々木毅|山口二郎|2002|p=33}}。議院内閣制をとるヨーロッパの国々では下院の任期は4年以上で、上下両院では選出方法が大きく異なり、上院での選挙結果が内閣の存立を左右することはないとされる{{Sfn|大石眞|久保文明|佐々木毅|山口二郎|2002|p=33}}。
かつて[[参議院]]は衆議院のカーボンコピーと揶揄されたが、1989年(平成元年)の[[第15回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]以降、与野党間の差は縮まり、連立内閣の組織や重要法案の成否などの点において参議院は影響力を高めている{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=395}}{{Sfn|竹中治堅|2006|p=191}}{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=66}}。参議院議員には首相の解散権が及ばないため直接的にけん制する手段はない{{Sfn|竹中治堅|2006|pp=199-202}}。そのため、衆参で「ねじれ」が生じて参議院が法案を支持しないとみられる場合に、首相が衆議院で法案を再可決できるだけの多数を得るため、あるいは参議院の翻意を促すために衆議院の解散が行われることもある(例として[[郵政解散]])。
議院内閣制の下では国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖を生じる{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=376}}。しかし、日本の参議院における民意の反映の仕方は内閣統治に必要な権力の融合を難しくしているとの指摘がある{{Sfn|山口二郎|2007|p=214}}。そこで参議院の内閣総理大臣の指名を削除するなど一院制的なものに編成を改め、衆議院総選挙を実質的な首相選出の選挙として直結させ、首相の地位(民主的正当性)を高めるなど政府・首相と国民との関係を明確なものにすべきとの意見もある{{Sfn|大石眞|久保文明|佐々木毅|山口二郎|2002|pp=38-40}}。
2000年(平成12年)4月にまとめられた[[参議院議長]]の[[私的諮問機関]]である参院の将来像を考える有識者懇談会の意見書では、衆参の役割分担を明確にすべきとし、衆議院での再可決要件を3分の2以上から過半数に改める、参議院の内閣総理大臣指名の権限を廃止する、[[参議院枠|参議院からの閣僚就任]]を自粛する等の内容が盛り込まれたが、このような改革論には参議院側からの強い反発がある{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=30,67}}。
== 主な議院内閣制の国家 ==
{{Col|
; 立憲君主制国家
* {{flag|イギリス}}
* {{flag|オーストラリア}}
* {{flag|オランダ}}
* {{flag|カナダ}}
* {{flag|カンボジア}}
* {{flag|スウェーデン}}
* {{flag|スペイン}}
* {{flag|タイ}}
* {{flag|デンマーク}}
* {{flag|日本}} <ref group="注">日本が立憲君主国であるか否かついては学説上の争いがある。本項では立憲君主制の国家に分類している。</ref>
* {{flag|ニュージーランド}}
* {{flag|ノルウェー}}
* {{flag|パプアニューギニア}}
* {{flag|ブータン}}
* {{flag|ベルギー}}
* {{flag|マレーシア}}
* {{flag|ルクセンブルク}}
など
|
; 共和制国家
* {{flag|アイスランド}}
* {{flag|アイルランド}}
* {{flag|イスラエル}}
* {{flag|イタリア}}
* {{flag|イラク}}
* {{flag|インド}}
* {{flag|エストニア}}
* {{flag|エチオピア}}
* {{flag|オーストリア}}
* {{flag|ギリシャ}}
* {{flag|クロアチア}}
* {{flag|シンガポール}}
* {{flag|スロバキア}}
* {{flag|チェコ}}
* {{flag|ドイツ}}
* {{flag|パキスタン}}
* {{flag|ハンガリー}}
* {{flag|バングラデシュ}}
* {{flag|フィンランド}}
* {{flag|ブルガリア}}
* {{flag|ポーランド}}
* {{flag|ラトビア}}
* {{flag|ルーマニア}}
など
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=芦部信喜 |author2=高橋和之 |title=憲法 |date=2011 |edition=第5版 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000227810 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=大石眞 |author2=久保文明 |author3=佐々木毅 |author4=山口二郎 |title=首相公選を考える : その可能性と問題点 |date=2002 |publisher=中央公論新社 |isbn=4121016742 |series=中公新書 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=中村勝範 |title=主要国政治システム概論 |date=2005 |edition=改訂版 |publisher=慶應義塾大学出版会 |isbn=476641165X |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=高橋和之 |title=立憲主義と日本国憲法 = Constitutionalism and the constitution of Japan |date=2005 |publisher=有斐閣 |isbn=4641129827 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐々木毅 |author2=清水真人 |title=ゼミナール現代日本政治 |date=2011 |publisher=日本経済新聞出版社 |isbn=9784532134075 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=橋本五郎 |author2=飯田政之 |author3=加藤秀治郎 |title=Q&A日本政治ハンドブック : 政治ニュースがよくわかる! |date=2006 |publisher=一藝社 |isbn=4901253794 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=毛利透 |author2=小泉良幸 |author3=淺野博宣 |author4=松本哲治 |title=統治 |date=2011 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641179134 |series=LEGAL QUEST, . 憲法 1 |edition=5版 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=野中俊彦 |author2=中村睦男 |author3=高橋和之 |author4=高見勝利 |title=憲法Ⅱ |date=2006 |edition=第4版 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641130005 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=竹中治堅 |title=首相支配 : 日本政治の変貌 |date=2006 |publisher=中央公論新社 |isbn=4121018451 |series=中公新書 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=小林直樹 |title=憲法講義 |date=1981 |edition=新版 |publisher=東京大学出版会 |volume=下巻 |isbn=4130320572 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=大石眞 |title=憲法講義 |date=2004 |publisher=有斐閣 |volume=1|isbn=4641129568 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=山口二郎 |title=内閣制度 |date=2007 |publisher=東京大学出版会 |isbn=9784130342360 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=飯尾潤 |title=日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ |date=2007 |publisher=中央公論新社(中公新書) |isbn=978-4121019059 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=西尾勝 |title=行政学 |date=2001 |edition=新版 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641049772 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=辻清明 |title=行政の過程 |date=1976 |publisher=東京大学出版会 |series=行政学講座 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[議会]]
* [[内閣]]
* [[大統領制]]
* [[半大統領制]]
* [[議会統治制]]
* [[首相公選制]]
* [[政党内閣]]
* [[民主主義|民主政治]]
* [[寡頭制|寡頭政治]]
* {{仮リンク|内閣連帯責任|en|Cabinet collective responsibility|fr|Solidarité ministérielle}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{権力分立}}
{{normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きいんないかくせい}}
[[Category:政治システム]]
[[Category:議会]]
[[Category:内閣]]
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11,025 |
新☆だぁ!だぁ!だぁ!
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『新☆だぁ!だぁ!だぁ!』(しんだぁだぁだぁ)は、川村美香の漫画作品。
講談社の月刊漫画雑誌『なかよし』に2002年5月号から2003年2月号まで連載された。単行本は全2巻。アニメ化もされた作品『だぁ!だぁ!だぁ!』原作のアフターストーリーにあたる。
ある日突然地球からオット星に飛ばされた少女・西遠寺未宇は超能力少年・ルゥに助けられる。赤ちゃんの頃、同じように地球に飛ばされたことがあるルゥは、未宇と共に地球を目指す旅に出る。2人は宇宙船に同乗した友人・ランとお世話係のアンの協力を受けながら困難な旅を終え、遂に地球へたどり着く。
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『新☆だぁ!だぁ!だぁ!』(しんだぁだぁだぁ)は、川村美香の漫画作品。
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|ジャンル=[[少女漫画]]<br />[[ファンタジー|スペースファンタジー]]<ref>[https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000039630 新☆だぁ!だぁ!だぁ!(2)講談社コミックスなかよし] - [[講談社]]コミックプラス作品紹介ページ。</ref>
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* [[だぁ!だぁ!だぁ!]]
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|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]
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『'''新☆だぁ!だぁ!だぁ!'''』(しんだぁだぁだぁ)は、[[川村美香]]の[[漫画]]作品。
== 概要 ==
[[講談社]]の月刊漫画雑誌『[[なかよし]]』に[[2002年]][[5月]]号から[[2003年]][[2月]]号まで連載された。単行本は全2巻。アニメ化もされた作品『[[だぁ!だぁ!だぁ!]]』原作の[[アフターストーリー]]にあたる。
== あらすじ ==
ある日突然地球からオット星に飛ばされた少女・西遠寺未宇は超能力少年・ルゥに助けられる。赤ちゃんの頃、同じように地球に飛ばされたことがあるルゥは、未宇と共に地球を目指す旅に出る。2人は宇宙船に同乗した友人・ランとお世話係のアンの協力を受けながら困難な旅を終え、遂に地球へたどり着く。
== 登場人物 ==
{{See also|だぁ!だぁ!だぁ!#登場人物}}
=== 西遠寺家 ===
; 西遠寺未宇(さいおんじ みう)
: 本作の主人公。小学6年生。8月4日生まれの獅子座。年齢は12歳。身長154cm、体重46kg。血液型はA型。地球から120億[[光年]]離れた「オット星」に飛ばされてしまった少女。小学6年生。表裏のない明るい性格。ドジでおっちょこちょい、泣き虫ではあるが気持ちの切り替えは早い。本人曰く「こー見えても」男のコの友だちは多い。算数は苦手らしい。夢はアイドル歌手になること。家は西遠寺という寺。一人娘で兄弟はいないが、父母とは友達のように仲が良い(父母は前作『だぁ!だぁ!だぁ!』の主人公・未夢と彷徨)。ケーキやプリンを始め甘いものが好きで、お菓子袋を持ち歩いている。ルゥを助けるために操作のわからない宇宙船を操縦しようとするなど、ここ一番の度胸も見せることがある。
: アニメの最終回では赤ちゃんの姿で登場しており、西遠寺に現れたルゥ(青年)との年齢差はかなり開いている。
; 西遠寺 未夢(さいおんじ みゆ)
: 未宇の母。前作『だぁ!だぁ!だぁ!』の主人公で、ルゥの「地球のママ」。旧姓:光月。未宇のドジでおっちょこちょいながら表裏のない明るい性格は、母である未夢ゆずりと言える。彷徨にとっては犬猿の仲で彷徨とは喧嘩になってしまうが、未宇に対しては常に笑顔で良き母である。中学時代に居候をしたきっかけで彷徨と結婚した。
; 西遠寺 彷徨(さいおんじ かなた)
: 未宇の父。前作『だぁ!だぁ!だぁ!』の登場人物で、ルゥの「地球のパパ」。住職として家業を継いでいるようだが剃髪はしていない。妻・未夢との夫婦喧嘩を楽しんでいる節がある。娘のことになると激昂する、ルゥとの再会に満面の笑みを見せるなど、少年期に比べると感情豊かになっている。
; 西遠寺 宝晶(さいおんじ ほうしょう)
: 未宇の祖父で彷徨の父。出逢った頃と同様に今もなおケンカの絶えない未夢と彷徨を見守っている。
=== オット星人 ===
; ルゥ
: オット星人。前作『だぁ!だぁ!だぁ!』では時空のひずみに飲み込まれ、シッターペットのワンニャーと共に[[地球]]の家族に居候していた。故にいつか地球へ行きたいという願望を持っており、[[時空]]のひずみや[[ワープ]]航法について勉強をしていた。未宇と出会ったことをきっかけに、勉強のレポートがてら地球を目指す旅に出る。オット星人の赤ちゃんは超能力を持っているが、普通成長するうちに使えなくなる。しかしルゥは十分成長しているのにまだ超能力が使える(純粋だから、と説明されている)。にこやかで人当たりは非常に良いが、意外と自分の考えや気持ちを表に出さないという面もある。
: アニメの最終回で成長した姿で西遠寺に現れているが、この時未宇は乳児である。(しかし地球の年数で考えれば実際漫画の年齢差もかなり大きい)
; ラン
: オット星人。ルゥの友人でクラスメート。あっけらかんとした性格で、面白そうだからという理由で未宇とルゥの旅にこっそりついてきた。外見はルゥと変わらず中肉中背だが大食漢で、食べ物がきっかけでトラブルに巻き込まれることが多い。とはいえ、長旅の中でルゥの気持ちを側面からサポートする良い友人ぶりも見せている。
: 容姿や性格といった人物像には、前作に登場した彷徨の親友である黒須三太を彷彿とさせる描写がみられている。
; アン-F90
: お世話係の人間型[[人造人間|アンドロイド]]。充電式電池駆動ではあるが人間にまったく遜色のない知能・感情を備えており、屈託のない性格。料理の腕は一品。スタイル抜群ながら怪力で、空手に似た武術もプログラムされているようである。
; ミニニャー
: ワンニャーの子供で8つ子の7番目の男の子。身長14cm、体重800g。まだ生まれたばかりでしゃべることも変身することもできないが、街中で迷子になっていたときに助けてくれた未宇になついてしまい、地球への旅にこっそりついてきた。おしゃぶりをいつも離さない。
; ワンニャー
: オット星のシッターペット(ベビーシッターをつとめるペット)。当時世話をしていたルゥが赤ちゃんの頃、一緒に地球に飛ばされたことがある。新婚ホヤホヤながら8つ子の父で、ルゥの旅への同行しようとするが妻子のため断念。代わりにUFOコンテスト用の宇宙船を提供し、またアンF-90を手配する。地球のお茶を愛飲している。
== 出版物 ==
=== 掲載誌 ===
; [[講談社]]刊行 『[[なかよし]]』 連載
* [[2002年]]5月号 - [[2003年]]2月号にて月刊連載。
=== 単行本 ===
; [[川村美香]] 『新☆だぁ!だぁ!だぁ!』([[講談社コミックスなかよし]])全2巻
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|-
! colspan="2"| 初版発行日/(発売日)
! 本誌連載期間
! 書籍番号
|-
! 1
| 2002年11月6日/(11月2日)
| 2002年5月号 - 9月号
| ISBN 4-06-364003-5
|-
! 2
| 2003年5月6日/(5月1日)
| 2002年10月号 - 2003年2月号
| ISBN 4-06-364018-3
|-
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[だぁ!だぁ!だぁ!]]
{{だぁ!だぁ!だぁ!}}
{{Manga-stub}}
{{DEFAULTSORT:しんたあたあたあ}}
[[Category:漫画作品 し|んたあたあたあ]]
[[Category:なかよし本誌の漫画作品]]
[[category:だぁ!だぁ!だぁ!]]
|
2003-07-07T22:44:56Z
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2023-10-29T12:40:20Z
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竹宮惠子
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竹宮 惠子(たけみや けいこ、1950年〈昭和25年〉2月13日 - )は、日本の漫画家。京都精華大学名誉教授・元学長。旧表記は竹宮恵子。
代表作は『風と木の詩』『地球へ...』など。昭和24年(1949年)前後に生まれて、漫画のみならず文化・社会に大きな影響を与えた女性漫画家たち「24年組」の一人である。徳島県徳島市生まれ、徳島県板野郡北島町育ち。福岡県朝倉市在住。2023年4月時点で、日本漫画家協会理事。
2人姉妹の長女として徳島市に生まれる。父の竹宮義一は陸軍軍人で、スパイやゲリラ戦の要員を育てる陸軍中野学校二俣分校一期生であった。
5歳頃から日常的に漫画を広告チラシの裏などに絵を真似て描くようになり、初期はわたなべまさこを手本にしていた。貸本屋で、クリスマスや記念日に親が漫画単行本や漫画雑誌を借りてくれ、日常は散髪屋で集中して読み、石ノ森章太郎から小島剛夕といった劇画まで選り好みせず読む子供時代を送った。小学1年生の時に描いた絵日記にはグランドピアノが既に立体的に描かれていた。小学3年生の時に北島町へ移り住む。『冒険ダン吉』と『てるてる姫』の漫画単行本を持っていた。
雑誌付録の着せ替え人形に興味を持ったが、貸本を切り抜くことはできないため、自分で絵を描いて手作りしていた。小学校高学年の頃、絵にセリフを付けるようになった。遊び相手のいとこに「次はどうなるの?」と問われて描き足していった体験が、ストーリー性のある漫画づくりを理解するきっかけとなった。
中学時代からコマを割って物語として本格的に描き始め、30ページくらいのストーリー漫画を描く。当初はペン入れせず鉛筆描きで、『ユース6(シックス)』という作品が竹宮の手元に現存している。当時ブームだったウィーン少年合唱団や少女マンガで人気のバレエものにあやかり、バレリーナの姉とウィーン少年合唱団員の弟を主人公にした漫画を描き、同級生に披露したこともあったという。両親には漫画を描いていることを隠して優等生を演じていたが、妹が両親に知らせていたという。
中学時代に長編漫画を描いたことは何度も竹宮本人が各所で述べているが、『少女マンガ家になれる本』では「中学校の三年間で全81話2400枚」、『河合隼雄対談集』では「中学から高校にかけて、30枚くらいを80数話」など、述べる時期により内容が微妙に変化している。また、その長編漫画は「全部燃やしてしまいました」と『少女マンガ家になれる本』で述べている。
1964年頃、講談社4誌合同による第1回少年少女漫画賞が開催された。入賞したのは高校2年生だった里中満智子で、掲載された『ピアの肖像』を読んで竹宮は力の差を感じたが、漫画家への憧れは募り、週刊誌連載を目標にする。
竹宮も同じ賞に応募したが落選したという。本人によれば、「中学3年のときに投稿してるんですよ。実は里中満智子さんがデビューされたときとまったく同じ回の講談社の新人賞に」、「中学2年生の時に、講談社の第1回新人漫画賞に応募してみました」のように中学生のときに第1回に応募したという発言があり、また「高校に入ってからプロになることを意識して、それでペンを使いはじめました。ちょうど里中満智子さんが高校生漫画家というので紹介されたのを見て、私も同じ賞に応募してみたんです。ところが箸にも棒にもかからなかった(笑)。初めてペンで描いた漫画を応募したんだから当たり前ですけど。」のように、高校生になってから応募したという発言もある。
1965年、徳島県立城東高等学校に入学する。同年に出版された石ノ森章太郎の『マンガ家入門』と収録された『龍神沼』を読み大きなショックを受け、石ノ森作品を端から読むようになる。自作が石ノ森作品のコピーのようになっていた時期もあったという。当時は一人で漫画を描いていたが、『続マンガ家入門』でマンガ研究会の仲間集めについて書かれていたことに触発され、石ノ森に「漫画を共に描く仲間が欲しい」と手紙を送った。石ノ森から紹介された、漫画を描いているグループの人達から手紙が届くようになり、「石森ファン筆頭」の同人誌『宝島』グループに参加し、盛んに投稿する。週刊連載を目標にしていたため、『宝島』が竹宮特集号の観を呈したこともあったという。
高校ではフランス語の外語クラブに入り、文化祭の展示用に少女の絵を描くようなことはあったという。
高校2年の修学旅行で上京した際には同人誌の仲間に頼んで石ノ森の仕事場を訪問したという。
初めて買った雑誌が『COM』(虫プロ商事)だった。高校時代、自分の力を知りたくて『COM』の読者投稿広場「ぐら・こん」に頻繁に投稿する。1967年、「ここのつの友情」が月例新人賞に佳作入選する。
石森章太郎によれば、「永井豪サンが、男の一番弟子なら、ワタシは女の、優等生の一番弟子だワ」と自称していたという。こうした活動が漫画出版関係者にも伝わり、竹宮によれば漫画家の西谷祥子から直筆の手紙で集英社新人漫画賞への応募を勧められたという。
1968年1月、『りんごの罪』が『週刊マーガレット』の新人賞に佳作入選して掲載され、漫画家デビューする。高校2年のときに漫画家になると決意するが、両親は働かないなら大学に行くように告げ、漫画家の仕事が不安定なことにも不安を示した。
1968年4月、親からの説得と、ぎりぎりまで迷ったが漫画だけの人間になりたくないと、徳島大学教育学部(現・総合科学部)美術科に入学した。漫画家デビューをめざしていたため受験勉強はほとんどしていなかったが、漫画制作で培われた計画性を生かして、得意な文章記述が多い倫理社会で得点し、苦手な数学や物理学を懸命に勉強して合格した。大学では学業と平行して『COM』等への投稿を続ける。
1969年、東京に行った際に、手塚治虫のアシスタントをしていた友人の投稿作品を臨時で手伝うが、そのとき偶然に初めて会った手塚に誘われ、映画『王女メディア』を友人と共に見る。『COM』の縁もあり、手塚治虫から『週刊少女コミック』の編集者、山本順也を紹介される。学生運動に参加して考えるため1年間漫画を描くのを休み、その間の対話と模索で運動ではなく漫画で革命を起こそうと決意する。漫画再開後に、徳島まで出向いてきた山本に「何か新しいことがしたい」と言い、『週刊少女コミック』で描くように勧められる。徳島県にいて小学館以外に講談社、集英社の各社の依頼を全て受けてしまい、オーバーワークでパンクする。状態を知った山本編集長に整理のため上京するよう言われ従い、神保町の旅館で3社と合同しての話し合いで小学館の仕事を選択した。看板漫画家として、講談社には里中満智子、集英社には西谷祥子がいたため、新興の小学館であればどうにかなるだろうと考え小学館を選んだ。人生初の「缶詰」状態で、どうにか描き終えた。これがきっかけで、徳島市では漫画家の活動は無理だと感じ、東京行きを決意する。料理もできない娘の一人暮らしに母は当初反対したが、父は最後は理解を示し、東京へ向かう列車内で握手をして見送った。
1970年、『週刊少女コミック』に『森の子トール』の連載を始め、5月に大学を中退して東京に転居する。小学館が斡旋した、都内練馬区の大家自宅の離れの上下に各1室の快適な部屋に住み、作業する。条件依頼して石ノ森がネーム作業する定席がある喫茶店「ラタン」から10分の近辺だった。2カ月間で孤独で、買い物かごを持ち偶然のふりをして喫茶「ラタン」に行き、石ノ森の顔を見て少し話して、孤独を紛らわせていた。新人なので、半年間くらいは仕事を入れておきたくて、テレビ番組や企業宣伝用のタイアップ企画を多く受け、ほかにも挿絵イラストの仕事も多く引き受け職人的な自信を持った。
後に共同生活を始める漫画家萩尾望都との最初の出会いは同1970年春。講談社別館で缶詰になって描いていた『アストロツイン』の完成直前、寄っていた萩尾を編集者から紹介され、臨時のアシスタントとして同作の仕上げを手伝ってもらった。萩尾は、原稿を見せに上京していた折だった。同じ漫画家である萩尾とはたちまち意気投合。萩尾は、同世代の文通相手で音楽を学んでいた増山法恵の家に泊まっており、紹介されて竹宮も増山と親しくなった。やがて増山は、自宅向かいの長屋に空きが出たと、竹宮と萩尾の共同生活を提案してきた。その導きで練馬区南大泉の増山宅の斜め向かいの共同アパートで同居を始める。増山ら友人達から様々な文化的知識を吸収した。増山家で食事をいただき風呂まで入ることも多かった。萩尾は規則正しい生活を続けたが、竹宮は進めば朝まで続ける変則生活となる。そこに増山がサロン化を計画して、2人にファンレターを送ってきた者の中から選んで同年代の女性の少女漫画家たちに声をかけた。出入りしていた顔ぶれは、漫画家では山田ミネコ、ささやななえこのほか、ファンでは後にデビューした坂田靖子(当時は高校生)らがいた。拠点となった時の大泉のアパートは「大泉サロン」と呼ばれるようになり、集まったメンバーは後に「24年組」と呼ばれた。竹宮は「トキワ荘の女性版」だったと回想している。
1972年、竹宮は萩尾、増山、そして山岸凉子の4人で45日間のヨーロッパ旅行に出掛ける。ソビエト連邦のハバロフスク経由モスクワ回りでパリ周回で行き、竹宮始め、24年組がヨーロッパを舞台にした漫画を描く原動力になった。石畳の構造、建物の門や窓の厚み、樹の葉の大きさが違い、枯葉もきれいなもので、バラの花びらの厚みまで違い、写真を撮って目に焼き付けた。各地の本屋で大量の買える限りの資料の画集や写真集を購入し、船便で日本に送った。訪問先はソ連、フランスのほかデンマーク、ベルギーなどで、この時の見聞は後に『風と木の詩』などに生かされた。
大泉では楽しかったが、同居する萩尾望都の才能と比べて焦る気持ちから大泉サロンは解散となった。竹宮は、主に漫画を読んで育った自分は映画鑑賞や読書の量が足りず、映像的な表現ができる萩尾との差に悶々としていたことを回想している。また、自伝『少年の名はジルベール』では「自分が最も描きたいのは少年愛であり、そのためだけに作ってしまっている。萩尾望都との違いは、それを腐女子以外の読者にも共感できるドラマや世界観の中に、必然性があるものとして吸収できているかどうか。その差が担当編集者の評価となって表れている」と、その当時を自己分析している。
車酔い、体重減少といったスランプの症状は1972年頃から出ており、絵柄にも影響を与えていた。欧州旅行も、状況を打破したいとの思いがあった。
長屋の契約更新時期を機に「大泉サロン」解散を決意。同居の萩尾と、触れる情報や交友関係などの経験が重なり、ファンが『ポーの一族』を竹宮作品と勘違いするなど作風が似てしまったことなどから別居した方がよいと考えた。それだけ竹宮の悩みは深いものだった。
その後、都内杉並区下井草の2DKの6畳2室の広いマンションで増山と同居する。この頃の増山は、竹宮のスケジュール管理や食事の世話、担当との打ち合わせに同席するなど、マネージャー的立場で竹宮をサポートしていたが、一方で竹宮のブレーン的立場でもあった。竹宮は自身の作品に『監修』などの肩書付きクレジットで掲載したいと増山に提案したが、「ストーリーも絵もできるのが一人前の漫画家」と考えていた増山は頑として拒んだという。
竹宮は著作の中で「漫画家が他者のアイデアを借りた場合、原案・原作・構成・監修など仕事内容に応じたクレジット名を作品に入れることがあり、提供された情報量によって扱いが異なるのが普通だ。口頭でのアイデア出しから完全な漫画原作まで関わり方も様々だが、増山の作品への関わり方も、その都度違っていて、多くが構成上のアイデア出しであり、口述形式で行われた。その中でも増山が長い間、作りためた『変奏曲』だけは彼女の完全な漫画原作だった」と述べている。
ちなみに『風と木の詩』は、竹宮が『ダフニスとクロエ』のポスターからインスピレーションを得て制作した作品である。自伝『少年の名はジルベール』によると、竹宮は相づちを打ちながら関心を持って聴いてくれる増山と電話で話すうちに、次々と場面や設定ができあがっていくドライブ感を体験したという。
萩尾は大泉サロン解散後も、竹宮と増山の住むマンションの近隣に住んでいて頻繁に出入りしていたが、ある日、ふたりから呼び出され、「あなたが描いた『小鳥の巣』は発表前の『風と木の詩』の設定と似ている。盗作したのではないか」と疑惑を投げかけられる。後日、竹宮は「あのことは忘れて欲しい」と萩尾に和解を持ちかけたが、同時に「マンションに来られては困る。そこに置いてある資料も読んで欲しくない。節度を持って距離を置きたい」という内容の手紙を置いて行く。
漫画ジャーナリストの加山竜司は「竹宮はいずれ世に出す『風と木の詩』のために集めた資料やアイデアを、同居している萩尾に先に消費されたくなかったのだろう。後出しになったら読者からは、竹宮の方が二番煎じのように思われてしまう。モチーフ(映画『寄宿舎~悲しみの天使~』)が同じだからといって盗作とは言えない。しかし、悲願の『風と木の詩』にかぎっては、そのようなケチを付けられることなく万全な状態で世に出したい。竹宮は、そう考えたのではないだろうか。あの手紙の中の『距離を置きたい』というのは『絶縁宣言』ではなく『アイデアのソース共有を避けたい/分けたい』という意味だったのだろう。そういう意図を若い竹宮が『盗作』という誤解を招く表現で、萩尾に伝えてしまったのは不幸としか言い様がない」と『週刊文春エンタ!』で分析している。
萩尾は後にこの一件で「心因性の視覚障害を煩った」と『一度きりの大泉の話』に記しているが、診断書などの物的証拠はない。また、萩尾は「目を痛めたので竹宮先生の作品を全く読んでいない」とも記しているが、こちらも「再び盗作疑惑をかけられないようにするための予防線ではないか」と加山は述べている。
その後、竹宮は思うように作品が描けない重症のスランプに3年間ほど陥る。そのために自律神経失調症を患ったと述べている。当時の体重は42kg。しかし、この状態を克服するためにいったん休むと発表の機会がなくなると考え、休養ではなく、週刊誌連載が一時空くと、月刊誌2ヶ月3作読み切りのペースで描き、継続して漫画を描くという手段を選んで執筆を続け、精神を持ちこたえる。
稲垣足穂などを研究して「耽美的なものが受ける」とも思っていた。当時の少女漫画は男女間の恋愛だけ描くよう求められており、『風と木の詩』のアイデアを50ページ描いたクロッキー帳を編集者たちに見せても否定的な反応だった。『週刊少女コミック』の新担当者から好きなテーマの作品を書くには、読者アンケートでトップを取ることだとアドバイスされ、1974年には『ファラオの墓』を描いてヒットさせ、アンケートで最高時は2位になる。スランプはいつの間にか消えていたという。この作品で、戦闘シーンなど知識が不足する部分は、編集者を通じて社費で脚本家などにアドバイスやアイデアをもらう「ブレーン手法」を知り活用する。単行本第1巻発売の時に、初のサイン会をデパート屋上で開催し、自分がやることになるとは思っていず戸惑う。増山から普通の服はダメだとパーティドレスを推奨され抵抗するが、妥協してメアリー・ポピンズ風ドレスと帽子姿となった。3,000人が集まり、以後のサイン会もレースとフリルのドレスが通例となってしまう。
『ファラオの墓』のヒットで『週刊少女コミック』の企画会議に通り、7年間にわたる念願の構想を実現して、1976年に『風と木の詩』の連載を開始。漫画家を辞めることも覚悟して挑んだ『風と木の詩』はファンから好評で、寺山修司や鶴見俊輔といった文化人や鶴見から紹介された心理学者の河合隼雄らが高く評価したこともあり、ジャンルとして定着する転機となった。これを、今までの少女漫画のレベルを超えた小さな革命と自負し、少年の同性愛を耽美的に描き、漫画界に衝撃を与えた。しかし当初は「BL(ボーイズラブ)の元祖」と称されるのを嫌っていたが、BL作家が増えBLが大きなジャンルとして成功するに従い「BLの元祖」としての位置を受け入れるようになった。
1977年、『月刊マンガ少年』にて『地球へ...』の連載を開始。SFや少年漫画を描きたいという思いは以前からあった。同年に萩尾望都も、少年誌に同様に連載していたが、少女漫画家が少年漫画誌で連載を持つことは当時としては画期的であった。翌1978年、『地球へ...』は第9回星雲賞コミック部門を受賞した。
1979年、初の自宅を建てる。1988年には神奈川県鎌倉市に転居する。
1980年、『風と木の詩』『地球へ...』で、第25回小学館漫画賞を受賞。同年、『地球へ...』が東映によってアニメ映画化された。この映画のキャンペーンの時から、マネジメントの必要性から妹がマネージャーとなる。
『扉はひらく いつまでも』に収録の「竹宮惠子略年譜」によれば1980年に戸籍名の「惠子」へ改名したとある。なお、1980年代に「竹宮恵子」から「竹宮惠子」へ改名したが、その時期については特定されていない。
1982年、両性体の架空の国の王子を主人公とする初のファンタジー漫画『イズァローン伝説』の連載を開始するが、途中で読者の価値観がリアル重視になりつつある、絵柄やこれまでの作品も含めて距離があると感じ始めた。1987年に編集者の示唆もあり終了する。19世紀末欧州が舞台の『風と木の詩』も、編集者から「どこで終わりますか」と尋ねられて、世間との差から「終わるべきなんだな」と感じた(1984年連載終了)。現実にどう生きてゆくかが大事な時代だと、『>5:00(アフターファイブ)REVOLUTION』をチェッカーズのデビューまでをヒントに青春物を描く。ただし、年来のファンには受けなかった。
1980年代半ば、増山法恵は20歳から15年間務めていた竹宮惠子プロダクションのプロデューサー兼ディレクターを辞めて独立した。
1990年代には古典や歴史の書下ろし作品に取り組み、1994年から1996年にかけて漫画版『吾妻鏡』を描き、史料を調べて製作する手法を知る。1993年モンゴルへの乗馬ツアーで乗馬が趣味になっていた。「乗馬できて馬が描ける」漫画家の条件に合い、1997年、エルメスのフランス本社のジャン・ルイ・デュマ社長から依頼され、鞍職人の鞍作りから始まりブランド品とともに今も作り続けているエルメスの社史を漫画にした『エルメスの道』を発表。報酬目当てでなく、真摯な取材で描き上げたが、「読みたいのは物語で社史ではない」と作品とは認めないファンもいた。
本作が2000年4月開設予定の京都精華大学マンガ学科長就任予定だった牧野圭一に評価されたことがきっかけとなり、2000年に京都精華大学マンガ学科の教授に就任し、漫画家として日本初の大学の専任教員となった。牧野は、『エルメスの道』が敢えて個性を殺して描いていることに着目し、教員もできるだろうと打診してきた。『天馬の血族』連載を2000年初めに終わらせようと思っていたこと、細かい漫画の右上から始まり左下へ流れる読み方などのルールやペンの使い方も知らない若者や、言葉の表現すら注意しない漫画に誇りを持てない編集者などの新世代たちに、教えたいという思いがあった。教員同時就任に山本順也がいて、「腐れ縁ですね」と思わず言う。同年に夏休み中に連載をいったん引き受けたが、教えることと内面でぶつかり、描けずに撤回する。それ以来大学教員時代は漫画を描けていないが、代わりに京都と東京で毎年個展を開催してファンと交流している。
2001年から「原画'(ダッシュ)」プロジェクトが開始された。個展での準備でパソコンから印刷して原画に似たものができたことをきっかけに、発案する。原画は漫画家の下書きの線や編集者の印刷所への指示メモなど時代の歴史が残る。しかし、過去には紙の質も印刷も悪く劣化していき原型が残らない恐れがある。この、原画を保存するための保護と、広く見てもらうことを目的にした、精巧な複製原画である「原画 ́(ダッシュ)」の制作研究を漫画家の了解を得て精華大学と共同して行う。
2006年、京都精華大学マンガ学科はマンガ学部に昇格した。
2007年、『地球へ...』が発表から30年の時を経て、より原作に近い絵柄でテレビアニメ化された。
2008年、京都精華大学マンガ学部の学部長に就任。鎌倉市の自宅から新幹線で大学に通い、週の半分は京都にいる多忙な生活を送っていた。講義では、学生の作画のコマ割り、吹き出し入りのレイアウトを見て、アドバイスする実技や、「脚本概論」では経験から、脚本術を形式化だと無視して後で苦しむことになるので、脚本の蓄積されてきた手法を学ぶ大切さを教え、目に見えない感情や思いを表し伝える「芸術印象点」を高めるよう強調し、特色を出していた。石ノ森章太郎の『マンガ日本経済入門』に学び、実用的な機能漫画も教えた。
2010年、東京都青少年健全育成条例の漫画表現規制改正案に憂慮し、ちばてつや、永井豪、里中満智子らと反対を表明し、「非実在青少年」の文言を撤回させる(改正自体は12月に成立)。
2013年11月、京都精華大学の次期学長に選出された。2014年4月就任し学長時代の2017年にはデジタル化に対応する「新世代マンガコース」を新設した。4年間の任期後に2018年3月末で1期務めて退任した。
鎌倉市に転居後、両親と同居していたが、その没後に妹夫婦と同居する。2011年東日本大震災に遭い、東京一極集中に疑問を覚えて、鎌倉市在住25年目に、2013年妹夫婦と一緒に福岡県へ移住し、続けて同居生活を送る。
2013年 - 2019年は政府知的財産戦略本部の有識者本部員、2015年 - 2017年は文部科学省中央教育審議会委員を務めた。
2014年11月、秋の紫綬褒章を受章。
2016年、BBCニュースのインタビューを受け「国連が批判する日本の漫画の性表現に「風と木の詩」が扉を開けた」(英語版タイトルは"The godmother of manga sex in Japan")という記事が掲載される。
2018年4月、京都精華大学の大学院マンガ研究科長・全学研究機構国際マンガ研究センター長に就任。
2019年3月、画業50周年を記念した巡回展「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」を開催。
2020年3月31日、京都精華大学を定年退職。4月、京都精華大学名誉教授称号を授与される。
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"text": "1969年、東京に行った際に、手塚治虫のアシスタントをしていた友人の投稿作品を臨時で手伝うが、そのとき偶然に初めて会った手塚に誘われ、映画『王女メディア』を友人と共に見る。『COM』の縁もあり、手塚治虫から『週刊少女コミック』の編集者、山本順也を紹介される。学生運動に参加して考えるため1年間漫画を描くのを休み、その間の対話と模索で運動ではなく漫画で革命を起こそうと決意する。漫画再開後に、徳島まで出向いてきた山本に「何か新しいことがしたい」と言い、『週刊少女コミック』で描くように勧められる。徳島県にいて小学館以外に講談社、集英社の各社の依頼を全て受けてしまい、オーバーワークでパンクする。状態を知った山本編集長に整理のため上京するよう言われ従い、神保町の旅館で3社と合同しての話し合いで小学館の仕事を選択した。看板漫画家として、講談社には里中満智子、集英社には西谷祥子がいたため、新興の小学館であればどうにかなるだろうと考え小学館を選んだ。人生初の「缶詰」状態で、どうにか描き終えた。これがきっかけで、徳島市では漫画家の活動は無理だと感じ、東京行きを決意する。料理もできない娘の一人暮らしに母は当初反対したが、父は最後は理解を示し、東京へ向かう列車内で握手をして見送った。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "1970年、『週刊少女コミック』に『森の子トール』の連載を始め、5月に大学を中退して東京に転居する。小学館が斡旋した、都内練馬区の大家自宅の離れの上下に各1室の快適な部屋に住み、作業する。条件依頼して石ノ森がネーム作業する定席がある喫茶店「ラタン」から10分の近辺だった。2カ月間で孤独で、買い物かごを持ち偶然のふりをして喫茶「ラタン」に行き、石ノ森の顔を見て少し話して、孤独を紛らわせていた。新人なので、半年間くらいは仕事を入れておきたくて、テレビ番組や企業宣伝用のタイアップ企画を多く受け、ほかにも挿絵イラストの仕事も多く引き受け職人的な自信を持った。",
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"text": "後に共同生活を始める漫画家萩尾望都との最初の出会いは同1970年春。講談社別館で缶詰になって描いていた『アストロツイン』の完成直前、寄っていた萩尾を編集者から紹介され、臨時のアシスタントとして同作の仕上げを手伝ってもらった。萩尾は、原稿を見せに上京していた折だった。同じ漫画家である萩尾とはたちまち意気投合。萩尾は、同世代の文通相手で音楽を学んでいた増山法恵の家に泊まっており、紹介されて竹宮も増山と親しくなった。やがて増山は、自宅向かいの長屋に空きが出たと、竹宮と萩尾の共同生活を提案してきた。その導きで練馬区南大泉の増山宅の斜め向かいの共同アパートで同居を始める。増山ら友人達から様々な文化的知識を吸収した。増山家で食事をいただき風呂まで入ることも多かった。萩尾は規則正しい生活を続けたが、竹宮は進めば朝まで続ける変則生活となる。そこに増山がサロン化を計画して、2人にファンレターを送ってきた者の中から選んで同年代の女性の少女漫画家たちに声をかけた。出入りしていた顔ぶれは、漫画家では山田ミネコ、ささやななえこのほか、ファンでは後にデビューした坂田靖子(当時は高校生)らがいた。拠点となった時の大泉のアパートは「大泉サロン」と呼ばれるようになり、集まったメンバーは後に「24年組」と呼ばれた。竹宮は「トキワ荘の女性版」だったと回想している。",
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"text": "1972年、竹宮は萩尾、増山、そして山岸凉子の4人で45日間のヨーロッパ旅行に出掛ける。ソビエト連邦のハバロフスク経由モスクワ回りでパリ周回で行き、竹宮始め、24年組がヨーロッパを舞台にした漫画を描く原動力になった。石畳の構造、建物の門や窓の厚み、樹の葉の大きさが違い、枯葉もきれいなもので、バラの花びらの厚みまで違い、写真を撮って目に焼き付けた。各地の本屋で大量の買える限りの資料の画集や写真集を購入し、船便で日本に送った。訪問先はソ連、フランスのほかデンマーク、ベルギーなどで、この時の見聞は後に『風と木の詩』などに生かされた。",
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"text": "大泉では楽しかったが、同居する萩尾望都の才能と比べて焦る気持ちから大泉サロンは解散となった。竹宮は、主に漫画を読んで育った自分は映画鑑賞や読書の量が足りず、映像的な表現ができる萩尾との差に悶々としていたことを回想している。また、自伝『少年の名はジルベール』では「自分が最も描きたいのは少年愛であり、そのためだけに作ってしまっている。萩尾望都との違いは、それを腐女子以外の読者にも共感できるドラマや世界観の中に、必然性があるものとして吸収できているかどうか。その差が担当編集者の評価となって表れている」と、その当時を自己分析している。",
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"text": "車酔い、体重減少といったスランプの症状は1972年頃から出ており、絵柄にも影響を与えていた。欧州旅行も、状況を打破したいとの思いがあった。",
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"text": "長屋の契約更新時期を機に「大泉サロン」解散を決意。同居の萩尾と、触れる情報や交友関係などの経験が重なり、ファンが『ポーの一族』を竹宮作品と勘違いするなど作風が似てしまったことなどから別居した方がよいと考えた。それだけ竹宮の悩みは深いものだった。",
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"text": "その後、都内杉並区下井草の2DKの6畳2室の広いマンションで増山と同居する。この頃の増山は、竹宮のスケジュール管理や食事の世話、担当との打ち合わせに同席するなど、マネージャー的立場で竹宮をサポートしていたが、一方で竹宮のブレーン的立場でもあった。竹宮は自身の作品に『監修』などの肩書付きクレジットで掲載したいと増山に提案したが、「ストーリーも絵もできるのが一人前の漫画家」と考えていた増山は頑として拒んだという。",
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"text": "竹宮は著作の中で「漫画家が他者のアイデアを借りた場合、原案・原作・構成・監修など仕事内容に応じたクレジット名を作品に入れることがあり、提供された情報量によって扱いが異なるのが普通だ。口頭でのアイデア出しから完全な漫画原作まで関わり方も様々だが、増山の作品への関わり方も、その都度違っていて、多くが構成上のアイデア出しであり、口述形式で行われた。その中でも増山が長い間、作りためた『変奏曲』だけは彼女の完全な漫画原作だった」と述べている。",
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"text": "ちなみに『風と木の詩』は、竹宮が『ダフニスとクロエ』のポスターからインスピレーションを得て制作した作品である。自伝『少年の名はジルベール』によると、竹宮は相づちを打ちながら関心を持って聴いてくれる増山と電話で話すうちに、次々と場面や設定ができあがっていくドライブ感を体験したという。",
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"text": "萩尾は大泉サロン解散後も、竹宮と増山の住むマンションの近隣に住んでいて頻繁に出入りしていたが、ある日、ふたりから呼び出され、「あなたが描いた『小鳥の巣』は発表前の『風と木の詩』の設定と似ている。盗作したのではないか」と疑惑を投げかけられる。後日、竹宮は「あのことは忘れて欲しい」と萩尾に和解を持ちかけたが、同時に「マンションに来られては困る。そこに置いてある資料も読んで欲しくない。節度を持って距離を置きたい」という内容の手紙を置いて行く。",
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"text": "漫画ジャーナリストの加山竜司は「竹宮はいずれ世に出す『風と木の詩』のために集めた資料やアイデアを、同居している萩尾に先に消費されたくなかったのだろう。後出しになったら読者からは、竹宮の方が二番煎じのように思われてしまう。モチーフ(映画『寄宿舎~悲しみの天使~』)が同じだからといって盗作とは言えない。しかし、悲願の『風と木の詩』にかぎっては、そのようなケチを付けられることなく万全な状態で世に出したい。竹宮は、そう考えたのではないだろうか。あの手紙の中の『距離を置きたい』というのは『絶縁宣言』ではなく『アイデアのソース共有を避けたい/分けたい』という意味だったのだろう。そういう意図を若い竹宮が『盗作』という誤解を招く表現で、萩尾に伝えてしまったのは不幸としか言い様がない」と『週刊文春エンタ!』で分析している。",
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"text": "萩尾は後にこの一件で「心因性の視覚障害を煩った」と『一度きりの大泉の話』に記しているが、診断書などの物的証拠はない。また、萩尾は「目を痛めたので竹宮先生の作品を全く読んでいない」とも記しているが、こちらも「再び盗作疑惑をかけられないようにするための予防線ではないか」と加山は述べている。",
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"text": "その後、竹宮は思うように作品が描けない重症のスランプに3年間ほど陥る。そのために自律神経失調症を患ったと述べている。当時の体重は42kg。しかし、この状態を克服するためにいったん休むと発表の機会がなくなると考え、休養ではなく、週刊誌連載が一時空くと、月刊誌2ヶ月3作読み切りのペースで描き、継続して漫画を描くという手段を選んで執筆を続け、精神を持ちこたえる。",
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"text": "稲垣足穂などを研究して「耽美的なものが受ける」とも思っていた。当時の少女漫画は男女間の恋愛だけ描くよう求められており、『風と木の詩』のアイデアを50ページ描いたクロッキー帳を編集者たちに見せても否定的な反応だった。『週刊少女コミック』の新担当者から好きなテーマの作品を書くには、読者アンケートでトップを取ることだとアドバイスされ、1974年には『ファラオの墓』を描いてヒットさせ、アンケートで最高時は2位になる。スランプはいつの間にか消えていたという。この作品で、戦闘シーンなど知識が不足する部分は、編集者を通じて社費で脚本家などにアドバイスやアイデアをもらう「ブレーン手法」を知り活用する。単行本第1巻発売の時に、初のサイン会をデパート屋上で開催し、自分がやることになるとは思っていず戸惑う。増山から普通の服はダメだとパーティドレスを推奨され抵抗するが、妥協してメアリー・ポピンズ風ドレスと帽子姿となった。3,000人が集まり、以後のサイン会もレースとフリルのドレスが通例となってしまう。",
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"text": "『ファラオの墓』のヒットで『週刊少女コミック』の企画会議に通り、7年間にわたる念願の構想を実現して、1976年に『風と木の詩』の連載を開始。漫画家を辞めることも覚悟して挑んだ『風と木の詩』はファンから好評で、寺山修司や鶴見俊輔といった文化人や鶴見から紹介された心理学者の河合隼雄らが高く評価したこともあり、ジャンルとして定着する転機となった。これを、今までの少女漫画のレベルを超えた小さな革命と自負し、少年の同性愛を耽美的に描き、漫画界に衝撃を与えた。しかし当初は「BL(ボーイズラブ)の元祖」と称されるのを嫌っていたが、BL作家が増えBLが大きなジャンルとして成功するに従い「BLの元祖」としての位置を受け入れるようになった。",
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"text": "1977年、『月刊マンガ少年』にて『地球へ...』の連載を開始。SFや少年漫画を描きたいという思いは以前からあった。同年に萩尾望都も、少年誌に同様に連載していたが、少女漫画家が少年漫画誌で連載を持つことは当時としては画期的であった。翌1978年、『地球へ...』は第9回星雲賞コミック部門を受賞した。",
"title": "来歴"
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"text": "1979年、初の自宅を建てる。1988年には神奈川県鎌倉市に転居する。",
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"text": "1980年、『風と木の詩』『地球へ...』で、第25回小学館漫画賞を受賞。同年、『地球へ...』が東映によってアニメ映画化された。この映画のキャンペーンの時から、マネジメントの必要性から妹がマネージャーとなる。",
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"text": "『扉はひらく いつまでも』に収録の「竹宮惠子略年譜」によれば1980年に戸籍名の「惠子」へ改名したとある。なお、1980年代に「竹宮恵子」から「竹宮惠子」へ改名したが、その時期については特定されていない。",
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"text": "1982年、両性体の架空の国の王子を主人公とする初のファンタジー漫画『イズァローン伝説』の連載を開始するが、途中で読者の価値観がリアル重視になりつつある、絵柄やこれまでの作品も含めて距離があると感じ始めた。1987年に編集者の示唆もあり終了する。19世紀末欧州が舞台の『風と木の詩』も、編集者から「どこで終わりますか」と尋ねられて、世間との差から「終わるべきなんだな」と感じた(1984年連載終了)。現実にどう生きてゆくかが大事な時代だと、『>5:00(アフターファイブ)REVOLUTION』をチェッカーズのデビューまでをヒントに青春物を描く。ただし、年来のファンには受けなかった。",
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"text": "1980年代半ば、増山法恵は20歳から15年間務めていた竹宮惠子プロダクションのプロデューサー兼ディレクターを辞めて独立した。",
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"text": "1990年代には古典や歴史の書下ろし作品に取り組み、1994年から1996年にかけて漫画版『吾妻鏡』を描き、史料を調べて製作する手法を知る。1993年モンゴルへの乗馬ツアーで乗馬が趣味になっていた。「乗馬できて馬が描ける」漫画家の条件に合い、1997年、エルメスのフランス本社のジャン・ルイ・デュマ社長から依頼され、鞍職人の鞍作りから始まりブランド品とともに今も作り続けているエルメスの社史を漫画にした『エルメスの道』を発表。報酬目当てでなく、真摯な取材で描き上げたが、「読みたいのは物語で社史ではない」と作品とは認めないファンもいた。",
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"text": "本作が2000年4月開設予定の京都精華大学マンガ学科長就任予定だった牧野圭一に評価されたことがきっかけとなり、2000年に京都精華大学マンガ学科の教授に就任し、漫画家として日本初の大学の専任教員となった。牧野は、『エルメスの道』が敢えて個性を殺して描いていることに着目し、教員もできるだろうと打診してきた。『天馬の血族』連載を2000年初めに終わらせようと思っていたこと、細かい漫画の右上から始まり左下へ流れる読み方などのルールやペンの使い方も知らない若者や、言葉の表現すら注意しない漫画に誇りを持てない編集者などの新世代たちに、教えたいという思いがあった。教員同時就任に山本順也がいて、「腐れ縁ですね」と思わず言う。同年に夏休み中に連載をいったん引き受けたが、教えることと内面でぶつかり、描けずに撤回する。それ以来大学教員時代は漫画を描けていないが、代わりに京都と東京で毎年個展を開催してファンと交流している。",
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"text": "2001年から「原画'(ダッシュ)」プロジェクトが開始された。個展での準備でパソコンから印刷して原画に似たものができたことをきっかけに、発案する。原画は漫画家の下書きの線や編集者の印刷所への指示メモなど時代の歴史が残る。しかし、過去には紙の質も印刷も悪く劣化していき原型が残らない恐れがある。この、原画を保存するための保護と、広く見てもらうことを目的にした、精巧な複製原画である「原画 ́(ダッシュ)」の制作研究を漫画家の了解を得て精華大学と共同して行う。",
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"text": "2006年、京都精華大学マンガ学科はマンガ学部に昇格した。",
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"text": "2007年、『地球へ...』が発表から30年の時を経て、より原作に近い絵柄でテレビアニメ化された。",
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"paragraph_id": 43,
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"text": "2008年、京都精華大学マンガ学部の学部長に就任。鎌倉市の自宅から新幹線で大学に通い、週の半分は京都にいる多忙な生活を送っていた。講義では、学生の作画のコマ割り、吹き出し入りのレイアウトを見て、アドバイスする実技や、「脚本概論」では経験から、脚本術を形式化だと無視して後で苦しむことになるので、脚本の蓄積されてきた手法を学ぶ大切さを教え、目に見えない感情や思いを表し伝える「芸術印象点」を高めるよう強調し、特色を出していた。石ノ森章太郎の『マンガ日本経済入門』に学び、実用的な機能漫画も教えた。",
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"text": "2010年、東京都青少年健全育成条例の漫画表現規制改正案に憂慮し、ちばてつや、永井豪、里中満智子らと反対を表明し、「非実在青少年」の文言を撤回させる(改正自体は12月に成立)。",
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"text": "2013年11月、京都精華大学の次期学長に選出された。2014年4月就任し学長時代の2017年にはデジタル化に対応する「新世代マンガコース」を新設した。4年間の任期後に2018年3月末で1期務めて退任した。",
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"text": "鎌倉市に転居後、両親と同居していたが、その没後に妹夫婦と同居する。2011年東日本大震災に遭い、東京一極集中に疑問を覚えて、鎌倉市在住25年目に、2013年妹夫婦と一緒に福岡県へ移住し、続けて同居生活を送る。",
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"text": "2013年 - 2019年は政府知的財産戦略本部の有識者本部員、2015年 - 2017年は文部科学省中央教育審議会委員を務めた。",
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"text": "2014年11月、秋の紫綬褒章を受章。",
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"text": "2016年、BBCニュースのインタビューを受け「国連が批判する日本の漫画の性表現に「風と木の詩」が扉を開けた」(英語版タイトルは\"The godmother of manga sex in Japan\")という記事が掲載される。",
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"text": "2018年4月、京都精華大学の大学院マンガ研究科長・全学研究機構国際マンガ研究センター長に就任。",
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"text": "2019年3月、画業50周年を記念した巡回展「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」を開催。",
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"text": "2020年3月31日、京都精華大学を定年退職。4月、京都精華大学名誉教授称号を授与される。",
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竹宮 惠子は、日本の漫画家。京都精華大学名誉教授・元学長。旧表記は竹宮恵子。 代表作は『風と木の詩』『地球へ…』など。昭和24年(1949年)前後に生まれて、漫画のみならず文化・社会に大きな影響を与えた女性漫画家たち「24年組」の一人である。徳島県徳島市生まれ、徳島県板野郡北島町育ち。福岡県朝倉市在住。2023年4月時点で、日本漫画家協会理事。
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{{Infobox 漫画家
| 名前 = 竹宮 惠子
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 脚注 =
| 本名 =
| 生年 = {{生年月日と年齢|1950|2|13}}<ref name="Yomiuri2005">『読売年鑑2005年版 別冊 分野別人名録』[[読売新聞東京本社]],2005年3月13日発行p.384より{{ISBN|4643050012}}</ref>
| 生地 = {{JPN}}・[[徳島県]][[徳島市]]<br>(徳島県[[板野郡]][[北島町]]育ち)
| 没年 =
| 没地 =
| 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
| 職業 = [[漫画家]]、大学役員・教員
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| 代表作 = 『[[風と木の詩]]』<br/>『[[地球へ…]]』
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| サイン =
| 公式サイト = [https://k-takemiya.jp/ TRA-PRO.COM]
}}
'''竹宮 惠子'''(たけみや けいこ、[[1950年]]〈[[昭和]]25年〉[[2月13日]] <ref name="Yomiuri2005"/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]<ref name="Yomiuri2005"/><ref name=TOKYOJIN/>。[[京都精華大学]][[名誉教授]]<ref name="名誉教授">[https://twitter.com/trapro2017/status/1246389960782966790 2020年4月4日竹宮惠子ツイッター]</ref>・元[[学長]]<ref name="学長1期退任">[https://web.archive.org/web/20180811042538/https://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20170815000116 「竹宮恵子氏が学長退任へ 京都精華大、後任はサコ氏」]『[[京都新聞]]』2017年08月15日(2018年8月11日閲覧)</ref>。旧表記は'''竹宮恵子'''{{sfn|竹宮|2021|p=218}}。
代表作は『[[風と木の詩]]』『[[地球へ…]]』など。昭和24年(1949年)前後に生まれて、漫画のみならず文化・社会に大きな影響を与えた女性漫画家たち「[[24年組]]」の一人である。[[徳島県]][[徳島市]]生まれ、徳島県[[板野郡]][[北島町]]育ち{{sfn|竹宮|2020|loc=第3回}}。[[福岡県]][[朝倉市]]在住。2023年4月時点で、[[日本漫画家協会]]理事。
== 来歴 ==
=== 出生 - 幼少期 ===
2人姉妹の長女として徳島市に生まれる<ref name="tokushima">{{Wayback|url=http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2006/0201.htm|title=おはようとくしま 2006年2月1日 漫画家 竹宮惠子|date=20071114233819}}</ref>。父の[[竹宮義一]]は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人で、[[スパイ]]や[[ゲリラ]]戦の要員を育てる[[陸軍中野学校二俣分校]]一期生であった<ref>【戦後74年 令和に語り継ぐ】(2)漫画家 竹宮恵子 さん69/中野学校 消された軍歴『[[読売新聞]]』朝刊2019年8月11日(1面)</ref>。
5歳頃から日常的に[[漫画]]を広告チラシの裏などに絵を真似て描くようになり、初期は[[わたなべまさこ]]を手本にしていた{{sfn|竹宮|2020|loc=3}}<ref name="shinpo">[https://archive.li/dHo5q#selection-291.70-291.109 「時代を変えた少女マンガ、竹宮惠子先生インタビュー」]『バンクーバー新報』2007年10月4日第40号 archive.is差し替え2020年6月2日閲覧</ref>。[[貸本]]屋で、クリスマスや記念日に親が漫画単行本や漫画雑誌を借りてくれ、日常は散髪屋で集中して読み、[[石ノ森章太郎]]から[[小島剛夕]]といった[[劇画]]まで選り好みせず読む子供時代を送った{{sfn|竹宮|2020|loc=3回}}<ref name="文化庁">[https://web.archive.org/web/20110719194640/http://plaza.bunka.go.jp/museum/meister/manga/vol2/keyword.php 文化庁メディア芸術プラザ|Manga Meister - Vol.2|竹宮惠子インタビュー]2019年8月26日archive差替え</ref>。小学1年生の時に描いた絵日記には[[グランドピアノ]]が既に立体的に描かれていた<ref name="tokushima" />。小学3年生の時に[[北島町]]へ移り住む<ref name="kitajima">{{Cite web|和書|title=新校舎完成祝い竹宮さん イラスト「地球へ…」寄贈|url=https://web.archive.org/web/20100829060051/https://www.topics.or.jp/localNews/news/2010/08/2010_128287169294.html|website=topics.or.jp|publisher=一般社団法人徳島新聞社|date=2010-08-27|accessdate=2010-08-29}}</ref>。『[[冒険ダン吉]]』と『[[てるてる姫]]』の漫画単行本を持っていた<ref name="2008ラジオ">[https://web.archive.org/web/20100304104746/https://www.asahi.co.jp/50th/takemiya.html 2008年11月ゲスト「Earth Dreaming-ガラスの地球を救え」][[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]](2020年7月3日閲覧)</ref>。
雑誌付録の着せ替え人形に興味を持ったが、貸本を切り抜くことはできないため、自分で絵を描いて手作りしていた{{sfn|竹宮|2021|pp=21-22}}。小学校高学年の頃、絵に[[セリフ]]を付けるようになった{{sfn|竹宮|2021|p=22}}。遊び相手の[[いとこ]]に「次はどうなるの?」と問われて描き足していった体験が、ストーリー性のある漫画づくりを理解するきっかけとなった{{sfn|竹宮|2021|p=22}}{{sfn|竹宮|2020|loc=第3回}}。
=== 中学時代 ===
中学時代からコマを割って物語として本格的に描き始め<ref name="2008ラジオ" />、30ページくらいのストーリー漫画を描く。当初はペン入れせず[[鉛筆]]描きで、『ユース6(シックス)』という作品が竹宮の手元に現存している。当時ブームだった[[ウィーン少年合唱団]]や少女マンガで人気の[[バレエ]]ものにあやかり、バレリーナの姉とウィーン少年合唱団員の弟を主人公にした漫画を描き、同級生に披露したこともあったという{{sfn|竹宮|2021|p=22}}。両親には漫画を描いていることを隠して優等生を演じていたが、妹が両親に知らせていたという{{sfn|竹宮|2021|pp=31-32}}{{sfn|竹宮|2020|loc=第5回}}。
中学時代に長編漫画を描いたことは何度も竹宮本人が各所で述べているが、『少女マンガ家になれる本』では「中学校の三年間で全81話2400枚」{{sfn|竹宮|萩尾|1980}}、『河合隼雄対談集』では「中学から高校にかけて、30枚くらいを80数話」{{sfn|河合|1988}}など、述べる時期により内容が微妙に変化している。また、その長編漫画は「全部燃やしてしまいました」と『少女マンガ家になれる本』で述べている。
1964年頃、講談社4誌合同による第1回少年少女漫画賞が開催された{{sfn|中川|2020|p=74}}。入賞したのは高校2年生だった[[里中満智子]]で、掲載された『ピアの肖像』を読んで竹宮は力の差を感じた{{sfn|竹宮|2020|loc=第6回}}{{sfn|竹宮|2021|p=33}}が、漫画家への憧れは募り、週刊誌連載を目標にする{{sfn|竹宮|2016|p=第20回}}。
竹宮も同じ賞に応募したが落選したという。本人によれば、「中学3年のときに投稿してるんですよ。実は里中満智子さんがデビューされたときとまったく同じ回の講談社の新人賞に」{{sfn|少女マンガパワー!|2008}}、「中学2年生の時に、講談社の第1回新人漫画賞に応募してみました」{{sfn|竹宮|2021|p=32}}のように中学生のときに第1回に応募したという発言があり、また「高校に入ってからプロになることを意識して、それでペンを使いはじめました。ちょうど里中満智子さんが高校生漫画家というので紹介されたのを見て、私も同じ賞に応募してみたんです。ところが箸にも棒にもかからなかった(笑)。初めてペンで描いた漫画を応募したんだから当たり前ですけど。」<ref>{{Cite journal|和書|author=竹宮恵子|title=「家」の履歴書(279) 竹宮恵子--萩尾さんとの共同生活はキャベツ畑の中|year=2000|publisher=文芸春秋|journal=週刊文春|volume=40|issue=20|pages=164-167|doi=10.11501/3376842}}</ref>のように、高校生になってから応募したという発言もある。
=== 高校時代 ===
[[1965年]]、[[徳島県立城東高等学校]]に入学する{{sfn|中川|2020|p=86}}。同年に出版された[[石ノ森章太郎]]の『[[マンガ家入門]]』と収録された『[[龍神沼]]』を読み大きなショックを受け、石ノ森作品を端から読むようになる{{sfn|中川|2020|pp=98-99}}{{efn2|里中満智子との対談(月刊mimi1976年11月号)では「私は、まんがに興味をもちはじめたのがおそくって、高校生のころでしたから」と発言しているが、2008年の手塚るみ子(手塚治虫の娘)との対談では「中学時代からコマを割って物語として本格的に描き始めていた」とあり、2020年の読売新聞の連載では中学生の時に描いたストーリー漫画を取り上げてその漫画の写真を残すなど、話す時々によって漫画に興味を持ち始めた時期は変動して一定していない。}}。自作が石ノ森作品のコピーのようになっていた時期もあったという。当時は一人で漫画を描いていたが、『続マンガ家入門』でマンガ研究会の仲間集めについて書かれていたことに触発され、石ノ森に「漫画を共に描く仲間が欲しい」と手紙を送った{{sfn|竹宮|2020|loc=第7回}}。石ノ森から紹介された、漫画を描いているグループの人達から手紙が届くようになり、「石森ファン筆頭」の[[同人誌]]『宝島』グループに参加し<ref>[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_02-1e.asp 電子まんがナビゲーター 第2回 竹宮惠子編 その1]{{リンク切れ|date=2022年4月}}「竹宮惠子作品に触れる」の巻 (5)</ref>、盛んに投稿する。週刊連載を目標にしていたため、『宝島』が竹宮特集号の観を呈したこともあったという{{sfn|竹宮|2020|loc=第7回}}。
高校では[[フランス語]]の外語クラブに入り、文化祭の展示用に少女の絵を描くようなことはあったという{{sfn|竹宮|2021|pp=38-39}}{{sfn|竹宮|2020|loc=第7回}}。
高校2年の[[修学旅行]]で上京した際には同人誌の仲間に頼んで石ノ森の仕事場を訪問したという{{sfn|竹宮|2021|p=39}}{{sfn|竹宮|2020|loc=7}}<ref>[http://www.ishinomori.com/interview/12_01.html 石ノ森章太郎 萬画大全集|動画インタビュー|竹宮惠子インタビュー(第1回)]{{リンク切れ|date=2022年4月}}参考。</ref>。
初めて買った雑誌が『[[COM (雑誌)|COM]]』([[虫プロ商事]])だった<ref name=TOKYOJIN>{{Cite journal|和書|title=ガロとCOMの時代 1964-1971|date=2014-07-03|publisher=都市出版|journal=東京人|volume=29|issue=8|page= |issn=0912-0173}}</ref>。高校時代、自分の力を知りたくて『COM』の読者投稿広場「[[COM (雑誌)#ぐら・こん|ぐら・こん]]」に頻繁に投稿する{{sfn|竹宮|2020|loc=第6回}}。[[1967年]]、「ここのつの友情」が月例新人賞に佳作入選する<ref name="2008ラジオ" />。
石森章太郎によれば、「[[永井豪]]サンが、男の一番弟子なら、ワタシは女の、優等生の一番弟子だワ」と自称していたという<ref>石森章太郎『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』ISBN 978-4-06-183752-2 [[講談社]]〈講談社文庫〉、[[1986年]]、150頁。</ref>。こうした活動が漫画出版関係者にも伝わり、竹宮によれば漫画家の[[西谷祥子]]から直筆の手紙で[[集英社]]新人漫画賞への応募を勧められたという{{sfn|竹宮|2020|loc=第7回}}。
[[1968年]]1月、『りんごの罪』が『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』の新人賞に佳作入選して掲載され、漫画家デビューする{{sfn|竹宮|2020|loc=第7回}}。高校2年のときに漫画家になると決意するが、両親は働かないなら[[大学]]に行くように告げ、漫画家の仕事が不安定なことにも不安を示した。
=== デビュー - 大学進学 ===
1968年4月、親からの説得と、ぎりぎりまで迷ったが漫画だけの人間になりたくないと、[[徳島大学]][[教育学部]](現・総合科学部)美術科に入学した。漫画家デビューをめざしていたため受験勉強はほとんどしていなかったが、漫画制作で培われた計画性を生かして、得意な文章記述が多い倫理社会で得点し、苦手な数学や物理学を懸命に勉強して合格した{{sfn|竹宮|2020|loc=第8回}}。大学では学業と平行して『COM』等への投稿を続ける。
1969年、東京に行った際に、[[手塚治虫]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしていた友人の投稿作品を臨時で手伝うが、そのとき偶然に初めて会った手塚に誘われ、映画『[[王女メディア (映画)|王女メディア]]』を友人と共に見る<ref name="2008ラジオ" />。『COM』の縁もあり、手塚治虫から『[[少女コミック|週刊少女コミック]]』の編集者、[[山本順也]]を紹介される。[[学生運動]]に参加して考えるため1年間漫画を描くのを休み、その間の対話と模索で運動ではなく漫画で革命を起こそうと決意する{{sfn|竹宮|2020|loc=第8回}}。漫画再開後に、徳島まで出向いてきた山本に「何か新しいことがしたい」と言い、『週刊少女コミック』で描くように勧められる<ref>[http://mainichi.jp/enta/mantan/archive/news/2007/04/08/20070408org00m200004000c.html?inb=yt 毎日JP 特集:「地球へ・・・」竹宮惠子、「ポーの一族」萩尾望都・・・「24年組」少女マンガの革命(まんたんウェブ)]{{リンク切れ|date=2022年4月}}</ref>。徳島県にいて小学館以外に講談社、集英社の各社の依頼を全て受けてしまい、オーバーワークでパンクする。状態を知った山本編集長に整理のため上京するよう言われ従い、[[神田神保町|神保町]]の旅館で3社と合同しての話し合いで小学館の仕事を選択した。看板漫画家として、講談社には[[里中満智子]]、集英社には[[西谷祥子]]がいたため、新興の小学館であればどうにかなるだろうと考え小学館を選んだ。人生初の「缶詰」状態で、どうにか描き終えた。これがきっかけで、徳島市では漫画家の活動は無理だと感じ、東京行きを決意する{{sfn|竹宮|2020|loc=第9回}}。料理もできない娘の一人暮らしに母は当初反対したが、父は最後は理解を示し、東京へ向かう列車内で握手をして見送った{{sfn|竹宮|2020|loc=第10回}}。
=== 上京 - 大泉サロン ===
[[1970年]]、『週刊少女コミック』に『森の子トール』の連載を始め、5月に大学を中退して東京に転居する<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20160307-OYT8T50114.html?from=ytop_ymag_tmb 自伝「少年の名はジルベール」刊行 竹宮惠子さん]{{リンク切れ|date=2022年4月}} ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)</ref>。小学館が斡旋した、都内[[練馬区]]の大家自宅の離れの上下に各1室の快適な部屋に住み、作業する{{sfn|竹宮|2016|pp=22-23}}{{sfn|竹宮|2020|loc=第10回}}。条件依頼して石ノ森がネーム作業する定席がある喫茶店「ラタン」から10分の近辺だった。2カ月間で孤独で、買い物かごを持ち偶然のふりをして喫茶「ラタン」に行き、石ノ森の顔を見て少し話して、孤独を紛らわせていた{{sfn|竹宮|2016|pp=23-27}}。新人なので、半年間くらいは仕事を入れておきたくて、テレビ番組や企業宣伝用のタイアップ企画を多く受け、ほかにも挿絵イラストの仕事も多く引き受け職人的な自信を持った{{sfn|竹宮|2016|pp=26-28}}。
後に共同生活を始める漫画家[[萩尾望都]]との最初の出会いは同1970年春。[[講談社]]別館で缶詰になって描いていた『アストロツイン』の完成直前、寄っていた萩尾を編集者から紹介され、臨時のアシスタントとして同作の仕上げを手伝ってもらった{{sfn|竹宮|2020|loc=第11回}}。萩尾は、原稿を見せに上京していた折だった<ref>『文藝別冊〔総特集〕萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母』「2万字ロングインタビュー わたしのマンガ人生」P.23-24(河出書房新社 2010年)</ref>。同じ漫画家である萩尾とはたちまち意気投合。萩尾は、同世代の[[文通]]相手で音楽を学んでいた[[増山法恵]]の家に泊まっており、紹介されて竹宮も増山と親しくなった。やがて増山は、自宅向かいの長屋に空きが出たと、竹宮と萩尾の共同生活を提案してきた{{sfn|竹宮|2020|loc=第11回}}。その導きで練馬区[[南大泉]]の増山宅の斜め向かいの共同アパートで同居を始める。増山ら友人達から様々な文化的知識を吸収した。増山家で食事をいただき風呂まで入ることも多かった。萩尾は規則正しい生活を続けたが、竹宮は進めば朝まで続ける変則生活となる{{sfn|竹宮|2020|loc=第11回}}。そこに増山がサロン化を計画して、2人にファンレターを送ってきた者の中から選んで同年代の女性の少女漫画家たちに声をかけた<ref>[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_02-2b.asp 電子まんがナビゲーター 第2回 竹宮惠子編 その2]{{リンク切れ|date=2022年4月}}「「大泉サロン」の時代の巻」(2)</ref>。出入りしていた顔ぶれは、漫画家では[[山田ミネコ]]、[[ささやななえこ]]のほか、ファンでは後にデビューした[[坂田靖子]](当時は高校生)らがいた{{sfn|竹宮|2020|loc=第12回}}。拠点となった時の大泉のアパートは「[[大泉サロン]]」と呼ばれるようになり{{sfn|竹宮|2016|pp=49,68}}、集まったメンバーは後に「[[24年組]]」と呼ばれた<ref>[https://manganavi.jp/special/job/20070831/ 少女マンガ界を変えた「花の24組」が集まった女性版トキワ荘『大泉サロン』について竹宮恵子さんに聞く]. 2022年4月16日閲覧</ref>。竹宮は「[[トキワ荘]]の女性版」だったと回想している{{sfn|竹宮|2020|loc=第1回}}。
[[1972年]]、竹宮は萩尾、増山、そして[[山岸凉子]]の4人で45日間の[[ヨーロッパ]]旅行に出掛ける<ref>[https://book.asahi.com/article/12245054 「画業50周年記念展 竹宮惠子カレイドスコープ」開催! 竹宮惠子さんが振り返るマンガ家人生の足跡]. 2022年4月16日閲覧</ref>{{sfn|竹宮|2020|loc=第14回}}。[[ソビエト連邦]]の[[ハバロフスク]]経由[[モスクワ]]回りで[[パリ]]周回で行き、竹宮始め、24年組がヨーロッパを舞台にした漫画を描く原動力になった<ref>[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_02-2c.asp 電子まんがナビゲーター 第2回 竹宮惠子編 その2]{{リンク切れ|date=2022年4月}}「「大泉サロン」の時代の巻」(3)</ref>。[[石畳]]の構造、建物の門や窓の厚み、樹の葉の大きさが違い、枯葉もきれいなもので、[[バラ]]の花びらの厚みまで違い、写真を撮って目に焼き付けた。各地の本屋で大量の買える限りの資料の画集や写真集を購入し、船便で日本に送った{{sfn|竹宮|2016|pp=153-160}}。訪問先はソ連、フランスのほか[[デンマーク]]、[[ベルギー]]などで、この時の見聞は後に『[[風と木の詩]]』などに生かされた{{sfn|竹宮|2020|loc=第15回}}。
大泉では楽しかったが、同居する萩尾望都の才能と比べて焦る気持ちから大泉サロンは解散となった{{sfn|竹宮|2016|pp=162-169}}{{efn2|萩尾の側は2021年に刊行した『一度きりの大泉の話』([[河出書房新社]])において、竹宮との間にあった確執について記し、大泉時代のいかなる企画にも今後かかわることはないと明言した{{sfn|萩尾|2021}}。詳細は萩尾および大泉サロンの項目を参照。}}。竹宮は、主に漫画を読んで育った自分は[[映画]]鑑賞や[[読書]]の量が足りず、映像的な表現ができる萩尾との差に悶々としていたことを回想している。また、自伝『少年の名はジルベール』では「自分が最も描きたい[[少年愛|のは少年愛]]であり、そのためだけに作ってしまっている。[[萩尾望都]]との違いは、それを[[腐女子]]以外の読者にも共感できるドラマや世界観の中に、必然性があるものとして吸収できているかどうか。その差が担当編集者の評価となって表れている」と、その当時を自己分析している{{sfn|竹宮|2016|pp=164-165}}。
車酔い、体重減少といった[[スランプ]]の症状は1972年頃から出ており、絵柄にも影響を与えていた。欧州旅行も、状況を打破したいとの思いがあった{{sfn|竹宮|2020|loc=第14回}}。
=== 大泉サロンの解散 ===
長屋の契約更新時期を機に「大泉サロン」解散を決意。同居の萩尾と、触れる情報や交友関係などの経験が重なり、ファンが『[[ポーの一族]]』を竹宮作品と勘違いするなど作風が似てしまったことなどから別居した方がよいと考えた{{sfn|竹宮|2020|loc=第15回}}。それだけ竹宮の悩みは深いものだった。
その後、都内[[杉並区]][[下井草]]の2DKの6畳2室の広いマンションで増山と同居する。この頃の増山は、竹宮のスケジュール管理や食事の世話、担当との打ち合わせに同席するなど、マネージャー的立場で竹宮をサポートしていたが、一方で竹宮のブレーン的立場でもあった。竹宮は自身の作品に『監修』などの肩書付きクレジットで掲載したいと増山に提案したが、「ストーリーも絵もできるのが一人前の漫画家」と考えていた増山は頑として拒んだという{{sfn|竹宮|2016|pp=206-208}}。
竹宮は著作の中で「漫画家が他者のアイデアを借りた場合、原案・原作・構成・監修など仕事内容に応じたクレジット名を作品に入れることがあり、提供された情報量によって扱いが異なるのが普通だ。口頭でのアイデア出しから完全な漫画原作まで関わり方も様々だが、増山の作品への関わり方も、その都度違っていて、多くが構成上のアイデア出しであり、口述形式で行われた。その中でも増山が長い間、作りためた『[[変奏曲シリーズ|変奏曲]]』だけは彼女の完全な漫画原作だった」と述べている{{sfn|竹宮|2016|pp=206-208}}。
ちなみに『[[風と木の詩]]』は、竹宮が『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』のポスターからインスピレーションを得て制作した作品である{{sfn|竹宮|2016|pp=37-40}}。自伝『少年の名はジルベール』によると、竹宮は相づちを打ちながら関心を持って聴いてくれる増山と電話で話すうちに、次々と場面や設定ができあがっていくドライブ感を体験したという{{sfn|竹宮|2016|pp=37-40}}。
萩尾は大泉サロン解散後も、竹宮と増山の住むマンションの近隣に住んでいて頻繁に出入りしていたが、ある日、ふたりから呼び出され、「あなたが描いた『[[小鳥の巣]]』は発表前の『[[風と木の詩]]』の設定と似ている。[[盗作]]したのではないか」と疑惑を投げかけられる。後日、竹宮は「あのことは忘れて欲しい」と萩尾に和解を持ちかけたが、同時に「マンションに来られては困る。そこに置いてある資料も読んで欲しくない。節度を持って距離を置きたい」という内容の手紙を置いて行く{{sfn|萩尾|2021|pp=147-155}}。
漫画ジャーナリストの加山竜司は「竹宮はいずれ世に出す『[[風と木の詩]]』のために集めた資料やアイデアを、同居している萩尾に先に消費されたくなかったのだろう。後出しになったら読者からは、竹宮の方が二番煎じのように思われてしまう。モチーフ(映画『[[悲しみの天使 (映画)|寄宿舎~悲しみの天使~]]』)が同じだからといって盗作とは言えない。しかし、悲願の『[[風と木の詩]]』にかぎっては、そのようなケチを付けられることなく万全な状態で世に出したい。竹宮は、そう考えたのではないだろうか。あの手紙の中の『距離を置きたい』というのは『絶縁宣言』ではなく『アイデアのソース共有を避けたい/分けたい』という意味だったのだろう。そういう意図を若い竹宮が『盗作』という誤解を招く表現で、萩尾に伝えてしまったのは不幸としか言い様がない」と『週刊文春エンタ!』で分析している<ref name="週刊文春エンタ20220111">{{Cite journal|和書|journal=週刊文春エンタ!|date=2022-01-11|publisher=文藝春秋社|page=75}}</ref>。
萩尾は後にこの一件で「[[心因性]]の視覚障害を煩った」と『一度きりの大泉の話』に記しているが、診断書などの物的証拠はない{{sfn|萩尾|2021|pp=155-160}}。また、萩尾は「目を痛めたので竹宮先生の作品を全く読んでいない」とも記しているが、こちらも「再び盗作疑惑をかけられないようにするための予防線ではないか」と加山は述べている<ref name="週刊文春エンタ20220111" />。
その後、竹宮は思うように作品が描けない重症のスランプに3年間ほど陥る。そのために[[自律神経失調症]]を患ったと述べている。当時の体重は42[[キログラム|kg]]{{sfn|竹宮|2016|pp=167-169,172-178}}。しかし、この状態を克服するためにいったん休むと発表の機会がなくなると考え、休養ではなく、週刊誌連載が一時空くと、月刊誌2ヶ月3作読み切りのペースで描き、継続して漫画を描くという手段を選んで執筆を続け、精神を持ちこたえる{{sfn|竹宮|2016|pp=179-180}}。
=== 小学館漫画賞を受賞 ===
[[稲垣足穂]]などを研究して「耽美的なものが受ける」とも思っていた<ref>『少女マンガ大全集―短編にみる魅惑のミクロコスモス』文藝春秋編(文春文庫ビジュアル版、1988年)ISBN 978-4-1681-1008-5、762頁。</ref>。当時の少女漫画は男女間の恋愛だけ描くよう求められており、『[[風と木の詩]]』のアイデアを50ページ描いたクロッキー帳を編集者たちに見せても否定的な反応だった。『週刊少女コミック』の新担当者から好きなテーマの作品を書くには、読者アンケートでトップを取ることだとアドバイスされ、[[1974年]]には『[[ファラオの墓]]』を描いてヒットさせ、アンケートで最高時は2位になる{{sfn|竹宮|2016|pp=181-217}}<ref name="tokushima" />。スランプはいつの間にか消えていたという{{sfn|竹宮|2020|loc=第16回}}。この作品で、戦闘シーンなど知識が不足する部分は、編集者を通じて社費で[[脚本家]]などにアドバイスやアイデアをもらう「ブレーン手法」を知り活用する{{sfn|竹宮|2016|pp=202-204}}。単行本第1巻発売の時に、初のサイン会をデパート屋上で開催し、自分がやることになるとは思っていず戸惑う。増山から普通の服はダメだとパーティドレスを推奨され抵抗するが、妥協して[[メアリー・ポピンズ]]風ドレスと帽子姿となった。3,000人が集まり、以後のサイン会もレースと[[フリル (服飾)|フリル]]のドレスが通例となってしまう{{sfn|竹宮|2016|pp=197-200}}。
『ファラオの墓』のヒットで『週刊少女コミック』の企画会議に通り、7年間にわたる念願の構想<ref name="tokushima" />を実現して、[[1976年]]に『[[風と木の詩]]』の連載を開始。漫画家を辞めることも覚悟して挑んだ『風と木の詩』はファンから好評で、[[寺山修司]]や[[鶴見俊輔]]といった文化人や鶴見から紹介された[[心理学者]]の[[河合隼雄]]らが高く評価したこともあり、ジャンルとして定着する転機となった{{sfn|竹宮|2020|loc=第17回}}。これを、今までの少女漫画のレベルを超えた小さな革命と自負し{{sfn|竹宮|2016|pp=219-220}}、少年の[[同性愛]]を耽美的に描き、漫画界に衝撃を与えた<ref name="shinpo" />。しかし当初は「BL([[ボーイズラブ]])の元祖」と称されるのを嫌っていたが、BL作家が増えBLが大きなジャンルとして成功するに従い「BLの元祖」としての位置を受け入れるようになった。
[[1977年]]、『[[マンガ少年|月刊マンガ少年]]』にて『[[地球へ…]]』の連載を開始<ref name="kotobank地球へ…">{{Cite Kotobank|word=地球へ…|encyclopedia=小学館デジタル大辞泉プラス|accessdate=2022-04-16}}</ref>。[[サイエンス・フィクション|SF]]や少年漫画を描きたいという思いは以前からあった{{sfn|竹宮|2020|loc=第18回}}。同年に萩尾望都も、少年誌に同様に連載していたが、少女漫画家が少年漫画誌で連載を持つことは当時としては画期的であった。翌[[1978年]]、『地球へ…』は第9回[[星雲賞]]コミック部門を受賞した<ref name="kotobank地球へ…" />。
[[1979年]]、初の自宅を建てる。1988年には[[神奈川県]][[鎌倉市]]に転居する{{sfn|竹宮|2020|loc=第26回}}。
[[1980年]]、『風と木の詩』『地球へ…』で、第25回[[小学館漫画賞]]を受賞<ref>{{Cite Kotobank|word=竹宮恵子|encyclopedia=講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus|accessdate=2022-04-16}}</ref>。同年、『地球へ…』が[[東映]]によって[[アニメーション映画|アニメ映画]]化された{{sfn|竹宮|2020|loc=第19回}}。この映画のキャンペーンの時から、マネジメントの必要性から妹がマネージャーとなる{{sfn|竹宮|2016|p=235}}。
『扉はひらく いつまでも』に収録の「竹宮惠子略年譜」によれば1980年に戸籍名の「惠子」へ改名したとある{{sfn|竹宮|2021|p=218}}。なお、1980年代に「竹宮恵子」から「竹宮惠子」へ改名したが、その時期については特定されていない。
1982年、[[両性具有|両性体]]の架空の国の王子を主人公とする初の[[ファンタジー漫画]]『イズァローン伝説』の連載を開始するが、途中で読者の価値観がリアル重視になりつつある、絵柄やこれまでの作品も含めて距離があると感じ始めた{{sfn|竹宮|2020|loc=第20回}}。1987年に編集者の示唆もあり終了する。19世紀末欧州が舞台の『風と木の詩』も、編集者から「どこで終わりますか」と尋ねられて、[[世間]]との差から「終わるべきなんだな」と感じた{{sfn|竹宮|2020|loc=第20回}}(1984年連載終了)。現実にどう生きてゆくかが大事な時代だと、『>5:00(アフターファイブ)REVOLUTION』を[[チェッカーズ]]のデビューまでをヒントに青春物を描く。ただし、年来のファンには受けなかった{{sfn|竹宮|2020|loc=第20回}}。
1980年代半ば、増山法恵は20歳から15年間務めていた竹宮惠子プロダクションのプロデューサー兼ディレクターを辞めて独立した<ref>{{Cite web|和書|url=http://mystery.or.jp/member/detail/0660|title=会員名簿 増山法恵|website=一般社団法人日本推理作家協会|accessdate=2022-04-28}}</ref>。
=== 京都精華大学教員 ===
1990年代には古典や歴史の書下ろし作品に取り組み、1994年から1996年にかけて[[コミカライズ|漫画版]]『[[吾妻鏡]]』を描き、[[史料]]を調べて製作する手法を知る。1993年[[モンゴル]]への[[乗馬]]ツアーで乗馬が趣味になっていた。「乗馬できて馬が描ける」漫画家の条件に合い、[[1997年]]、[[エルメス]]の[[フランス]]本社のジャン・ルイ・デュマ社長から依頼され、[[鞍]]職人の鞍作りから始まりブランド品とともに今も作り続けているエルメスの社史を漫画にした『エルメスの道』を発表。報酬目当てでなく、真摯な取材で描き上げたが、「読みたいのは物語で社史ではない」と作品とは認めないファンもいた{{sfn|竹宮|2020|loc=第21回}}。
本作が2000年4月開設予定の[[京都精華大学]]マンガ学科長就任予定だった[[牧野圭一]]に評価されたことがきっかけとなり、[[2000年]]に京都精華大学マンガ学科の[[教授]]に就任し、漫画家として日本初の大学の専任教員となった<ref name="2008ラジオ" /><ref name="文化庁" />。牧野は、『エルメスの道』が敢えて個性を殺して描いていることに着目し、教員もできるだろうと打診してきた。『天馬の血族』連載を2000年初めに終わらせようと思っていたこと、細かい漫画の右上から始まり左下へ流れる読み方などのルールやペンの使い方も知らない若者や、言葉の表現すら注意しない漫画に誇りを持てない編集者などの新世代たちに、教えたいという思いがあった{{sfn|竹宮|2020|loc=第22-23回}}。教員同時就任に[[山本順也]]がいて、「腐れ縁ですね」と思わず言う{{sfn|竹宮|2016|p=234}}。同年に夏休み中に連載をいったん引き受けたが、教えることと内面でぶつかり、描けずに撤回する。それ以来大学教員時代は漫画を描けていないが{{sfn|竹宮|2020|loc=第23回}}、代わりに京都と東京で毎年個展を開催してファンと交流している{{sfn|竹宮|2020|loc=第26回}}。
2001年から「原画'(ダッシュ)」プロジェクトが開始された<ref>[https://www.kyotomm.jp/HP2016/event/exh/gengadash10th.html 原画'(ダッシュ)の10周年の軌跡]. 京都国際マンガミュージアム. 2022年4月16日閲覧</ref>。個展での準備で[[パソコン]]から印刷して原画に似たものができたことをきっかけに、発案する。原画は漫画家の下書きの線や編集者の印刷所への指示メモなど時代の歴史が残る。しかし、過去には紙の質も印刷も悪く劣化していき原型が残らない恐れがある。この、原画を保存するための保護と、広く見てもらうことを目的にした、精巧な複製原画である「原画´(ダッシュ)」の制作研究を漫画家の了解を得て精華大学と共同して行う{{sfn|竹宮|2020|loc=第2回、第26回}}。
2006年、京都精華大学マンガ学科はマンガ学部に昇格した{{sfn|竹宮|2020|loc=第23回}}。
[[2007年]]、『地球へ…』が発表から30年の時を経て、より原作に近い絵柄で[[テレビアニメ]]化された{{sfn|竹宮|2020|loc=第19回}}。
[[2008年]]、京都精華大学マンガ学部の学部長に就任<ref>[https://www.u-presscenter.jp/article/post-26574.html 京都精華大学プレスセンター 2008年4月3日「マンガ家・竹宮惠子氏、京都精華大学マンガ学部の学部長に」]. 2019年8月18日閲覧。</ref>。鎌倉市の自宅から新幹線で大学に通い、週の半分は[[京都府|京都]]にいる多忙な生活を送っていた<ref name="shinpo" />。講義では、学生の作画のコマ割り、吹き出し入りのレイアウトを見て、アドバイスする実技や<ref name="shinpo" />、「脚本概論」では経験から、脚本術を形式化だと無視して後で苦しむことになるので、脚本の蓄積されてきた手法を学ぶ大切さを教え、目に見えない感情や思いを表し伝える「芸術印象点」を高めるよう強調し、特色を出していた{{sfn|竹宮|2016|pp=229-233}}。石ノ森章太郎の『マンガ日本経済入門』に学び、実用的な機能漫画も教えた{{sfn|竹宮|2020|loc=第24回}}。
2010年、[[東京都青少年健全育成条例]]の漫画表現規制改正案に憂慮し、[[ちばてつや]]、[[永井豪]]、[[里中満智子]]らと反対を表明し、「非実在青少年」の文言を撤回させる(改正自体は12月に成立){{sfn|竹宮|2020|loc=第25回}}。
[[2013年]]11月、京都精華大学の次期学長に選出された<ref>「[https://web.archive.org/web/20131124094742/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131121-00000115-san-soci 京都精華大学長に竹宮惠子氏 マンガ学部教授の漫画家]」2013年11月21日『[[産経新聞]]』、2019年8月18日archive差し替え</ref>。[[2014年]]4月就任し学長時代の2017年にはデジタル化に対応する「新世代マンガコース」を新設した{{sfn|竹宮|2020|loc=第24回}}。4年間の任期後に[[2018年]]3月末で1期務めて退任した<ref name="学長1期退任" />。
鎌倉市に転居後、両親と同居していたが、その没後に妹夫婦と同居する。2011年[[東日本大震災]]に遭い、[[東京一極集中]]に疑問を覚えて、鎌倉市在住25年目に、2013年妹夫婦と一緒に[[福岡県]]へ移住し、続けて同居生活を送る{{sfn|竹宮|2020|loc=第26回}}。
2013年 - [[2019年]]は政府[[知的財産戦略本部]]の有識者本部員{{sfn|竹宮|2020|loc=第25回}}、[[2015年]] - [[2017年]]は[[文部科学省]][[中央教育審議会]]委員を務めた<ref name="精華大教員" />。
2014年11月、秋の[[紫綬褒章]]を受章<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/130291|title=竹宮惠子に紫綬褒章「思ってもいなかった」|website=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-11-03|accessdate=2022-04-28}}</ref>。
2016年、BBCニュースのインタビューを受け「国連が批判する日本の漫画の性表現に「風と木の詩」が扉を開けた」(英語版タイトルは"The godmother of manga sex in Japan")という記事が掲載される<ref>[https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-35742160/ 国連が批判する日本の漫画の性表現に「風と木の詩」が扉を開けた]. BBC NEWS JAPAN. 2022年4月16日閲覧</ref><ref>[https://www.bbc.com/news/world-asia-35714067/ The godmother of manga sex in Japan]. BBC NEWS. 2022年4月16日閲覧</ref>。
2018年4月、京都精華大学の大学院マンガ研究科長・全学研究機構国際マンガ研究センター長に就任<ref name="精華大教員">[http://www.kyoto-seika.ac.jp/edu/faculty/takemiya-keiko/ 京都精華大学教員紹介㏋]{{リンク切れ|date=2022年4月}}2018年8月11日閲覧</ref>。
[[2019年]]3月、画業50周年を記念した巡回展「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」を開催<ref name="カレイドスコープ">[https://www.kawasaki-museum.jp/exhibition/14854/ 竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary] [[川崎市市民ミュージアム]]</ref><ref name="50年">[https://manba.co.jp/manba_magazines/7763 「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」トークイベント「マンガと向き合う50年」]</ref>。
[[2020年]]3月31日、京都精華大学を定年退職<ref>[https://wan.or.jp/article/show/8821 京都精華大学教員2020年1月8日最終講義「扉はひらく いくたびも」]</ref>。4月、京都精華大学名誉教授称号を授与される<ref name="名誉教授" />。
== 年譜 ==
* 1950年:2月13日、徳島県徳島市に生まれる{{sfn|中川|2020|p=28}}。
* 1956年:[[徳島市立助任小学校]]に入学{{sfn|中川|2020|p=29}}。
* 1958-59年:この頃に[[板野郡]][[北島町]]に転居し、[[北島町立北島小学校]]に転校する{{sfn|中川|2020|p=29}}。
* 1962年:[[北島町立北島中学校]]に入学<ref name="kitajima" />。
* 1965年:[[徳島県立城東高等学校]]に入学{{sfn|中川|2020|p=86}}。
* 1967年:『ここのつの友情』で『[[COM (雑誌)|COM]]』月例新人賞に佳作入選。
* 1968年:1月、『りんごの罪』が『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』の新人賞に佳作入選し、初めて掲載される。「かぎっこ集団」で『COM』月例新人賞受賞。4月、徳島大学教育学部(現・[[鳴門教育大学]])美術科に入学{{sfn|中川|2020|p=137}}。
* 1970年:5月、徳島大学を中退し、上京。10月、萩尾望都と同居。
* 1978年:『地球へ…』が第9回[[星雲賞]]コミック部門受賞。
* 1980年:『風と木の詩』『地球へ…』で、第25回[[小学館漫画賞]]を受賞。『地球へ…』がアニメ映画化。
* 1988年:[[角川書店]]より『竹宮惠子全集』(全44巻)を刊行。
* 2000年:[[京都精華大学]]マンガ学科の教授に就任。
* 2007年:『地球へ…』が[[テレビアニメ]]化。
* 2008年:京都精華大学マンガ学部の学部長に就任(〜2012年)。
* 2009年:[[手塚治虫文化賞]]選考委員に。
* 2012年:全作品と活動に対して、第41回[[日本漫画家協会賞]]の文部科学大臣賞を受賞。
* 2014年:京都精華大学学長に就任(任期は2014年4月1日から4年間)。
* 2014年:11月、秋の[[紫綬褒章]]を受章。
* 2015年:2月、第8期[[中央教育審議会]]委員に就任(〜2017年)。
* 2018年:4月、京都精華大学大学院マンガ研究科長・全学研究機構国際マンガ研究センター長。
* 2019年:3月、画業50周年を記念した巡回展「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」を開催<ref name="カレイドスコープ" /><ref name="50年" />。
* 2020年:3月に京都精華大学を定年退職、4月に京都精華大学名誉教授。
== 著作 ==
=== 漫画 ===
* 1967年
** ここのつの友情(『[[COM (雑誌)|COM]]』7月号)
** 弟(『COM』12月号)
* 1968年
** リンゴの罪(『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]正月号増刊』)
** かぎッ子集団(『COM』7月号)
* 1969年
** ゆびきり(『[[なかよし]]』1月号増刊)
** ルナの太陽(『なかよし』3月号)
** スーパーお嬢さん!(『[[月刊ファニー|ファニー]]』5 - 10月号)
** カップリングoh!(『ファニー』11月14日号)
** ギターと三味線(『ファニー』11月28日・12月12日・12月26日号)
* 1970年
** ラブバック(『なかよし』1月号)
** 人形おじさん(『なかよし』1月号増刊)
** あなたの好きな花(『ファニー』1月9日/23日合併号・2月13日・2月27日・3月13日・3月27日・4月10日・4月24日・5月8日/22日合併号)
** 白い水車小屋(『[[小説ジュニア]]』2月号)
** 女優入門(『[[少女コミック|週刊少女コミック]]』4号)
** アストロ ツイン(『なかよし』4 - 6月号)
** ある愛(『小説ジュニア』4月号増刊)
** [[森の子トール]](『週刊少女コミック』3 - 7号)
** ハートあげます(『別冊ファニー』7月号)
** Go!Stop!物語(『週刊少女コミック』15 - 20号)
** [[魔女はホットなお年頃]](『週刊少女コミック』24 - 37号、1971年1 - 10号)
** [[サンルームにて]](『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]』12月号、原題『雪と星と天使と…』)
* 1971年
** タムタム&ベベ(『週刊少女コミック』お正月増刊号)
** 雪の日に…(『週刊少女コミック』5号)
** [[空がすき!]]
*** 第1部(『週刊少女コミック』12 - 21号)
*** 第2部(『週刊少女コミック』1972年32 - 41号)
** おヤエさん(『週刊少女コミック』春の増刊号、原題は『女中ッ子』)
** ヒップに乾杯!(『別冊少女コミック』5月号)
** ここのつの友情(『週刊少女コミック』30号)
** トゥ・リップルくん(『週刊少女コミック』夏の増刊号)
** ナイーダ(『週刊少女コミック』37号)
** ガラスの迷路(『週刊少女コミック』41号)
** 星くずたちの夢(『週刊少女コミック』冬の増刊号)
* 1972年
** 暖炉(別冊少女コミックお正月増刊『[[フラワーコミック]]』)
** まるで春のように!(『週刊少女コミック』5号)
** ロベルティーノ!(『別冊少女コミック』3月号、原題『愛の調べにのせて〜ロベルティーノ!〜』)
** もうっ、きらい!(『週刊少女コミック』17号)
** リカちゃん(『幼稚園』3月号 - 1973年3月号)
** ほほえむ少年(別冊少女コミック8月号増刊『フラワーコミック』)
** ちいさい秋みつけた(別冊少女コミック10月号増刊『[[ちゃお]]』)
** ホットミルクはいかが?(『週刊少女コミック』52号)
* 1973年
** 春よ恋!(別冊少女コミック1月号増刊『ちゃお』)
** まほうつかいの弟子(『週刊少女コミック』6号)
** [[ウェディング・ライセンス|ウェディング・ライセンス-結婚許可証-]](『週刊少女コミック』14 - 33号)
** ガラス屋通りで(別冊少女コミック5月号増刊『ちゃお』)
** 20の昼と夜(『別冊少女コミック』8月号)
** ブラボー!ラ・ネッシー(『週刊少女コミック』41号)
** [[ロンド・カプリチオーソ|ロンド・カプリチオーソ-氷の旋律-]](『週刊少女コミック』44 - 52号、1974年1 - 13号)
* 1974年
** 七階からの手紙(『週刊少女コミック』16号)
** ジョージの日曜日(『週刊少女コミック』27号)
** Qの字塔(『花とゆめ』6号)
**つばめの季節(『[[花とゆめ]]』8月号)
** スター!(『週刊少女コミック』夏の増刊号)
** ヴィレンツ物語(『花とゆめ』9月号)
**[[ファラオの墓]](『週刊少女コミック』38 - 52号、1975年1 - 40・42 - 52号、1976年1 - 8号)
** 落葉の記(『空がすき!1巻』に描き下ろし)
* 1975年
** [[ジルベスターの星から]](『別冊少女コミック』3月号)
**
** 真夏の夜の夢(『別冊少女コミック』5月号)
** 扉はひらくいくたびも(『別冊少女コミック』7月号)
** 漫画狂の詩 [[楳図かずお]]伝(『[[週刊少年サンデー]]』8月5日号増刊)
** 椿(カメリア)館の三悪人(『別冊少女コミック』9月号)
** [[夏への扉 (漫画)|夏への扉]](『花とゆめ』19・20号)
** NOEL!-ノエル(『別冊少女コミック』11・12月号)
* 1976年
** ミスターの小鳥(別冊少女コミック1月号増刊『ちゃお』)
** ウィーン協奏曲(コンチェルト)(『[[りぼん|りぼんデラックス]]』冬の号)
** [[風と木の詩]](『週刊少女コミック』10 - 42・46 - 52号、1977年1 - 6・12 - 31・33 - 37・41 - 52号、1978年1 - 12・14・15 - 20・33 - 43号、1979年1 - 2・4 - 5・15 - 17号、1980年14 - 21号、『[[プチフラワー]]』1981年冬の号・春の号・初夏の号・夏の号・秋の号、1982年1 - 3・7月号 - 1983年9月号、1984年1 - 6月号)
*** 幸福の鳩(1991年 『海の天使』に描き下ろし)
** 『[[変奏曲シリーズ|変奏曲]]』シリーズ
*** ヴィレンツ物語(『花とゆめ』1974年9月号)
*** 変奏曲 エドアルド・ソルティーを記述する試み(『別冊少女コミック』3 - 5月号)
*** アンダルシア恋歌(マドリガル)(『[[月刊プリンセス]]』8・9月号)
*** 皇帝円舞曲(『週刊少女コミック』1977年8・9号)
*** VARIATION 変奏曲外伝(『[[COMIC JUN]]』1978年創刊号)
*** 変奏曲-ニーノ・アレクシスその旅路-(1979年『Passe Compose』に描き下ろし)
*** 変奏曲番外編 カノン([[ペーパームーン]]別冊『[[グレープフルーツ (雑誌)|グレープフルーツ]]』1981年創刊号)
*** 変奏曲番外編 カノン part.2-ニーノ・アレクシスその旅路-(『グレープフルーツ』1981年2号)
*** カノン(『グレープフルーツ』1982年7・8号、1985年20・24号)
** 会話 コミュニケーション(『[[LaLa]]』9月号)
*** 会話 PART.2(1990年『竹宮恵子全集24』に描き下ろし)
** アンドレア(『別冊少女コミック』10月号)
* 1977年
** [[地球へ…]](『月刊マンガ少年』〈第1部〉1 - 4月号〈第2部〉11・12月号、1978年1 - 4月号〈第3部〉1978年11・12月号、1979年1 - 3・5 - 7月号〈第4部〉1979年8 - 12月号、1980年1 - 5月号)
** パリ・ジュヌヴィエーブ通り人形館(『リリカ』3号)
** ランボーとヴェルレーヌのように(『[[女学生の友|JOTOMO]]』4月号)
** 皇帝円舞曲(『週刊少女コミック』8・9号)
** 薔薇色荘午後のお茶会(『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』6号)
** 銀色の五月雨の庭(『リリカ』8号)
** 心の扉をあけて(『リリカ』10号)
** 夢みるマーズポート(『SFファンタジア地上編』)
** [[姫くずし]]
*** 姫くずし(『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』)
*** 新橋の5分間 姫くずし PART.2(『[[JUNE (雑誌)|JUNE]]』1979年8月号)
*** 通りすがりに殺したい(『LaLa』1983年6月号)
*** ごめんね今夜は(『週刊少女コミック』1981年8号)
*** ザ・Shy-ing-限りなく孤独に-(1984年『LaLa』8月号)
*** ザ・Shy-ing2(1984年『LaLa』9月号)
*** ウィーク・ポイント(『LaLa』1985年8・9月号)
*** behind(『LaLa』1986年8・9月号)
*** Set Me Free(『LaLa』1987年2・3月号)
* 1978年
** [[集まる日,]](『別冊少女コミック』1月号)
** アウフ・ヴィーダーゼーエン(『LaLa』5 - 7月号)
** アルファルファくん奮闘す(『週刊少女コミック』24号)
** 砂時計-三つのSF世界-(週刊少女コミック6月30日号増刊『フラワーコミック』)
*** オルフェの遺言
*** 西暦2763年の童話
*** 夜は沈黙のとき
* 1979年
** いとこ同士(『週刊少女コミック』3号)
** 告白(『LaLa』10・11月号)
** そばかすの少年(『別冊少女コミック』11月号 - 1980年4月号)
* 1980年
** 決闘2108年(『[[週刊少年マガジン]]』39号、原作:[[光瀬龍]])
** 遙かなり夢のかなた(『[[プチフラワー]]』秋の号)
** [[アンドロメダ・ストーリーズ]](『[[マンガ少年|月刊マンガ少年]]』11月号 - 1981年5月号、『[[DUO (マンガ雑誌)|デュオ]]』創刊号・10月号 - 1982年11月号、原作:光瀬龍)
** ノルディスカ奏鳴曲(ソナタ)(『LaLa』12月号)
* 1981年
** [[私を月まで連れてって!]](1981年 - 1986年『[[ビッグコミックフォアレディ]]』『プチフラワー』)
*** 地球(テラ)フォーミング(『[[毎日新聞]]』2001年1月11日夕刊)
* 1982年
** [[イズァローン伝説]](『週刊少女コミック』5 - 13・16 - 24号、1983年1・6 - 18号、1984年2 - 10・17 - 23号、1985年1 - 3・8 - 19・22 - 24号、1986年1 - 6・8 - 14・17 - 24号、1987年5 - 20号)
** 黄昏の維納(『マンガ宝島』)
** ワン・ノート・サンバ(『[[ぶ〜け]]』5月号)
* 1983年
** 雪国(『綺譚』第5号)
** 夢狩人(『別冊少女コミック』8月号)
** エメレンティア(『ぶ〜け』9月号)
** L・O・V・I・N・G(『[[Seventeen (日本の雑誌)|週刊セブンティーン]]』45 - 52号)
* 1984年
** MIRAGE-空には天使-(『ぶ〜け』5月号)
** [[エデン2185]](『プチフラワー』11月号)
* 1985年
** 殺意の底(『プチフラワー』1月号)
** エデンの国境(『プチフラワー』3月号)
** ふる星のごとくに(『プチフラワー』4月号)
** 宇宙(うみ)に永遠(『プチフラワー』5月号)
** Something Coming(『[[月刊Asuka|ASUKA]]』創刊号)
** MIRAGE(『ぶ〜け』10月号)
** >5:00(アフターファイブ)REVOLUTION(『ASUKA』1985年12月号、1986年1 - 7・10 - 12月号、1988年1 - 4月号)
* 1986年
** ヴァージン・ラビット(『[[コミックバーズ|コミックバーガー]]』1・3号、1987年2・4・6・8号、『[[毎日グラフ]]別冊 活人』1985年1号)
* 1988年
** 真夜中のエンジェル・ベイビー(『ASUKA』5・6月号)
** 誰にもやらない(『LaLa』6・7月号)
** スパニッシュ・ハーレム(『ASUKA』8 - 12月号、1989年1 - 5・7 - 12月号、1990年1・2・4 - 11月号)
** そして、集まる日。(『竹宮恵子全集8』に描き下ろし)
* 1989年
** ギイチくんとヨシコさん(『[[Hanako]]』No.35)
** 嘘つきな真珠たち(『プチフラワー』3月号 - 9月号)
* 1990年
** 僕だけが知っている
*** 僕だけが知っている〈序〉(『[[月刊ASUKAファンタジーDX|ASUKA増刊号フレッシュ・ファンタジー]]』)
*** 僕だけが知っている(『[[月刊ASUKAファンタジーDX|ASUKA増刊号ファンタジーDX]]』1991年)
** 疾風のまつりごと(『プチフラワー』1990年7・9月号 - 1993年1月号)
* 1991年
** [[天馬の血族]](『ASUKA』1 - 7・9 - 12月号、1992年1 - 4・6 - 12月号、1993年1・4 - 11月号、1994年1 - 4・6 - 9・11・12月号、1995年1・2・4 - 7・9 - 12月号、1996年2 - 5・8 - 12月号、1997年1・3・4・6 - 12月号、1998年1 - 10月号、1999年1 - 12月号、2000年1・2月号)
*** 天空を見たことがある(1996年『ASUKA』7月号)
** 四神聖獣(『アリスブック1』に描き下ろし)
* 1992年
** りんたろうパニック!(『[[小学館の学年別学習雑誌|小学一年生]]』4月号 - 1993年3月号、『[[小学館の学年別学習雑誌|小学二年生]]』1993年4月号 - 1994年3月号、『小学1年生』1993年入学準備号 - 9・11月号 - 1994年2月号)
* 1994年
** 紅にほふ(『[[ビッグゴールド|月刊ビッグゴールド]]』11月号 - 1995年10月号)
* 1998年
** [[平家の落人#四国地方|平家落人伝説 まぼろしの旗]](『月刊ビッグゴールド』5 - 10月号)
** 平安情瑠璃物語(『プチフラワー』1998年11月号 - 1999年5月号)
* 2000年
** [[ブライトの憂鬱]](『[[MELODY (雑誌)|月刊メロディ]]』2000年10月号 - 2004年10・11月号)
** 回帰(『月刊メロディ』11月号)
* 2004年
** ☆KID(スター・キッド)の不毛な冒険(『[[月刊フラワーズ]]』12月号、2005年2・4・6・8・10月号)
* 2005年
** 時を往く馬(『月刊フラワーズ』2005年11月号 - 2006年2月号)
=== 画集 ===
* 時の少年-古い創作ノートより-(1977年 [[白泉社]]チェリッシュブック)
* ロックの絵本(1978年 白泉社チェリッシュブック・ピュア版)
* 竹宮恵子 自薦複製原画集(1978年 白泉社チャリッシュギャラリー豪華版)
** 音楽は心の言葉、絵は…(1981年 白泉社チャリッシュギャラリー軽装版)
** 少年のいる情景(1983年 白泉社チャリッシュギャラリー軽装版)
* Passe' Compose' -過去完了形-(1979年 [[駸々堂書店]])
* 竹宮恵子(1980年 トップ・レディ・カラー・シリーズ:[[朝日ソノラマ]])
* 鏡の国の少年たち(1980年 ペーパームーン叢書:[[新書館]])
* 竹宮恵子 扉絵コレクション 図録 Keikoの軌跡(1980年 白泉社)
* エメレンティア(1984年 白泉社チェリッシュ絵本館5)
* LE POEME DU VENT ET DES ARBRES 風と木の詩(1985年 小学館)
* 銀河少年 美少年幻視(新書館 1987年)
* 海の天使 CHERUBIN DE LA MER(1991年 [[角川書店]])
* 耽美イラスト美術館(1995年 [[JUNE (雑誌)|JUNE全集]]12:[[マガジン・マガジン]])
* 少年の詩 風と木の詩」厳選複製原画集(2016年 [[宝島社]])
* 竹宮惠子「風と木の詩」豪華画集(2018年 [[復刊ドットコム]])
=== エッセイ ===
* ハンガリアン狂詩曲(1984年『[[別冊LaLa]]』11月号)
* あしたのK子ちゃん(1992年『[[JUNE (雑誌)|JUNE]]』65 - 67・69・70・72 - 79・81 - 84号、『小説JUNE』77 - 86・89・91・93・95・101・103・105・107・109・111・113・115・117・119号)
* K子ちゃんの教授生活!?(2000年『プチフラワー』7月号 - 2002年5月号、『月刊flowers』2002年6月号 - 2004年6月号)
=== その他 ===
* 千夜一夜物語(1977年『[[寺山修司]]の千夜一夜 アラビアンナイト展』に描き下ろし)
* パリ・ジュヌビェーブ通り人形館(1977年『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』3号)
* 薔薇色荘午後のお茶会(1977年『リリカ』6号)
* 銀色の五月・雨の庭(1977年『リリカ』8号)
*『[[クラッシャージョウ#アニメ|クラッシャージョウ]]』(1983年、[[松竹富士]]系)※劇場版アニメ映画。スペシャル・デザイン
* SHONENTAI(1986年 [[少年隊]]ミニアルバム『WONDERLAND』に描き下ろし)
*『[[吾妻鏡]] マンガ日本の古典』(全3巻、1994-96年 [[中央公論新社|中央公論社]]、ワイド版2021年/[[中公文庫]]、2000年)
*『エルメスの道』(1997年 中央公論社、増補版2021年3月/中公文庫、2000年)
*『竹宮惠子のマンガ教室』(2001年 [[筑摩書房]])
*『マンガの脚本概論 京都精華大学の本』(2010年 [[角川学芸出版]])
*『[[竹と樹のマンガ文化論]]』(2014年12月 [[小学館新書]])※[[内田樹]]との共著
*『少年の名はジルベール』(2016年1月、小学館/小学館文庫、2019年) ※ 大泉サロンを中心にした自伝
*『竹宮惠子 カレイドスコープ』(2016年9月、新潮社・[[とんぼの本]]) ガイドブック
*『竹宮惠子 スタイル破りのマンガ術』(2019年5月、玄光社・プロのマンガテクニック)
*『扉はひらく いくたびも - 時代の証言者』(2021年3月、中央公論新社)聞き手 - 知野恵子
*『マンガノミカタ』(2021年10月、樹村房)[[こうの史代]]・[[吉村和真]]との共著
=== 挿画 ===
* [[アーシュラ・K・ル=グウィン]]
** 『辺境の惑星』(1978年 [[サンリオSF文庫]])
** 『ロカノンの世界』(1980年 サンリオSF文庫)
** 『幻影の都』(1981年 サンリオSF文庫)
** 『天のろくろ』(1984年 サンリオSF文庫)
* [[さだまさし]]『さだまさしイラスト詩集 やさしさの風景』(1978年 白泉社チェリッシュブック・ピュア版)
* [[栗本薫]](中島梓)
** 『真夜中の天使』上下巻(1979年 [[文藝春秋]])
** 『翼あるもの』上下巻(1981年 文藝春秋)
** 『美少年学入門』(1984年 [[新書館]])
* [[新井素子]]
** 『[[星へ行く船]]』(1980年、高一コース)
** 「星へ行く船」シリーズ全8巻(1981年 - 1992年、[[コバルト文庫]]、カバー絵)
* [[ジョージ・マクドナルド]]
** 『お姫さまとゴブリンの物語』(1985年 [[岩波少年文庫]])
** 『カーディとお姫さまの物語』(1986年 岩波少年文庫)
* [[辻真先]]『知床岬に夏は死ぬ』(1990年 [[C★NOVELS]])
* [[増山法恵|のりす・はーぜ]]
** 『神の子羊』全3巻(1992年・1993年・1994年 [[光風社出版]])
** 『永遠の少年』(1994年 [[角川ルビー文庫]])
* [[トマス・バーネット・スワン]]
** 『ミノタウロスの森』(1992年 [[ハヤカワ文庫]])
** 『幻獣の森』(1994年 ハヤカワ文庫)
* [[勝谷誠彦]]『いつか旅するひとへ』(2001年 [[講談社文庫]])
== メディア・ミックス ==
=== 映画 ===
* [[地球へ…]]:1980年、東映動画。
* [[夏への扉 (漫画)|夏への扉]]:1981年、スーパーハリウッド(スーパーウッド)。
=== テレビアニメ ===
* [[アンドロメダ・ストーリーズ]]:1982年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<!-- "24時間テレビ4 愛は地球を救う"内にて放送 -->。
* 地球へ…:2007年、[[毎日放送]]。
=== OVA ===
* [[風と木の詩]] SANCTUS-聖なるかな-:1987年、[[ポニー・キャニオン]]。
=== テレビドラマ ===
* [[魔女はホットなお年頃]]:1970年、ドラマのコミカライズ
== アシスタント ==
* [[村田順子]]
* [[花郁悠紀子]]
* [[佐藤史生]]
* [[原のり子]]
* [[たらさわみち]]
* [[伊東愛子]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=竹宮惠子 |date=2016-02-01 |title=少年の名はジルベール |publisher=小学館 |isbn=978-4-0938-8435-8 |ref={{sfnref|竹宮|2016}} }}※[[小学館文庫]]でも再刊。
* {{Cite book|和書|author=中川右介|authorlink=中川右介|title=萩尾望都と竹宮惠子 - 大泉サロンの少女マンガ革命|publisher=幻冬舎|series=幻冬舎新書|year=2020|ISBN=978-4-344-98586-5|ref={{sfnref|中川|2020}} }}
* {{wikicite |reference=竹宮惠子:マンガで革命を『[[読売新聞]]』朝刊投書面連載【時代の証言者】全27回(2020年5月23日-6月30日、休載日あり)|ref={{sfnref|竹宮|2020}} }}
* {{Cite book|和書|author=竹宮惠子|coauthors=知野恵子(聞き手)|ref={{sfnref|竹宮|2021}}|date=2021-03-23|title=扉はひらく いくたびも:時代の証言者|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-005412-9}}
* {{Cite book|和書|author1=竹宮恵子|author2=萩尾望都|authorlink2=萩尾望都|year=1980|title=少女マンガ家になれる本|publisher=二見書房|ref={{sfnref|竹宮|萩尾|1980}}|asin=B000J8B9BC}}
* {{Cite book|和書|author=河合隼雄|authorlink=河合隼雄|year=1988|ref={{sfnref|河合|1988}}|title=あなたが子どもだったころ 河合隼雄対談集|publisher=光村図書出版|isbn=4895280543}}
* {{Cite book|和書|editor1=ヤマダトモコ |editor2=金澤韻 |year=2008|title=少女マンガパワー!|publisher=川崎市市民ミュージアム|ref={{sfnref|少女マンガパワー!|2008}}}}※「少女マンガパワー! ―つよく・やさしく・うつくしく―展」図録
* {{Cite book|和書|author=萩尾望都 |title=一度きりの大泉の話 |date=2021-04-21 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-3090-2962-7 |ref={{sfnref|萩尾|2021}} }}
== 外部リンク ==
* {{Official website}}
* {{Twitter|trapro2017|竹宮惠子TAKEMIYA公式!}}
* [https://manba.co.jp/manba_magazines/7763 「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」トークイベント「マンガと向き合う50年」]
* [http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3757 漫画の未来のために種をまく|竹宮惠子インタビュー]
* {{YouTube|wvyopQ7PRC0|漫画家・竹宮惠子さん}}([[佐賀新聞社]]提供、2018年8月6日公開)
{{徳島県文化賞受賞者}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たけみや けいこ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:SF漫画家]]
[[Category:20世紀日本の女性教育者]]
[[Category:21世紀日本の女性教育者]]
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[[Category:京都精華大学の教員]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:徳島県立城東高等学校出身の人物]]
[[Category:徳島県出身の人物]]
[[Category:1950年生]]
[[Category:存命人物]]
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逆元
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逆元 (ぎゃくげん、英: inverse element)とは、数学(とくに抽象代数学)において、数の加法に対する反数や乗法に関する逆数の概念の一般化で、直観的には与えられた元に結合してその効果を「打ち消す」効果を持つ元のことである。逆元のきちんとした定義は、考える代数的構造によって少し異なるものがいくつか存在するが、群を考える上ではそれらの定義する概念は同じものになる。
集合 M は二項演算 • をもつ代数系すなわちマグマで、 e は (M, •) の単位元とする。すなわち (M, •, e) は単位的マグマであるとする。M の元 a, b に対して a • b = e となるとき、a を演算 • と単位元 e に関する b の左逆元 (left inverse), b を演算 • 単位元 e に関する a の右逆元 (right inverse) という。またこのとき、b は左可逆、aは右可逆であるという。M の元 x に対して、M の元 y で x の左逆元かつ右逆元であるようなものが存在するとき、つまり
が満たされるとき、y は演算 • と単位元 e に関する x の両側逆元 (two-sided inverse) あるいは単に逆元 (inverse) であるといい、x は M において可逆であるという。このとき、y も可逆であり、x は y の逆元になる。
単位的マグマ L の任意の元が可逆であるとき、L は単位的準群(ループ)であるという。
同様にして、マグマ (M, ∗) が複数の左単位元あるいは右単位元を持つとき、左逆元あるいは右逆元もそれらに応じて複数存在しうる(先の定義で用いた e は両側単位元であることに注意)。もちろん、いくつかの左または右単位元に関して左逆元かつ右逆元であるといったようなこともありうる。
代数系 (M, ∗) の演算 ∗ が結合的であるとき、M の元が左逆元と右逆元を両方とも持てばそれらは相等しく、したがってそれは逆元となる。言い換えれば、単位的半群において任意の元は高々一つ(この節にいう意味での)逆元を持つ。単位的半群における可逆元の全体は単元群と呼ばれる極大な部分群を成す。M の単元群は U(M) や H1 などと書かれる。
左可逆元は左消約的であり、右あるいは両側可逆についても同様である。
上述のマグマに対する定義は群における「単位元に対する逆元」の概念を一般化するものであった。それよりは少し判りづらいが、演算の結合性は仮定する(半群において考える)けれども、「単位元の存在を仮定しない」という形で逆元の概念を一般化するということも可能であり、ここではそのような定義を与える。
半群 S の元 x が(フォン・ノイマン)正則元 ([von Neumann] regular) であるとは、S の元 z で xzx = x を満たすものが存在することを言う。このときしばしば z は x の擬逆元 pseudo-inverse) と呼ばれる。S の元 y が xyx = x かつ y = yxy を満たすとき、y は単に x の逆元 (inverse) であるといわれる。x = xzx が成り立つとき、 y = zxz が x のここでいう意味での逆元となることは直ちに確かめられるから、したがって任意の正則元は少なくともひとつの逆元を持つ。もうひとつすぐに確かめられることは、y が x の逆元ならば e = xy および f = yx は冪等元、つまり ee = e およびff = f が成立すること、したがって互いに他の逆である元の対 (x, y) からふたつの冪等元が得られ、ex = xf = x, ye = fy = y が成立して、 e は左単位元として、一方 f は右単位元として x に作用すること、および左右を入れ替えて y についても同様のことが成り立つということである。このような簡単な視座はグリーンの関係式(英語版)によって一般化され、勝手な半群の任意の冪等元 e は Re における左単位元、および Le における右単位元となる。もうすこし直観的にいえば、この事実は互いに逆である任意の対から局所左単位元および局所右単位元が導かれるということである。
単位的半群において、前節で定義した意味での逆元の概念は本節におけるそれよりも真に狭い意味のものになっている。H1 の元は前節の単位的マグマの意味での逆元を持つのみであるが、その一方で任意の冪等元 e に対する He の元は本節における意味での逆元を持つ。この広い意味での逆元の定義では、かってな半群や単位的半群において逆元が一意である必要はない(し、存在するとも限らない)。任意の元が正則元であるような半群あるいは単位的半群は正則半群と呼ばれ、任意の元が少なくとも一つの逆元を持つ。また、任意の元が本節に言う意味での逆元をちょうどひとつだけ持つような半群は逆半群という。そして、ただひとつの冪等元を持つ逆半群は群である。逆半群は吸収元 0 を持つことがあるが、(もしあれば 000 = 0 を満たすから)群ではそのような元は存在しない。
半群論以外の文脈では、本節にいう意味の逆元がただひとつ存在するとき、それを擬似逆元あるいは準逆元 (quasi-inverse) と呼ぶことがある。このことは(本項で扱う例などのような)多くの応用において、結合性が満足され、この概念を単位元に関する(左、右)逆元の一般化と見ることができることから正当化される。
逆半群の自然な一般化は、S の任意の元 a に対して、(a°)° = a となるような勝手な単項演算 "°" を定義することである。これは S に ⟨2,1⟩-型の算号系を持つ代数系の構造を与える。このような単項演算を備えた半群は U-半群と呼ばれる。a° は a の逆元をあらわしているようにも見えるが、いまは必ずしもそうでなくてよい。意味のある概念を得るためには、この単項演算は半群の演算と何らかの形で関わりを持つようにする必要がある。よく調べられている U-半群のクラスに
のふたつがある。群が I-半群にも ∗-半群にもなることは明らかである。I-半群にも ∗-半群にもなるような構造というのがちょうど逆半群の構造である。半群論における重要な半群のクラスは、I-半群であってさらに関係式 aa° = a°a も成立する(言い換えれば、任意の元 a が a° を自身と交換可能な擬逆元として持つ)完備正則半群(英語版) である。このような半群の具体的な例は少ないが、そのほとんどは完全単純半群(英語版)である。翻って、∗-半群の重要なクラスは、正則 ∗-半群であり、このクラスの唯一つの擬逆元を持つ最もよく知られた例はおそらくムーア・ペンローズ擬似逆行列である。ただし、この場合の対合 a は擬逆行列ではない。もっと言えば、行列 x の擬逆行列は xyx = x, yxy = y, (xy) = xy, (yx) = yx をすべて満たす唯一の元 y である。正則 ∗-半群は逆半群の一般化であるから、このように定まる正則 ∗-半群の唯一の元は一般化逆元 (generalized inverse) あるいはペンローズ・ムーア逆元 (Penrose-Moore inverse) と呼ばれる。正則 ∗-半群 S において「S の任意の元 a に対して aa および aa が F(S) に属すような逆元 a がちょうどひとつ存在する」となるような、Pシステム(英語版)と呼ばれる冪等元からなるとくべつな部分集合 F(S) を考えることができる。
個々での例はどれも結合演算に関するものである。したがって単位的マグマに対する左・右逆元と、一般の場合の準逆元を考えることができる。
x が実数なら、x は実数の加法に関する逆元(加法的逆元、反数) −x を必ず持つ。0 でない実数 x の乗法に関する逆元(乗法的逆元) 1⁄x は逆数と呼ばれる。これに対して、x = 0 は乗法的逆元を持たない元であるが、0 は 0 自身を唯一の準逆元として持つ。
写像 g が(写像の合成に関する)左(あるいは右)逆写像 f であるのは
を満たすことをいう。ここで iddom f および idcodom f はそれぞれ f の始域 (domain) および終域 (codomain) 上の恒等写像である。写像 f の逆写像はしばしば f で表される。写像が両側逆写像をもつのは全単射のときであり、かつそのときに限るが、「どんな」写像でも準逆写像は存在する。したがって全変換半群は正則半群である。ある集合上の部分写像全体の成す単位的半群もやはり正則である。これに対して、単射部分変換全体の成す単位的半群は逆半群の原型的な例を与える。
(単調)ガロア接続 における下随伴と上随伴 L および G は互いに準逆元である。すなわち、LGL = L かつ GLG = G であって、一方は他方を一意的に決定する。しかし、これらは互いに左逆元にも右逆元にもならない。
体 K に成分を持つ正方行列 M が可逆であるのはその行列式が 0 以外であるときであり、かつそのときに限る。M の行列式が 0 ならば M は(左または右逆元のうち一方が存在すれば、それは他方の存在を導くから)片側逆元を持つことも不可能である(詳細は正則行列を参照)。もっと一般に、可換環 R 上の正方行列が可逆であるための必要十分条件は、その行列式が R の可逆元であることである。
階数落ちしていない (full-rank) 非正方行列は片側逆元を持つ。
階数落ち (rank-deficient) 行列は逆元も片側逆元も持たない。しかし, ムーア・ペンローズ擬逆行列は任意の行列に対して存在して、(左、右)逆元が存在する場合には擬逆行列はそれと一致する。
行列の逆元の例を挙げる。m < n なる m × n 行列として、2 × 3 行列
を考えよう。サイズに関する仮定から右逆元
が存在する。これを実際に計算すると、
を得る。左逆元は存在しない。実際
これは非正則行列なので逆を持たない。
また、必ずしも乗法単位元を持たない結合環 (K, +, 0, ×) において、擬乗法と呼ばれる演算
を考えたとき、擬乗法に関する単位元は加法の単位元と同じ零元 0 であり、
が満たされるときの x を y の左擬逆元、y を x の右擬逆元とよぶ。x が左擬可逆かつ右擬可逆ならば、x は擬正則であるという。K が通常の乗法に関して単位元 1 をもつとき、
となるので、x の擬正則であることと 1 − x が通常の意味での乗法に関して可逆であることとが同値になる。
局所環の項も参照
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"text": "単位的マグマ L の任意の元が可逆であるとき、L は単位的準群(ループ)であるという。",
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"text": "半群 S の元 x が(フォン・ノイマン)正則元 ([von Neumann] regular) であるとは、S の元 z で xzx = x を満たすものが存在することを言う。このときしばしば z は x の擬逆元 pseudo-inverse) と呼ばれる。S の元 y が xyx = x かつ y = yxy を満たすとき、y は単に x の逆元 (inverse) であるといわれる。x = xzx が成り立つとき、 y = zxz が x のここでいう意味での逆元となることは直ちに確かめられるから、したがって任意の正則元は少なくともひとつの逆元を持つ。もうひとつすぐに確かめられることは、y が x の逆元ならば e = xy および f = yx は冪等元、つまり ee = e およびff = f が成立すること、したがって互いに他の逆である元の対 (x, y) からふたつの冪等元が得られ、ex = xf = x, ye = fy = y が成立して、 e は左単位元として、一方 f は右単位元として x に作用すること、および左右を入れ替えて y についても同様のことが成り立つということである。このような簡単な視座はグリーンの関係式(英語版)によって一般化され、勝手な半群の任意の冪等元 e は Re における左単位元、および Le における右単位元となる。もうすこし直観的にいえば、この事実は互いに逆である任意の対から局所左単位元および局所右単位元が導かれるということである。",
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"text": "単位的半群において、前節で定義した意味での逆元の概念は本節におけるそれよりも真に狭い意味のものになっている。H1 の元は前節の単位的マグマの意味での逆元を持つのみであるが、その一方で任意の冪等元 e に対する He の元は本節における意味での逆元を持つ。この広い意味での逆元の定義では、かってな半群や単位的半群において逆元が一意である必要はない(し、存在するとも限らない)。任意の元が正則元であるような半群あるいは単位的半群は正則半群と呼ばれ、任意の元が少なくとも一つの逆元を持つ。また、任意の元が本節に言う意味での逆元をちょうどひとつだけ持つような半群は逆半群という。そして、ただひとつの冪等元を持つ逆半群は群である。逆半群は吸収元 0 を持つことがあるが、(もしあれば 000 = 0 を満たすから)群ではそのような元は存在しない。",
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"text": "半群論以外の文脈では、本節にいう意味の逆元がただひとつ存在するとき、それを擬似逆元あるいは準逆元 (quasi-inverse) と呼ぶことがある。このことは(本項で扱う例などのような)多くの応用において、結合性が満足され、この概念を単位元に関する(左、右)逆元の一般化と見ることができることから正当化される。",
"title": "厳密な定義"
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"text": "逆半群の自然な一般化は、S の任意の元 a に対して、(a°)° = a となるような勝手な単項演算 \"°\" を定義することである。これは S に ⟨2,1⟩-型の算号系を持つ代数系の構造を与える。このような単項演算を備えた半群は U-半群と呼ばれる。a° は a の逆元をあらわしているようにも見えるが、いまは必ずしもそうでなくてよい。意味のある概念を得るためには、この単項演算は半群の演算と何らかの形で関わりを持つようにする必要がある。よく調べられている U-半群のクラスに",
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"text": "また、必ずしも乗法単位元を持たない結合環 (K, +, 0, ×) において、擬乗法と呼ばれる演算",
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"text": "が満たされるときの x を y の左擬逆元、y を x の右擬逆元とよぶ。x が左擬可逆かつ右擬可逆ならば、x は擬正則であるという。K が通常の乗法に関して単位元 1 をもつとき、",
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逆元 とは、数学(とくに抽象代数学)において、数の加法に対する反数や乗法に関する逆数の概念の一般化で、直観的には与えられた元に結合してその効果を「打ち消す」効果を持つ元のことである。逆元のきちんとした定義は、考える代数的構造によって少し異なるものがいくつか存在するが、群を考える上ではそれらの定義する概念は同じものになる。
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'''逆元''' (ぎゃくげん、{{Lang-en-short|''inverse element''}})とは、[[数学]](とくに[[抽象代数学]])において、数の[[加法]]に対する[[反数]]や[[乗法]]に関する[[逆数]]の概念の一般化で、直観的には与えられた元に結合してその効果を「打ち消す」効果を持つ元のことである。逆元のきちんとした定義は、考える[[代数的構造]]によって少し異なるものがいくつか存在するが、[[群 (数学)|群]]を考える上ではそれらの定義する概念は同じものになる。
== 厳密な定義 ==
=== 単位的マグマの場合 ===
[[集合]] ''M'' は[[二項演算]] • をもつ[[代数系]]すなわち[[マグマ (数学)|マグマ]]で、 ''e'' は (''M'', •) の[[単位元]]とする。すなわち (''M'', •, ''e'') は[[単位的マグマ]]であるとする。''M'' の元 ''a'', ''b'' に対して ''a'' • ''b'' = ''e'' となるとき、''a'' を演算 • と単位元 ''e'' に関する ''b'' の'''左逆元''' {{lang|en|(''left inverse'')}}, ''b'' を演算 • 単位元 ''e'' に関する ''a'' の'''右逆元''' {{lang|en|(''right inverse'')}} という。またこのとき、''b'' は'''左可逆'''、''a''は'''右可逆'''であるという。''M'' の元 ''x'' に対して、''M'' の元 ''y'' で ''x'' の左逆元かつ右逆元であるようなものが存在するとき、つまり
: ''x'' • ''y'' = ''y'' • ''x'' = ''e''
が満たされるとき、''y'' は演算 • と単位元 ''e'' に関する ''x'' の'''両側逆元''' {{lang|en|(''two-sided inverse'')}} あるいは単に'''逆元''' {{lang|en|(''inverse'')}} であるといい、''x'' は ''M'' において[[可逆元|可逆]]であるという。このとき、''y'' も可逆であり、''x'' は ''y'' の逆元になる。
単位的マグマ ''L'' の任意の元が'''可逆'''であるとき、''L'' は[[単位的準群]](ループ)であるという。
同様にして、マグマ (''M'', ∗) が複数の左単位元あるいは右単位元を持つとき、左逆元あるいは右逆元もそれらに応じて複数存在しうる(先の定義で用いた ''e'' は両側単位元であることに注意)。もちろん、いくつかの左または右単位元に関して左逆元かつ右逆元であるといったようなこともありうる。
代数系 (''M'', ∗) の演算 ∗ が[[結合法則|結合的]]であるとき、''M'' の元が左逆元と右逆元を両方とも持てばそれらは相等しく、したがってそれは逆元となる。言い換えれば、[[単位的半群]]において任意の元は高々一つ(この節にいう意味での)逆元を持つ。単位的半群における可逆元の全体は[[単元群]]と呼ばれる極大な[[部分群]]を成す。''M'' の単元群は ''U''(''M'') や ''H''<sub>1</sub> などと書かれる。
左可逆元は左[[簡約律|消約的]]であり、右あるいは両側可逆についても同様である。
=== 半群の場合 ===
{{main|正則半群}}
上述のマグマに対する定義は群における「単位元に対する逆元」の概念を一般化するものであった。それよりは少し判りづらいが、演算の[[結合律|結合性]]は仮定する([[半群]]において考える)けれども、「単位元の存在を仮定しない」という形で逆元の概念を一般化するということも可能であり、ここではそのような定義を与える。
半群 ''S'' の元 ''x'' が('''フォン・ノイマン''')'''正則元''' {{lang|en|([''von Neumann''] ''regular'')}} であるとは、''S'' の元 ''z'' で ''xzx'' = ''x'' を満たすものが存在することを言う。このときしばしば ''z'' は ''x'' の'''擬逆元''' {{lang|en|''pseudo-inverse'')}} と呼ばれる。''S'' の元 ''y'' が ''xyx'' = ''x'' かつ ''y'' = ''yxy'' を満たすとき、''y'' は単に ''x'' の'''逆元''' {{lang|en|(inverse)}} であるといわれる。''x'' = ''xzx'' が成り立つとき、 ''y'' = ''zxz'' が ''x'' のここでいう意味での逆元となることは直ちに確かめられるから、したがって任意の正則元は少なくともひとつの逆元を持つ。もうひとつすぐに確かめられることは、''y'' が ''x'' の逆元ならば ''e'' = ''xy'' および ''f'' = ''yx'' は[[冪等元]]、つまり ''ee'' = ''e'' および''ff'' = ''f'' が成立すること、したがって互いに他の逆である元の対 (''x'', ''y'') からふたつの冪等元が得られ、''ex'' = ''xf'' = ''x'', ''ye'' = ''fy'' = ''y'' が成立して、 ''e'' は左単位元として、一方 ''f'' は右単位元として ''x'' に作用すること、および左右を入れ替えて ''y'' についても同様のことが成り立つということである。このような簡単な視座は{{仮リンク|グリーンの関係式|en|Green's relations}}によって一般化され、勝手な半群の任意の冪等元 ''e'' は ''R''<sub>''e''</sub> における左単位元、および ''L''<sub>''e''</sub> における右単位元となる<ref>Howie, prop. 2.3.3, p. 51</ref>。もうすこし直観的にいえば、この事実は互いに逆である任意の対から局所左単位元および局所右単位元が導かれるということである。
単位的半群において、前節で定義した意味での逆元の概念は本節におけるそれよりも真に狭い意味のものになっている。[[グリーンの関係式|''H''<sub>1</sub>]] の元は前節の単位的マグマの意味での逆元を持つのみであるが、その一方で任意の冪等元 ''e'' に対する ''H''<sub>''e''</sub> の元は本節における意味での逆元を持つ。この広い意味での逆元の定義では、かってな半群や単位的半群において逆元が一意である必要はない(し、存在するとも限らない)。任意の元が正則元であるような半群あるいは単位的半群は[[正則半群]]と呼ばれ、任意の元が少なくとも一つの逆元を持つ。また、任意の元が本節に言う意味での逆元をちょうどひとつだけ持つような半群は[[逆半群]]という。そして、ただひとつの冪等元を持つ逆半群は[[群 (数学)|群]]である。逆半群は[[吸収元]] 0 を持つことがあるが、(もしあれば 000 = 0 を満たすから)群ではそのような元は存在しない。
半群論以外の文脈では、本節にいう意味の逆元がただひとつ存在するとき、それを擬似逆元あるいは'''準逆元''' {{lang|en|(''quasi-inverse'')}} と呼ぶことがある。このことは(本項で扱う例などのような)多くの応用において、結合性が満足され、この概念を単位元に関する(左、右)逆元の一般化と見ることができることから正当化される。
=== 作用付き半群 ===
逆半群の自然な一般化は、''S'' の任意の元 ''a'' に対して、(''a''°)° = ''a'' となるような勝手な単項演算 "°" を定義することである。これは ''S'' に ⟨2,1⟩-型の算号系を持つ代数系の構造を与える。このような単項演算を備えた半群は ''U''-'''半群'''と呼ばれる。''a''° は ''a'' の逆元をあらわしているようにも見えるが、いまは必ずしもそうでなくてよい。意味のある概念を得るためには、この単項演算は半群の演算と何らかの形で関わりを持つようにする必要がある。よく調べられている ''U''-半群のクラスに
* ''I''-'''半群''': 単項演算 "°" と半群演算との相互関係式を ''aa''°''a'' = ''a'' で与えたもの、
* [[対合付き半群|∗-'''半群''']]: 単項演算 "°" と半群演算との相互関係式を (''ab'')° = ''b''°''a''° で与えたもの。このような単項演算は[[対合]]と呼ばれ、しばしば "∗" で表される。
のふたつがある。群が ''I''-半群にも ∗-半群にもなることは明らかである。''I''-半群にも ∗-半群にもなるような構造というのがちょうど逆半群の構造である。半群論における重要な半群のクラスは、''I''-半群であってさらに関係式 ''aa''° = ''a''°''a'' も成立する(言い換えれば、任意の元 ''a'' が ''a''° を自身と交換可能な擬逆元として持つ){{仮リンク|完備正則半群|en|completely regular semigroup}} である。このような半群の具体的な例は少ないが、そのほとんどは{{仮リンク|完全単純半群|en|completely simple semigroup}}である。翻って、∗-半群の重要なクラスは、[[対合付き正則半群|正則 ∗-半群]]であり、このクラスの唯一つの擬逆元を持つ最もよく知られた例はおそらく[[ムーア・ペンローズ擬似逆行列]]である。ただし、この場合の対合 ''a''<sup>∗</sup> は擬逆行列ではない。もっと言えば、行列 ''x'' の擬逆行列は ''xyx'' = ''x'', ''yxy'' = ''y'', (''xy'')<sup>∗</sup> = ''xy'', (''yx'')<sup>∗</sup> = ''yx'' をすべて満たす唯一の元 ''y'' である。正則 ∗-半群は逆半群の一般化であるから、このように定まる正則 ∗-半群の唯一の元は'''一般化逆元''' {{lang|en|(''generalized inverse'')}} あるいは'''ペンローズ・ムーア逆元''' {{lang|en|(''Penrose-Moore inverse'')}} と呼ばれる。正則 ∗-半群 ''S'' において「''S'' の任意の元 ''a'' に対して ''aa''<sup>∗</sup> および ''a''<sup>∗</sup>''a'' が ''F''(''S'') に属すような逆元 ''a''<sup>∗</sup> がちょうどひとつ存在する」となるような、{{仮リンク|Pシステム|en|P-system}}と呼ばれる冪等元からなるとくべつな部分集合 ''F''(''S'') を考えることができる。
== 例 ==
個々での例はどれも結合演算に関するものである。したがって単位的マグマに対する左・右逆元と、一般の場合の準逆元を考えることができる。
=== 実数の逆元・準逆元 ===
''x'' が実数なら、''x'' は実数の加法に関する逆元(加法的逆元、[[反数]]) −''x'' を必ず持つ。0 でない実数 ''x'' の乗法に関する逆元(乗法的逆元) {{fraction|1|''x''}} は[[逆数]]と呼ばれる。これに対して、''x'' = 0 は乗法的逆元を持たない元であるが、0 は 0 自身を唯一の準逆元として持つ。
=== 写像・部分写像の逆元 ===
写像 ''g'' が([[写像の合成]]に関する)左(あるいは右)[[逆写像]] ''f'' であるのは
: <math>g \circ f = \text{id}_{\operatorname{dom}f} \quad [\text{resp. }f \circ g = \text{id}_{\operatorname{codom}f}]</math>
を満たすことをいう。ここで id<sub>dom ''f''</sub> および id<sub>codom ''f''</sub> はそれぞれ ''f'' の[[始域]] {{lang|en|(domain)}} および[[終域]] {{lang|en|(codomain)}} 上の[[恒等写像]]である。写像 ''f'' の逆写像はしばしば ''f''<sup>−1</sup> で表される。写像が両側逆写像をもつのは[[全単射]]のときであり、かつそのときに限るが、「どんな」写像でも準逆写像は存在する。したがって[[全変換半群]]は[[正則半群]]である。ある集合上の[[部分写像]]全体の成す単位的半群もやはり正則である。これに対して、[[対称逆半群|単射部分変換全体の成す単位的半群]]は[[逆半群]]の原型的な例を与える。
=== ガロア接続 ===
(単調)[[ガロア接続]] における下随伴と上随伴 ''L'' および ''G'' は互いに準逆元である。すなわち、''LGL'' = ''L'' かつ ''GLG'' = ''G'' であって、一方は他方を一意的に決定する。しかし、これらは互いに左逆元にも右逆元にもならない。
=== 逆行列・擬逆行列 ===
[[可換体|体]] ''K'' に成分を持つ[[正方行列]] ''M'' が可逆であるのはその[[行列式]]が<u> 0 以外</u>であるときであり、かつそのときに限る。''M'' の行列式が 0 ならば ''M'' は(左または右逆元のうち一方が存在すれば、それは他方の存在を導くから)片側逆元を持つことも不可能である(詳細は[[正則行列]]を参照)。もっと一般に、[[可換環]] ''R'' 上の正方行列が可逆であるための必要十分条件は、その行列式が ''R'' の[[可逆元]]であることである。
[[フルランク行列|階数落ちしていない]] {{lang|en|(full-rank)}} 非正方行列は片側逆元を持つ<ref>[http://ocw.mit.edu/OcwWeb/Mathematics/18-06Spring-2005/VideoLectures/detail/lecture33.htm MIT Professor Gilbert Strang Linear Algebra Lecture #33 - Left and Right Inverses; Pseudoinverse.]</ref>。
* 行列 ''A'' が ''m'' × ''n'' 行列で ''m'' > ''n'' のとき、<div style="margin: 1ex auto 1ex 2em"><math>\underbrace{ (A^{\intercal}A)^{-1}A^{\intercal} }_{ A^{-1}_\text{left} } A = I_{n}</math></div>となり、左逆元(左逆行列)が存在する。
* 行列 ''A'' が ''m'' × ''n'' 行列で ''m'' < ''n'' のとき、<div style="margin: 1ex auto 1ex 2em"><math> A \underbrace{ A^{\intercal}(AA^{\intercal})^{-1} }_{ A^{-1}_\text{right} } = I_{m} </math></div>となり、右逆元(右逆行列)が存在する。
階数落ち {{lang|en|(rank-deficient)}} 行列は逆元も片側逆元も持たない。しかし, ムーア・ペンローズ[[擬逆行列]]は任意の行列に対して存在して、(左、右)逆元が存在する場合には擬逆行列はそれと一致する。
行列の逆元の例を挙げる。''m'' < ''n'' なる ''m'' × ''n'' 行列として、2 × 3 行列
: <math>A = \begin{bmatrix}1 & 2 & 3 \\4 & 5 & 6\end{bmatrix}</math>
を考えよう。サイズに関する仮定から右逆元
: <math>A^{-1}_\text{right} = A^{\intercal}(AA^{\intercal})^{-1}</math>
が存在する。これを実際に計算すると、
:<math>\begin{align}A^{-1}_\text{right}
& = A^{\intercal}(AA^{\intercal})^{-1}
= \begin{bmatrix}1 & 4\\2 & 5\\3 & 6\end{bmatrix}\left(
\begin{bmatrix}1 & 2 & 3 \\4 & 5 & 6\end{bmatrix}
\begin{bmatrix} 1 & 4\\2 & 5\\3 & 6\end{bmatrix}
\right)^{\!\!\!-1} \\[10pt]
& = \begin{bmatrix}1 & 4\\2 & 5\\3 & 6\end{bmatrix}
\begin{bmatrix}14 & 32\\32 & 77\end{bmatrix}^{-1}
= \frac{1}{54} \begin{bmatrix}1 & 4\\2 & 5\\3 & 6\end{bmatrix}
\begin{bmatrix}77 & -32\\-32 & 14\end{bmatrix}
= \frac{1}{18}\begin{bmatrix}-17 & 8\\-2 & 2\\13 & -4\end{bmatrix}
\end{align}</math>
を得る。左逆元は存在しない。実際
: <math> A^{\intercal}A
= \begin{bmatrix}1 & 4\\2 & 5\\3 & 6\end{bmatrix}
\begin{bmatrix}1 & 2 & 3 \\4 & 5 & 6\end{bmatrix}
=\begin{bmatrix}17 & 22 & 27 \\22 & 29 & 36\\27 & 36 & 45\end{bmatrix}
</math>
これは非正則行列なので逆を持たない。
== 環の擬乗法 ==
{{main|ジャコブソン根基}}
また、必ずしも乗法単位元を持たない結合環 (''K'', +, 0, ×) において、擬乗法と呼ばれる演算
: <math>x*y = x + y - xy</math>
を考えたとき、擬乗法に関する単位元は加法の単位元と同じ[[零元]] 0 であり、
: <math>x*y = 0</math>
が満たされるときの ''x'' を ''y'' の左擬逆元、''y'' を ''x'' の右擬逆元とよぶ。''x'' が左擬可逆かつ右擬可逆ならば、''x'' は擬正則であるという。''K'' が通常の乗法に関して単位元 1 をもつとき、
: <math>x*y = x + y - xy\iff (1-x)(1-y)=1-x*y</math>
となるので、''x'' の擬正則であることと 1 − ''x'' が通常の意味での乗法に関して可逆であることとが同値になる。
[[局所環]]の項も参照
== 注記 ==
<references />
== 参考文献 ==
* M. Kilp, U. Knauer, A.V. Mikhalev, ''Monoids, Acts and Categories with Applications to Wreath Products and Graphs'', De Gruyter Expositions in Mathematics vol. 29, Walter de Gruyter, 2000, ISBN 3110152487, p. 15 (def in unital magma) and p. 33 (def in semigroup)
*{{cite book|last= Howie|first= John M.|title=Fundamentals of Semigroup Theory|year=1995|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Clarendon Press]]|isbn=0-19-851194-9}} contains all of the semigroup material herein except *-regular semigroups.
* Drazin, M.P., ''Regular semigroups with involution'', Proc. Symp. on Regular Semigroups (DeKalb, 1979), 29-46
* Miyuki Yamada, ''P-systems in regular semigroups'', Semigroup Forum, 24(1), December 1982, pp. 173-187
* {{cite book|和書|author=田村孝行|title=半群論|publisher=共立出版|year=1972|series=共立講座 現代の数学}}
== 関連項目 ==
* [[逆写像]]
* [[逆数]]
* [[ゼロ除算]]
* {{仮リンク|単位的準群|en|loop (algebra)}}
* [[斜体_(数学)|斜体]]
* [[可逆元]]
*[[吸収元]]
{{DEFAULTSORT:きやくけん}}
[[Category:代数的構造]]
[[Category:二項演算]]
[[Category:数学に関する記事]]
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漫☆画太郎
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漫☆画太郎(まん がたろう)は、日本の漫画家。ペンネーム表記は不定で、漫☆画太郎(☆の中にF、あるいは、☆の中にバカ)、漫$画太郎、漫¥画太郎、漫☠餓太狼(ドクロマーク)、漫🍑画太郎、漫♡画太郎、画太郎、MAN☆GATARO(☆の中にF)、もろぼししんいち、TEN☆GA太郎、漫F画太郎、SLAMP(スランプ)、まん○画太郎、ガタロー☆マンなどもある。
1990年に『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載された『人間なんてラララ』でデビュー。同誌で『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』『まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜』を連載し、話題となる。
1990年、『人間なんてラララ』で『週刊少年ジャンプ』の第1回GAGキングを受賞。同年、同誌に掲載されデビュー。『地獄甲子園』および短編をオムニバス形式にした『ババアゾーン』が映画化、2009年には『地獄甲子園』、『世にも奇妙な漫☆画太郎』、『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』の各作品がFLASHアニメとしてDVD化されている。
デビューから現在に至るまで一貫してナンセンスギャグ漫画を描いている。キャラクターの首が千切れ飛んだり、車に轢かれて潰されたりする暴力的・グロテスクな描写、脱糞、嘔吐などの下ネタを多用する過激な作風が特徴。スクリーントーンをほとんど使用せず、描画は荒いが、『まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜』の主人公「娘々(にゃんにゃん)」のような可愛いらしいキャラクターも時々登場する。平気で以前の話をなかったことにするストーリー展開、既存の漫画・ドラマのパロディやメタフィクションギャグ、1ページから見開き2ページを使った大ゴマ、コピー機を購入した嬉しさから多用するようになった通称“コピーギャグ”(バンクシステムの一種)も定番である。
自ら連載途中で打ち切りへ持っていくような展開も多く、まともに完結を迎えた作品は少ない。実際、画太郎本人も自身が大の連載嫌いであることを単行本の巻末コメントで明らかにし、最終話のタイトルを「打ち切り」にするなど、それ自体をギャグにすることもある。
2013年9月21日には、千葉ロッテマリーンズから同球団とのコラボグッズが販売された。その後完売したため、10月12日に一部商品を販売している。
2014年8月14日 - 8月26日に、自身初の個展となる「漫☆個展」をpixiv Zingaro(中野ブロードウェイ内)にて開催する。
2020年11月27日 、日本の昔話を独自に解釈した絵本を「笑本(えほん)」として、ガタロー☆マン名義でシリーズ刊行することを発表。第1弾は『ももたろう』。
2021年9月、画業30周年突破を記念してババアのグラビアなども収録された初の画集『画業30周年記念 漫☆画臭』を刊行。同年12月、ガタロー☆マン名義で執筆した『笑本 おかしばなし1 ももたろう』で、「第14回MOE絵本屋さん大賞2021」の新人賞第1位を受賞。
藤子不二雄のファンで、『まんが道』を読んでマンガ家を志したという。また、画太郎の作品である『珍遊記』の作中で『まんが道』のパロディマンガを描いたこともある。藤子不二雄A自身も画太郎に直筆メッセージを送ったことがある。
原哲夫のファンで、原に出会った際興奮して自分のサイン色紙を無理やり渡したという。また宮崎駿のファンで、「GAGキング」に投稿した経緯も「宮崎駿氏の研修生に落ちた腹いせに集英社に落書きを送った」と述べている。『Quick Japan』誌のインタビューでは好きな作品に『となりのトトロ』『風の谷のナウシカ』をあげている。また武田鉄矢や海援隊、テレビドラマ『101回目のプロポーズ』を好む。
電気グルーヴのファンである。画太郎は『電気グルーヴのオールナイトニッポン』のリスナーであり、番組で行った漫画家からのFAX募集企画にFAXを送って紹介されたことからつながりができる。『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』で長編デビューを飾った当初から番組内で石野卓球とピエール瀧は画太郎の才能を大絶賛しており、画太郎も『珍遊記』最終回には実名で2人を模したキャラクターを登場させた(新装版では名前が差し替えられている)。また、ピエール瀧を原作に据えた『虐殺! ハートフルカンパニー』『樹海少年ZOO1』も後に発表している。
1989年の第1回GAGキング受賞時は神奈川県在住の17歳で、両親に内緒で作品を描いたことと、受験生であることを明かしている。
素顔や詳細なプロフィールはほとんど公表していない。特にデビュー当初はその正体について様々な憶測を呼んだ。同業者の天久聖一は、一時期『電気グルーヴのオールナイトニッポン』の常連ハガキ職人「ビニールおっぱい」と同一人物ではないかという説を唱えていた。
一般に公開される画太郎のプロフィールも取材や作品紹介の度に異なることが多い。1957年生、あるいは生年不明・性別・出身地不明など様々であり、実際のプロフィールは定かではない。2011年発売の『週刊朝日』増刊の甲子園展望号では、同年初出場を果たした山口代表・柳井学園の欄に同校卒業生と紹介されているが、マンガ太郎の間違いである。
メディアに素顔を晒しているのは下記の通り。
漫画家の清野とおるは、エッセイコミック『東京都北区赤羽以外の話』で画太郎と出会ったエピソードを描いている。そこでは
とのことである。その中では2012年で還暦を迎えたと書いている。
ただし、ここに登場した人物やそのエピソードが本人や事実であるとの確証はない(例えば、『少年ジャンプ』に『珍遊記』を連載中、雑誌の企画でアーノルド・シュワルツェネッガーと対談した際に顔出しで誌面に登場しているが、その時の容姿は若い成人男性のそれであった)。
漫画界の文法や常識を無視する何でもありの作風。デビューから一貫してギャグ漫画を描いているが、ストーリーは無軌道のため打ち切りにあうことも多い。ジャンルは冒険活劇やホラー、スポーツ、ガールズファンタジーまで多岐にわたるが、基本的にブラックユーモアでありエログロ、スカトロといった狂気的な世界を描いている。
作中に多用される頭にカンザシをさした「ばばあ」と呼ばれるキャラクターは、画太郎が自宅で介護している祖母がモデル。ばばあが元気に暴れる様は、親族の来訪などで元気を取り戻したときの祖母をイメージしている。
「階段オチ」「トラックオチ」「爆発オチ」の三段オチ(終盤に「その階段は滑るぞー!」と忠告されたにもかかわらず階段を駆け下りて案の定、足を滑らせ転落し、突然やってきたトラックに轢かれ、体がバラバラになったあと、トラックが壁にぶつかり大爆発を起こし完)など定型のオチが複数の作品に使いまわされている。
一度描いた絵を台詞だけを変えて数ページにわたって使い続けるなど、使い回しの手抜きを作中にギャグとして用いる。元々は『珍遊記』連載中にコピー機を購入した嬉しさから多用するようになった。近年は初めからコピー用の顔を用意し貼り付けている。
自ら連載途中で打ち切りへ持っていくような展開が多く、まともに完結を迎えた作品は少ない。『珍遊記』では目的地の天竺に到着することなく完結。『地獄甲子園』では試合には入らず完結。『つっぱり桃太郎』『ミトコン』では中途半端に打ち切られたため、単行本の続刊が刊行されていない。
他にも、『樹海少年ZOO1』でコミックス数冊分の話をすべて無かったことにして話を何度も仕切りなおしたこともある。この時、誌面には「第24話から第52話までの話は一切なかった事にしてください / ピエール瀧 漫$画太郎」のお詫び文章が(ネタとして)掲載された。
画太郎自身は連載について、自身が大の連載嫌いであることを単行本の巻末コメントやインタビューで何度も語っている。そして、「連載を引き受けるのは食べるためであり編集部の命令だから」と連載を必要悪と捉え、「仕事を選べるなら、読切作品に限定したい」とも述べている。
『まんゆうき』の娘々など可愛らしい女の子のキャラクターが時折登場することがあり、『まんゆうき』連載当時は作風の浮きっぷりからアシスタントが描いたとまで疑われることがあった。『まんゆうき』以降、美少女は10年以上描かれなかったが、『つっぱり桃太郎』に「土産物屋の娘」や「コビャッコ」などの美少女キャラクターが登場して以来、画太郎作品に美少女の存在が復活しており、『ミトコン』では久々に美少女を主役に用いている。
読切作品は#短編集並びに#単行本未収録作品の項を参照。
笑本おかしばなしシリーズは全てガタロー☆マン名義。
2009年、漫画家デビュー20周年記念企画「クソして寝たら20周年!漫☆画太郎まつりだ、バカヤロー!!」で3作品のFLASHアニメ版がリバプールより発売。
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"text": "1990年、『人間なんてラララ』で『週刊少年ジャンプ』の第1回GAGキングを受賞。同年、同誌に掲載されデビュー。『地獄甲子園』および短編をオムニバス形式にした『ババアゾーン』が映画化、2009年には『地獄甲子園』、『世にも奇妙な漫☆画太郎』、『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』の各作品がFLASHアニメとしてDVD化されている。",
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"text": "デビューから現在に至るまで一貫してナンセンスギャグ漫画を描いている。キャラクターの首が千切れ飛んだり、車に轢かれて潰されたりする暴力的・グロテスクな描写、脱糞、嘔吐などの下ネタを多用する過激な作風が特徴。スクリーントーンをほとんど使用せず、描画は荒いが、『まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜』の主人公「娘々(にゃんにゃん)」のような可愛いらしいキャラクターも時々登場する。平気で以前の話をなかったことにするストーリー展開、既存の漫画・ドラマのパロディやメタフィクションギャグ、1ページから見開き2ページを使った大ゴマ、コピー機を購入した嬉しさから多用するようになった通称“コピーギャグ”(バンクシステムの一種)も定番である。",
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"text": "自ら連載途中で打ち切りへ持っていくような展開も多く、まともに完結を迎えた作品は少ない。実際、画太郎本人も自身が大の連載嫌いであることを単行本の巻末コメントで明らかにし、最終話のタイトルを「打ち切り」にするなど、それ自体をギャグにすることもある。",
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"text": "2013年9月21日には、千葉ロッテマリーンズから同球団とのコラボグッズが販売された。その後完売したため、10月12日に一部商品を販売している。",
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"text": "2014年8月14日 - 8月26日に、自身初の個展となる「漫☆個展」をpixiv Zingaro(中野ブロードウェイ内)にて開催する。",
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"text": "2020年11月27日 、日本の昔話を独自に解釈した絵本を「笑本(えほん)」として、ガタロー☆マン名義でシリーズ刊行することを発表。第1弾は『ももたろう』。",
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"text": "2021年9月、画業30周年突破を記念してババアのグラビアなども収録された初の画集『画業30周年記念 漫☆画臭』を刊行。同年12月、ガタロー☆マン名義で執筆した『笑本 おかしばなし1 ももたろう』で、「第14回MOE絵本屋さん大賞2021」の新人賞第1位を受賞。",
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"text": "藤子不二雄のファンで、『まんが道』を読んでマンガ家を志したという。また、画太郎の作品である『珍遊記』の作中で『まんが道』のパロディマンガを描いたこともある。藤子不二雄A自身も画太郎に直筆メッセージを送ったことがある。",
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"text": "原哲夫のファンで、原に出会った際興奮して自分のサイン色紙を無理やり渡したという。また宮崎駿のファンで、「GAGキング」に投稿した経緯も「宮崎駿氏の研修生に落ちた腹いせに集英社に落書きを送った」と述べている。『Quick Japan』誌のインタビューでは好きな作品に『となりのトトロ』『風の谷のナウシカ』をあげている。また武田鉄矢や海援隊、テレビドラマ『101回目のプロポーズ』を好む。",
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"text": "電気グルーヴのファンである。画太郎は『電気グルーヴのオールナイトニッポン』のリスナーであり、番組で行った漫画家からのFAX募集企画にFAXを送って紹介されたことからつながりができる。『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』で長編デビューを飾った当初から番組内で石野卓球とピエール瀧は画太郎の才能を大絶賛しており、画太郎も『珍遊記』最終回には実名で2人を模したキャラクターを登場させた(新装版では名前が差し替えられている)。また、ピエール瀧を原作に据えた『虐殺! ハートフルカンパニー』『樹海少年ZOO1』も後に発表している。",
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"text": "1989年の第1回GAGキング受賞時は神奈川県在住の17歳で、両親に内緒で作品を描いたことと、受験生であることを明かしている。",
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"text": "素顔や詳細なプロフィールはほとんど公表していない。特にデビュー当初はその正体について様々な憶測を呼んだ。同業者の天久聖一は、一時期『電気グルーヴのオールナイトニッポン』の常連ハガキ職人「ビニールおっぱい」と同一人物ではないかという説を唱えていた。",
"title": "素顔"
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"text": "一般に公開される画太郎のプロフィールも取材や作品紹介の度に異なることが多い。1957年生、あるいは生年不明・性別・出身地不明など様々であり、実際のプロフィールは定かではない。2011年発売の『週刊朝日』増刊の甲子園展望号では、同年初出場を果たした山口代表・柳井学園の欄に同校卒業生と紹介されているが、マンガ太郎の間違いである。",
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"text": "メディアに素顔を晒しているのは下記の通り。",
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"text": "漫画家の清野とおるは、エッセイコミック『東京都北区赤羽以外の話』で画太郎と出会ったエピソードを描いている。そこでは",
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"text": "とのことである。その中では2012年で還暦を迎えたと書いている。",
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"text": "ただし、ここに登場した人物やそのエピソードが本人や事実であるとの確証はない(例えば、『少年ジャンプ』に『珍遊記』を連載中、雑誌の企画でアーノルド・シュワルツェネッガーと対談した際に顔出しで誌面に登場しているが、その時の容姿は若い成人男性のそれであった)。",
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"text": "漫画界の文法や常識を無視する何でもありの作風。デビューから一貫してギャグ漫画を描いているが、ストーリーは無軌道のため打ち切りにあうことも多い。ジャンルは冒険活劇やホラー、スポーツ、ガールズファンタジーまで多岐にわたるが、基本的にブラックユーモアでありエログロ、スカトロといった狂気的な世界を描いている。",
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"text": "作中に多用される頭にカンザシをさした「ばばあ」と呼ばれるキャラクターは、画太郎が自宅で介護している祖母がモデル。ばばあが元気に暴れる様は、親族の来訪などで元気を取り戻したときの祖母をイメージしている。",
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"text": "「階段オチ」「トラックオチ」「爆発オチ」の三段オチ(終盤に「その階段は滑るぞー!」と忠告されたにもかかわらず階段を駆け下りて案の定、足を滑らせ転落し、突然やってきたトラックに轢かれ、体がバラバラになったあと、トラックが壁にぶつかり大爆発を起こし完)など定型のオチが複数の作品に使いまわされている。",
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"text": "一度描いた絵を台詞だけを変えて数ページにわたって使い続けるなど、使い回しの手抜きを作中にギャグとして用いる。元々は『珍遊記』連載中にコピー機を購入した嬉しさから多用するようになった。近年は初めからコピー用の顔を用意し貼り付けている。",
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"text": "自ら連載途中で打ち切りへ持っていくような展開が多く、まともに完結を迎えた作品は少ない。『珍遊記』では目的地の天竺に到着することなく完結。『地獄甲子園』では試合には入らず完結。『つっぱり桃太郎』『ミトコン』では中途半端に打ち切られたため、単行本の続刊が刊行されていない。",
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"text": "他にも、『樹海少年ZOO1』でコミックス数冊分の話をすべて無かったことにして話を何度も仕切りなおしたこともある。この時、誌面には「第24話から第52話までの話は一切なかった事にしてください / ピエール瀧 漫$画太郎」のお詫び文章が(ネタとして)掲載された。",
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"text": "画太郎自身は連載について、自身が大の連載嫌いであることを単行本の巻末コメントやインタビューで何度も語っている。そして、「連載を引き受けるのは食べるためであり編集部の命令だから」と連載を必要悪と捉え、「仕事を選べるなら、読切作品に限定したい」とも述べている。",
"title": "作風"
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"text": "『まんゆうき』の娘々など可愛らしい女の子のキャラクターが時折登場することがあり、『まんゆうき』連載当時は作風の浮きっぷりからアシスタントが描いたとまで疑われることがあった。『まんゆうき』以降、美少女は10年以上描かれなかったが、『つっぱり桃太郎』に「土産物屋の娘」や「コビャッコ」などの美少女キャラクターが登場して以来、画太郎作品に美少女の存在が復活しており、『ミトコン』では久々に美少女を主役に用いている。",
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"text": "読切作品は#短編集並びに#単行本未収録作品の項を参照。",
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"text": "笑本おかしばなしシリーズは全てガタロー☆マン名義。",
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"text": "2009年、漫画家デビュー20周年記念企画「クソして寝たら20周年!漫☆画太郎まつりだ、バカヤロー!!」で3作品のFLASHアニメ版がリバプールより発売。",
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] |
漫☆画太郎は、日本の漫画家。ペンネーム表記は不定で、漫☆画太郎(☆の中にF、あるいは、☆の中にバカ)、漫$画太郎、漫¥画太郎、漫☠餓太狼(ドクロマーク)、漫🍑画太郎、漫♡画太郎、画太郎、MAN☆GATARO(☆の中にF)、もろぼししんいち、TEN☆GA太郎、漫F画太郎、SLAMP(スランプ)、まん○画太郎、ガタロー☆マンなどもある。 1990年に『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載された『人間なんてラララ』でデビュー。同誌で『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』『まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜』を連載し、話題となる。
|
{{別人|マンガ太郎|x1=似顔絵芸人の}}
{{Infobox 漫画家
| 名前 = 漫☆画太郎
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| 画像サイズ =
| 脚注 =
| 本名 =
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{{特殊文字}}
'''漫☆画太郎'''(まん がたろう)は、[[日本]]の[[漫画家]]。ペンネーム表記は不定で、'''漫☆画太郎'''(☆の中にF、あるいは、☆の中にバカ)、'''漫$画太郎'''、'''漫¥画太郎'''、'''漫{{Unicode|☠}}餓太狼'''('''ドクロマーク''')、'''漫🍑画太郎'''、'''漫♡画太郎'''、'''画太郎'''、'''MAN☆GATARO'''(☆の中にF)、'''もろぼししんいち'''、'''TEN☆GA太郎'''、'''漫F画太郎'''、'''SLAMP'''('''スランプ''')、'''まん○画太郎'''、'''ガタロー☆マン'''などもある。
[[1990年]]に『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])に掲載された『人間なんてラララ』でデビュー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2128143/full/|title =平成最後の奇跡…漫☆画太郎「ババア」衝撃のグラビアデビュー|publisher=[[オリコン|ORICON NEWS]]|date=2019-01-25|accessdate=2021-04-03}}</ref>。同誌で『[[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-]]』『[[まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜]]』を連載し、話題となる。
== 来歴 ==
1990年、『人間なんてラララ』で『週刊少年ジャンプ』の第1回[[GAGキング]]を受賞<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/artist/2418|title=漫☆画太郎|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2021-09-03}}</ref>。同年、同誌に掲載されデビュー。『[[地獄甲子園]]』および短編をオムニバス形式にした『[[ババアゾーン]]』が映画化、2009年には『地獄甲子園』、『[[世にも奇妙な漫☆画太郎]]』、『[[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-]]』の各作品が[[adobe Flash|FLASH]]アニメとしてDVD化されている。
デビューから現在に至るまで一貫してナンセンスギャグ漫画を描いている。キャラクターの首が千切れ飛んだり、車に轢かれて潰されたりする暴力的・グロテスクな描写、脱糞、嘔吐などの[[下ネタ]]を多用する過激な作風が特徴。[[スクリーントーン]]をほとんど使用せず、描画は荒いが、『[[まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜]]』の主人公「娘々(にゃんにゃん)」のような可愛いらしいキャラクターも時々登場する。平気で以前の話をなかったことにするストーリー展開、既存の漫画・ドラマのパロディやメタフィクションギャグ、1ページから見開き2ページを使った大ゴマ、コピー機を購入した嬉しさから多用するようになった通称“コピーギャグ”([[バンクシステム]]の一種)も定番である。
自ら連載途中で[[打ち切り]]へ持っていくような展開も多く、まともに完結を迎えた作品は少ない。実際、画太郎本人も自身が大の連載嫌いであることを単行本の巻末コメントで明らかにし、最終話のタイトルを「打ち切り」にするなど、それ自体をギャグにすることもある。
[[2013年]][[9月21日]]には、[[千葉ロッテマリーンズ]]から同球団とのコラボグッズが販売された<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/12158.html 9/21(土) マリーンズストア、オンラインショップ新商品発売情報!!](2013年9月21日付公式サイトより)</ref>。その後完売したため、[[10月12日]]に一部商品を販売している<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/12158.html 10/12(土)より、漫☆画太郎コラボグッズ再販決定!!](2013年10月10日付公式サイトより)</ref>。
[[2014年]][[8月14日]] - [[8月26日]]に、自身初の個展となる「漫☆個展」をpixiv Zingaro([[中野ブロードウェイ]]内)にて開催する<ref>[http://pixiv-zingaro.jp/exhibition/mangataro/ 漫☆個展 | 2014.08.14 – 08.26](pixiv Zingaro公式サイトより)</ref>。
[[2020年]][[11月27日]] 、日本の[[昔話]]を独自に解釈した絵本を「笑本(えほん)」として、ガタロー☆マン名義でシリーズ刊行することを発表。第1弾は『ももたろう』<ref name=":0">[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001068.000012109.html 【初版限定!読み聞かせ音声特典あり】ギャグマンガ界の鬼才!漫☆画太郎が「ガタロー☆マン」となって本気で描く「笑本(えほん)シリーズ」、創刊し……ました!!!]</ref>。
2021年9月、画業30周年突破を記念してババアのグラビアなども収録された初の画集『画業30周年記念 漫☆画臭』を刊行<ref name="natalie20210827">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/442651|title=これが芸術だ!!!バカヤロ──ッ!!!漫☆画太郎初の画集、ババアのグラビアも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-08-27|accessdate=2021-09-03}}</ref>。同年12月、ガタロー☆マン名義で執筆した『笑本 おかしばなし1 ももたろう』で、「第14回MOE絵本屋さん大賞2021」の新人賞第1位を受賞<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/459815|title=漫☆画太郎のガタロー☆マン“笑本”が、MOE絵本屋さん大賞新人賞1位を受賞|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-28|accessdate=2021-12-28}}</ref>。
== 影響 ==
[[藤子不二雄]]のファンで、『[[まんが道]]』を読んでマンガ家を志したという<ref>2001年6月28日発行『[[Quick Japan]]』Vol.37掲載のインタビューより。</ref>。また、画太郎の作品である『[[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-|珍遊記]]』の作中で『まんが道』のパロディマンガを描いたこともある。[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]自身も画太郎に直筆メッセージを送ったことがある。
[[原哲夫]]のファンで、原に出会った際興奮して自分のサイン色紙を無理やり渡したという<ref>『珍遊記』6巻</ref>。また[[宮崎駿]]のファンで、「GAGキング」に投稿した経緯も「宮崎駿氏の研修生に落ちた腹いせに集英社に落書きを送った」と述べている<ref group="注">『週刊少年ジャンプ』1990年6号「第一回GAGキング」受賞者コメントより。なお、1989年に『[[アニメージュ]]』誌で[[スタジオジブリ]]が社員募集の広告を載せた際に、画太郎が入社試験を受けた年と同時期に試験日を間違えて来訪したものの、そのままジブリに採用された人物がいるとのエピソードを宮崎駿が自ら筆を取って記述している{{要出典|date=2021年4月}}。</ref>。『Quick Japan』誌のインタビューでは好きな作品に『[[となりのトトロ]]』『[[風の谷のナウシカ]]』をあげている。また[[武田鉄矢]]や[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]、テレビドラマ『[[101回目のプロポーズ]]』を好む。
[[電気グルーヴ]]のファンである。画太郎は『[[電気グルーヴのオールナイトニッポン]]』のリスナーであり、番組で行った漫画家からのFAX募集企画にFAXを送って紹介されたことからつながりができる。『[[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-]]』で長編デビューを飾った当初から番組内で[[石野卓球]]と[[ピエール瀧]]は画太郎の才能を大絶賛しており、画太郎も『珍遊記』最終回には実名で2人を模したキャラクターを登場させた(新装版では名前が差し替えられている)。また、ピエール瀧を原作に据えた『[[虐殺! ハートフルカンパニー]]』『[[樹海少年ZOO1]]』も後に発表している。
== 素顔 ==
1989年の第1回GAGキング受賞時は[[神奈川県]]在住の17歳で、両親に内緒で作品を描いたことと、受験生であることを明かしている<ref name="gag">「ジャンプGAGキング選考結果発表」『週刊少年ジャンプ1989年52号』集英社、1989年12月11日、雑誌29932-12/11、44-45頁。</ref>。
素顔や詳細なプロフィールはほとんど公表していない。特にデビュー当初はその正体について様々な憶測を呼んだ。同業者の[[天久聖一]]は、一時期『[[電気グルーヴのオールナイトニッポン]]』の常連[[ハガキ職人]]「ビニールおっぱい」と同一人物ではないかという説を唱えていた。
一般に公開される画太郎のプロフィールも取材や作品紹介の度に異なることが多い。[[1957年]]生<ref name="m1">『[[Quick Japan]]』Vol.52巻末の寄稿者紹介による。</ref>、あるいは生年不明・性別・出身地不明<ref>{{Cite web|和書|url=http://bj.shueisha.co.jp/manga/y_gatarou/index.html|title=ビジネスジャンプ漫画連載陣:世にも奇妙な漫☆画太郎/漫☆画太郎|publisher=[[ビジネスジャンプ]] |accessdate=2010-08-16 }}</ref>など様々であり、実際のプロフィールは定かではない。2011年発売の『[[週刊朝日]]』増刊の[[第93回全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]展望号では、同年初出場を果たした山口代表・[[柳井学園高等学校|柳井学園]]の欄に同校卒業生と紹介されているが、マンガ太郎の間違いである。
メディアに素顔を晒しているのは下記の通り。
* 第1回GAGキングの受賞者発表。当時の『週刊少年ジャンプ』編集長である[[後藤広喜]]に王冠を授与される写真が掲載されている<ref name="gag"/>。
* 『珍遊記』連載当時『週刊少年ジャンプ』の新年号恒例だった作家全員顔出しによる表紙写真。[[ジャンプ・コミックス]]版『珍遊記』での著者近影にこの写真をそのまま流用しており、2巻では[[フォーミュラ1|F1]]レーサー風のツナギ姿(1991年5号)、6巻ではライフルを構えた宇宙飛行士のような姿で手描きの宇宙の背景にコラージュされている(1992年5号)。
* 週刊少年ジャンプ創刊25周年記念イベント「ジャンプマルチワールド」のパンフレット内の週刊少年ジャンプ漫画家一覧。
* 1994年度の第6回GAGキング大賞の宣伝コーナー30号 - 39号あたりに続けて登場している。
* [[2004年]]の[[WOWOW]]の特番『画太郎まつり』に「画太郎」とされる人物が出演。「画太郎」はベレー帽に眼鏡・ブリーフ一丁にネクタイという、漫画の自画像を模した姿で、街頭をさまよったり公園にまいたポップコーンを食べるなどしていた。
漫画家の[[清野とおる]]は、エッセイコミック『東京都北区赤羽以外の話』で画太郎と出会ったエピソードを描いている。そこでは
* 画太郎は重度の[[引きこもり]]、[[対人恐怖症]]で、集英社の人間も会ったことがある者はごくごく限られており、担当の編集者(2002年当時)ですら打ち合わせは電話かFAX、原稿も郵送のためほとんど会ったことがない。
* 東京からそう遠くはないが気軽には行けないようなタチの悪い場所に、本人の漫画に頻繁に登場するボロアパートに、老婆と2匹の野良猫と住んでいる。その中で描かれている画太郎は小太りな中年男である。なお、老婆と野良猫は2012年には亡くなっている様子。
とのことである。その中では2012年で[[還暦]]を迎えたと書いている。
ただし、ここに登場した人物やそのエピソードが本人や事実であるとの確証はない(例えば、『少年ジャンプ』に『珍遊記』を連載中、雑誌の企画で[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]と対談した際に顔出しで誌面に登場しているが、その時の容姿は若い[[成人]]男性のそれであった)。
== 作風 ==
漫画界の文法や常識を無視する何でもありの作風。デビューから一貫してギャグ漫画を描いているが、ストーリーは無軌道のため打ち切りにあうことも多い。ジャンルは冒険活劇やホラー、スポーツ、ガールズファンタジーまで多岐にわたるが、基本的に[[ブラックユーモア]]であり[[エログロ]]、[[スカトロ]]といった狂気的な世界を描いている。
=== ばばあ ===
作中に多用される頭にカンザシをさした「ばばあ」と呼ばれるキャラクターは、画太郎が自宅で介護している祖母がモデル。ばばあが元気に暴れる様は、親族の来訪などで元気を取り戻したときの祖母をイメージしている<ref>『Quick Japan』Vol.37インタビューより。</ref>。
=== 天丼ネタ ===
「階段オチ」「トラックオチ」「爆発オチ」の三段オチ(終盤に「その階段は滑るぞー!」と忠告されたにもかかわらず階段を駆け下りて案の定、足を滑らせ転落し、突然やってきた[[貨物自動車|トラック]]に轢かれ、体がバラバラになったあと、トラックが壁にぶつかり大爆発を起こし完)など定型のオチが複数の作品に使いまわされている。
=== コピーギャグ ===
一度描いた絵を台詞だけを変えて数ページにわたって使い続けるなど、使い回しの手抜きを作中にギャグとして用いる。元々は『珍遊記』連載中にコピー機を購入した嬉しさから多用するようになった。近年は初めからコピー用の顔を用意し貼り付けている。
=== 打ち切り ===
自ら連載途中で打ち切りへ持っていくような展開が多く、まともに完結を迎えた作品は少ない。『珍遊記』では目的地の[[天竺]]に到着することなく完結。『地獄甲子園』では試合には入らず完結。『[[つっぱり桃太郎]]』『[[ミトコン]]』では中途半端に打ち切られたため、単行本の続刊が刊行されていない。
他にも、『[[樹海少年ZOO1]]』でコミックス数冊分の話をすべて無かったことにして話を何度も仕切りなおしたこともある。この時、誌面には「''第24話から第52話までの話は一切なかった事にしてください / ピエール瀧 漫$画太郎''」のお詫び文章が(ネタとして)掲載された。
画太郎自身は連載について、自身が大の連載嫌いであることを単行本の巻末コメントやインタビューで何度も語っている。そして、「連載を引き受けるのは食べるためであり編集部の命令だから」と連載を必要悪と捉え、「仕事を選べるなら、読切作品に限定したい」とも述べている。
=== 美少女 ===
『まんゆうき』の娘々など可愛らしい女の子のキャラクターが時折登場することがあり、『まんゆうき』連載当時は作風の浮きっぷりからアシスタントが描いたとまで疑われることがあった{{要出典|date=2021年4月}}。『まんゆうき』以降、美少女は10年以上描かれなかったが、『つっぱり桃太郎』に「土産物屋の娘」や「コビャッコ」などの美少女キャラクターが登場して以来、画太郎作品に美少女の存在が復活しており、『ミトコン』では久々に美少女を主役に用いている。
=== 独自の擬音や言語感覚 ===
; はうあ!
: 登場人物が驚いたときに使用される。主に何かを発見したときなどネタの入りの部分で使われることが多い。
; えーっ!?
: はうあ!と同じく驚いた時に使用されるが、こちらは失望や落胆などの要素が含まれていることが多く、ネタのオチで使用されることが多い。『珍遊記』終了後に発表された『[[くそまん -サイテーの漫画短編集-|学校]]』で本格的に使用されるようになった。
; ズコー!
: 登場人物がずっこけた時に使用される。こちらもオチで多用される。
; ぶべら!
: 殴られるなど肉体的な暴力を受けた際、受けた側が使用する。他にも「はべら!」なども使われることもある。
; とんずらー!
: 窮地に陥った際や、都合の悪い状況からダッシュで逃げ出す時に使用される。登場はかなり古く、デビュー作である『人間なんてラララ』で既に使用されている。
; 死〜ん
: 他の漫画でもしばしば使用される、静まり返った状況を表現する「し〜ん」とほぼ同じだが、こちらは登場人物が死亡し、その際に何の反応も示さなくなった表現として使用される。また、相手の話を無視する「むし〜ん」というパターンもある。
== 作品リスト ==
=== 漫画作品 ===
読切作品は[[#短編集]]並びに[[#単行本未収録作品]]の項を参照。
* [[DRAGON BALL外伝]](『[[週刊少年ジャンプ]]』1990年28号読切)
* [[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-]](『[[週刊少年ジャンプ]]』連載1990年11月 - 1992年13号、全6巻)
* [[まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜]](『[[週刊少年ジャンプ]]』連載1994年、全2巻)
* [[ババアゾーン]](『[[週刊少年ジャンプ]]』1995年5・6合併号に掲載)
* 家・なき子(『[[週刊少年ジャンプ]]』1995年9号に掲載)
* [[道徳戦士超獣ギーガー]](『[[MANGAオールマン]]』連載1996年2月 - 1996年9月、全1巻)
* [[地獄甲子園]](『[[月刊少年ジャンプ]]』連載1996年4月 - 1997年5月、全3巻)
* 漫☆画太郎の人生相談(1997年11月 - 1998年4月『月刊少年ジャンプ』に4P連載された。基本的に[[寿司]]を食えと答える)
* [[虐殺! ハートフルカンパニー]](原作:[[ピエール瀧]]、『[[コミックバウンド]]』連載2000年9月 - 2000年11月、全1巻)
* [[ハデー・ヘンドリックス物語]](『週刊ヤングジャンプ』2001年1号 - 2号にかけて連載)
* 合作・[[浦安鉄筋家族]](2001年『[[週刊少年チャンピオン]]』増刊「浦安鉄筋家族なつやすみ増刊」に掲載)[[浜岡賢次]]との共作
* [[樹海少年ZOO1]](原作:ピエール瀧)(『[[週刊少年チャンピオン]]』連載2001年1月 - 2003年、全9巻)
* わらってごらん(『月刊少年ジャンプ』連載、全1巻)
* [[つっぱり桃太郎]](『週刊ヤングジャンプ』連載2003年5月 - 2004年8月、全5巻)
* [[ブスの瞳に恋してる#漫画版|ブスの瞳に恋してる]](原作:[[鈴木おさむ]]、『[[ヤングチャンピオン]]』連載2005年11月 - 2006年、全3巻)
* [[世にも奇妙な漫☆画太郎]](『[[ビジネスジャンプ]]』<ref group="注">初代担当の[[中村泰造]]が同誌編集長を務めていた。</ref>連載2007年1月 - 2009年、全7巻)
* [[珍遊記2|珍遊記2〜夢の印税生活編〜]](『ビジネスジャンプ』連載2009年 - 2010年、全4巻)
* [[ミトコン]](『[[ジャンプスクエア]]』連載2011年1月 - 同10月号、1巻)
* 罪と罰(漫F画太郎名義、原作:[[フョードル・ドストエフスキー]]、『[[月刊コミック@バンチ]]』連載2012年10月 - 2013年4月号、全4巻)
* [[ミトコン|ミトコンペレストロイカ]](まん○画太郎名義、『月刊コミック@バンチ』連載2013年6月号 - 2017年4月号、全6巻)
* [[星の王子さま (漫☆画太郎)|星の王子さま]](原作:[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ|サン☆テグジュペリ]]、『[[少年ジャンプ+]]』連載2017年9月25日 - 2020年3月30日、全6巻)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/249902|title=漫☆画太郎12年ぶり週刊連載は、サン☆テグジュペリ原作の「星の王子さま」|publisher=コミックナタリー|accessdate=2017年9月25日|date=2017年9月25日 }}</ref>
* 漫古☆知新-バカでもわかる古典文学-(『少年ジャンプ+』連載2022年11月10日<ref>{{Cite web|和書|title=漫☆画太郎がバカでもわかるように古典文学をマンガ化「漫古☆知新」スタート |url=https://natalie.mu/comic/news/500796 |website=コミックナタリー |access-date=2022-11-12 |language=ja |first=Natasha |last=Inc |date=2022年11月10日}}</ref> - 2023年4月13日<ref>{{Cite web|和書|url=https://shonenjumpplus.com/episode/4856001361133124253|title=第6話 漫古☆知新-バカでもわかる古典文学-|website=少年ジャンプ+|publisher=集英社|accessdate=2023-04-13}}</ref>、全1巻)<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/523251|title=画太郎先生がバカでもわかるように古典文学をマンガ化!「漫古☆知新」発売|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-02|accessdate=2023-05-02}}</ref>
==== 短編集 ====
* [[まんカス]] - 『Quick Japan』掲載分の短編集。
* [[画太郎先生ありがとう いつもおもしろい漫画を描いてくれて…]] - デビュー作他、単行本未収録分の短編集。
* [[くそまん -サイテーの漫画短編集-]] - 短編集。
* [[ハデー・ヘンドリックス物語]] - 短編集。
* [[画太郎先生だぁ〜い好き]] - 『世にも奇妙な漫☆画太郎』の単行本未収録分などの短編集。[[秋田書店]]刊行。
* 漫☆画太郎30年史 漫★博(集英社リミックス)集英社刊の歴代作品から第1話、あるいは1話分を選り抜き再編集したペーパーブック。2022年5月20日発売。
==== 単行本未収録作品 ====
* [[惨事のおやつ]](1990年『[[週刊少年ジャンプ]]』30号に読切として掲載)
* [[まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜]] 走れババアの巻(1994年『[[週刊少年ジャンプ]]』33号に掲載)
* ランバケマスターたくや(1997年『[[月刊少年ジャンプ]]』増刊ORIGINAL9月号に掲載)
* 宇宙船日の丸(1998年[[月刊少年ジャンプ]]増刊ORIGINAL1月号に掲載)
* スターウォーズエピソード1(1999年『岩谷テンホーのみこすり半劇場増刊新人ちゃん』に掲載)
* 年賀状(2002年『[[週刊ヤングジャンプ]]』6・7合併号に掲載)
* 爆走!男のメルヘン街道 - [[和田ラヂヲ]]などとの共作
* ぽっち POCCHI(『[[週刊プレイボーイ]]』2005年11号に掲載)
* 誰がこんなヤツ、オープン戦に行かせたんだ!?ルポ(『週刊プレイボーイ』2005年12号掲載)
* バイトヘル2000ボールペン工場(2006年『[[週刊ヤングジャンプ]]』10号に掲載)
* [[聖☆おじさん]] - [[電気グルーヴ]]×[[スチャダラパー]]の同名シングルを題材に漫画化(『ヤングジャンプ』掲載)
* [[DATマン]](原作:[[村上龍]])(『月刊少年ジャンプ』前後編の読み切り)
* [[つっぱり桃太郎]] 58話 - 60話(『[[週刊ヤングジャンプ]]』連載)
* [[珍入社員金太郎]](『週刊ヤングジャンプ』連載2005年1月 - 同2月) - 予告なしに第4話以降掲載されず、その後編集部より正式に連載終了が発表される。
* 実話(2011年『[[月刊少年チャンピオン]]』2月号に掲載)
* 野良姫(2012年『[[ヤングチャンピオン]]』13号掲載 読切)
* おもてなシミュレーションゲーム滝川(2013年『[[週刊少年ジャンプの増刊号#その他の増刊号|ジャンプLIVE]]』2号掲載 読切)
* 珍ピース CHIN PIECE(2017年『週刊少年ジャンプ』42号掲載) - 「[[ONE PIECE]]」の第一話を思わせる内容。雑誌掲載時に新連載と題されているが、3ページで打ち切り<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/248889|title=漫☆画太郎、渾身の“新連載”「珍ピース」で22年ぶりジャンプ登場も3Pで打ち切り|publisher=コミックナタリー|accessdate=2017年9月16日|date=2017年9月16日 }}</ref>。なお、同号目次では「漫☆画太郎先生特別告知」と書かれている。 ※2ページ分のみ『画業30周年記念 漫☆画臭』収録
* TERRACE HORSE THE COMIC(日本中央競馬会特別サイト『TERRACE HORSE 〜テラスホース〜』掲載) - 声優付きのボイスコミック、全5話(分岐あり)<ref>{{Cite web|和書|title=漫☆画太郎、恋愛競馬漫画『TERRACE HORSE』 杉田智和らが壮絶なイラストに|url=https://kai-you.net/article/68145|website=KAI-YOU.net {{!}} POP is Here .|accessdate=2019-10-20|language=ja|publisher=|date=2019.10.07}}</ref>
* 変臭者☆モミーの大冒険(『少年ジャンプ+』連載2020年5月9日<ref>{{Cite web|和書|title=漫☆画太郎:読者参加型の新連載「変臭者☆モミーの大冒険」 読者の“指示”で描く|url=https://mantan-web.jp/article/20200508dog00m200030000c.html|website=MANTANWEB(まんたんウェブ)|accessdate=2020-05-10|language=ja-JP|publisher=|date=2020-05-09}}</ref> - 2020年5月30日)全4話
* へっぴり嫁VSものぐさ太郎(『少年ジャンプ+』2021年1月9日掲載)<ref>{{Cite web|和書|title=漫☆画太郎の最新恋愛ギャグ漫画「へっぴり嫁VSものぐさ太郎」が無料公開 {{!}} Buzzap!|url=https://buzzap.jp/news/20210109-heppiriyome-vs-monogusataro-man-gataro/|website=buzzap.jp|date=2021-01-09|accessdate=2021-01-12|language=ja|last=深海}}</ref> ※『画業30周年記念 漫☆画臭』収録
=== 絵本・画集 ===
笑本おかしばなしシリーズは全てガタロー☆マン名義。
* 笑本おかしばなし 1 [[ももたろう]](2020年12月14日、[[誠文堂新光社]])<ref name=":0" />
* 笑本おかしばなし 2 [[おおきなかぶ|おおきなかぶ〜]](2021年7月20日、誠文堂新光社)
* 笑本おかしばなし 3 [[てぶくろ|てぶ〜くろ]](2022年2月21日、誠文堂新光社)
* 画業30周年記念 漫☆画臭(2021年9月3日発売{{R|natalie20210827}}、集英社)
=== CDジャケットなど ===
* [[マキシマムザホルモン]] - アルバム『耳噛じる』
* マキシマムザホルモン - アルバム『糞盤』
* マキシマムザホルモン - アルバム『ロッキンポ殺し』
* マキシマムザホルモン - アルバム『ぶっ生き返す』(裏ジャケット)
* マキシマムザホルモン - フルアルバム『予襲復讐』(裏ジャケットブックレットなど)
* ディスコロマンス - アルバム『戦国ディスコババァ』
* [[テイ・トウワ]] - リミックスアルバム『STUPID FRESH』
* マキシマムザホルモン - アルバム『耳噛じる 真打』
* マキシマムザホルモン - シングル『これからの麺カタコッテリの話をしよう』(盤面イラスト)
=== その他 ===
* 爺言(表紙絵)
* next33 - ブランド「UNNON」のオリジナルTシャツのデザイン[http://www.next33.com/onlineshop/?brand_id=62]
* プロのデザインルール - 表紙を担当
* [[ユメ十夜]](脚色)
* [[ビートたけしの絶対見ちゃいけないTV|ビートたけしPresents No TV?]](2008年12月30日) - 番組内のイラストを担当
** ビートたけしの絶対見ちゃいけないTV(2009年8月4日)
** ビートたけしのもう1回だけ見ちゃいけないTV(2009年12月28日)
** ビートたけしのあと1回だけ見ちゃいけないTV(2010年9月29日)
** ビートたけしのもう1回だけヤラせてTV(2010年12月28日)
** ビートたけしのあと5回だけヤラせてTV(2011年12月29日)
* 直前で消えた最終候補 もしものBパターン! TBS 2009年1月4日(日) 桃太郎のBパターン →紙芝居絵コンテ
* [[X51.ORG|奇界遺産]](表紙と扉イラスト)
* [[絶対に笑ってはいけない空港24時]] - [[浜田雅功]]のイラストを2枚提供
* [[おもしろ言葉ゲーム OMOJAN]] - 「桃から生まれたおびただしい数の」のイラストを提供
* 大戦乱!!三国志バトル(袁術、王允、郭図、張魯、劉禅、曹皇后、蔡邕、小喬)
* [[アッコにおまかせ!]]([[和田アキ子]]の似顔絵を提供)
* [[GANGSTA.]] - 提供イラスト(第2話、第5話、第8話、第11話)
* [[おしゃれイズム]](2013年11月3日) - ゲストの[[黒田エイミ]]、[[水原希子]]と、レギュラーの[[森泉]]<ref group="注">森は『地獄甲子園』に登場する外道高校の監督(が「[[まさに外道|てめーらにはおしえてやんねー!!!!! くそしてねろ!!!!!]]」と言う場面)に顔が似ていると言われており、森のイラストには「くそしてねろ」と書かれていた。</ref>のイラストを提供
* [[出前一丁]] ゴリラ一丁 スタミナガーリックニラそば野郎 [[コマーシャルメッセージ|CM]] 「あーらよゴリラ一丁 篇」 - 「ゴリラ化した出前坊や」のキャラクターデザイン
* [[世界名作劇場]]×漫☆画太郎(2013年 - 2015年) - 画太郎による[[ラスカル]]、[[フランダースの犬 (アニメ)#登場人物|パトラッシュ]]、[[赤毛のアン (アニメ)#グリーン・ゲイブルズの人物|アン]]、[[母をたずねて三千里#動物|アメデオ]]のイラストを使用した商品を発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://i.meet-i.com/?p=42187|title =はうあ! 漫☆画太郎先生と「世界名作劇場」のキャラクターがコラボしたiPhone5ジャケットだってぇぇぇ~!!!!!|publisher=[[ソシオコーポレーション|Pouch]]|date=2013-08-09|accessdate=2021-04-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://youpouch.com/2014/01/12/161336/|title =またキター! 漫☆画太郎先生と「世界名作劇場」のコラボストラップが登場 / ラスカルもパトラッシュも衝撃的な出来栄え|publisher=Pouch|date=2014-01-12|accessdate=2021-04-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://youpouch.com/2015/10/25/310882/|title =漫☆画太郎がデザインした「世界名作劇場」ブリーフのシズル感に感激! パトラッシュもラスカルもヨダレを垂らしてうれしそう♪|publisher=Pouch|date=2015-10-25|accessdate=2021-04-03}}</ref>
=== OVA ===
[[2009年]]、漫画家デビュー20周年記念企画「クソして寝たら20周年!漫☆画太郎まつりだ、バカヤロー!!」で3作品の[[Adobe Flash|FLASHアニメ]]版が[[リバプール (企業)|リバプール]]より発売。
# [[地獄甲子園]] - 全1巻(2009年6月12日)
# [[世にも奇妙な漫☆画太郎]] - 全2巻(2009年7月10日)
# [[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-]] - 全3巻(2009年8月7日)・劇場版
== アシスタント ==
* [[尾田栄一郎]] - 『[[まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜]]』の第1話の製作に協力<ref>[https://www.oricon.co.jp/special/50329/ 漫☆画太郎『珍ピース』のパロディ騒動から見る、実は“なんでもあり”のジャンプ編集針とは?] [[オリコン|オリコンニュース]] 2017年10月9日</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[電気グルーヴ]] - 『珍遊記』連載当時から画太郎ファンを公言し応援した。同作終盤に友情出演。
* [[ピエール瀧]] - 電気グルーヴのメンバー。『虐殺! ハートフルカンパニー』『樹海少年ZOO1』などでタッグを組む。
* [[鶴見済]] - 同じく『珍遊記』当時より画太郎を支持。画太郎の心の支えとなったらしい。
* [[テイ・トウワ]] - リミックスアルバム『STUPID FRESH』でアートワーク担当。
* [[浦安鉄筋家族]] - 登場人物が画太郎の描いたものに突然変異するという話で合作した。万田 太郎と万田・α・太郎というパロディキャラが登場。
* [[中瀬ゆかり]] - 罪と罰の登場人物のユカリのモデル。新潮社のオンラインショップから「漫画太郎ユカリTシャツ」が発売された([https://twitter.com/Shincho_Shop 新潮オンラインショップ]参照)。
== 外部リンク ==
* [http://annex.s-manga.net/gatarou/ 漫☆画太郎ワールド]
* [http://www.mangatarou-flash.com/ FLASHアニメDVDサイト「クソして寝たら20周年!漫☆画太郎まつりだ、バカヤロー」]
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ペスカトーレ
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ペスカトーレ(イタリア語: Spaghetti alla pescatora)は、魚介類を用いたトマトソースのスパゲッティ。
ペスカトーレとはイタリア語で漁師の意味で、もともとは漁師が売れ残りや雑魚、外道などをまとめてトマトソースで煮込んだものがはじまりと言われる大衆料理である。これが次第にスパゲッティのソースとして使われるようになった。
塩・ニンニク・白ワインなどによる簡素な味付けに、魚介類それぞれの旨みがトマトソースによって調和され、素朴だが非常にコクのあるスープとなる。そのため、スパゲッティだけでなく他のパスタともよく合う。一般的にはアサリ、イカ、エビ、カニ、ムール貝、ホタテ等がよく使われるが、一定のレシピはなく、好みの魚介類をトマトソースで仕上げた料理にはペスカトーレと付くことが多い。料理名だが正確にはペスカトーレではなくペスカトーラである。ペスカトーラは海の幸という意味だ。
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'''ペスカトーレ'''({{Lang-it|Spaghetti alla pescatora}})は、[[魚介類]]を用いた[[トマトソース]]の[[スパゲッティ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/recipe/00000616/index.html |title=スパゲッティ・ペスカトーレのレシピ・つくり方 |publisher=www.kikkoman.co.jp |accessdate=2018-08-26}}{{出典無効|date=2021年2月|title=2018年8月当時の版を確認したが、当該ページからはそのような記述は確認できず。その当時からデルモンテブランドの製品を使ったレシピの紹介ページでしかない。}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.charmenapoli.it/sapori/linguine-alla-pescatora-ricetta-cucina-napoletana-brandi-italian-recipe-linguine-seafood/ |title=Linguine alla pescatora. Per Brandi il mare di Napoli che si gusta a tavola |publisher=www.charmenapoli.it |date=2016-01-07<!-- https://web.archive.org/web/20180826214525/http://www.charmenapoli.it/sapori/linguine-alla-pescatora-ricetta-cucina-napoletana-brandi-italian-recipe-linguine-seafood/ 参照 --> |accessdate=2018-08-26}}</ref>。
== 概要 ==
ペスカトーレとはイタリア語で[[漁師]]の意味で、もともとは漁師が売れ残りや[[雑魚]]、[[混獲|外道]]などをまとめてトマトソースで煮込んだものがはじまりと言われる大衆料理である。これが次第にスパゲッティの[[ソース (調味料)|ソース]]として使われるようになった。
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== 挿話 ==
* [[群馬県]]では、魚介の入ったトマトソースに[[唐辛子]]とニンニクを効かせたスパゲティ(すなわち「辛口のペスカトーレ」)を『'''ベスビオ'''』と称する。[[高崎市]]に本店を置くイタリアンレストランチェーン「シャンゴ」が作り出して広めたと言われており、群馬県内ではポピュラーなメニューだが、県外にはほとんど広まっていないという<ref>{{Cite web|和書|url=https://rocketnews24.com/2014/08/28/477392/|title=【豆知識】群馬県民なら常識なのにほかの人がほとんど知らない『ベスビオ風スパゲティ』というものがある|website=ロケットニュース24|date=2014-08-28|accessdate=2022-11-27}}</ref>。名前の「ベスビオ」はイタリアの火山・[[ヴェスヴィオ]](ベスビオ山)に由来する。
== 関連項目 ==
*[[イタリア料理]]
*[[トマトソース]]
*[[スパゲッティ]]
*[[ヴォンゴレ]]
== 脚注 ==
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[[Category:パスタ料理]]
[[Category:魚介料理]]
[[Category:トマト料理]]
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カーナビゲーション
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カーナビゲーション(英語: Automotive navigation system)とは、電子的に自動車の走行時に現在位置や目的地への経路案内を行う機能であり、また「カーナビゲーション・システム」と呼ばれる電子機器のことである。略して「カーナビ」と呼ばれることが多い。「ナビ」と略されることもあり、ナビという言葉自体がカーナビゲーションを表すようになってきている。
カーナビは、狭義には車載の固定式機器だけを指すが、広義にはカーナビから発展した携帯型ナビゲーション装置なども含まれており、本項目ではそれら各種を分類しながら以下で説明を行う。
カーナビは、自車の位置を知ることと、自車の位置を基に目的地への道案内をするのが主な機能である。通常はこれらを表示画面上の地図上の表示で行う。道案内は音声による指示を併用することが多い。
自車位置を知る仕組みとしては、GPS衛星などGNSSからのGPS位置情報が基本であるが、GNSSだけでは誤差があること、トンネルや高層建築物や山の陰では、上空からの電波が受信できないことから、カーナビ内の加速度センサとジャイロ、タイヤの回転に伴う車速信号の情報による自立航法と併用している。
経路案内は、詳細な道路情報を含んだ地図データを内蔵することにより、運転者に対して目的地までの進むべき道を示す。内蔵の地図は、カラー液晶ディスプレイ上に表示され、加えて合成音声による進路の案内が行える。製品によっては渋滞情報や空き駐車場情報の提供や、目標物の擬似立体表示などの付加的機能が備わっているものもある。
当初は、自動車用の行き先案内を行う車載の固定式電子装置だけであったが、二輪車用も登場し、2005年からは採用されている技術の一般化や部品の低廉化、装置の小型化に伴ってPNDと呼ばれる、車載用だけに限らない携帯可能な個人用ナビゲーション機器が現れている。その後、電子技術の向上に伴って、カーナビが提供する機能の多くが、小型の電子部品やアプリケーションソフトウェアで実現できるようになり、2009年からは専用機であったPNDから、高機能な携帯電話やスマートフォンの1機能に含まれるようになっている。
従来からある車載固定形式のカーナビはオンダッシュ型、インダッシュ型、AV一体型があり、その後、登場したポータブル型やPNDでは車に固定もできるようになっている形式が一般的である。新たに登場したスマートフォンなどは、固定方式を含めて未知数の部分が多い。
オンダッシュ型はダッシュボードの上に表示部を持つ形式であり、視認性が良い。 輸入車をはじめとする一部車種では、カーオーディオ類を取り付けるためのDINスペースが1段分しかなかったり、そもそもDIN規格ですらない場合もあり、インダッシュ型・AV一体型が取り付けられない車種や、2段DINスペースが確保されていてもインダッシュ型・AV一体型では視認性に難がある場合に用いられることが多い。特に助手席エアバッグのない車種だと取り付けても前方視界を妨げる可能性は低い。 当初はカーナビゲーションのほとんどがオンダッシュ型であり、安価なため2DINスペースが存在する車種でも利用されてきたが、AV一体型タイプの普及、ポータブル型の性能向上によって衰退し、現在では輸入車などの取り付けに制限のある車種を考慮して一部メーカーが生産しているのみとなった。
モニターをカーオーディオなどを収めるための1DINスペースに取り付ける形式である。性能はオンダッシュ型と同等。純正および市販のカーオーディオと組み合わせて使う。オンダッシュ型でもそうだが一部の機種では標準でFMモジュレーターを内蔵しており純正カーオーディオでCD/DVDなどの音声をFM電波で出力できるものもある。未使用時・駐車時はモニターを格納できるので、車上荒らしに遭いにくいといわれていたが、オンダッシュ型に比べて高価であったために狙われることも少なくなかった。 アンプ内蔵のHDD方式のAV一体型ナビゲーションも一部メーカーで発売されたがオンダッシュ型と同様に、AV一体型の普及により下火となっている。
AV一体型はカーナビにカーオーディオとテレビ機能が一体化した形式であり、音声と画像の機能が連携しており操作も統一されている。通常は2DINタイプのオーディオスペースを占めるので、設置できる自動車に制限がある。操作はパネルのボタンだけでなくタッチパネル式やリモコンを備えるものもあり、音声認識機能を持つ製品もある。上級機種などでは1DIN+1DIN形式もあり、一方の1DINを他の場所に置くことで1DIN規格の自動車にも対応できる。また、近年はテスラ・モーターズに代表されるようなスピードメーターやエアコンの制御画面と一体化して車内の情報処理を一括して担う機能をもたせたものが高級車標準搭載品を中心に増加している。他に、レクサスやBMWのiDriveなどがある。
初期には、音楽用CDのドライブで地図データ用CD-ROMを読み込むために音楽を再生しながらカーナビ機能が使えない製品も存在したが、オプションのCDチェンジャーを利用したり、機器内に2つのCD/DVDドライブを持つものや、HDDやSDカードなど、別の記録媒体との併用により、こういった問題は解消されている。上位製品では、DVDソフトの動画を後席のモニタで再生しながら、前席ではカーナビ表示が行えるものも存在する。 当初は高価であったためにあまり普及しなかったが、価格の下落や機能を割り切った安価な2DINメモリーナビの登場、自動車の2DINスペース仕様の強化もあってオンダッシュ型・インダッシュ型を駆逐している。メリットは収納的に優れていて画面が大きいため操作がしやすく、車内設置に特化しているため車の走行データを受け取ることで精度が高い点がある。弱点としては、値段が高い点と、特に日本国外において盗難に合いやすい点と、搭載データの更新が非常に高額 で頻度が少ない機種が多いこと、などがあげられる。また、純正品と呼ばれる新車注文時に取り付けるタイプのものは車を買い換えたときに取り外せないことが、あげられる。
2011年には機能的には単なるモニター付きカーオーディオだが後述のスマートフォンを連携させるとカーナビゲーションとして利用できる機種もパイオニアなどから発売している。さらにパイオニアからは光学ドライブレス仕様も発売している。
ポータブル型はカーナビ本体をスタンドから自由に取り外せる形式である。多くの機種がオンダッシュ型のディスプレイ同様にダッシュボード上のスタンドにカーナビ本体を設置する。CD-ROMだけを搭載した廉価機から、DVDとHDDの2つのドライブを搭載した上位機まで多様である。家庭用テレビに接続できるタイプも多く、DVDビデオ再生可能機種はDVDプレーヤーとしても利用できる。着脱が簡単で携帯性に優れており自宅や出先でのバッテリー動作や、また二輪車での利用も考慮されている製品もある。現在ではCD、DVD、HDDモデルの旧来の機種は全て生産終了されPNDの生産に切り替わっている。
オンダッシュ型・インダッシュ型・AV一体型(据置型)と比べて安価であったため、「今いる場所が分かる地図」として使用するライトユーザーや、複数台自動車を所有し載せ替えて使用するユーザー、普及以前のレンタカー会社、元々地理に明るいタクシードライバーやトラックドライバーが使用するケースが多かった。
かつてはほとんどの機種がGPS情報だけで測位・案内を行っていたため、ビル街等の空が見渡せない場所での表示誤差が非常に大きく、トンネル内では案内を中断してしまうこともあり、据置型との価格差以上の性能差があるとされたが、GPS信号を処理するコンピュータの性能向上、自立航法ユニットの内蔵や車速信号の入力端子を設けるなどして自車位置表示性能を向上させた。また近年ではポータブル型では不可能であった3D描写やドライバー目線の表示もできるようになった。
防水耐震匡体、直射日光下でも見やすい反射型液晶、ヘルメットに内蔵可能なワイヤレスイヤホン、手袋をしたままでも操作しやすいボタン等を装備したオートバイ搭載用の機種も市販されている。一部大型車種やスクーターではメーカー純正オプションとしての装着も行われている。
PND(Personal Navigation Device)と呼ばれる携帯が可能なナビゲーション用の装置が一定のシェアを獲得した時期があった。現在はスマートフォンの普及により独自の利点が少なくなり、シェアは縮小している。
当初はGPSによる位置情報を得る低価格な携帯機器として登場したが、詳細な地図データと加速度センサやジャイロセンサを搭載することで高精度なナビゲーションが可能になった。車輌固定型のカーナビとは異なり、タイヤの回転に伴う車速信号を得るようにはなっていないものが多い。一般的には、地図情報の記憶媒体には内蔵のフラッシュメモリーかメモリーカードを採用し、液晶画面を小型化することで片手で持てる大きさの、アンテナや電池まで含んだ一体型の本体形状である。5型 - 7型のモニタサイズが主流であるが、3.5型といった小さなものもある。低廉な価格でPDAのようにオーディオ再生やカメラ撮影と画像再生機能まで含むものが一般的になってきており、従来の車載型カーナビの市場を奪う存在になっているが、近年はスマートフォンの普及による新しいタイプの機種との市場競争が激しくなりつつある。メリットは、ある程度安価で持ち運びが自由な点にあり、デメリットとしては、表示画面が小さいものが多く、画面が大きいものは設置場所に制約を受けるケースが多いことがあげられる。
レーダー探知機にPND機能を一体化させたものや、気圧計を組み込み、精度を向上させている機種もある。
欧米では以前から、防犯上の理由や日本ほど街路が入り組んでいないことから、PNDのような機器が販売されていたが、日本でも高機能を必要としない層への普及や、同時に使用しないセカンドカーやサードカーとの共用、オートバイ・自転車あるいは徒歩での利用などへの市場が拡大している。
PNDを車載にする場合は、PND本体を直接ダッシュボードへ粘着テープで固定する形式と、車載用の固定スタンドによって脱着可能な形式がある。
携帯電話やPHS、スマートフォンにGPS/GNSS受信機を搭載し、アプリケーション・ソフトや通信契約によってナビゲーション機能を提供するものもある。高機能な携帯電話を含む携帯情報端末が、ナビゲーション専用機であるPNDの市場を奪いつつある。通信機能を持つ情報携帯端末であれば、テレマティクスによる高度なナビゲーション機能が比較的容易に実現できるため、通信機能を持たない従来型のカーナビでは提供できなかったサービスが可能になると期待されている。
メリットは、基本的に通信料のみで機能や地図データ更新自体は無料か極めて廉価で提供されている点が挙げられ、デメリットは専用品でないが故に現在地などの取得方法がGPS/GNSS(実際にはこれとWi-Fiや携帯電話基地局からの情報を組み合わせる)に限定されているため、精度が劣る場合がある点やスマートフォンの電池の消費が激しくなる点がある。
NTTドコモやパイオニアはそれらの欠点を克服すべく、地図情報をストレージに搭載したスマートフォンにあわせ、充電機能やジャイロセンサーを搭載したクレードルや、最新の地図情報、位置情報の共有などができるドコモ ドライブネットというサービスを開始している。また、スマートフォンやGPS/GNSS内蔵タブレット端末では、Google マップアプリにナビゲーション機能(Google マップナビ)を搭載しており、音声ナビを含み無料で使用することができる。
スマートフォンを車に接続して、車のナビゲーションシステムやディスプレイ搭載カーオーディオとスマートフォンのナビアプリを相互接続するタイプである。AppleのCarPlayや、グーグルのAndroid Autoがリリースされている。車に搭載されたGNSSや車速センサーなどにアクセスできるため、スマートフォン単体に比べて精度の高いナビゲーションが可能になるが、ディスプレイ搭載カーオーディオの場合は、スマートフォンに搭載されている位置情報や加速度センサーなどにアクセスするため、精度はスマートフォン単体と変わらないデメリットがある。
これらを複合して測位・地図表示する事をハイブリッド測位と称する。
アメリカでモータリゼーションが開花しはじめる20世紀初頭、道路標識やルート表示の整備不足から道に迷うドライバーが続出した。そんな中、1906年に「自動車カルテ」と呼ばれる測位装置が登場した。この装置は、車輪の回転に連動してロール状の地図を巻き上げる仕組みとなっており、20世紀前半まで改良を重ねながら同様の装置がつぎつぎに開発された。
スクロール式自動地図は、自立航法のみを用いて自車の現在位置を割り出していたため、走行開始後一定の地点で走行する方角の微調整を要した。また、車輪の回転を検出して移動距離の情報とするため、カーフェリー乗船時などには実際の移動を全く反映せず、上陸時に再設定の必要があった。
1970年代に民生品の小型コンピュータが普及するようになると、入力した起点・終点の位置と時間によって現在位置を推測する車載用の測位装置が開発されるようになった。初期のものは付属の地図帳が必要だったが、1980年代にはコンパスや運動センサーによって補正し、ディスプレイに地図を表示できる機種、音声によるナビゲートを行う機種などが現れた。推測航法システムは誤差が大きく、1993年のナブスター全地球位置把握システムの完成によって役割を終えた。
GPSの電波航法だけに頼る方式では、当時のアメリカ軍の軍事上の理由から、民間用では位置情報の誤差が100m程度までしか提供されず運用の保障もされていなかったことや、トンネル等の電波が届かない所では、そもそも利用できないなど問題があった。
民生用のカーナビ製品は日本での普及が最初であった。
民生用のカーナビが登場しはじめた頃には、GPSによる電波航法と自らのセンサー類に基づく自立航法が組み合わせられ、さらにCD-ROMに記録された道路地図情報を必要に応じて読み出し、自車走行経路の情報と照合する事で、正確に自車位置を特定するマップマッチングという方式も取られていた。
その後、地図情報は記憶容量のより大きなDVDも採用されるようになり、アメリカによるGPS衛星の安定運用への配慮と高精度サービスの開放、車載用TV受像機やカーステレオセットなどとの一体化などもあって、本格的に普及していった。その後は「ディファレンシャルGPS」によって、位置精度をさらに高める工夫や、道路交通情報通信システム (VICS) による渋滞情報や規制情報といった交通情報まで得られる製品も一般的になっている。
近年では、DVDに代わりHDDやSSDを搭載することにより、動作の高速化・記憶容量の拡大が図られた製品や、テレマティクス による通信機能で地図情報などを更新できる製品や、ワンセグTV受像機、デジタルオーディオプレーヤー、インターネット接続といったデジタル機器類と融合した製品も登場している。また2010年代に入りGPS以外のGNSS(GLONASSやみちびきなど)に対応した製品も出始めている。
これによってそれまでの失敗に終わって研究断念していたジャイロ式カーナビから研究方法が2段階ぐらいガラリと変わった。
日本が世界一のカーナビ大国であるといわれていた当時は、海外での車輌の航法システムは、軍事用や救急車両のような緊急車両用が主流であり、民生用としては趣味品あるいは一部の技術的趣向者むけとしての位置づけが強かった。
その後現れた簡易型のカーナビともいえるPNDは、タクシー業者をはじめ個人でも普及しており、インダッシュ型のAV機能などの付加価値付きカーナビはもっぱら高級車に限定して普及している状況である。
海外メーカーには、ガーミンやLGフィリップス、TOMTOM、モトローラ、IBM、フィリップスなどがある。世界最大のメーカーであるガーミンの生産台数は、年間1000万台にものぼる。それに対する日本メーカーの生産台数は100万台以下であり、多機能化と高級化に傾注するあまり(ガラパゴス化と高額化が進み)、国際市場を得る機会を逃してしまった。
ただし、2010年現在のカーナビゲーション市場においては日本メーカーの生産台数は1割以下だが、日米欧における金額上のシェアは3割以上のため、ハイエンドに特化した戦略と見做すことも可能であり、日本メーカーの取り組みも一概に否定はできない 事実、TOMTOMもインダッシュ型カーナビを作ってクライスラーにOEM供給している。
なお、今後の市場予測としては、インダッシュ型は今後も増加傾向が続くが、PNDはスマートフォンカーナビへの移行、及びインダッシュ型カーナビの価格低下により市場が縮小する、とみなす調査報告もある。
欧米各国でも日本と同様に、住所(英米で xxx street, フランスで rue de xxx, ドイツ圏でxxx Strasse(Straße), 北欧で xxx Vegen・xxxkatu など)を入力していって徐々に絞り込み検索が行われ、目的地を確定、そしてルートマップと音声案内機能でガイドすることは日本と変わらない。著名施設は大抵直接検索可能である。
カーナビ用に用いられる電子地図の表示と案内のシステムは次の機能を持つのが一般的である。
同じような地図データを見やすく表示しようと、メーカー各社が工夫している機能に次のようなものがある。
日本では、1999年11月から、道路交通法第百二十条第一項第十一号において、「自動車に持ち込まれた画像表示用装置を手で保持してこれに表示された画像を注視」する行為に罰則が設けられたが、カーナビは手に保持しない物のため、単純な注視は2004年11月以降の法改正後も依然罰則対象にはなっていない。しかしながらも、運転中のわき見による集中力の低下などを抑止するため、パーキングブレーキに取り付けたセンサーや本体の車速センサーと連動させることによって走行中の一部の操作が制限されたり、テレビの映像が表示されなくなる(音声のみとなる)機種が存在する。 ウォール・ストリート・ジャーナルは、日本の企業は世界中でナビシステムを輸出しているが、日本で現在販売されているモデルだけにテレビ視聴用のチューナーが組み込まれていると報じている。
自転車のカーナビゲーションであるサイクルナビゲーションも発売されている。専用の機種や、自動車用のポータブルナビゲーションにサイクリング機能を付加したものもある。専用機種には日本国外メーカーのものが多かったが、2011年にはパイオニアも参入した。
2021年現在、民生用のカーナビにはワンセグ/フルセグのチューナーが組み込まれているものが大多数だが、これらの受信機能を有するカーナビ装置についてNHKとの契約の義務があるかどうかについて争いがある。自宅にテレビがなく、カーナビ(ワンセグ受信機能付き)のみを所有する女性が、日本放送協会に対し受信料契約を結ぶ義務がないことの確認を求めた訴訟を起こしたことがあったが、2019年5月15日、東京地方裁判所は、カーナビはテレビ放送を受信するためではなく交通案内のために購入したとする女性側の訴えを退けている。
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"text": "カーナビゲーション(英語: Automotive navigation system)とは、電子的に自動車の走行時に現在位置や目的地への経路案内を行う機能であり、また「カーナビゲーション・システム」と呼ばれる電子機器のことである。略して「カーナビ」と呼ばれることが多い。「ナビ」と略されることもあり、ナビという言葉自体がカーナビゲーションを表すようになってきている。",
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"text": "カーナビは、狭義には車載の固定式機器だけを指すが、広義にはカーナビから発展した携帯型ナビゲーション装置なども含まれており、本項目ではそれら各種を分類しながら以下で説明を行う。",
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"text": "カーナビは、自車の位置を知ることと、自車の位置を基に目的地への道案内をするのが主な機能である。通常はこれらを表示画面上の地図上の表示で行う。道案内は音声による指示を併用することが多い。",
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"text": "自車位置を知る仕組みとしては、GPS衛星などGNSSからのGPS位置情報が基本であるが、GNSSだけでは誤差があること、トンネルや高層建築物や山の陰では、上空からの電波が受信できないことから、カーナビ内の加速度センサとジャイロ、タイヤの回転に伴う車速信号の情報による自立航法と併用している。",
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"text": "経路案内は、詳細な道路情報を含んだ地図データを内蔵することにより、運転者に対して目的地までの進むべき道を示す。内蔵の地図は、カラー液晶ディスプレイ上に表示され、加えて合成音声による進路の案内が行える。製品によっては渋滞情報や空き駐車場情報の提供や、目標物の擬似立体表示などの付加的機能が備わっているものもある。",
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"text": "当初は、自動車用の行き先案内を行う車載の固定式電子装置だけであったが、二輪車用も登場し、2005年からは採用されている技術の一般化や部品の低廉化、装置の小型化に伴ってPNDと呼ばれる、車載用だけに限らない携帯可能な個人用ナビゲーション機器が現れている。その後、電子技術の向上に伴って、カーナビが提供する機能の多くが、小型の電子部品やアプリケーションソフトウェアで実現できるようになり、2009年からは専用機であったPNDから、高機能な携帯電話やスマートフォンの1機能に含まれるようになっている。",
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"text": "従来からある車載固定形式のカーナビはオンダッシュ型、インダッシュ型、AV一体型があり、その後、登場したポータブル型やPNDでは車に固定もできるようになっている形式が一般的である。新たに登場したスマートフォンなどは、固定方式を含めて未知数の部分が多い。",
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"text": "オンダッシュ型はダッシュボードの上に表示部を持つ形式であり、視認性が良い。 輸入車をはじめとする一部車種では、カーオーディオ類を取り付けるためのDINスペースが1段分しかなかったり、そもそもDIN規格ですらない場合もあり、インダッシュ型・AV一体型が取り付けられない車種や、2段DINスペースが確保されていてもインダッシュ型・AV一体型では視認性に難がある場合に用いられることが多い。特に助手席エアバッグのない車種だと取り付けても前方視界を妨げる可能性は低い。 当初はカーナビゲーションのほとんどがオンダッシュ型であり、安価なため2DINスペースが存在する車種でも利用されてきたが、AV一体型タイプの普及、ポータブル型の性能向上によって衰退し、現在では輸入車などの取り付けに制限のある車種を考慮して一部メーカーが生産しているのみとなった。",
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"text": "モニターをカーオーディオなどを収めるための1DINスペースに取り付ける形式である。性能はオンダッシュ型と同等。純正および市販のカーオーディオと組み合わせて使う。オンダッシュ型でもそうだが一部の機種では標準でFMモジュレーターを内蔵しており純正カーオーディオでCD/DVDなどの音声をFM電波で出力できるものもある。未使用時・駐車時はモニターを格納できるので、車上荒らしに遭いにくいといわれていたが、オンダッシュ型に比べて高価であったために狙われることも少なくなかった。 アンプ内蔵のHDD方式のAV一体型ナビゲーションも一部メーカーで発売されたがオンダッシュ型と同様に、AV一体型の普及により下火となっている。",
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"text": "初期には、音楽用CDのドライブで地図データ用CD-ROMを読み込むために音楽を再生しながらカーナビ機能が使えない製品も存在したが、オプションのCDチェンジャーを利用したり、機器内に2つのCD/DVDドライブを持つものや、HDDやSDカードなど、別の記録媒体との併用により、こういった問題は解消されている。上位製品では、DVDソフトの動画を後席のモニタで再生しながら、前席ではカーナビ表示が行えるものも存在する。 当初は高価であったためにあまり普及しなかったが、価格の下落や機能を割り切った安価な2DINメモリーナビの登場、自動車の2DINスペース仕様の強化もあってオンダッシュ型・インダッシュ型を駆逐している。メリットは収納的に優れていて画面が大きいため操作がしやすく、車内設置に特化しているため車の走行データを受け取ることで精度が高い点がある。弱点としては、値段が高い点と、特に日本国外において盗難に合いやすい点と、搭載データの更新が非常に高額 で頻度が少ない機種が多いこと、などがあげられる。また、純正品と呼ばれる新車注文時に取り付けるタイプのものは車を買い換えたときに取り外せないことが、あげられる。",
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"text": "その後現れた簡易型のカーナビともいえるPNDは、タクシー業者をはじめ個人でも普及しており、インダッシュ型のAV機能などの付加価値付きカーナビはもっぱら高級車に限定して普及している状況である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "海外メーカーには、ガーミンやLGフィリップス、TOMTOM、モトローラ、IBM、フィリップスなどがある。世界最大のメーカーであるガーミンの生産台数は、年間1000万台にものぼる。それに対する日本メーカーの生産台数は100万台以下であり、多機能化と高級化に傾注するあまり(ガラパゴス化と高額化が進み)、国際市場を得る機会を逃してしまった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ただし、2010年現在のカーナビゲーション市場においては日本メーカーの生産台数は1割以下だが、日米欧における金額上のシェアは3割以上のため、ハイエンドに特化した戦略と見做すことも可能であり、日本メーカーの取り組みも一概に否定はできない 事実、TOMTOMもインダッシュ型カーナビを作ってクライスラーにOEM供給している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、今後の市場予測としては、インダッシュ型は今後も増加傾向が続くが、PNDはスマートフォンカーナビへの移行、及びインダッシュ型カーナビの価格低下により市場が縮小する、とみなす調査報告もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "欧米各国でも日本と同様に、住所(英米で xxx street, フランスで rue de xxx, ドイツ圏でxxx Strasse(Straße), 北欧で xxx Vegen・xxxkatu など)を入力していって徐々に絞り込み検索が行われ、目的地を確定、そしてルートマップと音声案内機能でガイドすることは日本と変わらない。著名施設は大抵直接検索可能である。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "カーナビ用に用いられる電子地図の表示と案内のシステムは次の機能を持つのが一般的である。",
"title": "カーナビ用地図"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "同じような地図データを見やすく表示しようと、メーカー各社が工夫している機能に次のようなものがある。",
"title": "カーナビ用地図"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "日本では、1999年11月から、道路交通法第百二十条第一項第十一号において、「自動車に持ち込まれた画像表示用装置を手で保持してこれに表示された画像を注視」する行為に罰則が設けられたが、カーナビは手に保持しない物のため、単純な注視は2004年11月以降の法改正後も依然罰則対象にはなっていない。しかしながらも、運転中のわき見による集中力の低下などを抑止するため、パーキングブレーキに取り付けたセンサーや本体の車速センサーと連動させることによって走行中の一部の操作が制限されたり、テレビの映像が表示されなくなる(音声のみとなる)機種が存在する。 ウォール・ストリート・ジャーナルは、日本の企業は世界中でナビシステムを輸出しているが、日本で現在販売されているモデルだけにテレビ視聴用のチューナーが組み込まれていると報じている。",
"title": "その他"
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"text": "自転車のカーナビゲーションであるサイクルナビゲーションも発売されている。専用の機種や、自動車用のポータブルナビゲーションにサイクリング機能を付加したものもある。専用機種には日本国外メーカーのものが多かったが、2011年にはパイオニアも参入した。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2021年現在、民生用のカーナビにはワンセグ/フルセグのチューナーが組み込まれているものが大多数だが、これらの受信機能を有するカーナビ装置についてNHKとの契約の義務があるかどうかについて争いがある。自宅にテレビがなく、カーナビ(ワンセグ受信機能付き)のみを所有する女性が、日本放送協会に対し受信料契約を結ぶ義務がないことの確認を求めた訴訟を起こしたことがあったが、2019年5月15日、東京地方裁判所は、カーナビはテレビ放送を受信するためではなく交通案内のために購入したとする女性側の訴えを退けている。",
"title": "その他"
}
] |
カーナビゲーションとは、電子的に自動車の走行時に現在位置や目的地への経路案内を行う機能であり、また「カーナビゲーション・システム」と呼ばれる電子機器のことである。略して「カーナビ」と呼ばれることが多い。「ナビ」と略されることもあり、ナビという言葉自体がカーナビゲーションを表すようになってきている。 カーナビは、狭義には車載の固定式機器だけを指すが、広義にはカーナビから発展した携帯型ナビゲーション装置なども含まれており、本項目ではそれら各種を分類しながら以下で説明を行う。
|
{{複数の問題|出典の明記=2015年4月|独自研究=2015年4月}}
[[File:KyotoTaxiRide.jpg|thumb|タクシーに搭載されたカーナビ(2004年7月16日)]]
[[File:Colt-MMCS.jpg|thumb|2DIN AV一体型カーナビゲーションシステムの例:三菱マルチエンタテインメントシステム(三菱コルトプラス)]]
[[File:Strada (2).jpg|thumb|upright|AV一体型インダッシュカーナビゲーションシステムの例:Panasonic [[Strada]]]]
'''カーナビゲーション'''({{lang-en|Automotive navigation system}})とは、電子的に[[自動車]]の走行時に現在位置や目的地への経路案内を行う機能であり、また「カーナビゲーション・システム」と呼ばれる[[電子機器]]のことである。略して「カーナビ」と呼ばれることが多い。「ナビ」と略されることもあり、[[ナビ]]という言葉自体がカーナビゲーションを表すようになってきている。
カーナビは、狭義には車載の固定式機器だけを指すが、広義にはカーナビから発展した[[PND|携帯型ナビゲーション装置]]なども含まれており、本項目ではそれら各種を分類しながら以下で説明を行う<ref name = "スマートフォン・ナビに死角 パイオニア特許訴訟の余波"/>。
== 概要 ==
カーナビは、自車の位置を知ることと、自車の位置を基に目的地への道案内をするのが主な機能である。通常はこれらを表示画面上の地図上の表示で行う。道案内は音声による指示を併用することが多い。
自車位置を知る仕組みとしては、[[GPS衛星]]など[[衛星測位システム|GNSS]]からの[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]位置情報が基本であるが、GNSSだけでは誤差があること、[[トンネル]]や[[高層建築物]]や[[山]]の陰では、上空からの電波が受信できないことから、カーナビ内の[[加速度センサ]]と[[ジャイロスコープ|ジャイロ]]、[[タイヤ]]の回転に伴う[[車速信号]]の情報による自立航法と併用している。
経路案内は、詳細な道路情報を含んだ[[地図]]データを内蔵することにより、運転者に対して目的地までの進むべき道を示す。内蔵の地図は、カラー[[液晶ディスプレイ]]上に表示され、加えて[[音声合成|合成音声]]による進路の案内が行える。製品によっては[[渋滞]]情報や空き[[駐車場]]情報の提供や、目標物の擬似[[立体]]表示などの付加的機能が備わっているものもある。
当初は、自動車用の行き先案内を行う車載の固定式電子装置だけであったが、二輪車用も登場し、2005年からは採用されている技術の一般化や部品の低廉化、装置の小型化に伴って[[PND]]と呼ばれる、車載用だけに限らない携帯可能な個人用ナビゲーション機器が現れている。その後、電子技術の向上に伴って、カーナビが提供する機能の多くが、小型の電子部品や[[アプリケーションソフトウェア]]で実現できるようになり、2009年からは専用機であったPNDから、高機能な[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]の1機能に含まれるようになっている<ref name = "スマートフォン・ナビに死角 パイオニア特許訴訟の余波">{{cite news | author = 清水直茂 | url = https://xtech.nikkei.com/dm/article/HONSHI/20100107/179059/ | title = スマートフォン・ナビに死角 パイオニア特許訴訟の余波 | newspaper = 日経エレクトロニクス | publisher = [[日経BP]] | date = 2010-01-11 | accessdate = 2017-12-15 }}</ref>。
== 分類 ==
従来からある車載固定形式のカーナビはオンダッシュ型、インダッシュ型、AV一体型があり、その後、登場したポータブル型やPNDでは車に固定もできるようになっている形式が一般的である。新たに登場したスマートフォンなどは、固定方式を含めて未知数の部分が多い。
=== オンダッシュ型 ===
オンダッシュ型は[[ダッシュボード (自動車)|ダッシュボード]]の上に表示部を持つ形式であり、視認性が良い。
[[輸入車]]をはじめとする一部車種では、カーオーディオ類を取り付けるための[[ISO 7736|DIN]]スペースが1段分しかなかったり、そもそもDIN規格ですらない場合もあり、インダッシュ型・AV一体型が取り付けられない車種や、2段DINスペースが確保されていてもインダッシュ型・AV一体型では視認性に難がある場合に用いられることが多い。特に助手席[[エアバッグ]]のない車種だと取り付けても前方視界を妨げる可能性は低い。
当初はカーナビゲーションのほとんどがオンダッシュ型であり、安価なため2DINスペースが存在する車種でも利用されてきたが、AV一体型タイプの普及、ポータブル型の性能向上によって衰退し、現在では輸入車などの取り付けに制限のある車種を考慮して一部メーカーが生産しているのみとなった。
=== インダッシュ型 ===
モニターをカーオーディオなどを収めるための1DINスペースに取り付ける形式である。性能はオンダッシュ型と同等。純正および市販のカーオーディオと組み合わせて使う。オンダッシュ型でもそうだが一部の機種では標準でFMモジュレーターを内蔵しており純正カーオーディオでCD/DVDなどの音声をFM電波で出力できるものもある。未使用時・駐車時はモニターを格納できるので、[[車上荒らし]]に遭いにくいといわれていたが、オンダッシュ型に比べて高価であったために狙われることも少なくなかった。
アンプ内蔵のHDD方式のAV一体型ナビゲーションも一部メーカーで発売されたがオンダッシュ型と同様に、AV一体型の普及により下火となっている。
=== AV一体型 ===
[[File:Gathers VXH-072CV.jpg|thumb|ギャザズ VXH-072CV<br />2DINサイズ[[ハードディスクドライブ|HDD]]ナビ(クラリオン製)]]
AV一体型はカーナビにカーオーディオとテレビ機能が一体化した形式であり、音声と画像の機能が連携しており操作も統一されている。通常は2DINタイプのオーディオスペースを占めるので、設置できる自動車に制限がある。操作はパネルのボタンだけでなく[[タッチパネル]]式やリモコンを備えるものもあり、[[音声認識]]機能を持つ製品もある。上級機種などでは1DIN+1DIN形式もあり、一方の1DINを他の場所に置くことで1DIN規格の自動車にも対応できる。また、近年は[[テスラ・モーターズ]]に代表されるようなスピードメーターやエアコンの制御画面と一体化して車内の情報処理を一括して担う機能をもたせたものが高級車標準搭載品を中心に増加している。他に、[[レクサス]]や[[BMW]]の[[iDrive]]などがある。
初期には、音楽用CDのドライブで地図データ用CD-ROMを読み込むために音楽を再生しながらカーナビ機能が使えない製品も存在したが、オプションの[[チェンジャーデッキ|CDチェンジャー]]を利用したり、機器内に2つのCD/DVDドライブを持つものや、HDDや[[SDメモリーカード|SDカード]]など、別の記録媒体との併用により、こういった問題は解消されている。上位製品では、DVDソフトの動画を後席のモニタで再生しながら、前席ではカーナビ表示が行えるものも存在する<ref group="注">AV一体型カーナビは、日本では転売目的の車上荒らしによる盗難被害が指摘されており、防犯対策が求められている。特に後付けタイプでは、窃取するため取り外す際に一体型であるがゆえに短時間で済むことも増加傾向に拍車をかけていると言われている。</ref><!--大阪府警[http://www.police.pref.osaka.jp/05bouhan/gaitohanzai/06carnavi.html|カーナビの被害が急増]-->。
当初は高価であったためにあまり普及しなかったが、価格の下落や機能を割り切った安価な2DINメモリーナビの登場、自動車の2DINスペース仕様の強化もあってオンダッシュ型・インダッシュ型を駆逐している。メリットは収納的に優れていて画面が大きいため操作がしやすく、車内設置に特化しているため車の走行データを受け取ることで精度が高い点がある。弱点としては、値段が高い点と、特に日本国外において盗難に合いやすい点と、搭載データの更新が非常に高額<ref group="注">特にHDDタイプはHDDの取り外しを販売店で依頼すると更に高額となる</ref> で頻度が少ない機種が多いこと、などがあげられる。また、純正品と呼ばれる新車注文時に取り付けるタイプのものは車を買い換えたときに取り外せないことが、あげられる。
2011年には機能的には単なるモニター付きカーオーディオだが後述のスマートフォンを連携させるとカーナビゲーションとして利用できる機種もパイオニアなどから発売している。さらにパイオニアからは光学ドライブレス仕様も発売している。
=== ポータブル型 ===
[[File:三洋電機_初代ポータブルナビゲーションシステム_ゴリラ.jpg|thumb|upright|三洋電機 初代ゴリラ]]
ポータブル型はカーナビ本体をスタンドから自由に取り外せる形式である。多くの機種がオンダッシュ型のディスプレイ同様に[[ダッシュボード (自動車)|ダッシュボード]]上のスタンドにカーナビ本体を設置する。CD-ROMだけを搭載した廉価機から、DVDとHDDの2つのドライブを搭載した上位機まで多様である。家庭用テレビに接続できるタイプも多く、[[DVDビデオ]]再生可能機種は[[DVDプレーヤー]]としても利用できる<ref group="注">ポータブル型には、[[三洋電機]]の『ゴリラ』や[[Sony Mobile|ソニー]]の『nav-u』、[[クラリオン]]の『DrivTrax』、[[ナビタイムジャパン]]の『CAR NAVITIME』などがある。</ref><ref group="注">[[Sony Mobile|ソニー モバイル]]の"nav-u"では、スタンドを[[ゲル]]吸盤で固定する。</ref>。着脱が簡単で携帯性に優れており自宅や出先でのバッテリー動作や、また二輪車での利用も考慮されている製品もある。現在ではCD、DVD、HDDモデルの旧来の機種は全て生産終了されPNDの生産に切り替わっている。
オンダッシュ型・インダッシュ型・AV一体型(据置型)と比べて安価であったため、「今いる場所が分かる地図」として使用するライトユーザーや、複数台自動車を所有し載せ替えて使用するユーザー、普及以前の[[レンタカー]]会社、元々地理に明るいタクシードライバーやトラックドライバーが使用するケースが多かった。
かつてはほとんどの機種がGPS情報だけで測位・案内を行っていたため、ビル街等の空が見渡せない場所での表示誤差が非常に大きく、トンネル内では案内を中断してしまうこともあり、据置型との価格差以上の性能差があるとされたが、GPS信号を処理するコンピュータの性能向上、自立航法ユニットの内蔵や車速信号の入力端子を設けるなどして自車位置表示性能を向上させた。また近年ではポータブル型では不可能であった3D描写やドライバー目線の表示もできるようになった。
=== オートバイ搭載用 ===
防水耐震匡体、直射日光下でも見やすい反射型液晶、ヘルメットに内蔵可能なワイヤレスイヤホン、手袋をしたままでも操作しやすいボタン等を装備した[[オートバイ]]搭載用の機種も市販されている。一部大型車種や[[スクーター]]ではメーカー純正オプションとしての装着も行われている。
=== PND ===
{{main|PND}}
[[PND]](Personal Navigation Device)と呼ばれる携帯が可能なナビゲーション用の装置が一定のシェアを獲得した時期があった。現在はスマートフォンの普及により独自の利点が少なくなり、シェアは縮小している。
当初はGPSによる位置情報を得る低価格な携帯機器として登場したが、詳細な地図データと[[加速度計|加速度センサ]]や[[ジャイロスコープ|ジャイロセンサ]]を搭載することで高精度なナビゲーションが可能になった。車輌固定型のカーナビとは異なり、タイヤの回転に伴う車速信号を得るようにはなっていないものが多い。一般的には、地図情報の記憶媒体には内蔵の[[フラッシュメモリー]]か[[メモリーカード]]を採用し、液晶画面を小型化することで片手で持てる大きさの、アンテナや電池まで含んだ一体型の本体形状である。5型 - 7型のモニタサイズが主流であるが、3.5型といった小さなものもある。低廉な価格で[[携帯情報端末|PDA]]のようにオーディオ再生やカメラ撮影と画像再生機能まで含むものが一般的になってきており、従来の車載型カーナビの市場を奪う存在になっているが、近年はスマートフォンの普及による新しいタイプの機種との[[市場競争]]が激しくなりつつある。メリットは、ある程度安価で持ち運びが自由な点にあり、デメリットとしては、表示画面が小さいものが多く、画面が大きいものは設置場所に制約を受けるケースが多いことがあげられる。
[[レーダー探知機]]にPND機能を一体化させたものや、[[気圧計]]を組み込み、精度を向上させている機種もある。
欧米では以前から、[[防犯]]上の理由や日本ほど街路が入り組んでいないことから、PNDのような機器が販売されていたが、日本でも高機能を必要としない層への普及や、同時に使用しないセカンドカーやサードカーとの共用、[[オートバイ]]・[[自転車]]あるいは[[歩行|徒歩]]での利用などへの市場が拡大している。
PNDを車載にする場合は、PND本体を直接[[ダッシュボード (自動車)|ダッシュボード]]へ粘着テープで固定する形式と、車載用の固定スタンドによって脱着可能な形式がある<ref group="注">車載電子機器は高温・低温・振動といった環境下での使用が求められるため、一般に高品質・高信頼性の部品が選ばれるが、車載可能なPNDのすべてがこういった過酷な環境を想定しているかは不明であり、購入と使用に際しては性能や機能とは別に機器の[[寿命]]や耐久性まで考慮することが求められる。</ref>。
=== 携帯電話・スマートフォン ===
[[携帯電話]]や[[PHS]]、スマートフォンにGPS/GNSS受信機を搭載し、アプリケーション・ソフトや通信契約によってナビゲーション機能を提供するものもある。高機能な携帯電話を含む携帯情報端末が、ナビゲーション専用機であるPNDの市場を奪いつつある。通信機能を持つ情報携帯端末であれば、テレマティクスによる高度なナビゲーション機能が比較的容易に実現できるため、通信機能を持たない従来型のカーナビでは提供できなかったサービスが可能になると期待されている<ref group="注">スマートフォン用のプラットフォームで大きな位置を占める[[Google]]は、基本的に無料である[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]の初期リリース時からPND相当機能"Maps Navigation"を含めて開発しており、2009年10月に発表されすでに登場しているAndroid 2.0では通信切断後も端末ローカル上で地図データを保持することでPNDとしての利便性を実用的なものとしている。スマートフォン上でのナビゲーション機能アプリによる更なる市場の拡大は、純技術的な意味での障害は予想されないが、日本のカーナビ・メーカーはカーナビゲーション・システムに関する特許を合計1万件ほど保有しており、実際に[[パイオニア]]社は特許侵害として携帯ナビ・サービスの提供やPND機器を販売している複数社を訴訟している。こういった訴訟において、車載でないPNDやスマートフォン上での同等の機能がどのように扱われるかにより、今後、非固定型のナビ・システムの展開が変わる可能性が高い。</ref><ref name = "スマートフォン・ナビに死角 パイオニア特許訴訟の余波"/>。
メリットは、基本的に通信料のみで機能や地図データ更新自体は無料か極めて廉価で提供されている点が挙げられ、デメリットは専用品でないが故に現在地などの取得方法がGPS/GNSS(実際にはこれとWi-Fiや携帯電話基地局からの情報を組み合わせる)に限定されているため、精度が劣る場合がある点やスマートフォンの電池の消費が激しくなる点がある。
[[NTTドコモ]]やパイオニアはそれらの欠点を克服すべく、地図情報をストレージに搭載したスマートフォンにあわせ、充電機能やジャイロセンサーを搭載したクレードルや、最新の地図情報、位置情報の共有などができる[[ドコモ ドライブネット]]というサービスを開始している。また、スマートフォンやGPS/GNSS内蔵タブレット端末では、[[Google マップ]]アプリにナビゲーション機能(Google マップナビ)を搭載しており、音声ナビを含み無料で使用することができる。
=== モバイル端末接続型 ===
スマートフォンを車に接続して、車のナビゲーションシステムやディスプレイ搭載カーオーディオとスマートフォンのナビアプリを相互接続するタイプである。[[Apple]]の[[CarPlay]]や<ref>[https://japan.cnet.com/article/35044821/ アップル「CarPlay」を使ってみた--メルセデス・ベンツ搭載版の第一印象]</ref>、[[Google|グーグル]]の[[Android Auto]]がリリースされている<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/event/655674.html Android Autoは、アプリでクルマを止めない曲がらせない]</ref>。車に搭載されたGNSSや車速センサーなどにアクセスできるため、スマートフォン単体に比べて精度の高いナビゲーションが可能になるが、ディスプレイ搭載カーオーディオの場合は、スマートフォンに搭載されている位置情報や加速度センサーなどにアクセスするため、精度はスマートフォン単体と変わらないデメリットがある。
== 利用技術の種類 ==
=== 現在位置取得方法 ===
* [[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]/[[衛星測位システム|GNSS]]
** [[MSAS]]/[[広域増強システム|WAAS]]は、GPSの誤差補正または補強するシステム。
* [[マップマッチング]]
* 高精度化のための追加センサ(自立航法ユニット)
** [[加速度センサ]]
** [[ジャイロ]]
** 自動車の車速情報(主に[[スピードメーター]]用、[[オートマチックトランスミッション|AT]]ミッション制御用)
** 後退信号(自動車がバックする際に自車位置を後退させる)
これらを複合して測位・地図表示する事を'''ハイブリッド測位'''と称する。
=== 地図情報の保管場所 ===
* DVD
* HDD
* SSD
* SDメモリーカード
* クラウド(無線回線前提)
=== 渋滞情報の取得方法 ===
*[[道路交通情報通信システム|VICS]]
*会員登録した自動車の走行状態を、携帯電話やスマートフォンなどに搭載されているBluetoothや無線LAN(Wi-Fi)、外付けの通信ユニットなどから[[サーバ]]に集約して、各車に提供([[フローティングカーデータ]])
**実用例
***[[インターナビ]]([[本田技研工業|ホンダ]])
***[[G-BOOK]]([[トヨタ自動車|トヨタ]]・[[ダイハツ工業|ダイハツ]]・[[スバル]]・[[マツダ]])
***[[G-BOOK|T-Connect]]([[トヨタ自動車|トヨタ]])
***[[カーウイングス]]([[日産自動車|日産]])
***[[スマートループ]]([[パイオニア]]・[[三菱電機]]・[[JVCケンウッド]])
***[[ドコモ ドライブネット]]([[NTTドコモ]]) 当面はタクシーの走行データを利用
***Future Link([[デンソーテン]])
=== その他情報 ===
*[[DSRC#ETC2.0|ETC2.0]]([[DSRC]])<ref group="注">過去にはスポット通信サービス・DSRCスポットサービス・ITSスポットサービスなどと呼ばれていた。</ref>
*[[DSSS]](Driving Safety Support Systems)
== 歴史 ==
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[モータリゼーション]]が開花しはじめる20世紀初頭、道路標識やルート表示の整備不足から道に迷うドライバーが続出した。そんな中、[[1906年]]に「自動車カルテ」と呼ばれる測位装置が登場した。この装置は、車輪の回転に連動してロール状の地図を巻き上げる仕組みとなっており、20世紀前半まで改良を重ねながら同様の装置がつぎつぎに開発された<ref name="Hara">原克『暮らしのテクノロジー:20世紀ポピュラー・サイエンスの神話』 大修館書店 2007年 ISBN 9784469213102 pp.246-255,270-289.</ref>。
スクロール式自動地図は、自立航法のみを用いて自車の現在位置を割り出していたため、走行開始後一定の地点で走行する方角の微調整を要した。また、車輪の回転を検出して移動距離の情報とするため、[[フェリー|カーフェリー]]乗船時などには実際の移動を全く反映せず、上陸時に再設定の必要があった。
[[1970年代]]に民生品の小型[[コンピュータ]]が普及するようになると、入力した起点・終点の位置と時間によって現在位置を推測する車載用の測位装置が開発されるようになった<ref name="Hara"/>。初期のものは付属の地図帳が必要だったが、[[1980年代]]にはコンパスや運動センサーによって補正し、ディスプレイに地図を表示できる機種、音声によるナビゲートを行う機種などが現れた<ref name="Hara"/>。推測航法システムは誤差が大きく、[[1993年]]の[[ナブスター全地球位置把握システム]]の完成によって役割を終えた。
[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の電波航法だけに頼る方式では、当時の[[アメリカ軍]]の軍事上の理由から、民間用では位置情報の誤差が100m程度までしか提供されず運用の保障もされていなかったことや、[[トンネル]]等の電波が届かない所では、そもそも利用できないなど問題があった。<!-- 但しGPS方式では、船や列車での移動時もGPS衛星の電波が届く所であれば、位置情報は得られることになる。 -->
民生用のカーナビ製品は日本での普及が最初であった<ref group="注">世界で初めて民生用カーナビを販売したのは、日本の[[本田技研工業]]である。かつては全世界のカーナビ製品の8-9割は、日本のメーカーが製造していた。そしてその半数も日本国内で販売されており、海外でのカーナビ普及率は低かった。当時、日本は世界一のカーナビ大国であるといわれていた。</ref>。
民生用のカーナビが登場しはじめた頃には、GPSによる電波航法と自らのセンサー類に基づく自立航法が組み合わせられ、さらに[[CD-ROM]]に記録された道路地図情報を必要に応じて読み出し、自車走行経路の情報と照合する事で、正確に自車位置を特定する[[マップマッチング]]という方式も取られていた。
その後、地図情報は記憶容量のより大きな[[DVD]]も採用されるようになり、アメリカによるGPS衛星の安定運用への配慮と高精度サービスの開放、車載用TV受像機やカーステレオセットなどとの一体化などもあって、本格的に普及していった。その後は「ディファレンシャルGPS」によって、位置精度をさらに高める工夫や、[[道路交通情報通信システム]] (VICS) による[[渋滞]]情報や規制情報といった[[交通情報]]まで得られる製品も一般的になっている。
近年{{いつ|date=2017年4月}}では、DVDに代わり[[ハードディスクドライブ|HDD]]や[[ソリッドステートドライブ|SSD]]を搭載することにより、動作の高速化・記憶容量の拡大が図られた製品や、[[テレマティクス]]<ref group="注">[[携帯電話]]・[[PHS]]等の無線接続によって専用[[サーバ]]に各車が相互接続することでVICSとは別のより詳しい道路情報が得られる「テレマティクス」と呼ばれるサービスを、日本の自動車メーカー数社が提供しはじめた。</ref> による通信機能で地図情報などを更新できる製品や、ワンセグTV受像機、[[デジタルオーディオプレーヤー]]、[[インターネット]]接続といったデジタル機器類と融合した製品も登場している。また2010年代に入りGPS以外のGNSS([[GLONASS]]や[[準天頂衛星システム|みちびき]]など)に対応した製品も出始めている。
=== 1980年代 ===
* [[1981年]] [[本田技研工業|ホンダ]]が[[ジャイロ]]式カーナビ、「[[ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ]]」を発売。2代目[[ホンダ・アコード|アコード]]に搭載される<ref>[http://www.honda.co.jp/news/2015/c150325a.html?from=googleplus 「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」が第8回電気技術顕彰「でんきの礎(いしずえ)」を受賞] - 本田技研工業プレスリリースアーカイブ(2015年03月25日版 / 2015年12月1日閲覧)</ref>。「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」は[[ブラウン管]]上にガスケートジャイロ及び方向センサーにより計算された移動方向、移動量を表示するというものであったが、地図自体は[[セルロイド]]製のフィルム状地図を、ドライバー自ら移動の都度画面に張り替える必要があった。一方、トヨタは地磁気センサーと車速センサーにより自車の移動方向及び距離を数値的に表示する「ナビコン」を2代目[[トヨタ・セリカXX]]に搭載。日産も方位センサーにより目的地までの距離と、現時点での移動距離を数値的に表示する「ドライブガイドシステム」を[[日産・スカイライン|R30型スカイライン]]にオプション設定した。当時の一連のシステムはカーナビというよりも「自動車用の[[慣性航法装置]]」として紹介されたという<ref name="kansei">[https://www.goodspress.jp/features/102607/2/ 地図は自分で差し替え!? カーナビ黎明期に登場したおもしろナビたち] - &GP</ref>。
*[[1982年]] 豊田通商シンガポール支部社長だった木村嘉伸の息子誠一郎が、市場調査をかけGPSを合わせ持つよう原案を出した。
これによってそれまでの失敗に終わって研究断念していたジャイロ式カーナビから研究方法が2段階ぐらいガラリと変わった。
* {{Anchors|ナビ研}}[[1986年]] ナビゲーションシステム研究会(現:「ITナビゲーションシステム研究会」、通称「ナビ研」)発足。トヨタ、2代目[[トヨタ・ソアラ|ソアラ]]にROMカセットより読み込んだ高速道路地図を画面上に表示する「エレクトロマルチビジョン」を搭載<ref name="kansei"/>。
* [[1987年]] [[トヨタ自動車|トヨタ]]([[デンソー]]が開発)が[[CD-ROM]]の電子地図を搭載した新型の「エレクトロマルチビジョン」を発表、同年発売の[[トヨタ・クラウン|クラウン]]にオプション設定された<ref name="kansei"/>。[[日本の警察]]及び[[日本車]]メーカー、電機メーカー等が中心として、ナビゲーション機能を備えた[[道路交通情報通信システム]]である「アムテックス(AMTICS)」の開発が開始される<ref>『渋滞回避に新兵器開発 警察庁などの推進協 リアルタイムに交通情報 ハイテク車に表示 実用化は昭和65年』[[静岡新聞]]夕刊、9頁、1987年4月10日。</ref>。このシステムは東京都心や万博会場等で開発が重ねられ、VICSに発展した<ref>[https://automotive.ten-navi.com/dictionary/24311/ AMTICS(アドバンスト・モービル・トラフィック・インフォメーション・アンド・コミュニケーション・システム)とは] - オートモーティブ・ジョブズ</ref>。
* [[1989年]] 日産、[[日産・シーマ|シーマ]]に進行方向が上になる地図が画面に表示される「マルチAVシステム」をオプション設定<ref name="kansei"/>。
=== 1990年代 ===
* [[1990年]] [[マツダ]]が[[三菱電機]]と共同開発した[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]式カーナビを搭載した「[[マツダ・コスモ|ユーノス・コスモ]]」を発売<ref>民生品高度化進む転用『読売新聞』2023年(令和5年)1月3日朝刊17面</ref>。
* [[1991年]] [[パイオニア]]が市販モデルで世界で初めてGPS式カーナビを発売。人工衛星からの電波で誘導することから、「サテライト・クルージング・システム」と呼ばれた。
* [[1992年]] アイシン・エィ・ダブリュ(現:[[アイシン]])が世界初のボイスナビゲーションの開発に成功。初代[[トヨタ・セルシオ]]に搭載される。以後、[[アルパイン (企業)|アルパイン]]をはじめとする各カーナビメーカーに供給が開始され、音声案内は現在のカーナビのグローバル・スタンダード機能となる。
* [[1993年]] [[ソニー]]がモニターまでワンパッケージ化した低価格機を発売。
* [[1996年]] [[VICS]]サービスが開始。
* [[1997年]] ホンダがナビゲーションシステムとインターネットを融合させた、第1世代の[[インターナビ]]サービスを発表。翌年アコード等からサービス提供を開始。
* [[1997年]] パイオニアが[[DVD|DVD-ROM]]カーナビを発売。
* [[1997年]]5月 株式会社衛星測位情報センターがFM放送電波に載せて送信するD-GPSサービスを開始。
=== 2000年代 ===
* [[2000年]]5月 [[アメリカ合衆国国防総省]]が民間用GPS上のSA(セレクティブ・アベイラビリティ)信号を停止。これにより、GPSのみでの位置精度が、それまでの100m程度から10m程度へと飛躍的に向上した。
* [[2001年]] パイオニアがハードディスクドライブ内蔵カーナビを発売。音楽CDからリッピングできる「ミュージックサーバー」機能も搭載し、この後の高機能カーナビの方向性の指針となる。
* [[2002年]] パイオニアが通信型カーナビを発売。
* [[2002年]] [[日産自動車]]が[[テレマティクス]]「[[カーウイングス]]」を開始。
* [[2003年]] ホンダがインターナビ搭載車両から収集した交通情報を共有することにより、通常のVICS道路交通情報通信システム情報未提供道路に対しても情報を提供するフローティングカーシステムを自動車メーカーとして世界で初めて実用化。
* [[2005年]] [[KDDI]]、および[[沖縄セルラー電話]]が[[携帯電話]]上で利用できるカーナビシステム「[[EZ助手席ナビ]]」のサービスを開始(徒歩用のナビゲーションサービスは既に存在したが、本サービスより自動車の移動速度に対応可能に)。
* [[2006年]] パナソニックが[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル放送]]チューナー標準装備モデルを発売。<br />携帯ゲーム機([[PlayStation Portable]])用のGPSレシーバーおよび対応ソフト「[[MAPLUS ポータブルナビ]]」([[エディア]])発売。
*オリジナル工芸が日本国内初の[[SDカード]]方式[[PND]]ナビ「迷WAN BZN-100」をBroadzoneブランドで発売。
* [[2008年]]3月 株式会社衛星測位情報センターがD-GPSサービスを終了。
=== 2010年代 ===
* [[2010年]]10月 [[Google]]が[[スマートフォン]]等の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載機器にて動作する「Google マップナビ」のサービスを開始。<ref>http://googlejapan.blogspot.jp/2010/09/google_15.html</ref>
* [[2011年]]4月 [[NTTドコモ]]がAndroid搭載スマートフォンや3G通信機能搭載のカーナビで利用できるカーナビゲーションサービス「[[ドコモ ドライブネット]] powered by カロッツェリア」を開始。
* 2011年9月 カー・コネクティビティー・コンソーシアムが{{仮リンク|MirrorLink|en|MirrorLink}}規格を発表。
* [[2012年]]5月 パイオニアがスマートフォンと接続してスマートフォン内にある対応アプリを表示・操作できるディスプレイ搭載カーオーディオを発売。
* 2012年7月 パイオニアが[[ヘッドアップディスプレイ|HUD]]対応カーナビを発売。
* 2012年8月 トヨタがMirrorLink対応のディスプレイ搭載カーオーディオ「スマホナビ対応ディスプレイ(DAN-W62・パナソニック製)」を同社車種向けの純正オプションとして発売。
* [[2013年]]11月 富士通テンが市販ナビ初のWi-Fi内蔵・MirrorLink対応カーナビを発売。
* [[2014年]]3月 [[Apple]]がiPhoneとカーナビを統合した[[CarPlay]]を発表<ref>[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/621/2621536/?r=1 iPhoneとカーナビが統合 アップル“CarPlay”発表]</ref>。
* 2014年6月 [[Google|グーグル]]がAndroidとカーナビを統合した[[Android Auto]]を発表<ref>[http://jp.autoblog.com/2014/06/27/google-android-autos-unveiled-video/ 【ビデオ】グーグルが新車載システム「Android Auto」を発表! 年内に導入へ]</ref>。
* 2014年10月 パイオニアがCarPlay対応のディスプレイ搭載カーオーディオを発売。
* 2014年11月 パナソニックが市販ナビ初の[[Blu-ray Disc|ブルーレイディスク]]再生対応カーナビを発売。
* [[2015年]]2月 JVCケンウッドが[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ音源]]再生対応カーナビを発売。
* 2015年4月 VICSワイドサービス開始。
* 2015年6月 トヨタが[[フォード・モーター|フォード]]、フォード子会社のリビオが推進する「{{仮リンク|スマートデバイスリンク|en|SmartDeviceLink}}」を用いた車載システムを商品化、および共同で仕様開発・運営を行う枠組みを構築することで合意。
* [[2016年]]6月 パナソニックがAndroid Auto対応カーナビを発売。
* 2016年10月 JVCケンウッドがCarPlay・Android Auto対応カーナビを発売。
* 2016年12月 富士通テンがドライブレコーダー内蔵のカーナビを発売。
* [[2017年]]6月 パイオニアがCarPlay・Android Auto対応のディスプレイ搭載カーオーディオを発売。
* [[2018年]]8月 トヨタがスマートデバイスリンク対応のカーナビを同社車種向けの純正オプションとして発売。
* 2018年9月 [[ナビタイムジャパン]]のカーナビタイムが[[iOS]] 12におけるCarPlayにおいて、オフラインでも利用できるカーナビアプリとして日本で初めて対応。
* 2018年11月 [[準天頂衛星システム]]「みちびき」運用開始。
=== 日本以外の歴史 ===
日本が世界一のカーナビ大国であるといわれていた当時は、海外での車輌の航法システムは、[[軍事]]用や[[救急車両]]のような[[緊急車両]]用が主流であり、[[民生用]]としては趣味品あるいは一部の技術的趣向者むけとしての位置づけが強かった。
その後現れた簡易型のカーナビともいえるPNDは、[[タクシー]]業者をはじめ個人でも普及しており、インダッシュ型のAV機能などの付加価値付きカーナビはもっぱら高級車に限定して普及している状況である{{Refnest|group="注"|[[BMW]]や[[レクサス]]の上位機種([[レクサス・GS]]等)には全モデル標準装備され、[[カーエアコン|エアコン]]やパワーシートの制御画面と一体化している<ref>http://lexus.jp/models/gs/comfort/navigation/display.html</ref>。}}。
海外メーカーには、[[ガーミン]]や[[LGフィリップス]]、TOMTOM、[[モトローラ]]、[[IBM]]、[[フィリップス]]などがある。世界最大のメーカーである[[ガーミン]]の生産台数は、年間1000万台にものぼる。それに対する日本メーカーの生産台数は100万台以下であり、多機能化と高級化に傾注するあまり([[ガラパゴス化]]と高額化が進み)、国際市場を得る機会を逃してしまった。
ただし、2010年現在のカーナビゲーション市場においては日本メーカーの生産台数は1割以下だが、日米欧における金額上のシェアは3割以上のため、ハイエンドに特化した戦略と見做すことも可能であり、日本メーカーの取り組みも一概に否定はできない<ref>富士キメラ総研_車載電装デバイス&コンポーネンツ Select 2012(上巻)</ref> 事実、TOMTOMもインダッシュ型カーナビを作って[[クライスラー]]にOEM供給している。
なお、今後の市場予測としては、インダッシュ型は今後も増加傾向が続くが、PNDはスマートフォンカーナビへの移行、及びインダッシュ型カーナビの価格低下により市場が縮小する、とみなす調査報告もある<ref>http://response.jp/article/2011/01/12/150268.html</ref>。
欧米各国でも日本と同様に、[[住所]](英米で xxx street, フランスで rue de xxx, ドイツ圏でxxx Strasse(Straße), 北欧で xxx Vegen・xxxkatu など)を入力していって徐々に絞り込み検索が行われ、目的地を確定、そしてルートマップと音声案内機能でガイドすることは日本と変わらない。著名施設は大抵直接検索可能である。
== カーナビ用地図 ==
カーナビ用に用いられる[[電子地図]]の表示と案内のシステムは次の機能を持つのが一般的である。
* 基本機能
** 地図画面の拡大・縮小(縮尺の変更)
** 画面[[スクロール]]
* カーナビ機能
** 地名・[[電話番号]]等による該当箇所の検索
** 車両の移動に伴い、自車位置を画面中央に保持する自動スクロール機能
** 車両の前方方向を画面上方に表示する(ヘディングアップ:Heading up)自動回転機能。北を画面上方とする(ノースアップ:North up)ことも選択可能
** 目標地点を指示するとそこまでの道路を表示する[[ルート検索]]機能。[[高速道路]]・[[有料道路]]を利用する・しないなどのモードを選択できる。ルートから外れた場合には音声などで知らせる。
** 音声案内機能。曲がるべき[[交差点]]などを音声で知らせる。
同じような地図データを見やすく表示しようと、メーカー各社が工夫している機能に次のようなものがある。
* 上空位置に視点を置いて表示する[[鳥瞰図]]機能。「バードアイ・ビュー」とも呼ばれる
* [[ランドマーク]]となる目立つ建物を擬似3次元で表したり実映像を表示する
* 主要な交差点やインターチェンジ付近を擬似3次元で表したり実映像を表示する
== 主なメーカー・ブランド ==
=== カーナビ本体 ===
* [[パイオニア]]([[カロッツェリア (AV機器)|carrozzeria]])- [[サイバーナビ]]、[[楽ナビ]]
* [[パナソニック]] - [[Strada]]、[[ゴリラ (カーナビゲーション)|GORILLA]]
** [[パナソニック オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社]]
* [[三菱電機]] - [[ダイヤトーン|DIATONE]] SOUND.NAVI
* [[デンソーテン]](旧・富士通テン) - [[ECLIPSE (ブランド)|ECLIPSE]]
* [[フォルシアクラリオン・エレクトロニクス]](旧・クラリオン)
** [[ザナヴィ・インフォマティクス]] - クラリオンの100 %子会社→のちにクラリオンに吸収合併
* [[JVCケンウッド]](旧・[[ケンウッド]]) - [[AVENUE]]、彩速ナビ
* [[アルパイン (企業)|アルパイン]]
* [[データウエスト]] - 近年まで東南アジアで数機種を展開していたが、2012年より国内向けモデルを発表。
* [[ユピテル (企業)|ユピテル]]
* [[イノベイティブ]]
* [[A.I.D.]]
* [[イーバランス]]
* [[アイシン]] - 世界初の音声案内機能付き製品「V01-01」( 1992年〈平成4年〉8月)、世界初の車外持ち出し可能型テイクナビ「V05-01」、世界初のオーディオ・テレビ・ナビ一体型ナビ「V06-01」(いずれも1997年〈平成9年〉1月)などを生産<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aisin-aw.co.jp/corporate/history/1990-1999.html#sec_1 |title=沿革 1990 - 1999年 |publisher=アイシン・エイ・ダブリュ |accessdate=2020-08-12}}</ref>。市販はせず、カーメーカー及びカーナビメーカーへのOEM供給のみ。世界シェア第2位。
* [[タナックス]] - バイク用ナビブランドLabradorを展開
* [[アール・ダブリュー・シー]] - X-RIDEブランドで販売
* [[ガーミン]]
* [[ミラリード]]
* [[エンプレイス]]
=== 地図ソフト・システム開発など ===
* [[Apple]]
* [[インクリメント・ピー]]
* [[Google|グーグル]]
* [[昭文社]]
* [[ゼンリン]]
* [[日立製作所]]
* [[日本無線]]
=== 携帯端末向けアプリ ===
* Google - [[Google マップ|Googleマップナビ]]、[[Waze]]
* Apple - [[マップ (Apple)|マップ]]
* [[Yahoo! JAPAN]] - [[Yahoo!カーナビ]]
* [[ナビタイムジャパン]] - カーナビタイム
* [[NTTドコモ]] - [[地図アプリ]]、[[ドコモ ドライブネット]]
* [[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]]
** [[au (携帯電話)|au]] - [[EZ助手席ナビ]]
* インクリメント・ピー - [[MapFan]]
== かつて市販機を製造販売していたメーカー ==
* [[住友電工]]
* [[ナカミチ]]
:住友電工製とナカミチ製は、機種によっては同じソフトウェア(CD)を使用することが出来る。ただしCDは、2000年を最後に更新されておらず、両社とも市販カーナビ市場から撤退したことにより更新の可能性は途絶えている。<br />いずれも、ナビゲーション機能だけを搭載した製品を投入し、早い時期から画面の360度スクロール表示を実現し、[[VICS]]対応機器、[[ヘッドアップディスプレイ]]の拡張に対応していた。
* [[デンソー]]
:かつては『ナビラ(NAVIRA)』という名称で販売していた。2001年7月に発売の機種以降、アフターマーケット向けの新製品の発売はない。現在はケンウッドと技術・業務提携している。
* [[マスプロ電工]]
:『ナビゲーター』という名称で販売していた。現在はGPSアンテナをOEM供給している。
* [[日本電気ホームエレクトロニクス]]
:『GoGoNavi』という名称で販売していた。
* [[カシオ計算機]]
:NS400 1994年 -
* [[東芝]]
:NPA01(498,000円)を1992年に市場投入した後、5機種を発売したが、販売ルートを確立できなかったため、1995年に投入した機種を最後に市販市場から撤退した
* [[シチズンホールディングス|シチズン]]
* [[日立オートシステムズ]]
* [[カルソニック]]
* [[サンデン]]
* [[セイコーエプソン]]
* [[シャープ]]
* [[ソニー]]([[Sony Mobile]]を参照) - nav-u
:かつては[[ジョグダイヤル]]対応機種や、本体・モニター両方が1DINに収まるモデル(NVX-DV733/735/739)を発売するなど、パイオニアとともにカーナビの黎明期を歩み続けたメーカー。ナビ研にも加入していた。しかし2DIN AV一体型搭載機の投入をせず(ただしXYZシリーズなど、AV機能を内蔵した“ポータブルではない”モニタ一体型モデルで、DINサイズ対応アタッチメントは発売していた)、2006年に日本でのカーエレクトロニクス部門から一旦撤退した。2007年3月に簡易型カーナビを販売し再参入したが、2012年7月に生産終了を発表し、同年内にすべての生産を完了した<ref>[http://www.sony.jp/nav-u/info2/120727.html ポータブルナビゲーションシステム「ナブ・ユー」に関するお知らせ]</ref>。
*[[ミラリード]]
== その他 ==
=== 日本での道路交通法 ===
日本では、[[1999年]]11月から、[[道路交通法]]第百二十条第一項第十一号において、「自動車に持ち込まれた画像表示用装置を手で保持してこれに表示された画像を注視」する行為に罰則が設けられたが、カーナビは手に保持しない物のため、単純な注視は[[2004年]]11月以降の法改正後も依然罰則対象にはなっていない。しかしながらも、運転中のわき見による集中力の低下などを抑止するため、[[パーキングブレーキ]]に取り付けたセンサーや本体の車速センサーと連動させることによって走行中の一部の操作が制限されたり、テレビの映像が表示されなくなる(音声のみとなる)機種が存在する。
[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]は、日本の企業は世界中でナビシステムを輸出しているが、日本で現在販売されているモデルだけにテレビ視聴用のチューナーが組み込まれていると報じている<ref>[http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324289404578444061682383442.html?mod=WSJ_hp_mostpop_read 走行中にテレビ 世界に類を見ない日本の自動車運転習慣]</ref>。
=== サイクルナビゲーション ===
{{節スタブ}}
[[File:Portable navigation 01.jpg|thumb|自転車モードを備えたポータブル機]]
[[自転車]]のカーナビゲーションである[[サイクルナビゲーション]]も発売されている。専用の機種や、自動車用のポータブルナビゲーションにサイクリング機能を付加したものもある。専用機種には日本国外メーカーのものが多かったが、2011年にはパイオニアも参入した<ref>{{cite news |language = | author = | url =https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/486229.html| title =パイオニアが自転車市場参入、サイクルナビゲーション販売へ| publisher =| date= 2011-10-25| accessdate =2011-10-25}}</ref>。{{-}}
===NHK受信料===
{{see also|ワンセグ#NHK受信料}}
2021年現在、民生用のカーナビにはワンセグ/フルセグのチューナーが組み込まれているものが大多数だが、これらの受信機能を有するカーナビ装置についてNHKとの契約の義務があるかどうかについて争いがある。自宅にテレビがなく、カーナビ(ワンセグ受信機能付き)のみを所有する女性が、[[日本放送協会]]に対し受信料契約を結ぶ義務がないことの確認を求めた訴訟を起こしたことがあったが、[[2019年]][[5月15日]]、[[東京地方裁判所]]は、カーナビは[[テレビ放送]]を受信するためではなく交通案内のために購入したとする女性側の訴えを退けている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-05-15 |url=https://www.sankei.com/affairs/news/190515/afr1905150027-n1.html |title=カーナビで2019-05-15NHK、受信料は義務 東京地裁が初判断 |publisher=産経新聞 |accessdate=2019-05-16}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[高度道路交通システム]](ITS)
* [[テレマティクス]]
** [[インターナビ]]
** [[G-BOOK]]
** [[カーウイングス]]
* [[Windows Automotive]]
* [[カーオーディオ]]
* [[グローバル・ポジショニング・システムによる死]]
<!--
== 外部リンク ==
-->
{{衛星測位システム}}
{{自動車部品}}
{{自動車}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かあなひけしよん}}
[[Category:GPS]]
[[Category:情報機器]]
[[Category:カー用品]]
[[Category:地図]]
[[Category:自動車電子技術]]
[[Category:衛星測位システム]]
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2003-07-08T04:44:51Z
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吉行淳之介
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吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年(大正13年)4月13日 - 1994年(平成6年)7月26日)は、日本の小説家。父は吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり、女優吉行和子と作家吉行理恵は妹。
岡山県生まれ。東京大学英文科中退。『驟雨』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人で、『砂の上の植物群』『暗室』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの文学賞の選考委員を務めた。芸術院会員。
岡山県岡山市に父・吉行エイスケ(モダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれる。2歳の時に両親が上京、東京麹町に育つ。同じ町内には内田百閒がいた。府立一中と武蔵高等学校尋常科と府立高等学校尋常科の受験に失敗し、麻布中学に進学。
1940年に父・エイスケが急死した。しかし自身はその頃腸チフスにかかり入院していたため、死を知らされたのは退院後であった。翌1941年に旧制静岡高校(現:静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進むが、2年進級時に「心臓脚気」という仮病で1年休学、この頃より文学に関心を持つようになる。
1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となったが召集前に終戦を迎えている。1945年4月、東京帝国大学に入学。5月25日の空襲で焼け出され自宅を失った。
大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年に新太陽社へ入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。『モダン日本』時代に小島功らと交流、赤川童太、鈴木義司、富永一朗らを抜擢し、新人漫画家の発掘の天才と言われた。
倒産寸前の会社で多忙を極めつつ、『世代』『新思潮』などの同人雑誌に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎、近藤啓太郎、阿川弘之、三浦朱門、島尾敏雄らと知り合った。
1952年『原色の街』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、空洞が肺に見つかり結核と診断され会社を休職、翌53年の春に退社した。退社後は千葉県佐原市の病院に夏まで療養し、11月に清瀬病院に入院。その間は生計のためにABC放送のラジオ原稿を書いていた。清瀬病院で療養中の1954年に『驟雨』で第31回芥川賞を受賞、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、同世代の作家である遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれた。
1971年、編集者の佐藤嘉尚とともに、雑誌『面白半分』を編集長として創刊。
1979年、日本芸術院賞を受賞し、1981年、日本芸術院会員となる。晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。
1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去、70歳没。戒名は清光院好文日淳信士。墓所は岡山市北区御津金川(旧:御津郡金川町草生)の吉行家墓地にある。
私小説的な純文学および芸術的傾向の作品として、『砂の上の植物群』『暗室』『夕暮まで』などの長編、『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』などの中編、更に奇妙な味の短編『鞄の中身』など。大衆文学の方面では『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。また、『軽薄のすすめ』など軽妙な随筆のファンも多い。
長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。またヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』の翻訳、井原西鶴『好色一代男』の現代語訳なども手がけている。阪神タイガースのファンで、『Number』誌上で山藤章二、上岡龍太郎と鼎談を行ったこともある。
文学のテーマ同様にその人生は常に女性に彩られていた。若い頃に結婚した妻の吉行文枝との間に女児が一人いた。後に別居し、結婚後約10年後に知り合った女優の宮城まり子は生涯に渡り同居した事実上の伴侶となったが、妻は終生離婚に応じなかった。その他にも愛人がおり、死去後に大塚英子と高山勝美が名乗り出ている。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』で、高山が『特別な他人』で、宮城が『淳之介さんのこと』で、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』で、それぞれの体験を公表している。
大層女性にモテたことで知られているが、奥本大三郎は吉行を「まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である」と指摘しており、また、「女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられない」のが「弱点」であるとも記している。奥本はまた、吉行に女性読者が増加していることを称して「猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合」と形容している。フェミニストの上野千鶴子は、ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)傾向の強い作家として吉行以外に永井荷風を挙げており、ミソジニーの男性には「女好き」が多いと指摘している。友人の遠藤周作は時おり随筆で「吉行世之介」と書いてからかっている(「世之介」は、井原西鶴著『好色一代男』の主人公)。
作家・詩人の吉行エイスケは父。美容師の吉行あぐりは母。女優の吉行和子、詩人の吉行理恵は妹。生家の土建会社「株式会社吉行組」(岡山市)は、祖父の死去後、叔父が後を継いだ。淳之介自身も吉行組の無報酬重役を務めていた。
前述の通り本妻との間に女児が1人いるが、妹・和子及び理恵には子女がなかったため、この女児が吉行エイスケ・あぐり夫妻の唯一の孫となる。
1999年、静岡県掛川市にある、社会福祉施設ねむの木学園の敷地内に吉行淳之介文学館が開館した。
吉行が選考委員をつとめた文学賞は以下の通り。吉行は基本的に自身の創作の本道を純文学に置き、多くの文学賞で言及した選評を自ら実現・実行していた。
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"text": "1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去、70歳没。戒名は清光院好文日淳信士。墓所は岡山市北区御津金川(旧:御津郡金川町草生)の吉行家墓地にある。",
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"text": "私小説的な純文学および芸術的傾向の作品として、『砂の上の植物群』『暗室』『夕暮まで』などの長編、『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』などの中編、更に奇妙な味の短編『鞄の中身』など。大衆文学の方面では『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。また、『軽薄のすすめ』など軽妙な随筆のファンも多い。",
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"text": "長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。またヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』の翻訳、井原西鶴『好色一代男』の現代語訳なども手がけている。阪神タイガースのファンで、『Number』誌上で山藤章二、上岡龍太郎と鼎談を行ったこともある。",
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"text": "前述の通り本妻との間に女児が1人いるが、妹・和子及び理恵には子女がなかったため、この女児が吉行エイスケ・あぐり夫妻の唯一の孫となる。",
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"text": "吉行が選考委員をつとめた文学賞は以下の通り。吉行は基本的に自身の創作の本道を純文学に置き、多くの文学賞で言及した選評を自ら実現・実行していた。",
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吉行 淳之介は、日本の小説家。父は吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり、女優吉行和子と作家吉行理恵は妹。 岡山県生まれ。東京大学英文科中退。『驟雨』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人で、『砂の上の植物群』『暗室』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの文学賞の選考委員を務めた。芸術院会員。
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{{Infobox 作家
|name = 吉行 淳之介<br />{{small|(よしゆき じゅんのすけ)}}
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|caption=<small>『新日本文学全集 第38巻』([[集英社]]、1962年8月)</small>
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'''吉行 淳之介'''(よしゆき じゅんのすけ、[[1924年]]([[大正]]13年)[[4月13日]] - [[1994年]]([[平成]]6年)[[7月26日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。父は[[吉行エイスケ]]、母は美容師[[吉行あぐり]]、女優[[吉行和子]]と作家[[吉行理恵]]は妹。
[[岡山県]]生まれ。[[東京大学]]英文科中退。『[[驟雨 (小説)|驟雨]]』で芥川賞受賞。「[[第三の新人]]」の一人で、『[[砂の上の植物群]]』『[[暗室_(映画)|暗室]]』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの[[文学賞]]の選考委員を務めた。[[芸術院]]会員。
== 来歴 ==
[[File:Junnosuke Yoshiyuki.jpg|thumb|160px|1956年]]
[[File:Sunanoueno-shkubutsugun-2.png|thumb|200px|映画『[[砂の上の植物群]]』(1964年)の撮影現場。左から吉行、監督の[[中平康]]、出演者の[[西尾三枝子]]。]]
[[岡山県]][[岡山市]]に父・[[吉行エイスケ]]([[モダニズム文学|モダニズム]]の詩人)、母・[[吉行あぐり|あぐり]](美容師)の長男として生まれる。2歳の時に両親が上京、東京[[麹町]]に育つ。同じ町内には[[内田百閒]]がいた。<ref>{{Cite book|和書 |title=懐かしい人たち |url=https://www.worldcat.org/oclc/30903608 |publisher=講談社 |year=1994 |location=東京 |isbn=4-06-206879-6 |oclc=30903608 |author=吉行淳之介 |page=98 |quote=内田百閒氏とは、私が引越すまで、三十年ほど同じ町内に住んでいたが、}}</ref>[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]と[[武蔵中学校・高等学校|武蔵高等学校尋常科]]と[[東京都立桜修館中等教育学校|府立高等学校尋常科]]の受験に失敗し<ref>佐藤嘉尚『人を惚れさせる男: 吉行淳之介伝』1頁</ref><ref>高橋広満『吉行淳之介:人と文学』17頁</ref>、[[麻布中学校・高等学校|麻布中学]]に進学。
1940年に父・エイスケが急死した。しかし自身はその頃[[腸チフス]]にかかり入院していたため、死を知らされたのは退院後であった。翌1941年に[[静岡高等学校 (旧制)|旧制静岡高校]](現:[[静岡大学]])文丙(文系仏語クラス)に進むが、2年進級時に「心臓脚気」という仮病で1年休学<ref group="注釈">淳之介と親しくしていた親友2名は、彼等の学年では許されていた「徴兵逃れのための理系大学への進学」で長崎医大に進み、長崎の原爆で死亡した。結果的に淳之介は「仮病による休学」で命びろいした。吉行『私の文学放浪』</ref>、この頃より文学に関心を持つようになる。
1944年、[[徴兵検査]]を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に[[気管支喘息]]と診断され[[即日帰郷]]。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となったが召集前に終戦を迎えている。1945年4月、[[東京大学|東京帝国大学]]に入学。5月25日の[[東京大空襲|空襲]]で焼け出され自宅を失った。
大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年に新太陽社へ入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に[[澁澤龍彦]]がいた。『モダン日本』時代に[[小島功]]らと交流、[[赤川童太]]、[[鈴木義司]]、[[富永一朗]]らを抜擢し、新人漫画家の発掘の天才と言われた<ref>『吉行淳之介全集』別巻3、小島功「新人漫画家発掘の名人」、[[峯島正行]]「その編集者時代と若い漫画家たち」</ref>。
倒産寸前の会社で多忙を極めつつ、『世代』『[[新思潮]]』などの同人雑誌に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して[[安岡章太郎]]、[[近藤啓太郎]]、[[阿川弘之]]、[[三浦朱門]]、[[島尾敏雄]]らと知り合った。
1952年『[[原色の街]]』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、空洞が肺に見つかり[[結核]]と診断され会社を休職、翌53年の春に退社した。退社後は[[千葉県]][[佐原市]]の病院に夏まで療養し、11月に[[国立病院機構東京病院|清瀬病院]]に入院。その間は生計のために[[朝日放送ラジオ|ABC放送]]のラジオ原稿を書いていた。清瀬病院で療養中の1954年に『[[驟雨 (小説)|驟雨]]』で第31回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、同世代の作家である[[遠藤周作]]、[[安岡章太郎]]、[[三浦朱門]]、[[近藤啓太郎]]らと共に「[[第三の新人]]」と呼ばれた。
1971年、編集者の[[佐藤嘉尚]]とともに、雑誌『[[面白半分]]』を編集長として創刊。
1979年、[[日本芸術院賞]]を受賞し<ref>『朝日新聞』1979年3月6日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)朝刊、22頁。</ref>、1981年、[[日本芸術院]]会員となる。晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。
1994年、[[肝癌|肝臓癌]]のため[[聖路加国際病院]]で死去、{{没年齢|1924|4|13|1994|7|26}}<ref name="ismedia" />。戒名は清光院好文日淳信士<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)262頁</ref>。墓所は岡山市[[北区 (岡山市)|北区]][[御津]]金川(旧:[[御津郡]]金川町草生)の吉行家墓地にある。
== 作品 ==
[[私小説]]的な純文学および芸術的傾向の作品として、『[[砂の上の植物群]]』『暗室』『[[夕暮まで]]』などの長編、『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』などの中編、更に[[奇妙な味]]の短編『鞄の中身』など。[[大衆文学]]の方面では『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。また、『軽薄のすすめ』など軽妙な[[随筆]]のファンも多い。
長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。また[[ヘンリー・ミラー]]『愛と笑いの夜』の翻訳、[[井原西鶴]]『[[好色一代男]]』の現代語訳なども手がけている。[[阪神タイガース]]のファンで、『[[Sports Graphic Number|Number]]』誌上で[[山藤章二]]、[[上岡龍太郎]]と鼎談を行ったこともある。
== 人物・エピソード ==
=== 女性関係 ===
<!-- 多彩・ -->文学のテーマ同様にその人生は常に女性に彩られていた。若い頃に結婚した妻の[[吉行文枝]]との間に女児が一人いた。後に別居し、結婚後約10年後に知り合った女優の[[宮城まり子]]は生涯に渡り同居した事実上の伴侶<ref group="注釈">母・吉行あぐりをはじめ親族とも緊密であり、淳之介の没後にあぐりの決断で宮城が葬式一切を取り仕切ることとなった。</ref><ref group="注釈">娘とは親交があり、一時は淳之介、宮城とともに暮らした。</ref>となったが、妻は終生離婚に応じなかった。その他にも愛人がおり、死去後に[[大塚英子]]と高山勝美が名乗り出ている。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』<ref group="注釈">河出書房新社、1995年。</ref>で、高山が『特別な他人』<!-- -若き吉行淳之介との四千日- --><ref group="注釈">中央公論社、1996年。</ref>で、宮城が『淳之介さんのこと』<ref group="注釈">文藝春秋、2001年。</ref>で、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』<ref group="注釈">新宿書房、2004年。</ref>で、それぞれの体験を公表している。
大層女性にモテたことで知られているが、[[奥本大三郎]]は吉行を「まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である」と指摘しており、また、「女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられない」のが「弱点」であるとも記している<ref name="okumoto">[[#奥本|奥本(1981)p.161]]</ref><ref name="ueno">[[#上野|上野(2010)pp.7-21]]</ref>。奥本はまた、吉行に女性読者が増加していることを称して「猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合」と形容している<ref name="okumoto"/>。[[フェミニスト]]の[[上野千鶴子]]は、[[ミソジニー]](女性嫌悪、女性蔑視)傾向の強い作家として吉行以外に[[永井荷風]]を挙げており、ミソジニーの男性には「女好き」が多いと指摘している<ref name=ueno/>。友人の遠藤周作は時おり随筆で「吉行世之介」と書いてからかっている(「世之介」は、[[井原西鶴]]著『[[好色一代男]]』の主人公)。
=== 家族・親族 ===
作家・詩人の[[吉行エイスケ]]は父。美容師の[[吉行あぐり]]は母。女優の[[吉行和子]]、詩人の[[吉行理恵]]は妹。生家の土建会社「株式会社吉行組」(岡山市)は、祖父の死去後、叔父が後を継いだ。淳之介自身も吉行組の無報酬重役を務めていた<ref>吉行淳之介『街角の煙草屋までの旅』(講談社、1979年)所収『サーモンピンクの壁』</ref>。
前述の通り本妻との間に女児が1人いるが、妹・和子及び理恵には子女がなかったため、この女児が吉行エイスケ・あぐり夫妻の唯一の孫となる。
=== 吉行淳之介文学館 ===
[[画像:Junnosuke Yoshiyuki Museum of Literature.jpg|thumb|吉行淳之介文学館]]
[[1999年]]、[[静岡県]][[掛川市]]にある、[[社会福祉施設]][[ねむの木学園]]の敷地内に吉行淳之介文学館が開館した。
== 文学賞選考委員 ==
吉行が選考委員をつとめた文学賞は以下の通り<ref>1982年6月刊行『芥川賞全集』第5巻の巻末年譜による。</ref>。吉行は基本的に自身の創作の本道を純文学に置き、多くの文学賞で言及した選評を自ら実現・実行していた。
* [[文学界新人賞]]:1966年-1970年(第22-30回)
* [[文藝賞]]:1966年-1967年(第4-5回)
* [[太宰治賞]]:1970年-1977年(第6-13回)
* [[芥川龍之介賞|芥川賞]]:1972年-1993年(第66-110回)
* [[泉鏡花文学賞]]:1973年-1993年(第1-21回)
* [[川端康成文学賞]]:1974年-1993年(第1-20回)
* [[谷崎潤一郎賞]]:1977年-1993年(第13-29回、ただし第28回は病気欠席)
* [[群像新人文学賞]]:1978年-1980年(第21-23回)
* [[野間文芸賞]]:1980年-1993年(第33-46回)
== 著書 ==
=== 小説 ===
* 『星の降る夜の物語』作品社 1954
* 『[[驟雨 (小説)|驟雨]]』(『薔薇販売人』を含む)新潮社 1954、のち『薔薇販売人』は角川文庫
* 『漂う部屋』河出新書 1955
* 『[[原色の街]]』新潮社 1956、のち『原色の街』『驟雨』は新潮文庫
: [[向島 (墨田区)]]の[[赤線]]地帯、[[鳩の街]]が舞台(新潮文庫に入っているものは[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補になった『原色の街』と『ある脱出』を組み合わせ、加筆訂正したもの)。
* 『焔の中』新潮社 1956、のち中公文庫、旺文社文庫、小学館P+D BOOKS
* 『悪い夏』角川書店 1956、のち角川小説新書
* 『美女哄笑』現代文芸社 1957、のち新鋭作家叢書、『がらんどう』は中公文庫
* 『男と女の子』講談社 1958、のち中公文庫、集英社文庫
* 『二人の女』平凡出版 1959
* 『すれすれ』講談社 1959-60、のち角川文庫、光文社文庫
* 『娼婦の部屋』文藝春秋新社 1959、のち角川文庫、新潮文庫、光文社文庫
* 『風景の中の関係』新潮社 1960、のち『鳥獣蟲魚』は旺文社文庫
* 『街の底で』中央公論社 1961、のち角川文庫
* 『闇の中の祝祭』講談社 1961、のち光文社文庫、角川文庫、光文社文庫
: 妻と恋人との間で振り回される男の姿を描いた作品。当時の[[宮城まり子]]との恋愛からディテールを構成したため「女優との交際の告白」として物議を醸した。のち『春夏秋冬女は怖い』で事実だと書いている。
* 『コールガール』角川書店 1962、のち角川文庫
* 『札幌夫人』集英社 1963、のち集英社文庫
* 『雨か日和か』講談社 1963
* 『花束』中央公論社 1963、のち中公文庫
* 『女の決闘』桃源社 1964
* 『ずべ公天使』集英社 1964、のち『にせドン・ファン』は角川文庫
* 『[[砂の上の植物群]]』文藝春秋新社 1964、のち新潮文庫
* 『夜の噂』朝日新聞社 1964、のち新潮文庫
* 『痴・香水瓶』学習研究社・芥川賞作家シリーズ 1964
* 『吉行淳之介短篇全集』全5巻 講談社・ロマンブックス 1965
* 『不意の出来事』新潮社 1965、のち『娼婦の部屋』『不意の出来事』は新潮文庫
: [[新潮社文学賞]]受賞。
* 『技巧的生活』河出書房新社 1965、のち新潮文庫
* 『怪盗ねずみ小僧』講談社 1965、のち『鼠小僧次郎吉』は角川文庫
* 『唇と歯』東方社 1966、のち角川文庫
* 『星と月は天の穴』講談社 1966、のち講談社文庫、文芸文庫
: [[芸術選奨文部大臣賞]]受賞。
* 『赤い歳月』講談社 1967
* 『美少女』文藝春秋 1967、のち新潮文庫
* 『女の動物園』毎日新聞 1968
* 『[[暗室 (映画)|暗室]]』講談社 1970、のち講談社文庫、文芸文庫
: [[谷崎潤一郎賞]]受賞。
* 『浅い夢』毎日新聞社 1970、のち角川文庫
* 『小野小町』読売新聞社 1970、小説選書
* 『吉行淳之介全集』全8巻 講談社 1971–72
* 『裸の匂い』ベストセラーズ 1971、のち集英社文庫
* 『湿った空乾いた空』新潮社 1972、のち新潮文庫
* 『一見猥本風』番町書房 1973、のち角川文庫
* 『猫踏んじゃった』番町書房 1973、のち角川文庫
* 『出口・廃墟の眺め』講談社文庫 1973
* 『鞄の中身』講談社 1974、のち講談社文庫、文芸文庫
: [[読売文学賞]]受賞。
* 『赤と紫』角川文庫 1974
* 『吉行淳之介自選作品』全5巻 潮出版社 1975
* 『子供の領分』番町書房 1975、のち角川文庫、集英社文庫
* 『童謡』出帆社 1975、のち集英社文庫
* 『怖ろしい場所』新潮社 1976、のち新潮文庫
* 『牝ライオンと豹』角川文庫 1976
* 『吉行淳之介エンタテインメント全集』全11巻 角川書店 1976–77
* 『寝台の舟』旺文社文庫 1977
* 『鬱の一年』角川文庫 1978
* 『[[夕暮まで]]』新潮社 1978、のち新潮文庫
: 「[[夕ぐれ族]]」の語源。社会現象となった。[[野間文芸賞]]受賞
* 『菓子祭』潮出版社、1979年、のち角川文庫、講談社文芸文庫『菓子祭|夢の車輪』
* 『堀部安兵衛 黒鉄ヒロシえ』集英社文庫、1980年
* 『百の唇』掌篇小説選、講談社、1982年
* 『夢の車輪 [[パウル・クレー]]と十二の幻想』掌篇小説集、文藝春秋、1983年、のち講談社文芸文庫『菓子祭|夢の車輪』
* 『吉行淳之介全集』全17巻 別巻3巻 講談社、1983–85年
* 『目玉』新潮社 1989、のち新潮文庫
* 『吉行淳之介全集』全15巻 新潮社 1997–98
* 『悩ましき土地』講談社文芸文庫 1999
* 『吉行淳之介娼婦小説集成』中公文庫 2014
=== 随筆 ===
* 『恋愛作法』文藝春秋新社 1958
* 『青春の手帖』講談社 1959
* 『浮気のすすめ』新潮社 1960
* 『すれすれ探訪』東都書房 1960
* 『不作法紳士』集英社 1962、のち集英社文庫
* 『わたくし論』白凰社 1962
* 『紳士放浪記』集英社 1963、のち集英社文庫
* 『変った種族研究』講談社 1965、のち角川文庫
* 『私の文学放浪』講談社 1965、のち角川文庫、講談社文庫、講談社文芸文庫、同ワイド版
* 『痴語のすすめ』実業之日本社 1965(ホリデー新書)
* 『軽薄派の発想』芳賀書店 1966
* 『快楽の秘薬 神経疲労回復の書』青春出版社プレイブックス 1966、のち光文社文庫
* 『なんのせいか』随想集、大光社 1968
* 『秘蔵の本、禁話のコレクション』河出ベストセラーズ 1968、のち光文社文庫
* 『私の恋愛論』大和書房 1970、のち角川文庫
* 『私のうちなる女』新潮社 1970
* 『生と性』大光社 1971、(語りおろしシリーズ)のち集英社文庫
* 『軽薄のすすめ』角川文庫 1972
* 『樹に千びきの毛蟲』潮出版社 1973、のち角川文庫、ランダムハウス講談社文庫
* 『面白半分のすすめ』角川文庫 1973
* 『不作法のすすめ』角川文庫 1973、のち光文社文庫、中公文庫
* 『スラプスティック式交遊記』角川書店 1974、『悪友のすすめ』と改題し角川文庫 1976、のち光文社文庫
* 『四角三角丸矩形』創樹社 1974
* 『贋食物誌』新潮社 1974、のち新潮文庫
* 『猫背の文学散歩』対談集、潮出版社 1974
* 『女のかたち』創樹社 1975、のち集英社文庫
* 『ぼくふう人生ノート』いんなあとりっぷ社 1975、のち集英社文庫
* 『某月某日』番町書房 1975
* 『石膏色と赤 随筆集』講談社 1976、のち講談社文庫
* 『自選作家の旅』山と渓谷社 1976
* 『怪談のすすめ』角川文庫 1976
* 『麻雀好日』毎日新聞社 1977、のち角川文庫
* 『男と女をめぐる断章 316のアフォリズム』文化出版局 1978、のち集英社文庫
* 『街角の煙草屋までの旅』講談社 1979、のち講談社文庫
* 『詩とダダと私と』作品社 1979、のち福武文庫
* 『赤とんぼ騒動 わが文学生活 1980年~1981年』潮出版社 1981
* 『スペインの蠅 わが文学生活 1979年~1980年』潮出版社 1982
* 『エアポケット わが文学生活 1977年~1979年』潮出版社 1982
* 『夢を見る技術 わが文学生活 1975年~1977年』潮出版社 1982
* 『男と女のこと わが文学生活 1973年~1975年』潮出版社 1982
* 『甲羅に似せて わが文学生活 1971年~1973年』潮出版社 1982
* 『「私」のいる風景、342のアフォリズム』文化出版局 1982
* 『花冷えの季節 わが文学生活 1970年~1971年』潮出版社 1982
* 『珍獣戯話』毎日新聞社、1982年
* 『なんのせいか わが文学生活 1966年~1970年』潮出版社 1982
* 『木馬と遊園地 わが文学生活 1963年~1966年』潮出版社 1983
* 『悩ましい時間 わが文学生活 1960年~1963年』潮出版社 1983
* 『年齢について わが文学生活 1957年~1960年』潮出版社 1983
* 『雑踏のなかで わが文学生活 1946年~1957年』潮出版社 1983
* 『吉行淳之介による吉行淳之介 試みの自画像』青銅社 1983
* 『わが文学生活』講談社、1985年、講談社文芸文庫 2017年11月
* 『人工水晶体』講談社 1985、のち講談社文庫。※白内障手術の体験記。
* 『あの道この道、いろの道川柳撰』光文社 1986、のち光文社文庫
* 『定本・酒場の雑談』有楽出版社 1986、のち集英社文庫
* 『犬が育てた猫』潮出版社 1987、のち文春文庫
* 『日日すれすれ』読売新聞社 1987、のち集英社文庫
* 『自家謹製小説読本』[[山本容朗]]編、有楽出版社・実業之日本社 1988、のち集英社文庫
* 『人間教室』山本容朗編、有楽出版社・実業之日本社 1989
* 『春夏秋冬女は怖い なんにもわるいことしないのに』光文社カッパホームス 1989、のち光文社文庫
* 『やややのはなし』文藝春秋、1992年、のち文春文庫
* 『私の東京物語』山本容朗編、有楽出版社・実業之日本社 1993、のち文春文庫
* 『懐かしい人たち』講談社 1994、のちちくま文庫
* 『失敗を恐れないのが若さの特権である 愛・結婚・人生 – 言葉の花束』[[宮城まり子]]編、海竜社 2000
* 『淳之介養生訓』中公文庫 2003
* 『吉行淳之介エッセイ・コレクション』全4巻 [[荻原魚雷]]編 ちくま文庫 2004
=== 翻訳・現代語訳 ===
* 『愛と笑いの夜』[[ヘンリー・ミラー]]作、河出書房 1968、のち角川文庫、福武文庫
* 『不眠症あるいは飛び跳ねる悪魔』ヘンリー・ミラー作、読売新聞社、1975
* 『酒について』[[キングズリー・エイミス|キングズレー・エイミス]]作、林節雄共訳、講談社 1976、のち講談社文庫
* 『[[好色五人女]]』[[井原西鶴]]原作、河出書房新社 1979、のち中公文庫、河出文庫
* 『[[好色一代男]]』井原西鶴原作、中央公論社 1981、のち中公文庫
* 『鼠の草子』原作は御伽草子、集英社 1982
=== 対談 ===
* 『吉行淳之介 軽薄対談』講談社 1966、のち角川文庫
* 『吉行淳之介 第二軽薄対談』講談社 1967
* 『吉行淳之介 第三軽薄対談』講談社 1967
* 『吉行淳之介 対談浮世草子』三笠書房 1971、のち集英社文庫
* 『面白半分対談』講談社、1971
* 『不作法対談』角川文庫 1973
* 『猫背の文学散歩―吉行淳之介対談集』潮出版社 1974
* 『吉行淳之介 躁鬱対談』毎日新聞社 1975、のち角川文庫
* 『新面白半分対談』講談社 1975
* 『粋談、ユーモア対談集』番町書房 1976
* 『恐怖対談』新潮社 1977、のち新潮文庫
* 『拒絶反応について』対談集、潮出版社 1978
* 『恐怖・恐怖対談』新潮社 1980、のち新潮文庫
* 『サルの檻、ヒトの檻 文化人類学講義』[[西江雅之]]対談、朝日出版社 1980
* 『着流し対談』角川文庫 1980
* 『夢・鏡・迷路』潮出版社 1981
* 『恐・恐・恐怖対談』新潮社 1982、のち新潮文庫
* 『対談美酒について 人はなぜ酒を語るか』[[開高健]]対談、サントリー出版 1982、のち新潮文庫
* 『街に顔があった頃 浅草・銀座・新宿』開高健対談、ティビーエス・ブリタニカ 1985、のち新潮文庫
* 『特別恐怖対談』新潮社 1985、のち新潮文庫
* 『対談老イテマスマス耄碌』[[山口瞳]]対談、新潮社 1993
* 『やわらかい話 吉行淳之介対談集』[[丸谷才一]]編、講談社文芸文庫 2001
* 『やわらかい話 2 吉行淳之介対談集』丸谷才一編 講談社文芸文庫 2008
=== 編著 ===
* 『奇妙な味の小説―現代異色小説集』立風書房 1970 のち中公文庫
* 『幻の花たち:娼婦小説集』立風書房 1972
* 『プレイボーイ傑作短篇集』集英社プレイボーイ・ブックス 1977
* 『酔っぱらい読本』全7巻、講談社 1978-79
** 『酔っぱらい読本』『続・酔っぱらい読本』『最後の酔っぱらい読本』講談社文芸文庫 2012-14
* 『純愛小説名作選』集英社文庫 1979
* 『グラフィック版世界の文学 別巻2 世界恋愛名作集』世界文化社 1979
* 『ヴェニス 光と影』[[篠山紀信]]写真、新潮社 1980、のち新潮文庫
* 『ネコ・ロマンチスム』青銅社 1983
* 『日本の名随筆16 性』作品社 1983
* 『文章読本』日本ペンクラブ(編)福武文庫 1988
* 『酒中日記』講談社 1988、のち中公文庫
* 『日本の短篇』上下、[[井上靖]]・吉行淳之介・[[大江健三郎]]編、文藝春秋 1989
* 『また酒中日記』講談社 1991、のち中公文庫
* 『[[川崎長太郎]]選集』上下 吉行編、河出書房新社 1991
== 映画 ==
* [[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]] - 女奴隷市の野次馬(声優)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* [[奥本大三郎]]「男の領分 『驟雨』詳論」(『ユリイカ』1981年12月号)[[青土社]] 1981
* [[鈴木重生]]『わが友吉行淳之介 その素顔と作品』[[未知谷]] 2007
* {{Cite book|和書|author=上野千鶴子|authorlink=上野千鶴子|date=2010-10|title=女ぎらい -ニッポンのミソジニー-|publisher=[[紀伊国屋書店]]|isbn=978-4-314-01069-6|ref=上野}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Junnosuke Yoshiyuki}}
* [[文章読本]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nemunoki.or.jp/jyunnosuke-yoshiyuki 吉行淳之介文学館]
* [https://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/SAKKA/yo/yoshiyukijyunnosuke.html 吉行淳之介の墓]
* [https://tonikakuyoshiyuki.jimdofree.com/ とにかく吉行淳之介]
* {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/merchen-diver/ |title=一見吉行風 |date=20100203032131}}
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[[Category:吉行淳之介|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
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[[Category:芥川賞受賞者]]
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ジャパンダートダービー
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ジャパンダートダービーは、特別区競馬組合が大井競馬場ダート2000mで施行する地方競馬の重賞競走(ダートグレード競走、JpnI)である。農林水産大臣が賞を提供しており、正式名称は「農林水産大臣賞典 ジャパンダートダービー」。
副賞は、農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、日本中央競馬会理事長賞、地方競馬全国協会理事長賞(2023年)。
1996年に創設された4歳ダート三冠(ユニコーンステークス・ダービーグランプリ・スーパーダートダービー)の3競走はいずれも秋に開催される競走だったため、「春にも4歳(現3歳)のダートチャンピオン決定戦を」という意見があった。また特別区競馬組合が主催するダート4歳ダート三冠競走最終戦のスーパーダートダービーを統一GIIから統一GIに昇格を目指していた思惑とも合致しスーパーダートダービーをスーパーチャンピオンシップと改名のうえ、4歳ダート三冠から撤退および南関東交流競走に降格させ本競走を統一グレード競走のスーパーダートダービーの後身競走として春季に新設した。春の3歳ダートチャンピオン決定戦の位置付けで、統一JpnIとして開催されている。なお、2006年までは南関東G1が併記されていた。
また新設年よりユニコーンステークス・ダービーグランプリと共に3歳ダート三冠を形成。さらに2002年より羽田盃・東京ダービーと共に南関東3歳三冠を形成した(1996年から2001年までは東京王冠賞が南関東三冠の二戦目として行われており、あわせて四冠であった)。
なお、2007年までは1着入賞した地方所属馬に限りダービーグランプリの優先出走権が与えられた。
2022年(第24回)まで牝馬・騸馬(去勢された馬)の優勝はない。
なお、2024年(第26回)から羽田盃・東京ダービーがJRA及び地方他地区所属馬に開放、JpnIに格付けされることになって3歳ダート三冠が確立されるのに伴い、当競走は10月に繰り下げられるとともにレース名称も「ジャパンダートクラシック」に変更されるとともに、優勝馬にはJBCクラシックの優先出走権を付与される。また、騸馬の出走ができなくなる。
地方所属馬に限り優先出走権保持馬、指定馬が所属枠内の頭数で出走できる。その競走は以下のとおり。
交流(優先出走権付与対象は地方所属馬のみ)
南関東
また上記以外のダートグレード競走の1着入賞馬、兵庫チャンピオンシップの2着・3着入賞馬、中央競馬における重賞競走(2歳芝重賞・障害重賞除く)及びオープン特別競走(芝・障害・2歳競走を除く)の1着入賞馬にも指定馬としての権利が与えられる。
馬齢は2000年以前についても現表記を用いる。
全て大井競馬場ダート2000mで施行。
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ジャパンダートダービーは、特別区競馬組合が大井競馬場ダート2000mで施行する地方競馬の重賞競走(ダートグレード競走、JpnI)である。農林水産大臣が賞を提供しており、正式名称は「農林水産大臣賞典 ジャパンダートダービー」。 副賞は、農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、日本中央競馬会理事長賞、地方競馬全国協会理事長賞(2023年)。
|
{{競馬の競走
|馬場 = ダート
|競走名 = ジャパンダートダービー<br>Japan Dirt Derby<ref name="ICSC"/>
|画像 = [[File:ミックファイア 無敗の三冠馬になった瞬間。.jpg|250px]]
|画像説明 = 第25回ジャパンダートダービー<br />優勝馬:[[ミックファイア]] 鞍上:[[御神本訓史]]
|開催国 = {{Flagicon|JPN}}[[日本の競馬|日本]]
|主催者 = [[特別区競馬組合]]([[南関東公営競馬|南関東公営]])
|競馬場 = [[大井競馬場]]
|年次 = 2023
|格付け = JpnI
|1着賞金 = 6000万円
|賞金総額 =
|距離 = 2000[[メートル|m]]
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド]]系3歳(指定交流)}}<br />[[#出走資格|出走資格]]も参照
|負担重量 = 57[[キログラム|kg]]、[[牝馬]]2kg減(南半球産2kg減)
|創設 = 1999年7月8日
|出典 = <ref name="bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2023/07/kettei_r05_06.pdf|title=令和5年度 第6回大井競馬競走番組表(決定)|website=東京シティ競馬:TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2023-07-10}}</ref>
}}
'''ジャパンダートダービー'''は、[[特別区競馬組合]]が[[大井競馬場]]ダート2000mで施行する[[地方競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[ダートグレード競走]]、[[G1 (競馬)|JpnI]])である。[[農林水産大臣]]が賞を提供しており、正式名称は「'''[[農林水産大臣賞典]] ジャパンダートダービー'''」。
副賞は、農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、[[日本中央競馬会]]理事長賞、[[地方競馬全国協会]]理事長賞(2023年)<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.nagoyakeiba.com/info/race/file/db7821d340dc96d130e2e6825ee7b320ea437c24.pdf|title=大井競馬出走馬一覧表令和5年度第6回大井競馬第3日7月12日(水)|website=名古屋けいばオフィシャルサイト|accessdate=2023-07-10}}</ref>。
== 概要 ==
[[1996年]]に創設された[[3歳ダート三冠|4歳ダート三冠]]([[ユニコーンステークス]]・[[ダービーグランプリ]]・[[スーパーチャンピオンシップ|スーパーダートダービー]])の3競走はいずれも秋に開催される競走だったため、「春にも4歳(現3歳)のダートチャンピオン決定戦を」という意見があった。また特別区競馬組合が主催するダート4歳ダート三冠競走最終戦のスーパーダートダービーを統一GIIから統一GIに昇格を目指していた思惑とも合致しスーパーダートダービーをスーパーチャンピオンシップと改名のうえ、4歳ダート三冠から撤退および南関東交流競走に降格させ本競走を統一グレード競走のスーパーダートダービーの後身競走として春季に新設した。春の3歳ダートチャンピオン決定戦の位置付けで、統一JpnIとして開催されている。なお、[[2006年]]までは南関東G1が併記されていた。
また新設年よりユニコーンステークス・ダービーグランプリと共に'''3歳ダート三冠'''を形成。さらに[[2002年]]より[[羽田盃]]・[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]と共に'''[[南関東公営競馬|南関東]]3歳三冠'''を形成した(1996年から2001年までは[[東京王冠賞]]が南関東三冠の二戦目として行われており、あわせて四冠であった)。
なお、[[2007年]]までは1着入賞した地方所属馬に限り[[ダービーグランプリ]]の優先出走権が与えられた。
2022年(第24回)まで牝馬・[[騸馬]](去勢された馬)の優勝はない<ref name="alacarte">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/data/wp-content/uploads/sites/5/2023/07/df7726173906af2001b844ff9ab4374b.pdf|title=■ジャパンダートダービー(JpnI)アラカルト(過去全24回の分析)|website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2023-07-10}}</ref>。
なお、2024年(第26回)から羽田盃・東京ダービーがJRA及び地方他地区所属馬に開放、JpnIに格付けされることになって'''[[3歳ダート三冠]]'''が確立されるのに伴い、当競走は10月に繰り下げられるとともにレース名称も「'''ジャパンダートクラシック'''」に変更されるとともに、優勝馬には[[JBCクラシック]]の優先出走権を付与される。また、騸馬の出走ができなくなる<ref>[https://jra.jp/news/202206/062001.html 3歳ダート三冠競走を中心とした2・3歳馬競走の体系整備]</ref><ref>[https://www.keiba.go.jp/topics/2022/11/2808303227033.html 全日本的なダート競走の体系整備について]地方競馬全国協会、2022年11月28日閲覧</ref>。
=== 条件・賞金等(2023年) ===
;<span id="出走資格">出走資格</span>
:[[サラブレッド]]系3歳、選定馬、フルゲート16頭で中央所属馬の出走枠は7頭。
;負担重量
:定量で57[[キログラム|kg]]、[[牝馬]]55kg(南半球産2k減)<ref name="bangumi"/>。
;賞金額
:1着6,000万円、2着2,100万円、3着1,200万円、4着600万円、5着300万円<ref name="bangumi"/>、着外手当25万円<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2023/03/keiba_bangumi_2023.pdf#page=30|title=令和5年度大井競馬番組|publisher=特別区競馬組合|page=28|accessdate=2023-07-10}}</ref>
==== 優先出走権付与競走および指定競走 ====
'''地方所属馬に限り'''優先出走権保持馬、指定馬が所属枠内の頭数で出走できる。その競走は以下のとおり。
; 優先出走権トライアル競走<ref name="bangumi"/>
交流(優先出走権付与対象は地方所属馬のみ)
{| class="wikitable"
!競走名!!格!!競馬場!!距離!!取得条件
|-
|[[兵庫チャンピオンシップ]]||JpnII||[[園田競馬場]]||ダート1870m||1着
|-
|[[ユニコーンステークス]]||GIII||{{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場]]||ダート1600m||1着
|-
|[[関東オークス]]||JpnII||[[川崎競馬場]]||ダート2100m||1着
|}
南関東
{| class="wikitable"
!競走名!!競走格!!施行競馬場!!施行コース!!取得条件
|-
|[[羽田盃]]||SI||[[大井競馬場]]||ダート1800m||1着
|-
|[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]||SI||大井競馬場||ダート2000m||1着・2着
|}
; 指定競走([[ダービーWeek|ダービーシリーズ]]参加競走)
{| class="wikitable"
!競走名!!競走格!!施行競馬場!!施行コース!!取得条件
|-
|[[九州ダービー栄城賞]]||重賞||[[佐賀競馬場]]||ダート2000m||1着入賞
|-
|[[東海ダービー]]||SPI||[[名古屋競馬場]]||ダート2000m||1着入賞
|-
|[[兵庫ダービー]]||重賞I||[[園田競馬場]]||ダート1870m||1着入賞
|-
|[[東北優駿]]||M1||[[盛岡競馬場]]||ダート2000m||1着入賞
|-
|[[北海優駿]](ダービー)||H1||[[門別競馬場]]||ダート2000m||1着入賞
|-
|[[高知優駿]]||重賞||[[高知競馬場]]||ダート1900m||1着入賞
|-
|[[石川ダービー]]||重賞||[[金沢競馬場]]||ダート2000m||1着入賞
|}
また上記以外のダートグレード競走の1着入賞馬、兵庫チャンピオンシップの2着・3着入賞馬、[[中央競馬]]における重賞競走(2歳芝重賞・障害重賞除く)及びオープン特別競走(芝・障害・2歳競走を除く)の1着入賞馬にも指定馬としての権利が与えられる。
== 歴史 ==
* 1999年 - 大井競馬場のダート2000mの4歳(現3歳)の定量の統一グレード競走「ジャパンダートダービー」として創設、格付けは統一GI・南関東G1。
* 2001年 - [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳」から「3歳」に変更。
* 2005年 - 1着賞金が6000万円から5000万円に減額。
* 2007年 - 国際セリ名簿基準委員会(ICSC)の勧告に伴う重賞の格付け表記の変更により、統一グレード表記をJpnIに変更。なお、南関東グレード(G1)は併記しないことになった。
* 2008年 - 売得金額が11億2690万700円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も30994人を記録。
* 2009年 - 中央競馬所属馬の出走枠が5頭から6頭に、南関東所属馬の出走枠が6頭から5頭にそれぞれ変更。
* 2011年
** 1着賞金が4500万円に減額。
** 南関東二冠牝馬の[[クラーベセクレタ]]が3位入線したが、後日、禁止薬物の[[カフェイン]]が検出されたことから失格となる<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/news.php?id=2288 クラーベセクレタ号の失格に伴う成績の変更について] - 東京シティ競馬公式サイト 2011年7月31日閲覧</ref>。
* 2016年
** 中央競馬所属馬の出走枠が1頭増えて7頭となる<ref name="waku">{{Cite news|url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20151206/etc15120609270001-n1.html|title=地方競馬の交流重賞で中央馬の出走枠が拡大|newspaper=サンケイスポーツ|date=2015-12-06|accessdate=2016-07-11}}</ref>。
** 売得金額が11億4478万3100円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。
* 2017年 - 売得金額が12億6912万3400円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も15336人を記録。
* 2018年 - 売得金額が16億2406万1300円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も15756人を記録。
* 2019年 - 売得金額が17億487万6600円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も17372人を記録。
* 2020年
** 当年のみ「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」の対象競走に指定([[ケンタッキーダービー]]が[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]感染拡大の影響で9月に延期されたことに伴う措置)。
** 新型コロナウイルスの流行により「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として開催(2021年も同様)。
** 売得金額が23億3033万900円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。
* 2021年
** 1着賞金が6000万円に増額。
** 売得金額が23億5798万900円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。
* 2022年 - 売得金額が26億4915万5700円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。
* 2023年
** 負担重量が1kg増え、57kg(牝馬55kg)となる。
** [[ミックファイア]]が[[トーシンブリザード]]以来となる無敗の南関東三冠達成。大井所属馬の勝利は第1回の[[オリオンザサンクス]]以来24年ぶり2頭目。
** 売得金額が30億2669万8400円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。当日の入場者数も14909人を記録。
* 2024年 - 3歳ダートグレード競走の再整備により開催時期を10月に移動するとともに競走名も「'''ジャパンダートクラシック'''」に変更予定<ref name="tck20220620">{{Cite news|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2022/06/2015003324361.html|publisher=地方競馬全国協会|title=3歳ダート三冠競走を中心とした2・3歳馬競走の体系整備について|date=2022-06-20|accessdate=2022-06-20}}</ref>。
=== 歴代優勝馬 ===
馬齢は2000年以前についても現表記を用いる。
全て大井競馬場ダート2000mで施行。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日
!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center;"|第1回||1999年7月8日
|2000m||[[オリオンザサンクス]]||牡3||[[大井競馬場|大井]]||2:06.9||[[早田秀治]]||[[赤間清松]]||日浦桂子
|-
|style="text-align:center;"|第2回||2000年7月12日
|2000m||[[マイネルコンバット]]||牡3||[[日本中央競馬会|JRA]]||2:06.4||[[大西直宏]]||[[稲葉隆一]]||[[サラブレッドクラブ・ラフィアン|(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン]]
|-
|style="text-align:center;"|第3回||2001年7月12日
|2000m||[[トーシンブリザード]]||牡3||[[船橋競馬場|船橋]]||2:05.8||[[石崎隆之]]||[[佐藤賢二]]||稲垣博信
|-
|style="text-align:center;"|第4回||2002年7月4日
|2000m||[[ゴールドアリュール]]||牡3||JRA||2:04.1||[[武豊]]||[[池江泰郎]]||[[社台レースホース|(有)社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center;"|第5回||2003年7月8日
|2000m||[[ビッグウルフ]]||牡3||JRA||2:04.9||武豊||[[中尾正]]||[[ビッグ (馬主)|(有)ビッグ]]
|-
|style="text-align:center;"|第6回||2004年7月8日
|2000m||[[カフェオリンポス]]||牡3||JRA||2:04.5||[[柴田善臣]]||[[松山康久]]||[[西川清]]
|-
|style="text-align:center;"|第7回||2005年7月13日
|2000m||[[カネヒキリ]]||牡3||JRA||2:04.9||武豊||[[角居勝彦]]||[[金子真人|金子真人ホールディングス(株)]]
|-
|style="text-align:center;"|第8回||2006年7月12日
|2000m||[[フレンドシップ (競走馬)|フレンドシップ]]||牡3||JRA||2:06.1||[[内田博幸]]||角居勝彦||[[吉田照哉]]
|-
|style="text-align:center;"|第9回||2007年7月11日
|2000m||[[フリオーソ (2004年生)|フリオーソ]]||牡3||船橋||2:02.9||[[今野忠成]]||[[川島正行]]||[[ダーレー・ジャパン|ダーレー・ジャパン・レーシング(有)]]
|-
|第10回||2008年7月9日
|2000m||[[サクセスブロッケン]]||牡3||JRA||2:04.5||[[横山典弘]]||[[藤原英昭]]||[[高嶋哲]]
|-
|第11回||2009年7月8日
|2000m||[[テスタマッタ]]||牡3||JRA||2:04.5||[[岩田康誠]]||[[村山明 (競馬)|村山明]]||吉田和美
|-
|第12回||2010年7月14日
|2000m||[[マグニフィカ]]||牡3||船橋||2:05.2||[[戸崎圭太]]||川島正行||吉田照哉
|-
|第13回||2011年7月13日
|2000m||[[グレープブランデー]]||牡3||JRA||2:04.9||横山典弘||[[安田隆行]]||(有)社台レースホース
|-
|第14回||2012年7月11日
|2000m||[[ハタノヴァンクール]]||牡3||JRA||2:05.3||[[四位洋文]]||[[昆貢]]||(有)グッドラック・ファーム
|-
|第15回||2013年7月10日
|2000m||[[クリソライト (競走馬)|クリソライト]]||牡3||JRA||2:04.8||内田博幸||[[音無秀孝]]||[[キャロットファーム|(有)キャロットファーム]]
|-
|第16回||2014年7月9日
|2000m||[[カゼノコ]]||牡3||JRA||2:03.9||[[秋山真一郎]]||[[野中賢二]]||橳嶋孝司
|-
|第17回||2015年7月8日
|2000m||[[ノンコノユメ]]||牡3||JRA||2:05.6||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[加藤征弘]]||山田和正
|-
|第18回||2016年7月13日
|2000m||[[キョウエイギア]]||牡3||JRA||2:05.7||戸崎圭太||[[矢作芳人]]||田中晴夫
|-
|第19回||2017年7月12日
|2000m||[[ヒガシウィルウィン]]||牡3||船橋||2:05.8||[[本田正重]]||佐藤賢二||(株)MMC
|-
|第20回||2018年7月11日
|2000m||[[ルヴァンスレーヴ]]||牡3||JRA||2:05.8||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[萩原清]]||(株)[[G1レーシング]]
|-
|第21回||2019年7月10日
|2000m||[[クリソベリル (競走馬)|クリソベリル]]||牡3||JRA||2:06.1||[[川田将雅]]||音無秀孝||(有)[[キャロットファーム]]
|-
|第22回||2020年7月8日
|2000m||[[ダノンファラオ]]||牡3||JRA||2:05.9||[[坂井瑠星]]||矢作芳人||(株)[[ダノックス]]
|-
|第23回||2021年7月14日
|2000m||[[キャッスルトップ]]||牡3||船橋||2:05.9||[[仲野光馬]]||渋谷信博||城市公
|-
|第24回||2022年7月13日
|2000m||[[ノットゥルノ (競走馬)|ノットゥルノ]]||牡3||JRA||2:04.6||武豊||音無秀孝||金子真人ホールディングス(株)
|-
|第25回||2023年7月12日
|2000m||[[ミックファイア]]||牡3||大井||2:04.6||[[御神本訓史]]||[[渡邉和雄]]||[[星加浩一]]
|}
====記録====
*最多勝騎手:武豊(4勝)
*最多勝調教師:音無秀孝(3勝)
*無敗での優勝馬は3頭(トーシンブリザード、クリソベリル、ミックファイア)
:※第25回終了時<ref name="alacarte"/>
===レーティング===
{| class="wikitable sortable"
!年度!!レースレート!!優勝馬のレート!!出典
|-
|2001||104.00||108||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2001/july.html#4]
|-
|2002||107.00||'''115'''||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2002/july.html#1]
|-
|2003||108.75||113||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2003/july.html#8]
|-
|2004||103.50||108||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2004/july.html#8]
|-
|2005||106.50||112||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2005/july.html]
|-
|2006||104.50||108||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2006/07-g1.html#1]
|-
|2007||104.00||111||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2007/07-g1.html]
|-
|2008||101.25||112||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2008/07-g1.html#1]
|-
|2009||104.25||110||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2009/07-g1.html#1]
|-
|2010||107.00||109||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2010/07-g1.html#1]
|-
|2011||107.25||110||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2011/07-g1.html]
|-
|2012||107.25||111||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2012/07-g1.html]
|-
|2013||102.50||112||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2013/07-g1.html]
|-
|2014||108.75||110||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2014/07-g1.html]
|-
|2015||104.25||113||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2015/07-g1.html]
|-
|2016||105.75||112||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2016/07-g1.html]
|-
|2017||108.25||110||[https://www.jra.go.jp/datafile/ranking/jyusyo/2017/07-g1.html]
|-
|2018||'''109.50'''||112||[https://www.keiba.go.jp/pdf/dirtrace/2018/18.pdf]
|-
|2019||109.25||113||[https://www.keiba.go.jp/pdf/dirtrace/2019/19.pdf]
|-
|2020||104.50||111||[https://www.keiba.go.jp/pdf/dirtrace/2020/17.pdf]
|-
|2021||107.25||109||[https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2021/rating/dirtgraderacerating/0714_japandirtderby.html]
|-
|2022||'''109.50'''||111||[https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2022/rating/dirtgraderacerating/0713_japandirtderby.html]
|-
|2023||109.00||114||[https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2023/rating/dirtgraderacerating/0712_japandirtderby.html]
|}
== 脚注 ==
=== 参考文献 ===
=== 注釈===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist |refs=
<!--概要-->
* <ref name="ICSC">[http://www.tjcis.com/pdf/icsc14/ICSC-partI_Japan.pdf 2014 International Cataloguing Standards Book Japan] 2014年11月15日閲覧。</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* [https://www2.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2629&k_babaCode=20 ジャパンダートダービー 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会
* [https://www.nankankeiba.com/win_uma/15.do ジャパンダートダービー競走優勝馬] - 南関東4競馬公式サイト
== 関連項目 ==
* [[スーパーチャンピオンシップ]]
* [[ユニコーンステークス]]
* [[レパードステークス]]
* [[ダービーグランプリ]]
* [[ダービーシリーズ]]
== 外部リンク ==
* [http://www.tokyocitykeiba.com/race/grade_race/2023-07-12/ TCK公式サイト「レースと日程」]より(2023年版)
* [https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2023/0712_japandirtderby/racecard.html ジャパンダートダービー|ダートグレード競走特設サイト] - 地方競馬全国協会
{{ダートグレード競走}}
{{南関東公営競馬の重賞競走}}
{{ダービーWeek}}
{{デフォルトソート:しやはんたとたひ}}
[[Category:地方競馬の競走]]
[[Category:大井競馬場の競走]]
[[Category:農林水産大臣賞典]]
[[Category:1999年開始のスポーツイベント]]
|
2003-07-08T07:03:23Z
|
2023-12-05T15:38:29Z
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[
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
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"Template:Flagicon"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC
|
11,044 |
額田郡
|
額田郡(ぬかたぐん)は、愛知県(三河国)の郡。
人口42,096人、面積56.72km2、人口密度742人/km2。(2023年6月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
平成22年(2010年)の国勢調査に基づく面積は394.42km2、人口は307,442人。
郡名は出土木簡によると、古代では各田・農多とも表記されている。古代氏族の額田部(ぬかたのべ)に由来するという説のほか、ぬかるみの多い土地を意味する古語が転じたという説など諸説ある。戦国時代以降西三河における一大拠点のひとつとして台頭し、徳川家康の出身地となった。江戸時代には岡崎藩をはじめ奥殿藩や西大平藩などが設置されたほか、東海道の宿場町も設けられ郡域は発展した。
|
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額田郡(ぬかたぐん)は、愛知県(三河国)の郡。 人口42,096人、面積56.72km²、人口密度742人/km²。(2023年6月1日、推計人口) 以下の1町を含む。 幸田町(こうたちょう)
|
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*{{Pathnav|令制国一覧|東海道|三河国}}
*{{Pathnav|日本|中部地方|愛知県}}
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[[画像:Aichi Nukata-gun.png|frame|愛知県額田郡の位置(緑:幸田町 薄黄:後に他郡に編入された区域 薄緑:後に他郡から編入した区域)]]
'''額田郡'''(ぬかたぐん)は、[[愛知県]]([[三河国]])の[[郡]]。
{{郡データ換算|愛知県|幸田町}}
以下の1町を含む。
* [[幸田町]](こうたちょう)
== 郡域 ==
[[1878年]]([[明治]]11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
* [[岡崎市]]の大部分([[矢作川]]以西および赤渋町、法性寺町、上和田町、宮地町、井内町、野畑町、下和田町、坂左右町、国正町、定国町より南西を除く)
* [[豊田市]]の一部(下山田代町・田折町・蕪木町・蘭町)
* 幸田町の大部分(野場・永野・須美・六栗・逆川・上六栗・桐山を除く)
平成22年(2010年)の国勢調査に基づく面積は394.42k㎡、人口は307,442人。[https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=23&city=23202]
== 歴史 ==
郡名は出土木簡によると、古代では'''各田'''・'''農多'''とも表記されている。古代氏族の[[額田部]](ぬかたのべ)に由来するという説のほか、ぬかるみの多い土地を意味する古語が転じたという説など諸説ある。戦国時代以降西三河における一大拠点のひとつとして台頭し、徳川家康の出身地となった。江戸時代には[[岡崎藩]]をはじめ[[奥殿藩]]や[[西大平藩]]などが設置されたほか、[[東海道]]の宿場町も設けられ郡域は発展した。
=== 近世以降の沿革 ===
* [[寛永]]15年([[1639年]]) - [[宝飯郡]]栃原村が本郡に編入<ref name=tochihara>[http://premium.jlogos.com/new2_result.html?id=7359154&keyword=%E6%A0%83%E5%8E%9F%E6%9D%91(%E8%BF%91%E4%B8%96) 「栃原村(近世)」]角川日本地名大辞典(旧地名編)</ref>。
* 寛永19年([[1642年]]) - 宝飯郡荻村が本郡に編入<ref>幸田町史 147頁</ref>。
* [[天和 (日本)|天和]]元年([[1689年]])頃 - 栃原村が[[乙女川]]と[[河原川]]の合流地点とその他の河原川流域で、栃原村と河原村に分かれる<ref name=tochihara/>。
* 『[[旧高旧領取調帳]]』に記載されている[[明治]]初年時点での支配は以下の通り。●は村内に[[寺社領]]が、○は寺社除地<ref>領主から[[年貢]]免除の特権を与えられた土地。</ref>が存在。 (28町1駅183村)
{{hidden begin
|title = 幕末の知行
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable"
|-
! style="width:25%" colspan=2 | [[知行]]
! style="width:5%" | 村数
! 村名
|-
| rowspan=3 | [[天領|幕府領]]
| 中泉代官所
| 1駅<br />5村
| 上細川村、市場村、●藤川駅<ref>伝馬所除地が存在。</ref>、●明見村、鶫巣村、●芦谷村
|-
| [[地方知行|旗本領]]
| 37村
| ●真福寺村、保久村、田代村、富尾村、日影村、丸塚村、平針村、○蓬生村、柿平村、下衣文村、竹沢連村、笠井村、○生平村、赤田和村、大林村、丸平新田、●○竜泉寺村、●尾尻村、蓑川村、●雨山村、栃原村、●高隆寺村、鹿勝川村、馬頭村、保母村、丸山村、●鉢池村、●本宿村、横落村、荻村、坂崎村、●深溝村、土呂村、大谷村、●大草村、高須村、永井村
|-
| 中泉代官所・旗本領
| 8村
| 下細川村、寺平村、柳田村、岩堀村、長嶺村、北鷲田村、西脇村、高力村
|-
| rowspan=10 | [[藩|藩領]]
| 三河[[岡崎藩]]
| 20町<br />84村
| ●○祐金町、横町<ref name="temma">岡崎伝馬所除地が存在。</ref>、十王町、●投町<ref>松平甚三郎除地が存在。</ref>、六地蔵町<ref name="temma" />、能見町<ref>杉田新三郎除地が存在。</ref>、上肴町<ref name="temma" />、籠田町<ref name="temma" />、久右衛門町、連尺町<ref name="temma" />、●田町<ref name="temma" />、伝馬町<ref name="temma" />、材木町<ref name="temma" />、両町<ref>天王除地・伴弥太郎除地・岡崎伝馬所除地が存在。</ref>、●裏町、下肴町<ref name="temma" />、●伊賀村、井田村、●八町村、欠村、●能見村、松葉町、板屋町<ref name="temma" />、唐沢町、●岩津村、八ツ木村、大樹寺村、上之里村、藪田村、日名村、東蔵前村、西阿知和村、東阿知和村、仁木村、上田代村、蕪木村、折地村、百々村、磯部村、西蔵前村、外山村、●米河内村、切山村、●上大門村、大内新田、中大門村、下大門村、安戸村、一色村、蘭村、小丸村、新居村、蔵次村、渡通津村、大ヶ谷村、北須山村、駒立村、柳村、●桜井寺村、切越村、須淵村、栗木村、田口村、箱柳村、法味村、高薄村、南須山村、大河村、小呂村、友久村、茅原沢村、秦梨村、古部村、○鍛治屋村、大山村、上毛呂村、下毛呂村、中畑村、板田村、岩谷村、大井野村、小楠村、桃ヶ久保村、●名ノ内村、麻生村、伊賀谷村、中保久村、土村、●池金村、●舞木村、●岡村、洞村、●下六名村、●久後村、下明大寺村、●上明大寺村、柱村、若松村、戸崎村、福島新田、羽根村、●針崎村、上六名村、国崎町<ref>記載なし。</ref>
|-
| 三河[[西大平藩]]
| 8村
| 鬼沢村、○中金村、上衣文村、大幡村、西大平村、大代村、河辺村、淡淵村
|-
| [[信濃国|信濃]][[竜岡藩]]
| 7村
| ●桑原村、川向村、宮石村、奥山田村、奥殿村、丹坂村、恵田村
|-
| 三河[[西尾藩]]
| 6村
| 岩戸村、●才熊村、大平村、●山綱村、萱園村、山畑村
|-
| [[三河吉田藩]]
| 3村
| 生田村、上地村、●久保田村
|-
| [[美濃国|美濃]][[野村藩]]
| 3村
| 樫山村、細野村、光久村
|-
| [[陸奥国|陸奥]][[磐城平藩]]
| 1村
| 寺野村
|-
| 岡崎藩・西尾藩
| 1村
| 稲熊村
|-
| 岡崎藩・磐城平藩
| 1村
| ●鳥川村
|-
| 西大平藩・野村藩
| 2村
| 牧平村、滝尻村
|-
| rowspan=5 | 幕府領・藩領
| 中泉代官所・岡崎藩
| 4村
| 井ノ口村、木下村、○亀穴村、石原村
|-
| 中泉代官所・西大平藩
| 2村
| 千万町村、桑谷村
|-
| 中泉代官所・吉田藩
| 1村
| 鷲田村
|-
| 旗本領・岡崎藩
| 1村
| 羽栗村
|-
| 旗本領・吉田藩
| 1村
| 小美村
|-
| その他
| 寺社領
| 9町<br />7村
| 菅生町、六供<ref>記載は六供町。</ref>、松本町、門前町、杉本町、八軒町、島町、極楽寺門前、中町、滝村、東上里村、鴨田村、門前村、平地村、片寄村、西明大寺村
|}
{{hidden end}}
* [[慶応]]4年
** [[4月29日 (旧暦)|4月29日]]([[1868年]][[5月21日]]) - 幕府領・旗本領が'''[[三河裁判所]]'''の管轄となる。
** [[6月9日 (旧暦)|6月9日]](1868年[[7月28日]]) - 三河裁判所の管轄区域が'''[[三河県 (日本)|三河県]]'''の管轄となる。
** 7月 - [[戊辰戦争]]の処分により磐城平藩領が三河県の管轄となる。
** 9月 - 三河県の管轄区域のうち旧磐城平藩領・旧幕府領および旧旗本領の大部分(丸平新田・鹿勝川村・丸山村・坂崎村・土呂村・大谷村・高須村・永井村・下細川村・岩堀村・北鷲田村・西脇村・高力村を除く)・吉田藩領の一部(鷲田村)が駿河'''[[駿府藩|府中藩]]'''領となる。
* 明治初年 - 菅生町が改称して菅生村となる。(27町1駅184村)
* 明治2年(27町1駅184村)
** [[6月24日 (旧暦)|6月24日]]([[1869年]][[8月1日]]) - 三河県の管轄区域が'''[[伊那県]]'''の管轄となる。
** [[8月7日 (旧暦)|8月7日]](1869年[[9月12日]]) - 任[[知藩事]]により、吉田藩が'''[[豊橋藩]]'''に、府中藩が'''[[静岡藩]]'''にそれぞれ改称。
** 下六名村の一部が分立して中六名村となる。
** 西明大寺村が下明大寺村に合併。
* 明治4年
** [[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1871年]][[7月19日]]) - 竜岡藩が廃藩。領地が伊那県の管轄となる。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[岡崎県]]'''、'''[[西大平県]]'''、'''[[豊橋県]]'''、'''[[野村県]]'''、'''[[静岡県]]'''の管轄となる。
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により全域が'''[[額田県]]'''の管轄となる。
* 明治5年(31町1駅181村)
** [[11月27日 (旧暦)|11月27日]]([[1872年]][[12月27日]]) - '''[[愛知県]]'''の管轄となる。
** 六供が分割して岡崎六供町・岡崎八幡町となる。
** 岡崎康生町・岡崎亀井町・岡崎福寿町が起立。
** 岡崎城下各町のうち杉本町が杉本村に、極楽寺門前が岡崎蛤町にそれぞれ改称。残部が岡崎を冠称。
** 菅生村が菅生町に改称。
** 上毛呂村・下毛呂村が合併して毛呂村となる。
** 山畑村が土呂村に、中六名村が下六名村にそれぞれ合併。
* 明治8年([[1875年]])(31町1駅178村)
** 下明大寺村の一部が分立して西明大寺村となる。
** 細野村・光久村が合併して細光村となる。
** 丸塚村が日影村に、大谷村が上地村に、井ノ口村が柿平村にそれぞれ合併。
* 明治9年([[1876年]])(31町1駅170村)
{{col|
:* 井沢村 ← 竹沢連村、笠井村
:* 六供村 ← 岡崎六供町、岡崎上肴町[一部]
:* 大高味村 ← 法味村、高薄村、大河村
|
:* 小久田村 ← 赤田和村、小楠村、桃ヶ久保村
:* 菱池村 ← 岩堀村、西脇村、鷲田村
:* 南大須村 ← 南須山村、大山村
}}
* 明治11年([[1878年]])[[12月20日]] - [[郡区町村編制法]]の愛知県での施行により、行政区画としての'''額田郡'''が発足。郡役所が岡崎康生町に設置。同年、以下の各村の統合等が行われる。(26町139村)
{{col|
:* 細川村 ← 上細川村、下細川村
:* 藤川村 ← 市場村、藤川駅、蓑川村
:* 鍛埜村 ← 大林村、鍛治屋村、土村
:* 河原村 ← 栃原村、河辺村
:* 和合村 ← 馬頭村、生田村、平地村
:* 夏山村 ← 平針村、柿平村、寺平村、鬼沢村、寺野村
:* 福岡村 ← 土呂村、高須村、永井村、萱園村
:* 桜形村 ← 柳田村、名ノ内村、麻生村
:* 八帖村 ← 岡崎松葉町、八町村
:* 上里村 ← 上之里村、東上里村
|
:* 田折村 ← 上田代村、折地村
:* 大門村 ← 上大門村、大内新田、中大門村、下大門村
:* 大柳村 ← 大ヶ谷村、北須山村、柳村
:* 才栗村 ← 栗木村、才熊村
:* 岩中村 ← 中畑村、岩谷村
:* 久後崎村 ← 国崎町、久後村
:* 中伊村 ← 伊賀谷村、中保久村
:* 明大寺村 ← 下明大寺村、上明大寺村、西明大寺村
:* 梅園村 ← 杉本村、岡崎八軒町
}}
:* 丸平新田が丸山村に、尾尻村が龍泉寺村に、西大平村が大平村に、友久村が秦梨村に、門前村が上里村にそれぞれ合併。
:* 岡崎下肴町が岡崎魚町に、菅生町が菅生村に、岡崎蛤町が中村にそれぞれ改称。
* 明治17年([[1884年]]) - 磯部村が東蔵前村に合併。(26町138村)
* 明治19年([[1886年]]) - 岡崎中町が岡崎能見町に合併。(25町138村)
=== 町村制以降の沿革 ===
* [[明治]]22年([[1889年]])[[10月1日]] - [[町村制]]の施行により、以下の町村が発足。特記以外は現・岡崎市。(1町26村)
{{hidden begin
|title = 町村制施行時の1町26村
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
:* '''[[岡崎市|岡崎町]]''' ← 岡崎康生町、岡崎連尺町、岡崎籠田町、岡崎横町、岡崎祐金町、岡崎十王町、岡崎島町、岡崎唐沢町、岡崎六地蔵町、岡崎伝馬町、岡崎両町、岡崎投町、岡崎裏町、岡崎門前町、岡崎久右衛門町、岡崎上肴町、岡崎亀井町、岡崎能見町、岡崎八幡町、岡崎松本町、岡崎福寿町、岡崎魚町、岡崎材木町、岡崎田町、岡崎板屋町、梅園村、六供村、中村、菅生村、八帖村
:* '''[[三島村 (愛知県)|三島村]]''' ← 上六名村、下六名村、明大寺村、福島新田、久後崎村
:* '''[[岡崎村 (愛知県)|岡崎村]]''' ← 柱村、針崎村、戸崎村、羽根村、若松村
:* '''[[福岡町 (愛知県)|福岡村]]''' ← 福岡村、上地村
:* '''[[坂崎村]]''' ← 坂崎村、久保田村、長嶺村(現・幸田町)
:* '''[[相見村]]''' ← 大草村、高力村、北鷲田村、菱池村、横落村(現・幸田町)
:* '''[[深溝村]]''' ← 深溝村、芦谷村、荻村(現・幸田町)
:* '''[[竜谷村]]''' ← 桑谷村、竜泉寺村
:* '''[[藤川村 (愛知県)|藤川村]]'''(単独村制)
:* '''[[山中村 (愛知県)|山中村]]''' ← 羽栗村、舞木村、山綱村、池金村
:* '''[[本宿村]]''' ← 本宿村、鉢地村、鶫巣村、大幡村、上衣文村
:* '''[[豊岡村 (愛知県額田郡)|豊岡村]]''' ← 樫山村、牧平村、鹿勝川村、桜井寺村、下衣文村
:* '''[[高富村]]''' ← 淡淵村、細光村、片寄村、滝尻村、鳥川村
:* '''[[宮崎村 (愛知県額田郡)|宮崎村]]''' ← 亀穴村、明見村、[[石原村 (愛知県)|石原村]]、中金村、[[大代村 (愛知県額田郡)|大代村]]、河原村、雨山村
:* '''[[栄枝村|巴山村]]''' ← 夏山村、木下村、千万町村
:* '''[[河合村 (愛知県)|河合村]]''' ← 才栗村、須淵村、岩戸村、生平村、茅原沢村、蓬生村、古部村、切越村、秦梨村
:* '''[[美合村 (愛知県)|美合村]]''' ← 岡村、和合村、保母村
:* '''[[男川村]]''' ← 大平村、高隆寺村、小美村、丸山村、欠村、洞村
:* '''[[乙見村]]''' ← 箱柳村、小呂村、稲熊村、板田村、田口村、大井野村、岩中村
:* '''[[形埜村]]''' ← 切山村、桜形村、小久田村、毛呂村、井沢村、鍛埜村、南大須村、大高味村
:* '''[[下山村 (愛知県額田郡)|下山村]]''' ← 保久村、富尾村、外山村、一色村、中伊村(現・岡崎市)、田代村、田折村、蕪木村、蘭村(現・豊田市)
:* '''[[常磐村 (愛知県額田郡)|常磐村]]''' ← 米河内村、滝村、安戸村、蔵次村、大柳村、小丸村、新居村
:* '''[[奥殿村]]''' ← 奥殿村、川向村、渡通津村、日影村、桑原村、宮石村
:* '''[[細川村 (愛知県額田郡)|細川村]]''' ← 細川村、仁木村、奥山田村
:* '''[[岩津町|岩津村]]''' ← 岩津村、東蔵前村、西蔵前村、東阿知和村、西阿知和村、駒立村、丹坂村、恵田村、真福寺村、八ツ木村
:* '''[[大樹寺村]]''' ← 鴨田村、大門村、上里村、百々村、藪田村、大樹寺村
:* '''[[広幡町|広幡村]]''' ← 伊賀村、井田村、能見村、日名村
{{hidden end}}
[[ファイル:Aichi Nukata-gun 1889.png|frame|1.岡崎町 2.三島村 3.岡崎村 4.福岡村 5.坂崎村 6.相見村 7.深溝村 8.龍谷村 9.藤川村 10.山中村 11.本宿村 12.豊岡村 13.高富村 14.宮崎村 15.巴山村 16.河合村 17.美合村 18.男川村 19.乙見村 20.形埜村 21.下山村 22.常磐村 23.奥殿村 24.細川村 25.岩津村 26.大樹寺村 27.広幡村(紫:岡崎市 桃:豊田市 赤:幸田町)]]
* 明治23年([[1890年]])[[12月17日]] - 巴山村が改称して'''[[栄枝村]]'''となる。(1町26村)
* 明治24年([[1891年]])[[4月1日]] - [[郡制]]を施行。
* 明治26年([[1893年]])[[11月8日]] - 福岡村が町制施行して'''[[福岡町 (愛知県)|福岡町]]'''となる。(2町25村)
* 明治28年([[1895年]])[[5月13日]] - 広幡村が町制施行して'''[[広幡町]]'''となる。(3町24村)
* 明治36年([[1903年]])[[1月4日]] - 男川村の一部(欠村)が岡崎町に編入。(3町24村)
* 明治39年([[1906年]])[[5月1日]] - 以下の町村の統合が行われる。いずれも新設合併。(3町15村)
** '''常磐村''' ← 乙見村[箱柳・大井野・田口・岩中・板田]、常磐村
** '''岩津村''' ← 大樹寺村、岩津村、細川村、奥殿村
** '''岡崎町''' ← 岡崎町、三島村、乙見村[稲熊・小呂]
** '''[[幸田町|広田村]]''' ← 坂崎村、相見村、深溝村
** '''[[豊富村 (愛知県額田郡)|豊富村]]''' ← 豊岡村、高富村、栄枝村[夏山]
** '''宮崎村''' ← 宮崎村、栄枝村[千万町・木下]
* 明治41年([[1908年]])[[11月1日]] - 広田村が改称して'''[[幸田町|幸田村]]'''となる。(3町15村)
* [[大正]]3年([[1914年]])[[10月1日]] - 広幡町が岡崎町に編入。(2町15村)
* 大正5年([[1916年]])[[7月1日]] - 岡崎町が市制施行して'''[[岡崎市]]'''となり、群より離脱。(1町15村)
* 大正12年([[1923年]])4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
* 大正15年([[1926年]])7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
* [[昭和]]3年([[1928年]])
** [[5月1日]] - 岩津村が町制施行して'''[[岩津町]]'''となる。(2町14村)
** [[9月1日]] - 岡崎村・美合村・男川村および常磐村の一部(箱柳)が岡崎市に編入。(2町11村)
* 昭和27年([[1952年]])4月1日 - 幸田村が町制施行して'''[[幸田町]]'''となる。(3町10村)
* 昭和29年([[1954年]])[[8月1日]] - 幸田町が[[幡豆郡]][[豊坂村 (愛知県)|豊坂村]]と合併して'''幸田町'''が発足<ref name="幸田町">読みを「こう'''だ'''」→ 「こう'''た'''」に変更</ref>。(3町10村)
* 昭和30年([[1955年]])[[2月1日]] - 福岡町・竜谷村・藤川村・山中村・本宿村・河合村・常磐村・岩津町が岡崎市に編入。(1町4村)
* 昭和31年([[1956年]])[[9月30日]](2町)
** 豊富村・宮崎村・形埜村および下山村の一部(一色・外山・中伊・富尾・保久)が合併して'''[[額田町]]'''が発足。
** 下山村の残部(田代・田折・蕪木・蘭)が[[東加茂郡]][[下山村 (愛知県東加茂郡)|下山村]]に編入。
* [[平成]]15年([[2003年]])[[11月14日]] - 幸田町が岡崎額田地区合併協議会への参加見送りを決定。
* 平成18年([[2006年]])[[1月1日]] - 額田町が岡崎市に編入。(1町)
=== 変遷表 ===
{{hidden begin
|title = 自治体の変遷
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:x-small"
|-
! colspan="3" | 明治22年以前
! style="white-space:nowrap;" | 明治22年<br />10月1日<br />町村制施行
! style="white-space:nowrap;" | 明治23年 - 明治33年
! colspan="2" | 明治34年 - 明治45年
! colspan="2" | 大正元年 - 大正15年
! colspan="2" | 昭和元年 - 昭和64年
! 平成元年 - 現在
! 現在
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[日名中町|日名村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 広幡村
| style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 明治28年5月13日<br />町制 '''[[広幡町]]'''
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" rowspan="4" | 広幡町
| style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" rowspan="4" | 大正3年10月1日<br />'''岡崎町'''に編入
| style="white-space:nowrap;" rowspan="48" | 大正5年7月1日<br />市制 '''[[岡崎市]]'''
| rowspan="48" | 岡崎市
| rowspan="66" | 岡崎市
| rowspan="142" | 岡崎市
| rowspan="194" | 岡崎市
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[元能見町|能見村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[井田町 (岡崎市)|井田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[伊賀町 (岡崎市)|伊賀村]]
|-
| style="background-color:#6ff;" rowspan="31" | 岡<br />崎<br />城<br />下
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | 岡崎横町
| style="background-color:#6ff;" rowspan="34" | 岡崎町
| style="background-color:#6ff;" rowspan="34" | 広幡町
| style="background-color:#6ff;" rowspan="34" | 岡崎町
| style="background-color:#6ff;" rowspan="44" | 岡崎町
| style="background-color:#6ff;" rowspan="44" | 岡崎町
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[亀井町 (岡崎市)|岡崎亀井町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[久右エ門町|岡崎久右衛門町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" | 岡崎下肴町
| style="background-color:#6ff;" | [[魚町 (岡崎市)|魚町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[康生町|岡崎康生町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[材木町 (岡崎市)|岡崎材木町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[十王町 (岡崎市)|岡崎十王町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[松本町 (岡崎市)|岡崎松本町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[伝馬通 (岡崎市の町名)|岡崎伝馬町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[田町 (岡崎市)|岡崎田町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[唐沢町|岡崎唐沢町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[島町 (岡崎市)|岡崎島町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[若宮町 (岡崎市)|岡崎投町]]
|-
| style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" | 岡崎能見町
| style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" rowspan="2" | [[能見町|岡崎能見町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" | 岡崎中町
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[八幡町 (岡崎市)|岡崎八幡町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[板屋町 (岡崎市)|岡崎板屋町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[福寿町 (岡崎市)|岡崎福寿町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[門前町 (岡崎市)|岡崎門前町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[祐金町|岡崎祐金町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[花崗町|岡崎裏町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[両町 (岡崎市)|岡崎両町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[連尺通|岡崎連尺町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[六地蔵町 (岡崎市)|岡崎六地蔵町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | [[籠田町 (岡崎市)|岡崎籠田町]]
|-
| style="background-color:#6ff;" rowspan="2" | 岡崎上肴町
| style="background-color:#6ff;" | [[上肴町 (岡崎市)|岡崎上肴町]]
|-
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[六供町 (岡崎市)|六供村]]
|-
| style="background-color:#6ff;" | 岡崎六供町
|-
| style="background-color:#6ff;" | 岡崎八軒町
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[梅園町 (岡崎市)|梅園村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" | 杉本村
|-
| style="background-color:#6ff;" | 岡崎松葉町
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[八帖町|八帖村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 八町村
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | 菅生町
| style="background-color:#9cf;" | [[菅生町 (岡崎市)|菅生村]]
|-
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" | 極楽寺門前<br />(岡崎蛤町)
| style="background-color:#9cf;" | [[中町 (岡崎市)|中村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 久後村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[久後崎町|久後崎村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 三島村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 三島村
| style="background-color:#6ff;" rowspan="9" | 明治39年5月1日<br />'''岡崎町'''に編入
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 国崎町
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下六名村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[六名町 (岡崎市)|下六名村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中六名村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[六名町 (岡崎市)|上六名村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上明大寺村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[明大寺町|明大寺村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下明大寺村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西明大寺村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 福島新田
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[欠町|欠村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | [[男川村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 男川村
| style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" | 明治35年9月23日<br />'''岡崎町'''に編入
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大平村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[大平町 (岡崎市)|大平村]]
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="7" | 男川村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="7" | 男川村
| rowspan="18" | 昭和3年9月1日<br />'''岡崎市'''に編入
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西大平村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 丸山村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[丸山町 (岡崎市)|丸山村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 丸平新田
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[小美町|小美村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[高隆寺町|高隆寺村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[洞町|洞村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 馬頭村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[美合町|和合村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | [[美合村 (愛知県)|美合村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 美合村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 美合村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 美合村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 生田村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 平地村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[岡町 (岡崎市)|岡村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[保母町|保母村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[羽根町 (岡崎市)|羽根村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | [[岡崎村 (愛知県)|岡崎村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 岡崎村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 岡崎村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 岡崎村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[柱町|柱村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[戸崎町 (岡崎市)|戸崎村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[若松町 (岡崎市)|若松村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[針崎町|針崎村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[箱柳町|箱柳村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 乙見村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 乙見村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="17" | 明治39年7月1日<br />合併 '''[[常磐村 (愛知県額田郡)|常磐村]]'''
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="17" | 常磐村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[田口町 (岡崎市)|田口村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="16" | 常磐村
| rowspan="76" | 昭和30年2月1日<br />'''岡崎市'''に編入
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[板田町|板田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[大井野町|大井野村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 岩谷村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[岩中町|岩中村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中畑村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[小呂町|小呂村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[稲熊町|稲熊村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[滝町 (岡崎市)|滝村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 常磐村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 常磐村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[米河内町|米河内村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[安戸町|安戸村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[小丸町 (岡崎市)|小丸村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[新居町 (岡崎市)|新居村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[蔵次町|蔵次村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大ケ谷村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[大柳町 (岡崎市)|大柳村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 柳村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 北須山村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[岩津町 (岡崎市)|岩津村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 岩津村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 岩津村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="27" | 明治39年7月1日<br />合併 '''岩津村'''
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="27" | 岩津村
| style="background-color:#6ff;" rowspan="27" | 昭和3年5月1日<br />町制 '''[[岩津町]]'''
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[八ツ木町|八ツ木村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[西阿知和町|西阿知和村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[東阿知和町|東阿知和村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[真福寺町|真福寺村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[西蔵前町|西蔵前村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 東蔵前村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[東蔵前町|東蔵前村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 磯部村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[丹坂町|丹坂村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[恵田町 (岡崎市)|恵田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[駒立町|駒立村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[奥殿町 (岡崎市)|奥殿村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 奥殿村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 奥殿村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[桑原町 (岡崎市)|桑原村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[川向町 (岡崎市)|川向村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[宮石町|宮石村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[渡通津町|渡通津村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[日影町|日影村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上細川村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[細川町 (岡崎市)|細川村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 細川村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 細川村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下細川村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[仁木町 (岡崎市)|仁木村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[奥山田町|奥山田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[大樹寺 (岡崎市の町名)|大樹寺村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 大樹寺村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 大樹寺村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[大門 (岡崎市)|大門村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[上里 (岡崎市)|上里村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[鴨田町 (岡崎市)|鴨田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[薮田|薮田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[百々町 (岡崎市)|百々村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 土呂村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 福岡村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 福岡村
| style="background-color:#6ff;" rowspan="7" | 明治26年11月8日<br />町制 '''[[福岡町 (愛知県)|福岡町]]'''
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" rowspan="7" | 福岡町
| style="background-color:#6ff;" colspan="2" rowspan="7" | 福岡町
| style="background-color:#6ff;" rowspan="7" | 福岡町
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 山畑村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 高須村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 萱園村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 永井村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上地村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 上地村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大谷村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[本宿町 (岡崎市)|本宿村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | [[本宿村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 本宿村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 本宿村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 本宿村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 本宿村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[上衣文町|上衣文村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[大幡町|大幡村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[鶇巣町|鶇巣村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[鉢地町|鉢地村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 龍泉寺村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[竜泉寺町|龍泉寺村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[竜谷村|龍谷村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 龍谷村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="3" | 龍谷村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="3" | 龍谷村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 龍谷村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 尾尻村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[桑谷町|桑谷村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 才熊村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[才栗町|才栗村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | [[河合村 (愛知県)|河合村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 河合村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="11" | 河合村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="11" | 河合村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 河合村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 栗木村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 秦梨村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[秦梨町|秦梨村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 友久村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[切越町|切越村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[蓬生町|蓬生村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[須淵町|須淵村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[岩戸町 (岡崎市)|岩戸村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[茅原沢町|茅原沢村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[古部町 (岡崎市)|古部村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[生平町|生平村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[羽栗町|羽栗村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | [[山中村 (愛知県)|山中村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 山中村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="4" | 山中村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="4" | 山中村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 山中村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[池金町|池金村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[舞木町 (岡崎市)|舞木村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[山綱町|山綱村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | [[藤川村 (愛知県)|藤川村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 藤川村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[藤川村 (愛知県)|藤川村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 藤川村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="3" | 藤川村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="3" | 藤川村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 藤川村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | [[市場町 (岡崎市)|市場村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | [[蓑川町|蓑川村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 柳田村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[桜形町|桜形村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="19" | [[形埜村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="19" | 形埜村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="19" | 形埜村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="19" | 形埜村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="19" | 形埜村
| style="background-color:#6ff;" rowspan="52" | 昭和31年9月30日<br />合併 '''[[額田町]]'''
| rowspan="52" | 平成18年1月1日<br />'''岡崎市'''に編入
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 名ノ内村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 麻生村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 鍛治屋村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[鍛埜町|鍛埜村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大林村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 土村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 南須山村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[南大須町|南大須村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大山村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大河村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[大高味町|大高味村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 高薄村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 法味村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 笠井村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[井沢町 (岡崎市)|井沢村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 竹沢連村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上毛呂村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[毛呂町|毛呂村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下毛呂村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小楠村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[小久田町|小久田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 桃ケ久保村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 赤田和村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[切山町|切山村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[宮崎町 (岡崎市)|亀穴村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | [[宮崎村 (愛知県額田郡)|宮崎村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 下山村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 宮崎村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 宮崎村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="10" | 宮崎村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 宮崎村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[石原町 (岡崎市)|石原村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[明見町 (岡崎市)|明見村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[中金町 (岡崎市)|中金村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[大代町|大代村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[雨山町|雨山村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 河辺村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[東河原町 (岡崎市)|河原村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 栃原村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[千万町町|千万町村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | [[巴山村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="8" | 明治23年12月17日<br />改称 '''[[栄枝村]]'''
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 明治39年5月1日<br />'''宮崎村'''に編入
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[木下町 (岡崎市)|木下村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 柿平村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | [[夏山町|夏山村]]
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="17" | 明治39年5月1日<br />合併 '''[[豊富村 (愛知県額田郡)|豊富村]]'''
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="17" | 豊富村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="17" | 豊富村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 井ノ口村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 平針村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 鬼沢村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 寺平村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 寺野村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[樫山町 (岡崎市)|樫山村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | [[豊岡村 (愛知県額田郡)|豊岡村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 豊岡村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[桜井寺町|桜井寺村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[牧平町|牧平村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[鹿勝川町|鹿勝川村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[下衣文町|下衣文村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 細野村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[細光町|細光村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | [[高富村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 高富村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 光久村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[片寄町|片寄村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[滝尻町|滝尻村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[淡渕町|淡淵村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[鳥川町|鳥川村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[保久町|保久村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | [[下山村 (愛知県額田郡)|下山村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 下山村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="11" | 下山村
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="11" | 下山村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 下山村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 中保久村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[中伊町|中伊村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | [[中伊西町|伊賀谷村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[外山町 (岡崎市)|外山村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[一色町 (岡崎市)|一色村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[冨尾町|冨尾村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上田代村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | [[田折町|田折村]]
| rowspan="5" | 昭和31年9月30日<br />'''[[東加茂郡]][[下山村 (愛知県東加茂郡)|下山村]]'''に編入
| style="white-space:nowrap;" rowspan="5" | 平成17年4月1日<br />'''[[豊田市]]'''に編入
| style="white-space:nowrap;" rowspan="5" | 豊田市
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 折地村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[下山田代町|田代村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[蕪木町|蕪木村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[蘭町|蘭村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[坂崎 (幸田町)|坂崎村]]
| style="background-color:#9cf;" | 坂崎村
| style="background-color:#9cf;" | 坂崎村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="9" | 明治39年5月1日<br />合併 '''広田村'''
| style="background-color:#9cf; white-space:nowrap;" rowspan="9" | 明治41年7月28日<br />改称 '''幸田村'''
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="9" | 幸田村
| style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" rowspan="9" | 昭和27年4月1日<br />町制 '''幸田町'''
| style="background-color:#6ff; white-space:nowrap;" rowspan="17" | 昭和29年8月1日<br />合併 額田郡'''[[幸田町]]'''<ref name="幸田町" />
| style="background-color:#6ff;" rowspan="17" | 幸田町
| style="background-color:#6ff;" rowspan="17" | 幸田町
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[深溝 (幸田町)|深構村]]
| style="background-color:#9cf;" | 深溝村
| style="background-color:#9cf;" | 深溝村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[大草 (幸田町)|大草村]]
| style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 相見村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 相見村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[北鷲田 (幸田町)|北鷲田村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 鷲田村
| style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | [[菱池 (幸田町)|菱池村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 岩堀村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西脇村
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[横落 (幸田町)|横落村]]
|-
| style="background-color:#9cf;" colspan="3" | [[高力 (幸田町)|高力村]]
|-
| rowspan="8" | [[幡豆郡|幡<br />豆<br />郡]]
| colspan="2" | [[桐山 (幸田町)|桐山村]]
| rowspan="3" | 豊国村
| rowspan="3" | 豊国村
| colspan="2" rowspan="8" | 明治39年5月1日<br />合併 '''[[豊坂村 (愛知県)|豊坂村]]'''
| colspan="2" rowspan="8" | 豊坂村
| rowspan="8" | 豊坂村
|-
| colspan="2" | [[逆川 (幸田町)|逆川村]]
|-
| colspan="2" | [[上六栗 (幸田町)|上六栗村]]
|-
| colspan="2" | [[六栗 (幸田町)|六栗村]]
| rowspan="5" | 松坂村
| rowspan="5" | 松坂村
|-
| 永井村
| rowspan="2" | [[永野 (幸田町)|永野村]]
|-
| 野崎村
|-
| colspan="2" | [[須美 (幸田町)|須美村]]
|-
| colspan="2" | [[野場 (幸田町)|野場村]]
|}
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== 行政 ==
;歴代郡長
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|1||||明治11年(1878年)12月20日|| ||
|-
|||||||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-03-08|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=角川書店|volume=23 愛知県|isbn=4040012305|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1989}}}}
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
* [[額田県]]
{{三河国の郡}}
{{愛知県の郡}}
{{愛知県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ぬかたくん}}
[[Category:額田郡|*]]
[[Category:愛知県の郡]]
[[Category:三河国の郡]]
[[Category:岡崎市の歴史]]
[[Category:豊田市の歴史]]
[[Category:幸田町]]
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E9%83%A1
|
11,045 |
格子定数
|
格子定数(こうしていすう、こうしじょうすう、lattice constant)とは、結晶軸の長さや軸間角度のこと。単位格子の各稜間の角度 α,β,γ と、各軸の長さ a,b,c を表す6個の定数である。その性質上、格子の形状によっては一部の値のみで表すことが出来る。例えば、立方格子ではa = b = cかつα = β = γ=90°であるため、aの値のみで表すことができ、斜方格子ではα = β = γ=90°であるため、a,b,cのみを指定すればよい。
軸の長さの単位は普通オングストローム(Å)を用い、自明として単位を付けずに数値のみを書く場合が多い。
X線の波長は約1 Åであるため、X線の回折によって格子定数を求めることが可能である。
|
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格子定数とは、結晶軸の長さや軸間角度のこと。単位格子の各稜間の角度 α,β,γ と、各軸の長さ a,b,c を表す6個の定数である。その性質上、格子の形状によっては一部の値のみで表すことが出来る。例えば、立方格子ではa = b = cかつα = β = γ=90°であるため、aの値のみで表すことができ、斜方格子ではα = β = γ=90°であるため、a,b,cのみを指定すればよい。 軸の長さの単位は普通オングストローム(Å)を用い、自明として単位を付けずに数値のみを書く場合が多い。 X線の波長は約1 Åであるため、X線の回折によって格子定数を求めることが可能である。
|
'''格子定数'''(こうしていすう、こうしじょうすう、'''lattice constant''')とは、結晶軸の長さや軸間角度のこと。[[単位格子]]の各稜間の角度 α,β,γ と、各軸の長さ a,b,c を表す6個の定数である<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A0%BC%E5%AD%90%E5%AE%9A%E6%95%B0-62204|title=格子定数(コウシテイスウ)とは|accessdate=2020-05-10|publisher=|website=[[コトバンク]]}}</ref>。その性質上、格子の形状によっては一部の値のみで表すことが出来る。例えば、立方格子ではa = b = cかつα = β = γ=90[[度 (角度)|°]]であるため、aの値のみで表すことができ、斜方格子ではα = β = γ=90°であるため、a,b,cのみを指定すればよい<ref name=":0" />。
軸の長さの単位は普通[[オングストローム]](Å)を用い、自明として単位を付けずに数値のみを書く場合が多い。
[[X線]]の[[波長]]は約1 Åであるため、X線の[[回折]]によって格子定数を求めることが可能である<ref name=":0" />。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[結晶構造]]
[[Category:結晶|こうしていすう]]
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紫式部日記
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『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。
写本は宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。
全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫式部日記』にでてくる記述に基づいている。
鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。
古写本には表題を「紫日記」とするものが多く、室町時代の源氏物語の注釈書「河海抄」には、「紫記」・「紫式部が日記」・「紫日記」・「紫式部仮名記」といったさまざまな名称で現存する紫式部日記に含まれる文章が引用されている。
1010年(寛弘7年)に完成されたとするのが通説である。13世紀(鎌倉時代)には『紫式部日記絵巻』という紙本着色の絵巻物が著された。作者は不詳である。なお、『栄花物語』と一部文章が全く同じであり、同物語のあとがきには日記から筆写した旨記されている。
中世の源氏物語研究の中では取り上げられることがほとんど無かったが、江戸時代に安藤為章が紫家七論で取り上げて以降、源氏物語の成立事情を考えるための第一資料とされるようになっている。
本書の1008年(寛弘5年)11月1日の記述が源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであることを根拠として丁度千年後の2008年(平成20年)が源氏物語千年紀に、また11月1日が古典の日に定められた。
前半部および末尾は、できごとの日記体記述である。その間に「消息文」と呼ばれる、紫式部の意見を述べた書簡体の部分がはさまれている。この両部分の対照がこの日記の特徴である。筆写される経過で、本来の日記の中に書簡がまぎれこんだのではないかという説もある。
中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通や藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。
よく話題にされる部分では、和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、先輩に当たる赤染衛門には後輩として尊敬の意を見せている。特に清少納言への評では「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば至らぬところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」とあって、実際に後の「古事談」に似た話(清少納言の住居が零落したさまになり、侮りを口にした通行人に瞬時に故事を持ち出して反撃した話)が記されている。
そして、清少納言の「枕草子」には人々のふるまいへの批判的な感想も多く、紫式部の亡くなった夫が人に批判されることもあって、恨まれていたと解釈されている。
見所もない実家の庭の木立ちを見るにつけても、なんとも気がふさぎ込んで思い乱れて、長年所在ないままに物思いしながら日を明かし暮らしながら、花の色や鳥の音を見たり聞いたりするにつけても、季節の移り変わる空の様子や、月の光、霜、雪を見ても、ただその時節が来たのだなあと意識する程度で、わが身はいったいどうなるのだろうかと思うばかりで、行く末の心細さはどうしようもないものの、一方でとりとめもないわたしの源氏物語などについて、話を交わす人の中で、気持ちの通じ合う人とは、しみじみと手紙を書き交わし...(渋谷栄一訳)
左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。
内裏の主上様が源氏物語を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ。」と、仰せになったのを、ふと当て推量に、「たいそう学識を鼻にかけている。」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。(渋谷栄一訳)
このように世間の人の口の端を心配しいしい、最後に書き結んでみますと、わが身を思い捨てられない気持ちが、こんなにも深くあるものなのですね。我ながら一体どうしたらよいというのでしょうか。 (中野幸一訳)
いくつかの校訂書が出版されている。
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『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。 写本は宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。 全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫式部日記』にでてくる記述に基づいている。 鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。
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[[File:Murasaki Shikibu Diary Emakimono (Gotoh Museum) 3.jpg|thumb|right|250px|[[紫式部日記絵巻]]([[五島美術館]]蔵、[[国宝]])<ref>{{Cite web|和書|title=e国宝 - 紫式部日記絵巻断簡 |url=https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=100341&content_part_id=001&content_pict_id=002 |website=emuseum.nich.go.jp |access-date=2023-08-29}}</ref>]]
{{ウィキポータルリンク|文学|[[File:Genji emaki 01003 009.jpg|80px]]}}
『'''紫式部日記'''』(むらさきしきぶにっき)は、[[紫式部]]によって記された[[日記]]とされる。[[藤原道長]]の要請で宮中に上がった[[紫式部]]が、[[1008年]]([[寛弘]]5年)秋から[[1010年]](寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。
[[写本]]は[[宮内庁書陵部]]蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。
全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『[[源氏物語]]』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫式部日記』にでてくる記述に基づいている。
[[鎌倉時代]]初期の[[13世紀]]前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「[[紫式部日記絵巻]]」が制作された。
== 来歴 ==
[[File:Murasaki Shikibu Diary Emakimono (Gotoh Museum) 6.jpg|thumb|right|350px|寛弘5年(1008年)11月1日に[[土御門殿]]で催された敦成親王(後の[[後一条天皇]])誕生後の「五十日の祝い」の宴席場面。[[左衛門督]]・[[藤原公任]](画面右、室内を眺めやる人物)が「あなかしこ、此のわたりに[[若紫|わかむらさき]]やさふらふ(恐れ入りますが、この辺りに[[若紫]]は居られませんか)」と酔態で戯れに尋ねる。『紫式部日記絵巻』より(五島美術館蔵)]]
古写本には表題を「紫日記」とするものが多く、[[室町時代]]の源氏物語の注釈書「[[河海抄]]」には、「紫記」・「紫式部が日記」・「紫日記」・「紫式部仮名記」といったさまざまな名称で現存する紫式部日記に含まれる文章が引用されている。
[[1010年]]([[寛弘]]7年)に完成されたとするのが通説である。13世紀([[鎌倉時代]])には『[[紫式部日記絵巻]]』という紙本着色の[[絵巻物]]が著された。作者は不詳である。なお、『[[栄花物語]]』と一部文章が全く同じであり、同物語のあとがきには日記から筆写した旨記されている。
中世の源氏物語研究の中では取り上げられることがほとんど無かったが、[[江戸時代]]に[[安藤為章]]が[[紫家七論]]で取り上げて以降、源氏物語の成立事情を考えるための第一資料とされるようになっている。
本書の[[1008年]](寛弘5年)11月1日の記述が源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであることを根拠として丁度千年後の[[2008年]](平成20年)が[[源氏物語千年紀]]に、また[[11月1日]]が[[古典の日]]に定められた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/32506|title=第13回 紫式部日記|publisher=京都新聞|date=2018-10-25|accessdate=2021-01-10}}</ref>。
==構成==
前半部および末尾は、できごとの日記体記述である。その間に「消息文」と呼ばれる、紫式部の意見を述べた書簡体の部分がはさまれている。この両部分の対照がこの日記の特徴である。筆写される経過で、本来の日記の中に書簡がまぎれこんだのではないかという説もある。
===日記体部分===
{|
|style="vertical-align:top"|寛弘5年7月{{refnest|group="注"|7月とはこの日記自体の記述でなく、道長の『[[御堂関白記]]』や[[藤原行成]]の『[[権記]]』による。}} || 出産のため、[[藤原彰子|中宮彰子]]が父[[藤原道長]]の土御門邸へ里帰り。
|-
|寛弘5年8月 || 懐妊10ヶ月に入る。公卿たちが宿直。
|-
|寛弘5年9月 || めでたく敦成親王([[後一条天皇]])を出産。
|-
|寛弘5年10月 || [[一条天皇]]が面会に土御門邸へ行幸。
|-
|style="vertical-align:top"|寛弘5年11月 || 誕生五十日の祝宴。中宮彰子は内裏へ還る。
|-
|寛弘5年12月 || 紫式部も内裏に戻る。初出仕の頃の回想。
|-
|style="vertical-align:top"|寛弘6年1月 || 元旦は坎日(かんにち)の凶日で、若宮の戴餅の儀は延期。
|}
===消息文===
*11人の中宮付き女房の描写。
*斎院([[選子内親王]])の女房たちと中宮彰子の女房たちの比較。
*[[和泉式部]]・[[赤染衛門]]・[[清少納言]]の論評。
*自らを省みる。
===日記体部分===
{|
|時期不明記事 || (萩谷<ref>[[萩谷朴]]『紫式部日記全注釈』(角川書店、1973年) </ref>などによれば寛弘5年5-6月{{refnest|group="注"|寛弘5年の記事とすれば、なぜこの部に収録されたのか、多くの説がある。萩谷によれば、道長の求愛という忘れがたい思い出を、目立たぬようにすべりこませたのではと指摘する。}})道長との和歌贈答。
|-
|寛弘7年1月 || 敦成・敦良([[後朱雀天皇]])両親王の戴餅の儀。
|}
== 内容 ==
[[中宮]][[藤原彰子|彰子]]の出産が迫った[[1008年]]([[寛弘]]5年)秋から[[1010年]](寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった[[和泉式部]]・[[赤染衛門]]、中宮[[藤原定子|定子]]の女房であった[[清少納言]]らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。また、[[彰子]]の実父である[[藤原道長]]や、同母弟である[[藤原頼通]]や[[藤原教通]]などの[[公卿]]についての消息も多く含む。
よく話題にされる部分では、和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、先輩に当たる赤染衛門には後輩として尊敬の意を見せている。特に清少納言への評では「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば至らぬところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」とあって、実際に後の「古事談」に似た話(清少納言の住居が零落したさまになり、侮りを口にした通行人に瞬時に故事を持ち出して反撃した話)が記されている。
そして、清少納言の「枕草子」には人々のふるまいへの批判的な感想も多く、紫式部の亡くなった夫が人に批判されることもあって、恨まれていたと解釈されている。
==本文の一部==
;寛弘5年11月、『源氏物語』の清書編集をしていた頃{{refnest|group="注"|この時どこまで源氏物語が完成されていたか。最低「若菜」の前までは書かれていた<ref>[[白方勝]]『紫式部日記臆説』(風間書房、1986年) </ref>、または「幻」までは書かれていた<ref>鬼束隆昭「『紫式部日記』と源氏物語」(石原昭平ほか編『女流日記文学講座第3巻 和泉式部日記 紫式部日記』勉誠社、1991年) </ref>という推定が多い。}}の記述
''見所もなきふるさとの木立を見るにも、ものむつかしう思ひ乱れて。年ごろ、つれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜、雪を見て、「その時来にけり」とばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにやとばかり、行く末の心細さはやる方なきものから、はかなき物語などにつけて、うち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書き交はし...''
見所もない実家の庭の木立ちを見るにつけても、なんとも気がふさぎ込んで思い乱れて、{{refnest|group="注"|萩谷や中野の訳ではここに「夫の死後」を補う。}}長年所在ないままに物思いしながら日を明かし暮らしながら、花の色や鳥の音を見たり聞いたりするにつけても、季節の移り変わる空の様子や、月の光、霜、雪を見ても、ただその時節が来たのだなあと意識する程度で、わが身はいったいどうなるのだろうかと思うばかりで、行く末の心細さはどうしようもないものの、一方でとりとめもないわたしの源氏物語などについて、話を交わす人の中で、気持ちの通じ合う人とは、しみじみと手紙を書き交わし...([[渋谷栄一]]訳<ref name="渋谷">[http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/ 渋谷栄一 源氏物語の世界] </ref>)
;消息文から。「日本紀の御局」と呼ばれた話
''左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ、心憂きしりう言の、多う聞こえはべりし。''
''内裏の上の、源氏の物語、人に読ませ給ひつつ、聞こし召しけるに、「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。真に才あるべし」と宣はせけるを、ふと推し量りに、「いみじうなむ才がる」と、殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける。いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだに慎みはべるものを、さる所にて才賢し出ではべらむよ。''
左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。
内裏の主上様が源氏物語を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ。」と、仰せになったのを、ふと当て推量に、「たいそう学識を鼻にかけている。」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。(渋谷栄一訳)
;消息文の結び
''かく世の人言の上を思ひ思ひ、果てに閉じめはべれば、身を思ひ捨てぬ心の、さも深うはべるべきかな。何せむとにかはべらむ。''
このように世間の人の口の端を心配しいしい、最後に書き結んでみますと、わが身を思い捨てられない気持ちが、こんなにも深くあるものなのですね。我ながら一体どうしたらよいというのでしょうか。
(中野幸一訳<ref>[[中野幸一]]『正訳紫式部日記』(勉誠出版、2018年) </ref>)
== 本文 ==
いくつかの校訂書が出版されている。
*『紫式部日記』 [[池田亀鑑]]・[[秋山虔]]、[[岩波文庫]]、1964年1月、ISBN 978-4003001578。
*『紫式部日記全注釈』上・下、[[萩谷朴]]、[[角川書店]]、1971-1973年(日本古典評釈全注釈叢書){{ISBN2| 978-4047610200}}
*『紫式部日記』上・下、[[宮崎荘平]]、[[講談社学術文庫]]、2002年7月-8月、ISBN 978-4061595538&ISBN 978-4061595545
**『新版 紫式部日記 全訳注』講談社学術文庫、2023年6月、ISBN 9784065294703
*『紫式部日記』 [[小谷野純一]]、笠間書院〈笠間文庫 原文&現代語訳シリーズ〉、2007年4月、ISBN 978-4-305-70420-7。
*『[[日本古典文学全集|新編 日本古典文学全集]]26 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』 藤岡忠美・中野幸一・犬養廉・石井文夫、小学館、1994年8月、ISBN 4096580260。
*『[[新日本古典文学大系]] 土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』 長谷川政春・今西祐一郎・伊藤博・[[吉岡曠]]、岩波書店、1989年11月、ISBN 4-00-240024-7。
*『紫式部日記 現代語訳付き』 [[山本淳子]]訳注、[[角川ソフィア文庫]]、2010年8月、ISBN 978-4044001063。
== 翻訳 ==
*[[与謝野晶子]] 訳 『新訳紫式部日記 新訳和泉式部日記』[[金尾文淵堂]] 1916年
**『紫式部日記・[[和泉式部日記]]』[[角川ソフィア文庫]] 2023年6月、ISBN 978-4044007690。
* ''[https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA90712250 Murasaki Shikibu'nun Günlüğü]'' [Turkiye Is Bankasi Kultur Yayinlari]、2009年3月、ISBN 978-9944-88-601-7;ISBN 978-9944-88-600-0。[[トルコ語]]。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
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===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[紫式部]]
* [[紫式部日記絵巻]]
* [[藤原彰子]]
* [[藤原道長]]
* [[御堂関白記]](藤原道長の日記)
* [[源氏物語]]
* [[源氏物語絵巻]]
* [[日本の中古文学史]]
* [[古典の日]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Murasaki Shikibu Diary}}
* [http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text55.html 紫式部日記(黒川本)]
* [http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/original55.html 宮内庁書陵部蔵黒川本「紫日記」]
* [http://alisveris.iskulturyayinlari.com.tr/tanim.asp?sid=OKLQ16603S0SVJN75XIN トルコ語訳]
* [https://books.google.co.jp/books?id=9Pyj3uXJhN8C&lpg=PA265&ots=L3nln4_kdh&dq=%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81%E6%9B%B8%E9%99%B5%E9%83%A8%E8%94%B5%E9%BB%92%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E3%80%8C%E7%B4%AB%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%8D&pg=PA265#v=onepage&q=%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81%E6%9B%B8%E9%99%B5%E9%83%A8%E8%94%B5%E9%BB%92%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E3%80%8C%E7%B4%AB%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%8D&f=false 古筆と写経 古筆学研究所]
* [http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/shikibu.html 五島美術館 コレクション 紫式部日記絵巻]
* {{Kotobank}}
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窒化ガリウム
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窒化ガリウム(ちっかガリウム、GaN)はガリウムの窒化物であり、青色発光ダイオード(青色LED)の材料として知られる半導体である。また、近年ではパワー半導体やレーダーへの応用も期待されている。ガリウムナイトライド (gallium nitride) とも呼ばれる。
結晶構造はウルツ鉱構造と閃亜鉛鉱構造の2種類を取りうるが、前者がエネルギー的に安定であり、よく使われている。ウルツ鉱構造の格子定数は、a軸が 3.18 Å、c軸が 5.17 Å である。
バンドギャップは室温において約 3.4 eV で、波長では約 365 nm に相当し、紫外領域の光源となる。微量のインジウム (In) を加えて InGaN 結晶にすることで紫色、青色の光源として用いることができる。発光ダイオードによる光の三原色のひとつとして交通信号機やディスプレイに用いられる。
GaN は他の半導体と比較して、
などの優位性から半導体デバイスとしての応用が大いに期待されている。
電子デバイスへの応用は、AlGaN/GaNのヘテロ構造を利用した高周波デバイスが先行している。これは、GaNの持つピエゾ効果によりヘテロ界面に発生する高密度の二次元電子ガスを利用できるためである。 また、高い絶縁破壊耐圧を持つことから、損失の低いパワーデバイスを実現できると考えられる。
窒化ガリウムは化学的には非常に安定した物質であり、一般的な酸(塩酸、硫酸、硝酸など)や塩基には溶けないが、紫外線を照射することで強アルカリには溶解する。
半導体の製造工程におけるエッチングの際には反応性イオンエッチング (reactive ion etching, RIE) によるドライエッチングを行う。
1980年代前半はセレン化亜鉛 (ZnSe) と GaN が青色系発光ダイオードの材料の候補であった。このうちGaNは、格子定数と熱膨張係数が GaN に近い基板が存在しなかったこともあり、良質な結晶が得られなかったため、大きな研究進捗は得られなかった。多くの研究者、研究機関は ZnSe を用いて青緑色発光ダイオード作製を目指した。世界の研究者からはZnSeを用いた青緑色半導体レーザも報告されたが、寿命が短く製品化には至らなかった。また炭化ケイ素を使用する系もあったが、実用化には至らなかった。
1986年、天野がサファイア基板に緩衝層を導入し、GaNの単結晶薄膜を得ることに成功した。
1989年、赤崎勇と天野浩はMgドーピングと電子線照射によりp型の窒化ガリウムを得て、pn接合の青色発光ダイオードを実現した。ただし、GaNは紫外発光であり青色化する必要があった。また電子線照射は実験的には良いが量産化には向かないという課題もあった。
1992年、中村修二らは水素中の熱処理でp型窒化ガリウムが得られることを発見した。その後、InGaNを使用することで青色化された。
2014年、青色発光ダイオードの発明により、赤崎、天野、中村の3名にノーベル物理学賞が授与された。
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窒化ガリウム(ちっかガリウム、GaN)はガリウムの窒化物であり、青色発光ダイオード(青色LED)の材料として知られる半導体である。また、近年ではパワー半導体やレーダーへの応用も期待されている。ガリウムナイトライド とも呼ばれる。
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{{出典の明記|date=2020年2月}}
{{Infobox 無機化合物
| name=窒化ガリウム
| 画像=
| IUPAC名=窒化ガリウム(III)
| 別名=ガリウムナイトライド
| 組成式=GaN
| 式量=83.7297
| 形状=黄色粉末
| 結晶構造=本文参照
| CAS登録番号=[25617-97-4]
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| 水への溶解度= | 温度=
| 融点= > 2500 | 融点注=(ウルツ鉱構造<ref>Harafuji, K.; Tsuchiya, T.; Kawamura, K. ''J. Appl. Phys.'' '''2004''', ''96'', 2501-2512. DOI: [https://doi.org/10.1063/1.1772878 10.1063/1.1772878]</ref>)
| 沸点= | 沸点注=
| 出典=<!--en:Gallium(III) nitride : density, mp-->
}}
[[File:GaNcrystal.jpg|thumb|]]
'''窒化ガリウム'''(ちっかガリウム、'''GaN''')は[[ガリウム]]の[[窒化物]]であり、[[発光ダイオード#青色発光ダイオード|青色発光ダイオード]](青色LED)の材料として知られる[[半導体]]である<ref name="Takeda">{{Cite journal |和書 |author=竹田美和|title=青色発光ダイオードの実現とノーベル賞|journal=化学と教育|volume=67|issue=8|publisher=[[日本化学会]]|date=2019|pages=362-367|doi=10.20665/kakyoshi.67.8_362|ref=}}</ref>。また、近年では[[電力用半導体素子|パワー半導体]]や[[レーダー]]への応用も期待されている。'''ガリウムナイトライド''' (gallium nitride) とも呼ばれる。
== 物理的性質 ==
[[結晶構造]]は[[ウルツ鉱構造]]と[[閃亜鉛鉱構造]]の2種類を取りうるが、前者がエネルギー的に安定であり、よく使われている。ウルツ鉱構造の[[格子定数]]は、a軸が 3.18 Å、c軸が 5.17 Å である。
[[バンドギャップ]]は室温において約 3.4 [[電子ボルト|eV]] で、波長では約 365 nm に相当し、紫外領域の光源となる。微量のインジウム (In) を加えて InGaN 結晶にすることで紫色、青色の光源として用いることができる。発光ダイオードによる[[光の三原色]]のひとつとして[[交通信号機]]や[[ディスプレイ]]に用いられる。
'''GaN''' は他の半導体と比較して、
# [[熱伝導率]]が大きく放熱性に優れている
# 高温での動作が可能
# 電子の[[飽和速度]]が大きい
# [[絶縁破壊]]電圧が高い
などの優位性から[[半導体素子|半導体デバイス]]としての応用が大いに期待されている。
[[電子デバイス]]への応用は、AlGaN/GaNの[[ヘテロ接合 (半導体)|ヘテロ構造]]を利用した高周波デバイスが先行している。これは、GaNの持つ[[圧電効果|ピエゾ効果]]によりヘテロ界面に発生する高密度の[[二次元電子ガス]]を利用できるためである。
また、高い絶縁破壊耐圧を持つことから、損失の低いパワーデバイスを実現できると考えられる。
== 化学的性質 ==
窒化ガリウムは化学的には非常に安定した物質であり、一般的な酸([[塩酸]]、[[硫酸]]、[[硝酸]]など)や[[塩基]]には溶けないが、紫外線を照射することで強アルカリには溶解する。
半導体の製造工程における[[エッチング]]の際には[[反応性イオンエッチング]] (reactive ion etching, RIE) による[[ドライエッチング]]を行う。
== 歴史 ==
1980年代前半は[[セレン化亜鉛]] (ZnSe) と GaN が青色系発光ダイオードの材料の候補であった。このうちGaNは、格子定数と熱膨張係数が GaN に近い基板が存在しなかったこともあり、良質な結晶が得られなかったため、大きな研究進捗は得られなかった<ref name="Takeda"/>。多くの研究者、研究機関は ZnSe を用いて青緑色発光ダイオード作製を目指した。世界の研究者からはZnSeを用いた青緑色半導体レーザも報告されたが、寿命が短く製品化には至らなかった。また炭化ケイ素を使用する系もあったが、実用化には至らなかった<ref name="Takeda"/>。
1986年、[[天野浩]]がサファイア基板に緩衝層を導入し、GaNの単結晶薄膜を得ることに成功した<ref name="Takeda"/>。
1989年、[[赤崎勇]]と天野はMgドーピングと電子線照射によりp型の窒化ガリウムを得て、pn接合の青色発光ダイオードを実現した<ref name="Takeda"/>。ただし、GaNは紫外発光であり青色化する必要があった。また電子線照射は実験的には良いが量産化には向かないという課題もあった。
1992年、[[中村修二]]らは水素中の熱処理でp型窒化ガリウムが得られることを発見した<ref name="Takeda"/>。その後、InGaNを使用することで青色化された。
2014年、青色発光ダイオードの発明により、赤崎、天野、中村の3名にノーベル物理学賞が授与された<ref name="Takeda"/>。
== 関連項目 ==
* [[窒化物半導体]]
*[[青色発光ダイオード]]
== 参考文献 ==
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{{ガリウムの化合物}}
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[[Category:無機化合物]]
[[Category:ガリウムの化合物]]
[[Category:窒化物]]
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S端子
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S端子(エスたんし)は、テレビやVTRなどで用いられる映像信号入出力用接続コネクタとその信号の規格である。Sはセパレート (Separate) の略。
セパレート端子、S1/S2映像出力、S1/S2映像端子、S1 (S) 映像、Sビデオ、S映像など様々な表記法がある。
NTSCなどのコンポジット映像信号を、輝度信号(同期信号も重畳)と色信号の2系統に分離 (Separate) して伝送することからこのように呼ばれる。
プラグに向きがあり、内部のピンが折れやすいので抜き差しを繰り返す用途には向いていない。
接続ケーブルは両端共に同じ形状であり、S映像コードやS映像ケーブルと呼ばれる。またS映像コードとステレオ音声用の白赤色2本コードと3本一体となったものもあり、長さ10m程度まで市販される。
ドイツなどでは、「ホシデン(de:Hosiden- コネクタなどを開発製造する日本の企業)」と呼ばれることもある。
当初は1987年1月に日本ビクター(現・JVCケンウッド)から発表されたS-VHSの規格発表時に同時に発表されたもので、採用第1号機は同年に日本ビクターから発売された「HR-S7000」である。これにVHS5社連合が歩調を合わせ、各社がビデオデッキやテレビに搭載を始めた。S-VHSに若干遅れて発売されたED BetaやHi8規格のビデオデッキなど、S-VHS規格対応機発表以降に発売されたほとんどすべての家庭用映像機器には、このS端子が採用されている。S-VHS登場以前から存在したレーザーディスク機器においても、S端子が採用された。しかしながら、販売店の商品札、廉価製品のパッケージレベルでは、長らく「S-VHS端子」「S-VHSケーブル」と誤称されてきた。
本規格が普及した後かなり経ってから登場したDVDレコーダーやBDレコーダーにおいても、このS端子が採用された。しかし最近ではコストダウンのためかエントリークラスのAVアンプやBDプレーヤー、低価格帯のデジタル放送受信用チューナーや廉価版のカムコーダなどではコンポーネント映像やコンポジット映像は出力できるが、S映像での出力はできない製品も多かった。
薄型テレビの場合、発売当初はこれまでのブラウン管テレビ同様にS(S1/S2)入出力端子が標準装備されていた。しかしケーブル1本のみで高画質・高音質のAV信号を伝送可能なHDMIが2002年に登場し、2006年にはそれに連動操作機能を加えた「HDMIリンク」機能が加わるようになるとテレビ番組録画は(従来のAV接続より操作・接続が大幅に簡略化された)HDMI連動へと移行し、S端子(S-VHS)の地位は徐々に低下していった。
この為2000年代後半になるとモニター出力のS2/S1端子を廃止する機種が出始め、2010年秋冬モデル以降はS2/S1端子自体を全廃する機種が増加した。これにより、従来型S-VHS・W-VHS(ただし、コンポーネント→D端子変換ケーブルを使用して1080i相当で接続可能)・Hi8・EDベータなど旧来の民生用アナログビデオデッキと2011年以降製造のデジタルテレビを組み合わせた場合は(映像ケーブルがコンポジットになるので)、D-VHSビデオデッキやシャープのS-VHSの一部機種などコンポーネント出力が可能な一部の機種を除き(ただしこちらも端子自体を全廃する機種が増加している)、画質は汎用型VHSデッキと変わらなくなり、さらにアナログチューナーのみ搭載の従来型録画機でテレビの内蔵チューナーを使ってのデジタル放送の録画ができなくなっている。
S端子搭載のVHSデッキ、古いカメラ、レトロゲーム機などのレガシーデバイスをS端子の画質で楽しみたい場合は、S映像をHDMI等に変換できる市販のアップスキャンコンバーターを用いれば解決できる。この他、一部の市販AVセレクター、およびAVアンプの中には、入力されたS映像信号を、超解像技術によって擬似的に解像度を補完した上で、D端子やHDMI端子から出力できる機能を有しているものもある。
家庭用ビデオテープレコーダではY/C分離し、色信号を低域変換したうえで記録する方式が採用されている。このためコンポジット映像信号の混合方式では記録・再生の過程で信号の分離と合成を繰り返し、信号の劣化が進んだ状態で表示される。それと比較してS端子で接続する場合、より良好な画質での視聴が可能となる。なお、信号はコンポジット映像信号と同様にSD画質である。
色信号は本格的なコンポーネント映像信号のようにCb/Crなどに分離したものではなく、両者を直交変調した形態である。これはNTSC規格の色副搬送波と同等であるため、単にYとCを混合すればコンポジット信号が得られる。
S-VHSではない通常のVHS方式やベータ方式はY信号がC信号の帯域まで伸びておらず干渉が少ないため、従来のコンポジット端子でもほぼ画質を損なうことがないとも言われている。しかしながら、元来分離して記録されているY信号・C信号を混合し、再び分離する事になるので、信号処理のロスは大きい。特にダビング時の接続ではRCA端子でのコンポジット出力・入力では、画質の低下を招くと考えられるため、S端子による接続が望ましい。
なおレーザーディスク規格の場合は、ビデオテープの場合とは異なり、輝度信号・色信号は一緒に記録されている。そのため受像機側のY/C分離回路の性能が、レーザーディスク機器のそれを上回っている場合においては、S端子による接続ではかえって画質が低下する。S端子を採用して以降のレーザーディスクの機器では、全ての映像出力信号にY/C分離処理を行い、RCA端子の出力では信号を混合していたため、かえって画質の低下を招いた。レーザーディスクの上級機においては、そのような処置は行わずRCA端子からはY/C分離回路を通さない信号を出力しているとして、これを「ダイレクトコンポジット」と称していた。
従来のS端子での信号の他にワイドクリアビジョンやダウンコンバートしたHDTV映像などアスペクト比16:9、いわゆるワイドテレビ対応の信号を追加したS1およびS2端子も定義されている。この拡張は色信号Cにバイアス電圧を加えることで区別され、端子側の対応による(後述)が最大3種類までを識別できる。使用するケーブルやコネクタは同じである。
本来、C線は直流信号を伝送するよう規定されていなかったため交流結合されて判別機能を備えない映像機器を経路の中間に挿入することで識別が不可能になる。この欠点を克服するために、垂直帰線期間内の映像信号に特殊な識別信号を重畳させているものもある (「ID-1」)。
S端子の形状は基本的にmini DIN 4pinである。mini DINコネクタは通常コネクタの内側に向かって出っ張りがあるが、日本では外側に出っ張りのあるものが一般的に使われている。
通常の機器ではメスコネクター側にも切り欠きがあるため問題なく挿入できるがメーカーによっては機器には切り欠きがないことが多く、通常のS端子ケーブルを接続できなかったり、無理に接続すると外せなくなる場合がある。また、そういった機器を使用する方法として過去のApple製コンピュータに使用されたADB (Apple Desktop Bus) ケーブルを代替利用することが可能である。
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"text": "本規格が普及した後かなり経ってから登場したDVDレコーダーやBDレコーダーにおいても、このS端子が採用された。しかし最近ではコストダウンのためかエントリークラスのAVアンプやBDプレーヤー、低価格帯のデジタル放送受信用チューナーや廉価版のカムコーダなどではコンポーネント映像やコンポジット映像は出力できるが、S映像での出力はできない製品も多かった。",
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S端子(エスたんし)は、テレビやVTRなどで用いられる映像信号入出力用接続コネクタとその信号の規格である。Sはセパレート (Separate) の略。 セパレート端子、S1/S2映像出力、S1/S2映像端子、S1 (S) 映像、Sビデオ、S映像など様々な表記法がある。
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{{Infobox コネクタ
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[[ファイル:AV-INPUT001.PNG|thumb|200px|S映像入出力端子は、多くの[[AV機器]]に搭載された。]]
[[ファイル:Video card Outputs.jpg|thumb|200px|パソコン用[[ビデオカード]]の中には、S映像出力端子が標準で搭載されている機種もあった。]]
[[ファイル:Regza Z Series Back Panel Interface.jpg|thumb|200px|S端子(S2)を装備している薄型テレビ(2010年)]]
[[ファイル:Vivo splitter cable.jpg|thumb|200px|ビデオカード用<br />S端子/コンポーネントケーブル]]
'''S端子'''(エスたんし)は、[[テレビ受像機|テレビ]]や[[ビデオテープレコーダ|VTR]]などで用いられる[[映像信号]]入出力用接続[[コネクタ]]とその信号の規格である。Sはセパレート (Separate) の略<ref>[https://av.jpn.support.panasonic.com/support/tv/dtv/glossary.html 地上デジタル放送何でもQ&A「S端子/S映像端子」って何ですか?]パナソニック株式会社</ref>。
セパレート端子、S1/S2映像出力、S1/S2映像端子、S1 (S) 映像、Sビデオ、S映像など様々な表記法がある。
== 概要 ==
[[NTSC]]などの[[コンポジット映像信号]]を、[[輝度 (光学)|輝度]]信号(同期信号も重畳)と[[色]]信号の2系統に分離 (Separate) して伝送することからこのように呼ばれる。
プラグに向きがあり、内部のピンが折れやすいので抜き差しを繰り返す用途には向いていない。
接続ケーブルは両端共に同じ形状であり、S映像コードやS映像ケーブルと呼ばれる。またS映像コードとステレオ音声用の白赤色2本コードと3本一体となったものもあり、長さ10m程度まで市販される<!--- 出展元 http://www.audio-technica.co.jp/products/cables/goldlink07/at537v.html http://www.audio-technica.co.jp/products/cables/goldlink07/at590v.html --->。
[[ドイツ]]などでは、「[[ホシデン]]([[:de:Hosiden]]- コネクタなどを開発製造する日本の企業)」と呼ばれることもある。
== 歴史 ==
当初は[[1987年]]1月に[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])から発表された[[S-VHS]]の規格発表時に同時に発表されたもので、採用第1号機は同年に日本ビクターから発売された「HR-S7000」である。これに[[VHS]]5社連合が歩調を合わせ、各社が[[ビデオテープレコーダー|ビデオデッキ]]やテレビに搭載を始めた。S-VHSに若干遅れて発売された[[ベータマックス#EDベータ|ED Beta]]<ref group="注釈">ED Betaの開発当初にはまだS端子は存在していなかったため、SONYは[[RGB]]端子の採用を検討していた。結局、先行して発売されたS-VHSに採用されたS端子の有効性を認め、SONYもそれに追随した。</ref>や[[Hi8]]規格のビデオデッキなど、S-VHS規格対応機発表以降に発売されたほとんどすべての家庭用映像機器には、このS端子が採用されている。S-VHS登場以前から存在した[[レーザーディスク]]機器においても、S端子が採用された。しかしながら、販売店の商品札、廉価製品のパッケージレベルでは、長らく「S-VHS端子」「S-VHSケーブル」と誤称されてきた。
本規格が普及した後かなり経ってから登場した[[DVDレコーダー]]や[[BDレコーダー]]においても、このS端子が採用された。しかし最近ではコストダウンのためかエントリークラスのAVアンプやBDプレーヤー、低価格帯のデジタル放送受信用チューナーや廉価版の[[カムコーダ]]などでは[[コンポーネント映像信号|コンポーネント映像]]や[[コンポジット映像信号|コンポジット映像]]は出力できるが、S映像での出力はできない製品も多かった。<!--一方で最新式のBDレコーダーも含め、多くの[[家庭]]用[[映像信号|映像]]録画機器にはコンポジット映像入出力端子やS映像入出力端子はあってもコンポーネント映像端子に関しては出力端子のみで入力の方は非搭載の製品が多い。
-->
== HDMIへの移行 ==
[[ファイル:SVideoConnector.jpg|thumb|200px|セパレート映像プラグ]]
[[薄型テレビ]]の場合、発売当初はこれまでのブラウン管テレビ同様にS(S1/S2)入出力端子が標準装備されていた。しかしケーブル1本のみで高画質・高音質のAV信号を伝送可能な[[HDMI]]が2002年に登場し、2006年にはそれに連動操作機能を加えた「HDMIリンク」機能が加わるようになるとテレビ番組録画は(従来のAV接続より操作・接続が大幅に簡略化された)HDMI連動へと移行し、S端子([[S-VHS]])の地位は徐々に低下していった。
この為2000年代後半になるとモニター出力のS2/S1端子を廃止する機種が出始め、2010年秋冬モデル以降はS2/S1端子自体を全廃する機種が増加した<ref group="注釈">なお[[DVDレコーダー]]・[[BDレコーダー]]は2011年現行モデルでも従来通りS2/S1入出力端子を搭載している。</ref><ref group="注釈">これに加え、[[2014年]]以降の新機種は著作権が保護されたコンテンツのアナログ出力が不可となる。</ref>。これにより、従来型S-VHS・[[W-VHS]](ただし、コンポーネント→D端子変換ケーブルを使用して1080i相当で接続可能)・[[Hi8]]・[[ベータマックス|EDベータ]]など旧来の[[民生用]][[アナログ]][[ビデオデッキ]]と2011年以降製造のデジタルテレビを組み合わせた場合は(映像ケーブルがコンポジットになるので)、[[D-VHS]]ビデオデッキや[[シャープ]]のS-VHSの一部機種など[[コンポーネント映像信号|コンポーネント]]出力が可能な一部の機種を除き(ただしこちらも端子自体を全廃する機種が増加している)、画質は汎用型[[VHS]]デッキと変わらなくなり、さらにアナログチューナーのみ搭載の従来型録画機でテレビの内蔵チューナーを使ってのデジタル放送の録画ができなくなっている。
S端子搭載のVHSデッキ、古いカメラ、[[レトロゲーム]]機などのレガシーデバイスをS端子の画質で楽しみたい場合は、S映像をHDMI等に変換できる市販の[[アップコンバート|アップスキャンコンバーター]]を用いれば解決できる。この他、一部の市販[[AVセレクター]]、および[[AVアンプ]]の中には、入力されたS映像信号を、[[超解像技術]]によって擬似的に解像度を補完した上で、[[D端子]]や[[HDMI|HDMI端子]]から出力できる機能を有しているものもある。
== 信号 ==
[[ファイル:S-video_spectrum.svg|thumb|200px|従来の[[コンポジット映像信号|コンポジット端子]]で接続するとYとCがミックスされているため、クロスカラーやドット妨害など画質劣化の原因になりやすい。ノーマルVHSの場合、元々[[水平解像度]]が低くそれほど画質が良くないため[[コンポジット映像信号|コンポジット]]で出力するとさらに画質が悪くなる場合がある。こうしたことから、ノーマルVHSデッキであっても、S端子を搭載している機種がわずかながら存在した。]]
家庭用ビデオテープレコーダではY/C分離し、色信号を低域変換したうえで記録する方式が採用されている。このためコンポジット映像信号の混合方式では記録・再生の過程で信号の分離と合成を繰り返し、信号の劣化が進んだ状態で表示される。それと比較してS端子で接続する場合、より良好な画質での視聴が可能となる。なお、信号はコンポジット映像信号と同様に[[SDTV|SD画質]]である。
色信号は本格的な[[コンポーネント映像信号]]のようにCb/Crなどに分離したものではなく、両者を直交変調した形態である。これはNTSC規格の色副搬送波と同等であるため、単にYとCを混合すればコンポジット信号が得られる<ref group="注釈">Y/C分離のYは[[色空間#CIE表色系|Yxy表色系]]で明るさをあらわすYから、またCはギリシャ語で色彩をあらわすChromaから採られたと言われる。</ref>。
S-VHSではない通常のVHS方式や[[ベータマックス|ベータ]]方式はY信号がC信号の帯域まで伸びておらず干渉が少ないため、従来のコンポジット端子でもほぼ画質を損なうことがないとも言われている。しかしながら、元来分離して記録されているY信号・C信号を混合し、再び分離する事になるので、信号処理のロスは大きい。特にダビング時の接続では[[RCA端子]]でのコンポジット出力・入力では、画質の低下を招くと考えられるため、S端子による接続が望ましい。
なおレーザーディスク規格の場合は、ビデオテープの場合とは異なり、輝度信号・色信号は一緒に記録されている。そのため受像機側のY/C分離回路の性能が、レーザーディスク機器のそれを上回っている場合においては、S端子による接続ではかえって画質が低下する。S端子を採用して以降のレーザーディスクの機器では、全ての映像出力信号にY/C分離処理を行い、RCA端子の出力では信号を混合していたため、かえって画質の低下を招いた。レーザーディスクの上級機においては、そのような処置は行わずRCA端子からはY/C分離回路を通さない信号を出力しているとして、これを「ダイレクトコンポジット」と称していた。
== 信号の拡張 ==
従来のS端子での信号の他に[[ワイドクリアビジョン]]やダウンコンバートした[[高精細度テレビジョン放送|HDTV]]映像など[[アスペクト比]]16:9、いわゆるワイドテレビ対応の信号を追加したS1およびS2端子も定義されている。この拡張は色信号Cにバイアス電圧を加えることで区別され、端子側の対応による(後述)が最大3種類までを識別できる。使用するケーブルやコネクタは同じである。
; S1端子
: 4:3映像と16:9映像の判別が可能。流れる映像信号はNTSC準拠なので、16:9映像の場合は左右を圧縮し4:3映像になっている。その信号(16:9映像の識別情報は[[スクイーズ]]信号ともいう)を受けた対応テレビ側は、4:3映像を左右方向へ引き伸ばし表示する。
; S2端子
: S1信号の4:3映像と16:9映像に加えて、16:9映像の上下に帯を付加して4:3にした[[レターボックス (映像技術)|レターボックス]]信号(LB信号)の識別が可能。LB信号を受けた対応テレビ側は、横方向を16:9サイズにズームした上で上下の帯をカットして表示する。
本来、C線は直流信号を伝送するよう規定されていなかったため交流結合されて判別機能を備えない[[映像機器]]を経路の中間に挿入することで識別が不可能になる。この欠点を克服するために、[[垂直帰線期間]]内の映像信号に特殊な識別信号を重畳させているものもある (「ID-1」)。
== S端子形状 ==
[[ファイル:S-Video Connector(jp).jpg|thumb|200px|S端子の比較]]
S端子の形状は基本的に[[ミニDINコネクタ|mini DIN]] 4pinである。mini DINコネクタは通常コネクタの内側に向かって出っ張りがあるが、日本では外側に出っ張りのあるものが一般的に使われている。
通常の機器ではメスコネクター側にも切り欠きがあるため問題なく挿入できるがメーカーによっては機器には切り欠きがないことが多く、通常のS端子ケーブルを接続できなかったり、無理に接続すると外せなくなる場合がある。また、そういった機器を使用する方法として過去の[[Apple]]製コンピュータに使用されたADB ([[Apple Desktop Bus]]) ケーブルを代替利用することが可能である<ref group="注釈">メスコネクターには、よりピン数の多い6ピンや7ピンのmini DINコネクタを使用して[[コンポーネント映像信号|コンポーネント映像]]出力もできるようにした[[ビデオカード]]専用のものも存在する。S端子として使用するときは4ピンのS端子ケーブルを使用できるがコンポーネント映像端子として使用する場合は同梱の変換ケーブルが必要な場合が多い。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<small>
* EIAJ CP-1211A「ビデオテープレコーダと周辺機器の相互接続」日本電子機械工業会、1996年12月制定(S端子を規定)
* EIAJ CPX-1202「アスペクト比の異なる映像信号の識別信号と伝送方法」日本電子機械工業会、1995年3月廃止(S1拡張を規定/CPR-1202へ移行)
* EIAJ CPR-1202「アスペクト比の異なる映像信号の識別信号と伝送方法(I)」日本電子機械工業会、1995年3月制定(S2拡張を規定)
</small>
== 関連項目 ==
* [[ミニDINコネクタ]]
* [[D端子]]
* [[コンポーネント端子]]
* [[RCA端子]]
* [[SCART端子]]
* [[コンポーネント映像信号]]
* [[コンポジット映像信号]]
* [[HDMI]] (High-Definition Multimedia Interface)
* [[テレビ]]
* [[ビデオテープレコーダ]]
* [[Apple Desktop Bus]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|S-Video connectors}}
{{Wiktionary|S端子}}
* {{Wayback|url=http://freespace.virgin.net/matt.waite/resource/av/yc.htm|title=S端子のピンアサイン(英語)|date=20130221000210}}
{{AVconn}}
[[Category:映像端子|Sたんし]]
[[Category:ビデオ信号]]
|
2003-07-08T10:44:03Z
|
2023-08-07T10:51:22Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/S%E7%AB%AF%E5%AD%90
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海老名駅
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海老名駅(えびなえき)は、神奈川県海老名市めぐみ町及び扇町にある、小田急電鉄・相模鉄道(相鉄)・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
神中鉄道(現・相模鉄道)の小田原急行電鉄(現・小田急電鉄)への乗り入れ開始に伴い、1941年11月25日に神中鉄道により共同駅として、両路線の合流点(押堀西交差点付近)に開業した。
当駅の開業以前の神中鉄道と小田急の乗り換えは、現在の厚木駅の場所にあった神中鉄道中新田口乗降場(海老名駅開設に伴い廃止 現・JR相模線厚木駅プラットホーム付近)と小田原急行電鉄小田原線河原口駅(現・厚木駅)で行われていた。互いの駅はすぐ近くにあるとはいえ徒歩連絡であったため、貨物の連絡運輸もできず不便であった。そこで神中鉄道は小田急へ電車を乗り入れることになり、神中鉄道の起点であった厚木駅から相模国分駅までの区間(現・相鉄厚木線)の旅客営業を廃止し、新線として海老名駅 - 相模国分駅(現・相模国分信号所)間を建設し、本線を切り替えた。これに伴い開設されたのが、海老名駅である。なお開業当初は小田急の電車は停車せず、相模厚木駅(現・本厚木駅)まで乗り入れる神中鉄道のディーゼル自動客車のみが停車していた。小田急の電車が停車するようになったのは、戦時統制下でいわゆる大東急として両社がともに東急の支配下にあった1943年4月1日からである。なお海老名駅停車に伴い、小田急の隣駅である海老名国分駅は同日付で廃止された。
駅前の再開発・海老名電車基地の建設に伴い、1973年12月20日に駅を現在地に移転した。
JRの海老名駅は、国鉄分割民営化を翌月に控えた1987年3月21日に日本国有鉄道相模線の駅として開業した。当駅は請願駅であり、駅設置費用3億2,300万円は海老名市が負担した。なお線形の改良などは行われなかったため、相鉄・小田急の海老名駅から北西に約200メートル離れた場所にある。そのため駅間には自由通路や動く歩道が整備されたものの、距離があるため乗り換えの便はよくない。ただし駅間地区は、その立地を生かして1972年には小田急の海老名電車基地が、1980年代には海老名市文化会館・海老名市立中央図書館などの公共施設が建設され、2010年代からは駅周辺はららぽーと海老名などの商業ビルや高層マンションの開発が進められている。2016年からは一部の小田急ロマンスカー停車駅となった。
小田急小田原線、相鉄本線、JR東日本相模線の3路線が乗り入れ、乗換駅となっている。小田急電鉄と相模鉄道の駅には各路線ごとに駅番号が付与されている。
小田急線には一部の特急「ロマンスカー」も停車する。
相鉄本線においては当駅が終点となっている。
駅所在地の自治体名が「海老名」であることから。なお、「海老名」の名の由来にはさまざまな説がある(詳細は「海老名市#地名の由来」を参照)。
島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。駅長所在駅であり、「相模大野管区海老名管内」として、相武台前駅 - 厚木駅間の各駅を管理している。
一部の特急ロマンスカーを除き全ての定期列車が停車し、緩急接続や特急ロマンスカーの通過待避などを行う。日中時間帯は全ての下り列車が当駅で緩急接続を行う。上りは快速急行が当駅特急ロマンスカーの待ち合わせ(※停車・通過問わず)を行うが、ロマンスカーの運転が無い場合でも時間調整を目的に当駅で数分程度停車する。
2016年3月26日のダイヤ改正より特急ロマンスカーが一部停車し平日22本と土休日25本が停車。
かつては主に当駅と相模大野駅で車両の連結・切り離しが行われていたが、2002年3月23日のダイヤ改正によりそのほとんどが新松田駅で行われるようになり、2008年3月15日のダイヤ改正で連結・切り離しそのものが大幅に削減され、2012年3月17日のダイヤ改正で特急ロマンスカー以外の営業列車での途中駅での編成の連結・切り離しは完全に廃止された。
2012年3月16日までのダイヤにおいては、小田原駅発4時台の急行新宿駅行(6両編成、本厚木まで各駅に停車)は当駅で進行方向前方に4両を増結して10両編成に、新宿駅発23時半過ぎの最終急行小田原駅行(本厚木から各駅に停車)は後ろの4両を当駅で切り離し、終点の小田原駅まで行くのは進行方向前方の6両であった。翌17日のダイヤからは、小田原駅発4時台の急行は相模大野駅で乗り継ぐ形に変更され、新宿発23時半過ぎの最終急行小田原駅行は終点まで10両で運転することになった。列車の連結・切り離しは、原則として1番ホーム(下り線)と4番ホーム(上り線)を使用していた。
2010年11月3日より本厚木駅とともに接近メロディとして、海老名市・厚木市出身の音楽ユニット・いきものがかりの楽曲『SAKURA』が使用されている。これは、『ウルトラマン』の楽曲を採用した祖師ヶ谷大蔵駅に次いで2例目である。
改良工事の進捗に伴い、2009年5月31日初電より新宿寄り階段の使用が開始され、平日6時30分から8時30分まで実施されていた3・4番ホームのエスカレーターの上り専用の扱いが廃止となった。また、自動改札機を入口専用として2台増設した。また、同年12月13日からは改札口が1か所増え、従来からある中央改札口(有人)と新設される西口改札口(無人)の2か所となった。これに合わせて中央改札口ときっぷうりばの場所が新宿方面寄りに移動した。
2010年5月16日からは客用トイレ(本設)の使用が開始され、駅務室が中央改札口の小田原方面寄りに移動、きっぷうりばも左側に移動し、客用トイレ(仮設)は使用停止となった。さらに、ホームのかさ上げ工事と床の舗装も行われた。
2009年3月29日、小田急と相鉄間の新設連絡通路が供用開始となった。また2010年8月20日に自由通路整備事業が完了(詳細は後述)し、構内には小田急マルシェ海老名がオープンしている。
改札口からホームへはエレベーターが各ホームに1基ずつ、エスカレーターが各ホームに2基ずつ設置されており、エレベーターは2007年5月12日に、エスカレーターは2008年2月3日にそれぞれ使用を開始した。なお、改良工事期間だった2008年2月から2009年5月ごろまで上りホームのエスカレーターは平日の6:30から8:30まで2基とも上り専用(ホーム→改札階)だった。
改札内コンコースにあり、男女別に多目的トイレが設置されている。2010年5月16日より現在の位置となり、それ以前は下りホームに設置されていた。
主本線は2番線と3番線であり、1番線と4番線は待避線である。日中時間帯の上り快速急行は、当駅の4番ホームに入り、特急ロマンスカーの通過待ち合わせないし海老名駅停車の特急ロマンスカーと接続を行なうが、接続列車や通過列車がない場合でも待避線に入り、時間調整を行なっていた。しかし、2021年3月改正で特急ロマンスカーの減便と日中時間帯のダイヤ見直しに伴い、本厚木駅始発の上り各駅停車が当駅でロマンスカーないし快速急行及び急行の接続待ち・通過待ちを行なう形に変更された。
西側の座間寄りに海老名検車区があり、一日数本ほど当駅始発の列車が設定されている。小田急の4か所ある電車区・車掌区の1つ(海老名電車区・車掌区)でもあり、毎年1回「ファミリー鉄道展」が開催されている。敷地内に初代3000形ロマンスカー「SSE」が格納庫に収納されたまま保存されていたが、2019年5月開催の「ファミリー鉄道展」では格納庫から引き出され、70000形「GSE」と共に展示された。その後の深夜に、大野総合車両所へ送られ、2021年4月開業の「ロマンスカーミュージアム」に収容された。
1番ホームと4番ホームで10両編成の夜間留置がある他、JR常磐緩行線E233系2000番台1本・東京メトロ千代田線16000系3本の外泊運用がある。
海老名市では1981年以来、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議を通じて小田急電鉄に対し、当駅への特急ロマンスカーの停車を要望していた。これに対し、小田急電鉄は「今後、旅客の利用状況、駅周辺の状況および鉄道施設の改善状況等を踏まえ、検討していきたい」と回答していた。なお、2009年5月10日には海老名市長を会長とする「海老名発ロマンスカー実現市民会議」が発足し、特急ロマンスカー停車を求める署名運動を行っており、駅前に垂れ幕も掲出している。
その後、2015年8月28日に、2016年3月より日中時間帯に1時間に1本をベースに一部のロマンスカーを停車させることが発表され、同年3月26日より停車するようになった。「はこね」号や「さがみ」号の一部は、当駅と2駅先の本厚木駅のどちらか一方、または両方に停車する。
2018年3月17日のダイヤ改正から一部の「モーニングウェイ」号 が当駅停車となった。なお、メトロモーニングウェイとメトロホームウェイは全て停車する。
2022年3月12日のダイヤ改正により17時以降の下り「ホームウェイ」号は全列車が海老名駅に停車するようになった。
頭端式ホーム1面2線を有する地上駅。駅舎は小田急電鉄のホームに隣接して設置されている。改札口は南側頭端部1か所のみとなっている。なお海老名管区として、当駅 - 相模大塚駅を管理している。旅客営業駅としては相模鉄道最西端の駅である。
相模鉄道によると、利用者が2004年度から3年連続で増加していることから、乗客の安全に配慮し、ラッシュ時のホーム上の混雑を緩和する目的でホームを現行の9mから13mへと4割程拡幅する工事を行った。2007年11月17日まで使われていた2番線の線路を撤去してその部分にホームを拡幅したため、同年11月2日まで電留線として使われていた3番線が2番線となった。2007年秋から仮設乗り場の建設を行い、当初は2008年9月までの竣工を予定していたが工事の遅れから、2009年6月に整備完了となった。併せて発車標も新しいタイプに交換され、同年8月には自動放送も更新している。
2018年頃から駅の改良工事が行われており、改良工事によって出口が1号車側にも設置されるほか、橋上型駅舎となる。
2019年10月17日より2番線、同年10月19日に1番線のホームが約30m横浜寄りに停止位置を変更し、横浜寄り約30m部分に屋根なしの仮ホームを設置した。
2020年6月14日より改札位置を約30m横浜寄りに変更された。それに伴い、改札内に設置されていたトイレ、駅事務室と改札外にあった定期券発売所が仮設の建物に変更され、多機能トイレ以外は以前の位置と反対のホーム側に設置された。
2020年9月27日から2022年12月23日まで改札位置から旧改札等の施設があった小田急及び自由通路への連絡通路までの部分が封鎖となっていた。それに伴い、改札位置の横に仮設の東口階段とエレベーターが設置されていた。そのため、相鉄 - 小田急・JRの乗り換え及び相鉄 - 西口へ向かう場合、一度東口駅前広場及び東口自由通路2階に出て乗り換える必要があった。なお、混雑緩和のため相鉄から向かう場合は東口自由通路2階、相鉄へ向かう場合は東口駅前広場を利用して乗り換えることを促していた。また、既存の小田急及び自由通路への連絡通路の1階部分から東口駅前広場を結ぶ階段については、平日の6:30 - 8:40は東口駅前広場に降りる方向の一方通行になっていたが、2022年12月24日の始電より従来の乗り換えルートに戻った 。
東口(駅前広場側)にエスカレーターが2基あり、2006年12月20日に使用を開始した。また、相鉄と小田急の乗換通路にはエスカレーター3基とエレベーター1台があり、2009年3月29日より使用開始した。
改札内にあり、1番線ホーム側の改札側先端付近に設置されている。
改札内にAEDが設置されている。
島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。相模線単独の駅としては最も新しい駅である。また国鉄分割民営化直前に開業された事もあり、国鉄の駅だった期間はわずか11日間だけだった。
ホームと駅舎は小田急・相鉄ホームの西側よりかなり離れた所に設置され、かつては小田急・相鉄の駅とJRの駅とは屋根のない自由通路で連絡していた(自由通路の所要時間はおよそ3分程度であり、小田急・相鉄双方のホームからJRホームまでの移動時間は7分前後を要する)。このため、動く歩道などを設けた新自由通路が駅周辺の再開発に合わせて2015年10月に整備された(詳細は後述)。また、同月に開業したららぽーと海老名も西口に直結された。
湘南・相模統括センター管内の直営駅(駅長配置)であり、管理駅として厚木駅と入谷駅を管理している。駅舎内にはみどりの窓口・自動券売機(近距離乗車券用・指定席券売機)・自動改札機(Suicaオートチャージ対応型)・自動精算機が設置されている。2006年11月16日に自動改札化が完了した。構内にエスカレーターはないが、2011年3月に構内エレベーターを供用開始した。
(出典:JR東日本:駅構内図)
当駅は自由通路の混雑が激しく、特に朝ラッシュ時は小田急線と相鉄線の列車が同時に到着すると自由通路の人の行き来が多い。このことから「海老名駅自由通路整備事業」が計画され、2010年に完成した。なお、2015年にはJR海老名駅方面へ自由通路が延伸されている(詳細は後述)。
海老名市・小田急電鉄・相模鉄道の3者でこの事業に関する施工協定を2006年1月11日に締結し、2009年時点では小田急と相鉄の駅舎のバリアフリー化の工事が進められていた。自由通路を改装前の7mから12mに拡幅してコンコースを増築、加えて東側への中央改札口の新設、ホームのかさ上げと屋根の改修を実施し、多機能トイレの設置、ホームとコンコースを結ぶエスカレーターとエレベーターの設置を行った。また、JR以外で初めて鉄道警察隊の分駐所も新設された。
2007年1月13日から小田急線東口階段(駅前広場側)が一部閉鎖されたため、バスやタクシーを利用する場合は相鉄の階段またはペデストリアンデッキを経由しなければならなくなったため、同年5月12日からエレベーターや中央改札口(新設)など新駅舎の一部が使用開始された。
2008年2月3日から小田急線上下ホームに新設された中央改札口に通じるエスカレーターの使用を開始するとともに小田急線の臨時改札口を閉鎖して改札口を中央改札口に一本化、並びに小田急線 - 相鉄線の連絡通路を閉鎖したので、乗り換え経路が中央改札口から仮設階段を経由して一旦東口に出て乗り換える経路となった。また、JR相模線との連絡通路も一部移設された。
2009年3月29日から小田急 - 相鉄を連絡する乗り換え通路も新設され、エスカレーター3基(昇り1基・降り2基)とエレベーター1基も新たに設置されるとともに西口階段の一部を閉鎖しエスカレーター2基の使用を開始し、同時に東口にあった仮設階段は閉鎖された。
2009年5月31日より小田急線の新宿方階段を使用開始し、また、小田急と相鉄との連絡エスカレーターの運転方向を昇り2基・降り1基に変更した。
2009年12月13日から小田急線の改札口が増設され、従来の中央改札口と新設される西口改札口の2か所となった。また、東西自由通路とJR相模線方面を結ぶ連絡通路の使用を再開し、これによりJR相模線の乗り換えの経路は現在よりも短くなった。合わせて東西自由通路と西口を結ぶ西口階段(本設)の使用を開始した。
2010年5月16日より小田急線客用トイレ(本設)の使用を開始し、また駅務室が中央改札口の小田原方面寄りに移動し、きっぷうりばも左側に移動した。
2010年8月20日より一部工事中となっている駅構内および自由通路が全面完成・開通。これをもって4年7か月にわたった自由通路整備工事は完了した。工事開始以来当駅構内には飲食店がなかったが、同日に小田急マルシェ海老名がオープンし、吉野家や小田急グループ企業が運営するまぐろ市場、箱根そばなどが入店した。その工事完了後はJR相模線の駅のバリアフリー化工事が行われ、2011年8月にエレベーターが設置された。
2010年に完成した小田急海老名駅構内の自由通路を延伸する形で、JR海老名駅までの連絡通路(新自由通路)が2015年10月に整備された(既存の駅間連絡通路の並びに作られるため、新自由通路への切り替えまでは既存の連絡通路が使用されていた)。また、小田急海老名駅の東口やJR海老名駅の北西側、両駅舎間では再開発事業が進行中(詳細は後述)で、再開発の中核施設となる「ららぽーと海老名」までを結ぶ動線にもなっている。また、小田急海老名駅側では2021年4月に開業した「ロマンスカーミュージアム」とも接続している。
既存の駅間連絡通路(延長約200メートル)は幅4メートルの屋根なしであったが、これに対して新たに設置された連絡通路は幅12メートルの屋根付きで、動く歩道や蓄電池内蔵太陽光発電システム、LED照明、ミストシャワーなどが設けられている。
後節の再開発事業の進捗により、各社とも2015年に入り利用客が大きく伸びた。なお小田急では、2021年4月、当駅隣接地に「ロマンスカーミュージアム」を開業しており、さらなる利用者の増加も見込まれている。
近年の1日平均乗降人員の推移は下記の通り(JRは除く)。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
当駅は神中鉄道(現・相模鉄道)の小田急小田原線への乗り入れ開始に伴い、神中鉄道の駅として1941年(昭和16年)11月25日に開設された。そのため従来の集落とは関係なく、小田急小田原線と相鉄本線の合流点に設けられた。開業当初は、小田急の海老名国分駅(大東急下の1943年(昭和18年)4月1日に廃止され、同日に東急小田原線として海老名駅を開設)や周辺集落のいずれからも遠い水田地帯の真ん中に位置していた。海老名町(1971年より海老名市)の中心集落に近い東口側に駅前集落が形成されたが、その発展は長らく限定的なものであった。駅周辺の市街化が進行するのは、水田からの農地転用と再開発事業が進み、以下の諸施設が建設された1980年代以降のことである。
以前からの市街地で小田急線・相鉄線の当駅メイン出入口である東口には、複合商業施設「ビナウォーク (ViNAWALK)」が立地し、マルイファミリー海老名など130以上の専門店が入居する。少し離れるとイオン海老名店やショッパーズプラザ海老名などの商業施設、海老名市役所や海老名郵便局、さらにヤマダデンキや、レンブラントホテル海老名、海老名プライムタワーが、そして駅からかなり離れているがコジマ×ビックカメラなどが立地する。また、駅周辺にはマンションが建ち並んでおり、駅前に高層マンション2棟がある。イオン海老名店には日本初のマルチプレックスシネマともされるワーナー・マイカル・シネマズ(現・イオンシネマ海老名)の1号劇場が1993年4月に開業した。その後、2002年4月にできたビナウォークにもTOHOシネマズ海老名が進出するなど、近距離に映画館が2店舗立地している。海老名を『映画の街』としてアピールするため、2002年から2008年まで「海老名プレミアム映画祭」が開催されていた。この他、東口の北東側では商店街活性化の取り組みとして、独立を目指す飲食店などが入居する商業施設「喰の道場」が2004年9月より10年間の期間限定でオープンしていた。
さらに東口エリアの再開発として、駅前の旧駐車場スペースに商業施設および上層の賃貸住宅からなる地上11階建ての複合施設「ビナフロント (ViNA FRONT)」が2014年10月に完成している。同施設の2階部分では、駅のコンコースやビナウォーク方面に向かうペデストリアンデッキと直結する構造となっている。
小田急線・相鉄線の駅とJR線の駅との間(駅舎間)には、小田急電鉄海老名電車基地や海老名市文化会館、総合福祉会館、海老名市立中央図書館などがある。また、これまでJR海老名駅の北西側はリコーテクノロジーセンターやビアメカニクスなどの工場や田圃が中心で、東口と西口では街の様相が大きく異なっていたが、西口や小田急〜JR駅舎間において後述のように再開発事業が進行中である。なお、西口の再開発事業における中核施設としては「ららぽーと海老名」が2015年10月に開業している。2021年には小田急とJRの駅の間に、ロマンスカー車両を中心とした企業博物館である「ロマンスカーミュージアム」が開業した。
相鉄線の駅はラッシュ時に混雑が常態化していることから、改札と駅舎を現在のホーム南端だけでなく北端にも設置し、北口として駅前広場も整備することとなった。また相鉄ホームの上部を覆う形で2階部分に連絡通路と南北に改札(2か所)も設置し、さらに南側の相鉄駅舎も現在の2階建てから3階建てに全面改築して商業施設や福祉施設(保育施設)などを入居させる計画となっている。
工事は国土交通省の鉄道駅総合改善事業における「形成計画事業」として実施され、事業主体は海老名市・相鉄・関係機関などによる法定協議会の「一般社団法人海老名市地域公共交通協議会」となる。完成目標時期は当初の2020年3月から2022年度に延期されていたが、架設工事に伴う鉄骨の一部に不具合が見つかったことから駅舎(2階部分の連絡通路と南口新改札含む)の完成は2026年度まで遅れる見込みである(北口の新改札は先行して2023年3月25日供用開始)。
これまで開発が行われてこなかった当駅西口エリア(JR海老名駅の北西側)でも再開発が計画されている。三井不動産による大規模商業施設「ららぽーと海老名」を街の中心に配置し、商業・業務・住宅の複合施設、マンション、戸建て住宅などが整備される(計画人口は3000人、商業施設の開業および街開きは2015年10月)。また、西口エリアとは別に小田急とJRの駅舎間エリアでも民間企業による再開発が今後行われる計画である。この他、再開発事業に合わせて西口駅前ロータリーや前述のように小田急海老名駅〜JR海老名駅間の新自由通路も整備されている。
2015年10月27日より神奈川中央交通のバス停がJRの海老名駅西口に移転したため、「海老名駅西口」という同名のバス停が以下の2か所に存在することとなった。
ビナフロント南側(パチンコ店の裏側)にある。
自家用車用の送迎ロータリーで、またパチンコ店・マンション駐車場の出入口にもなっているためバス停の設置許可が下りず、バス停のポールは設置されていない。
など
BUSTLE海老名は高速・観光バスターミナルで、BUSTLEはバァスルと発音し、英語で賑わいを意味する。またバス(BUS)との掛け言葉にもなっている。海老名商工会議所・イオンリテール・イオン海老名ショッピングセンター・タイムズ24・杉崎観光バスと共同で開設。海老名商工会議所が管理している。
海老名駅東口のバスロータリーから南方向へ約700mの地点にある。海老名駅東口のバスロータリーから海老名市役所方面へ南に約400m進み、国分関免交差点で東へ約150m進み、マクドナルド海老名店を右折した約150m先の駐車場内にある。
2016年10月9日に供用開始し、高速バスは2017年3月17日から停車。
高速乗合バス専用。海老名駅東口のバスロータリーから海老名市役所方面へ南に約400m進んだところにある国分関免交差点の西側、ライオンデンタルクリニックの前にあった。
このバス停を使用するのは後発の高速乗合バス事業者のみで、海老名駅東口のバスロータリーは先発の相鉄バス(相鉄グループ)・神奈川中央交通(小田急グループ)のみが使用している。
2015年1月12日供用開始、2017年3月16日供用終了(BUSTLE海老名へ移行)。
海老名駅東口から線路沿いに東方向(相模大野駅・横浜駅方面)へ約500m先の、押堀西交差点(目印はセブン-イレブン海老名駅前店)付近の駐車場内にある)。海老名商工会議所が管理している。最寄りのバス停は、天平通り(海老名市コミュニティバス 国分ルート)。主に企業の送迎バスが利用するターミナル。
小田急の車両を搬出入する際には相鉄線を経由して当駅が使用されていたこともある。
小田急と相鉄の駅舎がともに老朽化し、かつ手狭にもなっていたことから、新しい駅舎を建設(駅改良工事)することとなった(小田急は新築、相鉄は一部改良)。その際の2006年4月16日に当時の厚木市長の呼び掛けで両者関係者出席の下、相鉄線の駅から小田急小田原線本厚木駅への乗り入れに関するシンポジウムが開催された。相鉄側の見解としては、小田急線のみならず、他社線との相互直通(乗り入れ)については利便性向上や沿線価値の向上、新たな輸送需要喚起になるため、今後の研究課題としている。一方で、この時点で前述の当駅における新築計画を白紙として見直す必要があることに加え、
などの課題もあり、小田急および相鉄は難色を示している。現在も前述の駅改良工事が継続されていることにより、構想の実現は更に遠のいている。
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"text": "海老名駅(えびなえき)は、神奈川県海老名市めぐみ町及び扇町にある、小田急電鉄・相模鉄道(相鉄)・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。",
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"text": "神中鉄道(現・相模鉄道)の小田原急行電鉄(現・小田急電鉄)への乗り入れ開始に伴い、1941年11月25日に神中鉄道により共同駅として、両路線の合流点(押堀西交差点付近)に開業した。",
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"text": "当駅の開業以前の神中鉄道と小田急の乗り換えは、現在の厚木駅の場所にあった神中鉄道中新田口乗降場(海老名駅開設に伴い廃止 現・JR相模線厚木駅プラットホーム付近)と小田原急行電鉄小田原線河原口駅(現・厚木駅)で行われていた。互いの駅はすぐ近くにあるとはいえ徒歩連絡であったため、貨物の連絡運輸もできず不便であった。そこで神中鉄道は小田急へ電車を乗り入れることになり、神中鉄道の起点であった厚木駅から相模国分駅までの区間(現・相鉄厚木線)の旅客営業を廃止し、新線として海老名駅 - 相模国分駅(現・相模国分信号所)間を建設し、本線を切り替えた。これに伴い開設されたのが、海老名駅である。なお開業当初は小田急の電車は停車せず、相模厚木駅(現・本厚木駅)まで乗り入れる神中鉄道のディーゼル自動客車のみが停車していた。小田急の電車が停車するようになったのは、戦時統制下でいわゆる大東急として両社がともに東急の支配下にあった1943年4月1日からである。なお海老名駅停車に伴い、小田急の隣駅である海老名国分駅は同日付で廃止された。",
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"text": "駅前の再開発・海老名電車基地の建設に伴い、1973年12月20日に駅を現在地に移転した。",
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"text": "JRの海老名駅は、国鉄分割民営化を翌月に控えた1987年3月21日に日本国有鉄道相模線の駅として開業した。当駅は請願駅であり、駅設置費用3億2,300万円は海老名市が負担した。なお線形の改良などは行われなかったため、相鉄・小田急の海老名駅から北西に約200メートル離れた場所にある。そのため駅間には自由通路や動く歩道が整備されたものの、距離があるため乗り換えの便はよくない。ただし駅間地区は、その立地を生かして1972年には小田急の海老名電車基地が、1980年代には海老名市文化会館・海老名市立中央図書館などの公共施設が建設され、2010年代からは駅周辺はららぽーと海老名などの商業ビルや高層マンションの開発が進められている。2016年からは一部の小田急ロマンスカー停車駅となった。",
"title": "概要"
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"text": "小田急小田原線、相鉄本線、JR東日本相模線の3路線が乗り入れ、乗換駅となっている。小田急電鉄と相模鉄道の駅には各路線ごとに駅番号が付与されている。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "小田急線には一部の特急「ロマンスカー」も停車する。",
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"text": "相鉄本線においては当駅が終点となっている。",
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"text": "駅所在地の自治体名が「海老名」であることから。なお、「海老名」の名の由来にはさまざまな説がある(詳細は「海老名市#地名の由来」を参照)。",
"title": "歴史"
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"text": "島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。駅長所在駅であり、「相模大野管区海老名管内」として、相武台前駅 - 厚木駅間の各駅を管理している。",
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"text": "一部の特急ロマンスカーを除き全ての定期列車が停車し、緩急接続や特急ロマンスカーの通過待避などを行う。日中時間帯は全ての下り列車が当駅で緩急接続を行う。上りは快速急行が当駅特急ロマンスカーの待ち合わせ(※停車・通過問わず)を行うが、ロマンスカーの運転が無い場合でも時間調整を目的に当駅で数分程度停車する。",
"title": "駅構造"
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"text": "2016年3月26日のダイヤ改正より特急ロマンスカーが一部停車し平日22本と土休日25本が停車。",
"title": "駅構造"
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"text": "かつては主に当駅と相模大野駅で車両の連結・切り離しが行われていたが、2002年3月23日のダイヤ改正によりそのほとんどが新松田駅で行われるようになり、2008年3月15日のダイヤ改正で連結・切り離しそのものが大幅に削減され、2012年3月17日のダイヤ改正で特急ロマンスカー以外の営業列車での途中駅での編成の連結・切り離しは完全に廃止された。",
"title": "駅構造"
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"text": "2012年3月16日までのダイヤにおいては、小田原駅発4時台の急行新宿駅行(6両編成、本厚木まで各駅に停車)は当駅で進行方向前方に4両を増結して10両編成に、新宿駅発23時半過ぎの最終急行小田原駅行(本厚木から各駅に停車)は後ろの4両を当駅で切り離し、終点の小田原駅まで行くのは進行方向前方の6両であった。翌17日のダイヤからは、小田原駅発4時台の急行は相模大野駅で乗り継ぐ形に変更され、新宿発23時半過ぎの最終急行小田原駅行は終点まで10両で運転することになった。列車の連結・切り離しは、原則として1番ホーム(下り線)と4番ホーム(上り線)を使用していた。",
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"text": "2010年11月3日より本厚木駅とともに接近メロディとして、海老名市・厚木市出身の音楽ユニット・いきものがかりの楽曲『SAKURA』が使用されている。これは、『ウルトラマン』の楽曲を採用した祖師ヶ谷大蔵駅に次いで2例目である。",
"title": "駅構造"
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"text": "改良工事の進捗に伴い、2009年5月31日初電より新宿寄り階段の使用が開始され、平日6時30分から8時30分まで実施されていた3・4番ホームのエスカレーターの上り専用の扱いが廃止となった。また、自動改札機を入口専用として2台増設した。また、同年12月13日からは改札口が1か所増え、従来からある中央改札口(有人)と新設される西口改札口(無人)の2か所となった。これに合わせて中央改札口ときっぷうりばの場所が新宿方面寄りに移動した。",
"title": "駅構造"
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"text": "2010年5月16日からは客用トイレ(本設)の使用が開始され、駅務室が中央改札口の小田原方面寄りに移動、きっぷうりばも左側に移動し、客用トイレ(仮設)は使用停止となった。さらに、ホームのかさ上げ工事と床の舗装も行われた。",
"title": "駅構造"
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"text": "2009年3月29日、小田急と相鉄間の新設連絡通路が供用開始となった。また2010年8月20日に自由通路整備事業が完了(詳細は後述)し、構内には小田急マルシェ海老名がオープンしている。",
"title": "駅構造"
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"text": "改札口からホームへはエレベーターが各ホームに1基ずつ、エスカレーターが各ホームに2基ずつ設置されており、エレベーターは2007年5月12日に、エスカレーターは2008年2月3日にそれぞれ使用を開始した。なお、改良工事期間だった2008年2月から2009年5月ごろまで上りホームのエスカレーターは平日の6:30から8:30まで2基とも上り専用(ホーム→改札階)だった。",
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"text": "改札内コンコースにあり、男女別に多目的トイレが設置されている。2010年5月16日より現在の位置となり、それ以前は下りホームに設置されていた。",
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"text": "主本線は2番線と3番線であり、1番線と4番線は待避線である。日中時間帯の上り快速急行は、当駅の4番ホームに入り、特急ロマンスカーの通過待ち合わせないし海老名駅停車の特急ロマンスカーと接続を行なうが、接続列車や通過列車がない場合でも待避線に入り、時間調整を行なっていた。しかし、2021年3月改正で特急ロマンスカーの減便と日中時間帯のダイヤ見直しに伴い、本厚木駅始発の上り各駅停車が当駅でロマンスカーないし快速急行及び急行の接続待ち・通過待ちを行なう形に変更された。",
"title": "駅構造"
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"text": "西側の座間寄りに海老名検車区があり、一日数本ほど当駅始発の列車が設定されている。小田急の4か所ある電車区・車掌区の1つ(海老名電車区・車掌区)でもあり、毎年1回「ファミリー鉄道展」が開催されている。敷地内に初代3000形ロマンスカー「SSE」が格納庫に収納されたまま保存されていたが、2019年5月開催の「ファミリー鉄道展」では格納庫から引き出され、70000形「GSE」と共に展示された。その後の深夜に、大野総合車両所へ送られ、2021年4月開業の「ロマンスカーミュージアム」に収容された。",
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"text": "1番ホームと4番ホームで10両編成の夜間留置がある他、JR常磐緩行線E233系2000番台1本・東京メトロ千代田線16000系3本の外泊運用がある。",
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"text": "海老名市では1981年以来、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議を通じて小田急電鉄に対し、当駅への特急ロマンスカーの停車を要望していた。これに対し、小田急電鉄は「今後、旅客の利用状況、駅周辺の状況および鉄道施設の改善状況等を踏まえ、検討していきたい」と回答していた。なお、2009年5月10日には海老名市長を会長とする「海老名発ロマンスカー実現市民会議」が発足し、特急ロマンスカー停車を求める署名運動を行っており、駅前に垂れ幕も掲出している。",
"title": "駅構造"
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"text": "その後、2015年8月28日に、2016年3月より日中時間帯に1時間に1本をベースに一部のロマンスカーを停車させることが発表され、同年3月26日より停車するようになった。「はこね」号や「さがみ」号の一部は、当駅と2駅先の本厚木駅のどちらか一方、または両方に停車する。",
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"text": "2018年3月17日のダイヤ改正から一部の「モーニングウェイ」号 が当駅停車となった。なお、メトロモーニングウェイとメトロホームウェイは全て停車する。",
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"text": "2022年3月12日のダイヤ改正により17時以降の下り「ホームウェイ」号は全列車が海老名駅に停車するようになった。",
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"text": "頭端式ホーム1面2線を有する地上駅。駅舎は小田急電鉄のホームに隣接して設置されている。改札口は南側頭端部1か所のみとなっている。なお海老名管区として、当駅 - 相模大塚駅を管理している。旅客営業駅としては相模鉄道最西端の駅である。",
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"text": "相模鉄道によると、利用者が2004年度から3年連続で増加していることから、乗客の安全に配慮し、ラッシュ時のホーム上の混雑を緩和する目的でホームを現行の9mから13mへと4割程拡幅する工事を行った。2007年11月17日まで使われていた2番線の線路を撤去してその部分にホームを拡幅したため、同年11月2日まで電留線として使われていた3番線が2番線となった。2007年秋から仮設乗り場の建設を行い、当初は2008年9月までの竣工を予定していたが工事の遅れから、2009年6月に整備完了となった。併せて発車標も新しいタイプに交換され、同年8月には自動放送も更新している。",
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"text": "2018年頃から駅の改良工事が行われており、改良工事によって出口が1号車側にも設置されるほか、橋上型駅舎となる。",
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"text": "2019年10月17日より2番線、同年10月19日に1番線のホームが約30m横浜寄りに停止位置を変更し、横浜寄り約30m部分に屋根なしの仮ホームを設置した。",
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"text": "2020年6月14日より改札位置を約30m横浜寄りに変更された。それに伴い、改札内に設置されていたトイレ、駅事務室と改札外にあった定期券発売所が仮設の建物に変更され、多機能トイレ以外は以前の位置と反対のホーム側に設置された。",
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"text": "2020年9月27日から2022年12月23日まで改札位置から旧改札等の施設があった小田急及び自由通路への連絡通路までの部分が封鎖となっていた。それに伴い、改札位置の横に仮設の東口階段とエレベーターが設置されていた。そのため、相鉄 - 小田急・JRの乗り換え及び相鉄 - 西口へ向かう場合、一度東口駅前広場及び東口自由通路2階に出て乗り換える必要があった。なお、混雑緩和のため相鉄から向かう場合は東口自由通路2階、相鉄へ向かう場合は東口駅前広場を利用して乗り換えることを促していた。また、既存の小田急及び自由通路への連絡通路の1階部分から東口駅前広場を結ぶ階段については、平日の6:30 - 8:40は東口駅前広場に降りる方向の一方通行になっていたが、2022年12月24日の始電より従来の乗り換えルートに戻った 。",
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"text": "東口(駅前広場側)にエスカレーターが2基あり、2006年12月20日に使用を開始した。また、相鉄と小田急の乗換通路にはエスカレーター3基とエレベーター1台があり、2009年3月29日より使用開始した。",
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"text": "改札内にあり、1番線ホーム側の改札側先端付近に設置されている。",
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"text": "改札内にAEDが設置されている。",
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"text": "島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。相模線単独の駅としては最も新しい駅である。また国鉄分割民営化直前に開業された事もあり、国鉄の駅だった期間はわずか11日間だけだった。",
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ホームと駅舎は小田急・相鉄ホームの西側よりかなり離れた所に設置され、かつては小田急・相鉄の駅とJRの駅とは屋根のない自由通路で連絡していた(自由通路の所要時間はおよそ3分程度であり、小田急・相鉄双方のホームからJRホームまでの移動時間は7分前後を要する)。このため、動く歩道などを設けた新自由通路が駅周辺の再開発に合わせて2015年10月に整備された(詳細は後述)。また、同月に開業したららぽーと海老名も西口に直結された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "湘南・相模統括センター管内の直営駅(駅長配置)であり、管理駅として厚木駅と入谷駅を管理している。駅舎内にはみどりの窓口・自動券売機(近距離乗車券用・指定席券売機)・自動改札機(Suicaオートチャージ対応型)・自動精算機が設置されている。2006年11月16日に自動改札化が完了した。構内にエスカレーターはないが、2011年3月に構内エレベーターを供用開始した。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "当駅は自由通路の混雑が激しく、特に朝ラッシュ時は小田急線と相鉄線の列車が同時に到着すると自由通路の人の行き来が多い。このことから「海老名駅自由通路整備事業」が計画され、2010年に完成した。なお、2015年にはJR海老名駅方面へ自由通路が延伸されている(詳細は後述)。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "海老名市・小田急電鉄・相模鉄道の3者でこの事業に関する施工協定を2006年1月11日に締結し、2009年時点では小田急と相鉄の駅舎のバリアフリー化の工事が進められていた。自由通路を改装前の7mから12mに拡幅してコンコースを増築、加えて東側への中央改札口の新設、ホームのかさ上げと屋根の改修を実施し、多機能トイレの設置、ホームとコンコースを結ぶエスカレーターとエレベーターの設置を行った。また、JR以外で初めて鉄道警察隊の分駐所も新設された。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2007年1月13日から小田急線東口階段(駅前広場側)が一部閉鎖されたため、バスやタクシーを利用する場合は相鉄の階段またはペデストリアンデッキを経由しなければならなくなったため、同年5月12日からエレベーターや中央改札口(新設)など新駅舎の一部が使用開始された。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2008年2月3日から小田急線上下ホームに新設された中央改札口に通じるエスカレーターの使用を開始するとともに小田急線の臨時改札口を閉鎖して改札口を中央改札口に一本化、並びに小田急線 - 相鉄線の連絡通路を閉鎖したので、乗り換え経路が中央改札口から仮設階段を経由して一旦東口に出て乗り換える経路となった。また、JR相模線との連絡通路も一部移設された。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2009年3月29日から小田急 - 相鉄を連絡する乗り換え通路も新設され、エスカレーター3基(昇り1基・降り2基)とエレベーター1基も新たに設置されるとともに西口階段の一部を閉鎖しエスカレーター2基の使用を開始し、同時に東口にあった仮設階段は閉鎖された。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2009年5月31日より小田急線の新宿方階段を使用開始し、また、小田急と相鉄との連絡エスカレーターの運転方向を昇り2基・降り1基に変更した。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2009年12月13日から小田急線の改札口が増設され、従来の中央改札口と新設される西口改札口の2か所となった。また、東西自由通路とJR相模線方面を結ぶ連絡通路の使用を再開し、これによりJR相模線の乗り換えの経路は現在よりも短くなった。合わせて東西自由通路と西口を結ぶ西口階段(本設)の使用を開始した。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2010年5月16日より小田急線客用トイレ(本設)の使用を開始し、また駅務室が中央改札口の小田原方面寄りに移動し、きっぷうりばも左側に移動した。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2010年8月20日より一部工事中となっている駅構内および自由通路が全面完成・開通。これをもって4年7か月にわたった自由通路整備工事は完了した。工事開始以来当駅構内には飲食店がなかったが、同日に小田急マルシェ海老名がオープンし、吉野家や小田急グループ企業が運営するまぐろ市場、箱根そばなどが入店した。その工事完了後はJR相模線の駅のバリアフリー化工事が行われ、2011年8月にエレベーターが設置された。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2010年に完成した小田急海老名駅構内の自由通路を延伸する形で、JR海老名駅までの連絡通路(新自由通路)が2015年10月に整備された(既存の駅間連絡通路の並びに作られるため、新自由通路への切り替えまでは既存の連絡通路が使用されていた)。また、小田急海老名駅の東口やJR海老名駅の北西側、両駅舎間では再開発事業が進行中(詳細は後述)で、再開発の中核施設となる「ららぽーと海老名」までを結ぶ動線にもなっている。また、小田急海老名駅側では2021年4月に開業した「ロマンスカーミュージアム」とも接続している。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "既存の駅間連絡通路(延長約200メートル)は幅4メートルの屋根なしであったが、これに対して新たに設置された連絡通路は幅12メートルの屋根付きで、動く歩道や蓄電池内蔵太陽光発電システム、LED照明、ミストシャワーなどが設けられている。",
"title": "海老名駅自由通路整備事業"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "後節の再開発事業の進捗により、各社とも2015年に入り利用客が大きく伸びた。なお小田急では、2021年4月、当駅隣接地に「ロマンスカーミュージアム」を開業しており、さらなる利用者の増加も見込まれている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗降人員の推移は下記の通り(JRは除く)。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "当駅は神中鉄道(現・相模鉄道)の小田急小田原線への乗り入れ開始に伴い、神中鉄道の駅として1941年(昭和16年)11月25日に開設された。そのため従来の集落とは関係なく、小田急小田原線と相鉄本線の合流点に設けられた。開業当初は、小田急の海老名国分駅(大東急下の1943年(昭和18年)4月1日に廃止され、同日に東急小田原線として海老名駅を開設)や周辺集落のいずれからも遠い水田地帯の真ん中に位置していた。海老名町(1971年より海老名市)の中心集落に近い東口側に駅前集落が形成されたが、その発展は長らく限定的なものであった。駅周辺の市街化が進行するのは、水田からの農地転用と再開発事業が進み、以下の諸施設が建設された1980年代以降のことである。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "以前からの市街地で小田急線・相鉄線の当駅メイン出入口である東口には、複合商業施設「ビナウォーク (ViNAWALK)」が立地し、マルイファミリー海老名など130以上の専門店が入居する。少し離れるとイオン海老名店やショッパーズプラザ海老名などの商業施設、海老名市役所や海老名郵便局、さらにヤマダデンキや、レンブラントホテル海老名、海老名プライムタワーが、そして駅からかなり離れているがコジマ×ビックカメラなどが立地する。また、駅周辺にはマンションが建ち並んでおり、駅前に高層マンション2棟がある。イオン海老名店には日本初のマルチプレックスシネマともされるワーナー・マイカル・シネマズ(現・イオンシネマ海老名)の1号劇場が1993年4月に開業した。その後、2002年4月にできたビナウォークにもTOHOシネマズ海老名が進出するなど、近距離に映画館が2店舗立地している。海老名を『映画の街』としてアピールするため、2002年から2008年まで「海老名プレミアム映画祭」が開催されていた。この他、東口の北東側では商店街活性化の取り組みとして、独立を目指す飲食店などが入居する商業施設「喰の道場」が2004年9月より10年間の期間限定でオープンしていた。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "さらに東口エリアの再開発として、駅前の旧駐車場スペースに商業施設および上層の賃貸住宅からなる地上11階建ての複合施設「ビナフロント (ViNA FRONT)」が2014年10月に完成している。同施設の2階部分では、駅のコンコースやビナウォーク方面に向かうペデストリアンデッキと直結する構造となっている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "小田急線・相鉄線の駅とJR線の駅との間(駅舎間)には、小田急電鉄海老名電車基地や海老名市文化会館、総合福祉会館、海老名市立中央図書館などがある。また、これまでJR海老名駅の北西側はリコーテクノロジーセンターやビアメカニクスなどの工場や田圃が中心で、東口と西口では街の様相が大きく異なっていたが、西口や小田急〜JR駅舎間において後述のように再開発事業が進行中である。なお、西口の再開発事業における中核施設としては「ららぽーと海老名」が2015年10月に開業している。2021年には小田急とJRの駅の間に、ロマンスカー車両を中心とした企業博物館である「ロマンスカーミュージアム」が開業した。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "相鉄線の駅はラッシュ時に混雑が常態化していることから、改札と駅舎を現在のホーム南端だけでなく北端にも設置し、北口として駅前広場も整備することとなった。また相鉄ホームの上部を覆う形で2階部分に連絡通路と南北に改札(2か所)も設置し、さらに南側の相鉄駅舎も現在の2階建てから3階建てに全面改築して商業施設や福祉施設(保育施設)などを入居させる計画となっている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "工事は国土交通省の鉄道駅総合改善事業における「形成計画事業」として実施され、事業主体は海老名市・相鉄・関係機関などによる法定協議会の「一般社団法人海老名市地域公共交通協議会」となる。完成目標時期は当初の2020年3月から2022年度に延期されていたが、架設工事に伴う鉄骨の一部に不具合が見つかったことから駅舎(2階部分の連絡通路と南口新改札含む)の完成は2026年度まで遅れる見込みである(北口の新改札は先行して2023年3月25日供用開始)。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "これまで開発が行われてこなかった当駅西口エリア(JR海老名駅の北西側)でも再開発が計画されている。三井不動産による大規模商業施設「ららぽーと海老名」を街の中心に配置し、商業・業務・住宅の複合施設、マンション、戸建て住宅などが整備される(計画人口は3000人、商業施設の開業および街開きは2015年10月)。また、西口エリアとは別に小田急とJRの駅舎間エリアでも民間企業による再開発が今後行われる計画である。この他、再開発事業に合わせて西口駅前ロータリーや前述のように小田急海老名駅〜JR海老名駅間の新自由通路も整備されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2015年10月27日より神奈川中央交通のバス停がJRの海老名駅西口に移転したため、「海老名駅西口」という同名のバス停が以下の2か所に存在することとなった。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ビナフロント南側(パチンコ店の裏側)にある。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "自家用車用の送迎ロータリーで、またパチンコ店・マンション駐車場の出入口にもなっているためバス停の設置許可が下りず、バス停のポールは設置されていない。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "など",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "BUSTLE海老名は高速・観光バスターミナルで、BUSTLEはバァスルと発音し、英語で賑わいを意味する。またバス(BUS)との掛け言葉にもなっている。海老名商工会議所・イオンリテール・イオン海老名ショッピングセンター・タイムズ24・杉崎観光バスと共同で開設。海老名商工会議所が管理している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "海老名駅東口のバスロータリーから南方向へ約700mの地点にある。海老名駅東口のバスロータリーから海老名市役所方面へ南に約400m進み、国分関免交差点で東へ約150m進み、マクドナルド海老名店を右折した約150m先の駐車場内にある。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2016年10月9日に供用開始し、高速バスは2017年3月17日から停車。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "高速乗合バス専用。海老名駅東口のバスロータリーから海老名市役所方面へ南に約400m進んだところにある国分関免交差点の西側、ライオンデンタルクリニックの前にあった。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "このバス停を使用するのは後発の高速乗合バス事業者のみで、海老名駅東口のバスロータリーは先発の相鉄バス(相鉄グループ)・神奈川中央交通(小田急グループ)のみが使用している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2015年1月12日供用開始、2017年3月16日供用終了(BUSTLE海老名へ移行)。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "海老名駅東口から線路沿いに東方向(相模大野駅・横浜駅方面)へ約500m先の、押堀西交差点(目印はセブン-イレブン海老名駅前店)付近の駐車場内にある)。海老名商工会議所が管理している。最寄りのバス停は、天平通り(海老名市コミュニティバス 国分ルート)。主に企業の送迎バスが利用するターミナル。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "小田急の車両を搬出入する際には相鉄線を経由して当駅が使用されていたこともある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "小田急と相鉄の駅舎がともに老朽化し、かつ手狭にもなっていたことから、新しい駅舎を建設(駅改良工事)することとなった(小田急は新築、相鉄は一部改良)。その際の2006年4月16日に当時の厚木市長の呼び掛けで両者関係者出席の下、相鉄線の駅から小田急小田原線本厚木駅への乗り入れに関するシンポジウムが開催された。相鉄側の見解としては、小田急線のみならず、他社線との相互直通(乗り入れ)については利便性向上や沿線価値の向上、新たな輸送需要喚起になるため、今後の研究課題としている。一方で、この時点で前述の当駅における新築計画を白紙として見直す必要があることに加え、",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "などの課題もあり、小田急および相鉄は難色を示している。現在も前述の駅改良工事が継続されていることにより、構想の実現は更に遠のいている。",
"title": "その他"
}
] |
海老名駅(えびなえき)は、神奈川県海老名市めぐみ町及び扇町にある、小田急電鉄・相模鉄道(相鉄)・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
|
{{出典の明記|date=2018年3月12日 (月) 20:18 (UTC)|ソートキー=鉄}}
{{駅情報
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|文字色 =
|駅名 = 海老名駅
|画像 = Ebina Station.jpg
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|画像説明 = [[小田急電鉄|小田急]]・[[相模鉄道|相鉄]] 海老名駅東口(2017年5月)
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300
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|よみがな = えびな
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|電報略号 =
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[小田急電鉄]](小田急・[[#小田急電鉄 2|駅詳細]])
* [[相模鉄道]](相鉄・[[#相模鉄道|駅詳細]])
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])}}
|所在地 = [[神奈川県]][[海老名市]]
|座標 =
|乗換 =
}}
{{座標一覧}}
'''海老名駅'''(えびなえき)は、[[神奈川県]][[海老名市]][[めぐみ町]]及び[[扇町 (海老名市)|扇町]]にある、[[小田急電鉄]]・[[相模鉄道]](相鉄)・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅である。
== 概要 ==
神中鉄道(現・相模鉄道)の小田原急行電鉄(現・小田急電鉄)への乗り入れ開始に伴い、[[1941年]][[11月25日]]に神中鉄道により共同駅として、両路線の合流点(押堀西交差点付近)に開業した。
当駅の開業以前の神中鉄道と小田急の乗り換えは、現在の[[厚木駅]]の場所にあった神中鉄道[[厚木操車場|中新田口乗降場]](海老名駅開設に伴い廃止 現・JR[[相模線]]厚木駅プラットホーム付近)と小田原急行電鉄[[小田原線]]河原口駅(現・厚木駅)で行われていた<ref>今尾恵介『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関東(3)京成・東急・相鉄』 白水社、285-287ページ、ISBN 978-4-560-08456-4</ref>。互いの駅はすぐ近くにあるとはいえ徒歩連絡であったため、貨物の[[連絡運輸]]もできず不便であった。そこで神中鉄道は小田急へ電車を乗り入れることになり、神中鉄道の起点であった厚木駅から相模国分駅までの区間(現・[[相鉄厚木線]])の旅客営業を廃止し、新線として海老名駅 - 相模国分駅(現・[[相模国分信号所]])間を建設し、本線を切り替えた。これに伴い開設されたのが、海老名駅である。なお開業当初は小田急の電車は停車せず、相模厚木駅(現・[[本厚木駅]])まで乗り入れる神中鉄道のディーゼル自動客車のみが停車していた。小田急の電車が停車するようになったのは、戦時統制下でいわゆる[[大東急]]として両社がともに東急の支配下にあった[[1943年]]4月1日からである<ref>相鉄グループ100年史 編纂事務局 (2018年12月). “[https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf 相鉄グループ100年史]”. 相模鉄道. p. 29.</ref>。なお海老名駅停車に伴い、小田急の隣駅である[[海老名国分駅]]は同日付で廃止された。
駅前の再開発・海老名電車基地の建設に伴い、[[1973|1973年]][[12月20日]]に駅を現在地に移転した<ref>相鉄グループ100年史 編纂事務局 (2018年12月). “[https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_006.pdf 相鉄グループ100年史]”. 相模鉄道. p. 103.</ref>。
JRの海老名駅は、[[国鉄分割民営化]]を翌月に控えた[[1987年]][[3月21日]]に[[日本国有鉄道]][[相模線]]の駅として開業した。当駅は[[請願駅]]であり、駅設置費用3億2,300万円は海老名市が負担した。なお線形の改良などは行われなかったため、相鉄・小田急の海老名駅から北西に約200メートル離れた場所にある。そのため駅間には自由通路や動く歩道が整備されたものの、距離があるため乗り換えの便はよくない。ただし駅間地区は、その立地を生かして1972年には小田急の海老名電車基地が、1980年代には海老名市文化会館・[[海老名市立図書館#中央図書館|海老名市立中央図書館]]などの公共施設が建設され、[[2010年代]]からは駅周辺は[[ららぽーと海老名]]などの商業ビルや高層マンションの開発が進められている。[[2016年]]からは一部の[[小田急ロマンスカー]]停車駅となった。
== 乗り入れ路線 ==
小田急[[小田急小田原線|小田原線]]、相鉄[[相鉄本線|本線]]、JR東日本[[相模線]]の3路線が乗り入れ、[[乗換駅]]となっている。小田急電鉄と相模鉄道の駅には各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。
小田急線には一部の[[特別急行列車|特急]]「[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]」も停車する。
* 小田急電鉄:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線 - 駅番号「'''OH 32'''」
* 相模鉄道:[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 本線 - 駅番号「'''SO18'''」
* JR東日本:{{Color|#009793|■}} 相模線
相鉄本線においては当駅が終点となっている。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2018年3月12日 (月) 20:18 (UTC)|section=1}}
[[File:Former Ebina station.jpg|thumb|移設以前の初代海老名駅跡地(2007年3月8日、{{ウィキ座標|35|27|18.3|N|139|23|38.2|E|region:JP-14_type:railwaystation|MAP|name=移設以前の初代海老名駅跡地}})]]
=== 神中鉄道→相模鉄道 ===
* [[1926年]]([[大正]]15年)[[5月12日]]:神中鉄道(現・相模鉄道)の二俣川駅 - 厚木駅間が開業<ref>相鉄グループ100年史 編纂事務局 (2018年12月). “[https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf 相鉄グループ100年史]”. 相模鉄道. p. 9.</ref>。
* [[1941年]]([[昭和]]16年)
** [[1月20日]]:[[相模国分信号所|相模国分駅]] - 海老名駅間 (0.5 km) の新線の建設に着手。
** [[11月25日]]:小田急小田原線の相模厚木駅(現・本厚木駅)までの乗り入れ開始に伴い、海老名駅を開業。乗り入れる神中鉄道線の列車のみがこの駅に停車した。
* [[1943年]](昭和18年)[[4月1日]]:神中鉄道が相模鉄道と合併し、所属路線が相模鉄道神中線(のちの相鉄本線)になる。小田急への乗り入れを一時中止<ref>相鉄グループ100年史 編纂事務局 (2018年12月). “[https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf 相鉄グループ100年史]”. 相模鉄道. p. 34-35.</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)[[12月25日]]:小田急への乗り入れを再開。
* [[1964年]](昭和39年)[[11月5日]]:列車本数増加の影響もあり本厚木駅までの乗り入れを中止。
* [[1973年]](昭和48年)[[12月21日]]:南西方向に300m延伸し、駅を現在地に移転。
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[3月19日]]:自動改札機設置。これをもって、相模鉄道線の全駅に自動改札機の設置が完了。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:ICカード「PASMO」の利用が可能となる。
* [[2009年]](平成21年)
** [[6月]]:ホーム拡幅工事が完了。発車標が新型のものに更新される。
** [[8月]]:接近放送の内容が更新される。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[10月]]:停止位置を約30m横浜寄りに変更され、変更位置に仮設ホームを新設される。
* [[2020年]](令和2年)
** 6月:改札位置を約30m横浜寄りに変更され、トイレ、駅事務室、定期券発売所の位置が仮設の建物に変更される。
** [[9月]]:現改札位置から小田急への連絡通路までの部分が封鎖となり、現改札位置横に仮設の東口階段を新設される。
* [[2023年]](令和5年)[[3月25日]]<!--2020年度から延期-->:北口に新たな改札と駅前広場を新設(詳細は[[#相鉄駅にて北口改札の設置と駅舎再整備・広場整備|後述]])<ref name="ebina20230301">{{Cite web|和書|url=https://www.city.ebina.kanagawa.jp/guide/kotsu/kokyo/1015287.html|title=相鉄線海老名駅北口改札を先行開業します 〜駅前広場も供用開始〜|date=2023-03-01|accessdate=2023-03-25|publisher=海老名市}}</ref><ref>{{Cite news|title=相鉄海老名駅北口改札、25日に開業 駅前広場も利用開始|url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/article-975427.html|date=2023-03-14|newspaper=神奈川新聞|accessdate=2023-03-23}}</ref>。
* [[2026年]](令和8年)度<!--2022年度から延期-->:新駅舎(2階部分の南北連絡通路と南口新改札含む)が完成予定(詳細は[[#相鉄駅にて北口改札の設置と駅舎再整備・広場整備|後述]])。
=== 小田原急行鉄道→東京急行電鉄→小田急電鉄 ===
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]]:小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)により[[小田急小田原線]]が全線開業。
* [[1942年]](昭和17年)[[5月1日]]:小田急電鉄が吸収合併され、[[東急電鉄|東京急行電鉄]]小田原線となる<ref name="odakyu100th">「第一部 2【沿革】」『小田急電鉄 第100期有価証券報告書』 小田急電鉄、2021年6月29日</ref>。
* [[1943年]](昭和18年)[[4月1日]]:隣駅の[[海老名国分駅]]を廃止し、海老名駅の旅客営業を開始。<!--「直通」の停車駅となる。
** (なお、「各駅停車」は[[新宿駅]] - 稲田登戸駅〈現・[[向ヶ丘遊園駅]]〉間のみの運行であり、当駅までの運行はなかった。)
* [[1945年]](昭和20年)6月:従来、新宿 - 稲田登戸(現・向ヶ丘遊園駅)間のみの運行の「各駅停車」が全線で運行されることとなり、「各駅停車」の停車駅となる(同時に「直通」は廃止される)。
* [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]]:「[[準急列車|準急]]」が登場し、停車駅となる。-->
* [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]]:東京急行電鉄から小田急電鉄が分離し、再発足する<ref name="odakyu100th" />。<!--
* [[1960年]](昭和35年)[[3月25日]]:「通勤準急」が登場し、停車駅となる。
* [[1972年]](昭和47年)[[3月14日]]:夕方[[ラッシュ時]]の下り「急行」に限り、停車駅となる。-->
* [[1972年]](昭和47年)[[12月18日]]:全ての[[急行列車|急行]]の停車駅となる。同時に[[小田急電鉄の車両検修施設|海老名電車基地]]使用開始。
* [[1973年]](昭和48年)[[12月21日]]:駅を[[小田原駅|小田原]]方面に約400m移動し、現在地に移転。
* [[2004年]]([[平成]]16年)[[12月11日]]:[[快速急行]]、[[区間準急]]の停車駅となる。
* [[2007年]](平成19年)
** [[1月13日]]:東口階段を一部閉鎖。<!--停車列車は小田原線の記事のみで十分では-->
** [[3月18日]]:[[乗車カード#ICカード乗車券|ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる。
* [[2008年]](平成20年)
** [[2月3日]]:臨時改札口並びに臨時改札口と相鉄線とを結ぶ連絡通路を閉鎖。
** [[3月30日]]:当駅 - [[厚木駅]]間の高架工事が完成。
* [[2009年]](平成21年)[[3月29日]]:小田急と相鉄間の新設連絡通路の使用を開始。
* [[2010年]](平成22年)
** [[8月20日]]:自由通路整備事業が完成(詳細は[[#小田急の駅構内における自由通路の整備|後述]])。
** [[11月3日]]:[[いきものがかり]]の楽曲『[[SAKURA (いきものがかりの曲)|SAKURA]]』が接近メロディにアレンジされ使用開始<ref name="pr20101026">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/5833_3376717_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110821030236/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/5833_3376717_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「海老名駅」「本厚木駅」のホームに列車が接近する際に「いきものがかり」の楽曲が流れます!!|publisher=小田急電鉄|date=2010-10-26|accessdate=2020-11-27|archivedate=2011-08-21}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:当駅と[[新松田駅]]での一般列車の[[増解結|分割・併合]]を廃止する。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:当駅が一部の[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]の停車駅となる。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:小田急小田原線に通勤準急が設定され、停車駅になる。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[4月19日]]:駅前に[[企業博物館]]「[[ロマンスカーミュージアム]]」を開業<ref name="nikkei20200310">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56628510Q0A310C2L83000/ 小田急、海老名駅直結のオフィスビル 災害時向け設備強化<!-- 「小田急、災害に強いビル着工」-->]『[[日本経済新聞]]<!--[[日経産業新聞]]-->』2020年3月10日付(住建・不動産面)、2021年9月23日閲覧。</ref><ref name="pr20210308">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001w6wx-att/o5oaa1000001w6x4.pdf||format=PDF|language=日本語|title=ロマンスカーミュージアム開業日が4月19日に決定!|publisher=小田急電鉄|date=2021-03-08|accessdate=2021-03-09}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年):駅直結の[[オフィスビル]]開業予定<ref name="nikkei20200310"/>(詳細は[[#西口および小田急とJRの駅舎間における再開発|後述]])。
=== 相模鉄道→省線→国鉄→JR東日本 ===
* [[1931年]](昭和6年) [[4月29日]]:相模鉄道により厚木駅 - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]間が延伸し全線開業(のちの相模鉄道相模線)。
* [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:相模鉄道相模線が[[戦時買収私鉄]]に指定され、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]鉄道総局管轄の相模線として国有化される<ref>[{{NDLDC|2961710/3}} 「運輸通信省告示第250号」『官報』1944年5月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[3月21日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)の駅として[[厚木駅]]・[[入谷駅 (神奈川県)|入谷駅]]間に海老名駅を開業<ref name="RJ246">{{Cite journal|和書 |date = 1987-05 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 6 |pages = 104 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。地元の請願で設置されたため、建設費などは全て海老名市が負担した<ref name="RJ246"/>。
** 4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、JR東日本の駅となる。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:ICカード「[[Suica]]」の利用が可能となる。
* [[2006年]](平成18年)[[11月16日]]:自動改札化完了。
* [[2011年]](平成23年)3月:駅舎リニューアル工事完成(バリアフリー化)。
* [[2015年]](平成27年)10月:自由通路整備事業が完成(詳細は[[#小田急とJRの駅舎間における新自由通路の整備|後述]])。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Ebina Station, Soutetsu Entrance.jpg|改良工事着手前の東口地上出口。左側部分に小田急ホームへの階段が存在していた。(2006年6月)
Ebina Station Soutetsu Entrance 2007.jpg|改良工事期間中の東口地上出口。ここから直接小田急ホームへ行くことは不可能であった。(2007年9月)
Odakyu-Sotetsu-Ebina02.jpg|改良工事着手前の小田急・相鉄西口。画面左の跨道橋はJRの東口と連絡している。(2004年10月)
Ebina Station New Odakyu Entrance-1.jpg|改良工事期間中に新改札口へ向かう仮設階段が存在していたが、2009年3月で閉鎖・解体された。(2007年5月)
Ebina Station New Odakyu Entrance-2.jpg|改良工事期間中の自由通路から新改札口への入口(2007年5月)
</gallery>
=== 駅名の由来 ===
駅所在地の[[地方公共団体|自治体]]名が「'''海老名'''」であることから。なお、「海老名」の名の由来にはさまざまな説がある(詳細は「[[海老名市#地名の由来]]」を参照)。
== 駅構造 ==
{{出典の明記|date=2018年3月12日 (月) 20:18 (UTC)|section=1}}
=== 小田急電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #2288CC
|文字色 =
|駅名 = 小田急 海老名駅
|画像 = Ebndeguti.png
|pxl = 300
|画像説明 = 橋上駅舎東口と[[駅ビル]]「ビナフロント」<br />(2019年2月)
|よみがな = えびな
|ローマ字 = Ebina
|所属事業者 = [[小田急電鉄]]
|開業年月日 = [[1941年]]([[昭和]]16年)[[11月25日]]{{Refnest|group="*"|営業開始は[[1943年]](昭和18年)[[4月1日]]。}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面4線
|所在地 = 神奈川県海老名市[[めぐみ町]]1番1号
|座標 = {{coord|35|27|9.5|N|139|23|27|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=小田急 海老名駅}}
|所属路線 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急小田原線|小田原線]]
|駅番号= {{駅番号r|OH|32|#2288cc|4||#2288cc}}
|前の駅 = OH 31 [[座間駅|座間]]
|駅間A = 3.3
|駅間B = 1.6
|次の駅 = [[厚木駅|厚木]] OH 33
|キロ程 = 42.5
|起点駅 = [[新宿駅|新宿]]
|乗降人員 = <ref group="小田急" name="odakyu2022" />123,222
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[島式ホーム]]2面4線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。[[駅長]]所在駅であり、「[[相模大野駅|相模大野]]管区海老名管内」として、[[相武台前駅]] - [[厚木駅]]間の各駅を管理している<ref name="RP976_13">{{Cite journal|和書|author=藤田雄介(小田急電鉄CSR・広報部)|title=総説:小田急電鉄|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=13|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
一部の[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]を除き全ての定期列車が停車し、[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]や特急ロマンスカーの通過待避などを行う。日中時間帯は全ての列車が当駅で緩急接続を行う。日中以外の時間帯は上りは急行または快速急行が当駅特急ロマンスカーの待ち合わせ(※停車・通過問わず)を行うが、ロマンスカーの運転が無い場合でも時間調整を目的に当駅で数分程度停車する。
[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正より特急ロマンスカーが一部停車し平日22本と土休日25本が停車。
かつては主に当駅と[[相模大野駅]]で[[増解結|車両の連結・切り離し]]が行われていたが、[[2002年]][[3月23日]]の[[ダイヤ改正]]によりそのほとんどが[[新松田駅]]で行われるようになり、[[2008年]][[3月15日]]のダイヤ改正で連結・切り離しそのものが大幅に削減され、[[2012年]][[3月17日]]のダイヤ改正で特急ロマンスカー以外の営業列車での途中駅での編成の連結・切り離しは完全に廃止された。
2012年[[3月16日]]までの[[ダイヤグラム|ダイヤ]]においては、小田原駅発4時台の急行新宿駅行(6両編成、本厚木まで各駅に停車)は当駅で進行方向前方に4両を増結して10両[[編成 (鉄道)|編成]]に、新宿駅発23時半過ぎの最終急行小田原駅行(本厚木から各駅に停車)は後ろの4両を当駅で切り離し、終点の小田原駅まで行くのは進行方向前方の6両であった。翌17日のダイヤからは、小田原駅発4時台の急行は[[相模大野駅]]で乗り継ぐ形に変更され、新宿発23時半過ぎの最終急行小田原駅行は終点まで10両で運転することになった。列車の連結・切り離しは、原則として1番ホーム(下り線)と4番ホーム(上り線)を使用していた。
[[2010年]][[11月3日]]より[[本厚木駅]]とともに[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]]として、海老名市・[[厚木市]]出身の[[音楽ユニット]]・[[いきものがかり]]の楽曲『SAKURA』が使用されている<ref name="pr20101026"/>。これは、『[[ウルトラマン]]』の楽曲を採用した[[祖師ヶ谷大蔵駅]]に次いで2例目である。
==== 駅改良工事 ====
改良工事の進捗に伴い、[[2009年]][[5月31日]][[始発|初電]]より新宿寄り[[階段]]の使用が開始され、平日6時30分から8時30分まで実施されていた3・4番ホームの[[エスカレーター]]の上り専用の扱いが廃止となった。また、[[自動改札機]]を入口専用として2台増設した。また、同年12月13日からは改札口が1か所増え、従来からある中央改札口(有人)と新設される西口改札口(無人)の2か所となった。これに合わせて中央改札口ときっぷうりばの場所が新宿方面寄りに移動した。
2010年[[5月16日]]からは客用[[トイレ]](本設)の使用が開始され、駅務室が中央改札口の小田原方面寄りに移動、きっぷうりばも左側に移動し、客用トイレ(仮設)は使用停止となった。さらに、ホームのかさ上げ工事と床の舗装も行われた。
2009年[[3月29日]]、小田急と相鉄間の新設連絡通路が供用開始となった。また2010年[[8月20日]]に自由通路整備事業が完了(詳細は[[#小田急の駅構内における自由通路の整備|後述]])し、構内には小田急マルシェ海老名がオープンしている。
==== バリアフリー施設 ====
[[改札|改札口]]からホームへは[[エレベーター]]が各ホームに1基ずつ、エスカレーターが各ホームに2基ずつ設置されており、エレベーターは[[2007年]][[5月12日]]に、エスカレーターは2008年[[2月3日]]にそれぞれ使用を開始した。なお、改良工事期間だった2008年2月から2009年5月ごろまで上りホームのエスカレーターは平日の6:30から8:30まで2基とも上り専用(ホーム→改札階)だった。
==== トイレ ====
改札内[[コンコース]]にあり、男女別に[[ユニバーサルデザイン|多目的]]トイレが設置されている。2010年5月16日より現在の位置となり、それ以前は下りホームに設置されていた。
==== その他の設備 ====
* [[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]
* [[横浜銀行]][[現金自動預け払い機|ATM]]
* [[証明写真]]
* [[自動体外式除細動器]] (AED) が改札内コンコースの[[自動精算機]]脇に設置されている。
* [[神奈川県警察]][[鉄道警察隊]] 海老名分駐所 - [[日本国有鉄道]](国鉄)の[[鉄道公安室]]を引き継いだ経緯から、これまでJR駅構内だけに設置されてきた中で、初めてJR以外の駅構内に設置された鉄道警察隊の拠点である。
==== のりば ====
{| class="wikitable"
!ホーム<!-- 事業者側による呼称。小田急は「○番ホーム」と表現 -->!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/ebina/ |title=海老名駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|-
!1・2
|rowspan="2"|[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
|style="text-align:center;"|下り
|[[小田原駅|小田原]]・[[箱根湯本駅|箱根湯本]]方面
|-
!3・4
|style="text-align:center;"|上り
|[[相模大野駅|相模大野]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面
|}
主本線は2番線と3番線であり、1番線と4番線は待避線である。日中時間帯の上り快速急行は、当駅の4番ホームに入り、特急ロマンスカーの通過待ち合わせないし海老名駅停車の特急ロマンスカーと接続を行なうが、接続列車や通過列車がない場合でも待避線に入り、時間調整を行なっていた。しかし、2022年3月改正で特急ロマンスカーの減便と日中時間帯のダイヤ見直しに伴い、本厚木駅始発の上り各駅停車が当駅でロマンスカーないし快速急行及び急行の接続待ち・通過待ちを行なう形に変更された。
西側の[[座間駅|座間]]寄りに[[小田急電鉄の車両検修施設#海老名検車区|海老名検車区]]があり、一日数本ほど当駅始発の列車が設定されている。小田急の4か所ある電車区・車掌区の1つ(海老名電車区・車掌区)でもあり、毎年1回「[[小田急ファミリー鉄道展|ファミリー鉄道展]]」が開催されている。敷地内に[[小田急3000形電車 (初代)|初代3000形ロマンスカー「SSE」]]が格納庫に収納されたまま保存されていたが、2019年5月開催の「ファミリー鉄道展」では格納庫から引き出され、70000形「GSE」と共に展示された。その後の深夜に、大野総合車両所へ送られ、2021年4月開業の「[[ロマンスカーミュージアム]]」<ref name="nikkei20200310"/>に収容された。
1番ホームと4番ホームで10両編成の[[夜間滞泊|夜間留置]]がある他、[[JR東日本E233系電車#2000番台|JR東日本E233系2000番台]]1本・[[東京メトロ16000系電車|東京メトロ16000系]]4本の外泊運用がある。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Odakyu-Ebina-STA Central-Gate.jpg|中央改札(2021年10月)
Odakyu-Ebina-STA West-Gate.jpg|西口改札(2021年10月)
Odakyu-Ebina-Station platform1-2 20211128 070404.jpg|1・2番線ホーム(2021年10月)
Odakyu-Ebina-Station platform3-4 20211128 070751.jpg|3・4番線ホーム(2021年10月)
</gallery>
==== 特急ロマンスカーの停車要望 ====
海老名市では[[1981年]]以来、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議を通じて小田急電鉄に対し、当駅への特急ロマンスカーの停車を要望していた。これに対し、小田急電鉄は「今後、旅客の利用状況、駅周辺の状況および鉄道施設の改善状況等を踏まえ、検討していきたい」と回答していた。なお、2009年[[5月10日]]には海老名市長を会長とする「海老名発ロマンスカー実現市民会議」が発足し、特急ロマンスカー停車を求める[[署名運動]]を行っており、駅前に垂れ幕も掲出している。
その後、2015年8月28日に、2016年3月より日中時間帯に1時間に1本をベースに一部のロマンスカーを停車させることが発表され<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8315_0166824_.pdf 特急ロマンスカーの海老名駅、伊勢原駅への停車について]}} - 小田急電鉄ニュースリリース 2015年8月28日(2015年8月30日閲覧)</ref>、同年[[3月26日]]より停車するようになった。「はこね」号や「さがみ」号の一部は、当駅と2駅先の本厚木駅のどちらか一方、または両方に停車する。
2018年3月17日のダイヤ改正から一部の「モーニングウェイ」号<ref group="注釈">平日は全停車。土曜・日・祝日は一部のみ停車。</ref> が当駅停車となった。なお、メトロモーニングウェイとメトロホームウェイは全て停車する。
2022年3月12日のダイヤ改正により17時以降の下り「ホームウェイ」号は全列車が海老名駅に停車するようになった。
=== 相模鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = #0c1e56
|文字色 =
|駅名 = 相鉄 海老名駅
|画像 = SOTETSU_EbinaSte_20221225.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 東口地上出口(2022年12月)
|よみがな = えびな
|ローマ字 = Ebina
|電報略号 = エヒ
|所在地 = 神奈川県海老名市[[めぐみ町]]1番2号
|座標 = {{coord|35|27|10|N|139|23|29|E|region:JP_type:railwaystation|name=相鉄 海老名駅}}
|駅番号 = {{駅番号r|SO|18|#0072c2|3}}
|所属事業者= [[相模鉄道|相模鉄道(相鉄)]]
|開業年月日 = [[1941年]](昭和16年)[[11月25日]]
|駅構造 = 地上駅(橋上駅)
|ホーム = 1面2線
|所属路線 = {{Color|#0c1e56|■}}[[相鉄本線|本線]]
|前の駅 = SO17 [[かしわ台駅|かしわ台]]
|駅間A = 2.8
|駅間B =
|次の駅 =
|キロ程 = 24.6
|起点駅 = [[横浜駅|横浜]]
|乗降人員 = <ref group="相鉄" name="sotetsu2022" />98,040
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[頭端式ホーム]]1面2線を有する地上駅。駅舎は小田急電鉄のホームに隣接して設置されている。改札口は南側頭端部1か所のみとなっている。なお海老名管区として、当駅 - [[相模大塚駅]]を管理している。旅客営業駅としては相模鉄道最西端の駅である。
相模鉄道によると、利用者が[[2004年]]度から3年連続で増加していることから、乗客の安全に配慮し、[[ラッシュ時]]のホーム上の混雑を緩和する目的でホームを現行の9mから13mへと4割程拡幅する工事を行った。2007年[[11月17日]]まで使われていた2番線の線路を撤去してその部分にホームを拡幅したため、同年11月2日まで[[停車場#側線|電留線]]として使われていた3番線が2番線となった。2007年秋から仮設乗り場の建設を行い、当初は2008年9月までの竣工を予定していたが工事の遅れから、2009年6月に整備完了となった。併せて[[発車標]]も新しいタイプに交換され、同年8月には[[駅自動放送|自動放送]]も更新している<!--(ホーム拡幅前は、2番線の[[発車ベル]]が電子電鈴ではなく放送用の[[スピーカー]]から流れていた)-->。
==== 駅改良工事 ====
[[File:SOTETSU EBINA-STA 20201011.jpg|thumb|相鉄線仮設東口(2020年10月)現在は閉鎖済]]
2018年頃から駅の改良工事が行われており、改良工事によって出口が1号車側にも設置されるほか、橋上型駅舎となる。
2019年[[10月17日]]より2番線、同年[[10月19日]]に1番線のホームが約30m横浜寄りに停止位置を変更し、横浜寄り約30m部分に屋根なしの仮ホームを設置した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sotetsu.co.jp/news/train/train-489-2019-10-01/ |title= 海老名駅における乗車位置変更のお知らせ|publisher= 相模鉄道 |date=2020-06-01|accessdate=2020-06-17}}</ref>。
2020年[[6月14日]]より改札位置を約30m横浜寄りに変更された。それに伴い、改札内に設置されていたトイレ、駅事務室と改札外にあった定期券発売所が仮設の建物に変更され、[[ユニバーサルデザイン|多機能トイレ]]以外は以前の位置と反対のホーム側に設置された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sotetsu.co.jp/news/train/info-train-554-2020-06-01/ |title= 海老名駅における改札機の位置の変更のお知らせ|publisher= 相模鉄道 |date=2020-06-01|accessdate=2020-06-17}}</ref>。
2020年[[9月27日]]から2022年[[12月23日]]まで改札位置から旧改札等の施設があった小田急及び自由通路への連絡通路までの部分が封鎖となっていた。それに伴い、改札位置の横に仮設の東口階段とエレベーターが設置されていた。そのため、相鉄 - 小田急・JRの乗り換え及び相鉄 - 西口へ向かう場合、一度東口駅前広場及び東口自由通路2階に出て乗り換える必要があった。なお、混雑緩和のため相鉄から向かう場合は東口自由通路2階、相鉄へ向かう場合は東口駅前広場を利用して乗り換えることを促していた。また、既存の小田急及び自由通路への連絡通路の1階部分から東口駅前広場を結ぶ階段については、平日の6:30 - 8:40は東口駅前広場に降りる方向の一方通行になっていたが<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sotetsu.co.jp/news/train/info-train-2022-12-01-02/|title= 海老名駅におけるお乗換えルートの変更のお知らせ|publisher= 相模鉄道 |date=2020-09-01|accessdate=2020-09-04}}</ref>、2022年12月24日の始電より従来の乗り換えルートに戻った
<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sotetsu.co.jp/news/train/info-train-2022-12-01-02/ |title= 海老名駅におけるお乗換えルートの解消のお知らせ|publisher= 相模鉄道 |date=2022-12-01|accessdate=2022-12-25}}</ref>。
==== バリアフリー施設 ====
東口(駅前[[広場]]側)にエスカレーターが2基あり、[[2006年]][[12月20日]]に使用を開始した。また、相鉄と小田急の乗換通路にはエスカレーター3基とエレベーター1台があり、2009年3月29日より使用開始した。
==== トイレ ====
改札内にあり、1番線ホーム側の改札側先端付近に設置されている。
==== その他の設備 ====
改札内に[[自動体外式除細動器|AED]]が設置されている。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称。相鉄は「○番線」と表現 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2023/train/stations/ebina_03.pdf |title=海老名 駅構内マップ |publisher=相模鉄道 |accessdate=2023-06-05}}</ref>
|-
!1・2
|[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 本線
|[[横浜駅|横浜]]・[[湘南台駅|湘南台]]{{small|(二俣川のりかえ)}}・[[羽沢横浜国大駅|羽沢横浜国大]]方面
|}
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Sagami-railway-main-line-Ebina-station-platform.jpg|1・2番線ホーム(2008年9月)
</gallery>
==== 備考 ====
* JR相模線海老名駅の東側に[[厚木操車場]]に向かう[[相鉄厚木線]]が通っているが、営業駅などはない。
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 海老名駅
|画像 = JRE-Ebina-STA Entrance.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅入口・改札口(2021年11月)
|よみがな = えびな
|ローマ字 = Ebina
|前の駅 = [[厚木駅|厚木]]
|駅間A = 1.7
|駅間B = 3.0
|次の駅 = [[入谷駅 (神奈川県)|入谷]]
|電報略号 = エナ
|所在地 = 神奈川県海老名市[[扇町 (海老名市)|扇町]]16番1号
|座標 = {{coord|35|27|15.5|N|139|23|21.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR 海老名駅}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道|東日本旅客鉄道(JR東日本)]]
|所属路線 = {{Color|#009793|■}}[[相模線]]
|キロ程 = 15.9
|起点駅 = [[茅ケ崎駅|茅ケ崎]]
|駅構造 = 地上駅(橋上駅)
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1987年]](昭和62年)[[3月21日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />12,839
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有}}
}}
島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。相模線単独の駅としては最も新しい駅である。また[[国鉄分割民営化]]直前に開業された事もあり、国鉄の駅だった期間はわずか11日間だけだった。
ホームと駅舎は小田急・相鉄ホームの西側よりかなり離れた所に設置され、かつては小田急・相鉄の駅とJRの駅とは屋根のない自由通路で連絡していた(自由通路の所要時間はおよそ3分程度であり、小田急・相鉄双方のホームからJRホームまでの移動時間は7分前後を要する)。このため、[[動く歩道]]などを設けた新自由通路が駅周辺の再開発に合わせて[[2015年]]10月に整備された(詳細は[[#小田急とJRの駅舎間における新自由通路の整備|後述]])。また、同月に開業した[[ららぽーと海老名]]も西口に直結された。
湘南・相模統括センター管内の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]配置)であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として[[厚木駅]]と[[入谷駅 (神奈川県)|入谷駅]]を管理している。駅舎内には[[みどりの窓口]]・自動券売機(近距離乗車券用・[[指定席券売機]])・自動改札機(Suicaオートチャージ対応型)・自動精算機が設置されている。2006年[[11月16日]]に自動改札化が完了した。構内にエスカレーターはないが、[[2011年]]3月に構内エレベーターを供用開始した。
==== のりば ====
<!-- 方面表記はJR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称。JR東日本は「○番線」と表現 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|{{Color|#009793|■}}相模線
|style="text-align:center;"|上り
|[[厚木駅|厚木]]・[[茅ケ崎駅|茅ケ崎]]方面
|-
!2
|style="text-align:center;"|下り
|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]方面
|}
(出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/291.html JR東日本:駅構内図])
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Ebina Station JR East Platform.jpg|1・2番線ホーム(2022年2月)
</gallery>
===== 備考 =====
* 相模線のほとんどの駅には[[安全側線]]がないが、当駅には設けられている。
* 当駅始発茅ケ崎行の列車が数本設定されている。
* 相模線両方向と小田急線本厚木駅方面、相模線[[社家駅]]方面と小田急線両方向との乗り換えは、1駅茅ケ崎寄りの厚木駅の方が乗り換え距離が短く便利であり、同駅接続1枚の連絡乗車券も発売される。
* かつては当駅に到着する際の[[車内放送]]において小田急線と相鉄線への乗り換え案内を行っていなかったが、ある時期を境にこれが行われるようになった。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
相模線海老名駅遠景.jpg|改良前の駅外観(2004年11月)
相模線海老名駅改札.jpg|自動改札化前のJR海老名駅改札口(2004年11月)
JR Ebina South Exit.JPG|改良工事前のJR海老名駅東口(2008年11月)
JR Ebina station 2012-03.JPG|改良工事後、新自由通路完成前のJR海老名駅東口。新自由通路完成に伴い閉鎖(2012年3月)
JR Ebina Station West Entrance 20160806.jpg|新自由通路完成後のJR海老名駅西口(2016年8月)
</gallery>
== 海老名駅自由通路整備事業 ==
{{出典の明記|date=2018年3月12日 (月) 20:18 (UTC)|section=1}}
{{節スタブ}}
=== 小田急の駅構内における自由通路の整備 ===
[[File:Accessway_in_Ebina_Station.jpg|thumb|2010年8月に完成した自由通路(写真左には飲食店と鉄道警察隊の分駐所が並んでいる。写真右側が小田急線西口改札)]]
当駅は自由通路の混雑が激しく、特に朝ラッシュ時は小田急線と相鉄線の列車が同時に到着すると自由通路の人の行き来が多い。このことから「海老名駅自由通路整備事業」が計画され、[[2010年]]に完成した。なお、[[2015年]]にはJR海老名駅方面へ自由通路が延伸されている(詳細は[[#小田急とJRの駅舎間における新自由通路の整備|後述]])。
海老名市・小田急電鉄・相模鉄道の3者でこの事業に関する施工協定を[[2006年]][[1月11日]]に締結し、[[2009年]]時点では小田急と相鉄の駅舎のバリアフリー化の工事が進められていた。自由通路を改装前の7mから12mに拡幅して[[コンコース]]を増築、加えて東側への中央改札口の新設、ホームのかさ上げと[[屋根]]の改修を実施し、多機能トイレの設置、ホームとコンコースを結ぶエスカレーターとエレベーターの設置を行った。また、JR以外で初めて鉄道警察隊の分駐所も新設された。
[[2007年]]1月13日から小田急線東口階段(駅前広場側)が一部閉鎖されたため、バスやタクシーを利用する場合は相鉄の階段または[[ペデストリアンデッキ]]を経由しなければならなくなったため、同年5月12日からエレベーターや中央改札口(新設)など新駅舎の一部が使用開始された。
[[2008年]]2月3日から小田急線上下ホームに新設された中央改札口に通じるエスカレーターの使用を開始するとともに小田急線の臨時改札口を閉鎖して改札口を中央改札口に一本化、並びに小田急線 - 相鉄線の連絡通路を閉鎖したので、乗り換え経路が中央改札口から仮設階段を経由して一旦東口に出て乗り換える経路となった。また、JR相模線との連絡通路も一部移設された。
2009年3月29日から小田急 - 相鉄を連絡する乗り換え通路も新設され、エスカレーター3基(昇り1基・降り2基)とエレベーター1基も新たに設置されるとともに西口階段の一部を閉鎖しエスカレーター2基の使用を開始し、同時に東口にあった仮設階段は閉鎖された。
2009年5月31日より小田急線の新宿方階段を使用開始し、また、小田急と相鉄との連絡エスカレーターの運転方向を昇り2基・降り1基に変更した。
2009年12月13日から小田急線の改札口が増設され、従来の中央改札口と新設される西口改札口の2か所となった。また、東西自由通路とJR相模線方面を結ぶ連絡通路の使用を再開し、これによりJR相模線の乗り換えの経路は現在よりも短くなった。合わせて東西自由通路と西口を結ぶ西口階段(本設)の使用を開始した。
2010年5月16日より小田急線客用トイレ(本設)の使用を開始し、また駅務室が中央改札口の小田原方面寄りに移動し、きっぷうりばも左側に移動した。
2010年8月20日より一部工事中となっている駅構内および自由通路が全面完成・開通。これをもって4年7か月にわたった自由通路整備工事は完了した。工事開始以来当駅構内には[[飲食店]]がなかったが、同日に[[小田急マルシェ]]海老名がオープンし、[[吉野家]]や[[小田急グループ]]企業が運営する[[まぐろ市場]]、[[箱根そば]]などが入店した。その工事完了後はJR相模線の駅のバリアフリー化工事が行われ、[[2011年]]8月にエレベーターが設置された。
=== 小田急とJRの駅舎間における新自由通路の整備 ===
[[File:Ebina Station west passage 201510.JPG|thumb|2015年10月に完成した自由通路]]
2010年に完成した小田急海老名駅構内の自由通路を延伸する形で、JR海老名駅までの連絡通路(新自由通路)が2015年10月に整備された(既存の駅間連絡通路の並びに作られるため、新自由通路への切り替えまでは既存の連絡通路が使用されていた)。また、小田急海老名駅の東口やJR海老名駅の北西側、両駅舎間では[[都市再開発|再開発]]事業が進行中(詳細は[[#西口および小田急とJRの駅舎間における再開発|後述]])で、再開発の中核施設となる「[[ららぽーと海老名]]」までを結ぶ[[動線]]にもなっている。また、小田急海老名駅側では[[2021年]]4月に開業した「[[ロマンスカーミュージアム]]」とも接続している。
既存の駅間連絡通路(延長約200メートル)は幅4メートルの屋根なしであったが、これに対して新たに設置された連絡通路は幅12メートルの屋根付きで、[[動く歩道]]や[[蓄電池]]内蔵[[太陽光発電]]システム、[[LED照明]]、ミストシャワーなどが設けられている<ref name="ebinacity130201">[http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1358905593598/index.html 海老名駅に新たな自由通路が誕生します!](海老名市:まちづくり 2013年2月1日)</ref><ref name="nikkei130107">「[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO50351210X00C13A1L82000/ 海老名駅西口再開発、総事業費54億円 15年秋まちびらき]『日本経済新聞』2013年1月7日付</ref>。
== 利用状況 ==
* '''小田急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''123,222人'''である<ref group="小田急" name="odakyu2022" />。
*: 小田急線全70駅の中では[[登戸駅]]に次ぐ第6位である。再開発により乗降人員が増加傾向にあり、2019年度には[[本厚木駅]]を上回った。
* '''相模鉄道''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''98,040人'''である<ref group="相鉄" name="sotetsu2022" />。
*: 相鉄線全27駅中第3位で、[[横浜駅]]・[[大和駅 (神奈川県)|大和駅]]に次いで多い。
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''12,839人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
*: 相模線内では[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]・[[茅ケ崎駅]]に次いで3番目に多く、途中駅では最も多い。
[[#再開発事業|後節の再開発事業]]の進捗により、各社とも[[2015年]]に入り利用客が大きく伸びた。なお小田急では、[[2021年]]4月、当駅隣接地に「[[ロマンスカーミュージアム]]」を開業しており、さらなる利用者の増加も見込まれている<ref name="odakyu180427"/>。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下記の通り(JRは除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|小田急電鉄
!colspan=2|相模鉄道
|-
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
|-
|1943年(昭和18年)
|736|| || ||
|-
|1946年(昭和21年)
|4,320|| || ||
|-
|1950年(昭和25年)
|6,448|| || ||
|-
|1955年(昭和30年)
|8,095|| || ||
|-
|1960年(昭和35年)
|11,917|| || ||
|-
|1965年(昭和40年)
|21,832|| || ||
|-
|1970年(昭和45年)
|36,199|| || ||
|-
|1975年(昭和50年)
|55,568|| || ||
|-
|1980年(昭和55年)
|81,674|| || ||
|-
|1982年(昭和57年)
|87,461|| || ||
|-
|1985年(昭和60年)
|105,741|| || ||
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|130,530|| || ||
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|142,018|| || ||
|-
|1999年(平成11年)
| || ||123,092||
|-
|2000年(平成12年)
|128,427|| ||119,519||−2.9%
|-
|2002年(平成14年)
|131,652|| || ||
|-
|2003年(平成15年)
|130,732||−0.7%||115,918||−1.5%
|-
|2004年(平成16年)
|131,850||0.9%||116,524||0.2%
|-
|2005年(平成17年)
|133,132||1.0%||117,323||0.7%
|-
|2006年(平成18年)
|136,523||2.5%||119,086||1.5%
|-
|2007年(平成19年)
|137,183||0.5%||119,547||0.7%
|-
|2008年(平成20年)
|135,012||−1.6%||116,616||−2.7%
|-
|2009年(平成21年)
|131,891||−2.3%||113,365||−2.8%
|-
|2010年(平成22年)
|131,505||−0.3%||113,687||0.3%
|-
|2011年(平成23年)
|131,622||0.1%||112,227||−1.0%
|-
|2012年(平成24年)
|133,788||1.6%||112,565||0.3%
|-
|2013年(平成25年)
|136,619||2.1%||114,002||1.3%
|-
|2014年(平成26年)
|135,861||−0.6%||113,106||−0.8%
|-
|2015年(平成27年)
|143,629||5.7%||118,279||4.6%
|-
|2016年(平成28年)
|148,434||3.3%||121,147||2.4%
|-
|2017年(平成29年)
|150,570||1.4%||123,102||1.6%
|-
|2018年(平成30年)
|153,713||2.1%||123,951||0.7%
|-
|2019年(令和元年)
|152,370||−0.9%
|<ref group="相鉄" name="sotetsu2019">{{Cite report|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2020/about/services/pdf/2020.pdf|title=相鉄グループ要覧2020-2021|page=17|format=pdf|accessdate=2023-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200927165307/https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2020/about/services/pdf/2020.pdf|archivedate=2020-09-27}}</ref>123,213
|−0.6%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|102,399||−32.8%
|<ref group="相鉄" name="sotetsu2020">{{Cite report|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2021/about/services/pdf/2021.pdf|title=相鉄グループ要覧2021-2022|page=19|format=pdf|accessdate=2023-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211201114841/https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2021/about/services/pdf/2021.pdf|archivedate=2021-12-01}}</ref>84,879
|−31.1%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308034356/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか|archivedate=2023-03-08|page=|accessdate=2023-10-03|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=2023-08-20}}</ref>109,773
|7.2%
|<ref group="相鉄" name="sotetsu2021">{{Cite report|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2022/about/services/pdf/2022.pdf|title=相鉄グループ要覧2022-2023|page=18|format=pdf|accessdate=2023-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231022002228/https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2022/about/services/pdf/2022.pdf|archivedate=2023-10-22}}</ref>89,216
|5.1%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか|archivedate=2023-07-01|page=|accessdate=2023-10-03|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=}}</ref>123,222
|12.3%
|<ref group="相鉄" name="sotetsu2022">{{Cite report|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2023/about/services/pdf/2023.pdf|title=相鉄グループ要覧2023-2024|page=69|format=pdf|accessdate=2023-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231022001919/https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2023/about/services/pdf/2023.pdf|archivedate=2023-10-22}}</ref>98,040
|9.9%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[https://www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/denshi/toukei/toukei/index.html 統計えびな] - 海老名市</ref>
!年度!!小田急電鉄!!相模鉄道!!JR東日本!!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|70,507
|66,617
|6,881
|<ref group="乗降データ">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|67,983
|64,204
|6,605
|<ref group="神奈川県統計">平成12年</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|65,800
|62,128
|6,605
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|64,042
|60,474
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref> 7,142
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|63,720
|59,512
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref> 7,147
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|65,599
|59,555
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref> 7,630
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|64,899
|58,417
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref> 7,576
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|65,570
|58,640
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref> 7,761
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|66,229
|58,907
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref> 8,001
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|67,931
|59,734
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref> 8,495
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|68,382
|60,012
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref> 9,218
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|67,300
|58,518
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref> 9,315
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|65,850
|56,873
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref> 9,251
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|65,698
|57,022
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref> 9,392
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|65,781
|56,259
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref> 9,418
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|66,935
|56,404
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref> 10,008
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|68,383
|57,156
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref> 10,561
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|68,006
|56,694
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref> 10,722
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|71,873
|59,276
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref> 11,952
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|74,200
|60,701
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref> 12,737
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|75,268
|61,673
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref> 13,405
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|76,916
|62,057
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref> 14,127
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 令和元年]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|76,424
|61,866
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref> 14,307
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf 令和2年]}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|51,238
|42,422
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref> 10,706
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 令和3年]}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref> 11,670
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref> 12,839
|
|}
== 駅周辺 ==
{{出典の明記|date=2018年3月12日 (月) 20:18 (UTC)|section=1}}
当駅は神中鉄道(現・相模鉄道)の小田急小田原線への乗り入れ開始に伴い、神中鉄道の駅として[[1941年]](昭和16年)[[11月25日]]に開設された。そのため従来の[[集落]]とは関係なく、小田急小田原線と相鉄本線の合流点に設けられた。開業当初は、小田急の[[海老名国分駅]]([[大東急]]下の[[1943年]](昭和18年)[[4月1日]]に廃止され、同日に東急小田原線として海老名駅を開設)や周辺集落のいずれからも遠い[[水田]]地帯の真ん中に位置していた。海老名町([[1971年]]より海老名市)の中心集落に近い東口側に駅前集落が形成されたが、その発展は長らく限定的なものであった。駅周辺の市街化が進行するのは、水田からの[[農地転用]]と[[都市再開発|再開発]]事業が進み、以下の諸施設が建設された[[1980年代]]以降のことである。
以前からの市街地で小田急線・相鉄線の当駅メイン出入口である東口には、[[複合商業施設]]「'''[[ビナウォーク]]''' (ViNAWALK)」が立地し、[[丸井|マルイファミリー]]海老名など130以上の専門店が入居する。少し離れると[[イオン海老名店]]や[[ショッパーズプラザ海老名]]などの商業施設、海老名市役所や[[海老名郵便局]]、さらに[[ヤマダデンキ]]や、[[ホテルオークラ|レンブラントホテル海老名]]、[[海老名プライムタワー]]が、そして駅からかなり離れているが[[コジマ]]×[[ビックカメラ]]などが立地する。また、駅周辺には[[マンション]]が建ち並んでおり、駅前に高層マンション2棟がある。イオン海老名店には日本初のマルチプレックスシネマともされる[[ワーナー・マイカル・シネマズ]](現・イオンシネマ海老名)の1号劇場が[[1993年]]4月に開業した。その後、[[2002年]]4月にできたビナウォークにも[[TOHOシネマズ|TOHOシネマズ海老名]]が進出するなど、近距離に映画館が2店舗立地している。海老名を『映画の街』としてアピールするため、2002年から[[2008年]]まで「[[海老名プレミアム映画祭]]」が開催されていた。この他、東口の北東側では[[商店街]]活性化の取り組みとして、独立を目指す飲食店などが入居する商業施設「[[喰の道場]]」が[[2004年]]9月より10年間の期間限定でオープンしていた。
さらに東口エリアの再開発として、駅前の旧駐車場スペースに商業施設および上層の賃貸住宅からなる地上11階建ての複合施設「[[ビナウォーク#フロア構成・主なテナント|ビナフロント]] (ViNA FRONT)」が[[2014年]]10月に完成している。同施設の2階部分では、駅の[[コンコース]]やビナウォーク方面に向かう[[ペデストリアンデッキ]]と直結する構造となっている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO53524380S3A400C1L82000/ 海老名駅東口の再開発が始動 小田急がビル着工](日経新聞 2013年4月2日付)</ref><ref>{{cite news|url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/entry-51806.html|title=海老名駅直結ビル「ビナフロント」 10月17日開業|date=2014-09-16|accessdate=2014-09-23|publisher=[[神奈川新聞]]「カナロコ」}}</ref>。
<!--
この[[ペデストリアンデッキ]]では、2016年12月28日に飛び込み自殺があった。
-->
小田急線・相鉄線の駅とJR線の駅との間(駅舎間)には、[[小田急電鉄の車両検修施設#海老名検車区|小田急電鉄海老名電車基地]]や海老名市文化会館、総合福祉会館、[[海老名市立中央図書館]]などがある。また、これまでJR海老名駅の北西側は[[リコー|リコーテクノロジーセンター]]や[[ビアメカニクス]]などの[[工場]]や[[田|田圃]]が中心で、東口と西口では街の様相が大きく異なっていたが、西口や小田急〜JR駅舎間において[[#西口および小田急とJRの駅舎間における再開発|後述]]のように再開発事業が進行中である。なお、西口の再開発事業における中核施設としては「'''[[ららぽーと海老名]]'''」が[[2015年]]10月に開業している。2021年には小田急とJRの駅の間に、[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]車両を中心とした[[企業博物館]]である「[[ロマンスカーミュージアム]]」が開業した。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Aeon ebina.jpg|イオン海老名
Vinawalk.jpg|ビナウォーク
ViNAFRONT 201412.JPG|ビナフロント
Ebina-Station(East).jpg|東口のペデストリアンデッキ
Lalaport-Ebina.jpg|ららぽーと海老名
</gallery>
=== 公園・緑地 ===
* [[海老名中央公園]]
* [[相模三川公園]]
=== 再開発事業 ===
{{節スタブ}}
==== 相鉄駅にて北口改札の設置と駅舎再整備・広場整備 ====
[[File:Ebina Sta North Entrance 20230326.jpg|thumb|新設された北口 (2023年3月)]]
相鉄線の駅はラッシュ時に混雑が常態化していることから、改札と駅舎を現在のホーム南端だけでなく北端にも設置し、北口として駅前広場も整備することとなった。また相鉄ホームの上部を覆う形で<!--西口側から東口側まで-->2階部分に連絡通路と南北に改札(2か所)も設置し、さらに南側の相鉄駅舎も現在の2階建てから3階建てに全面改築して商業施設や福祉施設([[保育所|保育施設]])などを入居させる計画となっている<ref>{{PDFlink|[http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1389152796923/files/siryou2.pdf 相模鉄道海老名駅改良計画の概要について]}} - 海老名市 平成26年(2014年)1月8日{{リンク切れ|date=2020年7月}}</ref><ref name="sotetsu170630">{{PDFlink|[https://cdn.sotetsu.co.jp/archives/news_release/pdf/170630_01.pdf 「デザインブランドアッププロジェクト」のコンセプトで相鉄線海老名駅をリニューアル 改札口を増設しホームドアや保育施設を整備]}} - 相模鉄道株式会社、海老名市 2017年6月30日</ref>。
工事は[[国土交通省]]の鉄道駅総合改善事業<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/001065854.pdf 平成27年度鉄道局関係予算決定概要・17p]}} - 国土交通省鉄道局 平成27年(2015年)1月</ref>における「形成計画事業」として実施され、事業主体は海老名市・相鉄・関係機関などによる法定協議会の「一般社団法人海老名市地域公共交通協議会」<ref>[http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1412589078044/index.html 海老名市ホームページ・一般社団法人海老名市地域公共交通協議会]{{リンク切れ|date=2020年7月}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-43361.html|title=相鉄海老名駅に「北口」20年度供用目指す、広場と周辺道路整備も/神奈川|newspaper=[[神奈川新聞]]「カナロコ」|date=2014-1-8|accessdate=2020-07-05}}</ref>となる。完成目標時期は当初の[[2020年]]3月<ref name="sotetsu170630"/>から[[2022年]]度に延期されていたが、架設工事に伴う[[鉄骨]]の一部に不具合が見つかった<ref>[https://response.jp/article/2021/07/27/348028.html 2022年度予定の相鉄海老名駅リニューアルがさらに遅れる…鉄骨架設時の杭打ちに問題] - レスポンス 2021年7月27日</ref>ことから駅舎(2階部分の連絡通路と南口新改札含む)の完成は[[2026年]]度まで遅れる見込みである(北口の新改札は先行して2023年3月25日供用開始<ref name="ebina20230301" />)<ref>[https://www.kanaloco.jp/news/economy/article-674983.html 相鉄海老名駅の新駅舎、26年度完成へ 鉄骨の不具合で遅れ]/[https://nordot.app/809036145225990144 nordot版] - 神奈川新聞「カナロコ」 2021年9月10日</ref><ref>[https://www.townnews.co.jp/0402/2021/09/24/592887.html 相鉄線海老名駅 2027年度工事完了へ う回路は来年12月に解消] - [[タウンニュース社|タウンニュース]] (海老名・座間・綾瀬版) 2021年9月24日号</ref>。
==== 西口および小田急とJRの駅舎間における再開発 ====
これまで開発が行われてこなかった当駅西口エリア(JR海老名駅の北西側)でも再開発が計画されている。[[三井不動産]]による[[複合商業施設|大規模商業施設]]「'''[[ららぽーと海老名]]'''」を街の中心に配置し、商業・業務・住宅の複合施設、マンション、戸建て住宅などが整備される(計画人口は3000人、商業施設の開業および街開きは2015年10月)<ref name="nikkei130107" /><ref name="ebinacity130409">[http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1354843598885/ 次代へつなぐ新たなまち。~海老名駅西口土地区画整理に着工~](海老名市:まちづくり 2013年4月9日)</ref><ref>[http://www.ebinishi.or.jp/news/diary.cgi?no=69 海老名市まちびらきイベントのお知らせ](海老名駅西口土地区画整理組合 2015年9月29日〈[https://archive.fo/8EZlA archive.isによる2015年10月8日時点のキャッシュ]〉)</ref>。また、西口エリアとは別に小田急とJRの駅舎間エリアでも民間企業による再開発が今後行われる計画である<ref name="ebinacity130201" />。この他、再開発事業に合わせて西口駅前ロータリーや[[#小田急とJRの駅舎間における新自由通路の整備|前述]]のように小田急海老名駅〜JR海老名駅間の新自由通路も整備されている<!--(小田急線とJR線間における現在の連絡通路(延長約200メートル、幅4メートル、屋根なし)を、2011年度からの改良工事により幅12メートル(屋根付き)に拡張するというもの)-->。
; 海老名駅西口土地区画整理事業
:海老名駅西口[[土地区画整理事業]]については、海老名駅東西一体のまちづくりおよび中心市街地の一角としての機能を形成し、高度利用による商業、業務、文化、教育等の多様な機能と人口が集積したまちづくりを推進している。また、土地の高度、有効利用と良好な景観形成に努め、住宅、商業施設が共存する市街地形成を進め、'''「快適に暮らす 魅力あふれるまち 海老名」'''の将来都市像を設定しており、都市機能を集積し、暮らしの質を高めることにより、魅力あるまちづくりを目指している。
:本事業には[[2013年]]から[[リコー]]が参画している。その背景には、同社社員を5000人以上擁する研究開発施設リコーテクノロジーセンターが海老名駅北西部に所在しており、地域社会との関わりが深いことがある。同社は当該地区へ[[太陽光発電]]や[[防犯カメラ]]などの[[インフラストラクチャー|インフラ]]を提供。また、2015年には[[扇町 (海老名市)|扇町]]のららぽーと海老名に隣接する地区に、[[コワーキングスペース]]や[[学童]]クラブ、[[レストラン]]なども併設する複合施設「RICOH Future House」を開設し、その運営を行っている<ref name="cast">『発明 THE INVENTION』2016年12月号 「リコーの挑戦、地域と共に未来をつくる」(一般社団法人発明推進協会)</ref>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
A photo of the land readjustment project of Ebina Station west exit in 2014 Jun.Ebina-city,Kanagawa,Japan..JPG|工事着手当時の海老名駅西口土地区画整理事業地(JR海老名駅北口にて2014年6月撮影)<br/>奥中央の高層ビルはリコーテクノロジーセンター
Ebi-Road.jpg|工事後の海老名駅西口土地区画整理事業地<br />中央の通りは「エビーロード」
</gallery>
; 西口(JR海老名駅の北西側)エリア
:この地域は元は[[市街化調整区域]]であり長い間事業化の目途が経っていなかったが、該当地域の9割以上の地権者が市街化区域編入に対して同意したことから[[2009年]]6月に「海老名駅西口特定土地区画整理準備組合」が設立され、必要な定款やまちづくり計画の作成および、同地区の土地利用計画案をもとに認可権者である神奈川県との協議が進められていくこととなった。さらに、同年9月中旬に実施された第6回の線引き見直しで土地区画整理予定区域が変更されて、同地域は市街化区域への編入を前提とした特定保留区域となった。<!--市では設定した将来都市像に照らし、魅力あるまちづくりを目指している。この協議が整った後には、神奈川県に対して事前協議書を提出し、組合設立認可申請を経て、2011年10月の組合設立を目指しているところである。-->
:こうした中、「ららぽーと海老名」を提案した[[三井不動産]]と準備組合との間で、[[2010年]][[9月15日]]に西口の商業施設である、いわゆるセンター用地進出に関する優先交渉権者地位確認書の[[覚書]]の調印式が行われたことにより、具体的な調整が図られていくこととなった。さらに、[[2012年]][[12月25日]]には同地域がようやく市街化区域に編入にされ、同日には土地区画整理事業の本組合(海老名駅西口土地区画整理組合)の設立も認可された<ref name="ebinacity130409" /><ref>[https://archive.fo/g8uCf 海老名駅西口土地区画整理組合 公式サイト]([[archive.is]]による2015年10月16日時点のキャッシュ)</ref>。約14.1ヘクタールのセンター用地のうち、中核施設となる約3ヘクタールの「[[ららぽーと海老名]]」は2015年[[10月29日]]に開業した。
; 小田急とJRの駅舎間エリア
:約5[[ヘクタール]]のこの土地は小田急所有地であり、市街化調整区域のため開発が認められなかったが、2009年9月中旬に告示された第6回線引き見直しで[[市街化区域]]に編入されたことにより、再開発の下地が整うこととなった。このエリアは「民間企業による駅間開発地区」とされており、住宅や業務、商業施設向けのビルを複数建てる計画となっている。2015年[[8月28日]]、小田急はこのエリアの開発計画を決定し、高層分譲マンションを建設する「住宅エリア」とオフィス棟、商業施設、フィットネスクラブや教育・カルチャー等のサービス施設を建設する「賑わい創出エリア」の2地区に区分して開発することを公表した。開発コンセプトは「憩う・くらす・育む 〜ViNA GARDENS〜」、都市デザインコンセプトは地形的特徴から「[[段丘]]都市」としている<ref>「[https://news.mynavi.jp/article/20150906-a015/ 神奈川県・海老名がロマンスカー停車駅に - 商業施設などの開発計画も]」[[マイナビニュース]](2015年9月6日)</ref>。[[2016年]]度に着工し、全体の竣工は[[2025年]]度を予定<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8314_5215756_.pdf 海老名駅間地区の開発計画の概要が決定]}} - 小田急電鉄ニュースリリース 2015年8月28日(2017年11月16日閲覧)</ref><ref name="oda170413">{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8582_5362332_.pdf 海老名駅間地区のエリア名称が「ViNA GARDENS」に決定]}} - 小田急電鉄ニュースリリース 2017年4月13日(2017年11月16日閲覧)</ref>、またエリア名称には開発コンセプトでもあった「'''ViNA GARDENS(ビナガーデンズ)'''」が正式に採用されている<ref name="oda170413"/><ref>[http://vinagardens.jp/ ViNA GARDENS[ビナガーデンズ] 公式サイト]</ref>。さらに再開発に伴い、[[大字]][[上郷 (海老名市)|上郷]]の一部で[[2017年]]2月に[[住居表示]]が実施され、このエリアの[[町丁|町名]]は[[めぐみ町]]となった<ref>「[https://www.townnews.co.jp/0402/2016/09/16/348923.html 海老名駅駅間地区 新名称は「めぐみ町」 扇町北側「泉」も同時施行]」『[[タウンニュース]] 海老名版』[[タウンニュース社]]、2016年9月16日</ref>。
: エリア内の先行開発として2017年4月に[[木構造 (建築)|木造]]建物の「[[ローソン]] ビナガーデンズ店」が開業<ref name="oda170413"/><ref>[http://vinagardens.jp/develop/report/develop_detail02.php ローソン ViNA GARDENS店オープン](ViNA GARDENS[ビナガーデンズ] 公式サイト内:開発情報)</ref>、また同年11月には新自由通路にも接続する商業施設「[[ViNA GARDENS TERRACE|TERRACE]](<!--ビナガーデンズ-->テラス)」が開業している<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8665_7721506_.pdf 海老名駅間地区「ViNA GARDENS」に 飲食中心の商業施設 「TERRACE」誕生]}} - 小田急電鉄ニュースリリース 2017年9月14日(2017年11月16日閲覧)</ref><ref>[http://vinagardens.jp/vinaterrace/ ViNA GARDENS TERRACE[ビナガーデンズテラス] ショップガイド](ViNA GARDENS[ビナガーデンズ] 公式サイト内:施設公式ページ)</ref>。さらに小田急では[[2021年]]4月19日、「ViNA GARDENS」と隣接した敷地内に「[[ロマンスカーミュージアム]]」を開業した<ref name="odakyu180427">{{PDF|[https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000194w1-att/o5oaa100000194w8.pdf 子ども”も“大人”も楽しめる鉄道ミュージアム 「ロマンスカーミュージアム」 2021年春 海老名駅隣接地に開業]}} - 小田急電鉄ニュースリリース 2018年4月27日(2018年7月2日閲覧)</ref>。翌2022年1月、TERRACEの隣接地にオフィスビル「OFFICE(<!--ビナガーデンズ-->オフィス)」が竣工。翌2023年2月に[[小田急電鉄]]が海老名本社を設置し<ref name="odakyu20230120">{{Cite press release|和書|title=海老名本社移転日のお知らせ|publisher=小田急電鉄|date=2023-01-20|url=https://www.odakyu.jp/news/dq40940000000vsx-att/dq40940000000vt4.pdf|format=PDF|access-date=2023-02-26}}</ref>、新宿本社から半数以上の社員が移転した<ref>{{Cite news|title=小田急海老名本社 2月20、27日稼働 新宿と2拠点化|newspaper=カナロコ|date=2023-01-20|url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/article-963668.html|accessdate=2023-02-23|publisher=神奈川新聞社}}</ref>。新自由通路に接続する複合施設「PERCH(<!--ビナガーデンズ-->パーチ)」が2022年4月に大型クリニックモールなどを先行開業<ref>{{PDFlink|[https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000021ktb-att/o5oaa10000021kti.pdf ウェルネスを実現する施設を4月から順次オープン!街の“止まり木”を目指します!]}} - 小田急電鉄ニュースリリース 2022年1月21日</ref>、同年10月に全面開業している<ref>{{PDFlink|[https://www.odakyu.jp/news/d9gsqg0000001hhh-att/d9gsqg0000001hho.pdf 10月28日「ViNA GARDENS PERCH」グランドオープン]}} - 小田急電鉄ニュースリリース 2022年10月6日</ref><ref>[https://vinagardens-perch.jp/ ViNA GARDENS PERCH[ビナガーデンズパーチ] 公式サイト]</ref>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Ebina-Ekikan-Area.jpg|再開発工事中の海老名駅間地区(2018年3月)
Vina-Gardens-Terrace.jpg|ビナガーデンズテラス
</gallery>
==== 海老名市役所周辺区域の開発 ====
:海老名駅近くの海老名市役所周辺区域は市街化調整区域で農地が目立ち、田園風景が広がっているが、2016年11月に神奈川県にて住居系の一般保留区域に[[都市計画]]が決定され、それを受けて、海老名市は住居系利用を内容とする土地利用の事業化検討を2017年度から開始すると、2017年1月18日付の『[[神奈川新聞]]』で報じられている<ref>{{cite news|url=https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-7129.html|title=事業化検討を開始 海老名市役所周辺の開発|date=2017-01-18|accessdate=2017-01-29|publisher=神奈川新聞「カナロコ」}}</ref>。
== バス路線 ==
=== 海老名駅西口 ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
[[2015年]][[10月27日]]より[[神奈川中央交通]]の[[バス停留所|バス停]]がJRの海老名駅西口に移転したため<ref>{{Cite news|url=https://www.kanachu.co.jp/dia/news/detail?tbl=3&tid=255|title=海老名駅西口の乗場変更について(10/27実施)|newspaper=神奈川中央交通|date=2015-10-21|accessdate=2015-10-27}}</ref>、「海老名駅西口」という同名のバス停が以下の2か所に存在することとなった。
; JR 海老名駅西口(ららぽーと海老名前)
* [[神奈川中央交通東・厚木営業所#海老名駅 - 愛川町方面|'''海01'''・'''海02'''・'''海09''']]:[[愛川町|愛川]]バスセンター
; 小田急・相鉄 海老名駅西口(駅間地区)
* [[海老名市コミュニティバス]] '''上今泉ルート''':[[かしわ台駅]]
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Ebina station East entrance Bus terminal - JR side.jpg|海老名駅西口バス停(ららぽーと海老名前)
Ebina station East entrance Bus terminal - Odakyu & Sotetsu side.jpg|海老名駅西口バス停(駅間地区)
</gallery>
=== 海老名駅東口 ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
[[File:Ebina station West entrance Bus terminal.jpg|thumb|海老名駅東口バスターミナル]]
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!0
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[相鉄バス]]
|'''急行''':[[富士フイルムビジネスイノベーション]]
|関係者用特定輸送
|-
!rowspan="2"|1
|'''高速''':[[御殿場プレミアム・アウトレット]]
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|相鉄バス|[[神奈川中央交通|神奈川中央交通西]]|[[京浜急行バス]]}}
|'''リムジン''':[[東京国際空港|羽田空港]]
|2020年9月1日から運休中
|-
!rowspan="2"|2
|style="text-align:center;"|相鉄バス
|{{Unbulleted list|[[相鉄バス#綾31系統|'''綾31''']]:[[神奈川県立かながわ農業アカデミー|農大]]前|[[相鉄バス#綾61・綾62系統|'''綾61''']]・'''急行''':早川中央第3|'''綾62'''・'''各停''':早川中央第3 / 早川中央第1|海老名市コミュニティバス [[海老名市コミュニティバス#現行路線|'''国分ルート''']]:かしわ台駅|海老名市コミュニティバス [[海老名市コミュニティバス#現行路線|'''大谷・杉久保ルート''']]:[[EXPASA]][[海老名サービスエリア|海老名]]下り}}
|
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|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|相鉄バス|神奈川中央交通西}}
|[[相鉄バス#綾73系統|'''綾73''']]・[[神奈川中央交通西・平塚営業所#海老名駅発着路線|'''海73''']]:[[寒川駅]]
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|style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通]]
|[[神奈川中央交通綾瀬営業所#長後駅西口 - 葛原 - 海老名駅方面|'''長16''']]:[[長後駅]]西口
|
|-
!rowspan="2"|降車専用
|style="text-align:center;"|神奈川中央交通西
|'''深夜急行''':[[本厚木駅]]
|[[東京駅のバス乗り場|東京駅八重洲南口]]・[[バスタ新宿]]発
|-
|style="text-align:center;"|相鉄バス
|'''深夜急行''':[[横浜駅]]西口発
|当駅が終点
|}
; その他
* 毎年[[大晦日]]より[[正月三が日]]までの期間には東口から[[寒川神社]]への[[初詣]]客向けに臨時直通バスが運行されている。1999年10月11日までは相模鉄道(当時)が運行する定期路線であったが、[[2000年]]から臨時直通便に扱いが変更された。
=== 海老名駅東口サブロータリー ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
[[File:Ebina station West entrance Sub rotary.jpg|thumb|海老名駅東口サブロータリー]]
[[ビナウォーク#フロア構成・主なテナント|ビナフロント]]南側(パチンコ店の裏側)にある。
自家用車用の送迎ロータリーで、またパチンコ店・マンション駐車場の出入口にもなっているためバス停の設置許可が下りず、バス停のポールは設置されていない。
* 福祉バス ぬくもり号(海老名市社会福祉協議会)
* [[海老名総合病院]]・海老名メディカルサポートセンターへの送迎バス<ref>{{PDFlink|[http://ebina.jinai.jp/access/img/20151019_bus.pdf バス乗降所移転のお知らせ]}} - ジャパンメディカルアライアンス</ref>
など
=== BUSTLE海老名 ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
[[File:BUSTLE Ebina Bus terminal.jpg|thumb|バァスル海老名(右側が海老名駅方面)]]
[[BUSTLE海老名]]は高速・観光バスターミナルで、BUSTLEはバァスルと発音し、英語で賑わいを意味する。またバス(BUS)との掛け言葉にもなっている。海老名商工会議所・[[イオンリテール]]・[[イオン海老名店|イオン海老名ショッピングセンター]]・[[パーク24|タイムズ24]]・[[杉崎観光バス]]と共同で開設。海老名商工会議所が管理している。
海老名駅東口のバスロータリーから南方向へ約700mの地点にある。海老名駅東口のバスロータリーから海老名市役所方面へ南に約400m進み、国分関免交差点で東へ約150m進み、マクドナルド海老名店を右折した約150m先の駐車場内にある。
2016年10月9日に供用開始し、高速バスは2017年3月17日から停車<ref>「[https://www.townnews.co.jp/0402/2016/09/30/350897.html 県内初 高速・観光バスターミナル]」『タウンニュース 海老名版』、タウンニュース社、2016年9月30日</ref><ref>「[https://www.townnews.co.jp/0402/2016/10/14/352973.html 「高速・観光バスターミナル バァスル海老名」完成]」『タウンニュース 海老名版』、タウンニュース社、2016年10月14日</ref>。
* 杉崎高速バス(杉崎観光バス)
** 東京・横浜・海老名・秦野 - 名古屋駅前・金山
** 東京・横浜・海老名・秦野 - 大阪・鳥取
* [[広栄交通バス#ブルーライナー|ブルーライナー]](広栄交通バス)
** 大宮・東京・横浜・海老名 - 大阪
** A便 - 大阪⇒東京・横浜・大宮
* [[キラキラ号]](桜交通)
** 海老名・横浜・バスタ新宿 - 仙台・石巻
** 海老名・横浜・バスタ新宿 - 山形・鶴岡・酒田
** 海老名・横浜・バスタ新宿 - 長岡・新潟
=== 高速バス海老名(現在廃止) ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
[[File:"HiwayBus Ebina" Bus stop.jpg|thumb|高速バス海老名バス停(廃止)]]
高速乗合バス専用。海老名駅東口のバスロータリーから海老名市役所方面へ南に約400m進んだところにある国分関免交差点の西側、ライオンデンタルクリニックの前にあった。
このバス停を使用するのは後発の高速乗合バス事業者のみで、海老名駅東口のバスロータリーは先発の相鉄バス([[相鉄グループ]])・神奈川中央交通([[小田急グループ]])のみが使用している。
2015年1月12日供用開始<ref>「[https://www.townnews.co.jp/0402/2015/01/16/267853.html 夜行高速バス運行開始]」『タウンニュース 海老名版』、タウンニュース社、2015年1月16日</ref>、2017年3月16日供用終了(BUSTLE海老名へ移行)。
{{-}}
=== 海老名駅東口企業送迎ターミナル (e-cat) ===
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
[[File:E-cat Bus terminal.jpg|thumb|海老名駅東口企業送迎ターミナル e-cat]]
海老名駅東口から線路沿いに東方向(相模大野駅・横浜駅方面)へ約500m先の、押堀西交差点(目印は[[セブン-イレブン]]海老名駅前店)付近の駐車場内にある)。海老名商工会議所が管理している。最寄りのバス停は、天平通り(海老名市コミュニティバス 国分ルート)。主に企業の送迎バスが利用するターミナル。
{{-}}
== その他 ==
小田急の車両を搬出入する際には相鉄線を経由して当駅が使用されていたこともある。
=== 相鉄線と小田急線の相互乗り入れ構想 ===
{{出典の明記|date=2018年3月12日 (月) 20:18 (UTC)|section=1}}
小田急と相鉄の駅舎がともに老朽化し、かつ手狭にもなっていたことから、新しい駅舎を建設([[#駅改良工事|駅改良工事]])することとなった(小田急は新築、相鉄は一部改良)。その際の2006年4月16日に当時の厚木市長の呼び掛けで両者関係者出席の下、相鉄線の駅から小田急小田原線本厚木駅への乗り入れに関する[[シンポジウム]]が開催された。相鉄側の見解としては、小田急線のみならず、他社線との[[相互直通]](乗り入れ)については利便性向上や沿線価値の向上、新たな輸送需要喚起になるため、今後の研究課題としている。一方で、この時点で前述の当駅における新築計画を白紙として見直す必要があることに加え、
# 車両や運転保安設備などに互換性がない。
# 小田急とのダイヤ調整が必要である。
# 海老名駅の構造など大規模な設備投資が必要。
などの課題もあり、小田急および相鉄は難色を示している。現在も前述の駅改良工事が継続されていることにより、構想の実現は更に遠のいている。
== 隣の駅 ==
<!--テンプレートは不評意見が多いようですので使用しないで下さい。追記)種別の色(特に相鉄)が多すぎるので色は使わせていただきます。-->
{{色|項目}}
;小田急電鉄(小田急)
:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH|link=小田急小田原線]] 小田原線
:*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]][[はこね (列車)|「はこね」「さがみ」]]一部停車駅(平日の「さがみ」の一部列車は始発駅)、[[モーニングウェイ・ホームウェイ|「モーニングウェイ」「ホームウェイ」]][[モーニングウェイ・ホームウェイ|「メトロモーニングウェイ」「メトロホームウェイ」]]全列車停車駅
::{{color|#f89c1c|■}}快速急行・{{color|#ef4029|■}}急行
:::[[相模大野駅]] (OH 28) - '''海老名駅 (OH 32)''' - [[本厚木駅]] (OH 34)
::{{color|#00ab76|□}}通勤準急・{{color|#00ab76|■}}準急・{{color|#18469d|■}}各駅停車(通勤準急は平日朝上りのみ、準急は平日夜下りのみ運転)
:::[[座間駅]] (OH 31) - '''海老名駅 (OH 32)''' - [[厚木駅]] (OH 33)
;相模鉄道(相鉄)
:[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO|link=相鉄本線]] 本線
::{{Color|green|■}}{{Color|magenta|■}}{{Color|skyblue|■}}{{Color|orange|■}}特急
:::[[大和駅 (神奈川県)|大和駅]] (SO14) - '''海老名駅 (SO18)'''
::{{Color|red|■}}通勤急行(平日朝上りのみ運転)・{{Color|blue|■}}快速・{{Color|green|■}}{{Color|magenta|■}}{{Color|skyblue|■}}{{Color|gray|■}}各駅停車
::: [[かしわ台駅]] (SO17) - ([[相模国分信号所]]) - '''海老名駅 (SO18)'''
;東日本旅客鉄道(JR東日本)
:{{Color|#009793|■}}相模線
:::[[厚木駅]] - '''海老名駅''' - [[入谷駅 (神奈川県)|入谷駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
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==== 出典 ====
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=== 利用状況 ===
;JR・私鉄の1日平均利用客数
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;小田急電鉄の1日平均利用客数
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;相模鉄道の1日平均利用客数
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;JR東日本の2000年度以降の乗車人員
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;JR・私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
;神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|16em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{Wikinews|小田急電鉄、「いきものがかり」の楽曲を駅の接近メロディに使用へ}}
* [https://www.odakyu.jp/station/ebina/ 小田急電鉄 海老名駅]
* [https://www.sotetsu.co.jp/train/stations/ebina/ 相模鉄道 海老名駅]
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=291|name=海老名}}
{{小田急小田原線}}
{{相鉄本線}}
{{相模線}}
{{DEFAULTSORT:えひな}}
[[Category:海老名市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 え|ひな]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:相模鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:相模線|えひなえき]]
[[Category:1941年開業の鉄道駅]]
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ネグロイド
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ネグロイド(Negroid)とは、身体的特徴に基づく歴史的人種分類概念の一つ。日本では一般に黒色人種・黒人と同義に理解される。ドイツの人類学者ブルーメンバッハによって提唱された五大人種説に基づく。現在でも便宜的・慣用的、またしばしば政治的に用いられる。これに分類される人々の主要な居住地はサハラ以南のアフリカ大陸である。ラテン語のnigreos(ニグレオス、黒)に由来する。ニグロイドとも。
現生人類は、生物学上ホモ・サピエンスというただ一種に属している。ただし、過去の自然人類学や文化人類学では、ネグロイド、および北アフリカ・ヨーロッパ・西アジア・アラブ・南アジアなどに見られるコーカソイド(白色人種)、オセアニアに見られるオーストラロイド、東アジア・東南アジア・ポリネシア・南北アメリカ大陸などに見られるモンゴロイド(黄色人種)を4大人種として分類していた。
DNA分析の成果によれば、現生人類発祥の地はアフリカにあるとされ、ネグロイドは出アフリカをせずアフリカにとどまった集団の直系の子孫とされる。したがってネグロイドの遺伝的多様性はその他すべての人種の遺伝的多様性よりも高い。
なお、肌の色、および肌の色を発現させる遺伝子は、ヒトという種の集団の分化の過程で最も選択圧を受けやすく短期間に変化する形質の一つであり、肌の色の類似または相違だけでは、いわゆる「人種」を区別することはできない。
伝統的な区分によれば、黒人は更に、
などに分けられてきた。2と6はを参照し加えた。
ネグロイドをコンゴイドとカポイドの2人種に分け、これとモンゴロイド、コーカソイド、オーストラロイドを合わせて5大人種とすることがある。また、アメリンド(インディアン)をモンゴロイドから分け、6大人種とする場合もある。
コンゴイドとカポイドは身体的特徴だけでなく、言語及び(欧米化以前の)生活様式によっても区分された。
頭部はいわゆる、長頭である。グラベラが発達し、オトガイは後退気味である。頭部全体は小さめである。
手足が長く、特に膝から下が長い。手首、足首は細い。
腸腰筋が発達しており、骨盤が前傾している。腸腰筋はももを引き上げる役割がある。
骨密度が高く、骨粗鬆症になりにくい。
西アフリカのネグロイドは瞬発力に優れると言われており、実際もオリンピックなどの世界的な大会において西アフリカにルーツを持つ選手が短距離走などで上位を独占している。東アフリカのネグロイドは持久力に優れると言われており、マラソンなどではケニアやエチオピアにルーツを持つ選手が世界的な大会で上位を独占している。(マラソンの世界ランキング上位100選手を輩出する率は、平均を1とした場合、ケニア全体で6.03、内陸部のナンディ人は22.9と言う驚くべき数字が確認されている)。これらは異なる国や環境のもとで育ったアフリカ系移民の間でも同様に高い確率で優れた選手が輩出されている。このことから遺伝的に、精神的かつ肉体的な優位性が元々備わっているという可能性も示唆されていたが、オリンピックのメダル数に関する統計が一般化したことから現在では黒人の身体能力は極めて限定的な領域でしか発揮されていないことがデータによって明らかにされている。
ネグロイドは出アフリカをせず、アフリカにとどまったグループである。人種を特徴づけるY染色体ハプログループとしてA、B、Eが挙げられる。ネグロイドを除いた現生人類の核遺伝子には絶滅したネアンデルタール人類特有の遺伝子が1 - 4 %混入しているとの研究結果もあるため、ホモ・サピエンスの原型により近いとも言える。
2世紀のローマ帝国の有名な学者ガレノスは、厚い唇、広い鼻孔、縮れた頭髪、黒い目、しわのある手と足、薄い眉毛、とがった歯、長い陰茎、際立った陽気さを、黒人男性の10の特徴として列挙している。そして、この際立った陽気さが「欠陥のある頭脳とそれに由来する知性の弱さゆえに、黒人男性を支配している」と彼は述べている。1世紀のプリニウスは、エティオピアの地誌を記載している『博物誌』6巻195節において「西の方にニグロイ族がおり、その王はただひとつの眼が額にある。主にヒョウやライオンの肉を主食としている「野獣食人」、何でもかんでも貪食する「貪食族」、その食事が人肉である「食人族」」がいる、と後述のイブン・ハルドゥーンの記載と類似する内容を記載している。
預言者ムハンマドは最期の説教で「アラブ人は非アラブ人に優越せず、非アラブ人はアラブ人に優越しない。白人は黒人に優越せず、黒人は白人に優越しない。人はただ正しさによってのみ優越する」と言っている。この戒めは多くのイスラム教徒に順守され、結果として黒人の信徒も増えていったものの、ジャーヒリーヤ時代から続く黒人への偏見は根強く残り、イスラム史初期の黒人詩人の詩からも差別の存在がうかがえる。
『もし私の肌がピンクならば、女性たちは私を愛すだろう。しかし、神は私を黒さと結婚させた』と書いたスハイムは660年に亡くなったアフリカ出身の奴隷であった。『私は奴隷であるが、私の魂は気高く自由である。私は肌の色は黒いが、私の性格は白いのである。』彼は詩の中で彼の本質的な尊厳を表現している。
ヌサイブ・ブン・ラバーブは726年に亡くなったが、アラブ人の詩人からの肌の色を理由とする自分への非難に対し、彼自身、痛烈な応答をしている。『私がこのものを言う舌とこの勇敢な心を持っている限り、黒さが私の名誉を貶めることはない。ある者は血統により引き立てられるが、私の詩の詩句が私の血統なのだ!ものを言わない白人より、感受性の鋭い心とはっきりとものを言う黒人のほうがどんなにすばらしいことか!』 イスラーム文化は女性美を例外として、本質的に肉体的な資質よりも知的な資質を重んじた。独特の肉体的強さを知的に劣ることと結びつけることで、黒人への侮蔑が正統化され、助長された。
中世イスラーム世界での黒人奴隷による反乱に、9世紀にアッバース朝時代のメソポタミア南部で発生したザンジュの乱が知られる。
11世紀の歴史家バクリーは「スーダン人たちは人間よりも動物に近く、彼らはもっぱら物欲に興味を持ち、しばしば食人を行い、ほとんど羞恥心を持たない」と記している。
11世紀のイスラーム時代の重要都市トレドの裁判官であるサイード・アルアンダルスィーは、「彼らの気質は血の気が多くなり、気性は激しく、彼らの色は黒く、彼らの頭髪は縮れている」「彼らは自制心と心の安定に欠け、移り気と愚かさと無知が勝っている。エチオピアの果てに住んでいる黒人、ヌビア人、ザンジなどがそれにあたる」と記している。
12世紀の地理学者イドリースィーは「スーダン人たちは最も堕落した人々であるが、子供を生む能力は最もすぐれている人々である。彼らの生活はまるで動物のようで、彼らは物と女の欲求以外になんの関心もしめさない」と記している。
14世紀の旅行家イブン・バットゥータは「彼らの教養の無さや白人に対する無礼な態度をみて、つくづくこんなところまで来てしまったことを後悔した」と記している。一方で、イブン・バットゥータはマリ王国での記録において、「彼らの美徳とすべき行為として、(まず第一に、)不正行為が少ない点にある。つまりスーダン人(黒人)のスルタンは、誰一人として、不正行為を犯す事を許さない。次には、彼らの地方で安全の保障が行き届いている点であり、従って、その地方を旅する者は何の心配事も無く、(長く)滞在する者でも強盗や追い剥ぎに遭うことが無い。......彼らの美徳の他の一つとして、彼らが(イスラームの)礼拝を厳守し、それを社会集団の中で彼らの義務行為としていること......金曜日には、一般の人々は早朝にモスクに行かないと、あまりの混雑のため、どこで礼拝しているのかわからなくなってしまうほどである。と述べている。
中世イスラムの最も偉大な歴史家イブン・ハルドゥーンは「黒人の大半は洞穴や密林に住み、草を食い、野蛮のままで社会的集団生活をせず、たがいに殺して食べる。黒人は一般に軽率で興奮しやすく、非常に情緒的な性格で、メロディを聞けばいつでも踊りたがり、また、黒人はどこにおいても愚か者とされている」と記している。
南インドのドラヴィダ人やオーストラリアのアボリジニ、メラネシアンなどオセアニアの先住民たちは、その肌の色の濃さ、メラネシア人などに関しては巻き毛の頭髪の形状からも黒人と思われる場合もあるが、彼らはオーストラロイドである。またポリネシアン、ミクロネシアンはモンゴロイドとオーストラロイドの混合人種である。同様にインド亜大陸で人口の70%を占めるアーリア人も同じく肌の色から黒人だと思われる場合があるが、彼らの場合はコーカソイドとオーストラロイドの混合人種である。いずれもアフリカ人とは遺伝的に異なる集団である。
「黒人」は人種のひとつであるが、人種差別的な見方からすれば蔑称として使用されることがあった。たとえば、イエズス会宣教師のフランシスコ・カブラルは、日本人や韓国人を黒人とみなし、「黒人」を蔑称として使用している。
また、同じくイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノもその著書『東インド巡察記』において、インド人を黒人とみなし、「黒人」を蔑称として使用している。
ヴァリニャーノのこうした人種差別意識の根拠となったのが、アリストテレス「政治学」第1巻の先天的奴隷説であるとされる。
なお、日本人を黒人とみなしたカブラルと異なり、ヴァリニャーノは日本人を白人とみなした。
と、日本人を白人と設定することにより、本国からの布教の支援を受けようとしていた(白人とすると本国から金銭と人的支援が得られたのである)。
米国などではニグロイド(negroidの英語発音に基づくカナ表記)という言い方は差別用語とされ、政治的に正しく、丁寧な呼び方として「アフリカ系の○○ (African-○○)」を使うことがある。例えばアメリカ人であった場合、アフリカ系アメリカ人 (African-American) という。ネグロイドは元来、人種に対する呼称であり、差別的な意味合いは主に黒人奴隷を使用していた欧米諸国の社会的要因から派生したものである。ニグロと縮めて呼ぶのは前時代的な語法であり、現在では明らかな差別用語とされている。さらに「ニガー (nigger)」 とした場合、その差別的意味は強まる。
米国以外の英語圏では、ブラック・パーソン(black person、複数形はブラック・ピープル - black people)と呼ぶのが社会的、政治的に正しいとされている。これは、南アジア、カリブ、太平洋諸島などアフリカ以外の地域にも肌が黒い人種が存在し、彼らを誤って「アフリカ系」と呼んでしまうことを避けるためである。「ブラック」と縮めた場合は、非公式な意味合いが強まる。
最近の米国では「アフリカ系」がよく使われるが、米国においても、必ずしも「ブラック」という呼称が差別用語にあたるとは限らない。実際に黒人は自分達のことをブラックと呼ぶことも多く、テレビのニュース番組でも「ブラック」という言葉はしばしば用いられる。ただし、明確な差別用語であるニガーという呼称も、アフリカ系同士の間では、仲間意識を込めた呼びかけとしても使用されることからもわかるように、こうした用語をアフリカ系の人が使用する場合と他人種の人が使用する場合では意味合いや受け取られ方が異なる。白人や黄色人種が用いる際は用いる文脈に考慮し慎重を期さねば差別語的意味を汲み取られる可能性もあることに注意する必要がある。すなわち「ブラック」という呼称はある意味で転換されたスティグマであり、当該の主体が用いる場合と、第三者が用いることには全く意味が違うことに留意すべきである。
さらに米国における黒人自らの文脈で「ブラック」を用いた例として、黒人公民権運動の中で用いられてきた「黒は美しい(ブラック・イズ・ビューティフル)」というスローガンは象徴的である。同様に黒人コミュニティに関係した団体組織の多くが自ら名称に「ブラック」を用いている。また『Black Hair Style』という黒人専門のヘアスタイル情報誌や、『Black Enterprise』といった黒人専門のビジネス雑誌の存在もこの用例であろう。
日本では「黒人」の言い換え語として研究者は「アフリカン・アメリカン」を使うことが多いが、アフリカ人全てが黒人ではなく、またアメリカにいる黒人全てがアフリカ出身でもないため、この用語には疑問も出ている。しかし、米国などにおいても、アフリカ以外の土地の出身者であっても、黒人ならば「アフリカン・アメリカン」と呼ばれてしまうことが多いのが実情である。なお、アメリカに於いては過去の奴隷政策の反省等から、州ごとに黒人に対する様々な優遇措置があり、これが州法に違反しているとして問題化したこともある。
アメリカ合衆国は1995年に、人種・民族の自称についての国勢調査を行っている。これは、彼ら自身を白人、黒人、ヒスパニック、インディアン、アラスカ先住民(インディアン、エスキモー、アレウト)であると特定した人々、あるいは混血に対して、それぞれの人種・民族グループの呼称で、定まった呼び名を好まない人や、特に選ぶものがなかった人も含めて、好きな呼称はどれか選んでもらったものである。黒人の場合は、以下の通りであった。混血も含め、単純に「アフリカ系」でない者も含まれて、一番好まれている呼称は「ブラック(黒人)」だった。
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"text": "コンゴイドとカポイドは身体的特徴だけでなく、言語及び(欧米化以前の)生活様式によっても区分された。",
"title": "伝統的な下位区分"
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"text": "頭部はいわゆる、長頭である。グラベラが発達し、オトガイは後退気味である。頭部全体は小さめである。",
"title": "解剖学的な特徴"
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"text": "手足が長く、特に膝から下が長い。手首、足首は細い。",
"title": "解剖学的な特徴"
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"text": "腸腰筋が発達しており、骨盤が前傾している。腸腰筋はももを引き上げる役割がある。",
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"text": "骨密度が高く、骨粗鬆症になりにくい。",
"title": "解剖学的な特徴"
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"text": "西アフリカのネグロイドは瞬発力に優れると言われており、実際もオリンピックなどの世界的な大会において西アフリカにルーツを持つ選手が短距離走などで上位を独占している。東アフリカのネグロイドは持久力に優れると言われており、マラソンなどではケニアやエチオピアにルーツを持つ選手が世界的な大会で上位を独占している。(マラソンの世界ランキング上位100選手を輩出する率は、平均を1とした場合、ケニア全体で6.03、内陸部のナンディ人は22.9と言う驚くべき数字が確認されている)。これらは異なる国や環境のもとで育ったアフリカ系移民の間でも同様に高い確率で優れた選手が輩出されている。このことから遺伝的に、精神的かつ肉体的な優位性が元々備わっているという可能性も示唆されていたが、オリンピックのメダル数に関する統計が一般化したことから現在では黒人の身体能力は極めて限定的な領域でしか発揮されていないことがデータによって明らかにされている。",
"title": "解剖学的な特徴"
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"text": "ネグロイドは出アフリカをせず、アフリカにとどまったグループである。人種を特徴づけるY染色体ハプログループとしてA、B、Eが挙げられる。ネグロイドを除いた現生人類の核遺伝子には絶滅したネアンデルタール人類特有の遺伝子が1 - 4 %混入しているとの研究結果もあるため、ホモ・サピエンスの原型により近いとも言える。",
"title": "遺伝子"
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"text": "2世紀のローマ帝国の有名な学者ガレノスは、厚い唇、広い鼻孔、縮れた頭髪、黒い目、しわのある手と足、薄い眉毛、とがった歯、長い陰茎、際立った陽気さを、黒人男性の10の特徴として列挙している。そして、この際立った陽気さが「欠陥のある頭脳とそれに由来する知性の弱さゆえに、黒人男性を支配している」と彼は述べている。1世紀のプリニウスは、エティオピアの地誌を記載している『博物誌』6巻195節において「西の方にニグロイ族がおり、その王はただひとつの眼が額にある。主にヒョウやライオンの肉を主食としている「野獣食人」、何でもかんでも貪食する「貪食族」、その食事が人肉である「食人族」」がいる、と後述のイブン・ハルドゥーンの記載と類似する内容を記載している。",
"title": "古代ローマにおけるネグロイド観"
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"text": "預言者ムハンマドは最期の説教で「アラブ人は非アラブ人に優越せず、非アラブ人はアラブ人に優越しない。白人は黒人に優越せず、黒人は白人に優越しない。人はただ正しさによってのみ優越する」と言っている。この戒めは多くのイスラム教徒に順守され、結果として黒人の信徒も増えていったものの、ジャーヒリーヤ時代から続く黒人への偏見は根強く残り、イスラム史初期の黒人詩人の詩からも差別の存在がうかがえる。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "『もし私の肌がピンクならば、女性たちは私を愛すだろう。しかし、神は私を黒さと結婚させた』と書いたスハイムは660年に亡くなったアフリカ出身の奴隷であった。『私は奴隷であるが、私の魂は気高く自由である。私は肌の色は黒いが、私の性格は白いのである。』彼は詩の中で彼の本質的な尊厳を表現している。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "ヌサイブ・ブン・ラバーブは726年に亡くなったが、アラブ人の詩人からの肌の色を理由とする自分への非難に対し、彼自身、痛烈な応答をしている。『私がこのものを言う舌とこの勇敢な心を持っている限り、黒さが私の名誉を貶めることはない。ある者は血統により引き立てられるが、私の詩の詩句が私の血統なのだ!ものを言わない白人より、感受性の鋭い心とはっきりとものを言う黒人のほうがどんなにすばらしいことか!』 イスラーム文化は女性美を例外として、本質的に肉体的な資質よりも知的な資質を重んじた。独特の肉体的強さを知的に劣ることと結びつけることで、黒人への侮蔑が正統化され、助長された。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "中世イスラーム世界での黒人奴隷による反乱に、9世紀にアッバース朝時代のメソポタミア南部で発生したザンジュの乱が知られる。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "11世紀の歴史家バクリーは「スーダン人たちは人間よりも動物に近く、彼らはもっぱら物欲に興味を持ち、しばしば食人を行い、ほとんど羞恥心を持たない」と記している。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "11世紀のイスラーム時代の重要都市トレドの裁判官であるサイード・アルアンダルスィーは、「彼らの気質は血の気が多くなり、気性は激しく、彼らの色は黒く、彼らの頭髪は縮れている」「彼らは自制心と心の安定に欠け、移り気と愚かさと無知が勝っている。エチオピアの果てに住んでいる黒人、ヌビア人、ザンジなどがそれにあたる」と記している。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "12世紀の地理学者イドリースィーは「スーダン人たちは最も堕落した人々であるが、子供を生む能力は最もすぐれている人々である。彼らの生活はまるで動物のようで、彼らは物と女の欲求以外になんの関心もしめさない」と記している。",
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"text": "14世紀の旅行家イブン・バットゥータは「彼らの教養の無さや白人に対する無礼な態度をみて、つくづくこんなところまで来てしまったことを後悔した」と記している。一方で、イブン・バットゥータはマリ王国での記録において、「彼らの美徳とすべき行為として、(まず第一に、)不正行為が少ない点にある。つまりスーダン人(黒人)のスルタンは、誰一人として、不正行為を犯す事を許さない。次には、彼らの地方で安全の保障が行き届いている点であり、従って、その地方を旅する者は何の心配事も無く、(長く)滞在する者でも強盗や追い剥ぎに遭うことが無い。......彼らの美徳の他の一つとして、彼らが(イスラームの)礼拝を厳守し、それを社会集団の中で彼らの義務行為としていること......金曜日には、一般の人々は早朝にモスクに行かないと、あまりの混雑のため、どこで礼拝しているのかわからなくなってしまうほどである。と述べている。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "中世イスラムの最も偉大な歴史家イブン・ハルドゥーンは「黒人の大半は洞穴や密林に住み、草を食い、野蛮のままで社会的集団生活をせず、たがいに殺して食べる。黒人は一般に軽率で興奮しやすく、非常に情緒的な性格で、メロディを聞けばいつでも踊りたがり、また、黒人はどこにおいても愚か者とされている」と記している。",
"title": "中世イスラム世界におけるネグロイド観"
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"text": "南インドのドラヴィダ人やオーストラリアのアボリジニ、メラネシアンなどオセアニアの先住民たちは、その肌の色の濃さ、メラネシア人などに関しては巻き毛の頭髪の形状からも黒人と思われる場合もあるが、彼らはオーストラロイドである。またポリネシアン、ミクロネシアンはモンゴロイドとオーストラロイドの混合人種である。同様にインド亜大陸で人口の70%を占めるアーリア人も同じく肌の色から黒人だと思われる場合があるが、彼らの場合はコーカソイドとオーストラロイドの混合人種である。いずれもアフリカ人とは遺伝的に異なる集団である。",
"title": "オーストラロイドなどとの違い"
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"text": "「黒人」は人種のひとつであるが、人種差別的な見方からすれば蔑称として使用されることがあった。たとえば、イエズス会宣教師のフランシスコ・カブラルは、日本人や韓国人を黒人とみなし、「黒人」を蔑称として使用している。",
"title": "イエズス会士による蔑称"
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"text": "また、同じくイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノもその著書『東インド巡察記』において、インド人を黒人とみなし、「黒人」を蔑称として使用している。",
"title": "イエズス会士による蔑称"
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"text": "ヴァリニャーノのこうした人種差別意識の根拠となったのが、アリストテレス「政治学」第1巻の先天的奴隷説であるとされる。",
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"text": "なお、日本人を黒人とみなしたカブラルと異なり、ヴァリニャーノは日本人を白人とみなした。",
"title": "イエズス会士による蔑称"
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"text": "と、日本人を白人と設定することにより、本国からの布教の支援を受けようとしていた(白人とすると本国から金銭と人的支援が得られたのである)。",
"title": "イエズス会士による蔑称"
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"text": "米国などではニグロイド(negroidの英語発音に基づくカナ表記)という言い方は差別用語とされ、政治的に正しく、丁寧な呼び方として「アフリカ系の○○ (African-○○)」を使うことがある。例えばアメリカ人であった場合、アフリカ系アメリカ人 (African-American) という。ネグロイドは元来、人種に対する呼称であり、差別的な意味合いは主に黒人奴隷を使用していた欧米諸国の社会的要因から派生したものである。ニグロと縮めて呼ぶのは前時代的な語法であり、現在では明らかな差別用語とされている。さらに「ニガー (nigger)」 とした場合、その差別的意味は強まる。",
"title": "アメリカにおける状況"
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"text": "米国以外の英語圏では、ブラック・パーソン(black person、複数形はブラック・ピープル - black people)と呼ぶのが社会的、政治的に正しいとされている。これは、南アジア、カリブ、太平洋諸島などアフリカ以外の地域にも肌が黒い人種が存在し、彼らを誤って「アフリカ系」と呼んでしまうことを避けるためである。「ブラック」と縮めた場合は、非公式な意味合いが強まる。",
"title": "アメリカにおける状況"
},
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"text": "最近の米国では「アフリカ系」がよく使われるが、米国においても、必ずしも「ブラック」という呼称が差別用語にあたるとは限らない。実際に黒人は自分達のことをブラックと呼ぶことも多く、テレビのニュース番組でも「ブラック」という言葉はしばしば用いられる。ただし、明確な差別用語であるニガーという呼称も、アフリカ系同士の間では、仲間意識を込めた呼びかけとしても使用されることからもわかるように、こうした用語をアフリカ系の人が使用する場合と他人種の人が使用する場合では意味合いや受け取られ方が異なる。白人や黄色人種が用いる際は用いる文脈に考慮し慎重を期さねば差別語的意味を汲み取られる可能性もあることに注意する必要がある。すなわち「ブラック」という呼称はある意味で転換されたスティグマであり、当該の主体が用いる場合と、第三者が用いることには全く意味が違うことに留意すべきである。",
"title": "アメリカにおける状況"
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"text": "さらに米国における黒人自らの文脈で「ブラック」を用いた例として、黒人公民権運動の中で用いられてきた「黒は美しい(ブラック・イズ・ビューティフル)」というスローガンは象徴的である。同様に黒人コミュニティに関係した団体組織の多くが自ら名称に「ブラック」を用いている。また『Black Hair Style』という黒人専門のヘアスタイル情報誌や、『Black Enterprise』といった黒人専門のビジネス雑誌の存在もこの用例であろう。",
"title": "アメリカにおける状況"
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"text": "日本では「黒人」の言い換え語として研究者は「アフリカン・アメリカン」を使うことが多いが、アフリカ人全てが黒人ではなく、またアメリカにいる黒人全てがアフリカ出身でもないため、この用語には疑問も出ている。しかし、米国などにおいても、アフリカ以外の土地の出身者であっても、黒人ならば「アフリカン・アメリカン」と呼ばれてしまうことが多いのが実情である。なお、アメリカに於いては過去の奴隷政策の反省等から、州ごとに黒人に対する様々な優遇措置があり、これが州法に違反しているとして問題化したこともある。",
"title": "アメリカにおける状況"
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"text": "アメリカ合衆国は1995年に、人種・民族の自称についての国勢調査を行っている。これは、彼ら自身を白人、黒人、ヒスパニック、インディアン、アラスカ先住民(インディアン、エスキモー、アレウト)であると特定した人々、あるいは混血に対して、それぞれの人種・民族グループの呼称で、定まった呼び名を好まない人や、特に選ぶものがなかった人も含めて、好きな呼称はどれか選んでもらったものである。黒人の場合は、以下の通りであった。混血も含め、単純に「アフリカ系」でない者も含まれて、一番好まれている呼称は「ブラック(黒人)」だった。",
"title": "アメリカにおける状況"
}
] |
ネグロイド(Negroid)とは、身体的特徴に基づく歴史的人種分類概念の一つ。日本では一般に黒色人種・黒人と同義に理解される。ドイツの人類学者ブルーメンバッハによって提唱された五大人種説に基づく。現在でも便宜的・慣用的、またしばしば政治的に用いられる。これに分類される人々の主要な居住地はサハラ以南のアフリカ大陸である。ラテン語のnigreos(ニグレオス、黒)に由来する。ニグロイドとも。
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{{Redirect|ニグロ|'''プロレス・マネージャー'''|296 (プロレスラー)}}
{{stack|[[File:MPP-Tas1.jpg|90px|Tasmanian man, Tasmanian type]]|[[File:MPP-Pap1.jpg|90px|Kiwai man, Papuan type]]|[[File:MPP-Ne5.jpg|90px|Central African man, Pygmy type]]|[[File:MPP-Ne4.jpg|90px|San man, Bushman type]]}}
{{stack|[[File:MPP-Ne6.jpg|90px|Shilluk man, Nilotic type]]|[[File:MPP-Ne3.jpg|90px|Khoikhoi man, Hottentot type]]|[[File:MPP-Aeta.jpg|90px|Aeta man, Negrito type]]|[[File:MPP-Mel1.jpg|90px|Hula man, Papuo-Melanesian type]]}}
[[File:Meyers b1 s0148d.jpg|thumb|250px|アフリカの人々 ({{lang-de-short|Afrikanische Völker}}): サハラ以南のアフリカ人は、[[ドイツ語|ドイツ]][[百科事典]][[マイヤーズ・コンヴェルサシオン-レキシコン]]の第4版の第1巻のイラストで。]]
'''ネグロイド'''('''Negroid''')とは、身体的特徴に基づく歴史的[[人種]]分類概念の一つ。日本では一般に'''黒色人種'''・'''[[黒人]]'''と同義に理解される。[[ドイツ]]の人類学者[[ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ|ブルーメンバッハ]]によって提唱された五大人種説に基づく。現在でも便宜的・慣用的、またしばしば政治的に用いられる。これに分類される人々の主要な居住地は[[サハラ砂漠|サハラ]]以南の[[アフリカ]]大陸である。[[ラテン語]]のnigreos(ニグレオス、黒)に由来する。'''ニグロイド'''とも<ref group="注釈">戦前の日本では英語風の「ニグロイド」の訳語として「'''ニグロ人'''」という呼称も使われていた。例えば、[[1921年]](大正10年)[[11月6日]]付の[[大阪毎日新聞]]掲載記事「[{{新聞記事文庫|url|0100152017|title=船主と船員の争議頻発|oldmeta=00144565}} 船主と船員の争議頻発]」では「…米国に航して亦ニグロ人を雇傭し更にスエズでアラビヤ人を雇替え…」との記述が見られる。</ref>。
== 概要 ==
[[現生人類]]は、[[生物学]]上[[ヒト|ホモ・サピエンス]]というただ一種に属している。ただし、過去の[[自然人類学]]や[[文化人類学]]では、ネグロイド、および[[北アフリカ]]・[[ヨーロッパ]]・[[西アジア]]・[[アラブ世界|アラブ]]・[[南アジア]]などに見られる[[コーカソイド]](白色人種)、[[オセアニア]]に見られる[[オーストラロイド]]、東アジア・東南アジア・ポリネシア・南北[[アメリカ大陸]]などに見られる[[モンゴロイド]](黄色人種)を4大人種として分類していた。
{{要出典|[[デオキシリボ核酸|DNA]]分析の成果によれば、現生人類発祥の地はアフリカにあるとされ|date=2022年12月}}、ネグロイドは[[出アフリカ]]をせずアフリカにとどまった集団の直系の子孫とされる。したがってネグロイドの遺伝的多様性はその他すべての人種の遺伝的多様性よりも高い。
<!--また、人種間の[[遺伝]]的距離を計ると、人類集団はアフリカ人(ネグロイド)と西ユーラシア人(コーカソイド)のグループ、およびサフール人(オーストラロイド)と旧来モンゴロイドとされた東ユーラシア人(東南・東[[アジア人]])と[[インディアン]]、[[エスキモー]](南北アメリカ大陸)のグループの2つのグループに大別することができるとされる<ref>[[斎藤成也]]『DNAから見た日本人』筑摩書房 ちくま新書 525 ISBN 978-4480062253</ref>。(混血を考慮していないため疑問視する見方ある。)-->
なお、[[ヒトの肌の色|肌の色]]、および肌の色を発現させる遺伝子は、ヒトという種の集団の分化の過程で最も選択圧を受けやすく短期間に変化する形質の一つであり、肌の色の類似または相違だけでは、いわゆる「[[人種]]」を区別することはできない。
== 伝統的な下位区分 ==
伝統的な区分によれば、黒人は更に、
# [[メラノ・アフリカ人種]](コンゴイド)
# [[ナイロテック亜人種]]又は[[ナイロート]](メラノ・アフリカ人種の亜種)
# [[ネグリロ]]人種 Negrillo(ピグミー)
# [[カポイド|コイサン人種]](カポイド)
# [[マラガシー人種]]([[オーストロネシア語族]])
などに分けられてきた<ref>[[米山俊直]]『アフリカ学への招待』日本放送出版協会 NHKブックス 503 1986年6月 ISBN 9784140015032</ref>。2と6は<ref>[[寺田和夫]]『人種とは何か』</ref>を参照し加えた。
ネグロイドを'''コンゴイド'''と'''[[カポイド]]'''の2人種に分け、これと[[モンゴロイド]]、[[コーカソイド]]、[[オーストラロイド]]を合わせて5大人種とすることがある。また、[[アメリンド]]([[インディアン]])をモンゴロイドから分け、6大人種とする場合もある。
コンゴイドとカポイドは身体的特徴だけでなく、[[言語]]及び([[欧米]]化以前の)生活様式によっても区分された。
* コンゴイドは、[[ニジェール・コンゴ語族|ニジェール・コンゴ(ニジェール・コルドファン)語族]]([[バントゥー系民族]]、[[イボ人]])や[[ナイル・サハラ語族]]([[:en:Nilotic peoples]]、[[:en:Sudanic languages]])の言語を話し、[[農耕]]・[[牧畜]]生活を送っていた(もしくは現在も送っている)。
* カポイドは[[コイサン諸語]]の言語を話し、[[狩猟採集社会|狩猟採集]]生活を送っていた(もしくは現在も送っている)。
* 遺伝子の分析によると身長の低いネグリロは周囲のカポイドと近縁である。ネグリロの代表例はアフリカのコンゴのイトゥリの森に住む[[ムブティ族]]。[[ピグミー]]とも呼ばれるが、侮蔑的だととらえる向きもある。
== 解剖学的な特徴 ==
頭部はいわゆる、[[長頭]]である。[[グラベラ]]が発達し、[[オトガイ]]は後退気味である<ref name="nihonji">『日本人の顔 小顔・美人顔は進化なのか』 埴原和郎/著 講談社 1999年1月 ISBN 978-4-06-269048-5 </ref>。頭部全体は小さめである<ref name="katini">『勝ちにいくスポーツ生理学』 根本勇/著 山海堂 1999年9月 ISBN 978-4-381-10346-8</ref>。
手足が長く、特に膝から下が長い<ref name="nihonji"></ref>。手首、足首は細い<ref name="katini"></ref>。
[[腸腰筋]]が発達しており、骨盤が前傾している。腸腰筋はももを引き上げる役割がある。
[[骨密度]]が高く、[[骨粗鬆症]]になりにくい<ref>[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/08-%E9%AA%A8%E3%80%81%E9%96%A2%E7%AF%80%E3%80%81%E7%AD%8B%E8%82%89%E3%81%AE%E7%97%85%E6%B0%97/%E9%AA%A8%E7%B2%97%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E7%97%87/%E9%AA%A8%E7%B2%97%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E7%97%87 メルクマニュアル家庭版 60章 骨粗しょう症]</ref>。
西アフリカのネグロイドは瞬発力に優れると言われており<ref name="名前なし-1">『黒人はなぜ足が速いのか』 若原正己/著 新潮社 2010年6月 ISBN 978-4-10-603663-7</ref>、実際もオリンピックなどの世界的な大会において西アフリカにルーツを持つ選手が短距離走などで上位を独占している。東アフリカのネグロイドは持久力に優れると言われており<ref name="名前なし-1"/>、マラソンなどではケニアやエチオピアにルーツを持つ選手が世界的な大会で上位を独占している。(マラソンの世界ランキング上位100選手を輩出する率は、平均を1とした場合、ケニア全体で6.03、内陸部のナンディ人は22.9と言う驚くべき数字が確認されている)。これらは異なる国や環境のもとで育ったアフリカ系移民の間でも同様に高い確率で優れた選手が輩出されている。このことから遺伝的に、精神的かつ肉体的な優位性が元々備わっているという可能性も示唆されていたが、オリンピックのメダル数に関する統計が一般化したことから{{いつ範囲|date=2021年4月|現在}}では黒人の身体能力は極めて限定的な領域でしか発揮されていない<!--(「極めて限定的な領域」とは?定量化が不十分。データを実際に示したら良い。)-->ことがデータによって明らかにされている。
==遺伝子==
[[File:Haplogrupos ADN-Y África.PNG|thumb|right|200px|アフリカ大陸のY染色体ハプログループ]]
ネグロイドは[[出アフリカ]]をせず、アフリカにとどまったグループである。人種を特徴づける[[Y染色体ハプログループ]]として[[ハプログループA (Y染色体)|A]]、[[ハプログループB (Y染色体)|B]]、[[ハプログループE (Y染色体)|E]]が挙げられる<ref>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。ネグロイドを除いた現生人類の核遺伝子には絶滅したネアンデルタール人類特有の遺伝子が1 - 4 %混入しているとの研究結果もあるため、ホモ・サピエンスの原型により近いとも言える。
==古代ローマにおけるネグロイド観==
2世紀の[[ローマ帝国]]の有名な学者[[ガレノス]]は、厚い唇、広い鼻孔、縮れた頭髪、黒い目、しわのある手と足、薄い眉毛、とがった歯、長い陰茎、際立った陽気さを、黒人男性の10の特徴として列挙している。そして、この際立った陽気さが「欠陥のある頭脳とそれに由来する知性の弱さゆえに、黒人男性を支配している」と彼は述べている<ref name="名前なし-2">ロナルド・シーガル著、設楽國廣訳『イスラームの黒人奴隷』明石書店 1993年9月 ISBN 9784750325675 </ref>。1世紀の[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]は、エティオピアの地誌を記載している『博物誌』6巻195節において「西の方にニグロイ族がおり、その王はただひとつの眼が額にある。主にヒョウやライオンの肉を主食としている「野獣食人」、何でもかんでも貪食する「貪食族」、その食事が人肉である「食人族」」がいる、と後述のイブン・ハルドゥーンの記載と類似する内容を記載している。
== 中世イスラム世界におけるネグロイド観==
[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]は最期の説教で「アラブ人は非アラブ人に優越せず、非アラブ人はアラブ人に優越しない。白人は黒人に優越せず、黒人は白人に優越しない。人はただ正しさによってのみ優越する」と言っている<ref>{{Cite web|url=https://abuaminaelias.com/dailyhadithonline/2016/01/04/hadith-on-racism-your-father-adam-is-one-so-none-is-superior-except-by-good-deeds/|title=Farewell Sermon: No one is superior to another except by good deeds|accessdate=2019-01-15|last=Elias|first=Abu Amina|date=2016-01-04|website=Daily Hadith Online|language=en-US}}</ref>。この戒めは多くのイスラム教徒に順守され、結果として黒人の信徒も増えていったものの、[[ジャーヒリーヤ|ジャーヒリーヤ時代]]から続く黒人への偏見は根強く残り、イスラム史初期の黒人詩人の詩からも差別の存在がうかがえる。
『もし私の肌がピンクならば、女性たちは私を愛すだろう。しかし、神は私を黒さと結婚させた』と書いたスハイムは660年に亡くなったアフリカ出身の奴隷であった。『私は奴隷であるが、私の魂は気高く自由である。私は肌の色は黒いが、私の性格は白いのである。』彼は詩の中で彼の本質的な尊厳を表現している。
ヌサイブ・ブン・ラバーブは726年に亡くなったが、アラブ人の詩人からの肌の色を理由とする自分への非難に対し、彼自身、痛烈な応答をしている。『私がこのものを言う舌とこの勇敢な心を持っている限り、黒さが私の名誉を貶めることはない。ある者は血統により引き立てられるが、私の詩の詩句が私の血統なのだ!ものを言わない白人より、感受性の鋭い心とはっきりとものを言う黒人のほうがどんなにすばらしいことか!』
[[イスラーム文化]]は女性美を例外として、本質的に肉体的な資質よりも知的な資質を重んじた。独特の肉体的強さを知的に劣ることと結びつけることで、黒人への侮蔑が正統化され、助長された<ref name="名前なし-2"/>。
中世イスラーム世界での黒人奴隷による反乱に、9世紀に[[アッバース朝]]時代の[[メソポタミア]]南部で発生した[[ザンジュの乱]]が知られる<ref>{{Cite web|和書| author=[[保坂修司]] | year=2020 | url=https://www.newsweekjapan.jp/hosaka/2020/07/post-36_2.php | title=アラブ世界に黒人はいるか、アラブ人は「何色」か、イスラーム教徒は差別しないのか | publisher=ニューズウィーク日本版 | date=2020-07-22 | accessdate=2020-07-25 }}</ref>。
11世紀の歴史家[[バクリー]]は「スーダン人たちは人間よりも動物に近く、彼らはもっぱら物欲に興味を持ち、しばしば食人を行い、ほとんど羞恥心を持たない」と記している<ref name="Negroid">[[佐藤次高]]、[[鈴木董]]『都市の文明イスラーム 』講談社現代新書―新書イスラームの世界史 1993年9月 ISBN 4061491628 </ref>。
11世紀のイスラーム時代の重要都市トレドの裁判官であるサイード・アルアンダルスィーは、「彼らの気質は血の気が多くなり、気性は激しく、彼らの色は黒く、彼らの頭髪は縮れている」「彼らは自制心と心の安定に欠け、移り気と愚かさと無知が勝っている。エチオピアの果てに住んでいる黒人、ヌビア人、ザンジなどがそれにあたる」と記している<ref name="名前なし-2"/>。
12世紀の地理学者[[イドリースィー]]は「スーダン人たちは最も堕落した人々であるが、子供を生む能力は最もすぐれている人々である。彼らの生活はまるで動物のようで、彼らは物と女の欲求以外になんの関心もしめさない」と記している<ref name="Negroid"/>。
14世紀の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は「彼らの教養の無さや白人に対する無礼な態度をみて、つくづくこんなところまで来てしまったことを後悔した」と記している<ref name="Negroid"/>。一方で、イブン・バットゥータは[[マリ王国]]での記録において、「彼らの美徳とすべき行為として、(まず第一に、)不正行為が少ない点にある。つまりスーダン人(黒人)のスルタンは、誰一人として、不正行為を犯す事を許さない。次には、彼らの地方で安全の保障が行き届いている点であり、従って、その地方を旅する者は何の心配事も無く、(長く)滞在する者でも強盗や追い剥ぎに遭うことが無い。……彼らの美徳の他の一つとして、彼らが(イスラームの)礼拝を厳守し、それを社会集団の中で彼らの義務行為としていること……金曜日には、一般の人々は早朝にモスクに行かないと、あまりの混雑のため、どこで礼拝しているのかわからなくなってしまうほどである。と述べている<ref>[[イブン・バットゥータ]]、家島彦一、『大旅行記8』[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]、平凡社 </ref>。
中世イスラムの最も偉大な歴史家[[イブン・ハルドゥーン]]は「黒人の大半は洞穴や密林に住み、草を食い、野蛮のままで社会的集団生活をせず、たがいに殺して食べる。黒人は一般に軽率で興奮しやすく、非常に情緒的な性格で、メロディを聞けばいつでも踊りたがり、また、黒人はどこにおいても愚か者とされている」と記している<ref name="Negroid"/>。
== オーストラロイドなどとの違い ==
[[南インド]]の[[ドラヴィダ人]]や[[オーストラリア]]の[[アボリジニ]]、[[メラネシア人|メラネシアン]]など[[オセアニア]]の先住民たちは、その肌の色の濃さ、メラネシア人などに関しては巻き毛の頭髪の形状からも黒人と思われる場合もあるが、彼らはオーストラロイドである。また[[ポリネシア人|ポリネシアン]]、[[ミクロネシア#人種・民族|ミクロネシアン]]はモンゴロイドとオーストラロイドの混合人種である。同様に[[インド亜大陸]]で人口の70%を占める[[インド・アーリア人|アーリア人]]も同じく肌の色から黒人だと思われる場合があるが、彼らの場合はコーカソイドとオーストラロイドの混合人種である。いずれもアフリカ人とは遺伝的に異なる集団である。
== イエズス会士による蔑称 ==
[[画像:NanbanGroup.JPG|thumb|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、日本に到来したイエズス会員などの[[南蛮]]人たち。[[コーカソイド|白人]]の他、黒人も描かれている。]]
「黒人」は人種のひとつであるが、[[人種差別]]的な見方からすれば[[侮蔑#侮蔑表現の分類と種類|蔑称]]として使用されることがあった。たとえば、[[イエズス会]][[宣教師]]の[[フランシスコ・カブラル]]は、[[日本人]]や[[大韓民国#国民|韓国人]]を黒人とみなし、「黒人」を蔑称として使用している。
{{Quotation|カブラルは、日本人を黒人で低級な国民と呼び、その他、侮蔑的な表現を用いた。かれはしばしば日本人にむかい、「とどのつまり、おまえたちは日本人(<small>ジャポンイス</small>)だ」というのがつねで、日本人に対して、日本人が誤った低級な人間であることを理解させようとした。また、イエスズ会は韓国人に対しても黒人で低級な民族であり、周辺民族で最も野蛮な人種としていた。<ref>カブラルと対立したヴァリニャーノの記述による。松田毅一「南蛮史料の発見 よみがえる信長時代」 中公新書 1964,95-6頁</ref>。}}
また、同じくイエズス会巡察師[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]もその著書『東インド巡察記』において、インド人を黒人とみなし、「黒人」を蔑称として使用している<ref>高橋裕史『イエズス会の世界戦略』(講談社選書メチエ)、講談社、2006年.p34</ref>。
{{Quotation|(インド人は)あまりに惨めであまりに卑劣なため、かれらが黒色人種とされても仕方がないのである。|『東インド巡察記』第2章}}
{{Quotation|黒色人種はみなほとんど知力がなく性癖も悪い。|『東インド巡察記』第26章}}
ヴァリニャーノのこうした人種差別意識の根拠となったのが、[[アリストテレス]]「政治学」第1巻の先天的奴隷説であるとされる<ref>高橋同書、p/36</ref>。
なお、日本人を黒人とみなしたカブラルと異なり、ヴァリニャーノは日本人を白人とみなした<ref>高橋同書、p/35</ref>。
{{Quotation|(日本人は)みな色が白く、洗練されており、しかも極めて礼儀正しい。}}
と、日本人を白人と設定することにより、本国からの布教の支援を受けようとしていた(白人とすると本国から金銭と人的支援が得られたのである)。
== アメリカにおける状況 ==
米国などではニグロイド(negroidの英語発音に基づくカナ表記)という言い方は[[差別用語]]とされ、[[ポリティカル・コレクトネス|政治的に正しく]]、丁寧な呼び方として「アフリカ系の○○ (African-○○)」を使うことがある。例えば[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人であった場合、[[アフリカ系アメリカ人]] (African-American) という。ネグロイドは元来、人種に対する呼称であり、[[差別]]的な意味合いは主に黒人[[奴隷]]を使用していた[[欧米]]諸国の[[社会]]的要因から派生したものである。ニグロと縮めて呼ぶのは前時代的な語法であり、現在では明らかな差別用語とされている。さらに「[[ニガー]] (nigger)」 とした場合、その差別的意味は強まる。
米国以外の英語圏では、ブラック・パーソン(black person、複数形はブラック・ピープル - black people)と呼ぶのが社会的、[[政治]]的に正しいとされている。これは、南アジア、カリブ、太平洋諸島などアフリカ以外の地域にも肌が黒い人種が存在し、彼らを誤って「アフリカ系」と呼んでしまうことを避けるためである。「ブラック」と縮めた場合は、非公式な意味合いが強まる。
最近の米国では「アフリカ系」がよく使われるが、米国においても、必ずしも「ブラック」という呼称が差別用語にあたるとは限らない。実際に黒人は自分達のことをブラックと呼ぶことも多く、テレビのニュース番組でも「ブラック」という言葉はしばしば用いられる。ただし、明確な差別用語であるニガーという呼称も、アフリカ系同士の間では、仲間意識を込めた呼びかけとしても使用されることからもわかるように、こうした用語をアフリカ系の人が使用する場合と他人種の人が使用する場合では意味合いや受け取られ方が異なる。[[白人]]や[[モンゴロイド|黄色人種]]が用いる際は用いる文脈に考慮し慎重を期さねば差別語的意味を汲み取られる可能性もあることに注意する必要がある。すなわち「ブラック」という呼称はある意味で転換された[[社会的スティグマ|スティグマ]]であり、当該の主体が用いる場合と、第三者が用いることには全く意味が違うことに留意すべきである。
さらに米国における黒人自らの文脈で「ブラック」を用いた例として、[[アフリカ系アメリカ人公民権運動|黒人公民権運動]]の中で用いられてきた「'''黒は美しい([[:en:Black is Beautiful|ブラック・イズ・ビューティフル]])'''」というスローガンは象徴的である。同様に黒人コミュニティに関係した団体組織の多くが自ら名称に「ブラック」を用いている。また『Black Hair Style』という黒人専門のヘアスタイル[[情報誌]]や、『Black Enterprise』といった黒人専門の[[ビジネス]][[雑誌]]の存在もこの用例であろう。
日本では「黒人」の言い換え語として研究者は「アフリカン・アメリカン」を使うことが多いが、アフリカ人全てが黒人ではなく、またアメリカにいる黒人全てがアフリカ出身でもないため、この用語には疑問も出ている<ref>[[藤田みどり (比較文化史)|藤田みどり]]『アフリカ「発見」』岩波書店など</ref>。しかし、米国などにおいても、アフリカ以外の土地の出身者であっても、黒人ならば「アフリカン・アメリカン」と呼ばれてしまうことが多いのが実情である。なお、アメリカに於いては過去の奴隷政策の反省等から、州ごとに黒人に対する様々な[[アファーマティブ・アクション|優遇措置]]があり、これが州法に違反しているとして問題化したこともある。
アメリカ合衆国は1995年に、人種・民族の自称についての国勢調査を行っている。これは、彼ら自身を[[白人]]、黒人、[[ヒスパニック]]、[[インディアン]]、アラスカ先住民(インディアン、[[エスキモー]]、[[アレウト族|アレウト]])であると特定した人々、あるいは混血に対して、それぞれの人種・民族グループの呼称で、定まった呼び名を好まない人や、特に選ぶものがなかった人も含めて、好きな呼称はどれか選んでもらったものである。黒人の場合は、以下の通りであった。混血も含め、単純に「アフリカ系」でない者も含まれて、一番好まれている呼称は「'''ブラック(黒人)'''」だった<ref>Bureau of Labor Statistics, U.S. Census Bureau Survey, May 1995. </ref>。
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| 1. 黒人(Black)|| 44.15 %
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| 2. アフリカ系アメリカ人(African American)|| 28.07 %
|-
| 3. アフロ=アメリカン(Afro-American)|| 12.12 %
|-
| 4. ニグロ(Negro)|| {{0}}3.28 %
|-
| 5. その他の呼称 || {{0}}2.19 %
|-
| 6. 色つき(Colored)|| {{0}}1.09 %
|-
| 7. 無回答 || {{0}}9.11 %
|}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[人種]]
* [[混血]]
* [[人種差別]]
* [[奴隷]]
* [[ニガー]]
* [[ムラート]]
* [[サンボ]]
* [[ブラッドリー効果]]
* [[霊歌|スピリチュアル(黒人霊歌)]]
* [[プランテーション・ソング]]
* [[ブラックアフリカ]]
{{人種}}
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{{DEFAULTSORT:ねくろいと}}
[[Category:自然人類学]]
[[Category:アフリカの民族]]
[[Category:人種]]
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[[nl:Zwarten]]
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11,051 |
一分銀
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一分銀(いちぶぎん)は、江戸時代末期に流通した銀貨の一種。
計数銀貨としての南鐐二朱銀の成功を受け、天保8年(1837年)に鋳造開始された天保一分銀を嚆矢とする。従来の丁銀や豆板銀が、重量を以て貨幣価値の決まる秤量貨幣(秤量銀貨)だったのに対し、額面が記載された表記貨幣(計数貨幣)であった。
形状は長方形で、表面には「一分銀」、裏面には「定 銀座 常是」と刻印されている。額面は1分。その貨幣価値は、金貨である一分金と等価とされ、したがって1/4両に相当し、また4朱に相当した。
以前の南鐐二朱銀が「以南鐐八片換小判一兩」と一両小判との交換率を表記していたのに対し、本銀貨は「一分銀」と直接額面が表示されることとなり、ここで江戸時代の計数銀貨としての完成形を見た。
このような名目貨幣は、鎖国の下、幕府による貿易管理と金座・銀座による金銀売買統制によって達成されたとされる。しかし一見成功したかに見えた名目貨幣も後の外圧による金流出によって瓦解することとなった。
一分銀による包銀としては、俗に「切餅」と呼ばれた一分銀100枚による25両包が当時多く作られ、またより少ない枚数による包銀も存在した。
保字金(天保金)の発行後3箇月半後、保字銀(天保銀)および一分の額面をもつ計数銀貨が同日の天保8年11月7日(1837年12月4日)から鋳造が始まり、同12月18日(1838年1月13日)から通用開始された。これが天保一分銀(てんぽういちぶぎん)であり、後の安政一分銀発行後は古一分銀(こいちぶぎん)とも呼ばれた。
純銀に近いものの一両あたりの量目は9.2匁に過ぎず、保字銀の含有銀量を一両あたりに換算した15.6匁にはるかに及ばなかった。これは、幕府の財政難を埋め合わせるための出目(改鋳利益)獲得が目的の名目貨幣(定位貨幣)であった。天保一分銀、および安政一分銀共に発行高は同時期の丁銀をはるかに上回るものとなり、これ以降計数銀貨が流通の主流となった。一分銀発行以降、市場における両単位の貨幣の流通の多くを一分銀が占めたことから、後の開港後における小判流出の元凶となった。これは文政南鐐二朱銀2枚分の量目4.0匁と比較して42.5%の大幅な減量であり、文政南鐐一朱銀4枚分の量目2.8匁に対しても約18%の減量である。銀量の減少と引換にさらに精錬の度合いを上げた花降銀(はなふりぎん)を使用し、勘定所役人らは表面に「花降一分銀(はなふりいちぶぎん)」と表記することを計画したが、水野忠邦の反対に遭い単に「一分銀」と表記し、周囲の額に桜花を20個配置することになった。この桜花のデザインから、「桜」が一分銀の愛称となったという。
裏面の「是」字の八画および九画が交差した交叉是のもので、側面の仕上げが滑らかで桜の花弁が打たれているものが天保一分銀である事が多いが、厳密には周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断することが定着している。
公儀灰吹銀および回収された旧銀から一分銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は天保一分銀では当初鋳造高の2.5%と設定され、天保14年(1843年)からは1.6%に減額された。また天保14年8月17日(1843年9月10日)に水野忠邦は金座および銀座に金銀の一時吹止めを命じ、一分銀も一時吹止めとなった。鋳造開始から吹止めまでの期間の鋳造高は、『銀座掛御用留』の記録では15,153,802両であり、このとき吹替えにより幕府が得た出目は2,430,000両としている。この一時吹止めは天保の改革の一環として水野忠邦による新たな幣制改革の構想によるものとされるが、上地令の公布を機に各方から猛烈な反発に逢い、老中の罷免に伴い約一年後の弘化元年9月13日(1844年10月24日)に天保金銀の鋳造が再開された。
また、表面に「庄」の極印が打たれたものが存在し、慶應4年5月20日(1868年7月9日)から同年6月15日(8月3日)までの期間に鶴岡藩(庄内藩)において、良質の天保一分銀を他領から流入する銀質の劣る安政一分銀と区別し増歩通用させるために、鶴岡および酒田において極印を打ったものとされ、庄内一分銀(しょうないいちぶぎん)と呼ばれる。打印数は酒田において30万両(推定)、鶴岡において13万両とされ、裏面の桜花額縁の右下側にY極印を打ったものが酒田製、左下側のものが鶴岡製と推定されているが資料による裏付けはなされていない。
日米和親条約締結により安政6年(1859年)に開港され、外国人大使の小判入手が目的の洋銀から一分銀への両替要求が急増し、貿易港周囲における市中の一分銀が払底したため、幕府に対し一分銀の増鋳が要求された。しかし一分銀の払底は解消されず、また、天保一分銀の銀品位は99%程度と高く、同量の90%程度の洋銀と交換したのでは幕府が損失を被るため、ハリスは、せめて洋銀を一分銀に改鋳して発行するよう提案し幕府もこれを受け入れ、同年8月13日(1859年9月9日)より洋銀と同品位の一分銀が通用開始されることになったただし、小判流出防止に対して何の効果をもたらすものではなかった。このとき発行されたのが安政一分銀(あんせいいちぶぎん)であり、古一分銀に対し新一分銀(しんいちぶぎん)とも呼ばれる。
裏面の「是」字の八画および九画が交差せず、側面の仕上げが鑢(やすり)目となっているものが多いが、周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断する方が確実である。
慶應4年4月17日(1868年5月9日)、維新政府は銀座を接収し、同月21日、太政官に設立された貨幣司(かへいし)は明治2年2月5日(1869年3月17日)までに銀座で旧幕府発行のものを踏襲した一分銀および一朱銀を鋳造した。
このときのものが貨幣司一分銀(かへいしいちぶぎん)と呼ばれるものである。裏面の「常」字の第一~三画までが「川」の字に近く、川常一分銀(かわつねいちぶぎん)とも呼ばれ、鋳造期間が明治に改元された後も続くことから明治一分銀(めいじいちぶぎん)とも呼ばれる。また従来の一分銀に対し一般的に質が劣り亜鉛を含むものがあり、亜鉛差一分銀(あえんさしいちぶぎん)と呼ばれることもある。ただし明治一分銀とされるものにも銀90%程度の良質なものも存在し、その詳細については不明である。
明治元年中、東京において300,508両2分、明治元年7月〜2年2月にかけて大阪長堀において766,325両が鋳造された。
「川常」であることまた逆の桜花の位置で安政一分銀と区別されるが、これも諸説あり現在のところ確定的でない。
二分判、一朱銀および天保通寳と同様に藩および民間による贋造が横行し、久留米藩では明治元年9月(1868年)から翌年6月までの間に3万両にも及ぶ鋳造を行ったとされる。
現存数が少ないことから、天保一分銀・安政一分銀に比べると現在の古銭市場での取引価格が高い。
地方貨幣で一分の額面を持つ、または一分通用を想定した銀貨としては、秋田笹一分銀、秋田二匁封銀、会津一分銀判、加賀南鐐一分銀、但馬南鐐一分銀、美作一分銀などが挙げられる。
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"text": "二分判、一朱銀および天保通寳と同様に藩および民間による贋造が横行し、久留米藩では明治元年9月(1868年)から翌年6月までの間に3万両にも及ぶ鋳造を行ったとされる。",
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"text": "現存数が少ないことから、天保一分銀・安政一分銀に比べると現在の古銭市場での取引価格が高い。",
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"text": "地方貨幣で一分の額面を持つ、または一分通用を想定した銀貨としては、秋田笹一分銀、秋田二匁封銀、会津一分銀判、加賀南鐐一分銀、但馬南鐐一分銀、美作一分銀などが挙げられる。",
"title": "地方貨幣"
}
] |
一分銀(いちぶぎん)は、江戸時代末期に流通した銀貨の一種。
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'''一分銀'''(いちぶぎん)は、[[江戸時代]]末期に流通した[[銀貨]]の一種。
== 概要 ==
計数銀貨としての[[南鐐二朱銀]]の成功を受け、[[天保]]8年([[1837年]])に鋳造開始された天保一分銀を嚆矢とする。従来の[[丁銀]]や[[豆板銀]]が、重量を以て貨幣価値の決まる[[秤量貨幣]]([[秤量銀貨]])だったのに対し、額面が記載された表記貨幣([[計数貨幣]])であった。
形状は長方形で、表面には「一分銀」、裏面には「定 銀座 常是」と刻印されている。額面は1[[分]]。その貨幣価値は、[[金貨]]である[[一分金]]と等価とされ、したがって1/4[[両]]に相当し、また4[[朱]]に相当した。
以前の南鐐二朱銀が「以南鐐八片換小判一兩」と一両[[小判]]との交換率を表記していたのに対し、本銀貨は「一分銀」と直接額面が表示されることとなり、ここで江戸時代の計数銀貨としての完成形を見た<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p230-231.]]</ref>。
このような名目貨幣は、[[鎖国]]の下、幕府による貿易管理と[[金座]]・[[銀座 (歴史)|銀座]]による金銀売買統制によって達成されたとされる<ref>岩橋勝, 2002, 「近世の貨幣・信用」桜井英治, 中西聡編『流通経済史』山川出版社, p458.</ref>。しかし一見成功したかに見えた名目貨幣も後の外圧による金流出によって瓦解することとなった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p248-285.]]</ref>。
一分銀による[[包銀]]としては、俗に「切餅」と呼ばれた一分銀100枚による25両包が当時多く作られ、またより少ない枚数による包銀も存在した。
== 天保一分銀 ==
{{右
|{{Vertical images list
|幅=220px
|1=Tenpo-1bugin.jpg
|2=天保一分銀
|3=Shonai-1bugin.jpg
|4=庄内一分銀
}}
}}
[[天保小判|保字金]](天保金)の発行後3箇月半後、[[天保丁銀|保字銀]](天保銀)および一分の額面をもつ計数銀貨が同日の天保8年11月7日(1837年12月4日)から鋳造が始まり、同12月18日(1838年1月13日)から通用開始された。これが'''天保一分銀'''(てんぽういちぶぎん)であり、後の安政一分銀発行後は'''古一分銀'''(こいちぶぎん)とも呼ばれた。
純銀に近いものの一両あたりの量目は9.2[[匁]]に過ぎず、保字銀の含有銀量を一両あたりに換算した15.6匁にはるかに及ばなかった。これは、幕府の財政難を埋め合わせるための出目(改鋳利益)獲得が目的の[[名目貨幣]]([[定位貨幣]])であった。天保一分銀、および安政一分銀共に発行高は同時期の[[丁銀]]をはるかに上回るものとなり、これ以降計数銀貨が流通の主流となった。一分銀発行以降、市場における両単位の貨幣の流通の多くを一分銀が占めたことから、後の開港後における[[小判]]流出の元凶となった。これは[[南鐐二朱銀#新南鐐二朱銀|文政南鐐二朱銀]]2枚分の量目4.0[[匁]]と比較して42.5%の大幅な減量であり、[[一朱銀#文政南鐐一朱銀|文政南鐐一朱銀]]4枚分の量目2.8匁に対しても約18%の減量である。銀量の減少と引換にさらに精錬の度合いを上げた[[灰吹銀|花降銀]](はなふりぎん)を使用し、[[勘定所]]役人らは表面に「'''花降一分銀'''(はなふりいちぶぎん)」と表記することを計画したが、[[水野忠邦]]の反対に遭い単に「一分銀」と表記し、周囲の額に[[桜花]]を20個配置することになった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p407-409.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p103.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p233.]]</ref>。この桜花のデザインから、「桜」が一分銀の愛称となったという。
裏面の「是」字の八画および九画が交差した交叉是のもので、側面の仕上げが滑らかで桜の花弁が打たれているものが天保一分銀である事が多いが、厳密には周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断することが定着している<ref>[[#Asai2003|浅井(2003), p12-28.]]</ref><ref name="Aoyama1982-126">[[#Aoyama1982|青山(1982), p126-128.]]</ref>。
[[灰吹銀|公儀灰吹銀]]および回収された旧銀から一分銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は天保一分銀では当初鋳造高の2.5%と設定され、天保14年(1843年)からは1.6%に減額された。また天保14年8月17日(1843年9月10日)に水野忠邦は金座および銀座に金銀の一時吹止めを命じ、一分銀も一時吹止めとなった。鋳造開始から吹止めまでの期間の鋳造高は、『銀座掛御用留』の記録では15,153,802両であり、このとき吹替えにより[[江戸幕府|幕府]]が得た出目は2,430,000両としている。この一時吹止めは[[天保の改革]]の一環として水野忠邦による新たな幣制改革の構想によるものとされるが、[[上地令]]の公布を機に各方から猛烈な反発に逢い、老中の罷免に伴い約一年後の[[弘化]]元年9月13日(1844年10月24日)に天保金銀の鋳造が再開された<ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p138-139.]]</ref><ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p414-418.]]</ref><ref>[[#Shimizu1996|清水(1996), p13.]]</ref>。
また、表面に「庄」の極印が打たれたものが存在し、慶應4年5月20日(1868年7月9日)から同年6月15日(8月3日)までの期間に鶴岡藩([[庄内藩]])において、良質の天保一分銀を他領から流入する銀質の劣る安政一分銀と区別し増歩通用させるために、[[庄内藩|鶴岡]]および[[酒田市|酒田]]において極印を打ったものとされ、'''庄内一分銀'''(しょうないいちぶぎん)と呼ばれる<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p128.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p292.]]</ref>。打印数は酒田において30万両(推定)、鶴岡において13万両<ref>[[#Shimizu1996|清水(1996), p6-11.]]</ref>とされ、裏面の桜花額縁の右下側にY極印を打ったものが酒田製、左下側のものが鶴岡製と推定されているが資料による裏付けはなされていない。
== 安政一分銀 ==
[[画像:Ansei-1bugin.jpg|thumb|220px|安政一分銀]]
[[日米和親条約]]締結により[[安政]]6年(1859年)に開港され、外国人大使の[[小判]]入手が目的の[[洋銀]]から一分銀への[[両替]]要求が急増し、貿易港周囲における市中の一分銀が払底したため、[[江戸幕府|幕府]]に対し一分銀の増鋳が要求された。しかし一分銀の払底は解消されず、また、天保一分銀の銀品位は99%程度と高く、同量の90%程度の洋銀と交換したのでは幕府が損失を被るため、[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]は、せめて洋銀を一分銀に改鋳して発行するよう提案し幕府もこれを受け入れ、同年8月13日(1859年9月9日)より洋銀と同品位の一分銀が通用開始されることになった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p450-452.]]</ref><ref name="Tebiki1998-110">[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p110-111.]]</ref>ただし、小判流出防止に対して何の効果をもたらすものではなかった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p278.]]</ref>。このとき発行されたのが'''安政一分銀'''(あんせいいちぶぎん)であり、古一分銀に対し'''新一分銀'''(しんいちぶぎん)とも呼ばれる。
裏面の「是」字の八画および九画が交差せず、側面の仕上げが鑢(やすり)目となっているものが多いが、周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断する方が確実である<ref name="Aoyama1982-126" /><ref>[[#Asai2003|浅井(2003), p33-62.]]</ref><ref name="Tebiki1998-110" />。
== 貨幣司一分銀 ==
[[画像:Kaheishi-1bugin.jpg|thumb|220px|貨幣司一分銀]]
[[慶應]]4年4月17日(1868年5月9日)、維新政府は[[銀座 (歴史)|銀座]]を接収し、同月21日、[[太政官]]に設立された貨幣司(かへいし)は[[明治]]2年2月5日(1869年3月17日)までに銀座で旧幕府発行のものを踏襲した一分銀および[[一朱銀]]を鋳造した。
このときのものが'''貨幣司一分銀'''(かへいしいちぶぎん)と呼ばれるものである。裏面の「常」字の第一~三画までが「川」の字に近く、'''川常一分銀'''(かわつねいちぶぎん)とも呼ばれ、鋳造期間が明治に改元された後も続くことから'''明治一分銀'''(めいじいちぶぎん)とも呼ばれる。また従来の一分銀に対し一般的に質が劣り[[亜鉛]]を含むものがあり、'''亜鉛差一分銀'''(あえんさしいちぶぎん)と呼ばれることもある。ただし明治一分銀とされるものにも銀90%程度の良質なものも存在し、その詳細については不明である。
明治元年中、[[東京]]において300,508両2分、明治元年7月〜2年2月にかけて[[大阪]][[長堀通|長堀]]において766,325両が鋳造された<ref name="shinkyukingin" /><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p287-288.]]</ref>。
「川常」であることまた逆の桜花の位置で安政一分銀と区別されるが<ref name="Aoyama1982-126" />、これも諸説あり現在のところ確定的でない<ref>[[#Asai2003|浅井(2003), p70-98.]]</ref>。
[[二分金|二分判]]、一朱銀および[[天保通宝|天保通寳]]と同様に藩および民間による贋造が横行し、[[久留米藩]]では明治元年9月(1868年)から翌年6月までの間に3万両にも及ぶ鋳造を行ったとされる<ref>澤田章 『明治財政の基礎的研究』</ref>。
現存数が少ないことから、天保一分銀・安政一分銀に比べると現在の古銭市場での取引価格が高い。
== 一覧(鋳造開始・品位・量目・鋳造量) ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#ffffff"
|+
! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |名称
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造開始
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |分析品位([[造幣局 (日本)|造幣局]])<ref name="koga">甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年</ref>
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定量目
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造量
<ref name="shinkyukingin">『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 [[大蔵省]]、1875年</ref>
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |天保一分銀(古一分)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |天保8年-安政元年<br>([[1837年]]-[[1854年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |金0.21%/銀98.86%/雑0.93%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2.3[[匁]]<br>(8.62[[グラム]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |19,729,139[[両]]<br>(78,916,556枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |安政一分銀(新一分)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |安政6年-明治元年<br>([[1859年]]-[[1868年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |金0.07%/銀89.36%/雑10.57%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2.3匁<br>(8.62グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |25,471,150両<br>(101,884,600枚)<ref group="注釈">28,480,900両(113,923,600枚)の記録もあり。[[小葉田淳]] 『日本の貨幣』 [[至文堂]]、1958年, p201、『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』</ref>
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |貨幣司一分銀(川常)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |明治元年-2年<br>([[1868年]]-[[1869年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |金0.09%/銀80.66%/雑19.25%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2.3匁<br>(8.62グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |1,066,833両2分<br>(4,267,334枚)
|}
== 地方貨幣 ==
[[地方貨幣]]で一分の額面を持つ、または一分通用を想定した銀貨としては、[[秋田笹一分銀]]、[[秋田二匁封銀]]、[[会津一分銀判]]、[[加賀南鐐一分銀]]、[[但馬南鐐一分銀]]、[[美作一分銀]]などが挙げられる<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p293-297.]]</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=浅井晋吾 |title=新・一分銀分類譜 |publisher=書信館出版 |date=2003 |isbn=4-901553-07-0 |ref=Asai2003}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author1=瀧澤武雄|authorlink1=瀧澤武雄|author2=西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|author=清水恒吉 |title=南鐐蔵版 地方貨幣分朱銀判価格図譜 |publisher=南鐐コイン・スタンプ社 |date=1996 |isbn= |ref=Shimizu1996}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
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11,052 |
陸軍中野予備校
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『陸軍中野予備校』(りくぐんなかのよびこう)は、安永航一郎による漫画作品。
週刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー』(小学館)に1985年42号から1986年52号まで連載され、連載終了後に読み切り2本(週刊少年サンデー増刊号1991年10月号、11月号掲載)が描かれた。単行本は少年サンデーコミックス(小学館)より全6巻が刊行されている。
「陸軍中野予備校」出身の主人公、酢堂大雑が、先輩の有川雄妻らの助けを借りて、世界の政治・経済の掌握(=合法的な世界征服)を狙う秘密国家「南蛮帝国」の手下ゲゲーベン一味と、しょうもないバトルを繰り広げるギャグ漫画である。
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『陸軍中野予備校』(りくぐんなかのよびこう)は、安永航一郎による漫画作品。 週刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー』(小学館)に1985年42号から1986年52号まで連載され、連載終了後に読み切り2本(週刊少年サンデー増刊号1991年10月号、11月号掲載)が描かれた。単行本は少年サンデーコミックス(小学館)より全6巻が刊行されている。 「陸軍中野予備校」出身の主人公、酢堂大雑が、先輩の有川雄妻らの助けを借りて、世界の政治・経済の掌握(=合法的な世界征服)を狙う秘密国家「南蛮帝国」の手下ゲゲーベン一味と、しょうもないバトルを繰り広げるギャグ漫画である。
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『'''陸軍中野予備校'''』(りくぐんなかのよびこう)は、[[安永航一郎]]による[[漫画]]作品。
週刊少年漫画雑誌『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])に[[1985年]]42号から[[1986年]]52号まで連載され、連載終了後に読み切り2本([[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]][[1991年]]10月号、11月号掲載)が描かれた。単行本は少年サンデーコミックス(小学館)より全6巻が刊行されている。
「陸軍中野予備校」出身の主人公、酢堂大雑が、先輩の有川雄妻らの助けを借りて、世界の政治・経済の掌握(=合法的な世界征服)を狙う秘密国家「南蛮帝国」の手下ゲゲーベン一味と、しょうもないバトルを繰り広げる[[ギャグ漫画]]である。
== あらすじ ==
; 酢堂大雑が上京
: 昭和19年(1944年)、[[陸軍中野学校]]生の質を向上させるべく酢堂綱正少将が「陸軍中野予備校」を設立した。「陸軍中野学校」は戦争終結と共に消滅するが、予備校だけは現在まで存続している。そこでは、諜報活動に必要な様々な特殊技能の訓練が行われており、「不眠」、「心拍停止」、「骨格変形による変装」、「超人的格闘術」といった常軌を逸した技能を習得させる。須藤少将の孫の大雑は「陸軍中野予備校」から進学すべく、愛犬のコバヤシ丸と一緒に東京の旗本家にやってきたが、「陸軍中野学校」が無くなったことを知り大落胆するものの、すぐに気持ちを切り替えて旗本家に居候する。
; 南蛮帝国との戦いが始まる
: 大雑は骨格変形により完璧な美少女に扮装し、旗本家で騒動を引き起こす。大雑は必要書類をすべて偽造し、枕返高校1年生に転入する。有川雄妻は大雑が「陸軍中野予備校」の後輩であることを確認し、秘密国家「南蛮帝国」との戦いに引き込む。二人の存在を知った貿易商ゲーゲーベンは、体育教師の尾崎彦吉や鉄拳ジョージを送り込むが失敗に終わる。ゲゲーベンの娘のバゾクは特殊な催眠術でたけしの体を乗っ取り、大雑を毒殺しようとするが、逆に自分の体を乗っ取られて、ご町内の皆様の前でたけしとバゾクの「ストリップ対決」に持ち込まれ、あえなく敗北する。
; 家電三人衆登場
: ゲゲーベンは次に家電三人衆を大雑のクラスに送り込む。大雑があっさり倒され、駆けつけた雄妻は水斑蛇が姉であることを知る。三人衆は「陸軍中野予備校」の出身者であり、十数年前に予備校で反乱を起こし逃亡している。三人衆の策略で雄妻、大雑、バゾクの三人はコメ倉庫で古古米に埋もれかけ、玉金坊の登場で難を逃れる。その最中に水斑蛇が「中野予備校」を追われたつまらない原因が明らかになり、家電三人衆は中野予備校に戻る。
; ナンヤネン登場
: ゲゲーベンはバゾクの教官であったナンヤネンを送り込む。ナンヤネンはバゾクに有川の毒殺をもちかける。義理と人情の板挟みに困り果てたバゾクが家主である有川に相談し、有川は毒殺死を偽装する。バゾクにとどめとして杭を打つことを強要するナンヤネンを有川は不意打ちで倒し、袋詰めにしてごみ集積所に遺棄する。しかし、ナンヤネンの残した異臭にマンションの住人から苦情が殺到し、二人は旗本家に夜逃げする。
; バニー・キャラハン登場
: 黒い犬・マーキュリーを連れたバニー・キャラハンがゲゲーベンの監査にやってくる。バニーと雄妻の対決となり、バニーの足技の前に雄妻は惨敗する。戻ってきた雄妻の制服には火を押し当てた跡や感電の跡が残されている。大雑もバニーの足技に完膚なきまでに痛めつけられるが、桜井から「ジェネシス軟膏」と「超速効白癬菌スプレー」という切り札を授けられ、リベンジマッチで勝利する。
; 当初の話はどこに
: その後の物語は「陸軍中野予備校」と「南蛮帝国」との戦いというテーマを逸脱し、キャラクターに依存した単発的なサイドステーリーのようになる。連載の最終回はゲゲーベンが高校生に扮装して登場する。旗本家で大雑とゲゲーベンは乱闘になり、家を半壊させ、藤乃のずいぶんちらかしたのねえという「吞気なかーさん」発言で終了する。<br />
== 登場人物 ==
; 酢堂 大雑(すどう だいぞう)
: 本作の主人公。「陸軍中野予備校」創設者・酢堂綱正少将の孫で、予備校から「中野学校」進学のため上京し、「中野学校」など既に存在しないと知らされ、旗本家に居候する。
; コバヤシ丸(コバヤシまる)
: 大雑の愛犬。大雑と一緒に上京し旗本家に居候する。大雑以外の人から与えられた食料は毒味するよう訓練されている。2桁のかけ算、連立方程式ができる。
; 有川 雄妻(ありかわ おづま)
:「中野予備校」出身者で大雑の一年先輩。枕返高校[[生徒会]]総務部長であり、成績優秀・品行方正で人望に厚く、生徒会を実質的に仕切っている。
; 旗本 たけし(はたもと たけし)
: 旗本家の長女で枕返高校の生徒。大雑と関わったせいでご近所さんたちの前でストリップするハメになる。大雑に好意をもっているが、素直になれない。
; バゾク・ゲゲーベン
: ゲゲーベンの実の娘で金髪のポニーテールの美少女。「究極の工作員」にするため幼少の頃から訓練を受ける。
; 酢堂 綱正(すどう つなまさ)
: 大雑と玉金の祖父で中野予備校創設者。
; 桜井(さくらい)
: 中野予備校出身者で有川とは同期。常に大怪我を負って入院しており、完治してもすぐ何かの拍子に大怪我を負わされ、大抵の怪我は常人の10倍近いスピードで完治している。
; 玉金坊(たまきんぼう)
: 大雑の兄で本名は酢堂玉金。年齢は30過ぎ。「中野予備校」出身者で家電三人衆とは同期でもある。仏法に従う僧侶でありながら、[[煩悩]]の塊で、中学生のバゾク相手でもセクハラをしかける。
; 水斑蛇(すいはんじゃ)
: 帝国陸軍関係者抹殺のためにゲゲーベンに雇われた家電三人衆の一人。有川の実の姉で本名は有川水斑。
; 仙拓鬼(せんたくき)
: 家電三人衆の一人。常に眼帯を着けているが失明している訳ではなく(右目が近視・左目が遠視)、行動によって着け換えているだけ。
; 嶺僧虎(れいぞうこ)
: 家電三人衆の一人。常に無言だが友情に厚いらしい。ななみに好意を持たれていた。
; ゲゲーベン
: 秘密国家「南蛮帝国」の先兵でオストワルド貿易の駐日支配人。性格は冷静沈着で、自分たちの活動を嗅ぎ回る大雑に対しては次々と刺客を送り込む。
; 尾崎 彦吉(おざき ひこきち)
: 枕返高校の体育教師で実体は南蛮帝国の構成員。肉体派であり、特技は肺の酸素を残らず吸い尽くして失神させる荒技。
; 鉄拳ジョージ
: ゲゲーベンに雇われたボクサーくずれの風来坊。大雑に自慢のパンチを見切られた挙句、古典的な罠に引っかかり敗北し、任務遂行を諦めて修行の旅に出る。
; ミスター・ナンヤネン
: 「南蛮帝国」諜報部員養成所の教官。強烈な体臭の持ち主で必殺技は強烈なワキガで、戦場では多くのゲリラの命を奪っている。
; バニー・キャラハン
: 「南蛮帝国」本部から新たに日本へ派遣された監査役で戦闘力では劇中最強キャラクター。高速で繰り出される蹴りは有川や大雑を敗北させる。
; マーキュリー
: バニーの愛犬。英国王室犬の血統を持ち、コバヤシ丸よりも頭が良く、微積分が使える。
; 旗本 鯛窟(はたもと たいくつ)
: 旗本家の家長。終戦のどさくさで軍用地に勝手に家を建て、家族に対しては先祖代々の土地だと嘘をついていた。
; 旗本 藤乃(はたもと ふじの)
: 旗本家の主婦。たけしと健太郎の母。いわゆるのんきな母さんであり、居候を三人住まわせる。
; 旗本 健太郎(はたもと けんたろう)
: 旗本家の長男でたけしの兄。眼鏡に天然パーマが特徴。初回から一七条拳法の実験台となって骨折し、たけしに変装した大雑に寝床に忍び込まれ、騒動に巻き込まれる。
; ななみ
: たけしと同級の友人。天然ボケで全く人を疑うことを知らない。趣味は田舎の祖父母に手紙を出すことだが、必ず後に起こる騒動の前触れになる。
== 書誌情報 ==
* 安永航一郞『陸軍中野予備校』小学館〈少年サンデーコミックス〉、全6巻<ref>発行日と雑誌掲載情報は各巻末の奥付と掲載情報による</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=マンガペディア|url=https://mangapedia.com/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E9%87%8E%E4%BA%88%E5%82%99%E6%A0%A1-xbo2zppm4|title=陸軍中野予備校|accessdate=2021-08-21}}</ref>。
*# {{ISBN2|4-09-121431-2}}、1986年4月15日第1刷発行、週刊少年サンデー1985年42号 - 51号連載
*# {{ISBN2|4-09-121432-0}}、1986年7月15日第1刷発行、1985年52号 - 19861年12号連載
*# {{ISBN2|4-09-121433-9}}、1986年9月15日第1刷発行、1986年13号 - 23号連載
*# {{ISBN2|4-09-121434-7}}、1988年2月15日第1刷発行、1986年24号 - 34号連載
*# {{ISBN2|4-09-121435-5}}、1988年8月15日第1刷発行、1986年35号 - 45号連載
*# {{ISBN2|4-09-121436-3}}、1992年4月15日第1刷発行、1986年46号 - 52号連載、[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]1991年10月号、11月号掲載
: 第5巻の発売後、最終巻(第6巻)が出るまでに4年間近くもかかった。主な原因は、連載の完結時に第6巻のことを想定に入れておらず、ページ数が足りない状態になってしまい、少年サンデー増刊号に番外編的な読み切りを2本収録することでページ数を貯め、刊行にこぎつけた{{要出典|date=2021年8月}}。
== 脚注 ==
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[[Category:安永航一郎の漫画作品]]
[[Category:漫画作品 り|くくんなかのよひこう]]
[[Category:週刊少年サンデーの漫画作品]]
[[Category:学園漫画]]
[[Category:ギャグ漫画]]
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11,055 |
共観福音書
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共観福音書(きょうかんふくいんしょ、英: Synoptic Gospels)は、キリスト教の新約聖書の四つの福音書のうち、ヨハネによる福音書を除くマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書のことを指す。この3つには共通する記述が多く、同じような表現もみられる。聖書学の研究の結果、本文を相互に比較し、一覧にした共観表(シノプシス synopsis)が作られたことから共観福音書と呼ぶようになった。
ヨハネによる福音書は同じ出来事を描写するときにも、他の3つとは異なった視点やスタイルをとることが多い上に、他の3つの福音書に比べて思想・神学がより深められている。イエスを神であると明言し、はっきり示すのはヨハネによる福音書のみである。
マルコによる福音書の661節のうち、606節がマタイによる福音書と、320節がルカによる福音書と共通する内容だと言われる。
ただし、共観福音書の3書には、本文中に記者の名前が無く、マタイ、マルコ、ルカという各記者の名は、2世紀になってから現れるもので、実際には誰が書いたのかは不明である。
共観表は主要言語で出版されており、福音書研究には欠くことのできない基礎文献である。
日本では以前に塚本虎二編集のものがあったが、長らく入手不可能となっていた。2000年代になって本格的なものが出版された。
なお、実際の共観表ではヨハネによる福音書の並行箇所も併記するのが一般的であるが、外典である『トマスによる福音書』の並行箇所も併記して「五書共観表」とする例もある。
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共観福音書は、キリスト教の新約聖書の四つの福音書のうち、ヨハネによる福音書を除くマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書のことを指す。この3つには共通する記述が多く、同じような表現もみられる。聖書学の研究の結果、本文を相互に比較し、一覧にした共観表が作られたことから共観福音書と呼ぶようになった。 ヨハネによる福音書は同じ出来事を描写するときにも、他の3つとは異なった視点やスタイルをとることが多い上に、他の3つの福音書に比べて思想・神学がより深められている。イエスを神であると明言し、はっきり示すのはヨハネによる福音書のみである。 マルコによる福音書の661節のうち、606節がマタイによる福音書と、320節がルカによる福音書と共通する内容だと言われる。 ただし、共観福音書の3書には、本文中に記者の名前が無く、マタイ、マルコ、ルカという各記者の名は、2世紀になってから現れるもので、実際には誰が書いたのかは不明である。
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'''共観福音書'''(きょうかんふくいんしょ、{{lang-en-short|Synoptic Gospels}})は、[[キリスト教]]の[[新約聖書]]の四つの[[福音書]]のうち、[[ヨハネによる福音書]]を除く[[マタイによる福音書]]、[[マルコによる福音書]]、[[ルカによる福音書]]のことを指す。この3つには共通する記述が多く、同じような表現もみられる。聖書学の研究の結果、本文を相互に比較し、一覧にした'''共観表'''(シノプシス synopsis)が作られたことから共観福音書と呼ぶようになった。
ヨハネによる福音書は同じ出来事を描写するときにも、他の3つとは異なった視点やスタイルをとることが多い上に、他の3つの福音書に比べて思想・神学がより深められている。イエスを神であると明言し、はっきり示すのはヨハネによる福音書のみである。
マルコによる福音書の661節のうち、606節がマタイによる福音書と、320節がルカによる福音書と共通する内容だと言われる。
ただし、共観福音書の3書には、本文中に記者の名前が無く、マタイ、マルコ、ルカという各記者の名は、2世紀になってから現れるもので、実際には誰が書いたのかは不明である。
== 共観表 ==
共観表は主要言語で出版されており、福音書研究には欠くことのできない基礎文献である。
日本では以前に[[塚本虎二]]編集のもの<ref>塚本虎二著 『イエス傳對觀表』 聖書知識社〈聖書知識文庫〉、昭和5年([[1930年]])初版 ASIN B000JAHTP0</ref>があったが、長らく入手不可能となっていた。2000年代になって本格的なもの<ref>クルト・アーラント、川島貞雄、荒井献編 『四福音書対観表 ギリシア語-日本語版』 日本基督教団出版局、[[平成]]12年([[2000年]])、ISBN 9784818403000 ([[新共同訳聖書]]に基づく)</ref>が出版された。
なお、実際の共観表ではヨハネによる福音書の並行箇所も併記するのが一般的であるが、[[外典]]である『[[トマスによる福音書]]』の並行箇所も併記して「五書共観表」とする例<ref>佐藤研編訳 『福音書共観表』 [[岩波書店]]、平成17年([[2005年]])、ISBN 9784000246286 ([[岩波訳聖書#旧約聖書翻訳委員会訳聖書・新約聖書翻訳委員会訳聖書|岩波委員会訳聖書]]に基づく五書共観表)</ref>もある。
== 脚注 ==
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<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[荒井献]]編 『総説 新約聖書』 [[日本基督教団出版局]]、[[昭和]]56年([[1981年]])、[[Amazon.com#ASIN|ASIN]] B000J7VUNA
* {{Cite journal |last=戸田 |first=聡 |title= 福音書(正典・外典)におけるイエス像-古典としての聖書- |url=https://researchmap.jp/orienschristianus/published_papers/15302463/attachment_file.pdf |journal=21世紀のキリスト教と聖書:日本基督教学会北海道支部公開シンポジウム記録 |volume=4 |issue= |date=2016 |publisher= |pages=63-86 |ref={{SfnRef|戸田|2016}} }}
== 関連項目 ==
*[[福音書]]
*[[Q資料]]
*[[トマスによる福音書]]
*[[共観福音書の問題]]
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11,056 |
平壌直轄市
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座標: 北緯39度01分55秒 東経125度45分14秒 / 北緯39.031859度 東経125.753765度 / 39.031859; 125.753765
平壌直轄市(ピョンヤンちょっかつし、朝: 평양직할시 , 英: Pyongyang Directly Governed City)は、朝鮮民主主義人民共和国の首都であり、国内最大の都市である。
朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、道級の直轄市となっている。
平壌準平原に位置し、北と東と西は平安南道、南は黄海北道に接する。北朝鮮の政治と経済の中心地であり、軽工業、重工業など工業が盛んである。
427年以降高句麗の首都となった。市の中心には大同江が流れている。中心部に金日成広場があり、その付近に主体思想塔がそびえており、平壌のシンボルまたはランドマークとなっている。
平壌は北朝鮮の建国時から事実上の首都としての役割を持っていたが、憲法で正式に平壌が首都となったのは1972年からで、それ以前の平壌は「祖国統一を成し遂げるまでの暫定首都(臨時首都)」という位置づけで、ソウルを正式な首都と定めていた。これは、建国以来現在に至るまで憲法上は朝鮮半島全域を領土としているためである(なお、韓国も憲法上は朝鮮半島〔韓国名:韓半島〕全域を領土としており、以北五道委員会においては平壌直轄市を認めず「平安南道平壌市」として扱われている)。
「公民登録法」の規定で、17歳以上の北朝鮮国民は「公民証」が政府から発給されているが、1997年以後、平壌市民については公民証が「平壌市民証」に切り替えられ、他地域住民と明確に区別されるようになった。この区別による特に大きな影響として、旅行に対する待遇が挙げられる。
北朝鮮国民は、国内(北朝鮮各地)の旅行でも、政府に旅行証明書を申請し旅行許可を得る必要があるが、この「平壌市民証」を所有していると、旅行証明書なしで北朝鮮各地を自由に行き来できるといわれている。
市内のインフラは老朽化が進んでおり、2002年頃から街路樹の植樹、歩道のタイルの張替え、ビルの改装など市内中心部の再開発が始まった。2010年代初頭には、故金日成生誕100年に当たる2012年を目前に控え、軍人や学徒も動員しての高層住宅を中心とした建設ラッシュの様相を呈している一方、突貫工事による被害も報じられている。2014年5月13日には、入居が始まっていた23階建ての高層マンションが倒壊し、崔富日人民保安部部長や車熙林平壌市人民委員会委員長など政府高官が現地で謝罪するという異例の事態になっている。
気候は亜寒帯冬季少雨気候で寒暖が激しく冬は雨が少ない。冬から春にかけては三寒四温の気候である。
古くは衛氏朝鮮の王険城で、紀元前108年にこれを征服した漢の武帝が楽浪郡治を置いた。これ以後4世紀後半に百済が領有するまで中国人による現地支配の拠点となる。
高句麗の長寿王は427年に鴨緑江流域の集安から平壌に遷都し、高句麗王国の都となった。当初は現在の平壌市街から北東へ8kmほど離れたところにある大城山に都があり、現在も山をとりまく城壁や、王宮であった安鶴宮の跡などが残る。552年から586年にかけて、現在の平壌市街の場所に都城が築かれ大都市となったが、668年に唐に滅ぼされた。唐は平壌を含む南満州から半島北部を管轄する安東都護府を設置して当該地方の直接支配を図るが、新羅の反乱によって遼東より南を失った。
10世紀に興った高麗は首都を開京(現在の開城特別市)に定める一方、平壌を副都・西京とした。12世紀には妙清(朝鮮語版、英語版)という国粋主義的な仏教僧が西京への遷都を主張し、西京遷都運動という仏教対儒教の争いが起きた。妙清は、風水説の混合した高麗仏教に基づき、風水的に弱くなったために内乱で破壊された開京から、高句麗の首都であり風水も良い西京に首都を遷し、金に戦いを挑んで高句麗の旧領土(満州)の回復の拠点とすることを掲げたが、事大主義的な儒家の反発で遷都案は葬られ王の支持が得られなかった。1135年、妙清はついに反乱(妙清の乱)を起こして西京を首都として「大為国」を称し、宋の年号を捨てて「天開」という独自の年号を掲げたが、金富軾ら儒家の文官らの率いる軍により翌年鎮圧された。
1269年には西京を治めていた崔坦らが反乱を起こし、西京を含めた北界54城と西海道の慈悲嶺以北の6城を率いて元に帰依する事件が起きた。元は西京を遼陽行省に属する「東寧府」と改名して領土に編入した。東寧府は同じく元領となった双城総管府とともに高麗と分立したが、元の直接支配強化により1290年(至元27年)に東寧府は高麗行省(征東行省)と統合され共に元の直接支配地域となった。東寧府は元末期に再び設置されたという記録もある。
李氏朝鮮時代には平壌は平安道の首邑となった。文禄の役では日本軍が平壌にまで達している。18世紀には、冊封体制下の清との往来の中で、北京にいたキリスト教宣教師からキリスト教が朝鮮の官僚に伝わり、平安道はキリスト教徒が増加した。しかし、18世紀末には大規模なキリスト教徒弾圧が起こった。また外国勢力が朝鮮周囲に現れ、平壌では大同江を遡ってきた米国船を官民が焼き討ちするジェネラル・シャーマン号事件が起こっている。
日清戦争では平壌城は平壌の戦いの舞台となった。李朝末期の1896年に平安道が分割されて、平安南道の首邑となっている。日本統治時代には、1910年(明治43年)に平壌府(へいじょうふ)となり、平安南道の道庁所在地となり、本土の宮城県・仙台市の立ち位置として発船した。この頃路面電車の軌道などが整備された。1913年(大正2年)に平壌神社が鎮座した。また平壌神学校などキリスト教の神学校や教会が設立され、キリスト教徒の人口に対する割合も増加した平壌は、報道関係者から「東洋のエルサレム」と呼ばれるほどに朝鮮のキリスト教布教の中心地となった。現在の韓国のキリスト教徒には、朝鮮戦争の前後に韓国側へ移住した平壌出身者もいる。1931年(昭和6年)には朝鮮排華事件が起き平壌で最も多くの中国人犠牲者がでた。
1945年(昭和20年)にソビエト連邦軍(赤軍)が北緯38度線以北を占領するとソ連軍政の中心地となり、1946年に行政機関である平壌市人民委員会が設置され、1948年の朝鮮民主主義人民共和国成立により事実上の首都となった。しかし1950年に北朝鮮の韓国侵攻により勃発した朝鮮戦争では、アメリカ軍を中心とする国連軍の激しい空爆を受けた上に、国連軍の占領下になった後は、これに対して朝鮮人民軍や中国人民志願軍による攻撃が行われたことで、市街地は大きく破壊された。
停戦実現後、ソ連の援助で街は急速に復興を始める。朝鮮建築家同盟創設メンバーのひとりで、戦前の日本にて建築学を学んだ経験を持つ金正煕(キム・ジョンヒ)が金日成に登用され、モスクワ建築アカデミー(ロシア語版、ウクライナ語版、アルメニア語版、英語版)留学後、1951年に「平壌市復旧建設総合計画」をデザインし、1953年に正式採用とされ、巨大なパレードを行える「社会主義国」特有の広場整備や、北朝鮮風のアレンジが加えられたスターリン様式建築(その他、ブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーの影響を大きく受けたとされるモダニズム建築)といった近代的でプロパガンダ色の濃い計画都市への変貌が始まる。
1968年には平安南道の道庁機能を平城市に移して直轄市となり、1972年に正式に首都となった。1980年代以降、金日成や主体思想を称える記念碑や建築物、競技場やホテルが多数建設された。
平壌直轄市は19「区域」と4郡に区分されている。ただし、2011年2月には食糧難により、勝湖区域、江南郡、祥原郡、中和郡の4つの郡・区域を黄海北道に編入し、約2630平方キロメートルの市域面積を約半分にして市域人口も50万人ほど減らしたとされる。平壌市民にはこれまで配給制度が保障されていたが、深刻化する食糧難のため市の規模を縮小せざるを得なかったとみられる。しかし、江南郡は2011年に黄海北道から平壌直轄市に再び編入された。
市の管轄区域はこの他にも各地に飛び地として存在しているとみられており、平安北道香山郡に所在する国際親善展覧館および金日成の別荘がある妙香山の一帯、ミサイル開発の重要拠点である平安北道亀城市の方峴洞が挙げられている。ミサイル開発に従事する科学者や技術者の士気を高めるため、地方都市の市民の身分ではなく、平壌市民並みの配給と特権を与えることが目的であろうとされている。
この節の出典
平壌式冷麺が有名。他に甘肉(犬肉)、オリコギ(家鴨肉)など。
2016年11月に大同江の両岸を結ぶ遊覧船の運航が再開した。屋根にソーラーパネルを搭載し、太陽光発電だけで動く。
最上級蹴球連盟戦に所属する4.25体育団や平壌市体育団などが存在する。サッカー北朝鮮代表にも多数の選手を送り出している。
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"text": "10世紀に興った高麗は首都を開京(現在の開城特別市)に定める一方、平壌を副都・西京とした。12世紀には妙清(朝鮮語版、英語版)という国粋主義的な仏教僧が西京への遷都を主張し、西京遷都運動という仏教対儒教の争いが起きた。妙清は、風水説の混合した高麗仏教に基づき、風水的に弱くなったために内乱で破壊された開京から、高句麗の首都であり風水も良い西京に首都を遷し、金に戦いを挑んで高句麗の旧領土(満州)の回復の拠点とすることを掲げたが、事大主義的な儒家の反発で遷都案は葬られ王の支持が得られなかった。1135年、妙清はついに反乱(妙清の乱)を起こして西京を首都として「大為国」を称し、宋の年号を捨てて「天開」という独自の年号を掲げたが、金富軾ら儒家の文官らの率いる軍により翌年鎮圧された。",
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"text": "1269年には西京を治めていた崔坦らが反乱を起こし、西京を含めた北界54城と西海道の慈悲嶺以北の6城を率いて元に帰依する事件が起きた。元は西京を遼陽行省に属する「東寧府」と改名して領土に編入した。東寧府は同じく元領となった双城総管府とともに高麗と分立したが、元の直接支配強化により1290年(至元27年)に東寧府は高麗行省(征東行省)と統合され共に元の直接支配地域となった。東寧府は元末期に再び設置されたという記録もある。",
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"text": "李氏朝鮮時代には平壌は平安道の首邑となった。文禄の役では日本軍が平壌にまで達している。18世紀には、冊封体制下の清との往来の中で、北京にいたキリスト教宣教師からキリスト教が朝鮮の官僚に伝わり、平安道はキリスト教徒が増加した。しかし、18世紀末には大規模なキリスト教徒弾圧が起こった。また外国勢力が朝鮮周囲に現れ、平壌では大同江を遡ってきた米国船を官民が焼き討ちするジェネラル・シャーマン号事件が起こっている。",
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"text": "日清戦争では平壌城は平壌の戦いの舞台となった。李朝末期の1896年に平安道が分割されて、平安南道の首邑となっている。日本統治時代には、1910年(明治43年)に平壌府(へいじょうふ)となり、平安南道の道庁所在地となり、本土の宮城県・仙台市の立ち位置として発船した。この頃路面電車の軌道などが整備された。1913年(大正2年)に平壌神社が鎮座した。また平壌神学校などキリスト教の神学校や教会が設立され、キリスト教徒の人口に対する割合も増加した平壌は、報道関係者から「東洋のエルサレム」と呼ばれるほどに朝鮮のキリスト教布教の中心地となった。現在の韓国のキリスト教徒には、朝鮮戦争の前後に韓国側へ移住した平壌出身者もいる。1931年(昭和6年)には朝鮮排華事件が起き平壌で最も多くの中国人犠牲者がでた。",
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"text": "1945年(昭和20年)にソビエト連邦軍(赤軍)が北緯38度線以北を占領するとソ連軍政の中心地となり、1946年に行政機関である平壌市人民委員会が設置され、1948年の朝鮮民主主義人民共和国成立により事実上の首都となった。しかし1950年に北朝鮮の韓国侵攻により勃発した朝鮮戦争では、アメリカ軍を中心とする国連軍の激しい空爆を受けた上に、国連軍の占領下になった後は、これに対して朝鮮人民軍や中国人民志願軍による攻撃が行われたことで、市街地は大きく破壊された。",
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"text": "停戦実現後、ソ連の援助で街は急速に復興を始める。朝鮮建築家同盟創設メンバーのひとりで、戦前の日本にて建築学を学んだ経験を持つ金正煕(キム・ジョンヒ)が金日成に登用され、モスクワ建築アカデミー(ロシア語版、ウクライナ語版、アルメニア語版、英語版)留学後、1951年に「平壌市復旧建設総合計画」をデザインし、1953年に正式採用とされ、巨大なパレードを行える「社会主義国」特有の広場整備や、北朝鮮風のアレンジが加えられたスターリン様式建築(その他、ブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーの影響を大きく受けたとされるモダニズム建築)といった近代的でプロパガンダ色の濃い計画都市への変貌が始まる。",
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"text": "1968年には平安南道の道庁機能を平城市に移して直轄市となり、1972年に正式に首都となった。1980年代以降、金日成や主体思想を称える記念碑や建築物、競技場やホテルが多数建設された。",
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"text": "平壌直轄市は19「区域」と4郡に区分されている。ただし、2011年2月には食糧難により、勝湖区域、江南郡、祥原郡、中和郡の4つの郡・区域を黄海北道に編入し、約2630平方キロメートルの市域面積を約半分にして市域人口も50万人ほど減らしたとされる。平壌市民にはこれまで配給制度が保障されていたが、深刻化する食糧難のため市の規模を縮小せざるを得なかったとみられる。しかし、江南郡は2011年に黄海北道から平壌直轄市に再び編入された。",
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"text": "市の管轄区域はこの他にも各地に飛び地として存在しているとみられており、平安北道香山郡に所在する国際親善展覧館および金日成の別荘がある妙香山の一帯、ミサイル開発の重要拠点である平安北道亀城市の方峴洞が挙げられている。ミサイル開発に従事する科学者や技術者の士気を高めるため、地方都市の市民の身分ではなく、平壌市民並みの配給と特権を与えることが目的であろうとされている。",
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"text": "この節の出典",
"title": "行政区域"
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"text": "平壌式冷麺が有名。他に甘肉(犬肉)、オリコギ(家鴨肉)など。",
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"text": "2016年11月に大同江の両岸を結ぶ遊覧船の運航が再開した。屋根にソーラーパネルを搭載し、太陽光発電だけで動く。",
"title": "交通"
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"text": "最上級蹴球連盟戦に所属する4.25体育団や平壌市体育団などが存在する。サッカー北朝鮮代表にも多数の選手を送り出している。",
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] |
平壌直轄市は、朝鮮民主主義人民共和国の首都であり、国内最大の都市である。 朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、道級の直轄市となっている。
|
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年1月
| 更新 = 2021年1月
}}
{{coord|39.031859|N|125.753765|E|type:city_region:KP|display=title}}
{{韓国の地方行政区ステータス|
|行政区画名=平壌直轄市<br />평양직할시
|画像=[[ファイル:Pyongyang montage.png|300px|平壌市、主体思想塔、錦繍山太陽宮殿、平壌凱旋門、祖国統一三大憲章記念塔、東明王陵、地下鉄復興駅]]
|位置画像=[[ファイル:Pyongyang-chikhalsi in North Korea 2010.svg|300px]]
{{Maplink2|zoom=8|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
|ローマ字=Pyeongyang Jikhalsi
|ローマ字mr=P'yŏngyang Chikhalsi
|ハングル=평양직할시
|韓国における漢字=平壤直轄市
|平仮名=へいじょうちょっかつし
|片仮名=ピョンヤンチッカルシ
|統計の年=2019
|面積=1,849<ref>{{Cite web |url=https://kosis.kr/statHtml/statHtml.do?orgId=101&tblId=DT_1ZGA17&conn_p-ath=I2 |title=지역별 면적 (第一級行政区画の面積一覧) |publisher=韓国統計情報システム |date=2020-12-28 |accessdate=2021-10-04}}</ref>
|総人口=3,060,900<ref>{{Cite web |url=https://data.un.org/en/iso/kp.html |title=Democratic People's Republic of Korea |publisher=国際連合 |accessdate=2021-10-04}}</ref>
|人口密度=1,655
|国=n
|下位行政区画=18区域2郡
|市長= チャ・フィリム(平壌市人民委員会委員長)<ref>[http://nkleadershipwatch.wordpress.com/2014/05/06/the-secretarial-pool/ The Secretarial Pool, NK Leadership Watch, 6 May 2014]</ref><ref>[http://www.dailynk.com/english/read.php?num=11874&cataId=nk01700 NK Media Reports Pyongyang Apartment Collapse]</ref> <ref>[ https://www.hrnk.org/uploads/pdfs/Collins_PyongyangRepublic_FINAL_WEB.pdf Pyongyang Republic, Robert Collins p. 54]</ref>
|責任書記= [[金能五]](平壌市委員会委員長)<ref>[https://www.hrnk.org/uploads/pdfs/Collins_PyongyangRepublic_FINAL_WEB.pdf Pyongyang Republic, Robert Collins p. 54]</ref>
|ISO_3166-2=KP-01
|URL=http://www.tourismdprk.gov.kp/destination/2 (朝鮮観光)
}}
'''平壌直轄市'''(ピョンヤンちょっかつし、{{lang-ko-kp-short|'''평양직할시'''}} , {{lang-en-short|Pyongyang Directly Governed City}})は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[首都]]であり、国内最大の[[都市]]である<ref>[http://www.tourismdprk.gov.kp/index.php/c_tour_area?lang=jp&mu_idx=3&idx=1 平壌 - 朝鮮観光 (観光地)]</ref>。
[[朝鮮八道]]では[[平安道]]、[[十三道制]]では[[平安南道]]に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、道級の[[直轄市]]となっている。
== 概要 ==
[[ファイル:Pyongyang 125.73173E 39.02390N.jpg|thumb|none|250px|平壌市(衛星画像)]]
平壌準平原に位置し、北と東と西は[[平安南道]]、南は[[黄海北道]]に接する。北朝鮮の[[政治]]と[[経済]]の中心地であり、[[工業|軽工業]]、重工業など工業が盛んである。
[[427年]]以降[[高句麗]]の首都となった。市の中心には[[大同江]]が流れている。中心部に[[金日成広場]]があり、その付近に[[主体思想塔]]がそびえており、平壌の[[シンボル]]または[[ランドマーク]]となっている。
平壌は北朝鮮の建国時から事実上の首都としての役割を持っていたが、[[憲法]]で正式に平壌が首都となったのは[[1972年]]からで、それ以前の平壌は「祖国統一を成し遂げるまでの暫定首都([[臨時首都]])」という位置づけで、[[ソウル特別市|ソウル]]を正式な首都と定めていた。これは、建国以来現在に至るまで憲法上は[[朝鮮半島]]全域を[[領域 (国家)|領土]]としているためである(なお、韓国も憲法上は朝鮮半島〔韓国名:韓半島〕全域を領土としており、[[以北五道]]委員会においては平壌直轄市を認めず「[[平安南道 (大韓民国)|平安南道]]平壌市」として扱われている)。
{{Gallery
|ファイル:Pyongyang city view 20150501.jpg|平壌の市街地
|ファイル:Pyongyang JucheTower.jpg|[[金日成広場]]と[[主体思想塔]]
|ファイル:Pyongyang raengmyon 20150503.jpg|名物の平壌冷麺
|ファイル:Pyongyang Arch.JPG|[[牡丹峰]]より望む[[凱旋門 (平壌)|凱旋門]](左)と[[柳京ホテル]](右)
}}
「公民登録法」の規定で、17歳以上の北朝鮮国民は「公民証」が政府から発給されているが、[[1997年]]以後、平壌市民については公民証が「平壌市民証」に切り替えられ、他地域住民と明確に区別されるようになった。この区別による特に大きな影響として、[[旅行]]に対する待遇が挙げられる。
北朝鮮国民は、国内(北朝鮮各地)の旅行でも、政府に[[旅行証 (朝鮮民主主義人民共和国)|旅行証明書]]を申請し旅行許可を得る必要があるが、この「平壌市民証」を所有していると、旅行証明書なしで北朝鮮各地を自由に行き来できるといわれている。
市内の[[インフラストラクチャー|インフラ]]は老朽化が進んでおり、[[2002年]]頃から[[街路樹]]の植樹、[[歩道]]のタイルの張替え、ビルの改装など市内中心部の再開発が始まった。2010年代初頭には、故[[金日成]]生誕100年に当たる[[2012年]]を目前に控え、軍人や学徒も動員しての[[高層建築物|高層]][[住宅]]を中心とした建設ラッシュの様相を呈している一方、突貫工事による被害も報じられている。[[2014年]]5月13日には、入居が始まっていた23階建ての[[超高層マンション|高層マンション]]が倒壊し、[[崔富日]]人民保安部部長や[[車熙林]]平壌市人民委員会委員長など政府高官が現地で謝罪するという異例の事態になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/38047 |title=北朝鮮が「マンション崩壊」を報じた裏事情 |accessdate=2018-04-30 |author=福田恵介 |authorlink=福田恵介 |date=2014-05-18 |website=東洋経済オンライン |publisher=[[東洋経済新報社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180430125506/https://toyokeizai.net/articles/-/38047 |archivedate=2018-04-30 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。
[[ファイル:Pyongyang city panorama 20150501.jpg|thumb|center|700px|平壌市内のパノラマ写真]]
== 気候 ==
[[気候]]は[[亜寒帯冬季少雨気候]]で寒暖が激しく冬は雨が少ない。冬から春にかけては[[三寒四温]]の気候である。
{{Weather box
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|single line = yes
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|year record high C =
|Jan high C =
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|May mean C = 16.7
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|Oct record low C =
|Nov record low C =
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|year record low C =
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|Feb snow cm =
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|Nov sun =
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|year sun =
|source 1 = [[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/monitor/nrmlist/NrmMonth.php?stn=47058
| title = 平年値データ ピョンヤン(平壌) | accessdate = 2013-04-02 | publisher = 気象庁 |date=April 2013
}}</ref>
|date=April 2013
}}<!--Infobox ends-->
{{Weather box
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|Feb low C =
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|Nov low C =
|Dec low C =
|year low C =
|source 1 = World Climate Pyongyang, North Korea<ref> {{cite web
|url = http://www.climate-charts.com/Locations/k/K147058.php
|title = Pyongyang, North Korea Climate Normals 1961-1990
|publisher = World Climate Home
|accessdate = April 1, 2013}}</ref>
}}
== 歴史 ==
[[ファイル:YongmyongsaPyongyang.png|thumb|250px|[[牡丹峰|牡丹台]]と永明寺(1945年以前)]]
[[ファイル:View of Heijo1.JPG|thumb|250px|平壌中心部(1945年以前)]]
[[File:Tomb of King Tongmyong, Pyongyang, North Korea-1.jpg|thumb|250px|東明王陵にある定陵寺1]]
[[File:Tomb of King Tongmyong, Pyongyang, North Korea.jpg|thumb|250px|東明王陵にある定陵寺2]]
古くは[[衛氏朝鮮]]の王険城で、[[紀元前108年]]にこれを征服した[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]が[[楽浪郡]]治を置いた。これ以後[[4世紀]]後半に[[百済]]が領有するまで中国人による現地支配の拠点となる。
[[高句麗]]の[[長寿王]]は[[427年]]に[[鴨緑江]]流域の[[集安市|集安]]から平壌に[[遷都]]し、高句麗王国の都となった。当初は現在の平壌市街から北東へ8kmほど離れたところにある大城山に都があり、現在も山をとりまく城壁や、王宮であった安鶴宮の跡などが残る。[[552年]]から[[586年]]にかけて、現在の平壌市街の場所に都城が築かれ大都市となったが、[[668年]]に[[唐]]に滅ぼされた。唐は平壌を含む南満州から半島北部を管轄する[[安東都護府]]を設置して当該地方の直接支配を図るが、[[新羅]]の反乱によって[[遼東]]より南を失った。
[[10世紀]]に興った[[高麗]]は首都を[[開京]](現在の[[開城特別市]])に定める一方、平壌を副都・'''西京'''とした。[[12世紀]]には{{仮リンク|妙清|ko|묘청|en|Myocheong}}という国粋主義的な[[仏教]]僧が西京への遷都を主張し、西京遷都運動という[[仏教]]対[[儒教]]の争いが起きた。妙清は、[[風水]]説の混合した[[朝鮮の仏教|高麗仏教]]に基づき、風水的に弱くなったために内乱で破壊された開京から、高句麗の首都であり風水も良い西京に首都を遷し、[[金 (王朝)|金]]に戦いを挑んで高句麗の旧領土([[満州]])の回復の拠点とすることを掲げたが、[[事大主義]]的な儒家の反発で遷都案は葬られ王の支持が得られなかった。[[1135年]]、妙清はついに反乱([[妙清の乱]])を起こして西京を首都として「大為国」を称し、[[宋 (王朝)|宋]]の年号を捨てて「[[天開 (妙清)|天開]]」という独自の年号を掲げたが、[[金富軾]]ら儒家の文官らの率いる軍により翌年鎮圧された。
[[1269年]]には西京を治めていた崔坦らが反乱を起こし、西京を含めた北界54城と西海道の慈悲嶺以北の6城を率いて[[元 (王朝)|元]]に帰依する事件が起きた。元は西京を[[遼陽等処行中書省|遼陽行省]]に属する「[[東寧府]]」と改名して領土に編入した。東寧府は同じく元領となった[[双城総管府]]とともに高麗と分立したが、元の直接支配強化により1290年(至元27年)に東寧府は高麗行省([[征東等処行中書省|征東行省]])と統合され共に元の直接支配地域となった。東寧府は元末期に再び設置されたという記録もある。
[[李氏朝鮮]]時代には平壌は[[平安道]]の首邑となった。[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では日本軍が平壌にまで達している。[[18世紀]]には、[[冊封]]体制下の[[清]]との往来の中で、[[北京市|北京]]にいた[[キリスト教]][[宣教師]]からキリスト教が朝鮮の官僚に伝わり、平安道はキリスト教徒が増加した。しかし、18世紀末には大規模なキリスト教徒弾圧が起こった。また外国勢力が朝鮮周囲に現れ、平壌では大同江を遡ってきた米国船を官民が焼き討ちする[[ジェネラル・シャーマン号事件]]が起こっている。
[[日清戦争]]では平壌城は[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌の戦い]]の舞台となった。李朝末期の[[1896年]]に平安道が分割されて、平安南道の首邑となっている。[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]には、[[1910年]](明治43年)に'''平壌府'''(へいじょうふ)となり<ref>明治43年10月1日朝鮮総督府令第7号による。『朝鮮総督府官報』第29号p. 14([[明治]]43年10月1日)を参照。</ref>、[[平安南道 (日本統治時代)|平安南道]]の道庁所在地となった。この頃[[路面電車]]の軌道などが整備された。[[1913年]]([[大正]]2年)に[[平壌神社]]が鎮座した。また[[平壌神学校]]などキリスト教の[[神学校]]や[[教会]]が設立され、[[キリスト教徒]]の人口に対する割合も増加した平壌は、報道関係者から「[[東洋]]の[[エルサレム]]」と呼ばれるほどに朝鮮のキリスト教布教の中心地となった<ref>{{Cite web|和書|url =https://web.archive.org/web/20181012124518/http://agora-web.jp/archives/2035134.html |title = 「東洋のエルサレム」から法王招請 |publisher = agora-web.jp |date = |accessdate = 2019-03-19}}</ref>。現在の韓国のキリスト教徒には、朝鮮戦争の前後に韓国側へ移住した平壌出身者もいる。[[1931年]]([[昭和]]6年)には[[朝鮮排華事件]]が起き平壌で最も多くの[[中国人]]犠牲者がでた。
<gallery>
ファイル:Heijo City Hall.JPG|平壌府庁
ファイル:Heijo Shrine.JPG|[[平壌神社]]
ファイル:Pyongyang tram pre-ww2.jpg|[[平壌市電]]
ファイル:Anti-China riot in Heijo.JPG|[[朝鮮排華事件]]で焼け落ちた平壌[[中華街]]
ファイル:1946 Map of Pyongyang, Army Map Service, US Army.jpg|アメリカ軍が1946年に作成した平壌市街地図
</gallery>
[[ファイル:0322 Pyongyang Turm der Juche Idee Aussicht.jpg|thumb|250px|主体思想塔から見た金日成広場と平壌中心部]]
[[1945年]](昭和20年)に[[ソビエト連邦軍]]([[赤軍]])が[[緯度|北緯]][[38度線]]以北を[[占領]]するとソ連[[軍政 (行政)|軍政]]の中心地となり、[[1946年]]に行政機関である平壌市人民委員会が設置され、[[1948年]]の朝鮮民主主義人民共和国成立により事実上の首都となった。しかし[[1950年]]に北朝鮮の韓国侵攻により勃発した[[朝鮮戦争]]では、[[アメリカ軍]]を中心とする[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]の激しい[[空襲|空爆]]を受けた上に、国連軍の占領下になった後は、これに対して[[朝鮮人民軍]]や[[中国人民志願軍]]による攻撃が行われたことで、市街地は大きく破壊された。
停戦実現後、[[ソビエト連邦|ソ連]]の援助で街は急速に復興を始める。[[朝鮮建築家同盟]]創設メンバーのひとりで、戦前の日本にて建築学を学んだ経験を持つ[[金正煕]](キム・ジョンヒ)が金日成に登用され、{{仮リンク|モスクワ建築研究所 (州立アカデミー)|ru|Московский архитектурный институт (государственная академия)|uk|Московський архітектурний інститут|hy|Մոսկվայի ճարտարապետության ինստիտուտ|en|MArchI|label=モスクワ建築アカデミー}}留学後、1951年に「[[平壌市復旧建設総合計画]]」をデザインし、1953年に正式採用とされ、巨大な[[パレード]]を行える「[[社会主義国]]」特有の広場整備や、北朝鮮風のアレンジが加えられた[[スターリン様式]]建築(その他、[[ブラジル人]]建築家[[オスカー・ニーマイヤー]]の影響を大きく受けたとされる[[モダニズム建築]])といった近代的で[[プロパガンダ#建造物・像・都市計画|プロパガンダ]]色の濃い[[計画都市]]への変貌が始まる<ref>{{Cite book|和書|author=金聖甫 |authorlink=キム・ソンボ |author1=奇光舒 |authorlink1=キ・グァンソ |author2=李信澈 |authorlink2 =イ・シンチョル |translator=[[ハン・フンチョル|韓興鉄]] |editor=監修:[[イ・ヨンチェ|李泳采]] |title=写真と絵で見る北朝鮮現代史 |origdate=2010-12-01|accessdate=2018-04-30 |publisher=[[コモンズ]] |location=[[東京都区部|東京]]・[[新宿区|新宿]] |isbn=978-4861870750 |quote= |ref= }}</ref>。
[[1968年]]には平安南道の道庁機能を[[平城市]]に移して直轄市となり、[[1972年]]に正式に首都となった。[[1980年代]]以降、[[金日成]]や[[主体思想]]を称える記念碑や建築物、[[競技場]]や[[ホテル]]が多数建設された。
== 行政区域 ==
[[ファイル:North_Korea-Pyongyang-04.jpg|thumb|250px|主体思想塔から見た大同江東岸の市街地]]
[[ファイル:Streets_in_Pyongyang_01.JPG|thumb|250px|光復通り。1989年に[[第13回世界青年学生祭典]]に合わせて建設した。高層アパートや平壌サーカス劇場などがある]]
平壌直轄市は19「区域」と4郡に区分されている。ただし、2011年2月には食糧難により、[[勝湖郡|勝湖区域]]、[[江南郡]]、[[祥原郡]]、[[中和郡]]の4つの郡・区域を[[黄海北道]]に編入し、約2630平方キロメートルの市域面積を約半分にして市域人口も50万人ほど減らしたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chosunonline.com/news/20110215000016|title=北朝鮮、平壌市の規模を半分に縮小 食糧事情悪化で「革命の心臓部」の規模を縮小か|accessdate=2018-04-30|author=アン・ヨンヒョン|authorlink=アン・ヨンヒョン|coauthors=|date=2011-02-15|website=朝鮮日報オンライン|publisher=[[朝鮮日報]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110218054925/http://www.chosunonline.com/news/20110215000016|archivedate=2011-02-18|deadlinkdate=2018-04-30|doi=|ref=}}</ref>。平壌市民にはこれまで配給制度が保障されていたが、深刻化する食糧難のため市の規模を縮小せざるを得なかったとみられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chosunonline.com/news/20110215000017|title=北朝鮮が平壌市の規模を半分にしたワケ 特別待遇を続けるのが困難に|accessdate=2018-04-30|author=アン・ヨンヒョン|authorlink=アン・ヨンヒョン|coauthors=[[ユン・イルゴン]]|date=2011-02-25|website=朝鮮日報オンライン|publisher=[[朝鮮日報]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110217190436/http://www.chosunonline.com/news/20110215000017|archivedate=2011-02-17|deadlinkdate=2018-04-30|doi=|ref=}}</ref>。しかし、江南郡は[[2011年]]に黄海北道から平壌直轄市に再び編入された。
市の管轄区域はこの他にも各地に[[飛び地]]として存在しているとみられており、[[平安北道]][[香山郡]]に所在する[[国際親善展覧館]]および[[香山官邸|金日成の別荘]]がある[[妙香山]]の一帯、ミサイル開発の重要拠点である平安北道[[亀城市]]の[[方峴洞]]が挙げられている<ref name="rfa2018">{{Cite web|和書|url=https://www.rfa.org/korean/in_focus/nk_nuclear_talks/missilepy-03052018084640.html|title=북, 미사일 산업지역 평양시 행정구역에 편입(北、ミサイル産業地域を平壌市の行政区に編入)|publisher=[[ラジオ・フリー・アジア]]|date=2018-03-05|accessdate=2021-10-03}}</ref>。ミサイル開発に従事する科学者や技術者の士気を高めるため、地方都市の市民の身分ではなく、平壌市民並みの配給と特権を与えることが目的であろうとされている<ref name="rfa2018"/>。
=== 区域部 ===
* [[中区域]] - {{lang|ko|중구역【中區域】<small>Jung-guyŏk</small>}} (チュングヨク)
* [[平川区域]] - {{lang|ko|평천구역【平川區域】<small>Phyŏngchŏn-guyŏk</small>}} (ピョンチョングヨク)
* [[普通江区域]] - {{lang|ko|보통강구역【普通江區域】<small>Pothonggang-guyŏk</small>}} (ポトンガングヨク)
* [[牡丹峰区域]] - {{lang|ko|모란봉구역【牡丹峰區域】<small>Moranbong-guyŏk</small>}} (モランボングヨク)
* [[西城区域]] - {{lang|ko|서성구역【西城區域】<small>Sŏsŏng-guyŏk</small>}} (ソソングヨク)
* [[船橋区域]] - {{lang|ko|선교구역【船橋區域】<small>Sŏngyo-guyŏk</small>}} (ソンギョグヨク)
* [[東大院区域]] - {{lang|ko|동대원구역【東大院區域】<small>Tongdaewŏn-guyŏk</small>}} (トンデウォングヨク)
* [[大同江区域]] - {{lang|ko|대동강구역【大同江區域】<small>Taedonggang-guyŏk</small>}} (テドンガングヨク)
* [[寺洞区域]] - {{lang|ko|사동구역【寺洞區域】<small>Sadong-guyŏk</small>}} (サドングヨク)
* [[大城区域]] - {{lang|ko|대성구역【大城區域】<small>Taesŏng-guyŏk</small>}} (テソングヨク)
* [[万景台区域]] - {{lang|ko|만경대구역【萬景臺區域】<small>Mangyŏngdae-guyŏk</small>}} (マンギョンデグヨク)
* [[兄弟山区域]] - {{lang|ko|형제산구역【兄弟山區域】<small>Hyŏngjesan-guyŏk</small>}} (ヒョンジェサングヨク)
* [[龍城区域]] - {{lang|ko|룡성구역【龍城區域】<small>Ryongsŏng-guyŏk</small>}} (リョンソングヨク)
* [[三石区域]] - {{lang|ko|삼석구역【三石區域】<small>Samsŏk-guyŏk</small>}} (サムソックヨク)
* [[力浦区域]] - {{lang|ko|력포구역【力浦區域】<small>Ryŏkpho-guyŏk</small>}} (リョクポグヨク)
* [[楽浪区域]] - {{lang|ko|락랑구역【樂浪區域】<small>Rangrang-guyŏk</small>}} (ランラングヨク)
* [[順安区域]] - {{lang|ko|순안구역【順安區域】<small>Sunan-guyŏk</small>}} (スナングヨク)
* [[恩情区域]] - {{lang|ko|은정구역【恩情區域】<small>Ŭnjŏng-guyŏk</small>}} (ウンジョングヨク)
* [[和盛区域]] - {{lang|ko|화성구역【和盛區域】<small>Hwasŏng-guyŏk</small>}} (ファソングヨク)
=== 郡部 ===
* [[江東郡]] - {{lang|ko|강동군【江東郡】<small>Kangdong-gun</small>}} (カンドングン)
* [[江南郡]] - {{lang|ko|강남군【江南郡】<small>Kangnam-gun</small>}} (カンナムグン)
=== 洞部 ===
* [[方峴洞]] - {{lang|ko|방현동【方峴洞】<small>Panghyŏn-dong</small>}}
=== 年表 ===
この節の出典<ref>{{Cite web |url=http://www.cybernk.net/infoText/InfoAdminstList.aspx?ac=A01&mc=AD0101&direct=1 |title=평양시 역사 |trans-title=平壌市の歴史 |accessdate=2018-04-30 |website=북한지역정보넷(北朝鮮地域情報ネット) |publisher=[[平和問題研究所]]([[:ko:평화문제연구소|평화문제연구소]]) |language=[[朝鮮語]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170306040623/http://www.cybernk.net/infoText/InfoAdminstList.aspx?ac=A01&mc=AD0101&direct=1 |archivedate=2017-03-06 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>
* 1912年 - [[平安南道 (日本統治時代)|平安南道]]所属の'''平壌府'''が発足。
* 1914年4月1日 - 郡面併合により、旧平壌府を分割し、中心地域の隆興面・隆徳面および内川面・外川面・大興面・林原面の各一部を新たな'''平壌府'''として指定する。周辺地域の大部分が[[大同郡]]となり、徳山面が[[平原郡 (平安南道)|平原郡]]に、金呂垈面の一部が[[江西区域|江西郡]]に、南祭山面・乭串面の各一部が[[中和郡]]に編入した。
* 1928年3月 - 大同郡龍山面・西川面・大同江面の各一部を編入。
* 1939年 - 大同郡西川面・大同江面・古平面の各一部を編入。
* 1940年代初頭 - 大同郡秋乙美面・栗里面の各一部を編入。
* 1945年8月15日 - [[光復節 (韓国)|光復]]。
* 1946年9月 - [[北朝鮮臨時人民委員会]]により、平安南道から分離され、'''平壌直轄市'''に昇格。日本式の'''町'''を'''洞'''に改編。(4区)
** [[中区域|中区]]・[[船橋区域|東区]]・[[西城区域|西区]]・[[寺洞区域|北区]]を設置。
** 平安南道大同郡林原面の一部が北区に編入。
* 1947年 - 東区の一部が平安南道[[中和郡]]南串面に編入。(5区)
* 1948年7月 (5区)
** 中区・西区の各一部区域を分離し、南区を設置。
** 平安南道大同郡古平面の一部が南区に編入。
* 1952年12月 - 郡面里統廃合により、'''区'''が'''区域'''に改称。(5区域)
** 平安南道大同郡林原面の一部が[[西区域]]に編入。
** 平安南道中和郡南串面の一部が[[東区域]]に編入。
* 1955年2月 - 都市部の'''里'''を'''洞'''に改編。(5区域)
* 1957年4月 - 平安南道大同郡の一部(清渓里・西浦里の各一部)が西区域に編入。(5区域)
* 1958年6月 - 西区域・北区域の各一部を分離し、[[大城区域]]を設置。(6区域)
* 1959年2月 (6区域)
** 平安南道大同郡の一部(西浦里・下堂里)が西区域に編入。
** 平安南道大同郡の一部(和盛里・清渓里)が大城区域に編入。
* 1959年9月 (11区域)
** 中区域・南区域の各一部が平安南道大同郡の一部(大同邑・万景台里・龍峯里・龍山里・棠村里・古泉里)と合併し、[[万景台区域]]が発足。
** 大城区域の一部が平安南道[[順安郡]]の一部(新美里・中二里・龍城労働者区・馬山里・西里・下次里・下里)と合併し、[[龍城区域]]が発足。
** 平安南道[[勝湖郡]]の一部(湖南里・円興里・元新里・大泉里・聖文里・魯山里・三石里)、[[江東郡]]の一部(広徳里・三成里・道徳里)が合併し、[[三石区域]]が発足。
** 平安南道勝湖郡の一部(勝湖邑・梨川里・槐陰里・立石里・梨峴里・五柳里・大園里・鳳島里・金灘里)、[[中和郡]]の一部(楸塘里・堂井里・大峴里・石井里)が合併し、勝湖区域が発足。
** 東区域の一部が平安南道[[江南郡]]の一部(猿岩労働者区・松南里・甫城里・南寺里)、中和郡の一部(柳巣里・柳絃里・力浦里・陽陰里)と合併し、[[楽浪区域]]が発足。
** 東区域が[[船橋区域]]に改称。
** 西区域が[[西城区域]]に改称。
** 南区域が[[外城区域]]に改称。
** 北区域が[[寺洞区域]]に改称。
** 平安南道大同郡の一部(川南里)、平安南道順安郡の一部(鶴山里・新間里)が西城区域に編入。
* 1960年10月 (18区域)
** 外城区域の一部を分離し、[[平川区域]]を設置。
** 中区域・外城区域の各一部を分離し、[[普通江区域]]を設置。
** 西城区域・大城区域の各一部を分離し、[[牡丹峰区域]]を設置。
** 船橋区域・寺洞区域の各一部を分離し、[[東大院区域]]を設置。
** 寺洞区域・船橋区域の各一部を分離し、[[大同江区域]]を設置。
** 楽浪区域・勝湖区域の各一部を分離し、[[力浦区域]]を設置。
** 西城区域・万景台区域・龍城区域の各一部が平安南道順安郡の一部(大陽里の一部)と合併し、[[兄弟山区域]]が発足。
** 平安南道江東郡の一部(金玉里・貨泉里・三青里)が勝湖区域に編入。
** 平安南道大同郡の一部(金泉里の一部)が万景台区域に編入。
* 1963年5月 - 平安南道中和郡・江南郡・[[祥原郡]]が平壌直轄市に移管。(18区域3郡)
* 1965年1月 - 江南郡の一部(金垈里・碧只島里)が楽浪区域に編入。(18区域3郡)
* 1965年 (18区域3郡)
** 中和郡の一部(戊辰里)が力浦区域に編入。
** 祥原郡の一部(徳洞里)が寺洞区域に編入。
** 龍城区域の一部が平安南道[[順川郡]]の一部(鳳鶴里・舎人里・㯖山里)、順安郡の一部(上次里)と合併し、平安南道[[平城市|平城区]]となる。
* 1966年3月 - 平安南道大同郡の一部(大平里・金泉里・望日里・元魯里)が万景台区域に編入。(18区域3郡)
* 1967年 - 万景台区域の一部(元魯里の一部)が平安南道大同郡元川里に編入。(18区域3郡)
* 1967年10月 - 江南郡の一部(白雲里・真広里・東山里・乾山里および唐谷里の一部)が中和郡に編入。(18区域3郡)
* 1972年4月 - 平安南道順安郡の一部(順安邑・宅庵里・九瑞里・星州里・梧山里・安興里・龍伏里・山陽里・在京里・川東里・大陽里)を編入し、[[順安区域]]を設置。(19区域3郡)
* 1979年12月 - 中区域・外城区域が合併し、[[中区域]]が発足。(18区域3郡)
* 1981年10月 - 大同江区域の一部を分離し、[[紋繍区域]]を設置。(19区域3郡)
* 1983年3月 (18区域4郡)
** 紋繍区域が大同江区域に編入。
** 平安南道[[江東郡]]が平壌直轄市に移管。
* 1995年5月 - 平安南道[[平城市]]の一部(㯖山洞・裴山洞および地境洞・松嶺洞の各一部)が分離し、[[恩情区域]]が発足。(19区域4郡)
* 1995年11月 (19区域4郡)
** 平安南道[[成川郡]]の一部(百源労働者区の一部)が江東郡に編入。
** [[黄海北道]][[延山郡]]の一部(松山里の一部)が祥原郡に編入。
* 1996年6月 - 平安南道平原郡の一部(石岩里の一部)が順安区域に編入。(19区域4郡)
* 1999年12月 - 平安南道平城市の一部(敬信里の一部)が江東郡に編入。(19区域4郡)
* 2000年11月 - 平安南道平城市の一部(松嶺洞の一部)が恩情区域に編入。(19区域4郡)
* 2010年末 - 勝湖区域・祥原郡・中和郡・江南郡が黄海北道に編入。(18区域1郡)
* 2011年 - 江南郡が再び平壌直轄市に編入。(18区域2郡)
* 2018年2月10日 - [[平安北道]][[亀城市]][[方峴洞]]が平壌直轄市に編入。(18区域1郡1洞)<ref>{{Cite web|url=https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2018/03/07/2018030700259.html|title=北, 평양서 150㎞ 떨어진 곳을 평양市에 편입 왜?|accessdate=20121-01-30|website=조선일보(朝鮮日報)|publisher=[[朝鮮日報]]([[:ko:조선일보]])|language=[[朝鮮語]]}}</ref>
* 2022年4月14日 - [[最高人民会議常任委員会]]政令950号で[[和盛区域]]を新設<ref>{{cite news|url=http://www.rodong.rep.kp/ko/index.php?strPageID=SF01_02_01&newsID=2022-04-15-0005|title=조선민주주의인민공화국 최고인민회의 상임위원회 정령 제950호 주체111(2022)년 4월 14일 화성지구의 행정구역명칭을 정함에 대하여(朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会政令第950号 主体111(2022)年4月14日 和盛地区の行政区域の名称を定めることについて)|publisher=[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]|date=2022-4-15|accessdate=2022-4-17|archiveurl=https://archive.ph/VyaGH|archivedate=2022-5-4}}</ref>(19区域1郡1洞)。
== 世界遺産 ==
* [[高句麗古墳群]](2004年、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に指定) - 平壌から車で約30分
== 観光名所 ==
[[ファイル:Pyongyang Arch of Triumph at night 20150501.jpg|thumb|250px|[[凱旋門 (平壌)|凱旋門]]]]
[[ファイル:Juche Tower 2015.JPG|thumb|250px|[[主体思想塔]]]]
[[ファイル:Grand People's Study House 2.JPG|thumb|250px|人民大学習堂]]
* [[金日成広場]]
* [[主体思想塔]] - 高さ170mの石塔で標高150mに展望台がある
* [[万景台]](マンギョンデ) - 「[[金日成]]主席の生家があった地」とされている。万景台遊戯場が隣接する。その最高峰が[[万景峰]]である。
* [[牡丹峰]](モランボン) - 市街北部の[[山]]。[[高さ|標高]]95m。一帯は[[公園]]([[牡丹峰青年公園]])であり記念物や[[金日成競技場]]などがあり、[[アイドル]]グループ[[牡丹峰楽団]]も有名。
* [[凱旋門 (平壌)|凱旋門]] - パリの[[エトワール凱旋門]]より10m高く世界一とされる。
* {{仮リンク|千里馬銅像|en|Chollima Statue|zh|千里馬銅像|ko|천리마동상}}
* [[大同門]](テドンムン)
* [[練光亭]](李氏朝鮮王朝時代)
* [[高句麗平壌城]](高句麗時代)
* [[平壌東大門]](李氏朝鮮王朝時代)
* [[檀君陵]](古朝鮮の伝説の人物とされている檀君の墓)
* {{仮リンク|永生塔|ko|영생탑}}
* [[定陵寺]]
* [[蒼光山]]
* [[鳳火山]]
** [[鳳火山公園]]
==再開発街区==
* 倉田通り(チャンジョン-)
*銀河科学者通り(ウナ-)
* 未来科学者通り(ミレ-)
* 黎明通り(リョミョン-)
<Gallery>
ファイル:Pyongyang at night 20150501.jpg|倉田通り
ファイル:West side of Taedong river Pyongyang 20150501.jpg|大同江西岸沿いの風景
ファイル:Mirae Scientists Street.jpg|未来科学者通り。[[金策工業総合大学]]の関係者の集合住宅街。
ファイル:Ryomyong Street.png|黎明通り。[[金日成総合大学]]の関係者の集合住宅街。
</Gallery>
== 政治機関等 ==
* [[万寿台議事堂]]([[最高人民会議]])
* [[朝鮮労働党中央委員会本部庁舎]]
== 大学 ==
* [[金日成総合大学]]
* [[金日成放送大学]]
*[[金日成軍事総合大学]]
* {{仮リンク|康盤石遺子女大学|zh|康盤石烈士子女大學}}
* [[平壌外国語大学]]
* [[金策工業総合大学]]
* {{仮リンク|金亨稷師範大学|ko|김형직사범대학|zh|金亨稷師範大學}}
* {{仮リンク|金哲柱師範大学|zh|金哲柱師範大學}}
* {{仮リンク|韓徳銖平壌軽工業大学|zh|韓德銖平壤輕工業大學}}
* [[張哲九平壌商業大学]]
* [[平壌医科大学]]
* [[平壌理科大学]]
* {{仮リンク|平壌機械大学|zh|平壤機械大學}}
* [[平壌鉄道大学]]
* [[平壌教員大学]]
* [[平壌農業大学]]
* [[平壌印刷工業大学]]
* {{仮リンク|平壌美術大学|ko|평양미술대학|no|Pyongyangs kunstuniversitet}}
* {{仮リンク|平壌建築大学|ko|평양건축종합대학|zh|平壤建設建材大學}}
* [[平壌科学技術大学]]
* [[金元均名称音楽総合大学]]
* [[平壌演劇映画大学]]
* {{仮リンク|朝鮮体育大学|zh|朝鮮體育大學}}
* {{仮リンク|人民経済大学|ko|인민경제대학|zh|人民經濟大學}}
* {{仮リンク|国際関係大学|ko|국제관계대학|zh|國際關係大學}}
* {{仮リンク|金星政治大学|zh|金星政治大學}}
* {{仮リンク|平川工業大学|zh|平川工業大學}}
== 学院 ==
* [[万景台革命学院]]
* {{仮リンク|金星学院|zh|平壤金星学院}}
* {{仮リンク|平壌巧芸学院|ko|평양교예학원|zh|平壤雜技學院}}
* [[金元均名称音楽総合大学]]平壌第1音楽学院(旧名称:平壌音楽学院)
* 金元均名称音楽総合大学平壌第2音楽学院(旧名称:金星学院芸術班)
== 中学校 ==
=== 初級・高級一貫校 ===
* {{仮リンク|平壌第1中学校|ko|평양제1중학교}}([[普通江区域]])
* 東平壌第1中学校
* 牡丹峰第1中学校([[牡丹峰区域]])
=== 高級中学校 ===
* [[中区域]]・東岸(トンアン)高級中学校 - 早期声楽班を擁する。
* [[船橋区域]]・{{仮リンク|栗谷(リュルゴク)高級中学校|id|Sekolah Menengah Ryulgok Pyongyang}} - 児童音楽班を擁する。また、[[インドネシア]]、[[茨城朝鮮初中高級学校]]と友好関係にある。
* [[平川区域]]・海運(ヘウン)高級中学校 - [[バレーボール]]の強豪校。
* [[楽浪区域]]・勝利(スンリ)高級中学校
=== 初級中学校 ===
* [[東大院区域]]・紋繍峰(ムンスボン)初級中学校
== 幼稚園 ==
* 大同門(テドンムン)幼稚園([[中区域]]) - 早期芸術教育を行っている。
* 蒼光(チャングァン)幼稚園(中区域) - 同上。
* 慶上(キョンサン)幼稚園(中区域) - 同上。
* 黎明幼稚園
== 教育施設 ==
* [[万景台学生少年宮殿]]
* [[平壌学生少年宮殿]]
* [[人民大学習堂]]
* [[中央階級教養館]]
* [[朝鮮革命博物館]]
* [[祖国解放戦争勝利記念館]]
* [[万寿台創作社革命事績館]]
* [[鉄道省革命事績館]]
* [[3大革命展示館]]
== 食文化 ==
{{See also|{{仮リンク|北朝鮮料理|en|North Korean cuisine}}}}
平壌式[[冷麺]]が有名。他に甘肉(犬肉)、オリコギ(家鴨肉)など。
* [[玉流館]]
* [[清流館]]
* {{仮リンク|蓮池館|zh|蓮池館}}
* {{仮リンク|香満楼酒家|zh|香滿樓酒家|label=香滿樓酒家}}
* [[イタリア料理専門食堂]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://js-tours.jp/archives/1480|title = 平壌のイタリア料理店に行ってきました。|website = js-tours.jp|publisher = js-tours.jp|date = |accessdate = 2020-08-30}}</ref>
== 施設 ==
[[ファイル:Kumsusan Memorial Palace, Pyongyang.jpg|250px|thumb|right|錦繍山太陽宮殿]]
[[ファイル:Arch of Reunification.jpg|right|250px|thumb|祖国統一三大憲章記念塔]]
=== 史跡 ===
* [[大城山革命烈士陵]]
* [[愛国烈士陵]]
=== 博物館 ===
* [[朝鮮中央歴史博物館]]
* 朝鮮民俗博物館
* 朝鮮美術博物館
* [[朝鮮革命博物館]]
* {{仮リンク|党創建事績館|ko|당창건사적관|en|Party Founding Museum}}
* {{仮リンク|月香展示館|zh|月香展示館}}
* {{仮リンク|平壌電影城|zh|平壤電影城}}
* {{仮リンク|烽火里革命博物館|zh|烽火里革命博物館}}
* [[自然博物館]]
=== 記念施設等 ===
* [[錦繍山太陽宮殿]] - 金日成・金正日の遺体を保存
* [[祖国解放戦争勝利記念館]]
* 三大革命展示館
* [[祖国統一三大憲章記念塔]]
* 祖国解放戦争記念塔
* 朝鮮労働党創建記念塔
* 統一戦線塔
* [[解放塔]]
* [[友誼塔]]
* [[大城山革命烈士陵]]
* {{仮リンク|白善行紀念館|zh|白善行紀念館}}
* [[党創立記念塔]]
* [[普通江改修工事記念塔]]
=== 文化施設 ===
* {{仮リンク|平壌国際映画会館|ko|평양국제영화회관|de|Internationale Kinohalle Pjöngjang}}
* [[平壌大劇場]]
* [[万景台区域]] {{仮リンク|平壌サーカス劇場|ko|평양교예극장|de|Zirkus Pjöngjang}}
* 朝鮮人民軍サーカス劇場
* [[4・25文化会館]](旧2・8文化会館)
* 青年中央会館
* [[東平壌大劇場]]
* [[人民文化宮殿]]
* [[朝鮮美術博物館]]
* [[朝鮮革命博物館]]
* 朝鮮劇映画撮影所
* [[万寿台創作社]]
* 国際文化センター
* [[大同門映画館]]
* [[万寿台芸術劇場]]
* [[人民劇場]]
* {{仮リンク|平壌第一百貨店|ko|평양제1백화점|en|Pyongyang Department Store No. 1}}
* [[平壌巧芸劇場]]
* {{仮リンク|楽園映画館|ko|락원영화관}}
* {{仮リンク|凱旋映画館|ko|개선영화관}}
* {{仮リンク|牡丹峰劇場|ko|모란봉극장}}
* [[烽火芸術劇場]]
* [[楽浪院]]
* [[平壌ボウリング館]]
* [[綾羅イルカ館]]
* [[大同江区域]] [[党創立記念塔]]
* [[普通江区域]] [[普通江改修工事記念塔]]
* [[解放塔]]
* [[普通門]]
* [[美林競馬場]]
* [[万景台区域]] [[疲労回復館]]
* 万景台区域 [[ハンドボール館]]
* 万景台区域 [[軽競技館]]
* 万景台区域 [[重競技館]]
* 万景台区域 [[西山サッカー競技場]]
* 万景台区域 [[重量挙館]]
* 万景台区域 [[水泳館]]
* 万景台区域 [[バドミントン館]]
* 万景台区域 [[バレーボール館]]
* 万景台区域 [[バスケットボール館]]
* [[中区域]] [[平壌体育館]]
* [[大同江区域]] [[金陵運動館]]
=== スポーツ施設 ===
[[ファイル:North Korea-Pyongyang-Yanggakdo-01.jpg|thumb|250px|right|羊角島の競技場と平壌国際映画会館]]
* [[金日成競技場]] - 10万人収容、[[凱旋門 (平壌)|凱旋門]]付近
* [[綾羅島メーデー・スタジアム|綾羅島5月1日競技場]] - [[アリラン祭|アリラン祭典]]が開かれる世界ランク第1位の15万人の収容能力を誇る巨大競技場、[[綾羅島|綾羅(ルンラ)島]]
* [[羊角島競技場]] - 羊角島<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fifaworldranking.com/st1.html |title=世界のサッカースタジアムランキング(サッカー専用・兼用30000人以上の481競技場) |accessdate=2018-04-30 |website=fifaworldranking.com |publisher='J calcio' |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180430150040/http://www.fifaworldranking.com/st1.html |archivedate=2018-04-30 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>
* 平壌ボウリング館
* 平壌ゴルフ練習場
* 氷上館(アイススケートセンター)
* [[蒼光院]](総合ヘルスセンター)
* [[平壤柳京鄭周永体育館]]
* 平壌体育館
: 他、市街地の西郊にあるニュータウン、青春通りには[[ソウルオリンピック]]と同時期に[[体操競技]]場や[[バスケットボール]]場などさまざまな体育施設が建設されるなど、市周辺には施設が多い。
=== 娯楽施設 ===
[[ファイル:Kaeson chongnyon park 20150503.jpg|thumb|250px|凱旋遊園地]]
* 万景台遊園地
* 大城山遊園地
* 普通江遊園地
* 長寿山遊園地
* [[凱旋青年公園]]
* [[中区域]] 鳥灘洞公園
* 万寿台噴水花草公園
* [[朝鮮中央動物園]]
* {{仮リンク|朝鮮中央植物園|zh|朝鮮中央植物園}}
* [[紋繍遊泳場]]
=== 主なホテル ===
[[ファイル:平壌高麗ホテル.jpg|right|250px|thumb|平壌高麗ホテル]]
{| class="wikitable"
!等級!!名称!!所在地!!備考
|-
!rowspan="4"|特級
|[[平壌高麗ホテル]]
| 中区域東興洞
|高さ140m、45階建。
|-
|[[羊角島国際ホテル]]
| 中区域柳城洞
|高さ178m、48階建。
|-
|[[普通江ホテル]]
| 平川区域鞍山洞
|17階建
|-
|[[牡丹峰ホテル]]
| 牡丹峰区域興富洞
|
|-
!rowspan="3"|1級
|西山ホテル
| 万景台区域祝典2洞
|
|-
|青年ホテル
| 万景台区域祝典2洞
|
|-
|蒼光山ホテル
| 中区域東城洞
|
|-
! 2級
|平壌ホテル
|中区域烏灘洞
|
|-
! 3級
|解放山ホテル
| 中区域中城洞
|
|-
!rowspan="2"|不明
|楽浪ホテル
|楽浪区域
|
|-
|蒼光外国人宿所
|中区域
|
|}
* [[柳京ホテル]](リュギョンホテル)
: 105階建て330m超ホテルとして計画され、[[1987年]]に着工したものの予算面などから建設凍結と再開が繰り返される状態となっている。
=== 展示場 ===
* [[料理科学技術成果資料展示場]]
* [[3大革命展示館]]
=== 商業施設 ===
[[ファイル:Haedanghwagwan Pyongyang North Korea 20150504.jpg|right|250px|thumb|ヘダンファ館]]
* [[大聖デパート]]
* [[平壌第一百貨店]]
* [[玉流館]]
* [[ヘダンファ館|海棠花館]]
* {{仮リンク|普通江百貨店|en|Pothonggang Department Store}}
=== 宗教施設 ===
* [[長忠大聖堂]]
* {{仮リンク|鳳岫教会|ko|봉수교회}}
* {{仮リンク|チルゴル教会|ko|칠골교회}}
* 聖三位一体聖堂(貞栢寺院)
== 産業 ==
=== 本社を置く主な企業 ===
{{main|朝鮮民主主義人民共和国の企業一覧}}
* [[高麗航空]]
* [[Koryolink|チェオテクノロジー]]
* [[華麗銀行]]
* [[朝鮮国際旅行社]]
* [[万寿台創作社]]
* [[SEKスタジオ]]
* [[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞社]]
* [[朝鮮労働党出版社]]
* [[外国文総合出版社]]
* [[朝鮮中央通信]]
* [[朝鮮中央テレビ]]
* [[万寿台テレビ]]
* [[平壌放送]]
* [[平壌FM放送]]
* [[統一のこだま放送]]
=== 平壌の企業所/工場 ===
==== 機械 ====
* [[金鍾泰電気機関車連合企業所]]
* 平壌無軌道電車工場
* [[勝利自動車工場]]
* [[平和自動車]]([[大韓民国]]との合弁)
* 龍城機械連合企業所
** 軍需鉄工場
* 平壌通信機械工場
* 平壌自動化機械工場
* 平壌通信機械工場
* 平壌靴機械工場
* 平壌ベアリング工場
* 平壌昇降機工場
==== 発電 ====
* 東平壌発電所
==== 金属/金属加工 ====
* 平壌326電線工場
==== 窯業 ====
* 平壌光学ガラス生産協同組合眼鏡製作所
* 復興セメント連合企業所
==== その他軽工業 ====
* 平壌鞄工場
* 平壌靴工場
* 平壌靴下工場
* 柳原靴工場
==== 印刷 ====
* 平壌総合印刷工場
* 牡丹峰区域出版物普及所([[牡丹峰区域]])
==== 繊維 ====
* 9月紡織工場
* 金正淑平壌紡織工場
* 金正淑平壌製糸工場
==== 医療/化学 ====
* 平壌製薬工場
* 平壌医療機器技術社
* 平壌化粧品工場
==== 食品加工 ====
* 柳京キムチ工場
* 平壌基礎食品工場
* 柳京大豆加工品工場
* 大同江食料工場([[大同江区域]])
* [[大同江ビール]]工場([[寺洞区域]])
==== 農林水産業 ====
===== 工場での生産 =====
* 柳京キノコ工場
===== 農場 =====
* 将泉(チャンチョン)野菜専門協同農場([[寺洞区域]])
* 小新(ソシン)野菜専門協同農場([[力浦区域]])
* 兄山(ヒョンサン)野菜専門協同農場([[兄弟山区域]])
* 平壌樹木園(兄弟山区域)
===== 水産業 =====
* 平壌ナマズ工場
* 平壌スッポン工場(旧名称:大同江スッポン工場)
== 交通 ==
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
|枠幅 = 250px
|画像1 = Air Koryo Tupolev Tu-204 at Sunan International Airport.jpg
|説明1 = [[平壌国際空港|順安国際空港]]
|画像2 = Pyongyang Station 20150503.jpg
|説明2 = ライトアップされた[[平壌駅]]舎
|画像3 = Pyongyang metro 20150502.jpg
|説明3 = [[平壌地下鉄]]
|画像4 = Taxi on Pyongyang North Korea 20150501.jpg
|説明4 = 平壌市内を走るタクシー
}}
=== 空港 ===
* [[平壌国際空港]](順安国際空港)
=== 鉄道 ===
; 路線([[朝鮮民主主義人民共和国の鉄道]])
* [[京義線]]([[平釜線]]、[[平義線]])
* [[平南線]]
* [[平元線]]([[平羅線]])
* [[平徳線]]
* [[平壌地下鉄]]
* [[平壌市電|路面電車]]
=== バス ===
* 北平壌地域 : 平壌第1旅客自動車作業所
** 大城山 - 江東・三石・牡丹峰・美林・八骨間
** リョンモッ洞 - 科学1洞・順安・平壌駅間
** 龍城 - 美林・西城間
** 西城 - 龍城・力浦間
** [[友誼塔]] - 産業洞間
* 東平壌地域 : 平壌第2旅客自動車作業所
** 大同江洞 - 大同門・美林・[[平壌第1百貨店]]間
** 大園里 - 力浦陶磁器工場間
** 寺洞 - 大同門洞
** 船橋 - 平壌駅・平壌第1百貨店間
** 松新 - 将進間
** 紋繍 - [[錦繍山太陽宮殿]]・大普洞間
** 貞栢洞 - [[平壌第2百貨店]]
** 塔済洞 - [[大同江駅]]
*南平壌地域 : 平壌第3旅客自動車作業所
**楽浪 - 大劇場・大普洞・産業洞・猿岩里・戦勝塔間
*西平壌地域 : 平壌第4旅客自動車作業所
** [[光復駅]] - 平壌第2百貨店
** 万景台 - 大平・[[復興駅]]
** 八骨 - リョンモッ洞・元魯里
=== トロリーバス ===
* [[平壌無軌道電車|トロリーバス]]
*リョンモッ無軌道電車作業所
** リョンモッ洞 - 龍城
*西平壌無軌道電車作業所
** [[西平壌駅]] - 西浦・[[平壌駅]]
** [[凱旋門 (平壌)|凱旋門]] - [[黄金原駅]]
*平川無軌道電車作業所
** 火力発電所 - 西平壌駅
* [[紋繍無軌道電車作業所]]
**紋繍 - 平壌第2百貨店・楽浪
**大同江洞 - 平壌第1百貨店
=== 水運 ===
2016年11月に[[大同江]]の両岸を結ぶ遊覧船の運航が再開した。屋根にソーラーパネルを搭載し、太陽光発電だけで動く。
: 平日朝晩の出勤時間帯(7:30〜9:00、17:30〜19:00)は通勤客向けに運行し、日曜や祭日にはクルーズを楽しむことができる。<ref>[http://chosonsinbo.com/jp/2017/07/sinbo-j_170802/ 朝鮮新報2017年7月31日号〈D.P.R.K〜暮らしの今 1〉平壌市民の通勤風景]</ref>
=== 水運路線 ===
*平壌周辺部
**今大 - 平壌・南浦
**美林 - 麦田
**[[平川区域|平川]] - [[トゥル島]]
**平川 - [[松林市|松林]]
*平壌市内
** [[金日成広場]] - [[主体思想塔]]・[[5月1日競技場]]・[[科学技術殿堂]]
** [[玉流橋]] - [[大同江橋]]
** [[万景台]] - [[江南郡]]
=== 高速道路 ===
* [[青年英雄道路]] : 平壌 - [[南浦特級市|南浦]]
* {{仮リンク|平壌江東高速道路|ko|평양강동고속도로}} : [[大城区域]] - [[江東郡]]
* [[平壌-元山観光道路]] : 平壌 - [[元山市|元山]]
* [[平壌-開城高速道路]] : 平壌 - [[開城特別市|開城]]
* {{仮リンク|平壌熙川高速道路|ko|평양희천고속도로}} : 平壌 - [[熙川市|熙川]]
* [[平壌-香山観光道路]] : 平壌 - [[香山郡|香山]]
=== 主要道路 ===
* [[光復通り]]
* [[ブルクン通り]]
* [[蒼光通り]]
* [[解放山通り]]
* [[千里馬通り]]
* [[栄光通り]]
* [[紋繍通り]]
* [[統一通り]]
* [[烽火通り]]
* [[青年通り]]
* [[青春通り]]
=== 主な橋 ===
* [[綾羅橋]]
* [[羊角橋]]
* [[普通橋]]
* [[清流橋]]
* [[忠誠橋]]
* [[万寿橋]]
* [[西城橋]]
* [[安山橋]]
* [[普通江橋]]
* [[烽火橋]]
* [[琵琶橋]]
* [[大同江鉄橋]]
* [[チルゴル立体橋]]
* [[玉流橋]]
== 姉妹都市 ==
;提携都市<ref name="Corfield2013">{{cite book|last=Corfield|first=Justin|title=Historical Dictionary of Pyongyang|chapter-url=https://books.google.com/books?id=a46gFDWr3aMC&pg=PA196|year=2013|publisher=Anthem Press|location=London|isbn=978-0-85728-234-7|page=196|chapter=Sister Cities}}</ref>
*{{Flagicon|ALG}} [[アルジェ]]([[アルジェリア民主人民共和国]] [[アルジェ県]])
*{{Flagicon|IRQ}} [[バグダード]]([[イラク共和国]] [[バグダード県]])
*{{Flagicon|THA}} [[テーサバーンナコーン・チエンマイ|チエンマイ]]([[タイ王国]] [[チエンマイ県]])
*{{Flagicon|UAE}} [[ドバイ]]([[アラブ首長国連邦]] [[ドバイ首長国]])
*{{Flagicon|IDN}} [[ジャカルタ]]([[インドネシア共和国]] [[ジャカルタ|ジャカルタ首都特別州]])※[[インドネシア]]と[[北朝鮮]]は共に[[CONEFO]]加盟国であり、繋がりが深い。
*{{Flagicon|NEP}} [[カトマンズ]]([[ネパール]] [[第三州]])
*{{Flagicon|RUS}} [[モスクワ]]([[ロシア連邦]] [[ロシアの連邦市|モスクワ連邦市]])
*{{Flagicon|CHN}} [[天津市|天津]]([[中華人民共和国]] [[直轄市 (中華人民共和国)|直轄市]])
*{{Flagicon|MNG}} [[ウランバートル]]([[モンゴル|モンゴル国]] 首都特別区)
== スポーツ ==
{{Main|Category:平壌市のスポーツ}}
=== サッカー ===
[[朝鮮民主主義人民共和国1部流蹴球連盟戦|最上級蹴球連盟戦]]に所属する[[4.25体育団]]や[[平壌市体育団]]などが存在する。[[サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表|サッカー北朝鮮代表]]にも多数の選手を送り出している。
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:平壌直轄市出身の人物}}
== 関連書籍 ==
* {{Cite book|和書|title=平壌概観|publisher=外国文出版社|date=1985|id={{NDLJP|12212717}}}}
* {{Cite book|和書|title=平壌|publisher=外国文出版社|date=1985|id={{NDLJP|12212541}}}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat}}
{{Wikivoyage|Pyeongyang}}
*[[朝鮮民主主義人民共和国]]
*[[平壌国際空港]]
*[[平壌駅]]
*[[平壌地下鉄]]
*[[ナレ]]
== 外部リンク ==
*[http://www.tourismdprk.gov.kp/destination/2 平壌直轄市] 朝鮮観光局(日本語)他
*[https://www.chugai-trv.co.jp/travel_attractions-01pyonyang 朝鮮観光情報 - 平壌直轄市地区] - [[中外旅行社]]
{{朝鮮民主主義人民共和国の地方行政区画}}
{{アジアの首都}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひよんやん}}
[[Category:平壌市|*]]
[[Category:朝鮮民主主義人民共和国の地方行政区画]]
[[Category:アジアの首都]]
[[Category:朝鮮民主主義人民共和国の特別市]]
|
2003-07-08T16:27:22Z
|
2023-12-30T12:04:55Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%A3%8C%E7%9B%B4%E8%BD%84%E5%B8%82
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11,057 |
ゴスペル (音楽)
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ゴスペル (Gospel music) または福音音楽(ふくいんおんがく)は、アメリカ発祥の音楽の一ジャンル。元来はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽。ゴスペル音楽(ゴスペルおんがく)ともいう。ゴスペルは英語で福音および福音書の意。「霊歌」(スピリチュアル、黒人霊歌)は白人の教会音楽、クラシック音楽と、黒人音楽の融合音楽ジャンルである。それに対してゴスペルは黒人の心情表現や、リズムにおけるアフリカ的なシンコペーションなどが特徴で、トーマス・A・ドーシー(英語版)らが代表的な作曲者だった。
奴隷としてアメリカ大陸に連行されたアフリカ人は、彼ら独自の言語・宗教などをいっさい剥奪された。アフリカ系アメリカのゴスペル音楽は、その苦しい状況下で、アメリカ南部のプロテスタントの福音(ゴスペル)と出会い、キリスト教への改宗を経て、神を賛美する音楽を奏でるようになったものである。こうしてアフリカ特有の跳ねるリズム、ブルー・ノート・スケールや口承の伝統などと、ヨーロッパの賛美歌などの音楽が融合して、スピリチュアル(黒人霊歌 negro spiritual とも言う)という現在のゴスペルのルーツとなる音楽が生まれた。奴隷制の下では厳しく歌やダンスを制限されたが、奴隷解放後は、ホーリネス派のように打楽器の使用を認める宗派も登場した。
アフリカ系アメリカのゴスペルミュージックに顕著なコール・アンド・レスポンスの技法は、こうした黒人音楽の一つの特徴となり、後年ソウル、ロックなど他のジャンルでも使用されるようになっている。
ゴスペル・ミュージックには、1930年代から黒人教会で演奏され始めたブラック・ゴスペル(一般的にはこちらを指す)と、白人クリスチャンアーティストが歌っていたホワイト・ゴスペルがある。黒人と白人の教会それぞれが完全に分離していた(→人種差別、ジム・クロウ法)ためと、黒人・白人のリズム感が異なるなどの理由で音楽性はかなり異なったものになっていた。21世紀では、アフリカ系アメリカのゴスペルを「ゴスペル・ミュージック」、ホワイト・ゴスペルを「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック (CCM)」と呼ぶのが通例とも言える。キリスト教会でもこれを用いる教会と用いない教会があるが、礼拝には時にバンドまで繰り出すこともあり、ゴスペル音楽は広範な地域で演奏されている。
教会、礼拝 (Christian worship) に関連した場所・イベントのみで演奏したが、花屋などの事業にも手を出したマヘリア・ジャクソン、ナイトクラブなど世俗での演奏をしたゴールデン・ゲート・カルテット、クララ・ウオードなど演奏形態は様々だった。シスター・ロゼッタ・サープはギターをひきながら、布教活動をおこなった。ゴスペル・カルテットは、Fisk Jubilee Singersの初期の成功に続いて、アカペラ・スタイルを発展させた。1930年代には、フェアフィールド・フォー、ディキシー・ハミングバーズ、ミシシッピのファイブブラインドボーイズ、アラバマのファイブ・ブラインド・ボーイズ、ソウル・スターラーズ、スワン・シルバートーンズが登場した。センセーショナル・ナイチンゲイルズで活躍したジュリアス・チークスは、その激情型のシャウト・スタイルにより「最初のソウル・シンガー」と呼ばれた。ウィルソン・ピケット、ジェームス・ブラウン、デヴィッド・ラフィン、ジェームズ・カー、オーティス・クレイらは、ジュリアス・チークスに影響を受けたソウル歌手の例である。
これらの知名度の高いカルテットに加えて、1920年代から30年代にかけて多くの有名無名のゴスペル・ミュージシャンが演奏を行い、ふだんはアメリカ南部の通りで、ギターを弾いたり歌ったりしていた。その中で有名なのは、ブラインド・ウィリー・ジョンソンらである。なお、ゴスペル音楽においては、エバンジェリスト、ジュビリー・コーラスほかの分類がある。
1930年代、シカゴでは、1920年代に「ジョージア・トム」という名前で世俗的なブルース音楽を書いて演奏してきたトーマス・A・ドーシー(作曲「プレシャス・ロード、テイク・マイ・ハンド」の作曲で知られる)がゴスペル音楽に転向し出版社を設立した。彼は妊娠中の妻と子の死を含め、彼の人生で多くの試練を経験した。トーマスはバプテストの牧師であった彼の父から聖書の知識を得て、そして彼の母親によってピアノを弾くようにすすめられた。家族がアトランタに引っ越したとき、彼はブルースのミュージシャンと仕事を始めた。ドーシーはタンパ・レッドとも仕事をしたことがある。1930年は近代的なゴスペル音楽が始まった年であるとも言われてきた。なぜなら、全国バプテスト協議会が1930年の会議で初めて公に音楽を承認したからである。ドーシーはゴスペル音楽を広める努力をした。アメリカ合衆国の初期のリズム・アンド・ブルースに影響を受けたゴスペル・グループは、当時充分な楽器を備え付けられなかった黒人教会の状況も手伝って、アカペラという形態のゴスペルを広めた。後にゴスペル出身のサム・クックはソウル・スターラーズを脱退して、ゴスペルから世俗音楽のソウルへと転向した。サム・クック、ジェームス・ブラウン、レイ・チャールズ、ジャッキー・ウィルソンらはソウル・ミュージックのルーツのシンガーと見られている。この聖から俗へという流れは、少なからず教会の反感を買った。
多くのソウルシンガー、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケット、サム&デイヴなどは幼い頃から教会で親しんでいたゴスペルに、大いに影響を受けたと言われる。また、サイモン&ガーファンクルの大ヒット曲「明日にかける橋」は、アレサ・フランクリンがカバーしている。ゴスペルクワイア(聖歌隊)と呼ばれる数人~100名以上から成る力強いコーラス隊を曲の途中(曲の最高潮部分など)から登場させるのは伝統的ゴスペルの手法だが、ロックやポップスでも使用される場合もある。
1990年代頃から生まれたジャンルとして、キリスト教の布教用歌詞をラップ歌詞に乗せたゴスペル・ラップ(holy hip hop, Christian hip hop)などがある。若い牧師・説教者などが教会で説教する際、時折(通常なら説教に関連した歌のフレーズを口ずさむ所を)ラップに代用させる者もいる。
ジャズ、ブルース、リズム・アンド・ブルース、ヒップホップ、ファンクなど、黒人音楽の多様化はそのままゴスペルの世界にも投影され、聖書をベースとしたメッセージが、これらの多様な黒人音楽スタイルにのせて歌われている。1830年代に誕生した白人のオルターコール(Altar Call)は、20世紀には右派・保守派のビリー・グラハムによって利用された。
ワーシップ・ミュージックについてはコンテンポラリー・ワーシップ・ミュージックを参照。
|
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ゴスペル または福音音楽(ふくいんおんがく)は、アメリカ発祥の音楽の一ジャンル。元来はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽。ゴスペル音楽(ゴスペルおんがく)ともいう。ゴスペルは英語で福音および福音書の意。「霊歌」(スピリチュアル、黒人霊歌)は白人の教会音楽、クラシック音楽と、黒人音楽の融合音楽ジャンルである。それに対してゴスペルは黒人の心情表現や、リズムにおけるアフリカ的なシンコペーションなどが特徴で、トーマス・A・ドーシーらが代表的な作曲者だった。
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'''ゴスペル''' (Gospel music) または'''福音音楽'''(ふくいんおんがく)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]発祥の[[音楽]]の一ジャンル。元来は[[キリスト教]][[プロテスタント]]系の宗教音楽。'''ゴスペル音楽'''(ゴスペルおんがく)ともいう。ゴスペルは英語で[[福音]]および[[福音書]]の意。「[[霊歌]]」(スピリチュアル、黒人霊歌)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E4%BA%BA%E9%9C%8A%E6%AD%8C-64065 黒人霊歌 こくじんれいか black spirituals - コトバンク・ブリタニカ] および [https://kotobank.jp/word/%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0-64919#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 ゴスペル・ソング gospel song の(2) - コトバンク・ブリタニカ]。英語でgospelは集合名詞なのでgospelsとは言わず、the sospel(通常複数)とか形容詞的にthe(/a) gospel song(s)という。</ref>は白人の教会音楽、クラシック音楽と、黒人音楽の融合音楽ジャンルである。それに対してゴスペルは黒人の心情表現や、リズムにおけるアフリカ的な[[シンコペーション]]などが特徴で、{{Ill|トーマス・A・ドーシー|en|Thomas A. Dorsey}}らが代表的な作曲者だった<ref name="名前なし-1">http://www.songhall.org/awards/winner/Thomas_A_Dorsey</ref>。
== 概要 ==
[[奴隷]]としてアメリカ大陸に連行されたアフリカ人は、彼ら独自の言語・宗教などをいっさい剥奪された。アフリカ系アメリカのゴスペル音楽は、その苦しい状況下で、[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]の[[プロテスタント]]の[[福音主義|福音]](ゴスペル)と出会い、キリスト教への改宗を経て、神を賛美する音楽を奏でるようになったものである。こうしてアフリカ特有の跳ねる[[リズム]]、[[ブルー・ノート・スケール]]や口承の伝統などと、ヨーロッパの[[賛美歌]]などの音楽が融合して、[[霊歌|スピリチュアル]](黒人霊歌 negro spiritual <ref>https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E4%BA%BA%E9%9C%8A%E6%AD%8C-64065</ref>とも言う)という現在のゴスペルのルーツとなる音楽が生まれた。奴隷制の下では厳しく歌やダンスを制限されたが、[[奴隷解放宣言|奴隷解放]]後は、ホーリネス派のように打楽器の使用を認める宗派も登場した。
アフリカ系アメリカのゴスペルミュージックに顕著な[[コールアンドレスポンス|'''コール・アンド・レスポンス''']]の技法は、こうした黒人音楽の一つの特徴となり、後年ソウル、ロックなど他のジャンルでも使用されるようになっている。
ゴスペル・ミュージックには、[[1930年代]]から[[黒人教会]]で演奏され始めたブラック・ゴスペル(一般的にはこちらを指す)と、[[白人]][[クリスチャン]]アーティストが歌っていた'''ホワイト・ゴスペル'''がある。黒人と白人の教会それぞれが完全に分離していた(→[[人種差別]]、[[ジム・クロウ法]])ためと、黒人・白人のリズム感が異なるなどの理由で音楽性はかなり異なったものになっていた。21世紀では、アフリカ系アメリカのゴスペルを「'''ゴスペル・ミュージック'''」、ホワイト・ゴスペルを「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック (CCM)」と呼ぶのが通例とも言える。[[教会 (キリスト教)|キリスト教会]]でもこれを用いる教会と用いない教会があるが、礼拝には時にバンドまで繰り出すこともあり、ゴスペル音楽は広範な地域で演奏されている。
教会、礼拝 ([[:en:Christian worship|Christian worship]]) に関連した場所・イベントのみで演奏したが、花屋などの事業にも手を出した[[マヘリア・ジャクソン]]<ref group="注">アポロからコロンビアへ移籍して魅力がなくなったとの説も。貪欲な事業家としても知られ、黒人の間からも批判が出た。</ref>、ナイトクラブなど世俗での演奏をした[[ゴールデン・ゲート・カルテット]]、[[クララ・ウオード]]など演奏形態は様々だった。[[シスター・ロゼッタ・サープ]]はギターをひきながら、布教活動をおこなった。ゴスペル・カルテットは、Fisk Jubilee Singersの初期の成功に続いて、アカペラ・スタイルを発展させた。1930年代には、フェアフィールド・フォー、ディキシー・ハミングバーズ、ミシシッピのファイブブラインドボーイズ、アラバマのファイブ・ブラインド・ボーイズ、ソウル・スターラーズ<ref group="注">RHハリス、サム・クック、ジョニー・テイラーらが在籍した。</ref>、スワン・シルバートーンズが登場した。[[センセーショナル・ナイチンゲイルズ]]で活躍した[[ジュリアス・チークス]]は、その激情型のシャウト・スタイルにより「'''最初のソウル・シンガー'''」と呼ばれた<ref>{{cite web |url=http://opalnations.com/files/Julius_Cheeks.pdf|title=The Rev. Julius Cheeks Retrospective|author=Opal Louis Nations|website=Opalnations.com|accessdate=12 December 2019}}</ref>。ウィルソン・ピケット、ジェームス・ブラウン、デヴィッド・ラフィン<ref group="注">テンプテーションズのリードシンガーだった。</ref>、ジェームズ・カー、オーティス・クレイ<ref group="注">ハイ・レコードに所属したソウル歌手。</ref>らは、ジュリアス・チークスに影響を受けたソウル歌手の例である。
== 詳細 ==
これらの知名度の高いカルテットに加えて、1920年代から30年代にかけて多くの有名無名のゴスペル・ミュージシャンが演奏を行い、ふだんはアメリカ南部の通りで、ギターを弾いたり歌ったりしていた。その中で有名なのは、ブラインド・ウィリー・ジョンソン<ref group="注">ゴスペル・ブルースの有名なシンガー。</ref>らである。なお、ゴスペル音楽においては、エバンジェリスト、ジュビリー・コーラスほかの分類がある。
1930年代、シカゴでは、1920年代に「ジョージア・トム」という名前で世俗的なブルース音楽を書いて演奏してきたトーマス・A・ドーシー(作曲「プレシャス・ロード、テイク・マイ・ハンド」の作曲で知られる)がゴスペル音楽に転向し出版社を設立した。彼は妊娠中の妻と子の死を含め、彼の人生で多くの試練を経験した<ref name="名前なし-1"/>。トーマスはバプテストの牧師であった彼の父から聖書の知識を得て、そして彼の母親によってピアノを弾くようにすすめられた。家族がアトランタに引っ越したとき、彼はブルースのミュージシャンと仕事を始めた。ドーシーは[[タンパ・レッド]]<ref group="注">ブルース歌手。</ref>とも仕事をしたことがある。1930年は近代的なゴスペル音楽が始まった年であるとも言われてきた。なぜなら、全国バプテスト協議会が1930年の会議で初めて公に音楽を承認したからである。ドーシーはゴスペル音楽を広める努力をした。アメリカ合衆国の初期の[[リズム・アンド・ブルース]]に影響を受けたゴスペル・グループは、当時充分な楽器を備え付けられなかった黒人教会の状況も手伝って、[[アカペラ]]という形態のゴスペルを広めた。後にゴスペル出身の[[サム・クック]]<ref group="注">ソウル・スターラーズ出身だった。</ref>はソウル・スターラーズを脱退して、ゴスペルから世俗音楽のソウルへと転向した<ref>{{Cite web|url=https://www.rockhall.com/inductees/sam-cooke|title=Sam Cooke|website=Rock & Roll Hall of Fame|language=en|access-date=2017-10-10}}</ref>。サム・クック、ジェームス・ブラウン、[[レイ・チャールズ]]、ジャッキー・ウィルソンらは[[ソウル・ミュージック]]のルーツのシンガーと見られている。この聖から俗へという流れは、少なからず教会の反感を買った。
多くのソウルシンガー、[[アレサ・フランクリン]]<ref group="注">「リスペクト」「小さな願い」などヒット曲多数の「レディ・ソウル」</ref>、[[ウィルソン・ピケット]]<ref group="注">「ダンス天国」「ミッドナイト・アワー」などがヒットしたシャウター。</ref>、[[サム&デイヴ]]<ref group="注">「ソウル・マン」「ホールド・オン、アイム・カミン」が代表曲。</ref>などは幼い頃から教会で親しんでいたゴスペルに、大いに影響を受けたと言われる。また、[[サイモン&ガーファンクル]]の大ヒット曲「[[明日にかける橋]]」は、アレサ・フランクリンがカバーしている。ゴスペル[[クワイア]](聖歌隊)と呼ばれる数人~100名以上から成る力強いコーラス隊を曲の途中(曲の最高潮部分など)から登場させるのは伝統的ゴスペルの手法だが、[[ロック (音楽)|ロック]]やポップスでも使用される場合もある。
1990年代頃から生まれたジャンルとして、キリスト教の布教用歌詞を[[ラップ]]歌詞に乗せたゴスペル・ラップ(holy hip hop, Christian hip hop)などがある。若い[[牧師]]・説教者などが教会で説教する際、時折(通常なら説教に関連した歌のフレーズを口ずさむ所を)ラップに代用させる者もいる。
[[ジャズ]]、[[ブルース]]、[[リズム・アンド・ブルース]]、[[ヒップホップ]]、[[ファンク]]など、黒人音楽の多様化はそのままゴスペルの世界にも投影され、聖書をベースとしたメッセージが、これらの多様な黒人音楽スタイルにのせて歌われている。1830年代に誕生した白人のオルターコール(Altar Call)は、20世紀には右派・保守派の[[ビリー・グラハム]]によって利用された。
== ゴスペルを題材にした映画 ==
*『[[天使にラブ・ソングを…]]』 ''Sister Act'' (1992) [[ウーピー・ゴールドバーグ]]主演。
*: 日本におけるゴスペルブームの火付け役となった作品。
*: ただし、この映画は聖母マリアの崇敬を行う[[カトリック教会]]を舞台としており、あくまで「既存の商業音楽の歌詞を聖歌的解釈に置き換えてゴスペル風のアレンジで歌う」というスタイルで描かれているため、宗教的、音楽的観点から言えばプロテスタント文化であるゴスペル音楽とは異なり、既存のゴスペルナンバーは一切使われていない。
<!--ただし、この映画は[[カトリック教会]]を舞台としており、その音楽は[[聖母マリア]]について歌うため、多くのアフリカ系アメリカ人クリスチャンの観点からすれば、マリア崇敬の無い[[プロテスタント]]の文化であるゴスペル音楽とは異なっている。-->
*『[[天使にラブ・ソングを2]]』 ''Sister Act 2: Back in the Habit'' (1993) [[ウーピー・ゴールドバーグ]]主演。
*:上記作品の続編。劇中歌として使われたゴスペルナンバー『「[[オー・ハッピー・デイ]]』が日本での本格的なゴスペルブーム到来をもたらした。
*『[[天使の贈りもの (映画)|天使の贈りもの]]』 ''The Preacher's Wife (1996)''
*『ファイティング・テンプテーションズ』 Fighting Temptations (2003)
*『ゴスペル』 The Gospel(2005)
*『[[ジョイフル・ノイズ]]』 Joyful Noise (2012)
== ワーシップ・ミュージック ==
ワーシップ・ミュージックについては[[コンテンポラリー・ワーシップ・ミュージック]]を参照。
== 主な音楽家 ==
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* [[ジュリアス・チークス]]
* [[センセーショナル・ナイチンゲールズ]]<ref>{{cite news|url=https://www.washingtonpost.com/archive/local/1995/07/20/willie-george-woodruff-dies/62142980-cc9b-429c-a840-72841ec1a76a/|title=WILLIE GEORGE WOODRUFF DIES|author=Hamil R. Harris| access-date=3 December 2021| work=[[ワシントン・ポスト]] }}</ref>
* [[チョーズン・ゴスペル・シンガーズ]]
* [[スワン・シルバートーンズ]]
* [[ウィリー・メイ・フォード]]
* [[ソウル・スターラーズ]] (サム・クックが在籍した)
* [[クララ・ウォード]]<ref>[https://www.allmusic.com/artist/clara-ward-mn0000108117 クララ・ウォード] 2021年12月3日閲覧</ref>
* [[ファイブ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ]]
* [[ファイブ・ブラインド・ボーイズ・オブ・ミシシッピ]]
* [[ベルズ・オブ・ジョイ]]
* [[キャラバンズ]]
* [[スピリット・オブ・メンフィス]]
* [[サウンズ・オブ・ブラックネス]]
* [[カーク・フランクリンズ・ニュー・ネイション]]
* [[ジェームス・クリーブランド]]
* [[シャーリー・シーザー]]
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* [[マーロン・ストークス]]
* [[クロード・ジーター]]
* [[ジョー・ペース]]
* [[ヘゼカイア・ウォーカー]]
* フレッド・ハモンド
* [[ドニー・マクラーキン]]
* アーチー・ブラウン・リー
* [[ブラザー・ジョー・メイ]]
* [[アル・グリーン]]
* [[マービン・サップ]]
* カレン・クラーク・シェアード
* [[ドン・ブライアント]]
* [[デイヴィス・シスターズ]]
* [[マヘリア・ジャクソン]]
* [[亀渕友香]]
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== クリスチャン・ミュージックの歌手 ==
* [[TiA]]
* [[本田路津子]]
* [[森祐理]]
* 久米小百合([[久保田早紀]])
* [[小坂忠]]
* [[シスター・ジャネット・ミード]]<ref group="注">オーストラリアのクリスチャン歌手。「ザ・ローズ・プレイヤー」が74年にアメリカでヒット。</ref>
* オークリッジ・ボーイズ
* アウト・オブ・ダークネス(英国プログレ)
* 11.59(英国プログレ)
* [[ストライパー]](USA)
* ザ・クロスビーツ(英国)
* キャドモン(英国)
== 関連項目 ==
* [[黒人教会]]
* [[ゴスペルシンガー]]
* [[霊歌|スピリチュアル]]
* [[ブルース]]
* [[ドゥーワップ]]
* [[ブラックミュージック]]
* [[ソウル・ミュージック]]
* [[:en:gospel rap|gospel rap]]
* [[:en:southern gospel|southern gospel]]
* [[コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック]]
* [[ヴァージニア州の音楽]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
* [http://www.firebirdartsalliance.org/ Firebird Arts Alliance] – Encourages all races and religions to join
* [http://www.gospelmusic.org/ Gospel Music Association] – Acknowledges all forms of Gospel Music
* [http://www.gospelnewstoday.com/ Gospel News Today] – Primarily Gospel News
* [http://www.gospelviu.net/ Gospel Viu – Gospel Without Borders]
* [http://www.gospelwire.com/ Gospel Wire] – Primarily urban contemporary gospel
* [http://pacificgospel.com/ Pacific Gospel Music Association] – Known for Southern Gospel
* [http://www.sgma.org/ Southern Gospel Music Association] – Known for Southern Gospel
* [http://www.gospel-music.org/ Gospel Music Information]
* [http://www.fln.sk Festival Lumen – the biggest gospel music festival in central Europe]
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アラバマ州
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アラバマ州(アラバマしゅう、英語: State of Alabama)は、アメリカ合衆国南部に位置する州。人口は5,024,279人(2020年国勢調査)である。州都はモンゴメリー市。他に市域人口では州内最大で、アメリカ航空宇宙局関連施設が集中するハンツビル、都市圏では州内最大のバーミングハム、州内唯一の港湾都市モービルなどの主要都市がある。北はテネシー州、東はジョージア州、南はフロリダ州とメキシコ湾、西はミシシッピ州と接している。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第30位、人口では第24位である。内陸まで航行できる水路総延長が1,300マイル (2,100 km) あることでは、国内でも最長クラスにある。
南北戦争から第二次世界大戦まで、他の南部州と同様に農業への依存が続いていたこともあって、アラバマ州は経済的に困難な時代を味わった。工業や都市部が成長したにも拘わらず、1960年代までは田園部の白人の利権が州議会を支配しており、都市部とアフリカ系アメリカ人の権利は優先されなかった。第二次世界大戦後、アラバマ州は農業依存経済から多様化された経済に移行して成長してきた。多くのアメリカ軍基地が設立または拡張されたことも経済発展に寄与し、20世紀半ばに農業と工業経済の橋渡し役となった。21世紀の州経済は経営管理、金融、製造、航空宇宙、鉱業、医療、教育、小売りおよび技術に依存している。
かつてマスコギー語を話すアラバマ族がアラバマ川上流、クーサ川とタラプーサ川合流点の下流に住んでおり、これが川と州の名称の由来とされている。アラバマ族の言語で部族員は Albaamo(方言によっては Albaama または Albàamo、複数形は Albaamaha)と呼ばれる。「アラバマ」という言葉は、チョクトー族の言葉が語源と考えられており、アラバマ族が部族名に採用した。その綴りは史料によって様々である。最初に文献に現れたのは、1540年のエルナンド・デ・ソトの遠征であり、ガルシラソ・デ・ラ・ベガが Alibamo と表記していた。他にもエルバス騎士が Alibamu、ロドリゴ・ランヘルが Limamu と記していた。1702年にはアラバマ族がフランス人によって Alibamon と呼ばれ、フランスの地図にはアラバマ川が Rivière des Alibamons と表記されていた。その他、Alibamu、Alabamo、Albama、Alebamon、Alibama、Alibamou、Alabamu、Allibamou などの表記が見られた。
「アラバマ」の語源は分かっているが、その意味については諸説あって定まっていない。『ジャクソンビル・レパブリカン』紙の1842年の記事では、その意味を「ここで休む」とする説を発表した。この説は1850年代にアレクサンダー・ボーフォート・ミークの著作を通じて広まった。マスコギー語の専門家はこの説を肯定する証拠を見出すことができなかった。学者はこの言葉がチョクトー語の alba(植物あるいは雑草を意味する)と、amo(切る、整えるあるいは集めるを意味する)を合わせたと考えている。その意味は「藪を切りはらう人」または「香草を集める人」である可能性があり、農作のために土地を開墾すること、あるいは薬草を集めることを指していると考えられる。「アラバマ」はアメリカ合衆国内に数多いアメリカ先住民の言葉に由来する地名の1つである。
なお、アメリカ合衆国の全50の州を名前のアルファベット順に並べたときに、最初に来る州である。
アラバマ州となった地域にヨーロッパ人が入ってくる以前の数千年間、様々な文化を持つインディアンがこの地域に住んでいた。現在のアメリカ合衆国北東部との交易は、オハイオ川を通じて墳墓期(紀元前1000年から紀元後700年)に始まり、ヨーロッパ人と接触した時まで続いた。
西暦1060年から1600年、農耕社会のミシシッピ文化が現在の州の大半に及び、その中心の1つがマウンドビルのマウンドビル考古学遺跡にあった。マウンドビルで行われた考古学発掘調査で出土した人工物を解析することで、南東部儀式用複合施設の性格に関わる学説の基礎ができてきた。一般に考えられていることとは対照的に、南東部儀式用複合施設はメソアメリカ文化と直接の結びつきが無く、独自の発展を遂げていたと見られている。儀式用複合施設はミシシッピ文化の人々の宗教では主要な要素だった。その宗教を理解するうえで主要手段の1つになっている。
ヨーロッパ人が入って来たときに、現在のアラバマ州領域に住んでいたインディアン部族として、イロコイ語を話すチェロキー族、マスコギー語を話すアラバマ族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族、コアサティ族がいた。
1702年、フランスが現在オールド・モービルと呼ばれる地域にヨーロッパ人として最初の開拓地を築いた。モービルの町は1711年に現在地に移転した。この地域は1702年から1763年がフランス、1763年から1783年がイギリスの西フロリダの支配下にあり、1783年から1821年はアメリカ合衆国とスペインの間で分割された。イギリス王政に忠誠を誓うロイヤリストだったトマス・バセットが、モービル地域を除けば地域内初期の白人開拓者だった。1770年代初期に現在のワシントン郡となったトンビグビー開拓地に入った。1783年、現在のボールドウィン郡とモービル郡の領域がスペイン領西フロリダの一部となり、1810年には独立国西フロリダ共和国の一部、1812年にミシシッピ準州に付設された。現在のアラバマ州北部と中央部およびミシシッピ州は、当時ヤズーランドと呼ばれ、1767年以降ジョージア植民地が領有権を主張していた。アメリカ独立戦争の後、ジョージア州に編入されたが、その領有については大きな論争が続いた。
モービルやヤズーランドに隣接する地域を除き、現在のアラバマ州中央部は、1798年に創設されたミシシッピ準州の一部になった。ヤズーランド詐欺が起きた後、ヤズーランドも1804年に準州に付加された。1812年以後スペインはモービルに行政機能を置いていた。1814年、アンドリュー・ジャクソンの軍隊がモービルを占領し、この地域に対するアメリカ合衆国の「事実上の」権限を示した。これで準州奥地からメキシコ湾まで支障のない通路ができ、モービルにおけるスペインの実効支配を終わらせたが、領有権主張は残り続けた。ミシシッピ州が州に昇格する1817年12月10日の前に、人口の少なかった準州東半分が分離し、アラバマ準州と命名された。アラバマ準州は1817年3月3日のアメリカ合衆国議会で創設された。セントスティーブンスが1817年から1819年まで準州都とされていたが、現在は廃村になっている。
アラバマが合衆国22番目の州になることが認められた後、アメリカ合衆国議会は最初のアラバマ州憲法制定会議の場所にハンツビルを選定した。1819年7月5日から8月2日に代議員が会して新州憲法を準備した。ハンツビルは1819年から1820年までアラバマ暫定州都となり、その後はダラス郡のカハバに州都が移された。カハバは現在廃村となっているが、1820年から1825年まで最初の恒久的州都だった。アラバマが州になった時は既にアラバマ・フィーバーが広がり始めており、綿花の栽培に適した肥沃な台地を得るために開拓者や土地投機家が殺到していた。1820年代から1830年代の開拓地にあって、州憲法は白人男性については普通選挙を執行していた。綿花のプランテーションが広がるに連れて、南東部農園主や交易業者がアッパーサウスから奴隷と共に移ってきた。暗色の肥沃な土壌から名付けられたブラックベルト中央部の経済は大規模な綿花プランテーションの上に作られ、プランテーション所有者は奴隷の労働から大きな富を築いた。この地域には大勢の貧乏で選挙権を持たない人々も入ってきて、自給自足農になった。1810年の人口は1万人と推計されていたが、1830年には30万人以上に増加していた。地域に住んでいたインディアンの大半は、1830年にアメリカ合衆国議会でインディアン移住法が成立してから数年後には、州から完全に追い出されていた。
1826年から1846年にかけてタスカルーサが州都になった。1846年1月30日、アラバマ州議会はタスカルーサからモンゴメリーに州都を移すことを議決したと発表した。新州都での最初の議会は1847年12月に開会された。新議会議事堂は、フィラデルフィアのスティーブン・ディケーター・バトンの指導で建設された。最初の建物は1849年の火事で焼け落ちたが、1851年に同じ場所に再建された。メイン州エグゼターのバラチアス・ホルトが設計した二代目の建物は現在も残っている。1860年には人口が964,201人となっており、その内435,080人はアフリカ系アメリカ人奴隷、2,690人は有色の自由人だった。
1861年1月11日、アラバマ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国に加盟した。南北戦争ではアメリカ連合国の首都をモンゴメリーに置き、連合の初代大統領としてジェファーソン・デイヴィスを擁立し、連合の中心的役割として戦った。アメリカ連合国の首都は同年5月にバージニア州リッチモンドに移転された。1864年の夏にはメキシコ湾に面したモービル湾で南北戦争では珍しい海戦が繰り広げられたが、南部の敗北に終わった。州内ではほとんど戦闘が無かったが、南北戦争には約12万人の兵士が出征した。ハンツビル出身の騎兵1個中隊が、ケンタッキー州でネイサン・ベッドフォード・フォレスト将軍の軍隊に参加した。このハンツビル中隊は、袖、襟、上着の裾に黄色い布を付けた見事な新しい制服を着ていたことから「イエローハンマー」と呼ばれ、後に南軍のアラバマ州部隊は「イエローハンマーズ」と呼び習わされるようになった。1865年、アメリカ合衆国憲法修正第13条により、州内の奴隷は解放された。
戦後、アラバマ州は軍政府の管理下に置かれ、占領は1868年にアメリカ合衆国に復帰するまで続いた。アフリカ系アメリカ人に選挙権が与えられると、1867年から1874年、多くのアフリカ系アメリカ人が政治指導者として台頭した。この期間にはアメリカ合衆国議会に3人のアフリカ系アメリカ人を選出した。すなわちジェレマイア・ハラルソン、ベンジャミン・S・ターナー、ジェイムズ・T・レイピアの3人である。
南北戦争後もアラバマ州は農業に大きく依存し続け、経済は綿花と堅く結びついていた。レコンストラクション時代、州議会は1868年に新憲法を採択し、初めて公共教育体系を作り、女性の権利を拡大した。多くの公共道路や鉄道の建設計画を予算化したが、それらは不正行為や横領の疑惑に実行を妨げられた。この期間、組織化された抵抗集団が解放奴隷や共和党員を抑圧するために活動した。クー・クラックス・クランがよく知られているが、他にも白い顔団(Pale Faces)、白椿騎士団(Knights of the White Camelia)、赤シャツ団(Red Shirts)、白人同盟(White League)などの集団がいた。
アラバマ州のレコンストラクションは、民主党が議会を制し、知事職を取った1874年に終わった。1875年には新憲法を制定した。同年、議会はブレイン修正条項を成立させ、公金を宗教系学校に使うことを禁じた。さらに同年、学校を人種分離することを要求する法が認められた。1891年には鉄道の客車が人種分離された。その他にも20世紀初期にジム・クロウ諸法が成立した。
1901年の新憲法では、人頭税、識字能力などによる選挙権の制限を通じて、実質的にアフリカ系アメリカ人と白人の低所得層から選挙権を奪う選挙法が含まれた。農園主階級は白人低所得層を説得してこれらの法を支持させながら、累積する人頭税の課税が大きく影響して白人低所得層の選挙権も取り上げることになった。1900年、州内には181,000人以上の選挙権を持つアフリカ系アメリカ人がいた。1903年には、少なくとも74,000人のアフリカ系アメリカ人に識字能力があったが、僅か2,980人のみが有権者登録されていた。1941年、白人で選挙権の無い者は60万人、黒人では52万人となり、白人の方が多くなっていた。アフリカ系アメリカ人はほとんど全員が投票権を持たなかった。
1901年憲法は、学校での人種分離を再度肯定した。1867年以降人種間結婚は違法とされていたが、この新憲法で改めてそれが定められた。1950年代まで人種差別法が追加されていった。1911年には監獄で、1915年には病院で、1928年にはトイレ、ホテル、レストランで、1945年にはバス停待合室で人種分離された。
田園部の多いアラバマ州の議会は常に、選挙権を剥奪されたアフリカ系アメリカ人への教育もサービスも予算割り当てを少なくしていたが、彼等から税金は取り続けた。南部においてアフリカ系アメリカ人の教育予算が少ないという批判に答える意味もあって、ローゼンウォルド財団がローゼンウォルド学校と呼ばれるようになる校舎建設資金の手当てを始めた。アラバマ州ではこれら学校の設計と建設の一部がローゼンウォルド基金で賄われた。基金は校舎建設資金の3分の1を拠出し、残りを町と州が分割した。1913年には、最初のローゼンウォルド学校が建設された。1937年までに合計で387校、7つの教員宿舎、幾つかの職業訓練用建物が完成した。現在も州内に残っているローゼンウォルド学校はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。
継続する人種差別、農業不況、ワタミゾウムシの蔓延による綿花収量の低下などで、何万人ものアフリカ系アメリカ人が職を求めて北部の工業都市へ移住した。グレートマイグレーションと呼ばれるものの中で、20世紀前半に、製造業の仕事やより良い暮らしを求めてアラバマを離れていった。1910年から1920年のアラバマ州人口成長率は半分近くになった。
これと同じ時期に田園部の白人や黒人は、新しい工業都市であるバーミングハム市で働くために移住した。バーミングハム市は「魔法の都市」と渾名されるほど人口が急増した。1920年代では、バーミングハム市は国内第19位の大都市であり、州内人口の30%以上が住んでいた。重工業と鉱業が経済の基盤だった。第二次世界大戦の需要に関わる工業の発展は、南北戦争以前にも見られなかったような繁栄をもたらした。田園部の労働者はより良い仕事と高い生活水準を求めて州内の大都市に流入した。その顕著な例がモービル市であり、1940年から1943年の3年間で89,000人以上が市内に入り、軍需産業で働いた。製造業とサービス産業が隆盛するに連れて、綿花など換金作物はその重要性を失っていった。
1901年から1961年まで人口構成の大きな変化があったが、田園部主導の議会は、人口に基づく下院や上院の議席数割り当てを変えようとしなかった。農業地帯の政治と経済の権力を維持するために、古い選挙区割りに固執した。さらにバーミングハム市の外に住む人々による選出を確実にするために、数少ないバーミングハム市内の選挙区を都合良く修正した。
その結果の分かる良い例がバーミングハム市の工業と経済の基盤地帯を含むジェファーソン郡であり、州税収の3分の1以上を収めていながら、それに比例したサービスを受けていなかった。都市部は常に州議会での代表が少ない状況だった。1960年の研究では、「総人口のうちの少数である約25%を代表する議員が、州議会の多数派を支配していた」とされていた。
アフリカ系アメリカ人は歴史的な経緯から共和党の一翼を担ったが、選挙権を剥奪された。アラバマ州の白人は南北戦争の敗北やレコンストラクションの後で、共和党に敵意を抱き憎悪するようになった。このために白人有権者に気に入られようとすれば、政治的信念に拘わらず民主党で出馬するというのが長い伝統になった。
アフリカ系アメリカ人は既に昔から選挙権剥奪状態と人種差別を止めさせようと努力していたが、1950年代と1960年代になるとさらに活発な公民権運動と呼ばれる活動を始めた。1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス逮捕事件が公民権運動の口火を切った。この動きでアメリカ合衆国議会により、1964年の公民権法と1965年の選挙権法成立に繋がった。1960年代、ジョージ・ウォレス州知事の政権下では、連邦政府で認められた人種差別撤廃に抵抗する動きが州内で行われたが、失敗した。
公民権運動の時代にアフリカ系アメリカ人は全国的な公民権法成立と選挙権法を通じて投票の保護など公民権を獲得した。ジム・クロウ法は無効にされあるいは撤廃されて法的な人種差別は終わった。
1965年選挙権法の下で、連邦裁判所はアラバマ州に州議会下院と上院の議席を人口に応じて再配分することを強制した。1972年、アラバマ州は人口に応じて議席を再配分することについて州憲法の規定を改正したが、これは1901年以来の改正となった。このことは60年間以上の間、経済的発展を遂げながら代表数の少なかった都市部には恩恵となった。
アラバマ州は総面積135,765 km(52,419 mi) あり、アメリカ合衆国内で30番目に大きな州である。そのうち3.2%は水域であり、その広さは国内23番目になる。内陸水路の総延長では国内第2位である。
州域の5分の3はなだらかな平原であり、ミシシッピ川やメキシコ湾に向かって標高が下がる。北部は山がちであり、テネシー川が大きな流域を作り、小川、沢、川、山地、湖を形成している。州の北東部にはなだらかなアパラチア高原が広がり、石炭・鉄鉱石など鉱物資源の宝庫となっている。他の大部分はメキシコ湾沿岸平原で占められる。メキシコ湾に流入するモービル川とアラバマ川が主要な河川体系を形成する。
州の西部はミシシッピ州、北部はテネシー州、東部はジョージア州と接し、南部も大部分はフロリダ州と接するが、一部はメキシコ湾に面している。標高はモービル湾の海面から、北東部アパラチア山脈の1800フィート (550 m) 超の領域まで変化している。最高地点は標高2,413フィート (735 m) のチーハ山である。森林が2,200 万エーカー (89,000 km) あり、州域の67%になっている。メキシコ湾岸にある郊外部のボールドウィン郡が陸地面積でも水域面積でも州内最大の郡となっている。
アメリカ合衆国国立公園局が管理する地域としては、アレクサンダーシティ近くのホースシューベンド軍事公園、フォートペイン近くのリトル川峡谷国立保存地、ブリッジポートのラッセル洞窟国立保護区、タスキーギのタスキーギ・エアメン国立歴史史跡、タスキーギ近くのタスキーギ国立歴史史跡研究所がある。 またコネカー、タラデガ、タスキーギ、ウィリアム・B・バンクヘッドの4つの国有林がある。さらにナチェズ・トレイス・パークウェイ、セルマ・トゥ・モンゴメリー国立歴史道、涙の道国立歴史道もある。ヘイリービルの直ぐ南には、ロッキー山脈より東では最長の天然橋がある。
モンゴメリー市の北、エルモア郡には幅5マイル (8 km) の隕石クレーターがある。ウィトゥンプカ・クレーターと呼ばれ、「アラバマ州最大の自然災害」跡である。幅1,000フィート (300 m) の隕石が約8,000年前にこの地域に落ちてきた。ウィトゥンプカ中心街の東にある丘陵は隕石クレーターの名残が浸食されたものであり、破片の同心円状の環や砕けた岩石が地表下に見られるので、ウィトゥンプカ・クレーターあるいは隕石痕と名付けられている。2002年ウィーン大学地球化学研究所のクリスチャン・キュバールが、この場所を地球上で認識された隕石クレーターの157番目とする証拠を示した。
アラバマ州の最北点は、州北西隅のローダーデール郡ウォータルーの町の北西約6マイル (10 km) にある。最南点はモービル郡ドーフィン島に近いサンド島である。最東点はジョージア州との州境、ラッセル郡のフォートミッチェルから南東8マイル (13 km) にある。最西点はミシシッピ州との州境の南から3分の1、チョクトー郡のメルヴィン町の近くにある。
アラバマ州は温暖湿潤気候にあり、ケッペンの気候区分では Cfa である。年間平均気温は64°F (18 °C) である。南部のメキシコ湾に近付くと温暖になり、北部、特に北東部のアパラチア山脈は幾分冷涼である。概して夏は大変暑く、冬は温暖で、年間を通して雨量が多い。年間平均雨量は56インチ (1,400 mm) あり、南部では植物生育適応日が300日もある。
夏は国内でも最も暑い方の州であり、場所によって平均最高気温は90°F (32 °C) を超える。熱帯低気圧やハリケーンの影響も受けやすい。メキシコ湾から遠い地域は嵐の影響がそれほどでもないが、上陸して弱くなっていく間に大量の雨を降らせることがある。
南部では多くの雷雨が発生している。モービル湾周辺のメキシコ湾では年間70ないし80日に雷雨が発生している。北部ではいくらか少なくなるが、最北部でも年間約60日の雷雨が記録されることがある。時には落雷や大きな雹を降らせることがある。州中部と北部はこの種の嵐が起きやすい。落雷による死者数では国内第7位、人口当たりの落雷死者数では第9位である。
1950年1月1日から2006年10月31日までの国立気象データセンターによる統計では、改良藤田スケールEF5の竜巻発生数で、カンザス州と共に国内最大である。長い距離を移動したF5クラスの竜巻によって被った死者の数では国内最大であり、竜巻道に入る面積が広いテキサス州をも超えている。1974年4月や2011年4月25日から28日の竜巻大発生のときは莫大な被害を受けた。2011年4月の場合は累計で62個が発生し、州内の竜巻発生数として最大を記録した。
竜巻の多い季節は北部と南部で異なっている。春が一番被害を受けやすい季節であり、2番目に11月、12月が竜巻のシーズンになっていることでは、世界でも数少ない地域の1つである。テネシー川流域にある北部は、国内でも最も激しい竜巻被害を受ける地域である。アラバマ州とミシシッピ州のこの地域はディキシー・アリーとも呼ばれることがあり、南部平原の竜巻道とは区別されている。
冬季は他の南東部州と同様温暖であり、1月の平均最低気温はモービル市で40°F (4 °C) 周辺、バーミングハム市では32°F (0 °C) 程度である。州内の大半で降雪は希だが、モンゴメリー市の北では毎冬にわか雪があり、数年に一度はそこそこの降雪がある。これまでに1963年大晦日と1993年に大雪があった。バーミングハム市の年間平均降雪量は2インチ (5 cm) である。南部のメキシコ湾岸では希であり、数年間も降雪が無いことがある。
州内の過去最高気温は1925年9月5日に未編入自治体のセンタービルで記録された112°F (44 °C)、過去最低気温は1966年1月30日にニューマーケットで記録された-27°F (-33 °C) である。
州内には様々な植物相と動物相が見られる。これは北のテネシー川流域、アパラチア高原とリッジ・アンド・バレー・アパラチアン区、中央部のピードモント台地、ケーンブレイクとブラックベルト、南のメキシコ湾岸平原と海岸というように多様な地形があることが大きく寄与している。生物多様性の幅では国内トップクラスである。
州内にはかつては松林が広大に広がっていた。現在でも州内のかなりの森林を形成している。植物相の多様さでは国内第5位に位置づけられている。シダ植物と種子植物の種は4,000種近くに及んでいる。
哺乳類の原生種は62種が生息している。爬虫類は93種、両生類は73種、淡水魚は307種、少なくとも一年間の一部を州内で過ごす鳥類は420種いる。無脊椎動物では、甲殻類83種、軟体動物383種がいる。軟体動物のうち113種は州外では見られない州固有種である。
2020年の国勢調査時点でのアラバマ州の人口は5,024,279人で、2010年国勢調査からは244,543人、4.87%の増加となっていた。
アラバマ州の人口重心はチルトン郡ジェミソンの町郊外となっている。
この州の人種別構成比および前の国勢調査との比較:
ノート:
2011年時点で州内1歳未満人口の46.6%は少数民族に属している。
アラバマ州内で2000年に申告された祖先による構成比は以下の通りだった:アフリカ系 (26.2%)、イングランド系(23.6%)、アイルランド系 (7.7%)、ドイツ系(5.7%)、およびスコットランド系アイルランド人 (2.0%)。人口統計学者は、州民の20ないし23%はイングランド系の祖先を持つ者であり、この数字は実際にはもっと高くなると考えている。1980年の国勢調査で、総人口の41%がイングランド系と申告し、当時は最大の民族集団だった。 さらにスコットランド系アイルランド人の割合は自己申告よりも高いものとされている。スコットランド系アイルランド人という言葉はスコットランドにルーツを持つ人々に使われていたので、多くの人々はアイルランド系と回答している。
1984年、デイビス・ストロング法の下で、州議会はアラバマ・インディアン管理委員会を設立し、7部族を公式に認定した。現在ではこれが9部族に拡大された。
アラバマ州の主要な宗教:
アラバマ州はキリスト教徒の多いバイブル・ベルトの中央にある。州民の約58%が定期的に教会に通っており、国内でも最大級に信仰心の篤い州とされてきた。州民の大半はプロテスタントである。2000年時点で信徒の多い会派は、福音主義プロテスタント、メインライン・プロテスタント、カトリック教会である。
信徒数は少ないが、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、シク教およびバハイ教など多くの宗教が信仰されている。ユダヤ教はモービル植民地時代の1763年からアラバマで信仰されている。最古の会派はモービルのシャアライ・ショメイム会派である。1844年1月25日には州議会によって認定された。イスラム教は2011年までに州内に31のモスクが建設され、増加しつつある。ヒンドゥー教もバーミングハム市のシュリ・スワミナラヤン・マンディールなど多くの寺院がある。仏教徒のために6か所のダーマ・センターが州内各所にある。仏教の修道寺院はモービル郡南部のバイユーラバトル近くに集中している。この地域にはインドシナ戦争の結果1970年代にカンボジア、ラオス、ベトナムから難民が多く流入した。
アメリカ疾病予防管理センターによる2008年の研究では、アラバマ州の肥満が問題にされており、大半の郡が成人の肥満率29%以上、10の郡が26%から29%の間になった。他に肥満を指摘された5州と同様、州民は余暇に運動する者の比率が低かった。糖尿病の発症率が成人の10%を超えており、南東部州と共に国内最大クラスである。
2017年には、先進国では珍しい鉤虫症が流行したことから、ニューズウィークに州内の貧困と関連付けて報道されたことがある。
アラバマ族、アパラチー族、アタシ族、アパラチコーラ族、チャトト族、チェロキー族、チカソー族、チョクトー族、ムスコギー・クリーク族連合(ユーファウラ族、ファス・ハッチー族、ヒリビ族、カン・ハッチ族、ケアレジ族、コロミ族、アビーカ族、オクチャイ族、パカナ族、ツカバーチー族、ワコカイ族、ウィウォーカ族)、ヒッチチ族、コウシャッタ族、モービル族、ムクラサ族、ナポチ族、ナチェス族、オクムルギー族、オソチ族、パウォクチ族、ピルスラコ族、サウォクリ族、ショーニー族、タエンサ族、トホメ族、タスケギー族、ヤマシー族、ユチ族など、アラバマ州には多数のインディアン部族が先住した。そのほとんどが農耕民族である。
アメリカ連邦政府が公式認定し、現在も連邦条約を基にした保留地(Reservation)を領有している部族は「クリーク族・ポアーチ・バンド」のひとつだけである。
16世紀にフロリダから上陸したスペイン人のエルナンド・デ・ソトは、自らを「不死の太陽王」と名乗って軍勢を率いて南東部各地でインディアン部族を虐殺した。ソトはこの地にも現れ、1540年にはクリーク族の近縁部族であるモービル族の村の「マビラ砦」を襲い、「マビラの虐殺」と呼ばれる大虐殺を行った。「クリーク族連合」の多数の支族は、ソトの記録に基づくものが多い。
クリーク族(ムスコギー連合)は、人種隔離論を掲げたアンドリュー・ジャクソン大統領の民族浄化政策である1830年の「インディアン移住法」の影響を、最も大きく受けた部族のひとつである。アラバマおよび周辺地帯は肥沃な土地を有し、古くから白人入植者に収奪されてきた。
1831年に、クリーク族の酋長が連邦政府に「1500人を超える白人入植者が、われわれクリーク族の土地に勝手に農場を作っている」と告訴した。これに対する連邦政府の答えは、「西の土地(現在のオクラホマ州)に保留地を用意するから、そこに移住すればよい」というものだった。こうして部族の苦情は逆手に取られ、1832年には、なし崩し的にクリーク族の土地は条約で連邦へ譲渡されることとなり、アラバマのクリーク・ムスコギー連合部族はインディアン準州(現・オクラホマ)へ強制移住させられることとなった。米軍の監視のもと行われた徒歩による大陸横断移住では、数千人の途上死者を出す悲惨なものとなった。
この際、条約規定では、インディアン準州への移住を拒んだクリーク族はアラバマ州の保留地に残ることもできた。しかし、白人入植者は彼らの土地をあっという間にだまし盗ってしまった。記録されただけでも、「インディアンをウィスキーで酔いつぶれさせて売買契約書に署名させる」、「賄賂を用いて別のインディアン名義の土地権利書を作成し、そのインディアンの署名で売買契約を行う」、「公然と売買契約書を偽造する」、「土地売買での裁判に圧力干渉する」、といった手口が活用された。これは全米のインディアン部族に対して白人入植者が用いた常套手口であり、特に珍しいものでも同州に限ったものでもない。インディアンのほとんどは英語の読み書きができなかったから、売買契約書の偽造はまるでたやすいものだった。
こういった土地の略奪で処罰される白人はおらず、むしろこれらはインディアンを子供扱いし、「インディアンは消滅されるべき劣等民族である」と議会で演説したジャクソン大統領の姿勢に沿うものだった。1879年に合衆国最高裁判所が公式に「インディアンは人間である」と認めるまで、そもそもインディアンは人間扱いされていなかった。
この強制移住の際の、クリーク族の「まだらの蛇(Speckled Snake)」酋長が連合各部族に行った演説は非常に有名である。以下はその抜粋である。
こうして1853年には、アラバマ州でのクリーク族の土地保有者はほとんどいなくなり、クリーク族は絶滅したことにされた。なおも同州にとどまったインディアンのうち、「クリーク族・ポアーチ・バンド」は1950年代から70年代まで、部族指導者カルバン・マギーの音頭取りによって「感謝祭」の日にパウワウを開催して資金を募り、復活要求運動を高めた。こうしてついに同バンドは1984年にアメリカ連邦内務省インディアン管理局に再公認されて「復活」を果たした。
同州では多数の部族が19世紀に「絶滅部族」にされて保留地を失い、現在再認定を要求し係争中である。
現在のところ、クリーク族のみが「インディアン・カジノ」を開設している。郡によってカジノや賭博の規定は違うが、アラバマ州自体はインディアン・カジノに反対の立場をとっており、州公認部族はカジノを開設できない。
ポアーチ・クリーク族は、部族が経営するカジノにスロットマシンとテーブル・ゲームの増加を予定している。トロイ・キング州司法長官は米国内務省に対し、2008年4月にモービルの連邦裁判所にポアーチ・クリーク族のカジノ事業拡大の禁止を求めた訴訟を起こした。キング司法長官は、「近頃の内務省は、アラバマの(インディアン以外の)人々の権利の尊重というものを無視しているのではないのか」と不満を述べている。
≪アラバマ州のインディアン・カジノと経営部族≫
アラバマ州の基礎となる文書はアラバマ州憲法であり、1901年に批准された。約800の修正と31万語からなるこの憲法は世界最長の憲法であり、アメリカ合衆国憲法のおよそ40倍の長さがある。この憲法を書き換え近代化する動きが続けられてきた。その根拠は、アラバマ州憲法がモンゴメリー市に中央権力を集中させており、地方には政治的権限が無いという事実である。州に関わる政策変更の提案はアラバマ州議会とさらに州全体の住民投票によって承認されなければならない。現憲法に対する批判の1つは、憲法の複雑さと長さによって人種差別を意図するように組まれているというものである。
アラバマ州政府は連邦政府や他州と同様、三権分立の形を採っている。立法府がアラバマ州議会であり、105人の議員からなるアラバマ州代議院(下院)と35人の議員からなるアラバマ州元老院(上院)の両院制である。議会は州法を起案し、議論し、成立あるいは廃案にする責任がある。現在、共和党が両院の多数を握っている。議会は、州知事が拒否権を発動した場合も、絶対多数で覆す権限を持っており、これは他州で3分の2の賛成を必要とするのと異なっている。
行政府は法の執行と監視の責任がある。行政府の長がアラバマ州知事である。知事の内閣を構成するのは、検事総長、州務長官、財務官、監査官である。
司法府はアラバマ州憲法を解釈し、州内の刑事事件と民事事件に適用する責任がある。最高機関がアラバマ州最高裁判所である。その長官は共和党員のチャック・マローンである。現在最高裁判所判事は全て共和党員で占められている。
4年毎の11月に選挙が行われ、州議会議員は選出後直ちに就任する。知事、副知事、検事総長など州憲法に定められる州全体の役人は、翌年1月に就任する。
アラバマ州の移民法は、厳しいことで知られ、公立学校の生徒は不法移民でないかどうか審査を受けることが必須とされている。2011年9月の法改正では、自動車のドライバーが州の運転免許証、外国人であれば出身国が発行した自動車運転免許証を携帯することが義務づけられ、違反者は警察が拘束することも可能となった。
所得税は税率2%、4%、5%の3段階で累進課税方式を採っている。納税者は州税から連邦政府の所得税を控除することを認められ、基礎控除を行っている場合もそれが許される。個別控除を申告した納税者は連邦政府の社会保障費とメディケア税も控除できる。
消費税率は4%である。都市や郡も消費税を徴収するので、実際にはさらに高い率になる。例えばモービル市では合計10%となり、さらにレストランでは1%が加算される。消費税と使用税で州と地方政府の税収の51%を集めており、国内平均の36%と比べて高い割合である。食品や医薬品にも課税することでは数少ない州の1つである。低所得者に対する所得税も国内では高い方である。例えば4人家族で収入が4,600米ドルの場合でも所得税を課しており、全国的な貧困線と比べれば4分の1の水準である。アラバマ州の所得税限界値は他の41州とコロンビア特別区よりも低くなっている。
法人の所得税率は6.5%である。連邦、州、地方政府の税を合わせた場合、国内では2番目に税負担の少ない州になっている。資産税も国内最少である。資産税を上げる場合は、州憲法によって州民投票の承認を必要としている。
アラバマ州の税体系は消費に大きく依存しているので、変動要素の大きい予算を組むことになる。例えば2003年の州会計は6億7,000万米ドルの歳入不足に陥った。
州内には67郡がある。各郡は通常郡政委員会と呼ばれる立法府があり、委員は選挙で選ばれている。また通常は行政権限者もいる。アラバマ州憲法による規制が強いために、7郡を除いてはほとんどと言って良いほど自治にはなっていない。その代わりに、大半の郡は州議会の地方議会委員会にロビー活動を行い、例えば廃棄物処理の利用土地区分など単純な地方政策を得る必要がある。
2011年11月9日、ジェファーソン郡が破産を宣言した。 アラバマ州はアルコール飲料を統制する州である。州政府はアルコール飲料販売を独占している。しかし、郡は独自にドライ(禁酒郡)を宣言できる。州はそのような地域でアルコール飲料を販売していない。
現職知事は2017年4月10日より共和党のケイ・アイヴィーである。元々はロバート・J・ベントリー知事のもとで副知事を務めていたが、ベントリーが不祥事のため任期途中で辞任を表明し、副知事だったアイヴィーが昇格した。
南北戦争に続くレコンストラクション時代、アラバマ州はジョン・ポープ将軍の指揮する第3軍管区の北軍に占領された。1874年、リディーマーと呼ばれた政治連衡がアフリカ系アメリカ人の選挙権を抑制したこともあって、共和党から州政府の支配を取り戻した。
1890年以後、白人の連衡により黒人の差別と選挙権剥奪のために法を成立させ、1901年憲法で完成させた。アフリカ系アメリカ人の選挙権を奪う規定は白人低所得層からも同様に選挙権を奪った。1941年までに黒人(52万人)よりも多くの白人(60万人)が選挙権を奪われるようになった。ただし、その影響度は黒人の方が大きく、ほとんど全ての州民が選挙権を奪われていた。
1901年から1960年代までの間、州内の人口が増えたり、州内で人口の移動があったとしても、選挙区の線引きを変えなかった。その結果、少数の人口しか居ない田園部の代表が州の政治を支配することとなり、これは1972年に一連の訴訟で選挙区割りを変えさせるまで続いた。
アラバマ州の政治は1950年代から1960年代の公民権運動時代に、当時の多数派を占めた白人が官僚的にかつ暴力的に選挙改革と社会改革のための抗議に抵抗したとき、全国と国際社会の注目を集めた。民主党員のジョージ・ウォレスは州知事を4期務めていたが、論争の多い人物だった。連邦政府によって1964年の公民権法と1965年の選挙権法が成立してやっと、アフリカ系アメリカ人は公民権を、特に選挙権を獲得できた。
2007年、アラバマ州議会は奴隷制度とそれが引き摺った影響について「心からの遺憾」を表明する決議を行い、共和党員の州知事ボブ・ライリーがこれに署名した。この象徴的な儀式において、この法案はアメリカ連合国の議会でもあったアラバマ州会議事堂で署名された。
2010年の選挙で、共和党が州議会両院の多数を勝ち取ったが、これは136年振りのことだった。
過去のアフリカ系アメリカ人からの選挙権剥奪により、アラバマ州は「ソリッドサウス」の一員になり、民主党が実質的に唯一の政党になった。100年近くの間、地方と州の選挙は実質的に民主党の予備選挙によって決められ、共和党は形のみ一般選挙に出馬するだけだった。
現在はアラバマ州最高裁判所判事9人を全て共和党が占めており、控訴裁判所判事10人でも同様である。1994年まで、これら判事に共和党員は居なかった。この変化は、民主党が1994年に有権者から再び選挙権を奪おうとしていると認識もあって、始まってきた。一般選挙では当時現職の最高裁判所長官アーネスト・C・ホーンズビーが、約3,000票差で共和党員のペリー・O・フーパー・シニアに敗北した後で、辞任を拒否した。ホーンズビーはアラバマ州を訴え、1年間近く職に留まったが、裁判に敗れたあとは諦めた。このことで、その後の3回ないし4回の選挙では民主党に対する支持が崩壊した。最高裁判所と控訴裁判所判事19の職のうち最後の一つを失ったのが2011年8月となった。
共和党は選挙で選ばれる州行政府の役人7人も独占している。州教育委員会では、8人の委員のうち6人を占めている。2010年、共和党は州議会の両院で136年ぶりに多数派を占めた。民主党はアラバマ州公共事業委員会で3人の委員のうち1人のみを出している。
レコンストラクション時代以降、副知事に選ばれた共和党員は2人だけだが、そのうちの1人が現職のケイ・アイヴィーである。
州内の地方レベルの役人は、郡政委員会、教育委員会、税評価官、徴収官などがあるが、依然として民主党多数に占められている。田園部の郡では民主党優勢、大都市圏の郡では共和党優勢となるが、幾つか例外もある。
州内67郡の保安官も党派選挙で選ばれるが、民主党が多数になっている。現在の数字は民主党42郡、共和党24郡、その他1郡である。しかし、民主党の保安官は大半が田園部の人口が少ない地方におり、共和党の保安官は大都市部の人口が多い地域を担当している。人口10万人以上を抱えるモンゴメリー郡とカルフーン郡の2郡は民主党員の保安官であり、人口7万5千人未満の5郡は共和党の保安官である。2012年時点でモーガン郡に唯一の女性保安官がおり、9郡はアフリカ系アメリカ人の保安官になっている。
アラバマ州選出の連邦議会上院議員は、共和党のトミー・タバービルとケイティ・ブリットである。同州は強固な共和党支持の州で、民主党は1997年以降上院議席を獲得できていなかったが、2017年12月のジェフ・セッションズの司法長官就任に伴った補欠選挙で、共和党候補のセクハラ疑惑などもあって、民主党のダグ・ジョーンズが当選し20年ぶりに民主党が議席を獲得した。しかし、2020年11月の本選では共和党候補のトミー・タバービルがジョーンズを大差で破り、再び共和党が上院の2議席を占めることとなった。
アメリカ合衆国下院議員は7人を送り出しており、そのうち6人が共和党員、1人が民主党員である。
アメリカ合衆国商務省経済分析局によると、2008年の総州生産高は1,700億米ドルであり、前年より0.7%の増加だった。一人当たりの収入は29,411米ドルだった In 2010, per capita income for the state was $22,984.。
アラバマ州は航空宇宙産業、教育、医療、金融、自動車など様々な重工業、鉱業、鉄鋼とその製品などに投資してきた。2006年の農畜産品生産高は15億米ドルだった。以前は農業が主要産業だったが、この数字は州総生産の約1%に過ぎない。1960年代から民間の農園数が減り続け、土地は開発業者、製材業者、および農業会社に売却された。
農業以外の職種が広がってきた。2008年時点での雇用状況は、経営管理部門121,800人、事業・金融運営71,750人、コンピュータ関連と数学的職種36,790人、建築土木設計44,200人、生命科学・医学・社会学12,410人、地域社会サービス32,260人、法律関連12,770人、教育・訓練・図書館サービス116,250人、芸術・デザイン・メディア関連27,840人、健康管理121,110人、消防・警察・安全保障 44,750人、外食関連154,040人、建物と土地の清掃・保守76,650人、介護など53,230人、販売244,510人、事務管理職338,760人、農業・漁業・林業 20,510人、建設・鉱業・ガスと石油の採掘120,155人、設備設置・保守・修繕106,280人、製造業224,110人、輸送業167,160人となっていた。
また、モービル市はメキシコ湾で活気のある港町であり、テネシー・トンビグビー水路を経由して中西部へつながる内陸水路の入口となっている。
2012年7月時点でアラバマ州の失業率は 7.8%だった。
雑誌「バーミングハム・ビジネス・ジャーナル」に拠れば、2011年4月時点で下記の団体がアラバマ州の大規模雇用主5傑である。
次の20団体は「バーミングハム・ビジネス・ジャーナル」で2011年に挙げられていたものである。
アラバマ州の農漁業生産物として、鶏肉と鶏卵、牛、魚類、苗、ラッカセイ、木綿、トウモロコシやモロコシなどの穀物、野菜、牛乳、ダイズ、並びに桃がある。"綿花の州" として知られているが、アラバマ州は、いくつかの報告書によると、合衆国内の綿生産の8番目ないし10番目に位置している。上位3傑はテキサス州、ジョージア州およびミシシッピ州である。
工業生産品は鉄と鉄鋼製品(鋳鉄および鋼管);紙、材木および木製品;鉱業(多くが石炭);合成樹脂製品;車およびトラック;並びに衣類が含まれる。また、アラバマ州は特にNASA ジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センターおよびレッドストーン兵器廠に本部を置くアメリカ陸軍軍備司令部がある、ハンツビル地域では航空宇宙産業および電子部品の製品を生産している。
アラバマ州は1990年代以降の州経済成長の大半を、拡張し続ける自動車製造産業に負っている。本田技研、現代自動車、メルセデス・ベンツ、トヨタ自動車の組み立て工場があり、またその部品製造者もある。1993年から自動車産業で67,800人以上の雇用を生み出してきた。現在、自動車生産高で国内第4位の州になっている。
鉄工業ではニューコア、SSAB、ティッセンクルップ、USスチールの製鉄所があり、1万人以上を雇用している。ドイツのティッセンクルップ製鉄はその製鉄所に37億米ドルを掛け、2,700人を雇用するとしている。
ハント精製会社はハント・コンソリデテッド社の子会社であり、タスカローラで製油所を操業している。モービル、メルヴィン、マウンドビルにも支所を持っている。JVCアメリカがタスカルーサ市に光ディスク複製梱包工場を持っている。
推計年間2,000万人の観光客がアラバマ州を訪れている。うち10万人はカナダ、イギリス、ドイツ、日本など外国からである。2006年、2,230万人の観光客が83億米ドルを消費し、16万2千人の雇用を賄っている。
アラバマ大学バーミングハム校附属病院が州内唯一のレベルI外傷センターである。州内の病院では雇用数でも最大であり、従業員数は1万8千人である。
州内にはリージョンズ・ファイナンシャル・コーポレーション、BBVAコンパス、シューピアリア・バンコープ、および元コロニアル・バンクグループの本社がある。バーミングハム市を本拠にするコンパス・バンクシェアーズが、2007年9月にスペインのBBVAに買収されたが、BBVAコンパスの本社はバーミングハム市に残っている。2006年11月、リージョンズ・ファイナンシャルはやはりバーミングハム市に本社を置くアムサウス・バンコーポレーションとの合併を完結させた。やはりバーミングハム市に本社を置く大規模銀行のサウストラスト・コーポレーションは2004年にワコビアから143億米ドルで買収された。ワコビアはバーミングハム市で営業を続けており、その操作後銀行であるウェルズ・ファーゴは地域本社、オペレーションセンター、さらに4億ドルをかけたデータセンターを運営している。その他、シューピアリア・バンコープ、サービスファースト、ニューサウス・フェデラル・セイビング・バンクなど1ダース近い小規模銀行がバーミングハム市に本社を置いている。またハーバート・マネジメント・コーポレーションなど幾つか大規模投資管理会社も本社を置いている。
通信プロバイダーのAT&T(元ベルサウス)がバーミングハム市に幾つか大型事務所を構えている。従業員は6,000人以上、契約社員は1,200人以上いる。
ハンツビル市には、ネットワークのADTRAN、コンピュータ・グラフィックスのインテグラフ、ITインフラの設計・製造のアボセント、通信プロバイダーのデルタコムなど、多くの技術系会社が本社を置いている。シンラムはハンツビル市に工場があり、20世紀フォックスのDVDやブルーレイ・ディスクを製造出荷している。
ラスト・インターナショナルが、ブラスフィールド&ゴリー、BE&K、ホーア建設、B・L・ハーバート・インターナショナルを合わせて成長し、これらは全て常に、エンジニアリング・ニューズ・レコードの設計、国際建設、土木会社のトップリストに挙げられている。ラスト・インターナショナルは2000年にワシントン・グループ・インターナショナルに買収され、さらに2007年にはサンフランシスコが本拠のURSコーポレーションに買収された。
2009年11月3日、「ビクトリーランド・カジノ」は、32インチのLCDテレビ、カクテルバー、喫茶店を備えた300の豪華客室とスイート、高級レストラン「ホイットフィールズ・ステーキハウス」、および世界最大規模の6400台のビンゴ場を擁する「ニュー・オアシス・ホテル」を開業した。
ロスティ・プライス総支配人は「私たちの目標は、4星(ダイヤモンド)認定されることです。ぜひ、アトランタや他の州から多くの人々においで願いたいと思います」とコメントしている。
同州の非インディアン系カジノは現在のところ、以下の二店が営業中である。
2009年10月26日、アラバマ州巡回裁判所のロバート・ヴァンス裁判官は、同州のカジノの電子ビンゴ遊技機を違法と裁決した。これはウォーカー郡で同遊戯機を運用しているすべてのカジノの閉鎖を命じるもので、政治論争となった。ロン・スパークス議員はこの判決を「州産業に逆行するものだ」として徹底批判し、「私は、州の賭博産業に関する州全体の認可、および規則の遵守を誓約した唯一の党員であります。カジノ税は教育と低所得者医療扶助制度に資金を供給しています。賭博を許容するかどうかは、それぞれの郡の有権者に託すべきです」と声明を出した。
これを受け、アラバマ州最高裁判所はカジノでのビンゴ遊戯機設置許可のために、6つの法的評価基準を設定した。 ボブ・ライリー知事は、3月に対策チームを作り、州下の900台以上の遊技台を止めた州最高裁判所に対してこの規制が対スロットマシン級で強すぎるとする書類を提出した。その後の公聴会で、法廷はデジタル式ビンゴ遊戯機にも評価基準を設定した。2009年12月7日、営業停止させられていた「カントリー・クロッシング」や「ビクトリーランド」など州下のカジノは、この評価基準に遊戯機を対応させて営業再開した。
州内主要空港はバーミングハム=シャトルズワース国際空港 (BHM)、ハンツビル国際空港 (HSV)、ドーサン地域空港 (DHN)、モービル地域空港 (MOB)、モンゴメリー地域空港(MGM)、マッスルショールズ・北西アラバマ地域空港がある。
アムトラックが旅客列車のクレセントを運行して、ニューヨークとニューオーリンズを繋いでいる。州内の停車駅はアニストン、バーミングハム、タスカルーサである。
州内を横切る5本の州間高速道路が走っている。州間高速道路65号線が州のほぼ中央を南北に走っている。同59号線と20号線は中西部の境界からバーミングハム市に通り、そこからは59号線が州の北東隅に向かい、20号線が東のアトランタに向かう。州間高速道路85号線はモンゴメリー市に始まり、東北東のジョージア州境に向かい、アトランタへの幹線道となる。州間高速道路10号線は州南端部を通り、モービル市を通る東西方向路になっている。州間高速道路22号線が現在建設中であり、2014年ごろに完成すれば、バーミングハム市とテネシー州メンフィスを繋ぐ。他にも5本の補助線がある。モービル市の165号線、タスカルーサ市の359号線、バーミングハム市の459号線、ハンツビル市の565号線、ガズデン市の759号線である。6番目の685号線は工事中であり、完成すれば85号線が新しいモンゴメリー市の南部バイパスに沿って路線変更される。バーミングハム市北を通るバイパスが計画されており、422号線に指定される予定である。
アメリカ国道も11号線、29号線、31号線など多数あり、その支線も通っている。
州内には4本の有料道路がある。モンゴメリー市のモンゴメリー・エクスプレスウェイ、タスカローラ市のタスカローラ・バイパス、ウィトゥンプカのエメラルドマウンテン・エクスプレスウェイ、オレンジビーチのビーチ・エクスプレスである。
2011年3月、全米ゴミ処理スコアカードで、ワースト5以内にランクされた。州全体で道路など公共の場所の清浄さやゴミ処理の効率が評価されたものである。
アラバマ州で唯一の海港であるモービル港は、テネシー・トンビグビー水路を介してアメリカ合衆国中西部に通じる内陸水路があり、メキシコ湾でも繁華な港である。取扱い貨物量では国内第9位である。他の港は川沿いにあり、メキシコ湾に通じている。下記の港がある。北から南に列挙する。
州内の公立初等中等学校は、アラバマ州教育委員会の監督下にあり、また67郡の教育委員会と60市の教育委員会も管理している。総計1,541の学校で743,364人の児童生徒が学んでいる。
公共教育予算は教育信託基金を通じてアラバマ州議会が配分している。2006年から2007年の会計年度では3,775,163,578米ドルが充てられた。前会計年度と比較して444,736,387米ドルの増額だった。2007年、連邦の「落ちこぼれ防止法」の下で、アラバマ州が定めた手段を使い、82%以上の学校が適切な教育効率の年間進捗度を示した。2004年ではこれが23%だった。
アラバマ州公共教育体系は近年改善が進んでいるが、他州に比べれば劣っている。統計データに拠れば、高校卒業以上の学歴を持つ人口比率は75%であり、国内の下から4番目である。
アラバマ州の高等教育体系には、4年制公立大学14校と2年制コミュニティカレッジ、17の私立大学および大学院がある。州内には医大が3校、獣医科大が2校、歯科大が1校、眼科大が1校、薬科大が2校、法科大が5校ある。公立の高等教育はアラバマ州高等教育委員会とアラバマ州高等教育省が監督している。2年間の准学士から16の博士課程までがある。
単一キャンパスで最大のものはタスカルーサ市にあるアラバマ大学であり、学生数は2012年秋で33,602人だった。トロイ大学は州内4つのキャンパス、国内60の教室、国外11か所の教室で、2010年では29,689人の学生が学んでいる。最古の大学はフローレンス市にある公立の北アラバマ大学であり、またモービル市にあるカトリック系のスプリングヒル・カレッジと共に1830年の設立である。
教育課程の認定は、カレッジ・学校南部協会の他、聖書高等教育協会、職業教育委員会、独立系カレッジ・学校認定委員会など国内国外の科目に応じた認定機関によって行われている。
雑誌USニューズ&ワールド・レポートの2011年の評価では、アメリカの公立学校100傑の中にアラバマ州から3校が入った。アラバマ大学が第31位、オーバーン大学が第36位、アラバマ大学バーミングハム校が第73位だった。
マッスル・ショールズ地域は、ソウル・ミュージック、カントリー・ミュージック、ブルース、ブルーグラスなどルーツ・ミュージックの発展に大きな役割を果たしてきた。中心となった音楽関係者は、黒人歌手パーシー・スレッジと、全員白人のダン・ペン、スプーナー・オールダム、チップス・モーマン、リック・ホールらである。
アラバマ州のうち、モービル郡モービル市は1993年に千葉県市原市と姉妹都市提携を結び、隔年で相互に交流を行なっている。その際、派遣されるのは地元の中学生もしくは高校生から構成される10名の派遣団である。
奇数年が日本から米国。偶数年が米国から日本である。但し、2020年に関しては、日本で東京オリンピックが開催されることから、通常7月下旬に行われる交流が9月に延期となる。
( 日本・都道府県市町村) - (州内都市など)
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"text": "アラバマ州(アラバマしゅう、英語: State of Alabama)は、アメリカ合衆国南部に位置する州。人口は5,024,279人(2020年国勢調査)である。州都はモンゴメリー市。他に市域人口では州内最大で、アメリカ航空宇宙局関連施設が集中するハンツビル、都市圏では州内最大のバーミングハム、州内唯一の港湾都市モービルなどの主要都市がある。北はテネシー州、東はジョージア州、南はフロリダ州とメキシコ湾、西はミシシッピ州と接している。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第30位、人口では第24位である。内陸まで航行できる水路総延長が1,300マイル (2,100 km) あることでは、国内でも最長クラスにある。",
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"text": "南北戦争から第二次世界大戦まで、他の南部州と同様に農業への依存が続いていたこともあって、アラバマ州は経済的に困難な時代を味わった。工業や都市部が成長したにも拘わらず、1960年代までは田園部の白人の利権が州議会を支配しており、都市部とアフリカ系アメリカ人の権利は優先されなかった。第二次世界大戦後、アラバマ州は農業依存経済から多様化された経済に移行して成長してきた。多くのアメリカ軍基地が設立または拡張されたことも経済発展に寄与し、20世紀半ばに農業と工業経済の橋渡し役となった。21世紀の州経済は経営管理、金融、製造、航空宇宙、鉱業、医療、教育、小売りおよび技術に依存している。",
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"text": "かつてマスコギー語を話すアラバマ族がアラバマ川上流、クーサ川とタラプーサ川合流点の下流に住んでおり、これが川と州の名称の由来とされている。アラバマ族の言語で部族員は Albaamo(方言によっては Albaama または Albàamo、複数形は Albaamaha)と呼ばれる。「アラバマ」という言葉は、チョクトー族の言葉が語源と考えられており、アラバマ族が部族名に採用した。その綴りは史料によって様々である。最初に文献に現れたのは、1540年のエルナンド・デ・ソトの遠征であり、ガルシラソ・デ・ラ・ベガが Alibamo と表記していた。他にもエルバス騎士が Alibamu、ロドリゴ・ランヘルが Limamu と記していた。1702年にはアラバマ族がフランス人によって Alibamon と呼ばれ、フランスの地図にはアラバマ川が Rivière des Alibamons と表記されていた。その他、Alibamu、Alabamo、Albama、Alebamon、Alibama、Alibamou、Alabamu、Allibamou などの表記が見られた。",
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"text": "「アラバマ」の語源は分かっているが、その意味については諸説あって定まっていない。『ジャクソンビル・レパブリカン』紙の1842年の記事では、その意味を「ここで休む」とする説を発表した。この説は1850年代にアレクサンダー・ボーフォート・ミークの著作を通じて広まった。マスコギー語の専門家はこの説を肯定する証拠を見出すことができなかった。学者はこの言葉がチョクトー語の alba(植物あるいは雑草を意味する)と、amo(切る、整えるあるいは集めるを意味する)を合わせたと考えている。その意味は「藪を切りはらう人」または「香草を集める人」である可能性があり、農作のために土地を開墾すること、あるいは薬草を集めることを指していると考えられる。「アラバマ」はアメリカ合衆国内に数多いアメリカ先住民の言葉に由来する地名の1つである。",
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"text": "アラバマ州となった地域にヨーロッパ人が入ってくる以前の数千年間、様々な文化を持つインディアンがこの地域に住んでいた。現在のアメリカ合衆国北東部との交易は、オハイオ川を通じて墳墓期(紀元前1000年から紀元後700年)に始まり、ヨーロッパ人と接触した時まで続いた。",
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"text": "西暦1060年から1600年、農耕社会のミシシッピ文化が現在の州の大半に及び、その中心の1つがマウンドビルのマウンドビル考古学遺跡にあった。マウンドビルで行われた考古学発掘調査で出土した人工物を解析することで、南東部儀式用複合施設の性格に関わる学説の基礎ができてきた。一般に考えられていることとは対照的に、南東部儀式用複合施設はメソアメリカ文化と直接の結びつきが無く、独自の発展を遂げていたと見られている。儀式用複合施設はミシシッピ文化の人々の宗教では主要な要素だった。その宗教を理解するうえで主要手段の1つになっている。",
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"text": "ヨーロッパ人が入って来たときに、現在のアラバマ州領域に住んでいたインディアン部族として、イロコイ語を話すチェロキー族、マスコギー語を話すアラバマ族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族、コアサティ族がいた。",
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"text": "1702年、フランスが現在オールド・モービルと呼ばれる地域にヨーロッパ人として最初の開拓地を築いた。モービルの町は1711年に現在地に移転した。この地域は1702年から1763年がフランス、1763年から1783年がイギリスの西フロリダの支配下にあり、1783年から1821年はアメリカ合衆国とスペインの間で分割された。イギリス王政に忠誠を誓うロイヤリストだったトマス・バセットが、モービル地域を除けば地域内初期の白人開拓者だった。1770年代初期に現在のワシントン郡となったトンビグビー開拓地に入った。1783年、現在のボールドウィン郡とモービル郡の領域がスペイン領西フロリダの一部となり、1810年には独立国西フロリダ共和国の一部、1812年にミシシッピ準州に付設された。現在のアラバマ州北部と中央部およびミシシッピ州は、当時ヤズーランドと呼ばれ、1767年以降ジョージア植民地が領有権を主張していた。アメリカ独立戦争の後、ジョージア州に編入されたが、その領有については大きな論争が続いた。",
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"text": "モービルやヤズーランドに隣接する地域を除き、現在のアラバマ州中央部は、1798年に創設されたミシシッピ準州の一部になった。ヤズーランド詐欺が起きた後、ヤズーランドも1804年に準州に付加された。1812年以後スペインはモービルに行政機能を置いていた。1814年、アンドリュー・ジャクソンの軍隊がモービルを占領し、この地域に対するアメリカ合衆国の「事実上の」権限を示した。これで準州奥地からメキシコ湾まで支障のない通路ができ、モービルにおけるスペインの実効支配を終わらせたが、領有権主張は残り続けた。ミシシッピ州が州に昇格する1817年12月10日の前に、人口の少なかった準州東半分が分離し、アラバマ準州と命名された。アラバマ準州は1817年3月3日のアメリカ合衆国議会で創設された。セントスティーブンスが1817年から1819年まで準州都とされていたが、現在は廃村になっている。",
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"text": "アラバマが合衆国22番目の州になることが認められた後、アメリカ合衆国議会は最初のアラバマ州憲法制定会議の場所にハンツビルを選定した。1819年7月5日から8月2日に代議員が会して新州憲法を準備した。ハンツビルは1819年から1820年までアラバマ暫定州都となり、その後はダラス郡のカハバに州都が移された。カハバは現在廃村となっているが、1820年から1825年まで最初の恒久的州都だった。アラバマが州になった時は既にアラバマ・フィーバーが広がり始めており、綿花の栽培に適した肥沃な台地を得るために開拓者や土地投機家が殺到していた。1820年代から1830年代の開拓地にあって、州憲法は白人男性については普通選挙を執行していた。綿花のプランテーションが広がるに連れて、南東部農園主や交易業者がアッパーサウスから奴隷と共に移ってきた。暗色の肥沃な土壌から名付けられたブラックベルト中央部の経済は大規模な綿花プランテーションの上に作られ、プランテーション所有者は奴隷の労働から大きな富を築いた。この地域には大勢の貧乏で選挙権を持たない人々も入ってきて、自給自足農になった。1810年の人口は1万人と推計されていたが、1830年には30万人以上に増加していた。地域に住んでいたインディアンの大半は、1830年にアメリカ合衆国議会でインディアン移住法が成立してから数年後には、州から完全に追い出されていた。",
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"text": "1826年から1846年にかけてタスカルーサが州都になった。1846年1月30日、アラバマ州議会はタスカルーサからモンゴメリーに州都を移すことを議決したと発表した。新州都での最初の議会は1847年12月に開会された。新議会議事堂は、フィラデルフィアのスティーブン・ディケーター・バトンの指導で建設された。最初の建物は1849年の火事で焼け落ちたが、1851年に同じ場所に再建された。メイン州エグゼターのバラチアス・ホルトが設計した二代目の建物は現在も残っている。1860年には人口が964,201人となっており、その内435,080人はアフリカ系アメリカ人奴隷、2,690人は有色の自由人だった。",
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"text": "1861年1月11日、アラバマ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国に加盟した。南北戦争ではアメリカ連合国の首都をモンゴメリーに置き、連合の初代大統領としてジェファーソン・デイヴィスを擁立し、連合の中心的役割として戦った。アメリカ連合国の首都は同年5月にバージニア州リッチモンドに移転された。1864年の夏にはメキシコ湾に面したモービル湾で南北戦争では珍しい海戦が繰り広げられたが、南部の敗北に終わった。州内ではほとんど戦闘が無かったが、南北戦争には約12万人の兵士が出征した。ハンツビル出身の騎兵1個中隊が、ケンタッキー州でネイサン・ベッドフォード・フォレスト将軍の軍隊に参加した。このハンツビル中隊は、袖、襟、上着の裾に黄色い布を付けた見事な新しい制服を着ていたことから「イエローハンマー」と呼ばれ、後に南軍のアラバマ州部隊は「イエローハンマーズ」と呼び習わされるようになった。1865年、アメリカ合衆国憲法修正第13条により、州内の奴隷は解放された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "戦後、アラバマ州は軍政府の管理下に置かれ、占領は1868年にアメリカ合衆国に復帰するまで続いた。アフリカ系アメリカ人に選挙権が与えられると、1867年から1874年、多くのアフリカ系アメリカ人が政治指導者として台頭した。この期間にはアメリカ合衆国議会に3人のアフリカ系アメリカ人を選出した。すなわちジェレマイア・ハラルソン、ベンジャミン・S・ターナー、ジェイムズ・T・レイピアの3人である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "南北戦争後もアラバマ州は農業に大きく依存し続け、経済は綿花と堅く結びついていた。レコンストラクション時代、州議会は1868年に新憲法を採択し、初めて公共教育体系を作り、女性の権利を拡大した。多くの公共道路や鉄道の建設計画を予算化したが、それらは不正行為や横領の疑惑に実行を妨げられた。この期間、組織化された抵抗集団が解放奴隷や共和党員を抑圧するために活動した。クー・クラックス・クランがよく知られているが、他にも白い顔団(Pale Faces)、白椿騎士団(Knights of the White Camelia)、赤シャツ団(Red Shirts)、白人同盟(White League)などの集団がいた。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "アラバマ州のレコンストラクションは、民主党が議会を制し、知事職を取った1874年に終わった。1875年には新憲法を制定した。同年、議会はブレイン修正条項を成立させ、公金を宗教系学校に使うことを禁じた。さらに同年、学校を人種分離することを要求する法が認められた。1891年には鉄道の客車が人種分離された。その他にも20世紀初期にジム・クロウ諸法が成立した。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "1901年の新憲法では、人頭税、識字能力などによる選挙権の制限を通じて、実質的にアフリカ系アメリカ人と白人の低所得層から選挙権を奪う選挙法が含まれた。農園主階級は白人低所得層を説得してこれらの法を支持させながら、累積する人頭税の課税が大きく影響して白人低所得層の選挙権も取り上げることになった。1900年、州内には181,000人以上の選挙権を持つアフリカ系アメリカ人がいた。1903年には、少なくとも74,000人のアフリカ系アメリカ人に識字能力があったが、僅か2,980人のみが有権者登録されていた。1941年、白人で選挙権の無い者は60万人、黒人では52万人となり、白人の方が多くなっていた。アフリカ系アメリカ人はほとんど全員が投票権を持たなかった。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "1901年憲法は、学校での人種分離を再度肯定した。1867年以降人種間結婚は違法とされていたが、この新憲法で改めてそれが定められた。1950年代まで人種差別法が追加されていった。1911年には監獄で、1915年には病院で、1928年にはトイレ、ホテル、レストランで、1945年にはバス停待合室で人種分離された。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "田園部の多いアラバマ州の議会は常に、選挙権を剥奪されたアフリカ系アメリカ人への教育もサービスも予算割り当てを少なくしていたが、彼等から税金は取り続けた。南部においてアフリカ系アメリカ人の教育予算が少ないという批判に答える意味もあって、ローゼンウォルド財団がローゼンウォルド学校と呼ばれるようになる校舎建設資金の手当てを始めた。アラバマ州ではこれら学校の設計と建設の一部がローゼンウォルド基金で賄われた。基金は校舎建設資金の3分の1を拠出し、残りを町と州が分割した。1913年には、最初のローゼンウォルド学校が建設された。1937年までに合計で387校、7つの教員宿舎、幾つかの職業訓練用建物が完成した。現在も州内に残っているローゼンウォルド学校はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "継続する人種差別、農業不況、ワタミゾウムシの蔓延による綿花収量の低下などで、何万人ものアフリカ系アメリカ人が職を求めて北部の工業都市へ移住した。グレートマイグレーションと呼ばれるものの中で、20世紀前半に、製造業の仕事やより良い暮らしを求めてアラバマを離れていった。1910年から1920年のアラバマ州人口成長率は半分近くになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "これと同じ時期に田園部の白人や黒人は、新しい工業都市であるバーミングハム市で働くために移住した。バーミングハム市は「魔法の都市」と渾名されるほど人口が急増した。1920年代では、バーミングハム市は国内第19位の大都市であり、州内人口の30%以上が住んでいた。重工業と鉱業が経済の基盤だった。第二次世界大戦の需要に関わる工業の発展は、南北戦争以前にも見られなかったような繁栄をもたらした。田園部の労働者はより良い仕事と高い生活水準を求めて州内の大都市に流入した。その顕著な例がモービル市であり、1940年から1943年の3年間で89,000人以上が市内に入り、軍需産業で働いた。製造業とサービス産業が隆盛するに連れて、綿花など換金作物はその重要性を失っていった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1901年から1961年まで人口構成の大きな変化があったが、田園部主導の議会は、人口に基づく下院や上院の議席数割り当てを変えようとしなかった。農業地帯の政治と経済の権力を維持するために、古い選挙区割りに固執した。さらにバーミングハム市の外に住む人々による選出を確実にするために、数少ないバーミングハム市内の選挙区を都合良く修正した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その結果の分かる良い例がバーミングハム市の工業と経済の基盤地帯を含むジェファーソン郡であり、州税収の3分の1以上を収めていながら、それに比例したサービスを受けていなかった。都市部は常に州議会での代表が少ない状況だった。1960年の研究では、「総人口のうちの少数である約25%を代表する議員が、州議会の多数派を支配していた」とされていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "アフリカ系アメリカ人は歴史的な経緯から共和党の一翼を担ったが、選挙権を剥奪された。アラバマ州の白人は南北戦争の敗北やレコンストラクションの後で、共和党に敵意を抱き憎悪するようになった。このために白人有権者に気に入られようとすれば、政治的信念に拘わらず民主党で出馬するというのが長い伝統になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アフリカ系アメリカ人は既に昔から選挙権剥奪状態と人種差別を止めさせようと努力していたが、1950年代と1960年代になるとさらに活発な公民権運動と呼ばれる活動を始めた。1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス逮捕事件が公民権運動の口火を切った。この動きでアメリカ合衆国議会により、1964年の公民権法と1965年の選挙権法成立に繋がった。1960年代、ジョージ・ウォレス州知事の政権下では、連邦政府で認められた人種差別撤廃に抵抗する動きが州内で行われたが、失敗した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "公民権運動の時代にアフリカ系アメリカ人は全国的な公民権法成立と選挙権法を通じて投票の保護など公民権を獲得した。ジム・クロウ法は無効にされあるいは撤廃されて法的な人種差別は終わった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1965年選挙権法の下で、連邦裁判所はアラバマ州に州議会下院と上院の議席を人口に応じて再配分することを強制した。1972年、アラバマ州は人口に応じて議席を再配分することについて州憲法の規定を改正したが、これは1901年以来の改正となった。このことは60年間以上の間、経済的発展を遂げながら代表数の少なかった都市部には恩恵となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州は総面積135,765 km(52,419 mi) あり、アメリカ合衆国内で30番目に大きな州である。そのうち3.2%は水域であり、その広さは国内23番目になる。内陸水路の総延長では国内第2位である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "州域の5分の3はなだらかな平原であり、ミシシッピ川やメキシコ湾に向かって標高が下がる。北部は山がちであり、テネシー川が大きな流域を作り、小川、沢、川、山地、湖を形成している。州の北東部にはなだらかなアパラチア高原が広がり、石炭・鉄鉱石など鉱物資源の宝庫となっている。他の大部分はメキシコ湾沿岸平原で占められる。メキシコ湾に流入するモービル川とアラバマ川が主要な河川体系を形成する。",
"title": "地理"
},
{
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"tag": "p",
"text": "州の西部はミシシッピ州、北部はテネシー州、東部はジョージア州と接し、南部も大部分はフロリダ州と接するが、一部はメキシコ湾に面している。標高はモービル湾の海面から、北東部アパラチア山脈の1800フィート (550 m) 超の領域まで変化している。最高地点は標高2,413フィート (735 m) のチーハ山である。森林が2,200 万エーカー (89,000 km) あり、州域の67%になっている。メキシコ湾岸にある郊外部のボールドウィン郡が陸地面積でも水域面積でも州内最大の郡となっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国国立公園局が管理する地域としては、アレクサンダーシティ近くのホースシューベンド軍事公園、フォートペイン近くのリトル川峡谷国立保存地、ブリッジポートのラッセル洞窟国立保護区、タスキーギのタスキーギ・エアメン国立歴史史跡、タスキーギ近くのタスキーギ国立歴史史跡研究所がある。 またコネカー、タラデガ、タスキーギ、ウィリアム・B・バンクヘッドの4つの国有林がある。さらにナチェズ・トレイス・パークウェイ、セルマ・トゥ・モンゴメリー国立歴史道、涙の道国立歴史道もある。ヘイリービルの直ぐ南には、ロッキー山脈より東では最長の天然橋がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "モンゴメリー市の北、エルモア郡には幅5マイル (8 km) の隕石クレーターがある。ウィトゥンプカ・クレーターと呼ばれ、「アラバマ州最大の自然災害」跡である。幅1,000フィート (300 m) の隕石が約8,000年前にこの地域に落ちてきた。ウィトゥンプカ中心街の東にある丘陵は隕石クレーターの名残が浸食されたものであり、破片の同心円状の環や砕けた岩石が地表下に見られるので、ウィトゥンプカ・クレーターあるいは隕石痕と名付けられている。2002年ウィーン大学地球化学研究所のクリスチャン・キュバールが、この場所を地球上で認識された隕石クレーターの157番目とする証拠を示した。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の最北点は、州北西隅のローダーデール郡ウォータルーの町の北西約6マイル (10 km) にある。最南点はモービル郡ドーフィン島に近いサンド島である。最東点はジョージア州との州境、ラッセル郡のフォートミッチェルから南東8マイル (13 km) にある。最西点はミシシッピ州との州境の南から3分の1、チョクトー郡のメルヴィン町の近くにある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州は温暖湿潤気候にあり、ケッペンの気候区分では Cfa である。年間平均気温は64°F (18 °C) である。南部のメキシコ湾に近付くと温暖になり、北部、特に北東部のアパラチア山脈は幾分冷涼である。概して夏は大変暑く、冬は温暖で、年間を通して雨量が多い。年間平均雨量は56インチ (1,400 mm) あり、南部では植物生育適応日が300日もある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "夏は国内でも最も暑い方の州であり、場所によって平均最高気温は90°F (32 °C) を超える。熱帯低気圧やハリケーンの影響も受けやすい。メキシコ湾から遠い地域は嵐の影響がそれほどでもないが、上陸して弱くなっていく間に大量の雨を降らせることがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "南部では多くの雷雨が発生している。モービル湾周辺のメキシコ湾では年間70ないし80日に雷雨が発生している。北部ではいくらか少なくなるが、最北部でも年間約60日の雷雨が記録されることがある。時には落雷や大きな雹を降らせることがある。州中部と北部はこの種の嵐が起きやすい。落雷による死者数では国内第7位、人口当たりの落雷死者数では第9位である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1950年1月1日から2006年10月31日までの国立気象データセンターによる統計では、改良藤田スケールEF5の竜巻発生数で、カンザス州と共に国内最大である。長い距離を移動したF5クラスの竜巻によって被った死者の数では国内最大であり、竜巻道に入る面積が広いテキサス州をも超えている。1974年4月や2011年4月25日から28日の竜巻大発生のときは莫大な被害を受けた。2011年4月の場合は累計で62個が発生し、州内の竜巻発生数として最大を記録した。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "竜巻の多い季節は北部と南部で異なっている。春が一番被害を受けやすい季節であり、2番目に11月、12月が竜巻のシーズンになっていることでは、世界でも数少ない地域の1つである。テネシー川流域にある北部は、国内でも最も激しい竜巻被害を受ける地域である。アラバマ州とミシシッピ州のこの地域はディキシー・アリーとも呼ばれることがあり、南部平原の竜巻道とは区別されている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "冬季は他の南東部州と同様温暖であり、1月の平均最低気温はモービル市で40°F (4 °C) 周辺、バーミングハム市では32°F (0 °C) 程度である。州内の大半で降雪は希だが、モンゴメリー市の北では毎冬にわか雪があり、数年に一度はそこそこの降雪がある。これまでに1963年大晦日と1993年に大雪があった。バーミングハム市の年間平均降雪量は2インチ (5 cm) である。南部のメキシコ湾岸では希であり、数年間も降雪が無いことがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "州内の過去最高気温は1925年9月5日に未編入自治体のセンタービルで記録された112°F (44 °C)、過去最低気温は1966年1月30日にニューマーケットで記録された-27°F (-33 °C) である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "州内には様々な植物相と動物相が見られる。これは北のテネシー川流域、アパラチア高原とリッジ・アンド・バレー・アパラチアン区、中央部のピードモント台地、ケーンブレイクとブラックベルト、南のメキシコ湾岸平原と海岸というように多様な地形があることが大きく寄与している。生物多様性の幅では国内トップクラスである。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "州内にはかつては松林が広大に広がっていた。現在でも州内のかなりの森林を形成している。植物相の多様さでは国内第5位に位置づけられている。シダ植物と種子植物の種は4,000種近くに及んでいる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "哺乳類の原生種は62種が生息している。爬虫類は93種、両生類は73種、淡水魚は307種、少なくとも一年間の一部を州内で過ごす鳥類は420種いる。無脊椎動物では、甲殻類83種、軟体動物383種がいる。軟体動物のうち113種は州外では見られない州固有種である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2020年の国勢調査時点でのアラバマ州の人口は5,024,279人で、2010年国勢調査からは244,543人、4.87%の増加となっていた。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の人口重心はチルトン郡ジェミソンの町郊外となっている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "この州の人種別構成比および前の国勢調査との比較:",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ノート:",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2011年時点で州内1歳未満人口の46.6%は少数民族に属している。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州内で2000年に申告された祖先による構成比は以下の通りだった:アフリカ系 (26.2%)、イングランド系(23.6%)、アイルランド系 (7.7%)、ドイツ系(5.7%)、およびスコットランド系アイルランド人 (2.0%)。人口統計学者は、州民の20ないし23%はイングランド系の祖先を持つ者であり、この数字は実際にはもっと高くなると考えている。1980年の国勢調査で、総人口の41%がイングランド系と申告し、当時は最大の民族集団だった。 さらにスコットランド系アイルランド人の割合は自己申告よりも高いものとされている。スコットランド系アイルランド人という言葉はスコットランドにルーツを持つ人々に使われていたので、多くの人々はアイルランド系と回答している。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1984年、デイビス・ストロング法の下で、州議会はアラバマ・インディアン管理委員会を設立し、7部族を公式に認定した。現在ではこれが9部族に拡大された。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の主要な宗教:",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州はキリスト教徒の多いバイブル・ベルトの中央にある。州民の約58%が定期的に教会に通っており、国内でも最大級に信仰心の篤い州とされてきた。州民の大半はプロテスタントである。2000年時点で信徒の多い会派は、福音主義プロテスタント、メインライン・プロテスタント、カトリック教会である。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "信徒数は少ないが、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、シク教およびバハイ教など多くの宗教が信仰されている。ユダヤ教はモービル植民地時代の1763年からアラバマで信仰されている。最古の会派はモービルのシャアライ・ショメイム会派である。1844年1月25日には州議会によって認定された。イスラム教は2011年までに州内に31のモスクが建設され、増加しつつある。ヒンドゥー教もバーミングハム市のシュリ・スワミナラヤン・マンディールなど多くの寺院がある。仏教徒のために6か所のダーマ・センターが州内各所にある。仏教の修道寺院はモービル郡南部のバイユーラバトル近くに集中している。この地域にはインドシナ戦争の結果1970年代にカンボジア、ラオス、ベトナムから難民が多く流入した。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "アメリカ疾病予防管理センターによる2008年の研究では、アラバマ州の肥満が問題にされており、大半の郡が成人の肥満率29%以上、10の郡が26%から29%の間になった。他に肥満を指摘された5州と同様、州民は余暇に運動する者の比率が低かった。糖尿病の発症率が成人の10%を超えており、南東部州と共に国内最大クラスである。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2017年には、先進国では珍しい鉤虫症が流行したことから、ニューズウィークに州内の貧困と関連付けて報道されたことがある。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "アラバマ族、アパラチー族、アタシ族、アパラチコーラ族、チャトト族、チェロキー族、チカソー族、チョクトー族、ムスコギー・クリーク族連合(ユーファウラ族、ファス・ハッチー族、ヒリビ族、カン・ハッチ族、ケアレジ族、コロミ族、アビーカ族、オクチャイ族、パカナ族、ツカバーチー族、ワコカイ族、ウィウォーカ族)、ヒッチチ族、コウシャッタ族、モービル族、ムクラサ族、ナポチ族、ナチェス族、オクムルギー族、オソチ族、パウォクチ族、ピルスラコ族、サウォクリ族、ショーニー族、タエンサ族、トホメ族、タスケギー族、ヤマシー族、ユチ族など、アラバマ州には多数のインディアン部族が先住した。そのほとんどが農耕民族である。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "アメリカ連邦政府が公式認定し、現在も連邦条約を基にした保留地(Reservation)を領有している部族は「クリーク族・ポアーチ・バンド」のひとつだけである。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "16世紀にフロリダから上陸したスペイン人のエルナンド・デ・ソトは、自らを「不死の太陽王」と名乗って軍勢を率いて南東部各地でインディアン部族を虐殺した。ソトはこの地にも現れ、1540年にはクリーク族の近縁部族であるモービル族の村の「マビラ砦」を襲い、「マビラの虐殺」と呼ばれる大虐殺を行った。「クリーク族連合」の多数の支族は、ソトの記録に基づくものが多い。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "クリーク族(ムスコギー連合)は、人種隔離論を掲げたアンドリュー・ジャクソン大統領の民族浄化政策である1830年の「インディアン移住法」の影響を、最も大きく受けた部族のひとつである。アラバマおよび周辺地帯は肥沃な土地を有し、古くから白人入植者に収奪されてきた。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1831年に、クリーク族の酋長が連邦政府に「1500人を超える白人入植者が、われわれクリーク族の土地に勝手に農場を作っている」と告訴した。これに対する連邦政府の答えは、「西の土地(現在のオクラホマ州)に保留地を用意するから、そこに移住すればよい」というものだった。こうして部族の苦情は逆手に取られ、1832年には、なし崩し的にクリーク族の土地は条約で連邦へ譲渡されることとなり、アラバマのクリーク・ムスコギー連合部族はインディアン準州(現・オクラホマ)へ強制移住させられることとなった。米軍の監視のもと行われた徒歩による大陸横断移住では、数千人の途上死者を出す悲惨なものとなった。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この際、条約規定では、インディアン準州への移住を拒んだクリーク族はアラバマ州の保留地に残ることもできた。しかし、白人入植者は彼らの土地をあっという間にだまし盗ってしまった。記録されただけでも、「インディアンをウィスキーで酔いつぶれさせて売買契約書に署名させる」、「賄賂を用いて別のインディアン名義の土地権利書を作成し、そのインディアンの署名で売買契約を行う」、「公然と売買契約書を偽造する」、「土地売買での裁判に圧力干渉する」、といった手口が活用された。これは全米のインディアン部族に対して白人入植者が用いた常套手口であり、特に珍しいものでも同州に限ったものでもない。インディアンのほとんどは英語の読み書きができなかったから、売買契約書の偽造はまるでたやすいものだった。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "こういった土地の略奪で処罰される白人はおらず、むしろこれらはインディアンを子供扱いし、「インディアンは消滅されるべき劣等民族である」と議会で演説したジャクソン大統領の姿勢に沿うものだった。1879年に合衆国最高裁判所が公式に「インディアンは人間である」と認めるまで、そもそもインディアンは人間扱いされていなかった。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この強制移住の際の、クリーク族の「まだらの蛇(Speckled Snake)」酋長が連合各部族に行った演説は非常に有名である。以下はその抜粋である。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "こうして1853年には、アラバマ州でのクリーク族の土地保有者はほとんどいなくなり、クリーク族は絶滅したことにされた。なおも同州にとどまったインディアンのうち、「クリーク族・ポアーチ・バンド」は1950年代から70年代まで、部族指導者カルバン・マギーの音頭取りによって「感謝祭」の日にパウワウを開催して資金を募り、復活要求運動を高めた。こうしてついに同バンドは1984年にアメリカ連邦内務省インディアン管理局に再公認されて「復活」を果たした。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "同州では多数の部族が19世紀に「絶滅部族」にされて保留地を失い、現在再認定を要求し係争中である。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "現在のところ、クリーク族のみが「インディアン・カジノ」を開設している。郡によってカジノや賭博の規定は違うが、アラバマ州自体はインディアン・カジノに反対の立場をとっており、州公認部族はカジノを開設できない。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ポアーチ・クリーク族は、部族が経営するカジノにスロットマシンとテーブル・ゲームの増加を予定している。トロイ・キング州司法長官は米国内務省に対し、2008年4月にモービルの連邦裁判所にポアーチ・クリーク族のカジノ事業拡大の禁止を求めた訴訟を起こした。キング司法長官は、「近頃の内務省は、アラバマの(インディアン以外の)人々の権利の尊重というものを無視しているのではないのか」と不満を述べている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "≪アラバマ州のインディアン・カジノと経営部族≫",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の基礎となる文書はアラバマ州憲法であり、1901年に批准された。約800の修正と31万語からなるこの憲法は世界最長の憲法であり、アメリカ合衆国憲法のおよそ40倍の長さがある。この憲法を書き換え近代化する動きが続けられてきた。その根拠は、アラバマ州憲法がモンゴメリー市に中央権力を集中させており、地方には政治的権限が無いという事実である。州に関わる政策変更の提案はアラバマ州議会とさらに州全体の住民投票によって承認されなければならない。現憲法に対する批判の1つは、憲法の複雑さと長さによって人種差別を意図するように組まれているというものである。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州政府は連邦政府や他州と同様、三権分立の形を採っている。立法府がアラバマ州議会であり、105人の議員からなるアラバマ州代議院(下院)と35人の議員からなるアラバマ州元老院(上院)の両院制である。議会は州法を起案し、議論し、成立あるいは廃案にする責任がある。現在、共和党が両院の多数を握っている。議会は、州知事が拒否権を発動した場合も、絶対多数で覆す権限を持っており、これは他州で3分の2の賛成を必要とするのと異なっている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "行政府は法の執行と監視の責任がある。行政府の長がアラバマ州知事である。知事の内閣を構成するのは、検事総長、州務長官、財務官、監査官である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "司法府はアラバマ州憲法を解釈し、州内の刑事事件と民事事件に適用する責任がある。最高機関がアラバマ州最高裁判所である。その長官は共和党員のチャック・マローンである。現在最高裁判所判事は全て共和党員で占められている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "4年毎の11月に選挙が行われ、州議会議員は選出後直ちに就任する。知事、副知事、検事総長など州憲法に定められる州全体の役人は、翌年1月に就任する。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の移民法は、厳しいことで知られ、公立学校の生徒は不法移民でないかどうか審査を受けることが必須とされている。2011年9月の法改正では、自動車のドライバーが州の運転免許証、外国人であれば出身国が発行した自動車運転免許証を携帯することが義務づけられ、違反者は警察が拘束することも可能となった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "所得税は税率2%、4%、5%の3段階で累進課税方式を採っている。納税者は州税から連邦政府の所得税を控除することを認められ、基礎控除を行っている場合もそれが許される。個別控除を申告した納税者は連邦政府の社会保障費とメディケア税も控除できる。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "消費税率は4%である。都市や郡も消費税を徴収するので、実際にはさらに高い率になる。例えばモービル市では合計10%となり、さらにレストランでは1%が加算される。消費税と使用税で州と地方政府の税収の51%を集めており、国内平均の36%と比べて高い割合である。食品や医薬品にも課税することでは数少ない州の1つである。低所得者に対する所得税も国内では高い方である。例えば4人家族で収入が4,600米ドルの場合でも所得税を課しており、全国的な貧困線と比べれば4分の1の水準である。アラバマ州の所得税限界値は他の41州とコロンビア特別区よりも低くなっている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "法人の所得税率は6.5%である。連邦、州、地方政府の税を合わせた場合、国内では2番目に税負担の少ない州になっている。資産税も国内最少である。資産税を上げる場合は、州憲法によって州民投票の承認を必要としている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の税体系は消費に大きく依存しているので、変動要素の大きい予算を組むことになる。例えば2003年の州会計は6億7,000万米ドルの歳入不足に陥った。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "州内には67郡がある。各郡は通常郡政委員会と呼ばれる立法府があり、委員は選挙で選ばれている。また通常は行政権限者もいる。アラバマ州憲法による規制が強いために、7郡を除いてはほとんどと言って良いほど自治にはなっていない。その代わりに、大半の郡は州議会の地方議会委員会にロビー活動を行い、例えば廃棄物処理の利用土地区分など単純な地方政策を得る必要がある。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2011年11月9日、ジェファーソン郡が破産を宣言した。 アラバマ州はアルコール飲料を統制する州である。州政府はアルコール飲料販売を独占している。しかし、郡は独自にドライ(禁酒郡)を宣言できる。州はそのような地域でアルコール飲料を販売していない。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "現職知事は2017年4月10日より共和党のケイ・アイヴィーである。元々はロバート・J・ベントリー知事のもとで副知事を務めていたが、ベントリーが不祥事のため任期途中で辞任を表明し、副知事だったアイヴィーが昇格した。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "南北戦争に続くレコンストラクション時代、アラバマ州はジョン・ポープ将軍の指揮する第3軍管区の北軍に占領された。1874年、リディーマーと呼ばれた政治連衡がアフリカ系アメリカ人の選挙権を抑制したこともあって、共和党から州政府の支配を取り戻した。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1890年以後、白人の連衡により黒人の差別と選挙権剥奪のために法を成立させ、1901年憲法で完成させた。アフリカ系アメリカ人の選挙権を奪う規定は白人低所得層からも同様に選挙権を奪った。1941年までに黒人(52万人)よりも多くの白人(60万人)が選挙権を奪われるようになった。ただし、その影響度は黒人の方が大きく、ほとんど全ての州民が選挙権を奪われていた。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "1901年から1960年代までの間、州内の人口が増えたり、州内で人口の移動があったとしても、選挙区の線引きを変えなかった。その結果、少数の人口しか居ない田園部の代表が州の政治を支配することとなり、これは1972年に一連の訴訟で選挙区割りを変えさせるまで続いた。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の政治は1950年代から1960年代の公民権運動時代に、当時の多数派を占めた白人が官僚的にかつ暴力的に選挙改革と社会改革のための抗議に抵抗したとき、全国と国際社会の注目を集めた。民主党員のジョージ・ウォレスは州知事を4期務めていたが、論争の多い人物だった。連邦政府によって1964年の公民権法と1965年の選挙権法が成立してやっと、アフリカ系アメリカ人は公民権を、特に選挙権を獲得できた。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "2007年、アラバマ州議会は奴隷制度とそれが引き摺った影響について「心からの遺憾」を表明する決議を行い、共和党員の州知事ボブ・ライリーがこれに署名した。この象徴的な儀式において、この法案はアメリカ連合国の議会でもあったアラバマ州会議事堂で署名された。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "2010年の選挙で、共和党が州議会両院の多数を勝ち取ったが、これは136年振りのことだった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "過去のアフリカ系アメリカ人からの選挙権剥奪により、アラバマ州は「ソリッドサウス」の一員になり、民主党が実質的に唯一の政党になった。100年近くの間、地方と州の選挙は実質的に民主党の予備選挙によって決められ、共和党は形のみ一般選挙に出馬するだけだった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "現在はアラバマ州最高裁判所判事9人を全て共和党が占めており、控訴裁判所判事10人でも同様である。1994年まで、これら判事に共和党員は居なかった。この変化は、民主党が1994年に有権者から再び選挙権を奪おうとしていると認識もあって、始まってきた。一般選挙では当時現職の最高裁判所長官アーネスト・C・ホーンズビーが、約3,000票差で共和党員のペリー・O・フーパー・シニアに敗北した後で、辞任を拒否した。ホーンズビーはアラバマ州を訴え、1年間近く職に留まったが、裁判に敗れたあとは諦めた。このことで、その後の3回ないし4回の選挙では民主党に対する支持が崩壊した。最高裁判所と控訴裁判所判事19の職のうち最後の一つを失ったのが2011年8月となった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "共和党は選挙で選ばれる州行政府の役人7人も独占している。州教育委員会では、8人の委員のうち6人を占めている。2010年、共和党は州議会の両院で136年ぶりに多数派を占めた。民主党はアラバマ州公共事業委員会で3人の委員のうち1人のみを出している。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "レコンストラクション時代以降、副知事に選ばれた共和党員は2人だけだが、そのうちの1人が現職のケイ・アイヴィーである。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "州内の地方レベルの役人は、郡政委員会、教育委員会、税評価官、徴収官などがあるが、依然として民主党多数に占められている。田園部の郡では民主党優勢、大都市圏の郡では共和党優勢となるが、幾つか例外もある。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "州内67郡の保安官も党派選挙で選ばれるが、民主党が多数になっている。現在の数字は民主党42郡、共和党24郡、その他1郡である。しかし、民主党の保安官は大半が田園部の人口が少ない地方におり、共和党の保安官は大都市部の人口が多い地域を担当している。人口10万人以上を抱えるモンゴメリー郡とカルフーン郡の2郡は民主党員の保安官であり、人口7万5千人未満の5郡は共和党の保安官である。2012年時点でモーガン郡に唯一の女性保安官がおり、9郡はアフリカ系アメリカ人の保安官になっている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州選出の連邦議会上院議員は、共和党のトミー・タバービルとケイティ・ブリットである。同州は強固な共和党支持の州で、民主党は1997年以降上院議席を獲得できていなかったが、2017年12月のジェフ・セッションズの司法長官就任に伴った補欠選挙で、共和党候補のセクハラ疑惑などもあって、民主党のダグ・ジョーンズが当選し20年ぶりに民主党が議席を獲得した。しかし、2020年11月の本選では共和党候補のトミー・タバービルがジョーンズを大差で破り、再び共和党が上院の2議席を占めることとなった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国下院議員は7人を送り出しており、そのうち6人が共和党員、1人が民主党員である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国商務省経済分析局によると、2008年の総州生産高は1,700億米ドルであり、前年より0.7%の増加だった。一人当たりの収入は29,411米ドルだった In 2010, per capita income for the state was $22,984.。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州は航空宇宙産業、教育、医療、金融、自動車など様々な重工業、鉱業、鉄鋼とその製品などに投資してきた。2006年の農畜産品生産高は15億米ドルだった。以前は農業が主要産業だったが、この数字は州総生産の約1%に過ぎない。1960年代から民間の農園数が減り続け、土地は開発業者、製材業者、および農業会社に売却された。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "農業以外の職種が広がってきた。2008年時点での雇用状況は、経営管理部門121,800人、事業・金融運営71,750人、コンピュータ関連と数学的職種36,790人、建築土木設計44,200人、生命科学・医学・社会学12,410人、地域社会サービス32,260人、法律関連12,770人、教育・訓練・図書館サービス116,250人、芸術・デザイン・メディア関連27,840人、健康管理121,110人、消防・警察・安全保障 44,750人、外食関連154,040人、建物と土地の清掃・保守76,650人、介護など53,230人、販売244,510人、事務管理職338,760人、農業・漁業・林業 20,510人、建設・鉱業・ガスと石油の採掘120,155人、設備設置・保守・修繕106,280人、製造業224,110人、輸送業167,160人となっていた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "また、モービル市はメキシコ湾で活気のある港町であり、テネシー・トンビグビー水路を経由して中西部へつながる内陸水路の入口となっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2012年7月時点でアラバマ州の失業率は 7.8%だった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "雑誌「バーミングハム・ビジネス・ジャーナル」に拠れば、2011年4月時点で下記の団体がアラバマ州の大規模雇用主5傑である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "次の20団体は「バーミングハム・ビジネス・ジャーナル」で2011年に挙げられていたものである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州の農漁業生産物として、鶏肉と鶏卵、牛、魚類、苗、ラッカセイ、木綿、トウモロコシやモロコシなどの穀物、野菜、牛乳、ダイズ、並びに桃がある。\"綿花の州\" として知られているが、アラバマ州は、いくつかの報告書によると、合衆国内の綿生産の8番目ないし10番目に位置している。上位3傑はテキサス州、ジョージア州およびミシシッピ州である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "工業生産品は鉄と鉄鋼製品(鋳鉄および鋼管);紙、材木および木製品;鉱業(多くが石炭);合成樹脂製品;車およびトラック;並びに衣類が含まれる。また、アラバマ州は特にNASA ジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センターおよびレッドストーン兵器廠に本部を置くアメリカ陸軍軍備司令部がある、ハンツビル地域では航空宇宙産業および電子部品の製品を生産している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州は1990年代以降の州経済成長の大半を、拡張し続ける自動車製造産業に負っている。本田技研、現代自動車、メルセデス・ベンツ、トヨタ自動車の組み立て工場があり、またその部品製造者もある。1993年から自動車産業で67,800人以上の雇用を生み出してきた。現在、自動車生産高で国内第4位の州になっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "鉄工業ではニューコア、SSAB、ティッセンクルップ、USスチールの製鉄所があり、1万人以上を雇用している。ドイツのティッセンクルップ製鉄はその製鉄所に37億米ドルを掛け、2,700人を雇用するとしている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "ハント精製会社はハント・コンソリデテッド社の子会社であり、タスカローラで製油所を操業している。モービル、メルヴィン、マウンドビルにも支所を持っている。JVCアメリカがタスカルーサ市に光ディスク複製梱包工場を持っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "推計年間2,000万人の観光客がアラバマ州を訪れている。うち10万人はカナダ、イギリス、ドイツ、日本など外国からである。2006年、2,230万人の観光客が83億米ドルを消費し、16万2千人の雇用を賄っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "アラバマ大学バーミングハム校附属病院が州内唯一のレベルI外傷センターである。州内の病院では雇用数でも最大であり、従業員数は1万8千人である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "州内にはリージョンズ・ファイナンシャル・コーポレーション、BBVAコンパス、シューピアリア・バンコープ、および元コロニアル・バンクグループの本社がある。バーミングハム市を本拠にするコンパス・バンクシェアーズが、2007年9月にスペインのBBVAに買収されたが、BBVAコンパスの本社はバーミングハム市に残っている。2006年11月、リージョンズ・ファイナンシャルはやはりバーミングハム市に本社を置くアムサウス・バンコーポレーションとの合併を完結させた。やはりバーミングハム市に本社を置く大規模銀行のサウストラスト・コーポレーションは2004年にワコビアから143億米ドルで買収された。ワコビアはバーミングハム市で営業を続けており、その操作後銀行であるウェルズ・ファーゴは地域本社、オペレーションセンター、さらに4億ドルをかけたデータセンターを運営している。その他、シューピアリア・バンコープ、サービスファースト、ニューサウス・フェデラル・セイビング・バンクなど1ダース近い小規模銀行がバーミングハム市に本社を置いている。またハーバート・マネジメント・コーポレーションなど幾つか大規模投資管理会社も本社を置いている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "通信プロバイダーのAT&T(元ベルサウス)がバーミングハム市に幾つか大型事務所を構えている。従業員は6,000人以上、契約社員は1,200人以上いる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "ハンツビル市には、ネットワークのADTRAN、コンピュータ・グラフィックスのインテグラフ、ITインフラの設計・製造のアボセント、通信プロバイダーのデルタコムなど、多くの技術系会社が本社を置いている。シンラムはハンツビル市に工場があり、20世紀フォックスのDVDやブルーレイ・ディスクを製造出荷している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ラスト・インターナショナルが、ブラスフィールド&ゴリー、BE&K、ホーア建設、B・L・ハーバート・インターナショナルを合わせて成長し、これらは全て常に、エンジニアリング・ニューズ・レコードの設計、国際建設、土木会社のトップリストに挙げられている。ラスト・インターナショナルは2000年にワシントン・グループ・インターナショナルに買収され、さらに2007年にはサンフランシスコが本拠のURSコーポレーションに買収された。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "2009年11月3日、「ビクトリーランド・カジノ」は、32インチのLCDテレビ、カクテルバー、喫茶店を備えた300の豪華客室とスイート、高級レストラン「ホイットフィールズ・ステーキハウス」、および世界最大規模の6400台のビンゴ場を擁する「ニュー・オアシス・ホテル」を開業した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "ロスティ・プライス総支配人は「私たちの目標は、4星(ダイヤモンド)認定されることです。ぜひ、アトランタや他の州から多くの人々においで願いたいと思います」とコメントしている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "同州の非インディアン系カジノは現在のところ、以下の二店が営業中である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "2009年10月26日、アラバマ州巡回裁判所のロバート・ヴァンス裁判官は、同州のカジノの電子ビンゴ遊技機を違法と裁決した。これはウォーカー郡で同遊戯機を運用しているすべてのカジノの閉鎖を命じるもので、政治論争となった。ロン・スパークス議員はこの判決を「州産業に逆行するものだ」として徹底批判し、「私は、州の賭博産業に関する州全体の認可、および規則の遵守を誓約した唯一の党員であります。カジノ税は教育と低所得者医療扶助制度に資金を供給しています。賭博を許容するかどうかは、それぞれの郡の有権者に託すべきです」と声明を出した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "これを受け、アラバマ州最高裁判所はカジノでのビンゴ遊戯機設置許可のために、6つの法的評価基準を設定した。 ボブ・ライリー知事は、3月に対策チームを作り、州下の900台以上の遊技台を止めた州最高裁判所に対してこの規制が対スロットマシン級で強すぎるとする書類を提出した。その後の公聴会で、法廷はデジタル式ビンゴ遊戯機にも評価基準を設定した。2009年12月7日、営業停止させられていた「カントリー・クロッシング」や「ビクトリーランド」など州下のカジノは、この評価基準に遊戯機を対応させて営業再開した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "州内主要空港はバーミングハム=シャトルズワース国際空港 (BHM)、ハンツビル国際空港 (HSV)、ドーサン地域空港 (DHN)、モービル地域空港 (MOB)、モンゴメリー地域空港(MGM)、マッスルショールズ・北西アラバマ地域空港がある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "アムトラックが旅客列車のクレセントを運行して、ニューヨークとニューオーリンズを繋いでいる。州内の停車駅はアニストン、バーミングハム、タスカルーサである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "州内を横切る5本の州間高速道路が走っている。州間高速道路65号線が州のほぼ中央を南北に走っている。同59号線と20号線は中西部の境界からバーミングハム市に通り、そこからは59号線が州の北東隅に向かい、20号線が東のアトランタに向かう。州間高速道路85号線はモンゴメリー市に始まり、東北東のジョージア州境に向かい、アトランタへの幹線道となる。州間高速道路10号線は州南端部を通り、モービル市を通る東西方向路になっている。州間高速道路22号線が現在建設中であり、2014年ごろに完成すれば、バーミングハム市とテネシー州メンフィスを繋ぐ。他にも5本の補助線がある。モービル市の165号線、タスカルーサ市の359号線、バーミングハム市の459号線、ハンツビル市の565号線、ガズデン市の759号線である。6番目の685号線は工事中であり、完成すれば85号線が新しいモンゴメリー市の南部バイパスに沿って路線変更される。バーミングハム市北を通るバイパスが計画されており、422号線に指定される予定である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "アメリカ国道も11号線、29号線、31号線など多数あり、その支線も通っている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "州内には4本の有料道路がある。モンゴメリー市のモンゴメリー・エクスプレスウェイ、タスカローラ市のタスカローラ・バイパス、ウィトゥンプカのエメラルドマウンテン・エクスプレスウェイ、オレンジビーチのビーチ・エクスプレスである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "2011年3月、全米ゴミ処理スコアカードで、ワースト5以内にランクされた。州全体で道路など公共の場所の清浄さやゴミ処理の効率が評価されたものである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州で唯一の海港であるモービル港は、テネシー・トンビグビー水路を介してアメリカ合衆国中西部に通じる内陸水路があり、メキシコ湾でも繁華な港である。取扱い貨物量では国内第9位である。他の港は川沿いにあり、メキシコ湾に通じている。下記の港がある。北から南に列挙する。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "州内の公立初等中等学校は、アラバマ州教育委員会の監督下にあり、また67郡の教育委員会と60市の教育委員会も管理している。総計1,541の学校で743,364人の児童生徒が学んでいる。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "公共教育予算は教育信託基金を通じてアラバマ州議会が配分している。2006年から2007年の会計年度では3,775,163,578米ドルが充てられた。前会計年度と比較して444,736,387米ドルの増額だった。2007年、連邦の「落ちこぼれ防止法」の下で、アラバマ州が定めた手段を使い、82%以上の学校が適切な教育効率の年間進捗度を示した。2004年ではこれが23%だった。",
"title": "教育"
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"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "アラバマ州公共教育体系は近年改善が進んでいるが、他州に比べれば劣っている。統計データに拠れば、高校卒業以上の学歴を持つ人口比率は75%であり、国内の下から4番目である。",
"title": "教育"
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"paragraph_id": 128,
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"text": "アラバマ州の高等教育体系には、4年制公立大学14校と2年制コミュニティカレッジ、17の私立大学および大学院がある。州内には医大が3校、獣医科大が2校、歯科大が1校、眼科大が1校、薬科大が2校、法科大が5校ある。公立の高等教育はアラバマ州高等教育委員会とアラバマ州高等教育省が監督している。2年間の准学士から16の博士課程までがある。",
"title": "教育"
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"text": "単一キャンパスで最大のものはタスカルーサ市にあるアラバマ大学であり、学生数は2012年秋で33,602人だった。トロイ大学は州内4つのキャンパス、国内60の教室、国外11か所の教室で、2010年では29,689人の学生が学んでいる。最古の大学はフローレンス市にある公立の北アラバマ大学であり、またモービル市にあるカトリック系のスプリングヒル・カレッジと共に1830年の設立である。",
"title": "教育"
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"text": "教育課程の認定は、カレッジ・学校南部協会の他、聖書高等教育協会、職業教育委員会、独立系カレッジ・学校認定委員会など国内国外の科目に応じた認定機関によって行われている。",
"title": "教育"
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"text": "雑誌USニューズ&ワールド・レポートの2011年の評価では、アメリカの公立学校100傑の中にアラバマ州から3校が入った。アラバマ大学が第31位、オーバーン大学が第36位、アラバマ大学バーミングハム校が第73位だった。",
"title": "教育"
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"text": "マッスル・ショールズ地域は、ソウル・ミュージック、カントリー・ミュージック、ブルース、ブルーグラスなどルーツ・ミュージックの発展に大きな役割を果たしてきた。中心となった音楽関係者は、黒人歌手パーシー・スレッジと、全員白人のダン・ペン、スプーナー・オールダム、チップス・モーマン、リック・ホールらである。",
"title": "芸術・文化"
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"text": "アラバマ州のうち、モービル郡モービル市は1993年に千葉県市原市と姉妹都市提携を結び、隔年で相互に交流を行なっている。その際、派遣されるのは地元の中学生もしくは高校生から構成される10名の派遣団である。",
"title": "日本との関係"
},
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"text": "奇数年が日本から米国。偶数年が米国から日本である。但し、2020年に関しては、日本で東京オリンピックが開催されることから、通常7月下旬に行われる交流が9月に延期となる。",
"title": "日本との関係"
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"text": "( 日本・都道府県市町村) - (州内都市など)",
"title": "日本との関係"
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] |
アラバマ州は、アメリカ合衆国南部に位置する州。人口は5,024,279人(2020年国勢調査)である。州都はモンゴメリー市。他に市域人口では州内最大で、アメリカ航空宇宙局関連施設が集中するハンツビル、都市圏では州内最大のバーミングハム、州内唯一の港湾都市モービルなどの主要都市がある。北はテネシー州、東はジョージア州、南はフロリダ州とメキシコ湾、西はミシシッピ州と接している。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第30位、人口では第24位である。内陸まで航行できる水路総延長が1,300マイル あることでは、国内でも最長クラスにある。 南北戦争から第二次世界大戦まで、他の南部州と同様に農業への依存が続いていたこともあって、アラバマ州は経済的に困難な時代を味わった。工業や都市部が成長したにも拘わらず、1960年代までは田園部の白人の利権が州議会を支配しており、都市部とアフリカ系アメリカ人の権利は優先されなかった。第二次世界大戦後、アラバマ州は農業依存経済から多様化された経済に移行して成長してきた。多くのアメリカ軍基地が設立または拡張されたことも経済発展に寄与し、20世紀半ばに農業と工業経済の橋渡し役となった。21世紀の州経済は経営管理、金融、製造、航空宇宙、鉱業、医療、教育、小売りおよび技術に依存している。
|
{{redirect|アラバマ}}
{{基礎情報 アメリカ合衆国の州
| 公式名称 = State of Alabama
| 州旗 = Flag of Alabama.svg
| 州章 = Seal of Alabama.svg
| 地図 = Alabama in United States.svg
| 愛称 = ハート・オブ・ディキシー(南部の心臓)<br />The Heart of Dixie
| 州都 = [[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]
| 最大都市 = [[ハンツビル]]
| 州知事 = [[ケイ・アイヴィー]]
| 公用語 = [[アメリカ英語|英語]] <!--1990年-->
| 面積順位 = 30
| 総面積 = 135,765
| 面積大きさ = 1 E11
| 陸地面積 = 131,426
| 水域面積 = 4,338
| 水面積率 = 3.2
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 = 24
| 人口値 = 5,024,279
| 人口大きさ = 1 E6
| 人口密度 = 38.2
| 加入順 = 22
| 加入日 = [[1819年]][[12月14日]]
| 時間帯 = -6
| 夏時間 = -5
| 緯度 = 30°11' - 35°
| 経度 = 84°53' - 88°28'
| 幅 = 305
| 長さ = 531
| 最高標高 = 735
| 平均標高 = 150
| 最低標高 = 0
| ISOコード = US-AL
| Website = alabama.gov
| 上院議員 = [[:en:Tommy Tuberville|トミー・タバービル]]<br />[[:en:Katie Britt|ケイティ・ブリット]]
}}
'''アラバマ州'''(アラバマしゅう、{{lang-en|State of Alabama}})は、[[アメリカ合衆国南部]]に位置する[[アメリカ合衆国の州|州]]。[[人口]]は5,024,279人(2020年国勢調査)である<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。[[州都]]は[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー市]]。他に市域人口では州内最大で、[[アメリカ航空宇宙局]]関連施設が集中する[[ハンツビル (アラバマ州)|ハンツビル]]、都市圏では州内最大の[[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]、州内唯一の港湾都市[[モービル (アラバマ州)|モービル]]などの主要都市がある。北は[[テネシー州]]、東は[[ジョージア州]]、南は[[フロリダ州]]と[[メキシコ湾]]、西は[[ミシシッピ州]]と接している。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第30位、人口では第24位である。内陸まで航行できる水路総延長が1,300マイル (2,100 km) あることでは、国内でも最長クラスにある。
[[南北戦争]]から[[第二次世界大戦]]まで、他の南部州と同様に農業への依存が続いていたこともあって、アラバマ州は経済的に困難な時代を味わった。工業や都市部が成長したにも拘わらず、1960年代までは田園部の白人の利権が州議会を支配しており、都市部と[[アフリカ系アメリカ人]]の権利は優先されなかった<ref name="pjhwpa">{{Cite web|url=http://elections.gmu.edu/Redistricting/AL.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071017192719/http://elections.gmu.edu/Redistricting/AL.htm |archivedate=2007-10-17 |title=George Mason University, United States Election Project: Alabama Redistricting Summary. Retrieved March 10, 2008 |publisher=Web.archive.org |accessdate=2010-10-24}}</ref>。第二次世界大戦後、アラバマ州は農業依存経済から多様化された経済に移行して成長してきた。多くの[[アメリカ軍]]基地が設立または拡張されたことも経済発展に寄与し、20世紀半ばに農業と工業経済の橋渡し役となった。21世紀の州経済は経営管理、金融、製造、航空宇宙、鉱業、医療、教育、小売りおよび技術に依存している<ref name="alaindustrial">{{Cite web |url=http://www2.dir.alabama.gov/projections/Occupational/Proj2018/Statewide/alabama2008_2018.pdf |title=Alabama Occupational Projections 2008-2018 |work=Alabama Department of Industrial Relations |publisher=State of Alabama |accessdate=2012-09-22}}</ref>。
{{bar box
|title=家庭で話される言語(アラバマ州) 2000
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{{bar percent|[[英語]]|red|96.7}}
{{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|2.2}}
}}
{{bar box
|title=人種構成(アラバマ州) 2010
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{{bar percent|[[白人]]|blue|67.0}}
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{{bar percent|[[ヒスパニック#アメリカ合衆国における定義|ヒスパニック]]|pink|3.9}}
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}}
== 州名の由来 ==
[[ファイル:Russell Cave Entrance RUCA9323.jpg|thumb|[[ジャクソン郡 (アラバマ州)|ジャクソン郡]]にあるラッセル洞窟入り口の1つ。洞内で見つかったたき火跡の木炭は、紀元前6550年ないし6145年のものとされた]]
かつて[[マスコギ語族|マスコギー語]]を話す[[アラバマ族]]が[[アラバマ川]]上流、クーサ川とタラプーサ川合流点の下流に住んでおり<ref name="Read">{{Cite book|last=Read |first=William A. |title=Indian Place Names in Alabama |year=1984 |publisher=University of Alabama Press |isbn=0-8173-0231-X |oclc=10724679 }}</ref>、これが川と州の名称の由来とされている。[[アラバマ語|アラバマ族の言語]]で部族員は ''Albaamo''(方言によっては ''Albaama'' または ''Albàamo''、複数形は ''Albaamaha'')と呼ばれる<ref>{{Cite book|author=Sylestine, Cora; Hardy; Heather; and Montler, Timothy |title=Dictionary of the Alabama Language |publisher=University of Texas Press |location=Austin |year=1993 |isbn=0-292-73077-2 |url=http://www.ling.unt.edu/~montler/Alabama/ |oclc=26590560 }}</ref>。「アラバマ」という言葉は、[[チョクトー]]族の[[チョクトー語|言葉]]が語源と考えられており<ref name="Rogers">{{Cite book|last=Rogers |first=William W.|coauthors=Robert D. Ward, Leah R. Atkins, Wayne Flynt |title=Alabama: the History of a Deep South State |year=1994 |publisher=University of Alabama Press |isbn=0-8173-0712-5 |oclc=28634588 }}</ref>、アラバマ族が部族名に採用した<ref name="ADAH1">{{Cite web|url=http://www.archives.alabama.gov/statenam.html |title=Alabama: The State Name |accessdate=2007-08-02|work=All About Alabama |publisher=Alabama Department of Archives and History |archiveurl= https://web.archive.org/web/20070628215841/http://www.archives.alabama.gov/statenam.html |archivedate= 2007-06-28 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。その綴りは史料によって様々である<ref name="ADAH1" />。最初に文献に現れたのは、1540年の[[エルナンド・デ・ソト]]の遠征であり、ガルシラソ・デ・ラ・ベガが ''Alibamo'' と表記していた。他にもエルバス騎士が ''Alibamu''、ロドリゴ・ランヘルが ''Limamu'' と記していた<ref name="ADAH1" />。1702年にはアラバマ族が[[フランス人]]によって ''Alibamon'' と呼ばれ、[[フランス]]の地図にはアラバマ川が ''Rivière des Alibamons'' と表記されていた<ref name="Read" />。その他、''Alibamu''、''Alabamo''、''Albama''、''Alebamon''、''Alibama''、''Alibamou''、''Alabamu''、''Allibamou'' などの表記が見られた<ref name="ADAH1" /><ref name="Wills">{{Cite book|last=Wills |first=Charles A. |title=A Historical Album of Alabama |year=1995 |publisher=The Millbrook Press |isbn=1-56294-591-2 |oclc=32242468 }}</ref><ref name="Griffith">{{Cite book|last=Griffith |first=Lucille |title=Alabama: A Documentary History to 1900|year=1972 |publisher=University of Alabama Press|isbn=0-8173-0371-5 |oclc=17530914 }}</ref><ref name="Weiss">The use of state names derived from Native American languages is common; an estimated 27 states have names of Native American origin. {{Cite book|last=Weiss |first=Sonia |title= The Complete Idiot's Guide to Baby Names |year=1999 |publisher=Mcmillan USA |isbn=0-02-863367-9 |oclc=222611214 }}</ref>。
「アラバマ」の語源は分かっているが、その意味については諸説あって定まっていない。『ジャクソンビル・レパブリカン』紙の1842年の記事では、その意味を「ここで休む」とする説を発表した<ref name="ADAH1" />。この説は1850年代にアレクサンダー・ボーフォート・ミークの著作を通じて広まった<ref name="ADAH1" />。マスコギー語の専門家はこの説を肯定する証拠を見出すことができなかった<ref name="Read" /><ref name="ADAH1" />。学者はこの言葉がチョクトー語の ''alba''(植物あるいは雑草を意味する)と、''amo''(切る、整えるあるいは集めるを意味する)を合わせたと考えている<ref name="Rogers" /><ref name="ADAH1" /><ref name="Swanton1">{{Cite journal|last=Swanton |first=John R. |authorlink=|year=1953 |title=The Indian Tribes of North America |journal=Bureau of American Ethnology Bulletin 145 |pages=153–174 |url=http://www.hiddenhistory.com/PAGE3/swsts/alabam-1.htm |accessdate=2007-08-02 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20070804025900/http://www.hiddenhistory.com/PAGE3/swsts/alabam-1.htm |archivedate= 2007-08-04 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。その意味は「藪を切りはらう人」<ref name="Rogers" />または「香草を集める人」<ref name="Swanton1" /><ref name="Swanton2">{{Cite journal|last=Swanton |first=John R. |authorlink=|year=1937 |title=Review of Read, Indian Place Names of Alabama|journal=American Speech|pages=212–215|issue=12 |doi=10.2307/452431 |volume=12 |jstor=452431}}</ref>である可能性があり、農作のために土地を開墾すること<ref name="Wills" />、あるいは薬草を集めることを指していると考えられる<ref name="Swanton2" />。「アラバマ」はアメリカ合衆国内に数多い[[アメリカ先住民]]の言葉に由来する地名の1つである<ref>{{Cite web |url=http://www.archives.alabama.gov/tours/Previsit_Indian.pdf |title=Southeastern Indian Place Names in what is now Alabama |year=1994 |work=Indian Place Names in Alabama |author=William A. Read |publisher=Alabama Department of Archives and History |accessdate=2011-10-03}}</ref><ref>{{Cite book |title=Native American placenames of the United States |last=Bright |first=William |year=2004 |publisher=University of Oklahoma Press |location= |isbn=0-8061-3576-X |pages=29–559 |url=https://books.google.co.jp/books?id=5XfxzCm1qa4C&pg=&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。
なお、アメリカ合衆国の全50の州を名前のアルファベット順に並べたときに、最初に来る州である。
== 歴史 ==
{{Main|アラバマ州の歴史}}
=== 先コロンブス期 ===
[[ファイル:Moundville Archaeological Site Alabama.jpg|thumb|[[ヘイル郡 (アラバマ州)|ヘイル郡]]のマウンドビル考古学遺跡。[[ミシシッピ文化]]のインディアンが西暦1000年から1450年にかけて使っていた]]
アラバマ州となった地域にヨーロッパ人が入ってくる以前の数千年間、様々な文化を持つインディアンがこの地域に住んでいた。現在のアメリカ合衆国北東部との交易は、[[オハイオ川]]を通じて墳墓期(紀元前1000年から紀元後700年)に始まり、ヨーロッパ人と接触した時まで続いた<ref name="NewYorkTimesAlmanac">{{Cite news |url= http://travel2.nytimes.com/2004/07/15/travel/NYT_ALMANAC_US_ALABAMA.html |title= Alabama |date= 2006-08-11 |work= The New York Times Almanac 2004 |accessdate= 2006-09-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20060926105134/http://travel2.nytimes.com/2004/07/15/travel/NYT_ALMANAC_US_ALABAMA.html |archivedate= 2006-09-26 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。
西暦1060年から1600年、農耕社会の[[ミシシッピ文化]]が現在の州の大半に及び、その中心の1つがマウンドビルのマウンドビル考古学遺跡にあった<ref>{{Cite book|last= Welch |first= Paul D. |title= Moundville's Economy |publisher= University of Alabama Press |year= 1991 |isbn= 0-8173-0512-2 |oclc= 21330955 }}</ref><ref>{{Cite book |last= Walthall |first= John A. |title= Prehistoric Indians of the Southeast-Archaeology of Alabama and the Middle South |publisher= University of Alabama Press |year= 1990 |isbn= 0-8173-0552-1 |oclc= 26656858 }}</ref>。マウンドビルで行われた考古学発掘調査で出土した人工物を解析することで、南東部儀式用複合施設の性格に関わる学説の基礎ができてきた<ref>{{Cite book|last= Townsend |first= Richard F. |title= Hero, Hawk, and Open Hand |publisher= Yale University Press |year= 2004 |isbn= 0-300-10601-7 |oclc= 56633574 }}</ref>。一般に考えられていることとは対照的に、南東部儀式用複合施設は[[メソアメリカ]]文化と直接の結びつきが無く、独自の発展を遂げていたと見られている。儀式用複合施設はミシシッピ文化の人々の宗教では主要な要素だった。その宗教を理解するうえで主要手段の1つになっている<ref>{{Cite book|editors= F. Kent Reilly and James Garber |title= Ancient Objects and Sacred Realms |publisher= University of Texas Press |year= 2004 |isbn= 978-0-292-71347-5 |author= edited by F. Kent Reilly III and James F. Garber ; foreword by Vincas P. Steponaitis. |oclc= 70335213 }}</ref>。
ヨーロッパ人が入って来たときに、現在のアラバマ州領域に住んでいたインディアン部族として、イロコイ語を話す[[チェロキー族]]、マスコギー語を話すアラバマ族、[[チカソー]]族、[[チョクトー]]族、[[クリーク族]]、[[コウシャッタ|コアサティ]]族がいた<ref>{{Cite web|url= http://www.accessgenealogy.com/native/alabama/ |title= Alabama Indian Tribes |accessdate =2006-09-23 |date= Updated 2006 |work= Indian Tribal Records |publisher= AccessGenealogy.com |archiveurl= https://web.archive.org/web/20061012073735/http://www.accessgenealogy.com/native/alabama/ |archivedate= 2006-10-12 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。
=== ヨーロッパ諸国による植民地化 ===
[[ファイル:Mobile1725.jpg|thumb|left|1725年のフランスの地図、モービルの位置にコンデ砦の平面図と標高が示されている]]
[[1702年]]、フランスが現在オールド・モービルと呼ばれる地域にヨーロッパ人として最初の開拓地を築いた<ref name="US50">{{Cite web|url= http://www.theus50.com/alabama/ |title= Alabama State History |accessdate=2006-09-23 |publisher= theUS50.com |archiveurl= https://web.archive.org/web/20060825052401/http://www.theus50.com/alabama/ |archivedate= 2006-08-25 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。モービルの町は[[1711年]]に現在地に移転した。この地域は[[1702年]]から[[1763年]]が[[フランス]]、1763年から[[1783年]]が[[イギリス]]の[[西フロリダ]]の支配下にあり、1783年から[[1821年]]はアメリカ合衆国と[[スペイン]]の間で分割された。イギリス王政に忠誠を誓う[[ロイヤリスト]]だったトマス・バセットが、モービル地域を除けば地域内初期の白人開拓者だった。[[1770年代]]初期に現在の[[ワシントン郡 (アラバマ州)|ワシントン郡]]となったトンビグビー開拓地に入った<ref>{{Cite web|url=http://www.archives.state.al.us/aha/markers/washington.html |title=Alabama Historical Association Marker Program: Washington County |publisher=Archives.state.al.us |accessdate=2011-06-01}}</ref>。1783年、現在の[[ボールドウィン郡 (アラバマ州)|ボールドウィン郡]]と[[モービル郡 (アラバマ州)|モービル郡]]の領域がスペイン領西フロリダの一部となり、1810年には独立国[[西フロリダ共和国]]の一部、1812年に[[ミシシッピ準州]]に付設された。現在のアラバマ州北部と中央部およびミシシッピ州は、当時[[ヤズーランド]]と呼ばれ、1767年以降[[ジョージア植民地]]が領有権を主張していた。[[アメリカ独立戦争]]の後、ジョージア州に編入されたが、その領有については大きな論争が続いた<ref>Cadle, Farris W. Georgia Land Surveying History and Law (1991). Athens, Ga.: University of Georgia Press.</ref>。
[[ファイル:Mississippiterritory.PNG|thumb|ミシシッピ準州とアラバマ準州の形成]]
モービルやヤズーランドに隣接する地域を除き、現在のアラバマ州中央部は、[[1798年]]に創設されたミシシッピ準州の一部になった。ヤズーランド詐欺が起きた後、ヤズーランドも[[1804年]]に準州に付加された。[[1812年]]以後スペインはモービルに行政機能を置いていた。[[1814年]]、[[アンドリュー・ジャクソン]]の軍隊がモービルを占領し、この地域に対するアメリカ合衆国の「事実上の」権限を示した。これで準州奥地からメキシコ湾まで支障のない通路ができ、モービルにおけるスペインの実効支配を終わらせたが、領有権主張は残り続けた<ref name="StateMaster">{{Cite web|url= http://www.statemaster.com/graph-T/bac_sum |title= AL-Alabama |accessdate=2006-09-23 |work= Landscapes and History by state |publisher= StateMaster.com}}</ref>。ミシシッピ州が州に昇格する1817年12月10日の前に、人口の少なかった準州東半分が分離し、[[アラバマ準州]]と命名された。アラバマ準州は1817年3月3日のアメリカ合衆国議会で創設された。セントスティーブンスが1817年から1819年まで準州都とされていたが、現在は廃村になっている<ref name="eoaststephens">{{Cite web |url=http://www.encyclopediaofalabama.org/face/Article.jsp?id=h-1674 |title=Old St. Stephens |work=Encyclopedia of Alabama |publisher=Auburn University |accessdate=2011-06-21}}</ref>。
=== アラバマ州成立の初期 ===
[[ファイル:Oldalabamastatecapruinsintuscaloosa.png|thumb|left|タスカルーサのキャピトル公園にある議会議事堂廃墟。ウィリアム・ニコルズが設計し、1827年から1829年に建設された。州都がモンゴメリーに移されてから10年以上経った[[1857年]]にアラバマ中央女子カレッジになった。[[1923年]]の火事で破壊された]]
アラバマが合衆国22番目の州になることが認められた後、[[アメリカ合衆国議会]]は最初のアラバマ州憲法制定会議の場所に[[ハンツビル]]を選定した。[[1819年]]7月5日から8月2日に代議員が会して新州憲法を準備した。ハンツビルは1819年から[[1820年]]までアラバマ暫定州都となり、その後は[[ダラス郡 (アラバマ州)|ダラス郡]]のカハバに州都が移された<ref>{{Cite web|title=Huntsville |url=http://www.encyclopediaofalabama.org/face/Article.jsp?id=h-2498 |work=The Encyclopedia of Alabama |publisher= Alabama Humanities Foundation |accessdate=2013-01-22}}</ref>。カハバは現在廃村となっているが、1820年から[[1825年]]まで最初の恒久的州都だった<ref name="Cahaw">{{Cite web|title=Old Cahawba, Alabama's first state capital, 1820 to 1826|work=Old Cahawba: A Cahawba Advisory Committee Project|url=http://www.cahawba.com/|accessdate=2012-09-22}}</ref>。アラバマが州になった時は既にアラバマ・フィーバーが広がり始めており、綿花の栽培に適した肥沃な台地を得るために開拓者や土地投機家が殺到していた<ref name="fever">{{Cite web |url=http://www.encyclopediaofalabama.org/face/Article.jsp?id=h-3155 |title=Alabama Fever |author=LeeAnna Keith |date=2011-10-13 |work=Encyclopedia of Alabama |publisher=Auburn University |accessdate=2012-09-22}}</ref><ref name="adahtalafvr">{{Cite web |url=http://www.alabamaheritage.com/vault/kingcotton.htm |title=Alabama Fever |work=Alabama Department of Archives and History |publisher=State of Alabama |accessdate=2012-09-22}}</ref><ref name="alhrtg">{{Cite web |url=http://www.alabamaheritage.com/vault/kingcotton.htm |title=King Cotton in Alabama: A Brief History |author=Thomas W. Oliver |date=2007-08-15 |work=Alabama Heritage |publisher=University of Alabama, et al. |accessdate=2012-09-22}}</ref>。[[1820年代]]から[[1830年代]]の開拓地にあって、州憲法は白人男性については普通選挙を執行していた。[[木綿|綿花]]の[[プランテーション]]が広がるに連れて、南東部農園主や交易業者が[[アップランドサウス|アッパーサウス]]から[[奴隷]]と共に移ってきた。暗色の肥沃な土壌から名付けられた[[ブラックベルト]]中央部の経済は大規模な綿花プランテーションの上に作られ、プランテーション所有者は奴隷の労働から大きな富を築いた<ref name="SSpaces" />。この地域には大勢の貧乏で選挙権を持たない人々も入ってきて、[[自給自足]]農になった。1810年の人口は1万人と推計されていたが、1830年には30万人以上に増加していた<ref name="fever" />。地域に住んでいたインディアンの大半は、1830年にアメリカ合衆国議会で[[インディアン移住法]]が成立してから数年後には、州から完全に追い出されていた<ref name="ala">{{Cite web |url=http://www.encyclopediaofalabama.org/face/Article.jsp?id=h-1598 |title=Alabama |author=Wayne Flynt |date=2008-07-09 |work=Encyclopedia of Alabama |publisher=Auburn University |accessdate=2012-09-22}}</ref>。
[[ファイル:Thornhill 01.jpg|thumb|ブラックベルトのプランテーション、ソーンヒル邸の母屋(1833年建設)]]
[[1826年]]から[[1846年]]にかけて[[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ]]が州都になった。1846年1月30日、アラバマ州議会はタスカルーサから[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]に州都を移すことを議決したと発表した。新州都での最初の議会は1847年12月に開会された<ref name="capitols">{{Cite web |url=http://www.archives.state.al.us/capital/capitals.html |title=Capitals of Alabama |work=Alabama Department of Archives and History |accessdate=2011-07-08 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110716220255/http://www.archives.state.al.us/capital/capitals.html |archivedate= 2011-07-16 |deadurl= no}}</ref>。新議会議事堂は、[[フィラデルフィア]]のスティーブン・ディケーター・バトンの指導で建設された。最初の建物は[[1849年]]の火事で焼け落ちたが、1851年に同じ場所に再建された。[[メイン州]]エグゼターのバラチアス・ホルトが設計した二代目の建物は現在も残っている<ref name="alcatalog">{{Cite book |last= Gamble |first=Robert|year =1987|title =The Alabama Catalog: A Guide to the Early Architecture of the State|pages=144, 323–324|publisher =University of Alabama Press|location = University, AL|isbn =0-8173-0148-8 }}</ref><ref name="alarchitecture">{{Cite book|last =Bowsher|first =Alice Meriwether|year =2001|title =Alabama Architecture|pages=90–91|publisher =University of Alabama Press|location = Tuscaloosa|isbn =0-8173-1081-9 }}</ref>。1860年には人口が964,201人となっており、その内435,080人は[[アフリカ系アメリカ人]]奴隷、2,690人は有色の自由人だった<ref name="adahtmln">{{Cite web |url=http://www.archives.alabama.gov/timeline/al1801.html |title=Alabama History Timeline |work=Alabama Department of Archives and History |publisher=State of Alabama |accessdate=2012-09-22}}</ref>。
=== 南北戦争からレコンストラクション時代 ===
[[ファイル:Huntsville Courthouse Square 1864.jpg|thumb|left|1864年の北軍によるハンツビル陥落と再占領後、郡庁舎前広場を占領する北軍]]
[[1861年]]1月11日、アラバマ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、[[アメリカ連合国]]に加盟した。[[南北戦争]]ではアメリカ連合国の首都をモンゴメリーに置き、連合の初代大統領として[[ジェファーソン・デイヴィス]]を擁立し、連合の中心的役割として戦った。アメリカ連合国の首都は同年5月に[[バージニア州]][[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]に移転された。[[1864年]]の夏にはメキシコ湾に面した[[モービル湾]]で南北戦争では珍しい[[モービル湾の海戦|海戦]]が繰り広げられたが、南部の敗北に終わった。州内ではほとんど戦闘が無かったが、南北戦争には約12万人の兵士が出征した。ハンツビル出身の騎兵1個中隊が、[[ケンタッキー州]]で[[ネイサン・ベッドフォード・フォレスト]]将軍の軍隊に参加した。このハンツビル中隊は、袖、襟、上着の裾に黄色い布を付けた見事な新しい制服を着ていたことから「イエローハンマー」と呼ばれ、後に南軍のアラバマ州部隊は「イエローハンマーズ」と呼び習わされるようになった<ref>[http://www.archives.state.al.us/emblems/st_bird.html Official Symbols and Emblems of Alabama, State Bird of Alabama, Yellowhammer]. Alabama State Archives</ref>。1865年、[[アメリカ合衆国憲法修正第13条]]により、州内の奴隷は解放された<ref name="HistDocs">{{Cite web|url= http://www.historicaldocuments.com/13thAmendment.htm |title= 13th Amendment to the U.S. Constitution: Abolition of Slavery (1865) |accessdate =2006-09-23 |year= 2005 |work= Historical Documents |publisher= HistoricalDocuments.com}}</ref>。
戦後、アラバマ州は軍政府の管理下に置かれ、占領は[[1868年]]にアメリカ合衆国に復帰するまで続いた。アフリカ系アメリカ人に選挙権が与えられると、1867年から1874年、多くのアフリカ系アメリカ人が政治指導者として台頭した。この期間には[[アメリカ合衆国議会]]に3人のアフリカ系アメリカ人を選出した。すなわちジェレマイア・ハラルソン、ベンジャミン・S・ターナー、ジェイムズ・T・レイピアの3人である<ref name="alrecnstrctn">{{Cite web |url=http://www.alabamamoments.state.al.us/sec24.html |title=Reconstruction in Alabama: A Quick Summary |work=Alabama Moments in American History |publisher=Alabama Department of Archives and History |accessdate=2012-09-22}}</ref>。
[[ファイル:Alabama legislature 1872.jpg|thumb|レコンストラクション時代のアラバマ州議会、1872年]]
南北戦争後もアラバマ州は農業に大きく依存し続け、経済は綿花と堅く結びついていた。[[レコンストラクション]]時代、州議会は1868年に新憲法を採択し、初めて公共教育体系を作り、女性の権利を拡大した。多くの公共道路や鉄道の建設計画を予算化したが、それらは不正行為や横領の疑惑に実行を妨げられた<ref name="alrecnstrctn" />。この期間、組織化された抵抗集団が解放奴隷や[[共和党 (アメリカ)|共和党]]員を抑圧するために活動した。[[クー・クラックス・クラン]]がよく知られているが、他にも白い顔団(Pale Faces)、白椿騎士団(Knights of the White Camelia)、赤シャツ団(Red Shirts)、白人同盟(White League)などの集団がいた<ref name="alrecnstrctn" />。
アラバマ州のレコンストラクションは、民主党が議会を制し、知事職を取った1874年に終わった。1875年には新憲法を制定した<ref name="alrecnstrctn" />。同年、議会はブレイン修正条項を成立させ、公金を宗教系学校に使うことを禁じた<ref>{{Cite web|url=http://www.schoolreport.com/schoolreport/articles/blaine_7_00.htm |title=A Blaine Amendment Update (July 00) |publisher=Schoolreport.com |accessdate=2011-06-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110716014339/http://www.schoolreport.com/schoolreport/articles/blaine_7_00.htm |archivedate= 2011-07-16 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。さらに同年、学校を人種分離することを要求する法が認められた<ref name="jimcrowala">{{Cite web |url=http://www.classroomhelp.com/till/jimcrowlaws/jimcrowalabama.html |title=Jim Crow Laws in Alabama |work=Emmett Till, It All Began with a Whistle |publisher=Classroomhelp |accessdate=2012-09-22}}</ref>。[[1891年]]には鉄道の客車が人種分離された<ref name="jimcrowala" />。その他にも20世紀初期に[[ジム・クロウ法|ジム・クロウ諸法]]が成立した。
=== 1900年-1949年 ===
[[ファイル:Birmingham Alabama skyline 1915.jpg|thumb|left|開発中のバーミングハム市、1915年]]
[[1901年]]の新憲法では、[[人頭税]]、識字能力などによる選挙権の制限を通じて、実質的にアフリカ系アメリカ人と白人の低所得層から選挙権を奪う選挙法が含まれた<ref>J. Morgan Kousser.''The Shaping of Southern Politics: Suffrage Restriction and the Establishment of the One-Party South'', New Haven: Yale University Press, 1974</ref>。農園主階級は白人低所得層を説得してこれらの法を支持させながら、累積する人頭税の課税が大きく影響して白人低所得層の選挙権も取り上げることになった。1900年、州内には181,000人以上の選挙権を持つアフリカ系アメリカ人がいた。1903年には、少なくとも74,000人のアフリカ系アメリカ人に識字能力があったが、僅か2,980人のみが有権者登録されていた<ref name="epzzsd" />。1941年、白人で選挙権の無い者は60万人、黒人では52万人となり、白人の方が多くなっていた<ref name="epzzsd">Glenn Feldman. ''The Disfranchisement Myth: Poor Whites and Suffrage Restriction in Alabama''. Athens: University of Georgia Press, 2004, p. 136.</ref>。アフリカ系アメリカ人はほとんど全員が投票権を持たなかった。
1901年憲法は、学校での人種分離を再度肯定した。1867年以降人種間結婚は違法とされていたが、この新憲法で改めてそれが定められた。1950年代まで人種差別法が追加されていった。[[1911年]]には監獄で、[[1915年]]には病院で、[[1928年]]にはトイレ、ホテル、レストランで、1945年にはバス停待合室で人種分離された<ref name="jimcrowala" />。
[[ファイル:Mount Sinai School Autauga County July 2011 1.jpg|thumb|田園部の[[オートーガ郡 (アラバマ州)|オートーガ郡]]にある旧マウントサイナイ学校。1919年建設。州内にアフリカ系アメリカ人児童のために建てられたローゼンウォルド学校387校の1つ]]
田園部の多いアラバマ州の議会は常に、選挙権を剥奪されたアフリカ系アメリカ人への教育もサービスも予算割り当てを少なくしていたが、彼等から税金は取り続けた<ref name="SSpaces">{{Cite web|url= http://southernspaces.org/2004/black-belt |title= The Black Belt |accessdate =2006-09-23 |date= 2004-04-19 |work= Southern Spaces Internet Journal |publisher= Emory University}}</ref>。南部においてアフリカ系アメリカ人の教育予算が少ないという批判に答える意味もあって、[[ジュリアス・ローゼンウォルド|ローゼンウォルド財団]]がローゼンウォルド学校と呼ばれるようになる校舎建設資金の手当てを始めた。アラバマ州ではこれら学校の設計と建設の一部がローゼンウォルド基金で賄われた。基金は校舎建設資金の3分の1を拠出し、残りを町と州が分割した<ref name="rosenwaldal">{{Cite web|title=The Rosenwald School Building Fund and Associated Buildings MPS|work="National Register Information System" |url=http://pdfhost.focus.nps.gov/docs/NRHP/Text/64500011.pdf |accessdate=2012-10-03}}</ref>。1913年には、最初のローゼンウォルド学校が建設された。1937年までに合計で387校、7つの教員宿舎、幾つかの職業訓練用建物が完成した。現在も州内に残っているローゼンウォルド学校は[[アメリカ合衆国国家歴史登録財]]に指定されている<ref name="rosenwaldal" />。
継続する人種差別、農業不況、[[ワタミゾウムシ]]の蔓延による綿花収量の低下などで、何万人ものアフリカ系アメリカ人が職を求めて北部の工業都市へ移住した。[[アフリカ系アメリカ人の大移動|グレートマイグレーション]]と呼ばれるものの中で、20世紀前半に、製造業の仕事やより良い暮らしを求めてアラバマを離れていった。1910年から1920年のアラバマ州人口成長率は半分近くになった。
これと同じ時期に田園部の白人や黒人は、新しい工業都市であるバーミングハム市で働くために移住した。バーミングハム市は「魔法の都市」と渾名されるほど人口が急増した。1920年代では、バーミングハム市は国内第19位の大都市であり、州内人口の30%以上が住んでいた。重工業と鉱業が経済の基盤だった<ref>{{Cite web|url=http://www.bhamwiki.com/w/Birmingham |title=Birmingham |publisher=Bhamwiki |accessdate=2010-10-24}}</ref>。[[第二次世界大戦]]の需要に関わる工業の発展は、南北戦争以前にも見られなかったような繁栄をもたらした<ref name="SSpaces" />。田園部の労働者はより良い仕事と高い生活水準を求めて州内の大都市に流入した。その顕著な例がモービル市であり、1940年から1943年の3年間で89,000人以上が市内に入り、軍需産業で働いた<ref name="thomason2">Thomason, Michael. ''Mobile : the new history of Alabama's first city'', pages 213–217. Tuscaloosa: University of Alabama Press, 2001. ISBN 0-8173-1065-7</ref>。製造業とサービス産業が隆盛するに連れて、綿花など換金作物はその重要性を失っていった。
=== 1950年-2000年 ===
[[ファイル:Saturn V Tanks Mated - GPN-2000-000039.jpg|thumb|left|[[マーシャル宇宙飛行センター]]で組み立てられている[[サターンV|サターン5型ロケット]]、ハンツビル市、1964年]]
1901年から1961年まで人口構成の大きな変化があったが、田園部主導の議会は、人口に基づく下院や上院の議席数割り当てを変えようとしなかった。農業地帯の政治と経済の権力を維持するために、古い選挙区割りに固執した。さらにバーミングハム市の外に住む人々による選出を確実にするために、数少ないバーミングハム市内の選挙区を都合良く修正した。
その結果の分かる良い例がバーミングハム市の工業と経済の基盤地帯を含む[[ジェファーソン郡 (アラバマ州)|ジェファーソン郡]]であり、州税収の3分の1以上を収めていながら、それに比例したサービスを受けていなかった。都市部は常に州議会での代表が少ない状況だった。1960年の研究では、「総人口のうちの少数である約25%を代表する議員が、州議会の多数派を支配していた」とされていた<ref name="pjhwpa" />。
アフリカ系アメリカ人は歴史的な経緯から[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の一翼を担ったが、選挙権を剥奪された。アラバマ州の白人は南北戦争の敗北やレコンストラクションの後で、共和党に敵意を抱き憎悪するようになった。このために白人有権者に気に入られようとすれば、政治的信念に拘わらず[[民主党 (アメリカ)|民主党]]で出馬するというのが長い伝統になった。
[[ファイル:Bloody Sunday-officers await demonstrators.jpeg|thumb|[[セルマ (アラバマ州)|セルマ]]からモンゴメリーに向かう[[血の日曜日事件 (1965年)|行進]]を待ち構える警官]]
アフリカ系アメリカ人は既に昔から選挙権剥奪状態と人種差別を止めさせようと努力していたが、[[1950年代]]と[[1960年代]]になるとさらに活発な[[公民権運動]]と呼ばれる活動を始めた。[[1955年]][[州都]]モンゴメリーで起こった[[ローザ・パークス]]逮捕事件が公民権運動の口火を切った。この動きでアメリカ合衆国議会により、1964年の公民権法と1965年の選挙権法成立に繋がった。1960年代、[[ジョージ・ウォレス]]州知事の政権下では、連邦政府で認められた人種差別撤廃に抵抗する動きが州内で行われたが、失敗した。
公民権運動の時代にアフリカ系アメリカ人は全国的な公民権法成立と選挙権法を通じて投票の保護など公民権を獲得した<ref name="cra64">{{Cite web|url=http://finduslaw.com/civil_rights_act_of_1964_cra_title_vii_equal_employment_opportunities_42_us_code_chapter_21 |title=Civil Rights Act of 1964 |publisher=Finduslaw.com |accessdate=2010-10-24 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20101021141154/http://finduslaw.com/civil_rights_act_of_1964_cra_title_vii_equal_employment_opportunities_42_us_code_chapter_21 |archivedate= 2010-10-21 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。ジム・クロウ法は無効にされあるいは撤廃されて法的な人種差別は終わった<ref name="USDOJ">{{Cite web|url= http://www.usdoj.gov/kidspage/crt/voting.htm |archiveurl= https://web.archive.org/web/20070221054512/http://www.usdoj.gov/kidspage/crt/voting.htm |archivedate= 2007-02-21 |title= Voting Rights |accessdate =2006-09-23 |date= 2002-01-09 |work= Civil Rights: Law and History |publisher= U.S.Department of Justice}}</ref>。
[[選挙権法 (1965年)|1965年選挙権法]]の下で、連邦裁判所はアラバマ州に州議会下院と上院の議席を人口に応じて再配分することを強制した。1972年、アラバマ州は人口に応じて議席を再配分することについて州憲法の規定を改正したが、これは1901年以来の改正となった。このことは60年間以上の間、経済的発展を遂げながら代表数の少なかった都市部には恩恵となった<ref name="pjhwpa" />。
==地理==
[[ファイル:Map of Alabama terrain NA.jpg|thumb|upright=0.75|アラバマ州図]]
:''関連項目:{{仮リンク|アラバマ州の地理|en|Geography of Alabama}}、[[アラバマ州の郡一覧]]''
アラバマ州は総面積135,765 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]](52,419 [[平方マイル|mi<sup>2</sup>]]) あり、アメリカ合衆国内で30番目に大きな州である。そのうち3.2%は水域であり、その広さは国内23番目になる。内陸水路の総延長では国内第2位である<ref>{{Cite web |url= http://factfinder.census.gov/servlet/GCTTable?_bm=n&_lang=en&mt_name=DEC_2000_SF1_U_GCTPH1R_US9S&format=US-9S&_box_head_nbr=GCT-PH1-R&ds_name=DEC_2000_SF1_U&geo_id=01000US |title= GCT-PH1-R. Population, Housing Units, Area, and Density (areas ranked by population): 2000 |date=Census Year 2000 |accessdate =2006-09-23 |work=Geographic Comparison Table |publisher= U.S.Census Bureau}}</ref>。
州域の5分の3はなだらかな平原であり、[[ミシシッピ川]]や[[メキシコ湾]]に向かって標高が下がる。北部は山がちであり、[[テネシー川]]が大きな流域を作り、小川、沢、川、山地、湖を形成している<ref name="NetState">{{Cite web |url= http://www.netstate.com/states/geography/al_geography.htm |title= The Geography of Alabama |work=Geography of the States |publisher=NetState.com |date= 2006-08-11 |accessdate=2006-09-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20060917172224/http://www.netstate.com/states/geography/al_geography.htm |archivedate= 2006-09-17 <!--DASHBot-->|deadurl= no}}</ref>。州の北東部にはなだらかな[[アパラチア高原]]が広がり、[[石炭]]・[[鉄鉱石]]など鉱物資源の宝庫となっている。他の大部分はメキシコ湾沿岸平原で占められる。メキシコ湾に流入するモービル川とアラバマ川が主要な河川体系を形成する。
州の西部は[[ミシシッピ州]]、北部は[[テネシー州]]、東部は[[ジョージア州]]と接し、南部も大部分は[[フロリダ州]]と接するが、一部はメキシコ湾に面している<ref name="NetState" />。標高はモービル湾の海面から<ref name="usgs">{{Cite web |date=2005-04-29 |url=http://erg.usgs.gov/isb/pubs/booklets/elvadist/elvadist.html#Highest |title=Elevations and Distances in the United States |publisher=U.S Geological Survey |accessdate=2006-11-03 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20061102095332/http://erg.usgs.gov/isb/pubs/booklets/elvadist/elvadist.html |archivedate= 2006-11-02 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>、北東部[[アパラチア山脈]]の1800フィート (550 m) 超の領域まで変化している。最高地点は標高2,413フィート (735 m) のチーハ山<ref name="NetState" />である<ref name=ngs>{{Cite web |url=http://www.ngs.noaa.gov/cgi-bin/ds_mark.prl?PidBox=DG3595 |title=NGS Data Sheet for Cheaha Mountain |publisher=U.S. National Geodetic Survey |accessdate=2011-06-08}}</ref>。森林が2,200 万エーカー (89,000 km<sup>2</sup>) あり、州域の67%になっている<ref>[http://www.alabamaforests.org/Introduction/index.html Alabama Forest Owner's Guide to Information Resources, Introduction], Alabamaforests.org</ref>。メキシコ湾岸にある郊外部の[[ボールドウィン郡 (アラバマ州)|ボールドウィン郡]]が陸地面積でも水域面積でも州内最大の郡となっている<ref>{{Cite web|url=http://factfinder.census.gov/servlet/GCTTable?_bm=y&-context=gct&-ds_name=DEC_2000_SF1_U&-mt_name=DEC_2000_SF1_U_GCTPH1R_ST2S&-CONTEXT=gct&-tree_id=4001&-redoLog=true&-geo_id=04000US01&-format=ST-2 |title=Alabama County (geographies ranked by total population) |date= Census year 2000 |work=Geographic Comparison Table |publisher=U.S. Census Bureau |accessdate=2007-05-14}}</ref>。
[[ファイル:Cheaha Lake in the Fall.jpg|thumb|left|アラバマ州最大のチーハ山、アパラチア山脈にあり、州内最高地点]]
アメリカ合衆国国立公園局が管理する地域としては、アレクサンダーシティ近くのホースシューベンド軍事公園、フォートペイン近くのリトル川峡谷国立保存地、ブリッジポートのラッセル洞窟国立保護区、[[タスキーギ]]のタスキーギ・エアメン国立歴史史跡、タスキーギ近くのタスキーギ国立歴史史跡研究所がある<ref>{{Cite web|url=http://home.nps.gov/applications/parksearch/state.cfm?st=al |title=National Park Guide |accessdate=2006-09-23 |work=Geographic Search |publisher=National Park Service – U.S. Department of the Interior |location=Washington, D.C |archiveurl= https://web.archive.org/web/20060930090713/http://home.nps.gov/applications/parksearch/state.cfm?st=al |archivedate= 2006-09-30 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。
またコネカー、タラデガ、タスキーギ、ウィリアム・B・バンクヘッドの4つの国有林がある<ref>{{Cite web|url=http://www.fs.fed.us/r8/alabama/forests/ |title=National Forests in Alabama |accessdate=2008-10-05 |work=USDA Forest Service |publisher=United States Department of Agriculture |archiveurl= https://web.archive.org/web/20081007051917/http://www.fs.fed.us/r8/alabama/forests/ |archivedate= 2008-10-07 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。さらにナチェズ・トレイス・パークウェイ、セルマ・トゥ・モンゴメリー国立歴史道、[[涙の道]]国立歴史道もある。ヘイリービルの直ぐ南には、[[ロッキー山脈]]より東では最長の[[天然橋]]がある。
モンゴメリー市の北、[[エルモア郡 (アラバマ州)|エルモア郡]]には幅5マイル (8 km) の[[隕石]]クレーターがある。ウィトゥンプカ・クレーターと呼ばれ、「アラバマ州最大の自然災害」跡である。幅1,000フィート (300 m) の隕石が約8,000年前にこの地域に落ちてきた<ref name="mlvguh">[http://www.passc.net/EarthImpactDatabase/wetumpka.html Earth Impact DB], accessdate =August 20, 2009</ref>。ウィトゥンプカ中心街の東にある丘陵は隕石クレーターの名残が浸食されたものであり、破片の同心円状の環や砕けた岩石が地表下に見られるので、ウィトゥンプカ・クレーターあるいは隕石痕と名付けられている<ref>"The Wetumpka Astrobleme" by John C. Hall, Alabama Heritage, Fall 1996, Number 42.</ref>。2002年ウィーン大学地球化学研究所のクリスチャン・キュバールが、この場所を地球上で認識された隕石クレーターの157番目とする証拠を示した<ref>{{Cite web |last=King |first=David T., Jr. |title=Wetumpka Crater |url=http://www.encyclopediaofalabama.org/face/Article.jsp?id=h-1035 |work=Encyclopedia of Alabama |accessdate=2011-12-13 |date=2010-04-23}}</ref>。
アラバマ州の最北点は、州北西隅の[[ローダーデール郡 (アラバマ州)|ローダーデール郡]]ウォータルーの町の北西約6マイル (10 km) にある。最南点は[[モービル郡 (アラバマ州)|モービル郡]]ドーフィン島に近いサンド島である。最東点はジョージア州との州境、[[ラッセル郡 (アラバマ州)|ラッセル郡]]のフォートミッチェルから南東8マイル (13 km) にある。最西点はミシシッピ州との州境の南から3分の1、[[チョクトー郡 (アラバマ州)|チョクトー郡]]のメルヴィン町の近くにある。
=== 気候 ===
{{Main|w:Climate of Alabama}}
アラバマ州は[[温暖湿潤気候]]にあり、[[ケッペンの気候区分]]では ''Cfa'' である<ref>{{Cite web|url=http://facstaff.unca.edu/cgodfrey/courses/atms179/ppt/greenhouse.pdf |title=Greenhouse effect and climate |author=Christopher M. Godfrey |date=2008-11-04 |work=Atmospheric Sciences |publisher=University of North Carolina, Asheville |accessdate=2013-02-09}}</ref>。年間平均気温は64{{°F}} (18 ℃) である。南部のメキシコ湾に近付くと温暖になり、北部、特に北東部のアパラチア山脈は幾分冷涼である<ref name="cprgsw">{{Cite web|url=http://www.britannica.com/eb/article-78303/Alabama |title=Alabama Climate |work=Encyclopædia Britannica |accessdate=2010-10-24}}</ref>。概して夏は大変暑く、冬は温暖で、年間を通して雨量が多い。年間平均雨量は56インチ (1,400 mm) あり、南部では植物生育適応日が300日もある<ref name="cprgsw" />。
[[ファイル:Phil Campbell tornado damage.jpg|thumb|2011年4月27日に起きた州全体の竜巻被害の後、フィル・キャンベルの惨状]]
夏は国内でも最も暑い方の州であり、場所によって平均最高気温は90{{°F}} (32 ℃) を超える。[[熱帯低気圧]]や[[ハリケーン]]の影響も受けやすい。メキシコ湾から遠い地域は嵐の影響がそれほどでもないが、上陸して弱くなっていく間に大量の雨を降らせることがある。
南部では多くの雷雨が発生している。モービル湾周辺のメキシコ湾では年間70ないし80日に雷雨が発生している。北部ではいくらか少なくなるが、最北部でも年間約60日の雷雨が記録されることがある。時には落雷や大きな[[雹]]を降らせることがある。州中部と北部はこの種の嵐が起きやすい。落雷による死者数では国内第7位、人口当たりの落雷死者数では第9位である<ref>[http://www.lightningsafety.com/nlsi_lls/fatalities_us.html Lightning Fatalities, Injuries and Damages in the United States, 1990–2003]. NLSI. Retrieved May 8, 2007.</ref>。
1950年1月1日から2006年10月31日までの国立気象データセンターによる統計では、[[改良藤田スケール]]EF5の[[竜巻]]発生数で、[[カンザス州]]と共に国内最大である<ref>[http://www.tornadoproject.com/fscale/fscale.htm Fujita scale]. Tornadoproject.com. Retrieved September 3, 2007.</ref>。長い距離を移動したF5クラスの竜巻によって被った死者の数では国内最大であり、竜巻道に入る面積が広い[[テキサス州]]をも超えている。1974年4月や2011年4月25日から28日の竜巻大発生のときは莫大な被害を受けた。2011年4月の場合は累計で62個が発生し、州内の竜巻発生数として最大を記録した<ref>{{Cite web |last=Oliver |first=Mike |title=April 27's record tally: 62 tornadoes in Alabama |url=http://blog.al.com/spotnews/2011/08/april_27s_record_tally_62_torn.html |publisher=al.com |accessdate=2012-11-04}}</ref>。
[[ファイル:Birmingham city hall alabama 2010.jpg|thumb|left|バーミングハム市役所の外に降った雪、2010年2月]]
竜巻の多い季節は北部と南部で異なっている。春が一番被害を受けやすい季節であり、2番目に11月、12月が竜巻のシーズンになっていることでは、世界でも数少ない地域の1つである。テネシー川流域にある北部は、国内でも最も激しい竜巻被害を受ける地域である。アラバマ州とミシシッピ州のこの地域はディキシー・アリーとも呼ばれることがあり、南部平原の竜巻道とは区別されている。
冬季は他の南東部州と同様温暖であり、1月の平均最低気温はモービル市で40{{°F}} (4 ℃) 周辺、バーミングハム市では32{{°F}} (0 ℃) 程度である。州内の大半で降雪は希だが、モンゴメリー市の北では毎冬にわか雪があり、数年に一度はそこそこの降雪がある。これまでに1963年大晦日と1993年に大雪があった。バーミングハム市の年間平均降雪量は2インチ (5 cm) である。南部のメキシコ湾岸では希であり、数年間も降雪が無いことがある。
州内の過去最高気温は1925年9月5日に未編入自治体のセンタービルで記録された112{{°F}} (44 ℃)、過去最低気温は1966年1月30日にニューマーケットで記録された-27{{°F}} (-33 ℃) である<ref>{{Cite web |url=http://www.accuracyproject.org/recordtemps.html |title=Record high and low temperatures for all 50 states |work=Internet Accuracy Project |publisher=accuracyproject.org |accessdate=2012-11-03}}</ref>。
=== 植物相と動物相 ===
[[ファイル:CahabaRiverNWR1.jpg|thumb|カハバユリ (''Hymenocallis coronaria'') 、カハバ川、カハバ川国立野生生物保護区]]
州内には様々な[[植物相]]と[[動物相]]が見られる。これは北のテネシー川流域、[[アパラチア高原]]とリッジ・アンド・バレー・アパラチアン区、中央部の[[ピードモント台地]]、ケーンブレイクとブラックベルト、南のメキシコ湾岸平原と海岸というように多様な地形があることが大きく寄与している。生物多様性の幅では国内トップクラスである<ref name="alawildlife">{{Cite book |title=Alabama Wildlife: Volume One |last=Mirarchi |first=Ralph E. |year=2004 |publisher=University of Alabama Press |location=Tuscaloosa, Alabama |isbn=978-0-81735-1304 |pages=1–3, 60 }}</ref><ref name="outalawildlife">{{Cite web |url=http://www.outdooralabama.com/watchable-wildlife/what/ |title=Alabama Wildlife and their Conservation Status |work=Outdoor Alabama |publisher=Alabama Department of Conservation and Natural Resources |accessdate=2012-10-16}}</ref>。
州内にはかつては松林が広大に広がっていた。現在でも州内のかなりの森林を形成している<ref name="alawildlife" />。植物相の多様さでは国内第5位に位置づけられている。シダ植物と[[種子植物]]の種は4,000種近くに及んでいる<ref>{{Cite web |url=http://www.floraofalabama.org/ |title=About the Atlas |work=Alabama Plant Atlas |publisher=Alabama Herbarium Consortium and University of West Alabama |accessdate=2012-10-16}}</ref>。
[[哺乳類]]の原生種は62種が生息している<ref name="outalamam">{{Cite web |url=http://www.outdooralabama.com/watchable-wildlife/what/Mammals/ |title=Mammals |work=Outdoor Alabama |publisher=Alabama Department of Conservation and Natural Resources |accessdate=2012-10-16}}</ref>。[[爬虫類]]は93種<ref name="outalarep">{{Cite web |url=http://www.outdooralabama.com/watchable-wildlife/what/reptiles/ |title=Reptiles |work=Outdoor Alabama |publisher=Alabama Department of Conservation and Natural Resources |accessdate=2012-10-16}}</ref>、[[両生類]]は73種<ref name="outalaamphi">{{Cite web |url=http://www.outdooralabama.com/watchable-wildlife/what/Amphibians/ |title=Amphibians |work=Outdoor Alabama |publisher=Alabama Department of Conservation and Natural Resources |accessdate=2012-10-16}}</ref>、[[淡水魚]]は307種<ref name="alawildlife" />、少なくとも一年間の一部を州内で過ごす[[鳥類]]は420種いる<ref name="outalabird">{{Cite web |url=http://www.outdooralabama.com/watchable-wildlife/what/birds/ |title=Birds |work=Outdoor Alabama |publisher=Alabama Department of Conservation and Natural Resources |accessdate=2012-10-16}}</ref>。無脊椎動物では、[[甲殻類]]83種<ref name="outalacray">{{Cite web |url=http://www.outdooralabama.com/watchable-wildlife/what/inverts/crayfish/ |title=Crayfish |work=Outdoor Alabama |publisher=Alabama Department of Conservation and Natural Resources |accessdate=2012-10-16}}</ref>、[[軟体動物]]383種がいる。軟体動物のうち113種は州外では見られない州固有種である<ref name="outalamollusk">{{Cite web |url=http://www.outdooralabama.com/watchable-wildlife/what/inverts/mollusks/ |title=Alabama Snails and Mussels |work=Outdoor Alabama |publisher=Alabama Department of Conservation and Natural Resources |accessdate=2012-10-16}}</ref>。
=== 都市部 ===
[[ファイル:Birmingham, Alabama Skyline.jpg|thumb|[[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]、最大都市、最大都市圏]]
[[ファイル:Downtown Huntsville, Alabama cropped.jpg|thumb|[[ハンツビル (アラバマ州)|ハンツビル]]、第2の都市圏]]
[[ファイル:Downtown Mobile 2008 01.jpg|thumb|[[モービル (アラバマ州)|モービル]]、第3の都市圏]]
[[ファイル:Montgomery Alabama panorama.jpg|thumb|[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]、第4の都市圏]]
{{Main|アラバマ州の都市圏の一覧}}
{{See also|w:List of cities in Alabama}}
{|class="wikitable"
|-
! 順位
! [[アメリカ合衆国大都市統計地域|都市圏]]<ref>[https://www.whitehouse.gov/wp-content/uploads/2020/03/Bulletin-20-01.pdf OMB Bulletin No. 20-01, Revised Delineations of Metropolitan Statistical Areas, Micropolitan Statistical Areas, and Combined Statistical Areas, and Guidance on Uses of Delineations of These Areas]. Office of Management and Budget. 2020年3月6日.</ref>
! 人口(2020年)<ref name="Census2020_QuickFacts" />
|-
|align=right|1
|[[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]・[[フーバー (アラバマ州)|フーバー]]
|align=right|1,115,289
|-
|align=right|2
|[[ハンツビル (アラバマ州)|ハンツビル]]
|align=right|491,723
|-
|align=right|3
|[[モービル (アラバマ州)|モービル]]
|align=right|430,197
|-
|align=right|4
|[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]
|align=right|386,047
|-
|align=right|5
|[[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ]]
|align=right|268,674
|-
|align=right|6
|[[ダフネ (アラバマ州)|ダフネ]]・フェアホープ・フォリー
|align=right|231,767
|-
|align=right|7
|[[オーバーン (アラバマ州)|オーバーン]]・オーペライカ
|align=right|174,241
|-
|align=right|8
|[[ディケーター (アラバマ州)|ディケーター]]
|align=right|156,494
|-
|align=right|9
|[[ドーサン (アラバマ州)|ドーサン]]
|align=right|151,007
|-
|align=right|10
|[[フローレンス (アラバマ州)|フローレンス]]・マッスルショールズ
|align=right|150,791
|-
|align=right|11
|[[アニストン (アラバマ州)|アニストン]]・オックスフォード
|align=right|116,441
|-
|align=right|12
|[[ガズデン (アラバマ州)|ガズデン]]
|align=right|103,436
|}
{| class="wikitable"
|-
! 順位 !! 都市!! 人口(2020年)<ref name="Census2020_QuickFacts" /> !! 郡
|-
|align=right|1
| [[ハンツビル (アラバマ州)|ハンツビル]]
|align=right|215,006
| [[マディソン郡 (アラバマ州)|マディソン郡]]<br />[[ライムストーン郡 (アラバマ州)|ライムストーン郡]]
|-
|align=right|2
| [[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]
|align=right|200,733
| [[ジェファーソン郡 (アラバマ州)|ジェファーソン郡]]
|-
|align=right|3
| [[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]
|align=right|200,603
| [[モンゴメリー郡 (アラバマ州)|モンゴメリー郡]]
|-
|align=right|4
| [[モービル (アラバマ州)|モービル]]
|align=right|187,041
| [[モービル郡 (アラバマ州)|モービル郡]]
|-
|align=right|5
| [[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ]]
|align=right|99,600
| [[タスカルーサ郡 (アラバマ州)|タスカルーサ郡]]
|-
|align=right|6
| [[フーバー (アラバマ州)|フーバー]]
|align=right|92,606
|ジェファーソン郡<br />[[シェルビー郡 (アラバマ州)|シェルビー郡]]
|-
|align=right|7
| [[オーバーン (アラバマ州)|オーバーン]]
|align=right|76,143
| [[リー郡 (アラバマ州)|リー郡]]
|-
|align=right|8
| [[ドーサン (アラバマ州)|ドーサン]]
|align=right|71,072
| [[ヒューストン郡 (アラバマ州)|ヒューストン郡]]
|-
|align=right|9
| [[ディケーター (アラバマ州)|ディケーター]]
|align=right|57,938
| [[モーガン郡 (アラバマ州)|モーガン郡]]<br />ライムストーン郡
|-
|align=right|10
| [[マディソン (アラバマ州)|マディソン]]
|align=right|56,933
|マディソン郡<br />ライムストーン郡
|-
|align=right|11
| [[フローレンス (アラバマ州)|フローレンス]]
|align=right|40,184
| [[ローダーデール郡 (アラバマ州)|ローダーデール郡]]
|-
|align=right|12
| [[ベスタビアヒルズ (アラバマ州)|ベスタビアヒルズ]]
|align=right|39,102
|ジェファーソン郡
|-
|align=right|13
| [[フェニックスシティ (アラバマ州)|フェニックスシティ]]
|align=right|38,816
| [[ラッセル郡 (アラバマ州)|ラッセル郡]]
|-
|align=right|14
| [[プラットビル (アラバマ州)|プラットビル]]
|align=right|37,781
| [[オートーガ郡 (アラバマ州)|オートーガ郡]]
|-
|align=right|15
| [[ガズデン (アラバマ州)|ガズデン]]
|align=right|33,945
| [[エトワ郡 (アラバマ州)|エトワ郡]]
|}
==人口動勢==
{{USCensusPop
|1800= 1250
|1810= 9046
|1820= 127901
|1830= 309527
|1840= 590756
|1850= 771623
|1860= 964201
|1870= 996992
|1880= 1262505
|1890= 1513401
|1900= 1828697
|1910= 2138093
|1920= 2348174
|1930= 2646248
|1940= 2832961
|1950= 3061743
|1960= 3266740
|1970= 3444165
|1980= 3893888
|1990= 4040587
|2000= 4447100
|2010= 4779736
|2020= 5024279
|footnote= Sources: 1910–2010<ref>{{Cite web|author=Resident Population Data |url=http://2010.census.gov/2010census/data/apportionment-pop-text.php |title=Resident Population Data – 2010 Census |publisher=2010.census.gov |accessdate=2011-06-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110519131122/http://2010.census.gov/2010census/data/apportionment-pop-text.php |archivedate= 2011-05-19 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>
}}
{|style="float:right;"
|-
| [[ファイル:Alabama population map.png|thumb|アラバマ州人口密度図]]
|}
2020年の国勢調査時点でのアラバマ州の人口は5,024,279人で、2010年国勢調査からは244,543人、4.87%の増加となっていた<ref name="Census2020_QuickFacts" />。
アラバマ州の人口重心は[[チルトン郡 (アラバマ州)|チルトン郡]]ジェミソンの町郊外となっている<ref>{{Cite web|title= Population and Population Centers by State – 2000 |publisher= United States Census Bureau |accessdate =2008-12-03 |url= http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt |archiveurl= https://web.archive.org/web/20081218235101/http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt |archivedate= 2008-12-18 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。
=== 人種および祖先 ===
この州の人種別構成比および前の国勢調査との比較<ref>{{Cite web|url=http://factfinder2.census.gov/faces/tableservices/jsf/pages/productview.xhtml?pid=DEC_10_PL_QTPL&prodType=table |title=American FactFinder |publisher=Factfinder2.census.gov |date=2010-10-05 |accessdate=2011-06-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110520164400/http://factfinder2.census.gov/faces/tableservices/jsf/pages/productview.xhtml?pid=DEC_10_PL_QTPL&prodType=table |archivedate= 2011-05-20 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>:
{|class="wikitable"
!rowspan="2"|人種!!colspan="3"|国勢調査年
|-
![[2010年]]!![[2000年]]!![[1990年]]
|- align=right
|align=left|[[白人]]||68.5%||71.1%||73.6%
|- align=right
|align=left|アフリカ系アメリカ人||26.2%||26.0%||25.3%
|- align=right
|align=left|アジア人||1.1%||0.7%||0.5%
|- align=right
|align=left|[[インディアン]]||0.6%||0.5%||0.4%
|- align=right
|align=left|その他||2.0%||0.7%||0.1%
|- align=right
|align=left|混血||1.5%||1.0%||<center>*</center>
|-
|colspan="4"|
|- align=right
|align=left|白人、ヒスパニック以外||67.0%||70.3%||73.3%
|- align=right
|align=left|ヒスパニック‡||3.9%||1.7%||0.6%
|}
ノート:
:'''*''' 有効でない;混血は2000年の国勢調査で初めて報告された。
:'''‡''' ヒスパニックの数字は他の人種と重複して集計されている。
2011年時点で州内1歳未満人口の46.6%は少数民族に属している<ref>{{Cite news |url=http://www.cleveland.com/datacentral/index.ssf/2012/06/americas_under_age_1_populatio.html |title=Americans under age 1 now mostly minorities, but not in Ohio: Statistical Snapshot |last=Exner |first=Rich |work=The Plain Dealer |date=2012-06-03 |accessdate= }}</ref>。
アラバマ州内で2000年に申告された祖先による構成比は以下の通りだった:アフリカ系 (26.2%)、[[イングランド系アメリカ人|イングランド系]](23.6%)、[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]] (7.7%)、[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]](5.7%)、およびスコットランド系アイルランド人 (2.0%)<ref>{{Cite web|url=https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:WJGw9z2RkkYJ:www.uen.org/Lessonplan/downloadFile.cgi%3Ffile%3D1041-6-15955-AF_Census_Data.pdf%26filename%3DAF_Census_Data.pdf+49,598,035&hl=en&gl=uk&pid=bl&srcid=ADGEESgyigzsjZP7yBWdThzodFWP_t7GiFtOGi5W12qTf5nLj_yFzQ0YIKJn2pSyS1TIT-ZjvBx0s057h5mpwrf39HOZmlg3VzoOdaoPrNTdS6x-0SbHnwGXfzVLkDYTyIg7k4E_Zsn8&sig=AHIEtbTzro9GQY6LB1-9ZG9n2r46Epyyaw |title=Data on selected ancestry groups |publisher=Google |accessdate=2011-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.census.gov/population/censusdata/pc80-s1-10/tab02.pdf |title=1980 United States Census |format=PDF |accessdate=2011-06-01 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110604160009/http://www.census.gov/population/censusdata/pc80-s1-10/tab02.pdf |archivedate= 2011-06-04 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref><ref name="factfinder.census.gov">{{Cite web |publisher= Factfinder.census.gov |url= http://factfinder.census.gov/servlet/ADPTable?_bm=y&-geo_id=04000US01&-qr_name=ACS_2008_3YR_G00_DP3YR2&-ds_name=&-_lang=en&-redoLog=false |title=Alabama – Selected Social Characteristics in the United States: 2006–2008 |accessdate=2010-10-24}}</ref>。人口統計学者は、州民の20ないし23%はイングランド系の祖先を持つ者であり、この数字は実際にはもっと高くなると考えている。1980年の国勢調査で、総人口の41%がイングランド系と申告し、当時は最大の民族集団だった<ref>{{Cite web|url=http://www.census.gov/population/www/censusdata/files/pc80-s1-10/tab03.pdf |title=Ancestry of the Population by State: 1980 – Table 3 |format=PDF |accessdate=2012-02-10}}</ref><ref>[https://books.google.co.uk/books?id=SVoAXh-dNuYC&pg=PA57&dq=Sharing+the+dream:+white+males+in+multicultural+America++english+ancestry&cd=1&hl=en#v=onepage&q=&f=false Sharing the Dream: White Males in a Multicultural America] By Dominic J. Pulera.</ref><ref>Reynolds Farley, 'The New Census Question about Ancestry: What Did It Tell Us?', ''Demography'', Vol. 28, No. 3 (August 1991), pp. 414, 421.</ref><ref>Stanley Lieberson and Lawrence Santi, 'The Use of Nativity Data to Estimate Ethnic Characteristics and Patterns', ''Social Science Research'', Vol. 14, No. 1 (1985), pp. 44–6.</ref><ref>Stanley Lieberson and Mary C. Waters, 'Ethnic Groups in Flux: The Changing Ethnic Responses of American Whites', ''Annals of the American Academy of Political and Social Science'', Vol. 487, No. 79 (September 1986), pp. 82–86.</ref>。
さらにスコットランド系アイルランド人の割合は自己申告よりも高いものとされている<ref>{{Cite web|url=http://factfinder.census.gov/servlet/ADPTable?_bm=y&-geo_id=04000US01&-qr_name=ACS_2008_3YR_G00_DP3YR2&-ds_name=&-_lang=en&-redoLog=false |title=American FactFinder |publisher=Factfinder.census.gov |accessdate=2012-02-10}}</ref>。スコットランド系アイルランド人という言葉はスコットランドにルーツを持つ人々に使われていたので、多くの人々はアイルランド系と回答している<ref name="census-ancestries">[//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/45/Census-2000-Data-Top-US-Ancestries-by-County.jpg Census 2000 Map – Top U.S. Ancestries by County]</ref>。
1984年、デイビス・ストロング法の下で、州議会はアラバマ・インディアン管理委員会を設立し、7部族を公式に認定した。現在ではこれが9部族に拡大された<ref>{{Cite web |url=http://aiac.alabama.gov/ByLaws.aspx |title=AIAC Bylaws |work=Alabama Indian Affairs Commission |publisher=State of Alabama |accessdate=2012-09-22}}</ref>。
===宗教===
[[ファイル:First Baptist Mobile 02.jpg|thumb|第一バプテスト教会、モービル市、1835年建設]]
[[ファイル:Temple B'Nai Shalom Dec2009 01.jpg|thumb|ブナイ・ショローム寺院、ハンツビル市。1876年建設の州内最古かつ現在も使用されている[[シナゴーグ]]]]
アラバマ州の主要な宗教:
*[[キリスト教]] – 92%
**[[プロテスタント]] – 79%
***[[バプテスト]] – 49%
***[[メソジスト]] – 10%
***[[長老派教会]] – 3%
***[[米国聖公会]] – 2%
***チャーチ・オブ・ゴッド – 2%
***[[キリスト連合教会]] – 2%
***[[ペンテコステ運動]] – 2%
***[[ルーテル教会]] – 2%
***他のプロテスタント – 7%
**[[カトリック教会]] – 13%
*他の宗教 – 1%
*無宗教 – 7%
アラバマ州はキリスト教徒の多い[[バイブル・ベルト]]の中央にある。州民の約58%が定期的に教会に通っており、国内でも最大級に信仰心の篤い州とされてきた<ref>[http://www.signonsandiego.com/uniontrib/20060502/news_lz1n2thelist.html US Church attendance]</ref>。州民の大半は[[プロテスタント]]である。2000年時点で信徒の多い会派は、[[福音主義]]プロテスタント、[[メインライン・プロテスタント]]、カトリック教会である<ref name="thearda">{{Cite web|url=http://www.thearda.com/mapsReports/reports/state/01_2000.asp|title=State Membership Reports |accessdate=2010-06-15 |publisher= thearda.com}}</ref>。
信徒数は少ないが、[[ユダヤ教]]、[[イスラム教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]、[[シク教]]および[[バハイ教]]など多くの宗教が信仰されている。ユダヤ教はモービル植民地時代の1763年からアラバマで信仰されている<ref name="shomayim">{{Cite book |title=The Gates of Heaven : Congregation Sha'arai Shomayim, the first 150 years, Mobile, Alabama, 1844-1994 |last=Zietz |first=Robert |year=1994 |publisher=Congregation Sha'arai Shomayim|location=Mobile, Alabama |isbn= |pages=1–7 }}</ref>。最古の会派はモービルのシャアライ・ショメイム会派である。1844年1月25日には州議会によって認定された<ref name="shomayim" />。イスラム教は2011年までに州内に31の[[モスク]]が建設され、増加しつつある<ref name="2011muslim">{{Cite news |title=Survey: U.S. Muslims grow by 30 percent since 2000 |author= Kay Campbell |url=http://www.al.com/living/index.ssf/2012/02/survey_us_muslims_grow_by_30_p.html |newspaper=The Huntsville Times |date=2012-02-29 |accessdate=2012-09-08}}</ref>。ヒンドゥー教もバーミングハム市のシュリ・スワミナラヤン・マンディールなど多くの寺院がある<ref>{{Cite web |url=http://www.garamchai.com/templesSE.htm |title=Hindu Temples in the South East: catering to the needs of NRI and Indians in US |work=GaramChai |accessdate=2012-09-22}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://hindumandir.cc/index.php?option=com_content&view=article&id=33&Itemid=42 |title=History of Hindu Mandir & Cultural Center |work=Hindu Mandir & Cultural Center |accessdate=2012-09-22}}</ref>。仏教徒のために6か所のダーマ・センターが州内各所にある<ref>{{Cite web |url=http://www.manjushri.com/Centers/alabama.htm |title=Dharma Centers and Organizations in Alabama |work=Manjushri Buddhist Community |publisher=AcuMaestro |accessdate=2012-09-22}}</ref>。仏教の修道寺院は[[モービル郡 (アラバマ州)|モービル郡]]南部のバイユーラバトル近くに集中している。この地域には[[インドシナ戦争]]の結果1970年代に[[カンボジア]]、[[ラオス]]、[[ベトナム]]から難民が多く流入した<ref>{{Cite web |url=http://www.journalofamericanhistory.org/projects/katrina/Gaillard.html |title=After the Storms: Tradition and Change in Bayou La Batre |author=Frye Gaillard |date=December 2007 |work=Journal of American History |publisher=Organization of American Historians |accessdate=2012-09-22}}</ref>。
=== 健康 ===
[[アメリカ疾病予防管理センター]]による2008年の研究では、アラバマ州の[[肥満]]が問題にされており、大半の郡が成人の肥満率29%以上、10の郡が26%から29%の間になった<ref>{{Cite web |url=http://apps.nccd.cdc.gov/DDT_STRS2/CountyPrevalenceData.aspx?StateId=1&mode=OBS |title=County Level Estimates of Obesity – State Maps |year=2008|publisher=Centers for Disease Control and Prevention |accessdate=2013-02-09}}</ref>。他に肥満を指摘された5州と同様、州民は余暇に運動する者の比率が低かった<ref>{{Cite web |url=http://www.cdc.gov/media/releases/2011/p0216_physicalinactivity.html |title=Highest Rates of Leisure-Time Physical Inactivity in Appalachia and South |year=2008 |publisher=Centers for Disease Control and Prevention |accessdate=2013-02-09}}</ref>。[[糖尿病]]の発症率が成人の10%を超えており、南東部州と共に国内最大クラスである<ref>{{Cite web |url=http://apps.nccd.cdc.gov/DDT_STRS2/CountyPrevalenceData.aspx?mode=DBT |title=County Level Estimates of Diagnosed Diabetes – State Maps |year=2008|publisher=Centers for Disease Control and Prevention |accessdate=2013-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://apps.nccd.cdc.gov/DDT_STRS2/NationalDiabetesPrevalenceEstimates.aspx?mode=DBT |title=CDC national chart on diabetes |publisher=Apps.nccd.cdc.gov |accessdate=2011-06-01}}</ref>。
[[2017年]]には、先進国では珍しい[[鉤虫症]]が流行したことから、ニューズウィークに州内の[[貧困]]と関連付けて報道されたことがある<ref>[http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9124.php アラバマ州の貧困は先進国で最悪──国連] NEWSWEEK(2017年12月14日)2017年12月17日閲覧</ref>。
==インディアン部族==
[[ファイル:DeSoto Map Leg 2 HRoe 2008.jpg|thumb|left|300px|[[エルナンド・デ・ソト]]が遠征した16世紀ごろのインディアン集落。緑色の領域が現在のアラバマ州]]
[[ファイル:De Soto burns Mabila HRoe 2008.jpg|thumb|right|200px|マビラの砦を焼き払い、インディアンを虐殺するソトの軍隊]]
[[ファイル:Trails of Tears en.png|250px|thumb|right|1832年の、クリーク族のオクラホマへの強制移住「[[涙の道]]」の経路(橙色の実線)。陸軍によって大陸の徒歩横断を強制され、数千人に上る途上死者を生んだ。]]
[[ファイル:Escambia County Alabama Incorporated and Unincorporated areas Atmore Highlighted.svg|left|200px|thumb|ポアーチ・クリークインディアンの保留地は、エスキャンビア郡のアトモア(赤い部分)内にある]]
[[アラバマ族]]、[[アパラチー]]族、[[アタシ族]]、[[アパラチコーラ族]]、[[チャトト族]]、[[チェロキー]]族、[[チカソー]]族、[[チョクトー]]族、[[クリーク族|ムスコギー・クリーク族連合]]([[ユーファウラ族]]、[[ファス・ハッチー族]]、[[ヒリビ族]]、[[カン・ハッチ族]]、[[ケアレジ族]]、[[コロミ族]]、[[アビーカ族]]、[[オクチャイ族]]、[[パカナ族]]、[[ツカバーチー族]]、[[ワコカイ族]]、[[ウィウォーカ族]])、[[ヒッチチ族]]、[[コウシャッタ]]族、[[モービル族]]、[[ムクラサ族]]、[[ナポチ族]]、[[ナチェズ|ナチェス族]]、[[オクムルギー族]]、[[オソチ族]]、[[パウォクチ族]]、[[ピルスラコ族]]、[[サウォクリ族]]、[[ショーニー族]]、[[タエンサ族]]、[[トホメ族]]、[[タスケギー族]]、[[ヤマシー族]]、[[ユチ族]]など、アラバマ州には多数の[[インディアン]]部族が先住した。そのほとんどが農耕民族である。
アメリカ連邦政府が公式認定し、現在も連邦条約を基にした[[インディアン居留地|保留地]](Reservation)を領有している部族は「クリーク族・ポアーチ・バンド」のひとつだけである。
16世紀にフロリダから上陸したスペイン人の[[エルナンド・デ・ソト]]は、自らを「不死の太陽王」と名乗って軍勢を率いて南東部各地でインディアン部族を虐殺した。ソトはこの地にも現れ、1540年にはクリーク族の近縁部族である[[モービル族]]の村の「マビラ砦」を襲い、「[[エルナンド・デ・ソト#1540年の「マビラの虐殺」|マビラの虐殺]]」と呼ばれる大虐殺を行った。「クリーク族連合」の多数の支族は、ソトの記録に基づくものが多い。
クリーク族(ムスコギー連合)は、人種隔離論を掲げた[[アンドリュー・ジャクソン]]大統領の[[民族浄化]]政策である1830年の「[[インディアン移住法]]」の影響を、最も大きく受けた部族のひとつである。アラバマおよび周辺地帯は肥沃な土地を有し、古くから白人入植者に収奪されてきた。
1831年に、クリーク族の酋長が連邦政府に「1500人を超える白人入植者が、われわれクリーク族の土地に勝手に農場を作っている」と告訴した。これに対する連邦政府の答えは、「西の土地(現在の[[オクラホマ州]])に保留地を用意するから、そこに移住すればよい」というものだった。こうして部族の苦情は逆手に取られ、1832年には、なし崩し的にクリーク族の土地は条約で連邦へ譲渡されることとなり、アラバマのクリーク・ムスコギー連合部族は[[インディアン準州]](現・オクラホマ)へ強制移住させられることとなった。米軍の監視のもと行われた徒歩による大陸横断移住では、数千人の途上死者を出す悲惨なものとなった。
この際、条約規定では、インディアン準州への移住を拒んだクリーク族はアラバマ州の保留地に残ることもできた。しかし、白人入植者は彼らの土地をあっという間にだまし盗ってしまった。記録されただけでも、「インディアンを[[ウィスキー]]で酔いつぶれさせて売買契約書に署名させる」、「賄賂を用いて別のインディアン名義の土地権利書を作成し、そのインディアンの署名で売買契約を行う」、「公然と売買契約書を偽造する」、「土地売買での裁判に圧力干渉する」、といった手口が活用された。これは全米のインディアン部族に対して白人入植者が用いた常套手口であり、特に珍しいものでも同州に限ったものでもない。インディアンのほとんどは英語の読み書きができなかったから、売買契約書の偽造はまるでたやすいものだった。
こういった土地の略奪で処罰される白人はおらず、むしろこれらはインディアンを子供扱いし、「インディアンは消滅されるべき劣等民族である」と議会で演説した[[アンドリュー・ジャクソン|ジャクソン大統領]]の姿勢に沿うものだった。1879年に合衆国最高裁判所が公式に「インディアンは人間である」と認めるまで、そもそもインディアンは人間扱いされていなかった。
この強制移住の際の、クリーク族の「まだらの蛇([[:en:Speckled Snake|Speckled Snake]])」酋長が連合各部族に行った演説は非常に有名である。以下はその抜粋である。
:兄弟たちよ、私は偉大なる父([[アメリカ合衆国大統領]])の話に何度も耳を傾けた。偉大なる父は赤い子供(インディアン)が好きだと言う。しかし、白人たちの言うことは、いつもこうだ。「もう少し向こうへ行ってくれ、お前たちは白人の近くに居過ぎるのだ」
こうして1853年には、アラバマ州でのクリーク族の土地保有者はほとんどいなくなり、クリーク族は絶滅したことにされた。なおも同州にとどまったインディアンのうち、「クリーク族・ポアーチ・バンド」は1950年代から70年代まで、部族指導者カルバン・マギーの音頭取りによって「[[感謝祭]]」の日に[[パウワウ]]を開催して資金を募り、復活要求運動を高めた。こうしてついに同バンドは1984年にアメリカ連邦内務省[[アメリカ合衆国インディアン管理局|インディアン管理局]]に再公認されて「復活」を果たした。
同州では多数の部族が19世紀に「絶滅部族」にされて保留地を失い、現在再認定を要求し係争中である。
{| width="800px"
|- valign=top
|width="50%"|
<small>
≪アメリカ連邦政府が公式認定している部族≫
*「[[クリーク族]](ムスコギー族)・ポアーチ・バンド」
≪アメリカ連邦政府は公認していないがアラバマ州政府が公認している部族・団体≫
*「チェロクリーク相互部族インディアン」
**「北東アラバマ・チェロキー族」
*「エコタ・チェロキー族」
*「マ=チス・南クリーク族」
*「[[チョクトー族]]・モワ・バンド」
*「ピクア・[[ショーニー族]]」
*「ムスコギー・クリーク族・ユファラ・星の氏族」
*「アニ・ユン・ウィヤ・チェロキー連合」
</small>
|width="50%"|
<small>
≪アメリカ連邦政府もアラバマ州政府も公認していない部族・団体≫
*「[[チェロキー族]]」
**「アラバマ・チェロキー族」
**「南東アラバマ・チェロキー族」
**「チカマウガ・チェロキー族」
**「チッカモギー・チェロキー族・ラングレー・バンド」
**「自由チェロキー族・鷲と熊の氏族」
**「フェニキアン・チェロキー族・セコイヤ・鷲の部族」
**「南カンバーランド台地チッカマカ・バンド」
**「ウルフクリーク族」
*「チェロキー川インディアン共同体」
*「[[クリーク族]](ムスコギー連合)」
**「ミシシッピ以東の主要なるクリークインディアン国家」
*「[[コウェタ族]]・クリーク族」
</small>
|}
===インディアン・カジノ===
現在のところ、クリーク族のみが「インディアン・カジノ」を開設している。郡によってカジノや賭博の規定は違うが、アラバマ州自体はインディアン・カジノに反対の立場をとっており、州公認部族はカジノを開設できない。
ポアーチ・クリーク族は、部族が経営するカジノに[[スロットマシン]]とテーブル・ゲームの増加を予定している。トロイ・キング州司法長官は米国内務省に対し、2008年4月にモービルの連邦裁判所にポアーチ・クリーク族のカジノ事業拡大の禁止を求めた訴訟を起こした。キング司法長官は、「近頃の内務省は、アラバマの(インディアン以外の)人々の権利の尊重というものを無視しているのではないのか」と不満を述べている。
≪アラバマ州のインディアン・カジノと経営部族≫
*クリーク族(ムスコギー族)・ポアーチ・バンド
**「風のクリーク・カジノ&ホテル」
**「クリーク・カジノ」
**「タラポーサ・カジノ」
**「川岸のカジノ」
== 政治と法律 ==
[[ファイル:Alabama Capitol Building.jpg|thumb|[[アラバマ州会議事堂]]、モンゴメリー市、1851年完工]]
{{Main|w:Government of Alabama}}
=== アラバマ州政府 ===
アラバマ州の基礎となる文書はアラバマ州憲法であり、1901年に批准された。約800の修正と31万語からなるこの憲法は世界最長の憲法であり、[[アメリカ合衆国憲法]]のおよそ40倍の長さがある<ref name="Washington Post">{{Cite news |url= http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A16443-2004Nov27?language=printer |last= Roig-Franzia |first= Manuel |title= Alabama Vote Opens Old Racial Wounds |work=The Washington Post |date= 2004-11-28 |accessdate= 2006-09-22}}</ref><ref name="Constitution">{{Cite web |url= http://www.legislature.state.al.us/CodeOfAlabama/Constitution/1901/Constitution1901_toc.htm |title= Constitution of Alabama – 1901 |work= The Alabama Legislative Information System |accessdate= 2006-09-22 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20060923081542/http://www.legislature.state.al.us/CodeOfAlabama/Constitution/1901/Constitution1901_toc.htm |archivedate= 2006-09-23 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。この憲法を書き換え近代化する動きが続けられてきた<ref>{{Cite web |url=http://www.constitutionalreform.org/ |title=Alabama Citizens for Constitutional Reform |publisher=Constitutionalreform.org |accessdate=2010-10-24| archiveurl= https://web.archive.org/web/20100915165938/http://www.constitutionalreform.org/ |archivedate= 2010-09-15 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。その根拠は、アラバマ州憲法がモンゴメリー市に中央権力を集中させており、地方には政治的権限が無いという事実である。州に関わる政策変更の提案はアラバマ州議会とさらに州全体の住民投票によって承認されなければならない。現憲法に対する批判の1つは、憲法の複雑さと長さによって人種差別を意図するように組まれているというものである。
[[ファイル:Ala Supreme Court Building Feb 2012 01.jpg|thumb|left|モンゴメリー市にあるアラバマ州司法ビル、アラバマ州最高裁判所、アラバマ州民事控訴裁判所、アラバマ州刑事控訴裁判所が入っている]]
アラバマ州政府は連邦政府や他州と同様、[[権力分立|三権分立]]の形を採っている。[[立法府]]が[[アラバマ州議会]]であり、105人の議員からなる[[アラバマ州代議院]](下院)と35人の議員からなる[[アラバマ州元老院]](上院)の[[両院制]]である。議会は州法を起案し、議論し、成立あるいは廃案にする責任がある。現在、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]が両院の多数を握っている。議会は、州知事が拒否権を発動した場合も、絶対多数で覆す権限を持っており、これは他州で3分の2の賛成を必要とするのと異なっている。
[[行政府]]は法の執行と監視の責任がある。行政府の長がアラバマ州知事である。知事の内閣を構成するのは、検事総長、州務長官、財務官、監査官である。
[[司法府]]はアラバマ州憲法を解釈し、州内の刑事事件と民事事件に適用する責任がある。最高機関がアラバマ州最高裁判所である。その長官は共和党員のチャック・マローンである。現在最高裁判所判事は全て共和党員で占められている。
4年毎の11月に選挙が行われ、州議会議員は選出後直ちに就任する。知事、副知事、検事総長など州憲法に定められる州全体の役人は、翌年1月に就任する<ref>{{Cite web|url=http://www.legislature.state.al.us/misc/legislativeprocess/legislativeprocess_ml.html|title= Alabama's Legislative Process |first= McDowell |last= Lee|year= 2009|publisher= State of Alabama|accessdate=2013-02-09}}</ref>。
=== 移民法 ===
アラバマ州の[[移民]]法は、厳しいことで知られ、公立学校の生徒は[[不法移民]]でないかどうか審査を受けることが必須とされている。2011年9月の法改正では、自動車のドライバーが州の運転免許証、外国人であれば出身国が発行した自動車[[運転免許証]]を携帯することが義務づけられ、違反者は警察が拘束することも可能となった<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2843533?pid=8151781 国際免許証見せたのに・・・ホンダ日本人社員「無免許扱い」に、米アラバマ州](AFP.BB.NEWS.2011年12月2日)同日閲覧</ref>。
=== 州法 ===
[[所得税]]は税率2%、4%、5%の3段階で[[累進課税]]方式を採っている。納税者は州税から連邦政府の所得税を控除することを認められ、基礎控除を行っている場合もそれが許される。個別控除を申告した納税者は連邦政府の[[社会保障]]費と[[メディケア]]税も控除できる。
[[消費税]]率は4%である<ref>[https://web.archive.org/web/20070520231150/http://www.taxadmin.org/fta/rate/sl_sales.html Comparison of State and Local Retail Sales Taxes], July 2004. Retrieved May 25, 2007.</ref>。都市や郡も消費税を徴収するので、実際にはさらに高い率になる。例えばモービル市では合計10%となり、さらにレストランでは1%が加算される。消費税と使用税で州と地方政府の税収の51%を集めており、国内平均の36%と比べて高い割合である。食品や医薬品にも課税することでは数少ない州の1つである。低所得者に対する所得税も国内では高い方である<ref name="cbpp.org">{{Cite web|url=http://www.cbpp.org/cms/index.cfm?fa=view&id=1812 |title=Reducing Alabama's Income Tax on Working-Poor Families: Two Options – 4/14/99 |publisher=Cbpp.org |accessdate=2010-10-24}}</ref>。例えば4人家族で収入が4,600米ドルの場合でも所得税を課しており、全国的な[[貧困線]]と比べれば4分の1の水準である<ref name="cbpp.org" />。アラバマ州の所得税限界値は他の41州とコロンビア特別区よりも低くなっている<ref name="cbpp.org" />。
法人の所得税率は6.5%である。連邦、州、地方政府の税を合わせた場合、国内では2番目に税負担の少ない州になっている<ref>{{Cite web|url=http://www.taxfoundation.org/files/sl_burden_alabama-2007-04-04.pdf |title=Alabama State Local Tax Burden Compared to U.S. Average (1970–2007) |accessdate=2007-05-30 |format=PDF |work=Tax Foundation|archiveurl= https://web.archive.org/web/20070605100516/http://www.taxfoundation.org/files/sl_burden_alabama-2007-04-04.pdf| archivedate= 2007-06-05 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>。資産税も国内最少である。資産税を上げる場合は、州憲法によって州民投票の承認を必要としている。
アラバマ州の税体系は消費に大きく依存しているので、変動要素の大きい予算を組むことになる。例えば2003年の州会計は6億7,000万米ドルの歳入不足に陥った。
=== 地方政府と郡政府 ===
{{Main|アラバマ州の郡一覧}}
[[ファイル:Alabama counties map.png|thumb|300px|right|アラバマ州の郡配置図]]
州内には67郡がある。各郡は通常郡政委員会と呼ばれる立法府があり、委員は選挙で選ばれている。また通常は行政権限者もいる。アラバマ州憲法による規制が強いために、7郡を除いてはほとんどと言って良いほど自治にはなっていない。その代わりに、大半の郡は州議会の地方議会委員会にロビー活動を行い、例えば廃棄物処理の利用土地区分など単純な地方政策を得る必要がある。
2011年11月9日、[[ジェファーソン郡 (アラバマ州)|ジェファーソン郡]]が破産を宣言した<ref>[http://jeffconline.jccal.org/home/news/photo/1517060216/ News - View Article<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2012/02/19/business/jefferson-county-ala-falls-off-the-bankruptcy-cliff.html |work=The New York Times |title=Jefferson County, Ala., Falls Off the Bankruptcy Cliff |date=2012-02-18 |accessdate= }}</ref>。
アラバマ州は[[アルコール飲料]]を統制する州である。州政府はアルコール飲料販売を独占している。しかし、郡は独自にドライ([[禁酒郡]])を宣言できる。州はそのような地域でアルコール飲料を販売していない。
{| class="wikitable"
|-
! 人口順位 !! 郡名 !! 人口(2020年)<ref name="Census2020_QuickFacts" /> !! 郡庁所在地 !! 最大都市
|-
| align=right | 1
| [[ジェファーソン郡 (アラバマ州)|ジェファーソン郡]]
| align=right | 674,721
| [[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]
| バーミングハム
|-
| align=right | 2
| [[モービル郡 (アラバマ州)|モービル郡]]
| align=right | 414,809
| [[モービル (アラバマ州)|モービル]]
| モービル
|-
| align=right | 3
| [[マディソン郡 (アラバマ州)|マディソン郡]]
| align=right | 388,153
| [[ハンツビル (アラバマ州)|ハンツビル]]
| ハンツビル
|-
| align=right | 4
| [[ボールドウィン郡 (アラバマ州)|ボールドウィン郡]]
| align=right | 231,767
| [[ベイミネット (アラバマ州)|ベイミネット]]
| [[ダフネ (アラバマ州)|ダフネ]]
|-
| align=right | 5
| [[モンゴメリー郡 (アラバマ州)|モンゴメリー郡]]
| align=right | 228,954
| [[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]
| モンゴメリー
|-
| align=right | 6
| [[タスカルーサ郡 (アラバマ州)|タスカルーサ郡]]
| align=right | 227,036
| [[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ]]
| タスカルーサ
|-
| align=right | 7
| [[シェルビー郡 (アラバマ州)|シェルビー郡]]
| align=right | 223,024
| [[コロンビアナ (アラバマ州)|コロンビアナ]]
| [[フーバー (アラバマ州)|フーバー]](部分)<br /> [[アラバスター (アラバマ州)|アラバスター]]
|-
| align=right | 8
| [[リー郡 (アラバマ州)|リー郡]]
| align=right | 174,241
| [[オーペライカ (アラバマ州)|オーペライカ]]
| [[オーバーン (アラバマ州)|オーバーン]]
|-
| align=right | 9
| [[モーガン郡 (アラバマ州)|モーガン郡]]
| align=right | 123,421
| [[ディケーター (アラバマ州)|ディケーター]]
| ディケーター
|-
| align=right | 10
| [[カルフーン郡 (アラバマ州)|カルフーン郡]]
| align=right | 116,441
| [[アニストン (アラバマ州)|アニストン]]
| アニストン
|}
=== 政治 ===
[[File:Governor Kay Ivey 2017 (cropped).jpg|thumb|right|200px|[[ケイ・アイヴィー]]]]
{{Main|アラバマ州知事}}
現職知事は2017年4月10日より共和党のケイ・アイヴィーである。元々はロバート・J・ベントリー知事のもとで副知事を務めていたが、ベントリーが不祥事のため任期途中で辞任を表明し、副知事だったアイヴィーが昇格した<ref>{{Cite news|url=http://www.cnn.co.jp/usa/35099567.html|title=アラバマ州知事が辞任、不倫隠し疑惑で追及受ける|work=CNN.co.jp|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2017-04-10|accessdate=2017-04-11}}</ref>。
南北戦争に続くレコンストラクション時代、アラバマ州は[[ジョン・ポープ]]将軍の指揮する第3軍管区の北軍に占領された。1874年、[[リディーマー]]と呼ばれた政治連衡がアフリカ系アメリカ人の選挙権を抑制したこともあって、共和党から州政府の支配を取り戻した。
1890年以後、白人の連衡により黒人の差別と選挙権剥奪のために法を成立させ、1901年憲法で完成させた。アフリカ系アメリカ人の選挙権を奪う規定は白人低所得層からも同様に選挙権を奪った。1941年までに黒人(52万人)よりも多くの白人(60万人)が選挙権を奪われるようになった。ただし、その影響度は黒人の方が大きく、ほとんど全ての州民が選挙権を奪われていた。
1901年から1960年代までの間、州内の人口が増えたり、州内で人口の移動があったとしても、選挙区の線引きを変えなかった。その結果、少数の人口しか居ない田園部の代表が州の政治を支配することとなり、これは1972年に一連の訴訟で選挙区割りを変えさせるまで続いた。
アラバマ州の政治は1950年代から1960年代の公民権運動時代に、当時の多数派を占めた白人が官僚的にかつ暴力的に選挙改革と社会改革のための抗議に抵抗したとき、全国と国際社会の注目を集めた。民主党員の[[ジョージ・ウォレス]]は州知事を4期務めていたが、論争の多い人物だった。連邦政府によって1964年の公民権法<ref name="cra64" />と1965年の選挙権法が成立してやっと、アフリカ系アメリカ人は公民権を、特に選挙権を獲得できた。
2007年、アラバマ州議会は奴隷制度とそれが引き摺った影響について「心からの遺憾」を表明する決議を行い、共和党員の州知事ボブ・ライリーがこれに署名した。この象徴的な儀式において、この法案はアメリカ連合国の議会でもあったアラバマ州会議事堂で署名された<ref>{{Cite news |first=Phillip |last=Rawls |title=Alabama offers an apology for slavery |work=The Virginian Pilot |publisher=Landmark Communications |date=2007-06-01}}</ref>。
2010年の選挙で、共和党が州議会両院の多数を勝ち取ったが、これは136年振りのことだった<ref name="Southerner">{{Cite web |url= http://www.southerner.net/v1n1_99/coverstory1.html |title= The New South Rises, Again |date= Spring 1999 |work= Civil Rights: Law and History |publisher= Southerner.net |accessdate =2006-09-23}}</ref>。
=== 選挙 ===
{{Main|w:Elections in Alabama}}
==== 州全体の選挙 ====
過去のアフリカ系アメリカ人からの選挙権剥奪により、アラバマ州は「ソリッドサウス」の一員になり、民主党が実質的に唯一の政党になった。100年近くの間、地方と州の選挙は実質的に民主党の[[予備選挙]]によって決められ、共和党は形のみ一般選挙に出馬するだけだった。
現在はアラバマ州最高裁判所判事9人を全て共和党が占めており<ref>{{Cite web|url=http://blog.al.com/spotnews/2009/05/sue_bell_cobb_considering_runn.html |title=Sue Bell Cobb considering running for governor - Breaking News from The Birmingham News |publisher=Blog.al.com |date=2009-05-02 |accessdate=2009-08-07}}</ref>、控訴裁判所判事10人でも同様である。1994年まで、これら判事に共和党員は居なかった。この変化は、民主党が1994年に有権者から再び選挙権を奪おうとしていると認識もあって、始まってきた。一般選挙では当時現職の最高裁判所長官アーネスト・C・ホーンズビーが、約3,000票差で共和党員のペリー・O・フーパー・シニアに敗北した後で、辞任を拒否した。ホーンズビーはアラバマ州を訴え、1年間近く職に留まったが、裁判に敗れたあとは諦めた。このことで、その後の3回ないし4回の選挙では民主党に対する支持が崩壊した。最高裁判所と控訴裁判所判事19の職のうち最後の一つを失ったのが2011年8月となった。
共和党は選挙で選ばれる州行政府の役人7人も独占している。州教育委員会では、8人の委員のうち6人を占めている。2010年、共和党は州議会の両院で136年ぶりに多数派を占めた。民主党はアラバマ州公共事業委員会で3人の委員のうち1人のみを出している<ref>{{Cite web|url=http://www.psc.state.al.us/commissioners.htm |title=Commissioners |publisher=Psc.state.al.us |accessdate=2009-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|author=Special |url=http://blog.al.com/spotnews/2008/11/lucy_baxley_wins_alabama_publi.html |title= Lucy Baxley wins Alabama Public Service Commission presidency, but recount possible |publisher=Birmingham News via al.com |date=2008-11-05 |accessdate=2009-08-07| archiveurl= https://web.archive.org/web/20090802212747/http://blog.al.com/spotnews/2008/11/lucy_baxley_wins_alabama_publi.html| archivedate= 2009-08-02 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref><ref>{{Cite web|author=Jeff Amy, Press-Register |url=http://blog.al.com/live/2010/11/public_service_commission.html |title=Public Service Commission: Twinkle Cavanaugh, Terry Dunn join GOP sweep |publisher= al.com |accessdate=2011-06-01| archiveurl= https://web.archive.org/web/20110513135614/http://blog.al.com/live/2010/11/public_service_commission.html| archivedate= 2011-05-13 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>。
レコンストラクション時代以降、副知事に選ばれた共和党員は2人だけだが、そのうちの1人が現職のケイ・アイヴィーである。
==== 地方選挙 ====
州内の地方レベルの役人は、郡政委員会、教育委員会、税評価官、徴収官などがあるが、依然として民主党多数に占められている。田園部の郡では民主党優勢、大都市圏の郡では共和党優勢となるが、幾つか例外もある<ref>{{Cite web|url=http://uselectionatlas.org/RESULTS/state.php?fips=1&year=2006&f=0&off=5&elect=1 |title=2006 Gubernatorial Democratic Primary Election Results – Alabama |publisher=Uselectionatlas.org |accessdate=2009-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://uselectionatlas.org/RESULTS/state.php?fips=1&year=2006&f=0&off=5&elect=2 |title=2006 Gubernatorial Republican Primary Election Results – Alabama |publisher=Uselectionatlas.org |date=2007-02-15 |accessdate=2009-08-07}}</ref>。
州内67郡の[[保安官]]も党派選挙で選ばれるが、民主党が多数になっている。現在の数字は民主党42郡、共和党24郡、その他1郡である<ref>Alabama Sheriff's Association</ref>。しかし、民主党の保安官は大半が田園部の人口が少ない地方におり、共和党の保安官は大都市部の人口が多い地域を担当している<ref>{{Cite web|url=http://www.alabamasheriffs.com/?PageID=131&IsNav=true |title=Association |publisher=Alabama Sheriffs |accessdate=2009-08-07}}</ref>。人口10万人以上を抱える[[モンゴメリー郡 (アラバマ州)|モンゴメリー郡]]と[[カルフーン郡 (アラバマ州)|カルフーン郡]]の2郡は民主党員の保安官であり、人口7万5千人未満の5郡は共和党の保安官である<ref>{{Cite web|url=http://www.alabamasheriffs.com/Image.aspx?ImageID=11481&Title=2007-2011+Alabama+Sheriffs |title=2007–2011 Alabama Sheriffs |publisher=Alabamasheriffs.com |accessdate=2009-08-07}}</ref>。2012年時点で[[モーガン郡 (アラバマ州)|モーガン郡]]に唯一の女性保安官がおり、9郡はアフリカ系アメリカ人の保安官になっている<ref>Alabama Sheriffs Association</ref>。
==== 国政選挙 ====
アラバマ州選出の連邦議会上院議員は、共和党の[[:en:Tommy Tuberville|トミー・タバービル]]と[[:en:Katie Britt|ケイティ・ブリット]]である。同州は強固な共和党支持の州で、民主党は1997年以降上院議席を獲得できていなかったが、2017年12月の[[ジェフ・セッションズ]]の司法長官就任に伴った補欠選挙で、共和党候補のセクハラ疑惑などもあって、民主党のダグ・ジョーンズが当選し20年ぶりに民主党が議席を獲得した。しかし、2020年11月の本選では共和党候補のトミー・タバービルがジョーンズを大差で破り、再び共和党が上院の2議席を占めることとなった。
アメリカ合衆国下院議員は7人を送り出しており、そのうち6人が共和党員、1人が民主党員である。
{{see also|アラバマ州選出のアメリカ合衆国上院議員|アラバマ州選出のアメリカ合衆国下院議員}}
==経済==
[[アメリカ合衆国商務省経済分析局]]によると、2008年の総州生産高は1,700億米ドルであり、前年より0.7%の増加だった。一人当たりの収入は29,411米ドルだった<ref>{{Cite web|url=http://www.bea.gov/newsreleases/regional/gdp_state/gsp_newsrelease.htm |title=GDP by State (2008) |date=2009-06-02 |work=Bureau of Economic Analysis, Regional Economic Accounts |accessdate=2009-10-09 }} [http://www.bea.gov/newsreleases/regional/gdp_state/2009/pdf/gsp0609.pdf full release with tables]</ref> In 2010, per capita income for the state was $22,984.<ref>{{Cite web|url=http://quickfacts.census.gov/qfd/states/01000.html |title=United States Census Bureau |accessdate=2012-02-25 |work=State and County Quick Facts }}</ref>。
アラバマ州は航空宇宙産業、教育、医療、金融、自動車など様々な重工業、鉱業、鉄鋼とその製品などに投資してきた。2006年の農畜産品生産高は15億米ドルだった。以前は農業が主要産業だったが、この数字は州総生産の約1%に過ぎない。1960年代から民間の農園数が減り続け、土地は開発業者、製材業者、および農業会社に売却された。
農業以外の職種が広がってきた。2008年時点での雇用状況は、経営管理部門121,800人、事業・金融運営71,750人、コンピュータ関連と数学的職種36,790人、建築土木設計44,200人、生命科学・医学・社会学12,410人、地域社会サービス32,260人、法律関連12,770人、教育・訓練・図書館サービス116,250人、芸術・デザイン・メディア関連27,840人、健康管理121,110人、消防・警察・安全保障 44,750人、外食関連154,040人、建物と土地の清掃・保守76,650人、介護など53,230人、販売244,510人、事務管理職338,760人、農業・漁業・林業 20,510人、建設・鉱業・ガスと石油の採掘120,155人、設備設置・保守・修繕106,280人、製造業224,110人、輸送業167,160人となっていた<ref name="alaindustrial" />。
また、[[モービル (アラバマ州)|モービル市]]は[[メキシコ湾]]で活気のある港町であり、テネシー・トンビグビー水路を経由して中西部へつながる内陸水路の入口となっている。
2012年7月時点でアラバマ州の失業率は 7.8%だった<ref>[http://www.bls.gov/lau/ Bls.gov]; Local Area Unemployment Statistics</ref>。
=== 大規模雇用者 ===
[[ファイル:Enterprise lifted.jpg|thumb|マーシャル宇宙飛行センターで試験中の[[スペースシャトル・エンタープライズ|スペースシャトル''エンタープライズ'']]、1978年]]
雑誌「バーミングハム・ビジネス・ジャーナル」に拠れば、2011年4月時点で下記の団体がアラバマ州の大規模雇用主5傑である<ref name="bbjournal">Aneesa McMillan. "[http://www.bizjournals.com/birmingham/blog/2011/04/top-of-the-list-alabamas-largest.html Top of the List: Alabama's largest employers]" (April 22, 2011). ''Birmingham Business Journal''.</ref>。
{| class="wikitable"
|-
! 雇用主
! 従業員数(人)
|-
| [[レッドストーン兵器廠]]
| 25,373
|-
| [[アラバマ大学]]バーミングハム校(アラバマ大学バーミングハム病院を含む)
| 18,750
|-
| マクスウェル空軍基地
| 12,280
|-
| アラバマ州政府
| 9,500
|-
| モービル郡教育学区
| 8,100
|}
次の20団体は「バーミングハム・ビジネス・ジャーナル」で2011年に挙げられていたものである<ref>{{Cite web |url=http://www.americanregistry.com/recognition/alabamas-largest-employers/116523 |title=Alabama's Largest Employers |date=April 2011 |work=Birmingham Business Journal |publisher=American Registry |accessdate=2012-09-19}}</ref>。
[[ファイル:Hyundai Motor Manufacturing Alabama Highsmith 01.jpg|thumb|現代自動車製造アラバマ、モンゴメリー市、2010年]]
[[ファイル:Shelbyhallcomputing.JPG|thumb|シェルビーホール、コンピュータ学部、南アラバマ大学、モービル市]]
{| class="wikitable"
|-
! 雇用主
! 場所
|-
| アニストン陸軍補給敞
| アニストン市
|-
| [[AT&T]]
| 複数
|-
| [[オーバーン大学]]
| オーバーン市
|-
| バプテスト医療センターサウス
| モンゴメリー市
|-
| バーミングハム市教育学区
| バーミングハム市
|-
| [[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム市]]
| バーミングハム市
|-
| DCHヘルスシステム
| タスカルーサ市
|-
| ハンツビル市教育学区
| ハンツビル市
|-
| ハンツビル市病院システム
| ハンツビル市
|-
| [[現代自動車|ヒュンダイ自動車製造アラバマ]]
| モンゴメリー市
|-
| インファーマリーヘルスシステム
| モービル市
|-
| ジェファーソン郡教育委員会
| バーミングハム市
|-
| [[マーシャル宇宙飛行センター]]
| ハンツビル市
|-
| [[メルセデス・ベンツ|メルセデスベンツU.S.インターナショナル]]
| バンス市
|-
| モンゴメリー公共教育学区
| モンゴメリー市
|-
| リージョンズ・ファイナンシャル・コーポレーション
| 複数
|-
| [[ボーイング]]
| 複数
|-
| [[アラバマ大学]]
| タスカルーサ市
|-
| 南アラバマ大学
| モービル市
|-
| [[ウォルマート]]
| 複数
|}
=== 農業 ===
アラバマ州の農漁業生産物として、[[鶏肉]]と[[鶏卵]]、[[ウシ|牛]]、魚類、苗、[[ラッカセイ]]、木綿、[[トウモロコシ]]や[[モロコシ]]などの[[穀物]]、[[野菜]]、[[牛乳]]、[[ダイズ]]、並びに[[モモ|桃]]がある。"綿花の州" として知られているが、アラバマ州は、いくつかの報告書<ref>{{Cite web|url= http://cber.cba.ua.edu/pdf/ab2005q4.pdf |title= Alabama and CBER: 75 Years of Change |accessdate =2006-09-23 |date= Q4 2005 |work= Alabama Business |publisher= Center for Business and Economic Research, Culverhouse College of Commerce, The University of Alabama|format=PDF| archiveurl= https://web.archive.org/web/20060927141609/http://cber.cba.ua.edu/pdf/ab2005q4.pdf| archivedate= 2006-09-27 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref><ref>{{Cite web|url= http://www.aces.edu/dept/nass/bulletin/2005/pg05.pdf |title= State Highlights for 2004–2005 |accessdate =2006-09-23 |year= 2005 |work= Alabama Cooperative Extension System |publisher= USDA, NASS, Alabama Statistical Office|format=PDF| archiveurl= https://web.archive.org/web/20060921005808/http://www.aces.edu/dept/nass/bulletin/2005/pg05.pdf| archivedate= 2006-09-21 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>によると、合衆国内の綿生産の8番目ないし10番目に位置している。上位3傑は[[テキサス州]]、[[ジョージア州]]および[[ミシシッピ州]]である。
=== 製造業 ===
[[工業]]生産品は[[鉄]]と[[鉄鋼]]製品(鋳鉄および鋼管);[[紙]]、材木および木製品;[[鉱業]](多くが石炭);[[合成樹脂]]製品;車およびトラック;並びに[[衣類]]が含まれる。また、アラバマ州は特に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] [[マーシャル宇宙飛行センター|ジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センター]]および[[レッドストーン兵器廠]]に本部を置く[[アメリカ陸軍]]軍備司令部がある、[[ハンツビル]]地域では航空宇宙産業および電子部品の製品を生産している<ref>{{Cite web |url=http://encyclopediaofalabama.org/face/Article.jsp?id=h-2330 |title=Food Production in Alabama |last1=Ijaz |first1=Ahmad |last2=Addy |first2=Samuel N. |date=2009-07-06 |work=The Encyclopedia of Alabama |publisher=Auburn University |accessdate=2012-09-22}}</ref>。
[[ファイル:ThyssenKrupp Steel USA in Calvert, Alabama.jpg|thumb|left|モービル市に近いカルバートにあるティッセンクルップ製鉄USA、メッキライン]]
アラバマ州は1990年代以降の州経済成長の大半を、拡張し続ける自動車製造産業に負っている。[[本田技研]]、[[現代自動車]]、[[メルセデス・ベンツ]]、[[トヨタ自動車]]の組み立て工場があり、またその部品製造者もある。1993年から自動車産業で67,800人以上の雇用を生み出してきた。現在、自動車生産高で国内第4位の州になっている<ref>{{Cite web|url=http://www1.eere.energy.gov/vehiclesandfuels/facts/2008_fotw539.html |title=Vehicle Technologies Program: Fact #539: October 6, 2008 Light Vehicle Production by State |publisher=.eere.energy.gov |date=2008-10-06 |accessdate=2010-10-24}}</ref>。
鉄工業では[[ニューコア]]、[[SSAB]]、[[ティッセンクルップ]]、[[USスチール]]の製鉄所があり、1万人以上を雇用している。[[ドイツ]]のティッセンクルップ製鉄はその製鉄所に37億米ドルを掛け、2,700人を雇用するとしている<ref>{{Cite news |url=http://blog.al.com/live/2007/05/mobile_county_wins_thyssenkrup.html |title=ThyssenKrupp's Alabama incentive package tops $811 million |newspaper= Press-Register |date= 2007-05-11 |accessdate=2011-07-22 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110726144848/http://blog.al.com/live/2007/05/mobile_county_wins_thyssenkrup.html |archivedate= 2011-07-26 <!--DASHBot--> |deadurl= no}}</ref>。
ハント精製会社はハント・コンソリデテッド社の子会社であり、タスカローラで製油所を操業している。モービル、メルヴィン、マウンドビルにも支所を持っている<ref>"[http://www.linkedin.com/company/hunt-refining-company Hunt Refining Company]." Linkedin.</ref>。[[日本ビクター|JVCアメリカ]]がタスカルーサ市に[[光ディスク]]複製梱包工場を持っている<ref>"[http://www.jvc-america.com/about/plant_locations.aspx Company Overview]." JVC America, Inc.</ref>。
=== 観光業 ===
[[ファイル:Morning at Gulf State Park.jpg|thumb|right|アラバマ州の海浜は州経済の大きな収入源である]]
推計年間2,000万人の観光客がアラバマ州を訪れている。うち10万人は[[カナダ]]、[[イギリス]]、ドイツ、[[日本]]など外国からである。2006年、2,230万人の観光客が83億米ドルを消費し、16万2千人の雇用を賄っている<ref>[http://www.encyclopediaofalabama.org/face/Article.jsp?id=h-1268 Encyclopedia of Alabama: Alabama Tourism Department (ATD)<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.800alabama.com/about-alabama/alabama-news-facts/frequently-asked-questions/ |title=Frequently Asked Questions – Sweet Home Alabama |publisher=800alabama.com |date=2004-07-01 |accessdate=2012-02-10}}</ref><ref>{{Cite news |url= |first=David A. |last=Fahrenthold |title=Obama to survey environmental damage in gulf |publisher=Washington Pose |location=Washington, DC |page= A6 |date=2010-05-02}}</ref>。
=== 医療 ===
アラバマ大学バーミングハム校附属病院が州内唯一のレベルI[[外傷センター]]である<ref>{{Cite web |url=http://www.facs.org/trauma/verified.html |title=Verified Trauma Centers |date=2010-12-30 |work=American College of Surgeons, Verified Trauma Centers |accessdate=2011-01-09}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://webspace.utexas.edu/jas5349/Research_Data.htm |title=College Research Data |work=University of Texas |accessdate=2012-04-18 |deadurl=no}}</ref>。州内の病院では雇用数でも最大であり、従業員数は1万8千人である<ref>[http://www.hrm.uab.edu/main/employment/index.html Welcome to UAB Recruitment Services<!-- Bot generated title -->]</ref>。
=== 金融業 ===
[[ファイル:Birmingham skyscrapers Nov 2011.jpg|thumb|バーミングハム市金融街にあるリージョンズ・ハーバート・プラザ、リージョンズ・センター、ウェルズ・ファーゴ・タワー]]
州内にはリージョンズ・ファイナンシャル・コーポレーション、BBVAコンパス、シューピアリア・バンコープ、および元コロニアル・バンクグループの本社がある。バーミングハム市を本拠にするコンパス・バンクシェアーズが、2007年9月にスペインのBBVAに買収されたが、BBVAコンパスの本社はバーミングハム市に残っている。2006年11月、リージョンズ・ファイナンシャルはやはりバーミングハム市に本社を置くアムサウス・バンコーポレーションとの合併を完結させた。やはりバーミングハム市に本社を置く大規模銀行のサウストラスト・コーポレーションは2004年に[[ワコビア]]から143億米ドルで買収された。[[ワコビア]]はバーミングハム市で営業を続けており、その操作後銀行である[[ウェルズ・ファーゴ]]は地域本社、オペレーションセンター、さらに4億ドルをかけたデータセンターを運営している。その他、シューピアリア・バンコープ、サービスファースト、ニューサウス・フェデラル・セイビング・バンクなど1ダース近い小規模銀行がバーミングハム市に本社を置いている。またハーバート・マネジメント・コーポレーションなど幾つか大規模投資管理会社も本社を置いている。
=== 電子工業 ===
通信プロバイダーの[[AT&T]](元ベルサウス)がバーミングハム市に幾つか大型事務所を構えている。従業員は6,000人以上、契約社員は1,200人以上いる。
ハンツビル市には、ネットワークのADTRAN、コンピュータ・グラフィックスのインテグラフ、ITインフラの設計・製造のアボセント、通信プロバイダーのデルタコムなど、多くの技術系会社が本社を置いている。シンラムはハンツビル市に工場があり、[[20世紀フォックス]]のDVDやブルーレイ・ディスクを製造出荷している。
[[ファイル:USACE Howell Heflin Lock and Dam.jpg|thumb|ハウエル・ヘフリン・ロック・アンド・ダムの閘門、テネシー・トンビッグビー水路、サムター郡]]
=== 建設業 ===
ラスト・インターナショナルが、ブラスフィールド&ゴリー、BE&K、ホーア建設、B・L・ハーバート・インターナショナルを合わせて成長し、これらは全て常に、エンジニアリング・ニューズ・レコードの設計、国際建設、土木会社のトップリストに挙げられている。ラスト・インターナショナルは2000年にワシントン・グループ・インターナショナルに買収され、さらに2007年にはサンフランシスコが本拠のURSコーポレーションに買収された。
=== カジノ ===
2009年11月3日、「ビクトリーランド・カジノ」は、32インチのLCDテレビ、カクテルバー、喫茶店を備えた300の豪華客室とスイート、高級レストラン「ホイットフィールズ・ステーキハウス」、および世界最大規模の6400台のビンゴ場を擁する「ニュー・オアシス・ホテル」を開業した。
ロスティ・プライス総支配人は「私たちの目標は、4星(ダイヤモンド)認定されることです。ぜひ、[[アトランタ]]や他の州から多くの人々においで願いたいと思います」とコメントしている。
同州の非インディアン系カジノは現在のところ、以下の二店が営業中である。
*「カントリー・クロッシング」
*「ビクトリーランド」
2009年10月26日、アラバマ州巡回裁判所のロバート・ヴァンス裁判官は、同州のカジノの電子ビンゴ遊技機を違法と裁決した。これはウォーカー郡で同遊戯機を運用しているすべてのカジノの閉鎖を命じるもので、政治論争となった。[[:en:Ron Sparks (politician)|ロン・スパークス]]議員はこの判決を「州産業に逆行するものだ」として徹底批判し、「私は、州の賭博産業に関する州全体の認可、および規則の遵守を誓約した唯一の党員であります。カジノ税は教育と低所得者医療扶助制度に資金を供給しています。賭博を許容するかどうかは、それぞれの郡の有権者に託すべきです」と声明を出した。
これを受け、アラバマ州最高裁判所はカジノでのビンゴ遊戯機設置許可のために、6つの法的評価基準を設定した。
[[:en:Bob Riley|ボブ・ライリー]]知事は、3月に対策チームを作り、州下の900台以上の遊技台を止めた州最高裁判所に対してこの規制が対スロットマシン級で強すぎるとする書類を提出した。その後の公聴会で、法廷はデジタル式ビンゴ遊戯機にも評価基準を設定した。2009年12月7日、営業停止させられていた「カントリー・クロッシング」や「ビクトリーランド」など州下のカジノは、この評価基準に遊戯機を対応させて営業再開した。
== 交通 ==
[[ファイル:BHM tower and terminal.jpg|thumb|left|[[バーミングハム=シャトルズワース国際空港]]の管制塔とターミナル]]
[[ファイル:I20I59Birmingham.JPG|thumb|right|[[州間高速道路]]59号線、同20号線の表示もある、バーミングハム市中心街で州間高速道路65号線との交差点近く]]
[[ファイル:Mobile Alabama I-10 downtown.jpg|thumb|right|モービル市の州間高速道路10号東行き、ジョージ・ウォレス・トンネル近く]]
[[ファイル:Mobile Alabama harbor aerial view.jpg|thumb|モービル港]]
=== 航空 ===
州内主要空港は[[バーミングハム=シャトルズワース国際空港]] (BHM)、[[ハンツビル国際空港]] (HSV)、ドーサン地域空港 (DHN)、モービル地域空港 (MOB)、モンゴメリー地域空港(MGM)、マッスルショールズ・北西アラバマ地域空港がある。
=== 鉄道 ===
[[アムトラック]]が旅客列車の''[[クレセント (旅客列車)|クレセント]]''を運行して、[[ニューヨーク]]と[[ニューオーリンズ]]を繋いでいる。州内の停車駅はアニストン、バーミングハム、タスカルーサである。
=== 道路 ===
州内を横切る5本の[[州間高速道路]]が走っている。州間高速道路65号線が州のほぼ中央を南北に走っている。同59号線と20号線は中西部の境界からバーミングハム市に通り、そこからは59号線が州の北東隅に向かい、20号線が東のアトランタに向かう。州間高速道路85号線はモンゴメリー市に始まり、東北東のジョージア州境に向かい、アトランタへの幹線道となる。[[州間高速道路10号線]]は州南端部を通り、モービル市を通る東西方向路になっている。[[州間高速道路22号線]]が現在建設中であり、2014年ごろに完成すれば、バーミングハム市とテネシー州メンフィスを繋ぐ。他にも5本の補助線がある。モービル市の165号線、タスカルーサ市の359号線、バーミングハム市の459号線、ハンツビル市の565号線、ガズデン市の759号線である。6番目の685号線は工事中であり、完成すれば85号線が新しいモンゴメリー市の南部バイパスに沿って路線変更される。バーミングハム市北を通るバイパスが計画されており、422号線に指定される予定である。
[[アメリカ国道]]も11号線、29号線、31号線など多数あり、その支線も通っている。
州内には4本の有料道路がある。モンゴメリー市のモンゴメリー・エクスプレスウェイ、タスカローラ市のタスカローラ・バイパス、ウィトゥンプカのエメラルドマウンテン・エクスプレスウェイ、オレンジビーチのビーチ・エクスプレスである。
2011年3月、全米ゴミ処理スコアカードで、ワースト5以内にランクされた。州全体で道路など公共の場所の清浄さやゴミ処理の効率が評価されたものである<ref>S. Spacek, 2011 American State Litter Scorecard: New Rankings for an Increasingly Environmentally Concerned Populace.</ref>。
=== 港 ===
アラバマ州で唯一の海港であるモービル港は、テネシー・トンビグビー水路を介して[[アメリカ合衆国中西部]]に通じる内陸水路があり、メキシコ湾でも繁華な港である。取扱い貨物量では国内第9位である<ref name="ports1">{{Cite web|title=WATERBORNE COMMERCE OF THE UNITED STATES |work=U.S. Army Corps of Engineers: Waterborne Commerce Statistics| page=90| url=http://www.iwr.usace.army.mil/ndc/wcsc/pdf/wcusnatl08.pdf| accessdate=2010-03-08}}</ref>。他の港は川沿いにあり、メキシコ湾に通じている。下記の港がある。北から南に列挙する。
{| class="wikitable"
|+
! 港名
! 場所
! 接続水路
|-
| フローレンス港 ||''[[フローレンス (アラバマ州)|フローレンス]]/[[マッスルショールズ (アラバマ州)|マッスルショールズ]]''、ピクウィック湖沿い||[[テネシー川]]
|-
| ディケーター港 || ''[[ディケーター (アラバマ州)|ディケーター]]''、ウィーラー湖沿い||テネシー川
|-
| ガンターズビル港 ||''[[ガンターズビル (アラバマ州)|ガンターズビル]]''、ガンターズビル湖沿い||テネシー川
|-
| バーミングハム港 || ''[[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]''、ブラックウォリアー川沿い || テネシー・トンビッグビー水路
|-
| タスカルーサ港 ||''[[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ]]''、ブラックウォリアー川沿い||テネシー・トンビッグビー水路
|-
| モンゴメリー港 || ''[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]''、R・E・"ボブ"・ウッドラフ湖沿い || アラバマ川
|-
| モービル港 || ''[[モービル (アラバマ州)|モービル]]''、モービル湾沿い || [[メキシコ湾]]
|}
{{clear}}
== 教育 ==
=== 初等中等教育 ===
[[ファイル:Vestavia Hills High School.jpg|thumb|left|バーミングハム市郊外にあるベスタビアヒルズ高校]]
州内の公立初等中等学校は、アラバマ州教育委員会の監督下にあり、また67郡の教育委員会と60市の教育委員会も管理している。総計1,541の学校で743,364人の児童生徒が学んでいる<ref name="qfacts">{{Cite web|url= http://www.alsde.edu/general/quick_facts.pdf |title= Alabama Education Quick Facts 2007 |accessdate =2007-08-11 |format= PDF| archiveurl= https://web.archive.org/web/20070726181529/http://www.alsde.edu/general/quick_facts.pdf| archivedate= 2007-07-26 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>。
公共教育予算は教育信託基金を通じてアラバマ州議会が配分している。2006年から2007年の会計年度では3,775,163,578米ドルが充てられた。前会計年度と比較して444,736,387米ドルの増額だった<ref name="qfacts" />。2007年、連邦の「落ちこぼれ防止法」の下で、アラバマ州が定めた手段を使い、82%以上の学校が適切な教育効率の年間進捗度を示した。2004年ではこれが23%だった<ref name="AYP">{{Cite web|url= http://www.alsde.edu/Accountability/2007Reports/Press/2007AYPNewsRelease.pdf |title= Eighty-Two Percent of Alabama Schools Make AYP While Increasing Annual Measurable Objectives |accessdate =2007-08-11 |format= PDF}}</ref>。
アラバマ州公共教育体系は近年改善が進んでいるが、他州に比べれば劣っている。統計データに拠れば、高校卒業以上の学歴を持つ人口比率は75%であり、国内の下から4番目である<ref>http://www.census.gov/prod/2003pubs/c2kbr-24.pdf</ref><ref>[http://www.censusscope.org/us/s1/chart_education.html Education Statistics]. CensusScope.org</ref>。
[[ファイル:Harrison-plaza2.jpg|right|thumb|フローレンス市にある北アラバマ大学ハリソンプラザ。同校は1830年に州議会によってラグレンジ・カレッジとして認可された]]
=== 単科および総合大学 ===
{{Main|w:List of colleges and universities in Alabama}}
[[ファイル:William J. Samford Hall.jpg|thumb|left|ウィリアム・J・サムフォード・ホール、オーバーン大学]]
アラバマ州の高等教育体系には、4年制公立大学14校と2年制[[コミュニティカレッジ]]、17の私立大学および大学院がある。州内には医大が3校、獣医科大が2校、歯科大が1校、眼科大が1校、薬科大が2校、法科大が5校ある。公立の高等教育はアラバマ州高等教育委員会とアラバマ州高等教育省が監督している。2年間の准学士から16の博士課程までがある<ref name="ache">{{Cite web|work= Alabama Commission on Higher Education |title= Degree titles and abbreviations |url= http://www.ache.state.al.us/Acadaffr/ProInv/Degreeabbr.htm |accessdate=2007-09-03}} {{リンク切れ|date=September 2010|bot=H3llBot}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://cchs.ua.edu/edu/ |title=Education Programs | CCHS |publisher=Cchs.ua.edu |accessdate=2011-06-01}}</ref>。
単一キャンパスで最大のものはタスカルーサ市にある[[アラバマ大学]]であり、学生数は2012年秋で33,602人だった<ref>http://www.tuscaloosanews.com/article/20120912/NEWS/120919931/1291?Title=University-of-Alabama-sees-record-student-enrollment-for-2012</ref>。トロイ大学は州内4つのキャンパス、国内60の教室、国外11か所の教室で、2010年では29,689人の学生が学んでいる。最古の大学はフローレンス市にある公立の北アラバマ大学であり、またモービル市にあるカトリック系のスプリングヒル・カレッジと共に1830年の設立である<ref name="una">{{Cite web |url=http://www.una.edu/makinghistory/ |title=History in the making |publisher=University of North Alabama |accessdate=2011-07-22 |archiveurl=https://webcitation.org/61742e5Ls |archivedate=2011-08-21 |deadurl=no}}</ref><ref name="shc">{{Cite web |url=http://www.shc.edu/about-shc/employment/hiring/the-mission-statement-of-spring-hill-college/ |title=The Mission Statement of Spring Hill College: History |publisher=Spring Hill College |accessdate=2011-07-22 |archiveurl=https://webcitation.org/61746iAFs |archivedate=2011-08-21 |deadurl=no}}</ref>。
教育課程の認定は、カレッジ・学校南部協会の他、聖書高等教育協会<ref>{{Cite web |url=http://directory.abhe.org/default.aspx?status=Member |title=Members |publisher=Association for Biblical Higher Education |accessdate=2011-06-24 |archiveurl=https://webcitation.org/6174AJ383 |archivedate=2011-08-21 |deadurl=no}}</ref>、職業教育委員会<ref>{{Cite web|title=Membership Directory|url=http://www.council.org/forms/acc_membership.pdf|format=PDF|publisher=Council on Operational Education|accessdate=2011-08-05|archiveurl=https://webcitation.org/60iiYeIyB|archivedate=2011-08-05|date=November 2010|deadurl=no}}</ref>、独立系カレッジ・学校認定委員会など国内国外の科目に応じた認定機関によって行われている<ref>{{Cite web|title=ACICS Website Directory|url=http://www.acics.org/uploadedFiles/Publications/7_20_09.pdf|format=PDF|publisher=Accrediting Council for Independent Colleges and Schools|accessdate=2011-08-05|archiveurl=https://webcitation.org/60iiMuVRG|archivedate=2011-08-05|date=2009-07-20|deadurl=no}}</ref>。
雑誌[[USニューズ&ワールド・レポート]]の2011年の評価では、アメリカの公立学校100傑の中にアラバマ州から3校が入った。アラバマ大学が第31位、[[オーバーン大学]]が第36位、アラバマ大学バーミングハム校が第73位だった<ref>{{Cite web|title=Top Public Schools|url=http://colleges.usnews.rankingsandreviews.com/best-colleges/rankings/national-universities/top-public/spp%2B50|publisher=U.S. News and World Report|accessdate=2011-09-17|archiveurl=https://webcitation.org/61mTinjiN|archivedate=2011-09-17}}</ref>。
{{div col|colwidth=27em|small=yes}}
* [http://www.au.af.mil/ Air University]
* [[アラバマA&M大学]]
* [[アラバマ州立大学]]
* [[:en:Andrew Jackson University]]
* [[:en:Athens State University]]
* [[オーバーン大学]]
* [[:en:Auburn University at Montgomery]]
* [[:en:Birmingham-Southern College]]
* Concordia College-Selma
* [[フォークナー大学]]
* [[:en:Heritage Christian University]]
* [[:en:Huntingdon College]]
* [[ジャクソンビル州立大学]]
* [[:en:Judson College]]
* [[:en:Miles College]]
* [[:en:Oakwood College]]
* [[サムフォード大学]]
* [[:en:Selma University]]
* Southeastern Bible College
* [[:en:Southern Christian University]]
* [[:en:Spring Hill College]]
* [[:en:Stillman College]]
* Talladega College
* Troy University System (元 "Troy State University System")
** [[:en:Troy University|Main Campus (Troy)]]
** Troy University at Dothan
** Troy University at Montgomery
** Troy University at Phenix City
* [[:en:Tuskegee University]]
* [[アメリカ合衆国スポーツアカデミー]]
* [[アラバマ大学システム]]
** [[アラバマ大学|本部キャンパス (タスカルーサ)]]
** [[アラバマ大学バーミングハム校|バーミングハム校]]
** [[アラバマ大学ハンツビル校|ハンツビル校]]
* [[モービル大学]]
* [[:en:University of Montevallo]]
* [[:en:University of North Alabama]]
* [[:en:University of South Alabama]]
* [[:en:University of West Alabama]]
* Virginia College
{{div col end}}
== 芸術・文化 ==
=== 音楽 ===
マッスル・ショールズ地域は、[[ソウル・ミュージック]]、[[カントリー・ミュージック]]、[[ブルース]]、[[ブルーグラス]]などルーツ・ミュージックの発展に大きな役割を果たしてきた。中心となった音楽関係者は、黒人歌手[[パーシー・スレッジ]]と、全員白人のダン・ペン、スプーナー・オールダム、チップス・モーマン、[[リック・ホール]]らである。
{{節スタブ}}
=== 劇場 ===
{{節スタブ}}
=== 美術館・博物館 ===
* [[アメリカン・スポーツ美術館兼資料館]]
=== オーケストラなど ===
{{節スタブ}}
=== スポーツチーム ===
* [[ハンツビル・スターズ]]
== 日本との関係 ==
{{節スタブ}}
アラバマ州のうち、モービル郡モービル市は1993年に千葉県市原市と姉妹都市提携を結び、隔年で相互に交流を行なっている。その際、派遣されるのは地元の中学生もしくは高校生から構成される10名の派遣団である。
奇数年が日本から米国。偶数年が米国から日本である。但し、2020年に関しては、日本で東京オリンピックが開催されることから、通常7月下旬に行われる交流が9月に延期となる。
===日本との姉妹都市・提携都市===
({{JPN}}・[[都道府県]][[市町村]]) - (州内都市など)
{{colbegin|2}}
*{{Flagicon|茨城県}}[[茨城県]][[日立市]] - [[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]
*{{Flagicon|群馬県}}[[群馬県]][[前橋市]] - バーミングハム
*{{Flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]][[坂戸市]] - [[ドーサン (アラバマ州)|ドーサン市]]
*{{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]][[市原市]] - [[モービル (アラバマ州)|モービル市]]
*{{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]][[習志野市]] - [[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ市]]
*{{Flagicon|福井県}}[[福井県]][[越前町]]/旧[[宮崎村]] - [[モンテバロ (アラバマ州)|モンテバロ市]]
*{{Flagicon|兵庫県}}[[兵庫県]][[たつの市]]/旧[[新宮町 (兵庫県)|新宮町]] - [[アニストン (アラバマ州)|アニストン市]]
{{colend}}
== その他 ==
=== 同州出身の有名人 ===
* [[アラバマ州出身著名人の一覧]]を参照。
=== 州の象徴など ===
{{Main|w:List of Alabama state symbols}}
* 州の鳥 - [[ハシボソキツツキ]](別名イエローハンマー)
* 州の狩猟鳥 - 野生の[[シチメンチョウ]]
* 州の木 - [[ダイオウマツ]]
* 州の果樹 - [[モモ]]
* 州の花 - [[ツバキ]]
* 州の野草 - [[カシワバアジサイ]]
* 州のナッツ - [[ペカン]]
* 州の果実 - [[ブラックベリー]](''Rubus occidentalis'')
* 州の海水魚 - [[ターポン]]
* 州の哺乳類 - [[アメリカグマ]]
* 州の馬 - ラッキングホース
* 州の爬虫類 - [[アラバマアカハラガメ]]
* 州の両性類 - レッドヒルズサンショウウオ(''Phaeognathus hubrichti'')
* 州の昆虫 - [[オオカバマダラ]]
* 州の蝶およびマスコット - トラフアゲハ(''[[アゲハチョウ属|Papilio]] glaucus'')
* 州の貝 - スカフェラ・ジュノニア(''Scaphella junonia'')
* 州の鉱物 - [[赤鉄鉱]]
* 州の岩石 - [[大理石]]
* 州の化石 - [[バシロサウルス]]・ケトイデス
* 州の宝石 - スターブルー[[石英|クォーツ]]
* 州の土壌 - バマ([[:en:Bama (soil)|Bama]])
* 州のモットー - ''Audemus jura nostra defendere''(我らはあえて権利を防衛する)
* 州の聖書 - アラバマ州聖書
* 州の歌 - 『アラバマ』
* 州のルネサンス祭 - フローレンス・ルネサンス祭
* 州のホースショウ - AOHAアラバマ州チャンピオンシップホースショウ(AOHA Alabama State Championship Horse Show)
* 州の屋外劇 - 『[[奇跡の人]]』
* 州のバーベキュー大会 - アラバマ・バーベキュー・チャンピオンシップ
* 州の農業博物館 - ドーサン・ランドマーク・パーク
* 州の蹄鉄投げトーナメント - ストックトンフォールズ蹄鉄投げトーナメント
* 州の歴史的映画館 - アラバマ・シアター
* 州の屋外ミュージカル - 『ルーニーの居酒屋での事件』(The Incident at Looney's Tavern)
* 州のキルト - パイン・バー・キルト
* 州の蒸留酒 - コネカリッジ・アラバマウィスキー
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* サザンホスピタリティ アメリカ南部留学記、竹内理恵著(アラバマ州への留学手記)、2002、愛知出版-[[星雲社]]
* Atkins, Leah Rawls, Wayne Flynt, William Warren Rogers, and David Ward. ''Alabama: The History of a Deep South State'' (1994)
* Flynt, Wayne. ''Alabama in the Twentieth Century'' (2004)
* Owen Thomas M. ''History of Alabama and Dictionary of Alabama Biography'' 4 vols. 1921.
* Jackson, Harvey H. ''Inside Alabama: A Personal History of My State'' (2004)
* Mohl, Raymond A. "Latinization in the Heart of Dixie: Hispanics in Late-twentieth-century Alabama" ''Alabama Review'' 2002 55(4): 243–274. ISSN 0002-4341
* Peirce, Neal R. ''The Deep South States of America: People, Politics, and Power in the Seven Deep South States'' (1974). Information on politics and economics 1960–72.
* Williams, Benjamin Buford. ''A Literary History of Alabama: The Nineteenth Century'' 1979.
* WPA. ''Guide to Alabama'' (1939)
== 関連項目 ==
* [[アラバマ州の都市圏の一覧]]
* [[アラバマ州の郡一覧]]
* [[テネシー州]]
* [[ルイジアナ州]]
* [[ミシシッピー州]]
* [[テキサス州]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Alabama}}
* {{Official website}}
* [http://www.touralabama.org/ アラバマ州政府観光局] {{en icon}}
* [http://www.jasaweb.net/alaguide.asp アラバマ日米協会]
* [https://www.loc.gov/rr/program/bib/states/alabama/index.html Alabama State Guide, from the Library of Congress]
* [https://alarc.org/ Alabama Association of Regional Councils]
* [https://archives.alabama.gov/aaa.html All About Alabama], at the Alabama Department of Archives and History
* [http://www.alabamamosaic.org/ AlabamaMosaic], a digital repository of materials on Alabama's history, culture, places, and people
* [http://www.legislature.state.al.us/CodeofAlabama/1975/coatoc.htm Code of Alabama 1975] – at the Alabama Legislature site
* {{Curlie|Regional/North_America/United_States/Alabama|Alabama}}
* [http://www.usgs.gov/state/state.asp?State=AL USGS real-time, geographic, and other scientific resources of Alabama]
* [http://quickfacts.census.gov/qfd/states/01000.html Alabama QuickFacts] from the U.S. Census Bureau
* [http://www.ers.usda.gov/statefacts/al.htm Alabama State Fact Sheet] from the U.S. Department of Agriculture
* {{Osmrelation|161950}}
* {{Googlemap|アラバマ州}}
{{アラバマ州}}
{{アメリカ合衆国の州}}
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運動エネルギー
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運動エネルギー(、英: kinetic energy)は、物体の運動に伴うエネルギーである。物体の速度を変化させる際に必要な仕事である。英語の kinetic は、「運動」を意味するギリシア語の κίνησις(kinesis)に由来する。この用語は1850年頃ウィリアム・トムソンによって初めて用いられた。
ニュートン力学において、物体の運動エネルギーは、物体の質量と速さの二乗に比例する。 つまり、速度 v で運動する質量 m の物体の運動エネルギー K は
K = 1 2 m v 2 {\displaystyle K={\frac {1}{2}}mv^{2}}
で与えられる。
ニュートンの運動方程式が
m d v d t = F ( t ) {\displaystyle m{\frac {d{\boldsymbol {v}}}{dt}}={\boldsymbol {F}}(t)}
と表されているとき、この力 F が時刻 t0 から t1 の間に為す仕事 W t 0 → t 1 {\displaystyle W_{t_{0}\to t_{1}}} は、
W t 0 → t 1 = ∫ t 0 t 1 ( F ( t ) ⋅ d x d t ) d t = ∫ t 0 t 1 ( m d v d t ⋅ v ( t ) ) d t = ∫ t 0 t 1 d d t ( 1 2 m v ⋅ v ) d t = ∫ t 0 t 1 d K d t d t = K ( t 1 ) − K ( t 0 ) {\displaystyle {\begin{aligned}W_{t_{0}\to t_{1}}&=\int _{t_{0}}^{t_{1}}\left({\boldsymbol {F}}(t)\cdot {\frac {d{\boldsymbol {x}}}{dt}}\right)dt\\&=\int _{t_{0}}^{t_{1}}\left(m{\frac {d{\boldsymbol {v}}}{dt}}\cdot {\boldsymbol {v}}(t)\right)dt\\&=\int _{t_{0}}^{t_{1}}{\frac {d}{dt}}\left({\frac {1}{2}}m{\boldsymbol {v}}\cdot {\boldsymbol {v}}\right)dt\\&=\int _{t_{0}}^{t_{1}}{\frac {dK}{dt}}\,dt\\&=K(t_{1})-K(t_{0})\end{aligned}}}
となる。 従って、物体の運動エネルギーの変化量は、その物体に加えられた仕事に等しい。
特に物体に一定の力 F が加えられ、物体の位置が x {\displaystyle {\boldsymbol {x}}} から x + Δ x {\displaystyle {\boldsymbol {x}}+\Delta {\boldsymbol {x}}} まで、 Δ x {\displaystyle \Delta {\boldsymbol {x}}} だけ変化したとき、
という等式が成り立つ。例えば物体が地表付近で自由落下する場合、重力加速度は一定と見なせるので、上記の等式が利用できる。 また、力F を物体の質量m と加速度 α の積で置き換えれば、等式は物体の質量に依存しない形に書き直される。
同様に回転運動をする物体の運動エネルギーは、角速度 ω の2乗と慣性モーメント I に比例する。
ラグランジュ力学の出発点となるラグランジアン L は運動エネルギー K とポテンシャルエネルギー V の差として定義することができる。
この際、ラグランジアンの変数は一般化座標 q ( t ) {\displaystyle q(t)} とその時間微分 q ̇ ( t ) {\displaystyle {\dot {q}}(t)} 、及び時刻 t {\displaystyle t} である。 多くの場合、一般化座標として位置 x {\displaystyle x} や 回転角 θ {\displaystyle \theta } とするので、運動エネルギーは
となる。
ハミルトン力学の出発点となるハミルトニアンH はラグランジアンのルジャンドル変換から、
として定義される。ハミルトニアンの変数は一般化座標 q ( t ) {\displaystyle q(t)} と一般化運動量 p ( t ) {\displaystyle p(t)} である。元のラグランジアンでポテンシャルが q ̇ ( t ) {\displaystyle {\dot {q}}(t)} に依存せず、運動エネルギーが上の形をしていれば、
( l は回転角度 θ に共役な角運動量)となり、運動エネルギーは
となる。
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] |
運動エネルギー(うんどうエネルギー、は、物体の運動に伴うエネルギーである。物体の速度を変化させる際に必要な仕事である。英語の kinetic は、「運動」を意味するギリシア語の κίνησιςに由来する。この用語は1850年頃ウィリアム・トムソンによって初めて用いられた。
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{{出典の明記|date=2023年4月}}
{{古典力学}}
{{読み仮名|'''運動エネルギー'''|うんどうエネルギー|{{Lang-en-short|kinetic energy}}}}は、[[物体]]の[[運動 (物理学)|運動]]に伴う[[エネルギー]]である。物体の[[速度]]を変化させる際に必要な[[仕事 (物理学)|仕事]]である。英語の {{en|kinetic}} は、「運動」を意味する[[ギリシア語]]の {{Polytonic|κίνησις}}(kinesis)に由来する。この用語は1850年頃[[ウィリアム・トムソン]]によって初めて用いられた。
== 質点の運動エネルギー ==
[[ニュートン力学]]において、物体の運動エネルギーは、物体の[[質量]]と[[速さ]]の二乗に比例する。
つまり、[[速度]] '''v''' で運動する質量 m の物体の運動エネルギー K は
{{Indent|
<math>K
=\frac{1}{2}mv^2</math>
}}
で与えられる<ref group="注">v は速度 '''v''' の大きさを表す。</ref>。
[[ニュートンの運動方程式]]が
{{Indent|
<math>m\frac{d\boldsymbol{v}}{dt} = \boldsymbol{F}(t)</math>
}}
と表されているとき、この力 '''F''' が時刻 t<sub>0</sub> から t<sub>1</sub> の間に為す仕事 <math>W_{t_0\to t_1} </math> は、
{{Indent|
<math> \begin{align}
W_{t_0\to t_1} &= \int_{t_0}^{t_1} \left( \boldsymbol{F}(t)
\cdot\frac{d\boldsymbol{x}}{dt} \right) dt \\
&= \int_{t_0}^{t_1} \left( m\frac{d\boldsymbol{v}}{dt}
\cdot \boldsymbol{v}(t) \right) dt \\
&= \int_{t_0}^{t_1} \frac{d}{dt}\left( \frac{1}{2}m
\boldsymbol{v}\cdot\boldsymbol{v} \right) dt \\
&= \int_{t_0}^{t_1} \frac{dK}{dt}\, dt \\
&= K(t_1) -K(t_0)
\end{align} </math>
}}
となる。
従って、'''物体の運動エネルギーの変化量は、その物体に加えられた仕事に等しい'''。
特に物体に一定の力 '''''F''''' が加えられ、物体の位置が <math> \boldsymbol{x} </math> から <math>\boldsymbol{x}+\Delta \boldsymbol{x}</math> まで、<math>\Delta \boldsymbol{x}</math> だけ変化したとき、
:<math>\frac{1}{2}mv^2(t_1) - \frac{1}{2}mv^2(t_0)
= \boldsymbol{F}\cdot\Delta\boldsymbol{x}</math>
という等式が成り立つ。例えば物体が地表付近で[[自由落下]]する場合、[[重力加速度]]は一定と見なせるので、上記の等式が利用できる。
また、力'''''F''''' を物体の質量''m'' と加速度 '''α''' の積で置き換えれば、等式は物体の質量に依存しない形に書き直される。
:<math>v^2(t_1) - v^2(t_0)
= 2\boldsymbol{\alpha}\cdot\Delta\boldsymbol{x}.</math>
== 回転運動の運動エネルギー ==
同様に[[回転運動]]をする物体の運動エネルギーは、[[角速度]] ω の2乗と[[慣性モーメント]] ''I'' に比例する。
:<math>K = \frac{1}{2}I \omega^2</math>
== 解析力学における運動エネルギー ==
[[ラグランジュ力学]]の出発点となる[[ラグランジュ力学#定式化|ラグランジアン]] ''L'' は運動エネルギー ''K'' と[[ポテンシャルエネルギー]] ''V'' の差として定義することができる。
:<math>L(q,\dot{q};t)=K(\dot{q})-V(q)</math>
この際、ラグランジアンの変数は[[一般化座標]] <math>q(t)</math> とその[[時間微分]] <math>\dot{q}(t)</math>、及び時刻 <math>t</math> である。
多くの場合、一般化座標として位置 <math>x</math> や 回転角 <math>\theta</math> とするので、運動エネルギーは
:<math>K=\sum_i \frac{1}{2}m_i{v_i}^2+\sum_j \frac{1}{2}I_i{\omega_j}^2</math>
となる。
[[ハミルトン力学]]の出発点となる[[ハミルトン力学#定式化#ハミルトニアン|ハミルトニアン]]''H'' はラグランジアンの[[ルジャンドル変換]]から、
:<math>H(q,p;t)=\sum p\dot{q}-L</math>
として定義される。ハミルトニアンの変数は一般化座標 <math>q(t)</math> と一般化[[運動量]] <math>p(t)</math> である。元のラグランジアンでポテンシャルが <math>\dot{q}(t)</math> に依存せず、運動エネルギーが上の形をしていれば、
:<math>p_i(t)=\frac{\partial L}{\partial v_i}=m_iv_i</math>
:<math>l_j(t)=\frac{\partial L}{\partial \omega_j}=I_j\omega_j</math>
( l は回転角度 θ に共役な[[角運動量]])となり、運動エネルギーは
:<math>K=\sum_i\frac{1}{2m_i}{p_i}^2+\sum_j\frac{1}{2I_j}{l_j}^2</math>
となる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
<!--== 出典 ==
<references />-->
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|運動エネルギー}}
*[[位置エネルギー]] - 重力などの[[ポテンシャルエネルギー]]によって発生する運動エネルギーが潜在している状態であるともいえる。
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[[Category:力学]]
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足利義満
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足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。
南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。
邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。
延文3年(1358年)8月22日、義満は2代将軍・足利義詮の子として京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継の屋敷で生まれた。祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。母の紀良子は石清水神官善法寺通清の娘で、順徳天皇の玄孫でもあった。幼名は春王と名付けられた。
春王は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折しており、その後、幸子との間に子はなく、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。幼児期は伊勢国で養育された。
春王が幼少の頃の幕府(北朝方)は南朝との抗争が続き、さらに足利氏の内紛である観応の擾乱以来、幕政を巡る争いは深刻さを増していた。康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房ら南朝方に京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江国に逃れた。春王は僅かな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛され、赤松則祐の居城の播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後、しばらくの間、春王は則祐により養育される。幕府側はすぐに京都を奪還し、春王も京都への帰路につくがその道中、摂津国に泊まった際に景色が良いことを気に入り、「ここの景色は良いから京都に持って帰ろう。お前たちが担いで行け」という命令を出し、家臣らはその気宇壮大さに驚いたという。京都に帰還した春王は、新しく管領となった斯波義将に養育され、貞治3年(1364年)3月には7歳で初めて乗馬した。
貞治4年(1365年)5月、春王は矢開の儀を行い、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。
貞治5年(1366年)8月、貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により、細川頼之が後任の管領に任命された。この頃の春王は祖母の赤橋登子の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている。
貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より義満の名を賜り、従五位下に叙せられた。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。
貞治6年(1367年)11月になると、父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。
12月3日、朝廷は義満を正五位下・左馬頭に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ。
応安元年(1368年)4月15日、義満は管領細川頼之を烏帽子親として、元服した。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。
応安2年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導することにより義満は帝王学を学んだ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。
さらに京都の支配を強化するために、応安3年(1370年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。
永和元年(1375年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。
永和4年(1378年)には、邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地にちなみ室町幕府と呼ばれている。
義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。
応安7年(1374年)、日野業子を正室に迎えた。
永徳2年(1382年)、開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。
至徳2年(1385年)には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し、康応元年(1389年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。しかし、嘉慶2年(1388年)8月17日には、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣遊覧の帰りに、南朝の楠木正勝の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた山名氏清のおかげでかろうじて命を救われるなど(平尾合戦)、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった(『後太平記』)。
康暦元年(1379年)、義満は反・細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。
永和4年(1378年)3月、義満は右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら朝廷に出仕し、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。
自らの昇進により足利家の家格を准摂家まで上昇させることを目標とし公家としての称号(家名)を室町殿(西園寺流室町家や卜部流室町家を改名させ室町の称号を独占した)と定めた。花押も、上級公家になったことに従いそれまでの武士型のものから公家型に改められた(武士の棟梁足利家の立場が必要な文書の場合は其の後も武士型花押が用いられ続ける)。
永和5年(1379年)8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が、春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ(康暦の強訴)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、康暦2年(1380年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて、寺社勢力に大打撃を与えた。
もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が至徳2年(1385年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、応永元年(1394年)に延暦寺ゆかりの日吉社参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している。
義満は祖父の尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。永徳3年(1383年)には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。
明徳2年(1391年)、山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。
明徳3年(1392年)、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微した。そのため、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、58年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。
明徳4年(1393年)、義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が崩御し、自己の権力を確固たるものにした義満は、応永元年12月(1395年1月)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、大御所として政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。
応永2年(1395年)6月、義満は出家して、道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家、皇族の常盤井宮滿仁親王まで追従して出家している。
同年、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。
応永6年(1399年)、西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。その例としては、明徳5年(1394年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉であるとして公家たちが反発したため実現せず、応永の元号が用いられることとなった。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。
ただし、これについては異説もあり、応永15年(1408年:義満死去に伴う)と、応永20年(1413年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止し、自分が生きている間には元号を変えさえなかったのは息子の義持であるとする指摘もある。また、義満の改元への影響力は強かったものの、その立場自体は同時代の太政官に列する公卿の範疇でしかなく(「洪徳」不採用もその反映とする)、その発言力も戦国期の将軍(義稙・義晴)よりは低かったとする指摘もある。いずれにしても、その結果として応永年号は35年と、明治以前では最も長い元号となった。
義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし、応安7年(1374年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。康暦2年(1380年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永2年(1395年)6月に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。
1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は応永11年(1404年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣。1399年頃完成したとみられる)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。応永6年(1399年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていく。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。また北山文化の芸能である猿楽では、義満は観阿弥・世阿弥父子を庇護した。
また、足利義満が建設を進めた特筆すべき建築物として、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔がある。塔の高さは、360尺(約109m)に及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっていた。相国寺の七重塔は、4年後に落雷により焼失したが、翌年の1404年には同等規模の北山大塔を金閣寺付近に建設したという。
上述のように、金閣寺舎利殿や相国寺七重大塔は1399年頃には完成していたとみられ、これらの建物の建設費用は1401年から開始された勘合貿易による利益でまかなわれたわけではない(北山第の大塔は応永11年(1404年)に建設が始まったとみられ、勘合貿易の利潤があてがわれたと言える)。
応永11年(1404年)末頃より、義満は自身に「太上天皇」の尊号が贈られないか、朝廷に対し働きかけていた。
応永13年(1406年)、後小松天皇の生母三条厳子が没すると、「天皇在位中に二度の諒闇は不吉」であるとして、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、義満は天皇の義父と言える存在となった。この際、義満は関白一条経嗣から、義満への「尊号」が検討されるのではないかという話を聞き、上機嫌な姿を見せたという。しかし康子は翌年「北山院」の女院号を贈られたものの、義満に太上天皇の尊号が贈られることはなかった。一方で義満が出御した際には「三衣筥」が置かれるなど、先例では上皇・法皇にしか認められなかった扱いも受けている。
応永15年(1408年)4月25日には、出家予定であった子の義嗣を親王の例で元服させ、参議にまで昇進させた。しかしその2日後の4月27日、義満は病に倒れた。4月28日には見舞の人にも対面しなかった。4月29日、医師の坂士仏の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。このため将軍の義持は山科教冬を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが、夕方になって蘇生した。5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した。享年51(満49歳没)。
法名は鹿苑院天山道義。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明の大火で灰燼に帰して衰微した。鹿苑院に至っては明治になってから廃仏毀釈のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されている。
義満死去の3日後、5月9日に朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られたが、義持や管領斯波義将らは「先例なし」として辞退し、宣下自体なかったこととされた。これは朝廷と幕府の間で事前の合意があったものと見られている。一方で、五山の禅僧などは大檀那であった義満の権威を高めるため、「鹿苑院太上天皇」や「鹿苑天皇」などの号をしばしば用いたが、広く通用したものではない。また、明の永楽帝は弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。
義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義満が偏愛した義嗣も上杉禅秀の乱の際に出奔し、謀反を企てたとして殺害された。
義満の死後、室町幕府の政治力は将軍が若くして亡くなったり、国内各地で反乱が起きたりして弱体化してしまう。
4代将軍の足利義持(義満の子)は父の作った別荘の北山山荘を現在残っている部分以外は取り壊してしまった。
1425年、5代将軍の足利義量(義満の孫)はわずか19歳で病没する。義量の死から1429年に義満の息子の足利義教が6代将軍になるまで幕府の将軍は空席で、父の義持が1428年に死去するまで政治の代行をすることになった。
幕府の弱体化を象徴する最初の事件が1428年の正長の土一揆であった。正長の土一揆を目の当たりした6代将軍義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、それは守護を弾圧してばかりで敵を増やす政治だったので、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された。
幕府の弱体化と内部対立をあらわにしたのが、8代将軍(義満の孫)足利義政の時代の1467年から始まった応仁の乱だった。室町幕府の本部がある京都はそれを詳かにするかのように焼け野原となってしまった。義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。応仁の乱の末、義政の妻・日野富子が9代将軍にすることができた息子の足利義尚もこれといった政治成果をあげられないまま結局1489年3月、両親に先立ってわずか23歳で病死してしまう。父の義政も1490年1月に息子の後を追うように病死。義政の時代の東山文化が室町幕府最後の光だった。これ以後室町幕府は急速に没落していく。
その後は全国各地で戦国大名が力をつけ、室町幕府は形だけのものになってしまう。そしてついに1573年10月に織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放して室町幕府は滅亡した(滅亡時期については複数論ある。義昭が追放された1573年論が最も一般的だが、義昭は将軍職にあり続けており、それゆえ室町幕府は亡命政権(鞆幕府)として存続したとする説もある。義昭が将軍職を辞職するのは豊臣秀吉による豊臣政権が成立した後の1588年である)。
義満は南北朝の統一を成し遂げ、北山文化の象徴である金閣を建てたこと、倭寇の取り締まりのために独自の案を使った勘合貿易を始めたことなど独特の政治力を発揮した。武士で太政大臣に任命されたのは平清盛以来およそ230年ぶりで、歴代の室町幕府の将軍では義満だけである(次に武士で任命されたのは1586年に豊臣秀吉)。「室町幕府」といった名称がついたのも義満が花の御所という将軍家邸宅を室町という場所に移したからで、こういったことから義満は室町幕府最高の将軍とされている。
一説によると江戸幕府の3代将軍・徳川家光が元服して「家光」という名になったのは、室町幕府の同じ3代将軍の義満の「みつ」の読みが起源とされており、江戸幕府の繁栄の祈願をこめたものと言われている。
今川了俊は『難太平記』において大内義弘が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。佐藤進一はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している。このことは義満の猶子である三宝院満済も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している。このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。
義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという。永徳元年(1381年)7月23日の内大臣大饗に遅刻した御子左為遠が翌日の出仕で義満から追い出されたり(『後愚昧記』)、応永元年(1394年)の南都(興福寺)の常楽会では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった(『兼宣公記』)。 また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年(1406年)に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には裏松重光・山科教興らが当時の軽装である十徳を着用させられ、教興の父山科教言が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の直垂を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である束帯の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという(『教言卿記』)。
一方女性関係では、他人の妻妾と通じることを頻繁に行った。記録に残るだけでも、弟の足利満詮、常盤井宮滿仁親王・伏見宮栄仁親王・九条経教・裏松重光・中山親雅・柳原資衡などの妻妾と通じている。彼女らの多くは内裏に女房として使える身であり、夫と離別した後も旧夫と連絡を取り、旧夫に恩恵をもたらすこともあった。
田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。
義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、女院号の宣下を受けさせたほか、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年(1408年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。
今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年生まれ(ただし現在では亥年生まれとされる)、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。
なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。
しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとした記録はなく、直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である儲君躬仁親王が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い。その後の研究では義満以降の日本国王号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている。
石原比位呂は今谷説の批判を通じて、これまでの足利義満期の公武関係に関する研究の問題点と共に、義満は「将軍の任命権者である(北朝)天皇の権威回復のため、朝儀の復興を原理原則に忠実かつ威儀厳重に催行すべき」という考えであったと指摘した上で、義満によって処罰された公家の多くはこの方針に反した者たちであり、そして最も強く反発したのが治天の君である後円融天皇(後に上皇)であったとする。そしてそのために義満は、自らの朝廷政策実現のために後円融天皇を退位させ、その権限を剥奪して、新帝・後小松天皇の父代わりを演じる必要があったと推測。今谷説は足利義満と後円融天皇の個人的対立を公武関係全体にまで広げた過大な解釈であると批判する。
榎原雅治によれば、現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定によって経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と、武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる。
義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している(ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の花押は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の家門安堵に関与して後継者に偏諱を授与したり、称光天皇(躬仁親王)の御名を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている)。
仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。近年では、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっている。
日付はすべて旧暦日。丸括弧内は個々の和暦年を単純に西暦年に置換したもの、旧暦の11月末から12月の日付は年によっては西暦の翌年1月から2月初頭にずれ込むこともある。
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"text": "足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。",
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"text": "南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。",
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"text": "邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。",
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"text": "延文3年(1358年)8月22日、義満は2代将軍・足利義詮の子として京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継の屋敷で生まれた。祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。母の紀良子は石清水神官善法寺通清の娘で、順徳天皇の玄孫でもあった。幼名は春王と名付けられた。",
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"text": "春王は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折しており、その後、幸子との間に子はなく、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。幼児期は伊勢国で養育された。",
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"text": "春王が幼少の頃の幕府(北朝方)は南朝との抗争が続き、さらに足利氏の内紛である観応の擾乱以来、幕政を巡る争いは深刻さを増していた。康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房ら南朝方に京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江国に逃れた。春王は僅かな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛され、赤松則祐の居城の播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後、しばらくの間、春王は則祐により養育される。幕府側はすぐに京都を奪還し、春王も京都への帰路につくがその道中、摂津国に泊まった際に景色が良いことを気に入り、「ここの景色は良いから京都に持って帰ろう。お前たちが担いで行け」という命令を出し、家臣らはその気宇壮大さに驚いたという。京都に帰還した春王は、新しく管領となった斯波義将に養育され、貞治3年(1364年)3月には7歳で初めて乗馬した。",
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"text": "貞治4年(1365年)5月、春王は矢開の儀を行い、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。",
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"text": "貞治5年(1366年)8月、貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により、細川頼之が後任の管領に任命された。この頃の春王は祖母の赤橋登子の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている。",
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"text": "貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より義満の名を賜り、従五位下に叙せられた。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。",
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"text": "貞治6年(1367年)11月になると、父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。",
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"text": "12月3日、朝廷は義満を正五位下・左馬頭に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ。",
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"text": "応安元年(1368年)4月15日、義満は管領細川頼之を烏帽子親として、元服した。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。",
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"text": "応安2年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導することにより義満は帝王学を学んだ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。",
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"text": "さらに京都の支配を強化するために、応安3年(1370年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。",
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"text": "永和元年(1375年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。",
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"text": "永和4年(1378年)には、邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地にちなみ室町幕府と呼ばれている。",
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"text": "義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。",
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"text": "応安7年(1374年)、日野業子を正室に迎えた。",
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"text": "永徳2年(1382年)、開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。",
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"text": "至徳2年(1385年)には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し、康応元年(1389年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。しかし、嘉慶2年(1388年)8月17日には、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣遊覧の帰りに、南朝の楠木正勝の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた山名氏清のおかげでかろうじて命を救われるなど(平尾合戦)、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった(『後太平記』)。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "康暦元年(1379年)、義満は反・細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。",
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"text": "永和4年(1378年)3月、義満は右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら朝廷に出仕し、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。",
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"text": "自らの昇進により足利家の家格を准摂家まで上昇させることを目標とし公家としての称号(家名)を室町殿(西園寺流室町家や卜部流室町家を改名させ室町の称号を独占した)と定めた。花押も、上級公家になったことに従いそれまでの武士型のものから公家型に改められた(武士の棟梁足利家の立場が必要な文書の場合は其の後も武士型花押が用いられ続ける)。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "永和5年(1379年)8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が、春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ(康暦の強訴)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、康暦2年(1380年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて、寺社勢力に大打撃を与えた。",
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"text": "もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が至徳2年(1385年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、応永元年(1394年)に延暦寺ゆかりの日吉社参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している。",
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"text": "義満は祖父の尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。永徳3年(1383年)には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。",
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"text": "明徳2年(1391年)、山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。",
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"text": "明徳3年(1392年)、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微した。そのため、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、58年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。",
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"text": "明徳4年(1393年)、義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が崩御し、自己の権力を確固たるものにした義満は、応永元年12月(1395年1月)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、大御所として政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。",
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"text": "応永2年(1395年)6月、義満は出家して、道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家、皇族の常盤井宮滿仁親王まで追従して出家している。",
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"text": "同年、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。",
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"text": "応永6年(1399年)、西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。",
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"text": "義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。その例としては、明徳5年(1394年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉であるとして公家たちが反発したため実現せず、応永の元号が用いられることとなった。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。",
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"text": "ただし、これについては異説もあり、応永15年(1408年:義満死去に伴う)と、応永20年(1413年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止し、自分が生きている間には元号を変えさえなかったのは息子の義持であるとする指摘もある。また、義満の改元への影響力は強かったものの、その立場自体は同時代の太政官に列する公卿の範疇でしかなく(「洪徳」不採用もその反映とする)、その発言力も戦国期の将軍(義稙・義晴)よりは低かったとする指摘もある。いずれにしても、その結果として応永年号は35年と、明治以前では最も長い元号となった。",
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"paragraph_id": 34,
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"text": "義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし、応安7年(1374年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。康暦2年(1380年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永2年(1395年)6月に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。",
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は応永11年(1404年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣。1399年頃完成したとみられる)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。応永6年(1399年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていく。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。また北山文化の芸能である猿楽では、義満は観阿弥・世阿弥父子を庇護した。",
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"text": "また、足利義満が建設を進めた特筆すべき建築物として、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔がある。塔の高さは、360尺(約109m)に及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっていた。相国寺の七重塔は、4年後に落雷により焼失したが、翌年の1404年には同等規模の北山大塔を金閣寺付近に建設したという。",
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"text": "上述のように、金閣寺舎利殿や相国寺七重大塔は1399年頃には完成していたとみられ、これらの建物の建設費用は1401年から開始された勘合貿易による利益でまかなわれたわけではない(北山第の大塔は応永11年(1404年)に建設が始まったとみられ、勘合貿易の利潤があてがわれたと言える)。",
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"paragraph_id": 39,
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"text": "応永11年(1404年)末頃より、義満は自身に「太上天皇」の尊号が贈られないか、朝廷に対し働きかけていた。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "応永13年(1406年)、後小松天皇の生母三条厳子が没すると、「天皇在位中に二度の諒闇は不吉」であるとして、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、義満は天皇の義父と言える存在となった。この際、義満は関白一条経嗣から、義満への「尊号」が検討されるのではないかという話を聞き、上機嫌な姿を見せたという。しかし康子は翌年「北山院」の女院号を贈られたものの、義満に太上天皇の尊号が贈られることはなかった。一方で義満が出御した際には「三衣筥」が置かれるなど、先例では上皇・法皇にしか認められなかった扱いも受けている。",
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "応永15年(1408年)4月25日には、出家予定であった子の義嗣を親王の例で元服させ、参議にまで昇進させた。しかしその2日後の4月27日、義満は病に倒れた。4月28日には見舞の人にも対面しなかった。4月29日、医師の坂士仏の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。このため将軍の義持は山科教冬を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが、夕方になって蘇生した。5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した。享年51(満49歳没)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "法名は鹿苑院天山道義。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明の大火で灰燼に帰して衰微した。鹿苑院に至っては明治になってから廃仏毀釈のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "義満死去の3日後、5月9日に朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られたが、義持や管領斯波義将らは「先例なし」として辞退し、宣下自体なかったこととされた。これは朝廷と幕府の間で事前の合意があったものと見られている。一方で、五山の禅僧などは大檀那であった義満の権威を高めるため、「鹿苑院太上天皇」や「鹿苑天皇」などの号をしばしば用いたが、広く通用したものではない。また、明の永楽帝は弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。",
"title": "死後の義満に対する処遇"
},
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"tag": "p",
"text": "義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義満が偏愛した義嗣も上杉禅秀の乱の際に出奔し、謀反を企てたとして殺害された。",
"title": "死後の義満に対する処遇"
},
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"text": "義満の死後、室町幕府の政治力は将軍が若くして亡くなったり、国内各地で反乱が起きたりして弱体化してしまう。",
"title": "義満死後の室町幕府の推移"
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"text": "4代将軍の足利義持(義満の子)は父の作った別荘の北山山荘を現在残っている部分以外は取り壊してしまった。",
"title": "義満死後の室町幕府の推移"
},
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"paragraph_id": 47,
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"text": "1425年、5代将軍の足利義量(義満の孫)はわずか19歳で病没する。義量の死から1429年に義満の息子の足利義教が6代将軍になるまで幕府の将軍は空席で、父の義持が1428年に死去するまで政治の代行をすることになった。",
"title": "義満死後の室町幕府の推移"
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"text": "幕府の弱体化を象徴する最初の事件が1428年の正長の土一揆であった。正長の土一揆を目の当たりした6代将軍義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、それは守護を弾圧してばかりで敵を増やす政治だったので、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された。",
"title": "義満死後の室町幕府の推移"
},
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"text": "幕府の弱体化と内部対立をあらわにしたのが、8代将軍(義満の孫)足利義政の時代の1467年から始まった応仁の乱だった。室町幕府の本部がある京都はそれを詳かにするかのように焼け野原となってしまった。義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。応仁の乱の末、義政の妻・日野富子が9代将軍にすることができた息子の足利義尚もこれといった政治成果をあげられないまま結局1489年3月、両親に先立ってわずか23歳で病死してしまう。父の義政も1490年1月に息子の後を追うように病死。義政の時代の東山文化が室町幕府最後の光だった。これ以後室町幕府は急速に没落していく。",
"title": "義満死後の室町幕府の推移"
},
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"paragraph_id": 50,
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"text": "その後は全国各地で戦国大名が力をつけ、室町幕府は形だけのものになってしまう。そしてついに1573年10月に織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放して室町幕府は滅亡した(滅亡時期については複数論ある。義昭が追放された1573年論が最も一般的だが、義昭は将軍職にあり続けており、それゆえ室町幕府は亡命政権(鞆幕府)として存続したとする説もある。義昭が将軍職を辞職するのは豊臣秀吉による豊臣政権が成立した後の1588年である)。",
"title": "義満死後の室町幕府の推移"
},
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"paragraph_id": 51,
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"text": "義満は南北朝の統一を成し遂げ、北山文化の象徴である金閣を建てたこと、倭寇の取り締まりのために独自の案を使った勘合貿易を始めたことなど独特の政治力を発揮した。武士で太政大臣に任命されたのは平清盛以来およそ230年ぶりで、歴代の室町幕府の将軍では義満だけである(次に武士で任命されたのは1586年に豊臣秀吉)。「室町幕府」といった名称がついたのも義満が花の御所という将軍家邸宅を室町という場所に移したからで、こういったことから義満は室町幕府最高の将軍とされている。",
"title": "義満に対する評価"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "一説によると江戸幕府の3代将軍・徳川家光が元服して「家光」という名になったのは、室町幕府の同じ3代将軍の義満の「みつ」の読みが起源とされており、江戸幕府の繁栄の祈願をこめたものと言われている。",
"title": "義満に対する評価"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "今川了俊は『難太平記』において大内義弘が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。佐藤進一はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している。このことは義満の猶子である三宝院満済も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している。このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという。永徳元年(1381年)7月23日の内大臣大饗に遅刻した御子左為遠が翌日の出仕で義満から追い出されたり(『後愚昧記』)、応永元年(1394年)の南都(興福寺)の常楽会では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった(『兼宣公記』)。 また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年(1406年)に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には裏松重光・山科教興らが当時の軽装である十徳を着用させられ、教興の父山科教言が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の直垂を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である束帯の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという(『教言卿記』)。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "一方女性関係では、他人の妻妾と通じることを頻繁に行った。記録に残るだけでも、弟の足利満詮、常盤井宮滿仁親王・伏見宮栄仁親王・九条経教・裏松重光・中山親雅・柳原資衡などの妻妾と通じている。彼女らの多くは内裏に女房として使える身であり、夫と離別した後も旧夫と連絡を取り、旧夫に恩恵をもたらすこともあった。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、女院号の宣下を受けさせたほか、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年(1408年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年生まれ(ただし現在では亥年生まれとされる)、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとした記録はなく、直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である儲君躬仁親王が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い。その後の研究では義満以降の日本国王号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "石原比位呂は今谷説の批判を通じて、これまでの足利義満期の公武関係に関する研究の問題点と共に、義満は「将軍の任命権者である(北朝)天皇の権威回復のため、朝儀の復興を原理原則に忠実かつ威儀厳重に催行すべき」という考えであったと指摘した上で、義満によって処罰された公家の多くはこの方針に反した者たちであり、そして最も強く反発したのが治天の君である後円融天皇(後に上皇)であったとする。そしてそのために義満は、自らの朝廷政策実現のために後円融天皇を退位させ、その権限を剥奪して、新帝・後小松天皇の父代わりを演じる必要があったと推測。今谷説は足利義満と後円融天皇の個人的対立を公武関係全体にまで広げた過大な解釈であると批判する。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "榎原雅治によれば、現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定によって経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と、武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している(ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の花押は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の家門安堵に関与して後継者に偏諱を授与したり、称光天皇(躬仁親王)の御名を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている)。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。近年では、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっている。",
"title": "皇位簒奪の意図はあったか"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "日付はすべて旧暦日。丸括弧内は個々の和暦年を単純に西暦年に置換したもの、旧暦の11月末から12月の日付は年によっては西暦の翌年1月から2月初頭にずれ込むこともある。",
"title": "官歴"
}
] |
足利 義満は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。 南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。 邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。
|
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 足利 義満
| 画像 = Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 足利義満像([[鹿苑寺]]蔵)
| 時代 = [[室町時代]]前期
| 生誕 = [[延文]]3年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]([[1358年]][[9月25日]])
| 死没 = [[応永]]15年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]([[1408年]][[5月31日]])
| 改名 = 春王(幼名)、義満、道有(号)、道義(号)
| 別名 = [[日本国王]]、[[室町殿]]
| 諡号 = 恭献王<ref>{{Cite wikisource|title=明史/卷322|author=[[張廷玉]]|wslanguage=zh}}「明年十一月來賀冊立皇太子。時對馬、壹岐諸島賊掠濱海居民,因諭其王捕之。王發兵盡殲其眾,縶其魁二十人,以三年十一月獻於朝,且修貢。帝益嘉之,遣鴻臚寺少卿潘賜偕中官王進賜其王九章冕服及錢鈔、錦綺加等,而還其所獻之人,令其國自治之。使者至寧波,盡置其人於甑,烝殺之。明年正月又遣侍郎兪士吉齎璽書褒嘉,賜賚優渥。封其國之山為壽安鎮國之山,御製碑文,立其上。六月,使來謝,賜冕服。五年、六年頻入貢,且獻所獲海寇。使還,請賜仁孝皇后所制《勸善》、《内訓》二書,即命各給百本。十一月再貢。十二月,其國世子源義持遣使來告父喪,命中官周全往祭,賜諡'''恭獻''',且致賻。又遣官齎敕,封義持為日本國王。時海上復以倭警告,再遣官諭義持剿捕。」</ref><ref>{{Cite wikisource|title=欽定續文獻通考|author=[[張廷玉]]|wslanguage=zh}}「成祖永樂三年十一月日本王源道義遣使獻賊俘于朝 先是對馬壹岐諸島賊掠濱海居民因倭使諭其王捕之王發兵盡殲其衆縶其魁二十人以獻六年十二月其國世子源義特遣使來告父喪賜諡'''恭獻'''封義特為國王時海上復以倭警告九年寇磐石十五年寇松門金郷平陽十七年倭船入王家山島都督劉榮率精兵疾馳入望海堝賊數千人分乗二十舟直抵馬雄島進圍望海堝榮發伏出戰竒兵㫁其歸路賊奔櫻桃園榮合兵攻之斬獲千二百九十餘榮封廣寧伯自是倭不敢窺遼東二十年倭寇象山至英宗正統四年五月倭船四十艘連破台州桃渚寧波大嵩二千戸所又陷昌國衞大肆殺掠八年五月寇海寧景帝景泰四年貢使至臨清掠居民貨天順初其王源義政移書朝鮮王令轉請遣使謝罪廷議使臣不得仍前肆擾成化四年十一月倭使傷人于市曲赦之孝宗弘治九年三月王源義髙遣使來京還至濟寧其下仍持刀殺人詔嚴防禁武宗正徳五年春時劉瑾竊柄納其王源義澄所使宋素卿黄金千兩賜飛魚服前所未有也素卿鄞縣朱氏子名縞幼習歌唱倭使見悦之而縞叔澄負其直因以縞償至是充正使至蘇州澄與相見後事覺法當死瑾庇之謂已自首並獲免 臣等謹按王圻謂永樂初西洋之役雖威震海表而華人習知遠夷饒金寳夷人亦知我海道奸闌出入彼此相糾故海中寇盜復起若非廣寧之捷厥禍未已然以明史考之則倭之搆禍實與明代相終始矣」</ref><ref>{{Cite wikisource|title=皇明異典述|author=[[王世貞]]|wslanguage=zh}}「夷狄賜諡 夷王得諡者:日本王源道義諡'''恭獻''',高麗王王顓諡恭愍、李旦諡康獻、李芳遠諡恭定、李珦諡恭順、李娎諡康靖,浡泥國王麻邪惹加那乃諡恭順,蘇祿國東王巴都葛叭答剌諡恭定,古麻剌朗國王幹剌義亦敦奔諡康靖。」</ref><ref>{{Cite wikisource|title=弇山堂別集 (四庫全書本)/卷009|author=[[王世貞]]|wslanguage=zh}}「夷狄賜諡 夷王得諡者日本王源道義諡'''恭獻'''髙麗王王顓諡恭愍李旦諡康獻李芳遠諡恭定李珦諡恭順李娎諡康靖浡泥國王麻邪惹加那乃諡恭順蘇祿國東王巴都葛叭答剌諡恭定格黙勒朗國王衞喇義伊徳伯諡康靖」</ref><ref>{{Cite wikisource|title=明臣諡考 (四庫全書本)/卷下|author=[[鮑応鰲]]|wslanguage=zh}}「外國王諡附 恭定 巴都葛叭答剌 蘇祿國東王 敬事供上永樂年諡 純行不爽 李芳遠 朝鮮國王 同永樂年諡 恭靖 李曔 朝鮮國權署國 敬事供上事永樂年諡 寛樂令終 恭順 麻那惹加那乃 浡泥國王永樂年諡 李珦 朝鮮國王 敬順事上景泰年諡 慈仁和民 恭憲 李峘 朝鮮國王 敬順事上隆慶年諡 行善可紀 '''恭獻''' 源道義 日本國王永樂年諡 恭僖 李懌 朝鮮國王 敬順事上嘉靖年諡 小心恭慎 莊憲 李峘 朝鮮國王 嚴敬臨民景泰年諡 行善可紀 襄悼 李晄 朝鮮國王 因事有功成化年諡 未中早夭 惠莊 李瑈 朝鮮國王 柔質慈仁成化年諡 嚴敬臨民 康靖 哇來頓本 朝鮮國王 安樂撫民永樂年諡 寛樂令終 李娎 朝鮮國王 温良好樂 治年諡 寛樂令終 康獻 李旦 朝鮮國王永樂年諡 榮靖 李峼 朝鮮國王 寵禄光大嘉靖年諡 寛樂令終 懐簡 李璋 朝鮮世子贈 慈仁短折王成化年諡 平易不訾」</ref><ref>{{Cite wikisource|title=日本國志/卷五|author=[[黄遵憲]]|wslanguage=zh}}「朕承洪業,享有福慶,極所覆載,咸造在近,周爰諮詢,深用嘉歎。邇者對馬、壹岐諸小島,有盜潛伏,時出寇掠。爾源道義,能服朕命,咸殄滅之,屹為保障。誓心朝廷,海東之國,未有賢於日本者也。朕嘗稽古,唐虞之世,五長迪功渠搜即敍;成周之隆,庸蜀羌矛微盧彭濮;率遏亂略,光華簡冊,傳誦至今。以爾道義方之,是大有光於前哲者也。日本王之有源道義,又自古以來未之有也。朕維繼唐虞之治,舉封山之典,特命日本之鎮山號壽安鎮國之山,賜以銘詩,勒之貞石,榮示于千萬世。」義滿又遣使謝,賜冕服。連年往貢,並獻所獲海寇。使還,請賜仁孝皇后所制《勸善》、《内訓》二書,詔給之。十五年,道義死,十二月,世子源義持遣使告喪。成祖命中官周全往祭,賜諡'''恭獻''',且致賻。又遣官齎敕,封義持為日本國王。時山東有倭寇,又諭義持捕盜。義持遣使謝恩,尋獻所獲盜。十八年,明復遣内官王進齎敕褒賚,至兵庫而還。先是道義死,義持以臣貢為非,至是阻明使不得達。」</ref><ref>{{Cite wikisource|title=明諡紀彙編 (四庫全書本)/卷22|author=[[郭良翰]]|wslanguage=zh}}「欽定四庫全書 明諡紀彙編卷二十二 明 郭良翰 撰 臣諡 外夷 天下大一統也故外夷得附之臣 '''恭獻''' 日本國王源道義 永樂 恭愍 髙麗國王王顓 洪武 恭順 浡泥國王麻那惹加那乃 永樂 朝鮮國王李珦 景泰 恭定 蘇禄國東王巴都葛叭荅剌 永樂 朝鮮國王李芳遠 永樂 恭靖 朝鮮國權署國事李曔 永樂 恭僖 朝鮮國王李懌 嘉靖 恭憲 朝鮮國王李峘 隆慶 康獻 朝鮮國王李旦 永樂 康靖 古麻剌國王幹剌義亦敦 永樂 朝鮮國王李娎 弘治 莊憲 朝鮮國王李裪 景泰 惠莊 朝鮮國王李瑈 成化 襄悼 朝鮮國王李晄 成化 懷簡 朝鮮國王世子贈王李暲 成化 榮靖 朝鮮國王李峼 嘉靖 明諡紀彙編卷二十二」</ref><ref>{{Cite wikisource|title=重訂日本外史/卷之八|author=[[頼山陽]]|wslanguage=zh}}「五月。義滿薨。義滿初敍從五位下。任左馬頭。累遷從一位左大臣。兼右近衛大將右馬寮御監。終至太政大臣。准三宮。初久我氏爲源氏長者。充淳和奨學兩院別當。至義滿時。乃屬之於足利氏。終足利氏之世。其官爵敍任。例概如此。而至太政大臣者。止於義滿。義滿之薨。詔贈太上皇號。義持惶懼。辭不受。明主諡義滿。曰'''恭獻王'''。義持受之。明年六月。滿兼卒。初氏滿至從三位左兵衛督。而滿兼以從四位下左兵衛佐終。遂以爲例。滿兼二子。持氏。持仲。持氏爲嗣。先是。宇都宮氏廣爲亂。斯波持詮爲陸奧探題。擊斬之。獻首鎌倉。滿兼賜持詮以氏廣邑。以賞之。伊達政宗作亂。滿兼遣執事上杉氏憲。擊平之。十八年。飛驒國司藤原尹綱兵起。義持遣京極高數。擊平之。十九年。帝讓位於皇太子。是爲稱光帝。諸南朝遺臣。請立後龜山後如約。足利氏議。立南朝皇胤者。非我家之志也。終不聽其請。」</ref><ref>[[頼山陽]]『筑後河を下り、菊池正観公の戦処を過ぎ感じて作有り』「文政之元十一月 吾下筑水僦舟筏 水流如箭萬雷吼 過之使人竪毛髪 居民何記正平際 行客長思己亥歳 當時國賊擅鴟張 七道望風助豺狼 勤王諸將前後没 西陲僅存臣武光 遺詔哀痛猶在耳 擁護龍種同生死 大擧來犯彼何人 誓剪滅之報天子 河亂軍聲代銜枚 刀戟相摩八千師 馬傷冑破気益奮 斬敵取冑奪馬騎 被箭如蝟目眥裂 六萬賊軍終挫折 歸來河水笑洗刀 血迸奔湍噴紅雪 四世全節誰儔侶 九國逡巡西征府 棣萼未肯向北風 殉國劍傳自乃父 嘗卻明使壯本朝 豈與'''恭獻'''同日語 丈夫要貴知順逆 少貳大友何狗鼠 河流滔滔去不還 遥望肥嶺嚮南雲 千載姦黨骨亦朽 獨有苦節傳芳芬 聊弔鬼雄歌長句 猶覺河聲激餘怒」[http://marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-10/chikugogawa.htm]</ref><ref>[[頼山陽]]『[[日本楽府]]』「史官遺倒日本王、相公怒裂明册書、欲王則王吾自了、朱家小児敢爵余、吾國有王誰覬覦、叱咤再蹀八道血、鴨緑之流鞭可絶、地上阿鈞不相見、地下空唾'''恭献'''面。」[http://mitsuo-cl.com/mitsuo/colum/colum34.html]</ref><ref>[[新井白石]]『[[読史余論]]』「同月、義嗣内裏にて元服、其儀親王に准ず。参議従三位たり。中将如元(于時十五歳)。五月、前征夷大将軍太政大臣従一位准三后義満入道道義薨(五十一)。太上天皇の尊号を贈らる(義持固辞して不受ともいふ)。十二月、大明成祖より義持に慰詔を賜ひ道義を吊ひ祭文を作り'''恭献王'''と諡す。」[http://lovekeno.iza-yoi.net/dokus0.htm]</ref><ref>[http://nanteo.s14.xrea.com/kiden/kiden1411.html 『南方紀伝』応永十八年(辛卯)]「興福寺五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基が落雷で焼失した。明国の成祖・永楽帝が書を義持に贈り、義満の死を弔慰し[[祭文 (漢文)|祭文]]を作り'''恭献王'''と諡した。」</ref>
| 神号 =
| 戒名 = 鹿苑院天山道義
| 墓所 = [[相国寺]][[塔頭]][[鹿苑院]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[正五位|正五位下]]・[[左馬頭]]・[[征夷大将軍]]・[[従四位|従四位下]]・[[参議]]・[[近衛府|左近衛中将]]・[[従三位]]・[[大納言|権大納言]]・[[近衛府|右近衛大将]]、[[従二位]]、[[右馬寮御監]]、[[従一位]]、[[内大臣]]、[[左大臣]]、[[蔵人別当]]、[[後円融天皇|後円融院別当]]、[[源氏長者]]、[[准三宮]]、[[淳和奨学両院別当]]、[[太政大臣]]
| 幕府 = [[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍]]<br>在職:[[応安]]元年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]([[1369年]][[2月7日]]) - [[応永]]元年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]([[1395年]][[1月8日]])
| 氏族 = [[足利将軍家]]
| 父母 = 父:[[足利義詮]]、母:[[紀良子]]
| 兄弟 = [[足利千寿王|千寿王]]、'''義満'''、[[柏庭清祖]]、[[足利満詮|満詮]]、[[廷用宗器]]、[[宝鏡寺殿]]
| 妻 = [[正室]]:'''[[日野業子]]'''<br />[[継室]]:'''[[日野康子]]'''<br/>[[側室]]:[[藤原慶子]]・[[春日局 (足利義満側室)|春日局]][[#系譜|ほか]]
| 子 = [[尊満]]、'''[[足利義持|義持]]'''、[[足利義嗣|義嗣]]、[[足利義教|義教]]、[[法尊]]、[[虎山永隆]]、[[義昭|大覚寺義昭]]、[[梶井義承]][[#系譜|ほか]]
| 特記事項 = [[金閣寺]]建立
|花押=Ashikaga Yoshimitsu kao.jpg}}
'''足利 義満'''(あしかが よしみつ)は、[[室町時代]]前期の[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 34頁。</ref>。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・[[足利義詮]]、母は[[側室]]・[[紀良子]]。祖父に[[足利尊氏]]。正式な姓名は'''源 義満'''(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・[[足利義詮]]の長男で[[足利満詮]]の同母兄にあたる。
[[南北朝合一]]を果たし、有力[[守護大名]]の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、[[鹿苑寺]]([[金閣]])を建立して[[北山文化]]を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。
邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「[[室町殿]]」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は[[足利将軍家]]当主の呼称となった。歴史用語の「[[室町幕府]]」や「[[室町時代]]」もこれに由来する。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
延文3年([[1358年]])8月22日、義満は2代将軍・[[足利義詮]]の子として[[京都]]春日東洞院にある幕府[[政所]]執事の[[伊勢貞継]]の屋敷で生まれた。祖父である[[足利尊氏|尊氏]]の死からちょうど100日目のことである。母の[[紀良子]]は石清水[[神官]][[善法寺通清]]の娘で、[[順徳天皇]]の玄孫でもあった<ref name="Asahi"/>。幼名は'''春王'''と名付けられた<ref name="列伝80"/><ref name="Asahi"/>。
春王は長男ではなかったが、義詮と[[正室]]の[[渋川幸子]]との間に生まれていた[[足利千寿王|千寿王]]は夭折しており、その後、幸子との間に子はなく、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は[[嫡男]]として扱われた{{Sfn|臼井|1989|p=11}}。幼児期は伊勢邸で養育された<ref>{{Cite book|和書 |author=臼井信義 |chapter= |title=足利義満 |editor1= |editor1-link= |editor2= |editor2-link= |publisher=吉川弘文館 |year=1960 |page=11 |isbn= |ref={{SfnRef|臼井 |1960}}}}</ref>。
春王が幼少の頃の幕府([[北朝 (日本)|北朝]]方)は[[吉野朝廷|南朝]]との抗争が続き、さらに[[足利氏]]の内紛である[[観応の擾乱]]以来、幕政を巡る争いは深刻さを増していた。[[康安]]元年([[1361年]])12月には[[細川清氏]]や[[楠木正儀]]、[[石塔頼房]]ら南朝方に京都を占領され、義詮は[[後光厳天皇]]を奉じて[[近江国]]に逃れた。春王は僅かな家臣に守られて[[建仁寺]]に逃れた後、[[北野義綱]]に護衛され、[[赤松則祐]]の居城の[[播磨国|播磨]][[白旗城]]への避難を余儀なくされた。この後、しばらくの間、春王は則祐により養育される{{Sfn|臼井|1989|p=14}}。幕府側はすぐに京都を奪還し、春王も京都への帰路につくがその道中、[[摂津国]]に泊まった際に景色が良いことを気に入り、「ここの景色は良いから京都に持って帰ろう。お前たちが担いで行け」という命令を出し、家臣らはその気宇壮大さに驚いたという{{Efn|史書はこれを気宇壮大を表す事績として伝えるが、作家の[[海音寺潮五郎]]は「単なるわがまま」としている。}}。京都に帰還した春王は、新しく[[管領]]となった[[斯波義将]]に養育され、[[貞治]]3年([[1364年]])3月には7歳で初めて乗馬した。
貞治4年([[1365年]])5月、春王は矢開の儀を行い、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。
貞治5年([[1366年]])8月、[[貞治の変]]が起こって[[斯波高経]]・義将父子が失脚すると、叔父の[[足利基氏]]の推挙により、[[細川頼之]]が後任の管領に任命された。この頃の春王は祖母の[[赤橋登子]]の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている{{Sfn|臼井|1989|pp=16-18}}。
=== 家督・将軍職相続 ===
{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}}
[[貞治]]5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より'''義満'''の名を賜り、従五位下に叙せられた<ref name="列伝80">{{Harvnb|榎原|清水|2017|p=80}}</ref><ref name="Asahi">{{Citation|和書|chapter=足利義満|title=朝日 日本歴史人物事典|year=1994|publisher=朝日新聞社}}</ref>。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、[[柳原忠光]]により義満が撰ばれたという。
貞治6年([[1367年]])11月になると、父・[[足利義詮|義詮]]が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。
12月3日、朝廷は義満を正五位下・[[左馬頭]]に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ<ref name="列伝80"/><ref name="Asahi"/>{{Sfn|臼井|1989|p=19}}。
応安元年([[1368年]])4月15日、義満は[[管領]][[細川頼之]]を[[烏帽子親]]として、[[元服]]した<ref name="列伝80"/>。このとき、[[加冠]]を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て[[細川氏]]一門が執り行った{{Efn|これを吉例として足利義教(義満の子、第6代将軍)の元服では管領[[畠山持国]]一門、その子・足利義政(義満の孫、第8代将軍)の元服では管領[[細川勝元]]一門が四役全てを占めて、幼少もしくは還俗直後の新将軍を管領一門が支えることをアピールする場としている。}}<ref>{{Cite book|和書|author=森茂暁|title=中世日本の政治と文化|publisher=思文閣出版|year=2006|pages=80-100}}</ref>。
応安2年([[1369年]])12月30日、義満は朝廷から[[征夷大将軍]]宣下を受け、第3代将軍となった<ref name="列伝80"/><ref name="Asahi"/>{{Efn|'''足利義満 征夷大将軍の辞令(宣旨)''' 「後愚昧記」:左馬頭源朝臣義満:左少辨藤原朝臣仲光傳宣:權中納言藤原朝臣實綱宣:奉 勅件人宜爲征夷大將軍者:應安二年正月一日:修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史備前權介小槻宿禰兼治奉::(訓読文)左馬頭源朝臣義満(足利義満、正五位下) 左少弁藤原朝臣仲光([[広橋仲光]]、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣実綱([[正親町実綱]]、従三位)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)、応安2年(1369年)正月1日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史備前権介小槻宿禰兼治([[壬生兼治]])奉(うけたまは)る}}。管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導することにより義満は帝王学を学んだ。頼之は[[応安大法]]を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の[[五山]]制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった[[九州]]に[[今川貞世]](了俊)・[[大内義弘]]を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。
さらに京都の支配を強化するために、応安3年([[1370年]])に朝廷より山門公人([[延暦寺]]及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。
[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])、[[二十一代集]]の20番目にあたる[[新後拾遺和歌集]]は義満の執奏により[[後円融天皇|後円融院]]が勅撰を下命した。
[[永和 (日本)|永和]]4年([[1378年]])には、邸宅を[[三条坊門]]から北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「[[花の御所]]」と呼ばれ、今日ではその所在地にちなみ室町幕府と呼ばれている。
義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である[[奉公衆]]を設け、さらに[[奉行衆]]と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。
応安7年([[1374年]])、[[日野業子]]を正室に迎えた。
[[永徳]]2年([[1382年]])、[[開山 (仏教)#開基|開基]]として[[相国寺]]の建立を開始し、翌年には自らの[[禅宗]]の修行場として[[塔頭]][[鹿苑院]]も創建する。
[[至徳 (日本)|至徳]]2年([[1385年]])には[[東大寺]]・[[興福寺]]などの南都寺院を参詣、[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年([[1388年]])には[[駿河国|駿河]]で[[富士山]]を遊覧し、[[康応]]元年([[1389年]])には[[安芸国|安芸]][[厳島神社]]を参詣するなど、視察を兼ねた[[デモンストレーション]](権力示威行為)を行っている。しかし、嘉慶2年(1388年)[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]には、[[紀伊国]][[和歌浦]][[玉津島神社]]参詣遊覧の帰りに、南朝の[[楠木正勝]]の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた[[山名氏清]]のおかげでかろうじて命を救われるなど([[平尾合戦]])、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった(『[[後太平記]]』)。
=== 権力強化と南北朝合一 ===
{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}}
[[康暦]]元年([[1379年]])、義満は反・細川頼之派の守護大名である[[斯波義将]]や[[土岐頼康]]らに邸を包囲され頼之の[[罷免]]を求められ、頼之は罷免される([[康暦の政変]])。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も[[斯波氏|斯波派]]に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて[[宿老]]として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う[[土岐氏]]の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した([[土岐康行の乱]])。
[[永和 (日本)|永和]]4年([[1378年]])3月、義満は[[右近衛大将]]に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は[[惟康親王]]以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である[[二条良基]]の支援を受けながら朝廷に出仕し、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。
自らの昇進により足利家の家格を准摂家まで上昇させることを目標とし公家としての称号(家名)を室町殿(西園寺流室町家や卜部流室町家を改名させ室町の称号を独占した)と定めた。花押も、上級公家になったことに従いそれまでの武士型のものから公家型に改められた(武士の棟梁足利家の立場が必要な文書の場合は其の後も武士型花押が用いられ続ける)。
永和5年([[1379年]])8月14日、[[十市遠康]]ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める[[興福寺]]の[[大衆 (仏教)|大衆]]が、[[春日大社]]の[[春日神木|神木]]を奉じて洛中に[[強訴]]に及んだ([[康暦の強訴]])。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、康暦2年([[1380年]])には一時中断していた[[御遊始]]・[[作文始]]・[[歌会始]]などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は[[十市遠康#略歴|幕府の十市討伐の約束]]以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて、[[寺社勢力]]に大打撃を与えた<ref>{{Cite book|和書|author=小川剛生|title=二条良基研究|publisher=笠間書院|year=2005|pages=87-90}}</ref>。
もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、[[延暦寺]]に対しても幕府との直接交渉ができる[[山門使節]]の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が至徳2年([[1385年]])に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、[[応永]]元年([[1394年]])に延暦寺ゆかりの[[日吉社]]参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している<ref>{{Cite book|和書|author=大田壮一郎|title=室町幕府の政治と宗教|publisher=塙書房|year=2014|pages=285-291}}</ref>{{Efn|なお、康暦の強訴の幕府の対応について、結果的には室町幕府の対権門寺院政策の転換点になったものの、本来は義満が参加する朝儀の無事に行われることのみを目的としたもので、幕府は積極的に強訴を解決しようとした訳ではなく興福寺をなだめて問題を先送りにする方針であったとする指摘もある<ref>{{Citation|和書|author=大藪海|chapter=室町幕府ー権門寺院関係の転換点―康暦の強訴と朝廷・幕府―|editor=中島圭一|title=十四世紀の歴史学 新たな時代への起点|publisher=高志書院|year=2016|isbn=978-4-86215-159-9}}</ref>。}}。
義満は祖父の[[足利尊氏|尊氏]]や父を越える内大臣、左大臣に就任し[[官位]]の昇進を続けた。[[永徳]]3年([[1383年]])には武家として初めて[[源氏長者]]となり[[淳和奨学両院別当]]を兼任、[[准三后]]の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも[[偏諱]]を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで[[院]]や天皇の意思を伝えていた[[伝奏]]から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた{{Sfn|桜井|2009|pp=66-67}}。これら異例の措置も[[三条公忠]]が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、[[家礼]]となる公家や[[常盤井宮滿仁親王|常磐井宮満仁王]]のように愛妾を差し出す者も現れた{{Sfn|桜井|2009|p=28}}。
[[明徳]]2年([[1391年]])、[[山名氏]]の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・[[山名氏清]]を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する([[明徳の乱]])。
[[明徳]]3年([[1392年]])、[[楠木正勝]]が拠っていた[[河内国]][[千早城]]が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微した。そのため、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、[[持明院統]]と[[大覚寺統]]が交互に即位する事([[両統迭立]])や諸国の[[国衙領]]を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の[[後亀山天皇]]に提示し、後亀山が保持していた[[三種の神器]]を[[持明院統|北朝]]の[[後小松天皇]]に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、58年にわたる[[朝廷 (日本)|朝廷]]の分裂を終結させる([[明徳の和約]])。
明徳4年([[1393年]])、義満と対立して[[後小松天皇]]に譲位していた[[後円融天皇|後円融上皇]]が崩御し、自己の権力を確固たるものにした義満は、[[応永]]元年12月([[1395年]]1月)には将軍職を嫡男の[[足利義持]]に譲って隠居したが、[[大御所]]として政治上の実権は握り続けた。同年、従一位[[太政大臣]]にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、[[平清盛]]に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。
[[応永]]2年(1395年)6月、義満は出家して、'''道義'''と号した。義満の出家は、[[征夷大将軍]]として武家の[[太政大臣]]・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、[[斯波義将]]をはじめ多くの武家や公家、[[皇族]]の[[常盤井宮滿仁親王]]まで追従して出家している。
同年、[[九州探題]]として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。
応永6年([[1399年]])、[[西日本|西国]]の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が[[堺市|堺]]で挙兵したのを機に討伐し([[応永の乱]])、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
=== 勘合貿易と北山文化 ===
{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}}
義満は若年の頃から[[明]]への憧憬を深く抱いていた。その例としては、明徳5年([[1394年]])に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・[[洪武帝]]の治世にあやかって日本の[[元号]]にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉{{Efn|この時最終案に残った「洪」のつく案は「洪徳」であったが、これまで[[永徳]]、[[至徳 (日本)|至徳]]、[[明徳]]と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号を用いた[[崇徳天皇]]や、4回連続「元」のつく元号を用いた[[後醍醐天皇]]の例と同じになり不吉とされた。ちなみにこの時案として後に用いられる[[寛永]]や[[宝暦]]が提案されている。}}であるとして公家たちが反発したため実現せず、[[応永]]の元号が用いられることとなった{{Efn|この際に反対論を唱えたのは、[[一条経嗣]]らであったという{{Sfn|久水|2011|pp=346-347}}。}}。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった{{Sfn|今谷|1990}}。
ただし、これについては異説もあり、応永15年([[1408年]]:義満死去に伴う)と、応永20年([[1413年]]:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止し、自分が生きている間には元号を変えさえなかったのは息子の義持であるとする指摘もある<ref>{{Cite journal|和書|author=臼井信義|title=正長の改元|journal=日本歴史|issue=52号|year=1952}}など。</ref>。また、義満の改元への影響力は強かったものの、その立場自体は同時代の太政官に列する公卿の範疇でしかなく(「[[洪徳]]」不採用もその反映とする)、その発言力も[[戦国時代 (日本)|戦国期]]の将軍([[足利義稙|義稙]]・[[足利義晴|義晴]])よりは低かったとする指摘もある{{Sfn|久水|2011}}。いずれにしても、その結果として応永年号は35年と、[[明治]]以前では最も長い元号となった。
義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし、[[応安]]7年([[1374年]])の遣使では、明側は南朝の[[懐良親王]]を「[[日本国王]]良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。[[康暦]]2年([[1380年]])にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永2年([[1395年]])6月に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。
[[ファイル:Kinkakuji 2004-09-21.jpg|thumb|250px|[[鹿苑寺]]]]
[[1401年]]([[応永]]8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人[[肥富]](こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧[[祖阿]]を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、[[建文帝]]は義満を日本国王に冊封した。同時に明の[[大統暦]]が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に[[朝貢]]する形式をとった[[日明貿易|勘合貿易]]は応永11年([[1404年]])から始まり、また明に要請されて[[倭寇]]を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに[[靖難の変]]が起き、建文帝から[[永楽帝]]に皇帝が変わっていた)。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる[[朝貢貿易]]に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
[[1397年]](応永4年)には[[西園寺家]]から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣。1399年頃完成したとみられる<ref name="名前なし-1">早島大祐「室町幕府論」(講談社選書メチエ)</ref>)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の[[鹿苑寺]])を造営した。応永6年([[1399年]])春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていく<ref>{{Cite journal|和書|author=大田壮一郎|title=足利義満の宗教空間|journal=ZEAMI 中世の芸術と文化|issue=4号|publisher=森話社|year=2007}}/所収:{{Citation|和書|author=大田壮一郎|title=室町幕府の政治と宗教|publisher=塙書房|year=2014|isbn=978-4-8273-1264-5}}</ref>。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した[[北山文化]]と呼ぶことも多い。また北山文化の芸能である[[猿楽]]では、義満は[[観阿弥]]・[[世阿弥]]父子を庇護した。
また、足利義満が建設を進めた特筆すべき建築物として、[[1399年]]に京都[[相国寺]]に完成した八角[[七重塔]]がある。塔の高さは、360尺(約109m)に及ぶ[[高層建築物]]であり、以後500年以上、日本最高記録となっていた。[[相国寺]]の[[七重塔]]は、4年後に落雷により焼失したが、翌年の[[1404年]]には同等規模の北山大塔を[[金閣寺]]付近に建設したという<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160709/k00/00m/040/164000c 金閣寺・敷地内から装飾品出土、七重塔「北山大塔」部材か] 毎日新聞(2016年7月8日)2017年2月11日閲覧</ref>。
上述のように、金閣寺舎利殿や相国寺七重大塔は1399年頃には完成していたとみられ<ref name="名前なし-1"/>、これらの建物の建設費用は1401年から開始された勘合貿易による利益でまかなわれたわけではない(北山第の大塔は応永11年(1404年)に建設が始まったとみられ、勘合貿易の利潤があてがわれたと言える)。
=== 最期 ===
応永11年(1404年)末頃より、義満は自身に「[[太上天皇]]」の尊号が贈られないか、朝廷に対し働きかけていた{{sfn|小川|2012|pp=248-253}}。
応永13年(1406年)、後小松天皇の生母[[三条厳子]]が没すると、「天皇在位中に二度の[[諒闇]]は不吉」であるとして、2番目の妻である康子を後小松天皇の[[准母]]とし、義満は天皇の義父と言える存在となった{{sfn|小川|2012|pp=240-245}}。この際、義満は[[関白]][[一条経嗣]]から、義満への「尊号」が検討されるのではないかという話を聞き、上機嫌な姿を見せたという{{sfn|小川|2012|pp=240-248}}。しかし康子は翌年「北山院」の[[女院|女院号]]を贈られたものの、義満に[[太上天皇]]の尊号が贈られることはなかった。一方で義満が出御した際には「三衣筥」が置かれるなど、先例では上皇・法皇にしか認められなかった扱いも受けている。
応永15年(1408年)4月25日には、出家予定であった子の[[足利義嗣|義嗣]]を親王の例で元服させ、参議にまで昇進させた。しかしその2日後の4月27日、義満は病に倒れた。4月28日には見舞の人にも対面しなかった。4月29日、医師の[[坂士仏]]の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。このため将軍の義持は[[山科教冬]]を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが、夕方になって蘇生した。5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した{{Efn|[[服部敏良]]は流行の風邪にかかり、それが悪化し[[肺炎|急性肺炎]]のような症状で死去したであろうと推測している<ref>{{Cite book|和書|author=服部敏良|authorlink=服部敏良|title=室町安土桃山時代医学史の研究|publisher=吉川弘文館|year=1988}}</ref>。}}。享年51(満49歳没){{Sfn|臼井|1989|pp=190-191}}。
法名は鹿苑院天山道義。[[等持院]]で火葬された義満の遺骨は、[[相国寺]][[塔頭]][[鹿苑院]]に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、[[天明の大火]]で灰燼に帰して衰微した。鹿苑院に至っては[[明治]]になってから[[廃仏毀釈]]のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった[[臨川寺]]に移され安置されている<ref>「[[歴史読本]]スペシャル 特別増刊「臨終の日本史その死の瞬間」」[[新人物往来社]] 昭和62年(1987年) p.207</ref>。
== 死後の義満に対する処遇 ==
{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}}
義満死去の3日後、5月9日に[[朝廷 (日本)|朝廷]]から「太上天皇」の尊号を贈られたが、義持や管領斯波義将らは「先例なし」として辞退し、宣下自体なかったこととされた{{sfn|小川|2012|pp=259-260}}。これは朝廷と幕府の間で事前の合意があったものと見られている{{sfn|小川|2012|pp=259-260}}。一方で、五山の禅僧などは大檀那であった義満の権威を高めるため、「鹿苑院太上天皇」や「鹿苑天皇」などの号をしばしば用いたが、広く通用したものではない{{sfn|小川|2012|p=260}}。また、明の永楽帝は弔問使を日本につかわし「'''恭献'''」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。
義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義満が偏愛した義嗣も[[上杉禅秀の乱]]の際に出奔し、謀反を企てたとして殺害された。
== 義満死後の室町幕府の推移 ==
{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}}
義満の死後、室町幕府の政治力は将軍が若くして亡くなったり、国内各地で反乱が起きたりして弱体化してしまう。
4代将軍の[[足利義持]](義満の子)は父の作った別荘の[[北山山荘]]を現在残っている部分以外は取り壊してしまった{{なぜ|date=2022年8月}}。
[[1425年]]、5代将軍の[[足利義量]](義満の孫)はわずか19歳で病没する。義量の死から[[1429年]]に義満の息子の[[足利義教]]が6代将軍になるまで幕府の将軍は空席で、父の義持が[[1428年]]に死去するまで政治の代行をすることになった。
幕府の弱体化を象徴する最初の事件が1428年の[[正長の土一揆]]であった。正長の土一揆を目の当たりした6代将軍[[足利義教|義教]]は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、それは守護を弾圧してばかりで敵を増やす政治だったので、[[嘉吉の乱]]で[[赤松満祐]]に暗殺された。
幕府の弱体化と内部対立をあらわにしたのが、8代将軍(義満の孫)[[足利義政]]の時代の[[1467年]]から始まった[[応仁の乱]]だった。室町幕府の本部がある京都はそれを詳かにするかのように焼け野原となってしまった。義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。応仁の乱の末、義政の妻・[[日野富子]]が9代将軍にすることができた息子の[[足利義尚]]もこれといった政治成果をあげられないまま結局[[1489年]]3月、両親に先立ってわずか23歳で病死してしまう。父の義政も[[1490年]]1月に息子の後を追うように病死。義政の時代の[[東山文化]]が室町幕府最後の光だった。これ以後室町幕府は急速に没落していく。
その後は全国各地で[[戦国大名]]が力をつけ、室町幕府は形だけのものになってしまう。そしてついに[[1573年]]10月に[[織田信長]]が15代将軍・[[足利義昭]]を京都から追放して室町幕府は滅亡した([[室町幕府#滅亡|滅亡時期]]については複数論ある。義昭が追放された1573年論が最も一般的{{要出典|date=2022年8月|}}だが、義昭は将軍職にあり続けており、それゆえ室町幕府は[[鞆幕府|亡命政権(鞆幕府)]]として存続したとする説もある{{要出典|date=2023年3月|}}。義昭が将軍職を辞職するのは[[豊臣秀吉]]による[[豊臣政権]]が成立した後の[[1588年]]である)。
== 義満に対する評価 ==
{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}}
義満は[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の統一を成し遂げ、[[北山文化]]の象徴である[[金閣]]を建てたこと、[[倭寇]]の取り締まりのために独自の案を使った[[勘合貿易]]を始めたことなど独特の政治力を発揮した。武士で[[太政大臣]]に任命されたのは[[平清盛]]以来およそ230年ぶりで、歴代の室町幕府の将軍では義満だけである(次に武士で任命されたのは[[1586年]]に豊臣秀吉)。「室町幕府」といった名称がついたのも義満が[[花の御所]]という将軍家邸宅を室町という場所に移したからで、こういったことから義満は室町幕府最高の将軍とされている{{誰2|date=2022年8月}}。
一説によると{{誰2|date=2022年8月}}[[江戸幕府]]の3代将軍・[[徳川家光]]が[[元服]]して「家光」という名になったのは、室町幕府の同じ3代将軍の義満の「みつ」の読みが起源とされており、江戸幕府の繁栄の祈願をこめたものと言われている{{要出典|date=2022年8月|}}。
== 人物 ==
[[File:Ashikaga Yoshimitsu Admiring the Golden Pavilion LACMA M.2007.152.67.jpg|200px|thumb|大日本名将鑑 足利義満公([[月岡芳年]]画、[[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]所蔵)]]
[[今川貞世|今川了俊]]は『[[難太平記]]』において[[大内義弘]]が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。[[佐藤進一]]はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している{{Sfn|佐藤|1994|p=409}}。このことは義満の猶子である三宝院[[満済]]も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している{{Sfn|桜井|2009|pp=111-112}}。このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。
義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという{{Sfn|早島|2010|p=88}}。[[永徳]]元年([[1381年]])7月23日の[[内大臣]]大饗に遅刻した[[御子左為遠]]が翌日の出仕で義満から追い出されたり(『後愚昧記』)、応永元年([[1394年]])の南都([[興福寺]])の[[常楽会]]では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった(『兼宣公記』)。
また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年([[1406年]])に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には[[裏松重光]]・[[山科教興]]らが当時の軽装である[[十徳羽織|十徳]]を着用させられ、教興の父[[山科教言]]が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の[[直垂]]を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である[[束帯]]の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという(『教言卿記』){{Sfn|早島|2010|pp=140-141}}。
一方女性関係では、他人の妻妾と通じることを頻繁に行った。記録に残るだけでも、弟の[[足利満詮]]、[[常盤井宮滿仁親王]]・[[伏見宮栄仁親王]]・[[九条経教]]・[[裏松重光]]・[[中山親雅]]・[[柳原資衡]]などの妻妾と通じている。彼女らの多くは内裏に女房として使える身であり、夫と離別した後も旧夫と連絡を取り、旧夫に恩恵をもたらすこともあった{{sfn|小川|2012|pp=278-282}}。
== 皇位簒奪の意図はあったか ==
[[田中義成]]、[[今谷明]]らは義満が[[皇位簒奪]]する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。
義満は早くから[[花押]]を[[武家]]用と[[公家]]用に使い分けたり、2番目の妻である康子を[[後小松天皇]]の准母とし、[[女院|女院号]]の宣下を受けさせたほか、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年([[1408年]])3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している{{Sfn|今谷|1990}}<ref>{{Cite book|和書|author=佐藤進一|series=日本の歴史9|title=南北朝の動乱|publisher=中央公論社|year=2005}}</ref>。
今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、[[易姓革命]]思想ではなく当時流行した『[[野馬台詩]]』を利用していたのではないかと推測する。この詩は[[予言]]として知られており、天皇は100代{{Efn|現在では後小松天皇が100代目とされている。しかし当時は天皇の代数の数え方は必ずしも一致していなかった。現代では天皇とみなされる[[弘文天皇]]と[[仲恭天皇]]の即位は一般には認められておらず(明治時代に同時に諡号を贈られた[[淳仁天皇]]は、即位に関しては不備はなく「47代 廃帝」として代数には含まれていた)、一方で[[神功皇后]]は即位したとされていた。当時は北朝が正統とされていたため、この数え方によると100代目は[[後円融天皇]]にあたる。}}で終わり、[[サル|猿]]や[[イヌ|犬]]が[[ヒーロー|英雄]]を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「[[終末論#百王説|百王説]]」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は[[慈円]]『[[愚管抄]]』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。[[鎌倉公方]]の[[足利氏満]]は[[申]]年生まれ(ただし現在では[[亥]]年生まれとされる)、義満は[[戌]]年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。
なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく[[治天の君]](実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。
=== 批判 ===
しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとした記録はなく、直接の証拠はない。また、[[皇位簒奪]]計画の最大の障害になる筈である[[儲君]][[称光天皇|躬仁親王]]が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い。その後の研究では義満以降の[[日本国王]]号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている<ref>{{Cite book|和書|author=田中建夫|title=前近代の国際交流と外交文書|publisher=吉川弘文館|year=1996}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=村井章介|title=中世の国家と在地社会|publisher=校倉書房|year=2005}}</ref>。
[[石原比位呂]]は今谷説の批判を通じて、これまでの足利義満期の公武関係に関する研究の問題点と共に、義満は「将軍の任命権者である(北朝)天皇の権威回復のため、朝儀の復興を原理原則に忠実かつ威儀厳重に催行すべき」という考えであったと指摘した上で、義満によって処罰された公家の多くはこの方針に反した者たちであり、そして最も強く反発したのが治天の君である後円融天皇(後に上皇)であったとする。そしてそのために義満は、自らの朝廷政策実現のために後円融天皇を退位させ、その権限を剥奪して、新帝・後小松天皇の父代わりを演じる必要があったと推測。今谷説は足利義満と後円融天皇の個人的対立を公武関係全体にまで広げた過大な解釈であると批判する<ref>{{Cite book|和書|author=石原比位呂|chapter=足利義満の対朝廷政策|title=室町時代の将軍家と天皇家|publisher=勉誠出版|year=2015|isbn=978-4-585-22129-6}}</ref>。
[[榎原雅治]]によれば、現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定によって経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と、武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる<ref>読売新聞 東京版 2017年2月1日 p21</ref>。
義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している(ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の[[花押]]は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の[[家門]]安堵に関与して後継者に[[偏諱]]を授与したり、[[称光天皇]](躬仁親王)の[[御名]]を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている)。
仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領[[斯波義将]]を始めとする守護大名達は参画していなかった。近年では、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっている{{Sfn|早島|2010|p=116}}。
== 官歴 ==
日付はすべて旧暦日。丸括弧内は個々の和暦年を単純に西暦年に置換したもの、旧暦の11月末から12月の日付は年によっては西暦の翌年1月から2月初頭にずれ込むこともある。
* [[貞治]]5年(1366年)- 12月7日 後光厳天皇が義満の諱を下賜、叙[[従五位下]]。
* 貞治6年(1367年)- 12月3日 昇叙[[正五位下]]。12月7日 任[[馬寮|左馬頭]]。
* [[応安]]元年(1368年)- 4月15日 元服。12月30日 [[征夷大将軍]]宣下。
* 応安6年(1373年)- 11月25日 昇叙[[従四位下]]、任[[参議]]、兼[[近衛府|左近衛中将]]。
* [[永和 (日本)|永和]]元年(1375年)- 11月20日 昇叙[[従三位]]、参議左近衛中将如元。
* 永和4年(1378年)- 3月24日 任[[大納言|権大納言]]。8月27日 兼[[近衛大将|右近衛大将]]。12月13日 昇叙[[従二位]]、権大納言右近衛大将如元。
* 永和5年<!--康暦改元は3月22日-->(1379年)- 1月6日 兼[[右馬寮御監]]。
* [[康暦]]2年(1380年)- 1月5日 昇叙[[従一位]]、権大納言右近衛大将如元。
* [[永徳]]元年(1381年)- 7月23日 任[[内大臣]]、右近衛大将如元。
* 永徳2年(1382年)- 1月26日 任[[左大臣]]、右近衛大将如元。閏1月19日 兼[[蔵人]]別当。3月28日 [[牛車宣旨]]。4月11日 兼[[後円融天皇|後円融院]]別当。
* 永徳3年(1383年)- 1月14日 [[源氏長者]]宣下、兼[[淳和奨学両院別当]]。6月26日 [[准后|准三宮]]宣下。
* [[至徳 (日本)|至徳]]元年(1384年)- 3月17日 辞右近衛大将。
* [[嘉慶]]2年(1388年)- 5月26日 辞左大臣。
* [[明徳]]3年(1392年)- 12月26日 還任左大臣。
* 明徳4年(1393年)- 9月17日 辞左大臣。
* [[応永]]元年(1394年)- 12月17日 辞征夷大将軍。12月25日 任[[太政大臣]]。
* 応永2年(1395年)- 6月3日 辞太政大臣。6月20日 出家、号道有、のち道義。
* 応永9年(1402年)- 9月5日 [[明]]から[[日本国王]]に封じられる。
* 応永15年(1408年)- 5月6日 薨去。5月9日 贈[[太上天皇]]尊号(幕府が辞退)。
== 系譜 ==
* 父:[[足利義詮]](2代将軍)
* 母:[[紀良子]](側室)
* 兄弟姉妹
** [[足利千寿王|千寿王]]
** [[柏庭清祖]]
** [[足利満詮]]
** [[廷用宗器]]
** 女子([[宝鏡寺殿]]。恵昌?)
* 正室:[[日野業子]]([[日野時光]]娘)
** 女子
* 継室:[[日野康子]]([[日野資康]]娘)
* 側室:[[藤原慶子]]([[安芸法眼]]娘)
** [[足利義持]](4代将軍)
** [[足利義教]](6代将軍)
** 女子([[入江殿聖仙]])
* 側室:[[藤原量子]]
** 男子(義嗣・義教と生年は同じ)
** 女子([[大慈院聖紹]]?)
* 側室:[[加賀局]]([[長快]]法印女)
** [[尊満]](友山清師)
** 男子([[宝幢若公]])
* 側室:[[春日局 (足利義満側室)|春日局]]([[摂津氏]]、[[摂津能秀]]女)
** [[足利義嗣]]
* 側室:[[藤原誠子]](当初は義満の同母弟・[[足利満詮]]の正室で子もいたが、義満の手がついて側室になった)
** [[梶井義承]]
* 側室:[[高橋殿]]
* 側室:[[池尻殿]]
** 女子
** [[虎山永隆]]
* 側室:[[寧福院]]殿
** 女子([[大慈院聖久]])
* 側室:[[慶雲庵主]]([[大炊御門冬宗]]女)
** 女子([[光照院尊久]])
* 側室:[[源春子]]
* 側室:[[東御方]]
* 側室:[[対御方]]
* 側室:[[北向三品局]]
* 側室:[[一条局 (足利義満側室)|一条局]]
* 側室:[[坊門局 (足利義満側室)|坊門局]]
* 側室:[[宇治殿]]
** 女子
* (以下生母不明の子女)
** [[法尊|仁和寺法尊]]
** [[義昭|大覚寺義昭]]
** [[満守|本覚院満守]]
** 女子([[法華寺尊順]])
** 女子([[六角満綱]]正室)
** 女子([[摂取院殿]])
** 女子([[宝鏡院主]])
* 猶子
** [[斯波義重]]
** [[満済|三宝院満済]]
** [[増詮]]
== 義満の偏諱を受けた人物 ==
=== 「義」の字 ===
* 足利'''義'''持・'''義'''教ほか義満の男子の一部(前述参照)
* [[赤松義則|赤松'''義'''則]]
* [[斯波義重|斯波'''義'''重]](義満の猶子。[[管領]]、[[斯波氏|武衛家]]当主。のち義教に改名)
* [[渋川義俊|渋川'''義'''俊]]
* [[高橋義種|高橋'''義'''種]](筑後高橋家)
* [[日野義資|日野'''義'''資]](義満の正室・[[日野康子]]の甥)
* [[細川義之|細川'''義'''之]](讃州家(阿波細川家))
=== 「満」の字 ===
==== 皇族・公家 ====
* [[常盤井宮滿仁親王|常盤井宮'''満'''仁親王]](皇族)
* [[九条満家|九条'''満'''家]]
* [[二条満基|二条'''満'''基]]([[二条家]])
* [[洞院満季|洞院'''満'''季]]([[洞院実熙]]の父)
* [[満済|三宝院'''満'''済]](義満の猶子)
==== 武家 ====
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[尊満|尊'''満''']](実子(庶長子))
* [[満守|本覚院'''満'''守]](実子)
* [[足利満詮|足利'''満'''詮]](実弟)
* [[足利氏満|足利氏'''満''']]([[鎌倉公方]])
* [[足利満兼|足利'''満'''兼]](氏満の子、鎌倉公方)
* [[足利満直|足利'''満'''直]](氏満の子、満兼の弟)
* [[足利満隆|足利'''満'''隆]](氏満の子、満兼・満直の弟)
* [[足利満貞|足利'''満'''貞]](氏満の子、満兼・満直・満隆の弟)
* [[粟飯原満胤|粟飯原'''満'''胤]]([[粟飯原氏]]、父は詮胤)
* [[赤松満祐|赤松'''満'''祐]](義則の子)
* [[赤松満則|赤松'''満'''則]](義則の弟)
* [[赤松満政|赤松'''満'''政]](満則の子)
* [[蘆名満盛|蘆名'''満'''盛]]([[蘆名詮盛|詮盛]]の子)
* [[七条満弘|赤松'''満'''弘(七条'''満'''弘)]]([[赤松氏|赤松七条家]]、[[赤松光範|光範]]の子)
* [[荒川満頼|荒川'''満'''頼]]
* [[石川満持|石川'''満'''持]]([[陸奥石川氏]]第16代当主、[[石川詮持|詮持]]の子)
* [[石川満朝|石川'''満'''朝]](同氏第17代当主、満持の子)
* [[一色満範|一色'''満'''範]]
* [[一色氏#宮内一色家|一色'''満'''直]]
* [[今川満範|今川'''満'''範]](貞世(了俊)の末子)
* [[上野満兼|上野'''満'''兼]]([[上野氏#清和源氏足利流 上野氏嫡流|足利氏系上野氏]])
* [[宇佐美詮祐|宇佐美'''満'''秀]](詮祐)
* [[宇佐美満茂|宇佐美'''満'''茂]]
* [[塩冶満通|塩冶'''満'''通]]([[塩冶高貞]]の弟・[[塩冶時綱|時綱]]の孫)
* [[大内満弘|大内'''満'''弘]]
* [[大内満世|大内'''満'''世]](満弘の子)
* [[大崎満詮|大崎'''満'''詮]]([[大崎詮持|詮持]]の嫡男)
* [[大崎満持|大崎'''満'''持]](満詮の子で[[大崎持詮|持詮]]の父とされる)
* [[大舘満信|大舘'''満'''信]]([[大舘義冬|義冬]]の孫)
* [[大舘満冬|大舘'''満'''冬]](満信の弟、[[今参局]]の父)
* [[小笠原満長|小笠原'''満'''長]]([[小笠原氏#京都小笠原氏|京都小笠原氏]]、[[小笠原持長 (京都小笠原氏)|持長]]の父)
* [[葛西満清|葛西'''満'''清]](満信の長兄)
* [[葛西満宗|葛西'''満'''宗]](満信の次兄)
* [[葛西満信|葛西'''満'''信]]
* [[北畠満泰|北畠'''満'''泰]](満雅の兄)
* [[北畠満雅|北畠'''満'''雅]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[京極満秀|京極'''満'''秀]]([[京極氏#能勢家(治部少輔家・佐州家)|京極能勢家]]祖)
* [[斯波満種|斯波'''満'''種]](大野斯波家当主)
* [[斯波満理|斯波'''満'''理]](満種の弟)
* [[渋川満頼|渋川'''満'''頼]]([[九州探題]])
* [[渋川満行|渋川'''満'''行]](満頼の弟)
* [[渋川満直|渋川'''満'''直]](満行の子、九州探題)
* [[少弐満貞|少弐'''満'''貞]]
* [[白井満宗|白井'''満'''宗]]
* [[白井満常|白井'''満'''常]](同上、満宗の甥(兄・詮常の子))
* [[曽我満助]]
* [[摂津満親|摂津'''満'''親]]([[摂津氏]]、幕府[[奉公衆]]、義満の側室・春日局の兄または弟)
* [[千秋満範|千秋'''満'''範]](幕府奉公衆・[[熱田神宮|熱田]][[大宮司]]家一族([[藤原季範]]の末裔))
* [[武田満信]](幕府奉公衆・京都武田氏当主)
* [[武田満信]](安芸武田氏二代当主、初名[[武田信在]])
* [[大掾満幹|大掾'''満'''幹]]
* [[中条満秀|中条'''満'''秀]]
* [[中条満平|中条'''満'''平]](満秀の弟)
* [[土岐満貞|土岐'''満'''貞]]
* [[富樫満家|富樫'''満'''家]](満成・満春の父)
* [[富樫満成|富樫'''満'''成]]
* [[富樫満春|富樫'''満'''春]]
* [[長野満藤|長野'''満'''藤]]
* [[仁木満長|仁木'''満'''長]]
* [[仁木満将|仁木'''満'''将]](満長の子)
* [[畠山満家|畠山'''満'''家]](管領、[[河内畠山氏]](畠山宗家)当主)
* [[畠山満慶|畠山'''満'''慶]](満家の弟、[[能登畠山氏]]祖)
* [[畠山満義|畠山'''満'''義]](満家の従弟、父は[[畠山義深]]の子・[[畠山持深|持深]])
* [[石垣満国|畠山'''満'''国]](石垣満国、満家の叔父)
* [[畠山満国 (河内畠山氏)|畠山'''満'''国]]([[畠山家国]]の子・[[畠山清義|清義]]の孫)
* [[本宮満国|畠山'''満'''国]](本宮満国、[[二本松氏#本宮氏|本宮氏]]祖)
* [[鹿子田満詮|畠山'''満'''詮]](鹿子田満詮、本宮満国の弟)
* [[二本松満泰|畠山'''満'''泰]](二本松満泰([[二本松氏]])、満国・満詮の弟)
* [[畠山満盛|畠山'''満'''盛]](満泰の長男、[[二本松氏#高倉氏|高倉氏]]祖)
* [[畠山満熈|畠山'''満'''熈]]([[畠山家国]]の子・[[畠山義熈|義熈]]の子)
* [[畠山満基|畠山'''満'''基]](満熈の弟、子の[[畠山教元|教元]](教基?)は[[御供衆#御供衆一覧|御供衆]])
* [[畠山満安|畠山'''満'''安]](満熈・満基の弟)
* [[畠山満純|畠山'''満'''純]]([[畠山義清]]の子)
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[肥田満昌|肥田'''満'''昌]]([[肥田氏#土岐肥田氏の代表的な人物|土岐肥田氏]])
* [[細川満元|細川'''満'''元]](管領、[[細川氏]]京兆家当主)
* [[細川満国|細川'''満'''国]](満元の弟、野州家祖)
* [[細川満之|細川'''満'''之]](備中守護家)
* [[細川満久|細川'''満'''久]](満之の子、義之の養子となり讃州家を継ぐ)
* [[細川満春|細川'''満'''春]](淡路守護家、[[細川氏春|氏春]]の子)
* [[細川満師|細川'''満'''師('''満'''俊)]](満春の子)
* [[細川満経|細川'''満'''経]](奥州家、[[細川和氏|和氏]]の孫)
* [[細川満益|細川'''満'''益]](遠州家、[[細川頼種|頼種]]の曾孫、[[細川勝益|勝益]]の祖父)
* [[松田満秀|松田'''満'''秀]]([[松田氏#奉行衆 松田氏(桓武平氏流)|室町幕臣松田氏]])
* [[宮満信|宮 '''満'''信]]([[宮氏信|氏信]]の子)
* [[山名満時|山名'''満'''時]]
* [[山名満幸|山名'''満'''幸]]
* [[河口満氏|山名'''満'''氏]](河口満氏(山名河口家祖)、[[山名氏清]]の子)
* [[結城満藤|結城'''満'''藤]](もと古山氏、義満の寵臣、[[山城国]]守護)
* [[湯川満春|湯川'''満'''春]](紀伊国衆、詮春(詮光)の子)
* [[吉見満隆|吉見'''満'''隆]]([[吉見氏]])
* [[六角満高|六角'''満'''高]](※一説によれば義満の実弟)
* [[六角満綱|六角'''満'''綱]](満高の子、義満の娘婿)
</div>{{clear|left}}
== 関連作品 ==
; アニメ
* 1975年-1982年(昭和50年-57年)に放映されたTVアニメ『[[一休さん (テレビアニメ)|一休さん]]』([[東映アニメーション|東映動画]]製作)では、将軍として義満(声優:[[キートン山田]])が登場する。史実に基づく有能な人物・一休と対立する立場としての側面も見せるが、総じてわがままで間の抜けた面も多い[[コミカル]]な感じのイメージで描写される。
* 『[[ねこねこ日本史#テレビアニメ|ねこねこ日本史]]』([[Eテレ]]、[[ジョーカーフィルムズ]]制作、声優:[[小林ゆう]]、祖父の足利尊氏の役も同役)
* 『[[犬王 (アニメ映画)|犬王]]』(2022年公開のアニメ映画。原作は[[古川日出男]]の小説『平家物語 犬王の巻』(2017年、河出書房新社)、声優:[[柄本佑]])
; 小説
* [[北方謙三]]『陽炎の旗』(新潮社/新潮文庫、1991年)
* [[山田風太郎]]『[[柳生十兵衛死す]]』(小学館文庫、1992年)
* [[安部龍太郎]]「バサラ将軍」(文藝春秋『室町花伝』/文春文庫『バサラ将軍』収録、1995年)
* [[平岩弓枝]]『獅子の座 <small>足利義満伝</small>』(中央公論新社/文春文庫、2000年)
* [[朝松健]]『一休暗夜行』(2001年、光文社文庫)
* [[鯨統一郎]]『とんち探偵一休さん 金閣寺に密室』(2000年4月 祥伝社ノン・ノベル / 2002年9月 祥伝社文庫)
* {{ Citation | 和書
| last=阿部
| first=暁子
| author-link=阿部暁子
| title=室町繚乱 義満と世阿弥と吉野の姫君
| publisher=集英社
| series=集英社文庫
| year=2018
| isbn=978-4087456950
}}
; 漫画
* [[坂口尚]]『[[あっかんべェ一休]]』(講談社、1993年 - 1996年)
* [[そにしけんじ]]『[[ねこねこ日本史]]』(実業之日本社、第4巻収録)
; テレビドラマ
* 『[[一休さん (2012年のテレビドラマ)|一休さん]]』(2012年、フジテレビ、演:[[東山紀之]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=臼井|first=信義|authorlink=臼井信義|title=足利義満|series=人物叢書|edition=新装|publisher=吉川弘文館|year=1989|isbn=4-642-05150-3}}
* {{Citation|和書|last=今谷|first=明|authorlink=今谷明|title=室町の王権 足利義満の王権簒奪計画|series=中公新書|year=1990|isbn=4-12-100978-9}}
* {{Citation|和書|last=佐藤|first=進一|authorlink=佐藤進一|title=足利義満 中世王権への挑戦|series=平凡社ライブラリー|year=1994|isbn=4-582-76062-7}}
* {{Citation|和書|last=桜井|first=英治|authorlink=桜井英治|title=室町人の精神 日本の歴史12|series=講談社学術文庫|year=2009|isbn=978-4062919128}}
* {{Citation|和書|last=早島|first=大祐|authorlink=早島大祐|title=室町幕府論|series=[[講談社選書メチエ]]|year=2010|isbn=978-4062584876}}
* {{Citation|和書|last=小川|first=剛生|authorlink=小川剛生|title=足利義満—公武に君臨した室町将軍|series=中公新書|year=2012|isbn=978-4121021793}}
* {{Cite journal|和書|author=久水俊和|title=室町時代の改元における公武関係|journal=年報中世史研究|issue=34号|year=2009}}/改題所収:{{Citation|和書|last=久水|first=俊和|chapter=改元をめぐる公家と武家|title=室町期の朝廷公事と公武関係|publisher=岩田書院|year=2011|isbn=978-4-87294-705-2}}
* {{Citation|和書|editor1-last=榎原|editor1-first=雅治|editor1-link=榎原雅治|editor2-last=清水|editor2-first=克行|editor2-link=清水克行|title=室町幕府将軍列伝|publisher=[[戎光祥出版]]|year=2017|isbn=978-4-86403-247-6}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ashikaga_Yoshimitsu}}
* [[朝鮮通信使]] - 足利義満が朝鮮と対等の外交関係を開いた。
* 善福寺 - 岡山県井原市にある寺院。境内に足利義満奉納の石塔婆がある。
* [[吉備津神社]] - 義満の命により再建。
* [[大草流庖丁道]]
{{足利宗家歴代当主|||第10代}}
{{征夷大将軍|1368年 - 1394年}}
{{室町幕府将軍}}
{{歴代太政大臣}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あしかか よしみつ}}
[[Category:足利義満|*]]
[[Category:室町幕府の征夷大将軍|よしみつ]]
[[Category:室町・安土桃山時代の僧]]
[[Category:日本の禅僧 (臨済宗)]]
[[Category:日本の貿易立国論者]]
[[Category:南北朝時代の武将]]
[[Category:足利義詮の子女|よしみつ]]
[[Category:足利将軍家|よしみつ]]
[[Category:従一位受位者]]
[[Category:能に関連する人物]]
[[Category:蹴鞠に関する人物]]
[[Category:中世LGBTの人物]]
[[Category:鹿苑寺]]
[[Category:14世紀アジアの統治者]]
[[Category:15世紀アジアの統治者]]
[[Category:14世紀日本の政治家]]
[[Category:15世紀日本の政治家]]
[[Category:1358年生]]
[[Category:1408年没]]
|
2003-07-09T00:25:16Z
|
2023-12-24T15:07:26Z
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"Template:基礎情報 武士"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80
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高松塚古墳
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高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年 - 710年)に築造された終末期古墳で、直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
墳丘は2009年に築造当初の形状に仮整備され、一般に公開されている。一方、壁画が描かれた石室は、2007年に歴史公園内の修理施設に移され、2020年3月に保存修理が完了した。今後は古墳外に新設される施設で管理される予定である。
高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰と関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。
古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、文化庁はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。壁画発見からほどなく高松塚古墳応急保存対策調査会が設置され、発見から1か月も経たない1972年4月6日と4月17日に初の学術調査が実施された。また、応急保存対策調査会とは別に、考古学、美術史、保存科学などの専門家から構成される高松塚古墳総合学術調査会が設置され、1972年10月に同調査会による学術調査が実施された。
なお、高松塚古墳の埋葬施設は考古学的分類では「横口式石槨」(よこぐちしきせっかく)と呼ばれるものであるが、本項ではより一般的な「石室」の語を用いる。
古墳の年代は、盗掘を免れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期694年 - 710年の間だと確定された。
被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。
石室は凝灰岩の切石を組み立てたもので、南側に墓道があり、南北方向に長い平面をもっている。石室の寸法は南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cm(いずれも内法寸法)であり、大人2人がかがんでやっと入れる程度の狭小な空間である。横口式石槨と呼ばれる系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造ってある。横口式石槨の系譜には、鬼の俎板(まないた)・厠(かわや)、斉明陵と推測されている牽牛子塚古墳、野口王墓(天武・持統陵)、キトラ古墳などが入り、7世紀前半の中頃から8世紀初頭まで続いている。
壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前(南側)から男子群像、四神のうちの青龍、その上に日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前(南側)から男子群像、四神のうちの白虎、その上に月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像は一部を除いて道具を携えていた。女子が如意(にょい)・円翳(えんえい)・払子(ほっす)を、男子が胡床(こしょう)・毬杖(ぎっちょう)・蓋(きぬがさ)・武具・鞄を持ち、それらは「貞観儀式」にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。
奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと考えられている。天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。
東西の日月は、その手前に雲海に浮かぶように聳え立つ山々が描かれている。日には金箔が、月には銀箔が貼られていた痕跡があった。発掘調査時には、その大部分が失われており、鎌倉時代などの盗掘者によって人為的に削り取られたものと考えられている。
壁画について、発掘当初から、高句麗古墳群(世界遺産)と比較する研究がなされている。四神はそもそも高句麗様式の古墳に特徴的なモチーフであるが、高松塚古墳およびキトラ古墳では高句麗の画風とは異なった日本独自の画風で四神図が描かれていることが指摘されている一方で、天空図に関しては、高句麗から伝来した原図を用いた可能性が指摘されている。また、女子群像の服装は、高句麗古墳の愁撫塚や舞踊塚の壁画の婦人像の服装と相似することが指摘されている。
石室に安置されていた棺は、わずかに残存していた残片から、漆塗り木棺であったことがわかった。石室は鎌倉時代頃に盗掘にあっていたが、副葬品や棺の一部が残っていた。出土品は漆塗り木棺の残片のほか、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀金具、海獣葡萄鏡、玉類(ガラス製、琥珀製)などがある。中でも隋唐鏡の様式をもつ海獣葡萄鏡と、棺の装飾に使われていた金銅製透飾金具がよく知られる。
高松塚古墳出土品
発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981年以降年1回の定期点検を行ってきた。しかし、2002年から2003年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004年に明らかにされた。
高松塚古墳壁画のカビによる劣化が一般に知られるようになったのは、文化庁が2004年6月に出版した『国宝高松塚古墳壁画』により現状が明らかになり、新聞で大々的に報道されてからである。1972年の壁画発見当時、石室内には南壁の盗掘孔から流れ込んだ土砂が堆積しており、東壁の男子群像の右半分など、土砂や地下水の影響で画面が汚染されている部分もあったが、壁画の大部分には鮮明な色彩が残されていた。これらの壁画は切石に直接描いたものではなく、切石の上に数ミリの厚さに塗られた漆喰層の上に描かれているが、漆喰自体が脆弱化しており、剥落の危険性が懸念されていた。また、1,300年近く土中にあり、閉鎖された環境で保存されてきた石室が開口され、人が入り込むことによって温湿度などの環境変化、カビ、虫などの生物による壁画の劣化が懸念された。劣化をいかに食い止め、壁画を後世に伝えていくかについては、発見当初からさまざまに検討されていた。
石室は大人2人がかがんだ姿勢でようやく入れる程度の広さしかなく、スペースの点だけを考えても、現地での一般公開は到底不可能であった。石室内は相対湿度が100%近い高湿の環境であり、修理や調査のために人が短時間石室内に入っただけでも温度の上昇と湿度の低下をもたらした。壁画の保存方法については内外の専門家からさまざまな意見が出され、石室から壁画を剥がして別途保存する方法を含め、さまざまな案が検討されたが、最終的には石室は解体せず、壁画は現地で保存することに決した。
その後、石室南側の前室部分に1974年から空調設備を備えた保存施設の建設が始まり、1976年3月に完成をみた。この保存施設は前室、準備室、機械室からなり、石室内部の温湿度をモニターしつつ、前室内の温湿度をそれに合わせて調整するものである。留意すべき点は、この保存施設は、古墳の石室内の温湿度を直接的に制御するものではなく、石室内の自然の温湿度の変化に合わせて前室の温湿度を調整しているという点である。つまり、点検修理等のために石室に人が入る際に、外部の温湿度の影響を受けないように、保存施設内の温湿度をあらかじめ石室内と同様の条件に調整する役目をもっている。壁画の保存修理工事は1976年9月から第1次、第2次、第3次に分けて実施され、1985年をもって第3次修理が終了している。この間、1980年にカビの大量発生をみるが、この時は薬品等を用いた除去策が功を奏した。
次にカビの大量発生をみたのは2001年である。同年2月、石室と保存施設との間の取合部(とりあいぶ)と呼ばれる部分の天井崩落防止作業を行った際、作業員が防護服を着用せずに入室したことが、結果的に大量のカビ発生につながったと指摘されている。「取合部」とは、保存施設と石室の境の、土がむき出しになっている部分である。壁画の劣化はこの時に突如始まったものではなく、徐々に進行していたものであるが、文化庁がカビ発生や壁画劣化の事実を公表していなかったため、国民の不信を招くこととなった。
その約1年後の2002年1月28日に西壁の損傷事故が起きた。この日、修復に当たっていた担当者の一人が誤って空気清浄機を倒し、西壁男子群像の下の余白に傷をつけた。同日、別の担当者が室内灯に接触し、西壁男子像の胸の部分の漆喰が剥落した。この2つの事故のうち、前者は絵のない余白部分についた傷であり、後者は壁画発見当時から流入土砂で汚損され、オリジナルの彩色が残らない部分であったため、石室外の土を水で溶いたもので修理がなされ、文化庁では「通常の修理」の範囲内であるとして、これらの事故を公表していなかった。
2003年3月、国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会が設置され、翌2004年6月には「緊急」を「恒久」に変えた国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会が発足した。同じ2004年6月には『国宝高松塚古墳』(文化庁監修、中央公論美術出版刊)が発刊され、壁画の劣化、特に西壁の「白虎」の著しい劣化が明らかとなった。2004年6月20日付け「朝日新聞」大阪本社版朝刊が「白虎」の劣化を大々的に報じたことで壁画の劣化問題が一般国民の関心を引くこととなった。
壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が続けられた。特別史跡(古墳)と国宝(壁画)のいずれを守るのか議論が行われた。将来へ向けての壁画の修復と保存のあり方については、古墳の墳丘全体を保存施設で覆う方法、壁画を取り出して他の施設で恒久保存する方法など、あらゆる可能性が追求されたが、最終的に、壁画の描かれている石室をいったん解体・移動して修復し、修復完了後に元に戻すという方式が採用され、2005年6月27日、国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会において、この方法を採用することが決定された。一部には、キトラ古墳同様に壁画を剥ぎ取って古墳外で保存すべきだという意見もあるが、計画では修復後に現地に戻すことになっている。
石室を解体し、壁画の描かれた切石を取り出すということは、見方によっては、特別史跡である墳丘の破壊である。これを受けて、同年10月25日、日本考古学協会は「特別史跡高松塚古墳の保全・保護を求める声明」を出し、史跡は現地で保存されるべきであると主張した。同年8月4日、飛鳥保存財団は「現地修復要望書」を文化庁と保存対策検討会に提出、明日香村議会は同年8月11日、壁画の現地保存対策要望を決議し、文化庁に提出するなど、関係者の間には現地での保存修復を望む声も依然高かった。
2001年から2002年にかけて起きたカビの大量発生と西壁の損傷事故については第三者による調査委員会(高松塚古墳取合部天井の崩落止め工事及び石室西壁の損傷事故に関する調査委員会、座長:石沢良昭・上智大学学長)において再調査された。同委員会は2006年6月19日に報告書を国へ提出。そこでは、文化庁の縦割りセクショナリズムの弊害、情報公開への意識の低さなどが指摘されている。高松塚古墳の場合、特別史跡である古墳自体は文化庁記念物課、国宝である壁画は美術工芸課(2001年1月より「美術学芸課」と改称)の管轄であり、両者の連携が十分ではなかったとされている。2001年2月の天井崩落防止工事に伴うカビの大量発生については、作業員が滅菌した防護服を着用していなかったことが原因とされている。この工事は記念物課が発注したが、現場の管理は美術学芸課にまかせきりで、記念物課の職員は工事に一切立ち会わなかった。東京文化財研究所には工事を実施すること自体が知らされていなかった。また、防護服の着用などを定めた「保存修理マニュアル」の存在も現場に周知されておらず、結果的にカビの大量発生を招いた。しかも、カビ発生の事実が公表されたのはそれから2年も後のことであった。2002年1月には前述のとおり西壁の2箇所に損傷が生じているが、文化庁はこの事実を公表せず、傷が目立たないように補彩していた。補彩は上記の西壁の2箇所以外に東壁、北壁、天井にも行われていたがこれについても公表されなかった。また、西壁損傷事故の2年前の2000年3月21日に撮影された(損傷前の)壁画写真を「最新の写真」と偽って新聞社に提供していたことも明らかになった。
この事態を受けて、文化庁により「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策」を目的とした古墳の発掘調査が始まり、埋もれていた周溝などが発見されて古墳の本来の形状が明らかにされつつある。また、墳丘からは過去の地震によると思われる亀裂が多数発見されており、虫や雨水の進入経路になったと考えられている。
墳丘の発掘調査と石室の解体修理は2006年10月2日に開始された。2007年1月には古墳全体を覆う断熱覆屋が完成、内部の温湿度は10°C、90%に保たれた。同年3月12日には国営飛鳥歴史公園内に修理施設が完成した。石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、修復が行われることになった。4月5日には4枚の天井石のうちの1枚がクレーンで吊り上げられ、専用車両で修理施設へと移された。以後、4枚の天井石と8枚の壁石は1枚ずつ移動され、5月10日・11日には「西壁石3」と呼ばれる、「飛鳥美人」が描かれた石が移動された。最後の12枚目の壁石(西壁石1)が移動されたのは6月26日のことである。
修理中の2008年11月25日に顔料分析中、東壁女子群像の顔料部分を機材で損傷する事故を起こしている。
その後は保存施設の撤去と共に発掘調査に基づく形状の復元工事が行われ、2009年10月24日から一般公開された。墳丘の角度が急であるため、植垣と柵で囲まれており、立ち入りはできないようになっている。
2020年3月26日、12年かけた壁画の修復が終わる。
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"text": "高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年 - 710年)に築造された終末期古墳で、直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。",
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"text": "墳丘は2009年に築造当初の形状に仮整備され、一般に公開されている。一方、壁画が描かれた石室は、2007年に歴史公園内の修理施設に移され、2020年3月に保存修理が完了した。今後は古墳外に新設される施設で管理される予定である。",
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"text": "高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰と関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。",
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"text": "古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、文化庁はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。壁画発見からほどなく高松塚古墳応急保存対策調査会が設置され、発見から1か月も経たない1972年4月6日と4月17日に初の学術調査が実施された。また、応急保存対策調査会とは別に、考古学、美術史、保存科学などの専門家から構成される高松塚古墳総合学術調査会が設置され、1972年10月に同調査会による学術調査が実施された。",
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"text": "なお、高松塚古墳の埋葬施設は考古学的分類では「横口式石槨」(よこぐちしきせっかく)と呼ばれるものであるが、本項ではより一般的な「石室」の語を用いる。",
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"text": "壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前(南側)から男子群像、四神のうちの青龍、その上に日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前(南側)から男子群像、四神のうちの白虎、その上に月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像は一部を除いて道具を携えていた。女子が如意(にょい)・円翳(えんえい)・払子(ほっす)を、男子が胡床(こしょう)・毬杖(ぎっちょう)・蓋(きぬがさ)・武具・鞄を持ち、それらは「貞観儀式」にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。",
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"text": "2001年から2002年にかけて起きたカビの大量発生と西壁の損傷事故については第三者による調査委員会(高松塚古墳取合部天井の崩落止め工事及び石室西壁の損傷事故に関する調査委員会、座長:石沢良昭・上智大学学長)において再調査された。同委員会は2006年6月19日に報告書を国へ提出。そこでは、文化庁の縦割りセクショナリズムの弊害、情報公開への意識の低さなどが指摘されている。高松塚古墳の場合、特別史跡である古墳自体は文化庁記念物課、国宝である壁画は美術工芸課(2001年1月より「美術学芸課」と改称)の管轄であり、両者の連携が十分ではなかったとされている。2001年2月の天井崩落防止工事に伴うカビの大量発生については、作業員が滅菌した防護服を着用していなかったことが原因とされている。この工事は記念物課が発注したが、現場の管理は美術学芸課にまかせきりで、記念物課の職員は工事に一切立ち会わなかった。東京文化財研究所には工事を実施すること自体が知らされていなかった。また、防護服の着用などを定めた「保存修理マニュアル」の存在も現場に周知されておらず、結果的にカビの大量発生を招いた。しかも、カビ発生の事実が公表されたのはそれから2年も後のことであった。2002年1月には前述のとおり西壁の2箇所に損傷が生じているが、文化庁はこの事実を公表せず、傷が目立たないように補彩していた。補彩は上記の西壁の2箇所以外に東壁、北壁、天井にも行われていたがこれについても公表されなかった。また、西壁損傷事故の2年前の2000年3月21日に撮影された(損傷前の)壁画写真を「最新の写真」と偽って新聞社に提供していたことも明らかになった。",
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"text": "この事態を受けて、文化庁により「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策」を目的とした古墳の発掘調査が始まり、埋もれていた周溝などが発見されて古墳の本来の形状が明らかにされつつある。また、墳丘からは過去の地震によると思われる亀裂が多数発見されており、虫や雨水の進入経路になったと考えられている。",
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"text": "墳丘の発掘調査と石室の解体修理は2006年10月2日に開始された。2007年1月には古墳全体を覆う断熱覆屋が完成、内部の温湿度は10°C、90%に保たれた。同年3月12日には国営飛鳥歴史公園内に修理施設が完成した。石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、修復が行われることになった。4月5日には4枚の天井石のうちの1枚がクレーンで吊り上げられ、専用車両で修理施設へと移された。以後、4枚の天井石と8枚の壁石は1枚ずつ移動され、5月10日・11日には「西壁石3」と呼ばれる、「飛鳥美人」が描かれた石が移動された。最後の12枚目の壁石(西壁石1)が移動されたのは6月26日のことである。",
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"text": "2020年3月26日、12年かけた壁画の修復が終わる。",
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高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期に築造された終末期古墳で、直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。 墳丘は2009年に築造当初の形状に仮整備され、一般に公開されている。一方、壁画が描かれた石室は、2007年に歴史公園内の修理施設に移され、2020年3月に保存修理が完了した。今後は古墳外に新設される施設で管理される予定である。
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{{脚注の不足|date=2018年3月}}
{{日本の古墳
|名称=高松塚古墳
|所在地=奈良県高市郡明日香村平田
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|形状=二段円墳
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[[ファイル:高松塚古墳.jpg|サムネイル|280x280ピクセル|高松塚古墳]]
[[ファイル:Takamatsuzuka 2014.JPG|thumb|280px|高松塚古墳]]
'''高松塚古墳'''(たかまつづかこふん)は、[[奈良県]][[高市郡]][[明日香村]]([[国営飛鳥歴史公園]]内)に存在する[[古墳]]。[[藤原京|藤原京期]]([[694年]] - [[710年]])に築造された終末期古墳で、直径23 [[メートル|m]](下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の[[円墳]]である。[[1972年]]に極彩色の[[壁画]]が発見されたことで一躍注目されるようになった。
墳丘は[[2009年]]に築造当初の形状に仮整備され、一般に公開されている<ref>{{cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG22HAW_S6A320C1CR8000/ |title=保存公開施設、墳丘近くに建設へ 高松塚古墳の国宝壁画 |newspaper=日本経済新聞 |date=2016-03-23 }}</ref>。一方、壁画が描かれた石室は、2007年に歴史公園内の修理施設に移され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asuka-park.go.jp/area/takamatsuzuka/tumulus/ |title=高松塚古墳 |publisher=国営飛鳥歴史公園 |accessdate=2020-04-14 }}</ref>、2020年3月に保存修理が完了した<ref>{{cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASN3V5WQNN3HPOMB005.html |title=高松塚古墳の国宝壁画、13年の修理完了 飛鳥美人など |newspaper=朝日新聞 |date=2020-03-26 }}</ref>。今後は古墳外に新設される施設で管理される予定である<ref>{{cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57265190W0A320C2AC8000/ |title=高松塚古墳壁画、12年がかりの修復が終了 |newspaper=日本経済新聞 |date=2020-03-26 }}</ref>。
==発掘調査==
高松塚古墳の発掘調査は、[[1972年]][[3月1日]]から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人が[[ショウガ]]を貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い[[切石積み|切石]]が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し[[奈良県立橿原考古学研究所]]が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった<ref>発掘のための資金は川原寺で発見された塼仏の発掘のために集められた予算50万円が流用された - 網干善教「高松塚への道」(2007年、草思社)</ref>。[[奈良県立橿原考古学研究所]]所長の[[末永雅雄]]の指揮のもと、現場での発掘は[[伊達宗泰 (考古学者)|伊達宗泰]]と[[関西大学]]助教授の[[網干善教]]を中心とした[[関西大学]]と[[龍谷大学]]の研究者・学生グループによって行われた。[[石室]]が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年[[3月21日]]のことである。古墳は[[1973年]][[4月23日]]、[[特別史跡]]に、また極彩色壁画は、[[1974年]][[4月17日]]に[[国宝]]に指定されている。
古墳は[[鎌倉時代]]頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は[[考古学]]史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、[[文化庁]]はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。壁画発見からほどなく高松塚古墳応急保存対策調査会が設置され、発見から1か月も経たない1972年[[4月6日]]と[[4月17日]]に初の学術調査が実施された。また、応急保存対策調査会とは別に、考古学、[[美術史]]、[[保存科学]]などの専門家から構成される高松塚古墳総合学術調査会が設置され、1972年10月に同調査会による学術調査が実施された。
なお、高松塚古墳の埋葬施設は考古学的分類では「[[横口式石槨]]」(よこぐちしきせっかく)と呼ばれるものであるが、本項ではより一般的な「石室」の語を用いる。
古墳の年代は、盗掘を免れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、[[藤原京|藤原京期]]694年 - 710年の間だと確定された<ref>奈良新聞 2005年2月23日「築造は藤原京期-高松塚古墳」 高松塚光源</ref>。
==被葬者==
被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。
;[[天武天皇]]の皇子説
:[[忍壁皇子]]、[[高市皇子]]、[[弓削皇子]]ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説。
:*忍壁皇子説を唱える代表的な人物は、[[直木孝次郎]]([[大阪市立大学]]名誉教授)、[[猪熊兼勝]](現[[京都橘大学]]名誉教授)、[[王仲珠]]([[中国社会科学院考古研究所]]研究員)ら。根拠は46、7歳で死亡したと見られる忍壁皇子が出土人骨の推定年齢に近いこと、副葬品、人物像の服装など。
:*高市皇子説を唱える代表的な人物は、[[原田大六]](考古学者)、[[河上邦彦]](奈良県立[[橿原考古学研究所]]副所長、現[[神戸女子大学]]教授)、[[豊田有恒]](作家)ら。
:*弓削皇子説を唱える代表的な人物は、[[菅谷文則]](現[[橿原考古学研究所]]所長、[[滋賀県立大学]]名誉教授)、[[梅原猛]](哲学者)ら。
:しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。
;臣下説
:[[岡本健一]]([[京都学園大学]]教授)、[[白石太一郎]]([[奈良大学]]教授)らは[[石上麻呂]]説を主張する。この説となると高松塚古墳は[[奈良時代]]の年代となる。
;朝鮮半島系王族説
:*[[百済王禅光]]と主張するのは[[千田稔 (歴史地理学者)|千田稔]]([[国際日本文化研究センター]]教授)。
:*[[堀田啓一]]([[高野山大学]]教授)は[[高句麗]]の王族クラスが被葬者であると主張している。
==石室・壁画==
[[File:Takamatsuzuka Kofun, replica 3D-N2.jpg|thumb|300px|right|石槨レプリカ展開図<br />{{small|[[関西大学博物館]]高松塚古墳壁画再現展示室展示。}}]]
[[画像:Asuka Byako.JPEG|thumb|200px|白虎]]
[[画像:Genbu from Takamatsuzuka.JPEG|thumb|200px|玄武]]
[[画像:Takamatsuzuka mural 2006-03-31.jpg|thumb|200px|女子群像]]
石室は[[凝灰岩]]の切石を組み立てたもので、南側に[[墓道]]があり、南北方向に長い平面をもっている。石室の寸法は南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cm(いずれも内法寸法)であり、大人2人がかがんでやっと入れる程度の狭小な空間である。[[横口式石槨]]と呼ばれる系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造ってある。横口式石槨の系譜には、鬼の俎板(まないた)・厠(かわや)、[[斉明天皇|斉明]]陵と推測されている[[牽牛子塚古墳]]、[[野口王墓]]([[天武天皇|天武]]・[[持統天皇|持統]]陵)、[[キトラ古墳]]などが入り、[[7世紀]]前半の中頃から[[8世紀]]初頭まで続いている。
壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの[[漆喰]]を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方[[四神]]および星辰([[星座]])である。東壁には手前(南側)から男子群像、四神のうちの[[青竜|青龍]]、その上に日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前(南側)から男子群像、四神のうちの[[白虎]]、その上に月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている<ref>{{Cite web|和書|author=柳沢伊佐男 |date=2013-04-11 |url=http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/152158.html |title=時論公論 「高松塚古墳壁画 保存の議論正念場」 |work=時論公論 |publisher=NHK解説委員室 |accessdate=2013-04-11}}</ref>。人物群像は一部を除いて道具を携えていた。女子が如意(にょい)・円翳(えんえい)・払子(ほっす)を、男子が胡床(こしょう)・毬杖(ぎっちょう)・蓋(きぬがさ)・武具・鞄を持ち、それらは「[[貞観儀式]]」にみられる元日朝賀の儀式に列する[[舎人]]ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。
奥の北壁には四神のうちの[[玄武]]が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する[[朱雀]]が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと考えられている。天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる[[紫微垣]]、その周囲には[[二十八宿]]を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。
東西の日月は、その手前に雲海に浮かぶように聳え立つ山々が描かれている。日には金箔が、月には銀箔が貼られていた痕跡があった。発掘調査時には、その大部分が失われており、鎌倉時代などの盗掘者によって人為的に削り取られたものと考えられている。
壁画について、発掘当初から、[[高句麗古墳群]]([[世界遺産]])と比較する研究がなされている<ref>「高松塚壁画古墳: 朝日シンポジウム」末永雅雄、井上光貞 編 共著 朝日新聞社 1972年(昭和47年)
なお、[[末永雅雄]]は橿原考古学研究所初代所長。関西大学教授、文化勲章受章。[[井上光貞]]は国立歴史民俗博物館初代館長。東京大学教授、紫綬褒章受章</ref>。四神はそもそも高句麗様式の古墳に特徴的なモチーフであるが、高松塚古墳および[[キトラ古墳]]では高句麗の画風とは異なった日本独自の画風で四神図が描かれていることが指摘されている一方で、天空図に関しては、高句麗から伝来した原図を用いた可能性が指摘されている<ref>奈良新聞 高松塚光源-高松塚古墳壁画発見30年 第二部 被葬者の迷宮 〔2〕高句麗の画題に共通性 [http://www.nara-np.co.jp/special/takamatu/vol_02c_02.html]</ref>。また、女子群像の服装は、高句麗古墳の愁撫塚や舞踊塚の壁画の婦人像の服装と相似することが指摘されている<ref>「宮都と木簡」岸 俊男著 吉川弘文館 1977年(昭和52年)</ref>。
石室に安置されていた[[棺]]は、わずかに残存していた残片から、漆塗り木棺であったことがわかった。石室は鎌倉時代頃に盗掘にあっていたが、副葬品や棺の一部が残っていた。出土品は漆塗り木棺の残片のほか、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀金具、[[海獣葡萄鏡]]、玉類([[ガラス]]製、[[琥珀]]製)などがある。中でも[[隋唐鏡]]の様式をもつ海獣葡萄鏡と、棺の装飾に使われていた金銅製透飾金具がよく知られる。
<gallery>
ファイル:高松塚古墳壁画 (複製).JPG|壁画全景(複製)<br />{{small|[[関西大学博物館]]高松塚古墳壁画再現展示室展示。}}
</gallery>
== 文化財 ==
=== 特別史跡 ===
*高松塚古墳
=== 国宝 ===
*高松塚古墳壁画 4面
=== 重要文化財 ===
高松塚古墳出土品
*一、棺関係遺物
**金銅製透飾金具 1箇
**金銅製円形飾金具 6箇
**金銅製六花文座金具 2箇
**銅製座金具 6箇
**銅製角釘 一括
**漆塗木棺破片 一括
*一、銀荘唐様大刀金具類 9箇
*一、海獣葡萄鏡 1面
*一、玉類
**ガラス製粟玉 936箇
**ガラス製丸玉 6箇
**琥珀製丸玉 2箇
*附:土器類(土師器、須恵器、瓦器等)一括
==壁画の劣化、今後の課題==
発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、[[文化庁]]が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして[[1981年]]以降年1回の定期点検を行ってきた。しかし、[[2002年]]から[[2003年]]にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入や[[カビ]]の発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが[[2004年]]に明らかにされた。
高松塚古墳壁画のカビによる劣化が一般に知られるようになったのは、文化庁が2004年6月に出版した『国宝高松塚古墳壁画』により現状が明らかになり、新聞で大々的に報道されてからである。1972年の壁画発見当時、石室内には南壁の盗掘孔から流れ込んだ土砂が堆積しており、東壁の男子群像の右半分など、土砂や地下水の影響で画面が汚染されている部分もあったが、壁画の大部分には鮮明な色彩が残されていた。これらの壁画は切石に直接描いたものではなく、切石の上に数ミリの厚さに塗られた漆喰層の上に描かれているが、漆喰自体が脆弱化しており、剥落の危険性が懸念されていた。また、1,300年近く土中にあり、閉鎖された環境で保存されてきた石室が開口され、人が入り込むことによって温湿度などの環境変化、[[カビ]]、虫などの生物による壁画の劣化が懸念された。劣化をいかに食い止め、壁画を後世に伝えていくかについては、発見当初からさまざまに検討されていた。
石室は大人2人がかがんだ姿勢でようやく入れる程度の広さしかなく、スペースの点だけを考えても、現地での一般公開は到底不可能であった。石室内は[[相対湿度]]が100%近い高湿の環境であり、修理や調査のために人が短時間石室内に入っただけでも温度の上昇と湿度の低下をもたらした。壁画の保存方法については内外の専門家からさまざまな意見が出され、石室から壁画を剥がして別途保存する方法を含め、さまざまな案が検討されたが、最終的には石室は解体せず、壁画は現地で保存することに決した。
その後、石室南側の前室部分に[[1974年]]から空調設備を備えた保存施設の建設が始まり、[[1976年]]3月に完成をみた。この保存施設は前室、準備室、機械室からなり、石室内部の温湿度をモニターしつつ、前室内の温湿度をそれに合わせて調整するものである。留意すべき点は、この保存施設は、古墳の石室内の温湿度を直接的に制御するものではなく、石室内の自然の温湿度の変化に合わせて前室の温湿度を調整しているという点である。つまり、点検修理等のために石室に人が入る際に、外部の温湿度の影響を受けないように、保存施設内の温湿度をあらかじめ石室内と同様の条件に調整する役目をもっている。壁画の保存修理工事は[[1976年]]9月から第1次、第2次、第3次に分けて実施され、[[1985年]]をもって第3次修理が終了している。この間、[[1980年]]にカビの大量発生をみるが、この時は薬品等を用いた除去策が功を奏した。
次にカビの大量発生をみたのは[[2001年]]である。同年2月、石室と保存施設との間の取合部(とりあいぶ)と呼ばれる部分の天井崩落防止作業を行った際、作業員が防護服を着用せずに入室したことが、結果的に大量のカビ発生につながったと指摘されている。「取合部」とは、保存施設と石室の境の、土がむき出しになっている部分である。壁画の劣化はこの時に突如始まったものではなく、徐々に進行していたものであるが、文化庁がカビ発生や壁画劣化の事実を公表していなかったため、国民の不信を招くこととなった。
その約1年後の[[2002年]][[1月28日]]に西壁の損傷事故が起きた。この日、修復に当たっていた担当者の一人が誤って空気清浄機を倒し、西壁男子群像の下の余白に傷をつけた。同日、別の担当者が室内灯に接触し、西壁男子像の胸の部分の漆喰が剥落した。この2つの事故のうち、前者は絵のない余白部分についた傷であり、後者は壁画発見当時から流入土砂で汚損され、オリジナルの彩色が残らない部分であったため、石室外の土を水で溶いたもので修理がなされ、文化庁では「通常の修理」の範囲内であるとして、これらの事故を公表していなかった。
[[2003年]]3月、国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会が設置され、翌[[2004年]]6月には「緊急」を「恒久」に変えた国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会が発足した。同じ2004年6月には『国宝高松塚古墳』(文化庁監修、[[中央公論美術出版]]刊)が発刊され、壁画の劣化、特に西壁の「白虎」の著しい劣化が明らかとなった<ref>同書の序で文化庁長官(当時)の[[河合隼雄]]は「30年を経ても壁画は大きな損傷あるいは褪色もなく保存されており」と記しており、事態への認識の低さがうかがえる</ref>。[[2004年]][[6月20日]]付け「[[朝日新聞]]」大阪本社版朝刊が「白虎」の劣化を大々的に報じたことで壁画の劣化問題が一般国民の関心を引くこととなった。
壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が続けられた。特別史跡(古墳)と国宝(壁画)のいずれを守るのか議論が行われた。将来へ向けての壁画の修復と保存のあり方については、古墳の墳丘全体を保存施設で覆う方法、壁画を取り出して他の施設で恒久保存する方法など、あらゆる可能性が追求されたが、最終的に、壁画の描かれている石室をいったん解体・移動して修復し、修復完了後に元に戻すという方式が採用され、[[2005年]][[6月27日]]、国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会において、この方法を採用することが決定された。一部には、[[キトラ古墳]]同様に壁画を剥ぎ取って古墳外で保存すべきだという意見もあるが、計画では修復後に現地に戻すことになっている。
石室を解体し、壁画の描かれた切石を取り出すということは、見方によっては、特別史跡である墳丘の破壊である。これを受けて、同年[[10月25日]]、[[日本考古学協会]]は「特別史跡高松塚古墳の保全・保護を求める声明」を出し、史跡は現地で保存されるべきであると主張した。同年[[8月4日]]、[[飛鳥保存財団]]は「現地修復要望書」を文化庁と保存対策検討会に提出、明日香村議会は同年[[8月11日]]、壁画の現地保存対策要望を決議し、文化庁に提出するなど、関係者の間には現地での保存修復を望む声も依然高かった。
[[2001年]]から[[2002年]]にかけて起きたカビの大量発生と西壁の損傷事故については第三者による調査委員会(高松塚古墳取合部天井の崩落止め工事及び石室西壁の損傷事故に関する調査委員会、座長:[[石沢良昭]]・[[上智大学]]学長)において再調査された。同委員会は[[2006年]][[6月19日]]に報告書を国へ提出。そこでは、文化庁の縦割りセクショナリズムの弊害、[[情報公開]]への意識の低さなどが指摘されている。高松塚古墳の場合、特別史跡である古墳自体は文化庁記念物課、国宝である壁画は美術工芸課(2001年1月より「美術学芸課」と改称)<ref>2018年10月に実施された文化庁の組織改編にともない、記念物課、美術学芸課ともに廃止されている。</ref>の管轄であり、両者の連携が十分ではなかったとされている。[[2001年]]2月の天井崩落防止工事に伴うカビの大量発生については、作業員が滅菌した防護服を着用していなかったことが原因とされている。この工事は記念物課が発注したが、現場の管理は美術学芸課にまかせきりで、記念物課の職員は工事に一切立ち会わなかった。[[東京文化財研究所]]には工事を実施すること自体が知らされていなかった。また、防護服の着用などを定めた「保存修理マニュアル」の存在も現場に周知されておらず、結果的にカビの大量発生を招いた。しかも、カビ発生の事実が公表されたのはそれから2年も後のことであった。[[2002年]]1月には前述のとおり西壁の2箇所に損傷が生じているが、文化庁はこの事実を公表せず、傷が目立たないように補彩していた。補彩は上記の西壁の2箇所以外に東壁、北壁、天井にも行われていたがこれについても公表されなかった<ref>「読売新聞」2006年5月12日付け記事</ref>。また、西壁損傷事故の2年前の[[2000年]][[3月21日]]に撮影された(損傷前の)壁画写真を「最新の写真」と偽って新聞社に提供していたことも明らかになった<ref>「読売新聞」2006年5月25日付け記事</ref><ref>[https://www.shundaichi.com/396402649422618214762270730707234603529920307123951241512427259912127024193123982030736074-takamatsu-zuka-ruins.html 「誰が国宝・高松塚古墳壁画を殺したのか?高松塚古墳石室解体にみる文化庁の体質」]</ref>。
この事態を受けて、文化庁により「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策」を目的とした古墳の発掘調査が始まり、埋もれていた周溝などが発見されて古墳の本来の形状が明らかにされつつある。また、墳丘からは過去の[[地震]]によると思われる亀裂が多数発見されており、虫や雨水の進入経路になったと考えられている。
墳丘の発掘調査と石室の解体修理は[[2006年]][[10月2日]]に開始された。[[2007年]]1月には古墳全体を覆う断熱覆屋が完成、内部の温湿度は10℃、90%に保たれた。同年[[3月12日]]には国営飛鳥歴史公園内に修理施設が完成した。石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、修復が行われることになった。[[4月5日]]には4枚の天井石のうちの1枚がクレーンで吊り上げられ、専用車両で修理施設へと移された。以後、4枚の天井石と8枚の壁石は1枚ずつ移動され、[[5月10日]]・[[5月11日|11日]]には「西壁石3」と呼ばれる、「飛鳥美人」が描かれた石が移動された。最後の12枚目の壁石(西壁石1)が移動されたのは[[6月26日]]のことである。
修理中の[[2008年]][[11月25日]]に顔料分析中、東壁女子群像の顔料部分を機材で損傷する事故を起こしている。
その後は保存施設の撤去と共に発掘調査に基づく形状の復元工事が行われ、[[2009年]][[10月24日]]から一般公開された<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1023/OSK200910230082.html よみがえる高松塚 外観復元終え24日から一般公開]、[[Asahi.com]]、[[2009年]][[10月24日]]閲覧</ref>。墳丘の角度が急であるため、植垣と柵で囲まれており、立ち入りはできないようになっている。
2020年3月26日、12年かけた壁画の修復が終わる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200326/k10012351851000.html|title=高松塚古墳の壁画 修復終了 奈良 明日香村|accessdate=2020年4月2日|publisher=NHK}}</ref>。
== 記念発行物 ==
*[[寄附金付切手|寄附金付]][[特殊切手]]: 郵便料金20円に5円の付加金付きが2種類、郵便料金に50円に10円の付加金付きが1種類、1973年3月26日に発行された。
*写真はがき 200円
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[国宝一覧]]
*[[日本の古墳一覧]]
*[[:Category:日本の古墳画像|日本の古墳画像一覧]]
*[[四神]]
*[[キトラ古墳]]
== 参考文献 ==
*大塚初重監修、森岡秀人、網干善教著『高松塚古墳』(日本の古代遺跡を掘る6)、読売新聞社、1995
*毛利和雄『高松塚古墳は守れるか 保存科学の挑戦』(NHKブックス)、日本放送出版協会、2007
== 外部リンク ==
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{{wikinews|高松塚古墳のカビ拡大、「飛鳥美人」にも被害}}
* [http://www.asukamura.jp/chosa_hokoku/takamatsuzuka/index.html 高松塚古墳情報] - 明日香村
* [http://www.nabunken.go.jp/asuka/annai/index.html 飛鳥資料館]
* [http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/TAKAMATUTUKA/takamatutuka.html 飛鳥資料館倶楽部 高松塚古墳]
* [http://www.asuka-park.go.jp/takamatsu/index.html 国営飛鳥歴史公園 高松塚古墳]
* [https://asukamura.com/?page_id=35 高松塚壁画館]
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題目
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題目(だいもく)とは、日蓮系・法華経系の宗教団体などにおいて勤行の際に用いられる南無妙法蓮華経の文句のことである。「お題目」とも言う。元来は題名(だいめい)の意であり、法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)の翻訳題(あて字)である妙法蓮華経(鳩摩羅什による訳)の五字のことを指しているが、南無(帰依するの意)を加えて七字にしても「題目」と呼ぶ。
なお、お題目は、建前の意味で使用されることもある。ここでは、上記いずれについても記載する。
「南無」はサンスクリット語のnamoの音写である。「帰命」とも訳される。
「妙法蓮華経」は鳩摩羅什が漢字に翻訳した法華経一部八巻二十八品の題目(題名)の五字である。
「妙法蓮華経」の五字を本仏の名号と見なして南無(帰命)する言葉として、「南無妙法蓮華経」すなわち漢字七字の題目が生まれた。「南無妙法蓮華経」とは、妙法蓮華経(法華経)の法・御教え(みおしえ)に帰依することである。
既に平安時代中期の天台宗では称名念仏の影響で題目も唱える様になっていたが、題目そのものが教義に組み込まれることは無かった。
題目そのものを教義に組み込んだのは日蓮が最初であり、当時流行の称名念仏への対抗策として浮上したものとみられる。
連続して「南無妙法蓮華経」と繰り返し唱える修行を「唱題(しょうだい)」という。
法華経系の宗門では、様々な修行の中、この「唱題行」を「正行」と呼び、最も重視している。他に、滝に打たれたり、断食行や無言の行を行ったりしても、それは「助行」と呼ばれ、補助的な修行方法に過ぎない。
上記の宗教的な意味を離れて使用される場合もある。
その場合の「お題目」は、「形式主義的、建前にこだわった発言」という意の否定的な意味を持つ。例えば、「ただ、お題目を繰り返すばかりじゃ無意味だ。もっと具体的な目標を示せ。」などと使用される。
また、卒業論文の研究主題の意味でもある。
富山県や石川県では歌(歌詞)の一番、二番、三番...のことを一題目(だいめ)、二題目、三題目...という。方言であることがあまり知られていない言葉のひとつである。日蓮宗(法華宗)の題目が由来とする説と、能の題目が由来とする説がある。
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題目(だいもく)とは、日蓮系・法華経系の宗教団体などにおいて勤行の際に用いられる南無妙法蓮華経の文句のことである。「お題目」とも言う。元来は題名(だいめい)の意であり、法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)の翻訳題(あて字)である妙法蓮華経(鳩摩羅什による訳)の五字のことを指しているが、南無(帰依するの意)を加えて七字にしても「題目」と呼ぶ。 なお、お題目は、建前の意味で使用されることもある。ここでは、上記いずれについても記載する。
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[[File:NAHA City Okinawa Prefecture Japan 5th September 2023 02.jpg|thumb|題目を金字で書いた碑。沖縄県[[那覇市]]の[[法華経寺 (曖昧さ回避)|法華経寺]](日蓮宗)]]
'''題目'''(だいもく)とは、[[日蓮宗|日蓮]]系・[[法華経]]系の[[宗教団体]]などにおいて[[勤行]]の際に用いられる'''[[南無妙法蓮華経]]'''の文句のことである。「お題目」とも言う。元来は'''題名'''(だいめい)の意であり、法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)の翻訳題(あて字)である'''[[法華経|妙法蓮華経]]'''([[鳩摩羅什]]による訳)の'''五字'''のことを指しているが、'''南無'''(帰依するの意)を加えて'''七字'''にしても「題目」と呼ぶ。
なお、'''お題目'''は、建前の意味で使用されることもある。ここでは、上記いずれについても記載する。
== 題目とは ==
[[File:Hokkeji_Taipei02.JPG|thumb|台湾の[[法華寺_(台北市)|法華寺]]]]
「''[[南無]]''」はサンスクリット語のnamoの音写である。「帰命」とも訳される。
「'''妙法蓮華経'''」は[[鳩摩羅什]]が漢字に翻訳した[[法華経]]一部八巻二十八品の題目(題名)の五字である。
「妙法蓮華経」の五字を'''本仏'''の名号と見なして'''南無'''(帰命)する言葉として、「'''南無妙法蓮華経'''」すなわち漢字七字の題目が生まれた。「南無妙法蓮華経」とは、妙法蓮華経(法華経)の[[法 (仏教)|'''法''']]・御教え(みおしえ)に[[帰依]]することである。
既に[[平安時代]]中期の[[天台宗]]では[[称名念仏]]の影響で題目も唱える様になっていたが、題目そのものが教義に組み込まれることは無かった。
題目そのものを教義に組み込んだのは[[日蓮]]が最初であり、当時流行の称名念仏への対抗策として浮上したものとみられる<ref>[https://ronso.co.jp/%e3%83%9f%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%81%aa%e6%97%a5%e8%93%ae%e3%80%80%ef%bc%83005%e3%80%88%e5%94%b1%e9%a1%8c%e3%81%a7%e3%80%81%e6%b3%95%e8%8f%af%e7%b5%8c%e3%81%ae%e5%86%8d%e8%88%88/ ミステリーな日蓮 #005〈唱題で、法華経の再興を目指す〉 | 論創社 ]</ref>。
<!--一般名詞であり商標登録はできないというのが通説である。但し、「南無妙法蓮華経.com」という[[国際化ドメイン名|多言語ドメイン]]は既に何者かが登録済である。-->
=== 各団体における詳細 ===
連続して「南無妙法蓮華経」と繰り返し唱える修行を「'''唱題'''(しょうだい)」という。
[[法華経]]系の宗門では、様々な[[修行]]の中、この「唱題行」を「[[正行]]」と呼び、最も重視している。他に、滝に打たれたり、断食行や無言の行を行ったりしても、それは「[[助行]]」と呼ばれ、補助的な修行方法に過ぎない。
== 慣用句 ==
上記の宗教的な意味を離れて使用される場合もある。
その場合の「お題目」は、「形式主義的、建前にこだわった発言」という意の否定的な意味を持つ。例えば、「ただ、お題目を繰り返すばかりじゃ無意味だ。もっと具体的な目標を示せ。」などと使用される。
また、[[卒業論文]]の研究主題の意味でもある。
== その他 ==
[[富山県]]や[[石川県]]では歌(歌詞)の一番、二番、三番…のことを一題目('''だいめ''')、二題目、三題目…という。方言であることがあまり知られていない言葉のひとつである。日蓮宗(法華宗)の題目が由来とする説と、能の題目が由来とする説がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
*[[法 (仏教)]]、[[正法]]
*[[法華宗]](曖昧さ回避)、[[日蓮宗]]
*[[法華経]]
*[[南無妙法蓮華経]]
*[[日蓮]]
*[[木柾]]、[[団扇太鼓]](唱題時に使われる道具)
*[[南無]]
*[[称名]]、[[念仏]]、[[称名念仏]]、[[南無阿弥陀仏]]
== 外部リンク ==
*[{{NDLDC|823934/1}} 『法華題目抄』]([[1889年]]文献)[[国立国会図書館]]
{{Buddhism2}}
{{デフォルトソート:たいもく}}
[[Category:法華系仏教]]
[[Category:法華経]]
[[Category:日本の仏教史]]
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法華経
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法華経(ほけきょう、ほっけきょう、梵: Saddharma-puṇḍarīka-sūtra)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。複数ある漢訳の中では鳩摩羅什によるものが特に普及しており、その訳名は妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)で、この略称が「法華経」である。
法華経の梵語(サンスクリット)の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra)である。逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」で、意味は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)である。
この梵語書名を、
漢訳では梵語の「白」だけが省略されて『正法華経』や『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」「蓮」が省略された表記が『法華経』である。『法華経』が『妙法蓮華経』の略称として用いられる場合が多い。
岩本訳と植木訳は、語順が逆となっている。この点について植木雅俊は、「プンダリーカ」が複合語の後半にきて前半の語を譬喩的に修飾する(持業釈)というサンスクリット文法に照らしても、欧米語の訳し方からしても、日本語訳は「白蓮のように最も優れた正しい教え」とすべきであること、鳩摩羅什は白蓮華が象徴する「最も勝れた」と「正しい」という意味を「妙」にこめて「妙法蓮華」と漢訳したことを、詳細に論じている。
漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは
の3種で、漢訳三本と称されている。
漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。
法華経の「序品第一」の説法に集まっている者の総数は京(万兆)(10の16乗)という天文学的な数である。その殆どは目に見えないヒンズー教やリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群である。原始仏典では説法をする人はゴータマ・ブッダでありそれを聞く人はブッダの弟子である出家修行者であった。しかし、法華経の説法の場に集まっている者の中心は仏弟子ではない。その99.9%以上は目に見えないヒンズー教やリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群である。説法の内容も物語や比喩を用い分かりやすい。普通法華経は菩薩や仏塔信仰を中心とした教えを説いた大乗経典の典型であると見なされてきた。しかし、説法の場に集まったリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群を見る限り法華経はヒンズー教(インド伝統の土着神崇拝宗教)の影響を受けて成立したことを示唆している。よく後半六品は、ヒンズー教の影響を受けていると主張する人がいるが、「全品一貫した思想」である。
法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である(#成立年代)。当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流を成していた。これに対し、法華経は、小乗・大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗(菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。初期仏教経典(阿含経)記載の仏陀の教えやエピソードとの差異については、聞き手のレベルにあわせた方便であったとした上で、より本質的なレベルでは、法華経の内容こそが、本来の仏陀の教えに立ち返るものであると説くとともに、地涌の菩薩たる仏教信者にとって弘通(布教)を重要な役割と位置づけ、直面するであろう法難(反対勢力からの弾圧)への心構えも説くなど、一切の衆生を救うために法華経の教えを広めていく観点を重視している点にも特色がある。『維摩経』と配役が被っているところがあり、維摩経への批判という面があったとの指摘もある。
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている。現在、日本で広く用いられている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。
また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。
経本としても流通しているが、『妙法蓮華経』全体では分量が大きいこともあり、いくつかの品を抜粋した『妙法蓮華経要品』(ようほん)も刊行されている。
前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。
さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。
後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。
本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。
『法華経』といえども異質の矛盾した思想があちこちに混入しているため、伝統仏教の一部流派では、迹門の方便品第二と本門の如来寿量品第十六(特に最後の自我偈の部分)を、『法華経』の真髄として重視した。例えば日蓮は、信者に対し、『法華経』の根幹は方便品と寿量品であり他の品はいわば枝葉なので、方便品と寿量品さえ読誦すれば他の品の教えは自然と身につく、と説いた。
28品のほか、以上の追加部分も成立しているが、偽経扱いとなり普及しなかった。「廣量天地品第二十九」は冒頭部分のみを除いて失われている。『妙法蓮華経』28品と同じくネット上でも大正新脩大蔵経データベースで閲覧できる。
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』8巻28品の、各巻ごとの内訳は以下のとおり。
『更級日記』の作者・菅原孝標女が少女時代、夢の中で僧侶から「『法華経』の第5巻を早く習いなさい」と忠告されたのに無視した挿話は有名である。第5巻には、女人成仏を説く提婆達多品や、天台系寺院の勤行で読誦される安楽行品、「本門」(後半14品)の最初の章である従地湧出品などが含まれている。
『法華経』全体の文量は膨大であるため、主要部を抜粋した『法華経要品(ようほん)』も作られ、読誦や学習に利用されている。法華経のどの章の中から、どのくらいの長さの文章を選ぶかの取捨選択は、テキストによって若干の異同がある。 以下は明治時代の『法華経要品訓読』の目次である。収録されている章について、その章の全文を載せているとは限らない。例えば「方便品第二」は冒頭の「爾時世尊・・・」から十如是までで、その後は割愛されている。 序品第一、方便品第二、欲令衆(※)、提婆達多品第十二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一、属累品第二十二、観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八、宝塔偈(見宝塔品第十一の偈文) ※「欲令衆」は方便品第二・譬喩品第三・法師品第十・見宝塔品第十一からの抜粋を再構成したもの。
日本仏教の勤行での読経では、通常、上述の『法華経要品』に選ばれた章節の一部だけを重点的に読誦する。
日蓮正宗系の勤行では「方便品第二」(冒頭の十如是まで)と「如来寿量品第十六」(特に自我偈)を読誦するが、天台宗系の勤行では「安楽行品第十四」を読誦することが多いなど、宗派ごとに違いがある。
法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でもこの様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。
代表的な説として布施浩岳が『法華経成立史』(1934年)で述べた説がある。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた。
20世紀後半になって苅谷定彦によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説が、また勝呂信静によって27品同時成立説が唱えられている。菅野博史は成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している。
奇説として福音書由来説もある。
ドナルド・ロペス (英語: Donald S. Lopez Jr. )によれば、法華経「は 明らかに高い文学性の作品の一つである。著者らは知られていない、しかし彼らはおそらく学歴の高い仏僧たちであり、当時のインドにおいて存在していた仏教の教えと喩えにおいてまったく安らいでいた。」
【成立と流布】
法華経の成立はBC50年からBC150年の間と推定されており、釈迦の没後からほぼ500年以上のちのことである。したがって法華経の教えは、 他の大乗経典と同様、歴史上のゴータマ・シッダールタ(釈迦)が直接的に説いた教えではない。この経典は、編纂した教団の置かれていた社会的状況を示唆し ているという説があるが、それによれば、この教団は社会の底辺に苦しむ人たちで構成されていたと考えられ、白蓮華(泥中に咲く)、二乗作仏(声聞・縁覚の小乗でさえも、人間でなくとも成仏できる)などを力強く主張し、経典(法華経)自身を絶対的に讃える姿勢などが、ごく自然に理解でき、般若経などのように理論的な面がほとんどないのも肯ける。ただし、このことが経典の相対的価値を表すのでないことはいうまでもない。尚、法華経には、勧持品第十三に「大乗非仏説に対する予言」がある。
現行の『鳩摩羅什訳妙法法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質であると主張する研究者もいる。そのため嘱累品までが原初の『法華経』で、あとは後世の増広部分と考える研究者もいる。しかし嘱累品は鳩摩羅什によって移動されたものであり、鳩摩羅什は、嘱累品の移動に伴って、最終章となる普賢菩薩品の最後に、書き込みをしている。添品妙法蓮華経校正時、鳩摩羅什が移動した嘱累品が元の場所に戻された。
中村元は「嘱累品第二十二までの部分は西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。この点については、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べている。下限について220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期はクシャーナ朝のヴァースデーヴァ1世(英語版)の時代で、これ以降は急激に衰退している。
『法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である。
この経は日本に伝わる前、ユーラシア大陸東部で広く流布した。先ず、インドに於いて広範に流布していたためか、サンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。
またチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読誦することを勧めている。
ネパールでは九法宝典(Navagrantha)の一つとされている。
中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。
日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが窺える。
天台宗、日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。
606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
615年には聖徳太子が法華経の注釈書『法華義疏』を著したとされる (「三経義疏」参照)。聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており、聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
平安時代末期以降に成立した『今昔物語集』では法華経の利益が多く描かれている。
法華経信仰の復興を目指したのが日蓮だった。日蓮は、南無阿弥陀仏に対抗すべく「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。
また他の鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たしていた。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。
曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探求をし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。
近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として加藤清正は法華経を納経している。
江戸期における大名家菩提寺も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、また紀伊徳川家や加藤清正らによって元よりあった池上本門寺への寄進改築も進んだ。これら大名による諸宗派の寺社寄進には、軍役奉仕である参勤交代や天下普請といった江戸幕府からの奉仕負担を少しでも大目に見てもらおうという目的もあり、また国外からの有事軍役の際に菩提寺を砦として利用することも想定していた。現実に上野戦争時の寛永寺などが幕末の動乱時に砦として活用されている。
上記の理由以外に特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され勧んで信奉するものがこぞって多くなった。
近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話小説家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(革命家)、石原莞爾(軍人)、創価教育学会(創価学会の前身)を結成した牧口常三郎、戸田城聖(両者とも元教員)らがよく知られている。
一方で西欧式の仏教研究が輸入され大乗非仏説も常識化していった。
1945年太平洋戦争での敗戦後、宗教の自由化によって、創価学会、立正佼成会といった日蓮系の教団が大きく勢力を伸ばした。
法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた。
文献学的研究では、成立年代を釈迦存命時より数百年後とする大乗非仏説論が強い。上座部仏教と大乗仏教の対立の止揚として、両者を融合させてすべてを救うことを主張するため作成されたと推測する説、西暦紀元前後、部派仏教と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説などがある
日本では、江戸時代に発行された富永仲基『出定後語』の影響に加え、西洋系の近代仏教学を導入した影響から大乗非仏説論が広く浸透した。
法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本の法華系教団では、釈迦の発言を継承していき後代に文章化したとする、釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとする、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではないとするなど、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がある。さらに一歩進んで、非仏説論が正しくても問題ないロジックを組むべきという立場もある。
『法華経』への評価は、鳩摩羅什による漢訳本、サンスクリット本の両方とも高い。
書評家の松岡正剛は、法華経のエディターシップを激賞して「法華経を読むと、いつも興奮する。/その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。」「法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。」と述べている。
昭和の仏教学者だった渡辺照宏は、「サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手で書かれた」と批判した。 これに対して、仏教思想研究家の植木雅俊は、サンスクリット原本から『法華経』を翻訳した経験をふまえ、複雑かつ精妙な掛詞を駆使した「『法華経』編纂に携わった人の教養レベルの高さに驚かされる」と激賞したうえで、「(渡辺照宏氏が)何をもってそのように結論されたのか、首を傾げてしまう」と反論している。また、歴史に実在した釈迦が説いた「原始仏教」の平等思想や人間中心主義が釈迦の死後500年のあいだに〝小乗仏教〟教団によって改竄されており、思想的に見れば『法華経』こそ「仏説」であると植木は述べる。
植木雅俊は『創価教育』で、昭和の日本で出版された岩波文庫版『法華経』には、サンスクリット本からの日本語訳も掲載されているが、誤訳が散見され、岩波文庫の誤訳の箇所を、鳩摩羅什による漢訳と比較すると、鳩摩羅什はサンスクリット文法をふまえて意味を正確にとらえ、適切な漢訳を作ったことがわかるとしている。
社会学者の橋爪大三郎は天台宗から鎌倉仏教が生まれたことを評価している。
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"text": "法華経(ほけきょう、ほっけきょう、梵: Saddharma-puṇḍarīka-sūtra)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。複数ある漢訳の中では鳩摩羅什によるものが特に普及しており、その訳名は妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)で、この略称が「法華経」である。",
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"text": "法華経の梵語(サンスクリット)の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra)である。逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」で、意味は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)である。",
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"text": "この梵語書名を、",
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"text": "漢訳では梵語の「白」だけが省略されて『正法華経』や『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」「蓮」が省略された表記が『法華経』である。『法華経』が『妙法蓮華経』の略称として用いられる場合が多い。",
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"text": "岩本訳と植木訳は、語順が逆となっている。この点について植木雅俊は、「プンダリーカ」が複合語の後半にきて前半の語を譬喩的に修飾する(持業釈)というサンスクリット文法に照らしても、欧米語の訳し方からしても、日本語訳は「白蓮のように最も優れた正しい教え」とすべきであること、鳩摩羅什は白蓮華が象徴する「最も勝れた」と「正しい」という意味を「妙」にこめて「妙法蓮華」と漢訳したことを、詳細に論じている。",
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"text": "の3種で、漢訳三本と称されている。",
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"text": "漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。",
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"text": "法華経の「序品第一」の説法に集まっている者の総数は京(万兆)(10の16乗)という天文学的な数である。その殆どは目に見えないヒンズー教やリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群である。原始仏典では説法をする人はゴータマ・ブッダでありそれを聞く人はブッダの弟子である出家修行者であった。しかし、法華経の説法の場に集まっている者の中心は仏弟子ではない。その99.9%以上は目に見えないヒンズー教やリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群である。説法の内容も物語や比喩を用い分かりやすい。普通法華経は菩薩や仏塔信仰を中心とした教えを説いた大乗経典の典型であると見なされてきた。しかし、説法の場に集まったリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群を見る限り法華経はヒンズー教(インド伝統の土着神崇拝宗教)の影響を受けて成立したことを示唆している。よく後半六品は、ヒンズー教の影響を受けていると主張する人がいるが、「全品一貫した思想」である。",
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"text": "法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である(#成立年代)。当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流を成していた。これに対し、法華経は、小乗・大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗(菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。初期仏教経典(阿含経)記載の仏陀の教えやエピソードとの差異については、聞き手のレベルにあわせた方便であったとした上で、より本質的なレベルでは、法華経の内容こそが、本来の仏陀の教えに立ち返るものであると説くとともに、地涌の菩薩たる仏教信者にとって弘通(布教)を重要な役割と位置づけ、直面するであろう法難(反対勢力からの弾圧)への心構えも説くなど、一切の衆生を救うために法華経の教えを広めていく観点を重視している点にも特色がある。『維摩経』と配役が被っているところがあり、維摩経への批判という面があったとの指摘もある。",
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"text": "鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている。現在、日本で広く用いられている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。",
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"text": "また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。",
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"text": "経本としても流通しているが、『妙法蓮華経』全体では分量が大きいこともあり、いくつかの品を抜粋した『妙法蓮華経要品』(ようほん)も刊行されている。",
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"text": "前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。",
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"text": "さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。",
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"text": "後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。",
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"text": "本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。",
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"text": "説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。",
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"text": "『法華経』といえども異質の矛盾した思想があちこちに混入しているため、伝統仏教の一部流派では、迹門の方便品第二と本門の如来寿量品第十六(特に最後の自我偈の部分)を、『法華経』の真髄として重視した。例えば日蓮は、信者に対し、『法華経』の根幹は方便品と寿量品であり他の品はいわば枝葉なので、方便品と寿量品さえ読誦すれば他の品の教えは自然と身につく、と説いた。",
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"text": "28品のほか、以上の追加部分も成立しているが、偽経扱いとなり普及しなかった。「廣量天地品第二十九」は冒頭部分のみを除いて失われている。『妙法蓮華経』28品と同じくネット上でも大正新脩大蔵経データベースで閲覧できる。",
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"text": "鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』8巻28品の、各巻ごとの内訳は以下のとおり。",
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"text": "『更級日記』の作者・菅原孝標女が少女時代、夢の中で僧侶から「『法華経』の第5巻を早く習いなさい」と忠告されたのに無視した挿話は有名である。第5巻には、女人成仏を説く提婆達多品や、天台系寺院の勤行で読誦される安楽行品、「本門」(後半14品)の最初の章である従地湧出品などが含まれている。",
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"text": "『法華経』全体の文量は膨大であるため、主要部を抜粋した『法華経要品(ようほん)』も作られ、読誦や学習に利用されている。法華経のどの章の中から、どのくらいの長さの文章を選ぶかの取捨選択は、テキストによって若干の異同がある。 以下は明治時代の『法華経要品訓読』の目次である。収録されている章について、その章の全文を載せているとは限らない。例えば「方便品第二」は冒頭の「爾時世尊・・・」から十如是までで、その後は割愛されている。 序品第一、方便品第二、欲令衆(※)、提婆達多品第十二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一、属累品第二十二、観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八、宝塔偈(見宝塔品第十一の偈文) ※「欲令衆」は方便品第二・譬喩品第三・法師品第十・見宝塔品第十一からの抜粋を再構成したもの。",
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"text": "日本仏教の勤行での読経では、通常、上述の『法華経要品』に選ばれた章節の一部だけを重点的に読誦する。",
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"text": "日蓮正宗系の勤行では「方便品第二」(冒頭の十如是まで)と「如来寿量品第十六」(特に自我偈)を読誦するが、天台宗系の勤行では「安楽行品第十四」を読誦することが多いなど、宗派ごとに違いがある。",
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"text": "法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でもこの様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。",
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"text": "代表的な説として布施浩岳が『法華経成立史』(1934年)で述べた説がある。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた。",
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"text": "20世紀後半になって苅谷定彦によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説が、また勝呂信静によって27品同時成立説が唱えられている。菅野博史は成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している。",
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"text": "奇説として福音書由来説もある。",
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"text": "ドナルド・ロペス (英語: Donald S. Lopez Jr. )によれば、法華経「は 明らかに高い文学性の作品の一つである。著者らは知られていない、しかし彼らはおそらく学歴の高い仏僧たちであり、当時のインドにおいて存在していた仏教の教えと喩えにおいてまったく安らいでいた。」",
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"text": "【成立と流布】",
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"text": "中村元は「嘱累品第二十二までの部分は西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。この点については、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べている。下限について220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期はクシャーナ朝のヴァースデーヴァ1世(英語版)の時代で、これ以降は急激に衰退している。",
"title": "成立年代"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "『法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である。",
"title": "成立年代"
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"text": "この経は日本に伝わる前、ユーラシア大陸東部で広く流布した。先ず、インドに於いて広範に流布していたためか、サンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。",
"title": "流布"
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"text": "またチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読誦することを勧めている。",
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"text": "ネパールでは九法宝典(Navagrantha)の一つとされている。",
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"text": "中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。",
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"text": "日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが窺える。",
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"text": "天台宗、日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。",
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"text": "606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。",
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"text": "615年には聖徳太子が法華経の注釈書『法華義疏』を著したとされる (「三経義疏」参照)。聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており、聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。",
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"text": "最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。",
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"text": "平安時代末期以降に成立した『今昔物語集』では法華経の利益が多く描かれている。",
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"text": "法華経信仰の復興を目指したのが日蓮だった。日蓮は、南無阿弥陀仏に対抗すべく「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。",
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"text": "また他の鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たしていた。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。",
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"text": "曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探求をし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。",
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"text": "近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として加藤清正は法華経を納経している。",
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"text": "江戸期における大名家菩提寺も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、また紀伊徳川家や加藤清正らによって元よりあった池上本門寺への寄進改築も進んだ。これら大名による諸宗派の寺社寄進には、軍役奉仕である参勤交代や天下普請といった江戸幕府からの奉仕負担を少しでも大目に見てもらおうという目的もあり、また国外からの有事軍役の際に菩提寺を砦として利用することも想定していた。現実に上野戦争時の寛永寺などが幕末の動乱時に砦として活用されている。",
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"text": "上記の理由以外に特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され勧んで信奉するものがこぞって多くなった。",
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"text": "近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話小説家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(革命家)、石原莞爾(軍人)、創価教育学会(創価学会の前身)を結成した牧口常三郎、戸田城聖(両者とも元教員)らがよく知られている。",
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"text": "一方で西欧式の仏教研究が輸入され大乗非仏説も常識化していった。",
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"text": "1945年太平洋戦争での敗戦後、宗教の自由化によって、創価学会、立正佼成会といった日蓮系の教団が大きく勢力を伸ばした。",
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"text": "法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた。",
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"text": "文献学的研究では、成立年代を釈迦存命時より数百年後とする大乗非仏説論が強い。上座部仏教と大乗仏教の対立の止揚として、両者を融合させてすべてを救うことを主張するため作成されたと推測する説、西暦紀元前後、部派仏教と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説などがある",
"title": "経典としての位置づけ"
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"text": "日本では、江戸時代に発行された富永仲基『出定後語』の影響に加え、西洋系の近代仏教学を導入した影響から大乗非仏説論が広く浸透した。",
"title": "経典としての位置づけ"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本の法華系教団では、釈迦の発言を継承していき後代に文章化したとする、釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとする、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではないとするなど、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がある。さらに一歩進んで、非仏説論が正しくても問題ないロジックを組むべきという立場もある。",
"title": "経典としての位置づけ"
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"text": "『法華経』への評価は、鳩摩羅什による漢訳本、サンスクリット本の両方とも高い。",
"title": "経典としての位置づけ"
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"text": "書評家の松岡正剛は、法華経のエディターシップを激賞して「法華経を読むと、いつも興奮する。/その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。」「法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。」と述べている。",
"title": "経典としての位置づけ"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "昭和の仏教学者だった渡辺照宏は、「サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手で書かれた」と批判した。 これに対して、仏教思想研究家の植木雅俊は、サンスクリット原本から『法華経』を翻訳した経験をふまえ、複雑かつ精妙な掛詞を駆使した「『法華経』編纂に携わった人の教養レベルの高さに驚かされる」と激賞したうえで、「(渡辺照宏氏が)何をもってそのように結論されたのか、首を傾げてしまう」と反論している。また、歴史に実在した釈迦が説いた「原始仏教」の平等思想や人間中心主義が釈迦の死後500年のあいだに〝小乗仏教〟教団によって改竄されており、思想的に見れば『法華経』こそ「仏説」であると植木は述べる。",
"title": "経典としての位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "植木雅俊は『創価教育』で、昭和の日本で出版された岩波文庫版『法華経』には、サンスクリット本からの日本語訳も掲載されているが、誤訳が散見され、岩波文庫の誤訳の箇所を、鳩摩羅什による漢訳と比較すると、鳩摩羅什はサンスクリット文法をふまえて意味を正確にとらえ、適切な漢訳を作ったことがわかるとしている。",
"title": "経典としての位置づけ"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "社会学者の橋爪大三郎は天台宗から鎌倉仏教が生まれたことを評価している。",
"title": "経典としての位置づけ"
}
] |
法華経は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。複数ある漢訳の中では鳩摩羅什によるものが特に普及しており、その訳名は妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)で、この略称が「法華経」である。
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{{脚注の不足|date=2015年11月}}
{{独自研究|date=2023年10月}}
[[ファイル:Hasu1.jpg|thumb|right|140px|白い蓮の花。蓮は、泥の中に生まれても、泥に染まらず、清浄な花を咲かせる{{Efn2|法華経の 現代の解説書にはしばしば、このような写真とこのような主旨の解説が添えられている。}}。]]
{{大乗仏教}}
[[File:5th_century_Lotus_Sutra_fragment.JPG|thumb|right|200px|5世紀ごろの『法華経』従地涌出品のサンスクリット写本の断片。[[ホータン地区|ホータン]]から出土]]
'''法華経'''(ほけきょう、ほっけきょう、{{lang-sa-short|Saddharma-puṇḍarīka-sūtra}}{{refnest|name="精選版_法華経"|[https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C-132828#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典「法華経」]、小学館。}})は、[[大乗仏教]]の代表的な[[経典]]。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に[[成仏]]できるという[[仏教]]思想が説かれている<ref name="hokekyo">NHK [[100分de名著]] 法華経[新]第1回「全てのいのちは平等である」2018年4月2日放送。新版・NHK「100分de名著」ブックス、2021年6月 </ref>。[[聖徳太子]]の時代に仏教とともに[[日本]]に伝来した{{efn2|[[聖徳太子]]によって著されたとされる法華経の注釈書「法華経義疏」は、[[三経義疏]]の1つである。}}。複数ある漢訳の中では[[鳩摩羅什]]によるものが特に普及しており{{refnest|name="ニッポニカ_法華経"|[[三枝充悳]]、[https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C-132828#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)「法華経」]、小学館。}}、その訳名は'''妙法蓮華経'''(みょうほうれんげきょう)で、この略称が「'''法華経'''」である。
== 名称 ==
法華経の[[梵語]]([[サンスクリット]])の原題は『'''サッダルマ・プンダリーカ・スートラ'''』({{lang-sa-short|सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra}})である。逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」で、意味は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)である。
: 「サッ」(sad)は「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)は「[[法 (仏教)|法]]」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)は「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)は「たて糸:経」の意である。
この梵語書名を、
* [[竺法護]]は286 年に「正法華経」と漢訳した。
* [[鳩摩羅什]]は406 年に「妙法蓮華経」と漢訳した。
* [[岩本裕]]は「正しい教えの白蓮」と訳した(岩波文庫『法華経』および中央公論社版『法華経』)。
* [[植木雅俊]]は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」と訳した。
漢訳では梵語の「白」だけが省略されて『正法華経』や『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」「蓮」が省略された表記が『法華経』である。『法華経』が『妙法蓮華経』の略称として用いられる場合が多い{{Efn2|経の字をはずすと「'''[[法華]]'''」になるが、これは一般に「'''ほっけ'''」と発音する。}}。
岩本訳と植木訳は、語順が逆となっている。この点について植木雅俊は、「プンダリーカ」が複合語の後半にきて前半の語を譬喩的に修飾する(持業釈)というサンスクリット文法に照らしても、欧米語の訳し方からしても、日本語訳は「白蓮のように最も優れた正しい教え」とすべきであること、鳩摩羅什は白蓮華が象徴する「最も勝れた」と「正しい」という意味を「妙」にこめて「妙法蓮華」と漢訳したことを、詳細に論じている<ref>植木雅俊『仏教、本当の教え』中公新書、2011年、82-97頁。</ref>{{refnest|name=鈴木2000|植木雅俊、「[https://doi.org/10.4259/ibk.49.431 Saddharmapundarika の意味]」 『印度學佛教學研究』 2000 年 49 巻 1 号 p. 431-429, {{doi|10.4259/ibk.49.431}}, 日本印度学仏教学会 }}。
== 漢訳 ==
漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは
*『'''正法華経'''』10巻27品([[竺法護]]訳、286年、[[大正蔵]]263)
*『'''妙法蓮華経'''』8巻28品([[鳩摩羅什]]訳、406年、大正蔵262)<ref>[http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%93%AE%E8%8F%AF%E7%B6%93 中文维基文库『妙法蓮華経』]</ref>
*『'''添品妙法蓮華経'''』7巻27品([[闍那崛多]]・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264)
の3種で、漢訳三本と称されている。
[[File:HOUBENPON DAINI of HOKEKYOU or Lotus Sutra in Japan 方便品第二 一部 鳩摩羅什訳 法華経 妙法蓮華經.jpg|thumb|350px|鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』方便品第二(十如是まで)]]
漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が「最も優れた翻訳」{{Efn2|サンスクリット語版『法華経』を日本語に訳した仏教学者の植木雅俊も、鳩摩羅什訳の正確さを高く評価している。植木は、岩波文庫版『法華経』(1976)の岩本裕訳には誤訳が多いこと、岩本が誤訳した箇所についても鳩摩羅什は正確に訳していることを、具体例を挙げて詳述している。植木雅俊『法華経―梵漢和対照・現代語訳』(上・下、岩波書店、2008)、および植木雅俊「[https://www.soka.ac.jp/files/en/20170804_031320.pdf 絶妙だった鳩摩羅什訳―サンスクリット語から『法華経』『維摩経』を翻訳して―]」(創価研究第7号、2014)を参照。いっぽう「優れたといっても、サンスクリット語原本に忠実な訳というわけではなく、漢文として読みやすいという方がより正確であろう。方便品末尾の十如是など、鳩摩羅什の創意により原本にない文章が付け加えられた所もある。(岩本・坂本1976)」という見解もある。}}として流行し、[[天台宗|天台]]教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。{{R|鈴木2000}}
== 内容 ==
法華経の「序品第一」の説法に集まっている者の総数は京(万兆)(10の16乗)という天文学的な数である。その殆どは目に見えないヒンズー教やリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群である。原始仏典では説法をする人はゴータマ・ブッダでありそれを聞く人はブッダの弟子である出家修行者であった。しかし、法華経の説法の場に集まっている者の中心は仏弟子ではない。その99.9%以上は目に見えないヒンズー教やリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群である。説法の内容も物語や比喩を用い分かりやすい。普通法華経は菩薩や仏塔信仰を中心とした教えを説いた大乗経典の典型であると見なされてきた。しかし、説法の場に集まったリグ・ヴェーダ時代以来の神霊や鬼霊の大群を見る限り法華経はヒンズー教(インド伝統の土着神崇拝宗教)の影響を受けて成立したことを示唆している<ref>{{Cite web |title=大乗仏教-2 |url=https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou2.html |website=www.sets.ne.jp |access-date=2023-09-30}}</ref>。よく後半六品は、ヒンズー教の影響を受けていると主張する人がいるが<ref>*古寺散策 らくがき庵 堅田正夫https://mk123456.web.fc2.com/</ref>、「全品一貫した思想」である。
法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である([[#成立年代]])。当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが[[部派仏教]]の主流を成していた。これに対し、法華経は、[[小乗]]・[[大乗]]の対立を乗り越えつつ、全ての人間が[[一乗]]([[菩薩]]乗)を通じて[[平等]]に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。[[初期仏教]]経典([[阿含経]])記載の[[仏陀]]の教えやエピソードとの差異については、聞き手のレベルにあわせた[[方便]]であったとした上で、より本質的なレベルでは、法華経の内容こそが、本来の[[仏陀]]の教えに立ち返るものであると説くとともに、[[地涌の菩薩]]たる仏教信者にとって弘通(布教)を重要な役割と位置づけ、直面するであろう[[法難]](反対勢力からの弾圧)への心構えも説くなど、一切の[[衆生]]を救うために法華経の教えを広めていく観点を重視している点にも特色がある<ref>植木雅俊『法華経とは何か:その思想と背景』中公新書、2020年</ref>。『[[維摩経]]』と配役が被っているところがあり、維摩経への批判という面があったとの指摘もある<ref>{{Cite journal|和書|author=平岡聡 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.59.1_390 |title=法華経の成立に関する新たな視点:――その筋書・配役・情報源は? ―― |journal=印度學佛教學研究 |publisher=日本印度学仏教学会 |year=2010 |volume=59 |issue=1 |pages=390-382 |naid=110008574399 |doi=10.4259/ibk.59.1_390 |ISSN=0019-4344}}</ref>。
== 構成 ==
=== 迹門と本門 ===
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている{{Efn2|この28品が法華経成立当初から全て揃っていたかどうかは後述の成立年代についての議論の通り、疑問だが、少なくとも[[智顗]]の説は28品全てがはじめから揃っていたことを前提として展開されている。岩本・坂本1976。これに対して[[吉蔵]]の『法華義疏』「論品有無」は提婆達多品が欠けていたのを最終的に真諦の訳で補われたと記しており、これは[[竺道生]]や[[法雲]]の注釈書、更に[[聖徳太子]]の『[[法華義疏]]』も提婆達多品が欠けているからも、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は何らかの事情で提婆達多品が訳されなかったか欠落して27品になっていたと考えられる。井上亘は智顗の説でも南岳禅師こと[[慧思]]が諸本を対校してこれを正したとしていることから、慧思が真諦訳の提婆達多品を補って本来あるべき28品に正し、それが隋による天下平定後に中国全土に広まり、[[遣隋使]]に随行した僧侶が28品揃った経典を日本に持ち帰ったとしている<ref>井上亘「御物本『法華義疏』の成立」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P212-223.</ref>。また、[[闍那崛多]]訳によって提婆達多品が付け加えられ、現在の全28品構成となったとする説もある。闍那崛多訳が『添品妙法蓮華経』と呼ばれるのはこのためであるという。ただし、闍那崛多訳では「提婆達多品」という独立の章を立てずに「見宝塔品」の後半に編入される形をとっている。同様に「観世音菩薩普門品」の偈頌も当初は鳩摩羅什訳にはなかったが、闍那崛多によって訳出されたものが鳩摩羅什訳に移入されているとされる<ref>坂本 幸男、岩本 裕 『法華経〈上〉』 岩波文庫、1976年 P421-428.</ref><ref>金岡 秀友 『仏典の読み方』 大法輪閣、2009年 P129-135.</ref>。}}。現在、日本で広く用いられている[[智顗]](天台大師)の教説によると、前半14品を'''迹門'''(しゃくもん)、後半14品を'''本門'''(ほんもん)と分科する。迹門とは、[[出世]]した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく[[五百塵点劫]]という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の'''[[天台宗]]'''や'''[[法華宗一致派]]'''は両門を対等に重んじ、'''[[法華宗勝劣派]]'''は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。
また、[[三分]](さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。
経本としても流通しているが、『妙法蓮華経』全体では分量が大きいこともあり、いくつかの品を抜粋した『妙法蓮華経要品』(ようほん)も刊行されている。
==== 迹門 ====
前半部を'''迹門(しゃくもん)'''と呼び、[[般若経]]で説かれる'''[[大乗仏教|大乗]]'''を主題に、'''二乗作仏'''([[二乗]]も[[成仏]]が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。
さらに[[提婆達多]]の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「[[仏陀|仏]]」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する[[多宝如来]]が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後[[末法]]に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。
==== 本門 ====
後半部を'''本門(ほんもん)'''と呼び、'''久遠実成'''(くおんじつじょう。[[釈迦牟尼仏]]は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は[[久遠]]の[[五百塵点劫]]の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に[[本仏]]論問題を惹起する。
本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
説法の対象は、[[菩薩]]をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、[[末法]]愚人を導く[[法 (仏教)|法]]として'''上行菩薩'''を初めとする[[地涌の菩薩]]たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。
=== 方便品第二と如来寿量品第十六 ===
『法華経』といえども異質の矛盾した思想があちこちに混入しているため、伝統仏教の一部流派では、迹門の方便品第二と本門の如来寿量品第十六(特に最後の自我偈の部分)を、『法華経』の真髄として重視した。例えば[[日蓮]]は、信者に対し、『法華経』の根幹は方便品と寿量品であり他の品はいわば枝葉なので、方便品と寿量品さえ読誦すれば他の品の教えは自然と身につく、と説いた<ref>日蓮は「月水御書」(月経中でも仏典を読誦してもよいのか、という女性信者からの質問に対する回答の手紙)の中で「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり」「'''寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり'''。薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉、薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時時御いとまのひまにあそばすべく候」と述べている。日蓮系の仏教が日々の勤行で方便品と寿量品を読誦する根拠となっている。</ref>。
=== 妙法蓮華経二十八品一覧 ===
*前半14品(迹門)
**第1:序品(じょほん)
**第2:[[方便]]品(ほうべんぽん)
**第3:譬喩品(ひゆほん)
**第4:信解品(しんげほん)
**第5:薬草喩品(やくそうゆほん)
**第6:授記品(じゅきほん)
**第7:化城喩品(けじょうゆほん)
**第8:五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
**第9:授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
**第10:法師品(ほっしほん)
**第11:見宝塔品(けんほうとうほん)
**第12:提婆達多品(だいばだったほん)
**第13:勧持品(かんじほん)
**第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)
*後半14品(本門)
**第15:従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)
**第16:如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)
**第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)
**第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)
**第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)
**第20:[[常不軽菩薩]]品(じょうふきょうぼさつほん)
**第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)
**第22:嘱累品(ぞくるいほん)
**第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
**第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
**第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)(観音経)
**第26:陀羅尼品(だらにほん)
**第27:妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)
**第28:[[普賢菩薩]]勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)
==== その他の追加部分 ====
:*第29:廣量天地品(こうりょうてんちぼん)<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat3.php?s=&mode=detail&useid=2872_,85 妙法蓮華經廣量天地品第二十九 (No. 2872 ) in Vol. 85]</ref>
:*第30:馬明菩薩品(めみょうぼさつぼん)<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat3.php?s=&mode=detail&useid=2899_,85 妙法蓮華經馬明菩薩品第三十 (No. 2899 ) in Vol. 85]</ref>
28品のほか、以上の追加部分も成立しているが、[[偽経]]扱いとなり普及しなかった。「廣量天地品第二十九」は冒頭部分のみを除いて失われている。『妙法蓮華経』28品と同じくネット上でも[[大正新脩大蔵経]]データベースで閲覧できる。
==== 8巻と28品の対応関係 ====
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』8巻28品の、各巻ごとの内訳は以下のとおり。
* 第1巻 第1:序品 第2:方便品
* 第2巻 第3:譬喩品 第4:信解品
* 第3巻 第5:薬草喩品 第6:授記品 第7:化城喩品
* 第4巻 第8:五百弟子受記品 第9:授学無学人記品 第10:法師品 第11:見宝塔品
* 第5巻 第12:提婆達多品 第13:勧持品 第14:安楽行品 第15:従地湧出品
* 第6巻 第16:如来寿量品 第17:分別功徳品 第18:随喜功徳品 第19:法師功徳品
* 第7巻 第20:常不軽菩薩品 第21:如来神力品 第22:嘱累品 第23:薬王菩薩本事品 第24:妙音菩薩品
* 第8巻 第25:観世音菩薩普門品 第26:陀羅尼品 第27:妙荘厳王本事品 第28:普賢菩薩勧発品
『[[更級日記]]』の作者・[[菅原孝標女]]が少女時代、夢の中で僧侶から「『法華経』の第5巻を早く習いなさい」と忠告されたのに無視した挿話<ref>『更級日記』原文「夢にいと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て『法華経五の巻をとく習へ』といふと見れど、人にも語らず。習はむとも思ひかけず。」</ref>は有名である。第5巻には、女人成仏を説く提婆達多品や、[[勤行_(天台宗)#天台宗の勤行(寺院)|天台系寺院の勤行]]で読誦される安楽行品、「本門」(後半14品)の最初の章である従地湧出品などが含まれている。
==== 法華経要品 ====
[[File:法華経要品訓読 目次 Lotus Sutra Digest.jpg|thumb|『法華経要品訓読』<ref>『(改正略解)法華経要品訓読』明治20年9月20日御届/同21年6月再版/同37年9月譲受、元版人・須原屋茂兵衛、譲受発行人・鈴木荘次郎、印刷人・三功舎 鈴木耕太郎</ref>の目次]]
『法華経』全体の文量は膨大であるため、主要部を抜粋した『法華経要品(ようほん)』も作られ、読誦や学習に利用されている。法華経のどの章の中から、どのくらいの長さの文章を選ぶかの取捨選択は、テキストによって若干の異同がある。<br>
以下は明治時代の『法華経要品訓読』の目次である。収録されている章について、その章の全文を載せているとは限らない。例えば「方便品第二」は冒頭の「爾時世尊・・・」から十如是までで、その後は割愛されている。<br>
<br>
序品第一、方便品第二、欲令衆(※)、提婆達多品第十二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一、属累品第二十二、観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八、宝塔偈(見宝塔品第十一の偈文)
<br>
※「欲令衆」は方便品第二・譬喩品第三・法師品第十・見宝塔品第十一からの抜粋を再構成したもの。
==== 勤行での読誦 ====
[[File:JIGAGE of HOKEKYOU or Lotus Sutra in Japan assigned numbers 鳩摩羅什訳 法華経 如来寿量品第十六 自我偈 妙法蓮華經.jpg|thumb|200px|鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』如来寿量品第十六・自我偈。よみがなや字句は宗派により若干異なる。第83句「如意善方便」以下は法華七喩の1つ「良医病子」を指す。]]日本仏教の[[勤行]]での[[読経]]では、通常、上述の『法華経要品』に選ばれた章節の一部だけを重点的に[[読誦]]する。
[[勤行 (日蓮正宗)|日蓮正宗系の勤行]]では「方便品第二」(冒頭の十如是まで)と「如来寿量品第十六」(特に自我偈)を読誦するが、[[勤行 (天台宗)|天台宗系の勤行]]では「安楽行品第十四」を読誦することが多いなど、宗派ごとに違いがある。
=== 法華七喩(ほっけしちゆ) ===
法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でもこの様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。
#三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)
#長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)
#三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)
#化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
#衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)
#髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
#良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)
{{Main2|詳細は[[法華七喩]]の項目を}}
{{clear}}
== 成立年代 ==
[[File:Votive Stela that includes scenes from the Vimalakirti Sutra and Lotus Sutra Northern Qi Dynasty 550-577 CE Hebei Province China.jpg|thumb|[[維摩経]]と法華経の場面を含む[[北魏]](550-577)の奉納石碑。[[中国]][[河北省]]で発見。[[ペンシルベニア大学考古学人類学博物館]]で展示。]]
代表的な説として[[布施浩岳]]が『法華経成立史』([[1934年]])で述べた説がある<ref name="tsjiw">『哲学 思想事典』岩波書店、1998年、pp.1485-1486 【法華経】</ref>。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は[[紀元前1世紀]]ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした<ref name="tsjiw" />。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた<ref name="tsjiw" />。
20世紀後半になって[[苅谷定彦]]によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説<ref>苅谷定彦『法華経一仏乗の研究』1983</ref>が、また[[勝呂信静]]によって27品同時成立説<ref>『法華経の成立と思想』1993</ref>が唱えられている。[[菅野博史]]は成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している<ref name="tsjiw" />。
奇説として[[福音書]]由来説もある<ref>松下博宣[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/ 第6講:語られ得ぬ法華経の来歴 | 日経クロステック(xTECH)]</ref>。
{{日本語版にない記事リンク | ドナルド・ロペス | en | Donald S. Lopez Jr. }}によれば、法華経「は
明らかに高い文学性の作品の一つである。著者らは知られていない、しかし彼らはおそらく学歴の高い仏僧たちであり、当時のインドにおいて存在していた仏教の教えと喩えにおいてまったく安らいでいた。」{{sfn|Lopez|2016|p=7}}
'''【成立と流布】'''
法華経の成立はBC50年からBC150年の間と推定されており、釈迦の没後からほぼ500年以上のちのことである。したがって法華経の教えは、 他の大乗経典と同様、歴史上のゴータマ・シッダールタ(釈迦)が直接的に説いた教えではない。この経典は、編纂した教団の置かれていた社会的状況を示唆し ているという説があるが、それによれば、'''この教団は社会の底辺に苦しむ人たちで構成されていた'''と考えられ、白蓮華(泥中に咲く)、二乗作仏(声聞・縁覚の小乗でさえも、人間でなくとも成仏できる)などを力強く主張し、経典(法華経)自身を絶対的に讃える姿勢などが、ごく自然に理解でき、般若経などのように理論的な面がほとんどないのも肯ける。ただし、このことが経典の相対的価値を表すのでないことはいうまでもない<ref>ほっけきょう - WikiDharma</ref>。尚、法華経には、勧持品第十三に「[[大乗非仏説]]に対する予言」がある。
=== 西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説 ===
現行の『鳩摩羅什訳妙法法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質であると主張する研究者もいる。そのため嘱累品までが原初の『法華経』で、あとは後世の増広部分と考える研究者もいる{{Sfn|サンスクリット版縮訳|p=421-422}}。しかし嘱累品は鳩摩羅什によって移動されたものであり、鳩摩羅什は、嘱累品の移動に伴って、最終章となる普賢菩薩品の最後に、書き込みをしている。添品妙法蓮華経校正時、鳩摩羅什が移動した嘱累品が元の場所に戻された。
[[中村元 (哲学者)|中村元]]は「嘱累品第二十二までの部分は西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。<br>上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した<ref>宮本正尊 編『大乗仏教の成立史的研究』(昭和29年) 附録第一「大乗経典の成立年代」</ref>。この点については、[[渡辺照宏]]も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会は[[バラモン]]を中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない<ref>{{Cite book |和書 |author=渡辺照宏 |authorlink=渡辺照宏 |year=2002/6/12 |title=日本の仏教 |publisher=岩波新書 青版 |page=188 |isbn=978-4004121510 |ref=渡辺}}</ref>」と述べている。<br>下限について220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期は[[クシャーナ朝]]の{{仮リンク|ヴァースデーヴァ1世|en|Vasudeva I}}の時代で、これ以降は急激に衰退している。
『法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である<ref>植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経 (上)』岩波書店、pp.593-595</ref>。
==流布==
=== ユーラシア大陸での法華経の流布 ===
[[File:A Sanskrit manuscript of Lotus Sutra in South Turkestan Brahmi script.jpg|thumb|南[[トルキスタン]]から出土した、[[ブラーフミー文字]]の法華経写本]]
この経は日本に伝わる前、[[ユーラシア大陸]]東部で広く流布した。先ず、[[インド]]に於いて広範に流布していたためか、[[サンスクリット]]本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。
また[[チベット語]]訳、[[ウイグル]]語訳、[[西夏]]語訳、[[モンゴル]]語訳、[[満洲語]]訳、[[朝鮮語]]([[諺文]])訳などがある。これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教[[ゲルク派]]開祖[[ツォンカパ]]は主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読誦することを勧めている<ref>[http://ee.uuhp.com/~books/book.html チベット仏教書籍のご紹介]</ref>。
[[ネパール]]では九法宝典({{lang|sa|Navagrantha}})の一つとされている<ref>藤谷厚生, 「{{PDFlink|[http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/docs/toshokan/kiyou/39/kiyo2004w-01fujitani.pdf 金光明経の教学史的展開について]}}」『四天王寺国際仏教大学紀要』 平成16年度 大学院 第4号 人文社会学部 第39号 短期大学部 第47号, p.1-28(p14), {{naid|110006337539}}<!--CiNii 記載の情報と四天王寺国際仏教大学リポジトリの情報が異なっている為、国際仏教大学リポジトリから引用--></ref>。
中国[[天台宗]]では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国[[浙江省]]に有る[[天台山国清寺]]の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。
=== 日本での法華経の流布 ===
[[Image:Lotus Sutra written by Prince Shōtoku.jpg|right|thumb|100px|『法華義疏』]]
[[ファイル:Heikenoukyou.jpg|thumb|100px|『[[平家納経]]』観普賢経見返し 長寛2年([[1164年]])]]
[[File:Heike-Nokyo-Chapter-12-Lotus-Sutra.png|thumb|100px|平家納経]]
[[File:Big 方便品第二 Accordion Book of Hokekyou or Lotus Sutra printed in Edo Era 28cm 法華経 折り本 江戸期 刊本 01.jpg|thumb|100px|[[読経]]用の[[折り本]]。江戸期の両点本(経文の右側にひらがなで音読みを、左側にカタカナと返り点で[[漢文訓読]]を示す)。]]
[[日本]]では[[正倉院]]に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった[[経典]]であったことが窺える。
[[天台宗]]、[[日蓮宗]]系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「[[法華三部経]]」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『[[金光明経]]』『[[仁王経]]』と併せ「護国三部経」の一つとされた。
[[606年]](推古14年)に[[聖徳太子]]が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
: 「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)
[[615年]]には[[聖徳太子]]が法華経の注釈書『法華義疏』を著したとされる (「[[三経義疏]]」参照)。[[聖徳太子]]以来、法華経は仏教の重要な[[経典]]のひとつであると同時に、'''鎮護国家'''の観点から、特に日本国には縁の深い[[経典]]として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており<ref>[http://www.hokkeshu.jp/hokkeshu/2_02.html 法華経は佛教の生命「仏種」である。第2章 第2話] [[法華宗真門流]]</ref>、[[聖武天皇]]の皇后である'''[[光明皇后]]'''は、全国に「'''法華滅罪之寺'''(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「[[国分尼寺]]」と呼んで「法華経」を信奉した。
[[最澄]]によって日本に伝えられた[[天台宗]]は、[[明治維新]]までは[[皇室]]の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「'''天台法華宗'''」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
[[平安時代]]末期以降に成立した『[[今昔物語集]]』では法華経の利益が多く描かれている。
====鎌倉時代~戦国時代====
法華経信仰の復興を目指したのが[[日蓮]]だった。日蓮は、南無阿弥陀仏に対抗すべく「南無妙法蓮華経」の[[題目]]を唱え(唱題行)<ref>[https://ronso.co.jp/%e3%83%9f%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%81%aa%e6%97%a5%e8%93%ae%e3%80%80%ef%bc%83005%e3%80%88%e5%94%b1%e9%a1%8c%e3%81%a7%e3%80%81%e6%b3%95%e8%8f%af%e7%b5%8c%e3%81%ae%e5%86%8d%e8%88%88/ ミステリーな日蓮 #005〈唱題で、法華経の再興を目指す〉 | 論創社]</ref>、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも[[仏性]]が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、[[法華宗]]各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の[[法華宗]]は、この経の[[題目]](題名)の「妙法蓮華経」([[鳩摩羅什]]漢訳本の正式名)の五字を重んじ、'''[[南無妙法蓮華経]]'''(五字七字の題目)と唱えることを[[正行]](しょうぎょう)とした所に特色がある。
また他の[[鎌倉新仏教]]においても法華経は重要な役割を果たしていた。[[融通念仏|大念仏]]を唱え[[融通念仏宗]]の祖となる[[良忍]]は後の浄土系仏教の先駆として[[称名念仏]]を主張したが、[[華厳経]]と法華経を正依とし、[[浄土三部経]]を傍依とした。
[[曹洞宗]]の祖師である[[道元]]は、「只管打坐」の[[坐禅]]を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探求をし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。
====近世====
[[File:JIGAGE E SHŌ 1814 Buddha sees all.jpg|thumb|江戸時代には一般大衆向けの法華経の解説書も多数、刊行された。『法華自我偈絵抄』1814年]]
近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として[[加藤清正]]は法華経を納経している。
江戸期における大名家菩提寺も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、また紀伊徳川家や加藤清正らによって元よりあった池上本門寺への寄進改築も進んだ。これら大名による諸宗派の寺社寄進には、軍役奉仕である参勤交代や天下普請といった江戸幕府からの奉仕負担を少しでも大目に見てもらおうという目的もあり、また国外からの有事軍役の際に菩提寺を砦として利用することも想定していた。現実に[[上野戦争]]時の[[寛永寺]]などが幕末の動乱時に砦として活用されている。
上記の理由以外に特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され勧んで信奉するものがこぞって多くなった。
====近代====
近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた[[教典]]である。[[島地大等]]編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち[[田中智学]]の[[国柱会]]に入会した[[宮沢賢治]](詩人・童話小説家)や、[[高山樗牛]](思想家)、[[妹尾義郎]](宗教思想家)、[[北一輝]](革命家)、[[石原莞爾]](軍人)、[[創価教育学会]]([[創価学会]]の前身)を結成した[[牧口常三郎]]、[[戸田城聖]](両者とも元教員)らがよく知られている。
一方で西欧式の仏教研究が輸入され[[大乗非仏説]]も常識化していった<ref name="daijou">大南龍昇, 「[https://doi.org/10.4259/ibk.39.524 大乗経典のゴーストライター]」『印度學佛教學研究』 1991年 39巻 2号 p.524-529, 日本印度学仏教学会, {{doi|10.4259/ibk.39.524}}, {{naid|110002661557}}。</ref>。
[[1945年]][[太平洋戦争]]での敗戦後、宗教の自由化によって、[[創価学会]]、[[立正佼成会]]といった日蓮系の教団が大きく勢力を伸ばした。
法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については[[進駐軍]]の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた{{要出典|date=2011年11月}}。
[[File:Lotus Sutra (TNM N-12).jpg|thumb|left|500px|法華経の写本の例 [[東京国立博物館]]蔵([[法隆寺献納宝物]])平安時代]]
{{-}}
== 経典としての位置づけ ==
=== 文献学的研究者の立場 ===
文献学的研究では、成立年代を釈迦存命時より数百年後とする[[大乗非仏説]]論が強い。[[上座部仏教]]と[[大乗仏教]]の対立の[[止揚]]として、両者を融合させてすべてを救うことを主張するため作成されたと推測する説<ref>[https://web.archive.org/web/20180608040932/http://textview.jp/post/culture/33011 『法華経』成立の背景 | NHKテキストビュー]</ref>、西暦紀元前後、[[部派仏教]]と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説{{要出典|date=2019-12}}などがある
==== 文献学的研究に対する反応 ====
日本では、江戸時代に発行された[[富永仲基]]『[[出定後語]]』の影響に加え、西洋系の近代仏教学を導入した影響から大乗非仏説論が広く浸透した{{Sfn|柴田章延|2013|p=32}}。
法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本の法華系教団では、釈迦の発言を継承していき後代に文章化したとする<ref>[http://www.totetu.org/assets/media/paper/t171_235.pdf 「『法華経』─仏教研究の要」 M・I・ヴォロビヨヴァ = デシャトフスカヤ/江口満 訳 東洋哲学研究所]([[創価学会]])</ref>、釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとする、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではないとするなど、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がある。さらに一歩進んで、非仏説論が正しくても問題ないロジックを組むべきという立場もある{{Sfn|柴田章延|2013|p=34}}。
<!--ソース不明
[[中国]]・[[台湾]]、[[インド]]・[[ネパール]]、[[チベット]]・[[ブータン]]、[[モンゴル]]・[[ブリヤート]]・[[トゥバ]]・[[カルムイク]]等、他の大乗仏教圏諸国における諸教団・信者の間ではまったく釈尊の真説と認識され、このような文献学の営為を信者ではないものによる誹謗とみなしてほぼ黙殺、信仰を揺るがす問題には全くなっていない。-->
=== 近現代の研究者による評価 ===
『法華経』への評価は、鳩摩羅什による漢訳本、サンスクリット本の両方とも高い。
書評家の[[松岡正剛]]は、法華経のエディターシップを激賞して「法華経を読むと、いつも興奮する。/その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。」「法華経には昔から、好んで「'''一品二半'''」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。」<ref>「[https://1000ya.isis.ne.jp/1300.html 松原正剛の千夜千冊・梵漢和対照・現代語訳「法華経」岩波書店 2008[訳]植木雅俊]」閲覧日2022年4月3日</ref>と述べている。
[[昭和]]の仏教学者だった[[渡辺照宏]]は、「サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手で書かれた」<ref>岩波新書『日本の仏教』岩波新書、p.178</ref>と批判した。
これに対して、仏教思想研究家の[[植木雅俊]]は、[[サンスクリット]]原本から『法華経』を翻訳した経験をふまえ、複雑かつ精妙な掛詞を駆使した「『法華経』編纂に携わった人の教養レベルの高さに驚かされる」と激賞したうえで、「(渡辺照宏氏が)何をもってそのように結論されたのか、首を傾げてしまう」<ref>植木雅俊『今を生きるための仏教100話』平凡社新書、2019年、pp.237-238</ref>と反論している。また、歴史に実在した釈迦が説いた「原始仏教」の平等思想や人間中心主義が釈迦の死後500年のあいだに〝[[小乗|小乗仏教]]〟教団によって改竄されており、思想的に見れば『法華経』こそ「仏説」であると植木は述べる<ref>植木雅俊『今を生きるための仏教100話』平凡社新書、2019年、p.249</ref>。
植木雅俊は『創価教育』で、昭和の日本で出版された岩波文庫版『法華経』<ref>坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』岩波文庫(上中下)、1976年</ref>には、サンスクリット本からの日本語訳も掲載されているが、誤訳が散見され、岩波文庫の誤訳の箇所を、鳩摩羅什による漢訳と比較すると、鳩摩羅什はサンスクリット文法をふまえて意味を正確にとらえ、適切な漢訳を作ったことがわかるとしている<ref>
植木雅俊「絶妙だった鳩摩羅什訳―サンスクリット語から『法華経』『維摩経』を翻訳して―」(『創価教育』pp.27-61、2014年3月16日)</ref>。
[[社会学者]]の[[橋爪大三郎]]は[[天台宗]]から[[鎌倉仏教]]が生まれたことを評価している<ref>橋爪大三郎・[https://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/1220/ 法華経はどこが、最高の経典なのか]、橋爪大三郎・植木雅俊共著『ほんとうの法華経』紹介より(ちくま新書、2015年)</ref>。
== 漢訳一覧 ==
{{see also|法華部 (大正蔵)}}
* 『妙法蓮華経』 八巻 [[鳩摩羅什]]訳 ([[大正蔵]]262)
* 『正法華経』 十巻 [[竺法護]]訳 (大正蔵263)
* 『添品妙法蓮華経』 七巻 闍那崛多・笈多訳 (大正蔵264)
* 『薩曇分陀利経』 一巻 訳者不明 (大正蔵265)
* 『仏説阿惟越致遮経』 三巻 [[竺法護]]訳 (大正蔵265)
* 『不退転法輪経』 四巻 訳者不明 (大正蔵267)
* 『仏説広博厳浄不退転輪経』 六巻 智厳訳 (大正蔵268)
* 『仏説法華三昧経』 一巻 智厳訳 (大正蔵269)
* 『大法鼓経』 二巻 [[求那跋陀羅]]訳 (大正蔵270)
* 『仏説菩薩行方便境界神通変化経』 三巻 求那跋陀羅訳 (大正蔵271)
* 『大薩遮尼乾子所説経』 十巻 [[菩提留支]]訳 (大正蔵272)
* 『金剛三昧経』 一巻 訳者不明 (大正蔵273)
* 『仏説済諸方等学経』 一巻 竺法護訳 (大正蔵274)
* 『大乗方広総持経』 一巻 毘尼多流支訳 (大正蔵275)
* 『無量義経』 一巻 曇摩伽陀耶舎訳 (大正蔵276)
* 『仏説観普賢菩薩行法経』 1巻 曇無蜜多訳 (大正蔵277)
== 訳本 ==
*『新訳法華経 梵漢対照』 [[南条文雄]]・[[泉芳璟]]共訳、真宗大谷大学尋源会出版部、1913
*『漢和對照 妙法蓮華經』 [[島地大等]]、明治書院、1914年
** 復刻版 [[国書刊行会]] 1987年
*『[[国訳大蔵経]]』經部 第一巻(國譯妙法蓮華經)、國民文庫刊行會、1917年
** 復刻版 [[第一書房]] 1974年
*『国訳一切経 印度撰述部 法華部』 [[大東出版社]]、1928年 ISBN 978-4-500-00033-3
=== 主な現代語訳 ===
*『法華経 I・II 「大乗仏典」4・5』 松濤誠廉・[[長尾雅人]]・[[丹治昭義]]訳、[[中公文庫]]、2001-2002年
*# ISBN 978-4122039490
*# ISBN 978-4122039674。元版は中央公論社〈大乗仏典 インド編〉、1975-1976年
*『法華経』(上・中・下) [[岩本裕]]・[[坂本幸男]]訳注、[[岩波文庫]]、1976年。ワイド版も刊
*:上)ISBN 978-4003330418 中)ISBN 978-4003330425 下)ISBN 978-4003330432
*『法華経 現代語訳』 [[三枝充悳]]訳、[[第三文明社]]、1978年 ISBN 978-4476030679。以上は昭和後期での出版
*『法華経 「現代語訳大乗仏典」』 [[中村元 (哲学者)|中村元]]代表、[[東京書籍]]、2003年(新版)。編訳
*『法華経 現代語訳』(上・下)、[[中村瑞隆]]訳著、春秋社、1995-1998年
*『[[新国訳大蔵経]]インド撰述部 法華部 I・II』(上・下)、[[多田孝正]]ほか校註、[[大蔵出版]]、1997年
*『梵漢和対照 現代語訳 法華経』(上・下)、[[植木雅俊]]訳注、[[岩波書店]]、2008年。[[毎日出版文化賞]]受賞
*:上)ISBN 978-4000247627 下)ISBN 978-4000247634
**改訂版『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上・下)、植木雅俊訳、岩波書店、2015年。
*:上)ISBN 978-4-00-024787-0 下)ISBN 978-4-00-024788-7
*『現代日本語訳 法華経』 [[正木晃]]、[[春秋社]]、2015年。ISBN 978-4393113196。読みやすい訳本。
*『全品現代語訳 法華経』 [[大角修]]訳・解説、角川ソフィア文庫、2018年。{{ISBN2|978-4044003913}}。「無量義経」、「観普賢菩薩行法経」も収録。
*『はじめての法華経』 [[割田剛雄]]、パイインターナショナル、2013年。法華経28章をわかりやすく凝縮した抄訳。ISBN 978-4756243645
*『新解釈 現代語訳 法華経』 [[石原慎太郎]]、[[幻冬舎]]、2020年。ISBN 978-4-34-403633-8
*『改訂版 新法華経論 現代語訳と各品解説』須田晴夫、アマゾン・ペーパーバック、2022年。初版は2015年。「妙法蓮華経」の全文を現代語訳し、各品の内容を解説したもの。ISBN 979-8-40-8774647
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist2}}
===出典===
{{Reflist|30em}}32.禅と悟り https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html
*{{Citation|last1=Lopez|first1=Donald|title=The Lotus Sutra: A Biography|date=2016|publisher=Princeton University Press|isbn=978-0691152202|edition=Kindle | authorlink = w:en: Donald S. Lopez Jr.}}
*古寺散策 らくがき庵 堅田正夫 <nowiki>https://mk123456.web.fc2.com/</nowiki>
*『法華経』における〈テーゼ〉と〈アンチテーゼ〉鈴木隆泰
*giki(アマチュア仏教研究家)
*法華経の成立 近松門左衛門と広済寺
*ほっけきょう - WikiDharma
== 参考文献 ==
*『哲学 思想事典』岩波書店、1998年、【法華経】、pp.1485-1486。[[菅野博史]] 担当
* 植木雅俊『法華経とは何か:その思想と背景』中公新書、2020年11月。ISBN 978-4121026163
* {{Cite book|和書|author=植木雅俊 |title=法華経 : サンスクリット版縮訳 : 現代語訳 |publisher=KADOKAWA |date=2018-07 |series=[[角川ソフィア文庫]] |issue=21086 |NCID=BB26584892 |ISBN=978-4044004095 |id={{全国書誌番号|23095167}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029082131-00 |ref={{harvid|サンスクリット版縮訳}} }} 経典独特の重複部分を大幅に削除。
* {{Cite journal|和書|author=柴田章延 |url=https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/kyokagaku4_06.pdf&type=G&prt=4295 |format=PDF |title=日蓮宗の宗論と問答 (第十三回日蓮宗教化学研究発表大会) |journal=[https://genshu.nichiren.or.jp/publications/post-4233/ 現代宗教研究] |ISSN=0289-6974 |publisher=日蓮宗宗務院 |year=2013 |month=mar |issue=47号別冊 |pages=23-34 |naid=40020075206 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
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*[[仏教]]
*[[初期仏教]]
*[[日本の仏教]]
*[[大乗仏教]]
*[[小乗仏教]]
*[[法華三部経]]
*[[法華部 (大正蔵)]]
*[[題目]]([[南無妙法蓮華経]])
*[[木柾]]、[[団扇太鼓]]
*[[法 (仏教)]]、[[正法]]([[妙法]])
*[[法華宗]]([[門流]]ほか)
*[[天台宗]](山門派)
*[[天台寺門宗]](寺門派)
*[[本仏]]
*[[聖徳太子]]
*[[智顗]]
*[[天台山]]
*[[最澄]]
*[[日蓮]]
*[[七宝]]
*[[身延山大学]]
*[[立正大学]]
*[[サンスクリット仏典]]
}}
== 外部リンク ==
*[{{NDLDC|818267/1}} 鳩摩羅什訳『妙法蓮華経 : 冠註』] 1911年、一喝社(影印版 [[国立国会図書館]]デジタルコレクション)
*[https://kakuyomu.jp/works/16816927859316535249 法華経]
*[https://kakuyomu.jp/works/16816927859316712988 法華経の現代語訳]
*[https://archive.org/details/20220711_20220711_0758 インターネットアーカイブの法華経]
*[https://archive.org/details/20220716_20220716_0528 インターネットアーカイブの法華経の現代語訳]
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悪人正機
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悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。
阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。
「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは「阿弥陀仏の視点」による善悪である。
法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。
『仏説無量寿経』には、すべての人が苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察した法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」(意訳:わたしが仏になるとき、すべての人々が心から念仏して、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。)と説かれている。
「十方衆生」、すなわちすべての衆生が救済の対象である。また至心・信楽・欲生は、如来の願によるものである。よって自らの計らいによる善悪は、阿弥陀による救済の条件・手段にはならない。
「唯除五逆誹謗正法」(「唯除の文」)についての親鸞の了解は、曇鸞の『浄土論註』、善導の『観無量寿経疏』に依るものである。詳細は、「四十八願#唯除の文」を参照のこと。
我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。
すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない悪人だったと知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、「悪人正機」の本質である。
しかしこの事は、「欲望のままに悪事を行っても良い」と誤解されやすく注意を要する。(#本願ぼこりを参照)。
さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと『仏説無量寿経』で説かれていることは、「親鸞一人のためであった」と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、つまり我々一人一人のためであったと受け止め、称名念仏は、行ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した。 この点が、宗教者としての親鸞の独自性である。
以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。 — 『歎異抄』第3章
この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の法然が、7世紀の新羅の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。(なお、近年では『遊心安楽道』が元暁仮託の偽撰書である可能性が指摘されている。)
四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。 — 元暁『遊心安楽道』
また浄土真宗本願寺第三世覚如も、元は法然の教えであるとしている。
本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。 (中略)しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。
このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていた。
法然も『選択集』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。 しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は悪を慎み善を努めることを勧めたのである。
源智が記したと伝えられる法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』(『昭和新修法然上人全集』所収)のなかに「善人尚以往生況悪人乎 口伝有之」と、『口伝鈔』『歎異抄』と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、末木文美士は「源空門下の人達によって、スローガン的に伝持されたものではないか」としている。
『法然上人伝記』・醍醐寺本は大正6年に醍醐寺三宝院(真言宗)から発見され、法然の弟子・源智が残したとされる文書の写本である。このうち「三心料簡および御法語」には、「歎異抄」と酷似した表現、悪人正機思想の意味と誤解の注意が記されている。文献の内容が法然自身の語った思想であるか否かについては議論がある。
一、善人尚以往生況悪人乎事 <口伝有之> 私云、彌陀本願 以自力可離生死有方便 善人為をこし給はす。哀極重悪人無他方便輩をこし給へり。 然るを菩薩賢聖付之求往生、凡夫善人帰此願得往生、況罪悪凡夫尤可憑此他力云也。 悪領解不可住邪見、譬如云本為凡夫兼為聖人、能能可得心可得心。 — 『法然上人伝記』 三心料簡および御法語
悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。
ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。
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"text": "さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと『仏説無量寿経』で説かれていることは、「親鸞一人のためであった」と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、つまり我々一人一人のためであったと受け止め、称名念仏は、行ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した。 この点が、宗教者としての親鸞の独自性である。",
"title": "救済の対象"
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"text": "以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。",
"title": "救済の対象"
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"text": "善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。",
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"text": "この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。",
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"text": "そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。 — 『歎異抄』第3章",
"title": "救済の対象"
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"text": "この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の法然が、7世紀の新羅の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。(なお、近年では『遊心安楽道』が元暁仮託の偽撰書である可能性が指摘されている。)",
"title": "親鸞以前の悪人正機説"
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"text": "四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。 — 元暁『遊心安楽道』",
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"text": "また浄土真宗本願寺第三世覚如も、元は法然の教えであるとしている。",
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"text": "本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。 (中略)しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。",
"title": "親鸞以前の悪人正機説"
},
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"text": "このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていた。",
"title": "親鸞以前の悪人正機説"
},
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"text": "法然も『選択集』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。 しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は悪を慎み善を努めることを勧めたのである。",
"title": "親鸞以前の悪人正機説"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "源智が記したと伝えられる法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』(『昭和新修法然上人全集』所収)のなかに「善人尚以往生況悪人乎 口伝有之」と、『口伝鈔』『歎異抄』と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、末木文美士は「源空門下の人達によって、スローガン的に伝持されたものではないか」としている。",
"title": "親鸞以前の悪人正機説"
},
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"text": "『法然上人伝記』・醍醐寺本は大正6年に醍醐寺三宝院(真言宗)から発見され、法然の弟子・源智が残したとされる文書の写本である。このうち「三心料簡および御法語」には、「歎異抄」と酷似した表現、悪人正機思想の意味と誤解の注意が記されている。文献の内容が法然自身の語った思想であるか否かについては議論がある。",
"title": "親鸞以前の悪人正機説"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "一、善人尚以往生況悪人乎事 <口伝有之> 私云、彌陀本願 以自力可離生死有方便 善人為をこし給はす。哀極重悪人無他方便輩をこし給へり。 然るを菩薩賢聖付之求往生、凡夫善人帰此願得往生、況罪悪凡夫尤可憑此他力云也。 悪領解不可住邪見、譬如云本為凡夫兼為聖人、能能可得心可得心。 — 『法然上人伝記』 三心料簡および御法語",
"title": "親鸞以前の悪人正機説"
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"text": "悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。",
"title": "本願ぼこり"
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"text": "ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。",
"title": "本願ぼこり"
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] |
悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。
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'''悪人正機'''(あくにんしょうき)は、[[浄土真宗]]の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の[[本願]]([[他力本願]])による救済の主正の根機である」という意味である。
<!-- 阿弥陀仏の本願力をあらわすため、受動態「れる」「られる」で表記する。-->
阿弥陀仏が[[#救済の対象|救済したい対象]]は、衆生<ref>衆生…生きとし生けるすべての者。有情とも。</ref>である。すべての衆生は、[[末法]]濁世を生きる煩悩具足の[[凡夫]]たる「[[悪人]]」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。
== 悪人と善人 ==
「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは「阿弥陀仏の視点」による善悪である。
法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。<ref>一切の群生海、無始よりこのかた、乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心無し。([[教行信証]]信巻)</ref>
;悪人
:衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。
:阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。<ref>一切平凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。急作急修して頭燃をはらうが如くすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名け、また「虚仮虚仮・諂偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。(教行信証信巻)</ref>その時に初めて気付かされる「悪人」である。
;善人
:親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。
:また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。([[#本願ぼこり]]も参照のこと。)
;因果
:凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。
== 救済の対象 ==
『[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]』には、すべての人が苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察した法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その[[四十八願|48の願い]]の第18番目の願いに、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」(意訳:わたしが仏になるとき、すべての人々が心から念仏して、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。<ref>浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂 『<浄土真宗聖典>顕浄土真実教行証文類 -現代語版-』 本願寺出版社、2000年、P.29より引用。</ref>)と説かれている。
「十方衆生」、すなわちすべての衆生が救済の対象である。また至心・信楽・欲生は、如来の願によるものである。よって自らの計らいによる善悪は、阿弥陀による救済の条件・手段にはならない。
「唯除五逆誹謗正法」(「唯除の文」)についての親鸞の了解は、[[曇鸞]]の『[[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]』、[[善導]]の『[[観無量寿経疏]]』に依るものである。詳細は、「[[四十八願#唯除の文]]」を参照のこと。
我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。
#自分のやった善行によって往生しようと思うのは、阿弥陀仏の誓願のはたらきを疑いの心による。
#何を行うにしろ我々には常に欲望(煩悩)があり、その計らいによる行為はすべて悪(煩悩濁)でしかない。
#善いことをしようにも、実際には自らの善悪の基準でしかなく、本質的な善悪の判断基準がない。
すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない悪人だったと知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさい」<ref>決定して自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈し常に流転して出離の縁有る事無しと深信す(教行信証信巻)</ref>とするのが、「悪人正機」の本質である。
しかしこの事は、「欲望のままに悪事を行っても良い」と誤解されやすく注意を要する。([[#本願ぼこり]]を参照)。
さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと『仏説無量寿経』で説かれていることは、「親鸞一人のためであった」<ref>「親鸞一人のためであった」…『歎異抄』の意訳。原文は、「親鸞一人がためなりけり」</ref>と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、つまり我々一人一人のためであったと受け止め、称名念仏は、[[行 (仏教)|行]]ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した。
この点が、宗教者としての親鸞の独自性である。
以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。
{{quotation|
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。<br />
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。<br />
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
|『[[歎異抄]]』第3章
}}
== 親鸞以前の悪人正機説 ==
この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。[[浄土宗]]の[[法然]]が、[[7世紀]]の[[新羅]]の[[華厳宗]]の学者である[[元暁]](がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。(なお、近年では『遊心安楽道』が元暁仮託の偽撰書である可能性が指摘されている<ref>{{Cite journal |和書 |author=恵谷隆戒 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.23.16 |title=新羅元暁の遊心安楽道は偽作か |journal=印度學佛教學研究 |publisher=[[日本印度学仏教学会]] |year=1974 |volume=23 |issue=1 |pages=16-23 |naid=130004023426 |doi=10.4259/ibk.23.16 |accessdate=2018-12-22 }}</ref>。)
{{quotation|
四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。
|元暁『遊心安楽道』
}}
また[[浄土真宗]][[本願寺]]第三世[[覚如]]も、元は法然の教えであるとしている。
{{quotation|
本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、[[如信]]上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは[[五劫思惟]]の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。
(中略)しかれば御釈([[玄義分]])にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。
|[[覚如]]『[[口伝鈔]]』}}
このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が[[凡夫]]の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていた。
法然も『[[選択本願念仏集|選択集]]』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。
しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は悪を慎み善を努めることを勧めたのである。
[[源智]]が記したと伝えられる法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』(『昭和新修法然上人全集』所収)のなかに「善人尚以往生況悪人乎 口伝有之」と<ref>『昭和新修法然上人全集』p454</ref>、『口伝鈔』『歎異抄』と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、[[末木文美士]]は「源空門下の人達によって、スローガン的に伝持されたものではないか」としている。<ref>『[[#参考文献|日本仏教思想史論考]]』p431-438</ref>
『[[源智#著書|法然上人伝記]]』・醍醐寺本は大正6年に醍醐寺三宝院(真言宗)から発見され、法然の弟子・[[源智]]が残したとされる文書の写本である。このうち「三心料簡および御法語」には、「歎異抄」と酷似した表現、悪人正機思想の意味と誤解の注意が記されている。文献の内容が法然自身の語った思想であるか否かについては議論がある<ref>「[http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0034/DO00340R001.pdf 「三心料簡および御法語」の問題点について]」</ref><ref>[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/31/page/787 浄土宗全書検索システム]</ref>。
{{quotation|
一、善人尚以往生況悪人乎事 <口伝有之>
私云、彌陀本願 以自力可離生死有方便 善人為をこし給はす。哀極重悪人無他方便輩をこし給へり。
然るを菩薩賢聖付之求往生、凡夫善人帰此願得往生、況罪悪凡夫尤可憑此他力云也。
悪領解不可住邪見、譬如云本為凡夫兼為聖人、能能可得心可得心。<ref>
<!----要検討---->
大意:善人尚以往生況悪人乎について (※口伝がある)
私[=三心料簡の筆録者]の考えでは、阿弥陀仏の誓われた本願は、自力で生死を続ける存在から離脱する(仏になる)手段を持てるような善人に向けてではない。極重悪人のなんら手段のない連中を哀れに思い誓いをたてられた。それなのに、菩薩聖人がこの本願にたよって往生を求め、凡夫の善人がこの本願に帰依して往生するのだから、まして罪悪深重の凡夫が他力に頼るのはより当然のことだ、などと言っている。間違った理解であり、誤りの見解に留まってはならない。譬えば本来は凡夫のためであり、聖人のためをも兼ねる、とあるように、よくよく理解しなさい。</ref>
|『法然上人伝記』 三心料簡および御法語
}}
== 本願ぼこり ==
悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。
ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、[[唯円]]は『[[歎異抄]]』において批判している。<ref>『日本思想全史』141頁</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
*{{Cite book|和書
|author=[[梶村昇]]
|year=1999
|title=法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや」
|publisher=[[大東出版社]]
|isbn=4-500-00649-4
}}
*{{Cite book|和書
|author=[[末木文美士]]
|year=1993
|title=日本仏教思想史論考
|publisher=[[大蔵出版]]
|isbn=4-8043-0525-4
}}
*{{Cite book|和書
|author=瓜生津隆真
|coauthors=細川行信 編
|year=2000
|title=真宗小事典
|edition=新装版
|publisher=法藏館
|isbn=4-8318-7067-6
}}
*{{Cite book|和書
|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂
|year=2000
|title=<浄土真宗聖典>顕浄土真実教行証文類 -現代語版-
|publisher=本願寺出版社
|id=ISBN 4-89416-668-2
}}
== 関連項目 ==
* [[現生正定聚]]
* [[往相回向]]
* [[還相回向]]
* [[他力本願]]
* [[吉本隆明]]
* [[放蕩息子のたとえ話]]
* [[信仰義認]]
* [[見失った羊のたとえ]]
* [[銀貨を無くした女のたとえ]]
* [[罪の女]]
* 長者窮子のたとえ話 ([[法華七喩]])
* [[創世記]]
* [[罪と罰]]
* [[免罪符]]
* [[パンをふんだ娘]]
{{浄土教2}}
{{DEFAULTSORT:あくにんしようき}}
[[category:浄土教]]
[[Category:浄土真宗の用語]]
[[Category:浄土真宗の教義]]
[[Category:鎌倉時代の仏教]]
[[Category:悪の問題]]
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2022-10-24T23:10:52Z
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"Template:Cite book",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA%E6%AD%A3%E6%A9%9F
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11,069 |
念仏
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念仏(ねんぶつ)とは、仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"Buddhānusmṛti(英語: Buddhānusmṛti)"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意である。元来は仏(ブッダ)を思い描く等しながらの瞑想修行を指していたが、日本では、浄土宗・浄土真宗が広く普及した結果、一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と声に出して称える「称名念仏」を指すことが多い。
また本来の「仏」の「名号」を口にして呼ぶ意味から、各宗派による解釈の相違・用語の違いはあるもの、例として「南無釈迦牟尼世尊」「南無大聖不動明王」「南無観世音菩薩」も念仏である。
「念」という漢字には、「憶念」、「仏隨念」、「心念」(観心)、「観念」(「観想」)、「称念」などの抽象的な名詞の意味のほか、口に出してとなえるという動詞としての意味がある。この意味では口編を付けた「唸」(うなる)は1異体字である。「「念仏」の場合「仏」が目的語であり仏の名を唱えることと理解される。
「仏」とは、この場合「仏身」、「仏名」の意味がある。「仏」を「仏身」とみる場合、具体的な仏の相好(そうごう)とか仏像とかとみる時と、仏の本質的な実相の理をあらわす法身(ほっしん)とみる時とでは、「念」の意味もおのずから変わってくる。法身を念ずる場合は、それは「理を観ずる」のだから、念は憶念、思念、心念などの意味である。具体的な仏や仏の相好にむかえば、それは生身や像身の色相(すがたかたち)を観ずることであるから、念は観念の意味が強い。仏を仏名とみれば、名は称え呼ぶものであるから、念は称念の意味とみるべきである。
念仏については、さらに正しく物を見るために、五停心観(ごじょうしんかん)という、心を停止する観法があり、その中にも「念仏観」がある。この場合の念仏観は、睡眠とか逼迫の障りを対論して心を静止せしめるための方法をいう。
このように、念仏には、様々な受け取り方がある。
初期の仏教では、仏を「憶念」することを「念仏」と言う。
古い経典で、仏弟子たちが「南無仏」と唱えたといわれるのは、現存の仏陀釈尊に対する追憶の念仏であり、また祈りの念仏である。
『阿含経』では、三念・六随念(ろくずいねん)・十隨念の第一である「仏隨念」のことを「念仏」という。この場合の「念仏」は、仏に対して想を留め、他の想をやめて心を乱さないことをいう。
「仏随念」の修法は、現在の上座部仏教にも受け継がれている。
インドでは、やがて大乗仏教が成立し、その初期には多仏思想が成立する。その思想にともない、念ずる対象となる仏が多様化していき、諸仏の徳を讃嘆し供養することが大切な行とされた。
『般舟三昧経』では、禅定(三昧)に入って、仏を目の当たりに見る(見仏)ことを目的として精神集中する「般舟三昧」(念仏三昧)が説かれている。
『観仏三昧海経』では、仏を(心に)観察(かんさつ、かんざつ)し、観念する「観仏三昧」(観想念仏)が説かれている。
『無量寿経』などの浄土経典では、阿弥陀仏を念仏することにより、その仏国土である極楽浄土に往生できると説かれている。この場合、浄土教が展開していく過程で「念仏」の意味は、憶念(仏随念)、思念(作為)、念仏三昧、観想念仏、称名念仏と解釈が分かれるようになる。
中国大陸では2世紀後半に、浄土経典が伝えられる。初期の中国浄土教では、念仏三昧・観想念仏が主流であった。後に念仏と禅が融合した「念仏禅」が主流となる(この「念仏禅」は念仏と禅が完全に融合したものではなく、「僧侶や知識人は禅であるが、禅は難しいので、禅がわかる能力のなさそうな庶民には念仏をすすめる」というものであった)。
法然は、『選択本願念仏集』において「廬山慧遠法師慈愍三蔵道綽善導等是也」と述べ、中国浄土教を「廬山慧遠流」、「慈愍三蔵流」、「道綽・善導流」に分ける。
法然は、『選択本願念仏集』において浄土教の師資相承血脈を道綽の『安楽集』から菩提流支・慧寵・道場・曇鸞・大海・法上の6人を、『唐高僧伝』・『宋高僧伝』から菩提流支・曇鸞・道綽・善導・懐感・小康の6人の計10人を挙げている。
奈良仏教(法相宗)・平安仏教(天台宗)では、観想念仏が主流であった。
詳細は「称名念仏」の項目を参照。
「称名念仏」は、良忍・法然・親鸞らにより布教される。宗旨・宗派により解釈が異なる。
その起源は平安時代中期の僧空也にあるといわれる。空也が創建した六波羅蜜寺には踊躍念仏が伝わり、国の重要無形文化財に指定されている。鎌倉時代、時宗の一遍が伯父の河野通末の配流先であった信濃国伴野荘(長野県佐久市)を訪れた時、空也に倣って踊念仏を行った。
同じ時期に九州の浄土宗の僧・一向俊聖も一遍とは別に踊念仏を行った。それ以来、時宗・一向宗(一向俊聖の系統のことで浄土真宗とは別宗派、後に時宗一向派とされたが、昭和になって浄土宗に帰属)の僧が遊行に用いるようになり全国に広まった。天道念佛(もとは天童念佛と書いた)とも言われる。雨乞い念仏の一種と見られている。現在も実演を行っているのは、毎年11月17日に勤められる山形県天童市の佛向寺での開山忌踊躍念仏と、素朴な農民信仰として、千葉県船橋市海神の天道念仏がある。
時宗の踊念仏は、現在も実演を行なっているのは、前述の佐久市跡部の西方寺のもののみで、重要無形民俗文化財に指定されている。同じ佐久市岩下の踊り念仏(3月の彼岸に実演)も跡部系とされ、市指定無形民俗文化財である。
浄土真宗東本願寺の報恩講では、座ったまま体を前後左右に揺らしながら唱和する「式間の念仏」という念仏がある。公式の勤行ではないが蓮如の時代に定着したと言われ、別名を坂東曲(ばんどうぶし)という。坂東曲は遡ると近畿地方の六斎念仏の演目のひとつである坂東に由来すると言われる。
昭和30年代に家永三郎、星野元豊らによって念仏呪術論争がおこった。
|
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"text": "念仏(ねんぶつ)とは、仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では\"Buddhānusmṛti(英語: Buddhānusmṛti)\"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意である。元来は仏(ブッダ)を思い描く等しながらの瞑想修行を指していたが、日本では、浄土宗・浄土真宗が広く普及した結果、一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と声に出して称える「称名念仏」を指すことが多い。",
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"text": "また本来の「仏」の「名号」を口にして呼ぶ意味から、各宗派による解釈の相違・用語の違いはあるもの、例として「南無釈迦牟尼世尊」「南無大聖不動明王」「南無観世音菩薩」も念仏である。",
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"text": "「念」という漢字には、「憶念」、「仏隨念」、「心念」(観心)、「観念」(「観想」)、「称念」などの抽象的な名詞の意味のほか、口に出してとなえるという動詞としての意味がある。この意味では口編を付けた「唸」(うなる)は1異体字である。「「念仏」の場合「仏」が目的語であり仏の名を唱えることと理解される。",
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"text": "「仏」とは、この場合「仏身」、「仏名」の意味がある。「仏」を「仏身」とみる場合、具体的な仏の相好(そうごう)とか仏像とかとみる時と、仏の本質的な実相の理をあらわす法身(ほっしん)とみる時とでは、「念」の意味もおのずから変わってくる。法身を念ずる場合は、それは「理を観ずる」のだから、念は憶念、思念、心念などの意味である。具体的な仏や仏の相好にむかえば、それは生身や像身の色相(すがたかたち)を観ずることであるから、念は観念の意味が強い。仏を仏名とみれば、名は称え呼ぶものであるから、念は称念の意味とみるべきである。",
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"text": "念仏については、さらに正しく物を見るために、五停心観(ごじょうしんかん)という、心を停止する観法があり、その中にも「念仏観」がある。この場合の念仏観は、睡眠とか逼迫の障りを対論して心を静止せしめるための方法をいう。",
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"text": "このように、念仏には、様々な受け取り方がある。",
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"text": "古い経典で、仏弟子たちが「南無仏」と唱えたといわれるのは、現存の仏陀釈尊に対する追憶の念仏であり、また祈りの念仏である。",
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"text": "『阿含経』では、三念・六随念(ろくずいねん)・十隨念の第一である「仏隨念」のことを「念仏」という。この場合の「念仏」は、仏に対して想を留め、他の想をやめて心を乱さないことをいう。",
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"text": "「仏随念」の修法は、現在の上座部仏教にも受け継がれている。",
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"text": "インドでは、やがて大乗仏教が成立し、その初期には多仏思想が成立する。その思想にともない、念ずる対象となる仏が多様化していき、諸仏の徳を讃嘆し供養することが大切な行とされた。",
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"text": "『般舟三昧経』では、禅定(三昧)に入って、仏を目の当たりに見る(見仏)ことを目的として精神集中する「般舟三昧」(念仏三昧)が説かれている。",
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"text": "『観仏三昧海経』では、仏を(心に)観察(かんさつ、かんざつ)し、観念する「観仏三昧」(観想念仏)が説かれている。",
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"text": "『無量寿経』などの浄土経典では、阿弥陀仏を念仏することにより、その仏国土である極楽浄土に往生できると説かれている。この場合、浄土教が展開していく過程で「念仏」の意味は、憶念(仏随念)、思念(作為)、念仏三昧、観想念仏、称名念仏と解釈が分かれるようになる。",
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"text": "中国大陸では2世紀後半に、浄土経典が伝えられる。初期の中国浄土教では、念仏三昧・観想念仏が主流であった。後に念仏と禅が融合した「念仏禅」が主流となる(この「念仏禅」は念仏と禅が完全に融合したものではなく、「僧侶や知識人は禅であるが、禅は難しいので、禅がわかる能力のなさそうな庶民には念仏をすすめる」というものであった)。",
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"text": "法然は、『選択本願念仏集』において「廬山慧遠法師慈愍三蔵道綽善導等是也」と述べ、中国浄土教を「廬山慧遠流」、「慈愍三蔵流」、「道綽・善導流」に分ける。",
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"text": "法然は、『選択本願念仏集』において浄土教の師資相承血脈を道綽の『安楽集』から菩提流支・慧寵・道場・曇鸞・大海・法上の6人を、『唐高僧伝』・『宋高僧伝』から菩提流支・曇鸞・道綽・善導・懐感・小康の6人の計10人を挙げている。",
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"text": "奈良仏教(法相宗)・平安仏教(天台宗)では、観想念仏が主流であった。",
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"text": "詳細は「称名念仏」の項目を参照。",
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"text": "「称名念仏」は、良忍・法然・親鸞らにより布教される。宗旨・宗派により解釈が異なる。",
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"text": "その起源は平安時代中期の僧空也にあるといわれる。空也が創建した六波羅蜜寺には踊躍念仏が伝わり、国の重要無形文化財に指定されている。鎌倉時代、時宗の一遍が伯父の河野通末の配流先であった信濃国伴野荘(長野県佐久市)を訪れた時、空也に倣って踊念仏を行った。",
"title": "歴史"
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"text": "同じ時期に九州の浄土宗の僧・一向俊聖も一遍とは別に踊念仏を行った。それ以来、時宗・一向宗(一向俊聖の系統のことで浄土真宗とは別宗派、後に時宗一向派とされたが、昭和になって浄土宗に帰属)の僧が遊行に用いるようになり全国に広まった。天道念佛(もとは天童念佛と書いた)とも言われる。雨乞い念仏の一種と見られている。現在も実演を行っているのは、毎年11月17日に勤められる山形県天童市の佛向寺での開山忌踊躍念仏と、素朴な農民信仰として、千葉県船橋市海神の天道念仏がある。",
"title": "歴史"
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"text": "時宗の踊念仏は、現在も実演を行なっているのは、前述の佐久市跡部の西方寺のもののみで、重要無形民俗文化財に指定されている。同じ佐久市岩下の踊り念仏(3月の彼岸に実演)も跡部系とされ、市指定無形民俗文化財である。",
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"text": "浄土真宗東本願寺の報恩講では、座ったまま体を前後左右に揺らしながら唱和する「式間の念仏」という念仏がある。公式の勤行ではないが蓮如の時代に定着したと言われ、別名を坂東曲(ばんどうぶし)という。坂東曲は遡ると近畿地方の六斎念仏の演目のひとつである坂東に由来すると言われる。",
"title": "歴史"
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"text": "昭和30年代に家永三郎、星野元豊らによって念仏呪術論争がおこった。",
"title": "念仏呪術論争"
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念仏(ねんぶつ)とは、仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"Buddhānusmṛti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意である。元来は仏(ブッダ)を思い描く等しながらの瞑想修行を指していたが、日本では、浄土宗・浄土真宗が広く普及した結果、一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と声に出して称える「称名念仏」を指すことが多い。 また本来の「仏」の「名号」を口にして呼ぶ意味から、各宗派による解釈の相違・用語の違いはあるもの、例として「南無釈迦牟尼世尊」「南無大聖不動明王」「南無観世音菩薩」も念仏である。
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{{ Infobox Buddhist term
| title = 念仏
| en =
| pi =
| sa =
| my =
| my-Latn =
| zh = 念佛
| zh-Latn = Nianfo
| ko = 염불
| ja = 念仏
| ja-Latn =
| vi = niệm Phật
}}
'''念仏'''(ねんぶつ)とは、[[仏教]]における[[行 (仏教)|行]]のひとつで、[[仏]]の姿や[[功徳]]を思い描いたり、その[[名号]]を口に出して呼ぶこと。[[サンスクリット]]語では"{{日本語版にない記事リンク|仏随念|en|Buddhānusmṛti|label=Buddhānusmṛti}}"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意である。元来は仏(ブッダ)を思い描く等しながらの瞑想修行を指していたが、[[日本]]では、[[浄土宗]]・[[浄土真宗]]が広く普及した結果、一般的には、[[浄土教]]系の[[十三宗五十六派|宗派]]において合掌礼拝時に「'''[[南無阿弥陀仏]]'''」(なむあみだぶつ)と声に出して称える「[[称名念仏]]」を指すことが多い。
また本来の「仏」の「名号」を口にして呼ぶ意味から、各宗派による解釈の相違・用語の違いはあるもの、例として「南無釈迦牟尼世尊」「南無大聖不動明王」「南無観世音菩薩」も'''念仏'''である。
== 概要 ==
「念」という[[漢字]]には、「[[#憶念|憶念]]」、「仏隨念」、「心念」(観心)、「観念」(「観想」)、「称念」などの抽象的な名詞の意味のほか、'''口に出してとなえる'''という動詞としての意味がある。この意味では口編を付けた「唸」(うなる)は1[[異体字]]である。「「念仏」の場合「仏」が[[目的語]]であり仏の名を唱えることと理解される。
「仏」とは、この場合「仏身」、「仏名」の意味がある。「仏」を「仏身」とみる場合、具体的な仏の相好(そうごう)とか仏像とかとみる時と、仏の本質的な実相の理をあらわす法身(ほっしん)とみる時とでは、「念」の意味もおのずから変わってくる。法身を念ずる場合は、それは「理を観ずる」のだから、念は憶念、思念、心念などの意味である。具体的な仏や仏の相好にむかえば、それは生身や像身の色相(すがたかたち)を観ずることであるから、念は観念の意味が強い。仏を仏名とみれば、名は称え呼ぶものであるから、念は称念の意味とみるべきである。
念仏については、さらに正しく物を見るために、五停心観(ごじょうしんかん)という、心を停止する観法があり、その中にも「念仏観」がある。この場合の念仏観は、睡眠とか逼迫の障りを対論して心を静止せしめるための方法をいう。
このように、念仏には、様々な受け取り方がある。
== 歴史 ==
=== 初期仏教 ===
==== 憶念 ====
初期の仏教では、仏を「'''憶念'''{{efn2|(略)東アジアの浄土教において憶念の語は、殊に、阿弥陀仏や阿弥陀仏の功徳、あるいはその本願を、思って忘れぬこと、しばしばそれを思い起こすことの意に用いられる事が多い{{sfn|中村元|2002|p=114}}。}}」することを「'''念仏'''」と言う。
古い経典で、仏弟子たちが「南無仏」と唱えたといわれるのは、現存の仏陀釈尊に対する追憶の念仏であり、また祈りの念仏である。
==== 仏隨念 ====
『[[阿含経]]』では、三念{{efn2|仏、法、僧(三宝)を心に思いとどめること、念仏、念法、念僧のこと{{sfn|中村元|2002|p=1070}}{{sfn|多屋頼俊|1995|p=359}}。}}・六随念(ろくずいねん){{efn2|念仏、念法、念僧、念戒、念施(念捨)、念天{{sfn|中村元|2002|p=1070}}{{sfn|多屋頼俊|1995|p=359}}。}}・十隨念{{efn2|六隨念に念休息(念滅)、念安般(念出入息)、念身非常(念身)、念死を加える{{sfn|中村元|2002|p=1070}}{{sfn|多屋頼俊|1995|p=359}}。}}の第一である「'''仏隨念'''」のことを「'''念仏'''」という。この場合の「念仏」は、仏に対して想を留め、他の想をやめて心を乱さないことをいう。
==== 上座部仏教 ====
「仏随念」の修法は、現在の[[上座部仏教]]にも受け継がれている。
=== 大乗仏教 ===
==== 大乗仏教初期 ====
インドでは、やがて[[大乗仏教]]が成立し、その初期には多仏思想が成立する。その思想にともない、念ずる対象となる仏が多様化していき、諸仏の[[徳]]を讃嘆し[[供養]]することが大切な[[行 (仏教)|行]]とされた。
===== 念仏三昧 =====
『[[般舟三昧経]]』では、[[禅定]]([[三昧]])に入って、仏を目の当たりに見る(見仏{{efn2|一切の諸仏が目の前に現われること}})ことを目的として精神集中する「'''般舟三昧'''」('''念仏三昧''')が説かれている。
===== 観想念仏 =====
『観仏三昧海経』では、仏を(心に)観察(かんさつ、かんざつ){{efn2|仏の持つ諸得性を澄みきった理知のはたらきによって観察すること。}}し、観念{{efn2|仏やその仏国土(浄土)のすぐれた様相を心に想い描き念ずる事をいう。}}する「'''観仏三昧'''」('''観想念仏''')が説かれている。
===== 原始浄土教 =====
『[[無量寿経]]』などの浄土経典では、[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]を念仏することにより、その仏国土である[[極楽|極楽浄土]]に往生できると説かれている。この場合、[[浄土教]]が展開していく過程で「念仏」の意味は、[[#憶念|憶念]]([[#仏隨念|仏随念]])、思念(作為)、[[#念仏三昧|念仏三昧]]、[[#観想念仏|観想念仏]]、[[称名念仏]]と解釈が分かれるようになる。
=== 中国大陸===
中国大陸では2世紀後半に、浄土経典が伝えられる。初期の中国浄土教では、念仏三昧・観想念仏が主流であった。後に念仏と禅が融合した「[[念仏禅]]」が主流となる(この「念仏禅」は念仏と禅が完全に融合したものではなく、「僧侶や知識人は禅であるが、禅は難しいので、禅がわかる能力のなさそうな庶民には念仏をすすめる」というものであった{{efn2|これを[[隠元隆琦|隠元]]は「病に応じて薬を与える」と表現している{{sfn|森三樹三郎|2003|pp=159-160}}。}})。
[[法然]]は、『[[選択本願念仏集]]』において「廬山慧遠法師慈愍三蔵道綽善導等是也」と述べ、中国浄土教を「廬山慧遠流」、「慈愍三蔵流」、「道綽・善導流」に分ける。
==== 廬山慧遠流 ====
;[[慧遠 (東晋)|慧遠]]
:廬山の慧遠は『般舟三昧経』に基づき、[[402年]]に念仏結社「[[白蓮社]]」を結び、念仏三昧を重視する。中国浄土教の祖ともみなされている。
==== 慈愍三蔵流 ====
;[[慧日]](慈愍三蔵慧日〈じみんさんぞうえにち〉、680-748)
:慈愍流浄土教の開祖である慧日は、善導の浄土教を基盤に、浄土と禅を並行して修法することを主張する。念仏禅の基盤となる。
==== 道綽・善導流 ====
[[法然]]は、『[[選択本願念仏集]]』において浄土教の師資相承血脈を[[道綽]]の『安楽集』から[[菩提流支]]・慧寵・道場・[[曇鸞]]・大海・法上の6人を、『唐高僧伝』・『宋高僧伝』から菩提流支・曇鸞・道綽・善導・懐感・小康の6人の計10人を挙げている。
;[[曇鸞]]
:当初は仙教を学ぶが、菩提流支より『[[観無量寿経#訳本|仏説観無量寿経]]』{{efn2|「王舎城の悲劇」を導入部に観想念仏と称名念佛が説かれている。この経典は、[[サンスクリット]]原典が発見されておらず、中国もしくは中央アジア編纂説がある。}}を授かり、浄土教に帰依する。
:『無量寿経』を[[世親|世親(天親)]]が注釈し、菩提流支により訳された『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』、『往生論』)を、曇鸞が再註釈し『無量寿経優婆提舎願生偈註』を撰述する{{sfn|中村元|2002|p=108}}。
;[[道綽]]
:当初は慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。
:609年に、石壁玄中寺で曇鸞の碑文を読み浄土教に帰依する。
:『観無量寿経』を解釈した、『安楽集』を撰述する。
:曇鸞の教えを継承し、仏教を「聖道門」と「浄土門」に分け、浄土念仏を勧める。その際、[[小豆]]で念仏の数を数える「小豆念仏」を提唱する。
;[[善導]]
:道綽に『観無量寿経』を授かり、師事する。
:主著『観無量寿経疏』(『観経疏』)は、『観無量寿経』は観想念仏を勧めているのではなく、称名念仏を勧めている教典と解釈した。
:この称名念仏重視の流れは、法照らに継承されるも、中国では発展しなかった。日本の法然により『観経疏』は再発見・評価され、日本の浄土教に多大な影響を与える。
=== 日本 ===
==== 奈良仏教・平安仏教 ====
奈良仏教([[法相宗]])・平安仏教([[天台宗]])では、観想念仏が主流であった。
;[[最澄]]
:日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)は、[[止観]]によって阿弥陀仏と自己の一体を観想する念仏修法を導入した。
:日本[[天台宗]]では[[比叡山]]の[[常行堂]](常行三昧堂・般舟三昧堂)における常行三昧がある。
;[[源信 (僧侶)|源信]]
:源信の撰述した『[[往生要集]]』では、「観想」と「称名」の2つの念仏を立てるが「観想念仏」を重視し、[[来迎]]の儀式を強調したため{{R|大谷大学2004}}{{sfn|中村元|2002|pp=107-108}}、平安貴族に流行する。その影響で、平安時代は[[極楽]][[浄土]]や[[阿弥陀三尊]]を表現する建築様式([[宇治市|宇治]]の[[平等院]]や[[平泉町|平泉]]の[[中尊寺]]など)や美術様式が発展した。
:「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与えた。
==== 称名念仏 ====
詳細は「'''[[称名念仏]]'''」の項目を参照。
「称名念仏」は、'''[[良忍]]'''・'''[[法然]]'''・'''[[親鸞]]'''らにより布教される。宗旨・宗派により解釈が異なる。
<!-- 本項目は「念仏」であり、「称名念仏」についての解釈・狭義・教学等は「称名念仏」に記述してください。加筆する際は、出典を明示してください。 -->
;[[貞慶]]
:貞慶は、[[釈迦]]の観想念仏に励行する一方で、法然の[[専修念仏]]を批判した。
;踊念仏{{Anchors|踊念仏}}
:'''踊念仏'''(おどりねんぶつ)とは、太鼓・鉦(かね)などを打ち鳴らし、踊りながら念仏・[[和讃]]を唱えること。現在は、婦人を中心とした檀信徒による「[[跡部の踊り念仏]]」と、僧侶が儀式として修行する「踊躍念仏」に分化している。
その起源は[[平安時代]]中期の僧[[空也]]にあるといわれる。空也が創建した[[六波羅蜜寺]]には踊躍念仏が伝わり、国の重要無形文化財に指定されている{{R|朝日新聞1978}}。[[鎌倉時代]]、[[時宗]]の[[一遍]]が伯父の[[河野氏|河野通末]]の[[流罪|配流]]先であった[[信濃国]][[伴野荘 (信濃国佐久郡)|伴野荘]]([[長野県]][[佐久市]])を訪れた時、[[空也]]に倣って踊念仏を行った。
同じ時期に[[九州]]の[[浄土宗]]の僧・[[一向]]俊聖も[[一遍]]とは別に踊念仏を行った。それ以来、時宗・[[一向宗]](一向俊聖の系統のことで[[浄土真宗]]とは別宗派、後に時宗一向派とされたが、昭和になって浄土宗に帰属)の僧が[[遊行]]に用いるようになり全国に広まった。天道念佛(もとは天童念佛と書いた)とも言われる。雨乞い念仏の一種と見られている。現在も実演を行っているのは、毎年11月17日に勤められる[[山形県]][[天童市]]の[[佛向寺]]での開山忌踊躍'''念仏'''と<!--山形県無形文化財に指定されており、浄土宗宗宝でもある。--><!--左の県指定の旨は確認できず。指定の告示はいつ出ていますか。-->、素朴な農民信仰として、千葉県船橋市海神の天道念仏がある。
時宗の踊念仏は、現在も実演を行なっているのは、前述の佐久市跡部の西方寺のもののみで、[[重要無形民俗文化財]]に指定されている。同じ佐久市岩下の踊り念仏(3月の彼岸に実演)も跡部系とされ、市指定無形民俗文化財である{{R|岩下の踊り念仏}}。
浄土真宗[[東本願寺]]の[[報恩講]]では、座ったまま体を前後左右に揺らしながら唱和する「式間の念仏」という念仏がある。公式の勤行ではないが[[蓮如]]の時代に定着したと言われ、別名を[[坂東曲]](ばんどうぶし)という。坂東曲は遡ると近畿地方の[[六斎念仏]]の演目のひとつである坂東に由来すると言われる{{sfn|岸田緑渓|2013|pp=121-123}}。
*[[盆踊り]]や[[念仏踊り]]、[[出雲阿国]]の創始した[[歌舞伎踊り]]に大きな影響を与えた。
*天道[[大日如来]]盆([[地蔵盆]])"天道”と大日如来に附すのは天道念佛が起源ともいわれる。
== 念仏呪術論争 ==
{{節スタブ}}
昭和30年代に[[家永三郎]]、星野元豊らによって念仏呪術論争がおこった{{sfn|峰島旭雄|1961}}{{sfn|坂本要|1992}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2|refs=}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="大谷大学2004">
{{Cite web|和書
|url=http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/0008.html
|title=きょうのことば
|date=2000-08
|publisher=[[大谷大学]]
|accessdate=2021-06-18
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040305064329/http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/0008.html
|archivedate=2004-03-05
}}</ref>
<ref name="朝日新聞1978">
{{Cite news
|和書
|title=青鉛筆
|newspaper=朝日新聞
|date=1978-02-04
|edition=朝刊、第13版
|page=19
}}</ref>
<ref name="岩下の踊り念仏">
{{Cite web|和書
|url=http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=2923&seq=0
|title=岩下の踊り念仏(信州の文化財)
|publisher=八十二文化財団
|accessdate=2021-06-18
}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author=多屋頼俊
|authorlink=多屋頼俊
|editor=[[横超慧日]]・舟橋一哉 編
|date=1995-04-01
|title=仏教学辞典
|edition=新版
|publisher=法藏館
|isbn=978-4831870094
|ref=harv
}}
*{{Cite book|和書
|author=中村元
|authorlink=中村元 (哲学者)
|coauthors=[[福永光司]]・[[田村芳朗]]・[[末木文美士]]・今野 達 編
|date=2002-10-30
|title=岩波仏教辞典
|edition=第二版
|publisher=[[岩波書店]]
|isbn=978-4000802055
|ref=harv
}}
*{{Cite book|和書
|author=瓜生津隆真
|authorlink=瓜生津隆真
|editor=細川行信 編
|date=2000-03-01
|title=真宗小事典
|edition=新装版
|publisher=[[法藏館]]
|isbn=978-4831870674
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}}
*{{Cite |和書
|editor=勧学寮
|date=2008-07-16
|title=浄土三部経と七祖の教え
|publisher=本願寺出版社
|isbn=978-4894167926
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}}
*{{Cite book|和書
|author=森三樹三郎
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|date=2003-09-11
|title=老荘と仏教
|series=[[講談社学術文庫]]
|publisher=[[講談社]]
|isbn=978-4061596139
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}}
*{{Cite |和書
|author=岸田緑渓
|title=親鸞と葬送民俗
|publisher=湘南社
|date=2013-09-01
|isbn=978-4434182921
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}}
*{{Cite journal|和書
|author=峰島旭雄
|title=念仏と呪術-念仏=呪術論争をめぐって-
|journal=The Waseda commercial review(早稲田商学)
|issue=155
|pages=45-80
|publisher=早稲田商学同攻会
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}}
*{{Cite journal|和書
|author=坂本要
|title=「念仏=呪術論争」再考
|journal=俗信と仏教 / 仏教民俗学大系
|issue=8
|pages=401-420
|publisher=名著出版
|date=1992-11-30
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}}
== 関連項目 ==
* [[阿弥陀三尊]]
* [[融通念仏]]
* [[称名念仏]]
* [[七高僧]]
* [[念仏宗]]
* [[一遍上人]] - 踊念仏の誕生を描いた日本映画。
* [[題目]]の[[唱題]] – [[法華経]]系・[[日蓮]]系などの宗教において「南無妙法蓮華経」と唱えること。
* [[真言]]([[心呪]]、[[大咒]]・[[中咒]]・[[小咒]])
* [[陀羅尼]]
== 外部リンク ==
*[http://www.youtube.com/watch?v=6IjmNE6kAIw 時宗の踊念仏](Youtube動画)
* {{Kotobank}}
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[[Category:日本の仏教史]]
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本地垂迹
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本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
本地という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。たとえば、仏教の天部の神々のほとんどはインドのヒンドゥー教を由来とする。この思想は、後に、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生んだ。
これに対し、垂迹という思想は、中国の『荘子』天運における迹(教化の迹)や、所以迹(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の郭象(かくしょう)は『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。
そして、後秦代の僧肇がこれを仏教に取り入れた。僧肇は『注維摩詰経』で、魏の王弼などの“本末”の思想を引用し、“所以迹”を“本”と言い換えて、“本”を菩薩の不可思議なる解脱(悟りの内容)とし、“迹”を菩薩が衆生を教化するために示現した方便として使用した。
日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。
一方で、死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。例としては、権化神(権社神)に対する実類神(実社神)などである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。
この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物(ほんじもの)と呼ばれる作品が創作された。
戦国時代には、さらに天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。
院政や武士の台頭による政治の流動化、天災や戦乱による社会の混乱を背景として、末法の世の実感とそこからの救済願望が生まれた。そのため浄土信仰が盛んとなり、法然を始め新しい仏教諸宗派が登場したが、それは伝統的な神祇信仰の変容と再生も促した。この終末意識には粟散辺土観も影響した。仏教のインド中心の世界観では、末法の世の日本の人間は堕落していて救済されがたく、正当な教化の方法では救済できないとされる。そこで仏が仮に神の姿をとってこの辺土に現れ、厳罰をもって人々を教化し救済を志向したというのが、本地垂迹説の意図するところである。こうして神々は、共同体の神から個人を救済する神へと変貌を遂げた。
鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。神道側の仏教から独立しようという考えから起こったものである。伊勢神宮外宮の神官である度会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道(度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、度会行忠・家行により体系づけられた。
反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった。
南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。
神の正体とされる仏を本地仏という。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なる。
日本の神の仏号は菩薩が多く、八幡大菩薩は阿弥陀如来であるなど本地仏の仏号との相違もみられる。
垂迹神と本地仏の一例を以下に示す。
9世紀のころ、それぞれの神の権現号がみられるようになった。
12世紀のころ、それぞれの神の本地仏が定められていった。
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"text": "しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。",
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本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
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{{複数の問題|出典の明記=2017年8月28日 (月) 07:20 (UTC)|参照方法=2017年8月28日 (月) 07:20 (UTC)}}
[[ファイル:Tokaosan-Yakuouin.jpg|thumb|300px|right|[[飯綱権現]]を祀る[[高尾山薬王院]]の権現堂]]
'''本地垂迹'''(ほんじすいじゃく)とは、[[仏教]]が興隆した時代に発生した[[神仏習合]]思想の一つで、神道の八百万の[[神|神々]]は、実は様々な[[仏]]([[菩薩]]や[[天部]]なども含む)が化身として日本の地に現れた'''[[権現]]'''(ごんげん)であるとする考えである。
== 概要 ==
[[ファイル:Izuna Gongen the circumstancial appearance of Mount Izuna.jpg|thumb|150px|right|[[飯縄権現]]]]
[[ファイル:Zaou Gongen Circumstancial appearance of Mount Yoshino.jpg|thumb|150px|right|[[蔵王権現]]]]
[[ファイル:Hakusan Myori Daigongen.png|thumb|150px|right|[[白山権現]](『仏像図彙』より)]]
[[ファイル:Atago_Gongen.png|thumb|150px|right|[[愛宕権現]](『仏像図彙』より)]]
[[File:Atago.jpg|thumb|150px|right|[[龍蔵寺 (丹波篠山市)]]愛宕堂に祀られている勝軍愛宕地蔵尊]]
'''本地'''とは、本来の境地やあり方のことで、'''垂迹'''とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである[[法身]]であるとし、これを'''本地法身'''(ほんちほっしん)という。また権現の'''権'''とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って'''仮に現れた'''ことを示す。
'''本地'''という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。たとえば、仏教の天部の神々のほとんどはインドの[[ヒンドゥー教]]を由来とする。この思想は、後に、後期大乗仏教で、'''本地仏'''大日如来の化身が、不動明王など'''加持身'''であるという概念を生んだ。
これに対し、'''垂迹'''という思想は、中国の『[[荘子 (書物)|荘子]]』天運における'''迹'''(教化の迹)や、'''所以迹'''(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の[[郭象]](かくしょう)は『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。
そして、[[後秦]]代の[[僧肇]]がこれを仏教に取り入れた。僧肇は『注維摩詰経』で、[[魏 (三国)|魏]]の[[王弼 (三国)|王弼]]などの“'''本末'''”の思想を引用し、“所以迹”を“本”と言い換えて、“本”を菩薩の不可思議なる[[解脱]]([[悟り]]の内容)とし、“迹”を菩薩が衆生を教化するために示現した[[方便]]として使用した。
日本では、[[仏教公伝]]により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で[[天部]]の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
しかし7世紀後半の天武期での[[天皇]]中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった[[天照大神]]を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する[[護法善神]]の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った<ref>八幡神を八幡大菩薩とするなど。</ref>。
一方で、死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。例としては、権化神(権社神)に対する実類神(実社神)などである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。
この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物(ほんじもの)と呼ばれる作品が創作された。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、さらに[[天道|天道思想]]による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。
=== 末法思想との関係 ===
[[院政]]や[[武士]]の台頭による政治の流動化、天災や戦乱による社会の混乱を背景として、[[末法]]の世の実感とそこからの救済願望が生まれた。そのため[[浄土信仰]]が盛んとなり、[[法然]]を始め新しい仏教諸宗派が登場したが、それは伝統的な[[神祇信仰]]の変容と再生も促した。この[[終末]]意識には[[粟散辺土]]観も影響した。[[仏教]]のインド中心の世界観では、末法の世の日本の人間は[[堕落]]していて救済されがたく、正当な[[教化]]の方法では[[救済]]できないとされる。そこで仏が仮に神の姿をとってこの辺土に現れ、厳罰をもって人々を教化し救済を志向したというのが、本地垂迹説の意図するところである。こうして神々は、共同体の神から個人を救済する神へと変貌を遂げた。
=== 反本地垂迹説 ===
[[鎌倉時代]]中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える'''神本仏迹説'''も現れた。神道側の仏教から独立しようという考えから起こったものである。[[伊勢神宮]][[豊受大神宮|外宮]]の神官である[[度会氏]]は、神話・神事の整理や再編集により、『[[神道五部書]]』を作成、[[伊勢神道]](度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する[[本覚]]思想を持つ[[天台宗]]の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに[[空海]]に化託した数種類の理論書も再編され、[[度会行忠]]・[[度会家行|家行]]により体系づけられた。
反本地垂迹説は、[[元寇]]以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする[[神国]]思想のたかまりの中で、ますます発展していった<ref name="yougo1">{{Cite book|和書|author=日本史用語研究会|authorlink=|title=必携日本史用語|origdate=2009-2-2|accessdate=|edition=四訂版|publisher=[[実教出版]]|series=|isbn=9784407316599}}</ref>。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。[[慈遍]]は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、[[良遍 (天台宗)|良遍]]は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。[[吉田兼倶]]は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。
== 垂迹神と本地仏 ==
神の[[正体]]とされる仏を'''本地仏'''という。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なる。
日本の神の仏号は菩薩が多く、八幡大菩薩は[[阿弥陀如来]]であるなど本地仏の仏号との相違もみられる。
垂迹神と本地仏の一例を以下に示す。
* [[天照大御神]]=[[大日如来]]、[[十一面観世音菩薩]]
* [[八幡神]]・[[応神天皇]]=[[阿弥陀如来]]
* [[熊野権現]]=[[阿弥陀如来]]、[[善財王]]とその妃・[[王子神|王子]]([[熊野曼荼羅]])
* [[大山咋神|日吉]]=[[天照大神]]=[[大日如来]]
* [[市杵島比売命]]=[[弁財天]]
* [[春日権現]]=[[不空羂索観音]]・[[薬師如来]]・[[地蔵菩薩]]・[[十一面観音]]
* [[愛宕権現]]=[[智明権現]]=[[勝軍地蔵菩薩]]
* [[秋葉権現]]=[[観音菩薩]]
* [[スサノオ|素盞鳴]]=[[牛頭天王]]=[[薬師如来]]
* [[大国主神]]=[[大黒天]]
* [[徳川家康|東照大権現]]・[[徳川家康]]=[[薬師如来]]
* [[松尾大社|松尾]]=[[薬師如来]]
* [[国之常立神]]=[[薬師如来]]
* [[豊宇気毘売神]]=[[金剛界大日如来]]
* [[スサノオ|須佐能尊]]=[[熊野権現]]、[[阿弥陀如来]]
* [[月読命]]=[[阿弥陀如来]]
* [[菊理姫]]=[[十一面観音]]
* [[大己貴神]]=[[阿弥陀如来]]
* [[伊弉諾尊]]=[[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]]
* [[イザナミ|伊弉美尊]]=[[千手観音]]
* [[火之迦具土神]]=[[千手観音]]
* [[瓊瓊杵尊]]=[[釈迦如来]]
* [[木花之佐久夜毘売]]=[[浅間大菩薩]]、[[阿弥陀如来]]
* [[山幸彦]]=[[文殊菩薩]]
* [[天之忍穂耳命]]=[[弥勒菩薩]]
* [[天手力男命]]=[[不動明王]]、[[聖観音]]
* [[思金神|天思兼命]]=[[釈迦如来]]、[[虚空蔵菩薩]]
* [[少彦名命]]=[[金剛蔵王権現]]
* [[神変大菩薩]]=[[聖観音]]
* [[御姥尊]]=[[大日如来]]
* [[七面天女]]=[[吉祥天]]、[[弁財天]]
* [[三宝荒神]]=[[大聖歓喜天]]
* [[稲荷神]]=[[十一面観音]]、[[聖観音]]、[[荼枳尼天]]{{Sfn|大森|2011|pp=30-45}}
* [[火之迦具土神|火牟須比命]]=[[伊豆山権現]]、[[千手観音]]
* [[青龍]]=[[清瀧権現]]<ref>『修験道の本』少年社編集制作、学習研究社発行、1999年1月15日発行、158頁</ref>=[[准胝観音]]、[[如意輪観音]]
* [[北辰|北斗(北辰)信仰]]・[[太一]]=[[妙見菩薩]]
* [[えびす]]=[[毘沙門天]]、[[不動明王]]
* [[岐の神]]・[[塞の神]]・[[道祖神]]・[[庚申信仰]]・[[猿田彦]]=[[青面金剛]]、[[地蔵菩薩]]、[[馬頭観音]]
* [[山の神]]・[[金精神]]=[[馬頭観音]]
* [[天満大自在天神]]・[[菅原道真]]=[[大自在天]]、[[大威徳明王]]=[[十一面観音菩薩]]、[[不動明王]]、[[一字金輪仏頂#釈迦金輪|釈迦金輪]]、[[薬師如来]]、[[愛染明王]]、[[良源|慈恵大師]]、[[阿弥陀如来]]、[[毘沙門天]]、[[大聖歓喜天]]、[[弁財天]]、[[千手観音]]、[[大日如来]]、[[地蔵菩薩]]、[[文殊菩薩]]、[[観音菩薩]]<ref>[[天神信仰]]には、主神である天満大自在天神が、衆生を救うため様々な神仏へ分身したのだとする思想がある。</ref>
== 歴史 ==
9世紀のころ、それぞれの神の権現号がみられるようになった<ref name="yougo2">{{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会|authorlink=|title=日本史B用語集―A併記|origdate=2009-3-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634013025}}</ref>。
12世紀のころ、それぞれの神の本地仏が定められていった<ref name="yougo2" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[桜井好朗]]『神々の変貌 社寺縁起の世界から』([[東京大学出版会]] 1976年、新版2009年 / [[ちくま学芸文庫]]、2000年3月)
* 桜井好朗『中世日本文化の形成 神話と歴史叙述』(東京大学出版会 1981年4月)
* 桜井好朗『隠者の風貌 隠遁生活とその精神』(塙書房<塙選書> 1967年)
* 桜井好朗『日本の隠者』(塙書房<塙新書> 1969年、新版1986年 / オンデマンド版 2005年)
* 桜井好朗『中世日本人の思惟と表現』([[未来社]] 1970年)
* 桜井好朗『中世日本の精神史的景観』(塙書房 1974年、新版1986年)
* 桜井好朗『吉野の霧 太平記』([[平凡社]]名作文庫 1978年7月 / [[吉川弘文館]]「読みなおす日本史」 2016年)
* 桜井好朗『空より参らむ 中世論のために』([[人文書院]] 1983年6月)
* 桜井好朗『中世日本の王権・宗教・芸能』(人文書院 1988年10月)
* 桜井好朗『祭儀と注釈 中世における古代神話』(吉川弘文館 1993年9月)
* 桜井好朗『儀礼国家の解体 中世文化史論集』(吉川弘文館 1996年6月)
* 桜井好朗『中世日本の神話と歴史叙述』([[岩田書院]] 2006年10月)
* 桜井好朗『神と仏 仏教受容と神仏習合の世界』([[春秋社]](大系仏教と日本人) 1985年、新版2000年)
* {{Cite book|和書|author=日本史用語研究会|authorlink=|title=必携日本史用語|origdate=2009-2-2|accessdate=|edition=四訂版|publisher=[[実教出版]]|series=|isbn=9784407316599}}
* {{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会|authorlink=|title=日本史B用語集―A併記|origdate=2009-3-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634013025}}
* {{Cite book |和書 |author=大森惠子 |date=2011-12-10 |publisher=[[慶友社]] |title=稲荷信仰の世界―稲荷祭と神仏習合 |isbn=978-4-87449-254-3 |ref={{SfnRef|大森|2011}} }}
== 関連項目 ==
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* [[神道]]
* [[天道]]
* [[神社一覧]]
* [[日本の神の一覧]]
* [[仏の一覧]]
* [[護法善神]]
* [[日本の寺院一覧]]
* [[修験道]]
* [[出羽三山]]
* [[三十番神]]
* [[神宮寺]] - [[別当寺]] - [[神護寺]]
* [[シンクレティズム]]
* [[宗教多元主義]]
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信長の野望シリーズ
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信長の野望シリーズ(のぶながのやぼうシリーズ、英語:Nobunaga's Ambition series)は、1983年に株式会社光栄マイコンシステム(後に「光栄」→「コーエー」→現「コーエーテクモゲームス」)が発売したPCゲームソフト『信長の野望』を第1作とする、日本の戦国時代をテーマとした歴史シミュレーションゲームのシリーズである。本作により、日本のゲーム市場において「歴史シミュレーション」というゲームジャンルが確立された。シリーズの世界累計出荷数は2018年時点で1000万本を突破。
デザイナーはシブサワ・コウ(創業者・取締役最高顧問の襟川陽一)。
戦国時代の大名となり、内政で自国を富ませて軍事力を蓄え、他の勢力を合戦で討ち滅ぼすことで全国統一を果たして戦国の世を終わらせるのが最終的な目的となる。後のシリーズでは合戦だけではなく外交によって支配下に置くことでも統一、惣無事令の発布もできるようになった。
本シリーズの特徴は、作品名に2,3,4...などの数字が付かないという点が挙げられる(同社が発売している「三國志シリーズ」では数字が付く)。2作毎に大きなシステム変更がある点も一つの特徴で、奇数作(1,3,5...作目)で新機軸が打ち出され、偶数作(2,4,6...作目)で奇数作の特徴を生かしつつ、規模を拡大したり、多少の調整を行っている。ただし、第10作『蒼天録』では、第9作『嵐世記』の新要素である「諸勢力」こそ引き継がれたものの、ほとんど別の作品となっているなど、21世紀に入ってからの作品では必ずしもこの原則が当てはまらなくなりつつある。
「信長」というタイトルではあるが、第2作の『全国版』以降は織田信長だけでなく、登場する大名全てをプレイヤーキャラクターとして選択可能(第1作では、2人プレイのときのみ武田信玄が選択可能)になり、また、第3作の『戦国群雄伝』以降では配下武将も登場し、プレイヤーの手腕によって実際の歴史を覆すことが可能となっている。さらに、史実に沿ったゲーム展開を行うと現れる「歴史イベント」も多数用意されている。第4作の『武将風雲録』では、攻め込んだ国の経路によっては古戦場も登場する。しかし、その古戦場は越中の倶梨伽羅峠(源平時代)や、長門の下関(馬関戦争)、薩摩の鹿児島市内と櫻島(西南戦争)など、必ずしも戦国時代の古戦場が出るとは限らない。
『覇王伝』以降では、拡張パックであるパワーアップキットが発売され、同じ作品をより楽しめるようになっている。パワーアップキットは先に販売されている無印版をプレイしたユーザーの意見が反映されることが多い。
さらに、『信長の野望・創造 戦国立志伝』では、シリーズ初となる、大名プレイだけでなく、家臣としてプレイすることが可能になった。
本シリーズで扱われているものは、初期の作品ではタイトル通り織田信長が全国統一への足がかりを掴む、桶狭間の戦いから本能寺の変までの時期、西暦で言うと16世紀中期の戦国時代後期から安土桃山時代初期が舞台だったが、中期以降の作品では信長死後のシナリオや、信長家督相続以前のシナリオも搭載されるようになった。時代考証については、本作は「プレイヤーが自分なりの戦国時代を創る」がコンセプトであるため、史実よりユーザーの持つイメージを大事にするとしている。以前、小田原城に当時天守はなかったので史実通りに天守を外したことがあったが、ユーザーから残念がる声が多かったという。
また、史実では蠣崎氏などと対立したアイヌ勢力は、「デリケートな問題」があることを理由にゲームに登場したことはない。島津氏に制圧された琉球王国も勢力として登場したことはなく、尚寧が『嵐世記』のミッションクリア賞品武将として登場したことがあるのみである。
『戦国群雄伝』以降の武将には血縁の概念があり、大名の後継には血縁者を選ばないと家臣の忠誠が激減したり、謀反を起こす家臣が出ることもある。作品によっては、血縁者以外を後継に指名できず、血縁者不在の状況で大名が死亡すると有無を言わさずゲームオーバーになるものもある。作品によっては一部の武将に父親が設定されているが、父親を武将の生年以前に死亡させても、その武将が登場しなくなることはない。
本シリーズはウォー・シミュレーションゲームのジャンルに分類される。戦術より政略・戦略的志向が強く、実際の戦国時代の合戦に近いゲーム設計がなされている。
本シリーズは、常にパソコン版が先行しそれを移植してコンシューマーゲーム版が作成されてきたが、初期の移植では、ハードの性能の問題もあり同じタイトルであっても、一部武将や城が削減されていることが多かった。しかし、PlayStation 2以降は削減はほとんど見られず、むしろ独自要素を追加してパソコン版より改良された内容となっていることが多いようである。また、携帯電話アプリへの移植も行われている。
『烈風伝』以降の作品では、戦国時代よりも過去の日本の武将も登場するようになった。このうちPS版『烈風伝withPK』及びPS2版『嵐世記withPK』では日本の古(いにしえ)武将だけではなく、三國志やモンゴル高原、果てはヨーロッパ等の海外の著名な人物が武将として登場した。また、PC版『天下創世』のダウンロードコンテンツや、PS2版『革新withPK』では、大石良雄や堀部武庸等の赤穂浪士や、坂本龍馬や近藤勇等の幕末の志士といった、江戸時代中期以降の人物も武将として登場するようになった。もちろんこれらの武将には、生没年にプラスマイナス数百年の補正がかけられている。
武将を個性付ける能力値は『戦国群雄伝』では「政治」「戦闘」など4種類と少なかったが、シリーズを重ねるごとに「智謀(知略)」が別個に設けられたり、兵科適性や特技により個性付けられるようになった。作品によっては武将本人の武勇と兵の統率力を別個に評価したり、それ以外の能力値で武将の特徴付けをしているものもある。また、各武将への評価にも能力値を通じて時代の変遷を見て取ることができ、大河ドラマ・小説・漫画で主人公、あるいはそのライバルとして取り上げられたため能力値が上がった武将もいる。さらに、それ以外の要因で再評価された武将もいる。例えば、今川氏真はかつては暗愚な大名とされ、政治や戦闘などの能力値は低く付けられていたが、政治的手腕や当時の情勢が考慮されているのか『革新』以降では政治だけはやや高く設定され、尼子晴久は中央集権化や対明貿易など内政手腕が再評価され智謀政治が高くなっている。足利義昭は信長包囲網を作り上げた外交能力を評価され政治、智謀が高い謀将となっている。一方、毛利輝元、武田勝頼は初期の作品では各能力は高かったが、作を重ねるに連れ、能力が低下している。
武将の顔グラフィックについては、初期の作品ではドット数・使用色数も少なく、専用のものが用意されているのは大名と有名武将のみで、比較的無名な武将についてはモンタージュのように、いくつかのパターンに髭を足したり目つきを変えたりして違いを付けていた。シリーズを重ねるごとに各武将ごとに精緻な顔の(『天下創世』以降はバストアップも同)グラフィックが用意されるようになった。能力値同様にドラマ・小説・漫画の影響を受けてグラフィックの傾向が変わった武将もいる。コーエー側は「大河ドラマの役者に、ゲームのビジュアルが影響されることなどはあるか」という問いに対し、「ユーザーのイメージが変わらない限りはほとんどない」としている。
なお、初期の頃には、用意されている専用顔グラフィックが少なかったためか、それぞれ特徴が非常に色濃く出たものであった(『戦国群雄伝』の細川藤孝や風魔小太郎の顔グラフィックが非常に怖い、など)。中期の作品(『烈風伝』など)では、性能の向上でより精密な顔グラフィックの制作が可能になったが、その反面、有名・無名、有能・無能武将で顔グラフィックの扱いの差が大きかった(織田家や甲斐武田家が美男揃いの一方で、一条兼定があまりに童顔すぎる、今川義元が公家被れな顔になっていることなど)。その後、2000年代に入ってからの作品では一時期より差がなくなってきている。
初代では、地図に表示される大名家名で区別していた。『全国版』から、機種によって大名家別の色塗り地図で区別するようになり、『戦国群雄伝』からは、色数の少ないファミコン版などで家紋による区別をするようになった。『覇王伝』以降は家紋による区別が定着し、色別はあっても補助的な物となっている(『覇王伝』『嵐世記』『大志』)。
家紋は、その大名家で実際に使われていた家紋で、たとえば織田家は「織田木瓜」、甲斐武田家は「四つ割り菱(武田菱)」で表示される。しかし、複数の大名家で同じ家紋が使われていた場合も多く、色違いにしたり、替紋や旗指物で代用している。作品が下るにつれて、違う替紋になったり、正しい家紋に差し替わっている大名家もある。また、無名の大名家は、実際とは違う家紋が使われているケースもある。
また、イメージ優先で設定されることもある。本願寺家の実際の家紋は、西本願寺は「西六条八ツ藤紋」と「西六条藤紋」(「下り藤紋」)、東本願寺は「東六条八ツ藤紋」と「本願寺抱牡丹紋」などを用いるが、本シリーズでは寺院のイメージから「卍」を家紋に設定していることが多い。史実に根拠のある「下り藤紋」になっている作品もあるが、『覇王伝』『蒼天録(PSP版のみ)』および『創造』以降に限られる。「下り藤紋」は他の作品にも設定はされているが、一条家の家紋となっている。
この他、大名としては登場しない武将でも、家紋が設定されていることがある。たとえば南条家の「夕顔」など。通常目にすることはできず、謀叛などで独立しないと見ることができない。同様に、家紋の設定が無い武将が大名となった場合は、汎用に用意されている家紋が自動的に割り当てられる。
基本的に、令制国による国ごとに区切られる。作品によっては、1国をさらに複数に分割したり、逆に複数の国を1地域として扱う物もある。また東北地方は、1869年に行われた陸奥国・出羽国の分割を遡って利用している作品が多い。
さらに、1国に複数の城や拠点が存在する作品もある。
製作委員会方式で舞台化も幾度もされた。舞台版の詳細は信長の野望・大志#舞台版を参照。
大分県大分市が、2019年6月に発行した広報誌「市報おおいた6月1日号」において、大分ゆかりの戦国武将を紹介するため掲載したイラストが、「信長の野望シリーズ」のキャラクターのデザインと酷似していることが、2020年5月に明らかになった。酷似していたのは、立花道雪・高橋紹運・立花宗茂・立花誾千代の4人であった。また、4人のイラストは同市発行の観光ガイドブックにも使用されていた模様である。ゲームの運営主体のコーエーテクモゲームスは、「信長の野望シリーズに登場するキャラクターを参考にしていることは明らかだ」としており、広報誌の制作を委託した印刷会社の担当デザイナーが「ゲーム画像を参考にした」と認めた。ただコーエーテクモゲームスは、これらのイラストは非営利で配布されていることも踏まえ、謝罪や回収は要求しないとしている。
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信長の野望シリーズは、1983年に株式会社光栄マイコンシステム(後に「光栄」→「コーエー」→現「コーエーテクモゲームス」)が発売したPCゲームソフト『信長の野望』を第1作とする、日本の戦国時代をテーマとした歴史シミュレーションゲームのシリーズである。本作により、日本のゲーム市場において「歴史シミュレーション」というゲームジャンルが確立された。シリーズの世界累計出荷数は2018年時点で1000万本を突破。 デザイナーはシブサワ・コウ(創業者・取締役最高顧問の襟川陽一)。
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<nowiki/>{{redirectlist|信長の野望|シリーズ第1作|信長の野望 (初代)|ニンテンドー3DS版|信長の野望・武将風雲録#ニンテンドー3DS版}}
{{コンピュータゲームシリーズ
| タイトル = 信長の野望シリーズ
| 画像 =
| 開発元 = [[コーエーテクモゲームス]]
| 発売元 = コーエーテクモゲームス
| ジャンル = [[歴史シミュレーションゲーム]]
| 製作者 = [[シブサワ・コウ]]他
| 1作目 = [[信長の野望 (初代)|信長の野望]]
| 1作目発売日 = 1983年3月30日
| 最新作 = [[信長の野望・新生]]
| 最新作発売日 = 2022年7月21日
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'''信長の野望シリーズ'''(のぶながのやぼうシリーズ、[[英語]]:Nobunaga's Ambition series)は、1983年に株式会社光栄マイコンシステム(後に「光栄」→「[[コーエー]]」→現「[[コーエーテクモゲームス]]」)が発売したPCゲームソフト『[[信長の野望 (初代)|信長の野望]]』を第1作とする<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/41227|title=NHKも一目を置く超ロングヒットゲーム「信長の野望」はどうして37年売れ続けるのか |publisher=文春オンライン|date=2020-10-30|accessdate=2020-11-12}}</ref>、日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]をテーマとした[[歴史シミュレーションゲーム]]のシリーズである。本作により、日本のゲーム市場において「歴史シミュレーション」というゲームジャンルが確立された。シリーズの世界累計出荷数は2018年時点で1000万本を突破<ref>https://www.famitsu.com/news/201803/30154658.html</ref>。
デザイナーは[[シブサワ・コウ]](創業者・取締役最高顧問の[[襟川陽一]])。
== 概要 ==
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[大名]]となり、内政で自国を富ませて軍事力を蓄え、他の勢力を合戦で討ち滅ぼすことで全国統一を果たして戦国の世を終わらせるのが最終的な目的となる。後のシリーズでは合戦だけではなく外交によって支配下に置くことでも統一、[[惣無事令]]の発布もできるようになった。
本シリーズの特徴は、作品名に2,3,4…などの数字が付かないという点が挙げられる(同社が発売している「[[三國志シリーズ]]」では数字が付く)。2作毎に大きなシステム変更がある点も一つの特徴で、奇数作(1,3,5…作目)で新機軸が打ち出され、偶数作(2,4,6…作目)で奇数作の特徴を生かしつつ、規模を拡大したり、多少の調整を行っている<ref>[http://akiba.ascii24.com/db/review/game/sim/2001/02/10/622972-000.html]</ref>。ただし、第10作『[[信長の野望・蒼天録|蒼天録]]』では、第9作『[[信長の野望・嵐世記|嵐世記]]』の新要素である「諸勢力」こそ引き継がれたものの、ほとんど別の作品となっているなど、21世紀に入ってからの作品では必ずしもこの原則が当てはまらなくなりつつある。
「信長」というタイトルではあるが、第2作の『[[信長の野望・全国版|全国版]]』以降は[[織田信長]]だけでなく、登場する大名全てをプレイヤーキャラクターとして選択可能(第1作では、2人プレイのときのみ[[武田信玄]]が選択可能)になり、また、第3作の『[[信長の野望・戦国群雄伝|戦国群雄伝]]』以降では配下武将も登場し、プレイヤーの手腕によって実際の歴史を覆すことが可能となっている。さらに、史実に沿ったゲーム展開を行うと現れる「歴史イベント」も多数用意されている。第4作の『[[信長の野望・武将風雲録|武将風雲録]]』では、攻め込んだ国の経路によっては[[古戦場]]も登場する。しかし、その古戦場は[[越中国|越中]]の[[倶利伽羅峠|倶梨伽羅峠]](源平時代)や、[[長門国|長門]]の[[下関市|下関]]([[下関戦争|馬関戦争]])、[[薩摩国|薩摩]]の[[鹿児島市]]内と[[桜島|櫻島]]([[西南戦争]])など、必ずしも戦国時代の古戦場が出るとは限らない<ref group="注釈">[[四国]]は[[阿波国|阿波]]=[[淡路島]]・[[讃岐国|讃岐]]=[[小豆島]]・[[伊予国|伊予]]=[[因島]]と島が登場する</ref>。
『[[信長の野望・覇王伝|覇王伝]]』以降では、[[拡張パック]]である[[パワーアップキット]]が発売され、同じ作品をより楽しめるようになっている。パワーアップキットは先に販売されている無印版をプレイしたユーザーの意見が反映されることが多い。
さらに、『[[信長の野望・創造 戦国立志伝]]』では、シリーズ初となる、大名プレイだけでなく、家臣としてプレイすることが可能になった。
== 作品の特徴 ==
本シリーズで扱われているものは、初期の作品ではタイトル通り織田信長が全国統一への足がかりを掴む、[[桶狭間の戦い]]から[[本能寺の変]]までの時期、西暦で言うと16世紀中期の戦国時代後期から[[安土桃山時代]]初期が舞台だったが、中期以降の作品では信長死後のシナリオや、信長家督相続以前のシナリオも搭載されるようになった。[[時代考証]]については、本作は「'''プレイヤーが自分なりの戦国時代を創る'''」がコンセプトであるため、史実よりユーザーの持つイメージを大事にするとしている。以前、[[小田原城]]に当時[[天守]]はなかったので史実通りに天守を外したことがあったが、ユーザーから残念がる声が多かったという<ref name="saizo">月刊誌『[[サイゾー]]』2月号 P121でのインタビューでの、コーエー社員のコメントより。</ref>。
また、史実では[[蠣崎氏]]などと対立した[[アイヌ]]勢力は、「デリケートな問題<ref>『信長の野望 天翔記事典』[[蠣崎義広]]の項目より。</ref>」があることを理由にゲームに登場したことはない。[[島津氏]]に制圧された[[琉球王国]]も勢力として登場したことはなく、[[尚寧王|尚寧]]が『嵐世記』のミッションクリア賞品武将として登場したことがあるのみである。
『戦国群雄伝』以降の武将には[[血縁]]の概念があり、大名の後継には血縁者を選ばないと家臣の忠誠が激減したり、[[謀反]]を起こす家臣が出ることもある<ref group="注釈">作品によっては、血縁者が複数いる場合、後継に選ばれなかった血縁者が不満を持って謀反を起こすなどするものもある。</ref>。作品によっては、血縁者以外を後継に指名できず、血縁者不在の状況で大名が死亡すると有無を言わさず[[ゲームオーバー]]になるものもある<ref group="注釈">その代わり、救済策として[[結婚|婚姻]]による[[親族]]形成が可能になっていたり、姫を武将に登用できる「姫武将」が可能になっている作品もある。また、コンピュータ勢力に限り、「遠縁」という設定の架空武将が跡を継ぐ作品もある。『[[信長の野望・天道|天道]]』では、プレイヤー勢力を含め、ランダムで架空の後継者が登場するようになった。</ref>。作品によっては一部の武将に父親が設定されているが、父親を武将の生年以前に死亡させても、その武将が登場しなくなることはない。
本シリーズは[[ウォー・シミュレーションゲーム]]のジャンルに分類される。戦術より政略・戦略的志向が強く、実際の戦国時代の合戦に近いゲーム設計がなされている。
本シリーズは、常にパソコン版が先行しそれを移植して[[コンシューマーゲーム]]版が作成されてきたが、初期の移植では、ハードの性能の問題もあり同じタイトルであっても、一部武将や城が削減されていることが多かった。しかし、[[PlayStation 2]]以降は削減はほとんど見られず、むしろ独自要素を追加してパソコン版より改良された内容となっていることが多いようである。また、[[携帯電話]]アプリへの移植も行われている。
『[[信長の野望・烈風伝|烈風伝]]』以降の作品では、戦国時代よりも過去の日本の武将も登場するようになった。このうちPS版『烈風伝withPK』及びPS2版『嵐世記withPK』では日本の古(いにしえ)武将だけではなく、三國志や[[モンゴル]]高原、果ては[[ヨーロッパ]]等の海外の著名な人物が武将として登場した。また、PC版『[[信長の野望・天下創世|天下創世]]』のダウンロードコンテンツや、PS2版『[[信長の野望・革新|革新withPK]]』では、[[大石良雄]]や[[堀部武庸]]等の赤穂浪士や、[[坂本龍馬]]や[[近藤勇]]等の幕末の志士といった、[[江戸時代]]中期以降の人物も武将として登場するようになった。もちろんこれらの武将には、生没年にプラスマイナス数百年の補正がかけられている。
== 武将の能力値・顔グラフィック ==
武将を個性付ける能力値は『戦国群雄伝』では「政治」「戦闘」など4種類と少なかったが、シリーズを重ねるごとに「智謀(知略)」が別個に設けられたり、兵科適性や特技により個性付けられるようになった。作品によっては武将本人の武勇と兵の統率力を別個に評価したり、それ以外の能力値で武将の特徴付けをしているものもある。また、各武将への評価にも能力値を通じて時代の変遷を見て取ることができ、[[大河ドラマ]]・小説・漫画で主人公、あるいはそのライバルとして取り上げられたため能力値が上がった武将もいる<ref name="saizo" />。さらに、それ以外の要因で再評価された武将もいる。例えば、[[今川氏真]]はかつては暗愚な大名とされ、政治や戦闘などの能力値は低く付けられていたが、政治的手腕や当時の情勢が考慮されているのか『革新』以降では政治だけはやや高く設定され、[[尼子晴久]]は中央集権化や対明貿易など内政手腕が再評価され智謀政治が高くなっている。[[足利義昭]]は[[信長包囲網]]を作り上げた外交能力を評価され政治、智謀が高い謀将となっている。一方、[[毛利輝元]]、[[武田勝頼]]は初期の作品では各能力は高かったが、作を重ねるに連れ、能力が低下している。
武将の顔グラフィックについては、初期の作品ではドット数・使用色数も少なく、専用のものが用意されているのは大名と有名武将のみで、比較的無名な武将については[[フォトモンタージュ|モンタージュ]]のように、いくつかのパターンに[[髭]]を足したり目つきを変えたりして違いを付けていた。シリーズを重ねるごとに各武将ごとに精緻な顔の(『天下創世』以降はバストアップも同)グラフィックが用意されるようになった。能力値同様にドラマ・小説・漫画の影響を受けてグラフィックの傾向が変わった武将もいる。コーエー側は「大河ドラマの役者に、ゲームのビジュアルが影響されることなどはあるか」という問いに対し、「ユーザーのイメージが変わらない限りはほとんどない」としている<ref name="saizo" />。
なお、初期の頃には、用意されている専用顔グラフィックが少なかったためか、それぞれ特徴が非常に色濃く出たものであった(『戦国群雄伝』の[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[風魔小太郎]]の顔グラフィックが非常に怖い、など)。中期の作品(『烈風伝』など)では、性能の向上でより精密な顔グラフィックの制作が可能になったが、その反面、有名・無名、有能・無能武将で顔グラフィックの扱いの差が大きかった(織田家や甲斐武田家が美男揃いの一方で、[[一条兼定]]があまりに童顔すぎる、[[今川義元]]が公家被れな顔になっている<ref group="注釈">後の研究により公家の化粧は創作によるものである説が上がっている。</ref>ことなど)。その後、[[2000年代]]に入ってからの作品では一時期より差がなくなってきている。
== 大名家の識別 ==
初代では、地図に表示される大名家名で区別していた。『全国版』から、機種によって大名家別の色塗り地図で区別するようになり、『戦国群雄伝』からは、色数の少ないファミコン版などで[[家紋]]による区別をするようになった。『覇王伝』以降は家紋による区別が定着し、色別はあっても補助的な物となっている(『覇王伝』『嵐世記』『大志』)。
家紋は、その大名家で実際に使われていた家紋で<ref group="注釈">『天翔記』パワーアップキット版のみ、架空の家紋も用意されており、新規作成も可能。</ref>、たとえば織田家は「織田[[木瓜紋|木瓜]]」、[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田家]]は「[[家紋の一覧#菱紋|四つ割り菱(武田菱)]]」で表示される。しかし、複数の大名家で同じ家紋が使われていた場合も多く、色違いにしたり、替紋や[[旗指物]]で代用している。作品が下るにつれて、違う替紋になったり、正しい家紋に差し替わっている大名家もある<ref group="注釈">たとえば、[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田家]]は、初登場の『天翔記』では四つ割り菱の色違いだったが、『烈風伝』から丸に四つ割り菱(武田菱を○で囲った物)にして区別している。[[黒田氏|黒田家]]は「黒田藤巴」を用いたが、本シリーズでは『天道』まで替紋の「黒餅」で代用、『創造』で初めて黒田藤巴になった。また、[[滝川氏|滝川家]]は「丸に竪木瓜」を用いたが、本シリーズでは『革新』までは旗指物に用いた「三つ串団子」で代用、『天道』ではより史実に近い「木瓜」になった。</ref>。また、無名の大名家は、実際とは違う家紋が使われているケースもある<ref group="注釈">『蒼天録』に登場した[[神代氏|神代家]]は「三つ巴」「木瓜」を用いたが、本シリーズでは無関係の「山に霞」で表示される。</ref>。
また、イメージ優先で設定されることもある。[[大谷家|本願寺家]]の実際の家紋は、[[西本願寺]]は「西六条八ツ藤紋」と「西六条藤紋」(「下り藤紋」)、[[東本願寺]]は「東六条八ツ藤紋」と「本願寺抱牡丹紋」などを用いるが、本シリーズでは[[寺院]]のイメージから「[[卍]]」を家紋に設定していることが多い<ref group="注釈">このため、実際に「卍」(正確には「丸に卍」。『嵐世記』では、一向宗・旧仏教諸勢力が一揆で大名となった時に登場)を家紋として使っていた[[蜂須賀氏|蜂須賀家]]は、『嵐世記』では同じく使用していた「抱き柏」に近い、「丸に一枚柏」で代用していた。『天道』で、ようやく本来の「丸に卍」となった(『嵐世記』の仏教諸勢力とは色違い)。</ref>。史実に根拠のある「下り藤紋」になっている作品もあるが、『覇王伝』『蒼天録(PSP版のみ)』および『創造』以降に限られる。「下り藤紋」は他の作品にも設定はされているが、[[土佐一条氏|一条家]]の家紋となっている<ref group="注釈">『蒼天録』PSP版、『創造』以降では、本願寺家は一条家と色違いの下り藤紋となっている。</ref>。
この他、大名としては登場しない武将でも、家紋が設定されていることがある。たとえば[[南条氏|南条家]]の「夕顔」など。通常目にすることはできず、謀叛などで独立しないと見ることができない。同様に、家紋の設定が無い武将が大名となった場合は、汎用に用意されている家紋が自動的に割り当てられる<ref group="注釈">既存大名の後継者として、非血縁武将が跡を継いだ場合は、家紋は変化しない。</ref>。
== 地理 ==
基本的に、[[令制国]]による国ごとに区切られる。作品によっては、1国をさらに複数に分割したり、逆に複数の国を1地域として扱う物もある。また東北地方は、1869年に行われた[[陸奥国#明治期の陸奥国|陸奥国]]・[[出羽国#明治|出羽国]]の分割を遡って利用している作品が多い。
さらに、1国に複数の城や拠点が存在する作品もある。
== 作品一覧 ==
=== パソコンゲーム・家庭用ゲーム機 ===
{{Timeline of release years
| 1983 = [[信長の野望 (初代)|信長の野望]]
| 1986 = [[信長の野望・全国版|全国版]]
| 1988 = [[信長の野望・戦国群雄伝|戦国群雄伝]]
| 1990 = [[信長の野望・武将風雲録|武将風雲録]]
| 1992 = [[信長の野望・覇王伝|覇王伝]]
| 1994 = [[信長の野望・天翔記|天翔記]]
| 1997 = [[信長の野望・将星録|将星録]]
| 1999 = [[信長の野望・烈風伝|烈風伝]]
| 2001 = [[信長の野望・嵐世記|嵐世記]]
| 2002 = [[信長の野望・蒼天録|蒼天録]]
| 2003 = [[信長の野望・天下創世|天下創世]]
| 2005 = [[信長の野望・革新|革新]]
| 2009 = [[信長の野望・天道|天道]]
| 2013 = [[信長の野望・創造|創造]]
| 2016 = [[信長の野望・創造#戦国立志伝|戦国立志伝]]
| 2017 = [[信長の野望・大志|大志]]
| 2022 = [[信長の野望・新生|新生]]
}}
* '''[[信長の野望 (初代)|信長の野望]]'''(1983年3月発売)
*: シリーズ第1作。サブタイトルはなし。
** '''[[信長の野望 (初代)#信長の野望 リターンズ|信長の野望 リターンズ]]'''(1995年発売)
**: 『初代』をベースにしたアレンジ作品。Windowsに準じたインターフェイスへの一新や光栄の3DCGソフト『サイクロン』シリーズを使用した3Dグラフィクスの大名の顔グラフィック・戦略マップが特徴。正規シリーズには通常カウントされない。Windows、Windows 95、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、[[セガサターン]]の各版が発売された。
* '''[[信長の野望・全国版]]'''(1986年9月発売)
*: シリーズ第2作。日本全国50ヶ国モードの搭載。グラフィックおよびシステムもより改良され、複雑化した。
* '''[[信長の野望・戦国群雄伝]]'''(1988年12月発売)
*: シリーズ第3作。三國志シリーズの影響を受けて武将という概念を導入。[[東北地方|東北]]と[[九州]]は削除。
* '''[[信長の野望・武将風雲録]]'''(1990年12月発売)
*: シリーズ第4作。再び全国規模へ。[[茶器]]・茶会など文化や技術の導入。
* '''[[信長の野望・覇王伝]]'''(1992年12月発売)
*: シリーズ第5作。従来の国単位制から城単位制へ。合戦も従来のヘックス戦から進化。[[家宝]]導入。
* '''[[信長の野望・天翔記]]'''(1994年12月発売)
*: シリーズ第6作。勢力単位でのコマンド実行。軍団制の導入。
* '''[[信長の野望・将星録]]'''(1997年3月発売)
*: シリーズ第7作。[[箱庭]]内政ゲームへの転換。
* '''[[信長の野望・烈風伝]]'''(1999年2月発売)
*: シリーズ第8作。箱庭内政ゲーム。威信システムの導入。
* '''[[信長の野望・嵐世記]]'''(2001年2月発売)
*: シリーズ第9作。国取り合戦への回帰。諸勢力の導入。合戦が[[ターン制ストラテジー]]から[[リアルタイムストラテジー]]へと転換。
* '''[[信長の野望・蒼天録]]'''(2002年6月発売)
*: シリーズ第10作。城取り合戦への回帰。配下の城主プレイも可能。パワーアップキット版では、[[北条早雲]]や[[細川政元]]らが登場する1495年など信長誕生以前のシナリオも追加、シリーズ最古のプレイ開始年となっている。
* '''[[信長の野望・天下創世]]'''(2003年9月12日発売)
*: シリーズ第11作。箱庭内政ゲームへの回帰。開発する城下町と攻城戦の一体化。合戦と内政がフル[[3D]]になる。
* '''[[信長の野望・革新]]'''(2005年6月22日発売)
*: シリーズ第12作。内政や合戦が完全リアルタイム制となり、さらに3D全国1枚マップとなった。
*: この作品から足利家など特定の家で統一した場合エンディングの表現が変更されるようになった。
* '''[[信長の野望・天道]]'''(2009年9月18日発売)
*: シリーズ第13作。街道を繋げ地域を支配する集落システムや短期プレイの群雄覇権モードの導入。
* '''[[信長の野望・創造]]'''(2013年12月12日発売)
*: シリーズ第14作。30周年記念作品。城取り合戦への回帰。クエスト形式のイベント戦国伝や姫武将モードの搭載。精巧な3D全国1枚マップは、[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|「真田丸」(NHK大河ドラマ)]]でも使用される。シリーズで初めて、PC版と家庭用ゲーム機版([[PlayStation 3]])が同時発売された。
** '''[[信長の野望・創造#戦国立志伝|信長の野望・創造 戦国立志伝]]'''(2016年3月24日)
**: 『創造』のスピンオフ作品。PC、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation 4]]、[[PlayStation Vita]]の4機種同時発売。武将プレイが可能に。
* '''[[信長の野望・大志]]'''(2017年11月30日発売)
*: シリーズ第15作。35周年記念作品。PC、PlayStation 4、[[Nintendo Switch]]の3機種同時発売。2018年1月にスマートフォン版([[iOS]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]])が発売。各勢力を個性化する志システムの採用。農業・商業・募兵の内政システムの変更や戦略全体に影響を与える士気の概念の導入。領民の要素に流民が追加。
* '''[[信長の野望・新生]]'''(2022年7月21日)
*: シリーズ第16作。40周年記念作品<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/561/G056198/20210328001/ |title=シリーズ最新作「信長の野望・新生」発表。2021年発売予定|publisher=4Gamer.net |accessdate=2021-04-27}}</ref>。AIで躍動する武将たちがテーマ。郡システムが本作の根幹とされる。
=== 携帯型ゲーム機 ===
; [[ゲームボーイ]]
: '''[[信長の野望 ゲームボーイ版]]''' (1990年10月10日発売)
; [[ワンダースワン]]
: '''[[信長の野望 for ワンダースワン]]''' (1999年3月11日発売)
; [[ゲームボーイカラー]]
: '''[[信長の野望・戦国群雄伝#信長の野望 ゲームボーイ版2|信長の野望 ゲームボーイ版2]]''' (1999年4月9日発売)
; [[ゲームボーイアドバンス]]
: '''[[信長の野望・武将風雲録#ゲームボーイアドバンス版|信長の野望]]''' (2001年9月28日発売・サブタイトルは付いていないが『武将風雲録』リメイク)
; [[ニンテンドーDS]]
: '''[[信長の野望・烈風伝#信長の野望DS|信長の野望DS]]''' (2006年4月27日発売・『烈風伝』リメイク)
: '''[[国盗り頭脳バトル 信長の野望]]''' (2008年6月26日発売)
: '''[[信長の野望・武将風雲録#信長の野望DS2|信長の野望DS2]]''' (2008年7月31日発売・『武将風雲録』リメイク)
; [[ニンテンドー3DS]]
: '''[[信長の野望・武将風雲録|信長の野望]]''' (2013年9月19日発売・『武将風雲録』リメイク)
: '''[[信長の野望・烈風伝#信長の野望2(3DS版)|信長の野望2]]''' (2015年8月6日発売・『烈風伝』リメイク)
; [[PlayStation Portable]]
: '''信長の野望・天翔記''' PSP版 (2005年9月1日発売)
: '''信長の野望・将星録''' PSP版 (2005年12月22日発売)
: '''信長の野望・烈風伝 with パワーアップキット''' PSP版 (2006年3月23日発売)
: '''信長の野望・蒼天録 with パワーアップキット''' PSP版 (2011年8月4日発売)
; [[PlayStation Vita]]
: '''信長の野望・天道 with パワーアップキット''' PS Vita版 (2012年9月27日発売)
: '''信長の野望・創造''' PS Vita版 (2014年5月29日発売)
: '''信長の野望・天翔記 with パワーアップキット HD Version''' PS Vita版 (2015年11月12日発売)
=== オンラインゲーム ===
: '''[[信長の野望Internet]]''' (1998年10月2日発売・通信対戦型シミュレーションゲーム)
: '''[[信長の野望Online]]''' (2003年6月12日発売・[[MMORPG]])
: '''信長の野望''' (2003年配信・[[携帯電話]]向け対戦型ゲーム。[[信長の野望 (初代)|初代]]と同じくサブタイトルは付いていないが、ゲーム内容は全く異なる)
: '''信長の野望タクティクス'''(2009年6月8日配信・携帯電話向け戦術級育成シミュレーションゲーム)
: '''100万人の信長の野望''' (2010年8月26日開始・[[ソーシャルゲーム]])
: '''[[のぶニャがの野望]]''' (2011年2月22日 - 2021年2月22日・ブラウザ用オンライン対戦育成シミュレーションゲーム)
: '''モバノブ''' (2014年5月29日 - 2019年12月4日・合戦シミュレーションゲーム)
: '''[[信長の野望 201X]]''' (2015年5月20日開始・フォーメーションバトルRPG)
: '''信長の野望 ~俺たちの戦国~'''(2016年12月12日 - 2019年12月3日・スマートフォン向け戦国合戦シミュレーションゲーム)
: '''信長の野望 覇道'''(2022年12月1日開始・スマートフォン、steam向け戦国合戦シミュレーションゲーム)
: '''信長の野望 出陣''' (2023年8月31日開始・スマートフォン向け[[位置情報ゲーム]])
=== アナログゲーム ===
; カードゲーム
* 信長の野望・武将風雲録 カードゲーム(1991年発売)
* 信長の野望・覇王伝 カードゲーム(1992年発売)
=== コラボレーション ===
; ニンテンドーDS
: '''[[ポケモン+ノブナガの野望]]''' (2012年3月17日発売。『[[ポケットモンスター]]』シリーズの番外編。「ランセ地方」の「ブショー」として、信長らをモチーフにした人物が登場する。ただし「ブショー」デザインは「[[戦国無双シリーズ]]」準拠。発売は[[ポケモン_(企業)|ポケモン]])
; PlayStation Portable
: '''[[下天の華]]''' (2013年3月28日発売。[[ネオロマンスシリーズ]]。信長の野望シリーズ30周年記念作品)
: '''下天の華 夢灯り'''(2014年2月27日発売。『下天の華』の続編)
; PlayStation Vita
: '''下天の華 with 夢灯り 愛蔵版'''(2016年9月18日発売。PSP版の2作品を1本にまとめ新要素を追加)
; オンラインゲーム
: '''[[AKB48の野望]]'''(2013年1月 - 2018年3月26日・ブラウザ用ファンタジーシミュレーションゲーム。架空のファンタジー世界を舞台に住人である[[AKB48]]メンバーが領地争いを繰り広げる)
== タイアップ ==
; パチンコ
* CR信長の野望(2006年・2008年、[[ニューギン]])
; パチスロ
* 信長の野望(2003年、[[アイジーティージャパン|IGT Japan]])
* 信長の野望・天下創世(2006年、IGT Japan)
* 信長の野望・天下創世~第二の刻~(2007年、IGT Japan)
* 信長の野望オンライン(2008年、IGT Japan)
;漫画
* 信長の野望〜輪廻転将〜(2013年 - 2015年、[[学研パブリッシング]]、作画:[[小野洋一郎]])
;ミュージカル
* 生演奏ミュージカル「信長の野望~炎舞~」(2017年、[[剣舞プロジェクト]]、作・演出:栗原彰文、音楽:印南俊太朗)
:【'''初演キャスト'''】
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:*織田信長 - [[徳山秀典]]
:*明智光秀 - [[齋藤ヤスカ]]
:*豊臣秀吉 - [[北村悠]]
:*竹千代 - [[佐々木恭祐]]
:*森蘭丸 - [[相本麻紀子]]
:*平手政秀 - [[高田正人]]、[[菊地まさはる]](※[[二人一役|Wキャスト]])
:*足利義昭 - [[湯澤幸一郎]]
:*武田勝頼 - [[西泰平]]、[[青山太久]](※Wキャスト)
:*浅井長政 - [[荒木栄人]]、[[田辺裕亮]](※Wキャスト)
:*柴田勝家 - [[滝沢亮太]]、[[熊野真修]](※Wキャスト)
:*織田信忠 - [[江添皓三郎]]、[[高草木淳一]]
:*織田勝長 - [[内田大地]]、[[有川拓也]](※Wキャスト)
:*今川義元 - [[若林純]]
:*朝倉義景 - [[柳橋昌志]]
:*佐久間信盛 - [[宇乃徹]]、[[永井良]](※Wキャスト)
:*六角義賢 - [[中山佳大]]
:*安藤守就 - [[千藤惇]]、[[隈本秋生]](※Wキャスト)
:*氏家直元 - [[馬場勇介]]
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:*稲葉良通 - [[那須佳瑛]]
:*丹羽長秀 - [[井原和哉]]
:*村井貞勝 - [[山田雅巳]]、[[飛山竜太]](※Wキャスト)
:*林秀貞 - [[寺尾歩武]]
:*毛利輝元 - [[若菜 (俳優)|若菜]]、[[黒木伸一朗]](※Wキャスト)
:*鳥居元忠 - [[鈴木吉行]]
:*覚恕法親王 - [[塩川彰彦]]
:*ルイスフロイス - [[逢坂空]]
:*吉法寺 - [[難波拓臣]]
:*帰蝶 - [[大竹一重]]、[[千はふり]](※Wキャスト)
:*お市の方 - [[小松春佳]]、[[山崎朱菜]](※Wキャスト)
:*茶々 - [[あずりな]]、[[雛形羽衣]](※Wキャスト)
:*初 - [[横山瑞季]]、[[石井仁美]](※Wキャスト)
:*築山御前 - [[岡本彩]]、[[牧田咲也加]](※Wキャスト)
:*志乃 - [[ほなみ奈穂]]、[[外井咲和子]](※Wキャスト)
:*くノ一 - [[月渚まりあ]]、[[咲良]](※Wキャスト)
:*女性 - [[宮野黎]]、[[元谷百合奈]]、[[山崎史穂]]、[[中村みさき]]、[[関根佐和子]]、[[御手洗恭子]](※Wキャスト)
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* 生演奏ミュージカル「信長の野望~炎舞~」(再演)(2020年、剣舞プロジェクト、作・演出:栗原彰文、音楽:印南俊太朗、主催:ミュージカル『信長の 野望-炎舞-』[[製作委員会方式|製作委員会]](剣舞プロジェクト/style office))
:【'''再演キャスト'''】
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:*織田信長 - 徳山秀典
:*明智光秀 - [[鷲尾修斗]]
:*帰蝶 - [[小泉萌香]]
:*お市 - [[引地志歩]]、[[筒井咲惠]]
:*森蘭丸 - [[田野優花]]
:*豊臣秀吉 - [[岩崎孝次]]、[[崎嶋勇人]](※Wキャスト)
:*竹千代 - [[西泰平]]、栗原彰文(※Wキャスト)
:*柴田勝家 - 滝沢亮太
:*浅井長政 - [[田邊裕亮]]、[[GOH IRIS WATANABE]](※Wキャスト)
:*足利義昭 - [[篠木隆明]]、岡崎優(※Wキャスト)
:*武田勝頼 - [[庄田侑右]]、[[江添晧三郎]](※Wキャスト)
:*織田信忠 - [[入倉慶志郎]]、[[佐々木恭祐]](※Wキャスト)
:*織田勝長 - [[薗一輝]]、[[内田大地]](※Wキャスト)
:*今川義元 - [[西岡歩]]、[[町田光陽]](※Wキャスト)
:*朝倉義景 - [[小野剛聖]]、[[稲益佑亮]](※Wキャスト)
:*佐久間信盛 - [[山本侑平]]、[[毛利光汰]](※Wキャスト)
:*六角義賢/斎藤道三 - [[柳沢成人]]、[[三嶋健太]](※Wキャスト)
:*丹羽長秀 - [[黛凜太郎]]、[[有賀太朗]](※Wキャスト)
:*安藤守就 - [[小川竜平]]、[[楠木優樹]](※Wキャスト)
:*氏家直元 - [[藤井惇成]]、[[前澤亮]](※Wキャスト)
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:*稲葉良通 - [[海老原なつ美]]、[[吉川翔貴]](※Wキャスト)
:*村井貞勝 - [[畠山留佳]]、[[金津裕也]](※Wキャスト)
:*林秀貞/細川藤孝 - [[春山航平]]、[[坂内勇気]](※Wキャスト)
:*毛利輝元 - [[二宮禎祥]]、[[三本木大輔]](※Wキャスト)
:*鳥居元忠 - [[鍬次郎]]、[[加藤弘基]](※Wキャスト)
:*吉法師 - [[直井瑞季]]、[[石井仁美]](※Wキャスト)
:*織田信秀 - [[鈴木吉行]]
:*茶々 - [[月山和香]]、[[天塚架月]](※Wキャスト)
:*初 - [[伊藤映里奈]]、[[一司ゆか]](※Wキャスト)
:*江 - [[森麻理子]]、[[大野愛]](※Wキャスト)
:*築山御前 - [[岬優希]]、[[遠乃綾子]](※Wキャスト)
:*くノ一志乃 - [[鈴木澪]]、[[牧田咲也加]](※Wキャスト)
:*くノ一小夜 - [[日向みお]]、[[清水彩]](※Wキャスト)
:*女性1 - [[川原夢貴]]、[[加藤良美]](※Wキャスト)
:*女性2 - [[櫻井恵里佳]]、[[池上マリア]](※Wキャスト)
:*女性3 - [[福田結希]]、[[児玉萌々]](※Wキャスト)
:*女性4 - [[三浦亜美 (プロレスラー)|三浦亜美]]、[[辻はるか]](※Wキャスト)
:*女性5 - [[服部友貴穂]]
:*殺陣アンサンブル - [[高野智哉]]
:*平手政秀/武田信玄 - [[髙田正人]]、[[菊地まさはる]](※Wキャスト)
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[[製作委員会方式]]で舞台化も幾度もされた。舞台版の詳細は[[信長の野望・大志#舞台版]]を参照。
== 著作権をめぐるトラブル ==
[[大分市|大分県大分市]]が、2019年6月に発行した広報誌「[[市報おおいた]]6月1日号」において、大分ゆかりの戦国武将を紹介するため掲載したイラストが、「信長の野望シリーズ」のキャラクターのデザインと酷似していることが、2020年5月に明らかになった。酷似していたのは、立花道雪・高橋紹運・立花宗茂・立花誾千代の4人であった。また、4人のイラストは同市発行の観光ガイドブックにも使用されていた模様である。ゲームの運営主体のコーエーテクモゲームスは、「信長の野望シリーズに登場するキャラクターを参考にしていることは明らかだ」としており、広報誌の制作を委託した印刷会社の担当デザイナーが「ゲーム画像を参考にした」と認めた。ただコーエーテクモゲームスは、これらのイラストは非営利で配布されていることも踏まえ、謝罪や回収は要求しないとしている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200510/ddm/041/040/068000c 大分市広報誌キャラ、「信長の野望」と酷似 著作権侵害疑い] 毎日新聞 2020年5月10日</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
=== 歴史三部作 ===
3シリーズを合わせて「歴史三部作」の呼称が一時期用いられていた。
*信長の野望シリーズ
* [[三國志シリーズ]]
* [[蒼き狼と白き牝鹿シリーズ]]
=== 関連スタッフ ===
* [[菅野よう子]] - 『[[信長の野望・全国版|全国版]]』から『[[信長の野望・天翔記|天翔記]]』までの作品の音楽を主に担当
* [[新居昭乃]] - 『[[信長の野望・戦国群雄伝|戦国群雄伝]]』、『天翔記』の一部の曲を製作
* [[山下康介]] - 『[[信長の野望・将星録|将星録]]』から『[[信長の野望・天道|天道]]』までの作品の音楽を担当
* [[川井憲次]] - 『[[信長の野望Online|Online]]』の音楽を担当
* [[生頼範義]] - 『戦国群雄伝』から『天翔記』まで、及びその移植作のパッケージイラストを担当
* [[長野剛]] - 『将星録』から『天道』までの作品、及びその移植作のパッケージイラストを担当
* [[北見健]] - 『天道』のプロデュース担当
* [[小笠原賢一]] - 『[[信長の野望・創造|創造]]』のプロデュース担当
=== 関連作品 ===
* [[太閤立志伝シリーズ]]
* [[パワーアップキット]]
=== その為 ===
* [[堺雅人]] - 俳優。歴史好きから当作品のファン。スーパーファミコンを買った時、最初に「信長の野望」を買っている程である。
== 外部リンク ==
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* [https://www.gamecity.ne.jp/ GAMECITY]
* [https://www.gamecity.ne.jp/nobunaga30th/ 「信長の野望」30周年記念サイト]
* [https://www.gamecity.ne.jp/products/keitai/nob/ 携帯電話版『信長の野望』公式サイト] (サブタイトルは付いていないが、初代とは全く別の作品)
* {{Twitter|nobunaga_kt|信長の野望シリーズ(公式)}}
* {{Facebook|nobunaga.no.yabou.kt|信長の野望}}
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国鉄80系電車
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国鉄80系電車(こくてつ80けいでんしゃ)は、1950年に登場した日本国有鉄道(国鉄)の長距離列車用電車形式群の総称である。
「湘南電車」と呼ばれる車両の初代に該当する。太平洋戦争後、東海道本線東京地区普通列車のラッシュ輸送対策として電気機関車が牽引する客車列車の運用置換えを目的に、当初から長大編成での組成を前提として開発・設計された。
これ以前、鉄道省や運輸省時代までの国有鉄道は、客車列車を輸送の本流として扱い、電車は大都市圏の短距離輸送に重点を置く補助的な存在と捉えていたが、日本国有鉄道(国鉄)の発足に伴い、100 kmを超える長距離輸送に本格投入した最初の電車であり、走行性能で電気機関車が牽引する客車列車を大きく凌駕し、居住性も大きく改善された。電車が長距離大量輸送に耐えうることを国鉄において実証し、その基本構想は後年の電車特急や東海道新幹線の実現にまで影響を及ぼした。
メカニズム面では基本的に国鉄が大正時代から蓄積してきた伝統的設計の流れを継承するが、内容は大幅な強化・刷新が図られ、1950年代に続いて開発された70系電車・72系電車全金属車体車とともに「国鉄における吊り掛け駆動方式旧形電車の集大成」と評すべき存在となった。
1950年(昭和25年)1月から1958年(昭和33年)4月までの8年間にわたり、大小の改良を重ねつつ合計652両が製造され、普通列車・準急列車用として本州各地の直流電化区間で広く運用されたが、1983年(昭和58年)までに営業運転を終了し、保存予定で車籍が残っていた1両を除いては1984年(昭和59年)に形式消滅した。
東海道における長距離電車運転は、鉄道省時代の大正後期に横浜 - 国府津間電化が計画され、完成時には2扉セミクロスシートを装備するデハ43200系電車の新製投入が計画された。しかし計画途上の1923年に関東大震災が発生。電化も1925年に完成となったことや被災車の補充が優先されたために本計画は断念された。
一方で電車による長距離運転は、1930年から横須賀線東京 - 横須賀間約68 kmにおいて、従来の客車列車置換えで実施された。この施策は、速度向上やラッシュ対策の実績をあげ、翌1931年からは長距離対応型の2扉クロスシート車32系電車(モハ32・サハ48・サロ45・サロハ46・クハ47形)を新たに投入。2等車(現在:グリーン車)を含んだ編成で居住性を大きく改善した。
しかし電車化の本命とされた東海道の普通列車では、横須賀線より長距離運行系統という事情もあり、太平洋戦争後まで長年にわたり電気機関車牽引列車で運行されることになった。
終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、東海道線東京地区についても横須賀線と同様に加減速性能・高速性能の優れた電車を投入し、高頻度運行で激増する輸送需要に対応しなければならない状況に至った。
東海道本線電化は、1934年の丹那トンネル開通時点で東京から沼津までが完成しており、1946年時点の国鉄はこの約126 kmの区間で普通列車電車化を計画した。
しかし当時、連合国軍の占領下で日本の鉄道政策を掌握した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 第3鉄道輸送司令部 (MRS) は、アメリカ合衆国のインターアーバン(都市間電車)ではすでに衰退が始まっていた事例から、100kmを超える長距離区間の長大編成電車列車による高頻度運行には懐疑的であった。また設備投資抑制が図られていたこともあり、本計画が必要とする新製車両の定数充足を認めようとしなかった。
国鉄は、上述した障害の中で製造許可を得るために、東海道線電車についても「横須賀線程度の短距離運転」という名目でひとまず計画をスタートさせ、後から距離を延長して所期の目的を達成するという策略を用い、ようやく本計画に係る予算を承認させた。
島秀雄工作局局長(当時)主導の旅客車開発グループの手により、比較的長時間にわたる乗車と高速運転を配慮した構造を念頭に置いた国鉄初の本格的長距離電車として設計・開発が行われた。実績のある既存技術に加え、鉄道技術研究所において研究が進められていた新たな各種技術の導入もふんだんに求められた。
本系列開発以前の日本では、電車は短編成運転が原則で国鉄・私鉄を問わず運用上の小回りが利くように「電動車はすべて運転台付き」とされていたが、長大編成が前提となる本系列は「電動車は中間車のみとし、先頭車は制御機能に徹する」中間電動車方式を採用し、乗り心地やコスト面における改善を実現した。台車はコロ軸受の採用や高速台車振動研究会の研究成果を取り入れた新設計の段階的な導入により乗り心地と高速走行時の振動特性の改善が図られた。さらにブレーキ制御は在来の自動空気ブレーキに電磁弁を加え後部車での応答遅延を最小限に抑えることで、当時の電車としては未曾有の長大編成となる16両編成運転を可能とした。また大出力モーター搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比(電動車と付随車の比率)を「2:3」とする経済編成を基本とした。
高速型台車や中継弁・電磁給排弁付自動空気ブレーキなどを除けば、関西私鉄各社の戦前型電車に比較してもスペック自体は優位ではないが、それらの技術開発成果や影響も散見される。
本系列の真の革新性は大局的な背景から捉えるべきものである。技術面では大量増備を考慮してコストを抑制した経済的かつ堅実な選択も見受けられるが、全体では既成概念を覆す大規模な総合システムとして現実に成立させ、なおかつ集中的に運用したことに意義があった。
営業開始前試運転で車両火災焼失事故が発生した。
営業運転開始後も当初は初期故障が頻発・世間から湘南電車をもじった「遭難電車」などの不名誉な呼ばれ方もされたが、各機器の改良や設計見直しによる故障解消ならびに性能安定化が得られ、客車並みの設備と乗り心地とスピードアップ効果から徐々に利用者の支持を得た。
基本的共通事項として、乗降を円滑にするため3等車は1m、2等車サロ85形は700mm幅の片開き片側2ドア客用扉と車端部デッキを採用する。
当初からの構造的特徴として、台枠のうち台車心皿中心間で船の竜骨に相当する中梁を簡素化し、車体側板と接する側梁を強化することにより、梯子状の台枠構造全体で必要な強度を確保しつつ軽量化を図っていた点が挙げられる。これは1930年(昭和5年)製造の16m車(湘南電気鉄道デ1形電車→京浜急行電鉄デハ230形電車)で川崎車輛の設計により採用されたのが日本の高速電車における初出であるが、その先進的軽量化設計の意義を合理的な強度計算手法を含め理解しようとしなかった無理解な鉄道省の担当官による硬直的な対応で増備車では中梁装備への退行を強制され、以後太平洋戦争後に至るまで約20年にわたり顧みられていなかった手法である。本系列ではかつて鉄道省の担当官が「妥当ナラザル」として禁止したこの設計手法を、その後身である日本国有鉄道の車両局自らが、より長く重い20m級車両で採用したものである。以後、この設計手法は後続の国鉄70系電車や近鉄2250系電車をはじめとする各私鉄の新造車など、張殻(モノコック)構造の設計手法が導入されるまでの時期に設計製造された日本の鉄道車両で積極的に用いられる一般的な軽量化手法として広く普及した。
初期の半鋼製車では窓の高さが客車や従来の電車よりも若干高い位置とされた。引き続き改良も実施されており、客室天井の通風器が初期車での大型砲金製風量調節機能付から、2次車では製造コスト低減のため皿形の簡素なものになるなどの変更点もある。客席屋上の通風器は製造期間中3回にわたって形状変更され、試作形通風器(モユニ81003・モユニ81004に取付)を含めると計5種類に分類できる。
なお、設計変更も含む大改良のため以下の番台区分も実施された。
客室内装も当初は戦前同様に木製で照明も白熱灯を採用。客車同様のクロスシート、両端のみ通勤利用も考慮しロングシートとし、座席下には電気暖房を搭載する。
クロスシートは座席のシートピッチ(前後間隔)を従来の客車より縮め、座席数を増やして定員を拡大するとともに通路幅を800mmに広げた。
トイレはデッキ側から出入りする構造として客室との遮断を図り、臭気漏れ対策や他の乗客の視線を受けない配慮がなされた。また、従来の鉄道車両用トイレは床板に和式便器を埋め込み配管等は床上に露出した構造だったが、配管の破損や床の汚損が絶えなかったため階段状の段差を作り段上に和式便器を埋め込み、配管等は段の内側に隠す構造が初めて採用された。この様式は80系電車が嚆矢となり、一般家庭の和式トイレにまで採用されるようになった。本方式は、考案者である当時の島秀雄国鉄工作局長のイニシャルから当初S式便器と呼称した。
台車・主電動機・主制御器などは、戦時設計ながら戦後も大量増備されていた63系通勤形電車に1947年(昭和22年)以降試験搭載され改良を重ねて来た新技術が活かされている。そのシステムは、1950年(昭和25年)時点の国鉄における最新・最良の内容といえるものである。
大出力主電動機搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比2:3で起動加速度1.25 km/h/sとする経済編成を基本とし、通常運転の最高速度は95km/h(後年は幹線区で100km/h)・設計最高速度は110km/hとした。なお1955年(昭和30年)には東海道本線での速度試験でMT比4:1の特別編成が、125km/hの最高速度を記録している。
当時の国鉄電車用として最強力の制式電動機であるMT40を搭載する。
駆動装置は従来どおり吊り掛け駆動方式を採用し、歯車比は同じMT40を装架する63系通勤形電車の2.87に対し、高速性能を重視した2.56とした。これにより1時間定格速度は全界磁時56.0km/h、60%弱界磁で70.0km/hとなった。
1949年(昭和24年)度製造の初期形では設計開発が間に合わず、戦前から長らく国鉄標準機種であったCS5A電空カム軸式主制御器を暫定的に搭載した。
1951年(昭和26年)度製造車からは、63系電車での試作開発結果を受けて開発されたCS10電動カム軸式主制御器に変更された。
CS10は、CS5に対して以下の相違点を有する。
制御段数は直列7段・並列6段・並列弱め界磁1段で弱め界磁率は60%である。
さらに1952年(昭和27年)以降製造グループでは、並列弱め界磁段を2段構成とし、弱め界磁率を60%と75%の2段切り替えとした改良型のCS10Aに変更、高速域での走行特性が改善された。
クハ86形・クハ85形・クモユニ81形の主幹制御器(マスター・コントローラー)は、いずれもゼネラル・エレクトリック社製C36のデッドコピー品で、戦前より国鉄電車の標準機種であったMC1系のMC1Aを搭載する。
戦後製造の国鉄車両であり、当初から全車コロ軸受(ローラーベアリング)を採用したことで長距離・高速運転で問題となる車軸発熱は低減されたが、改良目的で製造年次によって幾度か変更が実施されている。
本系列では車両メーカー各社による試作台車の試用が行われた。以下でその詳細について解説を行うが、これらはいずれも試験終了後に標準のDT16・TR43に交換された。
長大編成電車に適合させた自動空気ブレーキの「AERブレーキ」を国鉄の量産車として初めて採用した。戦前から一部の車両を使って実用試験が繰り返されて来た、電磁空気弁(Electro-pneumatic valve)付きの「AEブレーキ」を基本として開発されたものである。
電磁空気弁の併用により、編成の先頭から最後尾までほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては未曾有の長大編成である16両編成運転が実現した。
ブレーキシリンダを車体床下に装架し、ロッドで台車に制動力を伝える点では在来形電車と変わらなかったが、在来形電車が「1両当たり1シリンダ仕様」で前後2基の台車をテコとロッドで連動させて制動していたのに対し、本系列では中継弁使用の恩恵で台車1台毎に独立した専用ブレーキシリンダーを配置する「1両あたり2シリンダ仕様」となり、作動性と保安性も向上させた。この仕様は、国鉄電車では旧形国電グループでの採用にとどまり、新性能電車グループ以後は台車への直接シリンダ搭載にまで進歩したが、気動車では標準台車のブレーキが長く車体シリンダ仕様を用いたこともあり、1953年(昭和28年)の液体式気動車実用化後も、国鉄末期の一部車種にまで30年以上にわたって踏襲された。
従来の旧形国電では低圧制御回路は定格電圧100 Vで動作する12芯のKE52形ジャンパ連結器2基により総括制御を行っていたが、本系列では基本的にそれまでの系列との混結運用を実施しないことが前提とされたため、定格電圧は同じ100 Vでありながらも15芯のKE53形2基とされたほか、放送回路用として7芯のKE50A形を装備する。
新造車は基本番台、座席間隔が拡大された1956年(昭和31年)以降製造の100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形)、全金属車体となった300番台の番台区分が存在するほか、改造形式についても解説を行う。
なお、当車は左右両方の窓とも縦寸法の小さいものに交換されたが、片方だけ交換したものとして、ほかに86123・86344・86352などがある。
1956年から1961年にかけて、1949年度・1950年度製車の全車と1951年度製車のうち、関西地区配属であったモハ80087・モハ80088、クハ86057・クハ86058、サハ87041 - サハ87043に施工された。桜木町事故を教訓とした絶縁強化工事と劣化した部品の交換が主な施工内容であるが、以下では主に外観上の変化について記述する。
この結果、前述の通りクハ86059・クハ86060の2両のみが1960年代以降も正面窓枠が木製のまま残存した。また、修繕工事と相前後して、1956年度以前製造車の室内照明の蛍光灯化も施工された(一部の車は修繕工事と同時施工)。
1973年 - 1976年にかけて、以下に示す1955年度以前製造車を対象として陳腐化した内装をデコラ張り化・側窓枠アルミサッシ化・日除けロールカーテン化・トイレ改装等を施工した更新工事である。
なお本工事施工以前にクハ86005はアルミサッシ化が施工されたほか、モハ80027・モハ80089・モハ80096 - モハ80098・サハ87041は戸袋窓を木枠のままとし、モハ80027を除いてHゴム化された。
本系列は東海道本線東京 - 沼津間の客車普通列車置換えを目的とし、1950年にモハ80形32両・クハ86形20両・サハ87形16両・サロ85形5両の計73両が田町電車区(後の田町車両センター→現在:東京総合車両センター田町センター)に新製配置されたのをきっかけに、その後は京都 - 神戸間の急行電車52系電車「流電」置換えや高崎線電化開業に伴う客車普通列車置換えなどに続々と投入された。本節では年代ごとにわけて解説を行う。
1950年3月1日に「湘南伊豆電車」(→「湘南電車」)の愛称で東海道本線東京 - 沼津間・伊東線での運用を開始した。東京口では同年7月に静岡、1951年には2月に浜松へと運用領域を拡大したほか、サロ85形が増備され「基本10両編成+付属5両編成」の形態となり、郵便荷物車1両を含む電車としては当時世界最長最大の16両編成での運転を実施した。
一方、京阪神地区へは京都 - 神戸間の急行電車を戦前形のモハ42系電車・52系電車から置換えるために1950年10月から宮原電車区(→宮原総合運転所→現在:網干総合車両所宮原支所)に配置された。当初はクハ86形・モハ80形2両ずつの4両編成7本28両で運転が開始されたが、好評を得たことから数回にわたり車両増備を繰り返し、1952年8月からはサハ87形を増結した5両編成となった。また、宮原区には1956年11月の東海道本線全線電化に伴う米原 - 京都間で客車列車置換え用車両も配置された。
さらに東海道本線全域のみならず、1952年の高崎線電化、1958年の山陽線姫路電化、東北本線宇都宮電化でも投入され、高崎第二機関区(現在:JR貨物高崎機関区)・大垣電車区(現在:大垣車両区)・宇都宮機関区(現在:宇都宮運転所)にも新製配置が行われた。
また電車特急計画(20系電車→151系電車)が具体化した段階で冷房装置の装備が決定したため、1957年8月にサロ85020に大井工場(現在:東京総合車両センター)で屋根上に分散式冷房装置4基と床下に冷房用電源として容量18 kVAのMGを搭載する改造工事が施工され試験が行われた。
東海道本線優等列車沿革・近鉄特急史#近鉄線と並行する国鉄・JR線の優等列車など・東海 (列車)・踊り子 (列車)も参照のこと。
接客設備が電車としては良好であったため1950年10月、伊豆方面への温泉準急列車「あまぎ」「いでゆ」「はつしま」に投入され、東京 - 熱海間において当時の客車特急列車と同等の所要時間90分で走行する高速運転を行った。
その後、1957年には東京 - 名古屋・大垣間の「東海」、名古屋 - 大阪・神戸間の「比叡」両準急列車に300番台車が投入され(サロのみ一部0番台を含む)、従来の客車急行列車を凌ぐ俊足と高められた居住性により、電車でも長距離優等列車運用が可能であることを実証した。
一方、高崎線・上越線・東北本線筋でも1958年11月から上野 - 水上間の「ゆけむり」をきっかけに、以下の準急列車に投入された。
なお、80系電車には、ほかの旧形電車にはみられない各座席の席番表示(数字のみ)が、全車全席(ロングシート化改造部分を除く)にあり、優等列車をはじめとする座席指定列車に充当することも容易だった。一方、70系電車などほかの旧型は、臨時の定員制列車(ワッペン列車など)などに充当するまでにとどめざるを得ない部分でもあった。
東海道本線三島駅から分岐する駿豆鉄道(現在:伊豆箱根鉄道)駿豆線は、沿線に伊豆半島中部の温泉観光地帯が存在するため太平洋戦争前から国鉄列車の直通乗り入れ運転が行われていた。
戦中戦後の休止時期を経て1949年10月から客車列車による東京 - 修善寺間の温泉直通準急列車が「いでゆ」の愛称付きで再開された。翌年、本系列が東海道本線東京 - 沼津間・伊東線を運行開始すると修善寺行き温泉準急の電車化が検討されたが以下の問題点があった。
そこで妥協策としてモハ80形に最小限補機類のみを複電圧仕様に改造施工をする案が提された。
結果的に補助電源系統のみを複電圧対応とする改造が一部車両に施工され、1950年10月からは本系列4両編成で、1952年3月からはサロ85形組み込みの5両編成による修善寺直通準急「あまぎ」「いでゆ」の運転が実施された。
三島での異電圧を伴う転線は、東海道本線・駿豆線間渡り線の短いデッドセクションを介在し、下り列車では以下の手順で行われた。
上り列車では上述逆手順で転線が行われたが、1M方式の旧形国電であったために可能な方法であった。この転線は1959年9月に駿豆線が直流1500 Vへ昇圧したため終了し、ほぼ同時期に湘南準急充当車両も153系電車へ置換えられた。
1960年代以降も国鉄電化の伸張に伴って運用線区を拡大したが、首都圏や京阪神地区では年々通勤客が増大し、ラッシュ時に車内が混み始め、各駅で円滑な乗降が不可能となっていた。特に東海道では打開策として80系電車のデッキ撤去と3扉化の改造が考えられ、図面まで作成されたが、当時は山陽線や信越本線の電化区間延伸を控えていることもあり、改造に必要な両数が多く、費用がかかるため不得策と判断されたことから中止として、111系電車・113系電車・115系電車など、より通勤輸送に適合する後継車への置換えで首都圏・京阪神地区では1960年代後半までにほぼ運用離脱し、地方路線に転用されて客車列車の電車化などに充てられた。
しかし80系電車は、発電ブレーキを搭載していないものの元々大出力主電動機を搭載するため、編成の電動車比率を上げれば急勾配区間での運用も十分に可能であることから山岳路線にも投入された。その結果、本州内の国鉄直流電化区間の大半で主に普通列車として広範に運用された。
この運用線区広域化の過程では、さまざまな改造・対策が実施された。
また行楽客へのサービスの一環として、首都圏の非電化区間に蒸気機関車やディーゼル機関車の牽引で直通運転も行った。機関車との間には控車を兼ねたサービス電源用バッテリーを搭載した電源車を連結し、客室照明などの最小限の電源を賄い無電源問題を解決するというユニークな試みも見られた。本件については2つの事例が確認できる。
その後は直通気動車列車の導入や路線電化の進展で発展的解消を遂げているが、本系列が中距離行楽列車などにも適した設備を備えていたことも含めて、この種の特殊な運用・改造・改良・試行錯誤は、後の技術蓄積や運用計画に大きな影響を与えた。
東海道本線優等列車沿革・山陽本線優等列車沿革・とき (列車)・草津 (列車)・あさま・ふじかわ (列車)・伊那路 (列車)・マリンライナー#宇野線・本四備讃線優等列車沿革も参照のこと。
153系電車・165系電車が増備され置換えが進められる一方で、本系列の準急列車運用は引き続き行われていた。本年代には長距離急行列車にも投入された例があるが、2等車に洗面所がない・車端部のつり革とロングシートが存在・シートピッチや座席幅の狭い1次車や、更には混用されていた戦前形の存在(後述)など接客設備が普通列車水準で長距離優等運用に適さない問題点があったことから、いずれも短期間の運用に終わった。
本系列による最長距離運行列車は、1960年6月から上述「比叡」用編成で運転された東京 - 姫路間の臨時夜行急行「はりま」である。理由は車両不足によるものであり、翌1961年7月には153系電車に置換えられた。
定期列車では、1962年6月の信越本線新潟電化完成により、これ以前に上野 - 長岡間準急「ゆきぐに」2往復のうち本系列で運転されていた1往復の区間延長・急行列車格上げの形で下り「弥彦」・上り「佐渡」に本系列が投入された。
車両は、高崎線普通列車と共通運用となる新前橋電車区(現在:高崎車両センター)所属車が投入された。準急列車仕様の300番台のみでの編成組成ができずに正面3枚窓のクハ86形初期車や、制御車及び付随車不足から本系列の編成に混用されていた戦前形のクハ47形・サハ48形も組み込まれるなどの問題や、客車急行と違って食堂車がないといったサービス面での問題を抱えながらも、清水トンネルを挟む区間においても補助機関車連結の必要がないなど、電車ならではの速達性から客車急行より利用率は高く好評を博した。本系列の投入は一時的な措置であり、1963年3月には残存していた客車急行も含め新たに開発された165系電車に置換えられた。
その後は次々と準急列車も153系電車・165系電車に置換えられたが、1965年10月のダイヤ改正では飯田線急行「伊那」に本系列を投入したほか、1966年3月に100 kmを超えて走行する準急はすべて急行列車となり、1964年から運転されていた身延線準急「富士川」も急行格上げとなった。
なお本系列による特急列車への投入実例がある。
事故廃車もなく全車車籍を有していた本系列は、引き続き本州内での運用が継続され、1973年の中央本線中津川 - 塩尻間電化完成により同線甲府以西ならびに篠ノ井線での運用も開始された。
一方、優等列車も急行「伊那」「富士川」での運用も継続されたが、1972年3月のダイヤ改正で165系化され消滅。しかし1973年4月1日からそれまでキハ58系で運転されていた急行「天竜」の下り1号(上諏訪→長野間)に本系列が投入された。
だが1977年になると余剰老朽化ならびに機器整備合理化の見地から3月に2両が廃車されたのを皮切りに一気に廃車が加速。1977年3月28日には本系列発祥の地である東海道本線東京口での運用が、1978年5月には最後の急行運用であった「天竜」下り1号の運用も終了。その後は113系2000番台・115系1000番台などの新製投入による代替で段階的に本格的な廃車が開始された。
なお、1975年3月のダイヤ改正によって、広島運転所のサハ4両(85014・85021・85026・87016)が休車になり、復活をみることなく1977年に廃車されたので、実質的に最初の用途廃止となった。
最後まで運用されたのは、飯田線豊橋口に転用された300番台車である。1978年から豊橋機関区に集中配置され基本4両編成に朝夕は一部モハ(増結側貫通路閉鎖)+クハを増結するという特徴的な運用が行われたが、これも1983年には119系電車に置換えられ本系列はすべての営業運転を終了した。ただし、旅客運用が2月24日までであったのに対して、クモニ83100番台3両は他の旧形との混成で6月末まで運用が残り、それが最後の営業運転である。廃車回送については、他の旧形車と同時期となったため解体作業に相当な期間を要し、編成単位での旅客車はクハ86301+モハ80302+モハ80349+クハ86342が営業運転終了から1年以上経過した1984年(昭和59年)3月1日に、車両単位ではクモニ83103+クモハ54129+クモハ61005+クハ68420+クモニ83102が同年3月14日に実施され終了した。
飯田線充当車廃車後も車籍を有していたのは保存予定で柳井駅構内に留置されていたモハ80001のみとなったが、1985年に廃車となり電気機関車牽引で配給回送された。
本系列が日本の鉄道車両界に与えた影響として、茶色1色塗装が当然であった時代に「湘南色」と呼ばれたオレンジと緑の塗り分け塗装を導入し、利用者・鉄道事業者双方に新鮮な驚きを与えて、以後の鉄道における多彩な車両塗色導入を喚起したことと、クハ86形2次車以降で採用された後に「湘南スタイル」と呼ばれる先頭車の前面2枚窓デザインが挙げられる。
当時の日本において斬新であったこの塗色は、「静岡県地方特産のミカンの実と葉にちなんだもの」と言われ、国鉄も後にはそのようにPRしている。しかし、実際にはアメリカのグレート・ノーザン鉄道の大陸横断列車「エンパイア・ビルダー」用車両の塗装にヒントを得て、警戒色も兼ねてこれに近い色合いを採用したことを開発に携わった国鉄技術者が証言している。
尚、湘南色及び同時期に明色化された横須賀線電車の塗色採用過程での試験塗装として、1949年末頃に横須賀線で運用されていた32系モハ32028を使用し、電気側側面を湘南色(本採用された色とは若干色調が異なる)、空気側側面と正面をスカ色に塗装した実車試験が実施され、同車は一般乗客から「お化け電車」とあだ名された。
当初は窓周りが比較的濃い朱色であったが、評判が悪かったためにみかん色に変更した。ほかにも彩度や明度は、塗料退色が関係する耐久性の問題・時代・担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。
この塗色は以後国鉄の直流近郊形・急行形電車の標準塗色の一つとなり、現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線で運用された211系、さらにJR化後に製造されたE231系・E233系やJR化後に改造された宇都宮線(東北本線)用の205系600番台にも、帯色としては多少色が薄いものの湘南色が受け継がれている。詳しくは「湘南電車#湘南色」を参照。
また本系列および70系で採用された、運転台周りでの前窓を囲んで菱形を呈した曲面塗り分けは「金太郎塗」と呼ばれ、初期の試作型気動車をはじめ多くの私鉄でも採用された。
湘南色の塗り分けは、全金属車体となった300番台車とそれ以前のウインドシル・ヘッダー付き半鋼製車体車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なり混結運転時には美観の点で難があった。
このため高槻電車区(現在:網干総合車両所高槻派出所)・岡山運転区所属車を担当していた吹田工場(現在:吹田総合車両所)では、編成時の美観を第一に考えて300番台の塗り分けラインを在来車にできる限り合わせて塗装を行った。その結果、編成として見た場合は塗り分けラインのずれが目立たなくなったが、300番台車両単体では窓下のオレンジ色の部分が殆どなくなるなど不自然な点もあった。
300番台に対する吹田工場独自の塗り分けは1978年の岡山運転区配置車全廃まで続けられたが、この間に他地区へ転出した車両は以下の対応が採られた。
またクハ86形300番台では以下2種類のバリエーションが存在する。
本措置は晩年まで製造時のままとされた車両が多数であったが、飯田線での運用開始により浜松工場が検査担当となるとさらに以下の変則塗装が発生した。
路線事情などにより湘南色以外の塗装で営業運転に投入された本系列の事例には、以下の4件がある。
クハ86形2次車以降の、2枚の大窓を採用した前面形状は、日本の鉄道車両デザインとして特筆すべきものである。それまでの日本の電車前面は、中央にしばしば貫通扉があったことや、デザイン面の慣例も手伝って3枚窓がほとんどであったが、本系列のデザイン変更以後1950年代を通じ、国鉄・私鉄を問わず日本の鉄道界には同種の正面2枚窓デザインが大流行した。一般の電車は無論のこと、路面電車・電気機関車・気動車・ディーゼル機関車・鋼索線車両にまで急速に伝播し、果ては森林鉄道向け小形ディーゼル機関車(酒井工作所製C4・F4形など)や、鉱山鉄道のナローゲージ電気機関車(日本輸送機1962年製)、国鉄の保線工事用モーターカーに至るまで採用された。日本の鉄道車両史上、空前絶後とも言える極めて特異な流行であった。
2枚窓デザインには、運転士に広い運転室と良好な視界を確保できる実利性があり、また一般にアピールするデザイン面でも斬新な印象を与えられるメリットがあった。
基本は、中央上部に1灯埋め込み式前照灯を設置し、前面上半部を後傾。正面中央を折り曲げた「鼻筋の通った」デザインである。ただし、前面窓を1段窪ませる・前照灯を窓下に降ろして2灯化・「鼻筋」を廃して丸みのあるデザインに変更するなど、無数のアレンジメントも存在する。さらには、新製車ばかりでなく旧形車の更新改造で改装する例も見られた。これらの車両をその後は「湘南タイプ」・「湘南スタイル」・「湘南顔」と呼ぶようになった。また、大型のスカートを装着して「海坊主」と呼ばれた車両も存在する(DD50など)。
なお、日本で最初にこの前面スタイルを採用した鉄道車両は、1950年末 - 1951年初頭に旧形ボギー気動車を2両に分断改造した西大寺鉄道の単端式気動車キハ8・キハ10であると言われているが、そのデザイン採用に至った当時の経緯は定かでない。
第二次世界大戦前の流線形ブーム期には、前面中央を分割線として窓を2枚(または偶数の4枚、6枚)に左右対称配置する手法自体は、電車・気動車で広く見られた。工業デザインでも流線形の導入が鉄道より早期で広範であった自動車デザインの世界では、1930年代の流線形ブーム期から、平面のフロントウインドシールドを中央ピラーで2分割して傾斜させるデザイン手法が先行して急速に広まっており、クハ86形2次車が出現した1950年時点では乗用車・バスのいずれにおいても珍しくない形状であった。だが日本では鉄道での湘南形流行期と同時期、自動車では視界改善の必要から、1枚ものの曲面ガラスを用いたピラーレスのフロントウインドシールドが主に用いられるようになり、その傾向は特殊車両を除いて21世紀初頭まで続いている。80系が戦前形流線形電車や先行する自動車からモチーフを援用した部分があったのか否かは、開発者やその周辺からは明らかにされていない。
後年になって、関東地区でも貫通扉がない事が運用上で様々な支障をもたらす事が表面化し、結果として昭和30年代中ごろまでに流行は終了した。既存車両についても、まず東武鉄道が貫通扉設置改造に着手し、その他の会社も次第に前面貫通化改造した例が多く見られた。路面電車でも、都電7000形電車などで3枚窓形態に改造した例がある。
しかし近年に至るまで湘南スタイルを採用し続けた事業者も存在し、大手私鉄の例を挙げると、京王帝都電鉄では固定編成で運用される井の頭線用3000系電車が1988年まで、西武鉄道では3000系電車が1987年まで、それぞれ湘南スタイルの前面形状で製造され続けた。京阪電気鉄道では1979年に登場した2代目500型電車以降、大津線向けにセンターピラーによる連続窓ながら正面2枚窓の車両を導入し続けている(地下鉄直通用の800系電車を除く)。さらにローカル私鉄では、上信電鉄が2013年(平成25年)に7000形電車を登場させた。
国鉄車両では、157系電車がこのデザインに2,950mm幅車体・高運転台・パノラミックウィンドウを採用した亜種もしくは発展型と捉えられ、さらに117系電車および185系電車へと発展した他、JR貨物のM250系電車でも類似したデザインが採用された。また、JR四国の5100形電車ではセンターピラーによる連続窓ではあるものの、低運転台で鼻筋の通った傾斜形2枚窓とされ、湘南スタイルの基本デザインが踏襲されている。
なお、2代目湘南電車としての位置づけがなされている153系電車は、本系列の欠点である非貫通形を廃して機能的な貫通型へ形状を一新したが、側面にかけての後退幅は継承する形で設計された。
(センターピラーによる連続2枚窓の形式を除く)
この他、小田急1700形電車3次車や2200形電車、京阪500型電車 (初代)(更新後)、西鉄313形電車およびEH10形電気機関車も正面2枚窓で湘南スタイルの影響を受けてはいるが、傾斜が無く鼻筋も通っていない形態の為、本項では除外する。
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"text": "国鉄80系電車(こくてつ80けいでんしゃ)は、1950年に登場した日本国有鉄道(国鉄)の長距離列車用電車形式群の総称である。",
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"text": "「湘南電車」と呼ばれる車両の初代に該当する。太平洋戦争後、東海道本線東京地区普通列車のラッシュ輸送対策として電気機関車が牽引する客車列車の運用置換えを目的に、当初から長大編成での組成を前提として開発・設計された。",
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"text": "これ以前、鉄道省や運輸省時代までの国有鉄道は、客車列車を輸送の本流として扱い、電車は大都市圏の短距離輸送に重点を置く補助的な存在と捉えていたが、日本国有鉄道(国鉄)の発足に伴い、100 kmを超える長距離輸送に本格投入した最初の電車であり、走行性能で電気機関車が牽引する客車列車を大きく凌駕し、居住性も大きく改善された。電車が長距離大量輸送に耐えうることを国鉄において実証し、その基本構想は後年の電車特急や東海道新幹線の実現にまで影響を及ぼした。",
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"text": "メカニズム面では基本的に国鉄が大正時代から蓄積してきた伝統的設計の流れを継承するが、内容は大幅な強化・刷新が図られ、1950年代に続いて開発された70系電車・72系電車全金属車体車とともに「国鉄における吊り掛け駆動方式旧形電車の集大成」と評すべき存在となった。",
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"text": "1950年(昭和25年)1月から1958年(昭和33年)4月までの8年間にわたり、大小の改良を重ねつつ合計652両が製造され、普通列車・準急列車用として本州各地の直流電化区間で広く運用されたが、1983年(昭和58年)までに営業運転を終了し、保存予定で車籍が残っていた1両を除いては1984年(昭和59年)に形式消滅した。",
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"text": "東海道における長距離電車運転は、鉄道省時代の大正後期に横浜 - 国府津間電化が計画され、完成時には2扉セミクロスシートを装備するデハ43200系電車の新製投入が計画された。しかし計画途上の1923年に関東大震災が発生。電化も1925年に完成となったことや被災車の補充が優先されたために本計画は断念された。",
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"text": "一方で電車による長距離運転は、1930年から横須賀線東京 - 横須賀間約68 kmにおいて、従来の客車列車置換えで実施された。この施策は、速度向上やラッシュ対策の実績をあげ、翌1931年からは長距離対応型の2扉クロスシート車32系電車(モハ32・サハ48・サロ45・サロハ46・クハ47形)を新たに投入。2等車(現在:グリーン車)を含んだ編成で居住性を大きく改善した。",
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"text": "しかし電車化の本命とされた東海道の普通列車では、横須賀線より長距離運行系統という事情もあり、太平洋戦争後まで長年にわたり電気機関車牽引列車で運行されることになった。",
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"text": "終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、東海道線東京地区についても横須賀線と同様に加減速性能・高速性能の優れた電車を投入し、高頻度運行で激増する輸送需要に対応しなければならない状況に至った。",
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"text": "東海道本線電化は、1934年の丹那トンネル開通時点で東京から沼津までが完成しており、1946年時点の国鉄はこの約126 kmの区間で普通列車電車化を計画した。",
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"text": "しかし当時、連合国軍の占領下で日本の鉄道政策を掌握した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 第3鉄道輸送司令部 (MRS) は、アメリカ合衆国のインターアーバン(都市間電車)ではすでに衰退が始まっていた事例から、100kmを超える長距離区間の長大編成電車列車による高頻度運行には懐疑的であった。また設備投資抑制が図られていたこともあり、本計画が必要とする新製車両の定数充足を認めようとしなかった。",
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"text": "国鉄は、上述した障害の中で製造許可を得るために、東海道線電車についても「横須賀線程度の短距離運転」という名目でひとまず計画をスタートさせ、後から距離を延長して所期の目的を達成するという策略を用い、ようやく本計画に係る予算を承認させた。",
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"text": "島秀雄工作局局長(当時)主導の旅客車開発グループの手により、比較的長時間にわたる乗車と高速運転を配慮した構造を念頭に置いた国鉄初の本格的長距離電車として設計・開発が行われた。実績のある既存技術に加え、鉄道技術研究所において研究が進められていた新たな各種技術の導入もふんだんに求められた。",
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"text": "本系列開発以前の日本では、電車は短編成運転が原則で国鉄・私鉄を問わず運用上の小回りが利くように「電動車はすべて運転台付き」とされていたが、長大編成が前提となる本系列は「電動車は中間車のみとし、先頭車は制御機能に徹する」中間電動車方式を採用し、乗り心地やコスト面における改善を実現した。台車はコロ軸受の採用や高速台車振動研究会の研究成果を取り入れた新設計の段階的な導入により乗り心地と高速走行時の振動特性の改善が図られた。さらにブレーキ制御は在来の自動空気ブレーキに電磁弁を加え後部車での応答遅延を最小限に抑えることで、当時の電車としては未曾有の長大編成となる16両編成運転を可能とした。また大出力モーター搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比(電動車と付随車の比率)を「2:3」とする経済編成を基本とした。",
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"text": "高速型台車や中継弁・電磁給排弁付自動空気ブレーキなどを除けば、関西私鉄各社の戦前型電車に比較してもスペック自体は優位ではないが、それらの技術開発成果や影響も散見される。",
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"text": "本系列の真の革新性は大局的な背景から捉えるべきものである。技術面では大量増備を考慮してコストを抑制した経済的かつ堅実な選択も見受けられるが、全体では既成概念を覆す大規模な総合システムとして現実に成立させ、なおかつ集中的に運用したことに意義があった。",
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"text": "営業開始前試運転で車両火災焼失事故が発生した。",
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"text": "営業運転開始後も当初は初期故障が頻発・世間から湘南電車をもじった「遭難電車」などの不名誉な呼ばれ方もされたが、各機器の改良や設計見直しによる故障解消ならびに性能安定化が得られ、客車並みの設備と乗り心地とスピードアップ効果から徐々に利用者の支持を得た。",
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"text": "基本的共通事項として、乗降を円滑にするため3等車は1m、2等車サロ85形は700mm幅の片開き片側2ドア客用扉と車端部デッキを採用する。",
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"text": "当初からの構造的特徴として、台枠のうち台車心皿中心間で船の竜骨に相当する中梁を簡素化し、車体側板と接する側梁を強化することにより、梯子状の台枠構造全体で必要な強度を確保しつつ軽量化を図っていた点が挙げられる。これは1930年(昭和5年)製造の16m車(湘南電気鉄道デ1形電車→京浜急行電鉄デハ230形電車)で川崎車輛の設計により採用されたのが日本の高速電車における初出であるが、その先進的軽量化設計の意義を合理的な強度計算手法を含め理解しようとしなかった無理解な鉄道省の担当官による硬直的な対応で増備車では中梁装備への退行を強制され、以後太平洋戦争後に至るまで約20年にわたり顧みられていなかった手法である。本系列ではかつて鉄道省の担当官が「妥当ナラザル」として禁止したこの設計手法を、その後身である日本国有鉄道の車両局自らが、より長く重い20m級車両で採用したものである。以後、この設計手法は後続の国鉄70系電車や近鉄2250系電車をはじめとする各私鉄の新造車など、張殻(モノコック)構造の設計手法が導入されるまでの時期に設計製造された日本の鉄道車両で積極的に用いられる一般的な軽量化手法として広く普及した。",
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"text": "初期の半鋼製車では窓の高さが客車や従来の電車よりも若干高い位置とされた。引き続き改良も実施されており、客室天井の通風器が初期車での大型砲金製風量調節機能付から、2次車では製造コスト低減のため皿形の簡素なものになるなどの変更点もある。客席屋上の通風器は製造期間中3回にわたって形状変更され、試作形通風器(モユニ81003・モユニ81004に取付)を含めると計5種類に分類できる。",
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"text": "なお、設計変更も含む大改良のため以下の番台区分も実施された。",
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"text": "客室内装も当初は戦前同様に木製で照明も白熱灯を採用。客車同様のクロスシート、両端のみ通勤利用も考慮しロングシートとし、座席下には電気暖房を搭載する。",
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"text": "クロスシートは座席のシートピッチ(前後間隔)を従来の客車より縮め、座席数を増やして定員を拡大するとともに通路幅を800mmに広げた。",
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"text": "トイレはデッキ側から出入りする構造として客室との遮断を図り、臭気漏れ対策や他の乗客の視線を受けない配慮がなされた。また、従来の鉄道車両用トイレは床板に和式便器を埋め込み配管等は床上に露出した構造だったが、配管の破損や床の汚損が絶えなかったため階段状の段差を作り段上に和式便器を埋め込み、配管等は段の内側に隠す構造が初めて採用された。この様式は80系電車が嚆矢となり、一般家庭の和式トイレにまで採用されるようになった。本方式は、考案者である当時の島秀雄国鉄工作局長のイニシャルから当初S式便器と呼称した。",
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"text": "台車・主電動機・主制御器などは、戦時設計ながら戦後も大量増備されていた63系通勤形電車に1947年(昭和22年)以降試験搭載され改良を重ねて来た新技術が活かされている。そのシステムは、1950年(昭和25年)時点の国鉄における最新・最良の内容といえるものである。",
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"text": "大出力主電動機搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比2:3で起動加速度1.25 km/h/sとする経済編成を基本とし、通常運転の最高速度は95km/h(後年は幹線区で100km/h)・設計最高速度は110km/hとした。なお1955年(昭和30年)には東海道本線での速度試験でMT比4:1の特別編成が、125km/hの最高速度を記録している。",
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"text": "当時の国鉄電車用として最強力の制式電動機であるMT40を搭載する。",
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"text": "駆動装置は従来どおり吊り掛け駆動方式を採用し、歯車比は同じMT40を装架する63系通勤形電車の2.87に対し、高速性能を重視した2.56とした。これにより1時間定格速度は全界磁時56.0km/h、60%弱界磁で70.0km/hとなった。",
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"text": "1949年(昭和24年)度製造の初期形では設計開発が間に合わず、戦前から長らく国鉄標準機種であったCS5A電空カム軸式主制御器を暫定的に搭載した。",
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"text": "1951年(昭和26年)度製造車からは、63系電車での試作開発結果を受けて開発されたCS10電動カム軸式主制御器に変更された。",
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"text": "CS10は、CS5に対して以下の相違点を有する。",
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"text": "制御段数は直列7段・並列6段・並列弱め界磁1段で弱め界磁率は60%である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "さらに1952年(昭和27年)以降製造グループでは、並列弱め界磁段を2段構成とし、弱め界磁率を60%と75%の2段切り替えとした改良型のCS10Aに変更、高速域での走行特性が改善された。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "クハ86形・クハ85形・クモユニ81形の主幹制御器(マスター・コントローラー)は、いずれもゼネラル・エレクトリック社製C36のデッドコピー品で、戦前より国鉄電車の標準機種であったMC1系のMC1Aを搭載する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "戦後製造の国鉄車両であり、当初から全車コロ軸受(ローラーベアリング)を採用したことで長距離・高速運転で問題となる車軸発熱は低減されたが、改良目的で製造年次によって幾度か変更が実施されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "本系列では車両メーカー各社による試作台車の試用が行われた。以下でその詳細について解説を行うが、これらはいずれも試験終了後に標準のDT16・TR43に交換された。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "長大編成電車に適合させた自動空気ブレーキの「AERブレーキ」を国鉄の量産車として初めて採用した。戦前から一部の車両を使って実用試験が繰り返されて来た、電磁空気弁(Electro-pneumatic valve)付きの「AEブレーキ」を基本として開発されたものである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "電磁空気弁の併用により、編成の先頭から最後尾までほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては未曾有の長大編成である16両編成運転が実現した。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ブレーキシリンダを車体床下に装架し、ロッドで台車に制動力を伝える点では在来形電車と変わらなかったが、在来形電車が「1両当たり1シリンダ仕様」で前後2基の台車をテコとロッドで連動させて制動していたのに対し、本系列では中継弁使用の恩恵で台車1台毎に独立した専用ブレーキシリンダーを配置する「1両あたり2シリンダ仕様」となり、作動性と保安性も向上させた。この仕様は、国鉄電車では旧形国電グループでの採用にとどまり、新性能電車グループ以後は台車への直接シリンダ搭載にまで進歩したが、気動車では標準台車のブレーキが長く車体シリンダ仕様を用いたこともあり、1953年(昭和28年)の液体式気動車実用化後も、国鉄末期の一部車種にまで30年以上にわたって踏襲された。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "従来の旧形国電では低圧制御回路は定格電圧100 Vで動作する12芯のKE52形ジャンパ連結器2基により総括制御を行っていたが、本系列では基本的にそれまでの系列との混結運用を実施しないことが前提とされたため、定格電圧は同じ100 Vでありながらも15芯のKE53形2基とされたほか、放送回路用として7芯のKE50A形を装備する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "新造車は基本番台、座席間隔が拡大された1956年(昭和31年)以降製造の100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形)、全金属車体となった300番台の番台区分が存在するほか、改造形式についても解説を行う。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、当車は左右両方の窓とも縦寸法の小さいものに交換されたが、片方だけ交換したものとして、ほかに86123・86344・86352などがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1956年から1961年にかけて、1949年度・1950年度製車の全車と1951年度製車のうち、関西地区配属であったモハ80087・モハ80088、クハ86057・クハ86058、サハ87041 - サハ87043に施工された。桜木町事故を教訓とした絶縁強化工事と劣化した部品の交換が主な施工内容であるが、以下では主に外観上の変化について記述する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この結果、前述の通りクハ86059・クハ86060の2両のみが1960年代以降も正面窓枠が木製のまま残存した。また、修繕工事と相前後して、1956年度以前製造車の室内照明の蛍光灯化も施工された(一部の車は修繕工事と同時施工)。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1973年 - 1976年にかけて、以下に示す1955年度以前製造車を対象として陳腐化した内装をデコラ張り化・側窓枠アルミサッシ化・日除けロールカーテン化・トイレ改装等を施工した更新工事である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお本工事施工以前にクハ86005はアルミサッシ化が施工されたほか、モハ80027・モハ80089・モハ80096 - モハ80098・サハ87041は戸袋窓を木枠のままとし、モハ80027を除いてHゴム化された。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "本系列は東海道本線東京 - 沼津間の客車普通列車置換えを目的とし、1950年にモハ80形32両・クハ86形20両・サハ87形16両・サロ85形5両の計73両が田町電車区(後の田町車両センター→現在:東京総合車両センター田町センター)に新製配置されたのをきっかけに、その後は京都 - 神戸間の急行電車52系電車「流電」置換えや高崎線電化開業に伴う客車普通列車置換えなどに続々と投入された。本節では年代ごとにわけて解説を行う。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1950年3月1日に「湘南伊豆電車」(→「湘南電車」)の愛称で東海道本線東京 - 沼津間・伊東線での運用を開始した。東京口では同年7月に静岡、1951年には2月に浜松へと運用領域を拡大したほか、サロ85形が増備され「基本10両編成+付属5両編成」の形態となり、郵便荷物車1両を含む電車としては当時世界最長最大の16両編成での運転を実施した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "一方、京阪神地区へは京都 - 神戸間の急行電車を戦前形のモハ42系電車・52系電車から置換えるために1950年10月から宮原電車区(→宮原総合運転所→現在:網干総合車両所宮原支所)に配置された。当初はクハ86形・モハ80形2両ずつの4両編成7本28両で運転が開始されたが、好評を得たことから数回にわたり車両増備を繰り返し、1952年8月からはサハ87形を増結した5両編成となった。また、宮原区には1956年11月の東海道本線全線電化に伴う米原 - 京都間で客車列車置換え用車両も配置された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "さらに東海道本線全域のみならず、1952年の高崎線電化、1958年の山陽線姫路電化、東北本線宇都宮電化でも投入され、高崎第二機関区(現在:JR貨物高崎機関区)・大垣電車区(現在:大垣車両区)・宇都宮機関区(現在:宇都宮運転所)にも新製配置が行われた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "また電車特急計画(20系電車→151系電車)が具体化した段階で冷房装置の装備が決定したため、1957年8月にサロ85020に大井工場(現在:東京総合車両センター)で屋根上に分散式冷房装置4基と床下に冷房用電源として容量18 kVAのMGを搭載する改造工事が施工され試験が行われた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "東海道本線優等列車沿革・近鉄特急史#近鉄線と並行する国鉄・JR線の優等列車など・東海 (列車)・踊り子 (列車)も参照のこと。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "接客設備が電車としては良好であったため1950年10月、伊豆方面への温泉準急列車「あまぎ」「いでゆ」「はつしま」に投入され、東京 - 熱海間において当時の客車特急列車と同等の所要時間90分で走行する高速運転を行った。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "その後、1957年には東京 - 名古屋・大垣間の「東海」、名古屋 - 大阪・神戸間の「比叡」両準急列車に300番台車が投入され(サロのみ一部0番台を含む)、従来の客車急行列車を凌ぐ俊足と高められた居住性により、電車でも長距離優等列車運用が可能であることを実証した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "一方、高崎線・上越線・東北本線筋でも1958年11月から上野 - 水上間の「ゆけむり」をきっかけに、以下の準急列車に投入された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "なお、80系電車には、ほかの旧形電車にはみられない各座席の席番表示(数字のみ)が、全車全席(ロングシート化改造部分を除く)にあり、優等列車をはじめとする座席指定列車に充当することも容易だった。一方、70系電車などほかの旧型は、臨時の定員制列車(ワッペン列車など)などに充当するまでにとどめざるを得ない部分でもあった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "東海道本線三島駅から分岐する駿豆鉄道(現在:伊豆箱根鉄道)駿豆線は、沿線に伊豆半島中部の温泉観光地帯が存在するため太平洋戦争前から国鉄列車の直通乗り入れ運転が行われていた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "戦中戦後の休止時期を経て1949年10月から客車列車による東京 - 修善寺間の温泉直通準急列車が「いでゆ」の愛称付きで再開された。翌年、本系列が東海道本線東京 - 沼津間・伊東線を運行開始すると修善寺行き温泉準急の電車化が検討されたが以下の問題点があった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "そこで妥協策としてモハ80形に最小限補機類のみを複電圧仕様に改造施工をする案が提された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "結果的に補助電源系統のみを複電圧対応とする改造が一部車両に施工され、1950年10月からは本系列4両編成で、1952年3月からはサロ85形組み込みの5両編成による修善寺直通準急「あまぎ」「いでゆ」の運転が実施された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "三島での異電圧を伴う転線は、東海道本線・駿豆線間渡り線の短いデッドセクションを介在し、下り列車では以下の手順で行われた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "上り列車では上述逆手順で転線が行われたが、1M方式の旧形国電であったために可能な方法であった。この転線は1959年9月に駿豆線が直流1500 Vへ昇圧したため終了し、ほぼ同時期に湘南準急充当車両も153系電車へ置換えられた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1960年代以降も国鉄電化の伸張に伴って運用線区を拡大したが、首都圏や京阪神地区では年々通勤客が増大し、ラッシュ時に車内が混み始め、各駅で円滑な乗降が不可能となっていた。特に東海道では打開策として80系電車のデッキ撤去と3扉化の改造が考えられ、図面まで作成されたが、当時は山陽線や信越本線の電化区間延伸を控えていることもあり、改造に必要な両数が多く、費用がかかるため不得策と判断されたことから中止として、111系電車・113系電車・115系電車など、より通勤輸送に適合する後継車への置換えで首都圏・京阪神地区では1960年代後半までにほぼ運用離脱し、地方路線に転用されて客車列車の電車化などに充てられた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "しかし80系電車は、発電ブレーキを搭載していないものの元々大出力主電動機を搭載するため、編成の電動車比率を上げれば急勾配区間での運用も十分に可能であることから山岳路線にも投入された。その結果、本州内の国鉄直流電化区間の大半で主に普通列車として広範に運用された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "この運用線区広域化の過程では、さまざまな改造・対策が実施された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また行楽客へのサービスの一環として、首都圏の非電化区間に蒸気機関車やディーゼル機関車の牽引で直通運転も行った。機関車との間には控車を兼ねたサービス電源用バッテリーを搭載した電源車を連結し、客室照明などの最小限の電源を賄い無電源問題を解決するというユニークな試みも見られた。本件については2つの事例が確認できる。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "その後は直通気動車列車の導入や路線電化の進展で発展的解消を遂げているが、本系列が中距離行楽列車などにも適した設備を備えていたことも含めて、この種の特殊な運用・改造・改良・試行錯誤は、後の技術蓄積や運用計画に大きな影響を与えた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "東海道本線優等列車沿革・山陽本線優等列車沿革・とき (列車)・草津 (列車)・あさま・ふじかわ (列車)・伊那路 (列車)・マリンライナー#宇野線・本四備讃線優等列車沿革も参照のこと。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "153系電車・165系電車が増備され置換えが進められる一方で、本系列の準急列車運用は引き続き行われていた。本年代には長距離急行列車にも投入された例があるが、2等車に洗面所がない・車端部のつり革とロングシートが存在・シートピッチや座席幅の狭い1次車や、更には混用されていた戦前形の存在(後述)など接客設備が普通列車水準で長距離優等運用に適さない問題点があったことから、いずれも短期間の運用に終わった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "本系列による最長距離運行列車は、1960年6月から上述「比叡」用編成で運転された東京 - 姫路間の臨時夜行急行「はりま」である。理由は車両不足によるものであり、翌1961年7月には153系電車に置換えられた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "定期列車では、1962年6月の信越本線新潟電化完成により、これ以前に上野 - 長岡間準急「ゆきぐに」2往復のうち本系列で運転されていた1往復の区間延長・急行列車格上げの形で下り「弥彦」・上り「佐渡」に本系列が投入された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "車両は、高崎線普通列車と共通運用となる新前橋電車区(現在:高崎車両センター)所属車が投入された。準急列車仕様の300番台のみでの編成組成ができずに正面3枚窓のクハ86形初期車や、制御車及び付随車不足から本系列の編成に混用されていた戦前形のクハ47形・サハ48形も組み込まれるなどの問題や、客車急行と違って食堂車がないといったサービス面での問題を抱えながらも、清水トンネルを挟む区間においても補助機関車連結の必要がないなど、電車ならではの速達性から客車急行より利用率は高く好評を博した。本系列の投入は一時的な措置であり、1963年3月には残存していた客車急行も含め新たに開発された165系電車に置換えられた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "その後は次々と準急列車も153系電車・165系電車に置換えられたが、1965年10月のダイヤ改正では飯田線急行「伊那」に本系列を投入したほか、1966年3月に100 kmを超えて走行する準急はすべて急行列車となり、1964年から運転されていた身延線準急「富士川」も急行格上げとなった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "なお本系列による特急列車への投入実例がある。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "事故廃車もなく全車車籍を有していた本系列は、引き続き本州内での運用が継続され、1973年の中央本線中津川 - 塩尻間電化完成により同線甲府以西ならびに篠ノ井線での運用も開始された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "一方、優等列車も急行「伊那」「富士川」での運用も継続されたが、1972年3月のダイヤ改正で165系化され消滅。しかし1973年4月1日からそれまでキハ58系で運転されていた急行「天竜」の下り1号(上諏訪→長野間)に本系列が投入された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "だが1977年になると余剰老朽化ならびに機器整備合理化の見地から3月に2両が廃車されたのを皮切りに一気に廃車が加速。1977年3月28日には本系列発祥の地である東海道本線東京口での運用が、1978年5月には最後の急行運用であった「天竜」下り1号の運用も終了。その後は113系2000番台・115系1000番台などの新製投入による代替で段階的に本格的な廃車が開始された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "なお、1975年3月のダイヤ改正によって、広島運転所のサハ4両(85014・85021・85026・87016)が休車になり、復活をみることなく1977年に廃車されたので、実質的に最初の用途廃止となった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "最後まで運用されたのは、飯田線豊橋口に転用された300番台車である。1978年から豊橋機関区に集中配置され基本4両編成に朝夕は一部モハ(増結側貫通路閉鎖)+クハを増結するという特徴的な運用が行われたが、これも1983年には119系電車に置換えられ本系列はすべての営業運転を終了した。ただし、旅客運用が2月24日までであったのに対して、クモニ83100番台3両は他の旧形との混成で6月末まで運用が残り、それが最後の営業運転である。廃車回送については、他の旧形車と同時期となったため解体作業に相当な期間を要し、編成単位での旅客車はクハ86301+モハ80302+モハ80349+クハ86342が営業運転終了から1年以上経過した1984年(昭和59年)3月1日に、車両単位ではクモニ83103+クモハ54129+クモハ61005+クハ68420+クモニ83102が同年3月14日に実施され終了した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "飯田線充当車廃車後も車籍を有していたのは保存予定で柳井駅構内に留置されていたモハ80001のみとなったが、1985年に廃車となり電気機関車牽引で配給回送された。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "本系列が日本の鉄道車両界に与えた影響として、茶色1色塗装が当然であった時代に「湘南色」と呼ばれたオレンジと緑の塗り分け塗装を導入し、利用者・鉄道事業者双方に新鮮な驚きを与えて、以後の鉄道における多彩な車両塗色導入を喚起したことと、クハ86形2次車以降で採用された後に「湘南スタイル」と呼ばれる先頭車の前面2枚窓デザインが挙げられる。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "当時の日本において斬新であったこの塗色は、「静岡県地方特産のミカンの実と葉にちなんだもの」と言われ、国鉄も後にはそのようにPRしている。しかし、実際にはアメリカのグレート・ノーザン鉄道の大陸横断列車「エンパイア・ビルダー」用車両の塗装にヒントを得て、警戒色も兼ねてこれに近い色合いを採用したことを開発に携わった国鉄技術者が証言している。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "尚、湘南色及び同時期に明色化された横須賀線電車の塗色採用過程での試験塗装として、1949年末頃に横須賀線で運用されていた32系モハ32028を使用し、電気側側面を湘南色(本採用された色とは若干色調が異なる)、空気側側面と正面をスカ色に塗装した実車試験が実施され、同車は一般乗客から「お化け電車」とあだ名された。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "当初は窓周りが比較的濃い朱色であったが、評判が悪かったためにみかん色に変更した。ほかにも彩度や明度は、塗料退色が関係する耐久性の問題・時代・担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "この塗色は以後国鉄の直流近郊形・急行形電車の標準塗色の一つとなり、現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線で運用された211系、さらにJR化後に製造されたE231系・E233系やJR化後に改造された宇都宮線(東北本線)用の205系600番台にも、帯色としては多少色が薄いものの湘南色が受け継がれている。詳しくは「湘南電車#湘南色」を参照。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また本系列および70系で採用された、運転台周りでの前窓を囲んで菱形を呈した曲面塗り分けは「金太郎塗」と呼ばれ、初期の試作型気動車をはじめ多くの私鉄でも採用された。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "湘南色の塗り分けは、全金属車体となった300番台車とそれ以前のウインドシル・ヘッダー付き半鋼製車体車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なり混結運転時には美観の点で難があった。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "このため高槻電車区(現在:網干総合車両所高槻派出所)・岡山運転区所属車を担当していた吹田工場(現在:吹田総合車両所)では、編成時の美観を第一に考えて300番台の塗り分けラインを在来車にできる限り合わせて塗装を行った。その結果、編成として見た場合は塗り分けラインのずれが目立たなくなったが、300番台車両単体では窓下のオレンジ色の部分が殆どなくなるなど不自然な点もあった。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "300番台に対する吹田工場独自の塗り分けは1978年の岡山運転区配置車全廃まで続けられたが、この間に他地区へ転出した車両は以下の対応が採られた。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "またクハ86形300番台では以下2種類のバリエーションが存在する。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "本措置は晩年まで製造時のままとされた車両が多数であったが、飯田線での運用開始により浜松工場が検査担当となるとさらに以下の変則塗装が発生した。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "路線事情などにより湘南色以外の塗装で営業運転に投入された本系列の事例には、以下の4件がある。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "クハ86形2次車以降の、2枚の大窓を採用した前面形状は、日本の鉄道車両デザインとして特筆すべきものである。それまでの日本の電車前面は、中央にしばしば貫通扉があったことや、デザイン面の慣例も手伝って3枚窓がほとんどであったが、本系列のデザイン変更以後1950年代を通じ、国鉄・私鉄を問わず日本の鉄道界には同種の正面2枚窓デザインが大流行した。一般の電車は無論のこと、路面電車・電気機関車・気動車・ディーゼル機関車・鋼索線車両にまで急速に伝播し、果ては森林鉄道向け小形ディーゼル機関車(酒井工作所製C4・F4形など)や、鉱山鉄道のナローゲージ電気機関車(日本輸送機1962年製)、国鉄の保線工事用モーターカーに至るまで採用された。日本の鉄道車両史上、空前絶後とも言える極めて特異な流行であった。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "2枚窓デザインには、運転士に広い運転室と良好な視界を確保できる実利性があり、また一般にアピールするデザイン面でも斬新な印象を与えられるメリットがあった。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "基本は、中央上部に1灯埋め込み式前照灯を設置し、前面上半部を後傾。正面中央を折り曲げた「鼻筋の通った」デザインである。ただし、前面窓を1段窪ませる・前照灯を窓下に降ろして2灯化・「鼻筋」を廃して丸みのあるデザインに変更するなど、無数のアレンジメントも存在する。さらには、新製車ばかりでなく旧形車の更新改造で改装する例も見られた。これらの車両をその後は「湘南タイプ」・「湘南スタイル」・「湘南顔」と呼ぶようになった。また、大型のスカートを装着して「海坊主」と呼ばれた車両も存在する(DD50など)。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "なお、日本で最初にこの前面スタイルを採用した鉄道車両は、1950年末 - 1951年初頭に旧形ボギー気動車を2両に分断改造した西大寺鉄道の単端式気動車キハ8・キハ10であると言われているが、そのデザイン採用に至った当時の経緯は定かでない。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦前の流線形ブーム期には、前面中央を分割線として窓を2枚(または偶数の4枚、6枚)に左右対称配置する手法自体は、電車・気動車で広く見られた。工業デザインでも流線形の導入が鉄道より早期で広範であった自動車デザインの世界では、1930年代の流線形ブーム期から、平面のフロントウインドシールドを中央ピラーで2分割して傾斜させるデザイン手法が先行して急速に広まっており、クハ86形2次車が出現した1950年時点では乗用車・バスのいずれにおいても珍しくない形状であった。だが日本では鉄道での湘南形流行期と同時期、自動車では視界改善の必要から、1枚ものの曲面ガラスを用いたピラーレスのフロントウインドシールドが主に用いられるようになり、その傾向は特殊車両を除いて21世紀初頭まで続いている。80系が戦前形流線形電車や先行する自動車からモチーフを援用した部分があったのか否かは、開発者やその周辺からは明らかにされていない。",
"title": "影響"
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"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "後年になって、関東地区でも貫通扉がない事が運用上で様々な支障をもたらす事が表面化し、結果として昭和30年代中ごろまでに流行は終了した。既存車両についても、まず東武鉄道が貫通扉設置改造に着手し、その他の会社も次第に前面貫通化改造した例が多く見られた。路面電車でも、都電7000形電車などで3枚窓形態に改造した例がある。",
"title": "影響"
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"text": "しかし近年に至るまで湘南スタイルを採用し続けた事業者も存在し、大手私鉄の例を挙げると、京王帝都電鉄では固定編成で運用される井の頭線用3000系電車が1988年まで、西武鉄道では3000系電車が1987年まで、それぞれ湘南スタイルの前面形状で製造され続けた。京阪電気鉄道では1979年に登場した2代目500型電車以降、大津線向けにセンターピラーによる連続窓ながら正面2枚窓の車両を導入し続けている(地下鉄直通用の800系電車を除く)。さらにローカル私鉄では、上信電鉄が2013年(平成25年)に7000形電車を登場させた。",
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"text": "国鉄車両では、157系電車がこのデザインに2,950mm幅車体・高運転台・パノラミックウィンドウを採用した亜種もしくは発展型と捉えられ、さらに117系電車および185系電車へと発展した他、JR貨物のM250系電車でも類似したデザインが採用された。また、JR四国の5100形電車ではセンターピラーによる連続窓ではあるものの、低運転台で鼻筋の通った傾斜形2枚窓とされ、湘南スタイルの基本デザインが踏襲されている。",
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"text": "なお、2代目湘南電車としての位置づけがなされている153系電車は、本系列の欠点である非貫通形を廃して機能的な貫通型へ形状を一新したが、側面にかけての後退幅は継承する形で設計された。",
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},
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"text": "(センターピラーによる連続2枚窓の形式を除く)",
"title": "影響"
},
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"text": "この他、小田急1700形電車3次車や2200形電車、京阪500型電車 (初代)(更新後)、西鉄313形電車およびEH10形電気機関車も正面2枚窓で湘南スタイルの影響を受けてはいるが、傾斜が無く鼻筋も通っていない形態の為、本項では除外する。",
"title": "影響"
}
] |
国鉄80系電車(こくてつ80けいでんしゃ)は、1950年に登場した日本国有鉄道(国鉄)の長距離列車用電車形式群の総称である。
|
{{鉄道車両
| 車両名 = 国鉄80系電車
| 背景色 = #000000
| 文字色 = #ffffff
| 画像 = Kuha86329.jpg
| 画像説明 = クハ86329他4両編成
| 運用者 = [[日本国有鉄道]]
| 製造所 = [[日本車輌製造]]・[[川崎車輌]]・[[近畿車輛]]・[[汽車製造]]・[[日立製作所]]・[[帝國車輛工業]]・[[東急車輛製造]]・[[新潟鐵工所]]・[[宇都宮車両]]・[[国鉄大井工場]]
| 製造年 = 1950年 - 1958年
| 製造数 = 652両
| 運用開始 = 1950年3月1日
| 運用終了 = 1983年
| 廃車 = 1985年
| 軌間 = 1,067mm
| 電気方式 = 直流1,500V<br />直流600V(駿豆鉄道乗り入れ対策)
| 最高運転速度 = 100km/h
| 設計最高速度 = 110km/h
| 起動加速度 = 1.25km/h/s (MT比2:3)
| 常用減速度 =
| 非常減速度 =
| 車両定員 =
| 自重 =
| 全長 =
| 全幅 =
| 全高 =
| 台車 = DT16・DT17・DT20A(モハ80)<br />DT16(クモユニ81)<br />TR43・TR45・TR48(クハ86・サハ87)<br />TR43A・TR45A・TR48A(サロ85)
| 主電動機 = [[国鉄63系電車#主電動機|MT40形]][[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]]
| 主電動機出力 =
| 駆動方式 = [[吊り掛け駆動方式]]
| 歯車比 = 2.56
| 出力 = 568kW(電動車1両あたり)
| 定格速度 = 全界磁 56.0km/h<br />60%界磁 70.0km/h
| 制御方式 = [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁]]
| 制御装置 = CS10 電動カム軸式
| 制動装置 = [[自動空気ブレーキ#電磁自動空気ブレーキ|中継弁・電磁同期弁付自動空気ブレーキ]]
| 保安装置 = [[自動列車停止装置|ATS-S]](後年に装備)
| 備考 =
}}
'''国鉄80系電車'''(こくてつ80けいでんしゃ)は、[[1950年]]に登場した[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[長距離列車]]用[[電車]]形式群の総称である<ref group="注釈">「'''系'''」「'''系列'''」という[[概念]]は、1964年制定の車両管理規程(総裁達178号)に基づき定められた車両称号基準規程により生じたものであり、開発された当時、国鉄には「'''系'''」「'''系列'''」という概念が存在しなかった。本項では便宜上の総称として「80系」もしくは「本系列」と表記する。</ref>。
== 概要 ==
「[[湘南電車]]」と呼ばれる車両の初代に該当する。[[太平洋戦争]]後、[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線東京地区]]普通列車の[[ラッシュ時|ラッシュ]]輸送対策として[[電気機関車]]が牽引する[[客車]]列車の[[運用 (鉄道)|運用]]置換えを目的に、当初から長大[[編成 (鉄道)|編成]]での組成を前提として開発・設計された。
これ以前、[[鉄道省]]や[[運輸省]]時代までの国有鉄道は、客車列車を輸送の本流として扱い、電車は[[大都市圏]]の短距離輸送に重点を置く補助的な存在と捉えていたが、[[日本国有鉄道]](国鉄)の発足に伴い、100 [[キロメートル|km]]を超える長距離輸送に本格投入した最初の電車であり、走行性能で電気機関車が牽引する客車列車を大きく凌駕し、居住性も大きく改善された<ref group="注釈">昭和8年より京阪神地区向けに製造された[[国鉄42系電車|42系電車]]で既に客車なみの居住性を実現していたほか、高速性能でも客車の急行列車並みの性能を実現していた。</ref>。電車が長距離大量輸送に耐えうることを国鉄において実証し、その基本構想は後年の[[国鉄181系電車|電車特急]]や[[東海道新幹線]]の実現にまで影響を及ぼした。
メカニズム面では基本的に国鉄が[[大正]]時代から蓄積してきた伝統的設計の流れを継承するが、内容は大幅な強化・刷新が図られ、1950年代に続いて開発された[[国鉄70系電車|70系電車]]・[[国鉄72系電車#72系全金属車(920番台)|72系電車全金属車体車]]とともに「国鉄における[[吊り掛け駆動方式]]旧形電車の集大成」と評すべき存在となった{{refnest|group="注釈"|真鍋裕司は1991年の論考で80系電車について以下のように評している。「車輛技術史的側面から湘南電車を評してみると、国鉄には1910年代の京浜線電車以来の電車列車の伝統があり、80系電車がさほど画期的な電車とは思えない。むしろこれまで培ってきた電気車輛技術の1つの到達点を示した電車であると思われる。」<ref>真鍋『電車列車の発展過程』「鉄道史学」第9号 p21</ref>}}。
[[1950年]](昭和25年)1月から[[1958年]](昭和33年)4月までの8年間にわたり、大小の改良を重ねつつ合計652両が製造され、[[普通列車]]・[[準急列車]]用として[[本州]]各地の[[直流電化]]区間で広く運用されたが、[[1983年]](昭和58年)までに営業運転を終了し、保存予定で車籍が残っていた1両を除いては[[1984年]](昭和59年)に形式消滅した。
== 開発の経緯 ==
=== 戦前 ===
東海道における長距離電車運転は、鉄道省時代の大正後期に[[横浜駅|横浜]] - [[国府津駅|国府津]]間[[鉄道の電化|電化]]が計画され、完成時には2扉セミクロスシートを装備する[[国鉄デハ43200系電車|デハ43200系電車]]の新製投入が計画された。しかし計画途上の[[1923年]]に[[関東大震災]]が発生。電化も[[1925年]]に完成となったことや被災車の補充が優先されたために本計画は断念された<ref group="注釈">デハ43200形は、製造途上で客用扉増設と座席ロングシート化によって通勤車の[[国鉄デハ63100系電車|デハ63100形]]として落成。中間組込み予定のサロ43100形は京浜線に転用された。</ref>。
一方で電車による長距離運転は、[[1930年]]から[[横須賀線]][[東京駅|東京]] - [[横須賀駅|横須賀]]間約68 [[キロメートル|km]]において、従来の客車列車置換えで実施された。この施策は、速度向上や[[ラッシュ時|ラッシュ]]対策の実績をあげ、翌[[1931年]]からは長距離対応型の2扉クロスシート車[[国鉄32系電車|32系電車(モハ32・サハ48・サロ45・サロハ46・クハ47形)]]を新たに投入。[[二等車|2等車]](現在:[[グリーン車]])を含んだ編成で居住性を大きく改善した。
しかし電車化の本命とされた東海道の普通列車では、横須賀線より長距離運行系統という事情もあり、[[太平洋戦争]]後まで長年にわたり電気機関車牽引列車で運行されることになった。
=== 計画 ===
終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、東海道線東京地区についても横須賀線と同様に加減速性能・高速性能の優れた電車を投入し、高頻度運行で激増する輸送需要に対応しなければならない状況に至った。
東海道本線電化は、[[1934年]]の[[丹那トンネル]]開通時点で東京から[[沼津駅|沼津]]までが完成しており、1946年時点の国鉄はこの約126 kmの区間で普通列車電車化を計画した<ref group="注釈">電化工事自体は[[1949年]]中に静岡・浜松まで完成したが、諸事情から沼津以西への電車投入はやや遅れた。</ref>。
しかし当時、連合国軍の占領下で日本の鉄道政策を掌握した[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) 第3鉄道輸送司令部 (MRS) は、[[アメリカ合衆国]]の[[インターアーバン]](都市間電車)ではすでに衰退が始まっていた事例から、100kmを超える長距離区間の長大編成電車列車による高頻度運行には懐疑的であった。また設備投資抑制が図られていたこともあり、本計画が必要とする新製車両の定数充足を認めようとしなかった。
国鉄は、上述した障害の中で製造許可を得るために、東海道線電車についても「横須賀線程度の短距離運転」という名目でひとまず計画をスタートさせ、後から距離を延長して所期の目的を達成するという策略<ref group="注釈">官庁における計画承認では、一般に大規模な計画をそのまま承認させるのは難しいが、当初は規模を小さくした上で予算が承認された計画について後から追加予算で規模を拡大することは比較的認められやすい傾向があり、これを逆手にとった策である。<br>後の新幹線計画承認および予算確保でもこの策略的手法が洗練度を高めたうえで活用された。</ref>を用い、ようやく本計画に係る予算を承認させた。
=== 設計・開発 ===
[[島秀雄]]工作局局長(当時)主導の旅客車開発グループの手により、比較的長時間にわたる乗車と高速運転を配慮した構造を念頭に置いた国鉄初の本格的長距離電車として設計・開発が行われた。実績のある既存技術に加え、鉄道技術研究所において研究が進められていた新たな各種技術の導入もふんだんに求められた。
本系列開発以前の日本では、電車は短編成運転が原則で国鉄・[[私鉄]]を問わず運用上の小回りが利くように「電動車はすべて[[操縦席|運転台]]付き」とされていたが、長大編成が前提となる本系列は「電動車は中間車のみとし、先頭車は制御機能に徹する」'''中間電動車方式'''を採用し、乗り心地やコスト面における改善を実現した。台車はコロ軸受の採用や高速台車振動研究会の研究成果を取り入れた新設計の段階的な導入により乗り心地と高速走行時の振動特性の改善が図られた。さらにブレーキ制御は在来の[[自動空気ブレーキ]]に[[電磁弁]]を加え後部車での応答遅延を最小限に抑えることで、当時の電車としては未曾有の長大編成となる16両編成運転を可能とした。また大出力モーター搭載の長所を活かし、当初は編成内[[MT比]](電動車と付随車の比率)を「2:3」とする経済編成を基本とした。
高速型台車や[[自動空気ブレーキ#電磁自動空気ブレーキ|中継弁・電磁給排弁付自動空気ブレーキ]]などを除けば、関西私鉄各社の戦前型電車に比較してもスペック自体は優位ではないが、それらの技術開発成果や影響も散見される。
*[[新京阪鉄道]]・[[阪和電気鉄道]]・[[参宮急行電鉄]]・[[阪神急行電鉄]]などの関西私鉄では1930年代中期までに、6両以上の長大編成や最高速度100 [[キロメートル毎時|km/h]]超の高速性能を計画。複雑精緻なU自在弁による長大編成用自動空気ブレーキ(Uブレーキ)<ref group="注釈">空気圧指令のみで12両編成を可能とする。これに対し本系列で採用されたA動作弁では、中継弁や電磁弁を併用しない場合は電車用で6両編成が上限となる。</ref>・比較的多段の自動加速制御器<ref group="注釈">[[東洋電機製造]]の電動カム軸制御器や[[三菱電機]]の単位スイッチ制御器など。路面電車では先進的な油圧カム軸制御器の採用例もあった。<br>また一部では勾配区間での[[抑速ブレーキ|抑速]]などを目的とした[[発電ブレーキ|発電]]・[[回生ブレーキ]]の常用が行われており、ブレーキの電空同期という点では未熟で操作時に制御器とブレーキ弁を使い分ける点で乗務員の習熟を要するが、[[制輪子|ブレーキシュー]]の摩耗量激減やタイヤ弛緩の抑止など大きな成果を上げていた。</ref>・大出力主電動機<ref group="注釈">[[標準軌]]間路線が多いこともあり、国鉄が端子電圧675[[ボルト (単位)|V]]時1時間定格出力100[[キロワット|kW]]の標準電動機であるMT15を採用し始めて間もない[[1927年]]には、すでに端子電圧750V時 1時間定格出力150kWの東洋電機製造TDK-527Aが[[新京阪鉄道P-6形電車|新京阪鉄道P-6形]]用として実用化されている。<br />その後も、国鉄と同じ狭軌用150kW級電動機では東洋電機製造TDK-529A(端子電圧750V)と[[日立製作所]]HS-262AR(端子電圧600V)が、それぞれ[[阪和電気鉄道の車両|阪和電気鉄道モタ300・モヨ100形]]と[[南海2001形電車|南海鉄道電9形]]用として[[1929年]]に完成。[[1933年]]には、戦前の電車用主電動機最大出力を記録する端子電圧750V時 1時間定格出力170kW級の[[東芝|芝浦製作所]]SE-146が[[大阪市電気局100形電車|大阪市電気局100形]]用として完成するなど、速度競争の激しい関西私鉄では、国鉄を大幅に凌駕する大出力主電動機の採用が目立った。</ref>など本系列を凌駕する高度な機器<ref group="注釈">その多くが欧米製品の[[ライセンス生産]]ないしは改良品を基本としていたが、[[南海電気鉄道|南海鉄道]]が多用した日立製作所製品は、例外的に戦前から独自開発を一貫して行っていた。</ref>を大量導入している。
本系列の真の革新性は大局的な背景から捉えるべきものである。技術面では大量増備を考慮してコストを抑制した経済的かつ堅実な選択も見受けられるが、全体では既成概念を覆す大規模な総合システムとして現実に成立させ、なおかつ集中的に運用したことに意義があった。
=== 初期故障 ===
営業開始前[[試運転]]で[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#湘南電車火災事故|車両火災焼失事故]]<ref group="注釈">1950年2月9日に東海道本線[[保土ケ谷駅|保土ケ谷]] - [[戸塚駅|戸塚]]間を14両編成で試運転中に13両目のモハ80027と最後尾のクハ86017が焼失。2両とも復旧工事後に営業運転へ投入された。詳しくは[[日本の鉄道事故_(1950年から1999年)#湘南電車火災事故|湘南電車火災事故]]を参照。</ref>が発生した。
営業運転開始後も当初は初期故障が頻発・世間から湘南電車をもじった「'''遭難電車'''」などの不名誉な呼ばれ方もされたが、各機器の改良や設計見直しによる故障解消ならびに性能安定化が得られ、客車並みの設備と乗り心地とスピードアップ効果から徐々に利用者の支持を得た。
== 構造 ==
=== 車体 ===
[[File:Jnr.kuha86065.jpg|right|thumb|250px|クハ86065(先頭)<br />モハ80形200番台(中間2両)<br />クハ86形300番台(最後尾)。<br />300番台は窓下の塗り分けの境界線が1段下がっている。]]
基本的共通事項として、乗降を円滑にするため3等車は1[[メートル|m]]、2等車サロ85形は700mm幅の片開き片側2ドア客用扉と車端部[[デッキ]]を採用する。
当初からの構造的特徴として、[[台枠#鉄道車両の台枠|台枠]]のうち台車心皿中心間で[[竜骨 (船)|船の竜骨]]に相当する中梁を簡素化し、車体側板と接する側梁を強化することにより、梯子状の台枠構造全体で必要な[[強度]]を確保しつつ軽量化を図っていた点が挙げられる。これは[[1930年]](昭和5年)製造の16m車([[湘南電気鉄道デ1形電車]]→[[京浜急行電鉄]]デハ230形電車)で[[川崎車両|川崎車輛]]の設計により採用されたのが日本の高速電車における初出であるが、その先進的軽量化設計の意義を合理的な強度計算手法を含め理解しようとしなかった無理解な[[鉄道省]]の担当官による硬直的な対応{{refnest|group="注釈"|湘南電気鉄道による設計認可申請後、担当官からは「中央緩衝連結器ヲ有シ殊ニ床下ニ相当重量ノ電気器具機械類ヲ懸垂スル車輛ニ於テ中梁ヲ側梁ヨリ小ナル材料ヲ使用シ且ツ各横梁部毎ニ切リ「ガセットプレート」ニテ続キ合ワセタル構造ハ妥当ナラザルヲ以テ相当強度ヲ有スル通シ材料ノ中央梁ニ改ムル事」との照会が発せられた。<br>照会という体裁を取りながら何の数値的根拠も示さず、またその設計の意図や根拠を問うことをせず、ただ「妥当ナラザル」と決めつけて前例に従った形への設計の変更を強要したものである<ref>鉄道ピクトリアルNo.501 P.80。</ref>。}}で増備車では中梁装備への退行を強制され<ref group="注釈">デ1形の設計認可時には様々な事情から特認が与えられたが、担当官はその付帯条件として以後の増備車での中梁設置を義務付け、この設計手法の援用を禁止した。</ref>、以後[[太平洋戦争]]後に至るまで約20年にわたり顧みられていなかった手法である。本系列ではかつて鉄道省の担当官が「妥当ナラザル」として禁止したこの設計手法を、その後身である日本国有鉄道の車両局自らが、より長く重い20m級車両で採用したものである。以後、この設計手法は後続の[[国鉄70系電車]]や[[近鉄2250系電車]]をはじめとする各私鉄の新造車など、[[モノコック|張殻(モノコック)]]構造の設計手法が導入されるまでの時期に設計製造された日本の鉄道車両で積極的に用いられる一般的な軽量化手法として広く普及した。
初期の半鋼製車では窓の高さが客車や従来の電車よりも若干高い位置とされた。引き続き改良も実施されており、客室天井の[[ベンチレーター|通風器]]が初期車での大型[[砲金]]製風量調節機能付から、2次車では製造コスト低減のため皿形の簡素なものになるなどの変更点もある。客席屋上の通風器は製造期間中3回にわたって形状変更され、試作形通風器(モユニ81003・モユニ81004に取付)を含めると計5種類に分類できる。
;1次車
:[[1950年]](昭和25年)の[[東京駅|東京]] - [[沼津駅|沼津]]間の中距離列車に投入。
:* クハ86形の運転台窓は3枚
:* 車内の天井通風機は砲金製の飾り付き
:* 片側開通・片側封鎖の大型通風機を屋根上に[[千鳥状]]に設置
:* クハ86形とサハ87形の台車はTR43、サロ85形はTR43A
:* モハ80形の台車はDT16
;2次車
:1950年の湘南準急及び[[関西急電|京阪神快速]]向け増備車。
:* クハ86形は86021以降の運転台窓を2枚に変更
:* 車内の天井通風機を皿型に変更
:* 1次車に似た片側開通・片側封鎖の通風機を屋根上に設置。但し、通風機の天地方法を縮めている
;3次車
:[[1951年]](昭和26年)の関西急電向け並びに東京口のサロ85形増備。
:* 屋根上通風機の形状を小型の片側開通・片側封鎖式に変更。通風機の角が今までの角型から丸形に変更
:* デッキ上にも小型の通風機を設置
:* クハ86形は86057以降、サハ87形は87041以降の台車をTR45に、サロ85形は85015以降の台車をTR45Aに変更
:* モハ80形は80091以降、台車をDT17に変更
;4次車
:[[1952年]](昭和27年)の関西急電向け増備車。
:* クハ86形は86061以降、サハ87形は87044以降の台車をTR48に、サロ85形は85028、85029の台車をTR48Aに変更
;5次車、6次車
:[[1954年]](昭和29年)並びに[[1955年]](昭和30年)の関西急電向け増備車。何れもクハ86形、モハ80形のみの増備。
:* モハ80形は80099以降の主電動機をMT40Bへ変更
なお、設計変更も含む大改良のため以下の[[番台区分]]も実施された。
; 100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形)
: [[1956年]](昭和31年)・[[1957年]](昭和32年)の[[東北本線|東北]]・[[高崎線]]用及び東海道線用増備車。モハ80形は5次車で既に100番台を越えた結果、重複を避ける為200番台になっている。
:* 耐寒設計の導入
:* 座席間隔と座席幅を拡大
:* 側窓枠を木製から[[アルミニウム合金|アルミ合金]]製に変更
:* 屋根布を雨樋直上から張るように変更し、それ以前の張り上げ屋根(ただし雨樋位置は下部)を中止
:* 客席屋上通風器を大型の箱型に変更。ただし、1957年度増備車ではサロ85形を除き小型の千鳥配置に再変更
:* サロ85形は番台区分未実施だがバランサー付きの1段下降窓に変更(85030 - 85035)
:* クハ86形は1957年製造の86133以降、今まで片渡だった床下機器配線を両渡に変更。偶数車に[[電動発電機]](MG)を搭載。但し86134は1956年製造分の為例外
:* モハ80形は台車をDT20へ変更
; 300番台
: 1957年(昭和32年)・[[1958年]](昭和33年)製の[[京阪神快速]]用及び東海道線用増備車。[[山陽本線]]姫路電化(1958年[[4月10日]])に合わせて製造された。東京 - [[名古屋駅|名古屋]]間といった長距離区間を走行する[[準急列車]]への投入も考慮された設計変更が施され、当時最新鋭であったナハ11形などの[[国鉄10系客車|10系客車]]に準じた軽量構造車体が採用された。1958年6月から修学旅行列車での運用が開始された。
:* セミ・[[モノコック]]構造の全金属車体の採用
:* 車体側面窓上下の[[ウィンドウ・シル/ヘッダー]]を廃して窓も大型化
:* 窓の大型化に伴い、窓の下側の黄かん色と緑色の境界線を下にずらしており、300番台だけで編成を組んだ場合は編成美が保たれる。既存の車輌と連結すると1段ずれて編成美が崩れる。その為、既存車と併結した際は識別が容易である。[[高槻電車区|高槻]]、[[岡山電車区|岡山]]へ配備された車輌は、既存車と併結した際の編成美を揃える為に逆に境界線を上にずらしており、窓の直ぐ下に緑色が来る形となっている。
:* 客用扉下部の[[プレス加工]]を廃して平滑化
:* 内装の完全金属化と当初から[[蛍光灯]]照明を採用
:* サロ85形に専務車掌室・[[車内販売]]用控室の設置
:* 1958年(昭和33年)度製クハ86形は運転席側乗務員扉後位に折り畳み式の梯子状手摺を設置
=== 車内設備 ===
[[File:Jnr-Moha80001-3 inside.jpg|thumb|200px|right|モハ80001の車内]]
客室内装も当初は戦前同様に[[木構造 (建築)|木製]]で照明も[[白熱電球|白熱灯]]を採用。客車同様の[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]、両端のみ通勤利用も考慮し[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]とし、座席下には[[電気暖房 (鉄道)|電気暖房]]を搭載する。
* [[国鉄32系電車|32系]]・[[国鉄52系電車|52系]]などの戦前製2扉形長距離電車でのデッキなしドア両側ロングシートと比較すると、より長距離での運用を意識した設計である。
クロスシートは座席のシートピッチ(前後間隔)を従来の客車より縮め、座席数を増やして定員を拡大するとともに通路幅を800mmに広げた。
* 初期車では有効空間を拡大するため座席背ずりの上半分に[[モケット]]が張られていなかったが(しかも物不足から不心得者がモケットを切り裂いて持ち去る風潮に対抗するため、当初は当時の[[工部省|「工」の字]]の国鉄マークを織り込んだ特製モケットを張っていた)、アコモデーションの面では不評で、2次車からは背ずり全体に(柄のない通常の)モケットを張る改善が実施された。
[[列車便所|トイレ]]はデッキ側から出入りする構造として客室との遮断を図り、臭気漏れ対策や他の乗客の視線を受けない配慮がなされた。また、従来の鉄道車両用トイレは床板に和式便器を埋め込み配管等は床上に露出した構造だったが、配管の破損や床の汚損が絶えなかったため階段状の段差を作り段上に和式便器を埋め込み、配管等は段の内側に隠す構造が初めて採用された。この様式は80系電車が嚆矢となり、一般家庭の和式トイレにまで採用されるようになった。本方式は、考案者である当時の[[島秀雄]]国鉄工作局長のイニシャルから当初'''S式便器'''と呼称した。
* [[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]関係者など外国人の利用を考慮し、サロ85形初期車では[[便器#腰掛大便器(洋式・洋風大便器)|洋式]]としたが、当時の日本人乗客には洋式便器の使用法を知らない者が多く汚損・破損や故障が頻発したため2次車のサロ85006以降は[[便器#和式大便器(和風大便器)|和式]]へ変更された。
=== 主要機器 ===
[[鉄道車両の台車|台車]]・[[主電動機]]・[[主制御器]]などは、[[戦時設計]]ながら戦後も大量増備されていた[[国鉄63系電車|63系]][[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]に[[1947年]](昭和22年)以降試験搭載され改良を重ねて来た新技術が活かされている。そのシステムは、1950年(昭和25年)時点の国鉄における最新・最良の内容といえるものである。
大出力主電動機搭載の長所を活かし、当初は編成内[[MT比]]2:3で[[起動加速度]]1.25 km/h/s<ref group="注釈">電車としては低いが、客車列車と比較すれば飛躍的な性能向上であった。</ref>とする経済編成を基本とし、通常運転の最高速度は95[[キロメートル毎時|km/h]](後年は[[幹線]]区で100km/h)・設計最高速度は110km/hとした。なお1955年(昭和30年)には東海道本線での速度試験でMT比4:1の特別編成が、125km/hの最高速度を記録している。
==== 主電動機 ====
当時の国鉄電車用として最強力の[[制式名称|制式]]電動機であるMT40<ref group="注釈">端子電圧750 V時1時間定格出力142kW、定格回転数870[[rpm (単位)|rpm]](全界磁時)・1,100rpm(60[[パーセント|%]]界磁時)。</ref>を搭載する。
* MT40は、戦前からの標準型主電動機のMT30<ref group="注釈">端子電圧675V時1時間定格出力128kW、定格回転数780rpm(全界磁時)・1,005rpm(60%界磁時)。</ref>をベースに[[絶縁体|絶縁]]強化・冷却風洞装備などの改良を施したもので、[[公称電圧|端子電圧]]差<ref group="注釈">戦前の鉄道省時代には、送電時のロスによる[[電圧降下]]を1割と見込んで架線電圧を直流1,350Vとし、モーターを2個直列で使用することを前提に端子電圧を675 Vとして主電動機の設計を行っていた。<br>戦後は逆に[[変電所]]から送り出す段階でその降下分を見込んで最大で1,650 V程度までの範囲で昇圧した状態で給電し、架線経路中での降圧により架線から集電する段階で定格の直流1,500 Vとなるように変更された。</ref>を考慮すると額面上の実質性能はMT30とほぼ同等であるが、冷却機構の強化などで信頼性が向上していた。
駆動装置は従来どおり[[吊り掛け駆動方式]]を採用し<ref group="注釈">当時はカルダン駆動方式などの非吊り掛け駆動方式は日本ではまだ研究段階にあり、吊り掛け駆動方式を採用するしかなかった。</ref>、[[歯車比]]は同じMT40を装架する63系通勤形電車の2.87に対し、高速性能を重視した2.56とした。これにより[[定格#鉄道車両における定格速度|1時間定格速度]]は全界磁時56.0km/h、60%弱界磁で70.0km/hとなった。
==== 主制御器 ====
1949年(昭和24年)度製造の初期形では設計開発が間に合わず、戦前から長らく国鉄標準機種であったCS5A電空[[カムシャフト|カム軸]]式[[主制御器]]を暫定的に搭載した。
1951年(昭和26年)度製造車からは、63系電車での試作開発結果<ref group="注釈">1945年(昭和20年)より研究が開始され1948年(昭和23年)より東洋電機製造CS100A(直列6段・並列5段・短絡渡り・逆回転)、日立製作所CS101(直列6段・並列5段・短絡渡り・一方向回転)・CS102(直列7段・並列6段・橋絡渡り・一方向回転)・[[川崎重工業]]CS103(直列6段・並列5段・短絡渡・、一方向回転)の3社4種制御器を試作し、3年にわたり運用試験を実施。その結果を反映して制式化設計が実施された。</ref>を受けて開発されたCS10電動カム軸式主制御器に変更された。
CS10は、CS5に対して以下の相違点を有する。
* 1方向1回転式の電動カム軸化により直列・並列各2段ずつの多段化が実現。しかも電空カムでは必要であった星車などのカム軸回転停止機構が不要でノッチ飛び事故の発生を防止できた。
* 直並列切替時には主回路上に接触器を一旦挿入し、わたり動作中の電動機の引張力変化を最小限に抑制する[[主制御器#橋絡渡り|橋絡渡り]]を導入。この結果切替ショックを大幅に軽減した。
* CS5では焼損事故が発生した場合に発火による被害が制御器本体にまで及んでいた内蔵[[断流器]]をCB7あるいはCB7A[[遮断器]]として別筐体に格納するように変更。故障時の被害を最小限に抑えることが可能となった。
* CS9AあるいはCS11<ref group="注釈">1952(昭和27)年度予算で発注されたグループ以降に採用。</ref>界磁弱め接触器を付加し、高速域での速度性能向上に加え[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱め界磁]]と起動減流抵抗による減流起動を組み合わせることで、衝動が小さくスムーズな起動を可能とした<ref group="注釈">弱め界磁起動機能そのものは1949年(昭和24年)の80系1次車用CS5Aで初採用。</ref>。
制御段数は直列7段・並列6段・並列弱め界磁1段で弱め界磁率は60%である。
さらに1952年(昭和27年)以降製造グループでは、並列弱め界磁段を2段構成とし、弱め界磁率を60%と75%の2段切り替えとした改良型のCS10Aに変更、高速域での走行特性が改善された。
クハ86形・クハ85形・クモユニ81形の主幹制御器([[マスター・コントローラー]])は、いずれも[[ゼネラル・エレクトリック]]社製C36の[[デッドコピー]]品で、戦前より国鉄電車の標準機種であったMC1系のMC1Aを搭載する。
==== 台車 ====
戦後製造の国鉄車両であり、当初から全車[[転がり軸受#ころ軸受|コロ軸受]](ローラーベアリング)を採用したことで長距離・高速運転で問題となる車軸発熱は低減されたが、改良目的で製造年次によって幾度か変更が実施されている。
===== 初期形(1949年度 - 1951年度) =====
[[File:Dt16.jpg|thumb|right|200px|DT16形台車]]
; [[国鉄TR23形台車#派生形式|DT16]](モハ80形・クモユニ81形)
: DT16は新開発の高速運転用[[鋳鋼]]台車である。旧呼称TR39Aが示すように、1948年(昭和23年)ごろから63系で採用が始まっていた[[扶桑金属工業]]製ウィングばね式[[国鉄TR37形台車|DT14 (TR37) ]]・軸ばね式DT15(TR39)という軸箱支持機構の構造を違えた鋳鋼台車2種類<ref group="注釈">これらは側枠・トランサム・端梁の3種の鋳鋼製部品をボルト組み立てする構造で共通し、側枠の軸箱部周辺を除きほぼ同一設計である。<br>なお両形式ともに側枠とトランサムを結合する[[ボルト_(部品)#ボルトの種類|リーマボルト]]の頭部を納めるための開口部が側枠中央部に設けられ、それぞれ途中で設計変更されているが、この設計変更内容も共通(独立した丸穴を4×2×2=16か所設けていたものを、横に長い楕円穴1つで丸穴2つ分に代えることで2×2×2=8か所とした)である。</ref>の使用実績を受け、DT15を基本として改良を加えたものである。
:* DT15からの改良点は乗り心地改善のため軸ばねの大容量化<ref group="注釈">これに伴いばね帽部の側枠からの飛び出し量がDT15に比して増大し、車体の床に食い込んで見える外観となった。</ref>・側枠そのものの軽量化<ref group="注釈">肉厚を減らして必要な部分に限って補強用ひれを設け、トランサム固定ボルト穴群の左右外側それぞれに角を丸めた三角形の軽め穴を開口するなど必要強度を確保しつつ可能な限りの軽量化が行われた。</ref>の2点である。
: 設計は戦前[[鉄道省]]標準形であった「[[国鉄TR23形台車|ペンシルバニア型]]台車」に由来し、ペデスタル部の摺動で軸箱の前後動を拘束しつつ上下動を案内し、また、軸箱直上に置かれたコイルばね1組で軸箱を弾性支持する機構を備える点はそれ以前の国鉄電車用台車と同様である。だが、台車枠が一体鋳鋼製となって[[剛性]]が飛躍的に向上したことで高速運転により適した特性の追求が可能となり、また長距離運転用ということで特に軸[[ばね定数]]が見直され、軸ばねを従来よりも背の高いものに変更してたわみ量を大きくとることで乗り心地の改善が図られた。
: 動力車用DT16・付随車用TR43共々揺れ枕の釣りリンクは原型の[[国鉄TR23形台車#国鉄向け|TR23]]に比して大幅に延長され(310mm → 540mm)、振動特性は大幅に改善された<ref group="注釈">製造時点より、客車用台車のTR23D・E相当の構造となっている</ref>。新造ゆえ、工数を増やすことなく抜本的な改良が可能であった<ref group="注釈">客車において実施された改造は一旦台車全体を解体するため費用がかさみ、実施車両は最低限にとどまる</ref>。
; TR43・TR45(クハ86形・サハ87形)
; TR43A・TR45A(サロ85形)
: 鋼材組立台車で、従来20 m級国鉄電車の標準型台車であったDT12 (TR25) や一般向け客車用標準台車であった[[国鉄TR23形台車|TR23]]の流れを汲むペンシルバニア型鋼材組み立て・ペデスタル支持軸ばね構造を採用する。DT16に比して構造面でやや時代遅れの面が見られるが、ローラーベアリング化などの改良が実施されており、従来の長距離運用において問題視されていた軸受の[[焼きつき]]といった不都合はない。
: 当時の主力国鉄客車であった[[国鉄オハ35系客車|オハ35形]]などのペンシルバニア型TR34でも'''ローラーベアリングは標準的に採用されており'''、客車列車の電車化という本系列の設計概念を考えるとごく自然な選択である。またこの頃までに、[[国鉄63系電車#台車|モハ63]]などで当初問題となった電車での使用に際しての不具合(ころに通電してしまうことでの焼付き)は解決策が採られていた{{sfn|鉄道ピクトリアル通巻748号|2004|p=16}}。
: なお、1951年には小改良を施されたTR45・TR45Aに変更された。
===== 1952年度以降 =====
; [[国鉄DT17形台車|DT17]](モハ80形)
: 枕ばねを重ね板ばねからコイルばねに変更して揺動特性を改善した新型鋳鋼台車。DT16を基本としつつ側枠・トランサム(横梁)・端梁を一体とした一体鋳鋼台車枠を採用し、揺れ枕の枕ばねを複列配置のコイルばね+[[ショックアブソーバー|オイルダンパ]]で置換え、側枠の外側に配置することでコイルばねの高さを十分に確保し、なおかつ揺れ枕吊りのリンク長さも最大限に延伸して左右動の揺動周期を拡大している。
; TR48(クハ86形・サハ87形)
; TR48A(サロ85形)
: 付随台車でも同様にコイルばね + オイルダンパを枕ばねに採用。一体鋳鋼台車枠の側枠部分が軸箱周辺で跳ね上がった軽快な外観を持つ。
:* TR48・TR48Aは完成度の高さから、以後300番台の最終増備に至るまで付随台車として継続採用<ref group="注釈">TR48の後継としてDT20Aの付随台車版である仮称TR51も設計されたが、メーカー各社の製造技術の差異や供給能力を勘案して付随台車は鋳鋼製の本台車が継続採用となった。</ref>された。
===== モハ80形200番台・300番台 =====
[[File:Seibu-el-e34DT-20A.JPG|thumb|200px|right|DT20A台車]]
; [[国鉄DT20形台車#派生形式|DT20A]]
: 台車枠を[[プレス加工|プレス]]成型部材の[[溶接]]組み立て式とし、ゲルリッツ式近似の軸ばね構造<ref group="注釈">ゲルリッツ式は[[第二次世界大戦]]前に[[ドイツ国|ドイツ]]で開発された高速運転対応台車で、2段リンクで長い重ね板ばねを吊り下げた枕ばね部分を特徴とし、これと軸箱直上の板バネをウィングばねで支持する機構を併用する構造となっており、日本でも戦前に[[国鉄スハ32系客車|32系客車]]・[[国鉄オハ35系客車|35系客車]]にで試験が実施された。<br>DT20で採用された上天秤ウィングばね方式は、このゲルリッツ式の一方の特徴であった軸箱直上の板ばねによるイコライジング機構を単純な天秤に置換えたもので、もう一方の特徴である枕ばね部の機構は[[ホイールベース]]が極端に長くなる(一般に3m前後となる)ことが嫌われ採用されていない。</ref>を採用する台車である。
:* 軸ばねと枕ばねのたわみ量について振動解析が行われ、軸ばねを柔らかく、枕ばねを硬く設定する従来の経験則に基づく組み合わせから、解析結果に基づいて双方のたわみ量を均等とする設定に変更され乗り心地が改善された。
: 国鉄旧形電車用台車の最終発展形と言える性能の優れた台車であったが、構成部品が多く高コストな上、直後に開発された新性能電車には、別途新構想に基づく[[国鉄DT21形台車|DT21]]系台車が開発されたために少数の製造に留まった<ref group="注釈">元々は老朽化の著しい[[国鉄TR10形台車#派生形式|DT10]]装備のモハ30・モハ31の交換用台車としても使用できるよう設計されたもので、それゆえ軸距(2,450mm)などの基本寸法はDT10と揃えられ、側受も新形車用と旧形車用の2カ所を選択可能な様に設計されていた。<br>しかし旧形車の台車については[[電装]]解除による主電動機の撤去で負荷重量が減ったことで制御車へ転用する延命が行われて解決が図られたため代替を要しなくなり、この結果、DT20Aは本系列の他に70系300番台・72系920番台などの旧形国電最終期の新造車に限定して採用されるに留まった。<br>2018年(平成30年)現在では、[[西武鉄道]]から[[大井川鐵道]]に譲渡された[[西武E31形電気機関車|E31形電気機関車]]に飯田線で最後まで運用されていたモハ80形300番台の廃車発生品が流用されて現存する。</ref>。
===== 試作台車 =====
本系列では車両メーカー各社による試作台車の試用が行われた。以下でその詳細について解説を行うが、これらはいずれも試験終了後に標準のDT16・TR43に交換された。
; [[川崎車両|川崎車輛]][[川崎車輌OK形台車|OK-4]](銘板ではOK-IVと表記 国鉄形式DT29)
: モハ80014に装着。63系 (OK-1) やオロ41 6 (OK-2) で先行試用されていた軸梁式台車の改良型。軸梁の支持基部を側枠に強固に固定して直進安定性の確保を最優先とした。本系列での試用後に[[国鉄クモヤ93形電車|クモヤ93000]]へ転用され、試作のMT901電動機を装架の上で[[狭軌]]での[[鉄道に関する世界一の一覧#速度|世界最高速度記録]](当時)となる175 km/hを達成した台車そのものである。
;[[三菱重工業|新三菱重工業]][[三菱重工業MD形台車|MD3]](国鉄形式TR38)
:クハ86007・サハ87010・サハ87012に装着。63系電車などでの試用が行われていた軸梁式台車。ただし上述OK-4とは大きく異なり、MD3では軸梁支持腕を支える基部を[[トーションバー]]を介して側梁と柔結合することで、軸梁部に上下動だけでなく左右動も許容する構造となっており、直進安定性に加えて曲線通過も円滑にする設計意図が明確に示されていた。
==== ブレーキ ====
長大編成電車に適合させた[[自動空気ブレーキ]]の「AERブレーキ」<ref group="注釈">自動空気ブレーキの開発元である[[ウェスティングハウス・エア・ブレーキ|ウェスティングハウス・エアブレーキ]]社 (WABCO) 流の命名ルールでは、A動作弁+中継弁+電磁給排弁の組み合わせの場合は空気制御系を優先して「A'''RE'''ブレーキ」と呼称されるのが通常である。だが国鉄では戦前から試用していたAEブレーキに新たに中継弁を付加した、という実用化の経緯からかRとEの順序を逆転させて呼称を用いた。AMA(ACA・ATA)-REブレーキなどとも通称される。</ref>を国鉄の量産車として初めて採用した。戦前から一部の車両を使って実用試験が繰り返されて来た、[[電磁弁|電磁空気弁]]('''E'''lectro-pneumatic valve)<ref group="注釈">その機能から電磁給排弁あるいは電磁同期弁、電磁吐出弁もしくは単に電磁弁などとも呼ばれる。</ref>付きの「AEブレーキ」を基本として開発されたものである。
* 従来国鉄電車・客車で標準的に用いられて来た「'''A'''動作弁」による「Aブレーキ」<ref group="注釈">国鉄では客車用はAVブレーキ装置と呼称。A動作弁は鉄道省の標準的な客車用自動ブレーキ弁として、日本エヤーブレーキ(現:[[ナブテスコ]])がWH社製U自在弁の利点を取り入れつつ[[1928年]](昭和3年)に開発したもので、のち電車・[[気動車]]にも採用され、[[1970年代]]まで長きにわたり日本の国鉄・私鉄における[[旅客車]]用自動ブレーキ弁システムの主流をなした。</ref><ref group="注釈">WH社の命名ルールでは、厳密に電動車・制御車・付随車用自動空気ブレーキを区分する場合にはそれぞれAMA・ACA・ATAと呼称する。<br>ただし日本の私鉄などでは編成長が短く付随車が少数であったこともあり、電動車用で代表して「AMAブレーキ」などと呼称する例が多く見られた。</ref>の基本システムを踏襲しつつ、中継弁 ('''R'''elay valve) を介することでブレーキ力を増幅し、また各車のA動作弁に電磁空気弁を付加して、ブレーキ指令に対する応答速度を高めたものである。
電磁空気弁の併用により、編成の先頭から最後尾までほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては未曾有の長大編成である16両編成運転が実現した。
[[ブレーキシリンダ]]を車体床下に装架し、ロッドで台車に制動力を伝える点では在来形電車と変わらなかったが、在来形電車が「1両当たり1シリンダ仕様」で前後2基の台車をテコとロッドで連動させて制動していたのに対し、本系列では中継弁使用の恩恵で台車1台毎に独立した専用ブレーキシリンダーを配置する「1両あたり2シリンダ仕様」となり、作動性と保安性も向上させた。この仕様は、国鉄電車では[[国鉄旧形電車の車両形式|旧形国電]]グループでの採用にとどまり、[[新性能電車]]グループ以後は台車への直接シリンダ搭載にまで進歩したが、気動車では標準台車のブレーキが長く車体シリンダ仕様を用いたこともあり、1953年(昭和28年)の[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#液体式(流体式)|液体式気動車]]実用化後も、国鉄末期の一部車種にまで30年以上にわたって踏襲された。
==== ジャンパ連結器 ====
従来の旧形国電では低圧制御回路は定格電圧100 Vで動作する12芯のKE52形[[ジャンパ連結器]]2基により[[総括制御]]を行っていたが、本系列では基本的にそれまでの系列との混結運用を実施しないことが前提とされたため、定格電圧は同じ100 Vでありながらも15芯のKE53形2基とされたほか、[[車内放送|放送]]回路用として7芯のKE50A形を装備する。
=== 車両形式 ===
新造車は基本番台、座席間隔が拡大された1956年(昭和31年)以降製造の100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形)、全金属車体となった300番台の番台区分が存在するほか、改造形式についても解説を行う。
* なお、[[1960年]](昭和35年)7月1日に[[等級 (鉄道車両)|等級制度]]が3等制から2等制に、[[1969年]](昭和44年)5月10日には[[運賃]]制度改定により1等→[[グリーン車]]・2等→[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]に、それぞれ変更されているが本項では落成当時の状況に合わせるものとする。
==== 新造形式 ====
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=80series86063.JPG
| 2=クハ86063
| 3=クハ86307.jpg
| 4=クハ86307
| 5=Tc86332.jpg
| 6=クハ86332<br />シールドビーム2灯化改造車
| 7=Tc86059.jpg
| 8=クハ86059<br />前面窓木製枠残存車<br />1965年
}}
;クハ86形(クハ86001 - クハ86080・クハ86082・クハ86084・クハ86100 - クハ86142・クハ86300 - クハ86373・クハ86375)
:トイレ付の3等[[制御車]]。定員は基本番台が79人、100番台と300番台が76人。
:1949年度末から製造されたクハ86001 - クハ86020は運転台正面が従来の[[国鉄51系電車#モハユニ61形|モハユニ61形]]などのデザインを踏襲した非貫通3枚窓構成<ref group="注釈">前面のみ雨樋位置を上げた張り上げ屋根構成となっているが、基本設計はモハユニ61形のそれに準じる。</ref>で落成したが、1950年下期以降製造の2次車からは、当時としては極めて斬新な正面2枚窓スタイルに変更となった。この形状は本系列の通称に基づいて「'''湘南形'''」と呼ばれ、以後本形式の基本スタイルとなった。正面3枚窓の一次車の一部は、正面に取り付けられた手摺の位置や形状が他の一次車と異なり、それぞれ奇数向き偶数向き1両ずつの存在だったため正面を見ただけで容易に特定が可能とされた。
:*クハ86003・86004:川崎車輌が製造。ウインドシル上左右に取付けられた手摺が他車と比べ長さ倍以上。
:*クハ86009・86010:日車東京支店が製造。前照灯両脇手摺が他車より低い位置に取付。
:*クハ86017・86018:新潟鉄工が製造。窓間の2本の柱に沿うように五対の手摺を梯子状に取付。
:なお営業開始前試運転での火災事故により復旧されたクハ86017も含めてこれらの特徴は晩年まで維持された。
:本形式には以下の異端車が存在する。
:*クハ86015:1959年に衝突事故後復旧工事で正面左右窓を[[国鉄153系電車|153系電車]]のクハ153形0番台車などと同様の曲面ガラス窓化。ただしこれは後に他の初期車と同様、Hゴム支持の平面ガラスによる3枚窓構成に再改造されているが、ガラス寸法は異なる。
:*クハ86021・86022:東急車輛で製造された最初の正面2枚窓型車であるが、3枚窓車用の[[台枠]]を流用したために「鼻筋」となる[[鋼板]]合わせ目のない曲面の付いた形状で落成。クハ86023以降は台枠形状を変更して折れ目の付いたスタイルとなった(影響については[[#前面形状|後述]])。
:*クハ86332:前照灯シールドビーム2灯化改造を唯一施工。
:*クハ86356・クハ86359:1951年以前製の更新修繕施工車と同様の縦寸法が若干小さい前面窓ガラスを装着<ref>宮下洋一編 80系湘南電車最後の頃 ネコ・パブリッシング 2018年3月5日刊行</ref><ref>野村薫 保育社のポケット図鑑4 電車 1977-12-10刊行</ref>。
なお、当車は左右両方の窓とも縦寸法の小さいものに交換されたが、片方だけ交換したものとして、ほかに86123・86344・86352などがある。
:さらに製造途中での設計変更も上述した正面2枚窓スタイル化のほか、1952年度製造のクハ86061- は正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓化を実施。1954年度製造の86067 - は運行灯窓、戸袋窓、ドアガラスもHゴム支持化。86136 - 86372の偶数車はMGを搭載。300番台車では引き通しの両渡り構造採用などがある。
:*正面窓木製枠車のうちクハ86058までの58両は1950年代後半に更新工事を施工され全てHゴム支持に改造されたが、未施工のクハ86059・クハ86060の2両は中京地区で運用された(一部東京駅乗り入れ運用あり)1970年代前半まで木製枠のままとされた<ref>鉄道ファン1972年3月号p.131 交友社</ref>、両車とも山陽線転用後にHゴム化された。
;モハ80形(モハ80001 - モハ80117・モハ86200 - モハ80256・モハ80300 - モハ80425)
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=モハ80300.jpg
| 2=モハ80300
| 3=Moha80325.jpg
| 4=モハ80325 増設回送運転台
}}
:3等中間[[動力車|電動車]]。PS13形[[集電装置|パンタグラフ]]・主制御装置・電動発電機(MG)・空気[[圧縮機]](CP)を搭載する。本系列では電動車となる本形式のみトイレなしとされた。定員は基本番台が92人。200番台以降は88人である。またモハ80103・108 - 110・80316・80325・80341・80343は後年の改造により回送運転台を装備<ref group="注釈">80103・108 - 110は2位側に、300番台4両は3位側に設置。</ref><ref group="注釈">300番台4両は1969年3月~5月にかけての改造で、施工時期がほぼ同時期ながら、増設運転台の前面窓(3位側)は後年になってHゴム固定窓化された為、形態が3タイプに分類される。</ref>するほか、以下の異端車が存在する。
:本形式には以下の異端車が存在する。
:*モハ80027:上述した試運転時火災焼失事故被災車であるが、更新修繕施工車にもかかわらず張り上げ屋根構造(雨樋位置は下部)のまま残置し、戸袋窓Hゴム化も未施工。
;サハ87形(サハ87001 - サハ87047・サハ87100 - サハ80119・サハ87300 - サハ87331)
:3等[[付随車]]。定員は基本番台が89人。100番台以降は84人である。
:1970年代前半に豊橋機関区(現在:[[豊橋運輸区]])に配置されたサハ87001ならびに長岡運転所(現在:[[長岡車両センター]])に配置されたサハ87002・サハ87007・サハ87009 - サハ87011は、飯田線及び上越線運用で戦前形や70系電車等との併結となることからジャンパ連結器ならびに貫通幌交換・側扉半自動化などが施工された
;サロ85形(サロ85001 - サロ85035・サロ85300 - サロ85311)
:2等付随車。定員は基本番台が64人、300番台が60人。本形式では座席間隔改良が行われていないために基本番台と300番台のみである。基本番台のうち、1949年製造の初期車は客用扉が幅700mmの木製であったが、翌1950年製造の2次車からは同じ幅の鋼板プレスドアに変更された。
:1959年から田町電車区(後の[[田町車両センター]]→現在:[[東京総合車両センター]]田町センター)配属車の一部が横須賀線編成に転用され、32系電車・42系電車・70系電車・72系電車等との併結となることからジャンパ連結器や貫通幌の交換などが施工された。横須賀線編成が大船電車区(現在:[[鎌倉車両センター]])に移管された1960年以降にも転用車は増加し、最終的に以下の11両が転用された。なお該当車両はその後の格下げ・3扉化等の際も70系電車等と併結運用された。
;*サロ85001・サロ85003・サロ85004・サロ85006・サロ85010 - サロ85013・サロ85020・サロ85024・サロ85029・サロ85030
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=EF13shonan.jpg
| 2=モユニ81形(奥)<br />手前は[[国鉄EF13形電気機関車|EF13]]
}}
;クモユニ81形(クモユニ81001 - クモユニ81006)
:6両のみ製造された[[郵便車|郵便]][[荷物車|荷物]][[合造車|合造]]電動車。両運転台でパンタグラフは2基搭載である。[[1959年]]の[[国鉄旧形電車の車両形式#1959年(昭和34年)車両称号規程|称号規程改正]]前はモユニ81形。
{{-}}
==== 改造形式 ====
;サハ85形
:サロ85形は地方転出後1等車の需要が減少することおよびすでに1等車としての設備も見劣りすることから、1965年から1970年にかけて2等車への格下げ改造が[[新津車両製作所|新津]]・[[東海旅客鉄道浜松工場|浜松]]・[[下関総合車両所|幡生]]の各工場で施工された。車両番号は種車のものをそのまま承継する。
:また300番台車は1968年4月1日付で改造が施工されたが、同年中に後述のクハ85形に再改造された。
:*サロ85001 - サロ85005・サロ85007 - サロ85010・サロ85013・サロ85014・サロ85021・サロ85025 - サロ85029・サロ85031・サロ85301・サロ85303 - サロ85307・サロ85309→サハ85同番号
:また神領電車区(現:[[神領車両区]])に配置された車両のうち3両は、戦前形や70系電車等との併結となることからラッシュ対策のため1970年に浜松工場で車体中央部へ幅1,000mmの客用扉を設置し3扉化・新設ドア周囲の座席を種車の座席を流用してロングシート化する改造施工され100番台に区分された。なおジャンパ連結器や貫通幌の交換などは横須賀線転用時に施工済である。
:*サハ85010・サハ85029・サハ85003→サハ85101 - サハ85103
;クハ85形(2代)
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=Seno Station-01.jpg
| 2=クハ85009
| 3=80series85309.JPG
| 4=クハ85309
| 5=Kuha85104.jpg
| 6=クハ85104
| 7=クハ85104、108.jpg
| 8=クハ85108<br />前面窓位置が低い異端車(左側)右はクハ85104
}}
:地方転出により短編成化されることから制御車が不足することになり、付随車の先頭車化で充当させるべく以下の改造が浜松・幡生・[[長野総合車両センター|長野]]の各工場で施工された。
:*前位側に切妻構造の高運転台<ref group="注釈">後のクハ103形高運転台車と酷似した形状でデザイン的には前照灯が白熱灯1灯・行先表示機未装備・ステンレス製の飾り帯がないなどの差異がある。</ref>を取付。改造時期により前面窓の高さが若干異なる。
:*前位客用扉を移設のうえ1,000mm幅に拡大
:本改造では種車により以下の番台区分がなされる。
:;0番台・300番台
::種車がサロ85形の区分。客室内はほぼそのままで定員は56人。サロ85形から直接改造された車両と一旦サハ85形に改造された車両に分類されるが、304・311が相互に入れ替わった以外はどちらも車両番号はサロ時代の原番号を承継する。85300・301の2両は後年、前照灯シールドビーム2灯化改造が施工された。
::*サロ85013 - サロ85019・サロ85022・サロ85023・サロ85034・サロ85035・サロ85300・サロ85302・サロ85308・サロ85310・→クハ85同番号・サロ85311→クハ85304
::*サハ85005・サハ85007 - サハ85009・サハ85013・サハ85028・サハ85032・サハ85033・サハ85301・サハ85303・サハ85305 - サハ85307・サハ85309→クハ85同番号・サハ85304→クハ85311
:;100番台
::1973年から1975年にかけて長野工場で改造された。サハ87形100番台・300番台を種車とするグループのため定員76人で客用扉は前後とも1,000mm幅である。車両番号はサロ85形改造車との重複を避ける意味からも100番台に区分された上で新たに付番された。なおクハ85100・クハ85106 - クハ85111は他車(0番台・300番台を含む)より前面窓位置が若干低い異端車である。また85110・85111など改造竣工から3年足らずで廃車となった車も存在するほか、85111は本系列最後の新番号付与車である。
::*サハ87100・サハ87101・サハ87103・サハ87107・サハ87303・サハ87323・サハ87304・サハ87302・サハ87316・サハ87317・サハ87306・87307→クハ85100 - クハ85111
;モハ80形800番台・850番台
:[[身延線]]は私鉄を買収した経緯から、[[トンネル]]断面が小さく[[架線]]高もレール面からの[[集電装置|パンタグラフ]]折畳高さが3,960mmの制約が設けられていたため本系列投入に際しモハ80形のパンタグラフ搭載部分を低屋根化する改造を浜松工場で施工した番台区分。全車静岡運転所に集中配置とされたが、身延線での運用終了後は800番台の一部が大垣電車区を経て神領電車区へ、850番台が松本運転所へ転出した。
:1963年から1968年に改造された800番台はモハ80形300番台が種車。850番台は1970年にサハ87形100番台に電動車化改造を同時施工したための区分である。
:1973年の[[中央本線]][[塩尻駅|塩尻]] - [[中津川駅|中津川]]電化に充当された車両には、低断面トンネル対応のPS23形パンタグラフが開発されていたためこれに交換するに留まり、本改造は施工されず車両番号の前に◆マークを付記して識別した。
:*モハ80317・モハ80322・モハ80323・モハ80330 - モハ80332・モハ80366・モハ80372・モハ80320・モハ80383・モハ80397・モハ80357 - 80359→モハ80800 - モハ80813
:*サハ87108・サハ87111→モハ80851・モハ80852
;クモニ83形100番台
[[File:Kumoni83103.2.jpg|thumb|200px|right|クモニ83103]]
:クモユニ81形のうち[[飯田線]]での運用のため豊橋機関区(現在:[[豊橋運輸区]])へ転属した3両は、郵便室を廃止し荷物室に振替える改造が1963年に浜松工場で施工された。
:形式的には[[国鉄72系電車|72系電車]]改造の[[国鉄72系電車#クモニ83形|クモニ83形]]グループに属するが、同形式0番台・800番台とは異なり[[新性能電車]]との併結運転機能はない。
:*クモユニ81004 - クモユニ81006→クモニ83101 - クモニ83103
;クハ77形
:サロ85形を70系用と併結するため3扉制御車に改造。ジャンパ連結器や貫通幌の交換などは横須賀線編成に転用時に施工済である。運転席の有無以外は前述のサハ85形100番台とほぼ同様の改造内容であるがデッキ仕切壁を残置させ本系列を継承しているのに対し、本形式では編成を組成するのが70系であり仕切壁撤去を施工したために別形式とされた
:*サロ85006・サロ85011・サロ85012・サロ85020・サロ85024・サロ85030→クハ77000 - クハ77004・クハ77006
:{{Main|国鉄70系電車#サロ85形のクハ77形(2代)への格下げ・編入改造}}
==== 計画のみの未成形式 ====
;クハユニ88形
:基本編成下り方先頭車用郵便・荷物合造車。
;サロハ89形
:東海道線東京口付属編成および高崎線用2等・3等合造車。
;モハ82形
:[[1961年]]に計画されたモハ80形3扉化改造。同名を称した[[国鉄155系・159系電車#155系|155系電車(初代82系電車)]]とは無関係。
;サロ164形(仮称)
:[[1965年]]に[[大糸線]]乗り入れ用として計画されたサロ85形改造展望車。新性能電車化の上で165系に編入予定であった。
=== 製造年・製造所別一覧 ===
{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align: center; float: left; margin: 0 0 1em 0;"
|-
!rowspan="2"| 製造<br />年度
! 製造所
!rowspan="2" |[[日本車輌製造|日車]]
!rowspan="2" |日支
!rowspan="2" |[[川崎車両|川車]]
!rowspan="2" |[[近畿車輛|近車]]
!rowspan="2" |[[汽車製造|汽支]]
!rowspan="2" |[[日立製作所|日立]]
!rowspan="2" |[[帝國車輛工業|帝国]]
!rowspan="2" |[[東急車輛製造|東急]]
!rowspan="2" |[[新潟鐵工所|新潟]]
!rowspan="2" |[[SUBARU|宇都宮]]
!rowspan="2" |[[東京総合車両センター|大井工]]
!rowspan="2" |両数
|-
! 形式
|-
! rowspan="4" | 昭和24年<br />(1949年)
! モハ80形
| 009 - 012
| 017 - 020
| 005 - 008
| 023 - 024
| 013 - 016
| 001 - 004<br />029 - 032
| 021, 022
| 025, 026
| 027, 028
|
|
|rowspan="4" |73両
|-
! サロ85形
| 003
| 005
| 002
|
| 004
| 001
|
|
|
|
|
|-
! クハ86形
| 005, 006
| 009, 010
| 003, 004
| 013, 014
| 007, 008
| 001, 002<br />019, 020
| 011, 012
| 015, 016
| 017, 018
|
|
|-
! サハ87形
| 007 - 009
| 013 - 015
| 004 - 006
|
| 010 , 012
| 001 - 003<br />016
|
|
|
|
|
|-
!rowspan="5" | 昭和25年<br />(1950年)
! モハ80形
| 049 - 052<br />081 - 084
| 057 - 060<br />065, 066
| 041 - 044<br />077 - 080
| 045 - 048
| 053 - 056<br />085, 086
| 037 - 040<br />073 - 076
| 069 - 072
| 033 - 036
| 061 - 064
| 067, 068
|
|rowspan="5" |129両
|-
! モユニ81形
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 001 - 006
|-
! サロ85形
| 010
| 012
| 008
| 009
| 011
| 007
| 014
| 006
| 013
|
|
|-
! クハ86形
| 029, 030<br />051 - 054
| 033, 034<br />037, 038
| 025, 026<br />047 - 050
| 027, 028
| 031, 032<br />055, 056
| 023, 024<br />043 - 046
| 041, 042
| 021, 022
| 035, 036
| 039, 040
|
|-
! サハ87形
| 029 - 031
| 035 - 037
| 023 - 025
| 026 - 028
| 032 - 034
| 020 - 022
|
| 017 - 019
| 038 - 040
|
|
|-
! rowspan="4" | 昭和26年<br />(1951年)
! モハ80形
|
|
|
|
|
|
|
| 087 - 090
|
|
|
|rowspan="4" |24両
|-
! サロ85形
|
| 015 - 027
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! クハ86形
|
|
|
|
|
|
|
| 057 - 060
|
|
|
|-
! サハ87形
|
| 041 - 043
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! rowspan="4" |昭和27年<br />(1952年)
! モハ80形
|
|
|
|
|
| 091 - 096
| 097, 098
|
|
|
|
|rowspan="4" |20両
|-
! サロ85形
|
|
|
|
|
| 028 - 029
|
|
|
|
|
|-
! クハ86形
|
|
|
|
|
| 061 - 064
| 065, 066
|
|
|
|
|-
! サハ87形
|
|
|
|
|
| 044 - 046
| 047
|
|
|
|
|-
! rowspan="2" |昭和29年<br />(1954年)
! モハ80形
|
|
|
| 099 - 101
|
|
|
|
|
|
|
|rowspan="2" |5両
|-
! クハ86形
|
|
|
| 067 - 068
|
|
|
|
|
|
|
|-
! rowspan="2" |昭和30年<br />(1955年)
! モハ80形
|
| 110 - 117
|
| 102 - 109
|
|
|
|
|
|
|
|rowspan="2" |30両
|-
! クハ86形
|
| 075 - 079奇<br />078 - 084偶
|
| 069 - 073奇<br />070 - 076偶
|
|
|
|
|
|
|
|-
! rowspan="4" |昭和31年<br />(1956年)
! モハ80形
|
| 225 - 239
| 210 - 225<br />240 - 244
| 200 - 209
|
|
|
|
|
|
|
|rowspan="4" |98両
|-
! サロ85形
|
|
|
| 030 - 033
|
|
|
|
|
|
|
|-
! クハ86形
|
| 105 - 117奇<br />108 - 120偶
| 106<br />119 - 131奇<br />120 - 134偶
| 100 - 104
|
|
|
|
|
|
|
|-
! サハ87形
|
| 103 - 107
| 108 - 114
| 100 - 102
|
|
|
|
|
|
|
|-
! rowspan="4" |昭和32年債務<br />(1957年)
! モハ80形
|
| 245 - 251
| 252 - 256
|
|
|
|
|
|
|
|
|rowspan="4" |28両
|-
! サロ85形
|
| 034, 035
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! クハ86形
|
| 133, 135<br />136, 138
| 137 - 141奇<br />140, 142
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! サハ87形
|
| 115 - 117
| 118, 119
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! rowspan="3" |昭和32年一次<br />(1957年)
! モハ80形
|
| 310 - 317
| 300 - 303
| 304 - 309
|
|
|
|
|
|
|
|rowspan="3" |41両
|-
! クハ86形
|
| 311 - 315
| 300 - 304
| 305 - 310
|
|
|
|
|
|
|
|-
! サハ87形
|
| 305, 306
| 300 - 302
| 303, 304
|
|
|
|
|
|
|
|-
! rowspan="4" |昭和32年二次<br />(1957年)
! モハ80形
|
| 318 - 332<br />365 - 383
| 333 - 364<br />409 - 425
|
| 384 - 393
|
|
|
|
|
|
|rowspan="4" |176両
|-
! サロ85形
|
| 300 - 307
|
| 308 - 311
|
|
|
|
|
|
|
|-
! クハ86形
|
| 316, 317<br />328 - 343
| 318 - 327<br />360 - 372偶<br />365 - 375奇
|
| 344 - 351<br />353
|
|
|
|
|
|
|-
! サハ87形
|
| 307 - 315<br />321 - 325
| 316 - 320
|
| 326, 327
|
|
|
|
|
|
|-
! rowspan="3" |昭和33年債務<br />(1958年)
! モハ80形
|
|
|
| 394 - 408
|
|
|
|
|
|
|
|rowspan="3" |28両
|-
! クハ86形
|
|
|
| 352 - 358偶<br />355 - 363奇
|
|
|
|
|
|
|
|-
! サハ87形
|
|
|
| 328 - 331
|
|
|
|
|
|
|
|-
! colspan="2"|製造所別両数
| 28両
| 194両
| 171両
| 104両
| 43両
| 50両
| 16両
| 22両
| 14両
| 4両
| 6両
| 652両
|-
|}
{{-}}
===更新修繕===
1956年から1961年にかけて、1949年度・1950年度製車の全車と1951年度製車のうち、関西地区配属であったモハ80087・モハ80088、クハ86057・クハ86058、サハ87041 - サハ87043に施工された。[[桜木町事故]]を教訓とした絶縁強化工事と劣化した部品の交換が主な施工内容であるが、以下では主に外観上の変化について記述する。
;86形全車に施工された工事
:正面窓枠のHゴム支持化<ref group="注釈">関西地区配属車については、更新修繕工事以前にHゴム化改造を受けた車が多数存在する。</ref>
:前照灯の250 [[ワット|W]]化<ref group="注釈">正面3枚窓の86001 から 020については原型に近い半埋込形のまま250 W化された車と埋込形に変更された車がある。</ref>
:タイフォンを300番台同様の正面中央下部に移設
;一部の車に施工された工事
:屋上通風器を300番台と同形状の物に交換
:客用扉の交換<ref group="注釈">新製当時からの3段窓プレスドアが残置していた車及びサロ85形初期型の木製扉に関しては全て交換した。</ref>
:運行灯窓のHゴム支持化
:戸袋窓のHゴム支持化(モハ80027以外の全車)
:屋根布を雨樋直上から張り、張り上げ屋根を廃止(モハ80027以外の全車)
:正面窓下に開閉式通風孔を設置<ref group="注釈">通風孔設置スペースを確保する為、正面2枚窓車については100・300番台車より天地寸法が小さいガラスが使用された。</ref>
この結果、前述の通りクハ86059・クハ86060の2両のみが1960年代以降も正面窓枠が木製のまま残存した。また、修繕工事と相前後して、1956年度以前製造車の室内照明の蛍光灯化も施工された(一部の車は修繕工事と同時施工)。
===アコモ改善工事===
1973年 - 1976年にかけて<ref group="注釈">中部地区では1972 - 1973年に、山陽地区では1976年まで施工。</ref>、以下に示す1955年度以前製造車を対象として陳腐化した内装をデコラ張り化・側窓枠アルミサッシ化・日除けロールカーテン化・トイレ改装等を施工した更新工事である<ref>宮下洋一 80系湘南電車最後の頃 ネコ・パブリッシング 2018年3月</ref>。
;モハ80形
:007・027・035・050・066・084・089・096・098・099・105・106
;クハ86形
:001・002・004-007・010・011・013・014・017・018・022 - 026・028・030 - 033・038・041・045・057・073・075
;サハ87形
:006・019・030・033・039・041
なお本工事施工以前にクハ86005はアルミサッシ化が施工されたほか、モハ80027・モハ80089・モハ80096 - モハ80098・サハ87041は戸袋窓を木枠のままとし、モハ80027を除いてHゴム化された。
== 運用 ==
本系列は東海道本線東京 - 沼津間の客車普通列車置換えを目的とし、1950年にモハ80形32両・クハ86形20両・サハ87形16両・サロ85形5両の計73両が田町電車区(後の[[田町車両センター]]→現在:[[東京総合車両センター]]田町センター)に新製配置されたのをきっかけに、その後は[[京都駅|京都]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]間の[[京阪神快速|急行電車]]52系電車「流電」置換えや[[高崎線]]電化開業に伴う客車普通列車置換えなどに続々と投入された。本節では年代ごとにわけて解説を行う。
=== 1950年代 ===
1950年[[3月1日]]に「'''湘南伊豆電車'''」(→「'''[[湘南電車]]'''」)の愛称で東海道本線東京 - 沼津間・[[伊東線]]での運用を開始した。東京口では同年7月に[[静岡駅|静岡]]、[[1951年]]には2月に[[浜松駅|浜松]]へと運用領域を拡大したほか、サロ85形が増備され「基本10両編成+付属5両編成」の形態となり、郵便荷物車1両を含む電車としては当時世界最長最大の16両編成での運転を実施した。
;東海道本線東京口16両編成
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|colspan="18"|{{TrainDirection|浜松|東京}}
|-
|style="width:4em;"|クモユニ<br />81
|style="width:1em;"|+
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em; background-color:#cf9;"|サロ<br />85
|style="width:4em; background-color:#cf9;"|サロ<br />85
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|style="width:1em;"|+
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|-
|style="width:4em;"|
|style="width:1em;"|
|colspan="10"|基本編成
|style="width:1em;"|
|colspan="5"|付属編成
|}
一方、[[京阪神]]地区へは京都 - 神戸間の急行電車を戦前形の[[国鉄42系電車|モハ42系電車]]<ref group="注釈">横須賀線転用と引き替えに新製配置された。</ref>・[[国鉄52系電車|52系電車]]から置換えるために1950年10月から宮原電車区(→[[宮原総合運転所]]→現在:[[網干総合車両所]]宮原支所)に配置された。当初はクハ86形・モハ80形2両ずつの4両編成7本28両で運転が開始されたが、好評を得たことから数回にわたり車両増備を繰り返し、1952年8月からはサハ87形を増結した5両編成となった。また、宮原区には1956年11月の東海道本線全線電化に伴う[[米原駅|米原]] - 京都間で客車列車置換え用車両も配置された。
さらに東海道本線全域のみならず、1952年の高崎線電化、1958年の山陽線[[姫路駅|姫路]]電化、[[東北本線]][[宇都宮駅|宇都宮]]電化でも投入され、高崎第二機関区(現在:[[日本貨物鉄道|JR貨物]][[高崎機関区]])・大垣電車区(現在:[[大垣車両区]])・宇都宮機関区(現在:[[宇都宮運転所]])にも新製配置が行われた。
;80系新製配置基地一覧
{| class="wikitable" style="margin: 0em; float: left; clear: both; text-align: center;"
|+
||車両基地||配置開始年||主な運用線区||備考
|-
|田町電車区||rowspan="2"|1950||東海道本線・伊東線||style="background-color:#ccc;"|
|-
|宮原電車区||東海道本線・山陽本線||京阪神急電用
|-
|大垣電車区||1955||東海道本線||配置・運用終了は1978年
|-
|高崎第二機関区||1956||高崎線・上越線||[[1959年]]新前橋電車区開設により運用移管・全車転属<br />新前橋電車区では一部編成でクハ47形・サハ48形を混用<br />新前橋電車区は後年サロ85形改造のクハ77形を再配置
|-
|宇都宮運転所||1958||東北本線・[[日光線]]||日光線40系電車予備車不足時は40系電車と併結運用で3両編成を組成<br />80系電車旅客車営業運転の最短編成記録
|}
{{-}}
また電車特急計画([[国鉄181系電車|20系電車→151系電車]])が具体化した段階で[[エア・コンディショナー|冷房装置]]の装備が決定したため、1957年8月にサロ85020<ref group="注釈">同車は試験終了後に大船電車区へ転出し、1年間は冷房装置を使用した。<br>しかし、冷房時には窓を閉めるという習慣が理解出来ない乗客が多く、使用には苦労したという。その後冷房装置とMGは撤去された。<br>大船電車区転属時に、70系電車との併結改造を施工していたので、引き続き横須賀線で運用されたが、[[鶴見事故]]では下り2113Sの3両目に組み込まれていた車両でもある。4両目のモハ70079は粉砕大破で廃車されたが、同車は連結面を小破した程度で復旧。<br>1968年にはクハ77003に格下げ・制御車改造され[[両毛線]]・吾妻線で運用。1978年に廃車となった。</ref>に大井工場(現在:[[東京総合車両センター]])で屋根上に[[分散式冷房装置]]4基と床下に冷房用電源として容量18 [[キロボルトアンペア|kVA]]のMGを<ref group="注釈">このMGは後に[[国鉄157系電車|157系]]の[[貴賓車]]クロ157-1に搭載された。</ref>搭載する改造工事が施工され試験が行われた。
*一時的な試験・サービスであるが、同車は国鉄電車として<ref group="注釈">国鉄車両全般では特急用食堂車として新造されたスシ37850形(1936年)が初採用例である。</ref>初の冷房車とされる<ref name="korono1-174">『コロタン文庫 鉄道No.1全百科』P.174(1981年・小学館)</ref>。
==== 優等列車への投入 ====
[[東海道本線優等列車沿革]]・[[近鉄特急史#近鉄線と並行する国鉄・JR線の優等列車など]]・[[東海 (列車)]]・[[踊り子 (列車)]]も参照のこと。
接客設備が電車としては良好であったため1950年10月、[[伊豆半島|伊豆]]方面への温泉[[準急列車]]「[[踊り子 (列車)#新幹線開業後の「伊豆」「あまぎ」およびその列車群|あまぎ]]」「いでゆ」「はつしま」に投入され、東京 - [[熱海駅|熱海]]間において当時の客車[[特別急行列車|特急列車]]と同等の所要時間90分で走行する高速運転を行った<ref group="注釈">当時は[[中央線快速|中央線]]に[[通勤形車両]]を使用して運行されていた料金不要の「[[中央線快速|急行電車]]」と区別するため、準急行料金を徴収する80系使用の準急は準急電車とは呼ばず「湘南準急」と呼んでいた。</ref>。
その後、[[1957年]]には東京 - [[名古屋駅|名古屋]]・[[大垣駅|大垣]]間の「[[東海 (列車)|東海]]」、名古屋 - [[大阪駅|大阪]]・[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]間の「[[東海道本線優等列車沿革|比叡]]」両準急列車に300番台車が投入され(サロのみ一部0番台を含む)、従来の客車急行列車を凌ぐ俊足と高められた居住性により、電車でも長距離[[優等列車]]運用が可能であることを実証した<ref group="注釈">なかでも「比叡」は名阪間所要最短2時間39分を達成、当時の名古屋 - 大阪間の輸送において競合する[[近畿日本鉄道]]との競争でも優位に立つことができた。<br>当時の近鉄は[[近鉄名古屋線|名古屋線]]と[[近鉄大阪線|大阪線]]との間で軌間が異なり、[[近鉄特急|特急]]でも[[伊勢中川駅]]での乗り換えを要したためである([[近鉄特急史]]も参照のこと)。</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|-
|colspan="10"|「東海」(担当:大垣電車区)
|-
|colspan="10"|{{TrainDirection|大垣・名古屋|東京}}
|-
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em; background-color:#cf9;"|サロ<br />85
|style="width:4em; background-color:#cf9;"|サロ<br />85
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|colspan="10"|「比叡」(担当:宮原電車区)
|-
|colspan="10"|{{TrainDirection|神戸・大阪|名古屋}}
|-
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em; background-color:#cf9;"|サロ<br />85
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|}
*なお両列車とも1958年に153系電車へ置換えられた。
一方、高崎線・上越線・東北本線筋でも1958年11月から[[上野駅|上野]] - [[水上駅|水上]]間の「[[水上 (列車)|ゆけむり]]」をきっかけに、以下の準急列車に投入された。
*「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」(上野 - [[前橋駅|前橋]])
*「苗場」(上野 - [[越後湯沢駅|越後湯沢]])
*「[[とき (列車)#首都圏対新潟県優等列車沿革|ゆきぐに]]」(上野 - [[長岡駅|長岡]])
*「ふたあら」(上野 - 宇都宮)
*「[[日光 (列車)|だいや]]」(上野 - [[日光駅|日光]])
*「[[おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ#宇都宮線優等列車沿革|しもつけ]]」(上野 - [[黒磯駅|黒磯]])
なお、80系電車には、ほかの旧形電車にはみられない各座席の席番表示(数字のみ)が、全車全席(ロングシート化改造部分を除く)にあり、優等列車をはじめとする座席指定列車に充当することも容易だった。一方、70系電車などほかの旧型は、臨時の定員制列車(ワッペン列車など)などに充当するまでにとどめざるを得ない部分でもあった。
==== 駿豆鉄道乗り入れ対策 ====
東海道本線[[三島駅]]から分岐する駿豆鉄道(現在:[[伊豆箱根鉄道]])[[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]]は、沿線に[[伊豆半島]]中部の温泉観光地帯が存在するため太平洋戦争前から国鉄列車の直通乗り入れ運転が行われていた。
戦中戦後の休止時期を経て1949年10月から客車列車による東京 - [[修善寺駅|修善寺]]間の温泉直通準急列車が「いでゆ」の愛称付きで再開された。翌年、本系列が東海道本線東京 - 沼津間・伊東線を運行開始すると修善寺行き温泉準急の電車化が検討されたが以下の問題点があった。
*当時の駿豆線は老朽木造電車が主流の直流600V電化路線で、客車列車は三島での機関車交換により運転された。したがって直流1,500V規格の本系列による直通運転では定格の40%しか電圧を確保できず、電動発電機などの補助機器類も満足に動かすのは困難などの障害があった。
*一部私鉄では制御装置や補助機器を低圧・高圧両用の特殊仕様とした[[複電圧車]]を少数製造して直通対策とする事例もあったが、保有両数が多く標準化も進められた本系列では運行本数の限られた温泉準急専用として特殊制御器を搭載する複電圧車導入は得策でなかった。
そこで妥協策としてモハ80形に最小限補機類のみを複電圧仕様に改造施工をする案が提された。
*三島駅での構内転線作業に手間が掛かるが、客車列車でも機関車交換の手間は以前から存在していたことと全体的に比較的小改造で済むメリットがあった。
*1,500 V電化区間で最高速度100km/h以上の性能の電車は、600V電化区間での全出力でも40 km/h程度の速度は確保できる。また当時の駿豆線は低規格で高速運転自体困難であり、その区間も20km足らずであった。東海道本線東京 - 三島間120kmで電車の性能を活かした高速運転が可能なら、全区間では在来客車列車より速度向上効果が見込めた。
結果的に補助電源系統のみを複電圧対応とする改造が一部車両に施工され、1950年10月からは本系列4両編成で、1952年3月からはサロ85形組み込みの5両編成による修善寺直通準急「あまぎ」「いでゆ」の運転が実施された。
三島での異電圧を伴う転線は、東海道本線・駿豆線間渡り線の短い[[デッドセクション]]を介在し、下り列車では以下の手順で行われた。
{| style="font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc;"| ||colspan="5"|{{TrainDirection|修善寺|東京}}
|-
|電圧||colspan="5" style="background-color:#6ff;"|1,500 V
|-
|style="width:3em;"|編成
|style="width:8em;"|クハ86
|style="width:8em; background-color:#6ff;"|モハ80<br />(甲)
|style="width:8em;"|サロ85
|style="width:8em; background-color:#6ff;"|モハ80<br />(乙)
|style="width:8em;"|クハ86
|}
|-
|
:モハ80は甲乙ともに1,500 V通電で運転し、三島到着。これを最初の停止とする。
|}
{| style="font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc;"| ||colspan="5"|{{TrainDirection|修善寺|東京}}
|-
|電圧||colspan="5" style="background-color:#6ff;"|1,500 V
|-
|style="width:3em;"|編成
|style="width:8em;"|クハ86
|style="width:8em;"|モハ80<br />(甲)
|style="width:8em;"|サロ85
|style="width:8em; background-color:#6ff;"|モハ80<br />(乙)
|style="width:8em;"|クハ86
|}
|-
|
:転線に備えモハ80甲のパンタグラフを下げて無動力にし、モハ乙の1,500 V動力で600 V区間に修善寺側クハ86・モハ80甲までを推進させる。
|}
{| style="font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc;"| ||colspan="5"|{{TrainDirection|修善寺|東京}}
|-
|電圧||colspan="2" style="background-color:#ff9;"|600 V||style="background-color:#ccc;"|デッドセクション||colspan="2" style="background-color:#6ff;"|1,500 V
|-
|style="width:3em;"|編成
|style="width:8em;"|クハ86
|style="width:8em;"|モハ80<br />(甲)
|style="width:8em;"|サロ85
|style="width:8em; background-color:#6ff;"|モハ80<br />(乙)
|style="width:8em;"|クハ86
|}
|-
|
:モハ乙デッドセクション直前で2度目の停止。
|}
{| style="font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc;"| ||colspan="5"|{{TrainDirection|修善寺|東京}}
|-
|電圧||colspan="2" style="background-color:#ff9;"|600 V||style="background-color:#ccc;"|デッドセクション||colspan="2" style="background-color:#6ff;"|1,500 V
|-
|-
|style="width:3em;"|編成
|style="width:8em;"|クハ86
|style="width:8em; background-color:#ff9;"|モハ80<br />(甲)
|style="width:8em;"|サロ85
|style="width:8em;"|モハ80<br />(乙)
|style="width:8em;"|クハ86
|}
|-
|
:モハ乙のパンタグラフを降ろして無動力にすると共にモハ甲の補機類電圧切替スイッチを地上係員が操作しパンタグラフを上げる。
|}
{| style="font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc;"| ||colspan="5"|{{TrainDirection|修善寺|東京}}
|-
|電圧||colspan="5" style="background-color:#ff9;"|600 V
|-
|style="width:3em;"|編成
|style="width:8em;"|クハ86
|style="width:8em; background-color:#ff9"|モハ80<br />(甲)
|style="width:8em;"|サロ85
|style="width:8em;"|モハ80<br />(乙)
|style="width:8em;"|クハ86
|}
|-
|
:モハ甲600 V動力の牽引で東京側クハ86・モハ乙を600 V区間に引き入れ編成全体が通過後に3度目の停止。
|}
{| style="font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="background-color:#ccc;"| ||colspan="5"|{{TrainDirection|修善寺|東京}}
|-
|電圧||colspan="5" style="background-color:#ff9;"|600 V
|-
|style="width:3em;"|編成
|style="width:8em;"|クハ86
|style="width:8em; background-color:#ff9;"|モハ80<br />(甲)
|style="width:8em;"|サロ85
|style="width:8em; background-color:#ff9;"|モハ80<br />(乙)
|style="width:8em;"|クハ86
|}
|-
|
:モハ乙も補機類電圧切替スイッチ操作を行いパンタグラフを上げる。2両の電動車に同等の電力が供給されるようになり、編成全体を通した総括制御可能状態となり転線完了。
|}
上り列車では上述逆手順で転線が行われたが、1M方式の旧形国電であったために可能な方法であった。この転線は1959年9月に駿豆線が直流1500 Vへ昇圧したため終了し、ほぼ同時期に湘南準急充当車両も153系電車へ置換えられた。
=== 1960年代 ===
[[1960年代]]以降も国鉄電化の伸張に伴って運用線区を拡大したが、[[首都圏 (日本)|首都圏]]や京阪神地区では年々通勤客が増大し、[[ラッシュ時]]に車内が混み始め、各駅で円滑な乗降が不可能となっていた。特に東海道では打開策として80系電車のデッキ撤去と3扉化の改造が考えられ、図面まで作成されたが、当時は山陽線や[[信越本線]]の電化区間延伸を控えていることもあり、改造に必要な両数が多く、費用がかかるため不得策と判断されたことから中止として、[[国鉄113系電車|111系電車・113系電車]]・[[国鉄115系電車|115系電車]]など、より通勤輸送に適合する後継車への置換えで首都圏・京阪神地区では1960年代後半までにほぼ運用離脱し、地方路線に転用されて客車列車の電車化などに充てられた。
;1960年代首都圏・京阪神地区配置終了基地一覧
{| class="wikitable" style="margin: 0em; float: left; clear: both; text-align: center;"
|+
|エリア||車両基地||運用最終年||備考
|-
|rowspan="4"|首都圏||田町電車区||1962||111系電車・153系電車に置換え<br />大船電車区・静岡運転所に移管
|-
|新前橋電車区||rowspan="2"|1965||115系電車・165系電車に置換え<br />後年サロ85形改造のクハ77形を再配置 70系電車の制御車として運用
|-
|宇都宮運転所||115系電車に置換え
|-
|大船電車区||1968||1960年に田町区からサロ85形転入で配置<br />サロ85形以外は一時転入で1963年までに再転出
|-
|rowspan="2"|京阪神||宮原電車区||1964||1962年から高槻電車区へ段階的転出
|-
|高槻電車区||1968||113系電車に置換え
|}
{{-}}
しかし80系電車は、発電ブレーキを搭載していないものの元々大出力主電動機を搭載するため、編成の電動車比率を上げれば急勾配区間での運用も十分に可能であることから山岳路線にも投入された。その結果、本州内の国鉄直流電化区間の大半で主に普通列車として広範に運用された。
*ただし、当初より他系列電車との混結を考慮しない設計であり、改造車を含め旅客車に制御電動車が存在しないために編成は最短でも2M2Tの4両以上となった(例外的に日光線で運用されていた40系電車3両編成の予備車が不足した際に[[国鉄40系電車|クモハ40]]+モハ80+クハ86という3両編成で営業運転を行った事があり、本系列旅客営業最短編成記録である。)。
この運用線区広域化の過程では、さまざまな改造・対策が実施された。
*[[信越本線]][[横川駅 (群馬県)|横川]] - [[軽井沢駅|軽井沢]]間で運用される車両には、[[国鉄EF63形電気機関車|EF63]]による牽引・推進運転に対応する通称「[[碓氷峠#粘着運転化|横軽対策]]」を施工。
*身延線運用車両は狭小トンネル通過対策として、モハ80形ではパンタグラフ搭載部分を低屋根化。
*地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサロ85形・サハ87形のクハ85形化やサハ87形のモハ80形への改造。
;1960年代の新規配置基地一覧
{| class="wikitable" style="margin: 0em; float: left; clear: both; text-align: center;"
|+
||車両基地||運用開始年||主な運用線区||運用終了年||備考
|-
|静岡運転所||1962||東海道本線・身延線||1979||一部編成でサハ75形(二代目)・クハ47形・サハ48形を混用<br />1979年は波動用編成の運用終了年で定期運用は1977年に終了
|-
|大船電車区||1960||横須賀線||rowspan="2"|1968||サロ85形のみ所属 32・42・70・72系との併結運用
|-
|高槻電車区||1962||東海道本線・山陽本線||style="background-color:#ccc;"|
|-
|岡山運転区||rowspan="2"|1964||山陽本線・[[赤穂線]]・[[宇野線]]||rowspan="3"|1978||クモユニ81形は戦前形各形式との併結運用(クモハユニ64形と共通運用)
|-
|広島運転所||山陽本線・[[呉線]]||rowspan="1" style="background-color:#ccc;"|
|-
|長岡運転所||1967||上越線・信越本線||サハ85・87形のみ所属 51系電車・70系電車との併結運用
|-
|豊橋機関区||1968||飯田線||1983||1978年まではクモニ83形 サハ87001のみ所属<br />クモニ83形は戦前形各形式とサハ87001は32・42・51・70系との併結運用
|-
|新前橋電車区||1968||両毛線・吾妻線||1978||クハ77形のみ所属 70系電車との併結運用
|-
|松本運転所北松本支所||1969||大糸線||1981||クモユニ81003のみ所属<br />戦前形各形式との併結運用
|}
{{-}}
また行楽客へのサービスの一環として、首都圏の[[非電化]]区間に[[蒸気機関車]]や[[ディーゼル機関車]]の牽引で直通運転も行った。機関車との間には[[控車]]を兼ねたサービス電源用[[二次電池|バッテリー]]を搭載した[[電源車]]を連結し、客室照明などの最小限の電源を賄い無電源問題を解決するというユニークな試みも見られた。本件については2つの事例が確認できる。
;準急「[[草津 (列車)|草津]]」のケース
:[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎鉄道管理局]]では、東京から[[草津温泉|草津]]まで乗り換えなしをコンセプトに[[1960年]][[4月29日]]から5月末までの土曜日・日曜日に上野 - 長野原(現在:[[長野原草津口駅|長野原草津口]])間に準急「草津」を運転した。
:
:長野原線(現在:[[吾妻線]])は当時非電化のため、[[国鉄C11形蒸気機関車|C11]]+控車兼電源車の[[国鉄70系客車|オハユニ71形]]を本系列4両編成に連結して運転した。
:
:さらに[[1961年]][[5月6日]]から[[6月24日]]の土曜日・日曜日の運転では、愛称を「草津いでゆ」に改称。上野 - 渋川間は「上越いでゆ」の153系との併結運転とし、長野原線内は本系列4両編成が前年同様に蒸気機関車牽引で乗り入れた。
:*153系電車は[[電磁直通ブレーキ]]機能を停止して全編成自動ブレーキのみ<ref group="注釈">153系のSED電磁直通ブレーキは非常弁部にA動作弁を搭載していて運転台のブレーキ弁にも自動ブレーキ動作のための制御段が設けられていたため、これを使用することで自動ブレーキ車として運転することが可能であった。</ref>とし、両系列間には特殊ジャンパ連結器を使用し運転された。
;房総地区でのケース
:「房総夏ダイヤ」の一環として
:[[1964年]]に本系列6両編成による下り[[中野駅 (東京都)|中野]]・上り[[新宿駅|新宿]] - [[館山駅|館山]]間の臨時準急「[[さざなみ (列車)#内房線優等列車沿革|白浜]]」が運転された。本列車は[[稲毛駅|稲毛]] - 館山間で[[国鉄DD13形ディーゼル機関車|DD13]][[重連運転|重連]]+電源車[[国鉄50系電車|クハ16形]]の牽引による運転となった。
:*基本的に80系6両編成での運転であったが、1964年8月12日 - 8月14日にかけて、編成中のモハ80形一両に不具合が生じた為、代走としてモハ72形一両を組み込んだ珍しい混成編成で運転された<ref>とれいん 2000年9月号 p82~83 プレス・アイゼンバーン</ref>。
:*[[1963年]]に運転された臨時準急「汐風」(中野 - 館山)の153系電車4両編成・機関車連解結[[千葉駅|千葉]]から変更。
その後は直通[[気動車]]列車の導入や路線電化の進展で発展的解消を遂げているが、本系列が中距離行楽列車などにも適した設備を備えていたことも含めて、この種の特殊な運用・改造・改良・試行錯誤は、後の技術蓄積や運用計画に大きな影響を与えた。
==== 優等列車運用 ====
[[東海道本線優等列車沿革]]・[[山陽本線優等列車沿革]]・[[とき (列車)]]・[[草津 (列車)]]・[[あさま]]・[[ふじかわ (列車)]]・[[伊那路 (列車)]]・[[マリンライナー#宇野線・本四備讃線優等列車沿革]]も参照のこと。
153系電車・[[国鉄165系電車|165系電車]]が増備され置換えが進められる一方で、本系列の準急列車運用は引き続き行われていた。本年代には長距離[[急行列車]]にも投入された例があるが、2等車に[[洗面器#取付用洗面器|洗面所]]がない・車端部の[[つり革]]とロングシートが存在・シートピッチや座席幅の狭い1次車や、更には混用されていた戦前形の存在(後述)など接客設備が普通列車水準で長距離優等運用に適さない問題点があったことから、いずれも短期間の運用に終わった。
本系列による最長距離運行列車は、1960年6月から上述「比叡」用編成で運転された東京 - 姫路間の[[臨時列車|臨時]][[夜行列車|夜行]]急行「[[東海道本線優等列車沿革#黄金時代|はりま]]」である。理由は車両不足<ref group="注釈">1962年から1963年にかけては、早期落成した北陸地区用[[国鉄457系電車|471系]]を大垣電車区と高槻電車区に貸し出し、定期運用の「比叡」に投入。捻出した153系を「はりま」に投入した実績がある。</ref>によるものであり、翌1961年7月には153系電車に置換えられた。
定期列車では、1962年6月の信越本線[[新潟駅|新潟]]電化完成により、これ以前に上野 - 長岡間準急「ゆきぐに」2往復のうち本系列で運転されていた1往復の区間延長・急行列車格上げの形で下り「弥彦」・上り「佐渡」<ref group="注釈">当時の上越線急行列車は、下り・上りとも発車順に「弥彦」「佐渡」「越路(こしじ)」の順に[[列車愛称]]が付けられていた。</ref>に本系列が投入された<ref group="注釈">新潟電化当初は165系電車の完成以前であり、従来からの上野 - 新潟間急行列車は大方が全区間電気機関車牽引客車列車とされた。</ref>。
;下り「弥彦」・上り「佐渡」編成
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:100%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|colspan="7"|{{TrainDirection|上野|新潟}}
|-
|style="width:4em;"|クハ<br />86(47)
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87(48)
|style="width:4em; background-color:#cf9;"|サロ<br />85
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|クハ<br />86(47)
|}
車両は、[[高崎線]]普通列車と共通運用となる[[新前橋電車区]](現在:[[高崎車両センター]])所属車が投入された。準急列車仕様の300番台のみでの編成組成ができずに正面3枚窓のクハ86形初期車や、制御車及び付随車不足から本系列の編成に混用されていた戦前形の[[国鉄32系電車|クハ47形]]・[[国鉄32系電車|サハ48形]]も組み込まれるなどの問題<ref group="注釈">もう1往復は準急「ゆきぐに」で長岡発着のまま残ったが、1962年1月からサロ153形1両を含む田町電車区の153系4M3T7両編成が投入されており、同じ区間で準急の方が急行より設備が上という逆転現象が生じた。</ref>や、客車急行と違って[[食堂車]]がないといったサービス面での問題を抱えながらも、[[清水トンネル]]を挟む区間においても補助機関車連結の必要がないなど、電車ならではの速達性から客車急行より利用率は高く好評を博した。本系列の投入は一時的な措置であり、1963年3月には残存していた客車急行も含め新たに開発された165系電車に置換えられた。
その後は次々と準急列車も153系電車・165系電車に置換えられたが、[[1965年10月1日・11月1日国鉄ダイヤ改正|1965年10月のダイヤ改正]]では[[飯田線]]急行「伊那」に本系列を投入したほか、1966年3月に100 kmを超えて走行する準急はすべて急行列車<ref group="注釈">[[ヨンサントオ|1968年10月のダイヤ改正]]で残った準急列車もすべて急行列車に統合された。</ref>となり、1964年から運転されていた身延線準急「[[ふじかわ (列車)|富士川]]」も急行格上げとなった。
なお本系列による[[特急列車]]への投入実例がある。
:1964年4月24日、東海道本線[[草薙駅 (JR東海)|草薙]] - [[静岡駅|静岡]](当時)間の踏切で下り「第1富士」が横断中のダンプカーと衝突した事故で、当日の下り「第1富士」[[大阪駅|大阪]] - [[宇野駅|宇野]]の区間運転と折り返しとなる上り「[[マリンライナー#宇野線・本四備讃線優等列車沿革|うずしお]]」の代走に[[高槻電車区]](現在:網干総合車両所明石支所高槻派出所)所属の本系列7両編成が投入された。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:100%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|colspan="7"|{{TrainDirection|宇野|大阪}}
|-
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|サハ<br />87
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em; background-color:#cf9;"|サロ<br />85
|style="width:4em;"|モハ<br />80
|style="width:4em;"|クハ<br />86
|}
:事故による当日限りの緊急措置ではあったが、国鉄旧性能電車による唯一の特急列車<ref group="注釈">[[阪和線]]で52系電車による特急電車が運転された例があるが、これは特急料金不要で現在の「[[特別快速]]」に相当する。</ref>である。
=== 1970年代 ===
事故廃車もなく全車車籍を有していた本系列は、引き続き本州内での運用が継続され、1973年の[[中央本線]]中津川 - [[塩尻駅|塩尻]]間電化完成により同線[[甲府駅|甲府]]以西ならびに[[篠ノ井線]]での運用も開始された。
;1970年代の新規配置基地一覧
{| class="wikitable" style="margin: 0em; float: left; clear: both; text-align: center;"
|+
||車両基地||運用開始年||主な運用線区||運用終了年||備考
|-
|神領電車区||1970||中央本線<br />篠ノ井線||1980||新規開設に伴う<br />大垣電車区から一部運用移管<br />サハ85形100番台は51・70系との併結運用
|-
|下関運転所||1972||山陽本線||1978||広島運転所から一部運用移管
|-
|長野運転所||1972||rowspan="2"|信越本線<br />中央本線<br />篠ノ井線||1974||rowspan="2"|[[国鉄381系電車|381系電車]]増備により<br />ローカル列車充当用車両と運用を<br />松本運転所に移管
|-
|松本運転所||1974||1978
|}
{{-}}
一方、優等列車も急行「伊那」「富士川」での運用も継続されたが、[[1972年3月15日国鉄ダイヤ改正|1972年3月のダイヤ改正]]で165系化され消滅。しかし[[1973年]]4月1日からそれまで[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]で運転されていた急行「天竜」の下り1号([[上諏訪駅|上諏訪]]→[[長野駅|長野]]間)に本系列が投入された。
だが[[1977年]]になると余剰老朽化ならびに機器整備合理化の見地から3月に2両が[[廃車 (鉄道)|廃車]]されたのを皮切りに一気に廃車が加速。[[1977年]]3月28日には本系列発祥の地である東海道本線東京口での運用が、[[1978年]]5月には最後の急行運用であった「天竜」下り1号の運用も終了。その後は113系2000番台・115系1000番台などの新製投入による代替で段階的に本格的な廃車が開始された。
なお、1975年3月のダイヤ改正によって、広島運転所のサハ4両(85014・85021・85026・87016)が休車になり、復活をみることなく1977年に廃車されたので、実質的に最初の用途廃止となった。
=== 1980年代 ===
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=Kuha86301.jpg
| 3=mgc83103.jpg
| 4=廃車回送<br />クハ86301+モハ80302+モハ80349+クハ86342(上)<br />クモニ83103(下)
}}
最後まで運用されたのは、飯田線[[豊橋駅|豊橋]]口に転用された300番台車<ref group="注釈">東海道線運用の終了後に置換えられる形の転用で玉突きとして52系およびその編成に1両組み込まれていたスカ色のサハ87が廃車となった。</ref>である。1978年から豊橋機関区に集中配置され基本4両編成に朝夕は一部モハ(増結側貫通路閉鎖)+クハを増結するという特徴的な運用が行われたが、これも[[1983年]]には[[国鉄119系電車|119系電車]]に置換えられ本系列はすべての営業運転を終了した。ただし、旅客運用が2月24日までであったのに対して、クモニ83100番台3両は他の旧形との混成で6月末まで運用が残り、それが最後の営業運転である。廃車回送については、他の旧形車と同時期となったため解体作業に相当な期間を要し、編成単位での旅客車はクハ86301+モハ80302+モハ80349+クハ86342が営業運転終了から1年以上経過した1984年(昭和59年)3月1日に、車両単位ではクモニ83103+クモハ54129+クモハ61005+クハ68420+クモニ83102が同年3月14日に実施され終了した。
*ルートはいずれも[[西浜松駅]]構内に留置されていた編成が東海道本線経由で[[西小坂井駅]]まで下り、折り返し豊橋駅を経由して飯田線に入り[[日本車輌製造]]豊川製作所まで回送され、本線上自力走行は本件が最後となった。
;豊橋機関区最終所属車一覧
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;"
|-
!colspan="4"|{{TrainDirection|[[豊橋駅|豊橋]]|[[辰野駅|辰野]]・上諏訪}}
!colspan="3"|備考
|-
!style="width:8em; background-color:#ccc;"|クハ
!style="width:8em; background-color:#ccc;"|モハ
!style="width:8em; background-color:#ccc;"|モハ
!style="width:8em; background-color:#ccc;"|クハ
!style="width:10em; background-color:#ccc;"|運用離脱日
!style="width:12em; background-color:#ccc;"|疎開先
!style="width:10em; background-color:#ccc;"|廃車日
|-style="border-top:solid 2px #ff9900;"
|86300||80341||80365||86354||1983.2.13||[[西浜松駅]]||1983.6.30
|-
|86307||80300||80304||86334||1983.2.14||[[牛久保駅]]||1984.1.27
|-
|86309||80326||80392||86338||1983.2.15||[[西浜松駅]]||1983.5.28
|-
|86329||80379||80309||86302||1983.2.16||rowspan="2"|[[中部天竜機関区]]||1983.7.15
|-
|86347||80325||80314||86306||1983.2.17||1983.8.12
|-
|86313||80350||80343||86346||1983.2.18||rowspan="6"|西浜松駅||1983.12.13
|-
|86339||80384||80391||85104||1983.2.21||1983.9.26
|-
|86353||80340||80311||86308||1983.2.22||1983.4.27
|-
|86301||80302||80349||86342||1983.2.23||1984.3.13
|-
|86305||80310||80373||85108||rowspan="2"|1983.2.24||1984.1.12
|-
|colspan="2" style="background-color:#ccc;"| ||80345||86366||1983.4.27
|}
飯田線充当車廃車後も車籍を有していたのは保存予定で[[柳井駅]]構内に留置されていたモハ80001のみとなったが、1985年に廃車となり電気機関車牽引で配給回送された<ref>鉄道ピクトリアル 2000年2月号 p.33</ref>。
== 影響 ==
[[#top|本系列]]が日本の鉄道車両界に与えた影響として、茶色1色塗装が当然であった時代に「湘南色」と呼ばれたオレンジと緑の塗り分け塗装を導入し、利用者・鉄道事業者双方に新鮮な驚きを与えて、以後の鉄道における多彩な車両塗色導入を喚起したことと、クハ86形2次車以降で採用された後に「[[#前面形状 (湘南スタイル)|湘南スタイル]]」と呼ばれる先頭車の前面2枚窓デザインが挙げられる。
=== 湘南色 ===
[[File:Great Northern Railway Empire Builder.JPG|thumb|right|200px|エンパイア・ビルダー]]
{{See also|湘南電車|湘南色}}
当時の日本において斬新であったこの塗色は、「[[静岡県]]地方特産の[[ウンシュウミカン|ミカン]]の実と葉にちなんだもの」と言われ、国鉄も後にはそのようにPRしている。しかし、実際にはアメリカの[[グレート・ノーザン鉄道]]の大陸横断列車「[[エンパイア・ビルダー]]」用車両の塗装<ref group="注釈">[[オマハオレンジ]]と[[オリーブグリーン]]と呼ばれる2色を基本とする塗り分けであるが、境界部に黄色の細帯が入れられるなど湘南色と比べると格段に複雑な塗装であった。</ref>にヒントを得て<ref group="注釈">ヒントを得た媒体は広告ポスターであったとも、海外の鉄道雑誌であったとも言われる。</ref>、[[警告色|警戒色]]も兼ねてこれに近い色合いを採用したことを開発に携わった国鉄技術者が証言している。
尚、湘南色及び同時期に明色化された[[横須賀線]]電車の塗色採用過程での試験塗装として、1949年末頃に横須賀線で運用されていた[[国鉄32系電車|32系]]モハ32028を使用し、電気側側面を湘南色(本採用された色とは若干色調が異なる)、空気側側面と正面を[[スカ色]]に塗装した実車試験が実施され、同車は一般乗客から「お化け電車」とあだ名された。
当初は窓周りが比較的濃い朱色であったが、評判が悪かったため<ref group="注釈">公式試運転時に国鉄総裁や招待客による試乗が行われたが、このうち[[宮田重雄]]([[画家]]・[[医師]]。当時[[日本放送協会|NHK]]ラジオのクイズ番組「[[二十の扉]]」にレギュラー出演して大衆にも著名であった)は新聞記者の質問に対し「中は綺麗だが、外の色でぶち壊しだ。塗り替えてもらいたいね」と応じている。<br>また「錆び止め塗料そのままの色ではないか」「まるで[[中華料理]]店のよう」という評もあった。</ref>にみかん色に変更した。ほかにも彩度や明度は、塗料退色が関係する耐久性の問題・時代・担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。
*3枚窓のクハ86001 - クハ86020では、前面のオレンジ色面積が比較的小さく、数種類の塗り分けをテストした後に2次車以降同様に大きくした。
この塗色は以後国鉄の直流[[近郊形車両|近郊形]]・[[急行形車両|急行形電車]]の標準塗色の一つとなり、現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線で運用された[[国鉄211系電車|211系]]、さらにJR化後に製造された[[JR東日本E231系電車|E231系]]・[[JR東日本E233系電車|E233系]]やJR化後に改造された[[宇都宮線]]([[東北本線]])用の[[国鉄205系電車|205系600番台]]にも、帯色としては多少色が薄いものの湘南色が受け継がれている。詳しくは「[[湘南電車#湘南色]]」を参照。
また本系列および70系で採用された、運転台周りでの前窓を囲んで菱形を呈した曲面塗り分けは「[[金太郎]]塗」と呼ばれ、初期の試作型[[気動車]]をはじめ多くの私鉄でも採用された。
==== 塗り分け調整 ====
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=kuha85109.kuha86112.jpg
| 2=全金属製車と半鋼製車の塗り分け線の相違<br />全金属製車クハ85109<ref group="注釈">サハ87317からの改造車。</ref>(左)<br />半鋼製車クハ86112(右)
| 3=JNR80 syounan.jpg
| 4=クハ86形300番台<br />吹田工場塗装施工車
| 5=Kuha86306.kuha86302.jpg
| 6=クハ86300番台塗り分け線の相違<br />クハ86306 初期製造車仕様(左)<br />クハ86302<ref group="注釈">同車は初期製造車であるが工場入場時に正面のみ増備車同様へ塗り分け線を変更。</ref> 増備車仕様(右)
}}
湘南色の塗り分けは、全金属車体となった300番台車とそれ以前のウインドシル・ヘッダー付き半鋼製車体車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なり混結運転時には美観の点で難があった。
このため高槻電車区(現在:[[網干総合車両所]]高槻派出所)・[[岡山運転区]]所属車を担当していた[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]](現在:[[吹田総合車両所]])では、編成時の美観を第一に考えて300番台の塗り分けラインを在来車にできる限り合わせて塗装を行った。その結果、編成として見た場合は塗り分けラインのずれが目立たなくなったが、300番台車両単体では窓下のオレンジ色の部分が殆どなくなるなど不自然な点もあった。
300番台に対する吹田工場独自の塗り分けは1978年の岡山運転区配置車全廃まで続けられたが、この間に他地区へ転出した車両は以下の対応が採られた。
*関東・東海地区への転出車:[[日本の鉄道車両検査#全般検査|全般検査]]の際に元の塗り分けラインに復元。
*[[広島運転所]]および下関運転所(現在:[[下関総合車両所]]運用検修センター)へ転出した車両:担当工場であった幡生工場(現在:下関総合車両所本所)が吹田工場の塗り分けラインで再塗装したため同一車両基地に塗り分けの異なる300番台が混在した<ref group="注釈">同様の事例として[[1975年]]に広島運転所へ転出したクハ111形に横須賀色塗り分け線のまま湘南色で塗装された車両が存在した。</ref>。
またクハ86形300番台では以下2種類のバリエーションが存在する<ref>鉄道ファン 1977年7月号 交友社</ref>。
*初期製造車:正面幕板部塗り分線を運行灯上部突起部分とする。
*2次増備車クハ86316以降:突起にかからず塗り分け緑色の面積を減らす。側面上部の斜め塗り分け線角度を緩和。
本措置は晩年まで製造時のままとされた車両が多数であったが、飯田線での運用開始により浜松工場が検査担当となるとさらに以下の変則塗装が発生した<ref>鉄道車輛ガイドvol.13 80系300番台 2013年3月 株式会社ネコ・パブリッシング</ref>。
*運行灯部分が初期車と増備車の折衷タイプ:305・307
*下部Ⅴ字部分曲線が左右非対称:301・305
*下部Ⅴ字部分先端をステップ部まで延長:301・309・354
==== 湘南色以外の塗装 ====
路線事情などにより湘南色以外の塗装で営業運転に投入された本系列の事例には、以下の4件がある。
;関西急電色
:1950年10月の東海道本線京阪神地区向け車両は、戦前以来の急行電車(関西急電→後の[[快速列車|快速]]電車)運用に充当すべく、「関西色」と呼ばれる窓周りがベージュ([[クリーム3号]])、幕板部および腰板部が焦げ茶色([[ぶどう色3号]])の塗装を採用した。
:*先頭車側面前寄り幕板部塗り分け線が、湘南色では曲線を挟み段付で上がるのに対し関西色では直線で斜めに上がるなど、正面塗り分け線にも差異がある。
:しかし、1957年の東海道本線全線電化に伴う準急「比叡」用新製車の配置をきっかけとして、本系列の塗装は湘南色に統一することが決定したため消滅した<ref group="注釈">関西急電色の系譜を引き継ぐ車両が再び出現するのは、1979年に開発された急電の後身となる「[[新快速]]」用[[国鉄117系電車|117系電車]]である。</ref>。ただし、塗り分け線は湘南色も関西色に揃えられた<ref>『鉄道ピクトリアル』No.681 P.54。</ref>。
;[[青22号]]
:[[大糸線]]転出車のクモユニ81003に施工された。「[[海坊主]]」という愛称で親しまれた。
;[[横須賀線#車両の色|横須賀色(スカ色)]]
:*横須賀線優等車補充用(32系電車・42系電車・70系電車の中間に連結)。
:*飯田線転出車のクモニ83形100番台・サハ87001に施工された。いずれも、戦前形各形式や70系との併結運用で、1978年に大量転入した湘南色の300番台車との併結は実施されなかった。
:*中央西線転出車で51系電車・70系電車の中間車として運用されたサハ85形100番台に施工された。種車はいずれも、前述の横須賀線優等車補充用として早期にスカ色化されていた車で、終生湘南色に戻る事はなかった。
:*両毛・吾妻線転出車で70系電車の制御車として運用されたクハ77形(二代目)に施工された。種車はいずれも、前述の横須賀線優等車補充用として早期にスカ色化されていた車で、終生湘南色に戻る事はなかった。
;新潟色([[赤2号]]・[[黄5号]])
:1964年9月から新潟地区向け車両に導入された塗色であり、車両の幕板部と腰板部を赤2号に、窓部を黄5号に配置している。これは雪の中や田園地帯でも良く目立つようにと考慮された結果である。最初に長岡運転所(現在:[[長岡車両センター]])に転出したサハ85001・サハ85004・サハ87002・サハ87007・サハ87009 - サハ87011に施工され、51系電車・70系電車の中間車として運用された。上記のうちサハ85形2両は、前述の横須賀線優等車補充用として早期にスカ色化されていた車で、終生湘南色に戻る事はなかった。
=== 前面形状 (湘南スタイル) ===
{{Main|湘南顔}}
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=EF58 122.jpg
| 3=Seibu-Railway-Moha-505.jpg
| 5=Kashima-Kiha431.jpg
| 7=Jnr.motor.car.syonan.style.jpg
| 8=80系の影響を受けた前面形状<br />EF58形(上 1952年)<br />西武鉄道クモハ351形(中1 1954年)<br />[[鹿島鉄道]]キハ431形(中2 1957年)<br />国鉄保線工事用モーターカー (下 1950年代製)
}}
クハ86形2次車以降の、2枚の大窓を採用した前面形状は、日本の鉄道車両デザインとして特筆すべきものである。それまでの日本の電車前面は、中央にしばしば[[貫通扉]]があったことや、デザイン面の慣例も手伝って3枚窓がほとんどであったが、本系列のデザイン変更以後[[1950年代]]を通じ、国鉄・私鉄を問わず日本の鉄道界には同種の正面2枚窓デザインが大[[流行]]した。一般の電車は無論のこと、[[路面電車]]・電気機関車・気動車・[[ディーゼル機関車]]・[[鋼索線]]車両にまで急速に伝播し、果ては[[森林鉄道]]向け小形ディーゼル機関車([[酒井重工業|酒井工作所]]製C4・F4形など)や、[[鉱山鉄道]]の[[特殊狭軌|ナローゲージ]]電気機関車([[三菱ロジスネクスト|日本輸送機]]1962年製)、国鉄の[[保線]]工事用[[モーターカー]]に至るまで採用された。[[日本の鉄道史|日本の鉄道車両史]]上、空前絶後とも言える極めて特異な流行であった。
2枚窓デザインには、[[運転士]]に広い運転室と良好な視界を確保できる実利性があり、また一般にアピールするデザイン面でも斬新な印象を与えられるメリットがあった。
基本は、中央上部に1灯埋め込み式[[前照灯]]を設置し、前面上半部を後傾。正面中央を折り曲げた「鼻筋の通った」デザインである。ただし、前面窓を1段窪ませる・前照灯を窓下に降ろして2灯化・「鼻筋」を廃して丸みのあるデザインに変更するなど、無数のアレンジメントも存在する。さらには、新製車ばかりでなく旧形車の更新改造で改装する例も見られた。これらの車両をその後は「湘南タイプ」・「湘南スタイル」・「湘南顔」と呼ぶようになった。また、大型のスカートを装着して「海坊主」と呼ばれた車両も存在する([[国鉄DD50形ディーゼル機関車|DD50]]など)。
なお、日本で最初にこの前面スタイルを採用した鉄道車両は、[[1950年]]末 - [[1951年]]初頭に旧形[[ボギー台車|ボギー]]気動車を2両に分断改造した[[西大寺鉄道]]の[[単端式気動車]]キハ8・キハ10であると言われているが、そのデザイン採用に至った当時の経緯は定かでない。
第二次世界大戦前の[[流線形車両|流線形]]ブーム期には、前面中央を分割線として窓を2枚(または偶数の4枚、6枚)に左右対称配置する手法自体は、電車・気動車で広く見られた。[[インダストリアルデザイン|工業デザイン]]でも流線形の導入が鉄道より早期で広範であった[[カーデザイン|自動車デザイン]]の世界では、[[1930年代]]の流線形ブーム期から、平面のフロント[[風防|ウインドシールド]]を中央[[ピラー]]で2分割して傾斜させるデザイン手法が先行して急速に広まっており、クハ86形2次車が出現した1950年時点では[[乗用車]]・[[バス (交通機関)|バス]]のいずれにおいても珍しくない形状であった。だが日本では鉄道での湘南形流行期と同時期、自動車では視界改善の必要から、1枚ものの曲面ガラスを用いたピラーレスのフロントウインドシールドが主に用いられるようになり、その傾向は特殊車両を除いて21世紀初頭まで続いている。80系が戦前形流線形電車や先行する自動車からモチーフを援用した部分があったのか否かは、開発者やその周辺からは明らかにされていない。
==== 実例 ====
; 関東私鉄をはじめとする東日本地域
: [[京浜急行電鉄]]や[[東武鉄道]]、京王帝都電鉄(現:[[京王電鉄]])、[[東京急行電鉄]]、[[小田急電鉄]]、[[相模鉄道]]、[[京成電鉄]]など[[大手私鉄|大手]]・[[準大手私鉄|準大手]]はもちろんのこと、[[鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分|中小私鉄]]では、日車標準形車体の[[カルダン駆動方式|カルダン]]車である[[長野電鉄]][[長野電鉄2000系電車|2000系電車]]・[[秩父鉄道]][[秩父鉄道300系電車|300系電車]]・[[富士急行]][[富士山麓電気鉄道3100形電車|3100形電車]]などに、また路面電車でも[[東京都電車|東京都電]]・[[横浜市電]]など、果ては[[軽便鉄道]]や[[北海道]]の[[殖民軌道|簡易軌道]]路線にまで、同種の2枚窓を持った車両が登場した。特に[[西武鉄道]]については極めて強い影響を与えており、[[西武551系電車|551系]]以降のセンターピラーによる連続窓化や、[[西武101系電車|新101系]]のようにブラックアウト処理など独自のアレンジを加えながら1987年(昭和62年)まで製造され続けることになるが、路面電車では運転台と出入口との配置に制約が生じることから、採用しなかった社局もある。
; 西日本地域
: 中部以西では、[[名古屋鉄道]]・[[近畿日本鉄道]]・[[西日本鉄道]]なども採用し、関西地方の私鉄や[[静岡鉄道]][[静岡鉄道駿遠線|駿遠線]]・[[三重交通]]・[[下津井電鉄]]、[[井笠鉄道]]など一部の[[軽便鉄道]]にまで影響を与えた。
: しかし関西では、元々多客時に短編成車を随時増結して輸送力を確保する弾力的な車両運用を好む会社が多く、前面非貫通となり車両間の通り抜けができないことから運用上は敬遠されることが多かった。
: 結果としてその他の会社でも、各社1形式 - 3形式程度しか類似タイプの車両は製造されなかった。ただし、[[南海電気鉄道]]では[[南海11001系電車|11001系電車(モハ11009以降)]]・[[南海21000系電車|21000系電車]]が長く主力車として運用された。最終的にこのタイプの車両を製造しなかったのは、法令で貫通扉を設けることが義務付けられている[[地下鉄]]車両を除くと京阪神急行電鉄(現在:[[阪急電鉄]])がある。
後年になって、[[関東地方|関東地区]]でも貫通扉がない事が運用上で様々な支障をもたらす事が表面化し、結果として[[昭和30年代]]中ごろまでに流行は終了した。既存車両についても、まず東武鉄道が貫通扉設置改造に着手し、その他の会社も次第に前面貫通化改造した例が多く見られた。路面電車でも、[[東京都交通局7000形電車|都電7000形電車]]などで3枚窓形態に改造した例がある。
しかし近年に至るまで湘南スタイルを採用し続けた事業者も存在し、大手私鉄の例を挙げると、京王帝都電鉄では固定編成で運用される[[京王井の頭線|井の頭線]]用[[京王3000系電車|3000系電車]]<ref group="注釈">[[京王線]]用は1963年の[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]以降は正面貫通扉設置車両とした。</ref>が[[1988年]]<ref group="注釈">事故代替車を含むと[[1991年]](平成3年)。</ref>まで、西武鉄道では[[西武3000系電車|3000系電車]]が[[1987年]]まで、それぞれ湘南スタイルの前面形状で製造され続けた。京阪電気鉄道では1979年に登場した[[京阪500型電車 (2代)|2代目500型電車]]以降、[[京阪大津線|大津線]]向けにセンターピラーによる連続窓ながら正面2枚窓の車両を導入し続けている(地下鉄直通用の[[京阪800系電車 (2代)|800系電車]]を除く)。さらにローカル私鉄では、[[上信電鉄]]が[[2013年]](平成25年)に[[上信電鉄7000形電車|7000形電車]]を登場させた。
国鉄車両では、[[国鉄157系電車|157系電車]]がこのデザインに2,950mm幅車体・高運転台・パノラミックウィンドウを採用した亜種もしくは発展型と捉えられ、さらに117系電車および185系電車へと発展した他、JR貨物の[[JR貨物M250系電車|M250系]]電車でも類似したデザインが採用された。また、JR四国の[[JR四国5000系電車|5100形]]電車ではセンターピラーによる連続窓ではあるものの、低運転台で鼻筋の通った傾斜形2枚窓とされ、湘南スタイルの基本デザインが踏襲されている。
なお、2代目湘南電車としての位置づけがなされている153系電車は、本系列の欠点である非貫通形を廃して機能的な貫通型へ形状を一新したが、側面にかけての後退幅は継承する形で設計された。
==== 国鉄および大手私鉄の湘南スタイル代表形式 ====
(センターピラーによる連続2枚窓の形式を除く)
* [[国鉄70系電車]]
* [[国鉄クモヤ93形電車]]
* [[国鉄EF58形電気機関車]]<ref group="注釈">1-31号機は当初、従来形のデッキ付き箱型車体で製造され、後に湘南スタイルに改造された。</ref>
* [[日本の電気式気動車#国鉄キハ44000形|国鉄キハ44000形・キハ44100形・キハ44200形気動車]]
* [[国鉄キハ44500形気動車]]
* [[国鉄キハ01系気動車#各形式区分|国鉄キハ02形・国鉄キハ03形気動車]]
* [[国鉄DD50形ディーゼル機関車]]
* [[国鉄DF90形ディーゼル機関車]]
* [[東武5700系電車]](5700形のみ)
* [[東武キハ2000形気動車]]
* [[東武日光軌道線100形電車]]
* 東武日光軌道線200形電車
* [[京王2700系電車]]
* [[京王2000系電車]] (二代目)
* [[京王2010系電車]]
* [[京王1900系電車]]
* [[京王1000系電車 (初代)|京王1000系電車]](初代)
* [[京王3000系電車]]
* [[西武501系電車]](初代)
* [[西武501系電車]] (二代目)
* [[西武101系電車|西武新101系電車]]
* [[西武301系電車]]
* [[西武3000系電車]]
* [[京成1600形電車]]
* [[東急5000系電車 (初代)]]
* [[東急5200系電車]]
* [[東急]][[玉川線]][[東急デハ200形電車|デハ200形電車]]
* [[京急500形電車]]
* [[京急600形電車 (初代)]]
* [[京急700形電車 (初代)]]
* [[京急800形電車 (初代)]]
* [[京急1000形電車 (初代)]](1001-1048)
* [[小田急2300形電車]]
* [[相鉄5000系電車]]
* [[名鉄5000系電車 (初代)]]
* [[大阪電気軌道デボ61形電車|近鉄460系電車 (モ466 - モ475)]]
* [[大阪鉄道デイ1形電車|近鉄5801形電車 (モ5801 - モ5806)]]
* [[近鉄800系電車]]・近鉄880系電車
* [[阪神3011形電車]]
* [[阪神5001形電車 (初代)|阪神5001形電車(初代)]]
* [[南海21000系電車]]
* [[南海11001系電車|南海11001系電車(モハ11009 - )]]
* [[西鉄1000形電車 (鉄道)]]
* [[西鉄20形電車]]
この他、小田急1700形電車3次車や2200形電車、[[京阪1500型電車 (初代)|京阪500型電車 (初代)]](更新後)、[[西鉄313形電車]]およびEH10形電気機関車も正面2枚窓で湘南スタイルの影響を受けてはいるが、傾斜が無く鼻筋も通っていない形態の為、本項では除外する。
== 廃車 ==
;1976年(昭和51年)度
*クハ86形
:86004・86049([[大垣車両区|名カキ]])
:
;1977年(昭和52年)度
*モハ80形
:80002・80095・80096・80100・80113 - 80115・80228 - 80230・80237 - 80241・80244・80251・80301・80305・80327・80329・80367・80380([[静岡車両区|静シス]])
:80003・80005・80009・80010・80012 - 80015・80023・80043・80066・80083・80084・80089・80102 - 80108・80110 - 80112・80116・80117(名カキ)
:80004・80016・80022・80026・80030・80032・80034・80048・80069・80071・80092・80204・80205・80211・80333・80334・80381([[下関総合車両所|広セキ]])
:80017 - 80019・80027 - 80029・80035 - 80038・80045・80047・80050・80051・80054・80068・80070・80072・80074 - 80076・80081・80086 - 80088・80098・80099・80101・80236・80252 - 80256([[岡山電車区|岡オカ]])
:80024・80080・80082・80207・80250・80395・80396・80399([[松本車両センター|長モト]])
:80039・80040・80042・80044・80046・80057 - 80060・80063 - 80065・80215・80220・80321・80339・80368・80371([[広島運転所|広ヒロ]])
:
*クハ77形
:77001・77006([[新前橋電車区|高シマ]])
:
*クハ85形
:85005・85007・85019(岡オカ)
:85009・85013・85017(広セキ)
:85018(広ヒロ)
:85100・85101・85300(長モト)
:
*クハ86形
:86001・86006・86016・86022・86024・86027・86043・86044・86060・86064・86100・86101・86323・86341(広セキ)
:86002・86005・86010・86011・86013・86015・86017・86028・86033・86040・86117・86310(広ヒロ)
:86003・86007 - 86009・86014・86018・86025・86029・86030・86034・86036・86050・86051・86053・86055・86057・86059・86062・86118 - 86122・86124・86126・86129・86130・86137(岡オカ)
:86019・86035・86037・86039・86046 - 86048・86052・86056・86058・86066 - 86068・86076・86077・86079・86084・86138(名カキ)
:86082・86102 - 86106・86111・86113・86127・86128・86136(静シス)
:86333・86355(長モト)
:
*サハ85形
:85002・85025・85027・85031(岡オカ)
:85014・85021・85026(広ヒロ)
*サハ87形
:87005・87014・87016・87024・87305(広ヒロ)
:87006・87019・87020・87022・87025・87028・87039・87041・87300・87301・87309・87315・87319 - 87321(名カキ)
:87008(広セキ)
:87012・87021・87029 - 87036・87038・87040・87042・87044 - 87046・87102・87104・87113・87308・87310 - 87314・87318・87322(静シス)
:87026・87326(長モト)
:87119(岡オカ)
:
;1978年(昭和53年)度
*モハ80形
:80006 - 80008・80011・80021・80025・80031・80033・80041・80052・80053・80055・80056・80061・80062・80073・80077・80078・80090・80091・80097・80200 - 80203・80208・80213・80214・80216・80219・80221 - 80223・80318・80319・80324・80335 - 80338・80369・80370・80374・80394・80398(広セキ)
:80020・80049・80079・80085・80093・80094・86209・80210・80212・80218・80247 - 80249・80315・80382・80390・80851・80852(長モト)
:80067(広ヒロ)
:80109・80233 - 80235([[神領車両区|名シン]])
:80245・80246・80344・80347・80351 - 80356・80360 - 80364・80375 - 80378・80385 - 80388・80401 - 80425(岡オカ)
:
*クハ77形
:77000・77002 - 77004(高シマ)
:
*クハ85形
:85008・85015・85016・85022・85023・85035・85106・85111(広セキ)
:85028・85032・85034・85107(名シン)
:85033・85102・85103・85105・85110・85301(長モト)
:
*クハ86形
:86012・86020・86021・86023・86026・86032・86038・86045・86061・86107・86109・86110・86114・86116・86123・86125, 86133・86135・86324 - 86326・86328・86330・86331・86335・86336・86344・86345・86352(広セキ)
:86031・86054・86131・86132・86134・86139 - 86142・86318・86320 - 86322・86350・86351・86356 - 86365・86367 - 86373・86375(岡オカ)
:86041(広ヒロ)
:86070・86073・86343・86349(長モト)
:
*サハ85形
:85001・85004([[長岡車両センター|新ナカ]])
:85101(名シン)
:
*サハ87形
:87002・87007・87009 - 87011(新ナカ)
:87003・87004・87027・87105・87106・87328(長モト)
:87013・87015・87017・87018・87023・87037・87043・87047・87110(広セキ)
:87109・87112・87114 - 87118・87324・87325・87327・87329 - 87331(岡オカ)
:
;1979年(昭和54年)度
*モハ80形
:80224・80227・80242・80801・80802・80805・80810(名シン)
:80306・80328・80346・80348(静シス)
:
*クハ85形
:85303・85304・85307・85308(名シン)
:
*クハ86形
:86065・86071・86078・86312(名シン)
:86108・86112・86115(静シス)
:
*サハ85形
:85102・85103(名シン)
:
*サハ87形
:87001([[豊橋運輸区|静トヨ]])
:
*クモユニ81形
:81001・81002(岡オカ)
:
;1980年(昭和55年)度
*モハ80形
:80206・80225・80226・80231・80232・80243・80400・80800・80803・80804・80806 - 80809・80811 - 80813(名シン)
:
*クハ85形
:85109(静シス)
:85302・85305・85306・85309 - 85311(名シン)
:
*クハ86形
:86063・86069・86072・86074・86075・86080・86303・86316・86327・86337(名シン)
:
;1981年(昭和56年)度
*クモユニ81形
:81003([[松本車両センター|長キマ]])
:
;1982年(昭和57年)度
*モハ80形
:80303・80307・80308・80312・80313・80316・80342・80348・80389・80393(静トヨ)
:
*クハ86形
:86304・86311・86314・86315・86317・86319・86332・86340・86346(静トヨ)
:
;1983年(昭和58年)度
*モハ80形
:80300・80302・80304・80309 - 80311・80314・80325・80326・80340・80341・80343・80345・80349・80350・80365・80373・80379・80384・80391・80392(静トヨ)
:
*クハ85形
:85104・85108(静トヨ)
:
*クハ86形
:86300 - 86302・86305 - 86309・86313・86329・86334・86338・86339・86342・86347・86348・86353・86354・86366(静トヨ)
:
*クモニ83形
:83101 - 83103(静トヨ)
:
;1985年(昭和60年)度
*モハ80形
:80001(広セキ)
== 保存車 ==
[[File:kuha86001.moha80001.jpg|thumb|200px|right|クハ86001・モハ80001<br />交通科学博物館時代<ref group="注釈" name="fukugen">多くの箇所に復元が行われていない状態が残存する。<br>前面窓枠、戸袋窓枠の段差が無い。<br>前照灯の形状が原型と大幅に異なる。<br>更新修繕以前の状態である張り上げ屋根になっておらず雨樋直上から屋根布が張られている。<br>前面裾のタイフォンが未撤去、客室天井の通風器形状が更新修繕以前の物に戻っていない、正面塗り分け線が更新修繕以前とは異なったカーブになっている等。</ref><br />]]
;モハ80001・クハ86001
:2016年4月29日より、[[梅小路蒸気機関車館]]を拡張してオープンした[[京都鉄道博物館]]で保存展示されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mtm.or.jp/kyoto/vehicle/promenade/ |title=プロムナード |work=展示車両紹介 |publisher=京都鉄道博物館 |accessdate=2015-06-07}}</ref>。[[鉄道記念物|準鉄道記念物]]<ref group="注釈">新幹線に至る日本の電車発達史上における価値の重要性を認められ[[1986年]][[10月14日]]に指定。</ref>。
:*代表形式であるモハ80形とクハ86形それぞれトップナンバーの2両は、広島地区での山陽本線・呉線運用を最後に廃車されたが、車両保存に理解のあった当時の関係者の判断で保存先が未決定のまま長期間にわたり放置されたものの[[柳井駅]]構内に保管されていた。なおモハ80001は、[[1985年]]まで車籍が残ったままの留置で本系列としては最後の廃車車両である。
:*1986年から[[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]][[弁天町駅|弁天町]]の[[交通科学博物館]]で2014年4月の閉館まで静態保存されていた。
:*当初は、[[前照灯]]など一部のみ手直ししただけの現役当時に近い状態での保存であり、クハ86001は前面窓がHゴム支持で側面窓枠がアルミサッシのままであったが、後に不徹底な形態ながら、一応の復元作業が行われた<ref group="注釈" name="fukugen"/>。
:本系列の保存車はこの2両が唯一であり、日本全国の鉄道界に湘南形ブームを巻き起こした前面2枚窓のグループは廃車後、1両も保存されることなく全車両が解体処分された。ただし、次項で解説する[[レプリカ]]などが存在する。
=== レプリカ・その他 ===
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=Fujisawa station KIOSK.JPG
| 2=藤沢駅KIOSK
| 3=Jnr 185 OM3-Minakami-20100925.jpg
| 4=185系電車 80系電車湘南色ルック
}}
;[[藤沢駅]][[キヨスク|KIOSK]]
: [[2006年]][[3月17日]]に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)東海道本線東京口から3代目「湘南電車」<!--2代目は「新湘南電車」こと91系(→153系)である-->113系が撤退するのにあわせ同年3月10日に同駅3番線・4番線ホームにクハ86形を模したレプリカが落成した<ref group="注釈">結果的に約1週間だけ113系と80系レプリカの顔合わせが見られた。</ref>。なお、[[鉄道の車両番号|車両番号]]はクハ86023を記載する。
;[[国鉄185系電車|185系電車]][[大宮総合車両センター]]所属OM03編成
: [[2010年]]9月にJR東日本が「草津」運行開始50周年キャンペーンの一環として、本系列を模した塗り分けの湘南色に変更を実施した<ref>[http://railf.jp/news/2010/09/25/151500.html 湘南色となった185系OM03編成が営業運転を開始] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2010年9月25日</ref>。
; 小山病院([http://www.oyama-cl.jp 現在:小山クリニック])
:[[西武池袋線]][[石神井公園駅]]近くにある病院に設置されていた、クハ86形300番台の実物大レプリカ。車両番号は実在車両の隙間を埋める形でクハ86374となっていた。扉や窓枠など部品の一部は実際の製造メーカーに発注して実物を使用。塗装は三鷹電車区(現在:[[三鷹車両センター]])の作業員が担当し、[[1958年]]に完成した。内部は診察室や事務室になっており、地元では「電車の病院」として親しまれた{{refnest|group="注釈"|この病院の当時の[[理事|理事長]]・院長は、かつて国鉄や西武鉄道の嘱託医を務め鉄道ファンとしても著名な人物でもある<ref name="RP560p209">{{Cite journal |和書 | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | author = 小山憲三 | title = 西武鉄道と私 | year = 1992 | month = 5 |volume = No. 560 | issue = 臨時増刊号 <特集>西武鉄道 | pages = pp. 209 |publisher= [[電気車研究会]] |ref= RP560 }}</ref>。また、病院敷地内には同じ湘南タイプの前面を持つ[[西武351系電車]]のカットボディもあったが<ref name="RP560p209"/>、2008年4月に解体された。}}。2009年9月に病院の移転により解体された。
;[[東急東横線]][[祐天寺駅]]そばにある鉄道[[カレー]]店「[http://www.niagara-curry.com/ ナイアガラ]」
:ボックス席の一部に80系300番台の廃車発生品を使用している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|date=2020年8月|section=1}}
* 浅原信彦『<small>ガイドブック</small> 最盛期の国鉄車両2 <small>戦後型旧性能電車</small>』([[ネコ・パブリッシング]] 2005年) ISBN 4777003485
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** 1975年12月号 No.176 こくでん・いろいろ噺
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* [[電気車研究会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』
** 1951年7月号 No.1 特集・湘南電車の生い立ち
** 1965年3月号 No.168 特集・湘南電車15周年記念
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** 2000年2月号 No.681 特集・湘南電車50年、2004年3月号 No.743 特集・80系湘南形電車
* [[鉄道史学会]] 『鉄道史学』第9号(1991年6月)
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* 湯口徹『RM LIBRARY 88 戦後生まれの私鉄機械式気動車(下)』ネコ・パブリッシング、2006年 ISBN 4777051862
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金田一耕助
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金田一 耕助(きんだいち こうすけ)は、横溝正史の推理小説に登場する架空の私立探偵。
江戸川乱歩の明智小五郎、高木彬光の神津恭介と並んで日本三大名探偵と称される。
スズメの巣のようなボサボサの蓬髪をしており、人懐っこい笑顔が特徴。顔立ちは至って平凡、体躯は貧相で、身長は5尺4寸(163.6センチメートルくらい)、体重は14貫(52キログラムくらい)を割るだろうという。自身の体格には劣等感を抱いており、それに関する記述は、『女王蜂』にて風呂場で筋骨隆々とした多門連太郎の裸体を見た時や『扉の影の女』で堂々たる風貌の金門剛に対面したときなど多々見受けられる。なお、小男と書かれることがあるが、当時としては身長は平均並みであり、中背で痩せ型というのが正確なところであり、むしろ平凡さが強調されている。
ほとんどの事件において観た目は35、6歳と記述され、齢五十を超えているはずの『病院坂の首縊りの家』でも見かけはほとんど変わっていない。『本陣殺人事件』など一、二の作を除いてはれっきとした中年男(当時としてはなおのこと)であるが、生活感が薄く書生気質を残している。
頭はフケ症で、服装は皺だらけの絣の単衣の着物と羽織によれよれの袴を合わせ、形の崩れた帽子(お釜帽のイメージが強いが、パナマ帽、中折れ帽などの時もある)を被り、足元は爪が飛び出しかかっている汚れた白足袋に下駄履きが定番で、非常に清潔感が無い服装が特徴。また寒い時期には羽織袴の上から上着(防寒着)に二重回し(とんび。袖なしのインバネスコートのこと。)を着こむ。これらの姿から『蝙蝠と蛞蝓』では「雰囲気がコウモリに似ている」と言われ、『悪魔の寵児』では「壮士芝居の三枚目」と評された。捜査のため洋服で変装することもあったが、「貧弱なサラリーマンにしか見えない」と等々力警部に笑われたり(『支那扇の女』)、「似合わない格好」だと揶揄されたりすることが多く、「これではこの男が洋服を忌避するのもむりはない」(『雌蛭』)などとも描写されている。なお、『蜃気楼島の情熱』では金田一自身が日本での生活における洋服の不合理性を列挙して和服主義の理由としている。
横溝は『本陣殺人事件』で金田一について、「この青年は飄々乎たるその風貌から、アントニー・ギリンガム君に似ていはしまいかと思う」と述べている。明智小五郎のような颯爽とした名探偵のイメージとは一線を画した、先達ではブラウン神父、後年ではコロンボ警部に代表される、外見のさえない名探偵群の一人である。このような金田一のさえない恰好は、初対面の相手には年齢問わず、ほぼ例外なく侮られる傾向にある。反面、非常に母性本能を刺激するもののようで、女性からの受けはとても良い。
事件のため遠出する際にはボストンバッグやかばんを提げて赴く(なお、石坂浩二の主演映画作品からトランクのイメージが強いが、これは映画オリジナルである)。復員直後の『百日紅の下にて』では雑嚢を持っており、金田一のデビュー作『本陣殺人事件』や『黒猫亭事件』などの初期の作品と、最後の事件となった『病院坂の首縊りの家』では籐や桜のステッキを持っている。
探偵としての小道具として、虫眼鏡のほか、折りたたみナイフ(または小型の十徳ナイフ)、薄い手袋、小型で強力な懐中電灯などを常備している。犯人との対峙の際に、用心のため防弾チョッキを着込むこともあった(『病院坂の首縊りの家』など)。
事件の本質に迫ったときや意外な事実を知ったときなど、興奮するとスズメの巣のようなモジャモジャ頭を毛が抜けるほどにバリバリと掻きまわし、言葉が吃りはじめる。この頭を掻きむしる際にフケがとび、周囲のものをしばしば当惑させる。横溝は「もじゃもじゃの頭をひっかきまわすのは、私自身の癖を誇張したのである」と語っている。また、何か重大な発見をした場合、口笛を吹くように口をすぼめたり、実際に口笛を吹くクセももつ。
いつもは眠そうなショボショボとした目つきをしているが、事件の渦中にあって自身が強く興味を持ったことに対しては真剣な目つきに変わる。金田一には人を和ませる天性の雰囲気と話術があり、警察がどんなに骨を折っても聞き出せない情報も、金田一にかかるとたやすく引き出されてしまう。
普段の発言は控えめでのらりくらりとしている。概ね犯人や登場人物の行動がそこに至るまでの苦悩を思い、憐憫の情を示すような口ぶりや悩ましげな顔をし、激しく貧乏ゆすりをしたり、ハンケチを揉みくちゃにしたりする。犯人の動機や関係者の行動が著しく非社会的・非人道的で、狡猾かつ独善的な場合には、強く厳しい発言・批判を浴びせる。犯人を取り逃がしたときなどは地団太を踏むなど、激しい姿を見せることもあった。若い世代に対しては歳相応に分別のある話し方をすることが多い。
事件が解決すると、強い興味を引く目的がなくなり、また事件関係者たちのその後の運命を想って落ち込み、強い孤独感(一種のメランコリー)に襲われるため(『扉の影の女』など)、ふらりと旅に出てしまうことが多く、等々力警部らは早く金田一を立ち直らせようとわざわざ事件を押しつけることもあった(『悪魔の百唇譜』など)。
捜査の方法は、事件に絡む人脈・人間像の丹念な検証が主である。アメリカから帰国して久保銀造の援助で探偵事務所を開設したあと、某重大事件を解決した殊勲者として紹介した新聞記事には「足跡の捜索や、指紋の検出は、警察の方にやって貰います。自分はそれから得た結果を、論理的に分類総合していって、最後に推断を下すのです。これが私の探偵方法であります。」という発言が掲載されていた(『本陣殺人事件』)。
そのため、最後の瞬間まで捜査関係者に手の内を明かさないことから、さらなる犠牲者を生むことも多く、またあえて犯人に自決を促したり見逃したりするケースもあり、「事件は解決できるがホシは逃がしてしまう」ということもしばしばある。等々力警部はこれを「金田一耕助流のヒューマニズム」と述べている(『悪魔の降誕祭』)。また、金田一は警察には協力するが、情状によっては必ずしも真犯人を警察に引き渡すことを目的としていない。これは、金田一にとってあくまでも事件の真相を知ることに最大の意味があるからである。また世間的に真相が知られなくとも、真犯人が死ねば「報いは受けた」と考えている(『女王蜂』『首』など)。その一方で、逆に自決を思いとどまらせることもあった(『黒蘭姫』『迷路荘の惨劇』など)。
探偵活動の基礎技術をどこまで身につけているかについては不明確な部分もある。たとえば、『三つ首塔』『病院坂の首縊りの家』などでは自ら指紋照合を行っているが、『犬神家の一族』『不死蝶』などでは指紋照合を専門家に委ねている。途中で習得した可能性も考えられるが、明確な描写は無い。
いつもは着物に袴の金田一も、「ギャバのズボンに濃い紺地の開襟シャツといういでたち」(『支那扇の女』)、「鼠色のズボンに派手なチェックのアロハ、ベレー型のハンチング帽にべっ甲縁の眼鏡」(『雌蛭』)など、洋服を着ることがあり、これがそのまま変装になっている。また探偵小説の主人公らしく、犯人あぶり出しのために別人に変装することもあった。特に着物に袴のまま大道易者に化けていたときには、「けっこう当たる」と評判をとっている(『暗闇の中の猫』『黄金の指紋』)。
「運動音痴」と謙遜することもある金田一だが(『仮面舞踏会』など)、背後からの敵襲にすばやく反応する勘を持ち、投石をかわして危うく命拾いしたことなどもあった(『女王蜂』『悪魔の寵児』など)。その一方で、犯人が潜んでいる土蔵の扉を開いたとたんに正面からピストルで撃たれ、刑事に突き飛ばしてもらえなかったら頭を貫かれて即死していたに違いないということもあった(『黒猫亭事件』)。
少年向けジュブナイル版での金田一はさらに活動的で、捜査のために浮浪者などに変装したり、走行するトラックの裏に取りついて敵地潜入を行ったり、袋詰めにされ海中に投棄された際には、ナイフで袋を破り脱出するなど、高い運動能力を見せている(『黄金の指紋』)。
1946年(昭和21年)に復員して『百日紅の下にて』『獄門島』『車井戸はなぜ軋る』などの事件を解決後、京橋裏(銀座裏)の焼け跡に残った「三角ビル」という三角形の怪しげなビルの最上階に、探偵事務所兼住居を持っていた(『黒蘭姫』)が、3か月ばかりで閉めてしまう(『女怪』)。ただし、1948年(昭和23年)には三角ビルの事務所を使用していた時期があり、『死仮面』の関係者が来訪している。
三角ビルからの1回目の引き払いの後、中学の同級生で建設会社社長の風間俊六が愛人(作中では「2号さんだか3号さんだかわからないが」(作品によっては4号ないし5号まで進む)と記述される)の節子に女将をさせている大森の山の手にある割烹旅館「松月(しょうげつ)」の、四畳半の離れに居候して、ここを事務所兼自宅にしている。生活力は薄く、煙草銭にも欠く有様で、よくこの「松月」の女将から小遣いをもらっている(『悪魔が来りて笛を吹く』第2章、『病院坂の首縊りの家』第1部第5編など)。「松月」での寄食は1956年(昭和31年)ごろまで続けている。
『毒の矢』『黒い翼』などの事件に関わったことをきっかけに世田谷区緑が丘の「緑ヶ丘荘」の2階フラット(3号室)に転居し(改稿前の『悪魔の降誕祭』など)、ここが定住の場所となった(引越しの時期を1957年(昭和32年)とする説が有力で、#経歴ではこの説を採用)。ここの内部構造については細かいところで何度か描写はあるが、全体の構造については『迷宮の扉』で「ドアを入ると小玄関になっており、玄関のおくに応接間兼書斎がある」といった説明があり、書斎側がアパートそのものの庭に面しているらしい。緑ヶ丘荘は後に改築して「緑ヶ丘マンション」となるが、改築を担当した風間建設の社長・風間俊六から二階正面のフラットを無償で贈られている(『病院坂の首縊りの家』)。
仕事の成功報酬はほとんどの場合、満足に得られていない(『トランプ台上の首』『扉の影の女』など)。金田一は興味を持てない事件には、いくら多額の報酬を提示されても見向きもしないが、反面興味をそそられた事件は報酬も構わず、手弁当でこれに没頭してしまう(『女怪』など)。それでも蓄財はしていたようで、『病院坂の首縊りの家』の事件解決後、近しい人たちに莫大な金額を寄贈している。
趣味は映画や絵画鑑賞(『仮面舞踏会』など)で、義理半分だが絵を購入することもあった(『悪魔の百唇譜』など)。『女怪』では知り合いの画家の個展を口実に作者を銀座へ連れ出しており、『夜の黒豹』では事件関係者である洋画家2名(うち1名は故人)の作風を事件以前からよく知っていた。映画女優に関しては、学生時代に紅葉照子のファンであったほか(『霧の山荘』)、鳳千代子の熱心なファンで出演作は金田一が応召した後に封切られた映画まですべて観ているほどである(『仮面舞踏会』)。学生時代には歌舞伎役者・佐野川鶴之助と誼を通じ彼の後援会「丹頂会」にも加入していた。鶴之助との交流が途絶えた後も「ひととおりは見なきゃ気がすまない」ほどの歌舞伎ファンで(『幽霊座』)、気分が高揚したときには歌舞伎のせりふを口ずさむこともある(『女怪』『傘の中の女』)。スポーツの方は苦手で、『仮面舞踏会』ではゴルフに誘われた際に「運動音痴、すなわちウンチ」と発言している。ただし、ボートを漕ぐことと、東北出身であることからスキーは得意(『犬神家の一族』)。
ヘビースモーカーで、いつも灰皿が吸殻の山になっている。銘柄は「ピース」と「ホープ」を愛煙する。また、戦前は「チェリー(CHERRY)」を愛煙していた(『本陣殺人事件』)。
20歳ごろのアメリカ滞在時に、ふとした好奇心から麻薬に手を出して深みにはまり、厄介者扱いされていたことがある。久保銀造の意見を容れてこの悪習は断ったが、この際「麻薬も結局大したことはありませんからな」とうそぶいている(『本陣殺人事件』)。この麻薬中毒者という設定は、横溝がシャーロック・ホームズに倣ったもの。同じく金田一が若いころにアメリカを放浪しているのは、谷譲次の『めりけんじゃっぷ』物に倣ったもの。
酒はあまりすすんでは飲まないが、下戸ではない。磯川警部と食事をしながらビール瓶を2、3本空けたり(『湖泥』『悪魔の手毬唄』)、大きな徳利を数本空けたりする。事件解決後、気の抜けたビールを「このほうが刺激が少ないから」とちびりちびり呷りながら事件説明を行ったり(『黒猫亭事件』)、事件解決後に犯罪者たちのあくどさを垣間見て悄然となり、酔って気分を紛らわすため自宅で一人ウィスキーを呷ったりすることもあった。また、いきつけのクラブにクラブ「スリーX」(『白と黒』)と「クラブK・K・K」があり(『病院坂の首縊りの家』など)、前者は等々力警部とよく行くクラブ、後者は風間俊六の愛人が経営しているクラブである。後者の「クラブK・K・K」を訪れる目的は、クラブの用心棒であり金田一の手駒である多門修に偵察を依頼したり、情報を収集したりするのがほとんどのようである。
食事は、特に「松月」から「緑ヶ丘荘」へ移って以降は、一人暮らしから簡便に済ますことが多い。朝食はトースト・ゆで卵(しばしば茹で過ぎる)・牛乳が中心で、他にもサラダや果物、アスパラガスの缶詰などを付け合わせることもあるが貧相なもので、朝の身支度と同時進行で数分で片づけてしまう(『悪魔の百唇譜』『支那扇の女』『壺中美人』『扉の影の女』『スペードの女王』など)。横溝は「これが流儀」と述べている。昼・夕食は銀座の行きつけの料理屋で済ますことが多く、和食や中華料理を好んで食べている。少食で、「蕎麦一杯で満足」ということもあったが(『扉の影の女』など)、考え事があると酒と併せ大食することもあった。概ね、食事シーンは大食漢の等々力警部や磯川警部と対照的に描かれる。
年に1度、久保銀造が経営する岡山県の果樹園に静養に訪れている(『蜃気楼島の情熱』)。これ以外にも岡山県に静養に行くことが多く、磯川警部と一緒に湯治場に宿泊したり(『人面瘡』『鴉』『首』)、磯川警部が紹介する湯治場に1人で宿泊したりしている(『悪魔の手毬唄』)。
長野県に静養に行くことも多い(『廃園の鬼』『霧の山荘』など)。1人でホテルに宿泊することが多いが、『仮面舞踏会』のときには郷土の先輩の弁護士・南条誠一郎の別荘のバンガローをいつでも自由に使ってよいことになっており、そこに宿泊していた。滞在中に等々力警部が休暇を取って合流してくることもある(『霧の山荘』『仮面舞踏会』)。
そのほか、『女怪』では「先生」と一緒に伊豆の湯治場に静養に行っている。東京近郊の鏡ガ浦海岸(『傘の中の女』、『鏡が浦の殺人』)、H海岸(『赤の中の女』)、白浜海岸(『猟奇の始末書』)など海水浴場に静養に行くこともある。
両親とは探偵稼業を始める前に死別しているらしいことが、『仮面舞踏会』中の金田一の台詞から窺える。生涯独身であったとされ、『犬神家の一族』で野々宮珠世の美しさに目を引かれる場面では「およそ女色に心を動かしたことのない金田一耕助」とも表現されている。しかし、決して朴念仁というわけではなく、『獄門島』の鬼頭早苗と『女怪』の持田虹子に対して想いを寄せているが、いずれも実ることはなかった。
『夜歩く』のお静や『仮面城』の戦災孤児・三太など、関係者を事件解決後に引き受けあるいは引き取っている場合があるが、その後どうなったかが描写されることはなく、「家族」と呼べる存在になったかどうかは明確でない。
久保銀造、同窓の友人・風間俊六、神門貫太郎という3人のパトロンがおり、彼らの援助に支えられている。風間俊六の愛人である「松月」の女将・おせつは、年下ながら姉のように金田一の世話を焼いてくれている。また、後半居を構えた緑ヶ丘荘の管理人である山崎夫婦も、しばしば金欠になる金田一のために便宜を図っている(『扉の影の女』)。
警察から高い信頼を受けており、ことに「警視庁の古狸」と異名をとる等々力警部は公私共に付き合いのある大親友である。同じく「岡山県警の古狸」と異名をとる磯川警部とも、事件があれば助力を受け合う旧知の仲である。ほか、等々力警部の部下である新井刑事や、アパートの所轄・緑ヶ丘署の島田警部補、筆者の住居の所轄・成城署の山川警部補なども金田一の手腕に一目置いており、複数の作品にたびたび登場している。
元・愚連隊上がりの多門修という冒険好きの若者を冤罪から救ったことがあり(『支那扇の女』など)、この多門は金田一を慕って、たびたび捜査の助手を務めている(『雌蛭』には多門六平太という多門修とほぼ同じ経歴の人物が登場しており、同一人物と思われる)。同郷の後輩で「新日報社」社会部の宇津木慎介記者(『女王蜂』)や「毎朝新聞」文化部の宇津木慎策記者(『白と黒』『夜の黒豹』など)は、金田一が必要とする調査を請け負う見返りに特ダネにつながる情報を金田一から提供されるという協力関係にある。
作者自身をモデルとする作中人物(「Y先生」などと呼ばれている)とは「耕ちゃん」「先生」と呼び合う仲である。Y先生によると、「私はかれよりさきに生まれているので、そういう意味でかれは私を先生と呼ぶのであって、微塵も私を尊敬していない」のだそうである。またY先生は金田一を「いらまかし男」と呼んでいて、来ると必ず何かしらの不安の影を落としていくので、「私はこの男が大嫌いなのだ」と語っている。
金田一耕助の関わった事件を記録、小説化しているのは、横溝正史自身をモデルとした「Y先生」「S・Y」「成城の先生」などと呼ばれる探偵小説家である。作中にこの作家の実名は一度も登場していない。
記録に至る経緯については、第1作の『本陣殺人事件』では、事件の話を聞いて作者が情報を集めて作品化したことが述べられている。『黒猫亭事件』では、その連載を読んだ金田一が作者の元を訪れて小説化を認めるくだりがあり(黒猫亭事件#作者と金田一耕助を参照)、第2作『獄門島』以降は金田一が作者に話すか資料提供したことで作品化されたものとされている。Y自身も作品中にしばしば登場し、事件現場に絡むことすらあった(『女怪』『病院坂の首縊りの家』『白と黒』など)。
また金田一耕助は事件の渦中にいた人物に事件の小説化を勧めることがある。『八つ墓村』は金田一の勧めで記録を書き始めたという形式であり、『三つ首塔』『夜歩く』では未完の記録を完成させるよう金田一が促している。一方、『七つの仮面』は金田一に真相を看破された作中人物が自殺する前に残した手記という体裁になっており、『車井戸はなぜ軋る』は主要部分が作中人物から別の作中人物への手紙で構成され、その手紙の宛先人物が金田一に真相を看破されたことを知って、自殺する前に追記を添えて金田一に送付したことになっている。他に『蝙蝠と蛞蝓』『殺人鬼』などが作中人物の一人称で語られている。
作者・横溝正史のエッセイ『金田一耕助誕生記』によれば、金田一耕助はA・A・ミルンの探偵小説『赤い館の秘密』に登場する素人探偵アントニー・ギリンガムの日本人化である。これは金田一初登場作品『本陣殺人事件』でも説明されている。
金田一の風体は、劇作家の菊田一夫がモデル。『金田一耕助の帰還』でも「一見小柄で貧相だが、うちに大いなる才能を秘めた人物」としてモデルにした旨が記されている。これは、横溝がラジオからの菊田のファンであったためである。横溝は一度だけ若き日の菊田に会っていたが、この時、菊田は洋服姿で、頭ももじゃもじゃではなかった。ちょうどその頃、新聞で小島政二郎が『花咲く樹』を連載しており、岩田専太郎の挿絵によるレビュー劇場の座付き作家の姿が「着物に袴」で描かれており、横溝はこのイラストが菊田のイメージとダブっていったと述べている。また、『本陣殺人事件』を連載することになった『宝石』誌の創刊者にして編集長の作家・城昌幸が和服の着流しに角帯姿であったため、彼をからかうつもりで、貧相な名探偵を和服姿にした。それだけでは探偵になりにくいため、横溝自身が博文館の編集者時代に和服に袴だった経験を踏まえて、袴をはかせることにした。こうして、菊田一夫・城昌幸・作者自身のイメージの複合体として、金田一耕助の姿が出来あがった。作者の回想によれば、三者の中で、最も飄々としていたのが城昌幸であったということである。
江戸川乱歩の創出した探偵・明智小五郎も初期は髪がボサボサで飄々とした風体であったのだが、段々とダンディに変貌していったため「明智が変わってしまったから金田一をやる気になった」との作者の弁がある。また、金田一がもじゃもじゃ頭を掻き回すのは横溝自身の癖を誇張したものだが、菊田一夫も頭髪を引っ掻き回す癖があったという。横溝は「これは偶然の一致だろう」と述べている。
名前も当初は菊田にちなんで「菊田一○○」と付けようとしていたという。だがこれは菊田に失礼であろうし、いくらなんでも実在すまいということで取り止めた。そこで横溝は、疎開前に住んでいた東京・吉祥寺で隣組にいた、言語学者の金田一京助の弟・金田一安三(やすぞう)の表札を見たことから、前述の“菊田一”に近い苗字である“金田一”を取り、名前は“京助”を捩って“耕助”と付けた。ところが、横溝は無断借用した形の金田一耕助という名称についても、「紛らわしい名前を使って金田一京助先生がご迷惑しているのではないか」と心苦しい思いをしていた。また、金田一京助とは野村胡堂の通夜で同席したものの謝りそこねたうえ、1971年に京助が死去したため、横溝にとって二重のシコリとなっていたという。その後、人づてに京助の子・金田一春彦から「金田一耕助さんのおかげで世間の皆さんからキンダイチと正確に発音してもらえるようになった、難しい苗字なのでいろいろ読み違えられて困っていた、こちらこそ感謝していると伝えて欲しい」との言葉を貰い、「ほっと安堵の胸をなでおろした」と述懐している。
金田一耕助最後の事件となる『病院坂の首縊りの家』には、60歳になる金田一が登場するが、老人と言ってもいい年齢にもかかわらず、30代のように若々しく、白髪もないと描写されている。その風貌に関して、横溝は、三年前に会った城昌幸の印象をそのまま借用に及んだというが、唯一、違っていたのは、当時、城は見事な白髪であったということである。
横溝作品では年月日を計算する際、年齢以外でも「数え」を使うケースが混在する。本項では原則「ある時点からこれこれだけ前・後」だけしか年代同定できない場合は満で計算しているが、前述の理由で「何年前・後」という記述は1年ずれている可能性があるため、注意が必要である。
1913年(大正2年) 数え1歳
1931年(昭和6年) 数え19歳
1932年(昭和7年)以後3年間 数え20 - 23歳
1935年(昭和10年) 数え23歳
1936年(昭和11年) 数え24歳
1937年(昭和12年) 数え25歳
1940年(昭和15年) 数え28歳
1942年(昭和17年) 数え30歳
1943年(昭和18年) 数え31歳
1945年(昭和20年) 数え33歳
1946年(昭和21年) 数え34歳
1947年(昭和22年) 数え35歳
1948年(昭和23年) 数え36歳
1949年(昭和24年) 数え37歳
1950年(昭和25年) 数え38歳
1951年(昭和26年) 数え39歳
1952年(昭和27年) 数え40歳
1953年(昭和28年) 数え41歳
1954年(昭和29年) 数え42歳
1955年(昭和30年) 数え43歳
1956年(昭和31年) 数え44歳
1957年(昭和32年) 数え45歳
1958年(昭和33年) 数え46歳
1959年(昭和34年) 数え47歳
1960年(昭和35年) 数え48歳
1961年(昭和36年) 数え49歳
1967年(昭和42年) 数え55歳
1973年(昭和48年) 数え61歳
1975年(昭和50年) 数え63歳
1971年から1984年にかけて角川文庫は横溝正史作品の網羅を目標とする刊行を行っており、このとき収録された金田一耕助登場作品はジュヴナイル作品を除いて77作であった。以下に「長編」「短編」として列挙したのはこの77作である。金田一が登場しない原型作品については、年代や状況の設定およびストーリー展開を大きく変えていないもののみ記載している。なお、「長編」と「短編」の区分は論者によって差異がある。たとえば『死仮面』は長編に含めない場合があり、『毒の矢』『悪魔の降誕祭』は長編に含める場合がある。
また、以下の作品は初出時には由利麟太郎や三津木俊助が登場する作品であったものを、「少年少女名探偵金田一耕助シリーズ」(朝日ソノラマ、全10巻)へ収録する際に山村正夫が金田一ものに改稿し、これがソノラマ文庫および角川文庫にも引き継がれた。
角川文庫に収録された金田一耕助が登場するジュヴナイル作品は、山村による改稿も含めて8作であった。その後、『黄金の花びら』が発見されて出版芸術社の『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録され、併せて9作とされている。
なお、以下の作品に金田一耕助は登場しないが、耕助が登場する『大迷宮』や『黄金の指紋』と明確に話がつながっており、悪役たちが続投しているほか、耕助自身が『怪獣男爵』で起きたことの説明をしている場面がある。
1979年(昭和54年)6月30日の『朝日新聞』夕刊に掲載されたエッセイ「金田一耕助との対話」において、今後の予定として以下の2つの“金田一耕助功名談”が挙げられていたが、横溝の死去により執筆されなかった。
1984年までに角川文庫に収録された77作は42編に収録されているが、その多くは1990年代ごろに電子書籍でしか出版されなくなった。すなわち、42編のうちの21編に、新たに編集した『人面瘡』ISBN 978-4-04-130497-6 を加えた22編を「金田一耕助ファイル」と銘打ったものが紙媒体での出版が継続され、これには35作が含まれていた。なお、「金田一耕助ファイル」としての通し番号は、上下分冊になっている『悪霊島』『病院坂の首縊りの家』を上下で同一番号としているため20までである。「金田一耕助ファイル」設定以降にも1990年代の間に既存42編のうち他の6編が紙媒体で出版された形跡があるが、再度品切れ状態になったものが多い。2000 - 2010年代にも、別の既存版を改版して再刊行している。
その後、「金田一耕助ファイル」などで多くが削除された巻末解説と1980年前後の版に描かれて人気が高かった杉本一文の絵を伴った改版再刊行が進んでいる。まず2019年に『不死蝶』が改版再刊行された。さらに、2021年に「没後40年記念」と銘打って『夜の黒豹』をはじめとする計5冊、2022年には「生誕120年記念」と銘打ち『支那扇の女』をはじめとして、月に1 - 2冊のペースで行われている。
金田一耕助登場作品は春陽文庫にも多く収録されている。特に「金田一耕助ファイル」に含まれない作品については、42作のうち38作を収録している。代表的な長編の収録はわずかであるが、中短編は網羅に近い状況になっている。
なお、1954年 - 1956年および1975年の『金田一耕助探偵小説選』(東京文芸社)や1958年 - 1961年の『金田一耕助推理全集』(東京文芸社)も金田一耕助登場作品を網羅しようとしたと考えられる。しかし、刊行以後の作品はもちろん、刊行以前でも比較的新しい作品、初出媒体が金田一耕助登場作品として例外的な作品(『死仮面』『迷路の花嫁』『白と黒』など)、非金田一ものを改稿した作品の一部などが収録されておらず、77作を網羅しているのは角川文庫のみである。
2023年現在ジュヴナイルと怪獣男爵を含めた金田一耕助シリーズの全編は、角川文庫から展開されている「金田一耕助ファイル」22冊と同文庫からAmazonで展開されている金田一耕助シリーズ28冊(内3冊はエッセイ(21,26)と重複(28))および『金田一耕助の冒険』(旧文庫版1と2の内容を含む)、『怪獣男爵』、柏書房の横溝正史少年小説コレクション2(「黄金の花びら」(唯一電子版が存在しない))の50冊を以って全て入手することが可能となっている。
角川文庫収録の77作には改稿長編化された元の短編が含まれておらず、その収録を目的として刊行されたのが『金田一耕助の帰還』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-117-1、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73262-2)および『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-118-8、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73276-9)である。ただし、中絶作品や金田一耕助が登場しない原型作品、『不死蝶』『火の十字架』の原型作品、『迷路荘の怪人』を最終的に『迷路荘の惨劇』とする前の中間段階の作品は収録されていない。
横溝正史は過去に発表した作品を改稿して新たな作品とすることが多くあった。金田一耕助登場作品の改稿長編化については上記の通りであるが、金田一耕助が登場しない作品を改稿したものも多い。ただし、状況設定やストーリー展開などをほぼそのまま踏襲したものから、トリックなどの重要な要素を踏襲するだけでストーリー展開は新たに作り直したものまで、原型作品からの踏襲の程度が様々であるため、どこまでを改稿と考えるか確定し難く、全てを漏れなく列挙することは困難である。なお、下記リストに挙げた収録書籍や改稿後作品の収録書籍には、改稿の経緯などが巻末で解説されているものが多い。
ほかに、文庫化に際して由利麟太郎や三津木俊助を金田一耕助に書き替えたジュヴナイル作品がある。また、映像化作品で原作に登場しない金田一耕助を登場させた事例(古谷一行主演および小野寺昭主演のテレビドラマ)がある。
本の雑誌編集部編『活字探偵団』(角川文庫)によれば、金田一耕助は事件に乗り出してから次の犠牲者が出るのを防ぐ「防御率」の一番低い探偵ということになっている。ただし、ここでの「防御率」の定義は、野球やクリケットなどでの防御率 (Earned Run Average) あるいはサッカーやホッケーなどでの防御率 (Goals Against Average) と同様に「防御率の数値が小さいほど良い=防御できている」というものであるため、「高低」に関する表現が混乱することがあるので注意が必要である。『活字探偵団』では「防御率の数値が大きい」すなわち「防御率が悪い」ことを「防御率が低い」と表現しているが、一般には単純に「数値が小さい」ことを「低い」と表現する場合もあるため、混乱の元になる。
『活字探偵団』での「防御率」の算出方法は、「主要10作品を選定し、探偵が事件に関与してから、解決するまでに起きた殺人件数を作品で割る」というものである。金田一の場合、『八つ墓村』『三つ首塔』『悪魔が来りて笛を吹く』などの大量殺人が含まれているために、防御率が悪くなっている。対象を全77作品で算出した結果は1.5であり、一概に防御率が悪いとは言えない。
また、上述したように「最後まで手の内を見せない」のが金田一の探偵方法であることや、トリックなどの解明後に犯人の自殺を誘導したり見逃したりするケースがあることも、金田一の防御率を悪くしている。
映画『金田一耕助の冒険』には、「もうあと4、5人は死にそう」「どこまで殺人が行われるか見守りたい」など、防御率の悪さに対する一つの解答とも皮肉とも取れるセリフがある。
金田一耕助は何度も映画やテレビドラマの題材として使用され、以下に示すように幅広く多数の俳優が演じている。
初めて金田一を演じた片岡千恵蔵は「片岡千恵蔵の金田一耕助シリーズ」で説明されている事情により原作とは全く異なるスーツ姿で、1950年代の間はこのイメージが他の俳優にも引き継がれ、1961年の高倉健も軽装ではあるが洋装であった。その後、1975年まで14年間映画化が無かった(テレビドラマも1962年から1969年まで7年間無かった)ことにより片岡千恵蔵の扮装を意識しない演出が容易となり、1976年に石坂浩二が初めて原作に忠実な和装スタイルで金田一を演じることになった。
和装スタイルの金田一は1977年からのテレビドラマにおける古谷一行にも引き継がれ、以後おおむね定着している。ただし、マント(原作では二重回し)の着用やトランクを持ち歩くことなど、原作と異なる石坂浩二の扮装が以後に引き継がれていることが多い部分もある。
横溝の小説を原作とし、金田一耕助を主人公とする映画を初めとしたメディア作品には、金田一を助ける女性助手が登場するものがある。これは原作にはないオリジナルなものである。以下にこれを演じた女優を挙げる。
金田一の登場する原作の漫画化は、少年誌から始まった。
横溝正史ブームの中、少女誌でも原作の漫画化が行われた。
平成になって、女性作家による漫画化が相次いで行われている。たまいまきこの『女王蜂』『悪霊島』、JETの『本陣殺人事件』『犬神家の一族』『八つ墓村』『獄門島』『悪霊島』『悪魔の手毬唄』『悪魔が来りて笛を吹く』『悪魔の寵児』『睡れる花嫁』(いずれもあすかコミックス刊)などが刊行されている。
秋田書店『サスペリアミステリー』誌が、2002年の創刊より2006年頃まで、毎月のように横溝作品を漫画化していた。この中では長尾文子による漫画化作品がもっとも作品数が多い(『睡れる花嫁』『迷路荘の怪人(『迷路荘の惨劇』原形作品)』『不死蝶』『犬神家の一族』『本陣殺人事件』『獄門島』『悪魔の手毬唄』『八つ墓村』『鴉』)。
『サスペリアミステリー』では、ほかにも秋乃茉莉、池田恵、児嶋都、高橋葉介、永久保貴一などが金田一作品を漫画化している。
ほかに金田一作品を漫画化した漫画家として、いけうち誠一、岩川ひろみ、小山田いく、掛布しげを、直野祥子、前田俊夫などがいる。
多くの作家がパスティーシュの手法を用いて金田一耕助を登場させている。
また、昭和50年代の横溝ブームを引き起こした角川書店より、贋作集が2冊刊行されている。
他に、横溝作品の「本歌取り」とされる作品がある。
1990年代以降、漫画作品には「金田一耕助の子孫」の活躍を謳った作品が発表されている。
舞台作品には、金田一耕助を連想させる老人が登場する作品がある。
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"text": "金田一 耕助(きんだいち こうすけ)は、横溝正史の推理小説に登場する架空の私立探偵。",
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"text": "江戸川乱歩の明智小五郎、高木彬光の神津恭介と並んで日本三大名探偵と称される。",
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"text": "スズメの巣のようなボサボサの蓬髪をしており、人懐っこい笑顔が特徴。顔立ちは至って平凡、体躯は貧相で、身長は5尺4寸(163.6センチメートルくらい)、体重は14貫(52キログラムくらい)を割るだろうという。自身の体格には劣等感を抱いており、それに関する記述は、『女王蜂』にて風呂場で筋骨隆々とした多門連太郎の裸体を見た時や『扉の影の女』で堂々たる風貌の金門剛に対面したときなど多々見受けられる。なお、小男と書かれることがあるが、当時としては身長は平均並みであり、中背で痩せ型というのが正確なところであり、むしろ平凡さが強調されている。",
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"text": "ほとんどの事件において観た目は35、6歳と記述され、齢五十を超えているはずの『病院坂の首縊りの家』でも見かけはほとんど変わっていない。『本陣殺人事件』など一、二の作を除いてはれっきとした中年男(当時としてはなおのこと)であるが、生活感が薄く書生気質を残している。",
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"text": "頭はフケ症で、服装は皺だらけの絣の単衣の着物と羽織によれよれの袴を合わせ、形の崩れた帽子(お釜帽のイメージが強いが、パナマ帽、中折れ帽などの時もある)を被り、足元は爪が飛び出しかかっている汚れた白足袋に下駄履きが定番で、非常に清潔感が無い服装が特徴。また寒い時期には羽織袴の上から上着(防寒着)に二重回し(とんび。袖なしのインバネスコートのこと。)を着こむ。これらの姿から『蝙蝠と蛞蝓』では「雰囲気がコウモリに似ている」と言われ、『悪魔の寵児』では「壮士芝居の三枚目」と評された。捜査のため洋服で変装することもあったが、「貧弱なサラリーマンにしか見えない」と等々力警部に笑われたり(『支那扇の女』)、「似合わない格好」だと揶揄されたりすることが多く、「これではこの男が洋服を忌避するのもむりはない」(『雌蛭』)などとも描写されている。なお、『蜃気楼島の情熱』では金田一自身が日本での生活における洋服の不合理性を列挙して和服主義の理由としている。",
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"text": "横溝は『本陣殺人事件』で金田一について、「この青年は飄々乎たるその風貌から、アントニー・ギリンガム君に似ていはしまいかと思う」と述べている。明智小五郎のような颯爽とした名探偵のイメージとは一線を画した、先達ではブラウン神父、後年ではコロンボ警部に代表される、外見のさえない名探偵群の一人である。このような金田一のさえない恰好は、初対面の相手には年齢問わず、ほぼ例外なく侮られる傾向にある。反面、非常に母性本能を刺激するもののようで、女性からの受けはとても良い。",
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"text": "事件のため遠出する際にはボストンバッグやかばんを提げて赴く(なお、石坂浩二の主演映画作品からトランクのイメージが強いが、これは映画オリジナルである)。復員直後の『百日紅の下にて』では雑嚢を持っており、金田一のデビュー作『本陣殺人事件』や『黒猫亭事件』などの初期の作品と、最後の事件となった『病院坂の首縊りの家』では籐や桜のステッキを持っている。",
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"text": "探偵としての小道具として、虫眼鏡のほか、折りたたみナイフ(または小型の十徳ナイフ)、薄い手袋、小型で強力な懐中電灯などを常備している。犯人との対峙の際に、用心のため防弾チョッキを着込むこともあった(『病院坂の首縊りの家』など)。",
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"text": "事件の本質に迫ったときや意外な事実を知ったときなど、興奮するとスズメの巣のようなモジャモジャ頭を毛が抜けるほどにバリバリと掻きまわし、言葉が吃りはじめる。この頭を掻きむしる際にフケがとび、周囲のものをしばしば当惑させる。横溝は「もじゃもじゃの頭をひっかきまわすのは、私自身の癖を誇張したのである」と語っている。また、何か重大な発見をした場合、口笛を吹くように口をすぼめたり、実際に口笛を吹くクセももつ。",
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"text": "いつもは眠そうなショボショボとした目つきをしているが、事件の渦中にあって自身が強く興味を持ったことに対しては真剣な目つきに変わる。金田一には人を和ませる天性の雰囲気と話術があり、警察がどんなに骨を折っても聞き出せない情報も、金田一にかかるとたやすく引き出されてしまう。",
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"text": "普段の発言は控えめでのらりくらりとしている。概ね犯人や登場人物の行動がそこに至るまでの苦悩を思い、憐憫の情を示すような口ぶりや悩ましげな顔をし、激しく貧乏ゆすりをしたり、ハンケチを揉みくちゃにしたりする。犯人の動機や関係者の行動が著しく非社会的・非人道的で、狡猾かつ独善的な場合には、強く厳しい発言・批判を浴びせる。犯人を取り逃がしたときなどは地団太を踏むなど、激しい姿を見せることもあった。若い世代に対しては歳相応に分別のある話し方をすることが多い。",
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"text": "事件が解決すると、強い興味を引く目的がなくなり、また事件関係者たちのその後の運命を想って落ち込み、強い孤独感(一種のメランコリー)に襲われるため(『扉の影の女』など)、ふらりと旅に出てしまうことが多く、等々力警部らは早く金田一を立ち直らせようとわざわざ事件を押しつけることもあった(『悪魔の百唇譜』など)。",
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"text": "捜査の方法は、事件に絡む人脈・人間像の丹念な検証が主である。アメリカから帰国して久保銀造の援助で探偵事務所を開設したあと、某重大事件を解決した殊勲者として紹介した新聞記事には「足跡の捜索や、指紋の検出は、警察の方にやって貰います。自分はそれから得た結果を、論理的に分類総合していって、最後に推断を下すのです。これが私の探偵方法であります。」という発言が掲載されていた(『本陣殺人事件』)。",
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"text": "そのため、最後の瞬間まで捜査関係者に手の内を明かさないことから、さらなる犠牲者を生むことも多く、またあえて犯人に自決を促したり見逃したりするケースもあり、「事件は解決できるがホシは逃がしてしまう」ということもしばしばある。等々力警部はこれを「金田一耕助流のヒューマニズム」と述べている(『悪魔の降誕祭』)。また、金田一は警察には協力するが、情状によっては必ずしも真犯人を警察に引き渡すことを目的としていない。これは、金田一にとってあくまでも事件の真相を知ることに最大の意味があるからである。また世間的に真相が知られなくとも、真犯人が死ねば「報いは受けた」と考えている(『女王蜂』『首』など)。その一方で、逆に自決を思いとどまらせることもあった(『黒蘭姫』『迷路荘の惨劇』など)。",
"title": "作中の人物像"
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"text": "探偵活動の基礎技術をどこまで身につけているかについては不明確な部分もある。たとえば、『三つ首塔』『病院坂の首縊りの家』などでは自ら指紋照合を行っているが、『犬神家の一族』『不死蝶』などでは指紋照合を専門家に委ねている。途中で習得した可能性も考えられるが、明確な描写は無い。",
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"text": "いつもは着物に袴の金田一も、「ギャバのズボンに濃い紺地の開襟シャツといういでたち」(『支那扇の女』)、「鼠色のズボンに派手なチェックのアロハ、ベレー型のハンチング帽にべっ甲縁の眼鏡」(『雌蛭』)など、洋服を着ることがあり、これがそのまま変装になっている。また探偵小説の主人公らしく、犯人あぶり出しのために別人に変装することもあった。特に着物に袴のまま大道易者に化けていたときには、「けっこう当たる」と評判をとっている(『暗闇の中の猫』『黄金の指紋』)。",
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"text": "「運動音痴」と謙遜することもある金田一だが(『仮面舞踏会』など)、背後からの敵襲にすばやく反応する勘を持ち、投石をかわして危うく命拾いしたことなどもあった(『女王蜂』『悪魔の寵児』など)。その一方で、犯人が潜んでいる土蔵の扉を開いたとたんに正面からピストルで撃たれ、刑事に突き飛ばしてもらえなかったら頭を貫かれて即死していたに違いないということもあった(『黒猫亭事件』)。",
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"text": "少年向けジュブナイル版での金田一はさらに活動的で、捜査のために浮浪者などに変装したり、走行するトラックの裏に取りついて敵地潜入を行ったり、袋詰めにされ海中に投棄された際には、ナイフで袋を破り脱出するなど、高い運動能力を見せている(『黄金の指紋』)。",
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"text": "1946年(昭和21年)に復員して『百日紅の下にて』『獄門島』『車井戸はなぜ軋る』などの事件を解決後、京橋裏(銀座裏)の焼け跡に残った「三角ビル」という三角形の怪しげなビルの最上階に、探偵事務所兼住居を持っていた(『黒蘭姫』)が、3か月ばかりで閉めてしまう(『女怪』)。ただし、1948年(昭和23年)には三角ビルの事務所を使用していた時期があり、『死仮面』の関係者が来訪している。",
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"text": "三角ビルからの1回目の引き払いの後、中学の同級生で建設会社社長の風間俊六が愛人(作中では「2号さんだか3号さんだかわからないが」(作品によっては4号ないし5号まで進む)と記述される)の節子に女将をさせている大森の山の手にある割烹旅館「松月(しょうげつ)」の、四畳半の離れに居候して、ここを事務所兼自宅にしている。生活力は薄く、煙草銭にも欠く有様で、よくこの「松月」の女将から小遣いをもらっている(『悪魔が来りて笛を吹く』第2章、『病院坂の首縊りの家』第1部第5編など)。「松月」での寄食は1956年(昭和31年)ごろまで続けている。",
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"text": "『毒の矢』『黒い翼』などの事件に関わったことをきっかけに世田谷区緑が丘の「緑ヶ丘荘」の2階フラット(3号室)に転居し(改稿前の『悪魔の降誕祭』など)、ここが定住の場所となった(引越しの時期を1957年(昭和32年)とする説が有力で、#経歴ではこの説を採用)。ここの内部構造については細かいところで何度か描写はあるが、全体の構造については『迷宮の扉』で「ドアを入ると小玄関になっており、玄関のおくに応接間兼書斎がある」といった説明があり、書斎側がアパートそのものの庭に面しているらしい。緑ヶ丘荘は後に改築して「緑ヶ丘マンション」となるが、改築を担当した風間建設の社長・風間俊六から二階正面のフラットを無償で贈られている(『病院坂の首縊りの家』)。",
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"text": "仕事の成功報酬はほとんどの場合、満足に得られていない(『トランプ台上の首』『扉の影の女』など)。金田一は興味を持てない事件には、いくら多額の報酬を提示されても見向きもしないが、反面興味をそそられた事件は報酬も構わず、手弁当でこれに没頭してしまう(『女怪』など)。それでも蓄財はしていたようで、『病院坂の首縊りの家』の事件解決後、近しい人たちに莫大な金額を寄贈している。",
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"text": "趣味は映画や絵画鑑賞(『仮面舞踏会』など)で、義理半分だが絵を購入することもあった(『悪魔の百唇譜』など)。『女怪』では知り合いの画家の個展を口実に作者を銀座へ連れ出しており、『夜の黒豹』では事件関係者である洋画家2名(うち1名は故人)の作風を事件以前からよく知っていた。映画女優に関しては、学生時代に紅葉照子のファンであったほか(『霧の山荘』)、鳳千代子の熱心なファンで出演作は金田一が応召した後に封切られた映画まですべて観ているほどである(『仮面舞踏会』)。学生時代には歌舞伎役者・佐野川鶴之助と誼を通じ彼の後援会「丹頂会」にも加入していた。鶴之助との交流が途絶えた後も「ひととおりは見なきゃ気がすまない」ほどの歌舞伎ファンで(『幽霊座』)、気分が高揚したときには歌舞伎のせりふを口ずさむこともある(『女怪』『傘の中の女』)。スポーツの方は苦手で、『仮面舞踏会』ではゴルフに誘われた際に「運動音痴、すなわちウンチ」と発言している。ただし、ボートを漕ぐことと、東北出身であることからスキーは得意(『犬神家の一族』)。",
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"text": "ヘビースモーカーで、いつも灰皿が吸殻の山になっている。銘柄は「ピース」と「ホープ」を愛煙する。また、戦前は「チェリー(CHERRY)」を愛煙していた(『本陣殺人事件』)。",
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"text": "20歳ごろのアメリカ滞在時に、ふとした好奇心から麻薬に手を出して深みにはまり、厄介者扱いされていたことがある。久保銀造の意見を容れてこの悪習は断ったが、この際「麻薬も結局大したことはありませんからな」とうそぶいている(『本陣殺人事件』)。この麻薬中毒者という設定は、横溝がシャーロック・ホームズに倣ったもの。同じく金田一が若いころにアメリカを放浪しているのは、谷譲次の『めりけんじゃっぷ』物に倣ったもの。",
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"text": "酒はあまりすすんでは飲まないが、下戸ではない。磯川警部と食事をしながらビール瓶を2、3本空けたり(『湖泥』『悪魔の手毬唄』)、大きな徳利を数本空けたりする。事件解決後、気の抜けたビールを「このほうが刺激が少ないから」とちびりちびり呷りながら事件説明を行ったり(『黒猫亭事件』)、事件解決後に犯罪者たちのあくどさを垣間見て悄然となり、酔って気分を紛らわすため自宅で一人ウィスキーを呷ったりすることもあった。また、いきつけのクラブにクラブ「スリーX」(『白と黒』)と「クラブK・K・K」があり(『病院坂の首縊りの家』など)、前者は等々力警部とよく行くクラブ、後者は風間俊六の愛人が経営しているクラブである。後者の「クラブK・K・K」を訪れる目的は、クラブの用心棒であり金田一の手駒である多門修に偵察を依頼したり、情報を収集したりするのがほとんどのようである。",
"title": "作中の人物像"
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"text": "食事は、特に「松月」から「緑ヶ丘荘」へ移って以降は、一人暮らしから簡便に済ますことが多い。朝食はトースト・ゆで卵(しばしば茹で過ぎる)・牛乳が中心で、他にもサラダや果物、アスパラガスの缶詰などを付け合わせることもあるが貧相なもので、朝の身支度と同時進行で数分で片づけてしまう(『悪魔の百唇譜』『支那扇の女』『壺中美人』『扉の影の女』『スペードの女王』など)。横溝は「これが流儀」と述べている。昼・夕食は銀座の行きつけの料理屋で済ますことが多く、和食や中華料理を好んで食べている。少食で、「蕎麦一杯で満足」ということもあったが(『扉の影の女』など)、考え事があると酒と併せ大食することもあった。概ね、食事シーンは大食漢の等々力警部や磯川警部と対照的に描かれる。",
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"text": "年に1度、久保銀造が経営する岡山県の果樹園に静養に訪れている(『蜃気楼島の情熱』)。これ以外にも岡山県に静養に行くことが多く、磯川警部と一緒に湯治場に宿泊したり(『人面瘡』『鴉』『首』)、磯川警部が紹介する湯治場に1人で宿泊したりしている(『悪魔の手毬唄』)。",
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"text": "長野県に静養に行くことも多い(『廃園の鬼』『霧の山荘』など)。1人でホテルに宿泊することが多いが、『仮面舞踏会』のときには郷土の先輩の弁護士・南条誠一郎の別荘のバンガローをいつでも自由に使ってよいことになっており、そこに宿泊していた。滞在中に等々力警部が休暇を取って合流してくることもある(『霧の山荘』『仮面舞踏会』)。",
"title": "作中の人物像"
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"text": "そのほか、『女怪』では「先生」と一緒に伊豆の湯治場に静養に行っている。東京近郊の鏡ガ浦海岸(『傘の中の女』、『鏡が浦の殺人』)、H海岸(『赤の中の女』)、白浜海岸(『猟奇の始末書』)など海水浴場に静養に行くこともある。",
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"text": "両親とは探偵稼業を始める前に死別しているらしいことが、『仮面舞踏会』中の金田一の台詞から窺える。生涯独身であったとされ、『犬神家の一族』で野々宮珠世の美しさに目を引かれる場面では「およそ女色に心を動かしたことのない金田一耕助」とも表現されている。しかし、決して朴念仁というわけではなく、『獄門島』の鬼頭早苗と『女怪』の持田虹子に対して想いを寄せているが、いずれも実ることはなかった。",
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"text": "『夜歩く』のお静や『仮面城』の戦災孤児・三太など、関係者を事件解決後に引き受けあるいは引き取っている場合があるが、その後どうなったかが描写されることはなく、「家族」と呼べる存在になったかどうかは明確でない。",
"title": "作中の人物像"
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"text": "久保銀造、同窓の友人・風間俊六、神門貫太郎という3人のパトロンがおり、彼らの援助に支えられている。風間俊六の愛人である「松月」の女将・おせつは、年下ながら姉のように金田一の世話を焼いてくれている。また、後半居を構えた緑ヶ丘荘の管理人である山崎夫婦も、しばしば金欠になる金田一のために便宜を図っている(『扉の影の女』)。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "警察から高い信頼を受けており、ことに「警視庁の古狸」と異名をとる等々力警部は公私共に付き合いのある大親友である。同じく「岡山県警の古狸」と異名をとる磯川警部とも、事件があれば助力を受け合う旧知の仲である。ほか、等々力警部の部下である新井刑事や、アパートの所轄・緑ヶ丘署の島田警部補、筆者の住居の所轄・成城署の山川警部補なども金田一の手腕に一目置いており、複数の作品にたびたび登場している。",
"title": "作中の人物像"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "元・愚連隊上がりの多門修という冒険好きの若者を冤罪から救ったことがあり(『支那扇の女』など)、この多門は金田一を慕って、たびたび捜査の助手を務めている(『雌蛭』には多門六平太という多門修とほぼ同じ経歴の人物が登場しており、同一人物と思われる)。同郷の後輩で「新日報社」社会部の宇津木慎介記者(『女王蜂』)や「毎朝新聞」文化部の宇津木慎策記者(『白と黒』『夜の黒豹』など)は、金田一が必要とする調査を請け負う見返りに特ダネにつながる情報を金田一から提供されるという協力関係にある。",
"title": "作中の人物像"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "作者自身をモデルとする作中人物(「Y先生」などと呼ばれている)とは「耕ちゃん」「先生」と呼び合う仲である。Y先生によると、「私はかれよりさきに生まれているので、そういう意味でかれは私を先生と呼ぶのであって、微塵も私を尊敬していない」のだそうである。またY先生は金田一を「いらまかし男」と呼んでいて、来ると必ず何かしらの不安の影を落としていくので、「私はこの男が大嫌いなのだ」と語っている。",
"title": "作中の人物像"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "金田一耕助の関わった事件を記録、小説化しているのは、横溝正史自身をモデルとした「Y先生」「S・Y」「成城の先生」などと呼ばれる探偵小説家である。作中にこの作家の実名は一度も登場していない。",
"title": "記録者"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "記録に至る経緯については、第1作の『本陣殺人事件』では、事件の話を聞いて作者が情報を集めて作品化したことが述べられている。『黒猫亭事件』では、その連載を読んだ金田一が作者の元を訪れて小説化を認めるくだりがあり(黒猫亭事件#作者と金田一耕助を参照)、第2作『獄門島』以降は金田一が作者に話すか資料提供したことで作品化されたものとされている。Y自身も作品中にしばしば登場し、事件現場に絡むことすらあった(『女怪』『病院坂の首縊りの家』『白と黒』など)。",
"title": "記録者"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また金田一耕助は事件の渦中にいた人物に事件の小説化を勧めることがある。『八つ墓村』は金田一の勧めで記録を書き始めたという形式であり、『三つ首塔』『夜歩く』では未完の記録を完成させるよう金田一が促している。一方、『七つの仮面』は金田一に真相を看破された作中人物が自殺する前に残した手記という体裁になっており、『車井戸はなぜ軋る』は主要部分が作中人物から別の作中人物への手紙で構成され、その手紙の宛先人物が金田一に真相を看破されたことを知って、自殺する前に追記を添えて金田一に送付したことになっている。他に『蝙蝠と蛞蝓』『殺人鬼』などが作中人物の一人称で語られている。",
"title": "記録者"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "作者・横溝正史のエッセイ『金田一耕助誕生記』によれば、金田一耕助はA・A・ミルンの探偵小説『赤い館の秘密』に登場する素人探偵アントニー・ギリンガムの日本人化である。これは金田一初登場作品『本陣殺人事件』でも説明されている。",
"title": "命名・モデル"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "金田一の風体は、劇作家の菊田一夫がモデル。『金田一耕助の帰還』でも「一見小柄で貧相だが、うちに大いなる才能を秘めた人物」としてモデルにした旨が記されている。これは、横溝がラジオからの菊田のファンであったためである。横溝は一度だけ若き日の菊田に会っていたが、この時、菊田は洋服姿で、頭ももじゃもじゃではなかった。ちょうどその頃、新聞で小島政二郎が『花咲く樹』を連載しており、岩田専太郎の挿絵によるレビュー劇場の座付き作家の姿が「着物に袴」で描かれており、横溝はこのイラストが菊田のイメージとダブっていったと述べている。また、『本陣殺人事件』を連載することになった『宝石』誌の創刊者にして編集長の作家・城昌幸が和服の着流しに角帯姿であったため、彼をからかうつもりで、貧相な名探偵を和服姿にした。それだけでは探偵になりにくいため、横溝自身が博文館の編集者時代に和服に袴だった経験を踏まえて、袴をはかせることにした。こうして、菊田一夫・城昌幸・作者自身のイメージの複合体として、金田一耕助の姿が出来あがった。作者の回想によれば、三者の中で、最も飄々としていたのが城昌幸であったということである。",
"title": "命名・モデル"
},
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"tag": "p",
"text": "江戸川乱歩の創出した探偵・明智小五郎も初期は髪がボサボサで飄々とした風体であったのだが、段々とダンディに変貌していったため「明智が変わってしまったから金田一をやる気になった」との作者の弁がある。また、金田一がもじゃもじゃ頭を掻き回すのは横溝自身の癖を誇張したものだが、菊田一夫も頭髪を引っ掻き回す癖があったという。横溝は「これは偶然の一致だろう」と述べている。",
"title": "命名・モデル"
},
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"paragraph_id": 42,
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"text": "名前も当初は菊田にちなんで「菊田一○○」と付けようとしていたという。だがこれは菊田に失礼であろうし、いくらなんでも実在すまいということで取り止めた。そこで横溝は、疎開前に住んでいた東京・吉祥寺で隣組にいた、言語学者の金田一京助の弟・金田一安三(やすぞう)の表札を見たことから、前述の“菊田一”に近い苗字である“金田一”を取り、名前は“京助”を捩って“耕助”と付けた。ところが、横溝は無断借用した形の金田一耕助という名称についても、「紛らわしい名前を使って金田一京助先生がご迷惑しているのではないか」と心苦しい思いをしていた。また、金田一京助とは野村胡堂の通夜で同席したものの謝りそこねたうえ、1971年に京助が死去したため、横溝にとって二重のシコリとなっていたという。その後、人づてに京助の子・金田一春彦から「金田一耕助さんのおかげで世間の皆さんからキンダイチと正確に発音してもらえるようになった、難しい苗字なのでいろいろ読み違えられて困っていた、こちらこそ感謝していると伝えて欲しい」との言葉を貰い、「ほっと安堵の胸をなでおろした」と述懐している。",
"title": "命名・モデル"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "金田一耕助最後の事件となる『病院坂の首縊りの家』には、60歳になる金田一が登場するが、老人と言ってもいい年齢にもかかわらず、30代のように若々しく、白髪もないと描写されている。その風貌に関して、横溝は、三年前に会った城昌幸の印象をそのまま借用に及んだというが、唯一、違っていたのは、当時、城は見事な白髪であったということである。",
"title": "命名・モデル"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "横溝作品では年月日を計算する際、年齢以外でも「数え」を使うケースが混在する。本項では原則「ある時点からこれこれだけ前・後」だけしか年代同定できない場合は満で計算しているが、前述の理由で「何年前・後」という記述は1年ずれている可能性があるため、注意が必要である。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1913年(大正2年) 数え1歳",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1931年(昭和6年) 数え19歳",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1932年(昭和7年)以後3年間 数え20 - 23歳",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1935年(昭和10年) 数え23歳",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "1936年(昭和11年) 数え24歳",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1937年(昭和12年) 数え25歳",
"title": "経歴"
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{
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"text": "1940年(昭和15年) 数え28歳",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1942年(昭和17年) 数え30歳",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1943年(昭和18年) 数え31歳",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年) 数え33歳",
"title": "経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "1946年(昭和21年) 数え34歳",
"title": "経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "1947年(昭和22年) 数え35歳",
"title": "経歴"
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"text": "1948年(昭和23年) 数え36歳",
"title": "経歴"
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"text": "1949年(昭和24年) 数え37歳",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年) 数え38歳",
"title": "経歴"
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{
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"text": "1951年(昭和26年) 数え39歳",
"title": "経歴"
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{
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"text": "1952年(昭和27年) 数え40歳",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 62,
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"text": "1953年(昭和28年) 数え41歳",
"title": "経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "1954年(昭和29年) 数え42歳",
"title": "経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "1955年(昭和30年) 数え43歳",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "1956年(昭和31年) 数え44歳",
"title": "経歴"
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"text": "1957年(昭和32年) 数え45歳",
"title": "経歴"
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"text": "1958年(昭和33年) 数え46歳",
"title": "経歴"
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"text": "1959年(昭和34年) 数え47歳",
"title": "経歴"
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"text": "1960年(昭和35年) 数え48歳",
"title": "経歴"
},
{
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"text": "1961年(昭和36年) 数え49歳",
"title": "経歴"
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"text": "1967年(昭和42年) 数え55歳",
"title": "経歴"
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"text": "1973年(昭和48年) 数え61歳",
"title": "経歴"
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"text": "1975年(昭和50年) 数え63歳",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1971年から1984年にかけて角川文庫は横溝正史作品の網羅を目標とする刊行を行っており、このとき収録された金田一耕助登場作品はジュヴナイル作品を除いて77作であった。以下に「長編」「短編」として列挙したのはこの77作である。金田一が登場しない原型作品については、年代や状況の設定およびストーリー展開を大きく変えていないもののみ記載している。なお、「長編」と「短編」の区分は論者によって差異がある。たとえば『死仮面』は長編に含めない場合があり、『毒の矢』『悪魔の降誕祭』は長編に含める場合がある。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "また、以下の作品は初出時には由利麟太郎や三津木俊助が登場する作品であったものを、「少年少女名探偵金田一耕助シリーズ」(朝日ソノラマ、全10巻)へ収録する際に山村正夫が金田一ものに改稿し、これがソノラマ文庫および角川文庫にも引き継がれた。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "角川文庫に収録された金田一耕助が登場するジュヴナイル作品は、山村による改稿も含めて8作であった。その後、『黄金の花びら』が発見されて出版芸術社の『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録され、併せて9作とされている。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "なお、以下の作品に金田一耕助は登場しないが、耕助が登場する『大迷宮』や『黄金の指紋』と明確に話がつながっており、悪役たちが続投しているほか、耕助自身が『怪獣男爵』で起きたことの説明をしている場面がある。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1979年(昭和54年)6月30日の『朝日新聞』夕刊に掲載されたエッセイ「金田一耕助との対話」において、今後の予定として以下の2つの“金田一耕助功名談”が挙げられていたが、横溝の死去により執筆されなかった。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1984年までに角川文庫に収録された77作は42編に収録されているが、その多くは1990年代ごろに電子書籍でしか出版されなくなった。すなわち、42編のうちの21編に、新たに編集した『人面瘡』ISBN 978-4-04-130497-6 を加えた22編を「金田一耕助ファイル」と銘打ったものが紙媒体での出版が継続され、これには35作が含まれていた。なお、「金田一耕助ファイル」としての通し番号は、上下分冊になっている『悪霊島』『病院坂の首縊りの家』を上下で同一番号としているため20までである。「金田一耕助ファイル」設定以降にも1990年代の間に既存42編のうち他の6編が紙媒体で出版された形跡があるが、再度品切れ状態になったものが多い。2000 - 2010年代にも、別の既存版を改版して再刊行している。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "その後、「金田一耕助ファイル」などで多くが削除された巻末解説と1980年前後の版に描かれて人気が高かった杉本一文の絵を伴った改版再刊行が進んでいる。まず2019年に『不死蝶』が改版再刊行された。さらに、2021年に「没後40年記念」と銘打って『夜の黒豹』をはじめとする計5冊、2022年には「生誕120年記念」と銘打ち『支那扇の女』をはじめとして、月に1 - 2冊のペースで行われている。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "金田一耕助登場作品は春陽文庫にも多く収録されている。特に「金田一耕助ファイル」に含まれない作品については、42作のうち38作を収録している。代表的な長編の収録はわずかであるが、中短編は網羅に近い状況になっている。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "なお、1954年 - 1956年および1975年の『金田一耕助探偵小説選』(東京文芸社)や1958年 - 1961年の『金田一耕助推理全集』(東京文芸社)も金田一耕助登場作品を網羅しようとしたと考えられる。しかし、刊行以後の作品はもちろん、刊行以前でも比較的新しい作品、初出媒体が金田一耕助登場作品として例外的な作品(『死仮面』『迷路の花嫁』『白と黒』など)、非金田一ものを改稿した作品の一部などが収録されておらず、77作を網羅しているのは角川文庫のみである。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2023年現在ジュヴナイルと怪獣男爵を含めた金田一耕助シリーズの全編は、角川文庫から展開されている「金田一耕助ファイル」22冊と同文庫からAmazonで展開されている金田一耕助シリーズ28冊(内3冊はエッセイ(21,26)と重複(28))および『金田一耕助の冒険』(旧文庫版1と2の内容を含む)、『怪獣男爵』、柏書房の横溝正史少年小説コレクション2(「黄金の花びら」(唯一電子版が存在しない))の50冊を以って全て入手することが可能となっている。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "角川文庫収録の77作には改稿長編化された元の短編が含まれておらず、その収録を目的として刊行されたのが『金田一耕助の帰還』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-117-1、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73262-2)および『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社1996年 ISBN 978-4-88293-118-8、光文社文庫2002年 ISBN 978-4-334-73276-9)である。ただし、中絶作品や金田一耕助が登場しない原型作品、『不死蝶』『火の十字架』の原型作品、『迷路荘の怪人』を最終的に『迷路荘の惨劇』とする前の中間段階の作品は収録されていない。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "横溝正史は過去に発表した作品を改稿して新たな作品とすることが多くあった。金田一耕助登場作品の改稿長編化については上記の通りであるが、金田一耕助が登場しない作品を改稿したものも多い。ただし、状況設定やストーリー展開などをほぼそのまま踏襲したものから、トリックなどの重要な要素を踏襲するだけでストーリー展開は新たに作り直したものまで、原型作品からの踏襲の程度が様々であるため、どこまでを改稿と考えるか確定し難く、全てを漏れなく列挙することは困難である。なお、下記リストに挙げた収録書籍や改稿後作品の収録書籍には、改稿の経緯などが巻末で解説されているものが多い。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "ほかに、文庫化に際して由利麟太郎や三津木俊助を金田一耕助に書き替えたジュヴナイル作品がある。また、映像化作品で原作に登場しない金田一耕助を登場させた事例(古谷一行主演および小野寺昭主演のテレビドラマ)がある。",
"title": "登場作品リスト"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "本の雑誌編集部編『活字探偵団』(角川文庫)によれば、金田一耕助は事件に乗り出してから次の犠牲者が出るのを防ぐ「防御率」の一番低い探偵ということになっている。ただし、ここでの「防御率」の定義は、野球やクリケットなどでの防御率 (Earned Run Average) あるいはサッカーやホッケーなどでの防御率 (Goals Against Average) と同様に「防御率の数値が小さいほど良い=防御できている」というものであるため、「高低」に関する表現が混乱することがあるので注意が必要である。『活字探偵団』では「防御率の数値が大きい」すなわち「防御率が悪い」ことを「防御率が低い」と表現しているが、一般には単純に「数値が小さい」ことを「低い」と表現する場合もあるため、混乱の元になる。",
"title": "殺人防御率"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "『活字探偵団』での「防御率」の算出方法は、「主要10作品を選定し、探偵が事件に関与してから、解決するまでに起きた殺人件数を作品で割る」というものである。金田一の場合、『八つ墓村』『三つ首塔』『悪魔が来りて笛を吹く』などの大量殺人が含まれているために、防御率が悪くなっている。対象を全77作品で算出した結果は1.5であり、一概に防御率が悪いとは言えない。",
"title": "殺人防御率"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "また、上述したように「最後まで手の内を見せない」のが金田一の探偵方法であることや、トリックなどの解明後に犯人の自殺を誘導したり見逃したりするケースがあることも、金田一の防御率を悪くしている。",
"title": "殺人防御率"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "映画『金田一耕助の冒険』には、「もうあと4、5人は死にそう」「どこまで殺人が行われるか見守りたい」など、防御率の悪さに対する一つの解答とも皮肉とも取れるセリフがある。",
"title": "殺人防御率"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "金田一耕助は何度も映画やテレビドラマの題材として使用され、以下に示すように幅広く多数の俳優が演じている。",
"title": "演じた俳優"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "初めて金田一を演じた片岡千恵蔵は「片岡千恵蔵の金田一耕助シリーズ」で説明されている事情により原作とは全く異なるスーツ姿で、1950年代の間はこのイメージが他の俳優にも引き継がれ、1961年の高倉健も軽装ではあるが洋装であった。その後、1975年まで14年間映画化が無かった(テレビドラマも1962年から1969年まで7年間無かった)ことにより片岡千恵蔵の扮装を意識しない演出が容易となり、1976年に石坂浩二が初めて原作に忠実な和装スタイルで金田一を演じることになった。",
"title": "演じた俳優"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "和装スタイルの金田一は1977年からのテレビドラマにおける古谷一行にも引き継がれ、以後おおむね定着している。ただし、マント(原作では二重回し)の着用やトランクを持ち歩くことなど、原作と異なる石坂浩二の扮装が以後に引き継がれていることが多い部分もある。",
"title": "演じた俳優"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "横溝の小説を原作とし、金田一耕助を主人公とする映画を初めとしたメディア作品には、金田一を助ける女性助手が登場するものがある。これは原作にはないオリジナルなものである。以下にこれを演じた女優を挙げる。",
"title": "演じた俳優"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "金田一の登場する原作の漫画化は、少年誌から始まった。",
"title": "漫画化作品"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "横溝正史ブームの中、少女誌でも原作の漫画化が行われた。",
"title": "漫画化作品"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "平成になって、女性作家による漫画化が相次いで行われている。たまいまきこの『女王蜂』『悪霊島』、JETの『本陣殺人事件』『犬神家の一族』『八つ墓村』『獄門島』『悪霊島』『悪魔の手毬唄』『悪魔が来りて笛を吹く』『悪魔の寵児』『睡れる花嫁』(いずれもあすかコミックス刊)などが刊行されている。",
"title": "漫画化作品"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "秋田書店『サスペリアミステリー』誌が、2002年の創刊より2006年頃まで、毎月のように横溝作品を漫画化していた。この中では長尾文子による漫画化作品がもっとも作品数が多い(『睡れる花嫁』『迷路荘の怪人(『迷路荘の惨劇』原形作品)』『不死蝶』『犬神家の一族』『本陣殺人事件』『獄門島』『悪魔の手毬唄』『八つ墓村』『鴉』)。",
"title": "漫画化作品"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "『サスペリアミステリー』では、ほかにも秋乃茉莉、池田恵、児嶋都、高橋葉介、永久保貴一などが金田一作品を漫画化している。",
"title": "漫画化作品"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "ほかに金田一作品を漫画化した漫画家として、いけうち誠一、岩川ひろみ、小山田いく、掛布しげを、直野祥子、前田俊夫などがいる。",
"title": "漫画化作品"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "多くの作家がパスティーシュの手法を用いて金田一耕助を登場させている。",
"title": "パスティーシュ"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "また、昭和50年代の横溝ブームを引き起こした角川書店より、贋作集が2冊刊行されている。",
"title": "パスティーシュ"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "他に、横溝作品の「本歌取り」とされる作品がある。",
"title": "パスティーシュ"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降、漫画作品には「金田一耕助の子孫」の活躍を謳った作品が発表されている。",
"title": "パスティーシュ"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "舞台作品には、金田一耕助を連想させる老人が登場する作品がある。",
"title": "パスティーシュ"
}
] |
金田一 耕助は、横溝正史の推理小説に登場する架空の私立探偵。 江戸川乱歩の明智小五郎、高木彬光の神津恭介と並んで日本三大名探偵と称される。
|
{{Infobox character
| name = 金田一 耕助
| image = Bronze statue of Kōsuke Kindaichi.jpg|300px
| caption = 金田一耕助像<br>([[倉敷市真備ふるさと歴史館]])
| first = 『[[本陣殺人事件]]』(1946年)
| last = 『[[悪霊島]]』(1979 - 1980年)
| creator = [[横溝正史]]
| gender = 男性
| occupation = 私立[[探偵]]
| nationality = {{JPN}}
}}
'''金田一 耕助'''(きんだいち こうすけ)は、[[横溝正史]]の[[推理小説]]に登場する架空の私立[[探偵]]。
[[江戸川乱歩]]の[[明智小五郎]]、[[高木彬光]]の[[神津恭介]]と並んで'''日本三大名探偵'''と称される<ref>{{Cite | 和書 | last = 新保 | first = 博久 | authorlink = 新保博久 | title = 名探偵登場――日本篇 | publisher = [[筑摩書房]] | series = [[ちくま新書]] | date = 1995-08-20 | isbn = 4-480-05643-2 | pages = 33, 36 }}</ref>。
== 作中の人物像 ==
=== 容姿 ===
[[スズメ]]の[[巣]]のようなボサボサの蓬髪をしており、人懐っこい笑顔が特徴。顔立ちは至って平凡、体躯は貧相で、[[身長]]は5尺4寸(163.6センチメートルくらい)、[[体重]]は14貫(52キログラムくらい)を割るだろうという。自身の体格には[[劣等感]]を抱いており、それに関する記述は、『[[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]]』にて風呂場で筋骨隆々とした多門連太郎の裸体を見た時や『扉の影の女』で堂々たる風貌の金門剛に対面したときなど多々見受けられる。なお、小男と書かれることがあるが、当時としては身長は平均並みであり、中背で痩せ型というのが正確なところであり、むしろ平凡さが強調されている。
ほとんどの事件において観た目は35、6歳と記述され、齢五十を超えているはずの『[[病院坂の首縊りの家]]』でも見かけはほとんど変わっていない。『[[本陣殺人事件]]』など一、二の作を除いてはれっきとした中年男(当時としてはなおのこと)であるが、生活感が薄く書生気質を残している。
頭は[[フケ]]症で、服装は皺だらけの[[絣]]の[[単衣]]の着物と[[羽織]]によれよれの[[袴]]を合わせ、形の崩れた帽子(お釜帽のイメージが強いが、[[パナマ帽]]、[[中折れ帽]]などの時もある)を被り、足元は爪が飛び出しかかっている汚れた白[[足袋]]に[[下駄]]履きが定番で、非常に清潔感が無い服装が特徴<ref group="注">いわゆる「[[バンカラ]]」の一種で、『本陣殺人事件』で金田一が初登場した1937年(昭和12年)当時の[[東京]]では、[[早稲田]]あたりの下宿にはこのような風采の青年がごろごろいて、場末のレヴュー劇場の作者部屋にもこれに似た風采の人物が見受けられた。</ref>。また寒い時期には羽織袴の上から上着(防寒着)に二重回し(とんび。袖なしの[[インバネスコート]]のこと。)を着こむ。これらの姿から『[[蝙蝠と蛞蝓]]』では「雰囲気が[[コウモリ]]に似ている」と言われ、『[[悪魔の寵児]]』では「[[新派#歴史|壮士芝居]]の[[三枚目]]」と評された。捜査のため[[洋服]]で[[変装]]することもあったが、「貧弱な[[サラリーマン]]にしか見えない」と等々力警部に笑われたり(『[[支那扇の女]]』)、「似合わない格好」だと揶揄されたりすることが多く、「これではこの男が洋服を忌避するのもむりはない」(『[[雌蛭]]』)などとも描写されている。なお、『[[蜃気楼島の情熱]]』では金田一自身が日本での生活における洋服の不合理性を列挙して[[和服]]主義の理由としている。
横溝は『本陣殺人事件』で金田一について、「この青年は飄々乎たるその風貌から、アントニー・ギリンガム君<ref group="注">探偵小説『[[赤い館の秘密]]』([[A・A・ミルン]]著)に登場する素人探偵</ref>に似ていはしまいかと思う」と述べている。明智小五郎のような颯爽とした名探偵のイメージとは一線を画した、先達では[[ブラウン神父]]、後年では[[刑事コロンボ#コロンボ|コロンボ警部]]に代表される、外見のさえない名探偵群の一人である。このような金田一のさえない恰好は、初対面の相手には年齢問わず、ほぼ例外なく侮られる傾向にある{{efn2|極端な例ではジュブナイル作品『大迷宮』にて主人公の立花滋([[学制改革|新制]]中学1年生)が金田一耕助と初めて出会う場面で「えらい探偵さんだそうですが、見たところ、ちっとも探偵らしくなく、滋君はなんだか心ぼそいような気がしました」と、中学生にまで頼りなさそうに思われている<ref>『大迷宮』「船から消えた男」の章より。</ref>。}}。反面、非常に母性本能を刺激するもののようで、女性からの受けはとても良い。
=== 所持品 ===
事件のため遠出する際にはボストンバッグやかばんを提げて赴く(なお、[[石坂浩二]]の主演映画作品からトランクのイメージが強いが、これは映画オリジナルである)。[[復員]]直後の『[[百日紅の下にて]]』では雑嚢を持っており、金田一のデビュー作『本陣殺人事件』や『[[黒猫亭事件]]』などの初期の作品と、最後の事件となった『病院坂の首縊りの家』では[[籐]]や[[桜]]の[[ステッキ]]を持っている。
探偵としての小道具として、[[レンズ#ルーペ|虫眼鏡]]のほか、折りたたみナイフ(または小型の[[十徳ナイフ]])、薄い手袋、小型で強力な[[懐中電灯]]などを常備している。犯人との対峙の際に、用心のため[[防弾チョッキ]]を着込むこともあった(『病院坂の首縊りの家』など)。
=== 言動 ===
事件の本質に迫ったときや意外な事実を知ったときなど、興奮するとスズメの巣のようなモジャモジャ頭を毛が抜けるほどにバリバリと掻きまわし、言葉が[[吃り]]はじめる{{Efn2|金田一の吃り癖は、横溝の小学校時代の親友・伊勢市太郎がモデルである<ref>{{Cite book|和書| author = 横溝正史 | editor = 日下三蔵 | title = 横溝正史エッセイコレクション3 真説 金田一耕助 金田一耕助のモノローグ | quote = 『横溝正史自伝的随筆集(抄)』より、「続・書かでもの記・9」| page=385 | publisher = 柏書房株式会社| date = 2022-06-05}}</ref>。}}。この頭を掻きむしる際に[[頭垢|フケ]]がとび、周囲のものをしばしば当惑させる。横溝は「もじゃもじゃの頭をひっかきまわすのは、私自身の癖を誇張したのである」と語っている。また、何か重大な発見をした場合、口笛を吹くように口をすぼめたり、実際に口笛を吹くクセももつ。
いつもは眠そうなショボショボとした目つきをしているが、事件の渦中にあって自身が強く興味を持ったことに対しては真剣な目つきに変わる。金田一には人を和ませる天性の雰囲気と話術があり、警察がどんなに骨を折っても聞き出せない情報も、金田一にかかるとたやすく引き出されてしまう。
普段の発言は控えめでのらりくらりとしている。概ね犯人や登場人物の行動がそこに至るまでの苦悩を思い、憐憫の情を示すような口ぶりや悩ましげな顔をし、激しく貧乏ゆすりをしたり、ハンケチを揉みくちゃにしたりする。[[犯人]]の動機や関係者の行動が著しく非社会的・[[非人道的]]で、狡猾かつ独善的な場合には、強く厳しい発言・批判を浴びせる。犯人を取り逃がしたときなどは地団太を踏むなど、激しい姿を見せることもあった。若い世代に対しては歳相応に分別のある話し方をすることが多い。
事件が解決すると、強い興味を引く目的がなくなり、また事件関係者たちのその後の運命を想って落ち込み、強い孤独感(一種の[[メランコリー]])に襲われるため(『扉の影の女』など)、ふらりと旅に出てしまうことが多く、等々力警部らは早く金田一を立ち直らせようとわざわざ事件を押しつけることもあった(『悪魔の百唇譜』など)。
=== 探偵方法 ===
捜査の方法は、事件に絡む人脈・人間像の丹念な検証が主である。アメリカから帰国して久保銀造の援助で探偵事務所を開設したあと、某重大事件を解決した殊勲者として紹介した新聞記事には「足跡の捜索や、指紋の検出は、警察の方にやって貰います。自分はそれから得た結果を、論理的に分類総合していって、最後に推断を下すのです。これが私の探偵方法であります。」という発言が掲載されていた(『本陣殺人事件』)。
そのため、最後の瞬間まで捜査関係者に手の内を明かさないことから、さらなる犠牲者を生むことも多く、またあえて犯人に自決を促したり見逃したりするケースもあり、「事件は解決できるがホシは逃がしてしまう」ということもしばしばある。等々力警部はこれを「金田一耕助流のヒューマニズム」と述べている(『[[悪魔の降誕祭]]』)。また、金田一は警察には協力するが、情状によっては必ずしも真犯人を警察に引き渡すことを目的としていない。これは、金田一にとってあくまでも事件の真相を知ることに最大の意味があるからである。また世間的に真相が知られなくとも、真犯人が死ねば「報いは受けた」と考えている(『女王蜂』『[[首 (横溝正史)|首]]』など)。その一方で、逆に自決を思いとどまらせることもあった(『[[黒蘭姫]]』『[[迷路荘の惨劇]]』など)。
探偵活動の基礎技術をどこまで身につけているかについては不明確な部分もある。たとえば、『[[三つ首塔]]』『病院坂の首縊りの家』などでは自ら指紋照合を行っているが、『[[犬神家の一族]]』『[[不死蝶 (小説)|不死蝶]]』などでは指紋照合を専門家に委ねている。途中で習得した可能性も考えられるが、明確な描写は無い。
いつもは着物に袴の金田一も、「ギャバのズボンに濃い紺地の開襟シャツといういでたち」(『[[支那扇の女]]』)、「鼠色のズボンに派手なチェックの[[アロハシャツ|アロハ]]、[[ベレー]]型の[[ハンチング帽]]に[[べっ甲]]縁の眼鏡」(『[[雌蛭]]』)など、洋服を着ることがあり、これがそのまま変装になっている。また探偵小説の主人公らしく、犯人あぶり出しのために別人に変装することもあった。特に着物に袴のまま大道易者に化けていたときには、「けっこう当たる」と評判をとっている(『[[暗闇の中の猫]]』『黄金の指紋』)。
「運動音痴」と謙遜することもある金田一だが(『[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]』など)、背後からの敵襲にすばやく反応する勘を持ち、投石をかわして危うく命拾いしたことなどもあった(『女王蜂』『悪魔の寵児』など)。その一方で、犯人が潜んでいる土蔵の扉を開いたとたんに正面からピストルで撃たれ、刑事に突き飛ばしてもらえなかったら頭を貫かれて即死していたに違いないということもあった(『黒猫亭事件』)。
少年向けジュブナイル版での金田一はさらに活動的で、捜査のために浮浪者などに変装したり、走行するトラックの裏に取りついて敵地潜入を行ったり、袋詰めにされ海中に投棄された際には、ナイフで袋を破り脱出するなど、高い運動能力を見せている(『黄金の指紋』)。
=== 住所・事務所 ===
1946年([[昭和]]21年)に[[復員]]して『[[百日紅の下にて]]』『[[獄門島]]』『[[車井戸はなぜ軋る]]』などの事件を解決後、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]裏([[銀座]]裏)<ref group="注">「京橋裏」と「銀座裏」の三角ビルを別地点と考える見解もある。しかし、一般に「○○裏」という場合には「○○」の領域から外れる場所も含める場合があるので、隣接する「京橋」と「銀座」の「裏」には重なりがあると考えられる。したがって、双方の三角ビルを同一地点と考えても矛盾しない。</ref>の焼け跡に残った「三角ビル」という三角形の怪しげなビルの最上階に、探偵事務所兼住居を持っていた(『[[黒蘭姫]]』)が、3か月ばかりで閉めてしまう(『[[女怪]]』)。ただし、1948年(昭和23年)には三角ビルの事務所を使用していた時期があり、『[[死仮面]]』の関係者が来訪している。
三角ビルからの1回目の引き払いの後、中学の同級生で建設会社社長の風間俊六が愛人(作中では「2号さんだか3号さんだかわからないが」(作品によっては4号ないし5号まで進む)と記述される)の節子に女将をさせている大森の山の手にある割烹旅館「松月(しょうげつ)」の、四畳半の離れに居候して、ここを事務所兼自宅にしている。生活力は薄く、煙草銭にも欠く有様で、よくこの「松月」の女将から小遣いをもらっている(『悪魔が来りて笛を吹く』第2章、『病院坂の首縊りの家』第1部第5編など)。「松月」での寄食は1956年(昭和31年)ごろまで続けている。
『毒の矢』『黒い翼』などの事件に関わったことをきっかけに[[世田谷区]]緑が丘の「緑ヶ丘荘」の2階フラット(3号室)に転居し(改稿前の『悪魔の降誕祭』など)、ここが定住の場所となった(引越しの時期を1957年(昭和32年)とする説が有力で、[[#経歴]]ではこの説を採用)。ここの内部構造については細かいところで何度か描写はあるが、全体の構造については『迷宮の扉』で「ドアを入ると小玄関になっており、玄関のおくに応接間兼書斎がある」といった説明があり、書斎側がアパートそのものの庭に面しているらしい<ref>「侵入者」の章。</ref>。緑ヶ丘荘は後に改築して「緑ヶ丘マンション」となるが、改築を担当した風間建設の社長・風間俊六から二階正面のフラットを無償で贈られている(『病院坂の首縊りの家』)。
仕事の成功報酬はほとんどの場合、満足に得られていない(『トランプ台上の首』『扉の影の女』など)。金田一は興味を持てない事件には、いくら多額の報酬を提示されても見向きもしないが、反面興味をそそられた事件は報酬も構わず、手弁当でこれに没頭してしまう(『女怪』など)。それでも蓄財はしていたようで、『[[病院坂の首縊りの家]]』の事件解決後、近しい人たちに莫大な金額を寄贈している。
=== 趣味・嗜好 ===
趣味は映画や絵画鑑賞(『[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]』など)で、義理半分だが絵を購入することもあった(『悪魔の百唇譜』など)。『[[女怪]]』では知り合いの画家の個展を口実に作者を銀座へ連れ出しており、『夜の黒豹』では事件関係者である洋画家2名(うち1名は故人)の作風を事件以前からよく知っていた。映画女優に関しては、学生時代に紅葉照子のファンであったほか(『[[霧の山荘]]』)、鳳千代子の熱心なファンで出演作は金田一が応召した後に封切られた映画まですべて観ているほどである(『仮面舞踏会』)。学生時代には歌舞伎役者・佐野川鶴之助と誼を通じ彼の後援会「丹頂会」にも加入していた。鶴之助との交流が途絶えた後も「ひととおりは見なきゃ気がすまない」ほどの歌舞伎ファンで(『[[幽霊座]]』)、気分が高揚したときには歌舞伎のせりふを口ずさむこともある(『女怪』『傘の中の女』)。スポーツの方は苦手で、『仮面舞踏会』では[[ゴルフ]]に誘われた際に「[[運動音痴]]、すなわちウンチ」と発言している。ただし、ボートを漕ぐことと、東北出身であることから[[スキー]]は得意(『犬神家の一族』)。
[[喫煙|ヘビースモーカー]]で、いつも灰皿が吸殻の山になっている。銘柄は「[[ピース (たばこ)|ピース]]」と「[[ホープ (たばこ)|ホープ]]」を愛煙する<ref group="注">横溝は「ホープ」を愛煙していた。</ref>。また、戦前は「[[チェリー (たばこ)|チェリー]](CHERRY)」を愛煙していた(『本陣殺人事件』)。
20歳ごろのアメリカ滞在時に、ふとした好奇心から麻薬に手を出して深みにはまり、厄介者扱いされていたことがある。久保銀造の意見を容れてこの悪習は断ったが、この際「麻薬も結局大したことはありませんからな」とうそぶいている(『本陣殺人事件』)。この麻薬中毒者という設定は、横溝が[[シャーロック・ホームズ]]に倣ったもの。同じく金田一が若いころにアメリカを放浪しているのは、[[谷譲次]]の『めりけんじゃっぷ』物に倣ったもの。
酒はあまりすすんでは飲まないが、下戸ではない。磯川警部と食事をしながらビール瓶を2、3本空けたり(『[[湖泥]]』『[[悪魔の手毬唄]]』)、大きな徳利を数本空けたりする。事件解決後、気の抜けたビールを「このほうが刺激が少ないから」とちびりちびり呷りながら事件説明を行ったり(『黒猫亭事件』)、事件解決後に犯罪者たちのあくどさを垣間見て悄然となり、酔って気分を紛らわすため自宅で一人ウィスキーを呷ったりすることもあった。また、いきつけのクラブにクラブ「スリーX」(『[[白と黒 (横溝正史)|白と黒]]』)と「クラブK・K・K」があり(『病院坂の首縊りの家』など)、前者は等々力警部とよく行くクラブ、後者は風間俊六の愛人が経営しているクラブである。後者の「クラブK・K・K」を訪れる目的は、クラブの用心棒であり金田一の手駒である多門修<ref group="注" name="多門修">『支那扇の女』に初出の際には「たもん おさむ」との読みが付されているが、『扉の影の女』『病院坂の首縊りの家』では「たもん しゅう」になっている。</ref>に偵察を依頼したり、情報を収集したりするのがほとんどのようである。
食事は、特に「松月」から「緑ヶ丘荘」へ移って以降は、一人暮らしから簡便に済ますことが多い。朝食は[[トースト]]・[[ゆで卵]](しばしば茹で過ぎる)・牛乳が中心で、他にも[[サラダ]]や果物、[[アスパラガス]]の缶詰などを付け合わせることもあるが貧相なもので、朝の身支度と同時進行で数分で片づけてしまう(『悪魔の百唇譜』『支那扇の女』『壺中美人』『[[扉の影の女]]』『[[スペードの女王 (横溝正史)|スペードの女王]]』など)。横溝は「これが流儀」と述べている。昼・夕食は銀座の行きつけの料理屋で済ますことが多く、和食や中華料理を好んで食べている。少食で、「蕎麦一杯で満足」ということもあったが(『扉の影の女』など)、考え事があると酒と併せ大食することもあった。概ね、食事シーンは大食漢の等々力警部や磯川警部と対照的に描かれる。
=== 静養 ===
年に1度、久保銀造が経営する[[岡山県]]の[[果樹園]]に静養に訪れている(『[[蜃気楼島の情熱]]』)。これ以外にも岡山県に静養に行くことが多く、磯川警部と一緒に[[湯治場]]に宿泊したり(『[[人面瘡 (小説)|人面瘡]]』『[[鴉 (横溝正史)|鴉]]』『[[首 (横溝正史)|首]]』)、磯川警部が紹介する湯治場に1人で宿泊したりしている(『[[悪魔の手毬唄]]』)。
[[長野県]]に静養に行くことも多い(『[[廃園の鬼]]』『[[霧の山荘]]』など)。1人でホテルに宿泊することが多いが、『[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]』のときには郷土の先輩の弁護士・南条誠一郎の別荘の[[バンガロー]]をいつでも自由に使ってよいことになっており、そこに宿泊していた。滞在中に等々力警部が休暇を取って合流してくることもある(『霧の山荘』『仮面舞踏会』{{Efn2|等々力警部が休暇を取って金田一と同行した作品に『[[香水心中]]』があるが、金田一自身は依頼者からの要請で訪れたもので、静養は当初目的ではない。}})。
そのほか、『[[女怪]]』では「先生」と一緒に[[伊豆半島|伊豆]]の湯治場に静養に行っている。東京近郊の鏡ガ浦海岸(『[[金田一耕助の冒険#傘の中の女|傘の中の女]]』、『[[鏡が浦の殺人]]』)、H海岸(『[[金田一耕助の冒険#赤の中の女|赤の中の女]]』)、白浜海岸(『[[猟奇の始末書]]』)など海水浴場に静養に行くこともある。
=== 家族・知人 ===
両親とは探偵稼業を始める前に死別しているらしいことが、『仮面舞踏会』中の金田一の台詞から窺える。生涯独身であったとされ、『犬神家の一族』で野々宮珠世の美しさに目を引かれる場面では「およそ女色に心を動かしたことのない金田一耕助」とも表現されている。しかし、決して朴念仁というわけではなく、『[[獄門島]]』の鬼頭早苗と『女怪』の持田虹子に対して想いを寄せているが、いずれも実ることはなかった。
『[[夜歩く]]』のお静や『仮面城』の戦災孤児・三太など、関係者を事件解決後に引き受けあるいは引き取っている場合があるが、その後どうなったかが描写されることはなく、「家族」と呼べる存在になったかどうかは明確でない。
久保銀造、同窓の友人・[[黒猫亭事件#風間俊六の人物像|風間俊六]]、神門貫太郎という3人のパトロンがおり、彼らの援助に支えられている<ref group="注">横溝の経歴と重なっている。</ref>。風間俊六の愛人である「松月」の女将・おせつは、年下ながら姉のように金田一の世話を焼いてくれている。また、後半居を構えた緑ヶ丘荘の管理人である山崎夫婦も、しばしば金欠になる金田一のために便宜を図っている(『扉の影の女』)。
警察から高い信頼を受けており、ことに「警視庁の古狸」と異名をとる等々力警部は公私共に付き合いのある大親友である。同じく「岡山県警の古狸」と異名をとる磯川警部とも、事件があれば助力を受け合う旧知の仲である。ほか、等々力警部の部下である新井刑事や、アパートの所轄・緑ヶ丘署の島田警部補、筆者の住居の所轄・成城署の山川警部補なども金田一の手腕に一目置いており、複数の作品にたびたび登場している。
元・愚連隊上がりの多門修<ref group="注" name="多門修" />という冒険好きの若者を冤罪から救ったことがあり(『支那扇の女』など)、この多門は金田一を慕って、たびたび捜査の助手を務めている(『雌蛭』には多門六平太という多門修とほぼ同じ経歴の人物が登場しており、同一人物と思われる)。同郷の後輩で「新日報社」社会部の宇津木慎介記者(『女王蜂』)や「毎朝新聞」文化部の宇津木慎策記者(『白と黒』『夜の黒豹』など)<ref group="注">2人の宇津木記者の関係は不明で、単なる同姓の他人という可能性もあるが、同一人物説もある。</ref>は、金田一が必要とする調査を請け負う見返りに特ダネにつながる情報を金田一から提供されるという協力関係にある。
[[#記録者|作者自身をモデルとする作中人物]](「Y先生」などと呼ばれている)とは「耕ちゃん」「先生」と呼び合う仲である。Y先生によると、「私はかれよりさきに生まれているので、そういう意味でかれは私を先生と呼ぶのであって、微塵も私を尊敬していない」のだそうである。またY先生は金田一を「いらまかし男」と呼んでいて、来ると必ず何かしらの不安の影を落としていくので、「私はこの男が大嫌いなのだ」と語っている<ref name="贋作楢山節考">「贋作楢山節考」(『[[暮しと健康]]』、昭和50年1月号)</ref>。
== 記録者 ==
金田一耕助の関わった事件を記録、小説化しているのは、横溝正史自身をモデルとした「Y先生」「S・Y」「成城の先生」などと呼ばれる探偵小説家である。作中にこの作家の実名は一度も登場していない<ref group="注">映像作品では、相当する人物が[[横溝正史#演じた俳優|「横溝正史」という役名で登場]]する場合がある。</ref>。
記録に至る経緯については、第1作の『本陣殺人事件』では、事件の話を聞いて作者が情報を集めて作品化したことが述べられている。『黒猫亭事件』では、その連載を読んだ金田一が作者の元を訪れて小説化を認めるくだりがあり([[黒猫亭事件#作者と金田一耕助]]を参照)、第2作『獄門島』以降は金田一が作者に話すか資料提供したことで作品化されたものとされている。Y自身も作品中にしばしば登場し、事件現場に絡むことすらあった(『女怪』『病院坂の首縊りの家』『白と黒』など)。
また金田一耕助は事件の渦中にいた人物に事件の小説化を勧めることがある。『[[八つ墓村]]』は金田一の勧めで記録を書き始めたという形式であり、『[[三つ首塔]]』『[[夜歩く]]』では未完の記録を完成させるよう金田一が促している。一方、『[[七つの仮面]]』は金田一に真相を看破された作中人物が自殺する前に残した手記という体裁になっており、『[[車井戸はなぜ軋る]]』は主要部分が作中人物から別の作中人物への手紙で構成され、その手紙の宛先人物が金田一に真相を看破されたことを知って、自殺する前に追記を添えて金田一に送付したことになっている。他に『[[蝙蝠と蛞蝓]]』『[[殺人鬼 (横溝正史)|殺人鬼]]』などが作中人物の一人称で語られている。
== 命名・モデル ==
作者・横溝正史のエッセイ『金田一耕助誕生記』によれば、金田一耕助は[[A・A・ミルン]]の探偵小説『[[赤い館の秘密]]』に登場する素人探偵アントニー・ギリンガムの日本人化である。これは金田一初登場作品『本陣殺人事件』でも説明されている。
金田一の風体は、劇作家の[[菊田一夫]]がモデル。『金田一耕助の帰還』でも「一見小柄で貧相だが、うちに大いなる才能を秘めた人物」としてモデルにした旨が記されている。これは、横溝がラジオからの菊田のファンであったためである。横溝は一度だけ若き日の菊田に会っていたが、この時、菊田は洋服姿で、頭ももじゃもじゃではなかった。ちょうどその頃、新聞で[[小島政二郎]]が『花咲く樹』を連載しており、[[岩田専太郎]]の挿絵によるレビュー劇場の座付き作家の姿が「着物に袴」で描かれており、横溝はこのイラストが菊田のイメージとダブっていったと述べている。また、『本陣殺人事件』を連載することになった『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』誌の創刊者にして編集長の作家・[[城昌幸]]が和服の着流しに角帯姿であったため、彼をからかうつもりで、貧相な名探偵を和服姿にした。それだけでは探偵になりにくいため、横溝自身が博文館の編集者時代に和服に袴だった経験を踏まえて、袴をはかせることにした。こうして、菊田一夫・城昌幸・作者自身のイメージの複合体として、金田一耕助の姿が出来あがった。作者の回想によれば、三者の中で、最も飄々としていたのが城昌幸であったということである。<ref>{{Cite | 和書 | last = 横溝 | first = 正史 | authorlink = 横溝正史 | title = 真説 金田一耕助 | series = [[角川文庫]] | publisher = [[角川書店]] | date = 1979-01-05 | page = 68-69}}</ref>
[[江戸川乱歩]]の創出した探偵・[[明智小五郎]]も初期は髪がボサボサで飄々とした風体であったのだが、段々とダンディに変貌していったため「明智が変わってしまったから金田一をやる気になった」との作者の弁がある。また、金田一がもじゃもじゃ頭を掻き回すのは横溝自身の癖を誇張したものだが、菊田一夫も頭髪を引っ掻き回す癖があったという。横溝は「これは偶然の一致だろう」と述べている。
名前も当初は菊田にちなんで「菊田一○○」と付けようとしていたという。だがこれは菊田に失礼であろうし、いくらなんでも実在すまいということで取り止めた。そこで横溝は、疎開前に住んでいた東京・[[吉祥寺]]で[[隣組]]にいた、[[言語学者]]の[[金田一京助]]の[[弟]]・金田一安三(やすぞう)の表札を見たことから、前述の“菊田一”に近い苗字である“金田一”を取り、名前は“京助”を捩って“耕助”と付けた。ところが、横溝は無断借用した形の金田一耕助という名称についても、「紛らわしい名前を使って金田一京助先生がご迷惑しているのではないか」と心苦しい思いをしていた。また、金田一京助とは[[野村胡堂]]の[[通夜]]で同席したものの謝りそこねたうえ、1971年に京助が死去したため、横溝にとって二重のシコリとなっていたという。その後、人づてに京助の子・[[金田一春彦]]から「金田一耕助さんのおかげで世間の皆さんからキンダイチと正確に発音してもらえるようになった、難しい苗字なのでいろいろ読み違えられて困っていた、こちらこそ感謝していると伝えて欲しい」との言葉を貰い、「ほっと安堵の胸をなでおろした」と述懐している<ref>{{Cite | 和書 | last = 横溝 | first = 正史 | authorlink = 横溝正史 | chapter = 金田一耕助誕生記 | title = 金田一耕助の帰還 | publisher = [[出版芸術社]] | isbn = 4-88293-117-6 | date = 1996-05-25 | page = 239-249}}</ref>。
金田一耕助最後の事件となる『病院坂の首縊りの家』には、60歳になる金田一が登場するが、老人と言ってもいい年齢にもかかわらず、30代のように若々しく、白髪もないと描写されている。その風貌に関して、横溝は、三年前に会った城昌幸の印象をそのまま借用に及んだというが、唯一、違っていたのは、当時、城は見事な白髪であったということである。
== 経歴 ==
横溝作品では年月日を計算する際、年齢以外でも「数え」を使うケースが混在する<ref group="注">例として『[[幽霊座]]』では地の文に序盤で「昭和二十七年七月下旬」が現在と記載している(角川2022年版p.14)にもかかわらず、冒頭で過去の歌舞伎役者失踪事件に触れ(角川2022年版p.9)「それは昭和十一年のことだから、いまから十七年のむかしになる」と、昭和11年→1年目、昭和12年→2年目…と数えている。他にも金田一耕助物ではないが『心』(角川文庫では『双生児は囁く』に収録)で、本編部分を「昭和十二年に起こった出来事」と冒頭で記載(角川2005年版p.225)しているが、第1章の最後で「大正五年七月二十六日」を(本編部分から見て)「二十二年前」としている(角川2005年版p.230)、などがある。</ref>。本項では原則「ある時点からこれこれだけ前・後」だけしか年代同定できない場合は満で計算しているが、前述の理由で「何年前・後」という記述は1年ずれている可能性があるため、注意が必要である。
[[1913年]]([[大正]]2年) 数え1歳
*[[東北地方]]に生まれる<ref group="注">『本陣殺人事件』で前書き部分に、「(名前の似ている金田一京助は東北の生まれだが)、耕助も東北の生まれらしい。」と説明がある他、『犬神家の一族』では、金田一本人が、「東北生まれでスキーも得意」と述べている。</ref>。金田一耕助の誕生年について、横溝([[1902年]]([[明治]]35年)生まれ)は、「かれは私より11歳年少である」と述べており<ref name="贋作楢山節考"/>、作品中においては『悪魔の手毬唄』で金田一耕助自身が「昭和七年というとぼくは二十歳」と発言している。金田一の誕生日は不明だが、横溝は読者との座談会で、「金田一は早生まれである」と語っている<ref>「座談会・横溝正史―わが道をゆく」『本の本』1976年6月号</ref>。
[[1931年]]([[昭和]]6年) 数え19歳
*4月、地元の中学を19歳で卒業後、同窓生の風間俊六と共に青雲の志を抱いて上京し、某私立大学{{efn2|[[日本大学]]予科の薬学系という説がある<ref>[[野村宏平|宮下英龍]] 「語られない過去=出生から『本陣殺人事件』まで」『名探偵読本8・金田一耕助』(パシフィカ) 1979年</ref>。}}<ref group="注">[[旧制中学校|旧制]]では中学校卒業後に[[大学予科|大学の予科]]に入ることが可能だった。</ref>に籍を置いて、[[神田 (千代田区)|神田]]あたりの下宿をごろごろしていた(『本陣殺人事件』『黒猫亭事件』)。
**中学時代の先輩の大学生の紹介で歌舞伎役者・佐野川鶴之助の後援会である丹頂会に入会(『幽霊座』)。
**この時期に映画女優・紅葉照子のファンになる(『霧の山荘』)。
<!--*大学入学後、一年もたたぬうちに日本の大学がつまらぬような気がしてふらりと渡米(『本陣殺人事件』)。←これは年を越えた1932年(昭和7年)の1 - 3月ごろっぽい。『悪魔の手毬唄』で1932年(昭和7年)にまだ日本にいた説明あり-->
[[1932年]](昭和7年)以後3年間 数え20 - 23歳
*昭和7年初頭にはまだ日本にいた(『悪魔の手毬唄』<ref group="注">「恨みの『モロッコ』」の章で1932年(昭和7年)の話題になった際、金田一が当時東京で籍だけ置いた大学生だったと説明している。</ref>)
*大学入学後、一年もたたぬうち(=1932年4月以前)に日本の大学がつまらぬような気がしてふらりと渡米(『本陣殺人事件』)。
*渡米先で映画俳優・ジャック安永と知り合う(『女の決闘』)。
*皿洗いなどを経験しながら一時は[[麻薬]]の悪癖に溺れるが、[[サンフランシスコ]]の日本人間での殺人事件を解決する。このとき在留日本人会の席上で出会った[[岡山県]]の果樹園主、久保銀造に学資を援助してもらいカレッジに通う(『本陣殺人事件』)。
*のちの探偵業を念頭に、多少なりとも医学的経験を積んでおきたいと、夜間は病院に勤務して看護夫の見習いを務めている(『獄門島』)。
[[1935年]](昭和10年) 数え23歳
*カレッジを卒業して帰国。久保銀造に無心して5千円(当時の相場参考:国鉄初乗り5銭、銭湯7銭)の援助を受けて東京に探偵事務所を開設。開設後半年ほどは依頼人もなく商売にならなかったようだが、やがて立て続けに大きな事件を解決して、“名探偵・金田一耕助”の名を世に知らしめた(『本陣殺人事件』)。
*この時期に同窓生だった風間俊六と再会している(『黒猫亭事件』)。
[[1936年]](昭和11年) 数え24歳
*8月25日、稲妻座の歌舞伎役者失踪事件(『幽霊座』)。
[[1937年]](昭和12年) 数え25歳
*11月27日 - 29日、『[[本陣殺人事件]]』を解決。
*:この事件で岡山県警の磯川常次郎警部と知り合う。
[[1940年]](昭和15年) 数え28歳
*[[召集|応召]]して[[中国]]へ(『獄門島』)。
[[1942年]](昭和17年) 数え30歳
*転戦を重ね、[[ニューギニア]]の[[ウェワク]]まで南下。部隊が全滅に等しい打撃を受けて敗走。他の部隊との再編成によって、川地謙三、鬼頭千万太と知り合う(『百日紅の下にて』『獄門島』)。
*:戦友たちの爆死体や病死体を常に注意深く見守り、死後硬直の状態について勘を鋭くし、復員後の探偵業に生かしている(『獄門島』)。
[[1943年]](昭和18年) 数え31歳
*ウェワクの前線に部隊が取り残され、本年以降戦闘は全く無く、金田一の部隊は熱病と栄養失調の中、孤立状態に陥る(『獄門島』)。
[[1945年]](昭和20年) 数え33歳
*8月15日、ウェワクで終戦を迎える(『獄門島』)。
[[1946年]](昭和21年) 数え34歳
*復員。まず戦友に依頼された事件の解決に向かう。
*9月初旬『[[百日紅の下にて]]』
*9月下旬 - 10月上旬『[[獄門島]]』
*:事件解決後、鬼頭早苗に「獄門島を出て一緒に東京へ行こう」と申し込むが断られる。
*獄門島からの帰途、岡山の探偵作家・Yを訪ね、伝記作家として親交を持つ(『黒猫亭事件』)。
*10 - 11月ごろ『[[車井戸はなぜ軋る]]』
*東京へ帰る汽車の中で風間俊六と再会(『黒猫亭事件』)。
*京橋裏(銀座裏)の三角ビル5階に「金田一耕助探偵事務所」を開設する(『黒蘭姫』)。
*11月中旬『[[黒蘭姫]]』
*年末ごろ(あるいは翌年)『[[蝙蝠と蛞蝓]]』<ref group="注">作品中に年月日の記述はないが、湯浅が自分の部屋を刑事に調べられた際に「[[日本国憲法|新憲法]]の精神に反する」と主張したことや、山名が実家について「[[農地改革]]と[[財産税法|財産税]]」でだめと発言したことなどから、それぞれの憲法や法律の公布時期(日本国憲法→1946年(昭和21年)11月3日、自作農創設特別措置法→1946年(昭和21年)10月21日、財産税法→1946年(昭和21年)11月11日)以後に限定される。また「3年前」に引っ越してきたお繁が「戦争中はたいそう景気が良かった」と湯浅が説明していることから、1948年(昭和23年)8月よりかなり以前だと推定できる。</ref>
[[1947年]](昭和22年) 数え35歳
*3か月ばかりで事務所を閉めてしまい、風間の二号(愛人)節子の営む大森の割烹旅館「松月」の離れに転がり込む(『女怪』)。
*3月下旬『[[暗闇の中の猫]](原題「暗闇の中にひそむ猫」)』
*:この事件で[[警視庁]]の等々力大志警部と知り合う?(他の作品での設定との矛盾あり、[[#語られざる事件]]の項を参照)
*3月26日、28日 - 30日『[[黒猫亭事件]](原題「黒猫」)』
*4月中旬 - 26日『[[殺人鬼 (横溝正史)|殺人鬼]]』
*9月28日 - 10月11日『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』
[[1948年]](昭和23年) 数え36歳
*5月5日 - 9日『[[夜歩く]]』
*5月中旬 - 9月初旬『[[八つ墓村]]』<ref group="注">単行本では初刊本から通常「昭和二十×年」と伏字になっているが、雑誌連載時は「昭和二十三年」と記載があった(後述の出版芸術社の「横溝正史自選集」などでは連載時仕様に戻されている)。変更理由は同じく伏字(大正×年)にされた「二十六年前」の要蔵の凶行(1923年(大正12年))と年数が合わなくなるためと考えられている(『横溝正史自選集3 八つ墓村』出版芸術社、2007年、ISBN 978-4-88293-316-8、p.381「解説」)。ただし、単行本で年代の再設定がされたわけではなく、修正後も「尋ね人」の章で1922年(大正11年)生まれの辰也の年齢、復員してからの経緯の記述で事件の年は1948年(昭和23年)と分かる。</ref>
*:事件解決後、岡山県警に立ち寄った際に『[[死仮面]]』の冒頭の告白書を読む。
*『八つ墓村』事件で多額の報酬をふところにした金田一耕助は、探偵作家・Yと伊豆へ旅行する(『女怪』)。
*10月中旬、銀座裏の三角ビルにある金田一探偵事務所に『死仮面』の関係者が来訪する。
*10月下旬 - 11月3日『死仮面』
*9月初旬、10月初旬・中旬、12月、翌年1月『[[女怪]]』
*:持田虹子に懸想するものの、虹子は自殺。
[[1949年]](昭和24年) 数え37歳
*『女怪』事件で受けた失恋の痛手で、1か月ほど北海道を放浪する。
*秋『[[人面瘡 (小説)|人面瘡]]』
*10月18日 - 12月15日『[[犬神家の一族]]』
*11月5日 - 8日『[[鴉 (横溝正史)|鴉]]』<ref group="注">舞台の温泉地を訪れた当日、磯川警部が以前ここであった失踪事件が「三年前の明日」で「昭和二十一年十一月六日」のことであると最初の方で説明している。</ref>
[[1950年]](昭和25年) 数え38歳
*8月30日『大迷宮』(「黒めがねの少年」-「No.1」まで)<ref group="注">冒頭で8月23日に立花滋が軽井沢に来て、それから6日後に事件に遭遇。翌々日に金田一に相談という記述がある。年の記載はないが「滋君が去年の夏、軽井沢へ行ったとき」と地の文で何度も言っており、連載時(1951年)の前年という意味のようである。少なくとも金田一耕助が鬼丸太郎失踪事件を「今から10年ほど前」で「その後戦争が起きた」と説明していることと(「船から消えた男」)、中学が新制になっている説明(「黒めがねの少年」)より、1947年(新制開始)から1951年(開戦から10年後)の間であるのは確かである。</ref><ref group="注" name="リライト版の相違">横溝正史のジュブナイル物は後に朝日ソノラマで出た際に内容がかなり書き直されており、特に「満州で」「空襲で」「戦後何年」「新制中学」といった時代を感じさせる記述がなくなって、連載当時なかった新幹線やテレビなどが登場しているものが多い。角川文庫版もこのリライト版を載せてあるため、これらの年代の判定は原則として連載時準拠の柏書房『横溝正史少年小説コレクション』(2021年)を使用している。</ref>
*:立花滋・謙三から怪事件の相談を受けるが、この時は住人消失トリックの解明と鍵(文字通りの鍵)を見つけただけで終わる。
*10月18日 - 20日、11月25日『[[迷路荘の惨劇]]』{{efn2|「昭和25年10月18日」に金田一耕助がやってきたことが序盤に記述されている。ただし、捜査主任の田原警部補が登場時に、翌年に起きたはずの『女王蜂』の事件で金田一と知り合っている趣旨の説明がある。これは後年『女王蜂』発表後に『迷路荘』の書き直しがあり、その際に田原警部補を登場させたことによるもの(『迷路荘の惨劇』は最初短編作品の『迷路荘の怪人』として発表され、その後同じタイトルで中編に、さらに『迷路荘の惨劇』と題を改めて長編になっている。いずれも舞台年は「昭和25年」で、田原警部補は中編版から登場し、この時点で「(田原警部補については)『女王蜂』参照」の説明がある<ref name="浜田知明">浜田知明、横溝正史探偵小説コレクション4『迷路荘の怪人』、出版芸術社、2012年、ISBN 978-4-88293-423-3、p.136。</ref>。)。}}
[[1951年]](昭和26年) 数え39歳
*3月下旬『仮面城』<ref group="注">登場人物が現在を「戦争がおわって六年」と表現する場面がある(「ダイヤのキング」の章)。月は物語冒頭で「春のお休み」とある(「たずねびと」の章)。</ref><ref group="注" name="リライト版の相違"/>
*:事件後、戸籍のない三太少年を引き取り、少年探偵として育て始める<ref group="注">三太少年は当時13歳の竹田文彦(この話の主人公)と「同じ年頃の少年」と顔を見られたときに言われるが、空襲による記憶喪失のため明確ではない。</ref><ref group="注" name="リライト版の相違"/>。
*4月上旬『大迷宮』(「面をかう人たち」以後){{efn2|「面をかう人たち」の章の最初の方で立花滋が新制中学2年に進級し、「その春休みの、四月のはじめ」という説明がある。}}<ref group="注" name="リライト版の相違"/>
*5月上旬、17日 - 31日、6月6日 - 中旬『[[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]]』<ref group="注">冒頭で大道寺智子の18歳の誕生日が「昭和二十六年五月二十五日」であると記述、少し後に金田一が同年5月上旬に依頼を受けた説明がある。</ref>
*夏の初め頃『金色の魔術師』{{efn2|『大迷宮』から矢継ぎ早に起きた事件と物語冒頭に記述。月についての記載はないが東京が舞台で、(午後)6時過ぎからしばらくたった場面で「日が暮れかけている」という描写(「ちゅうに浮く首」の章)と、冒頭部で登校の場面があるので、夏だが夏休みではない頃である。}}
*:物語前半では金田一は関西の海辺で療養中で、立花滋たちから手紙で報告を受け返信で指示を出している。
*7月下旬『燈台島の怪』{{efn2|冒頭部で「昭和二十六年七月下旬」と記述。}}<ref group="注" name="リライト版の相違"/>
*9月前半、10月中旬『黄金の指紋(原題「皇帝の燭台」)』<ref group="注">本文中「戦後5年間寝込んで昨年亡くなった」という人の話が出てくる(「燭台の由来」)、月日は冒頭の岡山での沈没事件が8月25日と何度も記述、その後「1週間ほどのち」に主人公の郁雄が東京に戻ってから金田一が登場し、13日(注:ただし1951年9月13日は木曜日であるが、本文では怪獣男爵からの手紙に「13日の金曜日」とある。なお、同年から一番近い9月13日の金曜日は1946年にある)に怪獣男爵と対決、それから1か月後に関係者を集めて最後の謎解きをする</ref><ref group="注" name="リライト版の相違"/>
[[1952年]](昭和27年) 数え40歳
*7月下旬 - 8月2日『[[幽霊座]]』<ref group="注">序盤で「昭和二十七年七月下旬」と記載。</ref>
*10月17日 - 18日『[[湖泥]]』<ref group="注">年代は劇中出てこないが、舞台の村の先代村長が「[[レッドパージ|パージ]]で追放された」という説明があるので1950年(昭和25年)以後であることは確実である。</ref>
*11月6日、20日、翌年1月10日『[[睡れる花嫁]](原題「妖獣」)』<ref group="注">冒頭で「昭和二十七年十一月五日」と説明があり、死体発見の報を聞いて翌日の「十一月六日(中略)朝十時ごろ」に耕助がやってくる(第4章)。第2の死体発見が「(十一月)二十日の朝」(第6章)でその晩に耕助が訪問(第7章)、最後に年を越え「一月十日」に耕助が調査の報告をしに捜査一課に来る(第8章)。</ref>
[[1953年]](昭和28年) 数え41歳
*1月『黄金の花びら』
*6月9日、中旬『[[花園の悪魔]]』
*7月15日 - 27日、9月上旬『[[不死蝶 (小説)|不死蝶]]』
*8月21日、29日、9月4日、7日、20日、21日『[[病院坂の首縊りの家]]』(前半部。「生首風鈴事件」の発生と迷宮入りまで。)
*:「[[#記録者|成城の先生]]」と事件現場を共にする。
*9月3日、15日『生ける死仮面』
[[1954年]](昭和29年) 数え42歳
*3月24日、25日、4月25日、5月3日 - 下旬『[[幽霊男]]』<ref group="注">『吸血蛾』の「一人の欠席者」の章で「ミモザの三橋絹子が金田一耕助に助けられた話」が出てくるため、『吸血蛾』の少し前のことであるとわかる。</ref>
*5月12日、24日、28日『堕ちたる天女』
*5月末『[[廃園の鬼]]』
*6月中旬 - 10月中旬『迷路の花嫁』<ref group="注">終盤で新井刑事による「今から二十五年まえ、昭和四年のこと」という説明より。ただし、新井刑事は最初の方である場所を捜査した時期を「(5月26日の)事件から4日目、5月29日のこと」と数えで日数をカウントしている場面があるので、1953年(昭和28年)の可能性もある。</ref>
*8月下旬『[[蜃気楼島の情熱]]』
*10月23日、24日『[[首 (横溝正史)|首]]』
[[1955年]](昭和30年) 数え43歳
*7月25日 - 8月24日、9月21日『[[悪魔の手毬唄]]』
*10月3日、16日、30日、11月3日、8日、翌年2月中旬『[[三つ首塔]]』<ref group="注">『三つ首塔』の年代について[[中島河太郎]]は1953年(昭和28年)説を挙げている(角川文庫『華やかな野獣』解説)。</ref>
*10月25日、26日、12月15日、翌年1月中旬・下旬『[[吸血蛾]]』<ref group="注">本編中には月日のみ記載されており、冒頭部の狼男の林檎が贈られるのが10月5日(「恐ろしい発見」)、年を越えた終盤で1月19日とあり(「血の群像」)最終盤の日付は不明。年については「救いの手?」の章に「昭和三十×年」と伏せられている。ただし、浅茅文代が服飾の勉強のためにパリに行き、1953年に帰国してすぐに売れっ子になったという説明(「無国籍者」)と、一昨年の秋に(日本の)コンクール優勝した説明(「虹の会」)から、1955年(昭和30年)初頭であることは確定。</ref>
[[1956年]](昭和31年) 数え44歳
*3月5日 - 中旬『[[蝋美人]]』
*3月8日、15日『[[毒の矢]]』<ref group="注">『黒い翼』の第8章に「つい最近、『毒の矢』の一件で」と触れているので『黒い翼』の直前にあった事件である。</ref>
*3月中旬、4月5日『[[黒い翼]]』<ref group="注">年は第4章で「昭和20年生まれは今年で数え12歳」という主旨の説明あり。</ref>
*3月下旬、4月中旬・下旬『[[死神の矢]]』
*夏に『[[猟奇の始末書]]』
*7月29日、30日『[[夢の中の女]]』
*8月初旬 - 下旬『[[鏡が浦の殺人]]』
*8月末『[[傘の中の女]]』『[[七つの仮面]]』
*秋に『[[華やかな野獣]]』<ref group="注">本編内で今現在が何年か明記はないが、冒頭の「昭和二十九年の秋」に父親が死んで娘が屋敷を相続した説明(「吉田御殿」)などの記述から、中島河太郎は「昭和31年の事件と推定される」としている(角川文庫『華やかな野獣』解説)。季節は本文中で複数の人間がセーターを着ている描写があるが、[[本牧]]の海を泳ぐことが可能な程度の温度の時期。</ref>
*11月7日、12月10日『[[霧の中の女]]』
*11月24日 - 30日、12月5日『[[トランプ台上の首]]』
*秋から12月20日 - 26日、翌年1月末『[[女の決闘 (横溝正史)|女の決闘]](原題「憑かれた女」)』
[[1957年]](昭和32年) 数え45歳
*1月中旬、「松月」の離れから世田谷区緑ヶ丘町の高級アパート・緑ヶ丘荘の二階三号室に転居する{{efn2|元々は『悪魔の降誕祭』内で『毒の矢』や『黒い翼』事件をきっかけにここに引っ越したという説明があった(原型版第3章)。1958年(昭和33年)7月に単行本化された際に3倍ほどに引き伸ばされてもこの記述は維持されたが、1970年(昭和45年)の全集収録時に削られた<ref>出版芸術社『金田一耕助の新冒険』1996年、ISBN 4-88293-118-4、p.251 原田知明「作品解説」。</ref>。}}。
*3月2日、4日 - 上旬『[[泥の中の女]](原題「泥の中の顔」)』
*3月20日、25日『[[洞の中の女]]』
*4月5日、12日、5月5日『[[鞄の中の女]]』
*5月上旬、16日、18日『[[鏡の中の女 (横溝正史)|鏡の中の女]]』
*5月7日 - 15日、31日、6月15日 - 17日『[[魔女の暦]]』
*6月上旬『[[貸しボート十三号]]』
*7月末 - 8月6日『[[赤の中の女]]』
*8月20日 - 25日、9月18日、20日、10月上旬『[[支那扇の女]]』
*10月5日 - 12日、18日、23日、25日 - 28日以後『[[迷宮の扉]]』{{efn2|開始は序盤の「誕生日の使者」の章で「昭和三十二年十月五日」と記述。終盤の日付ははっきりしないが「十月二十五日」に殺人事件が発生(「侵入者」の章)まで日付が記述され、その被害者の葬式の3日後に真相解明をしている(「遺言状開封」と「上海ジム」の章でそれぞれ1日経過、「天じょう裏の怪人」の章で夜の12時をまたいでいる)。}}<!--手元の柏書房版では冒頭部で「昭和三十三年げんざい」という表現があるが、「密書」の章で遺書の日付が「昭和三十二年十月十日」。--><ref group="注" name="リライト版の相違"/>
*秋に『[[檻の中の女]]』
*12月20日、25日、翌年1月下旬『[[悪魔の降誕祭]]』
[[1958年]](昭和33年) 数え46歳
*3月18日、25日『[[柩の中の女]]』
*5月19日 - 21日、28日『[[火の十字架]]』
*5月25日『[[薔薇の別荘]]』
*5月28日『[[瞳の中の女]]』
*6月29日、7月25日、26日、8月15日、16日、9月4日、5日、10日、18日、10月下旬『[[悪魔の寵児]]』
*8月16日、17日『[[香水心中]]』
*9月中旬『[[霧の山荘]]』
[[1959年]](昭和34年) 数え47歳
*3月上旬 - 4月上旬は関西方面(上方のほう)へ(『[[スペードの女王 (横溝正史)|スペードの女王]]』<ref group="注" name="hasseinen" />{{efn2|name="劇中年代変更点"|これらの原型短編と長編化の年設定変更点について。
* 『壺の中の女』不明(緑ヶ丘荘時代ということのみ)→『壺中美人』1957年(昭和32年)(「楊祭典」の章で「大正3年(1914年)に数え7歳の人が現在50歳以上」「昭和20年(1945年)に8歳(戸籍上の年齢の話なので満)の人が今年20歳前」という説明より)
* 『ハートのクィン』昭和30年代前半(冒頭で今年で70歳だった男が戦後間もないころに60前後という説明)→『スペードの女王』1954年(昭和29年)(冒頭に記述)
* 『扉の中の女』不明(緑ヶ丘荘時代ということのみ)→『扉の影の女』1955年(昭和30年)(冒頭に記述)<ref>短編3作は出版芸術社の『金田一耕助の帰還』 (ISBN 978-4-88293-117-1)と『金田一耕助の新冒険』({{ISBN2|4-88293-118-4}})より、長編3作は角川文庫の該当作品単行本2021 - 2022年版より。</ref>}}{{efn2|『スペードの女王』の「深夜の闘い」の章で、島田警部補が金田一と設定年代が後の『毒の矢』や『黒い翼』で出会った説明があるが、これは原型作品『ハートのクィン』の改稿時に付け加えられた説明である<ref name="浜田知明"/>。}}
*4月5日、26日 - 28日『[[壺中美人]]』{{efn2|name="hasseinen"|『壺中美人』『スペードの女王』『扉の影の女』の3作品はいずれも改稿長編化に際して事件発生年が1954年(昭和29年)または1955年(昭和30年)と記述されたものである。これは金田一が年齢を重ねることを嫌って全ての事件を1960年(昭和35年)以前とするために、事件発生年を繰り上げたものと考えられている<ref>{{Cite | 和書 | last = 浜田 | first = 知明 | chapter = 解説 | title = 横溝正史自選集7 | isbn = 978-4-88293-324-3 | page = 407}}</ref>。しかし、これを認めると他の作品群での設定と著しい矛盾が生じて収拾がつかなくなるため、金田一の年譜を作成する場合にはこの「繰り上げ」を元に戻すべきとする考えがある。戻すべき年の選択について積極的な根拠は無いが、この3作品については1959年(昭和34年)とする説があり<ref>たとえば、宝島社『別冊宝島 僕たちの好きな金田一耕助』 ISBN 978-4-7966-5572-9 金田一耕助登場全77作品 完全解説。<!--- 言及に値する他の事例を具体的に御存知の方は追記をお願いします ---></ref>、本ページはこの説に従っておく。}}<ref group="注" name="劇中年代変更点"/>
*7月25日、26日、8月5日『スペードの女王』
*12月22日 - 24日、28日『[[扉の影の女]](原題「扉の中の女」)』<ref group="注" name="hasseinen" /><ref group="注" name="劇中年代変更点"/>
[[1960年]](昭和35年) 数え48歳
*6月5日、8日『[[猫館]]』
*6月22日 - 25日、7月22日、8月12日『[[悪魔の百唇譜]]』
*8月5日、7日、9日、15日『[[雌蛭]]』
*8月14日 - 16日『[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]』
*9月27日、10月1日、11月3日『[[日時計の中の女]]』<ref group="注">本編中に、1953年(昭和28年)に起きたことから「七年以上たっている」と説明あり。</ref>
*10月11日、30日 - 11月1日、4日、6日『[[白と黒 (横溝正史)|白と黒]]』
*11月25日、26日、12月3日、5日、6日、24日 - 27日、翌年1月23日、24日『[[夜の黒豹]](原題「青蜥蜴」)』
[[1961年]](昭和36年) 数え49歳
*2月19日、23日『[[蝙蝠男 (横溝正史)|蝙蝠男]]』
[[1967年]](昭和42年) 数え55歳
*6月23日 - 7月14日『[[悪霊島]]』
[[1973年]](昭和48年) 数え61歳
*最後の事件『[[病院坂の首縊りの家]]』4月1日、8日 - 15日、23日、30日解決(後半部。ジャズ・コンボ「アングリー・パイレーツ(怒れる海賊たち)」および、本條写真館にまつわる連続殺人事件と昭和28年に起こった「生首風鈴事件」の真相を明らかにする。)。
*:事件解決後[[ロサンゼルス]]へ。関係者が八方手を尽くして捜したが消息不明であった。
[[1975年]](昭和50年) 数え63歳
*帰国<ref name="横溝正史読本">[[小林信彦]] 『横溝正史読本』 角川グループパブリッシング 2008年 (ISBN 4041-3821-65)</ref>。
*:横溝本人の語るところによれば、余生は日本で送ったようだ<ref name="横溝正史読本"/>。
=== 語られざる事件 ===
*サンフランシスコの日本人間で起きた、危うく迷宮入りをしそうになった奇怪な殺人事件(『本陣殺人事件』第8章より)。
*:[[芦辺拓]]が『《ホテル・ミカド》の殺人』として、また[[琴代智]]が『桑港の幻』として小説化している。また[[稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ]]のテレビドラマでも『だれも知らない金田一耕助』として描かれている。
*全国を騒がせていた某重大事件(『本陣殺人事件』第8章より)。
*佐野川鶴之助がアメリカから帰った金田一に電話をかけてくるきっかけになった、新聞に名前が出た件。具体的な特定の事件でない可能性がある(『幽霊座』第3章より)。
*佐野川鶴之助が謎解きを挑戦してくるきっかけになった、成功した2、3の事件(『幽霊座』第3章より)。
*1937年(昭和12年)、大阪で起きたむつかしい事件(『本陣殺人事件』第8章より)。
*:芦辺拓が『明智小五郎対金田一耕助』として小説化している。
*1937、8年(昭和12、3年)ころ、等々力警部と知り合うきっかけとなった、警部が持てあましていた事件(『悪魔が来りて笛を吹く』第7章より)。
*:この事件で等々力警部と知り合ったとされるが、『[[暗闇の中の猫]]』では1947年(昭和22年)にはじめて出会ったことになっている(ただし、同作は双子のタップダンサー夏彦・冬彦の事件簿『双生児は踊る』の改稿作のため、後付けによる誤謬の可能性が高い)。なお、1946年(昭和21年)の『[[黒蘭姫]]』では金田一が犯人の自殺を制止した直後に等々力警部が身柄を確保しているので、両者が互いを認識できる距離にいたことは確実である。しかし、それ以上には明確な描写が無いため、両者の面識の有無は判断できない。
*1948年(昭和23年)、八つ墓村から帰京後山積していた用事(「事件」ではないかもしれない)(『死仮面』より)。
*いままでに2、3度扱った夢遊病者に関する事件。夢遊病者をてらった事件もあった(『人面瘡』第1章より)。
*:『死仮面』の事件が意識されているかどうかは不明。「夢遊病者をてらった事件」は『夜歩く』の事件を指している可能性がある。『不死蝶』『支那扇の女』は『人面瘡』より後の事件なので設定上は該当しないことになるが、『人面瘡』が金田一ものに改稿されたのはこれらの作品の発表より後である。
*夢中遊行の話を聞いた事件(『悪魔の降誕祭』より)。
*:『夜歩く』『不死蝶』『支那扇の女』などが該当する。なお、『悪魔の降誕祭』では「現行を目撃するのはいまはじめて」と記述されている。設定上先行する『死仮面』『人面瘡』では自身で目撃しているが、『死仮面』は「忘れられていた作品」であり、『人面瘡』は『悪魔の降誕祭』発表以後に金田一ものに改稿されたものである。
*1949年(昭和24年)ごろ、東京で起きたむつかしい事件。およびその事件を解決後、訪れた岡山で待ち構えていた厄介千万な殺人事件(『人面瘡』第1章より)。
*:東京の事件を『悪魔が来りて笛を吹く』、その解決後の岡山の事件を『[[夜歩く]]』と『[[八つ墓村]]』の事件であるとする説もある。
*1949年(昭和24年)、『犬神家の一族』事件の直前にひっかかっていて大急ぎで片付けた事件。
*『不死蝶』事件の依頼者・矢部杢衛に金田一を紹介した人物が関係した、かつて信州で手がけた事件。
*:『犬神家の一族』事件である可能性も考えられるが、明記されていない。
*劇評家・佐藤亀雄にあうことになった、芝居のことでの調査(「事件」ではないかもしれない)(『幽霊座』第4章より)。
*:佐藤亀雄のモデルは[[安藤鶴夫]]。横溝正史が『幽霊座』執筆の際、鯉つかみの仕掛けについて安藤より教示を得たことに対する謝辞として、作中に登場させたものであろう。
*畔柳博士に二三度法医学上の意見を求めた事件(『蝋美人』第1章より)。
*三芳欣造の友人にあたる芸術家を救った事件(『毒の矢』第1章より)。
*古館博士と接触をもって解決に協力した、あるむつかしい事件(『死神の矢』第1章より)。
*リップリーディングの技術を身につけた増本克子の協力を仰いだ、いつかの事件(『鏡の中の女』第1章より)。
*神門一族の冤罪事件(『貸しボート十三号』第12章より)。
*:執筆予定だった『女の墓を洗え』が該当するとの説もある。
*武蔵野署の服部警部補といっしょにした仕事(『支那扇の女』第13章より)。
*多門修が犯人に仕立て上げられるところを助けた事件(『支那扇の女』第15章より)。
*多門六平太があやうく犯人に仕立てられるところを金田一に救われた殺人事件(『雌蛭』より)。
*:多門修と多門六平太を同一人物とする説があり、その場合には上の2つは同一事件となる。
*密輸団のボス・上海ジムが3人を殺害した容疑で有罪になりかけたところを、金田一の働きで意外な人物が真犯人として逮捕され、無実の罪が晴れた事件(『迷宮の扉』「上海ジム」の章より)。
*刺青の第一人者・彫亀(坂口亀三郎)に鑑定の出馬をあおいだ、ある重大事件(『スペードの女王』第1章より)。
*:{{要出典範囲|この事件を『[[三つ首塔]]』とする説もある。|date=2015年10月}}
*バーの女給・ハルヨを助けた事件(『扉の影の女』第1章より)<ref group="注">『扉の影の女』の原型作品『扉の中の女』でハルヨに相当するのは『渦の中の女』(および改稿作品『白と黒』)に登場するハルミこと緒方(須藤)順子であるが、長編化に際して別人に変更されたため「語られざる事件」になった。</ref>。
*まえに取り扱ったことがある色盲者の事件(『仮面舞踏会』第26章より)。
*1950年(昭和25年)、神戸の王文詳を助けた事件(『悪魔の百唇譜』第12章より)。
*1950年(昭和25年)秋ごろから翌年にかけて、タンポポ・サーカスの行方を捜しているころに他に控えていた忙しい事件(『大迷宮』「面をかう人たち」の章より)。
*:時期的には『迷路荘の惨劇』『仮面城』などの事件が該当する。
*1951年(昭和26年)、『女王蜂』事件の直前に2つ3つ立て続けに片付けた厄介な事件。
*:時期的には『仮面城』『大迷宮』などのジュヴナイル作品の事件が該当する。
*1952年(昭和27年)、相馬良作を救った事件(『夜の黒豹』より)。
*1952年(昭和27年)、『湖泥』事件の直前に大阪まで来た用件(「事件」ではないかもしれない)。
*1953年(昭和28年)、『不死蝶』事件の直前に片付けた、むつかしい事件。
*1953年(昭和28年)、金田一のアドバイスが決め手となって9月20日に解決した高輪署管轄内の殺人事件(『病院坂の首縊りの家』暗中模索の章より)。
*1954年(昭和29年)、『廃園の鬼』事件の直前に東京で立て続けに2つほど片付けた厄介な事件。
*:時期的には『幽霊男』『堕ちたる天女』の事件が該当する。
*1954年(昭和29年)、『迷路の花嫁』事件の最中に金田一が関わっていた「手の抜けない用件」。
*1954年(昭和29年)、『首』事件の直前に思いのほか早く片付いた大阪のほうの事件。
*銀座の百貨店で鳳千景の遺作展があったことを憶えている理由になった、1955年(昭和30年)のちょっとした事件(『仮面舞踏会』第19章より)。
*1957年(昭和32年)、帰途に『檻の中の女』事件に遭遇した、江東方面の川筋でのヒロポン密造関係の捕り物。
*1957年(昭和32年)12月、だいたいの目鼻がついてから戻って対応しようとしたために『悪魔の降誕祭』事件の依頼者を緑ヶ丘荘で殺害されてしまった、等々力警部が持ってきた事件。
*1958年(昭和33年)、ヒロポン中毒の少年の告白を聞いた件(「事件」ではないかもしれない)(『扉の影の女』第15章より)。
*1958年(昭和33年)<ref group="注">作中で金田一が「一昨年」と言っていることからの推算。</ref>、考古学的な知識を必要とし、的場英明の教示を得た事件(『仮面舞踏会』第3章、第16章より)。
*1958年(昭和33年)、『香水心中』事件の依頼を受けたときに少し残っていた仕事(「事件」ではないかもしれない)。
*1959年(昭和34年)、「彫亀」が事故死した前後の1箇月ほど上方のほうへ行っていた件(「事件」ではないかもしれない)(『スペードの女王』第1章より)。
*1959年(昭和34年)、『スペードの女王』事件の直前に関西のほうで片付けた相当やっかいな事件。
*:以上2件は関連している可能性が考えられるが、明確には示されていない。
*1960年(昭和35年)6月、等々力警部に相談に乗ってもらいたかった件(「事件」ではないかもしれない)(『猫館』より)。
*1960年(昭和35年)、『悪魔の百唇譜』事件に関わる数日前に片付けた厄介な事件。
*1960年(昭和35年)9月、『日時計の中の女』事件への対応が遅れる原因になった、当時忙殺されていた事件。
*1968年(昭和43年)、等々力警部が検挙した容疑者に金田一耕助が疑問を持ち、ライバルとなって捜査に乗り出した事件(『女の墓を洗え』として執筆予定だったとのこと)。
*1969年(昭和44年)、岡山・東京にまたがる大事件。磯川警部と等々力警部が協力(『千社札殺人事件』として執筆予定だったとのこと)。
*1973年(昭和48年)、本條直吉の訪問を受ける直前に解決した難事件(『病院坂の首縊りの家』第2部転生の章より)。
== 登場作品リスト ==
1971年から1984年にかけて[[角川文庫]]は[[横溝正史#角川文庫|横溝正史作品の網羅を目標とする刊行]]を行っており、このとき収録された金田一耕助登場作品はジュヴナイル作品を除いて77作であった。以下に「長編」「短編」として列挙したのはこの77作である。[[#金田一が登場しない原型作品|金田一が登場しない原型作品]]については、年代や状況の設定およびストーリー展開を大きく変えていないもののみ記載している。なお、「長編」と「短編」の区分は論者によって差異がある。たとえば『死仮面』は長編に含めない場合があり、『毒の矢』『悪魔の降誕祭』は長編に含める場合がある。
=== 長編 ===
*[[本陣殺人事件]](『宝石』1946年4月号 - 12月号)
*[[獄門島]](『宝石』1947年1月号 - 1948年10月号)
*[[夜歩く]](『男女』(『大衆小説界』)1948年2月号 - 1949年12月号)
*[[八つ墓村]](『新青年』1949年3月号 - 『宝石』1951年1月号)
*[[死仮面]](『物語』1949年5月号 - 12月号)
*[[犬神家の一族]](『キング』1950年1月号 - 1951年5月号)
*[[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]](『キング』1951年6月号 - 1952年5月号)
*[[悪魔が来りて笛を吹く]](『宝石』1951年11月号 - 1953年11月号)
*[[不死蝶 (小説)|不死蝶]](『平凡』1953年6月号 - 11月号、1958年3月に長編化)
*[[幽霊男]](『講談倶楽部』1954年1月号 - 10月号)
*[[迷路の花嫁]](『いはらき』1954年4月24日号 - 9月29日号)
*[[三つ首塔]](『小説倶楽部』1955年1月号 - 12月号)
*[[吸血蛾]](『講談倶楽部』1955年1月号 - 12月号)
*[[死神の矢]](『面白倶楽部』1956年3月号、1956年5月に長編化)
*[[魔女の暦]](『小説倶楽部』1956年5月号、1958年8月に長編化)
*[[迷路荘の惨劇]](『オール讀物』1956年8月号、原題『迷路荘の怪人』を1975年5月に長編化)
*[[悪魔の手毬唄]](『宝石』1957年8月号 - 1959年1月号)
*[[壺中美人]](『週刊東京』1957年9月21日号 - 9月27日号、原題『壺の中の女』を1960年9月に長編化)
*[[支那扇の女]](『太陽』1957年12月号、1960年7月に改稿)
*[[扉の影の女]](『週刊東京』1957年12月14日号 - 12月28日号、原題『扉の中の女』を1961年1月に長編化)
*[[スペードの女王 (横溝正史)|スペードの女王]](『大衆読物』1958年6月号、原題『ハートのクイン』を1960年6月に長編化)
*[[悪魔の寵児]](『面白倶楽部』1958年7月号 - 1959年7月号)
*[[白と黒 (横溝正史)|白と黒]](『日刊スポーツ』ほか共同通信系各新聞 1960年11月 - 1961年12月)<ref group="注">複雑な改稿経緯を経て長編として完結した形態の初出情報。</ref>
*[[悪魔の百唇譜]](『推理ストーリー』1962年1月号、原題『百唇譜』を1962年10月に長編化)
*[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]](『宝石』1962年7月号 - 1963年2月号で中絶、1974年に書き下ろし)
*[[夜の黒豹]](『推理ストーリー』1963年3月号、原題『青蜥蜴』を1964年8月に長編化)
*[[病院坂の首縊りの家]](『野性時代』1975年12月号 - 1977年9月号)
*[[悪霊島]](『野性時代』1978年7月号 - 1980年3月号)
=== 短編 ===
*[[暗闇の中の猫]](『漫画と読み物』1947年3月号 - 6月号、原題『双生児は踊る』を『オール小説』1956年5月号で金田一ものの『暗闇の中にひそむ猫』に改稿)
*[[蝙蝠と蛞蝓]](『ロック』1947年9月号)
*[[殺人鬼 (横溝正史)|殺人鬼]](『りべらる』1947年12月号 - 1948年2月号)
*[[黒猫亭事件]](『小説』1947年12月号、原題『黒猫』)
*[[黒蘭姫]](『読物時事』1948年1月号 - 3月号)
*[[車井戸はなぜ軋る]](『読物春秋』1949年1月増刊号、1955年5月に金田一ものに改稿)
*[[人面瘡 (小説)|人面瘡]](『講談倶楽部』1949年12月号、1960年7月に金田一ものに改稿)
*[[女怪]](『オール讀物』1950年9月号)
*[[百日紅の下にて]](『改造』1951年1月増刊号)
*[[鴉 (横溝正史)|鴉]](『オール讀物』1951年7月号)
*[[幽霊座]](『面白倶楽部』1952年11月号 - 12月号)
*[[湖泥]](『オール讀物』1953年1月号)
*[[生ける死仮面]](『講談倶楽部』1953年10月号)
*[[花園の悪魔]](『オール讀物』1954年2月号)
*[[堕ちたる天女 (横溝正史)|堕ちたる天女]](『面白倶楽部』1954年6月号)
*[[蜃気楼島の情熱]](『オール讀物』1954年9月号)
*[[睡れる花嫁]](『読切小説集』1954年11月号、原題『妖獣』)
*[[首 (横溝正史)|首]](『宝石』1955年5月号)
*[[廃園の鬼]](『オール讀物』1955年6月号)
*[[毒の矢]](『オール讀物』1956年1月号、1956年3月に改稿)
*[[蝋美人]](『講談倶楽部』1956年2月号)
*[[黒い翼]](『小説春秋』1956年2月号)
*[[夢の中の女]](『読切小説集』1956年7月号、原題『黒衣の女』)
*[[七つの仮面]](『講談倶楽部』1956年8月号)
*[[華やかな野獣]](『面白倶楽部』1956年12月号)
*[[トランプ台上の首]](『オール讀物』1957年1月号、1959年2月に改稿)
*[[霧の中の女]](『週刊東京』1957年1月12日号 - 1月19日号)
*[[女の決闘 (横溝正史)|女の決闘]](『婦人公論』1957年1月号 - 3月号、原題『憑かれた女』<ref group="注">作者の昭和8年発表の作品に同名のものがあるが、それとは別作品である。</ref>)
*[[泥の中の女]](『週刊東京』1957年2月23日号 - 3月2日号、原題『泥の中の顔』)
*[[鞄の中の女]](『週刊東京』1957年4月6日号 - 4月13日号)
*[[鏡の中の女 (横溝正史)|鏡の中の女]](『週刊東京』1957年5月18日号 - 5月25日号)
*[[傘の中の女]](『週刊東京』1957年6月29日号 - 7月6日号)
*[[檻の中の女]](『週刊東京』1957年8月10日号 - 8月17日号)
*[[鏡が浦の殺人]](『オール讀物』1957年8月号)
*[[貸しボート十三号]](『別冊週刊朝日』1957年8月、1958年9月に改稿)
*[[悪魔の降誕祭]](『オール讀物』1958年1月号、1958年7月に改稿)
*[[洞の中の女]](『週刊東京』1958年2月8日号 - 2月15日号)
*[[柩の中の女]](『週刊東京』1958年3月22日号 - 3月29日号)
*[[火の十字架]](『小説倶楽部』1958年4月号 - 6月号、1958年9月に改稿)
*[[赤の中の女]](『週刊東京』1958年5月3日号 - 5月10日号)
*[[瞳の中の女]](『週刊東京』1958年6月14日号 - 6月21日号)
*[[薔薇の別荘]](『時の窓』1958年6月号 - 9月号)
*[[香水心中]](『オール讀物』1958年11月号)
*[[霧の山荘]](『面白倶楽部』1958年11月号、原題『霧の別荘』を1961年1月に改稿)
*[[雌蛭]](『別冊週刊大衆』1960年9月号)
*[[猟奇の始末書]](『推理ストーリー』1962年8月号)
*[[日時計の中の女]](『別冊週刊漫画TIMES』1962年8月21日号)
*[[猫館]](『推理ストーリー』1963年8月号)
*[[蝙蝠男 (横溝正史)|蝙蝠男]](『推理ストーリー』1964年5月号)
=== ジュヴナイル作品 ===
*[[大迷宮]](『少年倶楽部』1951年1月号 - 12月号)
*[[黄金の指紋]](『譚海』1951年6月号 - 1952年8月号、原題『皇帝の燭台』)
*[[金色の魔術師]](『少年倶楽部』1952年1月号 - 12月号)
*[[仮面城]](『小学五年生』1952年4月号 - 1953年3月号)
*[[燈台島の怪]](『少年倶楽部』1952年8月夏の増刊号)
*[[黄金の花びら]](『少年倶楽部』1953年1月号 - 2月号)
*[[迷宮の扉]](『中学生の友』1958年1月号 - 12月号)
また、以下の作品は初出時には[[由利麟太郎#ジュヴナイル作品|由利麟太郎や三津木俊助が登場する作品]]であったものを、「少年少女名探偵金田一耕助シリーズ」(朝日ソノラマ、全10巻)<ref group="注">「少年少女名探偵金田一耕助シリーズ」は由利&三津木登場作品を改稿した2作品と当初から金田一が登場するジュヴナイル作品であった『仮面城』『黄金の指紋』『大迷宮』の3作品のほか、大人向けの金田一登場作品をジュヴナイル化した『八つ墓村』『三本指の男(本陣殺人事件)』『獄門島』『女王蜂』『洞窟の魔女(不死蝶)』の5作品からなる。この5作品は横溝の許可を受けて山村と[[中島河太郎]]が改稿・改題したものであるが、文庫化されていないため初出のハードカバーでしか読むことができない。</ref>へ収録する際に[[山村正夫]]が金田一ものに改稿し、これがソノラマ文庫および角川文庫にも引き継がれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://kakeya.world.coocan.jp/ys_pedia/biblio/ys_y_yako_kaijin.html |title=由利先生、獄門島へ下り立つ |website=横溝正史エンサイクロペディア |accessdate=2020-4-9}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://supekuri.shop-pro.jp/?tid=3&mode=f72 |title=少年読物の研究 10 |website=すぺくり古本舎「すぺくり研究資料室」 |accessdate=2022-06-28}}</ref>。
* 夜光怪人(『[[譚海]]』1949年5月号 - 1950年5月号)
* 蝋面博士(1954年12月、偕成社)
角川文庫に収録された金田一耕助が登場するジュヴナイル作品は、山村による改稿も含めて8作であった。その後、『黄金の花びら』が発見されて出版芸術社の『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録され、併せて9作とされている。
なお、以下の作品に金田一耕助は登場しないが、耕助が登場する『大迷宮』や『黄金の指紋』と明確に話がつながっており、悪役たちが続投しているほか、耕助自身が『怪獣男爵』で起きたことの説明をしている場面がある{{efn2|金田一耕助が『怪獣男爵』に登場しない理由は、同作が少年ものとしては戦後初の作品(1948年発表)でまだ金田一耕助を[[江戸川乱歩]]の[[明智小五郎]]のように少年もので活躍させるほどではないと作者が判断したと考えられている<ref>日下三蔵 編『怪獣男爵』柏書房、2021年、ISBN 978-4-7601-5384-8。p.484の編者解説より。</ref>。なお、角川カセットブック版『怪獣男爵』(1989年)では金田一耕助が登場するストーリーになっている。}}。
* 怪獣男爵(1948年11月、偕成社)
=== 構想のみとなった作品 ===
1979年(昭和54年)6月30日の『[[朝日新聞]]』夕刊に掲載されたエッセイ「金田一耕助との対話」<ref group="注">『横溝正史自選集7』 ISBN 978-4-88293-324-3 pp.388 - 391にも収録されている。</ref>において、今後の予定として以下の2つの“金田一耕助功名談”が挙げられていたが、横溝の死去により執筆されなかった。
*[[女の墓を洗え]](仮題)
*[[千社札殺人事件]](仮題)
=== 文庫などへの収録 ===
[[横溝正史#角川文庫|1984年までに角川文庫に収録された]]77作は42編に収録されているが<ref group="注">『[[金田一耕助の冒険]]』の当初版と2分冊化版を別々に計上し、併せて3編としている。この42編には、金田一耕助登場作品77作の他に『[[びっくり箱殺人事件]]』『[[上海氏の蒐集品]]』が収録されている。</ref>、その多くは1990年代ごろに電子書籍でしか出版されなくなった。すなわち、42編のうちの21編に、新たに編集した『人面瘡』ISBN 978-4-04-130497-6 を加えた22編を「金田一耕助ファイル」と銘打ったものが紙媒体での出版が継続され、これには35作が含まれていた。なお、「金田一耕助ファイル」としての通し番号は、上下分冊になっている『悪霊島』『病院坂の首縊りの家』を上下で同一番号としているため20までである。「金田一耕助ファイル」設定以降にも1990年代の間に既存42編のうち他の6編が紙媒体で出版された形跡があるが<ref>{{Cite web|和書|url=http://kakeya.world.coocan.jp/ys_pedia/bunko/ys_kado_new_y5.html |title=角川文庫 よ5 ― 現行No.シリーズ ― |website=横溝正史エンサイクロペディア |accessdate=2020-3-28 }}</ref>、再度品切れ状態になったものが多い。2000 - 2010年代にも、別の既存版を改版して再刊行している<ref group="注">『悪魔の降誕祭』のみ1990年代に出版したものを改版。</ref>。
その後、「金田一耕助ファイル」などで多くが削除された巻末解説と1980年前後の版に描かれて人気が高かった[[杉本一文]]の絵を伴った改版再刊行が進んでいる。まず2019年に『[[不死蝶 (小説)|不死蝶]]』が改版再刊行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321806000270/ |title= 不死蝶 |accessdate=2022-07-02 }}</ref>。さらに、2021年に「没後40年記念」と銘打って『夜の黒豹』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322105000600/ |title= 夜の黒豹 |accessdate=2022-07-02 }}</ref>をはじめとする計5冊、2022年には「生誕120年記念」と銘打ち『[[支那扇の女]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322111000517/ |title=支那扇の女 |accessdate=2022-07-02 }}</ref>をはじめとして、月に1 - 2冊のペースで行われている。
金田一耕助登場作品は[[春陽堂書店#刊行物|春陽文庫]]にも[[横溝正史#春陽文庫|多く収録されている]]。特に「金田一耕助ファイル」に含まれない作品については、42作のうち38作を収録している。代表的な長編の収録はわずか<ref group="注">「金田一耕助ファイル」に含まれない長編は網羅しているが、含まれる長編で収録されているのは『[[本陣殺人事件]]』と『[[悪魔の百唇譜]]』のみである。</ref>であるが、中短編は網羅に近い状況<ref group="注">「金田一耕助ファイル」に含まれない中短編のうち『[[悪魔の降誕祭]]』 (ISBN 4-04-355503-2) に収録の3作と『[[幽霊座]]』、含まれる中短編のうち『[[七つの仮面]]』 (ISBN 4-04-130466-0) に収録の7作と『[[黒猫亭事件]]』の併せて12作を除いて網羅されている。</ref>になっている。
なお、1954年 - 1956年および1975年の『金田一耕助探偵小説選』(東京文芸社)や1958年 - 1961年の『金田一耕助推理全集』(東京文芸社)も金田一耕助登場作品を網羅しようとしたと考えられる。しかし、刊行以後の作品はもちろん、刊行以前でも比較的新しい作品、初出媒体が金田一耕助登場作品として例外的な作品(『死仮面』『迷路の花嫁』『白と黒』など)、非金田一ものを改稿した作品の一部などが収録されておらず、77作を網羅しているのは角川文庫のみである。
2023年現在ジュヴナイルと怪獣男爵を含めた金田一耕助シリーズの全編は、角川文庫から展開されている「金田一耕助ファイル」22冊<ref>[https://store.kadokawa.co.jp/shop/b/b00042901/ 金田一耕助ファイル]</ref>と同文庫からAmazonで展開されている金田一耕助シリーズ28冊<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B0977MJHBM 「金田一耕助」シリーズ (全28巻)]</ref>(内3冊はエッセイ(21,26)と重複(28))および『金田一耕助の冒険』(旧文庫版1と2の内容を含む)<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B0B2JBB768 金田一耕助の冒険 (角川文庫) Kindle版]</ref>、『怪獣男爵』<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B0BLS8NKK2 怪獣男爵 (角川文庫) Kindle版]</ref>、柏書房の横溝正史少年小説コレクション2(「黄金の花びら」<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/4760153853 横溝正史少年小説コレクション2 迷宮の扉 単行本]</ref>(唯一電子版が存在しない))の50冊を以って全て入手することが可能となっている。
=== 改稿前の原型作品 ===
角川文庫収録の77作には改稿長編化された元の短編が含まれておらず、その収録を目的として刊行されたのが『金田一耕助の帰還』([[出版芸術社]]1996年 ISBN 978-4-88293-117-1、[[光文社文庫]]2002年 ISBN 978-4-334-73262-2)および『金田一耕助の新冒険』([[出版芸術社]]1996年 ISBN 978-4-88293-118-8、[[光文社文庫]]2002年 ISBN 978-4-334-73276-9)である。ただし、中絶作品<ref group="注">中絶作品のうち『病院横町の首縊りの家』については1998年3月に光文社文庫に収録されている([[病院坂の首縊りの家#原型短編]]を参照)。</ref>や[[#金田一が登場しない原型作品|金田一耕助が登場しない原型作品]]、『不死蝶』『火の十字架』の原型作品<ref group="注">『不死蝶』の原型作品は、[[論創社]]『横溝正史探偵小説選5』 ISBN 978-4-8460-1545-9 に収録されている。『火の十字架』については、『金田一耕助の新冒険』の単行本版の解説では「初出誌が入手出来なかったため、今回は収録していない」とあるが、文庫版では「3回分載の最終回、トリックの解明部分が加筆されているのみで、量的な意味でも、質的な意味でも、改稿版としての扱いではないことが判明している」に改められている。</ref>、『迷路荘の怪人』を最終的に『迷路荘の惨劇』とする前の中間段階の作品<ref group="注">『迷路荘の怪人』の中間段階作品の初出は[[東京文芸社]]『金田一耕助推理全集第5巻』(1959年)であり、[[出版芸術社]]『横溝正史探偵小説コレクション4』 ISBN 978-4-88293-423-3 にも収録されている。</ref>は収録されていない。
=== 金田一が登場しない原型作品 ===
[[横溝正史]]は過去に発表した作品を改稿して新たな作品とすることが多くあった。金田一耕助登場作品の改稿長編化については上記の通りであるが、金田一耕助が登場しない作品を改稿したものも多い。ただし、状況設定やストーリー展開などをほぼそのまま踏襲したものから、トリックなどの重要な要素を踏襲するだけでストーリー展開は新たに作り直したものまで、原型作品からの踏襲の程度が様々であるため、どこまでを改稿と考えるか確定し難く、全てを漏れなく列挙することは困難である。なお、下記リストに挙げた収録書籍や改稿後作品の収録書籍には、改稿の経緯などが巻末で解説されているものが多い。
* 状況設定やストーリー展開などをほぼそのまま踏襲した作品
** 双生児は踊る(角川文庫『ペルシャ猫を抱く女』 ISBN 4-04-130454-7、柏書房『横溝正史ミステリ短編コレクション3 刺青された男』 ISBN 978-4-7601-4906-3 に収録)『暗闇の中にひそむ猫』に改稿、のち『[[暗闇の中の猫]]』に改題。
** 車井戸はなぜ軋る(出版芸術社『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録)[[車井戸はなぜ軋る|同題]]で改稿。
** 人面瘡(出版芸術社『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録)[[人面瘡_(小説)|同題]]で改稿。登場人物や状況設定はほぼ原型作品のまま踏襲しているが、全体を信州から岡山県に移動している。
* ストーリー展開はおおむね踏襲しているが、年代設定などの状況を大きく変更している作品
** 赤い水泳着(出版芸術社『横溝正史探偵小説コレクション1 赤い水泳着』 ISBN 978-4-88293-258-1 に収録)『[[赤の中の女]]』に改稿。
** 悪霊(出版芸術社『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録)『[[首 (横溝正史)|首]]』に改稿。
** 聖女の首(出版芸術社『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録)『[[七つの仮面]]』に改稿。
* 捕物帳作品のストーリー展開などを踏襲した作品
** 銀の簪(春陽文庫『人形佐七捕物帳全集6 坊主斬り貞宗』 ISBN 4-394-10606-0、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 五』 ISBN 978-4-394-19014-1 に収録)発端となる状況設定および関連する重要なトリックを『扉の中の女』に踏襲、のち長編化して『[[扉の影の女]]』。
** 浄玻璃の鏡(春陽文庫『人形佐七捕物帳全集8 三人色若衆』 ISBN 4-394-10608-7、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 六』 ISBN 978-4-394-19015-8 に収録)発端となる状況設定および関連する人物関係の設定を『渦の中の女』に踏襲、のち長編化して『[[白と黒 (横溝正史)|白と黒]]』。
** 当たり矢(春陽文庫『人形佐七捕物帳全集12 梅若水揚げ帳』 ISBN 4-394-10612-5、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 八』 ISBN 978-4-394-19017-2 に収録)メイントリックおよび関連するストーリー展開を『毒の矢』(短編版)に踏襲、のち[[毒の矢|同題]]で長編化。
** 三本の矢(出版芸術社『横溝正史時代小説コレクション捕物篇1 幽霊山伏』 ISBN 978-4-88293-241-3、嶋中文庫『人形佐七捕物帳1 嘆きの遊女』ISBN 978-4-86156-344-7、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 一』 ISBN 978-4-394-19010-3 に収録)発端となる状況設定を『死神の矢』(短編版)に踏襲、のち[[死神の矢|同題]]で長編化。
** お高祖頭巾の女(出版芸術社『横溝正史時代小説コレクション捕物篇2 江戸名所図絵』 ISBN 978-4-88293-242-0、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 六』 ISBN 978-4-394-19015-8 に収録)万引き娘(春陽文庫『人形佐七捕物帳全集4 好色いもり酒』 ISBN 4-394-10604-4、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 八』 ISBN 978-4-394-19016-5 に収録)(共に朝顔金太捕物帳『お高祖頭巾』が原型)メイントリックおよび関連する状況設定を『[[黒蘭姫]]』に踏襲。
** 山吹薬師(出版芸術社『横溝正史時代小説コレクション捕物篇2 江戸名所図絵』 ISBN 978-4-88293-242-0、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 七』 ISBN 978-4-394-19016-5 に収録)メイントリックを含む複数のトリックおよび関連するストーリー展開を『魔女の暦』(短編版)に踏襲、のち[[魔女の暦|同題]]で長編化。
** 呪いの畳針(春陽文庫『人形佐七捕物帳全集4好色いもり酒』 ISBN 4-394-10604-4、春陽堂書店『完本 人形佐七捕物帳 九』 ISBN 978-4-394-19018-9 に収録)重要なトリック(殺害方法)を『[[女怪]]』に踏襲。
* 事件の背景設定が踏襲されている作品
** 神の矢(柏書房『由利・三津木探偵小説集成4 蝶々殺人事件』 ISBN 978-4-7601-5054-0 に収録)状況設定が『[[毒の矢]]』に踏襲されている。『毒の矢』のメイントリックおよび関連するストーリー展開は上述の捕物帳『当たり矢』を踏襲しているが、未完作品である『神の矢』の既公表部分にその原型にあたる内容は無い。また、『毒の矢』に踏襲されている状況設定は『当たり矢』を経由したものではない。
** ペルシャ猫を抱く女(角川文庫『ペルシャ猫を抱く女』 ISBN 4-04-130454-7、柏書房『横溝正史ミステリ短編コレクション3 刺青された男』 ISBN 978-4-7601-4906-3 に収録)『支那扇の女』に事件の背景設定および関連する重要なトリックを踏襲、のちに[[支那扇の女|長編化]]。なお、著者の意向により『獄門島』との人名の重複を解消した最終稿『肖像画』が存在し、出版芸術社『横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』 ISBN 978-4-88293-260-4 に収録されている。
** 双生児は囁く([[カドカワノベルズ]]『双生児は囁く』 ISBN 978-4-04-788140-2(文庫化して ISBN 978-4-04-355502-4)に収録)発端となった事件と関わった登場人物および関連する重要なトリックを『ハートのクイン』に踏襲、のちに改稿長編化して『[[スペードの女王 (横溝正史)|スペードの女王]]』。
* トリックを踏襲し、ストーリーは新たに作り直した作品
** 薔薇と鬱金香(柏書房『由利・三津木探偵小説集成2 夜光虫』 ISBN 978-4-7601-5052-6 に収録)重要なトリックを『[[蝋美人]]』に踏襲。
** 猿と死美人(柏書房『由利・三津木探偵小説集成3 仮面劇場』 ISBN 978-4-7601-5053-3 に収録)メイントリックを『[[檻の中の女]]』に踏襲。
ほかに、文庫化に際して由利麟太郎や三津木俊助を金田一耕助に書き替えた[[#ジュヴナイル作品|ジュヴナイル作品]]がある。また、映像化作品で原作に登場しない金田一耕助を登場させた事例([[古谷一行の金田一耕助シリーズ|古谷一行主演]]および[[名探偵・金田一耕助#小野寺昭版|小野寺昭主演]]のテレビドラマ)がある。
== 殺人防御率 ==
本の雑誌編集部編『活字探偵団』([[角川文庫]])によれば、金田一耕助は事件に乗り出してから次の犠牲者が出るのを防ぐ「防御率」の一番低い探偵ということになっている。ただし、ここでの「防御率」の定義は、[[防御率|野球やクリケットなどでの防御率 (Earned Run Average)]] あるいは[[防御率 (ゴールキーパー)|サッカーやホッケーなどでの防御率 (Goals Against Average)]] と同様に「防御率の数値が小さいほど良い=防御できている」というものであるため、「高低」に関する表現が混乱することがあるので注意が必要である。『活字探偵団』では「防御率の数値が大きい」すなわち「防御率が悪い」ことを「防御率が低い」と表現しているが、一般には単純に「数値が小さい」ことを「低い」と表現する場合もあるため、混乱の元になる。
『活字探偵団』での「防御率」の算出方法は、「'''主要10作品を選定'''し、探偵が事件に関与してから、解決するまでに起きた殺人件数を作品で割る」というものである。金田一の場合、『八つ墓村』『三つ首塔』『悪魔が来りて笛を吹く』などの大量殺人が含まれているために、防御率が悪くなっている。対象を全77作品で算出した結果は1.5であり、一概に防御率が悪いとは言えない。
また、[[#探偵方法|上述]]したように「最後まで手の内を見せない」のが金田一の探偵方法であることや、トリックなどの解明後に犯人の自殺を誘導したり見逃したりするケースがあることも、金田一の防御率を悪くしている。
映画『[[金田一耕助の冒険]]』には、「もうあと4、5人は死にそう」「どこまで殺人が行われるか見守りたい」など、防御率の悪さに対する一つの解答とも皮肉とも取れるセリフがある。
* [[エラリー・クイーン (架空の探偵)|エラリー・クイーン]]:0.7
* モース警部:0.7
* ファイロ・ヴァンス:1.2
* [[神津恭介]]:2.0
* [[十津川省三|十津川警部]]:3.3
* 金田一耕助:4.2
== 演じた俳優 ==
金田一耕助は何度も映画やテレビドラマの題材として使用され、以下に示すように幅広く多数の俳優が演じている。
初めて金田一を演じた[[片岡千恵蔵]]は「[[片岡千恵蔵の金田一耕助シリーズ]]」で説明されている事情により原作とは全く異なるスーツ姿で、1950年代の間はこのイメージが他の俳優にも引き継がれ、1961年の[[高倉健]]も軽装ではあるが洋装であった。その後、1975年まで14年間映画化が無かった(テレビドラマも1962年から1969年まで7年間無かった)ことにより片岡千恵蔵の扮装を意識しない演出が容易となり<ref>{{Cite | 和書 | chapter = 俳優別・映像を走り回る金田一 6.中尾彬 | title = 別冊宝島 僕たちの好きな金田一耕助 | publisher = [[宝島社]] | isbn = 978-4-7966-5572-9 | date = 2007-01-05 | page = 72}}</ref>、1976年に[[石坂浩二]]が初めて原作に忠実な和装スタイルで金田一を演じることになった。
和装スタイルの金田一は1977年からのテレビドラマにおける[[古谷一行]]にも引き継がれ、以後おおむね定着している。ただし、[[マント]](原作では二重回し)の着用やトランクを持ち歩くことなど、原作と異なる石坂浩二の扮装が以後に引き継がれていることが多い部分もある。
=== 映画版 ===
#[[片岡千恵蔵]]
#:[[三本指の男]](本陣殺人事件) 1947年 [[東横映画]]
#:[[獄門島 (1949年の映画)|獄門島]] 1949年 [[東映京都]]
#:[[獄門島 解明篇]] 1949年 東映京都
#:[[八ツ墓村]] 1951年 東映京都
#:[[悪魔が来りて笛を吹く (1954年の映画)|悪魔が来りて笛を吹く]] 1954年 東映京都
#:[[犬神家の謎 悪魔は踊る]](犬神家の一族) 1954年 東映京都
#:[[三つ首塔 (映画)|三つ首塔]] 1956年 東映京都
#::{{Main|片岡千恵蔵の金田一耕助シリーズ}}
#[[岡譲司]]
#:[[毒蛇島綺談 女王蜂]] 1952年 [[田中重雄]]監督 [[大映]]
#::片岡と同様、背広の二枚目スタイルである。
#[[河津清三郎]]
#:[[幽霊男]] 1954年 [[小田基義]]監督 [[東宝]]
#[[池部良]]
#:[[吸血蛾 (映画)|吸血蛾]] 1956年 [[中川信夫]]監督 東宝
#::池部までの金田一は背広姿である。原作との共通点は愛煙家であることぐらいしかない。
#[[高倉健]]
#:悪魔の手毬唄 1961年 [[渡辺邦男]]監督 [[ニュー東映]]
#::高倉の金田一は「警視庁嘱託」という設定。短髪にジャケット、サングラスというラフな姿で、年代物のオープンカーに乗って現れる。
#[[中尾彬]]
#:[[本陣殺人事件]] 1975年 [[高林陽一]]監督 [[映像京都]]+[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]、[[大映京都撮影所]]、たかばやしよういちプロ
#::中尾の金田一は愛煙家で、ジーパンのヒッピー風スタイルで登場する。
#[[石坂浩二]]
#:[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]] 1976年 [[角川春樹事務所]](東宝配給)
#:[[悪魔の手毬唄 (1977年の映画)|悪魔の手毬唄]] 1977年 東宝
#:[[獄門島 (1977年の映画)|獄門島]] 1978年 東宝
#:[[女王蜂 (1978年の映画)|女王蜂]] 1978年 東宝
#:[[病院坂の首縊りの家 (映画)|病院坂の首縊りの家]] 1979年 東宝
#:[[犬神家の一族 (2006年の映画)|犬神家の一族]] 2006年 東宝
#::{{Main|石坂浩二の金田一耕助シリーズ#本シリーズにおける金田一像}}
#[[渥美清]]
#:[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]] 1977年 [[野村芳太郎]]監督 [[松竹]]
#::麦わら帽子にくたびれたジャケット、腰に手ぬぐいという姿。
#::{{Main|八つ墓村_(1977年の映画)#解説}}
#[[西田敏行]]
#:[[悪魔が来りて笛を吹く (1979年の映画)|悪魔が来りて笛を吹く]] 1979年 [[斉藤光正]]監督 東映・角川春樹事務所
#::ボサボサの髪にお釜帽、くたびれた着物に襟巻きという姿。鞄などを持たずいつも手ぶらで移動する。
#[[古谷一行]]
#:[[金田一耕助の冒険]] 1979年 [[大林宣彦]]監督 角川春樹事務所、[[三船プロダクション|三船プロ]]
#::テレビドラマ「[[古谷一行の金田一耕助シリーズ|横溝正史シリーズ]]」で好評を博した古谷を起用、短編集『[[金田一耕助の冒険]]』のうち未解決に終わっている「瞳の中の女」の真相解明のために奔走するパロディ作品。
#[[三船敏郎]]
#:金田一耕助の冒険 1979年 大林宣彦監督 角川春樹事務所、三船プロ
#::「初代金田一」との設定で劇中の映画に登場。三船の起用は、三船プロが制作協力していたことから。
#[[鹿賀丈史]]
#:[[悪霊島]] 1981年 [[篠田正浩]]監督 東映・角川春樹事務所
#[[豊川悦司]]
#:[[八つ墓村 (1996年の映画)|八つ墓村]] 1996年 市川崑監督 東宝・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
=== テレビドラマ版 ===
#[[岡譲司]]
#:[[月曜日の秘密]](1957年2月18日 - 4月29日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
##犯人と毒薬(オリジナル)
##無言の証人(オリジナル)
##花と注射器(オリジナル)
##霧の中の女
##ある夫婦(オリジナル)
##釣堀に現れた女(オリジナル)
##泥の中の顔
##深夜の客(オリジナル)
##アパートの3階の窓(オリジナル)
##棄てられたダイヤ(オリジナル)
##カバンの中の女
#::([[金田一耕助の冒険#映像化作品]]も参照)
#[[船山裕二]]
#:[[ミステリーベスト21]]・白と黒(1962年11月23日、[[テレビ朝日|NETテレビ]])
#[[金内吉男]]
#:[[怪奇ロマン劇場]]・八つ墓村(1969年10月4日、NETテレビ)
#[[古谷一行]]
#:[[古谷一行の金田一耕助シリーズ|横溝正史シリーズI]](1977年4月2日 - 10月1日、[[毎日放送]])
#:横溝正史シリーズII(1978年4月8日 - 10月28日、毎日放送)
#:[[古谷一行の金田一耕助シリーズ#名探偵・金田一耕助シリーズ(概要)|名探偵・金田一耕助シリーズ]](1983年 - 2005年、[[TBSテレビ|TBS]])
#::{{Main|古谷一行の金田一耕助シリーズ#主人公}}
#::テレビドラマで原作に準じた金田一の姿をブラウン管に確定させたのはこのシリーズである。[[古谷一行]]の当たり役となり、毎日放送から同じネットのTBSに制作が移って長期人気シリーズとなった。
#[[愛川欽也]]
#:[[名探偵・金田一耕助|土曜ワイド劇場・横溝正史の吸血蛾]](1977年10月15日、テレビ朝日)
#::愛川の金田一は背広姿。
#[[小野寺昭]]
#:[[名探偵・金田一耕助|土曜ワイド劇場・横溝正史の真珠郎]](1983年10月8日、テレビ朝日)
#:[[名探偵・金田一耕助|土曜ワイド劇場・名探偵金田一耕助・仮面舞踏会]](1986年10月4日、テレビ朝日)
#:[[名探偵・金田一耕助|土曜ワイド劇場・名探偵金田一耕助・三つ首塔]](1988年7月2日、テレビ朝日)
#:[[名探偵・金田一耕助|土曜ワイド劇場・名探偵金田一耕助・夜歩く女]](1990年9月1日、テレビ朝日)
#::小野寺の金田一は着物に袴と原作を踏襲している。
#[[中井貴一]]
#:横溝正史傑作サスペンス「[[犬神家の一族#1990年版|犬神家の一族]]」(1990年3月27日、テレビ朝日)
#::女性の助手を連れ、[[蝶ネクタイ]]に[[丸眼鏡]]、[[ハンチング帽|ハンチング]]をかぶっている。眼鏡をかけた金田一は中井が初めてである。
#[[片岡鶴太郎]]
#:[[片岡鶴太郎の金田一耕助シリーズ]](1990年 - 1998年、フジテレビ)
#::{{Main|片岡鶴太郎の金田一耕助シリーズ}}
#::片岡の金田一は熱血漢風で、アクションも加味されている。
#[[役所広司]]
#:[[女王蜂 (横溝正史)#1990年版|横溝正史傑作サスペンス・女王蜂]](1990年10月2日、テレビ朝日)
#[[上川隆也]]
#:[[女と愛とミステリー]] 金田一耕助ファイル・[[迷路荘の惨劇#2002年版|迷路荘の惨劇]](2002年10月2日、テレビ東京・BSジャパン)
#:女と愛とミステリー 金田一耕助ファイル・[[獄門島#2003年版|獄門島]](2003年10月26日、テレビ東京・BSジャパン)
#[[稲垣吾郎]]
#:[[フジテレビジョン|フジテレビ]]スペシャルドラマ 2004年 - 2009年
#::{{Main|稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ#稲垣演じる金田一像について}}
#[[長谷川博己]]
#:[[スーパープレミアム]]「[[獄門島#2016年版|獄門島]]」(2016年11月19日、[[NHK BSプレミアム]])
#[[池松壮亮]]
#:[[シリーズ・横溝正史短編集#第1弾『金田一耕助登場!』|シリーズ横溝正史短編集]] 金田一耕助登場!「[[黒蘭姫]]」「[[殺人鬼 (横溝正史)|殺人鬼]]」「[[百日紅の下にて]]」(2016年、NHK BSプレミアム)
#:[[シリーズ・横溝正史短編集#第2弾『金田一耕助 踊る!』|シリーズ横溝正史短編集II]] 金田一耕助踊る!「[[貸しボート十三号]]」「[[華やかな野獣]]」「[[犬神家の一族]]」(2020年、NHK BSプレミアム)
#:[[シリーズ・横溝正史短編集#第3弾『金田一耕助 惑う』|シリーズ横溝正史短編集III]] 池松壮亮×金田一耕助3「[[女の決闘 (横溝正史)|女の決闘]]」「[[蝙蝠と蛞蝓]]」「[[女怪]]」(2022年、NHK BSプレミアム)
#[[吉岡秀隆]]
#:スーパープレミアム「[[悪魔が来りて笛を吹く#2018年版|悪魔が来りて笛を吹く]]」(2018年7月28日、NHK BSプレミアム)
#:スーパープレミアム「[[八つ墓村#2019年版|八つ墓村]]」(2019年10月12日、NHK BSプレミアム)
#:スーパープレミアム「[[犬神家の一族#2023年版|犬神家の一族]]」(2023年4月22日・4月29日、NHK BSプレミアム)
#[[加藤シゲアキ]]([[NEWS (グループ)|NEWS]])
#:スペシャルドラマ「[[犬神家の一族#2018年版|犬神家の一族]]」(2018年12月24日、フジテレビ)
#:[[土曜プレミアム]]スペシャルドラマ「[[悪魔の手毬唄#2019年版|悪魔の手毬唄〜金田一耕助、ふたたび〜]]」(2019年12月21日、フジテレビ)
=== 番外篇ドラマ ===
#[[長瀬智也]]
#:[[明智小五郎VS金田一耕助]] 2005年
#[[山下智久]]
#:[[金田一耕助VS明智小五郎]] 2013年
#:金田一耕助VS明智小五郎ふたたび 2014年
=== 舞台版 ===
#[[並木瓶太郎]]
#:獄門島 1948年
#[[古谷一行]]
#:『悪魔の手毬唄』より〜探偵 金田一耕助の恋 1988年
#:犬神家の一族 1993年・1994年
#:女王蜂 1996年
#[[盛本健作]]
#:獄門島 1993年
#[[田村亮 (俳優)|田村亮]]
#:『悪魔の手毬唄』より〜探偵 金田一耕助の恋 1995年
#[[野口聖員]]
#:贋作・犬神家の一族 2001年
#[[青木奈々]]
#:百日紅の下にて 2002年
#[[太平 (俳優)|太平]]
#:殺人鬼 2003年
#:白と黒 2004年
#:三つ首塔 2005年
#:ひとり八つ墓村 2007年
#[[林正樹 (俳優)|林正樹]]
#:百日紅の下にて 2003年
#:廃園の鬼(朗読劇) 2019年
#:本陣殺人事件(朗読劇)2022年
#[[浦田克昭]]
#:幻夏の見返り死人(『薔薇の別荘』より) 2006年
#[[関智一]]
#:八つ墓村 2008年
#:悪魔が来りて笛を吹く 2010年
#:獄門島 2012年
#:犬神家の一族 2017年
#[[喜多村緑郎 (2代目)|喜多村緑郎]]
#:犬神家の一族 2018年
#:八つ墓村 2020年
=== ラジオドラマ版 ===
#[[高塔正翁|高塔正康]]
#:獄門岩(原作『首』) 1957年
#:悪魔のクリスマス(原作『悪魔の降誕祭』) 1957年
#:花園の黒蝶(原作『花園の悪魔』) 1958年
#:廃屋の鬼(原作『廃園の鬼』) 1958年
#:[[カルメンの死]] ([[由利麟太郎]]主役のものを変更) 1958年
#:黒百合姫(原作『黒蘭姫』) 1958年
#:黒猫亭事件 1958年
#:壺を持つ女(原作『柩の中の女』) 1958年
#:扉の中の女(原作『扉の影の女』) 1958年
#::いずれも[[ニッポン放送]]の「金田一耕助探偵物語」として放送されたもの。
#[[北村和夫]]
#:支那扇の女 1964年 [[日本放送協会|NHK]]第1 おたのしみ劇場
#[[宍戸錠]]
#:悪魔が来りて笛を吹く 1975年 NHK連続ラジオ小説
#[[佐藤英夫 (俳優)|佐藤英夫]]
#:鴉 1975年 NHK文芸劇場
#[[緒形拳]]
#:悪魔の手毬唄 1976年 NHK連続ラジオ小説
#[[鈴置洋孝]]
#:八つ墓村 1997年 [[TBSラジオ]]・角川ドラマルネッサンス
=== カセット文庫版 ===
#[[神谷明]]
#:金田一耕助の冒険・悪魔の降誕祭 1988年 [[角川カセットブック]]
#:金田一耕助の冒険2・[[怪獣男爵]](原作に金田一は出ていない) 1989年 角川カセットブック
=== TVCM ===
#[[木村拓哉]] ([[OCN]]、1998年)
#[[田辺誠一]] ([[野村證券]]、2000年)
#[[石坂浩二]] ([[全日本空輸]]、2006年)
#[[古谷一行]] ([[カップヌードル]]、2016年)
=== バラエティ ===
#[[石坂浩二]]
#:[[絶対に笑ってはいけない名探偵24時]] 2015年
#[[志村けん]]
#:[[8時だョ!全員集合]] 前半コント
#[[伊丹幸雄]]
#:『[[オレたちひょうきん族]]』のコント「[[タケちゃんマン]]」にて、金田一耕助特有の出で立ち(コスチューム)で「金田一<ref group="注">ただし、「かねだはじめ」と読むフルネーム。</ref>」と名乗る探偵を演じた。
=== MV ===
#[[峯田和伸]]
#:[[安藤裕子 (歌手)|安藤裕子]]「骨」(2016年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/177280|title=安藤裕子の新曲MVで峯田和伸が金田一耕助役|publisher=音楽ナタリー|date=2016-02-24|accessdate=2016-02-14}}</ref>
=== 金田一耕助の助手 ===
横溝の小説を原作とし、金田一耕助を主人公とする映画を初めとしたメディア作品には、金田一を助ける女性助手が登場するものがある。これは原作にはないオリジナルなものである<ref group="注">原作には最初から「助手」として活動する女性は登場しないが、『[[死仮面]]』に登場する白井澄子は金田一に協力を求められて助手役を務めている。なお、本項に挙げられた作品の原作はいずれも比較的初期のものであり、この時期の作品には男性も含めて最初から金田一の助手として活動する人物は登場しないが、後期の作品では多門修が金田一の助手として活動する。ジュブナイルものまで含めると『少年倶楽部』連載作品にレギュラー登場していた立花滋が『灯台島の怪』で'''「金田一耕助の少年助手'''」と冒頭で言われている。また、『蝋面博士』は、後年の改稿により探偵役が三津木から金田一に変えられた際、三津木の相棒的な少年記者の御子柴進が金田一の助手的ポジションになっている。<!--『夜光怪人』は柏書房版で確認したが、進は由利の助手ではなくただの依頼人っぽい(由利が出てくる付近からぐっと出番が減る)。三津木→金田一の『蝋面博士』の方が例として適切と思われ。--></ref>。以下にこれを演じた女優を挙げる。
;白木静子
:[[東横映画]]・[[東映京都]]・[[ニュー東映]]の作品に登場する。元々は『本陣殺人事件』(『三本指の男』の原作)の登場人物に金田一の助手として活動する設定を追加したもので、その後の作品では原作に登場しないオリジナルの登場人物となった。
{{Main|片岡千恵蔵の金田一耕助シリーズ#白木静子}}
:* [[原節子]]([[三本指の男]])
:* [[喜多川千鶴]]([[獄門島 (1949年の映画)|獄門島]]、[[犬神家の謎 悪魔は踊る]])
:* 相馬千恵子([[八ツ墓村]])
:* [[千原しのぶ]]([[悪魔が来りて笛を吹く (1954年の映画)|悪魔が来りて笛を吹く]])
:* [[高千穂ひづる]]([[三つ首塔 (映画)|三つ首塔]])
:* 北原しげみ([[悪魔の手毬唄#1961年版|悪魔の手毬唄]])
:
;かね
:1977年の「[[古谷一行の金田一耕助シリーズ|横溝正史シリーズ]]」にレギュラーで登場する、金田一耕助探偵事務所唯一の所員。いかにもおばちゃん然とした[[コミックリリーフ|コメディリリーフ]]役である。「シリーズII」には登場しない。
:* [[野村昭子]]
:
;池田明子
:[[長坂秀佳]]脚本によるテレビドラマ2作品で、金田一耕助探偵事務所の助手として登場する。
:* [[松本伊代]]([[犬神家の一族#1990年版|犬神家の一族]] 1990年)
:* [[伊藤かずえ]]([[女王蜂 (横溝正史)#1990年版|女王蜂]] 1990年)
==漫画化作品==
金田一の登場する原作の漫画化は、少年誌から始まった。
*[[影丸穣也]]『[[八つ墓村]]』 1968年
:『[[週刊少年マガジン]]』誌で連載された。影丸の描く金田一はほぼ原作に忠実な姿だが、容姿は野性味の強いものとなっている。内容も少年誌らしく妾云々の設定は省かれている。影丸は1979年にも『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』を漫画化している。
*[[つのだじろう]]『[[悪魔の手毬唄]]』・『[[犬神家の一族]]』 1976年
:富士見書房から書き下ろしで3冊刊行された。内容はほぼオリジナルでオカルト色が強く、金田一はロイド眼鏡にちょび髭を生やした背広姿の中年男性になっている。
横溝正史ブームの中、少女誌でも原作の漫画化が行われた。
*[[ささやななえこ|ささやななえ]]『[[獄門島]]』・『[[百日紅の下にて]]』 1978年
:『[[別冊少女コミック]]』誌で連載された。原作通りの和装だが、スマートで美男子な金田一となっている。
*岩川ひろみ『[[女王蜂]]』 1977年
:『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』誌で連載。文庫化もされた。和装でフケも飛ばすが若く美男の金田一である。構成は原作に非常に忠実。
平成になって、女性作家による漫画化が相次いで行われている。[[たまいまきこ]]の『[[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]]』『[[悪霊島]]』、[[JET (漫画家)|JET]]の『[[本陣殺人事件]]』『[[犬神家の一族]]』『[[八つ墓村]]』『[[獄門島]]』『[[悪霊島]]』『[[悪魔の手毬唄]]』『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』『[[悪魔の寵児]]』『[[睡れる花嫁]]』(いずれも[[あすかコミックス]]刊)などが刊行されている。
秋田書店『サスペリアミステリー』誌が、2002年の創刊より2006年頃まで、毎月のように横溝作品を漫画化していた。この中では[[長尾文子]]による漫画化作品がもっとも作品数が多い(『[[睡れる花嫁]]』『迷路荘の怪人(『[[迷路荘の惨劇]]』原形作品)』『[[不死蝶 (小説)|不死蝶]]』『[[犬神家の一族]]』『[[本陣殺人事件]]』『[[獄門島]]』『[[悪魔の手毬唄]]』『[[八つ墓村]]』『[[鴉 (横溝正史)|鴉]]』)。
『サスペリアミステリー』では、ほかにも[[秋乃茉莉]]、[[池田恵 (漫画家)|池田恵]]、[[児嶋都]]、[[高橋葉介]]、[[永久保貴一]]などが金田一作品を漫画化している。
ほかに金田一作品を漫画化した漫画家として、[[いけうち誠一]]、[[岩川ひろみ]]、[[小山田いく]]、[[掛布しげを]]、[[直野祥子]]、[[前田俊夫]]などがいる。
== イベント ==
;1000人の金田一耕助
: 戦時疎開から戦後にかけて横溝正史が住み、『[[本陣殺人事件]]』の舞台とされる岡山県[[倉敷市]][[真備町]]では、倉敷市が主となって2009年から始めた「[[巡・金田一耕助の小径]]」事業<ref>{{Cite book|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000285851.pdf#page=65|title=市町村の活性化施策――平成25年度地域政策の動向調査|chapter=「巡・金田一耕助の小径」事業(岡山県倉敷市)|page=53|publisher=総務省自治行政局地域振興室|date=2014-03|format=PDF|archiveurl=|archivedate=|urlstatus=live}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toretabi.jp/pr/kurashiki_200909/01.html|title=JR伯備線&井原鉄道で金田一耕助ミステリー誕生の舞台をめぐりたい!|website=Train Journey トレたび|publisher=[[交通新聞社|株式会社交通新聞社]]|accessdate=2023-06-06}}</ref>の一環として、ファンが金田一など横溝作品の登場人物の仮装をするコスプレ・イベント「1000人の金田一耕助」が、2009年より毎年開かれている(2019年11月で11回目)<ref>{{Cite web|和書|url=https://kuratoco.com/1000ninno-kindaichi-kousuke2019/|title=第11回・コスプレイベント1000人の金田一耕助(令和元年11月23日開催) ~ 名探偵のふるさと真備町を巡るイベント|website=倉敷とことこ|publisher=一般社団法人はれとこ|date=2019-11-30|accessdate=2023-03-20}}</ref>。『本陣殺人事件』で金田一が初登場の際に降り立った「清―駅」のモデルとなった[[清音駅]]を起点として、『本陣殺人事件』の舞台(旧川辺村、旧岡田村)や[[横溝正史疎開宅]]、「横溝正史コーナー」と金田一耕助像が設置されている[[倉敷市真備ふるさと歴史館]]など横溝ゆかりの地を練り歩くイベントで<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kurashiki-tabi.jp/kindaichi/r5senkin/|title=「1000人の金田一耕助」|website=倉敷観光WEB|publisher=倉敷市観光情報発信協議会|date=2023-09-15|accessdate=2023-10-02}}</ref>、2020年・2021年は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の影響で中止されたが、2022年に3年ぶりに開催された<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20221126-OYT1T50265/|title=「金田一耕助」100人、横溝正史ゆかりの地に集結…白マスク姿の犬神家「佐清」も|newspaper=讀賣新聞オンライン|publisher=讀賣新聞社|date=2022-11-27|accessdate=2023-02-26}}</ref>。
;金田一耕助春の誕生会
: [[名探偵]]・金田一耕助が初めて登場する『本陣殺人事件』が執筆された場所である横溝正史疎開宅では、2015年から春に誕生会が開かれている<ref name="KCT">{{Cite news|url=https://tv.kct.jp/program/detail.php?id=33801|title=名探偵誕生の地 金田一耕助春の誕生会|newspaper=KCT NEWS|publisher=株式会社倉敷ケーブルテレビ|accessdate=2023-11-04}}</ref>。金田一は横溝が真備町に疎開していた1946年4月24日の日記に名前が初めて登場したため、疎開宅では金田一の誕生日として、毎年記念イベントが行われている<ref name="OHK">{{Cite news|url=https://www.ohk.co.jp/data/16925/pages/|title=4月24日は名探偵・金田一耕助の“誕生日” 横溝正史の疎開宅で記念イベント【岡山・倉敷市】|newspaper=8OHK|publisher=OHK岡山放送|date=2022-04-24|accessdate=2023-11-04}}</ref>。会場には模擬店が並び、各種演奏が披露されている<ref name="KCT" /><ref name="OHK" />。
==パスティーシュ==
多くの作家が[[パスティーシュ]]の手法を用いて金田一耕助を登場させている。
* [[都筑道夫]]『金田一もどき』
* [[斎藤栄]]『犬猫先生と金田一探偵』
* [[山田正紀]]『[[僧正の積木唄]]』
* [[井沢元彦]]『GEN 源氏物語秘録』
* [[芦辺拓]]『《ホテル・ミカド》の殺人』『明智小五郎対金田一耕助』『金田一耕助対明智小五郎』『明智小五郎対金田一耕助ふたたび』など
また、昭和50年代の横溝ブームを引き起こした角川書店より、贋作集が2冊刊行されている。
* 『金田一耕助の新たな挑戦』
* 『金田一耕助に捧ぐ九つの狂想曲』
他に、横溝作品の「[[本歌取り]]」とされる作品がある。
* [[岩崎正吾]]『探偵の夏あるいは悪魔の子守唄』(旧題『横溝正史殺人事件あるいは悪魔の子守唄』)
:舞台の八鹿村(「八馬鹿村」とも呼ばれる)に伝わる子守唄に見立てられて竹のお大尽、梅のお大尽(小梅佐兵衛)、獄門寺の和尚らが殺され、これを雇われ探偵のキンダイチが捜査する。「八馬鹿村子守唄」考を投稿した矢鱈放言、キンダイチが鬼首峠でおりんと名乗る老婆に出会い、佐兵衛にその話をすると30年前に死んだはずだと騒ぎ出すなど、『悪魔の手毬唄』を中心に横溝作品を意識した趣向が散りばめられている。
1990年代以降、漫画作品には「金田一耕助の子孫」の活躍を謳った作品が発表されている。
* 『[[金田一少年の事件簿]]』(原作:[[樹林伸|天樹征丸]]・[[金成陽三郎]]、作画:[[さとうふみや]]、[[週刊少年マガジン]])
* 『金田一37歳の事件簿』(原作:天樹征丸、作画:さとうふみや、[[イブニング]])
:この作品の主人公・[[金田一少年の事件簿の登場人物#金田一一|金田一一]]は金田一耕助の孫という設定であり、『週刊少年マガジン』編集部は連載開始前に横溝正史の妻・孝子に事前許諾を得ていた<ref name="kindaichi">『金田一耕助語辞典:名探偵にまつわる言葉をイラストと豆知識で頭をかきかき読み解く』木魚庵.YOUCHAN.[[誠文堂新光社]]。</ref>。その後、著作権の継承者が複数いることが分かり、改めて覚書を交わしている{{R|kindaichi}}。この作品のヒットによって若年層が金田一耕助を知るきっかけとなった{{R|kindaichi}}。同作品内に登場する金田一一のいとこである金田一二三(ふみ)も、家系図上は金田一耕助の孫ということになっているが、明言はされていない。なお、金田一一の母親が耕助の娘であり、一から見て耕助は母方の祖父である。二三の父親は金田一丙助という。
舞台作品には、金田一耕助を連想させる老人が登場する作品がある。
* [[ミステリー専門劇団回路R]]『美女と殺人鬼~DEEP RED INFERNO~』
:2012年上演の舞台作品。名前を名乗ることはないが、金田一耕助を連想させる老人(演じたのは[[林正樹 (俳優)|林正樹]])が、「女の墓に千社札を貼れ」というダイイングメッセージをもとに猟奇殺人事件の謎を解く。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*『金田一耕助 日本一たよりない名探偵とその怪美な世界』(メディアファクトリー刊)
== 関連項目 ==
* [[横溝正史館]]:作者の執筆場所兼書斎を移築したもの。金田一耕助関連の自筆原稿が展示されている。
* [[横溝正史疎開宅]]:作者が[[第二次世界大戦]]末期から終戦後の3年余りを過ごした居宅。[[表札]]や[[顔ハメ看板|顔出しパネル]]、[[障子]]のシルエットなど、金田一耕助関連の展示がされている。
* [[倉敷市真備ふるさと歴史館]]:作者の書斎を再現するなど「横溝正史コーナー」を設けたもの。金田一耕助関連の自筆原稿が展示されているほか、金田一耕助の[[ブロンズ像]]が設置されている。
* [[金田一耕助の小径]]:金田一耕助が初登場した『[[本陣殺人事件]]』の舞台をはじめ、横溝正史疎開宅などを巡る、[[岡山県]][[倉敷市]][[真備町]]のウォーキングコース。
* [[巡・金田一耕助の小径]]:倉敷市真備町で名探偵・金田一耕助が誕生・活躍したことを誇りとし、その軌跡を次世代に継承していくため、倉敷市が2009年より推進している事業。
== 外部リンク ==
* [http://www.yokomizo.to/ 金田一耕助博物館]
* [https://www.city.kurashiki.okayama.jp/dd.aspx?menuid=3935 金田一耕助ミステリー遊歩道(倉敷市)]
{{横溝正史}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きんたいち こうすけ}}
[[Category:金田一耕助|*]]
[[Category:映画の登場人物]]
[[Category:テレビドラマの登場人物]]
[[Category:漫画の登場人物]]
[[Category:日本の架空の私立探偵]]
[[Category:日本の推理小説の登場人物]]
[[Category:2009年開始のイベント]]<!-- 巡・金田一耕助の小径「1000人の金田一耕助」← [[金田一耕助#イベント]]の項目を参照。 -->
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2003-07-09T04:14:20Z
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割礼
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割礼(かつれい)とは、男性もしくは女性の一部を切開あるいは切除(場合によっては性器口を封鎖)する外科的施術を指す。割礼の習慣は、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、赤道沿いのアフリカ原住民などの間に見られる。割礼の歴史は古く、紀元前の資料にまで遡る。割礼は単に個人に行われる習慣ではなく、通過儀礼・集団規範と関連するケースが多い。
女性器切除(female circumcision)を『女子割礼』と称す事があるが、男性の割礼(circumcision)とは宗教的背景が異なる。また、男子の割礼が包皮のみを切除し、陰茎亀頭を露出させるだけであるため比較的無害であるのに対し、女性器切除はクリトリス本体や小陰唇、大陰唇を切除するため、生死に関わる負担や生涯にわたる苦痛などの 理由で先進国では悪習と批判されている。
聖書に記述されるcircumcisio(ラテン語)、circumcision(英語)の訳語として、漢字文化圏の言語(日本語・中国語・朝鮮語)で採用された。
文化・宗教的な風習ではなく医療行為としての包皮切除については、日本語と朝鮮語では「包茎手術(ほうけいしゅじゅつ)、朝鮮語: 包莖手術(포경수술)」、中国語では「包皮環切術(簡体字:包皮环切术、繁体字:包皮環切術、拼音: Bāopíhuánqiēshù)」等の語を用いる。
circumcision(英語)は『男性の陰茎包皮の切除』である。宗教上の行為か否かに関わらず、医療行為としての包茎手術を含む。genital cutting は性器切断だが「割礼」とも翻訳され、これは割礼 (male genital cutting) と女性器切除 (female genital cutting) が含まれる。
古来ユダヤ教では男性器の包皮は不浄なものとされてきた。割礼の実践という清めにより、唯一神との契約関係に入ることができるとされた。唯一神との契約関係に入ることは、正規のイスラエル共同体の成員となることを意味する。イスラム教にも類似の考えが見られる。
割礼の時、下半身は裸の状態(全裸の場合もある)になり,ペニスの付け根あたりに麻酔をする。(この時、刺激によって勃起する場合もあるが、子供の場合大人と違って包皮が余るため問題はない。)そして,血流を止めたあと一気に切除する。
専門機関にて施術されることが多いが、地域によっては、屋外の人の目がある場所で行われる。
アフリカ原住民などの間に見られる女子割礼(主にクリトリスの切除)も通過儀礼・集団規範として理解される。成人前に割礼を施すことにより、性欲を抑え、処女性を保たせる目的があるとされる。その集団においては、割礼をしていることが結婚をするにふさわしい純潔を保った女性であることの証明になるため、女子割礼は結婚を可能にする条件であり、集団的義務とされてきた。
『旧約聖書』に割礼の記述があることからユダヤ教、イスラム教では信仰の一環として行われている。キリスト教圏でも衛生上の理由も兼ねて行われている場合がある。また、アフリカ・オセアニアの諸民族などでは宗教とは無関係に「伝統的な風習として」割礼が行われている(後述)。
ユダヤ教では、割礼はブリット (ברית/Brit) と呼ばれ、ヘブライ語で「契約」を意味する語である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者(=ユダヤ人)は、割礼を行わなくてはならない。これはブリット・ミラーと呼ばれ、モーヘールと呼ばれる専門家が行う。現代では割礼に反対するユダヤ人もおり、その場合はブリット・シャーローム(命名式に相当)をもって、割礼の代わりとする。ただしブリット・シャーロームは律法(旧約聖書)に反するとして否定する者も多く、一般的な儀式として広まってはいない。
イスラム教(イスラーム)においては、コーランには言及がないものの、ハディースにこれに関する記載があり、慣行(スンナ)として定着している。生後間もなくか、少年のうちに割礼が行われる。時期は生後7日目に行う場合から、10-12歳頃までの場合など幅がある。割礼後、祝宴が開かれ、盛装した男児が親族や近隣住民から祝福される。割礼を行っていない者が成人になってから改宗した場合は、解釈が一定ではないため必ずしも強制ではないが、なるべく割礼を行ったほうがよいとされる。
一方、キリスト教では、割礼を行う風習が無い地域にもキリスト教の布教を行い、割礼を行わない者がキリスト教へ改宗するための要件として割礼を要件としないという見解がパウロらによってまとめられたため、早い段階で割礼を行う習慣が廃れた。このことは『新約聖書』使徒行伝等で触れられており、キリスト教が世界宗教として広まる一因となった。現在では全く自由であるが、正教会系の一部の教派・地域では割礼を行うことが奨励されている。近代以降、アメリカ合衆国などでは衛生的理由から、割礼が広まった(後述)。ただしキリスト教の一宗派であるスコプチの割礼では、男性は陰茎・睾丸・陰嚢の外性器すべてを切除し、女性は乳房や陰核、小陰唇などを切除する。
この他、オーストラリアのアボリジニーの間では尿道の下部を切開する「尿道割礼」が、ミクロネシア連邦のポナペ島の住人や南アフリカ共和国からナミビアにかけて居住するホッテントット族の間では片方の睾丸を摘出する「半去勢」が行われていたが、いずれも成年男子への通過儀礼としての儀式すなわち割礼として行われている。
近年では男性の割礼も、児童虐待や男性差別だとして反対されることも増えてきた。
ヘロドトス(前484年 - 前425年)は『歴史』の中で、エジプト人・エチオピア人が昔から割礼を行っている、と書いている。(ギリシア人、ローマ人の間では割礼の習慣はなかった。)
『創世記』17:9-14には、アブラハムと神の永遠の契約として、男子が生まれてから8日目に割礼を行うべきことが説かれている(ヘブライ語のBritは契約を意味するが、割礼の意味でもある)。割礼を受けた者だけが、過越の儀式に加わることを許された(出エジプト記12章43~49節)。ユダヤ教では、この伝統を引き継ぐ。
また創世記34章には、ヒビ人ハモルの息子シケムに娘ディナを陵辱されたヤコブの子らが、ディナに求婚してきたシケムに対して計略をしかけ、割礼を受けた者でなければ娘を嫁にやれないと答え、それに応じてシケムの町の人々が揃って割礼を受けた3日後に痛みに苦しんでいるところをヤコブの子シメオンとレビが襲って町中の男性を皆殺しにした記事がある。このことから、少なくともこれが書かれた当時は割礼後最低3日は日常生活に支障が出るほどの強い痛みが伴うのが当たり前だったということがうかがわれる。
セレウコス朝シリアにおいて、アンティオコス4世エピファネスの時代には割礼が禁じられて違反者は死罪になった記述がマカバイ記にある。
イエス・キリスト自身も割礼を受けていたことは疑いがない。キリスト教のカトリック教会では、12月25日をイエスの誕生を祝う日としているので、8日後に割礼を行うユダヤ人の習慣から、1月1日をキリストの割礼の日、としている。キリスト教の正教会では、1月14日を主の割礼祭として祝う。
イエス・キリストの死後、使徒であるパウロらの伝道旅行において、割礼の風習が無い地域にもキリスト教が伝わったが、割礼の風習がない「異邦人」(=ローマ人、ギリシア人など)が改宗した場合に割礼を行うかどうかが大きな問題になった。異邦人への文化適合を重視するアンティオキア教会と、律法(=旧約聖書)の厳格な遵守を重視するエルサレム教会が論争を行った。紀元48 - 49年頃のエルサレム会議でも、割礼について議論され、最終的に「しめ殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されることで合意が成立した。
キリスト教の信仰と割礼の有無が、まったく関係ないことは、『新約聖書』ガラテヤの信徒への手紙などで明確に述べられている。入信に割礼を求めないことは、割礼の風習が無い地域へキリスト教の信仰が広まり、世界宗教となる大きな要因となった。
なお、その後、紀元90年頃のヤムニア会議で、ユダヤ教とキリスト教は完全に分断した。
ローマ帝国のハドリアヌス皇帝の時代には帝国全土に割礼禁止令が出され、『皇帝史(Historia Augusuta)』などではこれがユダヤ人たちのバル・コクバの乱の原因になったという説が挙げられている。
この対象はユダヤ人以外の民族にも適用され、サマリア人やナバテア人(ナバテア人にあった割礼の掟自体はトラヤヌス皇帝の時代に直接支配された時に廃止)、およびエジプト人も規制対象になっている記録があるが、後にこれは緩和されユダヤ人の場合は「割礼はユダヤ人達が自分達の息子に施す場合は許される」という勅令が次代のアントニウス・ピウス皇帝の時代に出されたが、成人がユダヤ教に改宗する場合は割礼は認められなかった(前述の説明の後に「他は罰則の適用になる」と続くため)といった記録や、2世紀終わりごろのエジプトで「割礼の風習のある宗教の聖職者は後継者の息子に割礼をする場合、請願書を出して役人とローマ人最高祭司の許可を得れば割礼が認められる。」という記録があり、一律禁止ではなくなったことが分かる。
キリスト教徒が約8割を占めるアメリカ合衆国では、宗教との関連ではなく、衛生上の理由および子供・青少年の自慰行為を防ぐ目的などの名目で、19世紀末から包茎手術が行われるようになり、特に第二次世界大戦後、病気(性病、陰茎がんなど)の予防に効果があるとされ、普及するようになった。これには、医療従事者に割礼を行う宗教(主にユダヤ教)の信徒が多く、包皮切除に対する肯定感が高かったため、という指摘もある。
1990年代までは生まれた男児の多くが出生直後に包皮切除手術を受けていた。アメリカの病院で出産した日本人の男児が包皮切除をすすめられることも多かった。しかし衛生上の必要性は薄いことが示されるようになり、手術自体も新生児にとってハイリスクかつ非人道的との意見が強まって、1998年に小児科学会から包皮切除を推奨しないガイドラインが提出された。これを受け、包皮切除を受ける男児は全米で減少してきているが、21世紀に入ってからもなお6割程度が包皮切除手術を受けている。
また、「身体の統一性」および「自己の決定権」という意識から、生まれたときに勝手に行われた包皮切除を嫌い、包皮の復元手術を行い「ナチュラル・ペニス」にしようとする人も少なくない。アメリカの社会学者・マスキュリストであるワレン・ファレルは男児への割礼強制を男性差別であると非難している。
2010年、イスラム教徒の子どもに割礼を行った際に出血多量となり、施術した医師が傷害罪で起訴される事件が起こった。2012年6月に出されたケルンの裁判所の判決で、医師は無罪となったものの「傷害罪」とみなされるという判断が示された。この判決に対し、ユダヤ教徒とイスラム教徒約300人がベルリンで異例の合同デモを行い、宗教の自由をめぐる激しい論争が繰り広げられた。同年12月、連邦議会で宗教的な割礼手術を法律的に保護する法案が可決された。
2018年12月25日、イタリア・ローマ近郊モンテロンドの移民収容施設で、割礼(男性器の包皮の一部を切り取る風習)の失敗が原因で、2歳の男の子が失血死した。この男児の双子の兄弟も割礼を受けたが、病院で手当てを受け、快方に向かっている。地元メディアによると、施術した66歳の男が殺人容疑で逮捕・訴追された。地元メディアによると、この母親自身はキリスト教カトリック信者だが、ナイジェリアのイスラムの慣習を尊重して兄弟に割礼を受けさせた。
イタリアの公共医療機関は現在、割礼を行っていない。保健医療の慈善団体AMSIによると、イタリアでは毎年約5000件の割礼が行われているが、そのうち3分の1が違法に行われているという。
第二次大戦後、公費負担医療制度 (NHS) に移行するにあたって、同制度でカバーされる各手術の費用対効果が求められた。リスクがメリットを上回るとの報告を受けて、包茎手術はカバーされないこととなった。その結果、イギリスや他のヨーロッパ諸国では包茎手術の割合は低下した。1970年代には、オーストラリアとカナダそれぞれの医師会が、新生児への定型的な包茎手術を推奨しないようになり、両国の包茎手術の割合も低下した。
割礼を行う習慣が一般化している国を挙げる。
これらの国の大半は、国民中におけるイスラム教・ユダヤ教(いわゆる「アブラハムの宗教」)教徒の比率が極めて高い。
北アフリカ、東アフリカなどはイスラム圏。成人儀礼として行われている国もあると考えられる。
現状については前出。アメリカ大陸先住民の中には、ヨーロッパ人到達以前から成人儀礼として包皮切除を行っていた部族があった。
アルバニア、コソボ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア
多くの地域で、成人儀礼として行われている。オーストラリアの先住民アボリジニーは、通常の割礼に加えて、陰茎の下部を尿道まで切り開く尿道割礼を行うことで知られていた。
性病は、包皮切除をしていれば症状が発生しにくい。この原因としては「包皮が取り除かれ、亀頭粘膜が角質化するため」、「性交後に膣分泌液が包皮の裏に残らなくなるため」、「性器が乾きやすくなるため、ウイルスが粘膜上で生存する可能性が低減される」、「包皮には 性感染症の標的となる細胞が多数存在するのだが、包皮を切除することによってその標的細胞の数が減るため」といった理由が考えられている。
だがいずれも複数の人間との無分別な性行為をしなければ感染のリスクは低い。また、包皮の有無に関わらず多くの性病に関しては陰茎の洗浄を行っているかが重要である。ただし、複数の異性との無思慮な性行為を常とする男性の場合には、性行為に伴う性病感染予防の観点からは利点は存在する。ウイルスが表面上に滞在する期間によって感染率が異なるのであれば、性行為後に念入りな洗浄を行えば包皮の有無は関係しなくなる。
また、性感染症のリスクは感染源のウイルスを持つ女性器への挿入時間によっても大きく異なることになるが、一般に包皮を持つ男性は亀頭が刺激に慣れていないため包皮が無い男性に比べて射精までの時間が短いと言われている。つまりウイルスの滞在期間や滞在箇所の湿度、環境にのみ観点を置く限りは包皮の有無と性感染症の関連性を実証出来ない。
包皮切除(割礼)を受けている男性は、受けていない男性よりも大幅にHIV陽性率が低い、もしくはエイズ罹患率が低いという話もある。現在イスラム圏である西アフリカのエイズ罹患率が南部アフリカよりも大幅に低いのは、割礼(包皮切除)を受けている男性の割合が高いことが一因であるという研究もある。この原因はHIVの対象となるCD4陽性T細胞やランゲルハンス細胞が包皮に多くあり、それが切除されるためと言われている。
ベルトラン・オヴェールの研究(成人に割礼を行わせ、「受けた群」と「受けない群」の2群を比較した)などを見る限り、割礼はエイズ感染に何らかの予防効果を持つ。ただ、オヴェール自身は安易にその事実を持ち出して割礼を受けさせる事は、複数人との安易な性行為の増加につながりかねないという警告を同時に行っている。現にアフリカではこの研究結果を信じて、コンドームを着けない人が増えたため、更にエイズが拡散されるという事態に陥っている。この研究結果をどれだけよく見積もったとしても、最大で60%の効果しかないので、結局はコンドームをつけないとエイズは防げない。(Westercamp 2010)。
インドでは 1993年から2000年にかけて HIV 未感染の男性2298人についての追跡調査が行われた。約1年間の調査期間中に感染が見られたのは割礼を受けている191人中では2人であったが、受けていない 2107人では165人に感染であった。 介入試験ではフランス国立エイズ研究機関 (ANRS) により南アフリカで男性3000人に対して実施された試験では感染率は約1/3になるとされ、イリノイ大学によりケニアで男性2784人を対象に行われた試験では60%のリスク低減が、ジョンズ・ホプキンス大学によりウガンダで男性4996人を対象に行われた試験では51%のリスク低減が判明している。これらの試験はいずれも途中で、試験の中止および被験者全員への割礼が勧告されている。 これらの研究から、衛生的・医学的に行われた男性割礼はエイズ感染を予防する有用な方法として認められ、UNAIDSを中心に特に東部・南部アフリカでの自発的医学的男子割礼 (VMMC : voluntary medical male circumcision) によるエイズ感染予防策が推進されている。
しかし一方で、いくつかの研究から割礼ではエイズ感染を防ぐことができないとする研究者もいる(Connolly 2008)。また結果が判明する前に試験が中断されるなど、これらの調査方法におけるいくつもの欠陥を指摘する研究者も多い。例えば、アフリカで実施された研究では男女間での性交のエイズのリスクしか調査対象になっておらず、同性間での性交、注射器のうち回しによるエイズのリスクが考慮されていない。そして試験が行われた土地の範囲が狭く、エイズのリスクが軽減したという報告する試験結果もまだ3件しかないので、未だ定説には至っていない。一方で、パートナーの男性が割礼済みであっても、性交をする相手の女性や男性のエイズ感染のリスクが下がることはないことも指摘されている(Wawer 2009, Jameson 2009)。
統計によれば実際には亀頭包皮炎には全体の3%ぐらいしか罹患しない。 また、一部のヒト以外のすべての哺乳類の亀頭は発情時をのぞいて皮を被っており、性器を洗浄しないが炎症は起こらない。そのため割礼は、危険因子を減少させる作用はあるにせよさほど関係ない。
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"text": "割礼(かつれい)とは、男性もしくは女性の一部を切開あるいは切除(場合によっては性器口を封鎖)する外科的施術を指す。割礼の習慣は、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、赤道沿いのアフリカ原住民などの間に見られる。割礼の歴史は古く、紀元前の資料にまで遡る。割礼は単に個人に行われる習慣ではなく、通過儀礼・集団規範と関連するケースが多い。",
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"text": "女性器切除(female circumcision)を『女子割礼』と称す事があるが、男性の割礼(circumcision)とは宗教的背景が異なる。また、男子の割礼が包皮のみを切除し、陰茎亀頭を露出させるだけであるため比較的無害であるのに対し、女性器切除はクリトリス本体や小陰唇、大陰唇を切除するため、生死に関わる負担や生涯にわたる苦痛などの 理由で先進国では悪習と批判されている。",
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"text": "聖書に記述されるcircumcisio(ラテン語)、circumcision(英語)の訳語として、漢字文化圏の言語(日本語・中国語・朝鮮語)で採用された。",
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"text": "文化・宗教的な風習ではなく医療行為としての包皮切除については、日本語と朝鮮語では「包茎手術(ほうけいしゅじゅつ)、朝鮮語: 包莖手術(포경수술)」、中国語では「包皮環切術(簡体字:包皮环切术、繁体字:包皮環切術、拼音: Bāopíhuánqiēshù)」等の語を用いる。",
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"text": "circumcision(英語)は『男性の陰茎包皮の切除』である。宗教上の行為か否かに関わらず、医療行為としての包茎手術を含む。genital cutting は性器切断だが「割礼」とも翻訳され、これは割礼 (male genital cutting) と女性器切除 (female genital cutting) が含まれる。",
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"text": "古来ユダヤ教では男性器の包皮は不浄なものとされてきた。割礼の実践という清めにより、唯一神との契約関係に入ることができるとされた。唯一神との契約関係に入ることは、正規のイスラエル共同体の成員となることを意味する。イスラム教にも類似の考えが見られる。",
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"text": "割礼の時、下半身は裸の状態(全裸の場合もある)になり,ペニスの付け根あたりに麻酔をする。(この時、刺激によって勃起する場合もあるが、子供の場合大人と違って包皮が余るため問題はない。)そして,血流を止めたあと一気に切除する。",
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"text": "専門機関にて施術されることが多いが、地域によっては、屋外の人の目がある場所で行われる。",
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"text": "アフリカ原住民などの間に見られる女子割礼(主にクリトリスの切除)も通過儀礼・集団規範として理解される。成人前に割礼を施すことにより、性欲を抑え、処女性を保たせる目的があるとされる。その集団においては、割礼をしていることが結婚をするにふさわしい純潔を保った女性であることの証明になるため、女子割礼は結婚を可能にする条件であり、集団的義務とされてきた。",
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"text": "『旧約聖書』に割礼の記述があることからユダヤ教、イスラム教では信仰の一環として行われている。キリスト教圏でも衛生上の理由も兼ねて行われている場合がある。また、アフリカ・オセアニアの諸民族などでは宗教とは無関係に「伝統的な風習として」割礼が行われている(後述)。",
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"text": "ユダヤ教では、割礼はブリット (ברית/Brit) と呼ばれ、ヘブライ語で「契約」を意味する語である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者(=ユダヤ人)は、割礼を行わなくてはならない。これはブリット・ミラーと呼ばれ、モーヘールと呼ばれる専門家が行う。現代では割礼に反対するユダヤ人もおり、その場合はブリット・シャーローム(命名式に相当)をもって、割礼の代わりとする。ただしブリット・シャーロームは律法(旧約聖書)に反するとして否定する者も多く、一般的な儀式として広まってはいない。",
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"text": "イスラム教(イスラーム)においては、コーランには言及がないものの、ハディースにこれに関する記載があり、慣行(スンナ)として定着している。生後間もなくか、少年のうちに割礼が行われる。時期は生後7日目に行う場合から、10-12歳頃までの場合など幅がある。割礼後、祝宴が開かれ、盛装した男児が親族や近隣住民から祝福される。割礼を行っていない者が成人になってから改宗した場合は、解釈が一定ではないため必ずしも強制ではないが、なるべく割礼を行ったほうがよいとされる。",
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"text": "一方、キリスト教では、割礼を行う風習が無い地域にもキリスト教の布教を行い、割礼を行わない者がキリスト教へ改宗するための要件として割礼を要件としないという見解がパウロらによってまとめられたため、早い段階で割礼を行う習慣が廃れた。このことは『新約聖書』使徒行伝等で触れられており、キリスト教が世界宗教として広まる一因となった。現在では全く自由であるが、正教会系の一部の教派・地域では割礼を行うことが奨励されている。近代以降、アメリカ合衆国などでは衛生的理由から、割礼が広まった(後述)。ただしキリスト教の一宗派であるスコプチの割礼では、男性は陰茎・睾丸・陰嚢の外性器すべてを切除し、女性は乳房や陰核、小陰唇などを切除する。",
"title": "概要"
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"text": "この他、オーストラリアのアボリジニーの間では尿道の下部を切開する「尿道割礼」が、ミクロネシア連邦のポナペ島の住人や南アフリカ共和国からナミビアにかけて居住するホッテントット族の間では片方の睾丸を摘出する「半去勢」が行われていたが、いずれも成年男子への通過儀礼としての儀式すなわち割礼として行われている。",
"title": "概要"
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"text": "近年では男性の割礼も、児童虐待や男性差別だとして反対されることも増えてきた。",
"title": "概要"
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"text": "ヘロドトス(前484年 - 前425年)は『歴史』の中で、エジプト人・エチオピア人が昔から割礼を行っている、と書いている。(ギリシア人、ローマ人の間では割礼の習慣はなかった。)",
"title": "歴史"
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"text": "『創世記』17:9-14には、アブラハムと神の永遠の契約として、男子が生まれてから8日目に割礼を行うべきことが説かれている(ヘブライ語のBritは契約を意味するが、割礼の意味でもある)。割礼を受けた者だけが、過越の儀式に加わることを許された(出エジプト記12章43~49節)。ユダヤ教では、この伝統を引き継ぐ。",
"title": "歴史"
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"text": "また創世記34章には、ヒビ人ハモルの息子シケムに娘ディナを陵辱されたヤコブの子らが、ディナに求婚してきたシケムに対して計略をしかけ、割礼を受けた者でなければ娘を嫁にやれないと答え、それに応じてシケムの町の人々が揃って割礼を受けた3日後に痛みに苦しんでいるところをヤコブの子シメオンとレビが襲って町中の男性を皆殺しにした記事がある。このことから、少なくともこれが書かれた当時は割礼後最低3日は日常生活に支障が出るほどの強い痛みが伴うのが当たり前だったということがうかがわれる。",
"title": "歴史"
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"text": "セレウコス朝シリアにおいて、アンティオコス4世エピファネスの時代には割礼が禁じられて違反者は死罪になった記述がマカバイ記にある。",
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"text": "イエス・キリスト自身も割礼を受けていたことは疑いがない。キリスト教のカトリック教会では、12月25日をイエスの誕生を祝う日としているので、8日後に割礼を行うユダヤ人の習慣から、1月1日をキリストの割礼の日、としている。キリスト教の正教会では、1月14日を主の割礼祭として祝う。",
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"text": "イエス・キリストの死後、使徒であるパウロらの伝道旅行において、割礼の風習が無い地域にもキリスト教が伝わったが、割礼の風習がない「異邦人」(=ローマ人、ギリシア人など)が改宗した場合に割礼を行うかどうかが大きな問題になった。異邦人への文化適合を重視するアンティオキア教会と、律法(=旧約聖書)の厳格な遵守を重視するエルサレム教会が論争を行った。紀元48 - 49年頃のエルサレム会議でも、割礼について議論され、最終的に「しめ殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されることで合意が成立した。",
"title": "歴史"
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"text": "キリスト教の信仰と割礼の有無が、まったく関係ないことは、『新約聖書』ガラテヤの信徒への手紙などで明確に述べられている。入信に割礼を求めないことは、割礼の風習が無い地域へキリスト教の信仰が広まり、世界宗教となる大きな要因となった。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、その後、紀元90年頃のヤムニア会議で、ユダヤ教とキリスト教は完全に分断した。",
"title": "歴史"
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"text": "ローマ帝国のハドリアヌス皇帝の時代には帝国全土に割礼禁止令が出され、『皇帝史(Historia Augusuta)』などではこれがユダヤ人たちのバル・コクバの乱の原因になったという説が挙げられている。",
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"text": "この対象はユダヤ人以外の民族にも適用され、サマリア人やナバテア人(ナバテア人にあった割礼の掟自体はトラヤヌス皇帝の時代に直接支配された時に廃止)、およびエジプト人も規制対象になっている記録があるが、後にこれは緩和されユダヤ人の場合は「割礼はユダヤ人達が自分達の息子に施す場合は許される」という勅令が次代のアントニウス・ピウス皇帝の時代に出されたが、成人がユダヤ教に改宗する場合は割礼は認められなかった(前述の説明の後に「他は罰則の適用になる」と続くため)といった記録や、2世紀終わりごろのエジプトで「割礼の風習のある宗教の聖職者は後継者の息子に割礼をする場合、請願書を出して役人とローマ人最高祭司の許可を得れば割礼が認められる。」という記録があり、一律禁止ではなくなったことが分かる。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし一方で、いくつかの研究から割礼ではエイズ感染を防ぐことができないとする研究者もいる(Connolly 2008)。また結果が判明する前に試験が中断されるなど、これらの調査方法におけるいくつもの欠陥を指摘する研究者も多い。例えば、アフリカで実施された研究では男女間での性交のエイズのリスクしか調査対象になっておらず、同性間での性交、注射器のうち回しによるエイズのリスクが考慮されていない。そして試験が行われた土地の範囲が狭く、エイズのリスクが軽減したという報告する試験結果もまだ3件しかないので、未だ定説には至っていない。一方で、パートナーの男性が割礼済みであっても、性交をする相手の女性や男性のエイズ感染のリスクが下がることはないことも指摘されている(Wawer 2009, Jameson 2009)。",
"title": "割礼と病気"
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"text": "統計によれば実際には亀頭包皮炎には全体の3%ぐらいしか罹患しない。 また、一部のヒト以外のすべての哺乳類の亀頭は発情時をのぞいて皮を被っており、性器を洗浄しないが炎症は起こらない。そのため割礼は、危険因子を減少させる作用はあるにせよさほど関係ない。",
"title": "割礼と病気"
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割礼(かつれい)とは、男性もしくは女性の一部を切開あるいは切除(場合によっては性器口を封鎖)する外科的施術を指す。割礼の習慣は、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、赤道沿いのアフリカ原住民などの間に見られる。割礼の歴史は古く、紀元前の資料にまで遡る。割礼は単に個人に行われる習慣ではなく、通過儀礼・集団規範と関連するケースが多い。 女性器切除を『女子割礼』と称す事があるが、男性の割礼(circumcision)とは宗教的背景が異なる。また、男子の割礼が包皮のみを切除し、陰茎亀頭を露出させるだけであるため比較的無害であるのに対し、女性器切除はクリトリス本体や小陰唇、大陰唇を切除するため、生死に関わる負担や生涯にわたる苦痛などの
理由で先進国では悪習と批判されている。
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{{Otheruses}}
{{出典の明記|date=2013年7月}}
{{性的}}
'''割礼'''(かつれい)とは、男性もしくは女性の一部を切開あるいは切除(場合によっては性器口を封鎖)する外科的施術を指す。割礼の習慣は、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、赤道沿いのアフリカ原住民などの間に見られる。割礼の歴史は古く、紀元前の資料にまで遡る。割礼は単に個人に行われる習慣ではなく、通過儀礼・集団規範と関連するケースが多い<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=宗教学事典|year=2010|publisher=丸善出版|pages=626}}</ref>。
[[女性器切除]](female circumcision)を『女子割礼』と称す事があるが、男性の割礼(circumcision)とは宗教的背景が異なる。また、男子の割礼が包皮のみを切除し、[[陰茎亀頭]]を露出させるだけであるため比較的無害であるのに対し、女性器切除は[[クリトリス]]本体や小陰唇、大陰唇を切除するため、生死に関わる負担や生涯にわたる苦痛などの
理由で先進国では悪習と批判されている。
== 語意 ==
[[ファイル:Circumcision illustration-ja.jpg|thumb|right|230px|環状切開法による包茎手術の方法]]
聖書に記述される'''circumcisio'''(ラテン語)、'''circumcision'''(英語)の訳語として、漢字文化圏の言語(日本語・中国語・朝鮮語)で採用された。
文化・宗教的な風習ではなく医療行為としての包皮切除については、[[日本語]]と[[朝鮮語]]では「包茎手術(ほうけいしゅじゅつ)、{{lang-ko|包莖手術(포경수술)}}」、中国語では「包皮環切術([[簡体字]]:{{lang|zh|包皮环切术}}、[[繁体字]]:{{lang|zh|包皮環切術}}、{{ピン音|Bāopíhuánqiēshù}})」等の語を用いる。
'''circumcision'''([[英語]])は『[[男性]]の[[陰茎]][[包皮]]の切除』である。宗教上の行為か否かに関わらず、[[医療]]行為としての[[包茎手術]]を含む。genital cutting は[[性器切断]]だが「割礼」とも翻訳され、これは割礼 (male genital cutting) と[[女性器切除]] (female genital cutting) が含まれる。
[[ファイル:Guido Reni 027.jpg|240px|thumb|キリストの割礼([[グイド・レーニ]]画、1640年頃、部分)]]
== 概要 ==
=== 男性 ===
古来ユダヤ教では男性器の包皮は不浄なものとされてきた。割礼の実践という清めにより、唯一神との契約関係に入ることができるとされた。唯一神との契約関係に入ることは、正規のイスラエル共同体の成員となることを意味する。イスラム教にも類似の考えが見られる<ref name=":0" />。
割礼の時、下半身は裸の状態(全裸の場合もある)になり,ペニスの付け根あたりに麻酔をする。(この時、刺激によって[[勃起]]する場合もあるが、子供の場合大人と違って包皮が余るため問題はない。)そして,血流を止めたあと一気に切除する。
専門機関にて施術されることが多いが、地域によっては、屋外の人の目がある場所で行われる。
=== 女性 ===
{{See also|女性器切除}}
アフリカ原住民などの間に見られる女子割礼(主にクリトリスの切除)も通過儀礼・集団規範として理解される。成人前に割礼を施すことにより、性欲を抑え、処女性を保たせる目的があるとされる。その集団においては、割礼をしていることが結婚をするにふさわしい純潔を保った女性であることの証明になるため、女子割礼は結婚を可能にする条件であり、集団的義務とされてきた<ref>{{Cite book|和書|title=宗教学事典|year=2010|publisher=丸善出版|pages=627}}</ref>。
=== 宗教別 ===
『[[旧約聖書]]』に割礼の記述があることから[[ユダヤ教]]、[[イスラム教]]では信仰の一環として行われている。[[キリスト教]]圏でも衛生上の理由も兼ねて行われている場合がある。また、[[アフリカ]]・[[オセアニア]]の諸民族などでは宗教とは無関係に「伝統的な風習として」割礼が行われている(後述)。
[[ユダヤ教]]では、割礼はブリット (ברית/Brit) と呼ばれ、[[ヘブライ語]]で「[[契約]]」を意味する語である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者(=[[ユダヤ人]]<ref>定義には諸説あるが、[[イスラエル]]の帰還法においては、ユダヤ人の母を持つかユダヤ教に改宗したものが「ユダヤ人」であると定義されている</ref>)は、割礼を行わなくてはならない。これは[[ベリート・ミーラー|ブリット・ミラー]]と呼ばれ、モーヘールと呼ばれる専門家が行う。現代では割礼に反対するユダヤ人もおり、その場合は[[ベリート・シャーローム|ブリット・シャーローム]](命名式に相当)をもって、割礼の代わりとする。ただしブリット・シャーロームは律法(旧約聖書)に反するとして否定する者も多く、一般的な儀式として広まってはいない。
[[イスラム教]](イスラーム)においては、[[コーラン]]には言及がないものの、[[ハディース]]にこれに関する記載があり、慣行([[スンナ]])として定着<ref>「スンナ」としての解釈は一定ではない</ref>している。生後間もなくか、少年のうちに割礼が行われる。時期は生後7日目に行う場合から、10-12歳頃までの場合など幅がある。割礼後、祝宴が開かれ、盛装した男児が親族や近隣住民から祝福される。割礼を行っていない者が成人になってから改宗した場合は、解釈が一定ではないため必ずしも強制ではないが、なるべく割礼を行ったほうがよいとされる。
一方、[[キリスト教]]では、割礼を行う風習が無い[[地域]]にもキリスト教の布教を行い、割礼を行わない者がキリスト教へ改宗するための[[要件]]として割礼を要件としないという見解が[[パウロ]]らによってまとめられたため、早い段階で割礼を行う習慣が廃れた。このことは『[[新約聖書]]』[[使徒行伝]]等で触れられており、キリスト教が世界宗教として広まる一因となった。現在では全く自由であるが、[[正教会]]系の一部の教派・地域では割礼を行うことが奨励されている。近代以降、アメリカ合衆国などでは衛生的理由から、割礼が広まった(後述)。ただしキリスト教の一宗派である[[スコプチ]]の割礼では、男性は陰茎・睾丸・陰嚢の外性器すべてを切除し、女性は乳房や陰核、小陰唇などを切除する。
この他、[[オーストラリア]]の[[アボリジニー]]の間では[[尿道]]の下部を切開する「[[尿道割礼]]」が、[[ミクロネシア連邦]]の[[ポンペイ島|ポナペ島]]の住人や[[南アフリカ共和国]]から[[ナミビア]]にかけて居住する[[コイコイ人|ホッテントット族]]の間では片方の[[睾丸]]を摘出する「[[半去勢]]」が行われていたが、いずれも成年男子への[[通過儀礼]]としての儀式すなわち割礼として行われている。
<!-- このように「包皮の切除」は、宗教習俗の違いこそあれ、熱帯や乾燥帯に住む世界各地の人々に見られる傾向があり(あるいは起源を持ち)、元々は衛生環境が悪化しがちの気候に住む人々の経験に基づく衛生予防上の習慣だったものが、宗教習俗上の意味合いを持つことで、宗教習俗の広がりと共に、より普及したと見られる。
「アメリカ合衆国などでは衛生的理由から、割礼が広まった」や「宗教習俗の違いこそあれ、熱帯や乾燥帯に住む世界各地の人々に見られる傾向」なら割礼していることとどの宗教を信仰しているかを見分けることには関係ないのでは? -->
近年では男性の割礼も、[[児童虐待]]や[[男性差別]]だとして反対されることも増えてきた。
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
=== ヘロドトスの記述 ===
[[ヘロドトス]](前484年 - 前425年)は『歴史』の中で、[[古代エジプト|エジプト人]]・[[エチオピア]]人が昔から割礼を行っている、と書いている。(ギリシア人、ローマ人の間では割礼の習慣はなかった。)
=== ユダヤ教 ===
『[[創世記]]』17:9-14には、[[アブラハム]]と神の永遠の契約<ref>ただし『出エジプト記』の第4章第24-26節では、(長い間エジプトに住んでいたうちにこの風習が廃れたらしく)モーセでさえ息子の割礼をしないでいて、妻[[ツィポラ]](アブラハムの子孫だがイスラエルとは別系統の民族出自)がしたとか、『ヨシュア記』第5章第2-6節でも出エジプトの時にいったん全員やっていたもののその後40年間やらなかったといった記述がある。</ref>として、男子が生まれてから8日目に割礼を行うべきことが説かれている([[ヘブライ語]]のBritは契約を意味するが、割礼の意味でもある)。割礼を受けた者だけが、[[過越]]の儀式に加わることを許された([[s:出エジプト記(口語訳)#第12章|出エジプト記12章]]43~49節)<ref>{{Cite book|和書|title=新聖書辞典|date=1985.9.20|year=1985|publisher=いのちのことば社出版部|pages=304}}</ref>。ユダヤ教では、この伝統を引き継ぐ。
また[[s:創世記(口語訳)#34:1|創世記34章]]には、ヒビ人ハモルの息子シケムに娘[[ディナ]]を陵辱された[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]の子らが、ディナに求婚してきたシケムに対して計略をしかけ、割礼を受けた者でなければ娘を嫁にやれないと答え、それに応じてシケムの町の人々が揃って割礼を受けた3日後に痛みに苦しんでいるところをヤコブの子[[シメオン (ヤコブの子)|シメオン]]と[[レビ]]が襲って町中の男性を皆殺しにした記事がある。このことから、少なくともこれが書かれた当時は割礼後最低3日は日常生活に支障が出るほどの強い痛みが伴うのが当たり前だったということがうかがわれる。
[[セレウコス朝]]シリアにおいて、[[アンティオコス4世エピファネス]]の時代には割礼が禁じられて違反者は死罪になった記述が[[マカバイ記]]にある<ref>禁止自体は第1の1:48、具体的な刑罰例は第2の6:10にある。</ref>。
=== イエスの割礼の日 ===
[[イエス・キリスト]]自身も割礼を受けていたことは疑いがない。キリスト教の[[カトリック教会]]では、12月25日をイエスの誕生を祝う日としているので、8日後に割礼を行う[[ユダヤ人]]の習慣から、[[1月1日]]を[[キリスト]]の割礼の日、としている。キリスト教の[[正教会]]では、1月14日を[[主の割礼祭]]として祝う。
=== キリスト教布教と割礼 ===
[[ファイル:Coptic Children wearing traditional circumcision costumes.jpg|サムネイル|伝統的な割礼の衣装を着た[[コプト]] クリスチャンの子供たち]]
[[イエス・キリスト]]の死後、[[使徒]]である[[パウロ]]らの伝道旅行において、割礼の風習が無い地域にもキリスト教が伝わったが、割礼の風習がない「[[異邦人]]」(=ローマ人、ギリシア人など)が[[改宗]]した場合に割礼を行うかどうかが大きな問題になった。異邦人への文化適合を重視する[[アンティオキア教会]]と、律法(=[[旧約聖書]])の厳格な遵守を重視する[[エルサレム教会]]が論争を行った。紀元48 - 49年頃の[[エルサレム会議]]でも、割礼について議論され、最終的に「しめ殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されることで合意が成立した。
キリスト教の信仰と割礼の有無が、まったく関係ないことは、『[[新約聖書]]』[[ガラテヤの信徒への手紙]]などで明確に述べられている。入信に割礼を求めないことは、割礼の風習が無い地域へキリスト教の信仰が広まり、[[世界宗教]]となる大きな要因となった。<!---イスラム教が広まったこととの整合は?--->
なお、その後、紀元90年頃の[[ヤムニア会議]]で、ユダヤ教とキリスト教は完全に分断した。
=== ローマ帝国における禁止令 ===
ローマ帝国の[[ハドリアヌス]]皇帝の時代には帝国全土に割礼禁止令が出され<ref>より正確には3代前のドミティアヌス皇帝の出した「去勢を(未来の子供に対する)殺人に準じたものとして禁ずる」法律があり、ハドリアヌスの代でそれは拡大解釈され生殖器を傷つける行為全般が禁止になった。</ref>、『[[ローマ皇帝群像|皇帝史]](Historia Augusuta)』などではこれがユダヤ人たちの[[バル・コクバの乱]]の原因になったという説が挙げられている。
この対象はユダヤ人以外の民族にも適用され、サマリア人やナバテア人(ナバテア人にあった割礼の掟自体はトラヤヌス皇帝の時代に直接支配された時に廃止)、およびエジプト人も規制対象になっている記録があるが、後にこれは緩和されユダヤ人の場合は「割礼はユダヤ人達が自分達の息子に施す場合は許される」という勅令が次代の[[アントニウス・ピウス]]皇帝の時代に出されたが、成人がユダヤ教に改宗する場合は割礼は認められなかった(前述の説明の後に「他は罰則の適用になる」と続くため)といった記録や、2世紀終わりごろのエジプトで「割礼の風習のある宗教の聖職者は後継者の息子に割礼をする場合、請願書を出して役人とローマ人最高祭司の許可を得れば割礼が認められる。」という記録があり、一律禁止ではなくなったことが分かる<ref>E・シューラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史II』、古川陽 訳、株式会社教文館、2012年、P318-319・P342-344注訳</ref>。
=== 欧米での現状 ===
;アメリカ
[[ファイル:Circumcision Prevalence using red for the most circumcising countries.svg|サムネイル|400x400ピクセル]]
キリスト教徒が約8割を占めるアメリカ合衆国では、宗教との関連ではなく、衛生上の理由および子供・青少年の[[オナニー|自慰]]行為を防ぐ目的などの名目で、[[19世紀]]末から[[包茎手術]]が行われるようになり、特に[[第二次世界大戦]]後、[[病気]]([[性病]]、[[陰茎癌|陰茎がん]]など)の予防に効果があるとされ、普及するようになった。<!---英語版Male circumcisionより--->これには、医療従事者に割礼を行う宗教(主に[[ユダヤ教]])の信徒が多く、包皮切除に対する肯定感が高かったため、という指摘もある。
[[1990年代]]までは生まれた男児の多くが出生直後に包皮切除手術を受けていた。アメリカの病院で出産した[[日本人]]の男児が包皮切除をすすめられることも多かった。しかし衛生上の必要性は薄いことが示されるようになり、手術自体も新生児にとってハイリスク<ref>[[デイヴィッド・ライマー]]を参照</ref>かつ非[[人道]]的との意見が強まって、1998年に[[小児科学会]]から包皮切除を推奨しない[[ガイドライン]]が提出された。これを受け、包皮切除を受ける男児は全米で減少してきているが、[[21世紀]]に入ってからもなお6割程度が包皮切除手術を受けている。
また、「身体の統一性」および「自己の決定権」という意識から、生まれたときに勝手に行われた包皮切除を嫌い、包皮の復元手術を行い「ナチュラル・ペニス」にしようとする人も少なくない。アメリカの[[社会学者]]・[[マスキュリスト]]である[[ワレン・ファレル]]は男児への割礼強制を[[男性差別]]であると非難している。
;ドイツ
2010年、イスラム教徒の子どもに割礼を行った際に出血多量となり、施術した医師が傷害罪で起訴される事件が起こった。[[2012年]]6月に出された[[ケルン]]の[[裁判所]]の判決で、医師は無罪となったものの「傷害罪」とみなされるという判断が示された。この判決に対し、[[ユダヤ教徒]]と[[ムスリム|イスラム教徒]]約300人がベルリンで異例の合同デモを行い<ref>{{Cite web|和書
|url = https://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE88902120120910
|title = ユダヤ教とイスラム教が割礼保護で共闘、ドイツで異例の合同デモ
|publisher = [[トムソン・ロイター|ロイター]]
|accessdate = 2012-09-13 }}</ref>、宗教の自由をめぐる激しい論争が繰り広げられた。同年12月、連邦議会で宗教的な割礼手術を法律的に保護する法案が可決された<ref>{{Cite news|title=「割礼」揺れるドイツ 宗教と法律|newspaper=msn産経ニュース|date=2013-01-14|url=http://www.sankei.com/west/news/130114/wst1301140033-n1.html|accessdate=2014-01-15}}</ref>。
;イタリア
2018年12月25日、イタリア・ローマ近郊モンテロンドの移民収容施設で、割礼(男性器の包皮の一部を切り取る風習)の失敗が原因で、2歳の男の子が失血死した。この男児の双子の兄弟も割礼を受けたが、病院で手当てを受け、快方に向かっている。地元メディアによると、施術した66歳の男が殺人容疑で逮捕・訴追された。地元メディアによると、この母親自身はキリスト教カトリック信者だが、ナイジェリアのイスラムの慣習を尊重して兄弟に割礼を受けさせた。
イタリアの公共医療機関は現在、割礼を行っていない。保健医療の慈善団体AMSIによると、イタリアでは毎年約5000件の割礼が行われているが、そのうち3分の1が違法に行われているという。
;イギリスほか
第二次大戦後、公費負担医療制度 (NHS) に移行するにあたって、同制度でカバーされる各手術の費用対効果が求められた。リスクがメリットを上回るとの報告を受けて、包茎手術はカバーされないこととなった。その結果、イギリスや他のヨーロッパ諸国では包茎手術の割合は低下した。1970年代には、オーストラリアとカナダそれぞれの医師会が、新生児への定型的な包茎手術を推奨しないようになり、両国の包茎手術の割合も低下した。
== 割礼を行う国 ==
割礼を行う習慣が一般化している国を挙げる。
=== 東南アジア===
* [[マレーシア]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]、[[ブルネイ]], ベトナム
* なお日比ハーフの男児は日本在住であっても割礼を受ける場合がある。たとえば[[GENERATIONS]]の[[白濱亜嵐#人物|白濱亜嵐]]は10歳のときフィリピンで施術されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://fumumu.net/280683/|title= 白濱亜嵐、10歳で衝撃の割礼体験を語る 「ハサミでジョキンッて切られて…」|publisher=fumumu|date=2021-12-01|accessdate=2022-07-06}}</ref>。
=== 中央アジア・西アジア ===
[[ファイル:Circumcision central Asia2.jpg|thumb|180px|小児への割礼(中央アジア、1870年前後)]]
* [[アフガニスタン]]、[[バングラデシュ]]、[[パキスタン]]、[[イラン]]、[[イラク]]、[[イスラエル]]、[[クウェート]]、[[レバノン]]、[[シリア]]、[[トルコ]]、[[トルクメニスタン]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[イエメン]]、[[サウジアラビア]]、[[タジキスタン]]、[[ウズベキスタン]]、[[モルディブ]]、[[アゼルバイジャン]]、[[バーレーン]]、[[カザフスタン]]、[[カタール]]、[[ヨルダン]]、[[オマーン]]、[[キルギス]]
これらの国の大半は、国民中における[[イスラム教]]・[[ユダヤ教]](いわゆる「[[アブラハムの宗教]]」)教徒の比率が極めて高い。
=== アフリカ ===
* [[エジプト]]、[[リビア]]、[[チュニジア]]、[[アルジェリア]]、[[モロッコ]]、[[エリトリア]]、[[ガーナ]]、[[ギニア]]、[[ニジェール]]、[[ナイジェリア]]、[[トーゴ]]、[[ベナン]]、[[カメルーン]]、[[チャド]]、[[ジブチ]]、[[ガボン]]、[[ガンビア]]、[[マダガスカル]]、[[マリ共和国|マリ]]、[[モーリタニア]]、[[ケニア]]、[[コンゴ共和国]]、[[シエラレオネ]]、[[ソマリア]]、[[スーダン]]、[[エチオピア]]、[[モザンビーク]]
[[北アフリカ]]、[[東アフリカ]]などはイスラム圏。成人儀礼として行われている国もあると考えられる。
=== 北アメリカ大陸 ===
* [[アメリカ合衆国]]
現状については前出。アメリカ大陸先住民の中には、ヨーロッパ人到達以前から成人儀礼として包皮切除を行っていた部族があった。
=== ヨーロッパ ===
[[アルバニア]]、[[コソボ]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[マケドニア共和国|マケドニア]]
=== オセアニア ===
* [[オーストラリア]]、[[トンガ]]、[[サモア]]、[[バヌアツ]]、[[コモロ]]、[[チャンモロ]]
多くの地域で、成人儀礼として行われている。オーストラリアの先住民[[アボリジニー]]は、通常の割礼に加えて、陰茎の下部を尿道まで切り開く[[尿道割礼]]を行うことで知られていた。
== 割礼と病気 ==
=== 性感染症 ===
[[性病]]は、包皮切除をしていれば症状が発生しにくい。この原因としては「包皮が取り除かれ、亀頭粘膜が角質化するため」、「性交後に膣分泌液が包皮の裏に残らなくなるため」、「性器が乾きやすくなるため、ウイルスが粘膜上で生存する可能性が低減される」、「包皮には 性感染症の標的となる細胞が多数存在するのだが、包皮を切除することによってその標的細胞の数が減るため」といった理由が考えられている。
だがいずれも複数の人間との無分別な性行為をしなければ感染のリスクは低い。また、包皮の有無に関わらず多くの性病に関しては陰茎の洗浄を行っているかが重要である。ただし、複数の異性との無思慮な性行為を常とする男性の場合には、性行為に伴う性病感染予防の観点からは利点は存在する。ウイルスが表面上に滞在する期間によって感染率が異なるのであれば、性行為後に念入りな洗浄を行えば包皮の有無は関係しなくなる。
また、性感染症のリスクは感染源のウイルスを持つ女性器への挿入時間によっても大きく異なることになるが、一般に包皮を持つ男性は亀頭が刺激に慣れていないため包皮が無い男性に比べて射精までの時間が短いと言われている。つまりウイルスの滞在期間や滞在箇所の湿度、環境にのみ観点を置く限りは包皮の有無と性感染症の関連性を実証出来ない。
=== AIDS ===
{{複数の問題|section=1|独自研究=2014年11月|出典の明記=2014年11月}}
包皮切除(割礼)を受けている男性は、受けていない男性よりも大幅にHIV陽性率が低い、もしくは[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]罹患率が低いという話もある。現在イスラム圏である西アフリカのエイズ罹患率が南部アフリカよりも大幅に低いのは、割礼(包皮切除)を受けている男性の割合が高いことが一因であるという研究もある。この原因はHIVの対象となるCD4陽性[[T細胞]]や[[樹状細胞|ランゲルハンス細胞]]が包皮に多くあり、それが切除されるためと言われている。
ベルトラン・オヴェールの研究(成人に割礼を行わせ、「受けた群」と「受けない群」の2群を比較した)などを見る限り、割礼はエイズ感染に何らかの予防効果を持つ。ただ、オヴェール自身は安易にその事実を持ち出して割礼を受けさせる事は、複数人との安易な[[性行為]]の増加につながりかねないという警告を同時に行っている。現にアフリカではこの研究結果を信じて、コンドームを着けない人が増えたため、更にエイズが拡散されるという事態に陥っている。この研究結果をどれだけよく見積もったとしても、最大で60%の効果しかないので、結局はコンドームをつけないとエイズは防げない。(Westercamp 2010)。
インドでは 1993年から2000年にかけて HIV 未感染の男性2298人についての追跡調査が行われた。約1年間の調査期間中に感染が見られたのは割礼を受けている191人中では2人であったが、受けていない 2107人では165人に感染であった。
介入試験ではフランス国立エイズ研究機関 (ANRS) により南アフリカで男性3000人に対して実施された試験では感染率は約1/3になるとされ、[[イリノイ大学]]によりケニアで男性2784人を対象に行われた試験では60%のリスク低減が、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]によりウガンダで男性4996人を対象に行われた試験では51%のリスク低減が判明している。これらの試験はいずれも途中で、試験の中止および被験者全員への割礼が勧告されている。
これらの研究から、衛生的・医学的に行われた男性割礼はエイズ感染を予防する有用な方法として認められ<ref name="unaids1">{{Cite web|url=http://www.unaids.org/en/media/unaids/contentassets/dataimport/pub/report/2007/mc_recommendations_en.pdf|title=WHO/UNAIDS New Data on Male Circumcision and HIV Prevention: Policy and Programme Implications|accessdate=2011-01-06|format=PDF|publisher=unaids.org}}</ref>、[[UNAIDS]]を中心に特に東部・南部アフリカでの自発的医学的男子割礼 (VMMC : voluntary medical male circumcision) によるエイズ感染予防策が推進されている。
しかし一方で、いくつかの研究から割礼ではエイズ感染を防ぐことができないとする研究者もいる(Connolly 2008)。また結果が判明する前に試験が中断されるなど、これらの調査方法におけるいくつもの欠陥を指摘する研究者も多い。例えば、アフリカで実施された研究では男女間での性交のエイズのリスクしか調査対象になっておらず、同性間での性交、注射器のうち回しによるエイズのリスクが考慮されていない。そして試験が行われた土地の範囲が狭く、エイズのリスクが軽減したという報告する試験結果もまだ3件しかないので、未だ定説には至っていない。一方で、パートナーの男性が割礼済みであっても、性交をする相手の女性や男性のエイズ感染のリスクが下がることはないことも指摘されている(Wawer 2009, Jameson 2009)。<ref>[http://www.psychologytoday.com/blog/moral-landscapes/201109/more-circumcision-myths-you-may-believe-hygiene-and-stds More Circumcision Myths You May Believe: Hygiene and STDs]</ref>
=== 亀頭包皮炎 ===
{{要出典範囲|統計によれば実際には[[亀頭包皮炎]]には全体の3%ぐらいしか罹患しない。|date=2013年7月}}
また、一部のヒト以外のすべての哺乳類の亀頭は発情時をのぞいて皮を被っており、{{要出典範囲|性器を洗浄しないが炎症は起こらない。そのため割礼は、危険因子を減少させる作用はあるにせよさほど関係ない。|date=2013年7月}}
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Circumcision}}
* [[女性器切除]]
* [[性器切断]]
* [[尿道割礼]]
* [[包茎手術]] - [[包茎]]
* [[:en:Circumcision surgical procedure]]
* {{仮リンク|強制割礼|en|Forced circumcision}}
* {{仮リンク|割礼と法|en|Circumcision and law}}
{{割礼}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かつれい}}
[[Category:アブラハムの宗教]]
[[Category:ユダヤ教]]
[[Category:イスラーム文化]]
[[Category:通過儀礼]]
[[Category:性器改造]]
[[Category:宗教と性]]
[[Category:人間の陰茎]]
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2003-07-09T04:25:55Z
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2023-11-14T16:09:00Z
| false | true | false |
[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E7%A4%BC
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11,076 |
フランツ・リスト
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フランツ・リスト(独: Franz Liszt)、もしくはリスト・フェレンツ(ハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリー王国出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家。
自身の生誕地(後述)であり、当時属していたハンガリー王国(当時はオーストリア帝国支配下の版図内)を祖国と呼び、ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、死後も「ハンガリー」の音楽家として認識・記述されることが多い。その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなく、両親の血統、母語、音楽家としての活動名義(フランツ・リスト)、最も長い活動地のいずれも「ドイツ」に属し、当時の中東欧に多数存在したドイツ植民の系統でもある。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけられる。
ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。
オーストリア帝国領内ハンガリー王国ショプロン県(英語版)ドボルヤーン(現在のオーストリア共和国ブルゲンラント州ライディング)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人(英語版)(ドイツ系)の父アーダム・リストと、オーストリア人(南ドイツ人)の母アンナの間に生まれた。
ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。
家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であった。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていた。このほか数ヶ国語に通じながら、ハンガリー人を自認していた彼が生涯ハンガリー語だけは覚えなかったことを不可解とする向きもあるが、時代背景的に生地・血統共に生粋のハンガリー人でさえドイツ語しか話せない者も珍しくなかったという事情から、国民国家の価値観が定着した現代の感覚でこれを疑問視することは適切とは言えない。歌曲は大部分がドイツ語(一部はフランス語)で書かれている。
家名の本来の綴りはドイツ系固有の List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では sz の綴りで /s/ を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがある。リストのハンガリーのパスポートではファーストネームの綴りがFerenczとなっていたのにも拘らず今日ではFerencと綴られるが、これは1922年のハンガリー語の正書法改革で苗字を除く全ての語中のczがcに変更されたためである。1859年から1867年までの公式の氏名はフランツ・リッター・フォン・リスト (Franz Ritter von Liszt) だったが、これは1859年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりリッター(騎士)の位を授けられたためであり、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もなかった。この称号はカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要だったが、カロリーネとの結婚が婚姻無効に至った後、1867年にリストはこの称号を自身よりも年少の叔父のエードゥアルトに譲った。エードゥアルトの息子が法学者のフランツ・フォン・リストである。
父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・チェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事した。ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年にはオペラ『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。
1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。その時の石版画が1873年、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている(ただし無署名である)。
1827年には父アーダムが死去し、わずか15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。
1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。1838年のドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。
ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。
3児を儲けたものの、1844年にはマリーと別れた。再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。
以前から、リストとヴァイマール宮廷の間には緩やかな関係があってリストは客演楽長の地位にあったが、1848年からは、常任のヴァイマール宮廷楽長に就任した。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマールで作曲に専念した。以後も機会があればコンサートでピアノを弾くことはそれなりにあったし小さなサロンではよく弾いたが、これを機にリストはヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアを終え、指揮活動と作曲に専念するようになった。リストが最も多産で活発な音楽活動を行ったのが、ヴァイマール時代である。
リストはこの地で、多数の自作を含めて、当時の先進的な音楽を多く演奏・初演したが、地方の一小都市に過ぎず、また保守的だったヴァイマールの市民に最後までリストは受け入れられなかった。実際、リストが指揮するコンサートはガラガラだったという。ヴァイマール宮廷のオーケストラの規模は貧弱で、オーケストラの団員はリストの在任中40名を越えたことは1度もなく、1851年の段階ではオーケストラ団員35名、合唱団員29名、バレエ団員7名という少なさで、その給料の低さもひどいものだった。リストはヨアヒムをコンサートマスターとして招聘したり、オーケストラ団員を増員するなど改革に努力したが、保守的だったヨアヒムは結局リストの先進性を受け入れることができずコンサートマスターを辞任するなどトラブルは絶えず、結果は実らなかった。
それにもかかわらず、リストはこの地でワーグナーの歌劇『タンホイザー』のヴァイマール初演 (1849年2月中旬)、歌劇『さまよえるオランダ人』のヴァイマール初演、歌劇『ローエングリン』の世界初演 (1850年8月28日)、シューマンの劇音楽『マンフレッド』の世界初演 (1852年)、歌劇『ゲノヴェーヴァ』(1855年)、ベルリオーズの歌劇『ベンヴェヌート・チェルリーニ』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』、マイアベーアやヴェルディの歌劇など多くの大規模作品を演奏している。
特に『ローエングリン』の世界初演はエポック・メイキング的な演奏会であり、その初演は、『タンホイザー』のヴァイマール初演の時ほどの成功を勝ち取ることはできなかったにしても、これ以降、ヴァイマールは当時の最先端の音楽の中心と目されるようになった。一方でリストはこれ以外にも保守的な歌劇も多く指揮した他、客演指揮者による歌劇の演奏も多く行われたため、ヴァイマールでは歌劇の演奏は非常に活発だった。また、当時の最新の音楽が演奏されたこともあって、新しい音楽に敏感な音楽家がヴァイマール詣でをするようになった、
一方、リストがカロリーネと愛人関係にあることは保守派に攻撃の口実を与える不利な材料として作用した。カロリーネも市民から快く思われておらず、街中で市民から侮蔑の言葉を浴びせられることもあった。離婚問題に絡んだ政治的な策謀もからまって、カロリーネの社交パーティーにも宮廷の官吏は寄り付かないようになっていた。
1858年には、弟子のペーター・コルネリウスによる歌劇『バグダッドの理髪師(英語版)』で聴衆から激しいブーイングを受ける事件が起こり、これが原因で翌年には音楽長の職を辞すことにした。カール・アレクサンダー大公は友人でもあるリストに翻意するように説得を試みたが、リストの意思は固く復職することはなかった。辞職を翻意しなかった理由は複雑であまり明瞭ではないが、やはり侯爵夫人との結婚問題が大きな要因であったことは否定しがたいようである。
離婚問題を打開するため、カロリーネは現夫との結婚の無効を求め、同時にリストとの結婚をローマ法王ピウス9世に許可してもらうためローマに1人で出かけていった。それが1860年5月のことである。その後しばらくリストはヴァイマールのアルテンブルク荘で1人で自由な生活を送っていたが、結局カロリーネを追いかけてリストは翌年の8月17日にヴァイマールを後にした。途中、ベルリン、パリを経由し、10月21日にローマに到着、以降はローマに定住するようになった。
リストがローマに行った理由は、資料によって説明がばらついていてはっきりしない。ローマに行ったカロリーネを追いかけて行ったという説明もあれば、1859年にリストがドイツで会ったホーエンローエ (Hohenlohe) 枢機卿がリストの教会音楽改革計画に賛同し、後にリスト宛てにローマから手紙を書いて、リストのローマ定住を希望したからだと書くものもある。
リストが1861年にはローマに移住した後、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』は20世紀の印象主義音楽に影響を与え、ドビュッシーの『水の反映』に色濃く残っている。同時にラヴェルの『水の戯れ』も刺激を受けて書かれたものであると言われている。『エステ荘の噴水』の作曲時、エステ荘にたくさんある糸杉をみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いている。「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの十二音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアンの移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。
リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられた。また、弟子のフェリックス・ワインガルトナーはリストを「確実にアルコール依存症」と証言していた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。
1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。
リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなした。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われている。
「6本指」は誇張であるが、幼少時から指を伸ばす練習を重ね、指が長く12度の音程も軽々と押さえることができた彼は、10度を超える和音が連続する曲を作曲している(後にそれを8度に改訂している曲もある)。 彼の曲には両手を広げての4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。「ラ・カンパネッラ」に代表されるように両手のオクターブ跳躍、ポジションの素早い移動も多いが、その兆候は処女作の「12の練習曲」作品1の第6曲で既に見られる。
そんな彼でも、ショパンの「12の練習曲 作品10」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。
当時無名であったエドヴァルド・グリーグが、書き上げた「ピアノ協奏曲イ短調」の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の「ピアノとオーケストラのためのバラード」を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。またワーグナーのオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。
リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。
リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常に情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったという。そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともあった。1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形である。また、オーストリアのピアノ製造会社であるベーゼンドルファーはリストの演奏に耐えた事で有名になった。
リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた話は有名だが、リスト自身も演奏中に気絶することがあったという。ほかにも、当時天才少女として名を馳せていたクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したというエピソードも見られる。
リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われている(演奏中のリストの写真や肖像画で鍵盤を見て弾いているものは1枚もない)。
また、リストの弟子たちには非常に演奏技術が高いと評されるピアニストが多いが、その弟子たちの誰もがこぞってリストの演奏を賞賛しており、誰一人貶していない。この事はリストが演奏家としての絶頂期には、今日超難曲と言われている曲々を(おそらくは即興により楽譜以上に音を足して)見事に弾きこなしていたことの間接的な証であると言える。
リストは芸術家が演奏以外で巨額の収入を得ることを好まないとして、無料で指導を行った。一方でリストの指導者のチェルニーは、優秀な生徒であっても高額な謝礼の支払いが出来なければ指導を打ち切ったこともあった(ただし、リストには無料で指導した)。リストは、そんなチェルニーに『超絶技巧練習曲』を献呈している。リストは生徒にリストの真似を強要することなく、むしろ真似ることを嫌い、各生徒の個性重視を好み、探求させた。技術面での指導は最小限にとどめ、馴染みやすい言葉や、ウィットに富んだ表現を使うことがしばしばあった(一例としては、『小人の踊り』であやふやなリズムになったときに「ほら!またサラダを混ぜてしまったよ」)。マスタークラスを考案したリストであるが、いくつかの楽曲をそれで教えることを避けた。
人格者としても知られ、「リストの弟子」を偽って演奏するピアニストを家に招き、自分の前でピアノを演奏させ「これで私が教えたことになる」と言ったという逸話も残っている。
音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。
自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群は殆ど全てのジャンルの音楽に精通していると言っていいほど多岐にわたる。彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。 ピアニスト時代はオペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。
一方ヴァイマル時代はピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としては最も活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。
晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。
またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリーザベトの伝説』『キリスト』を始め『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や『十字架の道』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動(英語版)」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。
同時代に評論活動を活発に行ったシューマンほどではないが、リストも音楽誌に多数の評論を寄稿している。たとえばシューマンに「非芸術的」と酷評されたアルカンの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。このほか、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。評論と平行して、スメタナを評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行ってもいた。
ブラームスとワーグナーの2派に分かれていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についたハンスリックと対立している。
父アーダムが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。ハンガリー語がほとんど話せないことを後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごしたハンガリーを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「ハンガリー狂詩曲」は、ロマによって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけた。ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人 (Magyarmania) には耐え難い混同であり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。
後にハンガリー民謡の収集を行い、その特徴を分析したバルトークは後のリスト音楽院であるブダペシュト王立音楽院で音楽を学んでいる。ピアニストとしてもリストの弟子であるトマーン・イシュトヴァーン(英語版)から直々に教えを受けており、本人もリストの楽曲で幾つかの録音を残している。作曲家としても影響を受けており、最初期の作品である『ピアノのためのラプソディー 作品1』では、リストの影響を垣間見る事が出来る。その彼はリストの編曲作品について、自著『ハンガリー民謡』(1920年)で「曲の構造を理解していない歪曲がされたハンガリー民謡」だとしてこれを厳しく批判しているが、作曲家としてのリストについては、数々の音楽論集や『リストに関する諸問題』(1936年)の中では、それまでの作曲家になかったほど、宗教的音楽から民謡など多様で異質な種々さまざまの影響を受け入れて自身の作品を作り上げていった点、晩年の諸作品がクロード・ドビュッシーらの作品と驚くほど似通っていることの先進性などを取り上げ、欠点があるとしても、音楽の発展への貢献ということであればリストはワーグナーより重要視されるべきだと、むしろその音楽を擁護する立場をとっている。
今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。リストの名を冠した音楽院はブダペストとワイマールの両方に存在する。生地が現在帰属するオーストリアでは、リストがウィーン楽壇と縁が薄かったこともあり、ハンガリー・ドイツ両国に比べると自国の音楽家という意識はやや薄いようである。
フランツ・リストは、ポルトガルの演奏旅行でボワスロピアノを使い、その後1847年のキエフとオデッサへの演奏旅行でその同じピアノを用いたことが知られている。リストは、ヴァイマルのアルテンブルク邸にボワスロを保持した。彼はグザヴィエ・ボワスロに宛てた1862年の手紙で、この楽器に没頭する自身の様子を「鍵盤は、過去、現在、未来の音楽の戦いを経てほとんど使い古されているが、私は決して取り替えはせずに、お気に入りの仕事仲間として私の最期まで保持しようと決心した」と表現した。この楽器は、今は演奏不可能な状態にある。ヴァイマル古典財団は、現代の楽器製作者のポール・マクナルティに依頼し、2011年にこのボワスロピアノの複製の作成を実現した。現在、復元楽器とリストの楽器は、並べて展示されている。ヴァイマルのリストに縁のあったピアノは、エラールや、アレクサンドルの「ピアノ・オルガン」、ベヒシュタインピアノ、そしてベートーヴェンのブロードウッド・グランドである。
リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿......というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在はリストの作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードの『リスト・ピアノ曲全集』(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。
彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号 (S.) と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号 (R.) の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。
リストは標題音楽に交響詩というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日『前奏曲』以外が演奏されることはまれである。
「ラ・カンパネッラ」で有名な『パガニーニによる大練習曲』はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品とされ、サール番号での分類をはじめ、通常は編曲とは看做されずオリジナル作品に分類される。ただしその前身である『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』 (S.420) は編曲作品とみなされる。
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"text": "1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。1838年のドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "3児を儲けたものの、1844年にはマリーと別れた。再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "以前から、リストとヴァイマール宮廷の間には緩やかな関係があってリストは客演楽長の地位にあったが、1848年からは、常任のヴァイマール宮廷楽長に就任した。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマールで作曲に専念した。以後も機会があればコンサートでピアノを弾くことはそれなりにあったし小さなサロンではよく弾いたが、これを機にリストはヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアを終え、指揮活動と作曲に専念するようになった。リストが最も多産で活発な音楽活動を行ったのが、ヴァイマール時代である。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 14,
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"text": "リストはこの地で、多数の自作を含めて、当時の先進的な音楽を多く演奏・初演したが、地方の一小都市に過ぎず、また保守的だったヴァイマールの市民に最後までリストは受け入れられなかった。実際、リストが指揮するコンサートはガラガラだったという。ヴァイマール宮廷のオーケストラの規模は貧弱で、オーケストラの団員はリストの在任中40名を越えたことは1度もなく、1851年の段階ではオーケストラ団員35名、合唱団員29名、バレエ団員7名という少なさで、その給料の低さもひどいものだった。リストはヨアヒムをコンサートマスターとして招聘したり、オーケストラ団員を増員するなど改革に努力したが、保守的だったヨアヒムは結局リストの先進性を受け入れることができずコンサートマスターを辞任するなどトラブルは絶えず、結果は実らなかった。",
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{
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"text": "それにもかかわらず、リストはこの地でワーグナーの歌劇『タンホイザー』のヴァイマール初演 (1849年2月中旬)、歌劇『さまよえるオランダ人』のヴァイマール初演、歌劇『ローエングリン』の世界初演 (1850年8月28日)、シューマンの劇音楽『マンフレッド』の世界初演 (1852年)、歌劇『ゲノヴェーヴァ』(1855年)、ベルリオーズの歌劇『ベンヴェヌート・チェルリーニ』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』、マイアベーアやヴェルディの歌劇など多くの大規模作品を演奏している。",
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"text": "特に『ローエングリン』の世界初演はエポック・メイキング的な演奏会であり、その初演は、『タンホイザー』のヴァイマール初演の時ほどの成功を勝ち取ることはできなかったにしても、これ以降、ヴァイマールは当時の最先端の音楽の中心と目されるようになった。一方でリストはこれ以外にも保守的な歌劇も多く指揮した他、客演指揮者による歌劇の演奏も多く行われたため、ヴァイマールでは歌劇の演奏は非常に活発だった。また、当時の最新の音楽が演奏されたこともあって、新しい音楽に敏感な音楽家がヴァイマール詣でをするようになった、",
"title": "生涯"
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"text": "一方、リストがカロリーネと愛人関係にあることは保守派に攻撃の口実を与える不利な材料として作用した。カロリーネも市民から快く思われておらず、街中で市民から侮蔑の言葉を浴びせられることもあった。離婚問題に絡んだ政治的な策謀もからまって、カロリーネの社交パーティーにも宮廷の官吏は寄り付かないようになっていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "1858年には、弟子のペーター・コルネリウスによる歌劇『バグダッドの理髪師(英語版)』で聴衆から激しいブーイングを受ける事件が起こり、これが原因で翌年には音楽長の職を辞すことにした。カール・アレクサンダー大公は友人でもあるリストに翻意するように説得を試みたが、リストの意思は固く復職することはなかった。辞職を翻意しなかった理由は複雑であまり明瞭ではないが、やはり侯爵夫人との結婚問題が大きな要因であったことは否定しがたいようである。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "離婚問題を打開するため、カロリーネは現夫との結婚の無効を求め、同時にリストとの結婚をローマ法王ピウス9世に許可してもらうためローマに1人で出かけていった。それが1860年5月のことである。その後しばらくリストはヴァイマールのアルテンブルク荘で1人で自由な生活を送っていたが、結局カロリーネを追いかけてリストは翌年の8月17日にヴァイマールを後にした。途中、ベルリン、パリを経由し、10月21日にローマに到着、以降はローマに定住するようになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "リストがローマに行った理由は、資料によって説明がばらついていてはっきりしない。ローマに行ったカロリーネを追いかけて行ったという説明もあれば、1859年にリストがドイツで会ったホーエンローエ (Hohenlohe) 枢機卿がリストの教会音楽改革計画に賛同し、後にリスト宛てにローマから手紙を書いて、リストのローマ定住を希望したからだと書くものもある。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "リストが1861年にはローマに移住した後、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』は20世紀の印象主義音楽に影響を与え、ドビュッシーの『水の反映』に色濃く残っている。同時にラヴェルの『水の戯れ』も刺激を受けて書かれたものであると言われている。『エステ荘の噴水』の作曲時、エステ荘にたくさんある糸杉をみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いている。「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの十二音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアンの移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。",
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"text": "リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられた。また、弟子のフェリックス・ワインガルトナーはリストを「確実にアルコール依存症」と証言していた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなした。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "「6本指」は誇張であるが、幼少時から指を伸ばす練習を重ね、指が長く12度の音程も軽々と押さえることができた彼は、10度を超える和音が連続する曲を作曲している(後にそれを8度に改訂している曲もある)。 彼の曲には両手を広げての4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。「ラ・カンパネッラ」に代表されるように両手のオクターブ跳躍、ポジションの素早い移動も多いが、その兆候は処女作の「12の練習曲」作品1の第6曲で既に見られる。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "そんな彼でも、ショパンの「12の練習曲 作品10」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "当時無名であったエドヴァルド・グリーグが、書き上げた「ピアノ協奏曲イ短調」の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の「ピアノとオーケストラのためのバラード」を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。またワーグナーのオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常に情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったという。そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともあった。1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形である。また、オーストリアのピアノ製造会社であるベーゼンドルファーはリストの演奏に耐えた事で有名になった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた話は有名だが、リスト自身も演奏中に気絶することがあったという。ほかにも、当時天才少女として名を馳せていたクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したというエピソードも見られる。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われている(演奏中のリストの写真や肖像画で鍵盤を見て弾いているものは1枚もない)。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "また、リストの弟子たちには非常に演奏技術が高いと評されるピアニストが多いが、その弟子たちの誰もがこぞってリストの演奏を賞賛しており、誰一人貶していない。この事はリストが演奏家としての絶頂期には、今日超難曲と言われている曲々を(おそらくは即興により楽譜以上に音を足して)見事に弾きこなしていたことの間接的な証であると言える。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "リストは芸術家が演奏以外で巨額の収入を得ることを好まないとして、無料で指導を行った。一方でリストの指導者のチェルニーは、優秀な生徒であっても高額な謝礼の支払いが出来なければ指導を打ち切ったこともあった(ただし、リストには無料で指導した)。リストは、そんなチェルニーに『超絶技巧練習曲』を献呈している。リストは生徒にリストの真似を強要することなく、むしろ真似ることを嫌い、各生徒の個性重視を好み、探求させた。技術面での指導は最小限にとどめ、馴染みやすい言葉や、ウィットに富んだ表現を使うことがしばしばあった(一例としては、『小人の踊り』であやふやなリズムになったときに「ほら!またサラダを混ぜてしまったよ」)。マスタークラスを考案したリストであるが、いくつかの楽曲をそれで教えることを避けた。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "人格者としても知られ、「リストの弟子」を偽って演奏するピアニストを家に招き、自分の前でピアノを演奏させ「これで私が教えたことになる」と言ったという逸話も残っている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群は殆ど全てのジャンルの音楽に精通していると言っていいほど多岐にわたる。彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。 ピアニスト時代はオペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一方ヴァイマル時代はピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としては最も活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリーザベトの伝説』『キリスト』を始め『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や『十字架の道』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動(英語版)」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "同時代に評論活動を活発に行ったシューマンほどではないが、リストも音楽誌に多数の評論を寄稿している。たとえばシューマンに「非芸術的」と酷評されたアルカンの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。このほか、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。評論と平行して、スメタナを評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行ってもいた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ブラームスとワーグナーの2派に分かれていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についたハンスリックと対立している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "父アーダムが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。ハンガリー語がほとんど話せないことを後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごしたハンガリーを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「ハンガリー狂詩曲」は、ロマによって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけた。ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人 (Magyarmania) には耐え難い混同であり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。",
"title": "帰属にまつわる逸話"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "後にハンガリー民謡の収集を行い、その特徴を分析したバルトークは後のリスト音楽院であるブダペシュト王立音楽院で音楽を学んでいる。ピアニストとしてもリストの弟子であるトマーン・イシュトヴァーン(英語版)から直々に教えを受けており、本人もリストの楽曲で幾つかの録音を残している。作曲家としても影響を受けており、最初期の作品である『ピアノのためのラプソディー 作品1』では、リストの影響を垣間見る事が出来る。その彼はリストの編曲作品について、自著『ハンガリー民謡』(1920年)で「曲の構造を理解していない歪曲がされたハンガリー民謡」だとしてこれを厳しく批判しているが、作曲家としてのリストについては、数々の音楽論集や『リストに関する諸問題』(1936年)の中では、それまでの作曲家になかったほど、宗教的音楽から民謡など多様で異質な種々さまざまの影響を受け入れて自身の作品を作り上げていった点、晩年の諸作品がクロード・ドビュッシーらの作品と驚くほど似通っていることの先進性などを取り上げ、欠点があるとしても、音楽の発展への貢献ということであればリストはワーグナーより重要視されるべきだと、むしろその音楽を擁護する立場をとっている。",
"title": "帰属にまつわる逸話"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。リストの名を冠した音楽院はブダペストとワイマールの両方に存在する。生地が現在帰属するオーストリアでは、リストがウィーン楽壇と縁が薄かったこともあり、ハンガリー・ドイツ両国に比べると自国の音楽家という意識はやや薄いようである。",
"title": "帰属にまつわる逸話"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "フランツ・リストは、ポルトガルの演奏旅行でボワスロピアノを使い、その後1847年のキエフとオデッサへの演奏旅行でその同じピアノを用いたことが知られている。リストは、ヴァイマルのアルテンブルク邸にボワスロを保持した。彼はグザヴィエ・ボワスロに宛てた1862年の手紙で、この楽器に没頭する自身の様子を「鍵盤は、過去、現在、未来の音楽の戦いを経てほとんど使い古されているが、私は決して取り替えはせずに、お気に入りの仕事仲間として私の最期まで保持しようと決心した」と表現した。この楽器は、今は演奏不可能な状態にある。ヴァイマル古典財団は、現代の楽器製作者のポール・マクナルティに依頼し、2011年にこのボワスロピアノの複製の作成を実現した。現在、復元楽器とリストの楽器は、並べて展示されている。ヴァイマルのリストに縁のあったピアノは、エラールや、アレクサンドルの「ピアノ・オルガン」、ベヒシュタインピアノ、そしてベートーヴェンのブロードウッド・グランドである。",
"title": "楽器との関わり"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿......というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在はリストの作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードの『リスト・ピアノ曲全集』(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号 (S.) と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号 (R.) の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "リストは標題音楽に交響詩というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日『前奏曲』以外が演奏されることはまれである。",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "「ラ・カンパネッラ」で有名な『パガニーニによる大練習曲』はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品とされ、サール番号での分類をはじめ、通常は編曲とは看做されずオリジナル作品に分類される。ただしその前身である『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』 (S.420) は編曲作品とみなされる。",
"title": "主要作品"
}
] |
フランツ・リスト、もしくはリスト・フェレンツは、ハンガリー王国出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家。 自身の生誕地(後述)であり、当時属していたハンガリー王国(当時はオーストリア帝国支配下の版図内)を祖国と呼び、ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、死後も「ハンガリー」の音楽家として認識・記述されることが多い。その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなく、両親の血統、母語、音楽家としての活動名義(フランツ・リスト)、最も長い活動地のいずれも「ドイツ」に属し、当時の中東欧に多数存在したドイツ植民の系統でもある。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけられる。 ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。
|
{{Otheruses|音楽家のフランツ・リスト(リスト・フェレンツ)|その従弟であるドイツの刑法学者|フランツ・フォン・リスト}}
{{ハンガリー人の姓名|リスト|フェレンツ|West=1}}
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
|名前 = フランツ・リスト<br>{{lang|de|Franz Liszt}}
|画像 = Franz Liszt.png
|画像説明 = 晩年のフランツ・リスト(おそらく1870年代以降)
|画像サイズ = 200px
|背景色 = classic
|出生名 = フランツ・リッター・フォン・リスト<br>{{lang-de-short|Franz Ritter von Liszt}}<br>リスト・フェレンツ<br>{{Lang-hu-short|Liszt Ferencz}}
|別名 = ピアノの魔術師{{要出典|date=2019年4月}}
|出生 = [[1811年]][[10月22日]]<br>{{AUT1804}}<br>{{HUN1700}}、[[ライディング|ドボルヤーン]]
|死没 = {{死亡年月日と没年齢|1811|10|22|1886|7|31}}<br>{{DEU1871}}<br>{{BAY}}、[[バイロイト]]
|学歴 = [[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]
|ジャンル = [[クラシック音楽]]
|職業 = [[ピアニスト]]<br>[[作曲家]]
|担当楽器 = [[ピアノ]]
|活動期間 = [[1824年]] - 1886年
|著名な家族 = [[コジマ・ワーグナー]](娘)
}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''フランツ・リスト'''({{Lang-de-short|Franz Liszt}})、もしくは'''リスト・フェレンツ'''({{Lang-hu|Liszt Ferenc}}、[[1811年]][[10月22日]] - [[1886年]][[7月31日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Franz-Liszt Franz Liszt Hungarian composer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[ハンガリー王国]]出身で<ref>ウルリヒ・ミヒェルス編 『図解音楽事典』 [[角倉一朗]]日本語版監修、[[白水社]]、1989年、447頁。ISBN 978-4-560-03686-0</ref>、現在の[[ドイツ]]や[[オーストリア]]など[[ヨーロッパ]]各地で活動した[[ピアニスト]]、[[作曲家]]。
自身の生誕地(後述)であり、当時属していた[[ハンガリー王国]](当時は[[オーストリア帝国]]支配下の版図内)を[[祖国]]と呼び、[[ハンガリー人]]としての[[アイデンティティ]]を抱いていたことから、死後も「[[ハンガリー]]」の音楽家として認識・記述されることが多い。その一方で生涯[[ハンガリー語]]を習得することはなく、両親の血統、[[母語]]、音楽家としての活動名義(フランツ・リスト)、最も長い活動地のいずれも「ドイツ{{Efn|リスト在世時、1871年以前は主権統一国家としてのドイツは存在しなかった。「[[ドイツ人]]」「[[オーストリア人]]」を参照。緩やかな国家連合としての「ドイツ人の[[神聖ローマ帝国]]→[[ドイツ連邦]]」は存在したが、ハンガリー王国は同じハプスブルク領でもオーストリアやチェコとは異なりこれに含まれなかった。リストと父親の生地はこの域外(母親および4人の祖父母は域内の出身)である。}}」に属し、当時の中東欧に多数存在した[[東方植民|ドイツ植民]]の系統でもある。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての[[国民楽派]]に含めることは殆どなく、多くは[[新ロマン主義音楽#新ドイツ楽派|ドイツロマン派]]の中に位置づけられる。
ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および[[交響詩]]の創始者として知られる。[[ハンス・フォン・ビューロー]]をはじめとする多くの弟子を育成した。
== 生涯 ==
{{出典の明記|section=1|date=2014年9月21日 (日) 15:26 (UTC)|ソートキー=人1886年没}}
[[ファイル:4AgesOfLiszt.jpg|thumb|350px|リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期)]]
=== 幼少時代 ===
[[オーストリア帝国]]領内[[ハンガリー王国]]{{仮リンク|ショプロン県|en|Sopron County}}ドボルヤーン(現在の[[オーストリア|オーストリア共和国]][[ブルゲンラント州]]'''[[ライディング]]''')において、ハンガリーの貴族[[エステルハージ家]]に仕えていた{{仮リンク|オーストリア系ハンガリー人|en|Hungarians in Austria}}([[ドイツ人|ドイツ系]])の父[[リスト・アーダーム|アーダム・リスト]]と、[[オーストリア人]](南ドイツ人)の母[[アンナ・リスト|アンナ]]の間に生まれた。
ドイツ人[[ヴァイオリン奏者]]フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人[[法学者一覧#刑事法|刑法学者]]フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこの[[ゲルマン系]]の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。
家庭内においては[[ドイツ語]]が使われていたこと、またドイツ語および[[ドイツ人|ドイツ系住民]]が主流の地域に生まれたため、彼の[[母語]]はドイツ語であった。しかし、後に[[パリ]]に本拠地を移して教育を受けたため、後半生は[[フランス語]]のほうを多く使っていた。このほか数ヶ国語に通じながら、ハンガリー人を自認していた彼が生涯[[ハンガリー語]]だけは覚えなかったことを不可解とする向きもあるが、時代背景的に生地・血統共に生粋のハンガリー人でさえドイツ語しか話せない者も珍しくなかったという事情から、[[国民国家]]の価値観が定着した現代の感覚でこれを疑問視することは適切とは言えない。歌曲は大部分がドイツ語(一部はフランス語)で書かれている。
家名の本来の綴りはドイツ系固有の List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では sz の綴りで {{ipa|s}} を表す)。ハンガリー名は'''リスト・フェレンツ'''(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがある。リストのハンガリーの[[パスポート]]ではファーストネームの綴りがFerenczとなっていたのにも拘らず今日ではFerencと綴られるが、これは[[1922年]]の[[ハンガリー語]]の[[正書法]]改革で苗字を除く全ての語中のczがcに変更されたためである。[[1859年]]から[[1867年]]までの公式の氏名は'''フランツ・リッター・フォン・リスト''' (Franz Ritter von Liszt) だったが、これは[[1859年]]に[[皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]によりリッター([[騎士]])の位を授けられたためであり、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もなかった。この称号は[[カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン]]と結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要だったが、カロリーネとの結婚が婚姻無効に至った後、[[1867年]]にリストはこの称号を自身よりも年少の叔父のエードゥアルトに譲った。エードゥアルトの息子が法学者の[[フランツ・フォン・リスト]]である。
父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、[[1822年]]に[[ウィーン]]に移住し、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]で[[カール・チェルニー]]および[[アントニオ・サリエリ]]に師事する。[[1823年]]には[[パリ]]へ行き、[[パリ音楽院]]へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストは[[フェルディナンド・パエール]]と[[アントン・ライヒャ]]に師事した。[[ルイジ・ケルビーニ]]とパエールの手助けにより、翌年には[[オペラ]]『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。
[[1823年]]4月13日に[[ウィーン]]でコンサートを開いたとき、そこで老[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]に会うことができ、賞賛されている。その時の[[石版画]]が[[1873年]]、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、[[ブダペスト]]で発表されている(ただし無署名である)。
[[1827年]]には父アーダムが死去し、わずか15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡る[[カトリック教会|カトリック]]信仰も深め、思想的には[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]主義、後には[[フェリシテ・ドゥ・ラムネー]]の自由主義的カトリシズムへと接近していった。
=== ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト ===
[[1831年]]に[[ニコロ・パガニーニ]]の演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、[[エクトル・ベルリオーズ]]、[[フレデリック・ショパン]]、[[ロベルト・シューマン]]らと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。[[1838年]]の[[ドナウ川]]の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、[[ブダペスト]]に多額の災害救助金を寄付している。
ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、[[マリー・ダグー]]伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、[[1835年]]に[[スイス]]へ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者[[ハンス・フォン・ビューロー]]の、さらに[[リヒャルト・ワーグナー]]の妻になる[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]である。
3児を儲けたものの、[[1844年]]にはマリーと別れた。再びピアニストとして活躍したが、[[1847年]]に演奏旅行の途次である[[キエフ]]で、当地の大地主であった[[カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン]]侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。
=== ヴァイマール時代 ===
以前から、リストとヴァイマール宮廷の間には緩やかな関係があってリストは客演楽長の地位にあったが、[[1848年]]からは、常任のヴァイマール[[宮廷楽長]]に就任した{{Sfn|ヘルム|1996|p=130}}。カロリーネの助言もあって、リストは[[ヴァイマル|ヴァイマール]]で作曲に専念した。以後も機会があればコンサートでピアノを弾くことはそれなりにあったし小さな[[サロン]]ではよく弾いたが{{Efn|例えば、ヴァイマールでのリストの私邸だったアルテンブルク荘ではしばしばサロンが開かれており、そこではリストはよくピアノを演奏している。}}、これを機にリストはヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアを終え、指揮活動と作曲に専念するようになった。リストが最も多産で活発な音楽活動を行ったのが、ヴァイマール時代である。
リストはこの地で、多数の自作を含めて、当時の先進的な音楽を多く演奏・初演したが、地方の一小都市に過ぎず、また保守的だったヴァイマールの市民に最後までリストは受け入れられなかった{{Sfn|ヘルム|1996|p=138}}。実際、リストが指揮するコンサートはガラガラだったという{{Sfn|ヘルム|1996|p=138}}。ヴァイマール宮廷のオーケストラの規模は貧弱で、オーケストラの団員はリストの在任中40名を越えたことは1度もなく、[[1851年]]の段階ではオーケストラ団員35名、合唱団員29名、バレエ団員7名という少なさで、その給料の低さもひどいものだった{{Sfn|ヘルム|1996|p=131}}。リストは[[ヨーゼフ・ヨアヒム|ヨアヒム]]を[[コンサートマスター]]として招聘したり、オーケストラ団員を増員するなど改革に努力したが、保守的だったヨアヒムは結局リストの先進性を受け入れることができずコンサートマスターを辞任するなどトラブルは絶えず、結果は実らなかった。
それにもかかわらず、リストはこの地で[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の歌劇『[[タンホイザー]]』のヴァイマール初演 ([[1849年]]2月中旬){{Sfn|ヘルム|1996|p=180}}{{Efn|ワーグナーは仕事の都合がつかなかったため『タンホイザー』のヴァイマール初演に立ち会えなかったが、『タンホイザー』のヴァイマール初演は成功で、その後すぐに再演、更に5月にも演奏された。しかし、5月の時には、ワーグナーは[[ドレスデン五月蜂起|ドレスデン革命]]の失敗により、逃亡犯として追われる身になっていた。5月の再演の際、リストがワーグナーに、ヴィートマン博士に発行されたパスポートをパリにいたワーグナー宛に送り身分を偽ってヴァイマールに入国できるように手配したので、ワーグナーはリハーサルに立ち会うことが出来た{{Sfn|ヘルム|1996|p=181}}。しかし、リハーサルまでが限界で、本演に立ち会うことは無理だった。}}、歌劇『[[さまよえるオランダ人]]』のヴァイマール初演、歌劇『[[ローエングリン]]』の世界初演 ([[1850年]]8月28日){{Sfn|ヘルム|1996|p=183}}、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の劇音楽『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド]]』の世界初演 ([[1852年]])、歌劇『[[ゲノフェーファ|ゲノヴェーヴァ]]』([[1855年]]){{Sfn|ヘルム|1996|p=132}}、[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の歌劇『[[ベンヴェヌート・チェッリーニ_(オペラ)|ベンヴェヌート・チェルリーニ]]』、劇的交響曲『[[ロメオとジュリエット_(ベルリオーズ)|ロメオとジュリエット]]』、[[マイアベーア]]や[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]の歌劇など{{Sfn|ヘルム|1996|p=131}}多くの大規模作品を演奏している。
特に『ローエングリン』の世界初演はエポック・メイキング的な演奏会であり、その初演は、『タンホイザー』のヴァイマール初演の時ほどの成功を勝ち取ることはできなかったにしても{{Sfn|ヘルム|1996|p=184}}、これ以降、ヴァイマールは当時の最先端の音楽の中心と目されるようになった{{Sfn|ヘルム|1996|p=184}}。一方でリストはこれ以外にも保守的な歌劇も多く指揮した他、客演指揮者による歌劇の演奏も多く行われたため、ヴァイマールでは歌劇の演奏は非常に活発だった。また、当時の最新の音楽が演奏されたこともあって、新しい音楽に敏感な音楽家がヴァイマール詣でをするようになった、
一方、リストがカロリーネと愛人関係にあることは保守派に攻撃の口実を与える不利な材料として作用した。カロリーネも市民から快く思われておらず、街中で市民から侮蔑の言葉を浴びせられることもあった。離婚問題に絡んだ政治的な策謀もからまって、カロリーネの社交パーティーにも宮廷の官吏は寄り付かないようになっていた{{Sfn|ヘルム|1996|p=142}}。
[[1858年]]には、弟子の[[ペーター・コルネリウス]]による歌劇『{{仮リンク|バグダッドの理髪師|en|Der Barbier von Bagdad}}』で聴衆から激しいブーイングを受ける事件が起こり{{Sfn|ヘルム|1996|p=139}}、これが原因で翌年には音楽長の職を辞すことにした。[[カール・アレクサンダー (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・アレクサンダー大公]]は友人でもあるリストに翻意するように説得を試みたが、リストの意思は固く復職することはなかった{{Sfn|ヘルム|1996|p=139}}。辞職を翻意しなかった理由は複雑であまり明瞭ではないが、やはり侯爵夫人との結婚問題が大きな要因であったことは否定しがたいようである。
[[File:Altenburg - Franz Liszt's residence in Weimar.jpg|thumb|アルテンブルク荘]]
離婚問題を打開するため、カロリーネは現夫との結婚の無効を求め、同時にリストとの結婚を[[教皇|ローマ法王]][[ピウス9世_(ローマ教皇)|ピウス9世]]に許可してもらうためローマに1人で出かけていった。それが[[1860年]]5月のことである{{Sfn|ヘルム|1996|p=195}}。その後しばらくリストはヴァイマールのアルテンブルク荘{{Efn|ヴァイマール郊外の[[アルテンブルク]]にリストが構えていた私邸の通称。}}で1人で自由な生活を送っていたが、結局カロリーネを追いかけてリストは翌年の8月17日にヴァイマールを後にした{{Sfn|ヘルム|1996|p=196}}。途中、[[ベルリン]]、[[パリ]]を経由し、10月21日にローマに到着{{Sfn|ヘルム|1996|p=197}}、以降は[[ローマ]]に定住するようになった。
リストがローマに行った理由は、資料によって説明がばらついていてはっきりしない。ローマに行ったカロリーネを追いかけて行ったという説明もあれば、[[1859年]]にリストがドイツで会ったホーエンローエ (Hohenlohe) 枢機卿がリストの教会音楽改革計画に賛同し、後にリスト宛てにローマから手紙を書いて、リストのローマ定住を希望したからだと書くもの<ref>F.Liszt Missa Cholaris, Via Crucis, Hyperion CDA67199, ライナーノーツ</ref>もある。
=== ローマ定住以後 ===
リストが[[1861年]]には[[ローマ]]に移住した後、[[1865年]]に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、[[典礼]]を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、[[キリスト教]]に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に[[調性]]感が希薄になっていき、[[1877年]]の『エステ荘の噴水』は20世紀の[[印象主義音楽]]に影響を与え、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[映像 (ドビュッシー)#映像 第1集 (Images I)|水の反映]]』に色濃く残っている。同時に[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の『[[水の戯れ]]』も刺激を受けて書かれたものであると言われている。『[[巡礼の年#第3年|エステ荘の噴水]]』の作曲時、[[ティヴォリのエステ家別荘|エステ荘]]にたくさんある[[イトスギ|糸杉]]をみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いている。「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。そして、[[1885年]]に『[[無調のバガテル]]』で[[無調]]を宣言したが、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]らの[[十二音技法]]へとつながってゆく無調とは違い、[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]の[[移調の限られた旋法]]と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、[[1956年]]に発見された。
リストは晩年、[[虚血性心疾患]]・[[慢性気管支炎]]・[[鬱病]]・[[白内障]]に苦しめられた。また、弟子の{{要出典|[[フェリックス・ワインガルトナー]]はリストを「確実に[[アルコール依存症]]」と証言していた|date=2021-4}}。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。
[[1886年]]、[[バイロイト音楽祭]]でワーグナーの楽劇『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』を見た後に慢性気道閉塞と[[心筋梗塞]]で亡くなり、娘コジマの希望により[[バイロイト]]の墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトが[[ルター派]]の土地であることを理由に強く反対した)。[[第二次世界大戦]]前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、[[1978年]]に再建された。
== 人物 ==
{{出典の明記|section=1|date=2014年9月21日 (日) 15:24 (UTC)|ソートキー=人1886年没}}
=== ピアニストとしてのリスト ===
リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「'''ピアノの魔術師'''」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなした。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われている。
「6本指」は誇張であるが、幼少時から指を伸ばす練習を重ね、指が長く12度の音程も軽々と押さえることができた彼は、10度を超える和音が連続する曲を作曲している(後にそれを8度に改訂している曲もある)。
彼の曲には両手を広げての4[[オクターブ]]の音が多用された。また速い[[パッセージ]]でも音数の多い[[和音]]を多用した。「[[ラ・カンパネッラ]]」に代表されるように両手のオクターブ跳躍、ポジションの素早い移動も多いが、その兆候は処女作の「[[超絶技巧練習曲#改訂の歴史|12の練習曲]]」作品1の第6曲で既に見られる。
そんな彼でも、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の「[[練習曲 (ショパン)#12の練習曲 作品10|12の練習曲 作品10]]」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。
当時無名であった[[エドヴァルド・グリーグ]]が、書き上げた「[[ピアノ協奏曲 (グリーグ)|ピアノ協奏曲イ短調]]」の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。同じような話は[[ガブリエル・フォーレ]]についても伝えられ、彼の「[[バラード (フォーレ)|ピアノとオーケストラのためのバラード]]」を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。また[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[オペラ]]を初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。
リストの友人であった[[フェリックス・メンデルスゾーン]]の手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない[[即興]]をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。
リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常に情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったという。そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともあった。1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形である。また、[[オーストリア]]のピアノ製造会社である[[ベーゼンドルファー]]はリストの演奏に耐えた事で有名になった。
リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた話は有名だが、リスト自身も演奏中に気絶することがあったという。ほかにも、当時天才少女として名を馳せていた[[クララ・シューマン|クララ・ヴィーク]](のちのクララ・シューマン)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したというエピソードも見られる。
リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われている(演奏中のリストの写真や肖像画で鍵盤を見て弾いているものは1枚もない)。
また、リストの弟子たちには非常に演奏技術が高いと評されるピアニストが多いが、その弟子たちの誰もがこぞってリストの演奏を賞賛しており、誰一人貶していない。この事はリストが演奏家としての絶頂期には、今日超難曲と言われている曲々を(おそらくは即興により楽譜以上に音を足して)見事に弾きこなしていたことの間接的な証であると言える。
=== 指導者としてのリスト ===
リストは芸術家が演奏以外で巨額の収入を得ることを好まないとして、無料で指導を行った。一方でリストの指導者のチェルニーは、優秀な生徒であっても高額な謝礼の支払いが出来なければ指導を打ち切ったこともあった(ただし、リストには無料で指導した)。リストは、そんなチェルニーに『[[超絶技巧練習曲]]』を献呈している。リストは生徒にリストの真似を強要することなく、むしろ真似ることを嫌い、各生徒の個性重視を好み、探求させた。技術面での指導は最小限にとどめ、馴染みやすい言葉や、ウィットに富んだ表現を使うことがしばしばあった(一例としては、『小人の踊り』であやふやなリズムになったときに「ほら!またサラダを混ぜてしまったよ」)。マスタークラスを考案したリストであるが、いくつかの楽曲をそれで教えることを避けた。
人格者としても知られ、「リストの弟子」を偽って演奏するピアニストを家に招き、自分の前でピアノを演奏させ「これで私が教えたことになる」と言ったという逸話も残っている。
[[File:Liszt and his students.jpg|thumb|1884年フランツ・リストと生徒たち]]
=== 作曲家としてのリスト ===
音楽史的には、[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]が提唱した[[標題音楽]]をさらに発展させた[[交響詩]]を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、[[絶対音楽]]にこだわる[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]らとは一線を画した。
自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身の[[オーケストラ]]作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群は殆ど全てのジャンルの音楽に精通していると言っていいほど多岐にわたる。彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、[[ヴァイマル]]時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。
ピアニスト時代はオペラの[[パラフレーズ]]などの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。
一方ヴァイマル時代はピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としては最も活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。
晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に[[1880年]]以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は[[1885年]]に『[[無調のバガテル]]』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。
またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。[[オラトリオ]]『[[聖エリーザベトの伝説]]』『[[キリスト (オラトリオ)|キリスト]]』を始め『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や『[[十字架の道_(リスト)|十字架の道]]』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「{{仮リンク|チェチリア運動|en|Cecilian Movement}}」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。
=== 評論家としてのリスト ===
同時代に評論活動を活発に行った[[ロベルト・シューマン|シューマン]]ほどではないが、リストも音楽誌に多数の評論を寄稿している。たとえばシューマンに「非芸術的」と酷評された[[シャルル=ヴァランタン・アルカン|アルカン]]の「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。このほか、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。評論と平行して、[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]を評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行ってもいた。
[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]と[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の2派に分かれていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についた[[エドゥアルト・ハンスリック|ハンスリック]]と対立している。
== 帰属にまつわる逸話 ==
{{出典の明記|section=1|date=2007年1月28日 (日) 10:21 (UTC)|ソートキー=人1886年没}}
父アーダムが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。[[ハンガリー語]]がほとんど話せないことを後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごした[[ハンガリー]]を祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「[[ハンガリー狂詩曲]]」は、[[ロマ]]によって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけた。ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人 (Magyarmania) には耐え難い混同であり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。
後にハンガリー民謡の収集を行い、その特徴を分析した[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]は後の[[リスト音楽院]]であるブダペシュト王立音楽院で音楽を学んでいる。ピアニストとしてもリストの弟子である{{仮リンク|トマーン・イシュトヴァーン|en|István Thomán}}から直々に教えを受けており、本人もリストの楽曲で幾つかの録音を残している。作曲家としても影響を受けており、最初期の作品である『ピアノのためのラプソディー 作品1』では、リストの影響を垣間見る事が出来る<ref>[http://www.allmusic.com/composition/rhapsody-for-piano-sz-26-bb-36a-op-1-mc0002363791 Béla Bartók Rhapsody for piano, Sz. 26, BB 36a (Op. 1)] - allmusic.com</ref>。その彼はリストの編曲作品について、自著『ハンガリー民謡』(1920年)で「曲の構造を理解していない歪曲がされたハンガリー民謡{{Efn|ジプシー固有の音楽でもない。そういった音楽はまた別に存在しており、バルトークは民俗音楽研究の中で取材している。}}」だとしてこれを厳しく批判しているが、作曲家としてのリストについては、数々の音楽論集や『リストに関する諸問題』(1936年){{Efn|ただしこの論文については、中欧・東欧の音楽史及び民族音楽学を専門とし、バルトークの研究家でもある[[伊東信宏]]が自著『バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家』の中で指摘している{{要ページ番号|date=2023年10月}}ように、生前のリストに対する周囲の評価を批判をすることで、その時点での自身との共通性を想起させることが主目的だったという捉え方をされることもある。}}の中では、それまでの作曲家になかったほど、宗教的音楽から民謡など多様で異質な種々さまざまの影響を受け入れて自身の作品を作り上げていった点、晩年の諸作品が[[クロード・ドビュッシー]]らの作品と驚くほど似通っていることの先進性などを取り上げ、欠点があるとしても、音楽の発展への貢献ということであればリストはワーグナーより重要視されるべきだと、むしろその音楽を擁護する立場をとっている{{Efn|[[モーリス・ラヴェル]]も1912年に「リストの小品、あるいは全作品についてまわる欠陥こそが、ワーグナーを含めたドイツ、ロシア、フランスのまるで違った個性を持つ音楽家達に大きな影響を与えたのだ」とバルトークと似たような主張をしている。}}。
今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。リストの名を冠した音楽院はブダペストとワイマールの両方に存在する。生地が現在帰属するオーストリアでは、リストがウィーン楽壇と縁が薄かったこともあり、ハンガリー・ドイツ両国に比べると自国の音楽家という意識はやや薄いようである。
<!--その他の国では、
*彼の生地が当時も今もオーストリア国家に属していること。(当時は形式的にハンガリー王国の名称もあったが完全にオーストリア帝国領であり、曲がりなりにも自治国家となるのは1866年以降である)
*ドイツ(オーストリア)系の両親のもとドイツ語で育ち、終生ハンガリー語を話せずドイツ名を名乗り続けていること。
*少年時に生地を離れて以降、[[パリ]]、[[ローマ]]等を転々としているが、成人後はハンガリーとの地縁はほとんど無く、最終的に[[ヴァイマル]]を活動の本拠としていること。
などからハンガリー人と記述することに疑問が多く(生地の現帰属、血統、言語、生涯最長居住の全部を欠いて特定国人と記述する例は他にはありえない)、ハンガリー生まれのドイツ人という風に二国併記する例が多い。-->
== 楽器との関わり ==
フランツ・リストは、[[ポルトガル]]の演奏旅行で[[:en:Boisselot_&_Fils|ボワスロピアノ]]を使い<ref>[https://books.google.cz/books?id=lCw4cxHmpgYC&pg=PA409&lpg=PA409&dq=liszt+boisselot+portugal&source=bl&ots=YcD1Eas82o&sig=ACfU3U0kGpl9Y8YfaXaq3FwLkaZkmRitng&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwiEpbaU37nuAhWyAxAIHSzdD14Q6AEwCXoECAYQAg#v=onepage&q=liszt%20boisselot%20portugal&f=false Marcel Carrières “Franz Liszt en Provence et en Languedoc en 1844” (Beziers, 1981)] [https://books.google.cz/books?id=lCw4cxHmpgYC&pg=PA409&lpg=PA409&dq=liszt+boisselot+portugal&source=bl&ots=YcD1Eas82o&sig=ACfU3U0kGpl9Y8YfaXaq3FwLkaZkmRitng&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwiEpbaU37nuAhWyAxAIHSzdD14Q6AEwCXoECAYQAg#v=onepage&q=liszt%20boisselot%20portugal&f=false and Alan Walker, Franz Liszt: The virtuoso years, 1811-1847. Cornell University Press, 1987]</ref>、その後1847年の[[キエフ]]と[[オデッサ]]への演奏旅行でその同じピアノを用いたことが知られている。リストは、[[ヴァイマル]]のアルテンブルク邸にボワスロを保持した<ref>[https://books.google.cz/books?id=yNhQhSgRlWIC&pg=PA75&lpg=PA75&dq=liszt+boisselot&source=bl&ots=qevGgdigrp&sig=ACfU3U2bLyQJ_rtLmp7YFw87gi9IffDCjQ&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwiLjeKS4bnuAhXEwosKHQf6DmU4ChDoATAEegQIBxAC#v=snippet&q=boisselot&f=false Alan Walker, Franz Liszt: The Weimar years, 1848-1861. Cornell University Press, 1987]</ref>。彼はグザヴィエ・ボワスロに宛てた1862年の手紙で、この楽器に没頭する自身の様子を''「鍵盤は、過去、現在、未来の音楽の戦いを経てほとんど使い古されているが、私は決して取り替えはせずに、お気に入りの仕事仲間として私の最期まで保持しようと決心した」''と表現した<ref>[http://lisztomania.wikidot.com/liszt-in-rome Adrian Williams. Franz Liszt: Selected letters. Oxford University Press. p.572. From a letter to Xavier Boisselot. January 3, 1862].</ref>。この楽器は、今は演奏不可能な状態にある。[[:en:Klassik_Stiftung_Weimar|ヴァイマル古典財団]]は、現代の楽器製作者の[[ポール・マクナルティ]]に依頼し、2011年にこのボワスロピアノの複製の作成を実現した。現在、復元楽器とリストの楽器は、並べて展示されている<ref>[https://www.klassik-stiftung.de/service/fotothek/digitalisat/100-2017-0444/ Klassik Stiftung Weimar, Flügel, Kopie von Paul McNulty]</ref>。ヴァイマルのリストに縁のあったピアノは、[[エラール]]や、アレクサンドルの「ピアノ・オルガン」、[[ベヒシュタイン]]ピアノ、そしてベートーヴェンの[[ジョン・ブロードウッド|ブロードウッド]]・グランドである<ref>[https://books.google.cz/books?id=yNhQhSgRlWIC&pg=PA75&lpg=PA75&dq=liszt+boisselot&source=bl&ots=qevGgdigrp&sig=ACfU3U2bLyQJ_rtLmp7YFw87gi9IffDCjQ&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwiLjeKS4bnuAhXEwosKHQf6DmU4ChDoATAEegQIBxAC#v=snippet&q=erard&f=false Alan Walker, Franz Liszt: The Weimar years, 1848-1861. Cornell University Press, 1987]; [https://www.bechstein.com www.bechstein.com].</ref>。
== 主要作品 ==
{{main|フランツ・リストの楽曲一覧 (S.1 - S.350)|フランツ・リストの楽曲一覧 (S.351 - S.999)}}
リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在はリストの作品の再評価が着実に進んでおり、[[レスリー・ハワード (ピアニスト)|レスリー・ハワード]]の『リスト・ピアノ曲全集』(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。
彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家[[ハンフリー・サール]]が分類した曲目別の目録であるサール番号 (S.) と、リスト博物館館長の[[ペーター・ラーベ]]による曲目別のラーベ番号 (R.) の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。
=== オペラ ===
* {{仮リンク|ドン・サンシュ、または愛の館|en|Don Sanche}} ''Don Sanche, ou Le château de l'amour'' 全一幕 (S.1) [約1時間50分]
* {{仮リンク|ザルダナパール|en|Sardanapale}} (S.687) - 未完
=== 管弦楽曲 ===
==== 交響曲 ====
* [[ファウスト交響曲|3人の人物描写によるファウスト交響曲]] (''Eine Faust-Symphonie in drei Charakterbildern'') S.108/R.425, 1854年 [約80分]
* [[ダンテ交響曲|ダンテの神曲による交響曲]] (''Eine Symphonie zu Dantes Divina Commedia'') S.109/R.426, 1855-56年 [約50分]
==== 交響詩 ====
リストは[[標題音楽]]に[[交響詩]]というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日『[[前奏曲 (リスト)|前奏曲]]』以外が演奏されることはまれである。
# 『[[人、山の上で聞きしこと]]』(''Ce qu'on entend sur la montagne'') S.95/R.412, 1848-56年 [約30分]
#: 『山岳交響曲』(''Berg-Symphonie'') とも。
# 『[[タッソー、悲劇と勝利]]』(''Tasso, lamento e trionfo'') S.96/R.413, 1848-54年 [約21分]
# 『[[前奏曲 (リスト)|前奏曲]]』(''Les préludes'') S.97/R.414, 1848-53年 [約15分]
# 『[[オルフェウス (リスト)|オルフェウス]]』(''Orpheus'') S.98/R.415, 1853-54年 [約11分]
# 『[[プロメテウス (リスト)|プロメテウス]]』(''Prometheus'') S.99/R.416, 1850-55年 [約13分]
# 『[[マゼッパ (リスト)|マゼッパ]]』(''Mazeppa'') S.100/R.417, 1851-54年 [約16分]
# 『[[祭典の響き]]』(''Festklänge'') S.101/R.418, 1853年 [約20分]
# 『[[英雄の嘆き]]』(''Héroïde funèbre'') S.102/R.419, 1849-54年 [約27分]
# 『[[ハンガリー (リスト)|ハンガリー]]』(''Hungaria'') S.103/R.420, 1854年 [約23分]
# 『[[ハムレット (リスト)|ハムレット]]』(''Hamlet'') S.104/R.421, 1858年 [約14分]
# 『[[フン族の戦い]]』(''Hunnenschlacht'') S.105/R.422, 1856–57年 [約15分]
# 『[[理想 (リスト)|理想]]』(''Die Ideale'') S.106/R.423, 1857年 [約27分]
# 『[[ゆりかごから墓場まで (リスト)|ゆりかごから墓場まで]]』(''Von der Wiege bis zum Grabe'') S.107/R.424, 1881-82年 [約14分]
==== 管弦楽曲 ====
* [[レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード]] (S.110/R.427) 1861年完成
*[[伝説 (リスト)|2つの伝説]] (S.113a) 1861-63年?
*3つの葬送的頌歌 (S.112) 1860-66年
*[[メフィスト・ワルツ#メフィスト・ワルツ第2番_S.515|メフィスト・ワルツ第2番]] (S.111) 1880-81年
==== ピアノと管弦楽のための作品 ====
* [[ベルリオーズの『レリオ』の主題による交響的大幻想曲]] (S.120/R.453 H2)1834年:[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の「[[レリオ、あるいは生への復帰]]」に基づく。
* [[呪い (リスト)|呪い]] (S.121/R.452) 1830年頃
* [[ベートーヴェンの「アテネの廃墟」のモティーフによる幻想曲]] (S.122/R.454 H9) 1849年
* [[ハンガリー幻想曲]] (S.123/458) 1852年頃:[[ハンガリー狂詩曲]]第14番 ヘ短調 S.244/14に基づく。
* [[ピアノ協奏曲第1番 (リスト)|ピアノ協奏曲第1番変ホ長調]] (S.124/R.455) 1849年
* [[ピアノ協奏曲第2番 (リスト)|ピアノ協奏曲第2番イ長調]] (S.125/R.456) 1839 - 61年
* [[ピアノ協奏曲第3番 (リスト)|ピアノ協奏曲第3番変ホ長調]] (125a)
* [[死の舞踏 (リスト)|死の舞踏]] (S.126/R.457) 1849 - 59年:[[怒りの日]](ディエス・イレ)の主題に基づく。
* [[さすらい人幻想曲]] (S.366/R.459):[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]のピアノ独奏曲に基づく。
* ハンガリー様式の協奏曲:[[ゾフィー・メンター]]の作品を[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が協奏曲として編曲とされているが、[[ゾフィー・メンター|メンター]]の作品ではなくリスト作曲もしくはリストの手を含む[[ゾフィー・メンター|メンター]]の曲とする説も存在することから、リストの作品として演奏されたりCDに書かれている例もある。
=== ピアノ曲 ===
==== オリジナル作品 ====
* [[ピアノソナタ (リスト)|ピアノソナタ ロ短調]] (S.178/R.21)
* [[超絶技巧練習曲]] (S.139/R.2b)
** 第4曲「[[マゼッパ (リスト)|マゼッパ]]」
** 第5曲「鬼火」
* [[パガニーニによる大練習曲]] (S.141/R.3b)(編曲の部類に入る)
** 第3曲「[[ラ・カンパネッラ]]」
** 第6曲「[[主題と変奏 (リスト)|主題と変奏]]」
* [[3つの演奏会用練習曲]] (S.144/R.5)
** 第3曲「ため息」
* [[2つの演奏会用練習曲]] (S.145/R.6)
* [[巡礼の年]]
** 巡礼の年 第1年:スイス (S.160/R.10a)
** 巡礼の年 第2年:イタリア (S.161/R.10b)
** 巡礼の年 第2年補遺:[[ヴェネツィアとナポリ]](初稿:S.159/R.10d, 改訂稿:S.162/R.10c)
** 巡礼の年 第3年 (S.163/R.10e)
* [[バラード第1番 (リスト)|バラード第1番変ニ長調]] (S.170/R.15)、[[バラード第2番 (リスト)|第2番ロ短調]] (S.171/R.16)
* [[コンソレーション (リスト)|慰め(コンソレーション)]] (S.172/R.14)
* [[詩的で宗教的な調べ]] (S.173/R.14)
* [[伝説 (リスト)|2つの伝説]] (S.175/R.17)
* [[ハンガリー狂詩曲]] (S.244/R.106) - 全20曲。第2番が最も有名。
* [[スペイン狂詩曲 (リスト)|スペイン狂詩曲]] (S.254/R.90)
* [[大演奏会用独奏曲]] (S.176/R.18)
* [[スケルツォとマーチ]] (S.177/R.20)
* [[バッハの名による幻想曲とフーガ]] (S.529/R.22)
* [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]のカンタータ『泣き、嘆き、悲しみ、おののき』([[:en:Weinen,_Klagen,_Sorgen,_Zagen,_BWV_12|Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen BWV 12]])と[[ミサ曲 ロ短調|ロ短調ミサ曲]]の『十字架につけられ』の通奏低音による変奏曲(バッハの動機による変奏曲) (S.180/R.24)
* [[愛の夢]]、3つの夜想曲 (S.541/R.211)
* [[即興曲 (リスト)|即興曲(夜想曲)]] (S.191/R.59)
* [[メフィスト・ワルツ|4つのメフィスト・ワルツ]]
* [[4つの忘れられたワルツ]] (S.215)
* 二つの[[ポロネーズ]]
*[[暗い雲]] (S.199/R/78)
*悲しみのゴンドラ (S.200)
*R.W.(リヒャルト・ワーグナー) - ヴェネツィア (S.201)
* [[無調のバガテル]] (S.216a/R.60c)
* [[即興円舞曲]](S.213, 改訂稿:S.213a、簡易稿s213b)
* [[半音階的大ギャロップ]] (S.219)、その簡易稿 (S.219bis)
==== 編曲 ====
* [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:[[:Category:ベートーヴェンの交響曲|交響曲]](9曲) (S.464/R.128)
* [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]:[[幻想交響曲]] (S.470/R.134, 136)
* [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]:ヴィオラとピアノによる『[[イタリアのハロルド]]』(S.472)- オーケストラ・パートをピアノに編曲したもの。
* [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]:前奏曲とフーガ(6曲)[[バッハ作品主題目録番号|BWV]]543-[[前奏曲とフーガ BWV548|548]](S.462/R.119)
* [[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]:交響詩『[[死の舞踏 (サン=サーンス)|死の舞踏]]』 (S.555/R.240) - リスト自身の「死の舞踏」とは別の作品である。
* [[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]:『[[さまよえるオランダ人]]』より「紡ぎ歌」 (S.440/R.273)、『[[タンホイザー]]』序曲 (S.442/R.275)、『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』より「イゾルデの愛の死」 (S.447/R.280)
* [[フランツ・シューベルト|シューベルト]]:『[[白鳥の歌]]』 (S.560/R.245)『[[冬の旅]]』 (S.561/R.246)『[[魔王 (シューベルト)|魔王]]』『[[エレンの歌第3番|アヴェ・マリア]]』『[[糸をつむぐグレートヒェン]]』 (S.558/R.243)など多数の歌曲
* [[ロベルト・シューマン|シューマン]]:歌曲集『[[ミルテの花 (シューマン) |ミルテの花]]』から『献呈』(S.566/R.253)
* [[「ドン・ジョヴァンニ」の回想]] (S.418/R.228) (原曲:[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]])
* [[リゴレット・パラフレーズ]] (S.434/R.267) (原曲:[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]])
* [[「ノルマ」の回想]] (S.394/R.133) (原曲:[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]])
* オペラ『[[ファウスト (グノー)|ファウスト]]』より ワルツ (S.407/R.166) (原曲:[[シャルル・グノー|グノー]])
* オペラ『[[預言者 (オペラ)|預言者]]』による挿絵 S414/R223〈祈り、勝利の賛歌、戴冠式行進曲/スケートをする人びと/羊飼の合唱、軍隊の召集〉(原曲:[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]])
* オペラ『[[悪魔のロベール]]』のカヴァティーナ S412a(原曲:マイアベーア)
* オペラ『悪魔のロベール』の回想 S413/R222(原曲:マイアベーア)
* 『[[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]]』の回想(オペラ『ユグノー教徒』の主題による劇的大幻想曲)S412/R221(原曲:マイアベーア)
* オペラ『[[アフリカの女]]』の挿絵 S415/R224〈船乗りの祈り/インド風行進曲〉(原曲:マイアベーア)
* 『[[夏の夜の夢 (メンデルスゾーン)|夏の夜の夢]]』より 結婚行進曲と妖精の踊り (S.410/R.219) (原曲:[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]])
「[[ラ・カンパネッラ]]」で有名な『[[パガニーニによる大練習曲]]』は[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]の原曲によりながらも独創性の強い作品とされ、サール番号での分類をはじめ、通常は編曲とは看做されずオリジナル作品に分類される。ただしその前身である『[[パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲]]』 (S.420) は編曲作品とみなされる。
<!--
==== ピアノの大作 ====
リストの曲は15分を超える長大な曲が非常に多い。しかし一般的に大作と呼ばれるのはその中でもごく一部である。
以下の曲がその代表例である。
* [[ピアノソナタ (リスト)|ピアノ・ソナタ ロ短調]] (S.178) [約30分]
* 巡礼の年 第2年 第7番「ダンテを読んで〜ソナタ風幻想曲」 (S.161/7) [約16分]
* [[スケルツォとマーチ]] [約14分]
* [[大演奏会用独奏曲]] [約18分]
* [[「ドン・ジョヴァンニ」の回想]] (S.418/R.228)(原曲:[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]) [約17分]
* [[「ノルマ」の回想]](原曲:[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]])[約16分]
* [[死の舞踏 (リスト)|死の舞踏]] [約15分]
「スケルツォとマーチ」と「大演奏会用独奏曲」は、リストの作品の中でもマイナーな曲であるが、後に完成するピアノ・ソナタ ロ短調を思わせる循環の手法が見られる。そのためピアノ・ソナタ完成への足がかりなどと見られることが多く、近年注目が高まりつつある。これに伴い、演奏会や音源でも取り上げるピアニストは急増している。
(他の項目と重複する上に、「作曲家としてのリスト」の項、あるいは[[ピアノソナタ (リスト)]]で扱うべき内容と考えます。)
-->
=== オルガン曲 ===
* コラール「アド・ノス、アド・サルタレム・ウンダム」による幻想曲とフーガ〈[[:en:Fantasy and Fugue on the chorale "Ad nos,_ad salutarem undam"|Fantasy and Fugue on the chorale "Ad nos, ad salutarem undam"]]〉(S.259/R.380)- [[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]のオペラ『[[預言者 (オペラ)|預言者]]』に基づく
* [[バッハの名による幻想曲とフーガ]] (S.260/R.381)
* バッハのカンタータ『泣き、嘆き、悲しみ、おののき』とロ短調ミサ曲の『十字架につけられ』の通奏低音による変奏曲 (S.673/R.382)
* オルガン・ミサ (S.264/R.384)
* レクイエム (S.266/R.385)
=== 宗教音楽 ===
* オラトリオ「聖スタニスラウスの伝説」 (S.688) - 未完成
* オラトリオ「[[聖エリーザベトの伝説]]」 (S.2/R.477) 1862年 [約1時間40分]
* オラトリオ「[[キリスト (オラトリオ)|キリスト]]」 (S.3/R.478) 1867年 [約2時間50分]
* 荘厳ミサ曲 (S.9) 1855年[約55分]
* 戴冠式のミサ曲 (S.11) 1867年[約45分]
* レクイエム (S.12) 1868年
* 詩篇第13篇 (S.13) 1855年 [約25分]
===歌曲===
* おお、愛して下さい、愛しうる限り長く (ピアノ曲『[[愛の夢]]』の原曲)(S.298) - 原詩『[[:de:O lieb, so lang du lieben kannst|O lieb, so lang du lieben kannst]]』
* [[ペトラルカの3つのソネット]] (S.270)
* ローレライ (S.273)
* 三人のジプシー(三人のツィゴイナー/Die Drei Zigeuner)
=== 未完成作品 ===
* [[メフィスト・ワルツ#メフィスト・ワルツ第4番 S.216b(第1版)、S.696(第2版)|メフィスト・ワルツ第4番]] (S.696) - 不明者が完成
* モーツァルトの「[[フィガロの結婚]]」と「[[ドン・ジョヴァンニ]]」の主題による幻想曲 (S.697) - [[フェルッチョ・ブゾーニ]]の改訂で普及、レスリー・ハワードによる補筆完成版あり
* [[ドリア旋法|ドーリア音階]]によるメロディ (S.701d) - 死の舞踏 (S.126) のスケッチ
=== 偽作作品 ===
* ベネディクトゥス (S.706) - 偽作?
* リナルド (S.708)
=== 消失作品 ===
* 交響的大幻想曲 (S.716)
* 葬送行進曲 (S.745)
* アンダンテ・マエストーソ (S.746)
* ポコ・アダージョ (S.747)
* ロッシーニのオペラ「ノネットとモーゼ」の主題による幻想曲 (S.751) - 紛失したが、恐らく未完のまま放棄?
* オルガン交響詩 (S.758)
== 親族 ==
* [[コジマ・ワーグナー]] - 娘
* [[ハンス・フォン・ビューロー]] - 義子(コジマの1番目の夫)
* [[リヒャルト・ワーグナー]] - 義子(コジマの2番目の夫)
* [[ジークフリート・ワーグナー]] - 孫(リヒャルトとコジマの息子)
* [[フランツ・フォン・リスト]] - 従弟(刑法学者)
== 著作 ==
*『F・ショパン』 (''F. Chopin'', 1851)
*:友人[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の没後、2年後にパリで出版した。作品や生涯について、故郷・ポーランドの風俗や国民性を参照しながら綴っている。
*;日本語版は以下
**『ショパンの芸術と生涯』([[蕗沢忠枝]]訳、モダン日本社、1942年 {{NCID|BA43539966}} {{近代デジタルライブラリー|1125260}})
**『ショパン : その生涯と芸術』([[亀山健吉]]・速水冽訳、宇野書店、1949年 {{NCID|BA32869109}})
**『フレデリック・ショパン : その情熱と悲哀』(八隅裕樹訳、[[彩流社]]、2021年 {{ISBN2|9784779127656}})
=== 回想・証言 ===
:;近年刊の日本語訳のみ
*[[ヴィルヘルム・フォン・レンツ]]『パリの[[ヴィルトゥオーゾ]]たち : ショパンとリストの時代』(''Die grossen Pianoforte-virtuosen unserer Zeit aus persönlicher Bekanntschaft Liszt, Chopin, Tausig, Henselt'')
*:中野真帆子訳、ハンナ、2004年、改訂版2016年。知人の見聞記 {{ISBN2|978-4-907121-55-6}}
*[[マリー・ダグー]]『巡礼の年 : リストと旅した伯爵夫人の日記』(''Mémoires, souvenirs et journaux de la comtesse d'Agoult'')
*:近藤朱蔵訳、青山ライフ出版、2018年。回想の抜粋版 {{ISBN2|978-4434245282}}
*{{仮リンク|アウグスト・ゲレリヒ|en|August Göllerich}}『師としてのリスト : 弟子ゲレリヒが伝える素顔のマスタークラス』(''Klavierunterricht von 1884-1886, dargestellt an den Tagebuchaufzeichnungen von August Göllerich'')
*:{{仮リンク|ヴィルヘルム・イェルガー|de|Wilhelm Jerger}}{{Efn|『師としてのリスト』では全編にわたり、編集者ヴィルヘルム・イェルガー (Wilhelm Jerger) の姓を「イェーガー」と誤って表記している。}}編、内藤晃監修・訳、阿部貴史訳、[[音楽之友社]]、2021年 {{ISBN2|9784276200425}}
== 記念 ==
* [[ブダペシュト]]の[[フェリヘジ空港]]は[[2011年]]に、リストの生誕200年記念として、[[リスト・フェレンツ国際空港]]に改名した<ref>{{Cite web |url=https://www.bud.hu/budapest_airport/media/hirek/bud70/a_repuloter_tortenete_az_elmult_70_ev_diohejban.html |title=A repülőtér története – az elmúlt 70 év dióhéjban |accessdate=2022/02/28 |publisher=Budapest Airport |language=hu}}</ref>。
* 1988年9月16日、[[エリック・エルスト|E. W. エルスト]]により発見された[[小惑星]][[リスト (小惑星)|(3910) Liszt]]は彼の名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=3910|title=(3910) Liszt = 1954 GC = 1974 RP1 = 1977 DK4 = 1977 GF1 = 1979 WX4 = 1984 WD2 = 1988 SF|publisher=MPC|accessdate=2021-09-23}}</ref>。
* プログラミング言語[[LISP]]の系統の1つである[[:w:Franz_Lisp|Franz Lisp]](開発終了)もまた、彼の名前にちなんで命名された。この言語のコンパイラも彼の名前にちなんで、Lisztと呼ばれる。この言語のサポートを当初の目的として設立された企業に[[フランツ_(企業)|フランツ]]がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2013年1月4日 (金) 00:22 (UTC)|section=1}}
* Demko, Miroslav (2003). ''Franz Liszt: Compositeur Slovaque'', Lausanne: L’Age d’Homme.
* Walker, Alan (1984). ''Franz Liszt, The Virtuoso Years 1811-1847'', New York: Alfred A.Knopf.
* Walker, Alan (1989). ''Franz Liszt, The Weimar Years 1848-1861'', London: Faber and Faber Limited.
* {{cite book|和書|author=エヴェレット・ヘルム|authorlink=w:en:Everett_Helm|translator=[[野本由紀夫]]|title=〈大作曲家〉リスト|year=1996|isbn=4-276-22162-5|publisher=音楽之友社|ncid=BN15157351|ref={{SfnRef|ヘルム|1996}}}}
* 福田弥『リスト』[[音楽之友社]]〈作曲家・人と作品〉、2005年 {{ISBN2|9784276221802}}
* ロベール・ポリー『ベートーヴェン : 目でみるドキュメント』武川寛海訳、音楽之友社、1970年 {{NCID|BN03831476}}
== 関連項目 ==
* [[わが恋は終りぬ]] - 1960年の映画。リストを扱った伝記映画。
* {{仮リンク|ラスベガス万才|en|Viva Las Vegas}} - 1964年の映画。[[エルヴィス・プレスリー]]が、リスト作曲の「愛の夢 第3番」をアレンジした「恋の讃歌」を挿入歌として歌う。アン=マーグレットとのデュエット・バージョンもある。
* [[ベーゼンドルファー]] - リストの激しい演奏に耐えたことで名声を得た[[ウィーン]]のピアノフォルテ製造会社。
* {{仮リンク|リストマニア (映画)|label=リストマニア|en|Lisztomania (film)}} - 1975年の映画。[[ケン・ラッセル]]監督、[[ロジャー・ダルトリー]]主演、[[リック・ウェイクマン]]音楽監督でリストを扱った伝記映画。
== 外部リンク ==
{{commons|Category:Franz Liszt}}
* [http://www.classicalmusicdb.com/composers/view/3 リストの楽曲一覧]
* {{IMSLP|id=Liszt, Franz}}
* {{PTNA2|persons|399}}
{{ロマン主義}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りすと ふらんつ}}
[[Category:フランツ・リスト|!]]
[[Category:ハンガリーの作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:フリーメイソンの作曲家]]
[[Category:ハンガリーのクラシック音楽のピアニスト]]
[[Category:プール・ル・メリット勲章平和章受章者]]
[[Category:ベルギー王立アカデミー会員]]
[[Category:ハンガリー・ドイツ人]]
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人造人間
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人造人間(じんぞうにんげん、英:Artificial Human)は、人型ロボットなど人間を模した機械や人工生命体の総称。SFフィクション作品、漫画・映画・小説などで取り扱われることが多い。
日本国語大辞典に掲載されている「人造人間」の最も古い用例は、1923年(大正12年)に出版された『人造人間』(宇賀伊津緒訳、戯曲『R.U.R.』)にある。この本で宇賀は「人造人間」という語を、作中に登場するrobot(ロボット)の訳語とすると共に邦題としても用いている。序文中では「私はこれ(ロボットという語)を勝手に「人造人間」と譯(訳)しました。」と述べている。『人造人間』は翌1924年に築地小劇場において上演された。人造人間という語が宇賀による造語かどうかは定かではないが、これ以降「人造人間はロボットの訳語」と認識されている。現在発行されている多くの国語辞典で「人造人間」の項目に「人造人間とはロボットのこと」に類する記述をしている。より詳細な国語辞典では『R.U.R.』との関係を含めて記載されている。『R.U.R.』のロボットが「人の代わりに作業(労働)をさせるために、人(の姿と自律行動)を模して」作られたものであったため、人造人間という語も「人に代わって作業(労働)をする存在」や「人を模して作られた存在」、「人の(自律)行動を模して作られた存在」に対して用いられる。
『R.U.R.』のロボットは、人間そっくりに、人間とは異なる組成で作られた、まさに「人造人間」と呼ぶべき存在である。しかし、その後一般に広まった「ロボット」という語は、徐々にそれが用いられる対象や範囲を広げていった。現在ではペットロボットのように「人に代わって作業をするわけでも人を模して作られたものでもない」物もロボットと呼ばれている。それらは日本語としての「人造人間」という語の「人造の人間」というイメージからは逸脱するため、一般に「人造人間」とは呼ばれない。現在は、概念として「ロボット」を単純に「人造人間」に置き換えることはできない。
人造人間という語が広まる以前から「人造の人間」(自然な状態で生まれるのではなく、作り出されたもの)という概念は存在した。実在するものとしての「『R.U.R.』のロボット」のような人造人間は今のところ実現していないが、伝説上の存在や架空の存在としての「人造の人間」は古くから語られ、また作品として創作されている。それらの多くは大きく「人造人間」というカテゴリに分類されてはいるものの、個々の「人造の人間」の特徴や特性、呼び名は様々である。
伝説上の存在として、古くは、ギリシア神話のタロース、ユダヤ伝説のゴーレム、ギルガメシュ叙事詩のエンキドゥなどが挙げられ、日本でも鎌倉時代の説話集『撰集抄』巻五に、西行が故人恋しさに死人の骨を集めて復活させようとして失敗する話「高野山参詣事付骨にて人を造る事」がある。SF関連作品に登場するものとしては、『フランケンシュタイン』の被造物(フランケンシュタインの怪物)以降、多数の「人造の人間」が創作されている。
実在のものとしては、日本では1928年(昭和3年)に西村真琴が學天則を製作している。造られたのは上半身のみだが、腕を動かして文字を書いたり表情を変えたりすることができた。21世紀初頭の現在までには、ホンダの開発したASIMOや富士ソフトが開発したパルロなど人間の動きに近いもの(二足歩行など)、株式会社ココロと大阪大学が共同で開発したアクトロイドのように瞬きや呼吸といった人の挙動を模倣したものなど、それぞれの分野に特化した形で実現しており、さらに研究開発が続けられている。
ロボットの定義が明確に定め難いのと同様に、何をもって人造人間とするか、という明確な定義も事実上存在しない。フィクションにおいても、定義づけに関する対応は作品によって異なっている。
フィクションにおいて、外見や行動がより人間に近い人造人間が登場する場合、人造人間と人間との境界(精神的・抽象的なものから法的なものまで)がしばしば問題となる。この問題は「人間とは何か」、「生命とは何か」、「心・魂とは何か」といったより根源的な問題を含むこととなるため、各作品においても対応はまちまちで、そうした問題自体をテーマとした作品も頻繁に創作されている。
アブラハムの宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)では、旧約聖書の天地創造にあるように、人間(アダムとイブ)はヤハウェ・エロヒムに造られたとされており、人間を造るのは「神の行為」とされている。そのため、人間が人間を造るという行為は神への挑戦、あるいは冒涜と見做される場合がある。
初期の人造人間が登場するフィクションが制作された背景には、社会の近代化や科学技術の進歩に対する漠然とした不安があった。この心理が人造人間そのものへの不安フランケンシュタイン・コンプレックスに反映されているとする見方がある。
人造人間やロボットのように「人造の人間」を表す語は多い。フィクション作品においては、作品独自の造語や誤訳、語のイメージ重視の使用(意図的な誤用)なども見られる。以下に、主なもの(主に当記事にリダイレクトされている語)について記す。
フィクションにおいて人造人間として扱われることのある用語で、ウィキペディア日本語版内に記事のあるもの。
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人造人間は、人型ロボットなど人間を模した機械や人工生命体の総称。SFフィクション作品、漫画・映画・小説などで取り扱われることが多い。
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{{Otheruses||漫画『ドラゴンボール』のキャラクター|人造人間 (ドラゴンボール)}}
[[ファイル:Actroid-DER 01.jpg|thumb|300px|人型ロボット「[[アクトロイド]]」]]
'''人造人間'''(じんぞうにんげん、[[英語|英]]:Artificial Human)は、'''人型[[ロボット]]'''など[[人間]]を模した[[機械]]や人工生命体の総称。[[サイエンス・フィクション|SF]]フィクション作品、[[漫画]]・[[映画]]・[[小説]]などで取り扱われることが多い。
== 語としての人造人間 ==
[[日本国語大辞典]]に掲載されている「人造人間」の最も古い用例は、[[1923年]](大正12年)に出版された『人造人間』([[宇賀伊津緒]]訳、[[戯曲]]『[[R.U.R.]]』)にある。この本で宇賀は「人造人間」という語を、作中に登場する''robot''([[ロボット]])の訳語とすると共に邦題としても用いている。序文中では「私はこれ(ロボットという語)を勝手に「人造人間」と譯(訳)しました。」と述べている。『人造人間』は翌1924年に[[築地小劇場]]において上演された。人造人間という語が宇賀による[[造語]]かどうかは定かではないが、これ以降「人造人間はロボットの訳語」と認識されている。現在発行されている多くの[[国語辞典]]で「人造人間」の項目に「人造人間とはロボットのこと」に類する記述をしている。より詳細な国語辞典では『R.U.R.』との関係を含めて記載されている。『R.U.R.』のロボットが「人の代わりに作業(労働)をさせるために、人(の姿と自律行動)を模して」作られたものであったため、人造人間という語も「人に代わって作業(労働)をする存在」や「人を模して作られた存在」、「人の(自律)行動を模して作られた存在」に対して用いられる。
『R.U.R.』のロボットは、人間そっくりに、人間とは異なる組成で作られた、まさに「人造人間」と呼ぶべき存在である。しかし、その後一般に広まった「ロボット」という語は、徐々にそれが用いられる対象や範囲を広げていった。現在では[[エンタテインメントロボット|ペットロボット]]のように「人に代わって作業をするわけでも人を模して作られたものでもない」物もロボットと呼ばれている。それらは日本語としての「人造人間」という語の「人造の人間」というイメージからは逸脱するため、一般に「人造人間」とは呼ばれない。現在は、概念として「ロボット」を単純に「人造人間」に置き換えることはできない。
== 概念としての人造人間 ==
[[ファイル:HONDA ASIMO.jpg|thumb|right|200px|[[ASIMO]] - [[本田技研工業]]が開発した世界初の本格的な[[二足歩行ロボット]]]]
人造人間という語が広まる以前から「人造の人間」(自然な状態で生まれるのではなく、作り出されたもの)という概念は存在した。実在するものとしての「『R.U.R.』のロボット」のような人造人間は今のところ実現していないが、[[伝説]]上の存在や[[架空]]の存在としての「人造の人間」は古くから語られ、また作品として創作されている。それらの多くは大きく「人造人間」という[[カテゴリ]]に分類されてはいるものの、個々の「人造の人間」の特徴や特性、呼び名は様々である。
伝説上の存在として、古くは、[[ギリシア神話]]の[[タロース (ギリシア神話)|タロース]]、[[ユダヤ]]伝説の[[ゴーレム]]、[[ギルガメシュ叙事詩]]の[[エンキドゥ]]などが挙げられ、日本でも[[鎌倉時代]]の説話集『[[撰集抄]]』巻五に、[[西行]]が故人恋しさに死人の骨を集めて復活させようとして失敗する話「高野山参詣事付骨にて人を造る事」がある。SF関連作品に登場するものとしては、『[[フランケンシュタイン]]』の[[被造物]]([[フランケンシュタインの怪物]])以降、多数の「人造の人間」が創作されている。
実在のものとしては、日本では[[1928年]](昭和3年)に[[西村真琴]]が[[學天則]]を製作している。造られたのは上半身のみだが、腕を動かして文字を書いたり表情を変えたりすることができた。21世紀初頭の現在までには、[[本田技研工業|ホンダ]]の開発した[[ASIMO]]や[[富士ソフト]]が開発した[[パルロ]]など人間の動きに近いもの(二足歩行など)、[[ココロ (企業)|株式会社ココロ]]と[[大阪大学]]が共同で開発した[[アクトロイド]]のように瞬きや呼吸といった人の挙動を模倣したものなど、それぞれの分野に特化した形で実現しており、さらに研究開発が続けられている。
== 人造人間の定義 ==
ロボットの定義が明確に定め難いのと同様に、何をもって人造人間とするか、という明確な定義も事実上存在しない。フィクションにおいても、定義づけに関する対応は作品によって異なっている。
{{See also|ロボット#語義の多様化}}
== 人造人間の問題点 ==
=== 人間との境界 ===
フィクションにおいて、外見や行動がより人間に近い人造人間が登場する場合、人造人間と人間との境界(精神的・抽象的なものから法的なものまで)がしばしば問題となる。この問題は「人間とは何か」、「生命とは何か」、「心・魂とは何か」といったより根源的な問題を含むこととなるため、各作品においても対応はまちまちで、そうした問題自体をテーマとした作品も頻繁に創作されている。
=== 宗教・思想上の問題点 ===
[[アブラハムの宗教]]([[キリスト教]]、[[ユダヤ教]]、[[イスラム教]])では、[[旧約聖書]]の[[天地創造]]にあるように、人間([[アダムとイブ]])は[[ヤハウェ]]・エロヒムに造られたとされており、人間を造るのは「神の行為」とされている。そのため、人間が人間を造るという行為は神への挑戦、あるいは冒涜と見做される場合がある。
初期の人造人間が登場するフィクションが制作された背景には、社会の近代化や科学技術の進歩に対する漠然とした不安があった。この心理が人造人間そのものへの不安[[フランケンシュタイン・コンプレックス]]に反映されているとする見方がある。
== 同義語・類義語 ==
{{Notice|多くの作品で一般的に使用されているものを記載し、特定のシリーズ作品のみに登場する固有名詞は記載しないでください。|style=important|section=1}}
{{独自研究|section=1|date=2021年12月}}
人造人間やロボットのように「人造の人間」を表す語は多い。フィクション作品においては、作品独自の[[造語]]や誤訳、語のイメージ重視の使用(意図的な誤用)なども見られる。以下に、主なもの(主に当記事にリダイレクトされている語)について記す。
; 人型ロボット(ひとがたロボット)、人間型ロボット(にんげんがたロボット)
: 外見を人間に似せて作られたロボットのことで、「人型でないロボット」との区別のために使われる言い回し。'''[[ヒューマノイド]]ロボット'''(humanoid robot、人間そっくりのロボット)とも言われる。[[アイザック・アシモフ]]は、『[[鋼鉄都市]]』に登場する人型ロボットを指す語として'''ヒューマンフォームロボット'''(humaniform robot、人間型ロボット)を用いている。
; アンドロイド(android、[[ラテン語]]:androides)
: {{Anchors|アンドロイド}}[[ギリシア語]]の''andro-''(人、男性)と[[接尾辞]]''-oid''(-のようなもの、-もどき)の組み合わせで、人型ロボットなどの人に似せて作られた存在を指す。'''[[ヒューマノイド]]'''(humanoid、[[英語]]の''human''(人)と''-oid''の組み合わせ)とは、由来する[[言語]]が異なる同じ構造の語であり、ほぼ同義である。「andro-」が男性の意味も持つことから、女性型アンドロイドを'''[[ガイノイド]] '''(gynoid)と呼び分けている作品も見られる。
: 作中に登場する人造人間に対して「アンドロイド([[フランス語]]:androïde)」という語を初めて用いた作品は、[[小説]]『[[未来のイヴ]]』([[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン]]著、[[1886年]])とされているが、語自体の歴史はさらに古く、[[1728年]]に[[イーフレイム・チェンバーズ]]が編纂・出版した[[百科事典]]『[[サイクロペディア]]』(''Cyclopaedia, or Universal Dictionary of Arts and Sciences'')には、既に''ANDROIDES''の項目があり<ref>イーフレイム・チェンバーズ『Cyclopaedia, or Universal Dictionary of Arts and Sciences』1728年 [http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/HistSciTech/HistSciTech-idx?type=turn&id=HistSciTech.Cyclopaedia01&entity=HistSciTech.Cyclopaedia01.p0135&q1=androides Androidesの項が記載されたページ([[ウィスコンシン大学]]デジタルコレクション収蔵)]</ref>、[[18世紀]]初頭には使われていた語であることが窺える。この中でアンドロイドの意味は「'''オートマトン'''('''[[オートマタ]]''')のこと」とされており、用例として「[[アルベルトゥス・マグヌス]]はアンドロイドを作ったと記録されている」という記述が挙げられている。
; {{Visible anchor|バイオノイド}}(bionoid)、{{Visible anchor|バイオロイド}}(bioroid)
: いずれもバイオ([[バイオニクス]]、[[バイオテクノロジー]])とアンドロイドを組み合わせた語であり、[[サイエンス・フィクション|SF]]作品に登場する人型のロボットを指す。
: '''バイオノイド'''は1980年頃から用いられている語で、初期の用例としては、[[映画]]『[[スペース・サタン]]』(アメリカ、1980年)が日本公開された際のチラシやパンフレットにおいて、同作に登場するロボット「ヘクター」を「バイオノイド」と紹介している。[[用語]]辞典では、
:* SF アニメなどに登場する、人間に近い生体や心を持つ人造人間<ref>『コンサイスカタカナ語辞典第4版』[[三省堂]]、2010年、788頁。</ref>
:* 人間の体をしているロボット<ref>『[[現代用語の基礎知識]]2006』[[自由国民社]]、2005年、1435頁。※他年度版(2013等)にも記載あり。</ref>
:と記載されている。
:'''バイオロイド'''も1980年代から用いられている語で、初期の用例としては、1983年に発表され、1985年に出版された[[漫画]]『[[ブラックマジック M-66|ブラックマジック]]』([[士郎正宗]]作{{efn2|なお、士郎正宗の漫画『[[アップルシード]]』では「遺伝子に加工を施したクローン人間」を意味する言葉として'''バイオロイド'''が登場する。}})や1984年放送の[[テレビアニメ]]『[[超時空騎団サザンクロス]]』([[タツノコプロ]]制作)がある。
=== その他 ===
フィクションにおいて人造人間として扱われることのある用語で、[[ウィキペディア日本語版]]内に記事のあるもの。
* [[オートマタ]] - 機械人形のこと。何らかの技術で自律行動する場合、人造人間として扱われることがある。
* [[クローン]] - [[分子]]・[[DNA]]・細胞・[[生体]]などの[[コピー]]のこと。クローニングによって生まれた人間は、場合により人造人間として扱われることがある。
* [[デザイナーベビー]] - [[遺伝子]]操作を受けた子供のこと。操作に用いられる技術や操作の内容(結果)によっては、人造人間として扱われることがある。
* [[ホムンクルス]] - [[錬金術]]で作り出された人工生命体のこと。人型のものが人造人間として扱われることがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[ロボット]] - [[ロボット工学三原則]]
* [[サイボーグ]]
* [[哲学的ゾンビ]]
* [[人間性]]
* [[不気味の谷現象]]
* [[アンドロイドサイエンス]]
* {{ill2|レプリカント (人造人間)|en|Replicant}} - 映画『[[ブレードランナー]]』シリーズに登場する「[[レプリカ]](複製品)」を語源とするバイオノイド。
{{アンドロイド}}
{{ヒューマノイドロボット}}
{{ロボティクス}}
{{無人機}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しんそうにんけん}}
[[Category:ロボット|*しんそうにんけん]]
[[Category:架空のロボット|*しんそうにんけん]]
[[Category:架空の技術]]
[[Category:トランスヒューマニズム]]
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エルフ語
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エルフ語(エルフご)は、ファンタジーに登場する伝説の種族であるエルフが使うものとされている架空の言語。
エルフが登場する様々なフィクションに登場するが、特に有名なのは『指輪物語』の著者J・R・R・トールキンの作ったエルフ語である。彼は実際にいくつかの人工言語をエルフ語として作成した。
以下に挙げる言語は、J・R・R・トールキンが『指輪物語』に使ったもので、基本構造の多くは古ケルト語等に準じる。物語の舞台となる中つ国世界でエルフが用いる。
また、トールキンはこれらの言語のために、テングワールやキアスといった文字を作った。
他はローマ字読みしても、だいたい変わりない。
トールキンのその他の言語は、以上のように読んでほとんど変わりない。ただし、
ダンジョンズ&ドラゴンズの設定内の世界に登場する各種族の言語としてエルフ語がある。共通語、ドワーフ語、ゴブリン語などと同様に別の種類の言語として扱われ、キャラクター作成時のINTの数値+1ごとに覚えられる言語が増える。
エルフ語も他の共通語などの設定言語と同様互換性がなく、エルフ語を知らない状態で他の言語を覚えていても会話が困難、とされている。
TRPGから展開した日本のファンタジー作品/ゲームであるロードス島戦記・ソードワールド・クリスタニア等の舞台となっているフォーセリア世界においても、やはりエルフやダークエルフがエルフ語を用いている。ただし、文法や文字の明確な設定はなく、物語の小道具程度の設定しか存在しない。作品中の描写から得られる情報は以下の通りである。
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エルフ語(エルフご)は、ファンタジーに登場する伝説の種族であるエルフが使うものとされている架空の言語。 エルフが登場する様々なフィクションに登場するが、特に有名なのは『指輪物語』の著者J・R・R・トールキンの作ったエルフ語である。彼は実際にいくつかの人工言語をエルフ語として作成した。
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'''エルフ語'''(エルフご)は、[[ファンタジー]]に登場する[[伝説]]の種族である[[エルフ]]が使うものとされている[[架空]]の[[言語]]。
エルフが登場する様々なフィクションに登場するが、特に有名なのは『[[指輪物語]]』の著者[[J・R・R・トールキン]]の作ったエルフ語である。彼は実際にいくつかの[[人工言語]]をエルフ語として作成した。
== 中つ国のエルフ語 ==
以下に挙げる言語は、J・R・R・トールキンが『指輪物語』に使ったもので、基本構造の多くは[[古ケルト語]]等に準じる。物語の舞台となる[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]世界でエルフが用いる。
* [[クウェンヤ]](''Quenya''[[上のエルフ]]の言葉) →西の果て[[ヴァリノール]](至福の地[[アマン (トールキン)|アマン]])での公用語。[[第一紀 (トールキン)|上古の時代]]に中つ国では禁止され、一部の上のエルフしか使わない。(ISO 639-3 qya : Quenya)作品の主な舞台となる中つ国第三期末では高尚な教養言語として儀礼や挨拶、命名に使われる程度であり、いわばエルフの[[ラテン語]]である。
* [[シンダール語]](''Sindarin''灰色エルフ語) →中つ国の[[シンダール|灰色エルフ]]族の言葉。(ISO 639-3 sjn : Sindarin)[[中つ国]]のエルフ達の常用語であり、人間の共通語にも多くの影響を与えた。映画版におけるエルフ語の会話も主にこのシンダール語である。
また、トールキンはこれらの言語のために、[[テングワール]]や[[キアス]]といった文字を作った。
=== 特に注意すべき発音の規則 ===
* '''c''' は常に[k]に発音され[s]音になることはない。
* '''ch''' は[[スコットランド語]]の ''loch'' 、[[ドイツ語]]の ''buch'' に同じ口蓋摩擦音の[x]。Imlach →イムラハ。
* '''hy''' は ''hew'' のような音[hj]。
* '''dh''' は ''these'' のth[ð]。Aredhel → アレゼル。
* '''f''' は語尾では[v]音でそれ以外では[f]。 Nindalf →ニンダルヴ。
* '''ht''' クウェンヤでは[çt]
* '''i''' はシンダール語で語頭で他の母音と用いられるとき[j]音。Iarwain →ヤールワイン。
* '''ph''' は[f]音。alph →アルフ。
* '''qu''' は [kw]音。
* '''th''' は ''thank'' のth[θ]。
* '''ty''' は ''tune'' の[tj]。
* '''hw''' は ''white'' のwh[hw]。
* '''er, ir, ur''' は語尾または子音の前にくる場合、英語のair[ɛə], eer[ɪə], oor[ʊə]のように発音される。Caranthir →カランシア。
* '''y'''はクウェンヤでは子音、シンダール語では母音である(フランス語のu[y])。
* 鋭アクセント記号は長音、シンダール語では曲アクセント記号は特に長い音を示す。
* 子音の連続は二重の子音。ただし最近はttとssとkkは促音として、llやnnやrrは子音を二重に翻訳されている。
他は[[ローマ字]]読みしても、だいたい変わりない。
トールキンのその他の言語は、以上のように読んでほとんど変わりない。ただし、
* '''k'''は'''c'''と同音。単に異国語であることを示す。
* 曲アクセント記号は特に意味がない。
*: このことばに対し、曲アクセント自体無意味なのか、鋭アクセント記号と何ら変わらないという意味なのか解釈の分かれるところであるが、最近は後者が正しいとされている。
* ドワーフ語ではthとかkhは単独の子音を示すのではなく、それぞれt+h、k+hの音で発音された。
== その他のエルフ語 ==
=== ダンジョンズ&ドラゴンズのエルフ語 ===
[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]の設定内の世界に登場する各種族の言語としてエルフ語がある。共通語、ドワーフ語、ゴブリン語などと同様に別の種類の言語として扱われ、キャラクター作成時のINTの数値+1ごとに覚えられる言語が増える。
エルフ語も他の共通語などの設定言語と同様互換性がなく、エルフ語を知らない状態で他の言語を覚えていても会話が困難、とされている<!-- 日本語公式サイトに出典なし。出典情報源検索中。 -->。
=== フォーセリアのエルフ語 ===
TRPGから展開した[[日本]]のファンタジー作品/ゲームである[[ロードス島戦記]]・[[ソード・ワールドRPG|ソードワールド]]・[[クリスタニア]]等の舞台となっている[[フォーセリア]]世界においても、やはりエルフやダークエルフがエルフ語を用いている。ただし、文法や文字の明確な設定はなく、物語の小道具程度の設定しか存在しない。作品中の描写から得られる情報は以下の通りである。
* 人間にはまるで歌を歌っているかのように聞こえ、ほとんどの人は意味を理解できない、とされている。
* 幾つかの単語が登場する。濁音を含む単語は良くない意味で使用される。例:「醜い」→「バーク」
== 関連項目 ==
* [[伊藤盡]] - エルフ語研究者
* [[アルダの言語]]
== 外部リンク ==
*[http://www.acondia.com/fonts/index.html Dan Smith's Fantasy Fonts for Windows(t) エルフ語フォントあり]
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[[Category:中つ国の言語]]
[[Category:架空の言語]]
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南半球
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南半球(みなみはんきゅう)とは、地球を含む惑星上などで赤道より南の部分を指す。以下、特に断らない限り地球の南半球について述べる。
南半球には、南アメリカ大陸の約6/7、アフリカ大陸の半分未満、オーストラリア大陸、南極大陸がある。六大州としては、南アメリカ、オセアニア、アフリカ、アジアがある。地球上の陸地面積のうち、32.4%(4861万平方km)を南半球が占める。
南半球は北半球と比べ海洋の占める面積比率が大きく、南半球の81.6%を海洋が占める。特に南緯50度から60度にかけては99%が海洋である。この区域には陸地が少なく、遮るもののない洋上に絶えず強風が吹き荒れるため、古くから航海の難所として恐れられている。そのため、この海域を指して吠える40度・狂う50度・絶叫する60度と呼ぶことがある。
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南半球(みなみはんきゅう)とは、地球を含む惑星上などで赤道より南の部分を指す。以下、特に断らない限り地球の南半球について述べる。 南半球には、南アメリカ大陸の約6/7、アフリカ大陸の半分未満、オーストラリア大陸、南極大陸がある。六大州としては、南アメリカ、オセアニア、アフリカ、アジアがある。地球上の陸地面積のうち、32.4%(4861万平方km)を南半球が占める。
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[[ファイル:Hemisferio Sur.png|right|280px|thumb|'''南半球'''(黄色に塗られた範囲)]]
[[ファイル:Southern Hemisphere LamAz.png|right|280px|thumb|'''南半球''' 円周が赤道に相当する]]
[[ファイル:UshuaiaFinDelMundo.jpg|right|280px|thumb|伝説のポスター「[[ウシュアイア]]、世界の果て」。[[アルゼンチン]]のウシュアイアは世界最南端の都市。]]
'''南半球'''(みなみはんきゅう)とは、地球を含む[[惑星]]上などで[[赤道]]より[[南]]の部分を指す。以下、特に断らない限り地球の南半球について述べる。
南半球には、[[南アメリカ大陸]]の約6/7、[[アフリカ大陸]]の半分未満、[[オーストラリア大陸]]、[[南極大陸]]がある。[[六大州]]としては、[[南アメリカ]]、[[オセアニア]]、[[アフリカ]]、[[アジア]]がある。地球上の陸地面積のうち、32.4%(4861万平方km)を南半球が占める。
==特徴==
南半球は北半球と比べ海洋の占める面積比率が大きく、南半球の81.6%を海洋が占める<ref name="理科年表">[[理科年表]]地学部「世界各緯度帯の海陸の面積とその比」</ref>。特に南緯50度から60度にかけては99%が海洋である<ref name="理科年表" />。この区域には陸地が少なく、遮るもののない洋上に絶えず強風が吹き荒れるため、古くから航海の難所として恐れられている。そのため、この海域を指して[[吠える40度]]・[[狂う50度]]・[[絶叫する60度]]と呼ぶことがある。
== 北半球との違い ==
*季節が逆転する。(例えば北半球が夏のとき、南半球は冬である。)
*太陽が東から出て「北」を経由して西に沈む。
*雲や水の渦巻きが逆回転になる(ただし、[[熱帯低気圧]]レベルの地球規模での現象で、浴槽や洗面台の水流の渦は無関係である。詳細は[[コリオリの力#現象]]を参照)。
*気候区分における[[亜寒帯]]がない。北半球で亜寒帯に相当する緯度に陸地が存在しないからである。そのため[[温帯]]から海を越えてすぐに[[寒帯]]となる。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[北半球]]
* [[南回帰線]]
<!-- *[[北半九・南半九]] 地理用語ではない -->
== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
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[[Category:半球]]
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鳥山明○作劇場
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『鳥山明○作劇場』(とりやまあきらマルさくげきじょう)は、集英社から発刊された漫画短編集。レーベルはジャンプ・コミックス。
鳥山明の読み切り作品などを収録した漫画短編集。現在3巻まで出ているが、発行の間隔は非常に長く、『VOL.1』から『VOL.2』までは4年、『VOL.2』から『VOL.3』までは9年掛かっている。タイトルの「○作」は、「傑作」「駄作」など、読者が適当と思われる文字を入れてほしいとの意味で付けられた。
『VOL.2』収録の『剣之介さま』と『PINK』(『Pink みずドロボウあめドロボウ』)は、『ドラゴンボールZ 地球まるごと超決戦』を含めた3本立ての短編映画「鳥山明・ザ・ワールド」として1990年夏の東映アニメフェアでアニメ化されている。
『VOL.3』収録の『貯金戦士キャッシュマン』は後にリメイク連載され、短編アニメ化もされた。同じく『VOL.3』収録の『GO!GO!ACKMAN』は短編アニメに加えてスーパーファミコンとゲームボーイでゲーム化された。
1983年7月出版。ISBN 4088512618。おまけページに各作品執筆時のエピソードが漫画で描かれている。
1988年3月出版。ISBN 4088514696。おまけページでは、鳥山が漫画家になるまでのいきさつが本人の直筆によって描かれている。
1997年8月出版。ISBN 4088720539。VOL.1やVOL.2とは表紙のデザインやロゴは異なっている。
SHUEISHA JUMP REMIXレーベルにて発刊されたコンビニコミック。「改」は「あらため」と読む。表紙と収録作品はオリジナルと異なり、『其の弐』では『ネコマジンZ』が先行収録されている。
『VOL.3』までの収録作品を2冊に再構成した文庫版(集英社文庫)。壹にオールカラーで『LADY RED』、貮に『宇宙人ペケ』を追加収録。貮には鳥山の2008年時のインタビューも追加され、読み切りに対する心境が掲載された。
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『鳥山明○作劇場』(とりやまあきらマルさくげきじょう)は、集英社から発刊された漫画短編集。レーベルはジャンプ・コミックス。
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『'''鳥山明○作劇場'''』(とりやまあきらマルさくげきじょう)は、[[集英社]]から発刊された[[漫画]][[短編集]]。レーベルは[[ジャンプ・コミックス]]。
== 概要 ==
[[鳥山明]]の[[読み切り]]作品などを収録した漫画短編集。現在3巻まで出ているが、発行の間隔は非常に長く、『VOL.1』から『VOL.2』までは4年、『VOL.2』から『VOL.3』までは9年掛かっている。タイトルの「○作」は、「傑作」「駄作」など、読者が適当と思われる文字を入れてほしいとの意味で付けられた<ref>鳥山明『鳥山明○作劇場 VOL.1』表紙そで。「傑」の文字は小さく書かれている。</ref>。
『VOL.2』収録の『[[剣之介さま]]』と『[[PINK (鳥山明の漫画)|PINK]]』(『Pink みずドロボウあめドロボウ』)は、『[[ドラゴンボールZ 地球まるごと超決戦]]』を含めた3本立ての短編映画「鳥山明・ザ・ワールド」として[[1990年]]夏の[[東映アニメフェア]]でアニメ化されている。
『VOL.3』収録の『[[貯金戦士キャッシュマン]]』は後にリメイク連載され、短編アニメ化もされた。同じく『VOL.3』収録の『[[GO!GO!ACKMAN]]』は短編アニメに加えて[[スーパーファミコン]]と[[ゲームボーイ]]でゲーム化された。
== 作品解説 ==
=== VOL.1 ===
1983年7月出版。ISBN 4088512618。おまけページに各作品執筆時のエピソードが漫画で描かれている。
; ワンダー・アイランド
: 『[[週刊少年ジャンプ]]』1978年52号掲載。15頁。
: 鳥山のデビュー作品。漫画に初挑戦した直後の作品であり、漫画というよりカットの連続のように描かれている<ref name="WORLD">週刊少年ジャンプ特別編集『鳥山明 THE WORLD』60-87頁。</ref>。実際には入選作品ではなく、紙面がたまたま空いたため、掲載された。『週刊少年ジャンプ』誌上の読者アンケートでは10数票と最下位だった<ref name="Japan">[[大下英治]]「第八章 アニメファンの拡大 没原稿五百枚」『<ruby>日本<rp>(</rp><rt>ジャパニーズ</rt><rp>)</rp></ruby>ヒーローは世界を制す』[[角川書店]]、1995年11月24日、ISBN 4-04-883416-9、236-237頁。</ref>。後に『[[Dr.スランプ]]』が連載された際、本作の登場キャラクターであるピーマンが1コマのみ登場している。
:【ストーリー】 不思議島(ワンダー・アイランド)をさまよう元特攻隊の古巣二飛曹(ふるすにひそう)がなんとか空を飛んで日本に帰ろうと試みるが、そこでワンダー・アイランドの住人ピーマンらと出会う。
; ワンダー・アイランド2(ワンダー・アイランドツー)
: 『週刊少年ジャンプ』1979年1月25日[[週刊少年ジャンプの増刊号|増刊号]]掲載。15頁。
: 『ワンダー・アイランド』の続編だが、前作から引き続き登場するのはピーマンのみ。鳥山明が好きな映画である『[[ダーティハリー]]』や『[[ウルトラマン]]』、怪獣映画やSF映画のパロディが盛り込まれており、鳥山によると「ただ怪獣が描きたくて描いた作品」<ref name="WORLD"/>。この作品に登場するハリー以外の警察官各メンバー<!--や「スペシャル船(シップ)」-->は、後に連載される『Dr.スランプ』にも登場する<ref name="WORLD"/>。
:【ストーリー】 アメリカのロス・アンギラス市(架空の都市)の警察のハリー・センボン刑事が、署長の命令により、銀行強盗を追ってワンダー・アイランドへと渡る。
; ギャル刑事トマト(ギャルデカトマト)
:『週刊少年ジャンプ』1979年8月15日増刊号掲載。15頁。
: 警察署を舞台とした漫画である。鳥山の担当編集者だった[[鳥嶋和彦]]の案により少女を主人公とした結果、読者人気はこれまでの作品と比べると高く、『週刊少年ジャンプ』のアンケートでは5位にランク入りした<ref name="Japan"/>。この作品の評価を受け、この後少女ロボットを主人公とした『Dr.スランプ』の連載が始まる。
: 【ストーリー】 マイペースな18歳の少女、赤井十真都(あかいとまと)が新人婦警として活躍する。
; POLA&ROID(ポラアンドロイド)
: 『週刊少年ジャンプ』1981年17号掲載。45頁。
: 『週刊少年ジャンプ』で当時行われていた「愛読者賞」作品のひとつとして描かれたギャグ漫画。この作品はエントリーしていた10作品の中で一等賞に選ばれた。『Dr.スランプ』のニコチャン大王がゲスト出演し、悪役が「アラレちゃん腕時計」をしている。時間の都合で全部[[サインペン]]で描かれているために他の作品とはタッチが異なっている。一等の褒美として、鳥山はヨーロッパ旅行に行くこととなった。
: 【ストーリー】 やかんの形の人工惑星ヤカンダガヤの宇宙タクシードライバー・ロイドが、天然惑星コンガラガッタの自称正義の味方の少女・ポラと出会い、ガガンボ帝国を相手に戦いを繰り広げる。
; MAD MATIC(まっどまちっく)
: 『週刊少年ジャンプ』1982年12号掲載。45頁。
: 鳥山2度目の「愛読者賞」作品。タイトルの由来は映画『[[マッドマックス]]』<ref>ジャンプ・コミック出版編集部編「鳥山明 ON THE ROAD」『ドラゴンボール完全版公式ガイド Dragonball LANDMARK 少年編〜フリーザ編』集英社〈ジャンプ・コミックス〉、2003年12月24日、ISBN 4-08-873478-5、158-159頁。</ref>。『[[マッドマックス2]]』にヒントを得て描かれた<ref name="WORLD"/>。
: 【ストーリー】 喉が渇きビールを求めてさまよっていた若者が、巨大な冷蔵庫を守る女性ニベアと幼女ムヒの元を訪れるが、不注意から冷蔵庫に封印されていた剣歯竜(サーベルドラゴン)が復活する。それと期を同じくして、ニベアをガールフレンドにしようと狙うノンスメル将軍が率いるグングン軍がその地に迫っていた。
; CHOBIT(チョビット)
: 『週刊少年ジャンプ』1983年10号掲載。45頁。
: 鳥山3度目の「愛読者賞」作品。全45頁を15ページずつ分割し、3話構成としている。アメリカのテレビ番組『[[かわいい魔女ジニー]]』から主人公がイメージされている<ref name="WORLD"/>。
: 【ストーリー】 トントン村というド田舎に住む頼りない駐在の山野麦文(やまのむぎふみ)のもとに、小さな身体を持った宇宙人の少女チョビットが訪れ、超能力で彼をサポートする。
; CHOBIT2(チョビットツー)
: 『[[フレッシュジャンプ]]』1983年6月号掲載。18頁。
:『CHOBIT』の続編であるが、舞台を田舎の村からアメリカ風の町へと移している。鳥山が気に入っている[[マカロニ・ウェスタン]]の影響が出た作品<ref name="WORLD"/>。前作同様、人気はいまひとつだったとおまけで語られた。
: 【ストーリー】 前作の主人公、山野麦文がチョビットや妹たちとともに大都会タンタン町(タウン)を訪れ、町の警察官としてパトロールをする。
=== VOL.2 ===
1988年3月出版。ISBN 4088514696。おまけページでは、鳥山が漫画家になるまでのいきさつが本人の直筆によって描かれている。
; 本日のハイライ島(ほんじつのハイライとう)
: 『週刊少年ジャンプ』1979年4月20日増刊号掲載。15頁。
: 『VOL.1』の『ギャル刑事トマト』の前に描かれた作品。後に始まる『Dr.スランプ』のペンギン村村立中学園の先生や生徒たちに似たキャラクターが多数登場している<ref name="WORLD"/>。
: 【ストーリー】 ハイライ島中学校に通う少年カン太が給食を独占しようとしたところ、虫歯により歯痛に見舞われ、医者に見てもらうことになる。
; ESCAPE(エスケイプ)
: 『週刊少年ジャンプ』1982年1月増刊号掲載。5頁。
: カラーで描かれた5ページ漫画。[[アメリカン・コミックス]]に似せて描かれている<ref name="WORLD"/>。
: 【ストーリー】 惑星ウメコブチャを舞台に鬼ごっこが繰り広げられる。
; PINK(ピンク)
: 『フレッシュジャンプ』1982年12月号掲載。31頁。
: 詳細は『[[PINK (鳥山明の漫画)|PINK]]』の項を参照。
; 騎竜少年(ドラゴンボーイ)
: 『フレッシュジャンプ』1983年8月号、10月号掲載。其之壱15頁、其之弐21頁。
: 古代[[中華人民共和国|中国]]のような世界を舞台とした作品。2作描かれている。当時鳥山がよく[[ジャッキー・チェン]]の映画を見ていたため、鳥嶋に「そんなに見てるなら描いてみたら」と言われ描くことになったカンフー漫画で、「好きで見るのと描くのは違う」ということで鳥山は乗り気ではなかったが、読者からの評判は良かった<ref name="WORLD"/><ref name="aratame">{{Cite book|和書|year=2004-07-05|title=鳥山明○作劇場「改」 其之参|page=30|publisher=集英社|isbn=4081066922}}</ref>。鳥山の妻であるみかみなちが中国好きだったためその資料を参考にしており、背景もみかみが描いている<ref name="WORLD"/>。世間知らずな主人公、我侭なヒロイン、変身能力を持つ生物が登場する点など、後に連載が開始される『[[ドラゴンボール]]』の初期設定と共通している<ref name="WORLD"/>。
: 【ストーリー】 仙(せん)の国で修行を積んだカンフー少年唐童(たんとん)が、華(か)の国の戦から逃亡した姫を祖国に送り帰すために旅をする。
; トンプー大冒険(トンプーだいぼうけん)
: 『週刊少年ジャンプ』1983年52号掲載。45頁。
: 冒険物語。しゃべる太陽や奇妙な恐竜が脇役として現れるなど『Dr.スランプ』のテイストを一部引き継いでいるが、[[カプセルコーポレーション#ホイポイカプセル|ホイポイカプセル]]に酷似した「いろいろカプセル」の登場や後半のバトルシーン、[[ブルマ (ドラゴンボール)|ブルマ]]に性格が酷似したヒロインキャラクター「プラモ」など、後の『ドラゴンボール』に受け継がれる要素も含んでいる<ref name="WORLD"/>。
: 【ストーリー】 宇宙偵察船「プラネット12号」の爆発から逃れた地球のサイボーグ少年トンプーが、休憩のために降り立った星で、地球人の少女プラモと出会う。2人は地球に帰るため、宇宙人の宇宙船を奪おうとする。
; Mr.ホー(ミスター・ホー)
: 『週刊少年ジャンプ』1986年49号掲載。25頁。
: 『ドラゴンボール』連載中に描かれた読切作品。
: 【ストーリー】 戦争が終結したある日ドライブを楽しんでいた北の国出身の元兵士ミスター・ホーは、町の女性に一目ぼれしたところ、車が木に激突し故障。近くの町を訪れたホーは悪事の限りを尽くすチャイ一味の話を聞き、さらわれた女性を救うため一味と戦う。
; 剣之介さま(けんのすけさま)
: 『週刊少年ジャンプ』1987年38号掲載。17頁。
: 詳細は『[[剣之介さま]]』の項を参照。
; SONCHOH(そんちょう)
: 『週刊少年ジャンプ』1988年5号掲載。18頁。
: 鳥山いわく、[[スズキ (企業)|SUZUKI]]の[[スズキ・ジムニー|ジムニー]]が描きたかっただけの話<ref name="aratame"/>。「主役はジムニーで村長はどうでもいいが、おじいさんを描くのは好きだった」とも語っている<ref name="aratame"/>。
: 【ストーリー】 些細な悪事も見逃さないポンポン村の村長・硬岩鉄之進が、空き缶を投げ捨てた男の車を追跡する。
=== VOL.3 ===
1997年8月出版。ISBN 4088720539。VOL.1やVOL.2とは表紙のデザインやロゴは異なっている。
; 豆次郎くん(まめじろうくん)
: 『週刊少年ジャンプ』1988年38号掲載。17頁。
: 田舎の農村を舞台としている作品。『剣之助さま』の続きを描くことになったが、「気に入った作品だからいじりたくない」という理由から作られた<ref name="WORLD"/>。
: 【ストーリー】 わんぱくな6歳の少年・金時豆次郎。元プロレスラーの父親にアイスクリームを取られたことから、グレて不良になる決意をし、都会に住んでいた浄児少年に不良について聞きに行くことにする。
; 空丸くん日本晴れ(からまるくんにほんばれ)
: 『週刊少年ジャンプ』1989年13号掲載。19頁。
: 『剣之介さま』同様、[[江戸時代]]のような時代劇に現代的な要素をミックスした作品。
: 【ストーリー】 山奥で修業を積む少年忍者・空丸が、病気の祖父におつかいを頼まれ松茸を売りに街に出る。そこで自称・忍者の泥棒と出会うのだが、悪党三人組に松茸を奪われてしまう。
; 貯金戦士CASHMAN(ちょきんせんしキャッシュマン)
: 週刊少年ジャンプ増刊『ブイジャンプ』に連載。
: 詳細は『[[貯金戦士キャッシュマン]]』の項を参照。
; DUB&PETER1(ダブとピーター1)
: 『[[Vジャンプ]]』1992年11月12日号から1993年4月4日号まで連載。第1話と第2話が10頁、第3話と第4話が7頁。
: 【ストーリー】 女たらしのダブが相棒のピートに「ウルトラコンピュータ」を積んだ頭脳を持つ車「ピーター1」を作らせ、ナンパに繰り出す。
; GO!GO!ACKMAN(ゴーゴーアックマン)
: 『Vジャンプ』に連載。
: 詳細は『[[GO!GO!ACKMAN]]』の項を参照。
=== 鳥山明○作劇場「改」 ===
SHUEISHA JUMP REMIXレーベルにて発刊された[[コンビニコミック]]。「改」は「あらため」と読む。表紙と収録作品はオリジナルと異なり、『其の弐』では『[[ネコマジン|ネコマジンZ]]』が先行収録されている。
*鳥山明○作劇場「改」 其の壱:2003年6月出版。ISBN 4081064342。
*鳥山明○作劇場「改」 其の弐:2003年7月出版。ISBN 4081064598。
*鳥山明○作劇場「改」 其の参:2004年6月出版。ISBN 4081066922。
=== 鳥山明 満漢全席 ===
『VOL.3』までの収録作品を2冊に再構成した文庫版([[集英社文庫]])。壹にオールカラーで『LADY RED』、貮に『宇宙人ペケ』を追加収録。貮には鳥山の[[2008年]]時のインタビューも追加され、読み切りに対する心境が掲載された。
*鳥山明 満漢全席 壹:2008年8月出版。ISBN 4086187728。
*鳥山明 満漢全席 貮:2008年9月出版。ISBN 4086187736。
; LADY RED(レディー・レッド)
: 『[[スーパージャンプ]]』創刊2号(週刊少年ジャンプ1987年4月10日増刊号)掲載。3頁。
: オールカラーの作品。アメリカン・コミックスのコマ割り・ページ構成を踏襲しているため、読み順が普通の漫画とは左右逆である。[[1993年]]から[[1995年]]にかけて、[[川崎市市民ミュージアム]]をはじめ全国各地で開催されたイラスト展示会「鳥山明の世界」に展示され、その図録に再録された。2008年には『スーパージャンプ』21号の別冊付録にも再録された。<!--鳥山にとっては珍しくアダルトな内容であり、本作品とこれに先立って『スーパージャンプ』創刊号(『週刊少年ジャンプ』1986年[[12月20日]]増刊号)に掲載された[[4コマ漫画]]2本以外、鳥山は青年向けの漫画作品を発表していない。-->
: 【ストーリー】 悪を憎むあまり正義の使者になったレディー・レッドが、挫折を経て[[娼婦|性技の使者]]になるまでを描く。
; 宇宙人ペケ(うちゅうじんペケ)<ref>タイトルロゴでは「エイリアンペケ」と表記されている。</ref>
: 『週刊少年ジャンプ』1996年37・38合併号、39号掲載。前編21頁、後編19頁。
: 【ストーリー】 地球を偵察に来た宇宙人・ハナマール星人のペケは、水が豊富な超A級の星であることを知り有頂天になるが、宇宙船から誤って落ちてしまい、宇宙船が地球のどこかへ飛んでいってしまう。地球で宇宙船を探している最中に地上げに遭っている一家と出会い、そこで用心棒をすることになる。
== 脚注 ==
<references />
{{鳥山明}}
{{デフォルトソート:とりやまあきらまるさくけきしよう}}
[[Category:漫画作品 と|りやまあきらまるさくけきしよう]]
[[Category:1983年の漫画]]
[[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]]
[[Category:フレッシュジャンプ]]
[[Category:スーパージャンプ]]
[[Category:Vジャンプの漫画作品]]
[[Category:鳥山明の漫画作品|まるさくけきしよう]]
[[Category:漫画短編集]]
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11,084 |
位相空間 (物理学)
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物理学における位相空間(いそうくうかん、英: phase space)とは、力学系の位置と運動量を座標(直交軸)とする空間のことである。数学における位相空間(topological space)と区別するために、相空間と呼ぶ流儀もある。
ハミルトン形式においては位置と運動量が力学変数となり、力学変数の関数として表される物理量は位相空間上の関数となる。
1個の質点の運動の状態は、その位置と運動量を指定することで定まる。d-次元空間における運動では、位置と運動量がそれぞれ d 成分あり、合わせて 2d 成分となる。これらを座標とする 2d 次元の空間が位相空間である。1個の質点の運動の状態は位相空間上の1個の点として表現され、これは状態点と呼ばれる。運動方程式に従って位置と運動量は時間変化し、時間の経過とともに状態点は1本の軌跡を描く。
d-次元空間を運動する N 個の質点系の運動の状態は 2d 次元位相空間上の N 個の状態点の分布として表現され、時間とともにその分布が変化する。
質点系は上記の分布による表現だけではなく、N 個の質点の各々の位置と運動量のすべてを座標とする 2Nd-次元の位相空間を考えることができる。質点系の運動の状態はこの 2Nd-次元空間上の1個の状態点として表現され、時間の経過とともに1本の軌跡を描く。前者の 2d-次元の位相空間は μ-空間、後者の 2Nd-次元の位相空間は Γ-空間と呼ばれる。
1次元で粒子が1つなので位相空間は2次元の平面となり、粒子の位置を x、運動量を p とすると、位相空間上の点は (x,p) であらわされる。
ばね定数をk として、ハミルトニアンは
H = 1 2 m p 2 + k 2 x 2 {\displaystyle H={\frac {1}{2m}}p^{2}+{\frac {k}{2}}x^{2}}
であらわされるから、エネルギーが一定の条件下で振動する場合、位相空間での一次元調和振動子の描く軌跡は楕円となる。 異なるエネルギーで振動する振動子の状態点の描く軌跡は同心円状となり交わることはない。
量子力学では、不確定性原理のため位置と運動量を同時に決めることはできないので、量子(粒子に相当)の状態は位相空間上の点の代わりに測定値の確率分布を与える波動関数で表現されることになる。
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物理学における位相空間とは、力学系の位置と運動量を座標(直交軸)とする空間のことである。数学における位相空間と区別するために、相空間と呼ぶ流儀もある。 ハミルトン形式においては位置と運動量が力学変数となり、力学変数の関数として表される物理量は位相空間上の関数となる。 1個の質点の運動の状態は、その位置と運動量を指定することで定まる。d-次元空間における運動では、位置と運動量がそれぞれ d 成分あり、合わせて 2d 成分となる。これらを座標とする 2d 次元の空間が位相空間である。1個の質点の運動の状態は位相空間上の1個の点として表現され、これは状態点と呼ばれる。運動方程式に従って位置と運動量は時間変化し、時間の経過とともに状態点は1本の軌跡を描く。 d-次元空間を運動する N 個の質点系の運動の状態は 2d 次元位相空間上の N 個の状態点の分布として表現され、時間とともにその分布が変化する。 質点系は上記の分布による表現だけではなく、N 個の質点の各々の位置と運動量のすべてを座標とする 2Nd-次元の位相空間を考えることができる。質点系の運動の状態はこの 2Nd-次元空間上の1個の状態点として表現され、時間の経過とともに1本の軌跡を描く。前者の 2d-次元の位相空間は μ-空間、後者の 2Nd-次元の位相空間は Γ-空間と呼ばれる。
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[[File:2D phase space.png|thumb|位相空間]]
[[物理学]]における'''位相空間'''(いそうくうかん、{{lang-en-short|phase space}})とは、力学系の[[位置]]と[[運動量]]を[[座標]](直交軸)とする[[空間]]のことである。数学における[[位相空間]]({{en|topological space}})と区別するために、'''相空間'''と呼ぶ流儀もある。
[[ハミルトン力学|ハミルトン形式]]においては位置と運動量が[[力学変数]]となり、力学変数の関数として表される[[物理量]]は位相空間上の関数となる。
1個の[[質点]]の運動の状態は、その位置と運動量を指定することで定まる。{{mvar|d}}-次元空間における運動では、位置と運動量がそれぞれ {{mvar|d}} 成分あり、合わせて {{math|2{{mvar|d}}}} 成分となる。これらを[[座標]]とする {{math|2{{mvar|d}}}} 次元の空間が位相空間である。1個の質点の運動の状態は位相空間上の1個の点として表現され、これは'''状態点'''と呼ばれる。[[運動方程式]]に従って位置と運動量は時間変化し、時間の経過とともに状態点は1本の軌跡を描く。
{{mvar|d}}-次元空間を運動する {{mvar|N}} 個の質点系の運動の状態は {{math|2{{mvar|d}}}} 次元位相空間上の {{mvar|N}} 個の状態点の分布として表現され、時間とともにその分布が変化する。
質点系は上記の分布による表現だけではなく、{{mvar|N}} 個の質点の各々の位置と運動量のすべてを座標とする {{math|2{{mvar|Nd}}}}-次元の位相空間を考えることができる。質点系の運動の状態はこの {{math|2{{mvar|Nd}}}}-次元空間上の1個の状態点として表現され、時間の経過とともに1本の軌跡を描く。前者の {{math|2{{mvar|d}}}}-次元の位相空間は '''{{mvar|μ}}-空間'''、後者の {{math|2{{mvar|Nd}}}}-次元の位相空間は '''{{mvar|Γ}}-空間'''と呼ばれる。
== 一次元調和振動子の例 ==
1次元で粒子が1つなので位相空間は2次元の平面となり、粒子の位置を {{mvar|x}}、運動量を {{mvar|p}} とすると、位相空間上の点は {{math|({{mvar|x}},{{mvar|p}})}} であらわされる。
ばね定数を{{mvar|k}} として、[[ハミルトニアン]]は
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<math>H = \frac{1}{2m} p^2 +\frac{k}{2} x^2</math>
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であらわされるから、エネルギーが一定の条件下で振動する場合、位相空間での一次元調和振動子の描く軌跡は楕円<ref group="注">2つの軸は位置と運動量で異なる量なので[[扁平率]]は任意に変えられる。</ref>となる。
異なるエネルギーで振動する振動子の状態点の描く軌跡は同心円状となり交わることはない。
[[量子力学]]では、[[不確定性原理]]のため位置と運動量を同時に決めることはできないので、[[量子]](粒子に相当)の状態は位相空間上の点の代わりに測定値の確率分布を与える[[波動関数]]で表現されることになる。
== 脚注 ==
<references group="注"/>
== 関連項目 ==
* [[状態空間 (制御理論)]]
== 外部リンク ==
{{Spedia|Phase_Space|Phase Space}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いそうくうかん}}
[[category:力学]]
[[Category:ハミルトン力学]]
<!-- [[Category:空間]] -->
[[Category:力学系]]
[[Category:統計力学]]
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11,085 |
分析化学
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分析化学(ぶんせきかがく、英: analytical chemistry)とは、試料中の化学成分の種類や存在量を解析したり、解析のための目的物質の分離方法を研究したりする化学の分野である。得られた知見は社会的に医療・食品・環境など、広い分野で利用されている。
試料中の成分判定を主眼とする分析を定性分析(英: qualitative analysis)といい、その行為を同定すると言い表す。また、試料中の特定成分の量あるいは比率の決定を主眼とする分析を定量分析(英: quantitative analysis)といい、その行為を定量すると言い表す。ただし、近年の分析装置においては、どちらの特性も兼ね備えたものが多い。
分析手法により、分離分析(クロマトグラフィー、電気泳動など)、分光分析(UV、IRなど)、電気分析(ボルタンメトリーなど)などの区分がある。
あるいは検出手段の違いにより、滴定分析、重量分析、機器分析と区分する場合もある。ここでいう機器分析とは、分光器など人間の五感では観測できない物理的測定が必要な分析グループに由来する呼称である。現在では重量分析も自動化されて、専ら機器をもちいて分析されているが機器分析とはしない。
分析化学は大学の化学教育において基礎科目の一つであり、環境化学への展開や高度な分析技術の開発などが研究のテーマとなっている。
近代以前、化学と錬金術との差が明瞭でない時代には、外見や味の感覚的情報、密度や硬度、融点など物理的性質、酸やアルカリとの反応性、指示薬による比色分析または沈殿法による比濁分析など、経験的に蓄積された知識によって定性分析が行われていた。
18世紀にアントワーヌ・ラヴォアジエやジョゼフ・プリーストリーらの研究によって、徐々に化学物質の本質的な構成要素である元素が発見された。
19世紀前半にマイケル・ファラデーらによって電気分解の研究が進められ、多くの元素が単体として得られるようになった。19世紀後半にはロベルト・ブンゼンとグスタフ・キルヒホフによって分光法が発展され、スペクトルから化学分析ができるようになった。1849年にはルイ・パスツールが酒石酸の研究からキラリティーを発見した。
19世紀後半から20世紀初頭にかけては、分析化学にとって重要な発見が続けられた時代であった。1895年にヴィルヘルム・レントゲンがX線を、1896年前後にヴィルヘルム・ヴィーンが質量分析法の原理を、1906年にミハイル・ツヴェットがクロマトグラフィーの原理をそれぞれ発見し、これらは分析化学へと応用された。1913年にはブラッグ父子によってX線回折が確立され、結晶構造の分析も盛んになった。
1925年、ルイ・ド・ブロイによって電子の波動性が提唱されると、この考え方に基づいて1931年にエルンスト・ルスカとマックス・クノールによって電子顕微鏡が発明され、現在でも極微構造の観察手法として欠かすことのできない走査型電子顕微鏡や透過型電子顕微鏡へと発達していった。
1938年にはイジドール・イザーク・ラービが核磁気共鳴を発見、フェリックス・ブロッホらによる改良を受けて核磁気共鳴分光法が開発され、有機化学には欠かせない分析法へと発展していった。
1982年には、ゲルト・ビーニッヒらによって走査型トンネル顕微鏡が発明された。これをもとに原子間力顕微鏡をはじめとする多くの走査型プローブ顕微鏡が開発され、今日のナノテクノロジーの隆盛を支える重要技術となっている。
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"title": "歴史"
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分析化学とは、試料中の化学成分の種類や存在量を解析したり、解析のための目的物質の分離方法を研究したりする化学の分野である。得られた知見は社会的に医療・食品・環境など、広い分野で利用されている。 試料中の成分判定を主眼とする分析を定性分析といい、その行為を同定すると言い表す。また、試料中の特定成分の量あるいは比率の決定を主眼とする分析を定量分析といい、その行為を定量すると言い表す。ただし、近年の分析装置においては、どちらの特性も兼ね備えたものが多い。 分析手法により、分離分析(クロマトグラフィー、電気泳動など)、分光分析(UV、IRなど)、電気分析(ボルタンメトリーなど)などの区分がある。 あるいは検出手段の違いにより、滴定分析、重量分析、機器分析と区分する場合もある。ここでいう機器分析とは、分光器など人間の五感では観測できない物理的測定が必要な分析グループに由来する呼称である。現在では重量分析も自動化されて、専ら機器をもちいて分析されているが機器分析とはしない。 分析化学は大学の化学教育において基礎科目の一つであり、環境化学への展開や高度な分析技術の開発などが研究のテーマとなっている。
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[[ファイル:Gas Chromatography Laboratory.jpg|サムネイル|[[ガスクロマトグラフィー]]実験室]]
'''分析化学'''(ぶんせきかがく、{{lang-en-short|analytical chemistry}}<ref name="fund">Skoog, D. A., West, D. M., Holler, F. J., & Crouch, S. R. (2013). Fundamentals of analytical chemistry. Nelson Education.</ref><ref name="mod">Harvey, D. (2000). Modern analytical chemistry (Vol. 1). New York: McGraw-Hill.</ref><ref name="fk">Fifield, F. W., & Kealey, D. (2000). Principles and practice of analytical chemistry. Hoboken: Blackwell Science.</ref>)とは、試料中の化学成分の種類や存在量を解析したり、解析のための目的物質の分離方法を研究したりする[[化学]]の分野である。<ref name="fund"/><ref name="mod"/><ref name="fk"/>得られた知見は社会的に[[医療]]・[[食品]]・[[環境]]など、広い分野で利用されている<ref>James, C. S. (Ed.). (2013). Analytical chemistry of foods. Springer Science & Business Media.</ref><ref>Erickson, M. D. (1997). Analytical chemistry of PCBs. CRC Press.</ref><ref>Crawley, N., Thompson, M., & Romaschin, A. (2014). Theranostics in the growing field of personalized medicine: an analytical chemistry perspective. Analytical chemistry, 86(1), 130-160.</ref><ref>Görög, S. (2003). New safe medicines faster: the role of analytical chemistry. TrAC Trends in Analytical Chemistry, 22(7), 407-415.</ref>。
試料中の成分判定を主眼とする分析を[[定性分析]](英: {{en|qualitative analysis}}<ref>WISMER, R., & PETRUCCI, R. (1987). General chemistry with qualitative analysis. New York: Collier Macmillan.</ref><ref>Moeller, T. (2012). Chemistry: with inorganic qualitative analysis. Elsevier.</ref>)といい、その行為を'''同定する'''と言い表す。また、試料中の特定成分の量あるいは比率の決定を主眼とする分析を[[定量分析]](英: {{en|quantitative analysis}}<ref>Hage, D. S., & Carr, J. D. (2011). Analytical chemistry and quantitative analysis. Boston: Prentice Hall.</ref>)といい、その行為を'''定量する'''と言い表す。ただし、近年の分析装置においては、どちらの特性も兼ね備えたものが多い。
分析手法により、分離分析([[クロマトグラフィー]]、<ref>Smith, I. (Ed.). (2013). Chromatography. Elsevier.</ref><ref>Poole, C. F. (2003). The essence of chromatography. Elsevier.</ref><ref>Poole, C. F., & Poole, S. K. (2012). Chromatography today. Elsevier.</ref>[[電気泳動]]など<ref>Westermeier, R., & Westermeier, R. (2001). Electrophoresis in practice (Vol. 368). Weinheim Germany: Wiley-Vch.</ref>)、[[分光法|分光分析]]([[紫外・可視・近赤外分光法|UV]]、<ref>Siesler, H. W., Ozaki, Y., Kawata, S., & Heise, H. M. (Eds.). (2008). Near-infrared spectroscopy: principles, instruments, applications. John Wiley & Sons.</ref><ref>Ferrari, M., Mottola, L., & Quaresima, V. (2004). Principles, techniques, and limitations of near infrared spectroscopy. Canadian journal of applied physiology, 29(4), 463-487.</ref>[[赤外分光法|IR]]など<ref>Hamm, P., & Zanni, M. (2011). Concepts and methods of 2D infrared spectroscopy. Cambridge University Press.</ref>)、[[電気分析]]([[ボルタンメトリー]]など<ref>Compton, R. G., & Banks, C. E. (2018). Understanding voltammetry. World Scientific.</ref>)などの区分がある。
あるいは検出手段の違いにより、[[滴定分析]]、[[重量分析]]、[[機器分析化学|機器分析]]と区分する場合もある。ここでいう機器分析とは、分光器など人間の[[五感]]では観測できない物理的測定が必要な分析グループに由来する呼称である。現在では重量分析も自動化されて、専ら機器をもちいて分析されているが機器分析とはしない。
分析化学は[[大学]]の化学教育において基礎科目の一つであり<ref>[[愛媛大学]][[理学部]][[化学科]]{{PDFlink|[http://chem.sci.ehime-u.ac.jp/chem_kouhou.pdf]}}(2015).</ref><ref>[[東京工科大学]][[工学部]][[応用化学科]][http://www.teu.ac.jp/gakubu/ac/curriculum2014kamoku.html カリキュラム・学びの流れ](2014).</ref>、[[環境化学]]への展開や高度な分析技術の開発などが研究のテーマとなっている<ref>[[徳島大学]][[大学院]]先端技術科学教育部 物質生命システム工学専攻 分析・[[環境化学]] B-1講座 [http://www.chem.tokushima-u.ac.jp/B1/study.html 古典的分析化学から現在の分析化学へ](2015).</ref>。
== 歴史 ==
近代以前、化学と[[錬金術]]との差が明瞭でない時代には、[[外見]]や[[味]]の感覚的情報、[[密度]]や[[硬度]]、[[融点]]など物理的性質、[[酸]]や[[アルカリ]]との反応性、[[指示薬]]による[[比色分析]]または沈殿法による比濁分析など、経験的に蓄積された知識によって定性分析が行われていた。
18世紀に[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]や[[ジョゼフ・プリーストリー]]らの研究によって、徐々に化学物質の本質的な構成要素である[[元素]]が発見された。
[[ファイル:Bunsen-Kirchhoff.jpg|サムネイル|ロベルト・ブンゼンとグスタフ・キルヒホフ]]
19世紀前半に[[マイケル・ファラデー]]らによって[[電気分解]]の研究が進められ、<ref>Tricker, R. A. R. (2013). The contributions of Faraday and Maxwell to electrical science. Elsevier.</ref>多くの[[元素]]が[[単体]]として得られるようになった。19世紀後半には[[ロベルト・ブンゼン]]と[[グスタフ・キルヒホフ]]によって[[分光法]]が発展され、<ref>HENNIG, J. (2003). Bunsen, Kirchhoff, Steinheil and the Elaboration of Analytical Spectroscopy. Nuncius, 18(2), 741-754.</ref>[[スペクトル]]から化学分析ができるようになった。[[1849年]]には[[ルイ・パスツール]]が[[酒石酸]]の研究から[[キラリティー]]を発見した。<ref>都築洋次郎. (1944). 酒石酸の化學. 有機合成化学協会誌, 2(10), 604-614.</ref><ref>Flack, H. D. (2009). Louis Pasteur's discovery of molecular chirality and spontaneous resolution in 1848, together with a complete review of his crystallographic and chemical work. Acta Crystallographica Section A: Foundations of Crystallography, 65(5), 371-389.</ref><ref>Gal, J. (2008). The discovery of biological enantioselectivity: Louis Pasteur and the fermentation of tartaric acid, 1857—a review and analysis 150 yr later. Chirality: The Pharmacological, Biological, and Chemical Consequences of Molecular Asymmetry, 20(1), 5-19.</ref>
19世紀後半から20世紀初頭にかけては、分析化学にとって重要な発見が続けられた時代であった。[[1895年]]に[[ヴィルヘルム・レントゲン]]が[[X線]]を、<ref>Mould, R. F. (1995). The early history of x-ray diagnosis with emphasis on the contributions of physics 1895-1915. Physics in Medicine & Biology, 40(11), 1741.</ref><ref>Spiegel, P. K. (1995). The first clinical X-ray made in America--100 years. AJR. American journal of roentgenology, 164(1), 241-243.</ref><ref>Glasser, O. (1993). Wilhelm Conrad Röntgen and the early history of the Roentgen rays (No. 1). Norman Publishing.</ref><ref>Glasser, O. (1995). WC Roentgen and the discovery of the Roentgen rays. AJR. American journal of roentgenology, 165(5), 1033-1040.</ref><ref>Spiers, F. W. (1986). A note on Roentgen's X-ray absorption measurements in 1895. The British journal of radiology, 59(707), 1109-1110.</ref>[[1896年]]前後に[[ヴィルヘルム・ヴィーン]]が[[質量分析法]]の原理を、[[1906年]]に[[ミハイル・ツヴェット]]が[[クロマトグラフィー]]の原理をそれぞれ発見し、<ref>Ettre, L. S., & Sakodynskii, K. I. (1993). MS Tswett and the discovery of chromatography I: Early work (1899–1903). Chromatographia, 35(3-4), 223-231.</ref><ref>Ettre, L. S., & Sakodynskii, K. I. (1993). MS Tswett and the discovery of chromatography II: Completion of the development of chromatography (1903–1910). Chromatographia, 35(5-6), 329-338.</ref><ref>Sakodynskii, K. L., & Chmutov, K. (1972). MS Tswett and Chromatography. Chromatographia, 5(8), 471-476.</ref>これらは分析化学へと応用された。[[1913年]]には[[ブラッグ]]父子によって[[X線回折]]が確立され、<ref>Bragg, W. H., & Bragg, W. L. (1913). The reflection of X-rays by crystals. Proceedings of the Royal Society of London. Series A, Containing Papers of a Mathematical and Physical Character, 88(605), 428-438.</ref><ref>Thomas, J. M. (2012). The birth of X-ray crystallography. Nature, 491(7423), 186-187.</ref><ref>Eckert, M. (2012). Disputed discovery: the beginnings of X-ray diffraction in crystals in 1912 and its repercussions. Acta Crystallographica Section A: Foundations of Crystallography, 68(1), 30-39.</ref>結晶構造の分析も盛んになった。
[[1925年]]、[[ルイ・ド・ブロイ]]によって[[電子]]の波動性が提唱されると、この考え方に基づいて[[1931年]]に[[エルンスト・ルスカ]]と[[マックス・クノール]]によって[[電子顕微鏡]]が発明され、<ref>{{Cite book |和書|title=電子顕微鏡の理論と応用 |editor=電子顕微鏡学会 |date =1959 |publisher =[[丸善]] }}</ref><ref>{{Cite book |和書|title=電子顕微鏡技術 |author=外村彰|authorlink=外村彰 |author2=黒田勝広 |date =1989 |publisher =[[丸善雄松堂|丸善]] |isbn=4-621-03395-6 }}</ref><ref>Ruska, E. (1987). The development of the electron microscope and of electron microscopy. Bioscience reports, 7(8), 607-629.</ref>現在でも極微構造の観察手法として欠かすことのできない[[走査型電子顕微鏡]]や[[透過型電子顕微鏡]]へと発達していった<ref>Goldstein, J. (Ed.). (2012). Practical scanning electron microscopy: electron and ion microprobe analysis. Springer Science & Business Media.</ref><ref>Reimer, L. (2013). Transmission electron microscopy: physics of image formation and microanalysis (Vol. 36). Springer.</ref>。
[[1938年]]には[[イジドール・イザーク・ラービ]]が[[核磁気共鳴]]を発見、<ref>Rabi, I. I., Zacharias, J. R., Millman, S., & Kusch, P. (1938). A new method of measuring nuclear magnetic moment. Physical review, 53(4), 318.</ref><ref>藤原鎮男. (1957). 核磁気共鳴の科学への応用. 高分子, 6(6), 302-306.</ref>[[フェリックス・ブロッホ]]らによる改良を受けて[[核磁気共鳴分光法]]が開発され、<ref>Bovey, F. A., Mirau, P. A., & Gutowsky, H. S. (1988). Nuclear magnetic resonance spectroscopy. Elsevier.</ref><ref>Ernst, R. R., Bodenhausen, G., & Wokaun, A. (1987). Principles of nuclear magnetic resonance in one and two dimensions (Vol. 14). Oxford: Clarendon press.</ref>有機化学には欠かせない分析法へと発展していった。
[[1982年]]には、[[ゲルト・ビーニッヒ]]らによって[[走査型トンネル顕微鏡]]が発明された。<ref>Binnig, Gerd, and Heinrich Rohrer. "Scanning tunneling microscope." U.S. Patent No. 4,343,993. 10 Aug. 1982.</ref><ref>Tersoff, J., & Hamann, D. R. (1985). Theory of the scanning tunneling microscope. Physical Review B, 31(2), 805.</ref><ref>小野雅敏, 梶村皓二, 水谷亘, 岡山重夫, 岡野真, 徳本洋志, ... & 村上寛. (1987). 走査型トンネル顕微鏡. 応用物理, 56(9), 1126-1137.</ref><ref>月山陽介. (2020). 走査型トンネル顕微鏡. ぷらすとす, 3(27), 166-168.</ref>これをもとに[[原子間力顕微鏡]]<ref>山田啓文. (1990). 原子間力顕微鏡. 応用物理, 59(2), 191-192.</ref>をはじめとする多くの[[走査型プローブ顕微鏡]]が開発され、<ref>Wiesendanger, R., & Roland, W. (1994). Scanning probe microscopy and spectroscopy: methods and applications. Cambridge University Press.</ref><ref>Meyer, E., Hug, H. J., & Bennewitz, R. (2003). Scanning probe microscopy: the lab on a tip. Springer Science & Business Media.</ref>今日の[[ナノテクノロジー]]の隆盛を支える重要技術となっている。
== 種類 ==
{{Main|Category:分析化学|化学略語一覧}}
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
* [[化学分析技能士]]
* [[日本分析化学会]]
* [[日本分析化学専門学校]]
== 外部リンク ==
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巨人の星
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『巨人の星』(きょじんのほし)は、原作:梶原一騎・作画:川崎のぼるによる日本の漫画作品。本項では、続編である『新巨人の星』についても併せて解説する。
主人公の星飛雄馬は、かつて巨人軍の三塁手だった父・星一徹により幼年時から野球のための英才教育を施される。プロ野球の読売ジャイアンツに入団後、ライバルの花形満や左門豊作やオズマらを相手に大リーグボールを武器に戦う。いわゆるスポ根野球漫画の走りともいえる作品で、連載から半世紀以上経つ現在もスポ根作品の代表格として高い知名度を誇る。
『巨人の星』(通称「左腕編」)は『週刊少年マガジン』にて1966年19号から1971年3号まで連載され、『週刊少年マガジン』連載直後にKC(講談社コミックス)全19巻で刊行された。KCスペシャル版と1995年の文庫版では全11集である。その続編『新巨人の星』は1976年から1979年まで『週刊読売』に連載された。『巨人の星』・『新〜』ともによみうりテレビ系でTVアニメ化され、アニメ映画も7作品が製作されている。2021年8月時点で累計発行部数は630万部を記録している。
左腕編と『新〜』の間の時期を描いた『巨人の星・外伝〜それからの飛雄馬』も読みきりで『週刊少年マガジン』に掲載されており、飛雄馬失踪(5年間)の開始から3年後を扱っている。これは『新〜』の文庫版の巻末に収録されており、1978年掲載で『週刊読売』の『新〜』掲載期間と重なるが、河崎実の著書『巨人の星の謎』では「昭和48年」=1973年であるとしている。
講談社漫画文庫『新巨人の星』で「新魔球の章」と『巨人の星・外伝』を収録した第6巻1996年版では、巻末に『新巨人の星』の初出が『週刊読売』1976年10月2日号 - 1979年4月15日号に掲載、『それからの飛雄馬』は『週刊少年マガジン』1978年2月12日号に掲載とある。
ジェイムズ・P・ホーガン作のSF作品『"Giants Star"』の邦題は、本作との重複を避ける意味から『巨人たちの星』になっている。『巨人の星』が「巨人軍に属する星という名の選手」の意味であれば、英語の人名 Starr は最後の r が2つになるので、『空想英語読本』のマッシュー・ファーゴ(Matthew Fargo)は『Starr Of The Giants』という題名を提案している。しかし、『巨人の星』の英語のタイトルは『Star Of The Giants』が慣用らしく、「巨人軍を象徴する“夜空の星”」または「巨人軍の“スター選手”」という意味になっている。タイトルの『巨人の星』はこれらの全ての意味を兼ねている。
『巨人の星』が連載を始めるまで、野球漫画の決定版と言えば『ちかいの魔球』とされていた。その『ちかいの魔球』を超える野球漫画を、ということで、マガジン編集部が梶原一騎を口説き落とした。
コンセプトは「宮本武蔵の少年版」であり、一人の少年の成長を描いた人間ドラマの中で、野球という舞台が用意されたものだった。当時東京ムービー企画部の今泉俊昭も「花形満が佐々木小次郎、飛雄馬が武蔵、という剣豪ドラマとして製作された」と語っている。
作画担当は梶原の原作執筆後に選定が行われ、「フレッシュな漫画家を」ということで、川崎のぼるが選ばれた。だが、当時野球の知識が無く、また既に何本も連載を抱えており新しい連載を引き受ける余裕もなかった川崎は当初その依頼を拒否する。川崎は何度も懇願されたため逃げ回っていたが、ある日、夜遅くに帰宅したところ家の前で編集部員に待ち伏せされ、そのまま翌朝まで懇願された。結局は根負けし引き受けることとなった のだが、このように説得に時間がかかったためプロ野球の開幕に合わせて4月に予定されていた連載開始は6月に遅れることとなる。川崎の作画により劇中のビジュアルが印象的に描かれ、大リーグボール2号の「高くあげた右足が土ぼこりを舞い立てる」コマを原作担当の梶原は絶賛したという。消える魔球の原理は、川崎のぼるが描く飛雄馬の投球フォームを見た梶原が思いついたものともいわれる。
『新巨人の星』では、絵も一層緻密になり、人気漫画家となった川崎も他の連載をかかえながら作画を再開した。その分、投球や打撃のシーンはよく見ると複数のコマでコピーの流用が多く、コピーされた部分はしばしば、文庫版などで印刷状態が良くない。また、飛雄馬が手に巻いた包帯が途中のコマでなくなっている場面もある。アナウンサーや記者、観客、子供の顔はギャグマンガ風にデフォルメされており、川崎の別作品『てんとう虫の歌』や『いなかっぺ大将』の絵と共通点が見られる。
『巨人の星』末期および『新巨人の星』以降はセリフが非常に長く、かつまわりくどくなっている。また、「なきにしもあらず」「思わんでもなかった」など、二重否定の肯定が頻出する。また、「女にはわからない男の世界」「男の世界のことに明子は口を出すな」などのホモソーシャル的な言い回しが多い。また原作では難しい熟語の言い回しが多く、登場人物のセリフも「この○○にも」などのように一人称として苗字を名乗る場合が多い。
作中、「剛球」では「剛」の文字が使われるが、「豪速球」では「豪」という字が用いられる。アニメ主題歌の歌詞に「剛球燃えろ」とあるように、飛雄馬は当初、「剛球投手」というイメージだったが、辞書では「剛球」は速くて「重い」球という意味で受け取られることが多いらしい。後になって飛雄馬の「球質」が判明するあたりで彼の投げる「軽くて速い球」は「豪速球」または単に「速球」と表現されるようになった。「球質の重い軽い」に関しては今の科学では疑問視されている(詳細は大リーグボールの項参照)。『新巨人の星』で、右腕投手として復帰した飛雄馬の投げる速球は「剛速球」として表現されている。
なお、安恒理(やすつね おさむ)著『「巨人の星」から「ルパン三世」まで"アフターストーリー"全掲載!!』(辰巳出版)に掲載された『巨人の星』の解説では「剛速球」となっている。
1971年、『テレビマガジン』で、磯田和一の作画による漫画を掲載(12月創刊号から翌1972年3月号まで)。1978年には、同誌で井上コオの作画による『新巨人の星』のコミカライズを掲載。翌1979年には秋月研二作画による『新巨人の星II』のコミカライズが『月刊少年マガジン』に掲載された。詳細は巨人の星 (アニメ)参照。
さらに2006年8月9日より『週刊少年マガジン』誌上で、梶原一騎・川崎のぼる原作、村上よしゆき作画で本作のリメイク『新約「巨人の星」花形』が連載を開始、2011年新年号まで連載された。
副題の個所は必ずしも連載当時の区切りと一致しない。冒頭、飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつけ、星一家が最初に描かれた章(アニメ第1話「めざせ栄光の星」に相当)ではサブタイトルがなく、そのあとに「大リーグボール養成ギプス」という最初の副題が出ている。また、有名な火だるまボールのノックは「火だるまボール」の章では描かれず、そこでは飛雄馬と王貞治の対決が描かれ、火だるまボールは「命をかけるねうち」で描かれる。
また、KCからデラックス版、そして文庫になった段階で、1つの副題の話が巻をまたいでいる個所があり、後半が収録された文庫では目次に前巻の最後と同じ副題があるだけで、後半の本編では副題は書かれていない。
『新巨人の星』の場合、「泥濘の章」、「鳴動の章」、「噴煙の章」、「青嵐の章」、「噴火の章」、「不死鳥の章」、「新魔球の章」の7章からなっており、『週刊読売』連載当時、大型の別冊単行本全7冊が出て、講談社コミックス(KC)では全11巻、講談社のデラックス版と漫画文庫で全6巻となっている。漫画文庫の第1巻には星の草野球代打稼業から伴の長嶋邸訪問までの「泥濘の章」と「鳴動の章」の前半、長嶋が星の右投げを見る場面を収録。
長嶋茂雄の巨人軍入団(1958年)に始まり、V9、中断をはさんで第一次長嶋政権の4年目(1978年)の中途、『新巨人の星』として完結した。この時代は、日本が敗戦の混乱期から立ち直り、高度経済成長を経て経済大国を自認し始める頃に当たっている。
東京オリンピック(1964年)を前にした交通整備で、一徹のような日雇い労務者も仕事が急増し、収入が増えたことが描写されている。当時高級品だったTV購入も、いわゆるお坊ちゃま学校だった青雲高校への飛雄馬の入学も、こうした五輪景気の建設ラッシュ期における一徹の昼夜兼行の超人的な働きがなければ不可能だった。なお、インフラ整備や再開発はその後も続き、飛雄馬が生まれ育った長屋も取り壊されている。
登場人物(花形、伴、川上監督夫妻、オズマ)たちが海外に出かける、あるいは戻る場面では、舞台は羽田空港。乗客は建物から徒歩で飛行機に向かい、タラップを使って乗降していた。機材もDC-8と思しきナローボディ機材だった。国内線での移動も多々あるが、ボーイング727は登場しない。
主要登場人物の中では、星一徹、川上哲治、水原茂らが太平洋戦争への従軍を経験している。アニメ版オリジナルストーリーで水原のシベリア抑留時代の強制労働体験、沢村栄治、吉原正喜など戦没野球選手の逸話も描かれた。一方、主人公飛雄馬は、台湾の日本統治時代を知らないか、知識としては知っていても現地で日本語が通じることには驚いてしまう世代になる。劇中で中国(中華民国)側が飛雄馬たちを歓迎する文字「歓(歡)迎」「棒球団(團)」などは、戦後日本の当用(常用)漢字だった。一部の巨人選手は中華民国側の歓迎の印だった爆竹に驚いて、川上監督から説明を受けていた。台湾キャンプ当時(1968年)は中国本土との国交回復(1972年)の前。
速水はメキシコオリンピック(1968年)の陸上競技で代表候補だった。なお、速水のキャラクター造形の参考にされたと推測される飯島秀雄もやはりメキシコオリンピックの代表選手である。
星飛雄馬が左腕投手として巨人に入団した1967年当時、現在の東京ヤクルトスワローズがサンケイアトムズ、横浜DeNAベイスターズが大洋ホエールズ、オリックス・バファローズが阪急ブレーブスと近鉄バファローズ、北海道日本ハムファイターズが東映フライヤーズ、福岡ソフトバンクホークスが南海ホークス、千葉ロッテマリーンズは東京オリオンズ(物語後半でロッテオリオンズ)、埼玉西武ライオンズが西鉄ライオンズだった。また、東北楽天ゴールデンイーグルスは2005年新規参入のため当時存在していなかった。
原作では飛雄馬が青雲の面接を受け伴宙太と逢った場面(初期講談社コミックスKC2巻、文庫1巻)で、伴宙太の「なぜだまっとる、お前はおし(唖)か」の「おしか」が省かれ、飛雄馬の「だからおしになった」が「だからだまっていた」になっている。また飛雄馬が長屋で伴に「自分を投げろ」と言った場面では「かたわになってもかまわん」が「大けがをしてもかまわん」になっている。
大リーグボールがオズマに打たれた後のオールスター(KC14巻、文庫8巻)で客からの左門への罵声の「百姓」が省かれ、「熊本に帰ってこえたごかついでろ」が「派手にプレーしてみろ」に、伴移籍の後のキャンプで長嶋が言った飛雄馬への助言(KC16巻、文庫10巻)で「めくら蛇におじず」が使われていたが、この諺が省かれ、セリフも大幅に書き換えられた。アニメでのセリフの変更は、アニメ版の項目参照。
1967年末、花形の打撃練習を見た記者団の1人が「下手な記事など無用ノ介!」と言っている。この『無用ノ介』は当時、さいとう・たかをが『週刊少年マガジン』に連載していた時代漫画のタイトル。
1969年の初め、飛雄馬が橘ルミ、続いて日高美奈と出逢った辺りで、一徹と飛雄馬が当時を形容した「昭和元禄」という言葉を使っている。飛雄馬が参加したボウリング大会の司会が大橋巨泉。
同年、飛雄馬が大リーグボール1号で中日のオズマと対決した場面で、観客が「男なら投げてみな、大リーグボール!」と叫んだ。
1969年の月面着陸に、飛雄馬は自身の挑戦精神を重ね合わせている。
1969年末〜1970年初頭の伴トレードの時期には、登場人物の台詞で「アッと驚くタメゴロー」が出た。
1970年、消える魔球を打たれて勝手に帰宅した飛雄馬がテレビをつけ、野球中継からチャンネルを変えると藤圭子が「圭子の夢は夜開く」を歌っていた。
同年、大リーグボール3号を開発した飛雄馬が文字通り巨人のスターとなっていた当時、『スター千一夜』で当時の有名人と対談(司会者は石坂浩二、共演者は藤圭子と沢村忠)、作中のマスコミ関係者が引田天功や吉沢京子と飛雄馬の対談を希望する場面もある。吉沢京子は当時、梶原一騎原作の『柔道一直線』に出演中だった。
連載初期にはテレビは相当な高級品として描かれていた。星家の家計の逼迫さが誇張して描かれていたためもあるが、花形や伴ら富裕層の自宅にも複数台のテレビがあった描写はない。星家のテレビ購入により一挙に親密になった長屋の住人達は、それ以降も星家を訪れ、ブラウン管を通して飛雄馬を応援した。夏には明子がスイカをふるまったりするなど、星家はいつの間にかコミュニティの核となっていった。
ビデオが登場するのは『新〜』の時代からで、花形が大リーグボール1号を本塁打した際、ビデオのスロー再生を行うに際して「分解写真」という言葉が使われている。
原作では左門も花形も飛雄馬攻略にコンピュータを駆使することはついになかった。アニメの花形は親の会社の研究班に頼んで、飛雄馬の大リーグボール3号の投球フォームを分析させ、同じ魔球を投げるピッチングマシンを作らせている。花形はさらに、アニメ『新・巨人の星』でヤクルトに入団した直後、コンピュータを使っていた。
後の野球漫画で必ずといって良いほど登場するスピードガンも当時実用に耐えるものはなく、飛雄馬の球速が具体的に示されることはなかった。作品でボールの速度が数字で示されたのは、一徹が花形のノックアウト打法について飛雄馬に説明した際、テニスと野球の球速を比較した場面くらいだった。
劇中で星飛雄馬の投球する姿を映した動画が出てくるが、大きなフィルムを使い、旧式の映写機(家庭用の8ミリフィルムタイプと推測される)で暗い部屋で見るタイプだった。アニメ『新・巨人の星』で左門は「右投手飛雄馬」の攻略のために8ミリフィルムを使用したが、その再生の際、通常の映写方向だけでなく、反対側にも画像が出てしまっていた。このとき、劇中画面では左で投げる「右投手飛雄馬」の様子が出ていた。
牧場の担当編集者が病院(診療所)で飛雄馬の「破滅」の秘密を録音したテープレコーダーも古い大型のオープンリールだった。
ストーリー展開上の演出のためもあるが、1969年末または1970年初頭の村山実の自宅では火鉢が使われていた。
星一家が住んでいた長屋(東京・町屋)の家には固定電話もなく、周囲の店の電話を経由するなど、不便な様子だった。一徹が球場に電話して飛雄馬にアドバイスしようとしたときも、電話のあるらしいラーメン屋まで走るが間に合わず、飛雄馬は左門に本塁打を打たれてしまう。9連勝の際、新聞記者が見出しにすると口にした「輝き渡る巨人の星」に感動した飛雄馬がその喜びを伝えようと、遠征先から寿司を注文してついでに折り返し電話するように伝えて欲しいと依頼する。近所の公衆電話(タバコ屋らしい)から折り返すが、かなりの長話となり、十円玉が何枚必要だったかは不明。飛雄馬と明子はマンションに引っ越して初めて「自宅に電話のある生活」を経験する。原作で飛雄馬のマンションの部屋に電話がかかってきたのは川上監督からと京子から。
ただし、星一家の過ごした長屋が作中で取り壊されたとき(「青春のぬけがら」KC18巻、文庫11巻)、その工事現場のすぐそばに電話ボックスがあった。
旧作の頃(1968年)台湾キャンプで四苦八苦していた飛雄馬も『新』の末頃(1978年初頭)には自費でハワイへ自主トレに出かけるくらいになっていたほど、この10年間で海外旅行は日本人にとって身近なものになっていた。
『新巨人の星』の登場人物を含め、本作に登場する主な登場人物を挙げる。 なお、イタリアに輸出放映されたアニメ版"Tommy, la stella dei Giants"シリーズにおける登場人物名は、現地の視聴者の理解のため星飛雄馬がトミー・ヤング、一徹はアーサー、花形はアレクサンダー・ミッチェル、左門はサイモン・ホールデン、伴はチャーリー・ベン(『チャーリー・レッド』説もあり)などと置き換えられている。
主人公星飛雄馬の駆使する一連の魔球。詳細は大リーグボールを参照。ここでは簡略化した記述にとどめる。
文筆家で漫画家でもある夏目房之介は、自著『消えた魔球』(双葉社)の中で本作と『ちかいの魔球』(原作:福本和也・作画:ちばてつや)との類似点を指摘している。
『ちかいの魔球』の主人公が最初に投げた魔球は、ボールの後ろの空気の渦でボールが一瞬引き戻され、バッターの間合いを崩してしまうというもの。次いで生まれた魔球は、ボールの残像により、ボールが4つに分身して見えるというもの。3つめの魔球は、主人公が足を高く上げて投球すると、なぜかバッターの前でボールが消えてしまうというもの。大リーグボール1〜3号の内容によく似ている。『ちかいの魔球』作中では変化のメカニズムの説明はなく、夏目は、大リーグボール2号は『ちかいの魔球』の消える魔球を理論的に説明したもの、と評している。
こういった魔球の内容に加え、主人公がジャイアンツ所属の左投げ投手である点、主人公が魔球の開発にばかり執心な点、クライマックスで完全試合達成のために魔球を投げすぎて倒れる点、ライバルのバッターがタイガース所属で長髪が特徴な点など、両作品の内容が非常に似通っていることを指摘。『ちかいの魔球』(1961年 - 1962年)と『巨人の星』(1966年スタート)の両方をリアルタイムで読んでいたことを踏まえ、「はっきりいって『巨人の星』は『ちかいの魔球』のいただきです」と述べている。当時の夏目は『巨人の星』が『ちかいの魔球』の「いただき」(パクリ)であることに気づいていたため、『巨人の星』に対し良い感情を持っていなかったという。
その一方で夏目は、『ちかいの魔球』にない「梶原一騎的」な部分こそが『巨人の星』の名作たる所以と本作の価値も認めている。
なお、『週刊少年マガジン』の元編集長である宮原照夫は自著『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』の中で自分が『ちかいの魔球』と『巨人の星』の企画者で、漫画家・原作者のプロデュースも行ったと書いており、両作に共通点があるのは担当者が同一だからとも考えられる。
梶原一騎原作のスポ根漫画の特色として、特訓が挙げられる。とりわけ、『あしたのジョー』と並んでスポ根漫画の代名詞的作品である本作は、作中に特訓という要素を組み入れる手法によって連続する対決のマンネリ化を打破し、長期に渡るストーリー展開でも持続性と緊張感を維持した。
この手法は、
となり、「次の展開」からまた「特訓」に戻るという勝負の循環サイクルとなっている。これによって、主人公(飛雄馬)とライバル(花形・左門)との連続する対決も、互いに特訓を繰り返すことで切磋琢磨し、緊張感の維持を可能にした。また、「次の展開」の場面で新たな強敵(オズマ)を登場させることによって、対決のステージをさらにレベルアップさせることも可能とした。
柳田理科雄が指摘しているように、普通の練習が目標に向かってレベルを上げるのと違い、本作に限らずスポーツ漫画の特訓は最初から本番以上の負荷をかけ、しかもスポーツジムや球場などだけでなく冬山や原生林、海、工場などが舞台になることが多い。
星飛雄馬が最初に雪山にこもったのは長嶋茂雄の前例に倣ったものらしい。大リーグボール1号開発の特訓は、ボクシングジム→剣道場→射撃訓練場→野球の練習場→川に浮かぶ小舟の上となり、消える魔球は終始一貫してグラウンドでの投球練習。3号は原作ではグラウンドでの投球だけだが、アニメでは一時、無断で失踪して竹やぶで投球練習している。
花形は1号打倒が自動車部品工場での特訓で、消える魔球に対する特訓は雪山だった。蜃気楼の魔球を打つためにグラウンドで3つの球のうち、黒く塗ったものを叩く特訓をしたが、これはマスコミに非公開だった。
左門が飛雄馬の速球を打つためにやった「グラウンドで投手の位置を前にずらして打撃練習」は花形にもヒントを与えた。その後、消える魔球を打つ練習は冬の九十九里浜で行った。アニメでは3号打倒のため、弟・妹の協力で花形の鉄球・鉄バット特訓に近い訓練をしている。オズマが1号を打つための「ギプス装着3連打」と、伴が2号を打つための「サッカーボール打ち」は普通のグラウンド。
星飛雄馬が1号を改良するためにやった特訓のうち、「川面に浮かぶ舟の上」、「霧の中」、「釣り糸につるして揺らした硬貨の的」は単に「悪条件」に入るもので、飛雄馬と伴はこの「悪条件」だけのために門限破りをし、日本シリーズ前半から外された。特訓の目的は「グリップヘッドを狙う」ためで、「的が小さいから制球力を磨く」のが目標である。飛雄馬はこれを事前に球団首脳に説明せず、特訓もグラウンドでしなかった。
特訓の「負荷」と「場所」の特殊さのために、星飛雄馬は勝手に行方不明となり、花形もスランプになって一度はメンバーから外れている。勝手な挫折から特訓まで、左腕時代の星飛雄馬は思慮の足りなさと勝手な判断による規則違反、勝手な失踪がついてまわる男だった。飛雄馬が「破滅と引き換えの一瞬の栄光」にこだわる余り、プロ入り3年で10代の内に引退し短命投手として終わっている。だがそれも右腕投手として復帰したときは少し是正されていた。
アニメ化される1年前の1967年7月20日、キングレコードからLPレコード『少年マガジン マンガ大行進』(規格品番:SKK(H)-354)が発売、当時『週刊少年マガジン』に連載されている漫画のイメージソングを集めたレコードで、本作もアニメ主題歌とは異なる、次の楽曲が収録された。
この楽曲は、石川進の「天才バカボン」とのカップリングでシングルカット(規格品番:BS-722)され、10万枚を売り上げた ほか、『巨人の星』DVD-BOX2の特典CDに収録されている。
『巨人の星』、『新・巨人の星』、『新・巨人の星II』としてTVアニメ化され、毎週土曜日の19時から19時30分までの30分番組として日本テレビ系列で全国放送された。また、2002年10月には花形満の視点でテレビアニメ『巨人の星』全182話を再構成した『巨人の星【特別篇】 猛虎 花形満』がWOWOWで放送され、2007年4月から日テレプラス&サイエンス(現・日テレプラス)で、星一徹の視点で上記3シリーズを再構成した『巨人の星【特別篇】 父 一徹』が放送された。
1969年7月21日から8月29日まで、芸術座で「東宝みどりの会第一回公演」として上演された。
(『芸術座 25年のあゆみ』東宝、1984)による)
歌舞伎評論家で、当時東宝の演劇部に勤めていた渡辺保は、『私の歌舞伎遍歴』(演劇出版社、2012)で、菊田一夫の下でこの仕事にたずさわったと書いている。
2012年12月から、インドの放送チャンネル「カラーズ」で、本作をベースにしたアニメ『スーラジ ザ・ライジングスター』 が放映された。インドで作られることになったのは、急速に経済成長を遂げ、原典及びアニメが作られた日本の高度経済成長期に近しい国内情勢となっており、本作のような「スポ根もの」が当たる可能性を見出したため、とされる。また、現地に進出している日本車や日本の家電メーカーの看板が劇中に登場するなど、日本製品のPRとしての側面もあり、スズキ自動車や日清食品などインドに進出している企業のスポンサーだけでなく、経済産業省も支援を行っている。
リメイク版は当初からインドで放送することを念頭に置いたため
など現地に合わせて設定を変更しているが、「元選手の父から、主人公が猛特訓を受ける」というストーリーラインや「裕福で才能のある美男子のライバル」「魔球」「養成ギプス」「ちゃぶ台 返し」などの特徴的な要素が再現されている。
インドでの放送に先駆けて、2012年11月26日、日本のバラエティ番組『世界まる見え! テレビ特捜部』で、本作の一部映像が放送された。
NHKラジオの特別番組「あざやかにスポーツシーン」内で放送された。いまだ現役の飛雄馬がオールスターでイチローと対戦する内容。古谷徹、加藤精三らが声優を務めた。「こひゅうま」と一徹が呼ぶ、飛雄馬の子供が登場するが、花形や左門は登場しない。
パチンコ・パチスロシミュレーターアプリの配信も携帯電話端末向けにはされている。
NTT番号情報株式会社が運営するiタウンページのプロモーションキャラクター(2010年)として、星一徹を宣伝大使とした「巨人の星」の登場キャラクターを使用している。また、プロモーション用の特設サイトを用意、巨人の星の原画をもとに、星飛雄馬、花形満、左門豊作、伴宙太、星明子等、各登場キャラクターが困ったときに、一徹が「iタウンページで検索じゃ!」とiタウンページで検索することを強烈に勧めるオリジナルコミックをパソコンおよび携帯電話上で展開している(全50話)。また期間限定で同じく原画をもとにしたオリジナルテレビCMも全国で放映している。
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"text": "『巨人の星』(きょじんのほし)は、原作:梶原一騎・作画:川崎のぼるによる日本の漫画作品。本項では、続編である『新巨人の星』についても併せて解説する。",
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"text": "主人公の星飛雄馬は、かつて巨人軍の三塁手だった父・星一徹により幼年時から野球のための英才教育を施される。プロ野球の読売ジャイアンツに入団後、ライバルの花形満や左門豊作やオズマらを相手に大リーグボールを武器に戦う。いわゆるスポ根野球漫画の走りともいえる作品で、連載から半世紀以上経つ現在もスポ根作品の代表格として高い知名度を誇る。",
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"text": "『巨人の星』(通称「左腕編」)は『週刊少年マガジン』にて1966年19号から1971年3号まで連載され、『週刊少年マガジン』連載直後にKC(講談社コミックス)全19巻で刊行された。KCスペシャル版と1995年の文庫版では全11集である。その続編『新巨人の星』は1976年から1979年まで『週刊読売』に連載された。『巨人の星』・『新〜』ともによみうりテレビ系でTVアニメ化され、アニメ映画も7作品が製作されている。2021年8月時点で累計発行部数は630万部を記録している。",
"title": "概要"
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"text": "左腕編と『新〜』の間の時期を描いた『巨人の星・外伝〜それからの飛雄馬』も読みきりで『週刊少年マガジン』に掲載されており、飛雄馬失踪(5年間)の開始から3年後を扱っている。これは『新〜』の文庫版の巻末に収録されており、1978年掲載で『週刊読売』の『新〜』掲載期間と重なるが、河崎実の著書『巨人の星の謎』では「昭和48年」=1973年であるとしている。",
"title": "概要"
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"text": "講談社漫画文庫『新巨人の星』で「新魔球の章」と『巨人の星・外伝』を収録した第6巻1996年版では、巻末に『新巨人の星』の初出が『週刊読売』1976年10月2日号 - 1979年4月15日号に掲載、『それからの飛雄馬』は『週刊少年マガジン』1978年2月12日号に掲載とある。",
"title": "概要"
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"text": "ジェイムズ・P・ホーガン作のSF作品『\"Giants Star\"』の邦題は、本作との重複を避ける意味から『巨人たちの星』になっている。『巨人の星』が「巨人軍に属する星という名の選手」の意味であれば、英語の人名 Starr は最後の r が2つになるので、『空想英語読本』のマッシュー・ファーゴ(Matthew Fargo)は『Starr Of The Giants』という題名を提案している。しかし、『巨人の星』の英語のタイトルは『Star Of The Giants』が慣用らしく、「巨人軍を象徴する“夜空の星”」または「巨人軍の“スター選手”」という意味になっている。タイトルの『巨人の星』はこれらの全ての意味を兼ねている。",
"title": "概要"
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"text": "『巨人の星』が連載を始めるまで、野球漫画の決定版と言えば『ちかいの魔球』とされていた。その『ちかいの魔球』を超える野球漫画を、ということで、マガジン編集部が梶原一騎を口説き落とした。",
"title": "作品解説"
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"text": "コンセプトは「宮本武蔵の少年版」であり、一人の少年の成長を描いた人間ドラマの中で、野球という舞台が用意されたものだった。当時東京ムービー企画部の今泉俊昭も「花形満が佐々木小次郎、飛雄馬が武蔵、という剣豪ドラマとして製作された」と語っている。",
"title": "作品解説"
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"text": "作画担当は梶原の原作執筆後に選定が行われ、「フレッシュな漫画家を」ということで、川崎のぼるが選ばれた。だが、当時野球の知識が無く、また既に何本も連載を抱えており新しい連載を引き受ける余裕もなかった川崎は当初その依頼を拒否する。川崎は何度も懇願されたため逃げ回っていたが、ある日、夜遅くに帰宅したところ家の前で編集部員に待ち伏せされ、そのまま翌朝まで懇願された。結局は根負けし引き受けることとなった のだが、このように説得に時間がかかったためプロ野球の開幕に合わせて4月に予定されていた連載開始は6月に遅れることとなる。川崎の作画により劇中のビジュアルが印象的に描かれ、大リーグボール2号の「高くあげた右足が土ぼこりを舞い立てる」コマを原作担当の梶原は絶賛したという。消える魔球の原理は、川崎のぼるが描く飛雄馬の投球フォームを見た梶原が思いついたものともいわれる。",
"title": "作品解説"
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"text": "『新巨人の星』では、絵も一層緻密になり、人気漫画家となった川崎も他の連載をかかえながら作画を再開した。その分、投球や打撃のシーンはよく見ると複数のコマでコピーの流用が多く、コピーされた部分はしばしば、文庫版などで印刷状態が良くない。また、飛雄馬が手に巻いた包帯が途中のコマでなくなっている場面もある。アナウンサーや記者、観客、子供の顔はギャグマンガ風にデフォルメされており、川崎の別作品『てんとう虫の歌』や『いなかっぺ大将』の絵と共通点が見られる。",
"title": "作品解説"
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"text": "『巨人の星』末期および『新巨人の星』以降はセリフが非常に長く、かつまわりくどくなっている。また、「なきにしもあらず」「思わんでもなかった」など、二重否定の肯定が頻出する。また、「女にはわからない男の世界」「男の世界のことに明子は口を出すな」などのホモソーシャル的な言い回しが多い。また原作では難しい熟語の言い回しが多く、登場人物のセリフも「この○○にも」などのように一人称として苗字を名乗る場合が多い。",
"title": "作品解説"
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"text": "作中、「剛球」では「剛」の文字が使われるが、「豪速球」では「豪」という字が用いられる。アニメ主題歌の歌詞に「剛球燃えろ」とあるように、飛雄馬は当初、「剛球投手」というイメージだったが、辞書では「剛球」は速くて「重い」球という意味で受け取られることが多いらしい。後になって飛雄馬の「球質」が判明するあたりで彼の投げる「軽くて速い球」は「豪速球」または単に「速球」と表現されるようになった。「球質の重い軽い」に関しては今の科学では疑問視されている(詳細は大リーグボールの項参照)。『新巨人の星』で、右腕投手として復帰した飛雄馬の投げる速球は「剛速球」として表現されている。",
"title": "作品解説"
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"text": "なお、安恒理(やすつね おさむ)著『「巨人の星」から「ルパン三世」まで\"アフターストーリー\"全掲載!!』(辰巳出版)に掲載された『巨人の星』の解説では「剛速球」となっている。",
"title": "作品解説"
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"text": "1971年、『テレビマガジン』で、磯田和一の作画による漫画を掲載(12月創刊号から翌1972年3月号まで)。1978年には、同誌で井上コオの作画による『新巨人の星』のコミカライズを掲載。翌1979年には秋月研二作画による『新巨人の星II』のコミカライズが『月刊少年マガジン』に掲載された。詳細は巨人の星 (アニメ)参照。",
"title": "作品解説"
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"text": "さらに2006年8月9日より『週刊少年マガジン』誌上で、梶原一騎・川崎のぼる原作、村上よしゆき作画で本作のリメイク『新約「巨人の星」花形』が連載を開始、2011年新年号まで連載された。",
"title": "作品解説"
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"text": "副題の個所は必ずしも連載当時の区切りと一致しない。冒頭、飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつけ、星一家が最初に描かれた章(アニメ第1話「めざせ栄光の星」に相当)ではサブタイトルがなく、そのあとに「大リーグボール養成ギプス」という最初の副題が出ている。また、有名な火だるまボールのノックは「火だるまボール」の章では描かれず、そこでは飛雄馬と王貞治の対決が描かれ、火だるまボールは「命をかけるねうち」で描かれる。",
"title": "左腕編の旧単行本と文庫の関係"
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"text": "また、KCからデラックス版、そして文庫になった段階で、1つの副題の話が巻をまたいでいる個所があり、後半が収録された文庫では目次に前巻の最後と同じ副題があるだけで、後半の本編では副題は書かれていない。",
"title": "左腕編の旧単行本と文庫の関係"
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"text": "『新巨人の星』の場合、「泥濘の章」、「鳴動の章」、「噴煙の章」、「青嵐の章」、「噴火の章」、「不死鳥の章」、「新魔球の章」の7章からなっており、『週刊読売』連載当時、大型の別冊単行本全7冊が出て、講談社コミックス(KC)では全11巻、講談社のデラックス版と漫画文庫で全6巻となっている。漫画文庫の第1巻には星の草野球代打稼業から伴の長嶋邸訪問までの「泥濘の章」と「鳴動の章」の前半、長嶋が星の右投げを見る場面を収録。",
"title": "左腕編の旧単行本と文庫の関係"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "長嶋茂雄の巨人軍入団(1958年)に始まり、V9、中断をはさんで第一次長嶋政権の4年目(1978年)の中途、『新巨人の星』として完結した。この時代は、日本が敗戦の混乱期から立ち直り、高度経済成長を経て経済大国を自認し始める頃に当たっている。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "東京オリンピック(1964年)を前にした交通整備で、一徹のような日雇い労務者も仕事が急増し、収入が増えたことが描写されている。当時高級品だったTV購入も、いわゆるお坊ちゃま学校だった青雲高校への飛雄馬の入学も、こうした五輪景気の建設ラッシュ期における一徹の昼夜兼行の超人的な働きがなければ不可能だった。なお、インフラ整備や再開発はその後も続き、飛雄馬が生まれ育った長屋も取り壊されている。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "登場人物(花形、伴、川上監督夫妻、オズマ)たちが海外に出かける、あるいは戻る場面では、舞台は羽田空港。乗客は建物から徒歩で飛行機に向かい、タラップを使って乗降していた。機材もDC-8と思しきナローボディ機材だった。国内線での移動も多々あるが、ボーイング727は登場しない。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "主要登場人物の中では、星一徹、川上哲治、水原茂らが太平洋戦争への従軍を経験している。アニメ版オリジナルストーリーで水原のシベリア抑留時代の強制労働体験、沢村栄治、吉原正喜など戦没野球選手の逸話も描かれた。一方、主人公飛雄馬は、台湾の日本統治時代を知らないか、知識としては知っていても現地で日本語が通じることには驚いてしまう世代になる。劇中で中国(中華民国)側が飛雄馬たちを歓迎する文字「歓(歡)迎」「棒球団(團)」などは、戦後日本の当用(常用)漢字だった。一部の巨人選手は中華民国側の歓迎の印だった爆竹に驚いて、川上監督から説明を受けていた。台湾キャンプ当時(1968年)は中国本土との国交回復(1972年)の前。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "速水はメキシコオリンピック(1968年)の陸上競技で代表候補だった。なお、速水のキャラクター造形の参考にされたと推測される飯島秀雄もやはりメキシコオリンピックの代表選手である。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "星飛雄馬が左腕投手として巨人に入団した1967年当時、現在の東京ヤクルトスワローズがサンケイアトムズ、横浜DeNAベイスターズが大洋ホエールズ、オリックス・バファローズが阪急ブレーブスと近鉄バファローズ、北海道日本ハムファイターズが東映フライヤーズ、福岡ソフトバンクホークスが南海ホークス、千葉ロッテマリーンズは東京オリオンズ(物語後半でロッテオリオンズ)、埼玉西武ライオンズが西鉄ライオンズだった。また、東北楽天ゴールデンイーグルスは2005年新規参入のため当時存在していなかった。",
"title": "時代背景"
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"text": "原作では飛雄馬が青雲の面接を受け伴宙太と逢った場面(初期講談社コミックスKC2巻、文庫1巻)で、伴宙太の「なぜだまっとる、お前はおし(唖)か」の「おしか」が省かれ、飛雄馬の「だからおしになった」が「だからだまっていた」になっている。また飛雄馬が長屋で伴に「自分を投げろ」と言った場面では「かたわになってもかまわん」が「大けがをしてもかまわん」になっている。",
"title": "時代背景"
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"text": "大リーグボールがオズマに打たれた後のオールスター(KC14巻、文庫8巻)で客からの左門への罵声の「百姓」が省かれ、「熊本に帰ってこえたごかついでろ」が「派手にプレーしてみろ」に、伴移籍の後のキャンプで長嶋が言った飛雄馬への助言(KC16巻、文庫10巻)で「めくら蛇におじず」が使われていたが、この諺が省かれ、セリフも大幅に書き換えられた。アニメでのセリフの変更は、アニメ版の項目参照。",
"title": "時代背景"
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"text": "1967年末、花形の打撃練習を見た記者団の1人が「下手な記事など無用ノ介!」と言っている。この『無用ノ介』は当時、さいとう・たかをが『週刊少年マガジン』に連載していた時代漫画のタイトル。",
"title": "時代背景"
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"text": "1969年の初め、飛雄馬が橘ルミ、続いて日高美奈と出逢った辺りで、一徹と飛雄馬が当時を形容した「昭和元禄」という言葉を使っている。飛雄馬が参加したボウリング大会の司会が大橋巨泉。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "同年、飛雄馬が大リーグボール1号で中日のオズマと対決した場面で、観客が「男なら投げてみな、大リーグボール!」と叫んだ。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1969年の月面着陸に、飛雄馬は自身の挑戦精神を重ね合わせている。",
"title": "時代背景"
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"text": "1969年末〜1970年初頭の伴トレードの時期には、登場人物の台詞で「アッと驚くタメゴロー」が出た。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "1970年、消える魔球を打たれて勝手に帰宅した飛雄馬がテレビをつけ、野球中継からチャンネルを変えると藤圭子が「圭子の夢は夜開く」を歌っていた。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "同年、大リーグボール3号を開発した飛雄馬が文字通り巨人のスターとなっていた当時、『スター千一夜』で当時の有名人と対談(司会者は石坂浩二、共演者は藤圭子と沢村忠)、作中のマスコミ関係者が引田天功や吉沢京子と飛雄馬の対談を希望する場面もある。吉沢京子は当時、梶原一騎原作の『柔道一直線』に出演中だった。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "連載初期にはテレビは相当な高級品として描かれていた。星家の家計の逼迫さが誇張して描かれていたためもあるが、花形や伴ら富裕層の自宅にも複数台のテレビがあった描写はない。星家のテレビ購入により一挙に親密になった長屋の住人達は、それ以降も星家を訪れ、ブラウン管を通して飛雄馬を応援した。夏には明子がスイカをふるまったりするなど、星家はいつの間にかコミュニティの核となっていった。",
"title": "時代背景"
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"text": "ビデオが登場するのは『新〜』の時代からで、花形が大リーグボール1号を本塁打した際、ビデオのスロー再生を行うに際して「分解写真」という言葉が使われている。",
"title": "時代背景"
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"text": "原作では左門も花形も飛雄馬攻略にコンピュータを駆使することはついになかった。アニメの花形は親の会社の研究班に頼んで、飛雄馬の大リーグボール3号の投球フォームを分析させ、同じ魔球を投げるピッチングマシンを作らせている。花形はさらに、アニメ『新・巨人の星』でヤクルトに入団した直後、コンピュータを使っていた。",
"title": "時代背景"
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"text": "後の野球漫画で必ずといって良いほど登場するスピードガンも当時実用に耐えるものはなく、飛雄馬の球速が具体的に示されることはなかった。作品でボールの速度が数字で示されたのは、一徹が花形のノックアウト打法について飛雄馬に説明した際、テニスと野球の球速を比較した場面くらいだった。",
"title": "時代背景"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "劇中で星飛雄馬の投球する姿を映した動画が出てくるが、大きなフィルムを使い、旧式の映写機(家庭用の8ミリフィルムタイプと推測される)で暗い部屋で見るタイプだった。アニメ『新・巨人の星』で左門は「右投手飛雄馬」の攻略のために8ミリフィルムを使用したが、その再生の際、通常の映写方向だけでなく、反対側にも画像が出てしまっていた。このとき、劇中画面では左で投げる「右投手飛雄馬」の様子が出ていた。",
"title": "時代背景"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "牧場の担当編集者が病院(診療所)で飛雄馬の「破滅」の秘密を録音したテープレコーダーも古い大型のオープンリールだった。",
"title": "時代背景"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ストーリー展開上の演出のためもあるが、1969年末または1970年初頭の村山実の自宅では火鉢が使われていた。",
"title": "時代背景"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "星一家が住んでいた長屋(東京・町屋)の家には固定電話もなく、周囲の店の電話を経由するなど、不便な様子だった。一徹が球場に電話して飛雄馬にアドバイスしようとしたときも、電話のあるらしいラーメン屋まで走るが間に合わず、飛雄馬は左門に本塁打を打たれてしまう。9連勝の際、新聞記者が見出しにすると口にした「輝き渡る巨人の星」に感動した飛雄馬がその喜びを伝えようと、遠征先から寿司を注文してついでに折り返し電話するように伝えて欲しいと依頼する。近所の公衆電話(タバコ屋らしい)から折り返すが、かなりの長話となり、十円玉が何枚必要だったかは不明。飛雄馬と明子はマンションに引っ越して初めて「自宅に電話のある生活」を経験する。原作で飛雄馬のマンションの部屋に電話がかかってきたのは川上監督からと京子から。",
"title": "時代背景"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ただし、星一家の過ごした長屋が作中で取り壊されたとき(「青春のぬけがら」KC18巻、文庫11巻)、その工事現場のすぐそばに電話ボックスがあった。",
"title": "時代背景"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "旧作の頃(1968年)台湾キャンプで四苦八苦していた飛雄馬も『新』の末頃(1978年初頭)には自費でハワイへ自主トレに出かけるくらいになっていたほど、この10年間で海外旅行は日本人にとって身近なものになっていた。",
"title": "時代背景"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "『新巨人の星』の登場人物を含め、本作に登場する主な登場人物を挙げる。 なお、イタリアに輸出放映されたアニメ版\"Tommy, la stella dei Giants\"シリーズにおける登場人物名は、現地の視聴者の理解のため星飛雄馬がトミー・ヤング、一徹はアーサー、花形はアレクサンダー・ミッチェル、左門はサイモン・ホールデン、伴はチャーリー・ベン(『チャーリー・レッド』説もあり)などと置き換えられている。",
"title": "主な登場人物"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "主人公星飛雄馬の駆使する一連の魔球。詳細は大リーグボールを参照。ここでは簡略化した記述にとどめる。",
"title": "大リーグボール"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "文筆家で漫画家でもある夏目房之介は、自著『消えた魔球』(双葉社)の中で本作と『ちかいの魔球』(原作:福本和也・作画:ちばてつや)との類似点を指摘している。",
"title": "『ちかいの魔球』との類似点"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "『ちかいの魔球』の主人公が最初に投げた魔球は、ボールの後ろの空気の渦でボールが一瞬引き戻され、バッターの間合いを崩してしまうというもの。次いで生まれた魔球は、ボールの残像により、ボールが4つに分身して見えるというもの。3つめの魔球は、主人公が足を高く上げて投球すると、なぜかバッターの前でボールが消えてしまうというもの。大リーグボール1〜3号の内容によく似ている。『ちかいの魔球』作中では変化のメカニズムの説明はなく、夏目は、大リーグボール2号は『ちかいの魔球』の消える魔球を理論的に説明したもの、と評している。",
"title": "『ちかいの魔球』との類似点"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こういった魔球の内容に加え、主人公がジャイアンツ所属の左投げ投手である点、主人公が魔球の開発にばかり執心な点、クライマックスで完全試合達成のために魔球を投げすぎて倒れる点、ライバルのバッターがタイガース所属で長髪が特徴な点など、両作品の内容が非常に似通っていることを指摘。『ちかいの魔球』(1961年 - 1962年)と『巨人の星』(1966年スタート)の両方をリアルタイムで読んでいたことを踏まえ、「はっきりいって『巨人の星』は『ちかいの魔球』のいただきです」と述べている。当時の夏目は『巨人の星』が『ちかいの魔球』の「いただき」(パクリ)であることに気づいていたため、『巨人の星』に対し良い感情を持っていなかったという。",
"title": "『ちかいの魔球』との類似点"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "その一方で夏目は、『ちかいの魔球』にない「梶原一騎的」な部分こそが『巨人の星』の名作たる所以と本作の価値も認めている。",
"title": "『ちかいの魔球』との類似点"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "なお、『週刊少年マガジン』の元編集長である宮原照夫は自著『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』の中で自分が『ちかいの魔球』と『巨人の星』の企画者で、漫画家・原作者のプロデュースも行ったと書いており、両作に共通点があるのは担当者が同一だからとも考えられる。",
"title": "『ちかいの魔球』との類似点"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "梶原一騎原作のスポ根漫画の特色として、特訓が挙げられる。とりわけ、『あしたのジョー』と並んでスポ根漫画の代名詞的作品である本作は、作中に特訓という要素を組み入れる手法によって連続する対決のマンネリ化を打破し、長期に渡るストーリー展開でも持続性と緊張感を維持した。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この手法は、",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "となり、「次の展開」からまた「特訓」に戻るという勝負の循環サイクルとなっている。これによって、主人公(飛雄馬)とライバル(花形・左門)との連続する対決も、互いに特訓を繰り返すことで切磋琢磨し、緊張感の維持を可能にした。また、「次の展開」の場面で新たな強敵(オズマ)を登場させることによって、対決のステージをさらにレベルアップさせることも可能とした。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "柳田理科雄が指摘しているように、普通の練習が目標に向かってレベルを上げるのと違い、本作に限らずスポーツ漫画の特訓は最初から本番以上の負荷をかけ、しかもスポーツジムや球場などだけでなく冬山や原生林、海、工場などが舞台になることが多い。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "星飛雄馬が最初に雪山にこもったのは長嶋茂雄の前例に倣ったものらしい。大リーグボール1号開発の特訓は、ボクシングジム→剣道場→射撃訓練場→野球の練習場→川に浮かぶ小舟の上となり、消える魔球は終始一貫してグラウンドでの投球練習。3号は原作ではグラウンドでの投球だけだが、アニメでは一時、無断で失踪して竹やぶで投球練習している。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "花形は1号打倒が自動車部品工場での特訓で、消える魔球に対する特訓は雪山だった。蜃気楼の魔球を打つためにグラウンドで3つの球のうち、黒く塗ったものを叩く特訓をしたが、これはマスコミに非公開だった。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "左門が飛雄馬の速球を打つためにやった「グラウンドで投手の位置を前にずらして打撃練習」は花形にもヒントを与えた。その後、消える魔球を打つ練習は冬の九十九里浜で行った。アニメでは3号打倒のため、弟・妹の協力で花形の鉄球・鉄バット特訓に近い訓練をしている。オズマが1号を打つための「ギプス装着3連打」と、伴が2号を打つための「サッカーボール打ち」は普通のグラウンド。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "星飛雄馬が1号を改良するためにやった特訓のうち、「川面に浮かぶ舟の上」、「霧の中」、「釣り糸につるして揺らした硬貨の的」は単に「悪条件」に入るもので、飛雄馬と伴はこの「悪条件」だけのために門限破りをし、日本シリーズ前半から外された。特訓の目的は「グリップヘッドを狙う」ためで、「的が小さいから制球力を磨く」のが目標である。飛雄馬はこれを事前に球団首脳に説明せず、特訓もグラウンドでしなかった。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "特訓の「負荷」と「場所」の特殊さのために、星飛雄馬は勝手に行方不明となり、花形もスランプになって一度はメンバーから外れている。勝手な挫折から特訓まで、左腕時代の星飛雄馬は思慮の足りなさと勝手な判断による規則違反、勝手な失踪がついてまわる男だった。飛雄馬が「破滅と引き換えの一瞬の栄光」にこだわる余り、プロ入り3年で10代の内に引退し短命投手として終わっている。だがそれも右腕投手として復帰したときは少し是正されていた。",
"title": "特訓"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "アニメ化される1年前の1967年7月20日、キングレコードからLPレコード『少年マガジン マンガ大行進』(規格品番:SKK(H)-354)が発売、当時『週刊少年マガジン』に連載されている漫画のイメージソングを集めたレコードで、本作もアニメ主題歌とは異なる、次の楽曲が収録された。",
"title": "イメージソング"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この楽曲は、石川進の「天才バカボン」とのカップリングでシングルカット(規格品番:BS-722)され、10万枚を売り上げた ほか、『巨人の星』DVD-BOX2の特典CDに収録されている。",
"title": "イメージソング"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "『巨人の星』、『新・巨人の星』、『新・巨人の星II』としてTVアニメ化され、毎週土曜日の19時から19時30分までの30分番組として日本テレビ系列で全国放送された。また、2002年10月には花形満の視点でテレビアニメ『巨人の星』全182話を再構成した『巨人の星【特別篇】 猛虎 花形満』がWOWOWで放送され、2007年4月から日テレプラス&サイエンス(現・日テレプラス)で、星一徹の視点で上記3シリーズを再構成した『巨人の星【特別篇】 父 一徹』が放送された。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1969年7月21日から8月29日まで、芸術座で「東宝みどりの会第一回公演」として上演された。",
"title": "舞台"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "(『芸術座 25年のあゆみ』東宝、1984)による)",
"title": "舞台"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "歌舞伎評論家で、当時東宝の演劇部に勤めていた渡辺保は、『私の歌舞伎遍歴』(演劇出版社、2012)で、菊田一夫の下でこの仕事にたずさわったと書いている。",
"title": "舞台"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2012年12月から、インドの放送チャンネル「カラーズ」で、本作をベースにしたアニメ『スーラジ ザ・ライジングスター』 が放映された。インドで作られることになったのは、急速に経済成長を遂げ、原典及びアニメが作られた日本の高度経済成長期に近しい国内情勢となっており、本作のような「スポ根もの」が当たる可能性を見出したため、とされる。また、現地に進出している日本車や日本の家電メーカーの看板が劇中に登場するなど、日本製品のPRとしての側面もあり、スズキ自動車や日清食品などインドに進出している企業のスポンサーだけでなく、経済産業省も支援を行っている。",
"title": "スーラジ ザ・ライジングスター"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "リメイク版は当初からインドで放送することを念頭に置いたため",
"title": "スーラジ ザ・ライジングスター"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "など現地に合わせて設定を変更しているが、「元選手の父から、主人公が猛特訓を受ける」というストーリーラインや「裕福で才能のある美男子のライバル」「魔球」「養成ギプス」「ちゃぶ台 返し」などの特徴的な要素が再現されている。",
"title": "スーラジ ザ・ライジングスター"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "インドでの放送に先駆けて、2012年11月26日、日本のバラエティ番組『世界まる見え! テレビ特捜部』で、本作の一部映像が放送された。",
"title": "スーラジ ザ・ライジングスター"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "NHKラジオの特別番組「あざやかにスポーツシーン」内で放送された。いまだ現役の飛雄馬がオールスターでイチローと対戦する内容。古谷徹、加藤精三らが声優を務めた。「こひゅうま」と一徹が呼ぶ、飛雄馬の子供が登場するが、花形や左門は登場しない。",
"title": "ラジオドラマ『巨人の星'95』"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "パチンコ・パチスロシミュレーターアプリの配信も携帯電話端末向けにはされている。",
"title": "モバイル"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "NTT番号情報株式会社が運営するiタウンページのプロモーションキャラクター(2010年)として、星一徹を宣伝大使とした「巨人の星」の登場キャラクターを使用している。また、プロモーション用の特設サイトを用意、巨人の星の原画をもとに、星飛雄馬、花形満、左門豊作、伴宙太、星明子等、各登場キャラクターが困ったときに、一徹が「iタウンページで検索じゃ!」とiタウンページで検索することを強烈に勧めるオリジナルコミックをパソコンおよび携帯電話上で展開している(全50話)。また期間限定で同じく原画をもとにしたオリジナルテレビCMも全国で放映している。",
"title": "プロモーションキャラクターとしての活用"
}
] |
『巨人の星』(きょじんのほし)は、原作:梶原一騎・作画:川崎のぼるによる日本の漫画作品。本項では、続編である『新巨人の星』についても併せて解説する。
|
{{otheruses||アニメ化作品|巨人の星 (アニメ)}}
{{独自研究|date=2023年11月}}
{{Infobox animanga/Header
|タイトル=巨人の星
|ジャンル=[[スポーツ漫画]]([[野球漫画|野球]])
}}
{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[梶原一騎]]
|作画=[[川崎のぼる]]
|出版社=[[講談社]]
|掲載誌=[[週刊少年マガジン]]
|レーベル=[[講談社コミックス]](KC版)<br />[[講談社文庫|講談社漫画文庫]](文庫版)<br />[[講談社コミックス|KCデラックス]](HGT版)
|開始号=1966年19号
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|巻数=全19巻(KC版)<br />全11巻(文庫版)<br />全7巻(HGT版)
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{{Infobox animanga/Manga
|タイトル=新巨人の星
|作者=梶原一騎
|作画=川崎のぼる
|出版社=[[読売新聞社]](現:[[読売新聞東京本社]])<br />講談社
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|開始日=1976年
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|話数=
|その他=
}}
{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]
| ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]
}}
『'''巨人の星'''』(きょじんのほし)は、原作:[[梶原一騎]]・作画:[[川崎のぼる]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。本項では、続編である『'''新巨人の星'''』についても併せて解説する。
== 概要 ==
主人公の[[星飛雄馬]]は、かつて巨人軍の三塁手だった父・[[星一徹]]により幼年時から野球のための英才教育を施される。プロ野球の[[読売ジャイアンツ]]に入団後、ライバルの[[花形満]]や[[左門豊作]]やオズマらを相手に[[大リーグボール]]を武器に戦う。いわゆる[[スポ根]]野球漫画の走りともいえる作品で、連載から半世紀以上経つ現在もスポ根作品の代表格として高い知名度を誇る。
『巨人の星』(通称「左腕編」)は『[[週刊少年マガジン]]』にて1966年19号から1971年3号まで連載され<ref>津堅信之 『日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由』 祥伝社、2014年3月10日初版第1刷発行、82頁、{{ISBN2|978-4-396-11359-9}}</ref>、『週刊少年マガジン』連載直後にKC(講談社コミックス)全19巻で刊行された。KCスペシャル版と1995年の文庫版では全11集である。その続編『新巨人の星』は1976年から1979年まで『[[読売ウィークリー|週刊読売]]』に連載された。『巨人の星』・『新〜』ともに[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]系でTVアニメ化され、アニメ映画も7作品が製作されている。2021年8月時点で累計発行部数は'''630万部'''を記録している<ref>{{Cite news |url= https://moemee.jp/?p=14933 |title= 野球漫画ランキングTOP20! 最も売れた野球漫画は? |work=moemee |date=2021-08-29 |accessdate=2022-03-12}}</ref>。
左腕編と『新〜』の間の時期を描いた『巨人の星・外伝〜それからの飛雄馬』も読みきりで『週刊少年マガジン』に掲載されており、飛雄馬失踪(5年間)の開始から3年後を扱っている。これは『新〜』の文庫版の巻末に収録されており、1978年掲載で『週刊読売』の『新〜』掲載期間と重なるが、[[河崎実]]の著書『巨人の星の謎』では「昭和48年」=1973年であるとしている。
講談社漫画文庫『新巨人の星』で「新魔球の章」と『巨人の星・外伝』を収録した第6巻1996年版では、巻末に『新巨人の星』の初出が『週刊読売』1976年10月2日号 - 1979年4月15日号に掲載、『それからの飛雄馬』は『週刊少年マガジン』1978年2月12日号に掲載とある。
=== タイトル ===
[[ジェイムズ・P・ホーガン]]作のSF作品『"Giants Star"』の邦題は、本作との重複を避ける意味から『'''[[巨人たちの星]]'''』になっている。『巨人の星』が「巨人軍に属する星という名の選手」の意味であれば、英語の人名 '''Starr''' は最後の r が2つになるので、『空想英語読本』のマッシュー・ファーゴ(Matthew Fargo)は『'''Starr''' Of The Giants』という題名を提案している。しかし、『巨人の星』の英語のタイトルは『'''Star''' Of The Giants』が慣用らしく、「巨人軍を象徴する“夜空の星”」または「巨人軍の“スター選手”」という意味になっている。タイトルの『巨人の星』はこれらの全ての意味を兼ねている。
== 作品解説 ==
=== 誕生に至る経緯 ===
『巨人の星』が連載を始めるまで、野球漫画の決定版と言えば『[[ちかいの魔球]]』とされていた。その『ちかいの魔球』を超える野球漫画を、ということで、マガジン編集部が梶原一騎を口説き落とした<ref name="伝説6">[[日刊スポーツ]]大阪本社版[[2009年]][[4月28日]]18面、連載コラム・伝説『スポ根アニメの原点 巨人の星』(2009年4月21日 - 5月2日掲載)⑥</ref>。
コンセプトは「[[宮本武蔵]]の少年版」であり、一人の少年の成長を描いた人間ドラマの中で、野球という舞台が用意されたものだった<ref name="伝説6" />。当時東京ムービー企画部の今泉俊昭も「花形満が[[佐々木小次郎]]、飛雄馬が武蔵、という剣豪ドラマとして製作された」と語っている<ref name="伝説6" />。
=== 作画 ===
作画担当は梶原の原作執筆後に選定が行われ、「フレッシュな漫画家を」ということで、川崎のぼるが選ばれた<ref name="伝説6" />。だが、当時野球の知識が無く、また既に何本も連載を抱えており新しい連載を引き受ける余裕もなかった川崎は当初その依頼を拒否する<ref name="伝説6" />。川崎は何度も懇願されたため逃げ回っていたが、ある日、夜遅くに帰宅したところ家の前で編集部員に待ち伏せされ、そのまま翌朝まで懇願された<ref name="伝説6" />。結局は根負けし引き受けることとなった<ref name="伝説6" /> のだが、このように説得に時間がかかったためプロ野球の開幕に合わせて4月に予定されていた連載開始は6月に遅れることとなる<ref>{{Cite book |和書 |author= [[内田勝]] |chapter=第13章 "天井に輝く星"を目指した道程 |date=1998-06-01 |title=「奇」の発想 |publisher=三五館 |pages=111|isbn=4-88320-146-5}}</ref>。川崎の作画により劇中のビジュアルが印象的に描かれ、大リーグボール2号の「高くあげた右足が土ぼこりを舞い立てる」コマを原作担当の梶原は絶賛したという。消える魔球の原理は、川崎のぼるが描く飛雄馬の投球フォームを見た梶原が思いついたものともいわれる。
『新巨人の星』では、絵も一層緻密になり、人気漫画家となった川崎も他の連載をかかえながら作画を再開した<ref>『新〜』文庫あとがきより</ref>。その分、投球や打撃のシーンはよく見ると複数のコマでコピーの流用が多く、コピーされた部分はしばしば、文庫版などで印刷状態が良くない。また、飛雄馬が手に巻いた包帯が途中のコマでなくなっている場面もある。アナウンサーや記者、観客、子供の顔はギャグマンガ風にデフォルメされており、川崎の別作品『[[てんとう虫の歌]]』や『[[いなかっぺ大将]]』の絵と共通点が見られる。
=== 作中のセリフ回し ===
『巨人の星』末期および『新巨人の星』以降はセリフが非常に長く、かつまわりくどくなっている。また、「なきにしもあらず」「思わんでもなかった」など、二重否定の肯定が頻出する。また、「女にはわからない男の世界」「男の世界のことに明子は口を出すな」などの[[ホモソーシャル]]的な言い回しが多い。また原作では難しい熟語の言い回しが多く、登場人物のセリフも「この○○にも」などのように一人称として苗字を名乗る場合が多い。
=== 剛球か豪速球か ===
作中、'''「剛球」'''では'''「剛」'''の文字が使われるが、'''「豪速球」'''では'''「豪」'''という字が用いられる。アニメ主題歌の歌詞に「剛球燃えろ」とあるように、飛雄馬は当初、「剛球投手」というイメージだったが、辞書では「剛球」は速くて'''「重い」'''球という意味で受け取られることが多いらしい。後になって飛雄馬の「球質」が判明するあたりで彼の投げる「軽くて速い球」は「豪速球」または単に'''「速球」'''と表現されるようになった。「球質の重い軽い」に関しては今の科学では疑問視されている(詳細は[[大リーグボール]]の項参照)。『新巨人の星』で、右腕投手として復帰した飛雄馬の投げる速球は'''「剛速球」'''として表現されている。
なお、安恒理(やすつね おさむ)著『「巨人の星」から「ルパン三世」まで"アフターストーリー"全掲載!!』([[辰巳出版]])に掲載された『巨人の星』の解説では'''「剛速球」'''となっている。
=== 川崎のぼる作画以外による巨人の星 ===
1971年、『[[テレビマガジン]]』で、[[磯田和一]]の作画による漫画を掲載(12月創刊号から翌1972年3月号まで)。1978年には、同誌で[[井上コオ]]の作画による『新巨人の星』のコミカライズを掲載。翌1979年には秋月研二作画による『新巨人の星II』のコミカライズが『[[月刊少年マガジン]]』に掲載された。詳細は[[巨人の星 (アニメ)]]参照。
さらに2006年8月9日より『週刊少年マガジン』誌上で、梶原一騎・川崎のぼる原作、[[村上よしゆき (漫画家)|村上よしゆき]]作画で本作のリメイク『[[新約「巨人の星」花形]]』が連載を開始、2011年新年号まで連載された。
== 左腕編の旧単行本と文庫の関係 ==
* KC1巻/文庫1巻 (無題、事実上の'''第一部'''の第一章→[[1958年]]、[[長嶋茂雄]]入団会見の日)、大リーグボール養成ギプス、火だるまボール、命をかけるねうち、ノックアウト打法との対決、星親子のねがい
* KC2巻/文庫1巻 星親子のねがい([[1959年]] [[王貞治]]巨人入団、飛雄馬は小学校〜[[1966年]]青雲高校入学)、柔道部のボス伴のしごき、負けじ魂、あせとなみだと根性と(伴が野球部への移籍を宣言)
* KC2巻/文庫2巻 あせとなみだと根性と(伴が移籍〜花形と対抗試合前半)
* KC3巻/文庫2巻 あせとなみだと根性と(対抗試合後半)、とうちゃんの心はどこへ、星一徹のへそ作戦、地区予選開幕(前)
* KC4巻/文庫2巻 地区予選開幕(後)、試合開始、おそるべきライバル(左門の生い立ち)
* KC4巻/文庫3巻 おそるべきライバル(左門と勝負)、なみだの投球、血ぞめの親指、優勝旗をかけて
* KC5巻/文庫3巻 優勝旗をかけて、伴の苦しみ、ざんねん会、スカウト合戦、巨人軍入団テスト、打撃テスト、アウトかセーフか?(テスト合格まで)
* KC6巻/文庫4巻 おれはやるぞ(巨人二軍時代)、[[ON砲]]と勝負、血染めの手で栄光をつかめ、名物千本ノック、飛雄馬のまよい、初登板
* KC7巻/文庫4巻 新しい門出(舞台は[[1968年]]新春)、雪山の特訓、かたい決意(台湾到着直後まで)
* KC7巻/文庫5巻 台湾キャンプ([[金田正一|金田]]に感謝する星)
* KC8巻/文庫5巻 台湾キャンプ(奇跡の快投)、左門の予告ホームラン、大リーグボール、なぞの特訓
* KC9巻/文庫5巻 連敗脱出(vs王、vs左門)、大リーグボールの正体(対大洋戦後半、花形に情報)
* KC9巻/文庫6巻 大リーグボールの正体(vs花形、1回目)、オールスター戦開幕、血まみれのバット(鉄球・鉄バット特訓)
* KC10巻/文庫6巻 血まみれのバット、男の一念、飛雄馬対花形の死闘)花形が1号を予告ホームラン)、左門のなやみ、前進あるのみ、行動でしめせ(釣堀での特訓)
* KC11巻/文庫6巻 行動でしめせ(日本シリーズ)
* KC11巻/文庫7巻 ようこそカージナルス、因縁の決闘、契約更改、野球人形([[1969年]]新春)
* KC12巻/文庫7巻 新しい時代、父一徹の就任先、最後のわがまま、青春とは?、美奈の死、巨人の星余話
* KC13巻/文庫8巻 '''第二部'''、男の友情、再起、大リーグボールの復活、見えないスイング、あやうし!大リーグボール(オズマが1号を本塁打)
* KC14巻/文庫8巻 あやうし!大リーグボール(飛雄馬降板→試合後)、不死鳥、偉大なライバル、野球にすべてを、奇跡の新魔球(消える魔球完成まで)
* KC14巻/文庫9巻 奇跡の新魔球(オズマ三振)
* KC15巻/文庫9巻 奇跡の新魔球(試合終了まで)、左門の挑戦、大リーグボール二号の秘密、みんなが青春を!、'''第三部・青春群像編'''・大投手金田引退、伴のトレード、親友、危うし!消える魔球([[1970年]]新春)
* KC16巻/文庫9巻 飛雄馬のしごき、真冬の特訓、きのうの英雄きょうの敗者(後楽園で座談会→勝負)
* KC16巻/文庫10巻 きのうの英雄きょうの敗者(明子が伴に忠告)、涙の決別、顔でわらって心でなけ!、ふっきれ伴!、刺客志願
* KC17巻/文庫10巻 刺客志願(「黒い霧」に怒る花形)、運命の対決、慟哭のブロックサイン、強いやつが勝つ!(花形が消える魔球を打倒)、負け犬、ふりかかる火の粉(京子登場)、星さんが好き!
* KC18巻/文庫10巻 星さんが好き!、青春のぬけがら(前)
* KC18巻/文庫11巻 青春のぬけがら(後)、組長の野心、すべてかゼロか!、屈辱の“夢の球宴”、京子のオネガイ!、車中のできごと、出た!大リーグボール三号(文庫版巻頭の目次で「〜三号」、作中の副題で「〜3号」)
* KC19巻/文庫11巻 でた!大リーグボール三号(花形と明子の会食)、ある座談会、左門、覆面魔球に屈す!、血染めの大リーグボール三号、大根切り攻略、父子の執念、飛雄馬のひみつ、目前の完全試合、9回二死、最後の対決!、エピローグ([[1971年]]年明けまで)
副題の個所は必ずしも連載当時の区切りと一致しない。冒頭、飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつけ、星一家が最初に描かれた章(アニメ第1話「めざせ栄光の星」に相当)ではサブタイトルがなく、そのあとに「大リーグボール養成ギプス」という最初の副題が出ている。また、有名な火だるまボールのノックは「火だるまボール」の章では描かれず、そこでは飛雄馬と王貞治の対決が描かれ、火だるまボールは「命をかけるねうち」で描かれる。
また、KCからデラックス版、そして文庫になった段階で、1つの副題の話が巻をまたいでいる個所があり、後半が収録された文庫では目次に前巻の最後と同じ副題があるだけで、後半の本編では副題は書かれていない。
『新巨人の星』の場合、「泥濘の章」、「鳴動の章」、「噴煙の章」、「青嵐の章」、「噴火の章」、「不死鳥の章」、「新魔球の章」の7章からなっており、『[[週刊読売]]』連載当時、大型の別冊単行本全7冊が出て、講談社コミックス(KC)では全11巻、講談社のデラックス版と漫画文庫で全6巻となっている。漫画文庫の第1巻には星の草野球代打稼業から伴の長嶋邸訪問までの「泥濘の章」と「鳴動の章」の前半、長嶋が星の右投げを見る場面を収録。
== 時代背景 ==
=== スポーツ界など、社会全体 ===
長嶋茂雄の巨人軍入団([[1958年]])に始まり、V9、中断をはさんで第一次長嶋政権の4年目([[1978年]])の中途、『新巨人の星』として完結した。この時代は、日本が敗戦の混乱期から立ち直り、[[高度経済成長]]を経て[[経済大国]]を自認し始める頃に当たっている。
[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]([[1964年]])を前にした交通整備で、一徹のような日雇い労務者も仕事が急増し、収入が増えたことが描写されている。当時高級品だったTV購入も、いわゆるお坊ちゃま学校だった青雲高校への飛雄馬の入学も、こうした五輪景気の建設ラッシュ期における一徹の昼夜兼行の超人的な働きがなければ不可能だった。なお、インフラ整備や再開発はその後も続き、飛雄馬が生まれ育った長屋も取り壊されている。
登場人物(花形、伴、川上監督夫妻、[[アームストロング・オズマ|オズマ]])たちが海外に出かける、あるいは戻る場面では、舞台は[[東京国際空港|羽田空港]]。乗客は建物から徒歩で飛行機に向かい、[[タラップ]]を使って乗降していた。機材も[[ダグラス DC-8|DC-8]]と思しきナローボディ機材だった。国内線での移動も多々あるが、[[ボーイング727]]は登場しない。
主要登場人物の中では、星一徹、[[川上哲治]]、[[水原茂]]らが[[太平洋戦争]]への従軍を経験している。アニメ版オリジナルストーリーで水原の[[シベリア抑留]]時代の強制労働体験、[[沢村栄治]]、[[吉原正喜]]など戦没野球選手の逸話も描かれた。一方、主人公飛雄馬は、[[日本統治時代の台湾|台湾の日本統治時代]]を知らないか、知識としては知っていても現地で日本語が通じることには驚いてしまう世代になる。劇中で中国([[中華民国]])側が飛雄馬たちを歓迎する文字「歓(歡)迎」「棒球団(團)」などは、戦後日本の[[当用漢字|当用(常用)漢字]]だった。一部の巨人選手は中華民国側の歓迎の印だった[[爆竹]]に驚いて、川上監督から説明を受けていた。台湾キャンプ当時([[1968年]])は[[日中国交正常化|中国本土との国交回復]]([[1972年]])の前。
速水は[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコオリンピック]]([[1968年]])の[[陸上競技]]で代表候補だった。なお、速水のキャラクター造形の参考にされたと推測される[[飯島秀雄]]もやはりメキシコオリンピックの代表選手である。
星飛雄馬が左腕投手として巨人に入団した[[1967年]]当時、現在の[[東京ヤクルトスワローズ]]がサンケイアトムズ、[[横浜DeNAベイスターズ]]が大洋ホエールズ、[[オリックス・バファローズ]]が阪急ブレーブスと[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ]]が東映フライヤーズ、[[福岡ソフトバンクホークス]]が南海ホークス、[[千葉ロッテマリーンズ]]は東京オリオンズ(物語後半でロッテオリオンズ)、[[埼玉西武ライオンズ]]が西鉄ライオンズだった。また、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]は2005年新規参入のため当時存在していなかった。
* まず、阪急は日本シリーズのパ・リーグ代表として何度も登場する。
: [[1968年]]、[[西本幸雄|西本]]監督は飛雄馬の大リーグボール1号を打倒するため、[[ダリル・スペンサー|スペンサー]]に花形そっくりの特訓をさせたが、1号の「最後の完成の姿」に敗れ、翌[[1969年]]も阪急打線は消える魔球の前に沈黙。
: 阪急の[[長池徳士|長池]]は1968年の日本シリーズでは大リーグボール1号を続けて2球受け、最初はファウル、次に投飛で打ち取られた。次に[[1970年]]にはオールスターで対戦したが、飛雄馬が精神的に不調だったために1号は2球続けてバットに当たらず花形がカバー。続いて飛雄馬の投げた「スピードの死んだ直球」を長池は激怒の一打。これは左門の美技に阻まれた。
: 『新〜』では[[1975年の日本シリーズ]]、[[上田利治|上田]]監督の阪急が広島に勝って日本一になるところを、伴が長嶋邸に向かう車のラジオで聴いていた。
: [[1976年]]、上田阪急は投手守備が未熟な右腕・飛雄馬をピッチャー返しで狙い、これはスクリュー・スピン・スライディングの応用で破られるものの、「巨人を破って日本一」の悲願を達成。翌[[1977年]]も打者・飛雄馬に本塁打を許すが、阪急を含めた各球団の打者の目も飛雄馬の速球に慣れて、巨人の日本一を阻む。そこで飛雄馬は「大リーグボール右1号」の必要性を感じる。
* [[1967年]]末、二軍だった飛雄馬が速球投手としてプロ初勝利を飾った時の相手が東映フライヤーズ。漫画では東映のユニフォームのチーム名が「FLYARS」となっているが、正しくは「FLYERS」である。1970年のオールスターで飛雄馬と対戦した[[張本勲|張本]]は東映フライヤーズの選手だったはずだが、胸の文字は筆記体で「Flyers」か「Fighters」かわかりにくい。『新〜』の伴と長嶋の会話で張本移籍話が出たとき、原作ではすでに巨人のユニフォームを着た張本が描かれたが、アニメでは「Fighters」の文字と日ハム時代の張本のイラストが出た。
* [[1958年]]、巨人に入団したての長嶋が「国鉄スワローズ」の[[金田正一|金田]]と対戦し、連続三振。これは飛雄馬のクラスでも話題になっており、のちに1969年、飛雄馬と伴が参加した金田の引退記者会見でも、金田と長嶋が話題にしていた。1967年、巨人OBの[[別所毅彦|別所]]が「産経の新監督」として紹介され、1969年、飛雄馬が一度自滅した大リーグボール1号を復活させた時、対戦相手がアトムズ二軍。1969年、星飛雄馬の消える魔球の投球フォームを初めて観た長嶋と王が、足の上げ方を「アトムズの[[別所毅彦|別所]]監督の現役時代」と比較していた。1977年、『新巨人の星』の花形満の入団当時はヤクルトスワローズになっている。
* 1968年、飛雄馬と伴が放送席で観戦したオールスターで花形は「近鉄の超速球・[[鈴木啓示|鈴木]]投手」と対戦してレフトフライに倒れ、次の1969年、飛雄馬が出場辞退したオールスターで、花形は「近鉄のエース鈴木」からヒットを放って、雪辱を果たしている。
* 1970年、飛雄馬は近鉄とのオープン戦で[[太田幸司]]と投げ合い、左門の方法で大リーグボール2号に挑戦した[[土井正博]]を三振に打ち取っている。また、報道陣のリクエストに応え、試合後に太田と握手もしている。1970年、飛雄馬にとって「屈辱の"夢の球宴"」となったオールスターでは太田幸司と王貞治の対戦が描かれたが、結果は不明。
* 1969年〜1971年の[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]も作中で利用され、左門が映画館内で痴漢に間違われる描写(実際は京子による示談金目当てのでっち上げ)があり「黒い霧の次はピンクの霧か」という描写がある(この出会いがきっかけとなり左門と京子は後に結婚する)。
* 中日に移籍した伴は南海とのオープン戦に代打で出場し、[[皆川睦男]]、[[野村克也]]のバッテリーに三振に打ち取られている。その試合で、後にホームラン王を2度獲得する[[クラレンス・ジョーンズ (野球)|ジョーンズ]]が一塁を守っている。
* 同じく1970年、飛雄馬が2度のオールスターで対戦した当時の野村克也は南海の選手兼監督(プレイングマネージャー)だった。
* この試合で野村の後に飛雄馬と対戦した[[ジョージ・アルトマン|アルトマン]]はロッテオリオンズ所属。
* 星一徹は我が子飛雄馬との戦いについて記者団に質問された際「西鉄の[[中西太|中西]]監督に止めを刺し、休養に追い込んだのは、義理とはいえ父の近鉄・[[三原脩|三原]]監督」と、同様の例に引いている。
: 『新〜』で1975年が舞台の「泥濘の章」では一徹が花形満に「[[レオ・ドローチャー]]を監督に迎えたがった酔狂な球団もある時世」と言っており、これは『新〜』連載開始当時の1976年に太平洋クラブライオンズがドローチャーに監督就任を要請した件と推測される。
: [[1978年]]の正月、ハワイの人が星飛雄馬を「あの日本人はミスター・[[江川卓 (野球)|江川]]かしら」と言ったのを聞いて、伴宙太は「星、お前はクラウンライターライオンズの指名を断った江川と間違えられているぞ」と叫んだ。
原作では飛雄馬が青雲の面接を受け伴宙太と逢った場面(初期講談社コミックスKC2巻、文庫1巻)で、伴宙太の「なぜだまっとる、お前はおし(唖)か」の「おしか」が省かれ、飛雄馬の「だからおしになった」が「だからだまっていた」になっている。また飛雄馬が長屋で伴に「自分を投げろ」と言った場面では「かたわになってもかまわん」が「大けがをしてもかまわん」になっている。
大リーグボールがオズマに打たれた後のオールスター(KC14巻、文庫8巻)で客からの左門への罵声の「百姓」が省かれ、「熊本に帰ってこえたごかついでろ」が「派手にプレーしてみろ」に、伴移籍の後のキャンプで長嶋が言った飛雄馬への助言(KC16巻、文庫10巻)で「めくら蛇におじず」が使われていたが、この[[諺]]が省かれ、セリフも大幅に書き換えられた。アニメでのセリフの変更は、アニメ版の項目参照。
=== 生活、娯楽面の描写 ===
[[1967年]]末、花形の打撃練習を見た記者団の1人が「下手な記事など無用ノ介!」と言っている。この『[[無用ノ介]]』は当時、[[さいとう・たかを]]が『[[週刊少年マガジン]]』に連載していた時代漫画のタイトル。
[[1969年]]の初め、飛雄馬が橘ルミ、続いて日高美奈と出逢った辺りで、一徹と飛雄馬が当時を形容した「[[昭和#昭和元禄文化|昭和元禄]]」という言葉を使っている。飛雄馬が参加した[[ボウリング]]大会の司会が[[大橋巨泉]]。
同年、飛雄馬が大リーグボール1号で中日のオズマと対決した場面で、観客が「男なら投げてみな<!--←男ならやってみな?-->、大リーグボール!」と叫んだ。
1969年の[[アポロ11号|月面着陸]]に、飛雄馬は自身の挑戦精神を重ね合わせている。
1969年末〜[[1970年]]初頭の伴トレードの時期には、登場人物の台詞で「[[アッと驚く為五郎|アッと驚くタメゴロー]]」が出た。
1970年、消える魔球を打たれて勝手に帰宅した飛雄馬がテレビをつけ、野球中継からチャンネルを変えると[[藤圭子]]が「圭子の夢は夜開く」を歌っていた。
同年、大リーグボール3号を開発した飛雄馬が文字通り巨人のスターとなっていた当時、『[[スター千一夜]]』で当時の有名人と対談(司会者は[[石坂浩二]]、共演者は藤圭子と[[沢村忠]])、作中のマスコミ関係者が[[引田天功 (初代)|引田天功]]や[[吉沢京子]]と飛雄馬の対談を希望する場面もある。吉沢京子は当時、梶原一騎原作の『[[柔道一直線]]』に出演中だった。
連載初期には[[テレビ]]は相当な高級品として描かれていた。星家の家計の逼迫さが誇張して描かれていたためもあるが、花形や伴ら富裕層の自宅にも複数台のテレビがあった描写はない。星家のテレビ購入により一挙に親密になった長屋の住人達は、それ以降も星家を訪れ、ブラウン管を通して飛雄馬を応援した。夏には明子がスイカをふるまったりするなど、星家はいつの間にかコミュニティの核となっていった。
[[ビデオテープレコーダ|ビデオ]]が登場するのは『新〜』の時代からで、花形が大リーグボール1号を本塁打した際、ビデオのスロー再生を行うに際して「分解写真」という言葉が使われている。
原作では左門も花形も飛雄馬攻略に[[コンピュータ]]を駆使することはついになかった。アニメの花形は親の会社の研究班に頼んで、飛雄馬の大リーグボール3号の投球フォームを分析させ、同じ魔球を投げるピッチングマシンを作らせている。花形はさらに、アニメ『新・巨人の星』でヤクルトに入団した直後、コンピュータを使っていた。
後の野球漫画で必ずといって良いほど登場する[[スピード測定器|スピードガン]]も当時実用に耐えるものはなく、飛雄馬の球速が具体的に示されることはなかった。作品でボールの速度が数字で示されたのは、一徹が花形のノックアウト打法について飛雄馬に説明した際、テニスと野球の球速を比較した場面くらいだった。
劇中で星飛雄馬の投球する姿を映した動画が出てくるが、大きなフィルムを使い、旧式の映写機(家庭用の8ミリフィルムタイプと推測される)で暗い部屋で見るタイプだった。アニメ『新・巨人の星』で左門は「右投手飛雄馬」の攻略のために8ミリフィルムを使用したが、その再生の際、通常の映写方向だけでなく、反対側にも画像が出てしまっていた。このとき、劇中画面では左で投げる「右投手飛雄馬」の様子が出ていた。
牧場の担当編集者が病院(診療所)で飛雄馬の「破滅」の秘密を録音したテープレコーダーも古い大型の[[オープンリール]]だった。
ストーリー展開上の演出のためもあるが、1969年末または1970年初頭の[[村山実]]の自宅では[[火鉢]]が使われていた。
星一家が住んでいた長屋(東京・[[町屋 (荒川区)|町屋]])の家には[[固定電話]]もなく、周囲の店の電話を経由するなど、不便な様子だった。一徹が球場に電話して飛雄馬にアドバイスしようとしたときも、電話のあるらしいラーメン屋まで走るが間に合わず、飛雄馬は左門に本塁打を打たれてしまう。9連勝の際、新聞記者が見出しにすると口にした「輝き渡る巨人の星」に感動した飛雄馬がその喜びを伝えようと、遠征先から寿司を注文してついでに折り返し電話するように伝えて欲しいと依頼する。近所の公衆電話(タバコ屋らしい)から折り返すが、かなりの長話となり、十円玉が何枚必要だったかは不明。飛雄馬と明子はマンションに引っ越して初めて「自宅に電話のある生活」を経験する。原作で飛雄馬のマンションの部屋に電話がかかってきたのは川上監督からと京子から。
ただし、星一家の過ごした長屋が作中で取り壊されたとき(「青春のぬけがら」KC18巻、文庫11巻)、その工事現場のすぐそばに[[日本の公衆電話|電話ボックス]]があった。
旧作の頃(1968年)台湾キャンプで四苦八苦していた飛雄馬も『新』の末頃([[1978年]]初頭)には自費で[[ハワイ]]へ自主トレに出かけるくらいになっていたほど、この10年間で[[海外旅行]]は日本人にとって身近なものになっていた。
=== 年表 ===
; その他作中で言及のあった史実の出来事と作品の中の時代の流れ
: (飛雄馬誕生前の回想場面などは省く。参考のため、同じく川上V9時代を描いた『[[侍ジャイアンツ]]』の始まりと終りも記載→詳しくは「[[侍ジャイアンツ]]」の「時代背景」を参照)
:
:; [[1958年]] [G監督;水原]
:: (作品で描かれた史実)長嶋茂雄G入団(厳密には[[1957年]]末入団発表、1958年春現役開始)。国鉄スワローズの金田正一が長嶋を4打席連続三振に打ち取る。
:: (作中の話の流れ)飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつける。飛雄馬が王貞治(当時早実高)、花形満と対決。
:; [[1959年]] [水原]
:: (作品で描かれた史実)王貞治25打席(または26打席)ノーヒット。
:; [[1962年]] [川上]
:: (作品で描かれた史実)[[荒川博|荒川]]コーチの指導で王貞治の一本足打法完成。38本塁打でホームラン王。
:; [[1967年]] [川上]
:: (流れ)左腕・星飛雄馬G入団(- [[1970年]])。打撃テストで[[堀内恒夫|堀内]]から三塁打。
:; [[1968年]] [川上]
:: (史実)9月18日、巨人・阪神戦で大乱闘。王が触身球(死球)を受けて倒れ、長嶋が本塁打。
:: (流れ)長嶋本塁打の後、花形が大リーグボール1号を予告本塁打。飛雄馬が日本シリーズの対阪急戦で1号改良型を使用。
:; [[1960年代]]
:: (史実)[[学生運動]]、[[ボウリング]]や[[ゴーゴー喫茶|ゴーゴークラブ]]の流行。
:; [[1969年]] [川上]
:: (史実)[[全国高等学校野球選手権大会|夏の高校野球大会]]決勝戦で松山商業と三沢高校が延長18回引き分け再試合の名勝負、[[正力松太郎]]逝去、巨人OBの[[水原茂]]が中日監督に就任、[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]](1971年まで)、金田正一現役引退。
:: (流れ)飛雄馬がオーロラ三人娘と逢い、次いで日高美奈と出逢うが、日高美奈は病死。一徹が中日コーチに就任。飛雄馬の大リーグボール1号自滅→復活→オズマに打たれ、2号・「消える魔球」登場。金田引退記者会見で飛雄馬と伴が受付担当し、終了後、2人で金田を見送る。
::飛雄馬たちが未来の世界に行き、[[鉄腕アトム]]と野球で対決する([[前田武彦の天下のライバル]]『[[巨人の星対鉄腕アトム]]』)。
:; [[1960年]] - [[1973年]]
:: (史実)[[ベトナム戦争]]
:; [[1970年]] [川上]
:: (史実)巨人軍日本シリーズを6連覇(最終的に[[1973年]]まで9連覇)。
:: (流れ)オズマ帰国。伴が中日に移籍。花形が2号を本塁打。飛雄馬、大リーグボール3号を開発。オズマが[[ベトナム戦争]]での負傷がもとで死亡(アニメ版『巨人の星』)。飛雄馬は一徹・伴コンビの中日相手に完全試合達成。ただし最後のライトゴロの判定は微妙。後に失踪。番場蛮G入団(- [[1974年]])。
:; [[1971年]] [川上]
:: (流れ)年初、左門と京子の結婚式(『巨人の星』最終回、「エピローグ」)。
:; [[1973年]] [川上]
:: (史実)川上巨人V9。
:: (流れ)飛雄馬、宮崎の日向三高野球部を臨時コーチ。番場蛮の活躍で川上巨人V9達成。番場は胴上げ投手になる(アニメ版『侍ジャイアンツ』では最終回まで[[1973年]]の設定)。
:; [[1974年]] [川上]
:: (史実)長嶋茂雄現役を引退。巨人V10ならず中日セ・リーグ優勝で川上監督勇退。ニューヨーク・メッツ来日。
:: (流れ)番場蛮が試合後に急死(原作『侍ジャイアンツ』最終回)。
:; [[1975年]] [長嶋]
:: (史実)長嶋監督のもとで巨人軍最下位。阪神の[[田淵幸一|田淵]]が王貞治に代わって本塁打王となる。[[広島東洋カープ]]の「赤ヘル旋風」。
:: (流れ)『新〜』第1話で飛雄馬が入った料理店のテレビで中継された試合は、原作では巨人・阪神戦だったがアニメでは巨人・広島戦で、[[外木場義郎]]、[[衣笠祥雄]]、[[山本浩二]]が活躍。飛雄馬は草野球代打、次に「野球人間ドック」でG復帰を目指す。ビッグビルサンダー招聘。同時期、伴宙太、左門より「左門メモ」入手。カープがセV、阪急日本一。長嶋の「来期、パ・リーグから左の大物打者を獲得予定」の言葉から伴宙太が「巨人、張本獲得」の計画を察知(アニメでは長嶋本人が「張本勲」の名前を告げた)。
:; [[1976年]] [長嶋]
:: (史実)[[張本勲]]が[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]から巨人に移籍。
:: (流れ)張本がGに移籍と同時に飛雄馬がテスト生として巨人の練習と紅白戦に参加。飛雄馬、右腕投手としてG復帰(- [[1979年]])。[[掛布雅之]]がスクリュー・スピン・スライディングを敗る。GセV、日本一は阪急。飛雄馬は敢闘賞。
:; [[1977年]] [長嶋]
:: (史実)9月3日、王貞治756号ホームランを達成。巨人軍セ・リーグ優勝、日本一は阪急。[[江川卓 (野球)|江川卓]]が[[埼玉西武ライオンズ|クラウンライターライオンズ]]のドラフト指名を拒否して渡米。
:: (流れ)花形、ヤクルトに入団して球界復帰。
:; [[1970年代]]
:: (史実)後半の独居老人の孤独死の増加。
:; [[1978年]] [長嶋]
:: (史実)[[与那嶺要]]がコーチとして巨人に戻る。[[広岡達朗|広岡]]ヤクルト優勝。
:: (流れ)年初、一徹と伴の協力で飛雄馬がハワイで特訓。現地の人から江川卓と間違えられ、[[与那嶺要]]に目撃される。この特訓で大リーグボール右1号・「蜃気楼の魔球」完成。まず、ヤクルトの花形が蜃気楼を打ち、残りの他球団相手に飛雄馬が勝ち続けたことで漁夫の利を得たヤクルトがペナントレース(勝率争い)で浮上。左門も蜃気楼を強打。
:: (流れ)アニメ『新・巨人の星II』終盤では花形が蜃気楼ボールの打倒直後に倒れ引退。飛雄馬の活躍が続き、史実に反して巨人Vが実現。星一徹没。明子が花形の子を出産。アメリカに向かう飛雄馬に江川が挨拶。
:; [[1979年]] [長嶋]
:: (史実)江川卓、巨人軍入団
:: (流れ)江川の投球練習に水木炎が乱入。飛雄馬が現役を引退しG二軍コーチに。水木炎G入団テスト合格。
:; [[1995年]] [長嶋・第2期]
:: (流れ)現役に復帰(?)した飛雄馬が[[イチロー]]と対決(ラジオドラマ「巨人の星'95」)。
== 主な登場人物 ==
{{Main|巨人の星の登場人物一覧}}
『新巨人の星』の登場人物を含め、本作に登場する主な登場人物を挙げる。 なお、イタリアに輸出放映されたアニメ版"'''Tommy, la stella dei Giants'''"シリーズにおける登場人物名は、現地の視聴者の理解のため星飛雄馬がトミー・ヤング、一徹はアーサー、花形はアレクサンダー・ミッチェル、左門はサイモン・ホールデン、伴はチャーリー・ベン(『チャーリー・レッド』説もあり)などと置き換えられている。
;[[星飛雄馬]](ほし ひゅうま)
:[[声優|声]] - [[古谷徹]]
:本作の主人公。
:時に挫折しつつ、努力と根性でただひたすらに“巨人の星”を目指し、魔球[[大リーグボール]]を生み出す。
:生来は右利きであるが、父の厳しい躾により左投げ投手となる。
;[[星一徹]](ほし いってつ)
:声 - [[加藤精三 (声優)|加藤精三]]
:飛雄馬の父。飛雄馬に数々の試練を与えた“野球の鬼'''(球鬼)'''”。
:最終的には自身が敵と化し、飛雄馬の前に立ちはだかる。
:魔送球の生みの親。右投げ右打ち。
;[[星明子]](ほし あきこ)
:声 - [[白石冬美]]
:心優しき飛雄馬の姉。母のいない星家唯一の女性でもあり、飛雄馬にとっては母親に限りなく近い存在。
:巨人の投手となった飛雄馬と中日の打撃コーチとなった一徹が対立した際、家を出てガソリンスタンドで働く。この時花形満と出会い、後に彼と結婚するきっかけとなった。伴宙太も告白したがフラれている。
;[[伴宙太]](ばん ちゅうた)
:声 - [[八奈見乗児]]
:飛雄馬とは青雲高校からの友人。義に篤く涙もろい。
:物語後半では中日に移籍。一徹と共に飛雄馬の敵となり、後に明子に告白するもフラれる。
:『新巨人の星』では、再び飛雄馬の支援者になっている。
;[[花形満]](はながた みつる)
:声 - [[井上真樹夫]]
:飛雄馬を“我が生涯のライバル”とみなし、挑み続ける花形モーターズの御曹司。阪神に入団。大リーグボール1号を苦心の末打つ。
:リメイクである『新約「巨人の星」花形』では主人公を務める。
:後に(星)明子と結婚し、飛雄馬の義理の兄になる。
:新巨人の星では飛雄馬の復活を助けるも、本格的に投手として復活した後はかつての熱い思いが甦り、ヤクルトに入団。再びライバルとなった。
;[[左門豊作]](さもん ほうさく)
:声 - [[兼本新吾]]
:飛雄馬が高校時代に対戦した、熊本出身の巨漢スラッガー。近眼のため眼鏡を常に着用。大洋に入団。
:後に飛雄馬に惚れていた女番長・京子が、飛雄馬のために手の腱を切った際に自分も好きだった彼女に尽し、妻とする。
;[[アームストロング・オズマ]]
:声 - [[小林清志]]
:元アメリカ大リーグ・[[セントルイス・カージナルス]]選手。
:一徹のいる中日に契約選手として入団。その際一徹に飛雄馬が子供の頃巻いていた大リーグボール養成ギプスをオズマ用にしたものを巻かされ、ヘロヘロになりながら、「イエッサーボス」といいながら振りまくり、花形が破りながらも自身をも滅ぼしかけた大リーグボール1号を完全攻略したが大リーグボール2号に敗れる。
:帰国後はベトナム戦争に出征し、そこで受けた傷がもとで非業の死をとげる。
;速水譲次(はやみ じょうじ)
:声 - [[羽佐間道夫]]
:元[[陸上競技]]候補生の巨人軍選手。
:巨人入団テスト最終選考でのスパイクの紐作戦にて自慢の足を見せるも、夢中になった飛雄馬の魔送球の前に敗れるが、伴とともに補欠入団となった。
;牧場春彦(まきば はるひこ)
:声 - [[野沢那智]]、[[仲村秀生]]、[[富山敬]]
:常にスケッチブックを持ち歩いている漫画家志望の青雲高校生。後に漫画家となる。
:飛雄馬が退学になった伴大造襲撃事件では、暗器(武器)を使って襲撃。伴宙太は初め飛雄馬を疑い、闇鍋を行う。牧場の悲しい身の上を知った飛雄馬は身代わりになるが、牧場は宙太に事実を告げる。また、二軍登板の際に飛雄馬のスコアをつけ、左門が飛雄馬の球質の軽さを見抜くきっかけにもなっている。
;日高美奈(ひだか みな)
:声 - [[松尾佳子]]
:[[宮崎県|宮崎]]の山奥の沖[[診療所]]で働く。
:飛雄馬の恋の相手。癌で若くして亡くなる。
;京子(きょうこ)
:声 - [[武藤礼子]]、新・新II:[[小山茉美|小山まみ]](現・小山茉美)
:[[新宿]]繁華街で名の知れた「竜巻グループ」の女番長。通称お京さん。後に左門の妻。
:飛雄馬に大リーグボール3号のヒントを与える。
;オーロラ3人娘
:飛雄馬が一時期付き合うことになったタレント・橘ルミが所属する女性3人組のアイドルグループ。
== 大リーグボール ==
主人公星飛雄馬の駆使する一連の[[魔球]]。詳細は[[大リーグボール]]を参照。ここでは簡略化した記述にとどめる。
; 大リーグボール1号
: [[バット (野球)|バット]]を狙う魔球。
:巨人に入団した飛雄馬が「自分の球質が軽い」というプロとしては致命的な欠点を克服するため、漁師や禅僧の言葉をヒントに伴と特訓を積み重ねて完成させた。当時大リーグの専売特許だった変化球の新発明を、日本人が最初にやったという意味で大リーグボール1号と名づけられた。ボクシングや剣道を体験して磨いた洞察力でバッターの動きを予測し、バットにボールを命中させ凡打に打ち取り、ランナーがいれば併殺を狙う。投球ごとに集中を要するため、疲労の激しいのが弱点。
:; 大リーグボール1号進化形
:: 作中では「大リーグボール1号の最も進化した姿」などと呼称された。
::これは釣船の上で釣竿につるした五十円玉を狙って投球する特訓により、コントロールに更に磨きをかけたものである。打者のエンドグリップ(五十円玉に大きさに近い)を狙う。
; 大リーグボール2号
: 消える魔球。
:原理は要約すれば「グラウンドの土ぼこりをまとったボールが自身が巻き上げる土煙の中に保護色によって消える」というものである。反則投球ではないのかという指摘は、作中では慎重に退けられている。
: 飛雄馬が自宅マンションの屋上で美奈という少女の鞠(まり)つきを見たのがヒントとなっている。
: 弱点は土煙を利用するために風や水に弱く、強風や雨天での試合では使えないことである。
; 大リーグボール3号
: バットをよける魔球。
:人差し指一本でボールを押し出すような、独特のアンダースローから投じられる超スローボール。ホームベース上で推進力がほとんどゼロとなり、プロ選手のスイングの起こす風圧によってボールが浮き沈みして正確なミートが出来ないという原理。張本勲いわく「大リーグボール1号の逆」。
: 弱点として、ボールを浮沈させるほどの強振をしないローパワーヒッターには弱い、という点がある。そのために、ほかをノーヒットにおさえながら投手に安打を許すようなケースが多かった。完成までに特訓を積み重ねたものの、ライバル達に次々と攻略された1号・2号と比較して、短期間で完成した3号は左腕の崩壊という犠牲を払った。3号は、中日に移籍した星一徹の策で攻略されているが、体力自慢の伴ですら疲労困憊して一塁走塁がやっとという有様で、実質的には相打ちに(一徹は敗北を認めている)終わった。
:アニメ『新・〜II』の最終回では亡くなる運命にあった一徹への手向けに、本来左の大リーグボール1号から3号を一球ずつ右で投げており、精神的疲労の著しい大リーグボールを次々と繰り出して(一球だけなら腕に負担のかかる3号も投げられる模様)飛雄馬の成長を表していた。
; 大リーグボール右1号
: 『新巨人の星』で左の代打専門として巨人に復帰し、後に右投手に転向した飛雄馬が開発した「蜃気楼の魔球」。
:バッターとキャッチャー、それに主審にのみ、ボールが3つに分身して見え、観客や他の野手たちからは平凡なストレートに見える。一徹が伴に説明した言い方では「消える魔球とは逆の変化」だが、作中でその原理は明かされなかった。本物のボールには影がある、という点を見抜かれ花形や左門に攻略される。キャッチャーもやはり影を見て捕球するため、晴れた日のデーゲームでしか使えないという弱点がある。また投球ごとに大変な疲労を伴うらしく、3球続けて投げると続投が難しくなるほどだった。
:: 『新・巨人の星II』では、原作とは原理が根本的に異なる魔球「蜃気楼ボール」として登場。サイドスローで投げられたボールは、いくつもの分身をランダムに作り出し、捕球直前で元に戻る。原作のような目立った弱点は無く、飛雄馬は勝利を重ねていった。この魔球の弱点は「風に弱い」こと。小さな竜巻を受けると、残像が消えてしまう。
; 大リーグボール養成ギプス
: 大リーグボール養成のために作られた、全身エキスパンダー。
:花形はこれを最初に見て「理想的な訓練法だ」と言ったが、彼自身は一徹・オズマコンビより先に「大リーグボール打倒ギプス」を採用せず、鉄球と鉄バットの訓練を選んでいる。
: 「打倒ギプス」で特訓したオズマは普通の球でも本塁打できるようになるが、「鉄球鉄バット特訓」を選んだ花形は一時的に1号以外打てなくなった。
: 河崎実と重いコンダラ友の会著『「巨人の星」の謎』と[[柳田理科雄]]著『[[空想科学読本|空想科学漫画読本]]』では、バネが身体の一部を挟む危険性を指摘している。
: アニメ『新・〜II』では花形もギプスを採用。星一徹が蜃気楼ボール打倒の為にギプスを作成し、鬼のコーチとして花形を特訓する。
:[[タイトー]]より、ゲームプライズとして商品化されている(ただし、あくまでコスプレ用品であり、実用性は皆無)。
; 魔送球
: 肩を戦争で壊した[[星一徹]]が開発。
:三塁から一塁送球の際に、ランナーをかすめて行く。これを見た[[川上哲治]]は、[[沢村栄治]]の話に例えて「ビーンボール」と言い、一徹が退団するきっかけとなった。飛雄馬も会得しており、使用したのは[[長島茂雄]]入団の際と自身の入団テスト時のみ。また、この魔送球が大リーグボール2号の元になった。
== 『ちかいの魔球』との類似点 ==
文筆家で漫画家でもある[[夏目房之介]]は、自著『消えた魔球』([[双葉社]])の中で本作と『[[ちかいの魔球]]』(原作:[[福本和也]]・作画:[[ちばてつや]])との類似点を指摘している。
『ちかいの魔球』の主人公が最初に投げた魔球は、ボールの後ろの空気の渦でボールが一瞬引き戻され、バッターの間合いを崩してしまうというもの。次いで生まれた魔球は、ボールの残像により、ボールが4つに分身して見えるというもの。3つめの魔球は、主人公が足を高く上げて投球すると、なぜかバッターの前でボールが消えてしまうというもの。大リーグボール1〜3号の内容によく似ている。『ちかいの魔球』作中では変化のメカニズムの説明はなく、夏目は、大リーグボール2号は『ちかいの魔球』の消える魔球を理論的に説明したもの、と評している。
こういった魔球の内容に加え、主人公がジャイアンツ所属の左投げ投手である点、主人公が魔球の開発にばかり執心な点、クライマックスで完全試合達成のために魔球を投げすぎて倒れる点、ライバルのバッターがタイガース所属で長髪が特徴な点など、両作品の内容が非常に似通っていることを指摘。『ちかいの魔球』([[1961年]] - [[1962年]])と『巨人の星』([[1966年]]スタート)の両方をリアルタイムで読んでいたことを踏まえ、「はっきりいって『巨人の星』は『ちかいの魔球』のいただきです」と述べている。当時の夏目は『巨人の星』が『ちかいの魔球』の「いただき」(パクリ)であることに気づいていたため、『巨人の星』に対し良い感情を持っていなかったという。
その一方で夏目は、『ちかいの魔球』にない「梶原一騎的」な部分こそが『巨人の星』の名作たる所以と本作の価値も認めている。
なお、『週刊少年マガジン』の元編集長である[[宮原照夫]]は自著『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』の中で自分が『ちかいの魔球』と『巨人の星』の企画者で、漫画家・原作者のプロデュースも行ったと書いており、両作に共通点があるのは担当者が同一だからとも考えられる。
== 特訓 ==
梶原一騎原作のスポ根漫画の特色として、'''特訓'''が挙げられる。とりわけ、『[[あしたのジョー]]』と並んでスポ根漫画の代名詞的作品である本作は、作中に特訓という要素を組み入れる手法によって連続する対決のマンネリ化を打破し、長期に渡るストーリー展開でも持続性と緊張感を維持した。
この手法は、
: 「特訓」⇒「新しい技(必殺技)の完成」⇒「対決」⇒「一応の決着」⇒「次の展開」
となり、「次の展開」からまた「特訓」に戻るという勝負の循環サイクルとなっている。これによって、主人公(飛雄馬)とライバル(花形・左門)との連続する対決も、互いに特訓を繰り返すことで切磋琢磨し、緊張感の維持を可能にした。また、「次の展開」の場面で新たな強敵(オズマ)を登場させることによって、対決のステージをさらにレベルアップさせることも可能とした。
[[柳田理科雄]]が指摘しているように、普通の練習が目標に向かってレベルを上げるのと違い、本作に限らずスポーツ漫画の特訓は最初から本番以上の負荷をかけ、しかもスポーツジムや球場などだけでなく冬山や原生林、海、工場などが舞台になることが多い。
星飛雄馬が最初に雪山にこもったのは長嶋茂雄の前例に倣ったものらしい。大リーグボール1号開発の特訓は、ボクシングジム→剣道場→射撃訓練場→野球の練習場→川に浮かぶ小舟の上となり、消える魔球は終始一貫してグラウンドでの投球練習。3号は原作ではグラウンドでの投球だけだが、アニメでは一時、無断で失踪して竹やぶで投球練習している。
花形は1号打倒が自動車部品工場での特訓で、消える魔球に対する特訓は雪山だった。蜃気楼の魔球を打つためにグラウンドで3つの球のうち、黒く塗ったものを叩く特訓をしたが、これはマスコミに非公開だった。
左門が飛雄馬の速球を打つためにやった「グラウンドで投手の位置を前にずらして打撃練習」は花形にもヒントを与えた。その後、消える魔球を打つ練習は冬の九十九里浜で行った。アニメでは3号打倒のため、弟・妹の協力で花形の鉄球・鉄バット特訓に近い訓練をしている。オズマが1号を打つための「ギプス装着3連打」と、伴が2号を打つための「サッカーボール打ち」は普通のグラウンド。
星飛雄馬が1号を改良するためにやった特訓のうち、「川面に浮かぶ舟の上」、「霧の中」、「釣り糸につるして揺らした硬貨の的」は単に「悪条件」に入るもので、飛雄馬と伴はこの「悪条件」だけのために門限破りをし、日本シリーズ前半から外された。特訓の目的は「グリップヘッドを狙う」ためで、「的が小さいから制球力を磨く」のが目標である。飛雄馬はこれを事前に球団首脳に説明せず、特訓もグラウンドでしなかった。
特訓の「負荷」と「場所」の特殊さのために、星飛雄馬は勝手に行方不明となり、花形もスランプになって一度はメンバーから外れている。勝手な挫折から特訓まで、左腕時代の星飛雄馬は思慮の足りなさと勝手な判断による規則違反、勝手な失踪がついてまわる男だった。飛雄馬が「破滅と引き換えの一瞬の栄光」にこだわる余り、プロ入り3年で10代の内に引退し短命投手として終わっている。だがそれも右腕投手として復帰したときは少し是正されていた。
== 書誌情報 ==
=== 巨人の星 ===
==== 講談社コミックス版 ====
* 梶原一騎・川崎のぼる(原作) / 川崎のぼる(作画) 『巨人の星』 講談社〈講談社コミックス〉、全19巻
*# 「黎明編」1968年3月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002402 |title=巨人の星 1 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109020-8}}
*# 「青雲編」1968年3月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002403 |title=巨人の星 2 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109021-6}}
*# 「熱球編」1968年5月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002404 |title=巨人の星 3 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109025-9}}
*# 「闘魂編」1968年5月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002405 |title=巨人の星 4 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109026-7}}
*# 「飛翔編」1968年7月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002406 |title=巨人の星 5 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109032-1}}
*# 「激闘編」1968年7月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002407 |title=巨人の星 6 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109033-X}}
*# 「試練偏」1968年9月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002408 |title=巨人の星 7 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109036-4}}
*# 「開眼偏」1968年9月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002409 |title=巨人の星 8 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109037-2}}
*# 「登竜編」1968年12月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002410 |title=巨人の星 9 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109044-5}}
*# 「竜虎編」1969年4月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002411 |title=巨人の星 10 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109051-8}}
*# 「栄冠編」1969年6月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002414 |title=巨人の星 11 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109058-5}}
*# 「思春編」1969年7月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002415 |title=巨人の星 12 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109060-7}}
*# 「不死鳥編」1969年10月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002418 |title=巨人の星 13 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109073-9}}
*# 「新魔球編」1970年2月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002419 |title=巨人の星 14 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109077-1}}
*# 「群像偏」1970年6月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002425 |title=巨人の星 15 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109088-7}}
*# 「決別偏」1970年9月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002429 |title=巨人の星 16 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109095-X}}
*# 「傷魂編」1971年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002437 |title=巨人の星 17 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109109-3}}
*# 「苦闘偏」1971年3月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002442 |title=巨人の星 18 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109115-8}}
*# 「巨星編」1971年4月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002444 |title=巨人の星 19 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-109118-2}}
==== 講談社漫画文庫版 ====
* 梶原一騎(原作) / 川崎のぼる(作画) 『巨人の星』 講談社〈講談社漫画文庫〉、全11巻
*# 1995年6月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003565 |title=巨人の星 1(文庫版) |publisher= |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260081-1}}
*# 1995年6月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003566 |title=巨人の星 2(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260082-X}}
*# 1995年6月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003567 |title=巨人の星 3(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260083-8}}
*# 1995年6月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003568 |title=巨人の星 4(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260084-6}}
*# 1995年6月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003569 |title=巨人の星 5(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260085-4}}
*# 1995年7月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003570 |title=巨人の星 6(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260103-6}}
*# 1995年7月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003571 |title=巨人の星 7(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260104-4}}
*# 1995年7月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003572 |title=巨人の星 8(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260105-2}}
*# 1995年8月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003579 |title=巨人の星 9(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260112-5}}
*# 1995年8月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003580 |title=巨人の星 10(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260113-3}}
*# 1995年8月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003581 |title=巨人の星 11(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-11}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260114-1}}
==== HGT版 ====
* 梶原一騎(原作) / 川崎のぼる(作画) 『HGT版 巨人の星』 講談社〈KCデラックス〉、全7巻
*# 2003年5月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008116 |title=HGT版 巨人の星 1 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334709-5}}
*# 2003年6月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008117 |title=HGT版 巨人の星 2 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334710-9}}
*# 2003年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008118 |title=HGT版 巨人の星 3 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334711-7}}
*# 2003年8月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008119 |title=HGT版 巨人の星 4 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334712-5}}
*# 2003年9月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008120 |title=HGT版 巨人の星 5 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334713-3}}
*# 2003年10月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008121 |title=HGT版 巨人の星 6 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334714-1}}
*# 2003年11月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000008122 |title=HGT版 巨人の星 7 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334715-X}}
=== 新巨人の星 ===
==== 読売新聞社版 ====
* 梶原一騎(原作) / 川崎のぼる(作画) 『新巨人の星』 読売新聞社、全7巻
*# 「泥濘の章」1977年4月1日第1刷発行
*# 「鳴動の章」1977年7月15日第1刷発行
*# 「噴煙の章」1977年12月20日第1刷発行
*# 「青嵐の章」1978年5月1日第1刷発行
*# 「噴火の章」1978年9月1日第1刷発行
*# 「不死鳥の章」1979年1月10日第1刷発行
*# 「新魔球の章」1979年5月15日第1刷発行
==== 講談社コミックス版 ====
* 梶原一騎(原作) / 川崎のぼる(作画) 『新巨人の星』 講談社〈講談社コミックス〉、全11巻
*# 1978年8月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002683 |title=新巨人の星 1 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172530-0}}
*# 1978年8月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002684 |title=新巨人の星 2 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172531-9}}
*# 1979年3月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002685 |title=新巨人の星 3 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172532-7}}
*# 1979年3月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002686 |title=新巨人の星 4 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172533-5}}
*# 1979年8月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002687 |title=新巨人の星 5 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172534-3}}
*# 1979年8月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002688 |title=新巨人の星 6 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172535-1}}
*# 1979年12月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002689 |title=新巨人の星 7 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172536-X}}
*# 1979年12月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002690 |title=新巨人の星 8 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172537-8}}
*# 1980年4月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002691 |title=新巨人の星 9 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172538-6}}
*# 1980年4月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002692 |title=新巨人の星 10 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172539-4}}
*# 1980年8月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000002755 |title=新巨人の星 11 |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-172682-X}}
==== 講談社漫画文庫版 ====
* 梶原一騎(原作) / 川崎のぼる(作画) 『新巨人の星』 講談社〈講談社漫画文庫〉、全6巻
*# 1995年12月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003607 |title=新巨人の星 1(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260156-7}}
*# 1995年12月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003608 |title=新巨人の星 2(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260157-5}}
*# 1995年12月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003609 |title=新巨人の星 3(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260158-3}}
*# 1996年1月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003610 |title=新巨人の星 4(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260159-1}}
*# 1996年1月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003611 |title=新巨人の星 5(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260160-5}}
*# 1996年1月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000003612 |title=新巨人の星 6(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、{{ISBN2|4-06-260161-3}}
== イメージソング ==
アニメ化される1年前の1967年7月20日、[[キングレコード]]からLPレコード『[[週刊少年マガジン#レコード化|少年マガジン マンガ大行進]]』(規格品番:SKK(H)-354)が発売、当時『週刊少年マガジン』に連載されている漫画のイメージソングを集めたレコードで、本作もアニメ主題歌とは異なる、次の楽曲が収録された。
#'''巨人の星'''
:
:*作詞:梶原一騎 / 作曲:[[いずみたく]] / 編曲:[[松岡直也]] / 歌:[[友竹正則]]、[[ボニー・ジャックス]]
この楽曲は、[[石川進]]の「[[天才バカボン (曲)#1967年版|天才バカボン]]」とのカップリングでシングルカット(規格品番:BS-722)され、10万枚を売り上げた<ref>「ヒットが出ないテレビ主題歌 内容と離れ独走 絵もつけないと売れず」『[[読売新聞]]』1968年12月14日付夕刊、7頁。</ref> ほか、『巨人の星』DVD-BOX2の特典CDに収録されている。
== アニメ ==
『巨人の星』、『新・巨人の星』、『新・巨人の星II』としてTVアニメ化され、毎週土曜日の19時から19時30分までの30分番組として[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で全国放送された。また、2002年10月には花形満の視点でテレビアニメ『巨人の星』全182話を再構成した『巨人の星【特別篇】 猛虎 花形満』が[[WOWOW]]で放送され、2007年4月から日テレプラス&サイエンス(現・[[日テレプラス]])で、星一徹の視点で上記3シリーズを再構成した『巨人の星【特別篇】 父 一徹』が放送された。
{{Main|巨人の星 (アニメ)}}
==舞台==
1969年7月21日から8月29日まで、[[芸術座]]で「東宝みどりの会第一回公演」として上演された。
*脚本 岡島懃、横山美次
*演出・朗読 [[長岡輝子]]
*出演
**星一徹 [[中村吉右衛門 (2代目)|中村吉右衛門]](2代目)
**星飛有馬 河村稔(のちの[[志垣太郎]])
**伴宙太 亀谷雅彦
**花形満 吉田勝美
**星明子 鈴木えみ子(のちの[[有吉ひとみ]])
(『芸術座 25年のあゆみ』東宝、1984)による)
歌舞伎評論家で、当時[[東宝]]の演劇部に勤めていた[[渡辺保]]は、『私の歌舞伎遍歴』(演劇出版社、2012)で、[[菊田一夫]]の下でこの仕事にたずさわったと書いている。
== スーラジ ザ・ライジングスター ==
{{main|スーラジ ザ・ライジングスター}}
2012年12月から、インドの放送チャンネル「カラーズ」で、本作をベースにしたアニメ『[[スーラジ ザ・ライジングスター]]』<ref name="suraj-top">インド版:[http://www.surajtherisingstar.com/ Suraj The Rising Starのサイト](英語)</ref><ref name="colors-suraj">[http://colors.in.com/in/shows/suraj-the-rising-star-3593.html Suraj - The Rising Star Colors(Colors TV)]</ref> が放映された<ref>[http://www.asahi.com/culture/update/0106/TKY201201060543.html インドでも輝く?巨人の星 講談社、クリケット版放映へ](2012年1月 [[朝日新聞社]]) なお、この記事が掲載された当時は作品名が正式決定しておらず、仮題で『ライジング・スター』となっている。</ref>。インドで作られることになったのは、急速に経済成長を遂げ、原典及びアニメが作られた日本の[[高度経済成長#日本の例|高度経済成長期]]に近しい国内情勢となっており、本作のような「スポ根もの」が当たる可能性を見出したため、とされる<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/121201/asi12120112120002-n1.htm 「インド版巨人の星」が放映 大リーグ養成ギプスも登場](2012年12月 [[MSN産経ニュース]])</ref>。また、現地に進出している日本車や日本の家電メーカーの看板が劇中に登場するなど、日本製品のPRとしての側面もあり、[[スズキ (企業)|スズキ自動車]]や[[日清食品]]などインドに進出している企業のスポンサーだけでなく、[[経済産業省]]も支援を行っている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXBZO47360000X11C12A0000000/ ] インド版「巨人の星」の裏に意外な人脈図:日本経済新聞</ref>。
リメイク版は当初からインドで放送することを念頭に置いたため
* 登場人物は基本的にインド人(主人公の名前は「スーラジ」[[ヒンディー語]]で「太陽」)
* 舞台は経済成長で建設ラッシュが続く[[ムンバイ]]。
* インドでは馴染みのない野球から、国民的な球技である[[クリケット]]に変更。
など現地に合わせて設定を変更しているが、「元選手の父から、主人公が猛特訓を受ける」というストーリーラインや「裕福で才能のある美男子のライバル」「魔球」「養成ギプス」「ちゃぶ台<ref>インドではちゃぶ台を使う文化がないためテーブル的な家具</ref> 返し」などの特徴的な要素が再現されている<ref>[https://web.archive.org/web/20120109023427/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012010702000016.html インド版「巨人の星」 競技はクリケット 魔球も](2012年1月 [[東京新聞]])(2012年1月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
インドでの放送に先駆けて、2012年11月26日、日本のバラエティ番組『[[世界まる見え!テレビ特捜部|世界まる見え! テレビ特捜部]]』で、本作の一部映像が放送された。
== ラジオドラマ『巨人の星'95』 ==
[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ]]の特別番組「あざやかにスポーツシーン」内で放送された。いまだ現役の飛雄馬がオールスターで[[イチロー]]と対戦する内容。[[古谷徹]]、[[加藤精三 (声優)|加藤精三]]らが声優を務めた。「こひゅうま」と一徹が呼ぶ、飛雄馬の子供が登場するが、花形や左門は登場しない。
== パチンコ ==
* CR巨人の星(2002年、[[高尾 (パチンコメーカー)|高尾]])
* CR巨人の星2(2005年、高尾)
* CRびっくりぱちんこ巨人の星(2011年、[[京楽産業.]])
* CR巨人の星〜情熱の炎〜(2016年、[[サンセイアールアンドディ]])
** 元々は[[清原和博]]とのタイアップとして企画されたものであり、当初は演出の一部で清原と[[桑田真澄|桑田]]の実写映像を使用する予定であったが、清原が逮捕されたことで急遽仕様変更が行われた。
* CR巨人の星〜栄光の軌跡〜(2018年、[[サンセイアールアンドディ]])
*CR巨人の星〜一球入魂3000〜(2021年、[[サンセイアールアンドディ]])
== パチスロ ==
* [[巨人の星 (パチスロ)|巨人の星]](2003年、[[アリストクラートテクノロジーズ]])
* 巨人の星II(2004年、アリストクラートテクノロジーズ)
* 巨人の星III(2005年、アリストクラートテクノロジーズ)
* 巨人の星IV 青春群像編(2008年、アリストクラートテクノロジーズ)
* 頑固一徹(2011年、アリストクラートテクノロジーズ)
* 巨人の星V 汗と涙と根性編(2011年、アリストクラートテクノロジーズ)
* 巨人の星 猛虎花形(2013年、[[スパイキー (パチスロメーカー)|スパイキー]])
* パチスロ巨人の星 情熱編(2018年、サンセイアールアンドディ)
== モバイル ==
* 巨人の星 栄光の左腕(2003年、[[ナツメ]] [[講談社]])
* 熱闘リバーシ! 巨人の星 / 対戦リバーシ! 巨人の星(2003年、スペースアウト [[講談社]])
* 巨人の星(2011年、[[DeNA]] [[Mobage]])
パチンコ・パチスロシミュレーターアプリの配信も携帯電話端末向けにはされている。
== プロモーションキャラクターとしての活用 ==
[[NTT番号情報]]株式会社が運営する[[iタウンページ]]のプロモーションキャラクター(2010年)として、[[星一徹]]を宣伝大使とした「巨人の星」の登場キャラクターを使用している。また、プロモーション用の特設サイトを用意、巨人の星の原画をもとに、[[星飛雄馬]]、[[花形満]]、[[左門豊作]]、[[伴宙太]]、[[星明子]]等、各登場キャラクターが困ったときに、一徹が「[[iタウンページ]]で検索じゃ!」とiタウンページで検索することを強烈に勧めるオリジナルコミックをパソコンおよび携帯電話上で展開している(全50話)。また期間限定で同じく原画をもとにしたオリジナルテレビCMも全国で放映している。
== 備考 ==
* 『[[しくじり先生 俺みたいになるな!!]]』([[テレビ朝日]])で元日本代表の[[陸上競技]]・[[マラソン]]選手である[[瀬古利彦]]がゲスト講師で登場し、小学校時代の夢はプロ野球選手であり、きっかけは「『巨人の星』の星飛雄馬に憧れて野球選手になろうと思った」と語っている。また、劇中で星一徹が「野球で上手くなりたかったら走りなさい」と言った事から「野球選手になるには走るんだ」と思い、小学校まで1.5kmあった道のりを往復3キロほぼ毎日走っていた事や中学校でも野球部に入って学校まで5キロの道のりを往復10キロ毎日走り、ある日、陸上部の顧問に頼まれて陸上大会に出場したところ、県の新記録を出して県大会2冠となり、野球より陸上の方が向いていると思い、陸上に転向したエピソードを披露している<ref>[https://tvtopic.goo.ne.jp/program/ex/42565/1044439/ しくじり先生 俺みたいになるな!! 3時間スペシャル ] - goo tv関東版,2017年3月13日放送分</ref>。
* [[東野圭吾]]著「一徹おやじ」(『[[怪笑小説]]』に収録)では『巨人の星』をパロディにした内容となっており、一人娘である望美(のぞみ)を主人公(語り手)に父の待望の男の子(望美の弟)が誕生し、名前を「勇馬(ゆうま)」([[星飛雄馬]]がモデル)と名付け、息子をプロ野球選手にするのが夢である父は勇馬のために「プロ野球選手養成ギプス」を作り、試着した父が自身の身体を痛める挿話が描かれている。高校に進学した勇馬が入部した野球部に同輩としてバッテリーを組む事になる「番野」([[伴宙太]]がモデル)が登場する。
*『王選手とちゃぶ台返し』あまりエピソードとしては語られないが、星飛雄馬に野球の神髄を教えたのは、父一徹ではなく、早実校時代の王選手だった。「ちゃぶ台返し」という熟語の発祥(実はちゃぶ台返しそのものは作品には登場しない。それを彷彿させるワンシーンはあるが前後のシーンからいわゆるちゃぶ台返しではないとわかる)となったこの作品で、真に評価されるべくエピソードは、この王選手と飛雄馬少年の出会いである。 また飛雄馬の巨人入団直後にも、王選手が失意の飛雄馬に聞こえるように、さりげなく長嶋と自分の入団当時の思い出を語ることで、飛雄馬に教訓を与えている。
== エピソード ==
* [[エポック社]]のヒット商品である「[[野球盤]]」には、本作の人気にあやかって「消える魔球」機能が搭載された。ホームベース手前で羽目板が沈んでボールがボード下に潜り込む仕組みで、その後も「SFF」などに名を変えて同シリーズに使われ続けた。
* [[東映]]が本作のテレビ作品化に動いたことがある。当時東映が所有していた[[プロ野球球団]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]([[パシフィック・リーグ]]所属。現:北海道日本ハムファイターズ)に因んでタイトルを'''「東映フライヤーズの星」'''に変え、東映の資本下にあった[[テレビ朝日|NETテレビ]](現:テレビ朝日)での放映を構想していたが、先に[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]に放映権を獲得されたために叶わなかった<ref>[[大下英治]]『日本 (ジャパニーズ) ヒーローは世界を制す』[[角川書店]]、1995年、92頁。ISBN 9784048834162</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2010年8月|section=1}}
* 梶原一騎 『小説 巨人の星』1 - 5(講談社、1968)
* 山本鎭雄 「劇画『巨人の星』を読む(第2部・第3部補遺)」 『社会学的世界 増補改訂版』 (恒星社厚生閣、2001)
* [[河崎実]]と重いコンダラ友の会『「巨人の星」の謎』(宝島社、1993)
* 安恒理『「巨人の星」から「ルパン三世」まで"アフター・ストーリー"全掲載!!―気になる名作マンガ"ヒーローたちのその後"』(辰巳出版)
** 『巨人のサムライ炎』の一部が紹介されている。ただし、この本は誤植が非常に多い。
* [[豊福きこう]]著『水原勇気1勝3敗12S』
** 講談社文庫。1992年に情報センター出版局より刊行された『水原勇気0勝3敗11S』を改題して刊行したもの。『巨人の星』のデータを検証している。
* [[堀井憲一郎]]著『「巨人の星」に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ』(講談社文庫)
* [[柳田理科雄]]著『空想科学読本2』、『空想科学漫画読本1〜4』
== 関連項目 ==
* [[日本テレビ系アニメ]]
* [[魔球]]
* [[コンダラ]]
* [[スポ根]]
* [[東京ジャイアンツ (小惑星)]]
* [[新約「巨人の星」花形]]
* [[星孝典]]
==外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20140722224729/http://kc.kodansha.co.jp/content/top.php/1000000082 巨人の星 作品紹介] - 講談社コミックプラス
* [https://web.archive.org/web/20140722214655/http://kc.kodansha.co.jp/content/top.php/1000003353 新 巨人の星 作品紹介] - 講談社コミックプラス
{{巨人の星}}
{{講談社児童まんが賞}}
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[[Category:巨人の星|*]]
[[Category:梶原一騎]]
[[Category:川崎のぼるの漫画作品]]
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[[Category:高度経済成長期の日本を舞台とした漫画作品]]
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Enterprise JavaBeans
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Enterprise JavaBeans (EJB) とは、JavaBeans仕様と同様のものを、ネットワーク分散型ビジネスアプリケーションのサーバサイドで実現した仕様のこと。セキュリティ機能などを備える。サン・マイクロシステムズ(サン)がJava EE(現・Jakarta EE)仕様の中でビジネスロジックをモデル化およびデータの永続化のために作成した。データベースやアプリケーションサーバなどで実装されている。
EJBは元々、OMGのCORBAやサンのRMIといった分散オブジェクトに由来する技術であり、RMIをベースにビジネスロジックを実装するコンポーネントとして誕生した。最初の実装はJavaの誕生から3年後の1998年頃に登場している。こうした経緯から、当初策定されたEJBはリモートアクセスを想定した複雑な実装が必須となっており、デプロイメント記述子と呼ばれるXMLの設定ファイルもかかせないものだった。また、EJB 1.0では主要な要素としてセッションBeanのみが定義されており、エンティティBeanはオプションという扱いであった。2003年のJ2EE 1.4で定義されたEJB 2.0では、EJBが分散オブジェクトとして使われることは稀であるという実情を踏まえ、ローカルインタフェースの追加が行われている。またメッセージ駆動型Beanが仕様に組み込まれた。
しかしEJBの仕様は依然複雑なものであり、EJBに代わってより軽量なSpring FrameworkやPOJOといった考え方を用いる動きが活発化する。こうした流れを受け、2007年のJava EE 5で定義されたEJB 3.0では、DIやPOJOといった考え方を取り入れる形で仕様の全面的な見直しが行われる。EJBの各クラスは単なるPOJOとなり、J2SE 5.0で導入されたアノテーションによりEJBとしての宣言を行う形式とされた。設定ファイルも不要となり、エンティティBeanは独立した永続化フレームワークであるJava Persistence APIに置き換えられた。
その後も改良は続けられており、2009年のJava EE 6で定義されたEJB 3.1では、シングルトンセッションBeanの追加や、セッションBeanを中心とするコンポーネントのみを抽出したEJB Liteと呼ばれるサブセットの定義が行われており、2013年のJava EE 7で定義されたEJB 3.2では、非同期処理のEJB Liteへの導入や不要となったエンティティBeanが仕様から取り除かれるなどしている。
EJBは、大きく以下の三つの種類のBeansに分けられる。
EJBの簡単な例を以下に示す。
上記のコードは、O/Rマッピングを使用して顧客 (Customer) オブジェクトを永続化(DBに保存)するサービスクラス(セッションBean)である。EJBが永続コンテキスト (Persistence context) の管理を行うため、実際にデータを登録するaddCustomer()メソッドは、デフォルトでトランザクション管理されたスレッドセーフなメソッドとなる。上記のコードは、EJBのビジネスロジックと永続化に焦点を当てたもので、EJBの特徴的な機能の数々は使用していない。
こうしたEJBのセッションBeanは、以下のように他のクラスから呼び出して使用することができる。以下はWeb層からの呼び出し例である。
上記のコードは、EJBのセッションBeanを@EJBアノテーションにより注入した、JavaServer Faces (JSF) の管理Bean (Managed Bean) である。今度のaddCustomer()メソッドは、UIコンポーネントにおけるボタン操作などを表現している。EJBのセッションBeanとは逆に、この管理Beanにはビジネスロジックに関するコードも永続化に関するコードも含まれていないが、EJBのコードを呼び出すことでそうした処理を実現している。EJBはプレゼンテーション層に依存せず、それらの役割は管理Beanが担う。
EJBを管理し、動作させるための実行環境はEJBコンテナと呼ばれる。EJBコンポーネントが動作するときに利用するデータベースへのコネクションやトランザクションの管理も同時に行う。
EJBコンテナの代表例としてJBossなどが挙げられる。またJavaEEサーバーはEJBコンテナを含んでいる。
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Enterprise JavaBeans (EJB) とは、JavaBeans仕様と同様のものを、ネットワーク分散型ビジネスアプリケーションのサーバサイドで実現した仕様のこと。セキュリティ機能などを備える。サン・マイクロシステムズ(サン)がJava EE仕様の中でビジネスロジックをモデル化およびデータの永続化のために作成した。データベースやアプリケーションサーバなどで実装されている。
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{{出典の明記|date=2021年6月}}
'''Enterprise JavaBeans''' ('''EJB''') とは、[[JavaBeans]]仕様と同様のものを、[[分散コンピューティング|ネットワーク分散型]]ビジネスアプリケーションのサーバサイドで実現した[[仕様]]のこと。[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]機能などを備える。[[サン・マイクロシステムズ]](サン)がJava EE(現・[[Jakarta EE]])仕様の中で[[ビジネスロジック]]をモデル化およびデータの[[永続性|永続化]]のために作成した。[[データベース]]や[[アプリケーションサーバ]]などで実装されている。
== 歴史 ==
EJBは元々、[[Object Management Group|OMG]]の[[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]やサンの[[Java Remote Method Invocation|RMI]]といった分散オブジェクトに由来する技術であり、RMIをベースにビジネスロジックを実装するコンポーネントとして誕生した。最初の実装は[[Java]]の誕生から3年後の[[1998年]]頃に登場している。こうした経緯から、当初策定されたEJBはリモートアクセスを想定した複雑な実装が必須となっており、デプロイメント記述子と呼ばれるXMLの設定ファイルもかかせないものだった。また、EJB 1.0では主要な要素としてセッションBeanのみが定義されており、エンティティBeanはオプションという扱いであった。[[2003年]]のJ2EE 1.4で定義されたEJB 2.0では、EJBが分散オブジェクトとして使われることは稀であるという実情を踏まえ、ローカルインタフェースの追加が行われている。またメッセージ駆動型Beanが仕様に組み込まれた。<ref name="thinkit20070912">{{Cite web|和書|url=http://thinkit.co.jp/free/article/0709/14/1/|title=第1回 EJBのすべてを知る|work=EJB 3を再考する|publisher=Think IT|date=2007-09-12|accessdate=2014-02-19}}</ref>
しかしEJBの仕様は依然複雑なものであり、EJBに代わってより軽量な[[Spring Framework]]や[[Plain Old Java Object|POJO]]といった考え方を用いる動きが活発化する。こうした流れを受け、[[2007年]]のJava EE 5で定義されたEJB 3.0では、[[依存性の注入|DI]]やPOJOといった考え方を取り入れる形で仕様の全面的な見直しが行われる。EJBの各クラスは単なるPOJOとなり、J2SE 5.0で導入された[[アノテーション]]によりEJBとしての宣言を行う形式とされた。設定ファイルも不要となり、エンティティBeanは独立した永続化フレームワークである[[Java Persistence API]]に置き換えられた。<ref name="thinkit20070912" />
その後も改良は続けられており、[[2009年]]のJava EE 6で定義されたEJB 3.1では、シングルトンセッションBeanの追加や、セッションBeanを中心とするコンポーネントのみを抽出したEJB Liteと呼ばれるサブセットの定義が行われており<ref name="infoq20100225">{{Cite web|和書|url=http://www.infoq.com/jp/news/2010/02/jee6_ejb_31|title=Java EE6:EJB3.1は、すばらしい進化だ|publisher=infoQ|date=2010-02-25|accessdate=2014-02-19}}</ref>、[[2013年]]のJava EE 7で定義されたEJB 3.2では、非同期処理のEJB Liteへの導入や不要となったエンティティBeanが仕様から取り除かれるなどしている<ref>{{Cite web|url=https://blogs.oracle.com/arungupta/entry/what_s_new_in_ejb|title=What's new in EJB 3.2 ? - Java EE 7 chugging along!|publisher=Oracle|language=英語|date=2012-11-26|accessdate=2014-02-19}}</ref>。
== EJBの種類 ==
EJBは、大きく以下の三つの種類の[[JavaBeans|Beans]]に分けられる。
;セッションBean (Session Bean)
:[[セッション]]を保持し、一時的なロジックを保存する[[オブジェクト]]。以下のような種類がある。
:* ステートフルセッションBean (Stateful Session Bean) : クライアントごとの状態 (State) を保持するセッションBean。
:* ステートレスセッションBean (Stateless Session Bean) : クライアントごとの状態を保持しないセッションBean。
:* シングルトンセッションBean (Singleton Session Bean) : 常に同じインスタンスへのアクセスが保証されている[[Singleton パターン|シングルトン]]なセッションBean。<ref name="infoq20100225" />
;メッセージ駆動型Bean (Message Driven Bean)
:非同期処理の記述など。
;エンティティBean (Entity Bean)
:永続的なデータを保存するオブジェクト。EJB 3.2で廃止。
== 例 ==
EJBの簡単な例を以下に示す。
<syntaxhighlight lang=java>
@Stateless
public class CustomerService {
@PersistenceContext
private EntityManager entityManager;
public void addCustomer(Customer customer) {
entityManager.persist(customer);
}
}
</syntaxhighlight>
上記のコードは、[[オブジェクト関係マッピング|O/Rマッピング]]を使用して顧客 (Customer) オブジェクトを[[永続性|永続化]]([[データベース|DB]]に保存)するサービスクラス(セッションBean)である。EJBが永続コンテキスト (Persistence context) の管理を行うため、実際にデータを登録するaddCustomer()[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]は、[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]で[[トランザクション]]管理された[[スレッドセーフ]]なメソッドとなる。上記のコードは、EJBの[[ビジネスロジック]]と永続化に焦点を当てたもので、EJBの特徴的な機能の数々は使用していない。
こうしたEJBのセッションBeanは、以下のように他のクラスから呼び出して使用することができる。以下はWeb層からの呼び出し例である。
<syntaxhighlight lang=java>
@Named
@RequestScoped
public class CustomerBacking {
@EJB
private CustomerService customerService;
public String addCustomer(Customer customer) {
customerService.addCustomer(customer);
context.addMessage(...); // (省略)メッセージ出力など
return "customer_overview";
}
}
</syntaxhighlight>
上記のコードは、EJBのセッションBeanを@EJB[[アノテーション]]により[[依存性の注入|注入]]した、[[JavaServer Faces]] (JSF) の管理Bean (Managed Bean) である。今度のaddCustomer()メソッドは、[[ユーザインタフェース|UI]]コンポーネントにおけるボタン操作などを表現している。EJBのセッションBeanとは逆に、この管理Beanにはビジネスロジックに関するコードも永続化に関するコードも含まれていないが、EJBのコードを呼び出すことでそうした処理を実現している。EJBはプレゼンテーション層に依存せず、それらの役割は管理Beanが担う。
== EJBコンテナ ==
EJBを管理し、動作させるための実行環境はEJBコンテナと呼ばれる。EJBコンポーネントが動作するときに利用するデータベースへのコネクションやトランザクションの管理も同時に行う。
EJBコンテナの代表例として[[JBoss]]などが挙げられる。またJavaEEサーバーはEJBコンテナを含んでいる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|Java|Java}}
* [[Java Persistence API]]
* [[Spring Framework]]
== 外部リンク ==
* [http://jcp.org/en/jsr/detail?id=905 JSR 905: Enterprise JavaBeans<small><sup>TM</sup></small> Specification Version 1.1, Errata Sheet, 5/4/2000] {{En icon}}
* [http://jcp.org/en/jsr/detail?id=19 JSR 19: Enterprise JavaBeans<small><sup>TM</sup></small> 2.0] {{En icon}}
* [http://jcp.org/en/jsr/detail?id=153 JSR 153: Enterprise JavaBeans<small><sup>TM</sup></small> 2.1] {{En icon}}
* [http://jcp.org/en/jsr/detail?id=220 JSR 220: Enterprise JavaBeans<small><sup>TM</sup></small> 3.0] {{En icon}}
* [http://jcp.org/en/jsr/detail?id=318 JSR 318: Enterprise JavaBeans<small><sup>TM</sup></small> 3.1] {{En icon}}
{{Java}}
{{Software-stub}}
[[Category:Java]]
[[Category:Java specification requests]]
[[Category:Java enterprise platform]]
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2023-09-26T05:50:00Z
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"Template:出典の明記",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Enterprise_JavaBeans
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JavaBeans
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JavaBeans(ジャバ ビーンズ)とは、Javaで書かれた再利用可能なソフトウェアコンポーネントまたはその技術仕様のこと。1997年後半に登場。JDKのjava.beansパッケージと共にRAD環境の構築を支援するために作られた。現在ではjava.beansパッケージの技術を活用し、RAD環境の構築に限らずJSP等幅広い用途で利用されている。
Java Beansはプログラムの再利用を目的としており、汎用的なロジックで構成されているクラスである。Javaで作成された移植可能なプラットフォームに依存しないコンポーネント・モデルで、JavaBean仕様に従う。 サーバーサイド向けのJavaBeansはEnterprise JavaBeansと呼ばれている。 java.beansパッケージには、Beanの要件に沿ったGUIコンポーネントを編集するためのインターフェースとなるクラスが用意されており、それらのクラスを利用することでRAD環境の開発者はGUIコンポーネントのクラスに依存しないRAD環境を構築することができると共に、構築を効率化することができる。
など。
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JavaBeansとは、Javaで書かれた再利用可能なソフトウェアコンポーネントまたはその技術仕様のこと。1997年後半に登場。JDKのjava.beansパッケージと共にRAD環境の構築を支援するために作られた。現在ではjava.beansパッケージの技術を活用し、RAD環境の構築に限らずJSP等幅広い用途で利用されている。
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'''JavaBeans'''(ジャバ ビーンズ)とは、[[Java]]で書かれた再利用可能な[[ソフトウェアコンポーネント]]またはその技術仕様のこと。[[1997年]]後半に登場。JDKの<code>java.beans</code>パッケージと共に[[RAD (計算機プログラミング環境)|RAD]]環境の構築を支援するために作られた。現在では<code>java.beans</code>パッケージの技術を活用し、RAD環境の構築に限らずJSP等幅広い用途で利用されている。
== 概要 ==
Java Beansはプログラムの再利用を目的としており、汎用的なロジックで構成されているクラスである。Javaで作成された移植可能なプラットフォームに依存しないコンポーネント・モデルで、JavaBean仕様に従う<ref>[http://otndnld.oracle.co.jp/tech/java/htdocs/java_roadmap/glossary.htm#434709 オラクルの用語集より]</ref>。
サーバーサイド向けのJavaBeansは[[Enterprise JavaBeans]]と呼ばれている。
<code>java.beans</code>パッケージには、Beanの要件に沿ったGUIコンポーネントを編集するためのインターフェースとなるクラスが用意されており<ref>https://docs.oracle.com/javase/jp/6/api/java/beans/package-summary.html</ref>、それらのクラスを利用することでRAD環境の開発者はGUIコンポーネントのクラスに依存しないRAD環境を構築することができると共に、構築を効率化することができる。
== Beanの必要条件 ==
*publicで引数なしの[[コンストラクタ]]が必要
*[[メソッド]]の命名規則に従わなくてはならない(getter/setterメソッドが必要など)
*[[シリアライズ]]可能でなくてはならない
など。
== 役割 ==
<code>java.util.Observable</code>や<code>java.beans.PropertyChangeSupport</code>と組み合わせることで[[Model View Controller]](MVC)ではModelに相当する役割をさせることができる。
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
*[[Enterprise JavaBeans|EJB]]
== 外部リンク ==
*https://docs.oracle.com/javase/jp/6/api/java/beans/package-summary.html
*[https://docs.oracle.com/javase/jp/1.5.0/guide/beans/index.html JavaBeans Component API]
*[http://otndnld.oracle.co.jp/tech/java/htdocs/java_roadmap/javabean/listing.htm Oracle Javaロードマップ:JavaBeans]
{{Java}}
[[Category:Javaプラットフォーム]]
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"Template:Java"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/JavaBeans
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天台宗
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天台宗(てんだいしゅう, Tiantai)は、中国を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とするため、天台法華宗()とも呼ばれる。名称は、実質的開祖の智顗が天台山に住んでいたということに由来する。
天台教学は入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。今日では中国、日本、朝鮮、ベトナムに信徒を持つ。
天台宗は、中国(隋)の天台智者大師、智顗を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、括州天台山国清寺と荊州当陽玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南嶽慧思であり、慧思の弟子が智顗である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが慧思を介して智顗に継承された。
智顗は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は鳩摩羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智顗の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智顗の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。
智顗の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅宗の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、潙仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。智顗の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。
このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
最澄以前から、律宗と天台宗を兼学した鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が数多く日本に入るなどしていた。
伝教大師最澄が804年(延暦23年)から翌805年にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を本場で学んだ。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、806年1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した具足戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の866年(貞観8年)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
9世紀に空海がもたらした密教は日本仏教の中心になる中、天台宗も密教を取り込もうと考えるようになる(#天台密教の項も参照)。そして、円仁と円珍の努力で密教理論が整えられていった。しかしその後、円仁と円珍双方の弟子が解釈を巡って対立するようになる。993年には円仁派が円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起きた。そして、円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、園城寺を拠点とするようになった。以降、円仁派は「山門派」、円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになる。そのような中、平安時代中期には、第18世座主の良源によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の源信(恵心僧都)が著した「往生要集」が、後の浄土教の発展につながった。
平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれている。特に法然の専修念仏をめぐっては激しい争いが発生し、延暦寺奏状による念仏停止決議や嘉禄の法難が起きた。日蓮宗とは天文法華の乱で軍事衝突に至った。
16世紀、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると天海が立て直し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅宗、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁・円珍などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
真言密教と天台密教の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊を久遠実成の釈迦如来としていることである。
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
義天(大覚国師、1055年-1101年)によって高麗時代の11世紀後半に伝えられた。
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"text": "最澄以前から、律宗と天台宗を兼学した鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が数多く日本に入るなどしていた。",
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"text": "伝教大師最澄が804年(延暦23年)から翌805年にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を本場で学んだ。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、806年1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。",
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"text": "この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した具足戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の866年(貞観8年)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。",
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"text": "9世紀に空海がもたらした密教は日本仏教の中心になる中、天台宗も密教を取り込もうと考えるようになる(#天台密教の項も参照)。そして、円仁と円珍の努力で密教理論が整えられていった。しかしその後、円仁と円珍双方の弟子が解釈を巡って対立するようになる。993年には円仁派が円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起きた。そして、円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、園城寺を拠点とするようになった。以降、円仁派は「山門派」、円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになる。そのような中、平安時代中期には、第18世座主の良源によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の源信(恵心僧都)が著した「往生要集」が、後の浄土教の発展につながった。",
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"text": "平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれている。特に法然の専修念仏をめぐっては激しい争いが発生し、延暦寺奏状による念仏停止決議や嘉禄の法難が起きた。日蓮宗とは天文法華の乱で軍事衝突に至った。",
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"text": "16世紀、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると天海が立て直し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという。",
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"text": "真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。",
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"text": "当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。",
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"text": "しかし日本天台宗の宗祖・最澄が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。",
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"text": "とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅宗、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁・円珍などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。",
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"text": "真言密教と天台密教の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊を久遠実成の釈迦如来としていることである。",
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"text": "また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。",
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"text": "天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。",
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"text": "義天(大覚国師、1055年-1101年)によって高麗時代の11世紀後半に伝えられた。",
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] |
天台宗は、中国を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とするため、天台法華宗とも呼ばれる。名称は、実質的開祖の智顗が天台山に住んでいたということに由来する。 天台教学は入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。今日では中国、日本、朝鮮、ベトナムに信徒を持つ。
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{{出典の明記|date=2015年9月20日 (日) 07:13 (UTC)}}
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'''天台宗'''(てんだいしゅう, Tiantai)は、[[中国]]を発祥とする[[大乗仏教]]の宗派のひとつである。妙法蓮華経([[法華経]])を根本[[仏典]]とするため{{sfn|Groner|2000|p=199–200}}、{{読み仮名|'''天台法華宗'''|てんだいほっけしゅう}}とも呼ばれる<ref name=kotobank>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97-102546 天台宗とは] - [[コトバンク]]/[[世界大百科事典]]</ref>。名称は、実質的開祖の[[智顗]]が[[天台山]]に住んでいたということに由来する{{sfn|Snelling|1987|p=154}}。
天台教学は入[[唐]]した[[最澄]](伝教大師)によって[[平安時代]]初期([[9世紀]])に日本に伝えられ、多くの[[日本の仏教|日本仏教]]の宗旨がここから展開した。今日では中国、日本、朝鮮、ベトナムに信徒を持つ{{sfn|Groner|2000|p=199–200}}。
{{TOC limit|4}}
== 歴史 ==
[[File:Sramana Zhiyi.jpeg|thumb|left|[[智顗]]大師]]
天台宗は、中国([[隋]])の天台智者大師、[[智顗]]を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は隋の第2代[[皇帝]][[煬帝]]の帰依を受け、[[括州]][[天台山]][[天台山国清寺|国清寺]]と[[荊州]][[当陽玉泉寺]]を建立し、天台宗を確立した<ref name="kotobank" />。
初祖は[[北斉]]の[[慧文]]、第二祖は[[衡山|南嶽]][[慧思]]であり、慧思の弟子が智顗である([[龍樹]]を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『[[大智度論]]』と『[[中論]]』に依って「[[一心三観]]」の仏理を無師独悟したとされる。それが慧思を介して智顗に継承された。
智顗は、[[鳩摩羅什]]訳の『[[法華経]]』『[[摩訶般若波羅蜜経]]』『大智度論』、そして『[[涅槃経]]』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた[[五時八教]]という[[教相判釈]](経典成立論)を説き、[[止観]]によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は鳩摩羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
[[天台山]]に宗派の礎ができた後、[[涅槃宗]]を吸収し天台宗が確立した。主に智顗の『[[法華玄義]]』『[[法華文句]]』『[[摩訶止観]]』の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智顗の著作を記録し編集したのが、第四祖[[章安灌頂]]である。灌頂の弟子に[[智威]](?-[[680年]])があり、その弟子に[[慧威]]([[634年]]-[[713年]])が出て、その後に[[左渓玄朗]]が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓[[湛然]]が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に[[道邃]]と[[行満]]が出て、彼等が[[最澄]]に天台教学を伝えた。
智顗の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は[[禅宗]]の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の[[悟り]]を述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、[[華厳宗]]の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、潙仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の[[禅宗]]とは別物である。智顗の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。
このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている([[関口真大]])
== 日本の天台宗 ==
{{Infobox 組織
|名称 = 天台宗
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|英文名称 =
|画像 = File:Enryakuji Konponchudo02s5s3200.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 総本山:比叡山[[延暦寺]]
|種類 =
|地位 = [[宗教法人]]
|目的 =
|本部 = 天台宗務庁
|所在地 = 滋賀県大津市坂本4丁目6番2号
|幹部呼称 = 天台座主
|幹部氏名 = 大樹孝啓
|人物 = <!-- 重要人物 -->
|機関 =
|法人番号 = 5160005001213
|ウェブサイト = {{URL|https://www.tendai.or.jp/}}
}}
正式名称は天台法華円宗。'''法華円宗'''、'''天台法華宗'''、あるいは、単に'''法華宗'''などとも称する。但し、最後の呼び名は[[日蓮]]教学の[[法華宗]]と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
=== 最澄以前の天台教学 ===
最澄以前から、[[律宗]]と天台宗を兼学した[[鑑真]]和上が来日して天台宗関連の典籍が数多く日本に入るなどしていた<ref>[http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen21.htm 王 勇『鑑真和上はなぜ海を渡ったのか:中国から見た日本』 - 大阪国際宗教同志会 平成16年度第2回例会 記念講演]</ref>。
=== 最澄入唐以後の天台教学 ===
[[File:最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg|thumb|right|[[最澄]]]]
伝教大師'''[[最澄]]'''が[[804年]]([[延暦]]23年)から翌[[805年]]にかけて[[唐]]に渡って[[天台山]]にのぼり、天台教学を本場で学んだ。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、[[806年]]1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には[[法相宗]]や[[華厳宗]]など[[南都六宗]]が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山'''[[延暦寺]]'''に戻り、後年[[円仁]](慈覚大師)・[[円珍]](智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、[[奈良仏教]]と論争が起こる。特に法相宗の[[徳一]]との[[三一権実諍論]]は有名である。また、鑑真和上が招来した[[具足戒]]を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]を設立し、[[大乗戒]]([[円頓戒]])を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の866年([[貞観 (日本)|貞観]]8年)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
9世紀に空海がもたらした[[密教]]は日本仏教の中心になる中、天台宗も密教を取り込もうと考えるようになる([[#天台密教]]の項も参照)。そして、円仁と円珍の努力で密教理論が整えられていった。しかしその後、円仁と円珍双方の弟子が解釈を巡って対立するようになる。[[993年]]には円仁派が円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起きた。そして、円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、[[園城寺]]を拠点とするようになった。以降、円仁派は「[[山門派]]」、円珍派は「[[寺門派]]」と呼ばれるようになる<ref>日本博学倶楽部「学び直す日本史 古代編」PHP研究所、2013年</ref>。そのような中、平安時代中期には、第18世座主の[[良源]]によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の[[源信 (僧侶)|源信]](恵心僧都)が著した「[[往生要集]]」が、後の[[浄土教]]の発展につながった。
平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、[[法然]]や[[明菴栄西|栄西]]、[[親鸞]]、[[道元]]、[[日蓮]]といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれている。特に[[法然]]の専修念仏をめぐっては激しい争いが発生し、[[承元の法難|延暦寺奏状]]による念仏停止決議や[[嘉禄の法難]]が起きた<ref>[http://komyoji-kamakura.or.jp/%E6%B3%95%E7%84%B6%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ 法然上人について | 浄土宗大本山光明寺]</ref>。[[日蓮宗]]とは[[天文法華の乱]]で軍事衝突に至った。
16世紀、延暦寺は[[織田信長]]の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると[[天海]]が立て直し、特に[[寛永寺]]は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという<ref>http://www.tendai.or.jp/rekishi/index.php</ref>。
=== 天台密教 ===
[[真言宗]]の密教を[[東密]]と呼ぶのに対し、天台宗の[[密教]]は[[台密]]と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる[[智顗]]が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した'''五時八教の[[教相判釈]]'''を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、[[順暁]]から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に[[空海]]が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅宗、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁・円珍などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
真言密教と天台密教の違いは、東密は[[大日如来]]を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊を久遠実成の[[釈迦如来]]としていることである。
=== 四宗兼学 ===
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は'''四宗兼学'''の道場とも呼ばれている。[[井沢元彦]]はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった[[金剛峯寺]]に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
=== 止観行 ===
天台宗の修行は[[法華経]]の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台[[本覚思想]]を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、[[平安時代|平安]]末期から[[鎌倉時代]]にかけて[[融通念仏宗]]・[[浄土宗]]・[[浄土真宗]]・[[臨済宗]]・[[曹洞宗]]・[[日蓮宗]]などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
=== 所依 ===
*[[法華経]]
*[[涅槃経]]
*[[大品経]]
*[[大智度論]]
=== 主要寺院(寺格) ===
==== 天台宗([[山門派]])====
=====総本山=====
* [[比叡山]][[延暦寺]]([[滋賀県]][[大津市]])
=====門跡寺院=====
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。江戸時代には、[[方広寺]]は[[妙法院]]の管理下にあった。]]
* [[滋賀院]](大津市)
* [[妙法院]](京都市[[東山区]])
* 魚山[[三千院]]([[京都市]][[左京区]])
* [[青蓮院]](京都市東山区)
* [[曼殊院]](京都市左京区)
* [[毘沙門堂]](京都市山科区)
=====大本山=====
* 関山[[中尊寺]]([[岩手県]][[西磐井郡]][[平泉町]])
* 日光山[[輪王寺]]([[栃木県]][[日光市]])
* 東叡山[[寛永寺]]([[東京都]][[台東区]])
* 定額山[[善光寺]]大勧進([[長野県]][[長野市]])
=====別格本山=====
{{Columns-list|2|
* [[毛越寺]]([[岩手県]][[西磐井郡]][[平泉町]])
* 瑞国海岸山[[観音寺 (気仙沼市)|観音寺]]([[宮城県]][[気仙沼市]])
* 正覚山蓮前院[[安楽寺 (常総市)|安楽寺]]([[茨城県]][[常総市]])
* 星野山[[中院]]([[埼玉県]][[川越市]])
* [[狭山不動尊|狭山山不動寺]]([[埼玉県]][[所沢市]])
* 大鱗山雲洞院[[天龍寺 (飯能市)|天龍寺]](埼玉県[[飯能市]])
* 浮岳山昌楽院[[深大寺]](東京都[[調布市]])
* 金剛山[[常楽寺 (上田市)|常楽寺]]([[長野県]][[上田市]])
* 宝積山[[光前寺]](長野県[[駒ヶ根市]])
* 龍谷山[[水間寺]]([[大阪府]][[貝塚市]])
* 書写山[[圓教寺 (姫路市)|圓教寺]](兵庫県[[姫路市]])
* [[大山寺 (鳥取県大山町)|大山寺]]([[鳥取県]][[大山町]])
* 補陀落山[[長尾寺]]([[香川県]][[さぬき市]])
* 契山大興善寺([[佐賀県]][[基山町]])
* 六郷満山[[両子寺]]([[大分県]][[国東市]])
}}
=====その他の寺院=====
{{Columns-list|2|
* 谷汲山[[観音寺 (音更町)|観音寺]]([[北海道]][[河東郡]][[音更町]])
* 青柳山談義堂院[[龍蔵寺 (前橋市)|龍蔵寺]]([[群馬県]][[前橋市]]、青柳大師)
* 春日岡山転法輪院[[惣宗寺]]([[栃木県]][[佐野市]]、佐野厄除け大師)
* 星野山[[喜多院]]([[埼玉県]][[川越市]]、川越大師)
* 泰叡山[[瀧泉寺]]([[東京都]][[目黒区]]、目黒不動尊)
* 谷汲山[[華厳寺]]([[岐阜県]][[揖斐郡]][[揖斐川町]])
* 清香山[[寂光院]](京都市左京区)
* 根本山[[神峯山寺]]([[大阪府]][[高槻市]])
* 三身山[[太山寺 (神戸市)|太山寺]]([[兵庫県]][[神戸市]])
* [[三徳山]][[三仏寺|三佛寺]]([[鳥取県]][[東伯郡]][[三朝町]])
* 清水山[[観世音寺]]([[福岡県]][[太宰府市]])
* [[釈迦院 (八代市)|金海山大恩教寺釈迦院]]([[熊本県]][[八代市]])
* [[阿蘇山]][[西巌殿寺]]([[熊本県]][[阿蘇市]])
* [[福王寺 (山都町)|福王寺]]([[熊本県]][[山都町]]、宮司兼豪族であった中世[[阿蘇氏]]の菩提寺である)
}}
==== [[天台寺門宗]] ====
* 総本山 長等山[[園城寺]](三井寺)(滋賀県大津市)
==== [[天台真盛宗]] ====
* 総本山 戒光山[[西教寺]](滋賀県大津市)
=== その他天台系宗派===
*聖観音宗
** [[浅草寺]]([[東京都]][[台東区]])
*和宗
**[[四天王寺]]([[大阪市]][[天王寺区]])
*本山修験宗(寺門派系)
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** [[金峯山寺]]([[奈良県]][[吉野郡]][[吉野町]])
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**[[遣迎院]](京都市[[北区 (京都市)|北区]])
*[[妙見宗]]
**[[本瀧寺]]([[大阪府]][[豊能郡]][[能勢町]])
*粉河観音宗
**[[粉河寺]]([[和歌山県]][[紀の川市]][[粉河]])
*善峰観音宗
**[[善峰寺]]([[京都府]][[京都市]][[西京区]])
==== 天台宗系新宗教 ====
*[[念法眞教]]
*[[孝道教団]]
*[[鞍馬弘教]]
=== 教育機関 ===
==== 大学 ====
* [[大正大学]]
==== 天台宗系中学校・高等学校 ====
* [[比叡山中学校・高等学校]]
* [[駒込中学校・高等学校]]
==== 養成機関 ====
* 叡山学院
=== 社会運動 ===
* 元天台座主の渡邊惠進が、[[日本会議]]の顧問を務めている。
== 韓国の天台宗 ==
[[義天]](大覚国師、1055年-1101年)によって高麗時代の11世紀後半に伝えられた。
* 本山[[救仁寺]]([[忠清北道]][[丹陽郡]])
==脚注・出典==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation | last =Snelling | first=John | year= 1987 |title =The Buddhist handbook. A Complete Guide to Buddhist Teaching and Practice | place =London | publisher =Century Paperbacks}}
* {{citation|last=Groner|first=Paul|title=Saicho : The Establishment of the Japanese Tendai School|year=2000|publisher=University of Hawaii Press|isbn=0824823710|pages=}}
== 関連項目 ==
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{{Commonscat|Tendai|日本の天台系仏教}}
* [[大正大学]]
* [[天台座主]]
* [[慈眼堂 (大津市)|慈眼堂]] - 歴代天台座主墓所
* [[天台寺門宗]](寺門派)
* [[天台真盛宗]](総本山[[西教寺]])
* [[和宗]]
* [[聖観音宗]]
* [[金峯山修験本宗]]
* [[修験道]]
** [[出羽三山]]
* [[天台宗弾誓派]]
* [[天台證門宗]](総本山[[大雲寺 (京都市)|大雲寺]])
* [[妙見宗]]
* [[山門寺門の争い]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tendai.or.jp/ 天台宗ホームページ]
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大統領制
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大統領制(だいとうりょうせい、英: presidential system)とは、国家元首として大統領を有する政治制度である。広義では大統領を元首としている統治体制全般を指すが、狭義においては政府の長でもある大統領を国民からの投票により、議会とは独立して選出する制度のことを指す。
大統領制は議会と政府との関係の点から見た政治制度の分類の一つで、国家元首ないし行政府の主体たる大統領を国民から選出する政治制度である。その代表国としてアメリカなどが挙げられる。この他にドイツなどで採用されている儀礼的な役割のみを有する大統領制や、フランスなどに代表される議院内閣制との融合をはかる半大統領制がある。南アフリカなどは議会から大統領を選出する制度を採り、スイスでは内閣であり元首である連邦参事会の閣僚が輪番制で大統領を務めている。
日本の外務省によれば、大統領が存在する国の政体(政治体制)につき、それぞれアメリカは大統領制・連邦制、フランス(フランス第五共和政)は共和制、ドイツ連邦共和国は連邦共和制、大韓民国は民主共和国、フィリピン共和国は立憲共和制などとしている。
漢字文化圏では、「大統領」(大韓民国)や「主席」(中華人民共和国・ベトナム社会主義共和国・一時期の北朝鮮)や「総統」(台湾・中華民国)など独自の呼称を用いる国家もあるが、英語圏では現在はいずれも「President」である。なお共和制であっても、国家主席職を事実上廃止して以降の北朝鮮や、国家主席廃止時期の中華人民共和国、ソビエト連邦などでは、議会の常務委員会もしくは幹部会の委員長・議長を元首・元首格としている。
権力分立の観点からは議会(立法府)と政府(行政府)の厳格な分立を組織原理としているものを大統領制、両権力の緩やかな分立もしくはある程度の融合を組織原理とするのが議院内閣制とされている。また、民主主義の観点からは立法府の行政府に対する信任の有無、もしくは行政府の立法府に対する責任の有無(大統領は国民から選出され、国民に対して直接責任を負う)が基準とされるが、両者の中間形態も存在する。
アメリカ型の大統領制は徹底された三権分立の統治機構をとる。大統領は議会の選挙とは別に国民から直接的に選出され(アメリカの大統領選挙は選挙人団の制度を採用しており、制度上においては間接選挙であるが、実質的には直接選挙として機能しているとされる)、原則として大統領は任期を全うし(議院内閣制の国のような不信任の制度は無く、犯罪の嫌疑により弾劾が成立した時のみ職を失う)、さらに大統領には議会解散権や法案提出権が与えられていないこと、議員と政府の役職を兼務できないこと、政府職員は原則として議会に出席して発言できないことなどを特徴とする。アメリカの場合、大統領が議会に出席するのは年頭教書演説と予算教書演説のときぐらいであるとされる。
アメリカ型大統領制は、1819年の大コロンビア成立を皮切りに成立したラテンアメリカ諸国で数多く施行されている。
大統領制において議会側が大統領に対して用いる牽制・抑制手段には、条約批准権、国政調査権、高官人事任命の承認権、大統領に対する弾劾・罷免などがある。一方で大統領側が用いる対抗手段には、予算教書の提出あるいは勧告権、大統領令などの行政立法権、法案の拒否権や遅延権、非常事態宣言や戒厳令などの非常権限などがある。ただし、これらの抑制手段の有無と細部は各国で異なる。
日本の地方自治体の統治機構とよく比較されるが、議会側の抑制手段が異なる点、アメリカの政治制度において大統領には議案提出権や議会解散権が認められていない点などで両者は異なる。重要法案については大統領が主導的な役割を果たすようになっているものの、大統領が議会に直接議案を提出できるわけではなく、自党の有力議員に法案の提出を依頼する形がとられている。また、予算案についてもアメリカの場合、大統領は予算教書演説のみで直接提出することはできず、法案と同じ形式で議員が提案した上で審議される。
アメリカ型の大統領制はイギリス型の議院内閣制(ウェストミンスター・システム)と比較されることが多い。
統治機構の観点からは、イギリス型の議院内閣制(ウェストミンスター・システム)は立法権と行政権が政権与党によって結合され強力な内閣のもとに権力の集中を容認する制度(議会の多数を占める政党が行政権を担う)であるのに対し、アメリカ型大統領制は立法権と行政権を厳格に分離し権力の分散という点を強調し権力分立を指向する制度であるとされる。一般の間では大統領制のほうが権力の統合の度合いが強い政治制度とみられてきたとの指摘がある。アメリカで大統領の役割が拡大したのは20世紀以降になってからであることや、国内政治における大統領と国際政治における大統領は異なる存在であるが日本を含む外国から見ると強い影響力を行使しているように見える一因となっていることが指摘されている。また、アメリカの政治制度の場合、軍事・外交面においては大統領は議会からの制約を比較的受けにくいと分析されている。アメリカ型の大統領制は厳格な権力分立によって立法権と行政権を分散させているため、大統領の権力は制限される制度である。それに対して、議院内閣制は、議会で多数を占める政党が立法権と行政権の両方を掌握するため、内閣・首相に権力が集中する制度とされる。したがって、議院内閣制には集権性がみられ、首相権力の強いものとなっている。
立法と行政の関係について、大統領制の下では大統領と議会とは別々に選出されるため民意は二元的に代表されるのに対し(二元代表制)、議院内閣制では議会のみが選挙により選出されて内閣はそれを基盤として成立するため民意は一元的に代表される(一元代表制)。この点から議院内閣制のほうが権限の委任関係は明白となるため、立法と行政との関係を円滑に処理するという点においては、より簡単な政治モデルであるとされる。
大統領制に対しては、固定された任期が政治を硬直的なものにする、大統領の所属政党が議会で少数派の場合に政策決定に困難を生じ停滞的なものになってしまうなど消極的な見方がある一方で、大統領制の下では説明責任や政権の構成の予測可能性が明確になる、大統領と議会との間に適度な抑制と均衡を築くことができるといった見方もあり、学者間で議論が交わされてきた。
大統領制の場合には大統領の所属政党と議会の多数派が違う政党になる状態(分割政府、divided government)を生じることもあり、その場合には大統領の望む法案の成立が思うように進まなくなる可能性がある。分割政府の状態は、大統領も議会も任期制のため容易には解消しない。
アメリカ合衆国においては20世紀の行政国家化に伴って大統領が立法を主導し、司法に対しても一定の影響を与えているとされ、本来の厳格な三権分立は緩やかなものとなっている。しかし、大統領の所属政党と上院あるいは下院の支配政党が異なる分割政府の状態を生じた場合にはやはり厳格な権力分立の特徴が顕在化するとされる。大統領の立法面でのリーダーシップは抑制されることとなり、また、議会で成立した法案に拒否権が発動されるなど生産性が低い状態に陥る可能性もある。ただ、アメリカ合衆国の政治制度は分割政府の常態化を前提としつつ、政治運営や立法活動が複雑な駆け引きの下に行われ、盛んな利益集団の活動を背景として大統領や連邦議会議員が利害調整を行っていくという点に特質があり、これは長い歴史を経て形成されてきたものである。1776年の建国時以来の大統領制は200年以上の時間をかけ立法府と行政府の協働関係を構築することによって両者の決定的対立を避けてきたとされる(分割政府の下における両者の協力的関係についてはチャールズ・O.ジョーンズの分析がある)。ただし、このような大統領制がうまく機能しているのは「アメリカがほとんど唯一の例」と評されることもある。アメリカ型の大統領制を導入した国々、特にラテンアメリカ諸国で政治停滞や軍事クーデターの問題に直面することとなったためである。そもそもアメリカでも大統領と議会との対立を解消するための制度化されたシステムが存在するわけではないとされ、政権と議会との対立が先鋭化して予算が成立せず政府機能の一時停止(政府閉鎖、government shutdown)に陥ったことがある。
ホアン・リンスなど、大統領制民主主義に批判的な学者は「大統領と議会の対立が深刻になると、国政が麻痺状態に陥ったまま抜け出せなくなる危険があり、危機収拾のために憲法を無視しなければならないという主張が生まれ非常事態のための規定が濫用されたり(議会の強制解散など)、大統領による独裁や反政府派によるクーデターを招くことになる」と主張した。その一方で、独裁やクーデターを招いた大統領制はほぼラテンアメリカに集中していることから「ラテンアメリカという特殊な地理的要因を指摘する向きもあるし、大統領制内部での様々な制度的差異にこそ着目すべきであって大統領制そのものが問題なのではない」という主張もある。
近年は大統領制にも多様な類型が存在することを前提としつつ、それに付随する諸制度や他の政治制度との組み合わせとともに分析されるようになっており、政策選択やそれをもたらすリーダーシップなどミクロ的な観点が重視されるようになっている。
なお、アメリカでは立法部への圧力活動が特に活発で(ロビー活動も参照)、これは政党の分権的・拡散的性格や党議拘束が弱く党派の区分によらない交差投票が一般的であること等の要因によるためとされるが、利益や集団の多様化は統治権力の収拾を困難なものにするため、統治権力の安定をいかに図るかが制度上の課題として指摘されている。
フランス第五共和政やロシア連邦のように、大統領と首相が二頭政治を布いて権力を拮抗させる政治制度は半大統領制と呼ばれる。大統領制が強大な権限を行使する場合もあれば、大統領が外交を、首相が内政をそれぞれ担当することで権限行使の抑制を心掛けて運営される場合もある。
国家の象徴(元首)として大統領を有する制度である。事実上の議院内閣制の一種であり、議会から選出された首相により実質的な統治が行われる。この制度の場合、大統領は儀礼的な役割しか持たない、或いは権限が極めて弱い。ドイツ、インド、ポーランド、イスラエルなどの国がこの制度に該当する。
実質的な権限を持つ大統領が、議会から選出される政治体制も存在する。アンゴラでは2010年に新憲法が施行された。新憲法の規定により、議会選挙で最多得票を獲得した政党の名簿で第一位にある者が自動的に大統領となる政治制度が導入された。特に在アンゴラ日本大使館は、この制度を議院大統領制と称している。ミャンマーも大統領が議会(上下両院)から選出され、議会の信任に服する統治体制を採っており、議院内閣制と大統領制の中間的形態ともいえる。南アフリカでは選挙後最初の国民議会(下院に相当)において議員の中から大統領が選出されるため、これもまた議院内閣制と大統領制の中間的性質を有する政体であるとされる。
大統領制はアメリカ合衆国憲法によって具現化された。それはフランスの思想家であるシャルル・ド・モンテスキューの「権力分立論」に強い影響を受けている。モンテスキューは1729年から1年半にわたってイギリスに滞在し、『法の精神』第11編第6章「イギリスの国制について」を叙述し権力分立について論じている。
イギリスでは1688年の名誉革命以降、君主の権力を制限するため議会と君主が立法権を共有する憲法習律が形成され(制限君主制)、君主と議会は相互に独立性をもって対峙し厳格に権力を分立した。制限君主制においては国王に任命される大臣は内閣を形成し、国王と議会の中間にたって国王と議会の仲介役を果たした(議会における君主主権)。
イギリスの国王は国家元首であると同時に国軍の最高司令官でもあり、議会で成立した法律に対しては拒否権を持っていた。これらの制度は制限君主を大統領に置き換える形でアメリカ合衆国憲法に取り入れられた。アメリカ合衆国の大統領は議会からの独立性を強め、厳格な三権分立制を形成していった。
ただし、モンテスキューの考察は当時慣行が確立されつつあった議院内閣制はその視野に入っておらず、イギリス国王の庶民院(下院)の解散権や国王が議会多数派から大臣を任命するようになった点については明確に語っていないなど、当時のイギリスの国制を忠実に叙述したとはいえず、実際には存在しないイギリスの政治制度を理想化して描かれたものではないかとの指摘がある。
また、ロバート・ダールによればアメリカ合衆国憲法制定当時、イギリスの政治では首相は議会からの信任を必要とするなど政治体制に重大な変化がおこりつつあったが、これが全面的に表面化するのは1832年であったために憲法の立案者がこのような変化を知ることはできなかったと指摘している。
アメリカの統治機構は権力の機能的拡散(三権分立)と権力の地域的拡散(連邦制)を特徴とする。アメリカ合衆国憲法の制定当時、保守的な指導者らは議会多数派が行政府を支配して大きな権力をふるうことを危惧し、大統領選挙においても直接投票とすることを不安視して各州の大統領選挙人による投票という形が採られるようになったといわれる。議会が強く大統領の地位が相対的に弱いという関係は、南北戦争のあったエイブラハム・リンカーンの政権下などを除き、19世紀末まで続くこととなったとされる。
しかし、20世紀に入って産業革命からなる資本主義の発達とともに経済社会問題への対応が必要になり大統領の権限は拡大していくこととなった。アメリカではニューディール政策の時期から1960年代にかけて大統領の役割は拡大し、その後1980年代までは議会の復権期、1990年代以降は大統領と議会との協調期にあると分析されている。
大統領が国の政治に主導的役割を果たす政治制度はフランクリン・ルーズベルトの政権下で確立された。1929年以来アメリカでは大不況に陥っていたが(世界恐慌)、フランクリン・ルーズベルトは大統領に就任すると重要法案をホワイトハウスで立案し議会に働きかけて早期に可決実行に移された。
その後も大統領の権限拡大は進み、ベトナム戦争の頃になると「帝王的」との世論の批判を受けるようになった。リチャード・ニクソン政権下では、連邦政府の制約なしで予算面において州政府に直接に交付金を給付できる制度が創設され、さらに国庫支出につき限度額以上のものに対して拒否権を行使できる制度の創設が画策された。
しかし、1970年代半ばウォーターゲート事件が起きると下院司法委員会が大統領弾劾手続を行うなど、議会はその地位を回復することとなった。その反面、リチャード・ニクソンの後継の大統領・ジェラルド・R・フォードは対議会関係に苦慮したとされる。なお、1968年以降、特に分割政府の出現する期間が長くなっている。
大統領の対議会関係がうまくいくか否かは、大統領が国内政治を強力に遂行していくことができるか否かという点で極めて重要とされる。
ジョン・F・ケネディは議会の抵抗にあい重要法案が通過しないなど国内政策の点においては大きな成果を残すことができなかったが、リンドン・ジョンソンは議会対策に熟練していたため社会福祉法を成立させることができたとの分析がある。また、ジミー・カーターもエネルギー法案について議会承認に1年以上もかかり大幅に修正され、パナマ運河法案でも上院承認に1年以上かかってしまうなど対議会関係がうまくいかない事態を生じたが、その原因として大統領就任前に議会やワシントンとの関係が全くなかった点が指摘されている。
1995年から1996年にかけビル・クリントン政権は財政均衡化をめぐり議会と鋭く対立し、その際には予算が成立せず政府機能の一時停止という事態になった(政府閉鎖も参照)。
有権者団の代表としての大統領および議会の観点からは普通選挙制の導入はフランスが最初であり、制度としてはフランス革命によって君主制が廃止された1792年、大統領選としてはフランス第二共和政期の1848年に実施している。
18世紀末のフランス革命以来、議会主義が徹底されていたが、議員行動の自由が幅広く認められ、政党の議員に対する拘束あるいは政権構成員に対する拘束が極めて緩かったために、議院内閣制にとっては大きな障害とされた。
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "なお、アメリカでは立法部への圧力活動が特に活発で(ロビー活動も参照)、これは政党の分権的・拡散的性格や党議拘束が弱く党派の区分によらない交差投票が一般的であること等の要因によるためとされるが、利益や集団の多様化は統治権力の収拾を困難なものにするため、統治権力の安定をいかに図るかが制度上の課題として指摘されている。",
"title": "類型"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "フランス第五共和政やロシア連邦のように、大統領と首相が二頭政治を布いて権力を拮抗させる政治制度は半大統領制と呼ばれる。大統領制が強大な権限を行使する場合もあれば、大統領が外交を、首相が内政をそれぞれ担当することで権限行使の抑制を心掛けて運営される場合もある。",
"title": "類型"
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"text": "国家の象徴(元首)として大統領を有する制度である。事実上の議院内閣制の一種であり、議会から選出された首相により実質的な統治が行われる。この制度の場合、大統領は儀礼的な役割しか持たない、或いは権限が極めて弱い。ドイツ、インド、ポーランド、イスラエルなどの国がこの制度に該当する。",
"title": "類型"
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"text": "実質的な権限を持つ大統領が、議会から選出される政治体制も存在する。アンゴラでは2010年に新憲法が施行された。新憲法の規定により、議会選挙で最多得票を獲得した政党の名簿で第一位にある者が自動的に大統領となる政治制度が導入された。特に在アンゴラ日本大使館は、この制度を議院大統領制と称している。ミャンマーも大統領が議会(上下両院)から選出され、議会の信任に服する統治体制を採っており、議院内閣制と大統領制の中間的形態ともいえる。南アフリカでは選挙後最初の国民議会(下院に相当)において議員の中から大統領が選出されるため、これもまた議院内閣制と大統領制の中間的性質を有する政体であるとされる。",
"title": "類型"
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"text": "大統領制はアメリカ合衆国憲法によって具現化された。それはフランスの思想家であるシャルル・ド・モンテスキューの「権力分立論」に強い影響を受けている。モンテスキューは1729年から1年半にわたってイギリスに滞在し、『法の精神』第11編第6章「イギリスの国制について」を叙述し権力分立について論じている。",
"title": "歴史"
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"text": "イギリスでは1688年の名誉革命以降、君主の権力を制限するため議会と君主が立法権を共有する憲法習律が形成され(制限君主制)、君主と議会は相互に独立性をもって対峙し厳格に権力を分立した。制限君主制においては国王に任命される大臣は内閣を形成し、国王と議会の中間にたって国王と議会の仲介役を果たした(議会における君主主権)。",
"title": "歴史"
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"text": "イギリスの国王は国家元首であると同時に国軍の最高司令官でもあり、議会で成立した法律に対しては拒否権を持っていた。これらの制度は制限君主を大統領に置き換える形でアメリカ合衆国憲法に取り入れられた。アメリカ合衆国の大統領は議会からの独立性を強め、厳格な三権分立制を形成していった。",
"title": "歴史"
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"text": "ただし、モンテスキューの考察は当時慣行が確立されつつあった議院内閣制はその視野に入っておらず、イギリス国王の庶民院(下院)の解散権や国王が議会多数派から大臣を任命するようになった点については明確に語っていないなど、当時のイギリスの国制を忠実に叙述したとはいえず、実際には存在しないイギリスの政治制度を理想化して描かれたものではないかとの指摘がある。",
"title": "歴史"
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"text": "また、ロバート・ダールによればアメリカ合衆国憲法制定当時、イギリスの政治では首相は議会からの信任を必要とするなど政治体制に重大な変化がおこりつつあったが、これが全面的に表面化するのは1832年であったために憲法の立案者がこのような変化を知ることはできなかったと指摘している。",
"title": "歴史"
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"text": "アメリカの統治機構は権力の機能的拡散(三権分立)と権力の地域的拡散(連邦制)を特徴とする。アメリカ合衆国憲法の制定当時、保守的な指導者らは議会多数派が行政府を支配して大きな権力をふるうことを危惧し、大統領選挙においても直接投票とすることを不安視して各州の大統領選挙人による投票という形が採られるようになったといわれる。議会が強く大統領の地位が相対的に弱いという関係は、南北戦争のあったエイブラハム・リンカーンの政権下などを除き、19世紀末まで続くこととなったとされる。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、20世紀に入って産業革命からなる資本主義の発達とともに経済社会問題への対応が必要になり大統領の権限は拡大していくこととなった。アメリカではニューディール政策の時期から1960年代にかけて大統領の役割は拡大し、その後1980年代までは議会の復権期、1990年代以降は大統領と議会との協調期にあると分析されている。",
"title": "歴史"
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"text": "大統領が国の政治に主導的役割を果たす政治制度はフランクリン・ルーズベルトの政権下で確立された。1929年以来アメリカでは大不況に陥っていたが(世界恐慌)、フランクリン・ルーズベルトは大統領に就任すると重要法案をホワイトハウスで立案し議会に働きかけて早期に可決実行に移された。",
"title": "歴史"
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"text": "その後も大統領の権限拡大は進み、ベトナム戦争の頃になると「帝王的」との世論の批判を受けるようになった。リチャード・ニクソン政権下では、連邦政府の制約なしで予算面において州政府に直接に交付金を給付できる制度が創設され、さらに国庫支出につき限度額以上のものに対して拒否権を行使できる制度の創設が画策された。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、1970年代半ばウォーターゲート事件が起きると下院司法委員会が大統領弾劾手続を行うなど、議会はその地位を回復することとなった。その反面、リチャード・ニクソンの後継の大統領・ジェラルド・R・フォードは対議会関係に苦慮したとされる。なお、1968年以降、特に分割政府の出現する期間が長くなっている。",
"title": "歴史"
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"text": "大統領の対議会関係がうまくいくか否かは、大統領が国内政治を強力に遂行していくことができるか否かという点で極めて重要とされる。",
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"text": "ジョン・F・ケネディは議会の抵抗にあい重要法案が通過しないなど国内政策の点においては大きな成果を残すことができなかったが、リンドン・ジョンソンは議会対策に熟練していたため社会福祉法を成立させることができたとの分析がある。また、ジミー・カーターもエネルギー法案について議会承認に1年以上もかかり大幅に修正され、パナマ運河法案でも上院承認に1年以上かかってしまうなど対議会関係がうまくいかない事態を生じたが、その原因として大統領就任前に議会やワシントンとの関係が全くなかった点が指摘されている。",
"title": "歴史"
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"text": "1995年から1996年にかけビル・クリントン政権は財政均衡化をめぐり議会と鋭く対立し、その際には予算が成立せず政府機能の一時停止という事態になった(政府閉鎖も参照)。",
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"text": "有権者団の代表としての大統領および議会の観点からは普通選挙制の導入はフランスが最初であり、制度としてはフランス革命によって君主制が廃止された1792年、大統領選としてはフランス第二共和政期の1848年に実施している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "18世紀末のフランス革命以来、議会主義が徹底されていたが、議員行動の自由が幅広く認められ、政党の議員に対する拘束あるいは政権構成員に対する拘束が極めて緩かったために、議院内閣制にとっては大きな障害とされた。",
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"text": "1958年のアルジェリア戦争により政権の軍部統制は失敗し、大統領制に議院内閣制の要素を加えた半大統領制の政治形態をとるフランス第五共和政が成立した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "など",
"title": "主なアメリカ型大統領制の国家"
}
] |
大統領制とは、国家元首として大統領を有する政治制度である。広義では大統領を元首としている統治体制全般を指すが、狭義においては政府の長でもある大統領を国民からの投票により、議会とは独立して選出する制度のことを指す。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{otheruses|主に大統領を国民から直接的に選出する政治制度|大統領を元首とする政治体制一般|共和制}}
[[File:Forms of government 2021.svg|thumb|right|350px|青色の国がアメリカ型大統領制を採用している。]]
{{政治}}
{{統治体制}}
'''大統領制'''(だいとうりょうせい、{{lang-en-short|presidential system}})とは、[[国家元首]]として[[大統領]]を有する[[政治システム|政治制度]]である<ref name="名前なし-1">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E5%88%B6-91707 コトバンク]</ref>。広義では大統領を[[元首]]としている統治体制全般を指すが<ref name="名前なし-1"/>、狭義においては[[政府の長]]でもある大統領を[[国民]]からの[[投票]]により、[[議会]]とは独立して選出する制度のことを指す{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=320}}{{Sfn|小林直樹|1981|p=232}}{{Sfn|大石眞|2004|p=85}}<ref name="kanju">ブリタニカ国際大百科事典</ref>。
== 概説 ==
大統領制は議会と政府との関係の点から見た政治制度の分類の一つで{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=320}}、国家元首ないし行政府の主体たる大統領を国民から選出する政治制度である{{Sfn|小林直樹|1981|p=232}}{{Sfn|大石眞|2004|p=85}}。その代表国として[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などが挙げられる。この他に[[ドイツ]]などで採用されている儀礼的な役割のみを有する大統領制や<ref name="kanju" />、[[フランス]]などに代表される[[議院内閣制]]との融合をはかる[[半大統領制]]がある。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]などは議会から大統領を選出する制度を採り、[[スイス]]では内閣であり元首である[[連邦参事会]]の閣僚が輪番制で大統領を務めている<ref name="kanju" />。
日本の[[外務省]]によれば、[[大統領]]が存在する[[国]]の[[政体]]([[政治体制]])につき、それぞれアメリカは大統領制・連邦制、フランス([[フランス第五共和政]])は共和制、ドイツ連邦共和国は連邦共和制、[[大韓民国]]は民主共和国、[[フィリピン|フィリピン共和国]]は立憲共和制などとしている<ref>外務省・各国地域情勢[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/index.html]</ref>。
[[漢字文化圏]]では、「大統領」(大韓民国)や「[[主席]]」([[中華人民共和国]]・[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]・一時期の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]])や「[[総統]]」([[台湾]]・[[中華民国]])など独自の呼称を用いる国家もあるが、英語圏では現在は<ref group="注釈">かつては「主席」は「chairman」とも訳されていた。</ref>いずれも「President」である{{要出典|date=2023年4月}}。なお共和制であっても、[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]職を事実上廃止して以降の北朝鮮や、[[国家主席の廃止|国家主席廃止時期]]の中華人民共和国、[[ソビエト連邦]]などでは、議会の常務委員会もしくは幹部会の委員長・議長を元首・元首格としている{{要出典|date=2023年4月}}。
== 類型 ==
権力分立の観点からは議会([[立法府]])と政府([[行政府]])の厳格な分立を組織原理としているものを大統領制、両権力の緩やかな分立もしくはある程度の融合を組織原理とするのが議院内閣制とされている。また、民主主義の観点からは立法府の行政府に対する信任の有無、もしくは行政府の立法府に対する責任の有無(大統領は国民から選出され、国民に対して直接責任を負う)が基準とされるが、両者の中間形態も存在する{{Sfn|芦部信喜|高橋和之|2011|p=321}}{{Sfn|小林直樹|1981|pp=233-235}}<ref>衆憲資第35号15頁。直接は「主要国における議院内閣制・両院制(2003.7.10説明資料)」国立国会図書館専門調査員・高見勝利[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/1560710takami.pdf/$File/1560710takami.pdf]</ref>。
=== アメリカ型大統領制 ===
{{See also|アメリカ合衆国の政治}}
==== 特徴 ====
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]型の大統領制は徹底された[[三権分立]]の統治機構をとる。大統領は議会の選挙とは別に国民から直接的に選出され([[アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカの大統領選挙]]は[[アメリカ選挙人団|選挙人団]]の制度を採用しており<!-- ここより左の記述は出典参照せず、確認されましたらこのコメントを除去してください -->、制度上においては間接選挙であるが、実質的には直接選挙として機能しているとされる{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=231}})、原則として大統領は任期を全うし([[議院内閣制]]の国のような[[不信任決議|不信任]]の制度は無く、犯罪の嫌疑により[[弾劾]]が成立した時のみ職を失う)、さらに大統領には議会解散権や法案提出権が与えられていないこと、議員と政府の役職を兼務できないこと、政府職員は原則として議会に出席して発言できないことなどを特徴とする{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=231}}{{Sfn|小林直樹|1981|p=233}}。アメリカの場合、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が[[アメリカ合衆国議会|議会]]に出席するのは[[一般教書演説|年頭教書演説]]と[[予算|予算教書演説]]のときぐらいであるとされる{{Sfn|建林正彦|2008|p=144}}。
アメリカ型大統領制は、[[1819年]]の[[大コロンビア]]成立を皮切りに成立した[[ラテンアメリカ]]諸国で数多く施行されている。
大統領制において[[議会]]側が大統領に対して用いる牽制・抑制手段には、条約批准権、国政調査権、高官人事任命の承認権、大統領に対する弾劾・罷免などがある。一方で大統領側が用いる対抗手段には、予算教書の提出あるいは勧告権、大統領令などの行政立法権、法案の拒否権や遅延権、非常事態宣言や戒厳令などの非常権限などがある。ただし、これらの抑制手段の有無と細部は各国で異なる<ref>代表的には、Shugart, Matthew Soberg, and John M. Carey. 1992. ''Presidents and Assemblies: Constitutional Design and Electoral Dynamics''. Cambridge: Cambridge University Press.</ref>。
[[日本]]の[[地方公共団体|地方自治体]]の統治機構とよく比較されるが、議会側の抑制手段が異なる点、[[アメリカ合衆国の政治|アメリカの政治制度]]において大統領には議案提出権や議会解散権が認められていない点などで両者は異なる{{Sfn|佐藤俊一|2002|p=49}}{{Sfn|松下圭一|新藤宗幸|西尾勝|2002|p=22-23}}。重要法案については大統領が主導的な役割を果たすようになっているものの、大統領が議会に直接議案を提出できるわけではなく、自党の有力議員に法案の提出を依頼する形がとられている{{Sfn|松下圭一|新藤宗幸|西尾勝|2002|p=22-23}}{{Sfn|建林正彦|2008|p=127}}。また、予算案についてもアメリカの場合、大統領は予算教書演説のみで直接提出することはできず、法案と同じ形式で議員が提案した上で審議される{{Sfn|建林正彦|2008|p=144}}。
==== 分析 ====
アメリカ型の大統領制は[[イギリス]]型の[[議院内閣制]]([[ウェストミンスター・システム]])と比較されることが多い。
統治機構の観点からは、イギリス型の議院内閣制([[ウェストミンスター・システム]])は[[立法権]]と[[行政権]]が[[政権]][[与党]]によって結合され強力な[[内閣]]のもとに権力の集中を容認する制度([[議会]]の多数を占める[[政党]]が行政権を担う)であるのに対し、アメリカ型大統領制は立法権と行政権を厳格に分離し権力の分散という点を強調し権力分立を指向する制度であるとされる{{Sfn|飯尾潤|2007|p=143,154}}{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=376}}。一般の間では大統領制のほうが権力の統合の度合いが強い政治制度とみられてきたとの指摘がある{{Sfn|佐々木毅|清水真人|2011|p=376}}{{Sfn|弘文堂編集部|2001|p=72}}。アメリカで大統領の役割が拡大したのは[[20世紀]]以降になってからであることや、国内政治における大統領と国際政治における大統領は異なる存在であるが日本を含む外国から見ると強い影響力を行使しているように見える一因となっていることが指摘されている{{Sfn|渡辺靖|2010|p=47}}。また、アメリカの政治制度の場合、[[軍事]]・[[外交]]面においては大統領は議会からの制約を比較的受けにくいと分析されている{{Sfn|建林正彦|2008|p=137}}。アメリカ型の大統領制は厳格な権力分立によって立法権と行政権を分散させているため、大統領の権力は制限される制度である<ref>[https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=1260 【書評】『首相の権力-日英比較からみる政権党とのダイナミズム-』高安健将著 | 研究活動 | 東京財団政策研究所]</ref>。それに対して、議院内閣制は、議会で多数を占める政党が立法権と行政権の両方を掌握するため、内閣・首相に権力が集中する制度とされる。したがって、議院内閣制には集権性がみられ、首相権力の強いものとなっている{{Sfn|辻清明|1976|p=11}}。
立法と行政の関係について、大統領制の下では大統領と議会とは別々に選出されるため民意は二元的に代表されるのに対し(二元代表制)、議院内閣制では議会のみが選挙により選出されて内閣はそれを基盤として成立するため民意は一元的に代表される(一元代表制){{Sfn|飯尾潤|2007|p=18}}。この点から議院内閣制のほうが権限の委任関係は明白となるため、立法と行政との関係を円滑に処理するという点においては、より簡単な政治モデルであるとされる{{Sfn|飯尾潤|2007|p=155}}。
大統領制に対しては、固定された任期が政治を硬直的なものにする、大統領の所属政党が議会で少数派の場合に政策決定に困難を生じ停滞的なものになってしまうなど消極的な見方がある一方で、大統領制の下では説明責任や政権の構成の予測可能性が明確になる、大統領と議会との間に適度な抑制と均衡を築くことができるといった見方もあり、学者間で議論が交わされてきた{{Sfn|建林正彦|2008|p=108-111}}。
大統領制の場合には大統領の所属政党と議会の多数派が違う政党になる状態([[ねじれ現象|分割政府]]、divided government)を生じることもあり、その場合には大統領の望む法案の成立が思うように進まなくなる可能性がある。[[ねじれ現象|分割政府]]の状態は、大統領も議会も任期制のため容易には解消しない{{Sfn|建林正彦|2008|p=107}}。
[[アメリカ合衆国]]においては20世紀の行政国家化に伴って大統領が立法を主導し、司法に対しても一定の影響を与えているとされ、本来の厳格な三権分立は緩やかなものとなっている{{Sfn|飯尾潤|2007|p=146-147}}。しかし、大統領の所属政党と上院あるいは下院の支配政党が異なる[[ねじれ現象|分割政府]]の状態を生じた場合にはやはり厳格な権力分立の特徴が顕在化するとされる{{Sfn|飯尾潤|2007|p=147}}。大統領の立法面でのリーダーシップは抑制されることとなり、また、議会で成立した法案に拒否権が発動されるなど生産性が低い状態に陥る可能性もある{{Sfn|建林正彦|2008|p=131-132}}。ただ、アメリカ合衆国の政治制度は[[ねじれ現象|分割政府]]の常態化を前提としつつ、政治運営や立法活動が複雑な駆け引きの下に行われ、盛んな利益集団の活動を背景として大統領や連邦議会議員が利害調整を行っていくという点に特質があり、これは長い歴史を経て形成されてきたものである{{Sfn|飯尾潤|2007|p=147-148}}。[[1776年]]の建国時以来の大統領制は200年以上の時間をかけ立法府と行政府の協働関係を構築することによって両者の決定的対立を避けてきたとされる{{Sfn|松下圭一|新藤宗幸|西尾勝|2002|p=25}}(分割政府の下における両者の協力的関係についてはチャールズ・O.ジョーンズの分析がある{{Sfn|建林正彦|2008|p=131-132}})。ただし、このような大統領制がうまく機能しているのは「アメリカがほとんど唯一の例」と評されることもある{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=235}}。アメリカ型の大統領制を導入した国々、特に[[ラテンアメリカ]]諸国で政治停滞や軍事[[クーデター]]の問題に直面することとなったためである{{Sfn|毛利透|小泉良幸|淺野博宣|松本哲治|2011|p=235}}。そもそもアメリカでも[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と[[アメリカ合衆国議会|議会]]との対立を解消するための制度化されたシステムが存在するわけではないとされ{{Sfn|松下圭一|新藤宗幸|西尾勝|2002|p=25}}、政権と議会との対立が先鋭化して予算が成立せず政府機能の一時停止([[政府閉鎖]]、government shutdown)に陥ったことがある{{Sfn|建林正彦|2008|p=144}}。
[[ホアン・リンス]]など、大統領制民主主義に批判的な学者は「大統領と議会の対立が深刻になると、国政が麻痺状態に陥ったまま抜け出せなくなる危険があり、危機収拾のために[[憲法]]を無視しなければならないという主張が生まれ非常事態のための規定が濫用されたり(議会の強制解散など)、大統領による独裁や反政府派による[[クーデター]]を招くことになる」と主張した<ref>Linz, Juan J. 1990. "The Perils of Presidentialism." ''Journal of Democracy'' 1 (1):51-69.</ref>。その一方で、独裁やクーデターを招いた大統領制はほぼ[[ラテンアメリカ]]に集中していることから「ラテンアメリカという特殊な地理的要因を指摘する向きもあるし、大統領制内部での様々な制度的差異にこそ着目すべきであって大統領制そのものが問題なのではない」という主張もある<ref>上記Shugart and Careyにくわえ、Mainwaring, Scott, and Matthew Soberg Shugart, eds. 1997. ''Presidentialism and Democracy in Latin America''. Cambridge: Cambridge University Press; Cheibub, Jose Antonio. 2007. ''Presidentialism, Parliamentarism, and Democracy''. Cambridge: Cambridge University Press.を参照。</ref>。
近年は大統領制にも多様な類型が存在することを前提としつつ、それに付随する諸制度や他の政治制度との組み合わせとともに分析されるようになっており{{Sfn|建林正彦|2008|p=116-117}}、政策選択やそれをもたらすリーダーシップなどミクロ的な観点が重視されるようになっている{{Sfn|建林正彦|2008|p=113-114}}。
なお、アメリカでは立法部への圧力活動が特に活発で([[ロビー活動]]も参照)、これは政党の分権的・拡散的性格や[[党議拘束]]が弱く党派の区分によらない交差投票が一般的であること等の要因によるためとされるが{{Sfn|辻清明|1976|p=19}}、利益や集団の多様化は統治権力の収拾を困難なものにするため、統治権力の安定をいかに図るかが制度上の課題として指摘されている{{Sfn|辻清明|1976|p=23}}。
=== 半大統領制 ===
[[フランス第五共和政]]や[[ロシア|ロシア連邦]]のように、大統領と首相が[[二頭政治]]を布いて権力を拮抗させる政治制度は'''[[半大統領制]]'''と呼ばれる。大統領制が強大な権限を行使する場合もあれば、大統領が外交を、首相が内政をそれぞれ担当することで権限行使の抑制を心掛けて運営される場合もある。
=== 名誉職型大統領制 ===
国家の象徴([[元首]])として大統領を有する制度である。事実上の議院内閣制の一種であり、議会から選出された首相により実質的な統治が行われる。この制度の場合、大統領は儀礼的な役割しか持たない、或いは権限が極めて弱い<ref name="kanju" />。[[ドイツ]]、[[インド]]、[[ポーランド]]、[[イスラエル]]などの国がこの制度に該当する。
=== 議会から大統領を選出する制度 ===
実質的な権限を持つ大統領が、議会から選出される政治体制も存在する。[[アンゴラ]]では2010年に新憲法が施行された。新憲法の規定により、議会選挙で最多得票を獲得した政党の名簿で第一位にある者が自動的に大統領となる政治制度が導入された<ref>『出身国情報報告 アンゴラ』、2010年9月1日、英国国境局(法務省入国管理局日本語訳)</ref>。特に在アンゴラ日本大使館は、この制度を'''議院大統領制'''と称している<ref>[https://www.angola.emb-japan.go.jp/document/201112angola_jyosei.pdf アンゴラ情勢報告(2011年12月) ] 2012年1月1日 在アンゴラ日本国大使館 </ref>。[[ミャンマー]]も大統領が議会(上下両院)から選出され、議会の信任に服する統治体制を採っており、議院内閣制と大統領制の中間的形態ともいえる<ref>{{Cite journal|和書|author=金子由芳 |title=ミャンマー2008年憲法における統治機構の特色と展開 |journal=国際協力論集 |ISSN=0919-8636 |publisher=神戸大学大学院国際協力研究科 |year=2018 |month=jan |volume=25 |issue=2 |pages=1-32 |naid=120006401508 |doi=10.24546/81010095 |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81010095}}</ref>。[[南アフリカ]]では選挙後最初の[[国民議会 (南アフリカ)|国民議会]]([[下院]]に相当)において議員の中から大統領が選出されるため、これもまた議院内閣制と大統領制の中間的性質を有する政体であるとされる<ref>{{Cite journal|和書|author=牧野久美子 |title=「自由・公正」な選挙の定着後も残る課題 -- 南アフリカ (特集 選挙の風景) |journal=アジ研ワールド・トレンド |ISSN=1341-3406 |publisher=日本貿易振興機構アジア経済研究所 |year=2016 |month=aug |issue=251 |pages=28-29 |naid=120006941795 |doi=10.20561/00039514 |url=https://doi.org/10.20561/00039514}}</ref>。
== 歴史 ==
=== アメリカ ===
大統領制は[[アメリカ合衆国憲法]]によって具現化された。それは[[フランス]]の[[思想家]]である[[シャルル・ド・モンテスキュー]]の「[[権力分立]]論」に強い影響を受けている{{Sfn|野中俊彦|2006|p=34}}{{Sfn|飯尾潤|2007|p=144}}。モンテスキューは[[1729年]]から1年半にわたってイギリスに滞在し、『法の精神』第11編第6章「イギリスの国制について」を叙述し権力分立について論じている{{Sfn|野中俊彦|2006|p=34}}。
[[イギリス]]では[[1688年]]の[[名誉革命]]以降、[[君主]]の権力を制限するため議会と君主が立法権を共有する憲法習律が形成され([[制限君主制]])、君主と議会は相互に独立性をもって対峙し厳格に権力を分立した。制限君主制においては国王に任命される大臣は内閣を形成し、国王と議会の中間にたって国王と議会の仲介役を果たした(議会における君主主権)<ref>{{Cite book|和書|author=矢部明宏 |title=国会と内閣の関係 |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |year=2004 |series=シリーズ憲法の論点 3 . 調査資料 ; 2004-1-c |NCID=BA70179954 |doi=10.11501/1001029 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I000024453-00 |page=3}}</ref>。
[[イギリスの君主|イギリスの国王]]は[[元首|国家元首]]であると同時に[[イギリス軍|国軍]]の最高司令官でもあり、[[議会]]で成立した[[法律]]に対しては[[拒否権]]を持っていた。これらの制度は制限君主を大統領に置き換える形で[[アメリカ合衆国憲法]]に取り入れられた。[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ合衆国の大統領]]は[[アメリカ合衆国議会|議会]]からの独立性を強め、厳格な[[三権分立制]]を形成していった。
ただし、モンテスキューの考察は当時慣行が確立されつつあった議院内閣制はその視野に入っておらず、イギリス国王の[[庶民院]](下院)の解散権や国王が議会多数派から大臣を任命するようになった点については明確に語っていないなど、当時のイギリスの国制を忠実に叙述したとはいえず、実際には存在しないイギリスの政治制度を理想化して描かれたものではないかとの指摘がある{{Sfn|野中俊彦|2006|p=34}}{{Sfn|飯尾潤|2007|p=144}}。
また、[[ロバート・ダール]]によれば[[アメリカ合衆国憲法]]制定当時、[[イギリスの政治]]では[[イギリスの首相|首相]]は[[イギリスの議会|議会]]からの信任を必要とするなど[[政治体制]]に重大な変化がおこりつつあったが、これが全面的に表面化するのは[[1832年]]であったために憲法の立案者がこのような変化を知ることはできなかったと指摘している{{Sfn|ロバート・ダール|2003|p=85}}。
アメリカの統治機構は権力の機能的拡散(三権分立)と権力の地域的拡散([[連邦制]])を特徴とする{{Sfn|辻清明|2006|p=18}}。アメリカ合衆国憲法の制定当時、保守的な指導者らは議会多数派が行政府を支配して大きな権力をふるうことを危惧し、大統領選挙においても直接投票とすることを不安視して各州の大統領選挙人による投票という形が採られるようになったといわれる{{Sfn|建林正彦|2008|p=111}}。議会が強く大統領の地位が相対的に弱いという関係は、[[南北戦争]]のあった[[エイブラハム・リンカーン]]の政権下などを除き、[[19世紀]]末まで続くこととなったとされる{{Sfn|建林正彦|2008|p=111}}。
しかし、[[20世紀]]に入って[[産業革命]]からなる[[資本主義]]の発達とともに[[経済]][[社会問題]]への対応が必要になり大統領の権限は拡大していくこととなった{{Sfn|建林正彦|2008|p=122}}。アメリカでは[[ニューディール政策]]の時期から[[1960年代]]にかけて大統領の役割は拡大し、その後[[1980年代]]までは議会の復権期、[[1990年代]]以降は大統領と議会との協調期にあると分析されている{{Sfn|渡辺靖|2010|p=56-57}}。
大統領が国の政治に主導的役割を果たす政治制度は[[フランクリン・ルーズベルト]]の政権下で確立された{{Sfn|建林正彦|2008|p=122}}。1929年以来アメリカでは大不況に陥っていたが([[世界恐慌]])、フランクリン・ルーズベルトは大統領に就任すると重要法案をホワイトハウスで立案し議会に働きかけて早期に可決実行に移された{{Sfn|建林正彦|2008|p=122}}。
その後も大統領の権限拡大は進み、[[ベトナム戦争]]の頃になると「帝王的」との世論の批判を受けるようになった{{Sfn|建林正彦|2008|p=132}}。[[リチャード・ニクソン]]政権下では、連邦政府の制約なしで予算面において州政府に直接に交付金を給付できる制度が創設され、さらに国庫支出につき限度額以上のものに対して拒否権を行使できる制度の創設が画策された{{Sfn|畠山圭一|2008|p=50}}。
しかし、1970年代半ば[[ウォーターゲート事件]]が起きると[[アメリカ合衆国下院司法委員会|下院司法委員会]]が大統領弾劾手続を行うなど、議会はその地位を回復することとなった{{Sfn|畠山圭一|2008|p=50}}。その反面、リチャード・ニクソンの後継の大統領・[[ジェラルド・R・フォード]]は対議会関係に苦慮したとされる{{Sfn|畠山圭一|2008|p=50}}。なお、[[1968年]]以降、特に分割政府の出現する期間が長くなっている{{Sfn|建林正彦|2008|p=131-132}}。
大統領の対議会関係がうまくいくか否かは、大統領が国内政治を強力に遂行していくことができるか否かという点で極めて重要とされる。
[[ジョン・F・ケネディ]]は議会の抵抗にあい重要法案が通過しないなど国内政策の点においては大きな成果を残すことができなかったが{{Sfn|畠山圭一|2008|p=49}}、[[リンドン・ジョンソン]]は議会対策に熟練していたため社会福祉法を成立させることができたとの分析がある{{Sfn|畠山圭一|2008|p=49}}。また、[[ジミー・カーター]]もエネルギー法案について議会承認に1年以上もかかり大幅に修正され、パナマ運河法案でも上院承認に1年以上かかってしまうなど対議会関係がうまくいかない事態を生じたが、その原因として大統領就任前に議会やワシントンとの関係が全くなかった点が指摘されている{{Sfn|畠山圭一|2008|p=50}}。
[[1995年]]から[[1996年]]にかけ[[ビル・クリントン]]政権は財政均衡化をめぐり議会と鋭く対立し、その際には予算が成立せず政府機能の一時停止という事態になった{{Sfn|建林正彦|2008|p=144}}([[政府閉鎖]]も参照)。
=== フランス ===
{{See also|フランスの政治}}
有権者団の代表としての大統領および議会の観点からは[[普通選挙]]制の導入は[[フランス]]が最初であり、制度としては[[フランス革命]]によって君主制が廃止された[[1792年]]、大統領選としては[[フランス第二共和政]]期の[[1848年]]に実施している。
[[18世紀]]末の[[フランス革命]]以来、議会主義が徹底されていたが、議員行動の自由が幅広く認められ、政党の議員に対する拘束あるいは政権構成員に対する拘束が極めて緩かったために、議院内閣制にとっては大きな障害とされた{{Sfn|飯尾潤|2007|p=148-149}}。
[[1958年]]の[[アルジェリア戦争]]により政権の軍部統制は失敗し、大統領制に議院内閣制の要素を加えた'''半大統領制'''の政治形態をとる[[フランス第五共和政]]が成立した{{Sfn|飯尾潤|2007|p=149}}。
== 主なアメリカ型大統領制の国家 ==
* {{flag|アメリカ合衆国}}
* {{flag|アルゼンチン}}
* {{flag|イラン}} - ただし、[[ウラマー|イスラム聖職者]]の中から選出される[[イランの最高指導者|最高指導者]]も大統領とともに元首であり、[[イランの大統領|大統領]]は主に行政府の長としての役割を担う。
* {{flag|インドネシア}}
* {{flag|カザフスタン}}
* {{flag|ケニア}}
* {{flag|スーダン}}
* {{flag|大韓民国}} - [[国務総理]]([[首相]])が置かれるが、行政府の長はあくまで大統領である。
* {{flag|チリ}}
* {{flag|ナイジェリア}}
* {{flag|フィリピン}}
* {{flag|ブラジル}}
* {{flag|ペルー}}
* {{flag|メキシコ}}
など
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=野中俊彦 |author2=中村睦男 |author3=高橋和之 |author4=中村睦男 |title=憲法Ⅰ |date=2006 |edition=第4版 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641129986 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=芦部信喜 |author2=高橋和之 |title=憲法 |date=2011 |edition=第5版 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000227810 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐々木毅 |author2=清水真人 |title=ゼミナール現代日本政治 |date=2011 |publisher=日本経済新聞出版社 |isbn=9784532134075 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=毛利透 |author2=小泉良幸 |author3=淺野博宣 |author4=松本哲治 |title=統治 |date=2011 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641179134 |series=LEGAL QUEST, . 憲法 1 |edition=5版 |ref=harv}}
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* {{Cite book|和書|author=弘文堂編集部 |title=いま、「首相公選」を考える |date=2001 |publisher=弘文堂 |isbn=433546018X |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=ロバート・ダール |title=アメリカ憲法は民主的か |date=2003 |publisher=岩波書店 |isbn=4000220195 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤俊一 |title=地方自治要論 |date=2002 |publisher=成文堂 |isbn=9784792331719 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=松下圭一 |author2=新藤宗幸 |author3=西尾勝 |title=自治体の構想(4)機構 |date=2002 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000110945 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=渡辺靖 |title=現代アメリカ |date=2010 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641124196 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=畠山圭一 |author2= 加藤普章 |title=アメリカ・カナダ |date=2008 |publisher=ミネルヴァ書房 |isbn=9784623048694 |series=世界政治叢書 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=建林正彦 |author2= 曽我謙悟 |author3=待鳥聡史 |title=比較政治制度論 |date=2008 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641123649 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=辻清明 |title=行政の過程 |date=1976 |publisher=東京大学出版会 |series=行政学講座 |ref=harv}}
<!--本文作成において引用や参照はしていないが関連しているとおもわれる文献情報-->
* {{Cite journal|和書|author=廣瀬淳子 |title=アメリカの大統領行政府と大統領補佐官 (小特集:政治における政策決定過程) |journal=レファレンス |ISSN=00342912 |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |year=2007 |month=may |volume=57 |issue=5 |pages=43-58 |naid=40015363566 |doi=10.11501/999748 |id={{NDLJP|999748}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I000031238-00}}
== 関連項目 ==
* [[議会]]
* [[国家元首]]
* [[半大統領制]]
* [[議院内閣制]]
* [[議会統治制]]
* [[首相公選制]]
* [[立憲君主制]]
* [[民主政治]]
* [[寡頭政治]]
* [[君主制]]・[[共和制]]
* [[超然主義]]
{{権力分立}}
{{Normdaten}}
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[[Category:政治システム]]
[[Category:大統領]]
[[Category:共和制]]
[[Category:アメリカ合衆国の憲法]]
[[Category:フランスの憲法]]
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法然
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法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。
諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。
『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。
その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。
これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。法然はこの地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)が、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。
養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。
文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。
建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。
建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。
元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。
法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。
元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。
念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。
法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。
承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現・箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。
建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。
法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子宇都宮頼綱などがいる。
法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。
一般に、法然は善導の『観経疏』(かんぎょうしょ)によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。ここでは顕密の修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ、阿弥陀仏の本願力を堅く信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える易行(いぎょう)のみが正行とされた。
法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まった。兼実の求めに応えて、その教義を記した著作が『選択本願念仏集』である。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人の救済に専念する姿勢を示した。
自分を含めて万人の救済を追求した法然は「自力」の仏教を離れ「他力」の仏教に行き着いた。それまでの仏教は万人が「仏」になる方法を示していなかったのであった。ここで言う「仏」とはもちろん死者の意味ではなく、「真理を悟った人」の意味である。仏教の目的は人が「仏」になることにある。
「真理を悟った人」とは、すべての存在を「ありのまま」に見る「智慧」を獲得し、あらゆる人に対し平等の「慈悲」を実践できる人ということができる。法然の心をとらえたのは、このような「智慧」や「慈悲」の獲得が、万人に開かれているのかどうか、という問題であった。
この問題に答えるために、法然が見いだした人間観こそ「凡夫」に他ならない。「凡夫」とは、「煩悩」にとらわれた存在である。片時も欲望から自由であることができない、欲望をコントロールできない存在である。それが普通の人間である。その普通の人間が欲望を持ったまま「仏」となる道が求められねばならない。「凡夫」が「仏」となる教えも仏教にあるはずだ、と法然は考えた。こうして発見されたのが、「阿弥陀仏の本願力によって救われてゆく称名念仏」であり「浄土宗」なのである。
『選択本願念仏集』で法然は、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べている。法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。
末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆく事でしか救われる道は望めない。その根拠としては『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願(四十八願の中でも、特に第十八願)を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行は不要であるとしている。もっとも、法然が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難ではあるが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除・否定することはなかった。
また、『無量寿経釈』では、『無量寿経』においては仏土往生のために持戒すべきことが説かれているが、専らに戒行を持していなくても念仏すれば往生が遂げられると主張している。ただし、法然は持戒を排除したのではなく、持戒を実際に行うことは大変難しく、法然自身でもそれを貫くのは困難であると考えていたからこそ、自分も含めた凡夫が往生するためには無理な持戒よりも一心に念仏を唱えるべきであると唱えたのである。それは、『無量寿経釈』においても分際に従って1つでも2つでも持戒をしている者が一心に念仏すれば必ず往生できると唱えていることからも分かる。なお、法然自身による自分の持戒は不十分であるとする自覚とは反対に世間では法然を清浄持戒の人物と評価されていた。九条兼実が娘の任子の受戒のための戒師を決める際に、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして彼を招聘している(『玉葉』建久2年9月29日条)。
法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは『仏説観無量寿経』に説かれていて、『選択集』・『黒谷上人語灯録』にもみられる語である。「三心」とは「至誠心」(偽りのない心)・「深心」(深く信ずる心)・「廻向発願心」(願往生心)のことである。
三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。
このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、我々人は凡夫であるということをまず認識してその上で、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、称名念仏の行に生涯打ち込むべきだとしている。
法然が9歳の時に、生家のある久米南町から菩提寺(岡山県勝田郡奈義町)へ向かう道中にふもとにある阿弥陀堂のイチョウの枝を杖にして登り、この枝を「学成れば根付けよ」と境内に挿したものが、現在の菩提寺の大イチョウになったと言われており、この大イチョウは国の天然記念物に指定されている。 平成25年にこれらの樹木のDNA鑑定を行い、同じイチョウであると立証されたが、菩提寺イチョウの方が阿弥陀堂のイチョウより樹齢は古いとされている
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"text": "法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。",
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"text": "諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。",
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"text": "大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。",
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"text": "『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。",
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"text": "浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。",
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"text": "長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。",
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"text": "『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。",
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"text": "その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。",
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"text": "これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。",
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"text": "承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。法然はこの地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)が、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。",
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"text": "養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。",
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"text": "文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。",
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"text": "建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。",
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"text": "建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。",
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"text": "元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。",
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"text": "法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。",
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"text": "元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。",
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"text": "念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。",
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"text": "法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。",
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"text": "讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。",
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"text": "承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現・箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。",
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"text": "建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。",
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"text": "法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子宇都宮頼綱などがいる。",
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"text": "法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。",
"title": "生涯"
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"text": "一般に、法然は善導の『観経疏』(かんぎょうしょ)によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。ここでは顕密の修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ、阿弥陀仏の本願力を堅く信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える易行(いぎょう)のみが正行とされた。",
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"text": "法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まった。兼実の求めに応えて、その教義を記した著作が『選択本願念仏集』である。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人の救済に専念する姿勢を示した。",
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"text": "自分を含めて万人の救済を追求した法然は「自力」の仏教を離れ「他力」の仏教に行き着いた。それまでの仏教は万人が「仏」になる方法を示していなかったのであった。ここで言う「仏」とはもちろん死者の意味ではなく、「真理を悟った人」の意味である。仏教の目的は人が「仏」になることにある。",
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"text": "「真理を悟った人」とは、すべての存在を「ありのまま」に見る「智慧」を獲得し、あらゆる人に対し平等の「慈悲」を実践できる人ということができる。法然の心をとらえたのは、このような「智慧」や「慈悲」の獲得が、万人に開かれているのかどうか、という問題であった。",
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"text": "この問題に答えるために、法然が見いだした人間観こそ「凡夫」に他ならない。「凡夫」とは、「煩悩」にとらわれた存在である。片時も欲望から自由であることができない、欲望をコントロールできない存在である。それが普通の人間である。その普通の人間が欲望を持ったまま「仏」となる道が求められねばならない。「凡夫」が「仏」となる教えも仏教にあるはずだ、と法然は考えた。こうして発見されたのが、「阿弥陀仏の本願力によって救われてゆく称名念仏」であり「浄土宗」なのである。",
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"text": "『選択本願念仏集』で法然は、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べている。法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。",
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"text": "末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆく事でしか救われる道は望めない。その根拠としては『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願(四十八願の中でも、特に第十八願)を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行は不要であるとしている。もっとも、法然が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難ではあるが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除・否定することはなかった。",
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"text": "また、『無量寿経釈』では、『無量寿経』においては仏土往生のために持戒すべきことが説かれているが、専らに戒行を持していなくても念仏すれば往生が遂げられると主張している。ただし、法然は持戒を排除したのではなく、持戒を実際に行うことは大変難しく、法然自身でもそれを貫くのは困難であると考えていたからこそ、自分も含めた凡夫が往生するためには無理な持戒よりも一心に念仏を唱えるべきであると唱えたのである。それは、『無量寿経釈』においても分際に従って1つでも2つでも持戒をしている者が一心に念仏すれば必ず往生できると唱えていることからも分かる。なお、法然自身による自分の持戒は不十分であるとする自覚とは反対に世間では法然を清浄持戒の人物と評価されていた。九条兼実が娘の任子の受戒のための戒師を決める際に、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして彼を招聘している(『玉葉』建久2年9月29日条)。",
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"text": "三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。",
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"text": "このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、我々人は凡夫であるということをまず認識してその上で、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、称名念仏の行に生涯打ち込むべきだとしている。",
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"text": "法然が9歳の時に、生家のある久米南町から菩提寺(岡山県勝田郡奈義町)へ向かう道中にふもとにある阿弥陀堂のイチョウの枝を杖にして登り、この枝を「学成れば根付けよ」と境内に挿したものが、現在の菩提寺の大イチョウになったと言われており、この大イチョウは国の天然記念物に指定されている。 平成25年にこれらの樹木のDNA鑑定を行い、同じイチョウであると立証されたが、菩提寺イチョウの方が阿弥陀堂のイチョウより樹齢は古いとされている",
"title": "逸話"
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法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空(げんくう)、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。 諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。 大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。 『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。 浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
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{{Infobox Buddhist
|名前=法然房源空
|生没年=[[長承]]2年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]] - [[建暦]]2年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]([[宣明暦]])<ref>{{Kotobank|法然}}</ref><br /><small>([[1133年]][[5月13日]] - [[1212年]][[2月29日]]〈[[ユリウス暦]]〉)</small>
|幼名=勢至丸
|号=(房号)法然<br />(大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師<ref name="kosyo">{{Cite web|和書|author=|coauthors=|date=|url=http://www.jodo.or.jp/jodoshu/index5.html|title=法然の大師号・諡号・呼称:浄土宗|publisher=浄土宗|language=|accessdate=2010-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170111195818/http://www.jodo.or.jp/jodoshu/index5.html|archivedate=2017-01-11|deadlinkdate=2022-03-19}}</ref>
|諱=源空
|諡号=慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・<br />天下上人無極道心者・光照大士<ref name="kosyo"/>
|尊称=元祖法然上人
|生地=[[美作国]](現・岡山県)
|没地=[[洛東]]大谷(現在の[[知恩院]]付近)
|画像=[[File:Takanobu-no-miei.jpg|250px]]
|説明文=「披講の御影(隆信御影)」<ref group="注釈">絹本著色、14世紀([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])の作、知恩院蔵。法然から受けた『往生要集』の講義に感動した後白河法皇が、[[似絵]]の名手・[[藤原隆信]]に法然の姿を描かせ、[[蓮華王院]]の宝物に納めた、と伝記の多くに引用される説話があり、本作品はこの説話を元に描かれた。頭頂部が丸く描かれており、これは平たく描かれるいわゆる「法然頭」より先行した図様を示す。しかしその慎重な運筆から、原本ではなく転写本だと推測される([[東京国立博物館]]ほか編集 『特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」』展図録、2011年、31,289頁)。</ref>
|宗旨=[[浄土宗]]
|宗派=
|寺院=法然自身は寺院を建立せず。
|師=[[源光 (僧)|源光]]・[[叡空]]
|弟子=[[弁長]]、[[証空]]、[[親鸞]]、[[熊谷直実|蓮生]]、[[源智]]、<br />[[幸西]]、[[信空 (浄土宗)|信空]]、[[隆寛]]、[[長西]]、[[湛空]]<br />など。
|著作=『[[選択本願念仏集]]』、<br />「[[一枚起請文]]」、他。
|廟=[[知恩院]]、[[金戒光明寺]]、[[法然寺 (京都市)|法然寺]]、<br />[[光明寺 (長岡京市)|粟生光明寺]]など。
}}
[[File:せいし丸5251.JPG|thumb|150px|せいし丸さま<br />([[知恩院]])]]
[[ファイル:Honen shonin eden - Honen dreams of Shan-tao.jpeg|サムネイル|[[法然上人絵伝]]]]
'''法然'''(ほうねん、[[長承]]2年([[1133年]]) - [[建暦]]2年([[1212年]]))は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期の[[日本]]の[[僧]]である。はじめ山門([[比叡山]])で[[天台宗]]の教学を学び、[[承安 (日本)|承安]]5年([[1175年]])、専ら[[阿弥陀仏]]の誓いを信じ「[[南無阿弥陀仏]]」と念仏を唱えれば、死後は平等に[[往生]]できるという[[専修念仏]]の教えを説き、のちに[[浄土宗]]の開祖と仰がれた。法然は[[房号]]で、[[諱]]は{{Ruby|源空|げんくう}}、幼名を勢至丸<ref name="kosyo"/>、通称は'''黒谷上人'''、'''吉水上人'''とも。
諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である<ref group="注釈">
* 「慧光菩薩」…元暦4年(1188年)[[後鳥羽天皇]]贈
* 「華頂尊者」…嘉禎3年(1237年)[[四条天皇]]贈
* 「通明国師」…寛元2年(1244年)[[後嵯峨天皇]]加諡
* 「天下上人無極道心者」…永享12年(1440年)頃(?)[[後花園天皇]]加諡
* 「光照大士」…天文8年(1539年)[[後奈良天皇]]加諡</ref><ref name="kosyo"/>。
[[大師 (僧)|大師]]号は、500年遠忌の行なわれた[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])以降、50年ごとに[[天皇]]より加諡され、平成23年([[2011年]])現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である<ref group="注釈">
* 「円光大師」…元禄10年(1697年)[[東山天皇]]加諡
* 「東漸大師」…正徳元年(1711年)[[中御門天皇]]加諡
* 「慧成大師」…宝暦11年(1761年)[[桃園天皇]]加諡
* 「弘覚大師」…文化8年(1811年)[[光格天皇]]加諡
* 「慈教大師」…文久元年(1861年)[[孝明天皇]]加諡
* 「明照大師」…明治44年(1911年)[[明治天皇]]加諡
* 「和順大師」…昭和36年(1961年)[[昭和天皇]]加諡
* 「法爾大師」…平成23年(2011年)[[上皇明仁]]加諡
</ref><ref name="kosyo"/>。
『[[選択本願念仏集]]』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における[[称名念仏]]の元祖と称される。
浄土宗では、[[善導]]を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
[[浄土真宗]]では、法然を[[七高僧]]の第七祖とし、'''法然聖人/法然上人'''、'''源空聖人/源空上人'''と称し、元祖と位置付ける<ref group="注釈">浄土真宗では、法然を「元祖」と称し、親鸞を「宗祖」と称する。浄土真宗における法然と親鸞に対する「聖人/上人」の使い分けには時代による変遷がある。親鸞は法然を常に「聖人」と呼んだ。これを尊重し、初期には法然は常に「源空聖人」と呼ばれ、親鸞と法然を対で扱う際にはその師弟関係を重んじて「源空聖人・親鸞上人」と呼びつつ、親鸞を単独で呼ぶ際には「親鸞聖人」と呼称した。本願寺系では蓮如に至って法然と対で扱う場合でも親鸞を法然と同位に置いて「源空聖人・親鸞聖人」と呼ぶようになった。江戸期以降、他の法然門下である浄土系諸宗と自派を截然と分かち自派の独自性を宣揚しようとする意識から、法然の呼称は「源空上人」とされ、親鸞の下位に位置づけられるようになる。しかしながら、21世紀以降にはこうした宗派意識に対する反省もあり、親鸞自身の用いた呼称である「源空聖人」が、大遠忌などの公式行事においても再び用いられるようになっている。</ref>。[[親鸞]]は『[[正信念仏偈]]』や『[[三帖和讃#高僧和讃|高僧和讃]]』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
== 生涯 ==
=== 生い立ちと出家・授戒 ===
[[長承]]2年([[1133年]])[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]、[[美作国]]久米(現在の[[岡山県]][[久米郡]][[久米南町]])の[[押領使]]、[[漆間時国]]と、母[[秦氏]]君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、[[誕生寺 (岡山県久米南町)|誕生寺]](出家した[[熊谷直実]]が建立したとされる)になっている。
『[[四十八巻伝]]』(勅伝)などによれば、[[保延]]7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって[[仇討ち]]を断念し、[[菩提寺]]の院主であった、母方の叔父の僧侶・[[観覚]]のもとに引き取られた<ref>松尾(1995)pp.29-30</ref><ref>{{Cite web|和書|title=美作の歴史を訪ねて {{!}} 岡山県北の生活情報 アットタウンWEBマガジン|url=https://afw-at.com/page.php?id=64|accessdate=2019-03-08}}</ref>。その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった[[比叡山]]での勉学を勧めた。
その後、[[天養]]2年([[1145年]])<ref group="注釈">異説には久安3年(1147年)</ref>、比叡山[[延暦寺]]に登り、[[源光 (僧)|源光]]に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、[[久安]]3年([[1147年]])に同じく比叡山の[[皇円]]の下で[[得度]]し、[[天台座主]][[行玄]]を戒師として[[授戒]]を受けた<ref name=matsuo30>松尾(1995)p.30</ref>。
久安6年([[1150年]])、皇円のもとを辞し、比叡山[[黒谷別所]]に移り、[[叡空]]を師として修行して[[戒律]]を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である<ref name=matsuo30/>。法然は「智慧第一の法然房」と称され、[[保元]]元年([[1156年]])には京都[[東山 (京都府)|東山]]黒谷を出て、[[清凉寺]]([[京都市]][[右京区]][[嵯峨野|嵯峨]])に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして[[醍醐寺]](京都市[[伏見区]]醍醐東大路町)、次いで[[奈良]]に遊学し、[[法相宗]]、[[三論宗]]、[[華厳宗]]の学僧らと談義した<ref name=matsuo30/>。
これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の[[弁長]]が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている<ref name=mori149>森(2013)p.149-150</ref>。
=== 浄土宗の開宗 ===
[[承安 (日本)|承安]]5年([[1175年]])43歳の時、[[善導]]の『[[観無量寿経疏]]』(『観経疏』)によって回心を体験し、[[専修念仏]]を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした('''二祖対面''')。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。法然はこの地に草庵・白河禅房(現・[[金戒光明寺]])を設けたが、まもなくして弟弟子である[[信空 (浄土宗)|信空]]の叔父[[藤原是憲|円照]]がいる西山広谷に足を延ばした。法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・[[光明寺 (長岡京市)|光明寺]]の南西の地)が、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・[[知恩院]]御影堂、もしくは現・[[安養寺 (京都市東山区)|安養寺]])を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした<ref name=matsuo30/>。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。法然のもとには延暦寺の[[官僧]]であった[[証空]]、[[隆寛]]、[[親鸞]]らが入門するなど次第に勢力を拡げた<ref name=matsuo30/>。
[[養和]]元年([[1181年]])、前年に焼失した[[東大寺]]の大勧進職に推挙されるが辞退し、[[重源|俊乗房重源]]を推挙した。
[[文治]]2年([[1186年]])、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の[[顕真]]が法然を[[大原 (京都市)|大原]][[勝林院]]に招請した。そこで法然は浄土宗義について顕真、[[明遍]]、[[証真]]、[[貞慶]]、[[智海]]、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「[[南無阿弥陀仏]]」と号して法然に師事した。
[[建久]]元年([[1190年]])、重源の依頼により再建中の[[東大寺大仏殿]]に於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年([[1198年]])、専修念仏の徒となった[[九条兼実]]の懇請を受けて『[[選択本願念仏集]]』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという<ref name=matsuo31>松尾(1995)pp.30-31</ref>。
[[建仁]]2年([[1202年]])には[[雲居寺]]の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。
[[元久]]元年([[1204年]])、[[後白河天皇|後白河法皇]]13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・[[長講堂]](現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。
法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。
=== 延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難 ===
{{main|承元の法難}}
元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年([[1205年]])の[[興福寺奏状]]の提出が原因のひとつとなって[[承元]]元年([[1207年]])、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]により念仏停止の断が下された<ref group="注釈">承元の法難とそれに伴う法然の流罪はあくまでも、遵西・住蓮の事件に対する師匠としての責任を問われただけで、念仏禁止に関する議論はあったものの断には至らなかったとする見解もある。詳細は[[承元の法難]]の項目を参照のこと。</ref>。
念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の[[熊野詣]]の留守中に院の[[女房]]たちが法然門下で[[唱導]]を能くする[[遵西]]・[[住蓮]]のひらいた東山鹿ヶ谷草庵([[京都市]][[左京区]])での[[念仏]][[法会]]に参加し、さらに[[出家]]して[[尼僧]]となったという事件であった<ref name=ishii> 石井(1979)pp.425-431</ref>。
この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と[[密通]]したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである<ref name=ishii/><ref group="注釈">承元の法難の原因となったこの事件からも、法然の教団が女人救済に熱心に努めていたことがうかがえる。松尾(1995)p.31。一方、遵西・住蓮がこの時行った六時礼讃と呼ばれる方法は、法然が世間を誘惑するものであるとして批判し、『七箇条制誡』でも禁止を表明しており、法然本来の教えを無視して独自に動く門弟が現れていたとみる考えもある。森(2013)p.279-281・290-293</ref>。
法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として[[土佐国]]に流される予定だったが配流途中、[[九条兼実]]の庇護により[[讃岐国]]への流罪に変更された。なお、親鸞はこのとき[[越後国]]に配流とされた。
=== 讃岐配流と晩年 ===
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の[[塩飽諸島]]本島や西念寺(現・[[香川県]][[仲多度郡]][[まんのう町]])を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、[[空海]]の建てた由緒ある[[善通寺]]にも参詣している。法然を偲ぶ[[法然寺]]も[[高松市]]に所在する。
[[File:御廟5280.JPG|thumb|220px|法然上人廟所<br />(知恩院)]]
承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が[[摂津国]][[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]](現・[[箕面市]])の[[勝尾寺]]に承元4年([[1210年]])3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の[[建暦]]元年([[1211年]])には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。
[[建暦]]2年([[1212年]])[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]、大谷禅房にて死去。[[享年]]80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の[[源智]]の願いに応じて、遺言書『[[一枚起請文]]』を記している。廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。
法然の門下には[[弁長]]・[[源智]]・[[信空 (浄土宗)|信空]]・[[隆寛]]・[[証空]]・[[聖覚]]・[[湛空]]・[[長西]]・[[幸西]]・[[道弁]]・[[親鸞]]・[[熊谷直実|蓮生]](れんせい、[[熊谷直実]])らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の[[式子内親王]]・[[九条兼実]]、関東武士の津戸(つのと)三郎為守<ref>石丸(1991)pp.20-44</ref>・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子<ref>石丸(1991)pp.46-75</ref>[[宇都宮頼綱]]<ref group="注釈">後に出家し、証空に師事している。</ref>などがいる。
=== 死後・嘉禄の法難 ===
{{main|嘉禄の法難}}
法然の死後15年目の[[嘉禄]]3年([[1227年]])、[[天台宗]]の圧力によって[[隆寛]]、[[幸西]]、[[空阿]]が流罪にされ、[[僧兵]]に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、[[信空 (浄土宗)|信空]]と[[覚阿 (浄土宗)|覚阿]]が中心となって[[宇都宮頼綱|蓮生]](れんじょう、宇都宮頼綱)、[[塩谷朝業|信生]]<ref group="注釈">宇都宮頼綱の実弟。</ref>、[[東胤頼|法阿]]、[[道弁]]らと[[六波羅探題]]の武士たちが護衛して法然の遺骸を[[嵯峨]]の[[二尊院]]に移送した。更に[[証空]]によって[[円空 (浄土宗)|円空]]がいた[[太秦]]の[[広隆寺]]境内の[[西光寺 (京都市右京区)|来迎院]]に、更に[[西山]]の粟生にいる[[幸阿 (浄土宗)|幸阿]]の[[光明寺 (長岡京市)|念仏三昧院]]に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある[[安貞]]2年([[1228年]])1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は[[知恩院]]などに分骨された。
== 思想と教え ==
一般に、法然は[[善導]]の『[[観無量寿経疏|観経疏]]』(かんぎょうしょ)によって[[称名念仏]]による[[専修念仏]]を説いたとされている。ここでは[[顕密]]の修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ、阿弥陀仏の本願力を堅く信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える[[易行]](いぎょう)のみが正行とされた<ref>松尾(1995)p.31</ref><ref group="注釈">専修念仏の教えは浄土門のなかに[[多念義]]と[[一念義]]の論議を生んだ。法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、親鸞は一念義の立場に立った。石井(1974)pp.429-430。ただし、一念すればそれで充分であるという意味での一念義に対しては一貫して否定する見解を取り続けた。森(2013)pp.215-238・291-293。</ref><ref group="注釈">一念義と多念義の論争に対しては、法然は二項対立に持って行く議論のあり方が間違っているという趣旨のことばを語っており、「常に仰せられたことば」の中に「一度の念仏、十度の念仏でさえ往生するといっても、心に雑念を巣くわせてとなえるならば、一見念仏行に精励しているごとく見えても、念仏の質には問題があろう。またたえず念仏しているといっても、一念でも救われるという本願を疑いつつとなえているならば、その念仏行自体に問題がある。であれば、一度の念仏によっても往生するのだと堅く信じて、この信心のうちに生涯念仏行に打ちこまねばならない。」と語られている。石丸(1991)pp.229-230</ref>。
法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家の[[九条兼実]]ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まった。兼実の求めに応えて、その教義を記した著作が『[[選択本願念仏集]]』である。日本仏教史上初めて、一般の[[女性]]にひろく布教をおこなったのも法然であり<ref group="注釈">[[石丸晶子]]編訳 『法然の手紙 愛といたわりの言葉』には法然が武家の妻女や公家の妻女からの問いに答えた返書が5通と、手紙ではないが、室の津の遊女に教え諭したことばとして伝承された短い一文が収録されている。</ref>、かれは国家権力との関係を断ちきり、[[個人]]の救済に専念する姿勢を示した<ref name=ienaga128>家永(1982)p.128</ref>。
自分を含めて万人の救済を追求した法然は「自力」の仏教を離れ「他力」の仏教に行き着いた。それまでの仏教は万人が「仏」になる方法を示していなかったのであった。ここで言う「[[仏陀|仏]]」とはもちろん死者の意味ではなく、「真理を悟った人」の意味である。仏教の目的は人が「仏」になることにある<ref>阿満(2007)pp.274-275</ref>。
「真理を悟った人」とは、すべての存在を「ありのまま」に見る「智慧」を獲得し、あらゆる人に対し平等の「慈悲」を実践できる人ということができる。法然の心をとらえたのは、このような「[[智慧]]」や「[[慈悲]]」の獲得が、万人に開かれているのかどうか、という問題であった。
この問題に答えるために、法然が見いだした人間観こそ「[[凡夫]]」に他ならない。「[[凡夫]]」とは、「[[煩悩]]」にとらわれた存在である。片時も欲望から自由であることができない、欲望をコントロールできない存在である。それが普通の人間である。その普通の人間が欲望を持ったまま「仏」となる道が求められねばならない。「凡夫」が「仏」となる教えも仏教にあるはずだ、と法然は考えた。こうして発見されたのが、「[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の本願力によって救われてゆく[[称名念仏]]」であり「[[浄土宗]]」なのである<ref>阿満(2007)pp.274-276</ref>。
=== 専修念仏の提唱 ===
『選択本願念仏集』で法然は、各章ごとに善導や善導の師である[[道綽]]のことばを引用してから自らの見解を述べている。法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を[[称名念仏]]を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。加えて、仏教を専修念仏を行う[[浄土門]]とそれ以外の行を行う[[聖道門]]に分け、[[浄土門]]を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、[[聖道門]]を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、[[称名念仏]]は[[末法]]の世でも有効な行であることを説いている。
末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆく事でしか救われる道は望めない。その根拠としては『[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]』にある[[法蔵菩薩]]の誓願([[四十八願]]の中でも、特に第十八願)を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった[[阿弥陀仏]]を十方の諸仏も讃歎しているとある『[[阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]』を示し、他の雑行は不要であるとしている<ref>[https://www.osaka-amida48.net/index.php?%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98 「浄土宗の教えと四十八願」(大阪新四十八願所・阿弥陀巡礼公式ホームページ)]</ref>。もっとも、法然が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難ではあるが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除・否定することはなかった<ref name=mori171>森(2013)p.171-176・180-182・192-193</ref><ref group="注釈">法然は他宗の信徒に対して聖道門の修行を排除・否定することはなかったし、自分に師事する信徒にも「他宗の信徒に対して聖堂門の修行を否定したり、念仏を勧めたりしてはならない、また、言い争ってもならない」と諭している。しかし、自分の信徒に対しては、「自分の往生のために念仏以外の修行を行うことはよろしくない」、とはっきり否定している。ただし、「人々がひとつに団結してたがいに縁を結ぶために、お堂をたて、仏像をつくり、写経し、僧侶を供養することは念仏行を遠ざける悪因にはならないのでなさってください」と教えている。石丸(1991)pp.25-28</ref>。
また、『無量寿経釈』では、『無量寿経』においては仏土往生のために[[持戒]]すべきことが説かれているが、専らに戒行を持していなくても念仏すれば往生が遂げられると主張している。ただし、法然は持戒を排除したのではなく、持戒を実際に行うことは大変難しく、法然自身でもそれを貫くのは困難であると考えていたからこそ、自分も含めた凡夫が往生するためには無理な持戒よりも一心に念仏を唱えるべきであると唱えたのである。それは、『無量寿経釈』においても分際に従って1つでも2つでも持戒をしている者が一心に念仏すれば必ず往生できると唱えていることからも分かる。なお、法然自身による自分の持戒は不十分であるとする自覚とは反対に世間では法然を清浄持戒の人物と評価されていた。[[九条兼実]]が娘の[[九条任子|任子]]の受戒のための戒師を決める際に、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして彼を招聘している(『玉葉』建久2年9月29日条)<ref name=mori204>森(2013)p.204-207</ref>。
=== 三心の信心 ===
法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは『[[観無量寿経#訳本|仏説観無量寿経]]』に説かれていて、『選択集』・『黒谷上人語灯録』にもみられる語である。「三心」とは「至誠心」(偽りのない心<ref>石上(2013)pp.93-94</ref>)・「深心」(深く信ずる心)・「廻向発願心」(願往生心)のことである。
; 至誠(しじょう)心
: 真実の心のこと。真実というのは、心空しくして外見をとりつくろう心のないこと。<ref>石丸(1991)pp.61</ref>
; 深(じん)心
: 疑いなく深く信じること。何を深く信じるかといえば、もろもろの煩悩にとりかこまれ、たくさんの罪をつくってこれという善根のない凡夫であっても、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、その名号をとなえて、思い立ってから臨終のときにいたるまで休みなく、或いは十声一声しかとなえることができなかったとしても、多くとなえても少なくしかとなえることができなかったとしても、弥陀の名号をとなえる人はかならず往生すると信じて、たとえ一度しかとなえなかったとしても、その往生を疑わない心を深心という<ref>石丸(1991)pp.62</ref>。
; 廻向(えこう)発願心
: 自分が修めた行いをひたすら極楽にふりむけて、往生したいと願う心のこと<ref>石丸(1991)pp.65</ref>。
三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。
このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、我々人は[[凡夫]]であるということをまず認識してその上で、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、[[称名念仏]]の行に生涯打ち込むべきだとしている。
== 法脈と弟子 ==
{{familytree/start}}
{{familytree|border = 0|boxstyle = text-align:left| 法然 |v| 証空 |v| 浄音 |y|~|~|~|~|【西山浄土宗】|法然=法然|証空=[[証空]]〈西山義〉|浄音=[[浄音]]〈西谷流〉|【西山浄土宗】=【[[西山浄土宗]]】【[[浄土宗西山禅林寺派]]】}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | |!| | | |`| 了音 |(衰退)|了音=[[了音]]〈六角流〉|(衰退)=(衰退)}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | |)| 立信 |~|~|~|~|~|【浄土宗西山深草派】|立信=[[立信]]〈深草流〉|【浄土宗西山深草派】=【[[浄土宗西山深草派]]】}}
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{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | |`| 聖達 |-|一遍【時宗】|聖達=[[聖達]]〈嵯峨流〉|一遍【時宗】=[[一遍]]【[[時宗]]】}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |)| 弁長 |-| 良忠 |v| 良暁 |~|弁長=[[弁長]]〈鎮西義〉|良忠=[[良忠]]───|浄土宗|良暁=[[良暁]]〈[[白旗派]]〉|浄土宗=【[[浄土宗]]】}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | | | | | |)| 性心 |7|性心=[[性心]]〈藤田派〉}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | | | | | |)| 尊観 |%|白旗|尊観=[[尊観 (浄土宗)|尊観]]〈名越派〉|白旗=白旗派に吸収}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | | | | | |)| 然空 |C|然空=[[然空]]〈一条派〉}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | | | | | |)| 慈心 |J|慈心=[[慈心]]〈木幡派〉}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | | | | | |)| 道光 |(衰退)|道光=[[道光 (浄土宗)|道光]]〈三条派〉|(衰退)=(衰退)}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |!| | | | | | | |`| 一向 |~|一向宗|一向=[[一向俊聖|一向]]〈[[一向宗]]〉|一向宗=浄土宗〈鎮西義〉に吸収}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |)| 親鸞 |~|~|~|~|~|~|~|~|~| 浄土真宗| | | |親鸞=[[親鸞]]〈真宗義〉|浄土真宗=【[[浄土真宗]]】}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |)| 隆寛 |~| (衰退)| | | |隆寛=[[隆寛]]〈多念義〉|(衰退)=(衰退)}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |)| 幸西 |~| (衰退)| | | |幸西=[[幸西]]〈一念義〉|(衰退)=(衰退)}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |)| 長西 |~| (衰退)| | | |長西=[[長西]]〈九品寺流〉|(衰退)=(衰退)}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |)| 源智 |~|~|~|~|~|~|~|~|~| 浄土宗| | | |源智=[[源智]]〈紫野門徒〉|浄土宗=浄土宗〈鎮西義〉に吸収}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |)| 信空 |~|~|~|~|~|~|~|~|~| 浄土宗| | | |信空=[[信空]]〈白川門徒〉|浄土宗=浄土宗〈鎮西義〉に吸収}}
{{familytree|border = 0 |boxstyle = text-align:left| | | |`| 湛空 |~|~|~|~|~|~|~|~|~| 浄土宗| | | |湛空=[[湛空]]〈嵯峨門徒〉|浄土宗=浄土宗〈鎮西義〉に吸収}}
{{familytree/end}}
== 著作 ==
{{Wikisource|一枚起請文}}
* 『[[黒谷上人語灯録]]』 - (和語灯録・漢語灯録)
* 『[[西方指南抄]]』
* 『[[選択本願念仏集]]』(『選択念仏集』・『選択集』)
* 『[[一枚起請文]]』 - 遺言
* 『法然の手紙 愛といたわりの言葉』 - 書簡集(現代語訳、[[石丸晶子]]編訳、人文書院。ISBN 4409490036。)
== 逸話 ==
=== 菩提寺の大イチョウ ===
{{main|菩提寺のイチョウ}}
法然が9歳の時に、生家のある久米南町から菩提寺(岡山県勝田郡奈義町)へ向かう道中にふもとにある阿弥陀堂のイチョウの枝を杖にして登り、この枝を「学成れば根付けよ」と境内に挿したものが、現在の菩提寺の大イチョウになったと言われており、この大イチョウは国の天然記念物に指定されている。<br>
平成25年にこれらの樹木のDNA鑑定を行い、同じイチョウであると立証されたが、菩提寺イチョウの方が阿弥陀堂のイチョウより樹齢は古いとされている<ref name="菩提寺・阿弥陀堂・天明の公孫樹">[https://afw-at.com/page.php?id=35 菩提寺・阿弥陀堂・天明の公孫樹]2019年2月27日 閲覧</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 実際に本項目を編集する際に参考にした文献一覧 -->
* [[石井進]]『日本の歴史7 鎌倉幕府』[[中央公論新社|中央公論社]]〈[[中公文庫]]〉、1974年。改版2004年
* [[家永三郎]]『日本文化史(第二版)』[[岩波書店]]〈[[岩波新書]]〉、1982年3月。ISBN 4-00-420187-X
* [[松尾剛次]]『鎌倉新仏教の誕生』[[講談社]]〈[[講談社現代新書]]〉、1995年10月。ISBN 4-06-149273-X
* [[網野善彦]]『日本社会の歴史 (中)』岩波書店〈岩波新書〉、1997年7月。ISBN 4-00-430501-2
* [[森新之介]]『摂関院政期思想史研究』思文閣出版、2013年1月。ISBN 978-4-7842-1665-9 第四章~第六章
* [[石丸晶子]]編訳 『法然の手紙 愛といたわりの言葉』人文書院、1991年6月。(現代語訳法然書簡集)ISBN 4-409-49003-6
* [[阿満利麿]]『選択本願念仏集 法然の教え』[[角川学芸出版]]〈[[角川ソフィア文庫]]〉、2007年5月。ISBN 978-4-04-406801-1
* [[石上善應]]『法然の「問答集」を読む(上)』[[NHK出版]]、2013年4月。ISBN 978-4-14-910841-4
== 伝記と関連文献 ==
<!-- 本項目の編集の参考としていないが関連が深い文献 -->
=== 伝記 ===
* 法然([[田村圓澄]]、[[吉川弘文館]]「[[人物叢書]]」新装版)
**法然とその時代(田村圓澄、[[法蔵館]]:法蔵選書)
* 法然上人伝([[梶村昇]]、[[大東出版社]](上下)、2013年)
* 念仏の聖者 法然 -日本の名僧7-([[中井真孝]]編、吉川弘文館、2004年)
** 絵伝にみる法然上人の生涯(中井真孝、法蔵館、2011年)
* 法然([[大橋俊雄]]、[[講談社学術文庫]]、1998年)
** 法然入門(大橋俊雄、[[春秋社]])
** 法然と浄土宗教団 (大橋俊雄、[[教育社歴史新書]])
** 法然上人絵伝(大橋俊雄校注、「法然全集 別巻1・2」/改訂版:[[岩波文庫]](上下)、2002年)
* 法然の世紀 <small>源平争乱の世に万民救済を説く</small>([[伊藤唯真]]、浄土選書:浄土宗、2001年)
**『法然 <small>宗祖法然上人800年大遠忌記念</small>』(平凡社<small>〈別冊太陽 日本のこころ〉</small>、2011年)。図版本
* 法然賛歌<small>-生きるための念仏</small>([[寺内大吉]]、[[中公新書]])-※<small>以上は浄土宗関係者による書目</small>
* 法然行伝([[中里介山]]、[[ちくま文庫]]、2011年)。下記も収録
** 黒谷夜話(中里介山、新版:浄土宗出版・文庫判、2010年)
* 掬水譚-法然上人別伝([[佐藤春夫]]、新版:浄土宗出版・文庫判、2010年)
* 法然と親鸞の信仰([[倉田百三]]、[[講談社学術文庫]]、新版2018年)
* 法然と親鸞([[山折哲雄]]、[[中央公論新社]]、2011年/[[中公文庫]]、2016年)
* 法然を読む -「選択本願念仏集」講義-([[阿満利麿]]、新版・角川ソフィア文庫、2011年)
** 選択本願念仏集 法然の教え(阿満利麿訳・解説、[[角川ソフィア文庫]]、2007年)
** 法然の衝撃 -日本仏教のラディカル-(阿満利麿、[[ちくま学芸文庫]]、2005年/[[人文書院]]、オンデマンド版2003年)
** 法然入門 (阿満利麿、ちくま新書、2011年)
* 『<small>梅原猛著作集 第10巻</small> 法然の哀しみ』 ([[小学館]])
** 法然の哀しみ ([[小学館文庫]] 全2巻、2004年)
** 『<small>浄土仏教の思想 第8巻</small> 法然』 ([[梅原猛]]、[[講談社]])
** 法然 十五歳の闇 (角川ソフィア文庫 全2巻、2006年)、上記新版
** 『法然の「ゆるし」』([[新潮社]]<[[とんぼの本]] 仏教入門>、梅原猛・町田宗鳳共著、2011年)。図版本
* 法然・愚に還る喜び([[町田宗鳳]]、[[日本放送出版協会]]〈[[NHKブックス]]〉、2010年)
** 法然 -世紀末の革命者-(町田宗鳳、法蔵館)、長編書下し論考
** 法然の涙(町田宗鳳、[[講談社]]、2010年)、本作は書下ろし小説
** あなたを救う「法然」のことば(町田宗鳳、角川文庫、2011年)
** 法然対[[明恵]] -[[鎌倉仏教]]の宗教対決-(町田宗鳳、講談社選書メチエ)
=== 関連文献 ===
* 『法然全集』(全3巻、大橋俊雄訳注、[[春秋社]]、新装版2010年)
* 『<small>[[日本思想大系]] 10</small> 法然 [[一遍]]』(大橋俊雄校注、新版、<small>原典日本仏教の思想 5</small>、岩波書店)
* 『傍訳 [[選択本願念仏集]]』(上下巻、高橋弘次監修、本庄良文、善裕昭訳著 [[四季社]])、<small>※他の訳注はリンク先参照</small>
* 『一百四十五箇条問答 法然が教えるはじめての仏教』(石上善應訳・解説、ちくま学芸文庫、2017年)
* 『[[浄土宗]]聖典』(浄土宗出版部)、※「第三・四巻」に著作原文、書き下し文、解題
* 『昭和新纂国訳[[大蔵経]] 宗典部第3巻 浄土宗聖典』、[[大法輪閣]](復刻版)
* 『法然辞典』([[藤井正雄(仏教学者)|藤井正雄]]、[[金子寛哉]]、[[鷲尾定信]]、[[武田道生]]編、[[東京堂出版]])
* 『淨土宗大辞典』(全4巻:浄土宗大辞典刊行会発行、山喜房仏書林/新編全1巻、2016年)
* 『浄土教の事典』(峰島旭雄監修、[[東京堂出版]]、2011年)
* 『[[浄土三部経]]』 [[中村元 (哲学者)|中村元]]、[[早島鏡正]]、[[紀野一義]]訳注(上・下:岩波文庫+ワイド版)
* 『浄土三部経』 [[森三樹三郎]]、[[山口益]]、[[櫻部建|桜部建]]訳注(新版:[[中公文庫]]、2002年)
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
{{Commons category|Honen}}
* [[知恩院]] - 総本山
* [[金戒光明寺]] - 大本山
* [[知恩寺]] - 大本山
* [[清浄華院]] - 大本山
* [[法然上人二十五霊場]] (知恩院以下、上掲の寺院をふくむ)
* [[法然寺]] - 各地にある
* [[増上寺]] - 大本山で[[将軍家]]墓所
* [[無量寿経優婆提舎願生偈註|『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『往生論註』・『浄土論集』)]] - [[曇鸞]]撰
* [[平重衡]] 戒を授けている
* [[熊谷直実]] 門徒となる
* [[神成 (正教会)|神化(テオーシス)]]{{疑問点|date=2021年7月}}
* [[否定神学]]
== 外部リンク ==
* [https://jodo.or.jp/about/ 法然上人とは:浄土宗]
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2608_,83,0001a04:2608_,83,0020b14.html 『選擇本願念佛集』(續諸宗部 Vol.83)]
* [https://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/hounen/hounen_short.htm 法然(おかやま人物往来)] - [[岡山県立図書館]]
* [https://www.town.kumenan.lg.jp/living/culture/culture/senjin.html 郷土の偉人] 岡山県久米南町公式ウェブサイト
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11,097 |
源信 (公卿)
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源 信(みなもと の まこと)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第一源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。初代源氏長者。北辺大臣と号した。
嵯峨朝の弘仁5年(814年)に弟の弘・常と共に源朝臣姓を賜与されて臣籍降下し、左京に貫付されて戸主となった。淳和朝の天長2年(825年)無位から従四位上に直叙され、翌天長3年(826年)侍従に任ぜられる。治部卿・播磨権守を経て、天長8年(831年)7月に22歳で参議に任ぜられ、同年正月に非参議ながら従三位に叙せられた弟・常に半年遅れて公卿に列す。天長9年(832年)正四位下に昇叙。
天長10年(833年)仁明天皇の即位後まもなく従三位に叙せられる。仁明朝では天皇の外伯父・橘氏公や、嵯峨上皇の女婿でその信頼が非常に篤かった藤原良房には官位を越えられるものの順調な昇進を果たし、承和2年(835年)正三位、承和9年(842年)に発生した承和の変の直後に中納言、承和15年(848年)大納言に任ぜられる。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後まもなく従二位に昇る。次期春宮の選定にあたって、右大臣・藤原良房が後見する惟仁親王(のち清和天皇)が有力であったもののまだ幼少であったことから、文徳天皇から先に長男の惟喬親王(紀静子所生)を立てて、惟仁親王が成長したのちに皇嗣を継がせる意向について相談を受ける。ここで信は、惟仁に罪があるなら廃すべきであるが、罪がないのであれば他の皇子を擁立すべきではない、天皇の命令であっても承諾できない、と述べたという。斉衡4年(857年)良房の太政大臣就任に伴い左大臣に昇進。
天安2年(858年)清和天皇の即位と同時に正二位に至る。貞観8年(866年)応天門の変において大納言・伴善男の誣告により、応天門放火の嫌疑を受け、右大臣・藤原良相と伴善男との通謀により、朝廷の兵士により信の邸宅が取り囲まれる。しかし、太政大臣・藤原良房はこの出兵を承知しておらず、清和天皇に対して状況を確認したところ、天皇も初耳であるとのことで、結局勅により参議・大江音人と左中弁・藤原家宗が信の邸宅に派遣されて仲裁が行われた。信は平素より伴善男と不仲であったことから、もともと危惧を抱きつつも、危機から逃れるための対策は行っていなかったところ、思いかけず虎口を逃れることができたという。信は所有していた駿馬12頭・従者40余名を朝廷に献上し、反乱の意図がないことを示そうとしたが、朝廷は受け取らず全て返却した。なお、変にて朝廷の兵に邸を包囲されて絶望した、信の家の人々が嘆き悲しむ様子が『伴大納言絵詞』に描かれている。
この事件は信に大きな精神的打撃を与え、以後門を閉じて篭居していた。貞観10年閏12月(869年2月)気分転換の為摂津国河辺郡に狩猟に出かけるが、その最中に落馬して深泥に陥った。救い出され呼吸停止状態から一旦蘇生したものの、意識不明のまま数日後の28日に薨去。享年59。最終官位は左大臣正二位。翌貞観11年(869年)3月正一位の位階を贈位された。
生来、才知に優れる一方、洗練されていて上品な性質であり、人並みならぬ気高さがあった。
古人が書き残した書物を好んで読み、書の腕前も優れ、図画も巧みで彩色がすばらしく馬の形の絵はまるで本物のようであった。また、嵯峨上皇からは親しく笛・琴・琵琶など楽器の教習も受けた。あらゆる物事に対してその深奥を究めたが、特に鷹狩りには非常に心を注いだという。
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] |
源 信は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第一源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。初代源氏長者。北辺大臣と号した。
|
{{基礎情報 公家
| 氏名 = 源信
| 画像 = Minamoto no Makoto.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 源信([[菊池容斎]]『前賢故実』)
| 時代 = [[平安時代]]初期 - 前期
| 生誕 = [[弘仁]]元年([[810年]])
| 死没 = [[貞観 (日本)|貞観]]10年閏[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[869年]][[2月13日]])
| 改名 =
| 別名 = 北辺大臣
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| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正二位]]、[[左大臣]]、[[贈位|贈]][[正一位]]
| 主君 = [[淳和天皇]]→[[仁明天皇]]→[[文徳天皇]]→[[清和天皇]]
| 氏族 = [[嵯峨源氏]]
| 父母 = 父:[[嵯峨天皇]]、母:広井弟名の娘
| 兄弟 = [[有智子内親王]]、[[源潔姫|潔姫]]、[[仁明天皇|正良親王]]、[[正子内親王 (嵯峨天皇皇女)|正子内親王]]、'''信'''、貞姫、[[源弘|弘]]、[[源常|常]]、全姫、[[源寛|寛]]、[[源明|明]]、善姫、[[源定|定]]、[[秀良親王]]、[[忠良親王]]、[[源生|生]]、[[源安|安]]、[[源融|融]]、[[源鎮|鎮]]、[[源勤|勤]]、[[源啓|啓]]、[[業良親王]]、基良親王、[[業子内親王]]、秀子内親王、俊子内親王、[[芳子内親王]]、[[繁子内親王]]、基子内親王、[[仁子内親王]]、宗子内親王、純子内親王、[[斉子内親王]]、淳王、[[源清|清]]、澄、[[源勝|勝]]、賢、継、若姫、密姫、端姫、盈姫、更姫、神姫、容姫、吾姫、声姫、年姫、良姫
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| 子 = 叶、[[源平|平]]、[[源恭|恭]]、[[源有|有]]、好、[[源保|保]]、任、昌、春尋
| 特記事項 =
}}
'''源 信'''(みなもと の まこと)は、[[平安時代]]初期から前期にかけての[[公卿]]。[[嵯峨天皇]]の子(嵯峨第一源氏)。[[官位]]は[[正二位]]・[[左大臣]]、[[贈位|贈]][[正一位]]。初代[[源氏長者]]。'''北辺大臣'''と号した。
== 経歴 ==
[[嵯峨天皇|嵯峨朝]]の[[弘仁]]5年([[814年]])に弟の[[源弘|弘]]・[[源常|常]]と共に[[源氏|源朝臣]]姓を賜与されて[[臣籍降下]]し、左京に[[本貫|貫付]]されて戸主となった。[[淳和天皇|淳和朝]]の[[天長]]2年([[825年]])[[无位|無位]]から[[従四位|従四位上]]に[[蔭位|直叙]]され、翌天長3年([[826年]])[[侍従]]に任ぜられる。[[治部省|治部卿]]・[[播磨国#国司|播磨権守]]を経て、天長8年([[831年]])7月に22歳で[[参議]]に任ぜられ、同年正月に[[非参議]]ながら[[従三位]]に叙せられた弟・常に半年遅れて[[公卿]]に列す。天長9年([[832年]])[[正四位|正四位下]]に昇叙。
天長10年([[833年]])[[仁明天皇]]の[[即位]]後まもなく[[従三位]]に叙せられる。仁明朝では[[天皇]]の外伯父・[[橘氏公]]や、[[嵯峨天皇|嵯峨上皇]]の女婿でその信頼が非常に篤かった[[藤原良房]]には[[官位]]を越えられるものの順調な昇進を果たし、[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])[[正三位]]、承和9年([[842年]])に発生した[[承和の変]]の直後に[[中納言]]、承和15年([[848年]])[[大納言]]に任ぜられる。
[[嘉祥]]3年([[850年]])[[文徳天皇]]の即位後まもなく[[従二位]]に昇る。次期[[皇太子|春宮]]の選定にあたって、[[右大臣]]・藤原良房が後見する惟仁親王(のち清和天皇)が有力であったもののまだ幼少であったことから、文徳天皇から先に長男の[[惟喬親王]]([[紀静子]]所生)を立てて、惟仁親王が成長したのちに皇嗣を継がせる意向について相談を受ける。ここで信は、惟仁に罪があるなら廃すべきであるが、罪がないのであれば他の皇子を擁立すべきではない、天皇の命令であっても承諾できない、と述べたという<ref>『吏部王記』承平元年9月4日条</ref>。[[斉衡]]4年([[857年]])良房の[[太政大臣]]就任に伴い[[左大臣]]に昇進。
[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])[[清和天皇]]の即位と同時に[[正二位]]に至る。[[貞観 (日本)|貞観]]8年([[866年]])[[応天門の変]]において大納言・[[伴善男]]の誣告により、[[応天門]]放火の嫌疑を受け、[[右大臣]]・[[藤原良相]]と伴善男との通謀により、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の兵士により信の邸宅が取り囲まれる。しかし、[[太政大臣]]・藤原良房はこの出兵を承知しておらず、[[清和天皇]]に対して状況を確認したところ、天皇も初耳であるとのことで、結局[[勅]]により[[参議]]・[[大江音人]]と[[弁官|左中弁]]・[[藤原家宗]]が信の邸宅に派遣されて仲裁が行われた。信は平素より伴善男と不仲であったことから、もともと危惧を抱きつつも、危機から逃れるための対策は行っていなかったところ、思いかけず虎口を逃れることができたという。信は所有していた駿馬12頭・従者40余名を[[朝廷 (日本)|朝廷]]に献上し、反乱の意図がないことを示そうとしたが、朝廷は受け取らず全て返却した<ref name="a">『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条</ref>。なお、変にて朝廷の兵に邸を包囲されて絶望した、信の家の人々が嘆き悲しむ様子が『[[伴大納言絵詞]]』に描かれている。
この事件は信に大きな精神的打撃を与え、以後門を閉じて篭居していた。貞観10年閏12月([[869年]]2月)気分転換の為[[摂津国]][[川辺郡|河辺郡]]に[[狩猟]]に出かけるが、その最中に落馬して深泥に陥った。救い出され呼吸停止状態から一旦蘇生したものの、意識不明のまま数日後の28日に[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]59。最終官位は左大臣正二位。翌貞観11年([[869年]])3月[[正一位]]の[[位階]]を[[贈位]]された<ref name="a" />。
== 人物 ==
生来、才知に優れる一方、洗練されていて上品な性質であり、人並みならぬ気高さがあった。
古人が書き残した書物を好んで読み、[[書道|書]]の腕前も優れ、[[図画]]も巧みで彩色がすばらしく馬の形の絵はまるで本物のようであった。また、[[嵯峨天皇|嵯峨上皇]]からは親しく[[笛]]・[[琴]]・[[琵琶]]など楽器の教習も受けた。あらゆる物事に対してその深奥を究めたが、特に[[鷹狩り]]には非常に心を注いだという<ref name="a" />。
== 官歴 ==
注記のないものは『[[六国史]]』による。
*[[弘仁]]5年([[814年]]) 5月8日:[[臣籍降下]]([[源氏|源朝臣]])<ref>『新撰姓氏録』左京皇別</ref>
*弘仁6年([[815年]]) 6月19日:[[本貫|貫附]][[左京]]
*[[天長]]2年([[825年]]) 10月20日:[[従四位|従四位上]]([[蔭位|直叙]])<ref name="kb">『公卿補任』</ref>
*天長3年([[826年]]) 正月28日:[[侍従]]。7月3日:[[治部省|治部卿]]<ref name="kb" />
*天長5年([[828年]]) 正月13日:[[播磨国#国司|播磨権守]]<ref name="kb" />
*天長8年([[831年]]) 7月11日:[[参議]]、治部卿播磨権守如元<ref name="kb" />
*天長9年([[832年]]) 正月7日:[[正四位|正四位下]]。11月7日:[[兵衛府|左兵衛督]]、去治部卿<ref name="kb" />
*天長10年([[833年]]) 3月6日:[[従三位]]
*[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]]) 正月7日:[[正三位]]。正月11日:兼[[近江国#国司|近江守]]。4月16日:[[近衛府|左近衛中将]]
*承和4年([[837年]]) 2月23日:兼[[衛門府|左衛門督]]、近江守如故
*承和8年([[841年]]) 7月28日:兼[[武蔵国司|武蔵守]]
*承和9年([[842年]]) 7月15日:服解([[嵯峨天皇|嵯峨上皇]][[喪|服喪]])<ref name="kb" />。7月25日:[[中納言]]
*承和15年([[848年]]) 正月10日:[[大納言]]
*[[嘉祥]]3年([[850年]]) 4月17日:[[従二位]]。11月25日:[[東宮傅]]
*[[仁寿]]4年([[854年]]) 8月28日:兼[[近衛大将|右近衛大将]]。9月23日:止大将
*[[斉衡]]4年([[857年]]) 2月19日:[[左大臣]]
*[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]]) 11月7日:[[正二位]]
*[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]]) 10月29日:賜[[山城国]][[宇治郡]]地25町
*貞観10年([[868年]]) 閏12月28日:[[崩御#薨去|薨去]](左大臣正二位)
*貞観11年([[869年]]) 3月4日:[[正一位]]
== 系譜 ==
『[[尊卑分脈]]』による。
* 父:[[嵯峨天皇]]
* 母:広井氏<ref name="a" />または広幡氏、藤井氏<ref>『尊卑分脈』</ref>
* 生母不詳の子女
** 男子:源叶
** 男子:[[源平]]
** 男子:[[源恭]](初名は謹)
** 男子:[[源有]]
** 男子:源好
** 男子:[[源保]] - 若狭守従五位下
** 男子:源任
** 男子:源昌
** 男子:春尋<ref>[[知的障害]]があったため、父の信によって系譜から削除されたが、のちに兄弟の平・恭・保らの奏請により[[春氏|春朝臣]]姓を賜与された(『日本三代実録』元慶5年6月9日条)</ref>
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*[[武田祐吉]]、[[佐藤謙三]]訳『読み下し 日本三代実録 上巻』[[戎光祥出版]]、2009年
*『[[公卿補任]] 第一篇』[[吉川弘文館]]、1982年
*『[[尊卑分脈]] 第三篇』吉川弘文館、1987年
*『国史大辞典 第13巻』[[吉川弘文館]] 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137
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[[Category:源姓を与えられた皇子|まこと]]
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[[Category:落馬事故死した人物]]
[[Category:810年生]]
[[Category:869年没]]
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十八番
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十八番(じゅうはちばん、おはこ)とは、もっとも得意な芸や技のこと。転じて、その人がよくやる動作やよく口にすることば。その人のくせ。数字は常に漢数字表記にするのが正しく、アラビア数字表記は誤り。
語源には複数の説があるが、それぞれが相互に関係している。
なお、十八番と書いて「おはこ」と読ませた初出は、柳亭種彦が文化12年(1815年)から天保2年(1831年)にかけて書いた『正本製』(しょうほんじたて)。また七代目團十郎が歌舞伎十八番を初めて公表したのは天保3年(1832年)のことで、この頃から広まった流行表現だったことが分かる。
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十八番(じゅうはちばん、おはこ)とは、もっとも得意な芸や技のこと。転じて、その人がよくやる動作やよく口にすることば。その人のくせ。数字は常に漢数字表記にするのが正しく、アラビア数字表記は誤り。
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'''十八番'''(じゅうはちばん、おはこ)とは、もっとも得意な芸や技のこと。転じて、その人がよくやる動作やよく口にすることば。その人のくせ<ref>日本国語大辞典第二版編集委員会 小学館国語辞典編集部『[[日本国語大辞典]]』2001年、[[小学館]]、第二版、第二巻。</ref>。[[数字]]は常に[[漢数字]]表記にするのが正しく、[[アラビア数字]]表記は誤り。
== 語源 ==
[[語源]]には複数の説があるが、それぞれが相互に関係している。
#[[歌舞伎]]で、[[市川團十郎 (初代)|初代團十郎]]・[[市川團十郎 (2代目)|二代目團十郎]]・[[市川團十郎 (4代目)|四代目團十郎]]がそれぞれ得意としていた[[荒事]]の演目18種を[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]が選んで「[[歌舞伎十八番]]」と呼んだ。ここから、得意とする芸という意味で広く用いられるようになった<ref>山口佳紀『暮らしのことば新語源辞典』2008年、講談社。</ref>。なぜ18という数になったのかについては、歌舞伎界では特別の演目を十八番とよんでいた説、「[[十八界]]」「十八般」のごとき総称・代表の意による説、荒事の主人公の年齢との関係の説など、複数の説があるが、どの説が正しいのかは明らかではない。選ばれた18種は、『[[勧進帳]]』、『不破』、『[[鳴神]]』、『[[暫]]』、『[[不動]]』、『[[嫐]]』、『[[象引]]』、『[[助六]]』、『[[押戻]]』、『[[外郎売]]』、『[[矢の根]]』、『[[関羽]]』、『[[景清]]』、『[[七つ面]]』、『[[毛抜]]』、『[[解脱]]』、『[[蛇柳]]』、『[[鎌髭]]』である<ref>下中邦彦『歌舞伎事典』1984年、平凡社、第2版。</ref>。
#[[阿弥陀如来]]が[[仏]]になる[[修行]]をしている時に立てられた48種類の誓い(弥陀の[[四十八願]])の18番目が「[[念仏]]をする人達を必ず[[救済]]する」というものであり、これ(生けとし生けるもの全てを救う)が他の諸仏の立てられた誓いより突出していることから、十八番が得意なものの[[代名詞]]となった<ref>瓜生中『あなたを守る菩薩と如来と明王がわかる本』2009年、PHP研究所、119頁。</ref>。
#[[武士]]が身に着けるべき[[武芸 (日本)|武芸]]の種類([[剣術|刀]]、[[弓術|弓]]、[[柔術|組み]]など)が、全部で18([[古武道#武芸十八般|武芸十八般]])ある事から来ている。この場合は「とっておきのひとつ」ではなく、18種類全てに優れた「多才」の意味も含まれる。こちらは別に「武芸'''百般'''」とも呼ばれる。
# [[江戸時代]]では、高価な[[書画]]や[[茶器]]などを丁重に箱に入れて、「真作である」ことを示す鑑定者の署名である「箱書き」を添えた。ここから、「本物の芸であると認定された」という意味で、「おはこ」と言うようになった。
なお、'''十八番'''と書いて「おはこ」と読ませた初出は、[[柳亭種彦]]が文化12年([[1815年]])から[[天保]]2年([[1831年]])にかけて書いた『正本製』<small>(しょうほんじたて)</small>。また七代目團十郎が歌舞伎十八番を初めて公表したのは天保3年([[1832年]])のことで、この頃から広まった[[流行語|流行表現]]だったことが分かる。
== 出典 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.naritaya.jp/naritaya/18/ 七代目團十郎の歌舞伎十八番]
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[[Category:十八番|*]]
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徳川慶喜
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徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、旧字体: 德川 慶喜)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。
天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致(まつだいら あきむね)、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に死去。
尊敬する徳川光圀の教育方針を踏襲した斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7か月)に江戸から水戸に移る。弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。
この間、藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問と武術を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・徳川慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。
老中・阿部正弘が「昭致を御三卿・一橋家の世嗣としたい」との将軍・徳川家慶の思召(意向)を弘化4年(1847年)8月1日に水戸藩へ伝達。思召を受けて昭致は8月15日に水戸を発ち9月1日に一橋徳川家を相続。12月1日に元服し、家慶から偏諱を賜り徳川慶喜と名乗る。家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。
嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。
安政4年6月17日に阿部正弘、安政5年7月16日に島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老に就任した井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。
同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。6月23日、慶喜は登城し直弼を詰問し、7月5日に登城停止を命じられた。翌安政6年(1859年)8月27日に隠居謹慎が命じられ(安政の大獄)、一橋家はしばらく当主不在の「明屋敷」となった。この日は三卿の登城日であり、斉昭らと違って不時登城ではなく、罪状不明のままの処分であった。
なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を斉昭に送っている。
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変における直弼の暗殺を受け、万延元年(1860年)9月4日に恐れをなした幕府により謹慎を解除される。
文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ横車を押し介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した(同時に慶喜は一橋家を再相続)。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。
同年9月30日、破約攘夷のやむを得ないことを意見した横井小楠に対し、万国が好を通じる今日において、日本のみが旧態依然とした鎖国に固執すべきでないことを説き、開国のやむを得ないことを天皇に奏上すべきであると述べた。春嶽も説を改めて慶喜の意見に賛成したことにより、一旦は幕府の評議は慶喜が上洛して開国の趣意を奏上することに決した。しかし、勅使待遇の改正に慶喜が反対したことで、これに反発した春嶽が再び破約攘夷説に転じて幕議は動揺した。このとき、山内容堂はあくまで開国論を奏上した場合には攘夷の廷議が攘将軍となりかねないことなどを説き、慶喜もやむなくこれに同意した。その結果、幕議は一転して攘夷の勅諚を遵奉することに決した。
文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。同年2月21日、4日前の会談で春嶽が意見したところに従い、中川宮朝彦親王の同意も得た上で、慶喜は関白・鷹司輔煕らに対して、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。
同年4月10日夜、翌日に予定されていた孝明天皇の石清水八幡宮行幸・攘夷祈願についての家茂の供奉を、「風邪発熱」(仮病)として急遽取りやめさせた。このことについて、家茂が天皇から節刀を授与された場合にはいよいよ攘夷を決行しなければならないことから、これを避けるため家茂の供奉をやめさせたとする説がある。しかし、節刀授与の計画は尊攘派の秘策であって、幕府や慶喜は知るよしもないことから、これは誤りであり、慶喜は家茂が一人で尊攘派公卿が多数控える天皇御前に召され、臨時の勅命が下されることを恐れたためであるとされる。
江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる。八月十八日の政変で長州藩を中心とする急進的尊皇攘夷派が排斥されたのち、勅命により11月26日に上洛、12月晦日には公武合体派諸侯・幕閣による参預会議の一員に任命された。しかし、春嶽ら参預諸大名の期待する幕政改革が断行されないために、春嶽らは慶喜の奮励が足りないと憤り、その一方で、慶喜は老中からも参預諸大名と行動を共にしているとして猜疑された。そのような状況下で、慶喜は横浜鎖港の断行を主張し、これに反対する参預諸侯の島津久光・松平春嶽らと対立した。元来開国論者であった慶喜が鎖港説に固執したのは、文久4年(1864年)正月に老中の酒井忠績・水野忠精から幕議は薩摩の開国論には従わないこととした旨を言われ、家茂の意見もこれと同じであったことから、やむを得なかったためであるとされる。同年2月16日、慶喜は、中川宮らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた春嶽、久光、伊達宗城を、「三人は天下の大愚物・大奸物である」などと罵倒、中川宮に対しても「(前日の沙汰が)偽であるというのならば命を頂戴し、某も切腹する」などと述べ、横浜鎖港の朝議を確かなものにしようとした。翌日、久光・宗城も鎖港に異議のないことを奏し、朝議は決した。しかし、その後も慶喜と参預諸大名との間が融和することなく、同年(元号は元治元年となっている)3月9日、慶喜は参預を辞任した。これに相次いで諸参預が辞任したため、参預会議は崩壊した。
参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や鳥取藩主・池田慶徳、岡山藩主・池田茂政(いずれも徳川斉昭の子、慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克(川越藩主)と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する。
同年7月に起こった禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)。また老中の本庄宗秀・阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜にわたる会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日(1866年8月29日)、将軍・家茂が大坂城で薨去する。当初は慶喜みずから長州征伐へ出陣するとして朝廷から節刀を下賜されたが、小倉城陥落の報に接して出陣を取りやめて今度は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。
家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの、将軍職就任は拒み続け、12月5日(1867年1月10日)に二条城において将軍宣下を受けてようやく将軍に就任した。この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。
慶喜政権は会津・桑名の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して堂上家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した。一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。ただ寛文印知以来、将軍の代替わりの度に交付していた領知目録等は、最後まで一切交付できなかった。
慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・徳川昭武(清水家当主とした)をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。
しかし兵庫開港問題を強引に推し進めたことで慶喜への反発は強まった。慶喜の強硬姿勢、上京四侯による内政改革の糸口をつかむことの不可能さ、京坂以西の反幕的政治情勢の深化は、薩摩藩を武力討幕路線へ傾斜させ、薩長芸に土佐藩内の討幕派(土佐は全体としては幕府を含めた雄藩連合を目指す力の方が強かった)が加わる薩藩主導の討幕勢力の形成が進んだ。
土佐の後藤象二郎の大政返上策が薩長土芸の間で合意された。慶喜がこれを受け入れる可能性を信じていなかった西郷隆盛らはこれを武力討幕のシグナルと位置付けていた。そして土佐藩は「天下ノ大政ヲ議スル全権ハ朝廷ニアリ」「我皇国ノ制度法則一切万機必ズ京都ノ議政所ヨリ出ヅベシ」とする上書を慶喜に送った。
慶喜は8月から9月頃までには反徳川雄藩連合の形成が急速に進んでいる情勢に気づいて警戒を強めていた。もしこの土佐の献策を受けねば土佐は全体としても武力討幕派に転じることになり、越前と肥後、肥前、尾張もそれに同調する可能性が高いので受け入れるしかなかった。逆に受け入れれば武力討幕論は主張しにくくなると考えられた。
こうして慶応3年10月14日(1867年11月9日)に慶喜は大政返上上表を明治天皇に奏上し、翌10月15日(1867年11月10日)に勅許された(大政奉還)。しかし大政奉還されたところで朝廷には何の実力もないため、朝廷は日常政務について「先是迄之通ニテ、追テ可及御沙汰候事」と返答せざるを得ず、結局実態としては慶喜政権が継続されたままとなった。
朝廷内で慶喜に与えられる地位についても朝廷内の実権を関白・二条斉敬と中川宮が握っている限り、また慶喜が800万石の卓絶した大名であり続ける限り、事実上の支配的地位が与えられると考えられた。やがて開催される諸侯会議でも慶喜は多数の支持を期待できたし、京都の軍事情勢を転換させるために江戸から続々と兵が上京中だった。このような状況のため大政奉還しようとも慶喜の実質的支配が続くことは覆り様がないように思われた。しかし慶喜が見落としていたのは大政を奉還した以上、大政を委任されていた時期と異なり、もし朝廷の構成や政策が転換された場合には慶喜側にはなす術がないという点であり、それが現実のものとなる。
大政奉還によりいったん武力討幕方針を中止した西郷隆盛らは、現状としては慶喜と旧幕府機構の横滑りでしかなく、朝廷には何らの物質的基礎も保証されていないことを確認すると前年以来反幕派公卿の指導者になっていた岩倉具視と連携してこれを覆すべく行動を開始した。12月8日(1868年1月2日)の朝議では慶喜の反対を退けて長州藩の復権と三条実美ら五卿帰洛が決定され、さらに翌12月9日(1868年1月3日)には薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩が政変を起こして朝廷を掌握し、慶喜を排除しての新政府樹立を宣言した(王政復古の大号令)。その会議において「慶喜の辞官(内大臣の辞職)納地(幕府領の奉納)」が決定する。
慶喜は王政復古の大号令に激昂した会津・桑名藩を鎮めるため、彼らを引き連れて大坂城に退去しつつ、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。一方、王政復古で新政府を発足させた5藩の間でも旧幕勢力の武力討伐を目指す薩摩藩と慶喜を取り込んだ形での漸進的移行を画策した土佐・越前藩では温度差があり、慶喜は越前・土佐に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。
しかし12月25日、慶喜不在の江戸で薩摩藩の挑発にのった旧幕府が薩摩藩邸焼き討ちを強行したことで情勢が変化した。12月28日にその報告が大目付の滝川具挙らによって慶喜のいた大坂城にもたらされ、城内の旧幕・会津・桑名藩勢力が薩摩憎悪で収拾がつかなくなった。結局慶喜は薩摩との開戦を決定して討薩表を作成、滝川具挙にこれを持たせて上京させるとともに、翌・慶応4年(1868年)1月2日に老中格の大河内正質を総督とし、会津・桑名藩兵を加えた軍を京都に向け進軍させたことで薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。
1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕軍は3日、4日、5日と連敗を喫した。これにより大政奉還以来の慶喜の優位的状況は一挙に消滅。このまま大坂城内に留まると城内の強硬論者が更に収拾つかなくなりそうだったため、慶喜は6日にも大坂城を脱出し、陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らと共に開陽丸で江戸に退却した。なお、この時、開陽丸艦長の榎本武揚には江戸への退却を伝えず、武揚は戦地に置き去りにされた。
慶喜が江戸へ退却した理由には、慶喜自身が晩年に語った軍を京都に送る気自体なかったという主張を信じる説、朝敵になることを恐縮したという説、江戸で態勢を立て直して再度戦争しようと考えていたなど様々な説がある。近年の研究では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の行動につながったとする説が提唱されている。また、薩摩を討つ覚悟はあっても、朝敵の汚名を恐れて天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある。『昔夢会筆記』によれば、水戸徳川家には徳川光圀以来の「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」という旨の家訓があったという。『徳川慶喜公伝』で、慶喜は、伊藤博文からの維新時に尊王の大義を重んじたのはなぜかとの質問に、「水戸徳川家では義公以来代々尊王の大義に心を留めていた。父なる人も同様の志で、自分は庭訓を守ったに過ぎない」と応えている。
いずれにしてもこの敗戦により慶喜には天皇の政府に攻撃をしかけたあげく敗北を喫したという評価だけが残り、それまで親慶喜的立場をとっていた諸侯すらもはや慶喜追討に反対しなくなった。1月7日、正式に慶喜追討令が下り、慶喜の官位は剥奪となった。慶喜らは1月12日に江戸に到着したが、政府は東帰した慶喜および旧幕府勢力との対決を前提とした諸道への鎮撫総督の派遣を決定し、2月9日には東征大総督・熾仁親王に率いられた政府軍が東征を開始した。
これに対して慶喜は小栗忠順や会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬を初めとする抗戦派を抑えて政府への恭順を主張する。恭順の意を示すため同じく朝敵となり官位剥奪処分となった老中・板倉勝静と若年寄・永井尚志を罷免するとともに容保と定敬に謹慎を命じた。勝海舟と大久保一翁に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。
彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は水戸での謹慎を希望したが、3月9日に東征大総督府より示された慶喜の死一等を減じる条件の七か条には江戸城開城や軍艦兵器の明け渡しと並んで慶喜の岡山藩での謹慎が入っていた。勝海舟は3月14日に東征軍参謀・西郷隆盛と会談した際に慶喜の謹慎場所を岡山でなく水戸にしてほしいと嘆願して認められた。4月4日に東海道鎮撫総督・橋本実梁が勅使として江戸城に入城し、田安家の徳川慶頼に対し、慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を命じる朝命を申し渡した。4月11日に東征軍諸兵が江戸城に入城し、城郭は尾張藩、武器は熊本藩が管理することになり、江戸城は開城された。4月21日には熾仁親王が江戸城に入城した。
ここに、江戸幕府は名実ともに消滅した。以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、日本史上最後の征夷大将軍となった。
慶喜は東海道鎮撫総督府に約束していた江戸退去日時の4月10日に下痢を起こしたため、一日延期されて4月11日明け方に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった。随行責任者は浅野氏祐であり、他に新村猛雄(彼はこの後も長く慶喜の家扶を務める)、中島鍬次郎、玉村教七、西周ら側近、戸塚文海や坪井信良ら医師、中条景昭や高橋泥舟など精鋭隊士・遊撃隊士の護衛が共をした。松戸、藤代、土浦、片倉を経由して4月15日に二十数年ぶりに水戸に到着した。水戸では弘道館の至善堂にて謹慎した。
慶喜が水戸に到着して1か月半後の閏4月29日に政府は田安亀之助こと徳川家達に宗家を相続させることを決定し、5月24日に家達の領地は駿府藩70万石に決定された。
慶喜が水戸へやって来た頃、水戸藩内では激しい藩内抗争があり、明治天皇の勅書と慶喜の支持を得て力を増した尊皇攘夷派の天狗党が佐幕派の反天狗党派を藩から追った直後だったが、会津へ逃亡していった反天狗党がいつ戻ってくるか分からず、政情不安定な水戸での謹慎は望ましくなく、政府は家達の後見人である松平確堂(前津山藩主)からの進言を容れ、7月10日に慶喜の駿府(静岡)への転居を命じた。
慶喜は7月19日に水戸を発ち、海路で那珂湊まで行き、そこから陸路で鉾田へ行き、再び海路で銚子に到着。21日に銚子の波崎から海路で駿府へ向かい、23日に清水港に上陸した。同日夕方には宝台院に入った。ここで1年2カ月の謹慎生活を送ることになる。また慶喜は家達の養父として宗家の籍に置かれることになった。
慶喜の後年の談によれば宝台院での謹慎中、外出をはばかって中島鍬次郎から油絵を学んだという。
明治元年(1868年)10月に榎本武揚一党が函館五稜郭を占領して立てこもった後、大久保利通や勝海舟は慶喜の謹慎を解除して榎本一党の征討を命じることを提案したが、三条実美の反対で沙汰止みとなった。明治2年(1869年)5月に榎本一党の降伏をもって戊辰戦争は終結した。勝海舟や大久保一翁ら旧臣が三条実美や大久保利通など政府高官に働きかけた結果、9月には慶喜の謹慎が解除された。
謹慎の解除に伴い、1869年(明治2年)10月5日に宝台院を出て、同じ駿府改め静岡内の紺屋町の元代官屋敷へ移住した。江戸城開城後に小石川の水戸藩邸で暮らしていた正室・美賀子も静岡にやってきて慶喜と同居するようになった。当時慶喜は33歳、美賀子は35歳だった。静岡藩内では知藩事の家達邸は「宮ケ崎御住居」、慶喜邸は「紺屋町御住居」と呼ばれていた。
1871年(明治4年)7月に廃藩置県があり、家達は東京に移住したが、慶喜は静岡にとどまった。慶喜は家達の家族扱いになっていたので一緒に東京移住するのが自然だったが、結局、1897年(明治30年)まで東京に移ることはなかった。その理由について旧臣の渋沢栄一子爵は勝海舟伯爵が押し込めたせいだとし、嫌味を込めて次のように述べている。「私は勝伯があまり慶喜公を押し込めるやうにせられて居ったのに対し、快く思はなかったもので、伯とは生前頻繁に往来しなかった。勝伯が慶喜公を静岡に御住はせ申して置いたのは、維新に際し、将軍家が大政を返上し、前後の仕末がうまく運ばれたのが、一に勝伯の力に帰せられてある処を、慶喜公が東京御住ひになって、大政奉還前後における慶喜公御深慮のほどを御談りにでもなれば、伯の金箔が剥げてしまふのを恐れたからだなどいふものもあるが、まさか勝ともあらう御仁が、そんな卑しい考えを持たれやう筈がない。ただ慶喜公の晩年に傷を御つけさせ申したくないとの一念から、静岡に閑居を願って置いたものだらうと私は思ふが、それにしても余り押し込め主義だったので、私は勝伯に対し快く思っていなかったのである」。勝海舟や大久保一翁らは慶喜の旧臣の中でも最も政府の要職に上った出世頭であり、徳川家のために政府内にあって尽力する役割を果たしたので、慶喜としてはその進言や忠告を無碍にできない関係にあった。
無位無官になっていた慶喜は1872年(明治5年)1月6日に従四位に叙されたことで最初の官位回復を受けた。ついで1880年(明治13年)には将軍時代と同じ官位である正二位を改めて与えられた。さらに1888年(明治21年)6月には従一位に昇叙した。叙位条例では従一位は公爵相当の礼遇を受けるとされており、これにより公爵に叙されていた宗家の家達に並ぶ礼遇を享受できるようになった。
静岡在住時代には政治的野心を持たず趣味の世界に没頭した。新村ら家扶が交代で書いた家扶日記によれば明治5年中だけでも銃猟・鷹狩・囲碁・投網・鵜飼をやっており、明治6年以降になると謡曲・能・小鼓・洋画・刺繍・将棋をやっている。釣りもしばしばした。特に熱中したのは銃猟と鷹狩と投網で、慶喜の狩猟の範囲は近村から安倍川尻までの広範囲に及び、静岡ではまだ珍しかった人力車に乗って清水湊まで行き投網を楽しんだ。鳥を追って畑の作物の上を縦横無尽に走り回るので農家から苦情が出たこともあったが、動じない慶喜は「ア さよか では全部買い取ってやったらよかろう」と答えたという。
明治13年から明治16年頃は庶民娯楽の講談に興味を持ち、静岡に興行でやってきた伊東花林や栗原久長などの講釈師を自邸に招待した。日本に洋式自転車が入ってきたのは明治14年・15年頃のことといわれるが、慶喜は早い段階で自転車を手に入れ、サイクリングも楽しんだ。1884年(明治17年)5月11日、当時10歳の息子・厚を連れて新聞縦覧所に行った際に新聞に関心を持つようになったらしく、同年6月14日からは『朝野新聞』を取るようになった。慶喜の趣味は同じ時期に同じものを集中して行っており、一度始めると集中的にやるのが特徴だった。
政府に恭順せずに反逆的立場を取った経歴のある旧幕臣とは関わり合いになることを回避し、明治11年(1878年)5月18日に元若年寄の永井尚志(慶喜に罷免された後、榎本武揚と共に脱走して函館五稜郭で榎本「総裁」のもと「函館奉行」を務め、降伏後しばらく獄につながれていた)が静岡までやってきて、慶喜に「御機嫌伺い」の面会を求めてきた際には面会を拒絶している。
静岡時代に慶喜は子作りに励み10男11女を儲けた。まず明治4年中に2人の側室との間に長男と次男を儲けたが、いずれも翌年に早世。明治5年に三男を儲けたが、この子も翌年早世。手元で育てた子供の早世が相次いだため、翌1873年(明治6年)に生まれた長女・鏡子は伊勢屋元次郎に里子に出した。これ以降1888年(明治21年)に生まれた十男・精に至るまでの全員を庶民(植木屋・米穀商・石工など)の家に里子に出している(早世した子は除く)。庶民の家で厳しく育てた方が元気に育つといわれていたためで、実際にこれ以降子供の生存率が上がった。里子に出した期間は概ね3年弱から4年強ほどだった。庶民の家に里子に出すのは当時の貴人としては異例のことだった。なお子供はすべて側室から生まれており、静岡時代には正室の美賀子夫人との間に子供はできなかった(江戸時代の結婚直後の頃に長女を一人儲けたが早世している)。美賀子とは疎遠になり、慶喜は明治5年7月に伊豆で湯治の旅行をした際に側室2人を連れていく一方、美賀子夫人は連れて行かず、彼女は同月に慶喜が帰ってきた後に別に伊豆修善寺温泉に出かけるような冷めた関係になっている。
静岡時代の慶喜は、身分上も経済上も宗家である徳川家達の管轄下にあった。東京の家達からの送金で生活し、慶喜の家令や家扶は家達により任命され、慶喜はその辞令を渡すだけだったという。また慶喜は東京の家達に預けた慶喜の娘たちに家達に従順であるよう「厳しく申し渡」したという。慶喜の七女・波子が松平斉民の四男・斉からの求婚を嫌がった際には彼女を静岡まで呼びつけて家達の世話になっている身であることや、津山の松平には義理があることなどを言い聞かせて辛抱を命じたという。慶喜が上座に座っていたとき、家達が「私の席がない」というと慶喜が慌てて席を譲ったという逸話もある。
明治19年(1886年)11月、東京の水戸徳川家の屋敷で暮らしている母・登美宮の病気見舞いで東京に上京。これが明治以降の最初の慶喜の東京訪問となった。
東海道線が静岡に開通されるのに伴い、慶喜の紺屋町の屋敷が静岡の停車場建設予定地に含まれたため、1887年(明治20年)に西草深に新しい屋敷の建設を開始し、翌年までに完成させて転居した。1889年(明治22年)2月1日に東海道線静岡以東が開通すると慶喜は同年4月30日にさっそくこれに乗車して弟の徳川昭武がいる千葉県の戸定邸へ向かい、母・登美宮とともに5月9日まで過ごした。塩原温泉で湯治を楽しんだり、日光東照宮や水戸を訪問したりした後、東京を経由して静岡へ帰っていった。徳川昭武の方もこのあと東海道線を使って毎年静岡に来るようになったので慶喜と昭武の兄弟の友好が深まった。また東海道線を利用して慶喜の狩猟の範囲も広がった。ただ加齢による体力の低下で狩猟や釣りの回数自体は減っていく。またこの頃からビリヤードと写真が慶喜の新たな趣味に加わる。特に写真は体力が低下しはじめた明治20年代後半の慶喜にとって主要な趣味となった。写真撮影のために色々な場所に姿を現すようになった。明治20年代は写真の湿式から乾式への移行期で撮影装置の移動が楽になったこともあったという。明治20年代半ば過ぎ頃からはコーヒーを飲むようになった。
1893年(明治26年)1月には母・登美宮が死去し、東京に出て葬儀を営んだ。ついで1894年(明治27年)7月9日に乳がんの治療のため東京の宗家に移っていた美賀子夫人が死去。この時慶喜は写真撮影のため焼津にいたが、電報を受けた家扶が慶喜の下に着替えをもって駆けつけ、その報告を受けた慶喜は焼津から東京へ直行している。
明治30年(1897年)11月に東京の巣鴨一丁目に移り住む。現在の巣鴨駅に近い位置にあたり、敷地3000坪建坪400坪だったという。ここにきて東京移住を決意したのは、慶喜の行動を抑制してきた勝海舟が老衰してきてその束縛が弱まっていたこと、加齢で健康不安が多くなってきたので良医がそろう東京に行きたがったこと、手元に残っていた末の息子たちも学習院入学のため静岡を離れたので慶喜の近辺が寂しくなったこと、この頃慶喜の西草深邸で窃盗事件が発生したことなどが理由として考えられている。
東京移住後、親族関係にあった威仁親王の仲介を受けて皇室関係者と関係を強めるようになり、明治31年(1898年)3月2日には皇居に参内して明治天皇の拝謁を受けた。また皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と親交を深め「ケイキさん」「殿下」で呼び合う間柄になったという。慶喜は足繁く東宮御所に通い、年末年始の挨拶をはじめ、皇子裕仁親王(後の昭和天皇)の誕生祝い、自身の叙爵や叙勲の御礼など事あるごとに皇太子と会っている。家扶日記から確認できるだけでも慶喜は明治33年以降毎年10日前後は皇太子に会いに行っており、慶喜と皇太子は1カ月から1カ月半に1度は会っていた計算になる。これほど頻繁に皇室の人間の拝謁を賜る人物は極めて稀である。
東京移住後の慶喜は行動がざっくばらんになった。皇室と親交関係を持つようになったことや、「お目付け役」の勝海舟が1899年(明治32年)に死んだのが大きかったという。自転車に乗って銀座や東宮御所、千駄ヶ谷の徳川宗家邸までサイクリングしている。銀座は特に慶喜のお気に入りの場所になり、運動を兼ねてよく銀座にショッピングに出かけた。東京でも気に入った場所を見つけては写真撮影をし、まれにそれを榎本武揚などに贈った。上野の博物館にも行っている。東京で悠々自適の生活を謳歌した。東京に移住した後も猟にはよく出かけており、皇太子の狩猟のお供をすることもあったが、弟の昭武を連れ立って行くことが多かったようである。
もともと新しい物が好きだった慶喜は、時代の最先端の物品が流通する東京に来てからは、一層色々な物に関心を示すようになった。遅くとも明治32年(1899年)2月の段階では自分の屋敷に電話を引いた(同月一日に東京大阪間の長距離電話が開通した。千駄ヶ谷の宗家邸が電話を引いたのはこの翌月だったのでそれより早かった)。華頂宮家からお土産でアイスクリーム製造機をもらって自家製アイスクリームを作ったり、蓄音機でレコード鑑賞を楽しむようになった。明治32年6月には神田錦町の錦輝館で「米西戦争活動大写真」という実写フィルム(当時は「活動写真」といった)を見物している。これは日本で最初に上映されたニュース映画だったといわれる。明治42年(1909年)1月15日には新たな暖房器具ガス・ストーブを見るためにガス会社を訪問している。
日本鉄道豊島線(現在のJR山手線)の巣鴨駅の建設工事が巣鴨の慶喜邸前で始まったことで、その騒音や人の出入りが激しくなって喧騒することを嫌がり、明治34年(1901年)12月には小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷(敷地3000坪建坪1000坪)に転居し、ここが終焉の地となった。
明治35年(1902年)6月3日には公爵に叙せられ、別家(徳川慶喜家)を興した。御沙汰書には「特旨をもって華族に列せらる。特に公爵を授けらる」とあり、特例措置による叙爵であった(華族の分家は叙爵内規上男爵であるべきにもかかわらず公爵になっている)。公爵に列したことで貴族院令に基づき貴族院公爵議員にもなった。別家では「公的に復権が認められた日」として6月3日を「御授爵記念日」と名付けて毎年祝宴を開くようになった。
また公爵になった後の慶喜は経済的にも宗家から自立するようになった。株式配当や国債購入の利子収入などでかなりの金額を得るようになったためである。慶喜は渋沢栄一が創設したか出資している企業群、第一・第十五・第三十五の各国立銀行、日本鉄道、浅野セメント、日本郵船、大日本人造肥料などの株式を保有した。株式配当自体は旧大名華族にはよく見られる収入源で珍しいものではないが、慶喜の株式保有に特色があるとすれば渋沢栄一に依存するところが大きかったことである。慶喜は日本橋区兜町にあった渋沢栄一の事務所を通じて株式を購入していた。家扶日記の記述も経済的自立と連動しており、それまで家達のことを「殿様」と呼んでいたのが、「千駄ヶ谷様」・「十六代様」・「従二位様」などに変わっており、それまでの「御本邸」という表現も「千駄ヶ谷」「千駄ヶ谷御邸」などに変化している。家扶日記上では、宗家から別家への送金も1902年(明治35年)9月3日を最後に確認できなくなる。
日露戦争後の1906年(明治39年)4月22日に千駄ヶ谷の徳川宗家邸で凱旋軍人の慰労会が催されて慶喜も出席している。家達の発声で「天皇陛下万歳」、慶喜の発声で「陸海軍万歳」、榎本武揚の発声で「徳川家万歳」が三唱された。
明治40年代には渋沢の編纂事務所から出される自分の伝記(『徳川慶喜公伝』)の完成に熱意を注ぎ、また大隈重信から協力を求められた『開国五十年史』にも協力し、大隈に自らの体験を語り、それが「徳川慶喜公回顧録」として上巻に収められている。
明治43年(1910年)12月8日、七男・慶久に家督と爵位を譲って隠居。公爵でなくなったため同月9日、貴族院議員の職を失職した。またこれに合わせて慶喜公爵家の家範(華族令追加令第11条に基づき華族は相続や家政上必要があれば宮内省の許可を得て法的効力を有する家範を定めることができた)を制定した。
慶喜は大正元年(1912年)にダイムラーの自動車を入手した。威仁親王がヨーロッパ旅行土産に慶喜に贈ったものといわれる。明治44年の段階では東京で自動車を個人所有している者はまだ150余人に過ぎなかったといわれるので慶喜はかなり早い段階で自家用車を入手した人物ということになる。大正元年11月16日に「自家乗用自動車」の「使用届及び自動車運転士免許証下附願」を警察署に提出して認可を受けると、すぐさま息子の慶久とともに自動車に乗って田安邸と千駄ヶ谷の宗家邸に喪中の挨拶に行っている。その後も自動車に乗って色々な所へ行っている。
「最後の将軍」徳川慶喜は、辛亥革命による清朝崩壊・中華民国成立(1911年-1912年)やタイタニック号沈没事故(1912年)の時にもなお存命で、年下の明治天皇より長生きして大正時代の到来を見届け、大正2年(1913年)11月22日、(急性肺炎を併発した)感冒のために薨去した。享年77(満76歳25日)。大正天皇は侍従・海江田幸吉子爵を派遣し、祭粢料や幣帛と共に以下の勅語を伝達させた。
※明治5年までは天保暦長暦の月日表記。
幼名は七郎麻呂(しちろうまろ、七郎麿とも)。元服後、初めは実父・徳川斉昭の1字を受けて松平昭致(あきむね)と名乗っていた。
寛保元年12月1日に元服した際、当時の将軍・徳川家慶から偏諱(「慶」の1字)を賜い、慶喜と改名した。旧臣であった渋沢栄一が編じた『徳川慶喜公伝』では、この時点ではよしのぶと読まれていたとしている。
将軍就任から3ヶ月たった慶応3年2月21日には、幕府が「慶喜」の読みは「よしひさ」であるという布告を行っている。この読みの変更について三浦直人は、かつて足利義教が「義宣(よしのぶ)」と名乗っていた際に、「世忍ぶ」に通じて不快であるため改名したという例と同様に、「よしのぶ」の音が「世忍ぶ」に通じていたためではないかとしている。本人によるアルファベット署名や英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている他、明治時代になってもよしひさという読みは一定程度使用されている。
しかしその後は「よしのぶ」の読みが定着していった。明治・大正頃には学校でも「よしのぶ」の読みで教えられていたという回想がある。昭和期の国史大辞典においても「とくがわ よしのぶ」の読みがふられており、1998年のNHK大河ドラマ「徳川慶喜」でも「よしのぶ」と読まれている。
またけいきという音読みも広く知られている。慶喜が将軍に就位したころのプロイセン王国公使マックス・フォン・ブラントは、その頃は反対派が慶喜を「けいき」と読んでいたとし、維新後には旧旗本が侮蔑の意味で「けいき」と呼んでいた記録もある。一方で慶喜本人は「けいき」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。『朝日新聞』1917年2月13日号朝刊4面では、学習院での授業の際に教師が「よしのぶ」と読むと、生徒であった慶喜の孫が「いゝえうちの御祖父さまの名はケイキです」と抗議したという記録があり、慶喜の孫である榊原喜佐子の著書でも「けいき」のルビが振られている。また明治30年代には皇太子嘉仁親王(大正天皇)と親しくなり、「殿下」「けいきさん」と呼び合っていたという。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」としているが、倒幕に動いた肥後藩の関係者も「けいき」と呼んでいたことや福澤諭吉の『福翁自伝』でも、「慶喜さん」と書いて「けいき」と振り仮名を振っている箇所がある。現在でも静岡県などでは慶喜について好意的に言及する際に、「けいきさん」「けいき様」の呼び方が用いられることがある。
また、明治になって風月荘左衛門という京都府平民が編集・出版した節用辞書『永代日用新選明治節用無尽蔵』では、「のりよし」という訓みが記されている。
徳川秀忠と松平信康の女系子孫である。
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"text": "徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、旧字体: 德川 慶喜)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。",
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"text": "天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致(まつだいら あきむね)、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に死去。",
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"text": "尊敬する徳川光圀の教育方針を踏襲した斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7か月)に江戸から水戸に移る。弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。",
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"text": "この間、藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問と武術を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・徳川慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。",
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"text": "老中・阿部正弘が「昭致を御三卿・一橋家の世嗣としたい」との将軍・徳川家慶の思召(意向)を弘化4年(1847年)8月1日に水戸藩へ伝達。思召を受けて昭致は8月15日に水戸を発ち9月1日に一橋徳川家を相続。12月1日に元服し、家慶から偏諱を賜り徳川慶喜と名乗る。家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。",
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"text": "嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。",
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"text": "安政4年6月17日に阿部正弘、安政5年7月16日に島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老に就任した井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。",
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"text": "同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。6月23日、慶喜は登城し直弼を詰問し、7月5日に登城停止を命じられた。翌安政6年(1859年)8月27日に隠居謹慎が命じられ(安政の大獄)、一橋家はしばらく当主不在の「明屋敷」となった。この日は三卿の登城日であり、斉昭らと違って不時登城ではなく、罪状不明のままの処分であった。",
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"text": "なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を斉昭に送っている。",
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"text": "安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変における直弼の暗殺を受け、万延元年(1860年)9月4日に恐れをなした幕府により謹慎を解除される。",
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"text": "文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ横車を押し介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した(同時に慶喜は一橋家を再相続)。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。",
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"text": "同年9月30日、破約攘夷のやむを得ないことを意見した横井小楠に対し、万国が好を通じる今日において、日本のみが旧態依然とした鎖国に固執すべきでないことを説き、開国のやむを得ないことを天皇に奏上すべきであると述べた。春嶽も説を改めて慶喜の意見に賛成したことにより、一旦は幕府の評議は慶喜が上洛して開国の趣意を奏上することに決した。しかし、勅使待遇の改正に慶喜が反対したことで、これに反発した春嶽が再び破約攘夷説に転じて幕議は動揺した。このとき、山内容堂はあくまで開国論を奏上した場合には攘夷の廷議が攘将軍となりかねないことなどを説き、慶喜もやむなくこれに同意した。その結果、幕議は一転して攘夷の勅諚を遵奉することに決した。",
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"text": "文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。同年2月21日、4日前の会談で春嶽が意見したところに従い、中川宮朝彦親王の同意も得た上で、慶喜は関白・鷹司輔煕らに対して、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。",
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"text": "同年4月10日夜、翌日に予定されていた孝明天皇の石清水八幡宮行幸・攘夷祈願についての家茂の供奉を、「風邪発熱」(仮病)として急遽取りやめさせた。このことについて、家茂が天皇から節刀を授与された場合にはいよいよ攘夷を決行しなければならないことから、これを避けるため家茂の供奉をやめさせたとする説がある。しかし、節刀授与の計画は尊攘派の秘策であって、幕府や慶喜は知るよしもないことから、これは誤りであり、慶喜は家茂が一人で尊攘派公卿が多数控える天皇御前に召され、臨時の勅命が下されることを恐れたためであるとされる。",
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"text": "江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる。八月十八日の政変で長州藩を中心とする急進的尊皇攘夷派が排斥されたのち、勅命により11月26日に上洛、12月晦日には公武合体派諸侯・幕閣による参預会議の一員に任命された。しかし、春嶽ら参預諸大名の期待する幕政改革が断行されないために、春嶽らは慶喜の奮励が足りないと憤り、その一方で、慶喜は老中からも参預諸大名と行動を共にしているとして猜疑された。そのような状況下で、慶喜は横浜鎖港の断行を主張し、これに反対する参預諸侯の島津久光・松平春嶽らと対立した。元来開国論者であった慶喜が鎖港説に固執したのは、文久4年(1864年)正月に老中の酒井忠績・水野忠精から幕議は薩摩の開国論には従わないこととした旨を言われ、家茂の意見もこれと同じであったことから、やむを得なかったためであるとされる。同年2月16日、慶喜は、中川宮らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた春嶽、久光、伊達宗城を、「三人は天下の大愚物・大奸物である」などと罵倒、中川宮に対しても「(前日の沙汰が)偽であるというのならば命を頂戴し、某も切腹する」などと述べ、横浜鎖港の朝議を確かなものにしようとした。翌日、久光・宗城も鎖港に異議のないことを奏し、朝議は決した。しかし、その後も慶喜と参預諸大名との間が融和することなく、同年(元号は元治元年となっている)3月9日、慶喜は参預を辞任した。これに相次いで諸参預が辞任したため、参預会議は崩壊した。",
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"text": "参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や鳥取藩主・池田慶徳、岡山藩主・池田茂政(いずれも徳川斉昭の子、慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克(川越藩主)と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する。",
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"text": "同年7月に起こった禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)。また老中の本庄宗秀・阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜にわたる会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。",
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"text": "慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日(1866年8月29日)、将軍・家茂が大坂城で薨去する。当初は慶喜みずから長州征伐へ出陣するとして朝廷から節刀を下賜されたが、小倉城陥落の報に接して出陣を取りやめて今度は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。",
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"text": "家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの、将軍職就任は拒み続け、12月5日(1867年1月10日)に二条城において将軍宣下を受けてようやく将軍に就任した。この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。",
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"text": "慶喜政権は会津・桑名の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して堂上家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した。一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。ただ寛文印知以来、将軍の代替わりの度に交付していた領知目録等は、最後まで一切交付できなかった。",
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"text": "慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・徳川昭武(清水家当主とした)をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。",
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"text": "しかし兵庫開港問題を強引に推し進めたことで慶喜への反発は強まった。慶喜の強硬姿勢、上京四侯による内政改革の糸口をつかむことの不可能さ、京坂以西の反幕的政治情勢の深化は、薩摩藩を武力討幕路線へ傾斜させ、薩長芸に土佐藩内の討幕派(土佐は全体としては幕府を含めた雄藩連合を目指す力の方が強かった)が加わる薩藩主導の討幕勢力の形成が進んだ。",
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"text": "土佐の後藤象二郎の大政返上策が薩長土芸の間で合意された。慶喜がこれを受け入れる可能性を信じていなかった西郷隆盛らはこれを武力討幕のシグナルと位置付けていた。そして土佐藩は「天下ノ大政ヲ議スル全権ハ朝廷ニアリ」「我皇国ノ制度法則一切万機必ズ京都ノ議政所ヨリ出ヅベシ」とする上書を慶喜に送った。",
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"text": "慶喜は8月から9月頃までには反徳川雄藩連合の形成が急速に進んでいる情勢に気づいて警戒を強めていた。もしこの土佐の献策を受けねば土佐は全体としても武力討幕派に転じることになり、越前と肥後、肥前、尾張もそれに同調する可能性が高いので受け入れるしかなかった。逆に受け入れれば武力討幕論は主張しにくくなると考えられた。",
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"text": "こうして慶応3年10月14日(1867年11月9日)に慶喜は大政返上上表を明治天皇に奏上し、翌10月15日(1867年11月10日)に勅許された(大政奉還)。しかし大政奉還されたところで朝廷には何の実力もないため、朝廷は日常政務について「先是迄之通ニテ、追テ可及御沙汰候事」と返答せざるを得ず、結局実態としては慶喜政権が継続されたままとなった。",
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"text": "朝廷内で慶喜に与えられる地位についても朝廷内の実権を関白・二条斉敬と中川宮が握っている限り、また慶喜が800万石の卓絶した大名であり続ける限り、事実上の支配的地位が与えられると考えられた。やがて開催される諸侯会議でも慶喜は多数の支持を期待できたし、京都の軍事情勢を転換させるために江戸から続々と兵が上京中だった。このような状況のため大政奉還しようとも慶喜の実質的支配が続くことは覆り様がないように思われた。しかし慶喜が見落としていたのは大政を奉還した以上、大政を委任されていた時期と異なり、もし朝廷の構成や政策が転換された場合には慶喜側にはなす術がないという点であり、それが現実のものとなる。",
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"text": "大政奉還によりいったん武力討幕方針を中止した西郷隆盛らは、現状としては慶喜と旧幕府機構の横滑りでしかなく、朝廷には何らの物質的基礎も保証されていないことを確認すると前年以来反幕派公卿の指導者になっていた岩倉具視と連携してこれを覆すべく行動を開始した。12月8日(1868年1月2日)の朝議では慶喜の反対を退けて長州藩の復権と三条実美ら五卿帰洛が決定され、さらに翌12月9日(1868年1月3日)には薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩が政変を起こして朝廷を掌握し、慶喜を排除しての新政府樹立を宣言した(王政復古の大号令)。その会議において「慶喜の辞官(内大臣の辞職)納地(幕府領の奉納)」が決定する。",
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"text": "慶喜は王政復古の大号令に激昂した会津・桑名藩を鎮めるため、彼らを引き連れて大坂城に退去しつつ、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。一方、王政復古で新政府を発足させた5藩の間でも旧幕勢力の武力討伐を目指す薩摩藩と慶喜を取り込んだ形での漸進的移行を画策した土佐・越前藩では温度差があり、慶喜は越前・土佐に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。",
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"text": "しかし12月25日、慶喜不在の江戸で薩摩藩の挑発にのった旧幕府が薩摩藩邸焼き討ちを強行したことで情勢が変化した。12月28日にその報告が大目付の滝川具挙らによって慶喜のいた大坂城にもたらされ、城内の旧幕・会津・桑名藩勢力が薩摩憎悪で収拾がつかなくなった。結局慶喜は薩摩との開戦を決定して討薩表を作成、滝川具挙にこれを持たせて上京させるとともに、翌・慶応4年(1868年)1月2日に老中格の大河内正質を総督とし、会津・桑名藩兵を加えた軍を京都に向け進軍させたことで薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。",
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"text": "1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕軍は3日、4日、5日と連敗を喫した。これにより大政奉還以来の慶喜の優位的状況は一挙に消滅。このまま大坂城内に留まると城内の強硬論者が更に収拾つかなくなりそうだったため、慶喜は6日にも大坂城を脱出し、陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らと共に開陽丸で江戸に退却した。なお、この時、開陽丸艦長の榎本武揚には江戸への退却を伝えず、武揚は戦地に置き去りにされた。",
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"text": "慶喜が江戸へ退却した理由には、慶喜自身が晩年に語った軍を京都に送る気自体なかったという主張を信じる説、朝敵になることを恐縮したという説、江戸で態勢を立て直して再度戦争しようと考えていたなど様々な説がある。近年の研究では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の行動につながったとする説が提唱されている。また、薩摩を討つ覚悟はあっても、朝敵の汚名を恐れて天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある。『昔夢会筆記』によれば、水戸徳川家には徳川光圀以来の「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」という旨の家訓があったという。『徳川慶喜公伝』で、慶喜は、伊藤博文からの維新時に尊王の大義を重んじたのはなぜかとの質問に、「水戸徳川家では義公以来代々尊王の大義に心を留めていた。父なる人も同様の志で、自分は庭訓を守ったに過ぎない」と応えている。",
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"text": "いずれにしてもこの敗戦により慶喜には天皇の政府に攻撃をしかけたあげく敗北を喫したという評価だけが残り、それまで親慶喜的立場をとっていた諸侯すらもはや慶喜追討に反対しなくなった。1月7日、正式に慶喜追討令が下り、慶喜の官位は剥奪となった。慶喜らは1月12日に江戸に到着したが、政府は東帰した慶喜および旧幕府勢力との対決を前提とした諸道への鎮撫総督の派遣を決定し、2月9日には東征大総督・熾仁親王に率いられた政府軍が東征を開始した。",
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"text": "これに対して慶喜は小栗忠順や会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬を初めとする抗戦派を抑えて政府への恭順を主張する。恭順の意を示すため同じく朝敵となり官位剥奪処分となった老中・板倉勝静と若年寄・永井尚志を罷免するとともに容保と定敬に謹慎を命じた。勝海舟と大久保一翁に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。",
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"text": "彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は水戸での謹慎を希望したが、3月9日に東征大総督府より示された慶喜の死一等を減じる条件の七か条には江戸城開城や軍艦兵器の明け渡しと並んで慶喜の岡山藩での謹慎が入っていた。勝海舟は3月14日に東征軍参謀・西郷隆盛と会談した際に慶喜の謹慎場所を岡山でなく水戸にしてほしいと嘆願して認められた。4月4日に東海道鎮撫総督・橋本実梁が勅使として江戸城に入城し、田安家の徳川慶頼に対し、慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を命じる朝命を申し渡した。4月11日に東征軍諸兵が江戸城に入城し、城郭は尾張藩、武器は熊本藩が管理することになり、江戸城は開城された。4月21日には熾仁親王が江戸城に入城した。",
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"text": "ここに、江戸幕府は名実ともに消滅した。以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、日本史上最後の征夷大将軍となった。",
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"text": "慶喜は東海道鎮撫総督府に約束していた江戸退去日時の4月10日に下痢を起こしたため、一日延期されて4月11日明け方に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった。随行責任者は浅野氏祐であり、他に新村猛雄(彼はこの後も長く慶喜の家扶を務める)、中島鍬次郎、玉村教七、西周ら側近、戸塚文海や坪井信良ら医師、中条景昭や高橋泥舟など精鋭隊士・遊撃隊士の護衛が共をした。松戸、藤代、土浦、片倉を経由して4月15日に二十数年ぶりに水戸に到着した。水戸では弘道館の至善堂にて謹慎した。",
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"text": "慶喜が水戸に到着して1か月半後の閏4月29日に政府は田安亀之助こと徳川家達に宗家を相続させることを決定し、5月24日に家達の領地は駿府藩70万石に決定された。",
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"paragraph_id": 37,
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"text": "慶喜が水戸へやって来た頃、水戸藩内では激しい藩内抗争があり、明治天皇の勅書と慶喜の支持を得て力を増した尊皇攘夷派の天狗党が佐幕派の反天狗党派を藩から追った直後だったが、会津へ逃亡していった反天狗党がいつ戻ってくるか分からず、政情不安定な水戸での謹慎は望ましくなく、政府は家達の後見人である松平確堂(前津山藩主)からの進言を容れ、7月10日に慶喜の駿府(静岡)への転居を命じた。",
"title": "生涯"
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"text": "慶喜は7月19日に水戸を発ち、海路で那珂湊まで行き、そこから陸路で鉾田へ行き、再び海路で銚子に到着。21日に銚子の波崎から海路で駿府へ向かい、23日に清水港に上陸した。同日夕方には宝台院に入った。ここで1年2カ月の謹慎生活を送ることになる。また慶喜は家達の養父として宗家の籍に置かれることになった。",
"title": "生涯"
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"text": "慶喜の後年の談によれば宝台院での謹慎中、外出をはばかって中島鍬次郎から油絵を学んだという。",
"title": "生涯"
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"text": "明治元年(1868年)10月に榎本武揚一党が函館五稜郭を占領して立てこもった後、大久保利通や勝海舟は慶喜の謹慎を解除して榎本一党の征討を命じることを提案したが、三条実美の反対で沙汰止みとなった。明治2年(1869年)5月に榎本一党の降伏をもって戊辰戦争は終結した。勝海舟や大久保一翁ら旧臣が三条実美や大久保利通など政府高官に働きかけた結果、9月には慶喜の謹慎が解除された。",
"title": "生涯"
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"text": "謹慎の解除に伴い、1869年(明治2年)10月5日に宝台院を出て、同じ駿府改め静岡内の紺屋町の元代官屋敷へ移住した。江戸城開城後に小石川の水戸藩邸で暮らしていた正室・美賀子も静岡にやってきて慶喜と同居するようになった。当時慶喜は33歳、美賀子は35歳だった。静岡藩内では知藩事の家達邸は「宮ケ崎御住居」、慶喜邸は「紺屋町御住居」と呼ばれていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "1871年(明治4年)7月に廃藩置県があり、家達は東京に移住したが、慶喜は静岡にとどまった。慶喜は家達の家族扱いになっていたので一緒に東京移住するのが自然だったが、結局、1897年(明治30年)まで東京に移ることはなかった。その理由について旧臣の渋沢栄一子爵は勝海舟伯爵が押し込めたせいだとし、嫌味を込めて次のように述べている。「私は勝伯があまり慶喜公を押し込めるやうにせられて居ったのに対し、快く思はなかったもので、伯とは生前頻繁に往来しなかった。勝伯が慶喜公を静岡に御住はせ申して置いたのは、維新に際し、将軍家が大政を返上し、前後の仕末がうまく運ばれたのが、一に勝伯の力に帰せられてある処を、慶喜公が東京御住ひになって、大政奉還前後における慶喜公御深慮のほどを御談りにでもなれば、伯の金箔が剥げてしまふのを恐れたからだなどいふものもあるが、まさか勝ともあらう御仁が、そんな卑しい考えを持たれやう筈がない。ただ慶喜公の晩年に傷を御つけさせ申したくないとの一念から、静岡に閑居を願って置いたものだらうと私は思ふが、それにしても余り押し込め主義だったので、私は勝伯に対し快く思っていなかったのである」。勝海舟や大久保一翁らは慶喜の旧臣の中でも最も政府の要職に上った出世頭であり、徳川家のために政府内にあって尽力する役割を果たしたので、慶喜としてはその進言や忠告を無碍にできない関係にあった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "無位無官になっていた慶喜は1872年(明治5年)1月6日に従四位に叙されたことで最初の官位回復を受けた。ついで1880年(明治13年)には将軍時代と同じ官位である正二位を改めて与えられた。さらに1888年(明治21年)6月には従一位に昇叙した。叙位条例では従一位は公爵相当の礼遇を受けるとされており、これにより公爵に叙されていた宗家の家達に並ぶ礼遇を享受できるようになった。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "静岡在住時代には政治的野心を持たず趣味の世界に没頭した。新村ら家扶が交代で書いた家扶日記によれば明治5年中だけでも銃猟・鷹狩・囲碁・投網・鵜飼をやっており、明治6年以降になると謡曲・能・小鼓・洋画・刺繍・将棋をやっている。釣りもしばしばした。特に熱中したのは銃猟と鷹狩と投網で、慶喜の狩猟の範囲は近村から安倍川尻までの広範囲に及び、静岡ではまだ珍しかった人力車に乗って清水湊まで行き投網を楽しんだ。鳥を追って畑の作物の上を縦横無尽に走り回るので農家から苦情が出たこともあったが、動じない慶喜は「ア さよか では全部買い取ってやったらよかろう」と答えたという。",
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"text": "明治13年から明治16年頃は庶民娯楽の講談に興味を持ち、静岡に興行でやってきた伊東花林や栗原久長などの講釈師を自邸に招待した。日本に洋式自転車が入ってきたのは明治14年・15年頃のことといわれるが、慶喜は早い段階で自転車を手に入れ、サイクリングも楽しんだ。1884年(明治17年)5月11日、当時10歳の息子・厚を連れて新聞縦覧所に行った際に新聞に関心を持つようになったらしく、同年6月14日からは『朝野新聞』を取るようになった。慶喜の趣味は同じ時期に同じものを集中して行っており、一度始めると集中的にやるのが特徴だった。",
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"text": "政府に恭順せずに反逆的立場を取った経歴のある旧幕臣とは関わり合いになることを回避し、明治11年(1878年)5月18日に元若年寄の永井尚志(慶喜に罷免された後、榎本武揚と共に脱走して函館五稜郭で榎本「総裁」のもと「函館奉行」を務め、降伏後しばらく獄につながれていた)が静岡までやってきて、慶喜に「御機嫌伺い」の面会を求めてきた際には面会を拒絶している。",
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"text": "静岡時代に慶喜は子作りに励み10男11女を儲けた。まず明治4年中に2人の側室との間に長男と次男を儲けたが、いずれも翌年に早世。明治5年に三男を儲けたが、この子も翌年早世。手元で育てた子供の早世が相次いだため、翌1873年(明治6年)に生まれた長女・鏡子は伊勢屋元次郎に里子に出した。これ以降1888年(明治21年)に生まれた十男・精に至るまでの全員を庶民(植木屋・米穀商・石工など)の家に里子に出している(早世した子は除く)。庶民の家で厳しく育てた方が元気に育つといわれていたためで、実際にこれ以降子供の生存率が上がった。里子に出した期間は概ね3年弱から4年強ほどだった。庶民の家に里子に出すのは当時の貴人としては異例のことだった。なお子供はすべて側室から生まれており、静岡時代には正室の美賀子夫人との間に子供はできなかった(江戸時代の結婚直後の頃に長女を一人儲けたが早世している)。美賀子とは疎遠になり、慶喜は明治5年7月に伊豆で湯治の旅行をした際に側室2人を連れていく一方、美賀子夫人は連れて行かず、彼女は同月に慶喜が帰ってきた後に別に伊豆修善寺温泉に出かけるような冷めた関係になっている。",
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"paragraph_id": 48,
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"text": "静岡時代の慶喜は、身分上も経済上も宗家である徳川家達の管轄下にあった。東京の家達からの送金で生活し、慶喜の家令や家扶は家達により任命され、慶喜はその辞令を渡すだけだったという。また慶喜は東京の家達に預けた慶喜の娘たちに家達に従順であるよう「厳しく申し渡」したという。慶喜の七女・波子が松平斉民の四男・斉からの求婚を嫌がった際には彼女を静岡まで呼びつけて家達の世話になっている身であることや、津山の松平には義理があることなどを言い聞かせて辛抱を命じたという。慶喜が上座に座っていたとき、家達が「私の席がない」というと慶喜が慌てて席を譲ったという逸話もある。",
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"paragraph_id": 49,
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"text": "明治19年(1886年)11月、東京の水戸徳川家の屋敷で暮らしている母・登美宮の病気見舞いで東京に上京。これが明治以降の最初の慶喜の東京訪問となった。",
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"text": "東海道線が静岡に開通されるのに伴い、慶喜の紺屋町の屋敷が静岡の停車場建設予定地に含まれたため、1887年(明治20年)に西草深に新しい屋敷の建設を開始し、翌年までに完成させて転居した。1889年(明治22年)2月1日に東海道線静岡以東が開通すると慶喜は同年4月30日にさっそくこれに乗車して弟の徳川昭武がいる千葉県の戸定邸へ向かい、母・登美宮とともに5月9日まで過ごした。塩原温泉で湯治を楽しんだり、日光東照宮や水戸を訪問したりした後、東京を経由して静岡へ帰っていった。徳川昭武の方もこのあと東海道線を使って毎年静岡に来るようになったので慶喜と昭武の兄弟の友好が深まった。また東海道線を利用して慶喜の狩猟の範囲も広がった。ただ加齢による体力の低下で狩猟や釣りの回数自体は減っていく。またこの頃からビリヤードと写真が慶喜の新たな趣味に加わる。特に写真は体力が低下しはじめた明治20年代後半の慶喜にとって主要な趣味となった。写真撮影のために色々な場所に姿を現すようになった。明治20年代は写真の湿式から乾式への移行期で撮影装置の移動が楽になったこともあったという。明治20年代半ば過ぎ頃からはコーヒーを飲むようになった。",
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"text": "1893年(明治26年)1月には母・登美宮が死去し、東京に出て葬儀を営んだ。ついで1894年(明治27年)7月9日に乳がんの治療のため東京の宗家に移っていた美賀子夫人が死去。この時慶喜は写真撮影のため焼津にいたが、電報を受けた家扶が慶喜の下に着替えをもって駆けつけ、その報告を受けた慶喜は焼津から東京へ直行している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "明治30年(1897年)11月に東京の巣鴨一丁目に移り住む。現在の巣鴨駅に近い位置にあたり、敷地3000坪建坪400坪だったという。ここにきて東京移住を決意したのは、慶喜の行動を抑制してきた勝海舟が老衰してきてその束縛が弱まっていたこと、加齢で健康不安が多くなってきたので良医がそろう東京に行きたがったこと、手元に残っていた末の息子たちも学習院入学のため静岡を離れたので慶喜の近辺が寂しくなったこと、この頃慶喜の西草深邸で窃盗事件が発生したことなどが理由として考えられている。",
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "東京移住後、親族関係にあった威仁親王の仲介を受けて皇室関係者と関係を強めるようになり、明治31年(1898年)3月2日には皇居に参内して明治天皇の拝謁を受けた。また皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と親交を深め「ケイキさん」「殿下」で呼び合う間柄になったという。慶喜は足繁く東宮御所に通い、年末年始の挨拶をはじめ、皇子裕仁親王(後の昭和天皇)の誕生祝い、自身の叙爵や叙勲の御礼など事あるごとに皇太子と会っている。家扶日記から確認できるだけでも慶喜は明治33年以降毎年10日前後は皇太子に会いに行っており、慶喜と皇太子は1カ月から1カ月半に1度は会っていた計算になる。これほど頻繁に皇室の人間の拝謁を賜る人物は極めて稀である。",
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"paragraph_id": 54,
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"text": "東京移住後の慶喜は行動がざっくばらんになった。皇室と親交関係を持つようになったことや、「お目付け役」の勝海舟が1899年(明治32年)に死んだのが大きかったという。自転車に乗って銀座や東宮御所、千駄ヶ谷の徳川宗家邸までサイクリングしている。銀座は特に慶喜のお気に入りの場所になり、運動を兼ねてよく銀座にショッピングに出かけた。東京でも気に入った場所を見つけては写真撮影をし、まれにそれを榎本武揚などに贈った。上野の博物館にも行っている。東京で悠々自適の生活を謳歌した。東京に移住した後も猟にはよく出かけており、皇太子の狩猟のお供をすることもあったが、弟の昭武を連れ立って行くことが多かったようである。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "もともと新しい物が好きだった慶喜は、時代の最先端の物品が流通する東京に来てからは、一層色々な物に関心を示すようになった。遅くとも明治32年(1899年)2月の段階では自分の屋敷に電話を引いた(同月一日に東京大阪間の長距離電話が開通した。千駄ヶ谷の宗家邸が電話を引いたのはこの翌月だったのでそれより早かった)。華頂宮家からお土産でアイスクリーム製造機をもらって自家製アイスクリームを作ったり、蓄音機でレコード鑑賞を楽しむようになった。明治32年6月には神田錦町の錦輝館で「米西戦争活動大写真」という実写フィルム(当時は「活動写真」といった)を見物している。これは日本で最初に上映されたニュース映画だったといわれる。明治42年(1909年)1月15日には新たな暖房器具ガス・ストーブを見るためにガス会社を訪問している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "日本鉄道豊島線(現在のJR山手線)の巣鴨駅の建設工事が巣鴨の慶喜邸前で始まったことで、その騒音や人の出入りが激しくなって喧騒することを嫌がり、明治34年(1901年)12月には小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷(敷地3000坪建坪1000坪)に転居し、ここが終焉の地となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "明治35年(1902年)6月3日には公爵に叙せられ、別家(徳川慶喜家)を興した。御沙汰書には「特旨をもって華族に列せらる。特に公爵を授けらる」とあり、特例措置による叙爵であった(華族の分家は叙爵内規上男爵であるべきにもかかわらず公爵になっている)。公爵に列したことで貴族院令に基づき貴族院公爵議員にもなった。別家では「公的に復権が認められた日」として6月3日を「御授爵記念日」と名付けて毎年祝宴を開くようになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "また公爵になった後の慶喜は経済的にも宗家から自立するようになった。株式配当や国債購入の利子収入などでかなりの金額を得るようになったためである。慶喜は渋沢栄一が創設したか出資している企業群、第一・第十五・第三十五の各国立銀行、日本鉄道、浅野セメント、日本郵船、大日本人造肥料などの株式を保有した。株式配当自体は旧大名華族にはよく見られる収入源で珍しいものではないが、慶喜の株式保有に特色があるとすれば渋沢栄一に依存するところが大きかったことである。慶喜は日本橋区兜町にあった渋沢栄一の事務所を通じて株式を購入していた。家扶日記の記述も経済的自立と連動しており、それまで家達のことを「殿様」と呼んでいたのが、「千駄ヶ谷様」・「十六代様」・「従二位様」などに変わっており、それまでの「御本邸」という表現も「千駄ヶ谷」「千駄ヶ谷御邸」などに変化している。家扶日記上では、宗家から別家への送金も1902年(明治35年)9月3日を最後に確認できなくなる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日露戦争後の1906年(明治39年)4月22日に千駄ヶ谷の徳川宗家邸で凱旋軍人の慰労会が催されて慶喜も出席している。家達の発声で「天皇陛下万歳」、慶喜の発声で「陸海軍万歳」、榎本武揚の発声で「徳川家万歳」が三唱された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "明治40年代には渋沢の編纂事務所から出される自分の伝記(『徳川慶喜公伝』)の完成に熱意を注ぎ、また大隈重信から協力を求められた『開国五十年史』にも協力し、大隈に自らの体験を語り、それが「徳川慶喜公回顧録」として上巻に収められている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "明治43年(1910年)12月8日、七男・慶久に家督と爵位を譲って隠居。公爵でなくなったため同月9日、貴族院議員の職を失職した。またこれに合わせて慶喜公爵家の家範(華族令追加令第11条に基づき華族は相続や家政上必要があれば宮内省の許可を得て法的効力を有する家範を定めることができた)を制定した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "慶喜は大正元年(1912年)にダイムラーの自動車を入手した。威仁親王がヨーロッパ旅行土産に慶喜に贈ったものといわれる。明治44年の段階では東京で自動車を個人所有している者はまだ150余人に過ぎなかったといわれるので慶喜はかなり早い段階で自家用車を入手した人物ということになる。大正元年11月16日に「自家乗用自動車」の「使用届及び自動車運転士免許証下附願」を警察署に提出して認可を受けると、すぐさま息子の慶久とともに自動車に乗って田安邸と千駄ヶ谷の宗家邸に喪中の挨拶に行っている。その後も自動車に乗って色々な所へ行っている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "「最後の将軍」徳川慶喜は、辛亥革命による清朝崩壊・中華民国成立(1911年-1912年)やタイタニック号沈没事故(1912年)の時にもなお存命で、年下の明治天皇より長生きして大正時代の到来を見届け、大正2年(1913年)11月22日、(急性肺炎を併発した)感冒のために薨去した。享年77(満76歳25日)。大正天皇は侍従・海江田幸吉子爵を派遣し、祭粢料や幣帛と共に以下の勅語を伝達させた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 64,
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"text": "※明治5年までは天保暦長暦の月日表記。",
"title": "年譜"
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"paragraph_id": 65,
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"text": "幼名は七郎麻呂(しちろうまろ、七郎麿とも)。元服後、初めは実父・徳川斉昭の1字を受けて松平昭致(あきむね)と名乗っていた。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "寛保元年12月1日に元服した際、当時の将軍・徳川家慶から偏諱(「慶」の1字)を賜い、慶喜と改名した。旧臣であった渋沢栄一が編じた『徳川慶喜公伝』では、この時点ではよしのぶと読まれていたとしている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "将軍就任から3ヶ月たった慶応3年2月21日には、幕府が「慶喜」の読みは「よしひさ」であるという布告を行っている。この読みの変更について三浦直人は、かつて足利義教が「義宣(よしのぶ)」と名乗っていた際に、「世忍ぶ」に通じて不快であるため改名したという例と同様に、「よしのぶ」の音が「世忍ぶ」に通じていたためではないかとしている。本人によるアルファベット署名や英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている他、明治時代になってもよしひさという読みは一定程度使用されている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "しかしその後は「よしのぶ」の読みが定着していった。明治・大正頃には学校でも「よしのぶ」の読みで教えられていたという回想がある。昭和期の国史大辞典においても「とくがわ よしのぶ」の読みがふられており、1998年のNHK大河ドラマ「徳川慶喜」でも「よしのぶ」と読まれている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 69,
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"text": "またけいきという音読みも広く知られている。慶喜が将軍に就位したころのプロイセン王国公使マックス・フォン・ブラントは、その頃は反対派が慶喜を「けいき」と読んでいたとし、維新後には旧旗本が侮蔑の意味で「けいき」と呼んでいた記録もある。一方で慶喜本人は「けいき」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。『朝日新聞』1917年2月13日号朝刊4面では、学習院での授業の際に教師が「よしのぶ」と読むと、生徒であった慶喜の孫が「いゝえうちの御祖父さまの名はケイキです」と抗議したという記録があり、慶喜の孫である榊原喜佐子の著書でも「けいき」のルビが振られている。また明治30年代には皇太子嘉仁親王(大正天皇)と親しくなり、「殿下」「けいきさん」と呼び合っていたという。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」としているが、倒幕に動いた肥後藩の関係者も「けいき」と呼んでいたことや福澤諭吉の『福翁自伝』でも、「慶喜さん」と書いて「けいき」と振り仮名を振っている箇所がある。現在でも静岡県などでは慶喜について好意的に言及する際に、「けいきさん」「けいき様」の呼び方が用いられることがある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、明治になって風月荘左衛門という京都府平民が編集・出版した節用辞書『永代日用新選明治節用無尽蔵』では、「のりよし」という訓みが記されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "徳川秀忠と松平信康の女系子孫である。",
"title": "家庭・親族"
}
] |
徳川 慶喜は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。 天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に死去。
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 徳川 慶喜
| 画像 = Tokugawa Yoshinobu as Shogun.jpg
| 画像サイズ =200px
| 画像説明 = 征夷大将軍在任時の徳川慶喜
| 時代 = [[江戸時代]]末期([[幕末]]) - [[大正時代]]
| 生誕 = [[天保]]8年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]([[1837年]][[10月28日]])
| 死没 = [[大正]]2年([[1913年]])[[11月22日]]
| 改名 = 七郎麻呂<ref group="注釈">「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料には「七郎麿」と表記されているが慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。</ref>→松平昭致→徳川慶喜
| 別名 = 字:子邦、号:興山<br />通称:一橋慶喜
| 諡号 =
| 戒名 = なし
| 墓所 = [[谷中霊園]]
| 官位 = (江戸時代)[[従三位]]・[[近衛府|左近衛中将]]兼[[刑部省|刑部卿]]、[[参議]]、[[中納言|権中納言]]、[[正二位]]・[[大納言]]兼右近衛大将、[[征夷大将軍]]、[[内大臣]]→官位剥奪<br/>(明治以降)[[従四位]]→[[正二位]]→[[従一位]]
| 幕府 = [[江戸幕府]] 第15代征夷大将軍<br />(在職:[[1867年]] - [[1868年]])
| 氏族 = [[徳川氏]]([[水戸徳川家|水戸家]]→[[一橋徳川家|一橋家]]→[[徳川宗家|将軍家]]→[[徳川慶喜家|別家]])
| 父母 = 父:[[徳川斉昭]]、母:[[吉子女王]]([[有栖川宮織仁親王]]第12王女)<ref group="注釈">父の正室が生母である将軍は3代[[徳川家光|家光]]以来。</ref><br />養父:''[[徳川昌丸]]''、''[[徳川家茂]]''
| 兄弟 = [[徳川慶篤]]、[[池田慶徳]]、'''慶喜'''、[[松平直侯]]、[[池田茂政]]、[[松平武聰]]、[[徳川昭武]]、[[喜連川縄氏]]、[[松平昭訓]]、[[徳川貞子]]、[[松平忠和 (島原藩主)|松平忠和]]、[[土屋挙直]]、[[松平喜徳]]、[[松平頼之]]
| 妻 = 正室:'''[[一条美賀子]]'''<br />側室:[[一色須賀]]、[[新村信]]、[[中根幸]]
| 子 = [[徳川厚|厚]]、[[池田仲博]]、'''[[徳川慶久|慶久]]'''、[[徳川誠|誠]]、[[勝精]]、鏡子、[[蜂須賀筆子]] [[#家庭・親族|その他]]<br />養子:'''''[[徳川茂徳|茂栄]]'''''、'''''[[徳川家達|家達]]'''''、''[[徳川貞子|貞子]](異母妹)''
| 特記事項 =
|主君=[[徳川家慶]]→[[徳川家定|家定]]→[[徳川家茂|家茂]]→[[孝明天皇]]→[[明治天皇]]
}}
'''徳川 慶喜'''(とくがわ よしのぶ/よしひさ、{{旧字体|'''德川 慶喜'''}})は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[江戸幕府]]第15代[[征夷大将軍|将軍]](在職:[[1867年]][[1月10日]]〈[[慶応]]2年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]〉- [[1868年]][[1月3日]]〈慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]〉)、[[明治時代]]の[[日本]]の[[政治家]]、[[華族]]。[[位階]]・[[勲等]]・[[爵位]]は[[従一位]][[勲一等]][[公爵]]。
[[天保]]8年([[1837年]])[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]の七男として誕生。母は[[有栖川宮織仁親王]]の第12王女・[[吉子女王]]。初めは父・斉昭より[[偏諱]]を受けて'''松平昭致'''(まつだいら あきむね)、[[一橋徳川家|一橋家]]相続後は将軍・[[徳川家慶]]から偏諱を賜って'''徳川慶喜'''と名乗った。[[将軍後見職]]や[[禁裏御守衛総督]]などを務めた後、[[徳川宗家]]を相続し将軍職に就任した。[[日本最後の一覧|歴史上最後]]の[[征夷大将軍]]であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に[[江戸城]]に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に[[大政奉還]]を行ったが、直後の[[王政復古の大号令]]に反発して慶応4年(1868年)に[[鳥羽伏見の戦い]]を起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した[[勝海舟]]が東征軍参謀[[西郷隆盛]]と会談して[[江戸城開城]]を行なった。維新後は宗家を継いだ[[徳川家達]]公爵の[[戸籍]]に入っている無爵[[華族]]として[[静岡県]]、ついで[[東京府]]で暮らしていたが、明治35年([[1902年]])に宗家から独立して[[徳川慶喜家]]を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで[[貴族院 (日本)|貴族院]]公爵議員に列した。明治43年([[1910年]])に息子[[徳川慶久|慶久]]に公爵位を譲って隠居した後、[[大正]]2年([[1913年]])[[11月22日]]に死去。
== 生涯 ==
=== 幼年期 ===
尊敬する[[徳川光圀]]の教育方針を踏襲した斉昭の「子女は[[江戸]]の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という方針に則り、天保9年([[1838年]])4月(生後7か月)に江戸から水戸に移る。[[弘化]]4年([[1847年]])[[8月 (旧暦)|8月]]に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。
この間、[[藩校]]・[[弘道館]]で[[会沢正志斎]]らに[[学問]]と[[古武道|武術]]を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・[[徳川慶篤]]の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。
=== 一橋家相続 ===
[[老中]]・[[阿部正弘]]が「昭致を[[御三卿]]・[[一橋徳川家|一橋家]]の世嗣としたい」との将軍・[[徳川家慶]]の思召(意向)を弘化4年(1847年)[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]に水戸藩へ伝達。思召を受けて昭致は[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]に水戸を発ち[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]に一橋徳川家を相続。[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]に[[元服]]し、家慶から[[偏諱]]を賜り徳川慶喜と名乗る。家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。
=== 将軍継嗣問題 ===
{{main|将軍継嗣問題}}
[[嘉永]]6年([[1853年]])、[[黒船来航]]の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ[[徳川家定]]は病弱で男子を儲ける見込みがなく[[将軍継嗣問題]]が浮上する。慶喜を推す斉昭や老中・阿部正弘、[[薩摩藩]]主・[[島津斉彬]]ら[[一橋派]]と、[[紀州藩]]主・[[徳川家茂|徳川慶福]]を推す[[彦根藩]]主・[[井伊直弼]]や家定の生母・[[本寿院 (徳川家慶側室)|本寿院]]を初めとする[[大奥]]の[[南紀派]]が対立した。
[[安政]]4年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]に阿部正弘、安政5年7月16日に島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年([[1858年]])に[[大老]]に就任した井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。
同年、直弼は勅許を得ずに[[日米修好通商条約]]に調印。6月23日、慶喜は登城し直弼を詰問し、7月5日に登城停止を命じられた。翌安政6年([[1859年]])8月27日に隠居謹慎が命じられ([[安政の大獄]])、一橋家はしばらく当主不在の「明屋敷」となった<ref name=fujita>{{Cite book|和書|author=藤田英昭|editor=竹内誠|title=徳川幕府事典|chapter=田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家|publisher=[[東京堂出版]]|date=2003-07-20|year=2003|isbn=9784490106213|page=30}}</ref>。この日は三卿の登城日であり、斉昭らと違って不時登城ではなく、罪状不明のままの処分であった{{Refnest|group="注釈"|この処分について慶喜は当時、「抑三卿は幕府の[[部屋住み|部屋住]]なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたが、後年に慶喜本人曰く「血気盛りの意地よりして」、謹慎中は居室の採光を極限まで抑え、起床後は麻の裃を着用して夏の暑い時も水浴びせず、[[月代]]も剃らないといった、厳しい条件を自ら課して過ごした<ref>『[{{国立国会図書館デジタルコレクション|1917814/142}} 徳川慶喜公伝 五]』、2023年2月11日閲覧。</ref>。}}。
なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を斉昭に送っている{{Refnest|group="注釈"|原文は「骨折るゝ故(中略)天下を取りて仕損ぜんよりは、天下を取らざる方大に勝るべし。」<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近p.22}}</ref><ref>『徳川慶喜公伝』一巻 p.210</ref>。}}。
=== 将軍後見職 ===
安政7年([[1860年]])[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]の[[桜田門外の変]]における直弼の暗殺を受け、[[万延]]元年(1860年)[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]に恐れをなした幕府により謹慎を解除される。
[[文久]]2年([[1862年]])、[[島津久光]]と[[勅使]]・[[大原重徳]]が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、[[勅|勅命]]を楯に幕府の首脳人事へ横車を押し介入、[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]、慶喜を[[将軍後見職]]に、[[松平春嶽]]を[[政事総裁職]]に任命させることに成功した(同時に慶喜は一橋家を再相続<ref name=fujita/>)。慶喜と春嶽は[[文久の改革]]と呼ばれる幕政改革を行ない、[[京都守護職]]の設置、[[参勤交代]]の緩和などを行った。
同年[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]、破約攘夷のやむを得ないことを意見した[[横井小楠]]に対し、万国が好を通じる今日において、日本のみが旧態依然とした鎖国に固執すべきでないことを説き、開国のやむを得ないことを天皇に奏上すべきであると述べた<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝2|year=1967|publisher=平凡社|page=107|author=渋沢栄一}}</ref>。春嶽も説を改めて慶喜の意見に賛成したことにより、一旦は幕府の評議は慶喜が上洛して開国の趣意を奏上することに決した<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝2|year=1967|publisher=平凡社|page=110|author=渋沢栄一}}</ref>。しかし、勅使待遇の改正に慶喜が反対したことで、これに反発した春嶽が再び破約攘夷説に転じて幕議は動揺した。このとき、[[山内容堂]]はあくまで開国論を奏上した場合には攘夷の廷議が攘将軍となりかねないことなどを説き、慶喜もやむなくこれに同意した。その結果、幕議は一転して攘夷の勅諚を遵奉することに決した<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝2|year=1967|publisher=平凡社|pages=110-111|author=渋沢栄一}}</ref>。
文久3年([[1863年]])、[[攘夷論|攘夷]]の実行について[[朝廷 (日本)|朝廷]]と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに[[上洛]]することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。同年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]、4日前の会談で春嶽が意見したところに従い、[[久邇宮朝彦親王|中川宮朝彦親王]]の同意も得た上で、慶喜は[[関白]]・[[鷹司輔煕]]らに対して、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝2|year=1967|publisher=平凡社|pages=165-166|author=渋沢栄一}}</ref>。しかし朝廷からは、幕府への[[大政委任論|大政委任]]を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝2|year=1967|publisher=平凡社|pages=175-176|author=渋沢栄一}}</ref>。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた{{要出典|date=2021年7月}}。
同年4月10日夜、翌日に予定されていた[[孝明天皇]]の[[石清水八幡宮]][[行幸]]・攘夷祈願についての家茂の供奉を、「[[風邪]][[発熱]]」(仮病)として急遽取りやめさせた。このことについて、家茂が天皇から[[節刀]]を授与された場合にはいよいよ攘夷を決行しなければならないことから、これを避けるため家茂の供奉をやめさせたとする説がある。しかし、節刀授与の計画は[[尊攘派]]の秘策であって、幕府や慶喜は知るよしもないことから、これは誤りであり、慶喜は家茂が一人で尊攘派公卿が多数控える天皇御前に召され、臨時の勅命が下されることを恐れたためであるとされる<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝2|year=1967|publisher=平凡社|page=190|author=渋沢栄一|pages=}}</ref>。
江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として[[横浜港]]の鎖港方針を確定させる。[[八月十八日の政変]]で[[長州藩]]を中心とする急進的[[尊王攘夷|尊皇攘夷派]]が排斥されたのち、勅命により11月26日に上洛、12月晦日には[[公武合体]]派諸侯・幕閣による[[参預会議]]の一員に任命された<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝2|year=1967|publisher=平凡社|pages=300,303-304|author=渋沢栄一}}</ref>。しかし、春嶽ら参預諸大名の期待する幕政改革が断行されないために、春嶽らは慶喜の奮励が足りないと憤り、その一方で、慶喜は老中からも参預諸大名と行動を共にしているとして猜疑された<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝3|year=1967|publisher=平凡社|pages=14-16|author=渋沢栄一}}</ref>。そのような状況下で、慶喜は横浜鎖港の断行を主張し、これに反対する参預諸侯の島津久光・松平春嶽らと対立した。元来開国論者であった慶喜が鎖港説に固執したのは、[[文久]]4年([[1864年]])[[正月]]に老中の[[酒井忠績]]・[[水野忠精]]から幕議は薩摩の開国論には従わないこととした旨を言われ、家茂の意見もこれと同じであったことから、やむを得なかったためであるとされる<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝3|year=1967|publisher=平凡社|pages=16-17|author=渋沢栄一}}</ref>。同年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]、慶喜は、中川宮らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた春嶽、久光、[[伊達宗城]]を、「三人は天下の大愚物・大奸物である」などと罵倒、中川宮に対しても「(前日の沙汰が)偽であるというのならば命を頂戴し、某も切腹する」などと述べ、横浜鎖港の朝議を確かなものにしようとした。翌日、久光・宗城も鎖港に異議のないことを奏し、朝議は決した<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝3|year=1967|publisher=平凡社|pages=22-25}}</ref>。しかし、その後も慶喜と参預諸大名との間が融和することなく、同年([[元号]]は[[元治元年]]となっている)[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]、慶喜は参預を辞任した。これに相次いで諸参預が辞任したため、参預会議は崩壊した<ref>{{Cite book|和書|title=徳川慶喜公伝3|year=1967|publisher=平凡社|page=27|author=渋沢栄一}}</ref>。
=== 禁裏御守衛総督 ===
[[ファイル:Tokugawa_Yoshinobu_with_rifle.jpg|thumb|200px|禁裏御守衛総督時代の慶喜]]
参預会議解体後の[[元治]]元年([[1864年]])[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ[[禁裏御守衛総督]]に就任した。以降、慶喜は[[京都]]にあって[[武田耕雲斎]]ら水戸藩執行部や[[鳥取藩]]主・[[池田慶徳]]、[[岡山藩]]主・[[池田茂政]](いずれも徳川斉昭の子、慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・[[松平直克]]([[川越藩]]主)と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、[[天狗党の乱]]への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、[[6月 (旧暦)|6月]]に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する{{sfn|奈良|p=238}}。
同年[[7月 (旧暦)|7月]]に起こった[[禁門の変]]において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、[[会津藩]]・[[桑名藩]]らとの提携が本格化することとなる([[一会桑政権|一会桑体制]]){{sfn|奈良|p=240}}。また老中の[[松平宗秀|本庄宗秀]]・[[阿部正外]]が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。それに続く[[長州征討|第一次長州征伐]]が終わると、[[欧米]]各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった[[安政五カ国条約]]の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜にわたる会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。
=== 将軍職 ===
[[ファイル:TokugawaYoshinobu.jpg|thumb|200px|[[ナポレオン3世]]から贈られた軍服姿の慶喜]]
[[慶応]]2年([[1866年]])の[[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征伐]]では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし[[薩長同盟]]を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の[[7月20日 (旧暦)|7月20日]](1866年8月29日)、将軍・家茂が[[大坂城]]で薨去する。当初は慶喜みずから長州征伐へ出陣するとして朝廷から[[節刀]]を下賜されたが、[[小倉城]]陥落の報に接して出陣を取りやめて今度は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。
家茂の後継として、老中の[[板倉勝静]]、[[小笠原長行]]は江戸の異論{{Refnest|group="注釈"|家茂が後継に指名した田安亀之助(後の[[徳川家達]])を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近p.p.113-117}}</ref>。}}を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]に徳川宗家は相続したものの、将軍職就任は拒み続け、[[12月5日 (旧暦)|12月5日]](1867年1月10日)に[[二条城]]において[[将軍宣下]]を受けてようやく将軍に就任した{{Refnest|group="注釈"|これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近p.116。}}</ref>。}}。この頃の慶喜ははっきりと[[開国]]を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近pp.140-141。}}</ref>。
慶喜政権は会津・桑名の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も[[畿内]]を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して[[堂上家]]から[[側室]]を迎えようと画策しており、この間、彼に[[関白]]・[[摂政]]を兼任させる構想が繰り返し浮上した{{sfn|奈良|p=323}}。一方、これまで政治的には長く対立関係にあった[[小栗忠順]]ら改革派幕閣とも連携し、[[慶応の改革]]を推進した。ただ[[寛文印知]]以来、将軍の代替わりの度に交付していた[[領知目録]]等は、最後まで一切交付できなかった。
慶喜は[[フランス第二帝政|フランス]]公使・[[レオン・ロッシュ]]を通じてフランスから240万ドルの援助を受け、[[横須賀製鉄所]]や造・修船所を設立し、[[ジュール・ブリュネ]]を始めとする[[軍事顧問]]団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、[[陸軍総裁]]・[[海軍総裁]]・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・[[徳川昭武]]([[清水徳川家|清水家]]当主とした)を[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に派遣するなど幕臣子弟の[[ヨーロッパ|欧州]]留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・[[土佐藩|土佐]]・[[宇和島藩|宇和島]]の[[四侯会議]]を解散に追い込んだ。
しかし兵庫開港問題を強引に推し進めたことで慶喜への反発は強まった{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=108}}。慶喜の強硬姿勢、上京四侯による内政改革の糸口をつかむことの不可能さ、京坂以西の反幕的政治情勢の深化は、薩摩藩を武力討幕路線へ傾斜させ、薩長[[広島藩|芸]]に土佐藩内の討幕派(土佐は全体としては幕府を含めた雄藩連合を目指す力の方が強かった{{sfn|松浦玲|1997|p=172}})が加わる薩藩主導の討幕勢力の形成が進んだ{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=111}}。
=== 大政奉還と王政復古の大号令 ===
土佐の[[後藤象二郎]]の大政返上策が薩長土芸の間で合意された{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=113}}。慶喜がこれを受け入れる可能性を信じていなかった[[西郷隆盛]]らはこれを武力討幕のシグナルと位置付けていた{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=113}}。そして土佐藩は「天下ノ大政ヲ議スル全権ハ朝廷ニアリ」「我皇国ノ制度法則一切万機必ズ京都ノ議政所ヨリ出ヅベシ」とする上書を慶喜に送った{{sfn|松浦玲|1997|p=172}}。
慶喜は8月から9月頃までには反徳川雄藩連合の形成が急速に進んでいる情勢に気づいて警戒を強めていた{{sfn|松浦玲|1997|p=172}}。もしこの土佐の献策を受けねば土佐は全体としても武力討幕派に転じることになり、[[越前藩|越前]]と[[熊本藩|肥後]]、[[佐賀藩|肥前]]、[[尾張藩|尾張]]もそれに同調する可能性が高いので受け入れるしかなかった{{sfn|松浦玲|1997|p=172-173}}。逆に受け入れれば武力討幕論は主張しにくくなると考えられた{{sfn|松浦玲|1997|p=173}}。
[[File:Taisehokan.jpg|thumb|[[邨田丹陵]]『大政奉還図』]]
{{main|大政奉還}}
こうして慶応3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]](1867年11月9日)に慶喜は大政返上上表を[[明治天皇]]に奏上し、翌10月15日(1867年11月10日)に勅許された('''[[大政奉還]]''')。しかし大政奉還されたところで朝廷には何の実力もないため、朝廷は日常政務について「{{Ruby|先是迄之通|まずこれまでのとおり}}ニテ、追テ可及御沙汰候事」と返答せざるを得ず、結局実態としては慶喜政権が継続されたままとなった{{sfn|松浦玲|1997|p=173}}。
朝廷内で慶喜に与えられる地位についても朝廷内の実権を関白・[[二条斉敬]]と中川宮が握っている限り、また慶喜が800万石の卓絶した大名であり続ける限り、事実上の支配的地位が与えられると考えられた{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=115}}。やがて開催される諸侯会議でも慶喜は多数の支持を期待できたし、京都の軍事情勢を転換させるために江戸から続々と兵が上京中だった{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=115}}。このような状況のため大政奉還しようとも慶喜の実質的支配が続くことは覆り様がないように思われた。しかし慶喜が見落としていたのは大政を奉還した以上、大政を委任されていた時期と異なり、もし朝廷の構成や政策が転換された場合には慶喜側にはなす術がないという点であり、それが現実のものとなる{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=116}}。
大政奉還によりいったん武力討幕方針を中止した西郷隆盛らは、現状としては慶喜と旧幕府機構の横滑りでしかなく、朝廷には何らの物質的基礎も保証されていないことを確認すると前年以来反幕派公卿の指導者になっていた[[岩倉具視]]と連携してこれを覆すべく行動を開始した{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=116}}。[[12月8日 (旧暦)|12月8日]](1868年1月2日)の朝議では慶喜の反対を退けて長州藩の復権と[[三条実美]]ら五卿帰洛が決定され、さらに翌[[12月9日 (旧暦)|12月9日]](1868年1月3日)には薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩が[[クーデター|政変]]を起こして朝廷を掌握し、慶喜を排除しての新政府樹立を宣言した('''[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]''')。その会議において「慶喜の辞官([[内大臣]]の辞職)納地([[天領|幕府領]]の奉納)」が決定する{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=116}}。
慶喜は王政復古の大号令に激昂した会津・桑名藩を鎮めるため、彼らを引き連れて大坂城に退去しつつ{{sfn|家近良樹|2005|p=17}}、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。一方、王政復古で新政府を発足させた5藩の間でも旧幕勢力の武力討伐を目指す薩摩藩と慶喜を取り込んだ形での漸進的移行を画策した土佐・越前藩では温度差があり、慶喜は越前・土佐に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の[[議定]]就任(新政府への参画)がほぼ確定する{{sfn|松浦玲|1997|p=178-179}}。
=== 戊辰戦争 ===
{{main|戊辰戦争}}
[[ファイル:Tokugawa Yoshinobu's escape.jpg|thumb|340px|[[月岡芳年]]『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』<br>船で大坂を脱出する慶喜を描いた[[錦絵]]]]
しかし[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]、慶喜不在の江戸で薩摩藩の挑発にのった旧幕府が[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|薩摩藩邸焼き討ち]]を強行したことで情勢が変化した。[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]にその報告が[[大目付]]の[[滝川具挙]]らによって慶喜のいた大坂城にもたらされ{{sfn|松浦玲|1997|p=180}}、城内の旧幕・会津・桑名藩勢力が薩摩憎悪で収拾がつかなくなった{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=116}}。結局慶喜は薩摩との開戦を決定して[[討薩表]]を作成、滝川具挙にこれを持たせて上京させるとともに、翌・慶応4年([[1868年]])1月2日に老中格の[[大河内正質]]を総督とし、会津・桑名藩兵を加えた軍を京都に向け進軍させたことで薩摩藩兵らとの武力衝突に至る{{sfn|松浦玲|1997|p=180}}{{Refnest|group="注釈"|後に慶喜は回顧録の中で、「[[討薩表]]はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている<ref>新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.143</ref>。}}。
[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]に勃発した[[鳥羽・伏見の戦い]]において旧幕軍は3日、[[1月4日 (旧暦)|4日]]、[[1月5日 (旧暦)|5日]]と連敗を喫した。これにより大政奉還以来の慶喜の優位的状況は一挙に消滅{{sfn|松浦玲|1997|p=181-182}}。このまま大坂城内に留まると城内の強硬論者が更に収拾つかなくなりそうだったため、慶喜は[[1月6日 (旧暦)|6日]]にも大坂城を脱出し、陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静と[[酒井忠惇]]、[[会津藩]]主・[[松平容保]]、[[桑名藩]]主・[[松平定敬]]らと共に[[開陽丸]]で江戸に退却した。なお、この時、開陽丸艦長の[[榎本武揚]]には江戸への退却を伝えず、武揚は戦地に置き去りにされた<ref>角川まんが学習シリーズ『日本の歴史 12 』p.47</ref>。
慶喜が江戸へ退却した理由には、慶喜自身が晩年に語った軍を京都に送る気自体なかったという主張を信じる説、朝敵になることを恐縮したという説、江戸で態勢を立て直して再度戦争しようと考えていたなど様々な説がある{{sfn|松浦玲|1997|p=182-183}}。近年の研究では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の行動につながったとする説が提唱されている{{sfn|奈良|p=323}}{{誰2|date=2021年1月}}。また、薩摩を討つ覚悟はあっても、[[朝敵]]の汚名を恐れて天皇(を擁した[[官軍]])に対峙する覚悟が無かったとする説もある<ref>新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.144</ref>{{誰2|date=2021年1月}}。『昔夢会筆記』によれば、[[水戸徳川家]]には徳川光圀以来の「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」という旨の家訓があったという{{Refnest|group="注釈"|「烈公尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(注・慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて「おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」と宣えり。」<ref>『昔夢会筆記』</ref>}}。『徳川慶喜公伝』で、慶喜は、[[伊藤博文]]からの[[明治維新|維新]]時に[[尊王論|尊王]]の大義を重んじたのはなぜかとの質問に、「水戸徳川家では[[徳川光圀|義公]]以来代々尊王の大義に心を留めていた。[[徳川斉昭|父]]なる人も同様の志で、自分は庭訓を守ったに過ぎない」と応えている{{Refnest|group="注釈"|「明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、逸事、父祖の遺訓遵守。 ]</ref>}}。
いずれにしてもこの敗戦により慶喜には天皇の政府に攻撃をしかけたあげく敗北を喫したという評価だけが残り、それまで親慶喜的立場をとっていた諸侯すらもはや慶喜追討に反対しなくなった{{sfn|松浦玲|1997|p=182}}。[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]、正式に慶喜追討令が下り{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=117}}、慶喜の官位は剥奪となった{{sfn|松浦玲|1997|p=252}}。慶喜らは1月12日に江戸に到着したが{{sfn|松浦玲|1997|p=252}}、政府は東帰した慶喜および旧幕府勢力との対決を前提とした諸道への鎮撫総督の派遣を決定し、[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]には[[東征大総督]]・[[有栖川宮熾仁親王|熾仁親王]]に率いられた政府軍が東征を開始した{{sfn|朝尾直弘他|1994|p=117}}。
これに対して慶喜は[[小栗忠順]]や会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬を初めとする抗戦派を抑えて政府への恭順を主張する{{sfn|家近良樹|2005|p=18}}{{Refnest|group="注釈"|慶喜がいつ恭順の意思を持ったかについて[[石井孝]]は、慶喜が1月19日、26日、27日のフランス公使ロッシュとの会見で恭順の意思を示しておらず、2月5日の松平春嶽宛ての嘆願書の中で初めて恭順の意思が出てくることを根拠に江戸へ戻った直後の慶喜は戦争する意向だったという説を唱えている{{sfn|松浦玲|1997|p=182-183}}。}}。恭順の意を示すため同じく朝敵となり官位剥奪処分となった老中・[[板倉勝静]]と若年寄・[[永井尚志]]を罷免するとともに容保と定敬に謹慎を命じた{{sfn|家近良樹|2005|p=18}}。[[勝海舟]]と[[大久保一翁]]に事態収拾を一任して自らは[[上野]]の[[寛永寺]]大慈院において謹慎する{{sfn|松浦玲|1997|p=184}}。
[[彰義隊]]や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は水戸での謹慎を希望したが、[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]に東征大総督府より示された慶喜の死一等を減じる条件の七か条には江戸城開城や軍艦兵器の明け渡しと並んで慶喜の[[岡山藩]]での謹慎が入っていた。勝海舟は[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]に東征軍参謀・[[西郷隆盛]]と会談した際に慶喜の謹慎場所を岡山でなく水戸にしてほしいと嘆願して認められた{{sfn|家近良樹|2005|p=21-22}}。[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]に東海道鎮撫総督・[[橋本実梁]]が勅使として江戸城に入城し、[[田安徳川家|田安家]]の[[徳川慶頼]]に対し、慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を命じる朝命を申し渡した{{sfn|家近良樹|2005|p=22}}。4月11日に東征軍諸兵が江戸城に入城し、城郭は[[尾張藩]]、武器は[[熊本藩]]が管理することになり、江戸城は開城された。4月21日には熾仁親王が江戸城に入城した<ref>{{Kotobank|1=江戸開城|2=日本大百科全書(ニッポニカ)|3=}}</ref>。
ここに、江戸幕府は名実ともに消滅した。以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、'''日本史上最後の征夷大将軍'''となった。
=== 謹慎 ===
[[File:Houdaiin 04.jpg|thumb|宝台院にある、徳川慶喜公謹慎之地の碑。2022年8月撮影。]]
慶喜は東海道鎮撫総督府に約束していた江戸退去日時の[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]に[[下痢]]を起こしたため、一日延期されて[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]明け方に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった{{sfn|家近良樹|2005|p=22}}。随行責任者は[[浅野氏祐]]であり{{sfn|松浦玲|1997|p=187}}、他に[[新村猛雄]](彼はこの後も長く慶喜の家扶を務める){{sfn|松浦玲|1997|p=187}}、[[中島仰山|中島鍬次郎]]{{sfn|松浦玲|1997|p=187}}、[[玉村教七]]{{sfn|家近良樹|2005|p=22}}、[[西周]]{{sfn|家近良樹|2005|p=22}}ら側近、[[戸塚文海]]や[[坪井信良]]ら医師{{sfn|松浦玲|1997|p=187}}、[[中条景昭]]や[[高橋泥舟]]など精鋭隊士・遊撃隊士の護衛が共をした{{sfn|家近良樹|2005|p=22}}。[[松戸市|松戸]]、[[藤代町|藤代]]、[[土浦市|土浦]]、[[小美玉市|片倉]]を経由して4月15日に二十数年ぶりに水戸に到着した{{sfn|家近良樹|2005|p=22}}。水戸では弘道館の至善堂にて謹慎した{{sfn|松浦玲|1997|p=188}}。
慶喜が水戸に到着して1か月半後の閏4月29日に政府は田安亀之助こと[[徳川家達]]に宗家を相続させることを決定し、5月24日に家達の領地は[[駿府藩]]70万石に決定された{{sfn|松浦玲|1997|p=189}}。
慶喜が水戸へやって来た頃、水戸藩内では激しい藩内抗争があり、明治天皇の勅書と慶喜の支持を得て力を増した尊皇攘夷派の[[天狗党]]が佐幕派の反天狗党派を藩から追った直後だったが、会津へ逃亡していった反天狗党がいつ戻ってくるか分からず、政情不安定な水戸での謹慎は望ましくなく、政府は家達の[[後見人]]である[[松平斉民|松平確堂]](前[[津山藩]]主)からの進言を容れ、7月10日に慶喜の駿府(静岡)への転居を命じた{{sfn|家近良樹|2005|p=27-29}}{{sfn|松浦玲|1997|p=189-190}}。
慶喜は[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]に水戸を発ち、海路で[[那珂湊市|那珂湊]]まで行き、そこから陸路で[[鉾田市|鉾田]]へ行き、再び海路で[[銚子市|銚子]]に到着{{sfn|松浦玲|1997|p=190}}。[[7月21日 (旧暦)|21日]]に銚子の[[波崎町|波崎]]から海路で駿府へ向かい、[[7月23日 (旧暦)|23日]]に[[清水港]]に上陸した。同日夕方には[[宝台院]]に入った。ここで1年2カ月の謹慎生活を送ることになる{{sfn|家近良樹|2005|p=34}}。また慶喜は家達の養父として宗家の籍に置かれることになった{{sfn|家近良樹|2005|p=35}}。
慶喜の後年の談によれば宝台院での謹慎中、外出をはばかって中島鍬次郎から[[油絵]]を学んだという{{sfn|家近良樹|2005|p=36}}{{sfn|松浦玲|1997|p=196}}。
明治元年(1868年)10月に[[榎本武揚]]一党が[[函館市|函館]][[五稜郭]]を占領して立てこもった後、[[大久保利通]]{{sfn|家近良樹|2005|p=36-37}}や勝海舟{{sfn|松浦玲|1997|p=192-193}}は慶喜の謹慎を解除して榎本一党の征討を命じることを提案したが、[[三条実美]]の反対で沙汰止みとなった{{sfn|家近良樹|2005|p=36-37}}。[[明治]]2年([[1869年]])5月に榎本一党の降伏をもって戊辰戦争は終結した。勝海舟や大久保一翁ら旧臣が三条実美や大久保利通など政府高官に働きかけた結果、[[9月 (旧暦)|9月]]には慶喜の謹慎が解除された{{Refnest|group="注釈"|「第942 徳川慶喜ノ謹慎ヲ免ス」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/229 『法令全書 明治2年』内閣官報局、p.384]</ref>}}{{sfn|家近良樹|2005|p=37-38}}。
=== 明治以降 ===
{{政治家
| 各国語表記 = とくがわ よしのぶ
| 画像 = TOKUGAWA Yoshinobu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 =
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1837年]][[10月28日]]
| 出生地 = {{JPN}} [[江戸]][[小石川]]<br>(現:[[東京都]][[文京区]])
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1837|10|28|1913|11|22}}
| 死没地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[小石川区]][[小日向]]第六天町<br>(現:東京都文京区[[春日]])
| 前職 = [[征夷大将軍]]
| 称号・勲章 = [[従一位]]<br>[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br>[[公爵]]
| 配偶者 = [[一条美賀子]]
| 子女 = 長女・[[徳川鏡子]]<br>四男・[[徳川厚]]<br>四女・[[蜂須賀筆子]]<br>五男・[[池田仲博]]<br>九女・[[博恭王妃経子]]<br>七男・[[徳川慶久]]<br>九男・[[徳川誠]]<br>十男・[[勝精]]
| 親族(政治家) = 娘婿・[[徳川達孝]](貴族院議員)<br>娘婿・[[徳川圀順]](貴族院議長)<br>娘婿・[[蜂須賀正韶]](貴族院副議長)<br>娘婿・[[大河内輝耕]](貴族院議員)<br>娘婿・[[四条隆愛]](貴族院議員)<br>孫・[[徳川慶光]](貴族院議員)<br>孫・[[徳川喜翰]](貴族院議員)<br>孫・[[大木喜福]](貴族院議員)<br>孫・[[朽木綱博]](貴族院議員)<br>孫・[[四条隆徳]](貴族院議員)<br>孫・[[蜂須賀正氏]](貴族院議員)<br>孫婿・[[溝口直亮]](貴族院議員)<br>孫婿・[[松平康春]](貴族院議員)<br>孫婿・[[松田正之]](貴族院議員)
| 職名 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
| 選挙区 = [[公爵議員]]
| 就任日 = [[1902年]][[6月3日]]
| 退任日 = [[1910年]][[12月9日]]
| 国旗 = 日本
}}
==== 静岡在住時代 ====
謹慎の解除に伴い、1869年(明治2年)10月5日に宝台院を出て、同じ[[駿府]]改め[[静岡市|静岡]]内の紺屋町の元代官屋敷へ移住した。江戸城開城後<sub></sub>に小石川の水戸藩邸で暮らしていた正室・美賀子も静岡にやってきて慶喜と同居するようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=37}}。当時慶喜は33歳、美賀子は35歳だった{{sfn|松浦玲|1997|p=196}}。静岡藩内では知藩事の家達邸は「宮ケ崎御住居」、慶喜邸は「紺屋町御住居」と呼ばれていた{{sfn|樋口雄彦|2012|p=38}}。
1871年(明治4年)7月に[[廃藩置県]]があり、家達は東京に移住したが、慶喜は静岡にとどまった{{sfn|家近良樹|2005|p=38}}。慶喜は家達の家族扱いになっていたので一緒に東京移住するのが自然だったが{{sfn|家近良樹|2005|p=38}}、結局、1897年(明治30年)まで東京に移ることはなかった。その理由について旧臣の[[渋沢栄一]][[子爵]]は[[勝海舟]][[伯爵]]が押し込めたせいだとし、嫌味を込めて次のように述べている。「私は勝伯があまり慶喜公を押し込めるやうにせられて居ったのに対し、快く思はなかったもので、伯とは生前頻繁に往来しなかった。勝伯が慶喜公を静岡に御住はせ申して置いたのは、維新に際し、将軍家が大政を返上し、前後の仕末がうまく運ばれたのが、一に勝伯の力に帰せられてある処を、慶喜公が東京御住ひになって、大政奉還前後における慶喜公御深慮のほどを御談りにでもなれば、伯の金箔が剥げてしまふのを恐れたからだなどいふものもあるが、まさか勝ともあらう御仁が、そんな卑しい考えを持たれやう筈がない。ただ慶喜公の晩年に傷を御つけさせ申したくないとの一念から、静岡に閑居を願って置いたものだらうと私は思ふが、それにしても余り押し込め主義だったので、私は勝伯に対し快く思っていなかったのである」{{sfn|家近良樹|2005|p=122}}。勝海舟や大久保一翁らは慶喜の旧臣の中でも最も政府の要職に上った出世頭であり、徳川家のために政府内にあって尽力する役割を果たしたので、慶喜としてはその進言や忠告を無碍にできない関係にあった{{sfn|家近良樹|2005|p=115}}。
無位無官になっていた慶喜は[[1872年]](明治5年)[[1月6日]]に[[従四位]]に叙されたことで最初の官位回復を受けた{{sfn|家近良樹|2005|p=38}}。ついで[[1880年]](明治13年)には将軍時代と同じ官位である[[正二位]]を改めて与えられた{{sfn|家近良樹|2005|p=71}}。さらに[[1888年]](明治21年)6月には[[従一位]]に昇叙した。[[叙位条例]]では従一位は[[公爵]]相当の礼遇を受けるとされており、これにより公爵に叙されていた宗家の家達に並ぶ礼遇を享受できるようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=129}}。
[[File:Tokugawa Yoshinobu in Hunting Clothes.png|thumb|left|スタジオで撮影された、猟装の慶喜(東洋文化協會 『幕末・明治・大正 回顧八十年史』)]]
静岡在住時代には政治的野心を持たず趣味の世界に没頭した。新村ら家扶が交代で書いた家扶日記によれば明治5年中だけでも[[銃猟]]・[[鷹狩]]・[[囲碁]]・[[投網]]・[[鵜飼]]をやっており、明治6年以降になると[[謡曲]]・[[能]]・[[小鼓]]・[[映画|洋画]]・[[刺繍]]・[[将棋]]をやっている。[[釣り]]もしばしばした。特に熱中したのは銃猟と鷹狩と投網で、慶喜の狩猟の範囲は近村から[[安倍川]]尻までの広範囲に及び、静岡ではまだ珍しかった[[人力車]]に乗って清水湊まで行き投網を楽しんだ{{sfn|家近良樹|2005|p=50}}。鳥を追って畑の作物の上を縦横無尽に走り回るので農家から苦情が出たこともあったが、動じない慶喜は「ア さよか では全部買い取ってやったらよかろう」と答えたという{{sfn|大久保利謙|1989|p=35}}。
明治13年から明治16年頃は庶民娯楽の[[講談]]に興味を持ち、静岡に興行でやってきた[[伊東花林]]や[[栗原久長]]などの講釈師を自邸に招待した{{sfn|家近良樹|2005|p=73}}。日本に洋式[[自転車]]が入ってきたのは明治14年・15年頃のことといわれるが、慶喜は早い段階で自転車を手に入れ、サイクリングも楽しんだ{{sfn|家近良樹|2005|p=103}}。1884年(明治17年)5月11日、当時10歳の息子・[[徳川厚|厚]]を連れて[[新聞縦覧所]]に行った際に新聞に関心を持つようになったらしく、同年6月14日からは『[[朝野新聞]]』を取るようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=81}}。慶喜の趣味は同じ時期に同じものを集中して行っており、一度始めると集中的にやるのが特徴だった{{sfn|松浦玲|1997|p=201}}。
政府に恭順せずに反逆的立場を取った経歴のある旧幕臣とは関わり合いになることを回避し、明治11年(1878年)5月18日に元若年寄の永井尚志(慶喜に罷免された後、榎本武揚と共に脱走して[[函館市|函館]][[五稜郭]]で榎本「総裁」のもと「函館奉行」を務め、降伏後しばらく獄につながれていた)が静岡までやってきて、慶喜に「御機嫌伺い」の面会を求めてきた際には面会を拒絶している{{sfn|家近良樹|2005|p=67-69}}。
静岡時代に慶喜は子作りに励み10男11女を儲けた。まず明治4年中に2人の側室との間に長男と次男を儲けたが、いずれも翌年に早世。明治5年に三男を儲けたが、この子も翌年早世。手元で育てた子供の早世が相次いだため、翌1873年(明治6年)に生まれた長女・[[徳川鏡子|鏡子]]は伊勢屋元次郎に[[里子]]に出した。これ以降1888年(明治21年)に生まれた十男・[[勝精|精]]に至るまでの全員を庶民(植木屋・米穀商・石工など)の家に里子に出している(早世した子は除く)。庶民の家で厳しく育てた方が元気に育つといわれていたためで、実際にこれ以降子供の生存率が上がった。里子に出した期間は概ね3年弱から4年強ほどだった。庶民の家に里子に出すのは当時の貴人としては異例のことだった{{sfn|家近良樹|2005|p=44-45}}。なお子供はすべて側室から生まれており、静岡時代には正室の美賀子夫人との間に子供はできなかった(江戸時代の結婚直後の頃に長女を一人儲けたが早世している){{sfn|松浦玲|1997|p=196}}。美賀子とは疎遠になり、慶喜は明治5年7月に[[伊豆]]で[[湯治]]の旅行をした際に側室2人を連れていく一方、美賀子夫人は連れて行かず、彼女は同月に慶喜が帰ってきた後に別に伊豆[[修善寺温泉]]に出かけるような冷めた関係になっている{{sfn|松浦玲|1997|p=202}}。
[[ファイル:Iesato and Yoshinobu.JPG|thumb|left|徳川家達と慶喜(毎日新聞社「昭和史 第1巻」)]]
静岡時代の慶喜は、身分上も経済上も宗家である[[徳川家達]]の管轄下にあった。東京の家達からの送金で生活し、慶喜の家令や家扶は家達により任命され、慶喜はその辞令を渡すだけだったという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=68}}{{sfn|家近良樹|2005|p=87}}。また慶喜は東京の家達に預けた慶喜の娘たちに家達に従順であるよう「厳しく申し渡」したという。慶喜の七女・波子が[[松平斉民]]の四男・[[松平斉|斉]]からの求婚を嫌がった際には彼女を静岡まで呼びつけて家達の世話になっている身であることや、津山の松平には義理があることなどを言い聞かせて辛抱を命じたという{{sfn|家近良樹|2005|p=86-87}}。慶喜が上座に座っていたとき、家達が「私の席がない」というと慶喜が慌てて席を譲ったという逸話もある{{sfn|樋口雄彦|2012|p=68}}。
明治19年(1886年)11月、東京の水戸徳川家の屋敷で暮らしている母・登美宮の病気見舞いで東京に上京。これが明治以降の最初の慶喜の東京訪問となった{{sfn|家近良樹|2005|p=72}}{{sfn|松浦玲|1997|p=204}}。
[[東海道線 (静岡地区)|東海道線]]が静岡に開通されるのに伴い、慶喜の紺屋町の屋敷が静岡の停車場建設予定地に含まれたため、1887年(明治20年)に[[西草深]]に新しい屋敷の建設を開始し、翌年までに完成させて転居した{{sfn|家近良樹|2005|p=100}}。[[1889年]](明治22年)[[2月1日]]に東海道線静岡以東が開通すると慶喜は同年4月30日にさっそくこれに乗車して弟の[[徳川昭武]]がいる[[千葉県]]の[[戸定邸]]へ向かい、母・登美宮とともに5月9日まで過ごした。[[塩原温泉]]で湯治を楽しんだり、[[日光東照宮]]や水戸を訪問したりした後、東京を経由して静岡へ帰っていった。徳川昭武の方もこのあと東海道線を使って毎年静岡に来るようになったので慶喜と昭武の兄弟の友好が深まった{{sfn|家近良樹|2005|p=100}}。また東海道線を利用して慶喜の狩猟の範囲も広がった。ただ加齢による体力の低下で狩猟や釣りの回数自体は減っていく{{sfn|家近良樹|2005|p=104-105}}。またこの頃から[[ビリヤード]]と[[写真]]が慶喜の新たな趣味に加わる。特に写真は体力が低下しはじめた明治20年代後半の慶喜にとって主要な趣味となった。写真撮影のために色々な場所に姿を現すようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=105}}。明治20年代は写真の[[写真湿板|湿式]]から[[写真乾板|乾式]]への移行期で撮影装置の移動が楽になったこともあったという{{sfn|松浦玲|1997|p=207}}。明治20年代半ば過ぎ頃からは[[コーヒー]]を飲むようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=106}}。
1893年(明治26年)1月には母・登美宮が死去し、東京に出て葬儀を営んだ{{sfn|松浦玲|1997|p=208-209}}。ついで1894年(明治27年)7月9日に乳がんの治療のため東京の宗家に移っていた美賀子夫人が死去。この時慶喜は写真撮影のため[[焼津市|焼津]]にいたが、電報を受けた家扶が慶喜の下に着替えをもって駆けつけ、その報告を受けた慶喜は焼津から東京へ直行している{{sfn|松浦玲|1997|p=208-209}}。
==== 東京移住後から薨去 ====
[[file:Yoshinobu_Tokugawa_2.jpg|thumb|[[大礼服#有爵者大礼服|有爵者大礼服]]を着用し、[[勲一等旭日大綬章]]を佩用した徳川慶喜公爵(東洋文化協會 『幕末・明治・大正 回顧八十年史』)]]
明治30年([[1897年]])[[11月]]に[[東京市|東京]]の[[巣鴨]]一丁目に移り住む。現在の[[巣鴨駅]]に近い位置にあたり、敷地3000坪建坪400坪だったという{{sfn|松浦玲|1997|p=211}}。ここにきて東京移住を決意したのは、慶喜の行動を抑制してきた勝海舟が老衰してきてその束縛が弱まっていたこと、加齢で健康不安が多くなってきたので良医がそろう東京に行きたがったこと、手元に残っていた末の息子たちも[[学習院]]入学のため静岡を離れたので慶喜の近辺が寂しくなったこと、この頃慶喜の西草深邸で窃盗事件が発生したことなどが理由として考えられている{{sfn|家近良樹|2005|p=134-139}}。
東京移住後、親族関係にあった[[有栖川宮威仁親王|威仁親王]]の仲介を受けて皇室関係者と関係を強めるようになり、明治31年(1898年)3月2日には[[皇居]]に参内して明治天皇の拝謁を受けた{{sfn|家近良樹|2005|p=142-146}}。また[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]](後の大正天皇)と親交を深め「ケイキさん」「殿下」で呼び合う間柄になったという{{sfn|家近良樹|2005|p=151/158}}。慶喜は足繁く[[東宮御所]]に通い、年末年始の挨拶をはじめ、皇子[[昭和天皇|裕仁親王]](後の昭和天皇)の誕生祝い、自身の叙爵や叙勲の御礼など事あるごとに皇太子と会っている。家扶日記から確認できるだけでも慶喜は明治33年以降毎年10日前後は皇太子に会いに行っており、慶喜と皇太子は1カ月から1カ月半に1度は会っていた計算になる。これほど頻繁に皇室の人間の拝謁を賜る人物は極めて稀である{{sfn|家近良樹|2005|p=161-162}}。
東京移住後の慶喜は行動がざっくばらんになった。皇室と親交関係を持つようになったことや、「お目付け役」の勝海舟が1899年(明治32年)に死んだのが大きかったという{{sfn|家近良樹|2005|p=163}}。自転車に乗って[[銀座]]や[[東宮御所]]、[[千駄ヶ谷]]の徳川宗家邸までサイクリングしている。銀座は特に慶喜のお気に入りの場所になり、運動を兼ねてよく銀座にショッピングに出かけた。東京でも気に入った場所を見つけては写真撮影をし、まれにそれを榎本武揚などに贈った。上野の[[国立科学博物館|博物館]]にも行っている。東京で悠々自適の生活を謳歌した{{sfn|家近良樹|2005|p=163}}。東京に移住した後も猟にはよく出かけており、皇太子の狩猟のお供をすることもあったが、弟の昭武を連れ立って行くことが多かったようである{{sfn|大久保利謙|1989|p=35}}。
もともと新しい物が好きだった慶喜は、時代の最先端の物品が流通する東京に来てからは、一層色々な物に関心を示すようになった。遅くとも明治32年(1899年)2月の段階では自分の屋敷に[[電話]]を引いた(同月一日に東京大阪間の長距離電話が開通した。千駄ヶ谷の宗家邸が電話を引いたのはこの翌月だったのでそれより早かった){{sfn|家近良樹|2005|p=164}}。[[華頂宮]]家からお土産で[[アイスクリーム]]製造機をもらって自家製アイスクリームを作ったり、[[蓄音機]]でレコード鑑賞を楽しむようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=164}}。明治32年6月には[[神田錦町]]の[[錦輝館]]で「[[米西戦争]]活動大写真」という実写フィルム(当時は「活動写真」といった)を見物している。これは日本で最初に上映されたニュース映画だったといわれる{{sfn|家近良樹|2005|p=164-165}}。明治42年(1909年)1月15日には新たな暖房器具ガス・ストーブを見るためにガス会社を訪問している{{sfn|家近良樹|2005|p=182}}。
[[日本鉄道]]豊島線(現在の[[東日本旅客鉄道|JR]][[山手線]])の[[巣鴨駅]]の建設工事が巣鴨の慶喜邸前で始まったことで、その騒音や人の出入りが激しくなって喧騒することを嫌がり、明治34年([[1901年]])12月には[[小石川区]][[小日向]]第六天町(現在の[[文京区]][[春日 (文京区)|春日]]2丁目)の高台の屋敷(敷地3000坪建坪1000坪)に転居し、ここが終焉の地となった<ref group="注釈">現在、敷地の大半は[[国際仏教学大学院大学]]になっている。</ref>{{sfn|家近良樹|2005|p=166}}。
明治35年([[1902年]])6月3日には[[公爵]]に叙せられ、別家([[徳川慶喜家]])を興した{{sfn|家近良樹|2005|p=170}}。御沙汰書には「特旨をもって華族に列せらる。特に公爵を授けらる」とあり、特例措置による叙爵であった(華族の分家は叙爵内規上[[男爵]]であるべきにもかかわらず公爵になっている){{sfn|家近良樹|2005|p=170}}。公爵に列したことで[[貴族院令]]に基づき[[貴族院 (日本)#公爵議員・侯爵議員|貴族院公爵議員]]にもなった。別家では「公的に復権が認められた日」として6月3日を「御授爵記念日」と名付けて毎年祝宴を開くようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=171}}。
また公爵になった後の慶喜は経済的にも宗家から自立するようになった。[[株式]][[配当]]や[[国債]]購入の[[利子]]収入などでかなりの金額を得るようになったためである。慶喜は渋沢栄一が創設したか出資している企業群、第一・第十五・第三十五の各[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]、日本鉄道、[[浅野セメント]]、[[日本郵船]]、[[日産化学|大日本人造肥料]]などの株式を保有した。株式配当自体は旧大名華族にはよく見られる収入源で珍しいものではないが、慶喜の株式保有に特色があるとすれば渋沢栄一に依存するところが大きかったことである。慶喜は日本橋区兜町にあった渋沢栄一の事務所を通じて株式を購入していた{{sfn|家近良樹|2005|p=174}}。家扶日記の記述も経済的自立と連動しており、それまで家達のことを「殿様」と呼んでいたのが、「千駄ヶ谷様」・「十六代様」・「従二位様」などに変わっており、それまでの「御本邸」という表現も「千駄ヶ谷」「千駄ヶ谷御邸」などに変化している。家扶日記上では、宗家から別家への送金も1902年(明治35年)9月3日を最後に確認できなくなる{{sfn|家近良樹|2005|p=172}}。
[[日露戦争]]後の[[1906年]](明治39年)[[4月22日]]に千駄ヶ谷の徳川宗家邸で凱旋軍人の慰労会が催されて慶喜も出席している。家達の発声で「天皇陛下万歳」、慶喜の発声で「陸海軍万歳」、榎本武揚の発声で「徳川家万歳」が三唱された{{sfn|樋口雄彦|2012|p=64}}。
明治40年代には渋沢の編纂事務所から出される自分の伝記(『徳川慶喜公伝』)の完成に熱意を注ぎ、また[[大隈重信]]から協力を求められた『開国五十年史』にも協力し、大隈に自らの体験を語り、それが「徳川慶喜公回顧録」として上巻に収められている{{sfn|家近良樹|2005|p=182-183}}。
明治43年([[1910年]])[[12月8日]]、七男・[[徳川慶久|慶久]]に[[家督]]と[[爵位]]を譲って[[隠居]]。公爵でなくなったため同月9日、貴族院議員の職を失職した<ref>『官報』第8246号、明治43年12月15日。</ref>。またこれに合わせて慶喜公爵家の[[家範]](華族令追加令第11条に基づき華族は相続や家政上必要があれば宮内省の許可を得て法的効力を有する家範を定めることができた)を制定した{{sfn|家近良樹|2005|p=191-192}}。
慶喜は大正元年([[1912年]])に[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]の自動車を入手した。威仁親王が[[ヨーロッパ]]旅行土産に慶喜に贈ったものといわれる{{sfn|樋口雄彦|2012|p=198-199}}。明治44年の段階では東京で自動車を個人所有している者はまだ150余人に過ぎなかったといわれるので慶喜はかなり早い段階で自家用車を入手した人物ということになる{{sfn|樋口雄彦|2012|p=199}}。大正元年11月16日に「自家乗用自動車」の「使用届及び自動車運転士免許証下附願」を警察署に提出して認可を受けると、すぐさま息子の慶久とともに自動車に乗って田安邸と千駄ヶ谷の宗家邸に喪中の挨拶に行っている。その後も自動車に乗って色々な所へ行っている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=200}}。
「最後の将軍」徳川慶喜は、[[辛亥革命]]による[[清朝]]崩壊・[[中華民国]]成立(1911年-1912年)や[[タイタニック号沈没事故]](1912年)の時にもなお存命で、年下の明治天皇より長生きして大正時代の到来を見届け、[[大正]]2年([[1913年]])[[11月22日]]、(急性[[肺炎]]を併発した)[[風邪|感冒]]のために[[薨去]]した{{Refnest|[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)より<ref group="注釈">また、[[謎解き!江戸のススメ]]([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月9日]]放送)でも紹介された。</ref>。}}。享年77(満76歳25日)。[[大正天皇]]は[[侍従]]・[[海江田幸吉]]子爵を派遣し、[[祭粢料]]や[[幣帛]]と共に以下の[[勅語]]を伝達させた<ref>[{{NDLDC|2952503/7}} 大正2年12月1日『官報』第403号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7]</ref>。
{{quotation|{{kyujitai|國家ノ多難󠄀ニ際シ閫外ノ重寄ニ膺リ時勢ヲ察シテ政ヲ致シ皇師ヲ迎󠄁ヘテ誠ヲ表シ恭順綏撫以テ王政ノ復古ニ資󠄁ス 其ノ志洵ニ嘉スへシ 今ヤ溘亡ヲ聞ク 曷ソ痛悼ニ勝󠄁ヘン 玆ニ侍臣ヲ遣󠄁ハシ賻ヲ齎シテ臨ミ弔セシム}}}}
== 年譜 ==
[[File:Yoshinobu Tokugawa 8.jpg|thumb|徳川慶喜]]
※明治5年までは[[天保暦]]長暦の月日表記。
* 弘化4年(1847年)
** [[9月1日 (旧暦)|9月1日]]、[[一橋徳川家|一橋家]]を相続する。
* 弘化4年(1848年)
** [[12月1日 (旧暦)|12月1日]]、慶喜に改名。同日、[[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]兼[[刑部省|刑部卿]]叙任。
* 安政2年([[1856年]])[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]、[[一条忠香]]の養女・[[一条美賀子|美賀]]と結婚。[[参議]]に補任。
* 安政4年([[1857年]])、[[徳川家定]]の後継問題で有力候補となる。
* 安政6年([[1859年]])[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]、[[安政の大獄]]において隠居謹慎蟄居の処分を受ける。
* 万延元年([[1860年]])[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]、隠居謹慎蟄居解除。
* 文久2年([[1862年]])
** [[7月6日 (旧暦)|7月6日]]、一橋家を再相続。同日、(勅命を受け)[[将軍後見職]]就任。
** 11月1日、[[中納言|権中納言]]に転任。
* 文久3年([[1863年]])12月、朝議参預就任。
* [[元治]]元年([[1864年]])
** [[3月9日 (旧暦)|3月9日]]、朝議参預辞任。
** [[3月25日 (旧暦)|3月25日]]、将軍後見職辞任。同日、[[禁裏御守衛総督]]・摂海防禦指揮転職。[[禁門の変]]では、抗戦の指揮をとった。
* [[慶応]]元年([[1865年]])、10月12日、従二位権大納言昇叙転任を固辞。
* 慶応2年([[1866年]])
** 7月晦日、禁裏御守衛総督辞職。
** [[8月20日 (旧暦)|8月20日]]、[[徳川宗家]]相続。
* 慶応2年([[1867年]])
** [[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、[[正二位]]・[[大納言|権大納言]]兼[[近衛大将|右近衛大将]]に叙任。同日、[[征夷大将軍]]就任<ref group="注釈">徳川慶喜 叙正二位位記袖書{{quotation|從三位源慶喜
右可正二位<br />
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕<br />
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行<br />
慶應二年十二月五日<br />
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日|平田職修日記}}</ref>。
[[ファイル:1867_Osaka_Yoshinobu_Tokugawa.jpg|200px|thumb|慶応3年(1867年)大阪での慶喜]]
* 慶応3年([[1867年]])
** 9月21日、[[内大臣]]転任。右近衛大将如元。
** [[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、[[大政奉還]]。
* 慶応3年([[1868年]])
** [[12月9日 (旧暦)|12月9日]]、征夷大将軍職辞職。
* 慶応4年([[1868年]])
**[[2月12日 (旧暦)|2月12日]] - [[寛永寺]]大慈院にて謹慎<ref>{{Cite book|title=徳川慶喜静岡の30年|date=1997年12月20日|year=|publisher=静岡新聞社|author=前林考一郎|page=175}}</ref>。
**[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]、解官。
**[[4月15日 (旧暦)|4月15日]] - [[水戸藩]](現在の[[茨城県|茨城]])の弘道館至善堂に謹慎<ref name=":2">{{Cite book|title=徳川慶喜静岡の30年|date=1997年12月20日|year=|publisher=静岡新聞社|author=前林考一郎|page=176}}</ref>。
**[[7月19日 (旧暦)|7月19日]] - 弘道館を出発<ref name=":2" />。
**[[7月23日 (旧暦)|7月23日]] - 駿河(現在の静岡)の[[宝台院]]に謹慎<ref name=":2" />。
* 明治2年([[1869年]])
**[[9月28日 (旧暦)|9月28日]] - 謹慎解除<ref name=":2" />。
**[[10月5日 (旧暦)|10月5日]] - [[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]紺屋町の元代官屋敷(現在の[[浮月楼]])に移住<ref name=":2" />。
[[ファイル:Tokugawa Yoshinobu-1.jpg|thumb|200px|静岡市葵区にある徳川慶喜公屋敷跡(2018年7月10日撮影)]]
[[ファイル:Tokugawa Yoshinobu-2.jpg|thumb|200px|同左、石碑(2018年7月10日撮影)]]
* 明治5年([[1872年]])[[1月6日 (旧暦)|1月6日]] - [[従四位]]に復帰<ref name=":2" />。
* 明治13年([[1880年]])[[5月18日]]、正二位昇叙。
* 明治21年([[1888年]])
**3月6日 [[静岡県]]・静岡城下の西草深(現在の静岡県静岡市葵区西草深二七一番地、後に[[旧エンバーソン邸]]・[[日本基督教団静岡教会|静岡教会]]等・[[静岡英和女学院中学校・高等学校|静岡英和女学院]]等が建てられた場所)に移住<ref>{{Cite book|title=その後の慶喜 大正まで生きた将軍|date=2005年1月10日|year=|publisher=講談社選書メチエ|author=家近良樹|isbn=4-06-258320-8|page=100}}</ref>。
**[[6月20日]]、[[従一位]]昇叙。
* 明治30年([[1897年]])[[11月19日]]、東京・巣鴨に移住。
* 明治31年([[1898年]])[[3月2日]]、[[明治天皇]]に30年5ヶ月ぶり(大政奉還以来)謁見{{Refnest|[{{NDLDC|2947686/3}} 明治31年3月3日『官報』第4397号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3] <ref group="注釈">「◯宮廷錄事 ◯拜謁 昨二日午前十一時天機竝ニ御機嫌伺ノタメ從一位德川慶喜參內セシ處臨御 天皇 皇后兩陛下仰付ラレタリ」</ref>}}。
[[ファイル:Tokugawa Yoshinobu as Jakō no ma Shikō.jpg|thumb|200px|麝香間祗候在任時(公爵受爵前)の徳川慶喜]]
* 明治33年([[1900年]])[[6月22日]]、[[麝香間祗候]]<ref>『官報』第5091号、明治33年6月23日。</ref>。
*明治34年([[1901年]])[[12月24日]] - 小日向第六天町に移転<ref>{{Cite book|title=徳川慶喜静岡の30年|date=1997年12月20日|year=|publisher=静岡新聞社|author=前林考一郎|page=177}}</ref>。
* 明治35年([[1902年]])[[6月3日]]、[[公爵]]受爵。徳川宗家とは別に「別家([[徳川慶喜家]])」の創設を許された。[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]就任。
* 明治41年([[1908年]])[[4月30日]]、大政奉還の功により、明治天皇から[[勲一等旭日大綬章]]を授与される。
* 明治43年([[1910年]])[[12月8日]]、[[徳川慶久|慶久]]に[[家督]]を譲って貴族院議員を辞し、[[隠居]]。
* [[大正]]2年([[1913年]])[[11月22日]](午前4時10分)[[薨去]]。同日、[[勲一等旭日桐花大綬章]]を[[追贈]]される。
== 栄典 ==
*[[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[旭日章|勲四等旭日小綬章]]<ref>『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。</ref>
* [[1908年]](明治41年)[[4月30日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第7451号「叙任及辞令」1908年5月1日</ref>
* [[1913年]](大正2年)[[11月22日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第398号「叙任及辞令」1913年11月25日</ref>
== 側近 ==
*[[中根長十郎]] - 1863年に暗殺
*[[平岡円四郎]] - 1864年に暗殺
*[[原市之進]] - 1867年に暗殺
*[[西周 (啓蒙家)|西周]]
*[[土岐朝義]]
== 人物 ==
=== 名前 ===
[[幼名]]は'''七郎麻呂'''(しちろうまろ、'''七郎麿'''<ref name="shibusawa" />とも)。元服後、初めは実父・[[徳川斉昭]]の1字を受けて'''松平昭致'''(あきむね)と名乗っていた。
寛保元年12月1日に元服した際、当時の将軍・[[徳川家慶]]から[[諱#偏諱|偏諱]](「慶」の1字)を賜い、'''慶喜'''と改名した。旧臣であった渋沢栄一が編じた『徳川慶喜公伝』では、この時点では'''よしのぶ'''と読まれていたとしている<ref>{{Cite book|和書|title = 徳川慶喜公伝|volume = 巻1|author = 渋沢栄一|authorlink = 渋沢栄一|publisher = 竜門社|date = 1918|id = {{NDLJP|953146}} |doi = 10.11501/953146|pages=89-90}}</ref>。
将軍就任から3ヶ月たった慶応3年2月21日には、幕府が「慶喜」の読みは「'''よしひさ'''」であるという布告を行っている<ref>{{Cite book|和書|title = 維新史料綱要|volume = 巻7|publisher = 維新史料編纂事務局|date = 1940|id = {{NDLJP|1046681/33}} |doi = 10.11501/1046681|page=54}}</ref>。この読みの変更について[[三浦直人]]は、かつて[[足利義教]]が「義宣(よしのぶ)」と名乗っていた際に、「世忍ぶ」に通じて不快であるため改名したという例と同様に、「よしのぶ」の音が「世忍ぶ」に通じていたためではないかとしている<ref name="三浦直人2017">{{Cite journal|和書|title = 由利公正の名に〈唯一の〉〈正しい〉読みはあるか : きみまさ・きんまさ・コウセイ|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1574231877509739008|publisher = 明治大学大学院|journal = 文学研究論集|naid = 120006471643|issn = 13409174|author = 三浦直人|authorlink = 三浦直人|year = 2017|volume = 48|page=171}}</ref>。本人によるアルファベット署名や英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている他、明治時代になってもよしひさという読みは一定程度使用されている{{refnest|group="注釈"|例えば、太田才次郎編集、[[1905年|明治三八年]][[博文館]]発行の『新式いろは引節用辞典』(内題による)835ページに「'''よしひさ'''」という訓読みがみられる。明治8年([[1875年]])11月の『仮名傍訓 公布の写』(鈴邨憲章輯)はすべて「'''とくがは よしひさ'''」の振り仮名で通す。『日新真事誌』を創刊したジョン・レディ・ブラックによる『YOUNG JAPAN. YOKOHAMA AND YED. (1880)』の巻頭に添えられた写真には“HIS HIGHNESS THE LAST SHOGUN.”というキャプションとともに、“…Hitotsubashi, Yoshi-nobu, '''Yoshi-hisa'''; and subsequently known as Keikisama.…”という紹介がつけられている<ref>山田俊雄『ことば散策』岩波書店、1999年、p182</ref>。}}。
しかしその後は「よしのぶ」の読みが定着していった。明治・大正頃には学校でも「よしのぶ」の読みで教えられていたという回想がある<ref name="三浦直人2017" />。[[国史大辞典 (昭和時代)|昭和期の国史大辞典]]においても「とくがわ よしのぶ」の読みがふられており、1998年のNHK大河ドラマ「[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]」でも「よしのぶ」と読まれている<ref>{{Cite web|和書|title = 大河ドラマ『徳川慶喜』|url = https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010767|website = NHKアーカイブス|accessdate = 2022-6-10}}</ref>。
また'''けいき'''という音読みも広く知られている。慶喜が将軍に就位したころの[[プロイセン王国]]公使[[マックス・フォン・ブラント]]は、その頃は反対派が慶喜を「けいき」と読んでいたとし、維新後には旧旗本が侮蔑の意味で「けいき」と呼んでいた記録もある<ref>{{Cite journal |和書|author = 三浦直人|authorlink = 三浦直人|title = 伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず : 人名史研究における術語の吟味 |date = 2017|journal = 漢字文化研究|volume = 7|issue = |pages = 21-41 | publisher= |url = http://www.kanken.or.jp/project/data/investigation_incentive_award_2016_miura.pdf |ref = harv}}</ref>。一方で慶喜本人は「けいき」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・[[徳川昭武]]に当てた[[電報]]にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・[[徳川慶久|慶久]]も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。『[[朝日新聞]]』1917年2月13日号朝刊4面では、[[学習院]]での授業の際に教師が「よしのぶ」と読むと、生徒であった慶喜の孫が「いゝえうちの御祖父さまの名はケイキです」と抗議したという記録があり、慶喜の孫である[[榊原喜佐子]]の著書でも「けいき」のルビが振られている<ref name="三浦直人2017" />。また明治30年代には[[大正天皇|皇太子嘉仁親王(大正天皇)]]と親しくなり、「殿下」「けいきさん」と呼び合っていたという<ref>{{Cite web|和書|title = 徳川慶喜、趣味に生きる覚悟|ちくま文庫|門井 慶喜|url = https://www.webchikuma.jp/articles/-/456|website = webちくま|date = 2022-6-7|accessdate = 2022-6-10|ref=webちくま202267}}</ref>。[[司馬遼太郎]]は「『けいき』と呼ぶ人は旧[[幕臣]]関係者の家系に多い」としているが、[[倒幕]]に動いた[[肥後藩]]の関係者も「けいき」と呼んでいたことや[[福澤諭吉]]の『[[福翁自伝]]』でも、「慶喜さん」と書いて「けいき」と振り仮名を振っている箇所がある<ref>{{Cite book|和書|author=福澤諭吉|authorlink=福澤諭吉|date=1899-06-15|title=福翁自伝|publisher=時事新報社|page=313|id={{NDLJP|2387720/163}}}}</ref>。現在でも静岡県などでは慶喜について好意的に言及する際に、「けいきさん」「けいき様」の呼び方が用いられることがある<ref>{{Cite web|和書|title = 【ローカルプレミアム】最後の将軍・慶喜が晩年こよなく愛した乗り物は? 籠、馬、船、それとも… 静岡市が復活プロジェクトを始動|url = https://www.sankei.com/article/20151016-2C62QI7TGRMMDCHZFRZFKRR2HY/|website = 産経ニュース|publisher = 産経ニュース|date = 2015-10-16|accessdate = 2022-6-10}}</ref>。
また、明治になって風月荘左衛門という京都府平民が編集・出版した[[節用集|節用辞書]]『永代日用新選明治節用無尽蔵{{refnest|group="注釈"|本文のものは明治16年([[1883年]])刊。「十五代 慶喜(ノリヨシという訓 ※筆写註) 水戸斉昭六男中納言 ●二年 ○四十才」という記述がある。[[徳川家慶|十二代将軍]]は「家慶(イヘノリ)」<ref>山田[1999],pp182-183)</ref>。}}』では、「'''のりよし'''」という訓みが記されている。
=== 幼年時代 ===
* [[武芸 (日本)|武芸]]や学問を学ぶことに関しては最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から[[手裏剣]]術に熱心で、手裏剣の達人だった。[[大政奉還]]後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちの中で最も有名な人物に数えられる。
* 寝相が悪く、躾に厳しかった父の斉昭が、寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てさせた。本人は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと察知していたが、寝心地は悪く、これを繰り返していくうちに寝相の悪さを克服できた<ref>渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416。田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉。『人物日本の歴史19』小学館、1974年、『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁</ref>。このことは、側近であった[[渋沢栄一]]の残す『昔夢会筆記』にも記述がある。[[1865年|慶応2年]]、29歳で将軍に就任したのちも、緊張感を保つためにこの習慣を続けていたという<ref name=":0">[http://blog.livedoor.jp/abacabu-abacabu/archives/37575484.html 【トリビアの泉】徳川慶喜は寝相を直すため 枕の両脇にカミソリを立てて寝ていた]</ref>。一方、成人してからは寝る際に暗殺対策として、妻妾2人と[[Y]]の字になるよう3人で同衾していた<ref group="注釈">部屋のどこから刺客が入ってきても誰かに当たり、刺客到来にいち早く気づけるため。</ref>という逸話も伝えられる。また、利き手である右腕を守れるよう、右肩を下にして寝ていたともいう<ref name=":0" />。
[[File:Yoshinobu Tokugawa 5.jpg|thumb|幼少の頃の徳川慶喜とされる写真]]
* 幼少の頃の慶喜とされる写真が存在するが、彼が幼少の頃の日本に写真機はまだなかったと考えられるため、本人のものであるかどうかは疑わしい。
=== 一橋家当主として ===
* 明治以降の慶喜はざっくばらんな性格で知られたが、[[江戸時代]]の頃から格式を軽んじることがある人物だったという。[[榎本武揚]]によれば当時将軍後見職だった慶喜に面会した際、それが最初の「御目通り」だったので「定めて式法など」が「厳格の事ならん」と思っていたところ、慶喜は一人で対応し「応接の平易にして言語の親しき」だったので、榎本は「ただただ喫驚の外はなかりき」という感想をもったという。さらにその後食事を共にした際も慶喜は自分で「酒瓶を執り、飯櫃を側に置いて、手づから飯を盛」ったため驚いたという。[[佐久間象山]]も慶喜と面会した際、慶喜が「もそと(もう少し)進み候へ、もそと進み候へ」と命じたために気が付けば象山は慶喜と3尺(1メートル弱)の距離まで近づいていたという。どれも厳格な身分制社会の江戸時代においては考えられないことだった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=47-48}}。
* 病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時は普通に会話したという。
* 文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、[[雄藩]]最高実力者の合議制であった[[参預会議]]の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の[[久邇宮朝彦親王|中川宮]]は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した慶喜は中川宮に対し、[[島津久光]]・[[松平春嶽]]・[[伊達宗城]]を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言を吐いた。この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが、結局体制は崩壊となった。
=== 将軍として ===
*[[徳川将軍一覧|歴代徳川将軍]]で唯一、将軍として[[江戸城]]に入らなかった人物である。すでに将軍ではなくなっていた鳥羽伏見の戦いの敗戦後に初めて江戸城に入り、その後の謹慎までの短い時間を慌ただしく過ごしただけである{{sfn|松浦玲|1997|p=196}}。
* 英邁さで知られ、実父斉昭の腹心・[[安島帯刀]]は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「[[徳川家康|権現様]]の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の[[木戸孝允|桂小五郎]]は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
* [[鳥羽・伏見の戦い]]後の「敵前逃亡」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマ『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』の放送などもあり、再評価する動きもある。
* [[慶応の改革]]の一環として建築された[[横須賀製鉄所]]は明治政府に引き継がれ、現在もその一部が[[在日米軍]]の[[横須賀海軍施設ドック]]として利用されている。また同時期に[[幕府陸軍]]の人員増強やフランス軍事顧問団の招聘が行われたことで、多くの幕臣が西洋式の軍事教育を受ける機会に恵まれた。その中から[[山岡鉄舟]]・[[大鳥圭介]]・[[津田真道]]など、のちに明治政府の官吏・軍人として活躍する人材が輩出されている。慶応の改革はその後の動乱の中で頓挫したものの日本の近代化に少なからず貢献した。
* [[坂本龍馬]]は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた、と指摘する研究者もいる<ref>松浦玲『坂本龍馬』</ref>。司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用された。これは[[坂崎紫瀾]]が著した容堂伝『鯨海酔候』や[[渋沢栄一]]らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されている。ただし、慶喜自身が龍馬の存在を知ったのは明治になってからと言われる。
=== 戊辰戦争 ===
* 鳥羽・伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来の金扇の[[馬印]]は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しかしこの時、江戸や[[武蔵国|武蔵]]での武装一揆に抗する必要があったことや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったという見方もある。
* 新政府から朝敵に指定されるとすぐさま寛永寺に謹慎したことなどから、天皇や朝廷を重んじていたと考えられる(尊王思想である水戸学や、母親が皇族出身であることなどが多分に影響していると思われる)。
=== 明治維新後 ===
[[ファイル:Tokugawa_Yoshinobu_Kyudo_with_Yumi.jpg|200px|thumb|弓を引く慶喜。[[弓術]]は凝った趣味の一つで、77歳の春まで毎日弓を引き続けていたという{{sfn|大久保利謙|1989|p=34}}。]]
[[ファイル:TokugawaYoshinobu20101003.jpg|200px|thumb|慶喜の墓]]
* 実業家の[[渋沢栄一]]は、一橋家の当主だった頃に家臣である[[平岡円四郎]]の推挙によって登用した家臣で、[[明治維新]]後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜の肉声を聞くことができる。「島津久光はあまり好きじゃなかった」「[[鍋島直正]]はずるい人だった」「長州は最初から敵対していたから許せるが、薩摩は裏切ってゆるせない」と本音を漏らすなど、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
* 明治31年(1898年)[[皇居]]に参内し、[[明治天皇]]に謁見した慶喜は「浮き世のことはしかたない」と言ったので、天皇は胸のつかえをおろした{{sfn|千田稔|2009|p=151}}。
* 幕末が遠い過去のことになり、客観的な評価が増えてきた明治20年代頃から慶喜の再評価論が高まった。慶喜が徹底して恭順、謹慎し、江戸無血開城などを断行したことで、幕府軍と政府軍の全面内戦は回避され、比較的円滑に政権を移譲することができた。だからこそ近代日本の独立性は保たれ、明治維新へ大いに貢献したと考えられたためである{{sfn|家近良樹|2005|p=183-184}}。
** 渋沢栄一、[[萩野由之]]は、慶喜の恭順により、京都や江戸が焦土となることを免れ、又フランスの援助を拒絶したため、外国が介入しなかったとし、明治維新最大の功績者の一人であったと述べた。特に渋沢は、安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度を高く評価している<ref>{{Cite web|和書|url= {{NDLDC|954890/274}}|author=渋沢栄一|title= 『至誠と努力』「故徳川慶喜公の大偉勲」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= {{NDLDC|933652/155}}|author=萩野由之|title= 『読史の趣味』「徳川慶喜公の偉大なる功績」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
** [[鳥谷部春汀]]は、第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人であると記している<ref>{{Cite web|和書|url= {{NDLDC|778041/88}}|title= 『春汀全集』・3巻収録「徳川慶喜公」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
** 勝海舟は、慶喜が皇居参内の翌日にわざわざ訪ねて礼を言ったため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼし、品位を保ち無闇に旧大名と行き来しないようという忠告には、その通りにしますと言われ、書も頼まれたため、うれし涙を飲み込み、さすが水戸家で養育された方だけあると感心した<ref>{{Cite web|和書|url= {{NDLDC|781218/132}}|author=楫東正彦|title= 『海舟言行録』「徳川慶喜公」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
** [[菊池謙二郎]]は『水戸学論藪』において「ああ他人をして慶喜公の地位に在らしめたらどうであったろう。(略)一意皇室を思い国家を憂えられた其の至誠は、何人が企及し得る所であろうか」と評価している<ref>{{Cite web|和書|url= {{NDLDC|1038543}}|title=水戸学論藪 |publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
*政治家では[[伊藤博文]]に共感を感じるところが多かったという。渋沢栄一によれば、有栖川宮邸での饗宴の席上で慶喜と話をした伊藤も慶喜のことを「悧巧な人物だ。大層感心した」と褒めていたという。明治42年(1909年)10月に伊藤が[[ハルビン駅]]で[[安重根]]に暗殺され、その遺体が11月1日に[[新橋駅]]へ戻ってきた際には出迎えに立っている。その翌日には「御棺拝」のために霊南坂の官邸に赴き、4日の葬儀にも出席している{{sfn|樋口雄彦|2012|p=187}}。
* 朝敵とされた自分を赦免した上、[[華族]]の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行うよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である[[増上寺]]でも[[寛永寺]]でもなく、[[谷中霊園]]に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである<ref name="shibusawa">{{Cite web|和書|url= {{NDLDC|1917763}}|author=渋沢栄一|title=『徳川慶喜公伝』1918年版|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
== 編諱を与えた人物 ==
* [[細川喜廷]]([[細川護久]])
* [[松平喜徳]](実弟)
== 逸話 ==
* 父・斉昭と同じく薩摩産の[[豚肉]]が好物で、'''豚一様'''(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれた(ただし、これは慶喜を嫌う者からの蔑称である。当時は世間的には肉食はかなりおかしな振る舞いだったが、そのおかげで[[脚気]]にならずにすんだともいえる)。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・油絵・手芸([[刺繍]])などの趣味に興じた。
* 将軍時代の慶応3年(1867年)3月から、[[西周 (啓蒙家)|西周]]に[[フランス語]]を習い、すぐに初歩は理解したが、多忙なため学習を断念した<ref name="shibusawa"/>。
* 攘夷論をめぐり、[[孝明天皇]]の側近である中川宮が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の時、茶碗5杯ほどの冷酒を飲み、帯刀して馬で中川宮邸に押し入り、「殺しに来た!」と詰め寄るもなだめられ、茶を勧められると「自分で買って飲む」と言った。
* 鳥羽・伏見の戦いにおいて軍艦開陽丸で江戸へ退却後、江戸城に入った慶喜は、[[ウナギ|鰻]]の[[蒲焼]]を取り寄せるように奥詰の者に命じ、2[[一分銀|分]]の金を渡したが、時期はずれで1[[両]]でなければ入手できず、自らの金を加えて買いもとめた。また慶喜から[[マグロ|鮪]]の刺身を食べたいとの指示があったが、食中毒をおそれて刺身を食膳にあげた例はなく、そのため刺身を味噌づけにして食膳にそなえた。
* 静岡に住んでいる時、家臣たちと一緒に愛用の自転車でサイクリングした(家臣たちは走っていた)。その自転車を購入した自転車店は、現在の静岡市[[葵区]]紺屋町にあり、近年まで営業していた。走る家臣のため、靴を買うようにと4人に3円ずつ支給した<ref name=":1">{{Cite book|title=慶喜邸を訪れた人々|date=2003年10月10日|year=|publisher=羽衣出版|author=前田匡一郎|page=120}}</ref>。四男の厚と五男の博にも自転車を買い与えており、操縦は彼らの方がうまかった<ref name=":1" />。美人に見惚れて電柱にぶつかったという話もある。
* 東京・墨田区の[[向島百花園]]には慶喜が書いた「[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]」の文字が彫られた石柱が保存されている。現行の橋への架替前まで使われていたものであり、現在の日本橋も橋柱銘板の揮毫は慶喜の書である。
[[File:Photograph of pet cat taken by Tokugawa Yoshinobu.jpg|thumb|愛猫を撮影した写真「静岡猫ハン」([[茨城県立歴史館]]蔵)<ref>[https://shizubi.jp/exhibition/101211_03.php 「家康と慶喜ー徳川家と静岡」展] - 静岡市美術館、2021年7月5日閲覧。</ref>。]]
* 趣味としての写真撮影を日常とし、写真家の[[徳田幸吉]]に技術を学んだがあまり上達しなかった<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 6 |publisher=講談社 }}</ref>。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかった。バラエティ番組『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]]』で取り上げられた際に、華族向け写真雑誌『[[華影 (雑誌)|華影]]』で入選第二等作品になった『無題』をプロ写真家である[[加納典明]]に、誰の写真か伏せた上で見せると「ダメです。牧歌的な風景を撮っているわけだけど、アートしてふあっと見てふっと感じるものがないね。写真という行為をただしたというだけみたいな感じだな。写真としてはダメ」と酷評されている<ref name="trivia" />。こうした趣味に没頭する生活の中で実弟・昭武との交流を深めていった。なお、曾孫の[[徳川慶朝]]はフリーのカメラマンであり、彼によって慶喜の撮影分も含めて別家に所蔵されていた写真類が発見され、整理と編集を行なった上で出版された。写真家の[[長野重一]]によれば腕前はセミプロ並みとの評価であるが、写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り、写真が芸術性を帯びてくるのは晩年からであり、単に日記代わりとして撮っていたと評価している。とはいえ、写真そのものがまだ一般的ではなかった時代に撮られた写真の数々は、当時の様子を伝える極めて貴重かつ重要な資料の一つとして再評価されている。明治28年([[1895年]])に[[静岡学問所]]の教授[[エドワード・ウォーレン・クラーク]]から慶喜邸の写真を撮らせてほしいと願われたが、これは断っている<ref>{{Cite book|title=慶喜邸を訪れた人々|date=2003年10月10日|year=|publisher=羽衣出版|author=前田匡一郎|page=240}}</ref>。
* [[油絵]]も嗜み、慶喜作とされる油彩画が10点弱確認されている<ref group="注釈">公的機関にある作品として、「蓮華之図」([[寛永寺]]蔵)、「西洋雪景図」(福井市郷土歴史資料館蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、「河畔風景」([[茨城県立歴史館]]蔵)、「西洋風景」「日本風景」(共に[[久能山東照宮]]蔵)、「[http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/exhibition/yukari_yusaiga.html 風景]」([[静岡県立美術館]]蔵)の他、個人蔵が数点ある。</ref>。最初は武家のならいで、[[狩野派]]の狩野探淵に絵を学んだ後、静岡では開成所で西洋画法を身につけた[[中島仰山]](鍬次郎)を召して油絵を学んだ。当時は元将軍であっても西洋画材は入手しづらく、時には似たもので代用したという。慶喜の絵は、複数の手本を寄せ集めて絵を構成しており、その結果[[遠近法]]や[[キアロスクーロ|陰影法]]が不揃いで、画面全体の統一を欠くことが多い。反面、樹の枝や草、岩肌、衣の襞など、細部描写は丁寧で、現代の目では不思議な印象を与える絵となっている。モチーフに川や山がよく登場することや、絵から絵を作る作画方法から、油絵という西洋の画法を使いつつも、作画姿勢は[[山水画]]を貴ぶ近世の[[文人]]の意識が強く残っているといえる。なお、慶喜の風景画のほとんどに決まって橋が描かれており、近世から近代への橋渡しをした慶喜と故ありげな符合である<ref>山梨絵美子 「徳川慶喜」([[辻惟雄]]編集 『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』 ぺりかん社、1992年12月、pp.131-161。 [[静岡市美術館]]ほか編集 『[[NHK静岡放送局]]開局80周年記念 静岡市美術館開館記念展:2 家康と慶喜 徳川家と静岡展』図録、2010年。</ref>。明治6年([[1873年]])にエドワード・ウォーレン・クラークから油絵をもらったときには、お返しに大火鉢を送っている<ref>{{Cite book|title=慶喜邸を訪れた人々|date=2003年10月10日|year=|publisher=羽衣出版|author=前田匡一郎|page=25}}</ref>。
* 趣味の一つである[[囲碁]]も相当の実力で、プロ棋士の[[福井正明]]は現代ならアマチュア4~5段はあると評している。当時、政界でトップクラスの打ち手であった[[大隈重信]]とも対局し、その強さ、気品、大局観で大隈を驚かせている<ref>{{Cite book|和書|author= 福井正明|title= 囲碁史探偵が行く|year=2008 |publisher= 日本棋院 |isbn= 978-4-8182-0600-7}}</ref>。
* [[北海道]]江差町の[[国道229号]]に、名前にちなんだ「慶喜トンネル」が存在する。
* 大正5年([[1916年]])に[[徳川慶久]]により『徳川慶喜公歌集』が編纂され、平成25年(2013年)に松戸市戸定歴史館から解題などを付けた復刻本が限定500部で刊行された<ref>{{Cite news|url=http://www.chibanippo.co.jp/news/local/169825|title=“最後の将軍”の159首復刻 「慶喜公歌集」を新装版に 1世紀経てネットで発掘 松戸・戸定歴史館|newspaper=千葉日報|date=2013-12-09|accessdate=2013-12-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150307202715/http://www.chibanippo.co.jp/news/local/169825|archivedate=2015年3月7日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
* [[関東大震災]]で多数の蔵書を焼失した[[東京大学|東京大学附属図書館]]のため、[[紀州徳川家]]の蔵書を基とした10万点に及ぶ『[[南葵文庫]]』が、当時の当主[[徳川頼倫]]により寄贈された。この時、一緒に慶喜筆の「南葵文庫」という額が送られ、現在も同館の1階に懸けられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/sogoto/contents/relic1.html |title=『歴史を物語るものたち(1階)』 |publisher=東京大学総合図書館 |archiveurl=https://archive.ph/93CeP |archivedate=2016-07-24 |accessdate=2021-03-13}}</ref>。
* 慶喜は[[大政奉還]]後に静岡(現在の[[静岡市]][[葵区]])へ移住した。最初は紺屋町(現在の[[浮月楼]])に住んでいたが、さらに西草深(後に[[葵ホテル]]となり、また[[旧エンバーソン邸]]・[[日本基督教団静岡教会|静岡教会]]・[[静岡英和女学院中学校・高等学校|静岡英和女学院]]等が建てられた場所)に転居している。この転居の理由は「[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]開通に伴う騒音」と言われている。
* 慶喜は西草深に新築される新居の完成が待ち遠しかったらしく、自ら自転車で頻繁に見に行っている<ref>{{Cite book|title=慶喜邸を訪れた人々|date=2003年10月10日|year=|publisher=羽衣出版|author=前田匡一郎|page=117}}</ref>。
== 評価 ==
*[[松平春嶽]] 「衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才略のあるを知りて、家定公の嗣とならん事を、ひそかに望めり」<ref>『逸事史補』</ref>
*[[西郷隆盛]] 「確かに人材ではあるが決断力を欠いていられるようである」<ref>『青淵回顧録』</ref>
*[[木戸孝允]] 「一橋の胆略、決して侮るべからず。もし今にして、朝政挽回の機を失ひ、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773218/95 『回天実記』第二集p184-185]</ref>
* [[伊藤博文]] 「実は君([[渋沢栄一]])から慶喜公の人となりを屡々聞かされたが、それほど偉い人とは思っていなかった。しかし昨夜の対談で全く感服してしまった。実に偉い人だ。あれ(大政奉還した理由について)が吾々あらば、自分というものを言い立てて、後からの理屈を色々つける所だが、慶喜公には微塵もそんな気色なく、如何にも素直にいわれたのには実に敬服した」<ref>『伊藤博文公』</ref>
*[[大隈重信]] 「公は人に接する温和にして襟度の英爽たる。老いてなお然り、以て壮年の時を想望すべし。その神姿儁厲にして眼光人を射、犯すべからさる容あり。静黙にして喜怒を濫りにせず、事情を述べ、事理を判するに当たりては、言語明晰にして、よく人を服せしむ。これを以て至険至難の際に立って、名望を集めて失わず、幕府の終局を完結して、維新の昌運を開かれたるは、決して偶然にあらず」<ref>『開国五十年史 上巻』</ref>
*[[渋沢栄一]] 「公は世間から徳川の家を潰しに入ったとか、命を惜しむとかさまざまに悪評を受けられたのを一切かえりみず、何の言い訳もされなかったばかりか、今日に至ってもこのことについては何もいわれません。これは実にその人格の高いところで、私の敬慕にたえないところです」<ref>『雨夜譚会談話筆記』</ref>
*[[アーネスト・サトウ]]「将軍は、私がこれまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀で、くっきりした鼻つき——の立派な紳士であった」<ref>アーネスト・サトウ著、坂田精一訳『一外国人の見た明治維新 上』岩波書店、1961年</ref>
== 家庭・親族 ==
* 正室:[[一条美賀子|一条美賀]](維新後に美賀子と改名、安政2年12月3日結婚、[[今出川公久]]女、[[一条忠香]]養女、天保6年7月19日 - 明治27年7月9日)慶喜は最初、一条忠香の娘[[一条輝子]]と婚約したが、輝子が[[天然痘]]となったため、急遽美賀子を[[一条家]]の養女にして嫁がせた<ref name=toshiko>『大名華族』蜂須賀壽子、三笠書房、1957年、p19</ref>。
** 女子:瓊光院殿池水影現大童女(安政5年7月16日 - 20日)この子を含め計4人の女児を儲けたが育たなかった<ref name=toshiko/>。
* 側室:[[一色須賀]](一色貞之助定住女、天保9年4月26日 - 昭和4年10月7日)正室美賀の元侍女
* 側室:[[新村信]](松平政隆女、新村猛雄養女、嘉永5年頃 - 明治38年2月8日)慶喜の側室は30人いたが、水戸から静岡に移る際に信と幸の二名に絞られた<ref>『大名華族』p24</ref>。
** 長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
** 長女:[[徳川鏡子|鏡子]](明治20年3月23日結婚、[[徳川達孝]]室、明治6年6月2日 - 明治26年9月29日)
** 三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、[[徳川達道]]([[一橋茂栄]]の子)室、明治8年10月27日 - 大正10年12月10日)
** 五男:[[池田仲博|博]]([[鳥取藩]][[池田氏|池田家]]第14代当主・池田仲博、侯爵・貴族院議員、[[大正天皇]][[侍従長]]、明治23年2月25日[[池田輝知]]養子、明治10年8月28日 - 昭和23年1月1日)
** 六男:斉(明治11年8月17日 - 11月28日)
** 六女:良子(明治13年8月24日 - 9月29日)
** 九女:[[博恭王妃経子|経子]](明治30年1月9日結婚、[[伏見宮博恭王]]妃、明治15年9月23日 - 昭和14年8月18日)
** 七男:[[徳川慶久|慶久]](公爵・貴族院議員、華族世襲財産審議会議長、明治17年9月2日 - 大正11年1月22日)
** 十一女:[[徳川英子|英子]](明治44年4月29日結婚、[[徳川圀順]]室、明治20年3月22日 - 大正13年7月5日)
** 十男:[[勝精|精]](伯爵、[[浅野セメント]]重役、明治32年1月20日[[勝海舟]][[婿養子]]、明治21年8月23日 - 昭和7年7月11日)
* 側室:[[中根幸]](中根芳三郎長女、嘉永4年頃 - 大正4年12月29日)
** 次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
** 三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
** 四男:[[徳川厚|厚]](男爵・貴族院議員、東明火災保険取締役、明治7年2月21日 - 昭和5年6月12日)
** 次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
** 四女:[[蜂須賀筆子|筆子]](明治28年12月26日結婚、[[蜂須賀正韶]]室、明治9年7月17日 - 明治40年11月30日)
** 五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
** 七女:浪子(明治28年12月7日結婚、[[松平斉]]([[松平斉民]]の九男)室、明治13年9月17日 - 昭和29年1月13日)
** 八女:国子(明治34年5月7日結婚、[[大河内輝耕]]([[大河内輝声]]の長男)室、明治15年1月23日 - 昭和17年9月11日)
** 十女:糸子(明治39年5月19日結婚、[[四条隆愛]]室、明治16年9月18日 - 昭和28年10月11日)
** 死産:男子(明治17年8月22日死産)
** 八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
** 九男:[[徳川誠|誠]](男爵・貴族院議員、明治20年10月31日 - 昭和43年11月11日)
** 死産:女子(明治24年6月2日死産)
* 外妾:[[お芳]]([[新門辰五郎]]女)
=== 血筋 ===
[[徳川秀忠]]と[[松平信康]]の女系子孫である。
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{{徳川慶喜の系譜}}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2016年12月|section=1}}
* [[渋沢栄一]]編 『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』、[[大久保利謙]]校訂、平凡社〈[[平凡社東洋文庫]]〉、1966年 ISBN 4-582-80076-9
* 渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』 [[平凡社]]東洋文庫 全4巻、1976-78年
**『徳川慶喜公伝 史料篇』、日本史籍協会編、[[東京大学出版会]]、新装版1997年、なお初版は1918年刊で全8巻
* 徳川慶喜写真 『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』 徳川慶朝監修、[[朝日新聞社]]、1986年 ISBN 4-02-255559-9
* [[徳川慶朝]] 『徳川慶喜家の食卓』 文藝春秋〈文春文庫〉、2008年
** 『徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』 文藝春秋〈文春文庫〉、2003年
** 『徳川慶喜家カメラマン二代目』 角川oneテーマ新書、2007年
* {{cite book|和書|author=松浦玲|title=徳川慶喜 将軍家の明治維新 増補版 |publisher=中央公論社|series=中公新書397|isbn=4-12-190397-8|year=1997|ref=harv}}
* [[家近良樹]] 『徳川慶喜』 [[吉川弘文館]]〈幕末維新の個性1〉、2004年 ISBN 4-642-06281-5
* 家近良樹 『徳川慶喜』 吉川弘文館〈[[人物叢書]]〉、2014年 ISBN 4642052704
*{{cite book|和書|author=家近良樹|title= その後の慶喜 大正まで生きた将軍|series=講談社選書メチエ320|publisher= 講談社 |isbn= 978-4062583206|year=2005|ref=harv}}
** 『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』 筑摩書房〈[[ちくま文庫]]〉、2017年 ISBN 978-4-480-43422-7
* {{Cite book |和書 |author=奈良勝司 |year=2010 |title=明治維新と世界認識体系 |publisher=有志舎|isbn=978-4-903426-35-8 |ref={{SfnRef|奈良}}|date=}}
* [[星亮一]]、遠藤由紀子 『最後の将軍徳川慶喜の無念 大統領になろうとした男の誤算』 [[光人社]]、2007年
*『徳川慶喜のすべて』 [[小西四郎]]編、[[新人物往来社]]、1984年、新装版1997年
* 久住真也 『幕末の将軍』 [[講談社]]選書メチエ、2009年-幕末歴代将軍4人を扱う。
* [[田中惣五郎]] 『最後の将軍徳川慶喜』 中央公論社〈[[中公文庫]]〉、1997年、初版1939年
* [[岩下哲典]]編 『徳川慶喜 その人と時代』 [[岩田書院]]、1999年
* 前田匡一郎『慶喜邸を訪れた人々』羽衣出版、2003年10月10日
* 前林考一郎『徳川慶喜静岡の30年』静岡新聞社、1997年12月20日
*{{cite book|和書|author=樋口雄彦|title= 第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本 |publisher= 祥伝社 |isbn= 978-4396112967|year=2012|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=朝尾直弘他|authorlink=朝尾直弘|title= 岩波講座 日本通史 近代 1 |publisher= [[岩波書店]]|isbn= 978-4000105668|year=1994|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=千田稔|authorlink=千田稔 (経済史学者)|title= 華族総覧 |publisher= [[講談社]]([[講談社現代新書]])|isbn= 978-4-06-288001-5|year=2009|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1989年(平成元年)|title=日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム〈第3巻〉|author=大久保利謙|authorlink=大久保利謙|publisher=[[毎日新聞社]]|isbn=978-4620603131|ref=harv}}
*『[[官報]]』
* 東京大学史料編纂所所蔵『一条家譜』
== 関連作品 ==
=== 現代の小説・ドラマなど ===
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=== VHS ===
* 『徳川慶喜〜最後の将軍が残した写真〜』{{ASIN|B00005GDKA}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tokugawa_Yoshinobu}}
{{Wikisource|德川慶喜征討ノ大號令ヲ發シ諸侯ヲシテ去就ヲ決セシム|徳川慶喜征討令}}
{{Wikisource|德川慶喜松平容保以下ヲ寬宥ニ處スルノ詔書|徳川慶喜松平容保以下ヲ寛有ニ処スルノ詔書}}
* [[浮月楼]]
* [[葵ホテル]]
* [[旧エンバーソン邸]]
* [[日本基督教団静岡教会|静岡教会]]
* [[静岡英和女学院中学校・高等学校|静岡英和女学院]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* [https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_20.html 徳川 慶喜] - 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典([[国立国会図書館]] [[国際子ども図書館]])
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/147 近代日本人の肖像|徳川慶喜] - 国立国会図書館
* [https://www.ndl.go.jp/jikihitsu/part1/s1_3.html あの人の直筆|第1部 近世|第1章 為政者とその周辺|3. 慶喜と斉昭] - 電子展示会(国立国会図書館)
* [https://web.archive.org/web/20000706204608/http://www.wnn.or.jp/wnn-tokyo/tokusyu/9712/yosinobu/index.html 最後の将軍『徳川慶喜』] {{リンク切れ|date=2023年8月}}?
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F.COMPO
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『F.COMPO』(ファミリー・コンポ、FAMILY COMPO)は、北条司による日本の漫画作品。
『MANGAオールマン』(集英社)誌上において1996年10号から2000年23号にかけて連載。単行本はSCオールマンレーベルより全14巻。2002年2月からはBUNCH WORLDレーベルのコンビニコミックとして順次発売された。また、2011年7月よりゼノンコミックスDXより新装丁で再刊行されている。
『RASH!!』の次作で作者にとって5作目となる連載作品であり、初となる青年誌定期連載作品(不定期での連載は本作以前に『SPLASH!』がある)。また、集英社における最後の作品でもある。タイトルは、「ファミリーコンプレックス」の略語であり、『家族愛』と『コンプレックス』は作品テーマにもなっている。
家庭愛に飢えている青年、そして彼を引き取った性別逆転夫婦家庭の1997年3月19日から1999年7月27日までを描いたホームコメディであり、作者の大きなテーマとなっている「家族愛」を、異性装や性同一性障害といった幅広いトランスジェンダー要素で演出して描いた作品となっている。ただしコメディとして描かれている為、こうした演出部分には「男性同性愛者が必ず女装する」といった性同一性障害・同性愛・異性装などの本来独立している要素を混同したステレオタイプな「オカマ」としての描写が多い。なお、今日ではオカマという言葉は差別的と捉えられる事もあるが、本稿では作品に合わせ、こうした女性の様に振る舞う男性の呼称としてオカマを用いる。
古巣である『週刊少年ジャンプ』(集英社)において連載するつもりで企画された作品であったが、「同性愛等の描写が少年誌にはふさわしくない」として編集会議を通らず、表現に対する規制の緩い青年誌に場を移して連載される事となった。ただし、青年誌と言えども差別的な表現は厳しく制限されており、物語の核心である「周囲から見れば異端であっても周囲以上に暖かい交流がある」事の描写に不便を感じていた事を作者は後に語っている。
本作は、北条がコアミックスの立ち上げ及び『週刊コミックバンチ』創刊準備のために多忙となった事から物語を急速に収束させ連載が終了された。こうした背景事情は後になって明らかとなった事であるため、突如の連載終了は読者に驚きを与え、連載終了後に「中途半端」や「主人公の卒業まで続けるべき」といった意見が寄せられる事となった。
父の事故死によって天涯孤独の身となった18歳の大学生柳葉 雅彦は、亡母の弟夫婦でありながら『とある事情』により絶縁状態にあった、若苗家に引き取られる事となる。その絶縁となっていた理由は、若苗家が『男女逆転夫婦』であることだった。
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名前の後ろの記号は生物学的な性別を記号で表し、その性別と反対の性として振る舞っている場合にはさらに★を付けた。また、別性としての振る舞いのない同性愛者(含:両性愛者)には☆を付けている。年齢は初登場時の物。なお、主な登場人物の中で性別適合手術を行なっているのは横田進のみで、他の人物は完全に逆の性として振る舞っていても手術は行なっていない(異性装で済ませている)。
主人公の雅彦が居候している叔父夫婦の家。この若苗家の場所が東京都豊島区の雑司が谷(実在しない4丁目)に設定されており、高級住宅地に分類される。作中の背景描写としては、近くを走る都電荒川線が頻出しており、目白駅にも自転車で行ける距離とされている。
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『F.COMPO』は、北条司による日本の漫画作品。
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『'''F.COMPO'''』(ファミリー・コンポ、FAMILY COMPO)は、[[北条司]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。
== 概要 ==
『[[MANGAオールマン]]』([[集英社]])誌上において[[1996年]]10号から[[2000年]]23号にかけて連載。単行本は[[MANGAオールマン#SCオールマン|SCオールマン]]レーベルより全14巻。2002年2月からは[[コアミックス|BUNCH WORLD]]レーベルの[[コンビニコミック]]として順次発売された。また、2011年7月より[[月刊コミックゼノン|ゼノンコミックスDX]]より新装丁で再刊行されている。
『[[RASH!!]]』の次作で作者にとって5作目となる連載作品であり、初となる青年誌定期連載作品(不定期での連載は本作以前に『SPLASH!』がある)。また、集英社における最後の作品でもある。タイトルは、「ファミリー[[コンプレックス]]」の略語であり、『家族愛』と『コンプレックス』は作品テーマにもなっている。
家庭愛に飢えている青年、そして彼を引き取った性別逆転夫婦家庭の[[1997年]][[3月19日]]から[[1999年]][[7月27日]]までを描いたホームコメディであり、作者の大きなテーマとなっている「家族愛」を、[[異性装]]や[[性同一性障害]]といった幅広い[[トランスジェンダー]]要素で演出して描いた作品となっている。ただしコメディとして描かれている為、こうした演出部分には「男性[[同性愛|同性愛者]]が必ず[[女装]]する」といった性同一性障害・同性愛・異性装などの本来独立している要素を混同した[[ステレオタイプ]]な「[[おかま|オカマ]]」としての描写が多い。なお、今日ではオカマという言葉は差別的と捉えられる事もあるが、本稿では作品に合わせ、こうした女性の様に振る舞う男性の呼称としてオカマを用いる。
古巣である『[[週刊少年ジャンプ]]』(集英社)において連載するつもりで企画された作品であったが、「同性愛等の描写が少年誌にはふさわしくない」として編集会議を通らず、表現に対する規制の緩い青年誌に場を移して連載される事となった。ただし、青年誌と言えども[[差別]]的な表現は厳しく制限されており、物語の核心である「周囲から見れば異端であっても周囲以上に暖かい交流がある」事の描写に不便を感じていた事を作者は後に語っている<ref name="hti20">「HOJO TSUKASA interview」『北条司 漫画家20周年記念 イラストレーションズ』集英社、2000年12月25日、ISBN 4-08-782598-1、105 - 107頁</ref>。
本作は、北条が[[コアミックス]]の立ち上げ及び『[[週刊コミックバンチ]]』創刊準備のために多忙となった事から物語を急速に収束させ連載が終了された。こうした背景事情は後になって明らかとなった事であるため、突如の連載終了は読者に驚きを与え、連載終了後に「中途半端」や「主人公の卒業まで続けるべき」といった意見が寄せられる事となった<ref>『F.COMPO』14巻、表紙そで</ref><ref name="hti20" />。
== あらすじ ==
父の事故死によって天涯孤独の身となった18歳の大学生'''柳葉 雅彦'''は、亡母の弟夫婦でありながら『とある事情』により絶縁状態にあった、若苗家に引き取られる事となる。その絶縁となっていた理由は、若苗家が『男女逆転夫婦』であることだった。
若苗家の夫の'''若苗 空'''は誰よりも男らしくカッコいいのだが「女性」であり、妻の'''若苗 紫'''は誰よりも女らしくて美しいのだが「男性」なのだ。そして、二人の娘である'''若苗 紫苑'''は女子高に通う16歳なのだが、本来の性別が判別不能なため、従姉妹である彼女の扱いに雅彦は悩まされる。
一家の大黒柱・空は「春風空」のペンネームで活動している人気漫画家。空のアシスタントの'''和子・浩美・真琴・横田'''たちは全員が[[オカマ]]である。空のアシスタントに来た者は、毎週脱稿した後に行われる打ち上げで繰り広げられる[[裸踊り]]に耐えきれずに逃げ出すか、染まってオカマになるかの二択であるという。雅彦は異端な一家に翻弄されながらも、どんな家庭よりもあたたかい家族の日常に溶け込んでいく。
<!--
大学で映画研究会に入った雅彦は、部の自主制作映画に女装をして、''主演女優''として出演することになった。渋々ながらも化粧した自分の姿が思いがけず美女に仕上がったため「(紫のように)自分にも男女逆転の血が流れているのでは」と青ざめる。ゲリラ撮影を強行していた際に因縁をつけてきたヤクザたちを諫めたのは、彼らの兄貴分である'''辰巳'''。辰巳は女装した雅彦を気に入ってしまう。また、映研の看板男優である'''江島 卓也'''とキスすることになったり、高校からの同級生でガールフレンドの'''浅岡 葉子'''に女装癖を心配されたりと、さまざまな騒動に巻き込まれていく。-->
== 登場人物 ==
名前の後ろの記号は生物学的な性別を記号で表し、その性別と反対の性として振る舞っている場合にはさらに★を付けた。また、別性としての振る舞いのない同性愛者(含:両性愛者)には☆を付けている。年齢は初登場時の物。なお、主な登場人物の中で[[性別適合手術]]を行なっているのは横田進のみで、他の人物は完全に逆の性として振る舞っていても手術は行なっていない([[異性装]]で済ませている)。
=== 若苗家 ===
主人公の雅彦が居候している叔父夫婦の家。この若苗家の場所が[[東京都]][[豊島区]]の[[雑司が谷]](実在しない4丁目)に設定されており、高級住宅地に分類される。作中の背景描写としては、近くを走る[[都電荒川線]]が頻出しており、[[目白駅]]にも自転車で行ける距離とされている。
; 柳葉 雅彦(やなぎば まさひこ、女装時:雅美(まさみ))/ ギバ(ちゃん)♂
: [[1978年]][[10月21日]]生まれ。本作品の主人公。愛称はギバ(ちゃん)。初登場時は高校卒業直後で18歳で、4話より武蔵野産業大学に通う大学生となる。大学では[[映画]]研究会(映研)に所属する。
: 小学校2年生の時に母を病気で亡くし、父とふたり暮らしをしていた。しかし父は仕事で留守がちであったため、[[カギっ子]]であった。長年孤独な少年時代を過ごしており、一家団欒というものに強い憧れや執着を持っている(作中では「ファミリー[[コンプレックス]]」と表現)。高校3年生の時に父が事故に遭い他界。天涯孤独となり大学進学を諦めかけていた時に、故あって絶縁していた母の弟・紫が突然現れ、若苗家に身を寄せて生活することを提案する。
: 非常に真面目で誰に対しても優しいが、優柔不断な面があり周りに流されることが多い。女性の気持ちに鈍感。
: 映研の女優不足解消の為に[[女装]]をして映画に主演させられる。誰が見ても女性にしか見えない程に女装が似合っており、映画を鑑賞した観客を虜にした。謎の美女として校内の噂になるも、雅彦と同一人物と気づかれていない。女装している時は「'''雅美(まさみ)'''」と名乗っている。
: 身長168.5cm、体重48.2kgと北条作品にレギュラーで登場する男性としては小柄な部類に入る<ref>『[[キャッツ・アイ|キャッツ♡アイ]]』の内海俊夫は、具体的な身長は不明だが、女性としては長身の来生泪がハイヒールを履いても同じ身長にならないことから、身長180cm台半ば以上と推測される。『[[シティーハンター]]』の[[冴羽獠]]は身長186cm、体重72kgで比較的大柄な体型である。</ref>。
; 若苗 紫苑(わかなえ しおん)/ 塩谷(しおや)性別不明
: [[1981年]]3月19日生まれ。本作品のヒロイン(?)。若苗夫妻の実子、一人っ子。雅彦の[[いとこ|従妹]]である。初登場時は16歳で名門の私立女子高に通う[[高校生]]。のちに雅彦と同じ大学に入学し、同じく映研に所属する。
: 作中ではほぼ女性として行動しており、また女性である事を示唆する描写も多いがいずれも断定を避けており、実際の生物学的な性は不明。逆転夫婦を見て育ったために、幼少時には性別とは自分で選択する物だと思っており、小学5年生まではその時なりたい方の性を選んで行動していた。中学生の時に女性の方が得が多いと思い、高校卒業時までの6年を女性の容姿・振る舞いをして過ごした。大学入学以降は、学生生活は男、私生活は女と使い分けた生活をしている。なお、男である時も基本的には本名を名乗っているが、葉子に対してだけは塩屋という偽名を使っている(雅彦が名前を「しお」まで呼んでしまったのをごまかすため)。男の恰好をするときも、男装するのではなく「男になる」のだと述べており、実際に男そのものになりきっていて、心の中で述べる台詞までも男らしいものとなっている。
: しっかり者で要領がよく、雅彦や薫をいつも手玉に取っている。しかし、酒に酔ってしまったらその間のことは覚えていないらしい(本人が雅彦にそう述べただけなので厳密には真偽不明)。雅彦とは実は小学校のときに何度か出会っていた。
: 中学1年生の時に空の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]としてやってきた男性に女としては初めての恋心を抱くも、彼が職場の環境にそまって[[同性愛|ゲイ]]となった事から男性不信となっている(この初恋の相手は浩美)。なお、男としての女性への初恋は小3時に浅葱藍に対して体験している。
; 若苗 空(わかなえ そら、旧姓:菊池(きくち)、本名:春香(はるか)) / 春風 空(はるかぜ そら)♀★
: 紫苑の'''父親'''で初登場時36歳。「春風空」のペンネームで執筆している人気[[漫画家]]で、自宅の2階に仕事場を構えている。代表作は「俺たちの紋章」で、アニメ・映画化もされている。眉目秀麗でスポーツ万能、[[剣道]]の有段者。
: 生物学的には女性であるが、身長もあり体格も良いため、一見しただけでは女性と悟られることはない(裸を見せる・[[乳房|胸]]を触らせる等の行動を取らない限り)。女性の衣服を身につけると逆に女装をしている男性に見えてしまう。幼いころから男性の心を持ち、思春期で女性らしく丸みを帯びてくる自分の体に違和感と嫌悪感を抱いていた[[性同一性障害]]者。本物の男よりも男らしく振る舞い、[[ヤクザ]]である辰巳からも一目おかれている。自身が女性であると事実を嫌うが、毎月訪れる[[月経|生理]]だけは抗えない。自分で[[ナプキン (生理用)|生理用品ナプキン]]を買いに行くことも屈辱的なので、いつも紫苑がストックしているものを無断で拝借しては怒られている。なお、[[月経困難症]]である。
: 女として[[性行為|性交]]する事は耐えられない行動であり、紫とは[[セックスレス]]である。ただし子どもを切望する紫のため、19歳で婚姻届を提出したその日に「一度だけのチャンス」として体を開き、紫苑を[[妊娠]]・[[出産]]する。このため、紫苑は実子である。
: [[高知県]]の田舎出身。在籍していた高校で教師を務める堅物の父親は、娘が自覚して選択した性別を認めることが出来ないと猛反対されて対立。どんなに話しても平行線のままで埒が明かないと判断し、高校卒業を待たずに[[家出]]をして上京。以後、妹・順子の結婚までの18年、実家とは絶縁状態にあった。
; 若苗 紫(わかなえ ゆかり、本名:龍彦(たつひこ))♂★
: [[1961年]][[2月]]生まれ。紫苑の'''母親'''で初登場時36歳。血縁上、雅彦の[[おじ|叔父]](雅彦の母親の弟)にあたる。[[専業主婦]]。
: 空とは逆に生物学的には男性である。妖艶な美人。裸を見せない限りは男性であると気付かれることはなく、男性の格好をすると逆に女性の[[男装]]の様に見えてしまう。幼いころから女性の心を持ち、高校進学を機に女性としての生活をはじめ、姉の協力を得て女子校(紫苑と同じ学校)に通っていた。姉の[[結婚]]の際に破談となる事を恐れた両親により勘当され、また姉に近づくことも禁止され絶縁状態となる。なお、両親は既に他界している。
: もとより幸せな[[家庭]]を築くという女としての幸せを望んでいたが、姉の雅彦出産後の家族写真を見た事によって子どもを切望する様になり、その思いを空が汲んだために紫苑が誕生する事となった。
: 運転免許は保持しているが[[ペーパードライバー]]である。また、相当の運転音痴で右折が出来ない。
: 名前は[[紫|紫色]]の別名「縁の色」からで、本来紫に「ゆかり」という読みは無い。「紫のゆかり」に「ある関係から情愛が他に及ぶ」という意味がある事、また紫が「ゲイの色」とされる場合がある事に由来する。
=== 浅岡家 ===
; 浅岡 葉子(あさおか ようこ)/ ハコ ♀
: 雅彦の高校の同級生で都心にある神宮芸術大学に在学し、都心で一人暮らしをしている。愛称は「ハコ」。
: [[漫画家]]を目指しており、かねてよりファンであった空の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]になろうとやって来た若苗家で、偶然雅彦と再会。アシスタントになるため雅彦を利用しようとしていたが、傷付いた時に触れた彼の優しさに惹かれ、やがて雅彦と付き合うこととなる。なお、これ以降不定期に空のアシスタントも行なう様になる。積極的な性格から、奥手の雅彦の態度にやきもきすることもしばしば。雅彦の女装には良い印象を抱いていない。不運が重なって、女装した雅彦が自分をさしおいて男と密着しているシーンにたびたび出くわしているため、雅彦が自分を捨てて本当にそちらの道に走ってしまっているのではないかと思い悩む。
: [[新宿]]から電車で1時間半かかる[[奥多摩]]にある[[旅館]]の一人娘で、都心の芸大への進学には母親との対立も要因となっている。そして、このことがきっかけで、後に雅彦との関係に影を落とすこととなる。
; 葉子の母 ♀
: 夫の死後、[[お上|女将]]として旅館せせらぎを切り盛りする。葉子が[[家業]]を継ぐ事を強く望んでおり、漫画家を目指す葉子との間で喧嘩が耐えない。
=== 辰巳の関係者 ===
; 辰巳(たつみ)♂☆
: 右眉に大きな切り傷のあるヤクザで青丹興行の社長。[[両性愛|両性愛者]]。空の漫画のファン。
: 映画撮影中の女装した雅彦に出会い、一目惚れしてしまう。一度は雅彦のことを諦めるものの未練を断ち切れきれず、雅彦の心までをも完全な女性にしてしまおうと奔走する。
: かつての恋人・早紀を妊娠発覚後に自分が若造である事を理由に捨てている。しかし早紀に対する愛情はその後も持ち続けており、自分が父親でない事を知りながらも「早紀の子供である薫は自分の子供である」として、地位を得た後は養育費を払い続け、会ってもいた。
: 母の元を離れ自分を頼って来た薫に対しては父親として接しようとするも、どうしていいのか分からずに、非常識な甘やかし方をしてしまう。
; 真朱 薫(まそほ かおる)♀★
: 初登場時には私立北城高等学校に通う17歳の高校生で紫苑の1つ年下。かつて辰巳の恋人だった早紀の娘。辰巳の子供という事になってはいるが、薫を身ごもった頃の早紀には多くの愛人がいたために実の父親は不明となっている。
: 生物学的には女性だが常に男の様に振る舞っている。これは男をとっかえひっかえ金づるにする母親の様になりたくないという反発心からであり、高校入学の時期に母の元を離れて辰巳を頼った頃から始めた物である(中学時代までは普通に女の子として生活していた)。飲酒・喫煙・無免許運転等粗野な言動が目立ち男っぽく振舞ってはいるものの、若苗夫婦や空のアシスタントには初見で性別を見破られており、また雅彦に彼女がいる事を知って[[嫉妬|ジェラシー]]を見せる等、女を捨てきれていないところがある。[[一人親家庭|母子家庭]]で育ち、さらにその母親が家を空ける事が多かったため家族愛に飢えており、構って欲しいが為に悪さを取ってしまう。
: 辰巳が惚れたという雅美の噂を聞いたことから、マサヒコの名を騙り女を騙す謎の男として登場した。雅彦のアドバイスによって一転して厳しい態度を取った辰巳の元を離れ、空の提案もあって若苗家に居候する事となる。
; 真朱 早紀(まそほ さき)♀
: かつての辰巳の恋人で、薫の母親。薫を身ごもった頃の早紀には多くの愛人がいたために薫の実父は不明となっている。[[ホステス]]等をしながら男を誘惑してはパトロンとする生活を送って来ており、[[詐欺|詐欺師]]を自称し他人を騙す為の演技も上手い。
; 葵(あおい)♂★
: 辰巳の事務所の系列ゲイバー「ひみつの花園」で働く[[ニューハーフ]]。辰巳に惚れているため、辰巳の策略でゲイバーで働く事となった雅彦を追い出そうとしたり、弁当を作ったりしている。
=== アシスタント等 ===
4人の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]全員がオカマ。
; 新潟 和子(にいがた かずこ、本名:和人(かずと))♂★
: チーフアシスタント。女装は仕事場だけであり、普段は普通の格好で妻子もいる[[両性愛|両性愛者]]。元は[[柔道]]の有名選手であった。
: 幼少より柔道を始め、高校に入った頃、得意の[[固技]]の最中に自分の[[性的嗜好]]に気付き、その後密かに女装も始める。大学在籍中に[[夏季オリンピック|オリンピック]]出場をかけた試合の相手が好みであったため、[[寝技]]の最中に思わず[[接吻|キス]]をしてしまい、選手生命を絶たれ、大学も退学した。この大学在籍時の女性[[マネージャー]]が密かに和人に思いを寄せており、更生させようとしてくれた事から交際が始まり、結婚に至る。その後普通の男として生活するも、徐々に苦痛となっていたところに空のアシスタントの話が舞い込み、職場での女装がある事によって家庭の崩壊を免れている。
: 息子の名は一馬(かずま)。
; 中村 浩美(なかむらひろみ、本名:光浩(みつひろ))♂★
: 外見上は美人なお姉さん(但し他のアシスタントといる時はオカマと呼ばれることもあり、起きた直後は[[髭]]も濃い)。アシスタントを始めた当時([[1993年]]夏時点)は普通の男性であり、紫苑の初恋の相手であったが、アシスタントを続けるうちに、朱に交わり自身もオカマとなった(1993年[[12月24日]])。アシスタントの他にキャバクラで[[ホステス]]としてのバイトもしている。
; 山崎 真琴(やまざき まこと)♂★
: 外見上は女性にしか見えない。眼鏡をかけており、[[ギャル語]]を使用する。
; 横田 進(よこたすすむ)♂★
: 初登場時20歳。「見るからに[[おかま|オカマ]]」という外見をしている。最初期には[[性別適合手術]]の為に休職して渡米しており、他のアシスタント達よりもやや遅れて登場する。主な登場人物の中では唯一、性別適合手術および[[豊胸手術]]を受けている。
: 雅彦と葉子の高校の[[先輩]]で、葉子と同じく美術部に所属していた。高校在学中は硬派で男らしい雅彦の憧れの先輩であったが、空のアシスタントになり、裸踊りの洗礼を受けて、オカマへの道を進む事となる。父親は[[タクシー]]の[[運転手]]。
; 森さん (もりさん) ♀
: 空の[[編集者|担当編集]]を務める女性。空の事務所では鬼の編集として恐れられている。
=== 映画研究会関係者 ===
; 江島 卓也(えじま たくや)♂
: 雅彦の大学の同級生、映画研究会では[[俳優]]担当。雅彦とはよく気が合うようで、雅彦の恋愛相談に乗ったり、共にバイトをしたりと行動を共にすることが多い。3年になってからはメンバーがほとんど残っていない事もあり部長となる。自称「[[ナンパ]]の達人」の女好きで、やや自信過剰な面がある。
; 監督 (かんとく) ♂
: 名前は不明。雅彦の2学年上で映研作品の[[映画監督|監督]]を務める。普段の呼び名も監督。いつも[[サンバイザー]]と[[サングラス]]を身につけ、「LEE」の服を着ている。事ある毎に雅彦を女装させ、それによって撮影資金を獲得しようとする。卒業出来ずに留年している。
; カメさん ♂
: 映研の[[撮影技師|カメラマン]]で、監督と同学年。いつも[[バンダナ]]を巻き、小型の[[ビデオカメラ]]を回している。監督と共にマサヒコの女装による金稼ぎを企み、また監督と同じく卒業出来ずに留年する。
; 藤崎 茜(ふじさき あかね)♀☆
: 雅彦の一学年下の[[後輩]]。レズビアンで雅美に惚れ、雅彦と雅美が同一人物だと見抜くが、雅美が本来の姿であると思い込み、普段の雅彦にも積極的に迫る。
; 仁科 耕平(にしな こうへい)♂☆
: 雅彦の同級生。女性に不自由しないながらもどんな女性と付き合ってもどこか冷めている自分を感じている中、学園祭で映画「青春ラブロード」に主演していた雅美に一目惚れをする。さらに雅美の正体が男の雅彦である事を知って以降もその恋心が消えずむしろ燃え上がっている事に悩む事となり、男に告白するわけにもいかない為に雅彦に近しい人間への[[ストーカー]]行為や、映研からのビデオの盗難などへと走る事となった。ストーカー犯として雅彦たちに捕まった後、浩美たちの紹介によってゲイバーでの[[アルバイト]]始める。その後も 雅彦への気持ちは変わらず、少しでも一緒にいる為にと映研にも入部する。
; 浅葱 藍(あさぎ あい)♀
: 武蔵野産業大学で再会した、紫苑の小学3年生の時の同級生。その美貌から[[入学式]]にだけ現れた「幻の君」の正体ではないかと噂されていた(本物の「幻の君」は女として入学式に参加した紫苑)。[[演劇]]部の所属ではあるが紫苑に近づく為に、江島の提案した演劇部と映研の提携を受け入れ映研の作品に出演する。小学生の頃は紫苑の事をタンシオ、紫苑からはネギボーズと呼び合い顔を合わす度に喧嘩をしていたが、それは恥ずかしさから来る物であり、互いに初恋の相手であった(紫苑にとっては男としての初恋の相手)。大学での再会後は男としての紫苑に告白し迫っている。
=== 高知の人物 ===
; おじいちゃん ♂
: 姓は菊池で名は不明。空の実父で高校の[[教員]]を定年退職している。何かと怒っては怒鳴りつける事が多い。[[家制度|家]]にこだわるといったような古い田舎の頑固オヤジで、男として振る舞う空を恥と呼んで認めておらず、空が家出する直接の原因を作った。順子の結婚を盾に雅彦に[[養子縁組]]を迫る等、周りの事を考えない行動も多い。
; おばあちゃん ♀
: 名前は不明。夫とは対照的に非常におおらかでゆったりとした人物。空の事を息子として思う等順応性が高い。
; 菊池 順子(きくち よりこ)♀
: 高知の実家で暮らす、空の妹で初登場時29歳。順子が11歳の時に空が家出をして以来、18年間交流がなかったが、自身の結納には姉にも立ち会ってもらいと考え、説得の為に若苗家を訪れる。
: 空の家出後、姉の代わりにと兄として接してくれる憲司を順子も兄の様に慕っていたが、憲司の結婚を聞いて恋心である事に気付く。憲司の妻が亡くなった後も2人の関係は変わる事はなく、憲司への思いを断ち切る為に見合いでの結婚を進める。その後、空の活躍(?)によって見合いは破談、互いの気持ちを打ち明け憲司と結婚する事となる。
: 最終話(1999年7月27日)にて憲治との間に女児が誕生。
; 奥村 憲治(おくむら けんじ)♂
: 空の高校までの同級生であり、親友。そのため空の事を本名から「ハル」と呼ぶ。現在は[[家業]]を継いで[[酒屋]]を営む。空の家出後、妹のように順子を可愛がり、そのうちに恋心も抱くが、現状の関係を壊す事を恐れ、何かと自分に理由付けしては兄と妹の関係を維持して来た。しかし、空や章子のおかげで自分の気持ちに正面から向き合い、ついに気持ちを打ち明け順子と結婚する事となる。
; 奥村 章子(おくむら しょうこ)♀
: 小学生で憲治と亡くなった前妻との間の娘。父と順子の気持ちに気付き、順子の結婚が迫っても行動しようとしない父を叱りつける。
== サブタイトル一覧 ==
本作では第1話、第2話…ではなく、1st.day、2nd.day…と表記される。
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
#「家族」初体験
#裸天(ラテン)な夜に
#温かいご飯
#入学式の条件
#キャッチボールの思い出
#遠くで見ていた初恋
#一肌 脱ぎます。
#母の思いで
#家族旅行!!
#おしかけアシスタント
#憧れの人
#紫苑、援助交際!?
#スクリーンに映るもの
#思い出の同窓会
#女優誕生!?
#女装テスト
#追い討ち
#意外な協力者
#辰巳、純愛す…!?
#18年ぶりの妹
#父と娘!
#順子の結納
#回り道
#親父 倒れる!?
#どっちが幽霊!?
#二人の観客
#雅彦を奪還せよ!
#19歳の誕生日
#女装コンテスト
#死のドライブ
#婦人科はお好き!?
#それぞれのイブ
#紫苑の初恋
#葉子の求愛!!
#母の墓参り
#雅彦の独立作戦
#危ないバイト
#葵の純情
#ファミリー・若苗
#憧れのウェディングドレス
#コレズ・茜
#秘密の上京
#養子に行きます
#結婚式の秘策
#鍾乳洞は危険な香り
#悪夢の露天風呂
#二人のマサヒコ
#マサヒコの正体
#父と子
#若苗家の新居候
#薫の策略
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
<ol start="52">
<li>男へのステップ</li>
<li>偽装家族</li>
<li>働くパパ</li>
<li>葉子のロストバージン作戦</li>
<li>葉子の変身</li>
<li>二人のバースデー</li>
<li>メールラバー</li>
<li>ライバルに投げ勝て</li>
<li>辰巳の願い</li>
<li>辰巳の告白</li>
<li>母のイメージ</li>
<li>早紀の誘惑</li>
<li>薫の告白</li>
<li>親子の値段</li>
<li>紫苑の第一志望</li>
<li>二人の取材旅行</li>
<li>雅美の値段</li>
<li>恐怖のストーカー</li>
<li>紫苑誕生</li>
<li>身代わりデート</li>
<li>それぞのれXマス</li>
<li>すれ違いのイヴ</li>
<li>似た者同士</li>
<li>紫苑の入試</li>
<li>紫苑の卒業旅行</li>
<li>紫苑と雅彦 一夜を共に!!</li>
<li>旅は道連れ…!!</li>
<li>雅彦 孤軍奮闘!!</li>
<li>成人式はミステリアス</li>
<li>男か女か?</li>
<li>クラブ入部攻防戦</li>
<li>足は口ほどのモノを言う</li>
<li>薫の進路</li>
<li>失楽園</li>
<li>親心</li>
<li>親離れ子離れ</li>
<li>近くて遠い東京</li>
<li>母と娘</li>
<li>衝突</li>
<li>一日だけの女将</li>
<li>恐怖の新歓コンパ</li>
<li>再会</li>
<li>浅葱来訪</li>
<li>浅葱陽動作戦</li>
<li>どっちがいいの!?</li>
<li>一日だけの恋人</li>
<li>雅彦のシナリオ</li>
<li>流れを変える</li>
<li>浅葱の反撃</li>
<li>奥多摩の別れ</li>
<li>家族</li>
</ol>
</div>{{clear|left}}
== 書誌情報 ==
*SCオールマン
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
# 1997年4月23日発行 ISBN 4-08-878076-0
# 1997年9月24日発行 ISBN 4-08-878077-9
# 1998年1月24日発行 ISBN 4-08-878201-1
# 1998年4月22日発行 ISBN 4-08-878211-9
# 1998年7月20日発行 ISBN 4-08-878222-4
# 1998年10月24日発行 ISBN 4-08-878235-6
# 1999年1月24日発行 ISBN 4-08-878248-8
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
<ol start="8">
<li> 1999年4月24日発行 ISBN 4-08-878254-2 </li>
<li> 1999年8月24日発行 ISBN 4-08-878266-6 </li>
<li> 1999年11月24日発行 ISBN 4-08-878274-7 </li>
<li> 2000年2月23日発行 ISBN 4-08-878284-4 </li>
<li> 2000年5月24日発行 ISBN 4-08-878294-1 </li>
<li> 2000年8月23日発行 ISBN 4-08-878303-4 </li>
<li> 2001年1月24日発行 ISBN 4-08-878321-2 </li>
</ol>
</div>{{clear|left}}
*ゼノンコミックスDX
# 2011年8月20日発行 ISBN 978-4-19-980027-6
# 2011年9月20日発行 ISBN 978-4-19-980032-0
# 2011年10月20日発行 ISBN 978-4-19-980039-9
# 2011年11月20日発行 ISBN 978-4-19-980045-0
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[RASH!!]] - 前作。
* [[少年たちのいた夏 〜Melody of Jenny〜]] - 『RASH!!』後、作連載開始前に描かれた短編を収録。
* [[エンジェル・ハート]] - 次作。
* [[シティーハンター]] - 同作の[[冴羽獠]]が作中に[[モブキャラクター]]として登場。
{{デフォルトソート:ふあみりいこんほ}}
[[Category:北条司の漫画作品]]
[[Category:漫画作品 ふ|あみりいこんほ]]
[[Category:1996年の漫画]]
[[Category:MANGAオールマン]]
[[Category:家族を題材とした漫画作品]]
[[Category:LGBT関連漫画]]
[[Category:女装漫画]]
[[Category:男装漫画]]
[[Category:トランスジェンダー漫画]]
[[Category:豊島区を舞台とした漫画作品]]
|
2003-07-09T13:47:42Z
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2023-08-20T05:22:46Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/F.COMPO
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11,101 |
天照大神
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天照大神(あまてらすおおみかみ/あまてらすおおかみ)または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神である。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。神武天皇は来孫。
太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名。
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日孁(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照大御神の他に天照皇大神/天照皇太神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。
なお、「大日孁貴神」の「ムチ」とは「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は大日孁貴神のほかには大己貴命(オオナムチ、大国主)、道主貴(ミチヌシノムチ、宗像大神)などわずかしか見られない。
ツクヨミ同様、明確な性別の記載があるわけではないが、『日本書紀』ではスサノヲに姉と呼ばれていること、アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いことなどから、古来より一般に女神と解されている。
別名の「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」の「オホ(大)」は尊称、「ムチ(貴)」は「高貴な者」、「ヒルメ(日孁)」は「日の女神」を表す。但し「孁」は「巫」と同義であり、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられる。「ヒコ(彦)・ヒメ(姫・媛)」、「ヲトコ(男)・ヲトメ」、「イラツコ(郎子)・イラツメ(郎女)」など、古い日本語には伝統的に男性を「コ(子)」・女性を「メ(女)」の音で表す例がみられ、この点からも女神ととらえられる。後述するように中世には仏と同一視されたり、男神説等も広まった。
天照大神のモデルは淮南子や山海経などに出てくる東海の海の島(日本)に住んでいる十の太陽神の母である羲和が該当するとする説や、淮南子の冒頭と日本書紀の冒頭にて重なる部分が存在する事から記紀の執筆者が淮南子を読んでいたとする説がある。
天照大神は太陽神としての一面を持ってはいるが、神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の巫女を反映した神とする説もある。ただし、「メ(女)」という語を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる。
もとはツングース系民族の太陽神として考えると、本来は皇室始祖の男神であり、女神としての造形には、女帝の推古天皇や、持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある。兵庫県西宮市の廣田神社は天照大神の荒御魂を祀る大社で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名が伝わっている。これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、荒祭宮の荒御魂が女神であることの証左とされる。
『日本書紀』においては、
『古事記』においては、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が伊邪那美命(いざなみのみこと)の居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれた月読命(つくよみのみこと)、鼻から生まれた建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と共に、三貴子(みはしらのうずのみこ)と呼ばれる。このとき伊邪那岐命は天照大御神に高天原(たかあまのはら)を治めるように指示した(「神産み」を参照)。
海原を委任された須佐之男命は、伊邪那美命のいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため伊邪那岐命によって追放された。須佐之男命は根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
須佐之男命は身の潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、須佐之男命の物実から三柱の女神が生まれ、須佐之男命は勝利を宣言する(「アマテラスとスサノオの誓約」を参照)。
このとき天照大御神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。
これで気を良くした須佐之男命は高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。思金神(おもいかねのかみ)と天児屋命(あめのこやねのみこと)など八百万(やおよろず)の神々は天照大御神を岩戸から出す事に成功し、須佐之男命は高天原から追放された(「天岩戸」を参照)。
大国主神(おおくにぬしかみ)の治めていた葦原中国(あしはらのなかつくに)を生んだのは親である岐美二神(イザナギとイザナミ)と考え、葦原中国の領有権を子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に渡して降臨させることにし、天津神(あまつかみ)の使者達を大国主神の元へ次々と派遣した。最終的に武力によって葦原中国が平定され、いよいよ天忍穂耳命が降臨することになったが、その間に邇邇芸命(ににぎのみこと)が生まれたので、孫に当たるニニギを降臨させた(「葦原中国平定」「天孫降臨」を参照)。その時八尺鏡を自身の代わりとして祀らせるため、降臨する神々に携えさせた。
古代において天照大神は、『古語拾遺』に「天照大神、惟祖惟宗、尊無二、自余諸神、乃子、乃臣」とあり、『日本紀私記』に「今天照大神者、諸神之最貴也」とあるように、諸氏の氏神に超越する最高神として朝廷社会の中で信仰されていたことがわかる。一方で、天照大神を祀る伊勢神宮は「私幣禁断」とされ、天皇の祖神や国家全体の鎮守神として、天皇の勅使以外の一般人が個人的に参拝することは固く禁じられており、伊勢神宮を勧請して天照大神を自宅などで祀る行為も厳しく罰せられていたため、古代においては天照大神が国民各戸の信仰対象になることはなく、平安時代の『更級日記』にも、著者の菅原孝標女が、同僚から天照大神について話された際、それがどこに祀られる神で、どういう神なのかを正確に認識していなかったという記述があり、貴族女性という知識階級であっても、天照大神の存在は浸透していなかった。
しかし、中世に入ると律令制度の弛緩に伴い、神郡など古代において伊勢神宮を支えた国家的経済基盤が動揺しはじめたことから、伊勢神宮の御師による布教活動が行われ、天照大御神の存在が広い階層の人々に知られるようになった。その結果、中世期の起請文には「日本国主天照大神」という表現が多く見られるようになる。記紀神話における天照大神はあくまで高天原の主神であり、「日本」という国土を具体的に知行する神ではなかったが、中世における信仰では、国土の最高神として具体的に日本を知行し、人々の願いを聞き入れたり、人々に賞罰を下す存在として信仰され、国民各層に開かれた信仰対象となった。中世期には伊勢神宮に寄進され神領地となった場所に天照大御神を祀る神明神社が成立したり、中世後期には伊勢の神霊が各地に飛来するという「飛神明」という考えが広がり、各地に天照大神を祀る神社が成立した。
ただし、「日本国主」である天照大神であっても、それは六道など仏教的宇宙観の一角としての下界である「日本」という領域に限定される最高神であって、仏教的宇宙観全体の支配者である梵天などの仏よりは下位として見なされる場合があり、起請文にも仏の名前を上段に列記し、下段に天照大御神をはじめとする神々の名が列記される例が見られる。
また、中世期には天照大神は大日如来の垂迹として信仰され、仏教信仰と結びつけられた。さらに、各神社が自社の祭神を天照大神に結びつけることも見られるようになり、大神神社では祭神が天照大神と同体とされ、春日大社では第四殿に祀られる「比売神」が天照大神のこととされ、熊野権現では熊野社の祭神が伊勢の天照大神と同体であると主張され(『長寛勘文』)、日吉大社で展開した山王神道でも日吉大社と天照大神が結びつけられるなど、中世の混乱期にあって、各神社の信仰を天照大神への信仰に帰一することを求める思潮が形成された。
江戸時代に入ると、伊勢神宮の御師の活動がさらに活発化したことや、近世期に全国の神社を管轄した吉田家が天照大神・八幡神・春日神の三柱の神徳を讃える三社託宣を庶民に拡散させていったことなどから、天照大神への信仰がさらに庶民階層に広がり、伊勢神宮の神徳を讃える風流踊りである「伊勢踊り」が流行し、田植え唄などにも天照大神が唄われるようになった。また、自宅の神棚に天照大御神の神体として御祓を祭ることが盛んになり、江戸時代にはその頒布率は全戸数の9割を占めるまでに至った。
近世期には、天照大神に対する国家鎮守神観や国民総氏神観がさらに強く人口に膾炙し、下人や丁稚、奉公人など被支配階級の伊勢参宮に対する寛容性や参宮の国民的義務観が生じて、お蔭参りをはじめとする庶民の伊勢神宮への参宮が盛行した。また、近世期においては天照大神は農業神としての信仰も受けるようになり、近世に盛んになる新田開発など、農村の開拓に当たっては天照大御神が村に勧請される例が関東などに多く見受けられ、天照大神の神体として鍬を祀る「御鍬祭」が全国各地の農村で行われた。これには、伊勢の御師が檀家を回る際に、神宮大麻のほか農業暦である伊勢暦も渡し歩いたことが影響していると考えられる。この他、天照大神は病気平癒など様々な現世利益をもたらす神、全般的な福をもたらす神として広く庶民に信仰された。
1880年(明治13年) - 1881年(明治14年)、東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、祭神を「幽界」(あの世)を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した。
しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大御神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の勅裁により収拾(出雲派が敗北)し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった。
なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている。
芥川龍之介は自身の小説にて天照御大神を登場させる際、「天照大御神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで別名の「大日孁貴」(おおひるめむち)を用いた。実際、芥川の小説には検閲によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が多数存在する。
日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を頒布している。また、神社庁は、天照大御神を「日本国民の総氏神」としている。
伊勢神道 伊勢神道における天照大神は、外宮祭神の豊受大神と同格とされ、天照大神と豊受大神の二神が二宮一光として双座し、日月として遍く国土を照らすものと解釈された。二神が同格とされたのは、外宮祭神である豊受大神を天御中主神や国常立尊に同一視する立場によるものである。また、姿形のない虚である根源神として国常立尊が据えられ、国常立尊の神力によって成り立つ現世の様々なものの形として現れているものが天照大神とされ、天照大神が根源神の方便的な現象として捉えられた。
吉田神道 吉田神道でも、天照大神が重視された。吉田兼倶は、吉田神社の斎場所大元宮を日本の根本宮とするために伊勢両宮の宗教的権威を我が手中に収めようとし、伊勢神宮の神体が吉田神社に飛び移ったという密奏(延徳密奏事件)を行った。吉田神道では、天地万物に神が内在するという神観念が説かれたが、その万霊の本源の神として国常立尊を重視するとともに、国主としての天照大神も、これに並んで重視した。吉田神道の教説書『唯一神道名法要集』では「国者、是神国也、道者、是神道也、国主者、是神皇也、太祖者、是天照太神也」とあり、本源の一神としての国常立尊と、国主であり天皇の太祖たる天照大御神を並べて重視している。
三輪神道 大神神社周辺で形成された両部神道の一派である三輪神道では、大日如来を本地とし、その垂迹を天照大神とする両部神道思想を継ぎ、大日如来が、天上では天照大神、伊勢では皇太神、三輪では三輪大明神として現じ、この三神が三身一体であるとした。そして、天照大神と比肩する三輪大明神こそが、諸社諸神の中でもっとも優れた神であると主張した。
垂加神道 山崎闇斎が創始した垂加神道においては、神道は「日神(天照大神)之道」とされ、天照大神が重視された。垂加神道では、儒教における聖人に到達する過程である「生知安行」「学知利行」「困知勉行」の三つの過程が『日本書紀』神代巻の神々の働きに求められ、「生知安行」の聖人が天照大神、「学知利行」の聖人がサルタヒコ、「困知勉行」の聖人が大国主神及び素戔嗚尊であり、いずれの神も天照大神の徳義と一体となった神であるとされた。そして、一心不乱の祈祷と心身の清浄の実現により、人が天照大御神の徳義と一体化し、「天人唯一」に到達することができるとし、天照大神が日神であり同時に皇祖神でもあることが、天人唯一の具現化であるとした。
復古神道 国学者の本居宣長は、天照大神は天皇の祖神であるとともに、今現在も現実にこの世界を照らしている太陽そのものであるとして、天照大神を上代に日本を治めた存在の比喩であるとしたり、実際の太陽ではなく、その神徳を太陽に例えているものだとする見解を「漢意」として退けた。平田篤胤の復古神道においては、宇宙の主宰神として天御中主神が挙げられ、その下で天皇が統治する顕界と、大国主神が統治する幽冥界(死後の世界)が相対するとされ、特に大国主神の幽冥界が重視されたことで、中心的神格としての天照大神は後退したが、死後の安心を得るための顕界での生き方として、天照大神や天皇への忠誠が説かれ、魂や死後の世界と関係して天照大神が捉えられた。
黒住教 教派神道の一つで、黒住宗忠により創始された黒住教の教学では、身分に関係なく、全ての人間は天照大神の御霊をいただいて生まれてきた天照大神の子であるとする教義が説かれ、日の出を拝むことで天照大神に感謝を捧げる「日拝」という行事が最も重要視されている。
中世の神仏混淆で本地垂迹説が広まると、天竺(インド)の仏が神の姿をとなり、日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には観音菩薩(十一面観音菩薩)が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は太陽の仏である大日如来と同一視されるようになる。
平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、中世神話などに姿を残した。
神道において、陰陽二元論が日本書紀の国産みにも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。この組み合わせはギリシャ神話でも同じで、太陽神のアポロと月神のアルテミスは兄妹神の組合せで生まれている。
平安時代初期の『皇太神宮儀式帳』では「帛単御裳」「生絹比礼(領巾)」「帛御意須比(襲)」など、女性の服飾具が調進されていたことが分かる。『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。
中世では慈円が『慈鎮和尚夢想記』(赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』所収)中で、北条重時が『平重時家訓』中で、日蓮が御書「日眼女造立釈迦仏供養事」中でそれぞれ天照大神が女神であることに言及している。
京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。修学院離宮の狩野敦信(1639-1718)筆杉戸絵に描かれる岩戸山には、宝冠を頂く女神の天照大神像が描かれており、現在の神像は天明の大火後、寛政6年(1794年)に新しく作られたものである。
江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる。
江戸時代には荻生徂徠、山片蟠桃などを筆頭に天照大御神の男神説が数多く主張されており、明治以降も津田左右吉や松前健、楠戸義昭、武光誠、筑紫申真、溝口睦子、宝賀寿男などに男神説が見られる。
ただし前述のように現在では国学時代に主流となった女神説が一般的であり、伊勢神宮を始め各神社でも女神としている。また、現代語訳本や漫画においても女神として描かれることが主流である。
なお、日本国内の諸説から離れて比較神話学の立場から見た場合、世界的に太陽神は男神よりも女神とされることが多かったという指摘もある。詳細は「太陽神」の項目を参照のこと。太陽女神(あるいは、女神とされることもある太陽神)の例としては、ソール、サウレ、シャマシュ、シャプシュ、マリナ、羲和、トカプチュプカムイなどがある。
一方日本神話をギリシャ神話やローマ神話と同じ性格の「神話」・「虚構」と位置づけることに反対し、上古東アジアの神話、習俗、祭祀の事情から男神であったとする説もある。「地域移動」を高所・天からの降下(天降り・天孫降臨)と受けとめる考え方があったからとされる。
『姓氏録』などの記録において、女性を始祖とする氏族が一つも記載されていないことも、天照大御神が女神たりえなかった根拠とする見方がある。
仏教界においては、宗派にもよるがちょうど八幡神(やはた/ハチマン)のように「てんしょうだいじん」と音読みで読まれることが多い。
天照大神の伝承は各地に存在する。
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"text": "天照大神(あまてらすおおみかみ/あまてらすおおかみ)または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神である。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。神武天皇は来孫。",
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"text": "『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日孁(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。",
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"text": "しかし、中世に入ると律令制度の弛緩に伴い、神郡など古代において伊勢神宮を支えた国家的経済基盤が動揺しはじめたことから、伊勢神宮の御師による布教活動が行われ、天照大御神の存在が広い階層の人々に知られるようになった。その結果、中世期の起請文には「日本国主天照大神」という表現が多く見られるようになる。記紀神話における天照大神はあくまで高天原の主神であり、「日本」という国土を具体的に知行する神ではなかったが、中世における信仰では、国土の最高神として具体的に日本を知行し、人々の願いを聞き入れたり、人々に賞罰を下す存在として信仰され、国民各層に開かれた信仰対象となった。中世期には伊勢神宮に寄進され神領地となった場所に天照大御神を祀る神明神社が成立したり、中世後期には伊勢の神霊が各地に飛来するという「飛神明」という考えが広がり、各地に天照大神を祀る神社が成立した。",
"title": "信仰"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ただし、「日本国主」である天照大神であっても、それは六道など仏教的宇宙観の一角としての下界である「日本」という領域に限定される最高神であって、仏教的宇宙観全体の支配者である梵天などの仏よりは下位として見なされる場合があり、起請文にも仏の名前を上段に列記し、下段に天照大御神をはじめとする神々の名が列記される例が見られる。",
"title": "信仰"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また、中世期には天照大神は大日如来の垂迹として信仰され、仏教信仰と結びつけられた。さらに、各神社が自社の祭神を天照大神に結びつけることも見られるようになり、大神神社では祭神が天照大神と同体とされ、春日大社では第四殿に祀られる「比売神」が天照大神のこととされ、熊野権現では熊野社の祭神が伊勢の天照大神と同体であると主張され(『長寛勘文』)、日吉大社で展開した山王神道でも日吉大社と天照大神が結びつけられるなど、中世の混乱期にあって、各神社の信仰を天照大神への信仰に帰一することを求める思潮が形成された。",
"title": "信仰"
},
{
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"text": "江戸時代に入ると、伊勢神宮の御師の活動がさらに活発化したことや、近世期に全国の神社を管轄した吉田家が天照大神・八幡神・春日神の三柱の神徳を讃える三社託宣を庶民に拡散させていったことなどから、天照大神への信仰がさらに庶民階層に広がり、伊勢神宮の神徳を讃える風流踊りである「伊勢踊り」が流行し、田植え唄などにも天照大神が唄われるようになった。また、自宅の神棚に天照大御神の神体として御祓を祭ることが盛んになり、江戸時代にはその頒布率は全戸数の9割を占めるまでに至った。",
"title": "信仰"
},
{
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"text": "近世期には、天照大神に対する国家鎮守神観や国民総氏神観がさらに強く人口に膾炙し、下人や丁稚、奉公人など被支配階級の伊勢参宮に対する寛容性や参宮の国民的義務観が生じて、お蔭参りをはじめとする庶民の伊勢神宮への参宮が盛行した。また、近世期においては天照大神は農業神としての信仰も受けるようになり、近世に盛んになる新田開発など、農村の開拓に当たっては天照大御神が村に勧請される例が関東などに多く見受けられ、天照大神の神体として鍬を祀る「御鍬祭」が全国各地の農村で行われた。これには、伊勢の御師が檀家を回る際に、神宮大麻のほか農業暦である伊勢暦も渡し歩いたことが影響していると考えられる。この他、天照大神は病気平癒など様々な現世利益をもたらす神、全般的な福をもたらす神として広く庶民に信仰された。",
"title": "信仰"
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"text": "1880年(明治13年) - 1881年(明治14年)、東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、祭神を「幽界」(あの世)を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した。",
"title": "信仰"
},
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"text": "しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大御神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の勅裁により収拾(出雲派が敗北)し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった。",
"title": "信仰"
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"text": "なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている。",
"title": "信仰"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "芥川龍之介は自身の小説にて天照御大神を登場させる際、「天照大御神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで別名の「大日孁貴」(おおひるめむち)を用いた。実際、芥川の小説には検閲によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が多数存在する。",
"title": "信仰"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を頒布している。また、神社庁は、天照大御神を「日本国民の総氏神」としている。",
"title": "信仰"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "伊勢神道 伊勢神道における天照大神は、外宮祭神の豊受大神と同格とされ、天照大神と豊受大神の二神が二宮一光として双座し、日月として遍く国土を照らすものと解釈された。二神が同格とされたのは、外宮祭神である豊受大神を天御中主神や国常立尊に同一視する立場によるものである。また、姿形のない虚である根源神として国常立尊が据えられ、国常立尊の神力によって成り立つ現世の様々なものの形として現れているものが天照大神とされ、天照大神が根源神の方便的な現象として捉えられた。",
"title": "各神道流派における教学"
},
{
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"text": "吉田神道 吉田神道でも、天照大神が重視された。吉田兼倶は、吉田神社の斎場所大元宮を日本の根本宮とするために伊勢両宮の宗教的権威を我が手中に収めようとし、伊勢神宮の神体が吉田神社に飛び移ったという密奏(延徳密奏事件)を行った。吉田神道では、天地万物に神が内在するという神観念が説かれたが、その万霊の本源の神として国常立尊を重視するとともに、国主としての天照大神も、これに並んで重視した。吉田神道の教説書『唯一神道名法要集』では「国者、是神国也、道者、是神道也、国主者、是神皇也、太祖者、是天照太神也」とあり、本源の一神としての国常立尊と、国主であり天皇の太祖たる天照大御神を並べて重視している。",
"title": "各神道流派における教学"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "三輪神道 大神神社周辺で形成された両部神道の一派である三輪神道では、大日如来を本地とし、その垂迹を天照大神とする両部神道思想を継ぎ、大日如来が、天上では天照大神、伊勢では皇太神、三輪では三輪大明神として現じ、この三神が三身一体であるとした。そして、天照大神と比肩する三輪大明神こそが、諸社諸神の中でもっとも優れた神であると主張した。",
"title": "各神道流派における教学"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "垂加神道 山崎闇斎が創始した垂加神道においては、神道は「日神(天照大神)之道」とされ、天照大神が重視された。垂加神道では、儒教における聖人に到達する過程である「生知安行」「学知利行」「困知勉行」の三つの過程が『日本書紀』神代巻の神々の働きに求められ、「生知安行」の聖人が天照大神、「学知利行」の聖人がサルタヒコ、「困知勉行」の聖人が大国主神及び素戔嗚尊であり、いずれの神も天照大神の徳義と一体となった神であるとされた。そして、一心不乱の祈祷と心身の清浄の実現により、人が天照大御神の徳義と一体化し、「天人唯一」に到達することができるとし、天照大神が日神であり同時に皇祖神でもあることが、天人唯一の具現化であるとした。",
"title": "各神道流派における教学"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "復古神道 国学者の本居宣長は、天照大神は天皇の祖神であるとともに、今現在も現実にこの世界を照らしている太陽そのものであるとして、天照大神を上代に日本を治めた存在の比喩であるとしたり、実際の太陽ではなく、その神徳を太陽に例えているものだとする見解を「漢意」として退けた。平田篤胤の復古神道においては、宇宙の主宰神として天御中主神が挙げられ、その下で天皇が統治する顕界と、大国主神が統治する幽冥界(死後の世界)が相対するとされ、特に大国主神の幽冥界が重視されたことで、中心的神格としての天照大神は後退したが、死後の安心を得るための顕界での生き方として、天照大神や天皇への忠誠が説かれ、魂や死後の世界と関係して天照大神が捉えられた。",
"title": "各神道流派における教学"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "黒住教 教派神道の一つで、黒住宗忠により創始された黒住教の教学では、身分に関係なく、全ての人間は天照大神の御霊をいただいて生まれてきた天照大神の子であるとする教義が説かれ、日の出を拝むことで天照大神に感謝を捧げる「日拝」という行事が最も重要視されている。",
"title": "各神道流派における教学"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "中世の神仏混淆で本地垂迹説が広まると、天竺(インド)の仏が神の姿をとなり、日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には観音菩薩(十一面観音菩薩)が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は太陽の仏である大日如来と同一視されるようになる。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、中世神話などに姿を残した。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "神道において、陰陽二元論が日本書紀の国産みにも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。この組み合わせはギリシャ神話でも同じで、太陽神のアポロと月神のアルテミスは兄妹神の組合せで生まれている。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "平安時代初期の『皇太神宮儀式帳』では「帛単御裳」「生絹比礼(領巾)」「帛御意須比(襲)」など、女性の服飾具が調進されていたことが分かる。『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "中世では慈円が『慈鎮和尚夢想記』(赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』所収)中で、北条重時が『平重時家訓』中で、日蓮が御書「日眼女造立釈迦仏供養事」中でそれぞれ天照大神が女神であることに言及している。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。修学院離宮の狩野敦信(1639-1718)筆杉戸絵に描かれる岩戸山には、宝冠を頂く女神の天照大神像が描かれており、現在の神像は天明の大火後、寛政6年(1794年)に新しく作られたものである。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "江戸時代には荻生徂徠、山片蟠桃などを筆頭に天照大御神の男神説が数多く主張されており、明治以降も津田左右吉や松前健、楠戸義昭、武光誠、筑紫申真、溝口睦子、宝賀寿男などに男神説が見られる。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "ただし前述のように現在では国学時代に主流となった女神説が一般的であり、伊勢神宮を始め各神社でも女神としている。また、現代語訳本や漫画においても女神として描かれることが主流である。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "なお、日本国内の諸説から離れて比較神話学の立場から見た場合、世界的に太陽神は男神よりも女神とされることが多かったという指摘もある。詳細は「太陽神」の項目を参照のこと。太陽女神(あるいは、女神とされることもある太陽神)の例としては、ソール、サウレ、シャマシュ、シャプシュ、マリナ、羲和、トカプチュプカムイなどがある。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一方日本神話をギリシャ神話やローマ神話と同じ性格の「神話」・「虚構」と位置づけることに反対し、上古東アジアの神話、習俗、祭祀の事情から男神であったとする説もある。「地域移動」を高所・天からの降下(天降り・天孫降臨)と受けとめる考え方があったからとされる。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "『姓氏録』などの記録において、女性を始祖とする氏族が一つも記載されていないことも、天照大御神が女神たりえなかった根拠とする見方がある。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "仏教界においては、宗派にもよるがちょうど八幡神(やはた/ハチマン)のように「てんしょうだいじん」と音読みで読まれることが多い。",
"title": "神仏習合と天照大神の男神説"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "天照大神の伝承は各地に存在する。",
"title": "全国の天照大神伝承"
}
] |
天照大神(あまてらすおおみかみ/あまてらすおおかみ)または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神である。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。神武天皇は来孫。 太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名。
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{{Redirect|アマテラス|その他}}
{{基礎情報 日本の神
| 名 = 天照大神/天照大御神
| 画像 = Amaterasu cave crop.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 =『岩戸神楽ノ起顕』(部分)<br/>[[1857年]]([[安政]]4年)[[歌川国貞]] 画
| 世代名 = [[三貴神]]<br/ >[[地神五代]] 初代
| 先代= ([[神代七代]])<br/>[[イザナギ|伊邪那岐命]]・[[イザナミ|伊邪那美命]]
| 次代= [[アメノオシホミミ|天忍穂耳命]]
| 神祇 = <!-- 天神、地祇、天津神、国津神など -->[[天津神]]
| 全名 = {{ruby-ja|'''天照大御神'''|アマテラスオオミカミ}}
| 別名 = 大日孁貴神<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 52頁。</ref>、大日女尊、大日孁、大日女、天照日女之命、天照孁女貴、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
| 別称 = 天照皇大神、天照皇太神、皇大御神、天照坐皇大御神
| 神階 = 神階を超越
| 神格 = <!-- 太陽、月、山、海など司るもの -->高天原主神、[[太陽神]]、幡織神、農業神、[[皇祖神]]
| 陵所 = 伝承あり
| 父 = [[イザナギ|伊邪那岐命]]
| 母 = [[イザナミ|伊弉冉尊]](日本書紀のみ記述あり)
| 兄弟姉妹 = [[ツクヨミ]]、スサノオ
| 親 = <!-- まぐあいによって生まれない場合 -->
| 配偶者 = [[スサノオ]](誓約上の夫)
| 子 = [[アマテラスとスサノオの誓約|五男三女神]](本文中参照)
| 宮 =
| 神社 = [[伊勢神宮|神宮]]・[[皇大神宮]](内宮)、[[神明神社]] など
| 記紀等 = [[古事記]]、[[日本書紀]]、[[先代旧事本紀]]、[[古語拾遺]]などに登場
| 関連氏族 = '''[[皇室]]'''、[[出雲国造]]、[[二方国造]]、[[島津国造]]、[[素賀国造]]、[[対馬氏|津島県氏]]、[[武蔵国造]]、[[三上氏]]、[[凡河内国造]]、[[茨城国造]]、[[筑波国造]]、[[師長国造]]、[[石背国造]]、[[須恵国造]]、[[馬来田国造]]、[[菊麻国造]]、[[道口岐閉国造|道尻岐閇国造]]、[[道奥菊多国造]]、[[上海上国造]]、[[下海上国造]]、[[千葉国造]]、[[相武国造]]、[[新治国造]]、[[須恵国造]]、[[山背国造|山代国造]]、[[周防国造|周芳国造]]、[[大島国造]]など
}}
'''天照大神'''(あまてらすおおみかみ/あまてらすおおかみ)または'''天照大御神'''(あまてらすおおみかみ)は、[[日本神話]]に[[主神]]として登場する[[神 (神道)|神]]。[[女神]]と解釈され、[[高天原]]を統べる主宰神で、[[皇祖神]]である。『[[記紀]]』においては、[[太陽神]]の性格と[[巫女]]の性格を併せ持つ存在として描かれている。[[神武天皇]]は[[続柄#来孫|来孫]]。
太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。[[天岩戸]]の神隠れで有名な神で、神社としては[[三重県]][[伊勢市]]にある[[伊勢神宮]][[皇大神宮|内宮]]が特に有名<ref name="Y">『八百万の神々』</ref>。
== 名称 ==
『[[古事記]]』においては'''天照大御神'''(あまてらすおおみかみ)、『[[日本書紀]]』においては'''天照大神'''(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、'''大日孁貴神'''(おおひるめのむちのかみ)<ref>『日本書紀上』p.86、日本古典文学大系、岩波書店</ref>。神社によっては'''大日女尊'''(おおひるめのみこと)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5c.biglobe.ne.jp/~akimitsu/sub4.htm|title=神戸市東灘区 西岡本からのお知らせ|accessdate=2013-06-16|author=Akimitsu|date=2013|publisher=神戸市東灘区西岡本}}</ref>、'''大日孁'''(おおひるめ)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/search/detail.php?e7a59ee7a4be4944=1854|title=神社を探す ― 大日孁神社/おおひるめじんじゃ|accessdate=2013-06-16|author=石川県神社庁|date=2008|publisher=石川県神社庁|deadlinkdate=2018年5月}}</ref>、'''大日女'''(おおひめ)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=519&shrname=%E2%98%85%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A5%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%98%85|title=大日女神社 (おおひめじんじゃ)|accessdate=2013-06-16|author=岐阜県神社庁|date=2011|publisher=岐阜県神社庁}}</ref>とされている。
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照大御神の他に'''天照皇大神/天照皇太神'''(あまてらすすめおおかみ)、あるいは'''皇大御神'''(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは'''天照坐皇大御神'''(あまてらしますすめおおみかみ)と言う<ref name="N">『日本の神々の事典』{{full|date=2018-05}}</ref>。
なお、「大日孁貴神」の「ムチ」とは「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は大日孁貴神のほかには[[大国主|大己貴命]](オオナムチ、大国主)、[[宗像三女神|道主貴]](ミチヌシノムチ、宗像大神)など{{efn|[[布波能母遅久奴須奴神]]、[[八島牟遅能神]]などにも見られる。}}わずかしか見られない<ref name=tsugita>次田潤『新版祝詞新講』p.506、戎光祥出版、2008年。</ref>。
== 系譜 ==
{{See also|日本の神の家系図}}
* 父 [[イザナギ]](伊邪那岐神、伊邪那岐命、伊弉諾尊)
* 母 [[イザナミ]](伊弉冉尊、伊弉弥尊)([[日本書紀]]でのみ、[[古事記]]では誕生に関与していない)
* [[三貴子]](イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたアマテラスを含む三姉弟の神)
** 弟 [[ツクヨミ]](月読命、月夜見尊)(記紀に性別についての記述がなく実際は性別不明)
** 弟 [[スサノオ]](建速須佐之男命、須佐之男命、建素戔嗚尊速、素戔男尊、素戔嗚尊)
* 夫 なし(ただしスサノオとの誓約が両神の結婚を表しているという解釈もある<ref>『古事記の本』[[学研ホールディングス|学研]]、2006年、81頁。</ref>)
* 五男三女神([[アマテラスとスサノオの誓約]]の際に生じた神:女神がスサノオの剣をアマテラスが口に含み先に生んだ子、男神がスサノオがアマテラスの玉を口に含み後に生んだ子)
** 女神 [[タキリビメ|多紀理毘売命]] - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)
** 女神 [[イチキシマヒメ|市寸島比売命]] - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)
** 女神 [[タギツヒメ|多岐都比売命]]
** 男神 [[アメノオシホミミ|正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命]]
** 男神 [[アメノホヒ|天之菩卑能命]]
** 男神 [[アマツヒコネ|天津日子根命]]
** 男神 [[イクツヒコネ|活津日子根命]]
** 男神 [[クマノクスビ|熊野久須毘命]]
ツクヨミ同様、明確な性別の記載があるわけではないが、『日本書紀』では[[スサノヲ]]に姉と呼ばれていること、[[アマテラスとスサノオの誓約]]において武装する前に髪を解き[[角髪]]に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いことなどから、古来より一般に[[女神]]と解されている。
別名の「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」の「オホ(大)」は尊称、「ムチ(貴)」は「高貴な者」、「ヒルメ(日孁)」は「日の女神」<ref>『日本国語大辞典』{{full|date=2018-05}}</ref>を表す。但し「孁」は「巫」と同義であり、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられる<ref>{{Cite book|last=1927-2016.|first=Ueda, Masaaki,|title=Nihon shinwa|url=https://www.worldcat.org/oclc/650211550|edition=Shinpan, saihan|date=Heisei 22 [2010]|publisher=Kadokawa Gakugei Shuppan|isbn=9784044094249|location=Tōkyō|last2=1927-|first2=上田正昭,|oclc=650211550}}</ref>。「[[ヒコ]](彦)・[[ヒメ]](姫・媛)」、「[[男|ヲトコ]](男)・[[ヲトメ]]」、「[[イラツコ]](郎子)・[[イラツメ]](郎女)」など、古い日本語には伝統的に男性を「[[子 (人名)#古代初期|コ]](子)」・女性を「メ(女)」の音で表す例がみられ、この点からも女神ととらえられる<ref name="名前なし-1">溝口睦子『アマテラスの誕生』{{full|date=2018-05}}{{要ページ番号|date=2017-12}}</ref>。後述するように中世には仏と同一視されたり、男神説等も広まった<ref>斎藤英喜『読み替えられた日本神話』{{full|date=2018-05}}{{要ページ番号|date=2017-12}}</ref>。
天照大神のモデルは[[淮南子]]や[[山海経]]などに出てくる東海の海の島(日本)に住んでいる十の太陽神の母である[[羲和]]が該当するとする説<ref>山海経</ref>や、淮南子の冒頭と日本書紀の冒頭にて重なる部分が存在する事から記紀の執筆者が淮南子を読んでいたとする説がある。
天照大神は[[太陽神]]としての一面を持ってはいるが、神御衣を織らせ、神田の[[イネ|稲]]を作り、[[大嘗祭]]を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の[[巫女]]を反映した神とする説もある<ref name="S">『神道の本』{{full|date=2017-12}}{{要ページ番号|date=2017-12}}</ref>。ただし、「メ(女)」という語を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる<ref name="名前なし-1"/>。
もとは[[ツングース]]系民族の太陽神として考えると、本来は皇室始祖の男神であり、女神としての造形には、[[女帝]]の[[推古天皇]]や、[[持統天皇]](孫の軽皇子がのち[[文武天皇]]として即位)、同じく女帝の[[元明天皇]](孫の首皇子がのち[[聖武天皇]]として即位)の姿が反映されているとする説もある<ref>概説日本思想史 編集委員代表 佐藤弘夫(吉田一彦){{full|date=2018-05}}{{要ページ番号|date=2018-05}}</ref><ref>[[宝賀寿男]]「天照大神は女性神なのか」『古樹紀之房間』2010年。</ref>。兵庫県西宮市の[[廣田神社]]は天照大神の荒御魂を祀る大社で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名が伝わっている。これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、[[荒祭宮]]の荒御魂が女神であることの証左とされる。
=== 天照大神からの皇室家系図 ===
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}}
*各人の囲み上部の数字は生年と没年、下部の数字は即位年と退位年、「前」は紀元前、「?」は不詳を示す。
*太字は漢風諡号、生没年に併記されているのは諱、斜体字は別名。
*<span style="background-color: #faa;">赤色の囲み</span>は女性を示す。
*カッコ付きの太数字は天皇の代数。
{{familytree/start}}
{{familytree | Ama |Ama=<br>'''[[天照大御神]]'''|boxstyle_ Ama =background-color: #faa;}}
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{{familytree | Osi |Osi=<br>'''[[天忍穂耳尊]]'''}}
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{{familytree | Nin |Nin=<br>'''[[ニニギ|瓊瓊杵尊]]'''}}
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{{familytree | Hoh |Hoh=<br>'''[[ホオリ|彦火火出見尊]]'''}}
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{{familytree | Uga |Uga=<br>'''[[ウガヤフキアエズ|彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊]]'''}}
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{{familytree | Jim |Jim=<small>前711-前585</small><br>'''[[神武天皇]]'''<br>前660–前585<sup>('''1''')</sup>}}
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{{familytree | Sui |Sui=<small>前632-前549</small><br>'''[[綏靖天皇]]'''<br>前581–前549<sup>('''2''')</sup>}}
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{{familytree | Ann |Ann=<small>前577-前510</small><br>'''[[安寧天皇]]'''<br>前549–前510<sup>('''3''')</sup>}}
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{{familytree | Ito |Ito=<small>前553-前476</small><br>'''[[懿徳天皇]]'''<br>前510–前476<sup>('''4''')</sup>}}
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{{familytree | Kos |Kos=<small>前506-前393</small><br>'''[[孝昭天皇]]'''<br>前475–前393<sup>('''5''')</sup>}}
{{familytree | |!|}}
{{familytree | Koa |Koa=<small>前427-前291</small><br>'''[[孝安天皇]]'''<br>前392–前291<sup>('''6''')</sup>}}
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{{familytree | Kor |Kor=<small>前342-前215</small><br>'''[[孝霊天皇|孝靈天皇]]'''<br>前290–前215<sup>('''7''')</sup>}}
{{familytree | |!|}}
{{familytree | Kog |Kog=<small>前273-前158</small><br>'''[[孝元天皇]]'''<br>前214–前158<sup>('''8''')</sup>}}
{{familytree | |!|}}
{{familytree | Kai |Kai=<small>前208-前98</small><br>'''[[開化天皇]]'''<br>前157–前98<sup>('''9''')</sup>}}
{{familytree | |)|-|-|-|-|-|-|.|}}
{{familytree | Suj | | | | | Hik |Suj=<small>前148-前29</small><br>'''[[崇神天皇]]'''<br>前97–前29<sup>('''10''')</sup>|Hik=[[彦坐王]]}}
{{familytree | |!| | | | | | |:|}}
{{familytree | Sun | | | | | |:|Sun=<small>前68–紀元後70</small><br>'''[[垂仁天皇]]'''<br>前29–70<sup>('''11''')</sup>}}
{{familytree | |!| | | | | | |:|}}
{{familytree | Kei | | | | | |:|Kei=<small>前13–130</small><br>'''[[景行天皇]]'''<br> 71–130<sup>('''12''')</sup>}}
{{familytree | |)|-|-|-|.| | |:|}}
{{familytree | Yam | | Sei | |:|Sei=<small> 84–191</small><br>'''[[成務天皇]]'''<br>131–191<sup>('''13''')</sup> |Yam=<small> 82?–113?</small><br>[[ヤマトタケル|日本武尊]]}}
{{familytree | |!| | | | | | |:|}}
{{familytree | Chu |-|-|v|-| Jin |Chu=<small> 148? –200</small><br>'''[[仲哀天皇]]'''<br>192–200<sup>('''14''')</sup> |Jin=<small>170-269</small><br>'''[[神功皇后]]'''<br><small>摂政 201–269||boxstyle_ Jin =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | Oji |Oji=<small>200-310</small><br>'''[[応神天皇|應神天皇]]'''<br>270–310<sup>('''15''')</sup>}}
{{familytree | | | |,|-|^|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.}}
{{familytree | | | Nin | | | | | | | | | | Wak |Nin=<small>257–399</small><br>'''[[仁徳天皇]]'''<br>313–399<sup>('''16''')</sup> |Wak=[[稚野毛二派皇子]]}}
{{familytree | |,|-|^|-|v|-|-|-|.| | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | Ric | | Haz | | Ing |v| aaa | | Oho |Ric=<small> 336? –405</small><br>'''[[履中天皇]]'''<br>400–405<sup>('''17''')</sup> |Haz=<small> 336? –410</small><br>'''[[反正天皇]]'''<br>406–410<sup>('''18''')</sup> |Ing=<small> 376? –453</small><br>'''[[允恭天皇]]'''<br>413–453<sup>('''19''')</sup> |aaa=[[忍坂大中姫]] |Oho=[[意富富杼王]]||boxstyle_ aaa =background-color: #faa;}}
{{familytree | |!| | | | | | | |,|-|^|-|.| | | |!|}}
{{familytree | Ich | | | | | | Ank | | Yur | | Ohi |Ank=<small>401-456</small><br>'''[[安康天皇]]'''<br>454–456<sup>('''20''')</sup> |Yur=<small>418-479</small><br>'''[[雄略天皇]]'''<br>456–479<sup>('''21''')</sup> |Ich=[[市辺押磐皇子]] |Ohi=[[乎非王]]}}
{{familytree | |)|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |!| | | |!|}}
{{familytree | Ity | | Nnk | | Ken | | Sen | | Ush |Sen=<small>444-484</small><br>'''[[清寧天皇]]'''<br>480–484<sup>('''22''')</sup> |Ken=<small>450-487</small><br>'''[[顕宗天皇|顯宗天皇]]'''<br>484–487<sup>('''23''')</sup> |Nnk=<small>大脚 449-498</small><br>'''[[仁賢天皇]]'''<br>488–498<sup>('''24''')</sup> |Ity=<small>440-484</small><br>[[飯豊青皇女]]<br><small>臨朝秉政 484|Ush=[[彦主人王]]|boxstyle_ Ity =background-color: #faa;}}
{{familytree | |,|-|-|-|(| | | | | | | | | | | |!|}}
{{familytree | Bur | | Tas |-|-|v|-|-|-|-|-|-| Ket |Bur=<small>489-507</small><br>'''[[武烈天皇]]'''<br>498–507<sup>('''25''')</sup> |Tas=[[手白香皇女]] |Ket=<small>450-531</small><br>'''[[継体天皇|繼體天皇]]'''<br>507–531<sup>('''26''')</sup>|boxstyle_ Tas =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | |,|-|-|-|(|}}
{{familytree | | | | | | | | | Kim | | Ank | | Sek |Ank=<small>465-536</small><br>'''[[安閑天皇]]'''<br>531–536<sup>('''27''')</sup> |Sek=<small>高田 467-539</small><br>'''[[宣化天皇]]'''<br>536–539<sup>('''28''')</sup>|Kim=<small>509-571</small><br>'''[[欽明天皇]]'''<br>540–571<sup>('''29''')</sup> }}
{{familytree | | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|.|}}
{{familytree | | | | | Bid |-| Suk | | Yom | | Sus |Bid=<small>538-585</small><br>'''[[敏達天皇]]'''<br>572–585<sup>('''30''')</sup> |Yom=<small> 540? -587</small><br>'''[[用明天皇]]'''<br>585–587<sup>('''31''')</sup> |Suk=<small>額田部 554-628</small><br>'''[[推古天皇]]'''<br>593–628<sup>('''33''')</sup>|Sus=<small>泊瀬部 553? –592</small><br>'''[[崇峻天皇]]'''<br>587–592<sup>('''32''')</sup>|boxstyle_ Suk =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | | |!| | | | | | | |!| |}}
{{familytree | | | | | Osh | | | | | | Sho |Osh=[[押坂彦人大兄皇子]]|Sho=<small>574-622</small><br>厩戸皇子<br>([[聖徳太子]])<br><small>摂政 593-622}}
{{familytree | | | | | |)|-|-|-|-|-|.|}}
{{familytree | | | | | Chi | | | | |!|Chi=[[茅渟王]]}}
{{familytree | |,|-|-|-|(| | | | | |!|}}
{{familytree | Kot | | Kog |-|v|-| Jom |Jom=<small>田村 593-641</small><br>'''[[舒明天皇]]'''<br>629–641<sup>('''34''')</sup> |Kot=<small>軽 596-654</small><br>'''[[孝徳天皇]]'''<br>645–654<sup>('''36''')</sup> |Kog=<small>宝 594-661</small><br>'''[[斉明天皇|皇極天皇]]'''<br>642–645<sup>('''35''')</sup><br>'''[[斉明天皇]]'''<br>654–661<sup>('''37''')</sup>|boxstyle_ Kog =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | |,|-|-|-|^|-|-|-|-|-|-|-|.|}}
{{familytree | | | | Ten | | | | | | | | | | |!|Ten=<small>葛城 626-672</small><br>'''[[天智天皇]]'''<br>661–672<sup>('''38''')</sup> }}
{{familytree | |,|-|-|+|-|-|v|-|-|.| | | | | |!|}}
{{familytree | |!| | Kob | |!| | Jit |-|v|-| Tem |Kob=<small>大友 648-672</small><br>'''[[弘文天皇]]'''<br>672<sup>('''39''')</sup> |Tem=<small>大海人 631?-686</small><br>'''[[天武天皇]]'''<br>672-686<sup>('''40''')</sup> |Jit=<small>鸕野讚良 645-701</small><br>'''[[持統天皇]]'''<br>690–697<sup>('''41''')</sup>|boxstyle_ Jit =background-color: #faa;}}
{{familytree | |!| | | | | |!| | | |,|-|'| | |!|}}
{{familytree | Shk | | | | Abe |v| Kus | | | Ton |Kus=<small>662–689</small><br>[[草壁皇子]]<br>(岡宮天皇)|Abe=<small>阿閇 661-721</small><br>'''[[元明天皇]]'''<br>707-715<sup>('''43''')</sup> |Ton=<small>676–735</small><br>[[舎人親王]]<br>(崇道尽敬皇帝)|Shk=<small>668?–716</small><br>[[志貴皇子]]<br>(春日宮天皇)|boxstyle_ Abe =background-color: #faa;}}
{{familytree | |!| | | | | |,|-|^|-|.| | | | |!|}}
{{familytree | |!| | | | | Gen | | Mom | | | Jun |Mom=<small>珂瑠 683-707</small><br>'''[[文武天皇]]'''<br>697–707<sup>('''42''')</sup> |Gen=<small>氷高 680-748</small><br>'''[[元正天皇]]'''<br>715–724<sup>('''44''')</sup> |Jun=<small>大炊 733-765</small><br>'''[[淳仁天皇]]'''<br>758–764<sup>('''47''')</sup>|boxstyle_ Gen =background-color: #faa;}}
{{familytree | |!| | | | | | | | | |!|}}
{{familytree | |`|-|-|-|.| | | | | Sho |Sho=<small>首 701-756</small><br>'''[[聖武天皇]]'''<br>724-749<sup>('''45''')</sup>}}
{{familytree | | | | | |!| | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | Tak |v| Kon |-| Ika | | Kok |Kok=<small>阿倍 718-770</small><br>'''[[孝謙天皇]]'''<br>749–758<sup>('''46''')</sup><br>'''[[孝謙天皇|称徳天皇]]'''<br>764–770<sup>('''48''')</sup> |Ika=<small>717–775</small><br>[[井上内親王]]|Kon=<small>白壁 709-782</small><br>'''[[光仁天皇]]'''<br>770–781<sup>('''49''')</sup> |Tak=<small> ? -790</small><br>[[高野新笠]]|boxstyle_ Kok =background-color: #faa;|boxstyle_ Ika =background-color: #faa;|boxstyle_ Tak =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | |)|-|-|-|.|}}
{{familytree | | | Kam | | Swa |Kam=<small>山部 737-806</small><br>'''[[桓武天皇]]'''<br>''(柏原帝)''<br>781–806<sup>('''50''')</sup>|Swa=<small>750?–785</small><br>[[早良親王]]<br>(崇道天皇)}}
{{familytree | |,|-|^|-|v|-|-|-|.|}}
{{familytree | Hei | | Sag | | Jua |Hei=<small>安殿 774-824</small><br>'''[[平城天皇]]'''<br>''(奈良帝)''<br>806–809<sup>('''51''')</sup> |Sag=<small>神野 786-842</small><br>'''[[嵯峨天皇]]'''<br>809–823<sup>('''52''')</sup> |Jua=<small>大伴 786-840</small><br>'''[[淳和天皇]]'''<br>''(西院帝)''<br>823–833<sup>('''53''')</sup>}}
{{familytree | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | Nim |Nim=<small>正良 810-850</small><br>'''[[仁明天皇]]'''<br>''(深草帝)''<br>833–850<sup>('''54''')</sup> }}
{{familytree | | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | | | Mon | | Koo |Mon=<small>道康 827-858</small><br>'''[[文徳天皇]]'''<br>''(田邑帝)''<br>850–858<sup>('''55''')</sup> |Koo=<small>時康 830-887</small><br>'''[[光孝天皇]]'''<br>''(小松帝)''<br>884–887<sup>('''58''')</sup>}}
{{familytree | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | Sew | | Uda |Uda=<small>定省 867-931</small><br>'''[[宇多天皇]]'''<br>887–897<sup>('''59''')</sup> |Sew=<small>惟仁 850-880</small><br>'''[[清和天皇]]'''<br>''(水尾帝)''<br>858–876<sup>('''56''')</sup>}}
{{familytree | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | Yoz | | Dai |Yoz=<small>貞明 869-949</small><br>'''[[陽成天皇]]'''<br>876–884<sup>('''57''')</sup> |Dai=<small>敦仁 885-930</small><br>'''[[醍醐天皇]]'''<br>897–930<sup>('''60''')</sup>}}
{{familytree | | | | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | | | | | Suz | | Mur |Suz=<small>寛明 923-952</small><br>'''[[朱雀天皇]]'''<br>930–946<sup>('''61''')</sup> |Mur=<small>成明 926-967</small><br>'''[[村上天皇]]'''<br>946–967<sup>('''62''')</sup>}}
{{familytree | | | |,|-|-|-|-|-|^|-|.|}}
{{familytree | | | Rei | | | | | | Eny |Rei=<small>憲平 950-1011</small><br>'''[[冷泉天皇]]'''<br>967–969<sup>('''63''')</sup> |Eny=<small>守平 959-991</small><br>'''[[円融天皇|圓融天皇]]'''<br>969–984<sup>('''64''')</sup>}}
{{familytree | |,|-|^|-|.| | | | | |!|}}
{{familytree | Kaz | | San | | | | Icj |Kaz=<small>師貞 968-1008</small><br>'''[[花山天皇]]'''<br>984–986<sup>('''65''')</sup> |Icj=<small>懐仁 980-1011</small><br>'''[[一条天皇|一條天皇]]'''<br>986–1011<sup>('''66''')</sup> |San=<small>居貞 976-1017</small><br>'''[[三条天皇|三條天皇]]'''<br>1011–1016<sup>('''67''')</sup>}}
{{familytree | | | | | |!| | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | | | | | Sad |v| Su2 | | Ic2 |Ic2=<small>敦成 1008-1036</small><br>'''[[後一条天皇|後一條天皇]]'''<br>1016–1036<sup>('''68''')</sup> |Su2=<small>敦良 1009-1045</small><br>'''[[後朱雀天皇]]'''<br>1036–1045<sup>('''69''')</sup> |Sad=<small>1013-1094</small><br>[[禎子内親王]]|boxstyle_ Sad =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | | | | |!| |`|-|.|}}
{{familytree | | | | | | | Sa2 | | Re2 |Re2=<small>親仁 1025-1068</small><br>'''[[後冷泉天皇]]'''<br>1045–1068<sup>('''70''')</sup> |Sa2=<small>尊仁 1034-1073</small><br>'''[[後三条天皇|後三條天皇]]'''<br>1068–1073<sup>('''71''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Shi |Shi=<small>貞仁 1053-1129</small><br>'''[[白河天皇]]'''<br>1073–1087<sup>('''72''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Hor |Hor=<small>善仁 1079-1107</small><br>'''[[堀河天皇]]'''<br>1087–1107<sup>('''73''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Tob |Tob=<small>宗仁 1103-1156</small><br>'''[[鳥羽天皇]]'''<br>1107–1123<sup>('''74''')</sup> }}
{{familytree | | | |,|-|-|-|^|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.|}}
{{familytree | | | Sut | | | | Sh2 | | | | | | | | |!|Sut=<small>顕仁 1119-1164</small><br>'''[[崇徳天皇]]'''<br>1123–1142<sup>('''75''')</sup> |Sh2=<small>雅仁 1127-1192</small><br>'''[[後白河天皇]]'''<br>1155–1158<sup>('''77''')</sup> }}
{{familytree | | | |,|-|-|-|-|-|^|-|.| | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | Tkk | | | | | | Nij |v| Fuj |-| Koe |Nij=<small>守仁 1143-1165</small><br>'''[[二条天皇|二條天皇]]'''<br>1158–1165<sup>('''78''')</sup> |Fuj=<small>1140-1202</small><br>[[藤原多子]]|Koe=<small>体仁 1139-1155</small><br>'''[[近衛天皇|近衞天皇]]'''<br>1142–1155<sup>('''76''')</sup> |Tkk=<small>憲仁 1161-1181</small><br>'''[[高倉天皇]]'''<br>1168–1180<sup>('''80''')</sup> |boxstyle_ Fuj =background-color: #faa;}}
{{familytree | |,|-|^|-|v|-|-|-|.| | | |!|}}
{{familytree | Mor | | Ant | | To2 | | Rok |Rok=<small>順仁 1164-1176</small><br>'''[[六条天皇|六條天皇]]'''<br>1165–1168<sup>('''79''')</sup> |Ant=<small>言仁 1178-1185</small><br>'''[[安徳天皇]]'''<br>1180–1185<sup>('''81''')</sup> |To2=<small>尊成 1180-1239</small><br>'''[[後鳥羽天皇]]'''<br>1185–1198<sup>('''82''')</sup> |Mor=<small>1179-1223</small><br>[[守貞親王]]<br>(後高倉院)}}
{{familytree | |!| | | | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | Ho2 | | | | Tsu | | Jut |Tsu=<small>為仁 1196-1231</small><br>'''[[土御門天皇]]'''<br>1198–1210<sup>('''83''')</sup> |Jut=<small>守成 1197-1242</small><br>'''[[順徳天皇]]'''<br>1210–1221<sup>('''84''')</sup> |Ho2=<small>茂仁 1212-1234</small><br>'''[[後堀河天皇]]'''<br>1221–1232<sup>('''86''')</sup>}}
{{familytree | |!| | | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | Shj | | | | Sa2 | | Chk |Chk=<small>懐成 1218-1234</small><br>'''[[仲恭天皇]]'''<br>1221<sup>('''85''')</sup> |Shj=<small>秀仁 1231-1242</small><br>'''[[四条天皇|四條天皇]]'''<br>1232–1242<sup>('''87''')</sup> |Sa2=<small>邦仁 1220-1272</small><br>'''[[後嵯峨天皇]]'''<br>1242–1246<sup>('''88''')</sup>}}
{{familytree | |,|-|-|-|-|-|^|v|-|-|-|-|-|-|-|-|.|}}
{{familytree | Mun | | | | | Fuk | | | | | | | Kmy |Mun=<small>1242-1274</small><br>[[宗尊親王]]<br><small> 1252-1266<sup>([[鎌倉将軍一覧|鎌倉将軍]]6)</sup> |Fuk=<small>久仁 1243-1304</small><br>'''[[後深草天皇]]'''<br>1246–1260<sup>('''89''')</sup> |Kmy=<small>恒仁 1249-1305</small><br>'''[[亀山天皇|龜山天皇]]'''<br>1260–1274<sup>('''90''')</sup>}}
{{familytree | |!| | | |,|-|-|^|-|-|.| | | | | |!|}}
{{familytree | Kor | | Fus | | | | His | | | | Ud2 |Kor=<small>1264-1326</small><br>[[惟康親王]]<br><small> 1266-1289<sup>(鎌倉将軍7)</sup> |Ud2=<small>世仁 1267-1324</small><br>'''[[後宇多天皇]]'''<br>1274–1287<sup>('''91''')</sup> |Fus=<small>熈仁 1265-1317</small><br>'''[[伏見天皇]]'''<br>1287–1298<sup>('''92''')</sup> |His=<small>1279-1308</small><br>[[久明親王]]<br><small> 1289-1308<sup>(鎌倉将軍8)</sup> }}
{{familytree | | | |,|-|^|-|.| | | |!| | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | | | Fu2 | | Han | | Mor | | Ni2 | | Da2 |Fu2=<small>胤仁 1288-1336</small><br>'''[[後伏見天皇]]'''<br>1298–1301<sup>('''93''')</sup> |Ni2=<small>邦治 1285-1308</small><br>'''[[後二条天皇|後二條天皇]]'''<br>1301–1308<sup>('''94''')</sup> |Han=<small>富仁 1297-1348</small><br>'''[[花園天皇]]'''<br>1308–1318<sup>('''95''')</sup> |Da2=<small>尊治 1288-1339</small><br>'''[[後醍醐天皇]]'''<br>1318–1339<sup>('''96''')</sup> |Mor=<small>1301-1333</small><br>[[守邦親王]]<br><small> 1308-1333<sup>(鎌倉将軍9)</sup> }}
{{familytree | | | |)|-|-|-|.| | | | | |,|-|-|-|v|-|^|-|.|}}
{{familytree | | | Kgn | | Kmy | | | | Mu2 | | Mor | | Nar | |Mu2=<small>義良 1328-1368</small><br>'''[[後村上天皇]]'''<br>1339-1368<sup>('''97''')</sup> |Kgn=<small>量仁 1313-1348</small><br>'''[[光厳天皇]]'''<br>1332–1334<sup>('''北朝1''')</sup> |Kmy=<small>豊仁 1322-1380</small><br>'''[[光明天皇]]'''<br>1336–1348<sup>('''北朝2''')</sup> |Mor=<small>1308-1335</small><br>[[護良親王]]<br><small>征夷大将軍 1333-1334 |Nar=<small>1326-1338/1344</small><br>[[成良親王]]<br><small>征夷大将軍 1334-1338 }}
{{familytree | | | |)|-|-|-|.| | | |,|-|^|-|.|}}
{{familytree | | | Sko | | Kg2 | | Cho | | Km2 |Cho=<small>寛成 1343-1394</small><br>'''[[長慶天皇]]'''<br>1368–1383<sup>('''98''')</sup> |Km2=<small>熙成 1350?-1424</small><br>'''[[後亀山天皇|後龜山天皇]]'''<br>1383-1392<sup>('''99''')</sup> |Sko=<small>興仁 1334-1398</small><br>'''[[崇光天皇]]'''<br>1348–1351<sup>('''北朝3''')</sup> |Kg2=<small>弥仁 1336-1374</small><br>'''[[後光厳天皇|後光嚴天皇]]'''<br>1352–1371<sup>('''北朝4''')</sup> }}
{{familytree | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | Fys | | En2 | | Key |En2=<small>緒仁 1339-1393</small><br>'''[[後円融天皇|後圓融天皇]]'''<br>1371–1382<sup>('''北朝5''')</sup> |Fys=<small>1351-1416</small><br>[[伏見宮栄仁親王]]|Key='''参照:'''<br>[[南朝 (日本)|{{colour|green|'''南朝'''}}]]、[[北朝 (日本)|{{colour|green|'''北朝'''}}]]}}
{{familytree | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | Sds | | Ko2 |Ko2=<small>幹仁 1377-1433</small><br>'''[[後小松天皇]]'''<br>1382-1392<sup>('''北朝6''')</sup><br>1392–1412<sup>('''100''')</sup> |Sds=<small>1372-1456</small><br>[[伏見宮貞成親王]]<br>(後崇光院)}}
{{familytree | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | Ha2 | | Shk |Shk=<small>躬仁 1401-1428</small><br>'''[[称光天皇]]'''<br>1412–1428<sup>('''101''')</sup> |Ha2=<small>彦仁 1419-1471</small><br>'''[[後花園天皇]]'''<br>1428–1464<sup>('''102''')</sup>}}
{{familytree | | | |!|}}
{{familytree | | | Ts2 |Ts2=<small>成仁 1442-1500</small><br>'''[[後土御門天皇]]'''<br>1464–1500<sup>('''103''')</sup>}}
{{familytree | | | |!|}}
{{familytree | | | Kas |Kas=<small>勝仁 1464-1526</small><br>'''[[後柏原天皇]]'''<br>1500–1526<sup>('''104''')</sup>}}
{{familytree | | | |!|}}
{{familytree | | | Nar |Nar=<small>知仁 1497-1557</small><br>'''[[後奈良天皇]]'''<br>1526–1557<sup>('''105''')</sup>}}
{{familytree | | | |!|}}
{{familytree | | | Ogi |Ogi=<small>方仁 1517-1593</small><br>'''[[正親町天皇]]'''<br>1557–1586<sup>('''106''')</sup>}}
{{familytree | | | |!|}}
{{familytree | | | Mas |Mas=<small>1552-1586</small><br>[[誠仁親王]]<br>(陽光院)}}
{{familytree | | | |!|}}
{{familytree | | | Yz2 |Yz2=<small>和仁 1572-1617</small><br>'''[[後陽成天皇]]'''<br>1586–1611<sup>('''107''')</sup> }}
{{familytree | | | |!|}}
{{familytree | | | Miz |Miz=<small>政仁 1596-1680</small><br>'''[[後水尾天皇]]'''<br>1611–1629<sup>('''108''')</sup>}}
{{familytree | |,|-|^|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.|}}
{{familytree | Mei | | Ky2 | | Sai | | Rei |Mei=<small>興子 1624-1696</small><br>'''[[明正天皇]]'''<br>1629-1643<sup>('''109''')</sup> |Ky2=<small>紹仁 1633-1654</small><br>'''[[後光明天皇]]'''<br>1643–1654<sup>('''110''')</sup> |Sai=<small>良仁 1638-1685</small><br>'''[[後西天皇]]'''<br>1655–1663<sup>('''111''')</sup> |Rei=<small>識仁 1654-1732</small><br>'''[[霊元天皇|靈元天皇]]'''<br>1663–1687<sup>('''112''')</sup> |boxstyle_ Mei =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | | | | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | | | | | | | Hig |Hig=<small>朝仁 1675-1710</small><br>'''[[東山天皇]]'''<br>1687–1709<sup>('''113''')</sup> }}
{{familytree | | | | | | | | | |,|-|-|-|(|}}
{{familytree | | | | | | | | | Yao | | Nak |Nak=<small>慶仁 1702-1737</small><br>'''[[中御門天皇]]'''<br>1709–1735<sup>('''114''')</sup> |Yao=<small>1704-1753</small><br>[[閑院宮直仁親王]]}}
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | Sak |Sak=<small>昭仁 1720-1750</small><br>'''[[桜町天皇|櫻町天皇]]'''<br>1735–1747<sup>('''115''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | |)|-|-|-|.|}}
{{familytree | | | | | | | | | Skh | | Mmz | | Sa2 |Mmz=<small>遐仁 1741-1762</small><br>'''[[桃園天皇]]'''<br>1747–1762<sup>('''116''')</sup> |Sa2=<small>智子 1740-1813</small><br>'''[[後桜町天皇|後櫻町天皇]]'''<br>1762–1771<sup>('''117''')</sup> |Skh=<small>1733-1794</small><br>[[閑院宮典仁親王]]<br>(慶光天皇)|boxstyle_ Sa2 =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | Mo2 |Mo2=<small>英仁 1758-1779</small><br>'''[[後桃園天皇]]'''<br>1771–1779<sup>('''118''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | |!|}}
{{familytree | | | | | Kaj |v| Kku |-| Yos |Kaj=<small>1780-1843</small><br>[[勧修寺婧子|勸修寺婧子]]|Yos=<small>1779-1846</small><br>[[欣子内親王]] |Kku=<small>師仁 1771-1840</small><br>'''[[光格天皇]]'''<br>1780–1817<sup>('''119''')</sup>|boxstyle_ Kaj =background-color: #faa;|boxstyle_ Yos =background-color: #faa;}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Nko |Nko=<small>恵仁 1800-1846</small><br>'''[[仁孝天皇]]'''<br>1817–1846<sup>('''120''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Kmi |Kmi=<small>統仁 1831-1867</small><br>'''[[孝明天皇]]'''<br>1846–1867<sup>('''121''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Mej |Mej=<small>睦仁 1852-1912</small><br>'''[[明治天皇]]'''<br>1867–1912<sup>('''122''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Tai |Tai=<small>嘉仁 1879-1926</small><br>'''[[大正天皇]]'''<br>1912–1926<sup>('''123''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Shw |Shw=<small>裕仁 1901-1989</small><br>'''[[昭和天皇]]'''<br><small>摂政 1921-1926</small><br>1926–1989<sup>('''124''')</sup>}}
{{familytree | | | | | | | |!|}}
{{familytree | | | | | | | Aki |Aki=<small>1933-</small><br>'''[[明仁]]'''<br>1989–2019<sup>('''125''')</sup>}}
{{familytree | |,|-|-|-|v|-|^|-|.|}}
{{familytree | naru | | fumi | | saya |naru=<small>1960-</small><br>'''[[徳仁]]'''<br>2019–<sup>('''126''')</sup>|fumi=<small>1965-</small><br>[[秋篠宮文仁親王]]|saya=<small>1969-</small><br>[[黒田清子]]|boxstyle_ saya =background-color: #faa;}}
{{familytree | |!| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|.|}}
{{familytree | aiko | | mako | | kako | | hisa |aiko=<small>2001-</small><br>[[愛子内親王]]|mako=<small>1991-</small><br>[[眞子内親王]]|kako=<small>1994-</small><br>[[佳子内親王]]|hisa=<small>2006-</small><br>[[悠仁親王]]|boxstyle_ aiko =background-color: #faa;|boxstyle_ mako =background-color: #faa;|boxstyle_ kako =background-color: #faa;}}
{{familytree/end}}
{{hidden end}}
== 神話での記述 ==
[[ファイル:Emperor family tree0.png|thumb|230px|天皇系図 神代 「古事記」より]]
=== 日本書紀 ===
『日本書紀』においては、
* 第五段の本文では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が大八洲国と山川草木の神を産んだ後に、「天下の主者」(あまのしたのきみたるもの)として大日孁貴(おおひるめのむち)を産んだが、あまりに尊いので天上に送った。
* 第五段の一書の1では、伊弉諾尊が、左手で白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに大日孁貴が生まれた。
* 第五段の一書の6では、『古事記』のように禊にて伊弉諾尊が左の眼を洗った時天照大神が生まれた。
=== 古事記 ===
[[File:The Origin of Iwato Kagura Triptych (Amaterasu) by Utagawa Kunisada c1844.png|thumb|岩戸神楽乃起顕。国貞改豊国画(1844年頃)]]
『古事記』においては、[[伊邪那岐命]](いざなぎのみこと)が[[伊邪那美命]](いざなみのみこと)の居る[[黄泉|黄泉の国]]から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに[[化生 (曖昧さ回避)|化生]]したとしている。このとき右目から生まれた[[月読命]](つくよみのみこと)、鼻から生まれた[[建速須佐之男命]](たけはやすさのおのみこと)と共に、[[三貴子]](みはしらのうずのみこ)と呼ばれる。このとき伊邪那岐命は天照大御神に[[高天原]](たかあまのはら)を治めるように指示した(「[[神産み]]」を参照)。
海原を委任された須佐之男命は、伊邪那美命のいる[[根の国]]に行きたいと言って泣き続けたため伊邪那岐命によって追放された。須佐之男命は根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
須佐之男命は身の潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、須佐之男命の物実から三柱の女神が生まれ、須佐之男命は勝利を宣言する{{refnest|group="注釈"|「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」<ref>『古事記』</ref>}}(「[[アマテラスとスサノオの誓約]]」を参照)。
このとき天照大御神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である{{efn|日本書紀には6柱とする説もある}}。
* [[アメノオシホミミ|正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命]](まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと 天忍穂耳命)
* [[アメノホヒ|天之菩卑能命]](あめのほひのみこと 天穂日命)
* [[アマツヒコネ|天津日子根命]](あまつひこねのみこと 天津彦根命)
* [[イクツヒコネ|活津日子根命]](いくつひこねのみこと 活津彦根命)
* [[クマノクスビ|熊野久須毘命]](くまのくすびのみこと 熊野櫲樟日命)
これで気を良くした須佐之男命は高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は[[天岩戸]](あまのいわと)に隠れてしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。[[オモイカネ|思金神]](おもいかねのかみ)と[[天児屋命]](あめのこやねのみこと)など八百万(やおよろず)の神々は天照大御神を岩戸から出す事に成功し、須佐之男命は高天原から追放された(「[[天岩戸]]」を参照)。
[[大国主神]](おおくにぬしかみ)の治めていた葦原中国(あしはらのなかつくに)を生んだのは親である岐美二神(イザナギとイザナミ)と考え、葦原中国の領有権を子の[[天忍穂耳命]](あめのおしほみみのみこと)に渡して降臨させることにし、天津神(あまつかみ)の使者達を大国主神の元へ次々と派遣した。最終的に武力によって葦原中国が平定され、いよいよ天忍穂耳命が降臨することになったが、その間に[[邇邇芸命]](ににぎのみこと)が生まれたので、孫に当たるニニギを降臨させた(「[[葦原中国平定]]」「[[天孫降臨]]」を参照)。その時[[八尺鏡]]を自身の代わりとして祀らせるため、降臨する神々に携えさせた。
=== 子孫 ===
{{皇室黎明期 (続柄)}}
== 信仰 ==
=== 古代 ===
古代において天照大神は、『[[古語拾遺]]』に「天照大神、惟祖惟宗、尊無二、自余諸神、乃子、乃臣」とあり、『[[日本紀私記]]』に「今天照大神者、諸神之最貴也」とあるように、諸氏の氏神に超越する最高神として朝廷社会の中で信仰されていたことがわかる<ref name="宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)5頁">宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)5頁</ref>。一方で、天照大神を祀る伊勢神宮は「私幣禁断」とされ、天皇の祖神や国家全体の鎮守神として、天皇の勅使以外の一般人が個人的に参拝することは固く禁じられており<ref name="宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)4頁">宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)4頁</ref>、伊勢神宮を勧請して天照大神を自宅などで祀る行為も厳しく罰せられていた<ref name="神社本庁監修『神社のいろは用語集 祭祀編』扶桑社(2015)141頁">神社本庁監修『神社のいろは用語集 祭祀編』扶桑社(2015)141頁</ref>ため、古代においては天照大神が国民各戸の信仰対象になることはなく、平安時代の『[[更級日記]]』にも、著者の[[菅原孝標女]]が、同僚から天照大神について話された際、それがどこに祀られる神で、どういう神なのかを正確に認識していなかったという記述があり、貴族女性という知識階級であっても、天照大神の存在は浸透していなかった<ref name="宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)16-17頁">宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)16-17頁</ref>。
=== 中世 ===
しかし、中世に入ると[[律令制度]]の弛緩に伴い、[[神郡]]など古代において伊勢神宮を支えた国家的経済基盤が動揺しはじめたことから、伊勢神宮の[[御師]]による布教活動が行われ、天照大御神の存在が広い階層の人々に知られるようになった<ref name="佐藤、115-146頁">佐藤弘夫「日本国主天照大御神観の形成」『鎌倉仏教の様相』吉川弘文館(1999)115-146頁</ref>。その結果、中世期の[[起請文]]には「日本国主天照大神」という表現が多く見られるようになる<ref name="佐藤、115-146頁"/>。記紀神話における天照大神はあくまで[[高天原]]の主神であり、「日本」という国土を具体的に知行する神ではなかったが、中世における信仰では、国土の最高神として具体的に日本を知行し、人々の願いを聞き入れたり、人々に賞罰を下す存在として信仰され、国民各層に開かれた信仰対象となった<ref name="佐藤、115-146頁"/>。中世期には伊勢神宮に寄進され神領地となった場所に天照大御神を祀る[[神明神社]]が成立したり、中世後期には伊勢の神霊が各地に飛来するという「飛神明」という考えが広がり、各地に天照大神を祀る神社が成立した<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)127-129頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)127-129頁</ref>。
ただし、「日本国主」である天照大神であっても、それは[[六道]]など仏教的[[宇宙観]]の一角としての下界である「日本」という領域に限定される最高神であって、仏教的宇宙観全体の支配者である[[梵天]]などの仏よりは下位として見なされる場合があり、起請文にも仏の名前を上段に列記し、下段に天照大御神をはじめとする神々の名が列記される例が見られる<ref name="佐藤、115-146頁"/>。
また、中世期には天照大神は[[大日如来]]の垂迹として信仰され、仏教信仰と結びつけられた。さらに、各神社が自社の祭神を天照大神に結びつけることも見られるようになり、[[大神神社]]では祭神が天照大神と同体とされ<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/三輪神道-139990 |title=三輪神道とは - コトバンク|publisher=コトバンク |author=[[小笠原春夫]]|accessdate=2022-08-10 }}</ref>、[[春日大社]]では第四殿に祀られる「比売神」が天照大神のこととされ<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/春日信仰-229876 |title=春日信仰とは - コトバンク|publisher=コトバンク |author=落合偉洲|accessdate=2022-08-10 }}</ref>、[[熊野権現]]では熊野社の祭神が伊勢の天照大神と同体であると主張され<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/長寛勘文-97704 |title=長寛勘文とは - コトバンク|publisher=コトバンク |author=瀧浪貞子|accessdate=2022-08-10 }}</ref>(『[[長寛勘文]]』)、[[日吉大社]]で展開した[[山王神道]]でも日吉大社と天照大神が結びつけられる<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)45頁">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)45頁</ref>など、中世の混乱期にあって、各神社の信仰を天照大神への信仰に帰一することを求める思潮が形成された<ref>{{Cite web|和書|url=http://hjueda.on.coocan.jp/koten/ktshk/sotsuron2.htm |title=近世初期における神宮復興の運動|author=上田勝彦|accessdate=2022-08-10 }}</ref>。
=== 近世 ===
江戸時代に入ると、伊勢神宮の御師の活動がさらに活発化した<ref>{{Cite web|和書|title=伊勢神宮の歴史・文化|url=https://www.isejingu.or.jp/about/history/ |publisher=伊勢神宮 |accessdate=2021-05-06}}</ref>ことや、近世期に全国の神社を管轄した[[吉田家]]が天照大神・[[八幡神]]・[[春日神]]の三柱の神徳を讃える[[三社託宣]]を庶民に拡散させていった<ref name="國學院大學日本文化研究所編「三社託宣」『神道事典』弘文堂(1999)399頁">國學院大學日本文化研究所編「三社託宣」『神道事典』弘文堂(1999)399頁</ref>ことなどから、天照大神への信仰がさらに庶民階層に広がり、伊勢神宮の神徳を讃える風流踊りである「伊勢踊り」が流行し<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)136-140頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)136-140頁</ref>、田植え唄などにも天照大神が唄われるようになった<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)187-189頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)187-189頁</ref>。また、自宅の神棚に天照大御神の神体として[[神宮大麻|御祓]]を祭ることが盛んになり、江戸時代にはその頒布率は全戸数の9割を占めるまでに至った<ref>{{Cite web|和書|title=神宮大麻 |url=http://www.shiga-jinjacho.jp/taima.html |publisher=滋賀県神社庁 |accessdate=2021-05-06}}</ref>。
近世期には、天照大神に対する国家鎮守神観や国民総氏神観がさらに強く人口に膾炙し<ref name="新城常三「近世の伊勢参宮」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)39頁">新城常三「近世の伊勢参宮」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)39頁</ref>、下人や丁稚、奉公人など被支配階級の伊勢参宮に対する寛容性や参宮の国民的義務観が生じて、[[お蔭参り]]をはじめとする庶民の伊勢神宮への参宮が盛行した<ref name="新城常三『社寺と交通』至文堂(1960)153頁">新城常三『社寺と交通』至文堂(1960)153頁</ref>。また、近世期においては天照大神は農業神としての信仰も受けるようになり、近世に盛んになる新田開発など、農村の開拓に当たっては天照大御神が村に勧請される例が関東などに多く見受けられ<ref name="西海賢二「伊勢信仰と街道ー古橋家文書からみるー」地域政策ジャーナル(2017)13頁">西海賢二「伊勢信仰と街道ー古橋家文書からみるー」地域政策ジャーナル(2017)13頁</ref>、天照大神の神体として鍬を祀る「御鍬祭」が全国各地の農村で行われた<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁</ref>。これには、伊勢の御師が檀家を回る際に、[[神宮大麻]]のほか農業暦である[[伊勢暦]]も渡し歩いたことが影響していると考えられる<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁</ref>。この他、天照大神は病気平癒など様々な現世利益をもたらす神、全般的な福をもたらす神として広く庶民に信仰された<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)190頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)190頁</ref>。
=== 近現代 ===
[[1880年]]([[明治]]13年) - [[1881年]](明治14年)、東京の[[日比谷]]に設けた[[神道事務局]]神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった<ref name="K">『古神道の本 甦る太古神と秘教霊学の全貌』学研{{要ページ番号|date=2017-12}}</ref>。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神([[天之御中主神]]、[[タカミムスビ|高御産巣日神]]、[[カミムスビ|神産巣日神]])と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、祭神を「幽界」(あの世)を支配する[[大国主|大国主大神]]を加えた五柱にすべきだと主張した<ref name="K" />。
しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大御神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した<ref name="K" />。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は[[明治天皇]]の勅裁により収拾(出雲派が敗北)し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった<ref name="K" />。
なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が[[復古神道]]的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている<ref>『日本史大事典』 [[平凡社]] 1993年</ref>。
[[芥川龍之介]]は自身の小説にて天照御大神を登場させる際、「天照大御神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで別名の「大日{{lang|zh-tw|孁}}貴」(おおひるめむち)を用いた。実際、芥川の小説には[[検閲]]によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が多数存在する<ref>芥川龍之介 『澄江堂雑記』</ref>。
日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の[[神札]](神宮大麻)を頒布している{{refnest|group="注釈"|[[1871年]]12月22日、政府は伊勢神宮の神宮大麻を地方官を通して全国700万戸に1体2銭で強制配布することに決め、翌年から実施した。[[1878年]](明治11年)以後は受不受は自由となったが、依然として地方官が関与してトラブルを生ずることがあった<ref>安丸良夫・宮地正人『宗教と国家-日本近代思想大系第5巻』岩波書店、1998年、p443,535,562。</ref>。}}。また、神社庁は、天照大御神を「[[日本人|日本国民]]の[[氏神|総氏神]]」{{refnest|group="注釈"|「皇大神宮は、内宮(ないくう)とも呼ばれ、御祭神は皇室の御先祖神と尊ばれ、また、国民の総氏神と仰がれている天照大神(あまてらすおおみかみ)です。」<ref>[http://www.kagojinjacho.or.jp/ise/ 鹿児島県神社庁] 2017年12月9日閲覧。</ref>}}としている。
== 各神道流派における教学 ==
'''伊勢神道'''
<br/>[[伊勢神道]]における天照大神は、[[外宮]]祭神の[[豊受大神]]と同格とされ、天照大神と豊受大神の二神が二宮一光として双座し、日月として遍く国土を照らすものと解釈された<ref name="國學院大學日本文化研究所、429頁">國學院大學日本文化研究所編「伊勢神道」『神道事典』弘文堂(1999)429頁</ref>。二神が同格とされたのは、外宮祭神である豊受大神を[[天御中主神]]や[[国常立尊]]に同一視する立場によるものである。また、姿形のない虚である根源神として国常立尊が据えられ、国常立尊の神力によって成り立つ現世の様々なものの形として現れているものが天照大神とされ、天照大神が根源神の方便的な現象として捉えられた<ref name="末木文美子『中世の神と仏』山川出版社(2003)72頁">末木文美子『中世の神と仏』山川出版社(2003)72頁</ref>。
'''吉田神道'''
<br/>[[吉田神道]]でも、天照大神が重視された。[[吉田兼倶]]は、[[吉田神社]]の斎場所大元宮を日本の根本宮とするために伊勢両宮の宗教的権威を我が手中に収めようとし、伊勢神宮の神体が吉田神社に飛び移ったという密奏(延徳密奏事件)を行った<ref name="高橋、326-332頁">高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開』ぺりかん社(2010)326-332頁</ref>。吉田神道では、天地万物に神が内在するという神観念が説かれたが、その万霊の本源の神として国常立尊を重視するとともに、国主としての天照大神も、これに並んで重視した<ref name="高橋、326-332頁"/>。吉田神道の教説書『唯一神道名法要集』では「国者、是神国也、道者、是神道也、国主者、是神皇也、太祖者、是天照太神也」とあり、本源の一神としての国常立尊と、国主であり天皇の太祖たる天照大御神を並べて重視している<ref name="高橋、326-332頁"/>。
'''三輪神道'''
<br/>[[大神神社]]周辺で形成された[[両部神道]]の一派である[[三輪神道]]では、大日如来を本地とし、その垂迹を天照大神とする両部神道思想を継ぎ、大日如来が、天上では天照大神、伊勢では皇太神、三輪では三輪大明神として現じ、この三神が三身一体であるとした<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/三輪神道-139990 |title=三輪神道とは - コトバンク|publisher=コトバンク |author=[[小笠原春夫]]|accessdate=2022-08-10 }}</ref>。そして、天照大神と比肩する三輪大明神こそが、諸社諸神の中でもっとも優れた神であると主張した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/三輪神道-139990 |title=三輪神道とは - コトバンク|publisher=コトバンク |author=[[小笠原春夫]]|accessdate=2022-08-10 }}</ref>。
'''垂加神道'''
<br/>[[山崎闇斎]]が創始した[[垂加神道]]においては、神道は「日神(天照大神)之道」とされ、天照大神が重視された<ref name="國學院大學日本文化研究所、437-439頁">國學院大學日本文化研究所編「垂加神道」『神道事典』弘文堂(1999)437-439頁</ref>。垂加神道では、儒教における[[聖人]]に到達する過程である「生知安行」「学知利行」「困知勉行」の三つの過程が『日本書紀』神代巻の神々の働きに求められ、「生知安行」の聖人が天照大神、「学知利行」の聖人が[[サルタヒコ]]、「困知勉行」の聖人が[[大国主神]]及び[[素戔嗚尊]]であり、いずれの神も天照大神の徳義と一体となった神であるとされた<ref name="國學院大學日本文化研究所、437-439頁"/>。そして、一心不乱の祈祷と心身の清浄の実現により、人が天照大御神の徳義と一体化し、「天人唯一」に到達することができるとし、天照大神が日神であり同時に皇祖神でもあることが、天人唯一の具現化であるとした<ref name="國學院大學日本文化研究所、437-439頁"/>。
'''復古神道'''
<br/>[[国学者]]の[[本居宣長]]は、天照大神は天皇の祖神であるとともに、今現在も現実にこの世界を照らしている太陽そのものであるとして、天照大神を上代に日本を治めた存在の比喩であるとしたり、実際の太陽ではなく、その神徳を太陽に例えているものだとする見解を「[[漢意]]」として退けた<ref name="神宮司庁、28頁">神宮司庁編『度会神道大成 後編』吉川弘文館(2008)28頁</ref>。[[平田篤胤]]の[[復古神道]]においては、宇宙の主宰神として天御中主神が挙げられ、その下で天皇が統治する顕界と、大国主神が統治する幽冥界(死後の世界)が相対するとされ、特に大国主神の幽冥界が重視されたことで、中心的神格としての天照大神は後退したが<ref name="田原嗣郎、565-594頁">田原嗣郎「『霊の真柱』以後における平田篤胤の思想について」岩波書店(1973)565-594頁</ref>、死後の安心を得るための顕界での生き方として、天照大神や天皇への忠誠が説かれ、魂や死後の世界と関係して天照大神が捉えられた<ref>{{Cite journal|和書|author=桂島宣弘 |title=復古神道と民衆宗教 |url=https://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/fukko.pdf |ref=harv}}</ref>。
'''黒住教'''
<br/>[[教派神道]]の一つで、[[黒住宗忠]]により創始された[[黒住教]]の教学では、身分に関係なく、全ての人間は天照大神の御霊をいただいて生まれてきた天照大神の子であるとする教義が説かれ、日の出を拝むことで天照大神に感謝を捧げる「日拝」という行事が最も重要視されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://kurozumikyo.com/dogma |title=黒住教の教義 | 黒住教|publisher=黒住教 |accessdate=2022-08-10 }}</ref>。
== 神仏習合と天照大神の男神説 ==
中世の[[神仏習合|神仏混淆]]で[[本地垂迹]]説が広まると、[[天竺]]([[インド]])の仏が神の姿をとなり、日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には[[観音菩薩]]([[十一面観音|十一面観音菩薩]])が当てられたが、やがて[[大日如来]]となり、[[両部神道]]が登場すると天照大神は太陽の仏である大日如来と同一視されるようになる{{Sfn|佐藤|2000|page=150}}{{Sfn|伊藤|2003|pages=74-73}}。
平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、[[中世日本紀|中世神話]]などに姿を残した<ref>[[上島享]]「中世王権の創出とその正統性」『日本中世社会の形成と王権』{{full|date=2018-05}}</ref><ref group="注釈">中世神話では主に男性神として、中世に編纂された『日諱貴本紀』には両性具有神として描写される。</ref>。
=== 天照大神男神説 ===
[[ファイル:Amateras Busshinreizouzui.jpg|サムネイル|男神として描かれた天照大神。『仏神霊像図彙』(江戸時代)]]
神道において、陰陽二元論が[[日本書紀]]の[[国産み]]にも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。この組み合わせはギリシャ神話でも同じで、太陽神の[[アポローン|アポロ]]と月神の[[アルテミス]]は兄妹神の組合せで生まれている。
平安時代初期の『[[延暦儀式帳|皇太神宮儀式帳]]<ref>{{Cite web|和書|title=皇太神宮儀式帳 {{!}} 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ |url=https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006121#?c=0&m=0&s=0&cv=17&r=0&xywh=950,442,2929,823 |website=rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp |access-date=2023-07-07}}</ref>』では「帛単御[[裳]]」「生絹比礼(領巾)」「帛御意須比(襲)」など、女性の服飾具が調進されていたことが分かる。『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。
中世では[[慈円]]が『慈鎮和尚夢想記』([[赤松俊秀]]『鎌倉仏教の研究』所収)中で、[[北条重時]]が『[[六波羅殿御家訓|平重時家訓]]』中で、[[日蓮]]が御書「日眼女造立釈迦仏供養事」中でそれぞれ天照大神が女神であることに言及している。
京都[[祇園祭]]の[[岩戸山 (山鉾)|岩戸山]]の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。[[修学院離宮]]の[[狩野寿石|狩野敦信]](1639-1718)筆杉戸絵に描かれる岩戸山には、宝冠を頂く女神の天照大神像が描かれており、現在の神像は天明の大火後、寛政6年(1794年)に新しく作られたものである<ref>{{Cite book|和書 |title=天照大神と天の岩戸開き図鑑―描かれた神々の物語― |year=2013 |publisher=伊勢神宮崇敬会 |pages=90-91 |author=鳥羽重宏}}</ref>。
江戸時代、[[円空]]は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した[[鯰絵]]には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる<ref>斎藤英喜『読み替えられた日本神話』{{full|date=2018-05}}{{要ページ番号|date=2018-05}}</ref>。
江戸時代には[[荻生徂徠]]、[[山片蟠桃]]などを筆頭に天照大御神の男神説が数多く主張されており、明治以降も[[津田左右吉]]や[[松前健]]、[[楠戸義昭]]、[[武光誠]]、[[筑紫申真]]、[[溝口睦子]]、[[宝賀寿男]]などに男神説が見られる。
ただし前述のように現在では国学時代に主流となった女神説が一般的であり、伊勢神宮を始め各神社でも女神としている。また、現代語訳本や漫画においても女神として描かれることが主流である。
なお、日本国内の諸説から離れて[[比較神話学]]の立場から見た場合、世界的に[[太陽神]]は男神よりも[[女神]]とされることが多かったという指摘もある。詳細は「[[太陽神]]」の項目を参照のこと。太陽女神(あるいは、女神とされることもある太陽神)の例としては、[[ソール (北欧神話)|ソール]]、[[サウレ]]、[[シャマシュ]]、[[シャプシュ]]、[[マリナ (イヌイット神話)|マリナ]]、[[義和|羲和]]、[[トカプチュプカムイ]]などがある。
一方日本神話を[[ギリシャ神話]]や[[ローマ神話]]と同じ性格の「神話」・「虚構」と位置づけることに反対し、上古東アジアの神話、習俗、祭祀の事情から男神であったとする説もある。「地域移動」を高所・天からの降下(天降り・[[天孫降臨]])と受けとめる考え方があったからとされる。
『[[姓氏録]]』などの記録において、女性を始祖とする氏族が一つも記載されていないことも、天照大御神が女神たりえなかった根拠とする見方がある<ref>[[宝賀寿男]]「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/amateru1.htm 天照大神は女性神なのか]」『古樹紀之房間』、2010年。</ref>。
=== 各仏教宗派の教学 ===
仏教界においては、宗派にもよるがちょうど[[八幡神]](やはた/ハチマン)のように「'''てんしょうだいじん'''」と音読みで読まれることが多い。
; [[真言宗]]
: 真言宗では天照大神を[[大日如来]]の[[化身]]と見ていた{{Sfn|伊藤|2003|pages=73-71}}(詳しくは[[両部神道]]の項へ)
; [[日蓮宗]]・[[法華宗]]
: 日蓮は御書の中で自身の出身地である[[安房国]][[長狭郡]](現在の[[千葉県]][[鴨川市]]の大半)を、天照大神の日本第一の[[御厨]]([[東条御厨]])であると記している。日蓮は天照大神と[[八幡大菩薩]]を日本の法華経守護の善神の筆頭とし[[十界曼荼羅]]に勧請しており<ref>『日蓮宗辞典』日蓮宗事典刊行委員会 1999年5月</ref>、その本地を[[釈迦牟尼仏]]だとしている<ref>『日蓮聖人の国神観』日蓮聖人と国神観 山川智應 1940年5月{{要ページ番号|date=2017-12}}</ref>。現在でも日蓮宗・法華宗の寺院では[[三十番神]]の一柱として天照大神が祀られている姿が見られる。
:
: [[昭和]]になると日蓮宗・法華宗各派は、日蓮が御書にて天照大神を帝釈天や梵天などのインドの神と比べて「小神」と呼んだこと、「''天照大神''」という文字が十界曼荼羅の中で[[鬼子母神]]や[[八大龍王]]などよりも下に書かれていることなどが問題視され、法華宗が不敬罪で訴えられる事件となった<ref>『曼陀羅国神不敬事件の真相―戦時下宗教弾圧受難の血涙記』小笠原日堂、礫川全次 2015年2月{{要ページ番号|date=2018-05}}</ref>。
== 天照大神を祀る神社 ==
[[ファイル:Yata no Kagami, artist impression.png|サムネイル|八咫鏡と同型鏡とされる[[大型内行花文鏡]]]]
* 天照大神を祀る神社を'''[[神明神社]]'''といい全国各地にあるが、その総本社は神宮([[伊勢神宮]])の内宮([[皇大神宮]])である<ref name="Y" /><ref name="N" />。皇大神宮は[[三種の神器]]のうちの一つ[[八咫鏡]](ヤタノカガミ)を[[神体|御神体]]として安置する神社である。[[File:Naiku 001.jpg|thumb|250px|天照大御神を祀る[[伊勢神宮]]の[[皇大神宮|内宮]]]]
* [[宮崎県]][[高千穂町]]岩戸には[[岩戸隠れ]]神話の中で天照大神が隠れこもったとされる[[天岩戸]]と天照大神を祀る[[天岩戸神社]]がある。東本宮は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)を祀り、西本宮は大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀る。[[File:Amanoiwato-east-shurine.jpg|thumb|250px|天岩戸神社東本宮]]
* [[日前神宮・國懸神宮]] - 日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である[[八咫鏡]]と同等のものとされる。[[File:Kunikakasu-jingu, torii.jpg|thumb|250px|國懸神宮]]
* [[伊雑宮]](三重県志摩市[[磯部町]]) - [[皇大神宮]](伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大御神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。[[File:Izawa-no-miya 07.jpg|thumb|250px|伊雑宮]]
* [[瀧原宮]]・瀧原竝宮(三重県度会郡[[大紀町]]) - ともに天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)を祀る別宮。瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原竝宮は荒御魂(あらみたま)が祀られるとされる。[[File:Takihara-no-miya_01.JPG|thumb|250px|左が瀧原竝宮・右が瀧原宮]][[File:Takihara-no-miya_08.JPG|thumb|250px|瀧原宮の御手洗場]]
* [[日向大神宮]](京都市[[山科区]]日ノ岡)
* 古賀神社([[福岡県]][[古賀市]])
* [[天照皇大神宮]](福岡県[[糟屋郡]][[久山町]])
* [[廣田神社]](兵庫県[[西宮市]]) - 天照大神の荒御魂を祀る。旧[[官幣大社]]で日本書紀にも記される。
* [[皇大神社 (福知山市)]](京都府福知山市[[大江町]])
* [[日御碕神社]](島根県[[出雲市]])-日本海に面する名勝・日御碕に鎮座。古来より信仰の聖地であった。現地では「出雲大社の祖神(おやがみ)」として信仰される。神社自体は元は[[スサノオ|素戔嗚尊]]を祀る社として創建されているが、[[安寧天皇]]13年に勅命によって天照大神を奉祀する「日沈宮(ひしずみのみや)」が建立。それをもって神社本殿とし、主祭神も天照大神となった(ただし「日沈宮」は”下の宮”と呼ばれ、[[スサノオ|素戔嗚命]]を祀る社を”上の宮(神の宮)”と呼ぶ)。かつては「神宮」号が使われ、「日御碕大神宮」といった。当地は天照大神を祀る「日沈宮」を見下ろす形で弟・素戔嗚命を祀る「上の宮(神の宮)」が鎮座している。また、神話上反目し合う姉弟が共に主祭神として祭祀されている事も特徴。
* 今伊勢宮(今伊勢神社)(広島県福山市神村町)-[[元伊勢]]伝承地の一つ。『[[倭姫命世記|倭媛命世記]]』にある天照大神を奉斎した[[豊鍬入姫命]]が4年間滞在した「名方浜宮」の比定地とされている。伊勢の神宮に同じく、天照大神を祭神とする[[皇大神宮|内宮]]と、豊受大神(豊受皇大神)を祭神とする[[外宮]]で構成されている他、「[[荒祭宮]]」「伊蘇宮」「[[伊雑宮]]」「[[風宮]]」もあり、いずれも[[伊勢神宮|神宮]]に準じている。
* [[山口大神宮]](山口県[[山口市]])
* [[大日霊貴神社]](秋田県[[鹿角市]][[八幡平]])
* [[八倉比売神社]](徳島県[[徳島市]][[国府町矢野]]) - 社伝に御祭神・大日孁尊(天照大神)の葬儀の様子が記されている。
* [[籠神社]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.motoise.jp/about/|title=籠宮大社|accessdate=2016-04-09|author=京都府宮津市|date=2016}}</ref> - 天照大神と孫神・彦火明命(饒速日命・[[ニギハヤヒ]])を祀る。元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称される。
* [[愛媛県]][[西条市]]にある[[伊曽乃神社]]は、天照大神 [[荒御魂]]と[[武国凝別命]]を祀っている。[[西条祭り]]では[[伊勢音頭]]が歌われ、[[伊勢神宮]]の[[式年遷宮]]では西条の[[だんじり]]が奉納されている。
* [[石川県]][[金沢市]]にある[[尾崎神社]]は、 天照大神、[[徳川家康|東照大権現]]、[[加賀藩]]三代藩主[[前田利常]]を祀る。
* [[宗忠神社]] (京都府京都市)・神道山 (岡山県岡山市) - [[黒住教]]の霊地。
* [[大洲七椙神社]] - [[誉田別命]]、[[建御名方命]]、[[天照皇大神]]。長野県[[下伊那郡]]松川町大字元大島
* [[留辺蘂神社]](北海道北見市)
* [[温根湯神社]](北海道北見市)
== 全国の天照大神伝承 ==
[[ファイル:Origin of the Cave Door Dance (Amaterasu) by Shunsai Toshimasa 1889.jpg|thumb|400px|天岩戸神話の天照大御神([[春斎年昌]]画、明治22年([[1889年]]))]]
天照大神の伝承は各地に存在する。
=== 全国の天照大神伝承 ===
* [[木曽山脈]]の[[恵那山]]には天照大神誕生の際に、[[胎盤|胞衣(えな)]]が埋設されたという伝承が残る<ref>{{Cite book|和書 |title=日本の山1000|series=山溪カラー名鑑|year=1992|month=08|publisher=[[山と渓谷|山と溪谷社]]|isbn=4635090256|page=.355}}</ref>。
* [[長野県]]戸隠山の[[戸隠神社]]には[[天岩戸]]の伝承が残る<ref name="S" />。
* [[三重県]]のめずらし峠は、天照大神と天児屋根命が出会ったという伝承が残っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kankomie.or.jp/spot/detail_1819.html|title=めずらし峠の観光施設・周辺情報‐観光三重|accessdate=2011年12月24日|publisher=三重県観光連盟|language=日本語}}</ref>。
* [[奈良県]]の與喜(よき)山には天照大神が降臨した伝承が伝わっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://yokiten.com/history.html|title=與喜天満神社公式サイト ご由緒|accessdate=2011年12月24日|publisher=與喜天満神社|language=日本語}}</ref>。また、長谷寺の[[本尊]][[十一面観世音菩薩]]立像の左[[脇侍]][[雨宝童子]]立像は、天照大神として信仰されており、頭髪を[[角髪|美豆良]]に結って冠飾を付け、[[裳]]を着し[[袍衣]]を纏った姿をしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://hasedera.or.jp/history/statue.html|title=寺宝(像)|accessdate=2017年3月3日|publisher=奈良大和路の花の御寺 総本山 長谷寺|language=日本語}}</ref>。
* [[島根県]][[隠岐郡|隠岐]]は天照大神が[[行幸]]の際、そこに生育していた大木を「おおき」と感動して呼んだことが隠岐の名の起源であるという伝承が残る<ref>{{Cite web|和書|url=http://nkk-oki.com/page212.html|title=成り立ち|accessdate=2011年12月24日|publisher=西ノ島町観光協会|language=日本語}}</ref>。
* [[鳥取県]][[因幡国|因幡]]の[[八上郡 (鳥取県)|八上郡]]には、天照大神がこの地にしばらくの間[[行宮]]する際、白兎が現れて天照大神の裾を銜(くわ)えて、行宮にふさわしい地として、現在も[[八頭町]]と[[鳥取市]]河原町の境にある伊勢ヶ平(いせがなる)にまで案内し、そこで姿を消したとされる<ref name="U">{{Cite web|和書|url=http://www.tottori-inaba.jp/new-tokusyu/kinanse-campaign/en-bus-tour/|title=うさぎが導く縁結びバスツアー 因幡の旅特集ページ 鳥取いなば観光ネット 鳥取県東部の観光ポータルサイト|accessdate=2011年12月25日|publisher=鳥取・因幡観光ネットワーク協議会|language=日本語}}</ref>。八頭町の青龍寺の城光寺縁起と土師百井(はじももい)の慈住寺記録には、天照大神が国見の際、伊勢ヶ平付近にある御冠石(みこいわ)に冠を置いたという伝承が残っている<ref name="U" />。この伝承と関連して八頭町に3つの[[白兎神社]]が存在し、八頭町米岡にある神社は元は伊勢ヶ平にあった社を遷座したものと伝えられるが、具体的な伝承に基づく全国的に見ても極めて珍しい神社である。
* 同じく鳥取県八上の[[氷ノ山]](ひょうのせん)の麓、[[若桜町]]舂米(つくよね)には天照大神が大群を従えての行幸伝承とともに、天照大神が作ったとされる和歌が伝わっている<ref>大江幸久『もう一つの因幡の白兎神話 天照大神行幸と御製和歌の伝わる八上神秘の白兎と天照大神伝承』{{full|date=2017-12}}{{要ページ番号|date=2017-12}}</ref>。[[2007年]](平成19年)、若桜町舂米地区内で天照大神が腰掛けをした[[さざれ石]]が発見された<ref>[[日本海新聞]]平成21年6月10日</ref>。
* 氷ノ山の名は、天照大神が樹氷の美しさに感動して日枝(ひえ)の山と呼んだことが起源とされ、氷ノ越えの峠(ここにもかつて白兎を祀る因幡堂があった)を通って因幡をあとにしたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.wakasa.tottori.jp/dd.aspx?menuid=2798|title=若桜町の位置/若桜町|accessdate=2011年12月25日|publisher=若桜町|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130501133342/http://www.town.wakasa.tottori.jp/dd.aspx?menuid=2798|archivedate=2013年5月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
* 現在は存在しないが、[[熊本県]]の[[八代市]]には上古に天照大神の山陵が在ったと伝えられる<ref>森本一瑞『肥後国誌』{{full|date=2017-12}}{{要ページ番号|date=2017-12}}</ref>。
* [[宮崎県]][[高千穂町]]岩戸にあり天照大神を祭神とする[[天岩戸神社]]の周辺には、[[岩戸隠れ]]神話の中で天照大神が隠れこもったとされる[[天岩戸]]をはじめ、複数の神話史跡や関連の地名が残る。
====天照大御神=卑弥呼説====
{{see|卑弥呼#天照大神説}}
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|アマテラス}}
{{Commonscat|Amaterasu ōmikami}}
* [[日本の神の一覧]]
* [[トヨウケビメ|豊受姫(豊受大神)]] - 豊穣を司る女神で、伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』によると天照大神が「独りで食事をするのは寂しい」と神託して招いたとされ、[[雄略天皇]]の時代から豊受大神として伊勢神宮外宮([[豊受大神宮]])に祀られている。
* [[瀬織津姫]](撞賢木厳之御魂天疎向津媛命) - [[廣田神社]]などを筆頭に、天照大神の[[荒魂・和魂|荒魂]]として各地の神社に祀られていることがある。
* [[稚日女尊]]
* [[ユダヤ教]]
* [[太一]] - 至高神の意で天照大神と習合したとされる<ref>[[吉野裕子]]「伊勢神宮考」(『民俗学研究』第39巻3号、1974年)p.209-232</ref>。
* [[日の神論争]] - [[上田秋成]]と[[本居宣長]]の太陽神をめぐる論争。
* [[日本神話]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[薗田稔]]、茂木栄『日本の神々の事典 神道祭祀と八百万の神々』 学研、 1997年
* 後藤然、渡辺裕之、羽上田昌彦ほか『神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』学研「ブックス・エソテリカ」、 1992年
* {{Cite book|和書|author=佐藤 弘夫|authorlink=佐藤弘夫|title=アマテラスの変貌 - 中世神仏交渉史の視座|date=2000-8|publisher=法蔵館
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}}
* {{Cite journal|和書|author=伊藤 聡|title=天照大神=大日如来習合説をめぐって(上)|url=https://hdl.handle.net/10109/168|date=2003-3|publisher=茨城大学人文学部|journal=茨城大学人文学部紀要. 人文学科論集|volume=39|issue=|naid=|pages=74-58|ref={{SfnRef|伊藤|2003}}}}
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エンジェル・ハート
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『エンジェル・ハート』(AngelHeart)は、北条司による日本の漫画。また、これを原作としたテレビアニメ・テレビドラマ。『週刊コミックバンチ』(新潮社)にて2001年創刊号から2010年36・37合併号まで連載されたのち、『エンジェル・ハート 2ndシーズン』 として『月刊コミックゼノン』(ノース・スターズ・ピクチャーズ)2010年創刊号(12月号)から2017年7月号まで連載された。1stシーズンの単行本はBUNCH COMICSより33巻まで発売されている。略称は『A.H.』。2015年7月時点でシリーズ累計発行部数は約2500万部を記録している。
作者の代表作『シティーハンター』(以下、『C.H.』)を、家族愛をテーマとしてリメイクし、同作のパラレルワールドを描いている。この家族愛というテーマは前作『F.COMPO』においても主題となっていたものであり、その他多数の作品において読み取れる作者の大きなテーマとなっている。『C.H.』は突然4週後の連載終了を通告されて終了しており、北条に描き切っていないという強い思いを与えた作品であり、これが本作の執筆されるきっかけとなった。
『C.H.』と同様、新宿を主な舞台とした現代劇であるため、時代設定は10年程の開きがある。このため、『C.H.』時にはなかった携帯電話が登場するなど、背景となる社会設定は大きく変わっている。また獠の身体にも老眼や腰痛という症状が出ているように、この時代設定の開きと同じだけ登場人物たちも年齢を重ねている。ただし、2000年代中期以降は時間経過の設定が曖昧になっている。作者は、『超こち亀』で秋本治の連載30周年を祝う時のコメントで、連載が長引きそうだから年齢を停止しようと考えているとコメントしており、2ndの単行本のインタビューでは、停止させたと発言している。
パラレルワールドを描いたリメイク作品であるため、登場人物などの設定には『C.H.』から引き継いだ部分と変更された部分とが混在している。引き継いでいる部分については、獠の性格のようにほぼそのまま継承されているものだけではなく、「姿形は変われど、ファルコンとミキ(美樹)が出会い、堅い絆で結ばれる」といった形を変えながら引き継がれている部分もある。
台湾から来た殺し屋の少女と、新宿のスイーパーとの家族愛の物語。
新宿に現れた史上最強の暗殺者は、美しすぎる人間兵器だった。彼女(香瑩)のコードネームは「グラス・ハート」。完璧を誇る仕事振りに組織からは高い評価を得ていたが、彼女の心は、暗殺という任務を重ねる度に軋み、蝕まれていった。悩んだ末彼女は自ら死を選ぶが、組織の力によって、再び現世に呼び戻された。事故死した冴羽獠の最愛のパートナー、槇村香の心臓を移植されて。
香の心臓を移植したことにより、「グラス・ハート」と呼ばれた彼女の心に変化が起き、感情が生まれた。そして暗殺から手を引き、組織と対立する意思を持つ。香の心臓を持つ事によって無意識の内に獠と接触し、スイーパーとして「シティーハンター」の世界に入っていく。
テレビアニメ版『C.H.』に登場するキャラクターについては、基本的に同じ声優が担当している。
195話に『レストアガレージ251車屋夢次郎』の主人公・里見夢次郎がモブキャラクターとして登場した。また、131話に『キャッツ♥アイ』に登場した「ねずみ」こと神谷真人が、銀行強盗犯としてニュースで取り上げられているシーンがある。その他、『C.H.』や本作の脇役となっているカラスが登場している。
2005年10月から2006年9月まで、よみうりテレビ、日本テレビ系の一部の局(系列局では1週間 - 2クールの遅れ放送)で放送。CS放送「キッズステーション」でも2クール遅れで放送された。
事実上の前作である『C.H.』の、『シティーハンター91』以来(シリーズ全体としては、1999年4月23日放送のテレビスペシャル第3弾『シティーハンターSP緊急生中継!? 凶悪犯冴羽獠の最期』)のアニメ化作品である。
当初は2005年4月に開始予定であったが、放送スケジュールの都合により半年間延期され、同年10月からの放送となった。制作会社は、『C.H.』を制作したサンライズからアニメ版『キャッツ・アイ』を制作したトムス・エンタテインメントに変更になったが、プロデューサーの諏訪道彦と声優陣は『C.H.』から引き続き担当している。また音楽担当の岩崎琢と音響監督の長崎行男は14年後に公開された『C.H.』の劇場版『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉』でも続投している。
全50話のうち、第13話まではプロローグと位置付けられ、暗殺者グラス・ハートが香瑩になるまでが語られた。その後の内容は、原作の第18巻までの内容とほぼ合致する。香瑩役の声優は、応募3,000人からオーディションで選ばれた川崎真央が務めた。
原作では「パラレルワールド」と称している『C.H.』との関係は、アニメでは「アナザーストーリー」と称している(事前番組(#0)より)。
アニメでは原作のギャグの大半(特にハンマー、カラス、極楽トンボ)はカットされていたが、総作画監督が第39話以降に青野厚司へ交代してからはギャグシーンが多くなった。また、神谷明と内海賢二が共演した第42話では、2人がそれぞれ『北斗の拳』のケンシロウ役、ラオウ役であることから、双方がアドリブで互いの台詞「我が生涯に一片の悔い無し」「お前はもう死んでいる」を言い合うというお遊びも盛り込まれた。
アニメ版『C.H.』ではアニメオリジナルエピソードも多く制作されたが、本作ではアニメオリジナルエピソードは制作されず、若干の追加シーンを除けば第24話にそれまでの総集編的な話を入れただけである。
(出典)
第1話はオープニングテーマ、エンディングテーマ共にサウンドトラックの曲が使われた。
端役やゲストキャラクターのアフレコを声優の他にタレント、(当時の)アナウンサーがおこなったこともある。
放送時間は個別に提示されているものを除き2006年1月時点。
NACK5で2005年4月3日より毎週日曜放送のラジオ番組『Heart of Angel』。
1回目より42回目までは『XYZ Ryo's Bar』として、43回目以降は『XYZ 香瑩's cafe』として放送された。
2010年10月2日に東京・吉祥寺シアターで、北条の作家生活30周年プロジェクトの一環として、映画(実写映像)とダンスによる1日限りのイベント「DANCE×THEATER エンジェルハート〜羽ばたける者たちへ〜」を開催。香瑩が(ダンスとしての)カポエイラに挑戦するエピソード(コミックス23・24巻収録)を題材に演出したコラボレーションイベントで、 映画・舞台ともに、杉本有美が香瑩役を演じた。また、『月刊コミックゼノン』3号(2010年12月25日発売)には、映画・舞台の模様などを収めたDVDが付録で添えられている。
2015年10月11日から12月6日まで日本テレビ系の日曜ドラマ枠で同枠の第3弾として放送された。脚本は高橋悠也、演出は狩山俊輔が担当。主人公の冴羽獠を上川隆也が演じた。
『シティーハンター』からの愛読者でもある上川は、獠を演じるに際し自らの容姿を獠へ近づけるため、仕事上の前作『花咲舞が黙ってない(第2シリーズ)』のクランクアップ以降の2015年7月初旬から肉体改造に励んだ結果、体脂肪率が10%を切ったという。獠の役作りに際してもシーンごとやカットごとに考えながら演じており、『花咲舞が黙ってない』が終わってから他の作品に取り組んでいる間も本作のことを考えていたという。肉体改造中のトレーニングや食事については、2015年10月15日放送の『ぐるぐるナインティナイン』にて紹介されたうえ、ドラマオリジナルキャラクターのカリート役の和泉崇司も上川と同様のトレーニングに励んでいる様子が紹介された。
上川は、クランクイン前に原作者の北条とバーで役作りについて熱く語り合ったり、アクションシーン前には楽屋で腕立て伏せなどの筋トレをしてから撮影に臨んでいるという。その意気込みについては、常に獠のことを考えながら生活しているだけに留まらず、彼のハードボイルドさを前面に出したい日本テレビの意向に反し、獠の台詞に「もっこり」を再現しようとプロデューサーに直談判した上、現場でもアドリブで「もっこり」を挟み込んでは編集で全部カットされ続けた結果、第4話でようやく採用されたほどである。また、緊張していた香瑩役の三吉彩花に自ら話しかけるなど、撮影現場の雰囲気作りも忘れていないという。三吉の方も撮影現場にお手製のカレーを持参して皆に振る舞う心遣いで上川を感心させたり、本番では使えないような上川のアドリブに軽くツッコミを入れるなど良好な関係を築いたという。
番組放送前は賛否が割れていたが、第1話放送後にはTwitterに原作ファンからも上川を絶賛するコメントが寄せられた。また、ブラザートムが演じるファルコンについても好印象のコメントが寄せられたほか、新人時代にアニメ版『シティーハンター』に端役の声で出演し、「シティーハンタースペシャル グッド・バイ・マイ・スイートハート」(1997年)で獠と対決する敵役のメインゲスト・武藤武明(通称プロフェッサー)を演じた山寺宏一が、本作には顔出しで出演していることにも感慨深く触れられている。この高評について、上川は冷静に分析して背筋を正したうえで、「皆さんにとっての『エンジェル・ハート』とのズレが大きくなっていかないことを僕らは目指したい」と真摯に語っている ほか、獠についても「絶対的なヒーローだけに重責を感じる」と気迫を覗かせている。北条も嬉しく思っているらしく、スタッフを通じて上川や三吉へお墨付きの言葉を送っている。テレビ解説者の木村隆志も、上川の内面を分析したうえで「誠実だから再現率が高い」「やりすぎないから見やすい」と評価している。また、三吉の演技力と身体能力の高さについての高評も挙がっている。
西内まりやが歌う主題歌の「Save me」については、賛否が分かれている。「エンジェル・ハートの世界観に合っている」などの高評のコメントが寄せられる 一方で、『シティーハンター』世代のアニメファンからは違和感を訴えるコメントが寄せられており、「(同作のエンディングテーマ「Get Wild」を手がけた)小室哲哉に作曲してもらいたかった」という声が出ている。ただし、主題歌自体は西内が5、6曲ほど作成して提出した中から原作者の北条に「世界観に合うから」と選ばれたものである。
フィーチャーフォン版のMobageでソーシャルゲーム『エンジェル・ハート』が配信。
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"text": "上川は、クランクイン前に原作者の北条とバーで役作りについて熱く語り合ったり、アクションシーン前には楽屋で腕立て伏せなどの筋トレをしてから撮影に臨んでいるという。その意気込みについては、常に獠のことを考えながら生活しているだけに留まらず、彼のハードボイルドさを前面に出したい日本テレビの意向に反し、獠の台詞に「もっこり」を再現しようとプロデューサーに直談判した上、現場でもアドリブで「もっこり」を挟み込んでは編集で全部カットされ続けた結果、第4話でようやく採用されたほどである。また、緊張していた香瑩役の三吉彩花に自ら話しかけるなど、撮影現場の雰囲気作りも忘れていないという。三吉の方も撮影現場にお手製のカレーを持参して皆に振る舞う心遣いで上川を感心させたり、本番では使えないような上川のアドリブに軽くツッコミを入れるなど良好な関係を築いたという。",
"title": "テレビドラマ"
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"text": "番組放送前は賛否が割れていたが、第1話放送後にはTwitterに原作ファンからも上川を絶賛するコメントが寄せられた。また、ブラザートムが演じるファルコンについても好印象のコメントが寄せられたほか、新人時代にアニメ版『シティーハンター』に端役の声で出演し、「シティーハンタースペシャル グッド・バイ・マイ・スイートハート」(1997年)で獠と対決する敵役のメインゲスト・武藤武明(通称プロフェッサー)を演じた山寺宏一が、本作には顔出しで出演していることにも感慨深く触れられている。この高評について、上川は冷静に分析して背筋を正したうえで、「皆さんにとっての『エンジェル・ハート』とのズレが大きくなっていかないことを僕らは目指したい」と真摯に語っている ほか、獠についても「絶対的なヒーローだけに重責を感じる」と気迫を覗かせている。北条も嬉しく思っているらしく、スタッフを通じて上川や三吉へお墨付きの言葉を送っている。テレビ解説者の木村隆志も、上川の内面を分析したうえで「誠実だから再現率が高い」「やりすぎないから見やすい」と評価している。また、三吉の演技力と身体能力の高さについての高評も挙がっている。",
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"text": "西内まりやが歌う主題歌の「Save me」については、賛否が分かれている。「エンジェル・ハートの世界観に合っている」などの高評のコメントが寄せられる 一方で、『シティーハンター』世代のアニメファンからは違和感を訴えるコメントが寄せられており、「(同作のエンディングテーマ「Get Wild」を手がけた)小室哲哉に作曲してもらいたかった」という声が出ている。ただし、主題歌自体は西内が5、6曲ほど作成して提出した中から原作者の北条に「世界観に合うから」と選ばれたものである。",
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"text": "フィーチャーフォン版のMobageでソーシャルゲーム『エンジェル・ハート』が配信。",
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『エンジェル・ハート』(AngelHeart)は、北条司による日本の漫画。また、これを原作としたテレビアニメ・テレビドラマ。『週刊コミックバンチ』(新潮社)にて2001年創刊号から2010年36・37合併号まで連載されたのち、『エンジェル・ハート 2ndシーズン』 として『月刊コミックゼノン』(ノース・スターズ・ピクチャーズ)2010年創刊号(12月号)から2017年7月号まで連載された。1stシーズンの単行本はBUNCH COMICSより33巻まで発売されている。略称は『A.H.』。2015年7月時点でシリーズ累計発行部数は約2500万部を記録している。
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{{otheruses|北条司の漫画、およびそれを原作とするアニメ・ドラマなど|その他|エンジェルハート (曖昧さ回避)}}
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{{Infobox animanga/Header
| タイトル = エンジェル・ハート
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| タイトル = エンジェル・ハート 2ndシーズン
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{{Infobox animanga/TVAnime
| 原作 = 北条司
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| シリーズ構成 = [[植竹須美男]]
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{{Infobox animanga/TVDrama
| 原作 = 北条司
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| 放送局 = 日本テレビ系列
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{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]・[[プロジェクト:テレビドラマ|テレビドラマ]]
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『'''エンジェル・ハート'''』(AngelHeart)は、[[北条司]]による[[日本]]の[[漫画]]。また、これを原作とした[[テレビアニメ]]・[[テレビドラマ]]。『[[週刊コミックバンチ]]』([[新潮社]])にて[[2001年]]創刊号から[[2010年]]36・37合併号まで連載されたのち、『'''エンジェル・ハート 2ndシーズン'''』<ref group="注釈">掲載誌が変わったことから、便宜上「第2期」を示す「2nd[[シーズン (テレビ)|シーズン]]」がタイトルに加えられた。</ref> として『[[月刊コミックゼノン]]』([[ノース・スターズ・ピクチャーズ]])2010年創刊号(12月号)から2017年7月号まで連載された。1stシーズンの単行本は[[BUNCH COMICS]]より33巻まで発売されている。略称は『A.H.』。2015年7月時点でシリーズ累計発行部数は約2500万部を記録している<ref>{{Cite web|和書|url=https://mdpr.jp/news/detail/1503074 |title=「シティーハンター」北条司の人気コミック、初の実写化「まるで想像がつかない」 |work=modelpress |date=2015-07-16 |accessdate=2020-09-21}}</ref>。
== 概要 ==
作者の代表作『[[シティーハンター]]』(以下、『C.H.』)を、家族愛をテーマとして[[リメイク]]し、同作の[[パラレルワールド]]を描いている。この家族愛というテーマは前作『[[F.COMPO]]』においても主題となっていたものであり、その他多数の作品において読み取れる作者の大きなテーマとなっている。『C.H.』は突然4週後の連載終了を通告されて終了しており、北条に描き切っていないという強い思いを与えた作品であり、これが本作の執筆されるきっかけとなった<ref>『20周年記念 イラストレーションズ』104頁</ref><ref>『A.H.公式ガイドブック』91 - 92頁</ref>。
『C.H.』と同様、[[新宿]]を主な舞台とした現代劇であるため、時代設定は10年程の開きがある。このため、『C.H.』時にはなかった[[携帯電話]]が登場するなど、背景となる社会設定は大きく変わっている。また{{補助漢字フォント|獠}}の身体にも老眼や腰痛という症状が出ているように、この時代設定の開きと同じだけ登場人物たちも年齢を重ねている。ただし、[[2000年代]]中期以降は時間経過の設定が曖昧になっている。作者は、『[[超こち亀]]』で[[秋本治]]の連載30周年を祝う時のコメントで、連載が長引きそうだから年齢を停止しようと考えているとコメントしており、2ndの単行本のインタビューでは、停止させたと発言している。
パラレルワールドを描いたリメイク作品であるため、登場人物などの設定には『C.H.』から引き継いだ部分と変更された部分とが混在している。引き継いでいる部分については、{{補助漢字フォント|獠}}の性格のようにほぼそのまま継承されているものだけではなく、「姿形は変われど、ファルコンとミキ(美樹)が出会い、堅い絆で結ばれる」といった形を変えながら引き継がれている部分もある。
== あらすじ ==
[[台湾]]から来た殺し屋の少女と、新宿のスイーパーとの家族愛の物語。
新宿に現れた史上最強の暗殺者は、美しすぎる人間兵器だった。彼女(香瑩)のコードネームは「グラス・ハート」。完璧を誇る仕事振りに組織からは高い評価を得ていたが、彼女の心は、暗殺という任務を重ねる度に軋み、蝕まれていった。悩んだ末彼女は自ら死を選ぶが、組織の力によって、再び現世に呼び戻された。事故死した冴羽{{補助漢字フォント|獠}}の最愛のパートナー、槇村香の心臓を移植されて。
香の心臓を移植したことにより、「グラス・ハート」と呼ばれた彼女の心に変化が起き、感情が生まれた。そして暗殺から手を引き、組織と対立する意思を持つ。香の心臓を持つ事によって無意識の内に{{補助漢字フォント|獠}}と接触し、スイーパーとして「シティーハンター」の世界に入っていく。
== 登場人物 ==
テレビアニメ版『C.H.』に登場するキャラクターについては、基本的に同じ[[声優]]が担当している。
; 香瑩(シャンイン)
: 声 - [[川崎真央]](幼少期 - [[金田朋子]]) / [[高山みなみ]](ドラマCD) / [[五十嵐裕美]]([[戦国大戦]])
: 本作の主人公。{{補助漢字フォント|獠}}と香の義娘(養女)。年齢は初期のころは、15だったが<ref>{{Cite web|和書|title=エンジェル・ハート|url=http://www.ytv.co.jp/angelheart/story/story01.html|website=www.ytv.co.jp|accessdate=2019-11-11}}</ref>、第1シーズン終盤で19。元々は[[台湾]]マフィア「正道会」(チェンダオフェイ)のボス「李堅強」(リ・ジィエンチャン)の娘・李香瑩(リ・シャンイン)である。
: 2歳のころ、父の部下の謀反によって、母親と共に乗っていた車ごと海に沈められた。母親はその際に死亡、彼女も行方不明になるが、計略により殺し屋として育て上げられ、正道会の暗殺部隊「朱雀」に所属していた。コードネームは「グラス・ハート」。李大人は彼女の生存を信じていたものの、この陰謀については物語開始直前まで知らなかった。
: 度重なる暗殺命令によって次第に心を蝕まれ、最終的に飛び降り自殺を行い、心臓を鉄柵で刺し貫くが、マフィアが強奪した{{補助漢字フォント|獠}}のパートナー、香の心臓を移植され一命を取り止める。心臓を移植されたことで香の心が宿り、後に香瑩は{{補助漢字フォント|獠}}と行動を共にすることになる。
: ファルコン(海坊主)が「香瑩の戦闘能力は冴羽と同等。信頼性は比べるまでもなく香瑩」と評価している。{{補助漢字フォント|獠}}はいざという時でも美女がいればちょっかいを出すので信頼性がないということ。
: 香瑩という名前は、父の李大人の名付けによる本名だが、父であることを明かさない決意をした李大人に代わって、{{補助漢字フォント|獠}}が身元を引き受ける際に新たに名づけた形となっている。その際は最愛のパートナーの名前から「香」、2人の大切な子供であることから、宝石のように美しく大切なものという意味で「瑩」と説明した。
: 初期はクールな性格であり、幼少のころから殺し屋として教育された。ナイフで髪を切ったり、花に水を遣る意味が理解できなかったり、おしゃれを変装と思い込み着飾るのを拒絶したりなど、一般常識が欠落していた。シティーハンターとして初めての事件では、原因となる人物を狙撃して簡単に解決しようとしたりする。しかし、物語が進むにつれて、移植した香の心臓の影響と、{{補助漢字フォント|獠}}や冴子らとのふれあいの中で、徐々に明るい性格になり、周囲と過ごす内に一般常識も身に付ける。しかし、暗殺者特有の気質で、睡眠中も神経は研ぎ澄まされている。
: 7巻の途中からは{{補助漢字フォント|獠}}の娘となって2年目を迎え、第2部的な展開となり、{{補助漢字フォント|獠}}と共にシティーハンターとして行動する。また、それまでは日本語の喋り方がカタコトだったが(中国人風)、2年目からは一般的な日本人口調で会話するようになった。原作では{{補助漢字フォント|獠}}や冴子からは「阿香」(アシャン。シャンちゃんの意味)で呼ばれることが多い(ただしアニメ版では香瑩のまま)。
: 100tハンマーの使い手である。しかし『C.H.』の香と共通なのはそれのみで、コンペイトウ、トラップ、すまき(布団でグルグル巻きにする)、煩悩退散棒などは使わない。それでも{{補助漢字フォント|獠}}の「もっこり」を抑え天誅を喰らわせる程の攻撃力を持つ。酷い時は馬鹿力で海坊主の店までボロボロにしたことがある(9巻)。コートの裏に多数の拳銃を隠し持っている。殺し屋の性か、危険を察知するとすぐ発砲してしまう(8巻)。使用拳銃は[[コルト・ガバメント]](原作はカスタム(クラークボウリングピンモデル)だが、アニメ版ではノーマル)。
: {{補助漢字フォント|獠}}を「{{補助漢字フォント|獠}}{{JIS2004フォント|爸爸}}」(りょうパーパ)、香を「香媽媽」(かおりマーマ)と呼んでいる。10巻では、香の姉である立木早百合のことを「早百合伯母」(さゆりイーマ)と呼んでいる。
: 隙の無さが欠点で周囲からは「冴子二世」と呼ばれ冴子本人もそれを認めている。香と同様に音痴である。信宏を仲間・家族という認識でしか見ていなかったが少しずつ変化しており、{{補助漢字フォント|獠}}達と出会って5年目の2ndシーズンのコミックス第6巻で信宏が風俗に嵌まったと冗談で言った{{補助漢字フォント|獠}}に激怒しハンマーをお見舞いした。{{補助漢字フォント|獠}}もだが自身でもなぜ怒ったのか理解できておらず、意識の変化は微妙すぎて自覚できていない。2ndシーズン15巻の時点で堅強が実父だと知っており、親子の名乗りはしないまま「台湾のお父さん」と呼んでいた。
: 芸能スカウトから何度か声が掛かるなど、モデル体型のスタイルでかなりの美人。
; 冴羽{{補助漢字フォント|獠}}(さえば りょう)
: 声 - [[神谷明]]
: 『C.H.』に対して本作では、香瑩の義父としての役割が加わる。他は『C.H.』から引き続きプロの始末屋(スイーパー)「シティーハンター」で、使用拳銃も[[コルト・パイソン]]である。もっとも『C.H.』のころよりも容姿は老けて描かれており、腰痛(1巻)や老眼持ちであるなど、年齢を感じさせる描写がなされている。
:頻度こそ減ってはいるものの、スケベぶりも相変わらずで『C.H.』同様美女を見ると「もっこり」する。その際は『C.H.』のころの香に代わって、香瑩から天誅を食らっている。
:『C.H.』では、香に対する愛情表現は屈折しており、そっけない態度をとり続けていたが、本作では香が事故死する直前にプロポーズしていた。香瑩の中に意識として残っていた香が「香瑩は自分たちの娘だ」と言い、また香瑩の実父・李大人からの強い願いもあり、香瑩の父役を引き受けた。しかし、堅強の死期が迫ったころ、偽親子関係と忌み嫌うカメレオンにより香瑩が既に自力で実父の正体をつき止めていたことを知らされ、あまりにも彼女を子供扱いしすぎていた己自身を悔やむ。
{{Main|冴羽獠}}
; 槇村香(まきむら かおり)
: 声 - [[伊倉一恵]]
: 香瑩の事実上の義母。
: 『C.H.』のヒロインであったが、本作では車に轢かれそうになった幼児を庇って交通事故で脳死状態となり、彼女から摘出された心臓がマフィアによって強奪された所から始まる<ref group="注釈">彼女自身は[[ドナー]]登録者であったため[[移植 (医療)|移植]]用に摘出されていた。</ref>。本来は起こり得ないことであるが、心臓が移植された先の香瑩の中に意識として生き続けている。自分の心臓を受け継いだ香瑩を娘と思っており、{{補助漢字フォント|獠}}と共に香瑩の[[義親]]となる。
:『C.H.』では愛用の銃の照準が加工されていたため、銃弾が狙い通りに当たらないという設定だったが、本作では本当に射撃の腕が無い設定になっている。[[看護師]]をしており、{{補助漢字フォント|獠}}とも患者として出会い香瑩同様名前のなかった{{補助漢字フォント|獠}}に冴羽 {{補助漢字フォント|獠}}の名前を付けている。
: また、『C.H.』では[[1967年]][[3月31日]]生まれという設定だったが、本作では[[2000年]][[5月12日]]に28歳で死亡のため年齢設定が異なる。
{{Main|槇村香}}
; 劉信宏(リュウ シンホン)
: 声 - [[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]](幼少期 - [[日比愛子]])
: 正道会の戦闘部隊「青龍」(チンロン)の元隊員で、狙撃などを得意とする。腕は香瑩とほぼ互角であり、特に組み手などは一歩も引けをとらない。
: 香瑩とは訓練学校時代の友人であったが、最終試験という名の殺し合いの際、幹部に嵌められ彼女に殺されかけた。序盤では香瑩が「自分が殺した」と思い込み、トラウマの原因になっていた。しかし、実は仮死状態であり、後に蘇生した。その後、香瑩の実父・李大人(李堅強)の弟で彼の影武者を務める李謙徳(以下、謙徳)を狙撃し殺害してしまう。
: 香瑩共々に組織の末端の実行メンバーであり、狙撃対象が組織の大ボスであることも命令を下した張が香瑩の人生を狂わせた元凶だと知らず、命令されるままに実行してしまった。張一味との激戦の最中に香瑩に再会した際、死を覚悟して自身の名を告げた。後に名前のことを問いつめられ、家族のことも自身の名前の記憶も無い彼女を気遣って同様に覚えていないと言った。
: 李大人から除隊と香瑩を守るように命令された後は、新宿に残り「[[喫茶キャッツアイ|COFFEE HOUSE CAT'S・EYE]]」の住み込み店員となるとともに、スイーパーの手伝いをするようになる。海坊主からコーヒーの淹れ方を叩き込まれており、27巻で海坊主は信宏の淹れたコーヒーを「95点」と評価している。本来ならば75点だが、笠井葉月が来店していて機嫌が良かった。初期のころから香瑩に比べて社会常識をわきまえていた上に日本語が流暢であったが、組織に所属していたころの習慣が抜け切れていない所もあり、周囲を呆れさせることもある。ゲームの世界に嵌まってゲームや神話などの雑学の知識が増えてゆき、それが殺人犯の手掛かりに繋がることもある。
: 元々の性格は直情径行で暴走しやすいという欠点を抱える。死に急ぐかのような側面は次第に薄れて徐々に明るい性格になり、時には街中でもっこりするように。香瑩に対して恋心を抱いているが、彼女には仲間・家族としか思われていないと知ってショックを受け、恋人の座を目指し男性として認識して貰うべく日々努力を重ねる。{{補助漢字フォント|獠}}を心の師と仰いでおり、また{{補助漢字フォント|獠}}も弟分として認めている。海坊主は理想の父親像であるため、海坊主大好きのミキとはお互いに兄妹だと思っている。アクション女優のジョイ・ロウに対しては、DVDや写真集、彼女関連の記事のスクラップをするなどの大ファンである。使用拳銃は[[ベレッタM84]](17巻)(アニメでは[[ベレッタ 92|ベレッタ92]])、[[H&K G3|G3A3]]狙撃仕様(こちらもアニメでは[[H&K PSG1|PSG1狙撃銃]])。香瑩を連れ去るかもしれない存在を敵視する癖がある。
: 2ndシーズン第7巻でバイクをころがす駆け落ち夫婦の両親と2歳年下の妹の雅玲(ヤーリン)とバイク旅行中に事故に遭い、病院で目覚めるも家族の生死もわからないまま正道会に連れ去られたことが判明した。似た生い立ちの末に絶命したある依頼主の事件を機に悪夢に苛まれるようになり、その後、妹によく似た女スリに遭遇。香瑩に励まされ、妹かもしれないと考えたスリの雅玲を捜すが、妹と両親の確かな死の事実を知り、彼女が同名の父方の従妹であることを知る。
; ファルコン
: 声 - [[玄田哲章]]
: 元傭兵・スイーパー。愛称は「海坊主」。
: 失明したためにスイーパーを引退しているが腕は健在で、目が不自由とは思えない動きができる。現在は「[[喫茶キャッツアイ|COFFEE HOUSE CAT'S・EYE]]」のマスターである。盲目でも小銭や4種類の紙幣も区別できるなど、普段の生活に支障はない。物凄い怪力で[[バズーカ]]を容易に2丁構え、[[バレットM82]]を片手で撃ち(14巻)、素手で(自分の店ではあるが)防弾ガラスにヒビを入れるほど凄まじい(17巻)。本人いわく、かつて[[アメリカ海兵隊]]に所属していた(17巻)。使用拳銃は前作と同じ[[S&W M29|S&W M629]](23巻)(アニメ『[[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]]』と同じくこちらのアニメでもM29だが発砲シーンはなく再装填のみ)。
:『C.H.』では傭兵時代、{{補助漢字フォント|獠}}と敵対する部隊に所属し、エンジェルダストを投与された{{補助漢字フォント|獠}}との戦闘が元で失明したことになっていたが、本作では同じ部隊の味方という設定で、失明の原因となる負傷も傭兵時代に{{補助漢字フォント|獠}}を救出に向かった際に受けた爆弾による負傷が原因になっている(25巻)。なお、猫恐怖症であり、猫アレルギー<ref group="注釈">前作アニメとは異なり今作アニメでは表現はされておらず、猫柄のパジャマを着用しているシーンがある。</ref>。ミキの担任の女性教師・新藤や傭兵時代に愛し合った看護婦の弥生の娘にも愛されるなど、誤解されがちな中で真の価値を知った女性に想いを寄せられることが多々ある。
: 1stシーズンでは信宏に続き10巻【145話:暗闇に見えた夕日】からストリートチルドレンのミキを引き取り、一緒に生活を始める。心配性で子離れが難しい未来図が予想される親バカと化し、2ndシーズンで信宏がクラブ費を肩代わりした少年・走(かける)のために奔走していたことを知って号泣し、辞退しようとした走の母親にお互いの子供の笑顔のためにと{{補助漢字フォント|獠}}と共に説得し陰ながら信宏を応援した。
: 『北条司漫画家25周年記念、自選イラストレーション100』での北条司のコメントによると、当作品での海坊主は日本人・伊集院隼人ではなくアフリカ系アメリカ人・ファルコンだと言うことである。
; 野上冴子(のがみ さえこ)
: 声 - [[一龍斎春水|麻上洋子]]
:『C.H.』では[[警視庁]]の刑事(階級は警部補)であったが、本作では新宿西警察署長に出世している<ref group="注釈">勤務時は制服を着用せず、私服に階級章と署長章を着装している</ref>。未だ独身。仕事一筋で署員らには「鉄人」と言われている。
: 喫茶キャッツアイを訪れる機会は、『C.H.』の時よりも多い。陳(正道会の陳侍従長)に口説かれたが、30歳後半のために振られたことがある。年齢、誕生日など年に関わることを言われると怒る、また信宏に「おばさんはひっこめ」と言われた際も怒っていた。8巻では39歳である(このエピソードは[[2003年]]。これは、かつて冴子をストーキングしていた遠山のパソコンのパスワードがsaeko39であったためである。解除したのは、香瑩。打ち込んだ時には、冴子ににらまれていた)。ミキとの出会いにより、心の奥に思い描いていたのは「ベタな暖かい家庭(夫が{{補助漢字フォント|獠}}、長女が香瑩、次女がミキのようなイメージ)」であると分かる。そしてミキの母親的存在となりミキに危険が迫っていると冷静さがなくなり母親としての心や本音が出てくるようになる。
: 性格は前作とは変わっており、前作では自分の美に絶対の自信を持っていたが本作では年齢を気にしたりするなど前作程の自信家ではなくなっている描写がある。また、前作は{{補助漢字フォント|獠}}を利用したり厄介ごとを持ち込んでくるなど狡賢い一面があって同時に茶目っ気があったが、本作ではそういった一面はなくなり、真面目で堅実な女性になっている。
: 使用拳銃は[[ワルサーPPK]](3巻)、[[グロック17|グロック19]](8巻)(ドラマ版は実際の日本の警察銃である[[S&W M37]])。
; 槇村秀幸(まきむら ひでゆき)
: 声 - [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](青年期 - [[千葉進歩]])
: {{補助漢字フォント|獠}}の最初の相棒で、香の義兄。
:『C.H.』では元刑事で、巨大麻薬シンジケートの日本進出に伴う事件に巻き込まれ、その組織の手によって殺されたという設定だったが、本作では刑事とシティーハンターの2足の草鞋を履いており、依頼で殺しに来た筈の{{補助漢字フォント|獠}}が押しかけ相棒になった。冴子とは恋人関係であり、婚約指輪を密かに購入するも渡せないまま冴子につきまとっていたストーカーの遠山一真によって殺害された<ref group="注釈">アニメでは遠山の存在を含めカットされているが、殺害されたことに関しては香瑩自身から発言している。また、{{補助漢字フォント|獠}}達とは異なり「秀幸おじさん」と呼んでいた。</ref>。お互いに意地っ張りで素直になれないため、自分で自分の首を絞める結果になってしまった。
: 使用拳銃は[[ニューナンブM60]](ドラマ版は前作同様[[コルト・ローマン|コルト・ローマン Mk-III]])。
; ミキ
: 声 - [[小山茉美]]
: 関わる人々を幸せにする少女。18巻では小学1年生。
: 母親(サトちゃん)が数年前に病死した後はストリートチルドレンとして暮らしていたが、冴子との出会いをきっかけにファルコンに引き取られ、育てられることになる。父親はA国(アニメ版では「ダマナン王国」)国王で、サトちゃんとは新宿ゴールデン街の飲み屋ジョナサンで知り合った。しかし、DNA鑑定などの確証はない。また、女優ジョイは国王の毛髪を持っており、確認することはできたが、お風呂に入ったときに王家の紋章とも言われているアザを確認し国王の子供とジョイ自身は断定した。
: 絵本を読むのがとても上手い。不幸な人を見つけるのが特技で、そういった人を見つけると絵本を読み聞かせたくなる(19巻)。ファルコンの養子になるも一緒に暮らし始めたころは「おじさん」と呼んでいたが、バスジャック事件をきっかけにパパと呼ぶようになった。それ以前にもファルコンの優しさを感じ、「ファルコン」と呼ぶようになっている。
: 『C.H.』では元傭兵でファルコンのパートナー兼"CAT'S EYE"の女主人「美樹」である<ref group="注釈">今作では子供として描かれているので[[コルト・キングコブラ]]の登場は無くなっている。</ref>。
; 陳(チン)
: 声 - [[矢田耕司]]
: 李大人が弟・李謙徳に次いで信頼する侍従長。正道会の李大人直属の隠密部隊「玄武」の指揮官。
:「青龍」部隊・張らの反逆を抑えた後は、暇をもらって海坊主の喫茶店の隣に中華料理店「玄武門」を開店し、{{補助漢字フォント|獠}}・香瑩父娘の後見人的存在をしている。
: 店の料理は自ら調理しているが、評判は非常に良い。年のわりに耳が良く、女好きである。美人の前では、背筋が伸びて、杖なしで歩く。
: アニメ版では19話まで[[訛り]]がなかったが、20話以降においてしゃべり口調に独特の訛りを使うように変更された。
: サブチーフの林忠(リン ジョン)と娘を巡る件で香瑩らが尽力してくれたことに玄武一同感謝している。
; 李堅強(リ・ジィエンチャン)
: 声 - [[有本欽隆]]<ref group="注釈" name=":0">前作アニメ「シティーハンター」シリーズにて、野上冴子の父親である「野上[[警視総監]]」として出演していた</ref>(青年期 - [[野島裕史]]) / [[掛川裕彦]](ドラマCD)
: [[台湾]]マフィア正道会の正龍頭(大ボス)で香瑩の実父。周りからは身分の高い人という意味の「大人」<ref name="taijin">[http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%BA 大人 - ウィクショナリー日本語版]</ref> という称号をつけて「李大人(リ タイジン)」、もしくは「大老(ターラオ)」と呼ばれる<ref name="comic">コミック1巻より</ref>。
: 香瑩の実の父親であるが、手下の謀反とはいえ娘を闇の世界へ引き込んでしまった責任から、実の父親であることを名乗らない決意をし、その意図を汲んだ{{補助漢字フォント|獠}}に香瑩を託した({{補助漢字フォント|獠}}とは古くから互いに信頼し合う仲だった)。そうは言っても親馬鹿は抜けきらず、香瑩に恋人ができたと聞いてわざわざ台湾から極秘来日したほどである(9巻)。娘の成長に嬉しくもあり悲しくもある。
: 使用拳銃は[[ベレッタM84]](3巻)。
; 李謙徳(リ・チィエンダァ)
: 声 - 有本欽隆<ref group="注釈" name=":0" />(青年期 - [[野島健児 (声優)|野島健児]])
: 李堅強(以下、堅強)の双子の弟で香瑩の叔父。
: 兄の影武者を自ら進んで行い、その瓜二つの影武者振りは、正道会の新宿での子分に当たる餅山も全く気づかなかったほど。
: 39年前に堅強が一目惚れし、後に妻となった香瑩の実母との交際を仲立ちさせ実らせていく役も買って出た。新宿に堅強として極秘来日していたところを「青龍」指揮官・張の命を受けた信宏により、狙撃され死亡する(香瑩や信宏は部隊の末端で、信宏は組織の大ボス(謙徳=堅強)だとは知らなかった)。
: 彼が香瑩に遺した遺産は台湾の国家予算1年分に匹敵する。堅強と同じく{{補助漢字フォント|獠}}とは昔からの付き合いで、来日の際にはいつも{{補助漢字フォント|獠}}と朝まで飲んでいた。
; 楊芳玉(ヤン ファンユイ)
: 声 - [[緒方恵美]]
: {{補助漢字フォント|獠}}の傭兵時代の昔馴染み。スタイル抜群の美人。
: 黒豹部隊を率い、自身も女豹と呼ばれている隻眼の傭兵だが、一方で各地の戦災孤児を引き取り育てており、子供達の母親としての一面を持つ。強引かつ豪快な性格で何か事を成すときは誘拐・破壊活動など破天荒な行動を起こし、幾つもの国で指名手配されている<ref group="注釈">{{補助漢字フォント|獠}}からも「面倒臭がり」と呼ばれている。</ref>。女性らしい部分もあり、おだてやクサイ台詞に乗りやすい<ref group="注釈">それ以外にも性犯罪のような女性を冒涜するようなことを心の底から嫌い、あるバカ御曹司をぶっ飛ばしていた。</ref>。料理が上手。老眼により精密な狙撃が出来なくなり悩むが、開き直り「数打ちゃ当たる」という考え方に変えた。使用拳銃は[[FN ブローニング・ハイパワー]]。
: 傭兵時代に、撤退中に{{補助漢字フォント|獠}}からプロポーズされて運命の人と決めた。しかし、{{補助漢字フォント|獠}}をめぐって香と酒の飲み比べの勝負に負けたため、{{補助漢字フォント|獠}}を諦める。その代わりに、{{補助漢字フォント|獠}}に自身の誕生日である[[12月25日]]の[[クリスマス]]に祝いのメールを送るよう約束させた。{{補助漢字フォント|獠}}は1回目はフライング、2回目でタイムオーバーして強制的に1週間の新婚生活をさせられたのだが、結局は数日も保たなかった。いつかは{{補助漢字フォント|獠}}と結婚しようと企んでいた。
: 冴子とは{{補助漢字フォント|獠}}を巡っての恋敵である。しかし「{{補助漢字フォント|獠}}は香を未だに思い続けて、冴子は{{補助漢字フォント|獠}}を好きだが香に遠慮している」と見ている。かなりの酒豪で対抗できるのは香であり、香とは酒を酌み交わす仲であった。香には負けたが、{{補助漢字フォント|獠}}・ファルコン・信宏を二日酔いで楽々と潰す。
: 何処の国でも[[風俗店]](彼女自身が近づきたくない場所)をはしごして性欲を満たしている一流のプロを自称する傭兵隊長のマックスは同僚であるが、一方的に確執を持たれている。しかし、彼女は「二流のアホ」と呆れて迷惑なヤツとしか思っておらず<ref group="注釈">香瑩からも「本当二流だな」と言われていた</ref>、昔から何かと対決姿勢を面倒ながらも持たざるを得なくなっている。
: 2ndシーズン第1巻で、実の息子がいることが判明した。名は「洸(ファン)」という。父親は{{補助漢字フォント|獠}}ではなく、元婚約者で戦場カメラマンをしていた笈川康幸。激戦で傷を負ったため、負担にすまいと別れの手紙を送った直後に妊娠に気づいた。自身が育てて日本で堀田夫妻の養女になった戦災孤児の1人であるスゥチンの結婚式に参列した隙に[[マリアナ諸島]]の小島に漂泊中のワクチン研究プラント船をT国にシージャックされ、人質交換に狙ったマオが香瑩に想いを寄せて同居する羽目になった。そのマオに香と間違われて「お母様」と呼ばれていたが、彼に協力してT国を改善しようと激しい戦いを繰り広げ、2ndシーズン15巻で子供達を大切に思っているという共通項で心の距離が縮まり、男と女として愛し合うようになったマオと婚約した。婚約とその相手がマオという2重の爆弾投下で周囲にショックを与える。日本の教会でウェディングドレスを纏って挙式し、黒豹部隊を率いて国家主席である夫マオを生涯守り続けるのが国家主席の妻の役割だと香瑩に告げた。
; ドク
: 声 - [[島田敏]]
: 花園診療所の経営者にして医師。老齢であり、本名は不明で「ドク」の通称で呼ばれている。
: 香瑩の健康管理を指導している他、ミキがひき逃げ事故にあった時も手当てと治療を担当した。また、{{補助漢字フォント|獠}}の健康診断を受け持った際も努力性肺活量が8700もあることに対して「人間か?」と疑問を持っただけでなく、レントゲン写真を見た時も「[[陰部|もっこり]]」が写っていたことに呆れて「やるだけ無駄だ」と発言していた。
: 過去には看護学生の時代から香は彼の元で働いており、シティーハンターの活動にも秀幸の生前時から色々と協力している。
; 智(とも)
: 声 - [[雪野梨沙]]
: 花園診療所の看護師。本名は不明で「智ちゃん」の愛称呼ばれている。
:獠のもっこりの対象で特にお尻を狙われている。しかし、香瑩(香そのもの)から{{補助漢字フォント|獠}}は花瓶で天誅を食らっている他、レントゲン写真に写ったときもドクからゲンコツを食らっていた。また、香瑩が「{{補助漢字フォント|獠}}がいつ死ぬか?」と尋ねられたときも呆れ果てていた。
; 餅山(もちやま)
: 声 - [[龍田直樹]]
: 正道会系列の暴力団の下っ端。
: 小太りの男であり、香瑩からは「マヌケなヤクザ」「全然ハードじゃない」といわれているほか、陳からも「コイツは裏事情を色々と知りすぎている」と目を付けられている。青龍の張に利用されたり、銃撃戦から逃げてきたりして{{補助漢字フォント|獠}}達からも呆れられている。中華料理店「玄武門」で組長の根堀と来店したときも手痛い目に遭っている、福留兄弟の逃走にも無理矢理協力させられていた。
; カメレオン
: 謎の人物で変装の名人。性別は男だが普段は女装しており、かなりのイケメン好き。
: 学校麻薬汚染事件で香瑩と一戦交えた後、香瑩に興味を示し仲間に引き込もうとする。「香瑩を殺せば、香瑩と香の2人を殺すことが出来る」などの発言から{{補助漢字フォント|獠}}と海坊主の怒りを買って生命の危機に陥るが、その場にミキが現れ事なきを得る。
: その後はその恨みも加わり、あの手この手で香瑩達を掻き回そうとしてくるが、第28巻では前述のことが弱みとなり、冴羽の依頼を引き受けた。下戸で全く酒が飲めず、普段でも酒代わりにトマトジュース(2ndシーズン第5巻)やジンジャーエール(2ndシーズン第10巻)を飲んでいる。
: 香瑩にT国の国家主席夫妻暗殺を通告するが、何故かマオを狙った銃弾に貫かれる。
; 笠井弥生(かさい やよい)
: 旧姓は「君塚(きみづか)」。ファルコンが傭兵時代に、トゥクレェク戦線の野戦キャンプで[[赤十字]]の医療ボランティアに携わっていた[[看護師]]。ここでは、ファルコンとの運命的な出会いや、{{補助漢字フォント|獠}}との下着を巡る攻防を演じた。その後、結婚して娘の葉月が誕生するなど幸せな家庭を築いたが、飛行機事故により死去。
; 笠井葉月(かさい はづき)
: 君塚(笠井)弥生の娘で、母と同じく看護師の道を歩む。
: 合コンでファルコンと出会い、その後、母の遺品であるファルコンの[[認識票|ドッグタグ]]を本人に返そうと尋ねてきた(26巻)。後にファルコンに恋愛感情を抱き告白。キャッツアイに頻繁に出入りするようになる。
; 吉行淳(よしゆき じゅん)
: 2ndシーズン第7巻で、スーツケース型核爆弾で新宿区民32万人強を人質にシティーハンターに人捜しを依頼した人物。
: 愛称は「ノスケ」だが、小3の時にクレヨン画には「あつし」と書いた。
: 始終丁寧な口調で一人称は「私」だが、旧友達に対しては「俺」でくだけた物言いである。淳に"之助"を付ければ「吉行淳之助」になるなという担任の一言が原因で「ノスケ」と呼ばれ続け、必死にちゃんと名前で呼べと抗議したものの20年経っても「ノスケcall」は不滅だった。廃校になった母校での20年後の同窓会を約束した小学生時代の旧友3名(関口隆幸、栗山加奈子(旧姓:西村)、池谷潤一)と恩師の塚本浩太郎に会いたいと願ってG県の山中にある「下谷町立西南小学校」に彼らを集めて欲しいとシティーハンターに依頼し、スマホのテレビ電話越しによる同窓会を実現させた。
: 小学校が廃校になり関口と共に地元のG県の中学に進学したが、2学期に父親の転勤に伴って東京の中学に転校し、工学者だった父親の勤務先の大手企業が防衛庁にも関与していたことから某国により一家丸ごと拉致されてしまう。両親の命を盾に工作員に仕立て上げられて数々のテロに手を染めたが、核爆弾テロを命じられた瞬間、彼の中で何かが壊れ、気がつけば二つのスーツケース型核爆弾を手に逃亡し組織に追われる身となった。同窓生が母校に集められる最中にも追手は迫り、自身のクレヨン画を海に流して欲しいと言い残し、夜明けの海辺で組織の追手により処刑された。
: 自身では知らないことだが、似た生い立ちの信宏の心に大きな衝撃を与えた。
; 雅玲(ヤーリン)
: 愛称は「阿雅(アーヤ。ヤーちゃんの意味)」。信宏の妹に瓜二つであるばかりか同名であるため、妹かもしれないと捜し求めた彼と香瑩らに保護された。
: その後、日本での仕事を世話してやると騙された別人で信宏の父の兄の娘であることを彼に告白した。結婚を反対された信宏の両親は台北に駆け落ちし彼と妹を授かるもバイク事故で信宏を除く3人が亡くなり、知らずに同じ名を娘につけていたことを台北の警察からの報でわかった後、親や親族と同じ名や漢字を使うのはタブーだとする台湾の迷信により周囲に"死神"と呼ばれ傷ついていた。両親は迷信だと必死に庇ってくれたが、自身は信宏の家族を殺した仇だという罪悪感を心に刻まれてしまう。従兄の家族の悲報が齎された時、父親の経営していた工場は多額の借金を抱えて破産し自身を売らねば日々の生活費すら事欠く有様だったため、父親は「正道会」のスカウトマンの提案を受け入れざるを得なかった。騙した組織がシティーハンターらにより壊滅し、故郷の台湾で輸出入の会社の社長に引き取られ働くことになるが、彼こそ元「正道会」のスカウトマンだった。信宏を組織に渡す代わりに借金を帳消しにして余りある金を受け取ることで生活を立て直したことまでは知らないが、罪悪感に苛まれる両親の姿に心を痛めていた。
; クワン・マオ
: 1stシーズン19巻で芳玉が誘拐しようとしたT国の皇太子。裏で世界の麻薬密売市場を牛耳るT国の[[国家主席]]クワン・イルマの長男。
: 香瑩が足腰立たない程に叩きのめしても動ける驚異的タフさ。母親は暗殺者の銃撃から自分を庇って絶命しており、また毒殺を回避すべく1人で食事しており「家族の食卓」というものを知らずにいた。
: 芳玉が自身を誘拐した理由がプラント船と博士らの奪還だと知り、命令して解放させた。暗殺を企む敵の襲撃を受けた際、ワクチン奪還失敗の報に父イルマが心臓発作で倒れて危篤状態だと芳玉に知らされ、故国を救う絶好の好機の到来を機に想いを寄せる香瑩を花嫁として迎えるべく、また、ミキを招待できるような故国にすべく内戦に身を投じた。しかし、いつしか芳玉と愛し合うようになり、状況を打開すべく使者として敵の元に訪れて足を失って[[義肢|義足]]となりながらもT国の新政権の国家主席に就任して再来日した。香瑩に[[ウェディングリング|結婚指輪]]を見立てて貰い、芳玉に改めて想いを告げる。挙式後、[[チャーター便|ビジネスチャーター便]]で直行で帰国することになる。
== ゲストキャラクター ==
195話に『[[レストアガレージ251車屋夢次郎]]』の主人公・里見夢次郎が[[モブキャラクター]]として登場した。また、131話に『[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]』に登場した「ねずみ」こと神谷真人が、銀行強盗犯としてニュースで取り上げられているシーンがある。その他、『C.H.』や本作の脇役となっているカラスが登場している。
== 書誌情報 ==
=== 単行本 ===
* 北条司『エンジェル・ハート』新潮社〈BUNCH COMICS〉、全33巻
*# 2001年10月15日発行、{{ISBN2|4-10-771001-7}}
*# 2001年12月15日発行、{{ISBN2|4-10-771012-2}}
*# 2002年3月15日発行、{{ISBN2|4-10-771026-2}}
*# 2002年7月15日発行、{{ISBN2|4-10-771045-9}}
*# 2002年11月15日発行、{{ISBN2|4-10-771065-3}}
*# 2003年3月15日発行、{{ISBN2|4-10-771080-7}}
*# 2003年6月15日発行、{{ISBN2|4-10-771096-3}}
*# 2003年9月15日発行、{{ISBN2|4-10-771113-7}}
*# 2003年12月15日発行、{{ISBN2|4-10-771125-0}}
*# 2004年3月15日発行、{{ISBN2|4-10-771139-0}}
*# 2004年6月15日発行、{{ISBN2|4-10-771154-4}}
*# 2004年9月15日発行、{{ISBN2|4-10-771173-0}}
*# 2004年11月15日発行、{{ISBN2|4-10-771184-6}}
*# 2005年2月15日発行、{{ISBN2|4-10-771200-1}}
*# 2005年6月15日発行、{{ISBN2|4-10-771220-6}}
*# 2005年9月15日発行、{{ISBN2|4-10-771236-2}}
*# 2005年12月15日発行、{{ISBN2|4-10-771252-4}}
*# 2006年3月15日発行、{{ISBN2|4-10-771267-2}}
*# 2006年6月15日発行、{{ISBN2|4-10-771277-X}}
*# 2006年9月15日発行、{{ISBN2|4-10-771295-8}}
*# 2007年1月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771313-1}}
*#* 「限定版」2007年1月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771308-7}}
*# 2007年5月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771334-6}}
*# 2007年8月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771350-6}}
*# 2007年11月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771367-4}}
*# 2008年2月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771381-0}}
*# 2008年5月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771397-1}}
*# 2008年9月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771420-6}}
*# 2008年12月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771444-2}}
*# 2009年3月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771468-8}}
*# 2009年7月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771496-1}}
*# 2009年11月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771530-2}}
*# 2010年3月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771554-8}}
*# 2010年9月15日発行、{{ISBN2|978-4-10-771588-3}}
* 北条司『エンジェル・ハート 2ndシーズン』ノース・スターズ・ピクチャーズ〈ZENON COMICS〉、全16巻
*# 2011年3月22日発行、{{ISBN2|978-4-19-980001-6}}
*# 2011年9月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980035-1}}
*# 2012年3月19日発行、{{ISBN2|978-4-19-980069-6}}
*# 2012年8月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980100-6}}
*# 2013年1月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980130-3}}
*# 2013年6月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980148-8}}
*# 2013年11月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980170-9}}
*# 2014年3月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980197-6}}
*# 2014年9月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980232-4}}
*# 2015年2月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980256-0}}
*# 2015年7月18日発行、{{ISBN2|978-4-19-980280-5}}
*# 2015年10月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980300-0}}
*# 2016年4月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980341-3}}
*# 2016年9月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980365-9}}
*# 2017年2月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980393-2}}
*# 2017年7月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980430-4}}
=== 関連書籍 ===
*「公式ガイドブック」2008年5月25日発行、{{ISBN2|978-4-10-771398-8}}
== テレビアニメ ==
[[2005年]]10月から[[2006年]]9月まで、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系の一部の局(系列局では1週間 - 2クールの遅れ放送)で放送。[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS放送]]「[[キッズステーション]]」でも2クール遅れで放送された。
事実上の前作である『C.H.』の、『シティーハンター91』以来(シリーズ全体としては、1999年4月23日放送のテレビスペシャル第3弾『シティーハンターSP緊急生中継!? 凶悪犯冴羽獠の最期』)のアニメ化作品である。
当初は2005年4月に開始予定であったが、放送スケジュールの都合により半年間延期され、同年10月からの放送となった。制作会社は、『C.H.』を制作した[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]からアニメ版『[[キャッツ・アイ]]』を制作した[[トムス・エンタテインメント]]に変更になったが、[[プロデューサー]]の[[諏訪道彦]]と声優陣は『C.H.』から引き続き担当している<ref group="注釈">音響監督の[[長崎行男]]は『C.H.』テレビシリーズ当時は[[エピックレコードジャパン|EPICソニー]]所属の音楽ディレクターとしてテレビシリーズの挿入歌を手掛けていた。</ref>。また音楽担当の[[岩崎琢]]と音響監督の長崎行男は14年後に公開された『C.H.』の劇場版『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉』でも続投している。
全50話のうち、第13話まではプロローグと位置付けられ、暗殺者グラス・ハートが香瑩になるまでが語られた。その後の内容は、原作の第18巻までの内容とほぼ合致する。香瑩役の[[声優]]は、応募3,000人からオーディションで選ばれた[[川崎真央]]が務めた。
原作では「パラレルワールド」と称している『C.H.』との関係は、アニメでは「アナザーストーリー」と称している(事前番組(#0)より)。
アニメでは原作のギャグの大半(特にハンマー、カラス、極楽トンボ)はカットされていたが、総作画監督が第39話以降に[[青野厚司]]へ交代してからはギャグシーンが多くなった。また、[[神谷明]]と[[内海賢二]]が共演した第42話では、2人がそれぞれ『[[北斗の拳 (テレビアニメ)|北斗の拳]]』の[[ケンシロウ]]役、[[ラオウ]]役であることから、双方がアドリブで互いの台詞「我が生涯に一片の悔い無し」「お前はもう死んでいる」を言い合うというお遊びも盛り込まれた<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20130623123037/https://ameblo.jp/kamiya-akira/entry-11553489775.html| title = 感謝の思いを込めて… 神谷明オフィシャルブログ「神谷明の屁の突っ張りはいらんですよ!!」| publisher = Ameblo | accessdate = 2017-12-29}}</ref>。
アニメ版『C.H.』ではアニメオリジナルエピソードも多く制作されたが、本作ではアニメオリジナルエピソードは制作されず、若干の追加シーンを除けば第24話にそれまでの総集編的な話を入れただけである。
=== スタッフ ===
(出典<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20140625142004/http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=128| title = エンジェル・ハート| publisher = トムス・エンタテイメント| accessdate = 2017-12-29}}</ref>)
* 原作 - [[北条司]]
* 監督 - [[平野俊貴]]
* シリーズ構成 - [[植竹須美男]]
* キャラクターデザイン・総作画監督 - [[西城隆詞]](1 - 24話)→[[青野厚司]](11 - 50話)
* 美術監督 - 佐藤ヒロム、本田修
* 色彩設計 - 小林美代子
* 撮影監督 - 桑良人
* 編集 - 田熊純
* 音楽 - [[岩崎琢]]
* 音響監督 - [[長崎行男]]
* 音響効果 - 佐々木純一([[アニメサウンドプロダクション]])
* 録音制作 - [[AUDIO PLANNING U]]
* 音楽制作・協力 - [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニーミュージックエンタテインメント]]、[[アニプレックス|ANIPLEX]]、[[読売テレビエンタープライズ]]
* 編集 - 田熊純
* チーフプロデューサー - [[諏訪道彦]]、[[吉岡昌仁]]、[[植田益朗]]
* プロデューサー - 北田修一、西村政行、高橋優
* 製作 - エンジェル・ハート製作委員会([[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]、[[トムス・エンタテインメント]]、アニプレックス、読売テレビエンタープライズ)
=== 主題歌 ===
第1話はオープニングテーマ、エンディングテーマ共にサウンドトラックの曲が使われた。
==== オープニングテーマ ====
; 「[[虚ろな心]]」(第1話)
: 作曲 - 岩崎琢
; 「[[to YOU (Soweluの曲)|Finally]]」(第2話 - 第24話)
: 作詞 - [[藤林聖子]] / 作曲 - 森元康介 / 編曲 - Takuya Harada / 歌 - [[Sowelu]]
; 「[[Lion (玉置浩二の曲)|Lion]]」(第25話 - 第38話)
: 作詞 - [[松井五郎]] / 作曲・歌 - [[玉置浩二]]
; 「Battlefield of Love」(第39話 - 最終話)
: 作詞・作曲・歌 - [[伊沢麻未]] / 編曲 - DJ CLAZZIQUAI
==== エンディングテーマ ====
; 「虚ろな心」(第1話)
: 作曲 - 岩崎琢
; 「[[誰かが君を想ってる]]」(第2話 - 第12話、第14話 - 第19話、第24話、最終話)
: 作詞・歌 - [[Skoop On Somebody]] / 作曲・編曲 - 土肥真生 + SOS
; 「[[Daydream Tripper]]」(第13話、第20話 - 第23話)
: 作詞 - [[森雪之丞]] / 作曲 - [[石井妥師]] / 編曲 - 土橋安騎夫 & 石井妥師 / 歌 - [[U WAVE]]
; 「[[My Destiny/Serenade|My Destiny]]」(第25話 - 第41話)
: 作詞・作曲・編曲・歌 - [[カノン (歌手)|カノン]]
; 「哀しみのAngel」(第42話 - 第46話)
: 作詞 - Satomi / 作曲 - 羽場仁志 / 編曲 - 水島康貴 / 歌 - [[稲垣潤一]]
; 「FEEL ME」(第47話 - 第49話)
: 作詞・作曲 - 中西圭三 / 編曲 -上野圭市 / 歌 - [[中西圭三]]
=== 挿入歌 ===
; 「Wings of Love」(第12話)
: 作詞 - MAYUMI / 作曲 - 松本俊明 / 編曲 - [[TOKU]]、フェアビン・レザ・パネ / 歌 - TOKU
; 「Rebirth」(第12話)
: 作詞 - [[安岡優]] / 作曲 - [[北山陽一]]、多胡淳 / 編曲 - 多胡淳、北山陽一 / 歌 - kitago-yama
; 「Gloria」(第16話)
: 作詞・作曲・歌 - [[カノン (歌手)|カノン]] / 編曲・プロデュース - [[大谷幸]]
; 「そばに」(第36話)
: 作詞 - 笛田彰葉 / 作曲 - [[西岡和哉]] / 編曲 - 鈴木正人 / 歌 - 牧伊織
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督
|-
|1||ガラスの心臓 -グラス・ハート-||rowspan="2"|[[植竹須美男]]||[[平野俊貴]]||岩永彰||松田芳明
|-
|2||香が帰ってきた||岩永彰||萩原露光||菅原浩喜
|-
|3||XYZの街||佐藤勝一||早見淳||みくりや恭輔||桜井木ノ実
|-
|4||さまようHEART||[[山田靖智]]||松本佳久||堀内直樹||松田芳明
|-
|5||永別(さよなら)…カオリ||[[滝晃一]]||[[影山楙倫]]||まつもとよしひさ||華房泰堂
|-
|6||再会||植竹須美男||早見淳||荻原露光||渡辺章
|-
|7||俺の愛すべき街||滝晃一||加藤洋人<br />早見淳||山口美浩||金剛寺弾
|-
|8||真実(ホント)の仲間||植竹須美男||[[亀垣一]]||辻泰永||椛島洋介
|-
|9||香瑩 〜失われた名前〜||滝晃一||[[柳沢テツヤ|大上相馬]]||みくりや恭輔||桜井木ノ実
|-
|10||エンジェル スマイル||山田靖智||岩永彰||[[四辻たかお]]||渡辺章
|-
|11||父娘(おやこ)の時間||植竹須美男||早見淳||みくりや恭輔||桜井木ノ実
|-
|12||船上の出会いと別れ||山田靖智||平野俊貴<br />岩永彰||[[廣川集一]]||箕輪悟
|-
|13||李大人からの贈り物||佐藤勝一||[[名村英敏]]||[[山崎理]]||明珍宇作
|-
|14||復活C・H(シティーハンター)!||[[大久保智康]]||rowspan="2"|早見淳||安藤健||今井武志
|-
|15||パパを捜して!||rowspan="2"|[[鈴木雅詞]]||みくりや恭輔||桜井木ノ実
|-
|16||C・H(シティーハンター)としての資格||西澤晋||小林浩輔||箕輪悟<br />高梨光
|-
|17||夢の中の出会い||rowspan="2"|佐藤勝一||影山楙倫||剛田隼人||をがわいちろを
|-
|18||親子の絆||早見淳||安藤健||松岡謙治<br />古谷田順久<br />柴田かつのり
|-
|19||陳老人の店||滝晃一||小林一三||石川敏浩||金相燁<br />水戸修太郎
|-
|20||宿命のプレリュード||植竹須美男||早見淳||みくりや恭輔||桜井木ノ実
|-
|21||哀しき守護者(ガーディアン)||rowspan="2"|鈴木雅詞||平野俊貴<br />三宅雄一郎||小林浩輔||箕輪悟<br />佐々木敏子
|-
|22||不公平な幸せ||鶴山修||安藤健||松岡謙治<br />井口忠一
|-
|23||出発(たびだち)のメロディー||植竹須美男||名村英敏||廣川集一||工藤柾輝
|-
|24||鼓動と共に…<ref>前半総集編。</ref>||植竹須美男<br />滝晃一||平野俊貴||平野俊貴<br />石井志知||[[青野厚司]]
|-
|25||死にたがる依頼者||[[戸塚直樹]]||小林一三||石川敏浩||水戸修太郎<br />金大勲
|-
|26||もう一度あの頃に||植竹須美男||東海林真一||山内東生雄||箕輪悟<br />工藤柾輝
|-
|27||私、恋してる!?||[[大知慶一郎]]||rowspan="2"|[[西森章]]||松村やすひろ||松岡秀明<br />裾分雅明<br />蜂巣当太<br />服部憲知
|-
|28||約束||細井能道||剛田隼人||こひだはじめ
|-
|29||私の妹…香||大久保智康||鶴山修||岡崎幸男||清水恵蔵<br />桝井一平
|-
|30||この街は私の全て||戸塚直樹||早見淳||廣川集一||をがわいちろを<br />小田真弓
|-
|31||最後の夜に見た奇跡||rowspan="2"|植竹須美男||小林一三||石川敏浩||水戸修太郎<br />金大勲
|-
|32||組織から来た女||colspan="3" style="text-align:center"|加藤洋人
|-
|33||神から授かりし子||rowspan="2"|鈴木雅詞||名村英敏||[[山本泰一郎]]||[[須藤昌朋]]<br />[[山中純子]]
|-
|34||二人の決意||鶴山修||城所聖明||明珍宇作
|-
|35||未来へ…||植竹須美男||早見淳||浅見松雄||青野厚司<br />をがわいちろを
|-
|36||幸せを運ぶ女の子||滝晃一||西森章||剛田隼人||福島豊明
|-
|37||汚れのない心||大知慶一郎||前島健一||岡崎幸男||清水恵蔵<br />桝井一平<br />鈴木伸一
|-
|38||オレの目になってくれ||佐藤勝一||小林一三||石川敏浩||水戸修太郎
|-
|39||依頼者は大女優||大久保智康||鶴山修||城所聖明||明珍宇作
|-
|40||ミキの隠された秘密||植竹須美男||影山楙倫||浅見松雄||青野厚司<br />吉田肇
|-
|41||自分の居場所||大知慶一郎||rowspan="2"|名村英敏||山本泰一郎||須藤昌朋<br />山中純子
|-
|42||二人だけのサイン||戸塚直樹||岡崎幸男||鈴木伸一<br />山本径子
|-
|43||私が生きる日常||佐藤勝一||小林一三||石川敏浩||水戸修太郎
|-
|44||俺たちの子供のために||戸塚直樹||鶴山修||浅見松雄||福島豊明
|-
|45||人間核弾頭、楊||細井能道||前島健一||城所聖明||明珍宇作
|-
|46||マザー・ハート||滝晃一||早見淳||星野真||高梨光
|-
|47||アカルイミライ!?||大久保智康||名村英敏||辻泰永||野武洋行
|-
|48||引き寄せられる運命||佐藤勝一||小林一三||石川敏浩||水戸修太郎
|-
|49||Get My Life||山田靖智||前島健一||岡崎幸男||山本径子<br />鈴木伸一<br />小林ゆかり
|-
|50||ラストプレゼント||植竹須美男||名村英敏||イワナガアキラ||青野厚司
|}
=== その他 ===
端役やゲストキャラクターのアフレコを声優の他にタレント、(当時の)アナウンサーがおこなったこともある。<ref group="注釈">前作アニメ「シティーハンター」シリーズにかつて端役として、出演していた人物もいる。</ref>
* 1、20 - 23話:少女バイオリニスト・茅野夢([[川澄綾子]])
* 7 - 9話:正道会青龍部隊チーフ・趙([[中田譲治]])
* 8話:オカマクラブ「ラフレシア」のママ([[石井康嗣]])、同業者のオカマ([[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]])<ref group="注釈">エンディングでのテロップはなし</ref>
* 10話:青龍部隊指揮官・張([[檜山修之]])
* 12話:幼少時の香瑩([[金田朋子]])
* 14話:女子高生・凪砂([[井上麻里奈]])
* 15 - 16話:幼稚園児・ターニャ([[今野宏美]])、ターニャの母・イリーナ([[兒玉彩伽|児玉孝子]])
* 16話:ターニャの父・倉橋克己([[山崎たくみ]])
* 19話:「玄武門」の女性客([[山本舞衣子]]・[[日本テレビ放送網|日テレ]]アナウンサー)、正道会系列の暴力団・根堀組長([[飯塚昭三]])
* 20 - 23話:茅野夢([[川澄綾子]])、夢の家庭教師・高波遥([[湯屋敦子]])、ドッグウォーカー・風間雅臣([[内田直哉]])
* 20話、22話:マッドドッグ・夢の父([[茶風林]])<ref group="注釈">「劇場版シティーハンター 新宿プライベートアイズ」(2019年)では'''教授'''役として出演。</ref>
* 25 - 26話:食堂店主・福留裕介([[玉置浩二]])<ref group="注釈" name=":1">主題歌との[[タイアップ]]であり、事実上の'''特別出演'''。</ref>、裕介の弟・福留裕司([[神奈延年]])、福留兄弟の幼馴染・昭美([[井上喜久子]])
* 27 - 28話:画家・夏目芳樹([[古谷徹]])
* 29、41話:バー「Kyrie」(キリエ)マスター・信ちゃん([[池田秀一]])<ref group="注釈">アニメ「シティーハンター'91」で'''桑田刑事'''として出演していた、また桑田刑事・信ちゃんにおいても作品内で槙村香との深い関わり合いがある</ref>
* 29 - 31話:雑誌編集長、香の実姉・立木小百合([[潘恵子]])
* 30話:心臓外科医・Dr.シェクリー([[家弓家正]])
* 32 - 35話:白虎部隊の殺し屋・白蘭([[岩男潤子]])<ref group="注釈">「シティーハンタースペシャル グッド・バイ・スイート・ハート」(1997年)にて'''真風笑美'''として主演を果たしていた。</ref>、隼鷹会幹部・早川俊輔([[立木文彦]])
* 34 - 35話:朱雀部隊の殺し屋([[中尾隆聖]])
* 37 - 38話:ミキの母親・サトちゃん([[tohko|籐子]])<ref group="注釈" name=":1" />
* 39話:男性アナウンサー([[五十嵐竜馬]]・[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]アナウンサー)
* 39 - 40話:女性アナウンサー([[安部まみこ]]・[[中京テレビ放送|中京テレビ]]アナウンサー)
* 39 - 41話:女優・ジョイ=ロウ([[大本眞基子]])
* 41話:バー「ジョナサン」ママ([[小宮和枝]])
* 42話:製薬会社社長([[高島雅羅]])
* 42 - 43話:ニュースキャスター・浅倉朋美([[山本百合子]])<ref group="注釈">アニメ「シティーハンター」の第23話にゲストヒロインの'''名取かずえ'''役で出演していた。</ref>、コメンテーター・板東実道([[内海賢二]])
* 45 - 46話:科学者・チェン([[置鮎龍太郎]])、傭兵部隊長・マックス([[郷里大輔]])
* 47 - 49話:占い師・麗泉こと河本麗子([[三石琴乃]])、警察官・島津省吾([[関智一]])、島津の妻・スジョン([[桑島法子]])
* 50話:元戦災孤児の花嫁・スゥチン([[ゆかな]])、堀田母([[池田昌子]])、堀田父([[大川透]])
=== 放送局 ===
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
放送時間は個別に提示されているものを除き2006年1月時点<ref>『[[アニメディア]]』2006年2月号『TV STATION NETWORK』(テレビ局ネットワーク)122 - 124頁。</ref>。
* [[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]] 火曜 0:58 -
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] 水曜 1:25 -
* [[中京テレビ放送|中京テレビ]] 木曜 1:59 -
* [[札幌テレビ放送|札幌テレビ]] 火曜 1:25 -
* [[山形放送]] 土曜 1:25 -
* [[テレビ新潟放送網|テレビ新潟]] 火曜 1:01<ref name="an2007">『アニメディア』2007年1月号『TV STATION NETWORK』(テレビ局ネットワーク)102 - 104頁。</ref>
* [[静岡第一テレビ]] 木曜 1:46 -
* [[西日本放送]] 火曜 1:50 -
* [[福岡放送]] 火曜 1:25 -
* [[長崎国際テレビ]] 水曜 1:20 - <ref name="an2007" />
* [[鹿児島讀賣テレビ|鹿児島読売テレビ]] 土曜 1:25 -
* [[キッズステーション]]
</div>{{clear|left}}
{{前後番組
| 放送局 = [[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]
| 放送枠 = 火曜 0時58分枠
| 番組名 = エンジェルハート<br />AngelHeart<br />(『[[MANPA|MONDAY PARK]]』枠外)
| 前番組 =
| 次番組 =
| 2放送局 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ(日テレ)]]
| 2放送枠 = [[日本テレビの深夜アニメ枠|水曜1:29枠]]
| 2番組名 = エンジェルハート
| 2前番組 = [[攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG]]
| 2次番組 = [[砂沙美☆魔法少女クラブ]]
}}
== ラジオ ==
[[エフエムナックファイブ|NACK5]]で2005年4月3日より毎週日曜放送のラジオ番組『Heart of Angel』。
1回目より42回目までは『XYZ Ryo's Bar』として、43回目以降は『XYZ 香瑩's cafe』として放送された。
; XYZ Ryo's Bar
: 全42回。パーソナリティは冴羽{{補助漢字フォント|獠}}役の[[神谷明]](40回目まで)。アニメの担当声優・主題歌アーティストを中心にほぼ毎回ゲストを呼び、関連の楽曲が多数流された。19回は公開録音が1時間スペシャルとして放送された。最終回は歌だけの構成だった。
; XYZ 香瑩's cafe
: パーソナリティに香瑩役の[[川崎真央]]を加え(神谷明も続投)、2006年1月22日放送分よりタイトルを変更した。
== 舞台 ==
[[2010年]][[10月2日]]に東京・[[吉祥寺シアター]]で、北条の作家生活30周年プロジェクトの一環として、映画(実写映像)とダンスによる1日限りのイベント「'''DANCE×THEATER エンジェルハート〜羽ばたける者たちへ〜'''」を開催<ref>[http://www.hojo-tsukasa.com/2010/09/ahbutai0901.html 北条司OFFICIAL SITE エンジェル・ハート 1日だけのイベント舞台開催!] を参照</ref>。香瑩が(ダンスとしての)[[カポエイラ]]に挑戦するエピソード(コミックス23・24巻収録)を題材に演出したコラボレーションイベントで、 映画・舞台ともに、[[杉本有美]]が香瑩役を演じた。また、『月刊コミックゼノン』3号(2010年12月25日発売)には、映画・舞台の模様などを収めたDVDが付録で添えられている<ref group="注釈">同誌の編集を担当するコアミックスの本社が[[吉祥寺]]にある関係で、同誌の創刊記念イベントを兼ねていた。</ref>。
* 出演<ref group="注釈">前述『月刊コミックゼノン』内のDVD紹介より。舞台演出を担当した鈴木も、出演者の1人として舞台に登場していた。</ref>
** 香瑩 - [[杉本有美]]
** カナ - [[坂崎愛]]
** 友里 - [[市道真央]]
** 信宏 - 福島慎之介
** コウ - 高柳将太
** カズ - 高瀬秀芳
** 由佳 - [[鍵山由佳]]
** 雪乃 - [[山本梓]]
** 冴子 - [[及川奈央]]
** 仁志 - [[山本修夢|山本修]]
* 原作 - 北条司
* 企画 - 飛田野和彦
* 脚本 - 福田恵一
* 舞台演出 - 鈴木つかさ
* 監督 - 渡邊世紀
* ダンス演出・指導 - [[火口秀幸|HIDEBOH]]
* 音楽 - 浦本和宏
* ダンス楽曲 - 鍵山由佳
* 製作総指揮 - 吉田春海
* 主催 - 株式会社フェイスプランニング
* 協賛 - 株式会社[[アトレ]]
* 協力 - [[吉祥寺アニメワンダーランド]]、株式会社NSP、株式会社[[コアミックス]]など
== テレビドラマ ==
{{基礎情報 テレビ番組
| 番組名 = エンジェル・ハート
| 画像 = <!--入力例:Example.svg-->
| 画像サイズ = <!--pxを含まない入力例:200-->
| 画像サイズ自動補正比 =
| 画像の代替テキスト =
| 画像説明 =
| 別名 =
| ジャンル = [[テレビドラマ]]
| 原作 = [[北条司]]『エンジェル・ハート』
| 原案 =
| 企画 =
| 構成 =
| 脚本 = 高橋悠也<br />根津大樹
| 台本 =
| 総監督 =
| 監督 =
| 演出 = 狩山俊輔<br />鈴木勇馬<br />久保田充
| 監修 = 原義明(医療)
| クリエイティブ・ディレクター =
| 司会者 =
| 出演者 = [[上川隆也]]<br />[[三吉彩花]]<br />[[相武紗季]]<br />[[三浦翔平]]<br />[[Bro.TOM|ブラザートム]]<br />[[ミッキー・カーチス]]<br />[[和泉崇司]]<br />[[山寺宏一]]<br />[[ゴリ (お笑い芸人)|ゴリ]]([[ガレッジセール]])<br />[[高橋努 (俳優)|高橋努]]<br />[[齋藤めぐみ (女優)|齋藤めぐみ]]<br />[[戸塚純貴]]<br />[[渡邉このみ]]<br />[[高島礼子]]<br />[[竜雷太]]
| 審査員 =
| 声の出演 =
| ナレーター =
| アナウンサー =
| テーマ曲作者 =
| 音楽 = [[金子隆博]]
| 作曲 =
| OPテーマ =
| EDテーマ = [[西内まりや]]「[[Save me (西内まりやの曲)|Save me]]」
| 国・地域 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 時代設定 =
| シーズン数 =
| シリーズ数 =
| 話数 =
| 各話リスト =
| 各話の長さ =
<!--「製作」ヘッダ-->
| チーフ・プロデューサー = 伊藤響
| プロデューサー = [[次屋尚]]<br />[[千葉行利]]<br />宮川晶
| 制作プロデューサー =
| 撮影地 =
| 撮影監督 =
| 撮影体制 =
| 編集 =
| 制作 = [[ケイファクトリー]](協力)
| 製作 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
| 配給 =
| 製作費 =
<!--「放送」ヘッダ-->
| ヘッダ = 放送
| ネット配信 =
| 放送チャンネル = [[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]
| 映像形式 = [[文字多重放送]]<br />[[データ放送|番組連動データ放送]]
| 音声形式 = [[ステレオ放送]]
| 放送国 = {{JPN}}
| 放送期間 = [[2015年]][[10月11日]] - [[12月6日]]
| 放送時間 = 日曜 22:30 - 23:25
| 放送枠 = [[日曜ドラマ]]
| 放送分 = 55
| 放送回数 = 9
| 外部リンク = https://www.ntv.co.jp/angelheart/
| 外部リンク名 = 公式サイト
| 副次的外部リンク =
| 副次的外部リンク名 = <!--既定値は「公式ウェブサイト2」-->
<!--「番組年表」ヘッダ-->
| 前作 =
| 次作 =
| 関連番組 =
<!--脚注-->
| 特記事項 = 初回は30分前倒し・拡大(22:00 - 23:25)。
}}
[[2015年]][[10月11日]]から[[12月6日]]まで[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系の[[日曜ドラマ]]枠で同枠の第3弾として放送された。脚本は高橋悠也、演出は狩山俊輔が担当<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/154013|title=シティーハンターのIF世界描く「エンジェル・ハート」TVドラマ化決定|publisher=コミックナタリー|date=2015-07-16|accessdate=2015-07-16}}</ref>。主人公の冴羽獠を[[上川隆也]]が演じた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/08/13/kiji/K20150813010927930.html|title=上川隆也が冴羽リョウに!プライム帯連ドラ初主演 |publisher=スポニチアネックス|date=2015-08-13|accessdate=2015-08-13}}</ref>。
=== 製作 ===
『シティーハンター』からの愛読者でもある上川は、獠を演じるに際し自らの容姿を獠へ近づけるため、仕事上の前作『[[花咲舞が黙ってない|花咲舞が黙ってない(第2シリーズ)]]』のクランクアップ以降の2015年7月初旬から肉体改造に励んだ結果、[[体脂肪率]]が10%を切ったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2060404/full/|title=上川隆也“冴羽リョウ”役で肉体改造「体脂肪率は10%切った」|publisher=ORICON STYLE |date=2015-10-11|accessdate=2015-10-13}}</ref>。獠の役作りに際してもシーンごとやカットごとに考えながら演じており、『花咲舞が黙ってない』が終わってから他の作品に取り組んでいる間も本作のことを考えていたという<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.mynavi.jp/news/2015/10/11/117/|title=[上川隆也]冴羽りょうは「やってもやっても大きな存在」|publisher=マイナビニュース|date=2015-10-11|accessdate=2015-10-13}}</ref>。肉体改造中のトレーニングや食事については、[[2015年]][[10月15日]]放送の『[[ぐるぐるナインティナイン]]』にて紹介されたうえ、ドラマオリジナルキャラクターのカリート役の[[和泉崇司]]も上川と同様のトレーニングに励んでいる様子が紹介された<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160215211608/http://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/116/900308/|title=『ぐるぐるナインティナイン』(2015年10月15日放送回)の番組概要ページ|publisher=gooテレビ番組(関東版)|date=2015-10-15|accessdate=2015-10-15}}</ref>。
上川は、クランクイン前に原作者の北条と[[バー (酒場)|バー]]で役作りについて熱く語り合ったり、アクションシーン前には楽屋で腕立て伏せなどの筋トレをしてから撮影に臨んでいるという<ref name="jisin_22202">{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1612385/|title=上川隆也「俺のもっこりを撮って!」直談判に現場ドン引き|publisher=女性自身|date=2015-11-18|accessdate=2021-02-21}}</ref>。その意気込みについては、常に獠のことを考えながら生活しているだけに留まらず、彼のハードボイルドさを前面に出したい日本テレビの意向に反し、獠の台詞に「もっこり」を再現しようとプロデューサーに直談判した上、現場でもアドリブで「もっこり」を挟み込んでは編集で全部カットされ続けた結果、第4話でようやく採用されたほどである<ref name="jisin_22202"/>。また、緊張していた香瑩役の[[三吉彩花]]に自ら話しかけるなど、撮影現場の雰囲気作りも忘れていないという<ref name="jisin_22202"/>。三吉の方も撮影現場にお手製のカレーを持参して皆に振る舞う心遣いで上川を感心させたり、本番では使えないような上川のアドリブに軽く[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]を入れるなど良好な関係を築いたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2062382/full/|title=上川隆也、三吉彩花のもてなしに感激「お手製のカレーを…」|publisher=ORICON STYLE|date=2015-11-19|accessdate=2015-11-19}}</ref>。
=== 評価 ===
番組放送前は賛否が割れていたが、第1話放送後には[[Twitter]]に原作ファンからも上川を絶賛するコメントが寄せられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://top.tsite.jp/news/geinou01/i/25803265/|title=『エンジェル・ハート』上川隆也演じる冴羽獠、好評博す|publisher=T-SITE|date=2015-10-11|accessdate=2015-10-13}}</ref><ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2060680/full/ “再現率”高い『エンジェル・ハート』に絶賛の声 漫画実写化としては異例のスタート]</ref>。また、[[Bro.TOM|ブラザートム]]が演じるファルコンについても好印象のコメントが寄せられたほか、新人時代にアニメ版『[[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]]』に端役の声で出演し、「シティーハンタースペシャル グッド・バイ・マイ・スイートハート」(1997年)で獠と対決する敵役のメインゲスト・武藤武明(通称プロフェッサー)を演じた[[山寺宏一]]が、本作には顔出しで出演していることにも感慨深く触れられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crank-in.net/news/39350|title=『エンジェル・ハート』実写化に絶賛の声「半端ない再現率」「立ち姿がりょうだった」 - エンタメ - ニュース|publisher=クランクイン!|date=2015-10-12|accessdate=2015-10-14}}</ref><ref group="注釈">本放送から4年後の2019年には、「劇場版シティーハンター 新宿プライベートアイズ」にメインゲストの'''御国真司'''役で出演。さらにフランス制作の実写映画「[[シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション]]」で獠(演 - [[フィリップ・ラショー]])の吹き替えも担当している。</ref>。この高評について、上川は冷静に分析して背筋を正したうえで、「皆さんにとっての『エンジェル・ハート』とのズレが大きくなっていかないことを僕らは目指したい」と真摯に語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2060838/full/|title=上川隆也『エンジェル・ハート』好評価に安堵「とても良い結果がでた」|publisher=ORICON STYLE|date=2015-10-17|accessdate=2015-10-19}}</ref> ほか、獠についても「絶対的なヒーローだけに重責を感じる」と気迫を覗かせている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/tv/interview/20151010-OYT8T50000.html|title=上川隆也さん「エンジェル・ハート」 : カルチャー|publisher=読売新聞(YOMIURI ONLINE)|date=2015-10-19|accessdate=2015-10-19}}</ref>。北条も嬉しく思っているらしく、スタッフを通じて上川や三吉へお墨付きの言葉を送っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crank-in.net/news/39440|title=『エンジェル・ハート』上川隆也、冴羽りょう役の反響に感謝「みんなで喜びあった」 - エンタメ - ニュース|publisher=クランクイン!|date=2015-10-17|accessdate=2015-10-19}}</ref><ref name="dailynewsonline_1023694">{{Cite web|和書|url=http://dailynewsonline.jp/article/1023694/|title=(1ページ目)西内まりや「ゴリ押し」戦略が空回り…“第二の安室”化計画に批判殺到|publisher=デイリーニュースオンライン|date=2015-10-19|accessdate=2015-10-19}}</ref>。テレビ解説者の[[木村隆志]]も、上川の内面を分析したうえで「誠実だから再現率が高い」「やりすぎないから見やすい」と評価している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.news-postseven.com/archives/20151025_358869.html?PAGE=2|title=エンジェル・ハート好評の上川隆也 役をひきずらない凄さ|publisher=NEWSポストセブン|date=2015-10-25|accessdate=2015-10-26}}</ref>。また、三吉の演技力と身体能力の高さについての高評も挙がっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/movie/2015/10/post-338.html|title=三吉彩花、『エンジェル・ハート』で示した身体能力の高さーーアイドル出身女優の強みを読む|publisher=リアルサウンド映画部|date=2015-10-25|accessdate=2015-10-26}}</ref>。
[[西内まりや]]が歌う主題歌の「[[Save me (西内まりやの曲)|Save me]]」については、賛否が分かれている。「エンジェル・ハートの世界観に合っている」などの高評のコメントが寄せられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://mdpr.jp/music/detail/1532945|title=西内まりやが歌う「エンジェル・ハート」の世界観に反響「泣けてくる」|publisher=モデルプレス|date=2015-10-13|accessdate=2015-10-19}}</ref> 一方で、『シティーハンター』世代のアニメファンからは違和感を訴えるコメントが寄せられており、「(同作のエンディングテーマ「[[Get Wild]]」を手がけた)[[小室哲哉]]に作曲してもらいたかった」という声が出ている<ref name="dailynewsonline_1023694"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/excerpt/45200|title=「やっぱりGet Wildでしょ」西内まりやのドラマ主題歌に古参ファンが違和感|publisher=アサ芸プラス|date=2015-10-17|accessdate=2015-10-19}}</ref>。ただし、主題歌自体は西内が5、6曲ほど作成して提出した中から原作者の北条に「世界観に合うから」と選ばれたものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2061433/full/|title=西内まりや、『エンジェル・ハート』主題歌に重圧も 原作者・北条司が選定|publisher=ORICON STYLE|date=2015-10-28|accessdate=2015-11-02}}</ref>。
=== キャスト ===
==== 主要人物 ====
; 冴羽獠(さえば りょう)〈48〉
: 演 - [[上川隆也]]<ref group="注釈">字幕放送上での台詞は黄色。</ref>
: 新宿を生業とする凄腕の「シティーハンター」と呼ばれる始末屋。しかしその一方で大の女好きで有名なドスケベで、依頼人が美人であれば瞬時に手を出そうとする。
: 第1話では相棒の香と婚約中であり、1話で受けた仕事の直後に香を事故で失ってしまった。その喪失感からシティーハンターを辞めてしまい、ファルコンには「糸の切れたタコ」と評されるほど堕落した生活を送っていた。
: 香を亡くして1年後、香の心臓を移植された香瑩に出会う。レギオンの襲撃から香瑩を守るため、再びシティーハンターとしての活動を再開する。
; 香瑩(シャンイン)〈18〉
: 演 - [[三吉彩花]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20150903-OHT1T50260.html|title=三吉彩花「エンジェル・ハート」連ドラ初ヒロイン射止めた!原作北条氏のお墨付き|publisher=スポーツ報知|date=2015-09-04|accessdate=2015-09-04}}</ref><ref>字幕放送上での台詞は水色。</ref>(幼少期:[[田中悠愛]])
: 元レギオンの暗殺部隊所属の暗殺者。組織在籍時のコードネームは「グラス・ハート」。
: 幾多の暗殺行為に嫌気が刺していた時、暗殺した男の娘の泣き叫ぶ姿を目の前で見たことでついに投身自殺を図る。しかし、レギオンが強奪した香のドナー心臓を移植されて無理矢理蘇生させられてしまう。
: 昏睡状態の中で夢を見るように香の記憶を垣間見はじめ、蘇生した直後に入院していた医療施設を脱走。それからも心の中で香の記憶や幻影を垣間見るようになり、レギオンの襲撃の中、リョウと香の想いを受け継ぎ生きる決心をする。そして香の意思を受け継いでリョウの相棒となる。その際、初めて笑顔を見せた(第4話)。
: 獠と共に「シティーハンター」として活動するようになってからは、彼が美女に「もっこり」する度に頬を思いっきり抓ったり平手打ちをお見舞いするなどをして獠を諌める。また、最終回では100tハンマーを使用した。
; 槇村香(まきむら かおり)〈29〉
: 演 - [[相武紗季]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.oricon.co.jp/news/2058793/full/ |title= 相武紗季、連ドラ『エンジェル・ハート』で槇村香に起用 |publisher= ORICON STYLE |date= 2015-09-08 |accessdate= 2015-09-08 }}</ref>
: 獠の相棒で婚約者。獠の元相棒・槇村秀幸の妹。
: 花園診療所の看護師をしていたが、兄の死を機に獠の相棒となる。獠と結婚する直前に子供を庇って車に轢かれ、脳死状態になってしまう。ドナー登録していたため移植用に心臓が摘出されるが、その心臓は輸送中にレギオンによって強奪され香瑩に移植された。
: その後、香瑩が目覚めた直後から彼女の心には香の記憶が宿り、香瑩は徐々に香の影響を受け、普通の人間として成長していく。
==== 喫茶「キャッツアイ」 ====
; 劉信宏(リュウ シンホン)〈23〉
: 演 - [[三浦翔平]]<ref name = oricin>{{Cite web|和書|url= https://www.oricon.co.jp/news/2059062/full/ |title= 三浦翔平、実写『エンジェル・ハート』で暗殺者に ほか出演者も発表 |publisher= ORICON STYLE |date= 2015-09-13 |accessdate= 2015-09-13 }}</ref>
: レギオンの暗殺部隊所属している青年。
: 脱走した香瑩にレギオンに戻るよう説得に来たが、香瑩の決意に圧されるかのように彼女を守るために組織を抜けた。
: 初登場の1話こそ暗殺者然とした態度だったが、組織を抜けてからは本来の明るくて優しい青年としての1面が多く見て取れる。香瑩の側にいるためにファルコンの元に半ばに強引に転がり込みキャッツ・アイのバイトとして住み込みの生活をはじめる。
: 香瑩に好意を寄せているが相手にはされておらず、彼女のことを想いすぎるとどこかに意識が飛んでしまう。
; ファルコン / 海坊主〈51〉
: 演 - [[Bro.TOM|ブラザートム]]<ref name = oricin/>
: 喫茶「キャッツ・アイ」のマスター。元凄腕の傭兵。
: 傭兵時代の怪我で現在は失明仕掛けており、常にサングラスを着用している。視力をほとんど失ったとはいえ、まるで見えてるかのように平然と重火器を扱える。失った視覚の代わりに他の感覚が研ぎ澄まされて非常に鋭くなっており、後ろから近づいてきた李大人の隠れた殺気に気付いた。
; ホーリー
: 演 - [[山寺宏一]]<ref name = oricin/>
: キャッツ・アイの常連客で「ラフレシア」のママ。
: 実はそこそこ強く、油断していたとはいえ信宏を軽く抑え込む格闘能力を持っているツワモノ。
; モッチー
: 演 - [[ゴリ (お笑い芸人)|ゴリ]]
: 常連客、「ラフレシア」のキャスト。
: 第1話で路地裏で香瑩に締め上げられてキャッツ・アイの事をしゃべってしまい、そのキャッツアイでは信宏に捕まり銃を突き付けられた。
: ロッコによればまだ工事が済んでいない有るちんゲールらしい。
; ロッコ
: 演 - [[戸塚純貴]]
: 常連客で信宏にぞっこんの「ラフレシア」のキャスト。
; ミキ
: 演 - [[渡邉このみ]]
: ファルコンの前に現れたストリートチルドレンの少女。
: 冴子の計らいにより、児童養護施設に預けられ、学校に通う。放課後などには「キャッツアイ」でファルコンとともに過ごしている。
==== 新宿西警察署 ====
; 野上冴子〈46〉
: 演 - [[高島礼子]]【特別出演】<ref name = oricin/><ref group="注釈">字幕放送上での台詞は緑色。</ref>
: 署長。槇村とは刑事時代の同期であり恋人でもあった。
: 第6話では、槇村を殺した遠山一真から自分の身を守るため、獠にボディーガードを依頼する。
; 小宮山忍
: 演 - [[高橋努 (俳優)|高橋努]]<ref name = oricin/>
: 冴子の部下。冴子に気があるが気付いてもらえていない。
==== 花園診療所 ====
; ドク
: 演 - [[ミッキー・カーチス]]<ref name = oricin/>
: 医師。
; 智
: 演 - [[齋藤めぐみ (女優)|齋藤めぐみ]]<ref name = oricin/>
: 看護師。
==== 秘密結社「レギオン」 ====
; カリート
: 演 - [[和泉崇司]]<ref name = oricin/>(少年期:[[佐藤詩音]])
: ドラマオリジナルキャラクター。
: レギオンの暗殺部隊を取り仕切るトップで、自身もリョウと渡り合えるほどの暗殺能力を持つ青年。
; 李堅強
: 演 - [[竜雷太]]<ref name = oricin/>
: レギオン最高幹部である「会長」。
: 第1話で自殺を図ったグラスハートこと香瑩を、強奪した香の心臓で蘇生させた人物。当初は脱走した香瑩を始末しようとするが、人間らしさを取り戻していく香瑩を見て連れ戻すよう突如指示を変更し、カリートを困惑させた。
: 第8話ではついに香瑩を捕らえてリョウ達を殺す事で精神的苦痛を与えようとしていた。
: 実は彼こそが香瑩の実の父。幼い頃に生き別れたと思っていたが、自身の知らないうちに組織に引き取られていた事を1年前に偶然知ったものの、直後に香瑩が身投げをしてしまった。そこで香の心臓を強奪して彼女に移植させた。ところが組織を脱走してしまった為に掟である「裏切り者には死」という掟を変える訳にもいかなかった為に当初は狙っていた。
: 最終話では彼が父親であることに気付いたリョウと和解し、信宏も含め手を引く事で手打ちとした。そしてXYZ(依頼)を口にして「娘に普通の女性としての暮らしをさせて欲しい」と頼んだ。
: ドクの診療所までの道程を眠っている彼女を背負いながら親子としてのわずかな時間を過ごし、「子供たち(組織)全員の父親でなければならない」とリョウ達に別れを告げた。その際に香瑩を背負って笑顔でいる写真をリョウから渡され、たまには様子を見に来いよと声をかけられ去っていった。
==== ゲスト ====
; 第1話
:; 河本麗子
:: 演 - [[小沢真珠]]
:: 獠の依頼者で、占い師。
:; 鈴木研吾
:: 演 - [[野間口徹]]
:: 開業医。麗子の元夫。
:<!-- 箇条書きのスタイル崩壊防止用の空行 -->
; 第2話・第6話
:; 槇村秀幸
:: 演 - [[葛山信吾]]
:: 香の兄で、獠の昔の相棒。故人。
:: 刑事の傍ら1人でシティーハンターとして密かに活動していたが、命を狙われたところを獠に助けられる。その後、獠が無理矢理相棒となり、2人でシティーハンターとして活動するようになった。冴子の恋人でもあったが、プロポーズする直前に遠山一真により命を奪われる。
:
; 第3話
:; サトちゃん
:: 演 - [[山田キヌヲ]]
:: ミキの母親。半年前に死去している。
:; トメ
:: 演 - [[螢雪次朗]]
:: ミキが住み家にしていたビルの管理人。
:
; 第4話
:; 高畑稔
:: 演 - [[鳥羽潤]]
:: 獠がシティーハンターへの復帰を決意してから最初の依頼人。
:: 倉本綾菜の姉・沙織の心臓を移植されている。
:; 倉本綾菜
:: 演 - [[高田里穂]](少女期:[[林香帆]])
:: 稔の心臓のドナーである沙織の妹。母には内緒で綾音という源氏名を名乗りぼったくりバーで働いている。
:: 沙織が死んだのは自分のせいと思い、沙織の転落事故の後に少しずつ心を閉ざすようになる。
:; 倉本沙織
:: 演 - [[中川真桜]]
:: 綾菜の姉。
:: 15年前に山での転落事故で脳死状態となり、その心臓は稔に移植された。
:; 倉本荘子
:: 演 - [[朝加真由美]]
:: 沙織と綾菜の母。
:
; 第5話
:; 白蘭(パイラン)
:: 演 - [[前田亜季]]
:: 早川の家政婦。
:: 元々は早川暗殺のためにレギオンから送り込まれた工作員であったが、香瑩と同様に幾多の暗殺行為に耐えかね、自殺未遂を起こして倒れていたところを早川に救われ、「殺す」ためではなく「守る」ために彼の家政婦として働き始める。
:; 早川俊輔
:: 演 - [[岩城滉一]]
:: 隼鷹会会長。獠とは旧知の仲。
:: 2年前にレギオンの下部組織との抗争で、両足の自由と最愛の娘を失う。
:: ある日に自宅前で見かけた白蘭を、「娘の生き写し」として可愛がるようになった。白血病で自らの命が残り少ないことを知り、獠に自分を殺すように依頼する。
:
; 第6話
:; 遠山一真
:: 演 - [[渋谷謙人]](少年期:[[渋谷龍生]])
:: 冴子のストーカーであり、「山の手緑道の悪魔」と名乗り、冴子に近付く男をゲーム感覚で次々殺害していた。一度逮捕されるが脱獄し、槇村を殺害している。
:: 子供の頃、両親から「仕事が忙しい」という理由で置き去りにされ、一人彷徨っていたところで冴子に声をかけられて以来、彼女に「母親」を求めて異常なまでの執着を見せるようになった。
:: 槇村を殺害した後10年間行方をくらましていたが、末期の肝硬変を患ったことを機に、「冴子に自分を殺させることで、自身を『リセット』させる」ため、彼女に「最後の『ゲーム』」を申し込む。
:
; 第7話
:; 茅野夢
:: 演 - [[石井萌々果]]
:: 茅野英介の娘。
:; 高波遥
:: 演 - [[松本若菜]]
:: 夢のピアノ講師であり彼女の後見人。
:; 茅野英介
:: 演 - [[水橋研二]]
:: 夢の父親。香瑩(グラス・ハート)が最後に暗殺した人物。
:: 実は、暗殺者「マッドドッグ」であり夢の家族を殺害していたが、赤ん坊だった夢を殺すことができずに自分の娘として育てていた。
:; 風間雅臣
:: 演 - [[加藤虎ノ介]]
:: 遥の恋人。
:: 実は、「マッドドッグ」の相棒として活動していた「ドッグウォーカー」という暗殺者であり、夢と遥を監視していた。
=== スタッフ(テレビドラマ) ===
* 原作 - [[北条司]]
* 脚本 - [[高橋悠也]]、根津大樹
* 演出 - 狩山俊輔、鈴木勇馬、久保田充
* 音楽 - [[金子隆博]]
* 主題歌 - [[西内まりや]]「[[Save me (西内まりやの曲)|Save me]]」([[SONIC GROOVE]])<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/music/news/160950 |title= 西内まりや、実写版「エンジェル・ハート」主題歌を書き下ろし |publisher= 音楽ナタリー |date= 2015-09-25 |accessdate= 2015-09-25 }}</ref>
* 医療監修 - 原義明
* サウンドデザイン - [[石井和之]]
* アクションコーディネート - [[柴原孝典]]
* ガンエフェクト - 早川光
* 技術協力 - [[NiTRo]]、[[アップサイド]]
* 美術協力 - [[日本テレビアート]]
* 音響効果 - [[スポット (企業)|スポット]]
* スタジオ - [[国際放映]]
* 企画協力 - 星野由宇
* 原作協力 - [[堀江信彦]]([[コアミックス]])
* 宣伝協力 - 飛田野和彦(コアミックス)
* チーフプロデューサー - 伊藤響
* プロデューサー - [[次屋尚]]、[[千葉行利]]([[ケイファクトリー]])、宮川晶(ケイファクトリー)
* 制作協力 - ケイファクトリー
* 製作著作 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
=== 放送日程 ===
<!-- 視聴率を書く方へ。最高・最低視聴率に色を使う時はfontタグを使わないでください。[[プロジェクト:テレビドラマ]]参照 -->
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!各話!!放送日!!ラテ練<ref>該当各日 『[[読売新聞]]』 テレビ欄。</ref>!!脚本!!演出!!視聴率<ref name=cyzo>{{Cite web|和書|url= https://www.cyzowoman.com/2015/12/post_18273_1.html|title= 上川隆也『エンジェル・ハート』全話平均9.3%で終了は、“成功”か“失敗”か? |publisher= サイゾーウーマン |date= 2015-12-15 |accessdate= 2015-12-16 }}</ref>
|-
|第1話||10月11日||伝説のシティーハンター復活! 亡き婚約者の心臓が奪われた!<br />現れた謎の美少女…それは運命の再会だった||rowspan="5"|高橋悠也||狩山俊輔||{{Color|red|12.5%}}
|-
|第2話||10月18日||生きるとは? シティーハンター誕生秘話!||鈴木勇馬||10.0%
|-
|第3話||10月25日||大切な約束…幸福の少女が教えてくれた||狩山俊輔||{{0}}8.1%
|-
|第4話||11月{{0}}1日||姉妹の絆と命の証! シティーハンター復活||鈴木勇馬||10.3%
|-
|第5話||11月{{0}}8日||暗殺計画と愛に目覚めた女スパイの選択||久保田充||{{0}}8.6%
|-
|第6話||11月15日||最愛の人の命を奪った殺人犯、その結末||高橋悠也<br />根津大樹||狩山俊輔||{{Color|blue|{{0}}7.1%}}
|-
|第7話||11月22日||あの子の父親を殺したのは私だ||rowspan="3"|高橋悠也||鈴木勇馬||{{0}}9.0%
|-
|第8話||11月29日||囚われたシャンインいよいよ最終章へ!||久保田充||{{0}}8.5%
|-
|最終話||12月{{0}}6日||衝撃の真実!全ては愛する者のために!!||狩山俊輔||{{0}}7.8%
|-
!colspan="6"|平均視聴率 9.3%<ref name=cyzo />(視聴率はビデオリサーチ社調べ、[[関東地方|関東地区]]・世帯)
|}<!--視聴率を書くときは出典を付けること。-->
{{前後番組
| 放送局 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系
| 放送枠 = [[日曜ドラマ]]
| 番組名 = エンジェル・ハート<br />(2015年10月11日 - 12月6日)
| 前番組 = [[デスノート (テレビドラマ)|デスノート]]<br />(2015年7月5日 - 9月13日)
| 次番組 = [[作家アリスシリーズ#テレビドラマ|臨床犯罪学者 火村英生の推理]]<br />(2016年1月17日 - 3月20日)
}}
== 用語 ==
; COFFEE HOUSE CAT'S・EYE
: 新宿でファルコンが営む喫茶店。
:窓には防弾ガラスが嵌め込まれており、安全でもあり危険が舞い込む場所でもある。
; 正道会(チェンダオフェイ)
: 台湾マフィア。トップは、香瑩の父「李堅強」。
:; 正道会の隠密部隊
::; 玄武
::: 特に優秀なものだけがなることができるエリート部隊で、李大人の護衛部隊でもある。陳侍従長が指揮する。
:::黒ずくめの戦闘服と黒い覆面のいでたち。気配を消して、チームを組んで敵地壊滅を任務としている。
::; 青龍
::: 張が指揮する強襲部隊。しかし、張のクーデター失敗で、大幅に部隊を縮小させられてしまう。
::; 白虎
::: 敵地に乗り込んで情報収集を行うことを任務としている。その任務ゆえに、他の部隊よりも生還率が低い。
::; 朱雀
::: 暗殺を任務とする部隊。単独での作戦随行が基本である。
== CD ==
* エンジェル・ハート ドラマCDブック(懸賞の抽選プレゼント)
* エンジェル・ハート ヴォーカルコレクション Vol.1
* エンジェル・ハート ヴォーカルコレクション Vol.2
* エンジェル・ハート オリジナルサウンドトラック
== DVD ==
* '''エンジェル・ハート DVD Premium BOX Vol.1'''<ref>{{Cite web|和書|title=エンジェル・ハート DVD Premium BOX|url=https://www.angelheart-dvd.com/|website=www.angelheart-dvd.com|accessdate=2019-11-11}}</ref>
== モバイル ==
[[フィーチャーフォン]]版の[[Mobage]]でソーシャルゲーム『エンジェル・ハート』が配信。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[喫茶キャッツアイ]]
* [[記憶転移]]
== 外部リンク ==
* [http://www.comic-zenon.jp/magazine/angelheart.html コミックゼノン | ANGEL HEART 2ndシーズン]
* [http://www.youtube.com/watch?v=fXoJg-nFt5g/ コミックゼノンCM・『心は憶えてる』] - エンジェル・ハートの設定を基に制作された動画。
* [http://www.ytv.co.jp/angelheart/ エンジェル・ハート] - 読売テレビ アニメ公式サイト
* https://www.angelheart-dvd.com/ アニプレックス公式サイト
* [https://www.ntv.co.jp/angelheart/ エンジェル・ハート | 日本テレビ] - ドラマ公式サイト
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シティーハンター
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『シティーハンター』 (CITY HUNTER) は、北条司による漫画作品、およびこれを原作としたアニメ・映画等のメディアミックス作品。
本項目では原作の漫画作品を中心に、これに関連する作品全般について述べる。
読切として描かれ好評であった『シティーハンター -XYZ-』、『シティーハンター -ダブルエッジ-』(後述)を元に『週刊少年ジャンプ』(集英社刊)誌上において1985年13号から1991年50号にかけて連載。前作『キャッツ♥アイ』に続く北条司2作目となる連載作品。単行本はジャンプ・コミックスより全35巻。1996年から1997年にかけて文庫版が全18巻で発売されている。また、2004年から2005年にかけては『CITY HUNTER COMPLETE EDITION』として完全版が徳間書店より全32+3 (X,Y,Z) 巻で発売(X・Y巻はイラスト集、Z巻は読切版等を収録)。完全版では未収録ページ(扉絵など)の復活収録やカラーページの再現、加筆修正などが行われている。2020年12月時点で単行本の累計発行部数は5000万部を突破している。
東京・新宿で殺し・ボディーガード・探偵等を請け負うスイーパー「シティーハンター」の活躍を描くハードボイルドコメディ。現代劇として描かれたため、連載時の1980年代後半が舞台であり「シティーハンターが美人の依頼人から仕事を受け、その依頼を数話をかけてこなす。」というのが基本構成となっている。全体を通しての伏線などはあるものの依頼人・仕事の内容はその都度異なり、問題を解決した依頼人は原則として再登場せず各依頼の繋がりもない。
ジャンプ1980年代を担ったヒット作だが、少年誌への掲載としては内容がかなり大人向きのため単行本の売上とは裏腹に誌面での人気はさほど高くなかった。特に連載初期は正統派ハードボイルド色が極めて濃かったために人気が振るわなかった。このため、テコ入れという形でもう少し明るい作風にするという目的で「もっこりとかやっちゃったら?」という当時の担当編集者であった堀江信彦からのアドバイスを北条が真に受け、本当にもっこりを描いたことがきっかけで作風自体がコメディ色を色濃くしていき結果的に人気作品へとなっていった。
その後も担当編集者のサポートで連載は続けられたが、1990年代に入ると集英社社内でお家騒動が発生したため週刊少年ジャンプ編集部内の混乱が続き、本作の執筆に支障をきたす。最終的には突然4週後の連載終了を通告されて終了した。
連載終了が急遽決定した際、期間的な問題により中途半端な形で終了したため、後味が悪くならないように作者の意向によりコミックスに30ページ程度の加筆がされた話が収録された。また、このことが北条に本作を描き切っていないという強い思いを与え、後のリメイク作品『エンジェル・ハート (A.H.)』が誕生する原因となる。
本作ではヒロインであるボーイッシュな槇村香が「男受けするキャラではない」という判断から、毎回男受けする「美女」を登場させていた。多数登場する美女の顔の書き分けは、読者の求める「北条美人」を外さないようにという配慮から一切行わなかったと言う。
2015年には連載開始30周年を迎え、それを記念した『CITY HUNTER 30周年プロジェクト』を企画。さまざまなコラボ企画やイベントを予定している。また、7月から『CITY HUNTER -XYZ Edition-』(全12巻)が刊行される。これに合わせて新作アニメの制作が決定した。「獠のプロポーズ」のタイトルで、『CITY HUNTER -XYZ Edition-』全巻購入特典として贈呈されるDVDに収録される。
冴羽獠(さえば・りょう)は、欲望渦巻く大都市の東京・新宿で元刑事の槇村秀幸と共に依頼人の要望により、表社会では処理できない問題を始末する「スイーパー」という仕事をしている。しかし槇村は麻薬「エンジェルダスト」を仕切る国際的犯罪組織「ユニオン・テオーペ」の依頼を断ったため、ユニオン・テオーペにより殺害されてしまう。その後、獠は槇村の血のつながらない妹である「香」(かおり)を仕事上のパートナーとし、主に美女からの様々な難しい依頼を着実に処理していく。
声→アニメ/宝→宝塚歌劇団/N→Netflixオリジナル映画
南米を中心に活動している麻薬組織で、原作の序盤と終盤に登場した本作最大の敵勢力。傭兵を攻撃マシーンに変える麻薬「エンジェルダスト」を開発し、組織の傭兵に投与していた。
テレビアニメ版の監督を長年務めたこだま兼嗣によると、テレビアニメ版では麻薬を描くことが難しかったために制作陣の自主規制によって「エンジェルダスト」はアニメ版に一切登場しない。原作者の北条によると、エンジェルダストを作り出した組織「ユニオン・テオーぺ」と首領の海原の存在がアニメ版では完全に省略される形となっていた。アニメ版では原作の「ユニオン・テオーペ」が新興麻薬組織「赤いペガサス」に置き換えられている。
その後2023年9月に公開された『劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)』にて「ユニオン・テオーペ」と首領の海原がアニメ版に初めて登場することになった。これと同時に「赤いペガサス」が「ユニオン・テオーペ」の下部組織であることも明かされている。
「エンジェルダスト」は原作では麻薬として登場しているが、アニメ版では「ナノマシンテクノロジーを用いて人体の能力を極限まで引き上げる薬」に設定変更されている。また、アニメ版のエンジェルダストの描写はナノマシンテクノロジーを主体としており、可能な限り麻薬を想起させない演出が施されている。
なお、2019年にフランスで制作された実写映画『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』ではアニメ版に先駆けて「ユニオン・テオーペ」の名前が作中に登場している。
冴羽獠の愛車は赤いモーリス・ミニクーパーMk.I(1964~1967年生産)であり、本作の代名詞ともなっている。長期間生産されていたミニには様々なバリエーションモデルが存在するが、「クーパー」は高性能モデルを指す。詳細はミニ (BMC)#クーパー/クーパーSの項目を参照。
ただし原作では、獠が当初からミニクーパーに乗っていたわけではない。ホンダ・CR-X(初代前期型)やトヨタ・スポーツ800などにも乗っており、初期の頃はCR-Xの登場頻度が比較的高かった。原作31話「愛ってなんですかの巻」(初出1986年、文庫版4巻所収)で、ようやくミニクーパーが初めて登場している。一方、アニメ版では第1話「粋なスイーパー XYZは危険なカクテル」から獠が赤いミニクーパーに乗っている。
2019年にBMW Japanが実施したインタビューによると、作者の北条司が獠の愛車としてミニクーパーを採用したのは「デザインが好みだったため」であり、新宿の狭い道を走り回ったり、獠と香の距離感を縮めて描きたいときに、ミニクーパーの小ささが役に立ったと述べている。北条は当初、ミニクーパーのボディ色はブリティッシュグリーンと考えていたが、アニメでの色指定が赤になったため、それ以降はボディ色が赤ということで定着した。
なお、北条の作品である「キャッツ・アイ」のメインキャラクターである内海俊夫が乗っていた車は、ホンダ・N360をミニクーパー風に改造した「Nクーパー」であった。
獠の愛車がミニのMk.I(初期型、1959~1967年生産)である判別ポイントとして、車外に露出したドアヒンジ、スライド式のフロントサイドウィンドウ、グリル形状、テールランプ形状、小径の10インチホイールなどが挙げられる。また、獠のミニクーパーは左右後ろ側に給油口が1ヶ所ずつ、合計2ヶ所装備されており、Mk.Iのミニクーパーの特徴であるツインタンクを搭載していることがわかる。通常のミニの給油口は左後ろに1ヶ所のみである。
初期型のMk.Iは現在では希少車のため、フランスで制作された実写版映画『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』では、後年の形式であるMk.III(1969~2000年生産)、それも後期の比較的年式の新しいミニクーパーが使用されていた。ただし、原作らしさを出すためにドアミラーを撤去してフェンダーミラーに換装するなど、監督兼主演で本作の大ファンであるフィリップ・ラショーの強いこだわりが伺える。
北条は原作の作画資料として、タミヤのプラモデル「モーリス・ミニクーパー1275S Mk.I」(1/24スポーツカーシリーズ No.39、2023年現在は絶版)を参考にしたと見られる。タミヤが取材対象とした実車のミニクーパーは内外装が多数カスタマイズされており、プラモデルも同様の構成となっている。そのため、本作のミニクーパーも、このカスタマイズ箇所(アルミホイール、前後バンパーのオーバーライダー、ステアリングホイール換装、センターマフラーなど)がそのまま絵に反映されていた。
その後、原作やアニメなどでミニクーパーについて複数の設定変更が行われた。「出逢って恋して占っての巻」(初出1987年、文庫版6巻所収)以降、ミニクーパーの屋根がノーマルルーフからキャンバストップに変更されている。「思い出を消して...の巻」(初出1990年、文庫版15巻所収)では、フェンダーミラーが丸形から砲弾型に変更された。
アニメ版では作画監督などの好みによって仕様が度々変わっており、放映回によってはオーバーフェンダーが装着されたERAミニターボ(英語版Wikipedia記事)のように描かれていることもある。
「出逢って恋して占っての巻」ではナンバープレートの文字が描かれており、「歌舞伎町69 あっ 19-19」であることが明らかになった。一方、アニメ版のナンバープレートは「練馬56 さ 32-98」「新宿56 さ 32-98」などで数字は「32-98」となっており、原作のナンバーの数字「69」「19-19」が意味するところの卑わいな意味を薄める努力がなされていた。フランスで製作された実写映画版のナンバープレートもアニメ版に準拠しており、「32-98-NL」となっている。NLは、「シティーハンター」フランス語版で冴羽獠が「Nicky Larson」という名前に設定変更されていたため、その頭文字である。
このミニクーパーは何回破壊されてもいつの間にか元通りに修復されているというマンガらしい表現もあり、「女心を知るものは...の巻」(初出1989年、文庫版12巻所収)では海坊主に助手席の椅子を力ずくで取り外された上に、巨体の海坊主の頭がキャンバストップを破ってしまっている。
2019年以降に再起動したアニメ版に登場するミニクーパーは、原作と以下の相違点がある(過去のアニメ版で設定変更された箇所も含む)。
『キャッツ♥アイ』の登場人物である神谷真人(ねずみ)をモデルにした凄腕のスイーパーが登場するストーリー『シティーハンター -XYZ-』と、その続編『シティーハンター - ダブル-エッジ -』の2作からなる。
ストーリーの発案は『キャッツ♥アイ』担当編集者だった堀江信彦による。どちらの作品も「女好きで普段は節操がないが、仕事となると超一流で銃の名手」といった獠の基本設定や、獠・香・美人依頼人という物語の基本構造は完成済みであるものの、登場人物の設定や性格などには異なる点も多く、連載作品とは世界設定を共有していないパラレルワールドの話となっている。特に香は、容姿も性格も連載作品とは大きく異なり、男っぽさがまったくない。こうした違いからどちらの作品も連載版の単行本には未収録となり、『天使の贈りもの 北条司短編集[1]』(ジャンプ・コミックス)・『北条司短編集1 シティーハンター -XYZ-』(文庫)に収録された。また、完全版Z巻においても『XYZ』と『ダブルエッジ』の2編に加え、「獠の原点」として真人が活躍する2編が『キャッツ♥アイ』より収録された。
1987年に『シティーハンター』としてテレビシリーズ化されたのを皮切りに、テレビアニメとしては4度のシリーズ化と3度のスペシャルが放映、またアニメ映画としては3本が発表され、いずれの作品も制作には読売テレビとサンライズが関わっている。2019年には4作目の映画が公開された。アニメシリーズは改変箇所が多く、一部の展開や結末が異なるものがある。また後期に放映された大半がアニメオリジナルエピソードとなっている。
ただし、本作の場合きわめてユニークなのは、一般的なアニメ化作品とは異なり、原作者の北条司自身がアニメの制作に深く関わっている点である。
北条司自身が文庫版18巻の「あとがき」で述べたところによると、北条はアニメ会社(サンライズ)と協業の上、原作の連載中に時間的な問題で取り上げることができなかったストーリーをアニメ版の原案としていることが多く、シナリオ・絵コンテにも北条が相当程度関与しており、アニメ版オリジナルキャラクターのキャラクターデザインも全て北条本人が行っている。この手法は、2019年に本作のアニメ版映画が再起動した後も継続している。
フランスでは『Nicky Larson』のタイトルで放映された。
著作権管理元の公認作品は1993年公開のジャッキー・チェン主演作品、2019年公開のフィリップ・ラショー主演作品、製作のみが発表されたホァン・シャオミン主演作品のみ。そのほか、無断で作成された非公認作品が2作存在する。フィリップ・ラショー主演作品、ホァン・シャオミン主演作品以外はいずれも香港での製作となっている。作品の詳細については各記事を参照。
著作権管理元の公認作品は2011年放送のイ・ミンホ主演作品のみ。そのほか、無断で作成された非公認作品が2作存在する。詳細については記事を参照。
1990年代後半に集英社内部でお家騒動が発生したことにより、北条の担当編集者であり「週刊少年ジャンプ」元編集長だった堀江信彦(現:コアミックス代表取締役社長)が集英社を退社し、新会社「株式会社コアミックス」を2000年6月に設立した。北条司、原哲夫、次原隆二(いずれも堀江の担当漫画家)、そして本作アニメ版の冴羽獠役、『北斗の拳』でケンシロウ役を務める声優の神谷明も同社の設立に参画した(詳しくは「コアミックス」「北条司#コアミックスの設立」などを参照)。そのため、2003年頃以降に出版された『シティーハンター』関連出版物の版元は集英社ではなく、コアミックスと親密な関係にある徳間書店になっている。
発行は全て徳間書店(レーベルは徳間コミックス)
2003年10月にサミーから、2009年3月にHEIWAからパチンコ機が、2007年11月に銀座からパチスロ機「パチスロシティーハンター」が発売され、2014年1月にオリンピア (企業)から「パチスロシティーハンター」が発売された。「平和CRシティーハンター」・「オリンピアパチスロシティーハンター」は神谷明はじめオリジナル声優を起用。銀座から発売された「パチスロシティーハンター」は冴羽獠の声が神谷明から子安武人に変更されている。
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"text": "『シティーハンター』 (CITY HUNTER) は、北条司による漫画作品、およびこれを原作としたアニメ・映画等のメディアミックス作品。",
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"text": "本項目では原作の漫画作品を中心に、これに関連する作品全般について述べる。",
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"text": "読切として描かれ好評であった『シティーハンター -XYZ-』、『シティーハンター -ダブルエッジ-』(後述)を元に『週刊少年ジャンプ』(集英社刊)誌上において1985年13号から1991年50号にかけて連載。前作『キャッツ♥アイ』に続く北条司2作目となる連載作品。単行本はジャンプ・コミックスより全35巻。1996年から1997年にかけて文庫版が全18巻で発売されている。また、2004年から2005年にかけては『CITY HUNTER COMPLETE EDITION』として完全版が徳間書店より全32+3 (X,Y,Z) 巻で発売(X・Y巻はイラスト集、Z巻は読切版等を収録)。完全版では未収録ページ(扉絵など)の復活収録やカラーページの再現、加筆修正などが行われている。2020年12月時点で単行本の累計発行部数は5000万部を突破している。",
"title": "概要"
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"text": "東京・新宿で殺し・ボディーガード・探偵等を請け負うスイーパー「シティーハンター」の活躍を描くハードボイルドコメディ。現代劇として描かれたため、連載時の1980年代後半が舞台であり「シティーハンターが美人の依頼人から仕事を受け、その依頼を数話をかけてこなす。」というのが基本構成となっている。全体を通しての伏線などはあるものの依頼人・仕事の内容はその都度異なり、問題を解決した依頼人は原則として再登場せず各依頼の繋がりもない。",
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"text": "ジャンプ1980年代を担ったヒット作だが、少年誌への掲載としては内容がかなり大人向きのため単行本の売上とは裏腹に誌面での人気はさほど高くなかった。特に連載初期は正統派ハードボイルド色が極めて濃かったために人気が振るわなかった。このため、テコ入れという形でもう少し明るい作風にするという目的で「もっこりとかやっちゃったら?」という当時の担当編集者であった堀江信彦からのアドバイスを北条が真に受け、本当にもっこりを描いたことがきっかけで作風自体がコメディ色を色濃くしていき結果的に人気作品へとなっていった。",
"title": "概要"
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"text": "その後も担当編集者のサポートで連載は続けられたが、1990年代に入ると集英社社内でお家騒動が発生したため週刊少年ジャンプ編集部内の混乱が続き、本作の執筆に支障をきたす。最終的には突然4週後の連載終了を通告されて終了した。",
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"text": "連載終了が急遽決定した際、期間的な問題により中途半端な形で終了したため、後味が悪くならないように作者の意向によりコミックスに30ページ程度の加筆がされた話が収録された。また、このことが北条に本作を描き切っていないという強い思いを与え、後のリメイク作品『エンジェル・ハート (A.H.)』が誕生する原因となる。",
"title": "概要"
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"text": "本作ではヒロインであるボーイッシュな槇村香が「男受けするキャラではない」という判断から、毎回男受けする「美女」を登場させていた。多数登場する美女の顔の書き分けは、読者の求める「北条美人」を外さないようにという配慮から一切行わなかったと言う。",
"title": "概要"
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"text": "2015年には連載開始30周年を迎え、それを記念した『CITY HUNTER 30周年プロジェクト』を企画。さまざまなコラボ企画やイベントを予定している。また、7月から『CITY HUNTER -XYZ Edition-』(全12巻)が刊行される。これに合わせて新作アニメの制作が決定した。「獠のプロポーズ」のタイトルで、『CITY HUNTER -XYZ Edition-』全巻購入特典として贈呈されるDVDに収録される。",
"title": "概要"
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"text": "冴羽獠(さえば・りょう)は、欲望渦巻く大都市の東京・新宿で元刑事の槇村秀幸と共に依頼人の要望により、表社会では処理できない問題を始末する「スイーパー」という仕事をしている。しかし槇村は麻薬「エンジェルダスト」を仕切る国際的犯罪組織「ユニオン・テオーペ」の依頼を断ったため、ユニオン・テオーペにより殺害されてしまう。その後、獠は槇村の血のつながらない妹である「香」(かおり)を仕事上のパートナーとし、主に美女からの様々な難しい依頼を着実に処理していく。",
"title": "あらすじ"
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"text": "声→アニメ/宝→宝塚歌劇団/N→Netflixオリジナル映画",
"title": "主な登場人物"
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"text": "南米を中心に活動している麻薬組織で、原作の序盤と終盤に登場した本作最大の敵勢力。傭兵を攻撃マシーンに変える麻薬「エンジェルダスト」を開発し、組織の傭兵に投与していた。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "テレビアニメ版の監督を長年務めたこだま兼嗣によると、テレビアニメ版では麻薬を描くことが難しかったために制作陣の自主規制によって「エンジェルダスト」はアニメ版に一切登場しない。原作者の北条によると、エンジェルダストを作り出した組織「ユニオン・テオーぺ」と首領の海原の存在がアニメ版では完全に省略される形となっていた。アニメ版では原作の「ユニオン・テオーペ」が新興麻薬組織「赤いペガサス」に置き換えられている。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "その後2023年9月に公開された『劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)』にて「ユニオン・テオーペ」と首領の海原がアニメ版に初めて登場することになった。これと同時に「赤いペガサス」が「ユニオン・テオーペ」の下部組織であることも明かされている。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "「エンジェルダスト」は原作では麻薬として登場しているが、アニメ版では「ナノマシンテクノロジーを用いて人体の能力を極限まで引き上げる薬」に設定変更されている。また、アニメ版のエンジェルダストの描写はナノマシンテクノロジーを主体としており、可能な限り麻薬を想起させない演出が施されている。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "なお、2019年にフランスで制作された実写映画『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』ではアニメ版に先駆けて「ユニオン・テオーペ」の名前が作中に登場している。",
"title": "主な登場人物"
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"text": "冴羽獠の愛車は赤いモーリス・ミニクーパーMk.I(1964~1967年生産)であり、本作の代名詞ともなっている。長期間生産されていたミニには様々なバリエーションモデルが存在するが、「クーパー」は高性能モデルを指す。詳細はミニ (BMC)#クーパー/クーパーSの項目を参照。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "ただし原作では、獠が当初からミニクーパーに乗っていたわけではない。ホンダ・CR-X(初代前期型)やトヨタ・スポーツ800などにも乗っており、初期の頃はCR-Xの登場頻度が比較的高かった。原作31話「愛ってなんですかの巻」(初出1986年、文庫版4巻所収)で、ようやくミニクーパーが初めて登場している。一方、アニメ版では第1話「粋なスイーパー XYZは危険なカクテル」から獠が赤いミニクーパーに乗っている。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "2019年にBMW Japanが実施したインタビューによると、作者の北条司が獠の愛車としてミニクーパーを採用したのは「デザインが好みだったため」であり、新宿の狭い道を走り回ったり、獠と香の距離感を縮めて描きたいときに、ミニクーパーの小ささが役に立ったと述べている。北条は当初、ミニクーパーのボディ色はブリティッシュグリーンと考えていたが、アニメでの色指定が赤になったため、それ以降はボディ色が赤ということで定着した。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "なお、北条の作品である「キャッツ・アイ」のメインキャラクターである内海俊夫が乗っていた車は、ホンダ・N360をミニクーパー風に改造した「Nクーパー」であった。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "獠の愛車がミニのMk.I(初期型、1959~1967年生産)である判別ポイントとして、車外に露出したドアヒンジ、スライド式のフロントサイドウィンドウ、グリル形状、テールランプ形状、小径の10インチホイールなどが挙げられる。また、獠のミニクーパーは左右後ろ側に給油口が1ヶ所ずつ、合計2ヶ所装備されており、Mk.Iのミニクーパーの特徴であるツインタンクを搭載していることがわかる。通常のミニの給油口は左後ろに1ヶ所のみである。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "初期型のMk.Iは現在では希少車のため、フランスで制作された実写版映画『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』では、後年の形式であるMk.III(1969~2000年生産)、それも後期の比較的年式の新しいミニクーパーが使用されていた。ただし、原作らしさを出すためにドアミラーを撤去してフェンダーミラーに換装するなど、監督兼主演で本作の大ファンであるフィリップ・ラショーの強いこだわりが伺える。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "北条は原作の作画資料として、タミヤのプラモデル「モーリス・ミニクーパー1275S Mk.I」(1/24スポーツカーシリーズ No.39、2023年現在は絶版)を参考にしたと見られる。タミヤが取材対象とした実車のミニクーパーは内外装が多数カスタマイズされており、プラモデルも同様の構成となっている。そのため、本作のミニクーパーも、このカスタマイズ箇所(アルミホイール、前後バンパーのオーバーライダー、ステアリングホイール換装、センターマフラーなど)がそのまま絵に反映されていた。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "その後、原作やアニメなどでミニクーパーについて複数の設定変更が行われた。「出逢って恋して占っての巻」(初出1987年、文庫版6巻所収)以降、ミニクーパーの屋根がノーマルルーフからキャンバストップに変更されている。「思い出を消して...の巻」(初出1990年、文庫版15巻所収)では、フェンダーミラーが丸形から砲弾型に変更された。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "アニメ版では作画監督などの好みによって仕様が度々変わっており、放映回によってはオーバーフェンダーが装着されたERAミニターボ(英語版Wikipedia記事)のように描かれていることもある。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
},
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"text": "「出逢って恋して占っての巻」ではナンバープレートの文字が描かれており、「歌舞伎町69 あっ 19-19」であることが明らかになった。一方、アニメ版のナンバープレートは「練馬56 さ 32-98」「新宿56 さ 32-98」などで数字は「32-98」となっており、原作のナンバーの数字「69」「19-19」が意味するところの卑わいな意味を薄める努力がなされていた。フランスで製作された実写映画版のナンバープレートもアニメ版に準拠しており、「32-98-NL」となっている。NLは、「シティーハンター」フランス語版で冴羽獠が「Nicky Larson」という名前に設定変更されていたため、その頭文字である。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "このミニクーパーは何回破壊されてもいつの間にか元通りに修復されているというマンガらしい表現もあり、「女心を知るものは...の巻」(初出1989年、文庫版12巻所収)では海坊主に助手席の椅子を力ずくで取り外された上に、巨体の海坊主の頭がキャンバストップを破ってしまっている。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "2019年以降に再起動したアニメ版に登場するミニクーパーは、原作と以下の相違点がある(過去のアニメ版で設定変更された箇所も含む)。",
"title": "冴羽獠の赤いミニクーパー"
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"text": "『キャッツ♥アイ』の登場人物である神谷真人(ねずみ)をモデルにした凄腕のスイーパーが登場するストーリー『シティーハンター -XYZ-』と、その続編『シティーハンター - ダブル-エッジ -』の2作からなる。",
"title": "読切版"
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"text": "ストーリーの発案は『キャッツ♥アイ』担当編集者だった堀江信彦による。どちらの作品も「女好きで普段は節操がないが、仕事となると超一流で銃の名手」といった獠の基本設定や、獠・香・美人依頼人という物語の基本構造は完成済みであるものの、登場人物の設定や性格などには異なる点も多く、連載作品とは世界設定を共有していないパラレルワールドの話となっている。特に香は、容姿も性格も連載作品とは大きく異なり、男っぽさがまったくない。こうした違いからどちらの作品も連載版の単行本には未収録となり、『天使の贈りもの 北条司短編集[1]』(ジャンプ・コミックス)・『北条司短編集1 シティーハンター -XYZ-』(文庫)に収録された。また、完全版Z巻においても『XYZ』と『ダブルエッジ』の2編に加え、「獠の原点」として真人が活躍する2編が『キャッツ♥アイ』より収録された。",
"title": "読切版"
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"text": "1987年に『シティーハンター』としてテレビシリーズ化されたのを皮切りに、テレビアニメとしては4度のシリーズ化と3度のスペシャルが放映、またアニメ映画としては3本が発表され、いずれの作品も制作には読売テレビとサンライズが関わっている。2019年には4作目の映画が公開された。アニメシリーズは改変箇所が多く、一部の展開や結末が異なるものがある。また後期に放映された大半がアニメオリジナルエピソードとなっている。",
"title": "アニメ"
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"text": "ただし、本作の場合きわめてユニークなのは、一般的なアニメ化作品とは異なり、原作者の北条司自身がアニメの制作に深く関わっている点である。",
"title": "アニメ"
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"text": "北条司自身が文庫版18巻の「あとがき」で述べたところによると、北条はアニメ会社(サンライズ)と協業の上、原作の連載中に時間的な問題で取り上げることができなかったストーリーをアニメ版の原案としていることが多く、シナリオ・絵コンテにも北条が相当程度関与しており、アニメ版オリジナルキャラクターのキャラクターデザインも全て北条本人が行っている。この手法は、2019年に本作のアニメ版映画が再起動した後も継続している。",
"title": "アニメ"
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"text": "フランスでは『Nicky Larson』のタイトルで放映された。",
"title": "アニメ"
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"text": "著作権管理元の公認作品は1993年公開のジャッキー・チェン主演作品、2019年公開のフィリップ・ラショー主演作品、製作のみが発表されたホァン・シャオミン主演作品のみ。そのほか、無断で作成された非公認作品が2作存在する。フィリップ・ラショー主演作品、ホァン・シャオミン主演作品以外はいずれも香港での製作となっている。作品の詳細については各記事を参照。",
"title": "実写映画"
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"text": "著作権管理元の公認作品は2011年放送のイ・ミンホ主演作品のみ。そのほか、無断で作成された非公認作品が2作存在する。詳細については記事を参照。",
"title": "実写ドラマ"
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"text": "1990年代後半に集英社内部でお家騒動が発生したことにより、北条の担当編集者であり「週刊少年ジャンプ」元編集長だった堀江信彦(現:コアミックス代表取締役社長)が集英社を退社し、新会社「株式会社コアミックス」を2000年6月に設立した。北条司、原哲夫、次原隆二(いずれも堀江の担当漫画家)、そして本作アニメ版の冴羽獠役、『北斗の拳』でケンシロウ役を務める声優の神谷明も同社の設立に参画した(詳しくは「コアミックス」「北条司#コアミックスの設立」などを参照)。そのため、2003年頃以降に出版された『シティーハンター』関連出版物の版元は集英社ではなく、コアミックスと親密な関係にある徳間書店になっている。",
"title": "書誌情報"
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"text": "発行は全て徳間書店(レーベルは徳間コミックス)",
"title": "書誌情報"
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"tag": "p",
"text": "2003年10月にサミーから、2009年3月にHEIWAからパチンコ機が、2007年11月に銀座からパチスロ機「パチスロシティーハンター」が発売され、2014年1月にオリンピア (企業)から「パチスロシティーハンター」が発売された。「平和CRシティーハンター」・「オリンピアパチスロシティーハンター」は神谷明はじめオリジナル声優を起用。銀座から発売された「パチスロシティーハンター」は冴羽獠の声が神谷明から子安武人に変更されている。",
"title": "ゲーム"
}
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『シティーハンター』 は、北条司による漫画作品、およびこれを原作としたアニメ・映画等のメディアミックス作品。 本項目では原作の漫画作品を中心に、これに関連する作品全般について述べる。
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{{otheruseslist|北条司の漫画作品|アニメ|シティーハンター (アニメ)|1993年に日本で公開された香港の実写映画|シティーハンター (映画)|2019年に日本で公開されたフランスの実写映画|シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション|2024年にNetflixで公開予定の映画|シティハンター (2024年の映画)|テレビドラマ|シティーハンター in Seoul|シティーハンターと呼ばれる作中の主人公|冴羽獠|テレビドラマ}}
{{Infobox animanga/Header
| タイトル = シティーハンター
| ジャンル =[[少年漫画]]、 [[ハードボイルド]]、[[アクション]]、[[ラブコメディ]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
| 作者 = [[北条司]]
| 出版社 = {{flagicon|Japan}} [[集英社]]
| 他出版社 = {{flagicon|Japan}} [[徳間書店]]([[完全版コミックス|完全版]])<br />{{flagicon|Taiwan}} 時報文化、[[東立出版社]]<br />{{flagicon|Hong Kong}} [[玉皇朝]]<br />{{flagicon|Canada}} {{flagicon|USA}} Gutsoon! Entertainment
| 掲載誌 = [[週刊少年ジャンプ]]
| レーベル= [[ジャンプ・コミックス]](JC)<br />[[集英社文庫]](文庫)<br />徳間コミックス([[完全版コミックス|完全版]])<br />[[ゼノンコミックス]](XYZ Edition)
| 開始 = 1985年13号
| 終了= 1991年50号
| 巻数 = 全35巻
| 話数 = 全336話
| その他 = 文庫版:全18巻<br />完全版:全35巻<br />XYZ Edition:全12巻<br />Perfect Edition:全17巻
}}
{{Infobox animanga/Manga
|タイトル = 今日からCITY HUNTER
| 作者 = 北条司
| 作画 = [[錦ソクラ]]
| 出版社 = 徳間書店<br />→コアミックス
| 掲載誌 = 月刊コミックゼノン
| レーベル = ゼノンコミックス
| 開始号 = 2017年9月号
| 終了号 =
| 開始日 =
| 終了日 =
| 巻数 = 既刊13巻(2023年8月現在)
| 話数 =
}}
{{Infobox animanga/Manga
|タイトル = CITY HUNTER外伝<br />伊集院隼人氏の平穏ならぬ日常
| 作者 = 北条司
| 作画 = [[えすとえむ]]
| 出版社 = 竹書房
| 掲載誌 = コミックタタン
| レーベル = バンブーコミックス タタン
| 開始号 =
| 終了号 =
| 開始日 = 2018年4月29日
| 終了日 = 2021年8月27日
| 巻数 = 全5巻
| 話数 =
| インターネット = 1
}}
{{Infobox animanga/Novel
| タイトル = CITY HUNTER
| 著者 = 外池省二
| イラスト = 北条司
| 出版社 = 集英社
| レーベル = ジャンプ ジェイ ブックス
| 発売日 = 1993年4月26日
| 巻数 = 1巻
}}
{{Infobox animanga/Novel
| タイトル = CITY HUNTER SPECIAL
| 著者 = [[天羽沙夜]]
| イラスト = 北条司
| 出版社 = 集英社
| レーベル = ジャンプ ジェイ ブックス
| 発売日 = 1995年12月15日
| 巻数 = 1巻
}}
{{Infobox animanga/Novel
| タイトル = CITY HUNTER 2
| 著者 = [[稲葉稔 (作家)|稲葉稔]]
| イラスト = 北条司
| 出版社 = 集英社
| レーベル = ジャンプ ジェイ ブックス
| 発売日 = 1997年4月24日
| 巻数 = 1巻
}}
{{Infobox animanga/Novel
| タイトル = CITY HUNTER SPECIAL 2
| 著者 = [[岸間信明]]
| イラスト = 北条司
| 出版社 = 集英社
| レーベル = ジャンプ ジェイ ブックス
| 発売日 = 1999年4月2日
| 巻数 = 1巻
}}
{{Infobox animanga/Other
|タイトル = [[シティーハンター (アニメ)|アニメ]]
|コンテンツ =
* テレビシリーズ
** シティーハンター
** シティーハンター2
** シティーハンター3
** シティーハンター'91
* テレビスペシャル
** ザ・シークレット・サービス
** グッド・バイ・マイ・スイート・ハート
** 緊急生中継!? 凶悪犯冴羽獠の最期
* アニメ映画
** 愛と宿命のマグナム
** ベイシティウォーズ
** 百万ドルの陰謀
**新宿プライベート・アイズ
**天使の涙
}}
{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]
| ウィキポータル = [[Portal:文学|文学]]・[[Portal:漫画|漫画]]
}}
『'''シティーハンター'''』 (CITY HUNTER) は、[[北条司]]による[[漫画]]作品、およびこれを原作とした[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[映画]]等の[[メディアミックス]]作品。
本項目では原作の漫画作品を中心に、これに関連する作品全般について述べる。
== 概要 ==
読切として描かれ好評であった『シティーハンター -XYZ-』、『シティーハンター -ダブルエッジ-』([[#読切版|後述]])を元に『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]]刊)誌上において1985年13号から1991年50号にかけて連載。前作『[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]』に続く北条司2作目となる連載作品。単行本は[[ジャンプ・コミックス]]より全35巻。1996年から1997年にかけて文庫版が全18巻で発売されている。また、2004年から2005年にかけては『CITY HUNTER COMPLETE EDITION』として[[完全版コミックス|完全版]]が[[徳間書店]]より全32+3 (X,Y,Z) 巻で発売(X・Y巻はイラスト集、Z巻は読切版等を収録)。完全版では未収録ページ(扉絵など)の復活収録やカラーページの再現、加筆修正などが行われている。2020年12月時点で単行本の累計発行部数は'''5000万部'''を突破している<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20201221dog00m200064000c.html|title=シティーハンター:宝塚で舞台化 彩風咲奈、朝月希和が主演 リョウの魅力をドラマチックに描く|work=MANTANWEB|date=2020-12-22|accessdate=2021-01-21}}</ref>。
[[東京]]・[[新宿]]で殺し・ボディーガード・探偵等を請け負うスイーパー「シティーハンター」の活躍を描く[[ハードボイルド]]コメディ。現代劇として描かれたため、連載時の1980年代後半が舞台であり「シティーハンターが美人の依頼人から仕事を受け、その依頼を数話をかけてこなす。」というのが基本構成となっている{{Efn|[[新宿駅]]東口にある[[伝言板]]に「XYZ」という暗語と連絡方法を書き記すのが依頼方法。「XYZ」はアルファベットの最後の3文字であることから「もう後がない」ということを意味する。本作が少年ジャンプに連載されていた当時の日本では、実際に駅の伝言板に連絡方法を書き記すというのは当たり前のように行われていた。現在では、携帯電話の普及などといった時代の変化に伴い、そういった光景はあまり見られないものとなっている。その後この伝言板は撤去されたため、2019年公開の『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉』では「かつて伝言板があった場所に専用のアプリを起動させたスマートフォンをかざすと画面上に伝言板が表示され、そこに『XYZ』と書き込む」という形になっている。なお、ラストシーンでは冴子の計らいで新たに実体の伝言板が設置され、2023年公開の『劇場版シティーハンター 天使の涙』ではそれが以前の伝言板と同様に使われている。}}。全体を通しての伏線などはあるものの依頼人・仕事の内容はその都度異なり、問題を解決した依頼人は原則として再登場せず各依頼の繋がりもない。
ジャンプ1980年代を担ったヒット作だが、少年誌への掲載としては内容がかなり大人向きのため単行本の売上とは裏腹に誌面での人気はさほど高くなかった。特に連載初期は正統派ハードボイルド色が極めて濃かったために人気が振るわなかった{{Efn|ただし、好みの美人女性相手であればなりふり構わずちょっかいを出すという主人公の獠の女好きなキャラクターはすでに初期から盛り込まれていた。}}。このため、テコ入れという形でもう少し明るい作風にするという目的で「もっこりとかやっちゃったら?」という当時の担当編集者であった[[堀江信彦]]からのアドバイスを北条が真に受け、本当にもっこりを描いたことがきっかけで作風自体がコメディ色を色濃くしていき結果的に人気作品へとなっていった<ref>{{Cite news|url= https://otapol.com/2015/09/post-4022.html |title= “もっこり”は世界共通語!? マンガ家・北条司と編集者・堀江信彦が明かす『シティーハンター』裏話 |newspaper= おたぽる |publisher= 株式会社サイゾー |date= 2015-09-21 |accessdate= 2022-12-15}}</ref>。
その後も担当編集者のサポートで連載は続けられたが、1990年代に入ると集英社社内でお家騒動が発生したため週刊少年ジャンプ編集部内の混乱が続き、本作の執筆に支障をきたす{{Efn|例として、アニメーションスタッフによる会合が行われた際、作者も誘われたことから参加したところ、編集部から編集部を通さずに勝手なことをしないよう注意されたという。ジャンプ編集部内のお家騒動の詳細は[[週刊少年ジャンプ編集部#堀江信彦体制]]の項目も参照。これらの問題により最終的に北条の担当編集者だった堀江は2000年に集英社を退社し、北条らとともに新会社[[コアミックス]]を設立した。}}。最終的には突然4週後の連載終了を通告されて終了した。
連載終了が急遽決定した際、期間的な問題により中途半端な形で終了したため、後味が悪くならないように作者の意向によりコミックスに30ページ程度の加筆がされた話が収録された<ref>『シティーハンター パーフェクトガイドブック』108頁</ref>。また、このことが北条に本作を描き切っていないという強い思いを与え、後のリメイク作品『[[エンジェル・ハート]] (A.H.)』が誕生する原因となる<ref>『20周年記念 イラストレーションズ』104頁</ref><ref>『A.H.公式ガイドブック』91 - 92頁</ref>。
本作ではヒロインであるボーイッシュな槇村香が「男受けするキャラではない」という判断から、毎回男受けする「美女」を登場させていた。多数登場する美女の顔の書き分けは、読者の求める「北条美人」を外さないようにという配慮から一切行わなかったと言う<ref>『シティーハンター パーフェクトガイドブック』「北条司 ロングインタビュー PART1」</ref>。
2015年には連載開始30周年を迎え、それを記念した『CITY HUNTER 30周年プロジェクト』を企画<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.hojo-tsukasa.com/cat-c/458.html |title= 『CITY HUNTER』30周年プロジェクト 始動!! |website= 北条司 OFFICIAL WEB SITE |date= 2015-02-25 |accessdate= 2022-12-15 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150408011107/http://www.hojo-tsukasa.com/cat-c/458.html |archivedate= 2015-04-08}}</ref>。さまざまなコラボ企画やイベントを予定している。また、7月から『CITY HUNTER -XYZ Edition-』(全12巻)が刊行される。これに合わせて新作アニメの制作が決定した。「'''獠のプロポーズ'''」のタイトルで、『CITY HUNTER -XYZ Edition-』全巻購入特典として贈呈されるDVDに収録される<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/148298|title=「シティーハンター」新作アニメの制作決定、昔と同じオリジナル声優陣で|newspaper= コミックナタリー |publisher= ナターシャ|date=2015-05-25|accessdate=2015-05-26}}</ref>{{Efn|なお、このストーリーの内容は[[エンジェル・ハート]]内でのものである。}}。
== あらすじ ==
冴羽獠(さえば・りょう)は、欲望渦巻く大都市の東京・[[新宿]]で元刑事の槇村秀幸と共に依頼人の要望により、表社会では処理できない問題を始末する「スイーパー」という仕事をしている。しかし槇村は麻薬「エンジェルダスト」を仕切る国際的犯罪組織「ユニオン・テオーペ」の依頼を断ったため、ユニオン・テオーペにより殺害されてしまう。その後、獠は槇村の血のつながらない妹である「香」(かおり)を仕事上のパートナーとし、主に美女からの様々な難しい依頼を着実に処理していく。
== 主な登場人物 ==
<!--ここではストーリーに深く関わっている人物のみ記載する。出番が1話限りのゲストキャラクターなどは記載しない。-->
[[声優|声]]→アニメ/宝→[[宝塚歌劇団]]/N→[[Netflix]]オリジナル映画
=== シティーハンター ===
; 冴羽 獠(さえば りょう)
: [[声優|声]] - [[神谷明]]/[[宝塚歌劇団|宝]] - [[彩風咲奈]]/[[Netflix|N]] - [[鈴木亮平 (俳優)|鈴木亮平]]<ref>{{Cite web|和書|title=「シティーハンター」Netflixで日本初の実写映画化、主演は鈴木亮平(コメントあり) |url=https://natalie.mu/eiga/news/505079 |website=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2022-12-15 |accessdate=2023-06-17}}</ref>
: 本作の主人公。自称二十歳の青年(実年齢は不明)。スイーパー(sweeper:始末屋)で、裏の世界でNo.1と呼ばれる程の腕を持つ。同時に無類の女好きで、美女絡みか「心が震えた時」しか依頼を受けない。肩書は冴羽商事取締役社長。
{{Main|冴羽獠}}
; 槇村 香(まきむら かおり)
: 声 - [[伊倉一恵]]/宝 - [[朝月希和]]/N - [[森田望智]]<ref>{{Cite web|和書|title=実写映画『シティーハンター』冴羽リョウの相棒役は森田望智 槇村香を演じ長髪切る |url=https://www.oricon.co.jp/news/2265849/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-01-31}}</ref>
: 本作のヒロイン。獠の親友・槇村秀幸の義妹で、警察官だった秀幸の父親が追跡中に事故死させた殺人犯の娘である。身寄りの無い赤ん坊だった香を秀幸の父親が連れ帰ったことから妹となる。兄が麻薬組織に殺害されたことを機に獠の新たな相棒となる。義兄・秀幸は生前、彼女と血が繋がっていないことを知らせなかったが、香自身は薄々気づいていた。くせっ毛のため常にショートヘアにしておりボーイッシュな装いだが、実際は非常な美人である。獠は唯一もっこりしない女性と呼んでいる{{Efn|第一巻では普通に「もっこり」している。}}。劇中では依頼人に手を出す獠に100tハンマーで殴るなどの「天誅」を加えるのが定番。
: 「香」という名前は、北条の担当編集者・[[堀江信彦]]の当時生まれたばかりであった娘の名前から付けられた<ref>「初代担当編集者が語るCITY HUNTER誕生秘話」『CITY HUNTER COMPLETE EDITON VOLUME:01』2003年12月15日発行、{{ISBN2|4-19-780213-7}}、60頁</ref>。
{{Main|槇村香}}
; 槇村 秀幸(まきむら ひでゆき)
: 声 - [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]/宝 - [[綾凰華]]
: 1956年-1985年。獠の親友で相棒。[[警察官]]だった父親の志を受け継いで自らも[[刑事]]となるが、ある人身売買組織の捜査中に囮捜査官の[[女性警察官|婦人警官]]が[[殉職]]したため、責任をとって警察を辞め獠とコンビを組む。普段はとても冷静(獠曰く「冷静すぎるほど冷静」)だが、香のことになると落ち着きを失う。一見冴えない風貌に反してかなりの腕利きだったが、全米を牛耳る巨大麻薬[[シンジケート]]「ユニオン・テオーペ」の日本進出に伴う事件に巻き込まれ、その組織の手によって作品の序盤でエンジェルダスト{{Efn|架空の麻薬。実在する[[フェンサイクリジン]](通称エンジェルダスト)と異なり、筋肉増強作用がある。}}を打たれた[[チンピラ]]に襲撃されて致命傷を負う。満身創痍の状態で獠の前に現れ、香の誕生日に渡すはずだった指輪を獠に託し「香を頼む…」と告げて息を引き取る。序盤のみの登場でありながらファンは多く、その後の物語を通してその存在感の大きさを感じさせた重要人物。冴子とは刑事時代の相棒であり、彼女に対して彼自身の容貌が冴えないため、「警視庁の[[月とスッポン]]」とあだ名されていた。重度の近眼のため眼鏡(二角眼鏡)を常用しているが、素顔は端整。愛銃はコルト・ローマン MkIII、愛車は[[マツダ・キャロル]](初代){{Efn|アニメ版では黄色のフォルクスワーゲンに乗っている。}}。アニメ版ではセスナの操縦もこなすなど多方面で獠をサポートする。
: 名前は、アニメ版で槇村を演じた声優の[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]から付けられた{{efn|当初は原作、アニメ共に下の名前の設定はなかったが、アニメ化の後に原作において槇村の墓を訪れるシーンで、墓に「秀幸」の名が刻まれており、以後は公式設定となる。}}。
: 原作ではいつ頃コンビを組んだのかや経緯などは不明{{Efn|香が高校生の頃にはすでにコンビを組んでいた。}}だが、アニメ「91」の12話では獠が冴子や秀幸と知り合った経緯が描かれている。
: TVアニメでは『無印』第5話で、麻薬組織「赤いペガサス」に雇われた殺し屋ジェネラルが右腕に仕込んだ銃で撃たれ、致命傷を負う{{Efn|ジェネラルは、原作ではユニオン・テオーペの幹部として登場。自らもエンジェルダストを投与して獠に挑むも、返り討ちにされて殺される。}}。原作と同様、満身創痍の状態で現れ香に渡すはずだった指輪を獠に託し、最期は「黒い右手に、気を付けろ…。」と告げて息を引き取った{{efn|「黒い右手」とは、銃が仕込まれたジェネラルの義手のことである。同話終盤で秀幸の復讐を誓った獠により、ジェネラルは銃を仕込んだ右手の義手を破壊された上、足に仕込んだバスーカ砲に銃弾を撃ち込まれて爆死した。}}。
: この後オリジナルエピソードとして、『2』の27話・28話に登場したインターポール捜査官のケリー・ネルソン(声 - [[田原アルノ]])に頼まれてアジア地区の麻薬ルートの資料を集め、亡くなった日にデータを収めたフロッピーディスクを横浜の孤児院の院長(声 - [[達依久子]])に預けていたことが判明する。ネルソンは実際には「赤いペガサス」の組織拡大のため動いていたが、獠たちによってすべてを暴かれ本性を現す{{efn|ネルソンは最初、槇村が亡くなったことをニューヨークで知ったと言っていたが、槇村が亡くなった日にネルソンは日本にいたこと、その日の最終便で日本を離れたことが出入国管理記録から判明する。その事実を突き付けられたネルソンは、槇村が「シルキィクラブ」を訪れた日に自分もいたことを白状する。}}。香からフロッピーディスクを奪うも「赤いペガサス」の新ボス・ギルモア(声 - [[広瀬正志]])によって道連れにされる形で崖から転落していった{{efn|ギルモアは香を連れ去りボートで逃亡するも、これを阻止される。そして、ネルソンが自分を利用していた上、全てが完了したら殺そうとしていたことを聞いたため、これに激怒して襲い掛かった。その後、2人とも一切登場することはなかった。}}。このエピソードでは槇村が麻薬密輸を行っていたのではという疑惑が浮上し、香がショックを受ける展開が描かれたが、最終的に潔白であったことが判明して事件解決後は獠と香が二人揃って彼の墓参りへとやって来る。
: [[2023年]]公開の映画『劇場版シティーハンター 天使の涙』で劇場版初登場を果たし、田中が担当声優を続投することも決定。彼が死に至った経緯はテレビアニメ版を踏襲した上で{{efn|「AD」の公式ホームページにおける秀幸の登場人物紹介では、「赤いペガサスにより命を奪われた」とある。}}、「赤いペガサス」が「ユニオン・テオーペ」の下部組織であることが明かされる他、彼の死にエンジェルダストが関与するという原作準拠の流れで物語が展開する{{efn|「AD」でのエンジェルダストは麻薬ではなく、ゾルティック社というバイオ企業が発明したナノマシンテクノロジーとなっている。}}。
; ミック・エンジェル
: 声 - [[成田剣]]〈ドラマCD〉/宝 - [[朝美絢]]
: アメリカNo.1のスイーパー。獠のアメリカでの相棒で、元々は二人でコンビを組んだ際のコードネームが「シティーハンター」だった。獠と同様に女好きだが、金銭の約束さえつけば恋人ですら殺すと言われるほどドライ。殺しのターゲットに恋人がいる際は、その恋人を自分のものにしてからでなければ殺しの仕事に入らないというポリシーを持っている。これは、ターゲットが死んだあとに残された恋人に悲しい思いをさせないためだと本人は述べているが、これを理由に恋人のいる女性に手を出したがる自分の性癖を正当化しているフシがある。獠と会う時は、互いの銃の弾が切れるまで撃ち合いを繰り広げるということを挨拶代わりにしている。
: 日本に獠を殺す依頼を受けて来日するもターゲットの相棒である香をおとせず本気で惚れこんだ為、結局依頼を果たせず依頼主であるユニオン・テオーペの怒りを買い、帰国の途についていた飛行機もろとも爆破され消息不明となる。その後海原が瀕死のミックに新型のエンジェルダストを投与したことで怪物的なパワーを得て理性を失った残虐なユニオンの番人となって再登場した。ユニオンとの最後の戦いでは海坊主を赤子の手をひねるかのごとく打ち倒すも香の活躍によって我に返り、組織のボスである海原を倒そうと突撃して端末に手を突き刺したことで感電し、重度の火傷を手に負う。教授の自宅で奇跡的な回復を遂げるもスイーパーとして致命的な“引き金を引けない”事態を知って愕然となる。復帰後「本家シティーハンター」を名乗り{{Efn|なお、獠は「元祖シティーハンター」を名乗った。}}手首に仕込んだダーツを武器として使うも、拳銃を使えないことから一時的な“パートナー”となった香を敵にさらわれ、自身がスイーパーとしてやっていけないことを完全に思い知らされる。その後、療養中に知り合い献身的な看病を務めた名取かずえ(教授の助手)と恋仲となり、新聞記者として二人の新たな生活を始める。愛銃は[[デザートイーグル]]。
: 獠の前歴を語る上で重要な人物の一人であるが、初登場から1年も満たないうちに急遽連載終了が決定したため登場シーンは少ない。また、テレビアニメではユニオン・テオーペ及びエンジェルダストに絡むエピソードがまったく描かれなかったためミックの登場シーンはなかった。
=== 喫茶キャッツアイ ===
; 伊集院 隼人(いじゅういん はやと)
: 声 - [[玄田哲章]]/宝 - [[縣千]]
: 通称・'''海坊主'''または'''ファルコン'''。2mを優に超える筋骨隆々の大男で、スキンヘッドとサングラスが特徴。日本人の元傭兵であり、獠と互角の凄腕を持つ同業者。後に[[喫茶キャッツアイ]]の店主となる。スイーパーとしては獠とは基本的に敵対関係にあったようだが、日本での仕事(作中)では獠と手を組むことが多かった。獠とは悪友(親友?)のような間柄になるが、スイーパーのプライドをかけて命がけの決闘を行う局面もあった。亡き上官・氷室剛司の遺児で、孤児として育った氷室真希(原作の第13巻、アニメ第27、28話に登場、アニメの声は[[島本須美]])を影から支えてきた。傭兵時代に中米のある国で政府側について参戦していたが、その時に戦場でゲリラ側にいて[[エンジェルダスト]]を打たれて獠と対峙した。その際に獠から眼に傷を負わされたことで弱視となり、それ以降屋外ではサングラスを手放せなくなった。最終的にはストーリー後半で傷が更に悪化し、完全に失明している。だがスイーパーとしては勿論、日常生活においても支障が出ている様子は一切無く、車の運転まで平然とこなしている。バズーカや機関銃などの重火器(M60など)を好んで扱い、トラップの名手でもある{{Efn|トラップの師匠は世界一の殺し屋と言われたマイケル・ガーラントであり、本人には及ばないと言っている。}}。寡黙な男で、女性や猫(特に子猫)が苦手。猫は本人曰く、鳴き声だけでなく人間が鳴き声を真似た程度のものでも聞くと力が抜けて失神するというが、猫に好かれる傾向が強い。女性や美樹に対してはゆでたタコのように真っ赤になるというお茶目な一面がある{{Efn|その様子から、獠に「タコ坊主」と呼ばれることもある。}}。また「海坊主」は獠が「『伊集院隼人』という本名が似合わない外見」という理由でつけたニックネームであり、裏の世界では通称で呼ばれており誰も本名を呼ばず{{Efn|基本的に「ファルコン」と呼ばれるが、「海坊主」というアダ名も獠が吹聴したので一応知られてはいる。}}、妻である美樹ですら「ファルコン」と呼ぶ。真希に「伊集院さん」と呼ばれた際には「その名はやめろ、照れる。」と赤面するなど本名を(特に女性に)言われることは恥ずかしがる様子を見せる{{Efn|映画『愛と宿命のマグナム』でも、ゲストヒロインのニーナ(声 - [[岡本茉莉]])に「あなたが伊集院さんですね?」と言われると赤面していた。その後は「海坊主でいい」とニーナに言った事から「海坊主さん」と呼ばれるようになる。}}。
: 傭兵となって裏社会へ入った詳細な経緯や家族関係等の素性などは語られていない。38口径程度の銃では筋肉を貫通させることは不可能で、体内にめり込んだ弾丸を全身の筋肉に力を入れた際の収縮作用だけで体外に排出している。スイーパーとしての総合的な実力は獠とほぼ互角で、その体格と筋肉に違わずスピード面では獠に割合譲る部分もあるが、パワー面においては獠を大きく上回っている。また視力にハンデを抱える分、感覚は人並外れており、気配だけで敵の人数を正確に把握して暗闇での狙撃も朝飯前にこなす。ただし巷の評判では裏の世界のナンバー1は獠と言われているらしく、それは世間に見る目が無いだけだと本人は豪語していた。愛車は[[トヨタ自動車|トヨタ]][[トヨタ・ランドクルーザー|ランドクルーザー]]60、[[フォード・モーター|フォード]]の[[四輪駆動|4WD]](彼の性格や体格に合う車はこれぐらい)。愛銃は[[S&W M29|S&W M629]]{{Efn|アニメでは[[S&W M29|M29]]。}}。
; 美樹(みき)
: 声 - [[小山茉美]] / [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]](百万ドルの陰謀、ベイシティウォーズ)/宝 - [[星南のぞみ]]
: 海坊主の相棒で、美人スイーパー。苗字は不明だが原作の最後で海坊主と結婚した。均整の取れた体格を持つ。<!-- 原作では1960年代の -->1月15日生まれ<!-- (誕生日を語る描写で「私は二十…」と語るシーンがある。このエピソードが登場したのは1989年のため、29歳でも1960年生まれ) -->。後に海坊主と共に喫茶キャッツアイの切り盛りをする。元々日本人だったが内戦国で両親を失って孤児になった所を海坊主に育てられ、現地で身を守る術を教わるも彼女が海坊主の傭兵部隊に本格的に加わると言い出した時、海坊主は彼女を戦場から遠ざけて普通の女性としての人生に戻すために嘘をつき彼女を置き去りにした。海坊主と結婚することを夢見て彼を追い続け、日本へ帰国して海坊主の前に再び現れる。育てられた現地ではその後も頻発した内戦を海坊主から守られつつも教わった技術を使って必死に潜り抜ける経験を積んでおり、磨かれた腕は一流である。特技は催眠術で自己催眠を行った他、獠に頼まれて依頼人が催眠状態であることを突き止めたことがある。獠の力添えもあって海坊主と共に喫茶店を切り盛りするようになり、そこに獠が入り浸るようになるが{{Efn|よく美女絡みでない仕事をサボったり、女性の依頼人を勝手に連れ込んだりしていた}}、そんな獠への香のハンマー攻撃に巻き込まれてよく店内を破壊されていた{{Efn|床にはシェルターが設けられ、香が獠をハンマーでボコボコにしている間に二人はそこに入り海坊主が「コーヒーカップが4つ、皿が2枚、テーブルも壊しやがった。」と損害賠償を請求するために壊されたものを把握し美樹がメモをとっていた。}}。海坊主の視力が悪化した時、二人の関係に転機が訪れ最後には彼女の念願が海坊主に受け入れられた。一度窮地に立たされた海坊主を救うため、変装して'''平山希美子'''の名で獠に海坊主救援を要請した。その際、獠には正体が最後までバレなかった。単行本35巻では海坊主と結婚式を挙げる最中に撃たれるが、教授の手術により一命を取り留める。愛銃は[[コルト・キングコブラ|コルト・KING COBRA]]。
: 獠のことは「冴羽さん」と呼んでいるが、『劇場版シティーハンター 新宿プライベート・アイズ』では直接獠に名前で呼びかける場面はないものの「獠」と言っている{{Efn|2度登場し、どちらも海坊主との会話の中で「獠」と言っている}}。
; 麻生 かすみ(あそう かすみ)
: 声 - [[冨永みーな]]/宝 - [[羽織夕夏]]
: 通称 怪盗305号。麻生家は代々泥棒請負業の家系。丸顔で額が広い童顔のため実年齢よりもやや幼い印象を受けるが、顔立ち自体は清楚である。スリーサイズは香より上。獠とは高校生の時、警察に追われている所に遭遇する。この時[[レオタード]]姿ですばしこく跳びながら警察の追及をかわしていたため、「空跳ぶオシリ」と呼ばれる。獠との関係は、とある老花師(原作では依頼人だがアニメでは祖父(声 - [[島香裕]]))が育てた黒いチューリップが超常現象研究家の不律乱寓(ふりつ・らんぐう)に奪われたため、これを奪い返すべく協力を依頼したことに始まる。その後、成人し一族の掟により祖母の麻生やよい(声 - [[山口奈々]])から許婚の麻生崇司(声 - [[塩沢兼人]])との結婚を迫られ、この掟を逃れようと獠にニセ恋人を演じてもらいたいと再び依頼する。獠は許婚の崇司の強力な催眠術でもっこり出来なくなりつつも「持ち主の命より大切なものは決して盗んではいけない。」という麻生一族の家業心を理解して崇司との勝負に勝利(なお、その過程で崇司の暗示にかけられたかすみの色仕掛けでもっこりは光と共に復活)。また、獠は祖母のやよいに対しても婚約の掟によってやよい自身が背負った過去の悲しみを見抜き、かつて破れた恋の橋渡しを演じた上で同じ悲しみを孫にまで背負わせないよう説いてかすみは婚約の掟から解放された。しかし「獠に心を奪われた」と祖母に指摘され、獠の心を盗むまで一族の元に帰ってはならぬと宣告された。海坊主の喫茶キャッツアイを住み込みで手伝いながら獠の心を奪うべく虎視眈々と機会を狙う。同じく獠に心を寄せる麗香と時に共闘しながらも獠を巡って競う。メインキャストで唯一獠に「二度」仕事の依頼をしており、かつ純粋な依頼人からレギュラーに昇格したキャラクター{{Efn|他のレギュラーキャラクターと比べて出番はそれほど多くない。アニメ版では『3』まで本編内での登場があったが、『'91』はオープニングのみで、喫茶キャッツアイのエピソードでも、かすみに関する言及は一切描写されなかった。、映画とテレビスペシャルには現在まで未登場となっている。}}。誕生日は美樹と同じで、原作では1969年1月15日生まれ。シティーハンターのメインキャストでは数少ない誕生日が明確になっているキャラクター。なお、レオタード姿は作者の前作である『[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]』の主人公と似ており、作者本人もそれを認めている{{Efn|獠が『キャッツ♥アイ』を思わせる発言をしている。}}。
=== 野上一家 ===
; 野上 冴子(のがみ さえこ)
: 声 - [[一龍斎春水|麻上洋子(現:一龍斎春水)]]/宝 - [[彩みちる]]
: 「警視庁の女狐」と呼ばれる妖艶な美人刑事であり、鼻筋が通った品のいい顔立ちをしている。父親は警視総監で彼女自身は5人姉妹の長女であり、麗香・唯香・さらに女性の双子と妹が4人いる{{Efn|父親は男の子が生まれるまでは子作りするつもりなので、さらに妹が増える可能性もある。それを聞いた獠は今後その妹たちにも良いように利用され、振り回される予感がしていると口にした。}}。槇村秀幸とは彼が刑事だった時の同僚で獠とも長い付き合いであり、色香でつっては危険な仕事を押し付けていた{{Efn|獠は「もっこりの貸し」などと言っており、溜まっている分の「もっこり」回数券が過去帳並みになるまで溜まっている。}}。自らも腕が立ち、服の下に隠している投げナイフを自在に操る。「自分より弱い男には興味がない」と言って相手の腕を試し、父の用意した見合い話を何度もぶち壊しにするなど、男を寄せ付けない仕事一筋ぶりだが、以前は生前同僚だった槇村と獠を交えた三角関係にあり、いずれかを選ぼうかとしていた。だが、その矢先に槇村が亡くなったことによって、心中に槇村へのこだわりが強く残った。獠に対してあまり気のないような態度をとることもあるが、香には密かに自分が槇村へのこだわりが消えたら、また獠と香と自分との三角関係になるかもしれないという言動を残している。本来は左利きのようだが、右手でも銃を撃ち命中させられる[[両利き|スイッチハンダー]]。バストは87cm。愛銃は[[ニューナンブM60]](警察の備品の改造)。愛車は赤の[[ポルシェ・911#930型|ポルシェ・930ターボ]]で、A級ライセンスを持つほどのドライビングテクニックを持つ。下着はオーダーメイドであり、このことで獠と冴子が香に隠れて密会していたことがバレて、獠は天誅を受けたことがある。獠には「一発、もっこり」の借りがあるが{{Efn|借りがあるものの、のらりくらりと先延ばししたり、獠を睡眠薬で眠らせて「三発」したとごまかして依頼したり、獠が破壊した損害をあげて帳消しにしたりと強かであり、簡単に体を許す気はない。その一方、獠から借りを全て帳消しにする交換条件として、無茶な要求をさせられた事もある。}}、いざ冴子が体を許す気になったところ、獠は槇村への後ろめたさから逃げ出した。頭脳明晰で刑事としての捜査能力も高く、獠から皮肉られる程に抜け目のない切れ者だが、その一方で獠など他者の珍妙な言動に振り回された挙句、間抜けな事態に遭わされてコミカルな表情を見せる事も少なくない。作者の次作『[[こもれ陽の下で…]]』において主人公達のクラスメートとして名前だけが登場。
; 野上 麗香(のがみ れいか)
: 声 - [[鷹森淑乃]]/宝 - [[希良々うみ]]
: 野上警視総監の次女。冴子の妹。職業は元刑事で探偵。容姿はやはり美人だが、姉とはあまり似ていない。眉毛と目の感覚が広い上に顎が細く小さい。姉よりも割と華やかである。RN探偵社の責任者。刑事時代の上司で相棒でもあった友村刑事(声 - [[秋元羊介]])が飲酒運転の事故と見せかけて殺され、その真犯人を見つけるために刑事を辞め探偵になり、{{補助漢字フォント|獠}}のマンションの隣のビルに住む。元々は意地っ張りで図々しく、また宵越しの金は持たない、好き嫌いで人と仕事を選ばない、男嫌い、人を信用しないなど自分なりの主義主張が強いが恩人・友村刑事の冤罪を晴らすべく真犯人を探し出そうとした時はわざと標的になることも厭わないほどの芯の強さもある。友村刑事の死亡事件を追ううちに次第に{{補助漢字フォント|獠}}に惚れ込み、{{補助漢字フォント|獠}}と結婚して夫婦探偵になる夢を持つ。そのため冴子が警官復帰の話を持ってきたにも関わらず、新宿に留まる。妹に高校生作家の野上唯香と双子の妹がいる。バストは88cm、Cカップ。愛銃は[[コルト・ウッズマン]]、COP357。姉・冴子ほど「男を利用する」ことは考えておらず、物腰も姉より柔らかい。
: 女性キャラクターでは唯一香の突っ込みの餌食<!--いい意味での-->を受けている。
: 香や冴子と同様に嫉妬を感じるとハンマーを時々出すが、当たることはまずない。
: 香とは恋敵であり、お互いに{{補助漢字フォント|獠}}が好きなため敵視をしているが{{補助漢字フォント|獠}}本人が香の方を意識していることに加え、野上姉妹にトラウマがあることから基本的に相手にされることはない。
: 初登場(1987年夏)の時点で24歳。
; 野上 唯香(のがみ ゆか)
: 宝 - [[有栖妃華]]
: 野上警視総監の三女。冴子の妹。高校生探偵小説作家。
; 野上警視総監
: 声 - [[亀井三郎]](91)→[[有本欽隆]](スペシャル版)/宝 - [[奏乃はると]]
: 冴子、麗香ら5人姉妹{{Efn|唯香の下に娘が2人(作中未登場)いる。}}の父親。親バカなところがあり、よく縁談を持ちかけてくる。
=== その他・獠と香の関係者 ===
; 教授(きょうじゅ)
: 声 - [[茶風林]](新宿プライベート・アイズ)/宝 - [[橘幸]]
: 世界中の情報を覗ける老人。獠のゲリラ時代の軍医でもあり、手術の腕は超一流。獠の過去を知る数少ない人物の1人で、獠は彼に敬語を使って話す。かつてエンジェルダストの禁断症状により生死の境をさまよっていた獠の治療・リハビリも担当していた。また、獠の相談相手でもあると同時に獠のもっこりの師匠であり、自身ももっこりスケベで気絶していてもお尻を触ってくる。テレビアニメには登場しなかったが、『劇場版シティーハンター 新宿プライベート・アイズ』でアニメ作品に初登場。
; 名取 かずえ(なとり かずえ)
: 声 - [[山本百合子]]/宝 - [[華蓮エミリ]]
: 元はT大研究室に籍をおいた博学な免疫学者で、才色兼備な女性。かつての恋人が医薬品会社・喜多川産業の指示で兵器となることを知らず殺人バチの開発をし、それに気づいて解毒剤の開発をしたことから口封じで殺害されたため、彼の遺志を継いで解毒剤を開発すべく単身で喜多川産業に乗り込んだ際に帰り途に獠に助けられる。彼の協力を得て喜多川産業の殺人バチの開発を阻止させた。アメリカの研究所から誘いが来ていたが、獠に心を寄せるようになったため彼の師である教授の元でアシスタントとなり接近を試みるものの香との関係に入り込む余地がないと知りやがて諦める。その後4年ほど登場しなかったが、獠のかつてのパートナー・ミックがエンジェルダストに侵されて教授の元に運ばれてきた時、彼のリハビリを手伝った過程で互いに心を通わせるようになった。
: アニメでは『1』の第23話で登場。原作の喜多川産業にあたる与太川産業に上述の経緯で乗り込み、原作と同様に獠達の協力を経て恋人の無念を晴らす。その後アニメ作品には一切登場しなかったが、『劇場版シティーハンター 新宿プライベート・アイズ』に教授のアシスタントとして再登場する。
; マリィー
: 声 - [[高坂真琴]]
: {{補助漢字フォント|獠}}の元パートナーでアシスタントだった。落ち着いた雰囲気のクールな美女。裏の世界では「ブラッディ・マリィー」の名で知られる。その後引退して「ローズマリィー・ムーン」の名でアメリカのトップモデルとなる。しかしスイーパーの世界を脱しモデルの成功への機会を与えてくれた婚約者エリック(声 - [[若本規夫]])が、{{補助漢字フォント|獠}}とマリィーに情報部を壊滅されて国外追放になったことを恨んだ「地獄のテロリスト」の異名を持つ元情報部長官デビット・クライブ(声 - [[石丸博也]])に誘拐され、その指示で{{補助漢字フォント|獠}}の殺害を試みるようになる。だがどうしても彼を殺すことが出来ず自殺しようとするも制止され、急な来日に疑問を抱いた{{補助漢字フォント|獠}}が海坊主に依頼して調査してエリックの居場所と敵の正体を知り、一人で乗り込もうとしてこっそりついてきた香と共に戦いエリックを救出する。しかし自身が一緒にいたのでは今回のようなことが繰り返されると思い去ろうとする。最終的には香に励まされてエリックと共に生きる決意をし、2人でアメリカに帰って行った。その際、原作ではモデルとしてのローズマリィー・ムーンは誘拐殺人で亡くなったと{{補助漢字フォント|獠}}が手を回した{{efn|アニメではそのことには触れておらず、また原作で旅客機の中でエリックとの抱擁を他の乗客に目撃されるシーンも、アニメでは空港のロビーに変更された。なお、マリィーの父親は{{補助漢字フォント|獠}}の最初のパートナーだった。使用拳銃は[[ワルサーPPK]](文庫本11、12巻)[[グロック17]](文庫本17巻)。アニメでは前・中・後編と唯一3週に跨って放送された『シティーハンター2』の最終章のみに登場した。}}。その後、ユニオン・テオーペとの全面抗争の際に再登場した。
: 名前は[[カクテル]]の一種、[[ブラッディ・マリー|Bloody Mary]]が由来である。名前の通りブラッディ・マリーのカクテルを好む。
: モデルをやっているだけあってスタイルはよい。{{補助漢字フォント|獠}}によれば、24歳ということになっているものの実年齢はもっと上とのこと。
; ソニア・フィールド
: 声 - [[松本梨香]]
: 獠のかつてのパートナーであるケニー・フィールド(声 - [[柴田秀勝]])の一人娘で、アニメでは『91』で登場する。容貌は美しく、かなりの長身で白人的な濃い顔をしている。元々は獠を兄のように慕っていた。
: 来日の6年前、それまで事故死と伝えられていた父・ケニーが実は獠に殺されたということをケニーの知人から知らされる{{Efn|「ケニーの知人」というこの人物の素性については、本編では言及されなかったが、ケニーが獠に殺されたことを知っていたため、裏世界の人間である可能性が示唆されている。}}。それを機に獠を仇として狙い、裏の世界に入るが獠を倒すまでの力は得られなかったため、海坊主に獠の抹殺を依頼。さらに独断で香を人質に取った上、決闘の場で「獠が海坊主に勝ったら香を開放する。」約束を反故にして香を撃とうとしたため、これに怒りを露わにした美樹によって持っていた銃を弾き落とされ、ケニーの死の真相を聞かされることとなる。
: 実はケニーは当時「冴羽獠を殺さなければ娘を殺す。」と巨大な犯罪組織に脅迫されており、この組織から彼女を守りつつ逃げ切る自信がなかったため、ケニーから獠に決闘を挑む形で敢えて獠に殺されるという筋書きを立ててこれを実行したのであった{{Efn|ケニーは獠に倒され自分の死を悟ったことで、獠にすべての真相を明かした。ケニーに「ソニアには事故で死んだと伝えてくれ」と言われていたことや、ソニアが余計な罪悪感を抱かないよう、獠はソニアには真実を語らず、美樹に対しても口止めをした上でこのことを話していた。なお、公式スピンオフ「今日からCITY HUNTER」では、ソニアが来日する10年前に、ケニーを脅迫したこの犯罪組織が獠によって壊滅させられたことが明かされている。}}。すぐにはそのことを信じられなかったものの、生前のケニーが最後に言った「俺に何があっても獠を信じろ。」という言葉を思い出し、それが真実だと悟る。獠と海坊主の決闘を止めるため海坊主に獠殺しの依頼を取り消し、獠との決闘をやめるよう頼むが断られ{{Efn|海坊主は、かつて獠に負わされた両目の傷が悪化し、間もなく失明することを知ったため、その前に決着を付けたいと思っていた。ソニアは力ずくで海坊主を止めようとするも、首に手刀を浴びせられて倒れる。}}危うく二人の決闘は本当に殺し合う寸前まで行ったが、最終的に引き分けという形で幕を閉じることとなった。
: 全てが終わった後、自分の行為を心の底から悔い獠には裏の世界から身を引くことを話す。香には「獠のパートナーはあなたがふさわしい。」と告げて帰国した。日本語が苦手なのか、「人質」を「質札」と真顔で言い間違えていた。
; 北原絵梨子(きたはら えりこ)
: 声 - [[篠原恵美]]
: 香の高校時代の親友で厚化粧でおかっぱ頭。'''北原エリ'''名義で有名デザイナーとして活動しており、頭の中はデザインのことしかない{{Efn|自身が狙撃されたとき以上にデザインルームを荒らされたときのほうが取り乱したほど。}}。またモデルとしての活動経験もあり、ファッションセンスが低い人を嫌う傾向にあり厳しい態度を取るが、自分が気に入った人物にはファッションセンスのことはお構い無しになる。とある[[フィルム]]に書かれた[[化学式]]を水着のデザインに採用したところ、そのデザインが周囲の評判となる。しかしそのフィルムは化学兵器開発のために作られたものであったため、狙われる羽目になった。獠らの尽力も会って事件は解決したが、結局その水着のデザインは使用できなくなった。
: 事件後、香に[[かつら (装身具)|かつら]]をかぶらせて獠とデートさせた(「都会のシンデレラ」)。
: ミック帰国の朝に香が話した、香の高校生時代の獠との初対面(1巻よりも前)の回想エピソードにわずかながら登場している。この頃からデザインのことしか考えていなかった模様。
; 北尾裕貴(きたお ひろたか)
: 宝 - [[眞ノ宮るい]]
: 刑事であり、冴子の婚約者候補の1人。冴子が唯一実力を認めたほどの人物である。槇村秀幸に瓜二つだが、肩幅が少し狭く少し華奢。表面上は大人しそうに見えるが、かつて刑事であった兄が殺害されたこともあって殺し屋という類のものに相当な憎しみを持っており、冷徹な目で見る。当初は獠を逮捕することに執念を燃やしていた。一緒に拉致された香の行動に心打たれ、香が獠のパートナーであり“心は同じはず”ということや、獠の言葉を聞くうちに「毒をもって毒を制す。」ことも必要であることを認識して彼の逮捕を諦めた。
: 冴子に実力を認められていた一方で、同時に彼女から警戒されていた。上司である野上警視総監にも気に入られていたが、上記の一件で町を去ったため実際に結婚することはなかった。
: アニメ版では登場しないが槇村とは全く異なる容姿で、冴子の婚約者候補という設定がオミットされたオリジナルキャラクター・桑田刑事(声 - [[池田秀一]])がほぼ同様の立ち位置を担う。
=== 主な依頼人・保護対象者 ===
; 岩崎 めぐみ(いわさき めぐみ)
: 声 - [[上田みゆき]]
: 医者。プロボクサーで恋人の萩野俊一(声 - [[幹本雄之]])を殺した稲垣(声 - [[広瀬正志]])の殺害を、自分の命{{Efn|正確には、彼女自身の生命保険金である。}}を依頼料にする形で依頼する。自身も癌を患っているため先は長くない{{Efn|原作では彼女自身の口から明かされる一方、アニメでは彼女の状況から癌に侵されていることを獠が察するという形になっている。}}。原作では自身の病と荻野の死を前にしても表面上は比較的落ち着いた人物として描かれているが、アニメでは人物像が若干異なり、前述の状況から自暴自棄に陥り自棄酒をあおる描写がある。
; 亜月 菜摘(あづき なつみ)
: 声 - [[藤田淑子]]
: 原作では2番目、アニメでは最初の依頼者として登場した女性。妹の裕子(声 - [[岡本麻弥]])を殺害した犯人を捜して欲しいと依頼する{{Efn|原作では黒いBMWに乗った連続誘拐殺人犯で、アニメでは白いBMWに乗った連続射殺犯(声 -[[石丸博也]])となっている。}}。獠と最初に会ったトップレスバーで、獠の驚異的な射撃術を目の当たりにする。
; 萩尾(はぎお)
: 声 - [[清川元夢]]
: 国会議員の天地宗造の元運転手。道子という娘がいる。
; 佐藤 由美子(さとう ゆみこ)
: 声 - [[戸田恵子]]
: ワタナベプロダクション所属の女優。
; 片岡 優子(かたおか ゆうこ)
: 声 - [[渡辺菜生子]]
: 大学生。世界のトップ企業片岡グループ会長の孫。
; アルマ王女
: 声 - [[小林由利]]/宝 - [[夢白あや]]
: セリジナ公国の王女。
; 及川優希(おいかわ ゆうき)
: 声 - [[高田由美]]
: 記憶喪失のスタントマン。その正体はアリナミア王国の王女、ユキグレース。
=== ユニオン・テオーペ ===
南米を中心に活動している麻薬組織で、原作の序盤と終盤に登場した本作最大の敵勢力。傭兵を攻撃マシーンに変える麻薬「エンジェルダスト」を開発し、組織の傭兵に投与していた。
テレビアニメ版の監督を長年務めた[[こだま兼嗣]]によると、テレビアニメ版では麻薬を描くことが難しかったために制作陣の自主規制によって「エンジェルダスト」はアニメ版に一切登場しない<ref>{{Cite
| author = [[アニプレックス]]
| title = 劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)公式パンフレット
| publisher = [[アニプレックス]]
| date = 2023年9月8日
| pages = 18
}}
</ref><ref>{{Cite
| author = [[ぴあ]]
| title = シティーハンターアニメ全史ぴあ
| publisher = [[ぴあ]]
| date = 2023-08-21
| isbn = 978-4835644486
| pages = 15
}}
</ref>。原作者の北条によると、エンジェルダストを作り出した組織「ユニオン・テオーぺ」と首領の海原の存在がアニメ版では完全に省略される形となっていた<ref>{{Cite
| author = [[アニプレックス]]
| title = 劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)公式パンフレット
| publisher = [[アニプレックス]]
| date = 2023年9月8日
| pages = 17
}}
</ref>。アニメ版では原作の「ユニオン・テオーペ」が新興麻薬組織「赤いペガサス」に置き換えられている。
その後2023年9月に公開された『[[シティーハンター_(アニメ)#劇場版シティーハンター_天使の涙(エンジェルダスト)|劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)]]』にて「ユニオン・テオーペ」と首領の海原がアニメ版に初めて登場することになった。これと同時に「赤いペガサス」が「ユニオン・テオーペ」の下部組織であることも明かされている。
「エンジェルダスト」は原作では麻薬として登場しているが、アニメ版では「[[ナノマシン]]テクノロジーを用いて人体の能力を極限まで引き上げる薬」に設定変更されている{{Efn|作中、冴子が「[[ナノマシン]]によって超人兵士へと変える“エンジェルダスト”…」と発言している。}}。また、アニメ版のエンジェルダストの描写はナノマシンテクノロジーを主体としており、可能な限り麻薬を想起させない演出が施されている{{Efn|アニメ版では「エンジェルダスト」をナノマシンのマイクロロボットとして描写し、血液中の細胞にロボットが取り付く表現がなされているので映画の視聴者には「エンジェルダスト」が化学物質ではないことが分かるように見せている。}}。
なお、2019年にフランスで制作された実写映画『[[シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション]]』ではアニメ版に先駆けて「ユニオン・テオーペ」の名前が作中に登場している。
; 海原 神(かいばら しん)/長老(メイヨール)
: 声 - [[堀内賢雄]] / 宝 - [[夏美よう]]
: ユニオン・テオーペの首領であり、{{補助漢字フォント|獠}}の育ての父。血の繋がりはないものの、{{補助漢字フォント|獠}}とどことなく{{補助漢字フォント|獠}}と顔つきが似ている。ゲリラ時代に{{補助漢字フォント|獠}}を裏切ってエンジェルダストを打ち、洗脳した{{補助漢字フォント|獠}}を独断で戦場に送り、当時海坊主が所属していた一部隊を全滅させる。しかしその陰惨な殺害の仕方に恐れをなした上層部によりゲリラ組織を追放された。作品後半ではミックに{{補助漢字フォント|獠}}を殺す依頼をする。本来は理想に燃えた善良な人間だったが、戦場の中を生き延びるため狂気に走り今に至る。終盤で{{補助漢字フォント|獠}}と対峙し、ミックのペンダントが足に絡まった事で紙一重で{{補助漢字フォント|獠}}敗れ去る。心臓を打ち抜かれて死亡したはずが、その直後に昔の善良さを取り戻し{{Efn|死んだはずの海原がどうして{{補助漢字フォント|獠}}と会話が出来たのかは作者である北条司自身ぼかして明確にはしていない。ただその時点で海原は完全に死んでいたことだけは断定している(ジャンプコミックス第34巻カバー折り返しのメッセージにて)。}}逃げ場を失った{{補助漢字フォント|獠}}を助けることになる。使用拳銃は[[コルト・キングコブラ|コルト・アナコンダ]]。左足はゲリラ時代に{{補助漢字フォント|獠}}を助ける時に失っており、義足には高性能の爆弾を積んである。
: 作者の前作『[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]』にも同名のキャラが登場するが、同姓同名の別キャラクターである<ref>北条司「北条司100問100答 ラスト・クエスチョンPart3」『CITY HUNTER COMPLETE EDITION 12巻』216頁</ref>。
: 2023年公開の『劇場版シティーハンタ― 天使の涙』でアニメ作品に初登場。原作同様「ユニオン・テオーペ」の首領という立場であり、{{補助漢字フォント|獠}}を自身の最高傑作と評している。
; 将軍(ジェネラル)
: 声 - [[納谷六朗]] 宝-[[真那春人]]
: ユニオン・テオーペの幹部。美しいものを好み醜いものを嫌い、失態を犯した部下は即座に処刑する冷酷非情な性格。サイボーグの如く全身に武器を内蔵しており、右手と一体化したグレネードランチャー装備型の[[M16自動小銃|M16]]を主に使用する。{{補助漢字フォント|獠}}によって自身が経営している宝石店や屋敷を荒された揚句(それも一番嫌いな家畜の豚に)、上納金をすべて持っていかれた。それが原因で海原から最後通告を出され、自らエンジェルダストを投与して{{補助漢字フォント|獠}}に挑むも劣勢に立たされ事で足に隠したグレネードランチャーから発砲せんとした瞬間、銃弾を撃ち込まれて爆散した。死ぬ間際、{{補助漢字フォント|獠}}に「お前は[[サイボーグ009の登場人物#004=アルベルト・ハインリヒ|004]]か」と言われた。
: アニメでは麻薬組織「赤いペガサス」に雇われた殺し屋として登場。原作に比べて老けて描かれ、右手は拳銃を仕込んだ義手になっている。槇村を殺害するが、{{補助漢字フォント|獠}}との戦いで原作同様の最期を遂げた。
; 男爵(バロン)
: カジノを預かるユニオン・テオーペの幹部。{{補助漢字フォント|獠}}の報復により毒殺される。将軍には「豚」と見下され嫌われていた。
; シルキークラブの幹部
: 声 - [[加藤治]]
: ユニオン・テオーペの幹部で、名前は不明。「シルキークラブ」を運営する傍ら麻薬の密輸も行い、従業員の女性に麻薬を投与して働かせていた。対立する組織のボスを殺す依頼を槇村秀幸に持ち掛けるが、これを断られる。チンピラの大男にエンジェルダストを投与し、自身の依頼を断った槇村を殺させるが{{補助漢字フォント|獠}}によってチンピラは始末され、自身も乗り込んできた{{補助漢字フォント|獠}}の報復で頭を撃ち抜かれて殺害される。
: 依頼内容を聞くため訪れた槇村の身なりをドブネズミと侮辱するが、「ボロは着てても、俺の魂はおたくらみたいに安くない。」と軽くあしらわれる。香のことを調べ上げた上で彼女に危害を加えることを示唆するような発言をした際には「貴様らが殺し合うのは勝手だが、俺の身内に手を出した時は命はないと思え!」と激昂され、「悪魔に魂を売る気はない。悪魔はドブネズミにも劣る!」と吐き捨てられた。
: アニメ版では麻薬組織「赤いペガサス」のボスであり、名前は'''ガルシア'''。槇村の復讐を誓い「シルキークラブ」に乗り込んできた獠に手下を皆殺しにされ、自身も身に着けていた指輪の反射で獠に居場所を見抜かれた所を撃たれて致命傷を負い、獠には「貴様の汚い指に宝石は似合わないぜ!」と痛罵される。ジェネラルに助けを求めるも「冴羽獠を殺すことが私の仕事。あなたを助けるために雇われたのではない。」と見放されて死亡した。
=== 暴力団関係者 ===
; 竜神信男
: 声 - [[田中康郎]]
: 竜神会の会長。計算高く、{{補助漢字フォント|獠}}曰く「タヌキ親父」。
; 竜神さやか
: 声 - [[三田ゆう子]]/宝 - [[花束ゆめ]]
: 竜神信男の娘。白泉女子学園の学生で、レディースの頭。[[スケバン]]で当初は{{補助漢字フォント|獠}}を嫌っていたが、牛次との決闘を見て考えを改める。その後は一転して、{補助漢字フォント|獠}}のアパートに移り住み、偽装殺人の手伝いを行った。
; 寅吉/タイガー
: 声 - [[鈴木清信]]
: 青堅会の会長の息子で、さやかの許婚。ブルーオイスターのヘッド。坊主頭。極端に身長が低いためシークレットブーツを履いていたが、それでも小さいことに変わりはなく{{補助漢字フォント|獠}}達から馬鹿にされていた。
; 牛次/バッファロー
: 声 - [[笹岡繁蔵]]
: ブルーオイスターの一員。いかつい外見だがあっさりと{{補助漢字フォント|獠}}に倒された。見かけによらず気弱。
; ドラゴン
: ブルーオイスターの一員。寅吉が影武者に使っていた。
; 西岡忠
: ユニオン・テオーペからの依頼のターゲットである青狼会幹部。関東一円を支配している。
; 牧野陽子
: 声 - [[川浪葉子]]
: 鬼英会お抱えのディーラー。ギャンブルの腕では超一流で、自分に勝てない男を近づけない性格だった。{{補助漢字フォント|獠}}と接しているうちに考えを改め、ついには結婚を申し込もうとする。原作とアニメ版では容姿がやや異なる。
; 平尾
: 声 - [[屋良有作]]
: 鬼英会の若頭。
; 竜
: 声 - [[鈴置洋孝]]
: 高円会に雇われた流れのディーラー。カードを切りながらカードの順番を全て記憶するという特技を持っている。殺し屋としての顔も持っており、牧野陽子の命を狙う。
; 高宮
: 声 - [[塩沢兼人]]
: 高円会の若頭。
== 冴羽{{補助漢字フォント|獠}}の赤いミニクーパー ==
[[冴羽獠]]の愛車は赤い[[ミニ_(BMC)#クーパー/クーパーS|モーリス・ミニクーパーMk.I]](1964~1967年生産)であり、本作の代名詞ともなっている。長期間生産されていたミニには様々なバリエーションモデルが存在するが、「クーパー」は高性能モデルを指す。詳細は[[ミニ (BMC)#クーパー/クーパーS]]の項目を参照。
ただし原作では、{{補助漢字フォント|獠}}が当初からミニクーパーに乗っていたわけではない。[[ホンダ・CR-X#初代・バラードスポーツCR-X_AE/AF/AS型(1983年−1987年)|ホンダ・CR-X(初代前期型)]]や[[トヨタ・スポーツ800]]{{Efn|トヨタ・スポーツ800は原作11話「裸足の女優の巻」(初出1985年、文庫版2巻所収)で初登場。原作26話「危険な国からきた女!の巻」(初出1986年、文庫版4巻所収)で冴羽商事の地下ガレージにトヨタ・スポーツ800が駐車されていることから、{{補助漢字フォント|獠}}の愛車だとわかる。}}などにも乗っており、初期の頃はCR-Xの登場頻度が比較的高かった。原作31話「愛ってなんですかの巻」(初出1986年、文庫版4巻所収)で、ようやくミニクーパーが初めて登場している。一方、アニメ版では第1話「粋なスイーパー XYZは危険なカクテル」{{Efn|原作第2話の「BMWの悪魔の巻」の回に相当するストーリーである。}}から{{補助漢字フォント|獠}}が赤いミニクーパーに乗っている。
2019年にBMW Japan{{Efn|現在の[[ミニ (BMW)|MINI]]の生産元の日本法人。}}が実施したインタビュー<ref name="MINI 60 Story">{{Cite web
| author = MINI松本
| url = https://dealer-blog.mini.jp/mini_matsumoto/2019/06/mini-60-years-2.html
| title = MINI×シティハンター『冴羽{{補助漢字フォント|獠}}』(北条インタビューの出典はBMW JapanのMini登場60周年記念 期間限定サイト『MINI 60 STORY』で、現在はサイトが既に閉鎖されているため、転載先のMINI松本のブログを出典とした。)
| date = 2019-06-18
| website =
| publisher =
| accessdate = 2023-11-24 }}</ref>によると、作者の北条司が{{補助漢字フォント|獠}}の愛車としてミニクーパーを採用したのは「デザインが好みだったため」であり、新宿の狭い道を走り回ったり、{{補助漢字フォント|獠}}と香の距離感を縮めて描きたいときに、ミニクーパーの小ささが役に立ったと述べている。北条は当初、ミニクーパーのボディ色はブリティッシュグリーンと考えていたが、アニメでの色指定が赤になったため、それ以降はボディ色が赤ということで定着した<ref name="MINI 60 Story" />。
なお、北条の作品である「[[キャッツ・アイ]]」のメインキャラクターである[[キャッツ・アイ#キャッツ特捜班|内海俊夫]]が乗っていた車は、[[ホンダ・N360]]をミニクーパー風に改造した「Nクーパー」であった<ref name="MINI 60 Story" />{{Efn|「Nクーパー」はミニの正規輸入車が高額だった1970~1980年代前半時代に好まれたカスタムであり、N360をミニ風にする改造キットなども存在した。その後、1990年代にミニが大量に日本で販売されたことから、現在ではNクーパーや、ベースとなったN360の方がむしろ希少車となっている。[[青島文化教材社]]から1/20スケールのプラモデルとして現在も再販されている「Nクーパー」が、当時の雰囲気を現在に伝えている。}}。
{{補助漢字フォント|獠}}の愛車がミニのMk.I(初期型、1959~1967年生産)である判別ポイントとして、車外に露出したドアヒンジ、スライド式のフロントサイドウィンドウ、グリル形状、テールランプ形状、小径の10インチホイールなどが挙げられる{{Efn|これらはMk.II以降のモデルで変更されている。ただし、コストを度外視すれば、後年のモデルをベース車に、これらの部分をMk.I仕様にカスタマイズすることも不可能ではない。}}。また、{{補助漢字フォント|獠}}のミニクーパーは左右後ろ側に給油口が1ヶ所ずつ、合計2ヶ所装備されており、Mk.Iのミニクーパーの特徴であるツインタンクを搭載していることがわかる。通常のミニの給油口は左後ろに1ヶ所のみである。
初期型のMk.Iは現在では希少車のため、フランスで制作された実写版映画『[[シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション]]』では、後年の形式であるMk.III(1969~2000年生産)、それも後期{{Efn|12インチのホイールサイズなどから、1990年~2000年頃に生産されたフランス仕様の個体と見られる。}}の比較的年式の新しいミニクーパーが使用されていた。ただし、原作らしさを出すために[[ドアミラー]]を撤去して[[フェンダーミラー]]に換装するなど、監督兼主演で本作の大ファンである[[フィリップ・ラショー]]の強いこだわりが伺える。
北条は原作の作画資料として、[[タミヤ]]のプラモデル「モーリス・ミニクーパー1275S Mk.I」(1/24スポーツカーシリーズ No.39、2023年現在は絶版)を参考にしたと見られる{{Efn|その他、本作に登場する車種でタミヤのプラモデルのラインナップにあるものは、[[メルセデス・ベンツ・W126|メルセデス・ベンツ500SEC(W126初期型)]]、[[ホンダ・プレリュード#2代目_AB/BA1型(1982-1987年)|ホンダ・プレリュード(2代目)]]、[[トヨタ・セルシオ#初代_XF10型(1989年_-_1994年)|トヨタ・セルシオ(初代)]]、[[フェラーリ・テスタロッサ|フェラーリ・テスタロッサ(初期型)]]等が挙げられ、各車種とも細かい特徴がタミヤのプラモデルと一致している。}}。タミヤが取材対象とした実車のミニクーパーは内外装が多数カスタマイズされており、プラモデルも同様の構成となっている。そのため、本作のミニクーパーも、このカスタマイズ箇所(アルミホイール、前後バンパーのオーバーライダー、ステアリングホイール換装、センターマフラーなど)がそのまま絵に反映されていた。
その後、原作やアニメなどでミニクーパーについて複数の設定変更が行われた。「出逢って恋して占っての巻」(初出1987年、文庫版6巻所収)以降、ミニクーパーの屋根がノーマルルーフからキャンバストップに変更されている。「思い出を消して…の巻」(初出1990年、文庫版15巻所収)では、フェンダーミラーが丸形から砲弾型に変更された。
アニメ版では作画監督などの好みによって仕様が度々変わっており、放映回によってはオーバーフェンダーが装着された[[ミニ_(BMC)#1991年_-_1992年|ERAミニターボ]]([[:en:ERA_Mini_Turbo|英語版Wikipedia記事]])のように描かれていることもある。
「出逢って恋して占っての巻」ではナンバープレートの文字が描かれており、「歌舞伎町69 あっ 19-19」{{Efn|「歌舞伎町」ナンバーは実在しない。分類番号「6」は三輪商用車に割り当てられたものであり、普通乗用車には使用されない。また、ナンバープレートのひらがなは1文字である。}}であることが明らかになった。一方、アニメ版のナンバープレートは「練馬56 さ 32-98」{{Efn|アニメ第1回の放映の際のナンバー。実在するナンバーだが、実際の持ち主に許諾をとったかどうかは不明。}}「新宿56 さ 32-98」{{Efn|「新宿」ナンバーは実在しない。}}などで数字は「32-98」{{Efn|「32-98」で「ミニクーパー」。本作のアニメ版放映時、現実世界ではナンバープレートの数字が選べなかったが、希望ナンバー制度が導入された後は、[[ミニ (BMW)|BMWが製造販売する新型ミニ]]も含めて「32-98」を選択するオーナーが増えている。}}となっており、原作のナンバーの数字「69」{{Efn|文字通り男女の性技の[[シックスナイン]]。}}「19-19」{{Efn|「イクイク」で女性が[[オーガズム]]に達するときの喘ぎ声。}}が意味するところの卑わいな意味を薄める努力がなされていた。フランスで製作された実写映画版のナンバープレートもアニメ版に準拠しており、「32-98-NL」となっている。NLは、「シティーハンター」フランス語版で冴羽獠が「Nicky Larson」という名前に設定変更されていたため、その頭文字である。
このミニクーパーは何回破壊されてもいつの間にか元通りに修復されているというマンガらしい表現もあり、「女心を知るものは…の巻」(初出1989年、文庫版12巻所収)では海坊主に助手席の椅子を力ずくで取り外された上に、巨体の海坊主の頭がキャンバストップを破ってしまっている。
2019年以降に再起動したアニメ版に登場するミニクーパーは、原作と以下の相違点がある(過去のアニメ版で設定変更された箇所も含む)。
* フォグランプが2個、フロントバンパーに付いている。(原作ならびにタミヤのミニクーパー(ラリー仕様版除く)はフォグランプなし)
* ホイールがメッシュになっている。(原作ならびにタミヤのミニクーパーとは異なる形状)
* マフラーが2本出しになっている。(原作ならびにタミヤのミニクーパーはセンター1本出し)
* ナンバーが「新宿300 あ 19-19」{{Efn|「新宿」ナンバーは実在しない。また、自家用車登録の場合、普通乗用車で「あ」は使用されない。}}に変更された。ミニは本来、車体サイズ・排気量のいずれも日本の5ナンバー登録であり、改造などを行わない限り3ナンバー登録にはならない{{Efn|エンジン換装を行ったという設定がアニメの続編で新たに出てくる可能性も考えられる。}}。
== 読切版 ==
{{Infobox animanga/Header
| タイトル = シティーハンター(読切版)
| ジャンル = [[ハードボイルド]]・[[少年漫画]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル = シティーハンター - XYZ -
| 作者 = [[北条司]]
| 出版社 = [[集英社]]
| 他出版社 = [[徳間書店]](完全版)
| 掲載誌 = 『[[週刊少年ジャンプ]]』1983年18号
| レーベル = ジャンプ・コミックス (JC)<br />集英社文庫(文庫)<br /> 徳間コミックス(完全版)
| その他 = 45ページ<br />収録:JC1 / 文庫1 / C.H.
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル = シティーハンター - ダブル-エッジ -
| 作者 = 北条司
| 出版社 = 同上
| 掲載誌 = 『[[フレッシュジャンプ]]』1984年2月号
| その他 = 33ページ<br />収録:JC1 / 文庫1 / C.H.
}}
{{Infobox animanga/Other
|タイトル = 備考
|コンテンツ=
* '''JC1:'''天使の贈りもの 北条司短編集[1]
* '''文庫1:'''北条司短編集1 シティーハンター -XYZ-
* '''C.H.:'''CITY HUNTER COMPLETE EDITION Z巻
}}
{{Infobox animanga/Footer}}
『キャッツ♥アイ』の登場人物である神谷真人(ねずみ)をモデルにした凄腕のスイーパーが登場するストーリー『'''シティーハンター -XYZ-'''』と、その続編『'''シティーハンター - ダブル-エッジ -'''』の2作からなる。
ストーリーの発案は『キャッツ♥アイ』担当編集者だった堀江信彦による。どちらの作品も「女好きで普段は節操がないが、仕事となると超一流で銃の名手」といった獠の基本設定や、獠・香・美人依頼人という物語の基本構造は完成済みであるものの、登場人物の設定や性格などには異なる点も多く、連載作品とは世界設定を共有していない[[パラレルワールド]]の話となっている。特に香は、容姿も性格も連載作品とは大きく異なり、男っぽさがまったくない。こうした違いからどちらの作品も連載版の単行本には未収録となり、『[[天使の贈りもの (漫画)|天使の贈りもの 北条司短編集[1]]]』([[ジャンプ・コミックス]])・『[[天使の贈りもの (漫画)#文庫版|北条司短編集1 シティーハンター -XYZ-]]』(文庫)に収録された。また、完全版Z巻においても『XYZ』と『ダブルエッジ』の2編に加え、「獠の原点」として真人が活躍する2編が『キャッツ♥アイ』より収録された<ref>北条司「『キャッツ♥アイ』から『シティーハンター』へ」『CITY HUNTER COMPLETE EDITION Z巻』88頁</ref>。
; シティーハンター - XYZ -
: 『[[週刊少年ジャンプ]]』1983年18号に愛読者賞用の読切として掲載され、同賞1位に輝いた作品。45ページ。冴羽獠のデビュー作。
: 依頼は父と共に人間にも効果のある去勢細菌を開発してしまった女性研究者からで、ワクチン開発前に捕まってしまった際には自身を殺害してほしいというもの。
: 『キャッツ♥アイ』の連載中に描かれた作品であり、作中には喫茶店キャッツ♥アイの店主夫婦として瞳と俊夫らしき[[モブキャラクター]]が登場している。なお、読み切り掲載時の依頼の仕方は、掲示板に「清掃人求む」だったが、単行本収録時には連載版と同じものに変えられた。また、本作は設定を連載のものに変更し、アニメでは第2話として放送された{{Efn|ゲストヒロインの名前は清水美津子。アニメでは[[日高のり子|日髙のり子]]が担当。}}。ただし、アニメではこの段階で香がまだ登場していなかった為{{Efn|香の初登場は第4話。但し香役の[[伊倉一恵]]はテレビのエアロビインストラクター役としてアフレコ収録には参加している。}}、香の役回りは槇村秀幸が担っている。
: また、アニメ版ラストシーンでは獠をセスナに乗せてしまったが、原作では明かされていなかったものの作者はこの時点ですでに「飛行機事故時のトラウマで飛行機恐怖症」という獠の設定を固めていた。アニメ版スタッフが作者と打ち合わせした段階では修正が困難だったため、この設定はアニメ版『2』終了まで原作にも登場していないし、アニメではこの設定は破棄されている{{Efn|飛行機恐怖症であることが判明するエピソード自体は『91』でアニメ化されたが、飛行機恐怖症が判明するシーンは省略されていた。}}。このときのことは文庫版コミックス第1巻末の解説に詳しい。
; シティーハンター - ダブル-エッジ -
: 『[[フレッシュジャンプ]]』1984年2月号に掲載。33ページ。短編集初版では冒頭のネームが落ちている。
: 依頼は有名女優からで、殺人鬼の役を演じるためにそれを理解しようとして本当に殺人鬼になってしまった恋人である俳優を殺害してほしいというもの。
: なお、作者は後に同じく殺人鬼を理解した俳優をモチーフとした短編『THE EYES OF ASSASSIN』を描いている(『Parrot 幸福の人』に収録)。
== アニメ ==
{{Main|シティーハンター (アニメ)}}
1987年に『'''シティーハンター'''』としてテレビシリーズ化されたのを皮切りに、[[テレビアニメ]]としては4度のシリーズ化と3度のスペシャルが放映、またアニメ映画としては3本が発表され、いずれの作品も制作には[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]と[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]が関わっている。2019年には4作目の映画が公開された。アニメシリーズは改変箇所が多く、一部の展開や結末が異なるものがある。また後期に放映された大半がアニメオリジナルエピソードとなっている。
ただし、本作の場合きわめてユニークなのは、一般的なアニメ化作品とは異なり、原作者の北条司自身がアニメの制作に深く関わっている点である。
北条司自身が文庫版18巻の「あとがき」で述べたところによると、北条はアニメ会社([[サンライズ_(アニメ制作ブランド)|サンライズ]])と協業の上、原作の連載中に時間的な問題で取り上げることができなかったストーリーをアニメ版の原案としていることが多く、シナリオ・絵コンテにも北条が相当程度関与しており、アニメ版オリジナルキャラクターのキャラクターデザインも全て北条本人が行っている。この手法は、2019年に本作のアニメ版映画が再起動した後も継続している。
[[フランスにおける日本の漫画#人気漫画の翻訳|フランス]]では『[[:fr:Nicky Larson (série télévisée d'animation)|Nicky Larson]]』のタイトルで放映された。
== 実写映画 ==
著作権管理元の公認作品は1993年公開の[[ジャッキー・チェン]]主演作品、2019年公開の[[フィリップ・ラショー]]主演作品、製作のみが発表された[[黄暁明|ホァン・シャオミン]]主演作品のみ。そのほか、無断で作成された非公認作品が2作存在する。フィリップ・ラショー主演作品、ホァン・シャオミン主演作品以外はいずれも香港での製作となっている。作品の詳細については各記事を参照。
=== 公認映画 ===
; [[シティーハンター (映画)|シティーハンター]]
: 1993年の香港映画。原題は『城市獵人』。[[ジャッキー・チェン]]主演。ジャッキーがファンから「冴羽{{補助漢字フォント|獠}}に似ている」と言われたことがきっかけとなり、製作につながった。
; [[シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション]]
: 2019年2月6日よりフランスで公開されたフランス映画。日本では2019年11月に公開<ref>{{Cite news|url= https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1908/17/news014.html |title= 実写版「シティーハンター」、11月公開決定! 北条司も「このストーリーは原作にも入れたかった」と太鼓判 |newspaper= ねとらぼ |publisher= アイティメディア |date= 2019-08-17 |accessdate= 2019-08-18}}</ref>。[[フィリップ・ラショー]]監督・主演。原題がフランス語で『[[:fr:Nicky Larson et le Parfum de Cupidon|ニッキー・ラルソンとキューピッドの香水(Nicky Larson et le Parfum de Cupidon)]]』になっているが、これはアニメ版がフランスで公開された際の冴羽{{補助漢字フォント|獠}}の名前「Nicky Larson」によるもの<ref>{{Cite news|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0103888 |title= フランス実写版シティーハンターの予告編が公開! |newspaper= シネマトゥデイ |publisher= 株式会社シネマトゥデイ |date= 2018-09-28 |accessdate= 2022-12-15}}</ref>。
; '''城市獵人'''
: 中国全土で公開予定の中国映画。2016年10月11日に会見が行われ、2018年12月以降に中国全土で公開予定と発表されていたが、2020年11月現在公開されていない。[[黄暁明|ホァン・シャオミン]]主演。[[ノース・スターズ・ピクチャーズ]]のほか、アニメ版に参画していた[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]なども参画している<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2079804/full/ |title= 『シティーハンター』中国で実写映画化 主演はホァン・シャオミン |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2016-10-12 |accessdate= 2022-12-15}}</ref>。
; シティーハンター Netflixオリジナル映画
{{main|シティハンター (2024年の映画)}}
: 2022年12月15日、[[Netflix]]が実写版映画を製作し、2024年に全世界で配信することを発表した<ref>{{cite web|date=December 15, 2022|title=Netflix Reveals Production, Lead Actor and First Look for 'CITY HUNTER'|url=https://about.netflix.com/en/news/netflix-reveals-production-lead-actor-and-first-look-for-city-hunter|access-date=December 15, 2022|work=Netflix Media Center}}</ref>。日本では初の実写映画化で、監督は[[佐藤祐市]]、脚本は[[三嶋龍朗]]、音楽は[[大友良英]]がそれぞれ担当、[[鈴木亮平 (俳優)|鈴木亮平]]が冴羽 獠役で主演する<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/eiga/news/505079 |title= 「シティーハンター」Netflixで日本初の実写映画化、主演は鈴木亮平 |newspaper= 映画ナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2022-12-15 |accessdate= 2022-12-15}}</ref>。
=== 非公認映画 ===
; {{仮リンク|神鳥伝説|zh|九一神鵰俠侶}}
: 1991年の香港映画。原題は『九一神鵰俠侶』。[[アンディ・ラウ]]主演。冴羽{{補助漢字フォント|獠}}、槇村兄妹、野上冴子、銀狐などに似ているキャラクターが登場。
; [[孟波]]
: 1996年の香港映画。日本未公開。{{仮リンク|マイケル・チョウ|zh|周文健}}主演で、冴羽{{補助漢字フォント|獠}}の香港名「孟波」を題名とした作品。<!--らしいです。[http: //us.yesasia.com/jp/PrdDept.aspx/pid-4253/aid-11507/section-videos/code-c/version-all/aid-11507/sortby-1/]-->
== 実写ドラマ ==
著作権管理元の公認作品は2011年放送の[[イ・ミンホ]]主演作品のみ。そのほか、無断で作成された非公認作品が2作存在する。詳細については記事を参照。
; [[シティーハンター in Seoul]]
: 2011年5月25日より放送開始。放送局:韓国SBS、制作:SSD。放送形態20話。[[ジン・ヒョク]]監督、[[ファン・ウンギョン]]脚本。シリーズを原作としつつも、設定やストーリーが大幅に変更されている。主人公に[[イ・ミンホ]]、[[パク・ミニョン]]を迎え、韓国を舞台に繰り広げられるアクションストーリー。[[KARA]]のメンバー、[[ク・ハラ]]も出演することで話題を呼んだ[http://www.comic-zenon.jp/2011/04/drama-cityhunter.html]。韓国の中高生の間では、原作漫画よりもこちらのドラマ版の知名度のほうが高いとされている。
== 舞台 ==
; CITY HUNTER -盗まれたXYZ-
: 2021年、[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]により舞台化<ref name="kageki">{{Cite web|和書|title=雪組公演『CITY HUNTER』|url=https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2021/cityhunter/index.html|publisher=公演案内(宝塚・公式)|accessdate=2021-1-5}}</ref><ref name="natalie.mu">{{Cite news|title=「シティーハンター」を宝塚歌劇団・雪組が舞台化!主演は彩風咲奈と朝月希和|url=https://natalie.mu/comic/news/409873|newspaper= コミックナタリー |publisher= ナターシャ|date=2020-12-22|accessdate=2021-01-05}}</ref>。主演は[[彩風咲奈]]・[[朝月希和]]<ref name="kageki"/><ref name="natalie.mu"/>。脚本・演出は[[齋藤吉正]]<ref name="kageki"/><ref name="natalie.mu"/>。2021年8月7日〜9月13日に[[宝塚大劇場]]で、10月2日〜11月14日[[東京宝塚ビル#東京宝塚劇場|東京宝塚劇場]]で上演<ref name="kageki"/><ref name="natalie.mu"/>。
: [[すみれコード]]により「[[モッコリ|もっこり]]」を「ハッスル」に置き換えるなど一部の表現を変更している<ref>{{Cite web|和書|title=シティーハンター宝塚版 雪組新トップ彩風咲奈が小粋に|url=https://www.asahi.com/articles/ASP874QQJP87PTFC001.html|website=朝日新聞デジタル|date=2021-08-07|accessdate=2021-08-09}}</ref>。
: {| class="wikitable"
|+主なキャスト<ref name="cast">{{Cite web|和書|title=キャスト|url=https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2021/cityhunter/cast.html|publisher=公演案内(宝塚・公式)|accessdate=2021-4-2}}</ref>
!
!本公演
!新人公演
|-
!冴羽獠
|彩風咲奈
|縣千
|-
!槇村香
|朝月希和
|[[音彩唯]]
|-
!ミック・エンジェル
|[[朝美絢]]
|[[彩海せら]]
|-
!槇村秀幸
|[[綾凰華]]
|[[眞ノ宮るい]]
|-
!海坊主(伊集院隼人)
|[[縣千]]
|[[壮海はるま]]
|}
== スピンオフ ==
; 『[[今日からCITY HUNTER]]』
: [[錦ソクラ]]作{{efn|麻雀漫画『[[3年B組一八先生]]』の作者であり、同作品には獠と外見が瓜二つの「ポンチーハンター」と呼ばれる'''冴和了(さえわ りょう)'''を登場させている。また、一八先生の顔が海原を彷彿させる顔になっているほか、香と外見・性格が瓜二つの'''捲村香(まくりむら かおり)'''も登場する。}}。
: 『[[月刊コミックゼノン]]』にて2017年9月号より連載。同年時点で[[アラサー#アラフォー|アラフォー]]だった独身女性が不慮の死を遂げるも、何故か女子高生当時の姿に戻って『シティーハンター』の世界(物語中盤)に転生するという、パロディ色の強い物語。{{補助漢字フォント|獠}}と香も登場する。
; 『CITY HUNTER外伝 伊集院隼人氏の平穏ならぬ日常』
: [[えすとえむ]]作。
: 『[[コミックタタン]]』にて2018年4月29日から2021年8月27日まで連載された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/280193|title=えすとえむ描く「シティーハンター」海坊主の日常など、新サイト・タタンで開始|website=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-04-29|accessdate=2023-03-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://comic-zenon.com/episode/10834108156688948404|title=伊集院隼人氏の平穏ならぬ日常|website=ゼノン編集部|publisher=コアミックス|accessdate=2023-03-09}}</ref>。美樹と共に[[喫茶キャッツアイ]]を営む海坊主が、店を訪れる依頼人の悩み相談に応えていく物語を描く。
== 書誌情報 ==
1990年代後半に集英社内部で[[お家騒動]]{{Efn|対外的には堀江は「円満退社」したことになっているが、当時の各種報道によると、堀江編集長時代の「週刊少年ジャンプ」部数減の責任を堀江ひとりに押し付けるという、集英社内部の社内政治力学の問題が堀江の退社の背景にあったとされる。このお家騒動については「[[週刊少年ジャンプ編集部#堀江信彦体制]]」の項目も参照。そのため、コアミックス設立後は本作や『北斗の拳』などの漫画が、もともとの掲載誌の版元である集英社関係のイベントと連携することが一切なくなった。なお、2011年に[[堀内丸恵]](編集者として[[秋本治]]などを担当)が集英社の代表取締役社長に就任した後は、コアミックスと集英社の関係は改善される方向にあり、ジャンプ関連のイベントなどでコアミックスが版権管理を行っている本作などとのコラボが散発的に実施されている。}}が発生したことにより、北条の担当編集者であり「週刊少年ジャンプ」元編集長だった[[堀江信彦]](現:コアミックス代表取締役社長)が集英社を退社し、新会社「[[コアミックス|株式会社コアミックス]]」を2000年6月に設立した。[[北条司]]、[[原哲夫]]、[[次原隆二]](いずれも堀江の担当漫画家)、そして本作アニメ版の冴羽{{補助漢字フォント|獠}}役、『[[北斗の拳]]』でケンシロウ役を務める声優の[[神谷明]]も同社の設立に参画した(詳しくは「[[コアミックス]]」「[[北条司#コアミックスの設立]]」などを参照)。そのため、2003年頃以降に出版された『シティーハンター』関連出版物の版元は集英社ではなく、コアミックスと親密な関係にある[[徳間書店]]になっている。
=== 単行本 ===
* 北条司 『シティーハンター』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、全35巻
<!-- 第28巻以降の発行日の日付はまだ確認できてないため、発行月までしか書けておりません。-->
*# 「恐怖のエンジェルダストの巻」1986年1月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852381-4}}
*# 「将軍の罠!の巻」1986年4月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852382-2}}
*# 「裸足の女優の巻 1986年6月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852383-0}}
*# 「鐘とともに運命が!の巻」1986年9月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852384-9}}
*# 「ワン・オブ・サウザンドの巻」1986年12月10日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852385-7}}
*# 「哀愁のギャンブラーの巻」1987年2月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852386-5}}
*# 「危険な国からきた女!の巻」1987年4月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852387-3}}
*# 「天使のほほえみの巻」1987年6月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852388-1}}
*# 「思い出の渚の巻」1987年8月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852389-X}}
*# 「看護婦には手を出すな!の巻」1987年10月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852390-3}}
*# 「槇村の忘れものの巻」1987年12月9日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852391-1}}
*# 「トラブル・スクープの巻」1988年2月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852392-X}}
*# 「海坊主と足ながおじさんの巻」1988年4月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852393-8}}
*# 「がんばれ!香ちゃん!!の巻」1988年6月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852394-6}}
*# 「告白のエアポートの巻」1988年8月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852395-4}}
*# 「恋人はシティーハンターの巻」1988年10月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852396-2}}
*# 「暁のMEMORYの巻」1988年12月11日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852397-0}}
*# 「海坊主にゾッコン!!の巻」1989年2月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852398-9}}
*# 「哀しい天使の巻」1989年4月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852399-7}}
*# 「さよならの向こう側…の巻」1989年6月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852400-4}}
*# 「ビル街のコールサインの巻」1989年8月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852612-0}}
*# 「お嬢さんにパイソンを!の巻」1989年10月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852613-9}}
*# 「明日へのリバイバルの巻」1989年12月10日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852614-7}}
*# 「大空の告白の巻」1990年2月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852615-5}}
*# 「Play it again, Mami! —あの曲をもう一度!—の巻」1990年4月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852616-3}}
*# 「突然の出会い!!の巻」1990年6月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852617-1}}
*# 「都会のシンデレラ!!の巻」1990年8月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-852618-X}}
*# 「勝敗の行方!!の巻」1990年10月発行、{{ISBN2|4-08-852619-8}}
*# 「伊集院隼人氏の平穏な一日の巻」1990年12月発行、{{ISBN2|4-08-852620-1}}
*# 「思い出を消して…の巻」1991年2月発行、{{ISBN2|4-08-852191-9}}
*# 「ふたりでひとりの心!!の巻」1991年5月発行、{{ISBN2|4-08-852192-7}}
*# 「おかしなふたり!!の巻」1991年8月発行、{{ISBN2|4-08-852193-5}}
*# 「地獄への出航!!の巻」1991年12月発行、{{ISBN2|4-08-852194-3}}
*# 「にせC・H登場!!の巻」1992年2月発行、{{ISBN2|4-08-852195-1}}
*# 「FOREVER, CITY HUNTER!!の巻」1992年4月発行、{{ISBN2|4-08-852196-X}}
* 北条司(原作)・錦ソクラ(作画) 『今日からCITY HUNTER』 徳間書店→コアミックス〈ゼノンコミックス〉、既刊13巻(2023年8月19日現在)
*# 2018年4月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980488-5}}
*# 2018年7月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980503-5}}
*# 2019年1月19日発行、{{ISBN2|978-4-19-980543-1}}
*# 2019年6月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980574-5}}
*# 2019年11月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980604-9}}
*# 2020年4月20日発行、{{ISBN2|978-4-86720-113-8}}
*# 2020年8月20日発行、{{ISBN2|978-4-86720-162-6}}
*# 2021年2月20日発売、{{ISBN2|978-4-86720-193-0}}
*# 2021年8月20日発売、{{ISBN2|978-4-86720-250-0}}
*# 2022年2月19日発売、{{ISBN2|978-4-86720-250-0}}
*# 2022年8月20日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/489850|title=【8月20日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-08-20|accessdate=2022-08-23}}</ref>、{{ISBN2|978-4-86720-403-0}}
*# 2023年2月20日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/512652|title=【2月20日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-02-20|accessdate=2023-02-20}}</ref>、{{ISBN2|978-4-86720-468-9}}
*# 2023年8月19日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/536067|title=【8月19日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-08-19|accessdate=2023-08-19}}</ref>、{{ISBN2|978-4-86720-536-5}}
* 北条司(原作)・えすとえむ(作画) 『CITY HUNTER外伝 伊集院隼人氏の平穏ならぬ日常』 竹書房〈バンブーコミックス タタン〉、既刊5巻(2021年10月20日現在)
*# 2019年1月19日発行(同日発売)、{{ISBN2|978-4-8019-6492-1}}
*# 2019年6月20日発行(同日発売)、{{ISBN2|978-4-8019-6645-1}}
*# 2020年3月20日発行(3月18日発売)、{{ISBN2|978-4-8019-6896-7}}
*# 2020年11月19日発売、{{ISBN2|978-4-8019-7066-3}}
*# 2021年10月20日発売、{{ISBN2|978-4-8019-7463-0}}
=== 文庫版 ===
* 北条司 『シティーハンター』 集英社〈集英社文庫〉、全18巻
*# 1996年6月発行、{{ISBN2|4-08-617161-9}}
*# 1996年6月発行、{{ISBN2|4-08-617162-7}}
*# 1996年8月発行、{{ISBN2|4-08-617163-5}}
*# 1996年8月発行、{{ISBN2|4-08-617164-3}}
*# 1996年10月発行、{{ISBN2|4-08-617165-1}}
*# 1996年10月発行、{{ISBN2|4-08-617166-X}}
*# 1996年12月発行、{{ISBN2|4-08-617167-8}}
*# 1996年12月発行、{{ISBN2|4-08-617168-6}}
*# 1997年2月発行、{{ISBN2|4-08-617169-4}}
*# 1997年2月発行、{{ISBN2| 4-08-617170-8}}
*# 1997年4月発行、{{ISBN2|4-08-617171-6}}
*# 1997年4月発行、{{ISBN2|4-08-617172-4}}
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*# 1997年6月発行、{{ISBN2|4-08-617174-0}}
*# 1997年8月発行、{{ISBN2|4-08-617175-9}}
*# 1997年8月発行、{{ISBN2|4-08-617176-7}}
*# 1997年10月発行、{{ISBN2|4-08-617177-5}}
*# 1997年10月発行、{{ISBN2| 4-08-617178-3}}
=== 完全版 ===
発行は全て徳間書店(レーベルは徳間コミックス)
* 北条司 『CITY HUNTER COMPLETE EDITION』、全32巻
*# 2003年12月15日発行、{{ISBN2|4-19-780213-7}}
*# 2003年12月15日発行、{{ISBN2|4-19-780214-5}}
*# 2004年1月15日発行、{{ISBN2|4-19-780219-6}}
*# 2004年1月15日発行、{{ISBN2|4-19-780220-X}}
*# 2004年2月14日発行、{{ISBN2|4-19-780224-2}}
*# 2004年2月14日発行、{{ISBN2|4-19-780225-0}}
*# 2004年3月15日発行、{{ISBN2|4-19-780230-7}}
*# 2004年3月15日発行、{{ISBN2|4-19-780231-5}}
*# 2004年4月15日発行、{{ISBN2|4-19-780236-6}}
*# 2004年4月15日発行、{{ISBN2|4-19-780237-4}}
*# 2004年5月15日発行、{{ISBN2|4-19-780242-0}}
*# 2004年5月15日発行、{{ISBN2|4-19-780243-9}}
*# 2004年6月15日発行、{{ISBN2|4-19-780247-1}}
*# 2004年6月15日発行、{{ISBN2|4-19-780248-X}}
*# 2004年7月15日発行、{{ISBN2|4-19-780252-8}}
*# 2004年7月15日発行、{{ISBN2|4-19-780253-6}}
*# 2004年8月16日発行、{{ISBN2|4-19-780257-9}}
*# 2004年8月16日発行、{{ISBN2|4-19-780258-7}}
*# 2004年9月15日発行、{{ISBN2|4-19-780262-5}}
*# 2004年10月15日発行、{{ISBN2|4-19-780268-4}}
*# 2004年10月15日発行、{{ISBN2|4-19-780269-2}}
*# 2004年11月15日発行、{{ISBN2|4-19-780273-0}}
*# 2004年11月15日発行、{{ISBN2|4-19-780274-9}}
*# 2004年12月15日発行、{{ISBN2|4-19-780278-1}}
*# 2004年12月15日発行、{{ISBN2|4-19-780279-X}}
*# 2005年1月15日発行、{{ISBN2|4-19-780283-8}}
*# 2005年1月15日発行、{{ISBN2|4-19-780284-6}}
*# 2005年2月15日発行、{{ISBN2|4-19-780287-0}}
*# 2005年2月15日発行、{{ISBN2|4-19-780288-9}}
*# 2005年3月15日発行、{{ISBN2|4-19-780293-5}}
*# 2005年3月15日発行、{{ISBN2|4-19-780294-3}}
*# 2005年4月15日発行、{{ISBN2|4-19-780298-6}}
* 『CITY HUNTER COMPLETE EDITION X』2004年9月15日発行、{{ISBN2|4-19-780263-3}}
* 『CITY HUNTER COMPLETE EDITION Y』2005年5月15日発行、{{ISBN2|4-19-780302-8}}
* 『CITY HUNTER COMPLETE EDITION Z』2005年6月15日発行、{{ISBN2|4-19-780306-0}}
=== XYZ Edition ===
* 北条司 『シティーハンター XYZ Edition』 徳間書店〈ゼノンコミックスDX〉、全12巻
**全巻購入特典のA{{Efn|全巻購入特典のBはA4サイズ複製原画2種セット。ただしAかBのどちらかひとつ。}}として[[神風動画]]によりモーショングラフィックアニメ「獠のプロポーズ」が制作された。アニメ版声優陣の変更はない。
*# 2015年7月18日発行、{{ISBN2|978-4-19-980281-2}}
*# 2015年7月18日発行、{{ISBN2|978-4-19-980282-9}}
*# 2015年8月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980291-1}}
*# 2015年8月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980292-8}}
*# 2015年9月19日発行、{{ISBN2|978-4-19-980297-3}}
*# 2015年9月19日発行、{{ISBN2|978-4-19-980298-0}}
*# 2015年10月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980307-9}}
*# 2015年10月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980308-6}}
*# 2015年11月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980315-4}}
*# 2015年11月20日発行、{{ISBN2|978-4-19-980316-1}}
*# 2015年12月19日発行、{{ISBN2|978-4-19-980322-2}}
*# 2015年12月19日発行、{{ISBN2|978-4-19-980323-9}}
=== 小説版 ===
* [[集英社]]〈ジャンプ ジェイ ブックス〉
** 『CITY HUNTER』外池省二(著者)、1993年4月26日発売、{{ISBN2|4-08-703005-9}}
** 『CITY HUNTER 2』[[稲葉稔 (作家)|稲葉稔]](著者)、1997年4月24日発売、{{ISBN2| 4-08-703058-X}}
** 『CITY HUNTER SPECIAL』[[天羽沙夜]](著者)、1995年12月15日発売、{{ISBN2|4-08-703042-3}}
***1996年のスペシャル『ザ・シークレット・サービス』のノベライズ版。セリフの中に[[スペイン語]]が頻繁に登場する。
** 『CITY HUNTER SPECIAL 2』[[岸間信明]](著者)、1999年4月2日発売、{{ISBN2|4-08-703082-2}}
***1999年のスペシャル『緊急生中継!?凶悪犯冴羽{{補助漢字フォント|獠}}の最期』のノベライズ版。アニメではオミットされていた過去のサユリやジャックらとの関係が描かれている。
* [[徳間書店]]〈徳間文庫〉
** 『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉 公式ノベライズ』 [[福井健太]]/[[加藤陽一_(脚本家)|加藤陽一]]/[[北条司]]著、2019年2月8日発売、{{ISBN2| 4-19-894435-0}}
***『[[劇場版シティーハンター 新宿プライベート・アイズ|劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉]]』(2019年)のノベライズ版。劇場版本編では語られなかった御国の過去が詳細に明かされている。また、香の{{補助漢字フォント|獠}}に対するハンマー攻撃の制裁などが、別の方法に変更されている。
** 『劇場版シティーハンター {{Ruby|天使の涙|エンジェルダスト}} 公式ノベライズ』 [[福井健太]]/[[むとうやすゆき]]/[[北条司]]著、2023年9月8日発売、{{ISBN2|4-19-894891-7}}
*** 『[[劇場版シティーハンター 天使の涙|劇場版シティーハンター {{Ruby|天使の涙|エンジェルダスト}}]]』(2023年)のノベライズ版。カメオ出演するキャラクターの登場場面が省略されている他、香の{{補助漢字フォント|獠}}に対する制裁方法がハンマー攻撃から「蹴り」や「掌底」など、別の方法に変更されている。
=== 関連書籍 ===
* ガイド本『シティーハンターパーフェクトガイドブック』2000年1月発行、{{ISBN2|4-08-782038-6}}
* 短編集『天使の贈りもの 北条司短編集[1]』〈ジャンプ・コミックス〉1988年11月15日発行、{{ISBN2|4-08-871268-4}}
* 短編集『北条司短編集1 シティーハンター -XYZ- 』〈集英社文庫〉2000年1月18日発行、{{ISBN2|4-08-617304-2}}
* ガイド本『シティーハンター完全読本』2015年7月25日発行[[徳間書店]]〈ロマンアルバム〉、{{ISBN2|978-4-19-720429-8}}
* ガイド本『シティーハンター 冴羽{{補助漢字フォント|獠}} ぴあ』[[ぴあ#雑誌|ぴあ]]〈ぴあMOOK〉2018年3月26日発行、{{ISBN2|978-4-8356-3422-7}}
* ガイド本『シティーハンター アニメ全史 ぴあ』[[ぴあ#雑誌|ぴあ]]〈ぴあMOOK〉2023年9月30日発行(2023年8月21日発売)、{{ISBN2|978-4-8356-4448-6}}
== ドラマCD ==
; CDカセットブック
* '''シティーハンター ドラマCDブック 恐怖のエンジェルダスト編''' (元のタイトルは'''パートナーに口づけを''')
* '''シティーハンター ドラマCDブック編 哀しい天使'''
; CITY HUNTER dramatic master
: 1トラックの中で曲の前にミニドラマを挟むスタイルをとっている。
* '''CITY HUNTER dramatic master''' - 1989年12月1日発売 CD1枚組 ASIN: B00005G4D9
* '''CITY HUNTER dramatic master II''' - 1990年1月21日発売 CD2枚組 ASIN: B00005G4DD
==ゲーム==
=== コンシューマーゲーム ===
; [[ファミコンジャンプ 英雄列伝]]([[ファミリーコンピュータ]])
: 1989年2月15日に[[バンダイ]]より発売。『[[週刊少年ジャンプ]]』のオールスターゲームの1作品として、冴羽{{補助漢字フォント|獠}}がプレイヤーキャラクターの一人として、その他の人物も槇村香と野上冴子がサブキャラクターとして、海坊主ファルコンこと伊集院隼人が一般雑魚敵として登場。
; シティーハンター([[PCエンジン]]用[[HuCARD]])
: 1990年3月2日に[[サン電子|サンソフト]]から6300円で発売された。横スクロールの[[アクションゲーム]]。
: 『シティーハンター』単独では唯一の家庭用ゲーム作品となる。
=== モバイルゲーム ===
; シティーハンター 100万人のスイーパー([[GREE]])
: 2010年6月29日よりエンタースフィアのGREE向けソーシャルゲーム第一弾として配信開始。駆け出しのスイーパーになって、原作のスイーパー達を相棒にしてさまざまな事件を解決する。
=== 体感型ゲーム ===
;シティーハンター 狙われた天使のレクイエム
:2020年1月18日から2024年1月18日(当初は、2023年1月17日までの3年間の予定だったが、1年間延長された<ref>{{Cite web|和書|url=https://huntersvillage.jp/campaign/25641.html|title=【1年延長決定!】「シティーハンター 狙われた天使のレクイエム」【終了予定日:2024/1月18】|publisher=ハンターズヴィレッジ|date=2023-01-17|accessdate=2023-01-28}}</ref>)にかけて催された、じぞう屋主催、タカラッシュ!企画制作による東京都武蔵野市吉祥寺を開催地にしたリアル宝探しゲームイベント。参加キットを購入し、謎を解きながら開催地を巡る。Webサイト上で行う仕組みが途中にあるため、インターネットに接続できるスマートフォンが必須だった。
:また、封入冊子であるストーリーブック(冴羽獠・海坊主編)12Pに誤植がありタカラッシュ!のサイト上にお詫びと訂正(以下)が載った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takarush.jp/info/20200120.html |title=「シティーハンター 狙われた天使のレクイエム」へご参加される方へ重要なお知らせ |publisher=タカラッシュ!|accessdate=2020-06-23}}</ref>。
::【誤】白猫を見かけた場所1 →【正】白猫を見かけた場所2
::【誤】白猫を見かけた場所2 →【正】白猫を見かけた場所1
===パチンコ・パチスロ ===
2003年10月に[[サミー]]から、2009年3月に[[平和 (パチンコ)|HEIWA]]からパチンコ機が、2007年11月に[[銀座 (企業)|銀座]]からパチスロ機「パチスロシティーハンター」が発売され、2014年1月に[[オリンピア (企業)]]から「パチスロシティーハンター」が発売された。「平和CRシティーハンター」・「オリンピアパチスロシティーハンター」は[[神谷明]]はじめオリジナル声優を起用。銀座から発売された「パチスロシティーハンター」は冴羽{{補助漢字フォント|獠}}の声が神谷明から[[子安武人]]に変更されている。
== その他 ==
*「[[X-Y-Z]]」という名のカクテルは存在し、エピソードの小道具として使われている。
* 堀江や信彦という名前がよく作中に登場する。また、担当編集者の堀江と[[佐々木尚]]が結婚生活を嘆く会話を作中でそのまま引用している。
<!--→は既に別途項目が作られているのでコメントアウト* 韓国のテレビ局・[[SBS (韓国)|SBS]]にて、[[2011年]][[5月25日]]からドラマ版『シティーハンター in Seoul』が放送された。主人公イ・ユンソン([[冴羽獠|冴羽{{補助漢字フォント|獠}}]])役に[[イ・ミンホ]]<ref>「[http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/story.html?q=wowkorea_82733 イ・ミンホ、タイで女心揺さぶるキラースマイル炸裂]」</ref>。-->
<!-- 以下は必要ならシティーハンター (アニメ)のページに記述するべき?| * アニメの場合、ひとつの作品で特定の役を持たずに色々な役をする声優を「ガヤ」と呼ぶが、シティーハンターでこれをやっていたのが当時声優としてはまだ新人だった[[山寺宏一]]や[[深見梨加]]、[[梁田清之]]だった。また[[伊倉一恵]]も香の未登場時にはガヤであった。
* 山寺宏一の降板後には[[山崎たくみ]]が頻繁にガヤとして出演するようになった。
* 逆に[[大塚芳忠]]や[[関俊彦]]、[[戸谷公次]]、[[若本規夫]]はガヤと特定の役を持つキャラクターを両方演じた。
* 『[[キャッツ・アイ]]』のレギュラー陣のうち三姉妹役([[戸田恵子]]、[[藤田淑子]]、[[坂本千夏]])及び、[[榊原良子]]がゲストとして参加している。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
; 関連作品
:* [[エンジェル・ハート]] - 北条司みずから描いた、本作品のパラレルワールド作品。
:* [[天使の贈りもの (漫画)|天使の贈りもの]] - 元となった読切を収録した短編集。
:* [[桜の花 咲くころ]] - 本作の連載と同時期の短編を収録した短編集。
; 関連人物・場所など
:* [[神谷明]] - 演じた中で最も好きなキャラクターと公言し、自身の設立した声優事務所を「[[冴羽商事]]」と命名した。
:* [[新宿]] - 本作の舞台となっている場所。アニメでは他の場所へ行くこともある。
== 外部リンク ==
* [http://www.hojo-tsukasa.com/ 北条司公式ホームページ]
*[https://twitter.com/cityhunter100t シティーハンター漫画公式]
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11,107 |
T.A.T.u.
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t.A.T.u.(タトゥー)は、リェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワによって構成される女性デュオ。1998年にロシア連邦のモスクワ市にてイワン・シャポワロフの主導によって結成された。
初期のt.A.T.u.は、リェーナとユーリャがレズビアン・カップルであるというイメージを前面に押し出していた。しかしそれはグループのイメージの一部でしかないことが、2003年のドキュメンタリー『Anatomy of t.A.T.u.』にて明らかにされた。リェーナとユーリャはレズビアンの恋人同士ではない。
2008年8月のインタビューにてリェーナは、すべてがやりすぎだったものの、互いに偽りない感情を表現していたと述懐している。同記事にてユーリャは、10代の頃のことであり、その時はそれが本当の愛だと感じていたと付け加えている。
2004年に、t.A.T.u.は当時のプロデューサーと袂を分かち、しばらく活動を休止した。2005年には、『Dangerous and Moving』と『Люди инвалиды』を発売した。2006年にはベスト盤を発売し、ユニバーサル・ミュージックとの専属契約を満了した。
3枚目のアルバム『Весёлые улыбки』は、2008年10月21日にiTunes、t.A.T.u.公式ショップ、モスクワのSoyuz店頭にて発売された。
2009年5月21日、「t.A.T.u.に専念すること」の休止が12月のスタッフ・ミーティングにて決定されていた旨が公式サイトにて公表された。すでに発表されていたとおり、『Весёлые улыбки』から3本目の映像を公開し、映画『You and I』の宣伝の本人稼働は予定どおり行われる。また、Happy Smilesの特別盤が発売される予定となっている。
2009年5月27日、リェーナとユーリャは、互いにソロ活動を開始すること、そしてt.A.T.u.はt.A.T.u.のまま継続することを公式ブログにて発表した。リェーナは、「これからt.A.T.u.としてだけではなく、ユーリャと私という独立した2人のアーティストが生まれることになります」と述べた。すなわち、リェーナとユーリャはそれぞれのソロ活動とt.A.T.u.としての活動を並行するという意味である。リェーナはt.A.T.u.制作チームと連携してソロ活動を開始する。
2009年12月15日、3rdアルバムの英語版である『Waste Management』を発売。
ヨーロッパで大きな成功を収めたポップ・グループとして、t.A.T.u.のアルバムとシングルの累計売上枚数は全世界で1500万枚を突破した。
2011年に活動休止を発表するが、2012年に再結成。しかし2014年に再び解散を表明した。
イワン・シャポワロフと、彼の友人でありビジネス・パートナーであったアレクサンドル・ボイチンスキーが、ロシアで音楽プロジェクトを始める計画を立てた。この案を練りながら、シャポワロフとボイチンスキーは1998年初めにモスクワで10代の女性歌手を対象としたオーディションを開催した。 オーディションが終盤となるころには、シャポワロフとボイチンスキーは候補者を10人に絞っていた。そこには、ニェポセドゥイ(Непоседы)の元メンバーであったリェーナとユーリャも含まれていた。
2人の少女はとりわけ出で立ちと歌の経験について他の候補者よりも際立っていたが、シャポワロフとボイチンスキーは、ロクセットの「愛のぬくもり」(It Must Have Been Love)を歌った13歳のリェーナ・カーチナを選出する。リェーナはデモ曲の録音を始めた。リェーナの父セルゲイ・カーチン(Сергей Катин)は優れた作曲家で音楽プロデューサーでもあり、ボイチンスキーとは面識があった。
このときのグループ名は「ТАТУ」ではなく、単に「プロジェクト」だった。
ちょうどその頃、ボイチンスキーはアライド・フォース作戦の爆撃でユーゴスラヴィア(当時)の首都ベオグラードにいた家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。そこでボイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「ユーゴスラヴィア(Югославия)」を作曲し、リェーナ・カーチナに歌わせてデビューさせたという経緯がある。しかし「ユーゴスラヴィア」はまったく売れなかった。これを不満に感じたシャポワロフは、プロジェクトにもう一人女の子を加えることを提案した。そして、1998年10月の終わりに、13歳の少女であったユーリャ・ヴォルコワをグループに加えた。またボリス・レンスキーをスポンサーとして招きよせ、プロジェクトの財務面の安定化を図った。作家陣としては、セルゲイ・ガロヤン(作曲)、ワレリー・ポリエンコ(英語版、ロシア語版)(作詞)の2人を発掘した。それまで全く無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、若い才能を充分に開花させることとなる。
こうして「プロジェクト」は「ТАТУ」に改称された。ТАТУというグループ名は、ロシア語の「Та любит ту」(ター・リュービト・トゥー、"This (girl) loves that (girl)"の意)の略だとされている(なお、普通名詞としてのТАТУはロシア語でタトゥーのことである)。こうして、リェーナとユーリャはプロデューサーらとともにレコーディングを進めていった。
シャポワロフは、当時の恋人でありMTVロシアに勤めていたエリェーナ・キーペルから、ТАТУの新しい路線を決める着想を得た。キーペル自身は、スウェーデン映画『ショー・ミー・ラヴ』を参考とし、ミドルティーンの少女同士が織りなす甘く切ない物語、または性を超えて愛しあう純粋なふたつの魂の結びつきというイメージを描いていたが、シャポワロフはキーペルの案をより過激で煽情的に具現化させようとした。ボイチンスキーは、シャポワロフが進めたこの路線について意見の折り合いをつけることができず、プロジェクトを離脱することとなった。シャポワロフは、ボイチンスキーに代わり、キーペルをデビュー・アルバムの共同プロデューサー兼共同作家として迎え入れた。
2000年9月、エリェーナ・キーペル作詞、セルゲイ・ガロヤン作曲による「ヤー・サシュラー・ス・ウマー(Я сошла с ума / 私はおかしくなった)」が大ヒットし、一躍有名になった。イワン・シャポワロフは「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」のプロモーション・ビデオで、ヴォーカルの2人に同性愛の演技をさせ、これがセンセーションを巻き起こした。12月、シングル「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」を発表。
2001年、同じくキーペルとガロヤンのコンビで「ナス・ニェ・ダゴニャット(Нас не догонят / 私たちはつかまらない)」がヒットし、アルバム『200・ポ・フストレーチノィ(200 ПО ВСТРЕЧНОЙ / (時速200キロで逆走)』(5月発表)が更にヒットした。これ以降、インターネットを介してその存在が世界中で話題となり、主に東欧各国でヒットチャートを駆け上っていった。また、西欧、北米への本格進出のために英語版の製作がはじめられた。
2002年、トレヴァー・ホーンが編曲した『200・ポ・フストレーチノィ』の英語版『200 KM/H IN THE WRONG LANE』がリリースされ、さらに「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」の英語版「All the things she said」のプロモーション・ビデオがリメイクされた。また、ТАТУのラテン文字表記は、従来はキリル文字をそのまま翻字した「TATU」だったが、すでにオーストラリアにTatuというバンドが存在していたことに配慮し「t.A.T.u.」に改名した。
この2002年の後半がТАТУ人気の絶頂であったと言える。しかし、このころ既にメンバーの間では激しい軋轢が生じていた。
イワン・シャポワロフが考案した「同性愛を前面に押し出した少女2人組」と言うコンセプトは、演じているヴォーカルの2人にとっては強い抵抗があった。また、最初にコンセプトを提供したエリェーナ・キーペルにとっても耐え難いものだった。またギャラ支払いの不明瞭さの問題もあった。
しかし、このコンセプトの成功に確信を持ったシャポワロフは、ヴォーカルの2人の入れ替えを画策したため、結局エリェーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンは脱退し、リェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワは踏みとどまった。
ТАТУの経済的成功は2003年まで続くが、エリェーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンの脱退の影響は大きく、彼らの脱退後にリリースした曲はいずれも期待したほどヒットしたと言えなかった。
2003年のユーロビジョン・ソング・コンテストでТАТУは政治的メッセージ性の強い「ニ・ヴェーリ、ニ・ボイスャ(Не верь, не бойся / 信じるな、恐れるな)」をひっさげてロシア代表として参加した。しかしシャポワロフはヴォーカルの2人に反抗的な我がまま娘の演技を指導していたため、現地会場のファンの支持を得られず、3位に終わる。実際は、これ以前からユーリャ・ボルコワは喉の障害で十分な声が出なくなっており、2002年の12月に加入したカーテャ・ネチャエヴァがユーリャのパートを歌っていた(本番ではユーリャが歌った)。
2003年になってようやくТАТУ人気が日本に上陸したが、この頃にはシャポワロフの路線は完全に破綻していた。ヴォーカルの2人はそれぞれの交際相手を隠さなくなっていたし、彼女らの家族もシャポワロフのコンセプトは事実ではないことを明らかにしていた。キーペルやガロヤンの脱退後も踏みとどまっていたワレリー・ポリエンコもこの頃シャポワロフと絶縁し、ТАТУの成功を支えた主要な作詞・作曲者は全ていなくなっていた。それでもファンがついていたのはガロヤンやボイチンスキーの曲に魅力があったからなのだが、シャポワロフはスキャンダラスな路線をさらに過激化させていった。
なお、日本での初アルバム『t.A.T.u.』は国内盤と輸入盤の合計で200万枚が売れた。ТАТУは、当時の日本では「宇多田ヒカルのデビュー当時に匹敵する」ともいわれる人気グループであった。
シャポワロフは、2003年4月にイギリスでの公演を無茶苦茶な理由をつけて直前にキャンセルしたのをはじめ、各地で不条理なドタキャンを指示した。
日本においても2003年6月27日、テレビ朝日の『ミュージックステーション』で、冒頭には出演したものの、その後行方をくらました。t.A.T.u.に割り当てられた時間が空いたため、既に演奏を終えていたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが埋め合わせとして、別な曲を番組の最後に追加で演奏した。28日、ТАТУの所属するユニバーサルミュージックがテレビ朝日に謝罪した。一方、29日にメンバー自身とシャポワロフが会見を開いたものの謝罪せず、そのまま帰国した。2013年の取材でメンバー2人は、「このドタキャンはシャポワロフから電話で指示されたもので、まだ10代だった2人は彼の指示に従わざるを得ず、テレビ局を立ち去った。その後シャポワロフは、指示の理由を『話題作りのため』と明かした」と語っている。
2003年12月に再来日し、東京ドームでのコンサートを2日間実施したが、両日とも5万人の会場の半数ほどが空席(公式発表によると、初日の動員数は25,029人だった)。公演前、S席7500円・A席6500円のチケットがネットオークションなどに数百円ほどで大量に出回っていた。
東京ドームコンサートの日、ユーリャ・ボルコワは体調を崩して出演できる状態ではなかったのだが、その歌唱力と表現力は集まったファンを納得させるものがあった。しかし、渋谷陽一・四方宏明などの絶賛以上に、従前の事件および事後報道が影響し、日本におけるТАТУブームは完全に失速したものとなった。また、このコンサートでもシャポワロフはヴォーカル2人に直前のキャンセルを指示していたために、ヴォーカルのふたりとシャポワロフの信頼関係は完全に失われた。
東京でのコンサート後、リェーナ・カーチナが脱退を示唆する。シャポワロフはその後も、リェーナ・カーチナおよびユーリャ・ボルコワのロシア大統領選出馬表明など、無軌道なスキャンダル路線を指示し続けるが、その一方でセカンドアルバムの製作も発表し、その製作模様はドキュメンタリーとしてテレビ放送されることになった。
また、2003年12月にはt.A.T.uの劇場アニメ化が発表された。『t.A.T.u. PARAGATE』というタイトルだったが、その後進展がなく立ち消えとなった模様である。
2003年12月にロシアのSTSテレビでドキュメンタリー『アナトミヤТАТУ』が放映されたのに続き、2004年1月〜3月にテレビシリーズ『タトゥー・フ・パドネベースノィ(t.A.T.u. в Поднебесной / 天空のТАТУ)』が放映されるが、その内容は、ТАТУ内部の軋轢とシャポワロフの無軌道ぶりだった。セカンドアルバムの製作は遅々として進まず、シャポワロフからはセカンドアルバムをより良いものにしようという気も、期日(放送最終日の3月14日)までに仕上げようという気も、まるで感じられなかった。リェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワにとってシャポワロフは、自分たちを世界的スターにしてくれた人物であり、何年も苦楽を共にしてきた親友でもあったが、この期に及んでもまともに活動をしようとしないシャポワロフを最終的に見限り、ついにシャポワロフに契約破棄を突きつける(2月)。シャポワロフはこの危機的状況を収拾しようともせず、番組もそのまま終了した。
その後の4月スポンサーたちはこの混乱の責任はシャポワロフにあるとして彼を解任した。新プロデューサーには、前の副プロデューサーだったエリェーナ・キーペルに就任を依頼し、キーペル側も快諾したが、リェーナ・カーチナ、ユーリャ・ボルコワらはキーペルの復活を望まず、結局メイン・スポンサーであったボリス・レンスキーが自ら暫定プロデューサーに就任することになる。シャポワロフの解任後はドタキャン騒動は起きていない。
レンスキーは、自身の作った歌の権利についてТАТУ側と争っていたエリェーナ・キーペルと和解すると同時に、ヴォーカルのリェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワを呼び戻し、更にセルゲイ・ガロヤン、ワレリー・ポリエンコと再契約することに成功した。ところがユーリャ・ボルコワが妊娠出産のため仕事が出来なくなり、結局2004年の秋までТАТУは実働しなかった。
なお、2004年6月に「t.A.T.u.がt.E.m.A.に改名する」というニュースが流れたが、これは「TEMA」というグループ(2004年5月結成。ТАТУとは無関係)の新曲「Кто, если не я(英訳:Who, If Not Me?)」のプロモーションのために流したガセである。
2004年の冬になると、出産を終えたユーリャが復帰し、トレヴァー・ホーン音楽活動25周年コンサートやベスラン学校占拠事件追悼コンサートなどで活動を再開している。また、リェーナ・カーチナの父で作曲家兼プロデューサーのセルゲイ・カーチンによればリェーナのソロ活動も同時に行われることになるという。
2005年1月20日。作曲担当のセルゲイ・ガロヤンと広報マネージャーのアレクサンドラ・ティチャンコが結婚する。ユーリャは、直前まで2人の交際を誰も知らなかったと述べる。
セカンドアルバムの英語版『DANGEROUS AND MOVING』とロシア語版が発売され、それぞれヒットし、MTVロシアの年間最高アルバム賞を受賞した。曲風はファーストアルバムより更に重厚になり、社会性が増した。
シングルカットされた「All About Us」も、アルバムタイトルとなった「ЛЮДИ-ИНВАЛИДЫ(廃人たち)」も、現代の閉塞感への抵抗を秘めたものであることが明らかにされている。 最初期からТАТУはしばしば陰鬱な政治性を歌に込めているが、セカンドアルバムはそれが前面に出てきた。 インタビューでもセカンドアルバムのテーマが現代社会の暴力性の告発にあることを認めている。
8月18日。再来日したТАТУは、東京・横浜・名古屋でミニライブをこなし、熱心なファンとの交流が図られた。またはじめて北海道に上陸し札幌ラジオ局に出演するなど地道な活動をおこなった。名古屋のライブハウスHOLIDAYでライブの準備中、客の不入りを理由にライブハウスと管理会社が中止を決定し、日本のマスコミが「またドタキャン」と面白おかしく報道したが、実際はファンは次のライブ会場J.MAXに移動の便宜がはかられたので混乱はなかった。 今回では、「All About Us」収録時から合流していたバンドメンも一緒に来日し、ステージメンバーは6人となり、その顔ぶれはより国際的になった。 函館からユジノサハリンスクに移動したТАТУだったが、ここで契約解除となるはずだったバンドメンの契約更新が決まり、来年製作予定のサードアルバムまでТАТУは6人組で活動することになった。 帰国後ユニバーサルとの契約を解消したことから、独自レーベルを立ち上げるのか、セルゲイ・カーチンがプロデュースするのか、様々な噂が飛び交っている。フィリップ・キルコーロフとアーラ・プガチョワが一時ТАТУの権利に関心があったことから、こちらの関係もささやかれている。
9月27日には初のベストアルバム『THE BEST』が発売された。おなじみ「All the things she said」「Not Gonna Get Us」「All About Us」など全20曲を収録。一時期は日本版のみボーナストラックが収録されるということになっていたが、結局インターナショナル盤と同じトラックリストとなった。しかし、日本ではオリコン初登場は186位に終わった。日本では、これが2006年最後のリリースとなった。
2007年リリース予定とされていた3rdアルバムは当年9月になっても発表されず、2008年にずれ込んだ。一方、元々2006年10月にリリースされる予定であった『TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜』のDVDがAmazon.com限定で発売されることが決定している。これは、公式サイトで延期が発表されたのち、リリースが2007年8月24日に公式サイトにて緊急発表された。amazon限定という形ではあるものの、ようやくリリースの運びになった。ネフォルマットは、「昨年4月26日ロシアのサンクトペテルブルクで行われた1万人の熱狂ライブとドキュメンタリー映像を盛り込んだ素晴らしい内容」と紹介している。
10月17日、3rdアルバム『Весёлые улыбки(英訳:Happy Smiles)』発売。
9月頃よりТАТУ解散?との噂が流れる。 しかしこれはファンらによる憶測であり、実際は「ТАТУがソロメンバー活動も並行して開始する」というのが正しい。
12月15日、3rdアルバムの英語版『Waste Management』発売。
新年のあいさつのビデオで、グループ解散の噂を否定。
グループの活動休止を発表。ソロ活動へ。
アルバム『200 KM/H IN THE WRONG LANE』の発売10周年を記念して再結成。オーディション番組『The Voice』2012年度ルーマニア版に出演し「All the things she said」を披露した。
スニッカーズの新CMへの起用を機に7年ぶりの来日。スニッカーズのCMに出演していた内田裕也と対談し、内田が主催するニューイヤーズワールドロックフェスティバルへの出演依頼に快諾した。スニッカーズのCMは、同年9月に戸田市の野球場で収録された。
2014年ソチオリンピックの開会式の前日イベントに出演した。
2月19日、再び解散を表明する。
しばしば、ヴォーカルのリェーナ・セルゲーエフナ・カーチナとユーリャ・オレーゴフナ・ボルコワの2人組のみがt.A.T.u.であるかのように誤解されているが、厳密にはプロデューサー・作曲者・作詞者・各マネージャーを含むプロジェクト全体の名称である。 ヴォーカルの2人だけを指すときはтатушки(タトゥーシュキ)と呼ぶのが正しい。 片方だけを呼ぶときは単数形でтатушка(タトゥーシュカ)と呼ぶ。これはロシア語における「тату」の愛称形(指小語)であるが、このような言語学的解説は理解されにくいため、ニェフォルマット社では「татушка」(タトゥーシュカ)は「тату девушка」(タトゥー・ジェーヴシュカ、"tatu girl"の意)の略というより単純な説明をしている。
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"text": "t.A.T.u.(タトゥー)は、リェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワによって構成される女性デュオ。1998年にロシア連邦のモスクワ市にてイワン・シャポワロフの主導によって結成された。",
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"text": "初期のt.A.T.u.は、リェーナとユーリャがレズビアン・カップルであるというイメージを前面に押し出していた。しかしそれはグループのイメージの一部でしかないことが、2003年のドキュメンタリー『Anatomy of t.A.T.u.』にて明らかにされた。リェーナとユーリャはレズビアンの恋人同士ではない。",
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"text": "2008年8月のインタビューにてリェーナは、すべてがやりすぎだったものの、互いに偽りない感情を表現していたと述懐している。同記事にてユーリャは、10代の頃のことであり、その時はそれが本当の愛だと感じていたと付け加えている。",
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"text": "2004年に、t.A.T.u.は当時のプロデューサーと袂を分かち、しばらく活動を休止した。2005年には、『Dangerous and Moving』と『Люди инвалиды』を発売した。2006年にはベスト盤を発売し、ユニバーサル・ミュージックとの専属契約を満了した。",
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"text": "3枚目のアルバム『Весёлые улыбки』は、2008年10月21日にiTunes、t.A.T.u.公式ショップ、モスクワのSoyuz店頭にて発売された。",
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"text": "2009年5月21日、「t.A.T.u.に専念すること」の休止が12月のスタッフ・ミーティングにて決定されていた旨が公式サイトにて公表された。すでに発表されていたとおり、『Весёлые улыбки』から3本目の映像を公開し、映画『You and I』の宣伝の本人稼働は予定どおり行われる。また、Happy Smilesの特別盤が発売される予定となっている。",
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"text": "2009年5月27日、リェーナとユーリャは、互いにソロ活動を開始すること、そしてt.A.T.u.はt.A.T.u.のまま継続することを公式ブログにて発表した。リェーナは、「これからt.A.T.u.としてだけではなく、ユーリャと私という独立した2人のアーティストが生まれることになります」と述べた。すなわち、リェーナとユーリャはそれぞれのソロ活動とt.A.T.u.としての活動を並行するという意味である。リェーナはt.A.T.u.制作チームと連携してソロ活動を開始する。",
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"text": "2009年12月15日、3rdアルバムの英語版である『Waste Management』を発売。",
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"text": "ヨーロッパで大きな成功を収めたポップ・グループとして、t.A.T.u.のアルバムとシングルの累計売上枚数は全世界で1500万枚を突破した。",
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"text": "2011年に活動休止を発表するが、2012年に再結成。しかし2014年に再び解散を表明した。",
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"text": "イワン・シャポワロフと、彼の友人でありビジネス・パートナーであったアレクサンドル・ボイチンスキーが、ロシアで音楽プロジェクトを始める計画を立てた。この案を練りながら、シャポワロフとボイチンスキーは1998年初めにモスクワで10代の女性歌手を対象としたオーディションを開催した。 オーディションが終盤となるころには、シャポワロフとボイチンスキーは候補者を10人に絞っていた。そこには、ニェポセドゥイ(Непоседы)の元メンバーであったリェーナとユーリャも含まれていた。",
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"text": "2人の少女はとりわけ出で立ちと歌の経験について他の候補者よりも際立っていたが、シャポワロフとボイチンスキーは、ロクセットの「愛のぬくもり」(It Must Have Been Love)を歌った13歳のリェーナ・カーチナを選出する。リェーナはデモ曲の録音を始めた。リェーナの父セルゲイ・カーチン(Сергей Катин)は優れた作曲家で音楽プロデューサーでもあり、ボイチンスキーとは面識があった。",
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"text": "このときのグループ名は「ТАТУ」ではなく、単に「プロジェクト」だった。",
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"text": "ちょうどその頃、ボイチンスキーはアライド・フォース作戦の爆撃でユーゴスラヴィア(当時)の首都ベオグラードにいた家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。そこでボイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「ユーゴスラヴィア(Югославия)」を作曲し、リェーナ・カーチナに歌わせてデビューさせたという経緯がある。しかし「ユーゴスラヴィア」はまったく売れなかった。これを不満に感じたシャポワロフは、プロジェクトにもう一人女の子を加えることを提案した。そして、1998年10月の終わりに、13歳の少女であったユーリャ・ヴォルコワをグループに加えた。またボリス・レンスキーをスポンサーとして招きよせ、プロジェクトの財務面の安定化を図った。作家陣としては、セルゲイ・ガロヤン(作曲)、ワレリー・ポリエンコ(英語版、ロシア語版)(作詞)の2人を発掘した。それまで全く無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、若い才能を充分に開花させることとなる。",
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"text": "こうして「プロジェクト」は「ТАТУ」に改称された。ТАТУというグループ名は、ロシア語の「Та любит ту」(ター・リュービト・トゥー、\"This (girl) loves that (girl)\"の意)の略だとされている(なお、普通名詞としてのТАТУはロシア語でタトゥーのことである)。こうして、リェーナとユーリャはプロデューサーらとともにレコーディングを進めていった。",
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"text": "シャポワロフは、当時の恋人でありMTVロシアに勤めていたエリェーナ・キーペルから、ТАТУの新しい路線を決める着想を得た。キーペル自身は、スウェーデン映画『ショー・ミー・ラヴ』を参考とし、ミドルティーンの少女同士が織りなす甘く切ない物語、または性を超えて愛しあう純粋なふたつの魂の結びつきというイメージを描いていたが、シャポワロフはキーペルの案をより過激で煽情的に具現化させようとした。ボイチンスキーは、シャポワロフが進めたこの路線について意見の折り合いをつけることができず、プロジェクトを離脱することとなった。シャポワロフは、ボイチンスキーに代わり、キーペルをデビュー・アルバムの共同プロデューサー兼共同作家として迎え入れた。",
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"text": "2000年9月、エリェーナ・キーペル作詞、セルゲイ・ガロヤン作曲による「ヤー・サシュラー・ス・ウマー(Я сошла с ума / 私はおかしくなった)」が大ヒットし、一躍有名になった。イワン・シャポワロフは「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」のプロモーション・ビデオで、ヴォーカルの2人に同性愛の演技をさせ、これがセンセーションを巻き起こした。12月、シングル「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」を発表。",
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"text": "2001年、同じくキーペルとガロヤンのコンビで「ナス・ニェ・ダゴニャット(Нас не догонят / 私たちはつかまらない)」がヒットし、アルバム『200・ポ・フストレーチノィ(200 ПО ВСТРЕЧНОЙ / (時速200キロで逆走)』(5月発表)が更にヒットした。これ以降、インターネットを介してその存在が世界中で話題となり、主に東欧各国でヒットチャートを駆け上っていった。また、西欧、北米への本格進出のために英語版の製作がはじめられた。",
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"text": "2002年、トレヴァー・ホーンが編曲した『200・ポ・フストレーチノィ』の英語版『200 KM/H IN THE WRONG LANE』がリリースされ、さらに「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」の英語版「All the things she said」のプロモーション・ビデオがリメイクされた。また、ТАТУのラテン文字表記は、従来はキリル文字をそのまま翻字した「TATU」だったが、すでにオーストラリアにTatuというバンドが存在していたことに配慮し「t.A.T.u.」に改名した。",
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"text": "この2002年の後半がТАТУ人気の絶頂であったと言える。しかし、このころ既にメンバーの間では激しい軋轢が生じていた。",
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"text": "イワン・シャポワロフが考案した「同性愛を前面に押し出した少女2人組」と言うコンセプトは、演じているヴォーカルの2人にとっては強い抵抗があった。また、最初にコンセプトを提供したエリェーナ・キーペルにとっても耐え難いものだった。またギャラ支払いの不明瞭さの問題もあった。",
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"text": "2004年の冬になると、出産を終えたユーリャが復帰し、トレヴァー・ホーン音楽活動25周年コンサートやベスラン学校占拠事件追悼コンサートなどで活動を再開している。また、リェーナ・カーチナの父で作曲家兼プロデューサーのセルゲイ・カーチンによればリェーナのソロ活動も同時に行われることになるという。",
"title": "略歴"
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"text": "2005年1月20日。作曲担当のセルゲイ・ガロヤンと広報マネージャーのアレクサンドラ・ティチャンコが結婚する。ユーリャは、直前まで2人の交際を誰も知らなかったと述べる。",
"title": "略歴"
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"text": "セカンドアルバムの英語版『DANGEROUS AND MOVING』とロシア語版が発売され、それぞれヒットし、MTVロシアの年間最高アルバム賞を受賞した。曲風はファーストアルバムより更に重厚になり、社会性が増した。",
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"text": "シングルカットされた「All About Us」も、アルバムタイトルとなった「ЛЮДИ-ИНВАЛИДЫ(廃人たち)」も、現代の閉塞感への抵抗を秘めたものであることが明らかにされている。 最初期からТАТУはしばしば陰鬱な政治性を歌に込めているが、セカンドアルバムはそれが前面に出てきた。 インタビューでもセカンドアルバムのテーマが現代社会の暴力性の告発にあることを認めている。",
"title": "略歴"
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"text": "8月18日。再来日したТАТУは、東京・横浜・名古屋でミニライブをこなし、熱心なファンとの交流が図られた。またはじめて北海道に上陸し札幌ラジオ局に出演するなど地道な活動をおこなった。名古屋のライブハウスHOLIDAYでライブの準備中、客の不入りを理由にライブハウスと管理会社が中止を決定し、日本のマスコミが「またドタキャン」と面白おかしく報道したが、実際はファンは次のライブ会場J.MAXに移動の便宜がはかられたので混乱はなかった。 今回では、「All About Us」収録時から合流していたバンドメンも一緒に来日し、ステージメンバーは6人となり、その顔ぶれはより国際的になった。 函館からユジノサハリンスクに移動したТАТУだったが、ここで契約解除となるはずだったバンドメンの契約更新が決まり、来年製作予定のサードアルバムまでТАТУは6人組で活動することになった。 帰国後ユニバーサルとの契約を解消したことから、独自レーベルを立ち上げるのか、セルゲイ・カーチンがプロデュースするのか、様々な噂が飛び交っている。フィリップ・キルコーロフとアーラ・プガチョワが一時ТАТУの権利に関心があったことから、こちらの関係もささやかれている。",
"title": "略歴"
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"text": "9月27日には初のベストアルバム『THE BEST』が発売された。おなじみ「All the things she said」「Not Gonna Get Us」「All About Us」など全20曲を収録。一時期は日本版のみボーナストラックが収録されるということになっていたが、結局インターナショナル盤と同じトラックリストとなった。しかし、日本ではオリコン初登場は186位に終わった。日本では、これが2006年最後のリリースとなった。",
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"text": "2007年リリース予定とされていた3rdアルバムは当年9月になっても発表されず、2008年にずれ込んだ。一方、元々2006年10月にリリースされる予定であった『TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜』のDVDがAmazon.com限定で発売されることが決定している。これは、公式サイトで延期が発表されたのち、リリースが2007年8月24日に公式サイトにて緊急発表された。amazon限定という形ではあるものの、ようやくリリースの運びになった。ネフォルマットは、「昨年4月26日ロシアのサンクトペテルブルクで行われた1万人の熱狂ライブとドキュメンタリー映像を盛り込んだ素晴らしい内容」と紹介している。",
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"text": "10月17日、3rdアルバム『Весёлые улыбки(英訳:Happy Smiles)』発売。",
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"text": "9月頃よりТАТУ解散?との噂が流れる。 しかしこれはファンらによる憶測であり、実際は「ТАТУがソロメンバー活動も並行して開始する」というのが正しい。",
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"text": "12月15日、3rdアルバムの英語版『Waste Management』発売。",
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"text": "新年のあいさつのビデオで、グループ解散の噂を否定。",
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"text": "グループの活動休止を発表。ソロ活動へ。",
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"text": "アルバム『200 KM/H IN THE WRONG LANE』の発売10周年を記念して再結成。オーディション番組『The Voice』2012年度ルーマニア版に出演し「All the things she said」を披露した。",
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"text": "スニッカーズの新CMへの起用を機に7年ぶりの来日。スニッカーズのCMに出演していた内田裕也と対談し、内田が主催するニューイヤーズワールドロックフェスティバルへの出演依頼に快諾した。スニッカーズのCMは、同年9月に戸田市の野球場で収録された。",
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"text": "2014年ソチオリンピックの開会式の前日イベントに出演した。",
"title": "略歴"
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"text": "2月19日、再び解散を表明する。",
"title": "略歴"
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"text": "しばしば、ヴォーカルのリェーナ・セルゲーエフナ・カーチナとユーリャ・オレーゴフナ・ボルコワの2人組のみがt.A.T.u.であるかのように誤解されているが、厳密にはプロデューサー・作曲者・作詞者・各マネージャーを含むプロジェクト全体の名称である。 ヴォーカルの2人だけを指すときはтатушки(タトゥーシュキ)と呼ぶのが正しい。 片方だけを呼ぶときは単数形でтатушка(タトゥーシュカ)と呼ぶ。これはロシア語における「тату」の愛称形(指小語)であるが、このような言語学的解説は理解されにくいため、ニェフォルマット社では「татушка」(タトゥーシュカ)は「тату девушка」(タトゥー・ジェーヴシュカ、\"tatu girl\"の意)の略というより単純な説明をしている。",
"title": "メンバー"
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] |
t.A.T.u.(タトゥー)は、リェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワによって構成される女性デュオ。1998年にロシア連邦のモスクワ市にてイワン・シャポワロフの主導によって結成された。
|
{{小文字}}
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| 名前 = t.A.T.u
| 画像 = Tatu at VivaComet 2008 (cropped).jpg
| 画像説明 = 『VIVA Comet 2008』にて
| 画像サイズ = 250px
| 画像補正 = yes
| 背景色 = group
| 別名 = Тату
| 出身地 = {{RUS}} [[モスクワ]]
| ジャンル = {{Hlist-comma|[[ポップ・ミュージック|ポップ]]<ref name="AM">{{AllMusic |first=Drago |last=Bonacich |title=t.A.T.u. Biography, Songs & Albums |class=artist |id=mn0000001113/biography |accessdate=2021-10-15 }}</ref><ref>{{Cite web |last=Hong |first=Y. Euny |title=Rise of the New Europe in Euro Pop |url=https://www.nytimes.com/2003/05/26/arts/rise-of-the-new-europe-in-euro-pop.html |work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |publisher=The New York Times Company |date=2003-05-26 |accessdate=2021-10-15 }}</ref>|[[ポップ・ロック]]<ref name="AM" />|[[ユーロポップ]]<ref>{{Cite web |last=Paterson |first=Colin |title=Hideous kinky |url=https://www.theguardian.com/culture/2002/may/04/artsfeatures |website=[[ガーディアン|The Guardian]] |publisher=Guardian News and Media |date=2002-05-04 |accessdate=2021-10-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190106135231/https://www.theguardian.com/culture/2002/may/04/artsfeatures |archivedate=2019-01-06 |deadlinkdate=2021年10月 }}</ref>|[[ユーロダンス]]<ref name="AM" />|[[ティーン・ポップ]]<ref name="AM" />}}
| 活動期間 = {{Plainlist|
* 1998年 - 2011年
* 2012年 - 2014年}}
| レーベル = {{Hlist-comma|Neformat|[[インタースコープ・レコード|インタースコープ]]|[[ユニバーサル ミュージック グループ|ユニバーサル]]|T.A. Music|Soyuz}}
| 事務所 = T.A. Music
| 公式サイト = [http://www.tatu.ru/ www.tatu.ru/]
| 旧メンバー = {{Plainlist|
* [[リェーナ・カーチナ]]([[ボーカル]])
* [[ユーリャ・ボルコワ]](ボーカル)
}}
}}
'''t.A.T.u.'''(タトゥー)は、[[リェーナ・カーチナ]]と[[ユーリャ・ボルコワ]]によって構成される女性デュオ<ref>{{Cite web|和書|title=t.A.T.u.(タトゥ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/t.A.T.u. |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |accessdate=2021-10-15 }}</ref>。[[1998年]]に[[ロシア連邦]]のモスクワ市にて[[イワン・シャポワロフ]]の主導によって結成された。
== 概説 ==
初期のt.A.T.u.は、リェーナとユーリャが[[レズビアン]]・カップルであるというイメージを前面に押し出していた。しかしそれはグループのイメージの一部でしかないことが、2003年のドキュメンタリー『Anatomy of t.A.T.u.』にて明らかにされた。リェーナとユーリャは[[レズビアン]]の恋人同士ではない。
2008年8月のインタビューにてリェーナは、すべてがやりすぎだったものの、互いに偽りない感情を表現していたと述懐している。同記事にてユーリャは、10代の頃のことであり、その時はそれが本当の愛だと感じていたと付け加えている<ref>{{cite news|author=genkage wrote:|url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/features/tatu-from-russia-with-lust-943444.html |title=Tatu: From Russia with lust - Features, Music |publisher=The Independent |date=2009-01-31 |accessdate=2009-05-02}}</ref>。
2004年に、t.A.T.u.は当時のプロデューサーと袂を分かち、しばらく活動を休止した。2005年には、『Dangerous and Moving』と『{{lang|ru|Люди инвалиды}}』を発売した。2006年にはベスト盤を発売し、ユニバーサル・ミュージックとの専属契約を満了した。
3枚目のアルバム『{{lang|ru|Весёлые улыбки}}』は、2008年10月21日にiTunes、t.A.T.u.公式ショップ、モスクワのSoyuz店頭にて発売された<ref>{{cite web | title = “Vesyolye Ulybki” / “Happy Smiles” | date = 2008-09-09 | url = http://www.tatu.ru/en/news.html?id=668 | accessdate = 2008-09-13}}</ref>。
2009年5月21日、「t.A.T.u.に専念すること」の休止が12月のスタッフ・ミーティングにて決定されていた旨が公式サイトにて公表された。すでに発表されていたとおり、『{{lang|ru|Весёлые улыбки}}』から3本目の映像を公開し、映画『You and I』の宣伝の本人稼働は予定どおり行われる。また、Happy Smilesの特別盤が発売される予定となっている<ref>{{cite web | title = t.A.T.u Forever (Insider) | date = 2009-03-22 | url = http://blog.tatu.ru/Insider/2009/03/21/1237628400000.html | accessdate = 2009-03-21}}</ref>。
2009年5月27日、リェーナとユーリャは、互いにソロ活動を開始すること、そしてt.A.T.u.はt.A.T.u.のまま継続することを公式ブログにて発表した。リェーナは、「これからt.A.T.u.としてだけではなく、ユーリャと私という独立した2人のアーティストが生まれることになります」と述べた。すなわち、リェーナとユーリャはそれぞれのソロ活動とt.A.T.u.としての活動を並行するという意味である。リェーナはt.A.T.u.制作チームと連携してソロ活動を開始する。
2009年12月15日、3rdアルバムの英語版である『Waste Management』を発売。
ヨーロッパで大きな成功を収めたポップ・グループとして、t.A.T.u.のアルバムとシングルの累計売上枚数は全世界で1500万枚を突破した<ref>{{cite web|url=http://blog.tatu.ru/Media/|title=t.A.T.u. m.e.d.i.a.b.l.o.g |publisher=Blog.tatu.ru |date= |accessdate=2009-05-02}}</ref>。
2011年に活動休止を発表するが、2012年に再結成。しかし2014年に再び解散を表明した。
== 略歴 ==
=== 1998年 – 2000年: t.A.T.u.結成 ===
イワン・シャポワロフと、彼の友人でありビジネス・パートナーであったアレクサンドル・ボイチンスキーが、ロシアで音楽プロジェクトを始める計画を立てた。この案を練りながら、シャポワロフとボイチンスキーは1998年初めにモスクワで10代の女性歌手を対象としたオーディションを開催した。
オーディションが終盤となるころには、シャポワロフとボイチンスキーは候補者を10人に絞っていた。そこには、'''ニェポセドゥイ({{lang|ru|Непоседы}})'''の元メンバーであったリェーナとユーリャも含まれていた。
2人の少女はとりわけ出で立ちと歌の経験について他の候補者よりも際立っていたが、シャポワロフとボイチンスキーは、[[ロクセット]]の「[[愛のぬくもり (ロクセットの曲)|愛のぬくもり]]」(It Must Have Been Love)を歌った13歳のリェーナ・カーチナを選出する。リェーナはデモ曲の録音を始めた。リェーナの父'''セルゲイ・カーチン({{Lang|ru|Сергей Катин}})'''は優れた作曲家で音楽プロデューサーでもあり、ボイチンスキーとは面識があった。
このときのグループ名は「{{Lang|ru|ТАТУ}}」ではなく、単に「プロジェクト」だった。
ちょうどその頃、ボイチンスキーは[[アライド・フォース作戦]]の爆撃で[[ユーゴスラヴィア]](当時)の首都[[ベオグラード]]にいた家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。そこでボイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「'''ユーゴスラヴィア({{Lang|ru|Югославия}})'''」<ref>[http://www.sostav.ru/video/files/09yugoslavia.mp3 Voitinsky about Yugoslavia]</ref><ref>[http://www.ok-magazine.ru/exclusive/item16832.php t.A.T.u.: «Мы и сейчас иногда целуемся!»] // OK, № 20 (133), 2009</ref>を作曲し、リェーナ・カーチナに歌わせてデビューさせたという経緯がある。しかし「ユーゴスラヴィア」はまったく売れなかった。これを不満に感じたシャポワロフは、プロジェクトにもう一人女の子を加えることを提案した。そして、1998年10月の終わりに、13歳の少女であったユーリャ・ヴォルコワをグループに加えた。またボリス・レンスキーをスポンサーとして招きよせ、プロジェクトの財務面の安定化を図った。作家陣としては、[[セルゲイ・ガロヤン]](作曲)、{{仮リンク|ワレリー・ポリエンコ|en|Valery Polienko|ru|Полиенко, Валерий Валентинович}}(作詞)の2人を発掘した。それまで全く無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、若い才能を充分に開花させることとなる。
こうして「プロジェクト」は「'''{{Lang|ru|ТАТУ}}'''」に改称された。{{Lang|ru|ТАТУ}}というグループ名は、[[ロシア語]]の「{{Lang|ru|Та любит ту}}」(ター・リュービト・トゥー、"This (girl) loves that (girl)"の意)の略だとされている<ref>[http://www.japantoday.com/jp/news/276939 t.A.T.u. upstage Koizumi, Kan on live NTV show]</ref>(なお、普通名詞としての{{Lang|ru|ТАТУ}}は[[ロシア語]]で[[入れ墨|タトゥー]]のことである)。こうして、リェーナとユーリャはプロデューサーらとともにレコーディングを進めていった。
シャポワロフは、当時の恋人であり[[MTV]]ロシアに勤めていた[[エリェーナ・キーペル]]から、{{Lang|ru|ТАТУ}}の新しい路線を決める着想を得た。キーペル自身は、[[スウェーデン]]映画『[[ショー・ミー・ラヴ]]』を参考とし、ミドルティーンの少女同士が織りなす甘く切ない物語、または性を超えて愛しあう純粋なふたつの魂の結びつきというイメージを描いていたが、シャポワロフはキーペルの案をより過激で煽情的に具現化させようとした。ボイチンスキーは、シャポワロフが進めたこの路線について意見の折り合いをつけることができず、プロジェクトを離脱することとなった。シャポワロフは、ボイチンスキーに代わり、キーペルをデビュー・アルバムの共同プロデューサー兼共同作家として迎え入れた。
=== 2000年 ===
[[ファイル:TatuGroupPhoto.jpg|thumb]]
2000年9月、エリェーナ・キーペル作詞、セルゲイ・ガロヤン作曲による「ヤー・サシュラー・ス・ウマー({{Lang|ru|Я сошла с ума}} / 私はおかしくなった)」が大ヒットし、一躍有名になった。イワン・シャポワロフは「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」のプロモーション・ビデオで、ヴォーカルの2人に同性愛の演技をさせ、これがセンセーションを巻き起こした。12月、シングル「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」を発表。
=== 2001年 ===
2001年、同じくキーペルとガロヤンのコンビで「ナス・ニェ・ダゴニャット({{Lang|ru|Нас не догонят}} / 私たちはつかまらない)」がヒットし、アルバム『200・ポ・フストレーチノィ({{Lang|ru|200 ПО ВСТРЕЧНОЙ}} / (時速200キロで逆走)』(5月発表)が更にヒットした。これ以降、インターネットを介してその存在が世界中で話題となり、主に[[東ヨーロッパ|東欧]]各国でヒットチャートを駆け上っていった。また、[[西ヨーロッパ|西欧]]、[[北米]]への本格進出のために[[英語]]版の製作がはじめられた。
=== 2002年 ===
2002年、トレヴァー・ホーンが編曲した『200・ポ・フストレーチノィ』の英語版『[[t.A.T.u. (アルバム)|200 KM/H IN THE WRONG LANE]]』がリリースされ、さらに「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」の英語版「[[オール・ザ・シングス・シー・セッド|All the things she said]]」のプロモーション・ビデオがリメイクされた。また、{{Lang|ru|ТАТУ}}の[[ラテン文字]]表記は、従来は[[キリル文字]]をそのまま翻字した「TATU」だったが、すでにオーストラリアにTatuというバンドが存在していたことに配慮し「'''t.A.T.u.'''」に改名した。
この2002年の後半が{{Lang|ru|ТАТУ}}人気の絶頂であったと言える。しかし、このころ既にメンバーの間では激しい軋轢が生じていた。
イワン・シャポワロフが考案した「同性愛を前面に押し出した少女2人組」と言うコンセプトは、演じているヴォーカルの2人にとっては強い抵抗があった。また、最初にコンセプトを提供したエリェーナ・キーペルにとっても耐え難いものだった。また[[ギャラ]]支払いの不明瞭さの問題もあった。
しかし、このコンセプトの成功に確信を持ったシャポワロフは、ヴォーカルの2人の入れ替えを画策したため、結局エリェーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンは脱退し、リェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワは踏みとどまった。
{{Lang|ru|ТАТУ}}の経済的成功は2003年まで続くが、エリェーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンの脱退の影響は大きく、彼らの脱退後にリリースした曲はいずれも期待したほどヒットしたと言えなかった。
=== 2003年 ===
2003年の[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト]]で{{Lang|ru|ТАТУ}}は政治的メッセージ性の強い「ニ・ヴェーリ、ニ・ボイスャ({{Lang|ru|Не верь, не бойся}} / 信じるな、恐れるな)」をひっさげてロシア代表として参加した。しかしシャポワロフはヴォーカルの2人に反抗的な我がまま娘の演技を指導していたため、現地会場のファンの支持を得られず、3位に終わる。実際は、これ以前からユーリャ・ボルコワは喉の障害で十分な声が出なくなっており、2002年の12月に加入したカーテャ・ネチャエヴァがユーリャのパートを歌っていた(本番ではユーリャが歌った)。
2003年になってようやく{{Lang|ru|ТАТУ}}人気が日本に上陸したが、この頃にはシャポワロフの路線は完全に破綻していた。ヴォーカルの2人はそれぞれの交際相手を隠さなくなっていたし、彼女らの家族もシャポワロフのコンセプトは事実ではないことを明らかにしていた。キーペルやガロヤンの脱退後も踏みとどまっていたワレリー・ポリエンコもこの頃シャポワロフと絶縁し、{{Lang|ru|ТАТУ}}の成功を支えた主要な作詞・作曲者は全ていなくなっていた。それでもファンがついていたのはガロヤンやボイチンスキーの曲に魅力があったからなのだが、シャポワロフはスキャンダラスな路線をさらに過激化させていった。
なお、日本での初アルバム『[[t.A.T.u. (アルバム)|t.A.T.u.]]』は国内盤と輸入盤の合計で200万枚が売れた<ref>[https://web.archive.org/web/20040908045325/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2003/08/19/02.html 紅白狙い?タトゥー12月東京ドーム公演]、[[スポーツニッポン|スポニチアネックス]]、2003年8月19日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。{{Lang|ru|ТАТУ}}は、当時の日本では「[[宇多田ヒカル]]のデビュー当時に匹敵する」ともいわれる人気グループであった<ref>[https://web.archive.org/web/20030803230748/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200306/gt2003060601.html タトゥーの初来日が正式決定…紅白出場か]、[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]、2003年6月5日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)</ref>。
シャポワロフは、2003年4月に[[イギリス]]での公演を無茶苦茶な理由をつけて直前にキャンセルしたのをはじめ、各地で不条理なドタキャンを指示した。
[[日本]]においても2003年6月27日、[[テレビ朝日]]の『[[ミュージックステーション]]』で、冒頭には出演したものの、その後行方をくらました。t.A.T.u.に割り当てられた時間が空いたため、既に演奏を終えていた[[THEE MICHELLE GUN ELEPHANT]]が埋め合わせとして、別な曲を番組の最後に追加で演奏した<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1436513475540/ 「出たくねえ」t.A.T.u.がボイコットした伝説のMステ]エキサイト 90sチョベリー(2015年7月23日)2017年2月19日閲覧</ref>。28日、{{Lang|ru|ТАТУ}}の所属する[[ユニバーサル ミュージック グループ|ユニバーサルミュージック]]がテレビ朝日に謝罪した<ref>[https://web.archive.org/web/20030804032247/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200306/gt2003062901.html タトゥー暴挙にテレ朝キレた…宇多田も出入り禁止か]、SANSPO.COM、2003年6月28日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)</ref>。一方、29日にメンバー自身とシャポワロフが会見を開いたものの謝罪せず<ref>[https://web.archive.org/web/20030704111239/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200306/gt2003063001.html タトゥーふざけるな、ナメきった“釈明会見”]、SANSPO.COM、2003年6月29日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)</ref>、そのまま帰国した<ref>[https://web.archive.org/web/20030804012206/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200307/gt2003070201.html テレ朝、タトゥーを痛烈批判…騒動で損害賠償請求も]、SANSPO.COM、2003年7月1日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)</ref>。2013年の取材でメンバー2人は、「このドタキャンはシャポワロフから電話で指示されたもので、まだ10代だった2人は彼の指示に従わざるを得ず、テレビ局を立ち去った。その後シャポワロフは、指示の理由を『話題作りのため』と明かした」と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアのタトゥー2人が明かしたドタキャンの真相 タモリさん「番組で一番印象的」:朝日新聞GLOBE+ |url=https://globe.asahi.com/article/14481682 |website=朝日新聞GLOBE+ |accessdate=2022-01-29 |language=ja-JP}}</ref>。<!--NOR : 以後、当事件の報道などにより、日本での人気は急速に低下した。世界各地でのドタキャンをはじめとしたスキャンダラスな行動でファン離れが始まっていた{{Lang|ru|ТАТУ}}にとって、当時の日本では人気の絶頂にいたこともあり、アーティストとして再起するチャンスであったが、結局日本でのドタキャン騒動が世界中に報道され話題となり、{{Lang|ru|ТАТУ}}の人気下落は加速する一方だった。-->
2003年12月に再来日し、[[東京ドーム]]でのコンサートを2日間実施したが、両日とも5万人の会場の半数ほどが空席(公式発表によると、初日の動員数は25,029人だった<ref>[https://web.archive.org/web/20031206092925/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200312/gt2003120203.html ガラガラ東京ドーム、タトゥー公演はやっぱり!…]、SANSPO.COM、2003年12月1日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)</ref>)。公演前、S席7500円・A席6500円のチケットがネットオークションなどに数百円ほどで大量に出回っていた。
[[ファイル:Julia Volkova.jpg|left|thumb]]
東京ドームコンサートの日、ユーリャ・ボルコワは体調を崩して出演できる状態ではなかったのだが、その歌唱力と表現力は集まったファンを納得させるものがあった。しかし、[[渋谷陽一]]・[[四方宏明]]などの絶賛以上に、従前の事件および事後報道が影響し、日本における{{Lang|ru|ТАТУ}}ブームは完全に失速したものとなった。また、このコンサートでもシャポワロフはヴォーカル2人に直前のキャンセルを指示していたために、ヴォーカルのふたりとシャポワロフの信頼関係は完全に失われた。
東京でのコンサート後、リェーナ・カーチナが脱退を示唆する。シャポワロフはその後も、リェーナ・カーチナおよびユーリャ・ボルコワの[[2004年ロシア大統領選挙|ロシア大統領選]]出馬表明など、無軌道なスキャンダル路線を指示し続けるが、その一方でセカンドアルバムの製作も発表し、その製作模様はドキュメンタリーとしてテレビ放送されることになった。
また、2003年12月にはt.A.T.uの劇場アニメ化が発表された。『[[t.A.T.u. PARAGATE]]』というタイトルだったが、その後進展がなく立ち消えとなった模様である。
=== 2004年 ===
2003年12月にロシアのSTSテレビでドキュメンタリー『アナトミヤ{{Lang|ru|ТАТУ}}』が放映されたのに続き、2004年1月〜3月にテレビシリーズ『タトゥー・フ・パドネベースノィ({{Lang|ru|t.A.T.u. в Поднебесной}} / 天空の{{Lang|ru|ТАТУ}})』が放映されるが、その内容は、{{Lang|ru|ТАТУ}}内部の軋轢とシャポワロフの無軌道ぶりだった。セカンドアルバムの製作は遅々として進まず、シャポワロフからはセカンドアルバムをより良いものにしようという気も、期日(放送最終日の3月14日)までに仕上げようという気も、まるで感じられなかった。リェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワにとってシャポワロフは、自分たちを世界的スターにしてくれた人物であり、何年も苦楽を共にしてきた親友でもあったが、この期に及んでもまともに活動をしようとしないシャポワロフを最終的に見限り、ついにシャポワロフに契約破棄を突きつける(2月)。シャポワロフはこの危機的状況を収拾しようともせず、番組もそのまま終了した。
その後の4月スポンサーたちはこの混乱の責任はシャポワロフにあるとして彼を解任した。新プロデューサーには、前の副プロデューサーだったエリェーナ・キーペルに就任を依頼し、キーペル側も快諾したが、リェーナ・カーチナ、ユーリャ・ボルコワらはキーペルの復活を望まず、結局メイン・スポンサーであったボリス・レンスキーが自ら暫定プロデューサーに就任することになる。シャポワロフの解任後はドタキャン騒動は起きていない。
レンスキーは、自身の作った歌の権利について{{Lang|ru|ТАТУ}}側と争っていたエリェーナ・キーペルと和解すると同時に、ヴォーカルのリェーナ・カーチナとユーリャ・ボルコワを呼び戻し、更にセルゲイ・ガロヤン、ワレリー・ポリエンコと再契約することに成功した。ところがユーリャ・ボルコワが妊娠出産のため仕事が出来なくなり、結局2004年の秋まで{{Lang|ru|ТАТУ}}は実働しなかった。
なお、2004年6月に「t.A.T.u.がt.E.m.A.に改名する」というニュースが流れたが<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000000719 t.A.T.u.、名前を変えて再出発?]、BARKS、2004年6月10日 6:40。</ref>、これは「'''TEMA'''」というグループ(2004年5月結成。{{Lang|ru|ТАТУ}}とは無関係)の新曲「{{Lang|ru|Кто, если не я}}(英訳:Who, If Not Me?)」のプロモーションのために流したガセである。
2004年の冬になると、出産を終えたユーリャが復帰し、トレヴァー・ホーン音楽活動25周年コンサートや[[ベスラン学校占拠事件]]追悼コンサートなどで活動を再開している。また、リェーナ・カーチナの父で作曲家兼プロデューサーのセルゲイ・カーチンによればリェーナのソロ活動も同時に行われることになるという。
=== 2005年 ===
[[ファイル:Gaudi arena.jpg|thumb]]
2005年1月20日。作曲担当のセルゲイ・ガロヤンと広報マネージャーのアレクサンドラ・ティチャンコが結婚する。ユーリャは、直前まで2人の交際を誰も知らなかったと述べる。<!--NOR : 公私共に落ち着くことになったガロヤンは、セカンドアルバムに多くの曲を提供することになっている。長い騒動の上に、ようやく本来の音楽を取り戻しつつあるかのように思われる。-->
セカンドアルバムの英語版『[[デンジャラス・アンド・ムーヴィング|DANGEROUS AND MOVING]]』とロシア語版が発売され、それぞれヒットし、MTVロシアの年間最高アルバム賞を受賞した。曲風はファーストアルバムより更に重厚になり、社会性が増した。
シングルカットされた「All About Us」も、アルバムタイトルとなった「ЛЮДИ-ИНВАЛИДЫ(廃人たち)」も、現代の閉塞感への抵抗を秘めたものであることが明らかにされている。
最初期から{{Lang|ru|ТАТУ}}はしばしば陰鬱な政治性を歌に込めているが、セカンドアルバムはそれが前面に出てきた。
インタビューでもセカンドアルバムのテーマが現代社会の暴力性の告発にあることを認めている。
=== 2006年 ===
[[ファイル:Yulia Volkova.jpg|thumb]]
8月18日。再来日した{{Lang|ru|ТАТУ}}は、東京・横浜・名古屋でミニライブをこなし、熱心なファンとの交流が図られた。またはじめて北海道に上陸し札幌ラジオ局に出演するなど地道な活動をおこなった。名古屋のライブハウスHOLIDAYでライブの準備中、客の不入りを理由にライブハウスと管理会社が中止を決定し、日本のマスコミが「また[[ドタキャン]]」と面白おかしく報道したが、実際はファンは次のライブ会場J.MAXに移動の便宜がはかられたので混乱はなかった。
今回では、「All About Us」収録時から合流していたバンドメンも一緒に来日し、ステージメンバーは6人となり、その顔ぶれはより国際的になった。
函館からユジノサハリンスクに移動した{{Lang|ru|ТАТУ}}だったが、ここで契約解除となるはずだったバンドメンの契約更新が決まり、来年製作予定のサードアルバムまで{{Lang|ru|ТАТУ}}は6人組で活動することになった。
帰国後ユニバーサルとの契約を解消したことから、独自レーベルを立ち上げるのか、セルゲイ・カーチンがプロデュースするのか、様々な噂が飛び交っている。フィリップ・キルコーロフとアーラ・プガチョワが一時{{Lang|ru|ТАТУ}}の権利に関心があったことから、こちらの関係もささやかれている。
9月27日には初のベストアルバム『THE BEST』が発売された。おなじみ「All the things she said」「Not Gonna Get Us」「All About Us」など全20曲を収録。一時期は日本版のみボーナストラックが収録されるということになっていたが、結局インターナショナル盤と同じトラックリストとなった。しかし、日本ではオリコン初登場は186位に終わった。日本では、これが2006年最後のリリースとなった。
=== 2007年 ===
2007年リリース予定とされていた3rdアルバムは当年9月になっても発表されず、2008年にずれ込んだ。一方、元々2006年10月にリリースされる予定であった『TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜』のDVDが[[Amazon.com]]限定で発売されることが決定している。これは、公式サイトで延期が発表されたのち、リリースが2007年8月24日に公式サイトにて緊急発表された。amazon限定という形ではあるものの、ようやくリリースの運びになった。[[ネフォルマット]]は、「昨年4月26日ロシアのサンクトペテルブルクで行われた1万人の熱狂ライブとドキュメンタリー映像を盛り込んだ素晴らしい内容」と紹介している。
=== 2008年 ===
10月17日、3rdアルバム『{{Lang|ru|Весёлые улыбки}}(英訳:Happy Smiles)』発売。
=== 2009年 ===
9月頃より{{Lang|ru|ТАТУ}}解散?との噂が流れる。
しかしこれはファンらによる憶測であり、実際は「{{Lang|ru|ТАТУ}}がソロメンバー活動も並行して開始する」というのが正しい。
12月15日、3rdアルバムの英語版『Waste Management』発売。
=== 2010年 ===
新年のあいさつのビデオで、グループ解散の噂を否定。
=== 2011年 ===
グループの活動休止を発表。ソロ活動へ<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0031454 お騒がせユニットt.A.T.u.が活動休止を発表 今後はソロ活動を中心に]、シネマトゥディ、2011年4月5日 15時20分。</ref>。
=== 2012年 ===
アルバム『200 KM/H IN THE WRONG LANE』の発売10周年を記念して再結成。オーディション番組『The Voice』2012年度ルーマニア版に出演し「All the things she said」を披露した<ref>[https://www.tvgroove.com/news/article/ctg/1/nid/9389.html お騒がせデュオ「t.A.T.u.(タトゥー)」が再結成し、パフォーマンス披露[動画あり]]、TVグルーヴ、2012年12月13日。</ref>。
=== 2013年 ===
[[スニッカーズ]]の新CMへの起用を機に7年ぶりの来日。スニッカーズのCMに出演していた[[内田裕也]]と対談し、内田が主催する[[内田裕也#ニューイヤーズワールドロックフェスティバル(New Years World Rock Festival)|ニューイヤーズワールドロックフェスティバル]]への出演依頼に快諾した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/10/17/kiji/K20131017006827480.html 内田裕也 「タトゥー」気に入った!?年越しフェス出演オファー]</ref>。スニッカーズのCMは、同年9月に[[戸田市]]の[[野球場]]で収録された。
=== 2014年 ===
[[2014年ソチオリンピックの開会式]]の前日イベントに出演した<ref name="huffingtonpost">[https://www.huffingtonpost.jp/2014/02/19/tatu-reunion_n_4813535.html t.A.T.u早くも解散? 活動再開してソチで熱唱したばかり]、ハフポスト、2014年02月19日 18時53分 JST(更新 2014年02月19日 20時52分 JST)。</ref>。
2月19日、再び解散を表明する<ref name="huffingtonpost" />。
== メンバー ==
[[ファイル:Tatu Lena Katina Bacardi B-LIVE 2008.jpg|thumb|200px|リェーナ]]
[[ファイル:Tatu Julia Volkova Bacardi B-LIVE 2008.jpg|thumb|200px|ユーリャ]]
しばしば、[[ヴォーカル]]のリェーナ・セルゲーエフナ・カーチナとユーリャ・オレーゴフナ・ボルコワの2人組のみがt.A.T.u.であるかのように誤解されているが、厳密には[[プロデューサー]]・[[作曲]]者・[[作詞]]者・各[[マネージャー]]を含むプロジェクト全体の名称である。
ヴォーカルの2人だけを指すときは{{Lang|ru|татушки}}(タトゥーシュキ)と呼ぶのが正しい。
片方だけを呼ぶときは単数形で{{Lang|ru|татушка}}(タトゥーシュカ)と呼ぶ。これはロシア語における「{{lang|ru|тату}}」の[[愛称形]]([[縮小辞|指小語]])であるが、このような言語学的解説は理解されにくいため、ニェフォルマット社では「{{lang|ru|татушка}}」(タトゥーシュカ)は「{{lang|ru|тату девушка}}」(タトゥー・ジェーヴシュカ、"{{lang|en|tatu girl}}"の意)の略というより単純な説明をしている。
*ヴォーカル:
:[[リェーナ・カーチナ|リェーナ・セルゲーエフナ・カーチナ]]
:1984年10月4日[[モスクワ]]生まれ。身長158cm<ref>[https://www.imdb.com/name/nm1287621/bio/ Lena Katina - Biography] - [[IMDb]]</ref>。日本のメディアでは英語風に「レナ・カティーナ」とも表記される<ref name="sanspo_030213">[https://web.archive.org/web/20030222151221/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200302/gt2003021401.html 女子高生デュオ「タトゥ」が制服姿で濃厚キス]、[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]、2003年2月13日。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)</ref>。
:[[ユーリャ・ボルコワ|ユーリャ・オレーゴフナ・ボルコワ]]
:1985年2月20日モスクワ生まれ。身長154cm<ref>[http://www.imdb.com/name/nm1290094/bio Julia Volkova - Biography] - [[IMDb]]</ref>。日本のメディアでは英語風に「ジュリア・ヴォルコヴァ」とも表記される<ref name="sanspo_030213" />。
*メイン・スポンサー:
:ボリス・レンスキー
*プロデューサー:
:[[イワン・シャポワロフ|イワン・ニコラエビッチ・シャポワロフ]](解任)
:ボリス・レンスキー(メインスポンサー兼任)
:リェーナ・カーチナ(ヴォーカル兼任)
:ユーリャ・ボルコワ(ヴォーカル兼任)
*副プロデューサー:
:[[エリェーナ・キーペル|エリェーナ・ウラジーミロフナ・キーペル]](脱退)
*1stアルバム英語版プロデューサー:
:[[トレヴァー・ホーン]]
*作曲担当:
:[[セルゲイ・ガロヤン]](脱退、のちに復帰)
:{{仮リンク|アレクサンドル・ボイチンスキー|ru|Войтинский, Александр Сергеевич}}(脱退)
:イワン・シャポワロフ(脱退)
:R. リャプツェフ ({{Lang|ru|Р. Рябцев}})
:E. クリツィン ({{Lang|ru|Е. Курицын}})
:M. ラサール (M. Lasar)
:L. アレクサンドロフスキー (L. Alexandrovski)
:A. ポクートニ (A. Pokutni)
:V. アダリチェフ (V. Adarichev)
*作詞担当:
:エリェーナ・キーペル
:{{仮リンク|ワレリー・ポリエンコ|en|Valery Polienko|ru|Полиенко, Валерий Валентинович}}(脱退、のちに復帰)
:イワン・シャポワロフ(脱退)
:R. リャプツェフ
:A. ヴルィフ({{Lang|ru|А. Вулых}})
:A. カサエワ({{Lang|ru|А. Касаева}})
:V. ステパンツォフ({{Lang|ru|В. Степанцов}})
*英語版作詞者:
:トレヴァー・ホーン
:{{仮リンク|マーティン・キールセンバウム|en|Martin Kierszenbaum}}
*コンサートマネージャー:
:レオニード・ズュニク (脱退)
:オルガ・マトヴェーワ (現役)
*広報担当マネージャー:
:ベアタ・アルジェーエワ (事故のため退職)
:アレクサンドラ・チチャンコ (結婚退職)
:エヴゲーニア・ヴォエヴォディーナ (現役)
*専属ダンサーズ:6名 (解雇)
:途中、ヴォーカルに'''カーテャ・ネチャエワ ({{Lang|ru|Катя Нечаева}})''' (解雇)が参加していた頃もあった。
*スポット参加:
:'''カーテャ・ネチャエワ ({{Lang|ru|Катя Нечаева}})
:[[エストニア]]の若手シンガー。
:2001年エストニアでデビュー。同年12月イワン・シャポワロフと契約した後、バックコーラスのひとりとしてTATYに参加した。このころユーリャの発声が不安定となり、しばしばカーテャがユーリャのパートを代わりに歌っていた。2002年のユーロビジョン・ソングコンテストでは3人目のヴォーカルとして表舞台に出るのではないかとうわさされたが実現しなかった。その後もシャポワロフはカーテャのソロデビューを構想していたので、カーテャも2003年の「天空」までТАТУと行動をともにしていた。ところが脱退したユーリャとリェーナを引き戻すためにレンスキーらスポンサーがシャポワロフを解任。シャポワロフを信じて残留していたカーテャは居場所を失い、結局ТАТУを去ることになった。カーテャとともに契約したエストニア人ドラマーとギタリストがいたが、「天空」以前にТАТУから離れている。
*'''ゴードン・マシュー・サムナー''' (Gordon Matthew Sumner, '''STING''')
:1951年10月2日、[[イギリス]]の[[ニューカッスル・アポン・タイン]]生まれ
:[[ロック (音楽)|英国ロック]]の大物[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]の本名。
:1977年に、[[ポリス (バンド)|ポリス]]を結成、1978年に[[A&Mレコード|A&M]]より「[[ロクサーヌ]]」でデビュー、1983年、活動休止。 1985年、スティングとしてのソロ活動を開始。1999年に発表した『ブラン・ニュー・デイ』は、第42回[[グラミー賞]]を2部門で受賞。
:他にも[[熱帯雨林]]の保護運動家。国際的な人権保護運動家の側面を持つ。ТАТУのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「Friend or Foe」という曲のベーシストとしてスポット参加。
*'''[[リチャード・カーペンター]]''' (Richard Carpenter)
:1946年10月15日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]生まれ
:[[カーペンターズ]]にてボーカル、作曲、アレンジなどを担当していた。t.A.T.uのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「GOMENASAI」という曲のストリングス・アレンジを手掛けた。
*'''デイヴ・スチュワート''' (David A. Stewart)
:1952年9月9日、[[イギリス]]生まれ
:元[[ユーリズミックス]]。t.A.T.uのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「Friend or Foe」という曲を手掛けた。
== ディスコグラフィ ==
*1999年
:「プロジェクト」結成。ヴォーカルはリェーナのみ。
:{{Lang|ru|Югославия}} / ユーゴスラヴィア([[有線ラジオ放送|有線]]と[[ラジオ放送]]のみ)
:{{Lang|ru|Ельцин}} / エリツィン(不明)
*2000年
:「{{Lang|ru|ТАТУ}}」に改称。ユーリャ加入。ヴォーカル2人制
:{{Lang|ru|'''Я сошла с ума'''}} / ヤー・サシュラー・ス・ウマー([[シングル]])
:ヤー・サシュラー・ス・ウマー([[ミュージック・ビデオ|プロモーション・ビデオ]])
*2001年
:{{Lang|ru|'''Нас не догонят'''}} / ナス・ニェ・ダゴニャット(シングル)
:{{Lang|ru|'''200 по встречной'''}} / 200・ポ・フストゥレーチノイ(アルバム)
:ナス・ニェ・ダゴニャット(プロモーション・ビデオ)
:{{Lang|ru|30 минут}} / 30ミヌートゥ(プロモーション・ビデオ)
*2002年
:[[Not Gonna Get Us]](ナス・ニェ・ダゴニャット英語版)をアメリカでリリース(シングル)
:[[All the Things She Said]](ヤー・サシュラー・ス・ウマー 英語ヨーロッパ版)をドイツでリリース(シングル)
:200・ポ・フストレーチノイ新装版([[アルバム]])
:「t.A.T.u.」に改称
:All the Things She Said(ヤー・サシュラー・ス・ウマー 英語アメリカ版)をアメリカでリリース(シングル)
:{{Lang|ru|Простые движения}} / プラストィーイェ・ドゥヴィジェーニヤ(プロモーション・ビデオ)
:カーテャ加入。部分的なヴォーカル3人制。
*2003年
:{{Lang|ru|Не верь, не бойся}} / ニ・ヴェーリ・ニ・ボイスャ(ユーロヴィジョン用プロモーション)
:ニ・ヴェーリ・ニ・ボイスャ(歌詞改訂版)
:ニ・ヴェーリ・ニ・ボイスャ(プロモーション・ビデオ)
:{{Lang|ru|Ничья}} / ニチヤ(東京ドームコンサート用、2005年のアルバムに収録)
*2004年
:{{Lang|ru|Белочка}} / ビェーラチカ
:{{Lang|ru|Защищаться очками}} / ザシシャーッツァ・アチカーミ(テレビ放映のみ)
:{{Lang|ru|Всё нормально}} / フスョー・ナルマーリナ(収録のみ)
:{{Lang|ru|Ты согласна}} / トィ・サグラースナ(2005年のアルバムに収録)
:{{Lang|ru|В космосе сквозняки}} / フ・コースマスェ・スクヴァズニャキー(収録のみ。歌詞のみ2005年のアルバム収録曲に使われる)
*2005年
:'''All About Us'''を日本で先行リリース。続いて全世界でリリース(シングル)
:'''[[デンジャラス・アンド・ムーヴィング|Dangerous and Moving]]'''を日本で先行リリース、続いて全世界でリリース(アルバム)
:{{Lang|ru|'''Люди-инвалиды'''}} / リューディ・インヴァリードィをロシアでリリース(アルバム)
*2006年
:THE BEST(初ベストアルバム)
*2007年
:DVD TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜
*2008年
:You and I(Happy Smiles) 本国で10月21日に発売。映画「You and I -Finding t.A.T.u-」主題歌。
:{{Lang|ru|'''Весёлые улыбки'''}} / フェスョールィエ・ウールィプキ(アルバム)3年ぶり、3枚目のアルバムとなる。
*年代不明の曲(ボツ曲、デモ版、他の歌手の曲など)
:{{Lang|ru|В твоих руках}} / フ・トヴァイーフ・ルカーフ
:{{Lang|ru|Мелодия любви}} / ミロージヤ・リュブヴィー
:{{Lang|ru|Лишь тебя}} / リーシュ・チビャー
:{{Lang|ru|Альфонс}} / アリフォーンス
:{{Lang|ru|Ты сошёл с ума(Я не глотаю)}} / トィ・サスョール・ス・ウマー(ヤー・ニ・グラターユ)
:{{Lang|ru|Одна}} / アドナー
:{{Lang|ru|Полчаса без любви}} / ポルチサー・ビズ・リュブヴィー
:{{Lang|ru|Заведи}} / ザヴェディー
== 出演 ==
* [[ミュージックステーション]]([[テレビ朝日]])<ref>{{Oricon TV|315583}}</ref>
* [[うたばん]]([[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]])
* [[真相報道 バンキシャ!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ソチオリンピック]] - 開会式の式中に彼女達が歌っていた曲のアレンジがしきりに掛かっていた。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Tatu}}
*{{wayback|url=http://www.tatu.ru|title=t.A.T.u.公式サイト(ロシア語/英語)|date=20190603030855}}
*{{wayback|url=http://www.tatu-japan.com/|title=t.A.T.u.ジャパンオフィシャルサイト(日本語)|date=20071212120528}}
**{{Facebook|tatuofficial|t.A.T.u.}}
**{{Twitter|tatuofficial|t.A.T.u.}}
**{{MySpace|tatu|t.A.T.u.}}
**{{YouTube|channel=UCDsgLzBDn0f4TR8XSz7hnFg|t.A.T.u.}}
*[https://lenakatina.com/ Lena Katina Official site(英語)]
*[http://www.facebook.com/KatinaLena Lena Katina Official facebook(英語)]
*{{wayback|url=http://www.juliavolkova.com/en/|title=Julia Volkova Official site(ロシア語/英語)|date=20171007200432}}
*[http://www.facebook.com/JuliaVolkovaOfficial Julia Volkova Official facebook(ロシア語/英語)]
*[http://www.facebook.com/pages/Lena-Katina-Japan/545288355543360/ Lena Katina Japan 公式facebookファンページ(日本語)]
*[http://www.galoyan.co.uk/ セルゲイ・ガロヤン公式サイト(英語)]
*[http://www.universalmusic.ru/ ユニバーサル ミュージック ロシア(ロシア語/英語)]
*[http://nichya.ru/ ニチヤ(エリェーナ・キーペルのデュオ)公式サイト(ロシア語/英語)]
*[http://www.djram.com/ DJ-RAM公式サイト(ロシア語/英語)]
*{{wayback|url=http://www.artconsult.ru/|title=artconsult(エリェーナ・キーペルの会社)公式サイト(ロシア語)|date=20160711184424}}
*[http://www.zve.ru/ ズヴェーリ(アレクサンドル・ボイチンスキーのプロデュース)公式サイト(ロシア語)]
{{ユーロビジョン・ソング・コンテスト ロシア代表}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たとう}}
[[Category:ロシアの歌手グループ]]
[[Category:ユニバーサル ミュージック グループのアーティスト]]
[[Category:ロシアのユーロビジョン・ソング・コンテスト参加者]]
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11,108 |
参議院議員一覧
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参議院議員一覧(さんぎいんぎいんいちらん)は日本の参議院議員の一覧である。参議院議員の任期は6年で、3年ごとに総定数の半数が改選される(日本国憲法第46条、第102条)。
参議院の定数は、選挙区選出議員148名と比例代表選出議員100名の計248名で構成される。
選挙区選出議員148名の半数74名と比例代表選出議員100名の半数50名の計124名が、3年ごとに交互に改選されていくという仕組みである。
また、衆議院解散で一斉に失職する衆議院議員とは異なり、参議院には解散がない。このため、衆参同日選挙が行われている場合でさえ非改選組の参議院議員(参議院議員の半数)が国会に存在し得ることになり、国会法第3条「臨時会の召集の決定を要求するには、いずれかの議院の総議員の4分の1以上の議員が連名で、議長を経由して内閣に要求書を提出しなければならない。」などの規定により何らかの非常事態の場合に非改選組の参議院議員だけでも国権の最高機関たる国会を機能させ得るようになっている。
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{{日本の統治機構}}
'''参議院議員一覧'''(さんぎいんぎいんいちらん)は[[日本]]の[[参議院]]議員の一覧である。参議院議員の任期は6年で、3年ごとに総定数の半数が改選される([[日本国憲法第46条]]、[[日本国憲法第102条|第102条]])。
[[参議院]]の定数は、[[選挙区]]選出議員'''148'''名と[[参議院比例区|比例代表]]選出議員'''100'''名の計'''248'''名で構成される。
選挙区選出議員'''148'''名の半数'''74'''名と比例代表選出議員'''100'''名の半数'''50'''名の計'''124'''名が、3年ごとに交互に改選されていくという仕組みである。
また、[[衆議院解散]]で一斉に失職する[[衆議院議員]]とは異なり、参議院には解散がない。このため、[[衆参同日選挙]]が行われている場合でさえ非改選組の参議院議員(参議院議員の半数)が[[国会 (日本)|国会]]に存在し得ることになり、[[国会法]]第3条「[[臨時会]]の召集の決定を要求するには、いずれかの議院の総議員の4分の1以上の議員が連名で、議長を経由して[[内閣 (日本)|内閣]]に要求書を提出しなければならない。」などの規定により何らかの非常事態の場合に非改選組の参議院議員だけでも[[日本国憲法第41条|国権の最高機関]]たる国会を機能させ得るようになっている。
== 任期 ==
{| class="wikitable"
! 任期の始期
! 任期満了日
! 備考
|-
| [[2019年]](令和元年)[[7月29日]]
| [[2025年]](令和7年)[[7月28日]]
| [[第25回参議院議員通常選挙]]で選出された議員の任期
|-
| [[2022年]](令和4年)[[7月26日]]
| [[2028年]](令和10年)[[7月25日]]
| [[第26回参議院議員通常選挙]]で選出された議員の任期
|}
== 会派別所属議員数 ==
* 2023年(令和5年)12月13日現在<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/giin/212/giinsu.htm 会派別所属議員数一覧]、参議院。</ref>。
{{参議院の現在の構成}}
== 選挙区選出議員 ==
* 2023年(令和5年)12月13日現在<ref name="ichiran">[https://www.sangiin.go.jp/japanese/giin/hireiku/hireiku.htm 選挙区・比例代表別議員一覧]、参議院。</ref>。無所属で別に所属会派がある場合「/」の後に所属会派を表記。単に無所属としている議員は「各派に属しない議員」扱いとなる。
{| class="wikitable" width="100%" style="font-size:small;"
!style="width:10%;"|選挙区!!style="width:10%;"|任期満了年!!colspan="3" style="width:80%;"|議員氏名
|-
!rowspan="2" |[[北海道選挙区|北海道]]<br /><small>(定数6)</small>
| nowrap|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[高橋はるみ]]<br />(自由民主党)
|[[勝部賢志]]<br />(立憲民主党)
|[[岩本剛人]]<br />(自由民主党)
|-
| nowrap|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[長谷川岳]]<br />(自由民主党)
|[[徳永エリ]]<br />(立憲民主党)
|[[船橋利実]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[青森県選挙区|青森県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[滝沢求]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[田名部匡代]]<br />(立憲民主党)
|-
!rowspan="2"|[[岩手県選挙区|岩手県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[横澤高徳]]<br />(立憲民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[広瀬めぐみ]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[宮城県選挙区|宮城県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[石垣のりこ]]<br />(立憲民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[桜井充]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[秋田県選挙区|秋田県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[寺田静]]<br>(無所属)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[石井浩郎]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[山形県選挙区|山形県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[芳賀道也]]<br>(無所属/国民民主党・新緑風会)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[舟山康江]]<br />(国民民主党)
|-
!rowspan="2"|[[福島県選挙区|福島県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[森まさこ]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[星北斗]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[茨城県選挙区|茨城県]]<br /><small>(定数4)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[上月良祐]]<br />(自由民主党)
|[[小沼巧]]<br />(立憲民主党)
|rowspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[加藤明良]]<br />(自由民主党)
|[[堂込麻紀子]]<br />(無所属)
|-
!rowspan="2"|[[栃木県選挙区|栃木県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[高橋克法]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[上野通子]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[群馬県選挙区|群馬県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[清水真人]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[中曽根弘文]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="4"|[[埼玉県選挙区|埼玉県]]<br /><small>(定数8)</small>
|rowspan="2"|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[古川俊治]]<br />(自由民主党)
|[[熊谷裕人]]<br />(立憲民主党)
|[[矢倉克夫]]<br />(公明党)
|-
|[[伊藤岳]]<br />(日本共産党)
|colspan="2"|
|-
|rowspan="2"|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[関口昌一]]<br />(自由民主党)
|[[上田清司]]<br />(無所属/国民民主党・新緑風会)
|[[西田実仁]]<br />(公明党)
|-
|[[高木真理]]<br />(立憲民主党)
|colspan="2"|
|-
!rowspan="2"|[[千葉県選挙区|千葉県]]<br /><small>(定数6)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[石井準一]]<br />(自由民主党)
|[[長浜博行]]{{refnest|group="注"|参議院副議長就任中のため、会派上は「各派に属しない議員」。}}<br />(立憲民主党)
|[[豊田俊郎]]<br />(自由民主党)
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[臼井正一]]<br />(自由民主党)
|[[猪口邦子]]<br />(自由民主党)
|[[小西洋之]]<br />(立憲民主党)
|-
!rowspan="4"|[[東京都選挙区|東京都]]<br /><small>(定数12)</small>
|rowspan="2"|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[丸川珠代]]<br />(自由民主党)
|[[山口那津男]]<br />(公明党)
|[[吉良佳子 (政治家)|吉良佳子]]<br />(日本共産党)
|-
|[[塩村文夏]]<br />(立憲民主党)
|[[音喜多駿]]<br />(日本維新の会)
|[[武見敬三]]<br />(自由民主党)
|-
|rowspan="2"|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[朝日健太郎]]<br />(自由民主党)
|[[竹谷とし子]]<br />(公明党)
|[[山添拓]]<br />(日本共産党)
|-
|[[蓮舫]]<br />(立憲民主党)
|[[生稲晃子]]<br />(自由民主党)
|[[山本太郎]]<br />(れいわ新選組)
|-
!rowspan="4"|[[神奈川県選挙区|神奈川県]]<br /><small>(定数8)</small>
|rowspan="2"|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[牧山弘恵]]<br />(立憲民主党)
|[[佐々木さやか]]<br />(公明党)
|[[水野素子]]<br />(立憲民主党)
|-
|{{Color|red|'''欠員'''}}<ref group="注">[[島村大]]議員(自由民主党)が2023年8月30日に死去。</ref><br />
|colspan="2"|
|-
|rowspan="2"|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[三原じゅん子]]<br />(自由民主党)
|[[松沢成文]]<br />(日本維新の会)
|[[三浦信祐]]<br />(公明党)
|-
|[[浅尾慶一郎]]<br />(自由民主党)
|colspan="2"|
|-
!rowspan="2"|[[新潟県選挙区|新潟県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[打越さく良]]<br />(立憲民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[小林一大]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[富山県選挙区|富山県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[堂故茂]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[野上浩太郎]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[石川県選挙区|石川県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[宮本周司]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[岡田直樹]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[福井県選挙区|福井県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[滝波宏文]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[山崎正昭]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[山梨県選挙区|山梨県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[森屋宏]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[永井学]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[長野県選挙区|長野県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[羽田次郎]]<br>(立憲民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[杉尾秀哉]]<br />(立憲民主党)
|-
!rowspan="2"|[[岐阜県選挙区|岐阜県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[大野泰正]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[渡辺猛之]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[静岡県選挙区|静岡県]]<br /><small>(定数4)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[牧野京夫]]<br />(自由民主党)
|[[榛葉賀津也]]<br />(国民民主党)
|rowspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[若林洋平]]<br />(自由民主党)
|[[平山佐知子]]<br />(無所属)
|-
!rowspan="4"|[[愛知県選挙区|愛知県]]<br /><small>(定数8)</small>
|rowspan="2"|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[酒井庸行]]<br />(自由民主党)
|[[大塚耕平]]<br />(国民民主党)
|[[田島麻衣子]]<br />(立憲民主党)
|-
|[[安江伸夫]]<br />(公明党)
|colspan="2"|
|-
|rowspan="2"|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[藤川政人]]<br />(自由民主党)
|[[里見隆治]]<br />(公明党)
|[[斎藤嘉隆]]<br />(立憲民主党)
|-
|[[伊藤孝恵]]<br />(国民民主党)
|colspan="2"|
|-
!rowspan="2"|[[三重県選挙区|三重県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[吉川有美]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[山本佐知子]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[滋賀県選挙区|滋賀県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[嘉田由紀子]]<br />(教育無償化を実現する会)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[小鑓隆史]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[京都府選挙区|京都府]]<br /><small>(定数4)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[西田昌司]]<br />(自由民主党)
|[[倉林明子]]<br />(日本共産党)
|rowspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[吉井章 (政治家)|吉井章]]<br />(自由民主党)
|[[福山哲郎]]<br />(立憲民主党)
|-
!rowspan="4"|[[大阪府選挙区|大阪府]]<br /><small>(定数8)</small>
|rowspan="2"|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[梅村みずほ]]<br />(日本維新の会)
|[[東徹 (政治家)|東徹]]<br />(日本維新の会)
|[[杉久武]]<br />(公明党)
|-
|[[太田房江]]<br />(自由民主党)
|colspan="2"|
|-
|rowspan="2"|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[高木佳保里]]<br />(日本維新の会)
|[[松川るい]]<br />(自由民主党)
|[[浅田均]]<br />(日本維新の会)
|-
|[[石川博崇]]<br />(公明党)
|colspan="2"|
|-
!rowspan="2"|[[兵庫県選挙区|兵庫県]]<br /><small>(定数6)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[清水貴之]]<br />(日本維新の会)
|[[高橋光男]]<br />(公明党)
|[[加田裕之]]<br />(自由民主党)
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[片山大介]]<br />(日本維新の会)
|[[末松信介]]<br />(自由民主党)
|[[伊藤孝江]]<br />(公明党)
|-
!rowspan="2"|[[奈良県選挙区|奈良県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[堀井巌]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[佐藤啓 (参議院議員)|佐藤啓]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[和歌山県選挙区|和歌山県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[世耕弘成]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[鶴保庸介]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[鳥取県・島根県選挙区|鳥取県・島根県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[舞立昇治]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[青木一彦]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[岡山県選挙区|岡山県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[石井正弘]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
||[[小野田紀美]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[広島県選挙区|広島県]]<br /><small>(定数4)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[森本真治]]<br />(立憲民主党)
|[[宮口治子]]<br />(立憲民主党)
|rowspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[宮澤洋一]]<br />(自由民主党)
|[[三上絵里]]<br />(無所属/立憲民主・社民)
|-
!rowspan="2"|[[山口県選挙区|山口県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[北村経夫]]<br>(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[江島潔]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[徳島県・高知県選挙区|徳島県・高知県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[広田一]]<br />(無所属)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[中西祐介]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[香川県選挙区|香川県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[三宅伸吾]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[磯﨑仁彦]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[愛媛県選挙区|愛媛県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[永江孝子]]<br />(無所属)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[山本順三]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[福岡県選挙区|福岡県]]<br /><small>(定数6)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[松山政司]]<br />(自由民主党)
|[[下野六太]]<br />(公明党)
|[[野田国義]]<br />(立憲民主党)
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[大家敏志]]<br />(自由民主党)
|[[古賀ゆきひと|古賀之士]]<br />(立憲民主党)
|[[秋野公造]]<br />(公明党)
|-
!rowspan="2"|[[佐賀県選挙区|佐賀県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[山下雄平]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[福岡資麿]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[長崎県選挙区|長崎県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[古賀友一郎]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[山本啓介 (政治家)|山本啓介]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[熊本県選挙区|熊本県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[馬場成志]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[松村祥史]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[大分県選挙区|大分県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[白坂亜紀]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[古庄玄知]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[宮崎県選挙区|宮崎県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[長峯誠]]<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[松下新平]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[鹿児島県選挙区|鹿児島県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[尾辻秀久]]{{refnest|group="注"|参議院議長就任中のため、会派上は「各派に属しない議員」。}}<br />(自由民主党)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[野村哲郎]]<br />(自由民主党)
|-
!rowspan="2"|[[沖縄県選挙区|沖縄県]]<br /><small>(定数2)</small>
|<small>2025年<br />(令和7年)</small>
|[[高良鉄美]]<br />(無所属/沖縄の風)
|rowspan="2" colspan="2"|
|-
|<small>2028年<br />(令和10年)</small>
|[[伊波洋一]]<br />(無所属/沖縄の風)
|}
== 比例代表選出議員 ==
*2023年(令和5年)10月10日現在<ref name="ichiran"/>。
{|class="wikitable" style="font-size:100%;" width="85%"
|-
!colspan="6"|2025年(令和7年)7月28日任期満了
|-
! rowspan="4" |'''自由民主党(19)'''
|[[赤池誠章]]
|[[有村治子]]
|[[石田昌宏]]
|[[衛藤晟一]]
|[[佐藤信秋]]
|-
|[[佐藤正久]]
|[[山東昭子]]
|[[田中昌史]]
|[[柘植芳文]]
|[[中田宏]]
|-
|[[橋本聖子]]
|[[羽生田俊]]
|[[比嘉奈津美]]
|[[本田顕子]]
|[[三浦靖]]
|-
|[[宮崎雅夫]]
|[[山田太郎 (参議院議員)|山田太郎]]
|[[山田俊男]]
|[[和田政宗]]
|
|-
! rowspan="2" |立憲民主・社民(8)
|[[石川大我]]
|[[大椿裕子]]{{refnest|group="注"|党籍上は社会民主党所属。|name=syamin}}
|[[小沢雅仁]]
|[[川田龍平]]
|[[岸真紀子]]
|-
|[[水岡俊一]]
|[[森屋隆]]
|[[吉川沙織]]
|colspan="2"|
|-
! rowspan="2" |公明党(7)
|[[河野義博 (政治家)|河野義博]]
|[[塩田博昭]]
|[[新妻秀規]]
|[[平木大作]]
|[[山本香苗]]
|-
|[[山本博司]]
|[[若松謙維]]
|colspan="3"|
|-
!日本維新の会(4)
|[[梅村聡]]
|[[柴田巧]]
|[[室井邦彦]]
|[[柳ヶ瀬裕文]]
|
|-
!日本共産党(4)
|[[井上哲士]]
|[[紙智子]]
|[[小池晃]]
|[[山下芳生]]
|
|-
!国民民主党・新緑風会(3)
|[[礒崎哲史]]
|[[田村麻美]]
|[[浜野喜史]]
|colspan="2"|
|-
!れいわ新選組(2)
|[[木村英子]]
|[[舩後靖彦]]
|colspan="3"|
|-
!NHKから国民を守る党(1)
|[[浜田聡]]
|colspan="4"|
|-
!各派に属しない議員(2)
|[[鈴木宗男]]
|[[須藤元気]]
| colspan="3" |
|-
| colspan="6" |2019年(令和元年)改選時 - [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]19、[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]8、[[公明党]]7、[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]5、[[日本共産党]]4、[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]3、[[れいわ新選組]]2、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]1、[[NHKから国民を守る党]]1
|}
{| width="85%" class="wikitable" style="font-size:100%;"
|+
|-
! colspan="6" |2028年(令和10年)7月25日任期満了
|-
! rowspan="4" |自由民主党(18)
|[[青山繁晴]]
|[[赤松健]]
|[[足立敏之]]
|[[阿達雅志]]
|[[井上義行]]
|-
|[[今井絵理子]]
|[[越智俊之]]
|[[梶原大介]]
|[[片山さつき]]
|[[神谷政幸]]
|-
|[[自見英子]]
|[[進藤金日子]]
|[[友納理緒]]
|[[長谷川英晴]]
|[[藤井一博]]
|-
|[[藤木眞也]]
|[[山田宏]]
|[[山谷えり子]]
|colspan="2"|
|-
!rowspan="2"|日本維新の会(8)
|[[青島健太]]
|[[石井章]]
|[[石井苗子]]
|[[猪瀬直樹]]
|[[金子道仁]]
|-
|[[串田誠一]]
|[[中条きよし]]
|[[松野明美]]
|colspan="2"|
|-
! rowspan="2" |立憲民主・社民(8)
|[[青木愛 (政治家)|青木愛]]
|[[石橋通宏]]
|[[鬼木誠 (1963年生の政治家)|鬼木誠]]
|[[古賀千景]]
|[[柴慎一]]
|-
|[[辻元清美]]
|[[福島瑞穂]]<ref group="注" name="syamin" />
|[[村田享子]]
| colspan="2" |
|-
!rowspan="2" | 公明党(6)
|[[上田勇]]
|[[窪田哲也]]
|[[竹内真二]]
|[[谷合正明]]
|[[宮崎勝]]
|-
|[[横山信一]]
|colspan="4" |
|-
!日本共産党(3)
|[[岩渕友]]
|[[田村智子]]
|[[仁比聡平]]
|colspan="2"|
|-
!国民民主党・新緑風会(3)
|[[川合孝典]]
|[[竹詰仁]]
|[[濱口誠]]
|colspan="2"|
|-
!れいわ新選組(2)
|[[大島九州男]]
|[[天畠大輔]]
| colspan="3" |
|-
!NHKから国民を守る党(1)
|[[齊藤健一郎]]
|colspan="4"|
|-
!各派に属しない議員(1)
|[[神谷宗幣]]{{refnest|group="注"|党籍上は参政党所属。}}
| colspan="4" |
|-
| colspan="6" |2022年(令和4年)改選時 - [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]18、[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]8、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]7、[[公明党]]6、[[日本共産党]]3、[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]3、[[れいわ新選組]]2、[[参政党]]1、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]1、[[NHK党]]1
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[参議院一人区]]
* [[衆議院議員一覧]]
* [[世襲政治家一覧]]
* [[日本の女性国会議員一覧]]
* [[日本の政党一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.sangiin.go.jp/japanese/giin/hireiku/hireiku.htm 参議院議員一覧(選挙区・比例区別)] - [[参議院]]公式サイト
{{デフォルトソート:さんきいんきいんいちらん}}
[[Category:参議院議員|*]]
[[Category:参議院|きいんいちらん]]
[[Category:日本の国会議員一覧]]
|
2003-07-09T14:10:41Z
|
2023-12-13T13:43:22Z
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[
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|
11,109 |
衆議院議員一覧
|
衆議院議員一覧(しゅうぎいんぎいんいちらん)は、日本の衆議院議員の一覧である。衆議院は、2019年5月現在、小選挙区選出議員289名と比例代表選出議員176名の計465名で組織される。
衆議院議員の任期は4年だが、衆議院解散が行われた場合には、任期満了前に一斉に失職する。任期満了または衆議院解散が行われたときは、衆議院議員総選挙が行われる。また、小選挙区選出議員の欠員がある場合には、4月と10月に補欠選挙が行われる(参議院議員通常選挙がある年には、参院選と同日にも行われる)。
|
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衆議院議員一覧(しゅうぎいんぎいんいちらん)は、日本の衆議院議員の一覧である。衆議院は、2019年5月現在、小選挙区選出議員289名と比例代表選出議員176名の計465名で組織される。 衆議院議員の任期は4年だが、衆議院解散が行われた場合には、任期満了前に一斉に失職する。任期満了または衆議院解散が行われたときは、衆議院議員総選挙が行われる。また、小選挙区選出議員の欠員がある場合には、4月と10月に補欠選挙が行われる(参議院議員通常選挙がある年には、参院選と同日にも行われる)。
|
{{日本の統治機構}}
'''衆議院議員一覧'''(しゅうぎいんぎいんいちらん)は、[[日本]]の[[日本の国会議員|衆議院議員]]の一覧である。[[衆議院]]は、2019年5月現在、[[衆議院小選挙区制選挙区一覧|小選挙区選出議員]]'''289'''名と[[衆議院比例代表制選挙区一覧|比例代表選出議員]]'''176'''名の計'''465'''名で組織される。
衆議院議員の任期は4年だが、[[衆議院解散]]が行われた場合には、任期満了前に一斉に失職する<ref group="注">戦後では任期満了は1976年の1回のみ。</ref>。任期満了または衆議院解散が行われたときは、[[衆議院議員総選挙]]が行われる。また、[[小選挙区制|小選挙区]]選出議員の欠員がある場合には、4月と10月に[[補欠選挙]]が行われる([[参議院議員通常選挙]]がある年には、参院選と同日にも行われる<ref group="注">2022年現在、実施例は2007年の1例だけ。</ref>)<ref group="注">公選法113条2項には、比例代表選出議員の補欠選挙も規定されているが、2022年現在、実施例はない。</ref>。
== 任期 ==
{| class="wikitable"
! 選挙日(任期の始期)
! 任期満了日
! 備考
|-
| [[2021年]](令和3年)[[10月31日]]
| [[2025年]](令和7年)[[10月30日]]
| [[第49回衆議院議員総選挙]]で選出された議員の任期
|}
== 会派別所属議員数 ==
* 2023年(令和5年)12月14日時点<ref> [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/kaiha_m.htm 会派名及び会派別所属議員数] 、衆議院。</ref>。
{{衆議院の現在の構成}}
== 議員一覧 ==
* 2023年(令和5年)12月14日時点<ref>議員氏名およびその選挙区の出典:[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/syu/1giin.htm 衆議院議員一覧]、衆議院。所属政党の出典:[https://www.jimin.jp/member/member_list/index.html 自由民主党 > 議員情報]・[https://cdp-japan.jp/members/ 立憲民主党 > 議員情報]・[https://www.dpfp.or.jp/members/house/%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2 国民民主党 > 議員 > 衆議院議員]・[https://kibounotou.jp/members 希望の党 > 所属議員]・[https://o-ishin.jp/member/shugiin/ 日本維新の会 > 役員・議員 >衆議院議員]・[https://www.komei.or.jp/member/ 公明党 > 所属議員検索]・[http://www.jcp.or.jp/web_member/ 日本共産党 > 議員]
・[http://www.seikatsu1.jp/member 自由党 > 議員情報]・[http://www5.sdp.or.jp/member/member.htm 社会民主党 > 議員](2017年11月4日閲覧)。立候補届出時における届出政党および選挙区については[https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/links/senkan/ 各都道府県の選挙管理委員会]発行の選挙記録資料などで確認が可能。</ref>。所属政党は選挙時でなく同時点のもの。
* 無所属で別に所属会派がある場合は「/」のあとに所属会派を表記。
* 比例代表選出議員の氏名のあとにカッコで示したのは[[重複立候補制度|重複立候補]]した小選挙区名。
=== 北海道ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''12''' ‐ 自由民主党'''6'''、立憲民主党'''5'''、公明党'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="3" | [[北海道]]
! width= "5.5%" | [[北海道第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|北海道第1区}}<br>(立憲民主党)
! width= "5.5%" | [[北海道第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|北海道第2区}}<br>(立憲民主党)
! width= "5.5%" | [[北海道第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|北海道第3区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[北海道第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|北海道第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[北海道第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第5区}}<br>(自由民主党)
! [[北海道第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第6区}}<br>(自由民主党)
! [[北海道第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第7区}}<br>(自由民主党)
! [[北海道第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第8区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[北海道第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第9区}}<br>(立憲民主党)
! [[北海道第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第10区}}<br>(公明党)
! [[北海道第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第11区}}<br>(立憲民主党)
! [[北海道第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|北海道第12区}}<br>(自由民主党)
|}
; [[比例北海道ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''8''' ‐ 自由民主党'''4'''、立憲民主党'''3'''、公明党'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! 自由民主党
| [[鈴木貴子 (政治家)|鈴木貴子]]
| [[渡辺孝一]]
| [[堀井学]]<br>(北海道9区)
| [[中川郁子]]<br>(北海道11区)
|-
! 立憲民主党
| [[荒井優]]<br>(北海道3区)
| [[大築紅葉]]<br>(北海道4区)
| [[神谷裕]]<br>(北海道10区)
|
|-
! 公明党
| [[佐藤英道]]
| colspan="3" |
|-
|}
=== 東北ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''23''' ‐ 自由民主党'''16'''、立憲民主党'''7'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="1" | [[青森県]]
! width= "5.5%" | [[青森県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|青森県第1区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[青森県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|青森県第2区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[青森県第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|青森県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[岩手県]]
! [[岩手県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岩手県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[岩手県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岩手県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[岩手県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岩手県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="2" | [[宮城県]]
! [[宮城県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮城県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[宮城県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮城県第2区}}<br>(立憲民主党)
! [[宮城県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮城県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[宮城県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮城県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[宮城県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮城県第5区}}<br>(立憲民主党)
! [[宮城県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮城県第6区}}<br>(自由民主党)
| colspan="4" |
|-
! rowspan="1" | [[秋田県]]
! [[秋田県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|秋田県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[秋田県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|秋田県第2区}}<br>(立憲民主党)
! [[秋田県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|秋田県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[山形県]]
! [[山形県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山形県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[山形県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山形県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[山形県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山形県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="2"| [[福島県]]
! [[福島県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福島県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[福島県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福島県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[福島県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福島県第3区}}<br>(立憲民主党)
! [[福島県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福島県第4区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[福島県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福島県第5区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|}
; [[比例東北ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''13''' ‐ 自由民主党'''6'''、立憲民主党'''4'''、日本維新の会'''1'''、公明党'''1'''、日本共産党'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="2"|自由民主党
| [[津島淳]]
| [[秋葉賢也]]<br>(宮城2区)
| [[金田勝年]]<br>(秋田2区)
| [[亀岡偉民]]<br>(福島1区)
| [[上杉謙太郎]]<br>(福島3区)
|-
| [[菅家一郎]]<br>(福島4区)
| colspan="4" |
|-
! 立憲民主党
| [[小沢一郎]]<br>(岩手3区)
| [[岡本章子 (政治家)|岡本章子]]<br>(宮城1区)
| [[寺田学]]<br>(秋田1区)
| [[馬場雄基]]<br>(福島2区)
|
|-
! 日本維新の会
| [[早坂敦]]<br>(宮城4区)
| colspan="4" |
|-
! 公明党
| [[庄子賢一]]
| colspan="4" |
|-
! 日本共産党
| [[高橋千鶴子]]
| colspan="4" |
|-
|}
=== 北関東ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''32''' ‐ 自由民主党'''26'''、立憲民主党'''4'''、国民民主党'''1'''、無所属'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="2" | [[茨城県]]
! width= "5.5%" | [[茨城県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|茨城県第1区}}<br>(無所属/有志の会)
! width= "5.5%" | [[茨城県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|茨城県第2区}}<ref group="注">衆議院議長就任中のため会派上は無所属。</ref><br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[茨城県第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|茨城県第3区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[茨城県第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|茨城県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[茨城県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|茨城県第5区}}<br>(国民民主党)
! [[茨城県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|茨城県第6区}}<br>(自由民主党)
! [[茨城県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|茨城県第7区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="2" | [[栃木県]]
! [[栃木県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|栃木県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[栃木県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|栃木県第2区}}<br>(立憲民主党)
! [[栃木県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|栃木県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[栃木県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|栃木県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[栃木県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|栃木県第5区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|-
! rowspan="2" | [[群馬県]]
! [[群馬県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|群馬県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[群馬県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|群馬県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[群馬県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|群馬県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[群馬県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|群馬県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[群馬県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|群馬県第5区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|-
! rowspan="4" | [[埼玉県]]
! [[埼玉県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第4区|4区]]
|{{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[埼玉県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第5区}}<br>(立憲民主党)
! [[埼玉県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第6区}}<br>(立憲民主党)
! [[埼玉県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第7区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第8区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[埼玉県第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第9区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第10区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第11区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第12区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[埼玉県第13区|13区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第13区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第14区|14区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第14区}}<br>(自由民主党)
! [[埼玉県第15区|15区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|埼玉県第15区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|}
; [[比例北関東ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''19''' ‐自由民主党'''7'''、立憲民主党'''5'''、公明党'''3'''、日本維新の会'''2'''、国民民主党'''1'''、日本共産党'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="2" | 自由民主党
| [[尾身朝子]]
| [[田所嘉徳]]<br>(茨城1区)
| [[石川昭政]]<br>(茨城5区)
| [[五十嵐清 (政治家)|五十嵐清]]<br>(栃木2区)
| [[牧原秀樹]]<br>(埼玉5区)
|-
| [[中根一幸]]<br>(埼玉6区)
| [[野中厚]]<br>(埼玉12区)
| colspan="3" |
|-
! 立憲民主党
| [[青山大人]]<br>(茨城6区)
| [[中村喜四郎]]<br>(茨城7区)
| [[藤岡隆雄]]<br>(栃木4区)
| [[小宮山泰子]]<br>(埼玉7区)
| [[坂本祐之輔]]<br>(埼玉10区)
|-
! 公明党
| [[石井啓一]]
| [[輿水恵一]]
| [[福重隆浩]]
| colspan="2" |
|-
! 日本維新の会
| [[高橋英明 (政治家)|高橋英明]]<br>(埼玉2区)
| [[沢田良]]<br>(埼玉15区)
| colspan="3" |
|-
! 国民民主党
| [[鈴木義弘]]<br>(埼玉14区)
| colspan="4" |
|-
! 日本共産党
| [[塩川鉄也]]
| colspan="4" |
|-
|}
=== 南関東ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''33''' ‐ 自由民主党'''22'''、立憲民主党'''11'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="4" | [[千葉県]]
! width= "5.5%" | [[千葉県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第1区}}<br>(立憲民主党)
! width= "5.5%" | [[千葉県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第2区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[千葉県第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第3区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[千葉県第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第4区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[千葉県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第5区}}<br>(自由民主党)
! [[千葉県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第6区}}<br>(自由民主党)
! [[千葉県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第7区}}<br>(自由民主党)
! [[千葉県第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第8区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[千葉県第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第9区}}<br>(立憲民主党)
! [[千葉県第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第10区}}<br>(自由民主党)
! [[千葉県第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第11区}}<br>(自由民主党)
! [[千葉県第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第12区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[千葉県第13区|13区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|千葉県第13区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|-
! rowspan="5" | [[神奈川県]]
! [[神奈川県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[神奈川県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第4区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[神奈川県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第5区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第6区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第7区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第8区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[神奈川県第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第9区}}<br>(立憲民主党)
! [[神奈川県第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第10区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第11区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第12区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[神奈川県第13区|13区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第13区}}<br>(立憲民主党)
! [[神奈川県第14区|14区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第14区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第15区|15区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第15区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第16区|16区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第16区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[神奈川県第17区|17区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第17区}}<br>(自由民主党)
! [[神奈川県第18区|18区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|神奈川県第18区}}<br>(自由民主党)
| colspan="4" |
|-
! [[山梨県]]
! [[山梨県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山梨県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[山梨県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山梨県第2区}}<br>(自由民主党)
| colspan="4" |
|}
; [[比例南関東ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''22''' ‐ 自由民主党'''8'''、立憲民主党'''5'''、日本維新の会'''3'''、公明党'''2'''、日本共産党'''1'''、れいわ新選組'''1'''、教育無償化を実現する会'''1'''、無所属'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="2" | 自由民主党
| [[門山宏哲]]<br>(千葉1区)
| [[桜田義孝]]<br>(千葉8区)
| [[山本朋広]]<br>(神奈川4区)
| [[三谷英弘]]<br>(神奈川8区)
| [[中山展宏]]<br>(神奈川9区)
|-
| [[星野剛士]]<br>(神奈川12区)
| [[甘利明]]<br>(神奈川13区)
| [[義家弘介]]<br>(神奈川16区)
| colspan="2"|
|-
! 立憲民主党
| [[谷田川元]]<br>(千葉10区)
| [[山崎誠]]<br>(神奈川5区)
| [[青柳陽一郎]]<br>(神奈川6区)
| [[中谷一馬]]<br>(神奈川7区)
| [[中島克仁]]<br>(山梨1区)
|-
! 日本維新の会
| [[藤巻健太]]<br>(千葉6区)
| [[浅川義治]]<br>(神奈川1区)
| [[金村龍那]]<br>(神奈川10区)
| colspan="2"|
|-
! 公明党
| [[古屋範子]]
| [[角田秀穂]]
| colspan="3" |
|-
! 日本共産党
| [[志位和夫]]
| colspan="4" |
|-
! れいわ新選組
| [[多ケ谷亮]]<br>(千葉11区)
| colspan="4" |
|-
! 教育無償化を実現する会
| [[鈴木敦]]<br>(神奈川10区)
| colspan="4" |
|-
! 無所属
| [[秋本真利]]<br>(千葉9区)
| colspan="4" |
|}
===東京ブロック===
;小選挙区選出議員
*定数'''25''' ‐ 自由民主党'''15'''、立憲民主党'''7'''、公明党'''1'''、無所属'''2'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="7" | [[東京都]]
! width= "5.5%" | [[東京都第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|東京都第1区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[東京都第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|東京都第2区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[東京都第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|東京都第3区}}<br>(無所属/立憲民主党・無所属)
! width= "5.5%" | [[東京都第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|東京都第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[東京都第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第5区}}<br>(立憲民主党)
! [[東京都第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第6区}}<br>(立憲民主党)
! [[東京都第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第7区}}<br>(立憲民主党)
! [[東京都第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第8区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[東京都第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第9区}}<br>(立憲民主党)
! [[東京都第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第10区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第11区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第12区}}<br>(公明党)
|-
! [[東京都第13区|13区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第13区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第14区|14区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第14区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第15区|15区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第15区}}<br>(無所属)
! [[東京都第16区|16区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第16区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[東京都第17区|17区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第17区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第18区|18区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第18区}}<br>(立憲民主党)
! [[東京都第19区|19区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第19区}}<br>(立憲民主党)
! [[東京都第20区|20区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第20区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[東京都第21区|21区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第21区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第22区|22区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第22区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第23区|23区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第23区}}<br>(自由民主党)
! [[東京都第24区|24区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第24区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[東京都第25区|25区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|東京都第25区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|}
; [[比例東京ブロック|比例代表選出議員]]
*定数'''17''' ‐ 自由民主党'''6'''、立憲民主党'''4'''、日本維新の会'''2'''、公明党'''2'''、日本共産党'''2'''、れいわ新選組'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="2" | 自由民主党
| [[高木啓]]
| [[石原宏高]]<br>(東京3区)
| [[若宮健嗣]]<br>(東京5区)
| [[越智隆雄]]<br>(東京6区)
| [[長島昭久]]<br>(東京18区)
|-
| [[松本洋平]]<br>(東京19区)
| colspan="4" |
|-
! 立憲民主党
| [[海江田万里]]<ref group="注">衆議院副議長就任中のため会派上は無所属。</ref><br>(東京1区)
| [[鈴木庸介]]<br>(東京10区)
| [[大河原雅子]]<br>(東京21区)
| [[伊藤俊輔 (政治家)|伊藤俊輔]]<br>(東京23区)
|
|-
! 日本維新の会
| [[小野泰輔]]<br>(東京1区)
| [[阿部司]]<br>(東京12区)
| colspan="3" |
|-
! 公明党
| [[高木陽介]]
| [[河西宏一]]
| colspan="3" |
|-
! 日本共産党
| [[笠井亮]]
| [[宮本徹]]<br>(東京20区)
| colspan="3" |
|-
! れいわ新選組
| [[櫛渕万里]]<br>(東京22区)
| colspan="4"|
|}
=== 北陸信越ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''19''' ‐ 自由民主党'''14'''、立憲民主党'''5'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="2" | [[新潟県]]
! width= "5.5%" | [[新潟県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|新潟県第1区}}<br>(立憲民主党)
! width= "5.5%" | [[新潟県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|新潟県第2区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[新潟県第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|新潟県第3区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[新潟県第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|新潟県第4区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[新潟県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|新潟県第5区}}<br>(立憲民主党)
! [[新潟県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|新潟県第6区}}<br>(立憲民主党)
| colspan="4" |
|-
! rowspan="1" | [[富山県]]
! [[富山県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|富山県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[富山県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|富山県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[富山県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|富山県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[石川県]]
! [[石川県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|石川県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[石川県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|石川県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[石川県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|石川県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! [[福井県]]
! [[福井県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福井県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[福井県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福井県第2区}}<br>(自由民主党)
| colspan="4" |
|-
! rowspan="2" | [[長野県]]
! [[長野県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長野県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[長野県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長野県第2区}}<br>(立憲民主党)
! [[長野県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長野県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[長野県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長野県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[長野県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長野県第5区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|}
; [[比例北陸信越ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''11''' ‐ 自由民主党'''6'''、立憲民主党'''3'''、公明党'''1'''、無所属'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="15%" style="white-space:nowrap" rowspan="2"| 自由民主党
| width="17%" style="white-space:nowrap" | [[鷲尾英一郎]]
| width="17%" style="white-space:nowrap" | [[塚田一郎]]<br>(新潟1区)
| width="17%" style="white-space:nowrap" | [[国定勇人]]<br>(新潟4区)
| width="17%" style="white-space:nowrap" | [[泉田裕彦]]<br>(新潟5区)
|-
| width="17%" style="white-space:nowrap" | [[高鳥修一]]<br>(新潟6区)
| width="17%" style="white-space:nowrap" | [[務台俊介]]<br>(長野2区)
| colspan="2" |
|-
! 立憲民主党
| [[近藤和也]]<br>(石川3区)
| [[篠原孝]]<br>(長野1区)
| [[神津健]]<br>(長野3区)
|
|-
! 公明党
| [[中川宏昌]]
| colspan="3" |
|-
! 無所属
| [[吉田豊史]]<br>(富山1区)
| colspan="3" |
|}
=== 東海ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''32''' ‐ 自由民主党'''25'''、立憲民主党'''6'''、国民民主党'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="2" | [[岐阜県]]
! width= "5.5%" | [[岐阜県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|岐阜県第1区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[岐阜県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|岐阜県第2区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[岐阜県第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|岐阜県第3区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[岐阜県第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|岐阜県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[岐阜県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岐阜県第5区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|-
! rowspan="2" | [[静岡県]]
! [[静岡県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[静岡県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[静岡県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第3区}}<br>(立憲民主党)
! [[静岡県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[静岡県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第5区}}<br>(自由民主党)
! [[静岡県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第6区}}<br>(自由民主党)
! [[静岡県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第7区}}<br>(自由民主党)
! [[静岡県第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|静岡県第8区}}<br>(立憲民主党)
|-
! rowspan="4" | [[愛知県]]
! [[愛知県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第2区}}<br>(国民民主党)
! [[愛知県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第3区}}<br>(立憲民主党)
! [[愛知県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[愛知県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第5区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第6区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第7区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第8区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[愛知県第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第9区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第10区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第11区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第12区}}<br>(立憲民主党)
|-
! [[愛知県第13区|13区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第13区}}<br>(立憲民主党)
! [[愛知県第14区|14区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第14区}}<br>(自由民主党)
! [[愛知県第15区|15区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛知県第15区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="2" | [[三重県]]
! [[三重県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|三重県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[三重県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|三重県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[三重県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|三重県第3区}}<br>(立憲民主党)
! [[三重県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|三重県第4区}}<br>(自由民主党)
|}
; [[比例東海ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''21''' ‐ 自由民主党'''8'''、立憲民主党'''5'''、公明党'''3'''、日本維新の会'''2'''、国民民主党'''1'''、日本共産党'''1'''、無所属'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
!rowspan="2"| 自由民主党
| [[山本左近]]
| [[宮澤博行]]<br>(静岡3区)
| [[塩谷立]]<br>(静岡8区)
| [[中川貴元]]<br>(愛知2区)
| [[池田佳隆]]<br>(愛知3区)
|-
| [[青山周平 (政治家)|青山周平]]<br>(愛知12区)
| [[石井拓]]<br>(愛知13区)
| [[石原正敬]]<br>(三重3区)
|colspan="2"|
|-
! 立憲民主党
| [[渡辺周]]<br>(静岡6区)
| [[吉田統彦]]<br>(愛知1区)
| [[牧義夫]]<br>(愛知4区)
| [[伴野豊]]<br>(愛知8区)
| [[中川正春]]<br>(三重2区)
|-
! 公明党
| [[大口善徳]]
| [[伊藤渉]]
| [[中川康洋]]
|colspan="2"|
|-
! 日本維新の会
| [[岬麻紀]]<br>(愛知5区)
| [[杉本和巳]]<br>(愛知10区)
|colspan="3"|
|-
! 国民民主党
| [[田中健 (1977年生の政治家)|田中健]]<br>(静岡4区)
|colspan="4"|
|-
! 日本共産党
| [[本村伸子]]
|colspan="4"|
|-
! 無所属
| [[吉川赳]]<br>(静岡5区)
|colspan="4"|
|}
=== 近畿ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''47''' ‐ 自由民主党'''18'''、日本維新の会'''17'''、公明党'''6'''、立憲民主党'''4'''、教育無償化を実現する会'''1'''、無所属'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="1" | [[滋賀県]]
! width= "5.5%" | [[滋賀県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|滋賀県第1区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[滋賀県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|滋賀県第2区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[滋賀県第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|滋賀県第3区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[滋賀県第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|滋賀県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! rowspan="2" | [[京都府]]
! [[京都府第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|京都府第1区}}<br>(自由民主党)
! [[京都府第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|京都府第2区}}<br>(教育無償化を実現する会)
! [[京都府第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|京都府第3区}}<br>(立憲民主党)
! [[京都府第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|京都府第4区}}<br>(無所属/有志の会)
|-
! [[京都府第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|京都府第5区}}<br>(自由民主党)
! [[京都府第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|京都府第6区}}<br>(立憲民主党)
| colspan="4" |
|-
! rowspan="5" | [[大阪府]]
! [[大阪府第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第1区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第2区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第3区}}<br>(公明党)
! [[大阪府第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第4区}}<br>(日本維新の会)
|-
! [[大阪府第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第5区}}<br>(公明党)
! [[大阪府第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第6区}}<br>(公明党)
! [[大阪府第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第7区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第8区}}<br>(日本維新の会)
|-
! [[大阪府第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第9区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第10区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第11区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第12区}}<br>(日本維新の会)
|-
! [[大阪府第13区|13区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第13区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第14区|14区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第14区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第15区|15区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第15区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第16区|16区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第16区}}<br>(公明党)
|-
! [[大阪府第17区|17区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第17区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第18区|18区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第18区}}<br>(日本維新の会)
! [[大阪府第19区|19区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大阪府第19区}}<br>(日本維新の会)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="3" | [[兵庫県]]
! [[兵庫県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[兵庫県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第2区}}<br>(公明党)
! [[兵庫県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[兵庫県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[兵庫県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第5区}}<br>(自由民主党)
! [[兵庫県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第6区}}<br>(日本維新の会)
! [[兵庫県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第7区}}<br>(自由民主党)
! [[兵庫県第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第8区}}<br>(公明党)
|-
! [[兵庫県第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第9区}}<br>(自由民主党)
! [[兵庫県第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第10区}}<br>(自由民主党)
! [[兵庫県第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第11区}}<br>(自由民主党)
! [[兵庫県第12区|12区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|兵庫県第12区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[奈良県]]
! [[奈良県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|奈良県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[奈良県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|奈良県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[奈良県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|奈良県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! [[和歌山県]]
! [[和歌山県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|和歌山県第1区}}<br>(日本維新の会)
! [[和歌山県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|和歌山県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[和歌山県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|和歌山県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|}
; [[比例近畿ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''28''' ‐ 日本維新の会'''10'''、自由民主党'''8'''、公明党'''3'''、立憲民主党'''2'''、日本共産党'''2'''、教育無償化を実現する会'''2'''、れいわ新選組'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="2" | 日本維新の会
| [[堀場幸子]]<br>(京都1区)
| [[中嶋秀樹]]<br>(京都6区)
| [[一谷勇一郎]]<br>(兵庫1区)
| [[和田有一朗]]<br>(兵庫3区)
| [[赤木正幸]]<br>(兵庫4区)
|-
| [[遠藤良太]]<br>(兵庫5区)
| [[三木圭恵]]<br>(兵庫7区)
| [[掘井健智]]<br>(兵庫10区)
| [[住吉寛紀]]<br>(兵庫11区)
| [[池畑浩太朗]]<br>(兵庫12区)
|-
! rowspan="2" | 自由民主党
| [[奥野信亮]]
| [[柳本顕]]
| [[田中英之]]<br>(京都4区)
| [[宗清皇一]]<br>(大阪13区)
| [[谷川とむ]]<br>(大阪19区)
|-
| [[盛山正仁]]<br>(兵庫1区)
| [[大串正樹]]<br>(兵庫6区)
| [[小林茂樹]]<br>(奈良1区)
|colspan="2" |
|-
! 公明党
| [[竹内譲]]
| [[浮島智子]]
| [[鰐淵洋子]]
| colspan="2" |
|-
! 立憲民主党
| [[森山浩行]]<br>(大阪16区)
| [[桜井周]]<br>(兵庫6区)
|colspan="3"|
|-
! 日本共産党
| [[穀田恵二]]<br>(京都1区)
| [[宮本岳志]]<br>(大阪5区)
| colspan="3" |
|-
! 教育無償化を実現する会
| [[斎藤アレックス]]<br>(滋賀1区)
| [[徳永久志]]<br>(滋賀4区)
| colspan="3" |
|-
! れいわ新選組
| [[大石晃子]]<br>(大阪5区)
| colspan="4" |
|}
=== 中国ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''20''' ‐ 自由民主党'''17'''、立憲民主党'''1'''、公明党'''1'''、欠員'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="1" | [[鳥取県]]
! width= "5.5%" | [[鳥取県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|鳥取県第1区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[鳥取県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|鳥取県第2区}}<br>(自由民主党)
| colspan="4" |
|-
!rowspan="1"|[[島根県]]
! [[島根県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|島根県第1区}}<ref group="注">[[細田博之]]議員(自由民主党)が2023年11月10日に死去(欠員に伴う補欠選挙は2024年4月28日に実施される予定)。</ref><br>
! [[島根県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|島根県第2区}}<br>(自由民主党)
|colspan="4"|
|-
! rowspan="2" | [[岡山県]]
! [[岡山県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岡山県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[岡山県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岡山県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[岡山県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岡山県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[岡山県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岡山県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[岡山県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|岡山県第5区}}<br>(自由民主党)
| colspan="6" |
|-
! rowspan="2" | [[広島県]]
! [[広島県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|広島県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[広島県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|広島県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[広島県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|広島県第3区}}<br>(公明党)
! [[広島県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|広島県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[広島県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|広島県第5区}}<br>(自由民主党)
! [[広島県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|広島県第6区}}<br>(立憲民主党)
! [[広島県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|広島県第7区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[山口県]]
! [[山口県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山口県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[山口県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山口県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[山口県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山口県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[山口県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|山口県第4区}}<br>(自由民主党)
|}
; [[比例中国ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''11''' ‐ 自由民主党'''6'''、立憲民主党'''2'''、公明党'''2'''、日本維新の会'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="2"|自由民主党
| [[石橋林太郎]]
| [[髙階恵美子]]
| [[杉田水脈]]
| [[畦元将吾]]
| [[阿部俊子]]<br>(岡山3区)
|-
| [[小島敏文]]<br>(広島6区)
| colspan="4"|
|-
! 立憲民主党
| [[湯原俊二]]<br>(鳥取2区)
| [[柚木道義]]<br>(岡山4区)
| colspan="3" |
|-
! 公明党
| [[平林晃]]
| [[日下正喜]]
| colspan="3" |
|-
! 日本維新の会
| [[空本誠喜]]<br>(広島4区)
| colspan="4" |
|}
=== 四国ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''11''' ‐ 自由民主党'''9'''、立憲民主党'''1'''、国民民主党'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! width="10%" rowspan="1" | [[徳島県]]
! width= "5.5%" | [[徳島県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|徳島県第1区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[徳島県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|徳島県第2区}}<br>(自由民主党)
| colspan="4" |
|-
! rowspan="1" | [[香川県]]
! [[香川県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|香川県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[香川県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|香川県第2区}}<br>(国民民主党)
! [[香川県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|香川県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[愛媛県]]
! [[愛媛県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛媛県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[愛媛県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛媛県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[愛媛県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛媛県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[愛媛県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|愛媛県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! rowspan="1" | [[高知県]]
! [[高知県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|高知県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[高知県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|高知県第2区}}<br>(自由民主党)
| colspan="4" |
|}
; [[比例四国ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''6''' ‐ 自由民主党'''3'''、立憲民主党'''1'''、日本維新の会'''1'''、公明党'''1'''
{| class="wikitable" width="60%"
|-
!自由民主党
| [[山本有二]]
| [[平井卓也]]<br>(香川1区)
| [[瀬戸隆一]]<br>(香川2区)
|-
! 立憲民主党
| [[白石洋一]]<br>(愛媛3区)
| colspan="2"|
|-
! 日本維新の会
| [[吉田知代]]<br>(徳島1区)
| colspan="2"|
|-
! 公明党
| [[山崎正恭]]
| colspan="2"|
|-
|}
=== 九州ブロック ===
; 小選挙区選出議員
* 定数'''35''' ‐ 自由民主党'''23'''、立憲民主党'''6'''、国民民主党'''1'''、日本共産党'''1'''、社会民主党'''1'''、無所属'''3'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="3"| [[福岡県]]
! width= "5.5%" | [[福岡県第1区|1区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第1区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[福岡県第2区|2区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第2区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[福岡県第3区|3区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第3区}}<br>(自由民主党)
! width= "5.5%" | [[福岡県第4区|4区]]
| width="17%" | {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
![[福岡県第5区|5区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第5区}}<br>(立憲民主党)
! [[福岡県第6区|6区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第6区}}<br>(自由民主党)
! [[福岡県第7区|7区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第7区}}<br>(自由民主党)
! [[福岡県第8区|8区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第8区}}<br>(自由民主党)
|-
! [[福岡県第9区|9区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第9区}}<br>(無所属/有志の会)
! [[福岡県第10区|10区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第10区}}<br>(立憲民主党)
! [[福岡県第11区|11区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|福岡県第11区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[佐賀県]]
! [[佐賀県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|佐賀県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[佐賀県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|佐賀県第2区}}<br>(立憲民主党)
| colspan="4" |
|-
! rowspan="1" | [[長崎県]]
! [[長崎県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長崎県第1区}}<br>(国民民主党)
! [[長崎県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長崎県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[長崎県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長崎県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[長崎県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|長崎県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! rowspan="1" | [[熊本県]]
! [[熊本県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|熊本県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[熊本県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|熊本県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[熊本県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|熊本県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[熊本県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|熊本県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! rowspan="1" | [[大分県]]
! [[大分県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大分県第1区}}<br>(無所属/有志の会)
! [[大分県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大分県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[大分県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|大分県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[宮崎県]]
! [[宮崎県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮崎県第1区}}<br>(立憲民主党)
! [[宮崎県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮崎県第2区}}<br>(自由民主党)
! [[宮崎県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|宮崎県第3区}}<br>(自由民主党)
| colspan="2" |
|-
! rowspan="1" | [[鹿児島県]]
! [[鹿児島県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|鹿児島県第1区}}<br>(自由民主党)
! [[鹿児島県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|鹿児島県第2区}}<br>(無所属/自由民主党・無所属の会)
! [[鹿児島県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|鹿児島県第3区}}<br>(立憲民主党)
! [[鹿児島県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|鹿児島県第4区}}<br>(自由民主党)
|-
! rowspan="1" | [[沖縄県]]
! [[沖縄県第1区|1区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|沖縄県第1区}}<br>(日本共産党)
! [[沖縄県第2区|2区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|沖縄県第2区}}<br>(社会民主党)
! [[沖縄県第3区|3区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|沖縄県第3区}}<br>(自由民主党)
! [[沖縄県第4区|4区]]
| {{衆議院小選挙区当選者|沖縄県第4区}}<br>(自由民主党)
|}
; [[比例九州ブロック|比例代表選出議員]]
* 定数'''20''' ‐ 自由民主党'''8'''、立憲民主党'''4'''、公明党'''4'''、日本維新の会'''2'''、国民民主党'''1'''、日本共産党'''1'''
{| class="wikitable" width="80%"
|-
! rowspan="2" | 自由民主党
| [[今村雅弘]]
| [[保岡宏武]]
| [[岩田和親]]<br>(佐賀1区)
| [[古川康]]<br>(佐賀2区)
| [[武井俊輔]]<br>(宮崎1区)
|-
| [[小里泰弘]]<br>(鹿児島3区)
| [[國場幸之助]]<br>(沖縄1区)
| [[宮崎政久]]<br>(沖縄2区)
| colspan="2" |
|-
! 立憲民主党
| [[稲富修二]]<br>(福岡2区)
| [[山田勝彦 (政治家)|山田勝彦]]<br>(長崎3区)
| [[吉川元 (政治家)|吉川元]]<br>(大分2区)
| [[屋良朝博]]<br>(沖縄3区)
|
|-
! 公明党
| [[濵地雅一]]
| [[吉田宣弘]]
| [[金城泰邦]]
| [[吉田久美子]]
|
|-
! 日本維新の会
| [[山本剛正]]<br>(福岡1区)
| [[阿部弘樹]]<br>(福岡4区)
| colspan="3" |
|-
! 国民民主党
| [[長友慎治]]<br>(宮崎2区)
| colspan="4" |
|-
! 日本共産党
| [[田村貴昭]]
| colspan="4" |
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[衆議院小選挙区制選挙区一覧]]
* [[参議院議員一覧]]
* [[親族関係にある政治家一覧]]
* [[日本の女性国会議員一覧]]
* [[Template:Jiji giin#一覧表示]]([[時事通信社|時事ドットコム]]の衆議院議員情報)
* [[日本の政党別の国会議員数]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Members of the House of Representatives of Japan|衆議院議員}}
* [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/kaiha_m.htm 衆議院議員一覧] - [[衆議院]]
{{デフォルトソート:しゆうきいんきいんいちらん}}
[[Category:衆議院議員|*01]]
[[Category:日本の国会議員一覧]]
|
2003-07-09T14:12:47Z
|
2023-12-16T05:28:56Z
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[
"Template:日本の統治機構",
"Template:衆議院の現在の構成",
"Template:衆議院小選挙区当選者",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7
|
11,110 |
スーパー32X
|
スーパー32X(Super 32X)は、セガ・エンタープライゼス(後のセガ)が1994年12月3日に発売したメガドライブ用の周辺機器である。価格は16,800円。
北米では「Genesis 32X」、欧州及びアジア圏では「Mega Drive 32X」、ブラジルでは「Mega 32X」、韓国ではサムスンから日本と同じ名前の「SUPER 32X」として発売された。
北米でトップシェアを獲得したGenesisの延命と、当時の北米でのライバル機である任天堂のSuper Nintendo Entertainment Systemに対するアドバンテージを企図してセガ・オブ・アメリカ(以下「米セガ」)の主導でリリースされた。しかし、すでにメガドライブの次世代機セガサターンを開発していた日本側との齟齬が生じ、マーケティングの混乱を招いた結果、低い評価となったことでそれまで北米で大きな支持を受けていたセガブランドに致命的なダメージを与えた。その評価は2000年代になって以降も2000年代に発売されたゲーム機を引き合いに出す形で続いている。
北米市場以外では売れ行きは振るわなかった。日本ではセガサターンの販売に注力していたため、新規タイトルの供給は1年待たず終了した。
一方で日本では、メガドライブとメガCDおよび本機器を接続した形態が「メガドラタワー」と呼称され、本機器を愛好するものによって親しまれている。
なお、メガドライブにメガCDと本機器を同時に接続した「スーパー32XCD」、Genesisとスーパー32Xの一体型ハード「Sega Neptune」(発売中止)、スーパー32Xの原型になったとされる「Sega Jupiter」(発売中止)、スーパー32X基板を内蔵した画像編集用ペンタブレット「Picture Magic」についても本記事で解説する。
開発コードネームは「Sega Mars」。1990年代前半、セガでは第5世代にあたる次世代機のセガサターンの開発が進んでいた一方、セガ・エンタープライゼス(以下「日本セガ」)社長の中山隼雄が米セガのR&D部門トップであるジョー・ミラーらに、北米で1994年末に発売予定の「Project Jupiter」と称するカートリッジベースの次世代機の構想を伝える。これは中山がGenesisとセガサターンの価格差によって、その間隙をライバル機のAtari Jaguarに奪われる懸念を抱いたためで、社長のトム・カリンスキを始めとする米セガの重役たちもその考えを支持した。Jupiterの設計はメガドライブの設計者でもある佐藤秀樹の担当によるもので、メガドライブ版『バーチャレーシング』用に開発されたセガバーチャプロセッサを搭載し、メガドライブとセガサターンの間を埋めるハードになる予定だった。
しかし、ミラーはサターンの北米展開前にまったく別のプラットホームを推し進めることの懸念を表明し、「Genesisのアドオンにすべきだ」と主張する。この提案によってJupiterの開発は中止され、米セガ主導による「カートリッジベースのGenesis用周辺機器」へと方針変更し、企画も「Project Mars」と呼ばれることとなった。CPUにバーチャプロセッサではなくサターンと同じSH-2を搭載することになったのはミラーの提案であることから、カリンスキはミラーを「32Xの父」と呼んでいる。32Xの市販モデルは、1994年6月に開かれたコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)にて公式発表された。キャッチコピーはpoor man's entry into 'next generation' games。
Genesisに32Xを搭載することで、上述のようなサターンとの価格差を埋める存在になるほか、ライバルのSNESに対して劣勢だったグラフィック性能で優位に立ち、さらには当時の次世代機でフィーチャーされていた3DCGを扱うことが可能となった。
メガドライブのロムカセットスロットに差し込み、同梱の中継ケーブルを接続して使用することで32 bitゲーム機として稼働させることが可能になる。セガサターンと同様、メインCPUとして32 bit RISCのSH-2を2個搭載しており、スーパー32Xを接続した状態からでもメガドライブ・メガCDの両ソフトを使用可能である。
スーパー32XCDとはメガドライブ本体(メガドライブ2本体)・メガCD(メガCD2)・スーパー32Xを組み合わせた、メガドライブの最終形態(ワンダーメガ・スーパー32X及びマルチメガ・スーパー32Xを組み合わせた最終形態もある)。北米ではSega CD 32X、欧州および南米ではMega CD 32Xと呼ばれる。Z80×1、MC68000×2、SH-2×2と、CPUを5個も搭載した複雑なシステムになり、ACアダプターも各部に独立して必要となる。
スーパー32Xタイトルは全41本。ソフトウェア供給は32X専用のROMカートリッジに加え、32XとメガCDの同時使用に対応したSega/Mega CD 32XCDソフトが供給された。CDソフトは欧米とブラジルでのみ販売され、日本市場における対応ソフトは0本である。
米国では1994年11月に発売を開始したが、1995年9月のサターン発売も既に告知されていたことから32Xへの参入を見送ったサードパーティも多かった。そのためローンチタイトルこそ少なかったものの、『スペースハリアー』『アフターバーナーII』『バーチャレーシング』『モータルコンバットII』の史上初となるコンシューマ完全移植が用意され、米セガがサターンの発売を遅らせてまで32Xのプロモーションを仕掛けたことと、北米トップシェアハードであるGenesisの周辺機器ということもあって、クリスマスまでに50万台を売り上げた。前述のように32Xとサターンは同じチップが使われており、チップを日本市場向けのサターンへ回す必要があったため、32Xを十分に供給できなかったものの、ホリデーシーズンにおける32Xの受注自体は100万台を超えるほど好調だった。
日本ではサターンの発売翌月の1994年12月に販売を開始したが、日本市場におけるメガドライブの普及度と比例して売り上げが伸びず、日本セガとしてもスーパーファミコンの後塵を拝したメガドライブの周辺機器を強く推すことには消極的だったため、PlayStation(以下、PS)との次世代機戦争が始まったサターンのプロモーションに完全に隠れてしまった。1994年後半における日本の代表的なメガドライブ専門誌であった『Beep!メガドライブ』誌のみ、サターンと同程度の規模でスーパー32Xを取り上げていたが、同誌もサターン発売の同月(1994年12月)発売号より『セガサターンマガジン』と誌名を変更し、サターン専門誌となった。
北米のゲーマーおよびゲーム会社にもサターンとPSによる日本の次世代機戦争の噂、さらにこの頃にはSNESの次世代機であるNINTENDO64の噂が届いていた。32X用ソフトは依然として揃わず、サターンの北米発売を数か月後に控え、ローンチ直後の売り上げこそ華々しかった32Xの販売台数は1995年5月の時点で665,000台に留まった。
1995年5月に日本市場でサターンの売り上げがPSより先に100万台を突破したことから、日本セガは方針を転換し、北米市場での32Xの販売拡張を切り上げ、同月に開催されたElectronic Entertainment Expo(E3)においてサターンの発売日を「今週の土曜(Saturn Day)」と発表した。急遽サターンは4ヶ月の繰り上げ投入が決定したが、1994年の年末商戦の時点でサターンのみに絞ってプロモーションを行った日本に対し、北米では1995年の春の時点でいまだGenesis・Sega CD・32Xの3機種のプロモーションが平行していたほか、9月発売を目指してゲームを製作していたサードパーティはローンチにソフトを揃えることが出来なかった。このため、サターンはローンチ前の宣伝に失敗したうえに北米の有力サードパーティからの反感を買った。さらに、トイザらスなどごく限られた小売店でのみ限定販売するとしたため、サターンの先行販売から漏れたウォルマートやKBトイズなどの大手小売店は激怒した。
日本においては、普及が進むサターンに対してスーパー32Xが販売を伸ばせない状況が続き、発売から1年も経たない1995年10月、中山はサターンに力を集約するために、32Xを含む旧世代のセガハードの生産を終了することを発表した。つまりスーパーファミコン/SNESにおける『スーパードンキーコング』相当のキラータイトルが登場しないまま、北米の32Xユーザーも切り捨てられ、同時にGenesisユーザーもサターンへの移行が不十分なまま切り捨てられることになった。これによって次世代機への移行が始まった1995年度にも270万台を売り上げたSNESに対し、展開が終了したGenesisの販売台数は210万台であり、発売以来北米トップの売り上げを維持していたGenesisはその座をSNESに奪われた。
日本では発売初日に17万台を売り上げたサターンの販売台数は、北米ではPSが発売された1995年9月の時点でわずか8万台に過ぎない一方でPSは発売1か月で10万台を売り上げており、次世代機において後塵を拝した。1994年11月に159ドルで発売された32Xの販売価格は、1995年5月のサターン投入後に99ドルまで値下げ、さらに1995年10月の生産終了後に19.95ドルで投げ売りされ、32Xは世界最大のゲーム市場である北米での高い普及率を誇るセガのブランディング戦略に致命的なダメージを与えた。
サターン発売以降は大半のサードパーティが32Xからサターン用ゲームの開発に切り替えたため、32Xのコンテンツ不足は最後まで解消しなかった。また、セガは32Xを「32 bit」であると主張していたが、サターンやPSなどの次世代32bit機が北米で出揃うにつれ、特に3D性能における32Xの性能不足が明らかとなった。
欧州各国では1995年7月にサターンが発売。日本や北米と異なり8ビット機世代から成功を収めていた欧州では、その時点でメガドライブなどに加えてセガ・マスターシステムの市場が残存していたが、それらを切り捨てて投入されたサターンの普及台数は北米より下回った。北米以外の海外市場でも、サターンを推す日本セガと32Xを推す米セガの方針が食い違う中でマーケティングは混乱してサターンと32Xは共倒れとなり、PSとNINTENDO64に市場を奪われる結果となった。
1996年以降には日本市場でもサターンはPSの後塵を拝する状況となり、1997年にはセガの経営が急激に悪化。1998年には中山も日本セガから辞任し、サターンの販売終了とドリームキャストの投入が行われた。
『GamePro』誌(1994年8月号)が「ゲーマーなら高い金をかけて日本からサターンやPlayStationを取り寄せるよりも今すぐ32Xを買うべきである。それ以外の人も買って損は無い」と書き立て、『Electronic Gaming Monthly』の1995年度バイヤーズ・ガイドなども4人の評価者が8点/7点/7点/8点(全40点満点)と肯定的に評価するなど、前評判は高かった。
しかし、少ないソフト数・次世代ゲーム機と比較して低い性能・その性能に対して高い値段・ハードの短いライフスパンなどにより『Electronic Gaming Monthly』の1996年度バイヤーズ・ガイドでは前年の高評価と打って変わり、4人の評価者が32Xに3点/3点/3点/2点(全40点満点)の低評価を与えている。
またジャーナリストからは、セガは「2つの似たような製品をそれぞれセグメント化して、別々の価格帯で販売するゼネラル・モータースのようなやり方を取っている」と批判された。
1996年4月15日、米セガの社長職を辞任したカリンスキは32Xやサターンといったハードやマーケティングの失敗よりも、メガドライブ/Genesis初期から続く日本セガと米セガとの対立がその後のセガの零落を招いたと振り返っている。
日本では『BEEP!メガドライブ』誌におけるスーパー32Xのプロモーションの結果、一般的な普及度とは別に「メガドライバー」と称する熱狂的メガドライブユーザーに愛好された。
欧米で絶大な人気を誇ったGenesisの延命のためにリリースされ、結果として致命的なダメージを与えた本機は、欧米では後々まで最悪の周辺機器として知られている。また、旧世代機をアドオンで延命させることは長らく業界のタブーとなっており、Wiiに劣勢となった競合機のXbox 360とPlayStation 3が2010年にKinectとPlayStation Moveをリリースした際も、欧米のゲーム雑誌などで32Xが引き合いに出された。イギリスの代表的なゲーム雑誌「Edge」2010年9月号でKinectのリリースにあたり、「Kinectはゲーム新時代の触媒となるか、はたまた2010年の32Xとなるか」と題した巻頭特集を行った。
2014年にはカリンスキの伝記『Console Wars』が出版されるなど、2000年代以降には複数の関係者の証言が出ているが、当時の米セガの関係者の間でも32Xに対する見方は複雑である。米セガの元プロデューサー、スコット・ベイレスは、KinectやPlayStation Moveを念頭に「リスク分散のために旧世代機向けアドオンをリリースするのは誤りだ」という“業界への戒め”だとしている。セガの技術副部長だったマーティ・フランツは「32Xをアドオンとして出したのが失敗の元」と考え、「メガCDを搭載した単体のゲーム機として出すべきだった」とする。一方、カリンスキは「16bit機にはまだ可能性があり、サターンの投入が拙速だったことから、たとえシェアを減らすことになってもGenesisを32Xで延命して継続すべきだった」との考えであり、「せめてもう1年Genesisを続けていれば」と、米セガに対してGenesisの打ち切りやサターンの前倒し投入を決めた中山と、32Xを噛ませ犬呼ばわりする者を批判している。このほか、“32Xの父”であるミラーは「ハードとしては悪くなかったがリリースしたタイミングが悪かった」としている。
ライバル機の3DOを展開する3DO社のトリップ・ホーキンスは、「32Xは値段がかなり高い、性能が低い、プログラミングが難しい、サターンとの互換性が無い、など“咬ませ犬”に過ぎないことはみんな知っており、'next generation'になり得ないのは明白だった」との見方を示していたことを明かした。
スーパー32Xの販売中止後、セガが1996年12月に発売した画像編集用ペンタブレットである。1996年9月に日本で発売したデジカメ「DIGIO」(コードネーム:JANUS)の周辺機器として発売。価格は24,800円。スーパー32Xの基板がそのまま流用されており、スーパー32X基板の端子をPicture Magicのメイン基板に設けられたスロットに挿入する形で接続されている。Picture Magicのメイン基板はスーパー32Xと接続できる点からもメガドライブ基板のカスタマイズ品と推測され、実際にメガドライブ2の基板といくらか似た特徴を持つが、FM音源チップを搭載しない、スマートメディアのスロットを持つなど大きくカスタマイズされていることもあり、メガドライブとしては機能しない。
Picture Magicのカートリッジスロットはスーパー32Xのカートリッジスロットそのものであり、異なったカートリッジを差し込むことでPicture Magicの内部ソフトを交換することが可能である。本体に付属の「合成編集ソフト」の他に、モーフィング機能や絵日記ソフトなどの発売が予定されていた。「合成編集ソフト」のカートリッジの外観はスーパー32Xのものとまったく同じであり、ソフトのROMのヘッダもスーパー32Xのものとほとんど同じであるが、「JANUS INITIAL PROGRAM」と称するヘッダが付け加えられた、Picture Magic専用ソフトとなっている。
1996年当時のセガはDIGIOに対して注力しており、セガのデジタル技術を総結集し、DIGIOの後継機と合わせてデジカメ市場の30%を取ることを目標としていた。サターンとの連携を念頭に置いて土星(サターン)の衛星ヤヌスのコードネームをあて、「プリント倶楽部2」にDIGIOのスマートメディア用スロットを設けるなどしていた。セガは1995年にビデオプリンター「ハイテクホビープリンター プリファン」(「ピコ用」と明記しているが普通のビデオプリンターであり、AV接続が可能なら他の機器でも利用可能)を発売しているが、それと連携することでテレビの画像を直接印刷することも可能である。
しかしDIGIOは商業的に失敗し、サターンとの連携も実現しなかった。Picture Magicも「合成編集ソフト」のカートリッジ以外にソフトは発売されなかった。
メガドライブ(1・2)と初代メガCDとスーパー32Xを組み合わせるとタワーのような形態になることから、日本では俗にメガドラタワーあるいはメガタワーと呼ばれる。スーパー32XCDが、概ね「メガドラタワー」と同等の状態である。この「メガタワー」は後にセガが発売したゲーム『セガガガ』にも登場する。『セガサターンマガジン』ではサムシング吉松によるメガタワーを擬人化した主人公「メガドラ兄さん」が登場する漫画『セガのゲームは世界いちぃぃぃ!』が、後身となる『ゲーマガ』が休刊する2012年まで連載が続けられた。セガが2013年から展開するコンテンツ『セガ・ハード・ガールズ』にも登場し、スーパー32Xの20周年となる2014年にはアニメ化された。
2019年9月19日、セガゲームス(当時の社名)自らがリリースする復刻系テレビゲーム機・メガドライブ ミニ(MDミニ)の発売記念として、MDミニと同サイズで作られたメガCD・32Xの小型モックアップに『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』と『ソニック&ナックルズ』のミニチュアカートリッジをセットにしたデコレーションキット「メガドラタワーミニ」(MEGA DRIVE TOWER MINI)が発売された。これらユニットパーツはダミーであり実際には動作しないが、MDミニと「合体」させることで、「メガドラタワー」を再現することが可能である。
2021年10月21日には、「メガドラタワー ミニ」の別売りオプションパーツ「メガドラタワーミニZERO」(MEGA DRIVE TOWER MINI ZERO)が発売予定。これは周辺機器である「メガアダプタ」を模したもので、32Xユニットの替わりにMDミニに装着することで、実際には遊べないが「セガ・マスターシステム用ソフトを遊べる状態になったメガドラタワー第二形態」を再現できる。マスターシステム用のカートリッジやゲームカード(詳細は当該項目先を参照)のミニチュアも同梱されている。MDミニのリリースから約2年後に発売された背景は、同年9月24日にセガがリリースするAAA級ゲームソフト『LOST JUDGMENT 裁かれざる記憶』のゲーム本編に、マスターシステム本体が3DCG化し(本編では実機として登場)専用ソフトも実際に遊べる状態で実装されることから、このソフトを盛り上げるためのプロモーション支援としてのものである。このため「ZERO」に同梱されるゲームカートリッジ・カードも『LOST JUDGEMENT』内で遊べる全タイトルと同じになっている。
米セガ主導で開発が行われていたGenesisと32Xの一体型ハード。ジェネシスの後期型(北米版メガドライブ2)と近似したデザインが用いられている。
北米で1993年に発売されたAtari Jaguarや3DOの「次世代機」が軒並み苦戦していたことと、ライバルの任天堂が1994年の年末商戦で目玉としたのが、3DCGに対応した次世代機ではなくSNESで3DCGを扱った『スーパードンキーコング』だったこともあり、カリンスキは「現行世代がまだ継続していく」と考えていた。シェアで猛追するSNESを振り切るためにも米セガは32Xに非常に力を入れていたことで開発が行われていた。Neptuneは当初1994年から1995年の間に200ドルでリリースされる予定で、旧来のGenesisを完全に置き換える方針でメガドライブ専門誌を介して当時北米未発売のサターンとともに紹介された。しかし、1995年の春に完成したプロトタイプ機は400ドルと発表され、価格がサターン並みに跳ね上がったことで、市場に受け入れられる見込みがなくなったことやサターンの発売を予定している日本セガとの兼ね合いから、最終的に発売が断念され、幻のハードとなった。
なお、当時製作されたプロトタイプ機は2011年度のE3にて行われたレトロゲーム機関連の企画に出展されており、2011年現在で少なくとも1台は現存する模様。2014年に発売された『Sega Mega Drive/Genesis Collected Works』に、メガCD2にネプチューンをドッキングした、メガドライブの真の最終形態の姿が掲載されている。
日本セガが開発していたとされるメガドライブの次世代機。
北米の各ゲーム雑誌によってメガドライブの後継機、あるいは上位互換機とも噂された。サターンの公式発表後も「ROMカートリッジスロットのみを搭載したサターンの下位互換機として、サターンと同時発売される」などと噂された。
しかし、サターンの日本発売が近づいてもJupiterに関してセガから公式の発表がなかったため、北米の大手ゲーム雑誌であるElectronic Gaming Monthly(1994年6月号)がゲーム機事業を統括する日本セガの岡村秀樹に直接インタビューを行ったところ、存在そのものを否定した。
日本セガ本社から公式には否定されたが、Jupiterに関しては1994年当時の各国の複数のゲーム雑誌で報道されていた。米セガから最終的に発売されたのが32Xであることから、Sega Jupiterは32Xの原型とされたが、32Xの原型であるproject Marsとはまったく無関係のプロジェクトであったという説もあった。また、Jupiterはサターンの原型であるという説や、逆にサターンがJupiterの原型であるという説もある。このように1994年当時は詳細が不明であり、各ゲーム雑誌の想像にとどまっていた。
その後2001年当時、セガの社長であった佐藤秀樹はインタビューでメガドライブ後継機として開発していたゲーム機のうちROMカートリッジを採用したものを「ジュピター」、CD-ROMを採用したものを「サターン」と社内で呼称していたことを明らかにした。
また2010年代にイギリスのレトロゲーム専門誌『Retro Gamer』(77号)がその実態を明らかにした。
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"text": "スーパー32X(Super 32X)は、セガ・エンタープライゼス(後のセガ)が1994年12月3日に発売したメガドライブ用の周辺機器である。価格は16,800円。",
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"text": "北米では「Genesis 32X」、欧州及びアジア圏では「Mega Drive 32X」、ブラジルでは「Mega 32X」、韓国ではサムスンから日本と同じ名前の「SUPER 32X」として発売された。",
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"text": "北米でトップシェアを獲得したGenesisの延命と、当時の北米でのライバル機である任天堂のSuper Nintendo Entertainment Systemに対するアドバンテージを企図してセガ・オブ・アメリカ(以下「米セガ」)の主導でリリースされた。しかし、すでにメガドライブの次世代機セガサターンを開発していた日本側との齟齬が生じ、マーケティングの混乱を招いた結果、低い評価となったことでそれまで北米で大きな支持を受けていたセガブランドに致命的なダメージを与えた。その評価は2000年代になって以降も2000年代に発売されたゲーム機を引き合いに出す形で続いている。",
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"text": "北米市場以外では売れ行きは振るわなかった。日本ではセガサターンの販売に注力していたため、新規タイトルの供給は1年待たず終了した。",
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"text": "なお、メガドライブにメガCDと本機器を同時に接続した「スーパー32XCD」、Genesisとスーパー32Xの一体型ハード「Sega Neptune」(発売中止)、スーパー32Xの原型になったとされる「Sega Jupiter」(発売中止)、スーパー32X基板を内蔵した画像編集用ペンタブレット「Picture Magic」についても本記事で解説する。",
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"text": "開発コードネームは「Sega Mars」。1990年代前半、セガでは第5世代にあたる次世代機のセガサターンの開発が進んでいた一方、セガ・エンタープライゼス(以下「日本セガ」)社長の中山隼雄が米セガのR&D部門トップであるジョー・ミラーらに、北米で1994年末に発売予定の「Project Jupiter」と称するカートリッジベースの次世代機の構想を伝える。これは中山がGenesisとセガサターンの価格差によって、その間隙をライバル機のAtari Jaguarに奪われる懸念を抱いたためで、社長のトム・カリンスキを始めとする米セガの重役たちもその考えを支持した。Jupiterの設計はメガドライブの設計者でもある佐藤秀樹の担当によるもので、メガドライブ版『バーチャレーシング』用に開発されたセガバーチャプロセッサを搭載し、メガドライブとセガサターンの間を埋めるハードになる予定だった。",
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"text": "しかし、ミラーはサターンの北米展開前にまったく別のプラットホームを推し進めることの懸念を表明し、「Genesisのアドオンにすべきだ」と主張する。この提案によってJupiterの開発は中止され、米セガ主導による「カートリッジベースのGenesis用周辺機器」へと方針変更し、企画も「Project Mars」と呼ばれることとなった。CPUにバーチャプロセッサではなくサターンと同じSH-2を搭載することになったのはミラーの提案であることから、カリンスキはミラーを「32Xの父」と呼んでいる。32Xの市販モデルは、1994年6月に開かれたコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)にて公式発表された。キャッチコピーはpoor man's entry into 'next generation' games。",
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"text": "Genesisに32Xを搭載することで、上述のようなサターンとの価格差を埋める存在になるほか、ライバルのSNESに対して劣勢だったグラフィック性能で優位に立ち、さらには当時の次世代機でフィーチャーされていた3DCGを扱うことが可能となった。",
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"text": "メガドライブのロムカセットスロットに差し込み、同梱の中継ケーブルを接続して使用することで32 bitゲーム機として稼働させることが可能になる。セガサターンと同様、メインCPUとして32 bit RISCのSH-2を2個搭載しており、スーパー32Xを接続した状態からでもメガドライブ・メガCDの両ソフトを使用可能である。",
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"text": "スーパー32XCDとはメガドライブ本体(メガドライブ2本体)・メガCD(メガCD2)・スーパー32Xを組み合わせた、メガドライブの最終形態(ワンダーメガ・スーパー32X及びマルチメガ・スーパー32Xを組み合わせた最終形態もある)。北米ではSega CD 32X、欧州および南米ではMega CD 32Xと呼ばれる。Z80×1、MC68000×2、SH-2×2と、CPUを5個も搭載した複雑なシステムになり、ACアダプターも各部に独立して必要となる。",
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"text": "スーパー32Xタイトルは全41本。ソフトウェア供給は32X専用のROMカートリッジに加え、32XとメガCDの同時使用に対応したSega/Mega CD 32XCDソフトが供給された。CDソフトは欧米とブラジルでのみ販売され、日本市場における対応ソフトは0本である。",
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"text": "米国では1994年11月に発売を開始したが、1995年9月のサターン発売も既に告知されていたことから32Xへの参入を見送ったサードパーティも多かった。そのためローンチタイトルこそ少なかったものの、『スペースハリアー』『アフターバーナーII』『バーチャレーシング』『モータルコンバットII』の史上初となるコンシューマ完全移植が用意され、米セガがサターンの発売を遅らせてまで32Xのプロモーションを仕掛けたことと、北米トップシェアハードであるGenesisの周辺機器ということもあって、クリスマスまでに50万台を売り上げた。前述のように32Xとサターンは同じチップが使われており、チップを日本市場向けのサターンへ回す必要があったため、32Xを十分に供給できなかったものの、ホリデーシーズンにおける32Xの受注自体は100万台を超えるほど好調だった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本ではサターンの発売翌月の1994年12月に販売を開始したが、日本市場におけるメガドライブの普及度と比例して売り上げが伸びず、日本セガとしてもスーパーファミコンの後塵を拝したメガドライブの周辺機器を強く推すことには消極的だったため、PlayStation(以下、PS)との次世代機戦争が始まったサターンのプロモーションに完全に隠れてしまった。1994年後半における日本の代表的なメガドライブ専門誌であった『Beep!メガドライブ』誌のみ、サターンと同程度の規模でスーパー32Xを取り上げていたが、同誌もサターン発売の同月(1994年12月)発売号より『セガサターンマガジン』と誌名を変更し、サターン専門誌となった。",
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"text": "北米のゲーマーおよびゲーム会社にもサターンとPSによる日本の次世代機戦争の噂、さらにこの頃にはSNESの次世代機であるNINTENDO64の噂が届いていた。32X用ソフトは依然として揃わず、サターンの北米発売を数か月後に控え、ローンチ直後の売り上げこそ華々しかった32Xの販売台数は1995年5月の時点で665,000台に留まった。",
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"text": "1995年5月に日本市場でサターンの売り上げがPSより先に100万台を突破したことから、日本セガは方針を転換し、北米市場での32Xの販売拡張を切り上げ、同月に開催されたElectronic Entertainment Expo(E3)においてサターンの発売日を「今週の土曜(Saturn Day)」と発表した。急遽サターンは4ヶ月の繰り上げ投入が決定したが、1994年の年末商戦の時点でサターンのみに絞ってプロモーションを行った日本に対し、北米では1995年の春の時点でいまだGenesis・Sega CD・32Xの3機種のプロモーションが平行していたほか、9月発売を目指してゲームを製作していたサードパーティはローンチにソフトを揃えることが出来なかった。このため、サターンはローンチ前の宣伝に失敗したうえに北米の有力サードパーティからの反感を買った。さらに、トイザらスなどごく限られた小売店でのみ限定販売するとしたため、サターンの先行販売から漏れたウォルマートやKBトイズなどの大手小売店は激怒した。",
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"text": "日本においては、普及が進むサターンに対してスーパー32Xが販売を伸ばせない状況が続き、発売から1年も経たない1995年10月、中山はサターンに力を集約するために、32Xを含む旧世代のセガハードの生産を終了することを発表した。つまりスーパーファミコン/SNESにおける『スーパードンキーコング』相当のキラータイトルが登場しないまま、北米の32Xユーザーも切り捨てられ、同時にGenesisユーザーもサターンへの移行が不十分なまま切り捨てられることになった。これによって次世代機への移行が始まった1995年度にも270万台を売り上げたSNESに対し、展開が終了したGenesisの販売台数は210万台であり、発売以来北米トップの売り上げを維持していたGenesisはその座をSNESに奪われた。",
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"text": "日本では発売初日に17万台を売り上げたサターンの販売台数は、北米ではPSが発売された1995年9月の時点でわずか8万台に過ぎない一方でPSは発売1か月で10万台を売り上げており、次世代機において後塵を拝した。1994年11月に159ドルで発売された32Xの販売価格は、1995年5月のサターン投入後に99ドルまで値下げ、さらに1995年10月の生産終了後に19.95ドルで投げ売りされ、32Xは世界最大のゲーム市場である北米での高い普及率を誇るセガのブランディング戦略に致命的なダメージを与えた。",
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"text": "サターン発売以降は大半のサードパーティが32Xからサターン用ゲームの開発に切り替えたため、32Xのコンテンツ不足は最後まで解消しなかった。また、セガは32Xを「32 bit」であると主張していたが、サターンやPSなどの次世代32bit機が北米で出揃うにつれ、特に3D性能における32Xの性能不足が明らかとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "欧州各国では1995年7月にサターンが発売。日本や北米と異なり8ビット機世代から成功を収めていた欧州では、その時点でメガドライブなどに加えてセガ・マスターシステムの市場が残存していたが、それらを切り捨てて投入されたサターンの普及台数は北米より下回った。北米以外の海外市場でも、サターンを推す日本セガと32Xを推す米セガの方針が食い違う中でマーケティングは混乱してサターンと32Xは共倒れとなり、PSとNINTENDO64に市場を奪われる結果となった。",
"title": "歴史"
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"text": "1996年以降には日本市場でもサターンはPSの後塵を拝する状況となり、1997年にはセガの経営が急激に悪化。1998年には中山も日本セガから辞任し、サターンの販売終了とドリームキャストの投入が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "『GamePro』誌(1994年8月号)が「ゲーマーなら高い金をかけて日本からサターンやPlayStationを取り寄せるよりも今すぐ32Xを買うべきである。それ以外の人も買って損は無い」と書き立て、『Electronic Gaming Monthly』の1995年度バイヤーズ・ガイドなども4人の評価者が8点/7点/7点/8点(全40点満点)と肯定的に評価するなど、前評判は高かった。",
"title": "評価"
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"text": "しかし、少ないソフト数・次世代ゲーム機と比較して低い性能・その性能に対して高い値段・ハードの短いライフスパンなどにより『Electronic Gaming Monthly』の1996年度バイヤーズ・ガイドでは前年の高評価と打って変わり、4人の評価者が32Xに3点/3点/3点/2点(全40点満点)の低評価を与えている。",
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"text": "またジャーナリストからは、セガは「2つの似たような製品をそれぞれセグメント化して、別々の価格帯で販売するゼネラル・モータースのようなやり方を取っている」と批判された。",
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"text": "2021年10月21日には、「メガドラタワー ミニ」の別売りオプションパーツ「メガドラタワーミニZERO」(MEGA DRIVE TOWER MINI ZERO)が発売予定。これは周辺機器である「メガアダプタ」を模したもので、32Xユニットの替わりにMDミニに装着することで、実際には遊べないが「セガ・マスターシステム用ソフトを遊べる状態になったメガドラタワー第二形態」を再現できる。マスターシステム用のカートリッジやゲームカード(詳細は当該項目先を参照)のミニチュアも同梱されている。MDミニのリリースから約2年後に発売された背景は、同年9月24日にセガがリリースするAAA級ゲームソフト『LOST JUDGMENT 裁かれざる記憶』のゲーム本編に、マスターシステム本体が3DCG化し(本編では実機として登場)専用ソフトも実際に遊べる状態で実装されることから、このソフトを盛り上げるためのプロモーション支援としてのものである。このため「ZERO」に同梱されるゲームカートリッジ・カードも『LOST JUDGEMENT』内で遊べる全タイトルと同じになっている。",
"title": "販売終了後の展開"
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"text": "米セガ主導で開発が行われていたGenesisと32Xの一体型ハード。ジェネシスの後期型(北米版メガドライブ2)と近似したデザインが用いられている。",
"title": "未発売機種"
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"text": "北米で1993年に発売されたAtari Jaguarや3DOの「次世代機」が軒並み苦戦していたことと、ライバルの任天堂が1994年の年末商戦で目玉としたのが、3DCGに対応した次世代機ではなくSNESで3DCGを扱った『スーパードンキーコング』だったこともあり、カリンスキは「現行世代がまだ継続していく」と考えていた。シェアで猛追するSNESを振り切るためにも米セガは32Xに非常に力を入れていたことで開発が行われていた。Neptuneは当初1994年から1995年の間に200ドルでリリースされる予定で、旧来のGenesisを完全に置き換える方針でメガドライブ専門誌を介して当時北米未発売のサターンとともに紹介された。しかし、1995年の春に完成したプロトタイプ機は400ドルと発表され、価格がサターン並みに跳ね上がったことで、市場に受け入れられる見込みがなくなったことやサターンの発売を予定している日本セガとの兼ね合いから、最終的に発売が断念され、幻のハードとなった。",
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"text": "なお、当時製作されたプロトタイプ機は2011年度のE3にて行われたレトロゲーム機関連の企画に出展されており、2011年現在で少なくとも1台は現存する模様。2014年に発売された『Sega Mega Drive/Genesis Collected Works』に、メガCD2にネプチューンをドッキングした、メガドライブの真の最終形態の姿が掲載されている。",
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"text": "日本セガが開発していたとされるメガドライブの次世代機。",
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"text": "北米の各ゲーム雑誌によってメガドライブの後継機、あるいは上位互換機とも噂された。サターンの公式発表後も「ROMカートリッジスロットのみを搭載したサターンの下位互換機として、サターンと同時発売される」などと噂された。",
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"text": "しかし、サターンの日本発売が近づいてもJupiterに関してセガから公式の発表がなかったため、北米の大手ゲーム雑誌であるElectronic Gaming Monthly(1994年6月号)がゲーム機事業を統括する日本セガの岡村秀樹に直接インタビューを行ったところ、存在そのものを否定した。",
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"text": "日本セガ本社から公式には否定されたが、Jupiterに関しては1994年当時の各国の複数のゲーム雑誌で報道されていた。米セガから最終的に発売されたのが32Xであることから、Sega Jupiterは32Xの原型とされたが、32Xの原型であるproject Marsとはまったく無関係のプロジェクトであったという説もあった。また、Jupiterはサターンの原型であるという説や、逆にサターンがJupiterの原型であるという説もある。このように1994年当時は詳細が不明であり、各ゲーム雑誌の想像にとどまっていた。",
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"text": "その後2001年当時、セガの社長であった佐藤秀樹はインタビューでメガドライブ後継機として開発していたゲーム機のうちROMカートリッジを採用したものを「ジュピター」、CD-ROMを採用したものを「サターン」と社内で呼称していたことを明らかにした。",
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"text": "また2010年代にイギリスのレトロゲーム専門誌『Retro Gamer』(77号)がその実態を明らかにした。",
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スーパー32Xは、セガ・エンタープライゼス(後のセガ)が1994年12月3日に発売したメガドライブ用の周辺機器である。価格は16,800円。 北米では「Genesis 32X」、欧州及びアジア圏では「Mega Drive 32X」、ブラジルでは「Mega 32X」、韓国ではサムスンから日本と同じ名前の「SUPER 32X」として発売された。 北米でトップシェアを獲得したGenesisの延命と、当時の北米でのライバル機である任天堂のSuper Nintendo Entertainment Systemに対するアドバンテージを企図してセガ・オブ・アメリカ(以下「米セガ」)の主導でリリースされた。しかし、すでにメガドライブの次世代機セガサターンを開発していた日本側との齟齬が生じ、マーケティングの混乱を招いた結果、低い評価となったことでそれまで北米で大きな支持を受けていたセガブランドに致命的なダメージを与えた。その評価は2000年代になって以降も2000年代に発売されたゲーム機を引き合いに出す形で続いている。 北米市場以外では売れ行きは振るわなかった。日本ではセガサターンの販売に注力していたため、新規タイトルの供給は1年待たず終了した。 一方で日本では、メガドライブとメガCDおよび本機器を接続した形態が「メガドラタワー」と呼称され、本機器を愛好するものによって親しまれている。 なお、メガドライブにメガCDと本機器を同時に接続した「スーパー32XCD」、Genesisとスーパー32Xの一体型ハード「Sega Neptune」(発売中止)、スーパー32Xの原型になったとされる「Sega Jupiter」(発売中止)、スーパー32X基板を内蔵した画像編集用ペンタブレット「Picture Magic」についても本記事で解説する。
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{{Pathnav|メガドライブ|frame=1}}
{{画像提供依頼|日本版スーパー32X本体|date=2022年8月|cat=製品|cat2=娯楽}}
{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = スーパー32X/Genesis 32X
|ロゴ = [[File:Super 32X logo.png |200px]]
|画像 = [[File:Sega-Genesis-32X-01.jpg|200px]]<br />[[File:Sega-Genesis-Model2-32X.png|200px]]
|画像コメント = Genesis 32X(上)<br />Genesis 2に接続された状態
(下)|メーカー = [[セガゲームス|セガ・エンタープライゼス]]
|種別 = [[周辺機器|ゲーム機周辺機器]]
|世代 = [[ゲーム機|第4世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1994年]][[12月3日]]<br />{{Flagicon|USA}} 1994年[[11月21日]]<br />{{Flagicon|EU}} 1994年[[12月4日]]
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|オンラインサービス =
|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 5万台<ref>{{cite web|title=Retro Sales Age Thread|publisher=NEOgaf |url=https://www.neogaf.com/threads/retro-sales-age-thread.981407/|accessdate=July 14, 2018}}</ref><br />{{Flagicon|USA}} 130万台<ref>{{cite web|title=History of the Sega 32X|publisher=SEGA retro |url=https://segaretro.org/History_of_the_Sega_32X|accessdate=July 14, 2018}}</ref>
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|互換ハード = [[メガドライブ]]<br />[[メガCD]]
|前世代ハード =
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'''スーパー32X'''(''Super 32X'')は、セガ・エンタープライゼス(後の[[セガ]])が[[1994年]][[12月3日]]に発売した[[メガドライブ]]用の[[周辺機器]]である。価格は16,800円。
北米では「'''Genesis 32X'''」、欧州及びアジア圏では「'''Mega Drive 32X'''」、ブラジルでは「'''Mega 32X'''」、韓国ではサムスンから日本と同じ名前の「'''SUPER 32X'''」として発売された。
北米でトップシェアを獲得したGenesisの延命と、当時の北米でのライバル機である[[任天堂]]の[[Super Nintendo Entertainment System]]{{Efn|略称はSNES、北米版の[[スーパーファミコン]]。}}に対するアドバンテージを企図してセガ・オブ・アメリカ(以下「米セガ」)の主導でリリースされた。しかし、すでにメガドライブの次世代機[[セガサターン]]を開発していた日本側との齟齬が生じ、マーケティングの混乱を招いた結果、低い評価となったことでそれまで北米で大きな支持を受けていたセガブランドに致命的なダメージを与えた。その評価は2000年代になって以降も2000年代に発売されたゲーム機を引き合いに出す形で続いている。
北米市場以外では売れ行きは振るわなかった。日本ではセガサターンの販売に注力していたため、新規タイトルの供給は1年待たず終了した。
{{Main|スーパー32Xのゲームタイトル一覧}}
一方で日本では、メガドライブと[[メガCD]]および本機器を接続した形態が「[[#メガドラタワー|メガドラタワー]]」と呼称され、本機器を愛好するものによって親しまれている。
なお、メガドライブにメガCDと本機器を同時に接続した「'''[[#スーパー32XCD|スーパー32XCD]]'''」、Genesisとスーパー32Xの一体型ハード「'''[[#Sega Neptune|Sega Neptune]]'''」(発売中止)、スーパー32Xの原型になったとされる「'''[[#Sega Jupiter|Sega Jupiter]]'''」(発売中止)、スーパー32X基板を内蔵した画像編集用[[ペンタブレット]]「'''[[#Picture Magic|Picture Magic]]'''」についても本記事で解説する。
== 開発 ==
開発コードネームは「Sega Mars」。1990年代前半、セガでは[[ゲーム機#第5世代|第5世代]]にあたる次世代機のセガサターンの開発が進んでいた一方、セガ・エンタープライゼス(以下「日本セガ」)社長の[[中山隼雄]]が米セガのR&D部門トップであるジョー・ミラーらに、北米で1994年末に発売予定の「Project Jupiter」と称するカートリッジベースの次世代機の構想を伝える。これは中山がGenesisとセガサターンの価格差によって、その間隙をライバル機の[[Atari Jaguar]]に奪われる懸念を抱いたためで、社長のトム・カリンスキを始めとする米セガの重役たちもその考えを支持した。Jupiterの設計はメガドライブの設計者でもある佐藤秀樹の担当によるもので、メガドライブ版『[[バーチャレーシング]]』用に開発された[[セガバーチャプロセッサ]]を搭載し、メガドライブとセガサターンの間を埋めるハードになる予定だった。
しかし、ミラーはサターンの北米展開前にまったく別のプラットホームを推し進めることの懸念を表明し、「Genesisのアドオンにすべきだ」と主張する<ref name="Miller">{{cite web|author=Horowitz, Ken|title=Interview: Joe Miller|publisher=Sega-16|url=http://www.sega-16.com/2013/02/interview-joe-miller/|date=February 7, 2013|accessdate=January 10, 2014}}</ref>。この提案によってJupiterの開発は中止され、米セガ主導による「カートリッジベースのGenesis用周辺機器」へと方針変更し、企画も「Project Mars」と呼ばれることとなった。CPUにバーチャプロセッサではなくサターンと同じSH-2を搭載することになったのはミラーの提案であることから、カリンスキはミラーを「32Xの父」と呼んでいる。32Xの市販モデルは、1994年6月に開かれた[[コンシューマー・エレクトロニクス・ショー]](CES)にて公式発表された。キャッチコピーは'''''poor man's entry into 'next generation' games'''''。
Genesisに32Xを搭載することで、上述のようなサターンとの価格差を埋める存在になるほか、ライバルの[[Super Nintendo Entertainment System|SNES]]に対して劣勢だったグラフィック性能で優位に立ち、さらには当時の次世代機でフィーチャーされていた3DCGを扱うことが可能となった。
== ハードウェア ==
[[File:Mega_Drive_(Asia)_%2B_Sega_CD_(US_NTSC)_%2B_32X.jpg|thumb|スーパー32XCD(メガドライブ+Sega CD+Megadrive 32X)]]
メガドライブの[[ロムカセット]]スロットに差し込み、同梱の中継ケーブルを接続して使用することで32 bit[[ゲーム機]]として稼働させることが可能になる<ref name=32x>{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/super32x/index.html |title=スーパー32X |work=セガハード大百科 |publisher=セガ |accessdate=2022-10-03}}</ref>。[[セガサターン]]と同様、メイン[[CPU]]として32 bit [[RISC]]の[[SH-2 (プロセッサ)|SH-2]]を2個搭載しており、スーパー32Xを接続した状態からでもメガドライブ・メガCDの両ソフトを使用可能である{{R|32x}}。
=== 仕様 ===
* CPU SH-2(23MHz/20MIPS) × 2
* RAM 2 Mbit
* VRAM 2 Mbit
** 同時発色数 最大32768色
* 10-bit [[パルス幅変調|PWM]]音源 2ch
** メガドライブ(FM音源 6ch+PSG 3ch+ノイズ 1ch)との合計で 12ch
** メガドライブとメガCD(PCM 8ch)との合計で 20ch
* 寸法 107 × 205 × 110 mm
* 重量 495 グラム
== スーパー32XCD ==
[[File:Sega-Genesis-Model-2-Monster.jpg|thumb|right|Genesis Model 2、Model 2 Sega CD、Genesis 32Xの組み合わせ。]]
'''スーパー32XCD'''とはメガドライブ本体(メガドライブ2本体)・メガCD(メガCD2)・スーパー32Xを組み合わせた、メガドライブの最終形態([[ワンダーメガ]]・スーパー32X及びマルチメガ・スーパー32Xを組み合わせた最終形態もある)。北米では'''Sega CD 32X'''、欧州および南米では'''Mega CD 32X'''と呼ばれる。[[Z80]]×1、[[MC68000]]×2、[[SH-2 (プロセッサ)|SH-2]]×2と、CPUを5個も搭載した複雑なシステムになり、ACアダプターも各部に独立して必要となる。
== ソフトウェア ==
{{Main|スーパー32Xのゲームタイトル一覧}}
スーパー32Xタイトルは全41本。[[ソフトウェア]]供給は32X専用のROMカートリッジに加え、32Xと[[メガCD]]の同時使用に対応したSega/Mega CD 32XCDソフトが供給された。CDソフトは欧米とブラジルでのみ販売され、日本市場における対応ソフトは0本である{{Efn|販売自体は予定されていた。当時のチラシにスーパー32XCDのタイトルが掲載されていたり、スーパー32Xの外箱の裏面やスーパー32X本体の説明書にスーパー32XCDに関する記載がある。ちなみに予定されていたファーレンハイトとサージカルストライクはその後メガCD用ゲームとして発売されている。}}。
== 歴史 ==
=== 1994年 ===
米国では1994年11月に発売を開始したが、1995年9月のサターン発売も既に告知されていたことから32Xへの参入を見送ったサードパーティも多かった。そのためローンチタイトルこそ少なかったものの、『[[スペースハリアー]]』『[[アフターバーナー (ゲーム)|アフターバーナーII]]』『[[バーチャレーシング]]』『[[モータルコンバット|モータルコンバットII]]』の史上初となるコンシューマ完全移植が用意され、米セガがサターンの発売を遅らせてまで32Xのプロモーションを仕掛けたことと、北米トップシェアハードであるGenesis{{Efn|1994年末の時点で北米でのシェア55%・約2000万台が普及していた。}}の周辺機器ということもあって、クリスマスまでに50万台を売り上げた<ref name="sales">{{cite web|title=Sega threepeat as video game leader for Christmas sales|url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m0EIN/is_1995_Jan_6/ai_15997617/|publisher=''[[Business Wire]]''|date=January 6, 1995|accessdate=2011-05-10|archiveurl=https://archive.is/20120708185556/http://findarticles.com/p/articles/mi_m0EIN/is_1995_Jan_6/ai_15997617/|archivedate=2012年7月8日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。前述のように32Xとサターンは同じチップが使われており、チップを日本市場向けのサターンへ回す必要があったため、32Xを十分に供給できなかったものの、ホリデーシーズンにおける32Xの受注自体は100万台を超えるほど好調だった。
日本ではサターンの発売翌月の1994年12月に販売を開始したが、日本市場におけるメガドライブの普及度と比例して売り上げが伸びず、日本セガとしてもスーパーファミコンの後塵を拝したメガドライブの周辺機器を強く推すことには消極的だったため、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](以下、PS)との次世代機戦争が始まったサターンのプロモーションに完全に隠れてしまった。1994年後半における日本の代表的なメガドライブ専門誌であった『[[ゲーマガ|Beep!メガドライブ]]』誌のみ、サターンと同程度の規模でスーパー32Xを取り上げていたが、同誌もサターン発売の同月(1994年12月)発売号より『セガサターンマガジン』と誌名を変更し、サターン[[専門]]誌となった。
=== 1995年 ===
北米のゲーマーおよびゲーム会社にもサターンとPSによる日本の次世代機戦争の噂、さらにこの頃にはSNESの次世代機である[[NINTENDO64]]の噂が届いていた。32X用ソフトは依然として揃わず、サターンの北米発売を数か月後に控え、ローンチ直後の売り上げこそ華々しかった32Xの販売台数は1995年5月の時点で665,000台に留まった<ref>"Videospiel-Algebra". Man!ac Magazine. May 1995</ref>。
1995年5月に日本市場でサターンの売り上げがPSより先に100万台を突破したことから、日本セガは方針を転換し、北米市場での32Xの販売拡張を切り上げ、同月に開催された[[Electronic Entertainment Expo]](E3)においてサターンの発売日を「今週の土曜(Saturn Day)」と発表した。急遽サターンは4ヶ月の繰り上げ投入が決定したが、1994年の年末商戦の時点でサターンのみに絞ってプロモーションを行った日本に対し、北米では1995年の春の時点でいまだGenesis・Sega CD・32Xの3機種のプロモーションが平行していたほか、9月発売を目指してゲームを製作していたサードパーティはローンチにソフトを揃えることが出来なかった。このため、サターンはローンチ前の宣伝に失敗したうえに北米の有力サードパーティからの反感を買った。さらに、[[トイザらス]]などごく限られた小売店でのみ限定販売するとしたため、サターンの先行販売から漏れた[[ウォルマート]]や[[:w:KB Toys|KBトイズ]]などの大手小売店は激怒した{{Efn|KBトイズは即座にセガ製品を店舗から全て撤去し、サターンの正式販売後も一切販売を扱っていない。}}。
日本においては、普及が進むサターンに対してスーパー32Xが販売を伸ばせない状況が続き、発売から1年も経たない1995年10月、中山はサターンに力を集約するために、32Xを含む旧世代のセガハードの生産を終了することを発表した。つまりスーパーファミコン/SNESにおける『スーパードンキーコング』相当のキラータイトルが登場しないまま、北米の32Xユーザーも切り捨てられ、同時にGenesisユーザーもサターンへの移行が不十分なまま切り捨てられることになった。これによって次世代機への移行が始まった1995年度にも270万台を売り上げたSNESに対し、展開が終了したGenesisの販売台数は210万台であり、発売以来北米トップの売り上げを維持していたGenesisはその座をSNESに奪われた<ref>{{cite web |url=http://www.thedailybeast.com/newsweek/1996/01/14/game-system-sales.html |title=Game-System Sales |publisher=[[Newsweek]] |accessdate=2012-01-21 |date=1996-01-14}}</ref>。
日本では発売初日に17万台を売り上げたサターンの販売台数は、北米ではPSが発売された1995年9月の時点でわずか8万台に過ぎない一方でPSは発売1か月で10万台を売り上げており<ref>{{cite web |title=Sony PlayStation sales exceed 100,000 units in first weekend |url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m0EIN/is_1995_Sept_12/ai_17408055/ |publisher=''[[Business Wire]]'' |date=September 12, 1995 |accessdate=2011-05-07 |archiveurl=https://archive.is/20120708135325/http://findarticles.com/p/articles/mi_m0EIN/is_1995_Sept_12/ai_17408055/ |archivedate=2012年7月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、次世代機において後塵を拝した。1994年11月に159ドルで発売された32Xの販売価格は、1995年5月のサターン投入後に99ドルまで値下げ、さらに1995年10月の生産終了後に19.95ドルで投げ売りされ、32Xは世界最大のゲーム市場である北米での高い普及率を誇るセガの[[ブランディング]]戦略に致命的なダメージを与えた。
サターン発売以降は大半のサードパーティが32Xからサターン用ゲームの開発に切り替えたため、32Xのコンテンツ不足は最後まで解消しなかった。また、セガは32Xを「32 bit」であると主張していたが、サターンやPSなどの次世代32bit機が北米で出揃うにつれ、特に3D性能における32Xの性能不足が明らかとなった。
欧州各国では1995年7月にサターンが発売。日本や北米と異なり8ビット機世代から成功を収めていた欧州では、その時点でメガドライブなどに加えて[[セガ・マスターシステム]]の市場が残存していたが、それらを切り捨てて投入されたサターンの普及台数は北米より下回った。北米以外の海外市場でも、サターンを推す日本セガと32Xを推す米セガの方針が食い違う中でマーケティングは混乱してサターンと32Xは共倒れとなり、PSとNINTENDO64に市場を奪われる結果となった。
1996年以降には日本市場でもサターンはPSの後塵を拝する状況となり、1997年にはセガの経営が急激に悪化。1998年には中山も日本セガから辞任し、サターンの販売終了と[[ドリームキャスト]]の投入が行われた。
== 評価 ==
=== 発売前後 ===
『GamePro』誌(1994年8月号)が「ゲーマーなら高い金をかけて日本からサターンやPlayStationを取り寄せるよりも今すぐ32Xを買うべきである。それ以外の人も買って損は無い」と書き立て、『Electronic Gaming Monthly』の1995年度バイヤーズ・ガイドなども4人の評価者が8点/7点/7点/8点(全40点満点)と肯定的に評価するなど、前評判は高かった。
しかし、少ないソフト数・次世代ゲーム機と比較して低い性能・その性能に対して高い値段・ハードの短いライフスパンなどにより『Electronic Gaming Monthly』の1996年度バイヤーズ・ガイドでは前年の高評価と打って変わり、4人の評価者が32Xに3点/3点/3点/2点(全40点満点)の低評価を与えている。
またジャーナリストからは、セガは「2つの似たような製品をそれぞれセグメント化して、別々の価格帯で販売する[[ゼネラル・モータース]]のようなやり方を取っている」と批判された<ref name="FinWorld">{{cite journal|author=Morris, Kathleen|title=Nightmare in the Fun House|journal=[[Financial World]]|date=February 21, 1995|volume=32}}</ref>。
1996年4月15日、米セガの社長職を辞任したカリンスキは32Xやサターンといったハードやマーケティングの失敗よりも、メガドライブ/Genesis初期から続く日本セガと米セガとの対立がその後のセガの零落を招いたと振り返っている。
日本では『BEEP!メガドライブ』誌におけるスーパー32Xのプロモーションの結果、一般的な普及度とは別に「メガドライバー」と称する熱狂的メガドライブユーザーに愛好された。
=== 2000年以降 ===
欧米で絶大な人気を誇ったGenesisの延命のためにリリースされ、結果として致命的なダメージを与えた本機は、欧米では後々まで最悪の周辺機器として知られている。また、旧世代機をアドオンで延命させることは長らく業界のタブーとなっており、[[Wii]]に劣勢となった競合機の[[Xbox 360]]と[[PlayStation 3]]が2010年に[[Kinect]]と[[PlayStation Move]]をリリースした際も、欧米のゲーム雑誌などで32Xが引き合いに出された。イギリスの代表的なゲーム雑誌「[[:en:Edge (magazine)|Edge]]」2010年9月号でKinectのリリースにあたり、「Kinectはゲーム新時代の触媒となるか、はたまた2010年の32Xとなるか」と題した巻頭特集を行った<ref>[http://www.edge-online.com/features/edge-magazine-covers-2010/9/ Edge 2010年9月号表紙] EDGE公式サイトより</ref>。
2014年にはカリンスキの伝記『Console Wars』が出版されるなど、2000年代以降には複数の関係者の証言が出ているが、当時の米セガの関係者の間でも32Xに対する見方は複雑である。米セガの元プロデューサー、スコット・ベイレスは、KinectやPlayStation Moveを念頭に「リスク分散のために旧世代機向けアドオンをリリースするのは誤りだ」という“業界への戒め”だとしている。セガの技術副部長だったマーティ・フランツは「32Xをアドオンとして出したのが失敗の元」と考え、「メガCDを搭載した単体のゲーム機として出すべきだった」とする。一方、カリンスキは「16bit機にはまだ可能性があり、サターンの投入が拙速だったことから、たとえシェアを減らすことになってもGenesisを32Xで延命して継続すべきだった」との考えであり、「せめてもう1年Genesisを続けていれば」と、米セガに対してGenesisの打ち切りやサターンの前倒し投入を決めた中山と、32Xを噛ませ犬呼ばわりする者を批判している。このほか、“32Xの父”であるミラーは「ハードとしては悪くなかったがリリースしたタイミングが悪かった」としている。
ライバル機の[[3DO]]を展開する3DO社の[[トリップ・ホーキンス]]は、「32Xは値段がかなり高い、性能が低い、プログラミングが難しい、サターンとの互換性が無い、など“咬ませ犬”に過ぎないことはみんな知っており、'next generation'になり得ないのは明白だった」との見方を示していたことを明かした<ref name="Kent_pp424_431">{{cite book |last=Kent |first=Steven L. |authorlink=Steven L. Kent|chapter=Run for the Money|title=The Ultimate History of Video Games: The Story Behind the Craze that Touched our Lives and Changed the World |year=2001 |publisher=Prima Publishing|isbn=0-7615-3643-4}}</ref>。
== 販売終了後の展開 ==
=== Picture Magic ===
スーパー32Xの販売中止後、セガが1996年12月に発売した画像編集用[[ペンタブレット]]である。1996年9月に日本で発売したデジカメ「[[DIGIO]]」(コードネーム:JANUS)の周辺機器として発売。価格は24,800円。スーパー32Xの基板がそのまま流用されており、スーパー32X基板の端子をPicture Magicのメイン基板に設けられたスロットに挿入する形で接続されている。Picture Magicのメイン基板はスーパー32Xと接続できる点からもメガドライブ基板のカスタマイズ品と推測され、実際にメガドライブ2の基板といくらか似た特徴を持つが、FM音源チップを搭載しない、[[スマートメディア]]のスロットを持つなど大きくカスタマイズされていることもあり、メガドライブとしては機能しない。
Picture Magicのカートリッジスロットはスーパー32Xのカートリッジスロットそのものであり、異なったカートリッジを差し込むことでPicture Magicの内部ソフトを交換することが可能である。本体に付属の「合成編集ソフト」の他に、モーフィング機能や絵日記ソフトなどの発売が予定されていた。「合成編集ソフト」のカートリッジの外観はスーパー32Xのものとまったく同じであり、ソフトのROMのヘッダもスーパー32Xのものとほとんど同じであるが、「JANUS INITIAL PROGRAM」と称するヘッダが付け加えられた、Picture Magic専用ソフトとなっている。
1996年当時のセガはDIGIOに対して注力しており、セガのデジタル技術を総結集し、DIGIOの後継機と合わせてデジカメ市場の30%を取ることを目標としていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960911/digio.htm |title=セガ、3万円を切るデジタルカメラ「DIGIO」を発表 |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1996-09-11 |accessdate=2021-08-26}}</ref>。サターンとの連携を念頭に置いて土星(サターン)の衛星[[ヤヌス (衛星)|ヤヌス]]のコードネームをあて、「[[プリント倶楽部|プリント倶楽部2]]」にDIGIOのスマートメディア用スロットを設けるなどしていた。セガは1995年にビデオプリンター「ハイテクホビープリンター プリファン」(「ピコ用」と明記しているが普通のビデオプリンターであり、AV接続が可能なら他の機器でも利用可能)を発売しているが、それと連携することでテレビの画像を直接印刷することも可能である。
しかしDIGIOは商業的に失敗し、サターンとの連携も実現しなかった。Picture Magicも「合成編集ソフト」のカートリッジ以外にソフトは発売されなかった。
=== メガドラタワー ===
メガドライブ(1・2)と初代メガCDとスーパー32Xを組み合わせると[[塔|タワー]]のような形態になることから、日本では俗に'''メガドラタワー'''あるいは'''メガタワー'''と呼ばれる。スーパー32XCDが、概ね「メガドラタワー」と同等の状態である。この「メガタワー」は後にセガが発売したゲーム『[[セガガガ]]』にも登場する。『セガサターンマガジン』では[[吉松孝博|サムシング吉松]]によるメガタワーを擬人化した主人公「メガドラ兄さん」が登場する漫画『セガのゲームは世界いちぃぃぃ!』が、後身となる『ゲーマガ』が休刊する2012年まで連載が続けられた。セガが2013年から展開するコンテンツ『[[セガ・ハード・ガールズ]]』にも登場し、スーパー32Xの20周年となる2014年にはアニメ化された。
2019年9月19日、セガゲームス(当時の社名)自らがリリースする復刻系テレビゲーム機・[[メガドライブ ミニ]](MDミニ)の発売記念として、MDミニと同サイズで作られたメガCD・32Xの小型モックアップに『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ (1991年のゲーム)|ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』と『[[ソニック&ナックルズ]]』のミニチュアカートリッジをセットにしたデコレーションキット「'''メガドラタワーミニ'''」(MEGA DRIVE TOWER MINI)が発売された。これらユニットパーツはダミーであり実際には動作しないが、MDミニと「合体」させることで、「メガドラタワー」を再現することが可能である。
2021年10月21日には、「メガドラタワー ミニ」の別売りオプションパーツ「'''メガドラタワーミニZERO'''」(MEGA DRIVE TOWER MINI ZERO)が発売予定<!--「メガドライブ ミニ」公式サイトに「ZERO」の情報も既に掲載されているので出典は省略-->。これは周辺機器である「メガアダプタ」を模したもので、32Xユニットの替わりにMDミニに装着することで、実際には遊べないが「[[セガ・マスターシステム]]用ソフトを遊べる状態になったメガドラタワー第二形態」を再現できる。マスターシステム用のカートリッジやゲームカード(詳細は当該項目先を参照)のミニチュアも同梱されている。MDミニのリリースから約2年後に発売された背景は、同年9月24日にセガがリリースする[[AAA (コンピュータゲーム産業)|AAA]]級ゲームソフト『[[LOST JUDGMENT 裁かれざる記憶]]』のゲーム本編に、マスターシステム本体が3DCG化し(本編では実機として登場)専用ソフトも実際に遊べる状態で実装されることから、このソフトを盛り上げるためのプロモーション支援としてのものである。このため「ZERO」に同梱されるゲームカートリッジ・カードも『LOST JUDGEMENT』内で遊べる全タイトルと同じになっている。
== 未発売機種 ==
=== Sega Neptune ===
米セガ主導で開発が行われていたGenesisと32Xの一体型ハード。ジェネシスの後期型(北米版メガドライブ2)と近似したデザインが用いられている。
北米で1993年に発売されたAtari Jaguarや3DOの「次世代機」が軒並み苦戦していたことと、ライバルの任天堂が1994年の年末商戦で目玉としたのが、3DCGに対応した次世代機ではなくSNESで3DCGを扱った『[[スーパードンキーコング]]』だったこともあり、カリンスキは「現行世代がまだ継続していく」と考えていた。シェアで猛追するSNESを振り切るためにも米セガは32Xに非常に力を入れていたことで開発が行われていた。Neptuneは当初1994年から1995年の間に200ドルでリリースされる予定で、旧来のGenesisを完全に置き換える方針でメガドライブ専門誌を介して当時北米未発売のサターンとともに紹介された。しかし、1995年の春に完成したプロトタイプ機は400ドルと発表され、価格がサターン並みに跳ね上がったことで、市場に受け入れられる見込みがなくなったことやサターンの発売を予定している日本セガとの兼ね合いから、最終的に発売が断念され、幻のハードとなった。
なお、当時製作されたプロトタイプ機は2011年度のE3にて行われたレトロゲーム機関連の企画に出展されており、2011年現在で少なくとも1台は現存する模様。2014年に発売された『Sega Mega Drive/Genesis Collected Works』に、メガCD2にネプチューンをドッキングした、メガドライブの真の最終形態の姿が掲載されている。
=== Sega Jupiter ===
日本セガが開発していたとされるメガドライブの次世代機。
北米の各ゲーム雑誌によってメガドライブの後継機、あるいは上位互換機とも噂された。サターンの公式発表後も「ROMカートリッジスロットのみを搭載したサターンの下位互換機として、サターンと同時発売される」などと噂された{{Efn|イギリスの大手ゲーム雑誌である『[[:en:Edge (magazine)|EDGE]]』において、「Sega Jupiterは日本円で約30000円で、別売のCD-ROMドライブを購入することでサターンにアップグレードできる」などとかなり具体的に報道されている。}}。
しかし、サターンの日本発売が近づいてもJupiterに関してセガから公式の発表がなかったため、北米の大手ゲーム雑誌である[[:en:Electronic Gaming Monthly|Electronic Gaming Monthly]](1994年6月号)がゲーム機事業を統括する日本セガの[[岡村秀樹]]に直接インタビューを行ったところ、存在そのものを否定した。
日本セガ本社から公式には否定されたが、Jupiterに関しては1994年当時の各国の複数のゲーム雑誌で報道されていた。米セガから最終的に発売されたのが32Xであることから、Sega Jupiterは32Xの原型とされたが、32Xの原型であるproject Marsとはまったく無関係のプロジェクトであったという説もあった。また、Jupiterはサターンの原型であるという説や、逆にサターンがJupiterの原型であるという説もある。このように1994年当時は詳細が不明であり、各ゲーム雑誌の想像にとどまっていた。
その後2001年当時、セガの社長であった佐藤秀樹はインタビューでメガドライブ後継機として開発していたゲーム機のうちROMカートリッジを採用したものを「ジュピター」、CD-ROMを採用したものを「サターン」と社内で呼称していたことを明らかにした<ref>『セガ・コンシューマー・ヒストリー』 [[エンターブレイン]]刊 2002年 ISBN 4757707894 25項</ref>。
また2010年代にイギリスのレトロゲーム専門誌『Retro Gamer』(77号)がその実態を明らかにした。
== 出典 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
{{commonscat|Sega Mega Drive|メガドライブ}}
* [https://sega.jp/history/hard/super32x/index.html セガハード大百科 - スーパー32X]
* [https://sega.jp/mdmini/ セガ公式webサイト > メガドライブ ミニ 商品情報ページ]
** TOPページ下部に「メガドライブ ミニ タワー」に関する記述あり。
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日経平均株価
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日経平均株価(にっけいへいきんかぶか、英語: Nikkei stock average)は、日本経済新聞社が算出・公表している日本の株式市場の代表的な株価指数の一つ。単に日経平均や日経225(にっけいにひゃくにじゅうご、にっけいにーにーご)とも呼ばれる。英語圏の報道機関では「Nikkei 225」と表記される。
日本の株価指標としては東証株価指数 (TOPIX) と並んで普及している。最も知名度の高い株式指標であるため、純粋に民間企業が作成している経済指標でありながら、日本国政府の経済統計としても使われている。
後述の通り、数社の値嵩株が大きな影響力を持つなど、歪な計算方法で算出されているため、指標として大きな構造的欠陥を抱えている。
日経平均株価は、東京証券取引所プライム市場(2022年4月1日までは第一部)に上場する約2,000銘柄の株式のうち取引が活発で流動性の高い225銘柄を、日本経済新聞社が選定し算出する。東京証券取引所が第二次世界大戦後再開した1949年5月16日時点での採用銘柄の単純平均株価176円21銭 からスタートしたダウ式平均株価 であったが、2005年6月7日に算出方法が大きく変わりみなし額面方式となり、2021年10月1日から株価換算係数方式になり、現在はダウ式平均株価ではない。
1949年5月の算出開始当初の銘柄数は227であり、現在の225となったのは1950年6月からである。売買高が多い銘柄を全業種からバランスよく選んだ結果、225銘柄になったとされている。
東京証券取引所が開いており株式の取引できる、平日の午前9時から午前11時30分(前場)と、午後0時30分から午後3時まで(後場)の時間帯で定義される。日本の株式市場の開いている平日の毎日更新される(年末年始期間の12月31日から1月3日を除く)。5秒毎(2017年以降)に算出し公表する。銘柄は業種のバランスなども考慮しながら、定期的に見直される。株式分割などの際も連続性を保つようにしている(#採用銘柄ルールを参照)。
日経平均を使用した金融商品は、ETF・投資信託・先物(日経225先物取引、日経225オプション取引ほか)など、世界中で多数発売されている。
また、日経平均株価を東証株価指数で割った値を「NT倍率」という(詳しくは東証株価指数#日経平均株価との関係を参照)。
1991年9月までは、算出対象銘柄は非常に単純であった。すなわち、「裁量的な銘柄の入れ替えはせず、採用銘柄が倒産したり合併されて消滅した場合にのみ銘柄を補充して225銘柄にする」というものである。1970年の富士製鉄除外から1990年11月の三菱鉱業セメント除外まで、このルールに沿っている。唯一の例外措置は、1987年4月の日本電信電話上場時で、超大型株であったことから特例的に採用され、このためにオーミケンシが除外された。
1990年ごろから、株価指数先物取引の存在が大きくなり、現物と先物の間のさや取りが行われ始めた。先物を1単位売り、現物の225銘柄を全部1単位ずつ買う、といった手法である。この場合、225銘柄のうち、発行済株式総数の少ない銘柄は、この現物先物間の裁定取引や、日経平均連動型投信からの買いのために、まったく想定されていないほどの品薄株となり、本来の企業価値とは著しく乖離した株価になった。また、この高株価・品薄株は、日経平均への寄与度が異様に高まってしまい、これらの銘柄の価格に日経平均が振り回され始めた。そのために、「採用銘柄が空いたら補充する」というルールに「著しく流動性を欠く銘柄は除外し、その分他銘柄を補充する」というルールが追加された。このルールに沿い、1991年10月に台糖、片倉工業、帝国繊維、松坂屋、松竹、東宝が、1992年10月に合同酒精、大東紡織、髙島屋が業績とは関係なく、流動性が低いという理由で除外され、他銘柄が補充された。 また「採用銘柄が非採用銘柄に吸収合併された場合は除外して他銘柄を補充」となっていたが、継続性重視の意味から、この例は、新会社をそのまま継続採用すること、と変更された。
しかし、それ以外は特段に変更はなく、一度採用された銘柄は、ずっと採用され続けていた。このために、新陳代謝、世代交代はなく、いわゆるオールド・エコノミーの銘柄が多くを占め続けた。そのために、日経平均株価は、市場全体との体感がずれていった。
2000年4月24日に、この問題を解消しようと、採用銘柄を30銘柄入れ替えた。この際に、発表から実施までタイムラグが1週間あり、除外30銘柄が売り浴びせられる一方、新採用30銘柄が買い込まれて高騰した後に指数採用となったため、大きな不連続性が発生した。しかも、この時に除外される銘柄の多くは低位株、新採用の銘柄の多くは値がさ株だった。そのため、現物株を買い付ける日経平均連動型投資信託(インデックスファンド)は、除外銘柄を売却しただけでは新採用銘柄を買い付ける資金が足りず、追加資金捻出のため、全銘柄を等株売却して買付資金の差額分を捻出する必要があった。これらの動きが複合した結果、最終的に日経平均株価は「銘柄入れ替え」が原因で、約15%も指数が下落してしまった。当時の大蔵省や経済白書では、これをもって日経平均株価の不連続性を認めている。以上の経緯のために、入れ替え以前の数字との単純な比較ができなくなっている。この反省から、2001年以降は、毎年9月から10月に日経平均株価の構成銘柄を1~3銘柄ほど、定期的に入れ替えるようになっている。
銘柄の入れ替えで比率が高まった、いわゆるハイテク株の値動きに左右されやすい「ハイテク株指数」ともなっている。また、ダウ修正方式の影響で、値がさ株の影響を強く受け、除数も当初の1割ほどの数字になり相場全体の動きが誇張した形で表れる傾向がある。
2022年10月の定期入れ替えよりルールが改定され、「ウエートキャップ」を導入して一定の比率を超えた銘柄のウエイトを軽減する措置が取られるとともに(2023年10月見直しで11%、2024年10月見直しで10%)、見直しは4月と10月の年2回上限各3銘柄に変更された。
採用の事業会社が持ち株会社の傘下に入る形になる形態変更では、採用は継続される。この場合、事業会社除外時と、それを埋める持ち株新会社採用時に時間的な隙ができて、数日間225銘柄より少なくなる時がある。たとえば、2010年3月29日から4月2日までは「223銘柄」で計算された。また、一度は外れた三井東圧の流れを汲む三井化学は2005年5月に、高島屋も2001年3月に、東宝も2006年10月に再度採用され返り咲きしている。
2013年1月4日に、東京証券取引所(東証)と大阪証券取引所(大証)が経営統合して、両取引所を傘下に置く持株会社日本取引所グループ (JPX) が発足したが、大型銘柄であるにもかかわらず旧・大阪証券取引所での取引が中心であった銘柄は、長らく日経平均株価に組み込まれていなかった。
ただし東証・大証が2013年7月に市場統合した当初から「今後は旧大証を取引の中心としていた銘柄も選定される可能性がある」とされていたが、実際に採用されたのは市場統合より6年経った2019年3月18日にオムロンが初めて採用され、その後、2021年10月1日からは任天堂・村田製作所・キーエンスが採用、2022年には臨時入替でオリックス、定時入替で日本電産(現・ニデック)が立て続けに採用されている。
これは従来これら値嵩株が採用されることにより、指数インパクトや入れ替えに伴うインデックスファンドの売買の影響が大きくなることを懸念して採用が見送られてきた銘柄が、組入時のウエイトが1%未満になるよう調整する株価換算係数を2021年9月に導入したことにより、大型株の採用が容易になったためである。
株価全般の注意点として、不況時には金融政策が行われがちであるため上がりやすい。2020年にはCOVID-19によるコロナ不況にもかかわらず日経平均は伸び続け、実体経済との乖離が鮮明となった。
日本経済新聞社は、「株式市況に関する情報の提供,金融に関する評価,金融分析,財務情報の提供,金融市況に関する情報の提供,外為市況に関する情報の提供」を指定役務として、「日経平均」(登録番号第3047435号)、を商標登録するほか、「印刷物」などを指定商品として、「日経平均」(登録番号第2544995号)、「日経平均株価」(登録番号第2569182号)を商標登録している。
このため、日経グループ以外の他メディア(全国紙、地方紙、専門紙、NHK、民間放送など)では、1970年6月以前の東証が算出していた時代の流れや商標権の兼ね合いから「東証平均株価」「東京株式市場の平均株価」などと表現していたが、現在は「日経平均株価」と表現している。
東証株価指数(TOPIX)やアメリカのS&P500などの多くの株価指数は時価総額加重平均型株価指数の浮動株基準株価指数となっており、浮動株の時価総額で重み付けをして、株価指数を計算している。それに対して、日経平均株価は
となっている。
株価換算係数は、以下のように決める。
2021年10月より前に採用された銘柄の比重は変わっておらず、一部の銘柄は構成比率が高いままである。
除数は銘柄入れ替え時に連続性を保つように更新する。
株式の額面制度は2001年の商法改正で廃止されたが、日経平均では各銘柄について「みなし額面」を定めている。株価は市場価格をそのまま用いず、みなし50円額面に換算して計算している。大半の「みなし額面」は50円だが、株式分割または株式併合の影響で、これが50円にならない例もある。日本経済新聞社では、みなし額面一覧を公表している。
基本的に225銘柄の単純平均なので、値嵩株の影響を強く受ける。日経平均株価が東京証券取引所全体の動きを反映していない「歪んだ株価指数である」という見方により、世界の投資家は日経平均株価ではなく、東証株価指数を重視している。
特に、ファーストリテイリング1社の値動きが日経平均株価指数全体の構成比率は、2023年4月14日で11.72%を占め、さらに株価寄与度上位のKDDI・ファナック・ソフトバンクグループ・京セラを入れると、2016年では株価指数全体の20%を占めることになる。一方、時価総額が最大のトヨタ自動車の指数影響度が2%以下に留まっているなど、5社の株価銘柄の値動きが過度に影響を及ぼしており、そのため日経平均株価は「5桁クラブ」「ユニクロ指数」とも呼ばれ、あくまで「スーパー企業の成績表」であり、日本の株式市場全体の動きを反映していないとの批判がある。
ここに記載されている社名はいずれも当時のもの。
日本経済新聞社のホームページに一覧がある。
2020年末現在。
日経平均株価に連動するETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。
レバレッジ型・インバース型のETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。これらは2012年4月から上場し始めた。
日本の投資信託としては下記がある。下記以外にも多数ある。
日本のレバレッジ型やインバース型の投資信託としては下記がある。
先物は下記に上場している。詳細は日経225先物取引を参照。
日本の取引所CFDのくりっく株365に上場している。
店頭CFDとして取り扱っている証券会社もある。
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"text": "日本経済新聞社は、「株式市況に関する情報の提供,金融に関する評価,金融分析,財務情報の提供,金融市況に関する情報の提供,外為市況に関する情報の提供」を指定役務として、「日経平均」(登録番号第3047435号)、を商標登録するほか、「印刷物」などを指定商品として、「日経平均」(登録番号第2544995号)、「日経平均株価」(登録番号第2569182号)を商標登録している。",
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"text": "このため、日経グループ以外の他メディア(全国紙、地方紙、専門紙、NHK、民間放送など)では、1970年6月以前の東証が算出していた時代の流れや商標権の兼ね合いから「東証平均株価」「東京株式市場の平均株価」などと表現していたが、現在は「日経平均株価」と表現している。",
"title": "特徴"
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"text": "東証株価指数(TOPIX)やアメリカのS&P500などの多くの株価指数は時価総額加重平均型株価指数の浮動株基準株価指数となっており、浮動株の時価総額で重み付けをして、株価指数を計算している。それに対して、日経平均株価は",
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"text": "となっている。",
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"text": "株価換算係数は、以下のように決める。",
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"text": "2021年10月より前に採用された銘柄の比重は変わっておらず、一部の銘柄は構成比率が高いままである。",
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"text": "除数は銘柄入れ替え時に連続性を保つように更新する。",
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"text": "株式の額面制度は2001年の商法改正で廃止されたが、日経平均では各銘柄について「みなし額面」を定めている。株価は市場価格をそのまま用いず、みなし50円額面に換算して計算している。大半の「みなし額面」は50円だが、株式分割または株式併合の影響で、これが50円にならない例もある。日本経済新聞社では、みなし額面一覧を公表している。",
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"text": "基本的に225銘柄の単純平均なので、値嵩株の影響を強く受ける。日経平均株価が東京証券取引所全体の動きを反映していない「歪んだ株価指数である」という見方により、世界の投資家は日経平均株価ではなく、東証株価指数を重視している。",
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"text": "特に、ファーストリテイリング1社の値動きが日経平均株価指数全体の構成比率は、2023年4月14日で11.72%を占め、さらに株価寄与度上位のKDDI・ファナック・ソフトバンクグループ・京セラを入れると、2016年では株価指数全体の20%を占めることになる。一方、時価総額が最大のトヨタ自動車の指数影響度が2%以下に留まっているなど、5社の株価銘柄の値動きが過度に影響を及ぼしており、そのため日経平均株価は「5桁クラブ」「ユニクロ指数」とも呼ばれ、あくまで「スーパー企業の成績表」であり、日本の株式市場全体の動きを反映していないとの批判がある。",
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"text": "ここに記載されている社名はいずれも当時のもの。",
"title": "構成銘柄除外および採用の歴史"
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"text": "日本経済新聞社のホームページに一覧がある。",
"title": "構成銘柄一覧"
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"text": "2020年末現在。",
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"text": "日経平均株価に連動するETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。",
"title": "ETF・投資信託・先物"
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"text": "レバレッジ型・インバース型のETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。これらは2012年4月から上場し始めた。",
"title": "ETF・投資信託・先物"
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"text": "日本の投資信託としては下記がある。下記以外にも多数ある。",
"title": "ETF・投資信託・先物"
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"text": "日本のレバレッジ型やインバース型の投資信託としては下記がある。",
"title": "ETF・投資信託・先物"
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"text": "先物は下記に上場している。詳細は日経225先物取引を参照。",
"title": "ETF・投資信託・先物"
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"text": "日本の取引所CFDのくりっく株365に上場している。",
"title": "ETF・投資信託・先物"
},
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"text": "店頭CFDとして取り扱っている証券会社もある。",
"title": "ETF・投資信託・先物"
}
] |
日経平均株価は、日本経済新聞社が算出・公表している日本の株式市場の代表的な株価指数の一つ。単に日経平均や日経225(にっけいにひゃくにじゅうご、にっけいにーにーご)とも呼ばれる。英語圏の報道機関では「Nikkei 225」と表記される。 日本の株価指標としては東証株価指数 (TOPIX) と並んで普及している。最も知名度の高い株式指標であるため、純粋に民間企業が作成している経済指標でありながら、日本国政府の経済統計としても使われている。 後述の通り、数社の値嵩株が大きな影響力を持つなど、歪な計算方法で算出されているため、指標として大きな構造的欠陥を抱えている。
|
{{混同|link1=東証株価指数|東証株価指数 (TOPIX)|redirect=東証平均株価}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{Infobox
| title = 日経平均株価
| image = [[File:Nikkei 225(1970-).svg|400px]]
| caption = 日経平均株価(1970年から)
| label1 = 計算を開始 | data1 = 1950年9月7日<ref>{{PDFlink|[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/archives/file/nikkei_stock_average_guidebook_jp.pdf 日経平均株価算出要領]}}</ref>
| label2 = MICコード | data2 = XTKS
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}}
'''日経平均株価'''(にっけいへいきんかぶか、{{lang-en|Nikkei stock average}})は、[[日本経済新聞社]]が算出・公表している[[日本]]の[[証券市場|株式市場]]の代表的な[[株価指数]]の一つ。単に'''日経平均'''や'''日経225'''(にっけいにひゃくにじゅうご、にっけいにーにーご)とも呼ばれる。[[英語圏]]の[[報道機関]]では「{{lang|en|'''Nikkei 225'''}}」と表記される。
日本の株価指標としては[[東証株価指数]] (TOPIX) と並んで普及している。最も知名度の高い株式指標であるため、純粋に民間企業が作成している[[経済指標]]でありながら、[[日本国政府]]の[[経済統計]]としても使われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stat.go.jp/data/nihon/14.html|title=統計局ホームページ/日本の統計 2020-第14章 卸売業・小売業|website=[[総務省]][[統計局]]|accessdate=2020-3-9}}</ref>。
後述の通り、数社の[[値嵩株]]が大きな影響力を持つなど、歪な計算方法で算出されているため、指標として大きな構造的欠陥を抱えている。
== 概要 ==
日経平均株価は、東京証券取引所プライム市場(2022年4月1日までは第一部)に[[上場]]する約2,000銘柄の[[株式]]のうち取引が活発で[[流動性 (経済学)|流動性]]の高い225銘柄を、[[日本経済新聞社]]が選定し算出する。[[東京証券取引所]]が[[第二次世界大戦]]後再開した[[1949年]][[5月16日]]時点での採用銘柄の単純平均株価176円21銭<ref>川北英隆『テキスト 株式・債券投資』(2006年、中央経済社)7-8ページ。</ref> からスタートした[[株価平均型株価指数#ダウ式平均株価|ダウ式平均株価]]<ref group="注釈">採用銘柄の株価の単純平均を基準とし、その後の株式分割などを除数を修正して計算する株価指数。</ref> であったが、2005年6月7日に算出方法が大きく変わりみなし額面方式となり、2021年10月1日から株価換算係数方式になり、現在はダウ式平均株価ではない。
1949年5月の算出開始当初の銘柄数は227であり、現在の225となったのは1950年6月からである。売買高が多い銘柄を全業種からバランスよく選んだ結果、225銘柄になったとされている<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGD2102E_R20C10A7DT2001/|title=採用銘柄数、227から225に 日経平均で読む株式市場(1)|newspaper=日本経済新聞|date=2010年7月27日|accessdate=2010年7月27日}}</ref>。
東京証券取引所が開いており株式の取引できる、平日の午前9時から午前11時30分(前場)と、午後0時30分から午後3時まで(後場)の時間帯で定義される。日本の株式市場の開いている平日の毎日更新される(年末年始期間の12月31日から1月3日を除く)。5秒毎(2017年以降)に算出し公表する<ref>[[#外部リンク]]『日本経済新聞社による説明』</ref>。銘柄は業種のバランスなども考慮しながら、定期的に見直される。株式分割などの際も連続性を保つようにしている<ref>2008年12月31日付 日経朝刊3面「きょうのことば」</ref>([[#採用銘柄ルール]]を参照)。
日経平均を使用した金融商品は、ETF・投資信託・先物([[日経225先物取引]]、[[日経225オプション取引]]ほか)など、世界中で多数発売されている。
また、日経平均株価を[[東証株価指数]]で割った値を「'''NT倍率'''」という(詳しくは[[東証株価指数#日経平均株価との関係]]を参照)。
{| class="wikitable"
|+'''契約仕様''' <ref>{{Cite web |title=Historical Nikkei 225 - OSE Intraday data |url=https://portaracqg.com/futures/int/jnk |website=PortaraCQG |access-date=2023-03-24 |language=en-US}}</ref>
!'''Nikkei 225 - OSE (JNK)'''
!
|-
|両替:
|OSE
|-
|セクタ:
|Index
|-
|ティック値:
|1
|-
|BPV:
|10000
|-
|宗派:
|JPY
|}
== 沿革 ==
{{出典の明記|date=2021年11月|section=1}}
* 1950年{{0}}9月{{0}}7日 - 東京証券取引所が現在の算出方式(修正平均株価)で計算を開始(名称は「'''東証第1部修正平均株価'''」。取引所再開時の1949年5月16日までさかのぼって算出。)。
* 1969年{{0}}7月{{0}}1日 - 東京証券取引所が東証株価指数の公表を開始。
* 1970年{{0}}6月30日 - 東京証券取引所が修正平均株価の公表を打ち切り。
* 1970年{{0}}7月{{0}}1日 - 日本経済新聞社が指数の算出・公表を引き継ぎ。
* 1971年{{0}}7月{{0}}1日 - 日本短波放送(現・[[日経ラジオ社]]=ラジオNIKKEI)が「'''NSB225種平均株価'''」の名称で公表を開始。
* 1975年{{0}}5月{{0}}1日 - 日本経済新聞社と[[ダウ・ジョーンズ]]が提携し、「'''日経ダウ平均株価'''」と名称を変更。
* 1985年{{0}}5月{{0}}1日 - 「'''日経平均株価'''」と名称を変更(日経ダウ平均を指標とする金融指標[[先物取引]]実施の動きに対し、[[デリバティブ]]に否定的な立場だった[[ダウ・ジョーンズ]]が難色を示したため)。
* 1985年10月{{0}}1日 - 公表値の更新頻度が1分毎になる。
* 1986年{{0}}9月{{0}}3日 - シンガポール国際金融取引所(現・[[シンガポール証券取引所]])にて日経平均先物取引開始。
* 1988年{{0}}9月{{0}}3日 - 大阪証券取引所にて[[日経225先物取引]]取引開始。
* 1989年{{0}}6月12日 - 大阪証券取引所にて[[日経225オプション取引]]開始。
* 1989年12月29日 - 算出開始以来の最高値(ザラ場 38957.44円、終値38915.87円)<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=hsm100-jpp12803064&d=d4_ftee|title=平成元年(1989年) 日経平均株価、史上最高値 1…:平成の記憶|newspaper=時事ドットコム|accessdate=2020-12-09}}</ref>。
* 1990年{{0}}9月25日 - [[シカゴ・マーカンタイル取引所]]にて米ドル建ての日経225先物の取引開始。
* 1990年10月{{0}}1日 - 最高値からわずか9か月で一時2万円割れ。[[バブル崩壊]]へ。
* 2000年{{0}}4月24日 - 30銘柄にも及ぶ大量の入れ換えを実施。物議を醸す(詳細は後述)。
* 2001年{{0}}7月13日 - 東京証券取引所、大阪証券取引所に日経平均の[[上場投資信託]]が上場。
* 2001年{{0}}9月12日 - [[アメリカ同時多発テロ事件]]翌日、1984年以来の1万円割れ。
* 2003年{{0}}4月28日 - 最高値以後での最安値(ザラ場7603.76円、終値7607.88円)。
* 2004年{{0}}2月23日 - シカゴ・マーカンタイル取引所にて円建ての日経225先物の取引開始。
* 2005年{{0}}6月{{0}}7日 - この日以後、増資などがあった際の算出株価が、それまでの分母修正方式=ダウ式から、みなし額面を修正する独自の分子修正方式に変更された。
* 2006年{{0}}7月18日 - 大阪証券取引所にて日経225mini取引開始。
* 2006年{{0}}8月14日 - 首都圏で発生した大規模停電の影響を受け、日中に算出停止のトラブル(1970年以来初)。
* 2010年{{0}}1月{{0}}4日 - 公表値の更新頻度が1分毎から15秒毎になる。
* 2017年{{0}}7月18日 - 公表値の更新頻度が15秒毎から5秒毎になる。
* 2020年10月{{0}}1日 - [[arrowhead]] のシステムトラブルで、終日取引停止。
* 2021年10月{{0}}1日 - みなし額面方式から株価換算係数方式に切り替えた。
== 特徴 ==
=== 採用銘柄ルール ===
1991年9月までは、算出対象銘柄は非常に単純であった。すなわち、「裁量的な銘柄の入れ替えはせず、採用銘柄が[[倒産]]したり合併されて消滅した場合にのみ銘柄を補充して225銘柄にする」というものである。1970年の[[富士製鉄]]除外から1990年11月の[[三菱鉱業セメント]]除外まで、このルールに沿っている。唯一の例外措置は、1987年4月の[[日本電信電話]]上場時で、超大型株であったことから特例的に採用され、このために[[オーミケンシ]]が除外された。
1990年ごろから、株価指数先物取引の存在が大きくなり、現物と先物の間のさや取りが行われ始めた。先物を1単位売り、現物の225銘柄を全部1単位ずつ買う、といった手法である。この場合、225銘柄のうち、発行済株式総数の少ない銘柄は、この現物先物間の裁定取引や、日経平均連動型投信からの買いのために、まったく想定されていないほどの品薄株となり、本来の企業価値とは著しく乖離した株価になった。また、この高株価・品薄株は、日経平均への寄与度が異様に高まってしまい、これらの銘柄の価格に日経平均が振り回され始めた。そのために、「採用銘柄が空いたら補充する」というルールに「著しく流動性を欠く銘柄は除外し、その分他銘柄を補充する」というルールが追加された。このルールに沿い、1991年10月に[[台糖]]、[[片倉工業]]、[[帝国繊維]]、[[松坂屋]]、[[松竹]]、[[東宝]]が、1992年10月に[[合同酒精]]、[[大東紡織]]、[[髙島屋]]が業績とは関係なく、流動性が低いという理由で除外され、他銘柄が補充された。
また「採用銘柄が非採用銘柄に吸収合併された場合は除外して他銘柄を補充<ref group="注釈">例としては、1997年9月に、採用銘柄の[[三井東圧化学]]が非採用銘柄[[三井石油化学]]に吸収合併されて[[三井化学]]となり算出から除外され、[[東洋ゴム工業]]が追加採用。</ref>」となっていたが、継続性重視の意味から、この例は、新会社をそのまま継続採用すること、と変更された。
しかし、それ以外は特段に変更はなく、一度採用された銘柄は、ずっと採用され続けていた。このために、新陳代謝、世代交代はなく、いわゆる[[オールド・エコノミー]]の銘柄が多くを占め続けた。そのために、日経平均株価は、市場全体との体感がずれていった。
2000年4月24日に、この問題を解消しようと、採用銘柄を30銘柄入れ替えた<ref group="注釈">東京電力の代わりに関西電力などを採用する、大阪市場の主要銘柄250社で算出される「大証平均株価」は、2000年4月の大規模銘柄入れ替えは行われなかった。</ref>。この際に、発表から実施までタイムラグが1週間あり、除外30銘柄が売り浴びせられる一方、新採用30銘柄が買い込まれて高騰した後に指数採用となったため、大きな不連続性が発生した。しかも、この時に除外される銘柄の多くは[[低位株]]、新採用の銘柄の多くは[[値がさ株]]だった。そのため、現物株を買い付ける日経平均連動型[[投資信託]]([[インデックスファンド]])は、除外銘柄を売却しただけでは新採用銘柄を買い付ける資金が足りず、追加資金捻出のため、全銘柄を等株売却して買付資金の差額分を捻出する必要があった。これらの動きが複合した結果、最終的に日経平均株価は「銘柄入れ替え」が原因で、約15%も指数が下落してしまった<ref>週刊ダイヤモンド2000年6月17日号p126-128「日経平均銘柄大幅入替えで株式市場に何が起こったか」本誌・竹田孝洋</ref>。当時の[[大蔵省]]や[[経済白書]]では、これをもって日経平均株価の不連続性を認めている。以上の経緯のために、入れ替え以前の数字との単純な比較ができなくなっている。この反省から、2001年以降は、毎年9月から10月に日経平均株価の構成銘柄を1~3銘柄ほど、定期的に入れ替えるようになっている。
銘柄の入れ替えで比率が高まった、いわゆる[[ハイテク]]株の値動きに左右されやすい「ハイテク株指数」ともなっている。また、ダウ修正方式の影響で、値がさ株の影響を強く受け、除数も当初の1割ほどの数字になり相場全体の動きが誇張した形で表れる傾向がある。
2022年10月の定期入れ替えよりルールが改定され、「ウエートキャップ」を導入して一定の比率を超えた銘柄のウエイトを軽減する措置が取られるとともに(2023年10月見直しで11%、2024年10月見直しで10%)、見直しは4月と10月の年2回上限各3銘柄に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=https://media.moneyforward.com/articles/7954|title=10月から変わる日経平均株価、日本電産など新たに採用される銘柄が相場に与える影響|website=money plus|date=2022/10/03|accessdate=2022/10/03}}</ref>。
採用の事業会社が持ち株会社の傘下に入る形になる形態変更では、採用は継続される。この場合、事業会社除外時と、それを埋める持ち株新会社採用時に時間的な隙ができて、数日間225銘柄より少なくなる時がある。たとえば、2010年3月29日から4月2日までは「223銘柄」で計算された。また、一度は外れた[[三井東圧]]の流れを汲む三井化学は2005年5月に、高島屋も2001年3月に、東宝も2006年10月に再度採用され返り咲きしている。
=== 旧大証銘柄 ===
2013年1月4日に、東京証券取引所(東証)と[[大阪証券取引所]](大証)が経営統合して、両取引所を傘下に置く持株会社[[日本取引所グループ]] (JPX) が発足したが、大型銘柄であるにもかかわらず旧・大阪証券取引所での取引が中心であった銘柄は、長らく日経平均株価に組み込まれていなかった。
ただし東証・大証が2013年7月に市場統合した当初から「今後は旧大証を取引の中心としていた銘柄も選定される可能性がある」とされていたが、実際に採用されたのは市場統合より6年経った2019年3月18日に[[オムロン]]が初めて採用され、その後、2021年10月1日からは[[任天堂]]・[[村田製作所]]・[[キーエンス]]が採用<ref>{{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/130720/wec13072002220001-n1.htm|title=「旧大証銘柄」活況 東証大証の市場統合から1週目|date=20140717221732}}</ref>、2022年には臨時入替で[[オリックス (企業)|オリックス]]、定時入替で日本電産(現・[[ニデック (電機メーカー)|ニデック]])が立て続けに採用されている。
これは従来これら値嵩株が採用されることにより、指数インパクトや入れ替えに伴うインデックスファンドの売買の影響が大きくなることを懸念して採用が見送られてきた銘柄が、組入時のウエイトが1%未満になるよう調整する株価換算係数を2021年9月に導入したことにより、大型株の採用が容易になったためである<ref>{{Cite news|title= 日経平均の採用ルール変更、任天堂はじめ値がさ株への期待本格化|url= https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-05-11/QSWX3GDWRGG201|author= 長谷川敏郎 |date= 2021年5月11日 |accessdate= 2021年5月11日 |newspaper=日本経済新聞}}</ref>。
=== 問題点 ===
株価全般の注意点として、不況時には[[金融政策]]が行われがちであるため上がりやすい。2020年には[[COVID-19]]によるコロナ不況にもかかわらず日経平均は伸び続け、実体経済との乖離が鮮明となった<ref name="covid">{{cite news |author = 蔭山克秀 |url = https://president.jp/articles/-/41714 |title = コロナ不況で苦しむ企業が多い中、日経平均が絶好調なカラクリ 平均値はボリュームゾーンではない|newspaper = PRESIDENT online |publisher = [[プレジデント社]] |date = 2020-12-28 |accessdate = 2020-12-28 }}</ref>。
=== 商標登録 ===
日本経済新聞社は、「株式市況に関する情報の提供,金融に関する評価,金融分析,財務情報の提供,金融市況に関する情報の提供,外為市況に関する情報の提供」を指定役務として、「'''日経平均'''」(登録番号第3047435号)、を[[商標]]登録するほか、「印刷物」などを指定商品として、「日経平均」(登録番号第2544995号)、「'''日経平均株価'''」(登録番号第2569182号)を商標登録している<ref group="注釈">なお、「日経225」「Nikkei 225」については、日本での商標登録がされていない([[特許情報プラットフォーム]]でヒットしない)。</ref>。
このため、日経グループ以外の他メディア([[全国紙]]、[[地方紙]]、[[専門紙]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[民間放送]]など)では、1970年6月以前の東証が算出していた時代の流れや商標権の兼ね合いから「'''東証平均株価'''」「'''東京株式市場の平均株価'''」などと表現していたが、現在は「日経平均株価」と表現している。
== 株価換算係数方式 ==
: {{pre|日経平均株価=Σ(株価×株価換算係数)÷除数}}
東証株価指数(TOPIX)やアメリカの[[S&P 500|S&P500]]などの多くの株価指数は[[時価総額加重平均型株価指数]]の[[浮動株基準株価指数]]となっており、浮動株の時価総額で重み付けをして、株価指数を計算している。それに対して、日経平均株価は
* 2005年6月~2021年10月 - みなし額面で換算した株価の平均
* 2021年10月より - 株価×株価換算係数の平均
となっている<ref name="nikkei_stock_average_guidebook_jp">{{PDFlink|[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/archives/file/nikkei_stock_average_guidebook_jp.pdf 日経平均株価算出要領 - 株式会社日本経済新聞社]}}</ref><ref name="camri202201051519345735">{{PDFlink|[https://www.camri.or.jp/files/libs/1730/202201051519345735.pdf 2021年10月の日経平均株価算出要領の変更をめぐる諸問題]}}</ref>。
株価換算係数は、以下のように決める。
* 新規採用銘柄は、基本は 1.0 とし、1.0 とすると株価合計の1%を超えている場合は、1% を下回るように株価換算係数を決め、株価換算係数が 0.1 の倍数になるように小数点第2位以下を切り捨てる。
* 2021年10月より前に採用された銘柄は、50円÷みなし額面とする。例えばソフトバンクグループは 6.0 になる<ref name="nikkei_stock_average_guidebook_jp"/><ref name="camri202201051519345735"/>。
2021年10月より前に採用された銘柄の比重は変わっておらず<ref name="camri202201051519345735"/>、一部の銘柄は構成比率が高いままである。
{| class="wikitable"
|+ 構成比率の高い銘柄上位10位
! 銘柄 !! 構成比率 !! 累計
|-
! 東京エレクトロン
| 8.12%
| 8.12%
|-
! ファーストリテイリング
| 8.00%
| 16.12%
|-
! ソフトバンクグループ
| 3.99%
| 20.12%
|-
! ダイキン工業
| 3.20%
| 23.31%
|-
! ファナック
| 2.99%
| 26.30%
|-
! アドバンテスト
| 2.67%
| 28.97%
|-
! リクルートホールディングス
| 2.56%
| 31.53%
|-
! KDDI
| 2.47%
| 34.00%
|-
! 信越化学工業
| 2.44%
| 36.45%
|-
! テルモ
| 2.38%
| 38.83%
|-
| colspan="3" | 2021年末現在<ref>[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/profile?idx=nk225 指数情報 - 日経平均プロフィル]</ref>。累計は上位を順番に足したもの。
|}
除数は銘柄入れ替え時に連続性を保つように更新する。
: {{pre|翌日の除数=当日の除数×Σ翌日構成銘柄の翌日用基準価格÷Σ当日構成銘柄の当日終値採用価格}}
=== みなし額面 ===
株式の額面制度は2001年の商法改正で廃止されたが、日経平均では各銘柄について「みなし額面」を定めている。株価は市場価格をそのまま用いず、みなし50円額面に換算して計算している。大半の「みなし額面」は50円だが、[[株式分割]]または[[株式併合]]の影響で、これが50円にならない例もある<ref name="minashi"/>。日本経済新聞社では、みなし額面一覧を公表している<ref name="minashi">{{Cite web|和書|url=https://indexes.nikkei.co.jp/atoz/2017/04/par-value.html|title=みなし額面|date=2017-4-21|accessdate=2020-3-9}}</ref><ref name="profile">{{Cite web|和書|url=https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/profile?idx=nk225|title=日経平均プロフィル中 「みなし額面一覧 (CSV)」|accessdate=2020-3-9}}</ref>。
=== みなし額面方式の問題点 ===
基本的に225銘柄の単純平均なので、[[値嵩株]]の影響を強く受ける<ref name="PRESIDENT"/><ref name="NHK"/>。日経平均株価が東京証券取引所全体の動きを反映していない「歪んだ[[株価指数]]である」という見方により、世界の投資家は日経平均株価ではなく、[[東証株価指数]]を重視している<ref name="PRESIDENT">{{cite news |author = 飯村真由 |url = https://president.jp/articles/-/17679 |title = なぜ、海外投資家は日経平均を信用しないか |newspaper = PRESIDENT online |publisher = [[プレジデント社]] |date = 2016-04-03 |accessdate = 2023-07-08 }}</ref>。
特に、[[ファーストリテイリング]]1社の値動きが日経平均株価指数全体の構成比率は、2023年4月14日で11.72%を占め<ref name="NHK"/>、さらに株価寄与度上位の[[KDDI]]・[[ファナック]]・[[ソフトバンクグループ]]・[[京セラ]]を入れると、2016年では株価指数全体の20%を占めることになる<ref name="PRESIDENT"/>。一方、時価総額が最大の[[トヨタ自動車]]の指数影響度が2%以下に留まっているなど、5社の株価銘柄の値動きが過度に影響を及ぼしており、そのため日経平均株価は「5桁クラブ<ref name="WEDGE"/>」「[[ユニクロ]]指数<ref name="NHK">{{cite news |author = 仲沢啓 |url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230428/k10014052331000.html |title = ユニクロが日経平均動かす?【経済コラム】 |newspaper= [[NHK NEWS WEB]] |publisher=[[日本放送協会]] |date= 2023-04-30 |accessdate=2023-07-08 }}</ref>」とも呼ばれ、あくまで「スーパー企業の成績表」であり<ref name="covid" />、日本の株式市場全体の動きを反映していないとの批判がある<ref name="WEDGE">{{cite news |author=宮川公男 |url=http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7282 |title=“5桁クラブ”に振り回される、日経平均の不都合な真実 |newspaper=[[WEDGE Infinity]] |publisher=[[ウェッジ (出版社)|ウェッジ]] |date=2016-07-30 |accessdate= 2023-07-08 }}</ref>。
== 構成銘柄除外および採用の歴史 ==
ここに記載されている社名はいずれも当時のもの。
* *は合併、経営統合に伴う銘柄の変更によるもの。
* △は上に伴わない[[上場廃止]]基準([[倒産]]や[[株式公開買付け]])によるもの。
* ↓は東証二部またはスタンダード市場への降格(指定替え)によるもの。
{|class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small"
|-
!年 !!除外 !!採用
|-
|style="white-space:nowrap"|1970年||*[[富士製鉄]] ||[[沖電気工業]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1971年||*三菱江戸川化学、△[[大映]] ||湯浅電池、[[富士通]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1972年||*[[明治商事]]、*[[汽車製造]]、*国策パルプ工業 ||大隈鉄工所、[[髙島屋]]、[[住友商事]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1975年||△[[興人]]、*鉄興社 ||[[鉄建建設]]、[[大和ハウス工業]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1978年||[[日華油脂]]、△[[北海道炭礦汽船]]、△[[チッソ]] ||[[日本信販]]、日興證券、[[野村證券]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1979年||大日本精糖、*[[日本パルプ工業]] ||トヨタ自動車販売、[[リコー]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1980年||明治製糖 ||[[三光汽船]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1982年||*トヨタ自動車販売、△秋木工業 ||日本電装、[[住友電気工業]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1984年||△[[リッカー]] ||大日本製薬
|-
|style="white-space:nowrap"|1985年||△三光汽船 ||[[山之内製薬]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1986年||*丸善石油 ||[[全日本空輸]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1987年||[[オーミケンシ]] ||[[日本電信電話]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1989年||*[[ジャパンライン]] ||[[川崎重工業]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1990年||*三菱鉱業セメント ||[[パイオニア]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1991年||[[東宝]]、[[松竹]]、[[松坂屋]]、[[帝国繊維]]、[[片倉工業]]、[[台湾製糖]] ||[[山九]]、日商岩井、[[トーメン]]、[[トピー工業]]、[[住友重機械工業]]、[[熊谷組]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1992年||*日本ステンレス、髙島屋、大東紡績、合同酒精 ||青木建設、[[西華産業]]、ミネベア、[[間組]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1993年||*山陽国策パルプ、△[[日活]] ||[[井関農機]]、[[塩野義製薬]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1995年||[[日本毛織]] ||[[丸井]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1996年||*[[東京銀行]]、*[[本州製紙]] ||[[中部電力]]、[[三和銀行]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1997年||*三井東圧化学 ||東洋ゴム工業
|-
|style="white-space:nowrap"|1998年||[[明治海運]]、*日本セメント ||[[国際電信電話]]、[[あさひ銀行]]
|-
|style="white-space:nowrap"|1999年||*ナビックスライン、*[[三菱石油]] ||クラリオン、[[NTTデータ]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2000年||*[[三井信託銀行]]、[[三井倉庫]]、山九、丸善、[[岩谷産業]]、西華産業、[[日本ピストンリング]]、[[東京製綱]]、昭和電線電纜、志村化工、[[三菱製鋼]]、[[日本電工]]、[[日本冶金工業]]、[[日本金属工業]]、品川白煉瓦、[[ノリタケカンパニーリミテド]]、[[日本カーボン]]、東洋ゴム工業、[[日本油脂]]、旭電化工業、[[日本合成化学工業]]、[[日本化学工業]]、[[日本カーバイド工業]]、[[ラサ工業]]、[[東邦レーヨン]]、[[富士紡績]]、ホーネンコーポレーション、[[日本甜菜製糖]]、住友石炭鉱業、三井鉱山、[[ニチロ]]、東燃、*[[富士銀行]]、*[[第一勧業銀行]]、*[[日本興業銀行]]、国際電信電話、[[日本証券金融]]、鉄建建設 ||[[大和証券グループ本社]]、[[NTTドコモ]]、[[第二電電]]、[[東日本旅客鉄道]]、住友海上火災保険、[[安田信託銀行]]、[[住友信託銀行]]、[[静岡銀行]]、[[東海銀行]]、[[大和銀行]]、[[日本興業銀行]]、[[ジャスコ]]、[[イトーヨーカ堂]]、[[セブン-イレブン・ジャパン]]、[[東京エレクトロン]]、富士重工業、[[三菱自動車工業]]、松下電工、[[太陽誘電]]、[[京セラ]]、[[ファナック]]、[[カシオ計算機]]、[[アドバンテスト]]、松下通信工業、[[ミツミ電機]]、[[TDK]]、[[テルモ]]、[[エーザイ]]、[[第一製薬]]、[[花王]]、[[日本たばこ産業]]、[[資生堂]]、[[新光証券]]、[[東洋信託銀行]]、[[横浜銀行]]、[[アルプス電気]]、[[セコム]]、*みずほホールディングス
|-
|style="white-space:nowrap"|2001年||*[[日本製紙]]、*東洋信託銀行、*[[三菱信託銀行]]、*東海銀行、*三和銀行、*[[東京三菱銀行]]、*[[さくら銀行]]、*住友海上火災保険、[[京浜急行電鉄]]、井関農機、△[[新潟鐵工所]]、*大和銀行、青木建設 ||[[日本航空]]、[[ヤマト運輸]]、[[クレディセゾン]]、髙島屋、*日本ユニパックホールディング、*[[UFJホールディングス]]、*[[三菱東京フィナンシャルグループ]]、[[西日本旅客鉄道]]、[[藤沢薬品工業]]、[[積水ハウス]]、[[住友不動産]]、[[ダイキン工業]]、*大和銀ホールディングス
|-
|style="white-space:nowrap"|2002年||*あさひ銀行、△[[佐藤工業]]、[[フジタ]]、*[[ジャパンエナジー]]、*[[川崎製鉄]]、*NKK、*日本航空、*松下通信工業、[[極洋]]、[[飛島建設]] ||[[千葉銀行]]、[[日本コムシス]]、[[トレンドマイクロ]]、オリンパス光学工業、[[伊勢丹]]、三井トラスト・ホールディングス、[[CSK]]、*[[JFEホールディングス]]、*[[新日鉱ホールディングス]]、*日本航空システム
|-
|style="white-space:nowrap"|2003年||*日本コムシス、ハザマ、[[東亜建設工業]] ||[[日揮]]、*[[コムシスホールディングス]]、[[コナミ]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2004年||[[メルシャン]]、[[不二越]]、[[日本車輌製造]] ||ソフトバンク、[[電通]]、[[日本ハム]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2005年||*[[東急百貨店]]、*山之内製薬、*藤沢薬品工業、△[[カネボウ (1887-2008)|カネボウ]]、*セブンイレブン・ジャパン、*イトーヨーカ堂、[[森永製菓]]、*[[三菱化学]]、*UFJホールディングス、*第一製薬、*[[三共 (製薬会社)|三共]] ||*[[アステラス製薬]]、[[中外製薬]]、[[ヤフー (企業)|ヤフー]]、[[三井化学]]、*[[セブン&アイ・ホールディングス]]、[[ファーストリテイリング]]、[[SBI新生銀行|新生銀行]]、スカイパーフェクト・コミュニケーションズ、[[T&Dホールディングス]]、*[[三菱ケミカルホールディングス]]、*[[第一三共]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2006年||*[[帝国石油]]、*[[トーメン]]、[[東映]]、日本製粉 ||*[[豊田通商]]、*[[国際石油開発帝石ホールディングス]]、東宝、[[東急不動産]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2007年||*スカイパーフェクト・コミュニケーションズ、[[日清オイリオグループ]]、トピー工業 ||*[[スカパーJSAT]]、[[J.フロント リテイリング]]、[[SUMCO]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2008年||*[[日興コーディアルグループ]]、*[[三越]]、*伊勢丹、*[[三井住友海上火災保険]]、*[[三菱UFJニコス]]、熊谷組、[[東亞合成]] ||[[ふくおかフィナンシャルグループ]]、[[ユニー]]、*[[三越伊勢丹ホールディングス]]、*[[三井住友海上グループホールディングス]]、[[松井証券]]、[[大平洋金属]]、[[日立建機]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2009年||*[[明治製菓]]、*[[明治乳業]] ||*[[明治ホールディングス]]、マルハニチロホールディングス
|-
|style="white-space:nowrap"|2010年||△日本航空、*[[新日本石油]]、*[[新日鉱ホールディングス]]、*[[損害保険ジャパン]]、*[[三菱レイヨン]]、クラリオン ||[[東海旅客鉄道]]、[[日新製鋼]]、*JXホールディングス、*NKSJホールディングス、[[日本電気硝子]]、[[東京建物]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2011年||*[[三洋電機]]、*[[パナソニック電工]]、*住友信託銀行、*[[みずほ信託銀行]]、*[[みずほ証券]]、*CSK ||[[安川電機]]、大日本スクリーン製造、[[第一生命保険]]、[[あおぞら銀行]]、[[ソニーフィナンシャルホールディングス]]、[[アマダ]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2012年||*[[住友金属工業]]、*日新製鋼、*[[日本軽金属]] ||[[トクヤマ]]、*[[日新製鋼ホールディングス]]、*[[日本軽金属ホールディングス]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2013年||*東急不動産、三菱製紙 ||[[日東電工]]、*[[東急不動産ホールディングス]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2014年||*マルハニチロホールディングス ||*[[マルハニチロ]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2015年||[[平和不動産]]、[[日東紡績]] ||[[ディー・エヌ・エー]]、[[長谷工コーポレーション]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2016年||*[[横浜銀行]]、↓[[シャープ]]、*ユニーグループ・ホールディングス、[[日本曹達]] ||*[[コンコルディア・フィナンシャルグループ]]、[[ヤマハ発動機]]、*[[ファミリーマート]]、[[楽天]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2017年||*ミツミ電機、↓[[東芝]]、北越紀州製紙、[[明電舎]] ||[[大塚ホールディングス]]、[[セイコーエプソン]]、[[リクルートホールディングス]]、[[日本郵政]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2018年||[[古河機械金属]]、*日新製鋼 ||[[サイバーエージェント]]、[[DIC (企業) |DIC]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2019年||△[[パイオニア]]、*[[昭和シェル石油]]、↓[[千代田化工建設]]、[[東京ドーム ]]||[[オムロン]]、*出光興産、[[バンダイナムコホールディングス]]、[[エムスリー]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2020年||△ソニーフィナンシャルホールディングス、[[日本化薬]]、△ファミリーマート、△NTTドコモ ||[[日本取引所グループ]]、[[ソフトバンク]]、[[ネクソン]]、シャープ
|-
|style="white-space:nowrap"|2021年||[[日清紡ホールディングス]]、[[東洋製缶グループホールディングス]]、[[スカパーJSATホールディングス]]、*日本通運 ||[[キーエンス]]、[[村田製作所]]、[[任天堂]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2022年||↓[[SBI新生銀行|新生銀行]]、*[[静岡銀行]]、[[ユニチカ]]、[[沖電気工業]]、[[マルハニチロ]]||*[[NIPPON EXPRESSホールディングス]]、[[オリックス (企業)|オリックス]]、[[ニデック (電機メーカー)|日本電産]]、[[HOYA]]、[[SMC]]、*[[しずおかフィナンシャルグループ]]
|-
|style="white-space:nowrap"|2023年||[[東洋紡]]、[[日本軽金属ホールディングス]]、[[東邦亜鉛]]、[[日本板硝子]]、[[三井E&S]]、[[松井証券]]||[[オリエンタルランド]]、[[ルネサスエレクトロニクス]]、[[日本航空]]、[[メルカリ]]、[[レーザーテック]]、[[ニトリホールディングス]]
|}
== 構成銘柄一覧 ==
日本経済新聞社のホームページ<ref>[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/component?idx=nk225 銘柄一覧 - 日経平均プロフィル]</ref>に一覧がある。
=== 食品(11銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|2002||[[日清製粉グループ本社]]||
|-
|2269||[[明治ホールディングス]]||
|-
|2282||[[日本ハム]]||
|-
|2501||[[サッポロホールディングス]]||
|-
|2502||[[アサヒグループホールディングス]]||
|-
|2503||[[キリンホールディングス]]||
|-
|2531||[[宝ホールディングス]]||
|-
|2801||[[キッコーマン]]||
|-
|2802||[[味の素]]||
|-
|2871||[[ニチレイ]]||
|-
|2914||[[日本たばこ産業]]||
|}
=== 繊維(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|3401||[[帝人]]||
|-
|3402||[[東レ]]||
|}
=== パルプ・紙(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|3861||[[王子ホールディングス]]||
|-
|3863||[[日本製紙]]||
|}
=== 化学工業(17銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|3405||[[クラレ]]||
|-
|3407||[[旭化成]]||
|-
|4004||[[レゾナック・ホールディングス]]||
|-
|4005||[[住友化学]]||
|-
|4021||[[日産化学]]||
|-
|4042||[[東ソー]]||
|-
|4043||[[トクヤマ]]||
|-
|4061||[[デンカ]]||
|-
|4063||[[信越化学工業]]||
|-
|4183||[[三井化学]]||
|-
|4188||[[三菱ケミカルホールディングス]]||
|-
|4208||[[UBE (企業)|UBE]]||
|-
|4452||[[花王]]||
|-
|4631||[[DIC (企業)|DIC]]||
|-
|4901||[[富士フイルムホールディングス]]||
|-
|4911||[[資生堂]]||
|-
|6988||[[日東電工]]||
|}
=== 医薬品(9銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|4151||[[協和キリン]]||
|-
|4502||[[武田薬品工業]]||
|-
|4503||[[アステラス製薬]]||
|-
|4506||[[住友ファーマ]]||
|-
|4507||[[塩野義製薬]]||
|-
|4519||[[中外製薬]]||
|-
|4523||[[エーザイ]]||
|-
|4568||[[第一三共]]||
|-
|4578||[[大塚ホールディングス]]||
|}
=== 石油(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|5019||[[出光興産]]||
|-
|5020||[[ENEOSホールディングス]]||
|}
=== ゴム(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|5101||[[横浜ゴム]]||
|-
|5108||[[ブリヂストン]]||
|}
=== 窯業(7銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|5201||[[AGC]]||
|-
|5214||[[日本電気硝子]]||
|-
|5232||[[住友大阪セメント]]||
|-
|5233||[[太平洋セメント]]||
|-
|5301||[[東海カーボン]]||
|-
|5332||[[TOTO (企業)|TOTO]]||
|-
|5333||[[日本碍子]]||
|}
=== 鉄鋼業(4銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|5401||[[日本製鉄]]||
|-
|5406||[[神戸製鋼所]]||
|-
|5411||[[JFEホールディングス]]||
|-
|5541||[[大平洋金属]]||
|}
=== 非鉄金属・金属製品(8銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|3436||[[SUMCO]]||
|-
|5706||[[三井金属鉱業]]||
|-
|5711||[[三菱マテリアル]]||
|-
|5713||[[住友金属鉱山]]||
|-
|5714||[[DOWAホールディングス]]||
|-
|5801||[[古河電気工業]]||
|-
|5802||[[住友電気工業]]||
|-
|5803||[[フジクラ]]||
|}
=== 機械(16銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|5631||[[日本製鋼所]]||
|-
|6103||[[オークマ]]||
|-
|6113||[[アマダ]]||
|-
|6273||[[SMC]]||
|-
|6301||[[小松製作所]]||
|-
|6302||[[住友重機械工業]]||
|-
|6305||[[日立建機]]||
|-
|6326||[[クボタ]]||
|-
|6361||[[荏原製作所]]||
|-
|6367||[[ダイキン工業]]||
|-
|6471||[[日本精工]]||
|-
|6472||[[NTN]]||
|-
|6473||[[ジェイテクト]]||
|-
|7004||[[日立造船]]||
|-
|7011||[[三菱重工業]]||
|-
|7013||[[IHI]]||
|}
=== 電気機器(31銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|6479||[[ミネベアミツミ]]||
|-
|6501||[[日立製作所]]||
|-
|6503||[[三菱電機]]||
|-
|6504||[[富士電機]]||
|-
|6506||[[安川電機]]||
|-
|6594||[[ニデック (電機メーカー)|ニデック]]||
|-
|6645||[[オムロン]]||
|-
|6674||[[ジーエス・ユアサ コーポレーション]]||
|-
|6701||[[日本電気]]||
|-
|6702||[[富士通]]||
|-
|6723||[[ルネサスエレクトロニクス]]||
|-
|6724||[[セイコーエプソン]]||
|-
|6752||[[パナソニックホールディングス]]||
|-
|6753||[[シャープ]]||
|-
|6758||[[ソニーグループ]]||
|-
|6762||[[TDK]]||
|-
|6770||[[アルプスアルパイン]]||
|-
|6841||[[横河電機]]||
|-
|6857||[[アドバンテスト]]||
|-
|6861||[[キーエンス]]||
|-
|6902||[[デンソー]]||
|-
|6920||[[レーザーテック]]||
|-
|6952||[[カシオ計算機]]||
|-
|6954||[[ファナック]]||
|-
|6971||[[京セラ]]||
|-
|6976||[[太陽誘電]]||
|-
|6981||[[村田製作所]]||
|-
|7735||[[SCREENホールディングス]]||
|-
|7751||[[キヤノン]]||
|-
|7752||[[リコー]]||
|-
|8035||[[東京エレクトロン]]||
|}
=== 造船(1銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|7012||[[川崎重工業]]||
|}
=== 自動車・自動車部品(10銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|7201||[[日産自動車]]||
|-
|7202||[[いすゞ自動車]]||
|-
|7203||[[トヨタ自動車]]||
|-
|7205||[[日野自動車]]||
|-
|7211||[[三菱自動車工業]]||
|-
|7261||[[マツダ]]||
|-
|7267||[[本田技研工業]]||
|-
|7269||[[スズキ (企業)|スズキ]]||
|-
|7270||[[SUBARU]]||
|-
|7272||[[ヤマハ発動機]]||
|}
=== 精密機器(6銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|4543||[[テルモ]]||
|-
|4902||[[コニカミノルタ]]||
|-
|7731||[[ニコン]]||
|-
|7733||[[オリンパス]]||
|-
|7741||[[HOYA]]||
|-
|7762||[[シチズン時計]]||
|}
=== その他製造(4銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|7832||[[バンダイナムコホールディングス]]||
|-
|7911||[[TOPPANホールディングス]]||
|-
|7912||[[大日本印刷]]||
|-
|7951||[[ヤマハ]]||
|}
=== 水産(1銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|1332||[[ニッスイ]]||
|}
=== 鉱業(1銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|1605||[[INPEX]]||
|}
=== 建設(9銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|1721||[[コムシスホールディングス]]||
|-
|1801||[[大成建設]]||
|-
|1802||[[大林組]]||
|-
|1803||[[清水建設]]||
|-
|1808||[[長谷工コーポレーション]]||
|-
|1812||[[鹿島建設]]||
|-
|1925||[[大和ハウス工業]]||
|-
|1928||[[積水ハウス]]||
|-
|1963||[[日揮ホールディングス]]||
|}
=== 商社(7銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|2768||[[双日]]||
|-
|8001||[[伊藤忠商事]]||
|-
|8002||[[丸紅]]||
|-
|8015||[[豊田通商]]||
|-
|8031||[[三井物産]]||
|-
|8053||[[住友商事]]||
|-
|8058||[[三菱商事]]||
|}
=== 小売業(8銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|3086||[[J.フロント リテイリング]]||
|-
|3099||[[三越伊勢丹ホールディングス]]||
|-
|3382||[[セブン&アイ・ホールディングス]]||
|-
|8233||[[髙島屋]]||
|-
|8252||[[丸井グループ]]||
|-
|8267||[[イオン (企業)|イオン]]||
|-
|9843||[[ニトリホールディングス]]||
|-
|9983||[[ファーストリテイリング]]||
|}
=== 銀行(10銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|5831||[[しずおかフィナンシャルグループ]]||
|-
|7186||[[コンコルディア・フィナンシャルグループ]]||
|-
|8304||[[あおぞら銀行]]||
|-
|8306||[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]||
|-
|8308||[[りそなホールディングス]]||
|-
|8309||[[三井住友トラスト・ホールディングス]]||
|-
|8316||[[三井住友フィナンシャルグループ]]||
|-
|8331||[[千葉銀行]]||
|-
|8354||[[ふくおかフィナンシャルグループ]]||
|-
|8411||[[みずほフィナンシャルグループ]]||
|}
=== 証券(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|8601||[[大和証券グループ本社]]||
|-
|8604||[[野村ホールディングス]]||
|}
=== 保険(5銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|8630||[[SOMPOホールディングス]]||
|-
|8725||[[MS&ADインシュアランスグループホールディングス]]||
|-
|8750||[[第一生命ホールディングス]]||
|-
|8766||[[東京海上ホールディングス]]||
|-
|8795||[[T&Dホールディングス]]||
|}
=== その他の金融(3銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|8253||[[クレディセゾン]]||
|-
|8591||[[オリックス (企業)|オリックス]]||
|-
|8697||[[日本取引所グループ]]||
|}
=== 不動産(5銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|3289||[[東急不動産ホールディングス]]||
|-
|8801||[[三井不動産]]||
|-
|8802||[[三菱地所]]||
|-
|8804||[[東京建物]]||
|-
|8830||[[住友不動産]]||
|}
=== 鉄道・バス(8銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9001||[[東武鉄道]]||
|-
|9005||[[東急]]||
|-
|9007||[[小田急電鉄]]||
|-
|9008||[[京王電鉄]]||
|-
|9009||[[京成電鉄]]||
|-
|9020||[[東日本旅客鉄道]]||
|-
|9021||[[西日本旅客鉄道]]||
|-
|9022||[[東海旅客鉄道]]||
|}
=== 陸運(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9064||[[ヤマトホールディングス]]||
|-
|9147||[[NIPPON EXPRESSホールディングス]]||
|}
=== 海運(3銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9101||[[日本郵船]]||
|-
|9104||[[商船三井]]||
|-
|9107||[[川崎汽船]]||
|}
=== 空運(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9201||[[日本航空]]||
|-
|9202||[[ANAホールディングス]]||
|}
=== 倉庫・運輸関連(1銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9301||[[三菱倉庫]]||
|}
=== 情報・通信(5銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9432||[[日本電信電話]]||
|-
|9433||[[KDDI]]||
|-
|9434||[[ソフトバンク]]||
|-
|9613||[[NTTデータ]]||
|-
|9984||[[ソフトバンクグループ]]||
|}
=== 電力(3銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9501||[[東京電力ホールディングス]]||
|-
|9502||[[中部電力]]||
|-
|9503||[[関西電力]]||
|}
=== ガス(2銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|9531||[[東京ガス]]||
|-
|9532||[[大阪ガス]]||
|}
=== サービス業(16銘柄) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!証券コード!!銘柄!!備考
|-
|2413||[[エムスリー]]||
|-
|2432||[[ディー・エヌ・エー]]||
|-
|3659||[[ネクソン]]||
|-
|4324||[[電通グループ]]||
|-
|4385||[[メルカリ]]||
|-
|4661||[[オリエンタルランド]]||
|-
|4689||[[LINEヤフー]]||
|-
|4704||[[トレンドマイクロ]]||
|-
|4751||[[サイバーエージェント]]||
|-
|4755||[[楽天グループ|楽天]]||
|-
|6098||[[リクルートホールディングス]]||
|-
|6178||[[日本郵政]]||
|-
|7974||[[任天堂]]||
|-
|9602||[[東宝]]||
|-
|9735||[[セコム]]||
|-
|9766||[[コナミホールディングス]]||
|}
== 各種記録 ==
{{独自研究|section=1|date=2012年3月}}
=== 日次の推移 ===
<table class="wikitable">
<tr>
<th>項目
<th>該当日・解説
<tr>
<td style="white-space:nowrap">1日最大の上昇幅
<td>1990年10月2日 +2,676.55円 終値22,898.41円 (+13.24%)。上昇率でも算出開始以来2番目の数値。[[バブル景気]]が崩壊しかけていた時期で、前日に2万円を割り込んだ反動と、[[橋本龍太郎]]大蔵大臣(当時)の株価対策発表による。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">1日最大の上昇率
<td>2008年10月14日 +14.15% 終値9,447.57円 (+1,171.14円)。[[世界金融危機 (2007年-)]]が起こっていた時期で、前週に1週間で3000円以上下落していた反動に加え、取引前日に相次いで発表された[[G7]]各国の金融危機回避策が好感されたため。
歴代上昇率上位10位
2021年2月現在<ref name="nikkei">{{Cite web|和書|url=http://indexes.nikkei.co.jp/nkave/archives/data|title=日経平均資料室 > 日次・月次・年次データ|accessdate=2021-3-9}}</ref>。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!順位!!年月日!!前日終値(円)!!当日終値(円)!!上昇率(%)
|-
|1||2008年10月14日||8,276.43||9,447.57||+14.15
|-
|2||1990年10月{{0}}2日||20,221.86||22,898.41||+13.24
|-
|3||1949年12月15日||98.50||109.62||+11.29
|-
|4||2008年10月30日||8,211.90||9,029.76||+9.96
|-
|5||1987年10月21日||21,910.08||23,947.40||+9.30
|-
|6
|2020年{{0}}3月25日
|18,092.35
|19,546.63
| +8.04
|-
|7
|1997年11月17日
|15,082.52
|16,283.32
| +7.96
|-
|8
|1994年{{0}}1月31日
|18,757.88
|20,229.12
| +7.84
|-
|9
|2008年10月29日
|7,621.92
|8,211.90
| +7.74
|-
|10
|2015年{{0}}9月{{0}}9日
|17,427.08
|18,770.51
| +7.71
|}
<tr>
<td style="white-space:nowrap">1日最大の下落幅
<td>1987年10月20日 -3,836.48円 終値21,910.08円 (-14.90%)。[[ブラックマンデー]]のため(東証1部銘柄の約49%がストップ安)。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">1日最大の下落率
<td>1987年10月20日 -14.90% 終値21,910.08円 (-3,836.48円)。ブラックマンデーのため。
歴代下落率上位10位
2021年2月現在<ref name="nikkei" /><ref>2010年12月31日付 日経朝刊13面</ref>。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!順位!!年月日!!前日終値(円)!!当日終値(円)!!下落率(%)
|-
|1||1987年10月20日||25,746.56||21,910.08||-14.90
|-
|2||2008年10月16日||9,547.47||8,458.45||-11.41
|-
|3||2011年{{0}}3月15日||9,620.49||8,605.15||-10.55
|-
|4||1953年{{0}}3月{{0}}5日||378.24||340.41||-10.00
|-
|5||2008年10月10日||9,157.49||8,276.43||-9.62
|-
|6
|2008年10月24日
|8,460.98
|7,649.08
| -9.60
|-
|7
|2008年10月{{0}}8日
|10,155.90
|9,203.32
| -9.38
|-
|8
|1970年{{0}}4月30日
|2,315.43
|2,114.32
| -8.69
|-
|9
|2016年{{0}}6月24日
|16,238.35
|14,952.02
| -7.92
|-
|10
|1971年{{0}}8月16日
|2,740.98
|2,530.48
| -7.68
|}
</table>
=== 年次の推移 ===
2020年末現在。
{|class="wikitable sortable" style="text-align:right"
!年!!前年大納会<br>終値(円)!!当年大納会<br>終値(円)!!騰落率<br>(%)
|-
|1950年||109.91||101.91||-7.28
|-
|1951年||101.91||166.06||+62.95
|-
|1952年||166.06||362.64||+118.38
|-
|1953年||362.64||377.95||+4.22
|-
|1954年||377.95||356.09||-5.78
|-
|1955年||356.09||425.69||+19.55
|-
|1956年||425.69||549.14||+29.00
|-
|1957年||549.14||474.55||-13.58
|-
|1958年||474.55||666.54||+40.46
|-
|1959年||666.54||874.88||+31.26
|-
|1960年||874.88||1,356.71||+55.07
|-
|1961年||1,356.71||1,432.60||+5.59
|-
|1962年||1,432.60||1,420.43||-0.85
|-
|1963年||1,420.43||1,225.10||-13.75
|-
|1964年||1,225.10||1,216.55||-0.70
|-
|1965年||1,216.55||1,417.83||+16.55
|-
|1966年||1,417.83||1,452.10||+2.42
|-
|1967年||1,452.10||1,283.47||-11.61
|-
|1968年||1,283.47||1,714.89||+33.61
|-
|1969年||1,714.89||2,358.96||+37.56
|-
|1970年||2,358.96||1,918.14||-18.69
|-
|1971年||1,918.14||2,713.74||+41.48
|-
|1972年||2,713.74||5,207.94||+91.91
|-
|1973年||5,207.94||4,306.80||-17.30
|-
|1974年||4,306.80||3,817.22||-11.37
|-
|1975年||3,817.22||4,358.60||+14.18
|-
|1976年||4,358.60||4,990.85||+14.51
|-
|1977年||4,990.85||4,865.60||-2.51
|-
|1978年||4,865.60||6,001.85||+23.35
|-
|1979年||6,001.85||6,569.47||+9.46
|-
|1980年||6,569.47||7,116.38||+8.33
|-
|1981年||7,116.38||7,681.84||+7.95
|-
|1982年||7,681.84||8,016.67||+4.36
|-
|1983年||8,016.67||9,893.82||+23.42
|-
|1984年||9,893.82||11,542.60||+16.66
|-
|1985年||11,542.60||13,113.32||+13.61
|-
|1986年||13,113.32||18,701.30||+42.61
|-
|1987年||18,701.30||21,564.00||+15.31
|-
|1988年||21,564.00||30,159.00||+29.04
|-
|1989年||30,159.00||38,915.87||+29.04
|-
|1990年||38,915.87||23,848.71||-38.72
|-
|1991年||23,848.71||22,983.77||-3.63
|-
|1992年||22,983.77||16,924.95||-26.36
|-
|1993年||16,924.95||17,417.24||+2.91
|-
|1994年||17,417.24||19,723.06||+13.24
|-
|1995年||19,723.06||19,868.15||+0.74
|-
|1996年||19,868.15||19,361.35||-2.55
|-
|1997年||19,361.35||15,258.74||-21.19
|-
|1998年||15,258.74||13,842.17||-9.28
|-
|1999年||13,842.17||18,934.34||+36.79
|-
|2000年||18,934.34||13,785.69||-27.19
|-
|2001年||13,785.69||10,542.62||-23.52
|-
|2002年||10,542.62||8,578.95||-18.63
|-
|2003年||8,578.95||10,676.64||+24.45
|-
|2004年||10,676.64||11,488.76||+7.61
|-
|2005年||11,488.76||16,111.43||+40.24
|-
|2006年||16,111.43||17,225.83||+6.92
|-
|2007年||17,225.83||15,307.78||-11.13
|-
|2008年||15,307.78||8,859.56||-42.12
|-
|2009年||8,859.56||10,546.44||+19.04
|-
|2010年||10,546.44||10,222.92||-3.01
|-
|2011年||10,228.92||8,455.35||-17.34
|-
|2012年||8,455.35||10,395.18||+22.94
|-
|2013年||10,395.18||16,291.31||+56.72
|-
|2014年||16,291.31||17,450.77||+7.12
|-
|2015年||17,450.77||19,033.71||+9.07
|-
|2016年||19,033.71||19,114.37||+0.42
|-
|2017年||19,114.37||22,764.94||+19.10
|-
|2018年||22,764.94||20,014.77||-12.08
|-
|2019年
|20,014.77
|23,656.62
| +18.20
|-
|2020年
|23,656.62
|27,444.17
| +16.01
|}
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!年!!大発会始値(円)!!年間最高値(円)!!年間最安値(円)!!大納会終値(円)
|-
|1986年||13,130.37||18,996.12||12,871.89||18,701.30
|-
|1987年||18,702.64||26,646.81||18,525.86||21,564.00
|-
|1988年||21,551.20||30,264.36||21,148.26||30,159.00
|-
|1989年||30,165.52||38,957.44||30,082.81||38,915.87
|-
|1990年||38,921.65||38,950.77||19,781.70||23,848.71
|-
|1991年||23,827.48||27,270.33||21,123.90||22,983.77
|-
|1992年||23,030.66||23,901.89||14,194.40||16,924.95
|-
|1993年||16,980.23||21,281.03||15,671.97||17,417.24
|-
|1994年||17,421.64||21,573.21||17,242.32||19,723.06
|-
|1995年||19,724.76||20,023.52||14,295.90||19,868.15
|-
|1996年||19,945.68||22,750.70||18,819.92||19,361.35
|-
|1997年||19,364.24||20,910.79||14,488.21||15,258.74
|-
|1998年||15,268.93||17,352.95||12,787.90||13,842.17
|-
|1999年||13,779.05||19,036.08||13,122.61||18,934.34
|-
|2000年||18,937.45||20,833.21||13,182.51||13,785.69
|-
|2001年||13,898.09||14,556.11||9,382.95||10,542.62
|-
|2002年||10,631.00||12,081.43||8,197.22||8,578.95
|-
|2003年||8,669.89||11,238.63||7,603.76||10,676.64
|-
|2004年||10,787.83||12,195.66||10,299.43||11,488.76
|-
|2005年||11,458.27||16,445.56||10,770.58||16,111.43
|-
|2006年||16,294.65||17,563.37||14,045.53||17,225.83
|-
|2007年||17,322.50||18,300.39||14,669.85||15,307.78
|-
|2008年||15,155.73||15,156.66||6,994.90||8,859.56
|-
|2009年||8,991.21||10,767.00||7,021.28||10,546.44
|-
|2010年||10,654.79||11,339.30||8,824.06||10,228.92
|-
|2011年||10,398.10||10,857.53||8,160.01||8,455.35
|-
|2012年||8,560.11||10,395.18||8,295.63||10,395.18
|-
|2013年||10,688.11||16,320.22||10,398.61||16,291.31
|-
|2014年||16,147.54||18,030.83||13,885.11||17,450.77
|-
|2015年||17,325.68||20,952.71||16,592.57||19,033.71
|-
|2016年||18,818.58||19,592.90||14,864.01||19,114.37
|-
|2017年||19,298.68||23,382.15||18,224.68||22,764.94
|-
|2018年
|23,506.33
|24,270.62
|19,155.74
|20,014.77
|-
|2019年
|19,561.96
|24,066.12
|19,561.96
|23,656.62
|}
<!--その年が終了するまで、更新しないことを原則としてください。ノートも参照。-->
<table class=wikitable>
<tr>
<th>項目
<th>該当年・解説
<tr>
<td style="white-space:nowrap">1年の最大の上昇率
<td>1952年 +118.38% 大発会終値166.06円 大納会終値362.34円 (+196.28円)。戦後初の株式ブームによる<ref>{{Cite web|和書|title=1950年代:戦後初の大暴落へ|url=http://indexes.nikkei.co.jp/atoz/2016/06/1950s.html|website=日経平均 読む・知る・学ぶ|accessdate=2021-04-03|language=ja}}</ref>。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">1年の最大の下落率
<td>2008年 -42.1% 大発会終値15,155.73円 大納会終値8,859.56円 (-6296.17円)。[[リーマンショック]]のため。
</table>
=== その他の記録 ===
<!--連日更新するような状況になったら一旦コメントアウトで-->
<table class=wikitable>
<tr>
<th>項目
<th>解説
<tr>
<td style="white-space:nowrap">連騰日数
<td>
*2017年10月2日 - 2017年10月24日 (16営業日) 20,400.51円 - 21,805.17円。2017年10月20日日経平均株価は21,457.64円であり56年9か月ぶりに戦後最長に並んだ。そして2017年10月23日には前日の[[第48回衆議院議員総選挙]]で与党が大勝したことによる好感触を受け日経平均株価は21,696.65円を記録し戦後最長を更新する15営業日連騰となった。
*1960年12月21日 - 1961年1月11日 (14営業日) 1,287.89円 - 1,403.06円 (+8.94%)。日本では[[岩戸景気]]の好景気期にあった。その後も上昇を続け、半年後の7月18日には1,829.74円まで値を上げた。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">続落日数
<td>
*1954年4月28日 - 1954年5月18日 (15営業日) 351.67円 - 323.92円 (-7.89%)。日本では[[朝鮮特需]]の終結による反動不況が続いていた時期である。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">史上最安値
<td>
*1950年7月6日 終値 85.25円。[[ドッジ・ライン]]の影響。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">バブル崩壊後最安値
<td>
*2008年10月28日 10:17 最安値 6,994.90円
*2009年3月10日 終値 7,054.98円。[[リーマン・ショック]]による。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">史上最高値
<td>
*1989年12月29日 09:04 最高値 38,957.44円。[[バブル景気]]による。
*1989年12月29日 終値 38,915.87円。バブル景気による。
<tr>
<td style="white-space:nowrap">バブル崩壊後最高値
<td>
*2023年11月20日 最高値 33,853.46円
*2023年7月3日 終値 33,753.33円
<tr>
<td style="white-space:nowrap">証券取引法に基づく証券取引所開所による初立会
<td>
*1949年5月16日 終値 176.21円
</table>
== ETF・投資信託・先物 ==
{| class="wikitable floatright" style="text-align: right;"
|+ 過去10年間の利回り
! 銘柄 !! レバレッジ !! 年率
|-
! NEXT FUNDS 日経225連動型上場投信
| 1倍 || 9.75%<ref>[https://www.nikkei.com/nkd/fund/performance/?fcode=01311017 NEXT FUNDS 日経225連動型上場投信 01311017 : 投資信託 : 運用実績 - 日本経済新聞]</ref>
|-
! NEXT FUNDS 日経平均レバレッジ上場投信
| 2倍 || 14.38%<ref>[https://www.nikkei.com/nkd/fund/performance/?fcode=01315124 NEXT FUNDS 日経平均レバレッジ・インデックス連動型上場投信 01315124 : 投資信託 : 運用実績 - 日本経済新聞]</ref>
|-
! 楽天日本株トリプル・ブル
| 3倍 || 15.64%<ref>[https://www.nikkei.com/nkd/fund/performance/?fcode=9I311096 楽天日本株トリプル・ブル 9I311096 : 投資信託 : 運用実績 - 日本経済新聞]</ref>
|-
| colspan="3" | 2023年11月末現在。円建て、配当込み。
|}
日経平均株価に連動する[[上場投資信託|ETF]]としては下記のものが[[東京証券取引所]]に上場している<ref>[https://www.jpx.co.jp/equities/products/etfs/issues/01-01.html 銘柄一覧(ETF) | 日本取引所グループ]</ref>。
* ダイワ上場投信-日経225(1320)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/5840/detail_top.html ダイワ上場投信−日経225 / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
* NEXT FUNDS 日経225連動型上場投信(1321)<ref>[https://nextfunds.jp/lineup/1321/ NEXT FUNDS 日経225連動型上場投信(1321) | NEXT FUNDS]</ref>
* [[iシェアーズ]]・コア 日経225 ETF(1329)<ref>[https://www.blackrock.com/jp/individual/ja/products/251897/ishares-nikkei-225-etf iシェアーズ・コア 日経225 ETF]</ref>
* 上場インデックスファンド225(1330)<ref>[https://www.nikkoam.com/products/etf/lineup/225 1330 - 上場インデックスファンド 225(上場225) | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント]</ref>
* MAXIS 日経225上場投信(1346)<ref>[https://maxis.mukam.jp/etf_fund/181346.html MAXIS 日経225上場投信 | MAXIS]</ref>
* One ETF 日経225(1369)<ref>[http://www.am-one.co.jp/fund/summary/313000/ One ETF 日経225|ファンド情報|アセットマネジメントOne]</ref>
* SMDAM 日経225上場投信(1397)<ref>[https://www.smd-am.co.jp/fund/190209/ SMDAM 日経225上場投信 | ファンド概要 | ファンド | 三井住友DSアセットメントマネジメント]</ref>
* 上場インデックスファンド日経225(ミニ)(1578)<ref>[https://www.nikkoam.com/products/etf/lineup/225mini 1578 - 上場インデックスファンド日経225(ミニ)(上場日経225(ミニ)) | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント]</ref> - 取引単位が他の10分の1。
* NZAM 上場投信 日経225(2525)<ref>[https://www.ja-asset.co.jp/fund/140835/index 農林中金全共連アセットマネジメント| 詳細]</ref>
* iFreeETF 日経225(年4回決算型)(2624)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3517/detail_top.html iFreeETF 日経225(年4回決算型) / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> - 配当が年1回ではなく年4回
[[レバレッジ]]型・インバース型のETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している<ref>[https://www.jpx.co.jp/equities/products/etfs/leveraged-inverse/01.html 銘柄一覧(レバレッジ型・インバース型商品) | 日本取引所グループ]</ref>。これらは2012年4月から上場し始めた<ref>{{PDFlink|[https://www.nomuraholdings.com/jp/news/nr/etc/20120412/nam20120412.pdf 野村アセットマネジメント、「日経レバレッジ指数ETF」、「日経インバース指数ETF」を新規上場]}}</ref>。
* [[野村アセットマネジメント]]
** NEXT FUNDS 日経平均レバレッジ・インデックス連動型上場投信(1570)(2倍)<ref>[https://nextfunds.jp/lineup/1570/ NEXT FUNDS 日経平均レバレッジ・インデックス連動型上場投信(1570) | NEXT FUNDS]</ref>
** NEXT FUNDS 日経平均インバース・インデックス連動型上場投信(1571)(-1倍)<ref>[https://nextfunds.jp/lineup/1571/ NEXT FUNDS 日経平均インバース・インデックス連動型上場投信(1571) | NEXT FUNDS]</ref>
** NEXT FUNDS 日経平均ダブルインバース・インデックス連動型上場投信(1357)(-2倍)<ref>[https://nextfunds.jp/lineup/1357/ NEXT FUNDS 日経平均ダブルインバース・インデックス連動型上場投信(1357) | NEXT FUNDS]</ref>
*[[日興アセットマネジメント]]
** 上場インデックスファンド日経レバレッジ指数(1358)(2倍)<ref>[https://www.nikkoam.com/products/etf/lineup/nleveraged 1358 - 上場インデックスファンド日経レバレッジ指数(上場日経2倍) | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント]</ref>
* 大和アセットマネジメント
** ダイワ上場投信-日経平均レバレッジ・インデックス(1365)(2倍)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3501/detail_top.html ダイワ上場投信-日経平均レバレッジ・インデックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
** ダイワ上場投信-日経平均インバース・インデックス(1456)(-1倍)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3505/detail_top.html ダイワ上場投信-日経平均インバース・インデックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
** ダイワ上場投信-日経平均ダブルインバース・インデックス(1366)(-2倍)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3502/detail_top.html ダイワ上場投信-日経平均ダブルインバース・インデックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
* [[楽天投信投資顧問]]
** 楽天ETF-日経レバレッジ指数連動型(1458)(2倍)<ref>[https://www.rakuten-toushin.co.jp/fund/nav/225bull/ 楽天ETF-日経レバレッジ指数連動型 | 投資信託・ETFのご案内 | 投資信託・ETFなら楽天投信投資顧問]</ref>
** 楽天ETF-日経ダブルインバース指数連動型(1459)(-2倍)<ref>[https://www.rakuten-toushin.co.jp/fund/nav/225bear/ 楽天ETF-日経ダブルインバース指数連動型 | 投資信託・ETFのご案内 | 投資信託・ETFなら楽天投信投資顧問]</ref>
* [[シンプレクス・ファイナンシャル・ホールディングス|シンプレクス・アセット・マネジメント]]
** 日経平均ブル2倍上場投信(1579)(2倍)<ref>[https://www.simplexasset.com/etf/etf1579.html 日経平均ブル2倍ETF|レバレッジETF|シンプレクス]</ref>
** 日経平均ベア上場投信(1580)(-1倍)<ref>[https://www.simplexasset.com/etf/etf1580.html 日経平均ベアETF|インバースETF|シンプレクス]</ref>
** 日経平均ベア2倍上場投信(1360)(-2倍)<ref>[https://www.simplexasset.com/etf/etf1360.html 日経平均ベア2倍ETF|ダブルインバースETF|シンプレクス]</ref>
日本の[[投資信託]]としては下記がある。下記以外にも多数ある。
* [[三菱UFJ国際投信]]
** eMAXIS Slim 国内株式(日経平均)<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/253144.html eMAXIS Slim 国内株式(日経平均) | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref>
** eMAXIS 日経225インデックス<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/250874.html eMAXIS 日経225インデックス | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref>
** インデックスファンド225<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/924018.html インデックスファンド225 | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref>
** 三菱UFJ インデックス225オープン<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/150222.html 三菱UFJ インデックス225オープン | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref>
** つみたて日本株式(日経平均)<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/252929.html つみたて日本株式(日経平均) | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref>
** 夢楽章 日経平均オープン<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/550020.html 夢楽章 日経平均オープン | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref>
* [[野村アセットマネジメント]]
** Funds-i 野村インデックスファンド・日経225<ref>[https://www.nomura-am.co.jp/fund/funddetail.php?fundcd=140518 野村インデックスファンド・日経225(愛称:Funds-i 日経225) | 投資信託情報 | 野村アセットマネジメント]</ref>
** 株式インデックス225<ref>[https://www.nomura-am.co.jp/fund/funddetail.php?fundcd=140031 株式インデックス225 | 投資信託情報 | 野村アセットマネジメント]</ref>
** 積立て株式ファンド<ref>[https://www.nomura-am.co.jp/fund/funddetail.php?fundcd=140004 積立て株式ファンド(愛称:MIP(Monthly Investment Plan)) | 投資信託情報 | 野村アセットマネジメント]</ref>
* [[ニッセイアセットマネジメント]]
** ニッセイ日経225インデックスファンド<ref>{{Cite web|和書|title=ニッセイ日経225インデックスファンド|投資信託のニッセイアセットマネジメント |url=https://www.nam.co.jp/fundinfo/nn225/main.html |website=ニッセイアセットマネジメント株式会社 |access-date=2022-10-07 |language=ja}}</ref>
** <購入・換金手数料なし>ニッセイ日経平均インデックスファンド<ref>{{Cite web|和書|title=<購入・換金手数料なし>ニッセイ日経平均インデックスファンド|投資信託のニッセイアセットマネジメント |url=https://www.nam.co.jp/fundinfo/nnhif/main.html |website=ニッセイアセットマネジメント株式会社 |access-date=2022-10-07 |language=ja}}</ref>
* [[日興アセットマネジメント]]
** インデックスファンド225<ref>[https://www.nikkoam.com/fund/detail/39187 インデックスファンド225 | 日興アセットマネジメント]</ref>
** インデックスファンド225(日本株式)<ref>[https://www.nikkoam.com/fund/detail/358304 インデックスファンド225(日本株式) | 日興アセットマネジメント]</ref>
* 大和アセットマネジメント
** 大和 ストックインデックス225ファンド<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/3225/detail_top.html 大和 ストック インデックス 225 ファンド / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
** ストックインデックスファンド225<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/0805/detail_top.html ストック インデックス ファンド225 / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
** ダイワ・ノーロード 日経225ファンド<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/4633/detail_top.html ダイワ・ノーロード 日経225ファンド / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
** D-I's 日経225インデックス<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/3227/detail_top.html D-I’s 日経225インデックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
** iFree 日経225インデックス<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/3308/detail_top.html iFree 日経225インデックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref>
* 農林中金全共連アセットマネジメント
** 農中日経225オープン<ref>[https://www.ja-asset.co.jp/fund/140816/index 農中日経225オープン 農林中金全共連アセットマネジメント| 詳細]</ref>
** 農林中金<パートナーズ>つみたてNISA日本株式 日経225<ref>[https://www.ja-asset.co.jp/fund/140830/index 農林中金<パートナーズ>つみたてNISA日本株式 日経225 農林中金全共連アセットマネジメント| 詳細]</ref>
* PayPay投信 日経225インデックス<ref>[https://www.paypay-am.co.jp/funds/index_nk225/index.html PayPay投信 日経225インデックス - 商品詳細│PayPayアセットマネジメント]</ref>
日本のレバレッジ型やインバース型の投資信託としては下記がある。
* 楽天投信投資顧問
** 楽天日本株トリプル・ブル(3倍)<ref>[https://www.rakuten-toushin.co.jp/fund/nav/ribla/ 楽天日本株トリプル・ブル | 投資信託・ETFのご案内 | 投資信託・ETFなら楽天投信投資顧問]</ref>
** 楽天日本株トリプル・ベアⅣ(-3倍)<ref>[https://www.rakuten-toushin.co.jp/fund/nav/riba4/ 楽天日本株トリプル・ベアⅣ | 投資信託・ETFのご案内 | 投資信託・ETFなら楽天投信投資顧問]</ref>
** 楽天日本株4.3倍ブル(4.3倍)<ref>[https://www.rakuten-toushin.co.jp/fund/nav/ribla43/ 楽天日本株4.3倍ブル | 投資信託・ETFのご案内 | 投資信託・ETFなら楽天投信投資顧問]</ref>
** 楽天日本株3.8倍ベア(-3.8倍)<ref>[https://www.rakuten-toushin.co.jp/fund/nav/ribe38/ 楽天日本株3.8倍ベア; | 投資信託・ETFのご案内 | 投資信託・ETFなら楽天投信投資顧問]</ref>
* SBIアセットマネジメント
** SBI 日本株4.3ブル(4.3倍)<ref>[http://apl.morningstar.co.jp/webasp/sbi_am/pc/basic/sa_2017121901.html SBI 日本株4.3ブル ファンド詳細│投資信託│SBIアセットマネジメント]</ref>
** SBI 日本株3.7ベアⅢ(-3.7倍)<ref>[http://apl.morningstar.co.jp/webasp/sbi_am/pc/basic/sa_2018050901.html SBI 日本株3.7ベアⅢ ファンド詳細│投資信託│SBIアセットマネジメント]</ref>
** SBI 日本株3.8ベア(-3.8倍)<ref>[http://apl.morningstar.co.jp/webasp/sbi_am/pc/basic/sa_2020031701.html SBI 日本株3.8ベア ファンド詳細│投資信託│SBIアセットマネジメント]</ref>
[[株価指数先物取引|先物]]は下記に上場している。詳細は[[日経225先物取引]]を参照。
* [[大阪取引所]]
** 日経225先物 - 取引単位は指数の数値×1,000円。呼値の単位は10ポイント。<ref>[https://www.jpx.co.jp/derivatives/products/domestic/225futures/index.html 日経225先物 | 日本取引所グループ]</ref>
** 日経225mini - 取引単位は指数の数値×100円。呼値の単位は5ポイント。<ref>[https://www.jpx.co.jp/derivatives/products/domestic/225mini/index.html 日経225mini | 日本取引所グループ]</ref>
* [[シカゴ・マーカンタイル取引所]]
** Nikkei/USD - 取引単位は指数の数値×$5。呼値の単位は5ポイント。<ref>[https://www.cmegroup.com/markets/equities/international-indices/nikkei-225-dollar.contractSpecs.html Nikkei/USD Futures Contract Specs - CME Group]</ref>
** Nikkei/Yen - 取引単位は指数の数値×500円。呼値の単位は5ポイント。<ref>[https://www.cmegroup.com/markets/equities/international-indices/nikkei-225-yen.contractSpecs.html Nikkei/Yen Futures Contract Specs - CME Group]</ref>
* [[シンガポール証券取引所]]
** SGX Nikkei 225 Index - 取引単位は指数の数値×500円。呼値の単位は5ポイント。<ref>[https://www.sgx.com/derivatives/products/nikkei225futuresoptions?cc=NK Nikkei 225 Index Futures and Options - Singapore Exchange (SGX)]</ref>
** SGX Mini Nikkei 225 Index - 取引単位は指数の数値×100円。呼値の単位は1ポイント。<ref>[https://www.sgx.com/derivatives/products/nikkei225futuresoptions?cc=NS Nikkei 225 Index Futures and Options - Singapore Exchange (SGX)]</ref>
** SGX USD Nikkei 225 Index - 取引単位は指数の数値×$5。呼値の単位は5ポイント。<ref>[https://www.sgx.com/derivatives/products/nikkei225futuresoptions?cc=NU SGX USD Nikkei 225 Index]</ref>
日本の取引所CFDの[[くりっく株365]]に上場している。
* 日経225リセット付証拠金取引 - 取引単位は指数の数値×100円。呼値の単位は1ポイント。<ref>[https://www.clickkabu365.jp/about_cfd/about_cfd14.html 取扱商品|取引概要|くりっく株365とは?|くりっく株365公式ホームページ]</ref>
店頭[[差金決済取引|CFD]]として取り扱っている証券会社もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
* [[株価指数]]
* [[日本株30]] - 毎日新聞の平均株価指標
* [[日経JAPAN1000]] - 日本経済新聞による時価総額上位1000銘柄より算出した株価指数
* [[JPX日経インデックス400]]
* [[株式]]
* [[株価]]
* [[日経225先物取引]]
* [[日経225オプション取引]]
* [[円相場]]
== 関連書籍 ==
* 日経平均公式ガイドブック [[日本経済新聞出版社]] 2010年10月22日刊 ({{ISBN2|978-4-532-35446-6}}) 。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Nikkei 225}}
{{Wikinewslang|ja|30年ぶりに日経平均株価が3万円を超える}}
* [https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/profile?idx=nk225 日経平均株価] - 日経平均プロフィル
* [https://www.nikkei.com/markets/kabu/nidxprice/?StockIndex=NAVE 日経平均株価] - 日本経済新聞
* [https://www.bloomberg.co.jp/quote/NKY:IND 日経平均株価] - Bloomberg
* [http://baseviews.com/chart/nk225-j.html 日経平均株価 超長期月足チャート] - BaseViews
{{株価指数}}
{{日本経済新聞社}}
{{デフォルトソート:につけいへいきんかふか}}
[[Category:日経平均株価|*]]
[[Category:報道]]
[[Category:株式市場]]
[[Category:東京証券取引所]]
[[Category:日本の株価指数]]
[[Category:日本経済新聞社|へいきんかふか]]
[[Category:登録商標]]
[[Category:日本のブランド]]
|
2003-07-09T15:00:16Z
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2023-12-30T08:32:27Z
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県立地球防衛軍
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『県立地球防衛軍』(けんりつちきゅうぼうえいぐん)は、安永航一郎による日本の漫画作品、およびこれを原作としたOVA作品。およびこれらの作品に登場する架空の団体。
月刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)に1983年5月号から1985年9月号にかけて連載された。単行本は小学館:少年サンデーコミックスより全4巻。また、2013年12月より完全版・全4巻が刊行された。
安永初の連載作品。怪獣映画やヒーローものなど特撮作品のパロディを基盤に置いたギャグ漫画で、1980年代当時の「少年サンデー」漫画テイストが色濃く反映された作品の一つ。1986年にはOVA化もされた。
物語は、悪の秘密結社・電柱組が世界征服の段取りとして、(始めから東京を攻撃した先例はことごとく失敗している事を鑑み)地方から征服することを決意し、手始めに九州の某県に魔の手を伸ばしたことから始まる。電柱組を迎え撃つは、県立今津留高校に強引に設立された「県立地球防衛軍」。構成メンバーは高校の問題教師と問題生徒。のちに、謎のインド人留学生も加わった。
一方、電柱組を率いるチルソニア将軍は、本名を「木曽屋チルソニアン文左衛門Jr.」という、地元材木豪商・木曽屋の若旦那であり、幹部のバラダギ大佐は、普段は原瀧龍子として防衛軍メンバーと同じく今津留高校に通っている。電柱組と防衛軍は、ローカルネタ丸出しで毎度毎度しょうもない闘いを繰り広げる。
「しいたけヨーグルト」や「ぽん酢(ぽんす、ぽんずに非ず)」、悪人を成敗して回るのが趣味の変態筋肉男「マッスル日本」(名前の元ネタは「ネッスル日本」(現・ネスレ日本)から)や、一年365日を全部正月にすることに情熱を奉げる「正月仮面」など、今も語り草となるネタが続出した。
舞台となった県立今津留高校は、実在の県立高校がモデルになっているが、作者出身の高校である大分県立大分舞鶴高等学校が大分県大分市今津留にあり、そこからとったのではないかとされる。ただし、漫画の中での内容と実際の高校は、ほぼ無関係といってよい。
単行本化の際に著者の手で加筆・改変されているエピソードも存在する。連載終了後も、同人誌に後日談が描かれた。また、番外編としてファミコン通信のマンガ特集で、本作のキャラクターが登場する「どっこい大作戦」という読みきりを発表。
江戸時代から続く老舗の材木問屋「木曽屋」は悪の秘密結社電柱組という裏の顔を持っていた。電柱組は「まず手始めに地方都市から」を合い言葉に九州某県で破壊活動(...とその後の復興に必要な材木販売による売り上げアップ)を開始する。
事態を重く見た県知事は県議会を招集し、満場一致によりヒマを持て余す県立今津留高校野球部を県立地球防衛軍として送り込むことになった。
口車だけが取り柄の盛田弘章、がたいの良さだけが売りの武井助久保、異常な男性趣味を持つ伊福部あき子らに8,000馬力のサイボーグに改造されたインドからの留学生カーミ・サンチンを加え、数学教師炉縁隊長に率いられて活躍する......筈だった。
だが、あいにくの深刻な予算不足に加えて、電柱組の女幹部バラダギ大佐こと原瀧龍子は同じ今津留高校の一年後輩で炉縁の教え子という関係。このためグダグダの仲に陥り、電柱組が呼び寄せたり、自分から勝手に舞い込んできた「改良人間」たちと毎度バカバカしい死闘(?)を繰り広げるのであった。九州某県を舞台にした戦いは(迷惑極まりないことに)やがて海を越えて世界にまで飛び火する。
果たして県立地球防衛軍は電柱組の野望を阻止することが出来るのであろうか......って誰もそんなことは期待していない。
登場人物の年齢・学年は、初登場時のもの。
ネーミングの元ネタはインスタントコーヒー会社のネッスル日本(現ネスレ日本)から。
本作のサブタイトルは全て「ウルトラセブン」のサブタイトルのパロディとなっている。
アニメ化に先立ち、1985年にイメージアルバム(LP)が制作されている。作曲はゴダイゴのタケカワユキヒデ。ギターで同じくゴダイゴの浅野孝已が参加している。
1986年4月1日、東芝映像ソフトよりVHS(VTS-A126VH)・Betamax(VTS-A126BH)ビデオソフト、VHDビデオディスク(VDS-A0350)を発売。1987年7月5日、東芝EMIよりLD(L080-5039)も発売された。DVD・BD等は未発売。
アニメ制作はスタジオぎゃろっぷ。OVAは三話構成で、第一話原画では田村英樹(野球シーン担当。他OP作画)、菊池通隆(中盤のサンチンのアパート破壊シーン担当)が参加している。
また、本アニメとは関係ないが、当時のアニメーターでファンの人が多かったらしく、他アニメ(うる星やつらなど)の作画のお遊びシーンで本作キャラが多々登場していた。
東芝EMIから「S.F.」「かくれんぼ」を収録したシングル盤と主題歌・挿入歌全てと羽田健太郎作曲のBGMを収録したユーメックス制作のサントラ盤が東芝EMI・フューチャーランドレーベルよりCD、LP、カセットで発売。現在すべて廃盤。サントラLP(イメージアルバムも含む)二枚には、安永航一郎描き下ろしのポスターが折込で封入されていた。
「プライベート」は1993年に「忌野清志郎 & THE 2・3'S」の楽曲としてリメイクされ、テレビドラマ『デザートはあなた』の主題歌に起用された。
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"text": "月刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)に1983年5月号から1985年9月号にかけて連載された。単行本は小学館:少年サンデーコミックスより全4巻。また、2013年12月より完全版・全4巻が刊行された。",
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"text": "一方、電柱組を率いるチルソニア将軍は、本名を「木曽屋チルソニアン文左衛門Jr.」という、地元材木豪商・木曽屋の若旦那であり、幹部のバラダギ大佐は、普段は原瀧龍子として防衛軍メンバーと同じく今津留高校に通っている。電柱組と防衛軍は、ローカルネタ丸出しで毎度毎度しょうもない闘いを繰り広げる。",
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"text": "単行本化の際に著者の手で加筆・改変されているエピソードも存在する。連載終了後も、同人誌に後日談が描かれた。また、番外編としてファミコン通信のマンガ特集で、本作のキャラクターが登場する「どっこい大作戦」という読みきりを発表。",
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"text": "口車だけが取り柄の盛田弘章、がたいの良さだけが売りの武井助久保、異常な男性趣味を持つ伊福部あき子らに8,000馬力のサイボーグに改造されたインドからの留学生カーミ・サンチンを加え、数学教師炉縁隊長に率いられて活躍する......筈だった。",
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"text": "だが、あいにくの深刻な予算不足に加えて、電柱組の女幹部バラダギ大佐こと原瀧龍子は同じ今津留高校の一年後輩で炉縁の教え子という関係。このためグダグダの仲に陥り、電柱組が呼び寄せたり、自分から勝手に舞い込んできた「改良人間」たちと毎度バカバカしい死闘(?)を繰り広げるのであった。九州某県を舞台にした戦いは(迷惑極まりないことに)やがて海を越えて世界にまで飛び火する。",
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"text": "果たして県立地球防衛軍は電柱組の野望を阻止することが出来るのであろうか......って誰もそんなことは期待していない。",
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"text": "登場人物の年齢・学年は、初登場時のもの。",
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"text": "ネーミングの元ネタはインスタントコーヒー会社のネッスル日本(現ネスレ日本)から。",
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"text": "本作のサブタイトルは全て「ウルトラセブン」のサブタイトルのパロディとなっている。",
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"text": "アニメ化に先立ち、1985年にイメージアルバム(LP)が制作されている。作曲はゴダイゴのタケカワユキヒデ。ギターで同じくゴダイゴの浅野孝已が参加している。",
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"text": "1986年4月1日、東芝映像ソフトよりVHS(VTS-A126VH)・Betamax(VTS-A126BH)ビデオソフト、VHDビデオディスク(VDS-A0350)を発売。1987年7月5日、東芝EMIよりLD(L080-5039)も発売された。DVD・BD等は未発売。",
"title": "OVA"
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"text": "アニメ制作はスタジオぎゃろっぷ。OVAは三話構成で、第一話原画では田村英樹(野球シーン担当。他OP作画)、菊池通隆(中盤のサンチンのアパート破壊シーン担当)が参加している。",
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"text": "また、本アニメとは関係ないが、当時のアニメーターでファンの人が多かったらしく、他アニメ(うる星やつらなど)の作画のお遊びシーンで本作キャラが多々登場していた。",
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"text": "東芝EMIから「S.F.」「かくれんぼ」を収録したシングル盤と主題歌・挿入歌全てと羽田健太郎作曲のBGMを収録したユーメックス制作のサントラ盤が東芝EMI・フューチャーランドレーベルよりCD、LP、カセットで発売。現在すべて廃盤。サントラLP(イメージアルバムも含む)二枚には、安永航一郎描き下ろしのポスターが折込で封入されていた。",
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『県立地球防衛軍』(けんりつちきゅうぼうえいぐん)は、安永航一郎による日本の漫画作品、およびこれを原作としたOVA作品。およびこれらの作品に登場する架空の団体。
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|タイトル=県立地球防衛軍
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{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[安永航一郎]]
|出版社=[[小学館]]
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|ウィキプロジェクト=
|ウィキポータル=
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『'''県立地球防衛軍'''』(けんりつちきゅうぼうえいぐん)は、[[安永航一郎]]による[[日本]]の[[漫画]]作品、およびこれを原作とした[[OVA]]作品。およびこれらの作品に登場する架空の団体。
== 概要 ==
月刊少年漫画雑誌『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』([[小学館]])に[[1983年]]5月号から[[1985年]]9月号にかけて連載された。単行本は小学館:少年サンデーコミックスより全4巻。また、2013年12月より完全版・全4巻が刊行された<ref>[https://www.shogakukan.co.jp/books/09124532 小学館『県立地球防衛軍 完全復刻版』]</ref>。
安永初の連載作品。怪獣映画やヒーローものなど[[特撮]]作品のパロディを基盤に置いた[[ギャグ漫画]]で、{{要説明範囲|1980年代当時の「少年サンデー」漫画テイスト|date=2023年12月}}が色濃く反映された作品の一つ。[[1986年]]には[[OVA]]化もされた。
物語は、悪の秘密結社・電柱組が[[世界征服]]の段取りとして、(始めから[[東京都|東京]]を攻撃した先例はことごとく失敗している事を鑑み)地方から征服することを決意し、手始めに[[大分県|九州の某県]]に魔の手を伸ばしたことから始まる。電柱組を迎え撃つは、県立今津留高校に強引に設立された「県立地球防衛軍」。構成メンバーは高校の問題教師と問題生徒。のちに、謎のインド人留学生も加わった。
一方、電柱組を率いるチルソニア将軍は、本名を「木曽屋チルソニアン文左衛門Jr.」という、地元材木豪商・木曽屋の若旦那であり、幹部のバラダギ大佐は、普段は原瀧龍子として防衛軍メンバーと同じく今津留高校に通っている。電柱組と防衛軍は、ローカルネタ丸出しで毎度毎度しょうもない闘いを繰り広げる。
「しいたけヨーグルト」や「ぽん酢(ぽん'''す'''、ぽんずに非ず)」、悪人を成敗して回るのが趣味の変態筋肉男「マッスル日本」({{要出典範囲|名前の元ネタは「ネッスル日本」(現・[[ネスレ日本]])から|date=2023年12月}})や、一年365日を全部正月にすることに情熱を奉げる「正月仮面」など、今も語り草となるネタが続出した。
{{要出典範囲|舞台となった県立今津留高校は、実在の県立高校がモデルになっているが、作者出身の高校である[[大分県立大分舞鶴高等学校]]が[[大分県]][[大分市]]今津留にあり、そこからとったのではないかとされる|date=2023年11月}}。ただし、漫画の中での内容と実際の高校は、ほぼ無関係といってよい。
単行本化の際に著者の手で加筆・改変されているエピソードも存在する{{要出典|date=2023年12月}}。連載終了後も、同人誌に後日談が描かれた{{要出典|date=2023年12月}}。また、番外編として[[ファミコン通信]]のマンガ特集で、本作のキャラクターが登場する「どっこい大作戦」という読みきりを発表{{要出典|date=2023年12月}}。
==あらすじ==
{{不十分なあらすじ|date=2015年9月}}
江戸時代から続く老舗の材木問屋「木曽屋」は悪の秘密結社'''電柱組'''という裏の顔を持っていた。電柱組は「まず手始めに地方都市から」を合い言葉に九州某県で破壊活動(…とその後の復興に必要な材木販売による売り上げアップ)を開始する。
事態を重く見た県知事は県議会を招集し、満場一致によりヒマを持て余す県立今津留高校野球部を'''県立地球防衛軍'''として送り込むことになった。
口車だけが取り柄の'''盛田弘章'''、がたいの良さだけが売りの'''武井助久保'''、異常な男性趣味を持つ'''伊福部あき子'''らに8,000馬力の[[サイボーグ]]に改造された[[インド]]からの留学生'''カーミ・サンチン'''を加え、数学教師'''炉縁'''隊長に率いられて活躍する……筈だった。
だが、あいにくの深刻な予算不足に加えて、電柱組の女幹部'''バラダギ大佐'''こと'''原瀧龍子'''は同じ今津留高校の一年後輩で炉縁の教え子という関係。このためグダグダの仲に陥り、電柱組が呼び寄せたり、自分から勝手に舞い込んできた「改良人間」たちと毎度バカバカしい死闘(?)を繰り広げるのであった。九州某県を舞台にした戦いは(迷惑極まりないことに)やがて海を越えて世界にまで飛び火する。
果たして県立地球防衛軍は電柱組の野望を阻止することが出来るのであろうか……って誰もそんなことは期待していない。
== 主な登場人物 ==
登場人物の年齢・学年は、初登場時のもの。
=== 県立地球防衛軍 ===
; 盛田弘章(もりた ひろあき)
: 本作の[[主人公]]。今津留高校2年2組の長髪ハチマキ男。野球部員(ピッチャー)で主将らしいが才能も人望もまったくない。後輩達はマトモに野球をやる気がない盛田たちを見限って一応真面目に練習している。とはいえ、唯一の投球シーンでは、かなりの剛球を投げている(ように見え)、3年の夏休み時(3巻第1話)にはあき子の「甲子園行きたかったね」に「まあね」と返すほどには、野球に思い入れがあった模様。過去三年間公式戦一勝だが、助久保以外の同級生や先輩部員が登場しないため、廃部寸前だった可能性もある。
: 口先で相手を言いくるめることを得意とする。容姿は悪くないが、勉強嫌いでセコくアホでスケベで、周囲からは変態と認知されている。ただし安永の作品の中ではかなり健全なレベルでボルチモア・ブラザーズからの英文の挑戦状も読めるなど丸っきりバカでもない<ref>しかし、まっする日本には「おまえに英文を書ける学力なんぞあるか」と言われている。そもそも挑戦状自体がいい加減な英語(tom is a ponsuなど)で書かれており、サンチンですら「こんなのが読めるのか」と言っている</ref>。家業を嫌がって家族と離れ、助久保とアパート暮らしをしている。原瀧ほどではないが貧乏。実家は縄文時代から続く[[提灯]]職人で(画面では猿人が提灯を貼っていた)、地味で黙々とした作業を嫌がる盛田は家業を継ぐのを心底嫌がっている。生意気だが計算高い妹・準が苦手で、後に彼女の策略にはまってバラダギをデートに誘い、格好つけたクサいセリフも連発したため、周囲からは「[[ラブコメディー|ラブコメ]]男」と揶揄されるようになった。連載当時のハシラの紹介では「名ばかりの主人公」だが、安永作品では基本的にサブキャラやゲストキャラの方が圧倒的に「濃い」ため、比例して主人公やレギュラーの影が薄い。ただ、大抵の場合は盛田が改良人間たちを撃破(というより論破や和解)して丸く収まっている。
:ただし、本気を出せば身体能力はかなり高く、マッチョなアメリカ人であるデヴィットとマイケェルに格闘戦で圧勝している。その時のセリフが「人がせっかく話し合いですまそーと思ったのに、日本語が通じんとは不幸なやつめ」である。
; 武井助久保(たけい すけくぼ)
: 今津留高校2年2組の[[塗壁|ぬりかべ]]男。野球部員(キャッチャー)。
: 野球部で盛田の女房役であり親友。がたいの良い男。素手で猪を狩るのも慣れているほど。盛田とは似たもの同士でありバカでスケベだが女にはまるでモテず、猪上裕子が2人になったときはナンパを仕掛けているが即フラれている。2人でアパートのルームシェアするなどほぼ常に一緒に行動しており、盛田が悪ノリするときはツッコミ役となる。同じ家に住んでいながら昼食時に弁当の唐揚げを奪い合うなど謎な部分も(男子学生が弁当を自作するとは思えず、別々に購入したということだろう)。ハシラの紹介では「名実ともに脇役」。たまに活躍することもある。
:とろろ男こと五郎とは、小学校時代の幼馴染。アパート住まいなのも、田舎から出てきているからと思われる。学区外に進学したのも、野球部推薦だったのかもしれない。
; 伊福部あき子(いふくべ あきこ)
: 今津留高校2年7組、野球部との関係は不明(明言はされていないが、マネージャーと思われる)。
: 見た目はマトモそうに見えるが基本的には盛田・助久保と同レベルで悪ノリやゴシップが大好き。ノリと勢いだけで行動しているように見えるが、学業の成績はそれほど悪くはなかったようで現役で大学(教育学部)に進学している(盛田と助久保は浪人)。盛田・助久保のアパートや原瀧の下宿先の豆腐屋の近所の一戸建てに暮らしており、兄が居る。美男子の基準が[[筋肉]]という根っからのマッチョ好き女子高生で、マッスル日本が大のお気に入りだが、最終的には自分の都合を優先する。一応は防衛軍の紅一点なのだが、他4人はまったく眼中にない。名前の元ネタは[[作曲家]][[伊福部昭]]から。
; カーミ・サンチン
: インドからの国費留学生。今津留高校2年2組に編入。その後、県立大学哲学科に進学した。
: 交通事故で重傷を負い、運び込まれた狭間医科大付属病院で[[サイボーグ]]にされてしまった。その直後、病院から脱走し行き倒れになっていたところを炉縁に拾われ、以降炉縁と同居している。また、作中の流れからみても「サイボーグにならなければ死んでいた」という訳ではない模様。
: 黒い肌の美青年で八千[[馬力]]と肩の[[ミサイル]]が特徴。ミサイルは自身の意思で自在に発射できるが、怖い夢を見ると無意識に発射して周囲の建物を壊してしまう。初期は[[バラモン]]僧を目指す真面目な性格だったが、次第に盛田たちに感化されていく。ギャグ漫画のためシリアスになると脳の回線がショートする。一度サイボーグから生身に戻った際に、[[女体化]]した事があったが、コミックス2巻に描かれたカットによると成人男性である炉縁と大差ない身長の大女。その時期には風呂上りに鏡の前でウィンクしたり、セクシーポーズを取ったりと、かなりの[[ナルシスト]]であることが3巻第四話で明かされている。その後「女のままよりまし」という理由でサイボーグに戻った。同じくサイボーグの猪上裕子とは当初敵対していたもののその後交際に発展していたが、結局はフラれて女性不信に陥る。最終回でマッスル日本の部下の[[ゲイ]]達に追い掛け回されそのまま行方不明になる、という悲惨なオチがついてしまった。
: 名前の元ネタは[[東洋水産]]から発売されていたインスタントラーメン「華味餐庁(かみさんちん)」から。
; 炉縁俊幸(ろべり としゆき)
: 県立地球防衛軍隊長。今津留高校の数学教師で野球部顧問。ヒゲがトレードマーク。28歳(当時の[[明石家さんま]]と同い年)独身。「インド人の少年と同棲している」、「教え子に手を出した」などと不名誉な噂で校内を騒がせるが多少の歪曲はあれど全て事実(ただし、後者はバラダギの色仕掛け作戦を知った上で盛田らが新聞部に密告したことによる)。一応は教師らしく振る舞うこともあり、行き倒れていたサンチンを拾って住まわせているなど優しい面も。ただ、サンチンがうなされてミサイルを乱射したり、猪上裕子がドアノブをねじ切ったりしたせいで大家には睨まれている。サンチンの姉パメラには気がある様子だった。
=== 防衛軍サイドの関係者 ===
; 真船(まふね)
: 今津留高校の物理教師。自称「発明おじさん」。確信犯的マッドサイエンティスト。猪上博士の友人でサンチンをサイボーグに改造した一人。サンチンにミサイルを取り付けた張本人らしい。後にリモコン装置の取り付けやパワーアップと称したミサイル増設をしている。サンチンvs猪上裕子で判明したが、真船は細胞を高速でクローン増殖させる装置も発明しており、猪上裕子を生身の人間に戻した際、サンチンも生身に戻したが女体化してしまった。真船曰く「全く同じに再生したら芸が無い」と言っており[[確信犯]]だった。
; 校長
: 今津留高校の校長。県知事とは縁続きで、そのため野球部を県立地球防衛軍とするという提案を無責任に受け入れた。基本的に軽いノリで口も軽く、そのとばっちりは大抵炉縁が引き受けることになる。
; 県知事
: [[大分県知事|九州某県の県知事]]。そもそもチルソニアから脅迫を受けて防衛軍設立に動いたのだが、そのうち面倒事や厄介事はすべて丸投げするようになり、県産品のPRに失敗して「しいたけヨーグルト」の在庫の山を抱えた際も防衛軍に押しつけた。
; 大山みゆき(おおやま みゆき)
: 県知事の美人秘書。人好きのする性格で防衛軍にとってはほぼ唯一と言える心強い味方。正面から堂々と木曽屋に乗り込み、調子に乗ったチルソニアから情報を引き出すなど優秀。ただ、なぜか[[バニーガール]]の写真などが存在する謎多き女性。
; 県警特殊部隊
: 県知事の肝いりで結成された特殊チーム。中東で[[傭兵]]だった男を隊長に、自衛隊から引き抜かれたエリートで構成されている。初陣から惨敗するなど、防衛軍の前座的扱いが多い。全員地肌にシャツ(胸に「けーさつ」のロゴ入り、隊長だけ「たいちょお」)と毛脛むき出しの半パンに警帽を被った姿で、変質者チック。正月仮面襲来時は壊滅して全員正月状態にされ、とろろ男にも完敗している。
=== 電柱組/木曽屋 ===
; バラダギ大佐 / 原瀧龍子(はらたき りゅうこ)
: 本作の[[ヒロイン]]、電柱組幹部で木曽屋の[[番頭]]。今津留高校1年5組。赤い髪でスタイルの良い美少女だが、作中では中学生に間違われている。真面目な性格で下宿先でも校内でも評判の良い模範的優等生だが、極貧にあえいでおり、バイト代目当てに電柱組幹部となる。
: 運動神経もよく、“下っぱ”からの人徳も篤いらしい。ただ極度の田舎育ちで感覚が普通ではない面もある。近眼のため眼鏡を使用しているが、電柱組での仕事中はコンタクトを着用する。
: 両親は[[大怪獣バラン|「羽田空港で照明弾喰って」他界]]しており、柏木とうふ店に下宿しつつ自活している。電柱組/木曽屋の仕事は生活のためのバイトで、今津留高校の生徒であると告白して以降、プライベートでは防衛軍のメンバー(特に盛田)とも交友がある。後先考えないチルソニアにクビを宣告され、原瀧として防衛軍に入隊するも、盛田たちから小姑じみた数々の嫌がらせを受け、最終テストと称して木曽屋に殴り込みをかけるよう唆されるが、下っぱの反抗に手を焼いたチルソニアが泣きを入れたため電柱組に戻り盛田たちをしばき倒した。よく裸にされるが、見えるのは乳輪まで。
: 最終回ではあきこの気まぐれにより、マッスル日本と共に南の島を目指すことになるという悲劇的なオチがついた。
; チルソニア将軍 / 木曽屋=チルソニアン=文左衛門=Jr.(きそや チルソニアン ぶんざえもん ジュニア)
: 電柱組の首領にして地元の材木問屋「木曽屋」の若旦那。先祖代々、家屋の破壊により材木の需要を作ってきた、由緒正しい(?)悪の組織の後継者だが、日本総本店ながら営業成績は低空飛行を続けている<ref>パメラからも本来ならとっくにクビになっていると言われている。なお、木曽屋材木本舗という企業としてのトップは会長である祖父であり、おそらくは父親が社長。</ref>。本名は電柱組の連中にも秘密にしていたが、ボルチモアブラザーズ来日時にバレて笑いのネタにされた。
: 美男子で英会話もこなすなどそれなりに有能らしいが、発想が貧困で盛田には悉く計画を読まれている。「牛糞を海に撒く」、「バラダギに炉縁を誘惑させて、防衛軍の情報を引き出す」、「年末の募金活動の振りをして忘年会の資金を集める」などレベルが低く、他人の不幸を喜ぶなど性格も悪い。後先考えずに行動することが多く、些細な理由でバラダギをクビにしたり、血迷って正月仮面を復活させてしまうなどロクなことをしていない。
; マーカライト=ファープ
: 電柱組の改良人間。階級は中尉。ピチピチの[[全身タイツ]]を着た[[念動力]]を操る[[エスパー]]。人呼んで「電柱組の歩く[[幻魔大戦]]」。赤貧に喘ぐ電柱組の台所事情を守るため、県立農場の畑から芋を超能力で盗んでいた。そのため芋にしかサイキックパワーが効かなくなってしまい、初出動の防衛軍に芋を飛ばして攻撃するが、畑の管理人である与助じーさんに敗北する。もともと強力な能力者だったのに電柱組に居たせいで劣化したほぼ唯一の例。
: その後、[[九重山]]に籠もって修行していた。再登場時には野生化しており、念動力も強化されてトマトも操ることが可能になったが、久しぶりの登場だったため味方であるバラダギにさえ忘れ去られていた。
; スコープ鶴崎
: 電柱組の改良人間。見た目は頭頂のみが禿げ上がった長髪の中年男性。
: 視力が低く(左右合わせても0.14と小数点以下)、普段は目元を[[ゴーグル]]で覆い、そこに[[スコープ]]を取り付けて視力を補っている。オプション装備として赤外線スコープ、透視スコープを持ち、必要に応じて付け替える。
: 改良人間の中では比較的まともな人材で、防衛軍との対決に負けた後もチルソニア将軍に従って木曽屋で働く姿が見られるなど頻繁に登場する。盆過ぎどころか11月も目前の海水浴(慰安旅行)では下っぱたちが寒さで不満を漏らす中、バラダギと全力で遊んでいた。
; タイガードラゴン
: 電柱組の改良人間。通称「食通」。スキンヘッドで額に通(○に通)と書かれている、恰幅の良い男性。
: なにを食っても「うまい」「最高」しか言わないが、「テレビの食通は代金を払わない」という理由で代金を踏み倒す「伝説の食通」。戦闘能力はそれなりに高い様子。モデルは元力士の[[龍虎勢朋|龍虎]]。初登場は雑誌連載時には第3話だったが、単行本の掲載はコミックス2巻第三話のため、本人の活躍以前に名前が出ている<ref>他には「盛田対メカ盛田の決闘」が雑誌連載では第7話だったが、コミックス3巻第三話となっている。</ref>。
; 正月仮面
: 1年365日を正月にすることを目指す電柱組の改良人間。額に装備した扇子に描かれた日の丸から「[[初詣]]ビーム」を乱射する超危険人物。このビームを浴びた者は思考が「[[正月]]化」し、その場で宴会(正月モード)に入ってしまう。
: 他の電柱組メンバーやチルソニア将軍にさえ見境なくビームを照射するため、眠らされ地下に幽閉されて、必要な時にのみ[[除夜の鐘]]を突いて呼び起こされるようになった。
: 後にマッスル日本と対決し、戦いながら海を越え渡米。現地で「ニューイヤーズ」という変態ギャング団のボスとなるが、マッスル日本・防衛軍との巴戦の最中に「けつが黄色い」というしょーもないカミングアウトの結果、空のお星様になる。
: さらに間をおいて帰国。たまたま[[おせち料理]]を求めて訪れたコンビニにおいて、店長に身をやつした[[徐福]]381世という強敵の出現で存在を脅かされるが、[[中国]]からやってきた[[旧正月]]仮面の加勢により事なきを得た。
; とろろ男
: 電柱組改良人間見習い。自称「ふるさとの味 怪奇とろろ男」。[[とろろ]]嫌いが昂じてとろろ芋の呪いを受け、全身とろろ肌の怪人になった。正体は助久保の旧友の五郎。額から浴びた者をとろろ肌にする「とろろビーム」を発射する。食わず嫌いを克服し、呪いが解けて元の普通の青年に戻ったため、故郷に帰る。帰るシーンの駅名は「ふためがわ」だがこれは大分市内の地名であるが、実際の同地に駅は存在しない。
; ボルチモア・ブラザーズ(マイケル&デビッド)
: 電柱組[[ボルチモア]]支部の幹部<ref>日本国内では安定して入荷できる材木は減少しているため作られた支店。</ref>。改良人間以上の戦闘力を持つ巨漢兄弟。防衛軍(特に盛田)が口先だけで大した格闘能力を持たないと分析したチルソニア将軍が招聘した。彼らには難しい日本語は通じないので、防衛軍お得意の口車は全く通用しない。
: 口車が通じないため、やむなく戦法を変えた盛田と助久保に腕力で軽く叩きのめされ、サンチンのミサイルで黒焦げにされ敗退。終盤ではまっする日本に合流してしまった。
: チルソニア将軍の従兄弟に当たり、彼を「ブンザイモーン」とファーストネームで気さくに呼ぶため、隠していた「文左衛門」という名前がバレてしまった。
; ベンツ台村
: 電柱組の改良人間。毒ガス怪人。縁日の屋台に紛れ込み、風船に毒ガス(笑気ガス)を詰めてお祭りを台無しにしようと画策する。ガスが空気より重く、風船が浮かなかったために計画は頓挫する。名前の元ネタは[[ダイムラー・ベンツ]]から。
: 連載終了後に単発で掲載された番外編に登場したが、この番外編が単行本(新装版含む)及び同人誌に収録されず、幻の改良人間になっている。
; 下っぱ
: 電柱組の下っ端戦闘員、木曽屋の[[丁稚]]。
: 最初期は全身黒タイツで顔に白ヌキで「下っぱ」胸には「一銭五厘」と書いてあったが、間もなく「下っぱ」と書かれたお面に頬かむりとデザイン変更された。理由は「スミがもったいないのと、白ヌキがめんどうくさい」からとのこと(作中ではマッスル日本に襲われたことが原因と説明されている)。
; 岩崎
: 下っぱの1人で今津留高校の生徒。学年は不明。職業名は「下っぱ六番」。素顔はイケメンゆえに校内の女子からはけっこうモテている。
=== その他 ===
; マッスル日本
: 悪事を察知する超感覚「まっする感覚」(スパイダーマンのパロディ)を持ち、辺り構わず正義を執行するモヒカン刈りがトレードマークの筋肉大男。劇中最強最悪の怪人で電柱組の黒下っぱは彼のせいで壊滅した。後に悪が減らないことを憂い、正義のためなら手段を厭わない事に方針を変更し、[[鼻水]]を使った奇妙な判別方法により善人か悪人を判断して容赦なく殴り掛かる「戦闘まっする」に改名する。正月仮面との戦闘で渡米、ロサンゼルスで「バトルマッスル」という変態ギャング団のボスになった。英語はまるで分らないらしく日本語で通していた。防衛軍も加えた巴戦の最中、強烈なツッコミでライバルだった正月仮面をお星様にした後、安息を求めてあきこと共に南の島に旅立った筈が、途中であきこと原瀧が入れ替わったため原瀧を拉致したことになっている。現在は帰国、前述の理由で「マスレ日本」と名乗って市民に飯をたかる生活を送っている。実は恥ずかしい秘密を持っている。
ネーミングの元ネタはインスタントコーヒー会社の[[ネッスル日本]](現[[ネスレ日本]])から。
; グリコーゲンX
: [[桜前線]]の北上に合わせて現れる謎の怪人。烏帽子に内蔵された「宴会センサー」で宴会反応を感知し、下戸に無理矢理酒を薦める酔っ払いを折檻するはた迷惑な男。手にしたビームガン「満開バスター(ビームの当たった所は所構わず満開の桜の花が咲く)」を乱射したり、「超音波カラオケ(聞くに堪えない下手な歌)」を流し、強制的に宴会を盛り上げて酔っ払いに潰れるまで酒を飲ませる宴会荒らし。桜の季節が終わると桜前線と共に去ってゆく。
: かつては下戸なサラリーマンだったが、宴会で強制的に酒を呑まされ、酔い潰れて瀕死の状態で倒れていたところを通りすがりの科学者に助けられ、「鋼鉄の[[肝臓]](アイアンレバー)」を移植されて生まれ変わった。「センサーに反応あり!」と言って銃を乱射する姿は、東映の戦隊シリーズ[[超電子バイオマン]]のバイオハンターシルバのパロディ。後に強化され胴鎧にカラオケモニターを増設、肩の盃型ショルダーアーマーをパラボラアンテナにして衛星電波を受信する、通信カラオケ機能を得て「グリコーゲンX2000」となった。さらに後、そど美さんにふられたごも太くんにアイアンレバーを伝授、強引に代替わりしてイケメンの姿をとり、気楽な立場に戻っている。
; 猪上年夫(いのうえ としお)博士<ref>下の名前は「消された記憶」第3巻99頁より。</ref>
: 狭間医科大付属病院に所属する[[医師]]兼[[科学者]]。普段は真面目で優しいらしいが、[[人体実験]]が趣味で、実の娘を実験台にすることも厭わない[[マッドサイエンティスト|変態親父]]。サンチンをサイボーグに改造した一人で、真船と共にサンチンの身体については本人より詳しい。作者によると、「実在の人物」がモデルと明言されている。
; 猪上裕子(いのうえ ゆうこ)
: 猪上博士の娘。高校3年生。猪上博士を脅迫するため電柱組に誘拐され、調子に乗った父によってサイボーグに改造されてしまい、サンチンと戦うことになる。後に細胞を高速で[[クローニング]]するカプセルで失った生身部分を取り戻し<ref>OVAおよび完全復刻版第3巻の描き下ろしでは、サンチンとは逆に男体化していた。旧版本編でも男性化させられているのは、カプセルから出るのを拒否したことで把握できる</ref>、普通の女子高生に戻ったが、狭間医科大学進学後、父親に自分のクローンを量産されたりした。父親曰く「何時[[家出]]されても良い様に2人にした」だが、人格もそのままコピーしたため揃って家出した。全く同じ記憶をもっているため、喧嘩すると自虐合戦になったりしたが、最終的には双子になったと考え、身体的には普通になったことから「人並みの彼氏が欲しい」とサンチンをふってしまった。
; 盛田準(もりた じゅん)
: 盛田の3学年下の妹。しっかりしたやり手で、その口車で兄はおろか父親すら手玉に取る(私立を受験すると言って受け取った金で[[チェッカーズ]]のLPレコードを買っていた)。猪上博士が電柱組の依頼で製作した[[人造人間|アンドロイド]]「'''メカ盛田'''(外見のみならず、体力や頭の程度まで互角というロボット)」を兄の身代わりにして家に連れて帰らせることで、兄に貸しを作った。なお、実家に連れていかれたメカ盛田は存外におとなしく、父親と一緒に提灯貼りをしているとのこと(準いわく「兄貴がおらんと家庭が落ち着く」)。
; パメラ・サンチン
: カーミ・サンチンの姉。貿易商社に勤めるキャリアウーマンで、かなりのやり手。電柱組の表家業である材木の取引視察で来日した。チルソニアの言い訳によって「木曽屋の営業を妨害している」防衛軍を敵視して、サンチンを追い詰めた。
: サンチン曰く、受けた屈辱は必ず倍返しするタイプらしく「絶対に逆らいたくない相手」。小学生当時、自分のスカートをめくった(さらにパンツまでめくろうとした)バカガキに対して「相手の名義でエロ本の通信販売」を申し込んだ。相手は三週間後、送られてきた小包の中身を知った親に殴られて顔をボコボコにした状態で登校し、翌日失踪して未だに行方不明とのこと。
: 最終回では[[ロサンゼルス]]でゲイの集団に追いかけられ行方不明になった弟のサンチンを心配するどころか、最初から渡米していなかったかのように扱った。
== サブタイトル ==
本作のサブタイトルは全て「[[ウルトラセブン]]」のサブタイトルのパロディとなっている。
; 第1巻
# なさけなき挑戦者(昭和58年5月増刊号)
# カレーの国からきた男(昭和58年6月増刊号)
# 楽しい隣人(昭和58年8月増刊号)
# 県立地球防衛軍、海へ(昭和58年11月増刊号)
# ひとりぼっちのインド人(昭和58年12月増刊号)
# プロジェクト・ピンク(昭和59年2月増刊号)
# サイボーグの脚線(昭和59年3月増刊号)
; 第2巻
# 魔の店へ飛べ(昭和59年4月増刊号)
# 驚異の超変人(昭和59年5月増刊号)
# 栄養は誰のために(昭和58年7月増刊号)
# 家庭教師を追え(昭和59年6月増刊号)
# 散歩する迷惑(昭和58年10月増刊号)
# 元旦がきた(昭和59年7月増刊号)
# 海中からの挑戦(昭和59年8月増刊号)
; 第3巻
# 摂氏34度の退屈(昭和59年9月増刊号)
# アンドロイド0大作戦(昭和59年10月増刊号)
# 盛田対メカ盛田の決闘(昭和59年1月増刊号)
# 消された記憶(昭和59年11月増刊号)
# みどろの恐怖(昭和59年12月増刊号)
# 貧民牧場(昭和60年1月増刊号)
# 勇気あるお誘い(昭和60年2月増刊号)
; 第4巻
# あんたはだまれ(昭和60年3月増刊号)
# 地方最大の侵略(昭和60年4月増刊号)
# グリコーゲンXを倒せ(昭和60年5月増刊号)
# 親睦する縁者たち(昭和60年6月増刊号)
# 豆腐を配れ(昭和60年7月増刊号)
# まっする君、応答せよ(昭和60年8月増刊号)
# 別世界の県立(昭和60年9月増刊号)
; 単行本未収録
*番外編 ゼンブ暗殺計画
== イメージアルバム ==
アニメ化に先立ち、1985年にイメージアルバム(LP)が制作されている。作曲は[[ゴダイゴ]]の[[タケカワユキヒデ]]。ギターで同じくゴダイゴの[[浅野孝已]]が参加している。
== OVA ==
[[1986年]]4月1日、[[東芝|東芝映像ソフト]]よりVHS(VTS-A126VH)・Betamax(VTS-A126BH)ビデオソフト、VHDビデオディスク(VDS-A0350)を発売。[[1987年]]7月5日、[[東芝EMI]]よりLD(L080-5039)も発売された。DVD・BD等は未発売。
=== スタッフ ===
* 監督:[[早川啓二]]
* 脚本:[[伊藤和典]]
* キャラクターデザイン・作画監督:青嶋克巳
* 企画・制作:宇佐美廉
* 音楽:[[羽田健太郎]]
=== キャスト ===
* バラダギ(原瀧龍子):[[鶴ひろみ]]
* 木曾屋・チルソニアン・文左衛門Jr:[[池田秀一]]
* 盛田弘章:[[古谷徹]]
* カーミ・サンチン:[[鈴置洋孝]]
* 武井助久保:[[玄田哲章]]
* 炉縁俊幸:[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]
* 猪上裕子:[[藤田淑子]]
* 大山みゆき:[[潘恵子]]
* 伊福部昭子:[[深見梨加|深見理佳(現・深見梨加)]]
* スコープ鶴崎:[[青野武]]
* 猪上博士:[[宮内幸平]]
* 真船博士:[[戸谷公次]]
* 食通、校長:[[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]]
* 県知事:[[塩屋浩三]]
* [[田中亮一]]
* 平浩幸
* [[佐藤佑暉|佐藤浩之]]
アニメ制作は[[スタジオぎゃろっぷ]]。OVAは三話構成で、第一話原画では[[田村英樹]](野球シーン担当。他OP作画)、[[菊池通隆]](中盤のサンチンのアパート破壊シーン担当)が参加している。
また、本アニメとは関係ないが、当時のアニメーターでファンの人が多かったらしく、他アニメ([[うる星やつら]]など)の作画のお遊びシーンで本作キャラが多々登場していた。
=== 主題歌・挿入歌 ===
* オープニング - 「S.F.」([[忌野清志郎]]、[[ピンククラウド|Johnny、Louis & Char]])
* プライベート(忌野清志郎、Johnny、Louis & Char)
* エンディング - 「かくれんぼ」(忌野清志郎 & [[Char]])
[[東芝EMI]]から「S.F.」「かくれんぼ」を収録したシングル盤と主題歌・挿入歌全てと羽田健太郎作曲のBGMを収録した[[ユーメックス]]制作のサントラ盤が東芝EMI・フューチャーランドレーベルよりCD、LP、カセットで発売。現在すべて廃盤。サントラLP(イメージアルバムも含む)二枚には、安永航一郎描き下ろしのポスターが折込で封入されていた。
「プライベート」は[[1993年]]に「忌野清志郎 & THE 2・3'S」の楽曲としてリメイクされ、テレビドラマ『[[デザートはあなた]]』の主題歌に起用された。
==参照==
{{Reflist}}
{{ぎゃろっぷ}}
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[[Category:安永航一郎の漫画作品]]
[[Category:漫画作品 け|んりつちきゆうほうえいくん]]
[[Category:1983年の漫画]]
[[Category:週刊少年サンデー超]]
[[Category:ギャグ漫画]]
[[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]]
[[Category:大分県を舞台とした漫画作品]]
[[Category:秘密結社を題材とした作品]]
[[Category:アニメ作品 け|んりつちきゆうほうえいくん]]
[[Category:1986年のOVA]]
[[Category:ぎゃろっぷ]]
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[[Category:少年サンデーコミックスのアニメ作品]]
[[Category:ギャグアニメ]]
[[Category:高等学校を舞台としたアニメ作品]]
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ポケモン (曖昧さ回避)
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ポケモン
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ポケモン Pokémon(ポケモン) - 『ポケットモンスター』の略称、通称及び漢字圏以外での正式名称。
ポケットモンスター (ゲームシリーズ) - 任天堂と株式会社ポケモン(後述)のロールプレイングゲームシリーズ。『赤・緑』から連なるメインタイトルは俗に「本編」と呼ばれる。『赤・緑』から最新作まで、任天堂のゲーム機での独占タイトルである。
ポケットモンスター (アニメ) - 上記のゲームソフトを題材にしたテレビアニメシリーズ。
ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ) - 上記アニメシリーズの初代作品。
ポケットモンスター (2019年のアニメ) - 上記アニメシリーズの第7シリーズ作品。
ポケットモンスター (2023年のアニメ) - 上記アニメシリーズの第8シリーズ作品。
ポケットモンスター (OVA) - 上記のアニメを元にしたOVAシリーズ。
ポケットモンスター (劇場版) - 上記のアニメを元にしたアニメーション映画シリーズ。
ポケットモンスター (穴久保幸作の漫画) - 上記のゲームソフトを題材にした穴久保幸作による漫画作品。
ポケットモンスター (架空の生物) - 上記の作品に登場する架空の生物(モンスター)の総称。
ポケモン (企業) - 上記を始めとするポケモン関連の事業を展開する企業。
POKEMON - いわゆる「ポケモン遺伝子」(Zbtb7)のこと。POK 赤血球系骨髄球性幼若化因子の略で、癌を引き起こすと考えられる遺伝子の旧名。2005年末、名を Zbtb7 と改められた。
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{{特殊文字|説明=Pokemonのeに[[アクセント記号]]「[[アキュート・アクセント]]」がついた([[é]])もの}}
'''ポケモン'''
* '''''Pokémon'''''(ポケモン) - 『[[ポケットモンスター]]』の[[略語|略称]]、[[通称]]及び[[漢字文化圏|漢字圏]]以外での正式名称。
** [[ポケットモンスター (ゲームシリーズ)]] - [[任天堂]]と[[ポケモン (企業)|株式会社ポケモン]](後述)の[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]シリーズ。『[[ポケットモンスター 赤・緑|赤・緑]]』から連なるメインタイトルは俗に「本編」と呼ばれる。『赤・緑』から最新作まで、任天堂の[[ゲーム機]]での独占タイトルである。
** [[ポケットモンスター (アニメ)]] - 上記のゲームソフトを題材にした[[テレビアニメ]]シリーズ。
*** [[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)]] - 上記アニメシリーズの初代作品。
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浄土三部経
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浄土三部経(じょうどさんぶきょう)とは、大乗仏教の経である『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典をあわせた総称である。法然を宗祖とする浄土宗・西山浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗においては浄土三部経を根本経典としている。ただし時宗は『阿弥陀経』を重んじる。
浄土宗や西山浄土宗、浄土真宗などにおいて、下記の漢訳経典を浄土三部経という。
阿弥陀仏とその本願、またその仏国土(浄土)である「極楽」に関する教えなどが説かれている。詳細はそれぞれの項目を参照。
大正新脩大蔵経では、これらは「宝積部・涅槃部」に収録されている。
中国・日本において、浄土思想に言及する註釈書は古くよりたいへん多いが、この三経典を中心に撰述されている。
これらが「浄土三部経」と称されるようになったのは、法然が『選択本願念仏集』(『選択集』)において、以下のように記述したことに由来する。
この「三経一論」の「一論」とは、法然『選択集』において「一論者 天親往生論」とあるように『往生論』をいう。『往生論』は略称で、正しくは『無量寿経優婆提舎願生偈』のことである。『浄土論』とも略称される。この論は、天親(世親)によって『無量寿経』を註釈したものとされ、菩提流支により漢訳されたものが現存する。2012年現在、サンスクリット語の原典は散逸しており発見されていない。
日本の浄土教諸宗においては、「三部経」のなかでも、それぞれ重視する経典が異なっている。
なお、上記の三宗と同じく称名念仏の宗派として成立した融通念仏宗では、『華厳経』・『法華経』を正依とし、『浄土三部経』を傍依としている。
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"text": "なお、上記の三宗と同じく称名念仏の宗派として成立した融通念仏宗では、『華厳経』・『法華経』を正依とし、『浄土三部経』を傍依としている。",
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浄土三部経(じょうどさんぶきょう)とは、大乗仏教の経である『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典をあわせた総称である。法然を宗祖とする浄土宗・西山浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗においては浄土三部経を根本経典としている。ただし時宗は『阿弥陀経』を重んじる。 浄土宗や西山浄土宗、浄土真宗などにおいて、下記の漢訳経典を浄土三部経という。 『仏説無量寿経』2巻 曹魏康僧鎧訳 252年頃(略称『大経』)
『仏説観無量寿経』1巻 劉宋畺良耶舎訳 430-442年?(略称『観経』)
『仏説阿弥陀経』1巻 姚秦鳩摩羅什訳 402年頃(略称『小経』) 阿弥陀仏とその本願、またその仏国土(浄土)である「極楽」に関する教えなどが説かれている。詳細はそれぞれの項目を参照。 大正新脩大蔵経では、これらは「宝積部・涅槃部」に収録されている。 中国・日本において、浄土思想に言及する註釈書は古くよりたいへん多いが、この三経典を中心に撰述されている。
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'''浄土三部経'''(じょうどさんぶきょう)とは、[[大乗仏教]]の経である『[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]』、『[[観無量寿経#訳本|仏説観無量寿経]]』、『[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]』の三経典をあわせた総称である。[[法然]]を宗祖とする[[浄土宗|浄土宗・]][[西山浄土宗]]や[[親鸞]]を宗祖とする[[浄土真宗]]においては浄土三部経を根本経典としている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C-79622 浄土三部経(じょうどさんぶきょう)とは - コトバンク]</ref>。ただし[[時宗]]は『阿弥陀経』を重んじる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%99%82%E5%AE%97-73283 時宗(じしゅう)とは - コトバンク]</ref>。
[[浄土宗]]や[[西山浄土宗]]、[[浄土真宗]]などにおいて、下記の漢訳経典を'''浄土三部経'''という。
* 『'''[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]'''』2巻 [[魏 (三国)|曹魏]][[康僧鎧]]訳 252年頃<ref name=translate>浄土宗・浄土真宗所説</ref>(略称『大経』)
* 『'''[[観無量寿経#訳本|仏説観無量寿経]]'''』1巻 [[宋 (南朝)|劉宋]][[畺良耶舎]]訳 430-442年?<ref>[[藤田宏達]]『観無量寿経講究 安居本講』 真宗大谷派宗務所出版部、1985年、P.20-21</ref>(略称『観経』)
* 『'''[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]'''』1巻 [[後秦|姚秦]][[鳩摩羅什]]訳 402年頃<ref name=translate></ref>(略称『小経』)
[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]とその[[四十八願|本願]]、またその[[仏国土]]([[浄土]])である「[[極楽]]」に関する教えなどが説かれている。詳細はそれぞれの項目を参照。
[[大正新脩大蔵経]]では、これらは「宝積部・涅槃部」に収録されている。
中国・日本において、浄土思想に言及する註釈書は古くよりたいへん多いが、この三経典を中心に撰述されている。
== 歴史 ==
これらが「浄土三部経」と称されるようになったのは、[[法然]]が[[選択本願念仏集|『選択本願念仏集』(『選択集』)]]において、以下のように記述したことに由来する。
:初正明往生浄土之教者 謂三経一論是也
:'''三経者 一無量寿経 二観無量寿経 三阿弥陀経也'''
:一論者 天親往生論是也 或'''指此三経号浄土三部経也'''(中略)
:是也今者唯是弥陀三部 '''故名浄土三部経也''' 弥陀三部者是'''浄土正依経也'''
:初めに正しく往生浄土を明かす教というは、いわく三経一論これなり。
:'''「三経」とは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり'''。
:「一論」とは、天親の『往生論』(浄土論)これなり。あるいは'''この三経を指して浄土三部経と号すなり'''。(中略)
:今はただこれ弥陀の三部なり。故に'''浄土三部経'''と名づくなり。弥陀の三部はこれ'''浄土の正依経なり'''。
== 三経一論 ==
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この「三経一論」の「一論」とは、法然『選択集』において「一論者 天親往生論」とあるように『往生論』をいう{{要出典|date=2017年7月11日 (火) 05:33 (UTC)|title=}}。『往生論』は略称で、正しくは『[[無量寿経優婆提舎願生偈]]』のことである<ref name="ib108">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=108 }}</ref>。『浄土論』とも略称される<ref name="ib108" />。この論は、天親(世親)によって『無量寿経』を註釈したものとされ、[[菩提流支]]により漢訳されたものが現存する。2012年現在、サンスクリット語の原典は散逸しており発見されていない。
{{節スタブ}}
== 宗旨による違い ==
日本の浄土教諸宗においては、「三部経」のなかでも、それぞれ重視する経典が異なっている。
;[[浄土宗|浄土宗(鎮西派)]]
;『仏説観無量寿経』
;[[西山浄土宗|西山浄土宗(西山派)]]
;『仏説観無量寿経』
;[[浄土真宗]]
;『仏説無量寿経』
;:浄土真宗の宗祖とされる[[親鸞]]は、主著[[顕浄土真実教行証文類|『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)]]の「総序」の結びに、『大無量寿経』・「真実の教」・「浄土真宗<ref>ここでいう「浄土真宗」とは「真の宗教である浄土宗(法然)の教え」の意。宗旨としての意ではない。</ref>」と記している。
;[[時宗]]
;『仏説阿弥陀経』
なお、上記の三宗と同じく称名念仏の宗派として成立した[[融通念仏宗]]では、『[[華厳経]]』・『[[法華経]]』を正依とし、『浄土三部経』を傍依としている。
== 注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
*{{Cite book|和書 |author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂 |year=1996 |title=浄土三部経 |publisher=本願寺出版社 |series=浄土真宗聖典 |isbn=4-89416-601-1 |volume=現代語版 }}
*{{Cite book|和書 |author=中村 元|authorlink=中村元 (哲学者) |coauthors=[[早島鏡正]]・[[紀野一義]] 訳注 |year=1990 |title=浄土三部経 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] 青306-1 |isbn=4-00-333061-7 |volume= }}
*{{Cite book|和書 |author=中村 元 |coauthors=早島鏡正・紀野一義 訳注 |year=1990 |title=浄土三部経 下 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 青306-2 |isbn=4-00-333062-5 |volume= }}
== 別訳版 ==
*[[山口益]]・[[櫻部建|桜部建]]・[[森三樹三郎]]訳 『浄土三部経 <small>大乗仏典6</small>』 [[中公文庫]]、2002年
*[[大角修]]訳・解説 『浄土三部経 <small>全文現代語訳</small>』 [[角川ソフィア文庫]]、2018年
*[[正木晃]]訳著 『<small>現代日本語訳</small> 浄土三部経』 [[春秋社]]、2022年
== 関連項目 ==
{{Wikisource|仏説無量寿経|『仏説無量寿経』}}
{{Wikisource|仏説観無量寿経|『仏説観無量寿経』}}
{{Wikisource|仏説阿弥陀経|『仏説阿弥陀経』}}
{{Wikisource|無量寿経優婆提舎願生偈|『無量寿経優婆提舎願生偈』(『往生論』/『浄土論』)}}
*[[阿弥陀三尊]]
*[[南無阿弥陀仏]]
*[[念仏]]
*[[往生]]
*[[宝積部 (大正蔵)]]
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[[Category:大乗仏教の経]]
[[Category:浄土教]]
[[Category:浄土三部経|*]]
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[[Category:七高僧]]
[[Category:中国仏教]]
[[Category:仏教の名数3]]
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11,126 |
木構造 (建築)
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木構造(もくこうぞう)は、木造ともいい、建築の構造の一つで、構造耐力上主要な部分に木材を用いる構造である。また、近年は木質材料を用いる建築が増えたので、これを木質構造と呼ぶことがある。
木構造は、構造耐力上主要な部分に可燃材料を使っているため、他構造に比べ火災に弱い性質をもつ。そのため、原則として、外壁・屋根・軒裏は不燃材料で仕上げなければならない。また、以下のような防火措置を講じる。 防火性能を組み合わせることで、基準の厳しいガソリンスタンドの事務棟や屋根を建設した例も見られる。
その他、火災保険や地震保険において、耐火性の低い(耐火建築物・準耐火建築物・省令準耐火構造建物でない)木造住宅は保険料が高額となる。
大都市圏で古い木造住宅が密集し、大規模地震時などに火災や倒壊で深刻な被害が予想される地域を、地方自治体は「木造住宅密集地域(木密)」と呼んでいる(国土交通省の表現は「地震時等に著しく危険な密集市街地」)。東京都や都内特別区が首都直下地震に備えて「不燃化特区」で建て替えを促すなど、各自治体と国が解消を目指した対策を進めている。
木構造は、構造耐力上主要な部分にシロアリ、腐朽に弱い材料を使っているため、他構造に比べ耐久性が低くなりがちである。そのため、原則として地面から1m以内の木部には防腐・防蟻の措置をしなければならない。また、以下のような対策を講じる。
木構造は、他構造に比べ環境への負荷が少ない構造形式である。
2010年、公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律が成立。国が関与する公共建築物において木材利用を積極的に取り組むとともに、地方公共団体や民間事業者にも木材利用の取組を促がすこととなった。2018年度に国が整備した低層公共建築の木造化率は、78.6%(98棟うち78棟)に達している。 2021年、公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律が、脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律として改正された。目的の見直しや、対象となる建築物を公共建築物から民間を含む建築物一般へ拡大するなどが行われた。
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木構造(もくこうぞう)は、木造ともいい、建築の構造の一つで、構造耐力上主要な部分に木材を用いる構造である。また、近年は木質材料を用いる建築が増えたので、これを木質構造と呼ぶことがある。
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'''木構造'''(もくこうぞう)は、'''木造'''ともいい、[[建築]]の[[建築構造|構造]]の一つで、構造耐力上主要な部分に[[木材]]を用いる構造である。<!--[[構造形式]]は、おもに[[架構式構造|架構式]]である。次のような[[構法]]・[[工法]]がある。-->また、近年は[[木質材料]]を用いる建築が増えたので、これを木質構造と呼ぶことがある。
[[File:Karakuichiranzu(hokoji).jpg|thumb|240px|かつて京都に存在し、木造建築として日本最大規模を誇っていた[[方広寺]]大仏殿([[京の大仏]])。 [[寛政]]10年 (1798年) に落雷による火災のため焼失した<ref>大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年</ref>。(「花洛一覧図」[[京都府立京都学・歴彩館]]デジタルアーカイブ 一部改変)]]
== 木構造の構造形式による分類 ==
=== 伝統的な構法 ===
[[File:Castle beam01.jpg|thumb|[[彦根城]]の[[梁 (建築)|梁]]と[[貫 (建築)|貫]]]]
* 太めの[[柱]]と[[梁 (建築)|梁]]、及び[[貫 (建築)|貫]](ぬき)を用いて、互いの部材を貫通させる構造形式で、車知(しゃち)や込み栓(こみせん)を用いて固定する。(在来工法のような[[釘]]や補強金物に頼った固定法は用いない。)
* [[外力]]や変形に対しては主に木材のめり込みによって抵抗する。そのため、大変形に対しても粘り強い構造であり、[[地震]]や[[台風]]の被害が多い日本の風土に適した工法である。
*仕口の狂いや、仕上げの[[ひずみ]]に対する考慮や、耐久性に対する考慮が十分になされている<ref>岸田林太郎、中江 斉
著『木造建築工法』工学図書株式会社、1976年、改訂版・まえがき</ref>。
*高価である。
* 主に古くからの[[寺社建築]]や大規模高級住宅に多い。
=== 木造軸組構法 ===
* 工法としては、'''[[木造軸組構法|木造軸組工法]]'''又は'''在来工法'''と呼ばれる。
* 柱と梁で支える構造形式であるが、柱や梁の幅は3.5寸(105mm)から4寸(120mm)と伝統工法より細めである。
* 外力や変形に対しては、主に[[筋交い]]などの[[耐力壁]]によって抵抗する。
* 伝統工法とは異なり、部材同士の接合部は大変弱いので、[[ホールダウン金物]]や[[羽子板ボルト]]による金物補強が不可欠である。
* [[日本]]の木造住宅の多くはこの構法である。日本以外ではほとんど建築されない。
=== 木造枠組壁構法 ===
* 工法としては、'''[[木造枠組壁構法|枠組壁工法]]'''又は'''[[木造枠組壁構法|2×4(ツーバイフォー)工法]]'''と呼ばれる。
* 木材の枠組みに[[構造用合板]]を打ち付けた[[壁]]と[[床]]で支える構造形式である。
* 外力や変形に対しては、強固に結合された[[耐力壁]]と[[剛床]]によって、建物全体で受け止めるため、[[剛性]]・[[強度]]とも高く、大変形に対しても粘り強い構造である。
* 欧米(特に[[北アメリカ|北米]])では標準的な木造住宅の構法であるが、[[日本]]でも[[1974年]]頃から建築されるようになった。
* 欧米では5 - 6階建ての[[集合住宅]]にも見られるが、日本で認められているのは4階建てまでである。
=== 丸太組構法 ===
[[File:Blokhut.JPG|thumb|丸太組構法]]
{{main|ログハウス}}
* 丸太を横に積み上げて壁を作る構法であるが、屋根についてはこの限りでない。
* 外力や変形に対しては、丸太同士を緊結する縦方向の通し[[ボルト (部品)|ボルト]]や丸太同士のずれを防ぐ[[ダボ]]によって抵抗する。
* 主に平屋の住宅で用いられる。
=== 木質ラーメン構法 ===
* 太い柱と梁を用い、[[モーメント抵抗接合]]によりそれらを剛に接合した構造形式であり、いわゆる木造の[[ラーメン構造]]である。
* 木製の柱と梁を完全に剛に接合することは難しい(金物を用いたとしても金物が木材にめりこみやすい)。そのため、部材接点は、剛接合ではなく、半剛接合として扱わなければならない。
* 外力や変形に対しては、柱と梁のみで抵抗するため、[[耐力壁]]は基本的に必要ないが、部分的に[[耐力壁]]で強度を補うこともある。
* 住宅のみならず、事務所や公共施設などにも用いられる。
== 部材の性質 ==
* [[木材]]は、比強度(単位重量当たりの強度)が高い。すなわち、軽い割には高強度である。このことは、[[基礎]]が比較的簡素なもので済むことを意味する。
* 木材は、繊維方向の強度は高いが、繊維直角の方向の強度は低い。
* 木材は、粘り強さがなく、もろい破壊をおこす。そのため、粘り強さは、接合部(釘やボルトの変形、木材のめりこみなど)で確保しなければならない。
== 接合部の性質 ==
* 木材同士の接合部は、せん断力が働く方向に効くように作る。引張り力が働く部材を接合する場合は、添え板などを使用してせん断接合に変換する。
* 木材同士の接合には、主に次の方法がある。
** [[釘]]接合:1本当たりの強度は低いが、大量に打ち込むことにより、簡単に剛性・強度の高い接合部を作ることができる。
** [[ボルト (部品)|ボルト]]接合:初期ガタがあり、小変形では効かないが、大変形時には非常に高い強度と粘りを発揮する。
** 接着接合:部材同士が一体化し、初期剛性が高い。接着面積が大きいほど接合強度が高い。接着剤の品質により耐久性が異なる。
* それぞれの接合方法は、抵抗のメカニズムが異なるため、異なる接合方法を併用しても[[耐力]]を加算することはできない。
== 火災への対処 ==
木構造は、構造耐力上主要な部分に可燃材料を使っているため、他構造に比べ[[火災]]に弱い性質をもつ。そのため、原則として、外壁・屋根・軒裏は[[不燃材料]]で仕上げなければならない。また、以下のような防火措置を講じる。
防火性能を組み合わせることで、基準の厳しい[[ガソリンスタンド]]の事務棟や屋根を建設した例も見られる<ref>{{Cite web|和書|title=木材使ったガソリンスタンドが登場、安全性は大丈夫? |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2211/10/news136.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2022-11-12 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO17509720Z00C17A6000000/ |title=耐火木造に挑んだ全国初のガソリンスタンド |publisher=日本経済新聞 |date=2017-10-20 |accessdate=2021-04-29}}</ref>。
* 木部を[[石膏ボード]]など防火性能のある材料で覆い、木部が直接火炎にさらされるのを防ぐ。
* 部屋ごとに室内壁・天井を[[石膏ボード]]など防火性のある材料で覆い、隣室や上階への延焼を遅らせる。また、内装は極力[[不燃材料]]で仕上げる。
* 木材は、燃焼すると表面に炭化層を形成し、内部まで燃え尽きるのには時間がかかる。そのため、燃えしろを除いた部分だけでも構造が持つように[[構造計算]]を行い、太い断面の木材を使う(燃えしろ設計)。
{| class="wikitable
|-
! !! 燃えしろ
|-
! 30分耐火
| 25mm
|-
! 45分耐火
| 35mm
|-
! 1時間耐火
| 45mm
|}
* 壁内中空部および壁と天井などの取り合い部には、ファイヤーストップ材を設ける。
* 地震時に防火材料が脱落するのを防ぐため、各階の剛性を高くする(層間変形角1/150以下)。
その他、[[火災保険]]や[[地震保険]]において、耐火性の低い(耐火建築物・準耐火建築物・省令準耐火構造建物でない)木造住宅は保険料が高額となる。
=== 木造住宅密集地域 ===
大都市圏で古い木造住宅が密集し、大規模地震時などに火災や倒壊で深刻な被害が予想される地域を、地方自治体は「[[木造住宅密集地域]](木密)」と呼んでいる<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/sokushin/index.html 木造住宅密集地域の整備促進]東京都ホームページ</ref>([[国土交通省]]の表現は「地震時等に著しく危険な密集市街地」<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/house06_hh_000102.html 「地震時等に著しく危険な密集市街地」について]国土交通省 報道発表資料(2012年10月12日)</ref>)。東京都や都内特別区が[[南関東直下地震|首都直下地震]]に備えて「不燃化特区」で建て替えを促す<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/mokumitu/seido.html 不燃化特区の制度]東京都ホームページ</ref>など、各自治体と国が解消を目指した対策を進めている。
== シロアリ・腐朽への対処 ==
木構造は、構造耐力上主要な部分に[[シロアリ]]、腐朽に弱い材料を使っているため、他構造に比べ耐久性が低くなりがちである。そのため、原則として地面から1m以内の木部には防腐・防蟻の措置をしなければならない。また、以下のような対策を講じる。
* 建物下部の地面を全面的に[[鉄筋コンクリート]]で覆い、地面からの湿気や[[シロアリ]]の進入を防ぐ。[[べた基礎]]の採用が望ましいが、[[布基礎]]の場合でも防湿・防蟻のための鉄筋コンクリートを敷く。
* 構造耐力上主要な部分の[[木材]]は、乾燥したものを用いる(含水率25%以下が望ましい)。
* 構造耐力上主要な部分の[[木材]]は、辺材より心材の方が望ましい。
* 構造耐力上主要な部分の[[木材]]の樹種は、使用箇所に応じて、耐腐朽性・耐蟻性の大きいものを採用する。
{| class="wikitable"
|+ 心材の耐腐朽性・耐蟻性
|-
! colspan="2" rowspan="2" |
! colspan="3" | 耐腐朽性
|-
! 大
! 中
! 小
|-
! rowspan="3" | {{縦書き|耐蟻性}}
! 大
| [[ヒバ|ひば]]・こうやまき・べいひば
|
|
|-
! 中
| [[ヒノキ|ひのき]]・[[ケヤキ|けやき]]・べいひ
| [[スギ|すぎ]]・[[カラマツ|からまつ]]
|
|-
! 小
| [[クリ|くり]]・べいすぎ
| べいまつ・ダフリカからまつ
| [[アカマツ|あかまつ]]・[[クロマツ|くろまつ]]・べいつが
|}
* 屋根の形状は単純なものとし、ひさしの出はできるだけ大きくすることが望ましい。
* 外壁の室内側には'''防湿層'''を正しく施工し、壁内に室内で発生した湿気が入り込むのを防ぐ(外壁のすべてが通気性のある材料で構成されている場合は除く)。
* 室内で発生した湿気は、[[窓]]や換気設備などを用いて、積極的に屋外に排出する。
== 木構造の環境への負荷 ==
木構造は、他構造に比べ環境への負荷が少ない構造形式である。
* 使用する木材は、太陽光などの自然エネルギーによって生育するものであり、製造に伴う[[二酸化炭素]]排出量が少ない。
* 材料の[[比重]]が軽量であるため、材料の運搬に伴う[[二酸化炭素]]排出量が少ない。
* 材料加工・組み立てが容易であるため、建築作業に伴う[[二酸化炭素]]排出量が少ない。
* 建築物の存在期間中、木材中の炭素を建築物に固着させておく効果がある。
==日本における木造化の推進==
2010年、公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律が成立。国が関与する公共建築物において木材利用を積極的に取り組むとともに、地方公共団体や民間事業者にも木材利用の取組を促がすこととなった<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-10 |url=https://www.rinya.maff.go.jp/j/riyou/koukyou/ |title=公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律 |publisher=林野庁ホームページ |accessdate=2020-04-29}}</ref>。2018年度に国が整備した低層公共建築の木造化率は、78.6%(98棟うち78棟)に達している<ref>「国の公共建築物木造化率が78.6%に続伸」『林政ニュース』第625号p4 2020年3月25日 日本林業調査会</ref>。
2021年、公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律が、脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律として改正された。目的の見直しや、対象となる建築物を公共建築物から民間を含む建築物一般へ拡大するなどが行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/j/riyou/koukyou/ |title=公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律(改正後:脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律):林野庁 |publisher=林野庁|accessdate=2021-07-05}}</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『建築関係法令集』建築法規編集会議編
* 『木造住宅工事仕様書(解説付)』(財)住宅金融普及協会
* 『枠組壁工法住宅工事仕様書(解説付)』(財)住宅金融普及協会
* 『木質構造設計規準・同解説 -許容応力度・許容耐力設計法-』(社)日本建築学会
* 『木造軸組工法住宅の許容応力度設計』(財)日本住宅・木材技術センター
== 関連項目 ==
* [[木造ビル]]
* [[木造教会]]
* [[木造3階建て]]
* [[鉄筋コンクリート構造]]
* [[鉄骨構造]](鋼構造)
* [[鉄骨鉄筋コンクリート構造]]
* [[アルミニウム構造]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/hp-kikakuka/toukei/64/data/03.pdf 第64回東京消防庁統計書(平成23年) 第29表 火元建物の構造別火災状況]
* {{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000168249.pdf 国土交通省 東日本大震災の津波被災現況調査結果(第2次報告)]}} (2.建物構造別の浸水深と建物被災状況の関係)
* {{Egov law|422AC0000000036|公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律}}
{{Architecture-stub}}
{{森林破壊}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:もくこうそう}}
[[Category:建築構造]]
[[Category:木造建築物|*]]
[[Category:中国の無形文化遺産]]
[[Category:韓国の無形文化遺産]]
[[Category:日本の無形文化遺産]]
[[ba:Ағастан йорттар төҙөү]]
[[it:Legno strutturale]]
|
2003-07-10T01:57:47Z
|
2023-11-24T02:59:03Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%A7%8B%E9%80%A0_(%E5%BB%BA%E7%AF%89)
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経絡秘孔
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経絡秘孔(けいらくひこう)は、漫画『北斗の拳』・『蒼天の拳』に登場する架空の人間の急所である。少林寺拳法開祖宗道臣が著作で人間の急所経穴を表現した言葉に由来する。
経絡というのは、東洋医学の用語で、気の流れるルートとされるもので、鍼灸で施術に使用されるのは経絡の要所である経穴 (けいけつ)であり、一般的にはツボと呼ばれる。
北斗神拳と西斗月拳ではそれらの要所(秘孔)を突くことにより敵を破裂させたり、人体を強化することができるとする。なお秘孔は、『北斗の拳』の時点で708個が発見されており、北斗の拳作中に登場する経絡秘孔の名称及び位置の多くは、実際の経穴と一致や一部改称されて使用されている物が多いが、一部において明らかに位置が違うものがある。南斗聖拳にも北斗神拳ほどではないが、秘孔を使う技が存在しており、六聖拳の一人であるレイがケンシロウと示し合わせて数分間相手を仮死状態にする秘孔を突いている。また北斗琉拳にも同じように経絡破孔と呼ばれるものが存在しこちらも人体の要所(破孔)を突くことにより人体に様々な変化を与える。破孔は「北斗の拳」の時点で1109個発見されている。
日本少林寺拳法では「圧法」という高段者のみが使える秘術があり、これを取材した原哲夫がヒントを得て漫画『北斗の拳』を生み出した。なお、初期の読み切り版『北斗の拳』には「泰山寺拳法」という流派が出てきており、その建物は日本少林寺拳法の本部に酷似している。
必殺技のヒントを探していた編集者の堀江信彦が中国の本を集めた古書店で医学書を見ていた時、中国の医学生がツボを研究していて目のツボを刺激しすぎてかえって目が悪くなった、という記述を見つけたのがきっかけだと、堀江自身はNHK(日本放送協会)の番組で述べた。
経絡秘孔や経絡破孔は突けば確実に効果が現れるわけではなく、様々な要因で無効化される場合もある。またこの他にも特殊な現象が存在する。以下に例を挙げる。
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"text": "北斗神拳と西斗月拳ではそれらの要所(秘孔)を突くことにより敵を破裂させたり、人体を強化することができるとする。なお秘孔は、『北斗の拳』の時点で708個が発見されており、北斗の拳作中に登場する経絡秘孔の名称及び位置の多くは、実際の経穴と一致や一部改称されて使用されている物が多いが、一部において明らかに位置が違うものがある。南斗聖拳にも北斗神拳ほどではないが、秘孔を使う技が存在しており、六聖拳の一人であるレイがケンシロウと示し合わせて数分間相手を仮死状態にする秘孔を突いている。また北斗琉拳にも同じように経絡破孔と呼ばれるものが存在しこちらも人体の要所(破孔)を突くことにより人体に様々な変化を与える。破孔は「北斗の拳」の時点で1109個発見されている。",
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"text": "日本少林寺拳法では「圧法」という高段者のみが使える秘術があり、これを取材した原哲夫がヒントを得て漫画『北斗の拳』を生み出した。なお、初期の読み切り版『北斗の拳』には「泰山寺拳法」という流派が出てきており、その建物は日本少林寺拳法の本部に酷似している。",
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"text": "必殺技のヒントを探していた編集者の堀江信彦が中国の本を集めた古書店で医学書を見ていた時、中国の医学生がツボを研究していて目のツボを刺激しすぎてかえって目が悪くなった、という記述を見つけたのがきっかけだと、堀江自身はNHK(日本放送協会)の番組で述べた。",
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経絡秘孔(けいらくひこう)は、漫画『北斗の拳』・『蒼天の拳』に登場する架空の人間の急所である。少林寺拳法開祖宗道臣が著作で人間の急所経穴を表現した言葉に由来する。
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{{otheruses|漫画『[[北斗の拳]]』・『[[蒼天の拳]]』に登場する'''架空'''の[[人体の急所|人間の急所]]|[[少林寺拳法]]開祖[[宗道臣]]が著作で人間の急所経穴を表現した言葉|少林寺拳法}}
{{単一の出典|date=2019年4月}}
'''経絡秘孔'''(けいらくひこう)は、[[漫画]]『[[北斗の拳]]』・『[[蒼天の拳]]』に登場する'''架空'''の[[人体の急所|人間の急所]]である。[[少林寺拳法]]開祖[[宗道臣]]が著作で人間の急所経穴を表現した言葉に由来する。
== 概説 ==
[[経絡]]というのは、[[伝統中国医学|東洋医学]]の用語で、[[気]]<ref group="注">現代用語で言うところの[[エネルギー]]に近く、生物の生命力の源。東洋医学では、これ以外に血(ケツ→「チ」とは必ずしも一致しない)と津液(シンエキ→汗などの透明な液体全般)が人体内を巡っているとされる</ref>の流れるルートとされるもので、[[鍼灸]]で施術に使用されるのは経絡の要所である[[経穴]] (けいけつ)であり、一般的には'''ツボ'''と呼ばれる。
[[北斗神拳]]と[[西斗月拳]]ではそれらの要所('''秘孔''')を突くことにより敵を破裂させたり、人体を強化することができるとする。なお秘孔は、『北斗の拳』の時点で708個が発見されており<ref group="注">[[アミバ]]が開発した数個を含む。</ref>、北斗の拳作中に登場する経絡秘孔の名称及び位置の多くは、実際の経穴と一致や一部改称されて使用されている物が多いが<ref group="注">例:頭維は秘孔では「とうい」と読むが、経穴での読みは「ずい」である。</ref>、一部において明らかに位置が違うものがある<ref group="注">単なるミスか意図的かは不明。</ref>。[[南斗聖拳]]にも北斗神拳ほどではないが、秘孔を使う技が存在しており、六聖拳の一人であるレイがケンシロウと示し合わせて数分間相手を[[仮死状態]]にする秘孔を突いている。また[[北斗琉拳]]にも同じように'''経絡破孔'''と呼ばれるものが存在しこちらも人体の要所('''破孔''')を突くことにより人体に様々な変化を与える。破孔は「北斗の拳」の時点で1109個発見されている。
日本少林寺拳法では「圧法」という高段者のみが使える秘術があり、これを取材した原哲夫がヒントを得て漫画『北斗の拳』を生み出した{{要出典|date=2019年1月}}。なお、初期の読み切り版『北斗の拳』には「泰山寺拳法」という流派が出てきており、その建物は日本少林寺拳法の本部に酷似している。
[[必殺技]]のヒントを探していた編集者の堀江信彦が中国の本を集めた古書店で医学書を見ていた時、中国の医学生が[[経穴|ツボ]]を研究していて目のツボを刺激しすぎてかえって目が悪くなった、という記述を見つけたのがきっかけだと、堀江自身はNHK([[日本放送協会]])の番組で述べた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018092806SA000/|title=アナザーストーリーズ 運命の分岐点 「“北斗の拳”誕生~舞台裏のもう一つの“格闘”~」(2018年) NHK|accessdate=2019-01-24|publisher=日本放送協会}}</ref>。
== 秘孔一覧 ==
* '''頭維(四合)'''
:突いた指を抜いてから3秒後に死ぬ。
* '''頭顳'''
:[[脳]]の動きを[[麻痺]]させ、一時的に動けなくさせる。正気に戻っても秘孔を突かれた瞬間の[[記憶]]をも消し去ってしまう<ref>原作1巻5話</ref>。逆に記憶を呼び起こすこともできる。自らの意思とは関係なく、相手から尋ねられた物のある方向を指し示し後に爆死する。
* '''命門'''
:突かれてから1分後、[[背骨]]が[[背中]]の[[筋肉]]の張力に負けて2つに折れてしまう。
* '''明見'''
:本人の意思とは関係なく[[腕]]が左右に拡がり続ける。
* '''定神'''
:錯乱状態にある者を気絶させ、目覚めたときに落ち着かせる。
* '''瞳明'''
:[[眼球]]を裏返させ、[[視力]]を完全に失わせる。
* '''新一'''
:自らの意志とは関係なく相手の[[質問]]に答えてしまう。
* '''新伏免'''
:意志とは無関係に両腕を背後に回させ、一歩でも動けば爆死する。
* '''頬内'''
:[[顎]]の力を失わせる。
* '''大胸筋'''
:筋肉をブヨブヨの[[脂肪]]に変え、しばらくすると逆に体は硬直し始め、最後には動かなくなる。
* '''健明'''
:目が見えるようになる。
* '''龍頷'''
:[[痛覚神経]]を剥き出しにされる。
* '''戦癰'''
:両腕を真横に伸ばしたまま、身体を動かせなくなる
* '''膝限'''
:自分の意志とは無関係に[[足]]が後ろへ進んでしまう。
* '''牽正'''
:痛みがないまま[[膝]]、[[首]]、腕が反対方向に曲がり、快感を得ながら死ぬ。
* '''新血愁'''
:不定期に身体のどこかが激痛と共に壊れていき、3日後に全身から[[血]]を噴き出して死ぬ。
* '''心霊台'''
:新血愁で全身から血を噴き出すまでの期間が少し伸びるが、効果が現れるまでの過程で凄まじい激痛に襲われる。
* '''新膻中'''
:使用者の声がかからない限り動けなくなる。
* '''頸中'''
:強烈な痛みを持続的に感じる。
* '''下扶突'''
:強烈な痛みを持続的に感じる。
* '''児鳩胸'''
:目の遠近感を失わせる。
* '''人中極'''
:秘孔のなかで最も破壊力を持ち、突かれてから3秒後に死ぬ。
* '''刹活孔'''
:両腿の内側にあり、一時のみ強力な力を得るが、寿命が縮まる。
* '''鏡明'''
:手が破裂し、そのまま崩れ去る。
* '''解唖門天聴'''
:自分の意志とは関係なく口を割り、逆らおうとすれば肉体が血を噴きやがて崩壊する。
* '''喘破'''
:[[息]]を吐くことはできても、吸うことができなくなる。
* '''上血海'''
:片足が一時的に動かなくなる。
* '''戈穴'''
:戦闘を行う上で有利になれる秘孔の1つ。
* '''詞宝林'''
:聖塔の前でケンシロウが自ら突くと、北斗宗家の[[封印]]が解かれ、[[碑]]に刻まれた[[文字]]を解読できる。
* '''安騫孔'''
:毒素に対する抵抗力が倍加する。
* '''王柱'''
:人間の立位、歩行に関わる。
* '''亜血愁'''
:出血や激痛を止める。
* '''椎神'''
:動きを止める、歩行を困難にする。
* '''閉血愁'''
:苦痛をやわらげ、緩やかに[[心臓]]を停止させる。
* '''上顎'''
:自分の意志に関係なく質問に答える。
* '''止動穴'''
:[[額]]にあり、効果は不明。
* '''忘神'''
:徐々に記憶を取り戻す。
* '''全知'''
:自分の意志に関係なく、どんなものでも飲み干す。ただし「現在している動作をやめられなくなる」効果の可能性もある。
* '''風厳'''
:術者の言うことを何でも聞く。
* '''鬼床'''
:[[歯]]が全部抜け、目玉が飛び出る。
* '''大指甲根'''
:[[声]]が出せなくなる。無理に大声を出そうとすると[[喉]]が破裂し、流血する。
* '''死破骨'''
:激痛と引き換えに身体の持つ免疫細胞の能力を一時的に向上させ、[[毒]]を無効化するが、さらなる代償として余命がごく限られたものとなる。
== 破孔一覧 ==
* '''悶堪孔'''
:具体的には不明だが、致命的な破孔。力量の不十分な子供の力でも致命傷に至る程効果が強い。
* '''経星'''
:封じられた記憶を取り戻す。
* '''死環白'''
:一時的に視覚と情愛、記憶を失い、再び目が開かれたとき初めてみた人間に情愛の全てを捧げる。
== その他 ==
* 『[[北斗の拳]]』に登場。アミバが発見した新秘孔で、アミバと対峙したケンシロウにとっては未知の秘孔。
** 激振孔(心臓の運動が急激に増幅し、血管が破れて死亡する)
* 『[[天の覇王 北斗の拳ラオウ外伝]]』に登場。アミバが突いた秘孔だが、トキによると存在しない秘孔。
** 天悶(てんもん)
** 神蛾(しんが)
** 胸凶(きょうきょう)
*[[2009年]]放送の『[[ルパン三世VS名探偵コナン]]』に登場し、ルパンが使った秘孔。お金を入れても飲料が出てこない自動販売機に対して使う。この時、ルパンがハッキリと「経絡秘孔の1つ」と発言している。なお、本作にはケンシロウ役だった[[神谷明]]が[[毛利小五郎]]役として出演している。
**出すっきゃねぇでしょのツボ
== 秘孔が効かない場合 ==
経絡秘孔や経絡破孔は突けば確実に効果が現れるわけではなく、様々な要因で無効化される場合もある。またこの他にも特殊な現象が存在する。以下に例を挙げる。
=== 北斗の拳 ===
* サザンクロス編の終盤、[[シン (北斗の拳)|シン]]は[[ケンシロウ]]に倒され、秘孔を突かれて残り1分の命となった。しかし、ケンシロウへの意地から1分が経つよりも先に「俺はお前の拳では死なぬ」と自らの居城から飛び降りて命を絶った結果、秘孔による爆発等は中途半端なもので終わった。このように、秘孔を突かれて命が残りわずかになっても、それより先に絶命すると秘孔の効果は抑えられる。
** 一方、風雲竜虎編の牙一族編ではケンシロウから北斗千手壊拳を受けたケマダが残り5秒の命となり、これに対して「5秒なんて嫌」と命乞いするが[[レイ (北斗の拳)|レイ]]から「では今死ね」と全身を切断されて多数の肉片と化し、その肉片はしっかりと爆発している。全身を切られた時点で死亡しているのに秘孔の効果が出ているということだが、生きているイカやタコの足を切断しても切られた足がしばらくの間単体で動き続けているのと同じように、損傷の度合いによって「まだ生物学的に生きている状態」ならば効果は現れる模様。
* 風雲竜虎編のジャギ編では回想シーンにおいて、ケンシロウと[[ジャギ]]がお互いの体の秘孔がある場所に丸い印を書かれた状態で組み手を行い、ジャギが北斗千手殺でケンシロウの秘孔を突いたかに見えたが、突き場所は外れており<ref group="注">あるいはケンシロウを見くびっていたジャギが単に打ちのめすだけで十分と判断したか。</ref>全く効かなかった。そしてその時ジャギの秘孔はケンシロウによって既に突かれていたが、血縁の無い義兄とはいえ兄のジャギを殺せない甘さのあったケンシロウは突きに十分な力を込めず、ただ秘孔のある場所に薄赤い痣を付けただけだった。
* 風雲竜虎編のジャギ編で、自分に向けて銃の引き金を引くという秘孔<ref group="注">1986年劇場版においてケンシロウは「きょせつ」と呼ぶ。</ref>を打たれたジャギが、自身の上腕の秘孔をついて、その効果を打ち消した。同様の方法で、ラオウがレイに打った「新血愁」の効果をトキが「心霊台」を打つことで一時的に効果を押さえた。また、アミバの死ぬ寸前のやりとりから膝限の効果を打ち消す秘孔もあると推察されるが、この時のアミバは指が無くなっていたのでどうしようもなかった。ただしこの方法は全ての秘孔に適応できるわけではなく、アミバが発見した激振孔をケンシロウが直接解除できなかったり、新血愁に対する心霊台の効果も一時的なものでしかないなど、完全な解除方法が無い・未発見である秘孔もあった。
* 風雲竜虎編のアミバ編でケンシロウはトキに成り済ましていた[[アミバ]]に秘孔を突かれて動けなくなるが、そこに現れたレイからアミバの正体を聞かされた後に北斗神拳の奥義「秘孔封じ」によって体の自由を取り戻した。この時ケンシロウはアミバに向けて「突いたのが本物のトキなら防ぐことは出来ない」と語っていた。後にマミヤの村で[[ラオウ]]と対峙した折、[[トキ (北斗の拳)|トキ]]は自分の戦いをケンシロウに見せようとあえて秘孔を突いて身動きを封じ、自分が声をかけない限り動けなくした。これに対しケンシロウは自力で体の自由を取り戻そうとするも、結局は特殊な状態になるまで、トキに自分を解放するよう叫ぶ以外のあらゆる行動を封じられた。
* 乱世覇道編でケンシロウの前に立ちはだかった[[サウザー (北斗の拳)|サウザー]]は、初戦でケンシロウに人中極を突かれて残り3秒の命となるはずが全く効かず、その後もケンシロウの秘孔を突かれても全く効かなかった。そして2度目の戦いの中で、ケンシロウはサウザーの「帝王の血が流れる肉体」の正体が、秘孔が表裏逆の位置に存在する特異体質であることを突き止める。そして全身の気の巡りを調べて正確な秘孔の位置を露にするが、それは戦いを見守っていたラオウをして「それもあのような位置に…」と言わせるくらい、常人とはかけ離れた秘孔の配置だった。
* 天帝編で[[元斗皇拳]]の使い手[[ファルコ (北斗の拳)|ファルコ]]は、ケンシロウとの戦いの中で戈穴を突かれるが、その周囲の細胞を自ら焼き尽くして死滅させるという元斗皇拳流の「秘孔封じ」で無力化した。
* 修羅の国編で、[[北斗琉拳]]の大老ジュウケイは弟子ヒョウの記憶を封印した際、改めて封印を解く時に備えてヒョウの体に細工をしていた。しかし実際にはヒョウの記憶の封印への躊躇いから記憶の封印に失敗し、それを見抜いたカイオウから背中の破孔を突かれて記憶を封印され、額の復元破孔を突かれても記憶の封印が解けないように細工された。その後ジュウケイが封印を解くべく額の復元破孔を突いた際には一時的に記憶が戻るも、カイオウが突いた背中の破孔から血が噴き出した後、復元破孔の効果を打ち消された。そして、その状態のままケンシロウと対峙したヒョウは、ケンシロウに秘孔を突かれたが刃物で秘孔を抉り、効き目を消した。その後、今度は自分の周囲の空間を魔闘気で歪める事で自分の秘孔を正確に突けなくするが、ケンシロウは剛拳でヒョウの肉体を砕き割る戦法に切り替えたので全く意味を成さなかった。この戦いぶりに対するヒョウの疑問は記憶を蘇らせるきっかけとなった。また、カイオウは[[北斗宗家]]の聖殿である泰聖殿でシャチと交戦し、戦いの影響で床が崩れてたどり着いた地下室で致命傷を与えるが、そこでシャチは安置されていた女人像から不思議な力を得て立ち上がり、カイオウに傷を負わせるほどの活躍を見せた。これに対しカイオウは経絡破孔を突くも効果は無く、「この男は既に死んでいるのか」と驚愕した。そして終盤でカイオウは暗琉天破とのコンボでケンシロウの破孔を突くが、既に女人像に封印されていた北斗宗家の秘拳における受身の技を伝授されたケンシロウには効かなかった。なお、カイオウとケンシロウは共に北斗宗家の血を引く末裔であり、カイオウが拳が効かない理由をケンシロウは「お前が使ったのもまた宗家の拳。受身の技が極められていて実戦での攻撃力を封じていた」と評した。
* ブランカ編でケンシロウが対峙したブランカの兵は、ケンシロウに致命の秘孔を突かれて重傷を負ってもなお戦い続け、最後には「ブランカ、万歳」と唱えながら死んでいき、ケンシロウを驚愕させた。ただしこれは元来神への信仰心とブランカへの愛国心を抱いていたのが、「光帝」ことバランを崇拝する狂信者へと化した生粋のブランカ兵にのみ見られる現象で、バランの力に惹かれてやって来たゴロツキ上がりの兵には全く見られなかった。
* 修羅の国編の後半でカイオウから死環白を突かれた[[リン (北斗の拳)|リン]]は、ケンシロウからリンを託された[[バット (北斗の拳)|バット]]から目隠しを外されてからその効果によってバットを愛するようになっていたが、バット・リン編で死環白の生み出した偽りの愛を受け入れられなかったバットはリンとの結婚式にて、リンの秘孔を突いて記憶を奪うことによって強引に死環白の効き目を打ち消した。その後リンは記憶の戻らぬままユリアの起こした奇跡によって記憶を失ったケンシロウと出会うが、バットやボルゲとの闘いの中で記憶を取り戻したケンシロウの姿を見る内に、死環白を突かれる以前のものを含む全ての記憶を取り戻した。
=== 真救世主伝説 北斗の拳ZERO ケンシロウ伝 ===
* 「気」を上手くコントロールできなければ、秘孔は効かない。シンに敗れて胸に七つ傷を負ったケンシロウは、半死半生のまま彷徨い、奴隷売買の街ゲッソーシティに囚われの身になる。そこで「熊殺し」の異名をとる巨漢ガデスと決闘することとなる。果たしてケンシロウは秘孔を突くが、傷が癒えぬ状態では、強い「気」を秘孔に上手く打ち込むことができず、秘孔の効果は得られなかった。
=== 蒼天の拳 ===
* 北斗孫家拳の伝承者である霊王こと芒狂雲は、北斗神拳を超えようと修行を重ねた末、孫家拳の奥義「秘孔変位」を会得した。これは血と気の流れを変えることで秘孔の位置さえも変える奥義であり、北斗神拳に挑もうとする狂雲を止めようとした彼の師父は退く意思を見せない狂雲と戦い彼の秘孔を突くが、秘孔変位によって全く効かず、敗死した。その後、狂雲は霞拳志郎との2度目の戦いで秘孔変位を用いて優位に立ったかに見えたが、拳志郎から自分の意志では絶対に意思を変えることのできない秘孔である秘孔「[[奇穴]]」を突かれて敗れた。なお、秘孔変位を極めたかどうか確認するためには実際に秘孔を突く必要があるが、当の狂雲は「命が惜しくて致命の秘孔を突けぬ」と独力で極めることが出来ず、阿片の力を借りて恐怖を克服したものの、その肉体は蝕まれ崩壊は時間の問題であった。
* 秘孔を突く際には秘孔の場所だけでなく力加減も適切でなければ効果は現れない。これを「点穴の術」という。北斗の拳の傍流に位置する極十字聖拳の使い手の流飛燕は霞拳志郎との闘いで、拳志郎が自分の秘孔を突く際にわざと前進して秘孔を深々と突き刺させる事で、ただ秘孔のある場所に大きな突き傷を負うだけで効果を打ち消す「点穴の術破り」を行った。なお、飛燕が言うにはこれは元々は拳志郎の父にして北斗神拳先代伝承者の霞鉄心が、かつて飛燕の師にして極十字聖拳の創始者である魏瑞鷹との果し合いの中で用いたとのこと。
* 秘孔の効果が伝わる速度よりも、肉体の治癒速度がそれを上回って早い場合も無効化される。第二部「リジェネシス」で登場する敵組織「ホレブ族」は、この能力を人間に人為的に付与することに成功しており、その技術を「死突琉変異」と呼ぶ。
=== 天の覇王 北斗の拳ラオウ外伝 ===
* ユダの策により拳王府を襲撃したサウザーを迎え撃ったラオウはサウザーに拳を放つが、サウザーの体の謎を知らなかったラオウは剛力の拳でダメージこそ与えるも、秘孔の術が効かないためその威力は減じており、サウザーに反撃を許す余裕を与えていた。このため、両者ともに傷つき、最終的には相互不可侵を結ぶことになった。アニメではラオウが修羅の国編でケンシロウがヒョウに行った「剛拳で肉体を粉砕する戦法」を決行し、さらなる激闘を展開した。
=== 銀の聖者 北斗の拳 トキ外伝 ===
* 原作でラオウとの最終決戦に挑もうとするトキに対してケンシロウが挑んだ果し合いについて、本作では北斗拳士同士の果し合いとして、互いの胸にある致命の秘孔を突き合い、突ききる寸前で手を止めるという、一歩間違えば死を招くものとなっている。そして両者は原作通りに北斗天帰掌を交わしてから互いの秘孔を突き合い、お互い死なずに引き分けに終わった。
* 原作でラオウがトキの放つ攻撃を受けながら涙して「効かぬのだ」と言う場面は、本作ではトキの天翔百裂拳を受けて打ち倒されたラオウが、その時自分の頭上に輝いていた死兆星の輝きが消えたのに気付いてから、トキの攻撃を受けて涙し、トキが既に刹活孔を突いていたと明かす。なお、当のトキは刹活孔を突いて得た剛力が消えて自分の体の衰えが始まった自覚が無く、ラオウに放った攻撃が効かないのを見て「致命の秘孔を突いたはず」と内心で動揺していた。
=== 真・北斗無双 ===
* 幻闘編サウザーの章で、サウザーは自らが提案しラオウが受け入れたことで開催された北斗と南斗の対抗戦でラオウ・トキ・ジャギと対戦するが、いずれの場合も秘孔の術が効かなかったため勝利した。その後、核戦争後の世界の覇権をめぐって拳王を名乗るラオウと再び戦うが互いに決着はつかず、休戦となるがこの時のラオウとの会話の中でラオウが発した「もう一つの天」に疑問を抱いたサウザーは配下に調べさせた結果修羅の国や北斗琉拳の存在を掴み、海を渡って修羅の国へと攻め込む。そして北斗琉拳の使い手であるヒョウ、そしてカイオウと戦い、彼らの繰り出す破孔の術は尽くサウザーに通じずに終わった。その一方、北斗と南斗の対抗戦でサウザーと戦ったトキはサウザーの体に違和感を覚えており、トキの章においてトキはサウザーの心音が左右逆であると気付き、そこからサウザーの体の謎を解いている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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[[Category:蒼天の拳]]
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コージー冨田
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コージー 冨田(コージーとみた、1967年2月24日 - )は、日本のものまねタレント、コメディアン。兵庫県神戸市出身、愛知県豊田市育ち。トップ・カラー所属。本名は冨田 弘司(とみた こうじ)。
高校卒業後、育ちの豊田市でトヨタの下請け工場に5年間勤務。この頃から本名の冨田弘司名義で『森田一義アワー 笑っていいとも!』『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』など様々な番組に出演する。冨田のタモリまねネタがまだ有名でなかった頃、『笑っていいとも!』の夏休み期間に行われた企画「真夏のそっくり当てまショー」のグランドチャンピオン大会(1997年9月3日放送)で優勝者と共に出場した新人としてタモリの前でタモリの物真似を披露。第28回『発表!日本ものまね大賞』でグランプリを獲得後本格的にプロ転向。タモリのものまねによって一躍有名になる。2001年に第38回ゴールデン・アロー賞芸能新人賞を受賞。
桜塚やっくんとも親交があり、スケバン恐子は冨田が「目があゆに似てるね」と言ったことがきっかけだったことを、冨田自身が明かしている。
弟の冨田真司(とみた しんじ)もものまね芸人であり、シンジー冨田として活躍している。
タモリのものまねの第一人者で、「あれっ? 髪切った?」、「んなぁーこたぁーない」というフレーズを用いる。「髪切った?」は『ものまねバトル』でヒロミからの振りに返した咄嗟の一言がはじまりだったことを自身のブログで明かしている。素人参加番組に出演した時は松村邦洋、島田紳助、笑福亭鶴瓶、桂歌丸、櫻井和寿。初めてタモリと共演した時は本人のモノマネはせずに松村邦洋と松村雄基のモノマネで、ドラマ『スクール☆ウォーズ』の「イソップが死んだのは俺のせいだ」のくだりを披露し、佐藤康恵は「松村邦洋のドスが効いてる」、東野幸治は松村邦洋のマネが上手いと評している。その他、いかりや長介、板東英二、古畑任三郎、石橋貴明など多数のレパートリーを持つ。「重箱の隅をつつくメドレー」と称する細かいものまねを得意としており、それをヒントに企画されたのが『博士と助手~細かすぎて伝わらないモノマネ選手権~』である。音声をまねる声帯模写、外見をまねる形態模写に対し、自分のものまねは性格模写であると本人は語っている。
コージー名義となって以降はタモリとの公式な共演はない。
30歳からはスキンヘッドにしており、モノマネのネタに応じてその都度カツラを被り換える。
松村邦洋やコロッケの完全コピーも披露しているが、逆にゆうぞうに自身の完コピをされており、ゆうぞうに潰しにかかりますと言ったが、ゆうぞうに潰しには負けませんと切り返されている。 大橋巨泉では彼の横柄な態度をコミカルにアレンジし「お前の番組に出てやる」と言って決め台詞にしていた。 原口あきまさのさんまを相手に「クイズダービー」の司会を倍率ドンと解答オープンの部分で再現したことがある。 石橋貴明はかつて久本雅美のトーク番組に出たとき「皆は「うるせーな!バーカ!」とかの部分をものまねするけど僕はトークの部分をものまねする」と語っていた。
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コージー 冨田は、日本のものまねタレント、コメディアン。兵庫県神戸市出身、愛知県豊田市育ち。トップ・カラー所属。本名は冨田 弘司。
|
{{Infobox お笑い芸人
| 名前 = コージー冨田
| 画像 = [[画像:「第39回東京2歳優駿牝馬」で表彰される阿部龍騎手と、プレゼンターのコージー冨田(2015年12月31日).JPG|300px]]
| キャプション = コージー冨田(左側)と[[阿部龍]](2015年12月 大井競馬場)
| 本名 = 冨田 弘司(とみた こうじ)<ref name="ge" />
| ニックネーム =
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1967|2|24}}
| 没年月日 =
| 出身地 = [[兵庫県]][[神戸市]]
| 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]
| 身長 = 172cm<ref name="tc" />
| 方言 = [[共通語]]
| 最終学歴 =
| 芸風 = [[物真似|ものまね]]
| 立ち位置 =
| 事務所 = [[トップ・カラー]]
| 活動時期 = [[1995年]] -
| 同期 =
| 現在の代表番組= [[爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル]]<br />[[ものまねバトル☆CLUB]]<br />[[週刊ことばマガジン]]<br />[[ものまね王座決定戦]]
| 過去の代表番組= [[ものまねバトル]]<br />[[メレンゲの気持ち]]<br />[[笑う犬|笑う子犬の生活]]<br />[[ものまねグランプリ]]<br /><small>など</small>
| 作品 =
| 他の活動 =
| 配偶者 = 既婚
| 親族 =
| 弟子 =
| 公式サイト = [http://www.top-color.jp/?page_id=3 公式プロフィール]
| 受賞歴 =
* [[1995年]] [[ものまね王座決定戦|発表!日本ものまね大賞]]優勝
* [[2001年]] [[ゴールデン・アロー賞]]芸能新人賞
* 2004年 第一回[[博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜]]優勝
}}
'''コージー 冨田'''(コージーとみた、[[1967年]][[2月24日]]<ref name="tc" /><ref name="ko" /> - )は、[[日本]]の[[ものまねタレント]]、[[コメディアン]]。[[兵庫県]][[神戸市]]出身、[[愛知県]][[豊田市]]育ち<ref name="tc" /><ref name="ko" />。[[トップ・カラー]]所属。本名は冨田 弘司(とみた こうじ)<ref name="tc" />。
== 人物・来歴 ==
<!-- [[杜若高等学校]]卒業<br> ※ https://ameblo.jp/cozyzoc/entry-11526448536.html (本人ブログ)でかろうじて言及が確認できるものの出身校かどうかは判断できない -->
高校卒業後、育ちの[[豊田市]]で[[トヨタ]]の下請け工場に5年間勤務<ref name="ge">[https://archive.is/6m3p0 モノマネ芸人のコージー冨田さん] <!-- http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/142658/ -->{{リンク切れ|date=2019年3月}}[[日刊ゲンダイ]] 2013年6月3日</ref>。この頃から本名の'''冨田弘司'''名義で『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』など様々な番組に出演する<ref name="ge" />。冨田のタモリまねネタがまだ有名でなかった頃、{{要出典|date=2015年5月|範囲=『笑っていいとも!』の夏休み期間に行われた企画「真夏のそっくり当てまショー」のグランドチャンピオン大会([[1997年]][[9月3日]]放送)で優勝者と共に出場した新人としてタモリの前でタモリの物真似を披露。}}<ref name="postseven"/>第28回『[[ものまね王座決定戦|発表!日本ものまね大賞]]』でグランプリを獲得後<ref name="ge" />本格的にプロ転向<ref name="kouen">[http://www.kouenirai.com/profile/6394.htm コージー冨田] 講演依頼.com([[ペルソン]])</ref>。[[タモリ]]のものまねによって一躍有名になる<ref name="ko" />。2001年に第38回[[ゴールデン・アロー賞]]芸能新人賞を受賞<ref name="ko" /><ref name="kouen" />。
[[桜塚やっくん]]とも親交があり、'''スケバン恐子'''は冨田が「目が[[浜崎あゆみ|あゆ]]に似てるね」と言ったことがきっかけだったことを、冨田自身が明かしている<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2029426/full/ コージー冨田、“スケバン恐子”誕生秘話明かす やっくん死去に「まだ受け止めきれない」] [[オリコン|oricon style]] 2013年10月6日</ref>。
弟の冨田真司(とみた しんじ)もものまね芸人であり、[[シンジー冨田]]として活躍している。
== ものまね ==
タモリのものまねの第一人者で、「あれっ? 髪切った?」、「んなぁーこたぁーない」というフレーズを用いる。「髪切った?」は『[[ものまねバトル]]』で[[ヒロミ]]からの振りに返した咄嗟の一言がはじまりだったことを自身のブログで明かしている<ref>[https://ameblo.jp/cozyzoc/entry-11998527430.html ものまねはじめて物語] コージー冨田オフィシャルブログ「COZY苑」 2015年3月7日</ref>。素人参加番組に出演した時は[[松村邦洋]]、[[島田紳助]]、[[笑福亭鶴瓶]]、[[桂歌丸]]、[[櫻井和寿]]。初めてタモリと共演した時は本人のモノマネはせずに[[松村邦洋]]と[[松村雄基]]のモノマネで、ドラマ『[[スクール☆ウォーズ]]』の「イソップが死んだのは俺のせいだ」のくだりを披露し、[[佐藤康恵]]は「松村邦洋のドスが効いてる」、[[東野幸治]]は松村邦洋のマネが上手いと評している。その他、[[いかりや長介]]、[[板東英二]]、[[古畑任三郎]]、[[石橋貴明]]など多数のレパートリーを持つ<ref name="kisara" /><ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000105338 夏菜、コージー冨田らが“世にも奇妙な恋愛”トークショー] [[BARKS]] 2014年7月4日</ref><ref>[http://www.amazon.co.jp/dp/B001CPPUNY 「爆笑!ものまねチャンネル」・内容紹介より] [[Amazon.co.jp]]</ref>。「重箱の隅をつつくメドレー」と称する細かいものまねを得意としており<ref name="kisara">[http://www.kojima-kikaku.co.jp/talent/cozy/ コージー冨田] そっくり館キサラ</ref>、それをヒントに企画されたのが『[[博士と助手~細かすぎて伝わらないモノマネ選手権~]]』である<ref>{{Cite web|和書|title=「細かすぎて伝わらないものまね選手権」誕生したきっかけはコージー冨田(SmartFLASH)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/bcc3970533c809dcb6681e8289fb0a9a4f4b2bfc|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-04-01|language=ja}}</ref>。音声をまねる[[声帯模写]]、外見をまねる[[形態模写]]に対し、自分のものまねは性格模写であると本人は語っている<ref name="ge" /><ref name="kouen" />。
コージー名義となって以降はタモリとの公式な共演はない<ref name="postseven">[https://www.news-postseven.com/archives/20131102_225220.html?DETAIL タモリ コージー冨田と共演しないのはタモリ流の美学との説] NEWSポストセブン 2013年11月2日</ref><!-- WP:RS 微妙.代替する情報源があれば差し替えを希望 -->。
30歳からはスキンヘッドにしており、モノマネのネタに応じてその都度カツラを被り換える<ref name="ge" />。
{{要出典|date=2017年2月|範囲=[[松村邦洋]]や[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]の完全コピーも披露しているが、逆に[[ゆうぞう (ものまねタレント)|ゆうぞう]]に自身の完コピをされており、ゆうぞうに潰しにかかりますと言ったが、ゆうぞうに潰しには負けませんと切り返されている。}}
大橋巨泉では彼の横柄な態度をコミカルにアレンジし「お前の番組に出てやる」と言って決め台詞にしていた。
原口あきまさのさんまを相手に「クイズダービー」の司会を倍率ドンと解答オープンの部分で再現したことがある。
石橋貴明はかつて久本雅美のトーク番組に出たとき「皆は「うるせーな!バーカ!」とかの部分をものまねするけど僕はトークの部分をものまねする」と語っていた。
== 主なものまねのレパートリー ==
<!-- 追加する際は出典を添えましょう -->
{{Columns-list|3|
*[[赤井英和]]
*[[秋元康]]
*[[浅野忠信]]
*[[阿藤快]]
*[[天野ひろゆき]]
*[[いかりや長介]]
*[[石橋貴明]]
*[[市原悦子]]
*[[伊東一雄]]
*[[伊東四朗]]
*[[IMALU]]
*[[上田正樹]]
*[[遠藤憲一]]
*[[大橋巨泉]]
*[[オール巨人]]
*[[掛布雅之]]
*[[桂歌丸]]
*[[角野卓造]]
*[[上岡龍太郎]]
*[[キダ・タロー]]
*[[北村総一朗]]
*[[桑田佳祐]]
*[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]
*[[小林旭]]
*[[近藤真彦]]
*[[坂上忍]]
*[[財津一郎]]
*[[佐藤B作]]
*[[サンプラザ中野くん]]
*[[島田紳助]]
*[[志村けん]]
*[[笑福亭鶴瓶]]
*[[笑福亭仁鶴 (3代目)|笑福亭仁鶴]]
*[[陣内孝則]]
*[[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]
*[[関口宏]]
*[[関根勤]]
*[[滝口順平]]
*[[高橋茂雄]]
*[[武田鉄矢]]
*[[タモリ]]
*[[千原ジュニア]]
*[[津川雅彦]]
*[[常田富士男]]
*[[所ジョージ]]
*[[トミーズ雅]]
*[[富永一朗]]
*[[中井貴一]]
*[[中尾彬]]
*[[中田カウス・ボタン|中田カウス]]
*[[西田敏行]]
*[[温水洋一]]
*[[橋爪功]]
*[[はなわ]]
*[[塙宣之]]
*[[浜田雅功]]
*[[張本勲]]
*[[板東英二]]
*[[ビートたけし]]
*[[東野幸治]]
*[[久本雅美]]
*[[前川清]]
*[[松浦亜弥]]
*[[マツコ・デラックス]]
*[[松村邦洋]]
*[[松山千春]]
*[[美川憲一]]
*[[三村マサカズ]]
*[[室田日出男]]
*[[八奈見乗児]]
*[[結城貢]]
*[[吉幾三]]
*[[吉田敬]]
*[[ryuchell|りゅうちぇる]]
*[[ルー大柴]]
*[[和田アキ子]]
*[[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]
*[[渡辺正行]]ほか多数
}}
== 出演 ==
=== テレビ ===
*[[ものまねバトル☆CLUB]](毎月第3水曜日、日本テレビ)
*[[週刊ことばマガジン]](2005年4月 - 、[[東日本放送]] )[[ナレーター]]
*[[オールスター感謝祭]](2001年春 - 2005年秋、TBSテレビ) - 2001年春では一時司会を務めた。
*[[ものまねバトル]](1994年12月 - 2009年1月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 「ものまねスター誕生!」司会
*[[ぷらちなロンドンブーツ]](1997年10月 - 2002年9月、[[テレビ朝日]]) - [[原口あきまさ]]と「ものまねサバイバー」コーナーレギュラー
*[[笑う犬|笑う子犬の生活]](1999年10月 - 2001年9月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
*[[期間限定!ピカピカ天王洲LIVE]](2000年10月 - 11月、[[テレビ東京]])
*[[メレンゲの気持ち]](2000年-2004年、日本テレビ)
*[[VS嵐]](2011年6月、フジテレビ)
*[[コージー冨田のものパチJPN!!]](2012年7月 - 2013年9月、tvkテレビ神奈川)
*[[ものまねグランプリ]](2009年5月 - 、日本テレビ、)
*[[爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル]](2000年12月 -・2014年11月 - 、フジテレビ、) - 日本テレビの『ものまねグランプリ』から移動。
*[[クイズ30〜団結せよ!〜]](2014年9月、フジテレビ)
*[[ものまね王座決定戦]](2014年12月 - 、フジテレビ、) - 日本テレビの『ものまねグランプリ』から移動。
==== ドラマ ====
* [[勇者ヨシヒコと導かれし七人]] 第8話(2016年11月25日、テレビ東京) - [[タモリ|有名司会者]]によく似た小太りの男(兄様の後を追うヒサが変身したキャラ) 役
=== ラジオ ===
*[[文化放送平日ナイターオフ夜9時枠#過去のオフシーズンの番組|いきなりッコージー現場]](2001年ナイターオフ - 2001年11月24日、[[文化放送]]) - レギュラー
*[[きらり10代!]](2008年3月16日、[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]])「あこがれ仕事百科」第126回仕事人
*[[東京REMIX族]]([[J-WAVE]]) - 聞き役
=== インターネット ===
*脳のアンチエイジング「クイズ2:1」(2006年1月 - 、[[OCN]])
*[[溜池Now]](第27回、[[GYAO!#GyaO|GyaO]])「溜池なんでも鑑定団」
=== 映画 ===
*[[お金が足りない。]](2023年12月18日、REIZ INTERNATIONAL、LILYFILM、[[横川康次]]、[[曽根剛]]監督)<ref>{{Cite web |title=映画『お金が足りない。』@シアターバッカス {{!}} 高円寺シアターバッカス |url=https://bacchus-tokyo.com/7629/ |date=2023-12-06 |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref>
=== CM ===
*[[代々木アニメーション学院]]
*[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[インフォマーシャル]]([[アメリカ横断ウルトラクイズ]]「突撃○×泥んこクイズ」風)
*[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]「[[ビートたけし|たけし]]祭り」([[ホリ (タレント)|ホリ]]と一緒にナレーター担当)
== CD ==
*COZY-EN(2001年、エクスプロージョンレコーズ)
*[[達人伝説|達人伝説 -20周年記念アルバム-]](2003年、[[嘉門達夫]]、[[DAIPRO-X]])「いろんなカーナビものまね大全集」
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|refs=
<ref name="tc">{{Cite web|和書|url=http://www.top-color.jp/?page_id=3 |title=コージー冨田 |accessdate=2015-4-26 |publisher=[[トップ・カラー]] }}</ref>
<ref name="ko">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E5%86%A8%E7%94%B0-1466785 |title=コージー冨田 |accessdate=2015-5-21 |publisher=[[コトバンク]] |work=タレントデータバンク |date=2010 }}{{リンク切れ|date=2019年3月}}</ref>
}}
== 外部リンク ==
* [http://www.top-color.jp/?page_id=3 トップカラー 公式プロフィール]
* [https://ameblo.jp/cozyzoc/ コージー冨田オフィシャルブログ「COZY苑」]
* {{Twitter|cozytomita}}
* {{Instagram|cozy.tomita}}
{{デフォルトソート:こおしいとみた}}
[[Category:お笑い芸人]]
[[Category:ものまねタレント]]
[[Category:タモリ]]
[[Category:杜若高等学校出身の人物]]
[[Category:日本の男性コメディアン]]
[[Category:神戸市出身の人物]]
[[Category:1967年生]]
[[Category:存命人物]]
|
2003-07-10T02:59:14Z
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国鉄63系電車
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国鉄63系電車(こくてつ63けいでんしゃ)は、1944年から1951年にかけて導入された運輸通信省鉄道総局・運輸省および日本国有鉄道(国鉄)の直流用通勤形電車である。なお、この呼称は同一の設計思想に基づいて製造された電車を便宜的に総称したもので、国鉄制式のものではなく、また、モハ63形とサハ78形のみを指す場合と、ほぼ同一の構造を持つ鋼体化改造車および他形式からの改造車からなるクハ79形を含む場合とがある。
本形式は、第二次世界大戦中、戦時体制下で増加していた通勤輸送に対し、混雑の緩和を目的に導入され、さらに、終戦直後の混乱を背景とした輸送需要の増加および損耗した輸送力の補充を目的として大量に導入されて戦後の交通混乱時代に大きな役割を果たした。21世紀に至るまで都市圏のJRや多くの大手私鉄で用いられている、通勤輸送向けの「全長20 m、片側4扉」の車体を採用して量産された最初の電車である。
一方で、本形式は第二次世界大戦中の日本国内の状況に対応するため、資材の節約と製造工程の削減を目的とした戦時設計に依るものとなっている(下記に詳述)。本形式が設計された当時、鉄道省動力車課長の島秀雄の下で戦時設計に基いた電気機関車と電車の設計を担当した矢山康夫は、1976年に戦時設計について次のように回想している。
本形式は製造後間もなく補強・改造の必要が生じ、高圧・低圧回路の電線の引替および電線管の設置、台枠の心皿取付部の補強、省略されていた機器類の取付等の改造工事が行われていた。しかし、その後1951年4月24日の桜木町事故においてさらなる問題点が明らかになったため、事故対策を主な内容とした更新修繕を実施して72系となり、その後長く使用されたほか、その他の戦前形電車にも同様の内容の通称「更新改造II」を実施している。
1937年の日中戦争開始に伴い鉄道動員体制となったことと、開戦に伴う旅客・貨物の輸送量増加に対応するため、1938年度に「輸送力拡充4ヵ年計画」(1941年度まで)を策定し、総額96.6百万円の予算のうち、車両増備にその55%を当して輸送力の増強を図ったが、資材不足により次第に計画達成率が低下していた。その後、1942年度から10か年の「交通施設長期整備計画」を策定し、当初の5年間は毎年220百万円の予算のうち22%を車両増備に充てることとしていた。
しかし、太平洋戦争の進展に伴う、産炭地からの石炭輸送を中心とした内航運輸の輸送力不足に対応するため、1942年10月6日に閣議決定された「戦時陸運の非常体制確立に関する件」および「戦時陸運非常体制確立方策要綱」によって戦時陸運の非常体制を確立し、石炭や鉄鉱石などの重要物資の海上輸送を陸上輸送に移して余剰の船舶を満洲・中国大陸方面や南方方面からの輸送に充てるための5項目からなる要綱が定められ、その要綱の下に9項目からなる措置が定められた。この計画を念頭に、1943年2月以降ダイヤ改正を繰り返し、旅客列車を削減して余剰となった機関車を貨物列車に回してこれを増発するとともに、列車運行の効率化などを行うなど経営資源を戦時陸運非常体制確立に振り向けており、その一環として1943年7月20日の閣議決定により「鉄道車輌の計画増産確保に関する件」が以下の通り定められた。
これに伴い、民間の車両メーカーも国家総動員法に基づく鉄道大臣の管理下に入れて官民一体で車両製造・修繕にあたることとなり、各民間工場に監理官が配置されて指揮監督または指導斡旋を行ったほか、1939年に車両の生産および配分の調整のための鉄道車両協議会および材料配給と部品規格統一を目的とする車両技術協会が設立され、1941年12月22日には重要産業団体令に基づき、車両および信号保安装置の製造販売を統制する車両統制会が発足している。
一方、開戦により車両用の資材が不足する状況となったため1930年代後半には資材の使用量削減のための設計変更がされるようになり、さらに、一層の資材の節約を図るため、1943年1月4日付の「戦時規格委員会規程」に基づき鉄道省に設置された戦時規格委員会において戦時陸運非常体制下における車両の生産増強のため以下の5項目について戦時規格等を制定し、これを実施することとなった。
参考として、1937年から1945年の間の輸送量の変化は以下の通りであった。
電車においては1939年製造の40系および51系より資材の節約と製造の簡易化が開始され、車体は全溶接・張上げ屋根として軽量化(資材節約)を図るとともに、室内の化粧板の簡略化、乗降扉や座席枠組の木製化、竹製吊手の採用などが実施されているほか、主制御器などの電装品の確保できず、同年竣工のモハ60形の一部は無電装であった。翌1940年に製造された両系では工程簡易化のため、車体は従来の形状で全溶接、木製屋根・雨樋のものとなり、室内は化粧板を省略しているほか、ほとんどの制御電動車が無電装となり、制御車の中にも付随車として竣工した車両があった。
その後、貨物輸送のための機関車および貨車が専ら生産されるようになり、旅客車はほとんど生産できなかったこと(客車に関しては優等車は1941年度・普通車は1942年度に中止された以降の新製は禁止されており、戦後1946年になるまで全く製造されなかった)ことから、電車に関しては極力限られた車両で輸送力を確保するため、座席撤去等の改造が行われることとなって横須賀線以外の路線は1943年から、横須賀線は1944年から実施されているほか、横須賀線以外の電車列車への2等車の連結中止と2等車の3等車への変更が実施されている(横須賀線でも実施されたが、軍部高官や皇族の輸送に支障するため中止)。また、主制御器の弱界磁段使用停止、運転速度の低下なども実施されているほか、資材供出等のため1943年から室内天井のベンチレーターカバー・手摺類・網棚ブラケット・方向板などが金属製から代用材に変更されたほか、1944年には連結部の渡り板・座席下の蹴込板・側面窓カーテンのカバー・制御車の機器類・車内表示用の地図枠・代用材を含む手摺類などが撤去されている。
さらに、1943年には輸送力増強のため片側2扉の32系の制御車/付随車および42系の4扉化と、モハ32形の3扉化が計画され、まず試作として同年8月にモハ43形およびクハ58形の計2両が改造後、順次改造が進められた。この改造は資材と人工の不足により計画通りには進捗しなかったものの、この実績をもとに木造車の鋼体化においても全長20 m片側4扉車への改造が構想されることとなった。
一方、戦時設計の車両は、1943年5月10日にD51形を対象に「戦時設計要網」およびその施行細則が定められ、これを基づいた「D51形蒸気機関車戦時設計詳表」をもとにD51形戦時型が製造されたのをはじめとして、その後、C11形、D52形蒸気機関車やEF13形電気機関車、トキ900形貨車などが製造されていたが、電車に関しても戦時設計に基いた車両が導入されることとなり、モハ63形、サハ78形が設計されているほか、全長20 m片側4扉車とすることとなった木造電車の鋼体化に際してこれらと同様の形態のクハ79形が導入されることとなった。
最初に木造電車を鋼体化改造した「クハ79形」制御車が竣工し、続いて「モハ63形」制御電動車および「サハ78形」付随車が製造されたが、終戦の頃までに竣工した車両は、クハ79形8両、モハ63形14両、サハ78形8両であり、モハ63形は電装品が確保できず、全車が付随車として竣工している。
戦後、国鉄における通勤通学の輸送人員は増加を続け、1947年度は1936年度の3.27倍、1951年度は同じく3.66倍となっており、特に大都市附近においては、復興・復員によって人口の流入があった一方で、都市中心部の戦災被害に伴う近郊部への疎開・転居等によって遠距離通勤が増加し、通勤通学列車の混雑度が増していた。一方で、国鉄電車における戦災車両数は全焼・大破358両、半焼・中破39両・小破166両の計563両であり、これは全電車の26%にあたり、このうち361両が廃車となっている。これに加えて、保守の低下に伴い、1947年における電車の稼動率は戦前の50%程度となり、都心の路線で使用する車両を確保するため、1945年6月から横須賀線、1946年2月から阪和線、同年8月からは中央線で機関車牽引の列車が運行されている。
この状況の改善のため、戦時設計の63系を大量生産用設計に手直し、かつ改良を加えた上で1945年度から1948年度にかけて導入している。1945年9月11、12日の全国工作課長会議において蒸気機関車287両、電気機関車95両、電車600両、客車1380両を1946年9月までに補充することを計画し、1945年9月14日にその発注が実施され、電車に関しては1945年度300両、1946年度310両の製造予定であったが、資材、特に電装品を中心とする資材不足により計画通り進捗せず、1946年10月に制御電動車460両、付随車60両の計画に修正されている。戦後製の63系はまず1945年度末までに41両が製造(車体竣工ベース)されたが、その後は1946年10月制定の臨時物資需給調整法に基づく指定生産資材割当規則により製造に必要な資材の配給統制が行われたことにより大幅に増産されており、1950年までに688両が導入されて戦後復興の一翼を担った。こういった63系の増備に加え、車両の保守に関しても戦前のレベルまで復旧させた結果、通勤通学列車の輸送力は1951年度には1936年度の2.95倍に増強されている。
しかし、終戦後すぐの時期に製造された車両は電装部品不足により、運転台付きの電動車として計画されながら主電動機や主制御器などの電装品がない状態のまま制御車代用となった車両も多く、さらに、運転台に装備する主幹制御器やブレーキ弁などの機器も省略して付随車代用となった車両も少なからずあった。なお、これらの車両の識別のため、1948年4月8日付の形式称号の特別措置により、「モハ」の記号を使用する電動車のうち、電動機を装備しない車両に対し「クモハ」(制御車代用)、電動機と主幹制御器を装備しない車両に対し「サモハ」(付随車代用)の記号を使用し、「クハ」の記号を使用する制御車のうち、主幹制御器を装備しない車両に対し「サクハ」の記号を使用することとなった。
1937年から1952年までの国鉄における年度別の電車の運用状況および導入状況は下表の通り。
戦時設計は「戦争に勝つまでの間、数年保てば良い」という思想のもとに資材を可能な限り切り詰め、かつ極限まで輸送効率を追求したと形容されるものであるが、本形式の設計は資材の節約よりも製造工程簡易化を主眼としたものと見られており、また、一部車両の台車や主電動機などに戦災車のものが使用されている。しかし、戦争による産業の疲弊に由来する資材不足によって、戦後も戦時設計に若干の改良の加えたのみの設計で製造され、1946年度製の車両までは床下配線には電線管を用いず棚配線としたことと、電線被覆の不良などの絶縁物不良・不足等の絶縁関係の脆弱さによる事故が発生している。特にPS11および本形式が使用したPS13集電装置における絶縁対策の不足は後に桜木町事故の要因となるなど、問題の多いものであった。
一方、戦後になって国鉄は1947年以降、電車に関する新技術の開発に取組んだが、当時生産されていた国鉄電車は本系列のみであったため、新技術の試験にも利用された。
戦時設計に拠るモハ63形、サハ78形の車体設計における特徴は以下の通り。
また、電気機器類の設計における特徴は以下の通り。
一方、国鉄電車の台車と車輪は1943年から戦時設計のものとなっているが、モハ63形、サハ78形にもこの台車・車輪が使用されたと推測されており、その主な内容は以下の通り。
車両長は従来車と同じく20 mとされたが、連結器長を縮めて車体長を19.5 mに延長して収容力を増加させた。また、幅1000 mmの片開き扉を片側4か所に設置した。満員のラッシュ時の換気に配慮して、屋根には太い煙突状の筒に覆いを被せた形の大容量のグローブベンチレーターを装備し、妻面幕板部にもヨロイ戸式ベンチレーターを設けた。また立席客への換気促進およびガラスの節約を目的として、側面窓は中段は固定、下段と上段がそれぞれ上方に開けられる3段式となり、ガラスの節約のため窓の桟を増やした車両もあった。
台枠はモハ63形はUF117、サハ78形はUF118、鋼体化改造車のクハ79形はUF118Aを使用している。戦前形の車両は中梁に250 × 90 × 9 mm、側梁に150 × 75 × 6.5 mmの溝形鋼を使用し、端梁・横梁等にプレス鋼を使用していたが、UF117およびUF118では資材節約と工程簡略化のため中梁・側梁・端梁・横梁を全て180 × 75 × 7 mmの溝形鋼に統一し、全て溶接にて組立てているほか、枕梁も中梁・側梁と180 × 75 × 7 mmの溝形鋼、6 mm厚鋼板、100 mmの山形鋼を組立てたものとしている。一方、UF119Aは木製電車用のUF13(電動車用)・UF14(付随車用)を使用して改造する予定であったが、図面が残存しておらず詳細構造は不明であるほか、実際に木製電車用台枠を流用して製造されたのは3両のみとの記録がある。
車端部の形状は工作の簡易化のため単純な切妻構造とされた。さらに1947年製の車両までは、雨樋はが扉上部に水切り状のものを取り付けたのみとされた。また、同じく1947年製までの車両は、鋼材の節約のため外板は在来の電車の2.3 mmより薄い1.6 mm厚とすることも可能とされ、施工に手間がかかる上にカーバイドや酸素を消費する歪み取り措置も省略された。また、車体下部の台枠部分の外板の下半部が省略されて台枠側面が露出している(ただし汽車会社製の1946年10月製造車には、台枠下端まで外板を張った車両がある)。車端貫通路の渡り板も省略された。
内装では、天井板が省略されて木製の屋根板と鋼製の骨組みが露出しており、照明はカバーのない裸電球8個であった。1944年製の車両の座席はドア脇の床に置かれるドアエンジンを覆う部分8箇所のみに通常の長さの半分の1750 mmのものが設置され、また、クハ79形の79025はドアエンジンを鴨居部に設置して座席を4箇所とした。量産車のモハ63形でも、主として1946年製の車両までは座席の座面のクッションを省略して板張りとし、背摺も省略して車体内装板が露出し、資材の入手状況によっては塗装や合板の質を低下させていた。こういった本形式の内装の状態に対し、鉄道研究家の沢柳健一は最初に運行を開始したクハ79形に関し、
と評しており、同じく鉄道研究家の長谷川明は
と評している。
終戦後、資材不足が収まるにつれて、天井板や座席が整備され、1948年から座席の座面に布(モケット)を張り、照明はグローブ付きに、扉は鋼製もしくは軽合金製となった。1950年にモハ63形として最後に製造された4両(63855 - 63858)は、 川崎車輌の見込み生産分の購入と伝えられている車両であり、三段窓であるものの、内装、座席など、接客設備面について、戦後の標準的な水準となっている。
1946年に川崎車輛(現・川崎車両)で製造された6両(モハ63900 - 63902・サハ78200 - 78202)は、航空機用材料のジュラルミンを使用して試験的に製造されたもので、骨組みは普通鋼、床板と荷物棚は木製、座席は布張りで、外板および室内の吹寄、乗務員室仕切、腰羽目板、天井、窓枠、扉類、吊手棒受、荷物棚受などをジュラルミン製として製造された。これは終戦により余剰となった航空機用ジュラルミンを活用したもので、事実上日本で初めて車体の主要部分に軽合金を用いた電車である。
外板は1.6 mm厚のジュラルミン板を鋼製の構体骨組に6 mm径のリベット留めしたもので、クリアーのアクリル塗料を塗った銀色に細い緑色(製造中は赤色)の帯が入るものであったが、その後、クリア塗装での再塗装には手間がかかるため1948年にフタル酸樹脂エナメル塗料によって鋼製車と類似の塗装が施された。内装は同じくジュラルミン板を木製の内部構体に木ねじ留めとして外板と同じくクリアラッカーで仕上げたもので、照明に蛍光灯を試験的に採用したため車内も明るく、「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた。
しかし、ジュラルミンは腐食しやすかったことに加え、骨材と外板との間に浸入した水により局部電池が形成されることで電蝕が進行し、本車両においても7年程度使った時点でジュラルミンの腐食が見られる状況であった。抜本的対策として1954年に試作を兼ねて6両とも全金属製車体(外板は普通鋼、内装はアルミ)に改造された。
63系の標準的な台車は当初、戦災車から転用したものであったので、戦前からの鉄道省標準型である鋳鋼製軸箱部と型鋼による側枠を組み合わせたペンシルバニア形軸ばね式台車のDT12(TR25)であった。
第二次世界大戦後、国内の軍需のなくなったベアリング工業を民需に転換して存続させるため、車軸の軸受にはころ軸受の使用を拡大することとなり、DT12の平軸受をころ軸受に変更したDT13(TR25A、のちTR35)が開発され、以後このタイプが63系の標準台車となった。これには起動抵抗や軸受の発熱を減少させ、メンテナンス性を改善できるメリットがあった。
また、1948年以降のモハ63形の一部には扶桑金属工業(現・日本製鉄)製で鋳鋼製台車枠を持つ台車が用いられた。ウイングバネ式のDT14と軸バネ式のDT15があり、両者は多くの部品を共用している。DT15は、80系電車に用いられた高速型台車であるDT16の原型となった。
当初、戦前の標準型であるMT30(端子電圧675V時定格出力128 kW/780 rpm(全界磁))を搭載したが、1948年頃から改良型のMT40を搭載し、その後、一部の車両はMT40A(いずれも端子電圧750V時定格出力142 kW、定格回転数870 rpm(全界磁))を搭載したと推測されている。MT40系は端子電圧差を考慮するとMT30と性能上の差はないとされるが、電機子軸受にころ軸受を採用し、独立した冷却ダクトを持ち、本体の冷却風道も改良されているMT40系の方が優れていたと考えられている。そのためか主電動機をMT30からMT40に交換した車両があり、これによって捻出されたMT30を戦前型国電に搭載して出力増強をした事例もあったとされる。実際に70系投入後の横須賀線において、戦前型のモハ43形をモハ53形やクモハ50形に改造した例、阪和線にてモハ52形の主電動機がMT16からMT30に一部交換されていた例等が見られるものの、主電動機は車両の外観からは観察しにくいため、それらの動きを明示した文献は、今のところ見出されておらず、はっきりしないのが実情である。
パンタグラフは、戦前の標準型のトラス構造を用いたPS11は用いられず、戦時中に新たに開発されたPS13が搭載された。トラス構造を横控に変更したラーメン構造で、下半分の部材には通常の鋼管を使わず、鋼板を折り曲げて部材を構成していた。
主軸のベアリングは従来通りころ軸受であったが、それ以外の部分は平軸受とするなど全体に構造を極端に簡素化したものであった。そのため当初は強度不足による歪みも頻発し、のちに補強を余儀なくされるものも存在した。しかし、架線への追随性能に大きな問題はなく、広範に用いられ、101系電車の初期製造グループまでこのパンタグラフを搭載していた。
モハ63形は、戦前からの標準型であった電空カム軸制御器のCS5(直列5段・並列4段・並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%)を搭載していた。
運転台の主幹制御器は戦前以来長らく標準的に採用されてきたMC1Aを搭載する。
戦前製の形式と同じく、長編成に対応した電磁自動空気ブレーキの「AE電磁空気ブレーキ」を装備している。床下のA動作弁および電磁吐出弁(Electro-pneumatic valve)と運転台のME23ブレーキ弁で構成される元空管ダメ式自動空気ブレーキとなっており、モハ63形が搭載するものはMAE空気制動装置、クハ79形のものはCAE空気制動装置、サハ78形のものはTAE空気制動装置と称されている。
1943年計画(1944年製)の車両には防空法および灯火管制規則に基づく灯火管制のための灯火管制装置が装備されていた。この装置は床下に設置されて室内灯および予備灯、前照灯を警報の段階(空襲警報甲および空襲警報乙)に応じて一括して減光をするもので、運転室のスイッチ操作により動作するものであった。
被覆電線の腐食による事故が発生し始めたため、モハ63形について配線引替工事を1949-50年に140両、その後さらに123両に実施しており、その内容は、補助回路の引通し線を12芯ケーブルとして電線管に納める、制御回路をジャンパケーブルに変更し電線棚に配置する、高圧補助回路を電線管に納める、低圧補助回路をゴム管配線とする、主回路配線を引替える、というものであった。
電車の低圧引通用の電気連結器は、東京鉄道局配置の電車は大正初期には7芯のKE50が2基、その後1927年以降は戸閉回路用にKE50を1基増設して計3基が設置されていた一方で、1933年2月から大阪鉄道局に配置された電車には12芯のKE52が2組設置され、東京地区と大阪地区で電気連結器が異なっており、この区分は63系においても同様であった。その後、低圧引通用電気連結器は12芯の電気連結器2基に統一されることとなり、東京鉄道局配置の電車について、1946-49年度に63系を含む計1294両が改造されている。
電車の主電動機容量の増大と運転数の増加に伴う使用電力量の増大に伴い、変電所やそこで使用される変成器も容量の大きいものとなっていったことにより、変電所における運転電流と事故電流との判別が困難となり、事故時に変電所での事故電流の遮断ができない可能性が高くなったため、車載の断流器の遮断能力の強化を図ることとなった。戦前の電車の多くや63系が搭載していたCS5主制御器は高速度減流器もしくは高速度遮断器は装備せず、主制御器本体内に設置されたRL5過電流継電器およびSR5断流器によって事故電流を遮断する方式であったが、1946年5月に電気機関車用のSR105断流器を電車用に変更したSR106断流器が日立製作所で開発され、これの試験結果から遮断容量が大幅に増加し、事故電流の遮断不能事故を防止可能とされたため、1948年度の改造工事ではこのSR106断流器もしくは、断流器内に過電流継電器を内蔵せずにCS5内蔵のRL5過電流継電器を使用するSR106Aをモハ63形200両に搭載している。なお、これと同時に母線断路器および母線ヒューズの未設置の車両にはこれを搭載したほか、旧形の高圧ツナギ箱を新設計のものに改良している。
1948年からモハ63形約20両に、構造が簡素で軽量となった試作電動カム軸制御器を搭載して約3年間実用試験を実施した。この試験結果を受けて電動カム軸式制御器のCS10(直列7段・並列6段、並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%、弱め界磁/起動減流抵抗による減流起動機能付き)が制式化され、1951年製作の80系や70系などに搭載、さらに翌1952年以降は弱め界磁率を60%と75%の2段構成に改良したCS10Aが、それらの各系列と本系列の改良型である72系にも搭載された。このCS10では直並列切り替え時に牽引力の低下がほぼ発生しない「橋絡わたり」接続が国鉄電車用制式制御器では初めて採用され、主回路制御段数の多段化と共に加速時の衝動を低減した。
サハ78形には川崎車輌製のOK1や三菱三原車両製のMD1を装着して試験が行われた。
1946年2月にモハ63028に蛍光灯を設置して横浜線で試用し、その後1947年に製造されたジュラルミン車体のモハ63900 - 63902およびサハ78200 - 78201にも蛍光灯が採用されたが1948年に白熱電球に交換されている。その後、1948年には東京芝浦電気(現東芝)および小糸製作所製で100 V/17 Wの直流蛍光灯を蒲田電車区のモハ63形22両に各車10 - 15灯を何種かのパターンで設置し、9月から約3ヶ月間京浜東北線で試用しているが、これらの車両も試験後に白熱電球に戻されている。
CS10主制御器に使用されていたCB7断流器に代わる三菱電機製の高速度減流器であるHB414を1950年1月にモユニ81006およびモハ63524に搭載して試用している。
1943年に鶴見臨港鉄道が国鉄に買収された際に、当時同社の電車に搭載するために東京芝浦電気に発注して製造途中であったPB2A主制御器2基が国鉄に引継がれ、その後国鉄に納入されているが、これを1950年12月に大井工場でモハ63630、モハ63848に搭載して試用している。この主制御器は、力行時の加速度の確保と衝動の低下を目的に開発されていたが第二次世界大戦の影響により開発中止となった、油圧カム軸式の多段式制御器である予定形式CS8と同様の設計のものであった。
1945年5月24日の空襲により蒲田電車区で被災したクハ79009は1946年11月28日に廃車となったが、関東工業で車体骨組みを一部使用して70系客車として復旧されて1949年3月11日にオハ71 123となり、その後1950年8月14日には荷物車のマニ74 9に再改造されて1964年まで使用されている。
鋼体化改造車として製造されたクハ79形は50系と同じく省工場で製造されており、担当工場は以下の通りであった。
一方でモハ63形およびサハ78形は車両メーカーで製造されており、担当会社は以下の通り。
また、当時の電車は車両メーカーから完成した車体・台車が納入された後に国鉄の工場で配線や電機品を搭載する電装工事を制御車・付随車を含めて実施していたが、戦後モハ63形を製造した際には国鉄の工場は既存車両の復旧整備を担当していたため、ほとんどの車両の電装工事を外注することとなった(戦時中製造のモハ63形は全車非電装)。電装工事は車両メーカーが自社で製造した車両の一部について実施をしたほかは車両メーカーとは別の電機メーカー等が担当し、さらに、一部車両は従来通り国鉄の工場が担当しており、それぞれの担当会社・工場は以下の通りであるが、戦後すぐの時期には電装品が確保が難しく、電装に6ヶ月から約1年を要した車両もあるほか、付随車として使用するだけの電装をするだけでも数ヶ月から約6ヶ月以上要した車両もあった。
製造年代毎の、試作・試験品の使用などを除く主な設計変更点や特徴などは以下の通り。なお、予定製造数の変更や、材料入手の関係などで必ずしも年度毎の変更とはなっていないほか、製造途中や一部車両のみの変更もあり、不明点が多い。
また、モハ63形のうち1944年製(14両)の全車および1946年製(335両・私鉄割当車を除く)の一部は電装品の供給が間に合わず未電装のまま運行されている。その内訳は付随車として使用された車両が103両、制御車として使用された車両が2両であり、このうち付随車代用の9両は1947-48年に電装品を装備して制御電動車化されているが、一方で事故復旧時に制御電動車から付随車となった車両と、制御車から付随車となった車両が各1両存在する。
1944年に32系のサロハ46形およびサロ45形の一部を4扉化改造した21両が1944年製のサハ78形の78001-78008に続く78009-78034(欠番あり)となっている。また、32系のクハ47形および42系のクハ58形、クロハ59形を改造して4扉の制御車であるクハ85形28両となっていたものが、1949年に鋼体化改造のクハ79形の79001-79025(欠番あり)に続く79031-79066(欠番あり)に改番されている。
一方で42系の制御電動車を4扉化改造された車両は、主電動機が高出力化されなかったためか63系には編入されておらず、モハ42形を改造した車両は新モハ32形(32000-32002。横須賀線用の32系モハ32形とは異なる)、モハ43形を改造した車両はモハ64形(64003-64023。欠番あり)となり、モハ64形はさらにその後モハ31形(31000-31013。欠番あり)とされている。
戦後の私鉄各社は第二次世界大戦中の酷使や戦災の結果多数の電車が損耗し、私鉄および軌道事業者における戦災等による被災車は2133両と国鉄の被災車542両を大きく上回っており、一方で買出し客を中心に輸送需要が増加したことで、著しい輸送力不足となっていた。
そのため、運輸省は戦後発注した600両の電車のうち、1946年度分の中から約120両を63系が入線可能と思われる私鉄に割当て、その分の中小型車を割当てた会社から地方中小私鉄に譲渡させる制度を設け、その際の譲渡価格の算定式なども定められていた。割当て先は鉄道軌道統制会(1945年12月に解散し、同月に日本鉄道協会として再発足)が検討・審査を行い、東武鉄道、東京急行電鉄(小田原線・江ノ島線→現・小田急電鉄、厚木線→現・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海線→現・南海電気鉄道)、山陽電気鉄道の5社に対し1948年までに合計120両が供給された。一方、京阪神急行電鉄と西武農業鉄道(→現・西武鉄道)は割当てを辞退している(西武には割当てにより2両(モハ63092、モハ63094)入線したが、何らかの障害があったらしく、モハ50012、モハ50118と交換した)。
割当てられた63系は、運輸省が国鉄分も含め一括発注した中から各私鉄に割当てたため、4両(東武・東急各2両)を除き省番号を持ち、実際に車体へ記入されたものも存在するが、省に車籍編入されたことはない。
40両が割当てられて6300系となり、代わりに上信電気鉄道、上毛電気鉄道、新潟交通、長野電鉄、高松琴平電鉄、上田丸子電鉄に車両が供出されている。その後名古屋鉄道から14両を譲受した。1952年に7300系と改称。1959年以降、新造車体への載替え改造を実施した。
20両が割当てられて1800形となり、小田原線・江ノ島線に8両、厚木線に12両が投入されて、代わりに東京急行電鉄各線の車両の中から庄内交通、京福電気鉄道、日立電鉄、静岡鉄道、高松琴平電鉄に車両が供出されている。1947年の東急の経営委託解除の際に6両は小田原線に移動したが残る6両が相模鉄道の所有となって1951年に改番されて3000系となり、その後1964-66年に車体更新を実施して3010系となった。小田急電鉄では、1948年に名古屋鉄道から譲受した6両を編入し、その後1957年以降に車体更新を実施した。
20両が割当てられて3700系(初代)となり、代わりに野上電気鉄道、熊本電気鉄道、山陰中央鉄道、尾道鉄道、蒲原鉄道に車両が供出された。しかし、名古屋本線に当時存在した急カーブ(枇杷島橋梁付近)が通過できず、運行可能な区間に制約(栄生以東に限定)があったため十分に活用できなかった。そのため、従来車の車両限界に合わせた運輸省規格型車両である3800系(割当て20両、その後1954年まで増備して計71両となる)の割当てを受け、3700系は1948年に東武鉄道へ14両、小田急電鉄へ6両譲渡された。なお、名古屋鉄道が独自に20 m4扉車を導入したのは1979年(地下鉄直通車の100系)である。
20両が割当てられ、モハ1501形となり、代わりに福井鉄道と淡路鉄道に車両が供出された。1947年5月から、南海電気鉄道分離独立(1947年6月)後の1948年6月にかけて全車が南海本線に配置され、同社の所有となった。全車が近畿車輛製の制御電動車で、南海の戦前の車両と同じ2連または3連の球形白色ガラスの灯具を持つ車内灯を装備し、ベンチレーターをガーランド型2列とするなどの仕様となった。架線電圧が600 Vであり、また在来車との混用の必要性から、主制御器はCS5ではなくALF単位スイッチ制御器を装備した。1959年以降、一部が制御車に改造され、使用機器は1521系とED5201形電気機関車に引継がれている。1968年までに全廃された。
20両が割当てられ、代わりに高松琴平電鉄に車両が供出された。63系唯一の標準軌仕様。初期車6両は剥き出しの天井のままであったが、それ以降の14両は天井にジュラルミン板を張って納入され、原番号が63800番台であったことから800形800 - 819となった(当初は63800形であったとする説がある)。当時の山陽電鉄には神戸市内に併用軌道区間があり、本形式も1968年の神戸高速鉄道開業まで道路上を走行した。20 m級の電車が併用軌道を走行した数少ない事例であった。1957年の西代車庫火災による焼損をきっかけとして、車体を新造した2700系への更新、もしくはその構体を生かしたままでの更新改造を実施したが、いずれも全車が廃車されている。
上記の私鉄各社のうち、63系導入以前から同等の電車を運用していたのは南海線と、戦中・戦後に20 m級国鉄電車の借入れがあった東京急行電鉄小田原線のみで、それ以外の私鉄の中には導入にあたり、カーブ半径の緩和、プラットホーム幅削減や障害物撤去、架線電圧の昇圧、あるいは変電所の増強など工事によって63系を走行させる条件を整えた会社もあり、その結果、著しく輸送力が増強された。東武鉄道では、1953年から1961年にかけて63系(7300系)同様の4ドア20 m車体の7800系(当初7330系)164両を導入して高度経済成長初期の通勤輸送の主力とし、以後主力通勤電車は20 m4ドア車体が基本となった。このほか、63系割当ではじめて20 m級電車を本格導入した相鉄と、戦前から20 m級電車を運用してきた南海、戦時中に20 m国電が入線していた小田急でも1960年代以降本格的に20 m4扉車体の通勤電車を主力としたが、いずれも20 m級電車に対応した車両限界となっていたので、導入障壁は低かった。
63系電車の私鉄割当てはラッシュ輸送における「扉数の多い大型電車」の優位性を各鉄道会社に認識させるきっかけとなったと言える。20 m・片側4扉構造の車体は、国鉄のみならず大手私鉄通勤電車の標準構造となっている。
なお、その後私鉄各社の車両増備には運輸省規格形電車の新造・導入が認められるようになり、63系の割当てはこの120両で終了となった。運輸省規格形電車は1947年に運輸省が「私鉄郊外電車設計要項」に基づき日本鉄道協会に規格を制定させたもので、63系の導入を辞退した京阪神急行電鉄なども運輸省規格形電車が導入したほか、63系を導入した東武鉄道、東京急行電鉄(小田急)、名古屋鉄道、山陽電気鉄道でもこれを導入している。
三井鉱山専用鉄道では、1948年に通勤用客車としてサハ78形の同形車5両をホハ201 - 205として導入した。車体の外形はおおむねサハ78形に準じていたが、ベンチレーターが大きく、数が少ないこと、また車内に車掌スペースを持ち、後年ここには乗務員ドアが設けられていたこと、出入り口の両側に天井へ達する鋼管製ポールが立てられていて、必要に応じて特定の出入り口を閉鎖出来るようになっていたことなどは、省の標準的なサハ78と異なる。基本的には専用線で炭鉱関係者・家族の通勤通学輸送に限定されたが、三井鉱山の『三池鉄道線』の通称で地方鉄道として運営された1964年8月11日から1973年7月31日まで一般営業運転に用いられた。1980年代でも原形の形態を残し、1984年に従業員輸送が廃止になるまで使用された。
事故により廃車となった車両が以下の通り私鉄に譲渡されている。
前述のとおり割当の2両を返却した後、1950年に導入した戦災国電を復旧したクハ1411形が初めての全長20 m車となり、さらにその後1953年に63系の事故廃車車両3両を国鉄から譲受してモハ401形モハ402、クハ1421形クハ1421、クハ1422とし、1956年に同一仕様の1両を自社で製造した。なお、クハ1422となった旧モハ63470は、東武鉄道にモハ63046として割当られたものの、台枠横梁の折損もしくは台枠垂下により車体にゆがみが生じたとされる事故(詳細不明)により、製造元の川崎車輌によって代車(モハ63560予定車をモハ63046に改番したもの(国鉄には別途モハ63560を納入))に交換された元の破損車両が修理の上で国鉄に納入された(モハ63470)が、別の事故により廃車され譲渡されたものである(IおよびIIは、それぞれ初代番号、二代目番号を示す)。
事故廃車となったモハ63082とモハ63168を譲受し、それぞれ台枠を流用して1700形サハ1752およびサハ1751に改造している。本車は1800形に次ぐ全長20 mの車両であったが、1967年に特急用から通勤用に改造した際に全長を17.3 mに短縮している。
事故廃車となったモハ63056を1952年10月に譲受し、63系割当車と同じクハ3500形に編入されてクハ3504となっている。
63系電車の構造は極めて安全性に欠けるものであった。新製早々に漏電で全焼する事故が相次いだ中、1951年4月24日には京浜線(現・根岸線)桜木町駅付近で、架線の碍子交換作業時の作業ミスによって垂下した架線に接触した列車の先頭車モハ63756のパンタグラフとその取付台間での短絡を直接の原因とする火災が発生し、可燃性が高くしかも旅客の脱出が困難という車体構造に加え、運転士が車外に出たものの床下のドア解放コックを操作しなかったことにより、多数の焼死者を出した。
この事故は「桜木町事故」と呼ばれ、国鉄戦後五大事故の一つとされている。事故車のモハ63756は電気配線をはじめとする重要箇所の改良工事を実施して、側面窓以外は他の戦前形電車と同等の仕様となっていた車両であるが、この事故は1951年の10大ニュースとなって国鉄に対し厳しい批判・非難がなされており、当時、運輸省国有鉄道部保安課長であった柴内禎三はこの事故が及ぼした影響に関し、
と述べ、また、鉄道研究家の弓削進は
と述べている。また、当時この他にも車両火災事故が続発しており、例えば1951年における火災事故は以下の通りで、このうち5両が全焼している。
まず、事故発生当日の17時までに以下の緊急対応について国鉄本社が各局に通告し、順次実施されている。
11月26日から12月3日にかけて、高圧回路・低圧回路と大地間の絶縁試験を実施して漏洩電流値・直流分・tanδを測定して絶縁耐力性能の維持と検査基準の参考とする目的で、大井工場においてモハ60072とモハ63405を使用して現車試験を実施しており、その内容と結果は以下の通りであった。
その後、事故防止対策と緊急避難設備の整備のための「緊急特別改造工事」が1951年10月末までの約6箇月の期間と計約366百万円の費用をもって実施されており、担当は大井、大宮、吹田、豊川、幡生、松任、長野、盛岡の各工場(工事施行)および浜松工場(部品製作)であった。電車緊急特別改造工事の実施項目と施行両数、実施内容は以下の通り。
1951年11月からは63系を対象とした追加の保安対策として、主制御器の遮断方式の改良と断流器の増設、機器および配線の統一、主回路および母線の電線交換、電線の電線管への収納、三段窓の中段の可動化、天井板の金属製化、ベンチレーターの絶縁化と鋼製屋根への絶縁布の張付、戸閉回路・パンタグラフ操作回路用の補助回路および蓄電池の設置、などの改造が行なわれた。電動車は「63形」のネガティブで悪いイメージを避けてモハ73形(制御電動車、後のクモハ73)に改称され、運転台を撤去した中間電動車はモハ72形となった。クハ79形制御車、サハ78形付随車も同様の改造を受けたが、改称はされていない。また電装品不足から非電装で使用されていた「クモハ」「サモハ」はそれぞれ両形式に編入されてクハ79形100番台およびサハ78形300番台となった。なお、1950年度新製車のモハ63855 - 63858は、後の72系新製車に近い設計であったため上記のような改造は施されずに番号の改称のみが行われてモハ73形400番台となり、側面窓や貫通扉、配線などの改造はその後の実施となったほか、1950年に大井工場で1950年度新製車と同様の形態とする更新工事を実施したモハ63630、モハ63848も番号のみ改称されてモハ73172、モハ73134となっている。また、本形式の改造終了後の1954年からは他の戦前製電車に対しても同様の内容で戦後2度目の更新修繕(更新修繕II)が施工されている。
この追加保安対策工事は1951年から1954年の間に国鉄工場・民間車両メーカーを総動員して行われ、63系電車は72系電車に再編されたが、3年で700両の車両の体質改善工事が完了したことは、桜木町事故が国鉄と運輸省に与えた衝撃の大きさを物語っている。
63系ではクハ79形がまず竣工しており、最初の車両であるクハ79002は1944年6月5日に山手線で、次にクハ79004が6月16日に中央線で運行を開始しており、クハ79002の運行初日の編成は以下の通りであった。また、1945年中に竣工したモハ63形は蒲田・品川・池袋電車区に各6・3・5両が、サハ78形は蒲田電車区に全車が配置されている
1944年11月頃より本格化した本土空襲により、12月以降には国電区間においても空襲の被害が発生するようになった。第二次世界大戦中に空襲等による戦災被害を受けた電車は東京鉄道管理局管内では計311両、大阪鉄道管理局管内では計58両で、1945年における主な被害は以下の通りとなっており、63系においてもサハ78形3両、クハ79形1両が戦災により廃車となった。
上記のような状況を受けて1945年4月の京浜地区では電車のダイヤ改正が実施された。この改正は空襲による損耗と保守の低下に伴う車両状況の悪化に対応するためのもので、車両の走行距離を抑えて運用・検査予備車を確保するとともに、輸送量の増加に対応するために各駅での停車時間を延ばしたもので、また、合わせて列車の分割併合も廃止され、輸送力はラッシュ時において10 - 20%の減、車両キロは約10千 kmの減となった。これにより山手線・中央線・総武線は6両編成、常磐線が5両編成、横浜線が4両編成、赤羽線が3両編成、横須賀線が7両編成となったが、いずれの線区でも所要数が確保できず、これよりも短い編成が運行されていた。
戦後に東京鉄道局管内に配置された63系の新製時の配置先の分布は京浜線(蒲田・下十条・東神奈川電車区)が22 %、山手線(品川・池袋電車区)が13 %、中央線(三鷹・中野電車区)29 %、総武線(津田沼電車区)6 %、横須賀線(田町電車区)7 %という内訳となっており、一方、大阪鉄道局および天王寺鉄道局管内では1946年10月に淀川電車区に配置されて以降、最大116両(モハ63形96両、サハ78形20両、1959年5月時点)が配置されて、城東線・阪和線・東海道線で運行されていた。
戦後の連合軍専用車は1945年9月に京浜線に米軍専用車が設けられたことから始まり、1946年1月には連合軍専用車として窓下に白帯を入れる等の標記を行うようになって、1947年度末には電車では123両が連合軍専用車に指定されていた。63系ではモハ63138、63142、63368、クモハ63108、63120が指定されて1947年8月から山手線で運行され、翌1948年7月には中央線での運行となり、その後1949年9月に車内の半分を日本人用の2等車に変更することとなって車両前半部の2等室部の窓下に青帯が、後半部の連合軍専用部の窓下には従来通りの白帯が入るように変更されているが、1950年9月には指定解除されて通常の3等車に戻されている。
1947年6月7日には阪和線の東岸和田 - 東和歌山間で運転された、クロ49形貴賓車を使用したお召し列車の予備編成にモハ63150、モハ63152が使用されており、その編成は以下の通りであった。
東京急行電鉄の小田原線・江ノ島線には、省電借入れ(最多時点では13両を借入れ)の関係で1945年のわずかな間ではあるが、クハ79012が入線した記録があり、まだ割当車の私鉄線への入線は行われていない時期であるため、最初に私鉄線を走行した63系車両と見られる。その後、小田急電鉄には1950年8月5-6日には米軍輸送の関係で国鉄から3両2編成が借入れられており、編成中に63系のモハ63025、630254、63080、63381の4両が含まれていた。
製造から、1953年改番までに廃車となった車両は以下の通り。戦災による廃車は5両であり、戦後の事故による廃車が多い。
クモヤ90形に改造されていたモハ63638が、復元のうえ名古屋市港区のリニア・鉄道館で展示されている。この車両はモハ63638として製造され(車体:川崎車輛/1947年12月、電装:川崎車輌/1948年1月)、1951年時点では三鷹電車区に配置、その後1952年10月に日本車両製造東京支社でモハ72258に改造され、1957 - 65年の9年間で中野→三鷹→淀川→下十条→浦和→松戸と各電車区を転々とした後、1967年3月に郡山工場でクモヤ90005に改造された経歴を有する。
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"text": "国鉄63系電車(こくてつ63けいでんしゃ)は、1944年から1951年にかけて導入された運輸通信省鉄道総局・運輸省および日本国有鉄道(国鉄)の直流用通勤形電車である。なお、この呼称は同一の設計思想に基づいて製造された電車を便宜的に総称したもので、国鉄制式のものではなく、また、モハ63形とサハ78形のみを指す場合と、ほぼ同一の構造を持つ鋼体化改造車および他形式からの改造車からなるクハ79形を含む場合とがある。",
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"text": "本形式は、第二次世界大戦中、戦時体制下で増加していた通勤輸送に対し、混雑の緩和を目的に導入され、さらに、終戦直後の混乱を背景とした輸送需要の増加および損耗した輸送力の補充を目的として大量に導入されて戦後の交通混乱時代に大きな役割を果たした。21世紀に至るまで都市圏のJRや多くの大手私鉄で用いられている、通勤輸送向けの「全長20 m、片側4扉」の車体を採用して量産された最初の電車である。",
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"text": "一方で、本形式は第二次世界大戦中の日本国内の状況に対応するため、資材の節約と製造工程の削減を目的とした戦時設計に依るものとなっている(下記に詳述)。本形式が設計された当時、鉄道省動力車課長の島秀雄の下で戦時設計に基いた電気機関車と電車の設計を担当した矢山康夫は、1976年に戦時設計について次のように回想している。",
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"text": "本形式は製造後間もなく補強・改造の必要が生じ、高圧・低圧回路の電線の引替および電線管の設置、台枠の心皿取付部の補強、省略されていた機器類の取付等の改造工事が行われていた。しかし、その後1951年4月24日の桜木町事故においてさらなる問題点が明らかになったため、事故対策を主な内容とした更新修繕を実施して72系となり、その後長く使用されたほか、その他の戦前形電車にも同様の内容の通称「更新改造II」を実施している。",
"title": "概要"
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"text": "1937年の日中戦争開始に伴い鉄道動員体制となったことと、開戦に伴う旅客・貨物の輸送量増加に対応するため、1938年度に「輸送力拡充4ヵ年計画」(1941年度まで)を策定し、総額96.6百万円の予算のうち、車両増備にその55%を当して輸送力の増強を図ったが、資材不足により次第に計画達成率が低下していた。その後、1942年度から10か年の「交通施設長期整備計画」を策定し、当初の5年間は毎年220百万円の予算のうち22%を車両増備に充てることとしていた。",
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"text": "しかし、太平洋戦争の進展に伴う、産炭地からの石炭輸送を中心とした内航運輸の輸送力不足に対応するため、1942年10月6日に閣議決定された「戦時陸運の非常体制確立に関する件」および「戦時陸運非常体制確立方策要綱」によって戦時陸運の非常体制を確立し、石炭や鉄鉱石などの重要物資の海上輸送を陸上輸送に移して余剰の船舶を満洲・中国大陸方面や南方方面からの輸送に充てるための5項目からなる要綱が定められ、その要綱の下に9項目からなる措置が定められた。この計画を念頭に、1943年2月以降ダイヤ改正を繰り返し、旅客列車を削減して余剰となった機関車を貨物列車に回してこれを増発するとともに、列車運行の効率化などを行うなど経営資源を戦時陸運非常体制確立に振り向けており、その一環として1943年7月20日の閣議決定により「鉄道車輌の計画増産確保に関する件」が以下の通り定められた。",
"title": "導入の経緯"
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"text": "これに伴い、民間の車両メーカーも国家総動員法に基づく鉄道大臣の管理下に入れて官民一体で車両製造・修繕にあたることとなり、各民間工場に監理官が配置されて指揮監督または指導斡旋を行ったほか、1939年に車両の生産および配分の調整のための鉄道車両協議会および材料配給と部品規格統一を目的とする車両技術協会が設立され、1941年12月22日には重要産業団体令に基づき、車両および信号保安装置の製造販売を統制する車両統制会が発足している。",
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"text": "一方、開戦により車両用の資材が不足する状況となったため1930年代後半には資材の使用量削減のための設計変更がされるようになり、さらに、一層の資材の節約を図るため、1943年1月4日付の「戦時規格委員会規程」に基づき鉄道省に設置された戦時規格委員会において戦時陸運非常体制下における車両の生産増強のため以下の5項目について戦時規格等を制定し、これを実施することとなった。",
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"text": "参考として、1937年から1945年の間の輸送量の変化は以下の通りであった。",
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"text": "電車においては1939年製造の40系および51系より資材の節約と製造の簡易化が開始され、車体は全溶接・張上げ屋根として軽量化(資材節約)を図るとともに、室内の化粧板の簡略化、乗降扉や座席枠組の木製化、竹製吊手の採用などが実施されているほか、主制御器などの電装品の確保できず、同年竣工のモハ60形の一部は無電装であった。翌1940年に製造された両系では工程簡易化のため、車体は従来の形状で全溶接、木製屋根・雨樋のものとなり、室内は化粧板を省略しているほか、ほとんどの制御電動車が無電装となり、制御車の中にも付随車として竣工した車両があった。",
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"text": "その後、貨物輸送のための機関車および貨車が専ら生産されるようになり、旅客車はほとんど生産できなかったこと(客車に関しては優等車は1941年度・普通車は1942年度に中止された以降の新製は禁止されており、戦後1946年になるまで全く製造されなかった)ことから、電車に関しては極力限られた車両で輸送力を確保するため、座席撤去等の改造が行われることとなって横須賀線以外の路線は1943年から、横須賀線は1944年から実施されているほか、横須賀線以外の電車列車への2等車の連結中止と2等車の3等車への変更が実施されている(横須賀線でも実施されたが、軍部高官や皇族の輸送に支障するため中止)。また、主制御器の弱界磁段使用停止、運転速度の低下なども実施されているほか、資材供出等のため1943年から室内天井のベンチレーターカバー・手摺類・網棚ブラケット・方向板などが金属製から代用材に変更されたほか、1944年には連結部の渡り板・座席下の蹴込板・側面窓カーテンのカバー・制御車の機器類・車内表示用の地図枠・代用材を含む手摺類などが撤去されている。",
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"text": "さらに、1943年には輸送力増強のため片側2扉の32系の制御車/付随車および42系の4扉化と、モハ32形の3扉化が計画され、まず試作として同年8月にモハ43形およびクハ58形の計2両が改造後、順次改造が進められた。この改造は資材と人工の不足により計画通りには進捗しなかったものの、この実績をもとに木造車の鋼体化においても全長20 m片側4扉車への改造が構想されることとなった。",
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"text": "一方、戦時設計の車両は、1943年5月10日にD51形を対象に「戦時設計要網」およびその施行細則が定められ、これを基づいた「D51形蒸気機関車戦時設計詳表」をもとにD51形戦時型が製造されたのをはじめとして、その後、C11形、D52形蒸気機関車やEF13形電気機関車、トキ900形貨車などが製造されていたが、電車に関しても戦時設計に基いた車両が導入されることとなり、モハ63形、サハ78形が設計されているほか、全長20 m片側4扉車とすることとなった木造電車の鋼体化に際してこれらと同様の形態のクハ79形が導入されることとなった。",
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"text": "最初に木造電車を鋼体化改造した「クハ79形」制御車が竣工し、続いて「モハ63形」制御電動車および「サハ78形」付随車が製造されたが、終戦の頃までに竣工した車両は、クハ79形8両、モハ63形14両、サハ78形8両であり、モハ63形は電装品が確保できず、全車が付随車として竣工している。",
"title": "導入の経緯"
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"text": "戦後、国鉄における通勤通学の輸送人員は増加を続け、1947年度は1936年度の3.27倍、1951年度は同じく3.66倍となっており、特に大都市附近においては、復興・復員によって人口の流入があった一方で、都市中心部の戦災被害に伴う近郊部への疎開・転居等によって遠距離通勤が増加し、通勤通学列車の混雑度が増していた。一方で、国鉄電車における戦災車両数は全焼・大破358両、半焼・中破39両・小破166両の計563両であり、これは全電車の26%にあたり、このうち361両が廃車となっている。これに加えて、保守の低下に伴い、1947年における電車の稼動率は戦前の50%程度となり、都心の路線で使用する車両を確保するため、1945年6月から横須賀線、1946年2月から阪和線、同年8月からは中央線で機関車牽引の列車が運行されている。",
"title": "導入の経緯"
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"text": "この状況の改善のため、戦時設計の63系を大量生産用設計に手直し、かつ改良を加えた上で1945年度から1948年度にかけて導入している。1945年9月11、12日の全国工作課長会議において蒸気機関車287両、電気機関車95両、電車600両、客車1380両を1946年9月までに補充することを計画し、1945年9月14日にその発注が実施され、電車に関しては1945年度300両、1946年度310両の製造予定であったが、資材、特に電装品を中心とする資材不足により計画通り進捗せず、1946年10月に制御電動車460両、付随車60両の計画に修正されている。戦後製の63系はまず1945年度末までに41両が製造(車体竣工ベース)されたが、その後は1946年10月制定の臨時物資需給調整法に基づく指定生産資材割当規則により製造に必要な資材の配給統制が行われたことにより大幅に増産されており、1950年までに688両が導入されて戦後復興の一翼を担った。こういった63系の増備に加え、車両の保守に関しても戦前のレベルまで復旧させた結果、通勤通学列車の輸送力は1951年度には1936年度の2.95倍に増強されている。",
"title": "導入の経緯"
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"text": "しかし、終戦後すぐの時期に製造された車両は電装部品不足により、運転台付きの電動車として計画されながら主電動機や主制御器などの電装品がない状態のまま制御車代用となった車両も多く、さらに、運転台に装備する主幹制御器やブレーキ弁などの機器も省略して付随車代用となった車両も少なからずあった。なお、これらの車両の識別のため、1948年4月8日付の形式称号の特別措置により、「モハ」の記号を使用する電動車のうち、電動機を装備しない車両に対し「クモハ」(制御車代用)、電動機と主幹制御器を装備しない車両に対し「サモハ」(付随車代用)の記号を使用し、「クハ」の記号を使用する制御車のうち、主幹制御器を装備しない車両に対し「サクハ」の記号を使用することとなった。",
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"text": "1937年から1952年までの国鉄における年度別の電車の運用状況および導入状況は下表の通り。",
"title": "導入の経緯"
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"text": "戦時設計は「戦争に勝つまでの間、数年保てば良い」という思想のもとに資材を可能な限り切り詰め、かつ極限まで輸送効率を追求したと形容されるものであるが、本形式の設計は資材の節約よりも製造工程簡易化を主眼としたものと見られており、また、一部車両の台車や主電動機などに戦災車のものが使用されている。しかし、戦争による産業の疲弊に由来する資材不足によって、戦後も戦時設計に若干の改良の加えたのみの設計で製造され、1946年度製の車両までは床下配線には電線管を用いず棚配線としたことと、電線被覆の不良などの絶縁物不良・不足等の絶縁関係の脆弱さによる事故が発生している。特にPS11および本形式が使用したPS13集電装置における絶縁対策の不足は後に桜木町事故の要因となるなど、問題の多いものであった。",
"title": "構造"
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"text": "一方、戦後になって国鉄は1947年以降、電車に関する新技術の開発に取組んだが、当時生産されていた国鉄電車は本系列のみであったため、新技術の試験にも利用された。",
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"text": "戦時設計に拠るモハ63形、サハ78形の車体設計における特徴は以下の通り。",
"title": "構造"
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"text": "また、電気機器類の設計における特徴は以下の通り。",
"title": "構造"
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"text": "一方、国鉄電車の台車と車輪は1943年から戦時設計のものとなっているが、モハ63形、サハ78形にもこの台車・車輪が使用されたと推測されており、その主な内容は以下の通り。",
"title": "構造"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "車両長は従来車と同じく20 mとされたが、連結器長を縮めて車体長を19.5 mに延長して収容力を増加させた。また、幅1000 mmの片開き扉を片側4か所に設置した。満員のラッシュ時の換気に配慮して、屋根には太い煙突状の筒に覆いを被せた形の大容量のグローブベンチレーターを装備し、妻面幕板部にもヨロイ戸式ベンチレーターを設けた。また立席客への換気促進およびガラスの節約を目的として、側面窓は中段は固定、下段と上段がそれぞれ上方に開けられる3段式となり、ガラスの節約のため窓の桟を増やした車両もあった。",
"title": "構造"
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"text": "台枠はモハ63形はUF117、サハ78形はUF118、鋼体化改造車のクハ79形はUF118Aを使用している。戦前形の車両は中梁に250 × 90 × 9 mm、側梁に150 × 75 × 6.5 mmの溝形鋼を使用し、端梁・横梁等にプレス鋼を使用していたが、UF117およびUF118では資材節約と工程簡略化のため中梁・側梁・端梁・横梁を全て180 × 75 × 7 mmの溝形鋼に統一し、全て溶接にて組立てているほか、枕梁も中梁・側梁と180 × 75 × 7 mmの溝形鋼、6 mm厚鋼板、100 mmの山形鋼を組立てたものとしている。一方、UF119Aは木製電車用のUF13(電動車用)・UF14(付随車用)を使用して改造する予定であったが、図面が残存しておらず詳細構造は不明であるほか、実際に木製電車用台枠を流用して製造されたのは3両のみとの記録がある。",
"title": "構造"
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"text": "車端部の形状は工作の簡易化のため単純な切妻構造とされた。さらに1947年製の車両までは、雨樋はが扉上部に水切り状のものを取り付けたのみとされた。また、同じく1947年製までの車両は、鋼材の節約のため外板は在来の電車の2.3 mmより薄い1.6 mm厚とすることも可能とされ、施工に手間がかかる上にカーバイドや酸素を消費する歪み取り措置も省略された。また、車体下部の台枠部分の外板の下半部が省略されて台枠側面が露出している(ただし汽車会社製の1946年10月製造車には、台枠下端まで外板を張った車両がある)。車端貫通路の渡り板も省略された。",
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "内装では、天井板が省略されて木製の屋根板と鋼製の骨組みが露出しており、照明はカバーのない裸電球8個であった。1944年製の車両の座席はドア脇の床に置かれるドアエンジンを覆う部分8箇所のみに通常の長さの半分の1750 mmのものが設置され、また、クハ79形の79025はドアエンジンを鴨居部に設置して座席を4箇所とした。量産車のモハ63形でも、主として1946年製の車両までは座席の座面のクッションを省略して板張りとし、背摺も省略して車体内装板が露出し、資材の入手状況によっては塗装や合板の質を低下させていた。こういった本形式の内装の状態に対し、鉄道研究家の沢柳健一は最初に運行を開始したクハ79形に関し、",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "と評しており、同じく鉄道研究家の長谷川明は",
"title": "構造"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "と評している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "終戦後、資材不足が収まるにつれて、天井板や座席が整備され、1948年から座席の座面に布(モケット)を張り、照明はグローブ付きに、扉は鋼製もしくは軽合金製となった。1950年にモハ63形として最後に製造された4両(63855 - 63858)は、 川崎車輌の見込み生産分の購入と伝えられている車両であり、三段窓であるものの、内装、座席など、接客設備面について、戦後の標準的な水準となっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1946年に川崎車輛(現・川崎車両)で製造された6両(モハ63900 - 63902・サハ78200 - 78202)は、航空機用材料のジュラルミンを使用して試験的に製造されたもので、骨組みは普通鋼、床板と荷物棚は木製、座席は布張りで、外板および室内の吹寄、乗務員室仕切、腰羽目板、天井、窓枠、扉類、吊手棒受、荷物棚受などをジュラルミン製として製造された。これは終戦により余剰となった航空機用ジュラルミンを活用したもので、事実上日本で初めて車体の主要部分に軽合金を用いた電車である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "外板は1.6 mm厚のジュラルミン板を鋼製の構体骨組に6 mm径のリベット留めしたもので、クリアーのアクリル塗料を塗った銀色に細い緑色(製造中は赤色)の帯が入るものであったが、その後、クリア塗装での再塗装には手間がかかるため1948年にフタル酸樹脂エナメル塗料によって鋼製車と類似の塗装が施された。内装は同じくジュラルミン板を木製の内部構体に木ねじ留めとして外板と同じくクリアラッカーで仕上げたもので、照明に蛍光灯を試験的に採用したため車内も明るく、「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "しかし、ジュラルミンは腐食しやすかったことに加え、骨材と外板との間に浸入した水により局部電池が形成されることで電蝕が進行し、本車両においても7年程度使った時点でジュラルミンの腐食が見られる状況であった。抜本的対策として1954年に試作を兼ねて6両とも全金属製車体(外板は普通鋼、内装はアルミ)に改造された。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "63系の標準的な台車は当初、戦災車から転用したものであったので、戦前からの鉄道省標準型である鋳鋼製軸箱部と型鋼による側枠を組み合わせたペンシルバニア形軸ばね式台車のDT12(TR25)であった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後、国内の軍需のなくなったベアリング工業を民需に転換して存続させるため、車軸の軸受にはころ軸受の使用を拡大することとなり、DT12の平軸受をころ軸受に変更したDT13(TR25A、のちTR35)が開発され、以後このタイプが63系の標準台車となった。これには起動抵抗や軸受の発熱を減少させ、メンテナンス性を改善できるメリットがあった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、1948年以降のモハ63形の一部には扶桑金属工業(現・日本製鉄)製で鋳鋼製台車枠を持つ台車が用いられた。ウイングバネ式のDT14と軸バネ式のDT15があり、両者は多くの部品を共用している。DT15は、80系電車に用いられた高速型台車であるDT16の原型となった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "当初、戦前の標準型であるMT30(端子電圧675V時定格出力128 kW/780 rpm(全界磁))を搭載したが、1948年頃から改良型のMT40を搭載し、その後、一部の車両はMT40A(いずれも端子電圧750V時定格出力142 kW、定格回転数870 rpm(全界磁))を搭載したと推測されている。MT40系は端子電圧差を考慮するとMT30と性能上の差はないとされるが、電機子軸受にころ軸受を採用し、独立した冷却ダクトを持ち、本体の冷却風道も改良されているMT40系の方が優れていたと考えられている。そのためか主電動機をMT30からMT40に交換した車両があり、これによって捻出されたMT30を戦前型国電に搭載して出力増強をした事例もあったとされる。実際に70系投入後の横須賀線において、戦前型のモハ43形をモハ53形やクモハ50形に改造した例、阪和線にてモハ52形の主電動機がMT16からMT30に一部交換されていた例等が見られるものの、主電動機は車両の外観からは観察しにくいため、それらの動きを明示した文献は、今のところ見出されておらず、はっきりしないのが実情である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "パンタグラフは、戦前の標準型のトラス構造を用いたPS11は用いられず、戦時中に新たに開発されたPS13が搭載された。トラス構造を横控に変更したラーメン構造で、下半分の部材には通常の鋼管を使わず、鋼板を折り曲げて部材を構成していた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "主軸のベアリングは従来通りころ軸受であったが、それ以外の部分は平軸受とするなど全体に構造を極端に簡素化したものであった。そのため当初は強度不足による歪みも頻発し、のちに補強を余儀なくされるものも存在した。しかし、架線への追随性能に大きな問題はなく、広範に用いられ、101系電車の初期製造グループまでこのパンタグラフを搭載していた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "モハ63形は、戦前からの標準型であった電空カム軸制御器のCS5(直列5段・並列4段・並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%)を搭載していた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "運転台の主幹制御器は戦前以来長らく標準的に採用されてきたMC1Aを搭載する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "戦前製の形式と同じく、長編成に対応した電磁自動空気ブレーキの「AE電磁空気ブレーキ」を装備している。床下のA動作弁および電磁吐出弁(Electro-pneumatic valve)と運転台のME23ブレーキ弁で構成される元空管ダメ式自動空気ブレーキとなっており、モハ63形が搭載するものはMAE空気制動装置、クハ79形のものはCAE空気制動装置、サハ78形のものはTAE空気制動装置と称されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1943年計画(1944年製)の車両には防空法および灯火管制規則に基づく灯火管制のための灯火管制装置が装備されていた。この装置は床下に設置されて室内灯および予備灯、前照灯を警報の段階(空襲警報甲および空襲警報乙)に応じて一括して減光をするもので、運転室のスイッチ操作により動作するものであった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "被覆電線の腐食による事故が発生し始めたため、モハ63形について配線引替工事を1949-50年に140両、その後さらに123両に実施しており、その内容は、補助回路の引通し線を12芯ケーブルとして電線管に納める、制御回路をジャンパケーブルに変更し電線棚に配置する、高圧補助回路を電線管に納める、低圧補助回路をゴム管配線とする、主回路配線を引替える、というものであった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "電車の低圧引通用の電気連結器は、東京鉄道局配置の電車は大正初期には7芯のKE50が2基、その後1927年以降は戸閉回路用にKE50を1基増設して計3基が設置されていた一方で、1933年2月から大阪鉄道局に配置された電車には12芯のKE52が2組設置され、東京地区と大阪地区で電気連結器が異なっており、この区分は63系においても同様であった。その後、低圧引通用電気連結器は12芯の電気連結器2基に統一されることとなり、東京鉄道局配置の電車について、1946-49年度に63系を含む計1294両が改造されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "電車の主電動機容量の増大と運転数の増加に伴う使用電力量の増大に伴い、変電所やそこで使用される変成器も容量の大きいものとなっていったことにより、変電所における運転電流と事故電流との判別が困難となり、事故時に変電所での事故電流の遮断ができない可能性が高くなったため、車載の断流器の遮断能力の強化を図ることとなった。戦前の電車の多くや63系が搭載していたCS5主制御器は高速度減流器もしくは高速度遮断器は装備せず、主制御器本体内に設置されたRL5過電流継電器およびSR5断流器によって事故電流を遮断する方式であったが、1946年5月に電気機関車用のSR105断流器を電車用に変更したSR106断流器が日立製作所で開発され、これの試験結果から遮断容量が大幅に増加し、事故電流の遮断不能事故を防止可能とされたため、1948年度の改造工事ではこのSR106断流器もしくは、断流器内に過電流継電器を内蔵せずにCS5内蔵のRL5過電流継電器を使用するSR106Aをモハ63形200両に搭載している。なお、これと同時に母線断路器および母線ヒューズの未設置の車両にはこれを搭載したほか、旧形の高圧ツナギ箱を新設計のものに改良している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1948年からモハ63形約20両に、構造が簡素で軽量となった試作電動カム軸制御器を搭載して約3年間実用試験を実施した。この試験結果を受けて電動カム軸式制御器のCS10(直列7段・並列6段、並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%、弱め界磁/起動減流抵抗による減流起動機能付き)が制式化され、1951年製作の80系や70系などに搭載、さらに翌1952年以降は弱め界磁率を60%と75%の2段構成に改良したCS10Aが、それらの各系列と本系列の改良型である72系にも搭載された。このCS10では直並列切り替え時に牽引力の低下がほぼ発生しない「橋絡わたり」接続が国鉄電車用制式制御器では初めて採用され、主回路制御段数の多段化と共に加速時の衝動を低減した。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "サハ78形には川崎車輌製のOK1や三菱三原車両製のMD1を装着して試験が行われた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1946年2月にモハ63028に蛍光灯を設置して横浜線で試用し、その後1947年に製造されたジュラルミン車体のモハ63900 - 63902およびサハ78200 - 78201にも蛍光灯が採用されたが1948年に白熱電球に交換されている。その後、1948年には東京芝浦電気(現東芝)および小糸製作所製で100 V/17 Wの直流蛍光灯を蒲田電車区のモハ63形22両に各車10 - 15灯を何種かのパターンで設置し、9月から約3ヶ月間京浜東北線で試用しているが、これらの車両も試験後に白熱電球に戻されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "CS10主制御器に使用されていたCB7断流器に代わる三菱電機製の高速度減流器であるHB414を1950年1月にモユニ81006およびモハ63524に搭載して試用している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1943年に鶴見臨港鉄道が国鉄に買収された際に、当時同社の電車に搭載するために東京芝浦電気に発注して製造途中であったPB2A主制御器2基が国鉄に引継がれ、その後国鉄に納入されているが、これを1950年12月に大井工場でモハ63630、モハ63848に搭載して試用している。この主制御器は、力行時の加速度の確保と衝動の低下を目的に開発されていたが第二次世界大戦の影響により開発中止となった、油圧カム軸式の多段式制御器である予定形式CS8と同様の設計のものであった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1945年5月24日の空襲により蒲田電車区で被災したクハ79009は1946年11月28日に廃車となったが、関東工業で車体骨組みを一部使用して70系客車として復旧されて1949年3月11日にオハ71 123となり、その後1950年8月14日には荷物車のマニ74 9に再改造されて1964年まで使用されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "鋼体化改造車として製造されたクハ79形は50系と同じく省工場で製造されており、担当工場は以下の通りであった。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "一方でモハ63形およびサハ78形は車両メーカーで製造されており、担当会社は以下の通り。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また、当時の電車は車両メーカーから完成した車体・台車が納入された後に国鉄の工場で配線や電機品を搭載する電装工事を制御車・付随車を含めて実施していたが、戦後モハ63形を製造した際には国鉄の工場は既存車両の復旧整備を担当していたため、ほとんどの車両の電装工事を外注することとなった(戦時中製造のモハ63形は全車非電装)。電装工事は車両メーカーが自社で製造した車両の一部について実施をしたほかは車両メーカーとは別の電機メーカー等が担当し、さらに、一部車両は従来通り国鉄の工場が担当しており、それぞれの担当会社・工場は以下の通りであるが、戦後すぐの時期には電装品が確保が難しく、電装に6ヶ月から約1年を要した車両もあるほか、付随車として使用するだけの電装をするだけでも数ヶ月から約6ヶ月以上要した車両もあった。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "製造年代毎の、試作・試験品の使用などを除く主な設計変更点や特徴などは以下の通り。なお、予定製造数の変更や、材料入手の関係などで必ずしも年度毎の変更とはなっていないほか、製造途中や一部車両のみの変更もあり、不明点が多い。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、モハ63形のうち1944年製(14両)の全車および1946年製(335両・私鉄割当車を除く)の一部は電装品の供給が間に合わず未電装のまま運行されている。その内訳は付随車として使用された車両が103両、制御車として使用された車両が2両であり、このうち付随車代用の9両は1947-48年に電装品を装備して制御電動車化されているが、一方で事故復旧時に制御電動車から付随車となった車両と、制御車から付随車となった車両が各1両存在する。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1944年に32系のサロハ46形およびサロ45形の一部を4扉化改造した21両が1944年製のサハ78形の78001-78008に続く78009-78034(欠番あり)となっている。また、32系のクハ47形および42系のクハ58形、クロハ59形を改造して4扉の制御車であるクハ85形28両となっていたものが、1949年に鋼体化改造のクハ79形の79001-79025(欠番あり)に続く79031-79066(欠番あり)に改番されている。",
"title": "他形式からの編入"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "一方で42系の制御電動車を4扉化改造された車両は、主電動機が高出力化されなかったためか63系には編入されておらず、モハ42形を改造した車両は新モハ32形(32000-32002。横須賀線用の32系モハ32形とは異なる)、モハ43形を改造した車両はモハ64形(64003-64023。欠番あり)となり、モハ64形はさらにその後モハ31形(31000-31013。欠番あり)とされている。",
"title": "他形式からの編入"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "戦後の私鉄各社は第二次世界大戦中の酷使や戦災の結果多数の電車が損耗し、私鉄および軌道事業者における戦災等による被災車は2133両と国鉄の被災車542両を大きく上回っており、一方で買出し客を中心に輸送需要が増加したことで、著しい輸送力不足となっていた。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "そのため、運輸省は戦後発注した600両の電車のうち、1946年度分の中から約120両を63系が入線可能と思われる私鉄に割当て、その分の中小型車を割当てた会社から地方中小私鉄に譲渡させる制度を設け、その際の譲渡価格の算定式なども定められていた。割当て先は鉄道軌道統制会(1945年12月に解散し、同月に日本鉄道協会として再発足)が検討・審査を行い、東武鉄道、東京急行電鉄(小田原線・江ノ島線→現・小田急電鉄、厚木線→現・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海線→現・南海電気鉄道)、山陽電気鉄道の5社に対し1948年までに合計120両が供給された。一方、京阪神急行電鉄と西武農業鉄道(→現・西武鉄道)は割当てを辞退している(西武には割当てにより2両(モハ63092、モハ63094)入線したが、何らかの障害があったらしく、モハ50012、モハ50118と交換した)。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "割当てられた63系は、運輸省が国鉄分も含め一括発注した中から各私鉄に割当てたため、4両(東武・東急各2両)を除き省番号を持ち、実際に車体へ記入されたものも存在するが、省に車籍編入されたことはない。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "40両が割当てられて6300系となり、代わりに上信電気鉄道、上毛電気鉄道、新潟交通、長野電鉄、高松琴平電鉄、上田丸子電鉄に車両が供出されている。その後名古屋鉄道から14両を譲受した。1952年に7300系と改称。1959年以降、新造車体への載替え改造を実施した。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "20両が割当てられて1800形となり、小田原線・江ノ島線に8両、厚木線に12両が投入されて、代わりに東京急行電鉄各線の車両の中から庄内交通、京福電気鉄道、日立電鉄、静岡鉄道、高松琴平電鉄に車両が供出されている。1947年の東急の経営委託解除の際に6両は小田原線に移動したが残る6両が相模鉄道の所有となって1951年に改番されて3000系となり、その後1964-66年に車体更新を実施して3010系となった。小田急電鉄では、1948年に名古屋鉄道から譲受した6両を編入し、その後1957年以降に車体更新を実施した。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "20両が割当てられて3700系(初代)となり、代わりに野上電気鉄道、熊本電気鉄道、山陰中央鉄道、尾道鉄道、蒲原鉄道に車両が供出された。しかし、名古屋本線に当時存在した急カーブ(枇杷島橋梁付近)が通過できず、運行可能な区間に制約(栄生以東に限定)があったため十分に活用できなかった。そのため、従来車の車両限界に合わせた運輸省規格型車両である3800系(割当て20両、その後1954年まで増備して計71両となる)の割当てを受け、3700系は1948年に東武鉄道へ14両、小田急電鉄へ6両譲渡された。なお、名古屋鉄道が独自に20 m4扉車を導入したのは1979年(地下鉄直通車の100系)である。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "20両が割当てられ、モハ1501形となり、代わりに福井鉄道と淡路鉄道に車両が供出された。1947年5月から、南海電気鉄道分離独立(1947年6月)後の1948年6月にかけて全車が南海本線に配置され、同社の所有となった。全車が近畿車輛製の制御電動車で、南海の戦前の車両と同じ2連または3連の球形白色ガラスの灯具を持つ車内灯を装備し、ベンチレーターをガーランド型2列とするなどの仕様となった。架線電圧が600 Vであり、また在来車との混用の必要性から、主制御器はCS5ではなくALF単位スイッチ制御器を装備した。1959年以降、一部が制御車に改造され、使用機器は1521系とED5201形電気機関車に引継がれている。1968年までに全廃された。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "20両が割当てられ、代わりに高松琴平電鉄に車両が供出された。63系唯一の標準軌仕様。初期車6両は剥き出しの天井のままであったが、それ以降の14両は天井にジュラルミン板を張って納入され、原番号が63800番台であったことから800形800 - 819となった(当初は63800形であったとする説がある)。当時の山陽電鉄には神戸市内に併用軌道区間があり、本形式も1968年の神戸高速鉄道開業まで道路上を走行した。20 m級の電車が併用軌道を走行した数少ない事例であった。1957年の西代車庫火災による焼損をきっかけとして、車体を新造した2700系への更新、もしくはその構体を生かしたままでの更新改造を実施したが、いずれも全車が廃車されている。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "上記の私鉄各社のうち、63系導入以前から同等の電車を運用していたのは南海線と、戦中・戦後に20 m級国鉄電車の借入れがあった東京急行電鉄小田原線のみで、それ以外の私鉄の中には導入にあたり、カーブ半径の緩和、プラットホーム幅削減や障害物撤去、架線電圧の昇圧、あるいは変電所の増強など工事によって63系を走行させる条件を整えた会社もあり、その結果、著しく輸送力が増強された。東武鉄道では、1953年から1961年にかけて63系(7300系)同様の4ドア20 m車体の7800系(当初7330系)164両を導入して高度経済成長初期の通勤輸送の主力とし、以後主力通勤電車は20 m4ドア車体が基本となった。このほか、63系割当ではじめて20 m級電車を本格導入した相鉄と、戦前から20 m級電車を運用してきた南海、戦時中に20 m国電が入線していた小田急でも1960年代以降本格的に20 m4扉車体の通勤電車を主力としたが、いずれも20 m級電車に対応した車両限界となっていたので、導入障壁は低かった。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "63系電車の私鉄割当てはラッシュ輸送における「扉数の多い大型電車」の優位性を各鉄道会社に認識させるきっかけとなったと言える。20 m・片側4扉構造の車体は、国鉄のみならず大手私鉄通勤電車の標準構造となっている。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "なお、その後私鉄各社の車両増備には運輸省規格形電車の新造・導入が認められるようになり、63系の割当てはこの120両で終了となった。運輸省規格形電車は1947年に運輸省が「私鉄郊外電車設計要項」に基づき日本鉄道協会に規格を制定させたもので、63系の導入を辞退した京阪神急行電鉄なども運輸省規格形電車が導入したほか、63系を導入した東武鉄道、東京急行電鉄(小田急)、名古屋鉄道、山陽電気鉄道でもこれを導入している。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "三井鉱山専用鉄道では、1948年に通勤用客車としてサハ78形の同形車5両をホハ201 - 205として導入した。車体の外形はおおむねサハ78形に準じていたが、ベンチレーターが大きく、数が少ないこと、また車内に車掌スペースを持ち、後年ここには乗務員ドアが設けられていたこと、出入り口の両側に天井へ達する鋼管製ポールが立てられていて、必要に応じて特定の出入り口を閉鎖出来るようになっていたことなどは、省の標準的なサハ78と異なる。基本的には専用線で炭鉱関係者・家族の通勤通学輸送に限定されたが、三井鉱山の『三池鉄道線』の通称で地方鉄道として運営された1964年8月11日から1973年7月31日まで一般営業運転に用いられた。1980年代でも原形の形態を残し、1984年に従業員輸送が廃止になるまで使用された。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "事故により廃車となった車両が以下の通り私鉄に譲渡されている。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "前述のとおり割当の2両を返却した後、1950年に導入した戦災国電を復旧したクハ1411形が初めての全長20 m車となり、さらにその後1953年に63系の事故廃車車両3両を国鉄から譲受してモハ401形モハ402、クハ1421形クハ1421、クハ1422とし、1956年に同一仕様の1両を自社で製造した。なお、クハ1422となった旧モハ63470は、東武鉄道にモハ63046として割当られたものの、台枠横梁の折損もしくは台枠垂下により車体にゆがみが生じたとされる事故(詳細不明)により、製造元の川崎車輌によって代車(モハ63560予定車をモハ63046に改番したもの(国鉄には別途モハ63560を納入))に交換された元の破損車両が修理の上で国鉄に納入された(モハ63470)が、別の事故により廃車され譲渡されたものである(IおよびIIは、それぞれ初代番号、二代目番号を示す)。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "事故廃車となったモハ63082とモハ63168を譲受し、それぞれ台枠を流用して1700形サハ1752およびサハ1751に改造している。本車は1800形に次ぐ全長20 mの車両であったが、1967年に特急用から通勤用に改造した際に全長を17.3 mに短縮している。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "事故廃車となったモハ63056を1952年10月に譲受し、63系割当車と同じクハ3500形に編入されてクハ3504となっている。",
"title": "私鉄での導入"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "63系電車の構造は極めて安全性に欠けるものであった。新製早々に漏電で全焼する事故が相次いだ中、1951年4月24日には京浜線(現・根岸線)桜木町駅付近で、架線の碍子交換作業時の作業ミスによって垂下した架線に接触した列車の先頭車モハ63756のパンタグラフとその取付台間での短絡を直接の原因とする火災が発生し、可燃性が高くしかも旅客の脱出が困難という車体構造に加え、運転士が車外に出たものの床下のドア解放コックを操作しなかったことにより、多数の焼死者を出した。",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "この事故は「桜木町事故」と呼ばれ、国鉄戦後五大事故の一つとされている。事故車のモハ63756は電気配線をはじめとする重要箇所の改良工事を実施して、側面窓以外は他の戦前形電車と同等の仕様となっていた車両であるが、この事故は1951年の10大ニュースとなって国鉄に対し厳しい批判・非難がなされており、当時、運輸省国有鉄道部保安課長であった柴内禎三はこの事故が及ぼした影響に関し、",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "と述べ、また、鉄道研究家の弓削進は",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "と述べている。また、当時この他にも車両火災事故が続発しており、例えば1951年における火災事故は以下の通りで、このうち5両が全焼している。",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "まず、事故発生当日の17時までに以下の緊急対応について国鉄本社が各局に通告し、順次実施されている。",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "11月26日から12月3日にかけて、高圧回路・低圧回路と大地間の絶縁試験を実施して漏洩電流値・直流分・tanδを測定して絶縁耐力性能の維持と検査基準の参考とする目的で、大井工場においてモハ60072とモハ63405を使用して現車試験を実施しており、その内容と結果は以下の通りであった。",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "その後、事故防止対策と緊急避難設備の整備のための「緊急特別改造工事」が1951年10月末までの約6箇月の期間と計約366百万円の費用をもって実施されており、担当は大井、大宮、吹田、豊川、幡生、松任、長野、盛岡の各工場(工事施行)および浜松工場(部品製作)であった。電車緊急特別改造工事の実施項目と施行両数、実施内容は以下の通り。",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1951年11月からは63系を対象とした追加の保安対策として、主制御器の遮断方式の改良と断流器の増設、機器および配線の統一、主回路および母線の電線交換、電線の電線管への収納、三段窓の中段の可動化、天井板の金属製化、ベンチレーターの絶縁化と鋼製屋根への絶縁布の張付、戸閉回路・パンタグラフ操作回路用の補助回路および蓄電池の設置、などの改造が行なわれた。電動車は「63形」のネガティブで悪いイメージを避けてモハ73形(制御電動車、後のクモハ73)に改称され、運転台を撤去した中間電動車はモハ72形となった。クハ79形制御車、サハ78形付随車も同様の改造を受けたが、改称はされていない。また電装品不足から非電装で使用されていた「クモハ」「サモハ」はそれぞれ両形式に編入されてクハ79形100番台およびサハ78形300番台となった。なお、1950年度新製車のモハ63855 - 63858は、後の72系新製車に近い設計であったため上記のような改造は施されずに番号の改称のみが行われてモハ73形400番台となり、側面窓や貫通扉、配線などの改造はその後の実施となったほか、1950年に大井工場で1950年度新製車と同様の形態とする更新工事を実施したモハ63630、モハ63848も番号のみ改称されてモハ73172、モハ73134となっている。また、本形式の改造終了後の1954年からは他の戦前製電車に対しても同様の内容で戦後2度目の更新修繕(更新修繕II)が施工されている。",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "この追加保安対策工事は1951年から1954年の間に国鉄工場・民間車両メーカーを総動員して行われ、63系電車は72系電車に再編されたが、3年で700両の車両の体質改善工事が完了したことは、桜木町事故が国鉄と運輸省に与えた衝撃の大きさを物語っている。",
"title": "桜木町事故と72系への改造"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "63系ではクハ79形がまず竣工しており、最初の車両であるクハ79002は1944年6月5日に山手線で、次にクハ79004が6月16日に中央線で運行を開始しており、クハ79002の運行初日の編成は以下の通りであった。また、1945年中に竣工したモハ63形は蒲田・品川・池袋電車区に各6・3・5両が、サハ78形は蒲田電車区に全車が配置されている",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1944年11月頃より本格化した本土空襲により、12月以降には国電区間においても空襲の被害が発生するようになった。第二次世界大戦中に空襲等による戦災被害を受けた電車は東京鉄道管理局管内では計311両、大阪鉄道管理局管内では計58両で、1945年における主な被害は以下の通りとなっており、63系においてもサハ78形3両、クハ79形1両が戦災により廃車となった。",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "上記のような状況を受けて1945年4月の京浜地区では電車のダイヤ改正が実施された。この改正は空襲による損耗と保守の低下に伴う車両状況の悪化に対応するためのもので、車両の走行距離を抑えて運用・検査予備車を確保するとともに、輸送量の増加に対応するために各駅での停車時間を延ばしたもので、また、合わせて列車の分割併合も廃止され、輸送力はラッシュ時において10 - 20%の減、車両キロは約10千 kmの減となった。これにより山手線・中央線・総武線は6両編成、常磐線が5両編成、横浜線が4両編成、赤羽線が3両編成、横須賀線が7両編成となったが、いずれの線区でも所要数が確保できず、これよりも短い編成が運行されていた。",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "戦後に東京鉄道局管内に配置された63系の新製時の配置先の分布は京浜線(蒲田・下十条・東神奈川電車区)が22 %、山手線(品川・池袋電車区)が13 %、中央線(三鷹・中野電車区)29 %、総武線(津田沼電車区)6 %、横須賀線(田町電車区)7 %という内訳となっており、一方、大阪鉄道局および天王寺鉄道局管内では1946年10月に淀川電車区に配置されて以降、最大116両(モハ63形96両、サハ78形20両、1959年5月時点)が配置されて、城東線・阪和線・東海道線で運行されていた。",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "戦後の連合軍専用車は1945年9月に京浜線に米軍専用車が設けられたことから始まり、1946年1月には連合軍専用車として窓下に白帯を入れる等の標記を行うようになって、1947年度末には電車では123両が連合軍専用車に指定されていた。63系ではモハ63138、63142、63368、クモハ63108、63120が指定されて1947年8月から山手線で運行され、翌1948年7月には中央線での運行となり、その後1949年9月に車内の半分を日本人用の2等車に変更することとなって車両前半部の2等室部の窓下に青帯が、後半部の連合軍専用部の窓下には従来通りの白帯が入るように変更されているが、1950年9月には指定解除されて通常の3等車に戻されている。",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1947年6月7日には阪和線の東岸和田 - 東和歌山間で運転された、クロ49形貴賓車を使用したお召し列車の予備編成にモハ63150、モハ63152が使用されており、その編成は以下の通りであった。",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "東京急行電鉄の小田原線・江ノ島線には、省電借入れ(最多時点では13両を借入れ)の関係で1945年のわずかな間ではあるが、クハ79012が入線した記録があり、まだ割当車の私鉄線への入線は行われていない時期であるため、最初に私鉄線を走行した63系車両と見られる。その後、小田急電鉄には1950年8月5-6日には米軍輸送の関係で国鉄から3両2編成が借入れられており、編成中に63系のモハ63025、630254、63080、63381の4両が含まれていた。",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "製造から、1953年改番までに廃車となった車両は以下の通り。戦災による廃車は5両であり、戦後の事故による廃車が多い。",
"title": "運行・廃車"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "クモヤ90形に改造されていたモハ63638が、復元のうえ名古屋市港区のリニア・鉄道館で展示されている。この車両はモハ63638として製造され(車体:川崎車輛/1947年12月、電装:川崎車輌/1948年1月)、1951年時点では三鷹電車区に配置、その後1952年10月に日本車両製造東京支社でモハ72258に改造され、1957 - 65年の9年間で中野→三鷹→淀川→下十条→浦和→松戸と各電車区を転々とした後、1967年3月に郡山工場でクモヤ90005に改造された経歴を有する。",
"title": "運行・廃車"
}
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国鉄63系電車(こくてつ63けいでんしゃ)は、1944年から1951年にかけて導入された運輸通信省鉄道総局・運輸省および日本国有鉄道(国鉄)の直流用通勤形電車である。なお、この呼称は同一の設計思想に基づいて製造された電車を便宜的に総称したもので、国鉄制式のものではなく、また、モハ63形とサハ78形のみを指す場合と、ほぼ同一の構造を持つ鋼体化改造車および他形式からの改造車からなるクハ79形を含む場合とがある。
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{{No footnotes|date=2017年9月}}
[[File:JNR EC TYPE63 Prototype.jpg|thumb|250px|製造後まもない頃のモハ63形、1947年頃]][[File:Numazu Station 1946.jpg|thumb|250px|同じく製造直後のモハ63形、[[沼津駅]]、1946年]]
'''国鉄63系電車'''(こくてつ63けいでんしゃ)<!--[[PJ:RAIL]]指針により国鉄時代に製造を終了した車両は導入部に先頭に「国鉄」、形式・系列の後に車種を付す-->は、[[1944年]]から[[1951年]]にかけて導入された[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省鉄道総局]]・[[運輸省]]および[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[直流電化|直流]]用[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]][[電車]]である。なお、この呼称は同一の[[設計]]思想に基づいて製造された電車を便宜的に総称したもので、国鉄制式のものではなく、また、モハ63形とサハ78形のみを指す場合と、ほぼ同一の構造を持つ鋼体化改造車および他形式からの改造車からなる[[国鉄クハ79形電車|クハ79形]]を含む場合とがある。
== 概要 ==
本形式は、[[第二次世界大戦中]]、[[戦時体制]]下で増加していた[[通勤列車|通勤輸送]]に対し、混雑の緩和を目的に導入され<ref name="tgh51-311">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.311]]</ref>、さらに、[[終戦の日|終戦]]直後の[[戦後混乱期|混乱]]を背景とした輸送需要の増加および損耗した輸送力の補充を目的として大量に導入されて戦後の交通混乱時代に大きな役割を果たした<ref name="tgh41-898">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.898]]</ref><ref name="tgh51-28">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.28]]</ref>。21世紀に至るまで[[大都市圏|都市圏]]の[[JR]]や多くの[[大手私鉄]]で用いられている、通勤輸送向けの「全長20 m、片側4[[扉#鉄道|扉]]」の車体を採用して量産された最初の電車である。
一方で、本形式は第二次世界大戦中の日本国内の状況に対応するため、資材の節約と製造工程の削減を目的とした[[戦時設計]]に依るものとなっている<ref name="tgh41-787">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.787]]</ref>(下記に詳述)。本形式が設計された当時、鉄道省動力車課長の[[島秀雄]]の下で戦時設計に基いた[[電気機関車]]と電車の設計を担当した矢山康夫<ref group="注釈">1911年生まれ、1934年国鉄入社、工作局電気車両設計技師、その後総裁室調査役・交流電化調査委員会委員、東北支社長などを歴任、その後三菱重工調査役</ref>は、[[1976年]]に戦時設計について次のように回想している<ref name="arch37p73-73">[[#arch37p73|『戦時設計動力車の思い出』 p.73]]</ref>。 {{Quote|戦時設計の骨子は、基本的な性能はこれを十分に確保するが、寿命は短くても戦争中の使用に耐えればよいという覚悟で、設計[[安全率]]を許される最小値まで引き下げる、[[鉄]]や[[銅]]など重要資材を思い切り節約する、加工と[[艤装]]の[[工程]]と[[工数]]を減らすと同時に、[[徴用#日本|徴用]]工や[[学徒勤労動員|動員学徒]]のような素人工でも組立できるように作り易くする、さらに取り扱い・保守修繕・細部機能などの点でも、[[本土決戦|決戦体制]]下で許されるぎりぎりの限界まで切り詰めて我慢するなどであった。|矢山康夫| 戦時設計動力車の思い出 }}
本形式は製造後間もなく補強・改造の必要が生じ、[[高圧 (電気)|高圧]]・低圧回路の[[電線]]の引替および[[電線管]]の設置、[[台枠]]の心皿取付部の補強、省略されていた機器類の取付等の改造工事が行われていた<ref name="tgh51-312">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.312]]</ref>。しかし、その後[[1951年]][[4月24日]]の[[桜木町事故]]においてさらなる問題点が明らかになった<ref name="tgh51-312" />ため、事故対策を主な内容とした更新修繕を実施して72系となり<ref name="tgh41-791">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.791]]</ref>、その後長く使用されたほか、その他の戦前形電車にも同様の内容の通称「更新改造II」を実施<ref name="rl223-5">[[#rl223|『1950年代の戦前型国電(上)』 p.5]]</ref>している。
== 導入の経緯 ==
=== 戦時の車両増備と戦時設計 ===
[[1937年]]の[[日中戦争]]開始に伴い鉄道[[動員]]体制となった<ref name="keis46-4">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.4]]</ref>ことと、開戦に伴う旅客・貨物の輸送量増加に対応するため、[[1938年]]度に「輸送力拡充4ヵ年計画」([[1941年]]度まで)を策定し、総額96.6百万円の[[予算]]のうち、車両増備にその55%を当して輸送力の増強を図ったが、資材不足により次第に計画達成率が低下していた<ref name="keis46-7">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.7]]</ref>。その後、1942年度から10か年の「交通施設長期整備計画」を策定し、当初の5年間は毎年220百万円の予算のうち22%を車両増備に充てることとしていた。
しかし、[[太平洋戦争]]の進展に伴う、産炭地からの[[石炭]]輸送を中心とした[[内航船|内航運輸]]の輸送力不足に対応するため、[[1942年]][[10月6日]]に[[閣議 (日本)#大日本帝国憲法下|閣議]]決定された「戦時陸運の非常体制確立に関する件」<ref> [https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00419.html 「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」([[国立国会図書館]]リサーチ・ナビ)]</ref>および「戦時陸運非常体制確立方策要綱」<ref>[{{NDLDC|1712216/86}} 「戦時陸運非常体制確立方策要綱」『経済基本方策要綱』[[東京商工会議所]]商工資料 第88号]([[国立国会図書館#国立国会図書館デジタルコレクション|国立国会図書館デジタルコレクション]])</ref>によって戦時陸運の非常体制を確立し、石炭や[[鉄鉱石]]などの重要物資の[[海運|海上輸送]]を陸上輸送に移して余剰の[[船|船舶]]を[[満洲]]・[[中国大陸]]方面や南方方面からの輸送に充てるための5項目からなる要綱が定められ、その要綱の下に9項目からなる措置が定められた。この計画を念頭に、[[1943年]]2月以降[[ダイヤ改正]]を繰り返し、旅客列車を削減して余剰となった機関車を貨物列車に回してこれを増発するとともに、列車運行の効率化などを行うなど<ref name="tgh51-18">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.18]]</ref>経営資源を戦時陸運非常体制確立に振り向けており<ref name="keis46-16">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.16]]</ref>、その一環として1943年[[7月20日]]の閣議決定により「鉄道車輌の計画増産確保に関する件」<ref>[https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00484.html 「鉄道車輌ノ計画増産確保ニ関スル件」(国立国会図書館リサーチ・ナビ)]</ref>が以下の通り定められた。
* 鉄道車両製造工場は[[国家総動員法]]に基き鉄道大臣の管理とする
* 車両製造および修繕能力を最大限に発揮するため、鉄道省の技術・労務・資材・施設・経験等を活用して鉄道省の工場・機関区・検車区と民営工場とを一体的に総合運営する
* 車両製造に関しては五大重点産業{{Refnest|group="注釈"|石炭、[[鉄|鉄鋼]]、[[アルミニウム]]、[[造船]]、[[航空機]]、1942年11月に内閣に設置された臨時生産増強[[委員会]]設置要綱<ref>[https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00432.html 「臨時生産増強委員会設置要綱」(国立国会図書館リサーチ・ナビ) ]</ref>による}}並みの扱いとする
* 車両に対して戦時規格の実施を徹底する
* 必要に応じて[[戦時行政特例法|戦時行政職権特例]]および許可認可等臨時措置法<ref>[https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F0000000000000041159.html 「許可認可等臨時措置法」(国立公文書館デジタルアーカイブ)]</ref>を発動する
これに伴い、民間の車両メーカーも国家総動員法に基づく鉄道大臣の管理下に入れて官民一体で車両製造・修繕にあたることとなり、各民間工場に監理官が配置されて指揮監督または指導斡旋を行った<ref name="keis46-18">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.18]]</ref>ほか、1939年に車両の生産および配分の調整のための鉄道車両協議会および材料[[配給 (物資)|配給]]と部品規格統一を目的とする車両技術協会が設立され{{Refnest|group="注釈"|前者は[[企画院]]をはじめとする各省庁、[[南満洲鉄道]]、[[華北交通]]、[[華中鉄道]]で構成され、後者は車両生産事業者および需要者で構成される}}<ref name="tgh41-81">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.81]]</ref>、1941年12月22日には重要産業団体令<ref>[{{NDLDC|2960893/1}} 『官報第4395号』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>に基づき、車両および信号保安装置の製造販売を統制する車両統制会が発足している<ref>[{{NDLDC|2960989/6}} 『官報第4489号』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
一方、開戦により車両用の資材が不足する状況となったため[[1930年代]]後半には資材の使用量削減のための設計変更がされるようになり、さらに、一層の資材の節約を図るため、1943年[[1月4日]]付の「戦時規格委員会規程」に基づき鉄道省に設置された戦時規格委員会において戦時陸運非常体制下における車両の生産増強のため以下の5項目について戦時規格等を制定し、これを実施することとなった<ref name="tgh51-767">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.767]]</ref>。
* [[安全率]]の低減
* 耐久[[寿命]]の短縮
* 規格の変更
* 使用期限および検査期間の延長
* [[工程]]・[[艤装]]の簡易化
参考として、1937年から[[1945年]]の間の輸送量の変化は以下の通りであった。
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=11|年度別の戦時輸送の状況<ref name="keis46-6">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.6]]</ref>
|-
!種別!!項目!!1937年!!1938年!!1939年!!1940年!!1941年!!1942年!!1943年!!1944年!!1945年
|-
!rowspan=4|旅客列車!!人数
|1.16十億 人||1.35十億 人||1.61十億 人||1.88十億 人||2.17十億 人||2.28十億 人||2.65十億 人||3.11十億 人||2.97十億 人
|-
!人キロ数
|29.1十億 人・km||33.6十億 人・km||42.1十億 人・km||49.3十億 人・km||55.5十億 人・km||60.5十億 人・km||74.1十億 人・km||77.3十億 人・km||76.0十億 人・km
|-
!1日1キロ平均通過客車
|165 両||167 両||180 両||193 両||199 両||201 両||186 両||167 両||133 両
|-
!1列車あたり輸送人員
|155.3 人||179.4 人||219.3 人||249.6 人||279.5 人||305.3 人||395.7 人||434.8 人||558.1
|-
!rowspan=4|貨物列車||トン数
|106百万 t||118百万 t||131百万 t||146百万 t||152百万 t||158百万 t||178百万 t||161百万 t||81百万 t
|-
!トンキロ数
|18.9十億 t・km||21.9十億 t・km||25.3十億 t・km||27.9十億 t・km||29.8十億 t・km||33.9十億 t・km||42.8十億 t・km||41.2十億 t・km||19.0十億 t・km
|-
!1日1キロ平均通貨貨車
|447.4 両||480.5 両||521.4 両||542.3 両||562.1 両||613.6 両||647.0 両||561.9 両||291.9 両
|-
!1列車あたり輸送トン
|221.1 t||237.6 t||243.0 t||256.6 t||263.1 t||278.0 t||306.2 t||297.1 t||229.1 t
|-
|- class="sortbottom|colspan=11 style="text-align:left"
|{{Reflist|group="表注"}}
|}
=== 戦時における電車の状況と63系の導入 ===
電車においては1939年製造の[[国鉄40系電車|40系]]および[[国鉄51系電車|51系]]より資材の節約と製造の簡易化が開始され、車体は全溶接・張上げ屋根として軽量化(資材節約)を図るとともに{{Refnest|group="注釈"|戦前形国電の、長桁を屋根肩部より上に設けて側柱自体を上方に伸ばす長柱方式の張上げ屋根<ref name="kds-274">[[#kds|『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.274]]</ref>は、側構体の断面係数を拡大させ、車体強度を上げながら重量軽減を図ることを目的としたものである<ref name="m63-1-29" />}}、室内の化粧板の簡略化、乗降扉や[[鉄道車両の座席|座席]]枠組の木製化、[[竹]]製[[つり革|吊手]]の採用などが実施されているほか、[[主制御器]]などの電装品の確保できず、同年竣工のモハ60形の一部は無電装であった<ref name="m63-1-26_87" >[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.26, 86-87]]</ref>。翌1940年に製造された両系では工程簡易化のため、車体は従来の形状で全溶接、木製屋根・[[樋 (建築)|雨樋]]のものとなり、室内は化粧板を省略しているほか、ほとんどの制御電動車が無電装となり、[[制御車]]の中にも[[付随車]]として竣工した車両があった<ref name="m63-1-26" >[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.26]]</ref>。
その後、貨物輸送のための機関車および[[貨車]]が専ら生産されるようになり<ref name="tgh51-311">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.311]]</ref>、旅客車はほとんど生産できなかった<ref name="tgh41-152">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.152]]</ref>こと(客車に関しては優等車は1941年度・普通車は1942年度に中止された以降の新製は禁止されており<ref name="tgh41-636">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.636]]</ref>、戦後1946年になるまで全く製造されなかった)ことから、電車に関しては極力限られた車両で輸送力を確保するため、座席撤去等の改造が行われることとなって<ref name="tgh51-23">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.23]]</ref>[[横須賀線]]以外の路線は1943年から、横須賀線は1944年から実施されている<ref name=" rl225-42">[[#rl225|『1950年代の戦前型国電(下)』 p.42]]</ref>ほか、横須賀線以外の電車列車への2等車の連結中止と2等車の3等車への変更が実施されている(横須賀線でも実施されたが、軍部高官や皇族の輸送に支障するため中止)。また、主制御器の弱界磁段使用停止、運転速度の低下なども実施されている<ref name="m63-1-26" />ほか、[[金属類回収令|資材供出]]等のため1943年から室内[[天井]]の[[ベンチレーター]]カバー・手摺類・網棚[[ブラケット]]・方向板などが金属製から代用材に変更されたほか、1944年には連結部の渡り板・座席下の蹴込板・側面窓[[カーテン]]のカバー・制御車の機器類・車内表示用の[[地図]]枠・代用材を含む手摺類などが撤去されている<ref name="arch37p30-39_40">[[#arch37p30|『 国鉄電車発達史(車両編)』 p.39-40]]</ref>。
さらに、1943年には輸送力増強のため片側2扉の[[国鉄32系電車|32系]]の制御車/付随車および[[国鉄42系電車|42系]]の4扉化と、モハ32形の3扉化が計画され、まず試作として同年8月にモハ43形およびクハ58形の計2両が改造後、順次改造が進められた<ref name="rail8063n-5">[[#rail8063n|『ロクサンという名の電車』 p.5]]</ref>。この改造は資材と人工の不足により計画通りには進捗しなかった<ref name=" rl225-42" />ものの、この実績をもとに木造車の鋼体化においても全長20 m片側4扉車への改造が構想されることとなった<ref name="rail8063n-5" />。
一方、戦時設計の車両は、1943年[[5月10日]]に[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]を対象に「戦時設計要網」およびその施行細則が定められ、これを基づいた「D51形蒸気機関車戦時設計詳表」をもとにD51形戦時型が製造されたのをはじめとして<ref name="tgh41-435">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.435]]</ref>、その後、[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]、[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]][[蒸気機関車]]や[[国鉄EF13形電気機関車|EF13形]]電気機関車、[[国鉄トキ900形貨車|トキ900形]]貨車などが製造されていたが、電車に関しても戦時設計に基いた車両が導入されることとなり、モハ63形、サハ78形が設計されている<ref name="tgh41-787" />ほか、全長20 m片側4扉車とすることとなった木造電車の鋼体化に際してこれらと同様の形態のクハ79形が導入されることとなった<ref name="tgh51-311" />。
最初に[[木構造 (建築)|木造]]電車を鋼体化改造した「クハ79形」制御車が竣工し、続いて「モハ63形」[[動力車|制御電動車]]および「サハ78形」付随車が製造されたが、終戦の頃までに竣工した車両は、クハ79形8両{{Refnest|group="注釈"|当初は33両の計画であったがその後25両計画のに変更され<ref name="m63-3-36">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.36]]</ref>、 結果として79002、79004、79005、79009、79012、79016、79024、79025の8両が竣工(79024は終戦直後の1945年9月竣工)したが、残りの車両は工事が中止されたのか、そもそも起工もされていないのかは不明である。}}、モハ63形14両、サハ78形8両であり、モハ63形は電装品が確保できず、全車が付随車として竣工している。
=== 戦後の輸送状況と63系の追加導入 ===
戦後、国鉄における通勤通学の輸送人員は増加を続け、1947年度は1936年度の3.27倍、1951年度は同じく3.66倍となっており<ref name="tgh51-53">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.53]]</ref>、特に大都市附近においては、[[復興]]・[[復員]]によって人口の流入があった<ref name="m63-1-26" />一方で、都市中心部の戦災被害に伴う近郊部への[[疎開]]・転居等によって遠距離通勤が増加し<ref name="tgh41-898" />、通勤通学列車の混雑度が増していた<ref name="tgh51-312">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.312]]</ref>。一方で、国鉄電車における戦災車両数は全焼・大破358両、半焼・中破39両・小破166両の計563両であり、これは全電車の26%にあたり、このうち361両が廃車となっている<ref name="tgh41-157">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.157]]</ref>。これに加えて、保守の低下に伴い、1947年における電車の稼動率は戦前の50%程度となり<ref name="tgh51-28" />、都心の路線で使用する車両を確保するため、1945年6月から横須賀線、1946年2月から[[阪和線]]、同年8月からは[[中央本線|中央線]]で機関車牽引の列車が運行されている<ref name="rail8063n-8">[[#rail8063n|『ロクサンという名の電車』 p.8]]</ref>。
この状況の改善のため、戦時設計の63系を大量生産用設計に手直し、かつ改良を加えた上で1945年度から1948年度にかけて導入している<ref name="tgh51-312">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.312]]</ref>。1945年9月11、12日の全国工作課長会議において蒸気機関車287両、電気機関車95両、電車600両、客車1380両を1946年9月までに補充することを計画し、1945年9月14日にその発注が実施され、電車に関しては1945年度300両、1946年度310両の製造予定であったが、資材、特に電装品を中心とする資材不足により計画通り進捗せず、1946年10月に制御電動車460両、付随車60両の計画に修正されている<ref name="m63-3-30" >[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.30]]</ref>。戦後製の63系はまず1945年度末までに41両が製造(車体竣工ベース)されたが、その後は1946年10月制定の臨時物資需給調整法<ref>[{{NDLDC|2962428/1}} 『官報第5915号』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>に基づく指定生産資材割当規則<ref>[{{NDLDC|1453246/43}} 『物資統制関係法規集. 第1輯』 p.65](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>により製造に必要な資材の配給統制が行われたことにより大幅に増産されており<ref name="m63-3-30" />、[[1950年]]までに688両<ref group="注釈">後述する私鉄割当車を含めると合計804両。</ref>が導入されて戦後復興の一翼を担った。こういった63系の増備に加え、車両の保守に関しても戦前のレベルまで復旧させた結果<ref name="tgh51-28" />、通勤通学列車の輸送力は1951年度には1936年度の2.95倍に増強されている<ref name="tgh51-53" />。
しかし、終戦後すぐの時期に製造された車両は電装部品不足により、[[操縦席|運転台]]付きの電動車として計画されながら[[主電動機]]や[[主制御器]]などの電装品がない状態のまま制御車代用となった車両も多く、さらに、運転台に装備する[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]やブレーキ弁などの機器も省略して付随車代用となった車両も少なからずあった。なお、これらの車両の識別のため、1948年4月8日付の形式称号の特別措置により、「モハ」の記号を使用する電動車のうち、電動機を装備しない車両に対し「クモハ」(制御車代用)、電動機と主幹制御器を装備しない車両に対し「サモハ」(付随車代用)の記号を使用し、「クハ」の記号を使用する制御車のうち、主幹制御器を装備しない車両に対し「サクハ」の記号を使用することとなった<ref name="m63-3-26" >[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.26]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|なお、1959年の称号改正までは、例えば「モハ63001」の場合、記号「モハ」、形式「63」、番号「63001」となっている。また、追加される「サ」「ク」は「<sup>サ</sup>クハ」、「<sup>ク</sup>モハ」のように記号の左上に小さく表記するのが正式であるが、ほとんどの車両は同じ大きさで表記されていた<ref name="m63-3-26" />。当時の鉄道省の電車において、電動車には必ず運転台が設置されており、「制御電動車」を示す「クモハ」の記号は制定されていなかった。}}。
1937年から1952年までの国鉄における年度別の電車の運用状況および導入状況は下表の通り。
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=19|年度別の電車運用状況および導入状況
|-
!colspan=2|項目!!1937年!!1938年!!1939年!!1940年!!1941年!!1942年!!1943年!!1944年!!1945年!!1946年!!1947年!!1948年!!1949年!!1950年!!1951年!!1952年!!備考
|-
!rowspan=5|運用状況<ref name="tgh51-307">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.307]]</ref>!!配置両数
|1597両||1626両||1641両||1701両||1758両||1806両||1951両||2134両||1998両||1888両||2202両||2402両||2416両||2604両||2658両||2660両||
|-
!運用両数
|1486両||1513両||1527両||1582両||1633両||1667両||1776両||1868両||1596両||1399両||1677両||1892両||2102両||2322両||2357両||2405両||
|-
!予備両数
|111両||113両||114両||119両||120両||134両||164両||235両||334両||374両||361両||352両||264両||244両||253両||229両||
|-
!休車両数
| - || - || - || - ||5両||5両||11両||31両||68両||115両||164両||158両||50両||38両||48両||26両||style="text-align:left" |廃車前提の車両を含む
|-
!使用効率
|93.5 %||93.3 %||92.5 %||93.0 %||94.0 %||92.5 %||94.2 %||91.0 %||87.7 %||80.0 %||73.8 %||75.5 %||78.5 %||84.1 %||88.5 %||90.5 %||
|-
!rowspan=9|導入状況{{Refn|group="表注"|鋼体化を除く他形式からの改造車および、戦時買収による鉄道省編入車を除く}}||[[国鉄40系電車|40系]]<ref name=" rl224-6_45">[[#rl224|『1950年代の戦前型国電(中)』 p.6-45]]</ref>
|16両||26両||57両||76両||41両||25両||colspan=10| - ||style="text-align:left" |1932年より導入、1940年以降準戦時形
|-
![[国鉄50系電車|50系]]<ref name=" rl112-47">[[#rl225|『鋼体化国電モハ50系とその仲間たち』 p.47]]</ref>
|65両||22両||67両||71両||45両||50両||colspan=8| - ||4両||9両||style="text-align:left" |1934年より導入、鋼体化改造車
|-
![[国鉄51系電車|51系]]<ref name=" rl225-34_42">[[#rl225|『1950年代の戦前型国電(下)』 p.34-42]]</ref>
|30両||5両||3両||4両||colspan=2| - ||3両||colspan=9| - ||style="text-align:left" |1935年より導入、1940年以降準戦時形
|-
![[国鉄52系電車|52系]]<ref name=" rl225-4_5">[[#rl225|『1950年代の戦前型国電(下)』 p.4-5]]</ref>
|8両||colspan=15| - ||
|-
![[国鉄62系電車|62系]]<ref name=" rl112-26">[[#rl225|『鋼体化国電モハ50系とその仲間たち』 p.26]]</ref>
|colspan=6| - ||6両||colspan=9| - ||style="text-align:left" |鋼体化改造車
|-
!63系{{Refn|group="表注"|私鉄割当の116両を除く}}<ref name="m63-3-29_30">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.29-30]]</ref>
|colspan=7| - ||30両{{Refn|group="表注"|クハ79形8両を含む}}||colspan=1| - ||374両{{Refn|group="表注"|資材難やメーカーの戦災、人員不足等にの理由で製造ができなかった1945年度予算と1946年度予算を統合<ref name="m63-3-28">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.28]]</ref>}}||307両||122両|| - ||4両||colspan=2| - ||style="text-align:left" |戦時形
|-
![[国鉄70系電車|70系]]<ref name="pic2018-7b-31_33">平石大貫『80系・70系電車のあゆみ』「国鉄電車の記録 80系・70系電車」(鉄道ピクトリアル7月号別冊) 電気車研究会 2018年 p.31-33</ref>
|colspan=13| - ||67両||51両||34両||style="text-align:left" |以降1957年まで導入
|-
![[国鉄72系電車|72系]]
|colspan=15| - ||21両||style="text-align:left" |以降1957年まで導入
|-
![[国鉄80系電車|80系]]<ref name="pic2018-7b-15_20">平石大貫『80系・70系電車のあゆみ』「国鉄電車の記録 80系・70系電車」(鉄道ピクトリアル7月号別冊) 電気車研究会 2018年 p.15-20</ref>
|colspan=12| - ||73両||113両||24両||20両||style="text-align:left" |以降1958年まで導入
|-
|- class="sortbottom
|colspan=19 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
== 構造 ==
[[ファイル:JGR Mc63638 at Maglev and Railway Park.jpg|thumb|250px|切妻の正面が特徴のモハ63形、構体骨組は一般規格品の溝形鋼・山形鋼を多用して構成される (復元されたモハ63638)]][[File:Moha63 interior.jpg|thumb|250px|屋根鋼体の骨組みが露出・座席が板張りの内装 (復元されたモハ63638)]][[File:kuha79004.jpg|thumb|250px|鋼体化改造車のクハ79004、前面裾部の台枠下部が連結器に向かって斜めに下がる形状である点が新製車と異なる、[[古市橋駅]]、[[1980年]][[12月26日]]]]
=== 概要 ===
戦時設計は「戦争に勝つまでの間、数年保てば良い」という思想のもとに資材を可能な限り切り詰め、かつ極限まで輸送効率を追求したと形容されるものであるが、本形式の設計は資材の節約よりも製造工程簡易化を主眼としたものと見られており<ref name="m63-1-29">[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.29]]</ref>、また、一部車両の台車や主電動機などに戦災車のものが使用されている。しかし、戦争による産業の疲弊に由来する資材不足によって、戦後も戦時設計に若干の改良の加えたのみの設計で製造され、1946年度製の車両までは床下配線には電線管を用いず棚配線とした<ref name="m63-3-30" />ことと、電線被覆の不良などの絶縁物不良・不足等の[[絶縁体|絶縁]]関係の脆弱さによる事故が発生している。特にPS11および本形式が使用したPS13集電装置における絶縁対策の不足は後に桜木町事故の要因となる<ref name="m63-3-46_47">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.46-47]]</ref>など、問題の多いものであった。
一方、戦後になって国鉄は[[1947年]]以降、電車に関する新技術の開発に取組んだが、当時生産されていた国鉄電車は本系列のみであったため、新技術の試験にも利用された。
戦時設計に拠るモハ63形、サハ78形の車体設計における特徴は以下の通り<ref name="tgh41-787" />。
* 輸送力増強のため、乗降扉を片側4箇所とし、扉幅はそれまでの標準の1100 mmから1000 mmとしたが扉開時の引残りを縮小して950 mmの有効幅を確保。また、車体長の延長および乗務員室の短縮により客室面積を増大し、一方で、側面窓を、中段を固定、上段および下段をそれぞれ上昇式とした3段窓として立席客に対する換気を図ったほか、妻面にもベンチレーターを設置して換気量を確保。1944年度製の車両については、吊手を片側2列配置とした。その後の車両は荷物棚前に手すりを新設した。
* 鋼材種別の集約のため、台枠の中梁、側梁、横梁および端梁を180 × 75 × 7 mmの[[形鋼#溝形鋼|溝形鋼]]に統一したほか、鋼体に使用する[[形鋼#山形鋼|山形鋼]]についても不等辺のものを使用せず、100 mm、75 mmおよび65 mmの等辺のもの3 種に集約し、鋼板は6 mm、3.2 mmおよび1.6 mmの3種とした。
* 資材使用量低減のため、車体の外板は従来の2.3 mm厚の鋼板のほか1.6 mm厚のものも使用可能としたほか、[[銅合金]]を使用した[[ねじ]]類を廃止、車体の[[断熱材]]を[[フェルト]]から断熱[[塗料]]に変更(一部の車両はそれも省略)、天井の中央部分以外の[[合板|ベニア板]]製天井板を省略。
* 工程の簡易化のため、車体妻の形状を[[切妻]]とし、運転室側の[[貫通扉]]を省略したほか、構体の[[柱]]や[[垂木]]類の[[プレス加工]]材を山形鋼([[圧延]]材)に変更、柱キセ(カバー)の形状および取付方法を簡易化、乗降扉上部の[[ウィンドウ・シル/ヘッダー|型帯]]を省略、錆止塗装工程を一部省略。
また、電気機器類の設計における特徴は以下の通り<ref name="tgh41-898" />。
* CS5[[主制御器]]は戦時設計に対応するための設計変更が困難であったため<ref name="tgh41-898" />、以下の変更を実施したに留まる。
** 主電動機の直並列切替用[[接触器]](K1からK4までの4個)のうち、2個[[直列]]で配置されていたK1、K2のうち1個を省略。
** 制御回路のうち、運転台での[[スイッチ]]操作により<ref name="m63-2-103">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.103]]</ref>ラッシュ時等に一時的に限流値を上げて加速力を確保するため<ref name="tgh41-897">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.897]]</ref>に設けられたRL25A限流[[継電器]]の加速[[コイル]]およびその直列[[抵抗]]を省略。
** カム接触器駆動用空気[[シリンダ]]を引抜鋼管のものから[[鋳鉄]]製のものに変更。
* 主回路[[ヒューズ]]および[[母線 (配電)|母線]]回路ヒューズを省略。
* 母線回路用[[断路器]]を省略。
* CS9弱界磁接触器を省略。
一方、国鉄電車の台車と車輪は1943年から戦時設計のものとなっているが、モハ63形、サハ78形にもこの台車・車輪が使用されたと推測されており、その主な内容は以下の通り<ref name="m63-1-36_50" >[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.36-50]]</ref>。
* 動台車のTR25(後のDT12)の揺枕下梁、揺枕ピン、車軸受金に代用材を使用。
* 車輪のタイヤの止め輪を省略。
=== 車体 ===
==== 車体 ====
車両長は従来車と同じく20 mとされたが、[[連結器]]長を縮めて車体長を19.5 mに延長して収容力を増加させた。また、幅1000 mmの片開き扉を片側4か所に設置した。満員の[[ラッシュ時]]の[[換気]]に配慮して、屋根には太い煙突状の筒に覆いを被せた形の大容量の[[ベンチレーター#吸い出し式|グローブベンチレーター]]を装備し、妻面幕板部にもヨロイ戸式ベンチレーターを設けた。また立席客への換気促進および[[ガラス]]の節約を目的として、側面窓は中段は固定、下段と上段がそれぞれ上方に開けられる3段式となり、ガラスの節約のため窓の桟を増やした車両もあった。
台枠はモハ63形はUF117、サハ78形はUF118、鋼体化改造車のクハ79形はUF118Aを使用している<ref name="m63-1-32_34" >[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.32-34]]</ref>。戦前形の車両は中梁に250 × 90 × 9 mm、側梁に150 × 75 × 6.5 mmの溝形鋼を使用し、端梁・横梁等にプレス鋼を使用していたが、UF117およびUF118では資材節約と工程簡略化のため中梁・側梁・端梁・横梁を全て180 × 75 × 7 mmの溝形鋼に統一し、全て溶接にて組立てているほか<ref name="m63-1-32_34" />、枕梁も中梁・側梁と180 × 75 × 7 mmの溝形鋼、6 mm厚鋼板、100 mmの山形鋼を組立てたものとしている<ref name="m63-1-106_108" >[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.106-108]]</ref>。一方、UF119Aは木製電車用のUF13(電動車用)・UF14(付随車用)を使用して改造する予定であったが、図面が残存しておらず詳細構造は不明であるほか、実際に木製電車用台枠を流用して製造されたのは3両のみとの記録がある<ref name="m63-1-32_34" />。
車端部の形状は工作の簡易化のため単純な切妻構造とされた。さらに1947年製の車両までは、雨樋はが扉上部に水切り状のものを取り付けたのみとされた。また、同じく1947年製までの車両は、鋼材の節約のため外板は在来の電車の2.3 mmより薄い1.6 mm厚<ref group="注釈">これは戦前より[[気動車]]の外板の標準厚であった。</ref>とすることも可能とされ、施工に手間がかかる上に[[カーバイド]]や[[酸素]]を消費する歪み取り措置も省略された。また、車体下部の[[台枠]]部分の外板の下半部が省略されて台枠側面が露出している<ref group="注釈">後の[[国鉄201系電車|201系]]などでは台枠側面が全面的に露出しているほか、一般的なステンレス車両も本系列同様台枠下半部が露出している。</ref>(ただし汽車会社製の1946年10月製造車には、台枠下端まで外板を張った車両がある<ref>「鉄道史料」第70号,pp43</ref>)。車端貫通路の渡り板も省略された。
==== 車内設備 ====
内装では、天井板が省略されて木製の屋根板と鋼製の骨組みが露出しており、[[照明]]はカバーのない[[電球|裸電球]]8個であった<ref group="注釈">{{要出典範囲|盗難防止のため、金網がかぶせられていた|date=2021-11}}。</ref>。1944年製の車両の[[鉄道車両の座席|座席]]はドア脇の床に置かれる[[自動ドア#ドアエンジン|ドアエンジン]]を覆う部分8箇所のみに通常の長さの半分の1750 mmのものが設置され、また、クハ79形の79025はドアエンジンを鴨居部に設置して座席を4箇所とした。量産車のモハ63形でも、主として1946年製の車両までは座席の座面の[[クッション]]を省略して板張りとし、背摺も省略して車体内装板が露出し、資材の入手状況によっては塗装や合板の質を低下させていた。こういった本形式の内装の状態に対し、[[鉄道研究家]]の沢柳健一<ref group="注釈">1924年生まれ、本職は[[東京都庁]]勤務、[[鉄道友の会]][[参与#一般的用法|参与]]</ref>は最初に運行を開始したクハ79形に関し、 {{Quote|食パン形の妻面と屋根上の通風器の形態にまず一驚し、車内に入って二度びっくり、単車時代をほうふつさせる肋骨(垂木)のむき出し天井には鶏小屋か何かに入ったようで、乗った人は次の駅で乗りかえたというエピソードまである。|沢柳健一|ロクサンという名の電車 }}と評しており<ref name="rail8063n-6">[[#rail8063n|『ロクサンという名の電車』 p.6]]</ref>、同じく鉄道研究家の長谷川明<ref group="注釈">1934年生まれ、鉄道友の会参与</ref>は {{Quote|室内は天井内張りの全廃による「[[肋骨]]天井」に裸の[[白熱電球]]、背ずりなしの板腰掛はドアエンジン部のみ、釣手は2列のダブル配列の車輌もあり、その材料は動力伝導材料の古ベルトや[[竹]]材、木棒、[[ワイヤーロープ]]などという、貨車と見まがうアコモデーションは、まさに「史上最低」と言って良いものだった。|長谷川明|鋼体化国電モハ50系とその仲間たち}}と評している<ref name=" rl112-26" />。
終戦後、資材不足が収まるにつれて、天井板や座席が整備され、1948年から座席の座面に布([[モケット]])を張り<ref group="注釈">それまでにも布の張られた車両はあったが、テント布や質の悪い[[皮革|レザー]]、[[麻袋]]生地などあり合わせの材料が多かった。</ref>、照明は[[グローブ]]付きに、扉は鋼製もしくは軽合金製となった。1950年にモハ63形として最後に製造された4両(63855 - 63858)は、 [[川崎車両|川崎車輌]]の見込み生産分の購入と伝えられている<ref name="m63-3-92_30">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.30]]</ref>車両であり、三段窓であるものの、内装、座席など、接客設備面について、戦後の標準的な水準となっている<ref name="m63-3-92_30" />。
==== ジュラルミン製車体 ====
1946年に川崎車輛(現・[[川崎車両]])で製造された6両(モハ63900 - 63902{{Refnest|group="注釈"|製造時、工場内において一旦63400 - 63402の番号となっていたが出場時までに63900 - 63902に変更されている<ref name="m63-3-92_31">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.31]]</ref>}}・サハ78200 - 78202)は、航空機用材料の[[ジュラルミン]]を使用して試験的に製造されたもので、骨組みは[[炭素鋼|普通鋼]]、床板と[[網棚|荷物棚]]は木製、座席は布張りで、外板および室内の吹寄、乗務員室仕切、腰羽目板、天井、窓枠、扉類、吊手棒受、荷物棚受などをジュラルミン製として製造された。これは終戦により余剰となった[[航空機]]用ジュラルミンを活用したもので、事実上日本で初めて車体の主要部分に軽合金を用いた電車である。
外板は1.6 mm厚のジュラルミン板<ref>『科学朝日』1946年11月号,pp6</ref>を鋼製の構体骨組に6 mm径の[[リベット]]留め<ref group="注釈">ジュラルミンは溶接が不可能で、現在の[[航空機]]でも鋲接やファスナーが使用されている。</ref>したもので<ref name="tgh41-788">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.788]]</ref>、クリアーの[[アクリル酸エステル|アクリル]]塗料を塗った銀色に細い緑色(製造中は赤色)の帯が入るものであったが、その後、クリア塗装での再塗装には手間がかかるため1948年にフタル酸樹脂エナメル塗料によって鋼製車と類似の塗装が施された<ref name="tgh41-788" />。内装は同じくジュラルミン板を木製の内部構体に木ねじ留めとして<ref name="tgh41-788" />外板と同じくクリアラッカーで仕上げたもので、照明に[[蛍光灯]]<ref group="注釈">20 Wのものが8本、計160W。</ref>を試験的に採用したため車内も明るく、「'''ジュラ電'''」と呼ばれて注目を集めた<ref>[http://www.khi.co.jp/rs/company/history/since_1946.html 1946年(昭和21年) ジュラルミン合金製モハ63形・サハ78形電車6両を製造] - 川崎重工業</ref>。
しかし、ジュラルミンは[[腐食]]しやすかった<ref group="注釈">正確な記録がないため使用材料は不詳であるが、第二次世界大戦中に日本で製造された航空機用ジュラルミンはいずれも耐食性が低く、[[飛行艇]]などでは耐食性を要する箇所に[[アルミニウム合金]]を使用していた。一方、同様に航空機用ジュラルミンを流用した[[国鉄オハ35系客車#オロ40形(スロ31120形)|オロ40]] 98 - 102は外板塗装など鋼製車両と同等の防食対策を施した(一部の車両は無塗装またはクリアラッカー仕上げであったという説もある)ため比較的良好な状態を保ったとされることから、そもそも電車は電蝕が生じやすいので、腐食対策に問題があったとも推測される。</ref>ことに加え、骨材と外板との間に浸入した水により局部電池が形成されることで電蝕が進行し、本車両においても7年程度使った時点で<ref name="tgh41-788" />ジュラルミンの腐食が見られる状況であった。抜本的対策として[[1954年]]に試作を兼ねて6両とも全金属製車体(外板は普通鋼、内装はアルミ)に改造された。
=== 走行装置 ===
==== 台車 ====
[[ファイル:JNR truck DT13.jpg|250px|right|thumb|DT13形台車(クモヤ740形のもの。同形はモハ63形をモハ72形に改造したあと再改造した車両)]][[ファイル:jnr.dt14.jpg|250px|right|thumb|DT14形台車 クモハ73313が履いていた物 1980年12月26日 可部駅にて]]
63系の標準的な[[鉄道車両の台車|台車]]は当初、戦災車から転用したものであったので、戦前からの[[鉄道省]]標準型である[[鋳鋼]]製軸箱部と[[形鋼|型鋼]]による側枠を組み合わせたペンシルバニア形軸ばね式台車の[[国鉄TR23形台車#派生形式|DT12(TR25)]]であった<ref group="注釈">初期の木造電車からの改造クハ79形の一部には球山形鋼を側枠に使用するイコライザー式台車である[[国鉄TR10形台車#派生形式|TR11またはTR10]]を装着する車両もあったが、それらはのちにクハ79024を除き交換されている。</ref>。
第二次世界大戦後、国内の軍需のなくなった[[軸受|ベアリング]]工業を民需に転換して存続させるため<ref name="tgh41-397_827">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.397, 827]]</ref>、車軸の軸受には[[転がり軸受#ころ軸受|ころ軸受]]の使用を拡大することとなり<ref name="tgh41-397" >[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.397]]</ref>、DT12の平軸受をころ軸受に変更したDT13(TR25A、のちTR35)が開発され、以後このタイプが63系の標準台車となった。これには[[列車抵抗#出発抵抗|起動抵抗]]や軸受の発熱を減少させ、[[メンテナンス]]性を改善できるメリットがあった<ref group="注釈">当時の冶金技術においては、ころ軸受は平軸受に比してメンテナンス性と連続運用時の発熱低減という点で勝ったものの、重量増と、クリアランス確保不足や材料の不良による信頼性不足という点で劣り、またコストもかかるため、トータルにするとそれほど変わらないか、ころ軸受のほうが劣ったともされている。日本製ころ軸受および[[玉軸受]]の性能が、信頼おける水準に達するには相当な時間を要したが、もちろん現代においてはその優秀性は平軸受とは比べるべくもない。</ref>。
また、1948年以降のモハ63形の一部には[[扶桑金属工業]](現・[[日本製鉄]])製で鋳鋼製台車枠を持つ台車が用いられた。ウイングバネ式の[[国鉄TR37形台車|DT14]]<ref group="注釈">当初の形式名はTR37で、メーカー形式はFS-1。南海電鉄が[[南海2001形電車#最終増備車|クハ2801形最終増備車]]に採用したF-24の同等品である。</ref>と軸バネ式のDT15があり、両者は多くの部品を共用している。DT15は、[[国鉄80系電車|80系電車]]に用いられた高速型台車であるDT16の原型となった。
==== 主電動機 ====
当初、戦前の標準型であるMT30(端子電圧675V時定格出力128 [[ワット|kW]]/780 [[rpm (単位)|rpm]](全界磁))を搭載したが、[[1948年]]頃から改良型のMT40を搭載し、その後、一部の車両はMT40A(いずれも端子電圧750V時定格出力142 kW、定格回転数870 rpm(全界磁))を搭載したと推測されている。MT40系は[[公称電圧|端子電圧]]差<ref group="注釈">戦前は架線電圧が直流1500 Vの場合、実際に架線から電車が集電する段階での[[電圧降下]]を10%と見込んで実効値を直流1350 Vとし、主電動機の端子電圧を2個直列で1基あたり675 Vとしていた。これに対し、戦後は実効値を1500 VとしてMT40以降は端子電圧750 Vとした。このMT40系はその後、80系電車、[[国鉄70系電車|70系電車]]、72系電車の各系列にも用いられて{{要出典範囲|電車列車の時代の到来の原動力となった|date=2021-11}}。国鉄電車用量産電動機はその後中空軸平行カルダン駆動対応となったため、MT40系列は最後に新規設計され、かつ最大出力の[[吊り掛け駆動方式]]対応のものとなったが、MT30系とは[[電機子]]や[[界磁]]の磁気回路設計にはほとんど変更がなく、実効性能はほぼ同等であったため、運用上は同一に取扱うことができた。{{要出典範囲|なお、[[発電ブレーキ|発電]]/[[回生ブレーキ|回生制動]]常用の[[カルダン駆動方式|カルダン駆動]]車では、私鉄を含め、再び主電動機を端子電圧675V、あるいは4個直列で340Vの設計となったが、これは高速域からの電制時に過電圧で失効するのを防ぐに、端子電圧に約10%程度のマージンを確保する必要が生じたためである|date=2021-11}}。</ref>を考慮するとMT30と性能上の差はないとされるが、電機子軸受にころ軸受を採用し、独立した冷却ダクトを持ち、本体の冷却風道も改良されているMT40系の方が優れていたと考えられている。そのためか主電動機をMT30からMT40に交換した車両があり、これによって捻出されたMT30を戦前型国電に搭載して出力増強をした事例もあったとされる。実際に70系投入後の横須賀線において、戦前型のモハ43形をモハ53形やクモハ50形に改造した例、阪和線にてモハ52形の主電動機がMT16からMT30に一部交換されていた例等が見られるものの、主電動機は車両の外観からは観察しにくいため、それらの動きを明示した文献は、今のところ見出されておらず、はっきりしないのが実情である。
==== 集電装置 ====
[[集電装置|パンタグラフ]]は、戦前の標準型の[[トラス]]構造を用いたPS11は用いられず、戦時中に新たに開発されたPS13が搭載された。トラス構造を横控に変更した[[ラーメン (骨組)|ラーメン構造]]で、下半分の部材には通常の[[鋼管]]を使わず、[[鋼板]]を折り曲げて部材を構成していた。
主軸のベアリングは従来通りころ軸受であったが、それ以外の部分は平軸受とするなど全体に構造を極端に簡素化したものであった。そのため当初は強度不足による歪みも頻発し、のちに補強を余儀なくされるものも存在した。しかし、[[架線]]への追随性能に大きな問題はなく、広範に用いられ、[[国鉄101系電車|101系電車]]の初期製造グループまでこのパンタグラフを搭載していた<ref group="注釈">同世代の大手私鉄の電車にも多用され、一部はそれらが地方私鉄に譲渡されたものがそのまま近年まで使用され、1993年製のVVVF車である相鉄[[相鉄9000系電車|9000系]]の第2編成に搭載された例もある。</ref>。
==== 主制御装置 ====
モハ63形は、戦前からの標準型であった電空[[カムシャフト|カム軸]]制御器<ref group="注釈">[[電磁弁]]制御による空気圧駆動シリンダを用いてカム軸を回転させ、主回路を構成する抵抗群の回路を切り替えるスイッチを動作させる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ゼネラル・エレクトリック]]社製PCの技術的系譜となるシステム。</ref>のCS5(直列5段・並列4段・並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%)を搭載していた。
運転台の主幹制御器は戦前以来長らく標準的に採用されてきたMC1Aを搭載する。
==== ブレーキ装置 ====
戦前製の形式と同じく、長編成に対応した電磁[[自動空気ブレーキ]]の「AE電磁空気ブレーキ」を装備している<ref name="m63-2-77">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.77]]</ref>。床下のA動作弁<ref group="注釈">鉄道省の標準的な客車用自動ブレーキ弁として、日本エヤーブレーキ(現・[[ナブテスコ]])がWH社製U自在弁の利点を取り入れて[[1928年]]に開発したもので、後に電車・[[気動車]]にも採用された。</ref>および[[電磁弁|電磁吐出弁]]('''E'''lectro-pneumatic valve)と運転台のME23ブレーキ弁で構成される元空管ダメ式自動空気ブレーキとなっており<ref name="m63-2-178_181">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.178-181]]</ref>、モハ63形が搭載するものはMAE空気制動装置、クハ79形のものはCAE空気制動装置、サハ78形のものはTAE空気制動装置と称されている<ref name="m63-2-77" />。
==== その他 ====
1943年計画(1944年製)の車両には[[防空法]]および灯火管制規則に基づく灯火管制<ref name="TKKK-40">[{{NDLDC|1881184/23}} 内務省計画局『燈火管制規則解説』p.1-7, 40-50](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>のための灯火管制装置が装備されていた<ref name="m63-2-75_76">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.75-76]]</ref>。この装置は床下に設置されて室内灯および予備灯、前照灯を警報の段階(空襲警報甲および空襲警報乙)に応じて一括して減光をするもので、運転室のスイッチ操作により動作するものであった<ref name="m63-2-75_76" />。
=== 改造 ===
==== 改良工事等 ====
; 配線引替
被覆電線の腐食による事故が発生し始めたため、モハ63形について配線引替工事を1949-50年に140両、その後さらに123両に実施しており、その内容は、補助回路の引通し線を12芯ケーブルとして電線管に納める、制御回路をジャンパケーブルに変更し電線棚に配置する、高圧補助回路を電線管に納める、低圧補助回路をゴム管配線とする、主回路配線を引替える、というものであった<ref name="arch37p30-46_47">[[#arch37p30|『国鉄電車発達史(車両編)』 p.46-47]]</ref>。
; 低圧引通用電気連結器の変更
電車の低圧引通用の電気連結器は、東京鉄道局配置の電車は大正初期には7芯のKE50が2基、その後1927年以降は戸閉回路用にKE50を1基増設して計3基が設置されていた一方で、1933年2月から[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|大阪鉄道局]]に配置された電車には12芯のKE52が2組設置され、東京地区と大阪地区で電気連結器が異なっており、この区分は63系においても同様であった。その後、低圧引通用電気連結器は12芯の電気連結器2基に統一されることとなり、東京鉄道局配置の電車について、1946-49年度に63系を含む計1294両が改造されている<ref name="tgh41-930">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.930]]</ref>。
; 断流器の増強
電車の主電動機容量の増大と運転数の増加に伴う使用電力量の増大に伴い、変電所やそこで使用される[[変成器]]も容量の大きいものとなっていったことにより、変電所における運転電流と事故電流との判別が困難となり、事故時に変電所での事故電流の遮断ができない可能性が高くなったため、車載の[[断流器]]の遮断能力の強化を図ることとなった<ref name="tgh41-898" />。戦前の電車の多くや63系が搭載していたCS5主制御器は高速度減流器もしくは高速度遮断器は装備せず、主制御器本体内に設置されたRL5過電流継電器およびSR5断流器によって事故電流を遮断する方式であったが<ref name="m63-3-43">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.43]]</ref>、1946年5月に電気機関車用のSR105断流器を電車用に変更したSR106断流器が日立製作所で開発され<ref name="tgh41-898" />、これの試験結果から遮断容量が大幅に増加し、事故電流の遮断不能事故を防止可能とされた{{Refnest|group="注釈"|1948年10月に電車用のSR5およびSR6断流器、電気機関車用のCB3およびCB5高速度遮断器の事故電流遮断能力比較のための現車試験が実施され、SR5は遮断時間が最も長く、かつ、2000A以上では遮断断不能となる場合が多かった一方で、SR106では3500Aでも完全に遮断されたほか、CB3およびCB5高速度遮断器よりも遮断時間が短いという結果となっている<ref name="tgh41-900">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.900]]</ref>。}}ため、1948年度の改造工事ではこのSR106断流器もしくは、断流器内に過電流継電器を内蔵せずにCS5内蔵のRL5過電流継電器を使用するSR106Aをモハ63形200両に搭載している{{Refnest|group="注釈"|大井工場で180両、吹田工場で20両を実施。}}<ref name="tgh41-899">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.899]]</ref>。なお、これと同時に母線断路器および母線ヒューズの未設置の車両にはこれを搭載したほか、旧形の高圧ツナギ箱を新設計のものに改良している<ref name="tgh41-930_931">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.930-931]]</ref>。
; 桜木町事故に伴う火災対策
{{Main|国鉄63系電車#事故の対策}}
==== 試験品の搭載 ====
; 試作電動カム軸式制御器試験
1948年からモハ63形約20両に、構造が簡素で軽量となった試作電動カム軸制御器<ref group="注釈">[[東洋電機製造]]製のCS100A(直列6段・並列5段、短絡渡り、逆回転)、[[日立製作所]]製のCS101(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)およびCS102(直列7段・並列6段、橋絡渡り、一方向回転)、[[川崎重工業]]製のCS103(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)の3社製・4機種。1948年から1951年にかけて本系列で運用試験を実施した。</ref>を搭載して約3年間実用試験を実施した。この試験結果を受けて電動カム軸式制御器のCS10(直列7段・並列6段、並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%、弱め界磁/起動減流抵抗による減流起動機能付き)が制式化され、[[1951年]]製作の80系や70系などに搭載、さらに翌[[1952年]]以降は弱め界磁率を60%と75%の2段構成に改良したCS10Aが、それらの各系列と本系列の改良型である72系にも搭載された<ref group="注釈">この間、[[1949年]]設計の80系1次車では起動時の衝動改善策としてCS5に弱め界磁起動機能を付加したCS5Aが搭載され、この機能の付加改造はCS5改として既存のCS5搭載車に対しても1951年以降広く実施されている。</ref>。このCS10では直並列切り替え時に牽引力の低下がほぼ発生しない「[[主制御器#橋絡渡り|橋絡わたり]]」接続が国鉄電車用制式制御器では初めて採用<ref group="注釈">なお、国鉄制式の電車・気動車としては[[1931年]]に2両が試作された[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#電気式|電気式]]気動車である[[国鉄キハニ36450形気動車|キハニ36450形]]に搭載された単位スイッチ式制御器が「橋絡わたり」の初採用例となる。</ref>され、主回路制御段数の多段化と共に加速時の衝動を低減した。
; 試作台車試験
サハ78形には川崎車輌製の[[川崎車輌OK形台車|OK1]]や三菱三原車両製のMD1を装着して試験が行われた。
; 蛍光灯試用
1946年2月にモハ63028に蛍光灯を設置して[[横浜線]]で試用し、その後1947年に製造されたジュラルミン車体のモハ63900 - 63902およびサハ78200 - 78201にも蛍光灯が採用されたが1948年に白熱電球に交換されている<ref name="m63-3-73_75">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.73-75]]</ref>。その後、1948年には[[東芝|東京芝浦電気]](現東芝)および[[小糸製作所]]製で100 V/17 Wの直流蛍光灯を[[大田運輸区|蒲田電車区]]のモハ63形22両に各車10 - 15灯を何種かのパターンで設置し、9月から約3ヶ月間京浜東北線で試用しているが、これらの車両も試験後に白熱電球に戻されている<ref name="m63-3-73_75" />。
; 高速度減流器の試用
CS10主制御器に使用されていたCB7断流器に代わる三菱電機製の高速度減流器であるHB414を1950年1月にモユニ81006およびモハ63524に搭載して試用している<ref name="tgh41-925">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.925]]</ref>。
; PB2A制御器の試用
1943年に[[鶴見臨港鉄道]]が国鉄に買収された際に、当時同社の電車に搭載するために東京芝浦電気に発注して製造途中であったPB2A主制御器2基が国鉄に引継がれ、その後国鉄に納入されているが、これを1950年12月に大井工場でモハ63630、モハ63848に搭載して試用している<ref name="tgh41-923_924">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.923-924]]</ref>。この主制御器は、[[力行]]時の[[起動加速度|加速度]]の確保と衝動の低下を目的に開発されていたが第二次世界大戦の影響により開発中止となった、油圧カム軸式の多段式制御器である予定形式CS8と同様の設計のものであった<ref name="tgh41-923_924" />。
==== 他形式への改造(戦災復旧) ====
1945年5月24日の空襲により蒲田電車区で被災したクハ79009は1946年[[11月28日]]に廃車となったが、関東工業で車体骨組みを一部使用して[[国鉄70系客車|70系客車]]として復旧されて1949年[[3月11日]]にオハ71 123となり、その後1950年[[8月14日]]には荷物車のマニ74 9に再改造されて[[1964年]]まで使用されている<ref name="m63-3-38">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.38]]</ref>。
== 製造 ==
{{Main|国鉄72系電車の新旧番号対照#63系電車製造年・製造所別一覧|国鉄72系電車の新旧番号対照#無電装モハ63形の状況|国鉄72系電車の新旧番号対照#鋼体化クハ79形新旧番号対照}}
===製造メーカー===
鋼体化改造車として製造されたクハ79形は50系と同じく省工場で製造されており、担当工場は以下の通りであった<ref name="m63-3-92_126">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.94-126]]</ref>。
* [[東京総合車両センター|大井工機部]]、[[大宮総合車両センター|大宮工機部]]
一方でモハ63形およびサハ78形は車両メーカーで製造されており、担当会社は以下の通り<ref name="m63-3-92_126" />。
* [[川崎車両|川崎車輛]]、[[汽車製造]]東京支店、[[近畿車輛|田中車輌/近畿車輛]](1945年に社名変更)、[[日本車輌製造]]本社、日本車両製造東京支社
また、当時の電車は車両メーカーから完成した車体・台車が納入された後に国鉄の工場で配線や電機品を搭載する電装工事を制御車・付随車を含めて実施していた<ref name=" rl225-10">[[#rl225|『1950年代の戦前型国電(下)』 p.10]]</ref>が、戦後モハ63形を製造した際には国鉄の工場は既存車両の復旧整備を担当していたため、ほとんどの車両の電装工事を外注することとなった<ref name="m63-3-28">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.28]]</ref>(戦時中製造のモハ63形は全車非電装)。電装工事は車両メーカーが自社で製造した車両の一部について実施をしたほかは車両メーカーとは別の電機メーカー等が担当し、さらに、一部車両は従来通り国鉄の工場が担当しており、それぞれの担当会社・工場は以下の通り<ref name="m63-3-92_126" />であるが、戦後すぐの時期には電装品が確保が難しく、電装に6ヶ月から約1年を要した車両もある<ref name="rail8063shin-53">[[#rail8063shin-3|『63系電車新製・改造番号表』 p.53]]</ref>ほか、付随車として使用するだけの電装をするだけでも数ヶ月から約6ヶ月以上要した車両もあった<ref name="m63-3-28">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.28]]</ref>。
* 電装工事も実施した車両メーカー:川崎車輛、汽車製造東京支店、近畿車輛、日本車輌製造本社
* 電装工事を担当した電機メーカー等:小糸製作所、東京芝浦電気(現東芝)、東京電機、[[三菱電機]]
* 国鉄工場:大井工場、[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]
===年度別製造概要===
製造年代毎の、試作・試験品の使用などを除く主な設計変更点や特徴などは以下の通り。なお、予定製造数の変更や、材料入手の関係などで必ずしも年度毎の変更とはなっていないほか、製造途中や一部車両のみの変更もあり、不明点が多い<ref name="m63-3-28_36">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.28-36]]</ref>。
また、モハ63形のうち1944年製(14両)の全車および1946年製(335両・私鉄割当車を除く)の一部は電装品の供給が間に合わず未電装のまま運行されている<ref name="m63-3-28" />。その内訳は付随車として使用された車両が103両、制御車として使用された車両が2両であり、このうち付随車代用の9両は1947-48年に電装品を装備して制御電動車化されているが、一方で事故復旧時に制御電動車から付随車となった車両と、制御車から付随車となった車両が各1両存在する<ref name="rail8063n-11">[[#rail8063n|『ロクサンという名の電車』 p.11]]</ref>。
; 1944年度(30両)
*モハ63形は番号に関わらず全車奇数向きで非電装<ref name="m63-3-28_36" />。
*台車はモハ63形に流用したTR25(DT12)、サハ78形に同じく流用したTR23を使用したが詳細は不明<ref name="m63-3-28_36" />。
*モハ63形の運転台機器は撤去品を使用することとなっていたが、実際には設置されていないと考えられている<ref name="m63-3-28_36" />。
*モハ63形、サハ78形の室内は座席半減(1750 mm幅8箇所)、吊手は片側2列/計4列<ref name="m63-3-28_36" />、荷棚は鋳鉄製の棚受に板張りの棚を設置したもの<ref name="m63-1-88">[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.88]]</ref>。
*クハ79形の室内は、座席半減(1750 mm幅・8箇所)、吊手は通常のものもしくは片側2列/計4列、天井は2両を除き中央部も天井板を省略したものとしているが<ref name="rail8063n-6" />、特にクハ79025は荷棚は前部に握り棒を設置したもの<ref name="rail8063n-6" />であるほか、座席は1750 mm幅のもの4箇所、室内の内張は天井のほか戸袋部を除き側壁面も省略されたものとなり、乗務員室内機器も未装備<ref name="arch37p30-38_39">[[#arch37p30|『 国鉄電車発達史(車両編)』 p.38-39]]</ref>。
*座席の座面は奥行380 mmの板張りで、背摺は設置されず客室内張壁面を背摺代わりとした<ref name="m63-1-188_191">[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.188, 191]]</ref>。
; 1946年度(374両)
*サハ78形は100番台となり、サハ78100より付番<ref name="arch37p30-42_47" />。
*モハ63形のうち約100両は未電装<ref name="m63-3-28_36" />。
*台枠は形式の変更はないものの、横梁・床受梁・根太受梁・根太の位置を変更し、補強の当板等を追加<ref name="m63-3-28_36" />。また、窓上の幕板帯と窓下の外帯をいずれも75 mm × 9 mmのものに変更し、これに併せて帯キセ([[ウィンドウ・シル/ヘッダー]])の幅を変更したほか、屋根鋼体の構造を一部変更<ref name="m63-1-83_84">[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.83-84]]</ref>。
*座席は所定数を装備し<ref name="m63-3-28_36" />、座席下には暖房器を設置{{Refnest|group="注釈"|1947年度製のモハ63形から客室暖房を設置したとする文献もある<ref name="arch37p30-42_47" />}}<ref name="m63-2-53">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.53]]</ref>。木製座席は奥行きを430 mmに変更し、座面上部の形状を曲面に変更<ref name="m63-1-88_192">[[#m63-1|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻』 p.88, 192]]</ref>。また、モハ63形のうち一部(日本車輌・日本車輌東京支店・川崎車輛製のそれぞれ一部)は座席の座面にクッション付のものを使用<ref name="rail8063n-9">[[#rail8063n|『ロクサンという名の電車』 p.9]]</ref>。
*吊手は片側1列/計2列の通常のものを装備し、荷棚は前部に握り棒を設置したものを使用<ref name="m63-1-88" />。
*台車はモハ63形はTR35(DT13)を基本として流用品のTR25(DT12)も使用し、サハ78形は初期には流用品のTR23を、サハ78117前後の車号の車両からTR36を使用<ref name="m63-3-28_36" />。
*モハ63形に、従来省略されていた(1944年度製は全車未電装であったため該当車両なし)CS9弱界磁制御器を搭載(一部車両は未搭載)<ref name="m63-2-46">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.46]]</ref>。
*モハ63900 - 63902、サハ78200 - 78202は車体をジュラルミン製とし、座席座面および背摺りをクッション付、扉を合金製、天井板付、室内灯を蛍光灯とする<ref name="arch37p30-42_47" />。
; 1947年度(307両)
*モハ63形は500番代となり、モハ63500から付番<ref name="arch37p30-42_47">[[#arch37p30|『 国鉄電車発達史(車両編)』 p.42-47]]</ref>。
*モハ63形の一部(川崎車輛製20両および汽車製造東京支店製10両)を除き、運転室が全室となり、天井板(ベニア板を基本とし、板幅が不足する部分は金属製飾帯を設置<ref name="m63-3-28_36" />)が設置される<ref name="arch37p30-42_47" />。
*約7割の車両の扉を鋼製もしくは[[軽合金]]製に変更したほか<ref name="arch37p30-42_47" />、鋼板屋根とする計画および図面が存在するがこちらの対象車両は不明<ref name="m63-1-83_84" />。
*台車はモハ63形はTR35(DT13)を基本としてモハ63668 - 63692(偶数)はTR35A(DT13)を使用し、サハ78形はTR36を使用<ref name="m63-3-28_36" />。
*モハ63形に、従来省略されていた母線回路用断路器、母線回路用ヒューズを搭載、主抵抗器の構成を変更(一部車両は未変更)<ref name="m63-2-40_42">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.40-42]]</ref>。また、主電動機をコロ軸受・並列通風のMT40に変更し<ref name="m63-3-28_36" />、客室内から主電動機までの通風用の[[ダクト]]を設置<ref name="m63-2-50">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.50]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|1944年度製のモハ63形にも通風ダクトが設置されていたとされる文献もある<ref name="m63-3-92">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.92]]</ref>、また、冷却方法変更により端子電圧750 V時定格出力が135 kWから145 kWに増強されたとする文献がある<ref name="arch37p30-42_47" />}}。また、主制御器が並列接続時の主電動機の組み合わせを各台車1基づつの2基並列から、各台車毎の2基並列に変更<ref name="m63-3-28_36" />。
*床下配線を木製の電線棚から鋼製の[[電線ダクト]]内への配置に変更<ref name="m63-2-109">[[#m63-2|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻』 p.109]]</ref>し、低圧引通用の電気連結器を12芯のKE52を2組に変更<ref name="arch37p30-42_47" />。
; 1948年度(122両)
*モハ63形の一部(川崎車両製7両、汽車製造東京支店製15両、近畿車輛製7両)を除く車両とサハ78形全車に雨樋を設置<ref name="arch37p30-42_47" />。
*モハ63形の天井を全面ベニア板張りに変更し、サハ78形も同様であるとされているほか、乗降扉は鋼製プレスのものを基本とする<ref name="m63-3-28_36" />。
*モハ63771以降(奇数)およびモハ63802以降(偶数車)とサハ78形の座席座面をクッション付きに変更、木製の背摺を設置<ref name="arch37p30-42_47" />。
*モハ63791以降(奇数)およびモハ63802以降(偶数車)とサハ78形の天井灯にグローブを設置<ref name="arch37p30-42_47" />。
*台車はモハ63形のTR35(DT13)を基本とし、モハ63694 - 63718(偶数)はTR35A(DT13)、モハ63802 - 840はTR37(DT14)、モハ63771 - 63839はTR39(DT15)を使用し<ref name="m63-3-28_36" />{{Refnest|group="注釈"|モハ63771以降(奇数)の台車をTR39に、モハ63802以降(偶数車)の台車をTR37に変更したとする文献もある<ref name="arch37p30-42_47" />}}、サハ78形はTR36を使用<ref name="m63-3-28_36" />。
*モハ63形の集電装置をPS13Aに変更し<ref name="m63-3-28_36" />、主電動機を年度途中からノーズ形状を変更したMT40Aに変更(詳細の車号は不明)<ref name="m63-3-28_36" />。
; 1950年度(4両)
*正面窓上の運行灯を2桁から3桁に変更、側面窓に窓錠および鎧戸式の日除を設置、座席背摺をクッション付のものに変更、天井を中央部が一段下がった2段のものから段差なしのものに変更して通風口を設置、天井灯をグローブ付2列配置に変更、運転室背面仕切壁に窓を設置<ref name="arch37p30-42_47" />。
*グローブ式ベンチレーターを側面上部を内側に折込んだ形態のものに変更<ref name="m63-3-28_36" />。妻部上部に設置されていたベンチレータは廃止。
*主制御器にCS5A、弱界磁接触器にCS9Aを使用したほか、主電動機はMT40A、遮断器はSR106Bを使用し<ref name="m63-3-28_36" />、台車にはTR37(DT14)を使用<ref name="arch37p30-42_47" />。
== 他形式からの編入 ==
{{Main|国鉄72系電車#戦前形車両からの改造編入車|国鉄32系電車#戦時改造|国鉄42系電車#戦時改造}}
1944年に[[国鉄32系電車|32系]]のサロハ46形およびサロ45形の一部を4扉化改造した21両が1944年製のサハ78形の78001-78008に続く78009-78034(欠番あり)となっている<ref name=" rl223-42_43">[[#rl223|『1950年代の戦前型国電(上)』 p.42-43]]</ref>。また、32系のクハ47形および[[国鉄42系電車|42系]]のクハ58形、クロハ59形を改造して4扉の制御車であるクハ85形28両となっていたものが、1949年に鋼体化改造のクハ79形の79001-79025(欠番あり)に続く79031-79066(欠番あり)に改番されている<ref name=" rl223-42_43" /><ref name=" rl225-14_17">[[#rl225|『1950年代の戦前型国電(下)』 p.14-17]]</ref>。
一方で42系の制御電動車を4扉化改造された車両は、主電動機が高出力化されなかったためか63系には編入されておらず、モハ42形を改造した車両は新モハ32形(32000-32002。横須賀線用の32系モハ32形とは異なる)、モハ43形を改造した車両はモハ64形(64003-64023。欠番あり)となり、モハ64形はさらにその後モハ31形(31000-31013。欠番あり)とされている<ref name=" rl225-7_10">[[#rl225|『1950年代の戦前型国電(下)』 p.7-10]]</ref>。
== 私鉄での導入 ==
=== 運輸省による割当 ===
戦後の私鉄各社は第二次世界大戦中の酷使や戦災の結果多数の電車が損耗し、私鉄および軌道事業者における戦災等による被災車は2133両と国鉄の被災車542両を大きく上回っており<ref name="rail80site63-57">[[#rail80site63|『私鉄に行ったモハ63形電車』 p.57]]</ref>、一方で買出し客を中心に輸送需要が増加したことで、著しい輸送力不足となっていた。
そのため、運輸省は戦後発注した600両の電車のうち、1946年度分の中から約120両を63系が入線可能と思われる私鉄に割当て<ref name="rail80site63-57" />、その分の中小型車を割当てた会社から地方中小私鉄に譲渡させる制度を設け、その際の譲渡価格の算定式なども定められていた<ref name="pic1991-546-87">久原秀雄 「大東急時代の小田急」『鉄道ピクトリアル臨時増刊号』第546号、電気車研究会、1991年7月、 p.87</ref>。割当て先は鉄道軌道統制会{{Refnest|group="注釈"|重要産業団体令に基づき、1942年6月1日に発足した地方鉄道および軌道事業の統合的・統制的運営を図るための統制会<ref>[{{NDLDC|2961117/9}} 『官報第4615号』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>}}(1945年12月に解散し<ref>[{{NDLDC|2962194/12}} 『官報第5689号』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、同月に日本鉄道協会として再発足<ref name="toyo180729"> {{Cite web|和書| author=日本民営鉄道協会 |title = 日本民営鉄道協会の沿革| publisher = 日本民営鉄道協会| language=ja | date = | url=https://www.mintetsu.or.jp/association/info.html | accessdate = 2021-12-25 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|現・[[日本民営鉄道協会]]の母体となった団体の一つで資材配給の代行をしていた<ref name="OER1800-24_25" />、なお、鉄道軌道統制会が鉄道車両統制会として存続したとする文献がある<ref name="rail8063n-11" />が、同統制会に関し官報には記載がない。なお、統制会制度の根拠となる重要産業団体令は1946年9月27日に廃止され、併せてその時点で残存していた統制会は同日付で全て解散しており<ref>[{{NDLDC|2962426/2}} 『官報第5913号』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、前述の車両統制会も同日付で解散して同年11月に後継の鉄道車両工業協会(現・[[日本鉄道車両工業会]])が発足している<ref name="tgh41-86">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.86]]</ref>}})が検討・審査を行い<ref name="OER1800-24_25">[[生方良雄]] 『小田急1800形』、[[戎光祥出版]]、2018年、 p.24-25</ref>、[[東武鉄道]]、[[東京急行電鉄]]([[小田急小田原線|小田原線]]・[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]→現・[[小田急電鉄]]、[[相鉄本線|厚木線]]→現・[[相模鉄道]])、[[名古屋鉄道]]、[[近畿日本鉄道]]([[南海本線|南海線]]→現・[[南海電気鉄道]])、[[山陽電気鉄道]]の5社に対し1948年までに合計120両が供給された。一方、京阪神急行電鉄と西武農業鉄道(→現・西武鉄道)は割当てを辞退している<ref name="rail80site63-57" /><ref group="注釈">京阪神急行電鉄(現在の[[阪急電鉄]]と[[京阪電気鉄道]])[[新京阪鉄道|新京阪線]](後の[[阪急京都本線]]){{要出典範囲|および近畿日本鉄道<!--1946 - 1947年ごろの同社の略称は、近江鉄道の存在もあって「近日」-->[[近鉄名古屋線|名古屋線]]が受け入れ条件を満たしているとして、統制会から割当ての打診を受けたが、前者は新京阪線で発生した余剰車を[[神宝線|神宝]]・[[京阪本線|京阪]]の各線に転用することが車両限界や架線電圧の相違から困難で、供出車の捻出が難しかったことなどから、後者は最小半径100mの[[善光寺カーブ]]をはじめ本線上に急曲線区間が存在し入線は困難として|date=2021-11}}、いずれも受け入れを辞退している。</ref>(西武には割当てにより2両(モハ63092、モハ63094)入線したが、何らかの障害があったらしく、モハ50012、モハ50118と交換した<ref>「鉄道ピクトリアル」通巻959号,pp57</ref>)。
割当てられた63系は、運輸省が国鉄分も含め一括発注した中から各私鉄に割当てたため、4両(東武・東急各2両)を除き省番号を持ち、実際に車体へ記入されたものも存在するが、省に車籍編入されたことはない。
{{Seealso|国鉄72系電車の新旧番号対照#モハ63形私鉄割当車番号}}
; 東武鉄道
40両が割当てられて6300系となり<ref name="rail80site63-63_64">[[#rail80site63|『私鉄に行ったモハ63形電車』 p.63-64]]</ref>、代わりに[[上信電鉄|上信電気鉄道]]、[[上毛電気鉄道]]、[[新潟交通]]、[[長野電鉄]]、[[高松琴平電鉄]]、[[上田交通|上田丸子電鉄]]に車両が供出されている<ref name="pic1965-72">中川浩一 「私鉄高速電車発達史」『鉄道ピクトリアル』、電気車研究会</ref>。その後名古屋鉄道から14両を譲受した。[[1952年]]に[[東武7300系電車|7300系]]と改称。[[1959年]]以降、新造車体への載替え改造を実施した。{{main|東武7300系電車}}
; 東京急行電鉄
20両が割当てられて[[小田急1800形電車|1800形]]となり、小田原線・江ノ島線に8両、厚木線に12両が投入されて<ref>「鉄道ピクトリアル」通巻959号,pp37</ref>、代わりに東京急行電鉄各線の車両の中から[[庄内交通]]、[[京福電気鉄道]]、[[日立電鉄]]、[[静岡鉄道]]、高松琴平電鉄に車両が供出されている<ref name="pic1991-546-87" /><ref name="pic1965-72" />。1947年の東急の経営委託解除の際に6両は小田原線に移動したが残る6両が相模鉄道の所有となって<ref name="OER1800-33_67">生方良雄 『小田急1800形』、戎光祥出版、2018年、 p.33, 66-67</ref>1951年に改番されて[[相鉄3000系電車|3000系]]となり、その後1964-66年に車体更新を実施して3010系となった。小田急電鉄では、1948年に名古屋鉄道から譲受した6両を編入し、その後1957年以降に車体更新を実施した<ref group="注釈">廃車後は[[秩父鉄道]]に譲渡され[[秩父鉄道800系電車|800系]]として1990年まで使用された。</ref>。
{{Main|小田急1800形電車|相鉄3000系電車}}
; 名古屋鉄道
20両が割当てられて3700系(初代)となり<ref name="rail80site63-63_64" />、代わりに[[野上電気鉄道]]、[[熊本電気鉄道]]、[[日ノ丸自動車法勝寺電鉄線|山陰中央鉄道]]、[[尾道鉄道]]、[[蒲原鉄道]]に車両が供出された<ref name="pic1965-72" />。しかし、[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]に当時存在した急カーブ(枇杷島橋梁付近)が通過できず、運行可能な区間に制約([[栄生駅|栄生]]以東に限定)があったため十分に活用できなかった。そのため、従来車の[[車両限界]]に合わせた[[通勤形電車#4ドア電車の普及と運輸省規格形電車|運輸省規格型車両]]である[[名鉄3800系電車|3800系]](割当て20両、その後1954年まで増備して計71両となる)の割当てを受け、3700系は1948年に東武鉄道へ14両、小田急電鉄へ6両譲渡された。なお、名古屋鉄道が独自に20 m4扉車を導入したのは1979年([[名古屋市営地下鉄|地下鉄]]直通車の[[名鉄100系電車|100系]])である。
{{Main|名鉄3700系電車 (初代)}}
; 近畿日本鉄道
20両が割当てられ、[[南海1501形電車|モハ1501形]]となり<ref name="rail80site63-63_64" />、代わりに[[福井鉄道]]と[[淡路鉄道]]に車両が供出された<ref name="pic1965-72" />。1947年5月から、南海電気鉄道分離独立(1947年6月)後の1948年6月にかけて全車が[[南海本線]]に配置され、同社の所有となった<ref name="rail80site63-58">[[#rail80site63|『私鉄に行ったモハ63形電車』 p.58]]</ref>。全車が近畿車輛製の制御電動車で、南海の戦前の車両と同じ2連または3連の球形白色ガラスの灯具を持つ車内灯を装備し、ベンチレーターをガーランド型2列とするなどの仕様となった<ref name="rail80site63-58" />。架線電圧が600 Vであり、また在来車との混用の必要性から、主制御器はCS5ではなくALF単位スイッチ制御器を装備した。1959年以降、一部が制御車に改造され、使用機器は[[南海1521系電車|1521系]]と[[南海ED5201形電気機関車|ED5201形]]電気機関車に引継がれている。1968年までに全廃された。
{{Main|南海1501形電車}}
; 山陽電気鉄道
20両が割当てられ<ref name="rail80site63-63_64" />、代わりに高松琴平電鉄に車両が供出された<ref name="pic1965-72" /><ref group="注釈">ただし、導入時期は戦災や風水害で稼動車両数が激減していたため供出されたのはわずか2両、それも更新改造で不要になった車体のみだった。</ref>。63系唯一の[[標準軌]]仕様<ref name="rail80site63-58" />。初期車6両は剥き出しの天井のままであったが、それ以降の14両は天井にジュラルミン板を張って納入され、原番号が63800番台であったことから[[山陽電気鉄道700形電車|800形]]800 - 819となった(当初は63800形であったとする説がある<ref>「鉄道ピクトリアル」通巻959号,pp85。</ref><ref group="注釈">のち700形700 - 719に改称。</ref>)。当時の山陽電鉄には[[神戸市]]内に[[併用軌道]]区間があり、本形式も[[1968年]]の[[神戸高速鉄道]]開業まで道路上を走行した。20 m級の電車が併用軌道を走行した数少ない事例{{Refnest|group="注釈"|軌道法に拠る路線においては、1924年施行の軌道運転信号保安規程では併用軌道での編成は機関車1両+客車/貨車1両まで<ref>[{{NDLDC|2955554/29}} 『官報第3407号』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、1954年施行の[[軌道運転規則]]では併用軌道での列車編成長は30m以内({{要出典範囲|車体長14m程度の路面電車2両連結を想定したもの|date=2021-11}})で、これを超える場合については所轄大臣の認可を要するとされており、{{要出典範囲|20 m級大型電車の併用軌道上での連結運転は法の想定外であった|date=2021-11}}。以後は京阪電気鉄道[[京阪京津線|京津線]]・[[広島電鉄]](以上軌道法)・近畿日本鉄道[[近鉄奈良線|奈良線]]・[[京王電鉄|京王帝都電鉄]][[京王線]]・東京急行電鉄[[東急大井町線|大井町線]](1943-45年の間は同線[[二子玉川駅|二子玉川]] - [[溝の口駅|溝の口]]間は軌道法に拠る)・名古屋鉄道・[[江ノ島電鉄]]・[[熊本電気鉄道]](以上鉄道法)などで30m制限を超過する列車が併用軌道で運行されており、山陽でも最終的に19m級車による3両編成が認可されている。}}であった。[[1957年]]の西代車庫火災による焼損をきっかけとして、車体を新造した[[山陽電気鉄道2700系電車|2700系]]への更新、もしくはその構体を生かしたままでの更新改造を実施したが、いずれも全車が廃車されている。
{{Main|山陽電気鉄道700形電車}}
; 私鉄各社への影響
上記の私鉄各社のうち、63系導入以前から同等の電車を運用していたのは南海線と、戦中・戦後に20 m級国鉄電車の借入れがあった東京急行電鉄小田原線<ref name="pic1973-216-53_54" />のみで、それ以外の私鉄の中には導入にあたり、カーブ半径の緩和、[[プラットホーム]]幅削減や障害物撤去、架線[[電圧]]の昇圧、あるいは[[変電所]]の増強など工事によって63系を走行させる条件を整えた会社もあり、その結果、著しく輸送力が増強された。東武鉄道では、[[1953年]]から[[1961年]]にかけて63系(7300系)同様の4ドア20 m車体の[[東武7800系電車|7800系]](当初7330系)164両を導入して[[高度経済成長]]初期の通勤輸送の主力とし、以後主力通勤電車は20 m4ドア車体が基本となった。このほか、63系割当ではじめて20 m級電車を本格導入した相鉄と、戦前から20 m級電車を運用してきた南海、戦時中に20 m国電が入線していた小田急でも[[1960年代]]以降本格的に20 m4扉車体の通勤電車を主力としたが、いずれも20 m級電車に対応した[[車両限界]]となっていたので、導入障壁は低かった。
63系電車の私鉄割当てはラッシュ輸送における「扉数の多い大型電車」の優位性を各鉄道会社に認識させるきっかけとなったと言える。20 m・片側4扉構造の車体は、国鉄のみならず大手私鉄通勤電車の標準構造となっている<ref group="注釈">多くの車両が戦災を受けた山陽電気鉄道は、当時、車体幅2.4 m、車体長15 m級の小型車を主力として運行しており、また、軌道法準拠で開業した[[山陽明石駅|明石]]以東は架線電圧600 Vであったため、63系導入に際しては架線電圧の1500 Vへの昇圧および集電装置の[[集電装置#トロリーポール|トロリーポール]]からパンタグラフへの変更、電気設備の増強、プラットホームなどの構築物の改築や移設などによる限界拡大工事という、{{要出典範囲|新線開業に匹敵する大工事|date=2021-11}}を実施する必要があった。このことは以後の同社の発展に大きく資するものであったが、{{要出典範囲|車体幅2.8 m、車体長20 m4扉の本形式による2両編成では輸送力が過大であったため|date=2021-11}}、次の[[山陽電気鉄道820・850形電車|820形(800形820番台車)]]で17 m級となり、神戸高速鉄道経由での[[阪神電気鉄道]]・阪急電鉄との相互乗入れの関係で以後は20 m級車を導入しておらず、700形も大半は19 m2・3扉車体を備える2700系への更新となった。</ref>。
なお、その後私鉄各社の車両増備には運輸省規格形電車の新造・導入が認められるようになり、63系の割当てはこの120両で終了となった<ref name="rail80site63-57" />。運輸省規格形電車は1947年に運輸省が「私鉄郊外電車設計要項」に基づき日本鉄道協会に規格を制定させたもので、63系の導入を辞退した京阪神急行電鉄なども運輸省規格形電車が導入したほか、63系を導入した東武鉄道、東京急行電鉄(小田急)、名古屋鉄道、山陽電気鉄道でもこれを導入している<ref name="pic1965-72" />。
=== 運輸省割当以外の車両 ===
; 三井鉱山専用鉄道
[[三池鉄道|三井鉱山専用鉄道]]では、1948年に通勤用[[客車]]としてサハ78形の同形車5両をホハ201 - 205として導入した。車体の外形はおおむねサハ78形に準じていたが、ベンチレーターが大きく、数が少ないこと、また車内に車掌スペースを持ち、後年ここには乗務員ドアが設けられていたこと、出入り口の両側に天井へ達する鋼管製ポールが立てられていて、必要に応じて特定の出入り口を閉鎖出来るようになっていたことなどは、省の標準的なサハ78と異なる。基本的には[[専用鉄道|専用線]]で[[炭鉱]]関係者・家族の通勤通学輸送に限定されたが、三井鉱山の『三池鉄道線』の通称で[[地方鉄道]]として運営された[[1964年]][[8月11日]]から[[1973年]][[7月31日]]まで一般営業運転に用いられた。[[1980年代]]でも原形の形態を残し、[[1984年]]に従業員輸送が廃止になるまで使用された{{Refn|group="注釈"|ホハ201は1996年時点で車庫内に残存していた<ref name="rf_199608">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年8月号 通巻424号 p.107</ref>}}。
=== 譲渡車両 ===
事故により廃車となった車両が以下の通り私鉄に譲渡されている。
; 西武鉄道
前述のとおり割当の2両を返却した後、1950年に導入した戦災国電を復旧した[[西武クハ1411形電車|クハ1411形]]が初めての全長20 m車となり、さらにその後1953年に63系の事故廃車車両3両を国鉄から譲受してモハ401形モハ402、クハ1421形クハ1421、クハ1422とし、[[1956年]]に同一仕様の1両を自社で製造した<ref name="rail80site60-64">[[#rail80site63|『私鉄に行ったモハ63形電車』 p.60-61, 64]]</ref>。なお、クハ1422となった旧モハ63470は、東武鉄道にモハ63046<sup>I</sup>として割当られたものの、台枠横梁の折損もしくは台枠垂下により車体にゆがみが生じたとされる事故(詳細不明)により、製造元の川崎車輌によって代車(モハ63560<sup>I</sup>予定車をモハ63046<sup>II</sup>に改番したもの(国鉄には別途モハ63560<sup>II</sup>を納入))に交換された元の破損車両が修理の上で国鉄に納入された(モハ63470)が、別の事故により廃車され譲渡されたものである<ref name="m63-3-37">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.37]]</ref>(IおよびIIは、それぞれ初代番号、二代目番号を示す)。
{{Main|西武401系電車 (初代)}}
; 小田急電鉄
事故廃車となったモハ63082とモハ63168を譲受し、それぞれ台枠を流用して[[小田急1700形電車|1700形]]サハ1752およびサハ1751に改造している<ref name="rail80site63-63_64" />。本車は1800形に次ぐ全長20 mの車両であったが、1967年に特急用から通勤用に改造した際に全長を17.3 mに短縮している<ref name="odk2-70_71">山下和幸『小田急電車形式集.2』、レイルロード、2018年、p.70-71</ref>。
; 相模鉄道
事故廃車となったモハ63056を1952年10月に譲受し、63系割当車と同じクハ3500形に編入されてクハ3504となっている<ref name="rail80site63-63_64" />。
== 桜木町事故と72系への改造 ==
[[ファイル:Sakuragicho Train Fire 1951.jpg|250px|thumb|桜木町事故時の国鉄63系電車]]
=== 事故の概要 ===
{{Seealso|桜木町事故}}
63系電車の構造は極めて安全性に欠けるものであった。新製早々に漏電で全焼する事故が相次いだ中、1951年[[4月24日]]には[[京浜東北線|京浜線]](現・[[根岸線]])[[桜木町駅]]付近で、架線の碍子交換作業時の作業ミスによって垂下した架線に接触した列車の先頭車モハ63756のパンタグラフとその取付台間での[[短絡]]を直接の原因とする火災が発生し<ref name="arch37p86-86">[[#arch37p86|『 列車火災 - 国電桜木町事故速報』 p.86]]</ref>、可燃性が高くしかも旅客の脱出が困難という車体構造に加え、運転士が車外に出たものの床下のドア解放コックを操作しなかったことにより、多数の焼死者を出した。
この事故は「[[桜木町事故]]」と呼ばれ、[[国鉄戦後五大事故]]の一つとされている。事故車のモハ63756は電気配線をはじめとする重要箇所の改良工事を実施して、側面窓以外は他の戦前形電車と同等の仕様となっていた車両であるが<ref name="m63-3-86">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.86]]</ref>、この事故は1951年の10大ニュースとなって国鉄に対し厳しい批判・非難がなされており<ref name="arch37p94-94_95">[[#arch37p94|『 国電特別改造工事の内容』 p.94-95]]</ref><ref group="注釈">{{要出典範囲|「ロクサン形電車」の名は新聞等でも盛んに報道され、「欠陥電車」「粗悪電車」の代名詞として当時の大衆にも知れ渡ることになり、「皆殺し電車」「殺人電車」「ロクでなし電車」とも揶揄された|date=2021-11}}。</ref>、当時、運輸省国有鉄道部保安課長であった柴内禎三はこの事故が及ぼした影響に関し、{{Quote|鉄道人各人は鉄道の使命は輸送の安全にあるということを通念として持っておるのでありますが、それは人命尊重の精神に基づく安全であることの信念に欠くることのあったことは否定できないことでありました。このことは、事故調査において、[[国会 (日本)|国会]]での査問において、[[公判|公判廷]]において、[[世論]]において等々事故の重点に取り扱われ、人命尊重の精神に基づく安全保持のための鉄道の[[教育訓練]]・施設車両の構造・保守作業の基準、作業環境の整備等の弱点が白日の下にさらけ出されたのであります。|柴内禎三|桜木町事故をかえりみて}}と述べ<ref name="arch37p94-94_95" />、また、鉄道研究家の弓削進{{Refnest|group="注釈"|[[1916年]]生まれ、本職は[[映画監督]]([[松竹]]、歌舞伎座プロ)}}は{{Quote|[[湘南電車]]の延長ロングラン実施、スカ線と京阪神線に新鋭モハ70の誕生、と終戦以来意を注ぎつつあった復興が、まさに成れるかと思われたこの年の春、突如襲い掛った悪魔の大事故は、国電に関するあらゆる従来の施策を大転換させることになった。4月24日の真昼時、ふとした不注意が原因で百余の命を一瞬に奪った桜木町駅の電車火災は、恒例の責任なすり合いでは相済まず、[[総裁#法人・機関|総裁]]辞任の[[政治問題]]にまで発展したこと周知の通りである。そして焼けるのが当り前だった国電を燃えない様にすることと、焼けても逃げ出せる様にすることが重要課題となった。|弓削進|国電復興物語}}と述べている<ref name="pic1954-36-17_20">弓削進 「国電復興物語(5)」『鉄道ピクトリアル』第36号、電気車研究会、1954年7月、 p.17-20</ref>。また、当時この他にも車両火災事故が続発しており、例えば1951年における火災事故は以下の通りで、このうち5両が全焼している<ref name="pic1954-36-17_20" />。
* 3月:モハ51037とクハ55118(いずれも全焼、[[西明石駅]])
* 6月:モハ63675([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]付近)、サハ48008とクハ76013(いずれも架線垂下により全焼、[[久里浜駅]])
* 7月:阪和線列車
* 8月:モハ42010(全焼、神戸駅)、モハ63221([[津田沼駅|津田沼]] - [[船橋駅|船橋]]間)
* 9月:モハ80004とサハ87002([[戸塚駅|戸塚]] - [[保土ケ谷駅|保土ケ谷]]間)
* 10月:モハ80002とクハ86001(戸塚駅)、クハ55025([[馬橋駅]])
* 11月:サハ25034([[昭島駅]])、モハ30145([[新宿駅]])、モハ63767([[京都駅]])
=== 事故の対策 ===
==== 事故当日からの対応 ====
まず、事故発生当日の17時までに以下の緊急対応について国鉄本社が各局に通告し、順次実施されている<ref name="tgh41-788_790">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.788-790]]</ref>。
*座席下部に設置されている個別扉用のドアコック(通称dコック)を非常の際には乗客に取扱わせることとし、車内にその旨を表示する。
*床下の全扉用総合ドアコック(通称Dコック)の取扱方法を一般職員に徹底させる。
*床下の総合ドアコックの設置位置の目安となる印を車体側面に表示し、コックにも表示板を設置する。
==== 絶縁耐力試験 ====
[[11月26日]]から[[12月3日]]にかけて、高圧回路・低圧回路と大地間の[[絶縁 (電気)|絶縁]]試験を実施して漏洩電流値・直流分・[[誘電正接|tanδ]]を測定して[[絶縁耐力]]性能の維持と検査基準の参考とする目的で、大井工場においてモハ60072とモハ63405を使用して現車試験を実施しており、その内容と結果は以下の通りであった<ref name="tgh41-928_929">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.928-929]]</ref>。
*交流絕緣耐力試驗:モハ60072は1.8 kV、モハ63405は4.4 kVで[[絶縁破壊]]したが、いずれも電線自体の耐圧は12 kVおよび18 kV以上であったため、電線の全体的な劣化ではなく、外的要因による部分劣化によるものと考えられた。
*交流耐圧繰返し劣化試験:モハ60072は劣化は進んだものの60回でも絶縁破壊せず、モハ63405は41回で絶縁破壊しているが、繰返しにより電線全体が劣化したのではなく、部分劣化部の絶縁がさらに劣化へ導かれたものと考えられた。
*直流耐圧試験:4 kVの試験では破壊に至らなかった。
==== 緊急特別改造工事 ====
その後、事故防止対策と緊急避難設備の整備のための「緊急特別改造工事{{Refnest|group="注釈"|「国電特別改造工事」とする文献もある<ref name="arch37p96-96_98" />}}」が1951年10月末までの約6箇月の期間と計約366百万円の費用をもって実施されており、担当は大井、大宮、吹田、豊川、[[下関総合車両所|幡生]]、[[金沢総合車両所|松任]]、[[長野総合車両センター|長野]]、盛岡の各工場(工事施行)および[[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]](部品製作)であった<ref name="tgh41-788_790" />。電車緊急特別改造工事の実施項目と施行両数<ref name="tgh41-788_790" />、実施内容<ref name="arch37p96-96_98">[[#arch37p96|『 国電特別改造工事の内容』 p.96-98]]</ref><ref name="m63-3-44_48">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.44-48]]</ref>は以下の通り。
*連結部の貫通路の整備(貫通[[幌]]新設(1500両)/幌座新設(1500両)/貫通路塞ぎ新設(500両)):乗客が少なくとも2両以上を貫通路を通じて移動できるよう{{Refnest|group="注釈"|当時、32/42/52/70/80系と51系の一部を除く多くの電車の貫通路には貫通幌を装備せずに扉も混雑時に開けることが困難な内開きのものとなっており<ref name="kds-282_313">[[#kds|『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.282-313]]</ref><ref name="pic2018-7b-10_39">平石大貫『80系・70系電車のあゆみ』「国鉄電車の記録 80系・70系電車」(鉄道ピクトリアル7月号別冊) 電気車研究会 2018年 p.10-39</ref>、渡り板は戦時設計の車両では装備されず、その他の戦前形車両も1944年以降資材供出のため撤去されていた<ref name="arch37p30-39_40" />。}}、車両の上り方貫通路には貫通幌、渡り板と手摺を、下り方貫通路には幌座、渡り板と手摺を整備し、また、編成内で貫通扉のない運転台付車両と連結する車両の貫通路には貫通路塞ぎ板を設置。
* [[車内非常通報装置]]新設(2550両):車内での火災や急病人等の発生時に乗客から乗務員へ通報するための客室内に非常スイッチと非常ブザー、車体側面にオレンジ色の[[車側灯]]、乗務員室内に非常スイッチを設置。
* 車内非常通報装置を24 Vに改造(2200両):上記車内非常通報装置は当初電動発電機による直流100 V電源を使用していたが、架線停電時にも使用できるよう、電源を直流24 Vとするとともに電動車・制御車の偶数車に24 Vの[[蓄電池]]を搭載して電源とする改造を第2次改造として実施し、1951年11月1日に一斉に切換えている。
* 戸ジメコック増設(2460両):従来車両床下の片側のみに設置されていた、車両のすべての扉を解放できる総合ドアコックを反対側の床下および客室内に増設。
* パンタグラフ車体取付部の二重絶縁化(1248両):1932年以前のPS2パンタグラフ装備車はパンタグラフ取付部が二重絶縁であったが、PS11以降のパンタグラフは[[碍子]]を介したのみで屋根に設置されていた。これをパンタグラフ枠 - (碍子) - 取付[[ボルト (部品)|ボルト]] - (絶縁材のパンタグラフ取付台) - 車体という形で二重絶縁とし、碍子破損もしくはパンタグラフ取付ボルト曲損時でも絶縁が保たれるようにするとともに、パンタグラフ損傷時の接地短絡を防ぐため、パンタグラフ周辺の絶縁を強化。
* 天井への防火塗料の塗布(1460両):パンタグラフ下部の天井面に防火塗料を塗布。
* 機器配線統一(160両)
=== 72系への改造 ===
[[ファイル:JNR 73 window.jpg|190px|thumb|改造された72系の3段窓、下段の窓を上方に開くと、中段の窓がその上部の金具により下段の窓に引掛かり、さらに同一の窓溝にある上段の窓を押し上げながら開く]]
{{Seealso|国鉄72系電車#63系改造編入車|国鉄72系電車の新旧番号対照#63系電車の体質改善改造にともなう改番}}
1951年11月からは63系を対象とした追加の保安対策として、主制御器の遮断方式の改良と断流器の増設、機器および配線の統一、主回路および母線の電線交換、電線の電線管への収納、三段窓の中段の可動化、天井板の金属製化、ベンチレーターの絶縁化と鋼製屋根への絶縁布の張付、戸閉回路・パンタグラフ操作回路用の補助回路および蓄電池の設置、などの改造が行なわれた。電動車は「63形」の[[ネガティブ]]で悪いイメージを避けて'''モハ73形'''(制御電動車、後のクモハ73)に改称され、[[運転台撤去車|運転台を撤去]]した中間電動車は'''モハ72形'''となった。クハ79形制御車、サハ78形付随車も同様の改造を受けたが、改称はされていない<ref group="注釈">桜木町事故被災車の2両目はサハ78形(サハ78144)であり、復旧を兼ね[[国鉄72系電車#車体の全金属化改造|全金属試作車クハ79904]]に改造された。</ref>。また電装品不足から非電装で使用されていた「クモハ」「サモハ」はそれぞれ両形式に編入されてクハ79形100番台およびサハ78形300番台となった。なお、1950年度新製車のモハ63855 - 63858は、{{要出典範囲|後の72系新製車に近い設計であったため|date=2021-11}}上記のような改造は施されずに番号の改称のみが行われてモハ73形400番台となり、側面窓や貫通扉、配線などの改造はその後の実施となった<ref name="m63-3-31_123">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.31, 123]]</ref>ほか、1950年に大井工場で1950年度新製車と同様の形態とする更新工事を実施したモハ63630、モハ63848も番号のみ改称されてモハ73172、モハ73134となっている<ref name="rail8063n-13">[[#rail8063n|『ロクサンという名の電車』 p.13]]</ref>。また、本形式の改造終了後の[[1954年]]からは他の戦前製電車に対しても同様の内容で戦後2度目の更新修繕(更新修繕II)が施工されている<ref name="rl223-5">[[#rl223|『1950年代の戦前型国電(上)』 p.5]]</ref>。
この追加保安対策工事は1951年から1954年の間に国鉄工場・民間車両メーカーを総動員して行われ、63系電車は72系電車に再編されたが<ref group="注釈">1949年に発生した[[三鷹事件]]の先頭車で、証拠物件として[[東京地方検察庁]]から[[保全命令]]が出され、[[三鷹車両センター|三鷹電車区]]に車体が保管されていたモハ63019は、裁判が終了して保全命令の解除された[[1963年]]12月に廃車となった。</ref>、3年で700両の車両の体質改善工事が完了したことは、桜木町事故が国鉄と運輸省に与えた衝撃の大きさを物語っている。
== 運行・廃車 ==
[[File:MoHa 63 JRC.jpg|thumb|190px|リニア・鉄道館で静態保存されているモハ63638、2011年]]
=== 運行 ===
63系ではクハ79形がまず竣工しており、最初の車両であるクハ79002は1944年6月5日に[[山手線]]で、次にクハ79004が6月16日に[[中央線快速|中央線]]で運行を開始しており、クハ79002の運行初日の編成は以下の通りであった<ref name="rail8063n-6" />。また、1945年中に竣工したモハ63形は蒲田・[[東京総合車両センター|品川]]・[[池袋運転区|池袋電車区]]に各6・3・5両が、サハ78形は蒲田電車区に全車が配置されている<ref name="rail8063n-10">[[#rail8063n|『ロクサンという名の電車』 p.10]]</ref>
*モハ31006 - クハ79002 - サハ57014 - モハ30117
1944年11月頃より本格化した本土空襲により、12月以降には国電区間においても空襲の被害が発生するようになった<ref name="pic1954-31-8_11">弓削進 「国電復興物語(1)」『鉄道ピクトリアル』第31号、電気車研究会、1954年2月、 p.8-11</ref>。第二次世界大戦中に空襲等による戦災被害を受けた電車は東京鉄道管理局管内では計311両、大阪鉄道管理局管内では計58両で、1945年における主な被害は以下の通りとなっており<ref name="tgh51-300">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.300]]</ref>、63系においてもサハ78形3両、クハ79形1両が戦災により廃車となった<ref name="m63-3-92_126" />。
* 4月13日:池袋電車区にて146両焼失(クハ79005被災(1946年1月23日廃車)<ref name="m63-3-38" />)
* 4月15日:蒲田電車区にて51両、[[矢向駅]]構内にて5両焼失
* 5月25日:蒲田電車区にて12両焼失(サハ78001、78003、78005被災(いずれも1946年1月23日廃車)、クハ79009被災(1946年11月28日廃車)<ref name="pic1954-31-8_11" />)
* 5月29日:[[東神奈川電車区]]にて14両焼失
* 6月7日:[[淀川電車区]]にて16両焼失
* 7月6日:[[明石電車区]]にて4両焼失
上記のような状況を受けて1945年4月の京浜地区では電車のダイヤ改正が実施された。この改正は空襲による損耗と保守の低下に伴う車両状況の悪化に対応するためのもので、車両の走行距離を抑えて運用・検査予備車を確保するとともに、輸送量の増加に対応するために各駅での停車時間を延ばしたもので、また、合わせて列車の分割併合も廃止され、輸送力はラッシュ時において10 - 20%の減、車両キロは約10千 kmの減となった<ref name="tgh51-19">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.19]]</ref>。これにより山手線・中央線・[[中央・総武緩行線|総武線]]は6両編成、[[常磐線]]が5両編成、横浜線が4両編成、赤羽線が3両編成、横須賀線が7両編成となった{{Refnest|group="注釈"|1942年時点のラッシュ時の最長編成は山手線・京浜線が8両、中央線・横須賀線が7両、赤羽線が2両であった<ref name="tgh51-306">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.306]]</ref>。}}が、いずれの線区でも所要数が確保できず、これよりも短い編成が運行されていた<ref name="rail8063n-6" />。
戦後に東京鉄道局管内に配置された63系の新製時の配置先の分布は京浜線(蒲田・[[下十条運転区|下十条]]・東神奈川電車区)が22 %、山手線(品川・池袋電車区)が13 %、中央線(三鷹・[[中野電車区]])29 %、総武線([[習志野運輸区|津田沼電車区]])6 %、横須賀線([[田町車両センター|田町電車区]])7 %という内訳となっており、一方、大阪鉄道局および天王寺鉄道局管内では1946年10月に淀川電車区に配置されて以降、最大116両(モハ63形96両、サハ78形20両、1959年5月時点)が配置されて、[[大阪環状線|城東線]]・阪和線・東海道線で運行されていた<ref name="rail8063n-10" />。
戦後の[[連合軍専用列車|連合軍専用車]]は1945年9月に京浜線に米軍専用車が設けられたことから始まり、1946年1月には連合軍専用車として窓下に白帯を入れる等の標記を行うようになって、1947年度末には電車では123両が連合軍専用車に指定されていた<ref name="m63-3-39">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.39]]</ref>。63系ではモハ63138、63142、63368、クモハ63108、63120が指定されて1947年8月から山手線で運行され、翌1948年7月には中央線での運行となり、その後1949年9月に車内の半分を日本人用の2等車に変更することとなって車両前半部の2等室部の窓下に青帯が、後半部の連合軍専用部の窓下には従来通りの白帯が入るように変更されているが、1950年9月には指定解除されて通常の3等車に戻されている<ref name="m63-3-39" />。
[[1947年]][[6月7日]]には[[阪和線]]の[[東岸和田駅|東岸和田]] - [[東和歌山駅|東和歌山]]間で運転された、[[国鉄32系電車#クロ49形|クロ49形]]貴賓車を使用した[[お召し列車]]の予備編成にモハ63150、モハ63152が使用されており、その編成は以下の通りであった<ref name="rfan436k49">浦原利穂「クロ49形貴賓電車の一生」『鉄道ファン』第436巻 (交友社) 1997年8月 p.86-91</ref>。
* (先導編成)モハ51052 - モハ51044、(本務編成)モハ60029 - クロ49002 - モハ60033 - モハ60034、(予備編成)モハ63150 - クロ49001 - モハ63152
東京急行電鉄の小田原線・江ノ島線には、省電借入れ(最多時点では13両を借入れ)の関係で1945年のわずかな間ではあるが、クハ79012が入線した記録があり<ref name="pic1973-216-53_54">生方良雄 「小田急線を走った国鉄車両」『鉄道ピクトリアル臨時増刊号』第286号、電気車研究会、1973年11月、 p.53-54</ref>、まだ割当車の私鉄線への入線は行われていない時期であるため、最初に私鉄線を走行した63系車両と見られる。その後、小田急電鉄には1950年8月5-6日には米軍輸送の関係で国鉄から3両2編成が借入れられており、編成中に63系のモハ63025、630254、63080、63381の4両が含まれていた<ref name="pic1973-216-56">生方良雄 「小田急線を走った国鉄車両」『鉄道ピクトリアル臨時増刊号』第286号、電気車研究会、1973年11月、 p.56</ref>。
=== 廃車 ===
製造から、1953年改番までに廃車となった車両は以下の通り。戦災による廃車は5両であり、戦後の事故による廃車が多い。
* モハ63形(事故20両)
** 63024(1949年 - 横浜線[[淵野辺駅|淵野辺]]で土砂崩れにより大破) - [[西武鉄道]]に譲渡(モハ402)
** 63035(1948年 - 中央線[[国分寺駅|国分寺]]で追突大破)
** 63052(1948年 - 阪和線[[山中渓駅|山中渓]]で火災全焼)
** 63056(1948年 - [[吉祥寺駅|吉祥寺]]で架線断線により全焼) - 相模鉄道に譲渡(3000系クハ3504)
** 63057(1951年 - 三鷹事件被災車) - 西武鉄道に譲渡(クハ1451)
** 63082(1949年 - 常磐線[[綾瀬駅|綾瀬]]で漏電により全焼) - 小田急電鉄に譲渡([[小田急1700形電車|1700形]]サハ1752)
** 63085(1949年 - 日国工業で火災全焼)
** 63087(1948年 - 事故)
** 63125(1949年 - 京浜線[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]で[[信号扱所]]に衝突大破)
** 63168(1949年 - 下十条電車区で漏電全焼) - 小田急電鉄に譲渡(1700形サハ1751)
** 63188(1948年 - 常磐線綾瀬で漏電全焼)
** 63225(1950年 - 総武線[[平井駅 (東京都)|平井]]で[[落雷]]により全焼)
** 63286(1949年 - 事故)
** 63293(1948年 - 事故)
** 63470(1951年 - 事故) - 東武に割当てられたが重大欠陥により交換され、修理後に国鉄に納入された車両。西武鉄道に譲渡(クハ1452)
** 63580(1950年 - 横須賀線[[逗子駅|逗子]] - [[鎌倉駅|鎌倉]]間で[[在日米軍|米軍]]トラックと衝突全焼)
** 63622(1950年 - [[宮原総合運転所|宮原電車区]]で漏電により全焼)
** 63677(1949年 - 横須賀線久里浜で落雷により全焼)
** 63693(1950年 - 総武線平井で落雷により全焼)
** 63756(1952年 - 桜木町事故被災車)
* サハ78形(戦災3両+事故2両)
** 78001(1946年 - 戦災・1945年4月15日、蒲田電車区で焼失)
** 78003(1946年 - 戦災・1945年4月15日、蒲田電車区で焼失)
** 78004(1946年 - 戦災・1945年4月15日、蒲田電車区で焼失)
** 78112(1949年 - [[日産車体|日国工業]]で火災全焼)
** 78139(1948年 - [[鳳電車区]]で機関車と衝突大破)
* クハ79形(戦災2両)
** 79005(1946年 - 戦災・1945年4月13日、池袋電車区で焼失)
** 79009(1946年 - 戦災・1945年5月24日、蒲田電車区で焼失) - 復旧・オハ71 123 → マニ74 9
=== 保存 ===
[[国鉄72系電車#クモヤ90形|クモヤ90形]]に改造されていたモハ63638が、復元のうえ[[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]]の[[リニア・鉄道館]]で展示されている。この車両はモハ63638として製造され(車体:川崎車輛/1947年12月、電装:川崎車輌/1948年1月)、1951年時点では三鷹電車区に<ref name="m63-3-114_115" />配置、その後1952年10月に日本車両製造東京支社でモハ72258に改造され、1957 - 65年の9年間で中野→三鷹→淀川→下十条→浦和→[[松戸車両センター|松戸]]と各電車区を転々とした後<ref name="72-73_172">宮下洋一『写真とイラストで綴る 国鉄72・73計電車』 [[ネコ・パブリッシング]] 2020年 p.172</ref>、[[1967年]]3月に[[郡山総合車両センター|郡山工場]]でクモヤ90005に改造された経歴を有する<ref name="m63-3-114_115">[[#m63-3|『国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻』 p.114-115]]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|30em|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
書籍
* {{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1958 |month = |title =鉄道技術発達史 第4篇|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = tgh41 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1958 |month = |title =鉄道技術発達史 第5篇|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = tgh51 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author =藤本邦彦 |authorlink = |year =2016 |month = |title =国鉄鋼製電車史 モハ63形 上巻|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =車両史編さん会|location =埼玉県 |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = m63-1 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author =藤本邦彦 |authorlink = |year =2017 |month = |title =国鉄鋼製電車史 モハ63形 中巻|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =車両史編さん会|location =埼玉県 |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = m63-2 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author =藤本邦彦 |authorlink = |year =2018 |month = |title =国鉄鋼製電車史 モハ63形 下巻|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =車両史編さん会|location =埼玉県 |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = m63-3 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author = 鉄道史料保存会|authorlink = |coauthors = |year = 2001|title = 国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-|publisher = 鉄道史資料保存会|ref = kds|id = |isbn = 4885401089}}
* 沢柳健一・高砂雍郎『決定版 旧型国電車両台帳』1997年 ジェー・アール・アール刊 ISBN 4-88283-901-6
*『国鉄電車のあゆみ―30系から80系まで―』1968年 [[交友社]]刊 p72 - 81
* {{Cite book|和書|author = 長谷川明|authorlink = |coauthors = |year = 2008|title =鋼体化国電モハ50系とその仲間たち RM LIBRARY 112|publisher = ネコ・パブリッシング|ref = rl112|id = |isbn = 9784777052479}}
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* {{Cite book|和書|author = 長谷川明|authorlink = |coauthors = |year = 2018|title =1950年代の戦前型国電(中) RM LIBRARY 224|publisher = ネコ・パブリッシング|ref = rl224|id = |isbn = 9784777054244}}
* {{Cite book|和書|author = 長谷川明|authorlink = |coauthors = |year = 2018|title =1950年代の戦前型国電(下) RM LIBRARY 225|publisher = ネコ・パブリッシング|ref = rl225|id = |isbn = 9784777054299}}
雑誌
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* {{Cite journal|和書|author =鈴木兵庫(国有鉄道車両局客貨車検修課)|title = 国電特別改造工事の内容|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|volume=37 |year=2017|pages=96-98|ref =arch37p96|publisher =電気車研究会}}
* {{Cite journal|和書|author =柴内禎三(運輸省国有鉄道部保安課長)|title = 桜木町事故をかえりみて|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|volume=37 |year=2017|pages=94-95|ref =arch37p94|publisher =電気車研究会}}
* 交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』
** 1963年1月号(通巻19号)モハ63形特集
** 1963年2月号(通巻20号)[[吉川文夫]] 国電・ア・ラ・カルト 私鉄のロクサン
* {{Cite journal|和書|author =林采成|title = 日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開|journal=経営史学|volume=46|issue = 4 |year=2011|month = 6|pages=3-28|ref =keis46|publisher = 経営史学会}}
* {{Cite journal|和書|author =山崎志郎|title = 物資需給計画と経済統制方式の変遷|journal=Research Paper Series|volume=|issue = 3 |year=2019|month = 8|pages=1-87|ref =bzk|publisher = 首都大学東京経営学研究科}}
* {{Cite journal|和書|author =山崎志郎|title = 戦時交通動員計画と鉄道事業|journal=Research Paper Series|volume=|issue = 31 |year=2021|month = 9|pages=1-63|ref =bzk|publisher = 首都大学東京経営学研究科}}
その他
* {{Cite book|和書|author =日本国有鉄道工作局 |authorlink = |year =1953 |month = |title =電車形式図 1953|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =kei1953 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1960 |month = |title =電車形式図 1960|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =kei1960 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1963 |month = |title =電車形式図(追録) 1963|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =kei1963 |isbn= }}
* {{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1966 |month = |title =電車形式図(追録) 1966|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =kei1966 |isbn= }}
== 外部リンク ==
* [{{NDLDC|1124409/17}} 『全国工場通覧. 昭和24年版』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)写真
== 関連項目 ==
{{Commonscat|JNR 63}}
* [[国鉄72系電車]]
* [[桜木町事故]]
{{国鉄の旧形電車リスト}}
{{デフォルトソート:こくてつ063けいてんしや}}
[[Category:日本国有鉄道の鋼製旧形電車|63]]
[[Category:1944年製の鉄道車両]]
[[Category:日本車輌製造製の電車]]
[[Category:汽車製造製の電車]]
[[Category:川崎重工業製の電車]]
[[Category:近畿車輛製の電車]]
[[Category:日本国有鉄道工場製の電車|063]]
|
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11,132 |
加藤保憲
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加藤 保憲(かとう やすのり)は、荒俣宏の小説『帝都物語』『帝都大戦』に登場する架空の人物である。
紀州・龍神村の生まれとされるが、詳しい生い立ちについては一切不明である。明治の初頭から昭和73年(1998年)にかけて、表向きは大日本帝国陸軍の将校(少尉、後に中尉、戦後は自衛官)だが、正体は帝都・東京の滅亡を画策し、暗躍した魔人である。
長身痩躯で、こけた頬にとがった顎、さっぱりとした刈上げといった容姿で、いかなる時代においても老いの感じられない外見をしている(注:出生については、2001年に発刊された『帝都物語異録』で解説されている)。眼光は鋭く、体の大きさに似合わないほど軽い身のこなしが特徴的である。黒い五芒星(ドーマンセーマン)の紋様がある白手袋を着用している。剣の達人で刀の孫六兼元を愛用する。 極めて強力な霊力を持ち、あらゆる魔術に精通している。屍解仙の秘術を用いて転生したこともある。とりわけ陰陽道・風水・蠱毒の道においては、並ぶ者のいないほどの達人である。天皇直属の陰陽道の名家、土御門家一門ですら、彼一人にかなわなかった。また中国語や朝鮮語にも通じる。物語の中では、さまざまな姿の式神たちを駆使し、平将門の子孫を依代にして怨霊として甦らせようとしたり、大地を巡る龍脈を操作した結果、関東大震災を引き起こす結果を招いた。昭和73年に、東京の地下に眠る平将門を目覚めさせ、大地震によって東京を壊滅させた後、将門との最後の決闘の間に行方不明となる。
映画『帝都大戦』では設定が変更され、太平洋戦争で犠牲となった数多くの日本人の怨念によって蘇り、魔術や式神は一切用いず超能力を駆使して帝都破壊を目論む魔人として描かれている。
荒俣が原案・ノベライズで参加した映画『妖怪大戦争』においても東京を滅亡させようとする魔人として登場している。また『帝都物語』の前日談である『帝都幻談』、『新帝都物語』には「加藤重兵衛保憲」が登場する。彼と加藤保憲との関わりは『帝都物語異録』にて語られている。
荒俣によれば、加藤は当初、ミュージシャンの立花ハジメをイメージしていたという。しかし、映画版『帝都物語』での加藤役の嶋田久作による演技と存在感は強烈で、荒俣自身も「映画化が決まって初めて嶋田さんに会ったときには、本物の加藤がいると思った」「加藤保憲は嶋田さんと2人で作り上げたキャラクターだ」とコメントして認めており、前述の加藤の容姿描写も『帝都物語』文庫化の際に嶋田の容姿に合わせて書き直されたものである。OVA版でも容姿は嶋田をモデルとしており(声優も担当)、勇者警察ジェイデッカー(キャトー・ノリヤス)、力王(鷲崎)、ストリートファイターII(ベガ)、ブラックロッド、BASTARD!! -暗黒の破壊神-(アビゲイル)といった、この加藤の影響を強く受けたキャラクターが登場した。
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加藤 保憲は、荒俣宏の小説『帝都物語』『帝都大戦』に登場する架空の人物である。
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|独自研究=2018年5月10日 (木) 00:25 (UTC)
|出典の明記=2018年5月10日 (木) 00:25 (UTC)
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'''加藤 保憲'''(かとう やすのり)は、[[荒俣宏]]の[[小説]]『[[帝都物語]]』『[[帝都大戦]]』に登場する架空の人物である。
== 人物 ==
[[紀伊国|紀州]]・[[龍神村]]の生まれとされるが、詳しい生い立ちについては一切不明である。[[明治]]の初頭から[[昭和]]73年([[1998年]])にかけて、表向きは[[大日本帝国陸軍]]の[[士官|将校]]([[少尉]]、後に[[中尉]]、戦後は[[自衛官]])だが、正体は[[帝都]]・[[東京]]の滅亡を画策し、暗躍した[[魔人]]である。
長身痩躯で、こけた頬にとがった顎、さっぱりとした刈上げといった容姿で、いかなる時代においても老いの感じられない外見をしている(注:出生については、[[2001年]]に発刊された『[[帝都物語異録]]』で解説されている)。眼光は鋭く、体の大きさに似合わないほど軽い身のこなしが特徴的である。黒い[[五芒星]]([[セーマンドーマン|ドーマンセーマン]])の紋様がある白手袋を着用している。剣の達人で刀の[[孫六兼元]]を愛用する。
極めて強力な霊力を持ち、あらゆる[[魔術]]に精通している。[[仙人|屍解仙]]の秘術を用いて[[転生]]したこともある。とりわけ[[陰陽道]]・[[風水]]・[[蠱毒]]の道においては、並ぶ者のいないほどの達人である。[[天皇]]直属の陰陽道の名家、[[土御門家]]一門ですら、彼一人にかなわなかった。また[[中国語]]や[[朝鮮語]]にも通じる。物語の中では、さまざまな姿の[[式神]]たちを駆使し、[[平将門]]の子孫を[[依代]]にして[[怨霊]]として甦らせようとしたり、大地を巡る龍脈を操作した結果、[[関東大震災]]を引き起こす結果を招いた。昭和73年に、東京の地下に眠る平将門を目覚めさせ、大地震によって東京を壊滅させた後、将門との最後の決闘の間に行方不明となる。
映画『帝都大戦』では設定が変更され、[[太平洋戦争]]で犠牲となった数多くの日本人の怨念によって蘇り、魔術や式神は一切用いず[[超能力]]を駆使して帝都破壊を目論む魔人として描かれている。
荒俣が原案・ノベライズで参加した映画『[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]]』においても東京を滅亡させようとする魔人として登場している。また『帝都物語』の前日談である『帝都幻談』、『新帝都物語』には「加藤重兵衛保憲」が登場する。彼と加藤保憲との関わりは『[[帝都物語異録]]』にて語られている。
=== 嶋田久作の影響 ===
荒俣によれば、加藤は当初、ミュージシャンの[[立花ハジメ]]をイメージしていたという<ref name=cinematoday>{{Cite web|和書|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0073133 |title=今は亡き天才漫画家が「世紀末のおもちゃ箱」と批評!原作者が伝説のカルト映画『帝都物語』の裏話を明かす|publisher=シネマトゥデイ|date= 2015-05-20 |accessdate=2019-11-19}}</ref>。しかし、映画版『帝都物語』での加藤役の[[嶋田久作]]による演技と存在感は強烈で、荒俣自身も「映画化が決まって初めて嶋田さんに会ったときには、本物の加藤がいると思った」<ref name=cinematoday/>「加藤保憲は嶋田さんと2人で作り上げたキャラクターだ」とコメントして認めており、前述の加藤の容姿描写も『帝都物語』文庫化の際に嶋田の容姿に合わせて書き直されたものである。OVA版でも容姿は嶋田をモデルとしており([[声優]]も担当)、[[勇者警察ジェイデッカー]](キャトー・ノリヤス)、[[力王]](鷲崎)、[[ストリートファイターII]]([[ベガ (ストリートファイター)|ベガ]])、[[ブラックロッド]]、[[BASTARD!! -暗黒の破壊神-]](アビゲイル)といった、この加藤の影響を強く受けたキャラクターが登場した。
== 演じた俳優 ==
*[[嶋田久作]] - 映画『[[帝都物語]]』・『[[帝都大戦]]』、OVA『帝都物語』
*[[西村和彦]] - 映画『帝都物語外伝』
*[[豊川悦司]] - 映画『[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]]』
*[[神木隆之介]] - 映画『[[妖怪大戦争 ガーディアンズ]]』
== 登場作品 ==
*[[帝都物語]]
*帝都物語・外伝
*[[帝都幻談]]
*[[新帝都物語]]
*[[帝都物語異録]]
*[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]]
*[[妖怪大戦争 ガーディアンズ]]
*虚実妖怪百物語
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[賀茂保憲]]:平安時代中期の[[陰陽師]]。加藤は彼にちなんで「保憲」と名付けられた。
*[[仮面ノリダー]]:映画『[[帝都大戦]]』宣伝のため嶋田演じる加藤が第47話に登場。ノリダーと辰宮雪子と共闘して自身の偽物である帝都大戦男を倒した。
*[[ベガ (ストリートファイター)]]:元ネタは加藤保憲であり、顔つきや制帽の帽章に影響が見られる。
*[[さくらの雲*スカアレットの恋|さくらの雲*スカアレットの恋]]:主人公の前に立ちふさがる憲兵大尉「加藤大尉」として登場。
{{DEFAULTSORT:かとうやすのり}}
[[Category:帝都物語]]
[[Category:日本の小説の登場人物]]
[[Category:映画の登場人物]]
[[Category:アニメの登場人物]]
[[Category:漫画の登場人物]]
[[Category:日本の架空の軍人]]
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ベートーヴェンの楽曲一覧
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ベートーヴェンの楽曲一覧(ベートーヴェンのがっきょくいちらん)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作品リスト。
分野で分け、その中でさらに細かい種類(弦楽三重奏や弦楽五重奏など)でグループ化し、そのグループ内では作曲年代順に配置した。したがってWoO.や発表順であるOp.の番号は前後することがある。
オペラのための習作として無伴奏で作られた。
ここではop.及びWoO.番号それぞれについて番号順のリストを掲げる。どちらの番号もついていない作品は挙げられていない。また、これらの番号は作曲の順番とは前後することがある。
(WoOについては未完)
詳細は「Hess番号」を参照
詳細は「ビアモンティ番号」を参照
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"text": "詳細は「ビアモンティ番号」を参照",
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ベートーヴェンの楽曲一覧(ベートーヴェンのがっきょくいちらん)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作品リスト。 Op.はベートーヴェン自身が作品の発表の際に付した番号である。 WoOは1955年にG.キンスキーとH.ハルムによって編集された作品目録の番号である。2014年に出版されたドルフミュラー、ゲルチュ、ロンゲ編の新版目録ではWoO 206~228の23作品が追加された。新版目録ではWoO 99, WoO 152~154,156~158の内容が見直されており、番号が変わっている曲もある。 Hess番号はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社のベートーヴェン作品全集に採録されていない作品に対して1957年にW.ヘスが付けた番号である。 ビアモンティ(Biamonti)番号は1968年にジョヴァンニ・ビアモンティがベートーヴェンの全作品を年代順に番号付けしたもので、現在上記いずれの番号もない作品に対して用いられることがある。 Unv番号は2014年に出版されたドルフミュラー、ゲルチュ、ロンゲ編の新版目録で、WoO番号が付けられていなかった未完成の23作品に対して新たに付けられた番号である。
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'''ベートーヴェンの楽曲一覧'''(ベートーヴェンのがっきょくいちらん)は、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の作品リスト。
*Op.(Opus [[作品番号]])はベートーヴェン自身が作品の発表の際に付した番号である。
*[[WoO]](Werke ohne Opuszahl 作品番号なし)は1955年にG.キンスキーとH.ハルムによって編集された作品目録<ref>Georg Kinsky, Hans Halm "Das Werk Beethovens Thematisch-bibliographisches Verzeichnis seiner sämtlichen vollendeten Kompositionen" (1955)</ref>の番号である。2014年に出版されたドルフミュラー、ゲルチュ、ロンゲ編の新版目録<ref>Kurt Dolfmüller, Norbert Gertsch, Julia Ronge "Ludwig van Beethoven Thematisch-bibliographisches Werkverzeichnis" (2014)</ref>ではWoO 206~228の23作品が追加された。新版目録ではWoO 99, WoO 152~154,156~158の内容が見直されており、番号が変わっている曲もある。
*[[Hess番号]]は[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]社のベートーヴェン作品全集(1862年 - 1865年、1888年、「旧全集」)に採録されていない作品に対して1957年にW.ヘスが付けた番号<ref>Willy Hess "Verzeichnis der nicht in der Gesamtausgabe veröffentlichten Werke Ludwig van Beethovens" (1957)</ref>である。
*ビアモンティ(Biamonti)番号は1968年にジョヴァンニ・ビアモンティ(Giovanni Biamonti)がベートーヴェンの全作品を年代順に番号付けしたもの<ref>Giovanni Biamonti “Catalogo cronologico e tematico delle opere di Beethoven”(1968)</ref>で、現在上記いずれの番号もない作品に対して用いられることがある。
*Unv番号は2014年に出版されたドルフミュラー、ゲルチュ、ロンゲ編の新版目録で、WoO番号が付けられていなかった未完成の23作品に対して新たに付けられた番号である。
==楽曲分野別一覧==
分野で分け、その中でさらに細かい種類(弦楽三重奏や弦楽五重奏など)でグループ化し、そのグループ内では作曲年代順に配置した。したがってWoO.や発表順であるOp.の番号は前後することがある。
===オペラ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品番号 !! 作品タイトル !! 作曲年代 !! 備考
|-
| Unv15 Hess115 || 『[[ヴェスタの火]]』(Vestas Feue) || 1803 || 未完、第1場のみ
|-
| Unv16 || 『マクベス』(Macbeth) || 1808/1811 || 未完、スケッチのみ
|-
| Op.72 || 『[[フィデリオ]]』(Fidelio) || 1805 (第1稿)<br/> 1806 (第2稿)<br/>1814 (第3稿) || 第1稿 Hess109 <br/> 第2稿 Hess110
|-
| - || 『アレッサンドロ』|| - || 構想のみ
|-
| - || 『田園喜劇』|| - || 構想のみ
|-
| - || 『ブラダマンテ』|| - || 構想のみ
|-
|}
===交響曲===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! Unv !! Hess !! Biamonti !! 作曲年代 !! 備考
|-
| 交響曲 ハ短調 || - || 1 || 298 || 11 || 1786-1790 || 未完、スケッチのみ
|-
| 交響曲 ハ長調 || - || 2 || - || 73 || 1794-1796 || 未完、スケッチのみ
|-
| [[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|交響曲第1番 ハ長調]] || 21 || - || - || 203 || 1800 ||
|-
| [[交響曲第2番 (ベートーヴェン)|交響曲第2番 ニ長調]] || 36 || - || - || 326 || 1803 ||
|-
| [[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番 変ホ長調]]「英雄」|| 55 || - || - || 406 || 1805 ||
|-
| [[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|交響曲第4番 変ロ長調]] || 60 || - || - || 429 || 1807 ||
|-
| [[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番 ハ短調]] || 67 || - || - || 443 || 1808 ||
|-
| [[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番 ヘ長調]]「田園」|| 68 || - || - || 453 || 1808 || 同年作曲だが、5番より先に完成している。
|-
| [[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番 イ長調]] || 92 || - || - || 544 || 1812 ||
|-
| [[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番 ヘ長調]] || 93 || - || - || 659 || 1812 ||
|-
| [[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番 ニ短調]] (合唱付き) || 125 || - || - || 787 || 1824 ||
|-
| [[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|交響曲第10番]] || - || 3 || - || 838 || - || 多数の断片的スケッチのみ現存。詳細はリンク先を参照。
|-
|}
===協奏曲===
====ピアノ協奏曲====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! WoO !! Unv !! Hess !! 作曲年代 !! 備考
|-
| [[ピアノ協奏曲第0番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲 変ホ長調]] || - || 4 || - || - || 1784 || 独奏パート譜のみ現存。後世に補筆完成された版を「ピアノ協奏曲第0番」と呼ぶことがある。
|-
| [[ピアノと管弦楽のためのロンド (ベートーヴェン)|ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調]] || - || 6 || - || - || 1794以前 || ピアノ協奏曲第2番のフィナーレとして意図された。
|-
| [[ピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第1番 ハ長調]] || 15 || - || - || - || 1795 ||
|-
| [[ピアノ協奏曲第2番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調]] || 19 || - || - || - || 1795 ||
|-
| [[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番 ハ短調]] || 37 || - || - || - || 1800 ||
|-
| [[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番 ト長調]] || 58 || - || - || - || 1806 ||
|-
| [[ヴァイオリン協奏曲_(ベートーヴェン)#ピアノ協奏曲_ニ長調_作品61a|ピアノ協奏曲 ニ長調]] || 61a || - || - || - || 1807 || ヴァイオリン協奏曲 Op.61のピアノ協奏曲版。これを「ピアノ協奏曲第6番」と呼ぶこともある。
|-
| [[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調]] (皇帝) || 73 || - || - || - || 1809 ||
|-
| [[ピアノ協奏曲第6番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第6番 ニ長調]] || - || - || 6 || 15 || 1815 || 60ページのスケッチのみで未完。
|-
|}
====その他の協奏曲====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! WoO !! Unv !! Hess !! 作曲年代 !! 備考
|-
| フルート、ファゴット、チェンバロと管弦楽のためのロマンツェ・カンタービレ ホ短調 || - || 207 || - || 13 || 1786 || 断片のみ。
|-
| [[ヴァイオリン協奏曲ハ長調 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲 ハ長調]] || - || 5 || - || 10 || 1792 || 第1楽章の断片のみ現存。
|-
| オーボエ協奏曲 ヘ長調 || - || 206 || - || 12 || 1793 || 紛失、スケッチのみ現存。
|-
| [[ロマンス第2番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番 ヘ長調]] || 50 || - || - || - || 1798 ||
|-
| [[ロマンス第1番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番 ト長調]] || 40 || - || - || - || 1802 ||
|-
| [[三重協奏曲 (ベートーヴェン)|ピアノ、ヴァイオリンとチェロと管弦楽のための三重協奏曲 ハ長調]] || 56 || - || - || - || 1803-04 ||
|-
| [[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲 ニ長調]] || 61 || - || - || - || 1806 ||
|-
| 三重協奏曲 ニ長調 || - || - || 5 || - || 1802年 || 未完。
|-
|}
====カデンツァ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! 作曲年代 !! 備考
|-
| [[ピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第1番]] 第1楽章用 || 1795年 || 1作。
|-
| [[ピアノ協奏曲第2番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第2番]] 第1楽章用 || 1795年? || 1作。
|-
| [[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番]] 第1楽章用 || 1803年 || 1作。
|-
| [[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)#曲の構成|ピアノ協奏曲第4番]] 第1・3楽章用 || 1806年 || 第1楽章用 (2作)、第3楽章用 (1作)。
|-
| モーツァルト:[[ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466]]のためのカデンツァ 第1・3楽章用 || 1805,09年 ||
|-
| [[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)#ピアノ協奏曲 ニ長調 作品61a|ピアノ協奏曲 ニ長調]] 第1・3楽章用 || 1809年? || 第1楽章用 (1作)、第3楽章用 (1作)。([[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61]]の編曲)。
|-
|}
===その他管弦楽曲===
* 『[[ウェリントンの勝利]]』(戦争交響曲) Op.91([[1813年]])
====序曲====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! Unv !! 作曲年代 !! 備考
|-
| [[レオノーレ序曲第2番|『レオノーレ』第2番]] || 72a || - || 1805年 || オペラ「フィデリオ」初版の序曲
|-
| [[レオノーレ序曲第3番|『レオノーレ』第3番]] || 72b || - || 1806年 || オペラ「フィデリオ」第2版の序曲
|-
| [[コリオラン|序曲『コリオラン』 ハ短調]] || 62 || - || 1807年 ||
|-
| [[フィデリオ#|フィデリオ序曲]] || 72c || - || 1814年 ||
|-
| 『[[命名祝日]]』 || 115 || - || 1815年 ||
|-
| 『[[献堂式]]』 || 124 || - || 1822年 || 『献堂式』全曲は序曲の他、[[アテネの廃墟|『アテネの廃墟』 Op.113]]から4曲を転用、WoO98と合わせ初演
|-
| B-A-C-Hを主題とする序曲 || - || 4 || 1822-25 || 未完、スケッチのみ。
|-
| [[レオノーレ序曲第1番|『レオノーレ』第1番]] || 138 || - || ? || 遺稿
|-
|}
====付随音楽====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! 曲構成 !! Op. !! WoO !! 作曲年代 || 備考
|-
| [[エグモント (劇音楽)|劇音楽『エグモント』]] || 序曲 ヘ短調<br>第1曲 太鼓は響く<br>第2曲 間奏曲 第1番<br>第3曲 間奏曲 第2番<br>第4曲 クレールヒェンの歌「喜びに満ち、悲しみに満ち」<br>第5曲 間奏曲 第3番<br>第6曲 間奏曲 第4番<br>第7曲 クレールヒェンの死<br>第8曲 メロドラマ<br>第9曲 勝利のシンフォニー || 84 || - || 1810 ||
|-
| [[アテネの廃墟|劇音楽『アテネの廃墟』]] || 序曲 ト長調<br>第1曲 合唱「力の強いゼウスの娘よ」<br>第2曲 二重唱「罪もなく、奴隷の身に耐え」<br>第3曲 回教僧の合唱「神は衣の袖に月をいだいて」<br>第4曲 トルコ行進曲<br>第5曲 舞台裏からの音楽<br>第6曲 行進曲と合唱「聖壇を飾れ」<br>第7曲 合唱「感じやすい心で」<br>第8曲 合唱「国王万歳」|| 113 || - || 1811 ||
|-
| 劇音楽『シュテファン王』 || 序曲 変ホ長調<br>第1曲 男声合唱「王侯は彼らの行いを静かに語り」<br>第2曲 男声合唱「暗い迷路をさまよい」<br>第3曲 凱旋行進曲<br>第4曲 女声合唱「無垢の花が撒かれる所」<br>第5曲 メロドラマ「あなたには祖国がある」<br>第6曲 合唱「新しい輝く太陽が」<br>第7曲 メロドラマ「君たち高貴なハンガリー人よ」<br>第8曲 宗教的な行進曲、合唱「万歳,我らの国王」とメロドラマ「畏敬に満ちて飾る」<br>第9曲 合唱「万歳、我らの子孫」|| 117 || - || 1811 ||
|-
| 『タルペイア』のための凱旋行進曲 || - || - || 2a || 1813 ||
|-
| 『タルペイア』の第2幕への前奏曲 || - || - || 2b || 1813 ||
|-
| 終末歌『ゲルマニア』 || - || - || 94 || 1814 ||
|-
| 劇音楽『レオノーレ・プロハスカ』 || 第1曲 戦士の合唱「我々は建設しそして死ぬ」<br>第2曲 ロマンツェ「一輪の花が咲く」<br>第3曲 メロドラマ「花輪にくるまれたあなた」<br>第4曲 葬送行進曲 || - || 96 || 1815 || 葬送行進曲は[[ピアノソナタ第12番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第12番 変イ長調 Op.26]]第3楽章の編曲
|-
| 『凱旋門』の終曲「成就せり」|| - || - || 97 || 1815 ||
|-
| マイズルの祝典劇『献堂式』への合唱曲「若々しく脈うつところ」 || - || - || 98 || 1822 ||
|-
| 『アテネの廃墟』のための行進曲と合唱曲 || - || 114 || - || 1826 || [[アテネの廃墟|劇音楽『アテネの廃墟』Op.113]]第6曲の改作
|-
|}
====バレエ音楽====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! WoO !! 作曲年代 || 備考
|-
| 『騎士のバレエ』 || - || 1 || 1791 ||
|-
| 『[[プロメテウスの創造物]]』 || 43 || - || 1801 ||
|-
|}
====舞曲====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! WoO !! 作曲年代 || 備考
|-
| 12のメヌエット || 7 || 1795 ||
|-
| 12のドイツ舞曲 || 8 || 1795 ||
|-
| 6つの夜会メヌエット || 9 || 1795? ||
|-
| 12のコントルダンス || 14 || 1802 ||
|-
| 6つのレントラー || 15 || 1802 ||
|-
| 11のウィーン舞曲「メートリンク舞曲」 || 17 || 1819 || 真作か疑わしい
|-
| 祝賀メヌエット || 3 || 1822 ||
|-
| 12のメヌエット || 12 || ? || おそらく真作ではなく、弟カールの作品
|-
| 12のエコセーズ || 16 || ? || おそらく偽作
|-
|}
===吹奏楽曲===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! WoO !! 作曲年代 || 備考
|-
| 行進曲 ヘ長調 (第1番)「ボヘミア守備隊のための」(ヨルク軍団行進曲) || 18 || 1809 || トリオは1823年?
|-
| 行進曲ヘ長調(第2番) || 19 || 1809 || トリオは1823年?
|-
| 行進曲ハ長調「帰営ラッパ」 || 20 || 1809 ||
|-
| ポロネーズ ニ長調 || 21 || 1810 ||
|-
| エコセーズ ニ長調 || 22 || 1810 ||
|-
| エコセーズ ト長調 || 23 || 1810? || 紛失、[[カール・チェルニー|チェルニー]]のピアノ編曲のみ現存
|-
| 行進曲 変ロ長調 || 29 || 1810 ||
|-
| 行進曲 ニ長調 「軍隊行進曲」 || 24 || 1816 ||
|-
|}
=== 室内楽曲 ===
==== ヴァイオリンソナタ ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! Hess !! Unv !! 作曲年代 || 備考
|-
| ヴァイオリンソナタ イ長調 || - || 46 || 11 || 1792年頃 || 断章
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第1番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第1番]] ニ長調 || 12-1 || - || - || 1798年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第2番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第2番]] イ長調 || 12-2 || - || - || 1798年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第3番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第3番]] 変ホ長調 || 12-3 || - || - || 1798年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第4番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第4番]] イ短調 || 23 || - || - || 1801年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第5番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調「春」]] || 24 || - || - || 1801年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第6番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第6番]] イ長調 || 30-1 || - || - || 1803年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第7番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第7番]] ハ短調 || 30-2 || - || - || 1803年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第8番]] ト長調 || 30-3 || - || - || 1803年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第9番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調「クロイツェル」]] || 47 || - || - || 1803年 ||
|-
| [[ヴァイオリンソナタ第10番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第10番]] ト長調 || 96 || - || - || 1812年 ||
|-
|}
==== チェロソナタ ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! 作曲年代 || 備考
|-
| [[チェロソナタ第1番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第1番 ヘ長調]] || 5-1 || 1796 ||
|-
| [[チェロソナタ第2番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第2番 ト短調]] || 5-2 || 1796 ||
|-
| [[チェロソナタ第3番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第3番 イ長調]] || 69 || 1808 ||
|-
| [[チェロソナタ第4番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第4番 ハ長調]] || 102-1 || 1815 ||
|-
| [[チェロソナタ第5番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第5番 ニ長調]] || 102-2 || 1815 ||
|-
|}
==== 弦楽四重奏曲 ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品タイトル !! Op. !! WoO !! Hess !! Biamonti !! 作曲年代 !! 備考
|-
| メヌエット 変イ長調 || - || 209 || 33 || 64 || 1790年? ||
|-
| 弦楽四重奏曲 ホ長調 || - || - || - || 281 || 1793年 || 断片
|-
| 前奏曲とフーガ ヘ長調 || - || - || 30 || 80 || 1794年? ||
|-
| 前奏曲とフーガ ハ長調 || - || - || 31 || 80 || 1794年? ||
|-
| 前奏曲の終結部 ニ短調 || - || - || 245 || 82 || 1795年? || 断章
|-
| [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]のオラトリオ『ソロモン』の序曲 フーガ・アレグロの弦楽四重奏用編曲 || - || - || 36 || 680 || 1798年 || 断章
|-
| [[弦楽四重奏曲第1番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調]] || 18-1 || - || - || 225 || 1800年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第2番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第2番 ト長調「挨拶する」]] || 18-2 || - || - || 225 || 1800年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第3番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第3番 ニ長調]] || 18-3 || - || - || 225 || 1798年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第4番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第4番 ハ短調]] || 18-4 || - || - || 225 || 1800年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第5番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第5番 イ長調]] || 18-5 || - || - || 225 || 1800年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第6番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調]] || 18-6 || - || - || 225 || 1800年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲 ヘ長調 Hess 34|弦楽四重奏団 ヘ長調]] || - || - || 34 || 315 || 1802年 || Op.14-1の編曲
|-
| 弦楽四重奏曲 イ長調 || - || - || - || 382 || 1803年 || スケッチのみ
|-
| [[弦楽四重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調「ラズモフスキー1番」]] || 59-1 || - || - || 436 || 1806年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第8番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第8番 ホ短調「ラズモフスキー2番」]] || 59-2 || - || - || 436 || 1806年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第9番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第9番 ハ長調「ラズモフスキー3番」]] || 59-3 || - || - || 436 || 1806年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第10番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調「ハープ」]] || 74 || - || - || 485 || 1809年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第11番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調「セリオーソ」]] || 95 || - || - || 524 || 1810年 ||
|-
| アレグレット ロ短調 || - || 210 || - || - || 1817年 || 1999年発見、"Pencarrow Quartet"
|-
| [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]「平均律クラヴィア曲集」第1巻 フーガ ロ短調 の弦楽四重奏用編曲 || - || - || 35 || 338 || 1817年 || 断片
|-
| [[弦楽四重奏曲第12番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調]] || 127 || - || - || 803 || 1825年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第13番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調]] || 130 || - || - || 830,847 || 1825年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第14番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調]] || 131 || - || - || 840 || 1826年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第15番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第15番 イ短調]] || 132 || - || - || 808 || 1825年 ||
|-
| [[大フーガ (ベートーヴェン)|大フーガ 変ロ長調]] || 133 || - || - || 830 || 1826年 ||
|-
| [[弦楽四重奏曲第16番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調]] || 135 || - || - || 845 || 1826年 ||
|-
|}
==== ピアノ三重奏曲 ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
!作品タイトル
!Op.
!WoO
!Hess
!Unv
!Biamonti
!作曲年代
!備考
|-
|ピアノ三重奏曲 変ホ長調
|
|38
|
|
|31
|1791年
|
|-
|[[ピアノ三重奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調]]
|1-1
|
|
|
|62
|1794年
|
|-
|[[ピアノ三重奏曲第2番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第2番 ト長調]]
|1-2
|
|
|
|62
|1795年
|
|-
|[[ピアノ三重奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調]]
|1-3
|
|
|
|62
|1795年
|
|-
|[[ピアノ三重奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調「街の歌」]]
|11
|
|
|
|156
|1797年
|
|-
|ピアノ三重奏曲
|38
|
|
|
|376
|1803年
|[[七重奏曲 (ベートーヴェン)|Op.20]]の編曲
|-
|ピアノ三重奏曲 変ホ長調「創作主題による14の変奏曲」
|44
|
|
|
|263
|1792年
|
|-
|アレグレット 変ホ長調
|
|
|48
|9
|8
|1792年
|ピアノ三重奏 断章
|-
|ピアノ三重奏曲 ニ長調
|
|
|
|
|425
|1805年以前
|[[交響曲第2番 (ベートーヴェン)|交響曲第2番]]より編曲
|-
|ピアノ三重奏曲 変ホ長調
|63
|
|A 14
|
|A Ⅱ65
|1806年
|Op.4の他人による編曲
|-
|[[ピアノ三重奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調「幽霊」]]
|70-1
|
|
|
|455
|1808年
|
|-
|[[ピアノ三重奏曲第6番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第6番 変ホ長調]]
|70-2
|
|
|
|455
|1808年
|
|-
|[[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調「大公」]]
|97
|
|
|
|536
|1811年
|
|-
|ピアノ三重奏曲 変ロ長調
|
|39
|
|
|542
|1812年
|アレグレットのみ
|-
|ピアノ三重奏曲 ヘ短調
|
|
|
|10
|637
|1815年
|未完、スケッチのみ
|-
|ピアノ三重奏曲 ト長調
|121a
|
|
|
|654
|1803年? 1816年改訂
|
|}
==== 弦楽三重奏曲 ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
!作品タイトル
!Op.
!Hess
!作曲年代
!備考
|-
|前奏曲とフーガ ホ短調
|
|29
|1794年
|2つのヴァイオリン、チェロ
|-
|[[弦楽三重奏曲第1番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第1番 変ホ長調]]
|3
|
|1794年
|
|-
|弦楽三重奏のためのセレナード ニ長調
|8
|
|1797年
|
|-
|[[弦楽三重奏曲第2番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第2番 ト長調]]
|9-1
|
|1798年
|
|-
|[[弦楽三重奏曲第3番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第3番 ニ長調]]
|9-2
|
|1798年
|
|-
|[[弦楽三重奏曲第4番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第4番 ハ短調]]
|9-3
|
|1798年
|
|}
==== 弦楽五重奏曲 ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
!作品タイトル
!Op.
!Hess
!Unv
!作曲年代
!備考
|-
|弦楽五重奏曲 変ホ長調
|4
|
|
|1795年
|管楽八重奏曲 変ホ長調 Op.103の改作
|-
|[[弦楽五重奏曲 (ベートーヴェン)|弦楽五重奏曲 ハ長調]]
|29
|
|
|1801年
|
|-
|[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]『[[平均律クラヴィーア曲集]]』第1巻変ロ短調フーガの弦楽五重奏用編曲
|
|38
|
|1802年
|
|-
|弦楽五重奏曲
|104
|
|
|1817年
|Op.1-3の編曲。大部分は他人による
|-
|前奏曲とフーガ ニ短調
|
|40
|7
|1817年
|未完。
|-
|弦楽五重奏曲 ニ長調
|137
|
|
|1817年
|
|}
==== その他の室内楽曲 ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
!作品タイトル
!Op.
!WoO
!Hess
!Unv
!Anh.
!作曲年代
!編成
!備考
|-
|2声のフーガ ニ長調
|
|31
|
|
|
|1783年
|オルガン
|
|-
|[[3つのピアノ四重奏曲 (ベートーヴェン)|3つのピアノ四重奏曲]]
|
|36
|
|
|
|1785年
|ピアノ四重奏
|
|-
|三重奏曲 ト長調
|
|37
|
|
|
|1786年
|チェンバロ、フルート、ファゴット
|
|-
|2つのフルートのための二重奏曲
|
|26
|17
|
|
|1792年
|フルート2
|
|-
|クラリネットとファゴットのための3つの二重奏曲
|
|27
|
|
|
|1792年
|クラリネット、ファゴット
|真作か疑問
|-
|ヴァルトシュタイン伯爵の主題による8つの変奏曲 ハ長調
|
|67
|
|
|
|1792年
|ピアノ連弾
|
|-
|二重奏曲 変ホ長調
|
|
|
|8
|
|1792年?
|ヴァイオリン、チェロ
|断片
|-
|[[スイス]]の歌の主題による6つの易しい変奏曲
|
|64
|
|
|
|1793年以前
|ハープ、またはピアノ
|
|-
|ロンディーノ 変ホ長調
|
|25
|
|
|
|1793年
|オーボエ2、クラリネット、ホルン、ファゴット
|
|-
|五重奏曲 変ホ長調
|
|208
|19
|
|
|1793年
|オーボエ、ホルン3、ファゴット
|
|-
|八重奏曲 変ホ長調
|103
|
|
|
|
|1793年
|オーボエ2、クラリネット、ホルン、ファゴット
|
|-
|[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の『[[フィガロの結婚]]』の「伯爵様が踊るなら」の主題による12の変奏曲
|
|40
|
|
|
|1793年
|ヴァイオリン、ピアノ
|
|-
|ロンド ト長調
|
|41
|
|
|
|1794年
|ヴァイオリン、ピアノ
|
|-
|モーツァルトの『[[ドン・ジョヴァンニ]]』の「手を取り合って」の主題による12の変奏曲 ハ長調
|
|28
|18
|
|
|1795年?
|オーボエ2、イングリッシュホルン
|
|-
|[[六重奏曲 (ベートーヴェン)|六重奏曲 変ホ長調]]
|81b
|
|
|
|
|1795年
|ホルン2、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ
|
|-
|2本のオーボエとコーラングレのための三重奏曲 ハ長調
|87
|
|
|
|
|1795年
|オーボエ2、イングリッシュホルン
|
|-
|モーツァルトの『[[魔笛]]』の「娘か女か」の主題による12の変奏曲 ヘ長調
|66
|
|
|
|
|1796年
|チェロ、ピアノ
|
|-
|[[ピアノと管楽のための五重奏曲 (ベートーヴェン)|ピアノと管楽器のための五重奏曲 変ホ長調]]
|16
|
|
|
|
|1796年
|ピアノ、管楽五重奏
|
|-
|六重奏曲 変ホ長調
|71
|
|
|
|
|1796年
|クラリネット2、ファゴット、ホルン
|
|-
|6つのドイツ舞曲
|
|42
|
|
|
|1796年
|ヴァイオリン、ピアノ
|
|-
|マンドリンとチェンバロのためのソナティナ ハ短調
|
|43a
|
|
|
|1796年
|マンドリン、チェンバロ
|
|-
|アダージョ 変ホ長調
|
|43b
|
|
|
|1796年
|マンドリン、チェンバロ
|
|-
|マンドリンとチェンバロのためのソナティナ ハ長調
|
|44a
|43
|
|
|1796年
|マンドリン、チェンバロ
|
|-
|アンダンテと変奏曲 ニ長調
|
|44b
|45
|
|
|1796年
|マンドリン、チェンバロ
|
|-
|[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の『[[ユダス・マカベウス|ユダ・マカベア]]』の「[[見よ勇者は帰る]]」の主題による12の変奏曲 ト長調
|
|45
|
|
|
|1796年
|チェロ、ピアノ
|
|-
|四手のためのソナタ ニ長調
|6
|
|
|
|
|1797年
|四手連弾
|
|-
|[[2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲|2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲 変ホ長調]]
|
|32
|22,23,24
|
|
|1797年
|ヴィオラ、チェロ
|
|-
|笛時計のための擲弾兵行進曲 ヘ長調
|
|
|107
|
|
|1798年
|笛時計
|[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]のHob.XIX:25と移行部とWoO 29との編曲
|-
|[[七重奏曲 (ベートーヴェン)|七重奏曲 変ホ長調]]
|20
|
|
|
|
|1799年
|ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、クラリネット、ホルン、ファゴット
|
|-
|[[ホルンソナタ (ベートーヴェン)|ホルンソナタ ヘ長調]]
|17
|
|
|
|
|1800年
|ホルン、ピアノ
|
|-
|笛時計のための5つの小品
|
|33
|103-106
|
|
|1800年
|笛時計
|
|-
|フルート、ヴァイオリン、ヴィオラのためのセレナード ニ長調
|25
|
|
|
|
|1801年
|フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ
|
|-
|モーツァルトの『[[魔笛]]』の「恋を知る男たちは」の主題による7つの変奏曲 変ホ長調
|
|46
|
|
|
|1801年
|チェロ、ピアノ
|
|-
|ピアノとフルートとヴァイオリンのためのセレナード ニ長調
|41
|
|A 12
|
|
|1803年
|フルート、ヴァイオリン、ピアノ
|
|-
|ヴィオラとピアノのためのノットゥルノ ニ長調
|42
|
|A 13
|
|
|1803年
|ヴィオラ、ピアノ
|
|-
|四手のための3つの行進曲
|45
|
|
|
|
|1803年
|四手連弾
|
|-
|歌曲「君を思いて」(Ich denke dein)と6つの変奏曲 ニ長調
|
|74
|
|
|
|1803年
|ピアノ連弾
|
|-
|チェロとピアノのための二重奏曲 変ホ長調
|64
|
|A 15
|
|
|1807年
|チェロ、ピアノ
|Op.3の他人による編曲
|-
|3つのエクヴァーレ
|
|30
|
|
|
|1812年
|4本のトロンボーン
|
|-
|アダージョ 変イ長調
|
|
|297
|
|
|1815年
|3本のホルン
|
|-
|フルートまたはバイオリンの伴奏を持つピアノのための6つの主題と変奏
|105
|
|
|
|
|1817年
|フルートまたはヴァイオリンとピアノ
|
|-
|フルートまたはバイオリンの伴奏を持つピアノのための10の主題と変奏
|107
|
|
|
|
|1820年
|フルート、またはヴァイオリンとピアノ
|
|-
|2つのヴァイオリンのための小品 イ長調
|
|34
|42
|
|
|1822年
|2つのヴァイオリン
|
|-
|2つのヴァイオリンのためのカノン イ長調
|
|35
|273
|
|
|1825年
|2つのヴァイオリン
|
|-
|大フーガ
|134
|
|86
|
|
|1826年
|四手連弾
|Op.133を四手のために編曲
|-
|フルート・ソナタ 変ロ長調
|
|
|A 11
|
|4
|
|フルート、ピアノ
|偽作
|}
=== ピアノ独奏曲 ===
==== ピアノソナタ ====
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
!作品タイトル
!Op.
!WoO
!Hess
!Unv
!Biamonti
!作曲年代
!備考
|-
|[[選帝侯ソナタ|3つの選帝侯ソナタ]]
|
|47
|
|
|2
|1783
|
|-
|ソナティネの2つの楽章 ヘ長調
|
|50
|43
|
|21
|1792
|断片
|-
|ピアノソナタ ニ長調「幻想曲風ソナタ」
|
|
|
|12
|213
|1793?
|未完
|-
|[[ピアノソナタ第1番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第1番]] ヘ短調
|2-1
|
|
|
|87
|1794
|
|-
|[[ピアノソナタ第2番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第2番]] イ長調
|2-2
|
|
|
|87
|1795
|
|-
|[[ピアノソナタ第3番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第3番]] ハ長調
|2-3
|
|
|
|87
|1795
|
|-
|[[ピアノソナタ第4番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第4番]] 変ホ長調
|7
|
|
|
|136
|1797
|
|-
|[[ピアノソナタ第20番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第20番]] ト長調
|49-2
|
|
|
|170
|1796
|第19番、第20番を合わせて「やさしいソナタ」と呼ばれる。
|-
|[[ピアノソナタ第19番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第19番]] ト短調
|49-1
|
|
|
|120
|1798
|第19番、第20番を合わせて「やさしいソナタ」と呼ばれる。
|-
|ピアノソナタ ハ長調
|
|51
|
|
|36
|1798?
|「やさしいソナタ」と呼ばれる。2楽章のみ、断片。
|-
|ピアノ・ソナタ 変ホ長調
|
|
|
|13
|
|1798
|未完
|-
|[[ピアノソナタ第5番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第5番]] ハ短調
|10-1
|
|
|
|157
|1798
|
|-
|[[ピアノソナタ第6番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第6番]] ヘ長調
|10-2
|
|
|
|157
|1798
|
|-
|[[ピアノソナタ第7番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第7番]] ニ長調
|10-3
|
|
|
|157
|1798
|
|-
|[[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第8番]] ハ短調「悲愴」
|13
|
|
|
|184
|1799
|
|-
|[[ピアノソナタ第9番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第9番]] ホ長調
|14-1
|
|
|
|180
|1799
|
|-
|[[ピアノソナタ第10番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第10番]] ト長調
|14-2
|
|
|
|180
|1799
|
|-
|[[ピアノソナタ第11番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第11番]] 変ロ長調
|22
|
|
|
|208
|1800
|
|-
|[[ピアノソナタ第12番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第12番]] 変イ長調 「葬送行進曲」
|26
|
|
|
|296
|1801
|
|-
|[[ピアノソナタ第13番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第13番]] 変ホ長調「幻想曲風ソナタ」
|27-1
|
|
|
|297
|1801
|
|-
|[[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第14番]] 嬰ハ短調「幻想曲風ソナタ」(月光)
|27-2
|
|
|
|297
|1801
|
|-
|[[ピアノソナタ第15番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第15番]] ニ長調「田園」
|28
|
|
|
|302
|1801
|
|-
|[[ピアノソナタ第16番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第16番]] ト長調
|31-1
|
|
|
|339
|1802
|
|-
|[[ピアノソナタ第17番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第17番]] ニ短調「テンペスト」
|31-2
|
|
|
|339
|1802
|
|-
|[[ピアノソナタ第18番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第18番]] 変ホ長調
|31-3
|
|
|
|339
|1802
|
|-
|[[ピアノソナタ第21番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第21番]] ハ長調「ワルトシュタイン」
|53
|
|
|
|411
|1803
|
|-
|[[ピアノソナタ第22番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第22番]] ヘ長調
|54
|
|
|
|412
|1804
|
|-
|[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番]] ヘ短調「熱情」
|57
|
|
|
|420
|1805
|
|-
|[[ピアノソナタ第24番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第24番]] 嬰ヘ長調「テレーゼ」
|78
|
|
|
|493
|1809
|
|-
|[[ピアノソナタ第25番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第25番]] ト長調「かっこう」
|79
|
|
|
|495
|1809
|
|-
|[[ピアノソナタ第26番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第26番]] 変ホ長調「告別」
|81a
|
|
|
|514
|1809
|
|-
|[[ピアノソナタ第27番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第27番]] ホ短調
|90
|
|
|
|578
|1814
|
|-
|[[ピアノソナタ第28番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第28番]] イ長調
|101
|
|
|
|656
|1816
|
|-
|[[ピアノソナタ第29番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第29番]] 変ロ長調「ハンマークラヴィーア」
|106
|
|
|
|708
|1818
|
|-
|[[ピアノソナタ第30番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第30番]] ホ長調
|109
|
|
|
|729
|1822
|
|-
|[[ピアノソナタ第31番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第31番]] 変イ長調
|110
|
|
|
|739
|1822
|
|-
|[[ピアノソナタ第32番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第32番]] ハ短調
|111
|
|
|
|741
|1822
|
|-
|ピアノ・ソナタ ハ長調
|
|
|52
|
|
|
|未発見
|}
==== 変奏曲 ====
*
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
!作品タイトル
!Op.
!WoO
!Unv
!Hess
!Anh.
!作曲年代
!備考
|-
|[[ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲]] ハ短調
|
|63
|
|
|
|1782
|
|-
|[[リギーニのアリエッタ『愛よ来たれ』の主題による24の変奏曲]]
|
|65
|
|
|
|1791
|
|-
|ディッタースドルフのジングシュピール『赤ずきん』からのアリエッタ「昔々おじいさんが」による13の変奏曲 イ長調
|
|66
|
|
|
|1792
|
|-
|変奏曲 イ長調
|
|
|14
|
|
|1794-1795
|未完
|-
|ハイベルのバレエ『妨げられた結婚』の「ヴィガノのメヌエット」の主題による12の変奏曲 ハ長調
|
|68
|
|
|
|1795
|
|-
|パイジエッロのオペラ『水車屋の娘』のアリア「田舎者の恋は何と美しく」による9つの変奏曲 イ長調
|
|69
|
|
|
|1795
|
|-
|パイジエッロのオペラ『水車屋の娘』の二重唱「わが心もはやうつろになりて」による6つの変奏曲 ト長調
|
|70
|
|
|
|1795
|
|-
|ヴラニツキーのバレエ『森の乙女』のロシア舞曲の主題による12の変奏曲 イ長調
|
|71
|
|
|
|1797
|
|-
|グレトリのオペラ『獅子心王リチャード』のロマンス「燃える情熱」の主題による8つの変奏曲 ハ長調
|
|72
|
|
|
|1795?
|
|-
|サリエリのオペラ『[[ファルスタッフ (サリエリ)|ファルスタッフ]]』の二重唱「まさにその通り」の主題による10の変奏曲 変ロ長調
|
|73
|
|
|
|1799
|
|-
|ヴィンターのオペラ『中止された奉献祭』の四重唱「子よ、静かにおやすみ」による7つの変奏曲 ヘ長調
|
|75
|
|
|
|1799
|
|-
|ジュスマイヤーのオペラ『スレイマン2世、または3人のスルタン妃』の三重唱「ふざけとたわむれ」による6つの変奏曲 ヘ長調
|
|76
|
|
|
|1799
|
|-
|創作主題による6つの易しい変奏曲 ト長調
|
|77
|
|
|
|1800
|
|-
|創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調
|34
|
|
|
|
|1802
|
|-
|『プロメテウスの創造物』の主題による15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 ([[エロイカ変奏曲]])
|35
|
|
|
|
|1802
|
|-
|『国王陛下万歳』 (イギリス国歌)による7つの変奏曲 ハ長調
|
|78
|
|
|
|1803
|
|-
|『ルール・ブリタニア』による5つの変奏曲 ニ長調
|
|79
|
|
|
|1803
|
|-
|主題と変奏曲 冒頭
|
|
|
|72
|
|1803
|
|-
|[[創作主題による32の変奏曲]] ハ短調
|
|80
|
|
|
|1806
|
|-
|創作主題による6つの変奏曲 ニ長調
|76
|
|
|
|
|1809
|
|-
|[[ディアベリ変奏曲|ディアベリのワルツの主題による33の変奏曲 ハ長調]]
|120
|
|
|
|
|1823
|
|-
|アメンタの歌曲『喜びに満ち、悲しみに満ち』の主題による変奏曲
|
|
|
|54
|
| -
|未確認
|-
|『ただ小さなあばら屋を持つだけ』の主題による8つの変奏曲 変ロ長調
|
|
|
|
|10
| -
|偽作
|}
==== その他のピアノ独奏曲 ====
* ロンド ハ長調 WoO 48([[1783年]])
* ロンド イ長調 WoO 49([[1783年]]?)
* すべての長調による2つの前奏曲 Op.39([[1789年]])(または[[オルガン]])
* アンダンテ ハ長調 WoO 211 (Biamonti 52) (ca.[[1792年]])
* [[アルマンド]] イ長調 WoO 81([[1793年]])
* 4つのバガテル WoO 213 ([[1793年]])
* メヌエット ヘ長調 WoO 217 (Biamonti 66) ([[1794年]])
* フーガ ハ長調 WoO 215 (Hess 64)([[1794年]]?)
* メヌエット ハ長調 WoO 218 (Biamonti 74) (1794/95年)
* ロンド・カプリッチョ ト長調(「[[失われた小銭への怒り]]」)Op.129([[1795年]])
* [[6つのメヌエット (ベートーヴェン)|6つのメヌエット]] WoO 10(原曲は管弦楽用だが紛失、作曲者によるピアノ編曲)([[1795年]]?)
* 12のドイツ舞曲 WoO 13(原曲は管弦楽用だが紛失、作曲者によるピアノ編曲)([[1795年]]?)
* プレスト([[バガテル]]) ハ短調 WoO 52([[1795年]]?)
* アレグレット ハ短調 WoO 53([[1797年]])
* アレグレット(バガテル) ハ短調 WoO 214 (Hess 69)([[1797年]])
* ロンド ハ長調 Op.51-1([[1797年]]?)
* ロンド ト長調 Op.51-2([[1798年]]?)
* 7つのレントラー WoO 11(原曲は管弦楽用だが紛失、作曲者によるピアノ編曲)([[1798年]]?)
* アングレース ニ長調 WoO 212 (Hess 61)([[1800年]])
* 2つのバガテル WoO 216 (Hess 73,74)([[1800年]])
* ピアノのための7つのバガテル Op.33([[1802年]])
* バガテル「楽しい - 悲しい」(Lustig - Traurig) WoO.54([[1802年]]?)
* アレグレット(バガテル)ハ長調 WoO 56([[1803年]])
* [[アンダンテ・ファヴォリ]] ヘ長調 WoO 57([[1803年]])
* 小さなワルツ(ドイツ舞曲)ハ短調 WoO 219 (Hess 68)([[1803年]])
* アダージョ(スケッチ) Hess 70([[1803年]])
* ピアノ小品(スケッチ) Hess 71([[1803年]])
* 前奏曲 ヘ短調 WoO 55([[1805年]]以前)
* メヌエット 変ホ長調 WoO 82([[1805年]]以前)
* 6つの[[エコセーズ]] WoO 83([[1806年]]?)
* 幻想曲 ト短調・変ロ長調 Op.77([[1809年]])
* バガテル『[[エリーゼのために]]』イ短調 WoO 59([[1810年]])
* 2つのドイツ舞曲 Hess 67 ([[1812年]]?)
* [[ポロネーズ]] ハ長調 Op.89([[1814年]])
* やや生き生きと WoO 60([[1818年]])
* アレグレット ロ短調 WoO 61([[1821年]])
* ピアノのための11の新しいバガテル Op.119([[1822年]])
* バガテル ハ長調(スケッチ)Hess 57([[1823年]])
* [[6つのバガテル (ベートーヴェン)|ピアノのための6つのバガテル]] Op.126([[1824年]])
* [[ワルツ]] 変ホ長調 WoO 84([[1824年]])
* ワルツ ニ長調 WoO 85([[1825年]])
* アレグレット・クァジ・アンダンテ ト短調 WoO 61a([[1825年]])
* エコセーズ 変ホ長調 WoO 86([[1825年]])
* アンダンテ・マエストーソ ハ長調 WoO 62(原曲は作曲予定の弦楽五重奏冒頭のスケッチ。[[アントニオ・ディアベリ|ディアベッリ]]によりピアノに編曲。ベートーヴェン最後の楽想と見られる。)([[1826年]])
===声楽曲===
==== 宗教曲・合唱曲 ====
* [[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|皇帝ヨーゼフ2世]]葬送カンタータ WoO 87([[1790年]])
* [[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|皇帝レオポルト2世]]戴冠式カンタータ WoO 88([[1790年]])
*カンタータ 変ロ長調(未完) Unv 19 (1790-92年)
* エレミヤの哀歌(未完)Unv 20 (1790-92年)
* 二重フーガ「キリエ・エレイゾン、クリステ・エレイゾン」 ヘ長調(未完)Hess 246([[1795年]])
* 「シュパンツィクはならず者だ」(''Schuppanzigh ist ein Lump'')WoO 100([[1801年]])
* グラドゥアーレ(19世紀初め頃作曲。1981年発見)
* 「親愛なる伯爵」(''Graf, Graf, liebster Graf'')WoO 101([[1802年]])
* オラトリオ「[[オリーヴ山上のキリスト]]」(''Christus am Ölberge'')Op.85([[1804年]])
* [[ミサ曲 ハ長調 (ベートーヴェン)|ミサ曲 ハ長調]] Op.86([[1807年]])
* ピアノ、合唱、オーケストラのための幻想曲([[合唱幻想曲]])Op.80([[1808年]])
*「すべての上にオーストリア」(未完)Unv 18([[1808年|1809年]])
* カンタータ「栄光の瞬間」(''Der glorreiche Augenblick'')Op.136([[1814年]])
* 連合君主たちへの合唱 WoO 95([[1814年]])
* 「別れの歌」(''Abschiedsgesang'')WoO 102([[1814年]])
* 野外カンタータ「楽しい乾杯の辞」(''Un lieto brindisi'')WoO 103([[1814年]])
* 「ヨーロッパ解放時」カンタータ (''Europens Befreyungsstunde'') Unv 17 (Hess 317)(未完,僅かなスケッチのみ現存)([[1814年]])
* カンタータ「[[静かな海と楽しい航海 (ベートーヴェン)|静かな海と楽しい航海]](''Meeresstille und glückliche Fahrt'')」Op.112([[1815年]])
* 「修道士達の歌」(''Gesang der Mönche'')WoO 104([[1817年]])
* 結婚の歌「友らのために、婚姻の神を称えん」(''Auf Freunde, singt dem Gott der Ehen'')WoO 105([[1819年]])
* [[ミサ・ソレムニス#ベートーヴェンのミサ・ソレムニス|ミサ・ソレムニス]] Op.123([[1822年]])
* ロプコヴィッツ・カンタータ「我等の尊き殿万歳」(''Es lebe unser theurer Fürst'')WoO 106([[1823年]])
* 奉献歌(Opferlied)「炎は燃え」(''Die Flamme lodert'')Op.121b(ソプラノ、合唱とオーケストラ)([[1824年]]、1822年の同名の曲(ソプラノ、アルト、テノール、合唱、2本のクラリネット、ホルン、ヴィオラ、チェロ)の改作)
* 盟友の歌(Bundeslied)「すべてのよき時に」(''In allen guten Stunden'')Op.122(ソプラノ、アルト、三部合唱、2本ずつのクラリネット、ファゴット、ホルン)([[1824年]])
* オラトリオ「ノアの洪水」(構想のみ)
* オラトリオ「エルサレムの平和」(構想のみ)
* オラトリオ(構想のみ)
* クレッスナーのための葬送カンタータ Hess 314(不明)
====無伴奏重唱====
オペラのための習作として無伴奏で作られた。
* 二重唱「夫を救うなら」(Salvo tu vuoi lo sposo)Hess 228([[1797年]])
* 四重唱「船頭は誓う」(Giura il nocchiere)Hess 230([[1800年]]以前)
* 二重唱「私の美しい人よ」(Sei mio ben)Hess 231([[1800年]]以前)
* テナー独唱「嵐の中でも」(E pur fra le tempeste)Hess 232([[1800年]]以前)
* イタリア語の重唱曲 WoO.99
** 1. 二重唱「美しい唇、何という愛」(Bei Labbri, che amore)([[1802年]]?)
** 2. 三重唱「だれかこの心を」(Chi mai di questo core)(作曲年不明)
** 3a. 二重唱「すべての苦しみの中に」(Fra tutte le pene)(作曲年不明)
** 3b. 三重唱「すべての苦しみの中に」(Fra tutte le pene)([[1802年]]?)
** 3c. 四重唱「すべての苦しみの中に」(Fra tutte le pene)([[1802年]]?)
** 4a. 四重唱「すでに夜は近づきて」(Già la notte s'avvicina)([[1802年]]?)
** 4b. 三重唱「すでに夜は近づきて」(Già la notte s'avvicina)(作曲年不明)
** 5a. 四重唱「船頭は誓う」(Giura il nocchiere)(作曲年不明)
** 5b. 三重唱「船頭は誓う」(Giura il nocchiere)(作曲年不明)
** 6. 三重唱「しかしお前は震える」(Ma tu tremi)(作曲年不明)
** 7a. 四重唱「野と森で」(Nei campi e nelle selve)(作曲年不明)
** 7b. 四重唱「野と森で」(Nei campi e nelle selve)(作曲年不明)
** 8. 斉唱付き独唱「おお、懐かしい森よ」(O care selve)(作曲年不明)
** 9. 三重唱「君に愛する青春を」(Per te d'amico aprile)(作曲年不明)
** 10a. 四重唱「かのギター、ああ清らかなもの」(Quella cetra, ah pur tu sei)(作曲年不明)
** 10b. 三重唱「かのギター、ああ清らかなもの」(Quella cetra, ah pur tu sei)(作曲年不明)
** 10c. 四重唱「かのギター、ああ清らかなもの」(Quella cetra, ah pur tu sei)([[1797年]]以前)
** 11. 二重唱「お前に手紙を書く」(Scrivo in te)([[1796年]]?)
** 12. 四重唱「シルヴィオ、絶望の恋人」(Silvio, amante disperata)(作曲年不明)
====重唱曲====
* 二重唱「メルケンシュタイン」(Merkenstein)Op.100([[1814年]])
* 三重唱曲「不信心な者よ、おののけ」(Tremate, empi tremate)Op.116([[1802年]])
* 四重唱曲「悲歌-生けるごとく安らかに」(Elegischer Gesang - Sanft wie du lebtest)Op.118([[1814年]])
* 二重唱「お前の幸福な日々に」(Nei giorni tuoi felici)WoO.93.([[1814年]])
* 四重唱「退職」(Resignation)Biamonti 669(スケッチのみ)([[1817年]])
====独唱歌曲====
* 「ある乙女の描写」(Schilderung eines Mädchens)WoO 107([[1783年]])
* 「みどり児に寄す」(An einen Säugling)WoO 108([[1783年]])
* 「むく犬の死に寄せる悲歌」(Elegie auf den Tod eines Pudels)WoO 110 ([[1787年]]頃)
* アリア「キスの試み」(Prüfung des Küssens) WoO 89([[1790年]]?)
* アリア「娘たちと仲良くして」(Mit M&amul;deln sich vertragen)WoO 90([[1790年]]?)
* 「嘆き」(Klage)WoO 113([[1790年]])
* 「貧しい作曲家」(Der Arme Componist)(未完)Biamonti 15(1790-[[1792年]]?)
* シェーナとアリア「初恋」(Primo amore)WoO 92([[1792年]]頃)
* 「別れに歌う酒の歌」(Trinklied, beim Abschied zu singen)(斉唱付き)WoO 109 ([[1792年]])
* 「ポンチ酒の歌」(Punschlied)(斉唱付き)WoO 111([[1792年]]頃)
* 「ラウラに」(An Laura)WoO 112([[1792年]])
* 「独り言」(Selbstgespräch)WoO 114([[1792年]])
* 「親愛なるヘンリエッテ」(Traute Henriette) Unv 21 Hess 151([[1792年]]頃)
* 「母はいつも何を飲むかと聞く」(Meine Mutter Fragt Mich Immer: Trinkst Du?)(未完)Biamonti 43([[1792年]])
* 「ミンナに」(An Minna)WoO 115([[1793年]])
* 「何と時は長く」(Que le temps me dure)WoO 116(第1稿(Hess 129)、第2稿(Hess 130))([[1793年]])
* 「自由の人」(Der freie Mann)WoO 117(第1稿(Hess 146)[[1792年]]、第2稿[[1794年]])
* 「おお、懐かしい森よ」(O care selve)WoO 119([[1794年]])
* 歌曲「アデライーデ」(Adelaide)Op.46([[1795年]])
* 「愛されない者のため息と愛のこたえ」(Seufzer eines Ungeliebten und Gegenliebe)WoO 118([[1795年]])
* 「優しき愛」(Zärtliche Liebe)(歌詞の冒頭「御身を愛す」(Ich liebe dich)の名で知られる)WoO 123([[1795年]]?)
* シェーナとアリア「ああ、不実なものよ」(Ah perfido!)Op.65([[1796年]]、ソプラノとオーケストラ)
* イグナーツ・ウムラウフのジンクシュピール「美しい靴屋の娘」への2つのアリア (2 Arien zum Singspiel "Die schöne Schusterin" von Umlauff) WoO 91([[1796年]])
** おお何たる人生(O welch ein Leben!)
** 靴のきついのがお嫌なら(Soll ein Schuh nicht drücken)
* 「ウィーン市民への別れの歌」(Abschiedsgesang an Wiens Bürger)WoO 121([[1796年]])
* カンツォネッタ「別れ」(La partenza)WoO 124([[1796年]]?)
* 「野ばら」(Das Heidenröslein) Unv 23(未完)Hess 150([[1796年]]以降)
* 「オーストリアの戦いの歌」(Kriegslied der Österreicher)WoO 122(斉唱付き)([[1797年]])
* カンツォネッタ「残酷な女」(La tiranna)WoO 125([[1799年]])
* 「新しき愛、新しき生命」(Neue Liebe, neues Leben)WoO 127([[1799年]])
* 「愛の喜び」(Plaisir d'aimer)WoO 128([[1799年]])
* 「休みなき愛」(Rastlose Liebe) Unv 22(未完)Hess 149([[1800年]]以前)
* 「魔王」(Erkönig)WoO 131(未完)([[1800年]]以前、[[1810年]]までに改訂)
* [[クリスティアン・ゲレルト|ゲレルト]]の詩による6つの歌(6 Lider von Gellert)Op.48([[1802年]])
** 願い(Bitten)
** 隣人の愛(Die Liebe des Nachsten)
** 死について(Vom Tode)
** 自然における神の栄光(Die Ehre Gottes aus der Natur)
** 神の力と摂理(Gottes Macht und Vorsehung)
** 懺悔の歌(Busslied)
* 8つの歌(8 Gesänge und Leider)Op.52([[1802年]]出版)
** ウリアンの世界旅行(Urians Reise um die Welt)([[1792年]])
** 炎の色(Feuerfarbe)([[1792年]]、改訂1793-1794年)
** 憩いの歌(Das Liedchen von der Ruhe)([[1793年]])
** 五月の歌(Maigesang (Mailied))([[1796年]]以前)
** モリーの別れ(Mollys Abschied)(作曲年不明(初期))
** 愛(Die Liebe)([[1792年]])
** マーモット(Marmotte)([[1792年]]?)
** かわいらしい花(Blümchen Wunderhold)([[1793年]]-[[1796年]])
* シェーナとアリア「いいえ、心配しないで」(No, non turbarti)WoO 92a([[1802年]])
* 「人は激情を隠そうとする」(Man strebt die Flamme zu verhehlen)WoO 120([[1802年]]頃)
* 奉献歌(Opferlied)WoO 126([[1802年]])
* 「友情の喜び」(Das Glück der Freundschaft)Op.88([[1803年]])
* 「うずらの鳴き声 Der Wachtelschlag」WoO 129([[1803年]])
* 「希望に寄す」(An die Hoffnung) Op.32([[1805年]])
* 「私を思い出して」(Gedenke mein)WoO 139([[1805年]]?、改訂[[1820年]])
* 「愛する人が去ろうとした時、またはリューディアの不実への感情」(Als die Geliebte sich trennen wollte, oder Empfindungen bei Lydiens Untreue)WoO 132([[1806年]])
* アリエッタ「この暗き墓場に」(In questa tomba oscura)WoO 133([[1807年]])
* 「あこがれ」(Sehnsucht)WoO 134([[1808年]])
* 6つの歌(6 Gesänge)Op.75
** ミニヨン(Mignon)([[1809年]])
** 新しき愛、新しき命(Neue Liebe, neues Leben)([[1809年]])
** メフィストの第2の歌(Flohlied des Mephisto)([[1809年]])
** グレーテルの戒め(Gretels Warnung)([[1793年]]頃?)
** 遥かなる恋人に寄す(An die fernen Geliebten)([[1809年]])
** 満ち足りたもの(Der Zufriedene)([[1809年]])
* 4つのアリエッタと1つの二重唱 Op.82([[1809年]]?)
** 希望(Hoffnung)
** 愛の嘆き(Liebes-Klage)
** 二重唱「いらだつ恋人」(L'amante impatiente)
** いらだつ恋人(L'amante impatiente)
** 人生の享楽(Lebens-Genus)(二重唱)
* 「思い出」(Andenken)WoO 136([[1809年]])
* 「遠い国からの歌」(Lied aus der Ferne)WoO137([[1809年]])
* ゲーテの詩による3つの歌 Op.83([[1810年]])
** 寂しさの喜び(Wonne der Wehmut)
** あこがれ(Sehnsucht)
** 彩られたリボンで(Mit einem gemalten Band)
* 「恋人に寄す」(An die Geliebte)WoO 140([[1811年]])
* 「ナイチンゲールの歌」(Der Gesang der Nachtigall)WoO 141([[1813年]])
* 「吟遊詩人の魂」(Der Bardengeist)WoO 142([[1813年]])
* 「戦士の別れ」(Des Kriegers Abschied)WoO 143([[1814年]])
* 「メルケンシュタイン」(Merkenstein)WoO.144([[1814年]])
* 「希望に」(An die Hoffnung)Op.94([[1815年]])
* 「声高き嘆き」(Die laute Klage)WoO 135([[1815年]]?)
* 「秘め事、または愛と真実」(Das Geheimnis, oder Liebe und Wahrheit)WoO 145([[1815年]])
* [[遥かなる恋人に|連作歌曲「遥かなる恋人に寄す」]](An die ferne Geliebte)Op.98([[1816年]])
** 丘の上に私は座って(Auf dem Hügel sitz' ich)
** 山々の青いところ(Wo die Berge so blau)
** 空高く軽やかに舞う鳥(Leichte Segler in den Höhen)
** 空高くゆく雲(Diese Wolken in den Höhen)
** 五月がめぐってきて(Es kehrt der Maien)
** お別れにこの歌を(Nimm sie hin denn diese Lieder)
* 「約束を守る男」(Der Mann von Wort)Op.99([[1816年]])
* 「あこがれ」(Sehnsucht)WoO 146([[1816年]])
* 「山からの呼び声」(Ruf vom Berge)WoO 147([[1816年]])
* 「いずれにしても」(So oder so)WoO 148([[1817年]])
* 「あきらめ」(Resignation)WoO 149([[1817年]])
* 「かわいい子猫」(Das liebe Kätzchen)Hess 133([[1820年]])
* 「丘の上の子供」(Der Knabe auf dem Berge)Hess 134([[1820年]])
* 「星空の下での夜の歌」(Abendlied unterm gestirnten Himmel)WoO 150([[1820年]])
* アリエッタ「キス」(Der Kuss)Op.128([[1822年]])
* 「高貴な人は慈悲深く善良であれ」(Der edle Mensch sei hülfreich und gut!)WoO 151 Hess 132([[1823年]])
* 我が腕の中で揺れよ Hess 137
* アドラータ、おお素晴らしき Hess 138(散逸)
* ビュルガーの愛の報酬 Hess 139(散逸)
====カノン====
* 「恋人の腕に安らかに憩う」(Im Arm der Liebe ruht sich's wohl)(3声)WoO 159([[1795年]]頃)
* 2つのカノン(歌詞無し 3声と4声)WoO 160([[1795年]]頃)
* 「伯爵様、質問に参上しました」(Herr Graf, ich komme zu fragen, wie Sie sich befinden)(3声)WoO 221 Hess 276([[1797年]]頃)
* 「愛する人よ、私はあなたによって悩み、死ぬ」(Languisco emoro pete, mio ben, ch'adoro)(2声)Hess 229([[1803年]])
* カノン(歌詞不詳 2声)WoO 222 Hess 275([[1803年]])
* カノン(歌詞不詳 2声)Hess 274([[1804年]])
* 「永遠にあなたのもの」(Ewig dein)(3声)WoO 161([[1810年]]頃)
* 「タ・タ・タ……親愛なるメルツェル、御機嫌よう」(Ta ta ta...lieber Mälzel, leben Sie wohl)(4声)WoO 162([[1812年]])
* 「苦しみは短く、喜びは永い」(Kurz ist der Schmerz, und ewig ist die Freude)(3声)WoO 163([[1813年]])
* 「友情は幸福の泉」(Freundschaft ist die Quelle wahrer Guückseligkeit)(3声)WoO 164([[1814年]])
* 「新年おめでとう」(Glück zum neuen Jahr)(4声)WoO 165([[1815年]])
* 「苦しみは短く、喜びは永い」(Kurz ist der Schmerz, und ewig ist die Freude)(3声)WoO 166([[1815年]])
* 「ブラウフレ、リンケ」(Brauchle, Lincke)(4声)WoO 167([[1815年]]頃)
* 「沈黙を学べ」(Lerne Schweigen)(3声?の謎のカノン)WoO 168-1([[1816年]])
* 「語れ、語れ」(Rede, rede)(3声)WoO 168-2([[1816年]])
* 「私はあなたにキスする」(Ich küsse Sie)(2声?の謎のカノン)WoO 169([[1816年]])
* 「芸術は永く、人生は短い」(Ars longa, vita brevis)(2声)WoO 170([[1816年]])
* 「幸せはともかく、健康は欠くべからず」(Glück fehl' dir vor allem, Gesundheit auch niemalen!)(4声)WoO 171([[1817年]])(Michael Haydn作)
* 「お願いです、変ホ長調の音階を書いてください」(Ich bitt' dich, schreib' mir die Es-Scala auf)(3声)WoO 172([[1818年]]頃)
* 「それはまっぴら、御免こうむる」(Hol' euch der Teufel! B'hüt' eich Gott)(「死んでもいい、断じて違う」、「悪魔に食われてしまえ、神様お助けよ」などの訳題がある)(2声?の謎のカノン)WoO 173([[1819年]])
* 「信じて望め」(Glaube und hoffe!)(4部合唱)WoO 174([[1819年]])
* 「おめでとう、新年おめでとう」(Glück, Glück zum neuen Jahr!)(3声)WoO 176([[1819年]])
* 「皇帝陛下、お健やかに、お幸せに」(Seiner kaiserlichen Hoheit...Alles Gute! Alles Schöne!)(4声)WoO 179([[1819年]])
* 「聖ペテロは岩なり、ベルナルトゥスは聖者なり」(Sankt Petrus war ein Fels(上声2部), Bernardus war ein Sankt(低声2部))(4声?の謎のカノン)WoO 175([[1820年]])
* 「親愛なる市参事会殿、お寒うござる」(Bester Magistrat, Ihr friert)(2または4声)WoO 177([[1820年]]頃)
* 「修道院長様、私は病気です」(Signor Abate! io sono)(3声)WoO 178(作曲年不明)
* 「ホフマンよ、決してホーフマンになるなかれ」(Hoffmann, sei ha kein Hofmann)(2声)WoO 180([[1820年]])(ホーフマンの意味は「おべっかもの」または「家令」の意味)
* 「今日バーデンを思い出せ」(Gedenket heute an Baden)(4声)WoO 181a([[1820年]])
* 「御機嫌よう」(Gehabt euch wohl)(4声)WoO 181b([[1820年]])
* 「美徳とは空虚な名目ではない」(Tugend ist kein leerer Name)(3声)WoO 181c([[1820年]])
* 「上へ開け」(Thut auf) WoO 223([[1820年]])
* 「おおトビーアス、ハスリンガーの支配者」(O Tobias! Dominus Haslinger!)(3声)WoO 182([[1821年]])
* 「親愛なる伯爵殿、あなたはお人よしだ」(Bester herr Graf, Sie sind ein Schaf!)(4声)WoO 183([[1823年]])
* 「フォルスタッフ役、出番だ」(Falstafferel, lass' dich sehen!)(5声)WoO 184([[1823年]])
* 「人は高貴で、慈悲深く、善良であれ」(Edel sie der mensch, Hülfreich und gut)(6声)WoO 185([[1823年]])
* 「深く感謝申し上げます、このような恩義に深く感謝申し上げます」(Grossen Dank,grossen Dank für solche Gnade) WoO 225 Hess 303([[1823年]])
* 「フェットニュンメルルよ、新生児は勝ち誇っても」(Fettl&uummerl,Bankert haben trimphiert) WoO 226 Hess 260(草稿)([[1823年]])
* 「あなただけを崇める」(Te solo adoro)(2声)WoO 186([[1824年]])
* 「ふざけずに向きを変えろ」(Schwenke dich ohne Schwänke!)(4声)WoO 187([[1824年]])
* 「神は堅き砦」(Gott ist eine feste Burg)(2声?の謎のカノン)WoO 188([[1825年]])
* 「医者よ、死への門を閉ざせ」(Doktor, sperrt das Tor dem Tod)(4声)WoO 189([[1825年]])
* 「お訪ねしました、お医者さん」(Ich war hier, Doktor)(2声?の謎のカノン)WoO 190([[1825年]])
* 「涼しくて、なまぬるくない」(Kühl, nicht lau)(3声)WoO 191([[1825年]])
* 「芸術は永く、人生は短い」(Ars longa, vita brevis)(4声?の謎のカノン)WoO 192([[1825年]])
* 「芸術は永く、人生は短い」(Ars longa, vita brevis)(5声?の謎のカノン)WoO 193(作曲年不明)
* 「門が通れなければ壁を通って」(Si non per portas, per muros)(2声?の謎のカノン)WoO 194([[1825年]])
* 「人生を楽しめ」(Freu' dich des Lebens)(2声)WoO 195([[1825年]])
* 「善に加えて美も」(Das Schöne zu dem Guten)(4声?の謎のカノン)WoO 203([[1825年]])
* 「ホルツよホルツ、四重奏をそのように弾け」(Holz, Holz, geigt die Quartette so)(1声)WoO 204([[1825年]])(Karl Holz作)
* 「間抜けの中の間抜け」(Esel aller Esel)(2声のカノンと1声のオスティナート) WoO 227 Hess 277([[1826年]])
* 「そうあらねばならぬ」(Es muss sein)(4声)WoO 196([[1826年]])
* 「これがその作品だ」(Da ist das Werk)(5声)WoO 197([[1826年]])
* 「我々はみな迷う、ただし迷い方は異なる」(Wir irren allesamt, nur jeder irret anderst)(2声?の謎のカノン)WoO 198([[1826年]])
* 「トビーアスの冗談」 WoO 228b (Hess 285)
* 「私を愛してください、親愛なるヴァイセンバッハよ」 Hess 300
* 「それは少しも妄想ではない」 Hess 301
* 「我らは500匹の豚の如く野蛮なほど元気だ」 Hess 302
* 「私はファゴットを吹く」 Hess 304(草稿)
* 「いわひばり」 Hess 311
* 「半音階カノン」 Hess A.61
* 「全く別の第1年」 Hess A.63
* 「靴屋のカノン」 Hess A.64
* 「神のみが我らの主」
* 「3声のカノン ハ短調」
* 「親愛なる執政官」(3声)
====民謡編曲====
* 25のアイルランドの歌 WoO.152([[1813年]])
* 20のアイルランドの歌 WoO.153([[1813年]])
* 12のアイルランドの歌 WoO.154([[1813年]])
* 26のウェールズの歌 WoO.155([[1814年]])
* 12の各国の歌 WoO.157([[1815年]])
* 7つのイギリスの歌 WoO.158b([[1816年]])
* 6つの各国の歌 WoO.158c([[1817年]])
* 25のスコットランドの歌 Op.108([[1818年]])
* 12のスコットランドの歌 WoO.156([[1818年]])
* 23の各国の歌 WoO.158a([[1818年]])
===編曲作品===
* 劇付随音楽「エグモント」Op.84のクレールヒェンのアリア Hess.93
* 交響曲第7番 イ長調 Op.92の序奏部のピアノ用編曲 Hess.96
* 「ウェリントンの勝利」のピアノ用編曲 Hess.97
* ピアノ三重奏曲第2番の第3楽章のピアノ用編曲 Hess.98(散逸)
===スケッチ、断片、草稿、消失作品、他===
* 「私は「へ」の殿、君は「の」の殿」(8小節) WoO 199 Hess281([[1814年]])
* 歌曲「おお、希望」の主旋律 (4小節 ルドルフ大公への変奏曲主題)WoO 200([[1817年]])
* 「承知しました」(4小節 二重フーガの冒頭) WoO 201([[1817年]])
* 「美しいものを善き人へ」 WoO 202([[1823年]])(第1作)
* 「美しいものを善き人へ」 WoO 203([[1825年]])(第2作)
* 「敵は打ちのめされた」 ニ長調 (8小節の草稿)Hess 305
* 低旋律上の簡単な対位法習作 Hess 233
* 厳格対位法習作 Hess 234
* 自由対位法習作 Hess 235
* 多声部声楽作品「私は君に心から感謝する」の開始部草稿 Hess 329
* 変ロ長調の断片
* フーガのスケッチ
* 低音部のスケッチ
* 練習曲の草稿
* ハ短調の断片
* アレグレットのスケッチ(消失)
* 情景
* 未明の断片
* 四重奏曲(未完)
* 対位法練習曲
* フーガの楽句
* 練習曲
* 交響曲のスケッチ
* 3声のカノン ハ短調
* ミサ曲 嬰ハ短調のスケッチ
* カノンのスケッチ
* 交響曲第9番の第2楽章のスケッチ
* ピアノ曲の断片
* 交響曲第7番の第4楽章のスケッチ
* リリック・オペラ「バッカス」のスケッチ
* ソナタ ハ短調のスケッチ
* ヘ長調の断片
* メヌエット(消失)
* ピアノ協奏曲第3番 Op.37のスケッチ
* アニュス・デイの開始部分のスケッチ
* 静かな天から地上に降り立つ
==作品番号順一覧==
ここではop.及びWoO.番号それぞれについて番号順のリストを掲げる。どちらの番号もついていない作品は挙げられていない。また、これらの番号は作曲の順番とは前後することがある。
(WoOについては未完)
===作品番号(op.)===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! 作品番号 !! 作品タイトル !! 作曲年代 !! 編成 !! 備考
|-
| 1-1 || [[ピアノ三重奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調]] || 1792,<br/>94-95(改訂) || pf,vn,vc ||
|-
| 1-2 || [[ピアノ三重奏曲第2番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第2番 ト長調]] || 1793-95 || pf,vn,vc ||
|-
| 1-3 || [[ピアノ三重奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調]] || 1793-95 || pf,vn,vc ||
|-
| 2-1 || [[ピアノソナタ第1番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第1番 ヘ短調]] || 1793-94 || pf ||
|-
| 2-2 || [[ピアノソナタ第2番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第2番 イ長調]] || 1793-94 || pf ||
|-
| 2-3 || [[ピアノソナタ第3番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第3番 ハ長調]] || 1794-95 || pf ||
|-
| 3 || [[弦楽三重奏曲第1番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第1番 変ホ長調]]|| 1794 || vn,va,vc ||
|-
| 4 || 弦楽五重奏曲 変ホ長調 || 1795 || vn2,va2,vc || 管楽八重奏曲op103の編曲
|-
| 5-1 || [[チェロソナタ第1番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第1番 ヘ長調]] || 1796 || vc,pf ||
|-
| 5-2 || [[チェロソナタ第2番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第2番 ト短調]] || 1796 || vc,pf ||
|-
| 6 || 四手のためのソナタ ニ長調 || 1797 || pf(4手) ||
|-
| 7 || [[ピアノソナタ第4番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第4番 変ホ長調]] || 1796-97 || pf ||
|-
| 8 || 弦楽三重奏のためのセレナード ニ長調 || 1797 || vn,va,vc ||
|-
| 9-1 || [[弦楽三重奏曲第2番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第2番 ト長調]]|| 1797-98 || vn,va,vc ||
|-
| 9-2 || [[弦楽三重奏曲第3番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第3番 ニ長調]]|| 1797-98 || vn,va,vc ||
|-
| 9-3 || [[弦楽三重奏曲第4番 (ベートーヴェン)|弦楽三重奏曲第4番 ハ短調]]|| 1797-98 || vn,va,vc ||
|-
| 10-1 || [[ピアノソナタ第5番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第5番 ハ短調]] || 1795-97 || pf ||
|-
| 10-2 || [[ピアノソナタ第6番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第6番 ヘ長調]] || 1796-97 || pf ||
|-
| 10-3 || [[ピアノソナタ第7番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第7番 ニ長調]] || 1797-98 || pf ||
|-
| 11 || [[ピアノ三重奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調『街の歌』]] || 1797 || pf,cl/vn,vc || 1798年編曲
|-
| 12-1 || [[ヴァイオリンソナタ第1番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第1番 ニ長調]] || 1797-98 || vn,pf ||
|-
| 12-2 || [[ヴァイオリンソナタ第2番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第2番 イ長調]] || 1797-98 || vn,pf ||
|-
| 12-3 || [[ヴァイオリンソナタ第3番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第3番 変ホ長調]] || 1798 || vn,pf ||
|-
| 13 || [[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第8番 ハ短調『悲愴』]] || 1797-98 || pf ||
|-
| 14-1 || [[ピアノソナタ第9番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第9番 ホ長調]] || 1797-98 || pf ||
|-
| 14-2 || [[ピアノソナタ第10番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第10番 ト長調]] || 1799 || pf ||
|-
| 15 || [[ピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第1番 ハ長調]] || 1793-1800 || pf,Orch ||
|-
| 16 || [[ピアノと管楽のための五重奏曲 (ベートーヴェン)|ピアノと管楽器のための五重奏曲 変ホ長調]] || 1796 || pf,ob,cl,hrn,fg || 作曲者によるピアノ四重奏版あり
|-
| 17 || [[ホルンソナタ (ベートーヴェン)|ホルンソナタ ヘ長調]] || 1800 || hrn,pf || チェロとピアノ版あり
|-
| 18-1 || [[弦楽四重奏曲第1番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調]] || 1799 || SQ ||
|-
| 18-2 || [[弦楽四重奏曲第2番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第2番 ト長調]] || 1799 || SQ ||
|-
| 18-3 || [[弦楽四重奏曲第3番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第3番 ニ長調]] || 1798-99 || SQ ||
|-
| 18-4 || [[弦楽四重奏曲第4番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第4番 ハ短調]] || 1799 || SQ ||
|-
| 18-5 || [[弦楽四重奏曲第5番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第5番 イ長調]] || 1799 || SQ ||
|-
| 18-6 || [[弦楽四重奏曲第6番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調]] || 1800 || SQ ||
|-
| 19 || [[ピアノ協奏曲第2番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第2番変ロ長調]] || 1795 || pf,Orch ||
|-
| 20 || [[七重奏曲 (ベートーヴェン)|七重奏曲 変ホ長調]] || 1799 || vn,va,vc,cb,<br/>hrn,cl,fg ||
|-
| 21 || [[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|交響曲第1番 ハ長調]] || 1799-1800 || Orch ||
|-
| 22 || [[ピアノソナタ第11番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第11番 変ロ長調]] || 1800 || pf ||
|-
| 23 || [[ヴァイオリンソナタ第4番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第4番 イ短調]] || 1800-01 || vn,pf || 当初Op.24とセットで出版予定
|-
| 24 || [[ヴァイオリンソナタ第5番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調『春』]] || 1800-01 || vn,pf ||
|-
| 25 || セレナード ニ長調 || 1801 || fl,vn,va || 三重奏のための
|-
| 26 || [[ピアノソナタ第12番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第12番 変イ長調]] || 1800-01 || pf ||
|-
| 27-1 || [[ピアノソナタ第13番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第13番 変ホ長調『幻想曲風ソナタ』]] || 1800-01 || pf ||
|-
| 27-2 || [[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調『月光』]] || 1801 || pf ||
|-
| 28 || [[ピアノソナタ第15番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ15番 ニ長調『田園』]] || 1801 || pf ||
|-
| 29 || 弦楽五重奏曲 ハ長調 || 1800-01 || 2vn,2va,vc ||
|-
| 30-1 || [[ヴァイオリンソナタ第6番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第6番 イ長調]] || 1801-02 || vn,pf ||
|-
| 30-2 || [[ヴァイオリンソナタ第7番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第7番 ハ短調]] || 1801-02 || vn,pf ||
|-
| 30-3 || [[ヴァイオリンソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第8番 ト長調]] || 1801-02 || vn,pf ||
|-
| 31-1 || [[ピアノソナタ第16番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第16番 ト長調]] || 1802 || pf ||
|-
| 31-2 || [[ピアノソナタ第17番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第17番 ニ短調『テンペスト』]] || 1802 || pf ||
|-
| 31-3 || [[ピアノソナタ第18番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第18番 変ホ長調]] || 1802 || pf ||
|-
| 32 || 歌曲『希望に寄せて』<br/>(''An die Hoffnung'') || 1805 || 独唱,pf ||
|-
| 33 || 7つのバガテル || 1802 || pf ||
|-
| 34 || 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 || 1802 || pf ||
|-
| 35 || [[エロイカ変奏曲|15の変奏曲とフーガ 変ホ長調]] || 1802 || pf || 『プロメテウスの創造物』の主題による
|-
| 36 || [[交響曲第2番 (ベートーヴェン)|交響曲第2番 ニ長調]] || 1802 || Orch || ピアノ三重奏版あり(1805)
|-
| 37 || [[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番 ハ短調]] || 1803 || pf,Orch ||
|-
| 38 || [[七重奏曲 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第8番 変ホ長調]] || 1803 || pf,vn,vc || Op.20の編曲
|-
| 39 || 2つの前奏曲 || 1789 || pf ||
|-
| 40 || [[ロマンス第1番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番 ト長調]] || 1801-02 || vn,Orch ||
|-
| 41 || セレナード ニ長調 || 1803 || pf,fl,vn || Op.25の他人による編曲を校訂したもの
|-
| 42 || ノットゥルノ ニ長調 || 1803 || va,pf || Op.8の他人による編曲を校訂したもの
|-
| 43 || バレエ音楽『[[プロメテウスの創造物]]』<br/>(''Die Geschöpfe des Prometheus'') || 1800-01 || Orch ||
|-
| 44 || [[ピアノ三重奏曲第10番 (ベートーヴェン)|ディッタースドルフの『赤頭巾』の主題による14の変奏曲 変ホ長調]]|| 1792,<br/>1794-95(改訂) || pf,vn,vc || ピアノ三重奏曲第10番
|-
| 45 || 四手のための3つの行進曲 || 1803 || pf ||
|-
| 46 || 歌曲『アデライーデ』<br/>(''Adelaide'') || 1795 || 独唱,pf ||
|-
| 47 || [[ヴァイオリンソナタ第9番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調『クロイツェル』]] || 1802/03 || vn,pf ||
|-
| 48 || ゲレルトの詩による6つの歌曲 || 1798末-1802 || 独唱,pf || 第1曲 祈り<br/>第2曲 隣人の愛<br/>第3曲 死について<br/>第4曲 自然における神の栄光<br/>第5曲 神の力と栄光<br/>第6曲 懺悔の歌
|-
| 49-1 || [[ピアノソナタ第19番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第19番 ト短調]](やさしいソナタ) || 1797? || pf ||
|-
| 49-2 || [[ピアノソナタ第20番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第20番 ト長調]](やさしいソナタ) || 1795-96 || pf ||
|-
| 50 || [[ロマンス第2番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番 ヘ長調]] || 1798 || vn,Orch ||
|-
| 51-1 || ロンド ハ長調 || 1797? || pf ||
|-
| 51-2 || ロンド ト長調 || 1798? || pf ||
|-
| 52 || 8つの歌曲 || 1790-96 || 独唱,pf || 第1曲 ウリアンの世界旅行<br/>第2曲 炎の色<br/>第3曲 憩いの歌<br/>第4曲 5月の歌<br/>第5曲 モリーの別れ<br/>第6曲 愛<br/>第7曲 マルモット<br/>第8曲 小さな愛らしい花
|-
| 53 || [[ピアノソナタ第21番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第21番 ハ長調『ワルトシュタイン』]] || 1803-04 || pf ||
|-
| 54 || [[ピアノソナタ第22番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第22番 ヘ長調]] || 1804 || pf ||
|-
| 55 || [[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番 変ホ長調『英雄』]] || 1803 || Orch ||
|-
| 56 || [[三重協奏曲 (ベートーヴェン)|ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲 ハ長調]] || 1803-04,05 || pf,vn,vc,Orch || 1802年の同名作品あり(未完)
|-
| 57 || [[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番 ヘ短調『熱情』]] || 1804-05 || pf ||
|-
| 58 || [[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番 ト長調]] || 1805-06 || pf,Orch || 室内楽編成版あり
|-
| 59-1 || [[弦楽四重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調『ラズモフスキー第1番』]] || 1806 || SQ ||
|-
| 59-2 || [[弦楽四重奏曲第8番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第8番 ホ短調『ラズモフスキー第2番』]] || 1806 || SQ ||
|-
| 59-3 || [[弦楽四重奏曲第9番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第9番 ハ長調『ラズモフスキー第3番』]] || 1806 || SQ ||
|-
| 60 || [[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|交響曲第4番 変ロ長調]] || 1806 || Orch ||
|-
| 61 || [[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲 ニ長調]] || 1806 || vn,Orch || ピアノ協奏曲版あり
|-
| 61a || ピアノ協奏曲 ニ長調 || 1807 || pf,Orch || op.61の編曲
|-
| 62 || 『[[コリオラン]]』序曲<br/>(''Coriolan'') || 1807 || Orch || H.コリンによる同名の悲劇の序曲
|-
| 63 || ピアノ三重奏曲 || 1806 || pf,vn,vc || op.4の他人による編曲
|-
| 64 || チェロとピアノのための二重奏曲 || 1807 || vc,pf || op.3の他人による編曲<ref>Ludwig van Beethoven, ''Sonate für Violonchello und Klavier opus 64 (nach dem Streich-Trio Es-Dur opus 3)'', Herausgegeben von Erich Wilke. Schott Musik International, Mainz 1984 (CB 125 ISMN M-001-13874-1). Vorwort zur Neuausgabe von Harro Schmidtによれば、opus 64 は、おそらくベートーヴェンの「監督、指導」(Aufsicht, Leitung) のもとに編曲された曲なので、「チェロソナタ第6番」と称しても良い作品。</ref>
|-
| 65 || シェーナとアリア『ああ、不実なる者よ』<br/>(''Ah perfido!'') || 1796 || S,Orch || メタスタージオ詞
|-
| 66 || モーツァルトの『魔笛』の主題による12の変奏曲 ト長調 || 1796 || vc,pf || アリア『恋人か女房か』の主題による
|-
| 67 || [[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番 ハ短調『運命』]] || 1807 || Orch ||
|-
| 68 || [[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番 ヘ長調『田園』]] || 1807末-08 || Orch ||
|-
| 69 || [[チェロソナタ第3番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第3番 イ長調]] || 1807-08 || vc,pf ||
|-
| 70-1 || [[ピアノ三重奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調『幽霊』]] || 1808 || pf,vn,vc ||
|-
| 70-2 || [[ピアノ三重奏曲第6番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第6番 変ホ長調]] || 1808 || pf,vn,vc ||
|-
| 71 || 管楽六重奏曲 変ホ長調 || 1796? || 2cl,2hrn,2fg ||
|-
| 72 || 歌劇『[[フィデリオ]]』<br/>(''Fidelio'') || 1814 || || 全2幕
|-
| 72a || [[レオノーレ序曲第2番]] || 1805 || Orch || オペラ『レオノーレ』(初稿,Hess.109)より
|-
| 72b || [[レオノーレ序曲第3番]] || 1806 || Orch || オペラ『レオノーレ』(第2稿,Hess.110)より
|-
| 73 || [[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調『皇帝』]] || 1809 || pf,Orch ||
|-
| 74 || [[弦楽四重奏曲第10番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調『ハープ』]] || 1809 || SQ ||
|-
| 75 || 6つの歌曲 || 1790,98<br/>1809 || 独唱,pf ||
|-
| 76 || 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 || 1809 || pf || または『トルコ行進曲の主題による変奏曲』
|-
| 77 || 幻想曲 || 1809 || pf ||
|-
| 78 || [[ピアノソナタ第24番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第24番 嬰ヘ長調『テレーゼ』]] || 1809 || pf ||
|-
| 79 || [[ピアノソナタ第25番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第25番 ト長調『かっこう』]] || 1809 || pf ||
|-
| 80 || [[合唱幻想曲]] ハ短調 <br/>(''Fantasie für Klavier, Chor und Orchester'') || 1808 || pf,cho,Orch || ピアノ、合唱と管弦楽のための
|-
| 81a || [[ピアノソナタ第26番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第26番 変ホ長調『告別』]] || 1809-10 || pf ||
|-
| 81b || [[六重奏曲 (ベートーヴェン)|六重奏曲 変ホ長調]]|| 1795? || 2vn,va,vc,2hrn ||
|-
| 82 || 4つのアリエッタと1つの二重唱曲 || 1809 || 2独唱,pf ||
|-
| 83 || ゲーテの詩による3つの歌曲 || 1810 || 独唱,pf ||
|-
| 84 || [[エグモント (劇音楽)|付随音楽『エグモント』]]<br/>(''Egmont'') || 1809-10 || S,cho,Orch || 序曲と9曲
|-
| 85 || オラトリオ『[[オリーヴ山上のキリスト]]』<br/>(''Christus am Ölberge'') || 1804 || S,T,Bs,<br/>cho,Orch || F.X.フーバー詞
|-
| 86 || [[ミサ曲 ハ長調 (ベートーヴェン)|ミサ曲 ハ長調]] || 1807 || cho,Orch ||
|-
| 87 || 三重奏曲 ハ長調 || 1795 || 2ob,Eng-hrn || 2本のオーボエとイングリッシュホルンのための
|-
| 88 || 歌曲『人生の幸せ』<br/>(''Das Gluck der Freundschaft'') || 1803 || 独唱,pf || 『友情の喜び』とも
|-
| 89 || ポロネーズ ハ長調 || 1814 || pf ||
|-
| 90 || [[ピアノソナタ第27番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第27番 ホ短調]] || 1814 || pf ||
|-
| 91 || 『[[ウェリントンの勝利|ウェリントンの勝利、またはビトリアの戦い]]』<br/>(''Wellingtons Sieg oder die Schlacht bei Vittoria'') || 1813 || Orch || または『戦争交響曲』
|-
| 92 || [[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番 イ長調]] || 1811-12 || Orch ||
|-
| 93 || [[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番 ヘ長調]] || 1812 || Orch ||
|-
| 94 || 歌曲『希望に寄せて』<br/>(''An die Hoffnung'') || 1815 || 独唱,pf || 第2作
|-
| 95 || [[弦楽四重奏曲第11番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調『セリオーソ』]] || 1810 || SQ || [[グスタフ・マーラー|マーラー]]による弦楽合奏版あり
|-
| 96 || [[ヴァイオリンソナタ第10番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第10番 ト長調]] || 1812 || pf,vn || 1815年改訂
|-
| 97 || [[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調『大公』]] || 1811 || pf,vn,vc ||
|-
| 98 || [[遥かなる恋人に|連作歌曲『遥かな恋人に寄せて』]]<br/>(''An die ferne Geliebte'') || 1816 || 独唱,pf || 全6曲
|-
| 99 || 歌曲『約束を守る男』<br/>(''Der Mann von Wort'') || 1816 || 独唱,pf ||
|-
| 100 || 歌曲『メルケンシュタイン』<br/>(''Merkenstein'') || 1814 || 2独唱,pf || 第2作
|-
| 101 || [[ピアノソナタ第28番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第28番 イ長調]] || 1816 || pf ||
|-
| 102-1 || [[チェロソナタ第4番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第4番 ハ長調]] || 1815 || vc,pf ||
|-
| 102-2 || [[チェロソナタ第5番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第5番 ニ長調]] || 1815 || vc,pf ||
|-
| 103 || 管楽八重奏曲 変ホ長調 || 1792 || 2ob,2cl,<br/>2hrn,2fg ||
|-
| 104 || [[ピアノ三重奏曲第3番 (ベートーヴェン)|弦楽五重奏曲]] || 1817 || 2vn,2va,vc || Op.1-3の編曲
|-
| 105 || 6つの民謡主題と変奏曲 || 1818/19 || fl,vn,pf || フルートまたはバイオリンの伴奏を持つピアノのための
|-
| 106 || [[ピアノソナタ第29番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第29番 変ロ長調『ハンマークラヴィア』]] || 1817-18 || pf ||
|-
| 107 || 10の民謡主題と変奏曲 || 1818/19 || fl,vn,pf || フルートまたはバイオリンの伴奏を持つピアノのための
|-
| 108 || 25のスコットランドの歌 || 1812-18 || 独唱,pf ||
|-
| 109 || [[ピアノソナタ第30番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第30番 ホ長調]] || 1820 || pf ||
|-
| 110 || [[ピアノソナタ第31番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第31番 変イ長調]] || 1821-22 || pf ||
|-
| 111 || [[ピアノソナタ第32番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第32番 ハ短調]] || 1821-22 || pf ||
|-
| 112 || カンタータ『[[静かな海と楽しい航海 (ベートーヴェン)|静かな海と楽しい航海]]』<br/>(''Meeresstille und glückliche Fahrt'') || 1815 || cho,Orch || ゲーテ詞
|-
| 113 || 付随音楽『[[アテネの廃墟]]』<br/>(''Die Ruinen von Athen'') || 1811 || cho,Orch ||
|-
| 114 || 『アテネの廃墟』のための行進曲と合唱曲 || 1822 || cho,Orch ||
|-
| 115 || 『[[命名祝日]]』序曲<br/>(''Feastday'') || 1814-15 || Orch || 『霊名祝日』とも
|-
| 116 || 三重唱曲『不信心な者よ、おののけ』<br/>(''Tramte, empi tremate'') || 1801-02,14 || 3独唱,Orch || ベットニー詞
|-
| 117 || 付随音楽『[[シュテファン王|シュテファン王、またはハンガリー最初の善政者]]』<br/>(''König Stephan'') || 1811 || cho,Orch || コツェブーによる祝典劇
|-
| 118 || 四重唱曲『悲歌』<br/>(''Eligischer Gesang'') || 1814 || cho,Orch ||
|-
| 119 || 11の新しいバガテル || 1822 || pf ||
|-
| 120 || [[ディアベリ変奏曲|ディアベリのワルツによる33の変奏曲 ハ長調]] || 1819,22-23 || pf ||
|-
| 121a || [[カカドゥ変奏曲|ピアノ三重奏曲第11番 ト長調]]|| 1803 || pf,vn,vc || 通称『カカドゥ変奏曲』
|-
| 121b || 奉献歌<br/>(''Opferlied'') || 1822 || cho,Orch || F.マッテイソン詞
|-
| 122 || 盟友の歌<br/>(''Bundeslied'') || 1823-24 || cho,Orch || ゲーテ詞
|-
| 123 || [[ミサ・ソレムニス#ベートーヴェンのミサ・ソレムニス|ミサ・ソレムニス ニ長調]] || 1822 || S,A,T,Br,<br/>cho,Orch ||
|-
| 124 || [[献堂式序曲|『献堂式』序曲]]<br/>(''Die Weihe des Hauses'') || 1822 || Orch || 祝典劇のための
|-
| 125 || [[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番 ニ短調『合唱』]] || 1818,22-24 || S,A,T,Br,<br/>cho,Orch ||
|-
| 126 || [[6つのバガテル_(ベートーヴェン)|ピアノのための6つのバガテル]] || 1824 || pf ||
|-
| 127 || [[弦楽四重奏曲第12番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調]] || 1825 || SQ ||
|-
| 128 || アリエッタ『接吻』<br/>(''Der Kuss'') || 1822 || 独唱,pf || 『口づけ』とも
|-
| 129 || [[失われた小銭への怒り|ロンド・カプリッチョ ト長調『失われた小銭への怒り』]]<br/>(''Die Wut über den verlorenen Groschen'') || 1795 || pf ||
|-
| 130 || [[弦楽四重奏曲第13番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調]] || 1825-26 || SQ ||
|-
| 131 || [[弦楽四重奏曲第14番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調]] || 1825-26 || SQ || [[ディミトリ・ミトロプーロス|ミトロプーロス]]による弦楽合奏版あり
|-
| 132 || [[弦楽四重奏曲第15番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第15番 イ短調]] || 1825 || SQ ||
|-
| 133 || [[大フーガ (ベートーヴェン)|大フーガ 変ロ長調]]<br/>(''Große Fuge'') || 1825 || SQ || Op.130の本来の終楽章
|-
| 134 || 4手ピアノのための大フーガ 変ロ長調 || 1826 || pf || Op.133より編曲
|-
| 135 || [[弦楽四重奏曲第16番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調]] || 1826 || SQ ||
|-
| 136 || カンタータ『栄光の瞬間』<br/>(''Der glorreiche Augenblick'') || 1814 || cho,Orch || 『栄光の時』とも
|-
| 137 || 弦楽五重奏のためのフーガ ニ長調 || 1817 || 2vn,2va,vc ||
|-
| 138 || [[レオノーレ序曲第1番]] || 1805/07 || Orch ||
|-
|}
===WoO番号===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+
! WoO. !! Hess !! 作品タイトル !! 作曲年代 !! 編成 !! 備考
|-
| 1 || || バレエ音楽『騎士のバレエ』<br/>(''Musik zu einem Ritterballett'') || 1790-91 || Orch ||
|-
| 2a || rowspan="2"|117 || 悲劇『タルペイア』のための勝利の行進曲<br/>(''Triumphal March for Kuffner's tragedy "Tarpeja" '') || rowspan="2"|1813 || rowspan="2"|Orch || rowspan="2"|C.クフナーの劇のための
|-
| 2b || 『タルペイア』第2幕への前奏曲<br/>(''Prelude to Act II of "Tarpeja" '')
|-
| 3 || || 祝賀メヌエット 変ホ長調<br/>(''Gratulations - Menuett in E flat major'') || 1822 || Orch ||
|-
| 4 || || [[ピアノ協奏曲第0番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第0番 変ホ長調]]<br/>(''Piano Concerto in E flat major'') || 1784 || pf,Orch || ピアノ独奏部のみ現存
|-
| 5 || 10 || ヴァイオリン協奏曲 ハ長調<br/>(''Violin Concerto in C major'') || 1790-92 || vn,Orch || 断片のみ
|-
| 6 || || [[ピアノと管弦楽のためのロンド]] 変ロ長調<br/>(''Rondo in B flat major'') || 1793 || pf,Orch || Op.19のフィナーレとして作曲
|-
| 7 || || 12のメヌエット || 1795 || Orch ||
|-
| 8 || || 12のドイツ舞曲 || 1795 || Orch || 1797年改訂
|-
| 9 || 26 || 6つの社交メヌエット || 1795 || 2vn,vc ||
|-
| 10 || || 6つのメヌエット || 1795 || Orch/pf || ピアノ編曲版のみ現存
|-
| 11 || 27 || 7つのレントラー || 1799 || 2vn,vc || ピアノ編曲版のみ現存
|-
| 12 || 2 || 12のメヌエット || 1799 || || 偽作=弟カール作
|-
| 13 || 5 || 12のドイツ舞曲 || 1792-97 || Orch || ピアノ編曲版のみ現存
|-
| 14 || || 12のコントルダンス || 1791-1802 || Orch ||
|-
| 15 || || 6つのレントラー || 1802 || 弦楽 ||
|-
| 16a || 3 || 12のエコセーズ || rowspan="2"|- || rowspan="2"|- || rowspan="2"|ベートーヴェンの主題を用いた他人の作
|-
| 16b || || 12のワルツ
|-
| 17 || 10 || 11のウィーン舞曲『メートリング舞曲』 || 1809 || Orch<br/>(7楽器) || 偽作
|-
| 18 || 7 || 軍楽のための行進曲第1番『ヨルク行進曲』(ボヘミア国防軍のために)<br/>(''March für die bohmische Landwehr"'') || 1809-10 || wind || ヘ長調
|-
| 19 || 9 || 行進曲とトリオ ヘ長調 || 1810 || wind || 軍楽のための行進曲
|-
| 20 || || 行進曲 ハ長調『帰営譜』<br/>(''Zapfenstreich'') || 1809-22 || wind || 軍楽のための行進曲
|-
| 21 || || 軍楽のためのポロネーズ ニ長調 || 1810 || wind ||
|-
| 22 || || 軍楽のためのエコセーズ ニ長調 || 1809-10 || wind ||
|-
| 23 || 4 || 軍楽のためのエコセーズ ト長調 || 1810 || wind || チェルニーによるピアノ編曲版のみ現存
|-
| 24 || || 軍楽のための行進曲 ニ長調 || 1816 || wind ||
|-
| 25 || || ロンディーノ 変ホ長調 || 1792-93 || ob,cl,hrn,fg || Op.103の終楽章のオリジナル版
|-
| 26 || 17 || 2本のフルートのための二重奏曲 ト長調 || 1792 || 2fl ||
|-
| 27 || || 3つの二重奏曲<br/>(''3 Duos'') || ? || cl,fg || 偽作あり
|-
| 28 || 18 || モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の主題による変奏曲 ハ長調 || 1795 || ob.Ehg-hrn || 『お手をどうぞ』の主題による
|-
| 29 || || 擲弾兵行進曲 変ロ長調<br/>(''March in B flat major "Grenadiermarsch"'') || 1797末-98 || 2cl,2hrn,2fg || 管楽六重奏のための
|-
| 30 || || 4本のトロンボーンのための3つのエクアーレ || 1812 || 4trb ||
|-
| 31 || || 2声のフーガ ニ長調 || 1783 || org ||
|-
| 32 || || 二重奏曲 変ホ長調『2つのオブリガート眼鏡付き』<br/>(''Duo in E flat major "mit zwei obligaten Augengläsern"'') || 1796-97? || va,vc || ヴィオラとチェロのための
|-
| rowspan="6"|33 || || 音楽時計のための5つの小品 || rowspan="6"|1799 || rowspan="6"|fl || rowspan="6"|
|-
| 103 || 第1曲 アダージョ・アッサイ ヘ長調
|-
| 104 || 第2曲 スケルツォ ト長調
|-
| 105 || 第3曲 アレグロ ト長調
|-
| 106-1 || 第4曲 アレグロ・ノン・ピウ・モルト ハ長調
|-
| 106-2 || 第5曲 メヌエット ハ長調
|-
| 34 || 42 || 2つのヴァイオリンのための小品 || 1822 || 2vn ||
|-
| 35 || 273 || 2つのヴァイオリンのための小品 イ長調(器楽カノン) || 1825 || 2vn ||
|-
| 36 || || [[3つのピアノ四重奏曲 (ベートーヴェン)|3つのピアノ四重奏曲]] || 1785 || pf/cemb,<br/>vn,va,vc || チェンバロ任意
|-
| 37 || || 三重奏曲 ト長調 || 1786 || fl,fg,pf ||
|-
| 38 || 49 || ピアノ三重奏曲 変ホ長調 || 1785-91 || pf,vn,vc ||
|-
| 39 || 50 || ピアノ三重奏曲 変ロ長調 || 1812 || pf,vn,vc || アレグレット楽章のみ
|-
| 40 || || モーツァルトの『フィガロの結婚』の主題による12の変奏曲 ヘ長調 || 1792-93 || vn,pf || 『もし伯爵様が踊るなら』より
|-
| 41 || || ロンド ト長調 || 1793-94 || vn,pf ||
|-
| 42 || || 6つのドイツ舞曲 || 1796 || vn,pf ||
|-
| 43a || || ソナチネ ハ短調 || 1796 || mand,cemb ||
|-
| 43b || 44 || アダージョ 変ホ長調 || 1796 || mand,cemb ||
|-
| 44a || 43 || ソナチネ ハ長調 || 1796 || mand,cemb ||
|-
| 44b || 45 || アンダンテと変奏曲 ニ長調 || 1796 || mand,cemb ||
|-
| 45 || || ヘンデルの『マカベウスのユダ』の主題による12の変奏曲 ト長調 || 1796 || vc,pf || 『見よ、勇者は帰る』による
|-
| 46 || || モーツァルトの『魔笛』の主題による7つの変奏曲 変ホ長調 || 1801 || vc,pf || 『愛を感じる男たちには』による
|-
| 47 || || [[選帝侯ソナタ|3つの選帝侯ソナタ]]<br/>(''Kurfürstensonate'') || 1783 || pf ||
|-
| 48 || 51 || ロンド ハ長調 || 1783/86 || pf ||
|-
| 49 || || ロンド イ長調 || 1783 || pf ||
|-
| 50 || || ソナタ楽章とアレグレット ヘ長調 || 1790-92 || pf || F.ヴェーゲラーのために
|-
| 51 || || やさしいソナタ ハ長調 || 1791-98 || pf ||
|-
| 52 || || バガテル ハ短調 || 1795-1822 || pf ||
|-
| 53 || || アレグレット ハ短調 || 1796-97 || pf ||
|-
| 54 || || ピアノ小品 ハ長調/ハ短調『楽しく - 悲しく』<br/>(''Piano Piece "Lustig - traurig"'') || 1802 || pf ||
|-
| 55 || || 前奏曲 ヘ短調 || 1803 || pf ||
|-
| 56 || || バガテル ハ長調 || 1803-22 || pf ||
|-
| 57 || || [[アンダンテ・ファヴォリ|アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調]]<br/>(''Andante favori'') || 1803-04 || pf || 『ワルトシュタイン・ソナタ』の第2楽章として作曲
|-
| 58 || || モーツァルトの[[ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲(K.466)]]のカデンツァ || 1809 || pf || 第1楽章と第3楽章
|-
| 59 || || [[エリーゼのために|バガテル イ短調『エリーゼのために』]]<br/>(''Bagatelle in A minor "Für Elise"'') || 1810 || pf ||
|-
| 60 || || バガテル 変ロ長調『やや生き生きと』<br/>(''Bagatelle in B flat major "Zeimlich lebhaft"'') || 1818 || pf ||
|-
| 61 || 62 || アレグレット ロ短調 || 1821 || pf || ピアノのための小品
|-
| 61a || 56 || ピアノのための小品 ト短調 || 1825 || pf ||
|-
| 62 || 41 || 最後の楽想 ハ長調(アンダンテ・マエストーソ)<br/>(''"Letzter musikalischer Gedanke"'') || 1826 || pf || 原曲は弦楽五重奏のための冒頭のスケッチ
|-
| 63 || || [[ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲]] ハ短調 || 1782 || pf ||
|-
| 64 || || スイスの歌による6つのやさしい変奏曲 ヘ長調 || 1790-92 || pf/hp ||
|-
| 65 || || リギーニの『愛よ来たれ』の主題による24の変奏曲 ニ長調 || 1790-91 || pf || 主題はアリエッタ
|-
| 66 || || ディッタースドルフの『赤頭巾』の主題による13の変奏曲 イ長調 || 1792 || pf || アリエッタ『昔ひとりの老人が』による
|-
| 67 || || ワルトシュタイン伯爵の主題による8つの変奏曲 ハ長調 || 1790-92 || pf || 4手のための
|-
| 68 || || ハイベルのバレエ『妨げられた結婚』の主題による12の変奏曲 ハ長調 || 1795 || pf || オペラの「ヴィガーノ風メヌエット」より
|-
| 69 || || パイジェッロの『水車小屋の娘』のアリアによる変奏曲 イ長調 || 1795 || pf || アリア『田舎の愛ほど美しいものはない』による
|-
| 70 || || パイジェッロの『水車小屋の娘』の主題による変奏曲 ト長調 || 1795 || pf || 二重唱『うつろな心』による
|-
| 71 || || ヴラニツキーのバレエ『森の娘』の主題による変奏曲 イ長調 || 1796 || pf || ロシア風舞曲の主題による
|-
| 72 || || グレトリの歌劇『獅子心王リチャード』のロマンスによる変奏曲 ハ長調 || 1796-97 || pf || ロマンス『燃える恋』による
|-
| 73 || || サリエリの『ファルスタッフ』の主題による変奏曲 変ロ長調 || 1799 || pf || 二重唱『まさにその通り』による
|-
| 74 || || ゲーテの『君を思う』による6つの変奏曲 ニ長調 || 1799/<br/>1804-04 || pf || 4手のための
|-
| 75 || || ヴィンターの歌劇『中止された奉献祭』の主題による7つの変奏曲 ヘ長調 || 1799 || pf || 四重唱『子よ、静かにお休み』による
|-
| 76 || || ジュスマイヤーの歌劇『ソリマン2世』の主題による8つの変奏曲 ヘ長調 || 1799 || pf || 三重唱『たわむれ、ふざけて』による
|-
| 77 || || 創作主題による6つのやさしい変奏曲 ト長調 || 1800 || pf ||
|-
| 78 || || イギリス国歌の主題による7つの変奏曲 ハ長調 || 1803 || pf ||
|-
| 79 || || イギリス民謡『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 || 1803 || pf ||
|-
| 80 || || 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 || 1806 || pf ||
|-
| 81 || || アルマンド イ長調 || 1793-1822 || pf ||
|-
| 82 || || メヌエット 変ホ長調 || 1803 || pf ||
|-
| 83 || || 6つのエコセーズ 変ホ長調 || 1806 || pf ||
|-
| 84 || || ワルツ 変ホ長調 || 1824 || pf ||
|-
| 85 || || ワルツ ニ長調 || 1825 || pf ||
|-
| 86 || || エコセーズ 変ホ長調 || 1825 || pf ||
|-
| 87 || || 皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ<br/>(''Cantata "Trauerkantate auf den Tod Joseph II"'') || 1790 || 独唱,cho,<br/>Orch ||
|-
| 88 || || 皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ<br/>(''Cantata "Kantate auf die Erhebung Leopold II zur Kaiserwürde"'') || 1790 || 独唱,cho,<br/>Orch ||
|-
| 89 || || アリア『接吻への試み』<br/>(''Aria "Prüfung des Küssens"'') || 1790-92 || Bs,Orch ||
|-
| 90 || || アリア『娘と仲良く』<br/>(''Aria "Mit Mädeln sich vertragen"'') || 1790-92 || Bs,Orch ||
|-
| 91 || || ウムラウフのオペラ『美しい靴屋の娘』への2つのアリア || 1795 || S,T,Orch ||
|-
| 92 || || シェーナとアリア『初恋』<br/>(''Primo amore'') || 1791-92 || S,弦楽 ||
|-
| 92a || 119 || シェーナとアリア『いいえ、心配しないで』<br/>(''No, non turbarti'') || 1802 || S,弦楽 ||
|-
| 93 || 120 || 二重唱曲『お前の幸せな日々に』<br/>(''Ne’ giorni tuoi felici'') || 1802 || S,T,Orch ||
|-
| 94 || || 終末歌『ゲルマニア』<br/>(''Die gute Nachricht'') || 1814 || 独唱,cho,<br/>Orch || トライチュケのジングシュピール『良い知らせ』のための
|-
| 95 || || 連合君主に寄せる合唱<br/>(''Chor auf die verbündeten Fürsten'') || 1814 || cho,Orch ||
|-
| 96 || || 『レオノーレ・プロハスカ』の音楽<br/>(''Leonore Prohaska'') || 1815 || 独唱,cho,<br/>Orch || 全4曲
|-
| 97 || || 終末歌『成就せり』<br/>(''"Es ist vollbracht"'') || 1815 || Bs,cho,Orch || トライチュケのジングシュピール『凱旋門』のための
|-
| 98 || || 『献堂式』への合唱曲『若々しく脈打つところ』<br/>(''Wo sich die Pulse jugendlich jagen'') || 1822 || S,混声cho ||
|-
| rowspan="20"|99 || || 多声のイタリア語歌曲 || 1801-03 || 独唱(重唱) || 全12曲
|-
| 211 || 二重唱『美しい唇、何という愛』<br/>(''Bei Labbri, che amore'') || 1802? || 2独唱 ||
|-
| 214 || 三重唱『だれかこの心を』<br/>(''Chi mai di questo core'') || ? || 3独唱 ||
|-
| 208 || 二重唱『すべての苦しみの中に』<br/>(''Fra tutte le pene'') || ? || 2独唱 ||
|-
| 224 || 三重唱『すべての苦しみの中に』<br/>(''Fra tutte le pene'') || 1802? || 3独唱 ||
|-
| 225 || 四重唱『すべての苦しみの中に』<br/>(''Fra tutte le pene'') || 1802? || 4独唱 ||
|-
| 222 || 四重唱『すでに夜は近づきて』<br/>(''Già la notte s'avvicina'') || 1802? || 4独唱 ||
|-
| 223 || 三重唱『すでに夜は近づきて』<br/>(''Già la notte s'avvicina'') || ? || 3独唱 ||
|-
| 221 || 四重唱『船頭は誓う』<br/>(''Giura il nocchiere'') || ? || 4独唱 ||
|-
| 227 || 三重唱『船頭は誓う』<br/>(''Giura il nocchiere'') || ? || 3独唱 ||
|-
| 212 || 三重唱『しかしお前は震える』<br/>(''Ma tu tremi'') || ? || 3独唱 ||
|-
| 220 || 四重唱『野と森で』<br/>(''Nei campi e nelle selve'') || ? || 4独唱 ||
|-
| 217 || 四重唱『野と森で』<br/>(''Nei campi e nelle selve'') || ? || 4独唱 ||
|-
| || 斉唱付き独唱『おお、懐かしい森よ』<br/>(''O care selve'') || 1794-95 || 独唱 ||
|-
| 216 || 三重唱『君に愛する青春を』<br/>(''Per te d'amico aprile'') || ? || 3独唱 ||
|-
| 213 || 四重唱『かのギター、ああ清らかなもの』<br/>(''Quella cetra, ah pur tu sei'') || ? ||4 独唱 ||
|-
| 218 || 三重唱『かのギター、ああ清らかなもの』<br/>(''Quella cetra, ah pur tu sei'') || ? || 3独唱 ||
|-
| 219 || 四重唱『かのギター、ああ清らかなもの』<br/>(''Quella cetra, ah pur tu sei'') || ? || 4独唱 ||
|-
| 215 || 二重唱『お前に手紙を書く』<br/>(''Scrivo in te'') || 1796? || 2独唱 ||
|-
| 226 || 四重唱『シルヴィオ、絶望の恋人』<br/>(''Silvio, amante disperata'') || ? || 4独唱 ||
|-
| 100 || || シュパンツィクはならず者だ<br/>(''Schuppanzigh ist ein Lump'') || 1801 || 3独唱,cho ||
|-
| 101 || || 親愛なる伯爵<br/>(''Graf, liebster Graf, liebstes Schaf'') || 1802 || 無伴奏<br/>男声cho ||
|-
| 102 || || 別れの歌<br/>(''Abschiedsgesang'') || 1814 || 無伴奏<br/>男声cho ||
|-
| 103 || 127 || 田園カンタータ『楽しい乾杯の歌』<br/>(''Un lieto brindisi'') || 1817 || cho,pf ||
|-
| 104 || || 僧侶の歌<br/>(''Gesang der Mönche'') || 1819 || 無伴奏<br/>男声cho || 『修道僧の歌』とも
|-
| rowspan="2"|105 || 124 || 結婚の歌(さあ友よ、結婚の神を賛美せよ)<br/>(''Hochzeitslied'') || rowspan="2"|1819 || Bs,cho,pf || 第1稿
|-
| 125 || 結婚の歌(さあ友よ、結婚の神を賛美せよ)<br/>(''Hochzeitslied'') || T,cho,pf || 第2稿(合唱のユニゾン版)
|-
| 106 || || ロプコヴィッツ・カンタータ『我らの尊き殿万歳』<br/>(''Es lebe unser theurer Fürst'') || 1823 || S,cho,pf ||
|-
| 107 || || 歌曲『ある乙女の絵』<br/>(''Schilderung eines Mädchens'') || 1782/83? || 独唱,pf ||
|-
| 108 || || 歌曲『嬰児に寄せて』<br/>(''An einen Säugling'') || 1783/84? || 独唱,pf ||
|-
| 109 || || 歌曲『別れに歌う酒の歌』(喜びの手もてグラスをあげよ)<br/>(''Trinklied, beim Abschied zu singen'') || 1791/92? || 独唱,pf ||
|-
| 110 || || 歌曲『むく犬の死に寄せる悲歌』<br/>(''Elegie auf den Tod eines Pudels'') || 1787?<br/>94/95? || 独唱,pf ||
|-
| 111 || 126 || 歌曲『ポンス酒の歌』<br/>(''Punschlied'') || 1791/92? || 独唱,pf ||
|-
| 112 || 128 || 歌曲『ラウラに』<br/>(''An Laura'') || 1792 || 独唱,pf ||
|-
| 113 || || 歌曲『嘆き』<br/>(''Klage'') || 1790 || 独唱,pf ||
|-
| 114 || || 歌曲『独り言』<br/>(''Selbstgespräch'') || 1792/93 || 独唱,pf ||
|-
| 115 || || 歌曲『ミンナに』<br/>(''An Minna'') || 1790-92 || 独唱,pf || 未完
|-
| rowspan="2"|116 || 129 || 歌曲『何と時は長く』<br/>(''Que le temps me dure'') || 1793 || 独唱,pf || 第1稿
|-
| 130 || 歌曲『何と時は長く』<br/>(''Que le temps me dure'') || 1793 || 独唱,pf || 第2稿
|-
| 117 || || 歌曲『自由な男』<br/>(''Der freie Mann'') || 1792 || 独唱,pf ||
|-
| 118 || || 歌曲『愛されない男のため息と愛の答え』<br/>(''Seufzer eines Ungeliebten und Gegenliebe'') || 1794/95 || 独唱,pf ||
|-
| 119 || || 歌曲『おお、愛しき森よ』<br/>(''O care selve'') || 1794/95 || 独唱,pf ||
|-
| 120 || || 歌曲『人は炎を隠したがる』<br/>(''Man strebt die Flamme zu verhehlen'') || 1800/01 || 独唱,pf ||
|-
| 121 || || 歌曲『ウィーン市民への別れの歌』<br/>(''Abschiedsgesang an Wiens Bürger'') || 1796 || 独唱,pf ||
|-
| 122 || || 歌曲『オーストリアの戦いの歌』<br/>(''Kriegslied der Österreicher'') || 1793 || 独唱,pf ||
|-
| 123 || || 歌曲『優しき愛』<br/>(''Zärtliche Liebe'') || 1795 || 独唱,pf ||
|-
| 124 || || 歌曲『別れ』<br/>(''La partenza'') || 1795? || 独唱,pf ||
|-
| 125 || 135 || カンツォネッタ『女暴君』<br/>(''La tiranna'') || 1798/99 || 独唱,pf || 『残酷な女』とも
|-
| 126 || || 歌曲『奉献歌』<br/>(''Opferlied'') || 1794/95 || 独唱,pf ||
|-
| 127 || 136 || 歌曲『新しき愛、新しき生命』<br/>(''Neue Liebe, neues Leben'') || 1798-99 || 独唱,pf ||
|-
| 128 || 131 || 歌曲『愛の喜び』<br/>(''Plaisir d'aimer'') || 1798/99 || 独唱,pf ||
|-
| 129 || || 歌曲『うずらの鳴き声』<br/>(''Der Wachtelschlag'') || 1802? || 独唱,pf ||
|-
| 130 || || 歌曲『僕のことを思っていて』<br/>(''Gedenke mein'') || 1820 || 独唱,pf ||
|-
| 131 || || 歌曲『魔王』(未完)<br/>(''Erlkönig'') || ? || 独唱,pf ||
|-
| 205 || || 10つの音楽的諧謔<br/>(''"Notenscherze"'') || 1800-? || 声楽 ||
|-
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===Hess番号===
''詳細は「[[Hess番号]]」を参照''
===ビアモンティ番号===
''詳細は「[[ビアモンティ番号]]」を参照''
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=ルイス・ロックウッド|date=2010-11-30|title=ベートーヴェン 音楽と生涯|others=土本英三郎・藤本一子[監訳]、沼口隆・堀朋平[訳]|publisher=春秋社|isbn=978-4-393-93170-7|ref={{SfnRef|ロックウッド|2010}}}}
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11,142 |
JRの車両形式
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JRの車両形式(ジェイアールのしゃりょうけいしき)とは、JRグループでの鉄道車両の形式について説明する。
JRグループでは、日本国有鉄道(国鉄)の車両をそのまま継承して発足した。基本的には国鉄時代の形式称号の延長で新たな系列・形式が登場しており、極力JR各社間で重複を避けるようにして形式が付与されている。ただし、各社の既存車両の改造に伴って他社と重複した形式名や車両番号が生ずる場合もわずかながら発生している。
例外として、四国旅客鉄道(JR四国)が発足後に導入した新形式では私鉄のような別体系の命名方法を採用し、「クハ」「モハ」などの表記もない。また、東日本旅客鉄道(JR東日本)は1993年以降、系列を示す番号の直前に「East」の「E」を挿入しているが、命名方法自体は国鉄式に準じている。日本貨物鉄道(JR貨物)では新製する機関車・貨車には国鉄の方式を投入し、初の貨物電車JR貨物M250系電車には「クハ」「モハ」などをつけない独自の体系が用いられている。
このほか電気式気動車やハイブリッド気動車など、国鉄時代に本格的な実用化に至らなかった技術を採用している形式では、JR東日本の「HB」「GV」「EV」「FV」のように新しい表記が誕生している。
各社の形式の一覧については以下を参照。
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JRの車両形式(ジェイアールのしゃりょうけいしき)とは、JRグループでの鉄道車両の形式について説明する。 JRグループでは、日本国有鉄道(国鉄)の車両をそのまま継承して発足した。基本的には国鉄時代の形式称号の延長で新たな系列・形式が登場しており、極力JR各社間で重複を避けるようにして形式が付与されている。ただし、各社の既存車両の改造に伴って他社と重複した形式名や車両番号が生ずる場合もわずかながら発生している。 例外として、四国旅客鉄道(JR四国)が発足後に導入した新形式では私鉄のような別体系の命名方法を採用し、「クハ」「モハ」などの表記もない。また、東日本旅客鉄道(JR東日本)は1993年以降、系列を示す番号の直前に「East」の「E」を挿入しているが、命名方法自体は国鉄式に準じている。日本貨物鉄道(JR貨物)では新製する機関車・貨車には国鉄の方式を投入し、初の貨物電車JR貨物M250系電車には「クハ」「モハ」などをつけない独自の体系が用いられている。 このほか電気式気動車やハイブリッド気動車など、国鉄時代に本格的な実用化に至らなかった技術を採用している形式では、JR東日本の「HB」「GV」「EV」「FV」のように新しい表記が誕生している。 各社の形式の一覧については以下を参照。 JR北海道の車両形式
JR東日本の車両形式
JR東海の車両形式
JR西日本の車両形式
JR四国の車両形式
JR九州の車両形式
JR貨物の車両形式
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'''JRの車両形式'''(ジェイアールのしゃりょうけいしき)とは、[[JR|JRグループ]]での鉄道車両の形式について説明する。
JRグループでは、[[日本国有鉄道]](国鉄)の車両をそのまま継承して発足した。基本的には[[国鉄の車両形式|国鉄時代の形式称号]]の延長で新たな系列・形式が登場しており、極力JR各社間で重複を避けるようにして形式が付与されている。ただし、各社の既存車両の改造に伴って他社と重複した形式名や[[鉄道の車両番号|車両番号]]が生ずる場合もわずかながら発生している。
例外として、[[四国旅客鉄道]](JR四国)が発足後に導入した新形式では[[私鉄]]のような別体系の命名方法を採用し、「クハ」「モハ」などの表記もない。また、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)は1993年以降、系列を示す番号の直前に「East」の「E」を挿入しているが、命名方法自体は国鉄式に準じている。[[日本貨物鉄道]](JR貨物)では新製する機関車・貨車には国鉄の方式を投入し、初の貨物電車[[JR貨物M250系電車]]には「クハ」「モハ」などをつけない独自の体系が用いられている。
このほか[[日本の電気式気動車|電気式気動車]]や[[鉄道車両におけるハイブリッド|ハイブリッド気動車]]など、国鉄時代に本格的な実用化に至らなかった技術を採用している形式では、JR東日本の「HB」「GV」「EV」「FV」のように新しい表記が誕生している。
各社の形式の一覧については以下を参照。
* [[JR北海道の車両形式]]
* [[JR東日本の車両形式]]
* [[JR東海の車両形式]]
* [[JR西日本の車両形式]]
* [[JR四国の車両形式]]
* [[JR九州の車両形式]]
* [[JR貨物の車両形式]]
== 関連項目 ==
*[[国鉄の車両形式]]
*[[私鉄の車両形式]]
*[[国鉄の車両形式一覧]]
*[[形式称号]]
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11,143 |
ジャーナリングファイルシステム
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ジャーナリングファイルシステム(Journaling file system)とは、書き換え処理要求(トランザクション)単位で内包するファイル構成情報を含むメタデータを管理および保持できる機能を持ったファイルシステムのこと。ジャーナルファイルシステムともいう。
重要なデータを扱うシステムにおいて、細分化されたファイルや大規模なファイルなどの更新を行う際、ファイルシステムのメタデータ書き換え処理において比較的長い時間が必要となり、その書き換え中に電源断や処理中断が発生した場合、ファイル構成情報に矛盾が発生し、最悪データへのアクセスが不可能となってしまう。 このような状況を避けるため、UNIXでいうinode情報やWindowsのSuperBlock、FNODEといったファイルシステム上のメタデータを書き換え処理(トランザクション)単位で管理・保持する事ができる機能を持ったファイルシステムのことである。
一般にディスク上のファイルシステムに書き込まれるデータには、データ自体を現す実データ部分とその実データのディスク上の位置、ファイル名/更新日時、アクセス権限などの管理情報を現すメタデータ部分の2種類に分類される。
実際にハードディスクにデータを書き込む際のファイルシステムの動きを追ってみる。 ファイルシステムがデータを記録する場合、まず実データの書き込みを行い、その上でその実データを管理するメタデータを書き出さなくてはならない。
このメタデータの記録に時間が掛かる場合、つまり非常に小さいファイル群の記録(管理データが増える)やその逆の非常に大きなファイル(実データがどこにあるかの管理データが増える)を記録するような場合において、メタデータの書き込みを行っている最中に何らかの原因(例えば電源切断)により書き込み処理が中断したとする。 その場合、メタデータとして記録した情報に不整合が発生し、実データの配置や管理情報矛盾などが起こり、実データへのアクセス手段を失ってしまう事になる。
この問題を回避する方法として、システムが再起動した際にハードディスク全体をスキャンするプログラムを実行して、矛盾を修正する方法が用意された。
このチェックプログラムと各オペレーティングシステムは以下の様。
これらのプログラムは起動時に自動的にチェックするような対応が取られている。
しかし、これらのツールを使用して、起動時にチェックする方法には以下のような問題点が残される。
この問題を解決するため、ジャーナリングファイルシステムが導入された。
以上の問題点に対し、それぞれの実データ書き込みよりもメタデータの書き込みを先行的に行い、書き込み要求に従ってそのメタデータを「ジャーナル」と呼ばれる領域に逐次記録し、更新する事で対処するジャーナリングが考案され、実装された。
メタデータを先行的に書き込み、実データ書き込み要求に従ってその変更点を反映し、複数回分のメタデータをジャーナルに保持・管理する事で、ファイル更新中の書き込み中断に対処する事ができる。
この方法を取る事により、メタデータと実データ間の矛盾が発生しても、矛盾が発生する前のメタデータに強制的に戻す事により、実データを含むファイル自体の消失を避ける事ができる。この方法は、ハードディスク全体を詳細にスキャンするより遥かに処理時間を短くする事が可能である。
他の解決方法として、いかなるタイミングで連続する書き込みが中断されても矛盾が起きないよう、ディスクへの書き込み順を制御する、という解決がある。FreeBSDではそちらが採用された(soft updates)。
一般にジャーナルによって保護されるのはメタデータまでで、ファイルの中身までは保護されない。つまり、ジャーナリングファイルシステムを導入することで、システムクラッシュにともなうファイルシステムの破壊という事態は避けられるものの、保存したはずの内容が保存されていなかったという事態が起こる可能性は十分に考えられる。
ただし、Linuxのext3やネットアップのWAFL等、いくつかのジャーナリングファイルシステムでは実データの保護も行っている。
元々、汎用機において重要な業務データを扱う際のファイルのメタデータ保持方法から考案されたものであり、汎用機のファイル管理ツールの設計思想をPCで取り入れるべく考慮された。 そのため、オープン系での最初のジャーナリングファイルシステムは、汎用機及び高可用トレラントコンピュータ向けのOSを作っていたIBMのJFS(AIX V3.1向け1990年)及び、Tolerant Software(VERITAS)のVxFS(UNIX System V向け1989年)である。
その後、UNIXライクなOSの発展に伴い、多くのジャーナリングファイルシステムが考案され、実装されている。
以下、VxFSのみ有償であり、それ以外は無償または標準搭載である。
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ジャーナリングファイルシステムとは、書き換え処理要求(トランザクション)単位で内包するファイル構成情報を含むメタデータを管理および保持できる機能を持ったファイルシステムのこと。ジャーナルファイルシステムともいう。
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{{出典の明記|date=2023年12月}}
'''ジャーナリングファイルシステム'''(Journaling file system)とは、書き換え処理要求([[トランザクション]])単位で内包するファイル構成情報を含む[[メタデータ]]を管理および保持できる機能を持った[[ファイルシステム]]のこと。'''ジャーナルファイルシステム'''ともいう。
== 概要 ==
重要なデータを扱うシステムにおいて、細分化されたファイルや大規模なファイルなどの更新を行う際、ファイルシステムのメタデータ書き換え処理において比較的長い時間が必要となり、その書き換え中に電源断や処理中断が発生した場合、ファイル構成情報に矛盾が発生し、最悪データへのアクセスが不可能となってしまう。
このような状況を避けるため、[[UNIX]]でいう[[inode]]情報や[[Microsoft Windows|Windows]]の[[SuperBlock]]、[[FNODE]]といったファイルシステム上のメタデータを書き換え処理(トランザクション)単位で管理・保持する事ができる機能を持ったファイルシステムのことである。
=== 既存ファイルシステムの問題点 ===
一般にディスク上のファイルシステムに書き込まれるデータには、データ自体を現す実データ部分とその実データのディスク上の位置、ファイル名/更新日時、アクセス権限などの管理情報を現すメタデータ部分の2種類に分類される。
実際に[[磁気ディスク装置|ハードディスク]]にデータを書き込む際のファイルシステムの動きを追ってみる。
ファイルシステムがデータを記録する場合、まず実データの書き込みを行い、その上でその実データを管理するメタデータを書き出さなくてはならない。
このメタデータの記録に時間が掛かる場合、つまり非常に小さいファイル群の記録(管理データが増える)やその逆の非常に大きなファイル(実データがどこにあるかの管理データが増える)を記録するような場合において、メタデータの書き込みを行っている最中に何らかの原因(例えば電源切断)により書き込み処理が中断したとする。
その場合、メタデータとして記録した情報に不整合が発生し、実データの配置や管理情報矛盾などが起こり、実データへのアクセス手段を失ってしまう事になる。
=== 初期の回避策 ===
この問題を回避する方法として、システムが再起動した際にハードディスク全体をスキャンするプログラムを実行して、矛盾を修正する方法が用意された。
このチェックプログラムと各[[オペレーティングシステム]]は以下の様。
* [[UNIX]]系: fsck
* [[Microsoft Windows|Windows]]: chkdsk, scandisk
* [[Mac OS]]: Disk First Aid
これらのプログラムは起動時に自動的にチェックするような対応が取られている。
しかし、これらのツールを使用して、起動時にチェックする方法には以下のような問題点が残される。
* 実データとメタ情報の突合せ確認を行うため、全ディスクの情報を検証するための処理とディスク全体の再スキャンに非常に時間がかかる。
* スキャンプログラムによるチェック時に想定以外の問題を検出した場合、不整合なデータを削除するため、実データ自体が失われてしまう可能性が残る。
この問題を解決するため、ジャーナリングファイルシステムが導入された。
=== ジャーナリングによる解決 ===
以上の問題点に対し、それぞれの実データ書き込みよりもメタデータの書き込みを先行的に行い、書き込み要求に従ってそのメタデータを「ジャーナル」と呼ばれる領域に逐次記録し、更新する事で対処するジャーナリングが考案され、実装された。
メタデータを先行的に書き込み、実データ書き込み要求に従ってその変更点を反映し、複数回分のメタデータをジャーナルに保持・管理する事で、ファイル更新中の書き込み中断に対処する事ができる。
この方法を取る事により、メタデータと実データ間の矛盾が発生しても、矛盾が発生する前のメタデータに強制的に戻す事により、実データを含むファイル自体の消失を避ける事ができる。この方法は、ハードディスク全体を詳細にスキャンするより遥かに処理時間を短くする事が可能である。
他の解決方法として、いかなるタイミングで連続する書き込みが中断されても矛盾が起きないよう、ディスクへの書き込み順を制御する、という解決がある。FreeBSDではそちらが採用された([[soft updates]])。
一般にジャーナルによって保護されるのはメタデータまでで、ファイルの中身までは保護されない。つまり、ジャーナリングファイルシステムを導入することで、システムクラッシュにともなうファイルシステムの破壊という事態は避けられるものの、保存したはずの内容が保存されていなかったという事態が起こる可能性は十分に考えられる。
ただし、[[Linux]]の[[ext3]]や[[ネットアップ]]の[[WAFL]]等、いくつかのジャーナリングファイルシステムでは実データの保護も行っている。
== 経緯 ==
元々、汎用機において重要な業務データを扱う際のファイルのメタデータ保持方法から考案されたものであり、汎用機のファイル管理ツールの設計思想をPCで取り入れるべく考慮された。
そのため、オープン系での最初のジャーナリングファイルシステムは、汎用機及び高可用[[フォールトトレラントシステム|トレラントコンピュータ]]向けのOSを作っていたIBMのJFS([[AIX]] V3.1向け1990年)及び、Tolerant Software([[VERITAS]])の[[VxFS]]([[UNIX System V]]向け1989年)である。
;JFS
:当初は[[OS/2]]に開発が進み、実際のリリースは、1990年にIBMの商用UNIXである[[AIX]]のV3.1に行われた。
;VxFS
: また、ほぼ同時期に、UNIXの汎用機置き換え需要に合わせ、1987年にTolerant Software([[VERITAS]]社の前身)が[[AT&T]] UNIX System Laboratoriesの協力を得て、自社のハイアベイラビリティ・オペレーティングシステムからUNIX System V向けに価値あるコードを抽出し、トランザクションベースのボリュームマネージャと共にUNIX向けジャーナリングファイルシステムを業界で初めて開発した。その後、商用パッケージとして1989年にVxFSとして提供された。
その後、UNIXライクなOSの発展に伴い、多くのジャーナリングファイルシステムが考案され、実装されている。
== ジャーナリングファイルシステム製品 ==
以下、VxFSのみ有償であり、それ以外は無償または標準搭載である。
=== 商用UNIX ===
* [[AIX]]: [[JFS]]、[[VxFS]]
* [[HP-UX]]: [[VxFS]]
* [[Solaris]]: [[UFS]] logging、[[Zettabyte File System|ZFS]](Solaris10から使用可能)、[[VxFS]]
* [[IRIX]]: [[XFS]]
=== Linux ===
* [[ext3]]、[[ext4]]
* [[Journaled File System|JFS]]
* [[ReiserFS]]
* [[XFS]]
* [[VxFS]]
* [[ZFS]]
* [[NT File System|NTFS]]
=== FreeBSD ===
* [[GEOM]] gjournal
* [[ZFS]]
* Journaled [[Soft updates]] (FreeBSD 9 の途中以降)
=== NetBSD ===
* [[WAPBL]]
=== Windows ===
* [[NT File System|NTFS]]
=== Mac ===
* [[HFS Plus|HFS+]] - ジャーナリングはMac OS X 10.2.2から加わった
=== その他のOSでのジャーナリングファイルシステム ===
* [[BeOS]]: [[Be File System|BFS]]
* NetWare5: [[NSS]]
* [[Spiralog]]
* [[WAFL]] - [[ネットアップ]]の統合ストレージ管理[[マイクロカーネル]][[ONTAP]]に実装
{{DEFAULTSORT:しやあなるふあいるしすてむ}}
[[Category:OSのファイルシステム]]
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コンテンツ
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コンテンツ (contents(複数形))とは、「中身」のこと。英語の関連語彙としては、コンテナ (wiktionary:container) の中身がコンテント (content) であって、語自体には「電子媒体(メディア)の」や「特に、電子的な手段で提供する」という意味は全くない。例えば書籍の「中身の情報」は、小説や評論であって、それがコンテンツである。
デジタルコンテンツ、映像コンテンツ、商業コンテンツ、素人コンテンツ、などといった複合語がある。いわゆる「メディア」の中身の、文字列・音・動画などのことで、それらの内容である著作物を指すことも多い。
英語では通常はcontentと単数形で書く。本項目の英語版の記事名も「Content」である。
英語でcontentsと複数形で書くと、通常は「目次」の意味になる。この場合は、Table of contents(内容の表)の略である。
元々は、コンピュータの分野で、装置自体を「ハードウェア」、プログラムを「ソフトウェア」と呼ぶことから転じて、例えばビデオなどで、ビデオデッキなど機材を指して「ハード」、ビデオグラムなどの「作品」を「ビデオソフト」としていた。
以前からCDの「TOC領域」など、従来からの意味では使われていたが、現在のような意味で「コンテンツ」という言葉が使われ始めたのは、1990年前後のCD-ROM普及に始まり、1990年代前半の情報スーパーハイウェイ構想によって加速したいわゆる「マルチメディアブーム」の末期、「Windows 95ブーム」や「インターネットブーム」の初期の頃である。1990年代後半ば頃から21世紀初頭のいわゆる「ITブーム」の頃から、コンピュータプログラムを指すことが多い「ソフトウェア」と区別するためか、著作物というニュアンスでコンテンツという言葉が広く使われるようになった。
月刊アスキー第18巻第4号(通巻202号、1994年4月号)の記事、特集II「最新CD-ROM事情」(281頁 - 302頁) では、「タイトル」の語がコンテンツに相当する意味でも使われておりコンテンツの語は見られない。社団法人日本コンピューター・グラフィックス協会と財団法人マルチメディアソフト振興協会が統合して「マルチメディアコンテンツ振興協会」になったのが1996年10月1日である(その後2001年に財団法人新映像産業推進センターと統合して財団法人デジタルコンテンツ協会となり、2012年に一般財団法人に移行)。
コンテンツの語が古くから使われたものとしてインターネットサービスプロバイダの分類(接続プロバイダ、プレゼンスプロバイダ、etc)のひとつの「インターネットコンテンツプロバイダ」がある。インターネットマルチフィード株式会社の1997年8月27日のプレスリリース『「インターネットマルチフィード株式会社」の設立について』に、盛大に「コンテンツ」という言葉が使われているのが確認できる。また「やじうまWatch」1997年1月27日に、海外サイトの話題紹介の中で「コンテンツ」という言葉が使われているのが確認できる。
後述する「コンテンツ促進法」は2004年に制定されたが、当時の内閣官房知的財産戦略推進事務局長として法案制定に関わった荒井寿光氏(元特許庁長官)は、法律が出来た背景に、バブル崩壊後、不振が続く重厚長大産業に代わる新たな産業を模索する中で、技術をベースにした特許や文化芸術の著作物といった「知的財産」が浮上した経緯があるという。「芸術文化がコンピューターを通じて誰でも楽しめるようになってきた。日本からいい電気製品、自動車を売るだけじゃなく、コンテンツも世界に普及できるぞ、となった」
並行して、「クールジャパン」(かっこいい日本)運動が台頭。コンテンツ振興を国家戦略として支える機運が醸成されていったという。
また、英語圏のものとしては、米国の通信風紀法(CDA)の1996年の改訂の際のセクション230 (w:Section 230 of the Communications Decency Act) に "content provider" の語がある。
2004年(平成16年)に成立・施行されたコンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律(コンテンツ法)では、「コンテンツ」を以下のように定めている。
なお、コンテンツ法はデジタルコンテンツの保護や普及を前提においており、プログラムに対して「電子計算機に対する指令であって、一の結果を得ることができるように組み合わせたものをいう」という補足がなされている(しかしそのような説明ではコンピュータプログラムを指しているような説明であって、データであるこれらコンテンツのことであれば、ソフトウェアという語をコンピュータプログラム以外を指すような用法で使ったほうが適切ではあったろう)。当然のことながら、コンテンツはデジタルだけでなく、アナログ(誤用)コンテンツ(例えばライブ、演劇などを生で見る、キャラクターグッズなど)も含まれる。
コンテンツはあらゆる情報について用いられるため、非常にあいまいな言葉である。コンテンツの表現形態、流通形態、受信形態によって違ってくる。例えば、番組コンテンツは、放送という行為によって番組としてパッケージされているコンテンツ、ということである。文字か音楽かは関係ない。映画コンテンツは上映という行為(スクリーンに映し出すこと)を前提とするコンテンツである。つまり、上映後にDVDなどでリリースされる映画は「映画コンテンツの二次利用」ということになる。最初からDVDでリリースされている動画は通常、映画とは呼ばない。しかし、映画の手法で撮影された、テレビ放映のみの動画は「テレビ映画」と呼ばれるように、映画の一種と解されている。従って厳密な区別は無い、ないし不可能である。
コンピュータのソフトウェアに関しては、ソフトウェアを「プログラム」と「データ」とに分けたデータに相当する部分をコンテンツと称することがある。たとえば、eラーニングにおいては、教材を提示し、あるいは試験を行ったりするプログラムに対し、教材そのものがコンテンツである。地理情報システムにおいては、地図を提示し地理的な解析を行ったりするプログラムに対し、地図情報や統計情報がコンテンツである。教育の用語の「教具」(黒板やチョークなど)と「教材」(算数で使う「おはじき」など)の違いに似ている。
アプリケーションソフトウェアについてキラーアプリケーションという語があるが、あるメディアを爆発的に普及させるきっかけとなるコンテンツを特にキラーコンテンツと呼ぶ。キラータイトルとの語もある。
特にデジタルコンテンツはコピーしても画質・音質が劣化しないので、供給側にメリットがあるが、利用者、購買者側などの第三者がこれを行うと商売が成り立たなくなる。そのため、コピーをできないようにするコンテンツ保護技術が開発されている。
海賊版などの違法行為を防止するため、各種のコンテンツ保護技術(AACS、CSS、CCCDなど)を採用している供給者もある。積極的な供給者もいれば消極的な供給者もいる。
また、コンテンツの再生を特定のソフトウェアないしハードウェアでしか行えないようにして、第三者による複製や再利用を難しくする技術として「デジタル著作権管理技術」がある。
コンテンツは、マーシャル・マクルーハンが「メディア論」の中で提唱している、メディアの中のメディアに当たるものである。そのため、コンテンツはメディアでもある。また、マクルーハンは「メディアはメッセージである」としているため、コンテンツ=メディア=メッセージとなる。
大阪市立大学の増田聡教授(ポピュラー文化論)は「かつて文化芸術作品は『経済的次元に還元できない多様な価値軸で評価される』とされてきたが、今では『それで稼げるかどうか』という単一の基準で評価される傾向が強まった」と語る。「さまざまな作品は個々のジャンルに応じて異なる基準で評価されてきたが、それらを経済的な基準に一元化する見方が強まったことで、音楽、映像などをすべて『稼ぐためのコンテンツ』として同列に扱う見方が社会で支配的になってきた」とし、文化に対する人々のものの見方が平板化した点を指摘する。
さらに、増田教授は「過去に雑誌で『女子アナは(テレビ)局にとって最大のコンテンツ』といった表現があったが、デジタルデータ化になじまない対象でも『コンテンツ』と呼ぶことで消費の対象に変えてしまうこともできる。あらゆるものを『コンテンツ』と呼ぶうちに、消費されるべきではない尊厳のようなものまで経済へと従属させてしまいかねない」と話し、「コンテンツ」概念の拡大適用を危惧した。
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"title": "法"
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"title": "コンテンツの分類範囲の違い"
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"text": "アプリケーションソフトウェアについてキラーアプリケーションという語があるが、あるメディアを爆発的に普及させるきっかけとなるコンテンツを特にキラーコンテンツと呼ぶ。キラータイトルとの語もある。",
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"title": "コンテンツ保護"
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"text": "海賊版などの違法行為を防止するため、各種のコンテンツ保護技術(AACS、CSS、CCCDなど)を採用している供給者もある。積極的な供給者もいれば消極的な供給者もいる。",
"title": "コンテンツ保護"
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"text": "また、コンテンツの再生を特定のソフトウェアないしハードウェアでしか行えないようにして、第三者による複製や再利用を難しくする技術として「デジタル著作権管理技術」がある。",
"title": "コンテンツ保護"
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"text": "コンテンツは、マーシャル・マクルーハンが「メディア論」の中で提唱している、メディアの中のメディアに当たるものである。そのため、コンテンツはメディアでもある。また、マクルーハンは「メディアはメッセージである」としているため、コンテンツ=メディア=メッセージとなる。",
"title": "メディア論とコンテンツ"
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"text": "大阪市立大学の増田聡教授(ポピュラー文化論)は「かつて文化芸術作品は『経済的次元に還元できない多様な価値軸で評価される』とされてきたが、今では『それで稼げるかどうか』という単一の基準で評価される傾向が強まった」と語る。「さまざまな作品は個々のジャンルに応じて異なる基準で評価されてきたが、それらを経済的な基準に一元化する見方が強まったことで、音楽、映像などをすべて『稼ぐためのコンテンツ』として同列に扱う見方が社会で支配的になってきた」とし、文化に対する人々のものの見方が平板化した点を指摘する。",
"title": "「コンテンツ」概念の弊害"
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"text": "さらに、増田教授は「過去に雑誌で『女子アナは(テレビ)局にとって最大のコンテンツ』といった表現があったが、デジタルデータ化になじまない対象でも『コンテンツ』と呼ぶことで消費の対象に変えてしまうこともできる。あらゆるものを『コンテンツ』と呼ぶうちに、消費されるべきではない尊厳のようなものまで経済へと従属させてしまいかねない」と話し、「コンテンツ」概念の拡大適用を危惧した。",
"title": "「コンテンツ」概念の弊害"
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コンテンツ (contents)とは、「中身」のこと。英語の関連語彙としては、コンテナ (wiktionary:container) の中身がコンテント (content) であって、語自体には「電子媒体(メディア)の」や「特に、電子的な手段で提供する」という意味は全くない。例えば書籍の「中身の情報」は、小説や評論であって、それがコンテンツである。 デジタルコンテンツ、映像コンテンツ、商業コンテンツ、素人コンテンツ、などといった複合語がある。いわゆる「メディア」の中身の、文字列・音・動画などのことで、それらの内容である著作物を指すことも多い。 英語では通常はcontentと単数形で書く。本項目の英語版の記事名も「Content」である。 英語でcontentsと複数形で書くと、通常は「目次」の意味になる。この場合は、Table of contents(内容の表)の略である。
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{{Redirect|キラーコンテンツ|お笑いコンビ|キラーコンテンツ (お笑いコンビ)}}
{{出典の明記|date=2012年3月22日 (木) 17:13 (UTC)}}
'''コンテンツ''' (contents([[複数形]]))とは、「中身」のこと。英語の関連語彙としては、[[コンテナ]] ([[wiktionary:container]]) の中身がコンテント (content) であって、語自体には「電子媒体(メディア)の」や「特に、電子的な手段で提供する」という意味は全くない。例えば[[書籍]]の「中身の情報」は、[[小説]]や[[評論]]であって、それがコンテンツである。
[[デジタルコンテンツ]]、映像コンテンツ、商業コンテンツ、素人コンテンツ、などといった複合語がある。いわゆる「[[メディア (媒体)|メディア]]」の中身の、[[文字列]]・[[音]]・[[動画]]などのことで、それらの内容である[[著作物]]を指すことも多い。
英語では通常はcontentと単数形で書く。本項目の英語版の記事名も「[[:en:Content (media)|Content]]」である。
英語でcontentsと複数形で書くと、通常は「[[目次]]」の意味になる。この場合は、{{Lang|en|Table of contents}}(内容の表)の略である。
== 歴史 ==
元々は、[[コンピュータ]]の分野で、装置自体を「[[ハードウェア]]」、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を「[[ソフトウェア]]」と呼ぶことから転じて、例えば[[ビデオ]]などで、[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]など機材を指して「ハード」、[[ビデオグラム]]などの「作品」を「ビデオソフト」としていた。
以前から[[コンパクトディスク|CD]]の「TOC領域」など、従来からの意味では使われていたが、現在のような意味で「コンテンツ」という言葉が使われ始めたのは、1990年前後の[[CD-ROM]]普及に始まり、1990年代前半の[[情報スーパーハイウェイ構想]]によって加速したいわゆる「[[マルチメディア]]ブーム」の末期、「[[Windows 95]]ブーム」や「[[インターネット]]ブーム」の初期の頃である。1990年代後半ば頃から21世紀初頭のいわゆる「ITブーム」の頃から、コンピュータプログラムを指すことが多い「ソフトウェア」と区別するためか、[[著作物]]というニュアンスでコンテンツという言葉が広く使われるようになった。
[[月刊アスキー]]第18巻第4号(通巻202号、1994年4月号)の記事、特集II「最新CD-ROM事情」(281頁 - 302頁) では、「タイトル」の語がコンテンツに相当する意味でも使われておりコンテンツの語は見られない。社団法人日本コンピューター・グラフィックス協会と財団法人マルチメディアソフト振興協会が統合して「マルチメディアコンテンツ振興協会」になったのが1996年10月1日である(その後2001年に財団法人新映像産業推進センターと統合して財団法人デジタルコンテンツ協会となり、2012年に一般財団法人に移行)。
コンテンツの語が古くから使われたものとして[[インターネットサービスプロバイダ]]の分類(接続プロバイダ、プレゼンスプロバイダ、etc)のひとつの「インターネットコンテンツプロバイダ」がある。インターネットマルチフィード株式会社の1997年8月27日のプレスリリース『「インターネットマルチフィード株式会社」の設立について』<ref>[http://www.mfeed.co.jp/press/1997/19970827.html プレスリリース - 1997年8月27日 「インターネットマルチフィード株式会社」の設立について|インターネットマルチフィード株式会社] 2013年6月30日閲覧</ref>に、盛大に「コンテンツ」という言葉が使われているのが確認できる。また「やじうまWatch」1997年1月27日に、海外サイトの話題紹介の中で「コンテンツ」という言葉が使われているのが確認できる<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/www/yajiuma/backno/9701/5.htm やじうまWatch -- 1997/01/26-31] 2013年6月30日閲覧</ref>。
後述する「コンテンツ促進法」は2004年に制定されたが、当時の[[内閣官房]][[知的財産戦略推進事務局]]長として法案制定に関わった[[荒井寿光]]氏(元[[特許庁長官]])は、法律が出来た背景に、[[バブル崩壊]]後、不振が続く[[重厚長大産業]]に代わる新たな産業を模索する中で、技術をベースにした[[特許]]や文化芸術の著作物といった「[[知的財産]]」が浮上した経緯があるという。「芸術文化がコンピューターを通じて誰でも楽しめるようになってきた。日本からいい[[電気製品]]、[[自動車]]を売るだけじゃなく、コンテンツも世界に普及できるぞ、となった」
並行して、「[[クールジャパン]]」(かっこいい日本)運動が台頭。コンテンツ振興を[[国家戦略]]として支える機運が醸成されていったという<ref>[[朝日新聞]]2019年12月20日朝刊[https://www.asahi.com/articles/DA3S14301086.html?iref=pc_ss_date コンテンツ、文化=経済の象徴 ネット時代、変わる創作物の概念],
2019年12月21日閲覧</ref>。
また、[[英語圏]]のものとしては、[[アメリカ合衆国|米国]]の通信風紀法(CDA)の1996年の改訂の際のセクション230 ([[w:Section 230 of the Communications Decency Act]]) に "content provider" の語がある。
== 法 ==
[[2004年]]([[平成]]16年)に成立・施行された[[コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律]](コンテンツ法)では、「コンテンツ」を以下のように定めている。
{{Quotation|この法律において「コンテンツ」とは、映画、音楽、演劇、文芸、写真、漫画、アニメーション、コンピュータゲームその他の文字、図形、色彩、音声、動作若しくは映像若しくはこれらを組み合わせたもの又はこれらに係る情報を電子計算機を介して提供するためのプログラム(電子計算機に対する指令であって、一の結果を得ることができるように組み合わせたものをいう。)であって、人間の創造的活動により生み出されるもののうち、教養又は娯楽の範囲に属するものをいう。|コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律|2条1項}}
なお、コンテンツ法は[[デジタルコンテンツ]]の保護や普及を前提においており、プログラムに対して「電子計算機に対する指令であって、一の結果を得ることができるように組み合わせたものをいう」という補足がなされている(しかしそのような説明では[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]を指しているような説明であって、データであるこれらコンテンツのことであれば、[[ソフトウェア]]という語をコンピュータプログラム以外を指すような用法で使ったほうが適切ではあったろう)。当然のことながら、コンテンツはデジタルだけでなく、アナログ(誤用)コンテンツ(例えば[[演奏会|ライブ]]、演劇などを生で見る、[[キャラクターグッズ]]など)も含まれる。
== コンテンツの分類範囲の違い ==
コンテンツはあらゆる情報について用いられるため、非常にあいまいな言葉である。コンテンツの表現形態、流通形態、受信形態によって違ってくる。例えば、番組コンテンツは、放送という行為によって番組として[[パッケージ]]されているコンテンツ、ということである。文字か音楽かは関係ない。映画コンテンツは上映という行為([[スクリーン]]に映し出すこと)を前提とするコンテンツである。つまり、上映後に[[DVD]]などで[[発売|リリース]]される映画は「映画コンテンツの二次利用」ということになる。最初からDVDでリリースされている動画は通常、映画とは呼ばない。しかし、映画の手法で撮影された、テレビ放映のみの動画は「[[テレビ映画]]」と呼ばれるように、映画の一種と解されている。従って厳密な区別は無い、ないし不可能である。
=== ソフトウェアとコンテンツ ===
[[コンピュータ]]の[[ソフトウェア]]に関しては、ソフトウェアを「[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]」と「[[データ]]」とに分けたデータに相当する部分をコンテンツと称することがある。たとえば、[[eラーニング]]においては、教材を提示し、あるいは試験を行ったりするプログラムに対し、[[教材]]そのものがコンテンツである。[[地理情報システム]]においては、地図を提示し地理的な解析を行ったりするプログラムに対し、[[地図]]情報や[[統計]]情報がコンテンツである。教育の用語の「教具」([[黒板]]や[[チョーク]]など)と「[[教材]]」([[算数]]で使う「[[おはじき]]」など)の違いに似ている。
== キラーコンテンツ ==
[[アプリケーションソフトウェア]]について[[キラーアプリケーション]]という語があるが、あるメディアを爆発的に普及させるきっかけとなるコンテンツを特に'''キラーコンテンツ'''と呼ぶ。'''キラータイトル'''との語もある。
== コンテンツ保護 ==
{{Main|コピーガード|デジタル著作権管理}}
特にデジタルコンテンツはコピーしても画質・音質が劣化しないので、供給側にメリットがあるが、利用者、購買者側などの第三者がこれを行うと商売が成り立たなくなる。そのため、コピーをできないようにするコンテンツ保護技術が開発されている。
[[海賊版]]などの[[著作権法|違法行為]]を防止するため、各種のコンテンツ保護技術([[AACS]]、[[Content Scramble System|CSS]]、[[コピーコントロールCD|CCCD]]など)を採用している供給者もある。積極的な供給者もいれば消極的な供給者もいる。
また、コンテンツの再生を特定のソフトウェアないしハードウェアでしか行えないようにして、第三者による複製や再利用を難しくする技術として「デジタル著作権管理技術」がある。
== メディア論とコンテンツ ==
{{独自研究|date=2020年5月|section=1}}
コンテンツは、{{要出典範囲|date=2016年10月|[[マーシャル・マクルーハン]]が「メディア論」の中で提唱}}している、{{要出典範囲|date=2016年10月|メディアの中のメディアに当たる}}ものである。{{要出典|date=2016年10月}}そのため、{{要出典範囲|date=2016年10月|コンテンツはメディアでもある}}。{{要出典|date=2016年10月}}また、{{要出典範囲|date=2016年10月|マクルーハンは「メディアはメッセージである」としている}}ため、{{要出典範囲|date=2016年10月|コンテンツ=メディア=メッセージとなる}}。{{要出典|date=2016年10月}}
== 「コンテンツ」概念の弊害 ==
[[大阪市立大学]]の[[増田聡]]教授(ポピュラー文化論)は「かつて[[文化]][[芸術]]作品は『経済的次元に還元できない[[多様性|多様]]な価値軸で評価される』とされてきたが、今では『それで稼げるかどうか』という単一の基準で評価される傾向が強まった」と語る。「さまざまな作品は個々の[[ジャンル]]に応じて異なる基準で評価されてきたが、それらを経済的な基準に一元化する見方が強まったことで、音楽、映像などをすべて『稼ぐためのコンテンツ』として同列に扱う見方が社会で支配的になってきた」とし、文化に対する人々のものの見方が平板化した点を指摘する<ref name="名前なし-1">[[朝日新聞]]2019年12月20日朝刊[https://www.asahi.com/articles/DA3S14301086.html?iref=pc_ss_date コンテンツ、文化=経済の象徴 ネット時代、変わる創作物の概念]</ref>。
さらに、増田教授は「過去に雑誌で『[[女子アナ]]は(テレビ)局にとって最大のコンテンツ』といった表現があったが、デジタルデータ化になじまない対象でも『コンテンツ』と呼ぶことで[[消費]]の対象に変えてしまうこともできる。あらゆるものを『コンテンツ』と呼ぶうちに、消費されるべきではない[[尊厳]]のようなものまで経済へと従属させてしまいかねない」と話し、「コンテンツ」概念の拡大適用を危惧した<ref name="名前なし-1"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
<!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Wiktionary|content}}
<!-- {{Commonscat|Contents}} -->
* [[著作権法]]
* [[著作権]] - [[著作者人格権]]
* [[創造産業]] - [[文化産業]] - [[コンテンツ産業]]
* [[有害情報]]
* [[メディア (媒体)]]
* [[ウェブサイト]]
* [[コンテンツ管理システム]] (CMS)
* [[コピーガード]]
* [[放送]] - [[通信]] - [[インターネット]]
* [[通信と放送の融合]]
* [[コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律]]
* [[ユーザー生成コンテンツ]]
* [[ストリーミング]]
== 外部リンク ==
* [https://www.dcaj.or.jp/ 一般財団法人デジタルコンテンツ協会]
* [http://cc-ra.jp/ コンテンツ教育学会]
* [http://www.contentshistory.org/ コンテンツ文化史学会]
* [http://humanmedia.co.jp/database/ 日本と世界のメディア×コンテンツ市場データベース] - ヒューマンメディア
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[[Category:情報]]
[[Category:マスメディア]]
[[Category:デジタル技術]]
[[Category:コンテンポラリーアート]]
[[Category:文化経済学]]
[[Category:英語の語句]]
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11,147 |
クライアント (コンピュータ)
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クライアント(英: client)は、クライアント・サーバシステムにおいて、サーバ(英: server)に対してサービスの依頼を行いその提供を受けるような、コンピュータまたはアプリケーションやプロセスのことをいう。サーバからサービスを受ける側を指す。
クライアントの例:
「端末」(terminal) とは、末端あるいは末端に存在する物を指す言葉である。
中央に存在する大型コンピュータを末端に接続した多数の入出力装置から時分割で共同利用するようになった頃に、この中心的なコンピュータを「ホストコンピュータ」(ホスト)、入出力装置を「端末装置」(端末)と称するようになった。
この中央集中型の端末は、基本的に単純な入出力を行う機能だけを持ち、その他複雑な処理は全てホストコンピュータで行われる。例えば端末からデータ入力を行う場合には、入出力画面の構成、画面上の入力領域の位置や入力桁数などを、必要に応じてホストが端末に指示する。端末ではただ指示された内容に従って入出力画面を表示し、オペレータが入力したデータをホストへ送信するという処理だけが行われる。つまりこの場合の「端末」は、文字通り主となるホスト(主人)に対して従属する物という位置付けである。
一方、クライアント・サーバシステムとは、UNIXのネットワークシステムで誕生した概念である。「クライアント」(client) とは、依頼人あるいは顧客を指す言葉であり、また「サーバ」(server) とは、給仕人あるいは奉仕者を指す言葉である。
コンピュータの小型化という潮流により、大型コンピュータより比較的小型のミニコンピュータが登場した。当初UNIXはこのミニコンピュータで動作するオペレーティングシステム (OS) として開発された。
大型コンピュータの付属物でなく、大型コンピュータが次第に小型化する中で登場したUNIXは、それぞれのコンピュータがホストに必要な処理能力を持ち合わせていた。そのため、UNIXにおけるネットワークはそれぞれのコンピュータがホストとなり、ホスト同士が接続されたPeer to Peer (P2P) 型のネットワークから始まった。
しかし、Peer to Peer型ネットワークはノードの数が増え、通信量が増大すると伝送効率が低下するため、ホスト同士で役割分担をすることになった。この役割分担をする上で、コンピュータ資源を依頼に応じて給仕するホストを「サーバ」、コンピュータ資源の利用を依頼するホストを「クライアント」と称するようになった。またPeer to Peer型ネットワークであるため、状況次第でクライアントがサーバへ、サーバがクライアントへと役割が代わる場合もある。
つまりこの場合の「クライアント」は、文字通り給仕人(サーバ)に対する依頼人(クライアント)という位置付けであり、ホスト/端末間の関係とは主従が逆転あるいは対等な関係へと変化している。
「端末」とは「端末装置」(terminal device / terminal equipment) の略称であり同義である。そのため多くの場合は単に「端末」と言った場合は現実に存在する物体を指す。アプリケーションソフトで実現した端末は「仮想端末」と呼ばれ、仮想端末を実現するアプリケーションソフトを「端末エミュレータ」と呼ぶ。
一方「クライアント」や「サーバ」は、ネットワークシステムにおける役割上の名称であり、必ずしも特定の物体を指す物ではない。
それぞれの言葉が互いに別の観点から見た物であるため、「クライアント」と「端末」は時として混同され、場合によっては明確な区別ができない場合がある。
例えば、一般にメールサーバと呼ばれている物は、クライアントとしての機能しか持たない電子メールクライアントに対するサーバという意味であり、メール配送プロトコル上の扱いは、メールソフトかメールサーバかに関わらず、送信側をSMTPクライアント、受信側をSMTPサーバと呼ぶ。これはメールサーバ間のメール配送においては送信側のメールサーバがSMTPクライアントとなり、受信側のメールサーバがSMTPサーバとなる事を意味する。
また、UNIXのウィンドウ・システムであるX Window Systemは、クライアント・サーバ形のシステムであり、画面表示を依頼する側をXクライアント、画面表示装置というコンピュータ資源を提供する側をXサーバと呼ぶ。XクライアントとXサーバを同一のコンピュータ上で稼動させる事が多いが、機能的には必ずしも両者を同一のコンピュータ上で稼動させる必要はない。そのため、Xクライアントとは別のコンピュータでXサーバを稼動させ、Xクライアントが稼動するコンピュータで行った処理結果を、Xサーバが稼動する別のコンピュータの画面上に表示させる事も容易に実現できる。これはパーソナルコンピュータ (PC) にXサーバソフトを導入すると、他のUNIXワークステーション画面をPCのデスクトップ上に表示できる事を意味する。このX Window Systemの機能を応用した、Xサーバとしての機能だけを持つ入出力専用コンピュータを、一般にX端末と呼ぶ。
WWWの機能を利用したWebアプリケーションにおいては、クライアントであるWebブラウザは基本的に入出力機能だけを持ち、複雑な処理は全てWebサーバとその背後にあるアプリケーションサーバで行われる。WebブラウザなどWebアプリケーションを利用する上で必要最小限の機能だけで構成されたクライアントをシンクライアント (thin client) と呼ぶが、シンクライアントと端末の機能は非常に近い。さらにシンクライアントのうち、自らはデータの処理・保存などの能力をほとんど持たず、通信・入出力機能のみの構成としたものは「ゼロクライアント」(zero client) と呼ばれることもある。
主としてクライアントとしての機能しか持たないコンピュータでは、技術的には異なる両者の概念を含んでクライアント端末と呼ばれる事も多い。
国立国語研究所による「外来語」言い換え提案においては、以下のように定義されている。
『ネットワークでつながったコンピューターで,情報の提供を受ける側のコンピューターを指して「クライアント」ということがあるが,この場合は「端末」「端末機」「利用側のコンピューター」などと言い換えたり説明を付けたりすることができる。』
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クライアントは、クライアント・サーバシステムにおいて、サーバに対してサービスの依頼を行いその提供を受けるような、コンピュータまたはアプリケーションやプロセスのことをいう。サーバからサービスを受ける側を指す。
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{{出典の明記|date=2021年9月}}
[[File:Client-server-model.svg|thumb|right|クライアントがインターネットを経由してサーバと通信するイメージ図]]
'''クライアント'''({{lang-en-short|client}})は、[[クライアントサーバモデル|クライアント・サーバシステム]]において、[[サーバ]]({{lang-en-short|server}})に対して[[サービス]]の依頼を行いその提供を受けるような、[[コンピュータ]]または[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]や[[プロセス]]のことをいう。サーバからサービスを受ける側を指す。
== 例 ==
クライアントの例:
* ネットワーク・クライアント
** [[Local Area Network|LAN]]クライアント
**: [[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]・[[プリンター]]等の共有サービスを受ける。
* [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]クライアント
** [[World Wide Web|ウェブ]] ― [[ウェブブラウザ]]
** [[電子メール|メール]] ― [[電子メールクライアント]]
** [[Network News Transfer Protocol|NNTP]] ― ニュースリーダー([[ネットニュース]]を参照)
** [[Network Time Protocol|NTP]] ― 桜時計など
** [[Domain Name System|DNS]]クライアント
** [[Telnet]]クライアント
** [[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]クライアント
* [[シンクライアント]] (thin client)
== 「クライアント」と「端末」の違い ==
=== コンピュータネットワークにおける位置付け ===
;端末
「端末」(terminal) とは、末端あるいは末端に存在する物を指す言葉である。
中央に存在する[[メインフレーム|大型コンピュータ]]を末端に接続した多数の入出力装置から[[タイムシェアリングシステム|時分割]]で共同利用するようになった頃に、この中心的なコンピュータを「ホストコンピュータ」(ホスト)、入出力装置を「端末装置」(端末)と称するようになった。
この中央集中型の端末は、基本的に単純な入出力を行う機能だけを持ち、その他複雑な処理は全てホストコンピュータで行われる。例えば端末からデータ入力を行う場合には、入出力画面の構成、画面上の入力領域の位置や入力桁数などを、必要に応じてホストが端末に指示する。端末ではただ指示された内容に従って入出力画面を表示し、オペレータが入力したデータをホストへ送信するという処理だけが行われる。つまりこの場合の「端末」は、文字通り主となるホスト(主人)に対して従属する物という位置付けである。
;クライアント
一方、クライアント・サーバシステムとは、[[UNIX]]のネットワークシステムで誕生した概念である。「クライアント」(client) とは、依頼人あるいは顧客を指す言葉であり、また「サーバ」(server) とは、給仕人あるいは奉仕者を指す言葉である。
コンピュータの[[ダウンサイジング|小型化]]という潮流により、大型コンピュータより比較的小型の[[ミニコンピュータ]]が登場した。当初UNIXはこのミニコンピュータで動作する[[オペレーティングシステム]] (OS) として開発された。
大型コンピュータの付属物でなく、大型コンピュータが次第に小型化する中で登場したUNIXは、それぞれのコンピュータがホストに必要な処理能力を持ち合わせていた。そのため、UNIXにおけるネットワークはそれぞれのコンピュータがホストとなり、ホスト同士が接続された[[Peer to Peer]] (P2P) 型のネットワークから始まった。
しかし、Peer to Peer型ネットワークは[[ノード (ネットワーク)|ノード]]の数が増え、通信量が増大すると伝送効率が低下するため、ホスト同士で役割分担をすることになった。この役割分担をする上で、コンピュータ資源を依頼に応じて給仕するホストを「[[サーバ]]」、コンピュータ資源の利用を依頼するホストを「'''クライアント'''」と称するようになった。またPeer to Peer型ネットワークであるため、状況次第でクライアントがサーバへ、サーバがクライアントへと役割が代わる場合もある。
つまりこの場合の「クライアント」は、文字通り給仕人(サーバ)に対する依頼人(クライアント)という位置付けであり、ホスト/端末間の関係とは主従が逆転あるいは対等な関係へと変化している。
=== 用語の対象 ===
「端末」とは「端末装置」(terminal device / terminal equipment) の略称であり同義である。そのため多くの場合は単に「端末」と言った場合は現実に存在する物体を指す。アプリケーションソフトで実現した端末は「仮想端末」と呼ばれ、仮想端末を実現するアプリケーションソフトを「[[エミュレータ (コンピュータ)|端末エミュレータ]]」と呼ぶ。
一方「クライアント」や「サーバ」は、ネットワークシステムにおける役割上の名称であり、必ずしも特定の物体を指す物ではない。
それぞれの言葉が互いに別の観点から見た物であるため、「クライアント」と「端末」は時として混同され、場合によっては明確な区別ができない場合がある。
例えば、一般にメールサーバと呼ばれている物は、クライアントとしての機能しか持たない[[電子メールクライアント]]に対するサーバという意味であり、[[Simple Mail Transfer Protocol|メール配送プロトコル]]<ref>{{IETF RFC|5321}}</ref>上の扱いは、メールソフトかメールサーバかに関わらず、送信側をSMTPクライアント、受信側をSMTPサーバと呼ぶ。これはメールサーバ間のメール配送においては送信側のメールサーバがSMTPクライアントとなり、受信側のメールサーバがSMTPサーバとなる事を意味する。
また、UNIXの[[ウィンドウシステム|ウィンドウ・システム]]である[[X Window System]]は、クライアント・サーバ形のシステムであり、画面表示を依頼する側をXクライアント、画面表示装置というコンピュータ資源を提供する側をXサーバと呼ぶ。XクライアントとXサーバを同一のコンピュータ上で稼動させる事が多いが、機能的には必ずしも両者を同一のコンピュータ上で稼動させる必要はない。そのため、Xクライアントとは別のコンピュータでXサーバを稼動させ、Xクライアントが稼動するコンピュータで行った処理結果を、Xサーバが稼動する別のコンピュータの画面上に表示させる事も容易に実現できる。これは[[パーソナルコンピュータ]] (PC) にXサーバソフトを導入すると、他のUNIX[[ワークステーション]]画面をPCのデスクトップ上に表示できる事を意味する。このX Window Systemの機能を応用した、X'''サーバ'''としての機能だけを持つ入出力専用コンピュータを、一般に[[X端末|X'''端末''']]と呼ぶ。
[[World Wide Web|WWW]]の機能を利用した[[ウェブアプリケーション|Webアプリケーション]]においては、クライアントである[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]は基本的に入出力機能だけを持ち、複雑な処理は全て[[Webサーバ]]とその背後にある[[アプリケーションサーバ]]で行われる。WebブラウザなどWebアプリケーションを利用する上で必要最小限の機能だけで構成されたクライアントを[[シンクライアント]] (thin client) と呼ぶが、シンクライアントと端末の機能は非常に近い。さらにシンクライアントのうち、自らはデータの処理・保存などの能力をほとんど持たず、通信・入出力機能のみの構成としたものは「ゼロクライアント」(zero client) と呼ばれることもある<ref>[https://e-words.jp/w/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88.html クライアント(client)とは - IT用語辞典 e-Words]</ref>。
主としてクライアントとしての機能しか持たないコンピュータでは、技術的には異なる両者の概念を含んでクライアント端末と呼ばれる事も多い。
=== 「外来語」言い換え提案 ===
[[国立国語研究所]]による「外来語」言い換え提案においては、以下のように定義されている。
『ネットワークでつながったコンピューターで,情報の提供を受ける側のコンピューターを指して「クライアント」ということがあるが,この場合は「端末」「端末機」「利用側のコンピューター」などと言い換えたり説明を付けたりすることができる。』
== 関連項目 ==
* [[端末]]
* [[ファットクライアント]]、[[シンクライアント]]
== 脚注 ==
<references/>
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[[Category:クライアント (コンピュータ)|*]]
[[Category:コンピュータネットワーク]]
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PC
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PC、PCは様々な意味で用いられている略語。
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PC、PCは様々な意味で用いられている略語。
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{{TOCright}}
'''PC'''、'''PC'''は様々な意味で用いられている略語。
==技術·科学==
=== 情報技術 ===
* personal computer(パーソナルコンピュータ)の略称。大組織しか所有できないようなものではなく個人用[[コンピュータ]]全般を指す呼称・[[カテゴリ]]。→'''[[パーソナルコンピュータ]]'''
* 上述の概念に因んで各社が「PC」という表現を含んだ名称をつけた製品。
** [[IBM-PC互換機]]の略。[[Macintosh]]に対して[[PC/AT]]、[[PC/AT互換機]]を指していた。
** PC/AT互換機が浸透する前の日本では、[[日本電気]] (NEC) 製のパーソナルコンピュータ([[PC-8001]]、[[PC-8801]]、[[PC-9801]]など、「PCシリーズ」とも)を指したこともある。[[NECのパーソナルコンピュータ一覧]]も参照。
** [[日本電気ホームエレクトロニクス]](NEC-HE、会社解散)が開発・発売していた、PCシリーズ系統の家庭用ゲーム機器・[[PCエンジン]]シリーズ([[PC-FX]]等も含む)のこと。
** [[マイクロソフト]]と[[インテル]]が提唱するPCの規格。PC97({{仮リンク|PC97ハードウェアデザインガイド|en|PC_System_Design_Guide}}の略)、 PC99({{仮リンク|PC99システムデザインガイド|en|PC_System_Design_Guide}}の略)、 PC2000({{仮リンク|PC2000システムデザインガイド|en|PC_System_Design_Guide}}の略)など。
* [[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]におけるメモリモジュールの規格。PC1600 PC2700 PC3200など({{節リンク|DDR SDRAM|メモリモジュールの規格}})。
* Programmable Controller - プログラマブル・コントローラ→[[プログラマブルロジックコントローラ]](PLC)。
* Program Counter - [[プログラム・カウンタ]]。
* Programmable Counter - [[プログラマブル・カウンタ]]。
* Pocket Computer - [[ポケットコンピュータ]]。
=== 医歯薬学 ===
* phenol coefficient - [[石炭酸係数]]。
* Penile cancer - [[陰茎癌]]
* Platelet Concentrates - 濃厚血小板⇒[[輸血#濃厚血小板]]を参照。
* Plaque Control - [[プラークコントロール]](歯垢対策)。
* Penicillin - [[ペニシリン]]。
=== 建築 ===
* precast concrete - [[プレキャストコンクリート]]
* Prestressed Concrete - [[プレストレスト・コンクリート]]
=== 化学物質・材料 ===
* Polycarbonate - [[ポリカーボネート]]。
* Phosphatidylcholine - [[ホスファチジルコリン]]。
=== 単位 ===
* parsec - [[パーセク]](小文字で '''pc''')
== 社会 ==
=== 政治 ===
* Public Comment - [[パブリックコメント]]。
* Political Correctness - [[ポリティカル・コレクトネス]]。
* Privy Council - [[枢密院]]。
=== 商業 ===
* Price Card - [[プライスカード]](値札)。
* Profit Center - [[プロフィット・センター]]。
=== 交通 ===
* Passenger Car - [[客車]]。
=== 警察 ===
* Police Car - [[パトロールカー]]。
* Police Copter - [[警察ヘリコプター]]。
== 地名・企業名等 ==
* Piacenza - [[イタリア共和国]][[エミリア=ロマーニャ州]][[ピアチェンツァ県]]の県名略記号および[[ISO 3166-2:IT]]県名コード。
* Panasonic Corporation - [[パナソニック]]の[[ニューヨーク証券取引所]]証券コード。
* Pony Canyon - [[ポニーキャニオン]]。
* Pokémon Center - [[ポケモンセンター]]。
*JO'''PC''' - [[NHK釧路放送局]]
== その他 ==
* public convenience : [[トイレ]]のこと。
* Postcard - [[はがき|ポストカード]]。
* Pearl City - [[稲沢パールシティ|パールシティ]]: [[愛知県]][[稲沢市]]にあるショッピングセンター。
* Player Character - [[プレイヤーキャラクター]]。
* '''P'''o'''c'''hacco:サンリオのキャラクター・[[ポチャッコ]]の略称表記。
* Penalty Corner - [[フィールドホッケー]]のルール。
* Potato Chips - [[ポテトチップス]]
== 関連項目 ==
* {{Prefix|PC}}
* {{Prefix|Pc}}
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2022-03-27T07:06:45Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/PC
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国鉄の車両形式一覧
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国鉄の車両形式一覧(こくてつのしゃりょうけいしきいちらん)では、日本国有鉄道をはじめとした日本の国有鉄道事業体(国鉄)に在籍した鉄道車両の形式の一覧を記す。
車軸配列ごとに区分。
軸配置0-4-4-0(BB)
特急形・急行形以外の普通列車用気動車は一般形気動車と総称され、さらに一般形、通勤形、近郊形に細分されることもある。国鉄時代には正式な分類がなかったため、どの形式がどの分類に属するか文献により相違がみられる。
10系以前の客車には急行形や一般形に分類される車種を種別ごとに分類していない。
下記の一覧は1928年(昭和3年)に行われた称号規定変更後の形式をまとめたものである。
専用種別が標記されていない車両はガソリン専用車である。
1966年、記号「コ」をコンテナ車に譲るため、名称を検重車に変更のうえ記号を「ケ」に変更。
横軽(碓氷峠)用の歯車付き緩急車。1932年廃止。
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"title": "貨車"
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国鉄の車両形式一覧(こくてつのしゃりょうけいしきいちらん)では、日本国有鉄道をはじめとした日本の国有鉄道事業体(国鉄)に在籍した鉄道車両の形式の一覧を記す。
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{{参照方法|date=2022年3月19日 (土) 06:11 (UTC)}}
'''国鉄の車両形式一覧'''(こくてつのしゃりょうけいしきいちらん)では、[[日本国有鉄道]]をはじめとした日本の国有鉄道事業体(国鉄)に在籍した[[鉄道車両]]の形式の一覧を記す。
== 凡例 ==
* 形式名は原則としてその車両が最後に名乗った称号規定に準ずるものを使用する。
* 在籍中に改造を伴わず形式名が変化した場合は、元の形式を括弧内に表記する。改造により別形式となった場合は別表記とする。
* 各区分内では形式の数字の若い順に記す。
== 蒸気機関車 ==
車軸配列ごとに区分。
=== タンク機関車 ===
==== B形(動軸2軸) ====
===== 軸配置0-4-0(B) =====
*[[国鉄1形蒸気機関車|1形]]
*[[国鉄5形蒸気機関車|5形]]
*[[国鉄10形蒸気機関車|10形]]
*[[国鉄40形蒸気機関車|40形]]
*[[国鉄45形蒸気機関車|45形]]
*[[国鉄50形蒸気機関車|50形]]
*[[国鉄60形蒸気機関車|60形]]
*[[国鉄70形蒸気機関車|70形]]
*[[国鉄ア3形蒸気機関車|ア3形]]
*[[国鉄ア4形蒸気機関車|ア4形]]
*[[国鉄ア7形蒸気機関車|ア5形]]
*[[国鉄B20形蒸気機関車|B20形]]
===== 軸配置0-4-2(B1) =====
*[[国鉄5形蒸気機関車|5形]]
===== 軸配置2-4-0(1B) =====
*[[国鉄A3形蒸気機関車|A3形]]
*[[国鉄90形蒸気機関車|90形]]
*[[国鉄100形蒸気機関車|100形]]
*[[国鉄105形蒸気機関車|105形]]
*[[国鉄110形蒸気機関車|110形]](←A2形。10号機関車)
*[[国鉄115形蒸気機関車|115形]](170形の再買収機)
*[[国鉄120形蒸気機関車|120形]](←A4形)
*[[国鉄130形蒸気機関車|130形]](←A4形)
*[[国鉄140形蒸気機関車|140形]]
*[[国鉄150形蒸気機関車|150形]](←A1形。1号機関車)
*[[国鉄160形蒸気機関車|160形]](←A6形・A7形)
*[[国鉄170形蒸気機関車|170形]]
*[[国鉄180形蒸気機関車|180形]]
*[[国鉄190形蒸気機関車|190形]](←A5形)
===== 軸配置2-4-2(1B1) =====
*[[国鉄200形蒸気機関車|200形]]
*[[国鉄205形蒸気機関車|205形]]
*[[国鉄210形蒸気機関車|210形]]
*[[国鉄220形蒸気機関車|220形]]
*[[国鉄225形蒸気機関車|225形]]
*[[国鉄230形蒸気機関車|230形]](←A10形)
*[[国鉄280形蒸気機関車|280形]]
*[[国鉄400形蒸気機関車|400形]](鉄道局形式Jの再買収機)
*[[国鉄450形蒸気機関車|450形]]
*[[国鉄480形蒸気機関車|480形]]
*[[国鉄490形蒸気機関車|490形]]
*[[国鉄500形蒸気機関車|500形]](←A8形)
*[[国鉄600形蒸気機関車|600形]](←A8形)
*[[国鉄700形蒸気機関車|700形]](←A8形)
*[[国鉄800形蒸気機関車|800形]]
*[[国鉄810形蒸気機関車|810形]]
*[[国鉄850形蒸気機関車|850形]]
*[[国鉄860形蒸気機関車|860形]](←A9形)
*[[国鉄870形蒸気機関車|870形]]
*[[国鉄900形蒸気機関車|900形]]
*[[国鉄950形蒸気機関車|950形]]
===== 軸配置4-4-2(2B1) =====
*[[国鉄5300形蒸気機関車#960形|960形]]
*[[国鉄6200形蒸気機関車#1000形|1000形(2代)]]
*[[国鉄6200形蒸気機関車#1070形|1070形]]
*[[国鉄6200形蒸気機関車#1150形|1150形(2代)]]
*[[国鉄5500形蒸気機関車#B10形|B10形]]
===== 軸配置4-4-4(2B2) =====
*[[国鉄1060形蒸気機関車 (2代)|1060形(2代)]]
==== C形(動軸3軸) ====
===== 軸配置0-6-0(C) =====
*[[国鉄1000形蒸気機関車|1000形(初代)]]
*[[国鉄1010形蒸気機関車|1010形]]
*[[国鉄1020形蒸気機関車|1020形]]
*[[国鉄1025形蒸気機関車|1025形]]
*[[国鉄1030形蒸気機関車|1030形]]
*[[国鉄1040形蒸気機関車|1040形]]
*[[国鉄1045形蒸気機関車|1045形]]
*[[国鉄1050形蒸気機関車|1050形]]
*[[国鉄1055形蒸気機関車|1055形]]
*[[国鉄1060形蒸気機関車 (初代)|1060形(初代)]]
*[[国鉄1100形蒸気機関車|1100形]](←B3形・B4形)
*[[国鉄1120形蒸気機関車|1120形]]
*[[国鉄1150形蒸気機関車 (初代)|1150形(初代)]]
*[[国鉄1170形蒸気機関車|1170形]]
*[[国鉄1180形蒸気機関車|1180形]]
*[[国鉄1190形蒸気機関車|1190形]]
*[[国鉄1195形蒸気機関車|1195形]]
*[[国鉄1200形蒸気機関車|1200形]]
*[[国鉄1210形蒸気機関車|1210形]](1150形(初代)の再買収機)
*[[国鉄1215形蒸気機関車|1215形]]
*[[国鉄1220形蒸気機関車|1220形]]
*[[国鉄1225形蒸気機関車|1225形]]
*[[国鉄1230形蒸気機関車|1230形]]
*[[国鉄1235形蒸気機関車|1235形]](1010形の再買収機)
*[[国鉄1240形蒸気機関車|1240形]]
*[[国鉄1245形蒸気機関車|1245形]]
*[[国鉄1250形蒸気機関車|1250形]]
*[[国鉄1255形蒸気機関車|1255形]]
*[[国鉄1260形蒸気機関車|1260形]]
*[[国鉄1265形蒸気機関車|1265形]]
*[[国鉄1270形蒸気機関車|1270形]]
*[[国鉄1275形蒸気機関車|1275形]]
*[[国鉄1280形蒸気機関車|1280形]]
*[[国鉄1285形蒸気機関車|1285形]]
*[[国鉄1290形蒸気機関車|1290形]](←B1形。善光号機関車)
*[[国鉄1295形蒸気機関車|1295形]]
*[[国鉄1300形蒸気機関車|1300形]]
*[[国鉄1310形蒸気機関車|1310形]]
*[[国鉄1320形蒸気機関車|1320形]]
*[[国鉄1325形蒸気機関車|1325形]]
*[[国鉄1340形蒸気機関車|1340形]]
*[[国鉄1345形蒸気機関車|1345形]]
*[[国鉄1350形蒸気機関車|1350形]]
*[[国鉄1355形蒸気機関車|1355形]]
*[[国鉄1360形蒸気機関車|1360形]]
*[[国鉄1370形蒸気機関車|1370形]]
*[[国鉄1400形蒸気機関車|1400形]]
*[[国鉄1430形蒸気機関車|1430形]]
*[[国鉄1440形蒸気機関車|1440形]]
*[[国鉄1480形蒸気機関車|1480形]]
*[[国鉄1500形蒸気機関車|1500形]]
*[[国鉄1530形蒸気機関車|1530形]]
*[[国鉄1550形蒸気機関車|1550形]]
*[[国鉄1630形蒸気機関車|1630形]]
*[[国鉄1650形蒸気機関車|1650形]](1010形の再買収機)
*[[国鉄1670形蒸気機関車|1670形]](1100形の再買収機)
*[[国鉄1680形蒸気機関車|1680形]](1100形の再買収機)
*[[国鉄1690形蒸気機関車|1690形]]
*[[国鉄1700形蒸気機関車|1700形]]
*[[国鉄1710形蒸気機関車|1710形]](1230形の再買収機)
*[[国鉄1720形蒸気機関車|1720形]]
*[[国鉄1730形蒸気機関車|1730形]]
*[[国鉄1740形蒸気機関車|1740形]]
*[[国鉄1745形蒸気機関車|1745形]]
*[[国鉄1750形蒸気機関車|1750形]]
*[[国鉄1760形蒸気機関車|1760形]]
*[[国鉄1765形蒸気機関車|1765形]]
*[[国鉄1770形蒸気機関車|1770形]]
*[[国鉄1800形蒸気機関車|1800形]](←B2形)
*[[国鉄1850形蒸気機関車|1850形]](←B2形)
*[[国鉄1900形蒸気機関車|1900形]]
*[[国鉄1940形蒸気機関車|1940形]]
*[[国鉄1960形蒸気機関車|1960形]]
*[[国鉄1980形蒸気機関車|1980形]]
*[[国鉄2000形蒸気機関車|2000形]]
*[[国鉄2060形蒸気機関車|2060形]]
*[[国鉄2040形蒸気機関車|2040形]]
*[[国鉄2080形蒸気機関車|2080形]]
*[[国鉄ア2形蒸気機関車|ア2形]]
*[[国鉄ア5形蒸気機関車|ア5系]]
*[[国鉄ア6形蒸気機関車|ア6形]]
===== 軸配置0-6-2(C1) =====
*[[国鉄1370形蒸気機関車|1370形]]
*[[国鉄2090形蒸気機関車|2090形]]
*[[国鉄2100形蒸気機関車|2100形]](←B6形)
*[[国鉄2120形蒸気機関車|2120形]](←B6形)
*[[国鉄2400形蒸気機関車|2400形]](←B6形)
*[[国鉄2500形蒸気機関車|2500形]](←B6形)
*[[国鉄2700形蒸気機関車|2700形(初代)]]
===== 軸配置0-6-4(C2) =====
*[[国鉄2700形蒸気機関車 (2代)|2700形(2代)]]
===== 軸配置2-6-0(1C) =====
*[[国鉄2800形蒸気機関車|2800形]]
*[[国鉄2820形蒸気機関車|2820形]]
*[[国鉄2850形蒸気機関車|2850形]]
===== 軸配置2-6-2(1C1) =====
*[[国鉄2900形蒸気機関車|2900形]]
*[[国鉄2920形蒸気機関車|2920形]]
*[[国鉄2930形蒸気機関車|2930形]]
*[[国鉄2940形蒸気機関車|2940形]]
*[[国鉄2950形蒸気機関車|2950形]]
*[[国鉄3000形蒸気機関車|3000形]]
*[[国鉄3005形蒸気機関車|3005形]]
*[[国鉄3010形蒸気機関車|3010形]]
*[[国鉄3015形蒸気機関車|3015形]]
*[[国鉄3020形蒸気機関車|3020形]]
*[[国鉄3025形蒸気機関車|3025形]]
*[[国鉄3030形蒸気機関車|3030形]]
*[[国鉄3035形蒸気機関車|3035形]]
*[[国鉄2700形蒸気機関車|3040形(初代)]]
*[[国鉄3040形蒸気機関車|3040形(2代)]]
*[[国鉄3045形蒸気機関車|3045形]]
*[[国鉄3050形蒸気機関車|3050形]]
*[[国鉄3060形蒸気機関車|3060形]]
*[[国鉄3070形蒸気機関車|3070形]]
*[[国鉄3080形蒸気機関車|3080形]](←B5形)
*[[国鉄3085形蒸気機関車|3085形]]
*[[国鉄3100形蒸気機関車|3100形]]
*[[国鉄3150形蒸気機関車|3150形]](←B7形)
*[[国鉄3165形蒸気機関車|3165形]]
*[[国鉄3170形蒸気機関車|3170形]]
*[[国鉄3200形蒸気機関車|3200形]]
*[[国鉄3240形蒸気機関車|3240形]]
*[[国鉄3250形蒸気機関車|3250形]]
*[[国鉄3255形蒸気機関車|3255形]]
*[[国鉄3300形蒸気機関車|3300形]]
*[[国鉄3350形蒸気機関車|3350形]]
*[[国鉄3360形蒸気機関車|3360形]]
*[[国鉄3380形蒸気機関車|3380形]]
*[[国鉄3390形蒸気機関車|3390形]]
*[[国鉄3400形蒸気機関車|3400形]]
*[[国鉄3420形蒸気機関車|3420形]]
*[[国鉄3425形蒸気機関車|3425形]]
*[[国鉄3450形蒸気機関車|3450形]]
*[[国鉄3455形蒸気機関車|3455形]]
*[[国鉄3500形蒸気機関車|3500形]]
*[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]
*[[国鉄C13形蒸気機関車|C13形]]
===== 軸配置2-6-4(1C2) =====
*[[国鉄3700形蒸気機関車|3700形]]
*[[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]]
*[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]
===== 軸配置4-6-2(2C1) =====
*[[国鉄3800形蒸気機関車|3800形]]
==== アプト式 ====
===== 軸配置0-6-0(C) =====
*[[国鉄3900形蒸気機関車|3900形]](←C1形)
===== 軸配置2-6-0(1C) =====
*[[国鉄3920形蒸気機関車|3920形]](←C2形)
===== 軸配置2-6-2(1C1) =====
*[[国鉄3950形蒸気機関車|3950形]](←C3形)
*[[国鉄3980形蒸気機関車|3980形]](←C3形)
==== D形(動軸4軸)====
===== 軸配置0-8-0(D) =====
*[[国鉄4000形蒸気機関車|4000形]]
*[[国鉄4030形蒸気機関車|4030形]]
==== E形(動軸5軸) ====
===== 軸配置0-10-0(E) =====
*[[国鉄4100形蒸気機関車|4100形]]
*[[国鉄4110形蒸気機関車|4110形]]
===== 軸配置2-10-4(1E2) =====
*[[国鉄E10形蒸気機関車|E10形]]
==== マレー式 ====
軸配置0-4-4-0(BB)
*[[国鉄4500形蒸気機関車|4500形]]
*[[国鉄4510形蒸気機関車|4510形]]
=== テンダー機関車 ===
==== B形(動軸2軸) ====
===== 軸配置0-4-2(B1) =====
*[[国鉄5000形蒸気機関車|5000形]](←D1形)
===== 軸配置2-4-2(1B1) =====
*[[国鉄5050形蒸気機関車|5050形]]
*[[国鉄5060形蒸気機関車|5060形]]
===== 軸配置4-4-0(2B) =====
*[[国鉄5100形蒸気機関車|5100形]](←D2形)
*[[国鉄5130形蒸気機関車|5130形]](←D4形)
*[[国鉄5160形蒸気機関車|5160形]](←D11形)
*[[国鉄5200形蒸気機関車|5200形]]
*[[国鉄5230形蒸気機関車|5230形]]
*[[国鉄5270形蒸気機関車|5270形]]
*[[国鉄5300形蒸気機関車|5300形]](←D5形)
*[[国鉄5400形蒸気機関車|5400形]](←D5形)
*[[国鉄5450形蒸気機関車|5450形]]
*[[国鉄5480形蒸気機関車|5480形]]
*[[国鉄5490形蒸気機関車|5490形]](←D3形)
*[[国鉄5500形蒸気機関車|5500形]](←D6形)
*[[国鉄5600形蒸気機関車|5600形]]
*[[国鉄5625形蒸気機関車|5625形]](5600形の国鉄復籍機)
*[[国鉄5630形蒸気機関車|5630形]]
*[[国鉄5650形蒸気機関車|5650形]]
*[[国鉄5680形蒸気機関車|5680形]](←D7形)
*[[国鉄5700形蒸気機関車|5700形]](←D10形)
*[[国鉄5800形蒸気機関車|5800形]]
*[[国鉄5830形蒸気機関車|5830形]]
*[[国鉄5860形蒸気機関車|5860形]]
*[[国鉄5900形蒸気機関車|5900形]]
*[[国鉄5950形蒸気機関車|5950形]]
*[[国鉄6000形蒸気機関車|6000形]]
*[[国鉄6050形蒸気機関車|6050形]]
*[[国鉄6100形蒸気機関車|6100形]]
*[[国鉄6120形蒸気機関車|6120形]](←D8形)
*[[国鉄6150形蒸気機関車|6150形]](←D8形)
*[[国鉄6200形蒸気機関車|6200形]](←D9形)
*[[国鉄6250形蒸気機関車|6250形]]
*[[国鉄6270形蒸気機関車|6270形]](←D9形)
*[[国鉄6300形蒸気機関車|6300形]](←D9形)
*[[国鉄6350形蒸気機関車|6350形]](←D9形)
*[[国鉄6400形蒸気機関車|6400形]](←D12形)
*[[国鉄6500形蒸気機関車|6500形]]
*[[国鉄6700形蒸気機関車|6700形]]
*[[国鉄6750形蒸気機関車|6750形]]
*[[国鉄6760形蒸気機関車|6760形]]
*[[国鉄B50形蒸気機関車|B50形]]
===== 軸配置4-4-2(2B1) =====
*[[国鉄6600形蒸気機関車|6600形]]
==== C形(動軸3軸) ====
===== 軸配置0-6-0(C) =====
*[[国鉄7000形蒸気機関車|7000形]]
*[[国鉄7010形蒸気機関車|7010形]](←E1形)
*[[国鉄7030形蒸気機関車|7030形]](←E1形)
===== 軸配置0-6-2(C1) =====
*[[国鉄7050形蒸気機関車|7050形]]
*[[国鉄7080形蒸気機関車|7080形]]
===== 軸配置2-6-0(1C) =====
*[[国鉄7100形蒸気機関車|7100形]]
*[[国鉄7150形蒸気機関車|7150形]]
*[[国鉄7170形蒸気機関車|7170形]]
*[[国鉄7200形蒸気機関車|7200形]]
*[[国鉄7270形蒸気機関車|7270形]]
*[[国鉄7300形蒸気機関車|7300形]]
*[[国鉄7350形蒸気機関車|7350形]]
*[[国鉄7400形蒸気機関車|7400形]]
*[[国鉄7450形蒸気機関車|7450形]](←E2形)
*[[国鉄7500形蒸気機関車|7500形]]
*[[国鉄7550形蒸気機関車|7550形]]
*[[国鉄7600形蒸気機関車|7600形]]
*[[国鉄7650形蒸気機関車|7650形]]
*[[国鉄7700形蒸気機関車|7700形]](←E4形)
*[[国鉄7720形蒸気機関車|7720形]]
*[[国鉄7750形蒸気機関車|7750形]]
*[[国鉄7800形蒸気機関車|7800形]]
*[[国鉄7850形蒸気機関車|7850形]]
*[[国鉄7900形蒸気機関車|7900形]](←E5形)
*[[国鉄7950形蒸気機関車|7950形]](←E6形)
*[[国鉄8000形蒸気機関車|8000形]]
*[[国鉄8050形蒸気機関車|8050形]]
*[[国鉄8100形蒸気機関車|8100形]](←E7形)
*[[国鉄8150形蒸気機関車|8150形]](←E3形)
*[[国鉄8200形蒸気機関車 (初代)|8200形(初代)]]
*[[国鉄8250形蒸気機関車|8250形]]
*[[国鉄8300形蒸気機関車|8300形]]
*[[国鉄8350形蒸気機関車|8350形]]
*[[国鉄8360形蒸気機関車|8360形]]
*[[国鉄8380形蒸気機関車|8380形]]
*[[国鉄8400形蒸気機関車|8400形]]
*[[国鉄8450形蒸気機関車|8450形]]
*[[国鉄8500形蒸気機関車|8500形(初代)]]
*[[国鉄8550形蒸気機関車|8500形(2代)]]
*[[国鉄8550形蒸気機関車|8550形]]
*[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]
*[[国鉄C50形蒸気機関車|C50形]]
*[[国鉄C56形蒸気機関車|C56形]]
===== 軸配置2-6-2(1C1) =====
*[[国鉄C58形蒸気機関車|C58形]]
*''[[国鉄C63形蒸気機関車|C63形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=80-81}}
===== 軸配置4-6-0(2C) =====
*[[国鉄8700形蒸気機関車|8700形]]
*[[国鉄8800形蒸気機関車|8800形]]
*[[国鉄8850形蒸気機関車|8850形]]
===== 軸配置4-6-2(2C1) =====
*[[国鉄8900形蒸気機関車|8900形]]
*[[国鉄C51形蒸気機関車|C51形]](←18900形)
*[[国鉄C52形蒸気機関車|C52形]](←8200形(2代))
*[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]
*[[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]]
*[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]
*[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]
*[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]
===== 軸配置4-6-4(2C2) =====
*[[国鉄C60形蒸気機関車|C60形]]
*[[国鉄C61形蒸気機関車|C61形]]
*[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形]]
==== D形(動軸4軸) ====
===== 軸配置2-8-0(1D) =====
*[[国鉄9030形蒸気機関車|9030形]]
*[[国鉄9040形蒸気機関車|9040形]](←9000形)
*[[国鉄9050形蒸気機関車|9050形]]
*[[国鉄9150形蒸気機関車|9150形]](←F1形)
*[[国鉄9200形蒸気機関車|9200形]](←F2形)
*[[国鉄9300形蒸気機関車|9300形]]
*[[国鉄9400形蒸気機関車|9400形]]
*[[国鉄9500形蒸気機関車|9500形]]
*[[国鉄9550形蒸気機関車|9550形]]
*[[国鉄9580形蒸気機関車|9580形]](←9600形(初代))
*[[国鉄9600形蒸気機関車|9600形(2代)]]
===== 軸配置2-8-2(1D1) =====
*[[国鉄9700形蒸気機関車|9700形]]
*[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]](←9900形)
*[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]
*[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]
===== 軸配置2-8-4(1D2) =====
*[[国鉄D60形蒸気機関車|D60形]]
*[[国鉄D61形蒸気機関車|D61形]]
*[[国鉄D62形蒸気機関車|D62形]]
==== マレー式 ====
===== 軸配置0-4-4-0(B+B) =====
*[[国鉄4600形蒸気機関車|4600形]]
===== 軸配置2-4-4-0(1B+B) =====
*[[国鉄9020形蒸気機関車|9020形]]
===== 軸配置0-6-6-0(C+C) =====
*[[国鉄9750形蒸気機関車|9750形]]
*[[国鉄9800形蒸気機関車|9800形]]
*[[国鉄9850形蒸気機関車|9850形]]
== 電気機関車 ==
=== 蓄電池機関車 ===
*[[国鉄AB10形電気機関車|AB10形]]
*''[[国鉄AB90形電気機関車|AB90形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|p=96}}
=== 直流用電気機関車 ===
*[[国鉄EB10形電気機関車|EB10形]]
*[[国鉄EC40形電気機関車|EC40形]](←10000形。アプト式)
*[[国鉄ED10形電気機関車|ED10形]](←1000形)
*[[国鉄ED11形電気機関車|ED11形]](←1010形)
*[[国鉄ED12形電気機関車|ED12形]](←1020形)
*[[国鉄ED13形電気機関車|ED13形]](←1030形)
*[[国鉄ED14形電気機関車|ED14形]](←1060形)
*[[国鉄ED15形電気機関車|ED15形]](←1070形)
*[[国鉄ED16形電気機関車|ED16形]]
*[[国鉄ED17形電気機関車|ED17形]]
*[[国鉄ED18形電気機関車|ED18形]]
*[[国鉄ED19形電気機関車|ED19形]]
*[[富士身延鉄道200形電気機関車|ED20形]]
*[[富士身延鉄道210形電気機関車|ED21形]]
*[[信濃鉄道1形電気機関車|ED22形]]
*[[国鉄ED23形電気機関車|ED23形]]
*[[国鉄ED24形電気機関車|ED24形]]
*[[宇部電気鉄道デキ11形電気機関車|ED25形(初代)]]
*[[国鉄ED30形電気機関車 (初代)|ED25形(2代)]](←ED30形(初代))
*[[富岩鉄道ロコ2形電気機関車|ED26形(初代)]]
*[[伊那電気鉄道デキ20形電気機関車|ED26形(2代)]](←ED33形)
*[[宮城電気鉄道キ1形電気機関車|ED27形(初代)]]
*[[南武鉄道1001形電気機関車|ED27形(2代)]](←ED34形)
*[[豊川鉄道電機50形電気機関車|ED28形(初代)]]
*[[宮城電気鉄道ED35形電気機関車|ED28形(2代)]](←ED35形)
*[[豊川鉄道デキ52形電気機関車|ED29形(初代)]]
*[[国鉄ED37形電気機関車|ED29形(2代)]](←ED37形)
*[[伊那電気鉄道デキ1形電気機関車|ED31形]]
*[[伊那電気鉄道デキ10形電気機関車|ED32形]]
*[[青梅鉄道1号形電気機関車|ED36形]]
*[[阪和電気鉄道ロコ1000形電気機関車|ED38形]]
*[[国鉄ED40形電気機関車|ED40形]](←10020形。アプト式)
*[[国鉄ED41形電気機関車|ED41形]](←10040形。アプト式)
*[[国鉄ED42形電気機関車|ED42形]](アプト式)
*[[国鉄ED50形電気機関車|ED50形]](←1040形)
*[[国鉄ED51形電気機関車|ED51形]]
*[[国鉄ED52形電気機関車|ED52形]](←6000形)
*[[国鉄ED53形電気機関車|ED53形]](←6010形)
*[[国鉄ED54形電気機関車|ED54形]](←7000形)
*''[[国鉄ED55形電気機関車|ED55形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|p=84}}
*[[国鉄ED56形電気機関車|ED56形]]
*[[国鉄ED57形電気機関車|ED57形]]
*[[国鉄ED60形電気機関車|ED60形]]
*[[国鉄ED61形電気機関車|ED61形]]
*[[国鉄ED62形電気機関車|ED62形]]
*''[[国鉄ED95形電気機関車|ED63形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=94-95}}
*''[[国鉄ED95形電気機関車|ED95形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=94-95}}
*[[国鉄EF10形電気機関車|EF10形]]
*[[国鉄EF11形電気機関車|EF11形]]
*[[国鉄EF12形電気機関車|EF12形]]
*[[国鉄EF13形電気機関車|EF13形]]
*[[国鉄EF14形電気機関車|EF14形]]
*[[国鉄EF15形電気機関車|EF15形]]
*[[国鉄EF16形電気機関車|EF16形]]
*[[国鉄EF18形電気機関車|EF18形]]
*[[国鉄EF50形電気機関車|EF50形]](←8000形)
*[[国鉄EF51形電気機関車|EF51形]](←8010形)
*[[国鉄EF52形電気機関車|EF52形]]
*[[国鉄EF53形電気機関車|EF53形]]
*[[国鉄EF54形電気機関車|EF54形]](←EF52形)
*[[国鉄EF55形電気機関車|EF55形]]
*[[国鉄EF56形電気機関車|EF56形]]
*[[国鉄EF57形電気機関車|EF57形]]
*[[国鉄EF58形電気機関車|EF58形]]
*[[国鉄EF59形電気機関車|EF59形]]
*[[国鉄EF60形電気機関車|EF60形]]
*[[国鉄EF61形電気機関車|EF61形]]
*[[国鉄EF62形電気機関車|EF62形]]
*[[国鉄EF63形電気機関車|EF63形]]
*[[国鉄EF64形電気機関車|EF64形]]
*[[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]]
*[[国鉄EF66形電気機関車|EF66形]]
*[[国鉄EF67形電気機関車|EF67形]]
*[[国鉄EF66形電気機関車#試作機(EF90形)|EF90形]]
*[[国鉄EH10形電気機関車|EH10形]]
*''[[国鉄EH50形電気機関車|EH50形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=92-93}}
=== 交流用電気機関車 ===
*[[国鉄ED70形電気機関車|ED70形]]
*[[国鉄ED71形電気機関車|ED71形]]
*[[国鉄ED72形電気機関車|ED72形]]
*[[国鉄ED73形電気機関車|ED73形]]
*[[国鉄ED74形電気機関車|ED74形]]
*[[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]
*[[国鉄ED76形電気機関車|ED76形]]
*[[国鉄ED77形電気機関車|ED77形]]
*[[国鉄ED78形電気機関車|ED78形]]
*[[国鉄ED79形電気機関車|ED79形]]
*[[国鉄ED90形電気機関車|ED90形]](←ED44形)
*[[国鉄ED91形電気機関車|ED91形]](←ED45形)
*[[国鉄ED93形電気機関車|ED93形]]
*[[国鉄ED94形電気機関車|ED94形]]
*[[国鉄EF70形電気機関車|EF70形]]
*[[国鉄EF71形電気機関車|EF71形]]
=== 交流直流両用電気機関車 ===
*[[国鉄ED30形電気機関車 (2代)|ED30形(2代)]]
*[[国鉄ED46形電気機関車|ED92形]](←ED46形)
*[[国鉄EF30形電気機関車|EF30形]]
*[[国鉄EF80形電気機関車|EF80形]]
*[[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]
== ディーゼル機関車 ==
=== 機械式 ===
*[[国鉄DB10形ディーゼル機関車|DB10形]]
*[[国鉄DC10形ディーゼル機関車|DC10形]]
=== 液体式 ===
*[[国鉄DD11形ディーゼル機関車|DD11形]]
*[[国鉄DD13形ディーゼル機関車|DD13形]]
*[[国鉄DD14形ディーゼル機関車|DD14形]]
*[[国鉄DD15形ディーゼル機関車|DD15形]]
*[[国鉄DD16形ディーゼル機関車|DD16形]]
*[[国鉄DD17形ディーゼル機関車|DD17形]]
*[[国鉄DD20形ディーゼル機関車|DD20形]]
*[[国鉄DD21形ディーゼル機関車|DD21形]]
*[[国鉄DD40形ディーゼル機関車|DD40形]]
*[[国鉄DD42形ディーゼル機関車|DD42形]]
*[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]
*[[国鉄DD53形ディーゼル機関車|DD53形]]
*[[国鉄DD54形ディーゼル機関車|DD54形]]
*[[国鉄DD91形ディーゼル機関車|DD91形]]
*[[国鉄DD93形ディーゼル機関車|DD93形]]
*[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形]]
*[[国鉄DE11形ディーゼル機関車|DE11形]]
*[[国鉄DE15形ディーゼル機関車|DE15形]]
*[[国鉄DE50形ディーゼル機関車|DE50形]]
*''[[国鉄DF51形ディーゼル機関車|DF51形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=108-109}}
*[[国鉄DF93形ディーゼル機関車|DF93形]]
=== 電気式 ===
*[[国鉄DC11形ディーゼル機関車|DC11形]]
*[[国鉄DD10形ディーゼル機関車|DD10形]]
*[[国鉄DD12形ディーゼル機関車|DD12形]]
*[[国鉄DD50形ディーゼル機関車|DD50形]]
*[[国鉄DD41形ディーゼル機関車|DD90形]](←DD41形)
*[[国鉄DF40形ディーゼル機関車|DF40形]]
*[[国鉄DF41形ディーゼル機関車|DF41形]]
*[[国鉄DF50形ディーゼル機関車|DF50形]]
*[[国鉄DF90形ディーゼル機関車|DF90形]]
*[[国鉄DF91形ディーゼル機関車|DF91形(初代)]]
*[[国鉄DF91形ディーゼル機関車 (2代)|DF91形(2代)]]
==電車==
===旧形電車===
====1928年改番以前の系列====
*[[国鉄デハ6250形電車|デハ6250形]]
*[[国鉄デハ6260形電車|デハ6260形]]
*[[国鉄デハ6280形電車|デハ6280形]]
*[[国鉄デハ6285形電車|デハ6285形]]
*[[国鉄デハ6300形電車|デハ6300形]]
*[[国鉄デハ6310系電車|デハ6310系]]
*[[国鉄デハ6340系電車|デハ6340系]]
*[[国鉄デハ33400系電車|デハ33400系]]
*[[国鉄デハ33500系電車|デハ33500系]]
*[[国鉄デハ43200系電車|デハ43200系]]
*[[国鉄デハ63100系電車|デハ63100系]]
*[[国鉄デハ73200系電車|デハ73200系]]
====1928年改番以前の形式====
*[[国鉄ホデ1形電車|ホデ1形]]
*[[国鉄ニデ950形電車|ニデ950形]]
*[[国鉄デ960形電車|デ960形]]
*[[国鉄デ963形電車|デ963形]]
*[[国鉄デ989形電車|デ989形]]
*[[国鉄ナデ6100形電車|ナデ6100形]]
*[[国鉄ナデ6110形電車|ナデ6110形]]
*[[国鉄デロハ6130形電車|デロハ6130形]]
*[[国鉄ナデ6145形電車|ナデ6145形]]
*[[国鉄サロハ6190形電車|サロハ6190形]]
*[[国鉄サハ6190形電車|サハ6190形]]
*[[国鉄デハ6250形電車|デハ6250形]]
*[[国鉄デハ6260形電車|デハ6260形]]
*[[国鉄デハ6280形電車|デハ6280形]]
*[[国鉄デハ6285形電車|デハ6285形]]
*[[国鉄デハ6300形電車|デハ6300形]]
*[[国鉄デハ6310形電車|デハ6310形]]
*[[国鉄デハ6340形電車|デハ6340形]]
*[[国鉄デハ6380形電車|デハ6380形]]
*[[国鉄デハ6300形電車|ナトデ6400形・クハ6400形・サハ6400形]]
*[[国鉄クハ6410形電車|クハ6410形]]・[[国鉄サハ6410形電車|サハ6410形]]
*[[国鉄クハ6420形電車|クハ6420形]]
*[[国鉄クハ6430形電車|クハ6430形]]
*[[国鉄デハユニ6450形電車|デハユニ6450形]]・[[国鉄デハニ6450形電車|デハニ6450形]]・[[国鉄デニ6450形電車|デニ6450形]]
*[[国鉄ホニデ6460形電車|ホニデ6460形]]・[[国鉄ナニデ6460形電車|ナニデ6460形]]・[[国鉄デハニ6460形電車|デハニ6460形]]
*[[国鉄ナニデ6465形電車|ナニデ6465形]]・[[国鉄デハニ6465形電車|デハニ6465形]]
*[[国鉄デハニ6470形電車|デハニ6470形]]
*[[国鉄クケン23100形電車|クケン23100形]]
*[[国鉄デハ23400形電車|デハ23400形]]
*[[国鉄デハ23450形電車|デハ23450形]]
*[[国鉄デハ23500形電車|デハ23500形]]・[[国鉄クハ23500形電車|クハ23500形]]
*[[国鉄クハ23600形電車|クハ23600形]]・[[国鉄サハ23600形電車|サハ23600形]]
*[[国鉄デハニ23850形電車|デハニ23850形]]
*[[国鉄デヤ33100形電車|デヤ33100形]]
*[[国鉄サロ33200形電車|サロ33200形]]
*[[国鉄サロ33250形電車|サロ33250形]]
*''[[国鉄デケン33300形電車|デケン33300形]]'' - 計画のみ
*[[国鉄デハ33400形電車|デハ33400形]]
*[[国鉄デハ33500形電車|デハ33500形]]
*[[国鉄サハ33550形電車|サハ33550形]]
*[[国鉄サハ33700形電車|サハ33700形]]
*[[国鉄サハ33750形電車|サハ33750形]]
*[[国鉄デユニ33850形電車|デユニ33850形]]
*[[国鉄サロ43100形電車|サロ43100形]]
*[[国鉄デハ43200形電車|デハ43200形]]
*[[国鉄サハ43550形電車|サハ43550形]]
*[[国鉄デハユニ43850形電車|デハユニ43850形]]
*[[国鉄デハ63100形電車|デハ63100形]]
*[[国鉄サロ73100形電車|サロ73100形]]
*[[国鉄デハ73200形電車|デハ73200形]]
*[[国鉄サハ73500形電車|サハ73500形]]
====1928年改番以降の系列====
*[[国鉄30系電車|30系]] - 1926年に登場した17m級3扉ロングシート二重屋根車両のグループ
*[[国鉄31系電車|31系]] - 1929年に登場した17m級3扉ロングシート丸屋根車両のグループ
*[[国鉄32系電車|32系]] - 1930年に登場した横須賀線用2扉車のグループ
*[[国鉄33系電車|33系]] - 1932年に登場した17m級3扉ロングシート車両のグループ
*[[国鉄40系電車|40系]] - 1932年に登場した20m級3扉ロングシート車両のグループ
*[[国鉄42系電車|42系]] - 1933年に登場した20m級2扉クロスシート車両のグループ
*[[国鉄50系電車|50系]] - 1934年に登場した17m級3扉ロングシート車両のグループ
*[[国鉄51系電車|51系]] - 1935年に登場した20m級3扉クロスシート車両のグループ
*[[国鉄52系電車|52系]] - 1935年に登場した20m級2扉クロスシート車両のグループ
*[[国鉄62系電車 (初代)|62系]] - 1943年に登場した17m級2扉クロスシート車両のグループ
*[[国鉄63系電車|63系]] - 1944年に登場した20m級4扉ロングシート車両のグループ
*[[国鉄70系電車|70系]] - 1951年に登場した20m級3扉セミクロスシート車両のグループ
*[[国鉄72系電車|72系]] - 1952年に登場した20m級4扉ロングシート車両のグループ
*[[国鉄80系電車|80系]] - 1950年に登場した20m級2扉セミクロスシート車両のグループ
*[[買収国電|私鉄買収車]]
**[[広浜鉄道の電車]]
**[[信濃鉄道の電車]]
**[[富士身延鉄道の電車]]
**[[宇部鉄道の電車]]
**[[富岩鉄道の電車]]
**[[鶴見臨港鉄道の電車]]
**[[豊川鉄道の電車]]
**[[鳳来寺鉄道の電車]]
**[[三信鉄道の電車]]
**[[伊那電気鉄道の電車]]
**[[南武鉄道の電車]]
**[[青梅電気鉄道の電車]]
**[[阪和電気鉄道の車両]]
**[[宮城電気鉄道の電車]]
====1928年改番以降の形式====
*[[国鉄モハ1形電車|モハ1形]]
*[[国鉄モユニ2形電車|モユニ2形]]
*[[国鉄モニ3形電車|モニ3形]]
*[[国鉄モヤ4形電車|モヤ4形]]
*[[国鉄クヤ5形電車|クヤ5形]]
*[[国鉄サハ6形電車|サハ6形]]
*[[国鉄クハ6形電車|クハ6形]]
*[[国鉄クヤ7形電車|クヤ7形]]
*[[国鉄モハ10形電車|モハ10形]]
*[[国鉄モヤ11形電車|モヤ11形]]
*[[国鉄モハ11形電車|モハ11形]]・[[国鉄モハ11形電車|クモハ11形]]
*[[国鉄モユニ12形電車|モユニ12形]]
*[[国鉄モハ12形電車|モハ12形]]・[[国鉄モハ12形電車|クモハ12形]]
*[[国鉄モニ13形電車|モニ13形]]・[[国鉄モニ13形電車|クモニ13形]]
*[[国鉄モニ14形電車|モニ14形]]
*[[国鉄モハ14形電車|モハ14形]]・[[国鉄モハ14形電車|クモハ14形]]
*[[国鉄クハ15形電車|クハ15形]]
*[[国鉄31系電車|サロ15形]]・[[国鉄31系電車|サハ15形]]
*[[国鉄クヤ16形電車|クヤ16形]]
*[[国鉄クハ16形電車|クハ16形]]・[[国鉄50系電車|クロハ16形]]
*[[国鉄サロ17形電車|サロ17形]]
*[[国鉄クハ17形電車|クハ17形]]
*[[国鉄サハ17形電車|サハ17形]]
*[[国鉄サロ18形電車|サロ18形]]
*[[国鉄クハ18形電車|クハ18形]]
*[[国鉄サハ19形電車|サハ19形]]
*[[国鉄クハニ19形電車|クハニ19形]]
*[[国鉄モハ20形電車|モハ20形]]
*[[国鉄クモハ20形電車|クモハ20形]]
*[[国鉄モハユニ21形電車|モハユニ21形]]
*[[国鉄クモエ21形電車|クモエ21形]]
*[[国鉄クモヤ22形電車|クモヤ22形]]
*[[国鉄クモル23形電車|クモル23形]]
*[[国鉄クモル24形電車|クモル24形]]
*[[国鉄サハ25形電車|サハ25形]]
*[[国鉄クハ25形電車|クハ25形]]
*[[国鉄サハ26形電車|サハ26形]]
*[[国鉄サロハ27形電車|サロハ27形]]
*[[国鉄サニ27形電車|サニ27形]]
*[[国鉄クハニ28形電車|クハニ28形]]
*[[国鉄サル28形電車|サル28形]]
*[[国鉄クエ28形電車|クエ28形]]
*[[国鉄クハ29形電車|クハ29形]]
*[[国鉄クル29形電車|クル29形]]
*[[国鉄モハ30形電車|モハ30形]]
*[[国鉄モハ31形電車|モハ31形]]・[[国鉄クモハ31形電車|クモハ31形]]
*[[国鉄モハ32形電車|モハ32形]]・[[国鉄クモハ32形電車|クモハ32形]]
*[[国鉄モハ33形電車|モハ33形]]
*[[国鉄モハ34形電車|モハ34形]]
*[[国鉄サロ35形電車|サロ35形]]
*[[国鉄サハ36形電車|サハ36形]]
*[[国鉄サロ37形電車|サロ37形]]
*[[国鉄クハ38形電車|クハ38形]]
*[[国鉄サハ39形電車|サハ39形]]
*[[国鉄モハ40形電車|モハ40形]]・[[国鉄クモハ40形電車|クモハ40形]]
*[[国鉄モハ41形電車|モハ41形]]・[[国鉄クモハ41形電車|クモハ41形]]
*[[国鉄モハ42形電車|モハ42形]]・[[国鉄クモハ42形電車|クモハ42形]]
*[[国鉄モハ43形電車|モハ43形]]・[[国鉄クモハ43形電車|クモハ43形]]
*[[国鉄モハユニ44形電車|モハユニ44形]]・[[国鉄クモハユニ44形電車|クモハユニ44形]]
*[[国鉄サロ45形電車|サロ45形]]・[[国鉄サハ45形電車|サハ45形]]
*[[国鉄サロハ46形電車|サロハ46形]]
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*[[国鉄クハ47形電車|クハ47形]]
*[[国鉄サハ48形電車|サハ48形]]
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*[[国鉄モハ50形電車|モハ50形]]・[[国鉄クモハ50形電車|クモハ50形]]
*[[国鉄モハ51形電車|モハ51形]]・[[国鉄クモハ51形電車|クモハ51形]]
*[[国鉄モハ52形電車|モハ52形]]・[[国鉄クモハ52形電車|クモハ52形]]
*[[国鉄モニ53形電車|モニ53形]]
*[[国鉄モハ53形電車|モハ53形]]・[[国鉄クモハ53形電車|クモハ53形]]
*[[国鉄モハ54形電車|モハ54形]]・[[国鉄クモハ54形電車|クモハ54形]]
*[[国鉄クハ55形電車|クハ55形]]・[[国鉄クロハ55形電車|クロハ55形]]
*[[国鉄サロハ56形電車|サロハ56形]]
*[[国鉄クハユニ56形電車|クハユニ56形]]
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*[[国鉄クロハ59形電車|クロハ59形]]
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*[[国鉄モハユニ61形電車|モハユニ61形]]
*[[国鉄モハ61形電車|モハ61形]]・[[国鉄クモハ61形電車|クモハ61形]]
*[[国鉄モハ62形電車|モハ62形]]
*[[国鉄モハ63形電車|モハ63形]]
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*[[国鉄クモハユニ64形電車|クモハユニ64形]]
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*[[国鉄モハ71形電車|モハ71形]]
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*[[国鉄クモハユ74形電車|クモハユ74形]]・[[国鉄クモハ74形電車|クモハ74形]]
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*[[国鉄モハ2210形電車|モハ2210形]]・[[国鉄クモハ2210形電車|クモハ2210形]]
*[[国鉄モハ2250形電車|モハ2250形]]・[[国鉄クモハ2250形電車|クモハ2250形]]
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*[[国鉄クモハ2340形電車|クモハ2340形]]
*[[国鉄モハ2400形電車|モハ2400形]]
*[[国鉄モハユニ3100形電車|モハユニ3100形]]
*[[国鉄モニ3200形電車|モニ3200形]]
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*[[国鉄モニ3420形電車|モニ3420形]]
*[[国鉄モヤ4000形電車|モヤ4000形]]・[[国鉄クモヤ4000形電車|クモヤ4000形]]
*[[国鉄モル4100形電車|モル4100形]]・[[国鉄クモル4100形電車|クモル4100形]]
*[[国鉄サハ4300形電車|サハ4300形]]
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*[[国鉄モル4500形電車|モル4500形]]
*[[国鉄モル4511形電車|モル4511形]]
*[[国鉄モヤ4600形電車|モヤ4600形]]
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*[[国鉄クエ9400形電車|クエ9400形]]
*[[国鉄クエ9420形電車|クエ9420形]]
*[[国鉄クル9500形電車|クル9500形]]
*[[国鉄72系電車#クモヤ440形|クモヤ440形]]
*[[国鉄72系電車#クモヤ441形|クモヤ441形]]
*[[伊那電気鉄道の電車#サ400形|クヤ490形・クハ490形]]
*[[国鉄72系電車#クモヤ491形→クモハ491形|クモヤ491形・クモハ491形]]
*[[国鉄51系電車#クモハ51形を交直流試験車493系に改造|493系]]
*[[国鉄31系電車#交流試験車への改造|791系]]
*[[国鉄72系電車#クモヤ740形|クモヤ792形・クモヤ740形]]
=== 新性能電車 ===
==== 通勤形 ====
*[[国鉄101系電車|101系]](←90系)
*[[国鉄103系電車|103系]]
*[[国鉄105系電車|105系]]
*[[国鉄201系電車|201系]]
*[[国鉄203系電車|203系]]
*[[国鉄205系電車|205系]]
*[[国鉄207系電車|207系]]
*[[国鉄301系電車|301系]]
==== 近郊形 ====
*[[国鉄113系電車#111系|111系]]
*[[国鉄113系電車|113系]]
*[[国鉄115系電車|115系]]
*[[国鉄117系電車|117系]]
*[[国鉄119系電車|119系]]
*[[国鉄121系電車|121系]]
*[[国鉄123系電車|123系]]
*[[国鉄211系電車|211系]]
*[[国鉄213系電車|213系]]
*[[国鉄415系電車#401系|401系]]
*[[国鉄415系電車#403系|403系]]
*[[国鉄415系電車#411系|411系]]
*[[国鉄413系・717系電車|413系]]
*[[国鉄415系電車#415系|415系]]
*[[国鉄417系電車|417系]]
*[[国鉄419系・715系電車#419系|419系]]
*[[国鉄415系電車#421系|421系]]
*[[国鉄415系電車#423系|423系]]
*[[国鉄711系電車|711系]]
*[[国鉄713系電車|713系]]
*[[国鉄419系・715系電車#0番台|715系]]
*[[国鉄413系・717系電車|717系]]
==== 準急形・急行形 ====
*[[国鉄153系電車|153系]](←91系)
*[[国鉄155系・159系電車#155系|155系]](←82系)
*[[国鉄157系電車|157系]](←22系)
*[[国鉄155系・159系電車#159系|159系]]
*[[国鉄165系電車#163系|163系]]
*[[国鉄165系電車#165系|165系]]
*[[国鉄165系電車#167系|167系]]
*[[国鉄165系電車#169系|169系]]
*[[国鉄457系電車#451系・471系|451系]]
*[[国鉄457系電車#453系・473系|453系]]
*[[国鉄457系電車#455系・475系|455系]]
*[[国鉄457系電車#457系|457系]]
*[[国鉄457系電車#451系・471系|471系]]
*[[国鉄457系電車#453系・473系|473系]]
*[[国鉄457系電車#455系・475系|475系]]
==== 特急形 ====
*[[国鉄181系電車#151系|151系]](←20系)
*[[国鉄181系電車#161系|161系]]
*[[国鉄181系電車#181系|181系]]
*[[国鉄183系電車|183系]]
*[[国鉄185系電車|185系]]
*''[[国鉄183系電車#187系開発計画|187系]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=187-188}}
*[[国鉄183系電車#国鉄189系電車|189系]]
*[[国鉄381系電車|381系]]
*[[国鉄485系電車#481系|481系]]
*[[国鉄485系電車#483系|483系]]
*[[国鉄485系電車#485系|485系]]
*''[[国鉄591系電車#487系量産化計画|487系]]'' - 計画のみ
*[[国鉄485系電車#489系|489系]]
*[[国鉄583系電車#581系|581系]]
*[[国鉄583系電車#583系|583系]]
*[[国鉄781系電車|781系]]
==== 非旅客用・試験用・事業用 ====
*[[国鉄クモユ141形電車|クモユ141形]]
*[[国鉄143系電車|143系]]
*[[国鉄145系電車|145系]]
*[[国鉄145系電車#クモユニ147形|147系]]
*[[国鉄191系電車|191系]]
*[[国鉄193系電車|193系]]
*[[国鉄443系電車|443系]]
*[[国鉄51系電車#クモハ51形を交直流試験車493系に改造|493系]]
*[[国鉄495系電車|495系]]
*[[国鉄591系電車|591系]]
*''[[国鉄741系電車|741系]]'' - 計画のみ
*[[国鉄791系電車|791系]](←クモヤ94形)
*''[[国鉄793系電車|793系]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=172-174}}
== 内燃動車 ==
{{Main2|私鉄からの買収車については「[[買収気動車]]」を}}
=== 蒸気動車 ===
*[[国鉄キハ6400形蒸気動車|キハ6400形]]
=== 天然ガス動車 ===
*[[国鉄キハ04形気動車#キハ41200・41300形|キハ41200形]]
*[[国鉄キハ07形気動車#天然ガス動車キハ42200形|キハ42200形]]
=== 機械式気動車 ===
*[[国鉄キハニ5000形気動車|キハニ5000形]]
*[[国鉄キハ40000形気動車|キハ40000形]]
*[[国鉄キハ01系気動車|キハ01系]]
*[[国鉄キハ04形気動車|キハ04形]]
*[[国鉄キハ07形気動車|キハ07形]]
*[[国鉄キハ391系気動車|キハ391系]]
*[[国鉄キヤ91形気動車|キヤ91形]]
*[[国鉄キヤ92形気動車|キヤ92形]]
=== 電気式気動車 ===
*[[国鉄キハニ36450形気動車|キハニ36450形]]
*[[国鉄キクハ16800形気動車|キクハ16800形]]
*[[国鉄キハ43000形気動車|キハ43000形]]
*[[国鉄キハ44000形気動車|キハ44000形]]
*[[国鉄キハ44100形気動車|キハ44100形・キハ44200形]]
=== 液体式気動車 ===
==== 一般形 ====
特急形・急行形以外の[[普通列車]]用気動車は'''一般形気動車'''と総称され、さらに'''一般形'''、'''通勤形'''、'''近郊形'''に細分されることもある。国鉄時代には正式な分類がなかったため、どの形式がどの分類に属するか文献により相違がみられる。
*[[国鉄キハ44500形気動車|キハ44500形]]
*[[国鉄キハ08系気動車|キハ08系]]
*[[国鉄キハ10系気動車|キハ10系]]
*[[国鉄キハ20系気動車|キハ20系]]
*[[国鉄キハ31形気動車|キハ31形]]
*[[国鉄キハ32形気動車|キハ32形]]
*[[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]
*[[国鉄キハ37形気動車|キハ37形]]
*[[国鉄キハ38形気動車|キハ38形]]
*[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]
*[[国鉄キハ45系気動車|キハ45系]]
*[[国鉄キハ54形気動車|キハ54形]]
*[[国鉄キハ66系気動車|キハ66系]]
==== 準急形・急行形 ====
*[[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]]
*[[国鉄キハ56系気動車|キハ56系]]
*[[国鉄キハ57系気動車|キハ57系]]
*[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]
*[[国鉄キハ60系気動車|キハ60系]]
*[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]
*[[国鉄キハ90系気動車|キハ91系]]
==== 特急形 ====
* [[国鉄キハ80系気動車|キハ80系]]
* [[国鉄キハ181系気動車|キハ181系]]
* [[国鉄キハ183系気動車|キハ183系]]
* [[国鉄キハ185系気動車|キハ185系]]
==== 試験用・事業用 ====
*[[国鉄キワ90形気動車|キワ90形]]
*[[国鉄キヤ90形気動車|キヤ90形]]
*[[国鉄キヤ191系気動車|キヤ191系]]
==客車==
===国有化以前の客車(雑形客車)===
*[[官設鉄道の客車]]
*[[北海道炭礦鉄道の客車]]
*[[日本鉄道の客車]]
*[[関西鉄道の客車]]
*[[山陽鉄道の客車]]
*[[九州鉄道の客車]]
*[[九州鉄道ブリル客車]]
=== 旧型客車 ===
10系以前の客車には急行形や一般形に分類される車種を種別ごとに分類していない{{refnest|group="注"|10系以前の客車は三等車についてはその大部分がデッキ付きのボックスシートで製造され、実質的に普通列車用として製造された戦災復旧車と鋼体化改造車の三等車を除いて新車の投入は優等列車(特に急行列車)が優先され、後継車の増備や置き換えにつれて捻出した客車は普通列車にも使用されるようになっている。国鉄の現場などでは「一般形客車」「在来形客車」「旧型客車」という表現を便宜的・慣例的に使ったことがあるが、旧型客車が製造された時点での規程ではこの区分は存在しないため、正式な呼称ではないが<ref>{{Cite book |和書 |author=岡田誠一|authorlink=岡田誠一 (鉄道研究家) |title=国鉄鋼製客車Ⅰ |date=2008-12 |publisher=JTBパブリッシング |series=キャンブックス, 鉄道 88-1 |isbn=9784533073182 |page=239}}</ref>、便宜上、旧型客車と表現する。}}。
*[[鉄道院基本形客車]]
*[[国鉄22000系客車|22000系]]
*[[国鉄28400系客車|28400系]]
*[[国鉄オハ31系客車|オハ31系]]
*[[国鉄スハ32系客車|スハ32系]]
*[[国鉄オハ35系客車|オハ35系]]
*[[国鉄70系客車|70系]]
*[[国鉄60系客車|60系]]
*[[国鉄スハ43系客車|スハ43系]]
*''[[国鉄マイテ30形客車|マイテ30形]]'' - 計画のみ{{Sfn|幻の国鉄車両|2007|pp=124-125}}
*[[国鉄10系客車|10系]]
*[[九州産業鉄道オハフ1形客車|オハフ36形]]
*[[国鉄オハ30形客車|オハ30形]]
*[[国鉄マロネ40形客車|マロネ40形]]
*[[国鉄マシ35形客車|マシ35形]]
===新系列客車===
==== 一般形 ====
*[[国鉄50系客車|50系]]
==== 急行形 ====
*[[国鉄12系客車|12系]]
==== 特急形 ====
*[[国鉄14系客車|14系]]
*[[国鉄20系客車|20系]]
*[[国鉄24系客車|24系]]
=== 皇室用 ===
*[[皇室用客車#御料車|御料車]]
*[[皇室用客車#供奉車|供奉車]]
*[[皇室用客車#霊柩車|霊柩車]]
*[[賢所乗御車]]
=== 非旅客用・試験用・事業用 ===
*[[国鉄ホエ7000形客車|ホエ7000形]]
*[[国鉄ナエ7200形客車|ナエ7200形]]
*[[国鉄ナエ9900形・オエ9920形客車|ナエ9900形・オエ9920形]]
*[[国鉄ナエ27000形客車|ナエ27000形]]
*[[国鉄ナヤ6630形客車|ナヤ6630形]]
*[[国鉄ホヤ6690形客車|ホヤ6690形]]
*[[国鉄ホヤ6720形客車|ホヤ6720形]]
*[[国鉄ホヤ6740形客車|ホヤ6740形]]
*[[国鉄ホヤ6760形客車|ホヤ6760形]]
*[[国鉄オヤ31形客車|オヤ31形]]
*[[国鉄マヤ34形客車|マヤ34形]]
*[[国鉄ホル7500形客車|ホル7500形]]
*[[国鉄ナル7700形客車|ナル7700形]]
*[[国鉄ナル9950形・オル9970形客車|ナル9950形・オル9970形]]
*[[国鉄2100形蒸気機関車#マヌ34形暖房車|マヌ34形]]
*[[国鉄スニ40形客車|スニ40形・スニ41形・スユ44形]]
*[[国鉄マニ30形客車|マニ30形]]
*[[国鉄マニ36形客車|マニ35形・マニ36形・マニ37形]]
*[[国鉄マニ44形客車|マニ44形]]
== 貨車 ==
{{See also|貨車|国鉄貨車の車両形式}}
下記の一覧は1928年(昭和3年)に行われた称号規定変更後の形式をまとめたものである。
=== 営業用 ===
==== ウ:豚積車 ====
*[[国鉄ウ1形貨車|ウ1]]
*[[国鉄ウ100形貨車|ウ100]]
*[[国鉄ウ200形貨車|ウ200]]
*[[国鉄ウ300形貨車|ウ300]]
*[[国鉄ウ500形貨車|ウ500]]
==== カ:家畜車 ====
*[[国鉄カ1形貨車|カ1]]
*[[国鉄カ500形貨車|カ500]]
*[[国鉄カ1000形貨車|カ1000]]
*[[国鉄カ1500形貨車|カ1500]]
*[[国鉄カ2000形貨車|カ2000]]
*[[国鉄カ3000形貨車|カ3000]]
*[[国鉄カム1形貨車|カム1]]
==== ク:車運車 ====
*[[国鉄シワ115形貨車|ク50]](←シワ100←シワ115)
*[[国鉄ク300形貨車|ク300]]
*[[国鉄ク5000形貨車|ク5000]]
*ク9000
*ク9100
*[[国鉄クム1形貨車|クム1]]
*[[国鉄シム1000形貨車|クム1000]](←シム1000)
*[[国鉄シム2000形貨車|クム2000]](←シム2000)
*[[国鉄シム3000形貨車|クム3000]](←シム3000)
*[[国鉄クム80000形貨車|クム80000]]
*[[国鉄クサ9000形貨車|クサ9000]](カンガルー方式輸送試作車)
==== コ:コンテナ車 ====
*[[国鉄コム1形貨車|コム1]](15t積。10ftコンテナ2個積載。北海道の支線用にトム150000を改造。)
*[[国鉄コラ1形貨車|コラ1]](19t積。10ftコンテナ3個積載)
*[[国鉄コキ1000形貨車#コサ900形|コサ900]](21t積。国際海上コンテナ用試作車。)
*[[国鉄コキ1000形貨車|コキ1000]](国際海上コンテナ用。20ftコンテナ2個積載。1968年度登場)
*[[国鉄コキ5500形貨車|コキ5500系]]
**コキ5000(←チキ5000。28t積。10ftコンテナ5個積載→12ftコンテナ4個積載)
**コキ5500(←チキ5500〈初代)。28t積。10ftコンテナ5個積載→12ftコンテナ4個積載。コキとしての新造車あり)
*[[国鉄コキ9000形貨車|コキ9000]](←チキ9000。25t積。フレキシバン方式コンテナ2個積載)
*[[国鉄コキ1000形貨車#コキ9100形|コキ9100]](41t積。国際海上コンテナ用試作車。)
*[[国鉄コキ50000形貨車#コキ9200形|コキ9200]](37t積。フレートライナー輸送用試作車。)
*[[国鉄コキ9300形貨車|コキ9300]](61t積。国際海上コンテナ及び10ftコンテナ用試作車。)
*[[国鉄コキ10000形貨車|コキ10000系]]
**コキ10000(28t積。10ftコンテナ5個積載→12ftコンテナ4個積載。1994年度消滅)
**コキフ10000(緩急車。10ftコンテナ4個積載→12ftコンテナ3個積載。1995年度消滅)
**コキ19000(28t積。12ftコンテナ4個積載。初の5t/10tコンテナ兼用車。1994年度消滅)
*[[国鉄コキ50000形貨車|コキ50000系]]
**コキ50000(37t積。12ftコンテナ5個積載)
**コキフ50000(緩急車。12ftコンテナ4個積載。1994年度消滅)
*[[国鉄コキ60000形貨車|コキ60000]](12ftコンテナ5個積み。コキ5500改造。1998年度消滅)
==== シ:大物車 ====
*[[国鉄シ1形貨車|シ1]]
*[[国鉄シ10形貨車|シ10]]
*[[国鉄シ1形貨車|シ200]]
*[[国鉄シム1形貨車|シム1]]
*[[鶴見臨港鉄道シム110形貨車|シム20]](←鶴見臨港鉄道シム110形)
*[[国鉄シム1形貨車|シム200]]
*[[国鉄シサ1形貨車|シサ1]]
*[[国鉄シサ10形貨車|シサ10]]
*[[国鉄シキ1形貨車 (初代)|シキ1(初代)]]
*[[国鉄シキ1形貨車 (2代)|シキ1(2代)]]
*[[国鉄シキ5形貨車|シキ5]]
*[[国鉄シキ15形貨車|シキ15]]
*[[国鉄シキ20形貨車|シキ20]]
*[[国鉄シキ25形貨車|シキ25]]
*[[国鉄シキ30形貨車|シキ30]]
*[[国鉄シキ35形貨車|シキ35]]
*[[国鉄シキ40形貨車|シキ40]]
*[[国鉄シキ60形貨車|シキ60]]
*[[国鉄シキ70形貨車|シキ70]]
*[[国鉄シキ80形貨車|シキ80]]
*[[国鉄シキ90形貨車|シキ90]]
*[[国鉄シキ100形貨車|シキ100]](80t積。1994年度消滅)
*[[鶴見臨港鉄道シキ100形貨車|シキ110]](←鶴見臨港鉄道シキ100形)
*[[国鉄シキ115形貨車|シキ115]]
*[[国鉄シキ120形貨車|シキ120]]
*[[国鉄シキ130形貨車|シキ130]]
*[[国鉄シキ140形貨車|シキ140]]
*[[国鉄シキ150形貨車|シキ150]]
*[[国鉄シキ160形貨車|シキ160]]
*[[国鉄シキ170形貨車|シキ170]]
*[[国鉄シキ180形貨車 (初代)|シキ180(初代)]]
*[[国鉄シキ180形貨車 (2代)|シキ180(2代)]](80t積)
*[[国鉄シキ190形貨車|シキ190]]
*[[国鉄シキ195形貨車|シキ195]]
*[[国鉄シキ200形貨車|シキ200]]
*[[国鉄シキ280形貨車|シキ280]]
*[[国鉄シキ290形貨車|シキ290]]
*[[国鉄シキ300形貨車|シキ300]]
*[[国鉄シキ310形貨車|シキ310]]
*[[国鉄シキ370形貨車|シキ370]]
*[[国鉄シキ400形貨車|シキ400]]
*[[国鉄シキ500形貨車|シキ500]](100t積。1993年度消滅)
*[[国鉄シキ550形貨車|シキ550]](50t積)
*[[国鉄シキ600形貨車|シキ600]](240t積)
*[[国鉄シキ610形貨車|シキ610]]
*[[国鉄シキ670形貨車|シキ670]]
*[[国鉄シキ700形貨車|シキ700]]
*[[国鉄シキ800形貨車|シキ800]]
*[[国鉄シキ850形貨車|シキ850]]
*[[国鉄シキ1000形貨車|シキ1000]](55t積)
==== ス:鉄側有蓋車 ====
*[[国鉄スム1形貨車|スム1]]
*[[国鉄ワム3500形貨車|スム4500]]
==== セ:石炭車 ====
*[[国鉄セフ1形貨車|セフ1]](緩急車)
*[[国鉄セム1形貨車|セム1]]
*[[国鉄セムフ1形貨車|セムフ1]](緩急車)
*[[国鉄セラ1形貨車|セラ1]]
*[[国鉄セキ1000形貨車|セキ1000]]
*[[国鉄セキ3000形貨車|セキ3000]](1993年度消滅)
*[[国鉄セキ6000形貨車|セキ6000]](1998年度消滅)
*[[国鉄セキ8000形貨車|セキ8000]](1998年度消滅)
==== タ:タンク車 ====
専用種別が標記されていない車両はガソリン専用車である。
* [[国鉄タ1形貨車|タ1]](7t積。石油類専用車)
* [[国鉄タ300形貨車|タ300]](6.16t -6.25t積。液化[[エチレン]]専用車)
* [[国鉄タ400形貨車|タ400]](9t積。石油類専用車)
* [[国鉄タ500形貨車|タ500]](10t積。石油類専用車)
* [[国鉄タ520形貨車|タ520]](5t積。液化[[アンモニア]]専用車)
* [[国鉄タ550形貨車|タ550]](10t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タ580形貨車|タ580]](10t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タ600形貨車|タ600]](9t - 10t積。石油類専用車)
* [[国鉄タ900形貨車|タ900]](10t積。)
* [[国鉄タ1000形貨車|タ1000]](11t - 12t積。石油類専用車)
* [[国鉄タ1100形貨車|タ1100]](10t積。[[牛乳]]専用車)
* [[国鉄タ1150形貨車|タ1150]](10t積。[[糖蜜]]専用車)
* [[国鉄タ1200形貨車|タ1200]](12t積。)
* [[国鉄タ1300形貨車|タ1300]](10t積。[[硫酸|濃硫酸]]専用車)
* [[国鉄タ1370形貨車|タ1370]](12t積。[[硫酸|希硫酸]]専用車)
* [[国鉄タ1400形貨車|タ1400]](13t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タ1450形貨車|タ1450]](13t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タ1500形貨車|タ1500]](12t積。[[二硫化炭素]]専用車)
* [[国鉄タ1530形貨車|タ1530]](8t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タ1600形貨車|タ1600]](10t積。二硫化炭素専用車)
* [[国鉄タム4800形貨車#タ1650形|タ1650]](10t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タ1700形貨車|タ1700]](12t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タ1750形貨車|タ1750]](13t積。[[塩酸]]及び[[アミノ酸]]専用車)
* [[国鉄タキ2500形貨車 (初代)#タ1800形|タ1800]](13t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タ1850形貨車|タ1850]](13t積。塩酸及びアミノ酸専用車)
* [[国鉄タ1900形貨車|タ1900]](13t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タ2000形貨車|タ2000]](10t積。[[アルコール]]専用車)
* [[国鉄タ2100形貨車|タ2100]](13t積。[[硝酸|希硝酸]]専用車)
* [[国鉄タ2200形貨車|タ2200]](12t積。[[水酸化ナトリウム|カセイソーダ液]]専用車)
* [[国鉄タ2300形貨車|タ2300]](12t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タ2350形貨車|タ2350]](12t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タ2400形貨車|タ2400]](10t積。[[クレオソート]]専用車)
* [[国鉄タ2600形貨車|タ2600]](11t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タ2700形貨車|タ2700]](9t積。)
* [[国鉄タ2800形貨車|タ2800]](12t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タ2900形貨車|タ2900]](8t積。[[メタノール]]専用車)
* [[国鉄タ3000形貨車 (初代)|タ3000(初代)]](10t積。[[にがり|苦汁]]専用車)
* [[国鉄タ3000形貨車 (2代)|タ3000(2代)]](8t積。[[フタル酸ビス(2-エチルヘキシル)|フタル酸ジオクチル]]専用車)
* [[国鉄タ3050形貨車|タ3050]](10t積。[[ホルマリン]]専用車)
* [[国鉄タム100形貨車 (2代)#タ3100形|タ3100]](11t積。酢酸及び[[無水酢酸]]専用車)
* [[国鉄タ3200形貨車|タ3200]](13t積。塩酸専用車)
* [[国鉄タ3300形貨車|タ3300]](12t積。[[尿素樹脂#製品|ユーロイド]]専用車)
* [[国鉄タ3400形貨車|タ3400]](10t積。[[メチルビニルエーテル]]専用車)
* [[国鉄タ3500形貨車|タ3500]](11t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タム100形貨車 (2代)#タ3600形|タ3600]](9t積。[[酢酸エチル]]専用車)
* [[国鉄タキ8750形貨車#タ3700形|タ3700]](11t積。[[黒液|クラフトパルプ廃液]]専用車)
* [[国鉄タム3050形貨車#タ3800形|タ3800]](11t積。[[アクリロニトリル|アクリルニトリル]]専用車)
* [[国鉄タ3900形貨車|タ3900]](10t積。)
* [[国鉄タキ19500形貨車#タ4000形|タ4000]](10t積。[[スチレン|スチレンモノマー]]専用車)
* [[国鉄タ4100形貨車|タ4100]](10t積。[[次亜塩素酸カルシウム|サラシ液]]専用車)
* [[国鉄タ4200形貨車|タ4200]](10t積。[[リン酸]]専用車)
* [[国鉄タ10900形貨車|タ10900]](10t積。)
* [[国鉄タ11000形貨車|タ11000]](12t積。石油類専用車)
* [[国鉄タ13300形貨車|タ13300]](12t積。ユーロイド専用車)
* [[国鉄タム40形貨車|タム40]](14t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム80形貨車|タム80]](14t積。クレオソート専用車)
* [[国鉄タム100形貨車 (初代)|タム100(初代)]](15t積。[[石油|石油類]]専用車)
* [[国鉄タム100形貨車 (2代)|タム100(2代)]](15→14t積。[[硝酸|濃硝酸]]専用車)
* [[国鉄タム200形貨車|タム200]](15t積。二硫化炭素専用車)
* [[国鉄タム300形貨車|タム300]](15t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タム400形貨車|タム400]](15t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タム500形貨車|タム500]](15t積)
* [[国鉄タム600形貨車|タム600]](15t積。[[植物油]]専用車)
* [[国鉄タム700形貨車|タム700]](15t積。石油類専用車)
* [[国鉄タム800形貨車|タム800]](15t積。石油類専用車)
* [[国鉄タム900形貨車|タム900]](15t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム1700形貨車|タム1700]](15t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タム1750形貨車|タム1750]](15t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タム1800形貨車|タム1800]](15t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タム1850形貨車|タム1850]](15t積。[[塩化スルホン酸|クロルスルホン酸]]専用車)
* [[国鉄タム1900形貨車|タム1900]](15t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム2000形貨車|タム2000]](15t積。糖蜜専用車)
* [[国鉄タム2100形貨車|タム2100]](15t積。希硝酸専用車)
* [[国鉄タム2300形貨車|タム2300]](15t積。液化塩素専用車)
* [[国鉄タム2400形貨車|タム2400]](15t積。酢酸及び無水酢酸専用車)
* [[国鉄タム3000形貨車|タム3000]](15t積。)
* [[国鉄タム3050形貨車|タム3050]](15t積。ホルマリン専用車)
* [[国鉄タム3100形貨車|タム3100]](15t積。苦汁専用車)
* [[国鉄タム3200形貨車|タム3200]](15t積。[[ベンゼン|ベンゾール]]専用車)
* [[国鉄タム3250形貨車|タム3250]](15t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タム3400形貨車|タム3400]](15t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タム3450形貨車|タム3450]](15t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タム3500形貨車|タム3500]](15t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タム3700形貨車|タム3700]](15t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タム3800形貨車|タム3800]](15t積。酢酸エチル専用車)
* [[国鉄タム3850形貨車|タム3850]](15t積。酢酸エチル専用車)
* [[国鉄タム3900形貨車|タム3900]](15t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム4000形貨車|タム4000]](15t積。石油類専用車)
* [[国鉄タム4500形貨車|タム4500]](15t積。ソフトピッチ専用車)
* [[国鉄タム4600形貨車|タム4600]](15t積。[[トルエン|トルオール]]専用車)
* [[国鉄タム4700形貨車|タム4700]](15t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タム4800形貨車|タム4800]](15t積。S酸肥液専用車)
* [[国鉄タム4900形貨車|タム4900]](15t積。[[亜硫酸パルプ]]廃液専用車)
* [[国鉄タム5000形貨車|タム5000]](15t積。塩酸及びアミノ酸専用車)
* [[国鉄タム5100形貨車|タム5100]](15t積。塩酸専用車)
* [[国鉄タム5200形貨車|タム5200]](15t積。[[ジメチルアミン]]専用車)
* [[国鉄タム5300形貨車|タム5300]](15t積。トルオール専用車)
* [[国鉄タム5400形貨車|タム5400]](16t積。[[トリクロロエチレン|トリクレン]]専用車)
* [[国鉄タム5500形貨車|タム5500]](16t積。希硝酸専用車)
* [[国鉄タム5600形貨車|タム5600]](16t積。[[四塩化炭素]]専用車)
* [[国鉄タム5700形貨車|タム5700]](16t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム5800形貨車|タム5800]](15t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タム5850形貨車|タム5850]](15t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タム5900形貨車|タム5900]](14t積。二硫化炭素専用車)
* [[国鉄タム6900形貨車|タム6900]](15t積。アクリルニトリル専用車)
* [[国鉄タム7000形貨車|タム7000]](15t積。[[プロピレングリコール]]専用車)
* [[国鉄タム7100形貨車|タム7100]](15t積。[[プロパン|液化プロパン]]専用車)
* [[国鉄タム7200形貨車|タム7200]](15t積。液化プロパン専用車)
* [[国鉄タム7300形貨車|タム7300]](15t積。液化プロパン専用車)
* [[国鉄タム7400形貨車|タム7400]](16t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タム7500形貨車|タム7500]](15t積。[[アニリン]]専用車)
* [[国鉄タム7550形貨車|タム7550]](15t積。アニリン専用車)
* [[国鉄タム7600形貨車|タム7600]](15t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム7700形貨車|タム7700]](15t積。[[ジクロロメタン|塩化メチレン]]専用車)
* [[国鉄タム7800形貨車|タム7800]](15t積。フタル酸ジオクチル専用車)
* [[国鉄タム7900形貨車|タム7900]](16t積。[[メタクリル酸メチル|フタルメタアクリレート]]専用車)
* [[国鉄タム8000形貨車|タム8000]](15t積。[[過酸化水素]]専用車)
* [[国鉄タム8100形貨車|タム8100]](15t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タム8200形貨車|タム8200]](15t積。リン酸専用車)
* [[国鉄タム8300形貨車|タム8300]](15t積。[[製紙用薬品#抄紙工程用薬品|液体サイズ剤]]専用車)
* [[国鉄タム8400形貨車|タム8400]](15t積。[[アセトアルデヒド]]専用車)
* [[国鉄タム8500形貨車|タム8500]](15t積。液化塩素専用車)
* [[国鉄タム8600形貨車|タム8600]](15t積。[[トリクロロエチレン|トリクロールエチレン]]専用車)
* [[国鉄タム8700形貨車|タム8700]](15t積。[[塩素化パラフィン|塩化パラフィン]]専用車)
* [[国鉄タム8800形貨車|タム8800]](15t積。[[アセトンシアノヒドリン|アセトンシアンヒドリン]]専用車)
* [[国鉄タム8900形貨車|タム8900]](15t積。[[尿素樹脂#製品|尿素樹脂接着剤]]専用車)
* [[国鉄タム9000形貨車|タム9000]](15t積。LPガス専用車)
* [[国鉄タム9100形貨車|タム9100]](15t積。潤滑油添加剤専用車)
* [[国鉄タム9200形貨車|タム9200]](15t積。石油類専用車)
* [[国鉄タム9300形貨車|タム9300]](16t積。[[ポリ塩化ビニル|液化塩化ビニル]]専用車)
* [[国鉄タム9400形貨車|タム9400]](15t積。塩酸専用車)
* [[国鉄タム9500形貨車|タム9500]](15t積。塩化パラフィン専用車)
* [[国鉄タム9600形貨車|タム9600]](16t積。[[天然ガス|液化天然ガス]] (LNG) 専用車)
* [[国鉄タム9800形貨車|タム9800]](15t積。アミノ酸専用車)
* [[国鉄タム20080形貨車|タム20080]](15t積。クレオソート専用車)
* [[国鉄タム20400形貨車|タム20400]](15t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タム20500形貨車|タム20500]](15t積)
* [[国鉄タム20800形貨車|タム20800]](15t積。石油類専用車)
* [[国鉄タム20900形貨車|タム20900]](15t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム22000形貨車|タム22000]](15t積。糖蜜専用車)
* [[国鉄タム23250形貨車|タム23250]](15t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タム23700形貨車|タム23700]](15t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タム23900形貨車|タム23900]](15t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タム24000形貨車|タム24000]](15t積。石油類専用車)
* [[国鉄タム25000形貨車|タム25000]](15t積。塩酸専用車)
* [[国鉄タラ1形貨車|タラ1]](19t積)
* [[国鉄タラ100形貨車|タラ100]](19t積)
* [[国鉄タラ200形貨車|タラ200]](17t積。[[重油]]専用車)
* [[国鉄タラ300形貨車|タラ300]](18t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タラ350形貨車|タラ350]](18t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タラ400形貨車|タラ400]](17t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タラ420形貨車|タラ420]](17t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タラ500形貨車|タラ500]](17t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ2500形貨車 (2代)#タラ600形|タラ600]](18t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タラ700形貨車|タラ700]](19t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タサ1形貨車|タサ1]](20t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ400形貨車|タサ400]](20t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タサ500形貨車|タサ500]](20t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ600形貨車|タサ600]](20t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ700形貨車|タサ700]](20t積。)
* [[国鉄タサ1000形貨車|タサ1000]](20t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タサ1050形貨車|タサ1050]](20t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タサ1100形貨車|タサ1100]](20t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タサ1200形貨車|タサ1200]](20t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ2500形貨車 (2代)#タサ1300形|タサ1300]](20t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タサ1400形貨車|タサ1400]](20t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ1600形貨車|タサ1600]](24t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ1700形貨車|タサ1700]](20t積)
* [[国鉄タサ1900形貨車|タサ1900]](24t積)
* [[国鉄タサ2000形貨車 (初代)|タサ2000(初代)]](24t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タ2700形貨車#タサ2000形 |タサ2000(2代)]](20t積。)
* [[国鉄タサ2100形貨車|タサ2100]](20t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タサ2200形貨車|タサ2200]](20t積。二硫化炭素専用車)
* [[国鉄タサ2300形貨車|タサ2300]](20t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タサ2400形貨車|タサ2400]](20t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ2500形貨車|タサ2500]](20t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タサ2600形貨車|タサ2600]](20t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タサ3000形貨車|タサ3000]](20t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タサ3200形貨車|タサ3200]](20t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タサ3300形貨車|タサ3300]](20t積。希硝酸専用車)
* [[国鉄タサ3400形貨車|タサ3400]](20t積。[[フェノール|石炭酸]]専用車)
* [[国鉄タサ3500形貨車|タサ3500]](22t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タサ3600形貨車|タサ3600]](22t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ3700形貨車|タサ3700]](20t積。[[キシレン|オルソキシレン]]専用車)
* [[国鉄タサ3800形貨車|タサ3800]](20t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タサ4000形貨車|タサ4000]](20t積。液化塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タサ4100形貨車|タサ4100]](20t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タサ4300形貨車|タサ4300]](20t積。酢酸エチル専用車)
* [[国鉄タサ4400形貨車|タサ4400]](24t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タサ4500形貨車|タサ4500]](20t積。[[酢酸ビニル]]専用車)
* [[国鉄タサ4600形貨車|タサ4600]](20t積。アクリルニトリル専用車)
* [[国鉄タサ4900形貨車|タサ4900]](23t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タサ5000形貨車|タサ5000]](20t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タサ5100形貨車|タサ5100]](20t積。ホルマリン専用車)
* [[国鉄タサ5200形貨車|タサ5200]](20t積。酢酸専用車)
* [[国鉄タサ5300形貨車|タサ5300]](20t積。石油類専用車)
* [[国鉄タサ5400形貨車|タサ5400]](20t積。液化プロパン専用車)
* [[国鉄タサ5500形貨車|タサ5500]](20t積。[[プロピレン|液化プロピレン]]専用車)
* [[国鉄タサ5600形貨車|タサ5600]](20t積。過酸化水素専用車)
* [[国鉄タサ5700形貨車|タサ5700]](20t積。LPガス専用車)
* [[国鉄タサ5800形貨車|タサ5800]](20t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タキ30200形貨車#タサ5900形|タサ5900]](20t積。液化モノメチルアミン専用車)
* [[国鉄タキ8000形貨車#タサ6000形|タサ6000]](22t積。[[プロピオンアルデヒド]]専用車)
* [[国鉄タム7700形貨車#タサ6100形|タサ6100]](20t積。塩化メチレン専用車)
* [[国鉄タサ6500形貨車|タサ6500]](20t積。LPガス専用車)
* [[国鉄タキ1形貨車|タキ1]](28t積。)
* [[国鉄タキ10形貨車|タキ10]](25t積)
* [[国鉄タキ50形貨車|タキ50]](30t積)
* [[国鉄タキ100形貨車|タキ100]](30t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ150形貨車|タキ150]](25t積。[[コールタール]]専用車)
* [[国鉄タキ200形貨車 (初代)|タキ200(初代)]](25t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タキ200形貨車 (2代)|タキ200(2代)]](30t積。トリクロールエチレン専用車)
* [[国鉄タキ250形貨車|タキ250]](30t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タキ300形貨車|タキ300]](30t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ400形貨車|タキ400]](30t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ450形貨車|タキ450]](28t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ500形貨車|タキ500]](28t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タキ600形貨車|タキ600]](30t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タキ650形貨車|タキ650]](35t積。プロピレンダイクロライド専用車)
* [[国鉄タキ700形貨車|タキ700]](25t積。)
* [[国鉄タキ750形貨車|タキ750]](30t積。[[プロピオン酸]]専用車)
* [[国鉄タキ800形貨車|タキ800]](30t積。スチレンモノマー専用車)
* [[国鉄タキ850形貨車|タキ850]](25t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タキ900形貨車|タキ900]](28t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タキ950形貨車|タキ950]](35t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タキ1000形貨車|タキ1000]](25t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ1100形貨車|タキ1100]](28t積)
* [[国鉄タキ1150形貨車|タキ1150]](30t積。過酸化水素専用車)
* [[国鉄タキ1200形貨車 (初代)|タキ1200(初代)]](30t積。リン酸専用車)
* [[国鉄タキ1200形貨車 (2代)|タキ1200(2代)]](30t積。[[三酸化硫黄|無水硫酸]]専用車)
* [[国鉄タキ1250形貨車|タキ1250]](30t積。リン酸専用車)
* [[国鉄タキ1400形貨車|タキ1400]](30t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ1450形貨車|タキ1450]](25t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タキ1500形貨車|タキ1500]](35t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ1600形貨車 (初代)|タキ1600(初代)]](40t積。糖蜜専用車)
* [[国鉄タキ1600形貨車 (2代)|タキ1600(2代)]](35t積。クレオソート専用車)
* [[国鉄タキ1650形貨車|タキ1650]](30t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ1700形貨車|タキ1700]](30t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タキ1800形貨車|タキ1800]](30t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タキ1900形貨車|タキ1900]](40t積。[[セメント]]専用車)
* [[国鉄タキ2000形貨車|タキ2000]](30t積。[[酸化アルミニウム|アルミナ]]専用車)
* [[国鉄タキ2050形貨車|タキ2050]](25t積。[[ブチルアルデヒド]]専用車)
* [[国鉄タキ2100形貨車|タキ2100]](30t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ2200形貨車|タキ2200]](→ホキ1形(初代)→ホキ3500形:30t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ2500形貨車 (初代)|タキ2500(初代)]](25t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ2500形貨車 (2代)|タキ2500(2代)]](25t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ2550形貨車|タキ2550]](25t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ2600形貨車|タキ2600]](30t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ2700形貨車|タキ2700]](30t積。クレオソート専用車)
* [[国鉄タキ2800形貨車|タキ2800]](30t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ3000形貨車|タキ3000]](30t積)
* [[国鉄タキ3500形貨車|タキ3500]](30t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タキ3600形貨車|タキ3600]](30t積。糖蜜専用車)
* [[国鉄タキ3650形貨車|タキ3650]](35t積。リン酸専用車)
* [[国鉄タキ3700形貨車|タキ3700]](30t積。[[酢酸]]専用車)
* [[国鉄タキ3800形貨車|タキ3800]](35t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ3850形貨車|タキ3850]](30t積。尿素樹脂接着剤専用車)
* [[国鉄タキ3900形貨車|タキ3900]](30t積。石炭酸専用車)
* [[国鉄タキ4000形貨車|タキ4000]](35t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ4100形貨車 (初代)|タキ4100(初代)]](35t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ4100形貨車 (2代)|タキ4100(2代)]](25t積。液化アンモニア専用車)
* [[国鉄タキ4200形貨車|タキ4200]](35t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ4600形貨車|タキ4600]](34t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ4650形貨車|タキ4650]](35t積。尿素樹脂接着剤専用車)
* [[国鉄タキ4700形貨車|タキ4700]](30t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タキ4750形貨車|タキ4750]](35t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タキ4800形貨車|タキ4800]](30t積。S酸肥液専用車)
* [[国鉄タキ4850形貨車|タキ4850]](30t積。[[トルエンジイソシアネート|TDI]]専用車)
* [[国鉄タキ4900形貨車|タキ4900]](30t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タキ4950形貨車|タキ4950]](27t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タキ5000形貨車|タキ5000]](30t積。塩酸及びアミノ酸専用車)
* [[国鉄タキ5050形貨車|タキ5050]](35t積。塩酸及びアミノ酸専用車)
* [[国鉄タキ5100形貨車|タキ5100]](30t積。二硫化炭素専用車)
* [[国鉄タキ5150形貨車|タキ5150]](33t積。二硫化炭素専用車)
* [[国鉄タキ5200形貨車|タキ5200]](30t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タキ5300形貨車|タキ5300]](35t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ5350形貨車|タキ5350]](30t積。ユーロイド専用車)
* [[国鉄タキ5400形貨車|タキ5400]](25t積。液化[[塩素]]専用車)
* [[国鉄タキ5450形貨車|タキ5450]](25t積。液化塩素専用車)
* [[国鉄タキ5500形貨車|タキ5500]](30t積。[[シクロヘキサン]]専用車)
* [[国鉄タキ5550形貨車|タキ5550]](25t積。シクロヘキサン専用車)
* [[国鉄タキ5600形貨車|タキ5600]](30t積。[[シクロヘキサノン]]専用車)
* [[国鉄タキ5650形貨車|タキ5650]](30t積。[[シクロヘキシルアミン]]専用車)
* [[国鉄タキ5700形貨車|タキ5700]](35t積。塩素酸石灰液専用車)
* [[国鉄タキ5750形貨車|タキ5750]](35t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ5800形貨車|タキ5800]](25t積。液化塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タキ5850形貨車|タキ5850]](25t積。液化塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タキ5900形貨車|タキ5900]](35t積。クロルスルホン酸専用車)
* [[国鉄タキ6000形貨車 (初代)|タキ6000(初代)]](30t積。[[塩化チタン(IV)|四塩化チタン]]専用車)
* [[国鉄タキ6000形貨車 (2代)|タキ6000(2代)]](30t積。液体肥料専用車)
* [[国鉄タキ6050形貨車|タキ6050]](35t積。液体[[硫酸アルミニウム]]専用車)
* [[国鉄タキ6100形貨車|タキ6100]](30t積。四塩化炭素専用車)
* [[国鉄タキ11000形貨車#タキ6150形|タキ6150]](30t積。[[パラフィン]]専用車)
* [[国鉄タキ6200形貨車|タキ6200]](30t積。[[混酸|甲種硝酸]]専用車)
* [[国鉄タキ6250形貨車|タキ6250]](35t積。無水硫酸専用車)
* [[国鉄タキ6300形貨車|タキ6300]](35t積。[[ケイ酸ナトリウム|ケイ酸ソーダ]]専用車)
* [[国鉄タキ6350形貨車|タキ6350]](25t積。[[製紙用薬品#抄紙工程用薬品|ペーストサイズ剤]]専用車)
* [[国鉄タキ6400形貨車|タキ6400]](35t積。アルミナ専用車)
* [[国鉄タキ6450形貨車|タキ6450]](35t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タキ6500形貨車|タキ6500]](30t積。[[アセトン]]専用車)
* [[国鉄タキ6550形貨車|タキ6550]](30t積。塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タキ6600形貨車|タキ6600]](30t積。[[エチレングリコール]]専用車)
* [[国鉄タキ6650形貨車|タキ6650]](30t積。コンクリート混和剤専用車)
* [[国鉄タキ6700形貨車|タキ6700]](25t積。塩酸及びアミノ酸専用車)
* [[国鉄タキ6800形貨車|タキ6800]](30t積。塩化メチレン専用車)
* [[国鉄タキ6810形貨車|タキ6810]](33t積。[[クロロホルム]]専用車)
* [[国鉄タキ6850形貨車|タキ6850]](30t積。アセトアルデヒド専用車)
* [[国鉄タキ6900形貨車|タキ6900]](30t積。アクリルニトリル専用車)
* [[国鉄タキ6950形貨車|タキ6950]](35t積。コンクリート混和剤専用車)
* [[国鉄タキ7000形貨車|タキ7000]](35t積。四塩化炭素専用車)
* [[国鉄タキ7050形貨車|タキ7050]](35t積。四塩化炭素専用車)
* [[国鉄タキ7100形貨車 (初代)|タキ7100(初代)]](25t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ7100形貨車 (2代)|タキ7100(2代)]](35t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ7100形貨車 (3代)|タキ7100(3代)]](30t積。[[メチルメタアクリレート]]専用車)
* [[国鉄タキ7150形貨車|タキ7150]](35t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ7200形貨車|タキ7200]](30t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タキ7250形貨車|タキ7250]](35t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タキ7300形貨車 (初代)|タキ7300(初代)]](35t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ7300形貨車 (2代)|タキ7300(2代)]](35t積。濃硝酸専用車)
* [[国鉄タキ7400形貨車|タキ7400]](35t積。アルミナ専用車)
* [[国鉄タキ7450形貨車|タキ7450]](30t積。濃硝酸専用車)
* [[国鉄タキ7500形貨車|タキ7500]](30→28t積。[[硝酸|濃硝酸]]専用車)
* [[国鉄タキ7600形貨車|タキ7600]](25t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タキ7650形貨車|タキ7650]](25t積。過酸化水素専用車)
* [[国鉄タキ7700形貨車|タキ7700]](30t積。酢酸エチル専用車)
* [[国鉄タキ7750形貨車|タキ7750]](35t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ7800形貨車|タキ7800]](30t積。[[オクタノール]]専用車)
* [[国鉄タキ7850形貨車|タキ7850]](35t積。[[塩化カルシウム]]液専用車)
* [[国鉄タキ7900形貨車|タキ7900]](25t積。[[ラテックス]]専用車)
* [[国鉄タキ7950形貨車|タキ7950]](35t積。メタノール専用車)
* [[国鉄タキ8000形貨車|タキ8000]](30t積。ホルマリン専用車)
* [[国鉄タキ8050形貨車|タキ8050]](27t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タキ8100形貨車|タキ8100]](30t積。希硝酸専用車)
* [[国鉄タキ8150形貨車|タキ8150]](35t積。カセイソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ8200形貨車|タキ8200]](35t積。甲種硝酸専用車)
* [[国鉄タキ16700形貨車#タキ8250形|タキ8250]](25t積。グリオキザール専用車)
* [[国鉄タキ8300形貨車|タキ8300]](30t積。ラテックス専用車)
* [[国鉄タキ8350形貨車|タキ8350]](30t積。ラテックス専用車)
* [[国鉄タキ8400形貨車|タキ8400]](40t積。アルミナ専用車)
* [[国鉄タキ8450形貨車|タキ8450]](40t積。アルミナ専用車)
* [[国鉄タキ8500形貨車|タキ8500]](30t積。[[パラアルデヒド]]専用車)
* [[国鉄タキ18100形貨車#タキ8550形|タキ8550]](30t積。[[ポリプロピレングリコール|PPG]]専用車)
* [[国鉄タキ8600形貨車|タキ8600]](30t積。アニリン専用車)
* [[国鉄タキ8650形貨車|タキ8650]](30t積。潤滑油添加剤専用車)
* [[国鉄タキ8700形貨車|タキ8700]](30t積。酢酸ビニル専用車)
* [[国鉄タキ8750形貨車|タキ8750]](25t積。クラフトパルプ廃液専用車)
* [[国鉄タキ8800形貨車|タキ8800]](30t積。[[魚油]]専用車)
* [[国鉄タキ8850形貨車|タキ8850]](35t積。ラテックス専用車)
* [[国鉄タキ8900形貨車|タキ8900]](30t積。[[アスファルト]]専用車)
* [[国鉄タキ18100形貨車#タキ8950形|タキ8950]](35t積。PPG専用車)
* [[国鉄タキ9000形貨車|タキ9000]](35t積。クロロホルム専用車)
* [[国鉄タキ9050形貨車|タキ9050]](30t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ9100形貨車|タキ9100]](30t積。ケイ酸ソーダ専用車)
* [[国鉄タキ9150形貨車|タキ9150]](30t積。ケイ酸ソーダ専用車)
* [[国鉄タキ9200形貨車|タキ9200]](45t積。アスファルト専用車)
* [[国鉄タキ9250形貨車|タキ9250]](30t積。アセトアルデヒド専用車)
* [[国鉄タキ9300形貨車|タキ9300]](30t積。亜硫酸パルプ廃液専用車)
* [[国鉄タキ9350形貨車|タキ9350]](28t積。亜硫酸パルプ廃液専用車)
* [[国鉄タキ20600形貨車#タキ9400形|タキ9400]](30t積。[[脂肪酸]]専用車)
* [[国鉄タキ9450形貨車|タキ9450]](30t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ9500形貨車|タキ9500]](30t積。トルオール専用車)
* [[国鉄タキ9550形貨車|タキ9550]](35t積。)
* [[国鉄タキ9600形貨車|タキ9600]](30t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ9650形貨車|タキ9650]](35t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ9700形貨車|タキ9700]](35t積。ホルマリン専用車)
* [[国鉄タキ9750形貨車|タキ9750]](35t積)
* [[国鉄タキ9800形貨車|タキ9800]](35t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ9900形貨車|タキ9900]](35t積)
* [[国鉄タキ10000形貨車|タキ10000]](35t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ10100形貨車|タキ10100]](35t積。二硫化炭素専用車)
* [[国鉄タキ10150形貨車|タキ10150]](30t積。液化塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タキ10200形貨車|タキ10200]](40t積。)
* [[国鉄タキ10250形貨車|タキ10250]](35t積。シクロヘキサン専用車)
* [[国鉄タキ10300形貨車|タキ10300]](30t積。ブチルアルデヒド専用車)
* [[国鉄タキ10350形貨車|タキ10350]](31t積。オクタノール専用車)
* [[国鉄タキ10400形貨車|タキ10400]](30t積。アセトアルデヒド専用車)
* [[国鉄タキ10450形貨車|タキ10450]](35→32t積。濃硝酸専用車)
* [[国鉄タキ10500形貨車|タキ10500]](40t積。アルミナ専用車)
* [[国鉄タキ10550形貨車|タキ10550]](45t積。濃硫酸専用車)
* [[国鉄タキ10600形貨車|タキ10600]](35t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ10700形貨車|タキ10700]](35t積。希硝酸専用車)
* [[国鉄タキ10800形貨車|タキ10800]](30t積。[[クロトンアルデヒド]]専用車)
* [[国鉄タキ10850形貨車|タキ10850]](35t積。[[硫酸水素ニトロシル|ニトロシル硫酸]]溶液専用車)
* [[国鉄タキ10900形貨車|タキ10900]](35t積。糖蜜専用車)
* [[国鉄タキ10950形貨車|タキ10950]](28t積。希硝酸専用車)
* [[国鉄タキ11000形貨車|タキ11000]](35t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ11200形貨車|タキ11200]](35t積。リン酸専用車)
* [[国鉄タキ11300形貨車|タキ11300]](35t積。リン酸専用車)
* [[国鉄タキ11350形貨車|タキ11350]](31t積。[[酸化カルシウム|生石灰]]専用車)
* [[国鉄タキ11450形貨車|タキ11450]](35t積。[[メタリルクロライド]]専用車)
* [[国鉄タキ11500形貨車|タキ11500]](40t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ11600形貨車|タキ11600]](35t積。プロピレングリコール専用車)
* [[国鉄タキ11650形貨車|タキ11650]](35t積。[[m-クレゾール|メタクレゾール酸]]専用車)
* [[国鉄タキ11700形貨車|タキ11700]](45t積。アスファルト専用車)
* [[国鉄タキ11750形貨車|タキ11750]](35t積。クラフトパルプ廃液専用車)
* [[国鉄タキ11800形貨車|タキ11800]](35t積。潤滑油添加剤専用車)
* [[国鉄タキ11850形貨車|タキ11850]](37t積。[[塩化鉄(III)|塩化第二鉄液]]専用車)
* [[国鉄タキ12000形貨車|タキ12000]](35t積。糖蜜専用車)
* [[国鉄タキ12050形貨車|タキ12050]](38t積。希硝酸専用車)
* [[国鉄タキ12200形貨車|タキ12200]](40t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ12300形貨車|タキ12300]](30t積。塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タキ12400形貨車|タキ12400]](30t積。塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タキ12500形貨車|タキ12500]](31t積。塩酸専用車)
* [[国鉄タキ18100形貨車#タキ13600形|タキ13600]](30t積。PPG専用車)
* [[国鉄タキ13700形貨車|タキ13700]](35t積。アルコール専用車)
* [[国鉄タキ13800形貨車|タキ13800]](28t積。[[醸造酒|酒類]]専用車)
* [[国鉄タキ14300形貨車|タキ14300]](35t積。[[パラフィン|ノルマルパラフィン]]専用車)
* [[国鉄タキ14400形貨車|タキ14400]](35t積。ベンゾール専用車)
* [[国鉄タキ14500形貨車|タキ14500]](35t積。[[N,N-ジメチルホルムアミド|ジメチルホルムアミド]]専用車)
* [[国鉄タキ14600形貨車|タキ14600]](35t積。魚油専用車)
* [[国鉄タキ14700形貨車|タキ14700]](30t積。[[エチレンオキシド|液化酸化エチレン]]専用車)
* [[国鉄タキ14800形貨車|タキ14800]](35t積。[[ε-カプロラクタム|カプロラクタム]]専用車)
* [[国鉄タキ14900形貨車|タキ14900]](39t積。ホルマリン専用車)
* [[国鉄タキ15600形貨車|タキ15600]](40t積。[[亜鉛|亜鉛焼鉱]]専用車)
* [[国鉄タキ15700形貨車|タキ15700]](35t積。メチルメタアクリレート専用車)
* [[国鉄タキ15800形貨車|タキ15800]](35t積。エチレングリコール専用車)
* [[国鉄タキ15900形貨車|タキ15900]](35t積。液体硫酸アルミニウム専用車)
* [[国鉄タキ16100形貨車|タキ16100]](35t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タキ16200形貨車|タキ16200]](35t積。酢酸ビニル専用車)
* [[国鉄タキ16300形貨車|タキ16300]](35t積。プロピオン酸専用車)
* [[国鉄タキ16500形貨車|タキ16500]](27t積。[[酸化プロピレン|プロピレンオキサイド]]専用車)
* [[国鉄タキ16600形貨車|タキ16600]](35t積。エチレングリコール専用車)
* [[国鉄タキ16700形貨車|タキ16700]](35t積。[[グリオキサール|グリオキザール]]専用車)
* [[国鉄タキ17000形貨車|タキ17000]](35t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ17400形貨車|タキ17400]](37t積。リン酸専用車)
* [[国鉄タキ17500形貨車|タキ17500]](35t積。カプロラクタム専用車)
* [[国鉄タキ17600形貨車|タキ17600]](30t積。金属[[ナトリウム]]専用車)
* [[国鉄タキ17800形貨車|タキ17800]](30t積。パラフィン専用車)
* [[国鉄タキ17900形貨車|タキ17900]](35t積。アルミナ専用車)
* [[国鉄タキ18000形貨車|タキ18000]](39t積。白土液専用車)
* [[国鉄タキ18100形貨車|タキ18100]](35t積。PPG専用車)
* [[国鉄タキ18200形貨車|タキ18200]](33t積。[[亜硫酸ナトリウム|亜硫酸ソーダ液]]専用車)
* [[国鉄タキ18300形貨車|タキ18300]](35t積。[[塩化アルミニウム#ポリ塩化アルミニウム|液体ポリ塩化アルミニウム]]専用車)
* [[国鉄タキ18400形貨車|タキ18400]](30t積。[[ポリブテン]]専用車)
* [[国鉄タキ18500形貨車|タキ18500]](30t積。サラシ液専用車)
* [[国鉄タキ18600形貨車|タキ18600]](25t積。液化[[アンモニア]]専用車)
* [[国鉄タキ18700形貨車|タキ18700]](35t積。酢酸及び無水酢酸専用車)
* [[国鉄タキ18800形貨車|タキ18800]](25t積。[[クロロメタン|液化クロルメチル]]専用車)
* [[国鉄タキ18810形貨車|タキ18810]](31t積。[[アクリルアミド|アクリルアマイド液]]専用車)
* [[国鉄タキ18900形貨車|タキ18900]](30t積。アニリン専用車)
* [[国鉄タキ19000形貨車|タキ19000]](40t積。セメント専用車)
* [[国鉄タキ19500形貨車|タキ19500]](35t積。スチレンモノマー専用車)
* [[国鉄タキ19550形貨車|タキ19550]](25t積。[[イソブテン|液化イソブチレン]]専用車)
* [[国鉄タキ19600形貨車|タキ19600]](35t積。TDI専用車)
* [[国鉄タキ19700形貨車|タキ19700]](35t積。希硫酸専用車)
* [[国鉄タキ20000形貨車|タキ20000]](35t積。石油類専用車)
* [[国鉄タキ20100形貨車|タキ20100]](35t積。亜硫酸ソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ20300形貨車|タキ20300]](35t積。ペーストサイズ剤専用車)
* [[国鉄タキ20350形貨車|タキ20350]](35t積。ブチルアルデヒド専用車)
* [[国鉄タキ20400形貨車|タキ20400]](32t積。塩化ビニル専用車)
* [[国鉄タキ20500形貨車|タキ20500]](35t積。石炭酸専用車)
* [[国鉄タキ20600形貨車|タキ20600]](35t積。脂肪酸専用車)
* [[国鉄タキ20700形貨車|タキ20700]](35t積。[[テトラクロロエチレン|パークロールエチレン]]及びトリクロールエチレン専用車)
* [[国鉄タキ20600形貨車#タキ20800形|タキ20800]](35t積。[[加硫]]促進剤水溶液専用車)
* [[国鉄タキ21000形貨車|タキ21000]](39t積。[[ドロマイト]]専用車)
* [[国鉄タキ21200形貨車|タキ21200]](35t積。アンモニア水専用車)
* [[国鉄タキ21300形貨車|タキ21300]](35t積。[[塩素酸ナトリウム|塩素酸ソーダ]]液専用車)
* [[国鉄タキ21350形貨車|タキ21350]](35t積。塩素酸ソーダ液専用車)
* [[国鉄タキ21600形貨車|タキ21600]](35t積。塩素酸ソーダ専用車)
* [[国鉄タキ21700形貨車|タキ21700]](35t積。[[1,2-ジクロロベンゼン|オルソジクロルベンゼン]]専用車)
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* [[国鉄タキ22800形貨車|タキ22800]](35t積。過酸化水素専用車)
* [[国鉄タキ22900形貨車|タキ22900]](35t積。[[シアン化ナトリウム|青化ソーダ液]]専用車)
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* [[国鉄タキ23650形貨車|タキ23650]](34t積。液体硫黄専用車)
* [[国鉄タキ23700形貨車|タキ23700]](30t積。石油類専用車)
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* [[国鉄タキ23900形貨車|タキ23900]](40t積。[[カオリン]]液専用車)
* [[国鉄タキ23950形貨車|タキ23950]](30t積。[[酸性白土|白土]]専用車)
* [[国鉄タキ24100形貨車|タキ24100]](35t積。軽質[[ナフサ]]専用車)
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* [[国鉄タキ50000形貨車|タキ50000]](50t積)
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* [[国鉄タキ64000形貨車|タキ64000]](64t積)
==== チ:長物車 ====
*[[国鉄チ1形貨車 (初代)|チ1(初代)]](10t積。汎用)
*[[国鉄レム1形貨車|チ1(2代)]](10t積。汎用)
*[[国鉄チ500形貨車|チ500]]([[戦時形]]3軸車[[国鉄トキ900形貨車|トキ900形]]を改造)
*[[国鉄チ1000形貨車|チ1000]](10t積。汎用)
*[[国鉄チラ1形貨車 (初代)|チラ1(初代)]](汎用)
*[[国鉄コラ1形貨車|チラ1(2代)]](→コラ1)
*[[国鉄チサ100形貨車|チサ100]](北海道向けの3軸車)
*[[国鉄チサ1600形貨車|チサ1600]](戦時形3軸車トキ900形を改造)
*[[国鉄クラ9000形貨車|チサ9000]](←クラ9000形。20t積。大型トラック積載用低床車)
*[[国鉄トキ15000形貨車#長物車|チキ100(国鉄)]](35t積。ラワン材輸送用)
*[[国鉄チキ300形貨車|チキ300]](25t積。汎用)
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==== ツ:通風車 ====
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*[[国鉄トラ6000形貨車#トムフ1形|トムフ1]](15t積。汎用。緩急車)
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*[[国鉄トラ90形貨車|トラ90]](15t積。有蓋兼用試作車)
*[[国鉄トラ3500形貨車|トラ3500]](17t積。汎用。樺太庁鉄道編入車)
*[[国鉄トラ4000形貨車|トラ4000]](17t積。汎用)
*[[国鉄トラ5000形貨車|トラ5000]](17t積。汎用)
*[[国鉄トラ6000形貨車|トラ6000]](17t積。汎用)
*[[国鉄トラ16000形貨車|トラ16000]](17t積。汎用。65 km/h車)
*[[国鉄トラ20000形貨車|トラ20000]](15/17t積。汎用)
*[[国鉄トラ23000形貨車|トラ23000]](15/17t積。汎用)
*[[国鉄トラ25000形貨車|トラ25000]](15/17t積。有蓋車代用可能<sup>ワ</sup>トラ)
*[[国鉄トラ30000形貨車|トラ30000]](17t積。汎用)
*[[国鉄トラ35000形貨車|トラ35000]](15/17t積。汎用<sup>コ</sup>トラ)
*[[国鉄トラ40000形貨車|トラ40000]](15/17t積。汎用<sup>コ</sup>トラ)
*[[国鉄トラ43500形貨車|トラ43500]](17t積。鋼板輸送用)
*[[国鉄トラ43600形貨車|トラ43600]](17t積。鋼管輸送用)
*[[国鉄トラ45000形貨車|トラ45000]](15/17t積。汎用<sup>コ</sup>トラ。[[トロッコ列車]]用改造車あり)
*[[国鉄トラ55000形貨車|トラ55000]](15/18t積。汎用<sup>ス</sup>トラ)
*[[国鉄トラ70000形貨車|トラ70000]](17t積。汎用。トロッコ列車用改造車あり)
*[[国鉄トラ90000形貨車|トラ90000]](木材チップ輸送用<sup>コ</sup>トラ。トロッコ列車用改造車あり)
*[[国鉄トラ190000形貨車|トラ190000]](木材チップ輸送用<sup>コ</sup>トラ。65 km/h車)
*[[国鉄ト21600形貨車|トサ1形]](初代。24t積。汎用)
*[[国鉄トキ1形貨車|トキ1]](25t積。汎用)
*[[国鉄トキ10形貨車|トキ10]](35t積。汎用)
*[[国鉄トキ900形貨車|トキ900]](30t積。汎用。[[戦時形]]3軸車)
*[[国鉄トキ1000形貨車|トキ1000]](42t積。冷延コイル鋼板輸送用)
*[[国鉄トキ9000形貨車|トキ9000]](43t積。冷延コイル鋼板輸送用)
*[[国鉄トキ15000形貨車|トキ15000]](35t積。汎用)
*[[国鉄トキ21000形貨車|トキ21000]](33t積。鉄鋼輸送用)
*[[国鉄トキ21100形貨車|トキ21100]](35t積。熱延コイル鋼板輸送用)
*[[国鉄トキ21200形貨車|トキ21200]](33t積。熱延コイル鋼板輸送用)
*[[国鉄トキ21300形貨車|トキ21300]](35t積。アルミシートスラブ輸送用)
*[[国鉄トキ21400形貨車|トキ21400]](34t積。熱延コイル鋼板輸送用)
*[[国鉄トキ21500形貨車|トキ21500]](33t積。冷延コイル鋼板輸送用)
*[[国鉄トキ22000形貨車|トキ22000]](大型板ガラス輸送用)
*[[国鉄トキ23000形貨車|トキ23000]](35t積。厚鋼板輸送用)
*[[国鉄トキ23600形貨車|トキ23600]](亜鉛泥鉱輸送用)
*[[国鉄トキ23800形貨車|トキ23800]](35t積。原木輸送用)
*[[国鉄トキ23900形貨車|トキ23900]](36t積。亜鉛塊輸送用。1995年度消滅)
*[[国鉄トキ25000形貨車|トキ25000]](36t積。汎用)
*[[国鉄トキ66000形貨車|トキ66000]](28t積。汎用。トラ6000形の戦時増トン改造車)
*[[国鉄トキ80000形貨車|トキ80000]](40t積。大板ガラス専用・私有貨車)
==== ナ:活魚車 ====
* [[活魚車|ナ1]]
* [[活魚車|ナ10]]
==== パ:家禽車 ====
* [[国鉄パ1形貨車|パ1]]
* [[国鉄パ100形貨車|パ100]]
==== ホ:ホッパ車 ====
* [[国鉄ホラ1形貨車|ホラ1]](17t積。[[セメント]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホラ100形貨車|ホラ100]](17t積)
* [[国鉄ホサ8100形貨車|ホサ8100]](20t積。[[石炭]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ600形貨車|ホサフ1]](20t積)
* [[国鉄ホキ3500形貨車|ホキ1 (初代)]](30t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ1形貨車 (2代)|ホキ1 (2代)]](30t積)
* [[国鉄ホキ100形貨車|ホキ100]](30t積)
* [[国鉄ホキ150形貨車|ホキ150]](30t積)
* [[国鉄ホキ6500形貨車|ホキ190]](25t積。[[カーバイド]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ200形貨車|ホキ200]](30t積)
* [[国鉄ホキ6000形貨車|ホキ250]](30t積。カーバイド専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ300形貨車|ホキ300]](30t積)
* [[国鉄ホキ350形貨車|ホキ350]](30t積)
* [[国鉄ホキ400形貨車|ホキ400]](30t積)
* [[国鉄ホキ500形貨車|ホキ500]](50t積)
* [[国鉄ホキ600形貨車|ホキ600]](25t積)
* [[国鉄ホキ650形貨車|ホキ650]](25t積)
* [[国鉄ホキ700形貨車|ホキ700]](30t積)
* [[国鉄ホキ800形貨車|ホキ800]](30t積)
* [[国鉄ホキ1400形貨車|ホキ1400]](30t積)
* [[国鉄ホキ1800形貨車|ホキ1800]](30t積。[[鉱石]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6500形貨車|ホキ1900 (初代)]](25t積。カーバイド専用車・私有貨車)
* [[国鉄セキ3000形貨車|ホキ1900 (2代)]](30t→20t積)
* [[国鉄ホキ2000形貨車|ホキ2000]](65t積)
* [[国鉄ホキ2100形貨車|ホキ2100]](35t積)
* [[国鉄ホキ2200形貨車|ホキ2200]](30t積)
* [[国鉄ホキ2500形貨車|ホキ2500]](35t積)
* [[国鉄ホキ2800形貨車|ホキ2800]](35t積)
* [[国鉄ホキ2900形貨車|ホキ2900]](50t積)
* [[国鉄ホキ3000形貨車|ホキ3000]](35t積。[[酸化アルミニウム|アルミナ]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ3100形貨車|ホキ3100]](35t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ3500形貨車|ホキ3500]](30t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ3000形貨車|ホキ4050]](35t積。アルミナ専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ3500形貨車|ホキ4100 (初代)]](35t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ3100形貨車|ホキ4100 (2代)]](35t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ4200形貨車|ホキ4200]](30t積。[[石灰石]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ4900形貨車|ホキ4300]](30t積。ソーダ灰専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ4700形貨車|ホキ4400]](30t積。[[酸化カルシウム|生石灰]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ4700形貨車|ホキ4700]](30t積。生石灰専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ4900形貨車|ホキ4900]](30t積。ソーダ灰専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5100形貨車|ホキ5000]](30t積。リン酸ソーダ専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5100形貨車|ホキ5100]](30t積。リン酸ソーダ専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5600形貨車|ホキ5200 (初代)]](35t積。カーバイト専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5200形貨車 (2代)|ホキ5200 (2代)]](30t積。鉱石専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5300形貨車|ホキ5300]](30t積。焼結鉱専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5400形貨車|ホキ5400]](30t積。[[ドロマイト]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5500形貨車|ホキ5500]](50t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5600形貨車|ホキ5600]](35t積。カーバイト専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5700形貨車|ホキ5700]](40t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5100形貨車|ホキ5800]](30t積。[[ポリ塩化ビニル|塩化ビニル]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ5900形貨車|ホキ5900]](34t積。カーバイト専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6000形貨車|ホキ6000]](30t積。カーバイト専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6000形貨車|ホキ6100]](30t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6300形貨車|ホキ6300]](35t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6500形貨車|ホキ6500]](25t積。カーバイト専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6600形貨車|ホキ6600]](25t積。[[麦芽]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6700形貨車|ホキ6700]](35t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6800形貨車|ホキ6800]](35t積。[[クリンカー|セメントクリンカ]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ6900形貨車|ホキ6900]](25t積。[[カーボンブラック]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ7000形貨車|ホキ7000]](30t積。生石灰専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ7200形貨車|ホキ7200]](30t積。石灰石専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ7300形貨車|ホキ7300]](30t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ7500形貨車|ホキ7500]](40t積。セメント専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ10000形貨車|ホキ7600]](32、33t積。セメント及び石炭専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ8000形貨車|ホキ8000]](30t積。石灰石専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホサ8100形貨車|ホキ8100]](38t積。石灰石専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ8300形貨車|ホキ8300]](35t積。[[トウモロコシ]]及び[[モロコシ|コウリャン]]専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ8500形貨車|ホキ8500]](35t積。石灰石専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ8800形貨車|ホキ8800]](35t積。生石灰専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ9300形貨車|ホキ9300]](35t積。コークス粉専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ9500形貨車|ホキ9500]](35t積。砕石→石灰石専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ9800形貨車|ホキ9800]](35t積。麦芽専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ10000形貨車|ホキ10000]](35t積。石炭、石灰石専用車・私有貨車)
* [[国鉄ホキ34200形貨車|ホキ34200]](28t積。石灰石専用車・私有貨車)
==== ポ:陶器車 ====
* [[国鉄ポ1形貨車|ポ1]]
* [[国鉄ポ50形貨車|ポ50]]
* [[国鉄ポ100形貨車|ポ100]](10t積)
* [[国鉄ポ300形貨車|ポ300]](10t積)
* [[国鉄ワム90000形貨車#ポム1形|ポム1]](15t積)
* [[国鉄ポム200形貨車|ポム200]](15t積)
==== ミ:水運車(水槽車) ====
* [[国鉄ミ1形貨車|ミ1]]
* [[国鉄ミ10形貨車|ミ10]]
* [[国鉄フミ30形貨車|フミ30]]
* [[国鉄ミ150形貨車|ミ150]]
* [[国鉄ミ160形貨車|ミ160]]
* [[国鉄ミ170形貨車|ミ170]]
* [[国鉄ミ200形貨車|ミ200]]
* [[国鉄ミ230形貨車|ミ230]]
* [[国鉄ミ240形貨車|ミ240]]
* [[国鉄ミ250形貨車|ミ250]]
* [[国鉄ミ300形貨車|ミ300]]
* [[国鉄ミ350形貨車|ミ350]]
* [[国鉄ミ500形貨車|ミ500]]
* [[国鉄ミ600形貨車|ミ600]]
* [[国鉄9700形蒸気機関車|ミム1]]
* [[国鉄8300形蒸気機関車|ミム30]]
* [[国鉄ミム100形貨車|ミム100]]
* [[国鉄ミラ10形貨車|ミラ10]]
* [[国鉄6600形蒸気機関車|ミキ1]]
* [[国鉄ミキ10形貨車|ミキ10]]
* [[国鉄ミキ20形貨車|ミキ20]]
==== リ:土運車 ====
* [[国鉄リ1形貨車|リ1]]
* [[国鉄リ390形貨車|リ390]]
* [[国鉄リ400形貨車|リ400]]
* [[国鉄リ1800形貨車|リ1800]]
* [[国鉄リ1900形貨車|リ1900]]
* [[国鉄リ2000形貨車|リ2000]]
* [[国鉄リ2050形貨車|リ2050]]
* [[国鉄リ2200形貨車#リ2200形|リ2200]]
* [[国鉄リ2500形貨車|リ2500]]
* [[国鉄リム1形貨車|リム1]]
* [[国鉄リム300形貨車|リム300]]
==== レ:冷蔵車 ====
*[[国鉄レ1形貨車|レ1]] ← レソ200、レソ210、レソ220
*[[国鉄レ90形貨車|レ90]]
*[[国鉄レ200形貨車|レ200]] ← レソ25230
*[[国鉄レ350形貨車|レ350]] ← レソ25280
*[[国鉄レ900形貨車|レ900]] ← レソ25080
*[[国鉄レ1000形貨車|レ1000]] ← レソ25550
*[[国鉄レ1300形貨車|レ1300]] ← レソ25630
*[[国鉄レ2300形貨車|レ2200]]
*[[国鉄レ2300形貨車|レ2300]] ← レソ26400
*[[国鉄レ2500形貨車|レ2500]]
*[[国鉄レ2900形貨車|レ2900]] ← レソ26500
*[[国鉄レ5000形貨車|レ5000]]
*[[国鉄レ6000形貨車|レ6000]]
*[[国鉄レ7000形貨車|レ7000]]
*[[国鉄レ7000形貨車|レ9000]]
*[[国鉄レ12000形貨車|レ10000]]
*[[国鉄レ12000形貨車|レ12000]]
*[[国鉄レ6000形貨車|レ16000]]
*[[国鉄レム1形貨車|レム1]](有蓋車兼用)
*[[国鉄レム400形貨車|レム400]](有蓋車兼用)
*[[国鉄レム5000形貨車|レム5000]]
*[[国鉄レム5000形貨車|レム9000]]
*[[国鉄レサ1形貨車|レサ1]]
*[[国鉄レキ1形貨車|レサ900]]
*[[国鉄レサ5000形貨車|レサ5000]]
*[[国鉄レサ10000系貨車|レサ10000]]
**レムフ10000(緩急車)
**レサ10000
*[[国鉄レキ1形貨車|レキ1]]
==== ワ:有蓋車 ====
*[[国鉄ワ1形貨車|ワ1]]
*[[国鉄ワ10000形貨車|ワ10000]]
*[[国鉄ワ12000形貨車|ワ12000]]
*[[国鉄ワ17000形貨車|ワ17000]]
*[[国鉄ワ17000形貨車|ワ20000]]
*[[国鉄ワ17000形貨車|ワ21000]]
*[[国鉄ワ17000形貨車|ワ21100]]
*[[国鉄ワ22000形貨車|ワ22000]]
*[[国鉄サハ19形電車#ワ50000形・ワフ20000形|ワ50000]](小口急行貨物用貨車。電車であるサハ6形、サハ19形の改造)
*[[国鉄サハ19形電車#ワ50000形・ワフ20000形|ワフ20000]](ワ50000形と同系の緩急車)
*[[国鉄ワフ21000形貨車|ワフ21000]](緩急車)
*[[国鉄ワフ22000形貨車|ワフ22000]](緩急車)
*[[国鉄ワフ25000形貨車|ワフ25000]](緩急車)
*[[国鉄ワフ28000形貨車|ワフ28000]](緩急車)
*[[国鉄ワフ29000形貨車|ワフ29000]](緩急車)
*[[国鉄ワフ29500形貨車|ワフ29500]](緩急車)
*[[国鉄ワフ35000形貨車|ワフ35000]](緩急車)
*[[国鉄ワム1形貨車|ワム1]]
*[[国鉄レム400形貨車|ワム400]]
*[[国鉄ワム50000形貨車#ワム1900形|ワム1900]](15t積。戦時型・台湾向けの転用)
*[[国鉄ワム23000形貨車#ワム2000形|ワム2000]](15t積。ワム23000の短軸型)
*[[国鉄ワム3500形貨車|ワム3500]](15t積。木製車)
*[[国鉄ワム20000形貨車|ワム20000]](15t積。鋼製車)
*[[国鉄ワム21000形貨車|ワム21000]](15t積。鋼製車)
*[[国鉄ワム23000形貨車|ワム23000]](15t積。鋼製標準車)
*[[国鉄ワム49000形貨車|ワム49000]](15t積。有蓋・無蓋兼用試作車。屋根板積み重ね方式)
*[[国鉄ワム49000形貨車|ワム49100]](15t積。有蓋・無蓋兼用試作車。屋根板立掛け式)
*[[国鉄ワム49000形貨車|ワム49200]](15t積。有蓋・無蓋兼用試作車。屋根スライド式)
*[[国鉄ワム50000形貨車|ワム50000]](15t積。戦時型)
*[[国鉄ワム60000形貨車|ワム60000]](15t積。汎用)
*[[国鉄ワム70000形貨車|ワム70000]](15t積。汎用)
*[[国鉄ワム80000形貨車 (初代)|ワム80000 I]](15t積。パレット輸送用試作車。後のワム89000 I)
*[[国鉄ワム80000形貨車|ワム80000 II]](15t積。パレット輸送用)
*[[国鉄ワム80000形貨車#関連形式|ワム89000]](15t積。パレット輸送用試作車。初代・2代あり)
*[[国鉄ワム90000形貨車|ワム90000]](15t積。ワム23000の[[二軸車 (鉄道)|2段リンク]]改造車、新造車、ワム50000の更新車、トキ900の改造車の4種)
*[[国鉄ワム50000形貨車#ワム150000形|ワム150000]](15t積。ワム50000の形式変更車)
*[[国鉄ワラ1形貨車|ワラ1]](17t積汎用)
*[[国鉄ワム80000形貨車#関連形式|ワサ1]](17t/23t積。3軸車。パレット輸送用/汎用)
*[[国鉄ワキ1形貨車|ワキ1]]
**ワムフ1(小口急行貨物用緩急車。室内灯と貫通扉付き)
**ワキ1(小口急行貨物用貨車。室内灯と貫通扉付き)
*[[国鉄ワキ700形貨車|ワキ700]](魚雷輸送用の海軍所有の私有貨車だったが、後に国鉄が購入した)
*[[国鉄ワキ1000形貨車|ワキ1000]]
**ワムフ100(小口急行貨物用緩急車。室内灯と貫通扉付き)
**ワキ1000(小口急行貨物用貨車。室内灯と貫通扉付き)
*[[国鉄ワキ5000形貨車|ワキ5000]](30t積。パレット輸送用)
*[[国鉄スニ40形客車#派生形式|ワキ8000]]
**ワサフ8000(客貨両用の緩急車)
**ワキ8000(客貨両用車)
*[[国鉄ワキ9000形貨車|ワキ9000]](30t積。鉄鋼コイル輸送用。1995年度消滅)
*[[国鉄ワキ10000形貨車|ワキ10000]](30t積、高速貨物輸送対応)
*[[国鉄ワキ50000形貨車|ワキ50000]](30t積。ワキ10000改造車。1995年度消滅)
=== 事業用 ===
==== エ:救援車 ====
*[[国鉄エ1形貨車|エ1]](ワム1形改造)
*[[国鉄エ500形貨車|エ500]](ワム3500形改造)
*[[国鉄エ700形貨車|エ700]](ヤ300形(客車)改番)
*[[国鉄エ740形貨車|エ740]](ヤ100形(客車)改番)
*[[国鉄エ770形貨車|エ770]](ヤ150形(客車)改番)
*[[国鉄エ790形貨車|エ790]](ヤ190形(客車)改番)
*[[国鉄エ810形貨車|エ810]](ヤ5010形(客車)改番)
==== キ:雪かき車(除雪車) ====
*[[国鉄キ1形貨車|キ1]](木製単線用ラッセル式雪かき車)
*[[国鉄キ100形貨車|キ100]](鋼製単線用ラッセル式雪かき車)
*[[国鉄キ200形貨車|キ200]](複線用ラッセル式雪かき車)
*[[国鉄キ550形貨車 (2代)|キ550]](複線用ラッセル式雪かき車)
*[[国鉄キ600形貨車|キ600]](ロータリー式雪かき車)
*[[国鉄キ620形貨車|キ620]](ロータリー式雪かき車)
*[[国鉄キ700形貨車|キ700]](広幅雪かき車)
*[[国鉄キ800形貨車|キ800]](かき寄せ雪かき車)
*[[国鉄キ900形貨車|キ900]](かき寄せ雪かき車)
*[[国鉄キ950形貨車|キ950・キ950甲]](ローダー式雪かき車)
*[[国鉄キ1500形貨車|キ1500]](木製複線用ラッセル式雪かき車)
==== ケ:検重車 ====
*[[国鉄ケ1形貨車|ケ1]](旧コ1形)
*[[国鉄ケ10形貨車|ケ10]](コキ5500形改造)
==== コ:衡重車 ====
1966年、記号「コ」をコンテナ車に譲るため、名称を'''検重車'''に変更のうえ記号を「ケ」に変更。
*[[国鉄ケ1形貨車|コ1]](→ケ1形)
*[[国鉄コ10形貨車|コ10]](橋梁耐重検査用車)
==== サ:工作車 ====
*[[国鉄サ1形貨車|サ1]](ワム1形改造)
*[[国鉄サ100形貨車|サ100]](ワム3500形改造)
*[[国鉄サ200形貨車|サ200]](ヤ520形(客車)改番)
*[[国鉄サ220形貨車|サ220]](ヤ500形、ヤ510形(客車)改番)
*[[国鉄サ230形貨車|サ230]](ヤ500形、ヤ510形(客車)改番)
==== ソ:操重車 ====
*[[国鉄ソ1形貨車|ソ1]](橋桁架設用。旧形式オソ10)
*[[国鉄ソ20形貨車|ソ20]](事故救援用・大型)
*[[国鉄ソ30形貨車|ソ30]](事故救援用・大型)
*[[国鉄ソ50形貨車|ソ50]](レール積降用。トキ900形改造)
*[[国鉄ソ60形貨車|ソ60]](レール積降用)
*[[国鉄ソ80形貨車|ソ80]](事故救援用・大型)
*[[国鉄ソ100形貨車|ソ100]](事故救援用・小型)
*[[国鉄ソ150形貨車|ソ150]](事故救援用・中型)
*[[国鉄ソ160形貨車|ソ160]](事故救援用・中型)
*[[国鉄ソ200形貨車|ソ200]](橋桁架設用)
*[[国鉄ソ300形貨車|ソ300]](橋桁架設用)
==== ヒ:控車 ====
*[[国鉄ヒ1形貨車|ヒ1]](旧ヒ1000形)
*[[国鉄ヒ100形貨車|ヒ100]](旧ヒ1050形)
*[[国鉄ヒ150形貨車|ヒ150]](旧ヒ1100形)
*[[国鉄ヒ180形貨車|ヒ180]](旧ヒ1150形)
*[[国鉄ヒ200形貨車|ヒ200]](ハフ3323形改造)
*[[国鉄ヒ300形貨車|ヒ300]](航送用。1993年度消滅)
*[[国鉄ヒ400形貨車|ヒ400]](1979年度消滅)
*[[国鉄ヒ500形貨車|ヒ500]](航送用。1988年度消滅)
*[[国鉄ヒ600形貨車|ヒ600]](構内入換用。2002年度消滅)
==== ピ:歯車車 ====
横軽(碓氷峠)用の歯車付き緩急車。1932年廃止。
*[[国鉄ピ1形貨車|ピ1]](旧ピフ140形、ピフ146形)
*[[国鉄ピ30形貨車|ピ30]](旧ピフ151形)
==== ヤ:職用車 ====
*[[国鉄ワム23000形貨車#改造|ヤ1]](ブレーキ試験車、車両運動試験車、軌道試験車、構造物試験車。旧ヤ400形客車。ワム23000形改造)
*[[国鉄トム4500形貨車#改造|ヤ10]](青函連絡船石炭積込用車。トム4500形、トム5000形、トム16000形、トム50000形改造)
*[[国鉄クム1形貨車#ヤ50形|ヤ50]](バラスト交換工事用電源車)
*[[国鉄ワム80000形貨車#関連形式|ヤ80・ヤ81・ヤ82]](走行特性試験車。新製、ワサ1形改造、ワム80000形改造)
*[[国鉄ワム50000形貨車#ヤ90形|ヤ90]](積付試験車。ワム50000形改造)
*[[国鉄ヤ100形貨車|ヤ100・ヤ110・ヤ150]](バラスト交換工事用職用車)
*[[国鉄ヤ200形貨車|ヤ200]](脱線試験車。ワキ1000形改造)
*[[国鉄ヤ210形貨車|ヤ210]](軌道検測試験車)
*[[国鉄ヤ230形貨車|ヤ230]](レール探傷車)
*[[国鉄ヤ250形貨車|ヤ250]](リニアモーター敷設車。クサ9000形、コキ9200形改造)
*[[国鉄チキ1500形貨車|ヤ300]]・[[国鉄ヤ310形貨車|ヤ310・ヤ320・ヤ330]](ロングレール輸送車。チキ800形、トキ15000形改造)
*[[国鉄チキ3000形貨車#チキ4000形|ヤ350]](ロングレール輸送車。チキ4000形改造)
*[[国鉄ヤ360形貨車|ヤ360・ヤ370・ヤ380]]・[[国鉄ヤ390形貨車|ヤ390]]・[[国鉄ヤ395形貨車|ヤ395]](電化工事用職用車。トキ15000形、キヤ90形、キヤ91形改造)
*[[国鉄ヤ400形貨車|ヤ400]](信号機器輸送用職用車。ワム60000形改造)
*[[国鉄ヤ450形貨車|ヤ450]](電化工事用職用車)
*[[国鉄ミム100形貨車#他形式への改造|ヤ500]](除草薬散布用職用車。ミム100形改造)
*[[国鉄ヤ550形貨車|ヤ550]](除草薬散布用職用車。トキ25000形改造)
==== ヨ:車掌車 ====
*[[国鉄ヨ1形貨車|ヨ1]](←ヨフ6000)
*[[国鉄ヨ1形貨車|ヨ1500]](←ヨフ7000)
*[[国鉄ヨ2000形貨車|ヨ2000]]
*[[国鉄ヨ2500形貨車|ヨ2500]]
*[[国鉄ヨ3500形貨車|ヨ3500]]
*[[国鉄ヨ5000形貨車|ヨ5000]]
*[[国鉄ヨ6000形貨車|ヨ6000]]
*[[国鉄ヨ7000形貨車|ヨ7000]]
*[[国鉄ヨ8000形貨車|ヨ8000]]
*[[国鉄ヨ9000形貨車|ヨ9000]]
== 新幹線車両 ==
=== ディーゼル機関車(新幹線) ===
*[[新幹線911形ディーゼル機関車|911形]]
*[[新幹線912形ディーゼル機関車|912形]](←2000形)
=== 電車(新幹線) ===
*[[新幹線1000形電車|1000形]]
*[[新幹線0系電車|0系]]
*[[新幹線100系電車|100系]]
*[[新幹線200系電車|200系]]
*[[ドクターイエロー#921形|921形]](←4000形)
*[[ドクターイエロー#922形|922形]]
*[[ドクターイエロー#925形|925形]]
*[[ドクターイエロー#941形|941形]]
*[[新幹線951形電車|951形]]
*[[新幹線961形電車|961形]]
*[[新幹線962形電車|962形]]
=== 貨車(新幹線) ===
*[[新幹線923形貨車|923形]](レール探傷車)
*[[国鉄ホキ800形貨車#派生形式|931形]](←3000形。ホッパ車)
*[[新幹線932形貨車|932形]](←5000形。軌きょう敷設車)
*[[国鉄トキ15000形貨車#事業用車|933形]](レール研削車)
*[[新幹線934形貨車|934形]](分岐器運搬車)
*[[国鉄ワキ1000形貨車#改造|935形]](保守用車の救援車・工事用貨車の緩急車)
*[[新幹線936形貨車|936形]](積雪対応の散水タンク車)
*[[国鉄ホキ300形貨車#新幹線937形|937形]](自動散布ホッパ車)
*[[新幹線938形貨車|938形]](道床交換車)
*[[新幹線939形貨車|939形]](ロングレール輸送更換車)
*[[新幹線942形貨車|942形]](救援貨車)
== 特殊狭軌線車両 ==
=== 蒸気機関車(特殊狭軌線) ===
==== タンク機関車(特殊狭軌線) ====
*[[国鉄ケ90形蒸気機関車|ケ90形]]
*[[国鉄ケ92形蒸気機関車|ケ92形]]
*[[国鉄ケ93形蒸気機関車|ケ93形]]
*[[国鉄ケ96形蒸気機関車|ケ96形]]
*[[国鉄ケ97形蒸気機関車|ケ97形]]
*[[国鉄ケ99形蒸気機関車|ケ99形]]
*[[国鉄ケ100形蒸気機関車|ケ100形]]
*[[国鉄ケ110形蒸気機関車|ケ110形]]
*[[国鉄ケ120形蒸気機関車|ケ120形]]
*[[国鉄ケ130形蒸気機関車|ケ130形]]
*[[国鉄ケ140形蒸気機関車|ケ140形]]
*[[国鉄ケ145形蒸気機関車 (初代)|ケ145形(初代)]]
*[[国鉄ケ145形蒸気機関車 (2代)|ケ145形(2代)]]
*[[国鉄ケ150形蒸気機関車|ケ150形]]
*[[国鉄ケ158形蒸気機関車|ケ158形]]
*[[国鉄ケ160形蒸気機関車|ケ160形]]
*[[国鉄ケ170形蒸気機関車|ケ170形]]
*[[国鉄ケ190形蒸気機関車|ケ190形]]
*[[国鉄ケ200形蒸気機関車|ケ200形]]
*[[国鉄ケ210形蒸気機関車|ケ210形]]
*[[国鉄ケ215形蒸気機関車|ケ215形]]
*[[国鉄ケ216形蒸気機関車|ケ216形]]
*[[国鉄ケ217形蒸気機関車|ケ217形]]
*[[国鉄ケ218形蒸気機関車|ケ218形]]
*[[国鉄ケ220形蒸気機関車|ケ220形]]
*[[国鉄ケ230形蒸気機関車|ケ230形]]
*[[国鉄ケ231形蒸気機関車|ケ231形]]
*[[国鉄ケ237形蒸気機関車|ケ237形]]
*[[国鉄ケ239形蒸気機関車|ケ239形]]
*[[国鉄ケ240形蒸気機関車|ケ240形]]
*[[国鉄ケ250形蒸気機関車|ケ250形]]
*[[国鉄ケ260形蒸気機関車|ケ260形]]
*[[国鉄ケ270形蒸気機関車|ケ270形]]
*[[国鉄ケ280形蒸気機関車|ケ280形]]
*[[国鉄ケ290形蒸気機関車|ケ290形]]
*[[国鉄ケ600形蒸気機関車|ケ600形]]
*[[国鉄ケ700形蒸気機関車|ケ700形]]
*[[国鉄ケ702形蒸気機関車|ケ702形]]
*[[国鉄ケ703形蒸気機関車|ケ703形]]
*[[国鉄ケ800形蒸気機関車|ケ800形]]
==== テンダー機関車(特殊狭軌線) ====
*[[国鉄ケ500形蒸気機関車|ケ500形]]
*[[国鉄ケ510形蒸気機関車|ケ510形]]
=== 電気機関車(特殊狭軌線) ===
*[[両備鉄道11号形電気機関車|ケED10形]]
=== ガソリン機関車 ===
*[[国鉄ケDB10形ガソリン機関車|ケDB10形]]
*[[国鉄ケDB11形ガソリン機関車|ケDB11形]]
==脚注==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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* {{Cite book |和書 |authors=石井幸孝、小野田滋、寺田貞夫、福原俊一、齋藤晃、杉田肇、星晃、沢柳健一、岡田誠一、高木宏之|title=幻の国鉄車両 |date=2007-11 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |series=キャンブックス, 鉄道 81 |isbn=9784533069062 |ref={{SfnRef|幻の国鉄車両|2007}}}}
* 吉岡心平 『プロフェッサー吉岡の私有貨車図鑑(復刻増補)』 2008年、ネコ・パブリッシング刊 {{ISBN2|978-4-7770-0583-3}}
* 『日本の貨車-技術発達史-』(貨車技術発達史編纂委員会編著、社団法人 日本鉄道車輌工業会刊、2008年)
== 関連項目 ==
* [[国鉄の車両形式]]
* [[JR北海道の車両形式]]
* [[JR東日本の車両形式]]
* [[JR東海の車両形式]]
* [[JR西日本の車両形式]]
* [[JR四国の車両形式]]
* [[JR九州の車両形式]]
* [[JR貨物の車両形式]]
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[[Category:鉄道車両の形式称号]]
[[Category:日本の鉄道関連一覧]]
[[Category:日本国有鉄道の車両|*]]
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11,152 |
京王相模原線
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相模原線(さがみはらせん)は、東京都調布市の調布駅から神奈川県相模原市緑区の橋本駅までを結ぶ、京王電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。
京王線、井の頭線とともに京王電鉄の主要路線であり、京王電鉄の路線では唯一、神奈川県内も沿線とする路線である。東京都心方面への通勤・通学路線であり、京王多摩センター駅を中心に若葉台駅 - 多摩境駅間に広がる多摩ニュータウンへのアクセスを小田急多摩線とともに担っている。ほとんどの列車は調布駅から京王線に直通して東京の副都心・新宿と相模原市北部の拠点地域である橋本を結んでいる。
快速や区間急行を中心に都営地下鉄新宿線と相互直通運転をする列車も多く設定されている。京王永山駅 - 京王多摩センター駅間は小田急多摩線と完全に並走しており、新宿駅 - 京王永山駅・京王多摩センター駅間で小田急と競合関係にある。全線が高架または地下化されており踏切は存在しない。終点の橋本駅は将来的にリニア中央新幹線の神奈川県駅(仮称)が設置される予定である。
調布駅を出るとすぐに左に急カーブを切り、南向きに変わる。品川通りを過ぎると地下から一気に高架に駆け上がり、京王多摩川駅となる。この先で多摩川を渡り、神奈川県川崎市多摩区に入る。JR南武線を跨ぐところに京王稲田堤駅がある。駅構内で大きく右カーブし、西に向きを変える。多摩丘陵の麓に沿うように進み、東京都稲城市に入って京王よみうりランド駅となる。
そのまま西進し多摩丘陵に差し掛かるところで稲城駅となり、駅構内で大きく左にカーブして南西に向きを変える。この先でJR武蔵野南線の高架をくぐり、丘陵に開かれた谷筋を進んでいく。すると右手には丘陵の上に林立する集合住宅群が見えるが、これは「多摩ニュータウン長峰杜の一番街」という団地で、最初に目にする多摩ニュータウンの住宅となる。その後、右手に多摩ニュータウンのなかでも特に新しい密集したマンション群が見えると、西に向きを変えて川崎市麻生区に入り、鶴川街道を跨ぐと2面4線の若葉台駅である。この先右手に若葉台工場や留置線が見える。上り勾配になり、左手から迫ってくる小田急多摩線と併走し、若葉台第1トンネル(延長455 m)で東京都多摩市に入る。トンネルを抜けると、左手に多摩ニュータウンで最も古い「多摩ニュータウン諏訪団地」を見ながら再びトンネルに入る。この若葉台第2トンネル(延長395 m)を抜けると、京王永山駅である。駅を出ると西南西に向きを変えて下り勾配となり、すぐに右手には京王が開発した「京王桜ケ丘住宅地」が見える。その後、上り勾配となって、2面4線の京王多摩センター駅となる。ここが多摩ニュータウンの中心駅である。
多摩都市モノレール線の高架をくぐり、小田急多摩線を左手に見送って、西北西に向きを変える。上り勾配になり京王多摩センター第1トンネル(延長515 m)を抜けると東京都八王子市に入り、京王多摩センター第2トンネル(延長205 m)を抜けると南西に向きを変えて京王堀之内駅となる。多摩ニュータウン通り沿いに発展した住宅街を右手に見ながら下り勾配、そして上り勾配となって南大沢駅となる。南大沢駅は東京都立大学最寄り駅。ここから掘割となり、京王電鉄の山岳トンネルとしては最長の南大沢トンネル (延長809 m) を抜けると多摩境駅である。ここで多摩丘陵を抜け高架となり、境川を越えて相模原市緑区に入る。平坦な相模原市街地の中をそのまま高架で進み、右カーブしながら横浜線・相模線を跨いで橋本駅に到着する。
相模原線は、京王電鉄の前身である京王電気軌道が1916年に開業させた調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間の多摩川支線(文献により多摩川原支線)に端を発する。当時、多摩川で採取された砂利を都心に運搬するための鉄道、いわゆる砂利鉄道が何本も敷設されており、多摩川支線もその一つとして開業した。1923年の関東大震災により東京の木造・レンガ建築が大被害を受け、その復興でコンクリート建築が急速に普及すると、原料である砂利は莫大な復興需要によりその産出量を急増させた。盗掘を含む余りの採掘は多摩川自体の環境悪化を招き、1934年に始まった採掘規制は第二次世界大戦後の戦災復興期による緩和を挟んだ後、1964年には同線周辺での砂利採取が全面禁止された。
また、1927年に京王は多摩川原駅前に京王閣を開業し、当時では珍しい施設を備えた東京近郊屈指の遊園地として繁栄した。1933年から1936年までは多摩川河川敷で花火大会も始められた。戦時色が強くなると徐々に京王閣の客足は減り、食糧増産のために芋畑などにも利用されていた同施設は戦後の1947年、当時は京王も合併していた東京急行電鉄(大東急)により売却されたが、その敷地の一部には1949年に京王閣競輪場が開設された。1954年には「全国輸出振興煙火競技大会」(調布市花火大会の前身)として河川敷での花火大会が復活し、京王も1955年に京王遊園を設置して遊園地事業を再開し、1956年に植物園である「京王菖蒲園」、1961年にはこれを改称した「京王百花苑」も開設して、多摩川支線は1駅間の短距離ながらも多様なレジャー輸送で重要な役割を果たしていた。
1958年、相模原市が首都圏整備法で「開発区域」の指定を受けたことで、同市とその周辺は急速に工業地域、新興住宅地に変貌していった。そのなかで、当時の稲城町、多摩町、町田市、八王子市、相模原市、城山町、津久井町は、「京王帝都新路線建設促進実行委員会」を結成し、現在の相模原線の原型になるようなルートでの新線の建設を京王に強く働きかけた。一方で京王でも、当時多摩町で開発を進めていた「京王桜ケ丘住宅地」をさらに南側に拡大する形で、新たな住宅地開発をするとともに、そこに新線を敷設する構想があった。「第二桜ケ丘団地」と呼称されるこの住宅地開発の構想は、現在の多摩ニュータウン区域内にあたり、後述の理由により実現はしなかったものの、現在の多摩センター駅付近の「多摩ニュータウン多摩土地区画整理事業」が施行された場所で買収が進んでいたとされる。
1963年に京王は、多摩川支線を延長する免許を申請した。それは京王多摩川駅から多摩川を渡り、概ね現在の多摩ニュータウン区域を東西に横断して、橋本駅で横浜線と交差したのち、津久井湖の南側の相模中野に至るルートだった(調布 - 橋本間は複線、橋本 - 相模中野間は単線を想定)。この年には「多摩町で大規模な住宅団地」という見出しで、その後多摩ニュータウン計画に組み込まれて第一次入居が行われることになる諏訪団地・永山団地の開発計画が報道されていた。他社も京王の免許申請に呼応して同様のルートで、小田急電鉄は喜多見駅から分岐、西武鉄道は多摩川線を延長する形で免許申請を行った。そして1965年、地方からの人口流入による東京の緊急的な住宅不足に対応するため、多摩ニュータウンが都市計画決定された。現在、多摩ニュータウンでは全面買収による新住宅市街地開発事業とともに、従来からの地権者が換地を受ける土地区画整理事業が行われているが、この時点では、全面的に新住宅市街地開発事業による開発だけが行われることになっていた。このため、前述した京王の新しい住宅地開発の構想はここで諦めざるを得ず、京王は高尾線の建設と「めじろ台住宅地」の開発を進めることになった。
京王と小田急が申請した免許は、現在の京王よみうりランド駅付近で両社の新線が入り混じるため、この区間の調整が問題になった。京王側が新線を北側に移すにも用地の問題があり、小田急側が南側に移すにも三沢川を避けねばならず、起伏が多くトンネルが増えるという問題があった。両社の調整が難航していたため、運輸省は両社が競合しない区間のみ免許を下し、京王は京王多摩川 - 京王稲田堤、小田急は喜多見 - 稲城本町について免許を受けることとなった。その後、小田急側が新百合ヶ丘駅を新設してそこから分岐する現在の形に計画を変更し、新たに百合ヶ丘 - 多摩の免許申請を行うと同時に、得た免許の営業廃止許可を申請することでこの問題は解決した。これにより小田急は新たに申請した免許を受け、京王も残りの区間について免許を受けた。西武については、多摩川線を延伸する計画が中央線に負担をかけるという理由で免許は下りなかった。
その後、多摩ニュータウン計画が具体化してきたことから、多摩ニュータウン側と京王、小田急とで協議が行われた。多摩市内の区間について、ニュータウン側は京王と小田急の両社に、どちらか一方が(乞田川沿いの)谷戸部、もう一方が尾根幹線道路を通るように提案していたが、両社とも谷戸部を通るとして譲らなかった。このことからニュータウン側の担当者は、土地区画整理事業の減歩率を下げたいという思惑から、3本レールにしてレール幅の違う両社の車両が同じ線路を走ることを提案したが、小田急の担当者に「箱根鉄道みたいにチンタラ走るわけにはいかない」と笑われたという。こうして多摩市内では現在の京王線と小田急線の線路が並ぶ形に決まった。また当時京王は、中央線との高速運転競争を繰り広げていたことに加え、新宿から河口湖までの「超特急」の構想を描いていたことから、相模原線はニュータウン区域内についても高規格な、カーブは最小曲率半径1000メートル以上を確保できるようにニュータウン側に要求した。同様に小田急側も在来区間よりも高規格な最小曲率半径800メートル以上を要求した。協議では他にも、鉄道会社側とニュータウン側との費用負担についても話し合われたが、これがなかなかまとまらなかった。
費用負担についてまとまらないまま、1968年に京王の新線建設が始まった。1971年に京王多摩川駅 - 京王よみうりランド駅間が開業し、合わせて線名も多摩川支線から現在の「相模原線」となった。この区間は用地買収に地元が協力的であったこと、区間が短いこともあり、京王帝都の自己資金で順調に工事が進んだ。開業後の輸送状況も好調であったことから、経営面でも負担にはならなかった。
しかし、京王よみうりランド駅から先の建設は進まなかった。当時の新聞に掲載されたところによると、多摩ニュータウンからのラッシュ時の輸送には、調布 - 新宿間を複々線化する必要があり、相模原線の建設費用410億円にあわせ複々線化の費用が数百億円も掛かるとされ、京王は採算が取れないとしていたためであった。また、多摩ニュータウン内では開発者以外の不動産事業が制限され、住宅の販売益で建設費用を賄うこともできないともしていた。小田急側も同じ言い分で多摩線の建設をストップしており、そんななかニュータウンの住民はバスで2km以上先の聖蹟桜ヶ丘駅に出るなどを余儀なくされていた。京王は東京都に対し、(1)鉄道用地の無償提供 (2)高架、橋りょうなどの付帯工事費の補助 (3)在来線改良事業への補助 を要求したが、都は「民間企業である私鉄へ用地を無償提供する考えは無い」とした。最終的には、日本鉄道建設公団が民鉄線を建設し、完成後に民鉄が25年で元利を償還する方策がとられた。いわゆるP線方式(公団民鉄線方式)の始まりである。これにより両線の工事は再開され、まず小田急が1974年6月に小田急永山駅まで、用地買収とオイルショックで工事が難航した京王も半年後の同年10月に京王多摩センター駅まで開業し、小田急も翌1975年に小田急多摩センター駅に到達した。
京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間が開業した1974年当時、京王は次の各駅の乗降人員数を以下のように予測していた。
しかし、実際に開業してみると、以下のような結果となった。
つまり、予測に対して5割増しとなった京王永山駅以外はほぼ半分という状況で、京王の社内ではこれが問題となり、多摩ニュータウン側に苦情を申し入れた。これには多摩ニュータウン開発の遅れが影響していて、当時入居が進んでいたのは、永山駅に近接した諏訪団地と永山団地だけといった状況であり、多摩ニュータウンの人口は3万人に過ぎなかった。
多摩ニュータウン開発の遅れの原因としては、まず、第一次入居の直後に多摩市が、多摩ニュータウン側との小学校や中学校等の公共施設の費用負担の問題から、多摩ニュータウンの住宅建設の許可を出さず、住宅建設が中止されていたということがあった。結局これは東京都が事実上、学校の土地・建物の費用を多摩市に対して無償で負担するということで解決し、第二次入居にこぎつけることになった。しかし、この最中にオイルショックが起き、開発の遅れのもう一つの原因となっただけでなく、多摩ニュータウン計画そのものを変えてしまった。
1973年のオイルショックは日本経済を直撃し、高度成長期は終焉した。旺盛だった大都市への人口流入は沈静化し、それにより住宅需要も急速に冷え込んだ。第二次入居を始めた多摩ニュータウンでも、住宅不足を解決するための画一的な仕様・デザインの住宅は販売不振におちいり、入居がなかなか進まなかった。これをきっかけに多摩ニュータウンは、従来の「少しでも早く安く、計画的な良好な都市を大規模に提供する」という計画から、「時間をかけて理想的な都市を作る」という計画に転換し、多彩でデザイン性に優れた住宅が供給されていくことになった。
また、開業当時、京王永山駅および京王多摩センター駅では、当時の初乗り運賃である40円区間の乗車券の売れ行きが異常に多いと共に、その乗車券が回収されないという事態が発生した。これを不思議に思った電鉄側が車内検札を行ったところ、多くの利用客が新宿 - 聖蹟桜ヶ丘などの定期券を持っていた。相模原線が多摩ニュータウンへ乗り入れるまでは、多くの住民は聖蹟桜ヶ丘駅から京王線に乗っていたため、その定期券を悪用してキセルをしていたのであった。当時は自動改札機も導入されておらず、乗車券類は紙製のものであり、フェアスルーシステムもなかった。
相模原線の建設(新線の建設)は、経営に大きな問題を生じさせる結果にもなった。これは、路線免許申請時の1963年(昭和38年)時点では十分に採算が採れると予想されていたものが、その後10年間の社会情勢の変化により、不採算路線に変化してしまったためである。具体的には、前述のように多摩ニュータウンの入居人口が予想より少なかったこと、低廉な運賃水準では巨額の建設資金の回収ができなかったことに加えて、当初予想を大きく上回る建設費用・人件費などの上昇が原因である。1963年(昭和38年)頃、多摩ニュータウンが計画された当時の相模原線全線(調布 - 相模中野間29.4 km・車両費を含む)の建設費用は約110億円と想定されていたが、度重なる物価の上昇により1971年(昭和46年)時点で、橋本までの建設費用で300億円を超えることが想定されていた。実際、京王よみうりランド - 京王多摩センター間9.8 kmの建設費用は236億円(車両費を含まず)まで大きく膨れ上がってしまった(資料によっては建設費用を約278億円とするものもあり、このうち京王の負担額は166億円とされている)。このようなコスト増大が、その後、相模中野までの延長が断念された一因になっている。
1980年代に入ると、多摩ニュータウンでは西部地区にも開発が進展し、多摩ニュータウンの人口は1980年に6万人だったものが、1987年には10万人に達した。多摩センター駅周辺で開発が進むなか、西部地区でも開発が進んで1983年に八王子市南大沢で入居が始まった。西部地区での鉄道開通前には、住民の足として南大沢から多摩センター駅までのバス路線が暫定的に運行された。
延伸にあたっては、現在の京王多摩センター駅と京王堀之内駅の間にあるゴルフ場「府中カントリークラブ」の敷地内を通過するため、問題が生じていた。工事着工にあたりクラブ側に補償金5億円を提示したが拒否され、10億8,800万円まで引き上げるほか、地下に長さ500メートルのトンネルを建設し、13・14番ホールの中間で地表に出る設計を提示して交渉にあたった。しかしクラブ側は、(1)13・14番ホールは地表に出る部分を隠すために土盛りや芝生植え替えなど大幅なコース改造が必要 (2)工事期間中、ビジター料金収入が大きく減少する として補償金のさらなる引き上げを求めた。ルート変更も困難であったことから、京王と日本鉄道建設公団は強制収用の準備にかかったが、最終的には、トンネル出口部分を短縮し、コースレイアウトの変更を行うことでクラブ側とは同意に至り、補償金10億8800万円で和解し、1986年10月1日に「多摩センター第一トンネル」として着工、翌1987年に完成した。
この問題の解決により延伸計画は前進し、1987年3月に橋本駅まで一気に開業する予定で計画が進められたが、今度は橋本駅付近で土地取得が難航した。橋本駅の終端部分と入口部分の地権者が買収を頑なに拒んでいたのである。一方で入居が進む多摩ニュータウン西部地区ではその足の確保が急務となっていたことから、1988年5月21日に京王多摩センター駅 - 南大沢駅間が開業した。これにより、南大沢から多摩センター駅への暫定的なバス路線の運行は終了した。
橋本駅周辺の土地取得の問題は土地収用法の適用をもって解決し、1990年3月30日に南大沢駅 - 橋本駅間が開業し、相模原線は全通した。1968年の工事着工から22年目のことだった。翌年には快速列車が橋本駅から都営新宿線の本八幡駅までの直通運転を始め、神奈川県北部から千葉県を結ぶ東西の大動脈となった。これにより都心への玄関口となった橋本駅の乗降人員は、1990年から1997年にかけて2倍に増えた。
橋本駅まで開通した翌年の1991年4月6日には、多摩境駅が開業した。多摩境駅は地元からの「請願駅」として設置され京王の負担を極力抑えている。多摩境駅の周辺は「多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業」が施行されているが、京王と小田急は施行区域内を先行買収しており、多くの土地を所有していた。この地域では開発より前から土地を売りたいとする地権者が多く、多摩ニュータウン側から土地を買うように要請を受けてのことだった。
なお、多摩境駅の開業が全線開業より後になったのは理由があった。ニュータウン新線において建設費などに補助金が出るのはニュータウンの範囲内だけでなく、ニュータウンの範囲外でもニュータウン居住者が利用する場合において、ニュータウンの範囲の次の駅までが補助金の対象になる取り決めになっている。多摩境駅は多摩ニュータウン区域内にあるものの、当初は事業認可未了となっている区域であったため、この取り決めにおけるニュータウンの範囲として扱うのは難しかった。つまり、そのまま橋本駅と多摩境駅を同時に建設すると、多摩境駅がニュータウンの範囲の次の駅として扱われてしまうことから、橋本駅までの補助金が出ないことになってしまうのである。そのため、ニュータウンの範囲の次の駅を終点の橋本駅にして、橋本駅までの建設に補助金を当てようとしたためであった(同じような事例が過去にも北大阪急行緑地公園駅にあった)。
橋本より先の橋本 - 相模中野間については、用地の取得が難しいことや用地費、工事費の高騰などにより、京王単独での建設が非常に困難であるとして、1988年3月に京王は免許を返上した。したがって、津久井湖までの延伸はかなわず、相模原線は多摩ニュータウン住民や相模原市民の足として定着することになった。多摩境駅の開業をもって、若葉台駅から多摩境駅にかけての多摩ニュータウン内の全駅開業となり、1991年の多摩境駅開業時に15万人だった多摩ニュータウンの人口は、13年後の2004年に20万人を突破した。
なお、相模原線の建設費用に充てるため、京王多摩川 - 橋本間には、基本運賃に加えて乗車キロに応じた10円 - 80円の加算運賃が設定されていたが、相模原線建設事業費の回収が進捗しているとして、2018年(平成30年)3月17日に加算運賃の改定が行われた。その際に、京王多摩川 - 京王多摩センター間は加算運賃が廃止されたほか、残りの京王多摩センター - 橋本間の加算運賃が引き下げられた。その後、2019年(令和元年)10月1日には再度の改定により京王多摩センター - 多摩境間の加算運賃が廃止され、残った京王稲田堤以遠 - 橋本間利用時の加算運賃についても、2023年(令和5年)10月1日の運賃改定に合わせ廃止となった。
都営地下鉄新宿線 - 京王線 - 相模原線(本八幡駅 - 橋本駅間)は、都市交通審議会答申第10号で「10号線」として位置付けられていることもあり、1980年3月から相互直通運転を実施している。当初、京王電鉄の車両が主に快速として都営新宿線岩本町駅 - 相模原線京王多摩センター駅間、都営地下鉄の車両が都営新宿線 - 京王線笹塚駅間で運行されていたが、順次その範囲は拡大され、現在は京王・都営地下鉄の車両とも全区間を運行している。今は相模原線だけでなく京王線方面でも都営新宿線への乗り入れ運転を実施している。
1992年5月には京王線新宿駅 - 橋本駅間の特急が設定されたが、相模原線内での停車駅が調布駅・京王多摩センター駅・橋本駅と少なく、調布駅での各駅停車への接続廃止後は相模原線の特急通過駅では使いにくい上、新宿駅 - 調布駅間では急行の後追い運転であり京王線系統の特急よりも所要時間がかかることもあって、2001年3月のダイヤ改定で一度廃止され、代わりに急行が設定された。急行は、特急の相模原線内の停車駅に京王稲田堤駅・京王永山駅・南大沢駅を追加し、都営新宿線の急行と結んで本八幡駅 - 橋本駅(一部を除く)間の運転とした。これにより京王稲田堤駅・京王永山駅・南大沢駅を通過する営業列車は消滅した。またこのダイヤ改正から急行・快速は、調布駅で京王線系統の特急・準特急と接続し、乗り換えた場合は明大前駅・新宿駅との所要時間が短縮された。2013年2月22日のダイヤ改定より特急が復活し、相模原線内の停車駅が急行と同じになった。
2015年9月25日より京王線新宿駅 - 橋本駅間の準特急が設定された。
2018年2月22日より京王線新宿駅 - 橋本駅間の下り方向に、初の座席指定列車である京王ライナーが設定された。
かつては列車の車両数を調節するため、朝のラッシュ後と夕方のラッシュ前の時間帯を中心に若葉台駅で車両交換を行う列車があったが、2006年9月以降は若葉台駅を行き先として表示するようになったため、このような車両交換はなくなった(車両故障時などは除く)。車両交換の案内は、相模原線内での車内放送のほか電光行先案内板の備考(2005年3月25日時点では電光行先案内板のあった京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅・橋本駅のみ)に表示されていた。
2022年3月12日のダイヤ改正で準特急が特急に統合される形で廃止された。
京王線新宿駅 - 橋本駅間で運行される座席指定列車。2018年2月22日実施のダイヤ改正から下り方向のみで運転を開始し、2019年2月22日実施のダイヤ改正からは上り列車京王線新宿行きの運行も開始された。途中停車駅は、京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、相模原線内の京王永山駅以西は特急・準特急・急行と同じ停車駅となるが、京王線新宿駅・明大前駅 - 京王永山駅間は全て通過する。車両は全て京王電鉄5000系のみで運転されている。橋本発新宿行きは、平日朝5時 - 8時台に5本が、土休日朝7時台に1本がそれぞれ運転される。新宿発橋本行きは、平日は16時40分発から17時40分発・18時20分発から23時20分発まで、土曜・休日は16時20分発から23時00分発まで約1時間間隔の運転となる。
乗車には座席指定券410円が必要となるが、下り列車については京王永山駅以遠の停車駅から乗車する場合は座席指定券無しでそのまま乗車できる。
2013年2月22日のダイヤ改定から京王線新宿駅 - 橋本駅間で運転を復活した種別で、相模原線特急としては実質2代目である。2001年の初代特急廃止後、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議は相模原線の特急の復活を要求しており、2013年に12年ぶりに復活することになったものである。
途中停車駅は、笹塚駅・明大前駅・千歳烏山駅・調布駅・京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、相模原線内は急行と同じ停車駅となる。京王電鉄の車両のみで運転されている。京王線新宿駅 - 橋本駅間の運転が基本だが、日中は京王多摩センター駅 - 橋本駅間では各駅停車として運転されている。また、平日朝には京王多摩センター発京王線新宿行も設定されている。2020年10月30日のダイヤ修正で平日は新宿発が朝2本(京王多摩センター行・橋本行の各1本)に削減され、夕方での設定も無くなった。
2019年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停へ変更する列車が設定された。(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う。)
2022年3月12日ダイヤ改正では準特急と統合され、京王線内の停車駅に笹塚・千歳烏山が追加されたほか、今まで準特急として運転されていた列車が特急に置き換わり、日中時間帯は全ての列車が京王多摩センター駅を境に種別を各停に変更するようになった。
平日は朝と夕方のみの運転で、都営新宿線 - 橋本駅間と京王線新宿駅 - 橋本駅間の2区間で設定されている。その他にも都営新宿線 - 京王多摩センター駅間や、京王線新宿発京王多摩センター行も設定されている。2015年9月25日のダイヤ改正より、日中は代わりに準特急が運転されている。土休日は夕方に上り1本のみ橋本発本八幡行が設定されており、京王相模原線 - 京王線 - 京王新線 - 都営新宿線の全区間を急行として運転する唯一の列車である。
2013年2月21日のダイヤ改定前は、かつて相模原線急行の多くが20分間隔で、京王線・京王新線経由で都営新宿線本八幡駅(土曜・休日ダイヤの一部は大島駅)まで直通運行されていた。朝のラッシュ時と平日夕方の京王線新宿 - 橋本駅間の列車は主に10両編成。都営新宿線直通も2006年9月のダイヤ改定後は、朝の一部列車に都営車8両が使用される以外は10両編成で運行。京王閣競輪開催時には、京王多摩川駅に臨時停車していた。また、平日の朝ラッシュ時および夕方には、京王線内のみ急行で都営新宿線内は各駅停車として運行、平日の夕方以降には調布駅 - 橋本駅間は急行、京王線・都営新宿線の本八幡駅 - 調布駅間は快速として運転される列車もあった。また、朝と夕方から夜間には、京王線新宿駅発着の急行も運行されていた。
かつては都営新宿線内各駅停車の急行の場合、上り列車の行先・種別表示は京王線内では「急行 新線新宿」(都営10-000形は「急行 新宿」)と表示、下り列車は都営新宿線内では「各停 橋本」(10-000形では種別表示はない)、駅の発車案内板には「普通 橋本」と表示された。かつて6000系では誤乗防止の観点から京王新線・都営新宿線方面行は、緑地の方向幕で表示されていた。そのため7000系の方向幕車では緑地で表示される(7721-7725FではそれらがすべてLED式に更新されている)。
2018年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停に変更する列車が設定された(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う)。
2013年2月22日のダイヤ改定で、通勤快速から改称された。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車があり、前者は平日の日中と土曜・休日のほぼ終日にわたり20分間隔で運転、後者は平日の朝と深夜の下り・土休日の朝と夕方のみ運転される。上りは橋本発のほかに京王多摩センター発・深夜の桜上水行があり、下りは橋本行と京王多摩センター行がある。現在のダイヤでは、都営新宿線 - 橋本駅間の設定のほかに、京王線新宿駅 - 橋本駅間、京王線新宿発京王多摩センター行、橋本・若葉台発桜上水行も設定されている。京王線新宿発着・都営新宿線直通ともに多くの列車が10両編成で運行される。日中は調布駅で府中方面の準特急と連絡し、京王多摩センター駅で各駅停車橋本行(京王多摩センターまで特急)に接続する。2020年2月22日のダイヤ改正で平日日中の準特急の一部が京王多摩センター駅 - 橋本駅間で各駅停車となったため、京王多摩センター駅で折り返す列車も設定されるようになった。2022年3月12日のダイヤ改正では平日・休日ともに準特急と統合した特急の日中に運転される全列車が京王多摩センター駅 - 橋本駅間で各駅停車となったため、それに合わせて区間急行も日中の全列車が京王多摩センターで折り返すように変更された。
2022年現在では午前は下りの一部列車が、午後は上りの一部列車が都営新宿線内急行で運転されている。以前は、相模原線を含む京王線内では、京王車は『区急|新線新宿』→『新線新宿から急行本八幡行(もしくは急行大島行)』→『都営新宿線直通』といった形で切り替えて表示していた。都営車では切り替え表示機能が無いため、『区急(区間急行)|(新線)新宿』と固定表示された。いずれも新線新宿駅到着時に『急行|本八幡』と表示を変更する。 そのほかの列車は快速と同じく都営新宿線内は各駅停車で運転されている。この場合、例えば本八幡行では京王線内で『区急(快速)|本八幡』と表示し、新線新宿駅到着時には『各停|本八幡』に変更される。
京王多摩川 - 京王よみうりランド駅間開業前の多摩川支線時代より運行されていたが、相模原線内は各駅に停車していた。1974年10月18日の京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間の開業時から1992年5月28日の初代特急運転開始時までは相模原線内でも快速運転をしていた(設定当時の停車駅は調布駅・京王多摩川駅・京王稲田堤駅・京王よみうりランド駅・京王永山駅・京王多摩センター駅)。1988年5月21日の京王多摩センター駅 - 南大沢駅間開業時は、快速は京王多摩センター駅発着、通勤快速は南大沢駅発着で、1990年3月30日に運転区間が橋本駅まで延長された後、1991年4月6日から南大沢駅が停車駅に加わった。特急の運転開始後は、現行の相模原線内各駅停車に改められている。
2013年2月21日までの日中・深夜と土曜・休日の深夜は京王線新宿駅発着で運行され、土曜・休日の朝と夕方以降は都営新宿線に直通し、大島駅・本八幡駅発着で運転されていた。このほか、平日の夕方以降には相模原線内急行・京王線内快速という列車もあった。基本は橋本駅発着だが、一部に若葉台駅・京王多摩センター駅発着もあり、一部の若葉台駅発着を除いて、橋本駅発着の各停との接続が行われていた。また2012年8月19日の調布駅地下化によるダイヤ改定により、早朝時間帯に若葉台発快速つつじヶ丘行が登場した。調布駅での折り返しができなくなったことに伴い、この列車は折り返し設備のあるつつじヶ丘駅まで営業運転して、到着後はそのまま調布方面へ回送として折り返す。また、終点のつつじヶ丘駅では後続の新宿行の快速・通勤快速に接続していた。
2013年2月22日のダイヤ改定では、主に調布駅で、橋本駅発着の特急と接続する京王線新宿駅発着列車が中心となり、都営新宿線直通列車は大幅に本数が減らされた。早朝と夜間以降には、下りの京王多摩センター行、上りの桜上水行・つつじヶ丘行もあった。
2015年9月25日改正のダイヤでは、都営新宿線 - 橋本駅間が設定されたが、土休日のみ京王線新宿発橋本行も設定された。また、都営新宿線 - 若葉台・京王多摩センター駅間、橋本発つつじヶ丘行も設定されていた。現在では、京王線新宿発着のほぼ全ての列車と都営新宿線直通の全列車が10両編成で運行される。日中は調布駅で府中方面の特急と連絡する。相模原線内は特急に抜かれることなく先着する。
かつては、都営車8両による運転もあった。つつじヶ丘駅行きの電車も運行中である。
※急行、快速(通勤快速)の京王線内の停車駅は、京王線の記事中の「駅一覧」を参照。
2013年2月22日のダイヤ改定により、平日は朝夕のみ、土曜・休日は早朝と深夜のみ運転となった。それ以外の時間帯は、相模原線内各駅停車の区間急行・快速が運転され、各駅停車を補完している。2015年9月25日改正のダイヤでは新宿駅 - 橋本駅間の列車が主に設定されているが、その他にも若葉台駅・京王多摩センター駅発着も設定されている。また、都営新宿線発橋本行や橋本始発の本八幡行きも設定されている。
京王多摩センター発橋本行の各停はすべて調布方面から列車と接続している。
2013年2月21日以前は終日設定があり、朝ラッシュ時を中心に新宿方面へ直通する列車も設定された一方、日中以降は大部分が相模原線内の区間で折り返し運転を行なっていた。相模原線内のみの列車は、調布駅で上りは京王八王子方面からの、下りは京王八王子方面行の各駅停車と接続を取っていた。
また、2006年9月のダイヤ改定までは日中を中心に6両編成での運転があったが、この改定以降、日中は都営新宿線直通列車に10両編成の京王電鉄の車両が重用されたことによる距離調整のため、都営地下鉄の車両による8両編成での運転となり、6両編成での運転がなくなった。このため、主に相模原線内列車のみの運用に使われていた6000系5扉車の6721Fは運用を離脱した。2010年3月19日のダイヤ修正では日中の列車はすべて10両編成化され、都営地下鉄の車両を含む8両編成は夕方以降に見られるようになった。
相模原線内運転の列車は、調布駅付近の地下化以前は、調布駅にて本線上を利用して折り返しが行われていた。2012年8月19日の調布駅付近地下化以降はつつじヶ丘駅まで一度回送して、つつじヶ丘駅構内で折り返していた。
2018年2月22日ダイヤ改正より、一部の準特急及び急行は京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更する列車が設定された。2019年2月22日ダイヤ改正より、一部の特急にも京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更する列車が設定された。
2022年3月12日ダイヤ改正より日中に運転される特急の全列車と一部の急行が京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更するようになった。
2022年3月12日現在のダイヤで日中1時間あたりの運行本数は、以下のようになっている。
1992年5月28日 - 2001年3月26日の間に運転されていた。当時はほとんどの列車が京王線内では急行を追尾するダイヤとなっていたため、京王線新宿駅 - 調布駅間の所要時間は急行と大差なかったが、京王多摩センター駅で先行する快速を追い抜いて、(設定当初の下りのみ調布駅でも後続の各停に接続)通過する各駅へのフォローも行い、相模原線の主力種別であった。相模原線内では京王多摩センター駅以外の途中駅は、すべて通過となっていた。
1992年以前にも京王多摩川駅を最寄りとする京王閣競輪開催時には、レース終了後に京王多摩川発京王線新宿行の特急が運転されていた(車両は、1984年以前は京王よみうりランド駅折り返し、京王よみうりランド駅 - 京王多摩川駅間は回送運転、1984年以降は若葉台駅出庫で京王多摩川駅までは回送運転とされていた)。なお、1992年5月以降は競輪終了時に上り特急の一部列車を京王多摩川駅に臨時停車させることで、利用客への便宜を図っていた。この臨時停車は現在の特急にも引き継がれている。
2013年2月22日ダイヤ改定まで運転されていた種別。平日朝ラッシュ時および深夜時間帯下りのみ運転となっていた。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車がある。上りには橋本発のほかに京王多摩センター始発があり、下りは橋本行き、京王多摩センター行き、若葉台行きがあった。多くは10両編成だが、平日朝の都営新宿線直通には都営車8両編成も使用されていた。同ダイヤ改定で区間急行に改称されて消滅した。
2015年9月25日ダイヤ改正で新設された。途中停車駅は、笹塚駅・明大前駅・千歳烏山駅・調布駅・京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、現在の特急停車駅と同じである。京王線新宿駅 - 橋本駅間の運転が基本で、平日朝に京王線新宿発京王多摩センター行も設定されていた。
2018年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停へ変更する列車が設定された(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う)。
2022年3月12日のダイヤ改正で特急に統合される形で廃止された(実質的には特急が廃止され、準特急を特急に改名した)。
平日朝7:30 - 9:30に京王線新宿駅または新線新宿駅に到着する上り特急・急行・区間急行および都営新宿線直通電車の進行方向先頭(本八幡寄り)車両が女性専用車になる。実施区間は新宿線本八幡方向を含めた全区間で、この時間に運転される特急・急行・区間急行および都営新宿線直通はいずれも京王車の10両編成で運行されるが、運用の乱れによって8両編成が充当される場合は設定されない。
◇印の臨時停車の解説
稲城駅 - 若葉台駅間の中間地点付近に、沿線の稲城市坂浜・平尾地区の土地区画整備の一環として坂浜新駅(仮称)を設置する構想があるが採算性が見込めず実現には至っていない。
稲城市では、稲城駅に急行を停車させる政策を掲げ、京王電鉄に働きかけを行っている。
橋本駅南口付近にリニア中央新幹線の新駅が設置されることを受けて、相模原市は橋本駅南口地区の約13.7haの土地区画整理事業を京王線橋本駅移設を前提に行うことを決定した。2022年(令和4年)に相模原市が発表した資料によると、JR橋本駅とリニア新駅の間に交通広場などを設けて、京王線橋本駅を現在の位置より神奈川県側に移設することが検討されている。
京王多摩川 - 橋本間は、開通が1970年代以降と比較的新しいため、カーブが従来線より少ない。調布駅周辺の地下化工事の完了後は全線に渡って踏切が存在しない。
以前は調布駅で相模原線と京王線は相模原線上り線と京王線下り線が平面交差していたため同駅がダイヤ設定上のボトルネックとなっていたが前述の通り国領 - 西調布・京王多摩川間の地下化工事が完了し、調布駅は地下2層構造のホームとなり、ボトルネックが解消された。
京王永山 - 京王多摩センター間は小田急多摩線と併走する。小田原線の線路容量が逼迫していた小田急は、多摩線直通列車をほとんど設定していなかったために、多摩ニュータウンから都心への旅客輸送は京王がメインルートとなっていた時代が長かったが、その後の小田原線の複々線化の進捗に応じて多摩線から都心へ直通する速達列車を充実させ、競争力を高めた。
上述の路線免許申請により、橋本駅は相模中野方面への延伸を前提とした構造になっていて、延伸先の路線用地も所々に確保されていた。だがその後、延伸予定区間の路線免許は失効し、路線用地の多くは地元不動産会社に放出され、宅地開発された。中規模程度までではあるがマンション等の建造物も建てられたことから、現在の線路をそのまま延ばす形での相模中野方面への延伸は難しいと見られており、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議の要望書に対して、京王は上下分離方式での延伸に含みを残すものの「単独での建設はきわめて困難」と回答している。
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"text": "相模原線(さがみはらせん)は、東京都調布市の調布駅から神奈川県相模原市緑区の橋本駅までを結ぶ、京王電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。",
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"text": "京王線、井の頭線とともに京王電鉄の主要路線であり、京王電鉄の路線では唯一、神奈川県内も沿線とする路線である。東京都心方面への通勤・通学路線であり、京王多摩センター駅を中心に若葉台駅 - 多摩境駅間に広がる多摩ニュータウンへのアクセスを小田急多摩線とともに担っている。ほとんどの列車は調布駅から京王線に直通して東京の副都心・新宿と相模原市北部の拠点地域である橋本を結んでいる。",
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"text": "快速や区間急行を中心に都営地下鉄新宿線と相互直通運転をする列車も多く設定されている。京王永山駅 - 京王多摩センター駅間は小田急多摩線と完全に並走しており、新宿駅 - 京王永山駅・京王多摩センター駅間で小田急と競合関係にある。全線が高架または地下化されており踏切は存在しない。終点の橋本駅は将来的にリニア中央新幹線の神奈川県駅(仮称)が設置される予定である。",
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"text": "そのまま西進し多摩丘陵に差し掛かるところで稲城駅となり、駅構内で大きく左にカーブして南西に向きを変える。この先でJR武蔵野南線の高架をくぐり、丘陵に開かれた谷筋を進んでいく。すると右手には丘陵の上に林立する集合住宅群が見えるが、これは「多摩ニュータウン長峰杜の一番街」という団地で、最初に目にする多摩ニュータウンの住宅となる。その後、右手に多摩ニュータウンのなかでも特に新しい密集したマンション群が見えると、西に向きを変えて川崎市麻生区に入り、鶴川街道を跨ぐと2面4線の若葉台駅である。この先右手に若葉台工場や留置線が見える。上り勾配になり、左手から迫ってくる小田急多摩線と併走し、若葉台第1トンネル(延長455 m)で東京都多摩市に入る。トンネルを抜けると、左手に多摩ニュータウンで最も古い「多摩ニュータウン諏訪団地」を見ながら再びトンネルに入る。この若葉台第2トンネル(延長395 m)を抜けると、京王永山駅である。駅を出ると西南西に向きを変えて下り勾配となり、すぐに右手には京王が開発した「京王桜ケ丘住宅地」が見える。その後、上り勾配となって、2面4線の京王多摩センター駅となる。ここが多摩ニュータウンの中心駅である。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "多摩都市モノレール線の高架をくぐり、小田急多摩線を左手に見送って、西北西に向きを変える。上り勾配になり京王多摩センター第1トンネル(延長515 m)を抜けると東京都八王子市に入り、京王多摩センター第2トンネル(延長205 m)を抜けると南西に向きを変えて京王堀之内駅となる。多摩ニュータウン通り沿いに発展した住宅街を右手に見ながら下り勾配、そして上り勾配となって南大沢駅となる。南大沢駅は東京都立大学最寄り駅。ここから掘割となり、京王電鉄の山岳トンネルとしては最長の南大沢トンネル (延長809 m) を抜けると多摩境駅である。ここで多摩丘陵を抜け高架となり、境川を越えて相模原市緑区に入る。平坦な相模原市街地の中をそのまま高架で進み、右カーブしながら横浜線・相模線を跨いで橋本駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 6,
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"text": "相模原線は、京王電鉄の前身である京王電気軌道が1916年に開業させた調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間の多摩川支線(文献により多摩川原支線)に端を発する。当時、多摩川で採取された砂利を都心に運搬するための鉄道、いわゆる砂利鉄道が何本も敷設されており、多摩川支線もその一つとして開業した。1923年の関東大震災により東京の木造・レンガ建築が大被害を受け、その復興でコンクリート建築が急速に普及すると、原料である砂利は莫大な復興需要によりその産出量を急増させた。盗掘を含む余りの採掘は多摩川自体の環境悪化を招き、1934年に始まった採掘規制は第二次世界大戦後の戦災復興期による緩和を挟んだ後、1964年には同線周辺での砂利採取が全面禁止された。",
"title": "歴史"
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"text": "また、1927年に京王は多摩川原駅前に京王閣を開業し、当時では珍しい施設を備えた東京近郊屈指の遊園地として繁栄した。1933年から1936年までは多摩川河川敷で花火大会も始められた。戦時色が強くなると徐々に京王閣の客足は減り、食糧増産のために芋畑などにも利用されていた同施設は戦後の1947年、当時は京王も合併していた東京急行電鉄(大東急)により売却されたが、その敷地の一部には1949年に京王閣競輪場が開設された。1954年には「全国輸出振興煙火競技大会」(調布市花火大会の前身)として河川敷での花火大会が復活し、京王も1955年に京王遊園を設置して遊園地事業を再開し、1956年に植物園である「京王菖蒲園」、1961年にはこれを改称した「京王百花苑」も開設して、多摩川支線は1駅間の短距離ながらも多様なレジャー輸送で重要な役割を果たしていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1958年、相模原市が首都圏整備法で「開発区域」の指定を受けたことで、同市とその周辺は急速に工業地域、新興住宅地に変貌していった。そのなかで、当時の稲城町、多摩町、町田市、八王子市、相模原市、城山町、津久井町は、「京王帝都新路線建設促進実行委員会」を結成し、現在の相模原線の原型になるようなルートでの新線の建設を京王に強く働きかけた。一方で京王でも、当時多摩町で開発を進めていた「京王桜ケ丘住宅地」をさらに南側に拡大する形で、新たな住宅地開発をするとともに、そこに新線を敷設する構想があった。「第二桜ケ丘団地」と呼称されるこの住宅地開発の構想は、現在の多摩ニュータウン区域内にあたり、後述の理由により実現はしなかったものの、現在の多摩センター駅付近の「多摩ニュータウン多摩土地区画整理事業」が施行された場所で買収が進んでいたとされる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 9,
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"text": "1963年に京王は、多摩川支線を延長する免許を申請した。それは京王多摩川駅から多摩川を渡り、概ね現在の多摩ニュータウン区域を東西に横断して、橋本駅で横浜線と交差したのち、津久井湖の南側の相模中野に至るルートだった(調布 - 橋本間は複線、橋本 - 相模中野間は単線を想定)。この年には「多摩町で大規模な住宅団地」という見出しで、その後多摩ニュータウン計画に組み込まれて第一次入居が行われることになる諏訪団地・永山団地の開発計画が報道されていた。他社も京王の免許申請に呼応して同様のルートで、小田急電鉄は喜多見駅から分岐、西武鉄道は多摩川線を延長する形で免許申請を行った。そして1965年、地方からの人口流入による東京の緊急的な住宅不足に対応するため、多摩ニュータウンが都市計画決定された。現在、多摩ニュータウンでは全面買収による新住宅市街地開発事業とともに、従来からの地権者が換地を受ける土地区画整理事業が行われているが、この時点では、全面的に新住宅市街地開発事業による開発だけが行われることになっていた。このため、前述した京王の新しい住宅地開発の構想はここで諦めざるを得ず、京王は高尾線の建設と「めじろ台住宅地」の開発を進めることになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "京王と小田急が申請した免許は、現在の京王よみうりランド駅付近で両社の新線が入り混じるため、この区間の調整が問題になった。京王側が新線を北側に移すにも用地の問題があり、小田急側が南側に移すにも三沢川を避けねばならず、起伏が多くトンネルが増えるという問題があった。両社の調整が難航していたため、運輸省は両社が競合しない区間のみ免許を下し、京王は京王多摩川 - 京王稲田堤、小田急は喜多見 - 稲城本町について免許を受けることとなった。その後、小田急側が新百合ヶ丘駅を新設してそこから分岐する現在の形に計画を変更し、新たに百合ヶ丘 - 多摩の免許申請を行うと同時に、得た免許の営業廃止許可を申請することでこの問題は解決した。これにより小田急は新たに申請した免許を受け、京王も残りの区間について免許を受けた。西武については、多摩川線を延伸する計画が中央線に負担をかけるという理由で免許は下りなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、多摩ニュータウン計画が具体化してきたことから、多摩ニュータウン側と京王、小田急とで協議が行われた。多摩市内の区間について、ニュータウン側は京王と小田急の両社に、どちらか一方が(乞田川沿いの)谷戸部、もう一方が尾根幹線道路を通るように提案していたが、両社とも谷戸部を通るとして譲らなかった。このことからニュータウン側の担当者は、土地区画整理事業の減歩率を下げたいという思惑から、3本レールにしてレール幅の違う両社の車両が同じ線路を走ることを提案したが、小田急の担当者に「箱根鉄道みたいにチンタラ走るわけにはいかない」と笑われたという。こうして多摩市内では現在の京王線と小田急線の線路が並ぶ形に決まった。また当時京王は、中央線との高速運転競争を繰り広げていたことに加え、新宿から河口湖までの「超特急」の構想を描いていたことから、相模原線はニュータウン区域内についても高規格な、カーブは最小曲率半径1000メートル以上を確保できるようにニュータウン側に要求した。同様に小田急側も在来区間よりも高規格な最小曲率半径800メートル以上を要求した。協議では他にも、鉄道会社側とニュータウン側との費用負担についても話し合われたが、これがなかなかまとまらなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "費用負担についてまとまらないまま、1968年に京王の新線建設が始まった。1971年に京王多摩川駅 - 京王よみうりランド駅間が開業し、合わせて線名も多摩川支線から現在の「相模原線」となった。この区間は用地買収に地元が協力的であったこと、区間が短いこともあり、京王帝都の自己資金で順調に工事が進んだ。開業後の輸送状況も好調であったことから、経営面でも負担にはならなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、京王よみうりランド駅から先の建設は進まなかった。当時の新聞に掲載されたところによると、多摩ニュータウンからのラッシュ時の輸送には、調布 - 新宿間を複々線化する必要があり、相模原線の建設費用410億円にあわせ複々線化の費用が数百億円も掛かるとされ、京王は採算が取れないとしていたためであった。また、多摩ニュータウン内では開発者以外の不動産事業が制限され、住宅の販売益で建設費用を賄うこともできないともしていた。小田急側も同じ言い分で多摩線の建設をストップしており、そんななかニュータウンの住民はバスで2km以上先の聖蹟桜ヶ丘駅に出るなどを余儀なくされていた。京王は東京都に対し、(1)鉄道用地の無償提供 (2)高架、橋りょうなどの付帯工事費の補助 (3)在来線改良事業への補助 を要求したが、都は「民間企業である私鉄へ用地を無償提供する考えは無い」とした。最終的には、日本鉄道建設公団が民鉄線を建設し、完成後に民鉄が25年で元利を償還する方策がとられた。いわゆるP線方式(公団民鉄線方式)の始まりである。これにより両線の工事は再開され、まず小田急が1974年6月に小田急永山駅まで、用地買収とオイルショックで工事が難航した京王も半年後の同年10月に京王多摩センター駅まで開業し、小田急も翌1975年に小田急多摩センター駅に到達した。",
"title": "歴史"
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"text": "京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間が開業した1974年当時、京王は次の各駅の乗降人員数を以下のように予測していた。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、実際に開業してみると、以下のような結果となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "つまり、予測に対して5割増しとなった京王永山駅以外はほぼ半分という状況で、京王の社内ではこれが問題となり、多摩ニュータウン側に苦情を申し入れた。これには多摩ニュータウン開発の遅れが影響していて、当時入居が進んでいたのは、永山駅に近接した諏訪団地と永山団地だけといった状況であり、多摩ニュータウンの人口は3万人に過ぎなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "多摩ニュータウン開発の遅れの原因としては、まず、第一次入居の直後に多摩市が、多摩ニュータウン側との小学校や中学校等の公共施設の費用負担の問題から、多摩ニュータウンの住宅建設の許可を出さず、住宅建設が中止されていたということがあった。結局これは東京都が事実上、学校の土地・建物の費用を多摩市に対して無償で負担するということで解決し、第二次入居にこぎつけることになった。しかし、この最中にオイルショックが起き、開発の遅れのもう一つの原因となっただけでなく、多摩ニュータウン計画そのものを変えてしまった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1973年のオイルショックは日本経済を直撃し、高度成長期は終焉した。旺盛だった大都市への人口流入は沈静化し、それにより住宅需要も急速に冷え込んだ。第二次入居を始めた多摩ニュータウンでも、住宅不足を解決するための画一的な仕様・デザインの住宅は販売不振におちいり、入居がなかなか進まなかった。これをきっかけに多摩ニュータウンは、従来の「少しでも早く安く、計画的な良好な都市を大規模に提供する」という計画から、「時間をかけて理想的な都市を作る」という計画に転換し、多彩でデザイン性に優れた住宅が供給されていくことになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、開業当時、京王永山駅および京王多摩センター駅では、当時の初乗り運賃である40円区間の乗車券の売れ行きが異常に多いと共に、その乗車券が回収されないという事態が発生した。これを不思議に思った電鉄側が車内検札を行ったところ、多くの利用客が新宿 - 聖蹟桜ヶ丘などの定期券を持っていた。相模原線が多摩ニュータウンへ乗り入れるまでは、多くの住民は聖蹟桜ヶ丘駅から京王線に乗っていたため、その定期券を悪用してキセルをしていたのであった。当時は自動改札機も導入されておらず、乗車券類は紙製のものであり、フェアスルーシステムもなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "相模原線の建設(新線の建設)は、経営に大きな問題を生じさせる結果にもなった。これは、路線免許申請時の1963年(昭和38年)時点では十分に採算が採れると予想されていたものが、その後10年間の社会情勢の変化により、不採算路線に変化してしまったためである。具体的には、前述のように多摩ニュータウンの入居人口が予想より少なかったこと、低廉な運賃水準では巨額の建設資金の回収ができなかったことに加えて、当初予想を大きく上回る建設費用・人件費などの上昇が原因である。1963年(昭和38年)頃、多摩ニュータウンが計画された当時の相模原線全線(調布 - 相模中野間29.4 km・車両費を含む)の建設費用は約110億円と想定されていたが、度重なる物価の上昇により1971年(昭和46年)時点で、橋本までの建設費用で300億円を超えることが想定されていた。実際、京王よみうりランド - 京王多摩センター間9.8 kmの建設費用は236億円(車両費を含まず)まで大きく膨れ上がってしまった(資料によっては建設費用を約278億円とするものもあり、このうち京王の負担額は166億円とされている)。このようなコスト増大が、その後、相模中野までの延長が断念された一因になっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "1980年代に入ると、多摩ニュータウンでは西部地区にも開発が進展し、多摩ニュータウンの人口は1980年に6万人だったものが、1987年には10万人に達した。多摩センター駅周辺で開発が進むなか、西部地区でも開発が進んで1983年に八王子市南大沢で入居が始まった。西部地区での鉄道開通前には、住民の足として南大沢から多摩センター駅までのバス路線が暫定的に運行された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "延伸にあたっては、現在の京王多摩センター駅と京王堀之内駅の間にあるゴルフ場「府中カントリークラブ」の敷地内を通過するため、問題が生じていた。工事着工にあたりクラブ側に補償金5億円を提示したが拒否され、10億8,800万円まで引き上げるほか、地下に長さ500メートルのトンネルを建設し、13・14番ホールの中間で地表に出る設計を提示して交渉にあたった。しかしクラブ側は、(1)13・14番ホールは地表に出る部分を隠すために土盛りや芝生植え替えなど大幅なコース改造が必要 (2)工事期間中、ビジター料金収入が大きく減少する として補償金のさらなる引き上げを求めた。ルート変更も困難であったことから、京王と日本鉄道建設公団は強制収用の準備にかかったが、最終的には、トンネル出口部分を短縮し、コースレイアウトの変更を行うことでクラブ側とは同意に至り、補償金10億8800万円で和解し、1986年10月1日に「多摩センター第一トンネル」として着工、翌1987年に完成した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この問題の解決により延伸計画は前進し、1987年3月に橋本駅まで一気に開業する予定で計画が進められたが、今度は橋本駅付近で土地取得が難航した。橋本駅の終端部分と入口部分の地権者が買収を頑なに拒んでいたのである。一方で入居が進む多摩ニュータウン西部地区ではその足の確保が急務となっていたことから、1988年5月21日に京王多摩センター駅 - 南大沢駅間が開業した。これにより、南大沢から多摩センター駅への暫定的なバス路線の運行は終了した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "橋本駅周辺の土地取得の問題は土地収用法の適用をもって解決し、1990年3月30日に南大沢駅 - 橋本駅間が開業し、相模原線は全通した。1968年の工事着工から22年目のことだった。翌年には快速列車が橋本駅から都営新宿線の本八幡駅までの直通運転を始め、神奈川県北部から千葉県を結ぶ東西の大動脈となった。これにより都心への玄関口となった橋本駅の乗降人員は、1990年から1997年にかけて2倍に増えた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "橋本駅まで開通した翌年の1991年4月6日には、多摩境駅が開業した。多摩境駅は地元からの「請願駅」として設置され京王の負担を極力抑えている。多摩境駅の周辺は「多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業」が施行されているが、京王と小田急は施行区域内を先行買収しており、多くの土地を所有していた。この地域では開発より前から土地を売りたいとする地権者が多く、多摩ニュータウン側から土地を買うように要請を受けてのことだった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお、多摩境駅の開業が全線開業より後になったのは理由があった。ニュータウン新線において建設費などに補助金が出るのはニュータウンの範囲内だけでなく、ニュータウンの範囲外でもニュータウン居住者が利用する場合において、ニュータウンの範囲の次の駅までが補助金の対象になる取り決めになっている。多摩境駅は多摩ニュータウン区域内にあるものの、当初は事業認可未了となっている区域であったため、この取り決めにおけるニュータウンの範囲として扱うのは難しかった。つまり、そのまま橋本駅と多摩境駅を同時に建設すると、多摩境駅がニュータウンの範囲の次の駅として扱われてしまうことから、橋本駅までの補助金が出ないことになってしまうのである。そのため、ニュータウンの範囲の次の駅を終点の橋本駅にして、橋本駅までの建設に補助金を当てようとしたためであった(同じような事例が過去にも北大阪急行緑地公園駅にあった)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "橋本より先の橋本 - 相模中野間については、用地の取得が難しいことや用地費、工事費の高騰などにより、京王単独での建設が非常に困難であるとして、1988年3月に京王は免許を返上した。したがって、津久井湖までの延伸はかなわず、相模原線は多摩ニュータウン住民や相模原市民の足として定着することになった。多摩境駅の開業をもって、若葉台駅から多摩境駅にかけての多摩ニュータウン内の全駅開業となり、1991年の多摩境駅開業時に15万人だった多摩ニュータウンの人口は、13年後の2004年に20万人を突破した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "なお、相模原線の建設費用に充てるため、京王多摩川 - 橋本間には、基本運賃に加えて乗車キロに応じた10円 - 80円の加算運賃が設定されていたが、相模原線建設事業費の回収が進捗しているとして、2018年(平成30年)3月17日に加算運賃の改定が行われた。その際に、京王多摩川 - 京王多摩センター間は加算運賃が廃止されたほか、残りの京王多摩センター - 橋本間の加算運賃が引き下げられた。その後、2019年(令和元年)10月1日には再度の改定により京王多摩センター - 多摩境間の加算運賃が廃止され、残った京王稲田堤以遠 - 橋本間利用時の加算運賃についても、2023年(令和5年)10月1日の運賃改定に合わせ廃止となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "都営地下鉄新宿線 - 京王線 - 相模原線(本八幡駅 - 橋本駅間)は、都市交通審議会答申第10号で「10号線」として位置付けられていることもあり、1980年3月から相互直通運転を実施している。当初、京王電鉄の車両が主に快速として都営新宿線岩本町駅 - 相模原線京王多摩センター駅間、都営地下鉄の車両が都営新宿線 - 京王線笹塚駅間で運行されていたが、順次その範囲は拡大され、現在は京王・都営地下鉄の車両とも全区間を運行している。今は相模原線だけでなく京王線方面でも都営新宿線への乗り入れ運転を実施している。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1992年5月には京王線新宿駅 - 橋本駅間の特急が設定されたが、相模原線内での停車駅が調布駅・京王多摩センター駅・橋本駅と少なく、調布駅での各駅停車への接続廃止後は相模原線の特急通過駅では使いにくい上、新宿駅 - 調布駅間では急行の後追い運転であり京王線系統の特急よりも所要時間がかかることもあって、2001年3月のダイヤ改定で一度廃止され、代わりに急行が設定された。急行は、特急の相模原線内の停車駅に京王稲田堤駅・京王永山駅・南大沢駅を追加し、都営新宿線の急行と結んで本八幡駅 - 橋本駅(一部を除く)間の運転とした。これにより京王稲田堤駅・京王永山駅・南大沢駅を通過する営業列車は消滅した。またこのダイヤ改正から急行・快速は、調布駅で京王線系統の特急・準特急と接続し、乗り換えた場合は明大前駅・新宿駅との所要時間が短縮された。2013年2月22日のダイヤ改定より特急が復活し、相模原線内の停車駅が急行と同じになった。",
"title": "運転"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "2015年9月25日より京王線新宿駅 - 橋本駅間の準特急が設定された。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2018年2月22日より京王線新宿駅 - 橋本駅間の下り方向に、初の座席指定列車である京王ライナーが設定された。",
"title": "運転"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "かつては列車の車両数を調節するため、朝のラッシュ後と夕方のラッシュ前の時間帯を中心に若葉台駅で車両交換を行う列車があったが、2006年9月以降は若葉台駅を行き先として表示するようになったため、このような車両交換はなくなった(車両故障時などは除く)。車両交換の案内は、相模原線内での車内放送のほか電光行先案内板の備考(2005年3月25日時点では電光行先案内板のあった京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅・橋本駅のみ)に表示されていた。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ改正で準特急が特急に統合される形で廃止された。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "京王線新宿駅 - 橋本駅間で運行される座席指定列車。2018年2月22日実施のダイヤ改正から下り方向のみで運転を開始し、2019年2月22日実施のダイヤ改正からは上り列車京王線新宿行きの運行も開始された。途中停車駅は、京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、相模原線内の京王永山駅以西は特急・準特急・急行と同じ停車駅となるが、京王線新宿駅・明大前駅 - 京王永山駅間は全て通過する。車両は全て京王電鉄5000系のみで運転されている。橋本発新宿行きは、平日朝5時 - 8時台に5本が、土休日朝7時台に1本がそれぞれ運転される。新宿発橋本行きは、平日は16時40分発から17時40分発・18時20分発から23時20分発まで、土曜・休日は16時20分発から23時00分発まで約1時間間隔の運転となる。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "乗車には座席指定券410円が必要となるが、下り列車については京王永山駅以遠の停車駅から乗車する場合は座席指定券無しでそのまま乗車できる。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2013年2月22日のダイヤ改定から京王線新宿駅 - 橋本駅間で運転を復活した種別で、相模原線特急としては実質2代目である。2001年の初代特急廃止後、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議は相模原線の特急の復活を要求しており、2013年に12年ぶりに復活することになったものである。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "途中停車駅は、笹塚駅・明大前駅・千歳烏山駅・調布駅・京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、相模原線内は急行と同じ停車駅となる。京王電鉄の車両のみで運転されている。京王線新宿駅 - 橋本駅間の運転が基本だが、日中は京王多摩センター駅 - 橋本駅間では各駅停車として運転されている。また、平日朝には京王多摩センター発京王線新宿行も設定されている。2020年10月30日のダイヤ修正で平日は新宿発が朝2本(京王多摩センター行・橋本行の各1本)に削減され、夕方での設定も無くなった。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2019年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停へ変更する列車が設定された。(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う。)",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日ダイヤ改正では準特急と統合され、京王線内の停車駅に笹塚・千歳烏山が追加されたほか、今まで準特急として運転されていた列車が特急に置き換わり、日中時間帯は全ての列車が京王多摩センター駅を境に種別を各停に変更するようになった。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "平日は朝と夕方のみの運転で、都営新宿線 - 橋本駅間と京王線新宿駅 - 橋本駅間の2区間で設定されている。その他にも都営新宿線 - 京王多摩センター駅間や、京王線新宿発京王多摩センター行も設定されている。2015年9月25日のダイヤ改正より、日中は代わりに準特急が運転されている。土休日は夕方に上り1本のみ橋本発本八幡行が設定されており、京王相模原線 - 京王線 - 京王新線 - 都営新宿線の全区間を急行として運転する唯一の列車である。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2013年2月21日のダイヤ改定前は、かつて相模原線急行の多くが20分間隔で、京王線・京王新線経由で都営新宿線本八幡駅(土曜・休日ダイヤの一部は大島駅)まで直通運行されていた。朝のラッシュ時と平日夕方の京王線新宿 - 橋本駅間の列車は主に10両編成。都営新宿線直通も2006年9月のダイヤ改定後は、朝の一部列車に都営車8両が使用される以外は10両編成で運行。京王閣競輪開催時には、京王多摩川駅に臨時停車していた。また、平日の朝ラッシュ時および夕方には、京王線内のみ急行で都営新宿線内は各駅停車として運行、平日の夕方以降には調布駅 - 橋本駅間は急行、京王線・都営新宿線の本八幡駅 - 調布駅間は快速として運転される列車もあった。また、朝と夕方から夜間には、京王線新宿駅発着の急行も運行されていた。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "かつては都営新宿線内各駅停車の急行の場合、上り列車の行先・種別表示は京王線内では「急行 新線新宿」(都営10-000形は「急行 新宿」)と表示、下り列車は都営新宿線内では「各停 橋本」(10-000形では種別表示はない)、駅の発車案内板には「普通 橋本」と表示された。かつて6000系では誤乗防止の観点から京王新線・都営新宿線方面行は、緑地の方向幕で表示されていた。そのため7000系の方向幕車では緑地で表示される(7721-7725FではそれらがすべてLED式に更新されている)。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2018年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停に変更する列車が設定された(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う)。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2013年2月22日のダイヤ改定で、通勤快速から改称された。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車があり、前者は平日の日中と土曜・休日のほぼ終日にわたり20分間隔で運転、後者は平日の朝と深夜の下り・土休日の朝と夕方のみ運転される。上りは橋本発のほかに京王多摩センター発・深夜の桜上水行があり、下りは橋本行と京王多摩センター行がある。現在のダイヤでは、都営新宿線 - 橋本駅間の設定のほかに、京王線新宿駅 - 橋本駅間、京王線新宿発京王多摩センター行、橋本・若葉台発桜上水行も設定されている。京王線新宿発着・都営新宿線直通ともに多くの列車が10両編成で運行される。日中は調布駅で府中方面の準特急と連絡し、京王多摩センター駅で各駅停車橋本行(京王多摩センターまで特急)に接続する。2020年2月22日のダイヤ改正で平日日中の準特急の一部が京王多摩センター駅 - 橋本駅間で各駅停車となったため、京王多摩センター駅で折り返す列車も設定されるようになった。2022年3月12日のダイヤ改正では平日・休日ともに準特急と統合した特急の日中に運転される全列車が京王多摩センター駅 - 橋本駅間で各駅停車となったため、それに合わせて区間急行も日中の全列車が京王多摩センターで折り返すように変更された。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2022年現在では午前は下りの一部列車が、午後は上りの一部列車が都営新宿線内急行で運転されている。以前は、相模原線を含む京王線内では、京王車は『区急|新線新宿』→『新線新宿から急行本八幡行(もしくは急行大島行)』→『都営新宿線直通』といった形で切り替えて表示していた。都営車では切り替え表示機能が無いため、『区急(区間急行)|(新線)新宿』と固定表示された。いずれも新線新宿駅到着時に『急行|本八幡』と表示を変更する。 そのほかの列車は快速と同じく都営新宿線内は各駅停車で運転されている。この場合、例えば本八幡行では京王線内で『区急(快速)|本八幡』と表示し、新線新宿駅到着時には『各停|本八幡』に変更される。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "京王多摩川 - 京王よみうりランド駅間開業前の多摩川支線時代より運行されていたが、相模原線内は各駅に停車していた。1974年10月18日の京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間の開業時から1992年5月28日の初代特急運転開始時までは相模原線内でも快速運転をしていた(設定当時の停車駅は調布駅・京王多摩川駅・京王稲田堤駅・京王よみうりランド駅・京王永山駅・京王多摩センター駅)。1988年5月21日の京王多摩センター駅 - 南大沢駅間開業時は、快速は京王多摩センター駅発着、通勤快速は南大沢駅発着で、1990年3月30日に運転区間が橋本駅まで延長された後、1991年4月6日から南大沢駅が停車駅に加わった。特急の運転開始後は、現行の相模原線内各駅停車に改められている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2013年2月21日までの日中・深夜と土曜・休日の深夜は京王線新宿駅発着で運行され、土曜・休日の朝と夕方以降は都営新宿線に直通し、大島駅・本八幡駅発着で運転されていた。このほか、平日の夕方以降には相模原線内急行・京王線内快速という列車もあった。基本は橋本駅発着だが、一部に若葉台駅・京王多摩センター駅発着もあり、一部の若葉台駅発着を除いて、橋本駅発着の各停との接続が行われていた。また2012年8月19日の調布駅地下化によるダイヤ改定により、早朝時間帯に若葉台発快速つつじヶ丘行が登場した。調布駅での折り返しができなくなったことに伴い、この列車は折り返し設備のあるつつじヶ丘駅まで営業運転して、到着後はそのまま調布方面へ回送として折り返す。また、終点のつつじヶ丘駅では後続の新宿行の快速・通勤快速に接続していた。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2013年2月22日のダイヤ改定では、主に調布駅で、橋本駅発着の特急と接続する京王線新宿駅発着列車が中心となり、都営新宿線直通列車は大幅に本数が減らされた。早朝と夜間以降には、下りの京王多摩センター行、上りの桜上水行・つつじヶ丘行もあった。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2015年9月25日改正のダイヤでは、都営新宿線 - 橋本駅間が設定されたが、土休日のみ京王線新宿発橋本行も設定された。また、都営新宿線 - 若葉台・京王多摩センター駅間、橋本発つつじヶ丘行も設定されていた。現在では、京王線新宿発着のほぼ全ての列車と都営新宿線直通の全列車が10両編成で運行される。日中は調布駅で府中方面の特急と連絡する。相模原線内は特急に抜かれることなく先着する。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "かつては、都営車8両による運転もあった。つつじヶ丘駅行きの電車も運行中である。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "※急行、快速(通勤快速)の京王線内の停車駅は、京王線の記事中の「駅一覧」を参照。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2013年2月22日のダイヤ改定により、平日は朝夕のみ、土曜・休日は早朝と深夜のみ運転となった。それ以外の時間帯は、相模原線内各駅停車の区間急行・快速が運転され、各駅停車を補完している。2015年9月25日改正のダイヤでは新宿駅 - 橋本駅間の列車が主に設定されているが、その他にも若葉台駅・京王多摩センター駅発着も設定されている。また、都営新宿線発橋本行や橋本始発の本八幡行きも設定されている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "京王多摩センター発橋本行の各停はすべて調布方面から列車と接続している。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2013年2月21日以前は終日設定があり、朝ラッシュ時を中心に新宿方面へ直通する列車も設定された一方、日中以降は大部分が相模原線内の区間で折り返し運転を行なっていた。相模原線内のみの列車は、調布駅で上りは京王八王子方面からの、下りは京王八王子方面行の各駅停車と接続を取っていた。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、2006年9月のダイヤ改定までは日中を中心に6両編成での運転があったが、この改定以降、日中は都営新宿線直通列車に10両編成の京王電鉄の車両が重用されたことによる距離調整のため、都営地下鉄の車両による8両編成での運転となり、6両編成での運転がなくなった。このため、主に相模原線内列車のみの運用に使われていた6000系5扉車の6721Fは運用を離脱した。2010年3月19日のダイヤ修正では日中の列車はすべて10両編成化され、都営地下鉄の車両を含む8両編成は夕方以降に見られるようになった。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "相模原線内運転の列車は、調布駅付近の地下化以前は、調布駅にて本線上を利用して折り返しが行われていた。2012年8月19日の調布駅付近地下化以降はつつじヶ丘駅まで一度回送して、つつじヶ丘駅構内で折り返していた。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2018年2月22日ダイヤ改正より、一部の準特急及び急行は京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更する列車が設定された。2019年2月22日ダイヤ改正より、一部の特急にも京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更する列車が設定された。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日ダイヤ改正より日中に運転される特急の全列車と一部の急行が京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更するようになった。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日現在のダイヤで日中1時間あたりの運行本数は、以下のようになっている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1992年5月28日 - 2001年3月26日の間に運転されていた。当時はほとんどの列車が京王線内では急行を追尾するダイヤとなっていたため、京王線新宿駅 - 調布駅間の所要時間は急行と大差なかったが、京王多摩センター駅で先行する快速を追い抜いて、(設定当初の下りのみ調布駅でも後続の各停に接続)通過する各駅へのフォローも行い、相模原線の主力種別であった。相模原線内では京王多摩センター駅以外の途中駅は、すべて通過となっていた。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1992年以前にも京王多摩川駅を最寄りとする京王閣競輪開催時には、レース終了後に京王多摩川発京王線新宿行の特急が運転されていた(車両は、1984年以前は京王よみうりランド駅折り返し、京王よみうりランド駅 - 京王多摩川駅間は回送運転、1984年以降は若葉台駅出庫で京王多摩川駅までは回送運転とされていた)。なお、1992年5月以降は競輪終了時に上り特急の一部列車を京王多摩川駅に臨時停車させることで、利用客への便宜を図っていた。この臨時停車は現在の特急にも引き継がれている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2013年2月22日ダイヤ改定まで運転されていた種別。平日朝ラッシュ時および深夜時間帯下りのみ運転となっていた。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車がある。上りには橋本発のほかに京王多摩センター始発があり、下りは橋本行き、京王多摩センター行き、若葉台行きがあった。多くは10両編成だが、平日朝の都営新宿線直通には都営車8両編成も使用されていた。同ダイヤ改定で区間急行に改称されて消滅した。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2015年9月25日ダイヤ改正で新設された。途中停車駅は、笹塚駅・明大前駅・千歳烏山駅・調布駅・京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、現在の特急停車駅と同じである。京王線新宿駅 - 橋本駅間の運転が基本で、平日朝に京王線新宿発京王多摩センター行も設定されていた。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2018年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停へ変更する列車が設定された(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う)。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ改正で特急に統合される形で廃止された(実質的には特急が廃止され、準特急を特急に改名した)。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "平日朝7:30 - 9:30に京王線新宿駅または新線新宿駅に到着する上り特急・急行・区間急行および都営新宿線直通電車の進行方向先頭(本八幡寄り)車両が女性専用車になる。実施区間は新宿線本八幡方向を含めた全区間で、この時間に運転される特急・急行・区間急行および都営新宿線直通はいずれも京王車の10両編成で運行されるが、運用の乱れによって8両編成が充当される場合は設定されない。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "◇印の臨時停車の解説",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "稲城駅 - 若葉台駅間の中間地点付近に、沿線の稲城市坂浜・平尾地区の土地区画整備の一環として坂浜新駅(仮称)を設置する構想があるが採算性が見込めず実現には至っていない。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "稲城市では、稲城駅に急行を停車させる政策を掲げ、京王電鉄に働きかけを行っている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "橋本駅南口付近にリニア中央新幹線の新駅が設置されることを受けて、相模原市は橋本駅南口地区の約13.7haの土地区画整理事業を京王線橋本駅移設を前提に行うことを決定した。2022年(令和4年)に相模原市が発表した資料によると、JR橋本駅とリニア新駅の間に交通広場などを設けて、京王線橋本駅を現在の位置より神奈川県側に移設することが検討されている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "京王多摩川 - 橋本間は、開通が1970年代以降と比較的新しいため、カーブが従来線より少ない。調布駅周辺の地下化工事の完了後は全線に渡って踏切が存在しない。",
"title": "付記"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "以前は調布駅で相模原線と京王線は相模原線上り線と京王線下り線が平面交差していたため同駅がダイヤ設定上のボトルネックとなっていたが前述の通り国領 - 西調布・京王多摩川間の地下化工事が完了し、調布駅は地下2層構造のホームとなり、ボトルネックが解消された。",
"title": "付記"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "京王永山 - 京王多摩センター間は小田急多摩線と併走する。小田原線の線路容量が逼迫していた小田急は、多摩線直通列車をほとんど設定していなかったために、多摩ニュータウンから都心への旅客輸送は京王がメインルートとなっていた時代が長かったが、その後の小田原線の複々線化の進捗に応じて多摩線から都心へ直通する速達列車を充実させ、競争力を高めた。",
"title": "付記"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "上述の路線免許申請により、橋本駅は相模中野方面への延伸を前提とした構造になっていて、延伸先の路線用地も所々に確保されていた。だがその後、延伸予定区間の路線免許は失効し、路線用地の多くは地元不動産会社に放出され、宅地開発された。中規模程度までではあるがマンション等の建造物も建てられたことから、現在の線路をそのまま延ばす形での相模中野方面への延伸は難しいと見られており、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議の要望書に対して、京王は上下分離方式での延伸に含みを残すものの「単独での建設はきわめて困難」と回答している。",
"title": "付記"
}
] |
相模原線(さがみはらせん)は、東京都調布市の調布駅から神奈川県相模原市緑区の橋本駅までを結ぶ、京王電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:KeioRailway logo.svg|38px|京王電鉄|link=京王電鉄]] 相模原線
|路線色=#dd0077
|ロゴ=File:Number prefix Keio-line.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Keio 5734 Extra Semi Express 20190202.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[京王5000系電車 (2代)|5000系]]による区間急行<br>(2019年2月2日 京王永山駅)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[神奈川県]]
|起点=[[調布駅]]
|終点=[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]
|駅数=12駅
|路線記号=KO
|開業=[[1916年]][[6月1日]]
|最終延伸=[[1990年]][[3月30日]]<!--<br>(最終駅設置は[[1991年]][[4月6日]])-->
|休止=
|廃止=
|所有者=[[京王電鉄]]
|運営者=京王電鉄
|車両基地=[[若葉台検車区]]
|使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離=22.6 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,372 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最大勾配 = 35 [[パーミル|‰]]<ref name="SUBWAY2009-9">日本地下鉄協会『SUBWAY』レポート1「京王線調布駅付近連続立体交差(地下化)工事の概要」pp.10 - 14。</ref>
|最小曲線半径 = 160 m<ref name="SUBWAY2009-9"/>
|閉塞方式=速度制御式
|保安装置=京王[[自動列車制御装置|ATC]]
|最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図=[[File:Keio Corporation Linemap.svg|300px]]
}}
'''相模原線'''(さがみはらせん)は、[[東京都]][[調布市]]の[[調布駅]]から[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]までを結ぶ、[[京王電鉄]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KO'''。
== 概要 ==
[[京王線]]、[[京王井の頭線|井の頭線]]とともに京王電鉄の主要路線であり、京王電鉄の路線では唯一、神奈川県内も沿線とする路線である。東京[[都心]]方面への通勤・通学路線であり、[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]を中心に[[若葉台駅]] - [[多摩境駅]]間に広がる[[多摩ニュータウン]]へのアクセスを[[小田急多摩線]]とともに担っている。ほとんどの列車は調布駅から京王線に直通して東京の[[副都心]]・[[新宿]]と相模原市北部の拠点地域である[[橋本 (相模原市)|橋本]]を結んでいる。
[[快速列車|快速]]や[[列車種別|区間急行]]を中心に[[都営地下鉄新宿線]]と[[直通運転|相互直通運転]]をする列車も多く設定されている。[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]] - 京王多摩センター駅間は小田急多摩線と完全に並走しており、[[新宿駅]] - 京王永山駅・京王多摩センター駅間で小田急と競合関係にある。全線が高架または地下化されており踏切は存在しない。終点の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]は将来的に[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]の[[神奈川県駅]](仮称)が設置される予定である。
=== 路線データ ===
* 路線距離:22.6 km
* [[軌間]]:1,372 mm
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1,500 V)
* 保安装置:京王[[自動列車制御装置|ATC]]、速度制御式
* 最高速度:110 km/h<ref name="terada" />
* 最急勾配:35 ‰<ref name="SUBWAY2009-9"/>
* 最小曲線半径:160 m<ref name="SUBWAY2009-9"/>
** 現在の最急勾配・最小曲線は調布駅付近地下化工事でできたものであり、これを除いた最急勾配は稲城 - 若葉台間の30 ‰<ref name="itej1975-5">運輸調査局『運輸と経済』1975年5月号「京王相模原線の建設と経営」pp.50 - 55。</ref>、最小曲線は400 m(京王多摩川付近<ref name="KotsuTech1971-4">交通協力会『交通技術』1971年4月号「京王相模原線の工事について」pp.38 - 41。</ref>・橋本付近の横浜線横断部<ref name="SUBWAY1990-5">日本地下鉄協会『SUBWAY』1990年5月号レポートV「相模原線全線開通 - 南大沢・橋本間4.4km開業により - 」pp.46 - 51。</ref>)
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]、京王よみうりランド - 橋本間)
* 建設費用(本文中に記載する建設費用は、同じ区間でも出典によってバラツキがある)
** 京王多摩川駅 - 京王よみうりランド駅:38億円<ref name="Keio-History50th-228" >京王電鉄『京王電鉄五十年史』p.228。</ref>
** 京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅:232億円<ref name="Keio-History50th-228" />
** 京王多摩センター駅 - 橋本駅:541億円<ref name="Keio-History50th-228" />
== 沿線概況 ==
{{BS-map
|title = 停車場・施設・接続路線
|title-color = white
|title-bg = #dd0077
|collapse = yes
|map =
{{BS4||||tKHSTa|||[[本八幡駅]]}}
{{BS4||||LSTR|||[[都営地下鉄]]:[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]}}
{{BS4|||tKHSTa|O3=HUBaq|tHST|O4=HUBeq|||(左)京王線[[新宿駅]] (右)新線新宿駅}}
{{BS4|||tSTRe|LSTR|O3=POINTERf@gq|||[[京王線]]}}
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{{BS2||HST|||[[笹塚駅]]}}
{{BS2||LSTR|||}}
{{BS2|exSTR+l|eABZgr|||}}
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{{BS2|exLSTR|LSTR|||京王線}}
{{BS2|exBHF|tBHF|0.0|KO18 [[調布駅]]|(II) 1953-}}
{{BS6|exABZq+l|exBHFq|exABZgr|tSTR||||''調布駅''|(I) -1953}}
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{{BS6|exSTRl|exSTRq|exABZql|eABZg+r|||||}}
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{{BS2||hKRZWae+GRZq|||[[多摩川]] ↑[[東京都]] [[神奈川県]]↓}}
{{BS4|||KRZo|BHFq|O4=HUBa|||[[稲田堤駅]] [[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[南武線]]}}
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{{BS2||STR+GRZq|||↑神奈川県 東京都↓}}
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{{BS2|WASSERl|hKRZWae|||三沢川}}
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{{BS4||KDSTaq|ABZgr|STR+l||[[若葉台検車区]]|[[小田急電鉄|小田急]]:[[小田急多摩線|多摩線]]}}
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{{BS4||WASSER+r|BHF|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq|11.4|KO40 [[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]|(右)[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]}}
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{{BS2||TUNNEL2||京王多摩センター第2T|}}
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{{BS4||STR+l|KRZo|ABZq+r|||JR東:[[横浜線]]}}
{{BS4||BHF|O2=HUBaq|KBHFe|O3=HUBeq|STRl|22.6|KO45 [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]|JR東:[[相模線]]}}
{{BS2|STR||||JR東:横浜線}}
}}
=== 調布 - 京王よみうりランド ===
[[調布駅]]を出るとすぐに左に急カーブを切り、南向きに変わる。[[品川通り]]を過ぎると地下から一気に高架に駆け上がり、[[京王多摩川駅]]となる。この先で[[多摩川]]を渡り、[[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]]に入る。JR[[南武線]]を跨ぐところに[[京王稲田堤駅]]がある。駅構内で大きく右カーブし、西に向きを変える。[[多摩丘陵]]の麓に沿うように進み、[[東京都]][[稲城市]]に入って[[京王よみうりランド駅]]となる。
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Chofu South Gate Building.jpg|[[調布駅]]
京王相模原線多摩川鉄橋001.jpg |多摩川の橋梁遠望(京王多摩川駅 - 京王稲田堤駅間)
KeioInadadutumiSt.jpg|[[京王稲田堤駅]]
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=== 京王よみうりランド - 京王多摩センター ===
そのまま西進し[[多摩丘陵]]に差し掛かるところで[[稲城駅]]となり、駅構内で大きく左にカーブして南西に向きを変える。この先でJR[[武蔵野線|武蔵野南線]]の高架をくぐり、丘陵に開かれた谷筋を進んでいく。すると右手には丘陵の上に林立する集合住宅群が見えるが、これは「多摩ニュータウン長峰杜の一番街」という団地で、最初に目にする[[多摩ニュータウン]]の住宅となる。その後、右手に多摩ニュータウンのなかでも特に新しい密集した[[マンション]]群が見えると、西に向きを変えて川崎市[[麻生区]]に入り、[[東京都道・神奈川県道19号町田調布線|鶴川街道]]を跨ぐと2面4線の[[若葉台駅]]である。この先右手に[[若葉台検車区|若葉台工場]]や留置線が見える。上り勾配になり、左手から迫ってくる[[小田急多摩線]]と併走し、若葉台第1トンネル(延長455 m)<ref name="Keio-History50th-235" >京王電鉄『京王電鉄五十年史』p.235。トンネルの延長距離は複線延長に修正している。</ref>で東京都[[多摩市]]に入る。トンネルを抜けると、左手に多摩ニュータウンで最も古い「多摩ニュータウン諏訪団地」を見ながら再びトンネルに入る。この若葉台第2トンネル(延長395 m)<ref name="Keio-History50th-235" />を抜けると、[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]である。駅を出ると西南西に向きを変えて下り勾配となり、すぐに右手には京王が開発した「[[桜ヶ丘 (多摩市)|京王桜ケ丘住宅地]]」が見える。その後、上り勾配となって、2面4線の[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]となる。ここが多摩ニュータウンの中心駅である。
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File:京王相模原線の車窓から見た多摩ニュータウン長峰地区(2021年3月29日撮影).jpg|のどかな風景の背後に林立する多摩ニュータウン長峰地区の団地群(稲城駅 - 若葉台駅間)
Training running on Keio Sagamihara Line.jpg|多摩ニュータウン若葉台地区を走る相模原線(若葉台駅 - 京王永山駅間)。手前は小田急多摩線。
Odakyu-nagayama-station south-exit.JPG|[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]
多摩市内で並走する京王線と小田急線140514.jpg|多摩市内では京王相模原線と小田急多摩線が並走する(京王永山駅 - 京王多摩センター駅間)
OER Tama-Center station.jpg|[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]
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=== 京王多摩センター - 橋本 ===
[[多摩都市モノレール線]]の高架をくぐり、[[小田急多摩線]]を左手に見送って、西北西に向きを変える。上り勾配になり京王多摩センター第1トンネル(延長515 m)<ref name="Keio-History50th-235" />を抜けると東京都[[八王子市]]に入り、京王多摩センター第2トンネル(延長205 m)<ref name="Keio-History50th-235" />を抜けると南西に向きを変えて[[京王堀之内駅]]となる。[[東京都道158号小山乞田線|多摩ニュータウン通り]]沿いに発展した住宅街を右手に見ながら下り勾配、そして上り勾配となって[[南大沢駅]]となる。南大沢駅は[[東京都立大学 (2020-)|東京都立大学]]最寄り駅。ここから掘割となり、京王電鉄の山岳トンネルとしては最長の南大沢トンネル (延長809 m) を抜けると[[多摩境駅]]である。ここで[[多摩丘陵]]を抜け高架となり、[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]を越えて相模原市緑区に入る。平坦な相模原市街地の中をそのまま高架で進み、右カーブしながら[[横浜線]]・[[相模線]]を跨いで[[橋本駅 (神奈川県) |橋本駅]]に到着する。
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ファイル:KTR Minami-osawa station.jpg|[[南大沢駅]]
ファイル:Hashimoto Station Minami Entrance.jpg|alt=|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]
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== 歴史 ==
{{Redirect3|多摩川原支線|「'''多摩川支線'''」とも呼ばれた'''相模原線'''の旧称時代|[[中央本線]]にあった貨物支線の通称「'''多摩川支線'''」|多摩川原駅}}
=== 砂利運搬とレジャー輸送 ===
相模原線は、京王電鉄の前身である京王電気軌道が[[1916年]]に開業させた調布駅 - 多摩川原駅(現・[[京王多摩川駅]])間の多摩川支線(文献により多摩川原支線)に端を発する。当時、多摩川で採取された砂利を都心に運搬するための鉄道、いわゆる[[砂利鉄道]]が何本も敷設されており、多摩川支線もその一つとして開業した。[[1923年]]の[[関東大震災]]により東京の木造・レンガ建築が大被害を受け、その復興でコンクリート建築が急速に普及すると、原料である砂利は莫大な復興需要によりその産出量を急増させた。盗掘を含む余りの採掘は多摩川自体の環境悪化を招き、[[1934年]]に始まった採掘規制は[[第二次世界大戦]]後の戦災復興期による緩和を挟んだ後、[[1964年]]には同線周辺での砂利採取が全面禁止された<ref group="注釈">[[1965年]]には多摩川での砂利採取自体が全面的に禁止された。出典:稲城市ホームページ、「[http://www.city.inagi.tokyo.jp/kanko/rekishi/inagishibunkazai/column/jyarisaikutu.html 多摩川の砂利採掘]」、2013年6月20日付。</ref>。
また、[[1927年]]に京王は多摩川原駅前に[[京王閣]]を開業し、当時では珍しい施設を備えた東京近郊屈指の遊園地として繁栄した。[[1933年]]から[[1936年]]までは多摩川河川敷で花火大会も始められた。戦時色が強くなると徐々に京王閣の客足は減り、食糧増産のために芋畑などにも利用されていた同施設は戦後の[[1947年]]、当時は京王も合併していた[[東京急行電鉄]](大東急)により売却されたが、その敷地の一部には[[1949年]]に[[京王閣競輪場]]が開設された。[[1954年]]には「全国輸出振興煙火競技大会」([[調布市花火大会]]の前身)として河川敷での花火大会が復活し<ref name="chofuhanabi">調布市花火実行委員会サイト、「[http://hanabi.csa.gr.jp/history.html 歴史・ギャラリー]」、2015年5月17日閲覧。</ref>、京王も[[1955年]]に[[京王遊園]]を設置して遊園地事業を再開し<ref>[[1971年]]に閉園。</ref>、[[1956年]]に[[植物園]]である「京王菖蒲園」、[[1961年]]にはこれを改称した「京王百花苑」<ref>[[1993年]]閉鎖。その後[[2002年]]に[[京王フローラルガーデンANGE]]として再開。</ref>も開設して、多摩川支線は1駅間の短距離ながらも多様なレジャー輸送で重要な役割を果たしていた。
=== 多摩ニュータウンへの延伸 ===
[[1958年]]、[[相模原市]]が[[首都圏整備法]]で「開発区域」の指定を受けたことで、同市とその周辺は急速に工業地域、新興住宅地に変貌していった。そのなかで、当時の稲城町、多摩町、町田市、八王子市、相模原市、城山町、津久井町は、「京王帝都新路線建設促進実行委員会」を結成し、現在の相模原線の原型になるようなルートでの新線の建設を京王に強く働きかけた<ref>『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、97ページ。</ref>。一方で京王でも、当時多摩町で開発を進めていた「[[桜ヶ丘 (多摩市)|京王桜ケ丘住宅地]]」をさらに南側に拡大する形で、新たな住宅地開発をするとともに、そこに新線を敷設する構想があった<ref name="vansankan_tetsudou_p14-15">『たまヴァンサンかん街づくり講座 多摩ニュータウン「鉄道計画史研究」』 多摩市立図書館所蔵資料、平成12年発行、14-15ページの京王電鉄関係者の発言より。</ref>。「第二桜ケ丘団地」と呼称されるこの住宅地開発の構想は、現在の[[多摩ニュータウン]]区域内にあたり、後述の理由により実現はしなかったものの、現在の[[多摩センター駅]]付近の「多摩ニュータウン多摩[[土地区画整理事業]]」が施行された場所で買収が進んでいたとされる<ref name="tamant_archive1_p121"/>。
[[1963年]]に京王は、多摩川支線を延長する免許を申請した。それは[[京王多摩川駅]]から[[多摩川]]を渡り、概ね現在の多摩ニュータウン区域を東西に横断して、[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]で[[横浜線]]と交差したのち、[[津久井湖]]の南側の相模中野に至るルートだった<ref name="KotsuTech1971-4"/>(調布 - 橋本間は複線、橋本 - 相模中野間は単線を想定<ref name="KotsuTech1971-4"/>)。この年には「多摩町で大規模な住宅団地」という見出しで、その後多摩ニュータウン計画に組み込まれて第一次入居が行われることになる諏訪団地・永山団地の開発計画が報道されていた<ref>酒井宗一郎『新編・多摩市の郷土史誌(古代〜平成8年)』 多摩市立図書館所蔵資料、平成15年発行、203ページ。</ref>。他社も京王の免許申請に呼応して同様のルートで、[[小田急電鉄]]は[[喜多見駅]]から分岐、[[西武鉄道]]は[[西武多摩川線|多摩川線]]を延長する形で免許申請を行った。そして[[1965年]]、地方からの人口流入による東京の緊急的な住宅不足に対応するため、多摩ニュータウンが都市計画決定された。現在、多摩ニュータウンでは全面買収による[[新住宅市街地開発事業]]とともに、従来からの地権者が[[土地区画整理事業#換地処分|換地]]を受ける土地区画整理事業が行われているが、この時点では、全面的に新住宅市街地開発事業による開発だけが行われることになっていた。このため、前述した京王の新しい住宅地開発の構想はここで諦めざるを得ず、京王は[[京王高尾線|高尾線]]の建設と「めじろ台住宅地」の開発を進めることになった<ref name="vansankan_tetsudou_p14-15"/>。
京王と小田急が申請した免許は、現在の[[京王よみうりランド駅]]付近で両社の新線が入り混じるため、この区間の調整が問題になった。京王側が新線を北側に移すにも用地の問題があり、小田急側が南側に移すにも[[三沢川 (多摩川水系)|三沢川]]を避けねばならず、起伏が多くトンネルが増えるという問題があった。両社の調整が難航していたため、[[運輸省]]は両社が競合しない区間のみ免許を下し、京王は京王多摩川 - 京王稲田堤、小田急は喜多見 - 稲城本町について免許を受けることとなった。その後、小田急側が[[新百合ヶ丘駅]]を新設してそこから分岐する現在の形に計画を変更し、新たに百合ヶ丘 - 多摩の免許申請を行うと同時に、得た免許の営業廃止許可を申請することでこの問題は解決した。これにより小田急は新たに申請した免許を受け、京王も残りの区間について免許を受けた。西武については、多摩川線を延伸する計画が[[中央線快速|中央線]]に負担をかけるという理由で免許は下りなかった<ref>『小田急五十年史』小田急電鉄、昭和55年、489ページ。</ref>。
その後、多摩ニュータウン計画が具体化してきたことから、多摩ニュータウン側と京王、小田急とで協議が行われた。[[多摩市]]内の区間について、ニュータウン側は京王と小田急の両社に、どちらか一方が([[乞田川]]沿いの)[[谷戸]]部、もう一方が[[尾根幹線道路]]を通るように提案していたが、両社とも谷戸部を通るとして譲らなかった。このことからニュータウン側の担当者は、土地区画整理事業の[[土地区画整理事業#減歩|減歩率]]を下げたいという思惑から、[[三線軌条|3本レール]]にしてレール幅の違う両社の車両が同じ線路を走ることを提案したが、小田急の担当者に「[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根鉄道]]みたいにチンタラ走るわけにはいかない」と笑われたという<ref name="tamant_archive1_p121">『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、121ページ。</ref><ref>『たまヴァンサンかん街づくり講座 多摩ニュータウン「鉄道計画史研究」』 多摩市立図書館所蔵資料、平成12年発行、ヒアリング記録27ページ。</ref>。こうして多摩市内では現在の京王線と小田急線の線路が並ぶ形に決まった。また当時京王は、中央線との高速運転競争を繰り広げていたことに加え、新宿から[[河口湖]]までの「超特急」の構想を描いていたことから、相模原線はニュータウン区域内についても高規格な、カーブは最小曲率半径1000メートル以上を確保できるようにニュータウン側に要求した<ref name="tamant_archive1_p125">『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、125ページ。</ref>。同様に小田急側も在来区間よりも高規格な最小曲率半径800メートル以上を要求した<ref name="tamant_archive1_p125"/>。協議では他にも、鉄道会社側とニュータウン側との費用負担についても話し合われたが、これがなかなかまとまらなかった。
費用負担についてまとまらないまま、[[1968年]]に京王の新線建設が始まった<ref group="注釈">なお、この時の京王多摩川駅高架化工事を理由に「全国輸出振興煙火競技大会」が中止され、その後は周辺の宅地化を理由に中断が続いたが、1982年に「[[調布市花火大会]]」として復活した。出典:調布花火大会サイト(上記)。</ref>。[[1971年]]に京王多摩川駅 - 京王よみうりランド駅間が開業し、合わせて線名も多摩川支線から現在の「相模原線」となった。この区間は用地買収に地元が協力的であったこと、区間が短いこともあり、京王帝都の自己資金で順調に工事が進んだ<ref name="itej1975-5"/>。開業後の輸送状況も好調であったことから、経営面でも負担にはならなかった<ref name="itej1975-5"/>。
しかし、京王よみうりランド駅から先の建設は進まなかった。当時の新聞に掲載されたところによると、多摩ニュータウンからのラッシュ時の輸送には、調布 - 新宿間を複々線化する必要があり、相模原線の建設費用410億円にあわせ複々線化の費用が数百億円も掛かるとされ、京王は採算が取れないとしていたためであった<ref name="yomiuri_s460521">読売新聞(昭和46年5月21日)</ref>。また、多摩ニュータウン内では開発者以外の不動産事業が制限され、住宅の販売益で建設費用を賄うこともできないともしていた<ref name="KotsuTech1971-4"/>。小田急側も同じ言い分で多摩線の建設をストップしており、そんななかニュータウンの住民はバスで2km以上先の[[聖蹟桜ヶ丘駅]]に出るなどを余儀なくされていた<ref>『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、169ページ。</ref>。京王は[[東京都]]に対し、(1)鉄道用地の無償提供 (2)高架、橋りょうなどの付帯工事費の補助 (3)在来線改良事業への補助 を要求したが、都は「民間企業である私鉄へ用地を無償提供する考えは無い」とした<ref name="yomiuri_s460521"/>。最終的には、[[日本鉄道建設公団]]が民鉄線を建設し、完成後に民鉄が25年で元利を償還する方策がとられた<ref name="itej1975-5"/>。いわゆる[[日本鉄道建設公団#P線(大都市における民営鉄道)|P線方式(公団民鉄線方式)]]の始まりである。これにより両線の工事は再開され、まず小田急が[[1974年]]6月に[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]まで、用地買収とオイルショックで工事が難航した京王も半年後の同年10月に[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]まで開業し、小田急も翌[[1975年]]に[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]に到達した。
=== 京王多摩センター駅までの開業後の混乱 ===
[[京王よみうりランド駅]] - [[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]間が開業した[[1974年]]当時、京王は次の各駅の乗降人員数を以下のように予測していた。
*[[稲城駅]]:1,915人
*[[若葉台駅]]:422人
*[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]:4,767人
*京王多摩センター駅:3,512人
しかし、実際に開業してみると、以下のような結果となった。
*稲城駅:980人
*若葉台駅:280人
*京王永山駅:7,165人
*京王多摩センター駅:1,394人
つまり、予測に対して5割増しとなった京王永山駅以外はほぼ半分という状況で、京王の社内ではこれが問題となり、[[多摩ニュータウン]]側に苦情を申し入れた。これには多摩ニュータウン開発の遅れが影響していて、当時入居が進んでいたのは、永山駅に近接した諏訪団地と永山団地だけといった状況であり、多摩ニュータウンの人口は3万人に過ぎなかった。
多摩ニュータウン開発の遅れの原因としては、まず、第一次入居の直後に[[多摩市]]が、多摩ニュータウン側との小学校や中学校等の公共施設の費用負担の問題から、多摩ニュータウンの住宅建設の許可を出さず、住宅建設が中止されていたということがあった。結局これは[[東京都]]が事実上、学校の土地・建物の費用を多摩市に対して無償で負担するということで解決し、第二次入居にこぎつけることになった<ref>『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、187ページ。なお、東京都が小中学校の新設費用を無償で負担することになったことで、多摩市内には多くの小中学校が設置された。これらは現在「少子化」ということで廃校が進められ、借地にしたり売却することで新たな土地利用が進んでいるが、ある意味でこの時に多摩市は将来の膨大な資産を無償で手に入れたとも言われている。</ref>。しかし、この最中に[[オイルショック]]が起き、開発の遅れのもう一つの原因となっただけでなく、多摩ニュータウン計画そのものを変えてしまった。
[[1973年]]のオイルショックは日本経済を直撃し、[[高度成長期]]は終焉した。旺盛だった大都市への人口流入は沈静化し、それにより住宅需要も急速に冷え込んだ。第二次入居を始めた多摩ニュータウンでも、住宅不足を解決するための画一的な仕様・デザインの住宅は販売不振におちいり、入居がなかなか進まなかった。これをきっかけに多摩ニュータウンは、従来の「少しでも早く安く、計画的な良好な都市を大規模に提供する」という計画から、「時間をかけて理想的な都市を作る」という計画に転換し、多彩でデザイン性に優れた住宅が供給されていくことになった<ref>北條晃敬『多摩ニュータウン開発の全貌』多摩ニュータウン歴史研究会、2012年、116,175ページ。</ref>。
また、開業当時、京王永山駅および京王多摩センター駅では、当時の初乗り運賃である40円区間の乗車券の売れ行きが異常に多いと共に、その乗車券が回収されないという事態が発生した。これを不思議に思った電鉄側が[[改札#車内改札|車内検札]]を行ったところ、多くの利用客が新宿 - 聖蹟桜ヶ丘などの定期券を持っていた。相模原線が多摩ニュータウンへ乗り入れるまでは、多くの住民は[[聖蹟桜ヶ丘駅]]から京王線に乗っていたため、その定期券を悪用して[[不正乗車#中間無札|キセル]]をしていたのであった。当時は[[自動改札機]]も導入されておらず、乗車券類は紙製のものであり、[[不正乗車#事業者等による対策|フェアスルーシステム]]もなかった。
相模原線の建設(新線の建設)は、経営に大きな問題を生じさせる結果にもなった<ref name="itej1975-5"/>。これは、路線免許申請時の1963年(昭和38年)時点では十分に採算が採れると予想されていたものが、その後10年間の社会情勢の変化により、不採算路線に変化してしまったためである<ref name="itej1975-5"/>。具体的には、前述のように多摩ニュータウンの入居人口が予想より少なかったこと、低廉な運賃水準では巨額の建設資金の回収ができなかったことに加えて、当初予想を大きく上回る建設費用・人件費などの上昇が原因である<ref name="itej1975-5"/>。1963年(昭和38年)頃、多摩ニュータウンが計画された当時の相模原線全線(調布 - 相模中野間29.4 km・車両費を含む)の建設費用は約110億円と想定されていたが、度重なる物価の上昇により1971年(昭和46年)時点で、橋本までの建設費用で300億円を超えることが想定されていた<ref name="KotsuTech1971-4"/>。実際、京王よみうりランド - 京王多摩センター間9.8 kmの建設費用は236億円(車両費を含まず)まで大きく膨れ上がってしまった<ref name="itej1975-5"/>(資料によっては建設費用を約278億円とするものもあり、このうち京王の負担額は166億円とされている<ref name="Keio-History30th-152" >京王帝都電鉄『京王帝都電鐵三十年史』p.152。</ref>)。このようなコスト増大が、その後、相模中野までの延長が断念された一因になっている。
=== 多摩ニュータウン西部地区への延伸 ===
[[1980年代]]に入ると、[[多摩ニュータウン]]では西部地区にも開発が進展し、多摩ニュータウンの人口は[[1980年]]に6万人だったものが、[[1987年]]には10万人に達した<ref name="tamant_jigyoshi_p270"/>。[[多摩センター駅]]周辺で開発が進むなか、西部地区でも開発が進んで[[1983年]]に[[八王子市]]南大沢で入居が始まった。西部地区での鉄道開通前には、住民の足として南大沢から多摩センター駅までのバス路線が暫定的に運行された<ref>『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、98 - 99ページ。</ref>。
延伸にあたっては、現在の[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]と[[京王堀之内駅]]の間にあるゴルフ場「[[府中カントリークラブ]]」<ref name="fuchu_country">府中カントリークラブ公式ページ[http://055fuchuucc.sakura.ne.jp/index.html]、「府中CCの歴史」。同クラブは1958年計画決定、[[1959年]]開業で、その後に周囲が多摩ニュータウン計画地域に指定されていた。</ref>の敷地内を通過するため、問題が生じていた。工事着工にあたりクラブ側に補償金5億円を提示したが拒否され、10億8,800万円まで引き上げるほか、地下に長さ500メートルのトンネルを建設し、13・14番ホールの中間で地表に出る設計を提示して交渉にあたった。しかしクラブ側は、(1)13・14番ホールは地表に出る部分を隠すために土盛りや芝生植え替えなど大幅なコース改造が必要 (2)工事期間中、ビジター料金収入が大きく減少する として補償金のさらなる引き上げを求めた。ルート変更も困難であったことから、京王と日本鉄道建設公団は強制収用の準備にかかったが、最終的には、トンネル出口部分を短縮し、コースレイアウトの変更を行う<ref group="注釈">現在は13番ホール(北側)と14番ホール(南側)の間をトンネルが通り、両ホールのフェアウェイやグリーンにはかからないようになっている。</ref>ことでクラブ側とは同意に至り、補償金10億8800万円で和解し<ref name="kuramochi_sagamiharasen">倉持順一「多摩ニュータウン建設にともなう京王相模原線敷設問題」『多摩ニュータウン研究 No.9 2007』多摩ニュータウン学会、2007年、57-64ページ。</ref>、[[1986年]][[10月1日]]に「多摩センター第一トンネル」として着工、翌1987年に完成した<ref name="fuchu_country"/>。
この問題の解決により延伸計画は前進し、1987年3月に[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]まで一気に開業する予定で計画が進められたが、今度は橋本駅付近で土地取得が難航した。橋本駅の終端部分と入口部分の地権者が買収を頑なに拒んでいたのである。一方で入居が進む多摩ニュータウン西部地区ではその足の確保が急務となっていたことから、[[1988年]][[5月21日]]に京王多摩センター駅 - [[南大沢駅]]間が開業した。これにより、南大沢から多摩センター駅への暫定的なバス路線の運行は終了した<ref name="keio50_p142">『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、142ページ。</ref>。
=== 橋本駅までの開業 ===
[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]周辺の土地取得の問題は[[土地収用法]]の適用をもって解決し、[[1990年]][[3月30日]]に[[南大沢駅]] - 橋本駅間が開業し、相模原線は全通した。[[1968年]]の工事着工から22年目のことだった。翌年には[[快速列車|快速]]列車が橋本駅から[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]の[[本八幡駅]]までの直通運転を始め、[[神奈川県]]北部から[[千葉県]]を結ぶ東西の大動脈となった。これにより都心への玄関口となった橋本駅の乗降人員は、1990年から[[1997年]]にかけて2倍に増えた<ref name="keio50_p142"/>。
橋本駅まで開通した翌年の[[1991年]][[4月6日]]には、[[多摩境駅]]が開業した。多摩境駅は地元からの「[[請願駅]]」として設置され京王の負担を極力抑えている<ref>『多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業誌』東京都、平成17年、19ページ。</ref>。多摩境駅の周辺は「多摩ニュータウン相原・小山[[土地区画整理事業]]」が施行されているが、京王と小田急は施行区域内を先行買収しており、多くの土地を所有していた<ref>『たまヴァンサンかん街づくり講座 語り継ぐ多摩ニュータウンの計画論』 多摩市立図書館所蔵資料、平成9年発行、98ページ。</ref>。この地域では開発より前から土地を売りたいとする地権者が多く、多摩ニュータウン側から土地を買うように要請を受けてのことだった<ref>北條晃敬『多摩ニュータウン開発の全貌』多摩ニュータウン歴史研究会、2012年、204ページ。</ref>。
なお、多摩境駅の開業が全線開業より後になったのは理由があった。[[ニュータウン鉄道|ニュータウン新線]]において建設費などに補助金が出るのはニュータウンの範囲内だけでなく、ニュータウンの範囲外でもニュータウン居住者が利用する場合において、ニュータウンの範囲の次の駅までが補助金の対象になる取り決めになっている。多摩境駅は多摩ニュータウン区域内にあるものの、当初は事業認可未了となっている区域であったため、この取り決めにおけるニュータウンの範囲として扱うのは難しかった。つまり、そのまま橋本駅と多摩境駅を同時に建設すると、多摩境駅がニュータウンの範囲の次の駅として扱われてしまうことから、橋本駅までの補助金が出ないことになってしまうのである。そのため、ニュータウンの範囲の次の駅を終点の橋本駅にして、橋本駅までの建設に補助金を当てようとしたためであった(同じような事例が過去にも[[北大阪急行電鉄南北線|北大阪急行]][[緑地公園駅]]にあった)。
橋本より先の橋本 - 相模中野間については、用地の取得が難しいことや用地費、工事費の高騰などにより、京王単独での建設が非常に困難であるとして、[[1988年]]3月に京王は免許を返上した<ref name="keio50_p142"/>。したがって、[[津久井湖]]までの延伸はかなわず、相模原線は多摩ニュータウン住民や相模原市民の足として定着することになった。多摩境駅の開業をもって、[[若葉台駅]]から多摩境駅にかけての[[多摩ニュータウン]]内の全駅開業となり、1991年の多摩境駅開業時に15万人だった多摩ニュータウンの人口は、13年後の[[2004年]]に20万人を突破した<ref name="tamant_jigyoshi_p270">「多摩ニュータウンの人口・世帯数の推移」『多摩ニュータウン開発事業史-通史編-』UR都市機構、平成18年、270ページ。</ref>。
なお、相模原線の建設費用に充てるため、京王多摩川 - 橋本間には、基本運賃に加えて乗車キロに応じた10円 - 80円の加算運賃が設定されていたが、相模原線建設事業費の回収が進捗しているとして、[[2018年]](平成30年)3月17日に加算運賃の改定が行われた。その際に、京王多摩川 - 京王多摩センター間は加算運賃が廃止されたほか、残りの京王多摩センター - 橋本間の加算運賃が引き下げられた<ref name="nr170830_fare">{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr170830_fare.pdf 相模原線に設定している加算運賃の引下げを実施します]}} - 京王電鉄プレスリリース(2017年8月30日)</ref><ref>[https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr170928v1032/index.html 2018年3月17日(土)改定 相模原線加算運賃の引下げのお知らせ] - 京王電鉄、2017年10月11日</ref><ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO2056442030082017L82000/ 京王相模原線の加算運賃 下げ幅最大で20円に]」『[[日本経済新聞]]』朝刊2017年8月31日(東京面)</ref>。その後、[[2019年]](令和元年)10月1日には再度の改定により京王多摩センター - 多摩境間の加算運賃が廃止され<ref name="nr190312_fare">{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190312_fare.pdf 2019年10月予定 相模原線に設定している加算運賃の引下げを実施します]}} - 京王電鉄プレスリリース(2019年3月12日)</ref><ref name="nr190905_fare">{{PDFlink|1=[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2019/nr190905_fare.pdf#page=8 鉄道運賃の認可および改定について]}} - 京王電鉄プレスリリース(2019年9月5日)</ref>、残った京王稲田堤以遠 - 橋本間利用時の加算運賃についても、[[2023年]](令和5年)10月1日の運賃改定に合わせ廃止となった<ref>{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2023/nr20230623_unchin.pdf 鉄道旅客運賃の改定申請が認可されました~2023年10月1日(日)に運賃改定を実施します~]}} - 京王電鉄、2023年6月23日、2023年7月5日閲覧</ref>。
=== 年表 ===
* [[1916年]]([[大正]]5年)[[6月1日]] - 調布駅 - 多摩川原駅(京王多摩川駅)間(1.0 km)開業。
* [[1924年]](大正13年)[[4月1日]] - 調布駅 - 多摩川原駅間複線化。
* [[1937年]]([[昭和]]12年)[[5月1日]] - 多摩川原駅を京王多摩川駅に改称。
* [[1963年]](昭和38年)[[8月4日]] - 架線電圧を1,500 Vに昇圧。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[1月20日]] - 調布 - 相模中野(津久井湖付近)間の地方鉄道敷設免許を申請<ref name="itej1975-5"/>。
** [[3月18日]] - 運輸省(当時)の指導から、調布 - 京王多摩川間は工事方法変更の認可として、以降の区間は分割して京王多摩川 - 稲城中央(現・稲城駅)間の地方鉄道敷設免許を再申請、[[6月3日]]に免許を取得<ref name="itej1975-5"/>。
* [[1965年]](昭和40年)[[1月19日]] - 稲城中央 - 相模中野間の地方鉄道敷設免許を申請、翌1966年[[7月13日]]に免許を取得<ref name="itej1975-5"/>。
* [[1966年]](昭和41年)[[10月12日]] - 相模原線の建設工事に着手<ref name="Keio-History30th-246" >京王帝都電鉄『京王帝都電鐵三十年史』p.246。</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)4月1日 - 京王多摩川駅 - 京王よみうりランド駅間(2.7 km)開業。路線名を'''相模原線'''に改称。
* [[1972年]](昭和47年)10月 - 日本鉄道建設公団により、 京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅の建設工事に着手<ref name="itej1975-5"/>。
* [[1974年]](昭和49年)[[10月18日]] - 京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間(9.8 km)開業<ref>{{Cite news |和書|title=京王相模原線、きょう開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-10-18 |page=1 }}</ref>。
** 複線開業の予定が、用地買収の難航により開業から数か月間は京王よみうりランド駅 - 稲城駅のうち約30 mは単線運転を行っていた<ref name="Keio-History50th-100" >京王電鉄『京王電鉄五十年史』pp.98 - 100。</ref>。
** 稲城駅 - 若葉台駅間の一部区間で地権者が用地買収に応じず、取得に大きく時間を要したこと、[[オイルショック]]もあり、予定より半年遅れの開業となった<ref name="itej1975-5"/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[12月28日]] - 京王多摩センター駅 - 橋本間の建設工事に着手<ref name="KotsuTech1984-3">交通協力会『交通技術』1984年3月号「京王相模原線京王多摩センター - 橋本間の延伸」pp.20 - 41。</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)[[5月21日]] - 京王多摩センター駅 - 南大沢駅間(4.5 km)暫定開業。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月30日]] - 南大沢駅 - 橋本駅間(4.4 km)開業(全線開通)。
* [[1991年]](平成3年)[[4月6日]] - 南大沢駅 - 橋本駅間に多摩境駅が開業。
* [[1997年]](平成9年)[[12月24日]] - 最高速度を105 km/hから110 km/hに引き上げ<ref>{{Cite journal|和書 |title=1997年12月 京王帝都電鉄ダイヤ改正 |date = 1998-4 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 48 |issue = 4 |pages = 90-91 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[3月26日]] - ATCの使用を開始<ref name="Kyosan2010-7">京三製作所『京三サーキュラー』Vol.61 No.4(平成22年)2010年特集「京王・井の頭線ATCシステム 相模原線使用開始」pp.4 - 7。</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[8月19日]] - 調布駅 - 京王多摩川駅間地下化。これにより、相模原線からすべての踏切がなくなった。
* [[2013年]](平成25年)[[2月22日]] - [[駅ナンバリング]]を導入<ref>{{PDFlink|[http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr130118_numbering.pdf 京王線・井の頭線全駅で「駅ナンバリング」を導入します。]}} - 京王電鉄、2013年1月18日、2013年1月19日閲覧</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[2月28日]] - 若葉台駅 - 多摩境駅間のトンネル内で携帯電話の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2016/nr170222_antenna.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210206094546/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2016/nr170222_antenna.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京王相模原線「若葉台駅〜多摩境駅」区間のトンネル内で携帯電話サービスを提供開始|publisher=京王電鉄/NTTドコモ/KDDI/ソフトバンク|date=2017-02-22|accessdate=2021-02-06|archivedate=2021-02-06}}</ref>。
== 運転 ==
[[都営地下鉄新宿線]] - [[京王線]] - 相模原線([[本八幡駅]] - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]間)は、都市交通審議会答申第10号で「10号線」として位置付けられていることもあり、[[1980年]]3月から[[直通運転|相互直通運転]]を実施している。当初、京王電鉄の車両が主に[[快速列車|快速]]として都営新宿線[[岩本町駅]] - 相模原線[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]間、都営地下鉄の車両が都営新宿線 - 京王線[[笹塚駅]]間で運行されていたが、順次その範囲は拡大され、現在は京王・都営地下鉄の車両とも全区間を運行している。今は相模原線だけでなく[[京王線]]方面でも[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]への乗り入れ運転を実施している。
[[1992年]]5月には[[新宿駅|京王線新宿駅]] - 橋本駅間の[[特別急行列車|特急]]が設定された<ref name="kotsu19920428">{{Cite news |title=相模原線に特急新設 京王帝都、来月ダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-04-28 |page=1 }}</ref>が、相模原線内での停車駅が[[調布駅]]・京王多摩センター駅・橋本駅と少なく、調布駅での[[各駅停車]]への接続廃止後は相模原線の特急通過駅では使いにくい上、新宿駅 - 調布駅間では[[急行列車|急行]]の後追い運転であり京王線系統の特急よりも所要時間がかかることもあって、[[2001年]]3月のダイヤ改定で一度廃止され、代わりに急行が設定された。急行は、特急の相模原線内の停車駅に[[京王稲田堤駅]]・[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]・[[南大沢駅]]を追加し、都営新宿線の急行と結んで本八幡駅 - 橋本駅(一部を除く)間の運転とした。これにより京王稲田堤駅・京王永山駅・南大沢駅を通過する営業列車は消滅した。またこのダイヤ改正から急行・快速は、調布駅で京王線系統の特急・[[準特急]]と接続し、乗り換えた場合は[[明大前駅]]・新宿駅との所要時間が短縮された。[[2013年]][[2月22日]]のダイヤ改定より特急が復活し<ref name="keio2013-2">{{PDFlink|[http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr121105_diagram.pdf 2月22日、京王線・井の頭線のダイヤを刷新します]}} - 京王電鉄、2012年11月5日、2012年11月5日閲覧。</ref>、相模原線内の停車駅が急行と同じになった。
[[2015年]][[9月25日]]より京王線新宿駅 - 橋本駅間の準特急が設定された<ref name="keio2015">{{PDFlink|[http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr150826_timetable20150925.pdf 9月25日(金)に 京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します ~都心方面へのアクセス強化など利便性向上を図ります~]}} - 京王電鉄、2015年8月26日、2015年8月26日閲覧。</ref>。
[[2018年]][[2月22日]]より京王線新宿駅 - 橋本駅間の下り方向に、初の[[ホームライナー|座席指定列車]]である[[京王ライナー]]が設定された<ref name="keio2018">{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf 2月22日(木)始発から 京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します ~京王ライナーの運行開始や、平日朝間時間帯の速達性向上を図ります~]}} - 京王電鉄、2018年1月24日、2018年2月24日閲覧。</ref>。
かつては列車の車両数を調節するため、朝のラッシュ後と夕方のラッシュ前の時間帯を中心に若葉台駅で車両交換を行う列車があったが、[[2006年]]9月以降は[[若葉台駅]]を行き先として表示するようになったため、このような車両交換はなくなった(車両故障時などは除く)。車両交換の案内は、相模原線内での車内放送のほか電光行先案内板の備考(2005年3月25日時点では電光行先案内板のあった京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅・橋本駅のみ)に表示されていた。
[[2022年]][[3月12日]]のダイヤ改正で準特急が特急に統合される形で廃止された<ref name="keio2022">{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20211210_daiya.pdf 京王線 ダイヤ改正を実施します]}} - 京王電鉄、2021年12月10日、2021年12月10日閲覧。</ref>。
=== 運転の歴史 ===
* [[1980年]](昭和55年)[[3月16日]] - 都営新宿線新宿駅 - 岩本町駅間開業。岩本町駅 - 京王多摩センター駅間で相互直通運転開始(都営車は笹塚駅まで)。
* [[1987年]](昭和62年)[[12月20日]] - 京王車の乗り入れ区間を都営新宿線大島駅まで、都営車の乗り入れ区間を京王多摩センター駅まで延長(その後、都営車の乗り入れ区間は相模原線の延伸と共に延長)。
* [[1991年]](平成3年)[[9月1日]] - 京王車の乗り入れ区間を本八幡駅へ延長。
* [[1992年]](平成4年)[[5月28日]] - 京王線新宿駅 - 橋本駅間の特急運転開始<ref name="kotsu19920428"/>。
* [[2001年]](平成13年)[[3月27日]] - 京王線新宿駅 - 橋本駅間の特急廃止、急行の運転開始。
* [[2005年]](平成17年)[[3月25日]] - 平日朝ラッシュ時の新宿方面急行系列車がほぼすべて10両編成に統一され、また平日夜間時間帯の急行が増発された(詳細は後述)。
* [[2006年]](平成18年)9月1日 - 都営新宿線直通列車のほぼすべてが10両編成化され、相模原線内折り返し各駅停車もすべて8両編成化された(詳細は後述)。
* [[2010年]](平成22年)[[3月19日]] - 日中の快速・各駅停車がすべて10両編成化される。
* [[2013年]](平成25年)[[2月22日]] - ダイヤ改定により特急が復活し、通勤快速が区間急行に変更となる<ref name="keio2013-2" />。
* [[2015年]](平成27年)[[9月25日]] - ダイヤ改正により準特急を新設<ref name="keio2015" />。
* [[2018年]](平成30年)[[2月22日]] - ダイヤ改正により京王ライナーを新設<ref name="keio2018" />。
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]] - ダイヤ改正で準特急を廃止<ref name="keio2022" />。
=== 列車種別 ===
==== 京王ライナー ====
{{Main|京王ライナー}}
京王線新宿駅 - 橋本駅間で運行される座席指定列車。2018年2月22日実施のダイヤ改正から下り方向のみで運転を開始し<ref name="keio2018" />、2019年2月22日実施のダイヤ改正からは上り列車京王線新宿行きの運行も開始された。途中停車駅は、京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、相模原線内の京王永山駅以西は特急・準特急・急行と同じ停車駅となるが、京王線新宿駅・明大前駅 - 京王永山駅間は全て通過する。車両は全て[[京王5000系電車 (2代)|京王電鉄5000系]]のみで運転されている。橋本発新宿行きは、平日朝5時 - 8時台に5本が、土休日朝7時台に1本がそれぞれ運転される。新宿発橋本行きは、平日は16時40分発から17時40分発・18時20分発から23時20分発まで、土曜・休日は16時20分発から23時00分発まで約1時間間隔の運転となる。
乗車には座席指定券410円が必要となるが、下り列車については京王永山駅以遠の停車駅から乗車する場合は座席指定券無しでそのまま乗車できる。
==== 特急 ====
[[2013年]][[2月22日]]のダイヤ改定から京王線新宿駅 - 橋本駅間で運転を復活した種別で<ref name="keio2013-2" />、相模原線特急としては実質2代目である。2001年の初代特急廃止後、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議は相模原線の特急の復活を要求しており<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/428722.pdf 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議 平成23年度 京王電鉄株式会社への要望書]}}</ref>、2013年に12年ぶりに復活することになったものである<ref name="keio2013-2" />。
途中停車駅は、笹塚駅・明大前駅・千歳烏山駅・調布駅・京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、相模原線内は急行と同じ停車駅となる。京王電鉄の車両のみで運転されている。京王線新宿駅 - 橋本駅間の運転が基本だが、日中は京王多摩センター駅 - 橋本駅間では各駅停車として運転されている。また、平日朝には京王多摩センター発京王線新宿行も設定されている。2020年10月30日のダイヤ修正で平日は新宿発が朝2本(京王多摩センター行・橋本行の各1本)に削減され、夕方での設定も無くなった。
2019年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停へ変更する列車が設定された。(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う。)
2022年3月12日ダイヤ改正では準特急と統合され、京王線内の停車駅に笹塚・千歳烏山が追加されたほか、今まで準特急として運転されていた列車が特急に置き換わり、日中時間帯は全ての列車が京王多摩センター駅を境に種別を各停に変更するようになった。
==== 急行 ====
平日は朝と夕方のみの運転で、都営新宿線 - 橋本駅間と京王線新宿駅 - 橋本駅間の2区間で設定されている。その他にも都営新宿線 - 京王多摩センター駅間や、京王線新宿発京王多摩センター行も設定されている。2015年9月25日のダイヤ改正より、日中は代わりに[[#準特急|準特急]]が運転されている。土休日は夕方に上り1本のみ橋本発本八幡行が設定されており、京王相模原線 - 京王線 - 京王新線 - 都営新宿線の全区間を急行として運転する唯一の列車である。
2013年2月21日のダイヤ改定前は、かつて相模原線急行の多くが20分間隔で、[[京王線]]・[[京王新線]]経由で[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]][[本八幡駅]](土曜・休日ダイヤの一部は[[大島駅 (東京都)|大島駅]])まで直通運行されていた。朝のラッシュ時と平日夕方の京王線新宿 - 橋本駅間の列車は主に10両編成。都営新宿線直通も2006年9月のダイヤ改定後は、朝の一部列車に都営車8両が使用される以外は10両編成で運行。京王閣競輪開催時には、京王多摩川駅に臨時停車していた。また、平日の朝ラッシュ時および夕方には、京王線内のみ急行で都営新宿線内は各駅停車として運行、平日の夕方以降には調布駅 - 橋本駅間は急行、京王線・都営新宿線の本八幡駅 - 調布駅間は快速として運転される列車もあった。また、朝と夕方から夜間には、京王線新宿駅発着の急行も運行されていた。
かつては都営新宿線内各駅停車の急行の場合、上り列車の行先・種別表示は京王線内では「急行 新線新宿」(都営[[東京都交通局10-000形電車|10-000形]]は「急行 新宿」)と表示、下り列車は都営新宿線内では「各停 橋本」(10-000形では種別表示はない)、駅の発車案内板には「普通 橋本」と表示された。かつて[[京王6000系電車|6000系]]では誤乗防止の観点から京王新線・都営新宿線方面行は、緑地の方向幕で表示されていた。そのため[[京王7000系電車|7000系]]の方向幕車では緑地で表示される(7721-7725FではそれらがすべてLED式に更新されている)。
2018年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停に変更する列車が設定された<ref name="keio2018" />(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う)。
==== 区間急行 ====
2013年2月22日のダイヤ改定で、通勤快速から改称された。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車があり、前者は平日の日中と土曜・休日のほぼ終日にわたり20分間隔で運転、後者は平日の朝と深夜の下り・土休日の朝と夕方のみ運転される。上りは橋本発のほかに京王多摩センター発・深夜の桜上水行があり、下りは橋本行と京王多摩センター行がある。現在のダイヤでは、都営新宿線 - 橋本駅間の設定のほかに、京王線新宿駅 - 橋本駅間、京王線新宿発京王多摩センター行、橋本・若葉台発桜上水行も設定されている。京王線新宿発着・都営新宿線直通ともに多くの列車が10両編成で運行される。日中は調布駅で府中方面の準特急と連絡し、京王多摩センター駅で各駅停車橋本行(京王多摩センターまで特急)に接続する。2020年2月22日のダイヤ改正で平日日中の準特急の一部が京王多摩センター駅 - 橋本駅間で各駅停車となったため、京王多摩センター駅で折り返す列車も設定されるようになった。2022年3月12日のダイヤ改正では平日・休日ともに準特急と統合した特急の日中に運転される全列車が京王多摩センター駅 - 橋本駅間で各駅停車となったため、それに合わせて区間急行も日中の全列車が京王多摩センターで折り返すように変更された。
2022年現在では午前は下りの一部列車が、午後は上りの一部列車が都営新宿線内急行で運転されている。以前は、相模原線を含む京王線内では、京王車は『区急|新線新宿』→『新線新宿から急行本八幡行(もしくは急行大島行)』→『都営新宿線直通』といった形で切り替えて表示していた。都営車では切り替え表示機能が無いため、『区急(区間急行)|(新線)新宿』と固定表示された。いずれも新線新宿駅到着時に『急行|本八幡』と表示を変更する。
そのほかの列車は快速と同じく都営新宿線内は各駅停車で運転されている。この場合、例えば本八幡行では京王線内で『区急(快速)|本八幡』と表示し、新線新宿駅到着時には『各停|本八幡』に変更される。
====快速====
京王多摩川 - 京王よみうりランド駅間開業前の多摩川支線時代より運行されていたが、相模原線内は各駅に停車していた。[[1974年]][[10月18日]]の京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間の開業時から[[1992年]][[5月28日]]の初代特急運転開始時までは相模原線内でも快速運転をしていた(設定当時の停車駅は調布駅・京王多摩川駅・京王稲田堤駅・京王よみうりランド駅・京王永山駅・京王多摩センター駅)。1988年5月21日の京王多摩センター駅 - 南大沢駅間開業時は、快速は京王多摩センター駅発着、通勤快速は南大沢駅発着で、1990年3月30日に運転区間が橋本駅まで延長された後、1991年4月6日から南大沢駅が停車駅に加わった。特急の運転開始後は、現行の相模原線内各駅停車に改められている。
2013年2月21日までの日中・深夜と土曜・休日の深夜は京王線新宿駅発着で運行され、土曜・休日の朝と夕方以降は都営新宿線に直通し、大島駅・本八幡駅発着で運転されていた。このほか、平日の夕方以降には相模原線内急行・京王線内快速という列車もあった。基本は橋本駅発着だが、一部に若葉台駅・京王多摩センター駅発着もあり、一部の若葉台駅発着を除いて、橋本駅発着の各停との接続が行われていた。また[[2012年]][[8月19日]]の調布駅地下化によるダイヤ改定により、早朝時間帯に若葉台発快速つつじヶ丘行が登場した。調布駅での折り返しができなくなったことに伴い、この列車は折り返し設備のあるつつじヶ丘駅まで営業運転して、到着後はそのまま調布方面へ回送として折り返す。また、終点のつつじヶ丘駅では後続の新宿行の快速・通勤快速に接続していた。
2013年2月22日のダイヤ改定では、主に調布駅で、橋本駅発着の特急と接続する京王線新宿駅発着列車が中心となり、都営新宿線直通列車は大幅に本数が減らされた。早朝と夜間以降には、下りの京王多摩センター行、上りの桜上水行・つつじヶ丘行もあった。
2015年9月25日改正のダイヤでは、都営新宿線 - 橋本駅間が設定されたが、土休日のみ京王線新宿発橋本行も設定された。また、都営新宿線 - 若葉台・京王多摩センター駅間、橋本発つつじヶ丘行も設定されていた。現在では、京王線新宿発着のほぼ全ての列車と都営新宿線直通の全列車が10両編成で運行される。日中は調布駅で府中方面の特急と連絡する。相模原線内は特急に抜かれることなく先着する。
かつては、都営車8両による運転もあった。[[つつじヶ丘駅]]行きの電車も運行中である。
※急行、快速(通勤快速)の京王線内の停車駅は、京王線の記事中の「[[京王線#駅一覧|駅一覧]]」を参照。
==== 各駅停車 ====
2013年2月22日のダイヤ改定により、平日は朝夕のみ、土曜・休日は早朝と深夜のみ運転となった。それ以外の時間帯は、相模原線内各駅停車の区間急行・快速が運転され、各駅停車を補完している。2015年9月25日改正のダイヤでは新宿駅 - 橋本駅間の列車が主に設定されているが、その他にも若葉台駅・京王多摩センター駅発着も設定されている。また、都営新宿線発橋本行や橋本始発の本八幡行きも設定されている。
京王多摩センター発橋本行の各停はすべて調布方面から列車と接続している。
2013年2月21日以前は終日設定があり、朝ラッシュ時を中心に新宿方面へ直通する列車も設定された一方、日中以降は大部分が相模原線内の区間で折り返し運転を行なっていた。相模原線内のみの列車は、調布駅で上りは京王八王子方面からの、下りは京王八王子方面行の各駅停車と接続を取っていた。
また、2006年9月のダイヤ改定までは日中を中心に6両編成での運転があったが、この改定以降、日中は都営新宿線直通列車に10両編成の京王電鉄の車両が重用されたことによる距離調整のため、都営地下鉄の車両による8両編成での運転となり、6両編成での運転がなくなった。このため、主に相模原線内列車のみの運用に使われていた[[京王6000系電車#5扉車|6000系5扉車]]の6721Fは運用を離脱した。[[2010年]][[3月19日]]のダイヤ修正では日中の列車はすべて10両編成化され、都営地下鉄の車両を含む8両編成は夕方以降に見られるようになった。
相模原線内運転の列車は、[[調布駅]]付近の地下化以前は、調布駅にて本線上を利用して折り返しが行われていた。[[2012年]][[8月19日]]の調布駅付近地下化以降は[[つつじヶ丘駅]]まで一度回送して、つつじヶ丘駅構内で折り返していた。
2018年2月22日ダイヤ改正より、一部の準特急及び急行は京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更する列車が設定された<ref name="keio2018" />。2019年2月22日ダイヤ改正より、一部の特急にも京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更する列車が設定された。
2022年3月12日ダイヤ改正より日中に運転される特急の全列車と一部の急行が京王多摩センター駅で種別を各駅停車に変更するようになった。
=== 運行本数 ===
[[2022年]]3月12日現在のダイヤで日中1時間あたりの運行本数は、以下のようになっている。
{| class="wikitable"
|+日中の運行パターン
|-
!colspan="2"|種別\駅名
!京王線直通
!style="width:1em;"|{{縦書き|調布}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|京王多摩センター}}
!…
!style="width:1em;"|{{縦書き|橋本}}
|- style="text-align:center;"
!rowspan="3" style="width:1em;"|運行範囲
|rowspan="1" style="background:pink;" |特急||rowspan="1" style="background:pink;" |←京王線新宿 || colspan="4" style="background:pink;" |3本
|colspan="3" style="background:lightgray;" |3本
|- style="text-align:center;"
|rowspan="1" style="background:yellow;"|区間急行||rowspan="1" style="background:yellow;"|←本八幡||colspan="4" style="background:yellow;"|3本
|colspan="3" |
|- style="text-align:center;"
| style="background:lightblue;"|快速||colspan="1" style="background:lightblue;"|←本八幡||colspan="7" style="background:lightblue;"|3本
|}
=== 廃止された種別 ===
==== 特急(1992 - 2001) ====
[[1992年]][[5月28日]]<ref name="kotsu19920428"/> - [[2001年]][[3月26日]]の間に運転されていた。当時はほとんどの列車が京王線内では急行を追尾するダイヤとなっていたため、京王線新宿駅 - 調布駅間の所要時間は急行と大差なかったが、京王多摩センター駅で先行する快速を追い抜いて、(設定当初の下りのみ調布駅でも後続の各停に接続)通過する各駅へのフォローも行い、相模原線の主力種別であった。相模原線内では京王多摩センター駅以外の途中駅は、すべて通過となっていた。
1992年以前にも[[京王多摩川駅]]を最寄りとする[[京王閣競輪場|京王閣競輪]]開催時には、レース終了後に京王多摩川発京王線新宿行の特急が運転されていた(車両は、[[1984年]]以前は京王よみうりランド駅折り返し、京王よみうりランド駅 - 京王多摩川駅間は回送運転、1984年以降は若葉台駅出庫で京王多摩川駅までは回送運転とされていた)。なお、1992年5月以降は競輪終了時に上り特急の一部列車を京王多摩川駅に臨時停車させることで、利用客への便宜を図っていた。この臨時停車は現在の特急にも引き継がれている。
==== 通勤快速 ====
2013年2月22日ダイヤ改定まで運転されていた種別。平日朝ラッシュ時および深夜時間帯下りのみ運転となっていた。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車がある。上りには橋本発のほかに京王多摩センター始発があり、下りは橋本行き、京王多摩センター行き、若葉台行きがあった。多くは10両編成だが、平日朝の都営新宿線直通には都営車8両編成も使用されていた。同ダイヤ改定で区間急行に改称されて消滅した。
==== 準特急 ====
[[2015年]][[9月25日]]ダイヤ改正で新設された<ref name="keio2015" />。途中停車駅は、笹塚駅・明大前駅・千歳烏山駅・調布駅・京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅で、現在の特急停車駅と同じである。京王線新宿駅 - 橋本駅間の運転が基本で、平日朝に京王線新宿発京王多摩センター行も設定されていた。
2018年2月22日ダイヤ改正より、京王多摩センター駅を境に種別を各停へ変更する列車が設定された<ref name="keio2018" />(対象列車は京王永山駅 - 橋本駅間で実質各駅停車となるが、種別変更は京王多摩センター駅で行う)。
2022年3月12日のダイヤ改正で特急に統合される形で廃止された(実質的には特急が廃止され、準特急を特急に改名した)<ref name="keio2022" />。
=== 女性専用車 ===
平日朝7:30 - 9:30に京王線新宿駅または新線新宿駅に到着する上り特急・急行・区間急行および都営新宿線直通電車の進行方向先頭(本八幡寄り)車両が[[女性専用車両|女性専用車]]になる。実施区間は新宿線本八幡方向を含めた全区間で、この時間に運転される特急・急行・区間急行および都営新宿線直通はいずれも京王車の10両編成で運行されるが、運用の乱れによって8両編成が充当される場合は設定されない。
== 車両 ==
=== 現用車両 ===
{{See also|京王電鉄#現用車両}}
* [[京王5000系電車 (2代)|5000系(2代目)]]
* [[京王9000系電車|9000系]]
* [[京王8000系電車|8000系]]
* [[京王7000系電車|7000系]]
<gallery>
Keio 5734 Extra Semi Express 20190202.jpg|5000系
Keio-Series9000-9740.jpg|9000系
Keio-Series8000-8711.jpg|8000系
Keio-Series7000-7722.jpg|7000系
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
* 東京都交通局
** [[東京都交通局10-300形電車|10-300形]]
<gallery>
Toei_Type10-300_10-460.jpg|10-300形(1・2次車)
Toei_Type10-300.jpg|10-300形(3・4・5・6次車)
</gallery>
== 駅一覧 ==
* 停車駅 … ●:停車、◇:イベント開催時等に一部が臨時停車。▽:ダイヤが乱れた場合のみ一部停車。|:通過。各駅停車・快速・区間急行は各駅に停車するため省略。
* #印:上下待避可能駅
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:4em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|駅番号
!rowspan="2" style="width:14em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|駅間キロ
!colspan="2"|累計キロ
!rowspan="2" style="width:1em; background:lightgreen;border-bottom:3px solid #dd0077;"|{{縦書き|急行}}
!rowspan="2" style="width:1em; background:pink;border-bottom:3px solid #dd0077;"|{{縦書き|特急}}
!rowspan="2" style="width:1em; background:white;border-bottom:3px solid #dd0077;"|{{縦書き|京王ライナー}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #dd0077;"|接続路線
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #dd0077;"|所在地
|-
!style="width:2.5em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|調布から
!style="width:2.5em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|[[新宿駅|新宿]]から
|-
!KO18
|[[調布駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|15.5
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|●
|style="background:pink; text-align:center;"|●
|style="background:white; text-align:center;"||
|[[京王電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王線]](各駅停車・急行の一部を除く全列車が新宿方面直通)
|rowspan="2" colspan="2"|[[東京都]]<br />[[調布市]]
|-
!KO35
|[[京王多摩川駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|16.7
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|◇
|style="background:pink; text-align:center;"|◇
|style="background:white; text-align:center;"||
|
|-
!KO36
|[[京王稲田堤駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|18.0
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|●
|style="background:pink; text-align:center;"|●
|style="background:white; text-align:center;"||
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JN_line_symbol.svg|18px|JN]] [[南武線]]([[稲田堤駅]]:JN 16)
|colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[神奈川県]]<br />[[川崎市]]<br>[[多摩区]]
|-
!KO37
|[[京王よみうりランド駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|19.4
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|◇
|style="background:pink; text-align:center;"|◇
|style="background:white; text-align:center;"|◇
|
|rowspan="2" colspan="2"|東京都<br />[[稲城市]]
|-
!KO38
|[[稲城駅]]<br />(駒沢女子大学 最寄駅)
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|21.0
|style="background:lightgreen; text-align:center;"||
|style="background:pink; text-align:center;"||
|style="background:white; text-align:center;"||
|
|-
!KO39
|[[若葉台駅]]#
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|8.8
|style="text-align:right;"|24.3
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|▽
|style="background:pink; text-align:center;"|▽
|style="background:white; text-align:center;"||
|車庫所在駅
|colspan="2"|神奈川県<br />川崎市<br>[[麻生区]]
|-
!KO40
|[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|11.4
|style="text-align:right;"|26.9
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|●
|style="background:pink; text-align:center;"|●
|style="background:white; text-align:center;"|●
|[[小田急電鉄]]:[[File:Odakyu tama.svg|18px|OT]] [[小田急多摩線|多摩線]]([[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]:OT05)
|rowspan="5" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|東京都|height=4em}}
|rowspan="2"|[[多摩市]]
|-
!KO41
|[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]#<br />(サンリオピューロランド 最寄駅)
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|13.7
|style="text-align:right;"|29.2
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|●
|style="background:pink; text-align:center;"|●
|style="background:white; text-align:center;"|●
|小田急電鉄:[[File:Odakyu tama.svg|18px|OT]] 多摩線([[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]:OT06)<br />[[多摩都市モノレール]]:[[File:Tama Monorail Line symbol.svg|18px|TT]] [[多摩都市モノレール線]]([[多摩センター駅]]:TT01)
|-
!KO42
|[[京王堀之内駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|16.0
|style="text-align:right;"|31.5
|style="background:lightgreen; text-align:center;"||
|style="background:pink; text-align:center;"||
|style="background:white; text-align:center;"||
|
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[八王子市]]
|-
!KO43
|[[南大沢駅]]<br />(東京都立大学 最寄駅)
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|18.2
|style="text-align:right;"|33.7
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|●
|style="background:pink; text-align:center;"|●
|style="background:white; text-align:center;"|●
|
|-
!KO44
|[[多摩境駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|20.1
|style="text-align:right;"|35.6
|style="background:lightgreen; text-align:center;"||
|style="background:pink; text-align:center;"||
|style="background:white; text-align:center;"||
|
|[[町田市]]
|-
!KO45
|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|22.6
|style="text-align:right;"|38.1
|style="background:lightgreen; text-align:center;"|●
|style="background:pink; text-align:center;"|●
|style="background:white; text-align:center;"|●
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JH_line_symbol.svg|18px|JH]] [[横浜線]] (JH 28)・{{Color|#009793|■}}[[相模線]]
|colspan="2"|神奈川県<br />[[相模原市]]<br>[[緑区 (相模原市)|緑区]]
|}
◇印の臨時停車の解説
*京王多摩川駅:[[京王閣競輪場]]・[[調布市花火大会]]の開催日に、開催時間に合わせて臨時停車。
*京王よみうりランド駅:[[よみうりランド]]でのジュエルミネーションの開催日に、開催時間に合わせて臨時停車。
=== 新駅構想など ===
==== 坂浜新駅(仮称)構想 ====
稲城駅 - 若葉台駅間の中間地点付近に、沿線の稲城市坂浜・平尾地区の土地区画整備の一環として坂浜新駅(仮称)を設置する構想があるが採算性が見込めず実現には至っていない<ref>[http://www.city.inagi.tokyo.jp/shichoushitsu/tegami_kaitou/2404/no3/index.html 市政への提案の回答 平成24年4月 3. まちづくり・住環境に関すること]</ref>。
[[稲城市]]では、稲城駅に急行を停車させる政策を掲げ、京王電鉄に働きかけを行っている<ref>[http://www.city.inagi.tokyo.jp/kouhou_hiroba/kouhou_text/190515/k01.htm テキスト版広報いなぎ・平成19年5月15日号1面]</ref>。
==== 橋本駅移設構想 ====
橋本駅南口付近に[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]の新駅が設置されることを受けて、[[相模原市]]は橋本駅南口地区の約13.7haの[[土地区画整理事業]]を京王線橋本駅移設を前提に行うことを決定した。<ref>[https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/650/20230309/04.pdf 橋本駅周辺整備推進事業における都市計画の決定及び変更 相模原市 2022年9月1日]</ref>[[2022年]]([[令和]]4年)に相模原市が発表した資料によると、JR橋本駅とリニア新駅の間に交通広場などを設けて、京王線橋本駅を現在の位置より[[神奈川県]]側に移設することが検討されている。
== 付記 ==
{{出典の明記|section=1|date=2021年5月29日 (土) 13:01 (UTC)}}
京王多摩川 - 橋本間は、開通が[[1970年代]]以降と比較的新しいため、カーブが従来線より少ない。調布駅周辺の地下化工事の完了後は全線に渡って[[踏切]]が存在しない。
以前は調布駅で相模原線と京王線は相模原線上り線と京王線下り線が平面交差していたため同駅がダイヤ設定上の[[ボトルネック]]となっていたが前述の通り[[国領駅|国領]] - [[西調布駅|西調布]]・京王多摩川間の地下化工事が完了し、調布駅は地下2層構造のホームとなり、ボトルネックが解消された。
京王永山 - 京王多摩センター間は[[小田急多摩線]]と併走する。[[小田急小田原線|小田原線]]の線路容量が逼迫していた小田急は、多摩線直通列車をほとんど設定していなかったために、多摩ニュータウンから都心への旅客輸送は京王がメインルートとなっていた時代が長かったが、その後の小田原線の複々線化の進捗に応じて多摩線から都心へ直通する速達列車を充実させ、競争力を高めた。
[[#多摩ニュータウンへの延伸|上述]]の路線免許申請により、橋本駅は相模中野方面への延伸を前提とした構造になっていて、延伸先の路線用地も所々に確保されていた。だがその後、延伸予定区間の路線免許は失効し、路線用地の多くは地元[[不動産会社]]に放出され、宅地開発された。中規模程度までではあるがマンション等の建造物も建てられたことから、現在の線路をそのまま延ばす形での相模中野方面への延伸は難しいと見られており、[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f7140/ 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議]の要望書に対して、京王は[[上下分離方式]]での延伸に含みを残すものの「単独での建設はきわめて困難」と回答している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* 交通協力会『交通技術』1971年4月号「京王相模原線の工事について」(大沢 清志・京王帝都電鉄株式会社・建設部課長)
* 運輸調査局『運輸と経済』1975年5月号「京王相模原線の建設と経営」(永井 信弘・京王帝都電鉄(株)鉄道事業本部 計画担当課長)
* [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』
** 1990年5月号レポートV「相模原線全線開通 - 南大沢・橋本間4.4km開業により - 」(京王帝都電鉄株式会社工務部次長・和田 宏)
** 2009年9月号{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/nnkPmRQLYEHE.pdf レポート1「京王線調布駅付近連続立体交差(地下化)工事の概要」]}}(pp.10 - 14掲載)
== 関連項目 ==
{{commonscat|Keiō Sagamihara Line}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
{{京王電鉄の路線}}
{{DEFAULTSORT:けいおうさかみはらせん}}
[[Category:京王電鉄の鉄道路線|さかみはらせん]]
[[Category:関東地方の鉄道路線|さかみはらせん]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:神奈川県の交通]]
[[Category:多摩ニュータウン]]
|
2003-07-10T11:23:05Z
|
2023-12-04T15:54:46Z
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|
11,153 |
徳川家茂
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徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代将軍(在任:1858年 - 1866年)。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。
実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家和歌山藩第13代藩主であった。
徳川斉順(清水徳川家および紀伊徳川家の当主)の嫡男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。
弘化3年(1846年)閏5月24日、16日前に死去した徳川斉順の次男として、江戸の和歌山藩邸(現:東京都港区)で誕生した。生母は家臣松平晋の娘操子。なお、兄にあたる幻成院英晃常暉大童子は文政12年(1830年)に死産している(南紀徳川史第二冊)。幼名は菊千代(きくちよ)。[嘉永]2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を4歳で継いだ。嘉永4年(1851年)に元服し、当時の将軍(第12代将軍)・徳川家慶から1字を賜い慶福(よしとみ)と名乗り、同時に常陸介に任官、従三位に叙位された。
幼少故に当初は隠居した元藩主・徳川治宝が補佐したが、その死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ付家老・水野忠央が実権を握り、伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする藩政改革派が弾圧された。
和歌山藩主としての治世は9年2か月であり、この間の江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も和歌山帰国もなかった。
安政5年(1858年)、一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために第14代将軍となった。慶福改め家茂はこの時13歳という若年であったが、第13代将軍・徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて将軍に就任した。しかし、文久2年(1862年)までは田安慶頼が、その後は慶喜が「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていた。また、この将軍宣下の際、それまでは新将軍が上座で天皇勅使が下座であったが、尊王の世情を反映して逆に改められた。
文久2年(1862年)に和宮(親子)と結婚した。和宮は熾仁親王と婚約していたが、幕府の公武合体構想からの要請により熾仁親王との婚約を破棄し、和宮は家茂に降嫁した。文久3年(1863年)、老中水野忠精・板倉勝静、若年寄田沼意尊・稲葉正巳らが供奉し、3千人を率いて将軍としては229年振りとなる上洛を行った。3月7日に参内し、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を約束した。また、この際に天皇に対して政務委任の勅命への謝辞を述べたが、これは18世紀末から要人や学者の間では言われてきたものの概念的な考えに過ぎなかった大政委任が、朝幕関係の中で初めて公認化・制度化されたものであった。天皇や一橋慶喜らと共に賀茂神社に参拝しているが、天皇が公式に御所を出たのは237年ぶりであった。その後、天皇と共に石清水八幡宮へ参詣する予定であったが、これを病と称して欠席する。源氏所縁の神前で、天皇から直に攘夷の命を下されるのを避けたともされている。将軍名代として石清水八幡へ供奉した一橋慶喜も、天皇がいる神前に呼び出されたが、急な体調不良としてその場を脱している。このことにより尊皇派諸士は家茂に反発し、将軍殺害予告の落首が掲げられた。江戸に陸路で帰還した慶喜の一行は、道中にて襲われている。朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか許可しなかったため、老中格の小笠原長行が軍艦と軍勢1400を率いて大坂に向かい、朝廷および攘夷派を威圧している。滞在3か月、家茂は道中の安全を考慮し、大坂から海路、蒸気船を使い江戸に帰った。
文久4年(1864年)には軍艦「翔鶴丸」で海路から二度目の上洛を果たした。将軍が海路上洛したのは、これが初めてである。京都では前年の八月十八日の政変で三条実美ら尊王攘夷派が朝廷から失脚しており、家茂は朝廷より歓迎されて従一位右大臣に昇進した。また家茂は薩摩の島津久光に初めて拝謁を許し、参与会議の諸侯に二条城の御用部屋利用を認めた。
慶応元年(1865年)、三度目の上洛中に、兵庫開港を決定した老中・阿部正外及び松前崇広が朝廷によって処罰された。これにより将軍を辞職、後継に一橋慶喜を推し、自らは東帰する姿勢を見せた。今回は長州処分のための上洛と宣言しており成果を挙げずに帰るという矛盾した動きの背景には大政委任を確認した天皇の沙汰書(元治国是)はあるにもかかわらず、実際は天皇、幕府、諸藩(薩摩を含む)のパワーバランスで幕府側へ制約がある点への不満。そして朝廷内部で発言力を有する一橋慶喜への不信につきた。後継指名は皮肉混じりの嫌がらせにちかい。その上で帰り道に二条城を選べば将軍の畿内滞在を誰より渇望している慶喜が裾を掴んで離さないという見込みがあり、それを見透かしている朝廷、諸藩からは失望をされた。しかし実際に帰られても困るという点もあり『天皇は大いに驚き慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという』。阿部の辞職後には小笠原、板倉が幕政に参画しており、一橋と朝廷側からすれば窓口が開かれることになっている。
慶応2年(1866年)、第2次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れた。この知らせを聞いた天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、同年7月20日に薨去した。享年21(満20歳没)。遺体はイギリスから8月に購入した長鯨丸にて江戸に運ばれた。9月2日に大坂を出航し、6日に江戸に到着している。
家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の宗家第16代当主・徳川家達)の指名を遺言としたが、亀之助が当時わずか4歳であり国事多難の折りの舵取りが問題という理由で和宮や雄藩大名らが反対した結果として実現されず、徳川慶喜が第15代将軍となった。
絹本著色の絵は、和宮旧蔵とも言われる。制作には、家茂に父のように慕われた徳川茂徳が関わった可能性が極めて高い。茂徳は本図の元となる似顔絵を、家茂の死後天璋院に贈っており(現在は写真のみ残り茨城新聞社蔵)、こちらは長州征伐で大坂の陣中にいる際に描き、陣羽織を着た立姿で表されている。茂徳は和宮にもこの軍装図に近いと思われる絵を贈ったが、和宮は陣羽織姿を「異風」「異人の御まねにては御心外」だと感じ、茂徳に「御有り来りの御姿」にするよう描き直しを求めたという(茂徳筆「御影の記写」茨城県立歴史館蔵)。そこで制作されたのがこの肖像画だとも言われ、茂徳の号から玄同本と呼ばれる。なお、家茂には他にも、狩野雅信筆になる束帯姿で繧繝縁の上畳に座した肖像や、画面右上に「照(ママ)徳院様」の書き込みがある院号本(右図)、冒頭の幕臣出身の洋画家・川村清雄が手掛け、勝海舟らにも良く出来ていると賞賛された「昭徳院肖像」(徳川記念財団蔵)などの肖像画が残っている。
昭和33年(1958年)から35年(1960年)に増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際、徳川家の人々の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家茂は月代を剃っておらず、若々しく豊富な髪の持ち主であったという。ただ、虫歯の度合いが酷く、残存する31本の歯のうち30本が虫歯にかかっていた。記録などから総合するに、家茂は元々、歯のエナメル質が極端に薄い体質であった上に大の甘党でもあった。その虫歯が家茂の体力を弱め、脚気衝心、さらには医師間の診断内容の相違(高階ら漢方の典医は脚気との診断を下したが、西洋医の幕府奥医師達はこれをリウマチだとして譲らなかった)も加わり、家茂の命を奪ったのではないか、と指摘している。
また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。それまで、家茂は義兄の孝明天皇に倣って写真は撮影していなかったと思われていた。この写真は死の直前に大坂で撮影され、江戸にいる和宮に贈られたものとみられる。しかし写真は湿板写真だったため、発見の翌日に検証しようとしたところ、日光のためか画像は失われてしまっていた。発掘した歴史学者の山辺知行によると、写真の男性は「長袴の直垂に烏帽子をかぶった若い男性」で「豊頬でまだ童顔を残していた」という。写真はその後和宮の墓に戻された。
家茂から偏諱を授けられた大名は、維新後に新政府にはばかって改名(返上)した者が多い。括弧内は改名後の諱。
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"text": "徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代将軍(在任:1858年 - 1866年)。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。",
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"text": "実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家和歌山藩第13代藩主であった。",
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"text": "徳川斉順(清水徳川家および紀伊徳川家の当主)の嫡男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。",
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"text": "弘化3年(1846年)閏5月24日、16日前に死去した徳川斉順の次男として、江戸の和歌山藩邸(現:東京都港区)で誕生した。生母は家臣松平晋の娘操子。なお、兄にあたる幻成院英晃常暉大童子は文政12年(1830年)に死産している(南紀徳川史第二冊)。幼名は菊千代(きくちよ)。[嘉永]2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を4歳で継いだ。嘉永4年(1851年)に元服し、当時の将軍(第12代将軍)・徳川家慶から1字を賜い慶福(よしとみ)と名乗り、同時に常陸介に任官、従三位に叙位された。",
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"text": "幼少故に当初は隠居した元藩主・徳川治宝が補佐したが、その死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ付家老・水野忠央が実権を握り、伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする藩政改革派が弾圧された。",
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"text": "和歌山藩主としての治世は9年2か月であり、この間の江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も和歌山帰国もなかった。",
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"text": "安政5年(1858年)、一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために第14代将軍となった。慶福改め家茂はこの時13歳という若年であったが、第13代将軍・徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて将軍に就任した。しかし、文久2年(1862年)までは田安慶頼が、その後は慶喜が「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていた。また、この将軍宣下の際、それまでは新将軍が上座で天皇勅使が下座であったが、尊王の世情を反映して逆に改められた。",
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"text": "文久2年(1862年)に和宮(親子)と結婚した。和宮は熾仁親王と婚約していたが、幕府の公武合体構想からの要請により熾仁親王との婚約を破棄し、和宮は家茂に降嫁した。文久3年(1863年)、老中水野忠精・板倉勝静、若年寄田沼意尊・稲葉正巳らが供奉し、3千人を率いて将軍としては229年振りとなる上洛を行った。3月7日に参内し、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を約束した。また、この際に天皇に対して政務委任の勅命への謝辞を述べたが、これは18世紀末から要人や学者の間では言われてきたものの概念的な考えに過ぎなかった大政委任が、朝幕関係の中で初めて公認化・制度化されたものであった。天皇や一橋慶喜らと共に賀茂神社に参拝しているが、天皇が公式に御所を出たのは237年ぶりであった。その後、天皇と共に石清水八幡宮へ参詣する予定であったが、これを病と称して欠席する。源氏所縁の神前で、天皇から直に攘夷の命を下されるのを避けたともされている。将軍名代として石清水八幡へ供奉した一橋慶喜も、天皇がいる神前に呼び出されたが、急な体調不良としてその場を脱している。このことにより尊皇派諸士は家茂に反発し、将軍殺害予告の落首が掲げられた。江戸に陸路で帰還した慶喜の一行は、道中にて襲われている。朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか許可しなかったため、老中格の小笠原長行が軍艦と軍勢1400を率いて大坂に向かい、朝廷および攘夷派を威圧している。滞在3か月、家茂は道中の安全を考慮し、大坂から海路、蒸気船を使い江戸に帰った。",
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"text": "文久4年(1864年)には軍艦「翔鶴丸」で海路から二度目の上洛を果たした。将軍が海路上洛したのは、これが初めてである。京都では前年の八月十八日の政変で三条実美ら尊王攘夷派が朝廷から失脚しており、家茂は朝廷より歓迎されて従一位右大臣に昇進した。また家茂は薩摩の島津久光に初めて拝謁を許し、参与会議の諸侯に二条城の御用部屋利用を認めた。",
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"text": "家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の宗家第16代当主・徳川家達)の指名を遺言としたが、亀之助が当時わずか4歳であり国事多難の折りの舵取りが問題という理由で和宮や雄藩大名らが反対した結果として実現されず、徳川慶喜が第15代将軍となった。",
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"text": "絹本著色の絵は、和宮旧蔵とも言われる。制作には、家茂に父のように慕われた徳川茂徳が関わった可能性が極めて高い。茂徳は本図の元となる似顔絵を、家茂の死後天璋院に贈っており(現在は写真のみ残り茨城新聞社蔵)、こちらは長州征伐で大坂の陣中にいる際に描き、陣羽織を着た立姿で表されている。茂徳は和宮にもこの軍装図に近いと思われる絵を贈ったが、和宮は陣羽織姿を「異風」「異人の御まねにては御心外」だと感じ、茂徳に「御有り来りの御姿」にするよう描き直しを求めたという(茂徳筆「御影の記写」茨城県立歴史館蔵)。そこで制作されたのがこの肖像画だとも言われ、茂徳の号から玄同本と呼ばれる。なお、家茂には他にも、狩野雅信筆になる束帯姿で繧繝縁の上畳に座した肖像や、画面右上に「照(ママ)徳院様」の書き込みがある院号本(右図)、冒頭の幕臣出身の洋画家・川村清雄が手掛け、勝海舟らにも良く出来ていると賞賛された「昭徳院肖像」(徳川記念財団蔵)などの肖像画が残っている。",
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"text": "昭和33年(1958年)から35年(1960年)に増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際、徳川家の人々の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家茂は月代を剃っておらず、若々しく豊富な髪の持ち主であったという。ただ、虫歯の度合いが酷く、残存する31本の歯のうち30本が虫歯にかかっていた。記録などから総合するに、家茂は元々、歯のエナメル質が極端に薄い体質であった上に大の甘党でもあった。その虫歯が家茂の体力を弱め、脚気衝心、さらには医師間の診断内容の相違(高階ら漢方の典医は脚気との診断を下したが、西洋医の幕府奥医師達はこれをリウマチだとして譲らなかった)も加わり、家茂の命を奪ったのではないか、と指摘している。",
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"text": "また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。それまで、家茂は義兄の孝明天皇に倣って写真は撮影していなかったと思われていた。この写真は死の直前に大坂で撮影され、江戸にいる和宮に贈られたものとみられる。しかし写真は湿板写真だったため、発見の翌日に検証しようとしたところ、日光のためか画像は失われてしまっていた。発掘した歴史学者の山辺知行によると、写真の男性は「長袴の直垂に烏帽子をかぶった若い男性」で「豊頬でまだ童顔を残していた」という。写真はその後和宮の墓に戻された。",
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"text": "家茂から偏諱を授けられた大名は、維新後に新政府にはばかって改名(返上)した者が多い。括弧内は改名後の諱。",
"title": "偏諱を与えた人物"
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徳川 家茂は、江戸幕府第14代将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家和歌山藩第13代藩主であった。 徳川斉順(清水徳川家および紀伊徳川家の当主)の嫡男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。
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{{出典の明記|date=2022-07-24}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 徳川 家茂 / 徳川 慶福
| 画像 = Tokugawa Iemochi by Kawamura Kiyoo (Tokugawa Memorial Foundation).jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 徳川家茂像([[川村清雄]]作)
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[幕末|江戸時代末期]]
| 生誕 = [[弘化]]3年[[5月24日 (旧暦)|閏5月24日]]([[1846年]][[7月17日]])
| 死没 = [[慶応]]2年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[1866年]][[8月29日]])
| 改名 = 菊千代→慶福→家茂
| 別名 =徳川慶福
| 諡号 =
| 戒名 = 昭徳院殿光蓮社澤譽道雅大居士
| 墓所 = [[増上寺|三縁山広度院増上寺]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])
| 官位 = [[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]<br />[[正二位]]・[[大納言|権大納言]]、[[内大臣]]、<br />[[近衛府|右近衛大将]]、<br />[[従一位]]・[[右大臣]]、贈[[正一位]]・[[太政大臣]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]第14代[[征夷大将軍]]<br />(在任:[[安政]]5年([[1858年]])- [[慶応]]2年([[1866年]])
| 藩 = [[紀伊国]][[紀州藩|和歌山藩]]主<br />(在任:[[嘉永]]2年(1849年)- [[安政]]5年(1858年)
| 氏族 = 徳川氏([[紀州徳川家|紀伊家]]→[[徳川宗家|将軍家]])
| 父母 = 父:[[徳川斉順]]<br />母:[[実成院 (徳川家茂生母)|松平操子]]<br />養父:''[[徳川斉彊]]''、''[[徳川家定]]''<br />養母:''[[天璋院]]''
| 兄弟 = '''家茂'''、菊姫、庸姫、伊曾姫
| 妻 = 御台所:'''[[和宮親子内親王|和宮]]'''
| 子 = 養子:'''''[[徳川茂承|茂承]]''''' <small>(紀伊藩継嗣)</small>、'''''[[徳川慶喜|慶喜]]''''' <small>(将軍家継嗣)</small><br />猶子:''[[華頂宮博経親王|尊秀入道親王]]''}}
'''徳川 家茂'''(とくがわ いえもち)は、[[江戸幕府]]第14代[[征夷大将軍|将軍]](在任:[[1858年]] - [[1866年]])。初めは第12代将軍・[[徳川家慶]]の[[偏諱]]を受け、'''慶福'''(よしとみ)と名乗っていた。
実父・[[徳川斉順]]は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・[[徳川家定|家定]]の従弟にあたる。将軍就任の前は[[徳川御三家|御三家]][[紀州藩|和歌山藩]]第13代藩主であった。
徳川斉順([[清水徳川家]]および紀伊徳川家の当主)の[[嫡男]]<ref group="注釈">早世した兄がいたため次男とみなされることもある。</ref>であるが、父は家茂が生まれる前に[[崩御|薨去]]している。祖父は第11代将軍[[徳川家斉]]、祖母は[[妙操院]]。[[御台所]]は[[孝明天皇]]の皇妹・[[和宮親子内親王|親子内親王]](静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に<ref group="注釈">当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作[[津山藩]]主[[松平斉民]]と阿波[[徳島藩]]主[[蜂須賀斉裕]]がいたが、[[徳川氏|徳川家]]を出て他家の養子となっており年齢も家定より年上なのでどちらも将軍後継者候補
としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。</ref>、[[大老]]で[[譜代]]筆頭の[[彦根藩]]主[[井伊直弼]]ら[[南紀派]]の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。
== 生涯 ==
[[弘化]]3年([[1846年]])閏5月24日、16日前に死去した[[徳川斉順]]の次男として、江戸の和歌山[[江戸藩邸|藩邸]](現:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])で誕生した。生母は家臣[[松平晋]]の娘[[実成院 (徳川家茂生母)|操子]]。なお、兄にあたる幻成院英晃常暉大童子は[[文政]]12年([[1830年]])に[[死産]]している([[南紀徳川史]]第二冊)。[[幼名]]は'''菊千代'''(きくちよ)。[嘉永]2年([[1849年]])に叔父で第12代藩主である[[徳川斉彊]]が死去したため、その養子として[[家督]]を4歳で継いだ。嘉永4年([[1851年]])に[[元服]]し、当時の将軍(第12代将軍)・[[徳川家慶]]から1字を賜い'''慶福'''(よしとみ)と名乗り、同時に常陸介に任官、[[従三位]]に叙位された。
幼少故に当初は隠居した元藩主・[[徳川治宝]]が補佐したが、その死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ[[付家老]]・[[水野忠央]]が実権を握り、[[伊達千広]]([[陸奥宗光]]の父)をはじめとする藩政改革派が弾圧された<ref>『和歌山市史』</ref>。
和歌山藩主としての治世は9年2か月であり、この間の江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も和歌山帰国もなかった<ref>{{Cite book|和書|author=小山誉城|chapter=紀州徳川家の参勤交代|year=2011|title=徳川将軍家と紀伊徳川家|publisher=精文堂出版}}</ref>。
[[安政]]5年([[1858年]])、[[一橋派]]との抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために第14代将軍となった。慶福改め家茂はこの時13歳という若年であったが、第13代将軍・徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を[[徳川家康]]まで遡らなくてはならない[[徳川慶喜|一橋慶喜]]を抑えて将軍に就任した。しかし、[[文久]]2年([[1862年]])までは[[田安慶頼]]が<ref group="注釈">慶頼も大老・井伊直弼の傀儡であったといわれる。</ref>、その後は慶喜<ref group="注釈">慶喜の伯父にあたる[[徳川斉脩]]の正室は家茂の父である徳川斉順の同母姉、[[峰姫|峯姫]]。</ref>が「[[将軍後見職]]」に就いていたため、その権力は抑制されていた。また、この将軍宣下の際、それまでは新将軍が上座で天皇勅使が下座であったが、尊王の世情を反映して逆に改められた。
文久2年([[1862年]])に[[和宮親子内親王|和宮]](親子)と結婚した。和宮は[[有栖川宮熾仁親王|熾仁親王]]と婚約していたが、幕府の[[公武合体]]構想からの要請により熾仁親王との婚約を破棄し、和宮は家茂に[[降嫁]]した<ref name="nipponica-kouka">{{Cite book|和書|author=河内八郎|chapter=和宮降嫁|title=日本大百科全書|publisher=小学館}}</ref>。文久3年([[1863年]])、老中[[水野忠精]]・[[板倉勝静]]、[[若年寄]][[田沼意尊]]・[[稲葉正巳]]らが供奉し、3千人を率いて将軍としては229年振りとなる[[上洛]]を行った。3月7日に参内し、義兄に当たる[[孝明天皇]]に[[攘夷]]を約束した。また、この際に天皇に対して政務委任の勅命への謝辞を述べたが、これは18世紀末から要人や学者の間では言われてきたものの概念的な考えに過ぎなかった[[大政委任]]が、朝幕関係の中で初めて公認化・制度化されたものであった<ref>山口和夫「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」(初出:大津透 編『史学会シンポジウム叢書 王権を考える-前近代日本の天皇と権力-』(山川出版社、2006年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) {{ISBN2|978-4-642-03480-7}}) 2017年、P264・272</ref>。天皇や一橋慶喜らと共に[[賀茂神社]]に参拝しているが、天皇が公式に[[御所]]を出たのは237年ぶりであった。その後、天皇と共に[[石清水八幡宮]]へ参詣する予定であったが、これを病と称して欠席する。[[源氏]]所縁の神前で、天皇から直に[[攘夷実行の勅命|攘夷の命]]を下されるのを避けたともされている。将軍名代として石清水八幡へ供奉した一橋慶喜も、天皇がいる神前に呼び出されたが、急な体調不良としてその場を脱している。このことにより尊皇派諸士は家茂に反発し、将軍殺害予告の落首が掲げられた。江戸に陸路で帰還した慶喜の一行は、道中にて襲われている。朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか許可しなかったため、老中格の[[小笠原長行]]が軍艦と軍勢1400を率いて大坂に向かい、朝廷および攘夷派を威圧している。滞在3か月、家茂は道中の安全を考慮し、大坂から海路、蒸気船を使い江戸に帰った。
[[文久]]4年([[1864年]])には軍艦「[[翔鶴丸]]」で海路から二度目の上洛を果たした。将軍が海路上洛したのは、これが初めてである。京都では前年の[[八月十八日の政変]]で[[三条実美]]ら尊王攘夷派が朝廷から失脚しており、家茂は朝廷より歓迎されて[[従一位]][[右大臣]]に昇進した。また家茂は薩摩の[[島津久光]]に初めて拝謁を許し、[[参与会議]]の諸侯に[[二条城]]の御用部屋利用を認めた。
[[慶応]]元年([[1865年]])、三度目の上洛中に、[[兵庫津|兵庫]]開港を決定した[[老中]]・[[阿部正外]]及び[[松前崇広]]が[[朝廷 (日本)|朝廷]]によって処罰された。これにより将軍を辞職、後継に一橋慶喜を推し、自らは東帰する姿勢を見せた。今回は長州処分のための上洛と宣言しており成果を挙げずに帰るという矛盾した動きの背景には大政委任を確認した天皇の沙汰書(元治国是)はあるにもかかわらず、実際は天皇、幕府、諸藩(薩摩を含む)のパワーバランスで幕府側へ制約がある点への不満。そして朝廷内部で発言力を有する一橋慶喜への不信につきた。後継指名は皮肉混じりの嫌がらせにちかい。その上で帰り道に二条城を選べば将軍の畿内滞在を誰より渇望している慶喜が裾を掴んで離さないという見込みがあり、それを見透かしている朝廷、諸藩からは失望をされた。しかし実際に帰られても困るという点もあり『天皇は大いに驚き慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという』。阿部の辞職後には小笠原、板倉が幕政に参画しており、一橋と朝廷側からすれば窓口が開かれることになっている。
慶応2年([[1866年]])、[[長州征討|第2次長州征伐]]の途上、家茂は[[大坂城]]で病に倒れた。この知らせを聞いた天皇は、[[典薬寮]]の医師である[[高階経由]]と[[福井貞憲|福井登]]の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。[[江戸城]]からは、[[天璋院]]や和宮の侍医として留守を守っていた[[大膳亮弘玄院]]、多紀養春院([[多紀安琢]])、[[遠田澄庵]]、[[高島祐庵]]、[[浅田宗伯]]らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、同年7月20日に[[崩御|薨去]]した。享年21(満20歳没)。遺体は[[イギリス]]から8月に購入した[[長鯨丸]]にて江戸に運ばれた。9月2日に大坂を出航し、6日に江戸に到着している。
家茂は死に際して[[徳川宗家]]の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の宗家第16代当主・[[徳川家達]])の指名を遺言としたが、亀之助が当時わずか4歳であり国事多難の折りの舵取りが問題という理由で和宮や[[雄藩]][[大名]]らが反対した結果として実現されず、[[徳川慶喜]]が第15代将軍となった。
== 年表 ==
{| class="wikitable" width="100%"
|-
!style="width:5em;"|[[和暦]]
!style="width:4em;"|[[西暦]]
!style="width:5em;"|月日<br />([[旧暦]])
!内容<!--内容は簡潔に記してください-->
|-
|rowspan="1"|[[弘化]]3年
|rowspan="1"|[[1846年]]
|[[5月24日 (旧暦)|閏5月24日]]
|[[徳川斉順]]の次男として江戸の和歌山藩邸(現:東京都港区)で生まれる。
|-
|弘化4年
|[[1847年]]
|[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]
|[[紀州藩|和歌山藩]]主[[徳川斉彊]]の養子となる。
|-
|[[嘉永]]2年
|[[1849年]]
|[[4月2日 (旧暦)|閏4月2日]]
|和歌山藩主となる。
|-
|嘉永4年
|[[1851年]]
|[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]
|元服。'''慶福'''と名乗り、常陸介に任官。同日[[従三位]]に叙位。[[近衛府|左近衛権中将]]に転任。
|-
|rowspan="1"|嘉永6年
|rowspan="1"|[[1853年]]
|[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]
|[[徳川家定]]、第13代将軍に就任。
|-
|[[安政]]2年
|[[1856年]]
|[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]
|[[参議]]に補任。
|-
|rowspan="3"|安政5年
|rowspan="3"|[[1858年]]
|[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]
|将軍家定の世子となる。
|-
|[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]
|[[正二位]][[大納言|権大納言]]に昇叙転任。
|-
|[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]
|第14代将軍に就任。名を'''家茂'''と改めた。[[内大臣]]に転任し、[[近衛大将|右近衛大将]]を兼任。併せて[[源氏長者]]宣下。
|-
|[[万延]]元年
|[[1860年]]
|[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]
|[[桜田門外の変]]。[[大老]][[井伊直弼]]、暗殺される。
|-
|[[文久]]2年
|[[1862年]]
|[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]
|[[仁孝天皇]][[皇女]]で[[孝明天皇]]の皇妹[[和宮親子内親王|和宮]]と結婚。
|-
|文久3年
|[[1863年]]
|[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]
|朝廷の攘夷実施の求めに応じて、第3代将軍・[[徳川家光]]以来となる上洛。
|-
|rowspan="2"|[[文久]]4年/<br>[[元治]]元年
|rowspan="2"|[[1864年]]
|[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]
|2度目の上洛。21日、[[従一位]]に昇叙し、[[右大臣]]に転任。右近衛大将如元。
|-
|[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]
|[[長州征討|第1次長州征伐]]。
|-
|rowspan="2"|[[慶応]]元年
|rowspan="2"|[[1865年]]
|[[5月22日 (旧暦)|閏5月22日]]
|[[長州征討|第2次長州征伐]]のため3度目の上洛。以後、死まで大坂城に滞在。
|-
|[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]
|朝廷に将軍職の辞表を提出、江戸東帰を発表(7日、正式に撤回)。
|-
|rowspan="2"|[[慶応]]2年
|rowspan="2"|[[1866年]]
|[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]
|[[長州征討|長幕開戦]]。
|-
|[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]
|大坂城で[[衝心性脚気|脚気衝心]]のため薨去。[[享年]]21(満20歳没)。
|-
|[[慶応]]3年
|[[1867年]]
|[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]
|贈[[正一位]][[太政大臣]]。
|}
=== 徳川家茂 贈太政大臣正一位 宣命 ===
{{Quotation
|天皇<sup>我</sup>詔旨<sup>良万止 </sup>故征夷大將軍從一位右大臣源家茂朝臣<sup>尓</sup>詔<sup>倍止</sup>勅命<sup>乎</sup>聞食<sup>止</sup>宣<sup>布</sup> 幕府<sup>乃</sup>重職<sup>乎</sup>荷<sup>氐与利 </sup>纔<sup>尓</sup>九年<sup>乃</sup>歳月<sup>乎</sup>経過<sup>奴留尓 </sup>朝廷<sup>乎</sup>尊崇<sup>乃志</sup>深<sup>加利岐 </sup>故<sup>由</sup>國家多端<sup>乃</sup>中道<sup>尓志毛 </sup>祭祀<sup>乎</sup>古<sup>尓</sup>復<sup>志</sup>山陵<sup>乃</sup>荒廢<sup>乎毛</sup>修繕<sup>志者 </sup>至忠<sup>尓</sup>至誠<sup>乃</sup>心<sup>乎</sup>以<sup>氐 </sup>奉仕<sup>利</sup>奉助<sup>利志</sup>功績<sup>乃</sup>所致<sup>止奈毛</sup>所念行<sup>須 </sup>然<sup>尓</sup>不慮<sup>毛</sup>疾病相侵<sup>氐 </sup>早<sup>久</sup>此昭々<sup>乃</sup>國<sup>乎</sup>去<sup>奴 </sup>夫生前<sup>尓</sup>功<sup>阿礼波</sup>名誉沒後<sup>尓</sup>顯<sup>留者 </sup>古典<sup>尓毛</sup>著<sup>志久</sup>所存<sup>奈利 </sup>故是以<sup>氐</sup>太政大臣正一位<sup>乃</sup>官位<sup>尓</sup>上賜<sup>比</sup>贈賜<sup>布 </sup>天皇<sup>我</sup>勅命<sup>乎</sup>聞食<sup>止</sup>宣<sup>布</sup>
慶應三年七月十二日|『京巷説(史談会採集史料巻之三 維新史料編纂会所蔵)』}}
; 訓読文
: 天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故(もと)の征夷大将軍(えみしうつおほいいくさきみ)従一位(ひろいひとつのくらゐ)右大臣(みぎりのおほいまうちきみ)源家茂朝臣に詔(のら)へと勅命(のりたまふおほみこと)を聞食(きこしめさへ)と宣(のりたま)ふ、
: 幕府(おほみつかさ)の重職(おもきつかさ)を荷(になひ)てより、纔(わづか)に九年(ここのとせ)の歳月(としつき)を経過(へすごし)ぬるに、朝廷(おほみかど)を尊崇(たふとみあがむる)の志深(こころざしふか)かりき、
: 故(かれ)ゆ国家(くにいへ)多端(ことしげ)の中道(なかみち)にしも、祭祀(みまつり)を古(いにしへ)に復(かへ)し、山稜(みささぎ)の荒廃(あれすたれ)たるをも修繕(をさめつくろひ)しは、至忠(まめこころ)に至誠(まこと)の心を以(も)て、奉仕(つかへまつ)り奉助(あななひまつ)りし功績(いさをし)の所致(いたすところ)となも所念行(おもほしめ)す、
: 然(さる)に不慮(ゆくりなく)も疾病(やまひ)相侵(あひをかし)て早く此昭々(このあきら)の国を去りぬ、
: 夫(そ)れ生前(あれしさき)に功(いさをし)あれば名誉(なのほまれ)没(みまか)る後(のち)に顕(あらは)るは、古典(いにしへふみ)にも著(いちじる)しく所存(のこれる)なり、
: 故是(かれここ)を以(も)て、太政大臣(おほいまつりことのおほいまうちきみ)正一位(おほいひとつのくらゐ)の官位(つかさくらゐ)に上賜(あげたま)ひ贈賜(おくりたま)ふ天皇(すめら)が勅命(おほみこと)を聞食(きこしめさへ)と宣(のりたま)ふ、
: 慶応三年(みとせ)七月十二日(ふみつきとをあまりふつか)
== 人物・逸話 ==
* [[遺骨]]から、面長で極めて鼻が高く、歯は反り歯であったことが分かっている。肖像画の顔はそうした特徴をよく表している。
* [[羊羹]]・[[氷砂糖]]・[[金平糖]]・[[カステラ]]・[[最中|懐中もなか]]・三色菓子など甘いものを好んだ。
* 幼少の頃は風流を好み、池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていたが、13歳で将軍として[[元服]]してからは、文武両道を修めるように努めた。ささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は、幕臣たちを没後も感激させたという。
*文久元年3月24日の日付けで、アメリカ合衆国大統領[[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]宛の将軍・家茂の直書が送られ、その後リンカーンから家茂宛てに返信がなされた。
[[File:Kaijo Anzen Bandai Kotobuki.png|thumb|300px|right|[[順動丸]]を描いた[[錦絵]]『海上安全万代寿』 [[河鍋暁斎]]画([[早稲田大学図書館]]所蔵)<ref>[https://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi05/chi05_3975/ 海上安全万代寿 - 早稲田大学図書館]</ref>]]
* 文久3年(1863年)4月、家茂は朝廷に命じられた攘夷実行への準備として、幕府の軍艦「[[順動丸]]」に乗って大坂視察を行っており、艦を指揮していた[[勝海舟]]から軍艦の機能の説明を受け、非常に優れた理解力を示した。その折に勝から軍艦を動かせる人材の育成を直訴されると、即座に[[神戸海軍操練所]]の設置を命令した。さらに同年12月に上洛の際、勝の進言を容れて順動丸を使うことを決断した。その理由として、前回の上洛において往路だった陸行では22日を要したのに対し、帰路順動丸を使った際にはわずか3日で江戸に帰れた事実がある。そのことが勝への信頼感につながったとする説がある。さらに航海の途中で海が荒れて船に酔う者が続出したため、側近から陸行への変更を奨められたが、「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と厳命し、勝への変わらぬ信頼を表した。これらの信任に勝は感激し、家茂に対する生涯の忠誠を心中深く誓ったという。後に勝は、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれぬ。武勇にも優れていた人物であった」と賞賛し、訃報に接した際は悲嘆のあまり、日記に「'''徳川家、今日滅ぶ'''」と記したほどであった。晩年は家茂の名を聞いただけで、激動の時代に重責を背負わされた家茂の生涯に「お気の毒の人なりし」と言って目に涙を浮かべたという。
* 和宮とは政略結婚ではあったが、2人の関係は良好であったという。家茂は和宮以外の女性を傍に置こうとしなかったため、側室は1人もいなかった。家茂は和宮を心から愛していたこともあって、少しでも時間ができれば和宮と雑談を交わし、かんざしや金魚などを贈った。和宮も家茂が好きな茶菓子をよく差し入れたりと細やかな気配りを欠かさなかった。その夫婦関係の良さは、和宮の側近が仲睦まじい2人のことを日記に記していたほどであった。
* 書の達人として知られていた幕臣・[[戸川安清]]は70歳を過ぎた老人ながら、推されて家茂の習字の指南を務めていた。ある時、教えていた最中に、突然家茂が安清の頭の上から墨を摺るための水をかけ、手を打って笑い、「あとは明日にしよう」と言ってその場を出て行ってしまった。同席していた側近たちがいつもの家茂らしくない事をすると嘆いていると、当の安清が泣いていた。将軍の振る舞いを情けなく思ってのことかと尋ねると、実は老齢のため、ふとした弾みで[[失禁]]してしまっていた事を告げた。その頃の慣例として、将軍に教えている真っ最中に粗相をしたとなると厳罰は免れないので、それを察した家茂はわざと水をかけて隠し、「明日も出仕するように」と発言することで不問に処することを表明したのである。泣いたのは、その細やかな配慮に感激してのことだと答えたという(安清の親戚である[[戸川安宅|戸川残花]]が『幕末小史』の中に記している)。
* 『[[増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体]]』によると、四肢骨からの推算で身長は156.6cm、[[ABO式血液型|血液型]]はA型であった。
* 欧州における[[絹]]の産地として知られた[[フランス]]や[[イタリア]]では、[[1850年代]]にノゼマと呼ばれる[[原生動物]]が原因とする[[カイコ|蚕]]の伝染病が流行し、両国の[[養蚕]]業は壊滅状態になった。これを知った家茂は、蚕の卵を農家から集めて[[ナポレオン3世]]に寄贈した。フランスでは[[ルイ・パスツール]]が[[ジャン・アンリ・ファーブル]]の助言を元に、贈られた蚕を研究して病気の原因を突き止めるとともに、生き残った蚕同士をかけあわせて品種改良を行った。ナポレオン3世は謝礼として慶応3年(1867年)に、幕府に対して軍馬の品種改良のための[[ナポレオン三世の馬|アラビア馬]]26頭を贈呈した。飼育の伝習も同時に行われ、[[小金牧]](現[[千葉県]][[松戸市]])で大切に飼育される予定だったが、[[戊辰戦争]]の混乱で散逸した。
* 将軍就任に当たり'''慶福'''から'''家茂'''に改名したのは、前将軍の家定が'''家祥'''から改名したのと同様、偏の付く将軍(家'''綱'''・'''綱'''吉・家'''継'''・家'''治''')が子供がいなかった、あるいはいても早世して不吉とされたので、それを避けるためだったと考えられる。また、別家から将軍になる際の改名は6代目が綱豊から'''家宣'''に改名した前例があるため問題はなかった。しかし、家茂も家定同様、子に恵まれず短命だった。
=== 肖像 ===
[[ファイル:Toku14-2.jpg|thumb|徳川家茂像(絹本著色)([[徳川記念財団]]蔵)]]
[[ファイル:Tokugawa Iemochi.jpg|thumb|徳川家茂像(徳川記念財団蔵)]]
絹本著色の絵は、和宮旧蔵とも言われる。制作には、家茂に父のように慕われた[[徳川茂徳]]が関わった可能性が極めて高い。茂徳は本図の元となる似顔絵を、家茂の死後[[天璋院]]に贈っており(現在は写真のみ残り[[茨城新聞社]]蔵)、こちらは[[長州征伐]]で大坂の陣中にいる際に描き、[[陣羽織]]を着た立姿で表されている。茂徳は和宮にもこの軍装図に近いと思われる絵を贈ったが、和宮は陣羽織姿を「異風」「異人の御まねにては御心外」だと感じ、茂徳に「御有り来りの御姿」にするよう描き直しを求めたという(茂徳筆「御影の記写」[[茨城県立歴史館]]蔵)。そこで制作されたのがこの肖像画だとも言われ、茂徳の号から玄同本と呼ばれる。なお、家茂には他にも、[[狩野雅信]]筆になる[[束帯]]姿で繧繝縁の上畳に座した肖像や、画面右上に「照(ママ)徳院様」の書き込みがある院号本(右図)、冒頭の[[幕臣]]出身の[[洋画家]]・[[川村清雄]]が手掛け、[[勝海舟]]らにも良く出来ていると賞賛された「昭徳院肖像」(徳川記念財団蔵)などの肖像画が残っている<ref>{{Citation|和書|author=[[徳川恒孝]]監修|editor=徳川記念財団|title=徳川家茂とその時代 ─若き将軍の生涯─|date=2007|publisher=[[江戸東京博物館]]}}</ref>。
=== 家茂の墓と遺体 ===
[[File:Zōjō-ji Tokugawa 20191104g.jpg|thumb|東京都港区芝公園の増上寺にある家茂の宝塔(2019年11月4日撮影)]]
[[昭和]]33年([[1958年]])から35年([[1960年]])に[[増上寺]]の徳川将軍家墓地改葬の際、徳川家の人々の遺骨の調査を行った[[鈴木尚]]の著書『[[骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと]]』によれば、家茂は[[さかやき|月代]]を剃っておらず、若々しく豊富な髪の持ち主であったという。ただ、虫歯の度合いが酷く、残存する31本の歯のうち30本が虫歯にかかっていた。記録などから総合するに、家茂は元々、歯の[[エナメル質]]が極端に薄い体質であった上に大の甘党でもあった。その虫歯が家茂の体力を弱め、[[衝心性脚気|脚気衝心]]、さらには医師間の診断内容の相違(高階ら漢方の典医は脚気との診断を下したが、西洋医の幕府奥医師達はこれを[[リウマチ]]だとして譲らなかった)も加わり、家茂の命を奪ったのではないか、と指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=篠田達明|authorlink=篠田達明|title=徳川将軍家十五代のカルテ|date=2005-05|series=[[新潮新書]]|isbn=978-4-10-610119-9}}</ref>。
また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。それまで、家茂は義兄の孝明天皇に倣って写真は撮影していなかったと思われていた。この写真は死の直前に大坂で撮影され、江戸にいる和宮に贈られたものとみられる。しかし写真は[[写真湿板|湿板写真]]だったため、発見の翌日に検証しようとしたところ、日光のためか画像は失われてしまっていた。発掘した[[歴史学者]]の[[山辺知行]]によると、写真の男性は「[[長袴]]の[[直垂]]に[[烏帽子]]をかぶった若い男性」で「豊頬でまだ童顔を残していた」という<ref group="注釈">ただしこの写真に関しては、和宮のかつての婚約者であった[[有栖川宮熾仁親王]]の写真だったとする異説もある。</ref>。写真はその後和宮の墓に戻された。
== 偏諱を与えた人物 ==
家茂から偏諱を授けられた大名は、維新後に新政府にはばかって改名(返上)した者が多い。括弧内は改名後の[[諱]]。
* [[徳川茂承|徳川'''茂'''承]] - 家茂(慶福)の養子、紀伊藩継嗣。
* [[徳川茂徳|徳川'''茂'''徳('''茂'''栄)]]
* [[松平茂昭|松平'''茂'''昭]]
* [[池田茂政|池田'''茂'''政]] - 徳川(一橋)慶喜の実弟。
* [[蜂須賀茂韶|蜂須賀'''茂'''韶]] - 同年生まれの従弟(父は[[徳川家斉]]二十二男・[[蜂須賀斉裕]])。
* [[浅野長訓|浅野'''茂'''長]](長訓)
* [[浅野長勲|浅野'''茂'''勲]](長勲)
* [[上杉茂憲|上杉'''茂'''憲]]
* [[島津忠義|島津'''茂'''久]](忠義)
* [[田村通顕|伊達'''茂'''村]] - 田村通顕より改名。
* [[鍋島直大|鍋島'''茂'''実]](直大)
== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; 小説
* [[司馬遼太郎]]『浪華城焼打』(短編集「[[幕末 (司馬遼太郎)|幕末]]」収録)
; 映画
* 『[[徳川一族の崩壊]]』(1980年、演:[[岸田森]])
; テレビドラマ
* 『[[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]]』(1968年、フジテレビ、演:[[石坂浩二]])
* 『[[続・大奥の女たち]]』(1972年、フジテレビ[[ライオン奥様劇場]]、演:[[磯村幸男]])
* 『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』(1974年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[坂東三津五郎 (10代目)|五代目坂東八十助]])
* 『[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]』(1977年、NHK大河ドラマ、演:[[小林芳宏]])
* 『[[大奥 (1983年のテレビドラマ)|大奥]]』(1983年、フジテレビ、演:[[広岡瞬]])
* 『[[天璋院篤姫 (小説)#映像化作品|天璋院篤姫]]』(1985年、テレビ朝日、演:[[国広富之]])
* 『[[花の生涯 井伊大老と桜田門]]』(1988年、テレビ東京、演:[[青井敏之]])
* 『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』(1990年、NHK大河ドラマ、演:[[若菜孝史]])
* 『[[竜馬におまかせ!]]』(1996年、日本テレビ、演:[[山崎邦正]])
* 『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』(1998年、NHK大河ドラマ、演:[[進藤健太郎]])
* 『[[大奥 (フジテレビの時代劇)#2003年版|大奥]]』(2003年、フジテレビ、演:[[葛山信吾]](スペシャル版では[[神木隆之介]]))
* 『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』(2008年、NHK大河ドラマ、演:[[松田翔太]])
* 『[[龍馬伝]]』(2010年、NHK大河ドラマ、演:[[中村隼人 (歌舞伎役者)|中村隼人]])
* 『[[八重の桜]]』(2013年、NHK大河ドラマ、演:[[葉山奨之]])
* 『[[一路#テレビドラマ|一路]]』(2015年、[[BS時代劇|NHK BS時代劇]]、演:[[吉沢亮]])
* 『[[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]』(2018年、NHK大河ドラマ、演:[[勧修寺保都]])
* 『[[青天を衝け]]』(2021年、NHK大河ドラマ、演:[[磯村勇斗]])<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/eiga/news/413849|title= 大河ドラマ「青天を衝け」に磯村勇斗、深川麻衣、中島歩、板垣李光人ら17名出演|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-01-26|accessdate=2021-01-26}}</ref>
* 『[[大奥 (2023年のテレビドラマ)|大奥]] season2』(2023年、NHKドラマ10、演:[[志田彩良]])
; 舞台
* 『[[大奥 (劇作品)|大奥 舞台]]』(演:[[金子昇]])
; 漫画
* 『[[お〜い!竜馬]]』
* 『[[SIDOOH/士道]]』
* 『[[ばくだん!〜幕末男子〜]]』
* 『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[よしながふみ]])
* 『[[みなごろしのストラット−真田幸村異聞録−]]』([[西条真二]])
; ゲーム
* 『[[遙かなる時空の中で5]]』
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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